マリア様がみてる
薔薇のミルフィーユ
今野緒雪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)薔薇《ばら》のミルフィーユ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)純粋|培養《ばいよう》お嬢さま
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)いろいろなつて[#「つて」に傍点]を使って
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[#挿絵(img/21_000.jpg)入る]
もくじ
黄薔薇パニック
百戦危うし?
パニック! アタック!!
勝負の行方
白薔薇の物思い
平和な二人
物思いの種
紅薔薇のため息
期末試験のご褒美
ハイテンションとジェットコースター
ため息のミルフィーユ
あとがき
[#改ページ]
[#挿絵(img/11_004.jpg)入る]
[#挿絵(img/11_005.jpg)入る]
[#地付き]イラスト/ひびき玲音
[#改丁]
マリア様がみてる 薔薇《ばら》のミルフィーユ
[#改ページ]
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶《あいさつ》が、澄みきった青空にこだまする。
マリア様のお庭に集《つど》う乙女《おとめ》たちが、今日も天使のような無垢《むく》な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
汚《けが》れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。
スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻《ひるがえ》らせないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
私立リリアン女学園。
明治《めいじ》三十四年創立のこの学園は、もとは華族《かぞく》の令嬢《れいじょう》のためにつくられたという、伝統あるカトリック系お嬢さま学校である。
東京都下。武蔵野《むさしの》の面影《おもかげ》を未だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎《ようちしゃ》から大学までの一貫《いっかん》教育が受けられる乙女の園《その》。
時代は移り変わり、元号《げんごう》が明治から三回も改まった平成《へいせい》の今日《こんにち》でさえ、十八年通い続ければ温室育ちの純粋|培養《ばいよう》お嬢さまが箱入りで出荷される、という仕組みが未だ残っている貴重な学園である。
ミルフィーユ。
言わずと知れた薄いパイの間にクリームとかジャムとかフルーツとかを挟《はさ》んだお菓子。
まともにフォークを突き立てればパリパリと建物が倒壊するみたいに大変なことになるけれど、そっと倒してから食べれば大丈夫《だいじょうぶ》。
ところで、お菓子のミルフィーユの綴《つづ》りはmillefeuille。発音するなら、どちらかといえば「ミルフゥユ」。
ミルフィーユにより近い発音といったら、だんぜんmillefilleの方。こちらは「千人のお嬢さん」という意味なんだって。
というわけで、今回は。
千人まではほど遠い、三組のお嬢さんたちの物語。
[#改丁]
黄薔薇パニック
[#改ページ]
百戦危うし?
1
ええ、もちろん。
今度の日曜日は出かけるんだ、って話は、週の半ばあたりに令《れい》ちゃんの口から聞きましたよ。
確かに聞きました。
だから、聞いたってば。
そこを責められると、もう「私が悪うございました」って頭を下げてこの話を終わりにしないといけなくなっちゃうから、そこはそれ、見て見ぬふりをして通り過ぎてくれないと。
その時(つまり令ちゃんが日曜日に出かけるんだって話をした時)の由乃《よしの》は、運悪く「自分の日曜日の過ごし方」のことで頭がいっぱいになっていたものだから、適当に聞き流してしまったわけだ。令ちゃんの話の肝心《かんじん》な部分を。
最初はちゃんと聞いていた。
谷中《やなか》さんという、由乃も顔だけは知っている、昔からよく伯父《おじ》さん(令ちゃんのお父さん)の道場に出入りしているお爺《じい》ちゃんに、令ちゃんは伯父さん共々お昼ご飯のご招待を受けている、とかいう話だったと思う。
谷中さんは嫌味のない穏和《おんわ》な人だけれど、お爺ちゃんはお爺ちゃん。令ちゃんが谷中のお爺ちゃんとご飯を食べるって話を聞いても、別にちっともうらやましくはなかった。ホテルの和食レストランのランチなんてのも、大体は想像つくし。三人|揃《そろ》ってやることといったら、どうせ剣道談義くらいしかないんだろうし。
で、まあ、「つき合いも大切よ。行ってくればいいわ」みたいなことを言って、由乃はそれ以降の話をすべてスルーしてしまったのだった。令ちゃんはもうちょっと詳しい話をしていたみたいだけれど、聞いている振りしてまったく頭に入ってこなかった。
由乃の予定は? なんて聞かれたらどうしよう、って半分ドキドキしていたのも上《うわ》の空の一因ではある。
由乃は今度の日曜日に、令ちゃんには内緒《ないしょ》である計画を立てていた。
うーん……内緒。
内緒っていうのは何となく人聞きが悪いから、令ちゃんには言わないで、ってことくらいにしておこうかな。
でも、どんな言い方をしたとしても、その内容が変わるわけではない。
実は。
由乃は次の日曜日、有馬《ありま》菜々《なな》と外で会う約束をしていたのだ。
2
仕掛けたのは、由乃《よしの》の方だった。
親友にしてクラスメイトでもある祐巳《ゆみ》さんに、「三年生になっても妹ができなかったら菜々《なな》を妹にする」と宣言したことで、中等部でノーマークだった有馬菜々は、由乃の妹候補の暫定《ざんてい》トップに躍りでた。
暫定トップ。
茶話会《さわかい》直後にいたはずの候補が誰も残っておらず、今のところ二位がいないのが悲しいところではある。
それはともかく。由乃は剣道の交流試合以来、菜々のことが気になって気になって仕方がなかった。
家庭環境などは、いろいろなつて[#「つて」に傍点]を使って調べ上げたけれど、菜々本人のことは何も知らない。
市民体育館の地下の廊下《ろうか》でぶつかりそうになって、でもすぐに身を翻《ひるがえ》せるくらい身が軽くって、頼めば初めて会った人の嘘《うそ》の片棒《かたぼう》くらいは担《かつ》いでくれて、トレーナーの下で制服のリボンがほどけていてもしばらくは気づかないという、ちょっぴり抜けているところもある女の子。――知っていることといったら、そのくらい。
それじゃ、足りない。
妹にするしないはまだ先の話だけれど、菜々のことはもっと知るべきだと由乃は思った。昔の人は、よく言ったものだ。『敵を知り己《おのれ》を知らば百戦危うからず』って。
菜々は敵じゃないかもしれないけれど、妹ゲット作戦は、由乃にとってはもう完全なる戦《いくさ》だった。
好きな言葉は、先手必勝。いつもGOGO青信号の由乃にとって、「待ち」は一番苦手な作業。『動かざること山の如《ごと》し』って言葉もあるけれど。それは、よっぽど忍耐のある人のお言葉なんでしょう。
で、まあ、週の半ば、取りあえず由乃は菜々の視察に行くことにした。だが、中等部の教室を高等部の生徒が堂々と訪ねるのはあまりに目立つ。というわけで、朝、往来の多い昇降口で待ち伏せる作戦に出たのである。
令ちゃんには適当なことを言っていつもより少し早く登校し、中等部の生徒の昇降口近くで張り込みをする。十五分ちょっと待って、そろそろ探偵ごっこにも飽《あ》きてきた頃になって、菜々は現れた。
もちろん先日のピンクのトレーナーではなく、制服の上にはスクールコートを着ている。中等部の生徒たちの集団にとけ込んでいたが、予想以上に簡単に見つけられた。
由乃は菜々に向かって、正面からゆっくりと歩いていった。
まずは「ごきげんよう」。そしてニッコリ笑って、「先日はどうも」。――筋書きは決まっていた。
菜々の顔を真っ直ぐとらえる。よし、今だ。
「ご……」
だが菜々は。
由乃の一・五メートル手前で直角に方向転換し、そのまま昇降口へと吸い込まれていってしまった。
「ま、待って」
由乃は、あわてて追いかけた。けれど、登校ピーク時の女子校昇降口。おしゃべりや挨拶《あいさつ》が飛び交い、どの声も混ざり合って、さながらミックスジュース状態。これでは、誰に誰が声をかけようとも容易に聞き分けられやしない。
(こうなったら)
由乃は耳に指を突っ込んで、力の限り叫んだ。
「田中《たなか》さんっ!」
すると。
次の瞬間、周辺の中等部生徒の動きが止まった。
(魔法?)
――ではないようだ。耳から指を抜き取る。辺りは静寂に包まれ、同時に生徒たちがこちらに注目している。
(あちゃ――)
どうやら、由乃は緊急警報並の叫び声を上げてしまっていたらしい。
「ご、ごめんなさい。お騒がせいたしました」
祐巳さんがよく言っている「顔から火が出る」、っていうのはこういうことか。とにかく験《げん》が悪い。今日のところは出直すことにしよう。とっさに「田中さん」と呼んでしまったから、幸い菜々も気づいていないだろうし。――と、踵《きびす》を返そうとしたが。
「……有馬《ありま》ですけれど」
本人はしっかり気づいちゃってたし。こうなっては、もはや修正はきかない。どこかにリセットキーはないものか。
立ち話は靴《くつ》を履《は》き替える生徒たちの邪魔《じゃま》になるので、二人は一旦外に出た。
「えっと、確か支倉《はせくら》令《れい》さまの――」
生徒たちの流れから外れた場所まで移動して、菜々が言った。
「妹さま[#「妹さま」に傍点]の島津《しまづ》由乃。もうお忘れかしら」
由乃は一応がんばってはみたが、あんな失態を見られた後では、なかなか余裕《よゆう》のある上級生モードは作り出せないものであった。
「覚えています。体育館で転んだ拍子《ひょうし》に、きれいなロザリオを落とされた方ですよね」
「……」
そういう覚えられ方はなんかなぁ、と由乃は思った。菜々が自分を思い出す時は、まず例の失敗のエピソードが先に来るわけだ。そして、どうひいき目に見ても、この話し方ではロザリオが主役で持ち主が添え物。
「ちょっと気にはなっていたんですよね。あの後、鳥居《とりい》江利子《えりこ》さまは何か言ってこられましたか?」
「鳥居江利子さまの名前は知っているわけね」
ぴくぴくと、由乃は自分の頬《ほお》が引きつるのを感じていた。
「もちろんです」
「もちろん、よね」
できるだけ笑顔を作ってはみたけれども、自分の名前を知らなかった菜々が、江利子さまの名前を知っていたことは、「支倉令さまの妹さま」としては非常に面白くないのである。自分がいずれ妹にするかもしれないと思っている相手が、自分にまったく興味を示していないという事実。
[#挿絵(img/21_019.jpg)入る]
でも、抑えて抑えて。ここで暴れては、印象が悪くなる。
ここまでのエピソードでいい印象なんてまったくない(というより無様《ぶざま》なところばかり見られている)由乃なのだから、ここで少しでも変なそぶりを見せたら、坂道を転がるようにマイナスイメージ一直線だ。
「また何かお手伝いすることでもできましたか」
菜々が尋《たず》ねてきた。困ったことがなければ、由乃が会いにくるとは思わないようだ。
「先日のお礼がまだだったから。それと、ちょっとお話ししたいと思って」
「お礼なんて、結構です」
ただ口裏を合わせただけだから、と菜々。
「でも、こっちの気が済まないから。もしよかったら、今度の日曜日にどこかで会わない? ケーキセットくらいごちそうするわ」
女の子にとっては水戸黄門《みとこうもん》の印籠《いんろう》、ケーキセット。これで決まり、と由乃は思った。だが菜々は、八時四十五分を迎えて「ははーっ」と地べたにひれ伏す悪代官のようには、簡単に落ちはしなかった。
ちょっとうつむいて、「うーん」と考える仕草。
(まさか、ケーキセットじゃ不服?)
でも、だからといってレストランでの高級ディナーに変更、なんてお財布《さいふ》的に全然無理だし。そこまでしないと外では会えないような女子中学生って、いったい何者? 江戸《えど》時代でいったら、売れっ子|花魁《おいらん》か何か?
そんな変な考えを吹き飛ばして、由乃は尋ねた。
「それとも、日曜日、都合悪い?」
迷っている理由があるとしたら、それはごちそうのランクに問題があるわけではないだろう、と。
「いえ、別に」
「じゃ、K駅の一階の改札口に十時半でどう?」
菜々はまだ「行く」とも「行かない」とも言っていなかったけれど、由乃は強引に話を進めた。決心がつかないようなら、押して押して押しまくれ、とばかりに。
菜々が顔を上げた。
「あの、島田[#「田」に傍点]さま」
「……島津だけれど」
腰砕《こしくだ》けになりそうなところだったが、必死に持ち直す。
「失礼しました、島津さま」
「できたら、由乃っていう下の名前で呼んで」
「ヨシノさま……ですね。あの、染井吉野《そめいよしの》の吉野ですか?」
本当にまったくと言っていいほど私のことを知らないんだ、この子。――と、由乃はちょっぴり感動した。
自意識|過剰《かじょう》と言われようと、由乃が高等部の中で結構有名人の部類に入ることは間違いない。
でも、この子は知らない。脳天がしびれた。
「自由の由に、若乃花《わかのはな》の乃」
体育館で会った時、「支倉令さまの妹さま」と呼ばれたから、辛《かろ》うじて令ちゃんの妹ということは知っているらしい。でも、もしかしたら、血のつながった従姉妹《いとこ》同士だということまでは知らないかもしれない。
なんて気持ちがいいのだろう。
自分があまりよく知らない相手が、自分のことも知らない関係。
「何かあったら、言ってきて。クラスでも自宅でも」
由乃は生徒手帳のメモ用紙部分に名前とクラスと自宅の電話番号を書くと、千切《ちぎ》って菜々に手渡した。
「ああ、乃木《のぎ》大将の乃……」
若乃花ではピンとこなかった菜々は、あまり相撲《すもう》には詳しくないらしい。しかし、乃木大将ときたか。渋い中学生だ。
「それじゃ」
用件は済んだし、ずっと見つめ合っているのも変だし、由乃は高等部の昇降口に戻ることにした。
人目も気になった。
由乃と一緒《いっしょ》にいたからといって、まさか中等部の生徒を| 黄薔薇のつぼみ 《ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン》の妹候補だなんて考えるような勘《かん》のいい人間はあまりいないだろう。けれど、せっかく一歩を踏み出したところなのに、変な噂《うわさ》をたてられて台無しにしたくはない。
それに、ほんの少し長居したことで、菜々の気が変わって、せっかく取りつけた日曜日の約束を断られては元も子もないから。
「楽しみにしています」
そう言いながら菜々は、そんなに期待しているような顔をしていなかった。でも、由乃が踵《きびす》を返す寸前に、小さく右手を振って見せたのは予想外で可愛《かわい》かった。
(ああ、これでまた一つ令ちゃんに内緒《ないしょ》のことが増えた)
由乃は、歩きながら反省した。
令ちゃんには、菜々のことを一切《いっさい》話していない。それこそ、菜々の「な」の字も。
これじゃいけないと、わかってはいるのだが、どう言っていいのかよくわからなくって、今までずっと黙っていた。否《いな》、言えなかった。
このことは、江利子さまや祐巳さん経由でいつ令ちゃんに知れるかわからないことだった。
(そりゃあ……)
そんな事態になる前に、自分の口から伝えた方が絶対にいいに決まっている。令ちゃんが受けるであろうショックを考えれば。
でも、いったい菜々のことをどう打ち明けたらいいというのだ。
江利子さまを騙《だま》すのに口裏を合わせてくれた中等部の三年生。でもそれを言うためには、まず江利子さまとのいきさつから説明しなければならない。
去年と今年、令ちゃんが交流試合で対戦した田中(長女)・田中(次女)の妹。だけど、訳あって苗字《みょうじ》は有馬。
何となく気になっているから、来年度もしかしたら由乃が妹にするかもしれない子。なのに、相手はまったく由乃に無関心。
どれか一つだったら、まだ説明しやすかったのに。菜々に関する情報はぐちゃぐちゃで、由乃自身うまく整理できてないのだ。
だからこそあらためて二人で会ってみたい。そうして自分の中で納得できれば、令ちゃんにも、ちゃんと伝えられる。
進展しても白紙に戻っても、モヤモヤした今の状態よりはましだった。
令ちゃんから、次の日曜日に谷中《やなか》さんにお昼ご飯をごちそうになるのだと聞いたのは、その日の夜のことだった。
そういうことだから、由乃は令ちゃんの話は細かいところを全部すっ飛ばしてしまったというわけなのだ。
[#改ページ]
パニック! アタック!!
1
日曜日の朝、といっても十時ちょっと前。
出かける支度《したく》をほぼ終えた由乃《よしの》の耳に、自宅前で車が停車する音が聞こえた。
(宅配便か何か?)
……にしては、トラックっぽくないな、と、何げなく二階の窓から外を見下ろせば、そこに停まっていたのは、なんと黒塗りのハイヤーだった。
(げっ、何事?)
