マリア様がみてる
仮面のアクトレス
今野緒雪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)乙女《おとめ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》
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もくじ
黄薔薇、真剣勝負
自転車乗り
手合わせ
仮面のアクトレス
始業式の甘えん坊
説明会と密会
一年椿組はふつう
仮面の下には
素顔のひととき
あとがき
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マリア様がみてる 仮面のアクトレス
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「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶《あいさつ》が、澄みきった青空にこだまする。
マリア様のお庭に集《つど》う乙女《おとめ》たちが、今日も天使のような無垢《むく》な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
汚《けが》れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。
スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは| 翻 《ひるがえ》らせないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
私立リリアン女学園。
明治《めいじ》三十四年創立のこの学園は、もとは華族《かぞく》の令嬢《れいじょう》のためにつくられたという、伝統あるカトリック系お嬢さま学校である。
東京都下。武蔵野《むさしの》の面影《おもかげ》を未だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎《ようちしゃ》から大学までの一貫《いっかん》教育が受けられる乙女の園。
時代は移り変わり、元号《げんごう》が明治から三回も改まった平成《へいせい》の今日《こんにち》でさえ、十八年通い続ければ温室育ちの純粋|培養《ばいよう》お嬢さまが箱入りで出荷される、という仕組みが未だ残っている貴重な学園である。
面《めん》。
それは顔に似せて作られた被《かぶ》り物。
芸能では、古くから演者《えんじゃ》が自分以外の物を憑依《ひょうい》させるために。
仮面|舞踏会《ぶとうかい》では、正体を明かさないために。
また、己の身を守るためにも用いられてきた。
それでは、あの人が被っているのはいったい何のためなのか。
あまりに巧妙《こうみょう》に作られたマスク。その下の表情なんて、どうしたって窺《うかが》えるわけがない。
結局、私は何もできないままで。
仮面劇の幕が上がった。
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黄薔薇、真剣勝負
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自転車乗り
1
祥子《さちこ》さまから招待状が届いたのは、いろいろあったあのクリスマスパーティーの日から三日後のことだった。
「新年会……」
なるほど。やるな、祥子さま。――それが、私、島津《しまづ》由乃《よしの》の頭の中に真っ先に浮かんだ感想だった。
なぜって。そりゃこの企画、どう考えたって祐巳《ゆみ》さんのために考えられたものだって、丸わかりだったから。
二学期の終業式の日に、生徒会室である薔薇《ばら》の館《やかた》で行われたクリスマスパーティー。その終了間際、祐巳さんは帰りかけた瞳子《とうこ》ちゃんを追いかけて外に出ていった。で、銀杏《いちょう》並木のマリア像の前でロザリオを差し出したけれど、受け取ってもらえなかった。つまり、祐巳さんは瞳子ちゃんに姉妹《スール》の申し込みを断られたのだ。
そのことを聞いた時の私は、もちろんぶったまげましたとも。だって祐巳さんたら、そんなそぶり、パーティーの前にも最中にもまったくしていなかったし。いや、二人の間に何かありそうだとは以前から感じていたけれど、にしても唐突《とうとつ》だった。「おいおい、親友の私に相談もなしにかい」って、そんな感じかな。
でも、瞳子ちゃんにふられた祐巳さんのへこみようときたら相当なもので、私は文句どころか軽口の一つも言えなかった。
まあ、へこむのも無理はない。よく言えば「慎重な」、悪く喩《たと》えるなら「煮え切らない」あの祐巳さんが行動を起こしたんだから、それはもう一大決心だったはず。なのに、結果が無惨《むざん》にも玉砕《ぎょくさい》。泣いちゃうよ。下だって向いちゃうよ。
それなのに私ってば、そういう時に何て言ったらいいのかわからなくて、気の利《き》いた言葉の一つも探せなかった。変に慰められるのが、かえってつらいことだってある。だから帰り道、その件については一切《いっさい》触れずに、別の話題に花を咲かせた。花っていったって、ひまわりみたいな大輪《たいりん》を開かせるなんてとうてい無理で。せいぜいいっても、道端に咲くハコベくらいのささやかなものだったけれど。
で、それでも。一日二日経つうちに、私の心の動揺《どうよう》も収まってきて(自覚はなかったが、当初はかなり沸騰《ふっとう》していた)、祐巳さんの心の中は今頃どうなっているかなとか気になりだして、でも理由もなく(本当はあるんだけれど)電話するのもわざとらしい気がして、何か用事を作って会えないものかと考えていたのだ。会って、どうするかまではわからないけれど。顔を見れば、励《はげ》ますべきなのか、愚痴《ぐち》を聞いてやるべきなのか、瞳子ちゃんの悪口をこれでもかと言うべきなのか、一緒《いっしょ》に泣いてやるべきなのかはわかるはずだって思っていた。だから、とにかく会わなくちゃ、って。
で、私が行動を起こそうと思っていた矢先に届いたのが、祥子さまからの招待状だったというわけだ。
祥子さまもまた、祐巳さんのことが気になって仕方がなかったのだろう。三学期の始業式まで、なんて放っておけるわけがない。今年(感覚的には去年なんだけれど)のお正月も祐巳さんは小笠原《おがさわら》邸に遊びにいったし、以前からそうする予定だったのかもしれないけれど、何の前振りもなく私にまで招待状を送ってきたというのは、新年会を実質『祐巳を励ます会』にするつもりに違いない。私に来たということは、令《れい》ちゃんにも、もちろん志摩子《しまこ》さんたちにも届いているはずだから。
私は、すぐさま電話の受話器を掴《つか》んだ。電話をかける正当な理由が、今ここにあるのだ。このチャンスを逃してなるものか。
ツーコールかスリーコールか。とにかくそれほど時間を要することなく、相手方からの応答はあった。
『もしもし』
「あ、祐巳さん?」
聞き覚えのある声に反応して、つい余所《よそ》さまのお家に電話をかける時のプロセスを忘れてしまった。
『は?』
聞き返されて、ハッとした。そっくりな声を出す親子って、世の中には結構いるのだ。以前、祐巳さんの家に電話をかけた時、お母さんの声はどうだったっけ。――なんて思い返している暇《ひま》はない。とにかく、フォロー。
「……っと、福沢《ふくざわ》さんのお宅でしょうか」
『そうです。そういうあなたは、島津さんでしょうか』
そう返すということは、間違いなく受話器の向こう側にいるのは祐巳さん。
「なーんだ」
意外と元気そうで安心した。まあ、三日間ずーっと泣き続けているとは、もちろん思っていなかったけれどね。
祐巳さんが新年会に行くつもりだと言ったので、私も「行く」と宣言した。祐巳さんが行かないのなら、遠慮《えんりょ》しようと思っていた。『祐巳さんを励ます会』なのに励まされる本人がいないんじゃ成立しない。もちろん、名目は新年会なんだから祐巳さんがいるとかいないとかで私の出欠が左右されるのは変なんだけれど、妹の祐巳さんがいないのに、祥子さまのお宅でどんちゃん騒ぎなんてする気になれないし、祥子さまだってきっと同じだろう。
でも、まあ祐巳さんが出席となれば、私もテンション上げていきますよ。今はお留守《るす》だから、直接令ちゃんの意向は聞けないけれど、たとえ行かないと言ったとしても首に縄《なわ》をかけてでも連れていこうと決めていた。
細かいことを打ち合わせするためにまた連絡する旨《むね》告げて、電話を切った。そのまま受話器を置かずに、開いていた生徒手帳のアドレス欄《らん》を見ながら番号をプッシュする。この話題、是非《ぜひ》とももう一人の親友と共有したい。そう考えるのは、ごく自然なことであろう。
「藤堂《とうどう》さんのお宅でしょうか、私リリアン女学園高等部二年の島津由乃と申します。志摩子さんご在宅でしたら――」
一度早口で練習して、電話がつながるのを待った。さっきみたいに、あまりスマートとは言えない電話は、やはりリリアンの生徒としてはいただけない。
しかし。
『ツーツーツー』
プルルルルルの代わりに、話し中のお知らせ音が耳に届いた。
「えーっ」
ちょっぴり気負っていただけに、損した感が押し寄せてきた。
「まったく。志摩子さんったら、いったい誰と長電話しているんだか」
私は、受話器を置いてぼやいた。
今現在、藤堂家の電話を使っているのが志摩子さんかどうかもわからないし、こちらは一回電話しただけなのだから長電話と決めつけるのはいかがなものかとも思うが。でも、せっかく盛り上がっていた気持ちがそこでバッサリ寸断《すんだん》されたみたいで、文句の一つも言いたくなったのだ。
後から聞いたところによると、実際、その時間は志摩子さんが電話を使用していたようだから、私の勘《かん》だって満更《まんざら》でもない。
『でも、三分かそこいらよ。それで長電話?』
真顔ならぬ真声で聞き返す志摩子さんは、私に電話をしてくる前に、福沢家に、つまり祐巳さんのお家に電話していたんだそうな。
やはり、祥子さまからの招待状を受け取って、思わず受話器を握ったんだって。
行動パターンが、私と同じだなんてね。
――ちょっぴり嬉《うれ》しいぜ、このっ。
2
令《れい》ちゃんは一時間ほどで帰ってきた。何でも近所の本屋さんには置いていない参考書を求めて、K駅の方まで足を伸ばしたんだって。
「あのね、ほらこれ」
私は家でじっと待っているのがもどかしくて、玄関を出たり入ったりして、ようやく令ちゃんの自転車が我が家のというか令ちゃんの家のというか、敷地に入ってきたのを見つけると、駆け寄って、既に支倉《はせくら》家の郵便受けから取り出し済みの紅い洋封筒を差し出した。令ちゃん宛《あ》てのものだ。
「これ?」
令ちゃんは自転車小屋に愛車を止めてから、私の手もとを見た。
「うん。正月二日だって。祥子《さちこ》さまのお家の新年会。お泊まりだよ。楽しそうじゃない? ねえ、行くでしょ? 行こうよ、ねっねっ?」
「……この手紙に、そういったことが書いてあるわけね」
令ちゃんは私から封筒を受け取ると、自転車から鍵《かぎ》を抜いて、それをペーパーナイフ代わりにして開封した。中からカードを取り出して、ワープロ打ちの文章を黙読するのを、私はハラハラドキドキしながら待っていた。果たして、令ちゃんのだした結論やいかに?
「なるほどね」
読み終わったカードを封筒に戻すと、令ちゃんは笑った。
「行くよ。祐巳《ゆみ》ちゃんを励《はげ》まさないとね」
「うん」
さーすが。わかっている、令ちゃん。それをわかっている、私もすごい。
「それじゃ」
令ちゃんが言った。
「新年の四日か五日にしようか」
「何が?」
気を抜いていたから、つい思ったままを口にしてしまった私。四日か五日って、突然言われたって何のことかすぐには理解できなかった。
「何が、って。菜々《なな》ちゃんに家《うち》に来てもらうの」
「菜々に……?」
聞き返しながら、「しまった」と思った。
「手合わせの件だよ。冬休みに、って話だったじゃない。年内だともう暮れの準備とかで忙しいだろうから、年明けの方がいいでしょ。由乃《よしの》、まさか忘れてた?」
「ま、まさか。忘れてたわけないじゃない」
実は、その「まさか」だったりするんだけれど。だってその話をしたのはクリスマスパーティーの真っ最中で、その後、令ちゃんの受験宣言だの祐巳さんが瞳子《とうこ》ちゃんにふられたりだのといろいろあったものだから。つい、こっちのことは失念してしまったのだった。いや、それら大事件に乗じてうやむやになればいい、くらいに思って、わざと考えないようにしていたのかもしれない。
しかし、何だ。令ちゃんはしっかり覚えていたわけだ。いろいろな事件があったって、それはそれ、これはこれって。新年会のお誘いを受けたからって、ぽーっとなって忘れることもないんだ。
「菜々に、聞いてみる。四日か五日、都合はどうかって」
令ちゃんが菜々との約束を気にしているなら、しょうがない。私は、腹をくくった。
「そうだね。電話番号を教えてくれたら、私から連絡してもいいけれど――」
「ううん、私がする」
「そう。じゃ頼んだね」
菜々と令ちゃんが竹刀《しない》を交える。何だろう、この胸のどきどきは。
胸騒ぎ、ではない。高揚《こうよう》感でもない。
大げさに喩《たと》えるならば、末世《まつせ》を迎える心境とでもいったらいいのか。最後の審判でイエズス様が現れるとか、五十六億七千万年の時を超えて弥勒菩薩《みろくぼさつ》がやって来るとか、そんな感じなのだ。
もう自分が何をしようと間に合わないし変えられない。でも確実にその日はやって来る。裁きが下るとか、救われるとか、直接自分に何かがふりかかるというような心配じゃなくて、菜々と令ちゃんが練習とはいえ戦うことで、私の中で世界がガラリと変わる。そんな予感があった。
令ちゃんが試合をする姿は、何度も見た。だから「今更《いまさら》」なわけだけれど、今回だけは違うようだ。
相手が菜々だから。
実力だってわからない。いや、たとえ菜々の腕がどれほどのものかわかっていようと、同じことだ。
相手が菜々だから。だから――。
「由乃?」
「えっと……、祥子さまのお宅にはどうやって行くの?」
「どうって。バスで駅まで行ってそこから電車に乗って、その先は歩きだよ。あー、あっちの駅からバスも出ているって言ってたような気がするなー、祥子が。調べてみないと、わからないけれど」
令ちゃんは、頭をカシカシとかいて言った。
「結構、時間がかかりそうだね」
「ま、そうだね。直線距離にすると、それ程でもないんだけれど」
「令ちゃんは、この間自転車で行ったんだもんね」
しばし沈黙が訪れた。その沈黙は、令ちゃんの頭がガバッと下がったことで途切れた。
「ごめん、由乃」
「え、何?」
「聖《せい》さまみたいに、私が車の運転免許とっておけばよかったね。そうすれば由乃を乗せて――」
何を言うかと思えば。
「そんなこと考えてないよ」
これまで部活と生徒会で一杯一杯だった令ちゃんに、教習所に通う暇《ひま》なんて捻出《ねんしゅつ》できたわけがない。その上、今は受験生という肩書きまで背負っているのだ。それをいうなら、去年の聖さまだっていつの間に、って感じだったけれど。あの人の場合は、部活をしていなかったし、たぶんまとまった休みに集中して教習所に通って免許をとったんだろう。
「じゃ、由乃は沈黙の間、いったい何を考えていたの」
令ちゃんの質問に、私は答えた。
「自転車」
「えっ。だって、由乃――」
「あ、心配しないで。自転車は、親に買ってもらうから」
実は、私は何年もの間自分専用の自転車を持っていないのだ。
「いや、そうじゃなくて。それもあるけれど。私が言っているのは」
「わかっている、って。だから、協力してよね?」
「……」
令ちゃんは、あからさまに「面倒なことになった」という顔をした。
「本気?」
「本気も本気。令ちゃんが車の免許をとるよりは、ずっと早いってば」
令ちゃんは返事をする代わりに、「はーっ」と大きなため息を吐いた。
それもそのはず。
私が自転車に乗るのは、幼児用の補助輪有りの自転車以来、たぶん十年ぶりくらいの挑戦だった。
3
翌日、家からちょっと離れているけれどそれなりに広い公園まで行って、自転車乗りの練習をした。
令《れい》ちゃんの自転車を引いて、年末の住宅地を二人で歩く。いつもGOGO青信号の由乃《よしの》としては、本当は昨日、自転車に乗る宣言をしてすぐにでも行動に移したかったところだが、令ちゃんからストップがかかったので渋々|諦《あきら》めた。
令ちゃんが協力してくれるために私に出した条件は、ちゃんと両親の許可をとることと、練習は日中の明るい時間、広い場所で行うこと。その二点だった。
どれくらいの時間で乗れるようになるのか見当もつかないから、午前中から始めるべきであるし、両親の許可というからにはお父さんが帰宅してからでないと話にならない。というわけで、翌日に持ち越しとなったのだ。悔《くや》しいけれど、令ちゃんの協力なくしては、とてもじゃないが達成できそうもないことだから。
道路から見える家々の様子は、この時期様々で面白い。年末の大掃除《おおそうじ》中なのだろう、玄関先に家具が一時|待避《たいひ》させられていたり、家中のガラス窓を取り外して庭で洗っているお父さんの姿が見られたり。そんなことはもうとっくに済んで、青々とした門松《かどまつ》がすでに門の左右に飾ってあるお家があるかと思えば、片づけ忘れられたクリスマスツリーがガラス窓から見えているお宅もある。
しめ飾りを売っている、縁日《えんにち》の屋台ほどの大きさの小屋は、いつ頃からここに建っているのだろう。お正月には、この簡易販売所はなくなっているのか。いや、しばらくはこのまま取り壊さずにおいて、一月七日に七草《ななくさ》セットを売るのかもしれない。
自転車に乗った小学校の低学年くらいの女の子が、私たちを追い抜いて、その先にある郵便ポストの前で止まった。自転車の前カゴから取り出したのは、年賀葉書の束だ。たぶん、家族に頼まれたのだろう。子供一人分にしてはいささか多い、厚みからして百通くらいはありそうだ。
その子は葉書を投函《とうかん》すると、自転車の向きをクルリと変えて再び走り出した。スピードをあげて、こちらに向かって近づいてくる。風をきって、それはもう、びゅんという音が聞こえるくらいに。
あっという間に、すれ違った。私たちのことなんて、目もくれない。たぶん彼女にとって私たちは。電信柱くらいの障害物でしかないのだろう。あまりに清々《すがすが》しかった。
「令ちゃん」
私は、つい令ちゃんの名前を呼んでいた。
「ん?」
自転車のハンドルを握る令ちゃんが、顔をこちらに向ける。でも、呼んだはいいけれど、何を伝えたかったのか、よくわからなくて。
「何でもない」
そんな風に言ってしまった。
「そう?」
令ちゃんは、しつこく聞いてこなかった。その代わりに言った。
「由乃もさ、あんな風に乗れるようになるよ」
「……え?」
「気持ちがいいよ」
私は、ほんの少しの間だったけれど、かなり間が抜けた顔をしていたと思う。だって、令ちゃんの言葉があまりに的確だったから。
そうだよ、令ちゃん。私は、ずっとあんな風に自転車で走れたらいいと思っていたんだ。
令ちゃんが私を置いて出かける時、自転車のペダルに足を引っかけて流れるみたいにスーッと門を出て行くのを眺めては、悔《くや》しくて仕方がなかったんだから。
それは、令ちゃんがいつもきれいだったから。
幼い頃から心臓に持病を抱えていた私は、補助輪なしの自転車に乗ることを最初から諦《あきら》めていた。運転中に発作《ほっさ》を起こせば、歩行中よりも危険ということもあるが、それ以前に乗るための練習をするなんてこと、手術前の私にはとてもじゃないけれど考えられなかった。
だから、私のできないことを難なくやってしまう令ちゃんが、羨《うらや》ましかった。
どんなに頑張《がんば》っても、令ちゃんみたいにはなれない自分が口惜《くちお》しかった。
それが大好きな令ちゃんだから、尚更《なおさら》悔しかった。
一緒《いっしょ》に出かける時、令ちゃんが私に合わせて歩いたりバスを利用したりしてくれることが、情けなかった。
私は、令ちゃんと自転車で遠くまで走りたかった。
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そのことを、どうして忘れていたんだろう。手術の後、どうして今まで、自転車に乗ろうと行動を起こさなかったのだろう。
きっかけがなかった、というのは確かにある。令ちゃんみたいに、隣の市やちょっと離れた駅前までも自転車で行っちゃう習慣がないから、何となく今まで通りバスを利用しちゃうし。
手術が済んで、元気になって、毎日がめまぐるしく過ぎていって、ついつい後回しにしてしまった。何せ、自転車乗りは前準備が必要だから。乗りたいと思った瞬間に突然乗れるほど、自転車は甘くないってことは私だって重々承知している。十年以上も前になるか、伯父《おじ》さんと出かけていった令ちゃんが膝《ひざ》や手の平を何カ所も擦《す》りむいて帰ってきた時があった。後から聞けば、自転車の補助輪を取って乗る練習をしてきたらしい。令ちゃんでさえ、何度か転倒したのだ。私に易々《やすやす》と乗れるわけがない。
でもね。祥子《さちこ》さまのお宅に行く、っていうのはいいきっかけだと思うの。人間、タイムリミットがあるっていうのは、行動を起こす原動力になるはずだから。
これを逃してなるものか。私は、乗る。自転車を征服してみせる。
自転車を挟んで並んで歩く令ちゃんの横顔を眺めながら、私は心の中で力強く宣言するのだった。
4
「絶対離しちゃ嫌だからねっ」
「はいはい、わかっているって」
私たちは公園の中で、自転車乗りの練習をした。公園といっても、遊具などは一切《いっさい》なく、人々が散歩をしたり緑に親しむためにあるような場所だ。
私たちの練習場は、太い木と木の間のスペースだ。ちょっと狭いけれど、仕方ない。芝生《しばふ》は自転車も、ついでに犬も立入禁止だ。
「何で離さないのよ。普通、嫌だって言われても途中で離すものでしょ」
「えっ」
水に突き落とすなと言われれば突き落とせ、おでんを口に入れるなと言われれば入れろの合図。――って、私はお笑い芸人か。
「わかった。離すなは、離せなのね?」
すると今度は令《れい》ちゃん、本当にまだ離しちゃまずい時に手を離す。お陰で、すぐに自転車が倒れてしまった。スピードが出ていなかったから、私自身は地面に足をつくことができたんだけれど。
「違うよ。まだだよ」
「でも、由乃《よしの》、離さないでって言ったよ」
「言ったけど」
ええ、確かに言いましたよ、離さないでって。でも、準備ができていなかったから、本当に離しちゃ困ると思ってつぶやいたのだ。
「今度のは違うの。見ればわかるでしょ。スピードとか揺れ方とかで」
「難しいよ、由乃」
自転車を走らせながらサドルにまたがれるような令ちゃんには、私の危ういバランスなんて理解できないことらしい。
「ほら、今、今だったのよ手を離すのは」
「だったら、離さないでなんてまどろっこしい言い方やめて、手を離してってストレートに言ってよ」
「それじゃだめなんだってば。離さないでって言いながら手を離される、それが自転車の練習の正しい作法《さほう》でしょ」
「誰が決めたの、そんなこと」
そんなこんなで、何度やっても令ちゃんはうまく私のアシストができなかった。もう、絶対にいいタイミングでは手を離せないだろうと諦《あきら》めかけた時、絶妙な間合いで私と自転車はフッと風に乗った。
「すごい、令ちゃんすごいよ」
私は、ちゃんと「離さないで」と言えたし、今もって自転車は倒れもしなければ止まりもしないで、ほぼ土と同化した落ち葉の上を滑らかに走っている。
(ん? 倒れもしなければ止まりもしない?)
ハンドルを握り、サドルに座り、ペダルを漕《こ》いで。私は間違いなく自転車を運転している。しかし、この後どうしたらいいのか。走ったはいいが、止まり方がわからない。
「令ちゃ……」
振り返った瞬間、令ちゃんの叫び声が聞こえた。
「由乃、前、危ないっ!」
「えっ、前?」
あわてて前を見ると、目の前に電信柱並の木の幹が迫っていた。令ちゃんには頼ることができない、それだけは間違いなかった。なぜって、一度後ろを見た時の令ちゃんは信じられないほど遠くにいたから。
ああ、一人でこんなに長く走れたのだ。そんな感動は、差し迫った危機の前には何の役にも立たない。そして、行ってはいけないと思えば思うほど、そちらに視線が集中してしまって、ハンドルも動かせずに真っ直ぐ、ひたむきに、その目標物に向かって突き進んでしまうもの。
結果、私はきれいに太い幹に体当たりした。正確には、私の乗った自転車が。そしてその衝撃により、自転車から地面に投げ出される私。
「由乃っ!」
駆け寄ってくる令ちゃんの心配顔を見ながら、私はぼんやり思っていた。――行ってはいけないのに、行ってしまうなんて、それこそお笑い芸人の鑑《かがみ》じゃない?
「大丈夫《だいじょうぶ》?」
「うん。……痛《いた》たた」
落ちた時に下についた両手には、湿った土がついている。それから、自転車のどこかに膝《ひざ》だかふくらはぎだかの内側をぶつけたらしい。どちらも出血の確認はとれないけれど、結構痛い。痣《あざ》になるかもしれない。
「どうして止まらないの」
「止まり方、わからなかった」
「ブレーキかければいいんだよ。最初に言ったでしょ。ここ、ハンドルと一緒《いっしょ》に握るんだ、って」
令ちゃんは、自転車を起こしながら言った。
「でもさ」
私は言った。
「急ブレーキかけたら、急に止まるよね」
「そりゃ……」
「急に止まったら、木に衝突しなくても転倒するんじゃないの?」
「足つけば平気だよ」
「足なんて、サドル降りなきゃつかないじゃない」
「片足でいいんだよ」
こうやって斜めに倒して、と、令ちゃんは実際やって見せてくれた。
「そういうことは、教えてくれなきゃわからないよ」
「あー」
令ちゃんは頭を抱えた。
「他人《ひと》に教えるのって難しい」
あらま。何を言うかと思えば。今までだって、剣道部で後輩をびしびし指導していたでしょうが。それに将来は体育の先生になろうっていう人が、そんな弱気なことでどうするの?
