マリア様がみてる
未来の白地図
今野緒雪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)朝の挨拶《あいさつ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)純粋|培養《ばいよう》お嬢さま
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)偶然いい[#「いい」に傍点]メニューに
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[#挿絵(img/22_000.jpg)入る]
もくじ
未来の白地図
予期せぬ客人
何となく、の中には
ひょんな事から
クリスマスなのに
薔薇のダイアローグ
あとがき
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[#挿絵(img/11_005.jpg)入る]
[#地付き]イラスト/ひびき玲音
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マリア様がみてる 未来の白地図
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「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶《あいさつ》が、澄みきった青空にこだまする。
マリア様のお庭に集《つど》う乙女《おとめ》たちが、今日も天使のような無垢《むく》な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
汚《けが》れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。
スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻《ひるがえ》らせないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
私立リリアン女学園。
明治《めいじ》三十四年創立のこの学園は、もとは華族《かぞく》の令嬢《れいじょう》のためにつくられたという、伝統あるカトリック系お嬢さま学校である。
東京都下。武蔵野《むさしの》の面影《おもかげ》を未だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎《ようちしゃ》から大学までの一貫《いっかん》教育が受けられる乙女の園《その》。
時代は移り変わり、元号《げんごう》が明治から三回も改まった平成《へいせい》の今日《こんにち》でさえ、十八年通い続ければ温室育ちの純粋|培養《ばいよう》お嬢さまが箱入りで出荷される、という仕組みが未だ残っている貴重な学園である。
初等部の時、社会科の時間に先生が一人一冊ずつ白地図帳を配った。
新しい白地図を手にした時、私は何とも言えない幸福感を味わった。
輪郭《りんかく》だけの日本地図。
都道府県の境界線が点線でうっすら描いてあったり、河川のみが描いてあったりするだけの。
私はこれから、この地図の中に山を作る。
街を作る。
各県に県庁を置き、ページによっては気象までも管理する。
まだ、地図の上には何も描き込まれていない。
私はこれから、私の白地図の上に世界を創造する、いわば神様と同じ仕事をしていくのだ。
それならば、クラスの誰にも負けないくらい美しい世界を作ってやろう。
私なら、きっとできる。
すべてのページが埋まった時、印刷された地図帳にも引けを取らない作品集が出来上がるはずだった。
真《ま》っ新《さら》な白地図は、キラキラと輝きながら、未来のあらゆる可能性を肯定し続けているように思われた。
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未来の白地図
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予期せぬ客人
み、ミルフィーユ。
ゆ、祐巳《ゆみ》。
み、ミルフィーユ。
ゆ、祐巳。
(ああ、だめだ)
また、心の中でつぶやいている。
小笠原邸《おがさわらてい》からの帰り道、柏木《かしわぎ》さんの車の中で始めた、エンドレスの一人しりとり。
しりとり自体は、無意味なことさえ除《のぞ》けば、これといって問題はない。問題なのは、それを行っている時の祐巳の精神状態なのである。
気がつくと、頭の中でいろいろな、どちらかというとあまり楽しくないことを考えている。
それを追い出すために、無意識のうちにエンドレス一人しりとりがスタートする。
そうすると、ついついそのリズムに乱されて、持っている編み棒が暴走して、毛糸が一目滑り落ちたことに気づかず次の段まで編み続けてしまう、なんていう失敗に陥《おちい》るわけだ。これで何回目だろう。
だめ、なのは、目下《もっか》そのこと。
せめてもの救いは、ここ自室には自分以外の人間がいないことだろう。要所要所にため息を挟《はさ》みながら、編んではほどき、編んではほどき、をやっている図を誰かが見たら、何のパフォーマンスかと思うだろう。
「ふう」
祐巳は編み目から編み棒を抜いて、一段分の目をほどいた。できたてのインスタントラーメンのようにうねった毛糸が、膝《ひざ》から下、足もとへと落ちていく。
こんな調子では一向に進まない。集中すればすぐに出来上がりそうな小物なのに。
「……気にし過ぎだって」
あれから、数日経っているのに。
清子小母《さやこおば》さまがお土産《みやげ》に持たせてくれたミルフィーユは、とっくの昔に家族で平らげてしまったというのに。
時間じゃないのかもしれない。
いや、むしろ時間が経つにつれて、ますますそのことに囚《とら》われて行くような感覚すらある。
意味ありげな、柏木さんの言葉。彼の言葉を、「馬鹿馬鹿しい」と笑い飛ばすこともできずに悶々《もんもん》としている自分。
最初、祥子《さちこ》さまのことをどれだけわかっているとか、どのくらい祥子さまの力になれるとか、そういうことで感じていた柏木さんに対する敗北感は、今、少しだけ形が変わってより重く心の中に横たわっている。
柏木さんは、わかっている。
それは、たぶん本質的なもの。祥子さまとの関係において、祐巳が真に求めている、まだ自分でも気づいていない答えのようなものを。
だから、悔《くや》しい。
柏木さんを倒しても勝てないのだというヒントをもらった時点で、すでに追いつけないほど負けているということだ。
ライバルと思っていた相手からハンデをもらう、おミソの自分が哀《あわ》れでならない。
祐巳は何度目かのため息をついた後、ラーメン化した毛糸を毛糸玉にクルクルと巻き戻して顔を上げた。
時間の感覚が曖昧《あいまい》になってしまっていたが、もはや夕刻。部屋の中は、薄暗くなっていた。
「さて」
電気をつけようと、ベッドに編み物一式を置いて立ち上がる。何とはなしに気になって、窓の外に視線を投げた。
どうしてだろう。
わからない。
誰かが、自分を呼んでいるような気がしたのだ。
(外で……?)
二階の窓から目をこらしてみたが、近所の家々の屋根や庭木や薄闇に阻《はば》まれて、外の様子はよくわからなかった。
「お母さーん」
祐巳は階段をタンタンタンタンと駆け下りて、キッチンに顔を出した。
「私のこと、呼ん――」
「え?」
母は電話の子機の通話口を押さえて、顔を上げた。
「――でないよね」
その様子じゃ。電話していたみたいだし。
「呼んでないわよ」
「そうか。お邪魔《じゃま》しました」
「どういたしまして」
祐巳と挨拶《あいさつ》を交わすと、母はまた電話に向かって会話を再開した。何でも、先日テレビ番組でみた料理のレシピの確認をしているらしい。どうやら、相手は妙子叔母《たえこおば》ちゃんのようだ。
(お母さんじゃない、ってことは)
首を捻《ひね》りながらキッチンを出る。
(祐麒《ゆうき》?)
祐巳はタッタッタッタと階段を上って、祐麒の部屋をノックした。
「ゆう……」
声をかけたと同時に思い出す。祐麒は今日、小林《こばやし》君とだったか出かけているのだ。
やっぱり、気のせいか。ちょっと引き返して階段に座る。
「呼ばれたような気がしたんだけれどな」
膝小僧《ひざこぞう》に頭をくっつけて、取りあえず「うー」と唸《うな》ってみた。空耳《そらみみ》なんて、相当重傷なんじゃなかろうか。
(それとも)
お父さんが帰ってきてる、とか。諦《あきら》めきれずに再度階段を下り、玄関まで行ってみた。
お父さんの靴《くつ》は出ていない。ということは、まだ事務所にいるということだ。
念のために玄関を出て、門の側まで歩いた。丁度《ちょうど》、新聞屋さんが夕刊を届けにきたところだったので、「ご苦労さまです」と言って直接受け取った。
外はもう真っ暗になっていた。空気が冷たく澄んでいる。
夜空に、ぽつぽつと小さな星が見えた。
月は探したけれど、見えない。
雲に隠れているのか、それとも今が見えない時間帯なのか、祐巳にはわからなかった。
ぷるるるる。
電話の呼び出し音に急《せ》かされるように、家の中に入る。間抜けなことに、「今、お母さんは電話していて、出ている暇《ひま》がないから」なんてとっさに思ってしまったのだ。どこかから電話がかかってきたということは、もうお母さんの電話は終わっているはずなのに。
「はい」
リビングに戻ると、案《あん》の定《じょう》お母さんが一足先に電話に出ていた。
「はい……はい、ああ先日はどうもありがとうございました。いえいえ、とんでもございません。本当に助かりました」
しゃべりながら、チラリと娘に視線を向ける母。もしかして自分に関係ある電話かな、と思って祐巳が近づけば、「それに何ですか、日頃は息子が大変お世話になっているそうで」なんて続けている。「娘が」でなく「息子が」。どうやら、かけてきた人は祐麒の関係者であるようだ。
「祐麒、まだ帰っていないみたいだよ」
祐巳は小声で、でも口は大きく開けてお母さんに告げた。それでそのまま部屋に帰ろうとしたら、お母さんは「少々お待ち下さい」と言ってから、祐巳に受話器を差し出した。
「……私、祐巳だけど」
おいおい、お母さん。息子と娘の区別もつかなくなるような歳《とし》でもあるまい。そりゃ、確かにこれまで十七年の人生の中で、何度かは弟に間違われたことはあったけれど。
受話器を受け取らずにいると、お母さんはキョトンとして言った。
「わかっているわよ。だから、祐巳ちゃんに」
「えっ?」
祐巳に受話器を握らせながら、お母さんは言った。
「柏木さんよ」
「――!」
瞬間、受話器を落としそうになるくらい、胸がドキンと跳ね上がった。
何たるタイムリー。その聞き覚えのある名前こそが、ついさっきまで自分を悶々《もんもん》とさせていた元凶《げんきょう》なのである。
ともかくその後の祐巳は、柏木さんからの電話に動揺《どうよう》していることをお母さんに悟られないようにすることが精一杯で、彼がいったい何の用件で電話を寄越《よこ》してきたのか、なんてことを考える余裕《よゆう》なんてまったくなくなってしまった。
「もしもし」
『ああ、祐巳ちゃんごめん』
いつもながらのさわやかな声は、まず詫《わ》びの言葉を述べた。
『僕から君に電話するなんてことないから、驚いているだろうけれど――』
「はあ」
そりゃ、驚いていますとも。でも、シャクだからそんなこと白状しない。私はいつでも冷静ですよ、って。そういう態度をとりたかった。そう。ここは、できるだけ冷ややかに。
「何かありましたか」
『あ、……うん』
少し間があいた。何か、言葉を探しているように。あまり良くないことを、上手《じょうず》に伝えようとしているみたいだった。
「まさか祥子さまのお家《うち》で、何か!?」
祐巳は、受話器に向かって叫んだ。柏木さんは、祥子さまの従兄《いとこ》でもある。祥子さまや祥子さまのお家のことで何かあったとして、そのことを連絡してきても何ら不思議じゃない人物なのだ。
『いや。そうじゃない。小笠原邸は至って平和』
「そうですか。よかった」
ほっと一安心してから、「じゃ何だ」と考え込む。柏木さんは、雑談をするためにわざわざ祐巳に電話をしてくるような人ではない。
『実は瞳子《とうこ》のことなんだ』
「瞳子ちゃん?」
そのパターンは思いつかなかったけれど、考えてみたら柏木さんは瞳子ちゃんの従兄でもある。だから、柏木さんを挟《はさ》んで、祥子さまと瞳子ちゃんは同じ立場にいるのだった。
『その様子じゃ、行ってないか』
「行ってない、って? 私の家に? ええ、来てませんけれど……。どうしたんですか」
『いや。行ってなきゃいいんだ。お騒がせしたね』
「瞳子ちゃんがどうかしたんですか」
『帰りが遅いから、松平《まつだいら》の両親が心配してね』
「でも、まだ六時台ですよ」
学園祭の準備とかで学校に遅くまで残っていた時、このくらいの時間まで帰宅しなかったことはざらにあったろう。
『……うん。昼間家族の中でちょっとけんかっていうか、軽い意見の衝突《しょうとつ》みたいなことがあったらしくて、瞳子は家を飛び出したようなんだ。だから、特にね』
「けんかで家出?」
いったい、何があったのだろう。
『瞳子はあんな風だけれど……、つまりむちゃくちゃトラブルメーカーみたいに見えるかもしれないけれど、今まで家出なんかしたことないんだ。だから、松平の両親もおろおろしちゃって。どうしよう、って僕に泣きついてきて。もちろん、ひょっこり帰ってくるかもしれないけれど、とにかく心当たりは当たってみるって請《う》け負ったわけ』
「そうですか」
その心当たりにすっぽり入っていたわけだ、福沢《ふくざわ》祐巳って。
「祥子さまのお宅は?」
祐巳は尋《たず》ねた。
『まさに、今小笠原邸から電話をかけている』
「ああ」
瞳子ちゃんが誰かを頼るとしたら……と考えれば、柏木さんだってまずは祥子さまのお家を考えるはずだ。柏木さんの所にも来ていないのだとしたら。
『松平の家が大事《おおごと》にしたくないっていうんで、電話じゃなくてフラリと立ち寄る感じで小笠原家を訪ねたんだ。だが、瞳子はいなかった』
「祥子さまには」
『さっちゃんにだけは事情を話しておこうかと思ったんだけれど、あいにく学校のお友達が遊びに来ているらしくて会ってない。それでもさっちゃんと話をしたいなんて言ったら、さすがに清子|小母《おば》さまだって何かあったのかって気づくだろうし』
「その、学校のお友達が瞳子ちゃんっていう可能性は――」
瞳子ちゃんだって、リリアン女学園の生徒だし、広い意味では祥子さまのお友達といってもいいだろう。
『ない。そのお友達は支倉《はせくら》さん一人だって話だ』
「支倉……ああ」
令《れい》さまだ。令さまと祥子さまは親友だから、互いの家を行き来していたっておかしくない。
ふーん、試験休みに二人は会っているんだ。
『迷惑ついでで悪いけれど、二条《にじょう》乃梨子《のりこ》さんの家の電話番号がわかったら教えてくれないかな。さっきも言った通り、さっちゃんからは聞き出せそうもないから』
「だったら、私が電話してみます。それで何かわかりましたら、柏木さんに連絡を」
『ああ、そうしてもらえると助かるな。突然、若い男から電話がかかってきたら、乃梨子さんのご両親も心配されるだろうし』
「そうですね」
乃梨子ちゃんは大叔母《おおおば》さんのお宅に下宿しているので、正確には「ご両親」ではないのだが、一々訂正することではないので、祐巳はそこはサラリと流した。
「由乃《よしの》さんとか、志摩子《しまこ》さんにはどうします?」
『そうだな』
電話の向こうで、少し考え込むような「うーん」という唸《うな》り声がした。
『祐巳ちゃんは、瞳子が行くと思う? 僕には彼女たちと瞳子の関係がどんなものか、よく理解できていないからわからないんだ』
「私もわかりません」
『それならしなくてもいい』
大騒ぎになれば、その分、瞳子ちゃんが帰ってきた時に気まずくなるだけだから、って柏木さんは言った。確かに、そうだ。今はまだ家出と決めつける段階ではなく、ただ帰宅していないというだけのことだ。
「あ」
祐巳の頭に、突然一人の女の子の顔が浮かんだ。
『何?』
「可南子《かなこ》ちゃんはどうだろう」
『可南子ちゃん?』
「はい。乃梨子ちゃんと同じく、瞳子ちゃんのクラスメイトです」
こちらは、志摩子さんや由乃さんよりずっと接点がありそうだった。
『聞いたことないな。どんな子?』
「髪の毛が長くて、背が高くて」
『わかった。学園祭の劇に出てた子だろう? 確か……大納言《だいなごん》役で』
「そうです」
『へえ……。瞳子と仲がいいんだ?』
「お互いに天敵だって言ってましたが」
『が?』
「この間、一緒《いっしょ》にいるところを目撃したので」
『なるほど。反発していた相手ほど、きっかけがあれば急接近するものだからな。わかった。じゃ、その可南子ちゃんにも聞いてみてくれるかい』
「極力、大げさにならないように、ですね」
『お願いするよ。あ、僕の携帯番号はね』
「はい、はい」
祐巳は電話の側のメモに、柏木さんの言った数字の羅列《られつ》を書き記して電話を切った。
「どうしたの? お友達が家出?」
受話器を置いたとたん、お母さんが尋《たず》ねてきた。祐巳が電話している間、ずーっと横で聞き耳を立てていたらしい。
「うーん、わからない。ただ、帰りが遅いからご両親が心配しているみたい」
「そう。わかるわ、大事な娘だものね」
瞳子ちゃんのご両親に共感しながら、それでも今ひとつ表情に深刻さが欠けているのは、やはりまだ七時前という時間帯であるためだろう。これが夜の十時とか十一時とかだったら、もう少しお母さんの態度も違っていたはずだ。
「柏木さんって、この間祐巳ちゃんと祐麒を車で送ってくれた人でしょ。いい青年よね。祐巳ちゃんのお婿《むこ》さんになってくれないかしら」
「……やめてよ」
うんざりして、祐巳はつぶやいた。
「ちょっと、祐巳ちゃん。そのリアクション間違ってない? 普通、若い娘だったら『きゃー、お母さんったら何てこと言うの! やめてちょうだい』って顔赤らめて自分の部屋に駆け込むものでしょ」
「――」
そりゃ、ドラマのみすぎだってば。
「その後、その人との結婚式シーンを想像してベッドの上でジタバタするものよ」
それだって、相手によりけりでしょうが。
柏木さんは、祥子さまの「現役《げんえき》」か「元」なのかは不明だが婚約者で、同性愛者なんだってば。
(正体をばらしたら、お母さんだって、そんなうっとりとした顔していられなくなるんだろうな)
いや、同性愛者に関しても、最近は何となく怪しくなってきているのだった。
「とにかく、心当たりに電話してみる」
祐巳は、柏木さんの電話番号を書いたメモと子機を持って、階段を駆け上った。乃梨子ちゃんの家の電話番号も可南子ちゃんの家の電話番号も、自室にある生徒手帳に書いてある。
「もうすぐご飯だから、電話が終わったら下りていらっしゃいね」
「はーい」
部屋のドアノブに手をかけた時、階下《した》で玄関扉の開閉する音が聞こえた。
(お父さんかな? 祐麒かな?)
どっちが帰ってきたのかちょっとだけ気になったけれど、とにかく瞳子ちゃんのことを優先しなければ、と思ったので部屋に入った。
すると、祐巳が生徒手帳を開く間もなく、お母さんの声がした。
「祐巳ちゃーん」
「……もう、お母さんのせっかち」
構わず電話を済ませてしまおうとしても、ひっきりなしに続く「祐巳ちゃん」コールが邪魔《じゃま》をして集中できない。
「あのねー」
ドアから顔だけ出して、階段の下に向かって声を発した。電話をしたらすぐ下りていくから、と続けようとしたら。
「いいからすぐに下りてきて」
「へ?」
(いいから? 下りてきて?)
少なくとも「夕ご飯を食べなさい」という用件ではないことだけは確かのようだから、ひとまず一階の様子を見にいくことにした。
どうせお父さんか祐麒が持ち帰った何かがすごい代物《しろもの》で、早く見るように、とかそんなことだろう。その「何か」までは予想できなかったが、福沢家ではままあることだった。
「ほら、ご覧なさいよ祐巳ちゃん、すごく大きな西瓜よ」とか、そういった感じ。今は冬なので、さすがにすごく大きな西瓜《すいか》を持って帰ることはないだろうけれど。
「祐巳ちゃん、早く早く」
お母さんは廊下《ろうか》で待っていた。そしていつものようなうれしそうな口調で祐巳を迎えると、手を引いて玄関まで連れていった。
「ほら」
そこには、思った通り帰宅した弟が立っていた。
そして、その横には。
「ごきげんよう、祐巳さま」
ニッコリ笑うは、盾《たて》ロールの少女。
「と、瞳《とう》……!」
祐麒は、ある意味真冬の大きな西瓜《すいか》よりも貴重な物を持ち帰ってきたのだった。
「|柿ノ木《かきのき》さん家《ち》の角で、ばったり会ったんだよ。だから、家に寄れば、って連れてきたんだけれど」
祐麒《ゆうき》は、まずはどうしてこのような仕儀《しぎ》になったのか説明すべく、早口にまくし立てた。事前に柏木《かしわぎ》さんから電話をもらっていたから、お母さんも祐巳《ゆみ》も誤解することはなかったけれど、客観的には、祐麒がガールフレンドを伴《ともな》って帰宅したようにも見えるのである。
ちなみに柿ノ木さんは福沢《ふくざわ》家からバス停に向かう最初の曲がり角にあるお宅。どうして瞳子《とうこ》ちゃんがそんな所にいたのかわからないけれど、とにかく祐麒は瞳子ちゃんの様子に常ならぬものを感じたのであろう。そのまま別れて家に帰るなんてことは性格上できなかったから、ここまで強引に連れてきたのだ。たぶん。
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「と、とにかく上がって」
祐巳が告げると、瞳子ちゃんは。
「夜分、申し訳ありません」
お母さんに向かって丁寧《ていねい》に頭を下げてから、「お邪魔《じゃま》します」と上がり框《かまち》に足をかけた。
「いいの、いいの。我が家は、お客さま大歓迎。祐麒のお友達なんか、よく遊びに来るのよ。祐巳のお友達が来てくれてうれしいわ。もうすぐご飯だから、食べていらっしゃい。ごく普通の家庭料理で悪いけれど」
「いえ。すぐお暇《いとま》しますので」
「子供は遠慮《えんりょ》しないの。できるまで、祐巳のお部屋で待っていてね」
祐巳が二階から下りてくるまでの間に、瞳子ちゃんが自己紹介したかどうかわからないが、お母さんはこの女の子こそ柏木さんが探していた「家出少女」であると察したようだった。だから、とにかく努めて明るく引き留めてくれているのだ。もちろん、両親の「お客さん好き」は嘘《うそ》ではないのだが。
瞳子ちゃんの後から靴《くつ》を脱いで家に上がった祐麒が、重い荷を下ろしたようにホッとした顔をしたので、祐巳は口だけパクパクさせて「ありがとう」と合図した。
「あ、私の部屋は二階だから」
階段を先に上りながら、祐巳は振り返って声をかけた。瞳子ちゃんは、素直に後をついてくる。
「由乃《よしの》さまとか志摩子《しまこ》さまも――」
「え?」
「こちらへはよく?」
「ううん」
祐巳は首を横に振った。
「山百合会《やまゆりかい》のメンバーは来たことないな」
改めて考えたことはなかったけれど、そういえばそうだな、と祐巳は思った。
以前、由乃さんのお宅に遊びに行ったことはあるけれど、逆はない。志摩子さんとも、家の行き来をしたことはない。
毎日のように学校で会っているから、休みの日に誰かの家で会おうという発想があまり浮かばないのかもしれない。
「高等部に入ってからは、瞳子ちゃんが最初」
すると、瞳子ちゃんは階段の途中で足を止めた。
「え? でも、祥子《さちこ》お姉さまは」
「家の前までは来たことがあるけど――」
中に上がったことはなかった、そう言うと瞳子ちゃんの表情が突然|曇《くも》った。
「そんな。じゃあ、だめです」
瞳子ちゃんは怒ったような顔をすると、回れ右して階段を引き返そうとする。
「ちょっ、ちょっと待ってよ。どうしたの」
祐巳は腕を掴《つか》んで動きを止めた。最初は何の冗談かと思ったが、瞳子ちゃんは本気で帰ろうとしているようだ。
「祐巳さまのお姉さまや親友の皆さまよりも先に私なんかをお家《うち》に上げるなんて、祐巳さまも祐巳さまです。どうかしてます」
どうかしてます、と言われても。
「順番じゃないでしょ、そんなの」
「でも」
「でも、何?」
瞳子ちゃんは黙った。当の祐巳が気にしていないことを、執拗《しつよう》に取り上げることの無意味さを悟ったのかもしれない。
瞳子ちゃんは、変なところで固い。
「別に、祥子さまや由乃さんたちを門前払いしたわけじゃないんだし。たまたま、だよ。たまたま」
「たまたま……」
瞳子ちゃんはつぶやいた。
「それに、もう靴《くつ》脱いじゃったんだしさ?」
今更《いまさら》引き返したところで、家に上がった事実は消せない。
「それは不覚でした」
普通は、わざわざ確認してから靴を脱いだりはしないでしょう。今までこの家に誰が来たか、なんてことは。
「それとも瞳子ちゃんは、誰かが毒味していない我が家にいるの不安?」
「……いえ」
「じゃ、いいじゃない。ほらほら」
瞳子ちゃんは観念したのか、祐巳に手を引かれておとなしく階段を上りきった。
「どうぞ」
祐巳は自室のドアを開けて、瞳子ちゃんを招き入れた。お客さまが来る予定はなかったので、部屋の中はちょっと乱雑な部分があったけれど仕方ない。ま、ありのままの自分、ということで。
「適当に座ってね」
ベッドの上を占領していた編みかけの編み物は、まとめて籠《かご》に放り込んで部屋の隅に片づけた。
「はい」
瞳子ちゃんは一言返事をしたものの、すぐには座らなかった。立ったまま部屋をぐるりと見回し、それが訪問者の礼儀《れいぎ》であるというように、「素敵な部屋ですね」とまず褒《ほ》めた。
それから瞳子ちゃんは、机の上に視線を落とした。そこには無造作《むぞうさ》に投げ出された電話の子機と、アドレスページが開かれた生徒手帳があった。
「乃梨子《のりこ》さんには、もう電話しちゃいましたか」
「まだ」
祐巳は、正直に答えた。隠し立てする必要はない。
「まだ、私は誰にも連絡していないよ」
瞳子ちゃんは勘《かん》が鋭い。それとも、生徒手帳と電話という組み合わせから、鎌《かま》をかけてみただけなのか。
顔に出やすい質《たち》の祐巳を見ていれば、瞳子ちゃんもだいたいの状況はわかったのかもしれない。
「しようと思っていたところに、祐麒が帰ってきたの」
「そうですか。よかった」
それは、乃梨子ちゃんに心配をかけずに済んでよかった、という意味だろう。瞳子ちゃんは、ため息をつくように笑った。
「こちらには優《すぐる》お兄さまが? それとも祥子さま?」
「柏木さん。祥子さまのところにはお客さまが来ているから、まだ知らせていないらしいわ」
祐巳の説明に、瞳子ちゃんはうなずいてから床の上のクッションにちょこんと座った。
瞳子ちゃんは、コートを着ていなかった。首の詰まったクラシカルな臙脂《えんじ》のワンピースの上に、オフホワイトのモヘアのカーディガンを羽織《はお》っただけの姿だ。柏木さんの言っていた通り、突発的に家を飛び出したのだろう。
「寒くなかった?」
「ええ。歩いていたので」
「ずっと?」
祐巳は瞳子ちゃんの前、というより斜め横に腰を下ろした。
「ずっとです。最初は、走ってましたが。疲れちゃったから。それからは……そうですね、ずっと」
「歩いてきたんだ、ここまで」
「ええ」
「そっか」
なるほど。コートを羽織《はお》る暇《ひま》もなかったのだ。家を出る時、交通費のことなんて考える余裕《よゆう》があるはずもない。
寒くはなかったとは言ったけれど、さっき階段で腕を掴《つか》んだ時、瞳子ちゃんのカーディガンはひんやりしていた。手を引いた時の手は、ものすごく冷たかった。
かわいそうに、って思った。
お家で何があったのか、何が原因で家を飛び出したのか、そんなことはわからない。でも、たとえ全面的に瞳子ちゃんに非があったとしても、寒い中、こんなに遠くまで歩き続けた瞳子ちゃんがかわいそうでならなかった。
「私の所に来てくれたの?」
祐巳の問いかけに、瞳子ちゃんは首を横に何度も振った。
「考え事をしながらどこへ行こうとも考えずに歩いていたら、いつの間にかこんな遠くまで来ていて。電柱に書いてある番地名を見てみたら、祐巳さまのご住所に近かったので、どの辺かしらって、何となくこの辺りを歩いて。でも、だんだん暗くなるし、表札も見えなくなってきちゃうし、行ったり来たりしていたらご近所の方に声をかけられてしまうし。それで、諦《あきら》めて引き返したところで、祐麒さんと会ったんです」
「そう」
