マリア様がみてる
大きな扉 小さな鍵
今野緒雪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)乙女《おとめ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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[#挿絵(img/25_000.jpg)入る]
もくじ
キーホルダー
満ちたり引いたり
わずかに外す
企画書とともにきたる
聞きたかったこと
ハートの鍵穴
かわいそうな人
幸福試問
ポケットの中
あとがき
[#改ページ]
[#挿絵(img/17_004.jpg)入る]
[#挿絵(img/17_005.jpg)入る]
[#地付き]イラスト/ひびき玲音
[#改丁]
マリア様がみてる 大きな扉 小さな鍵
[#改ページ]
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶《あいさつ》が、澄みきった青空にこだまする。
マリア様のお庭に集《つど》う乙女《おとめ》たちが、今日も天使のような無垢《むく》な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
汚《けが》れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。
スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは| 翻 《ひるがえ》らせないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
私立リリアン女学園。
明治《めいじ》三十四年創立のこの学園は、もとは華族《かぞく》の令嬢《れいじょう》のためにつくられたという、伝統あるカトリック系お嬢さま学校である。
東京都下。武蔵野《むさしの》の面影《おもかげ》を未だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎《ようちしゃ》から大学までの一貫《いっかん》教育が受けられる乙女の園。
時代は移り変わり、元号《げんごう》が明治から三回も改まった平成《へいせい》の今日《こんにち》でさえ、十八年通い続ければ温室育ちの純粋|培養《ばいよう》お嬢さまが箱入りで出荷される、という仕組みが未だ残っている貴重な学園である。
人の心には扉がある。
扉が開かなければ、心と心は通じ合わない。
頑《かたく》なな扉は重い石の扉か。
それとも、長いこと開閉がなかったために錆《さ》びついてしまった鉄の扉か。
けれど、それが壁ではなく扉である以上、いずれは開けられるもののはず。
かたい扉を開くため、もしや呪文《じゅもん》が必要か。
あるいは鍵《かぎ》が不可欠《ふかけつ》か。
それらは、すぐにそれと気づく形をしてはいない。
遙《はる》かな旅にでなければ得られない物とも限らない。
すぐ側にあるのに、見つけにくい。そんな物だってあるはずだ。
けれど、たとえそれらを手に入れることができたとしても、勝手に取っ手に手を掛けたりなんてしてはいけない。
私たちができることは、呪文を唱え、鍵を差し入れるまで。
向こう側から「どうぞ」と扉が開かれるまで待たなくては、扉は永遠に開かない。
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キーホルダー
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満ちたり引いたり
1
「瞳子《とうこ》の目的は、負けることだったんです」
そう告げた次の瞬間、声にはならなかったが祐巳《ゆみ》さまの唇が「やっぱり」と動いたのを、乃梨子《のりこ》は見逃さなかった。
やはり、瞳子は負けるために生徒会役員選挙に出馬した。
自分の勘《かん》を信じなかったわけではないが、祐巳さまがそう言うのなら、それは裏付けになる。だからこの結論は、間違いない。そう感じられた。
来期の生徒会役員が発表されて生徒たちが盛り上がる中、お祭り騒ぎの主役であるはずの祐巳さまの顔は蒼白だった。
講堂前の掲示板に貼り出された紙面上の『福沢祐巳』の名前は、当選の印である赤い花のシールに彩《いろど》られてピカピカと輝いている。なのに、その名前の持ち主は、まるで落選したかのような表情をしていた。
しかし、乃梨子だって人のことは言えないのだ。祐巳さま由乃《よしの》さまと共に来期の生徒会役員に選ばれた志摩子《しまこ》さんは、乃梨子の姉である。なのに今の乃梨子の表情ときたら、とてもじゃないがお姉さまの当選を喜ぶ妹のそれではない。
「おめでとうございます、|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》」
「がんばってください、祐巳さま」
乃梨子と話している間にも祐巳さまには次から次へと声がかかり、そのたびに「ありがとう」「がんばります」と返している。祐巳さまにはどう見えているかはわからないが、乃梨子には、取り囲み賛辞や祝福を贈る生徒たちの姿は、まるで合成映像のように映った。それくらい、自分と彼女たちとのテンションには明らかな隔《へだ》たりがあったのだ。
そうやって生徒たちの言葉が飛び交う中、何度も中断しながらも、乃梨子は会話を続けた。
「でも、何のために」
負けるために瞳子は選挙に出た。それは二人共通の見解として、じゃあ何のために瞳子は負けなくてはならなかったのか、という疑問が当然のように押し寄せてくる。
選挙とは、一般的には当選するために立候補するものである。なのに、なぜ。
「そっか。乃梨子ちゃんもわからないんだ」
「……ということは」
祐巳さまにも見当がついていないということ。うなずく祐巳さまを見て、乃梨子は回れ右をした。
「ちょっと、どこ行くの」
一歩踏み出したところで、祐巳さまに呼び止められた。
「本人を問い詰めてきます」
今なら、走ればすぐに追いつける。
「何なら、祐巳さまもご一緒《いっしょ》に」
言いながら乃梨子は、目の前にいる祐巳さまの表情に違和感をもった。
「……あの」
さっきまで、鏡に写したように同じ表情をしていると感じていた。でも、今は違う。熱くなる乃梨子とは逆に、静かな笑みを浮かべて首を横に振る祐巳さまがそこにいた。
「私は行かない」
「どうしてですか」
「どうしてだろうな。わからないけれど、今はいい」
「……いい、って」
何がいい[#「いい」に傍点]のだろう。乃梨子にはわからなかった。今はいい、って。今聞かないならば、いったいいつ瞳子に聞くというのだ。
「でも、乃梨子ちゃんがそうしたいなら追いかけて。私がそうしたくないだけだから」
「祐巳さまは、瞳子の真意を知りたくないんですか」
「何ていうのかな。そういうこと、もうどうでもいいっていうか――」
その受け答えに、ついカチンと来た。
「瞳子を見捨てるおつもりですか」
こういう時、先輩だろうが構わず反発してしまう。乃梨子自身悪い癖《くせ》だと自覚しているのだが、抑えることはなかなかに難しい。
「そう見える?」
「はい」
答えると、祐巳さまは「正直者」と笑った。
「逆なんだけどな。むしろ」
「逆?」
「そう」
うなずく祐巳さま。それはどういう意味か聞こうとした時、二人を取り囲んでいた生徒たちの合成映像から一人の人物が抜け出して言った。
「お話し中ごめんなさい」
志摩子さんだ。
「祐巳さん、いいかしら? 蔦子《つたこ》さんが、掲示板をバックに三人並んだ写真を撮りたいんですって。だから」
「あ、はいはい」
祐巳さまは志摩子さんの方に顔を向けると、明るく返事をした。
「あと、真美《まみ》さんが『リリアンかわら版』に載せるコメントを欲しいそうよ」
「あれ? 『リリアンかわら版』の取材って、来週の火曜だか水曜だかの放課後って言ってなかったっけ?」
「それとは別に。興奮が冷めないうちに第一声を、ですって」
「なるほど。――ということだから。乃梨子ちゃん、この話はまた改めて」
「……はい」
呼びに来たのは、他ならぬ乃梨子のお姉さまの志摩子さんである。「それでも」と、祐巳さまを引き留めるわけにもいかなかった。
「乃梨子もいらっしゃい」
志摩子さんに呼ばれて、乃梨子は思わず瞳子の消えた銀杏《いちょう》並木を目で追った。
「あの」
さっきは、すぐにでも瞳子を追いかけるつもりだった。
「私は――」
でも、今は迷っている。追いかけるべきか、否《いな》か。今は追いかけたくないという祐巳さまの言葉が、乃梨子の勢いにストップをかけたのは間違いない。
「乃梨子ちゃん、用があったら行ってきてもいいよ。私たちは取材が終わったら薔薇《ばら》の館《やかた》に戻るから、後で合流しよう」
「いえ」
瞳子の後を追えるように気を遣ってくれたであろう、祐巳さまの言葉に首を横に振って、乃梨子は二人について行った。
モヤモヤとしたものは、残っている。でも。
瞳子のことを見捨てない。取りあえず、祐巳さまがそう言ってくれただけで、今は十分だった。
ならば、瞳子は救われるかもしれない。
頭に血が上った自分がむやみに走り回ることにより、事態を混乱させるのだけは避けたい。そう判断できるくらいは、乃梨子もクールダウンしていた。
2
写真部と新聞部の腕章をつけた武嶋《たけしま》蔦子《つたこ》さまによる「次期三薔薇さま撮影会」は五分ほどで済み、『リリアンかわら版』の取材も、志摩子《しまこ》さん・祐巳《ゆみ》さま・由乃《よしの》さまがそれぞれ一言ずつのコメントを出しただけで早々と終了した。
「三人とも、おめでとう。乾杯!」
というわけで、薔薇《ばら》の館《やかた》に戻って山百合会《やまゆりかい》メンバーの六人全員でお祝いをした。とはいっても、もちろん未成年だし学校だし、シャンパンで祝杯をあげるってわけにはいかない。いつものように紅茶なんだけれど、しばらく外気にさらされて立ちん坊だったメンバーたちには、温かい飲み物は何よりのご馳走《ちそう》だった。
「いやー、今だから言えるけれど。内心ヒヤヒヤだったよ。ほら、立ち会い演説会の時、由乃ったら突然原稿以外のことしゃべり出したじゃない? 感情的になるわ、時間オーバーはするわで、最後にはグチャグチャになっちゃってたから。結果が出るまで、生きた心地《ここち》しなかったなぁ」
カップを置くなり、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》がやれやれと大きく息を吐いた。それを受けて由乃さまが、横目でお姉さまを見る。
「あら、お姉さまったら。そんなそぶり、ちっともお見せにならなかったじゃないの」
確かに、と乃梨子《のりこ》も思った。|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》は演説会の後こっち、「由乃良かったよ」「絶対|大丈夫《だいじょうぶ》だよ」って始終言い続けていたのだ。内心ヒヤヒヤだったなんて態度、おくびにも出さなかった。
「そりゃそうよ。だって、由乃の演説、聞いててハラハラだったよ、なんて正直な感想、言えるわけないじゃない。演説会を最初からやり直せるならともかく、どうしたってやり直せないわけじゃない? だったら、そこは突っつかない方が賢明よ。由乃の気持ちを盛り上げて、落ち込ませないようにしなくっちゃ。想像してみて。残りの三日間、ずっと暗い顔で過ごされたりしたらどうよ? 入るはずだった票も逃げていくわ」
[#挿絵(img/25_019.jpg)入る]
なるほど。さすがは|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》。何をすれば妹の為になるか、ちゃんとわかっているのだ。何ていうのかな、長年積み重ねてきた年月のなせる業《わざ》、なのかもしれない。
「言ってれば?」
由乃さまがツンとすます。そろそろ「令《れい》ちゃんのバカ」が出るかと思いきや、なかなかやって来ない。
(ああ、そうか)
大仕事(選挙に当選すること)を成し遂《と》げて、今は気分がいいので、何か言われてもそれほどカッとはこないらしい。もしや、さっきの|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》の「今だから言える」は、それをふまえてのものだったとか。だとしたら、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》って相当すごい。
すごいといえば、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》だ。二年生の三人には選挙管理委員会の説明会に出席するよう強制しておきながら、まったくと言っていいほど妹である祐巳さまの選挙活動に手を貸さなかった。
初め乃梨子は、「何て冷たい人だ」なんて思った。けれど、様子を見ているうちに徐々に考えが変わってきた。
手を貸さないと決めたのなら、放っておいたっていいのに、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》はかなりの頻度《ひんど》で薔薇の館に来ていたのだ。それで何をしているかといえば、選挙のことには一切《いっさい》関わらないで、ただ一人で本を読んだりしているだけ。だがこっそり観察してみたら、二十分の間一度もページがめくられない、ということも度々《たびたび》あった。本当は、選挙を戦っている妹のことが気になって仕方がなかったから、薔薇の館に通っていたということだろう。
その|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》は、今祐巳さまの隣で静かにほほえんでいる。妹を信頼してましたから、といった表情を浮かべて。何だろう、この余裕《よゆう》っぷりは。祐巳さまにしても、お姉さまが側にいてくれたおかげで当選しましたと、見つめ合う視線で応えている。言葉じゃなくて、わかり合っている。
貫禄《かんろく》と余裕の黄薔薇・紅薔薇の両姉妹に引き替え、と乃梨子は志摩子さんの横顔を眺めた。自分はいったい、志摩子さんに何をしてあげられたのだろう。
もちろん選挙のための準備とかいろいろ手伝ったけれど、志摩子さんはできた人だから、妹がいてもいなくてもちゃんと当選したはずだ。
そうだ。手伝ったというよりも、手伝わせてもらったといった感じだった。もしかしたら、乃梨子は側でちょこまかまとわりついて、お姉さまの邪魔《じゃま》をしていただけかもしれない。
完璧《かんぺき》な人の側にいると、自分の未熟さがわからなくなるのではないだろうか。
瞳子の件にしたって、そうだ。友達一人の気持ちも推《お》し量れない、自分は駄目《だめ》な人間なんだ。――なんて落ち込みかけていたら。
「それにしても、乃梨子ちゃんの応援っていうのはすごいパワーがあったよね」
突然、祐巳さまが言った。
「は?」
「選挙管理委員会の人たちの間でも語りぐさになっているよ。ひたすら『がんばってください』『大丈夫《だいじょうぶ》です』『信じています』って言い続けて」
「それから……『ファイト』?」
|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》が付け加えると、祐巳さまが一本指を立てた。
「そうそう、『ファイト』です。まるで機関銃みたいだったなぁ」
「はあ」
確かに身に覚えがあるから、乃梨子は反論もせずに「そうですか」と聞いているしかない。しかし、ただ「がんばれがんばれ」と言っていただけで、あまり実《み》のある応援になっていたとも思えないのだが。
「あ、それ聞いた」
由乃さまが、横から首を突っ込んできた。
「立ち会い演説会の前でしょ? 私は直接見てなかったけど、なんか素直でストレートでいいよね、って英恵《はなえ》さんたちが言ってたよ」
ちなみにどうして由乃さまがそのシーンを見ていなかったのかというと、乃梨子が志摩子さんにエールを送っていた時、黄薔薇姉妹は何やらお取り込み中だったからである。
「そうよ。見ている人間が『そうだ、そのいき』って拳《こぶし》を上げたくなったくらいのパワーがあったもん。言われた志摩子さんが元気にならないわけないじゃないの」
「……そう、ですか」
チラリと志摩子さんを見ると。
「もちろんよ」
そう、やわらかい笑顔と共に返事が来たから。
本当だったらうれしいな、と思った。その笑顔こそが、乃梨子にパワーを与えてくれるものだった。
丁度《ちょうど》いいタイミングで褒《ほ》められて。
私でいいんだよね、って。
うれしいのに、ちょっとだけウルウルっときた。
3
黄薔薇姉妹は、今晩は支倉《はせくら》・島津《しまづ》両家での祝勝会があるという。
「ふふふ、中華料理のコースなのだ」
上機嫌の由乃《よしの》さまは、「いいでしょ」と歩きながらクルリと一回転ターンを加えた。
「去年、令《れい》さまが当選した時もお食事会してたもんね」
祐巳《ゆみ》さまが笑う。
「これも今だから聞けるけれど、落選した場合どうしたわけ? 中華料理のコースだったら、お店の予約していたんじゃない?」
「その場合、残念会または由乃を励《はげ》ます会って、会の名称が変わるんだよ」
令さまが横から口を挟《はさ》んだ。
「なるほど」
同じ料理を食べるにしても、祝勝会と残念会では何となく味が違ってくるような気がした。とにかく黄薔薇姉妹が、今夜はおいしく中華を食べられそうで何よりである。
銀杏《いちょう》並木を並んで歩きながら、乃梨子《のりこ》はどうしても祐巳さまのことが気になって仕方がなかった。
祐巳さまは、これから瞳子《とうこ》のことをどうしようと思っているのだろうか。
祐巳さまは、お姉さまである|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》に瞳子のことを相談したりするのだろうか。
選挙結果発表直後は「どうしよう」といった表情だったのに、今は嘘《うそ》のようにケロリとしている。
まるで、瞳子のことなんて一切《いっさい》忘れてしまったかのように。
祐巳さまは、瞳子を見捨てたわけではない。祐巳さまの言葉は信じられる。適当なことを言ってはぐらかすような人ではない。
でも、だったらどうして放っておくというのだろう。
黙って見ているなんて悠長《ゆうちょう》なことをしていたら、瞳子がどんどん離れていく。乃梨子にはそう感じられるのに。
わからない。
何か、考えがあるのだろうか。だったら、それを知りたい。
それとも、何の根拠もなく、ただ漠然《ばくぜん》とした勘《かん》のようなもので「動かない方がいい」と判断したのだろうか。ならば、その勘に賭《か》けるべきなのか。
「乃梨子?」
「あ」
志摩子《しまこ》さんに名前を呼ばれて、我に返る。いつの間にか、分かれ道のマリア像の前まで来ていた。
瞳子を救ってくれるのは、マリア様でも観音《かんのん》様でもなく、祐巳さましかいない。
マリア様に手を合わせながら、乃梨子は改めて感じていた。ロザリオの授受《じゅじゅ》なんて関係ない、祐巳さまは瞳子のお姉さまなのだ。
それなのに、祐巳さまは依然何事もなかったかのように笑っている。何を考えているのか、わからない。
一度、視線が絡み合った。
その時、たぶん乃梨子は不安げに見つめていたと思う。それに対して、祐巳さまは不思議なほほえみを返してきた。
それは「どうしたの?」でも「大丈夫《だいじょうぶ》よ」でも「任せておきなさい」でもなく、しかしそのどれをも含んでいたともいえるほほえみだった。
一学年の年齢差なのだろうか。その時乃梨子は、近くにいるのに祐巳さまが急に遠くなったように感じられたのだ。
結局、M駅で別れるまでの間、瞳子の「と」の字も祐巳さまの口からは発せられなかった。
[#改ページ]
わずかに外す
1
結局、M駅で別れるまでの間、祐巳《ゆみ》の口からは瞳子《とうこ》ちゃんの「と」の字も発せられなかった。――歩きながら祥子《さちこ》は、心の中でつぶやいた。
選挙結果が発表された直後、祐巳は何かを追って人垣《ひとがき》の外に出ていった。何か――、それは瞳子ちゃんではなかったのだろうか。
瞳子ちゃんを追いかけていって、何を言おうというのか。また拒絶されて、戻ってくるのではないのか。
心配だった。けれど、口を出しはしなかった。もし傷ついて戻ってきても、それを含めて祐巳の意志だろう。自分はただ黙って迎え入れればいい、そう思ったから。
でも、祐巳は程なく戻ってきた。瞳子ちゃんに追いついて、話をして引き返してきたにしては早すぎる。
志摩子《しまこ》と乃梨子《のりこ》ちゃんが、一緒《いっしょ》だった。
掲示板から離れていたわずかな間に、いったい何があったのだろう。戻ってきた祐巳は、人波をかき分けて出ていった時とは、明らかに表情が違っていた。
そして、薔薇《ばら》の館《やかた》にいる間も、下校のために銀杏《いちょう》並木を歩いている時も、バスの中でも、一言も瞳子ちゃんの名前を口にしなかったのだ。
(いったい、どうしたというのかしら……)
志摩子を残して電車を下りてからずっと考えている疑問を、祥子はもう一度心の中で繰り返した。もう何度目になるだろうか、いつでも答えは出ないままだ。
いったい、どうしたというのかしら。その言葉を抱えて歩いているうちに、いつしか自宅の門の前までたどり着いていた。
(私こそどうかしている)
駅から外に出た時のことも覚えていない。しかし確認したところ、ポケットの中にはちゃんと定期券が入っている。だから、確かに改札口を通って出てきたのだろう。
駅前の洋菓子店の店先に、新作チョコレートの幟《のぼり》が増えていたのは見た気がする。それとも、あれは昨日のことだっただろうか。定かではない。
祥子はため息をついてから、インターホンの暗証番号を押して門を開けた。
門柱と庭の外灯は、すでに点《つ》いている。いつの間にか、辺りは暗くなっていた。
家の建物へと続く道を歩きながら、考えることはやはり祐巳のことだ。
仕方ない。他にやることでもあれば、一つのことばかりに集中することもないのだろうけれど、こうして右足左足を交互に出しているだけでは、ふっと気を抜いた意識の狭間《はざま》に考え事が忍び込んでしまうのだ。しかし考え事をしないように気を引き締めるというのも、変な話だった。
(歌でも歌おうかしら)
祥子は、地面から視線を上げた。すると視界の端に、見覚えのある物体が映った。暗がりでも目立つ派手な色のそれは、ただひとりの人を思い起こさせる。
祥子は歌を歌うのをやめた。
2
帰宅すると、リビングのソファーに客人が座っていた。
「お帰り、さっちゃん」
「そちらこそ、お帰りなさい」
駐車場に赤い車があったから、もしかしたらと思って家に入ったところ、やはり従兄《いとこ》の優《すぐる》さんだった。
「聞いたわよ」
祥子《さちこ》は客人の向かいのソファーに鞄《かばん》を置き、その隣に腰を下ろした。いつもは学校から帰ると、家の誰かに「ただいま」と声をかけたら、私室に直行して制服から私服に着替える。しかし、リビングに一人ポツリと座っている従兄《いとこ》を発見したからには、このまま立ち去ることもできない。家にいるはずだが、母は何をしているのだろう。奥でお茶の支度《したく》でもしているのだろうか。
「スキーで捻挫《ねんざ》したんですって?」
「まあね」
優さんは、左足をちょっと上げて笑った。たぶん、そちらが捻挫した方の足なのだろう。言われなければわからない。いや、言われてもわからないくらい、まったくと言っていいほど腫《は》れていない。もっとも、良くなったから、自分で車の運転をしてここまで来られたのだろうけれど。
「さっちゃんに注意されていたのに、格好悪いだろ」
「捻挫なんて、らしくないわね」
高校時代は、ほとんどの運動部に所属していたほど運動全般が得意な従兄である。スキーだって、子供の頃から毎年どこかしらのゲレンデに行っては滑っていたはず。
「僕のスキーの腕前なんて、所詮《しょせん》そんなもんだということさ」
「猿も木から落ちる?」
「ははは、さっちゃんはやさしいな。じゃ、そういうことにしておいてくれよ」
で、そのお猿さんは、足の怪我《けが》が原因ですっかり帰るのが遅くなってしまったというわけだ。
「骨折《こっせつ》はしていなかったから、予定通り帰れないこともなかったんだけれどさ」
「そうなの?」
大学の授業が始まっているのに戻らないと聞いて、相当悪いのだろうと思っていた。もしかしたら捻挫ではなくて骨でも折ったのでは、と心配していた矢先だった。
「優さん、帰してもらえなかったんですって」
そこに、茶碗《ちゃわん》を載せたお盆をもった母が、会話に参加してきた。
「お帰りなさい、祥子さん」
「ただ今帰りました、お母さま。で、誰に? どうして帰してもらえなかったの?」
「ペンションのオーナーに気に入られたのよね?」
母は優さんの前に茶碗を置いた。いやに大きな湯飲み茶碗だと思ったら、それは抹茶《まっちゃ》茶碗で、中に入っていたのも間違いなくお抹茶だった。準備していた時に声を聞いて娘が帰ってきたことを知ったのだろう、茶碗は三つ。祥子の分もあった。
「ペンション? ホテルに泊まったのではなかったの?」
「最初宿泊していたのはホテルだったんだけれど、捻挫した後はペンション」
「ああ、滞在が長引いたから移ったのね」
しかし、それだとさっきの話と矛盾《むじゅん》する。帰れないこともなかったのに帰らなかったのは、「ペンションのオーナーに気に入られた」から。ホテルからペンションに移るとしたら、それは帰らないと決めた後の話のはずだ。
「見知らぬ女の子を庇《かば》って捻挫《ねんざ》してね、その女の子が泊まっていたペンションのオーナーが、それでこそ男だって。治るまで、うちで面倒みよう、って申し出たのよ」
「義叔母《おば》さま、まるで見ていたみたいだ」
優さんは、組んだ指の上に顎《あご》を載せて笑った。まるで、自分以外の誰かの|噂 話《うわさばなし》でも聞いているような素振《そぶ》りだ。
「柏木《かしわぎ》のお義姉《ねえ》さまから電話で聞いてますもの。もちろん、優さんの買って帰ったお土産《みやげ》のお味の噂もね。さて、さっそくいただきましょう」
母はテーブルの隅に置かれていた、いかにも「行楽地のお土産です」といった風情《ふぜい》の薄い箱を持ち上げて笑った。優さんからのお土産なのであろう、パッケージにはスキーをしている人の絵が描かれており、その上にはスキー場の名称の後ろに饅頭《まんじゅう》とつけただけの、よく言えばシンプル、悪く言うならベタな商品名が躍っていた。
「噂?」
「お抹茶《まっちゃ》を用意して食べるのがいいんですって」
言いながら母が箱を開け、セロファンで個別包装された饅頭を祥子の前にも一つ置いた。
「待って。洗面所に行ってくるわ」
祥子は立ち上がった。制服を着たままでいるのはともかく、何か食べたり飲んだりするのであれば、手を洗ってうがいしないことには気持ちが悪い。
「あ、じゃ僕も」
歩き出すと、優さんがついてきた。
「二人とも、いい子ね」
背後から聞こえた母の声は、まるで幼稚園児を褒《ほ》めているようなトーンだった。
3
祥子が石鹸で念入りに手を洗い、うがい液でうがいをし終わると、背を向けていた優さんがボソリと言った。
「僕が東京にいない間、何かあった?」