でも、もし私がそれを口にしたらきっと、「由乃ほど難しい生徒なんてそうそういない」って笑うに決まっているけど、令ちゃんは。
結局私は、それからも何回か公園で派手に転んで、どうにか乗れるようになった後、帰り道でも余所《よそ》さまの塀《へい》にぶつかったり、道路の排水溝《はいすいこう》の格子《こうし》にタイヤをとられて滑って転んだりして、運転だけでなく転び方までもかなり上手《じょうず》になった。
けれど令ちゃんの愛車は、度重《たびかさ》なる事故がたたって、とうとう廃車になってしまった。
それでも家の前に来るまでは、令ちゃんが明日自転車屋さんに修理に出すと言っていたくらい、傷だらけでもどうにか動いていたのだ。
しかし最後の最後、私が思いきり令ちゃん家《ち》の門にぶつけた瞬間、断末魔《だんまつま》のような嫌な音が聞こえた。自転車の仕組みはよくわからないけれど、何かが折れた、もしくは外れたのではないかと思われる。
それでも令ちゃんは、修理して乗ろうとしていたのだけれど、それまでずっとこの自転車の面倒見てくれていた自転車屋さんも、ついに「買い換え」という言葉を口にした。今回修理しても、すぐまた不具合が生じるであろうこと、修理代がかなりかかる上に、時間もかかることなどを挙げられて、令ちゃんは泣く泣く諦《あきら》めた。一月二日には、どうしても自転車が必要なのだ。
私の自転車と一緒《いっしょ》に、令ちゃんも新車を迎えた。
前任者(車)は間違いなく私が壊したのだからと、二台ともうちのお父さんが買ってくれた。
私はその日の夜、菜々《なな》に電話をかけた。
それで、令ちゃんと菜々の手合わせの日は、一月四日に決まった。
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手合わせ
1
祥子《さちこ》さまのお宅で行われた、女性限定のお泊まり新年会に行って帰ってきた次の日が、もう一月四日だ。
年またぎだから、何となくちょっと先のような気になっていたけれど、考えてみたら令《れい》ちゃんに「四日か五日」と言われた日からは一週間もなかったのだった。恐るべし、カレンダーマジック。
令ちゃんはというと、約束の日のことを忘れていたとか錯覚《さっかく》していたとかということはもちろんなくて、今日は日中|留守《るす》をする伯父《おじ》さんに、去年のうちからちゃんと道場の使用許可をもらっていた。
そわそわして、約束の午後の二時より三十分も前に道場を覗《のぞ》いてみると、すでに令ちゃんは来ていた。ちゃんと胴着を着て、正座をして、目を閉じている。瞑想《めいそう》、あるいは精神統一と呼ばれる行為だろう。
道場の空気は、きんと冷たかった。板張りの床は黒々と光り、神棚《かみだな》には切ったばかりの榊《さかき》が供《そな》えられている。
私は、セーターとスカートのまま令ちゃんの隣に座った。胴着を着たらいいのかどうか、計りかねた。
そもそも、私の立場は何なのだろう。
審判? 立会人? 紹介者? 野次馬《やじうま》?
菜々《なな》は、令ちゃんとお手合わせをしたいと言った。私なんて眼中にない。それなのに私まで胴着を着て待っていたら。どうだろう。まるで、集団|稽古《げいこ》ではないか。
仲間はずれにされたくなくて、かといってくっついてきたお味噌《みそ》にもなりたくない。だったら、二人が手合わせをするというのでちょっと見にきた、くらいの見栄《みえ》をはりたい。
「由乃《よしの》」
令ちゃんは目を開けて言った。
「手出しも口出しもしちゃだめだよ」
「え?」
「約束できないなら、道場から出てもらうから」
「でも、だって」
菜々は私が連れてきたんだよ? そりゃ、まだ姉妹《スール》になってはいないから、令ちゃんが菜々と竹刀《しない》を交えるのに私の許可なんていらないだろうけれど。でも、でも菜々は私が気に入って紹介した子だよ? 今日の約束だって私が間に入って――。
「菜々ちゃんがどういうつもりで私と立ち合いたいと言ってきたのか、本当のところはわからない。でも、一旦竹刀を向けて構えたのなら、それは真剣勝負だ」
真剣勝負。
「けれど」
二人はまだ中学生と高校生で。そんな大げさにしなくたって、いいんじゃないの。――というより、そう言い放つことによって、放っておくとどんどん大げさになってしまう自分の感情を、どうにか抑えてしまいたかったのだ、私は。
令ちゃんは重ねて言った。
「竹刀は、刀だよ」
「――」
昔、剣の道を極めようとした人たちは、文字通り竹刀ではなく真剣を使って腕の優劣を決めていた。負ければ死。そこに、第三者が介入《かいにゅう》するものではない。
「わかった」
令ちゃんに言われなくたって、剣の世界が厳しいことは知っている。私だって、だてに剣客《けんかく》モノの本を読みあさっているわけではないのだから。
「ただ見ているだけ。それならここにいていいのね?」
確認すると、令ちゃんは「うん」と許可をくれた。それをきっかけに、私は「それじゃ」と立ち上がった。
「私、そこまで菜々を迎えにいってくる」
学校から家までの順路を描いてファックスしてあるし、同業者である有馬《ありま》道場には支倉《はせくら》道場に関する資料(もっと詳しい地図とか、外観の写真とか)があるかもしれないから、菜々が道に迷う心配なんてまったくしていなかったけれど。
でも、何となく。
すでに剣士の顔になっている令ちゃんと、二人で広い道場で約束の時間と菜々が来るのを、ただ黙って待っているのがきつかったのかもしれない。
令ちゃんのことが大好き。
でも、大好き過ぎて、時に怖くなることもある。
何が怖いのか。
わからないことが、今は怖い。
2
いつもの通学路を三分の一ほど行った所で、向こうから歩いてきた菜々《なな》と会った。
「ごきげんよう、由乃《よしの》さま」
菜々は挨拶《あいさつ》をしてから、ファックスで送っておいた私の大雑把《おおざっぱ》な地図をコートのポケットにしまった。
「ごきげんよう。すごい荷物だね」
それもそのはず。胴着と防具と竹刀《しない》一式を持参しているのだ。
当たり前だけれど、菜々は洋服を着ていた。普通に交通機関を利用してここまで来るのに、剣道の格好のままはあり得ないか。
有馬《ありま》道場の娘だとか、田中《たなか》四姉妹の末っ子だとか。話には聞いていたけれど、本当に剣道をやっていたんだ、って荷物を眺めて改めて思う。剣道の交流試合の会場にいたって、伯父《おじ》さんや剣道通の谷中《やなか》のお爺《じい》ちゃんと顔見知りだって、実際に菜々が竹刀を握るところを私は見たことがないのだ。
並んで歩き出して程なく、菜々が言った。
「それ、どうなさったんです?」
「それ? ……ああ」
指をさされたのは、私の足のミニスカートとハイソックスの間のわずかに肌が露出した部分である。全体的に白っぽい肌色なんだけれど、まるでブチ猫の柄《がら》のように紫というか黒というか色の変わった箇所《かしょ》ができている。どうなさった、とは、たぶんそのことを言っているのだろう。
「ああ、ちょっと転んじゃって」
年末の自転車練習の名残《なごり》だ。これでもだいぶ薄くなってきたからスカート解禁にしたのに、菜々ったら目ざとい。
「由乃さまは」
「何?」
「よく転ばれますよね」
「……悪かったわね」
ちょっとカチンと来た。だって指摘されるほど、しょっちゅう転んでなどいないのだ。
ここ何回か転んだ時に、たまたま近くに菜々がいたからそう思われるのかもしれないけれど。これでも、昔はほとんど転ばなかった。心臓に負担がかからないように、ゆっくり歩いていたからだ。もちろん、走るなんてとんでもない。
(そうか)
丈夫《じょうぶ》になったから、歩くのも走るのも気を抜いているんだ。だから、転ぶようになったのだろう。
「菜々は」
「は?」
「何で令《れい》ちゃんと手合わせをしたいの」
私は尋ねた。その目的が知りたかった。
「さあ」
返ってきたのは、微笑と少し首を傾《かし》げるような仕草。
「はぐらかしているの? 言えないこと?」
「そう見えますか?」
「わからないから、聞いているの」
ちょっとだけ、イライラした。ほんのちょっと。イライラのイラ、ぐらい。それを察したのか、菜々がフォローするように言った。
「すみません。私の言い方、お気に障《さわ》りましたか? でも、わからないんです、私も。だから何でと問われても、答えようがないというか」
「わからないの?」
「ええ。お手合わせしたい、と思ったからそう言っただけで。なぜお手合わせをしたいと思ったかという分析《ぶんせき》は、まだできていません」
まだ、ということは、いずれは分析できる日が来るのだろうか。それとも、それは今日で、令ちゃんと竹刀《しない》を交えた瞬間に答えが降ってくるかもしれないのだろうか。
「菜々は強いの?」
私は尋ねた。菜々がどれくらいの腕をもっているかなんて、知らない。令ちゃんと手合わせしたいと言うからには、相応の実力があると判断できなくもない。
「いいえ」
菜々はサラリと答えた。謙遜《けんそん》している風ではなかった。事実をありのままに伝える、そんな感じ。例えば、1+1の答えは2である、とでも言うように。だから本当は滅茶苦茶《めちゃくちゃ》強いのかもしれないけれど、少なくとも自分ではそうは思っていないのだろう。
「でも、有段者なんでしょ」
「段はもっていません」
「そうなの?」
「ええ。そんなにおかしいですか?」
「おかしいっていうか」
「由乃さまは段もちですか?」
「もっていない、けど」
でも、それは私が剣道を始めて一年未満の新米《しんまい》剣士だからであって。
「菜々は有馬道場の娘でしょ」
「生まれた時は、サラリーマンの娘でしたもん」
「でも、お祖父《じい》ちゃんが道場主だし」
「由乃さまだって、伯父《おじ》さまは道場主ですよね」
伯父さまというのは、もちろん令ちゃんのお父さんで、間違いなく支倉《はせくら》道場の道場主ではあるけれど。
「私の姉は、皆、段をもっています。人それぞれ、ってことですよ」
人それぞれ、それに異論はないけれど。
私が見たことがあるのは交流試合における田中次女・田中三女の二人だけだけれど、二人とも勝敗はともかく、かなりの腕前だったのは間違いない。前年に出場した田中長女なんて、令ちゃんより一段上、っていう強者揃《つわものぞろ》いの田中一家。その四女にして、唯一道場主のお祖父ちゃんの養女になった菜々が弱いということはないだろう。
人それぞれ。段は確かに強さを計る目安にはなるが、相当強いのに段をもっていない人だっているはずだから、すべての基準にはならないのだ。
3
「入って」
私は道場の入り口を開けて菜々《なな》を招いた。
支倉《はせくら》家の玄関から見て裏というか、逆にこっちが表というべきか。中でつながっているからどちらから入っても同じだけれど、菜々は令《れい》ちゃんの家に遊びにきたわけじゃないし、道場の方の入り口を使うのが正しいように思われた。けれど、それって何だか道場破りみたいだ。
「令ちゃん」
私は中に声をかけて、来訪者の到着を告げた。
「いらっしゃい」
程なく出てきた令ちゃんは、にこやかに笑って菜々を迎えた。さっきの、張りつめたような空気をまとっていたのが嘘《うそ》のようだ。
「ごきげんよう、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》。今日は私のお願いを聞いていただいて、ありがとうございます」
「いいの。私も楽しみにしていたから。どうぞ」
菜々は「はい」と返事をし、靴《くつ》を脱いで上《あ》がり框《かまち》に足をかけた。令ちゃんはその様子をしばらく眺めて、おもむろに私に告げた。
「由乃《よしの》。菜々ちゃんを更衣室に案内してあげて。それで準備が済んだら、道場で待っていてもらって」
「令ちゃんは」
どこに行くの、と私は尋ねた。だって、菜々に道場で待っていてもらう、ということは令ちゃんはその間どこか別の場所にいるってことだから。
「忘れ物をとりに、自分の部屋に行ってくる」
「忘れ物?」
「頼んだよ」
言い残してさっさと歩いていってしまうから、気になったけれどそれ以上聞けなかった。一人だったらしつこく食い下がるが、菜々を置いて追いかけるわけにはいかない。トイレかな、とも思ったけれど、だったら「忘れ物」とは言ってもわざわざ「自分の部屋」までは付け加えないだろう。それにトイレだったら母屋《おもや》に行かなくても、道場内にあるのだ。
「ここで胴着に着替えて。荷物はロッカーに入れてね。好きな場所使っていいから」
「それじゃ」
菜々は七番のロッカーの扉を開けた。なるほど、ラッキーナンバーか。
「私、廊下《ろうか》に出てるね」
菜々がコートを脱いで着替えに取りかかったので、私は扉に手をかけた。女同士とはいえ、やはり着替えを見ているのは悪いだろう。
「別にいいですよ。けど」
「けど?」
思わず振り返ると、菜々はセーターを脱いでいるところだった。
「由乃さまは、着替えられないのですか」
「私?」
何を今更《いまさら》言っているんだろう、って思った。菜々は令ちゃんとお手合わせしたい、って言ったんじゃない。そう言った時には、私のことなんてこれっぽっちも頭の中に浮かんでいなかったくせして。
「私は口も手も出しちゃいけない、って言われているから」
この件については、ノータッチ。だから、胴着も着ないし、竹刀《しない》も握らない。
「令さまが、そうおっしゃったのですか?」
「ええ」
私はうなずいてから、今度こそ菜々を残して廊下《ろうか》に出た。
「そうですか」
後ろ手に扉を閉めた時、菜々の独《ひと》り言《ごと》にも聞こえる小さな声が、かすかに耳に届いた。
4
菜々《なな》が着替えて道場に入っても、令《れい》ちゃんはまだ戻ってきていなかった。
菜々は、ちゃんと正面を向いて一礼してから道場に足を踏み入れ、それからぐるりと中を見回した。
「菜々の家の道場ほど、立派じゃないでしょうけれど……」
私は以前、菜々のことを知りたくて、有馬《ありま》道場のことを調べたことがある。だから知っている。有馬道場は支倉《はせくら》道場に比べて道場自体も広いけれど、弟子の数も遥《はる》かに多い、大きな道場なのだ。
けれど、菜々は真顔で言った。
「いい道場です。ここは、とても。武道の神様がいらっしゃる」
伯父《おじ》さんの道場を褒《ほ》められて、私は自分のことのように嬉《うれ》しく感じた。武道の神様か、なるほどいいことを言う。令ちゃんの家は、私にとって半分くらい自分の家のようなものだ。小さいけれど気持ちいい道場だって、私も昔から思っていた。
菜々は防具と竹刀を道場の隅に置いて、柔軟体操を始めた。
「相手になろうか」
普段部活で身体《からだ》をほぐす時に、二人一組で行う体操がある。何となく、学年とか剣道のレベルとか身長とかの関係で、私は田沼《たぬま》ちさとと組むことが多いのだが――。
「結構です」
菜々はすっぱりはっきり断ってくれた。それから、一人で黙々と体操を行い、素振《すぶ》りを始めた頃になってやっと令ちゃんが戻ってきた。
「お待たせ。あ、そのまま」
令ちゃんは、令ちゃんに気づいて竹刀《しない》を下ろしかけた菜々に、続けるよう指示した。
「……」
私は、菜々から少し距離を置いて自らも素振《すぶ》りを始めた令ちゃんの姿を、目で追った。
忘れ物を取りにいくと言って母屋《おもや》の方へ歩いていった時と今の令ちゃんとを見比べて、もし増えていた物があったなら、それが即ち「忘れ物」であろう。
確かに、令ちゃんは「忘れ物」を手にしていた。しかし、解《げ》せない。
それは、一本の竹刀だった。
道場に竹刀を持って現れる、それ自体は何ら不思議なことじゃない。むしろ、普通だ。
私が解せなかったのは、だから竹刀というアイテムじゃない。それが、令ちゃんにとっては二本目の竹刀であることだった。
令ちゃんの、いつも使っている手入れの行き届いた竹刀は、私が菜々を迎えにいく前から、防具にきちんと揃《そろ》えて道場の中に置いてあったのだ。それなのになぜ、別の竹刀が必要なのだろう。
わからない。けれど令ちゃんは、わざわざ自分の部屋までそれを取りにいった。そのことだけは確かだった。
今、令ちゃんは上下に振っている。「忘れ物」だった竹刀を。
けれど、私はどこか違和感を覚えた。いつも使っている竹刀でないからだろうか。いや、私は細かく特徴や違いを言えるほど、竹刀に明るくはない。
「令さま」
菜々が、素振りをやめて声をかけた。
「お気遣い、恐れ入りますが――」
「竹刀のこと?」
手を休めて、令ちゃんが聞き返した。菜々は「はい」とうなずく。私が「解せない」と思ったことを、悔《くや》しいけれど菜々は先に解いたということなのだろう。
「菜々ちゃんこそ、そんなことを気にすることないよ。すべて条件を互角《ごかく》にしたいけれど、無理だから。これくらいね」
すべての条件を互角に? そこで、私はハッと気づいた。
令ちゃんの手にした竹刀は、いつものそれより短い。
違和感を覚えたはずだ。身長と竹刀の長さのバランスが、いつもと違っているのだから。
それから、私は菜々の竹刀にも目を走らせた。思った通り、菜々の竹刀も短い。
(ああ、そうか)
菜々はまだ中学生だから、短い竹刀を使うのだ。けれど高校生で背も同年代の平均を上回る令ちゃんは、それよりほんの少し長い竹刀を常用している。令ちゃんがそのことに気づいたのは、菜々を迎え入れてからだったのだろう。それであわてて部屋にとって返し、昔使っていた竹刀《しない》を出して点検と整備をしてきたのだ。
大人用と子供用ほどの差はない。たぶん三センチほどだろう。けれどわずか三センチであれ、令ちゃんはフェアでないと判断したのだ。すべての条件――例えば年齢とか身長とか体重とか、あるいはここが令ちゃんの生まれ育った道場であることとか、それらを同じにすることは、どうしたって無理であるから。
久しぶりに持った竹刀の感触を腕にたたき込むように、令ちゃんは丁寧《ていねい》に何度も素振《すぶ》りを行った。それから基本の打つ突くの動作を一通り行い、やがて納得がいったのか動作を止めて菜々の方を振り返った。菜々も基本|稽古《げいこ》が済んだようで、竹刀を下ろして令ちゃんを真っ直ぐ見つめた。
「さて、どうする?」
令ちゃんが、菜々の意向を尋ねた。稽古で竹刀を交えれば満足なのか、それとも大会で行われるのにできるだけ近い形で試合をしたいのか、それを聞いているのだ。
「できましたら。互格稽古《ごかくげいこ》をお願いしたいのですが」
「互格稽古?」
菜々の申し出に、令ちゃんは「おや」というような顔を見せた。
「生意気を承知で。お願いします」
互格稽古というのは、互いの技術が同等なものとして自由に打ち合う稽古だ。菜々が自分を「生意気」と称したのは、段をもっていない者が有段者に対して「ハンデなしでいいですよ」と言っているようなものだからだろう。
「わかった。じゃ、防具をつけて」
「はい」
話は決まった。二人は別々の場所に正座をして、準備を始めた。
頭に手ぬぐいを巻き、垂れをつける。私は、どちらからも同じ距離をとって座り、その様子を眺めていた。
私は漠然《ばくぜん》と、菜々は姉の敵《かたき》を討《う》ちに来た、もしくは姉を破った者の実力を体感しに来たと思っていた。だから、当然規定にそった試合、つまり姉たちとできるだけ条件を揃《そろ》えて令ちゃんと戦うことを望んでいるはず、と。
でも、違った。菜々には、そんなこだわりはなかった。
どういうことなのだろう。
数歩あるいて行けば、すぐに聞ける距離に菜々はいる。でも、私は動かなかった。もう、すでに二人の勝負は始まっているように思われたから。私は、手も口も出すことは許されない。
もっとも、正式なそれに近い試合をここでやりたいと言われても、それはそれで困ったけれど。第一、審判がいない。せめて伯父《おじ》さんがいれば話は別だけれど、生憎《あいにく》今日はお留守《るす》だし。そりゃ、やれと言われれば私がやるしかないだろう。でも正直無理だと思う。審判の技術が追いつかないのはもちろんだけれど、それ以前に、戦っている二人を前にして、公平な判断なんてできそうもなかった。どちらかを贔屓《ひいき》するとか、そういった問題じゃない。心が動揺《どうよう》して、ちゃんと見ることができそうもない。
そうこう思いめぐらしている間に、二人は胴と面をつけ終わっていた。それで、私の位置からは、二人の表情がまったく見えなくなってしまった。
小手《こて》をはめてから、令ちゃんはチラリと私の方を見た。まるで、「手出し無用」とだめ押ししているみたいだった。
「お願いします」
立礼《りつれい》をし、蹲踞《そんきょ》の姿勢をとってから互格稽古《ごかくげいこ》は始まった。聞き慣れた、令ちゃんのお腹《なか》に力の入ったアルトの声に、菜々の高い声が被《かぶ》る。
普段はそんなに強くない、どちらかというと無味《むみ》無臭《むしゅう》の水って感じの声なのに。いざ竹刀《しない》を構えたら、こんな強烈な声を出しちゃうんだ、菜々は。まるで、苺《いちご》ソーダかメロンフロートみたいだ。
(ふふ……)
稽古とはいえ練習試合も同じ。そんな最中に、ジュースのことなんて考えるのは不謹慎《ふきんしん》かもしれないけれど、そんな風に心のどこかに小さな逃げ道を作っておかないと、私は何かに押しつぶされてしまいそうだったのだ。
仕掛けたのは、菜々からだった。真っ直ぐ踏み込んで、令ちゃんの面を狙う。しかし、令ちゃんは落ち着いて菜々の竹刀の中程を上に弾く。簡単に払われた菜々は、懲《こ》りずにまたもや正面から打ち込んだ。今度は令ちゃんは左で竹刀を受け止め、身体《からだ》を左に向けながら竹刀をクルリと返して菜々の面を打った。
(一本!)
心の中で、審判の声が聞こえた気がした。私は膝《ひざ》の上に置いていた両手の平を、ギュッと握った。
令ちゃんの方が、遥《はる》かに上だ。実力に差がありすぎることは、剣道を始めたばかりの私の目にも明らかだった。
菜々だって、すぐにわかったはずだ。だが、最初の一本に臆《おく》することなく、果敢《かかん》に攻めていく。
面、面、――面。
菜々は、終始面を狙って竹刀を振り下ろした。それに対して令ちゃんは返し技で胴を、抜き技で面を、確実に決める。
三本勝負の試合ならば、二本決まった時点で終わりだ。だが、これは互格稽古だから。時間制限もない。ここまでと、ストップをかける顧問《こもん》の先生や師匠《ししょう》がいない以上、互いによしと思うまで打ち合いは終わらない。
私は段々、見ていることがつらくなっていった。なぜ、私の大好きな人たちが、武道とはいえ戦わなければならないのか。
もう、勝負はついているのに。まるで、一本とるまでは止められないとでもいうように、菜々は諦《あきら》めなかった。それがわかっているのか、令ちゃんもかかってくる菜々を迎え撃つ。
でも、もう限界だ。菜々の動きが、鈍《にぶ》くなっている。途中何度か、足をもつれさせて危うく転びそうになった。
もうやめて、と何度も口を開きかけた。でも、令ちゃんとの約束を思い出して、必死で堪《こら》えた。声を出したら、この場から立ち去らなければならない。
立ち去れば、二人が打ち合う姿を見なくて済むから、あるいは私は楽になるのかもしれない。だが、それだけは許されない。私は、二人を見届けなければならないのだ。
私はまるで、私のせいで二人が戦っているような、そんな錯覚《さっかく》に陥《おちい》っていた。
「あっ」
令ちゃんの突きを受けて、菜々の身体《からだ》が後ろに飛んだ。
「菜々っ!」
私は夢中で駆け寄った。防具をつけているし、そういう場合の受け身も身につけているから、背中から床に落ちてもそう大した怪我《けが》をすることはないはず。でも、これが神様の「ここまで」というサインだと思った。
[#挿絵(img/24_055.jpg)入る]
それなのに。
「大丈夫《だいじょうぶ》です。離してください」
菜々は私の触れた手を振り払って、よろよろと立ち上がった。
「令ちゃん」
私は、竹刀《しない》を構えたまま立っている令ちゃんに懇願《こんがん》した。
もう、やめて。もう、わかったから。
「由乃。約束したでしょ」
手も口も出さない。でも、でも――。
「止める?」
令ちゃんは私に道場を出ていくように命じる代わりに、菜々に向かって尋ねた。
「いいえ」
ふらふらになりながら、菜々は竹刀を構えた。
「……菜々」
私のつぶやきは、行き場をなくして道場の高い天井に吸い込まれてしまった。菜々は振り向かない。令ちゃんも何も言わない。
激しい打ち合いで息の上がった声からだけでは、二人の感情が読み取れなかった。
私は、この時ほど剣道の面を憎々《にくにく》しく思ったことはない。せめて、これが柔道だったら。空手《からて》でも合気道《あいきどう》でもいい。今、二人がどんな表情をしているのか、面さえなければ確かめることができるのに。
今、細い面がねの間の物見から、菜々が見ているものは令ちゃんだけ。令ちゃんも、菜々だけを見ている。
手出ししたくても、口出ししたくても、二人には届かないし聞いてもらえないのだ。私は泣きそうになりながら、元の場所に帰って正座をした。
「お願いします」
菜々の声で、稽古《けいこ》が再開される。
私は、どこの宗教に所属しているのかわからないけれど、どこかの神様に向かって祈った。何をお願いしたいのかもわからないけれど、何もできない私は、とにかく祈るしかなかった。
「……」
気のせいだろうか。菜々は、立っているのがやっとのはずなのに、転倒する前よりも動きが良くなっているように見えるのは。
仕掛ければすぐに一本とられていたのに、今はこうしてつばぜり合いをしている。
その時だ。
菜々が一歩下がりながら、大きく振りかぶった。
(ひき面……!)
