マリア様がみてる
くもりガラスの向こう側
今野緒雪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)乙女《おとめ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)祐巳に限っては、ふるって[#「ふるって」に傍点]の部分を
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[#挿絵(img/23_000.jpg)入る]
もくじ
お姉さまのリード
一年の計
寄り道と道すがら
新年会てんこ盛り
近くて遠き? 遠くて近き?
冷たい風
心のくもりガラス
あとがき
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[#挿絵(img/11_004.jpg)入る]
[#挿絵(img/11_005.jpg)入る]
[#地付き]イラスト/ひびき玲音
[#改丁]
マリア様がみてる くもりガラスの向こう側
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「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶《あいさつ》が、澄みきった青空にこだまする。
マリア様のお庭に集《つど》う乙女《おとめ》たちが、今日も天使のような無垢《むく》な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
汚《けが》れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。
スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻《ひるがえ》らせないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
私立リリアン女学園。
明治《めいじ》三十四年創立のこの学園は、もとは華族《かぞく》の令嬢《れいじょう》のためにつくられたという、伝統あるカトリック系お嬢さま学校である。
東京都下。武蔵野《むさしの》の面影《おもかげ》を未だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎《ようちしゃ》から大学までの一貫《いっかん》教育が受けられる乙女の園《その》。
時代は移り変わり、元号《げんごう》が明治から三回も改まった平成《へいせい》の今日《こんにち》でさえ、十八年通い続ければ温室育ちの純粋|培養《ばいよう》お嬢さまが箱入りで出荷される、という仕組みが未だ残っている貴重な学園である。
外は、たぶん寒いのだろう。
それくらいのことは、ガラス窓の内側についた小さな無数の水滴を見ればわかる。
室内と外の気温の差が、透明なガラスを白い磨《す》りガラスに変えたのだ。
たぶんその向こう側に人が立てば、ぼんやりとした輪郭《りんかく》くらいは見えるだろう。けれど、その表情まではわからない。
そこにいるのは間違いないのに、その人が泣いているのか笑っているのか。どんなに目をこらしてみても、わからない。
知りたいのに。その術《すべ》がない。
実際問題、手でガラスを一撫《ひとな》ですれば、そんなことはすぐに解決するだろう、って?
だったら、どうか教えて欲しい。
心の窓にはまっているガラスのくもりは、どうすれば拭《ぬぐ》うことができるのかを。
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お姉さまのリード
二学期の終業式の日。
薔薇《ばら》の館《やかた》で、山百合会《やまゆりかい》のメンバー中心にクリスマスパーティーをした。
志摩子《しまこ》さんが令《れい》さまの手ほどきを受けて作ったブッシュドノエルは、とてもおいしかった。
薔薇ファミリー以外の、外から招いたお客さまも新鮮だったし、全員参加で燃えたゲーム大会も、たわいないおしゃべりも楽しかった。
本当だったら、その思い出を思い切り吸い込んだまま「ああ、面白かった」でパーティーの幕は閉じるはずだった。
でも。
何がどう狂ったのか、最後の最後で祐巳《ゆみ》は奈落《ならく》の底に突き落とされた。いいや、知らずに自《みずか》ら落ちていったのかもしれない。
あの時、瞳子《とうこ》ちゃんに投げかけたたった一言のために。
「祐巳ちゃん、ど、どうしたの!? えっ、祥子《さちこ》も!?」
扉を開けて、まず叫んだのは令さまだった。
「いったい、何が――」
続いて滅多《めった》にお目にかかれない、志摩子さんのビックリ目。
「取りあえず、中に入られたら」
「そうよ。二人とも、こんな寒い中コートも着ないで。いつから、こうしているの」
乃梨子《のりこ》ちゃんに由乃《よしの》さん。祐巳はぼんやりとした頭で、次々に現れる仲間の顔をはっきりと確認した。鮮明なのに、どこか遠い。それはまるで、ドラマのワンシーンを観《み》ているみたいだった。
というわけで。
夕方、外で二人抱き合ってわんわん泣いていた紅薔薇姉妹は、騒ぎに気づいた仲間たちによって早々に薔薇の館へと連れ戻されてしまった。
「……どうぞ」
乃梨子ちゃんが、温かい紅茶の入ったカップを二人の前に置いた。パーティーの後片づけはほぼ済んでいたのに、改めて用意してくれたようだ。ポットのお湯を捨てる前で良かった、と由乃さんと志摩子さんが小声で話しているのが聞こえた。それからこの部屋にいるのは、令さま。蔦子《つたこ》さんと菜々《なな》ちゃんも、まだ残っていた。
「心配かけてごめんなさい」
祥子さまが、先に口を開いた。祐巳は、右に同じという風に、お姉さまに続いてただ頭を下げる。すぐには言葉を出せなかったのだ。何がきっかけになって、やっと止めた涙が再び洪水《こうずい》のように流れてしまうかわからない、そんな感じだったから。
「どうってことない話よ」
目と鼻を赤くしている以外は、いつもと変わらず凛々《りり》しいお姿の祥子さまは、まずそう前置きをしてから事情を説明した。
「祐巳が、瞳子ちゃんにロザリオを差し出して」
そこで一同が「えっ!?」と叫んだ。それは明らかに、「どうってことない話を聞いた人たち」がする反応ではなかった。
「断られたの」
「―――」
今度は叫び声は起こらなかった。しかし訪れたのは静寂《せいじゃく》ではなく、「すーっ」でもなく「ふーっ」でもない、何とも表記しづらい息をのむような音と音の重なりだった。
赤ん坊でも幼児でもなく、高校生の女の子が二人で大泣きしていたわけだから、誰もがそれ相応の理由があるだろうと踏んでいたはずだけれど、実際耳にしてみればそれなりの驚きをもって受け止めるものらしい。
[#挿絵(img/23_013.jpg)入る]
「それだけよ」
祥子さまの締めの言葉の後で、乃梨子ちゃんが小さく「嘘《うそ》」とつぶやいた。
「乃梨子。言葉に気をつけなさい」
たしなめるように、志摩子さんが注意する。
「あ、すみません。|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》が嘘を言ったという意味では、決して」
弁明する乃梨子ちゃんに、祥子さまがほほえんだ。
「わかっているわ。信じられない、という気持ちが口に出ただけでしょう? でも、これは事実なのよ」
事実。祐巳は目を閉じて、その言葉を噛《か》みしめた。
何はどうあれ、瞳子ちゃんは祐巳の差し出したロザリオを拒絶した。その「事実」は、どう繕《つくろ》ってももう揺るがない。
「結局断られたのだから、別に報告することもないのかもしれない。でもこんな風に心配をかけてしまったし、話すのが筋《すじ》だと思ったの。それに、みんなにお願いしたいこともあって」
「お願い?」
祐巳も含めて、祥子さま以外の全員が首を傾《かし》げた。
「そう、お願い。祐巳と瞳子ちゃんのことは、しばらく放っておいて欲しいの」
「放っておいて……?」
代表するように、令さまが聞き返した。
「祐巳に同情することも、瞳子ちゃんを責めることもなく、ただ遠くから見守ってちょうだい。これは二人の問題だから」
「祐巳ちゃんに同情することなく、瞳子ちゃんを責めることなく?」
「もちろん、私もそうするわ」
祥子さまがきっぱり宣言すると、令さまは笑った。
「お姉さまである祥子がそうするなら、私たちが出しゃばれるわけがないじゃない」
笑った後で、全員の顔を見て「いいわね」と言った。
「わかりました」
由乃さんと白薔薇姉妹、そして蔦子さんと菜々ちゃんがうなずいた。蔦子さんはともかく、菜々ちゃんはまったく事情が飲み込めていないかもしれないけれど、もしかしたら彼女の将来にはまったく関係ないとは言えない話かもしれないのだった。
「祐巳さんを断るような人、こっちから願い下げだわ」
由乃さんが、叫んだ。表情は怒っているけれど、ちょっとだけ目尻《めじり》が光っていた。令さまが「やめな」と言って、妹の頭を自分の頬《ほお》にくっつけた。たった今祥子さまの言葉にうなずいたばかりなのに。でも、由乃さんは言わずにいられなかったのだ。
「きっと」
志摩子さんが、静かに言った。
「祐巳さんは諦《あきら》めていないのね?」
祐巳は、こくんとうなずいた。
そうなんだ。
もう終わったことではないから、祥子さまは「見守って」と言ったのだ。
見回りにきた守衛《しゅえい》さんに、早く帰るように促されて、一同はようやくと腰を上げた。
暗くなった銀杏《いちょう》の並木道を、いくつかのゆるいかたまりになって歩く。
薔薇《ばら》の館《やかた》の戸締まりをした時には、何となくしんみりした雰囲気《ふんいき》だったけれど、今は明るい笑い声がそこここから飛び交っていた。
祐巳が瞳子ちゃんに拒絶《きょぜつ》されたことを、みんながすっかり忘れてしまったわけではないのだ。祐巳には、ちゃんとわかっていた。
お祖父《じい》ちゃんのお葬式《そうしき》の時、駆けつけたお祖父ちゃんの仲間たちが「あいつは湿《しめ》っぽいの嫌いだったからな」と言って笑っていた。あの時の感じにすごく似ている。
無理して、笑って、明るい雰囲気を作ってくれているんだ。
だから、祐巳も笑った。
だって祐巳の思いは、まだ死んだわけではない。じめじめなんてしていられない。
マリア像の前で手を合わせた時、祐巳は瞳子ちゃんのことを祈った。
――瞳子ちゃんが泣いていませんように。
姉妹《スール》になれますように、ではなくて。泣いていませんように。
自分はこんなにいい仲間が側《そば》にいる。けれど瞳子ちゃんは、今一人だ。
さっき、この道を一人で駆けていった。
瞳子ちゃんのことを気にかけている人は、たくさんいるはずだけれど、声をかけたり笑いかけたりしてくれる人は、今はきっと近くにいないから。
お姉さまの手の温かさを感じながら、祐巳は。
どうしてだろう、瞳子ちゃんの方がずっと自分よりも傷ついているような、そんな気がしてならなかった。
招待状が届いたのは、それから三日後のことだ。
自宅の郵便受けのポストから取り出した数通の手紙の中に、珍しく自分|宛《あて》の物を見つけて誰からだろうと裏返せば、そこに書かれていた差出人の名は「小笠原《おがさわら》祥子《さちこ》」。
もうそんな文字を見てしまったら、部屋に帰るまでなんてとても待てるものではない。下駄箱《げたばこ》の上にある抽斗《ひきだし》からハサミを取り出し、それでもお姉さまの手紙であるわけだから中身まで切らないように慎重に開封して、祐巳は立ったままその場で読んだ。
数日遅れのクリスマスカードのような、紅《あか》い洋封筒に入っていたメッセージは、ワープロ打ちされたもので、次のようなごくごくシンプルなものだった。
[#ここから3字下げ]
女性限定の新年会を開きます。ふるって、ご参加ください。
日時  : 一月二日 正午から
場所  : 小笠原祥子宅
持ち物 : 寝間着、食べ物・飲み物持込可
※一泊二日を予定しておりますが、遅刻・早退は自由です。
[#ここで字下げ終わり]
「祥子さまのお家で新年会……」
前|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》の佐藤《さとう》聖《せい》さまに騙《だま》されるような形で、無理矢理祥子さまのお宅に連れていかれたのは、確か今年の一月二日だった。
小笠原家では毎年正月二日は祥子さまのお祖父《じい》さまと融小父《とおるおじ》さまがお留守《るす》で、使用人も休み。祥子さまと清子《さやこ》小母《おば》さま二人で寂しいだろうからって、押しかけて賑《にぎ》やかに過ごしたのだった。もっとも、同じように考えた柏木《かしわぎ》さんが先に上がり込んでいたのは、聖さまにも計算外だったろうけれど。なぜか、祐巳の弟の祐麒《ゆうき》までいたし。
聖さまは、ご自分が卒業したらちょくちょく遊びに行くように、と言っていた。だから本当なら、祐巳が気を回して「お正月に遊びに行ってもいいですか」って祥子さまに言えばよかったのかもしれない。
でも、ここのところちょっとショックなことがあったから。そこまで頭がまわらなかった。
でも。誰かに強引に連れていってもらわなくちゃ、お姉さまのお宅に新年のご挨拶《あいさつ》にも行けないなんて、情けない妹のままではだめだ。今回は、祥子さまの方から差し伸べてくれた手に甘えてしまうけれど。もっと積極的にならなくちゃ。
「それにしても」
「女性限定」の文字がちょっと笑えて、そして祐巳をホッとさせた。祐巳のライバルである柏木さんは当日来ないんだ、って祥子さまはわざわざ知らせてくれたようだから。
「しかし、なあ……」
この、クラス会にでも誘うような事務的な文面は何なんだろう。祐巳一人を誘うのだったら、電話一本くれればいいだろうに――。
歩きながら手紙を封筒に戻して横目でチラリとリビングの電話を見た時、まるで狙ったみたいに呼び出し音が鳴った。
「もしもし」
まさかね、と思いつつ受話器を取って言った。
『あ、祐巳さん?』
「は?」
もちろん、祥子さまからだなんて、そんな調子のいい話はなかなかない。しかし、この「祐巳さん?」はしょっちゅう聞いている声ではある。
『……っと、福沢《ふくざわ》さんのお宅でしょうか』
受話器の向こうの人は、言い直した。
「そうです。そういうあなたは、島津《しまづ》さんでしょうか」
『なーんだ。一瞬お母さんだったかも、って焦《あせ》っちゃった』
正解は由乃《よしの》さんでした。
『電話を通すと、いつもとちょっと声が違って聞こえるからさー』
由乃さんは照れたような笑い声を発した後、「ところで」とすぐさま本題に入った。
『祥子さまから手紙が来て』
「あ。なるほど」
祐巳は、つぶやいた。
『何がなるほどなの?』
「みんなに招待状を出したんだ、祥子さま」
同じ文面で。何通もあったから事務的な文章になったんだ、ってやっと納得した。そういう事情でもなければ、手紙は手書きにするような人だ。
『祐巳さんは、もちろん参加でしょ』
「うん。今届いたばかりだから、まだ両親には聞いていないけど。そのつもり」
『じゃ、私も行く』
「本当?」
駅伝はいいの、って聞く前に由乃さんは言った。
『今年の正月に箱根《はこね》まで行って駅伝観戦したら、憑《つ》き物《もの》が落ちたみたいに見たいっていう飢餓《きが》感はなくなったのよ。いや憑き物が落ちる前だって、箱根駅伝と小笠原家の新年会を並べたら、新年会とったかもしれないよ』
「令さまは?」
『行くんじゃないの?』
「受験生でしょ?」
『それを言うなら、前回の聖さまは?』
「うーん」
でも、「それを言うなら」返しで、一年前同じ立場だった水野《みずの》蓉子《ようこ》さまは、堅実《けんじつ》に冬期講習に通っていたので来られなかった。ちなみにお二人同様に受験生だったはずの鳥居《とりい》江利子《えりこ》さまは、その頃優雅にハワイで過ごしていたのだ。
さて、令さまはどのタイプだろうか。
『ま、令ちゃんの好きにさせるさ。今参考書買いに外出ているの。帰ったら聞いてみるよ。それで、また祐巳さんに電話する。どうやって行くとか何持っていくとか、小笠原家初体験の私としてはいろいろ相談しないといけないし』
「ははは。お力になれますかどうか」
『頼りにしてる、って。じゃ』
「うん」
電話を切って、フッと笑った。
あれから一年、ってぼんやり思った。その一年には後ろに「も」がつくのか、前に「まだ」がつくのか、自分でもわからなかった。
受話器を戻して一歩足を階段の方向に出した時、またもや電話が鳴った。
由乃さんだろうか。だが、お隣の令さまが帰ってきたのだとしても、話をしてかけ直すにはちょっと早い気がする。切ってすぐリダイヤルボタンを押してもこんなに早くつながらないだろう、ってくらい速い。
「もしもし」
だが、言い忘れたことがあったのかもしれないと、受話器に話しかけてみれば。
『あ、福沢さんのお宅でしょうか』
「はい」
さっきとはうってかわって、落ち着きのある声が聞こえてきた。
『私、リリアン女学園高等部二年の藤堂《とうどう》志摩子《しまこ》と申しますが――』
「志摩子さん!?」
『祐巳さん? ごきげんよう。今、大丈夫?』
滅多《めった》に電話なんてかけてこない志摩子さんであったが、何の用かはすぐにわかった。
『実は、祥子さまから手紙がきたのだけれど』
今年(約一年前だから気分的には去年なんだけれど)の正月にお邪魔《じゃま》しているし、別荘にも遊びにいったことはあるので、案外簡単に両親は小笠原《おがさわら》家の新年会に行く許可を出した。
こちら福沢《ふくざわ》家の夕食後のことだ。
「でも、いつでもお邪魔する一方で申し訳ないわね。今度、祥子さまにも我が家に来て頂いたらどう?」
食卓を台拭《だいふ》きで撫《な》でながらお母さんはそう言い、最後に「狭いけれど」と付け加えた。でも、祥子さまはあまり広い家は好きじゃないから、その点は大丈夫なんだけれど。家族の誰がどこにいるのかわかるようなお家に憧《あこが》れているんだ、って以前言っていたのだ。でも、大人に話したところで、きっと「それは謙遜《けんそん》だろう」って本気にしないのだろう。
「ねえ、祐麒《ゆうき》は来ないよね」
お箸立《はした》てと鍋敷《なべし》きを片づけるためにキッチンに向かった祐巳《ゆみ》は、土鍋《どなべ》を持って前を行く弟に声をかけた。ちなみに本日のメインはおでんだった。
「何で? この前行ったから?」
祐麒は振り返る。
「うん……そうかな」
何となく。一年前と同じパターンになるのかな、って気になっただけ。
「行かないよ」
取りあえず土鍋をガス台に下ろして、祐麒はフッと笑った。
「あれは、柏木《かしわぎ》先輩に半《なか》ば強引に連れていかれただけでさ」
柏木、という言葉に祐巳は「どきっ」ときた。「どきっ」だと何となく多少なりともときめきが入っていそうな響きがあるけれど、そうじゃなくて単純に「どきっ」。「ぐさっ」まで行かない、何ていうかつまり「ぐさっ」の軽いやつだ。
祥子さまを間に置いたライバルともいえる柏木さんには、いろいろ思うところがある。だが今は、瞳子《とうこ》ちゃんの件で彼と約束をしたことが一番心に引っかかっていた。
(次に質問されたら、僕は答えるからね)
思い出して、また「どきっ」とした。
でも「どきっ」だろうが「ぐさっ」だろうが、祐麒に気づかれれば変に勘《かん》ぐられるに違いない。だから祐巳はお箸立てと鍋敷きを所定の位置に戻すと、「わかった」と言って弟に背を向けたままキッチンを出た。
が。
「柏木さんも来るのかしら?」
リビングに戻ると、お母さんが目をキラキラさせて待っていた。どうやら子供二人の会話が、耳に入ったらしい。
「さあ……?」
本当に知らないから、祐巳はあやふやな返事しかできなかったのだが、それでもしつこく追ってくる。
「祥子さまの従兄《いとこ》なんでしょう?」
やれやれ。ここのところ何やかやで福沢家を頻繁《ひんぱん》に訪れていた柏木さんのことを、ミーハーなお母さんはすっかり気に入ってしまったのだ。
「だが、柏木君は男」
お父さんが新聞のテレビ欄《らん》に目を落としながら、つまらなそうにボソリと言った。
「新年会は、女性限定だったろう」
興味なさそうな風を装《よそお》いながらも、お父さんはしっかり招待状の内容を把握《はあく》しているのだ。女性限定。そこ、かなり重要。
「じゃ、瞳子ちゃんだったら呼ぶかもしれないわね?」
瞳子ちゃん。その名前も、今の祐巳には「どきっ」とくる。瞳子ちゃんに拒絶された話は、家ではまだ言っていない。
「祐巳さまは、お家では何でもお話しになるんですね」って言ったのは瞳子ちゃんだったけれど、これで案外話さないことも多いのだ。
「わかんないよ。祥子さまが声をかけたかどうかなんて」
「まあ祐巳ちゃんたら、全然情報収集していないのね」
妹のくせして、ってお母さん。確かに学園内では妹だけれど、一緒に住んでいるわけじゃないから、把握《はあく》しきれていないことだってありますってば。
「招待状が届いてから、まだ話していないし」
由乃さんや志摩子さんとは電話で話したけれど、お姉さまとはまだ。
「えっ、どうして?」
「だって、お父さんやお母さんの許可が下りてから、お返事の電話をかけようと思っていたんだもん」
「祐巳ちゃん、真面目《まじめ》すぎるんじゃない? ねえ、大丈夫?」
「……」
真面目《まじめ》すぎて心配する母親って。何かうちの親ってちょっとずれていやしないか、と首を傾げながら祐巳は自室に向かった。まあ、そんな親に育てられたから、こういう娘が出来上がったのかもしれないけれど。
「大丈夫だって。親の前でしか電話をかけないような高校生の娘は、俺もどうかと思うけれど。祐巳は違うから」
階段を上る前に姉が電話の子機を手にしたところを目撃していた祐麒が、お母さんにこそこそとアドバイスをしていた。
確かに。内緒の電話ではないけれど、周りに人がいない場所で一人でかけたい気分だった。だが、それを弟に見破られたのはちょっぴりシャクだ。
自室に入って小笠原家に電話をかけると、祥子さまが出た。
『今日は、私にかかってくる電話が多いと思ったの』
なるほど。そろそろ招待状が着く頃だから、出欠の返事とか問い合わせとかが来るかもしれないと、準備していたようだ。
『さっき令から電話があったわ。由乃ちゃんと一緒に来てくれる、って。箱根は、もういいみたいね』
やはり祥子さまと令さまの間でも、祐巳たち同様駅伝が話題に出たらしい。由乃さんの正月といえば駅伝観戦。あまりにインパクトがあったため、まだ一回しか経験していないはずなのに、まるで毎年そうしているかのようにインプットされてしまった。
ちなみに、由乃さんの夏といえば富士登山。これも右に同じ。
『それで、祐巳は?』
祥子さまに出欠を問われ、祐巳は子機を握りしめたまま思いきりうなずいた。
「もちろん、お邪魔します」
『よかった。祐巳に限っては、ふるって[#「ふるって」に傍点]の部分を斜線《しゃせん》で消して、絶対[#「絶対」に傍点]に書き換えようかと、よっぽど思ったのだけれど』
祥子さまは、電話口で華《はな》やかに笑った。
祐巳に限っては絶対、って。思わず、頬《ほお》が上がってしまう。
祐巳に限っては。祐巳に限っては。心の中で何度も繰り返して、一人にやけてしまった。やはり、自室で電話をしたのは正しい選択だったようだ。
当日のことを二、三打ち合わせした後で、祥子さまは言った。