結果、ここにたどり着いたのだから、今は何も言わずに冷えた身体《からだ》を温めてやりたい。疲れた心を休ませてあげたい。
「瞳《とう》……」
お母さんの「ご飯よー」という声がしたので、祐巳は伸ばしかけた手をあわてて引っ込めた。
「準備できたみたい。行こう」
立ち上がって、明るく声をかけた。瞳子ちゃんも、うなずいて立ち上がる。
ドアを開けると、階段から上ってきた匂《にお》いが鼻をくすぐる。
トントンと階段を下りながら、祐巳は考えていた。
自分は何をしようとしていたのだろう。
もし、あの時お母さんの声がしなかったら。
瞳子ちゃんの肩を引き寄せて、抱きしめていたのかもしれない。
匂《にお》いで予想していた通り、お夕飯の献立《こんだて》はカレーとサラダだった。
柏木《かしわぎ》さんの電話が来る前から下ごしらえはしていたから、偶然いい[#「いい」に傍点]メニューにぶつかったことになる。
福沢《ふくざわ》家の場合カレーはいつも多めに作るので、一人や二人飛び入り参加しても平気だし、そういう料理の方がお客さまも気楽に違いない。だから事前に祐麒《ゆうき》の友達が遊びに来るなんてことがわかっていると、冬場はカレーとかシチューになる確率が非常に高くなる。ステーキとか魚がまるのまま一尾とかだと、数が足りなくなったり作りすぎたりする危険性があるから、自然と避けられるのだ。
祐巳たちが一階に下りてくるちょっと前にお父さんが帰ってきていたので、福沢家全員と瞳子《とうこ》ちゃんの五人で食卓を囲んだ。
普段は祐巳《ゆみ》の隣《となり》が定番の祐麒の席に瞳子ちゃんが座り、祐麒がお母さんの席に座り、お母さんがテーブルの短い辺に移動して、と、いうように。いつもと勝手が違うから、何だかムズムズした。
「お、肉団子カレーだ」
お父さんのテンションが高いのは、肉団子カレーが大好物だから。――ではなくて、思いがけなく娘の友人と食事をすることになって舞い上がっているからだ。
「サラダのドレッシングをね、この間テレビでやっていたレシピで作ってみたんだけれど。どうかしら」
お母さんも、お父さん同様ハイになっている。
「どれもおいしいです。小母《おば》さま、お料理がお上手《じょうず》ですね」
瞳子ちゃんは、本当においしそうに食べた。肉団子の中に入っているチーズの種類を聞いたり、ドレッシングの隠し味に入れたバルサミコ酢の量を尋《たず》ねたりしていたから、お世辞《せじ》じゃなくて口にあったのだろう。真似《まね》して作ってみるつもりなのかはわからないけれど、ただ「おいしい」を連発されるだけでなく、そういう作る工程とか材料とかを聞かれることが、お母さんをとても喜ばせた。
祐麒の友達の場合、あまり作り方に興味は示さないから。男の子たちは、すごい勢いで食べるだけだ。それもそれで、お母さんは眺めているのが好きなのである。
「このご飯は……玄米《げんまい》ですか」
「玄米と麦と白米をブレンドして炊《た》いたの。カレーの時だけね」
お母さんは、ブレンドの割合は毎回変えているんだけれど未だ「これぞ」という比率が決まらないのだ、ということをしゃべった。そんなことを探求していたなんてこと、祐巳は知らなかった。もちろん、玄米や麦が混ざっていることくらいは知っていたけれど、割合のことなんて気にしたことはなかった。
お母さんは瞳子ちゃんに相手をしてもらうのが楽しいらしく、いつも以上におしゃべりになる。
「白米といえば、祐巳ったらお姉さまの別荘に行った時、私が送ったお米のせいでコシヒカリ姫ってあだ名がついたんですってね。瞳子ちゃん知っていた?」
わ、その話題か、と思ったが、もう遅い。
別に瞳子ちゃんがあだ名を付けた張本人《ちょうほんにん》ではないから気にすることはないのかもしれないけれど。ほら、瞳子ちゃんは「あだ名を付けた張本人」と「あだ名を陰で笑っていた人たち」とは、何となくうまくいっていない感じだったから。
思った通り、瞳子ちゃんはあからさまに不快な表情をしてつぶやいた。
「……世の中には、くだらない人たちがいるんです」
「あら、瞳子ちゃんは手厳しいわね」
お母さんはカラカラと笑った。祐巳は、瞳子ちゃんに教えた。
「母は、結構気に入っているのよ、あのあだ名」
「コシヒカリ姫が?」
解《げ》せないというように、眉間《みけん》にしわを寄せる瞳子ちゃん。
「そう。ササニシキ姫やひとめぼれ姫より、断然響きがいいと思わない? コシヒカリ送っておいてよかったわ。無洗米《むせんまい》姫じゃ、もうコントよ、コント」
コシヒカリ姫でも、十分コントではないだろうか。それでも、あまりに明るくお母さんが笑い飛ばすものだから、気が抜けたのか瞳子ちゃんもつられて小さく笑った。
「祐巳さまは、お家《うち》では何でもお話になるんですね」
すると、お父さんが寂しそうに笑った。
「いや。きっと、家では話さないこともたくさんあるはずだよ。だが、それは私たちにはわからないことだから」
まるで花嫁《はなよめ》の父みたいにお父さんがしんみりしちゃったので、お母さんがあわててフォローした。
「お父さん、何湿っぽくなっているの。そのためにお友達がいるんでしょ。瞳子ちゃん、祐巳のいい話し相手になってちょうだいね」
「私なんか」
「謙遜《けんそん》しないで。瞳子ちゃんはいいと思うわ」
お母さんの言葉を聞きながら祐巳は、自分の方こそ瞳子ちゃんのいい相談相手になんてなれないのではないか、と考えていた。
瞳子ちゃんは、祐麒に連れてこられなければ、この家を訪ねてこなかった。
どうして家を飛び出したのか、その理由だって語りはしない。
どうしたの、って。
何があったの、って。
一言聞いてみればいいのかもしれない。
でも、頼って来てくれたわけでもないのに、踏み込んで聞くのが躊躇《ためら》われた。
そして、怖かった。
「祐巳さまには、関係ないことです」
そう拒絶されたら。――そう考えると、恐ろしくて聞けなかったのだ。
和《なご》やかな雰囲気《ふんいき》の中、福沢《ふくざわ》家のディナータイムは終了した。
瞳子《とうこ》ちゃんは、程よく笑い、程よくしゃべり、お皿の上の料理を気持ちよく食べきるという、お客さまとしては完璧なおもてなされ[#「おもてなされ」に傍点]をしてのけた。
そんなことはしなくていいと言ったのに、食べ終わった食器まで台所に運び終えると、瞳子ちゃんは「電話を貸してください」と言った。
「え?」
あまりにサラリと言ったので、祐巳《ゆみ》は聞き返した。
「何で?」
「そろそろ失礼しないと。突然お邪魔《じゃま》して、申し訳ありませんでした」
「帰る、って? どこに?」
「自宅です。お蔭《かげ》さまで、程よく頭も冷やせましたし。私が帰らないと、両親が寿命《じゅみょう》をすり減らして心配しますから」
瞳子ちゃんは、真面目《まじめ》だ。そして、ご両親のことを大切に思っているんだ、ってわかった。それでご両親も、瞳子ちゃんのことを大事に大事に育てていることも。
「家に電話するの?」
一番電話の近くにいた祐麒《ゆうき》が、子機に手をかけながら尋《たず》ねる。
「いえ。ちょっと口論して家を出てしまったので、電話よりも直接会って話した方がいいと思います」
「じゃ、どこに電話を?」
納得するまで手渡さないつもりなのか、祐麒は子機を持ったまま離さない。
「タクシーを呼ぼうと思いまして。たとえ両親が私を探しに出ていたとしても、家には誰かいるでしょうから」
そこで祐巳は思い出した。瞳子ちゃんは歩いてここまで来たのだった。バスで駅まで行ってそこから電車に乗って行くより車で真っ直ぐ松平《まつだいら》家に向かった方が早い、ということももちろんあるだろうけれど、帰るための交通費がないことがタクシーで帰るという選択をした一番の理由だろうと思われた。
「送っていこう。家はどこ?」
お父さんがジャケットを着て、自動車の鍵《かぎ》を取った。
「祐巳も来なさい。ご両親も心配なさっているだろうから、一緒《いっしょ》に行ってご挨拶《あいさつ》した方がいいだろう」
「あ、はい」
答えながら祐巳は、「これって何かに似ている」って思った。
そうだ。子供の頃、何が原因だったか忘れたけれど親に叱《しか》られそうな友達がいて、家までついていって一緒《いっしょ》に謝ってあげた。その時の感じ。
親というのは、友達の手前、少しは手加減して叱《しか》るものだから。友達が帰った後で、再度怒られる事があっても、第二陣、第三陣ともなると、第一陣で強烈なお目玉をもらうよりは受ける側のダメージも少ない。
でも、お父さんが気にかけたのはそういうことではないらしかった。この時間まで瞳子ちゃんが身を寄せていた場所が「学校の先輩の家」であることを示して、ご両親を安心させようと思ったようだ。
「それには及びません」
瞳子ちゃんは遠慮《えんりょ》した。これ以上迷惑はかけられない、と頑《かたく》なだ。交通費を貸して欲しい、とも言い出さない瞳子ちゃんである。
「気にしなくていい。それより、このままタクシーに乗って一人で帰られては、こちらの方が気になってしょうがないよ」
疑うわけではないが、家を飛び出してきた瞳子ちゃんが、素直に家に帰るかなんてわからない。若い娘のことだから、途中でふと気が変わってしまうことだってあり得る。お父さんとしては、煙たがられようと、保護者のもとに戻るまで見届ける必要がある。
「小父《おじ》さま、私、ちゃんと帰りますから」
瞳子ちゃんは固辞し、お父さんも譲《ゆず》らない。その時。
「あの……。いい?」
祐麒が手を上げた。
「何だ、祐麒」
「折衷《せっちゅう》案。というより、もう俺が勝手に決めちゃってたんだけど」
言いながら祐麒は、手にしていた電話の子機のボタンを一つ押した。その前の数字を事前に打ち込んでおいたらしく、すぐに子機から呼び出し音が漏《も》れ聞こえてきた。ワンコールで相手がとる。
「あ、もしもし? お願いします」
それだけ言って、祐麒は電話を切った。
「誰にかけたの?」
タクシー会社じゃないことだけは確かだろう。こちらの住所も名前も名乗っていないのに、「お願いします」だけで車を回してくれるわけがない。
「すぐにわかるよ」
その言葉通り、ものの十秒ほどで、福沢家のインターホンが鳴った。
祐麒は、誰何《すいか》もせずに玄関の扉を開けた。何が何だかわからないまま瞳子ちゃんを伴《ともな》って弟についていった祐巳は、そこで予期せぬ人と対面する。
「夜分、申し訳ありません」
その人は、子供たちの後ろからやってきたお父さんとお母さんに向かって、まず神妙に頭を下げた。
「この度は、瞳子がご面倒をおかけしまして――」
その謝罪と感謝の言葉を聞きながら、瞳子ちゃんはホッとしたような諦《あきら》めのような表情でつぶやいた。
「優《すぐる》お兄さま……」
そう呼ばれた彼、柏木《かしわぎ》優さんは。
福沢両親への挨拶《あいさつ》を済ませると、瞳子ちゃんに向かってやさしく言った。
「迎えに来たんだ。帰ろう」
瞳子ちゃんは、小さくうなずいた。
そりゃ。
瞳子《とうこ》ちゃんの家出事件を最初に知ったのは、柏木《かしわぎ》さんからの電話だったし。
だから、柏木さんが瞳子ちゃんを心配して迎えに来たとしても、それはまったくの「予期せぬ」ことではないのかもしれない。
食事の前に祐巳《ゆみ》たちが祐巳の部屋で過ごしたわずかな時間に、祐麒《ゆうき》が気を回して柏木さんに電話を入れておいてくれたことも、たぶん正しい判断だったのだろう。
瞳子ちゃんを刺激しないために、彼女が帰る気になるまで、柏木さんが家の前に車を停めて待機していたことも。
でも。
「お世話になりました。改めて、お礼に伺《うかが》います」
車の窓からさわやかに顔を出して笑う柏木さんを見ながら、祐巳は思った。こんなに早く、こんな場所で会ってしまう事になるとは。その一点に置いて、やっぱりこの人は予期せぬ人なのだ、と。
「ごちそうさまでした」
そう言って助手席に乗り込む瞳子ちゃんを、家まで送り届けてくれるはずのナイトなのに。柏木さんに、素直に「ありがとう」と言う気分じゃない。
わかっている。面白くないだけ。
ただでさえ祥子《さちこ》さまのことで遅れをとっているのに、瞳子ちゃんでもまた見せつけられてしまった。そんな風に感じてしまったのだ。
「また遊びにいらっしゃい」
お母さんとお父さんは、瞳子ちゃんのことも柏木さんのことも気に入ったらしい。柏木さんの赤い車が|柿ノ木《かきのき》さんの角を曲がるまで、手を振り続けていた。
「瞳子ちゃんはいい子ね」
家族が敷地内に戻り、門扉《もんぴ》を閉じると、お母さんは一仕事終えたようなため息を吐きながらつぶやいた。
「そう?」
言いながら、少し鼻が高いのはなぜなのだろう。祐巳は自問した。答えは出せなかった。お母さんの声が、祐巳の思考を邪魔《じゃま》したから。
「ちょっと難しいところがありそうだけれど、しっかりしていて根はやさしい感じ。あんな子が、祐巳ちゃんの妹になってくれたらいいわね」
「お母さんたら、何言うの。やめてよ、からかうの」
自分の頬《ほお》がカッと熱くなるのを感じた祐巳は、お母さんを追い抜いて、靴《くつ》を脱ぎ、あわててスリッパを履《は》いた。真っ赤になった顔を見られるのは、何だか気まずい。
ああ、でも、どうしたらいいのだ。このままリビングまで行けば、先に家に入ったお父さんや祐麒に追いついてしまう。
壁側に顔を向けたまま歩いていくのは、かえって目を引く気がするから、さりげなくうつむき気味に――。
「……どういうことかしら」
娘の様子を冷静に観察してから、お母さんは言った。
「柏木さんの時と、明らかに反応が違うのよね」
「えっ?」
鋭い突っ込みに、思わず振り返ってしまった。
するとお母さんは。
「祐巳ちゃん、ポーカー弱そうね」
同情するような表情で笑った。
翌日の午後、柏木《かしわぎ》さんは早々に「改めてお礼」をしに福沢《ふくざわ》家にやって来た。
あいにくお父さんは仕事だったし、お母さんは買い物に出ていて留守《るす》だった。祐麒《ゆうき》は家にいたけれど、二階の自室に籠《こ》もっていたから、たまたま一階にいた祐巳《ゆみ》がインターホンに応えて玄関まで出たのだった。
「こんにちは」
柏木さんは一人だった。
「松平《まつだいら》家の名代《みょうだい》で参りました」
老舗《しにせ》の和菓子屋さんの大きい箱を、紫色の風呂敷《ふろしき》包みをほどいて取り出す彼の様子を見ながら祐巳は、「いつもよりかしこまっているな」と思った。挨拶《あいさつ》も「やあ」じゃないし、服装もダークグレーのスーツに紺《こん》か濃い緑かわからない色味のネクタイを締めている。ちなみに、昨夜は生成《きなり》のアランセーターだった。――名代という仕事は、なかなかに堅苦しいものだということがわかる。
「瞳子《とうこ》の両親がご挨拶に伺《うかが》うのが筋なんだろうけれど、叔母《おば》……瞳子の母親が、瞳子の家出があまりにショックだったらしくてね。帰ってきた途端、ホッと気が抜けてそのまま寝込んじゃったんだ。それで、僕が代わりに行くよう仰《おお》せつかった次第で」
「はあ」
「本当、感謝していた。機会があったら、お目にかかってお礼を、という気持ちはあるようだが。叔母の具合もそうだけれど、瞳子とのこともあって、しばらくはあの家は落ち着かないだろうと思うんだ」
「あの、お気遣いなく」
「そうは言っても、これは受け取ってもらわないと。僕が使い物にならない奴になってしまうからね」
柏木さんは高級和菓子が入っていると思《おぼ》しき箱の向きを確認して、祐巳に向かって「どうぞ」と差し出した。
「……」
そりゃそうだ。
お使いで来た人が、任務を遂行《すいこう》しなきゃ来た意味がない。柏木さんが困るのなら、むしろ受け取らないという選択|肢《し》もあるわけだが、それじゃ大人げない。それに、両親が留守《るす》の間に子供の一存でお届け物を突き返すなんて許されることではない気がしたので、その企《たくら》みは心の中でだけ楽しむことにしてすぐに却下《きゃっか》した。
でも、だったら両親が居ない時に、もらっちゃっていいのだろうか。これが宅配便なら、ハンコをついて品物を受け取ってしまう。でも、持ってきたのが人間だったら? これまで、両親が留守中に届いたお中元《ちゅうげん》やお歳暮《せいぼ》に対応したことはあったけれど、業者以外の人が持参してきたパターンに遭遇《そうぐう》したことはなかった。
「どうしたの」
なかなか受け取ろうとしない祐巳に、柏木さんが声をかけた。
「今、両親が不在で」
「それ、最初に聞いたけれど?」
「受け取っていいかどうか」
届けにきた相手に向かってそれを尋《たず》ねるのは、あまりにマヌケである。けれど、柏木さんは呆《あき》れもしないで答えてくれた。
「いいんじゃない? 別に賄賂《わいろ》とかじゃないし。受け取ったことで取り返しのつかなくなるような代物《しろもの》じゃないだろう? これは瞳子がお世話になった事に対する、松平家からの純粋なお礼だ。もし祐巳ちゃんのお母さんがここにいたら、どうすると思う?」
「受け取ると思う」
恐縮しながら。
「だろ?」
柏木さんは笑った。
「とにかく、取りあえず受け取って。お母さんはそう遅くならないんだろう?」
「夕方には」
祐巳は答えた。お母さんは夕飯の買い物に行ったのだ。ご飯の支度《したく》をするまでに戻らないわけがない。
柏木さんは箱を持った手をちょっとだけ返して、腕時計をチラリと見た。
「じゃあね、五時」
「五時?」
「五時まで僕は松平家に報告を入れないから。お母さんが帰ってきて、やっぱりもらえないって言ったら、僕の携帯電話に連絡してくれ。すぐに引き取りにくる。五時までに連絡がなければ、僕は松平家にお使い完了しましたと言いにいく」
「いいの?」
「いいよ。受け取ってくれる気になった?」
うなずくと、柏木さんは祐巳の手の上に菓子折を載せた。ずっしりと重かった。箱も木箱なのかもしれない。
こんな重いものを立ち話している間平然と持ち上げていられるんだ、男の人は。
柏木さんを倒したって勝てないって言われたけれど、やはり祐巳は柏木さんより自分が劣っている部分を発見するたびに嫉妬を覚えてしまうのだった。今度ダンベルでも買ってきて、筋肉をつけてみようか。
「そうだ。お母さんが五時まで帰らなかった時も、電話いれて」
祐巳がダンベルのことを考えているなんて知らない柏木さんは、畳《たた》んだ風呂敷《ふろしき》を持つと、思い出したかのようにかしこまりモードで「お邪魔《じゃま》致しました」と、丁寧《ていねい》に頭を下げてから背中を向けた。
「お上がりいただきもしませんで」
お母さんのつっかけを履《は》いて、祐巳は追いかけた。こういう場合は、お見送りするのが礼儀《れいぎ》だろうと思ったからだ。
「ははは。ご両親が留守《るす》中に上がり込むなんてできないよ」
「祐麒はいるけれど」
「あ、そうなんだ」
「呼びましょうか」
玄関の方を振り返ると、柏木さんは「その必要はない」と祐巳を止めた。
「ここにいる僕は、あくまで松平家のお使いだからね」
門まででいいと言われたけれど、家の前の道路の、柏木さんの赤い自動車が止まっている所まで祐巳はついていった。
このまま帰してしまいたくなかった。ただそれは、好きな人と離れがたいという若い娘に芽生《めば》えがちな感情とはまったく別のものであることを、祐巳自身が自覚していた。祐巳はただ、柏木さんに聞きたいことがあったのだ。
「柏木さん」
「何だい?」
車のドアの鍵《かぎ》を開ける柏木さんに、祐巳は切り出した。
「瞳子ちゃんが何で家出したのか、知っている?」
すると、彼のいつもの余裕《よゆう》のほほえみが、少しだけ強《こわ》ばった。
「……知っているとしたら?」
探るように聞き返す柏木さん。それはたぶん「知っている」から。知らなければ、何も動かない。
「教えてもらうわけにはいかない?」
知っているなら、彼には「教える」「教えない」の選択があるわけで、どちらを選ぶかによって多少なりとも今の状態からは変化が生じる。たとえ「教えない」を選んだとしても、「知っているのに教えない」は「知らないから教えられない」とは違うはずだった。
「瞳子からは……」
「何となく、聞けなかった」
祐巳は正直に白状した。聞いても、きっと話してくれなかったと思う。
「それでも、あえて聞きたい、と?」
一瞬、「面白半分」とか、「野次馬《やじうま》根性」とか、「ただの好奇心」とか、そういう嫌な単語が頭の中に浮かんだ。そんなんじゃない。そう打ち消したかったけれど、でもそれらの単語と自分の今の気持ちを並べてみても、どこがどう違うのだか境目がわからなかった。
瞳子ちゃんのことが気になる。教えてもらえるのなら、それらの嫌な単語を引き受けたっていいとさえ思えた。
「それは君の気持ち次第だな」
柏木さんがつぶやいた。
「私の?」
「これは軽い話じゃないからね。誰彼構わず話せる内容じゃない。でも、祐巳ちゃんになら話してもいい。僕の独断で」
「……え」
柏木さんの真顔に、ドキッとした。
「いいかい? それを聞いたことで、君は瞳子の秘密を知ることになるんだ。それも瞳子の知らないところで。それがどういうことか、考えてごらん」
「どういう……って」
「受け止めるだけの覚悟があるか、ってことさ」
「あ」
突然何かに殴《なぐ》られたみたいに、頭がガンガンした。
「私は……」
考えが追いつかない。
軽い気持ちで聞いたわけではないけれど。覚悟を強《し》いられるような話になるとは、正直想像していなかった。
「君のために。そして瞳子のために。もう一度考えてから、慎重に僕に聞いてくれ。次に質問されたら、僕は答えるからね」
言い残して、柏木さんは帰っていった。
程なく、お母さんは戻ってきた。お菓子はいただくけれど、それでも柏木さんにはちゃんとその旨《むね》報告するよう言われた。受け取らない場合には連絡を、という話でも、なしのつぶては失礼だし、五時まで待たせるのも悪い、というわけだ。
結局、電話は祐麒にしてもらった。
「柏木先輩来たなんて、俺、知らなかったぞ。何で呼ばないんだよ」
自宅にいながら仲間はずれにされた気になったのか、柏木さん来訪を聞いた当初、祐麒はブーブー文句を言っていた。
「呼ぼうとしたら、柏木さんが、松平家のお使いだからいいって言ったのよ」
「……菓子だけ届けに来たのか?」
「そうよ。今から電話するけれど、何なら祐麒がする?」
試しに子機を差し出してみたところ、祐麒はそれを取り上げて、柏木さんの電話番号をさらでプッシュしたというわけなのだった。
「あ、先輩? ちわーっす」
祐麒の声を聞きながら、祐巳はちょっとほっとしていた。
まだ、覚悟はできていない。
覚悟するかどうかも決めていない。
だから、決めるまでは柏木さんの声を聞きたくない、そう思っていたから。
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何となく、の中には
試験休みが明けた終業式は、今年最後の登校日であり、クリスマス・イブでもあるのだった。
去年の祐巳《ゆみ》はそのことをうっかり失念していたから、お姉さまにプレゼントを用意していかなかったけれど、今年は違う。学園祭の頃から事あるごとに「何にしよう」と考えていて、学期末試験中に材料を買い込んで、試験休み中に、ガーっと作り上げた。
ジャジャーン! 今年のプレゼントは、世界に一つだけの手作りニットなのである。
昨夜のうちにちゃんとラッピングして、カードも添えて。ぬかりなし。そうなるとすぐにでも渡したくなるのが人情だが、ここはじっと我慢。
こんな朝早くに教室を訪ねて、バタバタとプレゼントを渡すなんて落ち着きのないことではいけない。
日中だろうと、他の人がたくさんいる場所じゃだめ。
だから、いつでも渡せるように、今日はプレゼントを一日中小さな手提げに入れて持っていることに決めた。
だって、もしお姉さまが先に何かを下さる気配があったとしたら、その時に「ちょっと待ってください。取りに行ってきます」なんてあまりにもスマートさに欠けるもの。
「えっ!?」
午前八時、薔薇《ばら》の館《やかた》の二階。
終業式とミサが終わった後に予定されている仲間内のパーティーの準備をしていた時に、由乃《よしの》さんが発した一言に思わず祐巳《ゆみ》は声をあげた。
「しっ。声、大きい」
由乃さんは口の前に人差し指を立てて、顔をしかめた。幸い、志摩子《しまこ》さんや乃梨子《のりこ》ちゃんからは少し離れているし、別の話で盛り上がっていたようなので、二人には祐巳の驚きの声は届いていなかったようだ。
三年生は来ていない。
パーティーの準備といっても、ミサが終わり次第ここ薔薇の館に集合して、みんなでワイワイと飾りつけやらお菓子の盛りつけやらお茶の支度《したく》やらすることになっているので、これは準備のための下準備のような段階なのである。
約一週間放っておいた部屋を掃除《そうじ》したり、持参した食材を冷蔵庫にしまったり、足りない椅子《いす》を一階の部屋から持ってきたりするだけなので、二年生と一年生だけで事足りた。
祐巳は声のボリュームを抑えて、まず由乃さんに確認した。
「だって。パーティーに、田中《たなか》、いや有馬《ありま》菜々《なな》さんも呼ぶ……って」
そりゃ、ぶっ飛びますとも。大きな声も出ますとも。
なぜって、少なくとも一週間前の試験最終日には、由乃さんはそんなこと一言も言っていなかったのだ。
それとも、何か。少しくらい匂《にお》わせていたのに、試験休み中に予定されていた祥子《さちこ》さまとの遊園地デートのことで頭が一杯だった祐巳が、気づかなかっただけ、とか。
ともかく、由乃さんは話を続けた。
「だから協力して、って言ってるんでしょ」
「協力って?」
最近知った有馬菜々という名前は、いつでもびっくり箱を開いたみたいな驚きとともに、由乃さんの口から飛び出してくる。
前|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》の鳥居《とりい》江利子《えりこ》さまに「将来の妹」と紹介しちゃった、とか。
三年生になっても妹ができなかったら妹にする気でいる、とか。
でもって、今回は仲間内のパーティーに連れてくる、と。まるで、ホップ、ステップ、ジャンプって感じである。
「つまりね」
由乃さんは言った。
「祐巳さんがね、瞳子《とうこ》ちゃんや可南子《かなこ》ちゃんをクリスマスのパーティーに呼びたいって言っているわけよ」
「言ってないでしょ」
祐巳は、本人なので「祐巳さんが呼びたい」なんて言っていないことは知っている。もちろん、「呼びたくない」とも言っていない。
「まあ話は最後まで聞きなさいよ。そう言っているから、私も知り合い呼ぼうかな、って。そんな風にね、もっていきたかったわけ」
「……なに、それ」
由乃さんたら、自分発のくせに便乗を装《よそお》おうって気らしい。
まあ、気持ちはわからなくもないけれど。有馬菜々さんは、中等部の生徒だし、今まで山百合会《やまゆりかい》とまったく接点がなかった人だし。そういう人を招待客筆頭に挙げるのは、なかなか勇気がいることだ。皆さんがよく知っている人をまずは誘っておいて、菜々さんの存在を目立たなくするのが狙いだろう。
「もともと、ちょっぴり人数的に寂しいねって話だったのよ。去年は山百合会のメンバーは八人。プラス蔦子《つたこ》さんもいたでしょ。でも、今年は六人だし。蔦子さん入れたって七人? 誰か誘おうか、って祥子さまとも話をしていたらしいんだ、令《れい》ちゃん」
で、それを聞きつけた由乃さんは、つい言ってしまったわけだ。「祐巳さんが」と。
「そうしたら、三、四人までなら、って。一人が何人にも声をかけちゃうと大勢になっちゃうから、一年生、二年生で相談して誘うように言われた」
「ふうん」
祐巳には、速《すみ》やかに瞳子ちゃんと可南子ちゃんをご招待し、口裏を合わせて欲しい、というのが由乃さんの指令である。
「年が明けると、三年生もバタバタするし、生徒会役員選挙なんてものもあるしで、メンバー全員が集合することも減っていくと思うんだ。だから」
これはいい機会だ、って由乃さんは思ったみたいだ。何のって、もちろん菜々さんの顔見せをするのに、だ。
でも、ちょっと待て。祐巳は確認した。
「あのさ、由乃さん。一つ聞くけれど、有馬菜々さんと姉妹になるって約束したの?」
「まだ」
「なのに連れてくるんだ?」
勇み足じゃないのか、それって。
「菜々が、令ちゃんに紹介してくれって」
「へえ……。そりゃ、脈ありだね」
菜々さんが、由乃さんのお姉さまに紹介して欲しいというのは、つまり何だ、世間一般でいえば、ボーイフレンドに「ご両親と会わせてください」と言うようなものだから。
「そうでもない。単に、私を介して令ちゃんとお近づきになりたいみたい」
自嘲《じちょう》気味に、由乃さんは言った。えっと、前の喩《たと》えでいうと……つまり、むしろボーイフレンドのお父さんの方に関心がある、ということか?