令ちゃんも気づいた。だから、それを躱《かわ》すためとっさに動いた。
菜々の竹刀《しない》の先は、ほんの少しだけ令ちゃんの頭上をかすった。その瞬間。
「お見事」
令ちゃんが言った。
「ここまでにしよう」
令ちゃんの声を合図に、二人は蹲踞《そんきょ》し竹刀を納めた。数歩下がって礼をし終わると、菜々はその場にドサリと倒れ込んだ。
「菜々っ」
私は駆け寄って抱き上げた。面がねの間から顔を覗《のぞ》き込むと、ぱっちりと開いた瞳が見えた。気絶しているのではない。ただ、疲れて立ち上がれないだけだ。
「やっぱり、支倉《はせくら》令には敵《かな》いません」
菜々は抱きつくように身体《からだ》を預けると、私にだけ聞こえる声で言った。
「大きい人ですね」
そしてすぐに身体を起こして、面を外した。
「大きい人……」
私は、振り返って令ちゃんを見た。令ちゃんは先に面を外し、今まさに道場を出ていこうというところだった。
「令ちゃん」
私は、後を追った。しかし令ちゃんは、背中を向けたままどんどん歩いていってしまう。
廊下《ろうか》で、令ちゃんをやっと捕まえた。令ちゃんは道場を出た所にある水道場で、コップに水を満たしていた。
汗をかいた首の、喉《のど》を鳴らして、水が令ちゃんに吸い込まれていく。
「あの子にも、持っていってあげな」
自分が水を飲み終わったコップに、新たに水を汲《く》んで私に差し出す令ちゃん。
「そんなことよりっ」
私は引ったくるようにコップを受け取って言った。
「そんなことより?」
令ちゃんが聞き返す。
「そんなことより――」
私は、何を言おうとしていたのだろう。
しごきみたいに稽古《けいこ》をしたことに対する抗議?
それとも、正式な試合だったらとても一本とは判定されないような面を、「見事」と言って認めた真意を質《ただ》しに?
あるいは、令ちゃんはやっぱり強いよと、賛辞を伝えに?
黙っていると、令ちゃんが言った。
「お姉さんたちに比べたら、技術も体力もずっと劣っている。でも、四姉妹の中で一番私の好きな剣道をするね、菜々は」
「令ちゃん……」
ほほえんで、令ちゃんは言った。
令ちゃんの好きな剣道をする――。単純な私は、菜々のことをそんな風に褒《ほ》めてもらって、とても嬉《うれ》しかった。まるで、自分のことのように誇らしかった。
「そんなことより」
舞い上がる私の顔を覗《のぞ》き込んで、令ちゃんは言った。
「由乃《よしの》は、菜々を応援していたね」
真顔だった。
「えっ……」
とっさに私は、取り繕《つくろ》うことさえできなかった。
取り繕う?
そう思った時点で、令ちゃんの言葉を認めたも同然だった。
「令ちゃ――」
「それでいいんだよ」
そう言い残して、令ちゃんは母屋《おもや》の方へ歩いていってしまった。
取り残された私は、冷たい水の入ったコップを持ったままその場で一人立ちつくす。
まだ手を離さないで、って言ったのに。
自転車を支えていた令ちゃんの手が、絶妙なタイミングで離れた瞬間だった。
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仮面のアクトレス
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始業式の甘えん坊
1
朝一番には冷ややかでひっそりとしていたであろう講堂も、一年生が入場し、二年生の半分のクラスが着席した時分にはすっかり温まっていた。少女たちのひそやかな話し声や時折|漏《も》れる笑い声なども、空気をやわらかいものへと変える手助けをしているのだろう。
クラス毎《ごと》に並んで順番に座った椅子《いす》の上で、祐巳《ゆみ》は少しだけ緊張した肩の力を抜いた。
冬休みが終わった。
新学期である。
二学期最後の日に、ものすごいことがあったからといって、その生徒にだけ三学期最初の日がやってこない、なんてことはほとんどない。
なぜなら、世の中は平等に時間が流れているから。まあ、例外はあるけれど。
でも、祐巳は長期入院しなければならないような大けがをしたわけではない。家庭の事情で転校したり、悪さをして退学処分を受けたわけでもない。だから、当たり前に三学期の始業式の日がやってきた。――と考えれば、「ものすごいこと」と思っていたことだって、それほど大した事件でもないのかもしれない。
そうだ。妹になって欲しかった一年生に、拒絶されたことくらい。端《はた》から見れば、どうってことない話なのだろう。祐巳は、小さくため息をついた。
三年生が入場してきた。
いつものように三年|松《まつ》組の列に視線を送れば、出席番号の早いお姉さまの姿はすぐに見つかる。
毎度のことだからかもしれないけれど、祥子《さちこ》さまは妹の視線に気づいてこちらに顔を向けた。こんな時、いつも「よそ見しないの」とか「こら」といったお叱《しか》りの表情が返ってくる。それでも祐巳は、あえてやめない。
あと何回、こんなことができるのだろう、って思ったら。
お姉さまが卒業してしまえば、やりたくてもできなくなってしまうことだから。落ち着きがないと注意されようが、懲《こ》りない子だと呆《あき》れられようが、思う存分|堪能《たんのう》するのだ。何をって、お姉さまを見るということを。
祐巳のその気迫が通じたのか、祥子さまは今回「しょうがない子ね」といった表情で笑っていた。
(ふふっ)
ミルクをもらった赤ん坊のように、途端に祐巳は満たされた気分になった。いつも思う。お姉さまの表情一つで気分が変わるなんて、自分はどうしてこう単純なのだろう。
「……」
祐巳は、今度は身体《からだ》をひねって一年|椿《つばき》組の方を向いた。今、幸せな気分ならば、それを持続させればいいものを、たとえ風船が萎《しお》れるように気分が下降していこうとも、どうしても向かずにはいられなかった。
瞳子《とうこ》ちゃんは、いた。
いつものように、両耳の上に縦《たて》ロールを作って。視線は真っ直ぐ前に向け、口は真一文字《まいちもんじ》に結び。前後左右にいるクラスメイトたちのおしゃべりに、一切《いっさい》加わることなく、ただ黙って座っている。
こんなに遠い距離なのに。祐巳には、瞳子ちゃんがはっきりと見えた。
気分は萎《な》えなかった。むしろ熱くなった。なぜだかわからないけれど、瞳子ちゃんを見て言葉では言い表せない感動が押し寄せてきた。
これはいったい何だろう。
答えが出ないまま、視線を戻して前を見た。始業式が始まる。
聖歌隊の顔ぶれが変わろうと、三年生の出席率が低かろうと、一つ一つ取り上げては卒業と絡《から》めて「寂しい」なんて言ってられない。
高等部の卒業式は、去年経験済みだから。
もう、そろそろ慣れっこにならなくちゃいけないのだ。
2
始業式の日は、式が終わって、各クラスに戻りホームルームをした後で解散となる。
「祐巳《ゆみ》さん、これから薔薇《ばら》の館《やかた》?」
「ええ。ごきげんよう」
クラスメイトの声に明るく答えて、荷物を片手に教室を出た。
「あけましておめでとうございます、|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》」
「今年もがんばってください、祐巳さま」
廊下《ろうか》を歩いていると、いつもとはちょっと違った声のかけられ方をするのは、三学期の始業式の日ならでは。
年が明け学園生活初日ということもあって、校舎のそこここで、冬休みにあった出来事などをおしゃべりしている生徒たちがまだ残っていた。
そんな中。
「祐巳さん」
後ろから呼びかける声がある。廊下《ろうか》を歩く祐巳に気づいた志摩子《しまこ》さんが、小走りで追いついたのだ。
「あ、ごきげんよう。志摩子さん」
「ごきげんよう」
こちらは新年一発目ではないので、通常|挨拶《あいさつ》。一月二日に小笠原《おがさわら》家で行われた新年会で、「あけましておめでとう」の挨拶は済ましている。
「あら、祐巳さん一人?」
同じクラスなのに、隣に由乃《よしの》さんがいないことに気づいて、志摩子さんは首を傾《かし》げた。
「うん。剣道部の集まりがあるんだって。すぐ終わるから、先に薔薇の館に行ってて、って言われたの」
「剣道部の集まり?」
「うん。今日はまだ正式な部活動じゃないから、竹刀《しない》を振り回したりはしないんだって。武道館に集合して、新年のご挨拶するだけらしいの」
「そう」
両立は由乃さんも大変ね、とか。でも令《れい》さまだってやってきたことだから、やってやれないことはないわね、とか。二人は今ここにいない親友をサカナに、おしゃべりしながら歩いた。
「そういえば」
志摩子さんがつぶやいた。
「何?」
祐巳が聞き返すと、志摩子さんからクスリと思い出し笑いが漏《も》れた。
「一年前の、確か始業式ではなかったかしら。ちょうどこの辺りでね、二年生のお姉さま方の噂話《うわさばなし》を私が耳にしたのは」
「一年前の、始業式……?」
言われてみれば、何か、思い出しそうな気がする。あの日は確か、委員会の用事で志摩子さんが遅れて薔薇の館にやって来て、彼女には珍しく階段を忙《せわ》しなく駆け上がってきたかと思ったら、ドアを開けるやいなや挨拶より先に言ったのだった。
(どなたか、――という言葉にお聞き覚えは)
あ。
「ロサ・カニーナ!」
「そう」
その時は、薔薇の館にいたメンバー全員が何のことかさっぱりわからなかったのだけれど、数分後にやはり遅れてやって来た令さまによって「ロサ・カニーナ」が人を指していることを知り、そこからその人が生徒会役員選挙に立候補する二年生だという事実に結びつくまではさほど時間を要さなかった。
「一年前は不安で、こんな風に笑って過去を振り返ることができるなんて、思わなかったけれど」
志摩子さんは、目を細めて言った。ちょっとだけ、一年前にタイムスリップしているのだろう。
祐巳も、思いを飛ばした。あの時は、選挙を戦うお姉さまの役に立ちたいと願いながら、何もできずに落ち込んだりしたっけ。
「まさかロサ・カニーナ……、蟹名静《かになしずか》さまとお友達になるなんて、考えもしなかったね」
「本当。わからないものね」
静さまはイタリアに行ってしまったけれど、祐巳たちが修学旅行でイタリアに行った時には会いに来てくれた。志摩子さんなんて、いつの間にかペンフレンドになっちゃってたし。
「今年はどうなるのかしら」
志摩子さんがつぶやいた。
「生徒会役員選挙のこと?」
祐巳が尋《たず》ねれば、そうだとうなずく。
「どうもこうも。志摩子さんは、二年目だから余裕《よゆう》なんじゃないの?」
志摩子さんは祐巳と同じ学年だけれど、去年の選挙に出た。前|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》であるお姉さまが二学年上だったので、その卒業に伴《ともな》い跡を継ぐべく立ち上がったのだ。結果、見事当選し、|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》と呼ばれる今の志摩子さんがある。
「あら、余裕なんてそんなこと」
志摩子さんは笑った。謙遜《けんそん》してはいるが、その笑いこそが余裕そのもの。経験者は強い。
「でも。出るんでしょ、選挙」
「そのつもりだけれど――」
「だけれど? なんか、煮え切らない返事」
まるで、その後に何か続きそうな言い方。祐巳は身構えた。
「そうね」
志摩子さんは「例えば」と言った。
「もし、どうしても生徒会長になりたい生徒がいたなら、考えてもいいわ」
「えっ!?」
「私は一度経験したし」
毎年選挙はするものの、大体は|つぼみ《ブゥトン》が次代の薔薇さまになることの多いこの慣習に、志摩子さんは疑問を持っているのかもしれなかった。だから去年の静さまのように、生徒会長に名乗りをあげる生徒がいたなら、その座を譲《ゆず》る覚悟はある、と。そういうことらしい。
そういえば、去年もそうだった。立候補の申し込みを、受け付けの締め切りギリギリまで引き延ばしたのだ。決心させたのは、静さまの不用意な一言。
『私はあなたを妹として迎えるつもりよ』
それが、志摩子さんに火をつけた。志摩子さんは、ただ自分とお姉さまのプライドを守るために戦ったのだ。
志摩子さんは、|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》の座に執着していない。過去も、今も、一貫《いっかん》して変わらない。
「えー、嫌だ。私、志摩子さんと一緒《いっしょ》に薔薇さまになりたい。薔薇の館に、志摩子さんがいなくなったら絶対嫌」
「あ、薔薇さまではなくなったら、こうして薔薇の館にも行かなくなるのよね」
今更《いまさら》思い出したみたいに、志摩子さんは確認した。
「そうだよ。それでいいの?」
祐巳は志摩子さんの腕をとって言った。
「そうね。私も祐巳さんたちと一緒にいたいわ。だから、例えばの話よ。それにもしって言ったじゃない。大丈夫《だいじょうぶ》よ。私たち以外に出馬する人がいるとしたら、去年のように今頃騒がしくなっているでしょうし」
確かに。今現在その意志がある生徒がいたとしたら、そろそろこちらに情報が流れてきてもいいはずだった。
人の口に戸は立てられないから。ましてや、これは誰かの悪口や不幸に関する話題ではないから、「まだ内緒《ないしょ》だけど」と前置きしながらも流しやすい噂《うわさ》ではある。
「嫌だからね、絶対」
腕を絡めて言う。
「はいはい。わかりました」
志摩子さんと久しぶりに二人でイチャイチャしながら歩いていると、向こう側から瞳子《とうこ》ちゃんが歩いてくるのが見えた。
瞳子ちゃんは一人だった。
下校するところなのだろう、スクールコートを着ていて、こちらに気づくと、一瞬だけ立ち止まったけれど、またすぐに歩き出して二人の目の前までやって来た。
「ごきげんよう、|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》」
瞳子ちゃんはまず、志摩子さんに向かって挨拶《あいさつ》をした。
「ごきげんよう」
言いながら、志摩子さんはいつものやわらかいほほえみを返す。二人の様子を見ながら、祐巳は内心ドキドキしていた。
この後、瞳子ちゃんはどうするのだろう。志摩子さんにしたのと同様祐巳にも挨拶をするのか。それとも、無視していなくなるのか。
どちらにしても、祐巳はそれをそのまま受け止める自信がなかった。正直、逃げ出したかった。でも、何も悪いことをしていない自分が逃げるのはおかしい。そう考えて、どうにか思い止《とど》まった。
数分前、瞳子ちゃんが廊下《ろうか》のずっと先で祐巳たちを見つけた時、方向転換してくれたらどんなによかったろう。けれど時間は戻せないし、自分以外の人の行動を自由にできるわけもない。
「ごきげんよう、|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》」
瞳子ちゃんも、逃げなかった。大きな瞳を真っ直ぐにこちらに向けて、可愛《かわい》らしくほほえんでみせる。
それは、虚勢を張っているだけなのだろうか。それとも本当にあの出来事は瞳子ちゃんにとって取るに足りないことで、すでに忘れてしまったことなのだろうか。
わからない。瞳子ちゃんの表情からは、何も答えを導き出せない。
「ごきげんよう、瞳子ちゃん」
祐巳は、それだけ言うのがやっとだった。それだけ言えれば、十分がんばったと評価していい。
「私たち薔薇の館に行くから、またね」
志摩子さんが、そう言ってその場を離れてくれたので、内心助かった。腕を絡めていた志摩子さんが支えていてくれたからどうにか切り抜けられたけれど、あと一分とかあの場にいたらしゃがみ込んでいたかもしれない。それくらい、足ががくがくと震えていた。
祐巳は、瞳子ちゃんに負けていた。何も悪いことはしていないと思いつつ、完全に立場は弱かった。
「以前もそう思うことがあったけれど」
薔薇の館の前まで来ると、志摩子さんが祐巳の腕をそっと離して向かい合った。
「瞳子ちゃん、ますます表情を隠すようになった気がするわ」
「え……」
「もう少し、心を開いてくれたらいいのに」
志摩子さんのつぶやきが、身にしみた。
校舎を出て薔薇の館に入るまでの、わずかな距離の外気は、これから訪れるであろう寒い日々を予告していた。
3
薔薇《ばら》の館《やかた》の階段は、年が改まっても、同じようにギシギシと音をたてながら生徒たちを招き入れる。滑りの悪くなった歯車と違って、油をさせばいいというわけではないから、なかなかメンテナンスもできずにいる。
「いつか、落っこちないかな」
祐巳《ゆみ》がつぶやくと、志摩子《しまこ》さんが笑った。
「でも、お姉さまが一年生だった頃からこんな感じだったらしいわよ」
「そうなの?」
「多少、程度は違うかもしれないわね。人間慣れてしまうと、少しずつ強度が下がっても違和感を感じにくくなるようだし」
なるほど。毎日上り下りしていると何とも思わないけれど、二週間くらい間があくとこんな風に音や揺れのことを考えたりもする。だから、志摩子さんのお姉さまである佐藤《さとう》聖《せい》さまを今ここに連れてきて確認してもらったら、「一年生の頃より揺れが大きくなった」と言うかもしれない。
「ごきげんよう、祐巳さま。ごきげんよう、お姉さま」
薔薇の館の二階には、すでに二条《にじょう》乃梨子《のりこ》ちゃんが来ていて、簡単な掃除《そうじ》を済ませ、お茶の準備を始めていた。
「あ、ごめん。手伝うよ」
制服の袖《そで》を腕まくりして近づいてみれば、すでに準備万端整っている。電気ポットのお湯が沸くのを待っている状態だ。
「お二方とも、お座りになっていてください。もうできますから」
祐巳は、志摩子さんにこそこそと言った。
「いつもながら、よくできた妹をおもちで」
「おかげさまで」
二人が笑い合ったところで、ちょうどお湯が沸いた。
「瞳子は」
唐突《とうとつ》に、乃梨子ちゃんが言った。
「今日、ちゃんと来ていました。クリスマスパーティーの時のことなんて、なかったみたいな顔をして」
唐突に聞こえたけれど、乃梨子ちゃんの中では段取りみたいなものがあって、今がその話をするべき時だったのかもしれない。流し台の横でお茶をいれながらだから、祐巳の位置からはその背中しか見えなかった。
「うん。そんな顔していたね」
うなずけば、乃梨子ちゃんは驚いたように振り返る。
「ご存じでしたか」
「さっき、廊下《ろうか》でばったり会って。……ね?」
祐巳は、志摩子さんと顔を見合わせて答えた。
「あの、……それで?」
「それだけ。ただ、挨拶《あいさつ》して、別れた」
「そうですか」
がっかりしたような、ホッとしたような、複雑な表情を浮かべる乃梨子ちゃん。自ら進んで、親友と先輩の板挟《いたばさ》みになることもないのに。そうせずにはいられないんだ、たぶん。
「さ、この話はこれで終わり。乃梨子ちゃん、お茶が渋くなっちゃうよ」
「あ、大変」
乃梨子ちゃんは、そこでやっとお茶のことを思い出した。今ここにいるのは三人だけれど、四つのカップにお茶を注ぎ、やはり味が不安だったのだろう、自分の分を一口飲んで「よし」とうなずいたところで、祥子《さちこ》さまがやって来た。
「ごきげんよう、お姉さま」
祐巳がバタバタ近づいて挨拶《あいさつ》をすると、祥子さまは渋い顔をして言った。
「今年も落ち着きのないところは変わらないのね」
「あ……、すみません」
どうやら今年も、お姉さまのお小言《こごと》は健在のようだ。
「令《れい》たちは? まだ来ていないの?」
「はい。あの、剣道部の――」
「知っているわ。でも、そろそろ来ている頃だと思ったのに」
何だかその言い方だと、まるで令さまたちに合わせてここに来た、みたいに聞こえた。
「あの、お姉さま?」
もやもやしたのをそのまま放置しておくのは、お互いのためにならないので、祐巳は思い切って尋《たず》ねた。すると。
「そうよ」
祥子さまは平然と答えた。
「令たちが遅れて来るってわかっていたから、ゆっくり来たのよ。今日の会合は、揃《そろ》わないと始まらないでしょう。早く来たって、お茶飲んで待っているだけで時間の無駄《むだ》だもの。それで、片づけ物をしてきたのよ」
「片づけ物って何ですか」
「冬休みに借りた本を返しにいったのだけれど?」
「でも、今日は図書館あいていないんじゃ……」
「だから、ブックポストに返却してきたのよ」
「ブックポスト……」
ここで「そうですか」って引けばよかったんだろうけれど、祐巳にはそれができなかった。だってそこで引いたら、先の「時間の無駄」発言までも、飲み込んだことになってしまいそうだったから。だから、余計な一言と承知の上で言ってしまった。
「ブックポストに返すだけなら、帰る時に寄ればいいんじゃないですか」
「え?」
祥子さまだけでなく、志摩子さんや乃梨子ちゃんもギョッとした顔をして祐巳を見た。でも、一旦言い始めたらもう止められない。
「時間の無駄《むだ》でも、ただ仲間同士でお茶飲んでおしゃべりできたら、私はうれしいのに。お姉さまは違うんですか」
「そんなこと言っていないでしょう?」
自分が責められているようで面白くないのか、祥子さまの声が多少ピリピリしている。
「あなた、今日はどうしてそんなに絡《から》むの」
どうしてそんなに絡むのか、と聞かれても。
「自分でもわかりません」
途中で何度か「あの」なんて仲裁《ちゅうさい》を試みかけた白薔薇姉妹も、とうとう後ろを向いてしまった。自分たちのことは気にしないでください、という意思表示なのだろう。
「いらっしゃい」
祥子さまは、祐巳の手を引いて部屋の外に出た。廊下《ろうか》に出て、扉を閉めて再度問う。
「どうしたの」
今度は、ソフトな声だった。
「わかりません」
どうして、お姉さまに反発するような態度をとってしまったのか。何がきっかけなのか、精神状態に問題があるのか。冷静に判断しようと思っても、気持ちが高ぶっていてなかなかうまくいかない。
「そういう日もあるよね」
突然、階段の方から声がした。令さまが二階に上がってきたところだった。
「祥子だって、昔はよくヒステリーを起こして蓉子《ようこ》さまに突っかかっていたじゃない。気持ちが不安定になっていると、ちょっとしたことでも感じやすくなっちゃうんだよ。ね、祐巳ちゃん?」
「そうなの、祐巳?」
祐巳は小さくうなずいた。
「寒いね。中、入ろっか」
令さまが、笑って祐巳の肩を抱いた。
「そうね」
祥子さまがうなずくその後ろから、階段を揺らして由乃《よしの》さんが登場した。
「うー、寒っ。もう、令ちゃんったらどんどん先に行っちゃうんだもん。……って、何こんなところで溜まっているの?」
「祐巳ちゃんが祥子に甘えん坊しているところに、出くわしちゃって。お邪魔虫《じゃまむし》になってた」
「およ」
「続きは二人きりの時に、ってお願いしたの。さ、入った入った」
不安定で、感じやすくなっていて、甘えん坊。
たぶん、令さまの分析《ぶんせき》はかなりいい線いっている。きっかけは、ちょっとしたことなのだ。でも、その「ちょっとしたきっかけ」ぽっちのことでこんな風になってしまう精神状態って、ちょっと問題なのではないか。「そういう日もあるよね」って、ほったらかしにしておいてはいけない気もした。
ドアを開けると、白薔薇姉妹がホッとしたような顔をして祐巳たちを迎えた。
4
新年一発目の山百合会《やまゆりかい》幹部の会合は、「今年もよろしく」というご挨拶《あいさつ》と、一月から三月までのスケジュール確認がメインの簡単なものだ。
この場にいる六人全員が小笠原《おがさわら》家の女性限定新年会に参加していたので、新年のご挨拶はとっくに済んでいたけれど、それはそれこれはこれ。生徒会役員とその妹たちが薔薇の館《やかた》に勢揃《せいぞろ》いした新年初日ということで、きちんと全員で挨拶を交わした。
「今後の予定ですが。まず、一月中に来期の生徒会役員選挙があります」
志摩子《しまこ》さんが、予定表を見ながら発表する。
「例年、一月最終週の土曜日が投票日、三日前の水曜日に立ち会い演説会が行われていますから、今年もそれに準じるとは思います。明日の放課後、選挙管理委員会からの説明会が開かれますので、子細《しさい》はそちらで発表される予定です」
「立候補の意志の有無《うむ》に関わらず、二年生は出席すること」
祥子さまが、メンバーをぐるりと見回して言った。
二年生は立候補すること、ではなく、説明会に出席すること。――次代の薔薇さまになれと強制的に言われるより、胸に堪《こた》える。
一年前、前|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》だった佐藤《さとう》聖《せい》さまが、立候補を決めた志摩子さんに「これはあなたが決めたこと」と突き放したような言葉をかけていたのを見ていたから、去っていく先輩の立場はわかっていたはず。なのに、胸に堪《こた》える。
来年度、もし自分が薔薇さまと呼ばれる日が来たとしても、そこから先はお姉さまたちはいない。頼ることも責任を肩代わりしてもらうこともできないのだから、未来の自分に対して、今から自立を促す必要があるということもわかっている。
でも、お姉さまがつないでいた手を離していくようでつらい。今日はやっぱり不安定なのかもしれない。