「何か、って? 捻挫したって、新聞くらい読んでいたのでしょう?」
タオルで手と口を拭《ぬぐ》ってから振り返ると、斜に構えた優さんは苦笑いした。
「僕が、東京のローカルニュースなんかを、さっちゃんに聞くと思うかい?」
「じゃあ、何?」
「意地悪だな。聞きたいのは、祐巳《ゆみ》ちゃんや瞳子《とうこ》のことだよ」
「祐巳と瞳子ちゃん?」
祥子は、別に意地悪をしたつもりはなかった。最初は、本当に何を聞かれているのかわからなかったのだ。けれど今、二人の名前を出されてそんなに驚いていない自分に、むしろ驚いている。心のどこかで、「もしや」と思っていたのかもしれない。
「でも、どうして優さんは二人のことが気になるの?」
去年のクリスマスイブに二人の間に起きたことを、瞳子ちゃんの口から聞いているのだろうか。それとも、二人のことが気になるような何かを、どこかで知る機会があったとか。もしかしたら、ただ漠然《ばくぜん》と感じたというレベルなのかもしれないけれど。
優さんは、案外すんなりと白状した。
「去年の十二月、瞳子が両親とけんかをして家出をした。家出といっても半日ほどだから、たいしたことじゃないんだ」
「……初耳だわ」
祥子のつぶやきに、優さんは「そうだろうな」とうなずく。
「あまり大事《おおごと》にしたくなかったから、僕は極力黙っていたんだ」
「それを、なぜ今?」
大事にしたくない。だから黙っていた。それは、よしとしよう。瞳子ちゃんの家である松平《まつだいら》家と小笠原《おがさわら》家は、親戚《しんせき》とはいえ血縁関係はない。祥子に知らされなかったことだって、理解できる。けれど、それならばずっと口をつぐんでいればいいものを、そう思った。
「まあ一月《ひとつき》以上前の話だし、瞳子も落ち着いたみたいだし。心当たり数カ所に連絡をとったりしたから、何となく一部の親戚の間で噂《うわさ》が流れているみたいなんだ。だからあえて隠しておくのも無意味になった、っていうか。別に今だって、吹聴《ふいちょう》して回るつもりはないよ。だけどさっちゃんが聞いてきたからさ。どうして気になるのか、って」
「そう」
祥子はコップにうがい液を数滴たらし、水道水を注いで薄めた。それを差し出しながら、尋《たず》ねる。
「それで、どうして瞳子ちゃんの家出が祐巳と関係あるの?」
祥子はさっき優さんに、どうして二人のことが気になるのかと尋ねた。それに対して、瞳子ちゃんの家出を答えに挙げただけでは不十分だろう。
「それは」
優さんはコップを受け取ると、おざなりにうがいをしてから言った。
「瞳子は、祐巳ちゃんの家で見つかったんだ」
「祐巳の家で?」
それもまた初耳だった。もちろん、瞳子ちゃんの家出が初耳だった以上、それに関連する話に覚えがあるはずはないのだ。とはいえ、それが自分の妹である祐巳が関わっているとなると、祥子の受け止め方だって変わってくる。
「祐巳ちゃんを頼って訪ねたわけじゃない。祐巳ちゃんの家の近所を歩いていたら弟の祐麒《ゆうき》と会った、ってことらしいけれど」
それでも祐巳の家の側まで来ていたということなら、瞳子ちゃんは、心のどこかで祐巳を頼っていたということにはならないのだろうか。
「それ、いつのこと?」
思い立って、祥子は尋《たず》ねた。
「だから十二月の……」
「十二月はわかったわ。聞きたいのはクリスマスの前か後かよ」
「だったら前だ」
優さんははっきり答えた。
「確か、試験休みの時期だったと思う」
「……そう」
それでは、祐巳がロザリオを差し出して瞳子ちゃんに断られるよりも前の話、ということになる。
あの日、祐巳が姉妹《スール》の申し込みをしたと聞いて、少し突然な気がしたものだったけれど、それ以前に二人の間にそんなことがあったのなら、唐突《とうとつ》でも何でもなく、当然の流れの上に祐巳の行動はあったのかもしれない。
瞳子ちゃんは、試験休みの頃までは間違いなく祐巳を頼りに思っていた。だったら、なぜ瞳子ちゃんは姉妹《スール》の申し込みを断ったのか――。
「祐巳ちゃんは、瞳子のことを心配してくれていたから」
従兄《いとこ》の声によって、思考がかき混ぜられる。ちょっと待って、今考えているのだから、と思いながら祥子は「そうね」と空返事《からへんじ》のような相づちをうった。
「君が時期にこだわるのは、クリスマスの頃に瞳子と祐巳ちゃんの間に何かがあったということかな。この家で行われた女性限定の新年会に、瞳子の姿はなかったし」
「でも、あれは山百合会のメンバーで――」
「君が瞳子にも招待状を出していたことを、僕は知っている。そして、瞳子があの日、出掛けることもなく自宅にいたこともね。個人的な集まりだ。特別に参加する義務はないんだろう。が、何となく気になることではある」
「そうね」
祥子はうなずいた。
「優さんは、瞳子ちゃんの従兄でもあるんですものね。身内として、気になるのは当然だわ」
「まあ、そういうことだ」
「それにしても」
自分が知らないところで、祐巳と瞳子ちゃんのそんな交流があったなんて。ショックというより、単純な驚きだった。
「祐巳ちゃんを責めるなよ」
「責めないわよ」
祐巳が言わなかったということは、今は相談すべき時ではないと判断したからだろう。それは、家出という、瞳子ちゃんのプライバシーに関わる話であったからかもしれない。いや、もしかしたら祐巳は、瞳子ちゃんとのことは誰の力も借りずに解決しようと考えているのではないだろうか。
成立するかどうかは正直いってわからないが、これは間違いなく祐巳と瞳子ちゃんという「姉妹《スール》」の問題だから。たとえ姉とはいえ、踏み込めない領域もある。
そういった意味では、この従兄《いとこ》とて同じ立場なのだ。
「最初の質問に、まだ答えていなかったわね」
だから、優さんになら言ってもいいと思った。
「最初の質問?」
「あなたがいない間に、何かあったかって聞いたでしょう?」
「ああ」
優さんは、今思い出したかのように「そうだった」と言った。本当のところはわからない。忘れたふりをしているのかもしれない。
「瞳子ちゃんが生徒会役員に立候補して、落選したわ」
「えっ」
「どうしてそんなことをしたのか、私にもわからないけれど」
先回りして、祥子は言った。無謀《むぼう》な行動には理由が必要だ。けれど、聞かれたところで心当たりがないのだ。
「信じられないな」
優さんはうつむき、口に手を当てて唸《うな》った。指と指の間から、「祐巳ちゃんがあんなに」というつぶやきが漏《も》れた。
「優さん。祐巳のこと好きなの?」
ふと、そんな考えが頭の中を過《よぎ》った。すると優さんは、一瞬だけ顔を強《こわ》ばらせてから祥子に微笑した。
「何をおかしな事を言うんだ。僕は――」
「そうだったわね。ごめんなさい」
祥子はすぐに撤回《てっかい》した。元婚約者である彼からは、以前、同性愛者であると告白をされている。もし祐巳を好きだと言ったなら、そこで矛盾《むじゅん》が生じる。
しかし今、優さんは「好き」を異性として愛しているという意味でとったわけだ。それは、彼のミスとは言えないだろうか。
優さんも、すぐに気づいた。
「……そうか。僕はただ笑って、祐巳ちゃんはいい子だから大好きだ、って言えばよかったんだな」
「そのようね」
「でも、誤解されたくはない」
「昔の私なら知らないけれど。この頃、いろいろなことがわかるようになってきたわ。わざわざ、わかりやすい言葉に置き換えて説明してくれなくてもね」
彼が、祥子を恋愛対象として見られないと言ったのは、祥子が男性ではないから、ではない。性別以前の間題なのだ。だから、たとえ祥子が男に生まれてきたとしても、受け入れてはくれなかっただろう。
けれど、まだ幼い従妹《いとこ》にそれを説明することは困難と思われたから、あの時は同性愛者というわかりやすい言葉を使って無理矢理納得させたのだ。たぶん。
「質量でいえば、祐巳ちゃんよりさっちゃんの方が遙《はる》かに好きだよ」
その言葉を聞いて、祥子は悟った。
「違う『好き』なのね」
「そう。さすがにさっちゃんは賢いな」
「誰と比べているの?」
尋《たず》ねると優さんはほんの一瞬だけ黙って、それからすぐに答えた。
「それは言わぬが花、ってね?」
ということは、自分も知っている人物なのだろう。なるほど、優さんが「言わぬが花」と言うのなら、祥子にとっても「聞かぬが花」なのであろう。
「でも、男が好きなのは本当だよ」
「男が、でなくて、男も、でしょう?」
「参ったな」
「当たり?」
優さんと、この手の話を笑いながらできる日が来ようとは。十五の春には、とても考えられなかったことだった。
「そろそろ戻ろうか。あまり長々と二人して洗面所に籠《こ》もったままでいると、さすがの義叔母《おば》さまも変に思うだろう」
そのまま戻ろうとするから、祥子は優さんの腕をつかんで引き戻した。
「ちょっと待って。手を洗うのを忘れているわよ」
4
「祥子《さちこ》もいつも時間をかけて、丁寧《ていねい》にうがいと手洗いをする子だけれど、優《すぐる》さんもなのね。さすがは従兄妹《いとこ》同士。潔癖《けっぺき》なところは似ているわね」
母の言葉に、二人は顔を見合わせて笑った。
「ささ。いただきましょ」
急《せ》かされて、祥子はソファに座った。
「そうね。せっかくのお茶が冷めきってしまうわ」
そもそも抹茶《まっちゃ》だから、熱々を飲むわけではない。けれど、冷たくなればその分おいしくなくなる。最初からグラスにアイスティーを作ったのとは、わけが違う。
「あ、待って」
茶碗《ちゃわん》に口をつけようとした祥子を、母が止めた。
「何?」
「まず、お饅頭《まんじゅう》から食べるのよ。ね?」
最後の「ね?」は、優さんに向けて発せられた。土産《みやげ》の持参者は、「まあ、ここは義叔母《おば》さまの言う通りにしてみてよ」と笑うだけだ。
「ソファに座ってスキー場土産のお饅頭を食べるのに、お作法《さほう》があるっていうの?」
気張ったお茶席でもあるまいし。だったら、テーブルに置いたまま五分以上経過したこのお抹茶から、まずどうにかしないといけないのではないか。
「いいから、いいから。じゃ、セロファンむいて。せーの、で食べましょう」
「……?」
変な作法だと思いつつも、祥子は母のかけ声に合わせて半分に割った饅頭を口に入れた。その時は無心だった。前もって情報を得ていなかったから、先入観のもちようがなかったのだ。
「どうですか」
咀嚼《そしゃく》の最中に、優さんが二人に向けて聞いてきた。彼は、セロファンをむくまでは行動を共にしていたが、口には入れなかった卑怯者《ひきょうもの》である。
「――」
「正直な感想を」
重ねて聞かれたので、祥子は軽く優さんをにらみつけた。
「本当に正直な感想でいいなら」
「どうぞ。忌憚《きたん》なく」
それじゃ、と祥子は思い切った。
「このお菓子ね」
言いかけると、隣で母が「まずーい」と叫んだ。
「お母さま、あの、もう少し言葉を選ばれたら……。あまりおいしくない、とか。私の口に合わない、とか」
とはいえ、言葉を多少まろやかにしてみたところで、まずい物はまずいのだ。皮はボソボソであんこはひたすら甘いだけ。それだけならまだしも、芳香剤《ほうこうざい》のような香料がついていて、一気に食欲を萎《な》えさせる。
「いいんだよ、さっちゃん。僕は、土産物《みやげもの》屋を巡って味見を重ねて、一番まずい物を買ってきたんだ」
「どうしてそんなこと」
この人は、こんなにもバカだっただろうか。
「だって僕の周囲の人たちって、みんな舌が肥《こ》えているんだ。そんな人たちにさ、適当においしい土産を買っていってどうするんだ」
「いいじゃないの、適当においしいので」
旅行土産なんて、そんな物だ。どこどこに行ってきましたと、報告するために買って帰るのだから。
「えーっ、つまらないよそんなの」
「一つだけわかったわ。親戚《しんせき》中の噂《うわさ》になっているわけが」
グルメの優さんが、スキー土産にまずい菓子を買ってきて配っている。噂にならないわけがない。祥子の母なんか、噂を先に聞きつけたものだから、手ぐすね引いて優さんの来訪を待っていたらしい。その母であるが。
まずいと叫んだ割には、さっき割った残りの饅頭《まんじゅう》をパクパク食べて、抹茶《まっちゃ》で流し込んでいる。
「祥子さんも、もう一口食べてみて」
「嫌よ」
空腹に耐えきれない状態ではない。わざわざ、まずいとわかっている物なんて食べたくはない。馴染《なじ》みの薄い物というだけで飛びつく母と、一緒《いっしょ》にして欲しくはないのだ。
「騙《だま》されたと思って。お抹茶と一緒に」
「……は?」
そう言えば、と思い出す。抹茶。饅頭を食べる前に飲むのを禁じられていたが、いつの間にか解禁になっている。仕方ない、騙されてみようと思って抹茶と饅頭を交互に口に入れてみる。
すると。
「あら」
「ね?」
味がさっきと違って感じられる。しつこかった甘さがマイルドになり、芳香剤《ほうこうざい》を思わせる香りもかすかな花の香りをどこか感じる程度にまで落ち着いた。さっきはいかにも合成香料ですといった感じだったのに、ほんの少しキャラウェイとかディルが入っているお菓子のようにさえ思える。これは本当にさっきと同じ食物なのだろうか。
けれど、祥子が今食べたのはさっき割った残りなのだ。別の物にすり替わっているはずはない。
「これ、優さんのアイディア? そこまで考えて買ってきたの?」
「いいや。僕は、ただまずい物を買ってきただけ」
優さんはすました顔をして抹茶《まっちゃ》をすする。
「じゃあ……」
「それがね、松平《まつだいら》の奥さまが大発見したんですって」
母が言った。
「松平……ああ瞳子《とうこ》ちゃんのお母さま?」
祥子は、数年前だったか、最後に会った時の記憶を思い起こした。松平の小母《おば》さまといえば、少しふくよかで、おっとりしていて、お嫁に行ったのにまだ深窓《しんそう》のお嬢《じょう》さまといった雰囲気《ふんいき》を醸《かも》し出している、可愛《かわい》らしい女性だ。
[#挿絵(img/25_047.jpg)入る]
「松平家に土産《みやげ》を持っていった時、叔母《おば》がお茶を点《た》ててくれてね。丁度《ちょうど》いいから今食べようということになって、僕はまずいって知っていたから食べなかったんだが、叔母はとてもおいしいって言うんだ。お世辞《せじ》、って感じではなくね」
「最初からお抹茶《まっちゃ》と一緒《いっしょ》に召し上がったのね」
「はじめはさ、叔母は年末に少し臥せっていたから、味覚障害にでもなってるのかと思ったんだ。でも、あまりに勧められるから仕方なく食べたら、意外にいけるんだな、これが」
「そういえば、しばらくお目にかかっていないけれど。小母《おば》さま、ご病気だったの」
今日はいやに初耳が多い。
「でも、体育祭にも学園祭にもいらしたっておっしゃっていたわよ」
会わなかったのかと母に聞かれて、祥子はうなずいた。体育祭も学園祭も、当日はバタバタしているから、知り合いが来ていたってそうそう気づくことはない。誰かさんのように借り物競走に参加したりすれば、嫌でも目につくだろうけれど。
「お祖父《じい》さまの病院のこととか、難しい年頃の娘のこととかで、心労が溜まって、ダウンしたみたいです。でも、大したことはなさそうだから」
娘のことというのは、瞳子ちゃんが家出したことを指しているのだろう。けれど。
「病院のことって?」
松平家で病院といえば、祥子の祖母が生前入院していた、郊外にあるあの病院のことであろうけれど。
「松平の叔父《おじ》さま……つまり瞳子の父親は、医者にならなかったから。お祖父さまもそろそろお年だし。病院の行く末とか考える時期なんじゃないの?」
優さんは、「よく知らないけれど」といった雰囲気《ふんいき》で答えた。いろいろ知っているのかもしれないが、逃げ場を作っておくのがうまい人だ。
「あら、病院の方はうまく行きそうだって、柏木のお義姉《ねえ》さまがおっしゃっていたわよ」
母がつぶやく。
「まあ、そういう動きではあったんですがね」
どうも瞳子が反対らしくて、と優さんは言った。うまくいきそうだというその話は、少し保留になっているという。
お抹茶のお代わりを点てましょうと母が中座したので、祥子は優さんに尋《たず》ねた。
「もしかしたら、瞳子ちゃんの家出の原因って……」
さっきは聞きそびれてしまったけれど、それなら時期もピッタリ一致する。
「正解」
直接の原因はね、と優さんは付け加えた。ということは、もうすこし複雑な事情があるのだろう。
「病院をどうするか、って話なのよね?」
「まあ、端的《たんてき》に言えば」
「でも、何もお祖父《じい》さまやご両親は、瞳子ちゃんにお医者さまになれって強要しているわけではないのでしょう?」
「言っていないね」
「だったら、娘の顔色なんて見なければいいのに。松平の小父《おじ》さまも小母《おば》さまも、瞳子ちゃんには甘すぎるんじゃないの。だからあんな我がままに」
言いながら祥子は、論点がずれていくのを感じていた。知らず知らずに感情的になっている。こんな事を言いたいのではない。けれど、止められない。
「松平の義叔父《おじ》や叔母《おば》は、確かに甘いかも知れないけれど。瞳子は、それほど我がままじゃないよ」
優さんの一言で、やっと祥子の口にブレーキがかけられた。
「……そうね。失言だったわ」
祐巳が姉妹《スール》の申し込みを断られた。その確たる理由がわからない苛立《いらだ》ちが、知らず知らずに瞳子ちゃんへ向けられていた。たぶん、そうだ。
祥子だってわかっている。見た目や印象で我がまま娘に思われがちだが、優さんが言うように、瞳子ちゃんはそれほど我がままではない。時折見せる甘えた態度だって、時と場合をわきまえてやっている。退くべき時は退く。本当に無理なことはしない子だ。
それを知っているからこそ、祥子は余計|焦《じ》れるのだろう。祐巳を断ったのにだって、止《や》むにやまれぬ事情があったはず。そうでなければ納得できない。
「さっちゃんさ、瞳子が生まれた時のこと覚えている?」
優さんが明るく尋《たず》ねる。祥子の発するピリピリした空気を、和《なご》ませようとしているのだろうか。
「いいえ?」
祥子は多少無理してほほえんだ。
「そうだよな。まだ二歳だし、遠縁だ」
「そう言う優さんは、それでは覚えているのね?」
「まあ、もう三歳にはなってたし。松平の叔母は病院から直接うちに来て、瞳子と一緒《いっしょ》に一月《ひとつき》ほど滞在したんだよ。まあ、誰でも初めてっていうのはそうだろうけれど、赤ん坊を育てるのが不安だったんだろうな。先輩ママである僕の祖母や母に頼ってきた、ってところだろう。幼かった僕は、瞳子を本当の妹だと思い込んでね、会う人会う人に『うちに妹が来た』としゃべったものさ。余程うれしかったんだろうね」
「そう」
それで、と聞き返すと、優さんは「いや、何となく」と答えた。やはり、話を切り替えてくれたらしい。
「優さんは、祥子のことも可愛《かわい》がっていたわよ」
キッチンから戻ってきた母が、言う。
「まだ自分だって赤ちゃんっていっていい年齢なのに、赤ちゃん赤ちゃんって。撫《な》でたりキスしたり」
「そっちは覚えてないな」
優さんは頭をかいた。
「そうやって可愛がられたから、祥子は優さんのことが好きになったのよ、きっと」
「昔のことはおっしゃらないで」
笑いながらテーブルの上に茶碗《ちゃわん》を置く母を、祥子は一瞥《いちべつ》した。また「祥子が優さんのお嫁さんになりたいと言った」なんて、幼稚舎《ようちしゃ》の頃の話を蒸《む》し返されたらたまらない。
大人っていうのは、子供の、本人にも記憶にないことを白日《はくじつ》の下《もと》にさらして喜ぶのだから厄介《やっかい》だ。
「はいはい」
新たなる抹茶《まっちゃ》とともに、饅頭《まんじゅう》にも一つ手を伸ばす母のつぶやきを聞いて、若い二人は目を合わせて苦笑した。
「優さんは、小さい頃から女の子が好きだったのねぇ」
――母は、少しだけずれている。
[#改ページ]
企画書とともにきたる
1
月曜日の放課後。
意外に早く、それはやって来た。
「ごきげんようー。お邪魔《じゃま》しまーす」
「はーい」
生憎《あいにく》、乃梨子ちゃんがお茶をいれていて手が離せなかったので、一階まで取り次ぎに出た由乃《よしの》は、そこにいた人物を見てちょっと間抜けな声をだした。
「ほえ?」
資料のようなものが入った茶封筒を片手に、さわやかな笑顔を振りまいて薔薇《ばら》の館《やかた》の一階玄関の扉の陰から顔を出しているのは、クラスメイトの山口《やまぐち》真美《まみ》さん。
「新聞部でーす」
それは、知っている。でも。
「新生徒会役員の取材って、確か明日って言ってなかったっけ」
今朝《けさ》、会ってすぐ。「ごきげんよう」のすぐ後に。明日の放課後、『リリアンかわら版』のインタビューがあるから空《あ》けておいてね、と。やはり同じクラスの福沢《ふくざわ》祐巳《ゆみ》さんと、二人並んで聞きました。間違いなく。
「言いましたとも」
意味不明に胸を張る真美さん。
「じゃ、本日は何故《なにゆえ》薔薇の館に」
由乃は嫌な予感がした。そうそうこのパターン、真美さんが『リリアンかわら版』の編集長になる前の、新聞部のどなたかを思い出させるのだ。
「選挙も済んだことだし、そろそろバレンタイン企画を進めたいと思いまして」
ほら来た。
「聞いていない」
実は、祥子《さちこ》さま経由でそれとなく耳にしていたけれど。その辺は、都合が悪いので伏せておくことにした。
「そりゃそうよ。由乃さんには直接言っていないし」
「何で言わないわけ?」
毎日毎日毎日毎日、同じ教室で授業を受けているのに。別にクラス内に派閥《はばつ》とかがあって、所属しているグループ同士が敵対しているため話をするチャンスがなかったとかでもなくて、むしろクラスでは仲がいい方ベストテンのランキングに入っているのではないかと思われる、そんな関係のはずなのに。
それなのに、ああそれなのに、なぜ言わぬ(五・七・五)。
何となく知っていたのに聞かなかったこっちも悪い、なんて理屈、高ーい棚《たな》の上にあげちゃって、もはや由乃からは見えないのだ。
「何て言うかな、……保険?」
真美さんは、館の中に入って扉を閉めた。由乃がなかなか「どうぞ」と迎え入れないから、勝手に上がるしかないと判断したのだろう。現在一月の終わりである。言われるまでもなく、外は寒い。
「保険、って何よ」
それでも由乃は、二階に案内するどころか、前に立ちはだかって客人の行く手を阻《はば》む。さすがの真美さんも、呆《あき》れ顔だ。
本当いうと、真美さん個人には何の恨《うら》みもない。けれど、新聞部には思うところが多々ある。
しかし、その一つ一つを頭に浮かべて仕返しをしているわけじゃなかった。こっちだってそんなに暇じゃないし、ねちっこくもない。過去になんて、いちいち関わっている暇なんてないのだ。
つまり、由乃はこのところどういうわけか虫の居所が良くないことがある。運悪く現在もその傾向にあったがために、真美さんが犠牲《ぎせい》になったというわけだ。
かわいそうに。たとえば明日とか、日時が違っていたらあるいは気持ちよく迎えてもらえたかもしれなかったのに。あくまで「迎える」までの話だけれど。
「保険っていうのはね」
真美さんが言った。
「去年、私のお姉さまがバレンタイン企画を持っていった時、当時の|つぼみ《ブゥトン》の皆さまは非協力的だったとか」
「まあ、そうだったわね」
去年のことを思い出しながら、由乃はうなずいた。
「そこで、今年の|つぼみ《ブゥトン》の反応も同じだった場合のことを考えて、対策を考えたわけ。……お邪魔《じゃま》するわね」
由乃の脇を素早く通り抜けて、真美さんは階段に足をかけた。
「対策って?」
追いかけながら、質問する。
「去年と同じ事を繰り返すのって、時間の無駄《むだ》だし、芸がないでしょ? 我々としてみれば、こんな夢みたいな企画にどうして乗り気じゃなかったのか、その辺がまったくわからないけれどね」
ギシギシと音を立てながら、真美さんが階段を上っていく。
「皆さま、揃《そろ》っているでしょ?」
「いる、けど」
答えてから二段ほど階段を上がったところで、由乃は気づいた。
「あーっ! 何、今日、祥子さまだけじゃなく令《れい》ちゃんも来ているのって、そういうことなの!?」
そういうことなの、の代わりに、真美さんはニヤリと笑った。
「真美さん。いつからそんな小細工《こざいく》をするような子になったの。それじゃ、築山《つきやま》三奈子《みなこ》さまの二代目だよ」
「何とでも。お姉さまに似てきて何が悪いの? そもそも、あなた方が新聞部に協力的だったらこんな手は使わないのよ。結局はこの企画に乗ることになるんだから、気持ちよく迎えてちょうだいよ」
「結局は」とか「企画に乗る」とか、どこからその自信が出てくるのかが疑問だ。そりゃ確かに、去年は先代の薔薇さまたちの威圧《いあつ》に屈して、|つぼみ《ブゥトン》たちは協力せざるを得なかったけれど。
今年はそうはいかない、と由乃は思った。祐巳さんは祥子さまの「やりなさい」にうなずいてしまうにしても、志摩子《しまこ》さんは妹に対して権力を振りかざすようなタイプではないし、自分は令ちゃんなんてまったく怖くないし。いくら現薔薇さまたちを味方につけたところで、そうそう新聞部の思い通りにはいかないはずだった。
階段を上りきると、真美さんは立ち止まって由乃に「どうぞ」と先を譲《ゆず》った。
「?」
「取り次ぎより先に客が部屋に入ったら、由乃さんの面目丸つぶれでしょうが」
「そういうの、思いやりとかって思わないからねっ」
でも、せっかくだから。由乃は、先に行かせてもらうことにした。
「新聞部の山口真美さんがおいでです」
扉を開けて、そう告げると。
「まあ、ようこそ」
「いらっしゃい」
祥子さまと令ちゃんは、思いがけないお客さまを歓迎するというポーズをとった。
(今日来ることを知ってて、待っていたくせに)
この古狸《ふるだぬき》たちめ、と由乃は心の中でつぶやく。三年生の二人は、このところとみに先代たちに似てきて困る。
「あら由乃ちゃん、どうしたの? 真美さんに椅子《いす》を勧めて差し上げて」
お姫さまみたいなお面を被《かぶ》った『古狸その一』が、すました顔で言った。
「まあ、そうでしたわ。どうぞ、真美さん、こちらの席に」
そっちがその気なら、こっちは狐にでも何でもなってやる。
「恐れ入ります」
真美さんが着席すると、『古狸その二』が乃梨子ちゃんに声をかける。
「お茶をもう一つ追加して」
『その一』がお姫さまなら、さしずめ『その二』が化けているのはバカ殿といったところか。いや、お姫さまは比喩《ひゆ》であって、別に本当に化けているわけではないから、一々配役を決めなくてもいいのである。
乃梨子ちゃんを手伝おうと流し台の方に歩いていくと、先にその場にいた祐巳さんがコソコソッと近づいてきて小声で聞いた。
「真美さん、何だって?」
「バレンタイン企画をね」
由乃がそこまで言うと。
「ああ――」
祐巳さんは大きくうなずいた。選挙前に一度その話は出ていたし、何より真美さんの登場シーンは去年の三奈子さまを彷彿《ほうふつ》とさせた。
「いい? 祐巳さん、負けちゃだめよ」
由乃は声と反比例するように、祐巳さんの手をギュッと握った。
「う、うん。……って、誰に」
誰に、と問われて、一瞬考え込む。
新聞部……いや、お姉さま? どっちだっけ? それとも、両方?