目を瞬いている間に、運転手が車を降りてインターホンを押す。
ピンポーン。
ちょっと遠くに聞こえるのは、それが島津《しまづ》家のインターホンではなかったから。運転手さんが用事があったのは、ほぼ二世帯住宅といっていいほど島津家とくっついてはいるけれど、一応お隣《となり》さんである支倉《はせくら》家のようである。
「お父さん、お母さんっ。今、令《れい》ちゃん家《ち》にっ」
由乃は階段をバタバタと下りて、リビングでくつろぐ両親に、今自分の目で見てきたことを見たまま伝えた。
「ああ、そう。谷中《やなか》さん、やっぱりかなり気を遣《つか》われたのね」
お母さんがお茶をすすりながら、「納得」とうなずく。
「何が? 黒塗りハイヤーだよ?」
するとお父さんは新聞の日曜版から顔を上げて、的外《まとはず》れな情報を口にした。
「由乃は知らないかもしれないけれど、谷中のお爺《じい》ちゃんは、ああ見えて資産家なんだぞ。ハイヤーくらい頼めるだろう」
ああ見えて。確かに、谷中さんは一見お金持ちには見えない、ごく普通のお爺ちゃんだけれど。しかし、それはひとまず横に置いておいて。
「お母さんさ、さっき気を遣われた、って言ったよね?」
お父さんじゃ埒《らち》があかないと判断し、由乃はお母さんに的を絞《しぼ》って質問することにした。
「言ったわよ」
「何で谷中のお爺ちゃんが、伯父《おじ》さんや令ちゃんに気を遣うわけ?」
「だって令ちゃんに無理を言って……でしょ」
「無理に、って? 何を?」
肝心《かんじん》な部分を、なぜぼやかす。由乃はお母さんの肩を揺すった。
「ちょっ、落ち着きなさい。由乃も聞いていたじゃない。今更《いまさら》、何なの?」
ぐらぐら揺れながら、お母さんが言った。
「私が、聞いていた?」
何を? 由乃は、お母さんの肩から手を離して質問した。
「令ちゃんが今日のことを由乃に話していたでしょ、水曜日だったか木曜日だったかの夜、ここで」
お母さんは、まるで記憶|喪失《そうしつ》になったかわいそうな娘に過去を思い出させるように、一生懸命に説明した。
「このソファに令ちゃん、隣《となり》に由乃。お母さんはあっち行ったりこっち来たりしていたから、所々話が抜けてはいるけれど、それでもちゃんと理解したわよ」
「安心して、その時の状況は覚えているって」
由乃は手の平をお母さんの前に出して、大丈夫《だいじょうぶ》の仕草をして見せた。
このソファに令ちゃん、隣に由乃。
そして、令ちゃんが言う。――今度の日曜日、谷中さんにお昼ご飯をごちそうになることになってね。
そこまでは聞いた。
でもそこから、黒塗りハイヤーまでがどうしても埋められない。
ポイントは「令ちゃんに無理を言って」だけれど、お昼ご飯を一緒《いっしょ》に食べるくらいで「無理」が出てくるものだろうか。谷中さんは伯父《おじ》さんと話し込んだりして遅くなると、令ちゃんの家でご飯を食べていったりもする人だ。それくらい親しくしている間柄《あいだがら》ならば、一緒に外食するくらい何でもないんじゃないか。
令ちゃんに学校を休ませたとか、先約があったのをキャンセルさせたとかいうならわかる。でも、そんな予定があったなんて話は聞いてない。
ご招待というからには、会計は谷中さん持ちだろうし。いったい、どこに令ちゃんの「無理」は存在するのだろう。
「……由乃」
お母さんとお父さんが顔を見合わせ、それから訝《いぶか》しむように由乃を見た。
「本当に知らない、とか?」
「知らない」
というより、聞き逃していた。重要なキーワードの部分だけ、すっぽりと。
島津の両親は、一人娘を哀《あわ》れみの表情で見つめながら言った。
令ちゃん、今日お見合いなんだけれど、――と。
2
「おっ、お見合いっ!?」
一言叫んで、家を飛び出した時には、すでに令《れい》ちゃんも伯父《おじ》さんもハイヤーに乗り込み、運転手さんがエンジンをかけてまさに「出発ー」というところだった。
「令ちゃんっ」
待って、の合図のつもりで、両手をバタバタ振りながら窓に駆け寄ったのだが、何を勘違《かんちが》いしたか令ちゃんは笑顔で手を振り返し、そのまま「行ってきます」と行ってしまった。
「そんな」
ハイヤーがウィンカーを出して曲がり角を左折する姿を、呆然《ぼうぜん》と見送る由乃《よしの》。その肩を、後ろからそっと触れる人がある。
「由乃ちゃん、お見送りなの? ありがとう」
振り返ると、そこに令ちゃんのお母さんが立っていた。
「伯母《おば》さん、本当?」
「何が?」
「令ちゃん、お見合いって」
追いついて令ちゃんと伯父さんに質問ができない今、最早《もはや》この人に聞くしかない。何ていっても、出かけていった二人と一緒《いっしょ》に暮らしている家族である。近しい存在といえども、島津《しまづ》の両親は一|親戚《しんせき》でしかないのだ。
「いやあね、お見合いなんて大げさなものじゃないのよ」
伯母さんはカラカラと笑った。
「ただ、谷中《やなか》さんの息子さんが令のことを気に入ったって話でね。谷中さんに、お父さんの知り合いならぜひ会わせて欲しいって、そう言ったらしいのよ。それでね、取りあえずはお食事をって話になったんだけれど、その息子さんが来週からしばらくは時間がとれないってことで、急だけれど今日になったの」
それをお見合いと言わず何と言う。由乃は握り拳《こぶし》に力を入れた。
「令のどこがよかったのかしら」
見た目は男の子みたいなのにね、と言いながら伯母さんは、満更《まんざら》でもないといった表情だった。
「……ってことは、どこかで令ちゃんを見かけて、好きになってってこと?」
奥歯をキシキシ言わせながら、由乃は質問した。爆発するのはひとまず後まわし。取りあえず、ここは冷静に情報収集しないと。
「この間の交流試合を見に来ていたらしいの。そこで」
「でもさ、谷中のお爺《じい》ちゃんの息子さんっていったら、令ちゃんと年が離れているんじゃないの? 伯母《おば》さんはいいの、そんな人と令ちゃんが結婚しても?」
「落ち着いて、由乃ちゃん。会ったからっていって、すぐ結婚なんて話じゃないの、本当よ。ただ、事情があって、早く会って欲しいって言われただけで」
事情? どんな事情か知らないが、まだ高校生の令ちゃんにお見合い話をもってくる、谷中のお爺ちゃんもお爺ちゃんだ。息子だって、親に泣きついて取り持ってもらおうなんて甘えた根性の持ち主なんだから、さぞかし我がままなぼんぼんなのだろう。
「……いくつ?」
ギシギシギシ。楽器みたいに奥歯が鳴る。
「え?」
「相手の歳《とし》よ。いくつなの?」
由乃は伯母さんに詰め寄った。が。
「ごめん、聞いていない」
なぜ聞かない。由乃はガックリとうなだれた。娘の見合い相手の歳くらい聞くだろう、普通の母親だったら。脱力していてもしょうがないので、質問を変えた。
「じゃ、写真とか見た? あ、やっぱりいい。聞きたくない」
相手の人が、もし好印象の人だったら、何か悔《くや》しい。とっさに耳をふさごうとしたが、ギリギリ間に合わなかった。
「スナップ写真なら見せてもらったわよ。整った顔をしてたわ。育ちが顔に出るのかしら」
やっぱり。ぼんぼんっていって真っ先に頭に浮かんだ顔から、何となーく嫌な予感はしたんだ。ちなみに、イメージ提供は祥子《さちこ》さまの従兄《いとこ》である柏木《かしわぎ》さん。
「谷中さんというより、谷中さんの奥さん似だわね」
写真を思い出して、しみじみとつぶやく伯母さん。
「伯母さん、谷中のお爺ちゃんの奥さんの顔知っているの?」
「だって、一緒《いっしょ》に写真に写っていたもの。息子さんと」
「お母さんと一緒に写真に写っていたぁ?」
我がままぼんぼんに加えて、マザコンか。ますますもって、許せない。そんな男、令ちゃんにはもったいない。……って、どんな男ならいいのかって問わないで欲しい。それはそれで、答えに窮《きゅう》するから。
「独身?」
「もちろん、独身よ。それは、間違いない。スポーツをするより家で本を読んでいるのが好きで、女の人に興味をもったのって令ちゃんが初めてみたいだ、って谷中のお爺ちゃんが言っていたけれど」
「ああ、そうですか」
たとえそれがマザコン中年の初恋だからって、応援なんかしてやるものですか。ハンサムだろうと、賢かろうと、やさしかろうと、セクシーだろうと、この話断固反対してやる。
「伯母《おば》さん、ホテルどこ?」
由乃の胸の奥で、青白い火がチリチリと燃えはじめた。
「令と由乃ちゃんが昔から『森の中のホテル』って呼んでるあそこだけれど。ちょっと、由乃ちゃん? まさか、行くんじゃないでしょうね」
「まさか」
そんなことするわけないでしょう、と笑う。
「一応聞いてみただけ。私、今日はお友達と約束しているの」
一瞬あわてた伯母さんだったが、由乃の言葉を聞いて安心したのか、ホッと息を吐いた。
「そう。言われてみればおめかししているものね。その色、ピーコックグリーンっていうのかしら、可愛《かわい》いアンサンブルね。とても由乃ちゃんに似合うわ」
「おめかしなんてことないけれど」
それを言うなら、令ちゃんの格好のことをいうんじゃないの? と心の中でつぶやく。
さすがに着物ではなかったけれど、ちょっと臙脂《えんじ》がかった茶色のスーツを着ていた。あれは確か、下はパンツではなくてタイトのロングスカートで後ろにスリットが入っている、令ちゃんにしてはかなり女っぽい服だ。
「もう行かないと」
聞くべきことは全部聞いた。由乃は話を切り上げた。
「何時に待ち合わせ? 日曜日はバスの本数が少ないから、余裕《よゆう》を見ていった方がいいわよ」
「K駅に十時半……あっ」
まずい。もう十時を回っている。
「行ってきます」
由乃は一旦玄関にバッグを取りに戻り、靴《くつ》も履《き》き替えて再び外へ飛び出した。たとえ遅刻しようとも、サンダル履きの上に手ぶらでは話にならない。
話にならないといえば、半ば強引に会う約束を取りつけた本人が遅刻すること。こんなみっともないこともないだろう。
バス停まで駆けていって、乗る予定だったバスに間一髪《かんいっぱつ》間に合った。
車内はガラガラだった。二人座りの席に一人で座ってまず由乃がしたことは、控えめに地団駄《じだんだ》を踏むことだった。
「うーっ」
一息ついて、令ちゃんのことを思い出し、むかむかとまた腹がたってきたのだ。
「どうしてくれよう」
伯母さんにも友達と会うと言ったし、菜々との約束を反故《ほご》にするつもりは毛頭《もうとう》ないが、許されることなら今すぐ令ちゃんを追いかけたかった。
令ちゃんが今日のことを話してくれた時、どうして自分はちゃんと聞いていなかったのだろう。
そのことが、今更《いまさら》ながら悔《く》やまれた。
3
日曜日のこの時間、バスの中同様道路も空《す》いていてスイスイ進んだ。由乃《よしの》がK駅に到着したのは約束の七分前、この路線バスはしょっちゅう利用しているが、今回のタイムは新記録だった。
約束の改札口には、すでに菜々《なな》の姿があった。クリーム色のセーターにジーパン、茶色のダッフルコート。何となく、祐巳《ゆみ》さんぽい格好だ。
「お待たせ」
「ごきげんよう」
バスに揺られた二十分弱の間に、走って乱れた呼吸は落ち着いたが、令《れい》ちゃんのお見合い話に関するむかむかは一向に収まる気配がなかった。むしろ、時間が経つに連れて増幅《ぞうふく》しているきらいがある。
けれど、そんなことは菜々には無関係だし、令ちゃんのことで腹を立てている姿は客観的に見て、決してすてきな上級生とは言い難いので、由乃は努めて明るく朗《ほが》らかに接した。
なのに、菜々は言った。
「何か、ありました?」
「え?」
「いえ、きっと気のせいですね。私の」
「何かあったように見えるんだ」
由乃は苦笑した。菜々の勘《かん》が鋭いのか、役者がダイコンなのか。
「ですから、私の……」
「気のせいじゃない。ごめん、今日、私はだめだわ。たぶん、一緒《いっしょ》にいても上《うわ》の空で、つまらないと思う」
待ち合わせの場所で、最初に挨拶《あいさつ》を交わした時のまま一歩も動かずに、二人の会話だけが進む。
「心配事ですか?」
「うん……まあ」
「それは済んでしまったことですか、それとも進行形?」
「進行形。だから上の空になるの」
何を見ても、令ちゃんのことを思うに決まっている。そんな状態で話をしたって盛り上がらないだろうし、ケーキを食べたっておいしくない。そんなことでは、一緒《いっしょ》に過ごす菜々に対しても失礼だ。
「で、由乃さまは、どうしたいのですか?」
少し考えてから、菜々が言った。
「え?」
「心配事があったのに、私との先約があったからここにいらしたのでしょう?」
「うん……まあ」
確かにその通りだが、約束した相手からそれを指摘されると、多少後ろめたいというか、複雑である。
「ですから、もし約束がなかったら、由乃さまはここに来ないで、いったいどこで何をしていたんだろう、って」
菜々の質問に、由乃は心の中で繰り返した。
(もし約束がなかったら、いったいどこで何を――)
「たぶん、そこに行っていた、と思う……けど」
素直な気持ちで心に問いかければ、やはり令ちゃんを追いかけたい。由乃が行ったことで、変わることなんて何もないかもしれない。でも、別の場所で、うじうじしているくらいなら、すぐ側まで行って成り行きを見極めたかった。
「そこ、とは? 心配事が進行している場所は、ご自宅ではないんですね」
「都内|某《ぼう》ホテルだけど」
すると菜々はうなずいた。
「わかりました。行きましょう」
「えっ?」
その即断には、由乃の方がうろたえた。
「だって、由乃さまは行きたいんでしょう?」
「そりゃ、行きたいけれど。でも、菜々……あなたも?」
行ってください、じゃなくて、行きましょう。となると、やはり。
「もちろんお供します。それともお邪魔《じゃま》ですか」
「いや……そんなことはない……けれど」
でも、わざわざついてくる必然性はあるのか、って話だ。だから、確認した。
「あの、たとえ私があなたとの約束をキャンセルしてそのホテルに行かせてもらうにしても、わざわざおつき合いいただく必要はないんじゃないかな」
令ちゃんのお見合いが気になって仕方ない由乃が、ホテルまで様子を見にいくのは理屈に合っている。けれど菜々は、この場合まったくの部外者なんじゃないか。それとも彼女もまた、令ちゃんのお見合いに反対なのだろうか。いや、由乃はまだ詳しい話をしていなかった。
「もしかして、由乃さまは私に意地悪をしていらっしゃいます?」
菜々の目が曇った。
「どうしてそうなるの」
「それとも、……これは新手《あらて》の拷問《ごうもん》」
「あのー、もしもし有馬《ありま》菜々さーん。ぶっ飛びすぎて、何言っているのかわからないんですけれど」
わかるように説明してもらわないと。中等部の生徒の中では、こういう煙《けむ》に巻くようなしゃべり方がはやっているのだろうか。
「ここまで盛り上げておいて、蚊帳《かや》の外に蹴《け》りだすなんてひどいって言っているんです」
「え、盛り上がっているんだ」
「見えませんか」
「どうだろう」
とは言ったものの、「見えるか」「見えないか」の二者|択一《たくいつ》でしか答えられないならだんぜん「見えない」に一票が入る。
「とにかく、私は帰りません。今日は由乃さまと過ごすって決めてきたんですから、どこまでもくっついていきます」
どこまでもくっついていく。これが可愛《かわい》い妹の学校生活における決心だったら、どんなにかうれしいはずである。だが、間違ってはいけない。菜々はまだ、知り合って間もない一下級生なのだ。
「何が起こっているのかも知らないのに、行くの?」
「それは、道々聞きます。とにかく、キップを買いましょう」
由乃の腕をとって、券売機《けんばいき》へと向かう菜々。何だか、だんだんとパワーアップしてきてはいないか。
「えっと、キップって……」
取りあえずお財布《さいふ》の口は開いたものの、いくら入れてどのボタンを押せばいいのか、瞬時に判断できなかった。でも、それは仕方ないんじゃないかな。だって、さっきまで「行きたい」という気持ちばかりが先走って、その先のことなんて考えていなかったのだから。
けれど今、手を引いてどんどんその先を具体化していく人がいる。
「もう、しっかりしてください。そのホテルまで行くには、どの駅までキップを買えばいいんですか」
これは、とんでもない展開になってきた。
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勝負の行方
1
「森の中のホテル」へは、電車を二つ乗り継いでいく。
本当はちゃんとした名称があるのだが、支倉《はせくら》・島津《しまづ》両家が日頃から何かと利用しているホテルであり、幼い娘たちはその外観から「森の中のホテル」と呼んで親しんできた。建物は深い森を思わせる木々の中に建っている。
最寄《もよ》りの駅に着くと、由乃《よしの》は迷った。迷ったというより、行き方なんて最初からあやふやのまま見切り発車をしたのだ。確か、この辺りの駅なんじゃなかろうか、くらいのアタリをつけて。
迷った時は親切な人に聞けばいいのだが、実は由乃、ホテルの正式な名前をまだ思い出せずにいる。喉《のど》もとまで出かかってはいるのだが。「森の中のホテル」って、いったい何ホテルなんだっけ。
「たぶん、駅前じゃないと思うんだよね」
駅の改札を抜けてぐるりと見回した風景は、あのホテル周辺の景色とは全然重ならなかった。でも、この駅には見覚えがある。自家用車で来たことの方が多いが、電車を利用した時は確かここで降りて――。
降りて、どうしたんだっけ?