「あ、乃梨子《のりこ》ちゃんも出たっていいわよ。出席したからといって、必ず立候補しなければいけない決まりではないんだし」
あくまで説明会だから、と祥子《さちこ》さまが言う。説明を聞いた上で、立候補するかしないかを決めていいのだ。また、説明会に出席しなくても立候補する資格はある。
「あ、いえ」
遠慮《えんりょ》しておきます、と乃梨子ちゃんは即答した。
「あら、一年生だって立候補していいんだし?」
「そうそう。去年の志摩子のように」
候補者でもなければ選挙権もない三年生は、気楽でいい。
「そうなったら、白薔薇姉妹でバトル? 何か、すごいことになるわね」
祐巳と同じ立場のはずなのに、由乃さんも軽口をたたいている。
「では、由乃さんと祐巳さんと私は、明日の放課後、講師室隣にある選挙管理委員会事務所に集合ということでよろしいですね」
脇道にそれて雑談が増えてきたので、志摩子さんが軽く咳払《せきばら》いしてまとめた。
「二月に入りますと、……去年は十四日のバレンタインデーに合わせて宝探し大会が行われましたが、今年は――」
「あ、新聞部から打診《だしん》があったわ」
祥子さまが言った。
「打診……ありましたか」
「ええ。二学期の終業式だったかしら、いえ、期末試験の最終日だったかもしれないわ。廊下《ろうか》で部長の山口《やまぐち》真美《まみ》さんに呼び止められて、今回もよろしく、って。ごめんなさい、すぐにお休みになってしまったからみんなに言うのを忘れていたわ」
「それで、お姉さまは何てお答えに?」
祐巳は尋《たず》ねた。
「薔薇《ばら》の館《やかた》に持ち帰って、|つぼみ《ブゥトン》たちと相談してからお返事するわ、って」
|つぼみ《ブゥトン》たちと相談。すでに主役を妹たちと限定して話を進めている。相談してからと言いながら、その実心の中では承諾《しょうだく》する気でいるような顔つきだ。
真美さんも真美さんだ。同じクラスにいるんだから、祐巳にだって由乃《よしの》さんにだって相談する機会はいくらでもあるのに。去年の新聞部部長である築山《つきやま》三奈子《みなこ》さまが、前薔薇さまたちを取り込んでイベントを実現させたものだから、同じ手を使ったのだ。
「この話は、選挙が終わってからにしましょう。結果|如何《いかん》によっては、新聞部もこの計画を取りやめる可能性だってあるし」
それは、ここにいる二年生の誰か、もしくは全員が選挙に落選する可能性を憂慮《ゆうりょ》しての発言だろうか。
確かに、今は|つぼみ《ブゥトン》と呼ばれていても、次期生徒会役員にならないならば来期はただの一生徒。選挙に立候補する予定がない乃梨子ちゃんだって、万が一志摩子さんが落選したら、もう|つぼみ《ブゥトン》とは呼ばれなくなるのだ。
「では、バレンタインデーのイベントについては保留ということで。三月には山百合会主催で、『三年生を送る会』をいたします」
この辺までくると、祥子さまも令さまもほとんど発言はしなくなった。何といっても、自分たちが送られる立場である。
いつまでも主催者サイドにはいられない。
無言でいることが、そんなメッセージを含んでいる気がした。
「あ。私受験生だし、今後なかなか会合に出られなくなると思うけれど、よろしく」
会議の最後に付け加えられた令さまの言葉が、追い打ちを掛けた。
5
帰り道。
祥子《さちこ》さまはいつもと何も変わらなかった。
祐巳《ゆみ》がカップの片づけをしている時も、令《れい》さまと雑談して笑っていたし、薔薇《ばら》の館《やかた》から出て校舎の廊下《ろうか》を歩いている時も、靴《くつ》を履《は》き替えるために一旦別れて昇降口で再会した時も、並木道を揃《そろ》って歩き出した時も、不自然に祐巳の側に来たり逆に祐巳を避けたりすることなく、絶妙なポジションで気候の話をしたり、二年生の会話に突っ込みを入れたりしていた。
普通、妹との関係がギクシャクした後だったら、意識して自然に振る舞えないものではないだろうか。
少なくとも、祐巳はそうだった。由乃《よしの》さんのおしゃべりに相づちを打っていても、祥子さまの方をチラチラ気にして見てしまう。
お姉さまは、どう思っているだろうか。そんなことを考えてしまう。
けれど、祥子さまにはまったくそんなそぶりはない。だから、目が合うこともない。かといって全《まった》くの無視ではないから、何回に一回かはこちらに視線を向けた祥子さまと目が合うこともある。そんな時、祥子さまは「ん?」と言うような表情でほほえむ。別に用事があったわけではないから、祐巳が先に目をそらせば、それきり何も聞いてこない。
図書館前を通る時、ブックポストにチラリとも視線を向けなかったところからすると、もう祥子さまはあの出来事を忘れているのかもしれない。ぐずぐず引きずっているのは、きっと祐巳だけなのだ。
お姉さまはそんなことくらいでは動じない、大人なのだ。
分かれ道のマリア像に手を合わせて、祐巳は祈った。
(もっと、強くなれますように)
お姉さまがいなくても、しっかり立って歩いていけるような、そんな強い人間に。
でも、そんな願いとは裏腹に、お姉さまがいなくなっても平気でいられるような自分にはあまりなりたくない、なんて思ってしまう。
強くならなければならない。
けれど、いつまでもお姉さまの側で笑っている、甘えん坊の祐巳のままでいる方が、自分ではずっと好ましいと感じるのだった。
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説明会と密会
1
『本日三時四十五分より、生徒会役員選挙に関する説明会を行います。来期の生徒会役員に立候補を検討《けんとう》されている一年生二年生の生徒は、時間までに講師室隣の選挙管理委員会事務所にお越し下さい。尚、本日は立候補の届け出を受け付けるものではありませんのでご了承《りょうしょう》下さい。くり返します。本日――』
授業が終わり、ホームルーム直後から掃除《そうじ》の時間にかけて、高等部校舎には数回にわたって同じ内容の校内放送が流れている。
中には、突然飛び込んできたお知らせのように思う生徒もいるようだが、学校新聞であるリリアンかわら版の年末特大号の片隅には三学期の始業式の翌日に選挙の説明会があるという記事がちゃんと載っていた。それよりさかのぼって十二月の初めにはすでに、十一月末日をもって解散した「学園祭実行委員会」より引き継いだ委員会ボードのスペースに選挙管理委委員からのお知らせが掲示されていたわけだから、唐突《とうとつ》でもなんでもないのである。
それでも、やはり今日の放送でそのことを知った生徒は、まだ知らない人がいるはずだと思うらしく、親切心からか掃除《そうじ》区域にまで祐巳《ゆみ》たちを探しに来てはそのことを教えてくれたりした。
実のところ、校舎から離れてゴミ捨てに行っていたとしても、かすかに放送は聞こえるものだし、薔薇《ばら》の館《やかた》にも委員会ボードに貼られたのと同様のお知らせが昨年中に届けられていたし、リリアンかわら版なんて編集長がクラスメイトなんだから、祐巳の場合何重にも知る機会があったわけだけれど、皆さんのご厚意《こうい》はありがたく受け取った。だって、それは即《すなわ》ち「選挙にでるんでしょ? がんばって」のメッセージにも聞こえたから。
掃除が終わった由乃《よしの》さんと連れだって、二年|藤《ふじ》組の志摩子《しまこ》さんを誘ってから選挙管理委員会事務所に向かった。時間は三時半を少し回ったところで多少早かったけれど、五分やそこら薔薇の館に行っても何もできないし、遅刻するよりましだから。
集合場所である選挙管理委員会事務所は、講師室の隣にある。たとえその場所を放送で聞き漏《も》らしていても、またお知らせに書かれていたはずなのにうっかり失念してしまったとしても、部屋の扉には今年に入ってから大きく『選挙管理委員会』というプレートが掛けられているので、今学期に入って一度でもこの部屋の前を通ったことのある生徒ならば、決して忘れないはずだ。
廊下《ろうか》には、部屋の扉を取り囲むように、生徒たちが集まっている。最初は、こんなにたくさんの立候補予定者がいるのか、ってビックリしたけれど、そうではなかった。
「あ、|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》」
一人の生徒が、志摩子さんに気づいて声を出した。すると、皆がどよめきとともに一斉にこちらを向く。
「|黄薔薇のつぼみ《ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン》に、|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》も……!」
一旦扉から離れて、三人を取り囲む生徒たち。二、四、六……全部で二十人近くいる。人波は講師室の出入り口の方にまで達し、帰ろうとしてドアを開けた先生が人の多さにギョッとしていたほどだ。
「|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》そして|つぼみ《ブゥトン》のお二人、選挙がんばってくださいね。私たち応援しています」
「あ、ありがとう」
集まっていたのは、説明会に来るであろう候補者を見るために集まった生徒たち。ほとんどが一年生と二年生だ。三年生は選挙権がないから、興味はあっても今ひとつ熱中できないのだろう。自分の進路のことも考えないといけないし。
中には、知った顔もある。
「こちらに視線ちょうだい。一枚だけ」
写真部のエース武嶋《たけしま》蔦子《つたこ》さんが、カメラを構えて叫んだ。思わず三人がそちらを向いたところを、パチリとやられた。
その隣には、新聞部の山口《やまぐち》真美《まみ》さん。リリアンかわら版で、生徒会役員選挙のレポート記事を載せるつもりなのだろう。紙面にでかでかと書かれた『|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》と紅・黄の|つぼみ《ブゥトン》、説明会に揃《そろ》って出席』なんて見出しが頭に浮かんだ。
「……乃梨子《のりこ》」
志摩子さんがつぶやいた。祐巳は気づかなかった。由乃さんもそのようだった。けれど、確かにちょっと人混みから離れた場所に、乃梨子ちゃんの姿があった。
皆からも気づかれてしまった乃梨子ちゃんは、押し出されるようにして前までやって来た。
「説明会、出る?」
祐巳は尋《たず》ねた。
「滅相《めっそう》もない」
両手を振って、後ずさりする乃梨子ちゃん。けれどギャラリーに阻《はば》まれて、それ以上は下がる場所がない。
「立候補じゃなくて。志摩子さんの付き添いとしてなら、説明会に出たっていいと思うよ」
「いえ。ちょっと気になったので、顔を見にきただけなんです。ですから、もう」
すると今度は由乃さんが、志摩子さんの肩を抱いて乃梨子ちゃんの目の前に連れていった。
「じゃ、思う存分見て行きなさい。ほらほら」
きゃーっというのは、乃梨子ちゃんでも志摩子さんでもなく、外野の声。当の二人は、そのままほほえみ合って言葉を交わす。
「薔薇の館で待っていますから」
「ええ。行ってくるわ」
「いってらっしゃい、お姉さま」
何か、すごい。もし自分が同じシチュエーションに立たされたら、ジタバタして赤面して逃げ回ってしまうだろう、と祐巳は思った。由乃さんだって、正直それを期待してからかったんだと思う。
しかし、さすが白薔薇姉妹は落ち着いている。その光景があまりに美しくて、蔦子さんは断りもなくシャッターを切っていた。
「説明会に参加される方は中にどうぞ」
選挙管理委員が扉を開けた。
「はい」
返事をして、三人は部屋に入った。後には誰もついてこない。説明会だから聞くだけは自由なのだが、立候補者であると誤解されることを恐れたのかもしれない。二年生は去年、蟹名静《かになしずか》さまが立候補したあの騒ぎを覚えているはずだし、一年生だって噂《うわさ》くらいは聞いているだろう。
部屋の中は、教室でいうところの教壇《きょうだん》の位置に机が五つ、それと向かい合うようにして生徒の位置に横並びに机五つが三列といった配置で置かれていた。
「参加者は、そちらの席に前から詰めてお座り下さい」
5×3の方の席を勧められ、三人並んで座った。立候補予定者は、まだ三人の他は誰も来ていなかった。
「本当は、十五個も必要ないんだけれどね。でも、何となく格好がつかないから」
教壇《きょうだん》側の席に腰掛けながら、実行委員の一人が笑った。この人は確か、英恵《はなえ》さん。初等部の時、一度同じクラスになったことがある同級生だ。真ん中の席に収まったところをみると、彼女が今年度の選挙管理委員長なのだろう。
「例年、立候補者は大抵三人。多くてもせいぜい五、六人でしょう?」
まだ三時四十五分になっていないから、これは雑談だ。立候補予定者三人が退屈しないよう、配慮《はいりょ》してくれているのだろう。
「今年の説明会も、委員の方が多いのかな」
前に五つ机があるし、実際に祐巳たち以外にこの部屋にいる生徒は五人ということは、今日の説明会は五人の委員が出席ということなのだろう。ちなみに、選挙管理委員は二年生と一年生の各クラスに二人ずついる。全員出席の会議になると、この部屋では入りきらないだろうから別の部屋で行われるのだろう。
「いつもは、もっと……何ていうのかな事務所みたいな机の配置なの」
祐巳がぐるりと部屋を見回すのを受けて、委員の一人が言った。
英恵さんは腕時計を見る。祐巳もつられて、自分の左腕をひっくり返してみた。
まだ、あと三分くらいはある。
(あ)
確認した後で、目の前の壁に時計がくっついているのに気がついた。英恵さんにとっては背後だから、わざわざ振り返ることをしなかったのだろう。
その心の動きが、いつものようにしっかり顔に出ていたようで、正面の英恵さんが笑いを堪《こら》えて震えていた。その英恵さんを見て、由乃さんと志摩子さんが首を傾《かし》げていた。
そりゃそうだ。雑談の途中で時計を見たかと思ったら、突然笑い出したんだから、何がおかしいのかわからないだろう。
「そろそろかしら」
やっと笑いが収まった英恵さんがそう告げると、立って書類の整理などをしていた、他の四人の委員もそれぞれ着席した。
「それでは、これより来年度の生徒会役員選挙の説明会を行います。よろしくお願いします」
どういう作法《さほう》が正しいのかわからないけれど、何となくその場の雰囲気《ふんいき》で、全員「起立、礼」をしてから始まった。
「まずは、皆さんのお手もとにプリントをお配りします。これは、この説明会限定の資料ではなく、希望者にはここ選挙管理委員会事務所において、お渡しする物です。ですから、もし立候補を検討《けんとう》されていたにもかかわらず本日やむを得ず欠席した、という生徒をご存じの方は、是非《ぜひ》ともそのことを教えて差し上げてください。配布期間は、本日より立候補締め切り日までです」
配られたプリントを見ながら、三人はうなずく。
「まず、書かれている内容の説明と若干《じゃっかん》の補足をこちらからさせていただき、その後で質問事項などございましたらお答えしていくという形で進行して参ります。それでは」
英恵さんが第一項目を読み上げようとした時、部屋の外がにわかに騒がしくなった。一旦中断して、廊下《ろうか》側に顔を向ける一同。
「ちょっと、気になるわね」
英恵さんがつぶやき、その左隣に座っていた一年生の委員が、立ち上がって様子を見にいった。
実は祐巳も、「起立、礼」くらいの時から、しゃべり声がするなとは思っていた。けれど、部屋の外は廊下である。放課後で一般生徒が普通に往来する時間帯なのだから、多少のおしゃべりが説明会に届くのは致し方ないことだと納得していた。
だが、もはやそうも言っていられないほど、その音量は徐々に大きくなっていったのだった。つまり、説明会に支障が生じるくらいには。
どんな感じかというと、何ていうのか、押し問答みたいな、多少けんか腰な感じで。言い争っている、までいくと大げさかもしれないけれど。
一年生委員が扉を開けた。すると、さらに音量が上がって、その後ピタッと収まった。さすがに中から人が出てきたら、白熱した会話も一時中断するだろう。
廊下に出て騒ぎの元凶《げんきょう》を問いただした一年生委員は、戻ってきて英恵さんに耳打ちした。
「説明会には誰でも出ていいのよ。入れてあげなさい」
報告を聞いた英恵さんの第一声は、それだった。
どうやら、遅れてきた誰かがこの部屋に入ろうとしたことで、外で待っていた生徒たちともめたらしい。
説明会には誰でも参加できる。ただ、その生徒が入室しようとしてもめたということは、それなりに理由があるのだろう。とにかく事情を聞くのが先決だと英恵さんは判断し、後輩に子細《しさい》を尋《たず》ねた。
「いったい、どうして。何の権利があって、他の生徒が阻止《そし》するの」
「それが。最初は、どうやらただの見学だと思われたらしくて。みんなが遠慮《えんりょ》しているのに、一人で入るなんてずるいとか、そういった感じだったようなんですけれど」
「見学……?」
「廊下にいる全員が入室できるほど、この部屋はスペースがありませんし」
扉の外で聞き耳を立てていた大勢の生徒たちからしてみれば、堂々と話を聞こうというたった一人を許せなかったのだろう。それがたとえば乃梨子ちゃんだったら、志摩子さんの妹だから仕方ないと納得できたかもしれないけれど。
「そうね。でも、その人は見学ではないと言ったのね?」
英恵さんが後輩にそう尋《たず》ねた時、黙って聞いていた祐巳たち三人は思わず顔を見合わせた。ちょっと、タイム。
見学ではないのに、説明会の会場に入ろうとした。ということは、その人は即《すなわ》ち、立候補予定者にほかならないのではないか、と。
実はこの選挙、立候補者の数によって形式が変わってくるのだ。まだ受け付けは済んでいないけれど、立候補者が四人以上になったら、通常の投票式の選挙が行われる。三人のままだと、信任投票である。
「はい。立候補を考えている、と言っています。そうしたら、今度はもう時間が過ぎているから、という話になって。入れろ入れないで騒ぎになったらしいです」
「なるほど。ちょっと口論になったから、すんなり前をあけたくなかったわけね。困った人たちだこと」
やれやれ、と英恵さんはため息をついた。面倒くさいことになったものだ、と。
「あ、あの」
説明会を聞きにきた一候補が選挙管理委員に何か言える立場ではないかもしれないけれど、祐巳はつい、口を挟《はさ》んでしまった。隣で志摩子さんも由乃さんも、「何を言い出すつもりなの、祐巳さん」って顔をした。
「何かしら?」
英恵さんは祐巳に、意見を言うことを許してくれた。
「その方、入れて差し上げるわけにはいかないでしょうか。時間が過ぎたといっても、説明会が始まる少し前から押し問答のような声は聞こえていましたし、他の生徒たちに阻《はば》まれなければ時間ギリギリには入室できたはずです」
説明会に出なくても立候補はできる。でも、立候補をするつもりならば、説明会に出た方が今後の選挙活動にはいいに決まっている。
新たなる候補者は、ライバルかもしれないけれど、同じ目標に向かって頑張《がんば》る同志でもある。現役《げんえき》と現役の妹を相手に戦う彼女は、最初からハンデを背負っているといっていい。
こんなことで出遅れるなんて、気の毒だと思った。別に、いい子ちゃんになりたいわけではない。単に、気持ちが悪いだけだ。
「もちろん。誰も入室させないなんて言ってやしないわ。放送だって、委員会ボードのお知らせにだって、リリアンかわら版にだって、一分でも遅刻したら入室させませんなんて言っても書いてもいないんですから」
「それじゃ――」
英恵さんはうなずいた。
「その人、入れてあげて。あ、いいわ。私が行く」
英恵さんは立ち上がった。確かに一年生委員が行くより、二年生の委員長が行った方が阻止《そし》していた人たちを説得しやすいだろう。
一旦部屋を出て程なく戻ってきた英恵さんは、まず最初に複雑な顔をして祐巳を見た。それから、「お入りなさい」と言って後方にいた生徒を招き入れる。
その人を見て、祐巳は言葉を失った。
祐巳だけではない。志摩子さんも由乃さんも、他の選挙管理委員たちも、皆が口を開けて驚いた。
「ごきげんよう。お邪魔《じゃま》します」
そこにいたのは、瞳子《とうこ》ちゃん。
電動ドリルのような縦《たて》ロールを揺らして、にこやかにほほえんだのだった。
2
乃梨子《のりこ》は、校舎の廊下《ろうか》を歩いていた。
説明会の会場の側まで行ってしまったのは、志摩子《しまこ》さんの顔を一目見たかったから。
だから、一目見たからにはもうその用事はおしまい。薔薇《ばら》の館《やかた》に帰って、お茶の支度《したく》をしながらゆっくり待つことにしようと思った。
本当は、直前まで行くつもりなんてなかった。教室の掃除《そうじ》が済んだ後、薔薇の館に行って、簡単な掃除をして、電気ポットでお湯を沸かして、さて次は何をしようかと考えた時、何の気なしに時計を見たら三時三十五分だった。
説明会が始まる時間は知っていた。
三時四十五分までは、あと十分。もう、志摩子さんは説明会に向かっただろうか。――あの時、薔薇の館の二階で一人、そんなことを考えた。
志摩子さんのことだから、余裕《よゆう》をもって行くだろう。でも、例えば掃除日誌を出しにいったりしていたら、今くらいになってしまう可能性だってあるだろう。そう思った瞬間、乃梨子は椅子《いす》を立ち上がって校舎に向かって歩き出していたのだ。
一目、志摩子さんに会いたい。いいや、会場に入るその姿を一目見られればそれでいい。
もし、もう部屋の中に入ってしまっていたとしたならば、扉の前までいって帰ってこようと思った。それでも、何もしないで薔薇の館にいるよりはましだった。
志摩子さんの姿なんて、いつでも見られる。昨日だって一緒《いっしょ》だったし、今日だって説明会が終わったら薔薇の館に来ると言っていた。だから、本当のところ志摩子さんの顔を見たくて行ったのではないのかもしれなかった。
ただ、志摩子さんがいない場所で、志摩子さんのことを考えながら待ち続けることが厳しくて。つまり、いてもたってもいられなかったのだった。
講師室の側には、人が結構詰めかけていた。
説明会に出るということは、生徒会役員選挙に立候補するという意思表示でもある。みんな、未来の生徒会長候補を見るために、ここに集まっているようだった。
飛び交うおしゃべりを小耳に挟《はさ》んだところ、まだ三人とも来ていないらしい。写真部のエースの姿も、新聞部の部長の姿もあった。
程なく、志摩子さんと祐巳《ゆみ》さま由乃《よしの》さまがやって来た。乃梨子は、三人の姿を遠巻きに眺めた。
志摩子さんは特に緊張した様子もなく、声をかけてきた生徒たちににこやかに笑いかけている。それを見て乃梨子の中の焦るような心持ちも、スーッと引いていった。
たぶん、このためだけに来たのだ。乃梨子にはそれがわかった。
志摩子さんと二、三言葉を交わして別れた後、再び薔薇の館に向かった。薔薇の館に帰って、お茶の支度《したく》をしながらゆっくり待つことにしよう、そう思った。
軽くなった足取りで校舎の廊下《ろうか》を歩いていると、向こう側に瞳子《とうこ》の姿を見つけた。
「瞳子……」
乃梨子は足を止めた。瞳子はこちらに気づくと、憎らしいほど可愛《かわい》らしく笑った。
「待って」
そのまま通り過ぎようとするから、腕を掴《つか》んだ。
「私、あなたに話がある」
「話?」
「そうよ、話」
|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》に祐巳さまとのことは「放っておいて」と言われていたけれど、やはり乃梨子はそのまま黙って見ていることなんてできなかった。祐巳さまは、同じ薔薇の館に集まる仲間であるけれど、瞳子は自分の友達なのだ。瞳子の側からの気持ちを聞かせてもらう権利くらい、あるのではないか。
「悪いけれど、明日にして」
瞳子は冷ややかに言った。
「明日?」
「今、急いでいるのよ」
「わかった。明日ね」
乃梨子は手を離した。今でなくても、同じクラスなのだから話す機会はいくらでもある。
「明日、休んだりしないわよね」
「来るわよ。疑り深いのね、乃梨子さんは」
小さく笑って、瞳子は背中を向けた。しばらくその後ろ姿を目で追ってから、乃梨子は再び歩き出した。
薔薇の館に戻ると、二階の部屋には|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》と|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》がいた。
「ご苦労さん」
|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》が、自分たちでいれたお茶をすすりながら言った。
「そろそろ帰ってくる頃だと思っていたわ」
|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》が、乃梨子にカップを差し出す。
「……いただきます」