「何にでもいいわ。とにかく、自分によ。自分に負けちゃ駄目《だめ》。戦うからには勝たなきゃ。乃梨子ちゃんも、いいわね」
横を見ると、紅茶を入れ終えた乃梨子ちゃんが、お盆を持ったまま困っていた。
「すみません。私には、今ひとつ話が見えていないのですが――」
「つまり、新聞部やお姉さまたちの言いなりになるな、ってことよ」
由乃は、ポットに水を足してコンセントをつないだ。
「はあ」
「だから、……いいわ。乃梨子ちゃんの場合、簡単に挫《くじ》けそうにないから」
上級生が相手だって言いたいことは言うし、第一あの志摩子さんが怖い顔をして「やりなさい」と命じるところなんて、想像がつかない。
なんて考えながらお茶の入っているカップを配っていたら、当の志摩子さんと目が合った。
「何?」
いつものようにほんわかとした微笑。「なに」というより「なあに」って感じの。
「いや、別に」
この天使を、祥子さまや令ちゃんと一緒《いっしょ》に『古狸《ふるだぬき》』にしてしまうのは、ちょっぴり気の毒な気がした。でも、油断は禁物。どちらにつくかによっては、敵にもなりうる相手である。
志摩子さんは「薔薇さま」なのだ。
ここは慎重に、動向を見守る必要がありそうだ。
2
まず理解しておかなければならないのは、少なくとも三年生二人と新聞部の間ではこの企画、やるという方向で、水面下では話がついているということだ。
何故、そう思うかって。最初、年末に打診《だしん》を受けたという祥子《さちこ》さまが、年も明けてからそのことをみんなに伝えたところからして、もうぷんぷん匂《にお》う。
まあいい、百歩|譲《ゆず》ってそれは本当に祥子さまがぼんやりしていたことにしよう。しかし、真美《まみ》さんが来ることを事前に知っておきながら(というよりたぶん、いつなら薔薇《ばら》の館《やかた》に全員が揃《そろ》うという情報を真美さんに流して、日時を決めておいたのだろう)|つぼみ《ブゥトン》たちには何も教えないという態度は、不意打ちというよりむしろ騙《だま》し討《う》ちである。
特に招集がかかっているわけでもないのに、「受験生だからしばらく会合には出ません宣言」をしていた令《れい》ちゃんが、薔薇の館にいること自体、白状したも同じこと。
ああ、人間とは、なぜに昔自分がさせられたのと同じ事を次の世代にも押しつけたがるものなのであろうか。――なんて嘆《なげ》いてはみたものの、だったらこの呪《のろ》いの連鎖《れんさ》を自分の代で断ち切るかっていうと、そんなことは絶対しない。当事者でいる時は周囲を呪うが、自分の前から過ぎ去った後はその嵐を見て十分に楽しむ。そういう子である、島津《しまづ》由乃《よしの》は。
さて、ここで問題になるのが、志摩子《しまこ》さんの立場。着席してそれとなく観察してみたところ、薔薇さまとはいえ、古狸《ふるだぬき》、もとい三年生たちの陰謀《いんぼう》には荷担《かたん》していないようである。
そういえば、学園祭の劇と配役を決定した時も、確か志摩子さんは由乃たちと同じく、何も知らされていなかった。やはり、学年が違うせいだろうか。志摩子さんから|つぼみ《ブゥトン》たちに話が漏《も》れるなんてことを、三年生たちが心配しているとも思えないのだが。とはいえ、知らされない方がむしろ志摩子さんにとっては精神衛生上いいんじゃないか、と由乃は思った。
持参した資料を配りながら、真美さんが口を開いた。
「それでは、今年のバレンタイン企画案を発表させていただきます」
へー。
ってことは、もう新聞部の企画に山百合会《やまゆりかい》が協力することは決定しているわけだ。
会議の時間短縮を図るのはいいが、これは最初から飛ばしすぎではなかろうか。まずは「協力してください」と頭を下げるのが、人に物を頼む時の正しい態度である。常識外れでぶっ飛んでいた築山《つきやま》三奈子《みなこ》さまでさえ、去年はちゃんとそうしていた。まあ、真美さんがここで頭を下げたからといって、「いいよ」とは言うつもりもない由乃である。さて、どのタイミングで真美さんを懲《こ》らしめてやろうか。
「そうそう。今更《いまさら》申し上げることでもないかもしれませんが」
由乃のギラギラした視線に気づいたのか、真美さんが言う。
「今年もバレンタインデーに合わせてイベントを行い、それに山百合会の皆さまのご協力をいただくことは、すでに|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》・|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》のお二方に承認していただいております」
「えーっ!?」
そりゃ、今更《いまさら》言ってもらわなくたって、両者が結託《けったく》していることは気づいていた。でも、もう承認したって。意味がわからない。
「だって、断る理由がないじゃない」
何を驚いているの、と祥子さまが首を傾げる。
「それにしてもっ」
由乃は食い下がった。この資料とやらにはまだ目を通していないから、真美さんがどんな企画を持ってきたかはまだわからないけれど、たぶん一番協力しなければならないのは、前例からして|つぼみ《ブゥトン》たちのはずだ。その労働のほとんどを担《にな》うであろう人たちの意見を聞く前に、楽隠居《らくいんきょ》を決め込もうとしている人たちが承認って。一体全体、どうなっているの?
「祐巳《ゆみ》さんも、黙っていないで何か言いなさいよ」
ほれほれ、とけしかける。こういう場面にこそ、つぼみ同士がガッチリタッグを組んで、横暴なお姉さま方に対抗しなければいけない。
けれど、祐巳さんは。
「……えっと、今年のイベントは何をやるの?」
「って、おい!」
何か言えとはいったが、そんな面白すぎるボケはいらない。
「へ?」
いや、違う。祐巳さんはマジだ。ウケ狙いでも何でもなくて、真美さんがどんな企画をもってきたのか興味を示している。だって、惚《とぼ》けた顔はこっちを向いているのに、右手の親指と人差し指はしっかりさっき配られた資料をめくっているのだ。……信じられない。
「ちょっと、祐巳さん。お姉さまたちが勝手に承認したことに腹はたたないの?」
おのれ福沢《ふくざわ》祐巳、古狸《ふるだぬき》に抱き込まれたか。
「そこらへんは、ちょっとはね」
「ちょっとは、程度なの!?」
子だぬきは「うん」とうなずく。
「でもさ、それに腹をたてて、企画自体を否定するのもどうかなぁ。だって別の次元の話でしょ」
待て、それ以上言うな。
「バレンタインのイベント、確かにいろいろ問題点もあるとは思うけれど。それを踏まえても、私もお姉さま同様、断る理由がないって結論がでてしまったんだよね」
祐巳さん、ったら、祐巳さんっ。黙れというのに。いや、心の中で叫んだところで聞こえるわけはない。
「去年、水野《みずの》蓉子《ようこ》さまの夢が叶えられた。私、また同じ夢を見たいんだ」
しんと静まった部屋の中で、湯沸かしポットから出る音だけがシュンシュン響いていた。
そうだよ、何で忘れていたんだ。由乃はうなだれた。
祐巳さんは蓉子さまに傾倒している。立ち会い演説会の演説で、はっきりそう言っていたじゃないか。
「だから、まず真美さんの話を聞いて、それから協力するしないを決めたっていいんじゃないのかな」
正論なんだよ。正論過ぎて、もう何も言い返せないんだよ。
振り返ってみれば、数分前に祐巳さんに「自分に負けるな」なんて言った自分がバカみたいだ。祐巳さんは、立派に自分の意見を言っている。全然負けてない。負けそうなのは由乃の方だ。
「由乃さんは、どうして反対なの?」
志摩子さんが顔を覗《のぞ》き込んで尋《たず》ねてきた。するってえと、志摩子さんも賛成派ってことですかい。まあ、そうだろうな。
「……上からの命令でやるなんて」
うわっ、自分で言ってて嫌になるくらい、説得力のない理由だ。しかも、すでに祐巳さんが「別の次元の話」と結論づけた後に、それを言っちゃだめだろう。
「志摩子さんだって、去年はやる気なんて全然なかったじゃない。それを、聖《せい》さまの圧力に屈してやることになったんでしょう? だったら、こっちの気持ちはわかるはずだよ? どうして薔薇さまになった途端、そっち側に回るわけ?」
「こっち……? そっち……?」
志摩子さんは、由乃が左右逆にさした指の方向をしばらく不思議顔で代わりばんこに見ていたが、やがて「そうじゃなくて」と言った。
「こっちとかあっちとかじゃないでしょう? 去年のことがあったから、意見が変わることだってあるわ」
「え?」
また、反則の笑顔をするからに。
「一度やってみて、よかったと思ったの。山百合会にとっても、私個人にとっても。それはやってみたからこそ言えることよね」
「――」
そう言えば、立ち会い演説会で志摩子さんは、経験を生かして山百合会のために力を尽くすとか何とか熱弁していたっけ。しまった、と由乃は心の中で舌打ちをした。ここも攻めどころを誤った。
ところで。
三年生、つまり祥子さまや令ちゃんはというと、お茶なんかすすりながら優雅に二年生の議論を見守っている。いや、見守っている、じゃないか。高みの見物ってやつだ。
後輩たちが一致団結してバレンタイン企画に反対した場合、つまり去年の令ちゃんたちがそれだったんだけれど、その場合はもう一押し上から圧力をかけて言うことを聞かせるつもりだったはず。でも、祐巳さんと志摩子さんが企画に乗り気である以上、二人に由乃を説得させればいいのだ。自分たちが動くこともない。そういうことだ。
「じゃさ」
祐巳さんが言った。
「例えば、今ここにお姉さまたちがいないとする。そこに真美さんがバレンタイン企画をもってやって来る。その場合の、由乃さんの反応は?」
仮定の話かい。
「志摩子さんは?」
いるのいないの。そこはそれほど重要じゃないんだけれど、由乃は間抜けなことを尋《たず》ねて、ついその話に乗ってしまった。
「いてもいなくても。由乃さんがいいほうでいい」
「うーっ」
それが、どっちにしてもやっぱりあんまりやりたくないというのが、由乃の気持ちの正直なところ。すると、自分は何でこんなに反発しているのか、段々わからなくなってくるというか。
志摩子さんの言うように、山百合会にとっていいこと、というのは理屈ではわかる。祐巳さんの目指している「蓉子さまの理想」の実現だって、突き詰めればそういうことだ。
それじゃ、何が気に入らない? 由乃は自問した。
「由乃さん、去年も企画段階では大反対していたけれど、蓋《ふた》を開けてみたら結構イキイキしていたよ」
黙り込んでしまった由乃の代わりに、祐巳さんが言った。
「……」
そうなのだ。それは、由乃自身気づいていたことだ。去年の宝探しは意外に燃えた。結果は不本意だったけれど、思い返してみれば全体的に楽しかった。
ということは、新聞部がもってきた企画に乗ることに対して嫌悪《けんお》感を抱いているわけではない。では、去年と今年でどこが違うか。
「わかった」
由乃は、左手の手の平を右手でポンと打った。
「つまらないからだ」
「つ……つまらない?」
誰というより、由乃以外のみんなが驚きをもって復唱した。
「そう」
去年は、宝探しに参加して「令ちゃんが誰かとデートするのを阻止《そし》する」という明快な目標があったけれど、自分が主催者《しゅさいしゃ》サイドになったら、新聞部との打ち合わせ打ち合わせ打ち合わせに明け暮れ、当日は決められた通りに働くのみ。ゲームに一般参加すればもれなくついてくるハラハラドキドキワクワク感ってやつは、ルールを決めたりゲームの主役になるといった「やりがい」みたいなものの比じゃない。
その上、仮に去年と同じようなことが行われるとしたら、その後の半日デートなんてものを勝者にプレゼントしなければいけないわけだ。はっきり言って、面倒くさい。
よし、たとえ令ちゃんが参加してくれて、めでたく勝者になったとしよう。それでも、令ちゃんとのデートなんてあまりに普通過ぎて、ときめきやしないのだ。
どうしても協力しなければいけないなら、いっそ、誰も勝てないような小細工《こざいく》をしてやろうか。そもそも、受験生の令ちゃんが、ゲームに参加すること自体なさそうだし――。ブラック由乃はニヤリと笑う。
志摩子さんが、恐る恐る尋《たず》ねてきた。
「本当に、つまらなそうだから反対しているの?」
「そうよ。悪い?」
由乃はふんぞり返った。開き直った。さあ、賛成して欲しくばこの「つまらない」を解決してみたまえ。一転「面白《おもしろ》」になったら、喜んで協力しようではないか。
「……それって」
「ねえ……」
祐巳さんと志摩子さんが、顔をつきあわせてこそこそ囁《ささや》く。相変わらず、三年生はニヤニヤ。どっちに転ぶのか心配なんだろう、新聞部の真美さんは真顔。
そして、唯一、一年生の乃梨子《のりこ》ちゃんは。
「大人げないんじゃないですか」
ずっと黙っていたのに、突然発言した。
「お、大人げない、ですって?」
由乃がにらみつけると、乃梨子ちゃんは「ええ」なんて平然とうなずく。
「詳しいことは知りませんが、つまり由乃さまは、去年の|つぼみ《ブゥトン》、現薔薇さまたちが中心になって行われたバレンタイン企画には楽しく参加なさったくせに、いざご自分の番になったらつまらなそうだからやりたくない、と、こうおっしゃっているわけですよね。それは、自分勝手なんじゃないですか。大人げないですよ」
上級生が相手だって、言いたいことは言う。味方にすれば千人力の乃梨子ちゃん。だが、こちらが噛《か》みつかれることになろうとは、由乃には大誤算だった。しかも、年下に「大人げない」などと言われて、予想以上にダメージを受けた。
「確かにね。つまらない、っていう理由で拒否するのは却下《きゃっか》でしょ」
祐巳さんが言った。そりゃそうだ。去年の|つぼみ《ブゥトン》たちは、もっとそれらしい理由を挙げたって逃れられなかったんだから。
極めつけは、志摩子さんがニッコリ笑って「やりましょう」だ。いっそ怖い顔で「やりなさい」とにらみつけてくれたなら、反抗しようもあるというのに。マリア様みたいなほほえみは、何度も言うように反則だ。
どうする、由乃。この四面《しめん》ならぬ六面楚歌《ろくめんそか》。
令ちゃんと祥子さまは、目に涙をため、お腹《なか》を抱えて震えている。お手洗いを我慢しているわけじゃなく、もちろん笑いを噛《か》み殺しているのだ。まったく、殺し切れてないところが憎らしい。
「そう言われてもね」
ここまできたら、もう首を縦に振る以外なかった。大人げないと指摘された由乃であっても、十七年間生きてきたわけだから引き時くらいわかっているつもりだ。けれど、さっきはあんなに反抗していたというのに、すぐに賛成ってわけにはなかなかにいかない。由乃が路線変更してみんなと合流するためには、何かきっかけが必要だった。
諸手を挙げて賛成でも、両手を挙げて降参でもなくて。胸の前で腕を組んで、ちょっとため息なんて吐いて。うつむき気味の顔をほんの少しだけ上にあげて、ウィンクじゃないけれど片目だけ開けてみるのもいい。「本来ならば決して曲げないところですが、あなた方のために一肌脱ぎましょう」的な、できればそんなポーズをとらせてもらいたいのだ。
すると不意に、真美さんがテーブルに着地すれすれの所まで頭をガバッと下げた。
「お願い、由乃さん。不本意とは思うけれど、ここはクラスメイトである私の顔を立てて、どうか新聞部に協力してちょうだい。できるだけ由乃さんに楽しんでもらえるよう、努力しますから」
手を合わせ、オーバーなくらい拝み倒す真美さん。ああ、何て素晴らしいトスを上げてくれるのだろうか。
「まあ……」
祐巳さんでも志摩子さんでも乃梨子ちゃんでもない。真美さんだからこそ、効く狂言。由乃は、ありがたくそれに乗った。
「真美さんにそこまで言われちゃ、仕方ないわねえ」
ナイスタイミング、グッジョブ。
心の中で、ピースサインを出した。
3
「では、改めまして今年のバレンタイン企画について話をすすめたいと思いますが、よろしいでしようか」
真美《まみ》さんが、プレゼンを再開した。時間にして約十数分間の脱線は、今となってはなかったものになっている。
「お手もとの資料をご覧下さい」
言われて、由乃《よしの》も冷めた紅茶のカップと資料の場所を交換した。まずは『バレンタインイベント企画書』と書かれた表紙をペラリとめくる。左上をステープラーで留められたA4コピー用紙の、二ページ目の最初に書かれた文字はと言うと。
「『宝探し、つぼみのカードはどこだ!?』って。ちょっと真美さん、これ去年の企画そのままじゃないの!」
もしや去年の資料を間違って持ってきたのではないか、と一瞬思った。けれど真美さんはしれっと言う。
「その通りです。去年のイベントが、それほどまでに好評だったということ。もちろん、前回の経験を踏まえて改善すべき所は改め、参加生徒たちの要望をも取り入れ、同じ企画でも更にパワーアップしてリニューアル……」
要するに、去年以上の企画を思いつけなかったということだろう。
「ご質問やご意見は、後ほどまとめて伺《うかが》うことにいたしまして」
真美さんは説明を始めた。イベント内容は宝探し。大きな流れは去年に準じるが、いくつか変更点がある、というようなことだ。
「前回、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の隠された紅いカードだけ、時間内に発見されませんでしたね」
真美さんは確認をとるように、祥子《さちこ》さまに顔を向けた。
「ええ」
で、祥子さまは、隣に座った祐巳《ゆみ》さんを見る。流れで、祐巳さんがまた誰かを見るかと思いきや、そこで止まって祥子さまを見つめ返すだけだ。
この、意味深《いみしん》な視線リレーには理由がある。
去年の宝探しでは、令《れい》ちゃんの隠した黄色いカードと志摩子《しまこ》さんの隠した白いカードだけが発見され、誰も紅いカードを探し出せなかったのだ。しかし、答え合わせをしたところ、そこは祐巳さんが一度探した場所で、イベント中はカードがなくなっていて終了後に出てきたという不可解な現象が起きている。その際、カードを埋めた深さで押し問答になったのが現紅薔薇姉妹。ちなみに現場は古い温室内に植えられているロサ・キネンシスの根もと近くの土の中だった。
でもって、真美さんが問題にした箇所《かしょ》は、埋めたはずのカードがあったりなかったりしたミステリー、ではもちろんない。カードが探し出されなかったという点だ。
「せっかくカードを隠したのに探されず無効になるということは、非常にもったいないことです。前回は三人優勝者が出るはずだったのに二人になってしまった。去年と同じルールで行った場合、仮に、仮にですよ? カードが三枚とも見つからなかったとしたら、優勝者なしになってしまいます。そんな恐ろしいことは、たとえそうなる確率が低くても、回避するための対策をたてておかなければなりません」
新聞部の提案は、もし未発見のカードがあった場合、敗者復活戦のような措置《そち》をとって、そのカードにおける権利を必ず誰かが手にすることができる仕組みにする、というものだ。
「ふうん」
となると、由乃が見知らぬ優勝者との半日デートを嫌って、誰にも見つけられない場所にカードを隠しても無駄《むだ》だということか。
「敗者復活戦というと、具体的には?」
祥子さまが尋《たず》ねた。由乃は、ぼんやりとジャンケンでもするのかと思って聞いていたのだが、真美さんは別の案を提示した。
「今回は、当日参加できない人にもチャンスを、と考えています」
「参加できない人に? そりゃ、いいね」
令ちゃんが、目を輝かせた。これで、受験でイベントには出られなくても、多少なりとも宝探しに関わることができる、って喜んでいるわけだ。
嫌だ嫌だ。もうちょっとでいいから、ポーカーフェイスでいてもらえないものかね、と由乃は顔を背《そむ》けた。今の令ちゃんったら、まるで餌《えさ》を前にしてしっぽを振っている犬だよ。恥ずかしいったらありゃしない、って。
「由乃ちゃん、何だかうれしそうね」
祥子さまが顔を覗《のぞ》き込んできた。
「そんなこと」
しまった。令ちゃんの顔を見ていたら、にやけ[#「にやけ」に傍点]が伝染《うつ》っちゃったらしい。
ところで、真美さんが言った「敗者復活戦」。資料三ページ目に書かれている『不在者チャンス』というのが、それらしい。
「平常授業が行われた後の放課後ですから、参加したいのに都合がつかない人もいると思います。その人たちのための、救済|措置《そち》とでも言いましょうか」
なるほど、ニュースとかでたまに耳にする選挙の「不在者投票」。真美さんは、そこら辺からヒントを得たようだ。
「イベントの前日までとか、タイムリミットを決めておいて、その日時までに、所定の用紙にカードが隠されていると予想される場所を書いて、ポスト型のボックスに投函《とうかん》してもらいます。一人一通|厳守《げんしゅ》で、当日イベントに参加する人は予想を出せません。もちろん、イベントが終わるまではボックスは開けませんから、|つぼみ《ブゥトン》たちがその予想を見てカードを隠す場所を変更することもできません」
「わかったわ。当日見つからなかったカードがあった場合、そのボックスの中の正解者にカードの権利がいくわけね?」
「その通りです。ですからいくら正解が書かれていても、イベント当日カードがすべて見つかったなら、その時点で、ボックス内の予想用紙はすべてただの紙くずと化します」
「イベントで発見されないカードがあったとして、ボックス内に正解者が複数いた場合はどうするの?」
「後日、カードを隠した本人と新聞部立ち会いのもと、ジャンケンでも」
「ボックス内にも正解者がいない時は?」
「より近い場所を書いた人とするか……。そうですね、そこまできたら、もうくじ引きでも、面白い回答を書いた人を選んでも、何でもいいと思います。細かいことは、皆さんのご意見もお聞きして、おいおい詰めていくということでいかがでしょう」
異議なし、とうなずく面々。
「予想の用紙には、何色のカードがどこにある、って書くの?」
挙手しながら、令ちゃんが尋《たず》ねた。もう、自分が参加するかもしれない予想クイズに興味|津々《しんしん》、意欲満々。
「いいえ。ただ、どこに隠してある、とだけ。イベント参加者と同じ条件でいいのではないでしょうか」
当日自分の足で探す人たちは、意中のカードがあってもそれを宣言してから参加するわけではない。だから、偶然にも違う色のカードを手にしたとしても、そのカードの所有権は当然あるわけだ。
しかし、そういう細かいことはおいおい、って言われたばかりなのに、令ちゃんたら。真美さんも苦笑している。
「他に何か、ご質問があれば」
「はい」
由乃が思い切り手を上げたと同時に、祐巳さんと乃梨子《のりこ》ちゃんも、つまり|つぼみ《ブゥトン》全員の手が一斉に上がった。イベントの主役という名の労働者たちは、直接自分たちに関わることである分、真剣なのだ。
どうぞと譲《ゆず》り合ってはみたけれど、それじゃ埒《らち》があかない。
「では、まずは由乃さん」
結局一番勢いがよかった人間として、真美さんに指名された。由乃は、「では」と咳払《せきばら》いしてから言った。
「ここの『企画意図』の部分で、ちょっと疑問が」
すると、他の二人も「そうそう」とうなずいた。どうやら、三人とも同じ内容を質問するつもりだったらしい。
「『来期薔薇さまとなる|つぼみ《ブゥトン》たちと一般生徒たちとの交流……』とあるけれど」
そこまで言うと、やっと真美さんも気がついた。気がついて、「あ」と小さく叫んだ。
「まずっ。そこ修正するのを忘れた」
資料のその箇所《かしょ》を指で何度もなぞったりしているけれど、今更《いまさら》遅い。おまけに、つい地が出ちゃって言葉が乱れている。
「なるほどね」
「読んだけれどスルーしていたわ」
令ちゃんと祥子さまは、感心そうに|つぼみ《ブゥトン》たちを見た。
「……迂闊《うかつ》でした」
真美さんは、ガックリと頭を下げて落ち込んでいる。
去年とほぼ同じ企画だから、同じフォーマットを使って企画書を仕上げたのだろう。年度とか、変更事項のある箇所《かしょ》だけを書き換えて。だが、去年は来期の薔薇さま|=《イコール》つぼみだったけれど、今年に限ってはそうとも言えないのだった。
そう、白薔薇さんち。
来期の|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》は志摩子さんだけれど、|つぼみ《ブゥトン》は乃梨子ちゃん。志摩子さんが二年連続薔薇さまを務めることになったため、そういうややこしいことになっている。
そうなると、当然気になるわけで。
「どっちがやるの」
誰からともなく、声があがった。
「そりゃ……」
志摩子さんと乃梨子ちゃんは、顔を見合わせてから言った。
「乃梨子が」
「お姉さまが」
普段は滅茶苦茶《めちゃくちゃ》仲がよくって、けんかはおろか意見の衝突もほとんどない白薔薇姉妹。しかし、今回はぱっくりと意見が割れた。
「えーっ」
二人は驚いたように互いを見た。当然、相手が引き受けてくれるものと思っていたらしい。楽観的というか相手を過大評価しすぎているというか。これが黄薔薇姉妹だったら、当然相手がなすりつけてくると思うから、意見が割れたところで驚きはしないんだけれど。
「だって、|つぼみ《ブゥトン》と言ったら乃梨子のことだわ」
「でも、来期の|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》はお姉さまではありませんか」
お互いに相手がやるべきである、という一点においては息は合っている。でも、それじゃだめだ。
(ふむ)
由乃は分析《ぶんせき》した。
志摩子さんは、たぶん元々乃梨子ちゃんがやるものだと思っていたはずである。だって企画書に書かれているのは「|つぼみ《ブゥトン》」であり、志摩子さんは「薔薇さま」なのだから。
けれど、乃梨子ちゃんの場合はどうだろう。|つぼみ《ブゥトン》|つぼみ《ブゥトン》と言われていたのだから、当然自分がやるものと覚悟はしていただろう。けれど真美さんのうっかりミスで、主役が曖昧《あいまい》になった今、どうやったって免《まぬが》れようとしている。
(なーんだ)
結局乃梨子ちゃんだって、やらずにすむことならやりたくないんじゃない。それなのによくも「大人げない」なんて先輩を責められたものよ、と由乃は思った。
とにかく、これは白薔薇姉妹の危機である。妹が姉に仕事を押しつけようっていうんだから、相当なもの。平和だった白薔薇姉妹、ついに白薔薇革命、なるか?