「ちょっ……、それでいいの?」
「今のところは」
見た感じかなり劣勢だけど、由乃さんはまだまだ負ける気はなさそうだった。ならば親友として、ここはどうしたらいいか。
「よし、わかった。協力しよう」
祐巳はポンと手を叩いてから、白薔薇姉妹に声をかけた。
「志摩子さん、乃梨子ちゃん。そっち済んだ?」
ちょっと話があるんだ、と。
教室に戻らなければいけない時間から逆算して、まだ十分くらいはあったので、四人は取りあえず椅子《いす》に座った。
「クリスマスパーティーなんだけれど。ちょっと寂しいから、お客さんを数人ご招待することになったの。由乃さんに一人心づもりがあるそうだから、あと二人か三人。志摩子さんや乃梨子ちゃんは、呼びたい人いる?」
「蔦子さんは――」
志摩子さんが名前を挙げた。去年の招待客である写真部のエースは、去年のパーティー終了時に「来年もぜひ」と言っていた。志摩子さんは、そのことを思い出したのだろう。
「あ、彼女は最初から数に入っている、って。うちのお姉さまが」
由乃さんが答える。
去年、たくさん写真を撮ってもらった主催者《しゅさいしゃ》側も感謝して、やはり蔦子さんに「またよろしく」と申し出ていたのだった。
「それじゃ、私はいいわ。乃梨子は?」
「……私も、特には」
乃梨子ちゃんは、静かに答えた。それは見ようによっては、遠慮《えんりょ》しているようにも、気乗りしないようにも見えた。
「だったら、瞳子ちゃんと可南子ちゃんは?」
祐巳が切り出すと、由乃さんは「それはいいわね!」とちょっと大げさじゃないかな、というくらい声を弾《はず》ませた。そして、乃梨子ちゃんに「ね?」と同意を求める。
「……ええ」
考え込むようにうつむく乃梨子ちゃんに、祐巳は言った。
「二人を、誘ってみてくれない?」
試験休み中だったからということもあるけれど、あの日、瞳子ちゃんが福沢《ふくざわ》家にフラリと現れて以来、彼女の顔を見ていない。
祐巳は、柏木《かしわぎ》さんの言葉もあって、まだ少しだけ瞳子ちゃんに会うのが怖かった。だからクラスが同じ乃梨子ちゃんが、無邪気《むじゃき》に瞳子ちゃんを誘ってここまで連れてきてくれればいい、なんて都合のいいことを思っていた。
会うのが怖いけれど、会いたくないわけではない。明るく和《なご》やかなクリスマスパーティーの中で、クラスメイトとともに笑い合う瞳子ちゃんの姿を、少し離れて見たかった。
けれど。
「嫌です」
乃梨子ちゃんは答えた。
「は?」
はい、とか、わかりました、以外の返事は想像していなかっただけに、祐巳は心底驚いた。
「今、何て――」
「嫌だと言ったんです」
きっぱりと言い切る。では、「いいです」が「嫌です」に聞き違えたわけではなく、間違いなく拒絶されていたわけである。
「ちょっと、乃梨子ちゃん! 先輩に向かって、何なのその口の利《き》き方!」
立ち上がり、身を乗り出す由乃さん。
でも相手が先輩だろうと、はっきり自分の意志を告げられる乃梨子ちゃんは、祐巳には好ましく映った。
隣《となり》にいる、まだ文句が言い足りない感じの由乃さんの腕を引いて、とにかく椅子《いす》に座らせてから祐巳は乃梨子ちゃんに向き合った。
乃梨子ちゃんの言葉に、正直|動揺《どうよう》している。そのショックとは別に、どうして嫌なのか、その理由を知りたいという自分が、冷静さを運んできた。
「何で? 瞳子ちゃんか可南子ちゃんとけんかでもしたの?」
「いいえ」
乃梨子ちゃんは、首を横に振る。
「だったら、どうしてパーティーに呼びたくないの?」
「呼びたくない、なんて言っていません。瞳子や可南子さんがパーティーに来たって、それは構いません」
「……え?」
けんかもしていない。二人がパーティーに来ることも嫌じゃない。それって、どういうことなのだ。
「私から誘うのが嫌なんです。二人の名前を出されたのは、祐巳さまでしょう? だったら、祐巳さまが声をかけるのが筋じゃありませんか」
「筋」
そんなこと、考えもしなかった。
「だって」
乃梨子ちゃんは二人と同じクラスなんだから、軽く引き受けてくれると思ったのだ。でも、乃梨子ちゃんの中で、ことこの「筋」に関しては、祐巳にはわからない譲《ゆず》れない何かがあるらしい。
「とにかく、この件はお断りします」
その厳しい表情を見れば、どうしたってその決心は揺るがないのだということは、祐巳にもわかった。その時。
「わかったわ」
同じくわかった人がもう一人いたようで、すっくと椅子《いす》を立ちあがった。ずっと黙って聞いていた、志摩子さんだ。
「それじゃ、私が行くことにするわ」
「え?」
「もうすぐ、予鈴《よれい》がなってしまうし。もしパーティーに招待するなら、そのことをできるだけ早くお知らせしたほうが親切でしょう?」
「志摩子さ……、お姉さま!」
歩き出す志摩子さんを、乃梨子ちゃんがあわてて追った。
「お姉さまが行かれることはないです。私は祐巳さまに……!」
「誰が誘ったって構わないじゃないの」
志摩子さんは、振り返って微笑した。
「でもっ」
「乃梨子。あなたが嫌だと言うのは勝手だけれど、私の行動まで規制する権利はないはずよ。どうしても祐巳さんにお願いしなければならないのなら、その理由をおっしゃい。それだって、あなたのこだわっている『筋』の一つじゃないの?」
「――」
乃梨子ちゃんは、口をつぐんだ。そして悔《くや》しいような悲しいような表情で志摩子さんを見つめると、少しだけ涙ぐんだ。
思わず、祐巳の方がもらい泣きしそうだった。志摩子さんはどうか知らないけれど、こんな乃梨子ちゃんを見たことがなかった。
乃梨子ちゃんは、いつでも何に対しても敢然《かんぜん》と立ち向かう。たとえ泣いていても、心の中では自分は正しいのだという信念がメラメラと燃えているような子だった。なのに、今はとても弱い。志摩子さんの指摘に、言い返す言葉ももたずに、ただ立ちつくしている。
「ごめん、志摩子さん。私が行くから」
居たたまれなくなって、祐巳は言葉をかけた。
「じゃ、一緒《いっしょ》に行きましょうか」
志摩子さんは、いつもとまったく変わらない様子で笑った。
乃梨子ちゃんと向き合っていた時も、同じだった。志摩子さんの言葉は、やわらかい。だからこそ、ヒステリックに叫ばれるよりも心にこたえることがあるのだ。
先に薔薇の館を出た二人の後から、かなり距離をとって乃梨子ちゃんが、そのまた後ろを由乃さんがついてきた。
これから祐巳たちの向かう一年|椿《つばき》組の生徒である乃梨子ちゃんは、自分の教室に帰らなければならないので、不本意ながら。
由乃さんはたぶん、事の顛末《てんまつ》を見届けたいがため、だ。
「でも、どうして、志摩子さんは誘いにいこうと思ったの?」
校舎の廊下《ろうか》を歩きながら、祐巳は尋《たず》ねた。
「どうして、って?」
「何ていうのかな。語弊《ごへい》があると困るんだけれど、志摩子さんにとって、パーティーに瞳子ちゃんや可南子ちゃんを呼ぶことはそんなに重要な問題じゃないように思えるわけ。例えば、別の誰が参加しても、志摩子さんは同じように歓迎して、同じように接するんじゃないか、って。それに、もしゲストが由乃さんの連れてくる人と蔦子さんだけになっても、パーティーをするのに支障はないよね」
「そうね」
志摩子さんは、一度うつむいてから言った。
「でも、由乃さんがどなたを連れて来るにしても、その方は居心地《いごこち》悪いと思うの。蔦子さんはパーティーに参加するというより、写真を撮ることの方に夢中でしょう? 実質、お客さま一人といった感じになってしまってはお気の毒だわ」
「だったら」
代わりに、同級生の誰かに声をかけたっていいはずだ。何も、乃梨子ちゃんの意に反してまで、瞳子ちゃんや可南子ちゃんを誘わなくたっていいはずだ。すると、志摩子さんは付け加えた。
「勘《かん》というものに従ったのよ」
「え?」
「瞳子ちゃんを誘った方がいい、って。何となく、そう思ったの」
「何となく?」
祐巳が聞き返すと、志摩子さんは独《ひと》り言《ごと》のようにつぶやいた。
何となくの中には、意外と大切なことが隠れていることがあるものだから、――と。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
とぼとぼと歩きながら、乃梨子《のりこ》は考えた。
わかっているのだ。原因が自分であることくらいは。
でも、言わずにはいられなかった。
嫌なものは嫌だ。自分の気持ちに反して、瞳子《とうこ》に不本意な言葉をかけるくらいなら、志摩子《しまこ》さんに叱《しか》られた方がいい。
だから、この結果は満足して受け入れるべきことなのだろう。
そう納得しようとしても、心の中の「どうして」を簡単に消し去ることなんてできないのだった。
断るにしても、もっと上手《じょうず》な話のもっていき方があったのかもしれない。乃梨子がつい感情的になってしまったことが、志摩子さんを動かすことになったのだ。
前を見れば、教室一つ分くらいの距離を挟《はさ》んで志摩子さんと祐巳《ゆみ》さまが歩いている。二人は話をしていて、振り返ることはない。
いったい自分は、志摩子さんに振り返って欲しいのだろうか。それとも振り返って欲しくないのか。それすらもわからず、乃梨子は歩いた。
とぼとぼ、とぼとぼ。
志摩子さんに正論を言われて涙ぐんだことも、乃梨子を落ち込ませた。
あの涙は、言い負かされて悔《くや》しかったからでも、叱られて悲しかったからでもない。ただただ、情けなさから出た涙だった。
志摩子さんは、たぶんあの時の乃梨子の心情をすべてわかっていたはずだ。なのに乃梨子は、言葉で言われるまで、そのことに思い至らなかった。
志摩子さんがわかってくれていたのなら、あそこまで頑《かたく》なに拒絶しなくてもよかったのかもしれない。誰もわかっていない、と、その気持ちが、祐巳さまに対する反発へと向かわせた。
志摩子さんに、あそこまで言わせてしまった罪。それが乃梨子をうつむかせた。
とぼとぼ、という言葉はなんて今の自分にピッタリの言葉なのだろう。
とぼとぼ。
「ごめん」
心の中のつぶやきに、外からの声が被《かぶ》る。
すぐに反応できなくて、もう一回分のとぼとぼを歩いてから乃梨子は立ち止まった。
「何が、ごめんなんですか?」
失礼ながら、今の今まで思い出さなかった。すぐ横に、島津《しまづ》由乃《よしの》さまが真顔で立っていた。
「志摩子さんと乃梨子ちゃんが……えっと……こうなった原因って、もしかして私かな、って思ったから。取りあえず謝っておこうと思って」
神妙《しんみょう》な顔をして、小さく頭を下げる。さっきすごい剣幕《けんまく》で「先輩に向かって」と怒鳴《どな》った人と、同一人物とはとても思えない。そんな温度の高低が激しいところが、由乃さまらしいのだけれど。
「すみません。やっぱり何を謝られているのか、わからないんですが」
乃梨子は正直に言った。
こうなった原因、って。それはさっきから自答しているように、すべて自分自身にあると乃梨子は理解していたわけだから。何に対して「ごめん」なのか、さっぱり心当たりがなかった。
「そもそも、瞳子ちゃんと可南子《かなこ》ちゃんをパーティーに呼ぼうって言ったの、私なの」
由乃さまは言った。
「は?」
「祐巳さんは、私の希望を叶えてくれようとしただけだから」
「ますますわからなくなってきました」
由乃さまが瞳子と可南子さんを呼びたいと思っていたことも意外だが、それをなぜ祐巳さまが自分の希望のように言ったのかもわからなかった。
由乃さまは、先に歩き出した。
「だから、私はある下級生をパーティーに呼ぶことにしているわけよ」
「はい」
それは聞いた。それは自分にとってさほど重要な部分ではない気がしたので、何となく聞き流してしまった感じだけれど。
「だから、その――」
「ああ」
乃梨子はそこでやっとわかった。由乃さまは、妹にしたい生徒ができたから、それとなくみんなに紹介したいと思ったのだ。そのためには、他にもゲストを呼んで、その存在をできるだけ目立たなくしたい、そういうことだろう。
「おめでとうございます……でいいんでしょうか、この場合の受け答えは」
姉妹《スール》の契《ちぎ》りがお祝い事に入るのかどうかわからないけれど、乃梨子が志摩子さんのロザリオを受け取ったと知ったクラスメイトの何人かから「おめでとう」と言われたから、不適当ではないはずだ。
「まだまだ、そんな段階じゃないの」
由乃さまは、小さく笑って首を横に振った。
確かに。由乃さまの表情は、嬉《うれ》しさ三十パーセントといった感じである。残りの七十パーセントの中に、前途多難《ぜんとたなん》の文字が見えた気がした。
「それはともかく。……だから、祐巳さんが瞳子ちゃんや可南子ちゃんを誘いに行くのが筋と言うなら、本当は私が行くのが筋なんだ。けど、それを言う前に志摩子さんが立ち上がっちゃったから。責められるべきは私なんだ」
「責めるだなんて、そんな」
たった今、自分の言動を反省したばかりの乃梨子である。先輩にそんなことを言われては、居たたまれなくなる。
その後由乃さまは、あまりに軽く、核心に迫る言葉を言った。
「でも、それを聞いて、少し祐巳さんに感じていた反発が薄らいだでしょ」
心の準備もしていないところに、ズバッと斬《き》り込まれた。一瞬、乃梨子は自分が止まったことをしばらく気がつかないほど、驚いていた。
由乃さまが振り返る。
「何となく、わかった。最初から私が瞳子ちゃんたちに声をかけるように頼んでいたら、乃梨子ちゃんは渋々でも引き受けてくれたんじゃないのかな」
「……」
「それが祐巳さんだから、嫌だったのよね?」
乃梨子は観念してうなずいた。由乃さまは、当て推量《ずいりょう》で乃梨子の心の中を引っかき回しているわけではない。何となくでも何でも、彼女は正しく「わかって」しまったのだ。
「そうか。やっぱり、そういうことか。でもさ、それじゃ、乃梨子ちゃんも身が持たないでしょ?」
ご推察通り。
「だから、あんな風な態度をとっちゃって」
「ははは。なるほどね」
カラカラと笑ってから、由乃さまは「うーん」と伸びをした。
「放っておいたら?」
「え?」
「なるようにしかならない、ってば。人間関係ってやつは。言い換えれば、なるようになる、ってことだよ」
「わかってはいるんですけれど」
「そうだよね。でも、仕方ないか。友達だもん。頼まれてもいないのに、気を揉《も》んじゃうんだよね」
由乃さまは、まるで自分自身のことのようにつぶやいた。
いや、たぶん半分は自分に言い聞かせていたのだろう。祐巳さまの親友である由乃さまは、ある意味乃梨子と同じ立場にいるといっていい。だから彼女の言葉に、乃梨子は共感してしまうのだ。
おしゃべりしながら歩いていると、いつしか一年椿組の教室にさしかかった。由乃さまは後ろ扉の前で足を止めた。
「何かさ。私たちって、まだまだだと思うんだよね」
「私たち、って?」
「私と祐巳さん。志摩子さんと比べてね」
前の扉にはその祐巳さまと志摩子さんがいて、今まさに呼び出された瞳子と可南子さんが廊下《ろうか》に出てきたところだった。
「さっき、実感した。志摩子さん、ちゃんとお姉さまだった」
「はい。ちゃんとしたお姉さまです」
謙遜《けんそん》もなく肯定すると、由乃さまは乃梨子の肩に「このっ」と彼女の肩をぶつけてきた。
「でも、由乃さまだってもうすぐ」
現実に妹ができてしまえば、嫌でも「姉」になるしかないのだ。志摩子さんだって、最初は揺らいでいた。乃梨子が特に力を与えたわけではなく、そう、姉妹としての時間が立場を明確にしていったのだ。だから今日のパーティーに連れてくる生徒が由乃さまの妹になれば、由乃さまの言う「まだまだ」なんてすぐに追い払ってしまうだろう。
励《はげ》ましたつもりだったのに、由乃さまの表情が少し曇った。
「そのことだけれど……ごめん」
「は?」
「たぶんその子を妹にしたとしたら、乃梨子ちゃんに多大な迷惑をかけると思う。だから、先に謝っておくことにするわ」
「度々《たびたび》、すみません。何を謝られているのか、よくわからないんですが……」
その謎《なぞ》が明かされるのが今日の午後だということを、この時点で乃梨子はまだ知らなかった。
背が高くて真っ直ぐな長い髪の少女と、そんなに背は高くなくて髪の毛が盾《たて》ロールの少女は、揃《そろ》って困惑の表情を浮かべた。
「今日……ですか」
当然の反応だ。ご招待したクリスマスパーティーは、数時間後。こんな急なお誘いに二つ返事でOKする人なんて、そうはいない(去年の蔦子《つたこ》さんは例外だ)。
「無理?」
「ちょっと夕方から用事がありまして」
そう言ったのは、可南子《かなこ》ちゃん。何しろ終業式だし、クリスマスイブだし。そりゃ、予定だってあるだろう。そう、祐巳《ゆみ》は理解した。
「瞳子《とうこ》ちゃんは?」
志摩子《しまこ》さんが尋《たず》ねた。すると返ってきた答えは。
「私は……私もちょっと」
試験休みにあったことが気まずいのか、瞳子ちゃんは祐巳と視線を合わせようとしなかった。顔は志摩子さんに向けている。
それじゃ二人とも来られないかしらね、と志摩子さんが祐巳に目配せをした時、可南子ちゃんが早口で言った。
「あ、でも、途中で抜ける失礼をお許しいただけるなら。ぜひ、参加させていただきたいです。ね、瞳子さん?」
[#挿絵(img/22_081.jpg)入る]
「え」
振られた瞳子ちゃんは、可南子ちゃんの発言に、どう反応するのが正解なのかわからず、戸惑っていた。
「ミサが終わったら薔薇《ばら》の館《やかた》で、ですね? わかりました。何だか、ワクワクしちゃう」
「あっ、あの……」
まるで自転車の荷台に何気なく腰を下ろしていたら、急発進されて、下りるタイミングを逸したというか。どんどんどんどん加速していく可南子ちゃんに、為す術《すべ》もなく引きずられていく瞳子ちゃん。もはや反発する気力も失せたようで、ため息をついてうつむいた。
可南子ちゃんはスピードを緩《ゆる》めない。
「何か持っていったりする物はありますか」
「ううん。身体《からだ》一つで。朝のうちに、必要な物は大方運んでおいたから。パーティーが始まる前に、手伝ってもらうことはあるかもしれないけれど」
「もちろんです。私たちにできることがあったら、何でも言ってください」
だめ押しで、可南子ちゃんは「私たち」という部分で瞳子ちゃんの手をギュッと握った。本当に、いつからこんなに仲よしさんになったんだろう、この二人。
「それじゃ、後で」
予鈴《よれい》が鳴ったので、祐巳は志摩子さんと一緒《いっしょ》に廊下《ろうか》を引き返した。
一年|椿《つばき》組教室の後方扉から、乃梨子ちゃんが中に入るのが見えた。たぶん、そこで可南子ちゃんと瞳子ちゃんを誘う様子を見ていたのだろう。扉の側にはやはり由乃《よしの》さんがいて、「お疲れ」と二人を迎えた。
二年生の教室に向かいながら、由乃さんと志摩子さんは同時に言った。
「瞳子ちゃんって」
奇《く》しくもそれは、同じ内容の言葉だった。
「いい友達をもっているわね」
乃梨子ちゃんと可南子ちゃん。
そのことを、瞳子ちゃん自身が気づいているかどうかはわからない。
いや、たぶん気づいている。けれど、気づいていることを知られたくない。祐巳には、そんな気がしてならなかった。
祐巳たちが自分の教室に戻ろうとした時、瞳子ちゃんは深々と頭を下げていた。
見過ごしてしまえば、それだけのことだった。いきさつを知らない人には、意味不明のゼスチャーでしかないだろう。だが、祐巳は確かにそれを受け取った。
『先日はありがとうございました』
言葉に出せない気持ちを、瞳子ちゃんはその一礼で表現していると思った。
瞳子ちゃんは、ちょっとつむじ曲がり。それでいて、変なところが真面目《まじめ》ですごくデリケートなんだ。
だから、いつでも過多なほど心に厚着をしているんだろう。外からやってくる、ちょっとやそっとの攻撃には耐えられるように――。
そこまで考えて、祐巳はハッとした。
(私、いったい何を)
瞳子ちゃんのことを勝手に想像して、わかった気になって。
そんなこと、瞳子ちゃんにとっては迷惑に違いない。
でも。だったらどうしたらいいのだ。
このままでは、瞳子ちゃんがどんどん離れていってしまう気がする。
(――覚悟?)