それだけのことなんだけれど、なぜだか三年生のお二人が、いつもよりずっと大人に、そしてずっと遠くに感じられた。
3
「瞳子《とうこ》ちゃんが、どうして――」
委員に指示されて祐巳《ゆみ》の隣の席につく瞳子ちゃんを目で追いながら、祐巳はやっとのことで声を絞《しぼ》り出した。
「説明会に出た方が、選挙のためになりますもの」
ということは、やはり見学者ではなくて、立候補予定者ということだ。
「でも、一年生なのに」
「あら、だって。去年は志摩子《しまこ》さまだって一年生でいらしたでしょ。何も不思議なことではありませんわ」
でも、それは前|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》と志摩子さんが二学年離れていたから。|白薔薇のつぼみ《ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトン》として、その跡を継ぐには一年生で立候補するしかなかったのだ。
(でも)
考えてみたら、|つぼみ《ブゥトン》が当然次代の薔薇さまになるというリリアンの「常識」自体が、何か変な気がした。
もちろん、民主主義に反するその「常識」をそれでいいのかと問いかけるために、選挙があるわけだけれど。それでも、大概《たいがい》は|つぼみ《ブゥトン》が薔薇さまに繰り上がる。
だから去年の選挙だって、ロサ・カニーナこと蟹名《かにな》静《しずか》さまは二年生でありながら落選した。
志摩子さんの場合は、しっかりしているし、人間的にも尊敬できる人だから、たとえ|つぼみ《ブゥトン》でなくても選ばれたのかもしれない。でも、中には向いていないのに生徒会長になった(もしくはならざるを得なかった)人だっていたのではないか。
それなら、自分の場合はどうだろう。祐巳は考えていた。
お姉さまに命じられて説明会には出た。でも、次期薔薇さまになれるだけの器《うつわ》があるのか。今は|つぼみ《ブゥトン》と呼ばれて皆に親しく声をかけてもらったりしているけれど、それは小笠原《おがさわら》祥子《さちこ》という偉大な姉がいてこその立場ではないのか。
祥子さまの妹は、自分以外にはいないという自信はある。
でも、生徒会長となると話は別だ。
それが瞳子ちゃんだとは言わないが、自分よりもっと相応《ふさわ》しい誰かが、高等部のどこかにいるのかも知れない。
祐巳が黙っているので、瞳子ちゃんはカンペンケースからシャーペンを取り出し、その頭を親指でノックしながら芯を出した。
カチ、カチ、カチ。
瞳子ちゃんは、どうして立候補しようとしているのだろう。
「それでは説明会を再開いたします。お手もとの――」
英恵《はなえ》さんの声がどこか遠くに聞こえる。
一年生委員が、正面の黒板に書いた文字も、何だか意味不明の暗号のように頭の中に入らない。
かといって、眠いわけではない。頭の中は、不思議なほどに冴えわたっている。ただ、それが外に向かないだけ。
どうして、どうして、どうして。
自分の内側に向かって、ひたすら自問をくり返す。
誰かが、プリントにメモ書きするさらさらとした音が聞こえる。何か、重要なことが話題に出たのかもしれない。
手を上げて質問をする志摩子さんの声は、ちゃんと耳には入っている。でも内容を理解できない。
みんなが立ち上がったから、一緒《いっしょ》に席を立って頭を下げた。
「どうしたの。大丈夫《だいじょうぶ》?」
由乃さんが、祐巳の肩を揺すった。
瞳子ちゃんは、真っ先に部屋を出ていった。選挙管理委員の五人は、黒板に書かれた文字を消したり机を移動させたりといった、会場の後片づけを始めていた。
説明会には参加したものの、何も頭に入らなかった。
「瞳子ちゃんのことで、頭が真っ白になったのね?」
志摩子さんが囁《ささや》く。私もビックリしたわ、と。
「あらら。祐巳さん、本当に見事に真っ白」
由乃さんが祐巳のプリントを見て笑った。
「仕方ない。後で写させてあげるよ。わからないことがあったら、聞いてね。仲間同士、助け合わないと」
「うん。ありがとう」
仲間って、本当にありがたい。心からそう思う。別にとり損《そこ》なったメモを見せてもらえるからじゃない。たとえ何もしてくれなくても、そこにいるだけで、ありがたいのだ。
そして、ありがたい分だけ、誰かに申し訳ない。そんな気持ちになるのだった。
4
「えっ……!」
薔薇《ばら》の館《やかた》に着いて、そこで待っていてくれたそれぞれの姉妹は、瞳子《とうこ》ちゃんのことを耳にすると一様に驚きの声をあげた。
誰も、そんなこと予想だにしていなかった。
その中でも、乃梨子《のりこ》ちゃんの驚きは相当なもので、驚きから怒りへと変動していくスピードたるやすごかった。何でも、説明会の開始直前に瞳子ちゃんと会ったらしい。
「だったら、あの時何で言わないのよ。急いでいる、なんて言葉|濁《にご》して。説明会に行くって言えばいいじゃない。ああっ、もうっ!」
これは瞳子ちゃんに対する| 憤 《いきどお》りだから、言葉が多少荒っぽくなったところで、そこに関してはみんな特に注意はしない。
「乃梨子ちゃん、落ち着きなさい。まずは座って」
祥子《さちこ》さまが、言った。
「これが落ち着いていられますか、って。祐巳さまの申し出を断っただけじゃ足りなくて、今度は選挙に出るだなんて。何考えているんだか、瞳子は。瞳子は――」
「そう。ここは落ち着いて瞳子ちゃんが何を考えているのかを、考えてみるべきじゃないかしら」
冷ややかに見つめられ、徐々にヒートダウンしていく乃梨子ちゃん。確かにその通りだと思ったのだろう、うなずいてから、つい勢いで立ち上がってしまった椅子《いす》に、改めて座り直した。
志摩子《しまこ》さんや由乃《よしの》さんがそれに倣《なら》って座ったので、祐巳も、祥子さまの隣の席に静かに腰を下ろした。
テーブルの上には、乃梨子ちゃんが準備しておいてくれた渋い緑茶が温かい湯気を立ち上らせている。これは、まだ瞳子ちゃんが説明会に来たなんて知らなかった平和な心持ちの時、二年生たちが帰ってくるのを二階の窓から見ていていれてくれたものだ。
全員が着席して、喉を湿らせると、祥子さまが口を開いた。
「乃梨子ちゃんは、瞳子ちゃんがどうして生徒会役員選挙に出ようと決めたのだと思う?」
「えっ」
いきなり核心を問われて、乃梨子ちゃんは少しだけ怯《ひる》んだ。勢いで喚《わめ》いてしまったけれど、自分が何に対して腹がたったとか、その人の行動の何が問題なのかなんて一々|分析《ぶんせき》した上で怒っているわけではないのだ。ましてや、瞳子ちゃんの考えていることなんて、わかるはずはない。
「単なる憶測でいいわ」
「憶測、ですか?」
「友達なのでしょう? 乃梨子ちゃんの目から見てどうか、それを聞きたいの」
一年前|蟹名静《かになしずか》さまは、当時|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》だった佐藤《さとう》聖《せい》さまに自分の存在をアピールするべく生徒会役員選挙に出た。でも瞳子ちゃんの場合、たぶん同じ理由には当てはまらないだろう。なぜなら、瞳子ちゃんはこれまで十分すぎるほど存在を主張してきたからだ。
だったら、なぜ。何のために。
純粋に、生徒会の仕事をやりたいと思っての決心ではない。言葉に出さなかったけれど、この場にいた全員が同じように考えているようだった。
「どんなささいなことでもいいの」
参考までに、と祥子さまが言った。それを聞いて、乃梨子ちゃんは少し考えるようにうつむいた。すると、今度は令《れい》さまが質問をする。
「さっき乃梨子ちゃんは、祐巳ちゃんの申し出を断っただけじゃ足りなくて、みたいなことを言っていたけれど。それって、嫌がらせって意味?」
「嫌がらせ……ちょっと違うような。でも、当てつけというか……、当てつけも言葉が悪いかも。漠然《ばくぜん》としてしまいますが、祐巳さまを意識してるということはあると思うんです」
「祐巳ちゃんをね。確かに、祐巳ちゃんが姉妹《スール》の申し込みをして瞳子ちゃんが断るといった出来事がなければ、あるいは立候補のことなんて考えなかったかもしれないね」
令さまは腕を組んで、椅子《いす》の背もたれに身体《からだ》を反らせた。
「私が、ロザリオを差し出したから……」
瞳子ちゃんの怒りに触れた。たぶん、そうなのだろう。あの時、瞳子ちゃんが見せた表情。それは一言でいうなら「不快」だった。
「祐巳さん。だからといって、ロザリオを差し出したことが間違いだったなんて、思わないで。それとこれとは別の話だわ」
志摩子さんが言った。
「それに、瞳子ちゃんが生徒会役員選挙に立候補することが、イコール好ましくないことではないはずですから」
すると、横から由乃さんが口を挟《はさ》んだ。
「そんなこと、わからないわよ。もし瞳子ちゃんが万が一当選したら、私たちの誰かが落選するってことなのよ。志摩子さんは、そんなことを許していいと思っているの?」
「でも、私たちが正義ではないわ」
「正義とか正義じゃないとか、そんなこと言っているんじゃないわよ。私は、ただ大好きな仲間たちと離れたくないだけなの。ええ、言いたいことはわかるわよ。確かに私は自己中心的でしょうよ。それで結構。でもね、感情的に口走った言葉の中にだって、大切なことはたくさん入っているんじゃないの? みんなが志摩子さんみたいに、他人のことを思いやって発言ばかりしていられないっていうの」
どうだ、と半ば開き直りのようにふんぞり返る由乃さん。機関銃のようにまくし立てられた志摩子さんは、その勢いに驚いてちょっぴり椅子《いす》の上で硬直した。普通の女の子だったら、怖くて泣いちゃいそうなところだけれど、大人びた志摩子さんのこと、もちろんそんなことはない。気を取り直してほほえむと、由乃さんの意見で間達っている部分を理論的に指摘する……と思いきや。
「……由乃さんの、そういうところ好き」
タンポポの綿毛《わたげ》のように、フワリとそんな言葉を飛ばしたのだった。
「えっ!?」
驚いたのは、祐巳だけではない。発言した志摩子さん以外、みんながビックリして目が点になっていた。中でも、由乃さん自身の驚きが一番すごかった。
[#挿絵(img/24_113.jpg)入る]
「し、志摩子さんっ。いったい、な、何をっ」
顔を真っ赤にして怒る。いや、怒るというポーズはとっているものの、中身は紛《まご》う方なき照れである。
本人も自覚している通り、感情的に言いたいことを言ってしまったのだから、やはり、当然反論がかえってくると覚悟していたわけで。志摩子さんがどんなボールを返してくるか構えて待っていたところ、返ってきたのが「好き」である。まあ、脱力もするわな。
「これからも、自分の意見をはっきり言い合いましょうね」
志摩子さんは両手で由乃さんの手を取って、握手のように振った。
「えっ、ああ、はい」
何か、うまく志摩子さんのペースに乗せられてしまったみたいで、由乃さんは調子を狂わせてしまった。祥子さまと令さまが、顔を見合わせて笑いをかみ殺している。
「由乃ちゃんじゃないけれど、三人がバラバラになってこの二人のコンビが見られなくなるのは寂しいわね」
「本当に」
祥子さまの言葉に、令さまもうなずく。
「志摩子と由乃は静と動だからちょうどいい。生徒会は、突っ走りすぎても動かなくなっても困るからね。そして、そこに祐巳ちゃんの緩衝材《かんしょうざい》だ。順当にいったなら、いい薔薇さま三人組になるだろうけれど――」
でも、瞳子ちゃんがいるから。その言葉を呑《の》み込んで、令さまは再び乃梨子ちゃんに向き合った。
「ごめん。話が横道に逸《そ》れちゃった。瞳子ちゃんは祐巳ちゃんを意識している。その他に、何かある?」
「申し訳ありません。特に思い当たることは……あ」
乃梨子ちゃんは小さく叫んだ。何か、思い出したらしい。
「何?」
「ずいぶん前ですけれど、クラスメイトが話しているのを耳にしたんですが」
「うん」
「瞳子は、ずっと薔薇さまになりたがっていた、って」
「薔薇さまに……」
「入学して間もなく、瞳子と一緒《いっしょ》に中等部から上がってきたクラスメイトが言っていたことですから、具体的にどなたの妹になりたいとかそういった話ではなく、漠然《ばくぜん》と、ゆくゆくは……みたいな憧《あこが》れのようなものだったのでしょう。でも、そんな夢を抱いていたのは、瞳子だけじゃないようですが」
でも、瞳子ちゃんはその夢を現実にするべく立ち上がったということなのだろう。だとしたら、誰が瞳子ちゃんの決心を止められるのだ。
いいや、たとえそれが不純な動機からであろうと、瞳子ちゃんの立候補に反対する権利なんて誰にもない。できるとしたら、それは瞳子ちゃんのお姉さまにほかならない。お姉さまだったら、どうしてそんなにも薔薇さまになりたいのか問いただして、そして納得いく答えが返ってこなければ「考え直しなさい」と言うことができるだろう。
「わかったわ、ありがとう」
令さまはお礼言って、乃梨子ちゃんとの会話を切り上げた。もう、これ以上の情報は得られないと判断したのだろう。
「これはしばらく様子見かしらね」
「選挙が終わっても、様子見のままでいる可能性すらあるかも」
「どっちみち。私たちはもう、見ているくらいしかできないのだったわね」
「その通り」
祥子さまと令さまは、目配せして笑った。さっきまでちょっと心配顔をしていたのに、もう高みの見物を決め込んでいる。そういえば、去年の薔薇さまたちもそうだった。自分たちを楽隠居《らくいんきょ》とか喩《たと》えながら、妹たちが右往左往《うおうさおう》する様子を、上から面白おかしく眺めるのだ。時折突っついたりしながら。
「信任不信任の投票より、目で見える人間を相手に戦った方が張り合いがあるものよ」
去年静さまという目に見える相手がいた人たちが言うわけだから、「そんなわけはない」と突っぱねるわけにもいかない。
「そんなになりたかったんなら、祐巳さんを断らなければよかったのに」
由乃さんがポツリと言った。
「由乃」
令さまが止めたけれど、そのまま続けた。
「だって、そうしていたら祐巳さんの後の|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》に一番近い存在になれたのよ。どうして断ったのかしら」
そのことは、祐巳も考えた。
瞳子ちゃんにはお姉さまがいない。夢の薔薇さまに近づくためなら、たとえそんなに乗り気でなくても、祐巳のロザリオを受け取ればいいのではないか。以前薔薇の館に手伝いに来てくれた時、ちゃんと仕事もできたし仲間たちとも馴染《なじ》んでいた。その延長線上に祐巳の妹という立場を置けば、一年間くらい我慢できるのではないのか。
「一年間なんてとても耐えられないほど、私の妹になることが苦痛……とか」
そんなに嫌われているようには感じなかった。むしろ、好かれているのではないかと感じる瞬間さえあった。
でも、それは多分に自分の希望が注入された結果であって、本当は相当に嫌われているのかもしれない。祐巳は鈍感で、察することができないだけで、瞳子ちゃんからは常に嫌いビームが出ていた、そんな可能性だってある。
好き。
嫌い。
好き。
嫌い。
千切《ちぎ》る花びらはないけれど、花占いのように心が二つに揺れる。
「瞳子は、祐巳さまのことを嫌ってなんかいません」
自分だけでなく乃梨子ちゃんが言うのだから、間違いない、と思いたい。
「わかった。本当はロザリオを受け取らなかったことを後悔《こうかい》していて、選挙に勝ったら祐巳さまを姉に逆指名する気だっていう推理は……ないですね」
励《はげ》まそうとがんばってくれたけれど、乃梨子ちゃん自身が自覚しているように、その推理にはかなり無理があった。
ここで論議をしたところで、瞳子ちゃんを捕まえて「何で?」と聞かない限り、答えなんて出ないのかも知れなかった。
だから今は。
「瞳子ちゃんには瞳子ちゃんの事情があるのかもしれないわ」
志摩子さんがつぶやいたように、そう思うしかないのだろう。
5
翌日の朝には、瞳子《とうこ》の生徒会役員選挙出馬の話題は、すっかり高等部内に広まっていた。
昨日の放課後、選挙管理委員会事務室の前にはたくさんの人が集まっていて、瞳子がかなり強引に説明会会場に入っていったのを見ていた。そのため、直後からこの話題は結構なスピードで流れ、帰宅した友人には夜電話でお知らせするといった、親切なんだか大きなお世話なんだかわからない生徒たちの力を借りて、あっという間に広まっていったのだった。
「ごきげんよう。知っている? 一年|椿《つばき》組の松平《まつだいら》瞳子さんの話」
それが、今朝《けさ》方々《ほうぼう》で聞かれた挨拶《あいさつ》である。お昼頃には、先生たちにも知れ渡っていた。
瞳子は、休み時間のたびにクラスメイトたちに取り囲まれていたけれど、何を聞かれてもずっと黙《だんま》りを決め込んでいたら、そのうち誰も寄らなくなった。
すると、今度はその興味が乃梨子《のりこ》の方に飛び火する。志摩子《しまこ》さんも説明会に行ったことで、立候補予定者とされているわけだし、そうなると乃梨子は渦中《かちゅう》の人物の妹。薔薇《ばら》の館《やかた》での様子なんかを少しでも聞きたいと、みんながさりげなく側に寄ってきて、雑談のように話しかけてくるのだった。
本当のところ、無視したい。けれど、瞳子にそれを先にやられたからには、なかなか同じ方法は使えない。クラスメイトたちだって悪気はないのだ。続けざまに知らんぷりされるのも、気の毒な気がするし。
「ごめんなさい。私もよくわからないの。説明会の時間は薔薇の館にいたし、薔薇さまや二年生のお姉さま方たちも、特に何か対応をお考えではないようだし」
取りあえず、そう繰り返し、休み時間は極力トイレに籠《こ》もって嵐が過ぎるのを待つことにした。こんな風に逃げ回るのは自分らしくない気もしたけれど、自分は志摩子さんの妹であり、その言動は自分だけに跳ね返るわけではないと肝《きも》に銘《めい》じておかなければならない。変に目立ったり不用意な発言で誤解されたりしたら、志摩子さんに迷惑がかかるのだ。
瞳子と話をしたかったけれど、そういったわけで、人目がありすぎて行動を起こすこともままならない。
昼休みは、薔薇の館に逃げ込んで一息ついた。やはりどなたも同じ、もしくはもっと大変な状況のようで、二年生の三人も何だかグッタリ疲れていた。|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》も|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》も来ていなかった。三年生は選挙権がないから、それほど周囲は騒がしくないのかもしれない。
会話もあまり弾まないままお弁当を食べ終えると、乃梨子は「ちょっと用事があるので」と薔薇の館を出た。
昼休みが始まって間もなくは薔薇の館の前で中の様子を窺《うかが》っていた生徒たちも、今は見当たらなかった。しばらくは誰も館から出てこないと判断したのか、どこか暖かい場所でお昼ご飯を食べているのかもしれない。
校舎の裏をぬけて、黙々と歩く。目指す建物は講堂。その裏に、乃梨子は用があるのだ。
外気が冷たかった。そのせいか、人の姿はほとんど見られない。
昼休みの始まりと終わりにはミルクホールへの行き来で、この辺りは生徒の数も多くなる。また、いい気候の時期であれば、始まりとか終わりとかに関係なく、昼休み中そこかしこで散歩を楽しむ生徒たちの姿が見られる。
けれど今は真冬。それも昼休み半ばという中途半端な時間に、寒さに震えながら、こんな辺鄙な場所に行こうなんて物好きはそうはいない。だから選んだ。読みは間違っていなかったということだろう。
「瞳子」
その人は、すでに来ていた。
「遅いわよ。呼び出したのなら、先に来て待っていなさいよ」
「本当に来てくれるとは思わなかった」
ちょっと感動している自分を、乃梨子は数歩下がって眺めるみたいに感じていた。
「四時間目が終わって教室を出る時に、机の上に一方的にゴミみたいなメモを落としていかれたら、断る手段なんてないじゃないの。たとえ嫌でも」
瞳子は苦笑した。手には、レポート用紙半分の紙片を掲《かか》げて。それはさっき乃梨子が瞳子|宛《あて》に書いた手紙だった。――『三十分後、講堂裏で待つ 乃梨子』
「でも」
それこそ、無視したってよかったのだ。休み時間にまとわりついてくる、クラスメイトたちにそうしたように。そのまま知らんぷりして、「気づかなかったわ、ごめんなさい」って笑ってお終《しま》いにすることだってできたはずだ。
それなのに来てくれた。この寒い中。
「ありがとう」
「話をするって約束したしね」
そんなに強くはないけれど、とても冷たい風が木々の間をぬけていく。葉を落としてもうずいぶんと経つ、銀杏《いちょう》の木や桜の木はとても寒そうだ。
「どうして」
並んで枝の間の曇り空を眺めながら、乃梨子はつぶやく。ずっと心の中で繰り返してきた単語を、瞳子に向けて解き放つ。
「どうして、って?」
瞳子は聞き返してきた。「どうして」とはいったい、何を指して言っているのか、と。
「何をって……」
どうして祐巳さまの申し出を断ったのか。
どうして、生徒会役員選挙に出ようとしているのか。
どうして、何も話してくれないのか。
どうして――。
込み上げてくる疑問符の数々を、花束を作るように一つ一つ握り拳《こぶし》の中に納めていく間に、乃梨子はわかってしまった。
「いろいろあるけれど、本当は一つじゃないの?」
たくさんの「どうして」に対して、答えはたった一つ。言い方とか細かい説明とかはそれぞれ違っていても、根本にある原因は一つであるような気がした。
「乃梨子さんて、時々難しいことを言うから、瞳子わからない」
瞳子はしなを作って笑った。
「誤魔化《ごまか》さないで」
こっちは真剣に話しているのだ。
今更《いまさら》「わからない」なんて、逃げられるとでも思っているのか。
いいや。瞳子は頭がいい。可愛《かわい》い子ぶって、しらばっくれたって、乃梨子相手にそれが通じないことくらいわかっている。
「そうね」
媚《こ》びるような笑顔をゆるめて、瞳子は言った。
「でも、あなたは『わからない』と言った私の言葉を真《ま》に受けたふりをして、『こんな子に何を言ったって無駄《むだ》だ』って引き下がることもできたのよ」
まるで、逃げ道を用意してくれたみたいな言い方だ。面倒くさいことにわざわざ首を突っ込むことはない、と。深入りすると傷つくと、そんな忠告にさえ聞こえた。
「そんなこと望んでいないわよ」
自分だけ安全な位置にいて、表面的なつき合いだけして、それで友達だなんて胸を張って言えなくなるくらいなら、いっそ瞳子に底なし沼に引きずり込まれた方がましだった。
「じゃあ聞くけれど」
瞳子が真っ直ぐに見つめてくる。
「いろいろあるけれど、本当は一つ。……もし乃梨子さんが言っている通りだとして。その答えとやらは、あなたに言わなければならないことなのかしら」
「えっ」
乃梨子は怯《ひる》んだ。その切り返しは予想していなかった。
「友達だったら、何でも言わなければならないのかしら」
正論だ。何も言い返せない。
「わかった。確かに、そうかもしれない」
深入りすれば傷つく、それはある意味正しかった。瞳子は、底なし沼に引きずり込んでもくれない。むしろそのことの方が、乃梨子に深い傷をつけた。
「行くわ」
瞳子は背を向けた。
「わかったなら、これ以上の話はないでしょ」
二人が一緒に教室に戻ると目立つ。それは乃梨子の為にならない。きっと瞳子は、そこまで計算している。そう思わずにはいられない背中だ。
「瞳子」
乃梨子は思わず声をかけた。すると、瞳子はゆっくりと振り返る。
「私、瞳子のこと好きだよ。いつだって、味方になりたいと思っている。けれど、今回のこと……選挙のことに関してだけはそれができない。私は、藤堂《とうどう》志摩子の妹で。立場だけじゃなくて、心からお姉さまに生徒会長になってもらいたいと思っている。だから、お姉さまを応援するね」
瞳子は軽く笑った。
「そんなの、当たり前じゃない」
「それから」
永遠の別れでも何でもないのに、涙が出た。五時間目には、また同じ教室で授業を受けるというのに。
「友達だって言ってくれて、うれしかった」
「お日出度《めでた》い人ね」
そんな皮肉っぽい言葉を言い置いて、瞳子は校舎に向かって歩き出した。
「あなたに相応《ふさわ》しいほどには」
瞳子を見送りながら、乃梨子はつぶやく。
友情って難しい。
ミルクホールから帰る生徒たちのおしゃべりが、かすかに耳に届いた。
[#改ページ]
一年椿組はふつう
1
「だーかーら」
由乃《よしの》さんが、ちょっとキレ気味に言う。
「説明会の時上の空だったとしても、プリントにちゃんと書かれているんだから。選挙の流れくらい読めばわかるでしょ、読めば。ここっ!」
昼休みの薔薇《ばら》の館《やかた》で。手にした書類をパシパシ叩いて。
「選挙の公示、立候補の届け出……」
祐巳《ゆみ》は多少押され気味で、「ここ」と示された箇所《かしょ》を音読した。ここは、素直に従っておいた方がいい。
「……立ち会い演説会、投票日……です」