「すみません、来期の薔薇さまが|つぼみ《ブゥトン》と同意語だと錯覚《さっかく》した私の落ち度です」
真美さんは、神妙な面持《おもも》ちで言った。さっき由乃に協力を要請した時と、頭を下げた姿勢こそ似ているが、醸《かも》し出す雰囲気《ふんいき》はまったく違う。まあ、あっちはポーズでしかなかったわけだけど。
「そうよ、真美さんはどちらが適任だと思うの?」
当然、こうなったからには企画をもってきた人にお鉢《はち》が回ってくる。
「あの、混乱させた張本人《ちょうほんにん》としては無責任に聞こえるでしょうが。申し訳ありません、私には明確な答えが出せません。どちらにもやっていただきたいと思うくらいですから。そういったわけで、皆さんのご意見を仰《あお》ぎたく」
「意見ねぇ」
そもそも去年なぜ|つぼみ《ブゥトン》が協力しなければならなかったかといえば、薔薇さまが全員三年生で卒業間近、その上全員受験生だったためイベントの手伝いなんてしている暇がなかったからだろう。それを考えると、今回別に志摩子さんではいけないとも思えない。
「でも、私は去年一度やっているので」
志摩子さんがつぶやく。けれど、それを素早く却下《きゃっか》する祥子さま。
「その理屈は通らないわよ。今志摩子が言った理由でいいなら、同じ理屈で乃梨子ちゃんも拒否できるわ」
その通り。一度やった人は二度とやらなくていいと決めて乃梨子ちゃんにやらせたら、来年はやる人がいなくなる。こうなったら乃梨子ちゃんか志摩子さん、どちらかが二回引き受けなければならないのだ。
しかし。
「でも、来年の選挙の結果|如何《いかん》では、乃梨子が|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》になるとは限らないわけですし」
え?
言うにことかいて、すごい意見を発する志摩子さん。けれども、乃梨子ちゃんだって負けていない。
「それって、私が来年の選挙に敗れて、次の|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》にはなれないかも、って話ですよね。じゃ、言わせてもらいますけれど、そもそもそんな人間に今年のイベントの主役を任せようなんていうのが変じゃないですか。今年私がカードを隠して、優勝者の誰かと半日デートだかしたとして、来年生徒会長でもなんでもなくてただの人だったら、それこそお笑い種《ぐさ》ですよ」
その意見はもっともだった。これは志摩子さんの方が分《ぶ》が悪い。今更《いまさら》、「大丈夫《だいじょうぶ》、次の|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》になるのは乃梨子だから今年は引き受けなさい」なんて命じたところで、矛盾《むじゅん》は一向に解消されない。乃梨子ちゃんの来年のバレンタインイベントのお当番が確定となれば、一度やった人はやらなくていい説に従って、今年は出なくていいということになる。
「志摩子。観念して、引き受けたら?」
「二年連続だっていいじゃない、志摩子のファン多いよ」
祥子さまと令ちゃんも、志摩子さんがやった方がいいという意見に傾いてきている。
由乃も、志摩子さんの顔を覗《のぞ》き込んで言ってみた。
「やりましょう?」
さっきのお返しのつもりだった。もちろん志摩子さんの、マリア様のようなほほえみには遠く及ばないことくらいは承知している。
しかし、志摩子さんはすぐには頷《うなず》かなかった。どうしたらいいのかわからないというように、うつむき気味に視線を逸《そ》らす。
「……どうしたの」
去年やってみてよかった、そう言っていた。だったら、今年も引き受けたっていいはずだ。なのにどうして。
いつもの志摩子さんなら、こんなに我《が》を通しはしない。みんながそう言うならやってみるわ、って。仕方ないわね、って。笑って承諾《しょうだく》してくれるはずだった。
「何か、あった?」
常ならぬ態度に、みんなも不安になってきた。熱でもあるの、志摩子さん。
「私」
やがて、志摩子さんは神妙な顔をしてつぶやいた。
「カードを隠すのが嫌なのではないの」
「うん」
みんなは真剣に相づちを打つ。そして、志摩子さんの口からいったいどんな言葉がでるのだろう、と固唾《かたず》を飲んで見守った。
「ただ、乃梨子の隠したカードを探したかっただけで」
…………は?
今、何て言いました?
タダ、ノリコノ、カクシタカードヲ、サガシタカッタダケ。
「ええーっ!?」
そんな理由、ってみんなが仰《の》け反《ぞ》った。いや、妹のカードを探したい、理由としては間違っていない。むしろ合っているのだ。これ以上の理由はないくらいの、説得力をもっている。
けれど、おおよそ欲とは縁のなさそうな志摩子さんが、我がままとまではいかないけれど、個人の欲望のために仕事をやりたくないと言うなんて。あまりにギャップがあったので、驚いただけだ。
でも、ちょっといいんじゃない? って由乃は思った。いつもの志摩子さんは、いい子すぎる。
「私も」
乃梨子ちゃんが口を開いた。
「クラスメイトの敦子《あつこ》さんや美幸《みゆき》さんから、去年のイベントの様子なんかを聞いて、私もお姉さまのカードを探したかったな、って思っていて」
顔を赤らめて、必死に伝えようとする。
「でも、今年は私が|つぼみ《ブゥトン》だから無理なんだって諦《あきら》めかけていたら、|つぼみ《ブゥトン》か来期の薔薇さまかっていう話になったので、これはチャンスだと」
「乃梨子……」
白薔薇姉妹は見つめ合った。
「ごめんなさい」
「私こそ」
何だ何だ。この、ほんわかムードは。さっきの乃梨子ちゃんの反乱は、志摩子さんの強引な突っ走りは、いったいどこへ流されてしまったのだ。
祥子さまが二人の間に割って入った。
「志摩子は、自分の後の|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》に不安があって?」
[#挿絵(img/25_087.jpg)入る]
「いいえ。乃梨子が、立派に後を引き継いでくれると信じています」
志摩子さんははっきりと答えた。
「だったら、今年もう一回新聞部に協力なさい。あなたが働く姿を、妹に見せてあげなさい。それが、来年の乃梨子ちゃんの仕事につながることなのだから」
乃梨子ちゃんのためと言われては、志摩子さんだって「それでも」とは言えない。令ちゃんも説得に加わった。
「それに、一年経ったら、堂々と参加できるって。今年も好評だったら、来年も宝探しにするのでしょう? ね、真美さん」
「もちろんです。私も妹たち後輩に、いいイベントだと、ぜひ次回もやりたいと思われるようがんばりますから」
新聞部のトップが請け負ったので、志摩子さんは「それなら」と顔を上げて笑った。
何だかんだあっても、最後は上級生の押しがものを言う。
抵抗したところで、今日の会合はそういう運命なのかもしれない。
4
結局。
白薔薇さんのところは、仲がいい。お互いに相手を大好きすぎて、すれ違っちゃったという結論に達するわけである。
ああ、阿呆《あほ》くさ。ちょっとワクワクして損しちゃった。
「お茶、いれ替えます」
由乃《よしの》はテーブルに両手をついて、勢いよく立ち上がった。
「手伝うよ」
祐巳《ゆみ》さんが追ってくる。
「あ」
乃梨子《のりこ》ちゃんが一呼吸遅れてあわてて椅子《いす》を立ったが、二人いれば事足りるので断った。幸せ過多《かた》な人たちは、目障《めざわ》りなので、もう少しイチャイチャしていてください。
「いいわよね、志摩子《しまこ》さんは」
言っても詮無《せんな》いこととはわかっていながら、由乃はつぶやいた。もうお姉さまを送り出す必要もないばかりか、すでに妹までもいるんだから。
「そうだね」
祐巳さんがうなずく。でも志摩子さんは一年前にお姉さまとの別離を一人で乗り越えたのだし、乃梨子ちゃんという新たなパートナーだって自力で見つけたんだから、――なんてもっともらしい言葉を返してはこない。
そんなこと由乃だってわかっていることくらい、ちゃんと祐巳さんはわかっているから。だから、ただうなずけばいいんだって。それで、由乃が満足するんだってことも。
湯沸かしポットは、とっくに保温状態となっていた。
回収したカップを洗いながら、祐巳さんがそっと囁《ささや》く。
「菜々《なな》ちゃんが入学してくるよ」
「……うん」
それを考えると、由乃の胸は少し痛む。菜々が高等部にやって来る。令《れい》ちゃんと入れ替わりで。もちろん、菜々が入学する代わりに、席のなくなった令ちゃんが追い出されるというわけではない。
理屈ではわかっている。でも、冬休みに菜々と竹刀《しない》を交えた直後に見せた令ちゃんの寂しげな表情が、まだ心に残っている。
由乃は、菜々を選んだわけではない。でも令ちゃんは、あの瞬間に由乃から手を離したのだ。
「由乃さん、お茶っ葉がこぼれるよ」
祐巳さんがダージリンの缶とティースプーンを、由乃の手から取り上げた。由乃がぼんやりしている間に、とっくにカップを洗い終えていたらしい。今はティーポットの中を覗《のぞ》き込んで、すでに由乃が落としていた茶葉の量を「スプーン二杯、いや三杯かな」などと目測している。
「祐巳さんさ」
「ん?」
一杯、二杯と紅茶の葉を足しながら、祐巳さんが返事をする。
「落ち着いてるよね。どうして?」
「何が?」
「よくわからないけれど、このところ落ち着いてる」
「よくわからないんじゃ、わからないよ」
祐巳さんは笑った。
ごもっとも。でも、そう感じたんだから仕方ない。
「私と菜々のことはともかく。瞳子《とうこ》ちゃん、どうするつもり?」
「どうするって言われてもね」
どうしようもないよね、とつぶやきながら、祐巳さんはカップを温めていたお湯をポットに注ぐ。
「妹《スール》にしないの?」
「こっちがしたくたって、相手がうんといわなくちゃ駄目《だめ》でしょ」
「そうだけど……」
瞳子ちゃんの気持ちはわからない。でも、祐巳さんが諦《あきら》めていないことはひしひしと伝わってくる。祐巳さんが諦めていないから祥子さまもその気持ちを尊重しているようだし、乃梨子ちゃんに至っては、瞳子ちゃんは本当は祐巳さんのことを好きなんだと思っているらしい。
そうなるとどうしてか由乃にも、瞳子ちゃんが祐巳さんの妹になるのが本来の形のように思えてくるのだ。祐巳さんが断られたと聞いた時、そんな人こっちから願い下げだとまで思ったものだが。
「私が落ち着いて見えるなら、それは――」
茶葉が開くのを待ちながら、祐巳さんが言った。
「焦《あせ》らなくなったからじゃないかな」
「焦らない?」
聞き返せば、「うん」とうなずく。
「お姉さまの卒業までに妹を作らなきゃ、とか。何としてでも瞳子ちゃんを妹にしたい、とか。不思議とそういう焦りがなくなった、っていうか」
よくわからなかった。どうしてそういう境地に達したのか。
「何か、きっかけでも?」
「きっかけって言っていいかわからないけれど、強《し》いて言うなら生徒会役員選挙かな」
「選挙?」
「そ、選挙。選挙からこっち、私、瞳子ちゃんとどういう関係になりたいのか考えているの。腰を据《す》えて。こればかりは、焦ったって答えは出ないでしょ」
そんな風に言う友の手を、由乃はあわててつかんだ。ティーポットを持ち上げようとしていた祐巳さんは、何事かとこちらを見る。
「祐巳さん、一人で大人にならないでよ」
由乃は、消え入りそうな声で懇願《こんがん》した。
「えー。なってないよ、全然」
「私のこと、置いていかないで」
「何、心配してるのよ。変な由乃さん」
本当。どうして泣きたくなっているんだ。でも。
「だって」
背後のテーブルからは、ひっきりなしに五人の談笑が聞こえている。話題は、去年の宝探しの話から半日デートの話に移行し、再び宝探しに戻ったところだった。
「そうだ。いいこと思いついた」
カップに紅茶を注ぎ終えると、祐巳さんが言った。
「でも、なぁ。難しいかな。実現したら、由乃さんもかなりやる気が出ると思うんだけれど」
「何なのよ」
自分一人で考えていないで、教えてくれないと。何が「難しい」かもわからないし。
「いや、ダメ元だ」
祐巳さんは振り返った。
「ね、真美《まみ》さーん」
当然、テーブルの上で飛び交っていた雑談は中断する。そんなことは気にしないで、祐巳さんは目を輝かせて提案した。
「今年は、中等部の生徒も参加を許すの、どうかな。去年、こっそり見にきていた子たちがいたんでしょ?」
「ちょっと、祐巳さんっ」
お節介《せっかい》な親友は、由乃が呼び止めているのも聞こえないようで、今は真美さんとの話に夢中になっている。
由乃のもとには、七つのカップが残された。
もしかしたら、菜々が参加できるようになるかもしれない。
「まったく、祐巳さんってば」
由乃の唇の端が、自然に上がる。
だから、置いていかないで、って言ってるでしょ。
5
やっぱりというか、当然というか。中等部の生徒が宝探しに参加していいという、先生方の許可は下りなかった。
けれど、真美《まみ》さんが職員室に通って粘《ねば》り強い説得を続けた結果、中等部の生徒も不在者チャンスにエントリーできるというお許しだけはどうにかもらうことができた。
「実は去年フライングで参加した生徒が複数いたことを、中等部の先生方もつかんでいて、今年はどうやって取り締まろうかと検討《けんとう》していたらしいのよね」
廊下《ろうか》の窓から中等部校舎を眺めながら、真美さんが言った。
放課後。
たった今その許可が下りたらしく、真美さんは、掃除《そうじ》を終えて教室を出ようとしていた由乃《よしの》を捕まえて、嬉々《きき》として報告したのだった。どうせ今日も打ち合わせをするのだから、薔薇《ばら》の館《やかた》で合流する予定だったのだけれど、それまで待てなかったらしい。いや、由乃が結果を気にしていると気を回してくれたのかもしれないけれど。
「先生方も、正直困っていらしたんだって。ただ闇雲《やみくも》に『禁止』では生徒たちだって納得できないし、罰《ばつ》をちらつかせたところでやる子はやるでしょ? 去年は、高等部の制服まで用意して紛《まぎ》れ込んだ生徒がいたって」
そうなると、先生方だってもはやチェックのしようもない。いちいち顔を見て高等部か中等部かを判断して回るなんて不可能だろう。
「あ、それ笙子《しょうこ》ちゃんらしいよ」
由乃は指を立てた。
「笙子ちゃん? ああ、蔦子《つたこ》さんの」
「そ。蔦子さんの」
お馴染《なじ》み、カメラを片手に足早に教室を出ていくクラスメイトを眺めながら、二人はクスリと笑った。行く手はクラブハウスか。廊下《ろうか》で立ち話している由乃たちに気づくことなく、さっそうと歩いていく。
蔦子さんと笙子ちゃんの関係も、いったいどうなっているんだか。
いや。そうやって早く結論を求めるのが、悪い癖《くせ》なのかもしれない。
祐巳《ゆみ》さんみたいに長い目で見られたらいい、と由乃は思った。今できることをやって、それでよしとできればいい。
「それで、不在者チャンスに応募していいというのを交換条件に、当日の参加を全面禁止にしたってわけよ」
いつの間にか、真美さんは話を戻していた。
「間接的であれ、堂々とイベントに参加できるんだから。そうそう禁を破りはしないだろう、っていうのが先生方の思惑《おもわく》ね」
バレンタインデーのイベント中にカードがすべて発見されれば、不在者チャンスに投じた生徒たちの票はすべて無効になるわけだし、たとえ有効票となったとしても予想が当たっているとなるとその確率は極めて低くなる。万が一当たるようなことがあって、中等部の生徒に半日デート券なるものが渡ったとしても、この件に関してはその一人だか二人だかの生徒にのみ目を光らせていればいい、というわけだ。
「ま、そう先生たちの思い通りになるとも限らないけれどね」
不敵に笑う真美さん。けれど中等部職員室では、先生のお説をもっともらしい相づちで聞いていたに決まっている。
「というわけ。さあ、由乃さんはどうする? このまま菜々《なな》ちゃんに言いに行く?」
「んー」
由乃はまず伸びをした。その一秒だか二秒だかの間に、考えて結論を出した。
「今はやめておく」
「おや」
「焦ることないんじゃないかな、って」
何となく由乃は、祐巳さんを真似《まね》してみたくなった。菜々と瞳子《とうこ》ちゃんは違うし、自分と祐巳さんも違う。だから、同じ杓子《しゃくし》で測れるものでもないのだけれど。
それでも、祐巳さんの言葉に共感したから。いいな、って素直に感心したから。
実践《じっせん》するのはただだ。それに飽《あ》きたら、またガツガツ焦ればいいだけのこと。
「んじゃ、そろそろ行きますか」
薔薇の館に。「面倒くさい」にちょっぴりワクワクがミックスされた、バレンタインイベントの相談をしに。
「それに」
歩きながら、由乃はつぶやいた。
「みんな違っているようで、意外と、根本は同じなのかもしれないし」
「何が?」
真美さんが、聞き返してきた。
「姉妹《スール》」
言い切って由乃は。
「志摩子さーん」
前を歩いていた親友を、手を上げて呼び止めた。
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聞きたかったこと
「ご苦労さま」
扉を開けて、祐巳《ゆみ》さまが軽く手を上げた。
「あ」
乃梨子《のりこ》は、テーブルを拭《ふ》いていた手を止めた。
「ご、ごきげんよう」
何を緊張しているんだ、と自分で突っ込みを入れたいくらい固くなっている。
「ごきげんよう。偉いね、いつも」
祐巳さまとは、しょっちゅう会っているのに。失礼ながら、後輩に威圧《いあつ》感なんてまったく与えないタイプなのに。
たぶん、今、ここ薔薇《ばら》の館《やかた》には祐巳さまと乃梨子の二人しかいないから。だから、必要以上に緊張しているのだ。
仲間がたくさんいる前では、話さないことはある。
だから、どこかで乃梨子はこんな機会を待っていた気がする。いつか、祐巳さまと二人きりになったら、瞳子《とうこ》のことを聞きたいと。
「あのさ、乃梨子ちゃんにちょっと話があるんだよね」
「えっ」
祐巳さまの言葉に、乃梨子は身構えた。大仰《おおぎょう》な反応に驚いたのか、祐巳さまは急いで言葉を付け加えた。
「いや、もちろん志摩子《しまこ》さんや由乃《よしの》さんが来てからでもいいんだけれど……」
「あ、そういうことですか」
そういうことですか、も何もない。変な返事をしてしまった、と乃梨子はちょっぴりへこんだ。
「これからしばらくの間、新聞部の真美《まみ》さんとの打ち合わせが頻繁《ひんぱん》に行われると思うの。当然、ここを使うことが多くなるわけだけれど、宝探しに参加を表明している乃梨子ちゃんはその間どうするか、って話ね。私としては、カードの隠し場所を決める時以外は、いてもらってもいいんじゃないかと考えているの。と言うのも、去年の私の話なんだけれど――」
話にまったく上の空の乃梨子に気づいて、祐巳さまは尋《たず》ねた。
「どうしたの?」
「す、すみません」
あわてて詫《わ》びる下級生を見ながら、祐巳さまは笑ってため息をついた。
「なあに、瞳子ちゃんの話だとでも思ったの?」
「……はい」
完全に見透かされている。正直に答えるしかない。
「別に、何も進展していないから、特に話すことはないんだけど」
つぶやく祐巳さま。乃梨子は台拭きをギュッと握って、「はい」とだけうなずいた。たぶん、すがるような目をしていたことだろう。
「でも、乃梨子ちゃんが聞きたいことがあるなら、いいよ。満足な答えは返してあげられないかもしれないけれど」
それでもいい、と思った。祐巳さまの心の中にある瞳子への気持ちを、ほんの少しでも垣間見《かいまみ》られるものなら、と。
なぜ、瞳子を放っておくのか。
見捨てないと言った言葉を信じていいのか。
瞳子が選挙に負けることには、いったいどんな意味があると考えているのか。
いずれまた、瞳子にロザリオを渡す気持ちがあるのか否《いな》か。
聞きたいことはたくさんある。でも、何から聞いていいのかわからない。
そしてどれについて聞いたところで、本当の意味で納得できる答えなんて得られないような気がした。
それなのに、言葉の方が勝手に転がり出た。
「瞳子を、好きですか」
「好きだよ。大好き」
少しの迷いもなく、祐巳さまは答えた。
「なら、いいです」
乃梨子はそれ以上、質問はしなかった。小さくうなずいて、テーブルを拭《ふ》く作業を再開した。
程なく、志摩子さんや由乃さまや真美さまがやって来たから、時間切れになったわけではない。
瞳子を好き。
それが唯一、そして一番聞きたかったことだったと気づいたからだ。
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ハートの鍵穴
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かわいそうな人
0
朝もやの立ちこめる高原を、彼女は一人でさまよっている。
寝間着《ねまき》にガウンを羽織《はお》ったままの姿で。ベッドを下りた時に足につっかけたはずの部屋|履《ば》きは、どこかで引っ掛けたのか、脱げて今は片方だけだ。
いつ、なくなった。
誰が連れていった。
一メートル先もわからない白濁《はくだく》した景色の中、次から次へと現れる木の幹におののきながら、けれどやり過ごした後には思うのだ。
あれがすべて人であったらよかったのに。そうしたら、手がかりなりとも得られたかもしれない。
裸足《はだし》に血をにじませながら、彼女は歩く足を休めない。
大切なものを取り戻すまでは、足を止めるわけにはいかなかった。
「――ちゃん」
呼びかける声はもやにかき消されて、もはや自分の声すら耳に届かない。
どこをどう歩いているのか。
ずいぶんと先に進んだようにも、同じ所をグルグルと回っているようにも感じられた。相変わらず、視界は狭い。
足の感覚も遠のいて、自分がちゃんと左右交互に前に出しているのか自信がない。
「あっ」
とうとう木の根に足を取られ、前屈《まえかが》みに手をついた。真っ白の風景の中、手の平からにじみ出た血だけが鮮やかな赤だった。
「私は」
何のために、こんなことをしているのだったろうか。
なくした何かを探していたはずだった。それは何だったろうか。
地面から枝のように張り出した太い根に腰をかけて、彼女は呆然《ぼうぜん》とした。
大切なものを取り戻すまでは、足を止めるわけにはいかなかった。けれど足を止めた途端、わからなくなってしまった。
自分は、何を探していたのか。
どこへ向かおうと思っていたのか。
「わからない」
先に行けばいいのか、引き返したらいいのか。
どちらに行くか決めたところで、四方がもやの中では、正面と思った方が前なのか、背後にあるのが今歩いてきた道なのかも定かではない。
「どうしたら」
途方に暮れた時。
「……?」
どこからか、誰かの泣き声が聞こえてきた。
「……」
かすかだが、確かに聞こえる。間違いない。彼女は当初の目的を思い出して、声のする方角にまっすぐ走り出した。
自分の声すら耳に届かない、そんな中。声は徐々にはっきり、そして大きく聞こえてきた。
まるで、彼女を誘《いざな》うかのように。航路を導く、灯台《とうだい》の一筋の光のように。
やがて、彼女は見つけた。
落ち葉の上に横たわる、真っ白な産着《うぶぎ》にくるまれた、小さな命を。
「ああ」
震える手で胸にかき抱く。
やっと見つけた。もう、二度と離さない。