『瞳子ちゃんにも、招待状は出したわよ』
すっかり油断していたので、不意にやってきた瞳子ちゃんという単語に、またもや「どきっ」と反応してしまった。
「……そうですか」
祐巳は、つぶやいた。顔が見えないから、黙ったままでいると、電話の向こう側で祥子さまが気にするかもと思ったのだ。
『私の一存《いちぞん》で。祐巳に断りなくでごめんなさい』
「いえ」
考えてみれば、当日の持ち物とか駅からの道順とかよりも、余程聞きたかったことかもしれない。
『来ないかもしれないわ』
「はい」
『それでもいいと思って出したの。祐巳は断られたショックがまだ残っているかもしれないけれど、このまま何もしないでいると、どんどん瞳子ちゃんが遠くなって行く気がして』
確かに。あんな啖呵《たんか》を切った手前、瞳子ちゃんの方からはアクションを起こさないだろう。最終的に瞳子ちゃんと姉妹《スール》になれなかったとしても、このまま別れてしまうのはお互いのためにならないと祐巳も感じていた。
姉妹という言葉を取り消せば、もしかしたら現在の可南子《かなこ》ちゃんとのようないい関係を築けるかもしれない。自分の気持ちに気づいた以上、瞳子ちゃんを妹と呼べないことはとても寂しいことだけれど。でも、このまま背中を向けられ続けるよりはずっといい。
諦《あきら》めないことも大切だけれど、相手の気持ちを思って諦めることも時には意味のある選択になることだってあるだろう。
それにしても。お姉さまったら。
『あなた、呆《あき》れているのではなくて? みんなには、遠くから見守るように言った私が、真っ先にお節介しているから』
祐巳の思考を読むかのように、祥子さまが言った。
「超能力者ですか、お姉さまも」
『超能力者などではないわよ。でも、私はあなたのお姉さまだから』
お姉さま。
『だから。いいのよ、私は』
口出ししたって、って。言っていることは滅茶苦茶《めちゃくちゃ》なんだけれど、自信満々に言われると妙に納得してしまう。
「ええ」
祐巳は小さく笑った。
いいですよ、って。
お姉さまに限っては。
[#改ページ]
一年の計
部屋の大《おお》掃除《そうじ》をして、おせち料理を作るお母さんをちょっと手伝って、雑誌のテレビ番組表でお正月の特番をチェックしたりしているうちに、あっという間に大晦日《おおみそか》になり、紅白歌合戦の応援合戦を見ながらお父さんの茄《ゆ》でた年越し蕎麦《そば》をすすった。
心の中に宿題は抱えていようとも、元旦の午前|零時《れいじ》には日本中がリセットボタンを押したみたいに、新年はやってくる。
『あけましておめでとうございます』
テレビから聞こえるカウントダウン番組の司会者の声に、お父さんの「テープ、テープ。あと十センチ、切って渡してくれ」という声が被る。新たな恵方《えほう》に向けて貼ったお札《ふだ》が剥《は》がれないように、上からセロファンテープで押さえて保険をかけるのだ。お札は一度落ちたら、貼り直しは不可である。お父さんは、踏み台に上ったまま右手でお札を押さえ、左手をうーんと下に伸ばす。
「ほいほい」
返事をしながら、祐麒が目分量で十センチ分のテープを引きだして切る。付属のギザギザカッターでカットしたっていいのに、ご丁寧にハサミを使うのは彼のこだわり。曰《いわ》く、「畏れ多くも神様からいただいたお札に巻きつける帯になるのだから、切り口は真《ま》っ直《す》ぐが望ましい」だそうだ。
そういう几帳面《きちょうめん》な性格だからこそ、お父さんは息子の方をアシスタントに指名したのだろう。ちなみに祐巳はもう少し前段階で、壁からちょっと離れた所で方位|磁石《じしゃく》とお札の位置を交互に見ながら「心持ち右」とか指示を出すガイド役を仰《おお》せつかった。そんな風に神様と関わっている福沢家の長男と長女だが、小さい頃よりそれぞれ仏教とキリスト教の学校に通っているのだった。
さて。お札が無事貼られると、やっと家族の「あけましておめでとう」となる。
今年は妙子《たえこ》叔母《おば》ちゃん家《ち》のハワイ旅行もなかったから、両親が山梨に行く話なども出ないまま、お父さんの手からお年玉をもらった。
「また今年一年、がんばれよ」
ポチ袋の中身は去年と同じ額だったけれど、それは事前にお母さんから予告されていたことだったので、そうガッカリもしなかった。まあ、毎年上がるわけもないしね。去年は、高等部に上がった区切りで金額が見直されたのだ。
明日というか今から数時間後の朝は、七時|起床《きしょう》である。両親に「お休みなさい」を言って、子供二人は自室がある二階へと向かった。
「何か、目がさえちゃったな」
先を行く祐麒が、階段の途中で足を止めた。
「あ、祐麒もやっぱり?」
紅白歌合戦の、あまり馴染《なじ》みがない歌手が熱唱している頃に一度|睡魔《すいま》が訪れ、それを通り越してからは、祐巳も全然眠くない。
「うーん。ゲームでもして眠くなるの待つかな」
時々妙に爺《じじ》むさい弟であるが、暇つぶしにゲームが出てくるあたりは、ごく普通の高校生の男の子だ。
「でもさ、一年の計は元旦にありって言うじゃない? 年の初《しょ》っぱなからゲームをしたばっかりに、今年一年ゲーム漬《づ》けになったらどうするの?」
昔祐巳は、元旦から漫画を読んでいて、今は亡きお祖父《じい》ちゃんから「一年間漫画漬けになる」と注意されたことがある。それ以来、一月一日は行動にできるだけ注意を払っているのだ。
「ゲーム漬けか。そりゃ、最低だな。となると、階下《した》でテレビを視《み》るのも駄目か」
そんなの迷信だって笑い飛ばしたっていいのに、真面目《まじめ》な弟は階段の真ん中で真剣に思案《しあん》している。後ろに姉がつかえているんだから、取りあえず階段だけでも上りきってくれた方がありがたいんだけれど。
「ねえ、祐麒」
考え事は部屋でして、って言いかけた時、祐麒は顔上げた。
「わかった。ちょっと出てくる」
「出てくる、って?」
「散歩。その辺、一回りしてくる」
ちょっと失礼、と、祐巳の脇を通って階段を下りていく。はいそうですか、と、すんなり送り出すのもどうかと思われ、とにかく祐巳も後を追う。
「散歩漬けの一年にするわけ?」
「健康的でいいだろ?」
まあね。心配しなくても、ゲームと違って中毒になるほど散歩に熱中するなんてことはなさそうだ。祐麒は玄関まで進んで、掛けてあったコートを羽織《はお》り、スニーカーを履《は》いた。
「待って、私も行く」
祐巳は弟の肘《ひじ》を掴《つか》んだ。しかし、祐麒は瞬時に却下《きゃっか》する。
「駄目《だめ》だって、祐巳は女なんだから」
「ずるい」
「えっ」
「男だからいいとか、女だから駄目だとか。そういうのずるい」
福沢家の方針は男女平等だ。祐麒もそこの所は重々《じゅうじゅう》承知している。
「言っておくけど、男女差別してるんじゃないぞ」
「わかっているわよ。心配してくれているんでしょ、私のこと」
「そうだよっ」
祐麒は姉の手を振りほどいた。
「でも、悔《くや》しいんだもん。違うってわかっているけど、何かすごく悔しいんだもん」
言いながら祐巳は、自分の発した「悔しい」は、何も真夜中の散歩だけに向けられているのではないことに、薄々ながら気づいていた。
気づいていたって、止められない。そういう細かいことを自分が気にしてしまうことだって、気になる。
悔しい悔しいを連発していたら、さすがに祐麒も鬱陶《うっとう》しくなったらしく、条件付きで姉の同行を了解した。
「……なら、親に許可もらってこいよ」
どうやら祐麒、自分一人だったら黙って出ていくつもりだったらしい。たぶんお父さんやお母さんも、外でも内でも悪さを一切《いっさい》しない息子の外出を知ったところで「しょうがないな」の一言で許してしまうだろう。男の子って、やっぱり得だ。
リビングの電気はすでに消えている。両親の寝室を訪ねると、お父さんはパジャマに着替えている最中で、お母さんはハンドクリームを指先にすり込んでいた。
「祐麒と一緒《いっしょ》?」
一瞬、二人は顔を見合わせた。お、何かいい反応だ。頭ごなしに「駄目だ」と言われたっていい場面なのに。
予想通り、お父さんは渋い顔で言った。
「門限一時だぞ」
「やった」
この場合、祐麒が信用されているんだろうな、と祐巳は思った。いざとなったら、祐麒が姉を守ると信じている。もちろん、だからといって姉弟一緒ならばいつだって夜遊び可というわけではない。一年の始まりの日だから、今日は特別なのだ。
「一時って。あと三十分じゃないか」
明らかに足手《あしで》まといという表情で、祐麒は言った。玄関で待っている間、両親が娘を説得してくれるかも、と、かすかな期待をしていたらしい。
「その辺一回りなんでしょ? 三十分もあれば十分じゃない」
「けどさ」
一回りなんて言っていたが、もっと遠出をするつもりでいたんだな、弟よ。
「ま、仕方ない。三十分かけて、近所を一回りするとするか」
コートを羽織《はお》って家の鍵だけ持って、二人は外へ出た。
外気は冷たくて、露出《ろしゅつ》している部分がキーンという感じで突っ張ったけれど、呼吸すると空気が澄んでいるのがわかった。
住宅地の道を歩きながら、今がいったい何時頃なのかもわからなくなる。窓からあかりが漏れている家が、まだ少なからずある。
道を歩く人たちはそんなにたくさんではないけれど、思った以上にはいる。
「初詣《はつもうで》に行くんだな」
前を歩いている若夫婦らしき男女を指さして、祐麒が言った。
「初詣? どうしてわかるの?」
「男の人が、破魔矢《はまや》を持ってる」
じゃ、行きじゃなくて帰りかもしれないんじゃない? って聞くと、破魔矢は古いのを納めて新しいのを買うそうなので、毎年買っている人は行きも帰りも手にしているものらしい。そして進行方向にはちょっとした神社があるけれど、背後には歩いて参詣《さんけい》できるほどの距離に破魔矢を売っているようなところはない、と。それが祐麒の推理である。
「初詣か」
「あー、駄目だからな。あの人たちについていったら、一時間あっても帰ってこれなくなるぞ」
「別に、そんなこと言ってないじゃない」
チラリとは考えたけれど。無理言って外出許可をもらっておきながら、門限破りはさすがにまずい。仕方ない。やはり、今は近所一回りで我慢《がまん》するか。
空を見上げながら歩いていると、一つ星が走った。
「見た? ね、見た?」
天を指さすと、弟は「何が?」と言う。
「流れ星だよ。流れ星。東京でも見られるんだね」
興奮のあまり、祐麒の二の腕をパシパシ叩いてしまった。
「年末年始は都会の空気がきれいだからな。そっか、いいな祐巳は見られたなら」
「よくないよ。お願い事し忘れた」
流れきる前に三回心の中で唱えれば、願いが叶《かな》う。そりゃ、さすがに無理だろうって。でも、だからこそチャレンジしがいがある、という理屈《りくつ》なのかも。
「お願い事、あるの?」
祐麒が聞いてきた。
「そりゃ」
十代の乙女《おとめ》ですもの。いろいろありますわよ。
――すると。
「どこでもいい?」
「え? どこでも?」
「初詣《はつもうで》」
ついて来いよとの弟の言葉に従って十分ほど歩くと、たどり着いた所には思いがけない物が待っていた。
「おおお」
思わず、声も出ようってものだ。家と家の間の細い路地《ろじ》をくねくねと入り込んだ場所に、小さなお社《やしろ》があったのだ。
「何で、こんな場所知っているの?」
「昔、自転車で何も考えずに滅茶苦茶道を走り回っていた時に見つけた。やっぱり知らなかったんだ、祐巳は」
「うん。ご近所なのにね」
赤い鳥居をくぐると、幅も高さも三十センチくらいの小さなお社がある。
「あ、お賽銭《さいせん》もってくればよかった」
お賽銭箱は見当たらなかったが、祭壇の手前の、少し段差のある所に数枚の小銭《こぜに》が置いてあるのが見えた。早くも先客がいたのか。それとも去年からそのままなのか。
「あるよ」
「えっ。まさか、お年玉!?」
自分の部屋に帰る前に出てきたから、祐巳のコートのポケットにはポチ袋が入っている。けれど、お札《さつ》をお賽銭にするほど太《ふと》っ腹《ぱら》じゃない。
「んな、アホな」
祐麒はジーパンのポケットに手を突っ込んで、じゃらじゃら小銭を取り出して「はい、五円」と差し出した。ご縁《えん》がありますように、って五円。いや、そんなことはこの際どうだっていい。
「……」
手の平の上の硬貨を取らずにいると、祐麒が言った。
「こんなことで、ずるいとか言うなよ」
「言わない」
硬貨だろうが紙幣《しへい》だろうが、お金をお財布《さいふ》以外に入れる習慣がなかったから、ちょっと新鮮だっただけだ。そう言えば、お父さんのポケットからもよく小銭が出てくる。祐麒は男の子なんだ、って思った。
「ありがとう。帰ったら返すね」
「五円くらい姉ちゃんに奢《おご》ってやらないこともないけれど、お賽銭は自分の金の方がよさそうだからな」
「うん」
二人は誰かが置いたお金の横に五円玉を一枚ずつ供《そな》えると、柏手《かしわで》を打ってから手を合わせた。
祐巳は周囲にいる大好きな人たちの一年間の健康と、瞳子ちゃんのことをお願いした。
瞳子ちゃんと仲直りできますように。
五円ぽっちで、ずいぶんたくさんのお願いをしてしまった。
「そうだ。言い忘れてたけれど。お願いが叶《かな》ったら、油揚《あぶらあ》げ持ってお礼に来なきゃだめだよ」
「油揚げ……」
「だって、ここお稲荷《いなり》さんだから」
「本当だ」
よくよく見れば、左右に二匹でお社《やしろ》を守っているのはキツネだった。
「ねえ、祐麒。今度、この場所までの地図を描いて」
「えっ。今歩いてきたのに、わかんなかったの?」
「だって暗いし」
「家から、十分もないぜ」
祐麒は呆《あき》れたようにつぶやいた。でも、ちゃんと教えてもらわないと。瞳子ちゃんのことはわからないけれど、大好きな人たちの健康は叶えられやすそうだから。油揚げを持ってお礼参りをする日は、一年後にはきっとやって来ると思うのだ。
真面目《まじめ》な福沢姉弟は、言いつけ通り一時一分前に帰宅した。
玄関に入ると、エアコンは三十分前に消したはずなのに、家の中がほんのりと温かかった。それだけ外が寒かったということだ。
廊下《ろうか》にお母さんの手紙が落ちていた。絶対に気がつくように、歩く場所に置いてある所がミソだ。たとえ億劫《おっくう》がって電気をつけずに進んでも、足で踏みつけたり蹴ったりすれば存在を主張できるから。
『お帰り。寒かったでしょう。お風呂を追い焚《だ》きしておいたから、順番に入りなさい』
「おー、ありがたい」
祐巳と祐麒は顔を見合わせ、すーっと大きく息を吸うとピッタリと呼吸を合わせて「ジャンケン」とかけ声を発した。
「ポイ」
祐巳はグーで祐麒がパー。
「お前、後出しで負けてんじゃねえよ」
からから笑いながら、「修行が足りないのお」と風呂場に向かう弟の背中を見送りながら、祐巳は小さくつぶやいた。
「修行が足りないのはどっちかのお」
わざと負けてやったことにも気づかないんだから。
「お父さん、お父さん、お母さん、祐麒、お父さん、私、お母さん」
宛名《あてな》の名前を読み上げながら手を動かしていると、祐麒がボソリと言った。
「……だから、黙って仕分けしろって、毎年言っているだろうが」
「だって、どうしても出ちゃうんだもん」
「声を出したら家に爆弾が落ちると思えば、絶対に出せないはずだ」
そうまでしなきゃいけないことかね。やれやれ、と祐巳はちょっと手を休めると、菓子皿にのっていた棒状のチョコレートを口に挟《はさ》んで、年賀状分けを再開させた。吸ったことはないけれど、ちょうど煙草《たばこ》をくわえるように。爆弾云々なんて物騒《ぶっそう》なことを考えるより、こっちの方がずっといい。口を開けばチョコレートが落ちちゃうのだから、注意するってものだ。
明けて朝。お母さんの「二人とも、起きなさーい」の声に目覚めたのは、午前七時だ。実質五時間かそこらの睡眠時間だというのに、元気に飛び起きたのは、何も「一年の計――」の呪縛《じゅばく》ばかりではない。
年賀状が来る。そう思うと、温まったお布団《ふとん》から漂う二度寝の誘いも、きっちりお断りできるものなのだ。
もちろん。福沢家では一家全員集合して朝の挨拶《あいさつ》をし、揃《そろ》ってお雑煮《ぞうに》を食べることは義務化されているから、グズグズ寝ていたら大目玉をくらうということも理由の一つではある。
さて、その年賀状である。
子供二人で手分けして四つの山に分けると、祐巳の分も祐麒の分も例年より若干《じゃっかん》厚みがあるように思われた。出した量は、去年とあまり変わらなかったんだけれど。どういうことだろう。
「誰、これ」
祐巳はつぶやいた。宛名は自分なのに、差出人の名前に覚えのないものがある。それも、一枚や二枚じゃない。年賀状って、「謹賀《きんが》新年」とか「あけましておめでとうございます」とか「今年もよろしく」とか「元旦」とかを組み合わせて出来上がっていることが多いので、その人が自分とどういう関係にあるかというヒントが、本文になかなか書かれていないので困りものだ。
家の住所を知っているわけだから、まったくつながりがない人とも思えないのだが。リリアンは特に、名簿《めいぼ》の扱いに厳しいし。
「あれ? 男の人みたいな名前……?」
すぐに気づかなかったのは、最初の方に登場したのが○美とか○生とか、どちらの性別でもありそうな名前だったから。でも、さすがに○男や○郎は男性の可能性が高そうである。○郎といえば、有栖川《ありすがわ》金太郎《きんたろう》という雄々《おお》しい名前も見つけたが、それは言わずとしれた花寺《はなでら》学院に通っている友人の「アリス」であるから、知っている人の山に入れた。
「俺も」
横で自分|宛《あて》の年賀状をチェックしていた祐麒が、つぶやいた。
「俺も知らない人から来ている。それも女の人」
「えっ」
祐巳は、自分に知らない男の人から来たことより、弟に覚えのない女の人から来たことの方に反応してしまった。ブラコンか?
「由乃さんや志摩子さんじゃなくて?」
「違う」
「……だろうね」
チェックを済ませた祐巳の年賀状の中に、二人からの葉書があって、まるで示し合わせたように「祐麒君によろしく」「祐麒さんによろしく」と書かれていた。本人に出したのなら、その文面は必要ないはず。
「どれ」
本人に覚えがないなら、この際プライバシーなんて言っていられない。祐巳が弟の手もとを覗《のぞ》き込むと、祐麒も姉の覚えがないという束《たば》に手を伸ばした。そして。
「あっ!」
二人、ほぼ同時に叫ぶ。
「うちのクラスの!」
そして相手の声を聞いて、「えっ?」と振り返る。祐巳は差出人の名前を指で叩いて、祐麒に言った。
「クラスメイトだよ。この子」
「右に同じ」
祐麒が言うのを聞きながら、葉書をめくっていくと。出るわ出るわ。人によっては、クラスメイトである祐巳本人|宛《あて》には出していなかったりもする。
「どうして来たんだろう」
「そりゃ、クラスの連絡|網《もう》見りゃ住所はわかるだろう。祐巳と俺が姉弟で、一緒に住んでいるって知ってれば」
「じゃなくて。どうして、祐麒のクラスメイトが私に?」
そう質問すると、間髪《かんはつ》入れずに聞き返された。
「祐巳はどう思う? 俺に来た、自分のクラスメイトからの年賀状」
「……学園祭で、祐麒を見て」
好きになった。いや、そこまではっきりしていなくて、まだ「気になった」くらいかもしれない。
「祐巳の場合も、そっくりそのままじゃないの?」
どう反応したらいいのか困った二人は、「もてるねえ」とお互いの肩を叩きながら笑ってみたけれど。それって自惚《うぬぼ》れ姉弟、もしくは姉(弟)ばかなだけだったりして、ってちょっと反省した。祐麒に関しては、リリアンの学園祭直後にクラスメイトが噂《うわさ》していたから、もしかしたらそうかもって思うんだけれど。自分に当てはめると、ちょっと違う気がするし。
「取りあえず、返事は書こう」
「うん。葉書残っているかな」
自分の部屋に戻って予備にとっておいた葉書を出して、それでも足りなくてお母さんにももらって、最後は普通の官製葉書に『年賀』と書いて出すことになった。
年賀状の中に、瞳子ちゃんから来た葉書は入っていなかった。
終業式の日は、すでに年賀状の受け付けは始まっていたはずだから、あの厳しい別れの前に投函《とうかん》していたとしたら、もしかしたら届くかもしれないと思ったのだ。
祐巳の場合がそうだったからだ。去年はギリギリまで忘れていて、焦りながら出したので、今年は余裕をもって年賀状製作にあたった。前後しながら同時進行で祥子さまのクリスマスプレゼント製作も行ったから、大忙しだったけれど。
あ、そうそう。終業式に「ちょうだい」とねだられた祥子さまの分一枚だけは、後で出したんだった。だから、元旦に届いているかちょっと心配。二日に祥子さまのお宅にお邪魔するのに、年賀状より本人が先に着いてしまうなんて笑っちゃう。だったら、持参した方がよかったことになる。
予告通り、祥子さまから年賀状は来た。だが祐巳は、それが祥子さまからの物だってすぐにはわからなかった。去年の年賀状の印象が強すぎたから。
そう。去年は確か、淡い水墨画《すいぼくが》と毛筆《もうひつ》で黒々と文字の書かれた、とても高校生のそれとは思えない渋いものだった。
だが、しかし。
「どうしたんだろう」
心境の変化か。今年はコンピュータで作成したと思しき、カラフルでポップなものだった。その上。
「うーん……」
何だろう、いつかどこかで、ものすごくこれに似た雰囲気《ふんいき》の年賀状を見た事があるんだけれど、思い出せない。
まったく同じではなくって。ただ、印象が似ているだけだ。似ているけれど、祥子さまの物の方が色とか構図とかのセンスもあって。
「どこかで見たはずなんだけれどなー」
でも、どうしても記憶の抽斗《ひきだし》から出てこない。
今年来た年賀状を調べても該当する物がないので、祐麒の分も見せてもらったが、そちらも空振り。よく考えてみれば、それを見たのは今日じゃない。もっと前。そう、たぶん一年くらいは。
そう思い返してみて、「あ」と気づいた。
「私の、去年の年賀状……だ」
もうお姉さまったら、って。つぶやいて、祐巳は一人でにやけた。
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寄り道と道すがら
二日になった。
祐巳は、替えとか歯ブラシとか詰めた大きめのショルダーバッグを右肩に、メープルパーラーの厚焼きクッキーの詰め合わせの入った紙袋を左手に家を出た。
セーターにジーパン、その上にダッフルコートを羽織《はお》るといういつものスタイル。お母さんはせっかくだから着物を着せてくれると言ったけれど、今晩はお泊まりだし。翌日自分で着られないような物だったら、着ていく資格なし。身軽が一番だ。
午前九時三十分。
少し早めに出たのにはわけがある。祥子さまのお宅へ行く前に、ちょっと寄り道をしようと思ったのだ。
M駅までバスで出て、そこからバスを乗り換える。いつも通学に利用している、南口から出ている循環《じゅんかん》バスだ。
でも今日は、リリアン女学園までは行かない。それより手前にある、神社前のバス停で途中下車。それは去年の正月二日、佐藤聖さまと一緒に回ったコースでもあった。
別に、卒業してしまった聖さまを偲《しの》んで感傷的になりにきたわけではない。運転免許証をもっていない祐巳は、神社の裏に愛車を停めてあるわけでももちろんない。
その心は。
初詣? それとも、おみくじで運試し?