柏木《かしわぎ》さんの言葉が、ぽつんと心の中で待っていた。
終業式の後で手渡された成績表は、先にもらってしまった「ご褒美《ほうび》」を返さなくてもいいくらいには上がっていたので、祐巳《ゆみ》はちょっとだけ機嫌がよかった。
祥子《さちこ》さまは成績が悪かったからといって遊園地デートを返せとは言わないだろうが(いや、返しようもないんだけれど)、やっぱり一学期より下がっていたとしたら、良心の呵責《かしゃく》を感じるというか寝覚めが悪いというか、つまりすっきりしなかったと思うのだ。
「祐巳」
何日かぶりに見る祥子さまは、とても元気そうだった。元気そうだけじゃなくて、もちろんいつものようにお美しかった。
二学期の終業式の日のお昼には、お馴染《なじ》みのクリスマスミサが行われる。
「ごきげんよう、お姉さま」
祐巳は先にお聖堂《みどう》に来ていた祥子さまのもとに駆け寄ると、その横の席にちょこんと収まった。
自由参加のミサであるから、学年ごとクラスごとという席順はない。祥子さまが祐巳のために席を取っておいてくれたのかもしれないけれど、そんな気がなかったとしても、そこには当然祐巳が座るであろうとみんなが気を回して空《あ》けておいてくれたようである。令《れい》さまの隣《となり》も、由乃《よしの》さんのための席があった。
「遊園地では、ごめんなさいね」
あの後、試験休み中に一度電話で話をしたからもうリセットしたっていいのに、祥子さまは律儀《りちぎ》に詫《わ》びの言葉を言った。
「いえ。こちらこそ、お土産《みやげ》までいただいちゃって。清子小母《さやこおば》さまのミルフィーユ、家族でおいしくいただきました」
同じく、電話で話をした時に一度お礼を言ってはいたものの、祐巳も再度「ごちそうさまでした」を述べた。言いながら「小母《おば》さまたちの井戸端《いどばた》会議みたいな会話だな」と思ったけれど、そういう言葉のやり取りをすることが大人の世界なのかもしれない、とも思った。
「祐巳のお母さまからも、お礼のお電話いただいたみたいね。かえって申し訳なかったわねって、母とも話をしていたのよ」
「見た目も綺麗《きれい》だから、うちの母は最初、お菓子屋さんのケーキだって思ったみたいですよ」
「あまり褒《ほ》めないで。母の耳に入ったら、気をよくしてまた大量のお菓子を焼いてしまうわ。そうしたら、責任をとって祐巳に食べに来てもらうわよ」
「喜んで!」
――楽しい。
ミサが始まるまでのほんのわずかな時間でも、二人でクスクスと笑い合える。ただ隣《となり》にいるということが当たり前であることの幸せ。
祥子さまがお姉さまであるということが、うれしかった。
自分が祥子さまの妹だということが、うれしかった。
ひとしきり笑い合った後で、祥子さまが尋《たず》ねてきた。
「試験休みは、何をしていて?」
「えっと」
祥子さま以外の誰かに同じ質問をされたなら、間違いなく「お姉さまと遊園地!」と答えるだろう。けれど本人にそれを言うのは、トンチンカン。
「年賀状を書いたり、編み物をしたり……」
何を編んでいたのか、聞かれたらどうしようと思った。いっそ聞かれたら、今、渡しちゃえ、とも思った。プレゼントを入れた手提げは、お聖堂にだってちゃんと持ってきていた。
けれど、祥子さまは見事に別の単語の方に食いついた。
「ああ、年賀状ね?」
「あ、お姉さまには出さない方がいいんですよね」
今年の初夏、母方のお祖母《ばあ》さまを亡くされたから。
けれど、祥子さまは「そうそう」とポンと軽く手を叩いた。叩いた後でハッとしていたようだが、お聖堂は生徒たちの密やかなおしゃべりの大集合だったから、そんなに音は響かなかった。
「言い忘れていたわ。もし差し支えなければ、祐巳から欲しいの、年賀状」
声を落として祥子さま。しかし「差し支え」があるとしたら、それは祐巳にではなく祥子さまの方にあるのではなかろうか。
「お出ししていいんですか」
「ええ。喪中《もちゅう》ではあるのだけれど、私はまだ子供だし、同居もしていなかったし。大人に混ざって、喪中欠礼ハガキを出さなくていいのではないか、って両親が言うの」
「はあ」
「高校最後の年賀状だから、っていうのもあるのでしょうね。私はどちらでもいいと思ったのよ。それで、亡くなった祖母のことを考えたのね? お祖母《ばあ》さまだったら、どちらが喜ぶかしら、って」
結論は、すぐ出たそうだ。
「お祖母さまは晩年学生時代のことばかり思っていらしたの。私を通じて、女学生に戻っていたのよ。会ったこともない祐巳のことを、友達みたいに思っていて――」
だから年賀状をお祖母さまの写真の前に供《そな》えるつもりだ、と祥子さまは言った。極めつけに、祐巳のを一番上にするというのだから、これはもう責任重大だ。
「ひゃぁ」
恐縮していると、祥子さまは「ふふふ」と笑い、「それで?」と突然ガラリと話題を変えた。
「可南子《かなこ》ちゃんと瞳子《とうこ》ちゃんは、来るって言っていた?」
「は?」
「今日のパーティーに誘ったのでしょう?」
何でそのことを知っているのだ、と一瞬身構えたが、考えてみたら、由乃さんが事前に『祐巳さんが』と言って令さまの了解をとっていたのだ。祥子さまが知っていたって、おかしくはない。むしろ知っていてくれないと困る。
「途中で抜けるかもしれないけれど、出る、と」
「そう」
祥子さまはそうつぶやいたきり、その話題を切り上げた。
祥子さまは、試験休み中に瞳子ちゃんが祐巳の家に来たことを知っているのだろうか、と祐巳は考えていた。自分から言った方がいいのだろうか、と。
遠い親戚《しんせき》だから、もしかして家出したことくらいは、どこかから耳に入っているのかもしれない。それでも祥子さまがそれを口にしないのならば、祐巳はあえて知らない振りをしているべきではないのか。
それとも、まだ何も聞かされていないとか。だったら、報告した方がいいのだろうか。
柏木《かしわぎ》さんも黙っていたことを口にしてしまうのが、正しいことなのかどうかもわからない。
本心を言えば、お姉さまにはあまり隠し事なんてしたくない。けれど、それが自分自身のことでないから、判断に迷うのだ。
迷っているうちに、神父さまが入っていらしたので、取りあえずそのことは棚上《たなあ》げすることとなった。
祐巳たちだけでなく、生徒たちはピタッとおしゃべりを止めたのだった。
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ひょんな事から
ミサは一時間ほどで終わった。
一旦教室に戻って荷物を持って薔薇《ばら》の館《やかた》に行くと、パーティー会場となっていた二階の部屋には、志摩子《しまこ》さんと令《れい》さまが先に到着していた。
「おわっ? 志摩子さんがケーキを作っている!?」
後ろを歩いてきた由乃《よしの》さんが、扉を開けた祐巳《ゆみ》を押しのけながら叫んだ。
そうなのだ。
令さまの指導のもと、今年は志摩子さんがブッシュドノエルにチャレンジしているのだ。
「いったいどうしたの?」
由乃さんが、志摩子さんに尋《たず》ねた。
「ちょっとね。何となくやってみたくなったというか……」
「やってみたく、なった?」
「そうしたら、令さまが教えてくださる、って」
「……ふうん」
由乃さんは素《そ》っ気《け》なくつぶやいてから、そのまま流しの方へ行ってカップの準備を始めた。
祐巳も、後に続いた。電気ポットのお湯はどうかなとか、一杯目はやっぱり紅茶で乾杯だろうな、って茶葉の選択をしたり。
「……」
志摩子さんは「何となく」って言ったけれど、きっと違うんだ、って祐巳は思った。由乃さんもそれに気づいて、それで「……ふうん」とその場を去った。
令さま特製の「市販材料で作る即席ブッシュドノエル」は、もう来年は食べられないから。志摩子さんは、せめて味を引き継ごうとやる気を出したに違いない。これからの日々、事ある毎《ごと》にこんな風に「卒業」の二文字がちらつくのだろうと思われた。
テーブルよし、お湯よし、カップよし、ケーキ現在進行形。さてそうなると。
「今年、七夕《たなばた》飾りどうする?」
祐巳と由乃さんは顔を見合わせた。
「ねえ?」
去年は前|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の水野《みずの》蓉子《ようこ》さまが積極的にチープな飾り付けをしていたけれど、今年もあれをやるべきなのか否《いな》か。令さまに「今年はなしでもいいですよね」とお伺《うかが》いをたてようと思って顔を向けたその時、階段がドスドスギシギシと音をたてた。
「遅くなりましたっ」
部屋に現れたのは、息を切らした乃梨子《のりこ》ちゃんだった。
「ちょっと、手こずりまして――」
遅くなった理由を説明しながら乃梨子ちゃんは、祐巳のもとに真っ直ぐ近づいてきて頭を下げた。
「今朝《けさ》は、申し訳ありませんでした」
「ううん、こちらこそごめん」
祐巳もつられて頭を下げた。
乃梨子ちゃんから声をかけてきてくれてよかった、と思った。あのままでは何となく気まずかったから。気まずい関係を修復しようにも、祐巳には「乃梨子ちゃんの中の譲《ゆず》れないこだわり」が何であるのか結局わからず、どうとりなしたらいいものかと、思案に暮れていたところであった。
「一人?」
「可南子《かなこ》さんと瞳子《とうこ》はじき来ます。途中で|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》にお会いしたので、お任せして私だけ先に」
「ははん」
手こずったのは、乗り気じゃない瞳子ちゃんを連れてくること。ここに向かう途中も消極的な態度をとって、乃梨子ちゃんや可南子ちゃんを困らせたのかもしれない。
「それで」
乃梨子ちゃんはいったん部屋を出て、ドアを開ける時に床に置いたと思《おぼ》しき荷物を取って戻ってきた。それは、一辺が五十センチほどの段ボール箱だった。
「|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》が、一階の部屋の前に置いてある箱を二階に運ぶようにおっしゃられて。これですよね?」
その箱には、極太《ごくぶと》マジックで「クリスマスパーティー用」と大きく書かれていた。
「ああ――」
お懐《なつ》かしいこの筆跡は。間違いなく、水野蓉子さまのお手によるもの。
中身は見ずともわかった。例の、去年作った七夕《たなばた》もどきクリスマスパーティー飾りの数々が、一年間の沈黙を破って今ここに戻ってきたのであった。
「おおっ、これは」
「まあ、まだあったのね」
ケーキ作りを一時中断して何だ何だと覗《のぞ》きにきた令さまと志摩子さんも、一目みるなり感嘆《かんたん》の声をあげた。
祥子《さちこ》さまが乃梨子ちゃんに運ぶよう指示したということは、もうこれを無視することはできない。
祐巳は段ボール箱の蓋《ふた》を開いて、中から厚紙の王冠とかイカリングのような鎖《くさり》とかを出し始めた。
しかし、まさかこれを大事に保存していたとは。それを覚えていて、いつの間にか探し出しておいたとは。
恐るべし、祥子さま。そして、そんなことをさせちゃう蓉子さま。
「……ものすごいセンスですね」
乃梨子ちゃんが、一緒《いっしょ》になって飾り付けをしてくれた。令さまと志摩子さんはケーキ作りに戻っている。そして由乃さんは。
「可南子ちゃんたち、じき来るの? それじゃ、私も」
なんて、そわそわしながら部屋を出ていく。たぶん、有馬《ありま》菜々《なな》さんを迎えにいくのだ。
「ふう」
何だか、祐巳は他人事《ひとごと》ながらドキドキした。そうしたら、ちょっと離れた所で、やはりため息が聞こえてきた。
「……由乃のやつ」
令さまはテーブルに手をついたまま、もう一度大きく息を吐いたのだった。
菜々を迎えにいこうと薔薇《ばら》の館《やかた》を出た所で、祥子《さちこ》さまと会った。
祥子さまは、瞳子《とうこ》ちゃんと可南子《かなこ》ちゃんを連れている。
「ごきげんよう、皆さま」
由乃《よしの》はまずご挨拶《あいさつ》をした。よしよし、二人ともちゃんと来た。これで、菜々を連れてくるための環境は整った。
「ごきげんよう、| 黄薔薇のつぼみ 《ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン》」
「ごきげんよう、由乃さま」
可南子ちゃんはにこやかに、瞳子ちゃんは素《そ》っ気《け》なく挨拶を返す。何か「仕方なく来ました」の雰囲気《ふんいき》満々だ。可南子ちゃんと乃梨子《のりこ》ちゃんのつないだ手が、実状を物語っている。いや、つないでいるのではない。一方的に可南子ちゃんが握っているのだ。逃げないように。
「どこに行くの?」
祥子さまが尋《たず》ねた。
「ちょっと、迎えに」
由乃はこの時「誰を」とは言わなかったけれど、祥子さまも「誰を?」とは聞かなかった。
「そう、ご苦労さま。みんなもう来ていて?」
「うちのお姉さまと、志摩子《しまこ》さんと祐巳さんとあと乃梨子ちゃん。……はさっきまでご一緒《いっしょ》だったからご存じですよね」
祥子さまはうなずき、それから思いついたように言った。
「じゃあね、どこかで蔦子《つたこ》さんに会ったら、声をかけて。のんびりしていたら、始めちゃいますよ、って」
「了解しました」
と、請け合って歩き出したものの、蔦子さんには「どこか」で会わないかもしれないな、と由乃は思った。
今頃はきっと誰かに捕まって、マリア像の前とかで写真撮影会になっているに違いない。
終業式というのは、長いお休みに入る前日というだけで、告白したり姉妹《スール》の契《ちぎ》りを結んだりが多くなる。特に二学期の場合、クリスマスということと今年最後ということで、否《いや》が応《おう》にも盛り上がっちゃうわけである。
校舎に入ってかなり経ってから、由乃は気がついた。
そういえば祥子さまは、由乃が呼びに行った相手が蔦子さんじゃないって、どうしてわかっていたのだろう。
中等部校舎は、ガランとしていた。
由乃が教室の扉を開けると、菜々は一人でぽつんと席に着いていた。
「ごめん。待ちくたびれた?」
「はい」
図書館の本から顔を上げた菜々は、すでにコートを着て、手袋まではめている。いつでも出られるように準備していたわけではなく、寒かったからだってことは、教室の中に入ってすぐにわかった。
暖房が消されてから、かなり経っている。廊下《ろうか》だって寒いけれど、由乃は早足で歩いてきたからあまり気にならなかった。でも、広い空間に一人で椅子《いす》に腰掛けているには、確かにここは寒かろう。
「もしかしたら、ホームルーム終わってからずっといたの?」
「いえ。時間つぶしに、ミサには出ました」
「え? 気づかなかった」
「私は由乃さまに気づきました」
「あ、……そう」
たとえ気づいたとしても、声なんてかけなかったと思うから、由乃は「水くさい」なんて言えた義理じゃなかった。あの時|隣《となり》には令《れい》ちゃんがいたんだし、それなのにあえて菜々に声をかけたなら、せっかくここまで積み上げてきた、クリスマスパーティーで紹介するという段取りが台無しになってしまう。ただでさえ、フライングで「森の中のホテル」で令ちゃんに菜々の顔を見られちゃってるんだから。
「お気づきにならなくて当然です。高等部のお姉さまたちに遠慮《えんりょ》して、中等部の生徒は後ろの方でひっそりと参列するものなんですから」
「あ、そうなの?」
中等部の頃は、ミサなんて出たことがなかった由乃である。心臓の手術をする前は、自ら選んで長時間寒い場所にじっとしているなんてことは、考えられなかったから。もちろん、暑い所も避けていた。でも、そんな過去、もう遙《はる》か昔のことのように思われた。
「行こうか」
「はい」
菜々は、手袋を取ってコートを脱いだ。
「あー、ドキドキする」
言ったのは由乃の方である。菜々ではない。
「なぜ、由乃さまがドキドキを?」
私ならともかく、と菜々は首を傾《かし》げる。プレッシャーに耐えきれず、思わず口走ってしまった言葉を、聞き逃してはくれなかった。
[#挿絵(img/22_099.jpg)入る]
「えっ。だって、あの、やっぱり私が菜々を連れていくわけだし。みんなに何て言って紹介したら……とかね」
「それって、そんなに難しいことなんですか?」
嫌味も計略も何にもくっついていない素朴《そぼく》な疑問は、ある意味罪だ、と由乃は思った。答える側のこちらだって、おまけに何にもついていない答えを返すしかないからだ。
「いや、そんなことはない……けど」
由乃は無理してほほえんだ。
そう。少なくとも令《れい》ちゃんには、菜々のことをどう言ったらいいかわかっている。
お手合わせでしょ、お手合わせ。令ちゃんと剣道のお手合わせをしたがっている、中等部の生徒。
「悩むほどのことじゃなくて。どうしようかな、くらいのことよね」
でも、薔薇《ばら》の館《やかた》で待っている全員が「令ちゃん」なわけじゃない。剣道の経験者だってほとんどいない。その人たちだって、菜々が何者なのか知りたがるに決まっている。
例えば由乃と菜々の間に、将来姉妹になるという約束がされているなら話は簡単なのだ。妹として、皆さんにお披露目《ひろめ》すればいいだけのことだから。
けれど、何だこの関係。
菜々は、中等部の中で由乃が一番気になっている生徒かもしれないけれど、他に二人の関係を簡潔に表せる単語が探せない。
ドキドキするのは、みんながどう反応するかがわからないから。
ドキドキするのは、菜々がどういうつもりでいるかわからないから。
「はあ。どうしようかな、でドキドキですか……」
けれど、そんな由乃の胸の内なんて、菜々にはまったくうかがい知れぬことなんだろう。
「じゃ、聞くけれど。菜々は、どうして自分ならともかくなわけ?」
由乃がドキドキするのはおかしいけれど自分なら当たり前と言っているわけだから、それなりの理由を聞かせてもらいたいものだ。
「薔薇の館は、中等部の生徒からすれば近寄りがたい場所ですもの。高等部の生徒会長たちが勢揃《せいぞろ》いなさっているのでしょう? 臆《おく》して当然です」
ホームとアウェイ、みたいなことを言っているらしい。
「そうは見えないけれど」
「ですから、私ならともかく、なんです」
「なるほど、一般論なわけだ」
「ええ」
何のプレッシャーもない菜々が、由乃にはうらやましくも憎たらしくもあった。だって、ドキドキしないということは、軽い気持ちで薔薇の館のパーティーに出向くという意味に他ならないから。
だから試験休み中、さんざん迷ってやっとかけた電話で「パーティーに来ない?」と告げた時、よく考えもしないで「行きます」と返事をしてしまえたのだろう。由乃なんて、眼中にないのかもしれない。
菜々にとって、薔薇の館でのクリスマスパーティーは、きっと彼女の言うところの、アドベンチャーの一つでしかないのだ。
「行くよ」
由乃は再度口に出して言った。
菜々に伝えるというより、自分に気合いを入れるために。
行け行け、GOGO。
すでにスタートのピストルは鳴っている。だったら後は、ゴールのテープ目指して走りきるだけでしょうが。
取りあえず、集合写真を撮っちゃいましょうか。
そう、蔦子《つたこ》さんが言った。
祥子《さちこ》さまが二人の一年生を連れて部屋に入ってきて、片方はすっごくテンションが高くて、もう片方はそのお隣《となり》さんに精気を吸い込まれてしまったかのように無愛想という、迎える側の人間たちがどちらに合わせていいものか迷って一瞬空気が固まった直後に、写真部のエースは登場した。
「ごきげんよう、皆さま。遅くなってしまってごめんなさい。今年もお招きありがとうございます。私、最後ですか? 違うわね、由乃《よしの》さんの姿が見えないもの」
「由乃……」
令《れい》さまの表情が、糸をピーンとはったような緊張感を浮かべたまさにその時、そのご本人がお客人を連れて現れた。
「お待たせいたしました……あれ?」
由乃さんは予期していた空気とは違っていたのか、ちょっと怯《ひる》んだ。少なくとも、ここに来る前に彼女がイメージしたであろうこの部屋の様子とは、まったく合致《がっち》していなかったのであろう。
「あ、……あの?」
お客人を紹介するべきタイミングを逸した瞬間、頭の中が真っ白になったみたいに由乃さんは立ち往生《おうじょう》している。
がんばれ、由乃さん。
お客人の有馬《ありま》菜々《なな》さんは、連れてきてくれた由乃さんが立ち直るまでは、何もできずに困っているぞ。
「……」
とはいえ。実のところ、心の中でエールを送っている祐巳《ゆみ》も、何をどうしたらこの変に淀《よど》んだ空気を気持ちよく循環《じゅんかん》させることができるのか、わかっていない。
電気のオン・オフみたいな組み合わせの可南子《かなこ》ちゃん瞳子《とうこ》ちゃんを、まずはちゃんと迎えるところからやり直すか?
しかしそうなるとその間、由乃さんが連れてきた、仲間内ではほぼ初対面の中等部生徒を、放置することになる。
どちらかというと、みんなの注目はそっちに集中しているのに? そんなの変だ。
それとも、全員まとめてウェルカム? でも、最初からそうするならまだしも、今更《いまさら》、そんな大雑把《おおざっぱ》にまとめていいの?
さあ、どうしたものか。
皆、それぞれに思案しながら、他の人の出方を見ている。下手《へた》に突っつくと、ますますこんがらがっちゃいそうだ。
そんな時、蔦子さんが言ったのだ。
「それじゃ。取りあえず、集合写真を撮っちゃいましょうか」
「え?」
それじゃ、って。この状況で? 祐巳は、蔦子さんの顔を見た。
「ほら、途中でパーティーを抜ける人がいるかもしれないじゃない。それに、こういうちょっと緊張感がある写真がいいんだな、集合写真って。それとも、まだこれから誰かいらっしゃる?」
二、四、六、八……全部で十人。遅刻者はいない。首を横に振ると、蔦子さんは「結構」と手を叩いた。
「まずそこに二列に並んでもらいましょうか。薔薇さま三人と可南子ちゃん、あと祐巳さんまでが後ろ。名前を呼ばれなかった方は前の方に来てください」
テキパキと指示をだす。
「あ、前列はちょっと腰をかがめてください。はい、結構です」
でもって皆さんは、素直にその場で二列になった。とにかく動いて、停滞した空気をかき混ぜないと。
菜々さんなんてほとんど「この人誰?」状態だったんだけれど、間隔《かんかく》を詰めたり背の高さを合わせたりしているうちに、何となくみんなと言葉を交わしたりしていい雰囲気《ふんいき》になった。
瞳子ちゃんだって、さすがに仏頂面《ぶっちょうづら》ばかりもしていられない。
それを見てちょっと安心したのか、可南子ちゃんが弾《はじ》けんばかりの笑顔をほんの少しゆるめて、密やかに息を吐いた。
「可南子ちゃん」
祐巳は隣《となり》を見ずに、顔をカメラに向けたまま小声で言った。
「ありがとうね」
「え?」
「いろいろ」
予定があったのに、来てくれてありがとう。
瞳子ちゃんを引っ張ってきてくれてありがとう。
「あー、でも。ちょっと、らしくなかったかな、って」
少し前の自分を振り返って、可南子ちゃんはボソリとつぶやく。
「うん。可南子ちゃんのキャラじゃないよね」
でも、その気持ちがうれしいじゃない? 祐巳は前列の人の陰で見えないのをいいことに、可南子ちゃんの手を握った。
「では、撮りまーす。皆さん私の手の辺りに注目してください。あー、一旦瞬きしてみましょうか。はい、いいですよ。ではカシャッ」
蔦子さんは続けてシャッターを二回押して、「お疲れさまでした」と言った後でもう一度カシャッとやった。緊張がゆるんだ瞬間が、また「いい」らしい。
祐巳と可南子ちゃんは手を離して、笑った。可南子ちゃんの笑顔は、さっきとはうってかわってナチュラルでとても魅力的だった。
集合写真のために作った人のかたまりが自然にほどけていくと、祥子さまが言った。
「席順はくじ引きにしようと思っていたのだけれど、どうしましょうか」
その場にいる全員の意向を聞こうというより、それは主に由乃さんに向けられた質問だった。
「くじ引き……」
由乃さんは菜々さんを見た。この集団の中では、由乃さん以外ほとんど面識がないと思われる菜々さん。由乃さんの側にいた方が安心なのではないか、という配慮《はいりょ》から祥子さまは聞いたのだから。
「私は構いません」
菜々さんは、意外にサバサバと答えた。肝《きも》が据《すわ》わっているというか、動じないというか。中学生にしては、しっかりしている。
祥子さまもそう思ったのか、彼女を眺めながら「結構」と満足そうにうなずいた。
「それじゃ、席が決まってから自己紹介をすることにしましょう」
というわけで、当初の段取り通り、祐巳はテーブルにそれぞれトランプを一枚ずつ伏せて並べていった。席の数だけだから、ちょうど十枚。クローバーの|A《エース》から10[#「10」は縦中横]までである。
次に由乃さんが、上に丸く穴の空《あ》いた箱の中にハートのAから10[#「10」は縦中横]までのカードを入れて上からハンカチをかける。
「こちらから、一枚引いてもらいます」
ハンカチをくぐってトランプを一枚ずつとっていき、テーブルの上のカードと同じ数字を持っている人がその席の主となるわけである。
「確率は同じなんだから、そっちの端《はし》から順に引いていって」
令さまが菜々さんに言った。お客さんに気を遣ったのかな、と祐巳は思った。年の順だと菜々さんが最後になってしまうだろうし、こっちの端からだとやっぱり菜々さんが最後になっちゃう。
残り物には福、かもしれないけれど、やっぱり最後の一枚が手もとに来るより、自分で選ぶ方がくじ引きに参加した感があるから。受動より能動。その心遣いは結構大切。しょっちゅうこういった集まりに参加しているメンバーにとっては、そんなに大したことではないけれど。
祐巳は、そっと令さまの後ろについてみた。すると。
「なーに、気を遣ってるの祐巳ちゃんは」
と、前に出されてしまった。やっぱり、そういうことか。
「お気持ちはありがたいけど、私は最後じゃないしね」
「へ?」
「あれ」
指をさす先には、箱を持って回る由乃さん。
「途中で自分の分を引くわけにいかないよね」
「あー」
なるほど。祐巳は、「納得」と大きくうなずいた。
由乃さんも途中で気づいたらしく、ちょっと渋い顔をした。でも、先に令さまが言ったように確率は同じはずなんだから、菜々さんの直後に由乃さんがカードを選べたとしても、必ず隣《となり》を引き当てられるわけではないのだ。それでも由乃さんのことだから、情熱で運命を引き寄せてしまうつもりだったのかもしれない。
祐巳が引いて、令さまが引いて、最後のカードを由乃さんが引き受けた。みんな自分のカードや隣の人のカードを眺めているけれど、数字が隣り合っているからといって席が近いとは限らない。
全員行き届いたので、祐巳はテーブル所まで戻った。
「それじゃ、テーブルのカードをめくっていきます。まず、こちらの席――」
楕円形《だえんけい》のテーブルだから、どこからめくってもいいのだろうけれど、一応細くなっている場所、いわゆる「お誕生席」から手をつけた。クローバーの4だ。
「ハートの4をお持ちの方は」
「……はい」
由乃さんが手を上げた。最後に引いて最初に席が確定するという皮肉。由乃さんの場合、少しずつ席順が決まる中で、「あの席に座れたらいいのに」なんていうワクワクした楽しみは、これでなくなったわけである。
「次は3のカードをお持ちの方」
祐巳は逆時計回りに歩いていった。
「はい……」
由乃さんとどっこいどっこいのローテンションで、瞳子ちゃんが返事をした。そしてこの時点で、由乃さんの右隣は埋まったわけである。残る左隣は、最後に判明する。
「次は」
カードに指をかけながら、祐巳は「5かな」と思った。5は祐巳の持っているカードだった。特に根拠はないけれど、先日瞳子ちゃんは家に来てくれたし、何となく二人が接近する運気なのではないかと勝手に思ったのである。
でも。
「――クローバーの7」
何となく、は当たらないことも多い。
5かな、の席は実際は7で、それは志摩子さんが手にしたカードの数字だった。
志摩子さんの隣、6の席は可南子ちゃんが、その隣2には祥子さまが座った。そしてもう一つのお誕生席である8の席は。
「はい」
菜々さんが着くことになった。
(菜々《7》なのに8の席とはこれ如何《いか》に?)