「私の、……赤ちゃん」
きつく抱きしめた瞬間、手応えがなくなった。
真っ白な産着はもやの中にとけ、赤ん坊だったはずのものは、バラバラと音をたてて腕の中から落ちていった。
「ああ、ああっ」
彼女は自分の膝《ひざ》や足を覆《おお》い隠していく枯れ葉を、必死になってかき集めた。
しかし、もう元へはもどらなかった。
「いやぁ――――」
悲痛な叫び声が、もやを切り裂《さ》いた。
1
「いやぁ――――」
真夜中に、悲鳴が響いた。
「ママ、ママ」
瞳子《とうこ》はいち早く駆けつけ、枕もとのライトを点灯してからベッドの上の母の肩を揺り起こした。
「はっ……はっ……は」
荒い呼吸。目は見開いているものの、はっきりとは覚醒《かくせい》していない。夢と現実の狭間《はざま》に足を取られてもがいているのだ。
「大丈夫《だいじょうぶ》。夢をみただけよ」
瞳子は母の頬《ほお》に触れて、乱れた髪を直してやった。
「大丈夫」
重ねて、言う。すると徐々に状況が理解できてきたらしく、母は大きな呼吸を二回ほど繰り返し、それから確認するかのようにつぶやいた。
「瞳子ちゃん」
「そうよ」
瞳子はうなずく。そして、もう一度だけ「大丈夫」と口にする。今度は母に向けられたものではなく、自分自身を落ち着かせるための言葉だ。
「すごい汗」
この部屋のどこかにタオルはあっただろうか。ベッドの足もとから立ち上がりかけると、パジャマの袖口《そでぐち》をつかまれた。
「行かないで」
「ママ……」
瞳子は、再度カーペットの上にひざまずいた。
「どこにも行かないで。ママのこと、追いていかないで。お願いだから」
涙をためて、娘に訴える。
まだ、夢を引きずっているのだ。だから、一人になるのを極端に怖がるのだろう。
瞳子は母の肩を撫《な》でながら、部屋の中に視線を巡らした。父の姿はない。隣のベッドは空《から》だった。
「ええ。ここにいるわ」
母の夢の内容を、瞳子は漢然《ばくぜん》とだが知っていた。
ここ一、二ヶ月の間、何度かこのようなことがあった。母が悪夢にうなされて、悲痛な声をあげる夜。
大抵は隣で寝ていた父が対処することになるのだが、今夜のように、瞳子が駆けつけてなだめることもある。その場合いつも、恐ろしい夢をみた、と母は訴える。はっきり目覚めた後であれば言葉を濁《にご》すが、まだ混乱している最中《さなか》だと夢の断片を口走ることもあった。
――私の赤ちゃんがいなくなった。
その言葉は聞いてはいけないものだった。だから、瞳子はそれについては触れずに通り過ぎる。
この人は、かわいそうな人だから。それはどういう意味かと問い詰めて、困らせてはいけないことくらいわかっている。
「どこに行くっていうの。私の家は、ここしかないわ」
何度も夢で子供を失って。だから、今目の前にいる瞳子だけでも何とかしてつなぎ止めようと、必死なのだ。
「大丈夫《だいじょうぶ》よ」
それで母が落ち着くなら、何度でも「大丈夫」を言ってやろうと思った。気休めだろうが、その場しのぎだろうが構わない。瞳子は、それで自分の感情も制御《せいぎょ》できるような気がした。
「次はいい夢が見られるわ」
掛け布団《ふとん》を直しながら、瞳子はほほえんだ。
「そうかしら」
心許《こころもと》なさそうな母に、「きっと」とうなずく。
「ママがもう一度眠るまで、私がここにいてあげるから」
「ええ」
わずかな灯《あか》りに浮かび上がった母の顔は、幼女のようにも、老婆《ろうば》のようにも見えた。
2
両親の寝室を出ると、そこには父の姿があった。
「パパ……」
「すまなかったな」
扉のすぐ横の壁に寄りかかって目を細めている。もう、ずいぶん前からそこにいたのだろう。瞳子《とうこ》が部屋に入った直後には、すでにここに来ていたのかもしれない。
「ううん」
瞳子は首を横に振って、パジャマの襟《えり》を押さえた。
さすがに廊下《ろうか》は寒い。母の悲鳴を聞いて自分のベッドを飛び出たから、何かを羽織《はお》る余裕《よゆう》なんてなかったのだ。首回りがスースーした。
「すまなかったな」
父はもう一度言った。妻の変事に、自分が側にいられなかったことを詫《わ》びているようだ。
「トイレに行ったついでに、少し酒でも飲もうかとキッチンに寄っていた」
父はガウンを脱いで、それを瞳子の肩にかけた。懐《なつ》かしい父の匂《にお》いが、瞳子の身体《からだ》を包む。温かかった。
「眠れないの?」
「――いや」
首を横に軽く振られたが、本当のところはわからない。父は、あまり酒に強くない。仕事のつき合いで飲むことはあるが、自宅では晩酌《ばんしゃく》すらしないのだ。それを、寝酒なんて。信じられなかった。
「私のせいかな……?」
ちょっと戯《おど》けて言ってみたら、真顔で返された。
「そんなことはない」
けれど、母がうなされるようになったのは、ここ一月《ひとつき》半といったところである。去年の十二月の半ばに瞳子が家を出たことと、無関係であるわけがない。
母が不安定だから、父も浅い眠りしか得られないのだ。ならば、やはり父の不眠は瞳子のせいとは言えないだろうか。
「そうやって」
瞳子を見つめて、父はつぶやいた。
「お前はいつでも、無理に自分を抑えてきたのだな。愚《おろ》かな私たちに気取《けど》られまいと、甘えたり我がままを言ったりして、無邪気《むじゃき》な娘を演じてきたのか」
寂しい顔をしていた。
「パパこそ。気を回しすぎよ」
いつも温かい笑顔で包んでくれる父に、こんな表情をさせているのが自分であるということが、瞳子には辛《つら》かった。
「私は一度だって、自分が無理しているなんて思ったことないわ。きっと、どれも私なの。こうありたいと願ったからこそ、形成された性格なんだわ」
今言えるのは、それだけだった。
一度、家族のバランスを壊したのは自分。それを表面的につなぎ止めるためだけの、セロファンでできたテープのような嘘はつきたくはない。
繕《つくろ》ったところで、もう二度と壊れる前の形には戻らないのだ。壊したことが無駄《むだ》になるだけの修復なら、いらない。
「あの日の衝突は、ママはショックだったようだが」
寝室の方を見て、父は言った。
「パパはむしろ良かったと思っている。瞳子が感情をぶつけてくれなかったならきっと、パパもママもずっと瞳子の心の叫びに気づかずにいたかもしれないからね」
心の叫び、という言葉に導かれるように、瞳子の両手は自然に心臓を押さえた。
思えば、いつもどこかで、しまい込んだ感情が「ここから出してくれ」と叫んでいた気がする。
ここにいるよ。
気づいてよ。
何も考えていないわけじゃない。
見えていない、聞こえていない。そんなふりをしているだけなんだから。
「いつから気づいていたのかは知らないが、十六のお前が一人で抱え込むには、あまりにも重い荷物だったろう。それは私たち親が負うべきものだ」
けれど、一度|堰《せき》を切ってしまったらどうだ。感情を吐き出した後に残ったのは、あまりに大きな心の空洞《くうどう》と自己|嫌悪《けんお》だけだ。
はたしてそれは、母を追い込み、父を悩ませてまで、吐き出さなければならないものだったのだろうか。
わからない。
なぜ、あんなことを言ってしまったのか。
想いとは裏腹な、きつい言葉を投げつけてしまったのか。
「だからパパは、今でもお祖父《じい》さまの決定に賛成だ」
父は瞳子の目を見た。
「お前は、自分が何者かなんてことを考えずに、真っ白なキャンバスに自由な人生を描くべきだ。……パパがそう願うのは、お前を見捨たからじゃない。わかるね?」
瞳子はそれに対して答えなかった。否《いな》、答えられなかった。
両親が自分のことをこの上もなく愛してくれている、それは疑っていない。けれど、だったらどうして、瞳子が必要だと言ってくれないのだろう。
「パパ」
答える代わりに、瞳子は尋《たず》ねた。
「世の中は、ギブ|&《アンド》テイクじゃないの?」
「え?」
「もらうだけもらって、それでいいの?」
「……何を言っているんだ」
父は、怪訝《けげん》な顔をして聞き返してくる。
「瞳子は何も返せない」
ガウンを脱いで、父に差し出した。父はそれを受け取ってから、瞳子の顔をそっと覗《のぞ》き込んだ。
「バカだな。パパもママもお祖父さまも、もう瞳子からたくさんのものをもらっているよ」
「本当?」
「もちろん」
その言葉にほほえんで、瞳子は廊下《ろうか》を歩きだした。
「瞳子。ママのこと、ありがとうな」
父は瞳子の背中に一声かけると、母の休む寝室の扉を開けた。瞳子は振り返らなかった。けれど、瞳子が自室に入るまでは見守っていてくれているのが気配でわかる。
こんなに愛してもらっているのに。
自分は何も返せない。
(もう瞳子からたくさんのものをもらっているよ)
父の言う「たくさんのもの」が何なのか、一つとして思い浮かばない。
廊下《ろうか》が、いやに長く感じられた。
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幸福試問
1
週があけてからこっち、雑音がうるさい。
「生徒会役員選挙が……」
「……瞳子《とうこ》さんはやっぱり」
「だから無謀《むぼう》だって」
ひそひそと囁《ささや》き合う声というのは、一つ一つは小さいが、集まるととても耳に障《さわ》る。廊下から聞こえる、昨夜のテレビの話題で盛り上がっている大音量の笑い声の方が、よっぽど気にならないというものだ。
だからといって、真っ正面から悪口を言われるのがいいかと問われれば、それはそれで対処が面倒くさいのでお断りしたい。聞こえないふりをしてやり過ごすことができなければ、受けて立たなければならないわけだから。
(ばかばかしい)
早く休み時間が終わればいい。瞳子は、本のページを一枚めくった。こんなことで、自分の時間が無駄《むだ》に過ぎていくなんて、がっかりだ。
これで文章が頭の中に入っていくなら、それなりに有意義な時間の過ごし方とも言えるだろうが、自分の名前が時折カサコソと耳に入ってくる環境で、すべてをシャットアウトして書物に集中できるほどの修行は積んでいなかった。
だから内容が理解できようができまいが、とにかく文字を目で追って最後の一行まできたらページをめくる。そうして、「|噂 話《うわさばなし》などまったく気にしていません」というポーズをとることで、瞳子はどうにかプライドを保っていた。
(あ)
教室から出ていた乃梨子《のりこ》が戻ってきて、瞳子の机の前を通り過ぎた。選挙の後しばらくは、何か言いたげな表情で瞳子を見ていたこともあったが、今はもう何も言ってこない。
とうとう見限られたのだろうか。
それも仕方ない。身から出た錆《さび》。
よくもまあ、今までつき合ってくれていたものよ、と感心する。
胸の中に、また空洞を感じた。
わかっている。仮初《かりそ》めにもつながっていた絆《きずな》という名の糸を、一つ一つ自らの手で断ち切っている、その報いだろう。
どうして自分は、いつだってこんな風になってしまうのだろう。
もう少し素直になれれば、他人も自分も傷つけずに済むはずなのに。
「ちょっと、それがクラスメイトに対する態度?」
背後から聞こえる大きな声が、瞳子を心の空洞から一年|椿《つばき》組教室に引き戻した。
「集団でこそこそと陰口《かげぐち》をたたいて、あなた方恥ずかしくないの」
自分に対する態度について話題になっているのだとわかった瞬間、瞳子はつい振り返ってしまった。発言者が、乃梨子かと思ったのだ。
でも、違った。乃梨子も、少し離れた自分の席で、目を丸くして騒ぎの中心を眺めていた。
「何、今更《いまさら》いい子になっているのよ。あなただって、先週までは瞳子さんが落選すればいいって言ってたくせに」
批判された生徒たちは、負けずに言い返す。向かい合って口論している両者は、確かに先週まで足並みが揃《そろ》っていた。瞳子を攻撃する、瞳子を無視する、その一点において。
「いったい、どうしたって言うわけ?」
以前の仲間たちに問われて、瞳子を庇《かば》ったクラスメイトは、自分の非に気づいたのだと答えた。
「確かに無謀《むぼう》だったかもしれないけれど、瞳子さんは一生懸命選挙を戦ったわ。立ち会い演説会での演説も素晴らしかった。がんばっていたの、あなた方も見ていたでしょう? たった一人でよ? 立派だったわ。私は自分が恥ずかしくなった。どうしてクラスメイトとして、瞳子さんを応援してあげられなかったのだろう。クラス一丸《いちがん》となって、盛り上げてあげられなかったのだろう、って」
すると、陰口をたたいていた集団の中から、「私も」とそちらの意見に賛同する者たちが一人二人出てきた。仲間割れだった。
「瞳子さんはお一人が好きなのよ。応援して欲しかったのなら、クラスメイトの私たちに一言も相談なく勝手に立候補なんてするかしら」
「相談できる環境を作れなかったこのクラスに、問題があるのではなくて?」
「まあ、私たちに非があるとでも?」
両者の言い争いは、次第にヒートアップしていく。瞳子自身はそんなことはまったく望んでいないのに、だ。
自分をネタにされるのは、むしろ迷惑だった。けんかをしたいのなら、別のテーマを選んでもらえないだろうか。
うんざりして正面に向き直ると、いつの間にか瞳子の席の前に、一人のクラスメイトが立っていた。
「予想外の反響ってのも、困るわよね」
可南子《かなこ》さんは、肩から外れて机にこぼれた一房《ひとふさ》の長い髪を、そっと戻しながら笑った。ただでさえ身長が高い上に、こちらは座っているものだから、その威圧《いあつ》感はかなりのものである。
「何がわかるっていうの」
瞳子は尋ねた。訳知り顔がちょっと気に触ったが、後ろでけんかをしている人たちに比べると数十倍、いや数百倍もましだった。
「何も。でも、そんな顔をしていたから。こんなことを言い出す人がいるなんて、迷惑って。今、うんざりしていたでしょ」
「よく見ているのね。感心するわ」
ちょっぴり皮肉を込めて言った。他人の顔をいちいち眺めているなんて、ずいぶん暇《ひま》な人もいたものだ、と。
けれど、可南子さんに皮肉は通じなかった。皮肉とわかっていながら、あえて無視したのかもしれないけれど。
「感心ついでに、いいことを教えてあげる。本を読む時ね、もう少しスピードを速めたりゆっくりしてみたりした方がリアリティがでるわよ」
「え?」
「普通、ゴチャゴチャした漢字で止まったり、難しい言い回しで読み直したりするものでしょ?」
なるほど。と言うことは、可南子さんには「読んでいるふり」はお見通しだったわけだ。彼女はニヤリと笑ってから、自分の席に戻っていった。
「勉強になったわ」
うなずいて、瞳子は開いていた本を閉じた。本当は栞《しおり》をはさむ必要もないのだが、そうする方がよりリアリティがあると思ったからだ。
授業開始の本鈴《ほんれい》が鳴って先生が教室に入ってくるまで、背後の言い争いは続いていた。
2
放課後。
久々にクラブハウスへ行ったら、演劇部の部室には部長の姿があった。
「ああ、瞳子《とうこ》ちゃん」
「……ごきげんよう。しばらくお休みしていて、申し訳ありませんでした」
「いいって、いいって。あ、選挙、残念だったわね」
「いえ……」
瞳子は、壁に掛けられたカレンダーの印を横目で確認した。やはり、今日は部活動の日ではない。
部長は机で何か書き物をしていたようだった。一人残業、というところか。チラリと見た限りでは、山百合会《やまゆりかい》に提出する書類か何からしい。
クラブハウス内の部室は、どこもそんなに広くない。特に部員の多いクラブなどは、全員収容することは不可能だから、教室や体育館などを使用して活動している。演劇部もそういったクラブの一つであるから、部室は事務所とか荷物置き場のように使われていた。
「でも、ま、結果はどうであれ、こういう経験って大切よ。忘れた頃、何かの時に役に立ったりしてね。演技に幅ができるわ」
「選挙の劇、ですか」
あまり学生演劇ではなさそうなテーマだ、と瞳子は苦笑した。
「いいわね。女政治家の役なんて、どう?」
どう、と言われても。何とも返せず、ただ「はあ」とだけうなずいた。
「瞳子ちゃんが休んでいる間に、いろいろ決まったことがあるのよ。明日の部活の前に、耳に入れておこうと思っていたから、今日ここで会えてよかったわ」
部長は、書類の耳を揃えて机の脇に置いた。
「三年生を送る会でね、演劇部も出し物をすることになっているんだけれど――」
「部長」
瞳子は言葉を遮《さえぎ》った。
「私、今日はここに退部届けの用紙をもらいに来たんです」
辞める予定の人間が、今後の活動内容を聞くべきではない。ちゃんと退部届に記入してから挨拶《あいさつ》をするつもりだったが、こうなっては言わないわけにはいかない。
「……何、言っているの」
部長は、顔色を変えて立ち上がった。
「ですから」
退部届けを、と隅に置かれたキャビネットに視線を向ける。あの抽斗《ひきだし》の二段目か三段目に、「入部届」や「合宿の参加届け」などと一緒になって、それは入っているはずだった。
「意味がわからないわ。選挙で敗れたことと関係あるの?」
言いながら部長は、さりげなくキャビネットの前に立ちはだかった。よもや目の前の一年生部員が力ずくで退部届を奪っていくとは思っていないだろうから、単に瞳子の視界から隠したかっただけなのかもしれない。
「いいえ。一身上の都合です」
そんな漠然《ばくぜん》とした理由で、納得してもらえるはずはなかった。だいたいこういう場合は、言いにくい理由を一身上という言葉でくるむものだ。
だが、具体的に何が部活動の妨《さまた》げになるのかと問われたところで、瞳子は明確な答えを提示することができなかった。
演技をすることは好きだ。
けれど、今は演技に打ち込むことがつらい。父は、瞳子が好きなように生きることを望んでいる。しかし、家族を踏みつけにしてまで、好きなことをやることに罪悪感が生じてきた。
時折不安定な精神状態になる母のこともある。一度リセットして、もう一度考えてみた方がいいと思ったのだ。
だが、それを伝えられる言葉はなかなか見つからなかった。
「もし、先輩部員たちとそりが合わないのだったら、私に考えがあるのよ」
「は? 考え?」
そりが合わないのは、今に始まったことではない。それに残念ながら、そりの合わない先輩たちには瞳子に退部を決意させるだけの力はない。
「三年生を送る会は、本番まで練習期間もあまりないので、三つにグループ分けして短い劇を三つ上演することになったの。あなたは、私と二人|芝居《しばい》をするのよ。どう? ワクワクしない?」
「え、……ええ」
辞めるつもりなのに、確かに少しだけワクワクした。今回の二人芝居に限らず、新しい演目が決まる時、いつだって心が騒ぎだす。
どう料理してやろう。――素材を前にした、料理人のように。
そして稽古《けいこ》。
稽古も好きだ。何度も何度も、同じシーンを積み重ねていくうちに、自分が料理人なのか材料なのかわからなくなっていって、本番は舞台という皿の上に、熱々の料理をのせるだけ。さあ、どうぞ。自慢の料理を召し上がれ、と。
「今私は、あなたに合った脚本《ほん》を探しているところよ。あなたの演技力が思う存分|発揮《はっき》できるような、そんな芝居《しばい》を二人でつくりましょう」
目を輝かせて語る部長を見て、瞳子は「この人も私と同じなんだな」と思った。演劇が大好きで、どうすればいい作品を上演できるか、どうすれば演じる者も観客も楽しめるか、いつもそればっかりを考えている。だから、人づき合いの下手《へた》な自分とも馬が合ったのだろう。もちろん、彼女の人徳もあるだろうが。
「いろいろ、私のために……」
けれど、それも瞳子が退部してしまえば無駄《むだ》になってしまうのだ。
「瞳子ちゃん。私はね、私が引退した後も、あなたには演劇部の顔として活躍してもらいたいの」
「え……?」
「私は来年受験するつもりだから、比較的早く部活を引退すると思う。そうなったら、あなたは部内で孤立するかもしれない。だから遠からず、あなたが辞めると言い出す日が来るかもしれない、って予測はついていたのよ」
部長は大きく息を吐いた。
「あなたは一人でも演じることができる。部活の人間関係に邪魔《じゃま》されて、才能を埋もれさせる必要はないかもしれない。でも、それは我が校の演劇部にとっての損失だし、あなたにとってももったいないことだと思う。あなたは、来期の部長となってみんなを引っ張っていってもいい。面倒くさい役職は誰かに任せて、企画や演出のアイディアをどんどん出していくのもいい。ただ演じることだけに専念したっていい。どんな形だっていいの。部に残って、演じてちょうだい。部員たちは、演じ手としてのあなたから、いろいろなことを学べるわ。だから、辞めて欲しくないの」
(ああ――)
辞めようと決めてクラブハウスに来たのに、部長の描いた未来予想図に心躍っている自分がいる。
本当にそうなれたら、どんなにいいだろう。
けれど、そんなにうまい具合にいくはずがない。瞳子と部員たちとの関係は、お世辞《せじ》にもうまくいっているとは言えない。部長と共に、現二年生部員が揃《そろ》って引退したところで、それで何もかもが解決するわけではない。同級生部員とだって、決していい関係ではないのだ。
ならば、これは夢。部活を辞める瞳子に、マリア様が与えてくれた、うたかたのような夢なのだ。
「だから」
部長は、思いがけない言葉を口にした。
「私の妹になりなさい」
「は?」
驚く瞳子に、部長は捲《まく》したてる。
「現部長である私の妹なら、そう簡単に攻撃されることはないでしょう。引退したって籍《せき》は置いておくから、来年度になっても、元部長としての私の肩書きは、そう簡単に効力を失いはしないわ」
まるで、途中で口を挟《はさ》まれたら最後、この話はかき消されてしまうとでもいうように、一息でしゃべりきった。
「でも、私」
とっさのことで、どう言葉を返したらいいのかわからなかった。部長がお姉さまだなんて、そんな目で見たことは一度としてなかった。
戸惑っている瞳子を眺めて、部長はフッと笑った。
「福沢《ふくざわ》祐巳《ゆみ》さん?」
「え……」
「わかっているつもりよ。祐巳さんのことを好きなんでしょう?」
その質問に、瞳子は答えなかった。
「だってあなたが祐巳さんを見ていたように、私はあなたのことをずっと見ていたんですもの」
答えないことで、答えたも同じなのだ。それでも言葉で、態度で、それを自分の外側に出すことを瞳子は恐れた。
「祐巳さんは素敵な人だわ。だから祐巳さんの妹になることで、あなたが幸せになるならそれでいいと思っていた。だから今まで言わなかったのよ。でも、あなたは祐巳さんに近づくたびに傷ついて戻ってくるじゃない。不思議だわ。祐巳さんの手は刃物も何も持っていない、いつでも丸腰なのに」
その通りだった。
祐巳さまは悪くない。瞳子は、護身のために持っている凶器を過剰《かじょう》に振り回して、自分を斬《き》りつけ、血を流しているのだ。そして時には、相手のことも傷つけてきた。
「きっと、私に問題があるのでしょう」
「わかっているのね。そうよ。あなたが変わらなければ、祐巳さんとは一緒《いっしょ》に歩くことはできないわ」
何も言い返せなかった。言い返す必要もなかった。
部長は瞳子を懲《こ》らしめてやろうとか、勝とうとか思って言っているのではない。ただ、一歩|退《ひ》いて見て感じたことを口にしているだけだ。
「でも。そんな風に、簡単に自分を変えられるなら、誰も苦労はしないわね」
部長はほほえんだ。瞳子もほほえんだ。そうですね、と。