いやいや。初詣は近所のお稲荷さんで済ませたし、おみくじで凶《きょう》が出たらめげそうだったので、どちらもパス。
「よっしゃ」
気合いを入れて、屋台の前の人混みに飛び込む。イカ焼き、お好み焼き、たこ焼き、焼きトウモロコシ。二個ずつ買って、家から持参したスーパーのレジ袋に入れた。エコ主婦か私は、と心の中で突っ込みを入れる。
気持ちはもっと買いたかったけれど、去年のようにここから真っ直ぐ目的地まで運んでくれる車があるわけではない。一人で持てる量には限度がある。それに、思った以上に値《ね》が張ったので、ここらへんでやめてちょうどよかった。考えなしに買っていたら、お年玉がなくなっちゃうところだった。
そう。お目当ては、屋台の食べ物。近所の神社でも売っていたけれど、去年聖さまが買ったのと同じ物の方がいいと思ったのでここまで足を伸ばした。つまり祐巳は、清子《さやこ》小母《おば》さまの喜ぶ顔がただ見たかったのだ。
再びM駅に戻って、今度は電車移動。
車内は案外空いていたので、入ってすぐの席によっこらしょと腰を下ろし、荷物を膝の上と靴の前に振り分けて、やれやれと大きく息を吐く。
そこでやっと顔を正面に向けると、向かい側の席に知っている顔がある。
「乃梨子《のりこ》ちゃん?」
「あ、祐巳さま」
先に電車に乗っていたらしい乃梨子ちゃんは、自分の荷物を持って祐巳の隣の席に移動してきた。ベージュの短いダウンジャケットの下からは、ジャンパースカートが見えていて、そのまた下から覗《のぞ》いているチャコールグレーのタイツが可愛《かわい》い。
「ごきげんよう。あ、あけましておめでとうございます、ですね」
「うん。あけましておめでとう」
どこに行くのとか、どうしてこの電車に乗っているのとかは、聞くだけ野暮《やぼ》。二人とも、小笠原家の新年会に参加するのである。本当は祥子さまの家の最寄《もよ》り駅で待ち合わせしていたのだけれど、予定より少し早く会っちゃったというわけだ。
「祐巳さま、すごい荷物ですね」
「ははは。持ち込み可、ってことだったので、調子に乗っちゃった」
仏像鑑賞目的の小旅行などに慣れているからか、乃梨子ちゃんは意外に軽装だった。祐巳より一回り小さいくらいのバッグ一つと、中にお菓子が入っていると思《おぼ》しきデパートの紙袋が一つ。
「私は、チョコレートを持ってきました。中にマロングラッセみたいな物が入っているんです。食通《しょくつう》の大叔母《おおおば》が勧めてくれたので」
「おいしそう」
「おいしいですよー」
乃梨子ちゃんは、自信満々にうなずいた。
おいしいだけじゃなくて、結構高そう。やっぱり小笠原家に持っていく手土産《てみやげ》ということで、意識的か無意識かわからないけれど、自分でハードル上げちゃっているんだろう。
「乃梨子ちゃんは、先に志摩子さんとどこかで落ち合ってから来るかと思ってた」
「私、千葉の実家から直接来ましたので」
「あ、そうか。お正月は帰るよね」
納得、と祐巳はうなずく。乃梨子ちゃんは、お家がリリアンに通うには少し遠いので、大叔母さんの家に下宿《げしゅく》しているのだった。
がたんごとんと軽い振動とともに電車は進む。足の前に置いたレジ袋の中身の焼きイカとか焼きトウモロコシのパックが崩れないよう、取っ手をしっかり握っていないといけないので気が抜けない。
がたんごとん。揺れるたびに、焼け焦げた醤油の匂いとソースの匂いが袋の口からフワリと立《た》ち上《のぼ》る。少し離れた席に座っている、晴れ着をきたお姉さんが「何の匂いかしら」というようにこちらに顔を向けた。
がたんごとん、がたんごとん。
「祐巳さま、あのっ」
がたん。
「ん?」
乃梨子ちゃんの、さっきの「おいしいですよー」とはまったく違ったトーンの声に驚いて、うつむき加減でいた顔を真横に向けると、そこには果たして真剣な表情が待っていた。
「ど、どうしたのっ!?」
「私、祐巳さまに申し訳ない気持ちでいっぱいで」
何だ、何だ。
乃梨子ちゃんって人は、一年生ながらしっかり者で、滅多なことではポカはしないはず。それが申し訳ないって。それもいっぱい、って。
「私に、何かしたの?」
覚えがないけれど、こうなったら話を聞くしかない。まだしばらく電車に乗っていないといけないわけだし。こうなったら、道すがら。
「蒸《む》し返すのも、ごめんなさいの上塗《うわぬ》りなんですけれど」
そこで祐巳もピンと来た。
「瞳子ちゃんのこと?」
乃梨子ちゃんは、そうだとうなずいた。「蒸し返す」で「ごめんなさい」といって、思い当たることは最近ではただ一つ。祥子さまが「放っておいて」と言ったことであろう。
「でも、瞳子ちゃんのことは乃梨子ちゃんには別に――」
瞳子ちゃんと仲がいい友達だからって、その言動に対してまで責任を感じる必要はないはずだ。しかし、乃梨子ちゃんは首を横に振る。瞳子ちゃんの代わりに謝っているのではない、という。
「私、ずっと瞳子が祐巳さまの妹になればいいと、――いいえ、違います、祐巳さまが瞳子のお姉さまになってくださればいいと、思っていました。でも、祐巳さまは瞳子のことを何とも思っていない、って。いえ、妹として意識していないんじゃないか、って。だから祐巳さまが、無邪気《むじゃき》に瞳子のことを構ったりするのがとても嫌だったんです。……ごめんなさい」
「そっか」
瞳子ちゃんたちをクリスマスパーティーに誘おうという話になった時、乃梨子ちゃんが妙に突っかかってきたのはそのためだったのだ。
「でも、祐巳さまは瞳子のことを真剣に考えていてくださったんですね。それなのに、瞳子ったら」
「姉妹《スール》の申し出を断ったことは、良いことでも悪いことでもないよ」
断られた時、さすがにショックだったけれど。こればっかりは仕方ない。入試で不合格を出した学校も、条件が合わなくて契約を断念した会社も、プロポーズを断った恋人も、断罪されるべき立場にはない。それと同じだ。
「でも」
乃梨子ちゃんはつぶやいた。
「自分の気持ちを偽《いつわ》ることは、良いこととは言えないと思います」
揺るぎない自信がそこにはあった。だから、祐巳はちょっぴり勇気が出てきた。
「乃梨子ちゃんは、瞳子ちゃんが私のことを嫌いじゃない、って思ってくれているんだ?」
「はい」
もちろん、って。何て、頼もしい。
「じゃ、きっと私が何かを間違えちゃったんだね」
祐巳は独り言のように言った。
「間違えた?」
「時とか、場所とか、相手の気持ちとか、伝え方とか……かな」
今どの辺りかと窓の外を見れば、ガラスが白く曇って、外の風景はぼんやりとしか確認できなかった。
待ち合わせの駅の改札口《かいさつぐち》で五分ほど立ち話していると、志摩子さんがやって来た。
「ごめんなさい、待った?」
「ううん。私たちが早く着きすぎた」
約束の十一時半までには、まだ十分以上時間はある。でもすでに二人揃っているのを見て、志摩子さんはちょっと焦ったらしい。草履《ぞうり》の音をパタパタさせながら、改札口を抜けた。
そう。志摩子さんは着物を着ていた。振《ふ》り袖《そで》のような豪華な物ではなく、さりとてウールのアンサンブルほどくだけた感じでもない。ちょうど、その中間に位置する着物といったらいいだろうか。上にコートのような物を着ているから、衿《えり》もとの一部と膝《ひざ》から下しか見えないのだけれど。
「それ、小紋《こもん》?」
「ええ。よくご存じね」
「いやいや。まぐれ当たりのようで」
実は祐巳の着物知識量は、一年前でストップしているのだが、その数少ない抽斗《ひきだし》を開けてみて、去年のお正月に祥子さまが着ていたのとタイプが似ている感じがしたので、試しに取り出して言ってみただけだ。小さなお花模様が散らばった着物。何色かっていうと、グレーとピンクと緑色が見える。しかし着てきたということは、少なくとも志摩子さんは着物を一人で着られると、そういうことらしい。尊敬。
「じゃ、さ。もしかして、寝間着《ねまき》も浴衣《ゆかた》とか?」
と手提《てさ》げバッグを指さして尋《たず》ねれば、志摩子さんはコロコロと笑った。
「残念ながら、パジャマなの」
その時、二人の会話をニコニコほほえんで見守る乃梨子ちゃんの姿が、祐巳の目の端に映った。
「あ、ごめん。挨拶《あいさつ》もせずに話し込んじゃった」
「そんな。こちらこそ急かしたみたいで」
というわけで、三人揃ってご挨拶《あいさつ》。
「あけましておめでとうございます」
今年もよろしくお願いします。頭を下げて言葉を交わした後で、白薔薇姉妹の間に漂うほわんとした空気に、祐巳は気づいた。
「もしかして、二人は今年初だったりする……?」
「ええ。それが何か」
そうだ。乃梨子ちゃんはお正月実家で過ごして、そのまま来たって言っていたのに。
「ごめん。気づかなかった。ちょっと外すから、ごゆっくり――」
荷物を持ち上げてクルリと背を向けると、「いやだ、祐巳さんたら」と志摩子さんの手が二の腕を掴んだ。
「今更《いまさら》、何、気を遣っているのよ」
「でも、だって」
新年一発目の姉妹のランデブーだっていうのに、お邪魔虫じゃありませんか。
「そんなことされたら、祥子さまのお宅に行った時、私たちもどこかに隠れなければならなくなるわ」
そりゃ、理屈ではそうだけれど。でも、二人は姉妹《スール》になってまだ間もない……間もない……。いや、と祐巳は指折り数えてみて思い直した。もう半年も経っているのだ。ベテランとは言えないが、そろそろ中堅《ちゅうけん》といった関係なのかもしれない。なので、あまり気を遣うのはやめることにした。
「令さまと由乃さんは?」
志摩子さんがキョロキョロと辺りを見回す。
「一応誘ってはみたんだけれど、直接行くから、って」
二人の家からだと、この駅|経由《けいゆ》ではかえって遠回りになるという。
「じゃ、三人?」
「そういうこと」
全員集合ということで、少し早いが駅から出て出発することになった。
駅から祥子さまのお宅まで、歩いて十五分から二十分かかるらしい。バス停三つ分ほどの距離。実際駅からバスが出ていて、近くまで行くらしいけれど、バス停が家から少し離れているから、またちょっと歩かなければならないとか。
「どうする?」
「祐巳さん、何度かいらしたことがあるのでしょう? その時はどのルートで?」
「その時は、いつも誰かの車で連れていってもらってたから」
「えっ。じゃ、ほぼ初めて訪ねるのと一緒なわけですか」
乃梨子ちゃんから、「大丈夫なんだろうか」光線がじわじわと発せられている。でも、お姉さまから初めての人たちをちゃんと連れてくるように命じられた手前、祐巳はここで「自信がありません」なんて言えないのである。
「ほら。でも、こうしてファックスで地図送ってもらったし。あれ、どっち向きかな」
紙を広げてクルクル回していると、乃梨子ちゃんが「失礼」と横からそれを取り上げた。
「駅がここで北が上ですから、この向きで正解ですね。ってことは、この道があそこの道だから、取りあえず真っ直ぐ行ってみましょう。進む方向さえ合っていれば、途中の曲がり角を間違えても修正はききますから」
と乃梨子ちゃんが自信なさげな発言をするのには理由がある。送られてきた地図が、それほどまでにアバウトなもの……というわけではなくて、駅から少し離れるとそこはもう住宅地であり、地図上で道しるべとなりそうなお店や大きな建物なんかが、ほとんど存在しなくなってしまうからだった。
まあ、それでも祥子さまのお宅は、ビルではないが敷地がちょっとした公園並に広いので、側まで来ればわかるはず。たぶん、ご近所の人は小笠原邸を目印にしているのではないかと思われる。
「あ、あれ。あそこに坂があります。やっぱり、この道で間違いないようです」
先陣をきって進む乃梨子ちゃんの手には、祐巳が屋台で買い出しした荷物がぶら下がっていた。一年生が一人だからか、二年生二人があまりキビキビしていないせいか、いつになくはりきってリーダーシップをとっている。
「頼りになる妹をお持ちで」
「ええ。そうでしょう?」
若者を見守る老人のように、二人はゆっくり歩きながら言葉を交わす。先を歩く乃梨子ちゃんがたまに間違った道を進みかけて引き返したりすることもあるので、このスローペースが結果的にちょうどよかったりする。
遊歩道のような道には、街路樹《がいろじゅ》が植えられている。家々の庭からも|常 緑 樹《じょうりょくじゅ》があふれ、綺麗《きれい》な街並みである。
「今日は、お家の方《ほう》は大丈夫だったの?」
祐巳は志摩子さんに聞いた。以前志摩子さんのお姉さまである佐藤聖さまから、お正月とかは家の手伝いをしないといけない、みたいな話を聞いた気がしたから。今から思えば、お家がお寺だからなんだ、ってわかることだけれど。
「ええ。外から手伝いの人も来てくれるし、私一人くらいいなくても平気だって父が送り出してくれて」
「話のわかるお父さんだ」
実は祐巳、志摩子さんのお父さんのことは二度ほど見たことがある。一度目は、袈裟《けさ》姿で学校のトラックを走っていた。二度目は、任侠《にんきょう》映画から抜け出したような出で立ちで、おでんやフランクフルトを買いに来た。言われなければ志摩子さんのお父さんとは気づけないであろう、明るくお茶目《ちゃめ》なお坊さんだ。
「父は、私が若い娘らしく友達と集まったりすると安心みたい。それに今、珍しく兄が帰ってきているから。私がいると思い切り親子げんかもできないようだし、ちょうどいいのではなくて?」
「お兄さんが帰っているんだ?」
一週間かそこら前に存在を知った、志摩子さんのお兄さん。一人っ子だと思っていたから、「帰ってきた」と言われても何だかピンと来ない。珍しく、ということは、フーテンの寅《とら》さんみたいな人なのかな。
「だから私の持ち込みは、兄の作ったおまんじゅうなのよ」
志摩子さんは、手提げバッグとは別に手にしていた風呂敷《ふろしき》包みを掲《かか》げた。そうそう、これには何が入っているのかさっきから気になっていたのだ。
「おまんじゅう? お兄さんが、作ったの?」
「ええ。洋菓子専門だとばかり思っていたら、和菓子にも手を出していたようよ」
洋菓子専門ってのも初耳だったから、和菓子に対してのみの衝撃はない。しかしお寺を継ぐ継がないでもめているような話だったから、てっきりお坊さんだと思っていたら。本職はパティシエなのか。いや、もとパティシエが和菓子職人に鞍替《くらが》えしたのかもしれない。
昔から謎《なぞ》だったけれど、ますますミステリーな志摩子さんの家庭環境。
「あ、伊藤《いとう》さん発見。次は鈴木《すずき》さんですね」
先を歩く乃梨子ちゃんが、表札《ひょうさつ》を確認してうれしそうに報告する。
祥子さまが気を遣って、きっかけの曲がり角にあたる家には苗字《みょうじ》を書き込んでくれていたのだ。しかし、どちらもそう珍しくない苗字なので、同じ町内に数軒ある可能性は否定できないが。
ほどなく現れた鈴木さん宅を曲がると、何だか見覚えのある道になった。
「たぶん、この先にある」
祐巳は指を前に伸ばして叫んだ。
やがて、高くそして長く続く塀《へい》が現れた。間違いない。
この延長線上に、小笠原家の門がある。
乃梨子ちゃんを追い抜いて小走りになった。
その様子はまるで、迷子になって方々《ほうぼう》をさまよった犬が、家の側まで来て急にスピードをあげて走り出したかのようだったと、乃梨子ちゃんと志摩子さんは後になって語った。
「うわ……」
乃梨子ちゃんが、高くて頑丈そうな門を見上げて声をあげる。
「公園じゃないですか」
初めて訪れた人は、きっと同じ反応をするであろう小笠原家は、高級住宅地と呼んでいいこのエリアでもひときわ目立つお屋敷だった。
「縮尺率、間違ってますよこの地図」
バシバシと紙を叩く。確かに、目的地の場所には小さな四角が描かれていて、そこに矢印で『小笠原』と文字で示されている。敷地全部を表記すれば混乱するだろうと、入り口の位置だけ描き込んだらしい。訪問したことのある祐巳はすぐに察したけれど、乃梨子ちゃんはそうとは気づかないまま到着してしまったのだ。その割にはお隣さんが描かれていないな、と思ったとか。ぼんやりと、両隣は月極《つきぎめ》駐車場か市民農園くらいに思っていたらしい。
それとは正反対に。
「志摩子さんも初めてなんでしょ? それにしては落ち着いているね」
「いいえ。驚いて声も出ないのよ」
「でも、お姉さまのお家だって大きいじゃないですか」
乃梨子ちゃんが言うには、志摩子さんのお宅は小さな山一つ分って感じのそれは大きなお寺らしい。
「それはお寺だから。家族のプライベートスペースは、慎《つつ》ましやかなものよ」
個人の物というより、檀家《だんか》の物、地域住民の集まる公共の場、であるらしい。観光化されていないけれど、古い建物だから保存に力を入れなければならないし、人の出入りも多くて、時々借り物の中に暮らしていると感じることもあるらしい。なかなか大変そうだ。
時計を見ると十二時三分前。ちょっと迷いながらゆっくり来たから、片道二十分のところを三十分近くかかってしまった計算になる。
余所《よそ》さまのお宅を訪ねる場合、約束の時間から五分遅れたくらいがちょうどいいと聞いたことがあるけれど、それって敷地内に入った時点なのか、靴を脱いで家の中に入った時点なのか迷うところ。普通のお宅ならどちらもあまり変わらないだろうけれど、小笠原家に関しては数分のズレが生じそうだ。
ちょっと早いけれど、道端《みちばた》で突っ立っているのも変なので、祐巳はインターホンを鳴らした。
『はい』
祥子さまかな、清子小母さまかな。上品な女性の声が応える。
「福沢祐巳です。志摩子さんと乃梨子ちゃんも一緒です」
『いらっしゃい。今開けるから、中まで入って。令たち、もう来ているわよ』
正解は、祥子さまでした。清子小母さまは令さまのことを「令」と呼び捨てにはしないだろう。
自動で開いた門扉《もんぴ》に、プチ圧倒されながら三人は小笠原家の敷地に足を踏み入れた。
中は森だ。
いや、それはもちろん譬《たと》えだけれど。背の高い木々の中を、一本の道が緩《ゆる》やかなカーブを描いて伸びている。まるで、その先にある物を外部から隠すかのように。
森を抜けると、正面に大きな家が現れる。
「もう、驚きませんもんね」
乃梨子ちゃんが言った。そうそう。一々反応していたら疲れちゃうくらい、祥子さまのお宅は一般庶民のそれとはかけ離れているのだ。ある程度ビックリした後は、「そのような物」と受け入れた方がいい。
右手の駐車場には、空いたスペースに自転車が二台停められていた。
「由乃さんたちのかな」
どちらもピッカピカの新品に見える。新年に合わせて、二人同時に買い換えたのだろうか。豪勢《ごうせい》だなぁ。
そんな「大きなお世話」は横に置いておいて。三人は、建物の正面玄関までたどり着いた。
手順として、次は呼び鈴を鳴らす、だ。ここは何度か訪ねたことのある祐巳が、率先《そっせん》してその役を引き受けるべきところである。
「ええっと」
そうだった。目の前にある鎖《くさり》を引っ張るのだ。
(……重い)
ちょっとした手応《てごた》えがあった後、鈴というより小さな鐘を鳴らすような音がして、屋内に祐巳たちの来訪を知らせた。
「いらっしゃい」
迎えに出てきたのは、祥子さまだった。
「あけましておめでとうございます」
三人は挨拶《あいさつ》をした。別に練習したわけではないのに、声はピッタリと揃《そろ》った。
「おめでとう」
祥子さまは、水色の飛《と》び石柄《いしがら》の小紋《こもん》を着ていた。葡萄茶《えびちゃ》の羽織《はおり》は去年と同じ物だ。長い髪は、緩い三つ編みにして| 簪 《かんざし》でアップしていた。
「さ、上がって」
揃えられたスリッパを指し示されたので、祐巳たちは上着をとってから「お邪魔します」と履き物を脱いだ。
ちらりと見れば、先に来ていた由乃さんと令さまの靴《くつ》が端に揃えてあった。見える位置には、男物の靴はない。本当に、女性限定なのだと思う。親戚であろうと、やっぱり柏木さんは排除されるわけだ。
「祐巳さま、これを」
廊下《ろうか》を歩き出す前に、乃梨子ちゃんが屋台のお土産《みやげ》が入ったレジ袋を差し出した。
「あ、ありがとう」
何から何まで、行き届いた後輩である。将来が楽しみ……、いや、今現在すでに頼もしい。
先を歩く祥子さまが、「年賀状、元旦に届いたわよ」と祐巳にだけ聞こえる声でサラリと言った。
それだけのことなのに。そうか、ちゃんと届いたのか、って嬉しくなった。
どうしてだろう。甘い綿菓子《わたがし》がそっと差し出されたみたいに、ほわんとした。
新年会会場として通されたのは和室だった。
二つ並べた低いテーブルの上には、グラスや飲み物・食べ物といった物がスタンバイされ、すでにパーティーらしくなっていた。
「あー、あけましておめでとう」
三人に気づいて、令さまが言った。
「おめでとうございます」
白いシャツの上にブルーの丸首セーターと色の抜けたジーパンといった出《い》で立ちは、ラフな祐巳の格好に一番近い。
「おめでとう。あー、志摩子さん着物だ」
挨拶《あいさつ》を聞きつけて駆け寄ってきたのは、由乃さん。グレーにクリーム色のチェックのパンツスーツという、珍しくボーイッシュなスタイルだ。
「清子|小母《おば》さまー。祐巳さんたち来ましたよー」
[#挿絵(img/23_071.jpg)入る]
挨拶《あいさつ》もそこそこに由乃さんは、和室の外に声をかける。
「祐巳さんたちが来たら知らせて、って清子小母さまに言われていたの」
初対面のはずなのに、もう「清子小母さま」って馴染《なじ》んでいる。まあ、そういう親しみやすさを与える人だけれど。祥子さまのお母さまは。
「由乃さん、自転車で来たの?」
「うん」
「二台ともピッカピカだったね」
そう、いいでしょう、と由乃さんが胸をはる向こうで、祥子さまが令さまに尋《たず》ねた。
「あら、令のも新車なの? この間までの自転車はどうしたの?」
「壊れちゃって」
令さまは残念そうに答えた。
「年末駆け込みで、義叔父《おじ》さんに買ってもらったの」
「壊れた? 何年も、修理しながら乗っていたじゃない」
「買い換えなきゃいけないくらいのダメージで、ついに廃車に……ね」
令さまは由乃さんをチラリと見た。でも由乃さんは、明後日《あさって》の方向を見ている。どうやら令さま愛用の自転車が廃車となった経緯《いきさつ》には、由乃さんが深く関わっているらしい。令さまの言う「義叔父さん」とは即《すなわ》ち、由乃さんのお父さんであるからして。
ところで、先程呼ばれた清子小母さまは。
「いらっしゃーい」
手に何かの植物の枝を持って現れた。緑の葉っぱに、赤い実がたくさんついている。黒っぽい着物を着ているから、赤い点々がまるで袖《そで》に描かれた模様のように見えた。
「あけましておめでとうございます」
「おめでとう、祐巳ちゃん。えっと、そちらお二人が――」
小母さまは白薔薇姉妹に視線を向けた。
「藤堂《とうどう》志摩子です」
「その妹の、二条《にじょう》乃梨子です」
「よろしくね、志摩子ちゃんに乃梨子ちゃん。私のことは清子って呼んでね。お手伝いさんがお休みで行き届かないところもあるでしょうけれど、楽しくやりましょう」
「はいっ」
白薔薇姉妹が、清子小母さまの魅力に瞬時にノックアウトされたのは言うまでもない。
「お母さま、水が垂れていてよ」
祥子さまが指をさして指摘した先は、清子小母さまの持っていた枝の切り口で、そこからポタポタと水が滴《したた》り落ちていた。
「あ、いけない。生け花の最中だったのよ。令さんに頼んで、お家の庭からマンリョウを切ってきていただいたから」
大変大変と言いながら、さほど急いでいる感じはなく廊下《ろうか》を戻っていく美しい先輩の後ろ姿に、若い客人たちは得《え》も言われぬ表情でぽーっと見とれた。
ただ一人、娘の祥子さまだけは、
「相変わらずでしょう?」
ため息をつくと、胸もとから懐紙《かいし》を出して、畳《たたみ》の上に落ちた雫《しずく》を押さえた。
そのまま事件の現場検証をする刑事さんか警察犬のように、清子小母さまの後をついて、廊下《ろうか》に落としていった水玉を一つ一つ丁寧《ていねい》に拭《ぬぐ》っていったのだった。
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新年会てんこ盛り
由乃さんはフライドチキンとポテトの詰め合わせを、令さまは宅配ピザのLサイズと二リットル入りのペットボトル二本(ウーロン茶とオレンジジュース)を持ってきていた。あ、プラス、マンリョウの枝か。今は梅や金色に染められた柳なんかと一緒に剣山《けんざん》に刺されて、床《とこ》の間《ま》を飾っている。
「祐巳ちゃん、覚えていてくれたのね。感激!」
清子小母さまは、屋台セットを見ると狂喜乱舞《きょうきらんぶ》し、感極《かんきわ》まって抱きついてきた。いくつになっても(正確な年齢は知らないが)無邪気《むじゃき》な乙女《おとめ》。可愛《かわい》いなあ、と失礼な感想をもつのも、いつものことだ。
「早速、温めましょうね。あ、令さんのピザが先かしら」
「あ、私が」
ピザを持ってきた令さまと、屋台セットを持ってきた祐巳が、小母さまの後についてキッチンへと向かった。
「小母さま。オーブンレンジ二つあるじゃないですか。一緒に使って大丈夫なら、手分けしてやっちゃいますけれど?」
令さまが、お伺《うかが》いをたてた。
「一緒に使って大丈夫、って?」
小母さまは、小首を傾げる。
「ブレーカーが落ちないかどうか、ってことです」
「ブレーカー……。気にしたことないわね。私は好きなように使っていたけれど」
他の人が気にして同時使用を控えていた、という可能性はないのだろうか。「どうかしら」と考え込む清子小母さまに、後からキッチンに現れた祥子さまが言った。
「大丈夫よ。お母さまが大量にミルフィーユを作った時、こっちの大きいレンジを占領していたにもかかわらずお夕飯はちゃんとできていたのでしょう? こっちの小さい方のレンジを使ったはずよ」
なるほど、それはかなり有力情報である。
「そうね」
小母さまも一旦《いったん》は納得したが、すぐに、新たにわいた疑問を口にした。
「あら、じゃあどうして去年は一つのレンジをフル稼働《かどう》させたのかしら」
「それはですね」
今度は祐巳が答える番だ。
「去年は誰もこっちの大きなレンジの使い方を知らなかったからです、小母さま」
「あ、そうそう」
でも、この間こっちでミルフィーユを焼いたということは――。
「小母さまは、このレンジの使い方をマスターなさったのですね? よかった、Lサイズもドンと来いって感じ」
令さまはさっそくレンジの蓋を開けて、中のテーブルにピザを入れた。祐巳も小さい方のレンジにたこ焼きを入れた。小さいとはいっても、それは便宜上《べんぎじょう》の言い方であって、家庭用の普通のサイズだ。たぶん福沢家で使っているのと同じくらいの大きさの。ただ、もう一方が業務用のかなり大きなサイズだから。たぶん、七面鳥が丸のまま二羽とか焼けちゃいそうな、そんなサイズなのだった。
「たこが弾けると大変だから、ラップ被《かぶ》せた方がいいよ」
「はい」
令さまの指示に従ってラップを掛けてから、温めスタートボタンを押した。イカやトウモロコシを祥子さまに出してもらった耐熱皿に移しながら何の気なしに横を見れば、大きなレンジの操作を任された小母さまが、扉の前で固まっている。
「小母さま……あの、どうなさったのですか」
「どうしよう令さん。私、オーブンとしてしか使ったことがなくって」
「――」
ピザを温め直すだけだから、オーブン機能で全然構わないんだけれど。でも、火力がわからないから、って令さまは、小母さまにスイッチを入れてもらってから、ガラス扉の中の様子を確認し、「よし今だ」という時、扉を開けてピザの上にアルミホイルを一枚|被《かぶ》せた。そのお陰で、ちょうどいい焦げ目の熱々ピザが完成した。
その様子に見とれていた祐巳は、焼きイカを爆発させてしまったが、ラップのお陰でどうにか大惨事《だいさんじ》になることだけは免《まぬが》れた。食品を爆発させた電子レンジの中の掃除《そうじ》って、泣きたくなるくらい大変なものだから助かった。
「さあさ、熱いうちに食べましょう。あ、その前に」
まずはグラスに、ノンアルコールのシャンパンが注がれた。
「全員に行き渡った? それじゃ、乾杯!」
「今年もよろしくお願いします」
隣同士でグラスをカチンと鳴らしてから口をつける。シュワ……って鼻の頭に弾けたシャンパンの飛沫《しぶき》がかかる。うん、おいしい。
二杯目からは、各自好きな飲み物をセルフサービスで飲むことになった。令さまの持ってきたジュースやウーロン茶の他にも、ハーブティーやほうじ茶なども用意されていた。
というわけで、各自持ち寄った食料をテーブルに並べて、新年会は始まった。
清子小母さまの手料理はポテトサラダ。取りやすいように、お皿のようなほろ苦い味の葉っぱ(チコリというらしい)の上に一口ずつ盛ってある。家でもよく食卓にのぼるポテトサラダなのに、どこがどう違っているのかこれはお洒落《しゃれ》で大人の食べ物、って感じ。喩《たと》えて言うなら「おいしい」じゃなくて「美味《びみ》」。
祥子さまが作ったという、生ハムとチーズのサンドイッチは絶品だった。一口大に切り分けられているため、さすがにナイフとフォークはなく、楊枝《ようじ》のような串で刺してある。
「すっごいおいしいけれど。ピクルスかオリーブ入れたら、もっと味が引き締まるんじゃない?」
令さまのアドバイスは的《まと》を射《い》ているかもしれないけれど、どっちも苦手の祥子さまがそれを料理するなんてあり得ない話なのだった。令さまもそれを知っているのに、わざと言ったように見えた。
テイクアウトしたピザやフライドチキンは、定番の味ながら(いや、だからこそ)やはりおいしい。お菓子類は食後の楽しみとして、取ってある。とにかく今晩はお泊まりなんだから、食べるのもおしゃべりするのも時間は、まだまだたっぷり残っている。
インターホンが鳴ったので、小母さまがあわてて部屋を出ていった。
「お手伝いさんがいないと、忙しいわね」
「もしかして、他にもお客さまが?」
由乃さんが祥子さまに聞いた。他に招待した人がいるのか、と。
「ええ、まあ……でも」
祥子さまはあやふやに答えて、席を立った。祐巳は「もしや」と心がざわざわした。
瞳子ちゃんかもしれない、そう思ったのだ。祥子さまが新年会に誘ったことを、知っていたから。
でも、果たして彼女が来るだろうか。わからない。
気持ちは焦《あせ》るのに、祥子さまを追いかけていったらいいのか、ここでじっとしていたらいいのか、それすらもわからなかった。
インターホンということは、その人は今門前にいるのだ。中から門扉《もんぴ》を開けて、それから歩いて家の前まで来るのにどれくらいかかっただろう。五分? もう少し?