頭の中に浮かんだ問答に、祐巳が一人笑いをかみ殺していると、遙《はる》か向こうの席で由乃さんが、ショックでテーブルに突っ伏しているのが見えた。
最後のカードを引くまでもなく、由乃さんの隣《となり》の席は菜々さんでないことが確定した瞬間である。そして、そこは真正面とはいえ、距離的には一番遠い場所なのであった。
菜々さんの隣は皮肉にも5のカード、つまり祐巳の席だった。
(取り替えられるものなら、取り替えてあげたい)
が、それをやってはくじ引きで席を決めた意味がなくなってしまうわけで。それなら、最初から「○○さんの隣がいーい」でよかったのだ。
気の毒とは思いつつも、祐巳は仕事を続行した。祐巳の隣は9のカードの令さま、その隣は乃梨子ちゃんで10[#「10」は縦中横]、最後由乃さんの左隣はAを持っていた蔦子さんに決まった。
(うまくいかないな)
くじ引きとは、そういう平等なものである。そしてうまくいかないといえば、蔦子さんがAのカードを引いていたこと。
もし別のカードだったら「写真部のエースなのに○のカードを引くが如し」と、先の問答をうまくまとめることができたのに。
全員が席に着いたところで、まずは紅茶で乾杯をして、パーティーは始まった。
「簡単な自己紹介と、近況を一言。試験休み前後に何かあった人は、この場を借りて報告してください。もちろん、内緒《ないしょ》にしたい事なら言わなくてよし。さて」
祥子《さちこ》さまが「どちら側から始めましょうか」と見回したところで、蔦子《つたこ》さんが勢いよく「はいっ」と手を上げた。
「お許し願えるなら、私から」
「あら、蔦子さんは積極的ね」
「本音を言わせていただければ、自分の分をさっさと済ませて自由に写真を撮りたいのです。あのー、全員の自己紹介が済むまで、着席していないとだめでしょうか」
蔦子さんがさっきからカメラを構えたくてムズムズしているのだということは、その忙《せわ》しなく空のシャッターを切る指の動きで、何となく祐巳《ゆみ》にもわかっていた。
だが。
「そうね。自己紹介までは座っていてちょうだい」
即、冷ややかに却下《きゃっか》。祥子さまは厳しい。
それでも一度名乗り出たからにはと、蔦子さんは自己紹介を始めた。
「二年|松《まつ》組|武嶋《たけしま》蔦子です。写真部所属。えー、薔薇《ばら》の館《やかた》のクリスマスパーティーは、去年に引き続き二回目の参加になります。たった今|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》よりお許しが出ましたので、この自己紹介タイム終了とともに、カメラマンに徹する所存です。やたらカシャッカシャッとやることになりますけれど、皆さまお気を悪くなさらないように。ご本人の許可なくして外部に漏《も》れることは一切《いっさい》ありませんので、ご安心ください。あ、試験休み前後に、特に変わったことはありませんでした。以上」
「妹ができたとか、そういう話は?」
祥子さまが、質問した。ある意味、代表してという感じ。だって、薔薇さまたちとつぼみたちは、内藤笙子《ないとうしょうこ》ちゃんと蔦子さんがいったいどうなっているのか、気になっているのである。すると、蔦子さんは。
「ないです」
きっぱり。言い切って着席した。なーんだ。方々から、ガッカリのため息が漏《も》れた。
時計回りということで、次は乃梨子《のりこ》ちゃんが席を立った。
「| 白薔薇のつぼみ 《ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトン》の二条《にじょう》乃梨子です。趣味は仏像鑑賞。期末試験が終わったら、仏像鑑賞の小旅行をしようと思っていましたが、行きそびれて延び延びになっています。何事も予定通りにはなかなかいかないものだと、あらためて感じている次第です」
楽しみにしていた小旅行に行けなかった割には、サバサバしている。行きそびれた理由が何か知らないけれど、またすぐに行く予定があるのかもしれない。明日から冬休みだ。
乃梨子ちゃんの後は、令《れい》さまの番だ。
「|黄 薔 薇《ロサ・フェティダ》の支倉《はせくら》令です。うーん、何かあるかな。所属は剣道部。ですが活動は、実質今年いっぱい、になりそうです。籍は置いてあるのでチョコチョコ顔と口と竹刀《しない》は出すかもしれないけれど。あ、そうだ。最近、ひょんな事から年下のボーイフレンドができました。お終《しま》い」
「ボ……っ!?」
聞き捨てならない言葉にギョッとして、祐巳は由乃《よしの》さんを見た。志摩子《しまこ》さんも、乃梨子ちゃんも、可南子《かなこ》ちゃんも、蔦子さんも。とにかく、令さま本人ではなくて、みんなの視線は一斉に由乃さんに集中した。
その、注目の由乃さんであるが。
もちろん令さまから事情を聞かされているらしく、特別過激な反応はしていなかった。ただ、その話題に関してはもううんざりしているようで、「私には関係ありません」といった感じでそっぽを向いている。
「その方、おいくつだったかしら?」
祥子さまが、令さまに尋《たず》ねた。尋ねたというより、フォローの手を差し伸べたといった方が適当だろうか。
「十歳かな」
「――は?」
つまり、令さまは軽い気持ちで年下のボーイフレンドと報告したのだけれど、お相手の実体を把握《はあく》していない人たちにとってはどれくらいの年下加減なのかわからず、結構な驚きをもって受け止めてしまったわけである。すわ恋人候補出現か、と。
そこで祥子さまが、両者の感覚の段差を均《なら》すために、「彼」の年齢を聞いたのだ。
「十歳……」
一瞬にして、「なーんだ」という空気に変わる。そして、「なーんだ」の後は「いや、待てよ」に。
いや、待てよ。今は十歳かもしれないけれど、十年経てば二十歳。その時、令さまが二十八歳として……まったく「なし」の話でもないのではないか。
でも、当の本人はそんな気は全然ないようで。「小学生じゃね」なんて、カラカラ笑っているようだからやっぱり「なし」か。
それにしても。
フォローに回った祥子さまは、令さまから事前に聞かされていたということになる。やきもちとはちょっと違う、祥子さまと令さまの間にある友情は、姉妹の情とは別の糸でしっかりつながっているんだな、というような感慨を祐巳は覚えていた。
「はい。次、祐巳ちゃん」
令さまが着席しながらハイタッチのポーズをとるので、待っている手の平に自分の手を伸ばしてパチンと触れると、自然に立ち上がっていた。
「えー、二年松組|福沢《ふくざわ》祐巳です。| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》です。えっと」
さて、困ったぞ。次が出てこない。
日頃より、親友から自己紹介|下手《べた》との指摘を受けている。でも、いったい何を言ったらいいんだ。すると、右隣の令さまが小声でヒントをくれた。
「休み中にあったこと」
「あ、休み中にあったこと……、休み中、休み中」
思い出そうと視線を漂わせると、瞳子《とうこ》ちゃんと目があった。でも、瞳子ちゃんの家出は、やたらめったら言っていい類《たぐい》のものではない。
「遊園地は行ったの?」
テーブル越しに、志摩子さんが尋《たず》ねてきた。
「あ、行った、行きました。それで、帰りにお姉さまのお宅に寄って、お土産《みやげ》にミルフィーユまでもらっちゃいました。お姉さまのお母さまの手作り。おいしかったなー」
休み中の思い出が「おいしかったなー」に集約されているようで、ちょっと恥ずかしかったけれど、みんなの視線が「おいしかったのなら、よかったね」という温かいものだったので、「以上」と、そこで自己紹介を終了した。
そうなると、次はメインともいうべき有馬《ありま》菜々《なな》さん登場である。
菜々さんは次は自分の番であると理解すると、すっくと立って言った。
「中等部三年の有馬菜々と申します。この度《たび》は、ご招待ありがとうございました」
思ったより「中等部」と言った時の周囲の反応が大きくなかったのは、すでに制服の違いでみんなわかっていたからだろう。
「なぜ中等部の私がこの場に同席させて頂《いただ》いているかと言いますと、ひょんな事からそちらにいらっしゃる島津《しまづ》由乃さまとお知り合いになりまして、パーティーの話を伺《うかが》って是非《ぜひ》ともお連れ頂きたいとお願いした次第です」
ここでもまた、登場しました「ひょんな事」。
祐巳は、令さまが年下のボーイフレンドとお近づきになるきっかけとなった「ひょんな事」は知らないが、由乃さんが菜々さんと知り合った時の「ひょんな事」なら知っている。
前|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》である鳥居《とりい》江利子《えりこ》さまに妹を紹介すると豪語して引くに引けなくなった由乃さんが、江利子さまから逃げ回っている時にたまたま目の前にいた女の子を、ダミーで妹に仕立て上げた。それが菜々さんだって話だ。
だが、そんなことを口にすることははばかられるから、菜々さんはそこの部分に「ひょんな事」と入れる。ひょんな事。実に便利な言葉だ。
祐巳がそうこう考えている間に、菜々さんの自己紹介は締めの言葉にさしかかっていた。
「若輩者《じゃくはいもの》でありますし、高等部のことには明るくないため、不調法《ぶちょうほう》があるかと存じますが、何とぞご容赦《ようしゃ》の上、ご指導の程をよろしくお願い申し上げます」
中等部の生徒にしては、しっかりした挨拶《あいさつ》ができるものである。みんなが感心する中、礼、着席。
続いては、祥子さまの自己紹介。
「|紅 薔 薇《ロサ・キネンシス》の小笠原《おがさわら》祥子です。そうね。先程祐巳が遊園地に行ったという話をしていましたけれど、一緒《いっしょ》にいたのはもちろんこの私です。その日はちょっとアクシデントもありましたが、とても楽しかったです。また行こうという計画があるので、今度は皆さんもご一緒にいかがですか」
「是非《ぜひ》」
祥子さまが最後の「か」を発するより先に、蔦子さんが元気よく返事をした。何てわかりやすい人だろう。蔦子さんの場合は、ご一緒に楽しむのではなく、ご一緒に楽しんでいる面々を写真に撮ろうという魂胆《こんたん》なのだ。
「いいわよ。でも蔦子さんの場合、フィルムの本数の制限つきね」
「えっ」
「写真を撮ってばかりじゃ、楽しめないわよ」
祥子さまが笑った。いっそ、カメラの持ち込み自体を不可にしようかしら、と。しかしそうなると、蔦子さんは今度は隠しカメラの研究を始めると思うんだけれど。
お次は、可南子ちゃん。
「一年|椿《つばき》組、細川《ほそかわ》可南子です。学園祭では、山百合会《やまゆりかい》の劇に参加させていただき、とてもいい思い出になりました。あの後すぐにバスケットボール部に入部いたしまして、日夜ボールを追いかけています。何だか、また身長が伸びたような気がしますが、怖いのでまだ計っていません」
ここ、笑っていいところかな、って迷うコメントだけれど、可南子ちゃん本人が笑顔だったので、祐巳は遠慮《えんりょ》せずに思い切り笑った。そうか、身長伸びちゃったんだ。でもって、計るの怖いわけね。だけど、バスケ選手だったら、むしろ歓迎されることじゃない?
「|白 薔 薇《ロサ・ギガンティア》の藤堂《とうどう》志摩子です。最近、ひょんな事からお菓子作りに興味を持つようになりました」
志摩子さんの「ひょんな事」は、たぶん無意識のうちにつられたものと思われる。しかし、お菓子作りに興味をもつきっかけになるような「ひょんな事」っていったい何だろう。考えているうちに、瞳子ちゃんが立ち上がった。
「一年椿組|松平《まつだいら》瞳子です。演劇部所属」
「それだけ?」
そのまま座ろうとする瞳子ちゃんに、可南子ちゃんが言った。咎《とが》めるというより、むしろ「もう少し話を聞かせてさしあげたら」的なアドバイスだった。すると瞳子ちゃんは。
「『お坊ちゃま、私は結構でございます』」
わずかな時間の間に、ガラリと表情を変化させてから言った。
いったい何が起こっているのか、すぐにはわからなかったけれど、やがてお芝居《しばい》の一シーンを演じているのだと気づく。
視線が、少し下に向いている。瞳子ちゃんは今、自分よりも小さい誰か、――たぶん「お坊ちゃま」の話を聞いている。
季節は冬だ。瞳子ちゃんは凍えている。手に提げているのは、買い物|籠《かご》だろうか。
(遠慮《えんりょ》しないでとってくれなきゃ。僕は今夜、君みたいなかわいそうな子を見つけたら、これをあげようと思っていたんだからね)
突然、そんな言葉が心に浮かんだ。と同時に、瞳子ちゃんの背後にヨーロッパの街並みが広がる。
わかった。『小公女』だ。
「『まあ、聖夜の習わしで貧しい子供に施《ほどこ》しをしようとなさいましたのね? ありがとうございます。お坊ちゃまはなんてご親切なお方なのでしょう』
瞳子ちゃんは微笑を浮かべると、手を伸ばして何かを受け取った。たぶん、コインだ。お坊ちゃまの、満足そうにうなずく様子さえ見えてくるようだ。
瞳子ちゃんは、機嫌よく馬車に乗り込むお坊ちゃまを見送ってからつぶやく。
「『仕方ないわ。服はこんなにボロボロだし、いつもお腹《なか》をすかせているし。かわいそうな子に間違われたって……』
無理に笑おうとして、グッと喉《のど》を詰まらせる。迫真の演技。ああ、何てかわいそうなセーラ。
しかし。
「こんなものでいいかしら、可南子さん」
プツッ。
瞳子ちゃんはテレビのスイッチを切るように、セーラ・クルーから突然日本の高校生に戻ってしまった。
「特にご報告することもないので、ご挨拶《あいさつ》代わりに。お目汚しをいたしまして」
笑みゼロパーセントの表情でペコリと頭を下げて、今度こそ着席。我に返った観客、もといパーティー出席者は、拍手を送った。
瞳子ちゃんは、やはりすごい女優だ。わずか二分かそこらの時間で、観る者を惹《ひ》きつけてしまう。
「こう盛り上がっちゃうと、後から出ていく者はとてもやりづらいわね」
ぼやきながら、由乃さんが立ち上がった。
「島津由乃。シマは日本列島《にほんれっとう》の島、ヅは甘栗で有名な天津《てんしん》の津、ヨシは自由《じゆう》の由、ノは乃木《のぎ》大将の乃。染井吉野《そめいよしの》のヨシノではありません」
何を今更、姓名の漢字から説明しているんだ、って。聞きながら祐巳は思ったけれど、そのうち由乃さんがただ一人のために言っているのだってことがわかった。
由乃さんは、一番遠くにいる菜々さんの顔だけを見ていた。そして菜々さんは、由乃さんの期待通り、その説明の何カ所かで確実に笑っていたのだった。
令《れい》ちゃんと志摩子《しまこ》さんの共同制作である、手抜きブッシュドノエルは、去年も思ったけれど手抜きの割にはとてもおいしかった。
食べている間は席を立てないから、近場の席同士で懇談《こんだん》するくらいしかできない。だから、由乃《よしの》は仕方なくちまちまとケーキを突っつく。早くフリータイムにならないかしら、と思いつつも、一番最初にケーキを平らげてしまうのは、その意図を見透かされそうで嫌だった。
――由乃ちゃん(または「さん」、あるいは「さま」)は、すぐにでも菜々《なな》さんの所に行きたいのね、みたいな。
本当のところ、本人以外、誰もそんなことを考えていないのだ。みんな、和《なご》やかに会話を楽しんでいる。
右隣の瞳子《とうこ》ちゃんを見れば、志摩子さんと何やら真剣な話をしていて、とても途中から加われる雰囲気《ふんいき》ではない。
そのまま視線をスライドしていくと、可南子《かなこ》ちゃんが祥子《さちこ》さまに向かって何かを告げている。こちらはそれほど深刻な話ではなさそうだが、残念ながら席が遠すぎて、内容までは由乃のもとまでは届かなかった。
由乃は諦《あきら》めて、今度は左側を見た。隣の蔦子《つたこ》さんは、さっさとケーキを食べ終えて、カメラの準備に取りかかっている。すごいご機嫌。鼻歌交じりだってこと、本人は気がついているのだろうか。
そこから先、乃梨子《のりこ》ちゃん、令ちゃん、祐巳《ゆみ》さんそして菜々までは、横につながった四人で、ワイワイやっていた。
菜々ったら。
「えー、本当ですか」
だって。何が、「本当」なんだか。
(あーあ)
由乃は面白くなかった。何だ、自分がいなくても菜々は平気なんだ、って。そんな風に思えたのだ。
それにしても、何の話題で盛り上がっているのか。
気になるなら蔦子さんを乗り越えて首を突っ込めばいいのだろうが、そんなのシャクだった。
途中、祐巳さんが「由乃さん……」と言いながらこちらを見た。
それは、由乃のことを呼んだというより、「由乃さんは知っているの?」とか「由乃さんも聞きなさいよ」みたいなニュアンスだったと思う。つまり、仲間に加わるきっかけを作ってくれたのだ。
だから、話に入るならこのチャンスだった。
しかし、すでにちょっぴり捻《ひね》くれていた由乃は、もったいなくも親友の差し伸べてくれた手を、振り払ってしまったのだ。今更、無邪気《むじゃき》に話の輪に入れてもらわなくたっていいもんね、ってな具合である。
何となく大きな声を出したくて、「お茶のお代わりいる人ー」なんて叫んでみた。
一瞬だけみんなの会話が止まり、「はーい」とか「お願いしまーす」とかいう声とともにパラパラと手が上がる。
そしてまた楽しく会話の続きを始めるんだな、と思ったら、菜々が「お手伝いします」と言って、流し台に向かう由乃の後に続いた。乃梨子ちゃんも立ち上がりかけたけれど、菜々を見て遠慮《えんりょ》したのかすぐに着席した。
「ずいぶん楽しそうじゃない」
これは嫌味だ、と自覚しながら言わずにいられない。でも、菜々はそれを「嫌味」と正しく理解していないようで、「ええ、楽しいです」と笑顔で答える。
「それはよかったじゃない。お楽しみのところ、手伝わせて悪かったわね」
ピリピリ、チクチク。嫌味が止まらない。何だか自分がサボテンみたいだ、って由乃は思った。
「あ、でも私、お話ししたいと思っていたんで、いいきっかけです」
カップを回収してきた菜々が、無邪気に言う。
「え?」
「だって、残念ながら由乃さまと席が離れてしまいましたでしょう?」
「私と? 話をしたかったの?」
菜々の言葉を聞いて、由乃はサボテンの棘《とげ》が真綿《まわた》でくるまれていくような気分になった。
何、この快感。
お話ししたい、って? 残念ながら、って? 菜々だって、ちゃんとこっちを気にしていたんじゃない。
しかし、由乃はそこで自分に言い聞かせた。だめだめ、こんな言葉で酔いしれちゃいけない。
「ええ。由乃さまにお聞きしたかったので」
本人は無自覚なのだろうが、菜々は、人を持ち上げておいて落とすのがうまい。
「いつ、支倉《はせくら》令さまに例の話をしてくださるんですか」
――ほら。
言わんこっちゃない。
由乃はティーポットの中に、茶葉を乱暴にぶち込んだ。
気づかないうちに、可南子《かなこ》ちゃんの姿が消えていた。
ケーキを食べ終え、何となく席もばらけて、ちょっとしたリクリエーションタイムに突入してからは、誰がどこにいるのかなんて一々気にならなくなっていた。薔薇《ばら》の館《やかた》から出て校舎まで行かなければお手洗いはないから、そっと部屋を出てまた帰ってくるなんてことも随時《ずいじ》行われていたので、一人二人姿が見えなくても誰も何も言いはしない。
だから祐巳《ゆみ》が気づいたのも、単なる偶然なのだった。
勝ち抜きゲーム大会で早々と負け、ちょっと手が空《あ》いたから、飲み終わったカップをちょこちょことでも洗っちゃおうと回収していたら、まったくといっていいほど手つかずのカップが一つ。一番最初に可南子ちゃんが座っていた、6の席に残っていた。
そういえば、可南子ちゃんはどこに行ったのだろう。周囲を見回しても、姿はない。
部屋の片隅に積まれた荷物の山のシルエットは、心なしかさっきよりボリュームが小さくなっているような。いや、互いに支え合っていたコートや手提げが、何かの加減で崩《くず》れたような様相を呈している。そう、ちょうど崖崩《がけくず》れみたいに。
「帰ったわよ」
祐巳の目が可南子ちゃんを探していると気づいたのだろう、祥子《さちこ》さまが近づいてきて耳もとでそっと言った。
「もともと用事があったようね。お母さまと待ち合わせしているのですって。楽しい空気がしらけちゃうと悪いから、挨拶《あいさつ》をしないでそっと抜けます、って。最初のうちに私に断ってきたわ。本当、いついなくなったのか、私も気づかなかったけれど」
祥子さまは、崩《くず》れた荷物をそっと直した。もともと可南子ちゃんの荷物なんてなかったかのように、サックリとした小山ができた。
「空気がしらける……? 違います、たぶん可南子ちゃんは瞳子《とうこ》ちゃんに――」
祐巳は視線を向けた。瞳子ちゃんはまさに今ジェンガーのピースを抜き取る真剣な場面で、こちらのことなど見向きもしない。
「そうね」
祥子さまはうなずいた。
「可南子ちゃんが帰ると知ったら、瞳子ちゃんも一緒《いっしょ》に出ていくでしょうから、気づかれたくなかったのね。可南子ちゃんが無理にパーティーに引っ張ってきたみたいなものだから、瞳子ちゃんのこと」
「はい」
可南子ちゃんは、瞳子ちゃんを残していきたかったのだ。
最初に誘った時、瞳子ちゃんも予定があるようなそぶりを見せていたけれど、たぶん可南子ちゃんはそれを方便だって思ったのだろう。だから、自分につき合わせて帰らせるべきではない、と。――ただの想像だけれど、そんな気がした。
そういえば、そもそも瞳子ちゃんはどうして乗り気じゃなかったのだろう。
今、瞳子ちゃんは笑っている。ジェンガーの塔《とう》を崩したのに、笑っている。
瞳子ちゃんが不機嫌な顔を見せなくなったのは、どれくらい経ってからだろうか。
少なくとも、自己紹介の時はそんなに機嫌がいいとは言えなかった。セーラを演じていた間は、微笑を浮かべたりしていたものの、終わった瞬間に仏頂面《ぶっちょうづら》で「こんなものでいいかしら」と言った。
それじゃ、ケーキを食べていた時は?
志摩子《しまこ》さんと話している姿しか記憶にない。ずいぶん長いこと、二人だけで話し込んでいた。あの時は、機嫌の良し悪《あ》しとは別の次元の、……そう、真剣な顔をしていた気がする。
いったい、何の話をしていたのだろう。
「難しい顔してないで。パーティーでしょう?」
祥子さまは祐巳の肩をポンと叩いて、ゲームの輪の中に戻っていった。
「それじゃ、乃梨子《のりこ》ちゃんと由乃《よしの》ちゃんで決勝戦ね」
ジェンガーが片づけられ、模造紙《もぞうし》で即席に作られたツイスターゲームが広げられる。真のゲーム王には、麺《めん》食堂の食券四枚が贈呈される。
実はこれ、年度末の去年三月に一階の部屋を片づけていた時に、普段使っていない机の抽斗《ひきだし》から発掘した物なのである。いつの時代のどの先輩が所有者なのか不明なので、いつか何かに使おうということにして保管しておいたのだ。
こんなものでも、優勝商品がかかると燃えるもので、由乃さんも乃梨子ちゃんもついに腕まくりをした。
熱いなぁ、と思いながら祐巳がふと床に視線を落とすと、ツイスターゲームの模造紙《もぞうし》から少し離れた場所が目についた。
「あ」
ジェンガーのピースが落ちている。崩《くず》れた時に、こんな所まで転がってきたのだろう。小さい木片は、誰かが蹴《け》ってしまえば簡単にどこかに紛《まぎ》れてしまいそうだった。
「よっこら……」
祐巳が屈《かが》んで拾っていると、目の前を上履《うわば》きが横切った。顔を上げる。そこにいたのは志摩子さんだった。
「お手洗い?」
つま先が、出入り口の、通称ビスケット扉の方向に向いているから、そう聞いてみた。
「ええ」
志摩子さんも、かなり早いうちにゲームの敗者になっていたお仲間だ。
「待って、私も行く」
祐巳はピースをテーブルの上に置くと、手提げを持って追いかけた。プレゼントを渡す相手を間違えたわけではない。祥子さまに受け取ってもらうまでは、肌身離さずにいるという自分自身に課したお約束だからだ。
「どうしたの?」
階段で待っていた志摩子さんが、部屋を飛び出してきた祐巳を見て笑った。あわてなくても逃げないわよ、と。
「……どうしたんだろう」
祐巳は普段、一人だってトイレに行ける。それに今、どうしても行きたいわけではない。
だから、便乗したのは、お手洗いに行こうとしていた人が「志摩子さん」だったから、って結論がでる。
そうだ。祐巳は、きっと志摩子さんと話したいと思ったのだ。
「ごめん、何だか」
でも、何を話したかったのか、すぐには思いつかなかった。
ギッシギッシギッシギッシ。古い木の階段が、鈍い音をたてる。ギッシギッシギッシギッシ。答えを探しながら、一階まで下りてしまった。
「瞳子ちゃんのこと?」
薔薇の館の扉を開けながら、志摩子さんが言った。
「え?」
祐巳が驚いていると、志摩子さんは。
「あら、違ったの? ごめんなさい」
祐巳を先に通してから自分も外に出て、扉を閉めた。その、短い動作の間、祐巳にもわかった。
「ううん。違わない」
志摩子さんの指摘が、当たっていたということを。
「そう」
瞳子ちゃんのことを聞きたかったのだと考えれば、それは何の違和感もなくつるんと認められた。
中庭から見上げる空は薄いグレー。ただ曇り空なのか、それとも早くも夕暮れの準備に取りかかっているのか。
校舎に向かって二人並んで歩きながら、祐巳は尋《たず》ねた。
「さっき、志摩子さんと瞳子ちゃんが深刻な顔をしてお話ししていたでしょ? ちょっと気になっちゃって。何の話をしていたのかな、って」
「まあ、そんなに深刻な顔をしていて?」
志摩子さんが笑った。本人がそう思っていないのなら、大した内容ではなかったのだろうか。でも、面白話に花を咲かせていたようには見えなかった。
「込み入った話だったり、秘密の話だったりするなら言わなくていいけれど――」
人が嫌がっているのを、無理矢理聞き出そうとは祐巳だって思わない。でも、志摩子さんは軽く首を横に振った。
「瞳子ちゃんが一方的に私に質問してきて、私が個人的なことを答えただけだから。瞳子ちゃんのプライバシーを著《いちじる》しく侵害することはないはずよ。だから、お話ししてしまっても、差し支えないとは思うけれど」
「でも。ということは、志摩子さんのプライバシーの問題は?」
祐巳の疑問に、志摩子さんは微笑した。
「いいわよ、別に。祐巳さんに隠さなければならないことではないし」
校舎に入り、廊下の壁にもたれて、志摩子さんは話してくれた。
「瞳子ちゃんは、私に家業を継ぐのかって聞いてきたのよ」
「家業?」
「うちの場合、お寺ね」
志摩子さんはお寺の住職《じゅうしょく》の娘である。乃梨子ちゃんの話だと、それも結構な大きさのある古いお寺であるとか。
「それで、志摩子さんは?」
「わからない、って答えたわ」
「わからない?」
「ええ。それが正直なところですもの」
わからないものはわからない。それが志摩子さんの答え。逃げているわけではなく、それこそ純粋な回答なのだろう。無理に結論を導き出したり、一般論を掲《かか》げたりするよりずっと誠実だ。
「そうしたらね、瞳子ちゃんが重ねて聞くの。私が継がなかった場合、お寺はどうなるのか、って」
「ど、どうなるの?」
お寺のこととか、祐巳にはまったくわからない。仏教のお寺っていうのは、檀家《だんか》とか、そういう難しい人たちが関わっているって聞いたことはあるけれど。志摩子さんが引き受けなければ、代々続いたお寺が誰か別の人の手に渡るとか、そういう話になるのだろうか。
「さあ……。どうなるのかしらね」
「それでいいの?」
最初は誠実だと思っていた志摩子さんの発言が、だんだん心許《こころもと》ないもののように感じられてきた。そんなふわふわした表情で、「どうなるのかしらね」なんて言っていて大丈夫《だいじょうぶ》なの、って。
「いずれ決めなければならないでしょうけれど、まだ今は、結論を出していないの」
あ、いずれはちゃんと決めようとは思っているんだ。
「仮に、私がお寺を継ぐとしても、私が住職《じゅうしょく》になるという道は現実的ではないでしょう? 同じ宗派で僧侶《そうりょ》の資格がある方に婿養子《むこようし》に来ていただくことになる。でもね。第三者が入ると、ますます複雑になるわ。ただでさえ、うちは複雑なのに」
「ご住職の奥さんがカトリック教徒……」
「ああ、それもあるわね。両親が甘えさせてくれているから、今のところはお寺の娘がカトリック教徒でも、周囲はなんやかや言わずにいてくれているけれど。やっぱり僧侶の妻が、違う宗教を信仰《しんこう》しているとなると、ちょっと変よね」
「――」
人はいかなる宗教を信仰してもいいという自由がある。けれど、それをふまえた上でも、やはりその関係は違和感がある。ちょっとどころか、かなり。
「だから、やっぱり兄が継いでくれたらいいのだけれど。あの人は、跡を継ぐのを嫌がって父から逃げ回っているから」
「えっ、志摩子さん、お兄さんがいるの!?」
ギョッと目をむく祐巳を見て、志摩子さんは苦笑した。
「私、祐巳さんにも言っていなかったかしら。先日乃梨子にも驚かれたのだけれど」
「……知らなかった。一人っ子だとばかり」
「普段家にいないから、話題にならないのよね。でも、いるの。一人。瞳子ちゃんにもそう言ったら、ちょっと気が抜けたみたいな顔をされてしまったわ。私が一人っ子でないなら、参考にならないのね」
参考。ということは、誰かの事例を自分に置き換えて考えるということだ。
「瞳子ちゃん、お家《うち》で何かあったのかな」
「かもしれないわね。でも、聞かなかったわ」
一人っ子じゃないので貴重なサンプルから弾かれた志摩子さんは、アドバイスができないのに悩みだけ聞くことを避けたようだ。
「そうか。じゃ、どうしたって私じゃだめなんだ」
弟いるし。お父さんの設計事務所は、誰かが引き受けなくては大勢の人が困るような、大きなものではない。
もしかしたらさっき席が隣になったのが令さまだったら、やはり瞳子ちゃんは志摩子さんに聞いたみたいに「道場を継ぐんですか」と質問したのかもしれない。でも、いかにも継ぎそうな令さまにはあえて聞かないかも。
由乃さんも一人っ子だけれど、ご両親は誰かが後を継がなければならないお仕事にはついていない。
祥子さまの場合、瞳子ちゃんにとって親戚《しんせき》だから、身近すぎてサンプルにはならないのだろう。それに祥子さまが一切《いっさい》を放棄《ほうき》しても、小笠原家《おがさわらけ》にはそれを楽々と引き受けてしまえる柏木《かしわぎ》さんという存在がある。
「参考にはならなくても、相談にはのれるのではなくて? 祐巳さんなら」
志摩子さんが言った。
「……難しいね」
果たして自分は、本当に瞳子ちゃんの相談にのりたいのだろうか。そして、相談にのれるだけの器《うつわ》があるのだろうか。
「焦ったらいけないわ」
「うん」
志摩子さんの言葉にうなずいて、祐巳は歩き出す。
窓から日差しも入らず電気がついていない廊下《ろうか》は、先がぼんやりと暗い。
歩いているうちに、どこかに吸い込まれてしまいそうだった。
お手洗いを済ませて薔薇の館に戻ると、何だかとんでもない騒ぎになっていた。
二階のビスケット扉を開けた瞬間。
「そんな令ちゃんの一大事を、何で私だけが知らないのよ!」
由乃さんの叫び声が、けたたましく聞こえてきたのであった。
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クリスマスなのに
ツイスターゲームは、運と判断力と体力と身体《からだ》の柔らかさが物を言う。
(最初の一つはまあまあだけれど、後の三つは私にはまったくと言っていいほど備わっていないものだわ)
ゲーム大会の決勝戦がツイスターゲームと知って、七十五パーセント負けを覚悟した由乃《よしの》である。
自慢じゃないが、高校一年生の冬までは、運動らしい運動はやらずに生きてきたのだ。健康を手に入れてから徐々に慣らして積み上げてきた一年間の体力なんて、たかが知れている。身体の柔軟、右に同じ。
(冷静沈着な乃梨子《のりこ》ちゃんならば、判断力は確実に持っている)
そして体力と柔軟性は、普通に公立中学の体育課程を修了しているというだけで、人並みにはあることが証明されている。体育が得意という話は聞こえてこないが、少なくとも運痴《うんち》の由乃よりはましなはず。
乃梨子ちゃんのネックは運だ。天候に見放されて第一志望校をしくじった過去は、あまりにも有名。
(ここは、天のお母さまであるマリア様のお力を借りて)
――って。それほど燃える優勝商品か? 麺《めん》食堂の食券が。
でも、由乃はどうしても勝ちたかった。それほどまでにラーメンが好物なわけではない。単に、負けず嫌いなだけだ。
模造紙《もぞうし》で即席でこしらえたツイスターゲームは、色の着いた丸印の代わりに、トランプのマークが描かれている。つまり、ハート、ダイヤ、クローバー、スペードの四種類だ。
ルーレットがないから、よく切ったトランプから一枚ずつ引いて出てきたマークの所に手や足を置くといったルールになる。ちなみに奇数が左で偶数が右、|A《エース》から6までが手で7から|K《キング》までが足。つまりハートの4を引いた場合、右手をハートのマークの場所に置かなければならない。
「さあ由乃ちゃん、次は上から何枚目?」
手や足がお取り込み中のゲーマーの代わりに、指示された場所からカードを抜くのは祥子《さちこ》さま。
「じ、十枚目……っ」
「一、二、三、四……、十枚めはスペードの5。左手をスペードに置いてください」
「えっ、そんな」
一番近いスペードっていったら、右手をついている場所より右側だ。
「よっ」
両腕を胸の前でバッテンにしながら、どうにか左手をスペードに着地。でも、もうそろそろ限界に近づいている。
「上から五枚目、お願いします」
乃梨子ちゃんが淡々と言う。この子には、疲れってものがないのだろうか。それとも、この差は若さゆえ?