由乃さんの攻撃が祐巳一人に集中しているのは、それなりの理由がある。同席している志摩子《しまこ》さんは、由乃さんの話にちゃんとした受け答えをし、尚かつ由乃さんがこれから何をしようとしているかまで完璧《かんぺき》に理解しているから。選挙に関しては当事者ではない乃梨子《のりこ》ちゃんでさえ、わかっている素振《そぶ》り。立候補予定者でありながら、上の空でいる祐巳がどうかしているのだろう。
「そう。それで、今日が立候補の届け出の初日。さ、行くわよ」
食べ終わったお弁当箱を、令《れい》さまお手製の巾着袋《きんちゃくぶくろ》に戻すや否《いな》や立ち上がった由乃さん。
「行くわよ、ってどこへ?」
「何聞いていたのよ。選挙管理委員会事務所よ。この期《ご》に及んで、よもや、選挙管理委員会事務所がどこにあるかなんて質問をしやしないでしょうね」
「……講師室の隣です」
「よろしい。では、そこに我々は何しに行くの」
「……立候補の届け出?」
「何、その語尾の| ? 《クエスチョンマーク》は。自分たちのことでしょっ。疑問形で言わないでよ。祐巳さん、自覚が足りなさすぎっ」
開いたままのプリントが、頭の上に何度も降ってくる。昔はもっと遠慮《えんりょ》ってものがあったと思うのだが、このところ由乃さんは令さまを相手にするみたいに容赦《ようしゃ》がない。A4三枚だから、痛くはないけれど。
「でもさ」
プリントを避けながら、祐巳は言った。
「何も初日に、わらわら届けを出しにいかなくったって」
「まーっ」
わざとらしく目をむく由乃さん。
「ほら。だって、去年の志摩子さんなんて、ギリギリもギリギリで、ラスト一時間を切っていたことだし」
視線を流すと、志摩子さんは「そんなこともあったわね」と笑った。でも今年は、「そんなこと」はなさそうだ。由乃さんと一緒《いっしょ》にこれから選挙管理委員会事務所に行くべく、立ち上がって準備している。
「志摩子さんだってあの時はいろいろ悩んで、迷っていたんだよね。だったら、私だって少しくらい悩んでも――」
志摩子さんの「いろいろ」っていうのは、自分は一年生だし、もしかしたら二年生のロサ・カニーナの方が相応《ふさわ》しいのではないかしら、とかそういう心の葛藤《かっとう》だ。当時は、家がお寺だったことをまだ秘密にしてたし。
「じゃ、その志摩子さんのいろいろに匹敵する祐巳さんのいろいろを、聞かせてもらおうじゃないの」
さあさあ、と由乃さんが詰め寄ってくる。
「うっ」
「現役《げんえき》|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》であり二年生である祐巳さんが、ただの一年生でしかない瞳子《とうこ》ちゃんより相応《ふさわ》しくないとでも?」
「そうは言わないけど」
「将来的にリリアンを離れる不安をもっている、とか?」
「いえ、それもないです」
たじたじと祐巳が怯《ひる》みながら答えると、由乃さんは切り札でも出すかのようにニヤリと笑った。
「いつか祐巳さん、私に言ったわよね。薔薇さまになろう、って。あの約束、忘れちゃいないでしょうね」
「あれ? 薔薇さまみたいないい友達に、じゃないの?」
「同じことよ」
薔薇さまになるのと、薔薇さまみたいな友達になるのとでは、ちょっと、いや、かなり違うと思うけれど。
「それを言うなら、由乃さん。立場がどうなろうと友達だって言ってなかった?」
「そんなこと、言ったかしら?」
言いましたともさ。梅雨《つゆ》だったか、祥子《さちこ》さまとの関係がギクシャクして祐巳が薔薇の館から遠ざかっていた頃に。
でも、由乃さんは都合が悪いのでしらばっくれている。本当は覚えているはずなのだ。
「じゃ、何? 祐巳さんは、薔薇さまになる気はないって言うの?」
そんなストレートな問いかけに対して祐巳が何かを言う前に、横から答える声がした。
「そんなことはないわ、由乃さん」
それまで黙っていた志摩子さんが、はっきり言った。
「祐巳さんは、以前、三年生になったら一緒《いっしょ》に山百合会《やまゆりかい》を背負っていくって私に言っていたし、薔薇さまになりたいとも言っていたわ」
おしゃべりな人の多言より、無口な人の一言が妙な説得力を生む。
「ね?」
思わずうなずくと、「それじゃ行きましょうか」と手を取られて、するすると連れていかれてしまった。
あれよあれよとは、まさにこういった状況を言うのだろう。
戸口まで見送りに出た乃梨子ちゃんが、一言「志摩子さん、すごい」とつぶやいていた。
2
「何、どんよりしているの」
清掃《せいそう》の時間、黒板を雑巾《ぞうきん》で拭《ふ》いていると、後ろから蔦子《つたこ》さんに声をかけられた。
「見える?」
祐巳《ゆみ》は振り返る。
「見える。祐巳さんを一年生の時から追い続けている、私の目を誤魔化《ごまか》せるとでも?」
一緒《いっしょ》に教室の掃除《そうじ》担当である蔦子さんは、片側に寄せていた机を元の位置に戻し椅子《いす》を下にさげ終えたらしく、あいた時間で手伝いに来てくれたらしい。とはいえ、もうこっちも終わりだけれど。
「由乃《よしの》さんに叱《しか》られた」
祐巳はバケツの中で雑巾を濯《すす》いで、ギュッと絞《しぼ》った。同じように仕事を終えた雑巾の枚数を確認し、洗い漏《も》れがないようなので汚れた水を捨てるためにバケツを持った。
「おや、どうしてまた」
蔦子さんは一緒《いっしょ》に歩き出した。水の入ったバケツを二人で持ち上げるのは危なっかしいので遠慮《えんりょ》したのだが、そうしたら空手《からて》でついてくる。手持ちぶさたなのか、途中からはポケットに入れておいた小型のカメラを片手に持って、時折祐巳に向けたりもする。
「昼休みにね、立候補の届け出に行ったんだけれど、出がけにちょっとグズグズしていたら瞳子《とうこ》ちゃんに先を越されてね」
「なるほど」
「祐巳さんのせいで出遅れた、って」
そりゃ、すごい剣幕《けんまく》だった。
「それはそれは。でも、受け付け番号が当選の順番じゃないのにね」
蔦子さんはカラカラ笑った。
「志摩子さんもそう言ってくれたんだけれど」
ちなみに志摩子さんは二番、由乃さんが三番、祐巳は四番をもらった。
「ふーむ。由乃さんは、すこし焦っているのかな」
「焦っている?」
「多くの生徒が、現二年生の三人の当選が固いと予想はしているけれど。それでも絶対なんて言い切れない。番狂わせがあって、瞳子ちゃんが当選したとする。その場合、三人のうち一人が落選するわけでしょ」
「それが由乃さんだって?」
「由乃さんがそう思っているんじゃない? 何と言っても志摩子さんは現役《げんえき》だし、祐巳さんは一年生に人気があるでしょう?」
「そんなこと」
水場に着いたので、バケツの水を排水溝《はいすいこう》に向けてそろそろと流す。
「うん。そんなことだけれど、由乃さんには、かなり気になるところなんじゃない」
銀色の蛇口《じゃぐち》が、ピカピカに光っていた。ここの掃除《そうじ》を担当した生徒は、丁寧《ていねい》な仕事をする。
「でも、ま。由乃さんのことだから、そのうち機嫌が直るわよ。何か、別の物に気をとられりしたら、こんな些細《ささい》なことすぐ忘れちゃうって」
蔦子さんが言った。
「そうだね」
祐巳は、空《から》になったバケツを提げてもと来た道を引き返す。
それからしばらく二人黙って廊下《ろうか》を歩いていたのだけれど、教室の入り口で蔦子さんが独《ひと》り言《ごと》のようにつぶやいた。
「ということは、由乃さんじゃないってことか」
「え?」
由乃さんの機嫌は放っておけば直ると、すでに結論が出ている。それなのに、祐巳がまだどんよりしているというのだ。
「原因は、瞳子ちゃん?」
「え」
どうして、と聞き返す前に笑われた。
「まあ、それくらいは思いつくよ」
蔦子さんは、去年の年末に薔薇《ばら》の館《やかた》で行われたクリスマスパーティーの出席者だ。薔薇ファミリーではないけれど、瞳子ちゃんと祐巳の経緯は当然知っている。
「私、瞳子ちゃんのこと何もわからないんだ」
掃除用具入れにバケツをしまいながら、祐巳は打ち明けた。
ずっと考えている。何が悪かったのか。
申し込み方が悪かったなら、それは言葉なのか、時期か、シチュエーションなのか、受け取る側の瞳子ちゃんのコンディションに問題があったのか。それらは、今後修正すれば、もう一度チャンスにつなげることができるのか否《いな》か。
「瞳子ちゃんのことがわからない、って。そりゃ、別の人間だもの」
当然でしょ、と蔦子さんは言う。
「でも、蔦子さんはいろいろわかっているじゃない。由乃さんの機嫌がすぐに直ることも、私が瞳子ちゃんのことでモヤモヤしていることも」
以前から思っていた。蔦子さんは大人だ。いろいろなことを知っているし、物事の道理をよくわかっている。聞けば、何でも返ってくる、そんな超人に見えるのに。
「そりゃさ。由乃さんの行動パターンはわかりやすいし。祐巳さんは、心の動きがもろ顔に出るからでしょ」
窓ガラスの鍵《かぎ》が施錠《せじょう》されているかどうか指で確認しながら、蔦子さんは歩いていく。蔦子さんだってみんなの考えていることがわかるわけではなくて、たまたまその対象者が単純でわかりやすかったというだけらしい。
「じゃ、瞳子ちゃんは」
「私だって、あの子のことはわからない。だって、大体いつでも仮面を被《かぶ》っているでしょ」
「仮面……」
「感じる時ない?」
「ある」
すごく、ある。
瞳子ちゃんは、自他共に認める女優だ。でも、時折舞台に立っているわけでもないのに、誰か別の人格を演じているように感じることがある。
「私さ、祐巳さんのいいところは、そうやっていつでも素顔さらして歩いているところだと思うわけよ。泣きたい時に無理に笑って、本人はいけてるなんて思っても、私から見たらかえって痛々しいんだわ。言いにくいけれど、演技|下手《へた》なんだよね」
「……」
変に遠回しに指摘されるより、こんな風にはっきり言ってもらった方がむしろすっきりするんだけれど。もう少し早く、せめて学園祭より前に言っていただけたら、舞台劇で主役なんてお引き受けしないで済んだものを。
「私は好きだけれどね。だから、演技をしていない時の表情がすごくいいわけだし。でも素人《しろうと》役者が大女優と同じ舞台に立って、勝てると思う?」
「それって。所詮《しょせん》、瞳子ちゃんのことをわかろうとしても、私には無理だってこと?」
「今のままじゃね。あっちの方が、何枚も上だもの」
蔦子さんは窓を確認し終わると、教壇《きょうだん》の上で掃除《そうじ》日誌を書いていたクラスメイトに向かって、親指と人差し指をくっつけた「OK」のサインを出した。OKを了解しましたというように、向こう側からも「OK」サインが返ってきた。
「相手が仮面を被っているのに、こっちだけ無防備に素顔をさらして。勝てるわけないじゃない。あ、勝つって選挙の事じゃないよ」
「うん」
祐巳はうなずいた。瞳子ちゃんのために何ができるか、何をしたらいいのか。もう少し、考えてみようと思う。
「アドバイス、ありがとう」
蔦子さんは、やっぱり大人だと思った。わからないとか言いながら、適切な言葉を投げかけてくれる。答えじゃなくて。ヒント。そりゃ、答えは自分で考えなくちゃ。
「感謝の言葉より、一枚の笑顔」
蔦子さんがカメラを構えた時、別の担当区域の掃除《そうじ》に出ていた由乃さんが、教室に駆け込んできた。
「祐巳さん、祐巳さんっ」
腕を掴《つか》んで引っ張る。フラッシュの光とともにシャッター音が聞こえたから、変なツーショット写真が出来上がるはずである。
「ちょっと来てみてよ」
祐巳と蔦子さんは、顔を見合わせて笑った。
「ほらね」
由乃さんの機嫌なんて、お天気みたいにすぐに変わってしまうのだ。
3
祐巳《ゆみ》が引きずられるようにして由乃《よしの》さんに連れてこられたのは、一年|椿《つばき》組の教室の手前の廊下《ろうか》という、微妙な場所である。
「いい? 楽しそうにおしゃべりしながら、ゆっくりと歩いて、あの教室の中の様子をしっかり見るのよ」
「えっと」
楽しそうに、ゆっくりと、しっかり。あまり多く注文されると、混乱してしまう。連用修飾語を取り除いて何をしたらいいのかという動詞のみに注目してみれば、つまりは、おしゃべりしながら歩いてあの教室の中を見ればいい、と、そういうことらしい。あの教室、とはもちろん一年椿組である。
「祐巳さんのことだから、ここ、全然チェックしていないんでしょう?」
「うん、まあ」
瞳子《とうこ》ちゃんに会ったら、どんな顔をしたらいいかわからない。だからここ数日、できるだけ一年生の教室の側を通らないようにしてきたのだ。本人のクラスの前なんて、もろデンジャラスゾーンだ。
「やっぱりね。そんなこったろうと思ったわよ」
それでもって、由乃さんのことだから、もちろんチェック済みなわけだ。去年だって、対抗馬の存在を知るや否《いな》や真っ先にロサ・カニーナのことを調べた行動派だった。
「とにかく、見て。話はそれから」
由乃さんは、祐巳の腕を掴《つか》んで歩き出した。楽しそうにおしゃべりしながらゆっくり歩くのはさほど大変ではないけれど、それに「教室の中をしっかり見る」をプラスすると途端に難しくなる。
だって、おしゃべりに夢中で歩いているはずなのに、おしゃべりの相手の顔も見ないで教室の中をじっと見るなんてあまりに不自然ではないか。ありがたいことに一年椿組教室はまだ掃除《そうじ》が終わっていないようで、真冬なのに前と後ろの扉が全開だったからほどほどに見えた。けれど逆に、向こう側からもこちらが見られているわけで、かなり怪しい二人連れだったのではないかと思われた。見る人が見れば、敵情視察《てきじょうしさつ》まるわかりだったろう。
「ね?」
一年椿組の前を通り過ぎ、そこですぐ止まるのも変なので廊下の端まで歩いて、曲がり角の陰に身を隠してから由乃さんは言った。
「別に。何かおかしなことあった?」
祐巳は首を傾《かし》げた。それとも、見過ごしてしまったのだろうか。
もっとちゃんと見てよ、と怒られると思いきや、由乃さんは指を鳴らして「そこよ」と言った。
「そこ?」
「普通なの。いつもと変わらないの、一年椿組。それっておかしくない?」
いつもと変わらない一年椿組。
「変わらないのがおかしい、って――」
「去年の、二年|藤《ふじ》組を思い出してよ」
「……あ」
そこで祐巳もやっと思い当たった。
「でしょう?」
去年の二年藤組とは、ロサ・カニーナこと蟹名静《かになしずか》さまがいたクラスだ。学年は違うけれど、ある意味今の瞳子ちゃんと立場が同じだった人の。
「確かにおかしいかも」
去年の二年藤組と、今年の一年椿組は明らかに違う。
「乃梨子《のりこ》ちゃんに聞いて見ないと」
祐巳は踵《きびす》を返した。教室にいただろうか。それとも、薔薇《ばら》の館《やかた》に行った方が確実か。とにかく、こんな所にはいられない。
すると、後ろから声がした。
「私が、何か?」
振り返ればそこには。
「の、乃梨子ちゃん!」
「ごきげんよう。……あれ、いかがなさいました?」
乃梨子ちゃんは、今週は外の掃除当番で、教室に戻ろうとしていたところで、二人の|つぼみ《ブゥトン》の後ろ姿を発見したという。
薔薇の館に向かう前に教室に荷物を取りに戻りたいという乃梨子ちゃんにくっついて、三人は歩きながら廊下《ろうか》を引き返した。さっきと違って、今度はちゃんと話し込んでいたので、不自然とかぎこちないとか気にする必要はまったくないし、教室の中をしっかり見るなんて注文もないから楽だった。
「教室が普通、ですか」
乃梨子ちゃんは聞き返した。いったい何を言われているのか、すぐにはわからなかったようだ。教室が普通。確かに、それ自体は全然不思議なことではない。
「ねえ、クラスメイトが出馬するんだよ? それも現職と現職の後継者っていう、いわば本命の対抗馬ってことでしょ? それなのに、どうしてここのクラスは通常営業なの? ガーッて盛り上がって当然なんじゃないの?」
由乃さんが捲《まく》したてる。ちょっと押され気味の乃梨子ちゃんは、逆に質問をしてきた。
「そうおっしゃる二年|松《まつ》組は――」
「うちは普通に盛り上がってるけれど」
ありがちだけれど、日めくりみたいな「選挙まであと○○日」という手作りボード。現物ではないけれど、画用紙を切って作った必勝|祈願《きがん》のだるま。後ろの黒板には「がんばれ祐巳さん、がんばれ由乃さん」という応援メッセージが書かれ、二人のロッカーの扉には薄い紙で作ったピンクとクリーム色の花(紅と黄色のつもりらしい)が飾ってある。廊下やその他の場所は規定で活動に制限があるから、応援してくれるクラスメイトたちはせめて教室でも飾って盛り上がろうというわけだ。
本命(由乃さんの言葉を借りれば)の応援でも、これくらい盛り上がっているのだ。知名度が低ければ低い分だけ、派手に応援してクラスメイトを盛り立てていこうとしそうなものである。
「そう言われれば」
乃梨子ちゃんはつぶやいた。
「瞳子を応援するっていう雰囲気《ふんいき》はまったく」
高等部からリリアンの生徒になった乃梨子ちゃんは、当然ながら去年のロサ・カニーナの選挙戦についてはまったく知らないわけで。だから、例年こんなものだろうと思っていたのだろう。
「でも、瞳子も悪いんです。最初の頃、クラスメイトたちが選挙の話を振っても、無視したり、いなくなってしまったりしていたので。そんな態度をとっていたら、とても応援なんてしてもらえませんよ」
ちょうど一年椿組の前にさしかかり、教室の扉に視線を投げかけながら、その中の一生徒であるところの乃梨子ちゃんは、密やかなため息をついた。
瞳子ちゃんは、この教室の中で浮いているのだろうか。
「大丈夫《だいじょうぶ》なのかな」
祐巳も閉められた扉をじっと見つめた。
何かしてあげたくても、クラスの中のことはどうにもならないとわかっているのに。
4
――大丈夫なのかな。
祐巳《ゆみ》さまの言葉が、妙に耳に残っている。
そうして改めてクラスの中を覗《のぞ》いてみれば、いくつか気がつくことがあった。
瞳子《とうこ》が一人でお弁当を食べている。
休み時間も、一人でいる。
部活動のない放課後、教室の自分の席でポスター描きをしているというのに、誰一人として近づかない。手伝うことはなくても、覗《のぞ》きに来るくらいのことはあってもよさそうなのに。
瞳子は浮いている。
水にたらした一滴の油のように。クラスの誰とも混じらない。
「ああ、手伝おうかって一度声をかけたんだけれど、断られたから」
可南子《かなこ》さんが言った。休み時間に、乃梨子《のりこ》が声をかけて廊下で話をしたのだ。
なぜ可南子さんだったのかといえば、彼女だけは他の人たちと違った雰囲気《ふんいき》を醸《かも》し出していたから。
「声をかけてくれたんだ?」
可南子さんは、「まあね」とさらりと答えた。
「でも、一度だけね。断られたのに、それでもなんて親切の押し売りをするのも、どうかと思うし。私も部活とかで忙しいし。もちろん、今からだって頼まれれば手伝うわよ」
「ありがとう」
すると、可南子さんは笑う。
「乃梨子さんがお礼をいうことじゃないでしょ」
でも、ありがとう。乃梨子は、瞳子の代わりに頭を下げた。立場上、自分は手伝いたくても手伝えない、だから尚さらありがたかった。
「だから、断られたって言ったじゃない。……それに」
可南子さんは、ちょっと難しい顔をした。
「何?」
「頼んでこないと思うわよ。瞳子さんは」
「うん」
確かにそうかもしれない、と乃梨子も感じていた。
「ねえ」
ふと乃梨子は、可南子さんの意見を聞いてみたくなった。
「瞳子のあの態度は、何だと思う?」
「わからないけれど……信念? ちょっと違うかな。でも、漠然《ばくぜん》とそれに近い感じ」
漠然と言いながら、可南子さんの推理ははかなりいい線いっている、と乃梨子は思う。
「あの人、誰にも邪魔《じゃま》されたくないんじゃないの? だから、私は放っておくことにしたの」
確かに。今はそれしかないのかもしれないけれど。
瞳子とクラスメイトたちとのギクシャクした関係が、目に見える形で現れたのは、ある日の何でもない休み時間のことだ。
「瞳子さんは、祐巳さまのことをそんなにお嫌いなの?」
選挙関連の話題には無視を決め込んでいた瞳子だが、いつもとは違う切り口に思わず顔を上げてしまったようだ。
「そりゃ、祐巳さまには小笠原《おがさわら》祥子《さちこ》さまみたいに近寄りがたいほどの美貌《びぼう》やにじみ出る知性や貫禄《かんろく》はないけれど。これからもそこは期待できないかもしれないけれど。でも、それを補《おぎな》えるほどの親しみやすさや温かさがあるわ。私はそういう薔薇さまだっていいと思う。むしろこれからの薔薇さまには、そういうものが求められると思うのね」
彼女は、祐巳さまの信奉者だった。
「祐巳さまを認められないからって、自分が立候補するなんてどうかしているわ。あなた、自分の方が優れているとでも思っているの?」
熱烈なファン故に、頭に血が上って、表面上のことしか見えていない。
瞳子の前で、今更祐巳さまの魅力を語って何になろう。そんな初歩的なことを議論する段階は、もうとっくに過ぎた。瞳子はそんなに単純じゃない。
「何か言いなさいよ」
祐巳さまの信奉者は、言い返さないでじっと顔を見ているだけの瞳子に、ますます怒りを募《つの》らせていく。
そもそもこの時期になって爆発したのだって、瞳子がクラスメイトたちに相談も言い訳も何もしないで、一人黙々と選挙活動をしているのが鼻についたに違いないのだ。
彼女は、祐巳さまのライバルが自分のクラスメイトであることが許せないのだ。側にいた友人が「やめなさいよ」と止めるのを振り切って、尚も続けた。
「夏前に一瞬、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》と祐巳さまが不仲になったのだって、瞳子さんが原因なんでしょう? それなのに、知らんぷりして学園祭では山百合会《やまゆりかい》の劇に出してもらって。あなたなんて、薔薇さまになりたくて祐巳さまに近づいたくせして、今度は祐巳さまに刃を向けようっていうの?」
ああ、そうか。乃梨子はわかった。彼女は、嫉妬《しっと》しているんだ。紅薔薇ファミリーに深く関わってきた瞳子に。山百合会の中で自由|奔放《ほんぽう》に振る舞っている(ように見える)瞳子が、羨《うらや》ましくて妬《ねた》ましくてどうしていいかわからなくて、つい抗議してしまったのだ。
そんなクラスメイトの気持ちを、知ってか知らずか。瞳子は不敵に鼻で笑って、一言吐き捨てた。
「だから、何?」
これは、瞳子に文句を言っていたクラスメイトだけでなく、その周囲にいた生徒たちの反感をもかった。
自分の立場で仲裁《ちゅうさい》に入ってはますます事態を混乱させると、少し離れた場所から見ていた乃梨子でさえ、瞳子の態度は人を小馬鹿にしているように見えた。
――大丈夫《だいじょうぶ》なのかな。
祐巳さまのつぶやきが、再度耳に甦《よみがえ》った。
5
立ち会い演説会を二日後に控えた、一月の最終週の月曜日。
昼休みに薔薇《ばら》の館《やかた》へ行く前に、祐巳《ゆみ》はフラリと図書館に寄った。
何となく。一年前のことを思い出したからかもしれない。閲覧室《えつらんしつ》のカウンターの中に、今はいるわけもない静《しずか》さまの姿を探す。
静さまがまだリリアン女学園に在籍《ざいせき》していたなら、いろいろ当時のことを聞くことができたのに。ある意味同じ立場から、瞳子《とうこ》ちゃんのことも解き明かしてくれたかもしれないのに。
(そうだよな)
もうすぐ卒業してしまうお姉さまに、想像なんてできない。瞳子ちゃんとの関係だって、今後どうなるかはわからないけれど、どう転がろうと自分で解決しないといけなくなるのだ。
瞳子ちゃんは、どうして立候補したのだろう。そんなにも、薔薇さまになりたかったのだろうか。
このまま祐巳が妹をもたないで卒業すれば、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の座は自動的に空《あ》く。その時に立候補したってよかったはずだ。
あと一年、なぜ待てなかったのか。
それとも、やはり志摩子《しまこ》さんや|つぼみ《ブゥトン》の二人に勝って、薔薇さまと呼ばれたかったのだろうか。
今の生徒会に不満をもっている、とか。いや、それなら三人中二人が入れ替わることで、ほぼ解消されるはず。
では、問題は|つぼみ《ブゥトン》か。祐巳か、由乃《よしの》さんか。どちらかを生徒会長として認められないから、自分が立候補することによりそれを示したのか。だとしたら、どう考えても自分だ、と祐巳は思った。
『山百合会《やまゆりかい》に新しい風を』
瞳子ちゃんのポスターには、そんなコピーが書かれていた。
もし、瞳子ちゃんが純粋な気持ちで生徒会長になりたいと考えていたのならば、その意志を尊重してやることはできないだろうか。
(瞳子ちゃんが万が一当選したら、私たちの誰かが落選するってことなのよ)
由乃さんの怖い顔が脳裏《のうり》をかすめた。
お姉さまの跡を継ぐ。
これまで山百合会を支えてきた仲間たちと、これからも一緒《いっしょ》にがんばる。
それは、動機としてどうなのだろう。
(だからといって、祐巳さんに何ができるのかしら?)