じっとしていても、それくらい短い時間で、瞳子ちゃんかどうかは判明するはず。その前に呼び鈴が鳴って、祐巳に心の準備を促すだろう。
しかし、思ったよりずっと早く決着はついた。呼び鈴も鳴らなかった。
清子小母さまと祥子さまは、塗りの木箱を三つと四つそれぞれ持って、和室に帰ってきた。
「お寿司屋《すしや》さんだったわ」
種をあかせば、お寿司屋さんは車で配達しているから、門から家までの時間は徒歩より数段早かったのだし、インターホンで到着を知らされていたから、呼び鈴が鳴る前に小母さまがドアを開けて待っていたのだ。
祐巳は、ホッとしたようなガッカリしたような、複雑な気分だった。
時計を見れば、一時半。
もしその気があるのなら、瞳子ちゃんはもっと早く来ていていいはずだった。
もうかなりふくれたお腹《なか》を抱えていた一同は、目の前に置かれたお寿司の容器を切なく見つめた。
「食べたいのに食べられない」
「拷問《ごうもん》……」
天下の小笠原家|御用達《ごようたし》のお寿司屋さんの配達してくる握り寿司は、今年もまた、去年|祐巳《ゆみ》が怯《ひる》んだ高級ネタのオンパレードだった。
「あら。側に置いて、食べたくなったら食べたらいいわ。時間の制約がないんだから、だらだらと食べたり飲んだりしましょうよ」
と、小母さまは言う。
「でも、握りですって」
広い和室だから温まりにくくはあるけれど、それでも暖房を入れたまま一時間半も宴会をしていれば、ある程度の室温にはなっている。そこに生《なま》ものを置いたままだらだら過ごすなんて、無謀《むぼう》である。
「わかった。じゃ、トランプして負けた人が一つずつ食べる、っていうのどう?」
どうせ拷問《ごうもん》なら、って無邪気《むじゃき》に笑う小母さま。でもそれだと一ゲームにつき一個しか消費できない計算で、とてつもなく効率が悪くはないだろうか。
「いいえ。とにかくお寿司は食べてしまいましょう。食べきれなかったら、その分だけ冷蔵庫に入れたらいいわ。ゲーム大会をするなら、その後よ」
祥子さまの提案は正しい。いくら小笠原家の冷蔵庫とはいえ、手つかずのお寿司七人分は入らないだろう。
それでも、いざ「いただきます」してみると、意外に皆の箸《はし》も進むから不思議だ。やっぱりいい素材を使っているからだろうか。まず目で見て、食欲をそそる色と艶《つや》のなせる業《わざ》。
祐巳は、隣の祥子さまにコソッと言った。
「お姉さま。あの、ウニ、イクラ、アワビと、私の何かを交換いたしましょうか」
さすがに、柏木さんのように勝手に他人の箱から取るなんて芸当はできないので、お伺《うかが》いをたててみたのだ。
「え?」
祥子さまはちょっと首を傾げたが、やがて「ああ」と笑った。
「優《すぐる》さんがそうしていたから?」
「ええ……まあ」
こんなことで嘘をついてもしょうがないので、正直にうなずいた。ただし柏木さんに対抗しようなんて気持ちはなくて、ただ単純に祥子さまの嫌いな物を目の前から引き取ってあげたいと思ったまでで。
「優さんを意識することなんてないのに。別に、食べて食べられないことはないのよ。……それより、あなたに気を遣わせるなんて、情けない」
「でも」
それらを見つめる目がどんよりと沈んでいますが、お姉さま。
「偏食も少しずつ克服していかないと、と思っているのよ。あれも嫌い、これは食べられないなんて言っているのは、みっともないものね」
「はあ」
もしや、助け船を出したつもりが、逆にお姉さまを追い込んでしまったのではないか、と祐巳は思った。克服宣言をしたことで、そっと残す道は絶たれたのだ。
参加はしていないが、仲間たちは二人の会話に聞き耳を立てている。お箸《はし》の動き方が、急にゆっくりになり、さっきまで聞こえていた小鳥のさえずりのようなおしゃべりもいつの間にか消えていた。
祐巳も自分のウニに箸《はし》をつけたまま、さてどうしたものかと思案《しあん》していた。と。
「それ、好き?」
祥子さまが聞いてきた。
「え? ええ」
祥子さまが嫌いなら引き受けてもいいと思ったくらいだから、嫌いなわけはない。もっとも祐巳は、お寿司で嫌いなネタなんてほとんどないのだけれど。
「もし何かしてくれる気でいるのなら、私の前でそれをおいしく食べてもらえない?」
「は?」
何とも、不思議なお願いをされたものである。
「ただ、食べればいいんですか」
「そうよ。いいから。やってみて」
いいから、と言われても。それでも指示されたからには、取りあえずそれをやるしかない。
「では」
あーん、と口を大きく開けて、ウニの軍艦巻《ぐんかんまき》を一口で。好き嫌いのある子供の前で如何《いか》においしいかを伝えようとするお母さんのように、「あーおいしい」と甘い声を出そうと決めたのに、いざ食べてみると声なんか出ない。
(ああ……)
噛むたびに口に広がる、ジューシーなウニの味。お米も、海苔《のり》も、ついてきたお醤油も、良い物使っているんだろう。絶妙なハーモニーに、思わず目を閉じて堪能《たんのう》してしまった。また巡り会うことができた、竜宮城《りゅうぐうじょう》の味。
「祐巳ちゃん」
小声で、令さまが囁《ささや》くのを聞いて、もぐもぐしながら目を開けると。
「あ」
祥子さまが、ウニにお醤油をつけている。チャレンジする気だ。
「祐巳、口が疎《おろそ》かになっているわ」
言うやいなや、軍艦巻を口に入れる祥子さま。祐巳はというと、注意された「疎かになっている口」とはなんぞやと思いながらも、ここは祥子さまにとって正念場であるから聞き返せずに黙々と咀嚼《そしゃく》した。
祥子さまは、じっと見ている。もぐもぐしながら、祐巳の顔を。
そして、ついには飲み込んだ。軽く、目を白黒させて。
「食べられないこともないわ」
でも、あきらかに無理している。だって、祥子さま涙目になっているもの。
「要は慣れの問題よ」
負けず嫌いな祥子さまは、すまして言った。
「すごい。祥子さんったら、祐巳ちゃんの表情をおかずに、苦手なウニを食べるなんて!」
清子小母さまのつぶやきで、静寂は破られた。
「祐巳さん、おいしそうに食べてたものね」
「そういえば。ウナギの焼ける匂いをおかずに、ご飯を何杯も食べるって昔話がありましたよね」
皆、笑いながら好き勝手言っている。
「外野《がいや》がうるさいわ。祐巳、次はアワビよ」
「あ、はいっ!」
こうして祥子さまは、ちょっとだけ無理しながら苦手なネタをすべて食べきった。
一仕事終えた祥子さまは、自分の玉子焼きを祐巳の容器の中にそっと置いた。祐麒が去年そうしていたのを覚えていたらしい。
意識することなんてないのに、って。祐巳は小さく笑った。
三時過ぎから、ゲーム大会が始まった。
まずは、お正月らしく雅《みやび》に百人一首。待ってましたと、祐巳は手首を回した。
「なげきつつー」
上の句を読むのは清子小母さま。
(なげきつつ……下の句は確か、いかにひさしきだから――)
実は去年の惨敗《ざんぱい》を反省し、家で百人一首を少しばかりお勉強してきたのだった。付け焼き刃だけれど。
だが。
「はいっ!」
いま一歩のところで、志摩子さんに取られてしまった。志摩子さんの側にあった札だったから、見つけた時にはすでに遅かった。祥子さまも手を伸ばしていたけれど、位置的に遠かったので出遅れたみたいだ。
「右大将道綱母《うだいしょうみちつなのはは》。正解よ、志摩子ちゃん」
小母さまが、上の句と下の句を通して読んで札が正しいことを示した。
[#ここから2字下げ]
嘆きつつ一人|寝《ぬ》る夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る
[#ここで字下げ終わり]
これは確か、余所の女のもとに通う夫に、「あなたがいない夜がいかに長いか」と訴えた歌だ。
そんな歌を清子小母さまが読むのは、聞いていて切なくなる。今日、小母さまの夫である融小父《とおるおじ》さまは、お留守。例年通りなら、外で別の女の人と会っている。
清子小母さまみたいな素敵な奥さまがいながら、って思う。祐巳の知っている融小父さまは、やさしそうで、愛妻家《あいさいか》に見えたのに――。そんな風に、ぼんやり考えていた時。
「はい」
札が、目の前で弾かれて、祐巳は我に返った。
「あわわ」
右膝《みぎひざ》の手前にあったはずの、「みかさのやまにいでしつきかも」がない。
「ぼんやりしているからよ」
やられた。正解の札を手に、祥子さまがほくほくと笑っている。
こんな調子じゃ勝てない。祐巳は腕まくりをして、本腰を入れることにした。
しかし。
「いにしえのー」
「はいっ」
「むらさめのー」
「はいっ」
祥子さまや志摩子さんに、あれよあれよといううちに次々と取られていく。
令さまは長いリーチと素早い動きで、札を見つければ電光石火《でんこうせっか》でゲットする。乃梨子ちゃんは地道にこつこつ。由乃さんは、もう諦めて自分の周りの五枚しか見ていない。
にわか勉強をしたくらいでは、全然追いつかない。
「いにしへの」という上《かみ》の句から、下《しも》の句の「けふここのへに」を導き出すことはどうにかできても、その時にはすでに誰かの手が伸びているのだ。耳で聞いて脳で分析する前に反応する、それくらいになるまで訓練しないとだめらしい。
結局、祥子さまと志摩子さんが取りこぼした分を残りの四人で分け合うような、そんな試合展開になってしまった。
終了直後、軽くしょげていると祥子さまが肩をポンと叩いてくれた。
「でも、去年よりはがんばったじゃない」
ほんのちょっと努力したから、去年よりも少しだけ上達した。それを、ちゃんとわかってもらえたのがうれしかった。だから、それで「よし」とした。
祥子さまは「どれ」と、祐巳の取り札をトランプのように広げた。何を取ったの、と。
「うしとみしよそいまはこいしき……、くたけてものをおもうころかな、……なかくもかなとおもひけるかな……、何だか思い詰めている人の歌が多いわね。困ったこと」
困ったこと、って。
「百人一首占いですか」
取り札が、その人の心情を映しているものでもあるまいし。
「どうかしら」
そんなことを言ったら、たくさん札をとった祥子さまや志摩子さんは、喜怒《きど》哀楽《あいらく》がミックスされて頭の中が大混乱になってしまうのではないか。
「どうかしら、って。お姉さま」
返された十数枚の札を眺める。本当に思い詰めている人が多いのだろうか、と。
[#ここから3字下げ]
長らへばまたこのごろやしのばれむ 憂《う》しとみし世ぞ今は恋しき
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから4字下げ]
(生きながらえたならば、今この時もなつかしく思い出されるのだろうか。
つらいと思っていた時代が今は恋しいのだから)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから3字下げ]
風をいたみ岩打つ波のおのれのみ くだけてものを思うころかな
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから4字下げ]
(風が激しいので岩を打つ波が自分一人で砕《くだ》け散るように
私もあの人のことで思い悩んでいる今日この頃です)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから3字下げ]
君がため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから4字下げ]
(あなたにお会いするためなら惜しくはないと思っていましたこの命までも
今はいつまでも長くあってほしいと願うようになりました)
[#ここで字下げ終わり]
なるほど、と思うところもあったので。残りの札は、訳すのをやめた。
トランプ大会の間、清子小母さまが少し席を外したので、「お疲れになったのかな」くらいに思っていたら、やがて帰ってきてみんなに言った。
「さ、次は人間|双六《すごろく》よ」
「人間双六?」
「そ。二人一組のチーム戦にしましょう。薔薇《ばら》の色別でいいかしら?」
わけもわからず、うなずく面々。娘の祥子さまでさえ、首を傾げている。
「駒の代わりに自分自身で動くの」
小母さまは手にしていた模造紙《もぞうし》を、みんなの前に広げた。そこには昔子供向け雑誌の新年号には必ず付録でついていたような双六のマスが描かれていた。「ふりだし」から「あがり」まで、マスをつなげたくねくねした道でつながっている。ただし、マスの中には「一回休み」とか「サイコロで2が出たら二マス進む」とかいう文章は一切書いていない。代わりに書いてあるのは「カバの間《ま》」とか「クラゲの間」とかいう意味不明の言葉だった。
「これは……」
「各部屋に、名前をつけたからそこに行って指令に従ってちょうだい。名前は扉に書いてあるわ」
「えっ」
「立入禁止マークが貼ってある部屋には、入らないでね」
つまり小母さまはこの家全体を使って双六をやろう、と。そう言っているらしかった。立入禁止なのは、お祖父さまの部屋とか住み込みのお手伝いさんの部屋とか、個人のプライベートスペースだという。
「優勝チームには、優勝賞品がありまーす」
おおっというざわめき。クリスマスパーティーでもそうだったけれど、みんな賞品がかかると燃えるのである。
「面白そう」
由乃さんがつぶやいて、令さまの手をギュッと握った。百人一首とトランプであまりふるわなかった黄薔薇姉妹。双六で巻き返しをはかるつもりのようだ。
乃梨子ちゃんも、無言ながら瞳をキラリと光らせている。
「でも『カバの間』って……。別に言いようがあるでしょうに」
呆《あき》れたようにつぶやいたのは祥子さま。
「だって。『二階の和室』とか『地下倉庫』とかにすると、住んでいる祥子さんが断然有利になっちゃうでしょ。だから」
清子小母さまの言葉に、祥子さまは。
「……わかりました」
脱力気味にうなずいた。本当のところ、『桔梗《ききょう》の間』とか『楓《かえで》の間』とかでもいいんじゃないの、という意味でつぶやいた「別に言いようが」であったろうに。小母さまが、自分のネーミングセンスにはまったく疑問をもっていないので、これ以上議論する余地はないと判断したらしかった。
しかし、少なくともこのマスの数分は部屋があるという意味だ。やっぱりすごいな、小笠原家。
「じゃ、まずチームの年少者がサイコロを振って順番を決めましょう」
一番大きい目を出した黄薔薇チームからスタートした。まずは、3を出して「ミジンコの間」へ。
「言っておくけれど、マスの数と部屋までの距離に関連性はないわよ」
小母さまが言った。なるほど、3だからといってこの和室から三つ目の部屋とは限らないらしい。
出かけたチームが帰ってくるまで待たずに、次のチームがサイコロを振る。「一回休み」はないけれど、課題をクリアできない限りゲームに復活できないという過酷《かこく》なルールである。だから部屋を見つけるのに時間を食って、戻ってみたら他のチームがとっくに「あがり」まできていることは十分あり得る。
さて、二番手の白薔薇チームは5を出して「カバの間」へ。祐巳は1を出したので、「コモドオオトカゲの間」へと向かった。「向かった」とはいえ、その実《じつ》どのチームも当てがあるわけではないので、今のところは家の中をさまよっているに過ぎない。
「闇雲《やみくも》に歩き回るのは賢いやり方とはいえないわ。端から回っていきましょう。他の部屋の位置も、しっかり覚えておくのよ」
「はいっ」
お姉さまの言葉に、元気に答える祐巳。しかし、「コモドオオトカゲの間」はなかなか現れない。途中で「ミジンコの間」を見つけたが、黄薔薇チームはまだ見つけていないらしい。後ろの方から、由乃さんの「ないよ〜」という声が聞こえてきた。
白薔薇姉妹は「カバの間」を早々《そうそう》に探し当てたというのに、中から出た後は、小母さまの待っている和室には戻らず、別の何かを探す旅に出ている。うーん、「カバの間」の指令っていったい何なのだろう。
そうこうしている間に、「コモドオオトカゲの間」は見つかった。二階のお手洗いの個室の一つ。確かにお手洗いの個室だって、一つの部屋には違いないが――。
「何、これ」
祥子さまが叫んだ。洋式トイレの閉じた蓋《ふた》の上に、鉛筆《えんぴつ》と文庫本大の数枚の紙が置いてある。そこに書かれているのは、クロスワードパズルである。そして、指令は。
『パズルを解《と》いて持ってきなさい』
7×7マスだから、そんなに時間はかかりそうもない。が、祥子さまは数枚の紙をざっと眺めて、一番簡単そうだと判断したクイズを選んだ。
「鉛筆が一本しかないということは、ここで解いていけということよね」
タンクを下敷きに、さらさらと鉛筆を走らせる。何かお手伝いすることはないだろうか、と思いつつ、知識量ではお姉さまには敵《かな》わないので、思考のお邪魔にならないように祐巳は黙っていた。
「祐巳」
突然、鉛筆の走る音が止まった。
「は、はいっ」
「最近人気の男四人組のお笑い芸人で、一番上にシがついて下から二番目にモがつく六文字のグループ名……わかる?」
やっとお役にたてる(かもしれない)時がやってきたので、祐巳はちょっと興奮した。
「えっと……シ・○・○・○・モ・○」
指を折りながらつぶやいてみる。
「あ、『白マンモズ』です、それは」
ちょっと格好いい二十代の二人と、同世代だけれど強面《こわもて》一人と、四十代の小父《おじ》さん一人という、不思議な組み合わせの四人組である。この頃コマーシャルでもよく見かける。そうか、祥子さまは知らないのか。
「ありがとう、できたわ」
祥子さまが鉛筆を置いた。
「急ぎましょう」
二人は階段を下りて和室に駆け込んだ。
「あら、早かったこと。順番だから、ちょっと待ってね」
息を切らしてクロスワードクイズの紙片を差し出す娘とは打ってかわって、清子小母さまは志摩子さんのお兄さんの作ったおまんじゅうを食べながら優雅に待っていた。
その脇では、黄薔薇姉妹が昔のアイドルスターのヒット曲を歌いながら踊っている。
(こ、これは……)
「そういえば『ミジンコの間』は視聴覚ルームだったわ」
祥子さまがつぶやいた。
「振り付けビデオが置いてあって、マスターするような指令があったのでしょうね」
「はあ……」
お気の毒にと同情しつつも、見ていて面白い。しかしこの短時間にワンコーラス分のダンスを覚えきるとは、すごい集中力。というか、もしかして元々踊れたんじゃないの、この二人。
「合格よ。完璧《かんぺき》じゃないの」
清子小母さまは踊りきった二人に、パチパチと拍手《はくしゅ》を贈った。
「恐れ入ります。父がファンだったので、家にも同じビデオがあるんです」
由乃さんのお父さんといえば、由乃さんの手術の結果を知らせに剣道の試合会場に目を真っ赤にしてやって来た小父さまだ。「あの人が、あのアイドルグループを……」なんて一瞬考えちゃったけれど、小父さまだって昔は若者の頃があったのだった。
黄薔薇チームは、サイコロを振ってまた新たなる部屋へと向かった。白薔薇チームは、紅薔薇チームがパズルを解いている間に一度戻ってきたらしく、駒が先に進んでいた。
「クロスワードは、正解だわね。祐巳ちゃん、サイコロどうぞ」
2が出ませんように、と念じながらサイコロを振る。「ミジンコの間」で待っているのがどんな指令かは、もうわかっていたから。
「6」
6は「フリソデウオの間」だ。
「フリソデウオって魚ですか?」
さっそく「フリソデウオの間」に向かいながら、祐巳は聞いてみた。
「ええ。深海に住むヒラヒラした綺麗《きれい》な魚よ」
博識《はくしき》な祥子さまは、するすると答える。
「お母さまったら、図鑑を開いて通当に目についた動物の名前をつけたんでしょうね。統一感ってものが、まるでないわ」
「図鑑……」
何か「らしい」気がした。
ところで。「フリソデウオの間」と書かれた扉には、今までまだお目にかかっていない。というわけで二人は、まだ回っていないエリアを攻めてみようということになった。
小笠原家には、階段がいくつかある(ようである)。さっきとは別の階段から上がって、「フリソデウオ」を追う。
たどり着いた先は和室だった。違和感のないよう廊下《ろうか》側の扉のテイストは他の部屋と同じなのだが、ここだけ開閉が横開きなのである。その横開きの扉に「フリソデウオの間」と書かれた張り紙が、堂々と貼られている。
「ここは、普段は何も物が出ていない部屋よ」
祥子さまは、扉に手を掛けた。少なくともビデオがないなら、歌真似《うたまね》振り真似のような指令はないはず、と当たりはつけられる。
「何も出ていない、って?」
「押し入れの中に和服がしまってあって、着替えなんかには使っているけれど――」
答えながら、扉をスライドする祥子さま。すると。
「……何かありますね」
六|畳《じょう》の間を入って左手の畳《たたみ》の上に、畳紙《たとうし》が三つ並べてある。右手には、畳《たた》んだ帯が三枚。部屋の中央には籠《かご》が置いてあって、中には着物を着付ける時の小道具のような物が何種類も入っている。
「これで、何をしろと――」
まさか、って思いつつも指令が見つからないので、行動に起こせずにいると、祥子さまが言った。
「祐巳。服を脱ぎなさい」
「ええっ!?」
「どう考えても、これはここにある着物を着なさいという指令だわ。ほら」
祐巳の驚きを無視して、籠の一番下から着付け指南の実用書を見つけて掲《かか》げる祥子さま。
「令たちでも困らないようにフォローしてある」
「で、でもっ」
「時間がないのよ。早くお脱ぎなさい」
早くも妹のセーターの裾《すそ》に指をかける祥子さまではあったが、祐巳は必死で抵抗した。
「だったら、何も私でなくても」
「バカね。こういう嫌な役目こそ、妹が引き受けるべきことでしょ。それに、私がやったって、ただ着物の色が変わっただけで、見ていて面白くも何ともない」
「えっ。面白いとか、面白くないとかじゃ……」
言いながら祐巳は、ハッと気がついた。清子|小母《おば》さまは、ひたすら「面白い」を期待しているのだ。でなければ、娘の友達を歌い踊らせて喜んでなどいないだろう。
「わかった? じゃ、素直に脱ぎなさい」
言うやいなや、再びセーターを脱がしにかかる。もはや諦《あきら》めるしかないのか。だけれど。
「ちょっ、ちょっと待ってお姉さま。せめて、そこの扉を閉めてくださいっ」
祐巳は指をさした。今入ってきた扉は全開で、ぽっかり空いた長方形の枠の向こう側には廊下《ろうか》が見えていた。
「この家には女性しかいないわよ」
祥子さまはチラリと視線を送ったが、
「でも、そうね寒いし、この部屋で何が行われているのか他のチームに見せてあげることもないわね」
と、廊下《ろうか》側に隠れていた扉をガラガラと引いた。
「あ」
完全に閉まった時、二人は同時に声をあげた。
何とこの扉。廊下《ろうか》側には「フリソデウオの間」と書かれていた張り紙が、内側には指令が書かれた張り紙が貼られていたのである。
『ここにある着物を、妹に着せよ』
それを見て。
祥子さまは大きく肩を揺らし、祐巳は大きく肩を落としたのだった。
「あらー、祐巳ちゃん可愛《かわい》い、可愛い」
自分で着るのは何でもないが、他人に着付けてやるのは初めてという祥子さまは、大きな着せ替え人形に悪戦苦闘しつつも、どうにか二十分ほどで祐巳に着物をまとわせ、帯まで締めあげた。
薄紅《うすべに》色の地に、白い梅だか桃だかわからないけれど丸い花が咲いている、可愛《かわい》い振《ふ》り袖《そで》だ。
三つ並んだ畳紙《たとうし》を開いて、祥子さまが「どれがいい?」と祐巳に選ばせた。残った二つもやはり振り袖《そで》で、一方は山吹《やまぶき》色、もう一方は明るい鶯《うぐいす》色だった。
「何て嬉しいんでしょう。これは私が若い頃に着ていた着物なのよ。でも祥子ったら、三枚とも着てくれないの」
「だって、サイズが小さいんですもの」
自分にお鉢《はち》が回ってきたので、祥子さまは少し不機嫌《ふきげん》になった。
「あら。私と同じ身長の時だって、顔映りが悪いだの柄が嫌いだのって着なかったじゃない」
「そうだったかしら」
「そうよ。あー祐巳ちゃん可愛い、可愛い」
「こちらこそ、貴重なお着物をお借りして……」
清子《さやこ》小母《おば》さまがそれほどまでに喜んでくれたのであれば、この苦しいお腹《なか》回りも報《むく》われるというものだ。
「でも、振り袖《そで》にお太鼓《たいこ》なんてね」
小母さまはその一点だけは、ちょっと残念がった。お太鼓というのは、背中にちょうど四角い箱を背負ったみたいな形になる帯の結び方。帯の長さによって、一重《いちじゅう》太鼓か二重《にじゅう》太鼓かに分けられる。ちなみに祐巳のは二重太鼓だ。
「ふくら雀《すずめ》か立て矢《や》にしてあげたらよかったのに」
「私、そのような複雑なもの、自分では締めたことございませんもの」
今祥子さまの締めている帯はどちらでもなくて、文庫《ぶんこ》という結び方らしい。ちなみにお太鼓と半分の幅の帯をカジュアルに結ぶ以外は、祥子さまも誰かに締めてもらうとか。だから、今日は清子小母さまが結んだことになる。
「着付けの本に帯結びも載っていたでしょ」
「ゲーム中に、そんな余裕はありませんわ。お太鼓だって大変でしたのに」