「ハートの8。乃梨子ちゃん、右足をハートに」
「はい」
テキパキと右足を移動させる乃梨子ちゃんを妬《ねた》ましく眺める由乃の身体《からだ》は、無理な体勢に悲鳴をあげ、すでに両腕がグラグラしている。
(もうだめ)
由乃がひっくり返った時、隣《となり》から「あ」という声と一瞬遅れてドンという音が聞こえた。
「……嘘《うそ》っ」
見れば、乃梨子ちゃんの胴体が、思い切り床と「こんにちは」していた。
何の前振れもなく崩《くず》れたから、最初はわざと負けたんじゃないの? と思ったくらいだ。けれど、先輩に勝ちを譲るほどのゲームじゃないし、乃梨子ちゃんはかなり悔《くや》しそうな表情をしていたから、たぶん手加減もしていない。
由乃に観察されていることに気づいた乃梨子ちゃんは、顔が見えないようにプイッと身体の向きを変えた。
(わかった)
弱みを見せるのが嫌いだから、ギリギリまで「平気です」って見栄《みえ》を張っちゃったわけだ。
「倒れたのはほぼ同時。どちらが勝者か微妙なところね」
その場にいた見物人、祥子さま、令《れい》ちゃん、蔦子《つたこ》さん、瞳子《とうこ》ちゃん、菜々《なな》が円陣を組んで協議を始めた。大《おお》相撲《ずもう》でいうところの物言いか。
やがて結論が出たようで、祥子さまが二人に告げた。
「ほぼ同体《どうたい》とみて取り直し」
「反対!」
由乃と同時に、乃梨子ちゃんも手を上げた。たかがラーメンごときで、またあんな辛《つら》い思いをしなきゃいけないなんて、絶対に嫌だ。
「――と言うと思ったわ。だから、ここは二人とも優勝ということで」
麺食堂の食券は二枚ずつ授与された。
二人はお互いの健闘を讃《たた》えあい、固く握手を交わした。とにかく負けなかったのだから、由乃はかなり機嫌がよかった。
それは、棚上《たなあ》げにしていた「菜々と令ちゃんを引き合わせて例の話をする」を実行したっていいかな、なんて気になるくらい。
「令ちゃん、令ちゃん」
菜々の腕を引っ張りながら、令ちゃんの側まで歩いていく。
「菜々がね。いつか令ちゃんとお手合わせをしたいんだって」
令ちゃんはちょっと顔を上げて、意外なほど早く回答をした。
「いいよ。剣道で?」
なぜだ。
編み物とも、ケーキ作りとも、コスモス文庫の早読みとも勘違《かんちが》いすることなく、どうして令ちゃんは正しく解答を導き出せるのだ。
「冬休みにでも、うちに遊びにおいで。小さいけれど道場があるから」
そして、どうしてそんなにやすやすと、よく知らない女の子を迎え入れる?
「あ、あのっ、令ちゃん? そんなに急がなくたって」
由乃は「いつか」って言ったんだから。「いつか」っていうのはね、令ちゃん。具体的なアレじゃなくて、もっと漠然《ばくぜん》としたナニでいいんだってば。
「年末年始は、菜々だっていろいろ予定があるわよ。忙しい時期に、うちまで来てもらうことないんじゃない? 年が明けて落ち着いてから、部活の合間にチョコチョコって感じでどう?」
「でも、私的なことに、学校の武道館使うのもな」
令ちゃんは、今年いっぱいで実質上部活を引退する。そして菜々は、まだ[#「まだ」に傍点]剣道部員ではない。
確かに、私的と言われればそうなんだろうけれど。そう固いこと言わなくても。でも、ま、そういうところが、令ちゃんらしいのだ。
「じゃ、春になって菜々が高等部に上がってからは? 令ちゃんだって、大学が暇な時とかに後輩の指導に来たりしてもいいかなー、とか思っているんじゃないの?」
我ながらグッドアイディア、と由乃は思った。何ていうのかな、菜々と令ちゃんが急接近するのはできるだけ避けたいという気持ちがあるのだ。
春になれば、菜々は由乃の妹になっているかもしれない。それからゆっくりでいいのだ。二人が仲よくなるのは。
だが。
「後輩の指導? 卒業してから? ……そんな気ないよ」
令ちゃんは素《そ》っ気《け》なく答えた。
「どうして? ケチ」
「ケチとかじゃなくて。実際問題、無理でしょうがそんなこと。リリアン女子大みたいに、高等部と同じ敷地内に通うならともかく」
「…………え?」
言っている意味が、よくわからないんですけれど。何でリリアン女子大に行く令ちゃんが、「リリアン女子大みたいに」なんて言い方をするのだ。
「だって、令ちゃんは昔からずっと」
リリアン女子大に通うって。由乃の側にいる、って。そう言い続けていたじゃない。
ドックン、ドックン。心臓が激しく鼓動《こどう》を打ち鳴らす。
「優先入学の願書《がんしょ》は出さなかった」
「ち、ちょっと待ってよ」
何だ、何だ。頭の中が整理できない。
(落ち着け、とにかくみんな落ち着こう)
冷静に考えれば、答えは簡単に出るはずだから。
(今、令ちゃんはリリアン女子大の優先入学の願書を出さなかった、って言った?)
それって、それってどういうことだ?
「うちの大学には行かない、ってことだよ」
かみ砕《くだ》くように、でも淡々と、令ちゃんは言った。
「嘘《うそ》」
「本当」
客観的に判断すれば、令ちゃんの言っている内容の方が理路整然としている。
三段論法を使うなら。
高等部の生徒がリリアン女子大へ優先入学するためには、願書を出さなければならない。令ちゃんは、優先入学の願書を出さなかった。ゆえに、令ちゃんはリリアン女子大には入学しない。
――ほらね。
でも、これは令ちゃんのことなんだから。由乃が、令ちゃんのことを客観的になんて判断できるわけがない。
「祥子さまっ、令ちゃんがっ!」
駆け寄って、すがりつく。とにかく、令ちゃんが変なことを言っている、って。誰かに同意してもらわなければ、頭がおかしくなってしまいそうだった。
「由乃ちゃん、落ち着いて」
「これが落ち着いてなんて」
いられますか、そう言おうとして、由乃ははたと気がついた。祥子さまは落ち着いている[#「祥子さまは落ち着いている」に傍点]のだ。
まさか。――まさか!
「祥子さまは、知ってらしたんですか」
「ええ」
あくまで冷静に、そして少し同情を含んだ表情で、祥子さまはうなずいた。
由乃は、後ずさりで祥子さまから離れた。ここで何が起きているのか、よくわからない。
まるで、異世界に迷い込んでしまったみたいだ。
言葉が、全然通じない。令ちゃんも祥子さまも、エイリアンに身体《からだ》を乗っ取られてしまったのではないか。
そう思わなければ、納得できない。
どうして祥子さまが知っていることを、自分が知らないのだ。
令ちゃんのことなのに!
令ちゃんのことなのにーっ!!
「まさか、由乃さまは」
背後から菜々の声がした。
「このことを、まだご存じなかったのですか」
「……何ですって?」
由乃は、ゆっくりゆっくりと振り返る。解《げ》せなかった。なぜ新参者《しんざんもの》の菜々までが、エイリアンに食われているのだ。
「じゃあ」
今度は、乃梨子ちゃんを見る。乃梨子ちゃんも知っていたのか、と。
その表情の中に「肯定」を確認するや、由乃の感情は驚きから怒りへと瞬時に移行したのだった。
信じられない。
「どういうこと……」
由乃は叫んだ。
「そんな令ちゃんの一大事を、何で私だけが知らないのよ!」
祐巳《ゆみ》たちがお手洗いを済ませて薔薇《ばら》の館《やかた》の二階に戻ると、何だかとんでもない騒ぎになっていた。
「そんな令《れい》ちゃんの一大事を、何で私だけが知らないのよ!」
「……」
由乃《よしの》さんが騒いでいる。
その原因が何であるか。部屋中に響き渡る金切《かなき》り声の中に辛《かろ》うじて聞き取れた、「大学」とか「令ちゃん」などから祐巳にも大体の見当はついた。
「祐巳さん、志摩子《しまこ》さん」
戻ってきた二人に気づいた由乃さんは、鬼のような顔をして向かってきた。
「知ってたの?」
祐巳はうなずき、志摩子さんは首を横に振る。志摩子さんの場合、由乃さんが聞いてきた「知ってたの?」が何を指しているのか、そこからすでにわかっていない。
由乃さんは最初の質問に対して肯定した祐巳だけに、今度は向き合った。
「いつ?」
そのことをいつ知ったのか、との質問だろう。祐巳は、「さっき」と簡潔に答えた。
たぶん由乃さんは、令さまが他大学に行くことについて、「知ってたの?」であり「いつ?」を投げかけているのだ。そしてその中には、「どうして教えてくれなかったの」という非難もまた、かなりの割合で含まれている。
「さっき。ケーキを食べていた時、令さま本人から聞いた」
この件に関しては、たまたま席が近かったから、としか説明のしようがない。
「由乃さんがそのことを知っているのかどうかわからなかったけれど、知ってすぐに由乃さんに言わなかったのは、由乃さんが知らないはずないって、私が勝手に決めつけちゃったからだと思う。……それは、ごめん」
すると、由乃さんはそこで「あっ」と小さく叫んだ。
「わかった。あの時、この話をしていたんだ。祐巳さん、私のこと一瞬見たでしょ」
「見たっけ?」
覚えていない。申し訳ないけれど。
「うん、見た。確かに。もしかしたら、私の名前も呼んだかも知れない。……そうか。ケーキ食べてたあの時か。じゃ、仕方ない。祐巳さんのこと責められないよ。私あの時、何だろうって思ったんだもん。なのに、聞かなかった私も悪い」
由乃さんの怒りは、目に見えて萎《しぼ》んでいった。
「でも、一番悪いのは令ちゃんよ」
親友たちの尋問《じんもん》を終え、無罪放免した由乃さんは、再び令さまへの怒りをあらわにした。掴《つか》みかかって、腕をポカポカと叩く。
「何で、私が最後なのよっ、何でっ!」
「……」
少なくとも志摩子さんは知らなかったわけだから、正確には最後なわけではないのだが、由乃さんにとっては一番じゃなければ、二番もラストも同じなのだった。
「どうして教えてくれなかったのっ!」
令さまは、黙って由乃さんのポカポカを受け止めていた。やがて、由乃さんも叩くのに疲れた頃、令さまが答えた。
「聞かれなかったから」
固唾《かたず》をのんで見守っている人たちが、軽く仰《の》け反《ぞ》った。「聞かれなかったから」って。由乃さんに言わなかったのが、そんな理由?
由乃さんだって、そんな言い訳では納得できない。
「聞くわけないでしょ? ずーっと、リリアン女子大に行くって聞かされてきたんだから」
「そうだね、ごめん」
「……もういいよ」
由乃さんは、グーの拳《こぶし》を下ろした。叩けば叩くだけ、令さまの気持ちが変わるわけではないのだから。変わらないのなら、ちゃんと話を聞くべきだと思ったのだろう。
「どうして、他大学を受験する気になったの?」
「リリアンにはない学部の勉強をしたいから」
「それは、何?」
「体育の勉強をしようと思う」
「体育……」
令さまが体育。誰もがうなずいてしまいそうな、真っ当な選択な気がした。逆に、家政でもまた「らしい」と納得できたと思うけれど。
「継ぐかどうかわからないけれど、何らかの形でうちの道場とは関わっていくと思うから。子供たちも預かるし、発育とか身体《からだ》の機能のこととか、知識として身につけていて無駄《むだ》はないでしょ。何より、私が学びたい」
「リリアンの家政科よりも?」
「そういうことは、趣味でできる。今までだって、頼まれなくてもやってきたことだから」
「……そうだね」
由乃さんは、やっと笑った。そして、令さまの顔をじっと見つめた。
「私、そういう話は今日より前に二人きりで聞きたかった。ちゃんと話してくれたら、反対なんてしないのに」
「ごめん」
令さまは、由乃さんの頭をそっと撫《な》でた。
周りに人がいようがいなかろうが、あまり変わらないのではないだろうか。見ている方が小っ恥ずかしくなるくらい、それはもう「二人の世界」なのだった。
「他の人づてに聞くよりましだったのかな。でも、誰よりも早く知っていたかった」
「ごめん」
令さまは、もう何回目かの「ごめん」をつぶやいた。まるで、その言葉しか知らない九官鳥のように。
ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。
その様子を見ているうちに、祐巳はもらい泣きしそうになった。令さまの肩におでこを載せている由乃さんが、泣いているかどうかもわからないのに。令さまのかすかに鼻をすすった音だって、涙とは無関係かもしれないのに。
黄薔薇姉妹のこのサンプルは、祐巳にとって他人事《ひとごと》ではなかったのだ。
由乃さんにおける令さまのように、祐巳にも来春卒業してしまうお姉さまがいる。令さまも祥子《さちこ》さまも、いや、いつの時代も二年生は同じような思いをして、三年生を送り出してきたのだ。
でも、卒業という名のお姉さまの大事は皆に平等にやって来るかもしれないけれど、卒業後のお姉さまの身の振り方によって、妹に降りかかる心の負担というものはまったく違ってくるはずだった。
同じ敷地内にいたって、いつでも会えるわけではない。でも、会おうと思えば会えるかもしれないという安心感。それはほんの少しかもしれないけれど、気持ちを軽くしてくれることなのだった。
祐巳は、思わず叫んでいた。
「お姉さまはっ」
「……何?」
祥子さまが怪訝《けげん》そうに聞き返す。今までの黄薔薇姉妹から、紅薔薇姉妹へと注目が即座にバトンタッチされた。
でも、今更《いまさら》やめられない。祐巳は続けた。
「お姉さまは、進路どうなさるおつもりですか」
「私?」
「私もまだ教えていただいていません。あの、私も聞かなかったわけですけれど、私の場合は由乃さんとは違って、『こうだろう』って思いこんでいたから聞かなかったわけじゃなくて、まったく予想ができなかったから怖くて聞けなくって」
「祐巳」
「でも、いい機会だから聞いちゃいます。あの、教えてください。卒業したら、お姉さまはどうされるおつもりですか」
他大学受験と聞かされても動揺《どうよう》するまい、と祐巳は心に言い聞かせた。覚悟していた分だけ、由乃さんよりずっとショックは小さいはずだ。
「……私、そういう話はもっと落ち着いた場所で、二人きりで話したかったわ」
祥子さまはため息混じりに、さっき由乃さんが言っていたみたいなことをつぶやいた。
「すみません」
「でも、いいわ。祐巳の言う通り、いい機会ですものね。私は」
さあどうぞ、と祐巳が心の準備を完了するより前に、さらりと答えが返ってきた。
「リリアンの大学に行くわよ」
「……そうですか」
リリアンの大学に――って。
「えーっ!?」
「お、お姉さまは、優先入学されるんですかっ!」
「何なの、その思い切りショックみたいな声は。私が同じ敷地内にいると、何か困ることでも?」
「そ、そ、そうじゃありません」
ショックはショックでも、うれしいショックで。でも、由乃さんの手前、手放しで喜ぶことは憚《はばか》られた。
「私は、令と違って、余所《よそ》の大学でしか学べない学問を志《こころざ》しているわけではないし。リリアン女子大で特に不都合はないから」
「はいっ。おめでとうございますっ」
「ばかね。願書《がんしょ》は出したけれど、合格発表はまだ先よ」
「はいっ」
でも、発表を待たなくても決まったようなものだ。成績の上位から優先して大学への入学が許可されるのだから、祥子さまの成績だったら、どの学部だろうとよりどりみどりのはずだった。
「私が他大学を受験しないからって、いつまでも当てにしないでね。年が明けたら、あなた方でがんばるのよ」
「はいっ」
祐巳は何度目かの「はいっ」を言った。
ロマンチックさでは敵《かな》わないけれど、やっぱり紅薔薇姉妹も「二人の世界」作っちゃって、周囲が呆《あき》れているのかな、って、ちょこっとだけ我に返って見回してみた。
でも、本人が思っているほど向けられていた注目は長続きしなかったようで、みんな「よかったよかった」みたいに軽いノリで、もう別の話を始めている。
「模造紙《もぞうし》破れちゃったけれど、どうする?」
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「そうね。取りあえずクラフトテープででも裏から貼っておく?」
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「えー、これ、また使う気ですか?」
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「お湯、残り少なくなったけれど沸かす?」
[#ここから6字下げ]
「空《あ》いたカップ回収して――」
[#ここから2字下げ]
「緑茶の温度が」
[#ここから4字下げ]
「受験科目の」
[#ここで字下げ終わり]
言葉が何重にも重なって、まるでタータンチェックみたいだ。
ゲーム大会が終わって次に移行するまでの、何でもないザワザワとした時間。時たまスパンコールみたいに、蔦子さんのカメラのフラッシュが光る。
ザワザワとした空間。
それぞれ別の話をしながらあちこちと動き回っているのに、何となくまとまってザワザワして見える。それは、通学路を歩く生徒たちの姿にちょっと似ている。クリスマスパーティーという枠《わく》の中で、そこに存在することで出席者としての役割をきっちりと果たしているのだ。
だから、祐巳には気持ちよかった。ぼんやり眺めていて目に邪魔《じゃま》にならない、抽象的な模様の綺麗《きれい》な包装紙みたいに映るのだった。
そんな中、どうしても一人だけ部屋の風景にとけ込まない人がいる。
ザワザワに紛《まぎ》れることを、一々拒絶しながら。
瞳子ちゃんが一人、そっと部屋を出ていくのが見えた。
「……瞳子《とうこ》ちゃん」
祐巳《ゆみ》は「そっと部屋を出ていった瞳子ちゃん」を追いかけて、やはりそっと部屋を出ていった。
せっかく「そっと」出たのに、階段をすごい勢いで駆け下りたら何の意味もない。ある程度足音をたてずに静かに下りたので、瞳子ちゃんに追いついたのは薔薇《ばら》の館《やかた》を出て校舎に入った所だった。
足音やドアの開閉音で、後ろから誰かがついてきたという気配はあったはずだ。けれど、瞳子ちゃんは振り返らず、無視するかのようにきっぱりと歩いていく。
「待って」
祐巳は声をかけた。
そこでやっと、瞳子ちゃんは足を止めた。振り返り祐巳の姿を見ても、何の感慨《かんがい》もない表情をしていた。追いかけてきたのが誰なのか、ずっと前からわかっていたみたいだった。
「帰るの?」
コートを着て、荷物を持って。どこからどう見ても帰り姿の生徒を捕まえて、間抜《まぬ》けな質問をしたものである。
「ええ」
瞳子ちゃんはうなずいて、また歩きだした。
「途中で帰ってもいいというお話でしたから」
「そうだったね」
早足で追いつくと、祐巳はすぐ横に並んだ。
「可南子《かなこ》さんは、いつの間にか帰ってしまったし」
恨《うら》めしそうにつぶやく。一言、声をかけて欲しかったのに、って、そんな感じ。
「うん。そうだね。でも、瞳子ちゃんはゆっくりしていけばいいのに」
「用事があるって、言ったじゃありませんか」
「うん。そうだった」
しばらく無言で歩いてから、瞳子ちゃんは痺《しび》れを切らしたように口を開いた。
「どうして一緒《いっしょ》に来るんですか。それとも、祐巳さまもお帰りになるんですか? まさか、その小さな手提げだけで今日学校にいらしたわけじゃないんでしょ?」
「はは。さすがにそれはない」
コートも、マフラーも、別の手提げも持ってきましたとも。
「ちょっと、瞳子ちゃんと一緒に歩きたいと思っただけ」
「私の気持ちはお構いなしですか」
「迷惑?」
「……いえ」
じゃ、いいじゃない。祐巳は機嫌よく歩き続けた。
「でも、歓迎してもいません」
「なるほど」
瞳子ちゃんは、相変わらず手厳しい。
祐巳は人気《ひとけ》のない薄暗い廊下《ろうか》を瞳子ちゃんと並んで歩いて、一年生の下駄箱《げたばこ》で瞳子ちゃんだけが靴《くつ》を履《は》き替えるのを待って、昇降口から一緒に出た。
瞳子ちゃんは、家に持って帰るために、履いていた上履きを手提げの中にしまう。そういう、何気ない仕草を見て祐巳は思い出す。明日から冬休みなんだ、って。
「本当に歩くだけなんですね」
瞳子ちゃんがつぶやいた。
「へ?」
「何かお話でもあるのかと思ったら」
一緒に歩きたい。そう言ってついてきたのは、瞳子ちゃんを一人で帰したくなかったから。
側にいたかったから。
このまま離れたくなかったから。
歩く瞳子ちゃんから離れないためには、一緒に歩くしかない。だから祐巳は「一緒に歩きたい」と言ったのだった。
「ああ、お話ね。うん、お話ししようか」
具体的に、何か話さなくてはいけないことなどなかった。特別に、何も話したくないということもなかった。
ただ、現物の瞳子ちゃんがここにいる。祐巳にとっては、そのことにこそ価値があった。
瞳子ちゃんのいないところで瞳子ちゃんのことを思い出すと、何だか胸が締めつけられるのだ。
それはたぶん、瞳子ちゃんに関する新しい記憶が、うつむき加減の寂しい表情や、冷たい手の感触だったりするからなのだろう。
それがわかっているのに。
どうしても「何があったのだろう」とか、「自分にできることはないだろうか」と、頭の中でこねくり回しても答えの出しようもない問いかけばかりが浮かんできて、結局いつでも「なにもできないのだ」という結論にしかたどり着けずに落ち込んでしまう。
会えないでいる間は、今もどこかで震えているのではないかと、考えてしまう。知らない街を彷徨《さまよ》っているのではないか、と。
だから、目の前に本物がいてくれるのはありがたかった。そこにいる瞳子ちゃんがたとえ仏頂面《ぶっちょうづら》でも、コートを着ているのは見える。迷っていないこともわかる。
「でも、令《れい》さまにはビックリしたね」
祐巳は言葉を探して、結局無難な話題に着地した。ちょっと前の、タイムリーな話題。
「祥子《さちこ》さまがリリアンに残られるのは、祐巳さまには喜ばしいことでしょうけれど?」
気のせいだろうか、瞳子ちゃんの言葉に険がある気がするのは。それではまるで、祐巳が一人浮かれているみたいじゃないか。
でも、瞳子ちゃんがキツイのは今に始まったことではない。素直じゃないから。祐巳が言ったことに、一々突っかかってくるのだ。
気を取り直して、祐巳は話を続けた。
「三年生は、自分の思い描く未来に向けて着実に歩み出しているというか。……ね?」
これでどうだ。一般論なら、反発しようもないだろう。だが。
「自分が思い描いた通りに人生が全《まっと》うできる人ばかりじゃありませんよ」
瞳子ちゃんは言った。
「……え?」
「こうなりたいと思うことと、現実の間にはギャップがあるということです」
「と、瞳子ちゃん?」
これはただの反発ではない、と祐巳は思った。瞳子ちゃんの表情は、反抗的とか挑発的とかそういう外に向いた強い力によるものではなく、内側に向けて働きかける何かによって作られたものだった。
瞳子ちゃんはたぶん、誰かに何かを伝えようと思ったのではない。自分の中からわき出る言葉と、向き合っているのだ。
「ギャップって?」
例えば、と祐巳は話を振った。瞳子ちゃんが、何かを語ってくれるかもしれない。
「昔、初等部の時、社会の時間に白地図の授業があって」
「うん」
「私、新しい白地図をもらった時、すごく幸せな気分になったんです」
瞳子ちゃんは、うっすらと笑った。その時の気持ちを思いだしたのか、その時の自分を振り返って笑ったのか。祐巳には、わからなかった。
「輪郭《りんかく》だけの日本地図。都道府県の境界線が点線でうっすら描いてあったり、河川《かせん》だけが描いてあったり。私はこれから、この地図の中に山を作る。街を作る。各県に県庁を置き、ページによっては気象まで管理する。私は、私の白地図の前では、神様のように世界を思いのままにできるんだ、って。なぜって、まだ地図には何も描き込まれていないんだから」
その時の瞳子ちゃんの心情にピッタリ重なるかどうかはともかく、その気持ちはわからないではなかった。白地図には、心を沸き立たせる不思議な力がある。
「でも、授業が進んで、少しずつページも埋まっていくと、私は気づいたんです。そんなにうまくいくものではないんだ、って。私は誰にも負けない地図を作ろうと決めていたのに、出来上がったページは、私の思い描いていたものとはまったく別の物でしたから。私は、地図帳に印刷されたような完璧《かんぺき》な地図をこしらえたかった。なのに、出来上がったそれは、小学生のレベルを超えられなかった」
瞳子ちゃんの表情が曇った。
「キラキラしていたはずの白地図は、次第に輝きを失いました。もう、元にはもどりません。私が描いてしまったから」
そんなこと当たり前じゃないか、と言って笑い飛ばすことなんてできなかった。初等部の瞳子ちゃんの前にあったのは、間違いなく絶望だった。それを運んできたものが、たまたま白地図の形をしていただけの話だ。
「何か、あったの?」
自分ができると思ったことができなかったり、物事が自分の思ったとおりに進まないこともあると認めざるを得ない日は、幼い頃に必ず訪れるものだ。しかし、これは――。
「白地図帳一冊ですらそうなんです。人生だって、そんなにうまくいくはずない。そう悟っただけです」
だけど、って。その接続詞の後に続く言葉を、祐巳が見つけられずにいる間に、図書館の脇を通り過ぎ、いつの間にか銀杏《いちょう》並木のマリア像の側まで来てしまっていた。
日が高いうちは生徒が行き交い、また立ち止まってプレゼントやロザリオの授受を行っていたであろうマリア像の前には、もう誰もいなかった。
「完璧《かんぺき》な地図帳が作れないのなら、いっそピンクの花柄《はながら》とか白黒の水玉模様とかで塗ればよかった」
自嘲《じちょう》気味に、瞳子ちゃんはつぶやいた。
ピンク? 水玉? また、白地図とは縁のなさそうな単語がポンポンと飛び出す。
「先生からは問題児だって見られて、社会科の成績も落ちただろうけれど。そうしたら、私だけの綺麗《きれい》な地図帳を作れたかもしれない。でも、私にはできなかった」
話の展開が激しくて、祐巳は追いつけなかった。でも、わかったこともある。瞳子ちゃんは、たぶん将来のことで悩んでいる。小さい頃に絶望したそのことが、今の状況とどこか重なって、また挫《くじ》けてしまいそうなのではないだろうか。
祐巳は言葉を探した。今、いったい何を言うことが正しいのか、誰かに教えて欲しかった。どうしたら、瞳子ちゃんを救えるのだ。
「瞳子ちゃん」
瞳子ちゃんは祐巳の眼差《まなざ》しに気づくと、ハッとしたように背を向けて足早になった。
「……世迷《よま》い言《ごと》を言いました。忘れてください」
まるで、夢から覚めたみたいに。今までしゃべっていたことは、何かの間違いだったとでも言うように。
でも、そんなこと無理だ。聞いてしまったことは、消せやしない。
どんどんと離れていく瞳子ちゃんとの距離。
どうしたらいいのだ。
少しだけ触れることができたと思った、瞳子ちゃんの心の深い部分も一緒《いっしょ》にどんどん遠くなる。
どうしたら、つなぎ止めておける?