親と一緒《いっしょ》だと、交通手段なんて覚えないものだが、由乃の場合は特に、出先でしょっちゅう具合が悪くなっていたものだから、移動中は周辺を見る余裕《よゆう》なんてなかった。
「そうだ。タクシーに乗った気が」
由乃は目についた公衆電話に駆け寄って、電話帳を掴《つか》むとホテルのページをめくった。一つ一つ名前をチェックしていけば、いつかたどり着くかもしれない。しかし、一口にホテルといっても結構な量である。せめて最初の一文字か、どこの区かくらいわかっていたらずいぶん楽なのに。
「タクシー、ですか。どれくらい乗りました?」
「よくは覚えていないけれど、十分ちょっとかな」
「十分ちょっと。わかりました。調べ物を続行してください」
そう言った後、しばらくの間|菜々《なな》の気配が消えた。三分ほどして「何しているのかな」と振り返ってみれば、菜々はすぐ側にはおらず、今まさに帰ってきましたといった感じでこちらに向かって歩いてくる。
「あそこのバス停から、ホテルの近くを通る路線バスが出ています。それに乗りましょう」
「どうやって調べたの?」
「検索《けんさく》をかけたんです。この駅から車で十分ちょっとで行けて、森の中にあるようなホテルって。見事、一件だけヒットしました」
「どこにそんな便利な機械がっ!?」
「あの人」
菜々が指さした先は駅前交番で、目が合うとお巡《まわ》りさんが敬礼した。かなりアナログだが、だからこそ信頼できそうだった。
五分ほど待って、現れたバスに乗り込み、ホテル前の停留所で降りた時には、すでに十一時四十五分になっていた。
「さて、どっちだ」
当たり前だけれど送迎バスではなくあくまで路線バスだから、ホテルの敷地内までは運んでくれない。
「たぶん、こっちでしょう」
より森っぽいから、という理由で菜々はどんどん歩いていく。
「お昼の会席だと……十二時くらいからスタートでしょうか。となると、ロビーで待ち合わせして、早ければラウンジでお茶くらいして、そろそろお店に向かう頃かもしれませんね。お店の名前は……もちろん」
「ええ、もちろん存じ上げませんわ」
「でしょうね。ホテルの名前もご存じなかったのに」
「いちいち癇《かん》に障《さわ》る言い方ね」
「あ、すみません」
「別に、いいけどね」
悪気はなさそうだし。
二分ほど歩いていると、菜々の予想通りホテルの入り口が見えてきた。間違いない。「森の中のホテル」だ。
「仕切っているのがお爺《じい》ちゃんだから、たぶん和食じゃないかな」
「聞いてみましょう」
入ってすぐ、ロビーでホテルの人を捕まえて和食のお店がどこにあるか質問した。これからが勝負。令ちゃんを奪い返すんだと、ちょっとばかし意気軒昂《いきけんこう》だった。しかし。
「えっ」
ホテルの人の言葉を聞いて、由乃は絶句した。絶句した由乃の代わりに、菜々が聞き返した。
「そんなにたくさんあるんですか」
そうなのだ。和食レストランなんて、ホテルに一つか二つだと高《たか》をくくっていたが、三つや四つじゃきかないくらい、指折り数えていないので正確なところは不明だが、ざっと上げられた店の名だけでも、七つか八つくらいはこのホテルに存在していた。それも和洋中のうち、「和」だけで。
その上、全部一カ所にまとまってなくて、ホテルのあっちこちに分散されている。これでは、一つ一つ店内を覗《のぞ》いて確かめるのも一苦労。――って由乃が言ったところ。
「お言葉ですが、お見合いでしたら個室という可能性もありますよ。個室はさすがに覗けないんじゃ……」
「うっ」
「当たりを付けることくらいはできますけれどね。例えば、ご老人同伴なら、天ぷらのお店じゃないとか。お洋服につゆが飛び散るかもしれないお蕎麦《そば》は避けるんじゃないか、とか」
「当たりはつけられても、とても一つには絞《しぼ》りきれない」
「そういうことですね。諦《あきら》めますか?」
「まさか」
「じゃ、できるところまでやりましょう」
「おうよ」
菜々に引きずられる形で、続行。負けず嫌いの由乃は、「できないの?」とか「無理でしょう」なんて言葉で挑発されたら最後、ノンストップのジェットコースターと化してしまう。
ああ。
この性格が災《わざわ》いして、今までどれだけ失敗してきたことか。思えば、菜々と知り合うきっかけとなった江利子《えりこ》さまからの無理難題も、このパターンで受けてしまったのではなかったか。――なんて由乃が過去を振り返っている間に。
「レストランのリーフレットをもらってきました」
菜々は一仕事終えていた。何ていうのか、この子はフットワークが軽い。
「ちょっと、そこの椅子《いす》に座って作戦をたてましょう」
おい、ちょっと待て。いつから、菜々が主導権を?
「由乃さま?」
「あ、はい」
でも、菜々の案を超えるアイディアも浮かばないので、取りあえずは「そこの」と指された椅子《いす》に着席することになる。
「さっきの続きですが、まずは和食以外のレストランは除外。それから、天ぷらと蕎麦も外して」
菜々は、ボールペンでリストを一つずつ消していく。写真やメニューの価格なども参照して、天ぷらのお店やお蕎麦屋さん以外にも「お見合いって感じじゃないな」はバッサリ切り捨てる。そして、残った候補は。
「……三つ」
「三つ」
二人は顔を見合わせた。一人一|店舗《てんぽ》、店の出入り口を見張るには、人数が足りない。
「どうしますか」
一つ捨てて、三分の二に賭《か》けてみるか。それとも。
「取りあえず、店の前まで行ってみよう」
由乃は決断した。少しは、年長者らしいところを見せておかないと。
「一緒《いっしょ》に?」
菜々が尋《たず》ねる。
「一緒に」
携帯電話は持っていない。一度別行動したら、連絡をとるのさえ一苦労だ。
そういうわけで、広いホテルの中を行ったり来たりしながら、三つのお店の前まで行ってみたのだが、結果は芳《かんば》しくなかった。
ホテルの和食料理のお店というのは、往々《おうおう》にして外からお客さんの姿が見えない造りになっている。でもって、お見合いに利用されそうなお店というのは何となく格式があって、入り口には常に受付の人が立っているものだから、あまりに近寄りすぎると「いらっしゃいませ」とお客さまに間違われてしまうのだった。お昼ご飯とはいえ、さすがに子供だけで入店するには敷居が高すぎる。っていうか、お財布《さいふ》の中身を考えれば絶対に無理。
「食事が終わるのは、一時間くらいでしょうか。出てくるところを押さえるにしても、まだ時間がありますね」
時計をチェックしながら菜々が言う。由乃も自分の腕時計を見た。十二時三十二分。仮に食事時間が一時間とすれば、あと三十分くらいは動きはないはず。
「じゃ、ラウンジに行こうか」
「は?」
「懐石《かいせき》料理は無理だけれど、サンドイッチくらいならごちそうしてあげるよ」
つき合ってもらっているお礼に、と由乃は提案した。実は、さっきから代わりばんこにお腹《なか》がキュルキュルと鳴っているのだ。お互いの礼儀《れいぎ》として、気づかない振りはしていたのだけれど。
「これは、私が勝手についてきただけですから、お礼なんていりません」
菜々は、そんな固いことを言って由乃の申し出を辞退した後で、「でも」と続けた。
「ケーキならおごっていただきます」
「へ?」
サンドイッチはいらないけれど、ケーキは欲しい? 由乃が目を丸くしていると、菜々が笑った。
「今日、ケーキをごちそうしてくださる約束でした」
「そうだったね」
由乃も笑った。
何にしても、腹ごしらえ。
2
お昼時ということでラウンジは多少混んでいたが、それでも二人だったのでどうにか席を用意してもらえた。
ケーキは、「本日のケーキ」三種類の中から好きな物を選ぶ。由乃《よしの》はクレームブリュレ、菜々《なな》は苺《いちご》のミルフィーユを頼んだ。ケーキセットはないので、飲み物は単品で別に注文する形になる。菜々がハーブティーを選んだから、由乃もそうした。
なぜそうしたのか。分析《ぶんせき》するに、ミルクティーよりハーブティーの方が何となく大人びているように感じられたからだと思う。実年齢が上だからって無理して気取《きど》る必要はないのだとすぐに気づいたが、それはオーダーを伝えた後のことだった。
結婚式に出席した人たちだろうか、黒留袖《くろとめそで》や振袖《ふりそで》の華《はな》やかな着物姿のグループがラウンジの脇を通り過ぎる。今日は日曜日だから、何組もの披露宴《ひろうえん》が行われるんだろうな、と考えているうちにケーキとハーブティーが来た。
「支倉《はせくら》令《れい》さまは、お着物でしたか?」
「いや、スーツだった」
「そうですか。よかったですね」
何がよかったのか。由乃は、ポットからカップにハーブティーを注いだ。ミントとあと何の葉っぱだろう、ちょっと歯磨《はみが》きペーストに似た匂《にお》いが鼻孔《びこう》をくすぐる。深呼吸してから、由乃はうなずいた。
「そうね、よかった」
何となくだけれど、ハーブティーを頼んで正解だった、って思えた。
菜々は、フォークを器用に使ってミルフィーユをきれいに食べる。あまりに上手《じょうず》に食べるので、ついつい見とれてしまったほど。
「はい?」
視線に気づいて、菜々が顔を上げた。
「ああ。ミルフィーユとかパイとか、令ちゃんが大好きなの。でね、大好きだから無心で食べるでしょ? よくパリパリの屑《くず》を服とか髪の毛とかにつけて、気がつかないんだ。でね、私はすぐに教えてあげないの。そうすると、そのまま街を歩いたりするものだから、逆にこっちがあわてちゃったりして」
そこまでおしゃべりして、由乃ははたと気がついた。知り合って間もない菜々に、令ちゃんとのあまり実《み》のない話をだらだら聞かせてどうする。
「あ、ごめん」
取り繕《つくろ》うように、クレームブリュレの表面の飴《あめ》をスプーンでパリパリ突いた。これじゃ、田沼《たぬま》ちさとの前で由乃の話ばかりした令ちゃんを責められない。
「いいですよ、別に」
菜々は、本当に気にしている風ではなかった。しかし、これはあまりいい傾向ではないのではないか、と由乃は思う。むしろ腹をたててくれた方が、脈ありなのではないか。田沼ちさとの例からすれば。
「仲のいいご姉妹《しまい》なんですね」
「二人とも一人っ子だから。本当の姉妹《きょうだい》みたいになっちゃうの」
なるほど、と菜々はうなずく。由乃は聞いてみた。
「本当のお姉さんってどんな感じ?」
「そうですね。私には従姉妹《いとこ》がいないので、その差はわかりません。私の家の場合、ちょっと特殊ですし」
菜々は田中《たなか》さん家《ち》の四女として生まれたけれど、同居しているお祖父《じい》さんの養女になったから今は有馬《ありま》さんなのである。特殊といえば特殊だけれど、生まれた時からの環境は今もまったく変わらない。
「どこの家の兄弟も、平均とか普通ってないと思いますよ。一対一の関係ですから、個性によってぶつかり方も違うでしょうし。私には実の姉が三人いますが、一人一人接し方は違いますもの」
「そうなの?」
「ええ」
それから菜々は、一人一人姉の性格について述べた。田中次女と田中三女については、ごく最近交流試合で会っているから、「ああ、あの人が」と思い浮かべられて面白かった。菜々がするお姉さんの話は、聞いていて楽しい。もしかしたら菜々も、そんな感じで聞いていたのかもしれない。由乃が令ちゃんの話をするのを。
話が盛り上がっていると、若いウェイターさんが二人の席に近づいてきて言った。
「失礼いたします。こちらに、太田《おおた》さまはいらっしゃいますでしょうか」
島津《しまづ》と有馬である二人は、もちろん首を横に振った。
「いいえ」
「二人とも違います」
すると「ご歓談のお邪魔《じゃま》をして申し訳ございませんでした」と丁寧《ていねい》に頭を下げて、ウェイターさんは去っていった。「何だろうね」と首を傾《かし》げていると、彼はすぐ後ろの席に行って、また同じように尋《たず》ねる。
「失礼いたします。こちらに太田さまは」
「あ、私です」
すぐに太田さんは見つかった。よし、疑問が解ける瞬間だ。由乃と菜々はおしゃべりをやめて耳をそばだてた。
「お電話が入っておりますが」
種あかしが済めば、なんてことはない。このラウンジに、「太田さん」を呼び出して欲しいという電話が、外からかかってきたのだ。もしかしたら「太田さんという若い女性」という細かい指定もあったかもしれない。ウェイターさんに案内されて歩いていく太田さんは、大学生くらいのお姉さんだった。その姿を目で追いながら、二人は同時に「あ」と声をあげた。
「呼び出しを頼めば、そのお店にいるかどうかなんて、すぐにわかったんじゃない」
「そうですよ。どうして今までそのことに気がつかなかったのか」
悔《くや》し紛《まぎ》れに、由乃はフォークを握りしめた。フォークには罪はないから、自業自得《じごうじとく》で自分の手の平が痛くなる。
「ケーキ食べた? 行くわよ」
二人はまるで授業の区切りのように、起立した。リーフレットに残った店は三軒。
すぐに決着はつきそうだ。
3
わざわざ電話をかけなくても、ホテル内にいるのだから店まで出向けばこと足りる。
そして、わざわざ三軒回らなくても、一軒目で簡単に決着はついてしまった。まさにビンゴ、である。
しかし、幸運はそうそう続かない。
「谷中《やなか》さまは、少し前にお帰りになりましたが」
声に出さなかったけれど、由乃《よしの》は「げっ」と仰《の》け反《ぞ》った。けれど菜々《なな》ったら、冷静に対処する。
「どれくらい前に出られたのか、わかりますか」
「少々お待ちください」
お店の案内係は、いったん店の奥へと引っ込んだ。
「もう少し早く気づいていたら」
今更《いまさら》言っても詮無《せんな》いことだが、言わずにいられなかった。さっきこの店の前まで来た。その時はまだ令《れい》ちゃんは店内にいたのだ。
ケーキを食べる前でも、まだ間に合った。
でも、考えてみれば、ラウンジに入ってケーキを食べ終わる分だけあの場所に留まったからこそ、太田《おおた》さんが呼び出される現場に立ち会えたわけで、それがヒントとなって、お店の人に聞いてみるという初歩の初歩にも気づくことができたのだ。
お店の人が、伝票だかレシートの控えだかわからない紙片を手に戻ってきた。
「お会計の時間が一時三分と表示されていますから、七、八分前といったところでしょうね。何かございましたか」
「谷中さんと一緒《いっしょ》にいた者に急用があったんですが、いいです。探してみます」
これ以上ここにいても、新たな情報は得られそうもない。二人はお礼を言って、その店を出た。グズグズしている間に、また一分二分と時間が経ってしまう。七、八分ならばまだ追いつける距離にいるはず。少なくとも、ホテルの中にいる可能性大だ。お食事済みました、じゃあさようなら、なんてバタバタ帰るとは思えなかった。
「ここは若い者同士で」
菜々がつぶやく。
「――ってなりません?」
「やっぱり!?」
口にこそ出さなかったが、それは由乃も考えた。お見合いっていったら、もうそれしかないでしょうというくらい使い古された仲人《なこうど》さんの決まりゼリフ。
「さっきのお店の中で、もう行われてしまったかもしれませんが」
「でも、だったらもう少しゆっくりしてない?」
「そうですね。このホテルは、お庭もきれいですから、いったんお店を出て、散策とか」
「二人きりでっ?」
許せん。由乃は頭に血が上って、菜々の手にしていたリーフレットを奪い取った。
「ちょっと、地図見せて。庭にはどうすれば出られるのよ」
「待ってください。一口に庭といってもこのホテルのはかなり広いですよ。それに、日曜日だから貸し切りになっているエリアもあるかもしれないし。やたらめったら飛び出すよりは、まずフロントに行って、一般客が散歩できるコースを聞いてみましょうよ」
「お見合いに適した散歩コースはどこですか、って? そう聞くわけ?」
何という屈辱《くつじょく》。どうしてくれよう。
「ご不快でしたら、私が聞きますから」
熱くなる由乃に告げて、菜々は先を歩いていく。
「ちょっと、待ちなさいよ菜々」
曲がり角にさっさと消えていく菜々を追って、由乃は駆けだした。もう、どうなっているんだ。なんで、二つも年上の自分が菜々に引っ張り回されなくてはならないのか。
妹とは、そういうものなのか。もし菜々が妹になったとしたら、ずっとこんな調子で毎日過ごさなければならないのか。
そんなの、ごめんだ。由乃は、一番前を歩きたかった。行く手には、開けた世界。どこに行くにも自由だって、そういう場所に立って、自分で決めた道を一直線に進みたいのだ。
それが何で。
(菜々を追って曲がり角なんかを、曲がらなきゃいけないのっ)
菜々の態度と、令ちゃんのことが重なって、その上やることなすこと後手後手《ごてごて》。もう少し早ければ、なんて後悔《こうかい》も加わって由乃のむかむかはピークに達していた。
だから、曲がり角で徐行《じょこう》するなんて考え、浮かびもしなかった。
廊下《ろうか》を走ってはいけません。それは、校内だけの規則と思ってはいけない。
「由乃さま、ストップ!」
ちょうど角を曲がったところで、菜々の声がした。反射的に急ブレーキを踏む。――というのはもちろんたとえで、勢いのついた足をあわてて止めたのだ。
だが。
「危ないっ」
再び聞こえた菜々の声とともに、前に飛び込んできた小さい物体と由乃は衝突《しょうとつ》してしまった。その衝撃で由乃はバランスを崩《くず》して後ろに倒れ、その物体は由乃とは反対に飛んだ。
子供だ、ってわかったのはその時だ。
どうしよう。免許も持っていないのに、人身事故を起こしてしまった。両手とおしりを床に強く打ちつけながら、由乃はそんなことを考えていた。同じ衝撃でぶつかったら、子供の方がダメージあるだろうな。死んじゃったらどうしよう。
だが、その子供は由乃が心配したよりずっとダメージが少なそうだった。なぜなら、菜々が飛んだ子供を受け止めていたからだ。勢い余って、菜々もしりもちをついたが、菜々が下敷きになったお陰で子供はほぼ無傷であった。
「大丈夫《だいじょうぶ》!?」
我に返って、由乃は駆け寄った。
「ごめんなさい。僕急いでいたものだから」
菜々に押されるように立ち上がったのは男の子で、ビックリしたのだろう、ちょっと心臓を押さえながら頭をちょこんと下げて謝った。
小学校の三年生か四年生といったところだろうか。披露宴《ひろうえん》の出席者なのか、一人前に上下|揃《そろ》いのスーツを着ている。小さな紳士《しんし》といった風情《ふぜい》だ。