かなり遅れをとってしまったのでは、と双六《すごろく》の駒《こま》を見ると、意外に他のチームもマスを進んでいない。すでにどこかが「上がり」になっていてもおかしくない、と思いながら帰ってきたのだが。
そこに、白薔薇チームが現れた。
「できました。雑巾《ぞうきん》二枚」
続いて、黄薔薇チームも登場。
「ホットケーキ、お待ち」
雑巾にホットケーキ。
どうやら、どのチームにも時間のかかる指令が下っていたようだ。
運針《うんしん》で雑巾二枚を作れとか、ホットケーキを作れとか。白薔薇チームがどこでお針仕事をしていたかは知らないが、黄薔薇チームの駒がある「キツツキの間」がキッチンだということだけは確定だ。
「あー、祐巳さん可愛《かわい》い」
「どうしたの? これも指令?」
ゲームの最中だというのに、みんながワイワイと祐巳を取り囲んだ。一通り眺めた後は、後ろを向かせたり袖《そで》をクルリと腕に掛けさせたりのポーズを強要する。何だかグラビアアイドルにでもなったみたいだった。
少しだけ知識をもったので、志摩子さんの帯結びが一重太鼓《いちじゅうたいこ》だってわかった。羽織《はおり》をめくって見せてくれた小母さまの帯結びは、角《つの》だしという名前だとか。
ともするとゲーム自体が忘れ去られそうな中、祥子さまが祐巳の前に進み出てサイコロを手渡した。
「さ。振って。さっさと勝って終わりにしましょう」
さっさと勝って。祥子さまは強気だ。
「はい。じゃ、大きい数をばしばし出します」
ラストスパート。
祐巳は勢いよく手の中で転がして、そのまま「えいやっ」とサイコロを振り落とした。
「着物で立《た》て膝《ひざ》はおやめなさい」
祥子さまが、自分の額《ひたい》に手を当ててため息をつく。
「あっ」
あわてて膝を揃《そろ》えたが、もう遅い。着慣れていないものを着ると、やはりどこかでぼろが出るものだ。
すでに、外は薄暗くなってきた。
結局|祐巳《ゆみ》たちは、その後も折り紙で鶴を五羽ずつ折ったり、碁石《ごいし》の中からおはじきを探し出したりしながら徐々に駒を進め、「あがり」まで残り二マスという所まで、どうにかこうにかたどり着いた。
すぐ後ろのマスには、黄薔薇チームが控えている。先頭を行っていた白薔薇チームは、サイコロでピッタリの数が出せずに、何度も引き返している。たぶん、今頃は「オオタカの間」で十何羽目かの鶴を折っていることだろう。「オオタカの間」で鶴を折るというのも、変な感じがするけれど。
さて、賽《さい》を振るのは紅薔薇チームの番である。
「2、2、2……」
口に出して念じ、放り投げる。すると、勢いのついたサイコロはコロコロと転がり、廊下《ろうか》に出た所でやっと止まった。
もちろん、その場にいた全員が後を追う。これで、勝負がつくかもしれないのだ。
「あら、2」
清子《さやこ》小母《おば》さまがおっとりと言った。
「ええーっ!」
廊下《ろうか》にへばりついて自らの目でサイコロを確認した由乃さんは、ガックリと肩を落とした。
「ってことは」
と、祥子さまはつぶやいた。
「紅薔薇チームの勝ち、か」
おめでとう、と令さまに肩を叩かれて、祐巳はやっと実感する。
「2、2、2ですよっ、お姉さまっ」
ピョンコピョンコ跳びはねると、祥子さまは呆《あき》れ顔で言った。
「だから、さっきからそう言っているでしょう。本当に、落ち着きのない子ね」
そんな様子を見て、清子小母さまが一言。
「祥子さんって、つくづくうれしい感情を表すのが下手《へた》よね」
「お……お母さまっ!」
おっとりしているけれど、さすがは祥子さまのお母さま。よく見ている。
でも、祐巳もこの頃はわかってきたのだ。こういう、妹を注意する時のお姉さまは、結構|機嫌《きげん》がよかったりするのだ。
「じゃ、優勝は紅薔薇チームということで」
「小母さま、優勝賞品は何ですか?」
自分の物にならないと知っても、由乃さんは好奇心を抑えられないようだ。清子小母さまは、由乃さんの前で人差し指を唇に立てた。
「それは、白薔薇チームが戻ったら発表することにしましょう」
すると祥子さまが立ち上がった。
「それじゃあ私、二人を迎えに『オオタカの間』へ行ってくるわ」
「あ、なら私も」
祐巳は後を追いかける。廊下《ろうか》の途中で追いついて、磁石《じしゃく》のようにピッタリとくっついた。何となく、そうしたかったのだ。
「祐巳」
祥子さまは静かに言った。
「みんな来てくれてよかったわね」
「はい」
それだけで、お姉さまが言わんとしていることが、祐巳には理解できた。
「みんな、正月二日で予定もあったかもしれないのに。都合をつけて集まってくれたんですよね。私のことを励まそうと」
「ちゃんとわかっていたのね。えらいわ」
そんな素敵な仲間を与えてくれた神様に感謝しないと、と祐巳は思った。そしてもう一つ。
「その機会を作ってくださったのがお姉さまだってことも、私、ちゃんと胸に刻みつけていますから」
「……ばかね」
祥子さまはつぶやいた。
「私のことはいいのよ」
[#挿絵(img/23_109.jpg)入る]
「はい」
お姉さまは身内だから。でも、そのことが嬉しくて、そして同時にありがたいのだ。
階段を上りかけると、玄関の扉の脇に填《は》め込まれた明かり取りの磨《す》りガラスが目に映った。
もう、外はすっかり暗い。
その時、何となくガラスの前を何かが過《よぎ》ったように見えた。だが祐巳は、お寿司屋さんが空《から》の木箱を取りに来たのだろう、くらいに思ってしまった。
ゲストルームである「オオタカの間」には、志摩子さんの姿も乃梨子ちゃんの姿もなかった。ベッドサイドの小机の上に「折り鶴を十、作って持ってくるように」という指令の紙と、折り残した数枚の折り紙がきちんと角《かど》を揃《そろ》えて重ねてあるだけだ。
「たぶん、あっちの階段から下りたのね。行き違いになってしまったわ」
やれやれ、と祥子さまは首を回した。階段が複数あるというのも考えものね、と。
「ただで帰るのも何ね。この辺りの部屋だけでも、片づけていきましょう」
祥子さまは、折り紙と指令の紙を手に取った。
「あ、持ちます」
「いいわ。これくらい私が」
祥子さまは、そこで小さく「あ」と言った。
「どうなさったんです?」
「いいえ。何でもないわ。……行きましょう」
何でもないようには見えなかったけれど。でも、だからといってあわてて何かをする様子もないので、そうとんでもない事が起こったわけでもないのだろう。
その後祥子さまは、何事もなかったかのように部屋を出ると扉に貼られていた「オオタカの間」と書かれた紙を剥《は》がした。それは両面テープで二カ所ほどくっつけてあるだけなので、意外と簡単にとれた。
「お姉さま。よろしければ、私ちょっと失礼して、着替えてきてもいいでしょうか」
祐巳は、廊下《ろうか》の先にある「フリソデウオの間」を指さして言った。
「あら。可愛《かわい》いのだから、しばらくそのままでいたらいいのに」
「でも、小母さまのお着物を汚してしまったら大変ですし」
それに、慣れない着物はお腹《なか》回りがキツイ。そろそろ限界に近づいている。
「そう? 一人で帯をとけて?」
「……多分」
ただし、脱いだ着物をどうしたらいいかまではわからない。
「それじゃ、私はいくつか部屋を回って片づけてから行くわ。帯を取ったらそのまま待っていなさい。後始末はしてあげるから」
「はい」
返事をして、祐巳は廊下《ろうか》を歩き出した。祥子さまは、「オオタカの間」の向かいの部屋に入っていく。
部屋の前まで来ると、祐巳はまず「フリソデウオの間」と書かれた紙を扉から剥がした。
「これでよし」
横開きの扉を開くと、中は暗い。たぶんこの辺りだろうと当たりをつけて、電灯のスイッチを探る。手応《てごた》えあり。カチリとやると、白熱灯《はくねつとう》のやわらかい光が室内を明るく照らした。
部屋に足を踏み入れて、扉を閉める。
「そうそう」
裏についている指令の張り紙も、忘れずに取り外しておかなくちゃ。祐巳は剥がした紙を二枚重ねて、部屋の隅《すみ》に置いた。
部屋の中央には、二枚の着物と二枚の帯が待っていた。結局、他のチームはこの部屋には来なかったことになる。
せっかくチームの数だけ用意されていたというのに、もったいないことだ。祐巳はその場でしゃがんで、残りの着物を畳紙《たとうし》の上からそっと撫でた。
(……っていうか、よくぞ「フリソデウオの間」で止まった紅薔薇チームよ、か)
フッと笑いの息を漏らしたその時、背後で扉を開ける音が聞こえた。祥子さまかな、と思ってゆっくりと立ち上がった瞬間、お姉さまのものとは明らかに違う声が祐巳の耳に届いた。
「さーこ」
男の声だ、と判断した時にはもう、振り返る間も与えられずに、肩に何者かの手が掛けられていた。
どうしてここに男の人がいるの、とか。
この人は誰、だとか。
そういう思考は、後からついてくることだ。
とにかく祐巳は、反射的に叫んだ。それこそ、力の限り。
「きゃ―――――――――っ!!」
すると。
「うわぁっ!」
祐巳の肩に触れていたその人も、あまりの大音声《だいおんじょう》に驚いて、その場で尻餅《しりもち》をついた。離れた身体《からだ》で振り返ってやっと、祐巳はそれが誰だか判断できた。
「お―――」
けれど、だからといって叫んでしまった事実は、今更取り消せない。
「何事っ!?」
最初に部屋に現れたのは、妹の悲鳴に驚いた祥子さまだった。そして、さほど間をおかずに家中にいる人間が駆けつける。祐巳の悲鳴は、もちろん一階の和室にまでも轟《とどろ》いたのだった。
「どうしたの……あ」
六畳の和室で立ちすくむ祐巳と少し離れて尻餅をつく男を発見した人々の約半分は、同じ反応をした。残りの半分は、意味もわからず、誰とも知れない侵入者を怯《おび》えた目で見ている。
「今、悲鳴が聞こえたけどっ!?」
なぜだか、もう一人。最後に遅れて駆け込んできた人物を見て、祐巳の頭は混乱した。
女性限定の新年会のはずなのに、どうして男の人が二人もいるのだろう。祐巳だけではない、それはたぶん女性陣全員の疑問である。
どうして、と女性の誰かが口にするより先に、後で現れた方の青年が尻餅男に声をかけた。
「……何しているんですか。おじさま」
「お前こそ」
年齢こそ違うが、二人は顔も雰囲気《ふんいき》もとてもよく似ていた。
[#改ページ]
近くて遠き? 遠くて近き?
【男性Aさん(推定五○歳前後)の供述】
眼鏡《めがね》を持って出るのを忘れた事に気づいたのは、遅めのランチをとろうという時だった。
普段はかけない。移動中も、自分で車の運転をする時以外は。
午前十時過ぎだっただろうか、家を出たのは。酒を飲むかもしれないので、自宅にタクシーを呼んでそれに乗り込み、行き先を告げるとすぐ目を閉じた。
ホテルのラウンジで待ち合わせしていた人と会い、コーヒー一杯分の時間を過ごしてから、レストランへと向かった。
隠れ家的なその店は、ほぼ完全予約制なので、クリスマスだろうと正月だろうと、浮ついたムードにならず静かに食事ができるので気に入っている。いつもの個室に案内され、メニューを手渡されてそこでやっと気がついた。眼鏡《めがね》がない。
若い頃は軽い近眼《きんがん》だったが、最近は小さい文字が見えにくくなった。漢字|仮名《かな》交じりの日本語ならば何となく読めてしまう料理名でも、フランス語になるとお手上げだ。ぼやけた活字を前に、もう理解する努力を放棄《ほうき》したくなってしまった。
それでも、その場はどうにかやり過ごした。食事相手に食べられない物を聞いて、あとはオーダーを取りにきた店の者にすべて任せてしまったからだ。
食事をするのに不便なほど、視力は落ちていない。だが、帰宅予定である明日の夕方までに、あと何回|眼鏡《めがね》を必要とする場面が来るかはわからない。というわけで、とにかく眼鏡《めがね》を取りに戻ることにした。
食事の後、買い物の梯子《はしご》に付き合う約束だったが、三軒目をキャンセルしてタクシーに乗り込んだ。眼鏡《めがね》は会社にも置いてある。が、さすがに正月休みに行くのはまずいだろう。警備の人の手を煩《わずら》わせるのは悪いし、正月出勤は禁止している手前、後で部下たちに知られたら面倒なことになる。それで、消去法で残ったのは自宅だったというわけだ。
そりゃ、もちろん知っていたさ。ここで女性限定の新年会を行っているということくらい。だから邪魔しないように(というか、邪魔者扱いされないように)、こっそり家の中に入って眼鏡《めがね》を取ったらまたこっそり出てくればいい、そう思ったんだ。
タクシーは自宅前の公道で降りた。その後はインターホンに暗証番号を入力して門を開け、ドアの鍵を開けて家に入ったってわけだ。普段はどちらも誰かに開けてもらうから、何だか新鮮だったな。
それはともかく、中に入ったら、すぐに階段を上がった。新年会は一階の和室でやっているはず。興味はあったが、顔を出すわけにはいかないだろう。だから、足音を忍ばせて二階までやって来た。
無論。驚かせてしまった祐巳《ゆみ》ちゃんには、本当に悪かったと思っているよ。
でも、そういったわけで、悪気はなかったんだから、許してくれないかな。
【男性Bさん(十九歳)の供述】
毎年正月二日は、この家は人がほとんど出払ってしまって、母と娘が取り残されるような形になるから、心配して様子を見にいくのは、日頃親しくさせてもらっている男としては当然のことでしょう。
そりゃ、もちろん知っていましたよ。今年は女性限定の新年会をやるんだってことはね。だって。事前に「男子禁制」って言い渡されていましたから。誰に、って。小笠原家の女性二人に。それも別々にですからね。すごいガードでしょう?
なのにどうして今ここにいるのか、という疑問はごもっとも。それは、今日たまたまデパートに行ったらたまたま目についた物があって。見ているうちに、それをどうしても新年会に集まっている女性たちに差し入れしたい衝動にかられて、のこのこやって来た、ってわけ。
もちろん、差し入れを渡したら、すぐに帰るつもりでしたよ。本当に。だって新年会に出席しないのなら別に構わないでしょう? 出前を運んできた寿司屋の従業員が男だという理由で、玄関先に入ることを拒絶しますか? しませんよね。それと同じことじゃないですか。
学生の身分で、タクシーなんてとんでもない。もちろん電車で来ましたよ。駅からは徒歩です。
小笠原家の門が見えてきたところで、空車のタクシーとすれ違いました。今から考えれば、それが叔父さまの乗っていらした車だったんでしょうね。その時は、何とも思わなかったんですけれど。
インターホンを鳴らそうと思ったら、すでに門は開いていました。勝手知ったる何とか――で、そのまま中に入って門を閉じました。不用心ですから。
辺りが暗かったので、前を人が歩いていたなんて気がつかなかったな。少し風も吹いていたし、足音なんてわからない。
家のドアは鍵《かぎ》がかかっていなかったみたいだったけれど、さすがにそのまま入るのは気が引けたので、呼び鈴に手をかけました。その時、悲鳴が外まで聞こえてきたんです。
女性の悲鳴がしたんですから、男だったら夢中で駆けつけますよ、そりゃ。
で、今に至る。
何か、問題ありますか?
僕に関しては、ないよね?
――というわけで。
男性Aの部分には「小笠原融《おがさわらとおる》」、男性Bの部分には「柏木《かしわぎ》優《すぐる》」を当てはめるのが正解となるわけだが。
(しかし)
男性A氏。堂々と呼び鈴を鳴らして家に入れば、女性陣にたとえ煙たがられたとしても、ここまで事が大きくなることはなかったはず。まあ、この家のご主人だと気づかず、痴漢《ちかん》に遭遇《そうぐう》したかのように大きな悲鳴をあげてしまった祐巳にだって、多少なりとも――。
「祐巳は悪くないわ」
祥子《さちこ》さまがキッパリ言い切った。状況を確認してから悲鳴をあげるなんて、そんな悠長《ゆうちょう》なこと、緊急時には言っていられない、と。
「いい、祐巳? 今後こういうことがあったら、――もちろん、ないに越したことはないのだけれど、あったらね、今みたいに大きな声で叫びなさい。後で勘違《かんちが》いとわかってもいいわ。その時点で謝ればいいのだから」
「はいっ、お姉さま」
二人は見つめ合い、互いの手をきつく握りしめた。
「叔父《おじ》さま。いいんですか。完全に変質者扱いされていますよ」
柏木さんが、融小父さまの肩を突っついた。
「え?」
「さっきのあれじゃ、説明不足だと思うな。家に帰ってきた経緯はわかったけれど、祐巳ちゃんに触れたことに対する弁明がまるで入っていないじゃないですか。長々と語っていたけれど、レストランとか買い物とかのくだりは、この際どうだっていいんだ。眼鏡《めがね》を取りに家に戻った、そこまではまあ良しとしましょう。でも、そこから祐巳ちゃんの悲鳴までの間がすっぽりぬけている。今この家にいる数少ない男の一人として、叔父さまの味方になってさしあげたい気持ちは山々だけれど、このままじゃ無理ですよ。だって客観的に見て、眼鏡《めがね》と祐巳ちゃんには、何の関係もないように思えるから」
確かに。この和室は、着物以外にこれといって置いてある物もなさそうな部屋で、ここに融小父さまの眼鏡《めがね》が保管されているようには見えなかった。そして当然ながら、眼鏡《めがね》を探すのに祐巳に触れる必要はない。
部屋の電気はついていたし、手探りで歩かなければならない程視力が低下しているのなら、レストランのメニューを見る前に眼鏡《めがね》のことを思い出しているはずである。
さあ、どう言い逃れをする。
「小父さま……」
実際|令《れい》さまなんて、答え如何《いかん》によっては、天誅《てんちゅう》下してやるという勢いで、掃除機《そうじき》の細長い筒を前に構えていた。さすが剣道二段。ほれぼれするほど、ポーズが決まっている。
(……って。ん? 掃除機?)
おまけ
【女性Cさん(十八歳)の証言】
ゲームが終わって一段落ついたところで、和菓子でお茶をいただこうということになったんですよ。清子《さやこ》小母《おば》さまがお茶を点《た》ててくださる、とおっしゃいまして。
しかし、うっかり手を滑らせ棗《なつめ》を落としてしまわれて。ええ、中身がぱあっとこぼれてしまったんです。
抹茶《まっちゃ》が畳《たたみ》の目に入り込んでは大変です。大急ぎで掃除機を取ってきて、吸い取りました。
ちょうどスイッチを切った時でしたね、祐巳ちゃんの悲鳴を聞いたのは。それで、取るものも取りあえず二階へ駆けつけたのですが、その時思わず掃除機の柄を――あ、チューブとかパイプとか言うんでしょうか、つまり吸い込み口につなげて使うプラスティックの細長い筒を、力任せに引き抜いてもってきてしまった、と。
私がこんな物を持っているのは、そういうわけです。
――そしてその筒は、現在ただ一人の男へと向けられている。
「ちょっ、ま、待ってくれ! 令ちゃん、信じてくれっ。仮にも僕は祥子の父親だ。可愛《かわい》い祥子の妹に、よからぬことをしようなんて思うわけないだろう」
やっと状況がわかった小父さまは、手を前に出してストップの仕草をした。しかし「思うわけないだろう」なんていう漠然とした言い訳で、この場が丸く収まるわけはない。
「みんなが納得する説明をしてください」
令さまが筒を振り上げて問う。
「あの、何て言うか……その、弾《はず》みで」
「弾み!? 弾みで、後ろから女性の肩に触れるんですか。満員電車でもないのに。こんなに広い部屋の中で」
こういう時は日頃の行いが物を言う。奥さま以外の恋人を(複数)持っているという(噂《うわさ》の)男の言葉を、簡単に信用してくれるほど、世の女性は甘くない。
でも。
「信じます」
祐巳は言った。すると。
「祐巳!」
「祐巳さん!」
「祐巳ちゃん!」
「祐巳さま!」
今まで融小父さまに集中していた視線が、一瞬にして祐巳へと移動した。
「祐巳。父を庇《かば》ってくれているの?」
祥子さまが、複雑な表情で尋《たず》ねた。
自分の父親を信じていないわけではない。でも、彼が自分の妹に触れたという事実は事実。この二つを前にして、気持ちの折り合いをどうつけたらいいのかわからずに困惑している、祥子さまのそれは、そんな表情だった。
「庇う、とかじゃなくて」
祐巳は告げた。このままじゃグチャグチャに絡まった糸みたいに|収 拾《しゅうしゅう》がつかないから、ほぐせるところはほぐそうと思ったまでだ。一方的に責められ続ける小父さまがお気の毒だと思ったのも嘘《うそ》じゃないけれど、早く誤解をとかないと祥子さまがかわいそうだと思ったのだ。
「小父さまは、たぶん人違いをされたのだと」
「どうしてそう思ったの?」
ずっと黙っていた清子|小母《おば》さまが、祐巳に近づいて尋《たず》ねた。
「肩に触れる前、『さーこ』って、言っていましたから」
「さーこ……」
小母さまは噛みしめるように繰り返した。
「さーこ、って祥子のこと?」
令さまが祥子さまに聞いた。「さちこ」だから「さーこ」。家で呼ばれている愛称なのか、と。
祐巳もそう思った。小父さまは、うっかり自分の娘と思って声をかけたのだろう。
しかし。
「私じゃないわ」
祥子さまが、冷ややかに答える。
「じゃ――」
誰と? 小父さまに再び注目が集まった。すると。
「私」
別の場所で声があがった。
「小母さま!?」
一同の視線は、めまぐるしくチェンジする。声の先には、清子小母さまがうつむいて顔を真っ赤にしていた。
「さーこは私なの」
「えっ!?」
そりゃ。「さちこ」が「さーこ」でないならば、次は「さやこ」を疑ってかかるべきところなのかもしれない。だが。なぜだか、すんなりとはそこにいかなかった。失礼ながら、結婚してずいぶん経つ夫婦が愛称で呼び合っているなんて、本当に失礼ながら、その、結びつかなかったのだった。二人の実の娘で一緒に暮らしている祥子さまでさえ、「さーこ」は初耳という顔をしている。
「私と間違えたのね。私の若い頃の着物を、祐巳ちゃんが着ていたから。最初に、もしかしてって思ったのだけれど――」
最初に、って。
「どうして、その時そうおっしゃらないの」
母親の言葉に、祥子さまは間髪をいれずに突っ込んだ。
「ごめんなさい。でも、私の自惚《うぬぼ》れかもしれないって……」
消え入りそうな声が、ますますボリュームダウンする。
「叔父さまも、叔父さまですよ。そうならそうと、なぜ言わないんです」
小父さまを除いては唯一の男性である柏木さんも、呆《あき》れ顔で尋《たず》ねた。
「恥ずかしくて言えるか。妻と間違えて抱きつこうとしたなんてこと」
もう、言ってますけれど。小父さま。
しかし、妻と間違えて、って。聞いていてこっちの頬《ほ》っぺたが熱くなるぞ。祐巳だけじゃなくて、他の仲間たちもどう反応していいかわからない感じで、とりあえず緊張していた顔の筋肉をゆるめた。
もちろん、さっきまで威勢《いせい》のよかった令さまだって、脱力して、振り上げたままにしていたプラスティックの筒を畳《たたみ》の上におろしたのだった。
「そんなわけなの。ごめんなさい、祐巳ちゃん」
清子小母さまが、手で小父さまの頭をペコリと下げた。
「あ、いえ。こちらこそ」
こちらこそ、って。言ってしまってから、何か変だと思った。でも、何ていうか、真相が判明すると、やっぱり最初にあげた悲鳴が大きすぎたような気がして、つい口から出てしまったのだ。
「誤解もとけたことだし。邪魔な男どもは引き上げましょうか」
柏木《かしわぎ》さんがそう言って、小父さまの腕を掴んだ。
「そうだな。みんな悪かったね。楽しい新年会に水を差してしまって」
ちょっとしょげたダンディが、手を上げて「失敬《しっけい》」って感じのポーズを決めた。その後ろ姿に、由乃さんが「飛び入りのイベントと思えば」と、フォローになっているのかなっていないのかわからない言葉をかけた。
「待って」
階段に向かう男性二人を、祥子《さちこ》さまが呼び止めた。何事かと思って見つめていると、祥子さまは柏木さんに近づいてこそこそっと尋《たず》ねた。
「優《すぐる》さん……いいかしら、あの話」
「今? いいけれど。お祖父《じい》さまがいない所でして大丈夫《だいじょうぶ》?」
「お祖父さまには、お帰りになり次第《しだい》お話しするわ。それより、今したいの」
祥子さまが「あの話」と言ってすぐに柏木さんが何の話か理解したのは、祐巳《ゆみ》にはちょっと妬《や》けることだった。でも「お祖父さま」という単語が出たことで、重大かつ真剣な内容の話なのかもしれないと、思い直して心を落ち着かせた。
「なあに?」
清子《さやこ》小母《おば》さまが尋《たず》ねる。
「優さんがいらしていて、お父さまとお母さまもお揃《そろ》いなのですもの、お話しするのにいい機会だわ」
「ふむ」
融小父《とおるおじ》さまは衿《えり》を直して、祥子さまの方に身体《からだ》を向けた。
小笠原夫妻でも柏木さんでもない祐巳は、「この話を聞いていていいのかな」と心配になったけれど、「外して」とも言われていないし他のメンバーも残っているので、取りあえず今の位置から動かないで聞き耳をたてた。その時、なぜだか令さまがスススと祐巳の側までやって来た。
「?」
「いいから、いいから」
小声で囁《ささや》く令さま。話が始まるよ、というように顎《あご》をクイッと向けた先には、祥子さまが今まさに口を開こうという時だった。
「私と優さんの婚約は、白紙に戻していただきたいんです」
(ええーっ!?)