どうしたら――。
「瞳子ちゃん!」
祐巳は叫んだ。
振り返る瞳子ちゃん。
ちょうどマリア像を挟《はさ》むような形で、二人は向き合った。
祐巳は言った。
「私の妹にならない?」
自分なりに出した答えが、それだった。
「……は?」
五秒ほどの間をおいて、瞳子ちゃんが聞き返した。
「私じゃ、駄目《だめ》?」
祐巳は大きな声で尋《たず》ねた。
私じゃ、瞳子ちゃんの力になれない?
「祐巳さま……」
立ち止まったまま動かない瞳子ちゃんの側まで、歩いていった。瞳子ちゃんは大きな目で、祐巳のことを見つめている。
ロザリオがいるんだ、って思いついて、祐巳は首から外した。それは一年と二ヶ月前に、祥子さまからかけてもらった大切なロザリオだった。
瞳子ちゃんの唇が、かすかに上がった。
「ありがとうございます。祐巳さまはなんてご親切なお方なのでしょう」
「え?」
「――なんて、私が言うとでも?」
外したロザリオを輪の形にして両手で持ったまま、祐巳は動けなくなった。
瞳子ちゃんの顔は笑っている。けれど、本当は笑ってなどいない。一言では言い表せない、数々の激しい不快な感情がドロドロと混ざり合って、それが爆発しないように笑顔の蓋《ふた》で押さえている。
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頭から血の気《け》が引いた。いや、全身が凍《こお》りついた。
「申し訳ありませんが、私はセーラのようないい子じゃないんです。聖夜の施《ほどこ》しをなさりたいなら、余所《よそ》でなさってください」
「瞳子ちゃ――」
施しなんて、そんなつもりで言ったんじゃない。でも、瞳子ちゃんは聞く耳をもっていない。
「私が不用意な言葉をお聞かせしてしまったことで、祐巳さまに気の迷いを起こさせてしまったことは謝ります。とにかく、そのロザリオは受け取れません。戻してください」
言いたいことだけ言って、頭を下げた。
「失礼します」
今度こそ、行ってしまう。けれど、祐巳はもう追いかけなかった。呼び止めもしなかった。
何を言っても、きっと今の瞳子ちゃんには届かない。
瞳子ちゃんが、どんどん遠くなる。
銀杏《いちょう》並木を走り、門を抜けて、学校を出ていく。
でも、祐巳にはそれが見えない。もう、辺りが暗くなってしまったから。瞳子ちゃんの姿が見えない。
受け取ってもらえなかったロザリオを首に戻した時、ひんやりとした。ほんのちょっと外していただけなのに、ぬくもりが外気に吸い取られてしまったのだ。
何もなかったようにパーティーの輪に戻って笑うことは、とても困難なように思われた。けれど、このままこうして立っているわけにはいかない。
コートも羽織《はお》らずに出てきたのだ。日が暮れて、ますます冷たくなった空気にさらされては風邪《かぜ》を引いてしまう。
それに、何も言わずに出てきたのだ。ある程度時間が経っても戻らなければ、みんなに心配されてしまうだろう。
祐巳は、校舎に向かって歩き出した。
足をただ前に出すのを繰り返すだけ。時間の感覚がなくなっていく。
「祐巳」
薔薇の館の扉の前に、祥子さまが立っていた。
「ここで待っていれば、二人になれると思って」
祥子さまもコートは着ていなかった。祐巳と同じ、手提げ袋を一つ肘《ひじ》の辺りに掛けているだけだ。
「待っていれば……って?」
祐巳は尋《たず》ねた。お姉さまは、いつからここに立っていたのだろう。祐巳が瞳子ちゃんを追いかけて出ていったことを、知っていたのだろうか。
「これ」
「あ」
祥子さまが手提げから出した物が、クリスマスプレゼントであることはすぐわかった。開けなくても、中身もわかった。包装された平たい小箱は、去年と同じだ。
「ハンカチですね」
「去年と同じで芸がないと思わないで。今年はね、自分で手を加えてみたのよ」
開けてみて、と促されて包装をとく。中から現れたのは、白いハンカチ。
ゴージャスなレースで縁取《ふちど》りされているのは、去年と変わらない。けれどイニシャルのSの部分には、上からピンクの糸でYの文字が刺繍《ししゅう》してある。Sを消すようにではなく、どちらも見えるようにうまく重ねて。まるで、何かのロゴマークみたいに見えた。
そして、アルファベットの周りには。
「薔薇《ばら》……紅い薔薇」
バリオンステッチで、紅い薔薇の花模様がいくつも刺繍してあった。一枚一枚の花びらは、お姉さまが手ずから一針一針刺してくれたものだ。
「ありがとうございます」
祐巳はハンカチを抱きしめた。こんなに素敵な物をもらってしまって、何だっけ……そう、自分は果報者《かほうもの》だ。
「そうだ。私も」
そこで、やっと思い出して手提げを探る。中から取りだした包みを「どうぞ」と差し出すと、祥子さまは「あら」と思いがけなかったような声をあげた。今年も、お返しはリボン一本だけだとでも思っていたのだろうか。
「下手《へた》ですけれど。一生懸命編みました。お姉さま、よく本を読んでいらっしゃるので」
それはニットのブックカバーである。図書館の本にも掛けられるように、ちょうどハードカバーの大きさにした。ちょっと渋く抹茶《まっちゃ》色の地に、紅色で編み込み模様を一つ描いてある。セーターのような大物とは違って直線に編むだけだから、袖《そで》や襟《えり》ぐりがない分足し目減らし目とも無縁だったけれど、それでも二色の毛糸を使い分けながら編むのは難しかった。
「これは……薔薇ね? ふふ、気が合うこと」
祥子さまは笑った。
「ありがとう。冬も、夏も使うわね」
「夏は……さすがに暑いですよ」
何しろ、毛糸ですから。祐巳も笑った。でも、祥子さまならやるかもしれない。汗をかきかき、ニットのブックカバーを持ち歩く祥子さまを想像して、少し楽しくなった。笑いながら、どうしてか目の前がうるうるとぼやけてきた。
「どうしたの?」
尋《たず》ねる祥子さまは、水鏡に映ったようにキラキラ輝いている。
「お姉さま。私……っ」
笑っていたのに、急に泣いたりしたらおかしい。だから、涙がこぼれ落ちないように懸命《けんめい》に堪《こら》えた。
けれど、祥子さまは涙のことは何も聞かず、ただ一言、核心に触れる質問をしただけだ。
「瞳子ちゃんと何かあったの?」
だから祐巳も、そこに至る経緯などの説明を一切省《いっさいはぶ》いて、言えた。
「ロザリオ……受け取ってもらえなかった」
「そう」
祥子さまは、ただうなずく。
「どうしてなんだろう。私は、別に同情なんかで渡したわけじゃないのに」
あの時、本心から瞳子ちゃんを妹にしたいと思った。
なぜ、そう思ったのか。瞳子ちゃんのどこが気に入ったのか。うまく口にできないけれど。でも、それは確信だった。
志摩子《しまこ》さん流に言うなら。――「何となく」。
何となく、瞳子ちゃんが妹なんだって、そう感じたのだ。
けれど、それは伝わらなかった。
祐巳の独《ひと》りよがりでしかなかった。
さっきまで側にいた瞳子ちゃんは、幻《まぼろし》のように目の前から消えていなくなってしまった。
そんなにうまくいくはずない。――瞳子ちゃんの負の感情が、今更《いまさら》、飛び火のように祐巳の心に染みこんだ。
「瞳子ちゃんだけが一年生じゃないわ」
祥子さまが、祐巳の肩に触れた。
「でも」
「そうよね。そう思えるくらいなら、瞳子ちゃんにロザリオを差し出したりしないわね」
その通りだとうなずく。誰でもいいと割り切れたなら、どんなに楽だろう。けれど、瞳子ちゃんがいいと自覚した後では、もうそれはできない。
瞳子ちゃんより素直な子は、たぶんたくさんいる。明るくて元気な子も。冷静な子も。やさしい子も。面白い子も。無垢《むく》な子も。
でも、瞳子ちゃんじゃなければだめなんだ。
その子が、瞳子ちゃんでないのなら、それらは意味のない賛辞の羅列《られつ》にすぎない。
「だったら、諦《あきら》めなければいいわ」
祥子さまが言った。
「私、志摩子に断られた時、別に志摩子でなくてもいいと思ったわ」
「え?」
「でも、祐巳に断られた時は違ったの。意地でもロザリオを受け取らせようって、気持ちになった」
髪がやさしく撫《な》でられた。
「私はがんばったわよ。だから今、祐巳は私の側にいるでしょう?」
「……あ」
(覚えていらっしゃい。必ずあなたの姉《スール》になってみせるから)
祐巳が一番最初に姉妹の申し出を断った後に、銀杏《いちょう》並木を追いかけてきて声高らかに宣言した祥子さま。あの時、やはりこんな気持ちを抱えていたのだろうか。
「一度断られたくらい、たいしたことではないわ」
「はい」
「胸を張って。断られたことは、恥ずかしいことではないわ」
「はい」
答えながら祐巳は、どうして祥子さまの目から水が落ちてくるのだろうと、ぼんやり考えていた。
「でも、切ないわよね」
祥子さまは、目の下を指で拭《ぬぐ》って言った。だから祐巳も、無理しなくていいんだ、って思った。
「はい。あの、やっぱりちょっと泣いていいですか」
「ええ」
祥子さまは両手を広げて、胸をかしてくれた。
「ぅあああ――……」
祐巳はお姉さまの腕にしがみついて、声をあげて泣いた。
悲しいのか、悔《くや》しいのか、嘆《なげ》かわしいのか、腹立たしいのか、苦しいのか、わからない。わからないけれど、いろいろ混ざり合った思いを、すべて吐き出すようにわんわん泣いた。
薔薇の館の二階は、まだ電気がついている。でも、もう誰の耳に届いたっていい。そんなことを気にする余裕《よゆう》もないほど、一心不乱に泣くことが祐巳には必要だった。
メリークリスマス。
どこか遠くで、鐘の音が聞こえる。
サンタクロースは妹を連れてこなかったけれど、自分には辛《つら》い気持ちを受け止めてくれるやさしいお姉さまがいる。一緒《いっしょ》に泣いてくれるお姉さまがいる。そのことも、祐巳の涙に加速をつけた。
メリークリスマス。
空気が冷たい。
頬《ほお》に、涙以外の水滴が触れた。
――雪。
世の中「そんなにうまくいくはずない」かもしれないけれど、「そんなにうまくいかないことばかりではない」と思いたい。
メリークリスマス。
イエズス様のお誕生日をお祝いする日なのに、涙が止まらない。
メリークリスマス。
どうしよう。
お姉さまのクリスマスプレゼントが、こんなに早く役に立ってしまうなんて。
[#改丁]
薔薇のダイアローグ
[#改ページ]
相変わらずでかい家だな、と高い門を見上げて令《れい》は思った。
でかい、でなくて「どでかい」か。
リリアン女学園の生徒らしくお上品に言うなら、「大きい」と言った方がいいのだろうが、「とても大きい」よりやはり「どでかい」がニュアンスとして正しく伝わる気がする。――小笠原邸《おがさわらてい》に関しては。
ここに住んでいるお姫さまとお友達なんて不思議なものだ、と考えながらインターホンを探す。それにしても、こんな大邸宅のお客さまがママチャリでやって来るのは、あまりにも不釣り合い。
この高い門をくぐるのは、高級外車とか国産車でも目が飛び出るくらい値のはる車が似合うのではないか。自動車のことは全然詳しくないので、例えば「○○」と、名前を挙げられないところが悲しいが。
(あ、あったあった)
やっと見つけた、インターホンのボタンを押す。
『どちらさまでしょう』
誰何《すいか》する声は、祥子《さちこ》のものでも清子小母《さやこおば》さまのものでもない女声。たぶん、この家のお手伝いさんだろう。
「支倉《はせくら》です」
名乗るが早いか、祥子の声がした。
『あ、令よ。来ることになっていたの』
と、ここまでは家の中にいるお手伝いさんへの言葉。その先は、外にいる令に向けて。
『令、今開けるから。中まで入って』
「ほーい」
インターホンに応えて待っていると、程なく門扉《もんぴ》が自動で開いた。
「失礼しまーす」
令は、自転車を押しながら敷地の中に入る。
(相変わらず森だ)
建物まではまだ距離があるから、門を無事くぐり終えると再びサドルにまたがって、自転車を走らせた。
(相変わらずの公園、そしてお城)
これを全部相続したら、税金もすごくとられるんだろうな、なんて、オンボロ自転車の持ち主は、下品な想像をしてしまうのである。
右手にある駐車場の片隅に愛車を止め、鍵《かぎ》をジーパンのポケットにねじ込む。自転車の籠《かご》から紙袋をそっと出して、建物へと向かった。
正面玄関の前に立つと、呼《よ》び鈴《りん》に手を掛ける前に、中から祥子が出てきた。
「いらっしゃい」
華《はな》やかな笑顔。お姫さまのご登場である。臙脂《えんじ》のハイネックセーターに、白と赤と黒のチェックの長い巻きスカート、肩から茶鼠色《ちゃねず》のショールを羽織《はお》っている。
「具合、いいの?」
予想以上に元気そうなので、令は尋《たず》ねた。
「ああ、もう全然平気なの。外で会ってもよかったくらい。令に電話をもらった日の前日に、ちょっとはしゃいで体調|崩《くず》してしまったから、試験休み中の外出禁止令が出てしまって。退屈していたから、来てくれてちょうどよかったわ」
「外出禁止令って、ご両親から?」
「両親はいいって言っているの。問題は、祖父」
「祥子、可愛《かわい》がられているもんね」
「大げさなのよ」
入って、と祥子が扉を押さえて招き入れる。令は「お邪魔《じゃま》しまーす」と言って、玄関に足を踏み入れた。
[#挿絵(img/22_181.jpg)入る]
「退屈だったら、祐巳《ゆみ》ちゃんでも呼べばいいのに」
自転車を走らせてきたせいか、屋内に入ると急に汗が出てきて、令はジャケットを脱いだ。
「呼べないわ。祐巳と遊園地に行った時に立ちくらみを起こしたのだもの」
「気にする、か」
祐巳ちゃんの性格上。自分が一緒《いっしょ》にいた時に祥子が具合を悪くして、外出禁止令が出るくらい尾を引いているとなると。祐巳ちゃんにまったく非はなくとも、責任感じちゃうような子だから。
「だから、外出禁止令のことは内緒《ないしょ》ね」
「了解」
スニーカーを脱ぎ勧められたスリッパを履《は》いていると、奥から祥子の母上である清子小母《さやこおば》さまが出てきた。
「令さん、いらっしゃい。お久しぶり」
「小母さま、ご無沙汰してます」
こちらもまた「相変わらず」とつけた方がいい感じの、お姫さまっぷりである。若くて美しくて、祥子以上に華《はな》やかな女性だ。失礼ながら、高校生の娘がいるようにはとても見えない。
「祥子が退屈しているの聞いたでしょう? ゆっくりしていらしてね」
「はい。ありがとうございます」
「お昼ご飯は?」
「済ませてきました」
もうじき、三時である。それでも「まだです」と言いさえすれば、この家ではすぐに豪華なランチが出てくるのだろう。それも、尋常《じんじょう》じゃない量の。以前、食事をごちそうになった時、唖然《あぜん》とするような品数を並べられてギョッとしたのを覚えている。その経験上、今日は食事時にかからないように訪ねたのである。
「令さんは、今日はどうやってここまでいらしたの?」
清子小母さまは社交的で、娘の友達といえども、会えば挨拶《あいさつ》だけでは済まず、ひとしきり話をしないと満足しないところがある。
「自転車です。意外に直線距離だと近いんですよ。バスに乗って、電車に乗って、またバスでは、遠回りの上に乗り換えとかで結構時間が取られますので」
地図で道を確認して、近道を選んだつもりが、急な坂道の連続でかえって大変だったりしたけれど、天気のいい日中に知らない裏道を自転車で走るのは気持ちよかった。
「令さんが自転車をこぐ姿は、さぞかし壮観でしょうね」
「……ママチャリですよ」
「ママチャリって?」
「スポーツタイプではなくて、世のお母さんたちがスーパーに買い物に行くために利用するような自転車です。前に籠《かご》がついていて、後ろに荷台があって」
「かえって、素敵」
清子|小母《おば》さまのセンスは、ちょっとずれている。庶民《しょみん》的な物に憧《あこが》れる傾向があるのだ。
「もう、いいでしょうお母さま。令、私の部屋に行きましょう」
祥子が切り出したので、やっと令は解放された。小母さまとの会話は楽しいのだが、このままでは玄関先の立ち話で一時間も二時間も経ってしまいそうだ。
「あ、これ。大したものではないんですけれど。私が今朝《けさ》焼きました」
令は、手《て》土産《みやげ》を紙袋ごと清子小母さまに渡した。すると小笠原|母子《おやこ》は、ちょっと変な表情をして顔を見合わせた。
「あの?」
何かおかしなことを言っただろうか。令が不安になって聞き返すと、祥子が探るように尋《たず》ねてきた。
「中身、ミルフィーユ……じゃないわよね?」
ミルフィーユ? どうしてミルフィーユだと思ったのだろう。
「ドライフルーツのパウンドケーキだけれど?」
それを聞いて、清子小母さまは表情をパッと輝かせた。
「それはよかったわ。うれしい、ごちそうさま。さっそくいただきましょう。あとでお茶と一緒《いっしょ》に持っていくわね」
小躍りするように弾《はず》みながら、パウンドケーキの入った紙袋を抱えて奥に戻っていった。
いったい何なんだ、と訝《いぶか》しんでいると、先に階段を歩き出した祥子がつぶやいた。
「我が家では今、ミルフィーユという名前に胃もたれしているの」と。
祥子《さちこ》の部屋は、お姫さまに相応《ふさわ》しい広くて豪華な部屋だ。
とはいえ、フリフリカーテンやピンクの花模様の壁紙にテディベアといった少女趣味満載ではなく、アイボリーの壁に煉瓦《れんが》色のカーテンという渋い色味の上品な大人の部屋であった。
カーテンの色は以前と違う。季節によって、材質や色を使い分けているのかもしれない。
まだ子供といっていい令《れい》の目から見ても、一目で良い物とわかる古い木の家具が並んでいた。
「……」
しかし、何|畳《じょう》あるのだこの部屋は。天蓋《てんがい》つきのベッドと机とグランドピアノとテーブルセットが余裕《よゆう》で収まって、その上祥子専用の風呂場《ふろば》まであるんだから。
「座ってちょうだい」
言いながら祥子は、テーブルに置いてあった丸い輪っかのような物を片づけた。
「刺繍《ししゅう》?」
チラリと見えたそれは、刺繍枠だ。趣味の一つに手芸をあげられる令が、見間違えるわけがない。
「ええ。ちょっとね」
「見せて」
「嫌だわ、令ほど上手《うま》くないもの」
そう渋りながらも、祥子は刺繍枠を見せてくれた。
「私だって、刺繍はそんなにやらないって」
受け取りながら、令は頬《ほお》がほころんだ。白いハンカチに、小さな紅い薔薇《ばら》の花が咲いている。確かバリオンステッチだったか、これは。
「上手《じょうず》じゃない」
「本当?」
褒《ほ》められて、祥子はうれしそうに笑った。お姫さまにこんな顔をさせちゃう果報者《かほうもの》は――。
「祐巳《ゆみ》ちゃん?」
「わかる?」
「そりゃね」
祥子は、祐巳ちゃんに夢中だ。普段はそんなそぶりも見せないけれど、可愛《かわい》くて可愛くて仕方ないのだ。親友だから、そんなのは見ていればわかる。
それは恋とはちょっと違う。
二人の関係は、以前、祥子のお姉さまである水野《みずの》蓉子《ようこ》さまが言っていた「祐巳ちゃんを妹にしてからいい表情するようになった」、その一言に集約されている気がする。
祥子は、祐巳ちゃんといることによって、いい方向に変われるのだ。
「ごちそうさま」
「まだ令のお菓子を『いただきます』していないのに?」
「そうだった」
二人が笑い合ったところに、ノックがあった。清子小母さまが、お茶を運んできてくれたのだ。
「お持たせですけれど」
小母さまは、令の焼いたパウンドケーキも切り分けて皿に載せて持ってきていた。
「あ、すみません」
「令さんのお菓子、先に味見しちゃった。すっごくおいしかったわ」
「恐れ入ります」
お世辞《せじ》でも、そう言ってもらえるとうれしいものだ。
「どうやって作るのか、今度教えてちょうだい」
「あ、レシピを書いて差し上げますよ。すぐに――」
言っている途中で令は、祥子が渋い顔をして何か合図を送っているのに気づいた。
「――すぐには無理なので、そのうちでいいですか」
「ええ、もちろん。お願いね」
「は、はい」
祥子は、清子小母さまが部屋を去ってから、首をすくめて言った。
「ああ言ってもらえて、助かったわ。危なく、今度はパウンドケーキで胃もたれ起こすところだった」
どうやら、小母さまはごく最近ミルフィーユを半端《はんぱ》じゃない量作って、家族や使用人たちに迷惑をかけたらしい。なるほど。そういうことだったら、パウンドケーキのレシピはしばらくお預けにしておいた方がいいだろう。
「それで?」
お茶をすすってから、祥子が話を振った。
「話があるのではなかったの?」
「え?」
言われてすぐ、令はびっくりしたが、やがて「うん」と認めた。確かに、自分は祥子に聞いてもらいたいことがあって来たのだ。
「よくわかったね」
「わかるわよ。ただ理由もなく会いたいなんて、あなたが言ってくることないじゃないの。私は、そう言われたらうれしかったけれど」
「……ごめん」
「お互いさまよ。それに、話をしたいと思ってくれたことだって、うれしいのよ」
祥子はケーキを一口食べてから、「おいしいわ」と言った。
「レーズンとアプリコットとプルーンとパイナップル」
ケーキを手で千切《ちぎ》って、中に入っているドライフルーツの名を一つ一つ並べ始める。
「それで全部?」
「あと、イチジク」
「ああ、イチジクね。言われてみればそうだわ」
満足したのか、祥子は細かくなったケーキをフォークで刺して口に入れた。その様子を眺めながら、令は言った。
「いろいろ思うところがあって」
「ええ」
モヤモヤとしたものがあって。
結論は、本当はとうに出ているのかもしれない。けれど、最後の最後の所で踏ん切りがつかない。たぶんそれは、戻ろうと思えばまだ戻れる場所に身を置いているせい。いっそ、口に出して後に引けなくなればいい。
「聞いてくれるだけでいい、なんて。虫がいいかな」
「別にいいわよ」
祥子は言った。
「私に話しているうちに、気持ちが固まるのでしょう?」
そのために今目の前にいるのだから、と。泣かせる文句を言ってくれるものだ。
「由乃《よしの》に」
何から話したらいいのか。だが、祥子はただ聞くことを請け負ってくれたのだから、取り留めもなく話しても、許してくれるだろうと思って続けた。
「親しい下級生ができてね」
「……そう」
「中等部の三年生。有馬《ありま》菜々《なな》っていう子なの」
「紹介してもらったの?」
令は「ううん」と首を横に振った。
「どさくさに紛《まぎ》れて顔を見ちゃった、って感じかな」
「どさくさ?」
祥子は聞き返してきた。取り留めもないにしても、端折《はしょ》りすぎたかもしれない、と令は反省した。
「あ、私、お見合いしたのよ。その時に」
「お見合いですって?」
今度はぶっ飛びすぎた。祥子は目を丸くしている。当たり前だ。そんな話、休み前に一言も言ってなかったのだから。
ちなみに、そのお見合いからはかなり時間が経っている。すぐに学期末試験があったり試験休みに突入したりで、ゆっくり報告をする暇がなかったのだ。
「でも、まあ。お見合いっていうのは、後から聞かされた話で。ただ、知り合いの息子さんに会っただけなの。由乃と同じ手術をするって聞いて、何となく励《はげ》ましてあげたかったし……」
すると、祥子が含み笑いで質問してきた。
「おいくつ? その方」
令は答えた。
「十」
「そんなことかと思ったわ」
やっぱりね、とカラカラ笑う。
なぜ祥子は、予想できたのだろう。由乃と同じ手術と聞いて、子供と判断したのか。それとも、令にはお見合い話なんて来ないだろうとふんだのか。または本格的なお見合いだったら(由乃がらみで)もっと大きな騒ぎになっていると思ったからなのか。
……きっと、全部ひっくるめて、なんだろう。
「それで、どうしてその菜々さんがお見合いと関係あるの?」
祥子が先を促した。
「由乃が、予告もなくお見合い現場のホテルに現れてね。その時、その菜々って子を連れていたのよ」
「そういうこと」
「たまたま父も、見合い相手のお父さんも、菜々のことを知っていたから、私もいろいろ探りを入れてみた」
「……また、らしくない事を」
祥子が、呆《あき》れたようにため息をついた。令も、こういう内偵《ないてい》のようなことが自分らしくないことは、重々自覚している。でも。
「由乃が何も言わないから」
由乃のこととなると、性格が変わったように見境がなくなることもまた、気づいている。
「それで? 名前以外に何かわかって?」
祥子が身を乗り出した。
「有馬菜々は、実は田中《たなか》菜々だった」
パウンドケーキを突っつきながら、令は答える。ほじくっていたら、アプリコットの大きなかたまりが出てきた。だいたい一辺が一センチ未満になるように、ドライフルーツを切ったつもりだったのに。
どうやって、これだけが包丁から逃れることができたのか。そして、生地《きじ》に投入した時も混ぜ合わせている最中も、よくもまあ自分は気づかなかったものだ。
「ちょっと待って。田中菜々って?」
祥子が聞き返す。
「田中姉妹の末っ子」
「ああ、令が去年も今年も交流試合で対戦した、太仲《おおなか》女子の、あの姉妹の田中さん?」
「そうよ。ちょっとビックリしたわ」
それでも、有馬道場の道場主が孫娘を養子にしたというのは結構有名な話らしく、谷中《やなか》のお爺さんやお父さん以外にも、支倉《はせくら》道場の門下生の何人かは知っていた。
だが、令が知らなかったのだ。由乃が、そうと知って菜々に近づいたとは思えなかった。
「どうやって知り合ったのかしら」
「さあ」
そこまではわからない。菜々の身元は調べられても、二人の出会いとなると本人に聞かないことには。リリアン女学園内に通っている生徒同士、接点がないわけではないだろうが。
「でも、ごく最近のことだと思う」