「いいの。お姉さんも悪かったの。ごめんね」
由乃は、少年の上着についた埃《ほこり》を払いながら言った。
「両方とも悪いのに、お姉さんたちだけ痛くしちゃったみたい。不公平だね」
少年は、由乃と菜々を見てすまなそうにつぶやく。今のところ血こそ出ていないが、二人ともおしりや手の平をさすっていた。
「いいって。君が無事な方が、お姉さんたちはうれしい」
それは本心。年齢によっていい悪いはないだろうが、やはり自分より小さかったり弱かったりする人を傷つける方が、精神的にはより厳しい。
「でも、女の子は守ってあげなきゃいけないんでしょ? パパもママもそう言うよ」
あまりに真顔で言うので、由乃も菜々も思わず笑ってしまった。
「守るっていうのは、力だけじゃないんじゃないの?」
菜々が言った。すると、少年は大きくうなずいた。
「そっか。いろいろあるんだ」
素直で可愛《かわい》い。少年は、自分でめくれ上がった袖《そで》や裾《すそ》を直し、それから由乃のことをじっと見た。
「何?」
「僕、お姉さんとどっかで会ったことない?」
「そう? ごめん、よくわからないけれど」
これが、あと十も年をとっていたら、間違いなくナンパである。
「気のせいかな。お話ししたのは初めてだけれど、どっかで会っている気がするんだ。でも、思い出せないや」
こんな可愛い子と会っていたら、忘れない気がするのだが。それとも、行きつけのお店とかが一緒《いっしょ》で、時たますれ違っていたとか。……でも、小学生と同じ行きつけの店って、いったいどんな店だ。
うーん、と考え込む二人。だが、どちらからも何も出てこない。見かねた菜々が、少年に言った。
「ね、大丈夫《だいじょうぶ》? 急いでいたんじゃないの?」
「そうだ。パパたちが待っているから、行くね」
「うん」
次にあったら、絶対に忘れないだろう、と由乃は思った。次がいつになるのか、いつかはくるのかは神様のみぞ知る、だ。
「パパたちは、多少待ちくたびれても、君がケガをするよりいいと思うけど?」
「今度は走らないよ。本当に、ごめんなさい」
「こちらこそ」
手を振って別れる。少年が角を曲がって姿を消すと、由乃は菜々に向き合って頭を下げた。
「ごめん。ありがとう」
菜々が叫んでくれなかったら、直前でブレーキは利《き》かなかっただろうし、菜々が受け止めてくれなかったら少年は大けがをしていたかもしれない。
それだけでも十分役にたったというのに、菜々は悔《くや》しそうに言った。
「いえ。もう少し早く注意してたら、ぶつからないで済んだと思うんです。トイレから出てきたあの子が走っていくのは見えてたんですけれど、危ないなって思うまで二、三秒くらいあって。……いつでも、私って詰めが甘くて」
「でも、助かったから。やっぱり身軽だね」
「やっぱり、って?」
「市民体育館の地下で私とぶつかりそうだった時、避けたじゃない」
と、言った後で由乃は「あ」と思った。菜々も気づいた。
「今、墓穴《ぼけつ》を掘りましたね?」
「掘った」
結局、由乃が走り回ってばかりいるからこういうことになるんだ、って話になってしまう。
でも、と由乃は思った。菜々にはわからないかもしれない。つい走ってしまうこの気持ちは。走りたくてもなかなか走れなかった昔がある。頭では、走っちゃいけないってわかっていても、身体《からだ》が今の状態をうれしがってセーブがきかない。
「でも。そうだね。私たちも、もう少しゆったりしようか」
映画の『卒業』じゃあるまいし。五分や十分遅れても、それで令ちゃんが結婚式を挙げてしまうしまうわけではない。
「そうですね」
ちょうど目の前にお手洗いがあったから、床で擦《こす》った手を文字通り洗いにいった。幸い血はにじんでいなかったけれど、水がヒリヒリとしみた。
「菜々」
並んで鏡に映った菜々に、由乃はあらためて尋《たず》ねた。
「どうして、あなたまで今ここにいるの?」
「それは」
そう言うと、菜々は口ごもった。
「あの、正直に話すと、由乃さまがお怒りになる気がするんですよね」
「そこまで言っておいて、適当にお茶を濁《にご》したらどうなるかわかっているんでしょうね」
「恐い」
「正直に話して怒られるか、話さずに恐い目に遭《あ》うか」
ハンカチで手を拭《ふ》きながら軽くにらみつけると、菜々は言葉とは裏腹に笑った。
「私、冒険好きなんです」
「へ?」
「最初にお話を聞いた時、これはもしや、ってひらめくものが」
「もしや、何なの」
「アドベンチャーの香りが」
「あ、アドベンチャー……」
由乃の言葉に、菜々がうなずく。
「だから、さっきの問いに答えがあるとしたら、それは『面白いから』になると思います」
「……面白い」
言うに事欠いて、令ちゃんのお見合いが面白い。由乃が一心不乱で令ちゃんを追いかけていた時に彼女は、面白いと思っていたのだ。
でも、不思議と腹はたたなかった。いやいやおつき合いいただくよりも、その方がよっぽどいい。
「じゃ、もしかしてK駅でケーキセット食べておしゃべりするという、当初の予定よりよかったのかな」
「たぶん。でも、それはそれなりに面白くなったと思いますよ」
「そう?」
「ええ。だって、由乃さまは予想以上に面白かったから」
「……面白い」
まただ。菜々にとって、面白いか面白くないかは、行動を評価する上でかなり重要視されるものらしい。
「わかった。じゃあ、もっともっと面白くしよう」
鏡の中の菜々がとてもいい顔をしていたので、由乃はその「アドベンチャー」に乗ることにした。
4
冒険ってことにしちゃえば、かりかりなんて感情は不要だ。
悪い魔物にさらわれたお姫さま(令《れい》ちゃん)を、無事この世界に連れ戻せ。
行け、勇者|由乃《よしの》。従者|菜々《なな》とともに。
気を取り直し、かつ盛り上げて、魔界の入り口(フロント)で番人(インフォメーションのお姉さん)に魔王の住処《すみか》(庭園)への行き方を聞いた。番人は親切にホテルの案内図が書かれたリーフレットを広げて、赤ペンで「この辺やこの辺」とめぼしい場所に印を付けてくれた。
もちろん、二人してニッコリ笑って「お庭がきれいなので、お散歩したいんですけれど、どの辺りがお勧めですか」という聞き方をした。お見合いを追いかけているんですけれど、なんてこと口が裂《さ》けても言いやしない。
説明してもらった順路に沿って、階段を下り、庭へ通じる扉を探し当てると、突然背後から呼び止める声がした。
「由乃ちゃん?」
半信半疑《はんしんはんぎ》で発せられたであろう心細そうなその声は、由乃が振り返ったことで、俄然《がぜん》元気を取り戻した。
「やっぱり、由乃ちゃんだ。どうしてここに」
それは間違えようのない、生まれた時からお隣《となり》に住んでいて、ほぼ毎日のように顔を合わせていて、今朝《けさ》もほんのちょっとだけお見かけしたけれどすぐにハイヤーで走り去ってしまった、令ちゃんのお父さんであった。つけ加えると、由乃の実の伯父《おじ》さんでもある。
「伯父さん、令ちゃんは?」
駆け寄り、挨拶《あいさつ》は全面カットで、問いつめる。魔法の棒(竹刀《しない》)を持っていない時の伯父さんなんて、恐るるにたりない。
「おーおー。由乃ちゃん、元気そうだね」
伯父さんの脇にいた人が、カラカラと笑う。
「何だい。令ちゃんに急用かい?」
この人こそ、悪の魔物もとい本日のお見合い仕掛け人、谷中《やなか》のお爺《じい》ちゃんだ。
「あ、どうも」
伯父さんを締め上げている最中で忙しかったので、おざなりの挨拶。暇であっても、令ちゃんにお見合い話を持ってくるような人には丁寧《ていねい》な挨拶なんてできそうもないが。
谷中のお爺ちゃんは、別に気にする様子もなく、由乃の後ろに立っていた菜々に近寄っていった。
「君は、確か――」
「菜々です。ご無沙汰《ぶさた》しています、谷中の小父《おじ》さま」
令ちゃんをどこに隠した、いや隠さないって、押《お》し問答《もんどう》中の由乃と伯父さんも、背後の気配に気づいて振り返った。
由乃は、「菜々は今何て言った?」って。
伯父さんは「この女の子誰?」って。
「支倉《はせくら》の小父さまとは一度お目にかかったことがありますが、覚えておいでですか」
谷中のお爺ちゃんだけでなく、令ちゃんのお父さんまで「小父さま」と呼ぶ菜々。
胸ぐらを掴《つか》んで離さなかった姪《めい》の手からやっと解放されると、「支倉の小父さま」は記憶をたぐり寄せることに集中した。
「ああ、有馬《ありま》さんのところの。すっかりいいお嬢《じょう》さんになられたので、すぐにはわからなかったよ」
ふーん。普段はお堅いイメージの伯父さんも、余所《よそ》ではこんな風にお口がうまくなれるらしい。
「でも、どうして菜々ちゃんと由乃ちゃんが一緒《いっしょ》に?」
すると谷中のお爺《じい》ちゃんが、たった今思い出したように言った。
「そういえば有馬さん、菜々ちゃんだけリリアンに入れたって言っていたな」
「ええ」
菜々がうなずく。
「同じ学園に通っていることもありまして、由乃さまとは以前から親しくさせていただいていて、今日も一緒にお出かけしたんです。楽しくおしゃべりしている間にたまたま小父《おじ》さま方の話題になって、そうしたら今日こちらにいらしているっていうじゃありませんか。何だか久しぶりにお会いしたくて、押しかけてしまいましたの」
「そりゃ、うれしいね」
伯父《おじ》さんに負けず劣らず、菜々もお口がうまかった。
「分別《ふんべつ》ある由乃さまには、ご迷惑だからやめましょうって言われたんですけれど。私が半ば強引に」
話のもっていき方も達者《たっしゃ》だ。令ちゃんのお見合いというキーワードはまったく使わず、小父さん二人に会いに来た、と。その上、由乃の印象も悪くならないようにフォローまでしてくれている。だが。
菜々の配慮《はいりょ》はありがたいけれど、できればもっと早くお願いしたかった。伯父さんに「令ちゃんは」と問い詰めた後となっては、目的はバレバレだろう。
「令ちゃんは、今、うちの息子と庭を散歩しているんだよ。ほら、そこ。行ってみればいい」
指されたガラスの向こうに、日本庭園が広がっていて、木々の間に令ちゃんらしき後ろ姿の頭だけが一瞬チラリと見えた。
「でも、お邪魔《じゃま》でしょう?」
由乃は躊躇《ちゅうちょ》した。こう、素直に許可されると、何か裏があるのではと疑いたくなるものである。
「多分、息子も喜ぶよ。息子は由乃ちゃんのことに関心があるようだから」
「わ、私に?」
令ちゃんだけでなく、由乃のことにも関心があるって。そんな節操《せっそう》のない。それじゃ、ただの女好きじゃないのか。――と思ったら、勘違《かんちが》いだった。
「今度、息子は由乃ちゃんと同じ手術を受けることになってね」
「……心臓の?」
由乃は自分の胸をそっと押さえた。谷中のお爺ちゃんはうなずく。
「だから、令ちゃんも時間を作って会ってくれる気になったんだろう。やさしい娘さんだからね」
「え……ええ」
何だ。そうだったのか。やっと由乃はわかった。
令ちゃんは、乗り気でお見合いにのぞんだわけじゃないんだ。たぶん、谷中さんの息子さんに一年前までの由乃の面影《おもかげ》を重ねて、それで少しでも力になりたくて、会うことにしたんだ。
勝手に勘違《かんちが》いして、取り乱して追いかけてきたなんて。バカだな私、って由乃は思った。令ちゃんがやさしいってことは、だれよりも知っていたはずなのに。
何だか、胸の支えがすーっとなくなっていった。
「庭に降りてみます?」
菜々が提案してきた。
「そうだね」
そういうことなら、由乃だって手術を乗りきった先輩として、谷中さんの息子さんを励《はげ》まさないこともない。頼まれれば、アドバイスをすることだってやぶさかではない。
「ああ、行っておいで行っておいで」
谷中のお爺《じい》ちゃんに押し出されるようにして外に出ると、そこには森の匂《にお》いが広がっていた。
「谷中さんのこと、最初から知ってたの?」
庭園の小道を歩きながら、由乃は菜々に尋《たず》ねた。
「由乃さまがお店で予約名を『谷中さん』とおっしゃっているのを聞いて、もしやとは思いましたが。お会いするまで、確信はありませんでした」
「その時、どうして言わないの」
「だって、聞かれませんでしたから」
飄々《ひょうひょう》と答える菜々。そりゃ、確かに聞かなかったけれどね。でも、まさか菜々と谷中のお爺ちゃんが顔見知りだなんて思わないでしょ、普通。谷中さんが趣味で長年剣道をやっていることから推理するにしても、ホームズや明智小五郎《あけちこごろう》クラスでないと答えにたどり着けるとは思えなかった。
木々の間にある細い道は、見通しが悪く先を行く令ちゃんたちの姿は全然見えなかった。
「本当にこの道でいいのかしら」
「たぶん。さっき室内から、令さまがこの道を下っていく後ろ姿が見えましたもの」
不安になってきたところで、突然視界が開けた。
「わあ」
菜々と由乃は、同時に感嘆《かんたん》の声をあげた。薄暗い道を抜けた瞬間、光に包み込まれた。目の前に現れた池に太陽の日差しが反射して、キラキラ輝いている。
「すごい」
あまりに感動的で、しばし立ちつくした。やられた、って感じだ。
一句も浮かばない。
どこかで鳥の羽ばたく音が聞こえて、それで由乃は我に返った。
「令ちゃん、どこだろう」
見通しがよくなったのに、令ちゃんたちの姿が見つけられない。
「由乃さま、あそこ」
菜々が指さすその先には一メートルほどの高さの生《い》け垣《がき》があって、その向こう側に中腰で下を向く令ちゃんの姿が確認できた。谷中さんの息子さんはどこにいるのだろう、とその近辺を探すと生け垣からギリギリはみ出た人の頭らしきもの発見。どうやら、彼はしゃがみ込んで何かしているらしい。令ちゃんは、その様子を見ているのだ。
由乃は、谷中さんの息子さんの手術の話を聞いた以上は、冷静に対応しようと心に決めていた。令ちゃんの従妹《いとこ》として、礼儀《れいぎ》正しくご挨拶《あいさつ》をすることこそレディーの振る舞いである。
しかし、令ちゃんの横顔の頬《ほお》が上がると、気持ちがだんだん抑えられなくなっていった。同情から会うことになった相手に対して、何をそんなに楽しそうに笑いかけているんだ、って。つまり、カッとなったわけだ。
「このぉ……」
「あ、由乃さまっ?」
菜々が止めるのも聞かず、由乃は生け垣に向かって走っていった。あまりにすごい勢いだから当然令ちゃんも気づいた。目を見開いて立ち上がり、口は「由乃」と動いた。
由乃がその場に到着したまさにその時、しゃがんでいた谷中さんの息子が「え、由乃さん?」と振り返った。
目と目があって相手を確認した瞬間、由乃は驚きのあまりすごい顔をしていたと思う。同じくらい驚いている相手の顔を見れば、だいたい見当はつく。
菜々が追いついて彼を見ると、やはりまた同じように絶句した。
「何なの、由乃」
驚きの種類が一人だけ違う令ちゃんが、自分と一緒《いっしょ》にいた男の人と由乃と新たに加わった見知らぬ少女を代わる代わる見ては、誰かこの事態を正しく説明してくれないものか、と待っている。
「なん……だ」
最初に言葉を発したのは、「令ちゃんと一緒にいた人」だった。
「あなたが由乃さんか。どうりで見たことがあったはずだ。確か、試合会場にいたよね」
これは、何かの間違いではないのか。彼は、さっきぶつかった少年だった。
「あの……二人だけ?」
由乃は、辺りを見回した。少年と、令ちゃん以外にまだ誰か潜《ひそ》んでいるのではないか、と。だが、新たな登場人物は出てこない。先程《さきほど》少年がしゃがんでいた辺りに、蟻《あり》の行列を見つけることができただけだ。
少年は、さっきまで蟻《あり》をいじっていたと思《おぼ》しき小枝を地面に落としてから、わざわざ由乃の正面に回って言った。
「由乃さん。僕、あなたには絶対負けませんからね」
「えっ」
一瞬、何を言われたのか、わからなかった。それ以前に、彼が何者なのか谷中さんの息子さんはどこにいるのか、考えなければならないことはたくさんあるのに。
「来週あなたと同じ心臓の手術をしますけれど、成功して健康な身体《からだ》を手に入れますから」
「ちょっと待って」
今、彼は「手術」って言ったような。でも、手術するのは谷中さんの息子さんのはず。ということは。まさか。
まさか――。
「どっちが令さんに相応《ふさわ》しいか、勝負しましょう」
年下だからって、敵を侮《あなど》ってはいけない。
「僕は、令さんのことを好きなんです」
奴は、本気だ。
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5
「菜々《なな》、あなた知っていたの?」
帰りの電車に揺られながら、由乃《よしの》は尋《たず》ねた。何がです、と隣《となり》で菜々が聞き返す。
「谷中《やなか》さんの息子が、あんなに小さかったってことよ」
谷中のお爺ちゃんは、由乃が「お爺ちゃん」と呼んでいるくらいだから、見た目は完璧《かんぺき》なお爺ちゃんなわけである。若く見積もっても、七十は超えている。その息子っていったら、四十代から五十代っていうのが相場じゃないか。なのに、少年は十歳。一緒《いっしょ》に歩いているところを見たら、まんま祖父と孫だった。
「知りませんよ。ご家族の話なんて聞いたことないですもの」
菜々はそう言ってから、「でも」とつぶやいた。
「すっかり忘れていたんですが、祖父……有馬《ありま》の義父《ちち》から、谷中の小父《おじ》さまは再婚されたって聞いた気がします」
「そう」
「ええ」
冒険に疲れて、二人はすっかり口数が少なくなった。
谷中のお爺ちゃんが、令《れい》ちゃんたちと一緒にハイヤーで帰るように勧めてくれたが、由乃はそれを断った。それで、今、菜々と二人でもと来た道を引き返している。
「あ。バタバタして菜々のこと令ちゃんに紹介していなかった」
「そうですよ。待っていたのに」
手の前に右手をあてて、大あくびをする菜々。暖房と電車の程よい振動が、眠りへと誘う。由乃もつられてあくびをした。
「でも、何て紹介したらいいのかな?」
江利子《えりこ》さまを騙《だま》すのに口裏を合わせてくれた中等部の三年生?
去年と今年、令ちゃんが交流試合で対戦した田中《たなか》さんの妹?
冒険好きで、令ちゃんとケーキの趣味が一緒で、一見しっかり者に見えるのに詰めが甘い女の子?
それとも。
来年度、由乃がもしかしたら| 妹 《プティ・スール》にするかもしれない子――?