もちろん、祐巳は叫んだ。だが叫び声は、寸前で口を塞《ふさ》いできた令さまの手の平によって、外に漏れることはなかった。
「んが」
令さまが近づいてきたのは、こういう事態を予測してのことだったらしい。両親に話があるというのに、第三者が騒音を出して中断させては悪いと判断したのだろう。もう一人の危険人物である由乃《よしの》さんは、自らの手で口を塞いでいた。志摩子《しまこ》さんと乃梨子《のりこ》ちゃんは、声をあげてもさほど大きくはないので、話の邪魔にはならなかった。
ところで、言われた小母さまと小父さまの反応だが。
「え?」
さほどショックでもないようで、ただ小さく小首を傾げていた。
「二人で話し合いました。それで出した結論です」
祥子さまが重ねて言った。どうやら両親の反応が予想とは違っていたので、ちゃんと通じているのか不安になったらしい。柏木さんは、ただ黙って祥子さまの横に立ってはいるものの、少し離れた場所から見ているような表情だった。
「白紙、か」
「いいんじゃない? 二人はまだ若いんだし」
小笠原夫妻は、顔を見合わせて言った。
「あの……、それだけですか」
祥子さまが尋《たず》ねる。
「それだけって?」
他にどういった反応をすればいいのかと、融|小父《おじ》さまが尋ねる。
「反対したりは」
「反対? どうして?」
今度は清子小母さま。
「だって、私と優さんを結婚させて小笠原グループを――」
そう。小笠原グループを任せる、そういう話だと聞いたことがある。
「どうしてそんなこと考えるんだ? 別に、小笠原の婿《むこ》養子《ようし》にならなくても優に仕事を手伝ってもらうことはできるだろう。お前のお祖父さまだって、確かに優に継いでもらうのが一番いいとは思っているようだが、たった一人の孫娘に嫌がる結婚を強要するほど頑固じゃないぞ。会社は一個人のものじゃない。お前たちのどちらも小笠原グループとは関係ない仕事につきたければ、別の人間に任せればいい。有能な人間は、我が社にはいくらでもいる」
小父さまはサラリと言った。なるようになるさ、と。
(え、でもそれじゃ――)
「では、なぜ私たちを婚約させたんです」
祥子さまが両親に聞いた。それは祐巳も聞きたいことだった。
「あら、忘れたの?」
「何をです」
「祥子がどうしても優さんのお嫁さんになりたいって言ったから、柏木の姉さんに話をしてまとめたんだよ」
「えっ!?」
滅多に見られない、祥子さまの仰天|眼《まなこ》にあんぐりお口。
「そうよ。私たちが無理矢理くっつけたみたいに、言わないでちょうだい」
「へぇ……、それは知らなかったな」
柏木さんがつぶやいた。ちょっぴり嬉しそうに。
「それ、いつの話ですっ!?」
祥子さまは顔を赤らめた。少し怒ったように。
「祥子さんが幼稚舎に入った頃のことだったかしらね」
「うん。そうだな」
遠くを見つめてつぶやく、祥子さまのご両親。たぶん小さい頃の祥子さまの姿を、思い出しているのだろう。
「そんな、昔の言葉なんて。責任もてませんわ、私」
「あら。でも、ずっと何も言わなかったから、優さんのことをまだ好きなのかと思っていたのよ。だったら、そのままでも構わないでしょう?」
二人がその気になったら報告するだろうし、その気がなくなったなら自然に離れていくだろう。そんな風に考えて。これまで二人の関係には干渉《かんしょう》しなかったらしい。
「……そうでしたの」
祥子さまは、気が抜けたようにつぶやいた。たぶん清水《きよみず》の舞台から飛び降りるくらいの決心で、切りだしたに違いない。なのにその結末は、こんなにも呆気《あっけ》ない。
「あら、そんなにがっかりしないの。言ってくれてうれしかったわ。あなた、肝心《かんじん》なことはなかなか口にしてくれないから」
清子小母さまは、娘の肩を抱いて言った。
「とにかく、二人の気持ちはわかった。お祖父さまには、僕からうまいこと言っておこう」
けれど祥子さまは、融小父さまの申し出を断った。
「いいえ、お父さま。お帰りになったら、私がお祖父さまに」
「……そうだな。その方がいいか」
「はい」
祥子さまは、自分のことだから自分で始末をつけたかったのだと思う。それに、祥子さまを溺愛《できあい》しているお祖父さまだって、本人の口から聞いた方が絶対にいいに決まっている。
「じゃ、今度こそ引き上げるとするか。そうだ、優。車を呼ぶから、ついでに駅まで乗せていってやるよ」
「はい。お供します」
一階の電話でタクシーを手配すると、男性二人は玄関のたたきに降り立った。来た時とは打ってかわって、たくさんの女性に見送られて。
「あ、待って融さん」
いつの間にか姿が見えなくなっていた小母さまが、二階からバタバタと下りてきた。
「ほら、眼鏡《めがね》をお忘れよ。何しに帰っていらしたのか、わからなくなってしまうわ」
「ああ、そうだった。ありがとう」
小父さまは手渡された眼鏡《めがね》ケースを、コートのポケットにねじ込んだ。すると。
「あ」
柏木さんは小さく叫んだ。
「お忘れ[#「お忘れ」に傍点]で思い出した。えっと……あれは」
柏木さんはキョロキョロと辺りを見回し、玄関の隅に投げ出されていた小さな紙の手提げ袋を見つけると、「これこれ」と言って拾い上げた。たぶん彼がここに来た時に、祐巳の悲鳴を聞いて投げ出した物と思われる。
「はい、さっちゃん」
「え?」
差し出されて、キョトンとする祥子さま。
「さっき言ったろう? これは僕からの差し入れ。後でみんなで分けてくれ」
「何かしら」
言いながら祥子さまは、テープで口を軽く留めてある紙袋に人差し指を入れて、中身をそっと覗《のぞ》いた。祐巳の位置からは、中に何が入っているのかはわからなかった。その袋はお菓子が入っているにしては小さくて、厚みもあまりないようだった。
「まあ」
差し入れの正体がわかった瞬間、祥子さまの顔がパッと輝いた。
「ありがとう、優さん。何よりの物だわ」
そんなに喜ばせる物って、いったい何なのだろう。後でみんなで分けてと言っていたから、きっと今日中にそれが何なのかわかるはずだ。でも。祥子さま以外も、もらって嬉しい物なのだろうか。さっぱり見当がつかないけれど。
「ああ、そうだ。僕は、五日の朝から大学の友達とスキーに行くんだ」
唐突に、柏木さんは自分のスケジュールを口にした。誰も聞いていないのに、だ。
「え?」
「だから。もし僕に何か用事があったら、前日までに連絡してもらえるとありがたいな。四日の午後なら家にいる」
「そんなに長い間行っているの? 海外?」
祥子さまが聞き返した。確かに、柏木さんの言い方だと、四日を逃すと次はいつ連絡を取れるかわからない、といった感じだ。
「いや、四日間。日本の東北地方」
「そんな急な用事なんて、滅多《めった》にないでしょう?」
それに、国内ならすぐに帰ってこられるし。その程度のことを、どうして親戚《しんせき》に断って行くのかがわからなかった。
「そうだね。でも、帰ってきたら冬休みも終わっているからさ」
「だから?」
「それだけ。お土産《みやげ》買ってくるよ」
「いらないわよ」
祥子さまは笑った。それより足を折ったりしないでね、と。
婚約を解消したばかりだというのに、二人は以前よりずっと仲よく見えた。
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冷たい風
「お夕飯に、お蕎麦《そば》かおうどんでも食べる?」
男性二人を見送って和室に戻ると、清子小母さまが言った。
「いいえっ」
すかさず否定したのは、祥子さまと令さまと祐巳だ。
「取りあえず、ここに残っている物から片づけましょう。それでも小腹がすいたら考えることにして。ね、祥子?」
「そうそう。冷凍室にご飯があるから、どうしてもお腹《なか》が空《す》いたら、お茶漬けか雑炊《ぞうすい》でも作ったらいいわ」
「賛成!」
三人は知っていた。小母さまが何か料理を作ろうと思い立った時には、かなりの確率でとんでもない事が起きるということを。
例えば。
パンを食べたいと思ったら、いきなり小麦粉を計りだすところから始めたり。
お昼のお弁当を作っているはずが、晩ご飯になってしまったり。
何軒もの家にお裾分《すそわ》けしても、まだ大量に余るほどのミルフィーユを作ったり。
だから、蕎麦だろうがうどんだろうが、粉から打ち始めて深夜になることは十分考えられるし、市販の乾麺《かんめん》を使ったとしても、向こう三日間は食べ続けなければならないほどの量を茹《ゆ》であげてしまう可能性は否定できない。――あな恐ろしや、清子小母さまのクッキング。
和室の中央に置かれた二つのテーブルの上には、昼間から始めた宴会の料理が食べきれずに残っていると言うのに。その上に、またまた大量の何かがここに載るなんて。想像するだけで胃もたれする。
「そうね……」
小母さまは、三人の説得に一度は承服した。それなのに。
「でも、私もう飽《あ》きた」
事情を知らない由乃さんは、正直な気持ちを口にしてくれる。
「だわよね」
力強い味方を得て、途端にそちらに転がる清子小母さま。
「志摩子ちゃんや乃梨子ちゃんはどう? 違う味が恋しくない?」
「えっと――」
振られて困惑する白薔薇姉妹。確かに、そろそろ違う味も食べたくなっているはずだ。でも、祥子さま・令さま・祐巳が必死になって何かを阻止《そし》しようとしていることは、賢く大人な二人には十分理解できているようだった。
「あの、でもやはりもったいないので、今ある物を――」
そう。大人は、道徳的な見地に立って結論を導き出すものだ。
「じゃ、決定。温め直してくる」
令さまは五対二の多数決と判断し、腰を上げた。祐巳も立ち上がった。こういうことは、早く着手した方がいい。ぐずぐずしていると。
「でもさ」
ぐずぐずしていなくても、反対派はいくらでも決定をひっくり返そうとするのである。
「でも、って言ったんだから。志摩子さんたちだって、我慢《がまん》してるってことじゃないの? 本当は、もう飽きた。でも、もったいないから……って、違う?」
由乃さんがビシッと指摘した。それはなまじっか間違っていないだけに、白薔薇姉妹も反論できずにいる。キッチンに向かいかけていた令さまが、引き返してきて由乃さんにため息混じりに言った。
「じゃ、聞くけど、由乃はどうすればいいって思うわけ? 今、蕎麦やうどん食べて、この少しずつ残ったピザやら焼きそばやらサンドウィッチは目をつむって捨てるとでも言うの? 罰当《ばちあ》たり」
「……いいじゃない、明日の朝食べれば」
ふて腐《くさ》れたように答える由乃さん。
「そういう、目先の楽しいことばかり追いかけて嫌なことを先延ばしする考え、どうかと思う。それで、明日になったらまた食べたくない、って言うんじゃないの? だいたい由乃はいつも――」
あー、始まっちゃった。このパターン、どっちも言いたいこと言って引かないから収拾がつかないんだ。最後は大抵、由乃さんが暴力に訴える。でも、ここは余所《よそ》のお宅。少しは遠慮した方が――って、たぶん二人はそんなこともう忘れている。この辺で止めた方がいいのだろうか、と祐巳が思い始めたその時。
「姉妹げんか、やめてもらえない」
祥子さまが、間に割って入った。
「たかが食べ物のことでしょう」
たかが食べ物、されど食べ物。ストップがかけられたことで、一旦《いったん》休戦状態にはなっているけれど、互いに譲《ゆず》る気持ちなんて更々ないのだった。
「あの、ではお互いに譲れない部分を出し合って、妥協《だきょう》できる点を見つけたら」
乃梨子ちゃんが解決案を出した。
「譲れない点?」
「はい。つまり、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》たちはここにある食べ物を残り物として持ち越したくないんですよね?」
「……まあ、そうね」
小母さまの料理のことを持ち出せばますますこんがらがるので、言わないのが正解だ。とにかく、新たな料理に着手しなければ問題ないのだ。
「で、由乃さまは味に飽きたから、別の味の物を食べたい、と」
「そうよ。でも、この二つ、本当に折り合いつくの?」
「そこですよね」
提案したものの、乃梨子ちゃんも、具体的にどうしたらいいかまでは考えついていないらしい。残り物を食べるのに、同じ味ではいけないという矛盾《むじゅん》。さて、どうしたら解決できるか。
「あ」
その時、祐巳はひらめいた。
「わかった。残り物で新メニューを作ればいいんだ!」
「えっ」
みんなが不審の目で見た。一品だけならともかく、この多種類の残り物を使ってどう料理するのだ、と。
「えっと」
言ってみたはいいが、祐巳も自信はない。しかし、令さま一人だけが同意してくれた。
「いや。できるよ」
「味が変わったって、単純にまずくなるのは嫌よ」
「まあ、見てなさいって」
それから全員でキッチンに移動し、令さまのお料理ショーが始まった。まさにショー。アシスタントをかってでた祐巳も、近くで見ていてクラクラするような手際《てぎわ》のよさ。
「祐巳ちゃん、玉子割って。あと蜂蜜《はちみつ》と生クリーム……いや、牛乳でいいや」
何と令さま、フレンチトーストもどきのタネを作って、それに祥子さまの作ったサンドウィッチをくぐらすと、フライパンに落としたバターでこんがりと焼きあげた。
「はい、フレンチサンドの出来上がり。祐巳ちゃん、次は小麦粉溶いて。あ、祥子。スパイスとかハーブ類はどこにある?」
「あ、シェフ。ここに」
清子小母さまが、いそいそと小さい容器がたくさん入ったラックを出してくる。最初は由乃さんに与《くみ》していたのに、料理ショーの方が断然面白くなってきたので鞍替《くらが》えしたらしい。気がつけば、由乃さん以外はみんな令さまのアシスタントと化していた。
ちょっとずつ残った焼きそばやたこ焼きやお好み焼きや爆発した焼きいかなどは、ざくざくと包丁を入れて溶いた片栗粉の中に入れられた。
「ピザ……もいいか」
結局フライドポテトも小母さまのサラダも骨を取り除いたチキンも、全部同じように白いドロドロの液体に沈められた。
「お好み焼きを崩して、またお好み焼き作ってたら世話ないわ」
先を見越した由乃さんが、鼻で笑った。
「料理の名称なんてどうでもいいじゃない」
令さまが笑い返す。ってことは、やはり残り物でお好み焼きを作ろうとしているらしい。祐巳も「もしかして」と思っていたのだけれど。やっぱり。
「由乃が譲れないのは味でしょ?」
令さまはドライハーブとかスパイスとかの瓶《びん》に手を伸ばして、適当に(見えたけれど、本当は計算しているのかもしれない)味付けをした。すると、白いドロドロが黄色いドロドロに変わっていく。
この匂《にお》いは。
「カレーだ!」
「祐巳ちゃん、ビンポーン。さーて、焼くか」
令さまはさっきフレンチサンドを焼いたフライパンで、手早くカレー味のお好み焼きを焼いた。
「お熱いうちにどうぞ」
さっそく、和室に戻ってみんなで試食。
「おおっ」
フレンチサンドは、甘くて、中のチーズがちょっぴり溶けていて最高。タネが余ったからって、ついでに祥子さまがサンドウィッチを作った時に出たパンの耳にもつけて焼いた。メープルシロップをかけると、それはもう、余り物とは思えないおいしさだ。
カレー味のお好み焼きは、エスニック料理になっていた。どうかなと心配したポテトサラダやフライドポテトが、いいポイントになっている。これ、言わなきゃ残り物の再利用だなんて絶対にわからない。
「まあね」
みんなが絶賛する中、由乃さんだけは渋い顔をしていた。
「何が悔《くや》しいって。令ちゃんの料理がおいしいことよ!」
まずかったら「それ見たことか」って高笑いしてやろうと思っていたらしい。でも、まずいものを食べて笑うより、悔しくたっておいしい物を食べた方が、ずーっとずーっといいはずだった。
由乃さんだってね。
食後は小母さまの点《た》てたお抹茶《まっちゃ》で、おまんじゅうとチョコレートと祐巳の手土産のお菓子を食べて、その後みんなで手分けして後片づけをした。
お皿を洗ったり、部屋に掃除機《そうじき》をかけたり、テーブルを拭《ふ》いたり。やっていることは薔薇《ばら》の館《やかた》とそう変わらないことなのに、場所が変わっただけで何だか特別なことをしているみたい。
手を動かしながらわくわくするのは、たぶんこれが合宿だから。
いつもはどんなに楽しい時間を仲間たちと過ごしていても、夜が来ればそれぞれの家に帰らなければならない。
でも、今夜は何時までだって話していていい。眠くなったら寝ちゃったっていい。起きていたければ、夜明けまで起きていてもいいのだ。
なんて、楽しい。
なんて、幸せ。
でも。
幸せ、って思った瞬間、心の中にすーっと冷たい風が忍び込むのはどうしてなのだろう。
楽しい気持ちも、幸せな気持ちも、偽《いつわ》りではない。百パーセント本物なのに。
「気持ちをしまっておく部屋が違うんでしょ、それは」
由乃さんが言った。
「えっ!?」
祐巳はギョッとして振り返った。
「私、今、何か言ってた!?」
「はい。楽しくて幸せだけれど冷たい風が入ってくる、みたいなことを」
乃梨子ちゃんが答えた。
「……重症だわ」
側にふたりも人がいるのに、独り言を口走っていたなんて。
つぼみ三人は、お風呂に向かうところであった。といっても、別に揃って銭湯へ行くわけではない。
小母さまを除いて、娘たちは三カ所のお風呂にツーローテーションで入ることになった。組み合わせを考えるのは面倒くさいので、こういう場合|大概《たいがい》薔薇の色別になる。そして、リリアンの校風は、基本、年長者に先を譲る。で、後組の由乃さん・祐巳・乃梨子ちゃんの三人が並んで歩いている、というわけだ。そろそろお姉さまたち先組が、お風呂を上がる頃だから。
着物も脱いで身体《からだ》が解放された祐巳は、気がゆるんで、ついでに口の方もゆるんでしまったようである。
「で? 気持ちをしまっておく部屋って?」
先程耳にした言葉を復唱すると、由乃さんは「それはね」と解説を始めた。
「例えば、『姉の部屋』や『仲間の部屋』が満杯で満ち足りていても、別の部屋が空っぽだと何か足りない気になるかもしれないよね」
「別の部屋、って?」
「妹の部屋」
「そんな部屋ないわよ」
これまで、ずっと妹がいなかったのだ。妹の部屋なんてあるはずがない。もし以前からあったとしたら、元々そこには誰もいなかったのだから、それこそ年中風が吹き抜けていたはず。
「これまではね」
由乃さんが笑った。
「でも瞳子ちゃんのために、増築しちゃったでしょ。最近」
「えっ」
「そういうものよ。ね、志摩子さん」
「え? 志摩子さん?」
志摩子さんなんてどこにいるのよ、と見回せば、ちょうど志摩子さんがゲストルームから出てきたところで、「お待たせ、乃梨子」なんて妹に声をかけていた。
「そういうもの、って。……何のこと?」
濡れた髪をまとめたタオルがずれないように押さえながら、志摩子さんは聞き返した。昼間言っていた通り、寝間着《ねまき》は浴衣ではなくてパジャマである。
「乃梨子ちゃんって妹ができて、どうだったのか、聞きたいの。私たち仲間のことを好きだっていう気持ち、その分目減りした?」
由乃さんの質問に、志摩子さんは「まさか」と笑った。
「じゃさ、お姉さまに向けていた気持ち、全部乃梨子ちゃんに行っちゃった?」
「そんなことはないわ。山百合会《やまゆりかい》のメンバーやお姉さまに限らず、乃梨子と知り合う前と後とで、思う気持ちが変わった人なんていない」
そこまで言って、志摩子さんは「ああ、わかった」とつぶやいた。
「由乃さんが言っているのはそういうことね? だったら、ええ、そう。住んでいる家はそのままよ。でも人が増えたから、その分部屋の数が増えた感じ」
「それが、増築?」
「そういうこと」
由乃さんは、満足そうにうなずいた。
「部屋を先に作っちゃったのに、住むはずの妹がいないから、今祐巳さんの心の中ですきま風が吹いているんだよ。だから、当たり前のことなんだってば。どうしてなんだろう、なんて悩むことないじゃない。そういうものだ、どこが悪い、って。どんと構えてなって」
「なるほど」
祐巳が感心していると、志摩子さんもほーっとため息をついた。
「いいこと言うわね、由乃さん」
「かくいう私も、今増築工事真っ最中だからね」
「そうか」
由乃さんは、春になったら二学年下の有馬菜々ちゃんを妹にするつもりでいるのだ。それで、祐巳の気持ちがわかるのだろう。
人の心は家か。
そう考えるとわかりやすい。
祥子さまの後でお風呂に入りながら、祐巳は実感していた。
お姉さまの部屋と仲間の部屋は、確かに、もう何も入らないほどパンパンに満たされている、と。
お風呂から上がって和室に戻ってみると、すでに布団《ふとん》が敷かれていた。
「わあ」
何か興奮しちゃって、思わずダイブ。唯一|叱《しか》りそうなお姉さまの姿が見えなかったので、パジャマのまましばらくクロールをしてみた。当然、前には進まなかったけれど。
布団は、2×3ですべての枕が中央を向いて並べてあった。つまり、寝っ転がってみんなの顔が見えるってわけだ。
去年は女の子三人だったから川の字一つだったけれど、川の字を縦に二つ並べた形だとちょっとキツキツ。襖《ふすま》を外して部屋を二つつなげてもいいんだけれど、広ければその分寒くなるし、何よりこういう「合宿」は布団をくっつけて寝ることが楽しいのだ。
襖を挟んだ次の間にはテーブルと荷物が置いてある。去年は、そこに柏木さんと祐麒の布団が敷かれてあったっけ。それで。それで――。
(あれ?)