これは、姉の勘《かん》である。少なくとも、学園祭の頃までは由乃にそんな様子はなかった。妹《スール》オーディション、もといお茶会の時だって、妹の「い」の字も気配がなかったから、由乃はあんなに積極的になっていたのだろうし。
「令」
「いつ、どうやって知り合ったっていいわよ。でも、どうして私に何も言わないわけ?」
怒りにまかせて、フォークでケーキを突き刺した。
「令ったら」
「わかっているの、私、焦っているんだって。私は卒業するんだし、由乃は誰かを妹にするべきなのよ、ただね私は――」
「ストップ」
祥子が令の額《ひたい》に軽く触れた。
「熱くなっちゃって」
「え?」
ひんやりとした感触。何だかよくわからないけれど、祥子の手の平は気持ちよかった。
「愚痴《ぐち》だってちゃんと聞くわよ。でも、あなた、もう少し落ち着いた方がいいわね」
そう言って、祥子は立ち上がった。何をするのだろうと見ていると、部屋の出入り口に向かって歩いていく。
「祥子?」
「それじゃ、ケーキが食べられないでしょう? 階下《した》に行って、スプーンを取ってくるわ」
それ、と指さされて我に返ると、令の目の前にあるお皿の上のケーキが、フォークでは扱えないほど細かく裁断されていたのであった。
祥子《さちこ》が持ってきてくれたスプーンで、令《れい》がケーキをすくって食べている間、祥子はピアノを弾《ひ》いてくれた。
「何か、リクエストはあって?」
指ならしの練習曲を弾き終えて、祥子は振り返った。
「『エリーゼのために』」
スプーンを振り回しながら、令は答える。
「ピアノ曲と言えば……の定番ね」
「だって他に思い出せないんだもん。あ、『小犬のワルツ』も知っているよ」
ショパンの『ノクターン何たら』とかモーツァルトの『何たら行進曲』とか気の利《き》いたことが言えたらよかったのだろうが、普段クラシック音楽にあまり触れずに生活しているので、そういうことは疎《うと》いのだ。
「……『エリーゼ――』にしましょう」
祥子はピアノピースを見つけ出して、譜面《ふめん》立てに置いた。番号順なのか、作曲者別なのか、それとも曲名が五十音順に並んでいるのか。抽斗《ひきだし》に入っている膨大《ぼうだい》なピースの中からすぐに探し出せるのだから、ちゃんと整理されているのだろう。
しかし、祥子はあれらを全部弾けるのだろうか。そうだとしたら、すごい。
「では、リクエストにお応えして」
お馴染《なじ》みの、タラタラタタラララ〜というメロディーが聞こえてきた。定番になるというのは、それなりの理由があるのだ。とても耳に心地《ここち》いい。
まるでCDを聴いているみたいになめらかな音に耳を傾けながら、令は自分の心が落ち着いていくのを感じた。
確かに。由乃のことになると、すぐに頭に血が上る。今必要なのは、こういう静かな心持ちなのかもしれない。カッとなったら、考え事だってまとまらないのだ。
祥子のピアノは何回か聴いたことがあったが、いつも上手《うま》いと思う。
ノーミスだと言っているのではない。そんなのは当たり前で、隙《すき》がない美しさと言えばいいのだろうか。隅々まで行き届いた完璧《かんぺき》な音を紡《つむ》ぎ出すのだ。たぶん、楽譜を忠実に再現しているんだろうな、と思う。そんなにがんばらなくても、もっと楽に弾いてもいいのに、なんて聴いている者が大きなお世話なことを考えてしまうほどに、真面目《まじめ》なのだ。
これが志摩子《しまこ》だとまた違う。真面目《まじめ》でノーミスなのは同じなのに、何だかふわふわしている。指に力がないという意味ではなく、出てくる音がすでにどこか遠いのだ。
弾く人によって、音は違う。もし自分が祥子ほどのピアノの腕をもっていたら、どんな音を出すのだろう。今なら、音も迷っているかもしれない。
曲が終わり、祥子が両手を膝《ひざ》の上に下ろした。一度令を見て、すぐに椅子《いす》を立ち上がったのは、もう頭に上った血が下がったと判断したからだろう。ピースを片づけてピアノの蓋を閉じた。令の様子|如何《いかん》によっては、もう二、三曲弾くつもりだったのかもしれない。
少し残念だったが、ここにはコンサートを聴きにきたわけではないので、今回は諦《あきら》めることにした。
祥子が戻ってきて向かいの席に着いたので、令は言った。
「私、リリアン女子大に行くのやめようと思う」
「え?」
「今からで間に合うかどうかはわからないけれど、他大学を受験する」
祥子は、まるでキツネにつままれたような顔をした。
「でも、願書《がんしょ》を出していたのではなくて?」
優先入学の願書の締め切り日は、すでに過ぎている。その日、令はまだ迷っていた。だから、願書は予定通り出していたのだ。
「終業式の日に、先生に言って取り下げてもらう」
「そう」
祥子は小さくうなずいた。これが話をしにきた令の本題なのだと、気づいたのだろう。
「由乃ちゃんは――」
知っているのか、と祥子の目が尋《たず》ねている。だが、「知ってるのか」と聞きながら、「当然知っているだろう」とすでに答えを出しているようだ。
由乃が知らないはずはない。
確かに由乃は、令のことならば何であれ一番先に知っていなければならない人間だった。
しかし、令は首を横に振る。
「由乃には言っていない」
「どうして」
事あるごとに、大学はリリアンに行くと令は公言してきた。だから言わなければ、当然由乃は令がリリアン女子大に行くものと思っているはずである。
「由乃が怖いから」
「怖い?」
「そう。怖いのよ」
正直に答えると、祥子は微笑した。
「暴力的なことを言っているのではないわね?」
さすがは親友。よくわかっている。
「そうよ。由乃が私のことを真っ正面から見て『なぜ』と聞いてきたら、決心が揺らぎそうだから」
「揺らぐような決心なの?」
「私なりに出した答えは、たぶん正しいと思う。でも、由乃はその決定を覆《くつがえ》してしまえるくらい、私の中では大きいの」
「そういうこと」
「だから、由乃に言う前に私は行動に移す必要があるのよ。由乃が知る頃には、もうどうしようもなくなっている、って状況になっていないと」
いっそ、由乃が知るのは最後の最後でいい。令はそう思っていた。
「だから。願書を出していたことも、知らせたくない」
揺らいでいたことを、由乃に気づかれてはいけない。令は確固たる信念のもと進路を決めたのだ、と。たまたま話をする機会がなかったから報告が遅れたのだ、と。そういうことにしたかった。
「他大学に行くというのは、由乃ちゃんに関係あるのね?」
祥子が、令の顔を探るように覗《のぞ》き込む。
「関係あるかな」
令はそこまで答えて、「いや」と思い直した。
「関係なくするために、そうするの」
いずれにしても、由乃を意識しての決定には違いない。もっとも、これまで由乃を無視した将来設計など、一度としてなかったのだが。
――将来設計。
令は、思い出して苦笑した。
「私ね、小さい時、看護婦さんになろうと思っていたのよ」
今まで二人の間でそんな話をしたことがなかったから、正直、笑われると思った。しかし、祥子は笑わなかった。
「由乃ちゃんのためね?」
「そう」
幼い頃から病院通いをしていた由乃。時には短期の入院もした。病院での様子を見ていた令は、由乃の世話をする看護師の仕事に触れ、それこそが自分に与えられた役目だと思った。看護師になれば、由乃の側で由乃の力になれるのだ、と。おかしな話だが、自分の中では「患者」とは由乃一人だけなのだった。
「その後は医者ね。由乃のために、手術しなくても病気を治してあげようって決めた。由乃、ずっと手術嫌がっていたから」
まだ自分が何者でもなく、何にでもなれると思っていた頃の話だ。
「リリアンの大学では医者にはなれないって知った時は、ショックだったな。初等部の高学年くらいの時。でも高等部を卒業して医大に進学したら、由乃の側にはいられなくなるじゃない? もう、究極の選択よ。まる二日くらい悩んで、取りあえずは由乃から離れられない、って結論を出して。医大はリリアン女子大を卒業してからでもいいや、ってことにしたの」
黙って聞いていた祥子が、そこで少し笑った。令も笑って、話を続けた。
「信じられない自信家でしょ? その気になれば、何でも簡単にできちゃうと信じていた。成長する過程で、さすがにそう簡単にはいかないこともあるんだって気づいたけれど、それでも私が由乃の側にいることだけは一生変わらないはずだった。でも」
由乃は勝手に手術をして、元気になってしまった。そして令に、もう守ってくれなくていいと言う。
「一生由乃の側にいようと決めていたのに。私は取り残されたの」
口に出して言うと、胸にこたえた。
そうだ。由乃に取り残されたのだと認めることが、令はずっとずっと辛《つら》かった。
「由乃のことばかり見て生きてきたから、由乃が私を必要としなくなった時、私は何をしたらいいのかわからなくなった。必要としていたのは、必要とされているという実感が欲しい私の方だった。私は、由乃に依存していたのよね。だから、そろそろ離れる必要があると思う」
「だから、他大学に?」
令はうなずいた。
「私と由乃は従姉妹《いとこ》だし、家だって隣《となり》だし。そう簡単には離れられないのよ。学校でも変わらないことには」
「そうかもしれないけれど。でも、由乃ちゃんから離れるためだけに?」
「そうよ。けれど、逃げるわけじゃない。気持ちは前向きなの。私は、外に出ないとやれないことをするんだから」
「それは何?」
「体育の勉強」
リリアンで幼児教育を学んで、剣道を教える幼稚園の先生になるっていうのも、それはそれで面白いかもしれない。でも、それはリリアン女子大に行くという狭《せば》められた条件の中での選択|肢《し》だ。由乃の側にいるという枷《かせ》を外したら、もっと広い世界が見えてくるはずだった。
由乃の側にいることは心地《ここち》いい。けれどこのままその心地よさに浸っていたら、その先には由乃の人生に間借りしたような人生しかないような気がしてきた。
この一年、ずっと考えてきたことだった。
「でも、私は弱くて、なかなか決心がつかなくて。ぐずぐず悩んで、とうとうここまで来てしまったの。でも、このままじゃ由乃に負けちゃう、って。私は気がついたの。やっと目が覚めた、って言えばいいかな」
「負ける? 由乃ちゃんに?」
「そうよ」
終業式の日に薔薇《ばら》の館《やかた》で行われるクリスマスパーティーに、由乃が菜々を呼ぼうと画策《かくさく》している。どういう紹介の仕方をするつもりなのかわからないけれど、妹にするための地固めをしているとしか思えなかった。
「由乃が巣立ちをする前に、私が子離れをしないと惨《みじ》めじゃない」
「……令」
祥子は椅子《いす》を立って、令の側まで歩いてきた。
「よく、決心したわね」
後ろから、フワリと肩を抱き寄せられた。
「私、あなたのこと見直したわ」
「私もよ」
令が笑った時、小笠原《おがさわら》家の玄関に訪問者を知らせる呼《よ》び鈴《りん》が鳴った。
令が家で使っている、目覚まし時計の音と少し似ていた。
冬の夜はすぐにやって来る。
窓の外に目をやれば、すでに辺りは真っ暗だった。
「あら、もうお帰り?」
階段を下りていくと、清子小母《さやこおば》さまがパタパタと出てきて言った。
「お夕飯食べていったらいいのに」
「いえ。今日は失礼します。長々お邪魔《じゃま》しました」
辞退すると、小母さまはじっと顔を覗《のぞ》き込んでくる。
「今夜は私の手料理じゃないから、極端な物は出なくてよ?」
どうやら、小母さまの料理から逃げようとしていると思われたらしい。量が半端《はんぱ》じゃないとか、出来上がるまで膨大《ぼうだい》な時間がかかるとか、自覚はしているようだ。
「そういうわけではなく」
「じゃ、どういうわけ?」
「えっとですね」
どうやって断ろうかと思案していると、祥子《さちこ》が横から助け船を出してくれた。
「お母さま、令は自転車で来たのだから。もう暗いし、あまり遅くなるとよくないわ」
「……そうね」
説得力のある理由に、小母さまはやっと諦《あきら》めてくれた。年頃の娘をもつ母としては、「それでも」とは言えないのだろう。
「最近のお客さまは、夕飯前に帰ってしまうことが多くてつまらないわ。令《れい》さん、今度は泊まりがけでいらっしゃいね」
「はあ」
この様子では、次は勘弁《かんべん》してもらえそうもない。次回訪ねる時には、パジャマを持参しなければならなくなりそうだ。
「お客さまといえば」
令が靴《くつ》を履《は》いていると、祥子がつぶやいた。
「どなたかいらしたの?」
「どなたか、って?」
小母さまが聞き返す。
「さっき。二十分くらい前かしら。呼《よ》び鈴《りん》が鳴ったわ」
「ああ。優《すぐる》さんよ」
お客さんじゃないわね、と小母さまが笑った。
「優さんだったの?」
スグルさんと聞いて、令はすぐにはピンと来なかった。だが、小笠原《おがさわら》母子の会話を聞いているうちじわじわと思い出してきた。
柏木《かしわぎ》優。祥子の従兄《いとこ》だ。
「何かご用があって?」
「さあ……何でいらしたのかしら」
小母さまがおっとりと思い出しているうちに、令はスニーカーの靴《くつ》ひもを結び終え、祥子はタイツの上からミュールをつっかけた。
「そうそう、ミルフィーユを持って帰った時に包んでいた風呂敷《ふろしき》を返しに、って」
「それだけ?」
祥子は、腑《ふ》に落ちないとでもいうように、重ねて聞いた。
「それだけ。風呂敷なんていつでもいいのにね」
「以前貸した傘《かさ》を一年後に返した人が? わざわざ?」
「そういえば、そうね」
清子|小母《おば》さまも首を捻《ひね》った。腕組みして、「うーん」と考え込む小笠原母子。こうしていると、鏡に映っているみたいにそっくりだ。
「あの、その風呂敷がすごく高級品だとか。それで傘の方がビニールで」
令も話に参加してみたのだが、二人から「それは違う」と、その推理はすぐに却下《きゃっか》されてしまった。
「風呂敷は、鯛《たい》とかお赤飯とか、……ほら結婚式のお土産《みやげ》を持ち帰るためだけの物で、返してもらわなくてもいい物なのよ」
まだ片づけていなかったらしく、小母さまは玄関の側の花器を置いた台の上にあった風呂敷を「ね?」と見せてくれた。言われたとおり、それは不織布の、使い捨てといっていいような代物《しろもの》だった。
「貸した傘っていうのは、女物の折りたたみ傘で、イタリアで買ったちょっといい物なのよ。不意の雨だったら仕方なくさすでしょうけれど、優さんは男の人なのだから持っていたってそうそう使わないでしょう?」
「……なるほど」
確かに謎《なぞ》だ。気がつけば、令も腕組みをして考え込んでいた。
「ま、今度来たら問いつめてあげましょう」
小母さまが華《はな》やかに笑ったので、続きはまた今度となった。
「門まで送ってくるわ」
祥子がそう言って玄関のドアを開けたので、令は小母さまに別れを告げた。
融《とおる》小父さまやお祖父《じい》さまは、まだ帰っていないようだ。
時計を見ると、六時五十分を少し回っている。お昼ご飯にかからないように訪ねたのに、お夕飯の時間まで長居してしまっては世話がない。
駐車場の片隅に止めていた自転車は、屋根があるのにサドルがうっすらと濡れていた。たぶん、夜露なのだろう。
ハンカチでサドルとハンドルを拭《ぬぐ》ってから、鍵《かぎ》を差し込む。
「乗ってもいいわよ」
自転車を手で押し始めると、祥子が言った。だが、祥子を歩かせて自分だけ乗るなんてできない。
「祥子が乗れば? それとも、乗れない?」
「失礼ね。自転車くらい乗れるわよ。貸してご覧なさい」
長い巻きスカートを膝《ひざ》までたぐり上げて、祥子はサドルにまたがった。ハンドルさばきに邪魔《じゃま》なのか、ショールは前の籠《かご》に放り込む。
最初はグラグラとタイヤを揺らしながら、やがてスムーズに自転車は走りだした。令は、それを追いかける。
冷たい空気の中、公園のような森のような道をどんどん走る。
ブレーキを踏んで、祥子が言った。
「二人乗りしましょうよ」
「え?」
「大丈夫《だいじょうぶ》よ。ここは私有地なんですもの。お巡《まわ》りさんには捕まらないわ」
「そうか。そうだね。二人乗りしよう」
令も思った。祥子と二人乗りをしたい。
走ったせいか、身体《からだ》が温まって、気分がハイになっていた。
「令が漕《こ》いで」
祥子はハンドルを令に渡すと、後ろの荷台に横座りになった。
「行くよ」
令は思いきりペダルを踏み込む。祥子の腕が、腰にしっかりと巻きついている。
ビュンビュンと風を切って、自転車が走る。
道のあちこちに点いている外灯が、まるで星のよう。
いつしか二人は、声をあげて笑っていた。
今、自分たちは宇宙の中を走る流星なのだ。
昔みたいに、やろうと思っただけで何でもできる気がした。その気になれば、何にでもなれる気がした。
このまま、永遠にこの道は続いているのではないのか。
本物の星に手が届くのではないか。
ペダルを踏みながら、風を感じながら、友のぬくもりを感じながら、令はそれを疑わなかった。
永遠に続くかに思えた道も、いつかは終わりが来る。目の前にそびえる高い門扉《もんぴ》が、二人を現実世界に引き戻した。
祥子《さちこ》が自転車を降りて、扉を開ける。令《れい》は自転車を押しながら一歩外に踏み出す。
門の内と外に分かれて、二人は向かい合った。
「それじゃ」
令は籠《かご》からショールを出して、祥子に手渡した。
「ええ。気をつけてね」
うなずいて、ペダルに足をかけると祥子が「令」と呼び止めた。
「何?」
[#挿絵(img/22_211.jpg)入る]
ゆっくりと振り返る。祥子の口から、白い吐息が吐き出されている。
「私はリリアン女子大に行くから」
「うん」
「他の大学に行って、経済のことを勉強をして、祖父や父の手伝いをしようかと思ったこともあったけれど。急ぐことはないから、もう少しリリアンにいようと思うの」
「そっか」
「私は、祐巳《ゆみ》がいるリリアンに残るから」
「わかった」
「それだけ」
宣言した祥子は、すっきりした顔をしていた。
だから令も気持ちよく手を振って、自転車をこぎ始めた。
次第にスピードを上げる。こぐことによって点灯したライトが、夜道に一筋の光を投げかける。
そっか。
祥子は残るんだ。
知っていたはずなのに、改めて聞くと何だか感動した。
そっか。
祐巳ちゃんがいるリリアンに。
ちょっぴり切なくて、思い切り熱い。
祥子が、祥子なりに悩んで出した結論だ。無条件で応援できる。
分かれ道にさしかかって、令は一度自転車を止めた。左に曲がると、来る時に通った細い道。直進すれば、そのまま広い車道に出る。
坂道の上から見下ろせば、行く手には明るく開けた公道が銀河のように輝いている。
令は迷わず、真っ直ぐに自転車を走らせた。
[#改ページ]
あとがき
未来の白地図?
まるで、最終巻みたいなサブタイトルですね。
こんにちは、今野です。
初っぱなのセリフは、サブタイトルを電話で打ち合わせした時に、担当さんがつぶやいた感想です。
確かに。――っていうか、考えついた時点で、私もそう思ったんですけれどね。
「少女たちは、これからそれぞれの未来に向けて歩き始めるのだった」
で、ジ・エンド。そんな中身をイメージさせるタイトルです。
まず「未来」。「明日」とかもそうだけれど、いかにも物語を締めくくりそうな単語です。
そして「白」。青も怪しいけれど、それ以上に怪しい色です。赤とか黄色とかでは、物語はあまり終わりそうもない。私個人の感覚ではありますが。
で、極めつけは「地図」。もう、ぷんぷん匂《にお》います。
しかし、これは最終巻ではありません。
ずっと読み続けている方は、「まさかまだ終わらないだろう」とわかっておいでですね。そう、問題がまだ山積みです。整理するのに、まだまだ時間がかかりそう。
ところで、今回、文中に刺繍《ししゅう》のステッチの名前が出てきます。
その小さな芋虫《いもむし》みたいなステッチは、小さい頃に着ていたワンピースとかブラウスとかでよく見ていたので、「薔薇《ばら》といえばこれ」とすぐに思いついたのですが、如何《いかん》せん名前を知らない。手持ちの刺繍の本をパラパラやって「おお、これこれ。バイオリンステッチというのか」と本編で書き始めました。それでも一応裏付けを取っておこうと、インターネットで調べてみたところ、全然ヒットしない。ならばヴァイオリンでどうだ、とバをヴァに変えて調べても同じ。もしかして、これはその本独自につけた名称なのか、と本屋さんに行った時に別の刺繍の本を開いてみました。結果、「あった!」。わざわざ後ろにローズまでつけてバリオンローズというものまで。「え?」と、そこでやっと気づきました。
バイオリンじゃない!! バリオンなんだ――!!!
道理で、インターネットでバイオリンの図案ばっかり出てきたわけだよ。
思い込みって恐ろしい。下手《へた》すると、バイオリンステッチのまま文庫になっていたかも。ぞーっ……。
というわけで、今回は『マリア様がみてる』の勘違《かんちが》いに関する話を少々。
読者さんの勘違いで、よくあるのが何といってもタイトルですね。『マリア様が見[#「見」に傍点]てる』『マリア様がみてい[#「い」に傍点]る』『マリアさま[#「さま」に傍点]が見[#「見」に傍点]てる』等々。
人名だと祥子《さちこ》の読みが「しょうこ」(お友達の作家さんも、「わかっているのに間違えちゃう」と言ってました)。祐巳《ゆみ》は「裕[#「裕」に傍点]巳」が多いですね。これは何となくわかる気がする。あとは巳の字。手書きだと已も己も字の癖みたいなものだとスルーしちゃうけれど、巴は一本多いので「おや?」ですね。
一本多いといえば由乃《よしの》の乃。及と書かれていることが結構あります。勢いで書いちゃうのかな。一人じゃなくて複数の人がそう書いているところが面白い。そうそう、乃梨子《のりこ》が「及[#「及」に傍点]梨子」もありました。「江梨[#「梨」に傍点]子」とか「乃利[#「利」に傍点]子」とか「容[#「容」に傍点]子」も少なくないです。
私の名前編。緒雪が諸になっているとか雪が雷や電になっていたりする話は、以前どこかのあとがきにも書きましたが、その後もいろいろ面白い(……失礼)誤字があったので発表しちゃいます。今野が令野(これも一本多いパターン)、今野 緒雪が今野緒 雪(今野緒までが苗字だと思っちゃったんだ。だとしたら、挨拶《あいさつ》は「こんにちは、今野緒です」だよね)。
なーんて、書いちゃいましたが、これは苦情じゃありませんので、懲《こ》りずにお手紙くださいね。間違いも楽しんでますから。でも、たぶん、ご自分では間違っちゃったという認識はないんじゃないかな。私も、どこかでいろいろ間違っているはずですが、気づいていませんから。たまに、昔のノートとかメモとかに書かれていた漢字が間違っていて、「ひょえー」ってなりますけれどね。
間違いといえば、この間男性からいただいたお手紙に「担当のお姉さまによろしく」というメッセージが添えられていたのですが、現在の担当さんは「お兄さま」です。以前あとがきで報告しておいたから、皆さんご存じかと思っていたのですが、その本が『スリピッシュ!』だったので、知らない方もいらしたようです。それとも、サイン会などで私たちの横に立っていた集英社のお姉さま方を見て、「この人が!」と一目惚《ひとめぼ》れなさったとか……?
でも、訂正したからといって、男性からの手紙に「担当のお兄さまによろしく」と書かれていたら、それはそれで対処に困りますがね。
――あ、そのまま伝えればいいのか。
[#地から1字上げ]今野緒雪
底本:「マリア様がみてる 未来の白地図」コバルト文庫、集英社
2006年1月10日第1刷発行
このテキストは、
(一般小説) [今野緒雪×ひびき玲音] マリア様がみてる 第22巻 「未来の白地図」.zip tLAVK3Y1ul 28,279,807 3460b70055609af0718db343f12bd2f7
を元に、手入力とOCRでそれぞれテキストを作成し、MMEditorのテキスト比較機能で
両者を比較校正したものです。
毎度のことながら、画像版を放流された tLAVK3Y1ul さんに感謝します。
******* 底本の校正ミスと思われる部分 *******
底本p016
空耳なんて、相当重傷なんじゃなかろうか。
重症
底本p028
底本p079
盾《たて》ロール
…………
底本p059
試験休み中に、ガーっと作り上げた。
ガーッと作り上げた。
底本p095
菜々を迎えにいこうと
細かいことですが、マリみてのルビ入れルールでは、菜々にルビ入るはず。
底本p095
可南子ちゃんと乃梨子ちゃんのつないだ手が、
乃梨子じゃなくて瞳子
底本p109
祐巳はテーブル所まで戻った。
テーブルの所まで
底本p121 2ヶ所
「『〜』
文末の“」”欠け。
底本p129
こんなものでも、優勝商品がかかると
底本p139
――って。それほど燃える優勝商品か?
優勝賞品
底本p141
何の前振れもなく崩れたから、
「前触れ」。ツイスターゲームだから「振れ」?
底本p200
「私ね、小さい時、看護婦さんになろうと思っていたのよ」
「看護師」。他は「看護師」になっている。
底本p209
ブレーキを踏んで、祥子が言った。
自転車なんですけど。
底本p212
「他の大学に行って、経済のことを勉強をして、
経済のこと を 勉強 を して
経済のことを勉強して/経済の勉強をして
********************************************
「あとがき」絡みで。
以前、多分「涼風さつさつ」あたりだと思いますが、OCRしたら「可南子」が「吐血子」てのがあったなあ。しばらく「吐血子」の文字を見つめて考え込んでしまいました。