菜々は言った。
「令さまとお手合わせしたがっている中等部の生徒、って言ってください」
「えっ!?」
思いがけない言葉に、由乃は思わず菜々を見た。
「お手合わせ、って? まさか、剣道の?」
「他に、何が?」
「いや」
編み物とか、ケーキ作りとか、コスモス文庫の早読み競争とか。頭の中で取りあえず挙げてみたものの、空《むな》しくなったので口には出さなかった。
有馬道場の跡取り(たぶん)である菜々が、お手合わせと言ったら剣道以外に何があるっていうのだ。
そういえば、菜々はどれくらい剣道の実力があるのだろう。
二人のお姉さんの敵討《かたきう》ちのつもりだとしたら、それ以上の腕をもっているということなのか。
いろいろ、聞きたいことはある。なのに。
「必ず伝えてくださいね」
そう言ったきり静かになったと思ったら、菜々はもう隣《となり》で寝息をたてている。
「そんな」
その真意が気になって、由乃は眠気どころではなくなってしまったというのに。
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白薔薇の物思い
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平和な二人
1
ちょうど校門から出た所で、横から大きな声がした。
「志摩子《しまこ》っ!」
志摩子さんとともに下校していた乃梨子《のりこ》は、自分の名前は呼ばれていないけれど、志摩子さんと一緒《いっしょ》に振り返った。
大声の主はすぐに知れた。白い割烹着《かっぽうぎ》と三角巾《さんかくきん》、そこにサングラスというミスマッチなファッションは、たとえ女性であってもかなり目立つものだが、それが五分刈《ごぶが》りのガッチリした男性となれば、悪目立ちを通り越してもはや「あやしい」。歳《とし》は三十前後に見えた。
「あっ……」
志摩子さんが小さくつぶやく。どうやら、まるで知らない人でもないらしい。
名前を呼ぶからには、少なくとも相手はそこにいる美少女をちゃんと「志摩子」と認識しているわけだし。
「話がある」
あやしい男は、どんどん近づいてきて志摩子さんの腕を掴《つか》んだ。
「ちょっと、何するんですか」
乃梨子はあわてて二人の間に割り込んだが、志摩子さんはそれを制して掴まれた腕を自ら払いのけた。
「お話って?」
「立ち話じゃ……。とにかく、一緒に来てくれ」
「家に帰るところです。話なら、道々|伺《うかが》いますわ。どうぞいらしたら?」
「そうはいかない。時間がないんだ。たとえ時間があっても、のこのこ家までついていったりはしないけどな。あの親父《おやじ》さんに捕まったらひどい目に遭《あ》う」
「では、ご勝手に」
そんな義理はないとでもいうように、志摩子さんは割烹着男に背中を向け歩き出した。
「いいの?」
と、後を追いながらも、乃梨子はお姉さまの毅然《きぜん》とした態度にほれぼれしていた。志摩子さんはその容姿から儚《はかな》げに見えるけれど、芯《しん》はしっかりしているんだぞ、って。
しかし、そんなことで割烹着男は諦《あきら》めなかった。
「仕方ない。手荒なことはしたくなかったが」
そうつぶやいたかと思うと、後ろから志摩子さんの両腕を掴《つか》んだ。
「きゃっ」
両手の自由を奪われた志摩子さんは身をよじって抵抗した。もちろん、乃梨子だって黙っていない。「志摩子さんを離せ」と割烹着《かっぽうぎ》に掴みかかった。
すると。
「二人ともストーップ!」
志摩子さんが叫んだ。
ビックリして、文字通り動きが止まる乃梨子。割烹着男も、思わず手を離した。
「もう、いいわ。乃梨子」
「え?」
何が「いい」のかわからず、ポカンとしていると、志摩子さんは割烹着男に向き直って言った。
「……どこに行ったらいいんです?」
「志摩子さんっ」
いけない。ついていくつもりだ。
「大丈夫《だいじょうぶ》だから。それより、校門の前で騒がしくしたくないの。いろいろな方に迷惑がかかるわ」
志摩子さんは、ぐるりと周囲を見回した。
バスは行ったばかりのようで、停留所にいる生徒たちの数はそう多くない。見える範囲に、守衛《しゅえい》さんの姿も確認できない。
けれど、これ以上騒がしくしていれば、いずれ生徒たちも気がつくだろうし、守衛さんたちも門の外の様子を見に出てくるだろう。志摩子さんは、それを気にしているのだ。
「大丈夫って。でも」
「とにかく、一人で帰って。今晩、電話するわ」
「志摩子さんっ」
結局、志摩子さんは割烹着男が乗ってきたと思《おぼ》しきワゴン車に乗せられ、どこかに連れていかれてしまった。
志摩子さんのことだから、少しでも危険だと思ったら大騒ぎになろうとも断固として断るだろう。
だから、「大丈夫」は本心から大丈夫だと判断した結果の言葉のはずで。
でも。
(志摩子さんの判断ミスってないわけっ?)
志摩子さんを信じることと、あの割烹着男が何かよからぬことをするかどうかということは、まったく別の話なのだ。
どうしよう。やっぱり、ここは誰か信頼できる大人に相談した方がいいだろうか。そう思った時。
「大丈夫《だいじょうぶ》だと思うよ」
後ろから声が聞こえた。
「何を根拠に」
乃梨子は振り返った。すると、そこには端正な顔をした女性が一人立っていた。
「私は、あの男が誰だか知っている」
革のジャケットにジーパン。大きなショルダーバッグからは、大学の教科書が顔を覗《のぞ》かせている。リリアン女子大の学生だ。
「教えてあげようか」
一度は振り返ったものの、彼女のその思わせぶりな態度に、乃梨子は再び背を向けて歩き出した。
「結構です。志摩子さんは、夜電話をくれますから」
女子大生は、追いかけてこない。
「無理しちゃって。それじゃ君は、その電話がかかってくるまで一人|悶々《もんもん》とすごすわけだ。かわいそうに」
「……」
「彼が誰なのかを聞いたって、怒らないよ志摩子は」
負けたみたいでシャクだったけれど、乃梨子は引き返した。いや負けたのだ、実際。
戻ってきた乃梨子を見て、女子大生はフリスビーをキャッチして戻ってきた犬を褒《ほ》める飼い主みたいに、「よしよし」と撫《な》でた。
「ついては。申し訳ないんですが、場所を変えてもらえませんか」
乃梨子は提案した。
「え?」
「あまり人目につかない所に」
「あれー、誘っているの?」
「違いますよ。せっかく志摩子さんが騒ぎにならないように配慮《はいりょ》したのに、目立ったら元も子もないですから」
頭の「よしよし」から次第にエスカレートし、肩や腕をさすられて、今は後ろから抱きつかれた状態なのである。
校門から出てきた高等部の生徒たちが、こちらを見てこそこそと耳打ちをしている。
「なーる」
女子大生は身体《からだ》をいったん離し、それから「ついておいで」と歩き出した。
その背中を見ながら、乃梨子はぼんやり考えていた。
こんなことになるなんて、思わなかった。
十五分前には、志摩子さんはあんなことを言っていたのに、と。
2
このところ、気がつくと考えていることがあるのよ、というのは志摩子《しまこ》さんの言葉だった。
それは、たった十五分ほど前の出来事だった。
マリア様の前で二人並んで、そこを通る時はいつもしているように、手を合わせてお祈りをした。
二人の時、いや、他に同行している人が何人かいても、大概《たいがい》は乃梨子《のりこ》が最初にお祈りを終える。そして、最後まで手を合わせているのは志摩子さんだった。
やがて志摩子さんは目を開け、そして乃梨子が祈り終わっているのを確認すると、「行きましょうか」とほほえんだ。
マリア像の前に来るまでは、確か乃梨子が計画している仏像巡りの小旅行について話していたのではなかっただろうか。それはともかく、再び二人が歩き出してすぐに志摩子さんがこう言ったのだ。
「このところ、気がつくと考えていることがあるのよ」
「何を?」
乃梨子は尋《たず》ねた。志摩子さんの口調だと、そう深刻な内容ではないようだったけれど、思い出し笑いを伴《ともな》うような話でもなさそうだった。
「私たちって、平和よね」
「え?」
「私たちっていうのは、私と乃梨子のこと」
「平和……」
志摩子さんが言いたいことが何なのか計りきれずに、乃梨子はただ繰り返した。
平和。
確かに、「自分たちは平和か」と問われば「平和だ」と答えていいと思う。生まれてこの方戦争はないし、毎日ご飯は食べられるし、こうして学校にきて勉強もできる。全世界の子供の中では、むしろ恵まれている環境に置かれている。
でも、志摩子さんが「私と乃梨子」と限定しているからには、たぶんそういう大きなことを言っているのではないだろう。もちろん、その平和の中にいるからこその自分たちであることには変わりないはずなのだが。
「私たちが志摩子さんと私なら、それ以外の人の代表って誰?」
「例えば祐巳《ゆみ》さん。それから由乃《よしの》さん」
「それはまた」
ずいぶん身近な人が出てきちゃったものだ。でも、具体的な名前が出てきたことで、何となくわかってきた。
「あのお二人は、いま大変だもんね」
ゆっくりとした足取りで歩きながら、志摩子さんがうなずく。
「それなのに、私たちだけこんなに穏やかな生活を送っていていいのかしら」
志摩子さんが言うことには。
志摩子さんと同学年の福沢《ふくざわ》祐巳さまや島津《しまづ》由乃さまは、このところ妹をどうするかという問題で心身共に忙しそうだし。
志摩子さんと同じく薔薇さまと呼ばれている一学年上の小笠原《おがさわら》祥子《さちこ》さまと支倉《はせくら》令《れい》さまは、進学に向けて本格的に準備しなければいけない時期にきているし。
そして紅薔薇・黄薔薇の両組とも、「卒業」という乗り越えなくてはならない大きな課題が待ちかまえている。
けれども、白薔薇姉妹と呼ばれている自分たちだけは、心悩ます問題が目の前に一つもない。それでいいのか、と。
「いいんじゃないの」
心悩ます問題がないのは、問題|山積《さんせき》で窒息《ちっそく》しそうになるよりはずっとまし。乃梨子はそう思った。
「その通りなのよ」
そう言いつつも、志摩子さんにはやはり納得できない何かがあるらしい。
「緊張感がなくなっている気がする」
緊張感。学校生活とは、常に緊張感を持ち続けなければいけないものなのだろうか。けれど、少なくとも今の志摩子さんは、自分には緊張感が足りないと思っているらしい。
「それではいけない気がするの。何ていうのかしら」
「平和ボケ?」
「……そう。すごくピッタリの言葉だわ」
ピッタリって。自分で言った言葉ではあったが、平和ボケには乃梨子もビックリした。
「平和ボケしてちゃいけないの?」
「いけないっていうか……。うまく説明できないけれど、例えばよ? そこが楽園なら何の問題もないけれど、戦場なら許されないことって世の中にはあるでしょう?」
「つまり志摩子さんは、周りが大変なときに何も問題のない自分たちはどうよ、って問題提起している、と」
「そう……かも」
大正解ではないが、かなりそれに近いらしい。
「でも」
乃梨子は言った。
「それってしょうがないんじゃないのかな。志摩子さんには今年度卒業する姉さまはいないんだし、私っていう| 妹 《プティ・スール》はもういるんだし。紅薔薇・黄薔薇とは同じにはならないよ」
「そうなのよ」
志摩子さんはほほえんでうなずく。
「でもね。祥子さまも令さまも、去年の今頃ちゃんと妹がいたけれど、平和ボケはしていなかったわよ」
「そうなの?」
「祥子さまは、初めての妹……祐巳さんに内心戸惑っていたみたいだし。令さまは試合やら由乃さんのことやらで、大変だったし」
乃梨子には知らない去年がある。噂《うわさ》では聞いていても、渦中《かちゅう》にいた人間にしかその時の感覚は、本当の意味では理解できないのかもしれない。
「だからって志摩子さんは、何か事件があればいい、なんて思ってないでしょ?」
「もちろんよ。だから、ロザリオを返したりはしないでね」
二人は笑った。去年の晩秋に起こった黄薔薇革命は、由乃さまが令さまにロザリオを突き返したのが始まりだ。
「私ね。本当は皆さんのために、何かしたいと思っているのよ。でも何をしたらいいのか、わからないの」
妹選びも、進路のことも、本人がどうにかしなければならないことだ。仲間とはいえ、直接関われることではないから、志摩子さんはきっと自分がもどかしいのだろう。
「結局、私たちは茶話会《さわかい》のお手伝いくらいしかできないのだわ」
志摩子さんはうつむいてもう一度言った。
「私たちだけ、こんなに平穏に過ごしていていいのかしら」
数分後には、あんなことが起こるなんて、思いも寄らなかったからこその言葉だったのだろう。
3
乃梨子《のりこ》が女子大生に連れてこられたのは、大学の喫茶店《きっさてん》だった。
彼女はホットコーヒーをテーブルに置き、乃梨子の隣《となり》にくっついて座り、乃梨子の耳の穴に指を突っ込み、乃梨子が何もリアクションをとらないとがっかりしたように言った。
「君は不感症か」
何とも、ご挨拶《あいさつ》である。自分が不感症かどうかは脇に置いて、乃梨子は確認した。
「佐藤《さとう》聖《せい》さまですよね」
「なぜわかった」
女子大生、いや佐藤聖さまは「そこまでしなくても」とこっちが冷めてしまうほど、それは大きく仰《の》け反《ぞ》った。
「わかりますよ、普通」
実際側で言葉を交わしてみると、噂《うわさ》通りというか抱いていたイメージとは少し違うというか。それでも、「ああこの人が佐藤聖」としか思えなかった。
「志摩子さんのことを志摩子と呼んだし、交流試合で遠くからですがご挨拶《あいさつ》したじゃありませんか」
「あ、そうか」
聖さまは、ポンと手の平を拳《こぶし》で叩いた。ただ、この人が志摩子さんのお姉さまだということが、信じられない。仲間が大勢いる時ならわかるけれど、二人きりの時も、このノリだったのだろうか。志摩子さんは、どんな風に接していたのだろう。
「ちぇーっ。名も告げずに去って、『あの人はいったい誰だったのかしら』なんて、後で思い起こさせようと考えていたのに」
「祐巳《ゆみ》さまみたいにいいリアクションができなくて、すみません」
「そうね。あれは持って生まれたものだわね。残念だけれど」
聖さまは立ちあがって、乃梨子の隣《となり》から正面へと席を変えた。誰彼構わずベタベタするわけではなく、ただ乃梨子の反応を見たかっただけのようだ。
「二条《にじょう》乃梨子です」
「はい。志摩子がお世話になってます。佐藤聖です」
遠巻きに姿は見たことがあったが、ちゃんとした挨拶をしたことがなかったから、一応名乗り合って頭を下げた。
「で?」
頭を上げてすぐ、乃梨子は聞いた。
「あの人は、誰なんですか」
「あの人?」
聖さまは「誰だっけ」と斜め上辺りを見た。
「割烹着《かっぽうぎ》男ですよ。それを教えてくださるって話だったでしょう? それとも、まさかあの時は――」
乃梨子は身を乗り出して、聖さまのジャケットの衿《えり》を掴《つか》んだ。
「口から出任《でまか》せなんてことないってば。知ってる、知ってるから」
解放すると聖さまはまず衿を直し、乃梨子にコーヒーを勧めてから、テーブルにひじを立てて言った。
「あれ、誰かに似てない?」
「誰か?」
ポーションタイプのミルクをカップに落としながら、乃梨子はそういえば誰かに似ている気がしないでもない、と思い起こした。でも、いったい誰だっけ。割烹着《かっぽうぎ》のインパクトが強すぎて、顔とかよく思い出せないけれど、確かに醸《かも》し出す雰囲気《ふんいき》がどこかで。
「志摩子の父親」
「あ」
言われてみて、「そうだ」って思った。志摩子さんのお父さん。ちゃんと袈裟《けさ》をつけたいいお坊さんモードの時よりはむしろ、学園祭でタクヤ君と悪ふざけしていた時の方にイメージが被《かぶ》る。
でも、似ているとはいっても、あの人は志摩子さんのお父さんではない。もっとずっと若かった。
「だ・か・ら」
聖さまが言った。
「志摩子の兄貴なの、あれ」
「ええーっ!?」
「志摩子さんって、一人っ子じゃないんですか」
「一人っ子かって、本人に聞いたことある?」
ない。
というより、聞いたかどうだかも覚えてない。
「でも」
「歳《とし》も離れているし、一緒《いっしょ》に暮らしていないから、話題に上らなかったんじゃないかな」
「そうなんですか」
「そうなんです。だから、まあ変わり者だけれど、志摩子にひどいことはしないはず。ああ見えて、志摩子のことを可愛《かわい》がっているらしいから。どう、安心した?」
「はあ」
安心はしたけれど、志摩子さんにお兄さんがいたというショックから抜けきれない。お兄さんがいたことを知らなかったショック、かもしれないけれど。
「似てませんね」
「うん。似てないね」
聖さまは、自分の分がまだ残っているのに乃梨子のカップからコーヒーを一口飲んで言った。
「でも、血はつながっているはずだよ」と。
4
「セーフか、アウトか」
車を降りて走り出した兄は、先に建物に駆け込んで「うおーっ」と雄叫《おたけ》びをあげた。
「……アウト?」
お邪魔《じゃま》します、と靴《くつ》を脱いで志摩子《しまこ》も上がる。そこは幼稚園《ようちえん》の園舎である。
「セーフもアウトも。消えちゃってるよ、俺の自信作っ!」
厨房《ちゅうぼう》というより台所って感じのこぢんまりした空間に、兄はいた。床にしゃがみ込んで、オーブンの蓋《ふた》を開けたまま呆然《ぼうぜん》としている。
車の中で繰り返し言っていた。ケーキを焼いている途中できた、と。アウトかセーフかというのは、黒こげにしてしまったか、間に合ったか、ということだ。だが、消えてしまったということは――。