今度は、穏やかな顔をした志摩子さんが浮かぶ。祐巳一人が、何百という票をもっているわけではないのだ、と。
その通りだ。たとえ祐巳が瞳子ちゃんに票を入れたとしても、その一票で決まることは極めてまれだ。そして、たとえその一票で明暗が分かれることがあっても、暗の部分に取り残されるのが誰かなんて、開けてみなければわからない。下馬評《げばひょう》がどうであれ。
けれど。たった一つ。志摩子さんや由乃さんに迷惑をかけることなく、瞳子ちゃんを応援することができる方法はある。
(ちょっと、祐巳さん。何、考えているの)
親友二人の幻が、折り重なるように現れる。
(そうしたら、きっと許してくれないだろうな)
でも、今ならまだ間に合う。
立候補の届け出の締め切りは過ぎた。候補者は四人。一人いなくなれば、規定の三人。信任投票を経て、その三人が次期薔薇さまとなるだろう。
このまま瞳子ちゃんと戦うことも、立候補を取り下げて瞳子ちゃんに紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の座を譲《ゆず》ることもできた。
それは、何度となく頭の中で考え悩んだことだった。
「はあ……」
結局、場所だけ変えても答えは出るわけもない。祐巳は十分ほど閲覧室《えつらんしつ》の椅子《いす》に座って、図書館を出た。お昼休みに図書館で、勉強をしたり調べ物をしようという生徒が増えてきた。ため息をつくだけなら、何もここでなくていい。
校舎に戻ろうと歩いていると、来客用玄関の前を中年女性が行ったり来たりしているのが見えた。
「あの……?」
声をかけると、その女性は一瞬ビクッと肩を上下してから振り返った。
「失礼しました。よろしければ、ご案内いたしますが」
「あら」
生徒のお母さんか、もしかしたら卒業生かもしれない。ちょっぴりふくよかで、仕立てのよさそうなコートを着て、お上品にほほえんだ。
「ありがとう。助かるわ。実は、娘の忘れ物を届けに来たのだけれど、勝手がわからなくて。忘れ物に気がついて家を出たものの、娘とは連絡はつかないし。正直、帰りたくなっちゃったの。学園祭や運動会で学校に来ても、普段の校舎にはなかなか入らないものじゃない?」
「そうですね。あ、どうぞ」
祐巳は玄関に誘導して、その婦人に青いスリッパを出した。
「ありがとう」
彼女はスリッパを履《は》くと、コートのボタンを外した。衿《えり》を抜くようにコートをずらすと、しばらくそのままボーっと立っている。何だろう、と見ていたら、やがて「あ」と言って顔を赤らめた。
「嫌だ。私ったら」
どうやら、日頃コートは脱がせてもらっているらしい。これは相当なお嬢《じょう》さま、いや、奥さまのようだ。
「娘さんは、どちらのクラスでしょう?」
気を取り直して尋《たず》ねる。すると。
「一年――いいえ。高等部の職員室に連れていってくれないかしら」
「はい?」
聞き返すと、その人は言った。
「もしあなたのお母さまが、あなたの忘れ物を教室まで届けに来たら嫌じゃないかしら」
友達の手前、と。
「それは……そうかもしれません」
祐巳は、目の前のご婦人を自分のお母さんに置き換えてみた。
(いつも祐巳がお世話になっております。今日は忘れ物を届けに参りました。あ、祐巳ちゃんほら、これ。玄関に起きっぱなしになっていたわよ。まったく、そそっかしいんだから)
――想像してみたら、確かにキツイ。
「娘に恥ずかしい思いをさせられないわ。だったら担任の先生に届けていただいた方が。ね、そうでしょ?」
たぶん娘さんの忘れ物が入っているであろう、ハンドバッグとは別に抱えたシンプルな茶色い紙袋も、中身が何か特定できないよう配慮《はいりょ》した結果なのかもしれない。
「よくわかりました」
すごく納得したので、素直に職員室に向かった。忘れ物が何なのかを、想像しながら。大きさ的にお弁当かなにかだろうか。だとしたら、早く届けてあげないと、なんて。自分だって、手提げの中にはまだ手つかずのお弁当が入っているのに。
平日の学校が珍しいらしく、その人はキョロキョロ辺りを見回しながら歩く。
「生徒会役員選挙……ああ」
廊下《ろうか》に貼ってあるポスターを見てつぶやいた。
「ご存じですか」
立候補者のポスターではなく、選挙のお知らせ用である。立ち会い演説会の日にちとか投票日が書いてある。
「ええ。娘から聞いていますよ。今年は現役《げんえき》の|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》と、|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》そして|黄薔薇のつぼみ《ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン》が立候補しているんですってね。娘も応援しているみたいなの。どなたも素敵なお姉さまだから、必ず当選するだろうって。素晴らしいわね」
目の前にいる生徒がその|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》であるなんて、その人は思いも寄らなかっただろう。そうとは知らずに褒《ほ》めてくれた人に対して、ここで「いやあそんな」と謙遜《けんそん》するのは適当ではない。さりとてわざわざ自己紹介するほどの仲ではあるまいと、あやふやにほほえんでいたら職員室に着いた。
「どうもありがとう。助かったわ」
あとは、入り口に貼ってある先生の座席表を見ればどうにかなるから、と。
「失礼だけれど、そのお弁当まだ中身が入っているのでしょう? お昼ご飯を食べ終える前に休み時間が終わってしまったら申し訳ないわ。私のことなら、気にしないで」
ということは、彼女が手にした荷物は娘さんのお弁当ではないのかもしれない。ここは失礼して、薔薇の館でお昼ご飯にしようと思った。去り際に、その人は言った。
「ねえ。私あなたと、どこかで会ったことがないかしら」
「いいえ?」
覚えがないので、祐巳は小首を傾《かし》げた。たとえどこかで会ったとしても、思い出せないくらい薄い出会いのはずだった。
「そう。同じ制服を着ている若いお嬢《じょう》さんだと、みんな似て見えるのかもしれないわね。……でも、制服じゃなかったような」
「体操服、とか」
さっき体育祭の話が出たのを思い出して言ってみる。
「ああ、そうかもしれないわね。それか、学園祭の模擬《もぎ》店とか」
「私、屋台村ではっぴを着ていました」
お客さんだったのかもしれないけれど、覚えていない。単に道ですれ違っただけかもしれないし。
「ああ、またお引き留めしちゃったわ。行ってちょうだい」
「はい。それじゃここで失礼します」
「ごきげんよう」
リリアンの卒業生なのかもしれない。流れるような「ごきげんよう」の挨拶《あいさつ》だった。
6
その頃。
一足先に薔薇《ばら》の館《やかた》でお弁当を食べ終えた乃梨子《のりこ》は、やはりどうにも気になって席を立った。
「すみません。ちょっと出てきます」
取りあえず、片づけられる物は片づけてから、空《から》のお弁当箱を持って部屋を出る。薔薇の館の二階には|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》、志摩子《しまこ》さん、由乃《よしの》さまがいたけれど、「いってらっしゃい」といっただけで、どこへ行くのかとか何しに行くのかとかを深く追及することはなかった。もっとも、乃梨子がバタバタと飛び出していったから、質問をする余裕《よゆう》がなかっただけかもしれないけれど。
薔薇の館の玄関で、いつもより遅れてやって来た祐巳《ゆみ》さまと会った。
「ちょっと図書館に行ってから来たの。そうしたら別の用事ができちゃって、こんな時間になっちゃった。乃梨子ちゃんは?」
「ちょっと教室に。……いえ、もしかしたらミルクホールかも。また戻ってくるかもしれませんが」
言いながら乃梨子が二階の部屋辺りに視線を向けると、祐巳さまは言った。
「ゆっくりしてきても大丈夫《だいじょうぶ》よ。志摩子さんのお手伝いは、もうそんなにないから」
タスキ制作も、ポスター描きも、立ち会い演説会の原稿作りも、やるべきことはすでに終わっている。
でも、それでも乃梨子は、時間があったら志摩子さんの側にいたかった。何もできなくても、近くにいたい。それは、姉妹《スール》として当たり前の感覚ではないだろうか。
一見冷ややかな態度の|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》だって、きっと同じ気持ちでいるはずだ。だから、妹の選挙活動を一切《いっさい》手伝おうとはしないくせに、頻繁《ひんぱん》に薔薇の館に来ているのだと思う。|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》は受験の準備であまり顔を出さなくなったが、あの姉妹《スール》は家がお隣同士だし、従姉妹《いとこ》だし、学校以外の場所でちゃんとフォローはしているだろう。
「いってらっしゃい」
乃梨子は、祐巳《ゆみ》さまに見送られて、校舎に戻った。どこにいるかわからないけれど、取りあえず近い方から攻める事にする。となると、一年|椿《つばき》組だ。
教室の中は、ランチタイムがほぼ終わり、生徒たちは向かい合うようにつなげていた机でトランプ大会を始めていたり、机を元の位置に戻して次の授業の準備をしたりしていた。
「いない」
このところ一人でお弁当を食べている瞳子《とうこ》の席へ行ってみたが、そこには誰も座っていなかった。
試しに椅子《いす》の座布団《ざぶとん》に触れてみると、かすかに温もりを感じる。少し前まで、ここに座っていたという証拠だ。やってから、いかにも「刑事ドラマの刑事」がしそうなことをしてしまったことに気づいて、一人で恥ずかしくなった。
お手洗いだろうか。
乃梨子は、自分の席にお弁当箱を置いた。どうせ話をするなら、教室以外の場所の方がいい。このまま瞳子を探しに行こうと思った。
「あ、乃梨子さん」
教室から出かかった時、背後からクラスメイトが呼び止めた。
「もしかして、瞳子さんを探しているの?」
「え? ……ええ」
まあ、瞳子の席に行って椅子を触ったりしていたのを見ていれば、それくらいの推理はできそうなものだ。
「どこにいるのか、知ってるの?」
声をかけたからには居場所に心当たりがあるのだろうと尋《たず》ねてみれば、「知らない」との返事。
「もし瞳子さんに会ったら、職員室に行くように言ってくれない? さっき廊下を歩いていたら、先生に呼び止められて伝言を頼まれたんだけれど、瞳子さん見当たらないし。もし、探しに出るならお願い」
帰ってくるまで待っていていいものかと思案していたところに、乃梨子が現れて、やはり瞳子を探しているらしいと知ったので、ついでに頼む、ということらしい。この寒い中、あまり仲よくないクラスメイトを捜しに出るのは億劫《おっくう》だと、顔に書いてあった。
「いいわよ。職員室ね。会ったら伝えておく」
言い残して教室を出た。安請《やすう》け合《あ》いしたわけではない。余程《よほど》の急用ならば校内放送で呼び出しをするだろうから、たとえすぐに瞳子を見つけられなくても大事には至らないだろうと判断したのだ。
廊下《ろうか》をお手洗いの方向に歩いていくと、果たして瞳子が向こう側から歩いて来た。
「……瞳子?」
手を上げて駆け寄ってみたものの、乃梨子は、今目の前にいる瞳子にどこか違和感を覚えた。
「ちょっといい?」
「何かしら」
一緒《いっしょ》に歩き出して、ますます違和感が強くなっていく。
瞳子の歩き方が、どこか不自然だった。ペッタペッタ、ペッタペッタ。歩くたびに、変な音も聞こえた。乃梨子は瞳子の足もとを見た。そして声をあげた。
「どうしたの、それっ」
瞳子は、来客用のスリッパを履《は》いていた。アイボリーとブルー、二色あるうちのアイボリー。つまり、より上履《うわば》きに近い方の色を履いていたからさほど目立たなかったけれど。それでも、やはりスリッパはスリッパ。上履きではないのだから、見た目からしておかしい。
乃梨子が今初めてそのことに気づいたのは、今日は瞳子が歩いているところをまだ見ていなかったからなのだろう。着席した姿では、足もとまで注目しない。
「……誰かに隠されたとか」
すぐに、そんな考えが頭を過《よぎ》った。そうは思いたくないけれど、瞳子がクラスメイトに嫌がらせをうけたと仮定した場合、乃梨子は「やっぱり」とうなずかないまでも「まさか」と完全否定もできなかった。
「違うわよ。上履きは家に忘れてきたの」
瞳子は笑った。
「本当に?」
「ええ」
目を見てはっきりと答える。家に忘れたのは、本当のことなのだろう。でも、それを納得しても、今度は別の疑問が生じた。
「じゃあ、どうして家にもって帰ったの」
普通、上履きとは一学期間通して履くものではないだろうか。三学期が始まって、まだ一ヶ月も経っていない。それとも、乃梨子が気づかなかっただけで、瞳子は週末|毎《ごと》に洗っていたのか。
「さすがは乃梨子さんね」
瞳子は、少し声のトーンを落として言った。
「家に忘れたのは本当だけれど。家に持って帰ったのは、洗わなければならないほどに汚れたからよ」
「何があったの」
「たいしたことじゃないわ。ちょっと目立つけれど水洗いすれば簡単に落ちる汚れ。学校で洗ってもよかったんだけれど、この気温じゃ自然乾燥するのに時間がかかりそうだし。濡れた上履きを靴箱《くつばこ》に入れて帰るのも気持ち悪いから。でもせっかくきれいにしても、家に忘れちゃ元も子もないわね」
「いったい誰が」
「さあ?」
土曜日の体育の授業から戻ってみると、靴箱に入れたはずの上履きが下に落ちていて、土足で踏みつけられていたらしい。
犯人がクラスメイトならば、瞳子より後に出てきたか先に戻った人ということになるが、そんなこと一々覚えてなどいないという。それに何もクラスメイトとは限らない。少なくとも同じクラスの乃梨子は、現場を目撃していなかった。
「ひどいことをするわ」
それでも、誰かがそれを行ったことは確かだ。扉がついているロッカー式の下足箱から、上履きが勝手に落ちるわけがない。
「でも、そんなことなら私もしたことがあるわ」
「えっ?」
驚いて聞き返すと、瞳子は言った。
「覚えていない? いつだったか、乃梨子さんに。因果応報《いんがおうほう》って、この使い方合っているかしら」
合っているような、ちょっと違うような。それはともかく。新入生歓迎会の前に、乃梨子がその手の嫌がらせを受けたことは間違いない。
「上履きの中にクリップを入れたり、上履きを隠したり、机に落書きしたり、鞄《かばん》の中から数珠《じゅず》を抜き取ったり」
一つ一つ、指さし確認みたいに数え上げていく瞳子。乃梨子は、たまらなくなってストップをかけた。
「何で、笑っているの」
「笑ってなんていないわよ」
「笑っている。まるで、この状況を楽しんでいるみたいに」
「楽しんでいるわけないでしょう? 乃梨子さん、深読みしすぎよ」
実際、瞳子の口もとは笑っていなかった。けれど、目に見える表情に騙《だま》されてはいけない。
瞳子は「笑ってなどいない人」を演じている。
「まあ、いいわ」
乃梨子は腕時計を見た。あと五分ほどで昼休みは終わる。
「職員室に行こう。ついていってあげるから」
「職員室? どうして? 上履きのことを先生に言いつけるの?」
瞳子は首を傾《かし》げた。
「そうじゃなくて。先生が呼んでいたんだって」
「呼び出しか」
それじゃ行かないわけにはいかないと、瞳子は方向転換して歩き出した。ついてくるなと言われなかったから、乃梨子も並んで歩いた。
ペッタペッタ、ペッタペッタ。瞳子が歩くたびに、スリッパが鳴る。
「私、先生の気に障《さわ》ることもしたかな」
ペッタペッタ、ペッタペッタ。
「……さあ」
それは、乃梨子にだってわからないことだった。
もちろん、その呼び出しは先生からの意趣返《いしゅがえ》しでも何でもなく。
「はい」
職員室で担任が瞳子に差し出したのは、茶色い紙袋だった。
「お母さまが、届けてくださいましたよ」
「母が?」
瞳子が受け取って中身を出す。現れたのは、洗濯《せんたく》済みの上履《うわば》き一足だった。
「あ」
思わず、乃梨子も声をあげた。
「玄関に忘れてあったのを、お昼前に見つけたんですって」
担任は目を細めた。
「いいお母さまね」
「はい」
瞳子はうなずいて、紙袋ごと上履きをギュッと抱きしめた。
「はい、とても」
その時だけは、瞳子は何も演じていなかった。
少なくとも、乃梨子の目にはそう映った。
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仮面の下には
1
水曜日。
泣いても笑っても、立ち会い演説会当日である。
今日の午後は、授業はなし。一年生と二年生は講堂に集まって、候補者の演説を聴くことになっている。
「それにしても、安心したわ。祐巳《ゆみ》さんがいつ立候補を取り下げるか、って内心ハラハラしていたの。でも、立ち会い演説会まできたのだから。そんなに心配することでもなかったのね」
昼休みである。
一足先に薔薇《ばら》の館《やかた》でお弁当を食べ終えた志摩子《しまこ》さんが、祐巳に日本茶のお代わりをサービスしながら言った。
「実は、ずーっと思ってたけど」
もごもごと、ご飯を飲み込みながら答える。早く食べ終えて演説会の準備に取りかかるべきか、ゆっくり食べて消化を助けるべきか、そこが問題だ。
「え、思っていたの?」
驚いたように、志摩子さんが聞き返す。部屋には他に祥子《さちこ》さまがいたけれど、一瞬|片眉《かたまゆ》を上げただけで、あまり反応はなかった。
「うん」
「どうして思いとどまったのか、聞いてもいい?」
志摩子さんが急須《きゅうす》を持ったまま隣の席に座ったので、祐巳はうなずいて話を始めた。
「何日か前に、来校された生徒のお母さまとお話しする機会があって」
「ええ」
「その娘さんが、私たちを応援してくれているんだって言ってたの。それでね」
祐巳は、お弁当箱の蓋《ふた》を閉めた。
「私は瞳子《とうこ》ちゃん一人のことばかり思い悩んでいたけれど、応援してくれている人たちがいるんだってことも忘れちゃいけなかったんだよね。一度立候補したからには、途中で下りちゃいけない。そんなことしたら、みんなガッカリするよ。瞳子ちゃんの方が生徒会長に相応《ふさわ》しいなら、私が小細工《こざいく》しなくても瞳子ちゃんが勝つはずだし。それにこちらがどんな気持ちでいたって、私が立候補を取り下げたら、瞳子ちゃんは譲《ゆず》ってもらったという屈辱《くつじょく》を感じるかもしれない。そういった考えに至りまして、今日の日を迎えました。以上」
パチパチパチパチ。
どこからか拍手が聞こえた。隣にいる志摩子さんは、相変わらず急須《きゅうす》の持ち手に手を掛けていたので、拍手のしようもない。すると残るは――。
……パチ。
何と、驚くことに音の出所は祥子さまの両手の平だった。
「今みたいに演説するといいわ。表情も、しゃべり方も、とても素敵」
「お姉さま」
演説会の原稿を見せても、声を出してリハーサルしても、今まで何もアドバイスしてくれなかったのに。突然そんな風に言葉をかけてくれたら、涙が出てしまいそうだ。
志摩子さんがそっと祐巳の肩に手をかけて、小さく揺すった。ほら、しっかり。そんな感じに。
「令《れい》ちゃん、来た!?」
そこに、由乃《よしの》さんが飛び込んできた。
「……まだ」
「三年|菊《きく》組教室に行ったら、まだ来ていないって。だから直接こっちに来たかと――」
なるほど。そっち方面に道草をしていたから、由乃さんはなかなか薔薇《ばら》の館《やかた》に来なかったのだ。
「お昼までには絶対に登校するって言ってたくせに。可愛《かわい》い可愛い妹が立ち会い演説会にのぞもうというこの大事な時に、どこをほっつき歩いているんだあの女《あま》……」
怒りにまかせて、言葉遣いが多少乱れている。
「まあまあ。ここはお昼ご飯でも食べて、気持ちを鎮《しず》めて。イライラするのは血糖値《けっとうち》のせいかもしれないよ」
「うーっ」
「ほらほら座って」
着席させて、お茶を差し出す。祐巳は本当は知っていた。由乃さんのイライラの原因は、「令ちゃん」でも血糖値でもなくて、立ち会い演説会を控えての緊張からくるものだってことを。それでもって、それを認めたくないから、「令ちゃん」のせいにしているんだ。
「それもそうね。腹がへっては……だしね」
由乃さんがちょっとだけ落ち着きを取り戻した頃、乃梨子《のりこ》ちゃんがやって来た。
「遅くなりました」
「どうしたの?」
志摩子さんが聞く。
乃梨子ちゃんは、昼休みでも放課後でも、真っ先に来るような子である。何かしなければならない用事があったとか、四時間目が移動教室だったとか、そういった理由を尋《たず》ねたわけだ。問い詰める感じではなくて、話のとっかかりみたいなものだ。
「お弁当はクラスで食べてきたんです」
「そう。それで?」
「マスタード・タラモ・サラダ・サンドを食べていました」
「……」
しばしの沈黙。誰が、何だって?
「あ」
乃梨子ちゃんが手で口を押さえると、志摩子さんが笑った。
「いいのよ。瞳子ちゃんのことね」
「はい。何か、気になっちゃって」
瞳子ちゃんのことが気になって、何となく教室を離れがたくて、お昼ご飯は教室で食べたという。そうはいっても、机をくっつけて二人|一緒《いっしょ》に食べたわけではなく、ただ同じ教室にいて、瞳子ちゃんの様子を眺めた、それだけらしい。
「ねえねえ、それでどんな様子だった?」
お箸《はし》で挟《はさ》んだウインナーを上下に振りながら、由乃さんが質問した。偵察《ていさつ》に出していた部下から、報告を受ける上官の目で。
「落ち着いていました。数十分後に演説をする人には、とても見えなかったです」
「ふうん」
つまらなそうにつぶやく由乃さん。ガタガタ震えていました、とでも言ってもらえれば満足だったのか。
でも、震えている瞳子ちゃんなんて嘘《うそ》くさい。落ち着いていた。その方が、ずっとリアリティがある。
「そうか」
タスキを畳《たた》みながら、祐巳はぼんやりとつぶやいた。
「マスタード・タラモ・サラダ・サンドなんて食べるんだ」
それは、ちょっと意外だった。
2
そろそろ、と五人は揃《そろ》って講堂に向かった。
開始十五分前であったけれど、講堂へ向かう生徒の数はさほど多くなかった。
そういえば去年もそうだった。選挙にかなり熱心な生徒たちは、昼休み返上で席取りをするとかで、四時間目が終わった直後に講堂に向かうのだとか。無関心な人はギリギリに飛び込むのだろうし、普通に関心をもっている生徒は、お昼ご飯を食べ終えた順にこのようにぽつぽつと集まっていくものなのだろう。
舞台|袖《そで》の関係者控えには、令《れい》さまが待っていた。
「令ちゃん!」
姿を見るなり、由乃《よしの》さんは駆け寄って言った。
「もう、来ないかと思ったよっ!」
プーッと、フグのようにほっぺたを膨《ふく》らます。
「えー、でも約束したじゃない。予定より出てくるのが少し遅れちゃったから、行き違いになってもと思って直接こっちに来たんだ。ん? どうしたの、令ちゃんなんていなくたって、大丈夫《だいじょうぶ》なんじゃないの?」
あの女《あま》こと令さまは、可愛《かわい》い可愛い妹のほっぺたを指で突っついた。
「ばか」
由乃さんが笑ったと同時に、空気が全部抜ける。そのまま頭を肩に預けて、もう一度「ばか」と言った。
不思議なことに、「ばか」がありがとうに聞こえた。
少し離れた一画では、乃梨子《のりこ》ちゃんが志摩子《しまこ》さんの手を取って、呪文《じゅもん》のように繰り返している。
「お姉さま、がんばってください。応援しています。絶対、大丈夫です。私、信じていますから」
去年お姉さまからもらえなかった励《はげ》ましの言葉が、一年遅れで妹から志摩子さんにこれでもかってくらい降り注ぐ。
「それから……えっと、ファイト!」
乃梨子ちゃんは、何も知らないはずなのに。まるで、去年の分まで補《おぎな》うかのようだ。
「乃梨子」
志摩子さんはとてもうれしそうだ。
一年前に聖《せい》さまが言った「当選したら最後まで責任もちなさいね」が志摩子さんに対する最大級の励ましだったとしても、乃梨子ちゃんがそれをそっくり真似《まね》ればいいわけじゃない。
姉と妹という立場も違うし、二人の関係も違えば、キャラクターだって違う。何より、志摩子さん自身が一年前とは違うのだ。
だから、乃梨子ちゃんのかけるファイトって声が、今は最大級の励ましのはずだった。乃梨子ちゃんが志摩子さんのために発する言葉なら、すべてがそうなるに決まっていた。
黄薔薇と白薔薇の姉妹を好ましく眺めている祐巳《ゆみ》を、祥子《さちこ》さまが「いらっしゃい」と手を引いた。
「震えているのね。私もそうだったわ」
去年祐巳がそうしたように、お姉さまは手をギュッと握ってくれた。
「いい? 緊張するのは当たり前よ。あがらないように、なんて念じなくていいわ。あがったっていいの」
「いいんですか」
ちょっとビックリして聞き返す。
「ええ。自分を自分以上に見せる必要なんて、まったくないの。でも、持っているものを隠したままでいることは、残念だしもったいないことでもあるわよね? だから、会場にいる生徒たちに、ありのままのあなたを見てもらう、そんな気持ちで行ってらっしゃい。それができれば成功よ」
信じているから、と祥子さまの真っ直ぐな瞳が言っている。
「お姉さま」
「なあに?」
「お願いが」
「いいわよ」
「抱きしめてください」
すると、躊躇《ちゅうちょ》なくフワリと祐巳は包まれた。
「こう?」
「そうです」
包み込んで守るのが姉。そんな言葉が、頭に甦《よみがえ》る。
「すみません。もう少しだけ」
満ち足りているはずなのに。まだ足りない。むさぼるように、お姉さまの愛情を求めた。
祥子さまの肩越しに、瞳子《とうこ》ちゃんがやって来るのが見えた。
妹は支え。
瞳子ちゃんの気持ちはどうあれ、祐巳の心の中には瞳子ちゃんという重しがある。
お姉さまのぬくもりがあたたかい。
瞳子ちゃんが立候補したことで、選挙に取り組む祐巳の姿勢は絶対的に変わったはずだった。
* * *
午後一時になると、選挙管理委員会司会のもと、立ち会い演説会が始まった。
委員長である英恵《はなえ》さんの挨拶《あいさつ》に続いて、名前入りのタスキをかけた候補者全員が壇上《だんじょう》に呼び込まれる。
「松平《まつだいら》瞳子《とうこ》さん、藤堂《とうどう》志摩子《しまこ》さん、島津《しまづ》由乃《よしの》さん、福沢《ふくざわ》祐巳《ゆみ》さんの順に出ていってください。さ、どうぞ」
袖《そで》に待機していた委員の一人に小声で指示をされ、押し出されるようにして四人は舞台の上に歩み出た。
まぶしいライト。大きな拍手。学園祭でのお芝居《しばい》とはまた違った雰囲気《ふんいき》に、飲み込まれそうになる。
舞台の真ん中には、マイクが設置された重厚な演説席があって、その上には、本当に飲むことがあるのか飾りなのかわからない水の入ったガラス瓶《びん》と、そこに蓋《ふた》のように被《かぶ》せられているガラスのコップ。
候補者四人は、客席から見て演説席の右後方にあるパイプ椅子《いす》に一旦着席をする。逆の左後方には小さな机があり、演説の時間を計る生徒がストップウォッチと呼《よ》び鈴《りん》のような機械を前に置いてスタンバイしていた。これは規定の時間をオーバーした場合、リンリンと鳴らして演説者に知らせる係だ。
立候補受付順ということで、最初に舞台の中心に進み出たのは瞳子ちゃんだ。
瞳子ちゃんはまず世襲《せしゅう》制のような生徒会長選任の方法に疑問を投げかけ、そして自分の新鮮さと若さをアピールした。
舞台慣れしているせいか、まったくあがった様子もなくよどみなくしゃべる。