何か、寝る前にもう一つイベントがあった気がする。
(何だっけ)
枕投げをしていたのは、男どもだし。聖《せい》さまに布団で簀巻《すま》きにされたのは、電気を消した後だったし、それ以前にあんなのイベントじゃないし。
(えーっと)
消灯よりも前に、何かやった。確か、清子小母さまが訪ねてきて――。
(あ)
「わかった。なかきよ、だ」
「なかきよ?」
まずは、濡れたタオルをハンガーに掛けていた志摩子さんが聞き返した。それから、「何の話?」とみんな寄ってくる。
「なかきよから始まる回文を書いて枕の下に入れるの。いい初夢をみるおまじない、だって」
祐巳が説明していると、廊下《ろうか》側の襖《ふすま》が開いて祥子さまが入ってきた。
「あら、よく覚えていたこと」
「えへへ」
褒《ほ》められて気をよくしていたら、フェイントで注意された。
「それはともかく、どうしてあなたは複数の布団にわたって転がっているの。寝るなら一カ所に決めなさい」
「はーい」
まさか泳いでましたとは言えなくて、素直に布団の上から退いた。祥子さまは軽く笑ってから、「ちょっといいかしら」と言ってみんなを次の間に誘った。その手には、柏木さんからもらった紙袋が握られている。
「回文は、紙に書いて帆掛《ほか》け船を折るのだけれど」
取りあえずテーブルの所に全員着席すると、祥子さまが口を開いた。
「さっきの双六《すごろく》で、鶴を折るという指令があったでしょう? そこで家にあった大半の折り紙を消耗《しょうもう》してしまったの」
あがりに近かったために、数が合わずに引き返して何度もそのマスに止まったチームがあったから、思いの外《ほか》たくさんの折り鶴が出来上がってしまったのだった。まるで身近に誰か病気の人でもいるのか、ってくらいに。
「私の部屋にあった千代紙は、去年のなかきよでほとんど使ってしまったし」
「あの、だったらレポート用紙とか包装紙とかでもいいんじゃないんですか。正方形に切れば、折り紙と同じようになりますよ」
乃梨子ちゃんが、手を上げて言った。ホームルームの話し合いみたいに。
「ええ。私も、そう思ったわ。そうするしかない、って。でも、その必要はなくなったの。ほら」
そこでテーブルの上に出されたのが、例のデパートの紙袋だ。
「優さんの差し入れよ」
中から出てきたのは、綺麗《きれい》な千代紙だった。色も柄もどれ一つとして同じ物はない。目に鮮やかな千代紙がテーブルの上に広げられると、さながらパッチワークで大きなタペストリーを製作しているみたいに見えた。
たぶん柏木さんは、なかきよのことを思い浮かべてこれを買ったのだろう。けれど、もしかしたら折り紙が足りなくなるかもしれない、なんてことを考えた上ではなかったはずだ。
綺麗《きれい》な紙を見て、祥子さまの笑顔を想像したのかもしれない。
ほほえんでもらえなくても、ただプレゼントしたことで満足だったのかもしれない。
けれど、これをもらって祥子さまはとても喜んだ。柏木さんは、またしても祐巳に大人の余裕を見せつけた。
「お母さまには今一枚置いてきたから。どれでも好きなのを選んでちょうだい。筆ペンとかサインペンとかはここにあるわ」
最初はちょっと遠慮していたが、やっぱり女の子の集団。みんなすぐにきゃあきゃあ言いながら、好みの紙を選び始めた。珍しく、令さまもはしゃいでいる。こういうの、かなり好きらしい。
「祐巳。お手本を書いてあげて」
「あ、はい」
祥子さまに促されて、祐巳は一番近くにあった千代紙に手を伸ばした。綺麗《きれい》な模様を汚さないように、紙を裏返して書くことにした。
[#ここから3字下げ]
なかきよの
とおのねふりの みなめさめ
なみのりふねの
おとのよきかな
[#ここで字下げ終わり]
「いいですか。このように、上から読んでも下から読んでも同じ文になっていなければいけません」
ちょっとだけ先に知った者として祐巳は、ちょっとだけ先輩風を吹かせてみた。
「なるほど。トマトの長いバージョンか」
「しんぶんし」
「こいけけいこ、さん」
「あ、いたいた。同学年に一人」
どこかで聞いたような会話の流れ。考えることは皆、一緒のようである。
全員歌を書き終えると、今度は船作りにとりかかる。「帆掛け船」はその名を言っただけでピンと来る人と、首を傾げる人とにわかれる。「帆掛け船」がわからない人は、「二艘《にそう》船」もわからないようだ。
「じゃ、風車《かざぐるま》はわかる?」
「うん」
わからない人――黄薔薇姉妹の由乃さんは、「こうでしょ」と風車を折った。
「それをこう斜めに折って」
祐巳は口で指示しながら、由乃さんの「帆掛け船」を完成させた。
「ああ。これ騙《だま》し船って言っているよ、家《うち》では」
そう言って祐巳に帆の先端を持たせると、「こうして」と紙の一部を折り返して、帆先を船尾に変えてしまった。子供だましの遊びだったけれど、みんなつられて代わりばんこにやった。こういう単純な遊びが、無性に楽しく飽きなかった。
布団の位置は、あみだくじで決めた。祐巳は下の川の字の真ん中で、右隣つまり川の字の一画目は乃梨子ちゃん三画目は令さまである。上の川の字の一画目は由乃さん、真ん中は志摩子さん、三画目は祥子さま。学年も姉妹も、見事にバラバラに別れたのだった。
「電気、消すわよ」
祥子さまの声に、
「えーっ!」
[#挿絵(img/23_155.jpg)入る]
と言ったのは|つぼみ《ブゥトン》三人だ。もっと起きていていたい。もっとおしゃべりしていたい。消灯、って電気を消してしまうことで、この楽しい時間をスパッと終わりにしたくない。
「明日の朝は、六時半起床なのだから早く休まないと」
「六時半!?」
学校に行くわけでもないのに、と由乃さんがぼやいた。そこで、祐巳は思い出す。そういえば、去年も早起きしたんだっけ。
「そうよ。みんなでお布団を片づけて、朝ご飯を作るの」
清子小母さまより先にキッチンを占拠しないと、それこそ朝ご飯が昼ご飯夕ご飯になってしまうから。
「由乃ちゃんが食べたいなら、お蕎麦かおうどんにするけれど。どうする?」
祥子さまが、由乃さん限定で質問した。さっきお夕飯に却下されたメニューだ。
「……いえ、いいです」
単に残り物を食べたくなかったから、小母さまの提案に乗っていただけで、由乃さんはあの時だって、どうしても麺類を食べたかったわけではなかったのだ。
「じゃ、お正月らしくお餅を焼いてお雑煮《ぞうに》にでもする?」
「そうだね」
三年生二人は布団の上で立ったまま、明朝の献立《こんだて》について相談し合う。
「サンドウィッチに入れた生ハムがまだ残っているし、玉子は結構あるから、ハムエッグにしてもいいわね」
(えっ、生ハムに火を通しちゃうなんて。お姉さまっ)
そんなもったいないこと、と祐巳が思っていたら、令さまも「生ハムはそのまま食べようよ」と言った。
「それだけじゃ、野菜が足りないかしら。おせち料理の紅白なますくらいならあるけれど」
「あ、じゃそれで大根サラダ作るよ。この前テレビでやってたの」
「令って……」
祥子さまはつぶやいた。その後は言わなかったが、たぶん「いい主婦になりそうね」と続くはずだったのだろう。祐巳も、そう思った。きっと、みんなも心の中でうなずいていたはずだった。
「異議がある人」
相談が終わると、令さまが言った。これまたホームルームみたい。誰も手を上げないので、明日の朝ご飯のメニューが決定した。
祥子さまが、目覚ましをセットしてから電気を消した。時計の針は、十一時を少し回ったことを告げている。
多数決はとらずとも、茶色い[#「茶色い」に傍点]電気になった。暗くてよくは見えなかったけれど、たぶん祐巳と祥子さまだけが小さく笑ったはずだった。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
祐巳は、布団を首まで引き上げた。寝心地《ねごこち》のいいよう枕の位置をずらして、それから宝船がそこにあるか手でさぐった。
大丈夫、ちゃんとある。せっかくいい夢をみるためのおまじないをしたのに、寝相が悪くてどこかへ行っては大変だから、念には念を入れて枕カバーの内側に押し込んだ。
左を向くと、令さまの後頭部が見えた。横向きに寝る癖《くせ》があるのかな、なんて思う。
右を向けば、乃梨子ちゃんの横顔がある。
しっかりしているように見えるけれど、寝顔はとても幼かった。
生まれた日がたった数日しか離れていないのに、学年が一つ違ってしまう人たちももちろんいるけれど。祐巳は四月生まれだから、乃梨子ちゃんとは一年以上年が離れている。
一年というと、すごいことだ。一歳の赤ちゃんを見たことがあるけれど、もうバタバタ動いて好き勝手な言葉をしゃべっていた。その成長分だけ、年が離れているということだった。
親友の妹の寝顔ですら、こんなにいじらしく感じるのに。これが自分の妹だったら、どんな気持ちになるのだろう。
考えても仕方がないことなのに。
あの時ロザリオを受け取ってもらえていたら、今横に寝ていたのは瞳子ちゃんだったのかもしれない、なんて。瞳子ちゃんと同い年の乃梨子ちゃんの寝顔を見ていて、つい思ってしまうのだ。
志摩子さんの側に乃梨子ちゃんがいるように、春になったら由乃さんのもとに菜々ちゃんがやって来るかもしれないように。自分の隣に、瞳子ちゃんがいたらいいのに、と。
別に笑っていなくたっていい。ふくれっ面で、キツイ物言いで、可愛《かわい》くなくて。
それでも、それが瞳子ちゃんだったらそれでいいのに。
予想してはいたけれど、初夢には瞳子ちゃんが出てきた。
自宅の祐巳の部屋の窓の外が、どういうわけか瞳子ちゃんの部屋になっているのだ。二人の部屋の間にある、透明ガラスは曇っている。
祐巳は、向こう側にいるはずの瞳子ちゃんの顔を見たいと思う。けれども拭いても拭いてもガラスの曇りは半分しか消えなかった。
科学的にはすごく矛盾《むじゅん》があることかもしれないけれど、夢の中の祐巳は納得する。
「そうか」
部屋はどちらも内側なので、瞳子ちゃんの方からも拭いてくれないと、この曇りは晴れることはないのだ。
「瞳子ちゃん、そっちからも拭いて」
祐巳は懇願《こんがん》する。
けれど、瞳子ちゃんからは返事がない。そこには確かに瞳子ちゃんらしき人の影が見えているのに、言葉を発してはくれない。
ちょっと待ってください、でもいい。嫌です、でもいい。何か言って欲しかった。
何も言ってくれないから、瞳子ちゃんが今どんな気持ちでいるのか、何を考えているのか、読み取るヒントが何もない。
「瞳子ちゃん」
何が間違ってしまったのだろう。
どうしたらわかってもらえるのだろう。
祐巳は泣きながら、自分の部屋からガラスを拭き続けた。そうしていたら、いつかあちら側の曇りが、奇跡のように消えるかもれない。
一心不乱に拭いていたら、由乃さんと志摩子さんが現れた。
「祐巳さん、何しているの?」
「ううん、別に」
祐巳はあわててガラス窓から離れて、カーテンを引いた。
「何でもない」
「そう? じゃ、パーティーの続きをしましょうよ」
二人が笑いながら、「ほらほら」と祐巳の手を引っ張る。
「えっ」
振り返ればそこは薔薇《ばら》の館で、けれど床の間があったり畳が敷いてあったり、小笠原家の和室が所々ミックスされているという不思議な空間だった。
パーティーの内容も、クリスマスなんだか新年会なんだかよくわからない。お寿司があったりブッシュドノエルがあったり。参加者も、清子小母さまがいれば、菜々ちゃんや蔦子《つたこ》さんもいる。もちろん、祥子さまや令さま、乃梨子ちゃんの顔も見える。
「ほらほら、座って。みんな、祐巳さんを待っていたんだから」
「あ、でも私は」
窓を拭かないと。それに。
「どうしたの?」
「……ううん」
できたら、ここに瞳子ちゃんも誘いたいと思ったけれど。でも、あの窓が開かないとこっちに呼ぶこともできない。
いったい、どうしたらいいのだ。開かないどころか、窓を拭いてももらえないというのに。
「祐巳さん、歌おう」
「う、うん」
祐巳はカーテンの引かれた窓の方を見た。
まだ、そこにいるのだろうか。
もしいるのなら、瞳子ちゃんにこの賑《にぎ》やかなパーティーの様子ができるだけ届きませんように。
――と、祐巳は夢の中で必死に祈っていた。
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心のくもりガラス
翌朝は六時半にセットされた目覚まし時計に起こされ、眠い目をこすりながら布団の上で令さまの号令に合わせてラジオ体操第一を行った。
祥子さまは嫌がったけれど、五人がそれをしている以上、一人足並みを揃えないのもどうかと思ったらしく、渋々従ったようだった。
「初夢、みた?」
朝一番の話題は、もちろんそれだ。しかし。
「みたような、みないような」
「お腹《なか》が一杯で身動きできない夢」
「みたはずなのに。起きたら忘れちゃった」
意外と、そんなものである。一富士《いちふじ》二鷹《にたか》三茄子《さんなすび》なんて、お目出度《めでた》い初夢をみられる人は、宝くじに当たるくらいまれだと思う。
身軽な寝間着のまま家中を歩き回り、歯磨《はみが》き洗顔をしてから着替えた。男性の目がないからできることだ。
志摩子さんは、普通の服を着るみたいに、一人で紐《ひも》を使って着物をするすると着た。慣れると、大きな姿見なんてなくても全然平気らしい。祥子さまは、今日は着物を着ていない。セーターとスカートという、シンプルなスタイルである。
身支度《みじたく》を済ませたらお料理班とお部屋班に分かれる。前者が三年生二人、後者が二年生と一年生の混合チームだ。
お部屋班は布団を畳んで、シーツや枕カバーを洗濯機に放り込んでから掃除《そうじ》にかかる。もしかしたらいつもは畳にお茶殻《ちゃがら》を巻いて箒《ほうき》で掃《は》いたりしているのかもしれないけれど、わからないので軽く掃除機《そうじき》をかけるだけにした。やり慣れないことをして、失敗したら大変だ。
「和室だけでいいわよ」
キッチンから祥子さまが声をかける。
「はーい」
でもちょっと面白いので、長い廊下《ろうか》をパンツスタイル仲間の由乃さんと、雑巾《ぞうきん》がけで競争した。
志摩子さんが床の間に飾ってあった生け花を少し直した頃、キッチンの方からいい匂《にお》いが漂ってきた。
「いただきまーす」
清子《さやこ》小母《おば》さまを交えて七人で、朝ご飯となった。午前七時三十分。
今朝《けさ》のメニュー。
鶏肉でだしを取ったすまし汁に、焼いたお餅《もち》が一つずつ。三つ葉と鞠麩《まりふ》とシメジの彩《いろど》りが綺麗《きれい》なお雑煮《ぞうに》。
目玉焼きと焼いていない[#「焼いていない」に傍点]生ハム(これも、ハムエッグと呼んでいいのだろうか。……ちょっと疑問)。
最後は、令さまが紅白なますで作った大根サラダ。
和洋折衷《わようせっちゅう》だけれど、食べ始めると違和感はゼロだ。
「お醤油、塩、コショウ、ウスターソース、ケチャップ、マヨネーズ。これだけ揃えれば、いつもの自分のスタイルで食べられるでしょ」
テーブルの上に、キッチンでかき集めた調味料をドーンと並べて、令さまが言った。
「味付けは人それぞれって話だからね」
目玉焼きの話である。
祥子さまはお醤油、由乃さんはケチャップに手を伸ばした。令さまは塩コショウ、乃梨子ちゃんはウスターソース。志摩子さんも祥子さまに続いてお醤油をたらし、清子小母さまはいつもは違うらしいけれど面白がってマヨネーズにチャレンジしていた。
「祐巳ちゃんは?」
どの容器も手に取らずにいる祐巳を見て、令さまが尋《たず》ねた。
「あ。どれにしたらいいか迷っちゃって」
祥子さまと同じ味にするなら醤油。でも、ここは小母さまみたいに新たな味に挑戦するのも手だ。
「家ではどれをかけているの?」
「えっと」
どれと言われましても。
「ま、まさかっ」
令さまはそこで、わざと大げさに驚いたポーズをしてみせた。
「この中にない物をかけている、とか」
「……はい」
大当たり。というか、子供の頃はケチャップもソースも当たり前のようにかけてきたが、最近もっぱらはまっている物は、残念ながらこの中にはない。
「それって特別な物? それとも一般家庭に普通にある物?」
由乃さんが、興味|津々《しんしん》と身を乗り出した。
「普通にあると……」
「じゃ、お酢?」
「ううん」
首を横に振ると、志摩子さんや乃梨子ちゃんも参加し始めた。まるでクイズだ。
「ドレッシングかしら?」
「キムチの素ですか?」
「……違うって」
ドレッシングはともかく、キムチの素ってどこのご家庭でも常備されている物なのだろうか。
「まさか、お味噌《みそ》?」
それはすごい。味は合わないこともない気がするけれど、味噌だと「かける」というより、むしろ「のせる」じゃないかな。
黙って聞いていた祥子さまが、とうとう痺《しび》れを切らして言った。
「何なの、もったいつけないで早くお言いなさい」
もったいつけているつもりはないのだけれど、そんなに盛り上がってしまうと言いにくくなるものではある。
「あの……麺《めん》つゆです」
「麺つゆ!」
祐巳を除く全員が、声を揃えて復唱した。
「麺つゆね」
「確かに有りかも」
誰も当てられなかった割には、好反応である。
「祥子さん。我が家の冷蔵庫に入っているわよね」
「ええ、ありますわ。市販のでよければ」
小母さまの質問に答えながら、祥子さまは最後に祐巳を見た。
「あ、もちろん」
福沢家で使っているのなんて、スーパーの特売日に「お一人様一点限り」で買った物だ。どうしても二本買いたかったお母さんに駆り出されて、レジに並んだので覚えている。
祥子さまが冷蔵庫から出してきてくれたのは、祐巳の家にあるのと同じ麺つゆの一回り小さいサイズの瓶《びん》だった。小笠原家でもこういう物でお手軽にお索麺《そうめん》なんて食べているのかと驚いていると、実はそうではないらしい。
「ちゃんとダシをとって作ったつゆじゃないと、祖父が嫌がるの。だから、これは料理人が調味料として使っているみたいよ」
どうぞ、と差し出されたので、みんなの注目をあびながら麺つゆを崩した黄身にかける。すると今度は、目玉焼きの食べ方で話が盛り上がる。黄身から先に攻めるとか、黄身を最後まで残すとか、黄色い部分と白い部分を同じ割合で食べるとか、いつもは両面焼くとか。そこから発展して、黄身の堅さの好みにまで話は膨らむ。自分たちのことばかりでなくて、ついには知り合いの人の変な癖《くせ》なども飛び出して、食卓は大いに盛り上がった。
目玉焼きという単純な料理だけに、食べる人の個性が出てとても面白かった。
おしゃべりしながらゆったりと朝食をとって、後片づけをして、洗濯が済んだリネン類を干して、軽くお茶を飲んだら、もう十一時になっていた。
「そろそろ失礼しようか」
令さまが切りだし、二日にわたった新年会はお開きになった。
「ゆっくりしていけばいいのに」
清子小母さまは少しお名残《なごり》惜しそうな顔をしていた。それは祐巳も同じだったけれど、夕方にはお祖父さまや融小父さまが帰ってくるらしいし、その前にお手伝いさんたちも戻ってくるようだから、あまり長居するとご迷惑になるだろう。
「また遊びに来て」
祥子さまがほほえんだ。
「はい」
みんなに向けた言葉だったのだろうけれど、祐巳が一番大きな声で返事をした。
「あ、ちょっと待って」
玄関で靴《くつ》を履いていると、清子小母さまがパタパタと二階に上がり、すぐに風呂敷《ふろしき》包みを抱えて戻ってきた。
「祐巳ちゃん、忘れ物よ」
「忘れ物?」
と言われても、荷物を詰め込んだショルダーバッグはちゃんと肩に掛かっている。来る時に持ってきた手土産《てみやげ》は、大方食べてしまったし、たとえ残っていたとしても持って帰る物ではない。
「ほら、これ」
清子小母さまは、風呂敷をそっとほどいて中身を見せた。それは見覚えのある畳紙《たとうし》。昨日祐巳が着せてもらった、小母さまの着物が入っていたものだ。確かお風呂の前に脱いで、祥子さまが着物用のハンガーに掛けてくれた――。
「帯や小物はお家にある物を合わせてね」
「あの、でも」
「遠慮しないの。これは双六の優勝賞品なんだから。嫌でなければ、もらってちょうだい」
「ええーっ!?」
そんなこと、初耳だった。
「言っていなかったかしら。言ったわよね?」
その場で確認をとる小母さま。祐巳は「いいえ」と、黄薔薇・白薔薇姉妹は「はい」と答えた。
「えっ」
どうして答えが二つにわかれるのだ。
祐巳が頭の上から|?《はてな》マークを飛ばしていたら、祥子さまが苦笑して言った。
「優勝賞品が発表された時、私と祐巳は二階にいたのよ。お母さまったら、志摩子たちが戻ったらさっさと発表してしまって。肝心《かんじん》の私たちがいないことに、まったく気づかなかったのでしょう? その後お父さまや優さんが現れて、すっかり忘れておしまいになったのね」
「そうそう。そうなのよ」
清子小母さまは首をすくめた。
「持ち運びやすいように畳紙ごと半分にたたんであるから、お家についたら元のサイズに広げてね」
「……いいんですか」
こんなに高価な、そして思い出が詰まっているであろう品を。
「もらっておきなさい。私も昨夜、一枚押しつけられたのだから」
そう言う祥子さまもまた、チーム戦の優勝者の一人であった。
「はい。ありがとうございます。大切にします」
両手で受け取って、深々と頭を下げた。孫子《まごこ》の代まで家宝にします。そんな気持ちになった。まだ結婚もしていないのに。
「この風呂敷は返さなくていいわ。結婚式の引き出物が包んであっただけの物だから」
小母さまは、風呂敷の結び目を軽く摘《つま》んで笑った。それは薄手の不織布《ふしょくふ》でできている。以前お父さんが田舎《いなか》の結婚式に出席した時に、こんな感じの風呂敷にお赤飯とか焼いた鯛とか引き出物とかを包んで持ち帰ったことがあった。
「ああ。柏木さんの持ってきた?」
令さまが言った。
「そうそう。令さんあの時いたのよね。でも、何か不自然だったのよ、あの日の優さん。問いつめてあげようと思っていたのに、忘れてたわ」
何でも、以前令さまが遊びに来た時に、柏木さんがこの風呂敷一枚返すためだけに訪ねてきたのだそうだ。
「あれ、何か……」
その話、知っている気がする。思い出そうとして首をちょっと傾げていると、小母さまが言った。
「すごいわ、祐巳ちゃん。この風呂敷に見覚えがあるのね? そうよ、これはあの日優さんがミルフィーユを包んで持って帰ったものなのよ」
「あ、そうでしたか。やっぱり」
へへへと、うなずきつつも祐巳は、「そこじゃない」と思っていた。確かに遊園地デートの日、柏木さんはミルフィーユの入った箱をこんな風呂敷に包んでもらっていたかもしれない。でも、そんなことはすっかり忘れていた。
引っかかったのは別のところだ。
令さまが祥子さまの家に遊びに行った日に、柏木さんが現れた。祐巳はその場にいなかったのに、それを知っている。
(あ)
瞳子ちゃんが家出した日のことだ、それは。祐巳は、令さまが遊びに来ていたことを、柏木さんから電話で聞いたのだった。
柏木さんが不自然だったわけだ。彼は、大事《おおごと》にならないようにと、瞳子ちゃんのことは伏せたまま小笠原家を訪問しなければならなかったのだから。
そして、柏木さんは未だに、小笠原家の人たちには瞳子ちゃんの家出について語っていない。
「どうしたの?」
「え、いえ。せっかく着物をいただいたので、一人で着られるようになれればいいな、って」
柏木さんが話していないなら、瞳子ちゃんのことは黙っていた方がいいのかもしれない。とっさに判断して、祐巳は別の話題を振った。
「振《ふ》り袖《そで》は、着せてもらえばいいのよ」
でも、楽しそうだから今度着物で遊びましょう、そう清子|小母《おば》さまは言った。「着物」で「遊びましょう」。すごいな。「着物を着て遊びましょう」じゃないところが。
門まで送ってくれるというのを辞退し、五人は玄関で小母さまと祥子さまにお礼とお別れを言ってから外に出た。天気がよくて、一月の初めにしてはポカポカと暖かい。
チリンチリン。
白薔薇姉妹と祐巳が先に歩いていると、駐車場から自転車を取ってさた令さまと由乃さんがすぐに追いつき、追い抜いた。
「お先」
由乃さんは、ピッカピカの自転車が嬉しくて仕方ないようだ。令さまが一旦《いったん》止まりかけたのに、すーっと走っていってしまう。
「由乃、こらっ待て」
必死に追いかける令さま。相変わらず、振り回されている。祐巳は、志摩子さんと目を合わせて笑った。
家の中から操作してくれたようで、門はすでに開いていた。由乃さんは門扉《もんぴ》の縁に掴《つか》まって、みんなが来るのを待っている。
「次は始業式かな」
「そうだね」
「すぐだ」
「ええ。そんなのすぐ」
ごきげんよう、そう挨拶《あいさつ》を交わして五人は二つに分かれた。
前を行く、二つの自転車がどんどん小さくなっていく。祐巳は、志摩子さんと乃梨子ちゃんと一緒に、昨日来る時に使ったのと同じ道を引き返した。
帰りは迷わなかったから、駅までは十五分で着いた。
待ち合わせた時と同様、志摩子さんとはその駅でさよならした。乃梨子ちゃんとは一緒に電車に乗って、M駅で別れた。
バスのシートに深く腰を下ろして、祐巳は窓の外を見た。今日は三日。街にはまだ晴れ着姿がちらほらと見られる。
流れていく風景を眺めながら、思い出すのはなぜか柏木さんのことだった。
瞳子ちゃんが家出した時に、来ていないか確認するために小笠原家を訪ねた柏木さん。清子小母さまの目にその態度が不自然に映ったのは、隠し事をしていたせい。
それをふまえて思い返せば、昨夜の柏木さんもまた、どこか変だった。
彼の「不自然」に理由があるのなら、瞳子ちゃんの家出のように、誰かから何かを隠している、そうは考えられないだろうか。
『僕は、五日の朝から大学の友達とスキーに行くんだ』
聞かれもしないのに、何であんなことを言ったのか。
『帰ってきたら冬休みも終わっているからさ』
冬休みが終わっている。それって、自分の冬休みのことだろうか。
しかし、大学の休みは高校よりも長いと聞いたことがある。それに、帰ってきたら終わっている、って。すでに授業が始まっているのに、呑気《のんき》にスキーで遊んでいていいわけがない。ああ見えて意外に真面目《まじめ》な柏木さんが、大学の友達とそんな無茶な計画を立てるとはとても思えなかった。
(それじゃ、誰の?)