しかし、果たして自分が変わりたいのかどうなのか、それはよくわからなかった。
「あなたが苦しむ姿を見ているのはつらいのよ」
部長の手が、瞳子の両肩を引き寄せた。
「もう、祐巳さんのことは忘れなさい。私が守ってあげるわ」
やさしく抱きしめられて、瞳子は目を閉じた。
このままうなずけば、楽になるのだろうか。何も考えずに、何も求めずに。穏やかな生活を送ることができるのだろうか。
「……瞳子ちゃん?」
だが瞳子は、委《ゆだ》ねかけた部長の腕からそっと身体《からだ》を離した。
「すみません」
今は、決断できなかった。祐巳さまを断ち切るために、部長を選ぶなんて、してはいけないことだ。
「そう」
仕方ないわね、と部長はため息をついた。それから振り返って、キャビネットの抽斗《ひきだし》から書類を一枚取り出した。
「はい」
差し出されたそれは、退部届だった。
「……部長」
「勘違《かんちが》いしないで。私は、退部を認めたわけでも勧めているわけでもないのよ」
なかなか受け取らないでいると、部長はB5サイズの書類を二回折って、瞳子の手に握らせた。
「お守り代わりに持っていなさい。そして気が向いたら、これを持って部活に出てきたらいいわ。いつでも辞められるんだって思っていたら、少しは気が楽になるでしょう」
待っているから、と言葉を添えられたので、瞳子はありがたく受け取った。
「もちろん、私に遠慮《えんりょ》しないで、これは使いたい時に使っていいのよ。使われない方が、私はうれしいけれど。でも、一身上の都合もいろいろあるでしょうしね」
部長は椅子《いす》に腰を下ろすと、机の隅に追いやっていた書類を再び広げた。
瞳子は深く頭を下げてから、クラブハウスを出た。
うつむき、書類に集中する姿は、何となく、一人にして欲しいと言っているように見えたから。
だから、一秒でも早く自分が消えてしまうべきだと思った。
3
「瞳子《とうこ》」
校門を出た所で、背後から呼び止められた。振り向けば、そこには従兄《いとこ》である柏木《かしわぎ》優《すぐる》の姿がある。
「どうしたの?」
「待ち伏せしていたんだ」
優お兄さまは、もたれていた門柱から身体《からだ》を起こした。
「もしかしたら、もう帰ったかも、って不安になってきたところだった」
よかったよかった、と頭を撫《な》でるので、瞳子は「そうじゃなくて」と振り払った。
「あ、どうして車じゃないか、ってことか」
なぜ、こちらの意図とはまったく正反対の、トンチンカンな応答が返ってくるのかわからない。
「車は目立つからやめたんだ。特に僕の愛車の色はね」
「……」
持ち主も車に負けないくらい人目を引くことを、本人は自覚していないのだろうか。
[#挿絵(img/25_133.jpg)入る]
長身に黒のロングコートを着て、首には真っ赤なマフラーをグルグルに巻き、ジーパンの下からはボロボロのブーツが顔を出している。どういうコンセプトでまとめたファッションなのかわからないが、極めつけのサングラスが「何者?」というただ一言に、見事にまとめ上げているのだった。
今もバス停の前で、十人近くの生徒たちが固まってこちらにチラチラと視線を送ってきている。ちょうどバスが停車し、乗車口が開かれているというのに、彼女たちはそれに気づかず乗り込む気配もない。
「そんなこと、どうだっていいの。私が聞きたいのは、どうして、待ち伏せなんてするの、って――」
そこまで言って、瞳子はハッとした。
「まさか、うちで何か!?」
「何にもない。叔母《おば》さまはぴんぴんしている」
ケロリとして言う従兄の顔を見て、瞳子はほーっと息を吐いた。
「そう。そうよね」
考えてみたら、家で何か異変があったとしたら、家族は優お兄さまに連絡をとって校門前で待ち伏せさせるなんてまどろっこしい方法などとらずに、直接学校に連絡して瞳子を留め置くなり帰宅させるなりするはずだ。
「僕は話があって来たんだよ」
「話? 私に?」
「うん」
だったら、こんな寒い中待ち伏せなんかしなくても、松平《まつだいら》の家で待っていればいいのものを、瞳子はそう思った。すると、お兄さまは見透かすように言った。
「義叔父《おじ》さま叔母さまが気にするだろ。僕がわざわざ瞳子を訪ねていったりしたら」
「そうね」
家出をした時、迎えに来てくれたのは優お兄さまだった。福沢《ふくざわ》家にお礼に行ってくれたのもそうだ。
父も母も心から感謝しているはずなのに、優お兄さまは瞳子の家出を思い起こさせる存在になってしまった。スキー土産《みやげ》を持って遊びに来てくれる分には何も問題はないのだが、改めて「話」をしに来られたりしたら、母は変に警戒しそうだった。
「それで? どこで話すの?」
瞳子は辺りを見回した。
「私、制服だから、学校の近くの喫茶店《きっさてん》とかは無理なんだけれど」
かといって、女子校の中に若い男性を引き入れるわけにもいかない。どのような内容の話なのかもわからないのに、立ち話を提案するのも変だ。どこか移動するにしても、お兄さまが車で来ていないのだから、ここからはバスに乗らないとどこにもいけない。バス停でこちらを伺《うかが》っている生徒たちと同じバスに、この「何者?」同伴で自分が乗り込む図は、想像してあまり楽しいものではなかった。
「取りあえず、歩こうか」
「歩く?」
戸惑う瞳子の前を、優お兄さまはさっさと歩き出す。
「どこまで歩くの?」
「その辺まで」
一度振り返ってそう言うので、仕方なく瞳子は後をついていくことにした。
バス通りの歩道は、二人並んで歩くほどの幅はなかった。だから、歩きながら話をするつもりではないのだろう。
瞳子はこの散歩の終着点はどこなのかわからないまま、お兄さまの広くて真っ黒なコートの背中を眺めながら歩いた。
道の両サイドに広がる風景には、もちろん見覚えがある。いつもバスの中から眺めているから。けれど、目線が違うだけで普段見ているものとは微妙にずれている。
例えば、道端に立っている小さなお地蔵様には、今まで気づくこともなかった。少し古びた、電柱広告に書かれていた商品名も。バス停の名称になっている番地名が、近所の家の表札に書かれた住所と異なっている事実とか。
今日知ったからといって、これからの人生に大いに役に立つというほどのものではないかもしれない。もちろん「演技の幅」などというものとも無縁だろう。けれど、知らないままでいるより、知ることができた方がいいような気がする。根拠はないが、そんな気がした。
歩きながら瞳子は頭の中で、通り沿いの地図を思い描いた。
このまま、真っ直ぐ進めばファミリーレストランがある。
(お兄さまは、そこに行こうとしているのかしら)
でも、だったら喫茶店《きっさてん》は無理だと瞳子が言った時に、ファミレスなら平気かどうかを確認してくるはずだ。
では、瞳子が知らないだけで大通りから外れた所に、公園でもあるのだろうか。ベンチに座れば立ち話ではないけれど、この寒空の下、その上夕闇が迫り来る中で話し込むのはきつそうだ。第一、あまりにもお兄さまのイメージから外れすぎている。
そんな風に瞳子は、歩いている間は当座の目的地のことしか考えていなかった。お兄さまがどんな話をもってきたかなんて、あまり思い浮かべなかった。母のことか、祖父の病院のことか。どちらにしても、年上の親戚《しんせき》として、何か言いたいことがあるのだろう。
「着いたよ」
お兄さまが突然止まったので、思わず瞳子はお兄さまの背中に体当たりしてしまった。
「ここ?」
「そ、ここ」
それはファミレスでも公園でもない。ごく普通のコインパーキングだった。
「もしかして」
「もしかしなくても」
優お兄さまは、ポケットから車のキーを取り出して目の高さで振ってみせた。
「車は目立つからやめたんじゃなかったの?」
「女子校の前に停車しておくのを、やめただけだよ」
笑いながら駐車場の中に入っていくお兄さまについていくと、行く手には間違いなく見覚えのある真っ赤な車が止まっていた。
「ほら、乗った乗った」
お兄さまは助手席のドアを開けて、瞳子を促す。抵抗する理由もないし、正直寒かったので、素直に乗ることにした。
制服に助手席は目立つかもしれないと一瞬|躊躇《ちゅうちょ》したけれど、学校側に知られて注意をされたとしても、調べればすぐに同乗者が従兄《いとこ》だということはわかることだし、後部座席からでは前にいるお兄さまとの会話はなかなか通らない。
運転席に乗り込むと、お兄さまはサングラスを外して言った。
「家まで送っていくよ」
駐車料金を払い終わった赤い車は、滑るようにゲートを出ていった。
「それで? 話って、何?」
「聞きたいことが」
「聞きたいこと?」
言いたいこと、ではなくて? 瞳子は考え込んだ。ならば、家のことに関するお説教やアドバイスではないということだろうか。
「世の中のことなら何でも知っています、みたいな顔をしているお兄さまが、私に聞きたいことがあるなんて、ね」
ちょっぴり愉快《ゆかい》で、肩を揺すった。
「からかわないでくれよ。僕の知識なんて、たかが知れてる。世の中のほとんどのことをわかっていない。いや、わからないことだらけだ」
カチカチカチカチ。ウィンカーが、メトロノームのようにリズムを刻む。
「クリスマスにあったことだ」
車線を変更しながら、優お兄さまは言った。クリスマスという単語に、瞳子の胸は一瞬ドキリと鳴った。
「どうして祐巳《ゆみ》ちゃんにあんなことを言った?」
「あんなこと?」
一応ポーズとして聞き返してはみたが、もちろん身に覚えがあることだ。けれど、こちらから具体的な内容を提示する必要はないと思われた。お兄さまがどこまで知っているか、わからないのだ。もしかしたら、鎌《かま》をかけているのかもしれない。
「僕には、瞳子の気持ちがわからない。祐巳ちゃんを好きなくせに」
そう言うからには、核心部分を知っているということか。
「誰から聞いたの?」
クリスマスのあの出来事を、というつもりで尋《たず》ねた。祐巳さま本人か、祥子《さちこ》お姉さまか、それとも薔薇《ばら》の館のクリスマスパーティーに来ていた客の誰かからか。
いずれにせよ、祐巳さまが誰かに言ったのなら、そこから先はどこへ漏《も》れてもおかしくはないだろう。人の口に戸は立てられないのだから。
「誰から聞いたのか、って?」
けれど、優お兄さまは質問の主旨《しゅし》を誤って受け取ったようだ。
「見ていればわかる」
「見ていれば、なんて。説得力ないわね」
演劇部の部長も、そんなことを言っていた。
(祐巳さんのことを好きなんでしょう?)
けれど、それはあくまで勘《かん》だ。裏付けがなければ、証明することはできないはず。
正面の信号が黄色になった。優お兄さまは、ブレーキをかけた前の車の後ろに静かに停車した。程なく、自転車に乗った学生の一団が、横断歩道を渡っていくのが見えた。
「じゃ、聞くけれど。去年の夏、瞳子はどうしてカナダに行かなかった?」
「え?」
「祐巳ちゃんが小笠原《おがさわら》の別荘に行くって知って、予定を変えたんだろう」
「誰がそんなこと」
根も葉もないことと、笑い飛ばそうと思った。けれどお兄さまは構わず続けた。
「あの時分、叔母《おば》さまが言ってたことを思い出したんだよ。さっちゃんが妹を別荘に連れていくという話を聞いて、瞳子はカナダに行きたくないと言い出した、って。僕はその時、瞳子が祐巳ちゃんに嫉妬《しっと》して、二人の仲を邪魔《じゃま》するために別荘行きを決意したのかと思っていた。でも、今から思い返せば違う。瞳子は祐巳ちゃんを心配して、行ったんだ」
「何を――」
「別荘地で会うお嬢《じょう》さまたちは、危険だって知っていたから。彼女たちは、意地悪をしているという自覚がない分|厄介《やっかい》だ」
ばかばかしい。瞳子は笑った。
「私が別荘に行ったところで、何が変わるの」
「変えられようが変えられまいが、お前は気になって、遠く離れた外国になんか行ってられなかったんだ」
信号が青に変わった。車は、流れに沿って滑り出す。
二人はしばらく言葉を交わさなかった。瞳子は、お兄さまの説が正しいとも間違っているとも言わず、ただ前に広がる自分たちが飲み込まれた車の流れと、こちらに向かってくる反対車線の流れをぼんやりと目に映していた。
バス停一つ分ほど経っただろうか、突然お兄さまが口を開いた。
「……そうか。お前は、自分がされたような意地悪が、祐巳ちゃんにふりかかることを恐れたんだ」
無言でいた間に何を考えていたのか、そしてどんな結論を導きだしたのか、お兄さまの横顔はいつになく恐ろしい形相《ぎょうそう》をしていた。
「京極《きょうごく》か、綾小路《あやのこうじ》か、西園寺《さいおんじ》か。いったいいつ、誰に、何を言われた」
「お兄さま……」
瞳子は恐怖を覚えた。いつも穏やかで笑っているようなお兄さまが、今何かに向かって激しく怒っている。
「お兄さま」
「僕は気づいてやれなかった。瞳子が家を出たあの瞬間まで、僕は瞳子が何も知らないと信じていたんだ」
アクセルが踏まれる。スピードが上がる。余裕《よゆう》をもっていた前の車との車間距離が、次第に縮まっていく。このまま突っ走っては危ないと思った。
「お兄さま、おしっこ!」
瞳子は叫んだ。
「えっ」
「お願い、どこかお手洗いのある所に入って! あ、あのファーストフードでいいわ。駐車場がある。ほら左に曲がるってウィンカー出して。早くっ」
「あ、ああ……」
ギョッとしながらも、お兄さまは瞳子の言葉につられてハンドルを左に切った。駐車場に入った所で一旦停止したので、瞳子はシートベルトをはずして外に出た。
「お手洗いを借りたら戻ってくるから、どこかに車を止めて待ってて」
本当はお手洗いなんて行きたくなかった。けれど、行きがかり上ファーストフードの店内に入るしかない。
お店の人にお手洗いの場所を聞いて、手だけ洗った。気づかなかったけれど、手にびっしょりと汗をかいていた。
冷たい水が気持ちいい。
瞳子は鏡に映った自分の顔を見て、大きなため息をついた。
自慢の縦ロールが少し乱れていたけれど、そんなことは大したことではない気がした。
「コーヒーと迷ったんだけれど」
エンジンを止めた車内に一人寂しく待っていた優お兄さまに、瞳子はコーラの入った紙コップを渡した。
「いや、これがいい。よくわかったな」
「私も飲みたかったから」
コーラなんて、一年に一回飲むかどうかくらい馴染《なじ》みの薄い飲み物だった。でも、喉《のど》が渇《かわ》いていると、こういうものが無性に欲しくなる。瞳子がそうなのだから、たぶん優お兄さまは尚更だったろう。
お手洗いを借りただけで店を出るのに気が引けたこともあるが、飲み物を買ったのにはわけがある。
瞳子は、優お兄さまがクールダウンするまでの時間が欲しかった。またドライブ中にさっきのような状態になられたら、と思えば、ここで停車中に話を済ませてしまった方がいい。
「千円いただきます」
「お前、ぼったくりバーか」
「いらないならいいわよ。二つとも私が飲むから」
取り上げようとすると、お兄さまは素早くストローに口をつけて自分の物にしてから、「ほら」と財布《さいふ》から千円札を一枚出して瞳子にくれた。
「コーラってうまいな」
「そうね」
それから二人で、また無言でコーラを飲んだ。
「瞳子」
「何?」
「さっきは、助かったよ。……瞳子に止めてもらわなかったら、危なかった」
もう、いつものお兄さまに戻っていた。
「私も助かったわ。お手洗いに間に合って」
「そうか」
「うん」
うなずくと、頭をくしゃくしゃと撫でられた。やっぱり髪型なんて気にしていられない。でも、優お兄さまの大きな手の平は気持ちがいい。だから、瞳子は振り払わなかった。
コーラを飲み終えた優お兄さまは、プラスティックの蓋《ふた》を外して中の氷を口に入れた。ガリガリという小気味いい音が、車内に鳴り響いた。
「お兄さま」
「ん?」
「私、そんなにショックじゃなかったのよ」
氷をかみ砕《くだ》く音が、一瞬止まった。
「別に。あの人に言われる前から知っていたもの」
何が原因だったかわからない。ある年の夏休み、あの三人のお嬢《じょう》さまたちが瞳子に対して嫌がらせをしてきた。たぶん、親戚《しんせき》だったために祥子お姉さまが瞳子だけに何かをくれたとか、二人きりで買い物にいったとか、そんなささいなことに嫉妬《しっと》したのだと思う。
けれど瞳子は、別にあの三人に仲よくしてもらわなくても構わなかった。泣いて「仲間に入れてください」と頼めば相手も満足したのだろうけれど、それをすることなく何日も遊びに出掛けなかった。
ある日、一人がやってきて、鬼の首でも取ったように言った。瞳子さんがかわいそうだから言っちゃいけないって、お母さまに口止めされているんだけれど、と前置きをして。がんばって気の毒そうな顔を作っていたが、しゃべっている間、彼女の目もとや唇そして小鼻と、顔のあらゆる部品から笑いが込み上げてくるのがわかった。
「だからどうしたの、って言い返してやった時、あの人、顔を真っ赤にしてものすごい表情をしていたけれどね。……でも、ずいぶんと前のことよ。言った本人は、もう忘れているんじゃないかしら。だから」
瞳子は、優お兄さまを見た。
「お兄さまは、あの時の私のためにお怒りにならなくていいのよ」
「瞳子……」
お兄さまはつぶやいたきり、黙り込んだ。自分が受けたショックをどこかに逃がそうとしているようにも、かけるべき言葉を探しているようにも見えた。
やがて、紙コップを握り潰《つぶ》して言った。
「お前は幸せになっていいんだよ」
「何のこと?」
聞き返しながら、ストローの音を立ててコーラを飲み干す。氷が溶けて、最後はずいぶんと薄味になっていた。
「気のせいだろうか、お前は目の前の幸せから逃げているように、僕には見える。祐巳ちゃんのことにしたって――」
「もう終わったことよ。蒸《む》し返さないで」
瞳子は、大きな声を出して話を遮《さえぎ》った。お兄さまは少し驚いたようだったが、すぐに笑って承諾《しょうだく》した。
「……OK、やめよう」
キーが回されて、車にエンジンがかかる。瞳子は買った時に入れてもらった袋の中に、紙コップを戻した。一つは空っぽだから無造作《むぞうさ》に。もう一つは中の氷が溶けて流れないように、真っ直ぐに置く。シートベルトを締めると、車はゆっくりと前進した。
ファーストフードの駐車場を出て左折すると、さっきのバス通りに出た。優お兄さまは、道を譲《ゆず》ってくれた車に軽くクラクションを鳴らしてから、徐々にスピードを上げていく。
車の流れに乗る。
一台一台それぞれに運転手がいて、別々に動いているはずなのに、まるで川を流れる笹舟《ささぶね》の一つにでもなったような錯覚《さっかく》をおぼえる。
お兄さまはしゃべらなかった。運転に集中しているのではない。瞳子が話を中断させたから、何となくしゃべりづらくなってしまったのだろう。
会話がなくなったことで、瞳子の思考は内へ内へと向かっていった。話が途切れる前にお兄さまが発した「祐巳ちゃん」という言葉が、頭の中でリフレインされる。
祐巳ちゃんのことにしたって、
祐巳ちゃんのことにしたって、
祐巳ちゃんのことにしたって――。
耐えきれなくなって、瞳子は口を開いた。
「じゃああの時、ロザリオを受け取っていればよかったとでも言うの? そんなこと、できるわけがない」
蒸し返さないで、そう言ったのは自分だった。けれど、言わずにはいられなかった。
お兄さまは、黙ったまま運転していた。たっぷり十秒ほど経ってから、ポツリポツリと探るようにつぶやく。
「――祐巳ちゃんが、瞳子を妹に選んだ……と?」
「何を今更《いまさら》驚いているのよ」
さんざん批判した後に、だ。
「知らなかったんだ、僕は。クリスマスに、祐巳ちゃんと何かがあったらしいことはわかっていたけれど、具体的には。だから、鎌《かま》をかけただけだ」
「見え透いた嘘《うそ》をつかないで」
祥子お姉さまから、聞いていたに決まっている。なのに、今初めて聞いたみたいなふりをして。
「どうしてそう、疑ってばかりいる」
「信じろというの? 信じて裏切られるくらいなら、初めから信じない方がいいのよ」
瞳子はヒステリックに叫んだ。
「違う。お前は信じないと言いながら、心の中では信じたいと思っている。逃げながら、追いかけてくれるのを待っているんだ」
「そんなこと」
お兄さまは、停留所に止まっていたバスを追い抜く。
「そうしていつまで逃げ続ける。そのうち疲れて、誰も追いかけてくれなくなるぞ」
その言葉にカッとなって、瞳子は「止めて」と叫んだ。けれど、お兄さまは取り合ってくれない。
「蒸し返したのは、お前だろう。それで怒るなんて、勝手だな」
そんなことはわかっている。
「車に酔ったわ。お兄さまの運転、乱暴だから」
自分が悪い。それでも、難癖《なんくせ》をつけたくなることはあるのだ。
「へえ? 近頃、上手《うま》くなったって評判なんだがなぁ」
惚《とぼ》けた口調でつぶやきながら、お兄さまはスピードを緩めるどころかウィンカーを出す気配も見せない。
「いいから、早く止めて下ろしてよ。私、あのバスに乗るんだから」
振り返ると、今追い抜いたばかりと思っていた路線バスが、もうずいぶんと小さくなっている。
「だめだ」
お兄さまは、瞳子の我がままを許さなかった。
「吐くわよ」
「いいよ。紙コップを出して、さっきの袋を使えば?」
「わかった、そうする」
意地悪なお兄さまに仕返ししてやりたくて、本気で吐こうかと思って紙コップが入ったままの紙袋を口もとにあてがってはみたけれど、もともと酔ってもいないものをそう簡単に戻せるわけがない。胃袋にだって、都合があるのだ。
「お兄さまに私の気持ちなんか、わからない」
吐くに吐けなくて、涙目になりながら紙袋を下におろした。中の紙コップが傾いて、氷が溶けた水とまだ溶けない氷が、ちゃぽんと小さな音をたてた。
「わからないさ。だからさっきも言っただろう? 瞳子の気持ちがわからない、って」
「私が言っているのは、そういうことじゃないわ」
「知っているよ。じゃ、何か? お前は僕に、同情でもして欲しいのか」
ああ、かわいそうに。何て哀《あわ》れな子なのだろう、と。想像しただけで、鳥肌が立つ。
「それが一番嫌なことだわ」
「だろうな。だから、これまで必死で演技してきたんだ」
気に障《さわ》ったのは、それが間違っていなかったから。けれど、気に障ったと同時に、自分の心を理解している人がいることを心地《ここち》いいとさえ感じている。
この人は、わかっている。だから、この人の前では無理をして仮面を被《かぶ》る必要はないのだ。
「みんなして私を責めるのね」
「僕以外にも、何か言われたのかい?」
ええ、とうなずくと、お兄さまは言った。
「きっと、君のことが好きだからさ」
「好きだから責めるの? よくわからないわ」
瞳子はため息をついて、窓の外を眺めた。いつしか車は通学で使っている道を外れて、別の街道を走っていた。
電車には乗らないから、駅には行かない。結局、このままお兄さまの車で家に帰ることになるのだろう。
仕方ない。
自分はまだ高校一年生で。義務教育は済んでいるものの、無力な子供だから。
家を飛び出したとしても、自立する術《すべ》もない甘ちゃんは、半日ほどで元の家に舞い戻るしかなく、祖父の病院のことだって蚊帳《かや》の外に置かれてしまう存在なのだ。
泣きわめいて、手足をばたつかせたところで、自分には何も変えられない。
それなのに、がんばって幸せを手に入れろというのか。
自分のことだけを考えて、周囲の人たちが不幸になったとしても?