「現|山百合会《やまゆりかい》および薔薇さま方に不満などありません。けれど、この辺りで一つ新たなる風を取り入れてみてはいかがでしょうか。薔薇《ばら》の館《やかた》の窓を大きく開きましょう!」
敵とか対抗馬とか言われていることを忘れて、祐巳は思わず拍手をしかけてしまった。由乃さんが小さく「ばか」と言って、祐巳の手を膝《ひざ》の上に戻した。由乃さんのこの「ばか」は、他に意味をもたない純粋な「ばか」。自分の立場をわかっているの、と睨《にら》まれた。
続いて登場したのは、志摩子さん。
志摩子さんは今年度生徒会長を務めてみて感じたことを率直《そっちょく》に述べ、今後の課題点を提示し、二年連続して薔薇さまになることの利点をあげた。また、委員会活動についても、山百合会との連携《れんけい》でますます充実させるという公約を掲《かか》げ、積極参加と理解を訴えた。
「今年は三年生の薔薇さまお二人のもと、たくさんの勉強をさせていただきました。その経験を生かして、更なる山百合会の発展に力を尽くすのが私の使命であると信じています」
志摩子さんは、いつもよりずっと積極的で自信に満ちた顔をしていた。貫禄《かんろく》。去年と違うのは、たぶん実績があるかどうかの差だと思った。
志摩子さんが委員会ならば、由乃さんは部活動だ。
「一年生の秋に手術をするまで、私はずっと身体《からだ》が弱く、部活動というものとは無縁に生きてきました。そして二年生になって剣道部に入部し、初めて部活動がどういったものかを内側から知りました。ですから、今の部活動に何が不要で何が足りないか、よく見えます。山百合会は、生徒が少しでも快適な学園生活を送るための手助けをします。手始めに、部活動から改善していきましょう。私は役員になっても剣道部は辞めません。みなさんと、一緒《いっしょ》にがんばります」
と、リハーサル通りだとそこで終わりだったんだけれど、由乃さんは構わず続けた。
「先程、世襲《せしゅう》制|云々《うんぬん》と言われた方がいましたが、こうやって選挙をやっているわけですから、我々にはその例えは当てはまらないでしょう。また、お姉さまの役職を引き継ぐことに関しても、決して悪いこととは思いません。何年もかけた大きなプロジェクトを成し遂《と》げることだって、手取り足取り指導を受けた妹の方が有利かもしれないし」
瞳子ちゃんの演説にカチンときて、つい一言反論したくなったようだが、言い始めたら一言で止まるわけもない。作ってきた原稿は、時間内に収まるよう推敲《すいこう》を重ね、言い回しもわかりやすく整理してあったわけだが、頭に浮かんだ先からしゃべりまくっていたら、収拾《しゅうしゅう》がつかなくなって当然だ。
リンリンと呼《よ》び鈴《りん》が鳴った。
「島津さん、演説を終了してください」
時間係が、ストップをかけた。
「世襲、どこが悪いの?」
由乃さんはその一言のつぶやきを最後に、引きずられるように演説席から下ろされた。パイプ椅子《いす》の控え席に戻ると、まだ言い足りないようで「あのストップウォッチ、本当に合っているのかしら」と小さくつぶやいていた。
由乃さんには気の毒だが、時間は合っていた。そして時間内に収めた瞳子ちゃんや志摩子さんに比べれば、由乃さんは遥《はる》かに長く演説していたはずだ。
続いては、しんがり祐巳の番だ。
祐巳は、委員会も部活動もやっていない。これぞというアピールポイントはない。だから、自分が思ったまま、理想の山百合会像を話した。
「一年生の皆さんはご存じないとは思いますが、私の姉である小笠原《おがさわら》祥子《さちこ》には水野《みずの》蓉子《ようこ》さまという素晴らしいお姉さまがいました。蓉子さまは――」
祐巳は、蓉子さまの夢であった、薔薇の館を一般生徒の出入りが絶えない場所にすることを叶えたかった。お茶会を開いたり一年生に手伝いに来てもらったりと、今年度だっていろいろやってはみたけれど、まだ足りない。こういうことは焦らず一歩一歩実績を重ねるもので、来期自分が薔薇さまになったからといって一足《いっそく》飛びに解放されるようなことはないかもしれない。けれど、それでも今日より明日、明日より明後日と前進し、停滞や後退はしないようにしたいのだと訴えて、演説を締めくくった。
蓉子さまから祥子さま、そして祐巳へと。それこそ世襲《せしゅう》といってもいい願いだ。瞳子ちゃんの新しい風とは真っ向から対決する内容となってしまったが、祐巳はそれで満足していた。
瞳子ちゃんは、瞳子ちゃんの信じる道を進めばいい。
今だって瞳子ちゃんを妹にしたいと願っているけれど、無理矢理自分の意見に従わせて妹にするつもりはない。また、自分の信念を曲げてまで、瞳子ちゃんのお姉さまになることもない。
ありのままの自分を見てもらう。
選挙と姉妹《スール》になることは、どこか似ている。
まぶしいライトに照らされ、たくさんの聴衆に頭を下げながら、祐巳はそう思っていた。
3
木曜日、金曜日は思ったよりずっと早々と、そしてさりげなく過ぎていった。
そして、土曜日。
帰りのホームルームを利用して、生徒会役員選挙の投票が一年二年の各教室において行われた。
生徒たちは選挙管理委員によって配られた投票用紙に、山百合会《やまゆりかい》を託《たく》したい人の名前を書いて提出する。
委員は集めた票を封筒に入れて厳重に封をし選挙管理委員会事務室である開票ルームに持ち帰り、即日開票をする。
立候補者であっても、もちろん一票を持っている。
祐巳《ゆみ》は生徒会役員選挙と印刷された用紙の太枠《ふとわく》内に、鉛筆で力強く『福沢祐巳』と書いた。
自分が相応《ふさわ》しい人間だと自信をもって言えないような生徒会長には、誰もついてくるわけがないのだから。
4
結果発表の予想時間は午後二時。
講堂前の掲示板の側で待っていたからといって、結果が早く出るわけでもないので、しばらくはお昼ご飯を食べながら薔薇《ばら》の館《やかた》で待機することになった。
「やっぱり、少し緊張するわね」
すでに先に来ていた祥子《さちこ》さまは、ご自分の選挙ではないのだけれど、去年同様あまり食が進まないらしく、お箸《はし》でおかずを転がしながらため息をついた。
「そうですか? 私お腹《なか》ぺこぺこです。いっただきまーす」
祐巳《ゆみ》はお弁当箱を開けて、さっそく食べ始めた。おお、今日のメニューは勝つに引っ掛けて一口カツだ。お母さん、験《げん》を担《かつ》いでくれたんだ。
むしゃむしゃ、もりもり。
メンバー勢揃《せいぞろ》いでお弁当を広げているというのに、どういうわけか祐巳の食べる音ばかりが部屋中に響き渡った。
「……」
「何ですか?」
視線に気づいてお姉さまを見る。実際は口にたくさん頬張《ほおば》っていたから、「何ですか」じゃなくて「なんでふか」に近い。
祥子さまは不思議そうに尋ねた。
「あなた、いつの間にそんなに図太くなったの」
「図太い、ですか」
「そう。すごいわ」
「……褒《ほ》め言葉に聞こえないのですが」
「褒めているのよ。それで、感心もしているの」
祥子さまは負けていられないとばかりに、お弁当箱の中からご飯を大きく切り取ってパクリとやった。
すると、なぜか黄薔薇姉妹も白薔薇姉妹も参戦して、薔薇の館は一転「豪快にご飯を食べる会」になってしまった。
図太くなれたわけではない。
やれるだけのことはやった。だから今更《いまさら》、クヨクヨしたりドキドキしたりしたって、結果は変えられないのだと、ただ悟っただけだ。
5
一時四十分に薔薇《ばら》の館《やかた》を出て、講堂に向かった。
掲示板の前に着くと、やはり気の急《せ》いた生徒たちが、今か今かと結果が張り出されるのを待ちわびている。
その先頭に、瞳子《とうこ》ちゃんがいた。
「祐巳《ゆみ》さま、どうぞ」
候補者の存在に気づいた生徒たちは、道をあけて前に送り出してくれた。
「いいのに」
「いいえ。発表の瞬間を写真に収めて、リリアンかわら版に載せてもらわないと」
見れば掲示板の下に、蔦子《つたこ》さんがしゃがんでいる。結果が張り出された直後の候補者たちの姿を、カメラに収めようとスタンバイしているようだ。新聞部と写真部、二つの腕章《わんしょう》をはめていた。
祐巳は、程よい距離をとって瞳子ちゃんの隣に立った。志摩子《しまこ》さんと由乃《よしの》さんも、並んだ。祥子《さちこ》さまと令《れい》さまと乃梨子《のりこ》ちゃんは、その後ろの列に加わる。
「来たわ」
伝令のように、真美《まみ》さんが校舎の方角から走ってさた。見れば、後方から選挙管理委員たちが悠然《ゆうぜん》と歩いてくるのが見える。先頭の英恵《はなえ》さんは、クルクル巻いた紙を手にしている。そこに結果が書かれいてるはずだった。
徐々に近づいてくる委員たちの顔からは、誰が当選したかなんてわかるはずはない。もちろん、掲示板に張り出されるまでは口外しないだろうし、皆一様にポーカーフェイスを命じられているかのように無表情だった。
委員たちが講堂に到着したのは、午後一時五十分だった。
何も言わないのに人波が分かれて道が作られ、委員の数名が掲示板の前に進み出た。
英恵さんの手にしていた紙が開かれる。作業中に漏《も》れないように、表面は白い紙をあてて二枚重ねにしてあるようだった。
「ただ今より、来年度の生徒会役員選挙の結果を発表いたします」
掲示板に紙を張り終えると、覆《おお》っていた白い紙が剥《は》がされた。
「――」
祐巳は、その文字を目で追った。
何度も、フラッシュが焚《た》かれる。
みんなの歓声が、耳鳴りみたいに震えている。
「祐巳さんっ」
由乃さんが首に抱きついてきた。
追いつかない。
自分の五感や、それを分析処理する脳の仕事が、周囲の状況に置いていかれる。いや、ものすごいスピードでどこかに連れさられていく。
ぐるぐるぐるぐる、目が回りそうだ。
「おめでとう、祐巳」
祥子さまの声で、我に返った。
「私……」
「どうしたの、当選したのよ。喜びなさい」
ほら、と指をさされた結果発表の紙を見れば、自分の名前の箇所《かしょ》に紅い花のシールが貼られている。
――福沢祐巳
紅いシールは当選の印だ。由乃さんと志摩子さんの名前にも貼ってあった。
瞳子ちゃんの名前には、何も印がついていなかった。
「……」
祐巳は、隣を見た。瞳子ちゃんは今まさに掲示板から視線を落とし、次期生徒会長誕生に沸き立つ輪の中からそっと抜けようとしているところだった。
「――」
呼び止めようとして手を伸ばしかけると、瞳子ちゃんは一瞬だけ振り返った。
瞳子ちゃんは祐巳と目が合うと、神妙《しんみょう》な顔をして頭を下げた。そして、そのまま背を向ける。
一歩踏み出した祐巳の足が、そのまま動かなくなった。
祐巳は、その時悟った。何かが、決定的に間違っていた。自分は、瞳子ちゃんのことを何もわかっていなかった。
瞳子ちゃんが生徒会役員選挙に出たのは、嫌がらせなんかじゃない。
ただ薔薇さまになりたかった、そんな理由からでもない。
志摩子さんや|つぼみ《ブゥトン》二人を認められないからでもなければ、ましてや勝って祐巳に姉妹《スール》の逆指名をしようなんて考え、微塵《みじん》もなかったはずだ。
[#挿絵(img/24_187.jpg)入る]
「祐巳さま」
乃梨子ちゃんが、行き場のない祐巳の手を取って言った。
「私、結果発表の瞬間、瞳子の顔だけを見ていたんです。そうしたら、……そうしたらわかってしまいました」
乃梨子ちゃんの顔は蒼白だった。たぶん、祐巳も同じような表情をしているはずだ。
「瞳子の目的は、負けることだったんです」
ああ、やっぱり。祐巳は思った。
自分だけではなく、乃梨子ちゃんがそう言うのだから、たぶん間違いないのだろう。
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素顔のひととき
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「あれ、一人?」
すらりとした肢体《したい》の髪が短い少女が、扉を開けて顔を出した。
「さっきまで乃梨子《のりこ》ちゃんがいたのだけれど――」
お茶の葉を選ぶ手を止めて、祥子《さちこ》は答える。
「何やら急いででかけたわ。一階にいた私に気づきもしないで」
薔薇《ばら》の館《やかた》の二階。
この場所で三年生二人きりになるというのは、近頃では珍しい。
「なるほど。察するに、目指すは講師室の隣ですか」
「でしょうね」
今日はこれから、件《くだん》の場所で来期の生徒会役員選挙の説明会が行われる。乃梨子ちゃんは立候補の予定はないのだが、彼女のお姉さまである志摩子《しまこ》が会に出席することになっていた。だから、気になってちょっと様子を見に行ったのだろう。
そう、ちょっと。電気ポットのお湯が、沸くくらいの時間のつもりで。
「部屋が掃除《そうじ》されている」
「乃梨子ちゃんがやっていったみたいね」
久しぶりに自分で紅茶をいれながら、祥子は答えた。カップを二つ出してから、少し悩んでもう一つ。お湯が沸いたのだから、そろそろ戻ってくるだろう。
「あの子は、お買い得だったね」
鞄《かばん》から参考書を出しながら、令《れい》がつぶやく。
「お買い得……ええそうね。でも、もちろん資質はあったかもしれないけれど、育て方もよかったのよ」
「どういうこと?」
「いいお手本が近くにいれば、自然と身につくものだわ」
薔薇の花びらが入った紅茶は、お湯を注げば芳《こうば》しい香りがわき出《い》でる。まるで花畑にいるよう。祥子は深呼吸した。
「なるほど。今の二年生は、みんな働き者だしね」
三人とも、気持ちよく手を動かす。それがどんなに大切なことか。計算が速いことより、演説がうまいことより、成績がいいことより、ずっと|薔薇の館《ここ》では必要な能力だ。
「もちろん、令がうまく指導した成果でしょうけれど」
すると令は笑った。
「祥子だって」
「私は、下手《へた》なのよ」
祥子は否定した。
「下手って?」
「指導とか、世話とか、教育とか……そういう類《たぐい》のことが」
言いながら、お茶を注いだカップを差し出す。受け取った令は、「ありがとう」というように片手を軽く上げて、眺めていた参考書を閉じた。
「そうかな。その割には、祐巳《ゆみ》ちゃんは真っ直ぐ育っているけれど」
「それこそ、あの子の資質でしょ。私が伸ばそうと努力しなくても、あの子は勝手にどんどん伸びていく。私は、その芽を摘《つ》まないようにするのが精一杯で」
だから時々、どうしていいかわからなくなる。
「祥子……。もしかして、昨日のこと気にしているの?」
「え?」
昨日。
ささいなことが原因で、祐巳《ゆみ》がキレた。普通だったら聞き流してもいいような言葉尻をとらえて、食い下がるものだから、祥子は本当に焦った。
「それだけじゃないけれど」
祐巳と何かあるたびに、どうして自分は水野《みずの》蓉子《ようこ》さまのように余裕《よゆう》をもって妹に接することができないのかと、落ち込んできたのだ。何も、昨日に限ったことではない。
「あれは、祐巳ちゃんの赤ちゃん返りだよ」
「赤ちゃん返り?」
「ほら、よく下に弟妹《きょうだい》ができたりすると、急に甘えっ子になったり、とっくに離乳が済んでいるのにおっぱいを欲しがったり、お漏《も》らししたりするじゃない」
「知らないわ。私、一人っ子だし」
言ってから、目の前にいる令もまた一人っ子だということに気づいた。令の場合は、一般常識として知っていたのだろうか。それとも、受験に必要な知識として、最近になって学んだのだろうか。
「でも、祐巳に妹ができたわけではないのに」
「弟妹《ていまい》は一つの例よ。お母さんをとられる、って危機感から赤ちゃん返りが起こるわけ。赤ちゃんに戻れば、世話をしてももらえる。お母さんの関心を、こちらに惹《ひ》きつけておかないと自分の立場が危うくなる、ってね。そこで、祐巳ちゃんの場合だけれど」
「ええ」
「四月になったら、祥子がいなくなる。その孤独感が、ああいう不安定な精神状態を生むんじゃないのかな」
――卒業。
昨日まで頼ってきた姉が、突然目の前からいなくなる。
「でも、それは」
何も祐巳に限ったことではない。
「私だって卒業するけれど、由乃《よしの》には菜々《なな》という妹ができるでしょ? 志摩子にだって、すでに乃梨子ちゃんがいる」
「……ええ」
確かに。
大切な仲間はいても、それは姉妹《スール》ではない。リリアン女学園における姉妹という関係は、一種独特なものだった。
「そんなこと、祐巳ちゃんだってわかっていたことだろうけれど。今、その不安が表に出たのは、やっぱり瞳子《とうこ》ちゃんに断られたからじゃないのかな」
「そうね、きっと」
やっと見つけた妹に拒絶された。祐巳だって、すぐに新たな妹を作ろうとは思えないはずだ。そこに、姉の卒業が重なる。精神が参ってしまってもおかしくはない。
「甘えさせてあげなよ。そりゃ、将来のことを考えて、独り立ちのために突き放すのも一つの愛情かもしれないけれど」
「……それは、難しいわね」
「難しいことなんてないよ」
令は簡単に言ってくれる。姉の深い懐《ふところ》で、妹が欲しているものを与え、許し、スキンシップをしてやればいい、と。
「そうじゃないの。私が今、祐巳から独《ひと》り立《だ》ちしなければならないと、懸命《けんめい》にもがいている状況なの」
「えっ」
驚く友に、祥子は白状した。
「祐巳に厳しくするのも、手を差し伸べられないのも、私が成長途中だからなのよ。手の平の上で祐巳を転がせるほど大きな器《うつわ》だったら、何でもできるでしょうけれど。下手《へた》なことをしたら、まず私がつぶれる。そうしたら共倒れになるわ」
「そうだったの……。それにしては、うまく演技していたわね」
気にしていない風を装ったり、祐巳の視線に気づかないふりをしてみたり。
「もう、必死よ。小さい頃から感情を表に出さないようにするのには慣れていたつもりだったのだけれど、祐巳の前ではなかなか難しいわ」
「お姉さまっていうのは、大変だからね」
令が大きく息を吐いた。
「妹の時期は無邪気《むじゃき》でいい」
本当に、と祥子はうなずく。
「令……。あなたも大変そうね」
由乃ちゃんと離れるために選んだ受験とか、まだ中学生の菜々ちゃんのこととか。
「ま、ほどほどに」
ほどほどとか言いながら、生徒会役員選挙の説明会に行った妹が気になって、薔薇の館に様子見に来ているのだから――。祥子は、お茶の香りを楽しんでいる友の顔を見て、小さく笑った。
視線に気づいて、令が顔を上げた。
「さっき祥子さ」
「え?」
「祐巳ちゃんが勝手にどんどん伸びていく、みたいなこと言ってたけれど。私は違うと思うな。祥子が水なんだよ、太陽なんだよ、栄養なんだよ。じゃなければ、足りないなんて拗《す》ねやしないって」
力のこもった熱弁に、「そうかしら」と尋《たず》ねれば、「そうだよ」との心強い答えが返ってくる。
「ありがとう」
誰かにうなずいてもらえただけで、少し心の中が軽くなった。
そして二人は、まるで茶飲み友達のように、向かい合って時折視線を絡めながらお互いの距離を愛《め》でる。
しばしの、穏やかな時。
[#挿絵(img/24_197.jpg)入る]
妹たちのいない午後。
「時には、こうして素面《すめん》でお茶を飲むのもいいわね」
令が言った。
「すめん?」
「剣道で面をつけないこと」
「ふうん」
初めて聞いた言葉だ。
「素面ね、一つ勉強になったわ」
祥子は、ほほえんでお茶をすすった。
もうしばらくは、素面のままでいようと思いながら。
もうしばらく。
乃梨子ちゃんが、階段を鳴らして二階《ここ》に戻ってくるまでは。
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あとがき
何かねー、物にも心があるような気がする瞬間って、確かにあるよね。
こんにちは、今野《こんの》です。
『黄薔薇、真剣勝負』を脱稿《だっこう》した日、行方不明だったうちの自転車が約七ヶ月ぶりに我が家に戻ってきました。
行方不明と言葉をソフトにしてはいますが、姉がちゃんと鍵《かぎ》をかけて駐輪場にとめておいた自転車が、その日のうちに忽然《こつぜん》と姿を消したのですから、誰かが黙って持っていっちゃったとしか考えられないわけです。
私はそのことを知った時、祐巳《ゆみ》の青い傘《かさ》のことを考えました。
『レイニーブルー』で書いたあのエピソードは、私が実際経験したことでもありました。作家になる前の話ですが、やはりコンビニで五分と買い物はしていなかったのに、傘立てから私の傘がなくなっていたんです。
雨の降り始めでした。傘を失ったことよりも、そういったことをしてしまう人がいるということにショックを受けました。結局、その傘は出てきませんでした。その代わりのように、私は祐巳の傘を持ち主のもとへ届けることにしました。
作中で、ミッフィーちゃんこと青田《あおた》先生は、「この傘も、君の十日間を知りたいと思っているかも知れないね」と言っています。私は、祐巳の傘が祐巳のもとに帰りたいと願い続けた結果、戻って来られた気がしてなりませんでした。青田先生の娘が福島駅で傘に目を留めたのだって、傘の念が通じたからだ、と。
そこで、冒頭の自転車に話は戻ります。
五月のある日、一本の電話がありました。近所に数日前から放置してある自転車が、「お宅のものではないですか」というのです。電話をくださったのは、昔からお世話になっている自転車屋さんでした。何でも、ご近所のある人が放置自転車を見つけて、貼られていた販売店の名前入りステッカーからその店に連絡をしてくれたのだそうです。
自転車屋さんの奥さんに連れられて現場に行ってみると、乗り回されて、放置されて、錆《さび》だらけになっていたけれど、確かにうちの自転車でした。鍵はかかっていましたが、姉の持参した鍵でちゃんと開きました。そのままその自転車の故郷ともいえる自転車屋さんに連れていって、見てもらいました。当初はとても乗れる状態ではなかったのですが(だから乗り捨てられたのでしょう)、名医(店主)の大手術により復活をとげました。
私は、この自転車が放置される直前に「ここに置いていって」と、乗っていた人に頼んだ気がしてなりません。自転車屋さんとは目と鼻の先であるここにいれば、いつかは帰れる。そんな自転車の切なる希望があったような気がします。そして、見ず知らずの親切な人に「お願いします」と話しかけ、自転車屋さんに自分のことを話してもらって、こうして帰ってこられた。そう考えると、涙が出てきました。
――どうです、物にも心があるような気がしてきませんか?
ところで『黄薔薇、真剣勝負』には自転車が出てきます。脱稿した日に我が家の自転車が出てきたというのも、縁のようなものを感じます。
自転車屋さんでみるみる治っていく自転車を眺めながら、「この店主にかかったら、令《れい》の自転車も治ったのでは?」と思わずにいられませんでした。いやいや、支倉《はせくら》家|御用達《ごようたし》の自転車屋さんだって、そうとうの腕をもっているはず。逆に、もう治せないほどの破損とはいったい何ぞや、と興味が湧きますね。
見事復活した自転車は、鍵を増やして再び姉が乗っています。しかし、数ヶ月経っても出てこなかったので不便に耐えきれず、すでに新車を買った後だったので、我が家は四人家族というのに現在五台の自転車持ちです。
[#地から1字上げ]今野緒雪
底本:「マリア様がみてる 仮面のアクトレス」コバルト文庫、集英社
2006年7月10日 第1刷発行
入力:ヾ[゚д゚]ゝABs07Yvojw
校正:暇な人z7hc3WxNqc
二次校正:TJMO
2006年06月30日作成
2006年07月03日校正
2006年07月27日二次校正
2009年03月17日校正(暇な人z7hc3WxNqc 52行 縁→緑)
2009年12月31日校正(暇な人z7hc3WxNqc 483行 互角稽古→互格稽古、1362行 入気がある→人気がある、2044行 伸間→仲間)
この作品は、すでにWinny上に流れている以下のデータ
(一般小説) [今野緒雪×ひびき玲音] マリア様がみてる 第24巻 「仮面のアクトレス」.zip tLAVK3Y1ul 18,343,120 28c03b9716d8b9c1c30328a4fbcb51e6
を底本とし、Share上で流れていた
(一般小説) [今野緒雪×ひびき玲音] マリア様がみてる 第24巻 「仮面のアクトレス」(青空文庫txt形式、再々修正).rar ヾ[゚д゚]ゝABs07Yvojw 65,356 d354de7c53adc0afb59b3df4c8578e8f5bbc9aa4
を元に校正した
(一般小説) [今野緒雪] マリア様がみてる 1〜24巻+短編 (青空文庫txt形式).rar 暇な人z7hc3WxNqc 1,923,950 244cd0fed1f7061af4bebdbd791c7be940c017e9
の中の第24巻を、さらに目視校正して挿絵を付け加えたものです。それぞれのファイルの放流者に感謝します。
二次校正……と書いていますが、実際のところは[゚д゚]氏が三回、暇な人氏で一回なので私で五回目か。さすがにここまで校正の手が入った作品もないかと思います。一時期ほどの盛り上がりはないとはいえ、まだまだ愛されてますね、このシリーズは。
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本で見つけた違和感のある文章や校正ミスっぽいものをまとめてみます。
青空文庫の方針としては底本のまま打ち込み注釈を入れるのですが、見た目が悪くなり読みづらくなるため、あえて訂正することにしました。
直し方が気に入らない方はこちらを読んで修正してください。
※底本p25 11行目
自転車のハンドルを握る令ちゃんが、顔をこちこらに向ける。
―――「こちらに向ける」の誤りか。訂正済み。
※底本p75 10行目
これから訪れるであろう寒い日日を予告していた。
―――「日々」とするのが一般的。行の折り返しにかかっていたのでこういった表記になっていると思われる。訂正済み。
※底本p76 4行目
「多少、程度は違うかもしれないわね。人間慣れてしまうと、少しずつ強度が上がっても違和感を感じにくくなるようだし」
―――下がっても、じゃないか? 訂正済み。
※底本p83 8行目
次代の薔薇さまになれと強制的に言われるより、胸に応える。
※底本p83 11行目
去っていく先輩の立場はわかっていたはず。なのに、胸に応える。
―――「胸に堪《こた》える」の誤りと思われ。訂正済み。
※底本p85 2行目
いえ、期末試験の最終日だっかもしれないわ。
―――「だったかも」。脱字と思われ。訂正済み。
※底本p110 10行目
でも瞳子ちゃんの場合、たぶん同じ理由には当てはまらないだろあ。
―――あ? 「だろう」の誤りと思われ。訂正済み。
※底本p112 16行目
驚いたのは、祐巳だけではい。
―――はい! 「ではない。」脱字。訂正済み。
※底本p116 7行目
令さまはお礼言って、乃梨子ちゃんとの会話を切り上げた。
―――お礼「を」言って、か。訂正せず、そのまま。
※底本p134 6行目
別の物に気をとられりしたら
―――とられ「た」りしたら、か。訂正せず、そのまま。
※底本p146 6行目
推理ははかなりいい線いっている
―――「は」が一つ余分。訂正せず、そのまま。
※底本p152 16行目
衿《えり》を抜くようにコートをずらすと、しばらくそのままボーっと立っている。
―――「ボーッと」のほうがいいのでは? 訂正せず、そのまま。
※底本p164 10行目
もちろん、その呼び出しは先生からの意趣返《いしゅがえ》しでも何でもなく。
―――「意趣返し」とは仕返しという意味なので、この場合は適当でないのではないか? 訂正せず、そのまま。