「賢文《まさふみ》さん」
そこに初老の女性が現れて、兄の名を呼んだ。手に持ったお皿の上には、まだ湯気がたっているパウンドケーキがのっていた。
「あなたの自信作とやらは、キツネ色になっていたから、取り出しておきましたよ。うちのオーブンは古くてタイマーがないんだから、気をつけてちょうだいね。もう少しでキツネがツキノワグマになるところ……あら」
「初めまして。お邪魔《じゃま》しています」
ちょうど目があったので、志摩子は頭を下げた。
「妹です」
兄が紹介する。なぜ、その妹がここにいるのかは省略。
「本当? きれいなお嬢《じょう》さんね。実は彼女なんじゃないの?」
志摩子の顔に顔を近づけ、眼鏡《めがね》をずらしてよく見る女性。
「この俺が、リリアン女学園のお嬢とつき合えるとでも? よしんばつき合えたとしても、そりゃ犯罪ですよ」
歳も違えば顔も似ていない。昔から一緒《いっしょ》にいても兄弟に見られた例《ためし》がないので、二人とも「嘘《うそ》でしょう」というリアクションにはもはや慣れっこだった。
「藤堂《とうどう》志摩子と申します」
志摩子は生徒手帳を差し出した。少なくとも、兄と同じ藤堂姓である証明にはなるだろう。
「あらら、本当だった。失礼しました、この幼稚園の園長です。お兄さまには、いろいろと……」
「兄の方がお世話になっているのではないか、と」
「まあ、持ちつ持たれつね」
パウンドケーキののった皿を兄に差し出しながら、園長先生は笑った。
「園長。お味はいかがでしたか」
兄が聞いた。
「何のこと?」
首を傾《かし》げる園長先生。横で聞いていて、志摩子はハラハラした。
「惚《とぼ》けなくていいですよ。俺の自信作、食べたでしょ」
「まあ、人聞きの悪い」
「じゃ、口の横についているケーキかすは」
「あ、しまった」
別に何もついていない口を拭《ぬぐ》う園長先生を見て、兄は志摩子にウインクをした。
「鎌《かま》をかけたんだよ。ケーキの型よりだいぶ小さくなっていたから」
「すみません」
志摩子は園長先生に謝った。すると、園長先生は怒るどころか声をあげて笑った。
「まあ、こんな風に楽しくやっているということよ」
園長先生が自分の部屋にいらっしゃいと誘ってくれたのを丁重に断り、台所のテーブルに二人向き合った。園児たちが家に帰った後の園舎は、そこが幼稚園《ようちえん》であることを忘れてしまうほどに静かだった。時たまかすかな物音がどこかから聞こえてきたが、先生たちがまだ残って仕事をしている音らしい。
「幼稚園に就職したなんて聞いていなかったけれど」
兄の入れたお茶を飲みながら、志摩子は思った。両親はこのことを知っているのだろうか、と。
「就職なんてしてないよ。この裏に寺があって、今はそこで厄介《やっかい》になっている。未だ修行中の身ってやつさ。この幼稚園は住職《じゅうしょく》が経営していてね、今人手不足だからなんやかやと手伝っているだけさ」
「ケーキも?」
「ああ、試作してんの。園児たちのおやつにどうかな、ってさ。知ってる? 俺、学生時代にケーキ屋でバイトしてたことがあるんだ」
「ケーキ屋さん?」
これも初耳。志摩子が幼かったから記憶にないのかと思ったら、父に知られないよう家には内緒《ないしょ》にしていたのだという。家庭教師のバイトをしている、とか言って誤魔化《ごまか》していたらしいが。あの父のこと、すべてお見通しだったのではないか。
「これでも、坊《ぼう》さんになるのをやめて、うちで就職しないかってオーナーに誘われてたんだぜ。働きながら資格とったら、ゆくゆくは店長にしてくれる、ってさ」
「そうなの?」
どこまで本当のことかはわからないが、まるっきりの嘘《うそ》からここまで話を作れるとも思えないから、バイト先ではうまくやっていたのだろう。兄は父に似て調子がいいから、話は半分くらいに聞いていた方がいいのだ。
「食ってみるか?」
「いいの?」
「もちろん」
兄はパウンドケーキを包丁で大胆《だいたん》にカットして、志摩子の前に置いた。
「私よりずっと、お兄さまの方がお上手《じょうず》ね」
見た目はごく普通のパウンドケーキなのに、舌でとろける甘みはほのかでありながら後味が広がっていくような、一口食べたら忘れられない味。子供よりむしろ大人に受けそうだと思った。ゴツゴツした大きな手が、こんな繊細《せんさい》な味を作り出すのだから不思議だ。
味わっていると、兄が真顔で言った。
「お前、男ができたって本当か」
「男?」
志摩子は、思わず食べていたケーキが喉《のど》に詰まりそうになったが、どうにかお茶で流し込んだ。
「どこからそんな」
「さっき友達から電話がかかってきてさ。そいつが、何ていうか……その、男と一緒《いっしょ》にいるお前を見たっていうんだ」
「私が男の人と? いつ?」
「夏頃らしい。仏像展で」
「ああ」
志摩子は大きくうなずいた。それでは、人違いではなく、見られたのはやはり自分だったようだ。
「ああって、本当なのか」
「ええ、でも二人きりではなかったけれど。あの男性は、お父さまと懇意《こんい》にしていらっしゃる方よ。志村《しむら》さんって。お名前くらい聞いたことがあるでしょう?」
夏休みに乃梨子《のりこ》に誘われて三人で仏像展へ行った。たぶん乃梨子がお手洗いか何かで外していた時、タクヤ君と二人でいるところを見られたのだろう。
「志村さんっていったら、爺《じい》さんじゃないか」
兄は怒ったように言った。どうやら「男」とだけ聞かされて、容姿や特徴については一切《いっさい》触れられなかったらしい。兄の反応が面白くて、兄の友達はわざと伏せたようだ。
「そうか。お前が仏像になんて興味を示すとは思えなかったから、何ていうんだ、そのデートとやらに仏像を見にいくということは、よほど……なんてな」
「仏像に興味がないということはありませんよ」
志摩子はほほえんで訂正《ていせい》した。
「そうなのか」
兄は、驚いた顔をして聞き返す。たまにしか会わないから、兄の中では最後にあった時のまま志摩子の成長は止まっているのだろう。
「この頃ね。ある人の影響で」
「志村さんか」
「いいえ、後輩。さっきお兄さまに掴《つか》みかかった女の子がいたでしょう?」
「ああ、あの元気がいい……」
「ええ、妹にしたんです」
「そうか。よかった」
兄は目を細めて、お茶をすすった。
「お前は、やわらかい色がついた」
「色?」
「以前がメレンゲなら今は生クリームだ」
「たとえまでお菓子作りなのね」
でも、言いたいことはちゃんと伝わった。兄は、ちゃんと見極めている。
「日々、穏やかそうだ」
「平和すぎて、恐いくらい」
冗談めかして笑ってみせたが、兄は真剣な顔をして妹を見つめていた。
「何?」
居心地《いごこち》が悪くなって、志摩子は尋《たず》ねた。すると。
「お前、平和や穏やかが嫌なのか」
「そんなこと……」
ふざけて言っただけよ、そう釈明《しゃくめい》しようとしたけれど、それより先に兄が言った。
「お前、自分が家を出れば俺が帰ってくると思っているわけじゃないよな」
何を言うかと思えば。
「そうなの? 私がいなくなったら帰ってきてくださるの?」
「それは違う」
兄は全否定した。
「俺はだめ息子だから、お前が優秀な坊《ぼう》さんと結婚してあの寺を継いでくれたらいい、そう思っているんだ」
「でも私は」
「わかっている。お釈迦《しゃか》様よりイエズス様なんだろう」
合掌《がっしょう》した後で十字を切ってみせる兄。そういうことはしない方がいいのに、と志摩子は思った。
「それで? お前はまだ、シスターになりたいのか」
「わかりません」
「そうか。なら、いい」
兄は肩を揺すった。「わからない」という志摩子の答えに、満足したらしい。
確かに、以前は「なりたい」とはっきり言っていた。志摩子は、自分の考え方が多少なりとも変化していることに、こんなことで気づかされるのだった。
いつの間にか、外は暗くなっていた。夕刻の鐘《かね》が近くで鳴っていることで、本当にすぐ側にお寺があるのだとわかった。
そろそろ帰らないと両親が心配する。志摩子は、お皿と茶碗《ちゃわん》を流しに運んだ。
「お兄さま」
「ん?」
「私、お兄さまがお嫁《よめ》さんをもらって、家に帰ってきたって、すぐには出ていったりしないわよ。だから……」
「俺に嫁のきてなんてないよ」
兄は、「送るよ」と言って、テーブルの上に放り投げていた車の鍵《かぎ》を拾い上げた。
「とにかく、親父《おやじ》が元気なうちは俺が家に戻る必要はないだろう。悪いが、お前が俺の分まで親孝行してくれよ」
「……」
志摩子は思った。
こういう自由な人ばかりが身内にいることも、自分が何もしてないように感じてしまう一因なのではないかしら、と。
5
「リコー」
リビングのソファで菫子《すみれこ》さんが叫んでいる。
「電話ー出てー。爪やってるから出られないのー」
蛇口《じゃぐち》を締めると、確かに呼び出し音が聞こえてきた。
「はいはい」
菫子さんたら。マニキュアを塗っている最中でなくても、このところ乃梨子《のりこ》が側にいれば電話に出ない。大家《おおや》さん対|店子《たなこ》の力関係が、こういうところに現れる。
「今出まーす」
夕飯の片づけを中断して、乃梨子は電話機に急いだ。誰からかは予想がついている。
「はいっ」
『もしもし、乃梨子?』
待ちに待っていた電話だった。
夜、約束通り志摩子《しまこ》さんから電話がかかってきた。
聖《せい》さまが言ったように、やはりあの割烹着《かっぽうぎ》男はお兄さんだって話だった。
何でも十以上|歳《とし》が離れていて、志摩子さんが物心ついた頃にはもう全寮制の学校に通っていたから、一緒《いっしょ》に暮らしたという記憶がほとんどないらしい。
『ああ見えて、一応|僧侶《そうりょ》なのよ』
電話口で志摩子さんが笑った。「ああ見えて」と「一応」をセットにしないと、割烹着にサングラスという珍奇な格好のフォローがしきれないのだろう。
「お兄さん、何だって?」
『それがね』
苦笑する志摩子さん。
あわてん坊のお兄さんは、お友達の話からタクヤ君が志摩子さんの恋人だって思い込んで、妹を心配して来てしまったらしい。そんなことならあの場で話してくれれば「私も一緒《いっしょ》でした」と説明できたのに、って乃梨子は思った。
『そうよね。でも、急いでいたみたいだから』
「何かあったの?」
『ケーキを焼いている最中に出てきたらしいの』
「……お兄さんお坊さんなんだよね」
お寺の修行にケーキを焼くって話は聞いたことがない。それとも趣味か。
『だから、さっき言ったでしょう』
志摩子さんが言う。
『一応[#「一応」に傍点]がつくのよ』
少し小声になったのは、たぶん側をお父さんか誰かが通ったのだろう。お兄さんの話は、家ではタブーらしい。
「そういえば、志摩子さんのお姉さまに会ったよ」
乃梨子は話題を変えた。
『まあ、本当? どんな話をして?』
急に志摩子さんの声が華《はな》やぐ。
「別に。ご挨拶《あいさつ》したくらい。あ、あとコーヒーごちそうになった」
『ちゃんとお礼を言った?』
「言ったけど。あの人、本当に志摩子さんのお姉さま……だよね……?」
『聖さま? そうよ』
素敵な方だったでしょう、と志摩子さんが言うので、乃梨子は複雑な気持ちになった。
(まさか)
志摩子さんも、あんな風にあの人に身体《からだ》を撫《な》でられたりしてたんじゃないでしょうね。
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物思いの種
1
「志摩子《しまこ》さんが変?」
写真部の蔦子《つたこ》さんの言葉に、祐巳《ゆみ》は目を丸くした。
「しっ、声が大きい」
蔦子さんは警戒して辺りを見回す。教室の掃除《そうじ》が終わって、がやがやしているから、誰も二人のひそひそ話に注目していない。
「変、って?」
蔦子さんに倣《なら》って、祐巳も声をひそめた。志摩子さんには昨日も今日も薔薇《ばら》の館で会ったけれど、特に変わったところはなかった気がする。
「これは、藤《ふじ》組、つまり志摩子さんのクラスの桂《かつら》さんからの情報なんだけれど」
「うん」
「普段は普通なの。普段ってのは授業中とか、ホームルームとか、おしゃべりなんかしている時ね。だけれど、休み時間とか周りに人がいない時、ぼんやりしているんだって。それが、近寄りがたいほどのぼんやり。何か物思いにふける、って感じ。悩み事でもあるのかしら、って桂さんも心配していた」
ぼんやり。
(うーん)
今は桜の季節じゃないけどな、と祐巳は外を眺めた。
「でも、志摩子さんだってぼんやりくらいするんじゃない?」
「そうよね」
ははは、とまず笑ってから、蔦子さんは別のカードを出してきた。
「じゃ、これは? 昨日の帰り、志摩子さんが変な格好の男が運転する車で、家とは別方向に走り去った」
「え?」
「もう一つ。その場に居合わせて一人取り残された乃梨子ちゃんは、後から現れた謎の女子大生に大学校舎へと連れていかれた」
何だか穏やかじゃない話だ。
「それも桂さんから?」
祐巳が確認すると、蔦子さんは首を横に振った。
「これは内藤笙子《ないとうしょうこ》ちゃんが」
「ほほう」
「何よ、ほほう、って。笙子ちゃんが、昨日の帰りにその場面に遭遇《そうぐう》したんだって。……これをどう見る?」
どう、って。
「なぜ、私に聞くの」
「祐巳さんなら何か聞いているかも、と」
薔薇の館で毎日のように会っているし、親友でしょ、ってわけだ。そういうことなら、由乃《よしの》さんも同じ立場なのだが。
「何か、この頃由乃さんは自分の身辺が騒がしくて、人のことなんて気に留めてないだろうから」
――とのこと。
確かに。このところの由乃さんは落ち着きない。妹関係でいろいろありそうだが、何だか突然部活にも力を入れだしたのだ。令《れい》さまがもう少ししたら引退するという話だから、安心させるためにがんばっているのかもしれない。
「つまり。蔦子さんは志摩子さんのことが気になるけれど、実際は何も掴《つか》んでない、ってわけ」
「そういうこと」
「本人から聞けば?」
それが一番早くて確実な方法だ。すると蔦子さんは、祐巳の腕を掴《つか》んで言った。
「聞きにくいじゃない。同じクラスならそれとなく聞けるけれど、わざわざ訪ねたりしたらあっちだって身構えるわよ。それに、そういう目立つことすると新聞部に嗅《か》ぎつけられちゃうでしょ」
さっきから蔦子さんが警戒していたのは、同じクラスの山口《やまぐち》真美《まみ》さんの「目」であったらしい。真美さんは高等部の学校新聞、『リリアンかわら版』の編集長だ。
「校門から一歩外に出たらプライベートなわけだし、よってたかって突っつくのもどうかと思わない?」
「でも、気になる?」
「そう。だからそれとなく。祐巳さんだったら、聞けるでしょ?」
「……うん、まあ」
確約はせずに「できたらね」くらいの返事をして、祐巳は薔薇の館へと向かった。
2
志摩子《しまこ》さんに、何か心配事があるのだろうか。
ギシギシと階段を上りながら、祐巳《ゆみ》はそのことを考えていた。桂《かつら》さんや蔦子《つたこ》さんの指摘で、初めてそのことを知ったことも少なからずショックだった。
気のせい、ってことはないのだろうか。
妹の乃梨子《のりこ》ちゃんは、このことに気づいているのだろうか。
気づくのが遅くても、今から志摩子さんのためにできることを探せばいい。
でも、それは何?
悶々《もんもん》としていても仕方ない。とにかく、志摩子さんの様子を見てみないことには。祐巳は意を決してビスケット扉を開けて「ごきげんよう」と明るく言った。
「ごきげんよう」
二階の部屋には、すでに白薔薇姉妹が来ていた。
「来る途中、廊下《ろうか》で|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》とお会いしたら、少し遅れるっておっしゃってました」
乃梨子ちゃんがお茶を入れながら、祐巳に告げた。
「そう」
祐巳はうなずいて、志摩子さんの側に行った。志摩子さんは、祐巳が部屋に入ってきた時、笑顔で「ごきげんよう」と挨拶《あいさつ》したけれど、今は窓の側に寄せた椅子《いす》に腰掛け、外の景色を眺めている。
「由乃《よしの》さんは? 部活?」
祐巳の視線に気づいたのか、振り返って言う。
「うん。何だか、急に真剣になってるみたい」
「そう。がんばっているのね」
やさしくほほえむけれど、気のせいかやはり何だか元気がなさそうだった。でも、祐巳には元気がない原因が、「疲れ」なのか「悩み」なのか「寂しさ」なのかそれ以外の「何か」なのかがわからなかった。
だから聞いてみた。
「志摩子さん。何かあったの?」
蔦子さんには「それとなく」と言われていたのに。ストレートにもほどがある、と祐巳は反省した。
「え? どうして?」
志摩子さんは目をパチクリした。
「何となく」
何となくそう思ったので、そうとしか答えようがない祐巳。対して志摩子さんは。
「……」
どう反応したらいいのか、わからないようだった。
[#挿絵(img/21_115.jpg)入る]
「ごめん。うまく言えないんだけれど、志摩子さんが何か悩んでるのかなって。何か、そんな気がして。だとしたら、私に何かできることある? あ、いや、言うほど大したことできないけど、もしこんな私でも何かお役にたてることがあったら、って思っただけで。私、志摩子さんのためなら」
私ったら何言っているんだろう、って思いながら、でも途中でやめることもできず祐巳はしゃべり続けた。
すると。
「ふ」
志摩子さんの唇から、突然息が漏《も》れた。
(ふ?)