それが、本当の幸せと言えるのだろうか。
「そうだな」
お兄さまはフッと笑った。
「だから、世の中はわからないことだらけなんだよ」
大通りを外れて、住宅地に入る。
見覚えのある建物の間から、星が見えた。
星も笑っているように見えた。
「私がわからないのは、どうしてお兄さまがわざわざ待ち伏せしてまで、私を家まで送ってくれたのか、ってことだわ」
停車した車の中で、瞳子は尋ねた。もうすぐそこ、目と鼻の先に松平の家が見える。
「だから、瞳子と話がしたかったんだよ」
「わかっているわ。知りたいのは、その私との会話に、それ程の価値があったかどうかよ」
「あったよ。大した収穫《しゅうかく》だ」
本当かしらと思いながら、瞳子はシートベルトを外した。瞳子の両親が気を回すと悪いので、優お兄さまは家に上がらないで帰るという。だから瞳子も、ファーストフードの紙袋を車の中に置いていく。お兄さまに柏木の家まで持ち帰ってもらうことになるけれど、仕方ない。
鞄《かばん》を持って車外に出る。この距離からでは家の中の母には届かないとは思うが、できるだけそっとドアを閉めた。
運転席の方に回り込むと、優お兄さまが言った。
「僕は、ただ知りたかっただけだから。瞳子や祐巳ちゃんに何があったのか」
「……どうして知りたがるの?」
瞳子は首を傾《かし》げた。
「それは、よく考えればきっとわかるよ」
赤い車が、住宅地の中を静かに走り抜けていく。
遠ざかる車は、まるでミニカーのように見えた。
星が瞬《またた》いている。
「よく考えれば……」
つぶやいて、瞳子は自宅に向かって歩きだした。
さっきまでの、汗をかいたり、言い争ったり、喚《わめ》いたりしたことが、すべてあんな小さな箱の中で起こっていたなんて、信じられない。
そんなちっぽけな自分なのに、一人前に悩んだりしているのだから。
星だって、さぞかしおかしかろう。
――そう思った。
[#改ページ]
ポケットの中
1
学校生活というものは、行事と行事をつなぎ合わせてできているようなものだ。
クリスマスが過ぎて、冬休みに入って、年が明けて三学期になったら来期の生徒会役員選挙。それが終わったと思ったら、もうバレンタインデーだ。
清掃《せいそう》の時間に、教室の床を掃《は》いていてあることに気づいた。ちり取りの前で集めた綿埃《わたぼこり》が、いつもよりカラフルなのだ。
最初は特に気にも留めなかった。そういう日だってあるだろう、と。しかし、それは翌日も同じで、日を追う毎《ごと》に心なしか量も増えていっている。
普段床に落ちている物は、手でゴミ箱まで運ばれることがないほどのごく小さな埃や、外から入ってきた砂、生徒たちの抜け落ちた髪の毛などがほとんど。だから床を掃けば、白っぽかったり黒っぽかったりグレーだったりの、大雑把《おおざっぱ》にいうとモノトーンのゴミの小山ができることになる。
しかし近頃は、赤っぽかったり黄色っぽかったり青っぽかったり、何色っぽいと一括《ひとくく》りに表現できない色味だったりの綿屑《わたくず》のようなものがフワフワ混ざっていたりするのである。
これは何だろう。
しばしちり取りの中を眺めて、やっとそれらカラフルの正体がわかった。
(ああ)
休み時間にクラスメイトたちが編んでいる、毛糸の繊維《せんい》だ。
とはいえ、ただ編んでいるだけでこんなに綿埃になるものなのか。いや、あり得ないことではない。何度も編んだりほどいたりを繰り返している人もいれば、毛羽《けば》だったモヘア糸を使っている人もいる。バレンタインデーを約二週間後に控え、クラスの三分の一くらいが休み時間のたびに編み物をしていれば、これくらいの量になるのだろう。
ついでに編み物をしない生徒も、友人に少し毛糸を分けてもらってあやとりなんてものをしているのだから、一年|椿《つばき》組教室は相当|毛糸屑《けいとくず》が浮遊しているはずだった。
チョコレートの話題も、そこここで飛び交っている。顔をつきあわせてお菓子の本から材料表をメモ書きしたり、雑誌に載っていた有名チョコレート店の商品カタログとにらめっこしたり。お姉さまがいてもいなくても、みんな楽しそうだ。
待ちに待った高等部のバレンタインデーだ。もしかしたら、浮かれない方がどうかしているのかもしれない。
土曜日の放課後。
掃除《そうじ》を終え、手を洗い、ポケットからハンカチを取り出したら、一緒《いっしょ》に何かが飛び出して床に落ちた。拾い上げて、四つ折りにしてあった紙片を開くと、それは今朝《けさ》配布されたばかりのリリアンかわら版の号外だった。瞳子《とうこ》は笑った。ポケットに入れたまま、すっかり忘れていたのだ。
『今年もやります、宝探し!!』
見出しの文字が躍っている。
とにかく緊急告知といった感じで、中身はほとんどない。これを見た当初は、リリアンかわら版のこと、情報を小出しにして徐々に盛り上げていこうという作戦なのかとも思ったが、どうもまだ詳しくは決まっていないらしい。
「決まり次第、随時《ずいじ》発表をしていく、って。新聞部の真美《まみ》さまが」
休み時間に乃梨子《のりこ》がクラスメイトから追いかけられながら、そう説明していた。
生徒会役員選挙以降、ますます乃梨子の周辺はあわただしい。もちろん山百合会《やまゆりかい》の仕事で忙しいこともあるのだろうけれど、同級生たちがイベントのことを聞こうと、休み時間のたびに集まってくるのだ。
だから、ここ何日かの乃梨子はいつだって走り回っているイメージがあった。いちいち対応するから、きりがないのだ。入学当初の、「他の人を寄せつけなかった乃梨子さん」は、いったいどこに行ってしまったのか。
そこまで考えて、瞳子は苦笑した。
それを言うなら、「無邪気《むじゃき》で世話焼きだった瞳子さん」も過去の人だから、お互いさまか。
いつの間に逆転したのか。
いいや。別に役割を交換したわけではない。個々それぞれが、少しずつ変化して今はこの形で落ち着いているだけだ。
「宝探し……か」
瞳子は、号外を右のポケットに戻した。戻した手は、そのままポケットの中に入れておいた。
去年の宝探しは、中等部の生徒だったから参加していない。フライングで紛《まぎ》れ込もうというクラスメイトの誘いは断ったものの、やはり気になって、下校するふりで高等部校舎の周辺を歩いてみたりした。そして――。
(ばっかみたい)
ポケットの中で、号外がクシャリと音をたてた。もはや四つ折りの紙ではない。ただの丸めた紙くずだ。
(ばっかみたい)
足早に廊下《ろうか》を歩いた。過去の映像を振り払うかのように。どうして、あんな光景を思い出さなければならないのだ。
(ばっかみたい、ばっかみたい、ばっかみたい、ばっかみたい!)
逃げても逃げても追ってくる。
ちょうど一年前の、校内を走るあの人の姿。たくさんの生徒たちに追いかけられて、彼女たちから逃れようと必死の形相《ぎょうそう》で。しかしそれは、見ようによってはたくさんの馬をしたがえて先頭を走る競走馬のようだった。
この人が、祥子《さちこ》お姉さまの選んだ人。
恐ろしいと思った。何に対しての恐怖かはわからない。ただ、漠然《ばくぜん》と怖い。この人に近づいてはいけない。
(だめだ……)
振り切ろうとすればするほど、祐巳《ゆみ》さまの映像は振り切れない。諦《あきら》めて、瞳子は歩く速度をゆるめた。いつの間にか、一年椿組の教室まで戻っていた。
「では皆さま、ごきげんよう!」
教室の中に声をかけて、飛び出してきたのは乃梨子だった。
「あ、瞳子」
友の姿を見つけると、明るく笑いかけてくる。
「忙しそうね。乃梨子さんは今から薔薇《ばら》の館《やかた》?」
「ううん。今日は集まりはなしなの。急いでいるのは、今日これからテレビで仏像の特番をやるんだけれど、予約録画し忘れたから。あいにく、大叔母《おおおば》は留守《るす》だし。ま、いたってあの人には頼めないけどね」
頼めないのは、気兼《きが》ねなのか、それとも大叔母さまが機械の操作に明るくないせいか。
「それ、何時?」
「えっと……二時かな」
「じゃ、急がないとね」
腕時計を見れば、一時をとうに回っている。乃梨子の下宿先は、M駅から電車で数駅だったと記憶している。バスと電車の乗り継ぎがうまくいけば、帰れない時間じゃないけれど、学園前から出ている循環《じゅんかん》バスは、遅れることがざらだから油断はできない。
「うん。じゃ、ごきげんよう」
乃梨子は背を向けた。
「あ、乃梨子さん」
瞳子は、思わず呼び止めた。
「え、何?」
振り返られた後に、何を言ったらいいのかを考えるなんて本末転倒《ほんまつてんとう》。けれど、つい呼び止めてしまったのだ。このところ二人きりになると重い話題ばかりだったからだろうか、乃梨子があまりに当たり障《さわ》りのない言葉をしゃべるので、調子が狂ったのかもしれない。
「大変ね。今年はあなたも宝を隠すのでしょう?」
困ったからと言って口から出た言葉がこれじゃ、|白薔薇のつぼみ《ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトン》に群がるクラスメイトたちと同じだ。
「ううん」
乃梨子は笑って否定した。
「あのね、二年生の三人がカードを隠すんだよ。えっと、そうだ。確か、ここに……」
いいながらポケットに手を突っ込んで、何かを取り出す。
「ほら、『次期薔薇さま三人』って書いてあるでしょ?」
差し出されたのは、リリアンかわら版の号外だった。乃梨子は、記事を指し示しながら説明した。
「去年はつぼみだったから、誤解している人も多いみたい。これ、持ってた?」
「……いいえ」
瞳子は右ポケットに入っている紙くずを、もう一度ギュッと潰《つぶ》した。
「じゃ、あげる。私はもう読んだし、薔薇の館にファイルされるはずだから、いつでも見られるし」
開いてあったのを折り直して、瞳子の左手に握らせてから、乃梨子は「じゃ、今度こそ」と廊下《ろうか》を足早に消えていった。
教室に戻ってから瞳子は、どうしてすでに持っているリリアンかわら版をもらってしまったのだろうか、と思った。机の上に、今もらった一枚とポケットの中に入っていた紙くずを出して並べる。
(こっちが乃梨子、こっちが瞳子)
指で突っついて、それから両方とも一緒《いっしょ》にポケットに入れた。
仕方がない。
あの時は、この丸めた紙くずを乃梨子にどうしても見られたくなかったのだから。
2
下校しようと靴箱《くつばこ》の手前の廊下を瞳子《とうこ》が歩いていたら、向こう側からやはり帰り支度《じたく》をしたその人がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「あれ?」
肉声を発したからには、夢でも幻でもないということか。佇《たたず》む瞳子に向かって、「ごきげんよう」と笑顔を向ける。
そんな風に福沢《ふくざわ》祐巳《ゆみ》さまは、奇跡のように瞳子の前で立ち止まったのだ。
(なんてこと)
瞳子は苦笑した。
さっきは後ろから追いかけてきた幻がやっと消えたと思ったら、今度はこんな所で鉢合《はちあ》わせするなんて。油断していた。
だが、思い返せば、さっき乃梨子《のりこ》が今日は薔薇《ばら》の館《やかた》での集まりがないと、ちゃんとヒントを残してくれていたのだ。こんなことがあるかもしれないと、百パーセント予測できなかったことではないのだ。
祐巳さまは一人だった。
お姉さまである祥子《さちこ》さまも、同じクラスの島津《しまづ》由乃《よしの》さまも一緒《いっしょ》ではない。一人で帰るんだ、とぼんやり思った。
「ごきげんよう」
瞳子はニッコリとほほえんだ。これくらいの笑顔を作るのは、お手のものだ。
「瞳子ちゃんは、今帰るところ?」
「ええ」
鞄《かばん》を持ってコートを着ている人間に向かって、この人は何ていう間抜けな質問をするのだ、と思った。だが、間抜けだったのは実は瞳子の方だった。
「じゃ、駅まで一緒に」
祐巳さまが言った。
「……は」
下足場の前で、帰るところだと言ってしまったのだ。今更《いまさら》、図書館に寄るとか、購買部で買い物をするとか言い訳して、祐巳さまとの時間差を作り、同行を回避《かいひ》することなんてできやしない。
一年生と二年生は靴箱《くつばこ》の位置が違う。だから靴を履《は》き替えたらダッシュで逃げれば、躱《かわ》せないこともない。
しかし、それをしてどうなるというのだ。間抜けの上塗《うわぬ》りをするだけのことではないか。
図書館脇の小道を必死で走る自分の後ろ姿は、想像するにあまりに滑稽《こっけい》だった。
瞳子は腹をくくって、歩きだした。
昇降口の出口では、祐巳さまが遅れてやって来た。
「お待たせ」
確かに、待たされた。靴を履き替えるだけにしては、時間がかかりすぎなほどだった。
「行こうか」
「はい」
瞳子は、今祐巳さまが出てきた辺りを振り返った。祐巳さまと立ち話をしていたような生徒は、どこにも見当たらなかった。
「私さ」
半歩ほど先を歩く祐巳さまが、つぶやいた。
「瞳子ちゃんと、こうして二人で話したいと思っていたんだよね。でも、瞳子ちゃんの方はどうかわからないから。一年|椿《つばき》組教室を訪ねていったりしたら、迷惑かもしれないなって我慢していたんだ」
祐巳さまは軽く振り向いて、瞳子を見た。
「だから、うれしい。今、偶然会えたのが」
「――」
その時。もしかして祐巳さまは瞳子に逃げるだけの時間を作ってくれていたのだろうか、という考えが瞳子の頭を過《よぎ》った。
今歩いている道を目測する。昇降口から走って、図書館の角を曲がるまでに必要な時間はどれくらいか。祐巳さまが瞳子を待たせた時間と、ほぼ一致するのではないか。
この人は、瞳子が逃げてもいいと思っていた。――たぶん。
(むしろ逃げて欲しいと思っていた、とか)
それは違う。
偶然会えてうれしかったと言った、あの笑顔は作り物ではなかった。
第一、瞳子と一緒に帰りたくないのならば、最初から誘わなければいいだけの話だ。こんな回りくどいやり方など必要ない。
考えても答えは出ない。瞳子は諦《あきら》めて、質問をした。
「私に会って、何を話すおつもりだったのですか」
去年のクリスマス以来、こうして二人きりになるのは初めてだった。
あの時瞳子は、不意に差し出されたロザリオに動揺《どうよう》し、きつい言葉とともにロザリオを拒絶したのだ。
二人きりになれば、恨《うら》み言《ごと》の一つや二つは言われるであろうことは、瞳子だって覚悟していた。
しかし。
「何だろう。わからないな。何も話したくないわけじゃないけれど、漠然《ばくぜん》としているというか。抽斗《ひきぜし》がたくさんありすぎて、どこから取り出してしゃべっていいのかわからない、感じでもあるし」
祐巳さまの答えは、「漠然」という言葉通り、要領を得なかった。
「とにかく、あれだ。具体的な用事もないのに、友達を引き留めちゃうような感覚っていうのかな? 取りあえずまだここにいて、って。どうしてここにいて欲しいのか、今からそれを考えるから、って。わからないか」
「……」
わからないどころか。
ついさっき、瞳子はそのような気持ちに駆られて、乃梨子を呼び止めたばかりだった。
では、あの時瞳子が感じていたのと同じ気持ちを、祐巳さまは今瞳子に向けているということなのだろうか。
二人は、図書館の角を曲がった。
「瞳子ちゃん」
祐巳さまは抽斗の一つから言葉を取り出して、瞳子に示した。
「無理言ってごめんね」
でも、何を言われたのか、さっぱりわからなかった。
祐巳さまのした何が、瞳子に対する「ごめんね」なのか。「ごめんね」ならば、むしろ瞳子の側のセリフだ。もちろん上下に厳しいリリアン女学園で、上級生相手にそんな砕《くだ》けた言い方をするわけないが。
「私は考えなしだった。考えるより前に、瞳子ちゃんにロザリオを差し出していた。瞳子ちゃんの気持ちとか、今置かれている状況とか、そういう諸々《もろもろ》のことをもっとちゃんと考えた上で、申し込むべきだったんだよね。それなのに、自分の感情だけで突っ走っちゃった。瞳子ちゃんが、私に呆《あき》れるの当たり前だと思う」
そういったわけで「ごめんね」なのだと、祐巳さまは言った。しかしそれが本心ならば、まったく進歩がないとしか言いようがない。
なぜなら今の祐巳さまは、まさに瞳子側のことをまったく考えずに話を進めているからだ。少しでも気にかけてくれているのなら、瞳子がこの会話から置き去りにされていることを、わかってもいいはずだ。
「ここまでは謝罪《しゃざい》。で、ここからが提案なんだけれど、私たちクリスマス以前の関係に戻れないかな」
「はっ!?」
「私、このまま気まずい仲でいるの嫌なんだよね。あ、でも無理矢理ロザリオを握らせるなんてしないから安心して。例えば、どこかですれ違ったら元気に挨拶《あいさつ》。それから、廊下《ろうか》での実のない立ち話。ああそうだ。以前みたいに、瞳子ちゃんが薔薇の館やうちに遊びに来てくれたっていいし――」
「私は祐巳さまの心の中がわかりません」
能天気な「提案」に我慢できず、瞳子は途中で言葉を遮《さえぎ》った。
「なぜ、ご自分を拒絶した下級生にそんなにも寛大《かんだい》なんです」
「寛大? それは違うよ」
きょとんとした目で見返してくるから、瞳子は自分の国語能力を一瞬疑った。なぜ、同じ言語を使っているのに、こうも話が通じないのか。
「そもそも、どうして私なんかを妹にしようなんて考えられたんです」
それは、ロザリオを差し出されたあの時に聞きたかった言葉だった。けれど瞳子は、答えを聞くのが怖くてそれを飲み込んでしまったのだ。
「私なんか、って卑下《ひげ》するのやめてくれない?」
祐巳さまは、少し険しい表情になった。
「私なんか、『私なんか』で十分です」
「また言った」
「祐巳さまには関係ないでしょう? 私が、私自身のことを言っているだけです」
「関係あるわよ。瞳子ちゃんは、私が妹にと望んだ人なのよ。勝手に価値を下げないでもらいたいわ」
だから、そんな価値ははなからないのだ。どうしてわかってくれないのだ。
「あの時祐巳さまがロザリオを差し出したのは気の迷い、私はそう解釈しました。それで納得もしました。だから、もう姉妹《スール》の話は終わったはずです。なのに、どうしてまだ私のことを構うんです」
瞳子は、祐巳さまをにらみつけた。
「わからないの?」
祐巳さまは立ち止まり、静かな目をして問い返した。本当にわからないの、と。
わからない。
わかるのが怖い。
祐巳さまは今、真っ直ぐに瞳子だけを見ている。吸い寄せられそうだ。
本当はわかっている。
どうしてなのか、祐巳さまが用意している答えはわかっている。
でも、瞳子はそれを信じきれない。だから、差し出された手をとれない。広げられた腕の中に飛び込んでいけない。
「私ね。瞳子ちゃんに断られてから、ずっと考えていた」
祐巳さまは、再び歩きだした。瞳子もそれについていく。
「私と瞳子ちゃん、どうなっていくんだろう、って」
銀杏《いちょう》の並木道を、半歩分だけ離れて歩く。
「でも、どうなっていくんだろう、じゃなくて。どうしたいんだろう、って考えるべきだと思った。そうして、ずっと考えていたらわかっちゃったんだ」
こうして、この人の後をついて歩かなければならないという義務はない。黙って話を聞かなければいけないわけでもない。もうやめたと言って、足を止めたっていいはずだ。
けれど瞳子はついていった。祐巳さまの話が、どこまで行くのか確かめずにはいられなかった。
「究極、私は、瞳子ちゃんが瞳子ちゃんであればいいんだ、って」
瞳子より先に、祐巳さまの足が止まる。マリア像の前まで来ていたのだ。
「私が私であれば――」
そのキーワードに対し、瞳子は喜びを感じる前に引っかかりを覚えた。けれど祐巳さまは、瞳子の微妙な表情の変化には気づかない。マリア様に手を合わせて、お祈りしていたからだ。
「そりゃ、瞳子ちゃんと姉妹《スール》になれたらこの上なく幸せに思えるだろうけれど、姉妹《スール》っていう形に囚《とら》われるから大切な物が見えなくなることだってあるような気がする」
目を開けて、祐巳さまは振り返った。瞳子はお祈りすることも忘れて、一つの言葉を繰り返した。
「私が、私であればですって?」
胸騒ぎがした。この話は、深追いするべきものではない。でも、このまま蓋《ふた》をして見なかったことにしていいのか。そうではないはずだ。
「そうだよ。だから瞳子ちゃんが何をしようと、私の気持ちは揺るがない。生徒会役員選挙に立候補した本当の理由だって、瞳子ちゃんが聞かれたくないのだったら無理に探りだそうとは思わない。それが瞳子ちゃんが悩んで出した結論ならば、評価できないわけがないから。どうして家出をしたか、とかもそうだよ。瞳子ちゃんのご両親がどんな人だとか、どんな風な子供時代を過ごしてきたかとか、今どういう関係にあるかとか、そういうことは私が瞳子ちゃんに抱いている感情とはまったく別の次元の話だから」
祐巳さまの持論を聞きながら、瞳子の動悸《どうき》は激しくなっていった。
両親、子供時代、関係。なぜこの人はこんなにも、無防備な言葉を瞳子に向けてしまえるのだ。
「そうですか」
ああ、やっぱり。
「そういうことですか」
「え?」
「私が、私であれば? 親のことなんて関係ない? やっぱり、そういうことなんじゃないですか」
黙り込んだまま、目を瞬かせている。この人は、まだ自分のミスに気づいていない。
「いつから知っていらしたか存じませんが、あの時|姉妹《スール》の申し込みをされたのだって、結局は私への哀《あわ》れみが先にあったからでしょう。やっぱり祐巳さまは、聖夜の日にセーラにおなりになりたかっただけなんです。私にロザリオを差し出した時、さぞかし気持ちがよかったでしょうね」
それなのに、一瞬でも信じたいと思った自分がバカみたいだ。
あのクリスマスの日。
やはり、ここ、マリア像の前だった。
「おかしいと思っていたんです。祐巳さまが私なんかを妹に望むわけがない、って。でもやっと謎《なぞ》が解けました」
「何を言っているのか、わからないわ」
「無意識にされていたことなら、尚のこと始末が悪いです」
「ねえ、何か誤解していない?」
祐巳さまが一歩、瞳子に向かって足を進めた。
「来ないでください!」
瞳子は力一杯叫んだ。
「それ以上、近づかないで!」
「瞳子ちゃん」
「言い訳なら聞きたくありません」
一メートルほどの距離を保ったまま、二人は見つめ合った。
「わかった」
やがて、祐巳さまが口を開いた。
「頭に血が上っているみたいだから、今は何を言っても耳に入らなさそうだもんね」
そう言って祐巳さまは背を向け、瞳子から離れた。一メートルが二メートルになり、三メートルほど隔《へだ》たった頃、忘れ物のように「瞳子ちゃん」と振り返った。
「その場で百数えなさい」
数え終わるまで動いちゃ駄目《だめ》よ、と言い置いて再び歩きだす。
わけもわからず、瞳子は命じられるまま「一、二」と数を数えた。反発していたはずの人の言葉に従うなんて、と思いながら、それでも瞳子をそうさせてしまう強さが、その言葉にはあった。
確かに頭に血が上っていた。混乱してもいる。うまく物事を考えることができない。何をしでかすかもわからないし、何をするのが正しいことなのかもわからない。
そんな不安定な状況下では、誰かに指示された通りに動くことは楽だった。たとえそれが、自分を不快に| 陥 《おとしい》れた相手による命令であろうとも。それはもちろん、数を数えるという、単純で無害な行為だからこそ適《かな》うことではある。
「二十三、二十四」
目を閉じるようには言われなかったけれど、いつの間にかまぶたを硬く閉じていた。今、瞳子はかくれんぼの鬼だった。
「四十九、五十」
途中、足もとがぐらついたので、その場でしゃがんだ。
「七十六、七十七、七十八」
数字が生まれては消えていく。最初頭の中では、枝のように張り巡らされていた邪念《じゃねん》に、数字がいちいち引っかかっていた。けれど、今はもうそこには数字しかない。数字が、規則正しく流れていく。
「九十一、九十二」
頭に上った血が、もうずいぶんと下がっていた。
「百」
瞳子は目を開けた。
辺りを見回したが、祐巳さまの姿はもうどこにもなかった。
そこにいたのは、マリア様だけだった。
3
その場で百を数えたことで、多少なりとも落ち着きを取り戻した気がする。
多少なりとも。
だが頭に上った血が、時間の経過とともに徐々に下へ押し戻されていこうとも、怒涛《どとう》のように訪れた、幻滅と絶望と怒りと悲しみとは一緒《いっしょ》に消え去りはしないのだ。
同情されるのが一番嫌いだ。