世間一般の冬休みの話なんかじゃないはずだ。冬休みが終わっていようと、柏木さんのスキーには影響がない。
(まさか。……ううん、まさかじゃない)
『もし僕に何か用事があったら』
(柏木さんは、私に伝えようとした)
そう考えれば、すんなりとうなずけた。柏木さんの言葉は、ただ一人にだけ向けられていたから「不自然」なものに映ったのだ。
瞳子ちゃんの家出のことは、まだみんなに知らせていない。そして、もう一つ。
『次に質問されたら、僕は答えるからね』
祐巳が柏木さんに、瞳子ちゃんの抱えている事情を聞こうとしたことも。
それは、二人だけの秘密だった。
だから柏木さんは、他の人に知られないように、まるで暗号のような言葉を祐巳に残していったのだ。
瞳子ちゃんのことを聞きたいなら、自分が留守をする前においで、と。
スキーから帰ってくるのを待っていたら、リリアンの三学期が始まってしまう。そうすると、柏木さんを訪ねるのもままならなくなる。
(四日の午後って言っていた)
祐巳は、指でガラスに「4」と書いた。
瞳子ちゃんのことを聞くのか聞かないか。まだ、結論は出ていない。考えるのが怖くて、結論を先延ばしにしていたようなところもある。
でも、こうして期限をもうけて考えるのは、自分にとってはいいことなのかもしれなかった。
家の側のバス停の名前がアナウンスされたので、祐巳はブザーボタンを押して降りる準備をした。
(四日の午後)
まだ、まる一日、考えるための時間はある。
考えるための時間はあっても、考えがまとまるかどうかの保証はない。
家に帰って、着物をもらったことを告げると、お母さんは恐縮しながら小笠原家へお礼の電話をかけていた。
「成人式には、ぜひいただいた振《ふ》り袖《そで》を着させていただきますわ」
三年も先の話なのに、って、お母さんの言葉を横でぼんやり聞きながら、それでも頭の中の半分以上は瞳子ちゃんのことで占められていた。
瞳子ちゃんが、ご両親とけんかした理由は何なのか。
それは、祐巳を拒絶したこととは直接関係はないかもしれない。でも、どこかでつながっているような気がしてならない。
例えば、白地図の話で垣間《かいま》見えた瞳子ちゃんの絶望。
志摩子さんへ投げかけた、家業を継ぐのかという質問。
瞳子ちゃんが妹になることを拒んだ理由は、わからない。たとえば、気づいていないだけで全面的に祐巳に非があったのかもしれない。でも、もしあの時瞳子ちゃんの精神状態が別のものであったなら、どうだったのかと考えずにはいられない。
もし、家のこととかそれ以外の何かが原因で、瞳子ちゃんが何もかもどうでもいいといった投げやりな気持ちになっていたとしたら。そんな時に、唐突《とうとつ》に「妹にならないか」と言われたら。新しい人間関係をスタートしようなんて気持ちには、ならないかもしれない。
じゃあ、瞳子ちゃんの悩みの核心部分を見つけて、解決してやればいいのだろうか。それができたら、晴れて二人は姉妹になれるのだろうか。
わからない。
だって、瞳子ちゃんが何をどう悩んでいるのか、まるで見当がつかないから。それを知って、お姉さまとして相談にのってあげられるかどうかだって自信がない。
だったら、柏木さんに聞けばいい。そのために彼は、「四日の午後」と日時を指定してくれたのだから。
たぶん。
「嫌だ、祐巳ちゃんこぼしているわよ」
考え事をしながら夕飯を食べると、自分の周りが食べかすで汚れることがわかった。
「祐巳。開いてても読まないなら、新聞先に俺に回して」
考え事をしていると、新聞の大きな見出しの文字すら頭に入ってこないことも。
「あ」
お風呂に入って考え事をしていると、シャンプーの前にトリートメントをしてしまうこともある。
考え事をしていると、パジャマを着ようとして脱いだばかりのジーパンに再び足を入れてしまったりもする。
考え事をしていると。――つまり、いろいろなことが疎《おろそ》かになるようなのだ。
布団に入っても、寝つけない。丸一日あると思っていたのに、明日はもうすぐやって来る。
柏木さんのお家に行く。
柏木さんのお家に行かない。
二つに一つ。明日どちらを選んでも、その後また夜がやって来て。こうしてまた布団の中で、選ばなかったもう一方のことを考えてしまうような気がした。
そんなこんなで、寝不足だった。だから朝寝坊したかといえばそうではなくて、七時にははっきりと目覚めていた。
休みなんだから、もう一眠りしたって罰《ばち》は当たらない。けれど、祐巳は三十分ほど布団の中でグズグズしてから起きあがった。結局、考え事がそこここに浮遊している限り、気持ちいい睡眠をとれるわけがないことがわかっていたから。
階下《した》におりると、すでに祐麒が一人で朝ご飯を食べていた。休みっていうのに、八時前に起きているなんて珍しい。
「どこか行くの?」
尋《たず》ねると、祐麒はトーストをかじりながら冷ややかに祐巳の顔を見た。
「友達の家。昨日夕飯の時に言ったろう? 聞いてなかったのかよ」
「そうだっけ」
お夕飯、お夕飯……。その時は確か、食べこぼししながら考え事をしていたはずだから、もちろん弟の話なんて耳に入っていない。
「ごちそうさま」
祐麒はテーブルに手をついて立ち上がった。そのまま、自分の食べた食器をキッチンに運んでいく。入れ違いでお母さんが出てきた。
「あ、祐巳ちゃんおはよう。早いわね」
「……おはようございます。お父さんは?」
「とっくにご飯食べて、髭《ひげ》そっているわよ。今日から仕事始めですって」
「ふうん」
小さな設計事務所だから、三が日だけ休んで四日から出勤。とはいえ、対外的には事務所を開けるのは今年は一月五日からということになっている。
窓のブラインドを下ろして、扉に鍵をかけて、電話は留守電にしたまま。お父さんは今日は閉めた事務所の中で、年賀状の整理とか、パソコンのメールチェックとか、新しく買った日めくりカレンダーを三枚破くとか、そんな事をするらしい。
「今朝はご飯|炊《た》いていないから、お餅かパンになるけれど。祐巳ちゃんは、どっち?」
お母さんが右手に切り餅のパック、左手に食パンのビニール袋を持って尋ねる。
「えーっと。どっちにしようかな」
さっき祐麒が食べていたのを見て、引きずられたのかもしれない。祐巳はお母さんの左手、つまりパンの方に手を伸ばした。けれど、一瞬早くお母さんが背を向けたので、その手はむなしく空を掴んだだけだ。
「あ、自分でやれるよ」
そんな、高校生になった娘を甘やかしてはいけない。追いかけたけれど、お母さんは構わずパンの袋を開けて準備を始める。
「いいから、座っていなさい」
「でも」
「むしろ座っていて」
「え?」
「今日も昨日と同じ調子なら、絶対焦がすもの」
どうやら昨日の祐巳は、端から見てもかなり危なっかしい様子だったらしい。お母さんは娘を甘やかそうなんて思っていなくて、単純に食材を守ろうとしているだけなのだった。
「帰ってからこっち、ずっとボケボケなのよね。まあ、でもそうよね。小笠原家は|竜 宮 城《りゅうぐうじょう》だったんでしょう」
まるで時差ボケの人を見るような目で、お母さんは祐巳を眺めた。瞳子ちゃんとのことや柏木さんとの約束のことを一切知らないのだから、そう思われたって仕方がないのかもしれない。
「あの、でも。一晩寝たから、もう大丈夫だって」
祐巳は胸の前で両手のグーを作って、復活をアピールした。
「大丈夫ねぇ」
お母さんはちょっと笑ってから、祐巳の肩を軽く押してキッチンから追い出した。
「とにかく、パンだけはお母さんに焼かせて」
どうして、と聞く前に、背中に答えが届いた。
「セーターの下に着ているシャツのボタンを一つずつ掛け違えているような人に、任せられないわよ」
「……あ」
何も言い返せなかったので、祐巳は取りあえず椅子《いす》に座ってパンが焼けるのを待つことにした。
午前中、結局またぐだぐだ悩んで、それでも結論らしい結論はでなくて、とにかく家にいても悶々《もんもん》とするだけなので出かけることにした。
「あら、どこ行くの?」
お昼前の情報番組を耳で聞きながら、お母さんはアイロンをかけていた。
「決めてない」
それが、本当の気持ちだった。柏木さんの所へ行くかもしれないし、近所を一周して戻ってくるかもしれない。
「お昼ご飯は?」
「お腹《なか》、すいてないから」
これも本当。もしかしたら身体《からだ》は空腹なのかもしれないけれど、考え事で胸がいっぱいで、とても何かを食べる気にはならないのだった。
「具合悪いわけじゃないわよね」
お母さんは一旦《いったん》アイロンを台に戻してから、祐巳の側までやって来て娘の額に手を当てた。
「熱はないわね」
熱を発する電化製品で作業をしていたお母さんの手の方が、祐巳の顔よりずっと熱い。
昨日からのボケボケぶりが熱によるものではないことを確認すると、お母さんはあっさり外出許可をくれた。
「じゃ、ね。これ持って行きなさい」
差し出されたのは、アーモンドチョコレートの箱だ。
「今はお腹がすいていなくても、途中で何か欲しくなるかもしれないでしょ? ふらふらになって倒れる前に、甘い物を食べるのよ」
「うん。ありがとう」
食べるかどうかはともかく、お礼を言ってバッグの中に入れた。
祐麒は、祐巳が気づかないうちにさっさと出かけていた。聞けば、十時には家を出ていたらしい。
「お夕飯までには帰るんでしょ?」
「もちろん」
どう転んでも、その頃までには決着がつくはずだった。
「いってきます」
「気をつけてね」
門を出た所で、お隣の小母《おば》さんに会った。
「ちょうどよかった。これ回覧板、お母さんに渡してちょうだい」
「はあ」
これから出かけるのだとも言えず、また出かけるといっても決められた場所に急いで行かなければならないわけでもないので、「わかりました」と預かった。
「最近|物騒《ぶっそう》よね。うちも、祐巳ちゃんのお父さんに頑丈《がんじょう》な家に直してもらおうかしら」
頑丈な家に直す、の意味が今ひとつわからなかったけれど、取りあえず「その時はよろしく」と営業スマイルで答えておいた。
家に引き返しながら、回覧板の紙をペラペラめくってみた。自治体の活動報告とか、ゴミだしのルールとか、この先三月までの行事の案内とかに混じって、近所の派出所からのお知らせもあった。
「『町内でピッキング被害が多発しています』」
お隣の小母さんが言っていたのは、このことだったのだろう。頑丈な家とは、たぶん「泥棒が侵入しにくい家」という意味なのだ。
「お母ーさん。回覧板ー。ここに置くよー」
玄関の扉を開けて、中に向かって大きく叫んだ。
「はーい。ありがとうー」
アイロンかけを再開したお母さんは、手が離せないのか、奥の方から返事をしただけで出てこなかった。
「物騒《ぶっそう》、か」
そう聞いてちょっと気になったので、祐巳はバッグの中から家の鍵を取りだし、外からドアに施錠《せじょう》してから門を出た。
自宅の下にあるお父さんの事務所を外から覗《のぞ》いてみたけれど、お父さんが何をしているのかはわからなかった。ブラインドの間から電気がうっすらと漏れているから、たぶんそこで仕事をしているはずなのだけれど。
くもりガラスとちょっと似ている、と祐巳は思った。お父さんが今ブラインドを少し開けてくれれば、「いってきます」と手を振って出かけるのに。何となく残念な気がした。
少し歩いて、バスに乗った。
駅に着いた。
電車に乗った。
少しずつ、柏木さんの家が近づいてくる。結論はまだ出ていない。それなのに、距離だけは刻一刻と縮まっていくのだ。
電車を降りて、また別のバスに乗った。
どうしよう、これを降りたらもうすぐ柏木さんの家に着いてしまう。そう思っている間に、そのバス停の名がアナウンスされた。
降りたバス停の側には、電話ボックスがあった。
電話をしようか、柏木さんの携帯電話に。少しだけ迷った。本来ならば、それが人の家を訪ねる時の礼儀《れいぎ》である。
でも、しなかった。こんなに柏木さんの側まで来ているのに、まだ決心がつかない。
ここまで来たのは、「瞳子ちゃんのことを聞こう」という方に大きく傾いているからではなかった。むしろここまで来て、やっとフィフティフィフティといった感じだ。
悩むのは家ででもできた。けれど、もし結論が出たのが夕方で、例えばそれが「GO」だった場合、そこから出かけたら夜になってしまう。
だから、もしそうと決めたらすぐに行動に起こせるようにしてから、追い込むことにしたのだ。たとえ結論が撤退《てったい》だとしても、家に帰るだけの話だった。
そうはいっても、いつまでもぐずぐずしてもいられない。他人様《ひとさま》のお宅の前で、一時間も二時間も悩んでいていいはずはなかった。
もし、このまま柏木さんの家に着いてしまったら――。祐巳は、その時はインターホンを押そうと決めた。
一度しか来たことがない(そしてその一度は一人ではなくて祐麒が一緒だった)、にもかかわらず、考えなくても柏木家への道順はすぐに思い出せた。歩いていたその十分間が、長かったのか短かったのか自分でもわからないまま、ついにはその場所にたどり着いた。
見覚えのある家の前で、祐巳は大きく息を吐いた。
とうとうここまで来てしまった。
木造の大きな門は、今日は大きく開いている。それはまるで、約束していた来客を待っているかのようにも見えた。
門の中には、なつかしい庭木。石畳《いしだたみ》の先には玄関がある。
インターホンはすぐに見つかった。祐巳はそのボタンに人差し指をあてがった。
これを押せば、柏木さんが出てくる。そうしたら、瞳子ちゃんのことを質問しなければならない。
指が震えた。一度はそうしようと決めたことなのに、どうしてだかボタンを押すことができなかった。
瞳子ちゃんを妹にしたい。
瞳子ちゃんのことを何でも知りたい。
瞳子ちゃんを手に入れたい。
だったら今すぐ指に力を入れて、柏木さんを呼び出せばいい。呼んで「教えてください」と頼めばいい。
(でも……!)
考えすぎてショート寸前の頭の中に、突然すーっと冷たい空気が吹き込んだ。
本当にそれでいいのだろうか。そう心の中で囁《ささや》く自分の声は、不思議なほどに冷静だった。
瞳子ちゃんを妹にしたい。
瞳子ちゃんのことを何でも知りたい。
瞳子ちゃんを手に入れたい。
でもそれは、祐巳側からの感情でしかない。
(だったら、瞳子ちゃんは?)
祐巳の妹になりたい、そう思ってくれているのだろうか。
自分のことを何でも知って欲しい、そう願っているのだろうか。
(わからない)
[#挿絵(img/23_191.jpg)入る]
それは、くもりガラスの向こう側のことだ。
祐巳は左手を添えて、インターホンの前で固くなった右手を下ろした。柏木さんに聞くことは、瞳子ちゃんの閉ざしたガラス窓を無理矢理外からこじ開けるようなものだと、気づいたのだ。
そんなことをしてはいけない。そんなことをされたら、ますます瞳子ちゃんは心を閉ざしてしまうだろう。
そんなことをする人は、お姉さまじゃない。
そう呼んでもらう資格はない。
祐巳は踵《きびす》を返して歩き出した。
数歩進んだところで、何となく柏木さんの家を振り返った。ちょうど見上げた所に、二階の窓があった。そこに誰かがいたのかもしれないけれど、祐巳の位置からは見えなかった。
祐巳はバッグの中からチョコレートを出して一粒口に放り込むと、そのままバス停に向かって歩き出した。
ガラス窓に、午後の日差しがまぶしく反射していた。
[#改ページ]
あとがき
無意識のうちに、頭の中で何度も何度も同じ歌が流れていることってありませんか。
こんにちは、今野《こんの》です。
気がつけば「またか」って感じで流れている頭の中のBGM。決して「大好きな歌だから、つい」ではなくて、好きとか嫌いとか意識する以前に、頭の中にするりと入り込んで我が物顔で脳内放送局をジャックしています。もちろん、時には大好きな曲だったりもするけれどね。どちらかっていうと「どうしてこの曲が?」っていう方が、気になって「またか」と思う頻度《ひんど》が高いかな。
それは、TVで頻繁に流れている、商品名に曲をつけただけのコマーシャルソングだったり、ラジオ番組でかかっていた懐《なつ》メロだったり、たまたま道ですれ違った人が歌っていた鼻歌だったり。
まあ、大体はきっかけというものがあったりします。きっかけを意識しないまま、その事態に突入してしまうこともままあるので、「なぜだ」と思ったりもします。
――という話を振ったのは、実は、今回の原稿を書いている間、しょっちゅう頭の中で鳴り響いた曲があったから。
ピンと来た方、たぶん当たりです。その曲とは、ずばり『ルビーの指環』。
原稿を書こうと思ってパソコンに向かえば、モニタ画面上部に、書きかけにしておいた原稿のファイル名が嫌でも目に飛び込んできます。
「くもりガラスの向こう側」
……もう、だめです。それがきっかけで、頭の中にイントロが流れ出します。
私はここ数年、音楽をかけずに仕事をしているので(周囲に雑音がある場合は、それを消すために流しておくことはありますが)、一度頭の中に曲が浮かぶと、なかなか追い出すことができません。
原稿に集中していると、いつの間にかBGMはなくなります。でも、忘れかけていた頃に、またふっと再生されてしまう。例えばお皿を洗っている時とか、お茶を注いでいる時とか、階段を降りている時とか。
で、今回のは特にすごいな、と思っていたら、最近TVのCMでも流れていました『ルビーの指環』(2006年3月現在)。あー、だからだ〜〜〜〜〜〜。
もちろん、その曲を意識して今回のサブタイトルはつけたわけではありません。単なる偶然です。
最初はサブタイトルにしては「ちょっと長いかな」ということになって、担当さんとあれこれ相談したのですが、他の言葉に当てはめてもしっくりこなかったので、これでGOになりました。長いぞ、長いぞ、と思っていたけれど、過去にはもっと長いのもあったしね。
ところで、流れている歌を頭の中から追い出す方法ですが。一番早道は、それとは違う歌を無理矢理上書きすることです。あまり小難しくはなくて、単純な歌がいいですね。それで、流れていてもあまり気にならないようなもの。歌詞がない方がベターですが、そういう曲はなかなか定着しません。隙《すき》を狙って、別の歌が入り込みます。
で気がつけば、頭の中で『ルビーの指環』以外の歌が繰り返し流れていました。双方の共通点は、歌い出し。キーワードは「くもりがらす」。
そう、正解は『さざんかの宿』。……演歌です。
そう聞いて「そうそうそうそう!」とご賛同頂けるのは、私と同世代以上の方でしょうね。たぶん。
「そんな曲知らなーい」という若い読者の皆さん(コバルト文庫だもんね、多いはずだ!)は、身近にいる大人たちに聞いてみましょう。両曲とも大ヒットしましたから、その部分を歌ってくれるかもしれませんよ。物真似《ものまね》つきでフルコーラス聞けたら、ラッキーです。
さて、今回のお話の内容ですが。
前回、祐巳が瞳子に振られたその直後から始まります。そして迎える新たなる年。三学期の始業式までは進んでいないので、大雑把《おおざっぱ》に括《くく》れば「冬休みの話」かな(……え、大雑把過ぎる?)。
お正月の遊びといえば、凧《たこ》あげ(と打ち込んで、蛸揚《たこあ》げはおいしそうだなと思ってお腹がグーと鳴りました)、羽根つき、独楽《こま》まわし、といったところでしょうか。でも、それら定番を何一つやっていないですね、祐巳たち。やればよかったのに。小笠原邸だったら、凧あげだって庭でできちゃいそうです。
羽根つきは、墨《すみ》で顔に落書きされるという罰ゲームがあると、ちょっとキツイかな。せっかくの晴れ着を汚してしまいそう。
独楽。小学校の時すごく流行したので大昔は私も回せたけれど(普通の和独楽ね)、今はたぶん無理でしょう。回せる気がしないから。脱線するけれど、竹馬ならン十年ぶりでも乗れる気がします。アイススケートも、少し手すりの側でうろうろしていたら、感覚を思い出せるんじゃないかな。もちろん、ただ滑るだけですが。
話を戻しましょう。
祐巳たちのお正月(あ、これくらいならネタばれにはならないよね? まだ本編を読んでいなくて気にする方は、この辺すっ飛ばしてください)。
雅《みやび》に、今年も百人一首をいたします。自分の小説ではキャラクターたちにばしばし札を取らせていますが、私が仲間に入ったらたぶんビリです。上《かみ》の句のさわりを聞いただけで素早く下《しも》の句を取るなんて、絶対無理。毎年テレビで百人一首の大会の模様がレポートされていますが(風物詩《ふうぶつし》なんだね)、その早いこと速いこと。とても人間|業《わざ》とは思えません。もう「取る」というより「弾く」。脳みそのあらゆる部分をフル稼働させているんだろうな。だって、上の句から下の句を導きだし、尚かつその位置を見極め、正確にその札のみを弾くんだもの。それも超スピードで。できないできない。
それ以前に、学生時代にはがんばって覚えた百人一首も、メジャーなもの以外はほとんど忘れちゃっていますからね。あれ、メジャーなものって? 何をもってそう思ったんだろう。誰かにアンケートをとったわけじゃないから、自信がなくなってきました。
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春過《はるす》ぎて夏来《なつき》にけらし白妙《しろたへ》の 衣干《ころもほ》すてふ天《あま》の香具山《かぐやま》(持統《じとう》天皇)
天《あま》の原《はら》ふりさけ見れば春日《かすが》なる 三笠《みかさ》の山に出《い》でし月かも(安倍仲麿《あべのなかまろ》)
花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに(小野小町《おののこまち》)
ひさかたの光のどけき春の日に しづ心《ごころ》なく花の散るらむ(紀友則《きのとものり》)
[#ここで字下げ終わり]
――と。
この辺りが私の中でメジャーな百人一首なんですが。いかがなものでしょう。あなたのメジャーと重なりましたか?
そうそう。メジャーとは別に、私の中で過去に大ブームになった歌もあります。
[#ここから3字下げ]
このたびは幣《ぬさ》も取りあへず手向山《たむけやま》 紅葉《もみぢ》の錦《にしき》 神のまにまに(菅家《かんけ》)
[#ここで字下げ終わり]
この最後の「神のまにまに」が、どうしてか、ものすごく面白くてお腹《なか》を抱えて笑ってました。私が「箸《はし》が転がってもおかしい年頃」だった頃の話です。
というわけで、今回は「歌」に関する話題に終始したあとがきになりました。
[#地から1字上げ]今野緒雪
底本:「マリア様がみてる くもりガラスの向こう側」コバルト文庫、集英社
2006年4月10日第1刷発行
入力:ヾ[゚д゚]ゝABs07Yvojw
校正:TJMO
2006年04月27日作成
2006年06月03日校正(RinGOch >>KV1R)
2009年03月17日校正(暇な人z7hc3WxNqc 860行 祐巳《ひる》→祐巳《ゆみ》、1257/1261行 罫線をダッシュに)
2009年12月31日校正(暇な人z7hc3WxNqc 53行 輸郭→輪郭、90行 凜々《りり》しい→凛々《りり》しい、274行 ちょっぴリシャク→ちょっぴりシャク、359行 してるんじゃないそ→してるんじゃないぞ、457行 笑いながぢ→笑いながら、509行 。。→。、884行 動さ方→動き方、957行 素早い動さ→素早い動き、1496行 入差し指→人差し指、2055行 祐麟→祐麒、2149行 質間→質問)
この作品は、すでにWinny上に流れている以下のデータ
(一般小説) [今野緒雪×ひびき玲音] マリア様がみてる 第23巻 「くもりガラスの向こう側」.zip tLAVK3Y1ul 25,607,580 eba6961c17f57fd3de51f2a24d55b9f9
をOCRして作成され、Share上に流れた以下のデータ
(一般小説) [今野緒雪×ひびき玲音] マリア様がみてる 第23巻 「くもりガラスの向こう側」 (青空文庫txt形式、ルビ無挿絵付).rar ヾ[゚д゚]ゝABs07Yvojw 892,933 4b089f59963dc6c436405af7f5bc92d2e3dd42c3
を元に、目視で再校正したものです。毎度のことながら、もともとのファイルを放流してくださったtLAVK3Y1ul氏、ならびに一次校正者であるヾ[゚д゚]ゝABs07Yvojw氏に深い感謝を捧げます。
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本で見つけた違和感のある文章や校正ミスっぽいものをまとめてみます。
青空文庫の方針としては底本のまま打ち込み注釈を入れるのですが、見た目が悪くなり読みづらくなるため、あえて訂正することにしました。
直し方が気に入らない方はこちらを読んで修正してください。
※底本p35 4行目
考え事は部屋でして、って言いかけた時、祐麒は顔上げた。
―――「顔を上げた」のほうが。意味はつうじるが。訂正せず、そのまま。
※底本p90 6行目
取り札が、その人の心情を移しているものでもあるまいし。
―――心情を「映して」、の誤り。訂正済み。
※底本p101 12行目
内側には指令が書かれた張り紙が張られていたのである。
―――「貼られて」いた、の誤り。訂正済み。
※底本p102 10行目
「何て嬉しいんしょう。
―――なんて嬉しいん「で」しょう。脱字。訂正済み。
※底本p145 9行目
「……重傷だわ」
―――「重症」の誤り。訂正済み。
※底本p169 9行目
二日にわたった新年会はお開きなった。
―――お開き「に」なった。脱字。訂正済み。