祐巳が首を傾《かし》げる間もなく、続けて「ふ」が繰り出される。
「ふふふふふ、ふふふ、あっはは……」
「し、志摩子さん?」
何が起こったのか、祐巳にはさっぱりわからなかった。ただ、一つ言えることは志摩子さんが間違いなく笑っているということだ。
「嫌だわ、ははは祐巳さんたら」
「お姉さま、どうしたんですか」
乃梨子ちゃんも、お茶を入れる手を止めて駆け寄ってきた。
「どうしたもこうしたも。聞いて頂戴《ちょうだい》、乃梨子。ふふふははは」
聞いて頂戴、といいながら笑いが止まらないため、何も説明できずにいる志摩子さん。
祐巳も乃梨子ちゃんも、どうしたらいいのかわからず、ただ困惑したまま立ちつくすしかなかった。
「どうしましょう。止まらないわ」
志摩子さんはお腹《なか》を抱えながら、涙を流しながら、たっぷり三分間は笑い続けた。
「……志摩子が壊れた」
祥子《さちこ》さまが部屋に入ってきてもまだ。
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紅薔薇のため息
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期末試験のご褒美《ほうび》
1
初めは、祥子《さちこ》さまが何を言っているのか、よくわからなかった。
「それじゃあ」
十二月のとある放課後、薔薇《ばら》の館の二階で。
もうすぐ期末試験が始まるから定例の集まりは今日までにして、次は試験最終日に集合ということで、なんて申し合わせた後、何となく雑談に突入していた時のことだ。
そんな状況だから、みんなの声が混じって聞き取りにくかったというのは確かにある。
でも、何を言っているのか判断がつかなかった一番の理由は、たぶん、祥子さまがそんなことを言うとは思わなかったから、に違いない。
その時、その場で。どこかの部活から回ってきた報告書のような物を、ペラリとめくりながらさらり。
「試験休みに、遊園地へ行きましょうか」
――だって。
一瞬、しんと静まりかえりました、薔薇の館。何、今、何が起こったの、って感じで。
「は?」
祐巳《ゆみ》は、取りあえずお姉さまに聞き返した。
本当は、みんなと一緒《いっしょ》にぽかんと口を開けて、この状況がどう転がっていくのかを見守りたかったのだけれど、こともあろうに祥子さまったら、言葉を発した後、祐巳の顔をじっと見ているのだった。
(ああ。私の返事を待ち)
くらくらと、軽いめまい。
(責任重大だぁ)
うっすらと冷や汗。
そうとなったら、「お姉さまが何を言っているのかわからない」まま適当な返事をするわけにもいかない。ならば、取りあえずまずは祥子さまの口から出た言葉が何であったか、を確認するしかなさそうだ。だって、みんなも「助けてあげたいけれど対処がわかりません」って顔をしているわけだから。
みんなというのは、言わずと知れた黄薔薇ファミリーの令《れい》さま、由乃《よしの》さん。そして、白薔薇ファミリーの志摩子《しまこ》さん、乃梨子《のりこ》ちゃん。
「今、何ておっしゃいました」
まずは、基本。もしかしたら、さっき耳にしたと思った言葉が聞き間違いだったかもしれないので。しかし。
「遊園地に行きましょうか。そう言ったわ」
聞き間違い説、はい消えた。ってことは、間違いなく遊園地に行こうという提案をしているわけだ。
しかし、なぜに。祥子さまはさっきまで、雑談に参加しないでプリントを読んでいたはずなのに。
「遊園地って、あの遊園地ですよね」
祐巳が、そんな間抜けな質問をしてしまったのには、訳がある。遠い昔そんな名称の場所に、行く行かないでもめて、紅薔薇ファミリーはあわや姉妹《スール》解消にまで発展しかかったからだ。まあその件については誤解も解けてしこりもなくなり、以前にも増して二人の絆《きずな》を強めたことで結果オーライとなり……。
それなのに、何となく触れられずにきた場所、それが遊園地。
ここは慎重に、と祐巳ははやる心にブレーキをかけた。ぬか喜びで終わった場合の、ダメージは大きすぎる。
「えっと……乗り物やアトラクションを楽しむ場所で、キャラクターの着ぐるみなんかがいたりして――」
祐巳のたどたどしい説明を断ち切るように、祥子さまが言った。
「それ以外の遊園地って、どんな所?」
「えっと」
どうやら、遊園地という単語の意味も間違っていないらしい。
(ということは、……どういうことだ?)
祐巳は、ちょっと前の雑談のテーマが何であったかを懸命に思い出した。祥子さまの「それじゃあ」の前はいったいどんな話の流れだっただろうか。何を受けて「それじゃあ」なのか。「それじゃあ」の前には、きっと何かがあったはずだ。
そう。確か、由乃さんが「期末試験が憂鬱《ゆううつ》だ」ってぼやいて。
令さまが「由乃は苦手な教科ほどサボりたがる」みたいなことを言ったために、由乃さんに軽く睨《にら》まれて。――ああ、まだちょっと遠い気がする。
その後、乃梨子ちゃんが何かを言ったんだっけ。
そう。
確か、『私なんか、試験が終わったらこれをしよう、ってものを用意しておきますよ。すると不思議とがんばれるので』なんて。がんばらなくてもできる子が、説得力があるのかないのかわからないアドバイスをする横で、志摩子さんが「乃梨子は仏像を観に小旅行するのよね」と小声で暴露《ばくろ》。
そうそう。
それを受けて、由乃さんが「そうよ、自分にご褒美《ほうび》を作ればいいんだわ」と俄然《がぜん》はりきっちゃって。冬休みに入ってからよりは混雑してなさそうだから、試験休みにどこかへ遊びにいきたいな。むしろ、行かなきゃ損々。祐巳さんはどう? どこ行きたい? いっそみんなで出かけちゃう? ――みたいに、祐巳に話を振ってきたその時だった。祥子さまの、「それじゃあ」が発せられたのは。
ということは。
「期末試験が終わったら、遊園地へ行きましょう、ということですか」
祐巳は、恐る恐る確認した。すると、お姉さまはあきれ顔をしている。
「最初から、そう言っているじゃないの」
「はっ」
これは、ぬか喜びでも何でもなく、素直に喜んでいいことのようだ。
「ただし、ジェットコースターには乗らなくってよ」
わっ。ますますリアル。
「うれしい、うれしい。どうしよう。あ、えっと皆さんのご都合はいかがですか。遊園地嫌いな人は」
――と、言ったところで、祥子さまが「祐巳」と遮《さえぎ》った。
「すみません」
また注意されるかな、はしゃぎ過ぎだって。そう思った。けれど。
「何がすみませんだかわからないけれど」
祥子さまが言うことには。
「遊園地には二人で行くのよ。当たり前でしょう」
「えっ」
ということは。
どういうことだ。
これって。もしかして。いや、もしかしなくても。
デートだ!
2
「しかし、あれにはびっくりしたわね」
英文法の教科書を繰りながら、由乃《よしの》さんが言った。
「もちろん。お邪魔《じゃま》する気持ちなんて、さらさらなかったけれど。もしも、……仮に、もしもよ? 一緒《いっしょ》にどうぞ、なんて誘われたって、いいえお二人で、って断るつもりでいたわよ。そりゃね」
期末試験二日目。
二年|松《まつ》組教室の黒板には、『一時間目、英語グラマー 二時間目、数学 三時間目、宗教』と大きく書かれている。
試験官の先生が入ってくるまで、一つでも多くの例文を丸暗記してやる、と意気込んでいたはずの由乃さん。話に夢中になりすぎて、教科書が勝手に閉じてしまったことさえ気づかない。
「でも、祥子《さちこ》さまの口から何の躊躇《ちゅうちょ》もなく『二人で行く』ってねぇ。それも『当たり前』って言葉までつけちゃって」
教科書を丸めて、くーっと身もだえする。由乃さんは、この話が大好きで、あれからもう数日経過しているというのに、何度も何度も蒸し返しては「こっ恥《ぱ》ずかしさ」を身体《からだ》で表現するのだった。祐巳本人の前で。
こうしつこくされると、何ていうか、もう自分たちの話だって感覚も薄れてくるわけで。申し訳ないけれど、「やめてちょうだい」なんて頬《ほお》を赤らめて逃げるみたいな行為は期待されてもできないのである。
「あら、どうして浮かない顔しているの?」
さすがに由乃さんも、そのことに気づいたようだ。
「今更《いまさら》私に遠慮《えんりょ》なんていらないわ。はしゃぎなさい、のろけなさい」
仕方なく祐巳は一応は両手を上げ、棒読《ぼうよ》みのトーンで「わーい」と言った。
「おい」
「――ってね。最初は思ったわけよ」
「ふむふむ」
「でも、段々、何かなあ、って」
「何かなあ?」
由乃さんは、苦手の数学の方程式を前にした時みたいな顔をした。つまり、ちんぷんかんぷん。そりゃ、そうだ。言ってる祐巳本人が、わかっていないんだから。何かなあ、の「何か」の意味が。
「何か引っかかるわけ? 祥子さまが、何か企《たくら》んでいるとでも?」
由乃さんの質問に、祐巳は首を横に振った。
「企んでなんか。遊園地っていうのは、ずっと延び延びになっていた約束を果たそうとしてくれているんだろうし」
「ちゃんと、わかっているんじゃない」
「でも、よくわからないけれど寂しいの。私が」
「はあっ?」
「二人で、って言われてすごくうれしかったのに」
うれしかったのに。うれしさは、同じくらいの寂しさを連れてやって来た。
「言ってる意味が、さっぱり」
「何ていうのかな、思い出づくりしているみたいで」
「あはん。なるほど。それなら、何となくわかる」
由乃さんはそう言いながらも、「かわいそうに」と同情はしてくれなかった。
「……前から思っていたし、もしかしたら言ったことがあったかもしれないけれど。祐巳さんって、グジャグジャ悩みすぎ。それも、悩めば悩むだけ発展的な答えが得られるわけじゃなくて、同じ道をグルグル回っているところがあるでしょ」
スパッと言い切られて、祐巳は「かも」としか答えられなかった。
「時間の無駄遣《むだづか》いだと思うのよね。マラソンだってさ、トラックをグルグル回るより、外の道を走った方が楽しいんじゃない?」
「ごもっとも」
笑って過ごすも一生。眉間《みけん》にしわを寄せて過ごすも一生。
今日できることは、明日に延ばすな。
そして今やるべきことは。
「由乃さん、例文の暗記はいいの?」
「きゃあ」
我に返りあわてて教科書に集中する親友にならって、祐巳も教科書を開いた。
ああ。
何でまた、期末試験ってのはこうも科目が多いんだろう。
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ハイテンションとジェットコースター
1
遊園地デート当日の朝は、曇り空だった。
「でも、ま、降水確率ゼロパーセントだし」
期末試験という、ずーっと目の前に立ちはだかっていた重苦しい雲は、取りあえず今はどこか見えないところに移動しているから、気持ちは晴れ。次にその雲のことを思い出すのは、たぶん終業式。答案用紙が返却されなくても、その結果が反映されているであろう通知票が手もとに届けられる日。
「遊園地は、冬の方が多少は空《す》いているって聞いたことがあるよ」
リビングで新聞の天気予報|欄《らん》を見ていたら、後ろから弟の祐麒《ゆうき》がヌッと顔を出して言った。
「本当?」
祐巳《ゆみ》と同じく試験休み中であるはずなのに、七時に起きているなんて珍しい。しかもパジャマではないところを見ると、二度寝の前のトイレタイムでもないらしい。
キッチンでは、ガス台の上でフライパンを動かす音がしている。さっき玉子を割る音がしていたから、多分お母さんがスクランブルエッグを作っているのだろう。
「でもさ、今の時代ってあまり季節感がないっていうか。だから、あまり当てにならないかも。その情報」
祐麒は、朝刊を取り上げながら言った。
「ああ。冬でもコートの下はノースリーブだったり、真夏なのに毛皮がついた服着たりしている人いるもんね」
「それに、平日とはいえ、大学なんか冬休みに入っているところもあるだろうし、高校だって俺や祐巳が試験休みなくらいだから、全国的にそういうところが多いかも」
「でもさ。少なくとも、小中学生はいないでしょ」
「最近、行楽のために学校休ませる親もいるらしいよ」
記事の見出しだけチェックして、新聞を閉じる弟を見ながら、祐巳はわかった。
「私と祐麒ってやっぱり姉弟《きょうだい》だわ」
「何、今更《いまさら》」
顔がそっくりなことで証明済みだろう、って祐麒は呆《あき》れた顔をしていたけれど。
「すっごいうれしいことや楽しいことが、目の前にあるとするでしょ? その時、浮かれて飛び出しそうな気持ちを律《りっ》するために自ら心にブレーキをかけるの。悪く転んだ場合、こういうことが起こるかも、って」
「……」
あ、黙っちゃった。きっと、思い当たるところがあるのだろう。
朝から暗い気持ちにさせては申し訳なかったかな、と祐巳は話題を変えることにした。
「ところで祐麒も早いじゃない。出かけるの?」
「うん」
新聞を片づけた足でキッチンへと向かう弟を追いかけて、祐巳は「どこ行くの?」と尋《たず》ねた。
「学校。何か知らないけれど、昨日の晩、祐巳が風呂《ふろ》に入っている時、柏木《かしわぎ》先輩から電話がきて」
「きて?」
「呼び出された」
祐麒は冷蔵庫から牛乳を出して、グラスに注いでから淡々と飲み干した。
「呼び出された? 学校に? 何で?」
「知らない。詳しいことは会って話す、って。手を貸して欲しい、みたいなことを言っていたけれど」
流しにグラスを置いて歩き出した祐麒について、祐巳もキッチンを出た。
「行くの?」
「ああ。他に用事もないし」
「何をさせられるかわからないのに?」
ちょっとしつこかったかな、と思いつつもどうしてかやめられなかった。
たぶん、それは祐麒の会う相手があの柏木さんだから。小林《こばやし》君だったり高田《たかだ》君であったりしたなら、こんなにも気にならなかっただろう。
柏木|優《すぐる》さんは、祐麒の先輩で、今は花寺《はなでら》大学に通っていて、キザで、お坊ちゃまで、祥子《さちこ》さまの従兄《いとこ》で、親の決めた婚約者で、でも同性愛者だって話で、何となく祐麒のことも狙っている感じで……ああ、もうこういう説明すらしたくない。つまり、祐巳にとっては、あまり側にいられてもうれしくない存在なのだった。
「うまく言えないけれど、柏木先輩がああいう強引な誘い方する時って、結果的に乗ってよかった、ってことが多いんだ」
「ふうん」
祐麒ったら、ずいぶんと信頼していること。今年のお正月、祥子さまのお宅へ行った時、柏木さんと二人きりの部屋が嫌で女性陣のところへ泣きついてきたくせに。
何だか、面白くなかった。
別に、祐麒と柏木さんの間に何かがあったなんて思っていない。けれど、何となく自分の弟が柏木さんに一目置いていることが、面白くない。
祐麒は朝食もそこそこに、祐巳より一足先に家を出ていった。
2
待ち合わせの十五分前には着いたのに、M駅ホームにはすでに祥子《さちこ》さまの姿があった。
「興奮して早く目が覚めてしまって、前倒しで早く着いてしまったのよ」
「お姉さまが、興奮……」
「よく、ゴルフの朝は目覚ましがなる前に目が覚める、なんて言うじゃない? そんな感じかしら」
それって、「すごく楽しみだから」と同義語に思えるけれど、違うかな。違わないよね、と心の中で確認して、祐巳《ゆみ》はとてもうれしかった。
「家の者とかがね、車を出すから乗っていけっていうのよ。駅までじゃないの。遊園地まで。断るの大変だったわ」
「車……」
今の今まで、祐巳は考えもしなかった、その交通手段。家族で遊園地へ行くなら、お父さんが自家用車を運転して連れていってくれるだろうけれど、高校生だけで行動するのだからバスや電車を乗り継いで行くのが当然だと思っていた。
「みんなわかっていないわね。祐巳と二人で、満員電車に揺られたり、乗り換えの駅で迷ったりするのが楽しいのにね」
「満員電車や、迷子《まいご》が楽しいですか」
普通は敬遠するものだけれど。
「楽しいわよ。二人ならきっと」
「お姉さま……」
思わずメロメロになりそうな自分に対しても、祐巳は「いいえっ」と活《かつ》を入れた。
「電車の混み具合は私たちには何ともできませんが、車両を選ぶなどの工夫《くふう》はできます。それに、道には絶対に迷いませんから」
危ない、危ない。ここでボーっとなっては、迷わなくていいところだって迷いかねない。そんなことになったら、何のために、お父さんのパソコンで乗り換え駅とか乗車時間とか運賃とかを調べてきたのか、わからなくなってしまう。
しっかりしろ、祐巳。いつになくハイになっている、お姉さまのペースにのまれるな。小さく小さく拳《こぶし》を突き上げるポーズをしかけたところで、祥子さまは祐巳の首もとに手を伸ばしてきて、ジャケットの衿《えり》を直した。
今日は制服じゃないのに。これはもう、祥子さまの癖《くせ》になっているのだ。
示し合わせたわけではないけれど、二人ともストレートのブルージーンズをはいてきていた。祥子さまのは、ファーストデートで買った例のあれである。靴《くつ》ももちろん、その時買ったスニーカー。ボトムスに合わせて、上も飾りっ気《け》のない白のシャツ。一番上のボタンを外して、ラフに着こなしている。
ファーストデートとは、またずいぶんと違う服装になったものだ、と衿《えり》を直してもらいながら祐巳は思っていた。あの時は、あまりに大人っぽいお姉さまの格好にギャップを感じて、もっとつり合う身なりで来ればよかったと反省したものだが、結局祥子さまの方が歩み寄ってくれる形で落ち着いてしまった。それが、いいのか悪いのか。でも、祥子さまが気に入っているようなので、いいとしよう。
そうこうしているうちに、電車がホームに入ってきたので乗り込んだ。
まだ通勤ラッシュの時間帯だったけれど、覚悟していたほどは混まなかった。二人で並んで扉の前に立てるくらい。やはり、試験休みとか冬休みとかで、学生の量が減っているのだろうか。もっとも、普段バス通学の祐巳は、電車を使っているクラスメイトたちから聞いた話でしか、日頃の混雑ぶりは知らないのだが。
乗り換えの駅に着くまで結構ある。祥子さまが何かゲームをしながら行こうと提案したので、「あたまとり」をしながら電車に揺られることにした。