だから、同情から妹にしてやろうという、その気持ちが許せなかった。そんなこともわからない人が、よくもお姉さまになろうだなんて考えたものだ。呆《あき》れてしまう。
百はとうに過ぎた。けれど瞳子《とうこ》は、依然としてその場に留まっていた。
祐巳《ゆみ》さまが消えたであろう校門の方角に、視線を向ける。大学生の一団が、前を歩いているのが見えた。
あの人たちの後について、歩いていこうか。そうして門を出て、バスに乗って、電車に乗って、家に帰ろうか。
でも、家に帰ったところで、行き場のない負の気持ちは、処理のしようがない。布団《ふとん》を被《かぶ》って、泣きながら「そういうこともある」と諦《あきら》めるしかないのか。
いいや、と瞳子は校舎側に向き直った。このままでは、腹の虫が治まらない。
状況は変わらなくても。一言、言わずにいられなかった。
(まだ、いるかしら)
時計を見る。一時半。
もう、とっくに下校しているかもしれない。だとしても、それを確認しないことには帰るに帰れなかった。瞳子は引き返した。
さっき祐巳さまと歩いた道を、一人逆行していく。途中、何人か三年生らしい生徒とすれ違ったが、いずれも目的の人ではなかった。
三年生の靴箱《くつばこ》があるエリアまで進んで、ロッカーの扉を開けてみる。果たしてそこには、外履《そとば》きの革靴が入っていた。それは、まだ校内にいるということの証《あかし》だった。
(薔薇《ばら》の館《やかお》での集まりはないと、乃梨子《のりこ》が言っていた)
瞳子は、三年生の教室へと向かった。
三年|松《まつ》組教室からは、しゃべり声が聞こえていた。まだ、何人か生徒が残っているらしい。
「失礼します」
瞳子はノックの返事も待たずに、扉を勢いよく開けた。
一斉に振り返る生徒の数は五人。その中に、その人もいた。
「瞳子ちゃん……」
扉を開けたまではいいが、それきり電気の切れたオモチャのように動かなくなってしまった下級生を見て、中にいた三年生の生徒たちは何事かとざわついた。そんな中、一人生徒が出てきて瞳子の正面に立った。小笠原《おがさわら》祥子《さちこ》さまだ。
「どうかしたの」
「お話が」
それだけ言うと、祥子お姉さまは何かを察知して小さくうなずいた。一度生徒たちの輪の中に戻って帰り支度《じたく》をすると、「それじゃ、私はこれで」と教室を出てきた。
「ええ。ごきげんよう」
「手伝ってくれてありがとう」
祥子お姉さまのクラスメイトたちは、口々に挨拶《あいさつ》をして送り出す。
「いいんですか」
こんなに簡単に抜けていいのかと、心配になって聞いた。机の上に書類を広げて、何か作業をしていたように見えたが。
「ええ。受験生のクラスメイトを除いて日直のシフトを組んでいたのだけれど、それも終わって雑談をしていただけだから」
言いながら鞄《かばん》を脇に挟《はさ》み、コートのボタンを留める。
「何の話か知らないけれど、ここじゃない方がいいのでしょう?」
瞳子は小さく頭を下げた。
大半の生徒が下校した後の冬の廊下《ろうか》は、思ったよりずっと声が響いた。かといって三年松組教室に戻るわけにもいかず、特別教室は鍵《かぎ》がかかっているか誰かが使用しているかのどちらかだった。
二人は中庭に出た。
空気は冷たかったが、コートを着ているので、我慢できない程ではなかった。何より、しゃべった声が壁や窓や天井にぶつかって響かないから、誰かに聞かれる心配がないところがいい。ここで交わされた会話は、風がくるんで空まで運んでしまうだろう。
「祐巳さまに、しゃべったんですか」
まず、瞳子はそれを尋ねた。
「何のこと?」
怪訝《けげん》そうに聞き返す祥子お姉さま。だが、瞳子は構わず続けた。
「祥子お姉さまは、以前おっしゃってましたよね? 祐巳さまの妹に関しては一切《いっさい》口を出さない、みたいなことを」
「確かに、言ったかもしれないわね」
祥子お姉さまは、長い髪を風に流しながら目を細めた。
「で? 私が祐巳に何をしゃべったというのかしら」
心当たりがないというように、静かに問う。
「それは」
瞳子は言葉を詰まらせた。それは、たとえ自分のことであっても、口にかけるのにはかなり抵抗があった。
「はっきりおっしゃい。尋常《じんじょう》じゃない顔をして、私に何か苦情を言いに来たみたいだけれど、私は祐巳に日々いろいろな話をするの。その中のどの話があなたの気に触ったというのか、言ってもらわないとわからないわよ」
そうまで言われては仕方がない。意を決して、瞳子は口を開いた。
「私の出生に関わる話です」
「出生の?」
一瞬、祥子お姉さまの表情が変わった。明らかに心覚えのあるといった、何かを思い出した時の顔つきだった。
「ほら、やっぱり覚えがおありなんだわ」
瞳子は確信した。祥子お姉さまが返事をしないのは、それを認めたからに違いない。
「それで? 祐巳さまにはいつおっしゃったのですか?」
クリスマスの直前か、それとももっと前か。今となってはそう変わらないことかもしれないけれど、瞳子はぜひとも知りたかった。
祐巳さまが自分を見る目に、同情が加わったのはどの時点か。瞳子にとって、それは重大な問題だった。
しかし、祥子お姉さまはそのことに関しては言及しなかった。その代わり、重ねて問う。
「いったい、瞳子ちゃんの出生に関わる何を、私が祐巳に言ったというの」
この期《ご》に及んで。瞳子はイライラと吐き捨てた。
「惚《とぼ》けないでください。私が、松平《まつだいら》の両親の子供ではないということに決まっているじゃないですか!」
その言葉を耳にした瞬間、祥子お姉さまの表情が固まった。瞳子は知っている。それは「驚き」という名のものだ。
「瞳子ちゃん、……松平の小父《おじ》さま小母《おば》さまの間に生まれた子供じゃなかったの?」
瞬きもせず、見つめ返してくる黒い瞳。瞳子は身構えた。
「まさか」
「残念ながら初耳よ」
「嘘《うそ》です」
祥子お姉さまがそのことを知らなかったなんて話、にわかに信じられるものではない。
西園寺《さいおんじ》だったか綾小路《あやのこうじ》だったかの小娘までが、三年前には知っていたことだ。それを、同じ東京に住んでいる、親戚《しんせき》の中でも権勢《けんせい》を誇る小笠原家の跡取り娘が、なぜこの歳《とし》まで知らずにいられたのか。
だが、瞳子もさっき感じた。祥子お姉さまは、瞳子の言葉に驚いていた。あれは演技とは思えない。
「でも、だったらどうして、さっき覚えがあるような顔をなさったの」
おかしいではないか。初耳なのに、覚えがあるのは。
「ただ、優《すぐる》さんに鎌《かま》をかけられたことを思い出しただけよ」
「優お兄さまに鎌……?」
瞳子が聞き返すと、祥子お姉さまは空を仰《あお》いで笑った。
「優さんは、私がそのことを知っているかどうかを確かめたかったのでしょう。瞳子ちゃんが生まれた時のことを覚えているか、と聞かれたわ」
「それで、祥子お姉さまは」
「覚えていない、って答えたわ。本当のことですもの。それ以外に答えようがないわ」
とっさの嘘《うそ》にしては、話が具体的すぎる。そして優お兄さまは、よく鎌をかける人でもある。
「そんな。だったら誰が」
優お兄さまは、祐巳さまにしゃべってはいない。それは、先日会った時の様子から間違いない。
「まったく、見くびられたものよね」
祥子お姉さまがつぶやいた。
「申し訳ありません」
瞳子は潔く謝罪した。祥子お姉さまが祐巳さまに瞳子の出自《しゅつじ》を漏らしたというのは、誤解だったのだ。
「私じゃないわ。祐巳のことよ」
つぶやく声は、とても冷たかった。
「祐巳と何があったかは知らないけれど。祐巳はきっと、瞳子ちゃんの家庭の事情を知らないと思うわよ。たとえ偶然知ってしまったとしても、そんなことで瞳子ちゃんへの評価を変える子じゃない。それは、姉である私が一番知っているわ」
何も言い返せない。否《いな》、今は何も考えられない。
何も言葉を探せないまま立ちつくしていた。祥子お姉さまは、しばらく瞳子の目を見ていたが、やがて途中から視線をわずかにそらした。
瞳子の姿を見るのも嫌になったのか。それとも瞳子の背後にある、校舎のガラス窓に映った自分の姿を見ていただけなのか。
やがて唇の端を上げて、祥子お姉さまは言った。
「それなのに、あなたのことばかり考えている祐巳が哀《あわ》れになってきたわ」
その言葉の重みに耐えかねて、瞳子は芝生《しばふ》の上に膝《ひざ》をついた。
もし、本当にすべてが誤解だったとしたら、どうなる。
自分がさっき祐巳さまに投げつけてしまった言葉の数々は、いったいどうしたら取り返せるのだろうか。
祥子お姉さまの上履《うわば》きが、瞳子の脇を通り過ぎる。カラカラに乾いた冬の芝から発せられる音は、どこか風のようにも聞こえた。
祥子お姉さまは、校舎に入っていってしまった。背後のことだから目で確認したわけではないけれど、気配でわかった。
一人取り残された瞳子は、中庭にうずくまったままだ。
祥子お姉さまが怒るのも無理はない。お姉さまと祐巳さまのプライドを、傷つけられたと思っているだろう。
だから、もちろん一緒《いっしょ》にいて欲しいなんて言えない。
でも、今、瞳子は一人でいるのが辛《つら》かった。誰でもいい、誰か側にいて欲しかった。
自分一人では、もうどうしていいかわからない。
「いち、に、さん……」
取りあえず、数を数えてみる。それは、祐巳さまに教わった心を落ち着かすおまじないだった。
「じゅういち、じゅうに」
百数え終わったら、少しは気持ちは落ち着くのだろうか。
わからない。だから、とにかく数えてみる。
百数え終えて目を開けたところで、この鬼には探す相手が見つからないかもしれない。
(そのうち疲れて、誰も追いかけてくれなくなるぞ)
いつかの優お兄さまの言葉が、数を数えるのを邪魔《じゃま》する。
そうやって疑心暗鬼《ぎしんあんき》になって、誰彼構わず刃を向けていたら、本当に誰も相手にしてくれなくなるのかもしれない。
「さんじゅうはち、……三十九」
瞳子は今、孤独だった。
この世には、誰でも一人で生まれてくる。だから、人間は一人でだって生きていけると信じていた。
生まれて間もなく、養父母のもとに引き取られた。それでも、ここまで成長できた。人間は、意外にタフなのだ、と。
「四十五」
でも、本当はとても弱い生き物なのかもしれない。
自分とつながっていた絆《きずな》を一つずつ自ら断ち切っておきながら、寂しくて寂しくてたまらない。
優お兄さまの言う通りだ。
信じないと言いながら信じたいと思い、追いかけてくれると高《たか》をくくって逃げ回ってきた。
それで一人ぼっちになったのならば、自業自得《じごうじとく》というより他にない。
「五十六」
目を開けた時、遊んでいたはずのお友達がすべていなくなったとしても、誰にも文句は言えないのだ。
「六十四」
それでも、数え終わるまではわからない。本当にみんなが消えてしまったのかは、目を開けるまではわからない。
「七十」
数が大きくなるにつれて、瞳子は数えるのが怖くなっていった。百を数えきったら、目を開けなければならない。
目を開けた時、瞳子は、間違いなくただ一人学校の中庭に取り残された自分をみつけることになるだろう。
数えるのが怖い。
けれど、一度始めたからには、百まで数えなければ終わらない。
「八十一」
その時、瞳子の肩に何かが触れた。
温かいぬくもり。人間の手だとわかって思わず目を開けた。
「あ、ごめん」
その手の持ち主は、思いがけない人だった。
「邪魔《じゃま》しちゃいけないかな、とも思ったんだけど。いつまで続くかわからなかったからつい。……で、何やってるの?」
無邪気な笑顔を向けてくるのは、乃梨子。
[#挿絵(img/25_187.jpg)入る]
「どうして」
とっくに帰ったはずではなかったか。仏像のテレビ番組を視るのだと言って、いそいそと校舎を後にしたはずだった。
「瞳子と別れた後、どうにも気になっちゃって。一旦はバスに乗ったんだけれど、二つめの停留所で降りて戻ってきちゃった。瞳子、私に何か話があったんじゃないのかな、って」
「だって特番は?」
時計を見れば、二時五分前。もう、どうしたって間に合わない。
「いいよ。テレビなんて」
乃梨子はカラリと言った。
「それより瞳子の話の方が大事」
そう言って笑う友の手に、瞳子は恐る恐る触れた。
「乃梨子……」
「え?」
「乃梨子! 乃梨子! 乃梨子! 乃梨子!」
名前を呼び続けながら、手を握りしめた。それが幻でないことを確認すると、安心のあまり涙がボロボロとこぼれ落ちた。
「い、いったいどうしたっていうの」
乃梨子は戸惑っている。
彼女にしてみれば、中庭にしゃがみ込んで独《ひと》り言《ごと》のように数を数える友に声をかけただけ。それで泣かれては、まったく意味がわからないだろう。
瞳子はマリア様に感謝した。乃梨子をお戻しくださってありがとうございます、と。
「瞳子ったら」
呆《あき》れたように、乃梨子が手を握り返してくる。瞳子も負けずに力を込めた。
そうだ、この手を離してはいけない。
乃梨子は希望だった。
この手がある限り、絶望の淵《ふち》から這《は》い上がれる。そう思えた。
まだ自分は、こうして信じることができるのだから。
冷たい風が、口笛《くちぶえ》を吹いた。
大丈夫。
ここからやり直せるかもしれない、と。
うん、そうだね。
友の手を借りて立ち上がった時、瞳子の右ポケットの中がカサリと音をたてた。
[#改ページ]
あとがき
わー、わー、わー、
どうしよう、やってしまった!
こんにちは、今野《こんの》です。
よく他の方のあとがきに、「キャラが勝手に動いちゃって」なんて書かれていることがあります。
「キャラが動く動く、もう作者のほうが振り回されちゃって、大変」
――みたいな。
それは、私もたまーにあるのですが。でも大抵、そういう状態になるのはストーリーのメインストリートを歩いている人じゃなくて、脇道を道草したりしている人だったりするので、まあ、大筋ではあまり影響がなかったりしたわけですよ。
しかし、今回、勝手に動いた。いや、正確にいうなら、その子からは「あのー、ここはこう動きたいんですが。どんなもんでしょうかね」みたいな申告《しんこく》がありまして、私が「ああ、それはいいね」と同意したという形になるのですが(妄想《もうそう》と呼んでくださって結構です)、書き終えてみて「あ」と。
まずい。これじゃ、次巻か次次巻でやろうと思っていたことにつながらなくなってしまったじゃないか!
わー、わー、わー。どうしよう、ってなわけですよ。
まあ、それも含めて小説さ。たぶん、キャラが動くと言うことは、その子にとってそれが一番自然な行動だったということだと思います。ね、乃梨子《のりこ》?
という裏話はさておき、『マリア様がみてる 大きな扉小さな鍵』のお届けです。
本編をすでに読んでからこちらにお越しの読者さんは、もう「あれ?」と感じていらっしゃるでしょうが、今回いつもと雰囲気《ふんいき》が違うと思います。
何が違うかというと、それは祐巳《ゆみ》の目線からの話が一つも入っていないということです。
今までも、乃梨子目線、志摩子《しまこ》目線、由乃《よしの》目線、令《れい》目線、祥子《さちこ》目線、卒業生のお姉さま方目線など、いろいろ書かせてもらいましたけれど、一冊の本に祐巳が主役の話が一つも入っていない『マリア様がみてる』はなかった気がします(『プレミアムブック』と『イラストコレクション』は除く)。
その代わりと言っては何ですが、今までほとんど自分の声で語らなかった(「ジョアナ」とかあったけどね)瞳子《とうこ》の目線で書かれた話が約半分。新刊の帯《おび》や宣伝文句などには、たぶん「瞳子の秘密が!」的なコピーが躍っていることでありましょう。秘密とはいったい何なのかは、本編を読んでのお楽しみ(ああ、でもお楽しみって言葉を使うのって、何か気が引けるんだよなぁ)です。
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今回登場した食べ物は、書いていても読んでいても、あまりうらやましい物はありません。
特に、柏木《かしわぎ》優《すぐる》のお土産《みやげ》。「騙《だま》されたと思って」も嫌だ。
コーラは、時々無性に飲みたくなることがあります。私はお酒飲みではないのでわからないのですが、仕事終わりのビールとか、そういった感じで欲するのかもしれません。でも、ビールのように、冷蔵庫を開ければいつでも入っています的な飲み物ではないので(いや、いつでもコーラが入っている家もあるとは思うけれど)、大概《たいがい》は「うちの前がコンビニだったらな」なんて思いながら、冷たいお茶を飲んで誤魔化《ごまか》したりします。もちろん、うちの冷蔵庫にはビールも入っておりません。
そうそう。炭酸飲料の飲み過ぎは、危険ですので気をつけましょう(何事も過ぎ[#「過ぎ」に傍点]はよくない)。十年くらい前、私は炭酸飲料中毒になって身体をこわしました。どういった症状かっていうと、炭酸飲料を飲まないと禁断症状がおきて、もうそれ以外は何も口に入れたくなくなるの。お腹《なか》も痛くなるんだけど、それでも甘い炭酸水が欲しくて欲しくて。自転車走らせてコンビニまで買いに出掛けたりしてね。もう、炭酸地獄。抜け出すのが大変でした。
その話をすると、大概のひとは「……それは怖いね」と言い、その後「今野さんらしくないねー」との感想を下さり、最後に「で、それって痩《や》せるの? 太るの?」と質問してきます。
もう、痩せるとか痩せないとか、そういった次元じゃないんだよ。命の危機なんだからさー。
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イラスト担当、ひびき玲音《れいね》さんとのこと。
ひびきさんといえば、言わずと知れた『マリア様がみてる』の第一巻(読者の間では「無印」と呼ばれているらしい)から、ずーっと素敵な表紙&挿絵《さしえ》を描いてくれているイラストレーターさん。ここ数年はサイン会にもご一緒《いっしょ》いただいて、私はすっかりお世話になりっぱなしです。
サイン会は地方も多くて、移動の際、私たちは必ず隣同士に座って、女子学生のようにおしゃべりしています。飛行機の中でも、新幹線の中でも、タクシーの中でも。静かになるのは、どちらかが寝た時くらいでしょうか。多分、同行しているコバルト編集部の担当さんなど、口には出さないけど「よく話題がなくならないな」と思っているに違いない。
おしゃべりが途切れないのは、ひびきさんの社交性による部分が大きいとは思いますが、それプラス、二人が持っている話題のネタがかぶらないこと、だと思います。なので、私はひびきさんから、未知の世界の話をご教授いただき、はまっている漫画を紹介してもらい、可愛《かわい》い猫の画像を見せてもらって楽しんでいます。旅行先にひびきさんが持ってきた小型ゲーム機でゲームをやらせてもらって、とても面白かったので、帰宅後大型カメラ店にいって一式(ハードとソフト)を買ったりもしました。
さて、そんな仲よしさんな二人には、ここ数年来の懸案《けんあん》事項がありました。
最初にそのことに気づいたのは、ひびきさんだったと思います。
「私、今野センセのサイン本持っていない……!」
もう、何回も一緒にサイン会を行って、何百というサインを二人並べて書いていたというのに、自分たちは一冊もサイン本を持っていなかったのでした。たった今サイン会を終えたばかりの書店さんの店内には、まだ何冊もの『マリア様がみてる』があったのですが(売るほど!)、それを手に入れるために著者とイラストレーターがレジに並んでお財布《さいふ》を出すという図は、あまりにも間抜けなので諦《あきら》めました。
「それじゃ、次回の時に(文庫本を持参して集まりましょう)」
と、言って別れましたが、その次回になると二人ともそのことをすっかり忘れて、「あ」となること数回。しかしこの夏、二人の「あ」にとうとう終止符《しゅうしふ》が打たれました。
アニメイベント「真夏のリリアン祭」に一緒に行った際、当時の最新刊『イラストコレクション』二冊に二人並べてサインをし、一冊ずつ持ち帰ったのです(ついに!)。『イラストコレクション』は中身の紙がつるつるで、いつもと勝手が違いあまり上手《じょうず》なサインとはいえない出来でしたが、それでもこの本ではサイン会を開いていないので、世界で二冊だけの連名サイン本になりました。
それから、今年の夏、ひびきさんとの関係で進展が。なんと、メール交換をしたのでした。
「えー、今更《いまさら》?」
ああ、突っ込みたまえ、突っ込みたまえ。でも、本当なの。仲よしさんだけれど、きっかけがなくて「メールアドレス教えてください」って言いだせなかったウブな二人。お仕事の時はコバルト編集部経由で打ち合わせしていて、何の不便も感じていなかったしなぁ。でも、アニメ関係で知り合ったお友達に、「ひびきさんと連絡をとりたいんだけれど……」と言われて、お二人の仲をとりもつ形で、私もひびきさんのメル友に加えていただきました。
というわけで、今回こんなにひびきさんネタを書かせてもらっちゃったけれど、ちゃんと事前にメールで許可をもらっているのでした。
――しかし、さすがにご本人も、二ページ半にも渡っているとは思っていないでしょう(笑)。
[#地から1字上げ]今野緒雪
底本:「マリア様がみてる 大きな扉 小さな鍵」コバルト文庫、集英社
2006年10月10日 第1刷発行
入力:ヾ[゚д゚]ゝABs07Yvojw
校正:TJMO
2006年10月01日作成
2006年11月02日校正
2009年03月17日校正(暇な人z7hc3WxNqc 51行 縁→緑)
2009年12月31日校正(暇な人z7hc3WxNqc 832行 曖味→曖昧、1542行 お店の入→お店の人)
この作品は、すでにWinny上に流れている以下のデータ
(一般小説) [今野緒雪×ひびき玲音] マリア様がみてる 第25巻 「大きな扉 小さな鍵」.zip tLAVK3Y1ul 24,896,473 da2bba84f496da07bbe41278ec2d7c54
を底本とし、Share上で流れていた
(一般小説) [今野緒雪×ひびき玲音] マリア様がみてる 第25巻 「大きな扉 小さな鍵」(青空文庫形式、ルビ有り挿絵付).rar ヾ[゚д゚]ゝABs07Yvojw 4,565,495 90ce2215759536fd7e23972c37daf7b6f47b12e8
を、さらに校正したものです。それぞれのファイルの放流者に感謝します。
一次校正されているものを直すのは、やっぱり楽ですね。校正者によってある程度クセがあるので、一部は正規表現など使って置換えできるし、基本的にすらすら読めるので読みながら気づいたところを直せばいい。もちろん、底本との照合もしながらですけど。
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本で見つけた違和感のある文章や校正ミスっぽいものをまとめてみます。
青空文庫の方針としては底本のまま打ち込み注釈を入れるのですが、見た目が悪くなり読みづらくなるため、あえて訂正することにしました。
直し方が気に入らない方はこちらを読んで修正してください。
※底本p71 8行目
こちらが噛《か》みつかれることになろうは、
――なろうとは、の誤記。訂正済み。
※底本p72 16行目
ああ、何て素晴らしいトスを上げくれるのだろうか。
――上げてくれる、の誤記。訂正済み。
※底本p78 7行目
予想クイズに興味|津津《しんしん》
――「津々」。行の折り返しに掛かっていたためこういった表記になっているのであろう。訂正済み。
※底本p114 17行目
お前を見捨たからじゃない。
――見捨「て」た。訂正せず、そのまま。
※底本p127 14行目
瞳子と部員たちとの関係は、お世辞《せじ》にもうまくはいっているとは言えない。
――うまくいっている、でいいんでないかな。訂正済み。
※底本p173 2行目
妹に望むわわけがない、って。
――望むわけがない、の誤り。訂正済み。
※底本p175 2行目
数字がいちいちが引っかかっていた。
――いちいち引っかかって、でよい。訂正済み。
※底本p186 1行目
本当にみんなが消えてしまったかのは、
――消えてしまったのかは、の誤り。訂正済み。
※底本p189 3行目
まったく意味がわらないだろう。
――わからないだろう、の誤り。訂正済み。
※底本p194 9行目
族行先にひびきさんが持ってきた小型ゲーム機で
――「旅行先」の誤植。訂正済み。