あたまとり、とは、しりとりの逆で、前の人が言った単語の頭の文字をおしりにつけた単語を言う、というものである。つまり。例を挙げると、「ラ[#「ラ」に傍点]ッコ」→「ゴ[#「ゴ」に傍点]リラ[#「ラ」に傍点]」→「リ[#「リ」に傍点]ンゴ[#「ゴ」に傍点]」→「くり[#「り」に傍点]」という風に進む。
では、スタート。先行は祐巳。
「あたまとり」
「あ、ね。じゃ、アリア」
お、祥子さま、滑り出しスムーズ。
「あ、あ……フリージア」
「ふうふ」
「ふ、スカーフ」
どうした、祐巳。だんだん遅れてきました。それに引き替え、お姉さまはすらすら。
「スライス」
「リラックス」
この辺から、何か変だぞ、と祐巳も思いはじめた。
「りんり」
「り……って、あの、お姉さま、さっきから頭とおしりが同じ単語ばっかり言ってません?」
「あら、今頃気がついて?」
「何|横着《おうちゃく》してるんですか。私にばっかり考えさせてたんですね」
「でも、あなたの頭の体操にはなったでしょ?」
コロコロ笑う祥子さま。
頭の体操。
普段あまり頭をトレーニングしていない妹としては、それを言われると返す言葉がないのである。
電車を乗り換えてからは「しり二つとり」をやって、やっぱりお姉さまにいいように弄《もてあそ》ばれて、その後の電車の中では「見える物しりとり」で惨敗《ざんぱい》した。
しり二つとり、というのは文字通り単語の後ろ二つを使って、次の人が単語を出すというもので、「しりとり」から始まったら「トリオ」とか「鳥籠《とりかご》」とかにつなげなければならないのだ。
見える物しりとりは、ルールはしりとりのまま。ただし、今見えているものでなければならないという条件がついているので難易度が高い。例えば「と」のお題で車窓《しゃそう》から「鳥居」なんか見えていれば万々歳《ばんばんざい》。人名でも可であるので、もし「鳥居《とりい》江利子《えりこ》」さまが同じ車両に乗り合わせていたらもちろんOKなのだが、そんな偶然は……もちろんない。
こういう時って、語彙《ごい》が豊富な人の方が有利なわけである。紺《こん》と青の中間みたいな色の看板を差して「縹《はなだ》色」なんて。ちょっと離れた席に座っている小母《おば》さまの帯《おび》の柄《がら》を見て「吉野間道《よしのかんとう》」なんて言われても。審判がいないので、それがあっているのかどうかだってわからない。まあ、祥子さまだって、小型ゲーム機の名前がわからなかったから、得意不得意分野というのはあるだろうけれど。
それにしても、目的地が近づくにつれ車内に占《し》める若者の割合が多くなって行く気がするのは気のせいではないだろう。やっぱり目指す場所は同じか。冬の平日。多少は空《す》いているかもしれないけれど、それは多少であって実際はかなり、いや結構混んでいるのかもしれない。
いけない、いけない。もっとポジティブに考えないと。こういう時こそ、お姉さまのハイテンションを見習うべし。
(遊園地の混雑も、列に並ぶのも楽しい。これでどうだ)
祐巳が気を取り直したところで、電車は目的地の駅へと到着したのであった。
でも、いくらポジティブを心がけたとしても、目の前の現実から目を背《そむ》けられるものではないし、その現実についていい解釈をどうしたってできないことはあるのだ。
「――どうして」
意気揚々《いきようよう》と遊園地の入り口までやって来た紅薔薇姉妹は、「それ」に遭遇《そうぐう》すると、同時にそうつぶやいた。
なぜ、って。そこには。
「やあ」
片手を上げてさわやかな笑顔を返す、一昔前のアイドルみたいな男が一人。そして、その横には――。
「それは俺も知りたい」
精気のない、冷めたというより引きつった笑いを浮かべる、今時の少年代表が一人。
つまりどういうわけだか、柏木《かしわぎ》優《すぐる》・福沢《ふくざわ》祐麒《ゆうき》(敬称略)のデコボココンビが目の前にいるのである。
「優さん。どういうこと? あなたのエスコートは、私、昨日丁重にお断りしたはずですけれど」
さっきまで機嫌よくしていた祥子さまの顔から、ちょっと笑顔が消える。
「もちろん、聞いたよ。だから、車の件は引っ込めたじゃないか」
ということは。さっき祥子さまが言っていた、車を出すという「家の者とか」の「とか」の部分こそが、柏木さんをさしていたらしい。しかし、本当にどういうつもりなんだか。この人は。
「じゃあ、どうしてここにいるの?」
もちろん、祥子さまは問いただした。すると、それに対する柏木さんの返答といったら。
「いちゃいけないかな。でも、君たちが来ているというだけで、僕らはこの遊園地への入場もできないってことはないよね?」
[#挿絵(img/21_141.jpg)入る]
――だって。そりゃ、この遊園地が本日祥子さまの貸し切りでもなければ、持ち物でもないわけだから、柏木さんの言っていることは正論なんだけれど。何か、鼻につくというか、もっと言いようがあるんじゃないの、って思ってしまうわけだ。柏木さんに対して、いろいろ思うところのある祐巳としては。
「わかったわ。じゃ、あなたは私たちとは関係なく、ここに遊びに来たということね」
次第に不機嫌になっていく祥子さま。
「そう、無関係。そんな風に思ってくれるとうれしいな」
そのコマーシャルの決めポーズみたいな笑顔、どうにかしてくれないかな。でも、今は従兄妹《いとこ》同士で話をつけているわけだから、じっと状況を見守る福沢姉そして弟。
「だったら、どうして入り口で待ち伏せみたいなことをしていたのかしら」
「この広さ、この人出だろう? 中に入ってから密かに探そうったって、そりゃ無理じゃないか」
「たいしたストーカーね。無関係が聞いて呆《あき》れるわ」
「どういたしまして」
褒《ほ》めているわけでも、お礼を言っているわけでもないのに「どういたしまして」って。ふてぶてしい柏木さんとは正反対に萎縮《いしゅく》する弟、祐麒。
「柏木さんに手を貸す、って」
このことだったの、って祐巳は小声で詰問《きつもん》した。すると。
「信じて、祐巳。俺は、本当にこんなこととは知らなかったんだから。校門で会った途端、質問する間もなく車に押し込まれて、そのままここに」
信じて、と懇願《こんがん》するその目を見れば、十六年のつき合い、嘘《うそ》でないことくらいはわかる。しかし、車に押し込まれてそのままここまで、って。その言い訳は、男としてどんなものだろうか。
「じゃ、柏木さんの車できたの?」
「そりゃあひどい運転だった」
どうやら祐麒の元気がなかったのは、図らずも姉の邪魔《じゃま》をするはめになってしまったことでしょげているだけでなく、柏木さんの下手《へた》くそな運転で精神的肉体的に疲労してしまったこととも、多分に関係しているようである。柏木さんの運転は、よく言えばダイナミック、悪く言えば乱暴だから。
「さ、祐巳、チケットを買いましょう。こんな人に関わっているだけ時間の無駄《むだ》よ」
祥子さまは柏木さんに抗議することを諦《あきら》めて、チケット売り場に向かって歩き出した。
「そうそう。自由にやってくれたまえ。こちらも好きにやらせてもらう。おい、ユキチ、行くぞ」
待ち人が来るまでの間に入場チケットを買っておいたようで、男二人はさっさと先に中へと入っていく。それもまた、これから並んでチケットを買う身には、しゃくに障《さわ》った。無関係と言った手前、「ついでに買っておいてくれても」なんて言うつもりはさらさら無いが、先に計画をたてたのはこっちなのに、って思ってしまう。もう、わざわざ入り口でなんて待ってないで、勝手に中で遊んでくれてればいいのに。
チケット売り場の窓口は何カ所かあるけれど、どこも七〜八人の人が順番を待っていた。
「すみません、お姉さま。うちの祐麒までこんなことに」
知らぬこととはいえ、目障《めざわ》り二人組のうち一人が自分の弟だったなんて。福沢家の恥《はじ》。でもまあ、思えば我が家の恥なんてこれまでたくさんお姉さまには見せてきたから、もはやこれしきのことでは動じない祐巳である。
「祐麒さんのせいじゃないわ。優さんが強引に連れてきたんでしょ」
祥子さまは、「困った人ね」といった表情で笑った。よかったね、祐麒。祥子さまには、正しく理解されているようだよ。
「でも、いったいどういうことかしら」
ショルダーバッグからお財布《さいふ》を出しながら、ふと祥子さまは、先程柏木さんと祐麒が吸い込まれていった遊園地の入り口ゲートに視線を投げた。
「私たちが遊園地に行くと聞いて、ただ邪魔《じゃま》をするためだけについてくるような人ではないけれど」
主語はなかったけれど、それは「優さん」のことに他ならなかった。
「ましてや、羨《うらや》ましがるなんてことも――」
今、祥子さまの頭の中が柏木さんのことで一杯になっていることも、やっぱり祐巳は面白くないのだった。
3
事前の話し合いで、今日の会計はすべて割《わ》り勘《かん》と決まっていた。
それで入場チケットもそれぞれのお財布を開いて買った。園内にあるレストランのどこかで食べるであろうランチも、だからきっちり二等分する予定でいる。いくらお姉さまのお家がお金持ちでも、どちらも親のスネっかじりの高校生だから、福沢《ふくざわ》家の両親から割り勘にせよとのきついお達しがあったのだ。
遊びにおごるおごらないを持ち込むのは、自分たちで稼《かせ》げるようになってからにしなさい、って。お姉さまは「ご飯くらいなら……」なんてつまらなそうだったけれど、結局その案に従うことにした。その代わり、帰りに園内のショップに寄って二人お揃《そろ》いの物を買ってくれる、ってお姉さまが言った。
何になるか、お店に行ってみないとわからないけれど、それが何になろうと祐巳《ゆみ》はすごくうれしかった。きっと今日の日の、思い出になるであろう品なのだから。
「わあ」
入園前から、その匂《にお》いはぷんぷんだったのだが、中に入ればもうそこは現実からは隔離《かくり》されたおとぎの国。日本語は通じるけれど、日本じゃない。フランスでもアメリカでもアフリカでもオセアニアでもない。地球上にあるのに、どこでもない国だ。
「別世界ですね」
こういう所に来ると、ついつい走りたくなるのは、また子供の心が抜けきれていないからだろうか。さっきまでお姉さまのことを「いつになくハイ」なんて眺めていたのに、ゲートをくぐった途端に大逆転。でも、いいのだ。夢の世界では、浸《ひた》った者勝ち。ここまできて、恥ずかしいなんて尻込《しりご》みするのはもったいない。
「お姉さま、こっちこっち。ほら、早く並びましょう」
祐巳は、ちょっとだけ早く入園した人たちを追い越してお姉さまに手を振る。
「待ってちょうだい、祐巳」
笑いながら小走りで追いつく祥子《さちこ》さま。――何て楽しい。
場内はほどほどに混んでいたけれど、うんざりする程ではない。どこを見るのも、何かをするにも、多少は並ぶだろうけれどかまわない。お姉さま流に言うなら「並ぶのも楽しい」わけだ。
ここに来ている人は、おとぎの国の住人。そう思えたら、みんな仲間。一緒《いっしょ》に楽しみましょう、って気持ちになる。
ああ、でも。
「姿が見えないと思っていたのに」
アトラクション待ちで並んでいたら、五人くらいの女の子グループを挟《はさ》んでピッタリ後ろにくっついているのは、先程《さきほど》「無関係」とか「自由」とかのたまっていたキザ男とその子分。何だかんだ言って、結局は追いかけてくるつもりらしい。
「へえ。群馬から来たの? 今日は泊まり?」
柏木《かしわぎ》さんったらまるで当てつけのように、側の女子大生らしきお姉さんたちに声をかけて、おしゃべりに花を咲かせる。シャイな祐麒《ゆうき》は、会話にはほとんど参加せず、実の姉たちの反応を気にしてか、時たまこちらの方をチラチラ見ているのみ。
「えーっ、男二人ってそんなにあやしい? 傷つくなぁ、僕たち二人とも、意中の女の子に冷たくされて、互いのキズを舐《な》めあっているところなのに」
誰が意中の女の子、だ。何が互いのキズを舐めあっている、だ。男二人ってそんなにあやしい? って。どの口が言うんですか、柏木さん。
「ばかね、祐巳。気にしたら優《すぐる》さんの思うつぼじゃない」
「気に、なんて――」
「そう? だったら、後ろを見るのはおやめなさい。優さんに勘違《かんちが》いさせてはかわいそうでしょ」
「……はい」
言われてみれば、自分でも気づかないうちに後ろに意識が集中していたかもしれない。
それでもって、柏木さんが見知らぬお姉さんたちとおしゃべりをしているのは、それによってこっちが反応することを計算してのことだという祥子さまの推理も、たぶん間違いない。もしそのことで間違っていることがあるとしたら、それは柏木さんの受け取り方じゃないかな、と思われた。確かに祐巳は、柏木さんの言動が気にはなったが、それはやきもちとかそういう類《たぐい》のものではいっさいなく、ただ見ていて不快なだけなのだ。
それにしても、お姉さまったら何て大人な考え方をするのだろう。そう。こっちが反応するからいけないのだ。後ろに柏木さんや祐麒がいることを忘れる。これに限る。
とはいえ、アトラクションによっては、何グループも一緒《いっしょ》に乗り物に乗ったり、劇場のような場所にまとめて入れられたりするわけで。そうなると、やっぱりいつも目と鼻の先に「キズ舐《な》め」コンビの姿が見られるのである。すぐ隣、でないところが、またわざとらしくて憎たらしい。
例えば、こちらは常に先に並んでいるのだから、後からやって来る男どもを待たずに逃げるという手もあるだろう。だが、祥子さまの希望で高い所、速い物、グルグル回る物をさけていたら、傾向として「大勢で楽しみましょう」みたいな感じが多くなり、なかなか男どもをまけないのだった。
洞窟《どうくつ》を探検するアトラクションで楽しく船に揺られていたら、一つ後ろの船に乗っていた柏木さんと目があった。いつものようなさわやかな笑顔で手を振る彼に、祐巳は思いっきり舌を出して応えてやった。
外に出ると、雲の間から少し太陽が顔を覗《のぞ》かせていた。真上よりちょっと西寄り。
「レストランは、たぶん今が一番混んでいるわね」
腕時計を見て、祥子さまが言った。突然頭上から悲鳴が聞こえて振り返れば、今まさにジェットコースターが急降下している真っ最中だ。
「もう一つ何かに乗って、それからご飯にしましょうか」
園内の案内図が書かれたリーフレットをめくりながらつぶやく祥子さまに、祐巳は「はい」と元気に返事をした。
すると、どういうわけかリーフレットから顔を上げた祥子さま、目の前にいる祐巳を通り越してその背後へとどんどん歩いていく。
「お、お姉さまっ?」
祐巳の背後といえば、もちろん行く手に待っているのは「キズ舐め」コンビ。祥子さまは目を丸くしている祐麒の前までやって来ると、一言聞いた。
「ジェットコースターは得意?」
祐麒は一瞬「えっ」って顔をしたが、質問にはきちんと答えた。
「絶対だめということもないですが、あまり得意ではありません……が?」
最後の「が?」に戸惑いが現れている。実のところ、祐巳も同じく「が?」と心の中でつぶやいていたからわかる。
一方、祐麒の答えを聞いた祥子さまは、今度は柏木さんに向き合って祐巳がギョッとするようなお願いをした。
「そう。それじゃ、優さんでいいわ。祐巳と、ジェットコースターに乗ってくれない?」
(えーっ!?)
「OK」
(はっ!?)
何の前振りもなく頼んだ祥子さまも祥子さまだが、すぐにOKする柏木さんも柏木さんである。
「で、さっちゃんは?」
「私は、ここで荷物番しているわ」
「じゃ、俺は祥子さんと残るよ」
姉を頼みます、みたいに祐麒は柏木さんの肩を叩いた。
(何が、どうして、どこに向かっているの)
それこそジェットコースター並のスピードで進む三人の会話に落ちこぼれた祐巳は、ただ金魚のように口をパクパク。やっとこさ口を挟《はさ》めたのは、「そういうことで」なんて相談がすべて終了した時だった。
「私、別にジェットコースターになんて――」
言ってない。一言も。いや、確かに連想ゲームならば「遊園地」ときたら「ジェットコースター」と答えるくらい、祐巳の中で二つのイメージは直結してはいるけれど。今日はお姉さまと一緒《いっしょ》だから、最初からジェットコースターは抜きで考えていた。だから、「乗りたい」なんて物欲しそうな目でそれを眺めることさえなかったはずなのだ。
「私が見たいのよ、祐巳が乗る姿。いいでしょう?」
祐巳が乗る姿、って。高さとスピードが半端《はんぱ》じゃないジェットコースターを地上から見上げたところで、乗客の様子なんてわかる訳がない。このジェットコースターに知り合いが乗っていると、確認できれば立派なものだ。
だから、たぶん祥子さまの「見たい」は方便というか。自分は絶対に乗りたくないけれど、だからといって妹にまで我慢させるのはかわいそうだという、いわば姉心から出た言葉であるに違いない。
そんな気を遣《つか》ってもらいたくはない、って。ジェットコースターに乗れなくても、お姉さまと一緒にいれば楽しいんです、って。そう、祐巳はお姉さまに抗議することもできた。実際、抗議しかかったのだ。でも、「ちょっと待って」って寸前で自分を押しとどめた。
せっかくの厚意を、そんな形で返してしまってはお姉さまに悪いんじゃないか、って思い直したのだ。
「でも、だったら柏木さんじゃなくても」
祐巳はつぶやいた。「あまり得意じゃないけれど一応は乗れる実の弟」が、すぐそこにいる。何なら一人でだって――、いや、それはちょっと嫌かも。だって、三対一じゃ、急に罰ゲーム色が強くなるから。
「どうして? ただの付き添いだったら、柏木さん[#「柏木さん」に傍点]でもいいじゃないか」
嫌味な言い方。自分のことを「柏木さん」だって。
「それとも、僕とさっちゃんが仲よくここで待っていようか」
「――」
それは嫌。絶対に、嫌。同じ男でも、祐麒の方が信用できる。どっちか一人を置いていくなら、絶対祐麒だ。
「だろう?」
悔《くや》しいけれど、柏木さんは祐巳の気持ちを正確に理解している。
そして。
「優さん、祐巳をお願いね」
突然、わかってしまった。
祐巳が祐麒を信用しているように、祥子さまは柏木さんを信用しているんだっていうことを。
だから、大切な妹を託《たく》す。
でも、この「大切な」というところが、非常にくせ者で。祥子さまが祐巳のことを大切なら大切な分だけ、柏木さんのことを信じているということに他ならないのだった。
ベンチに残る二人に荷物を預けて、乗り場に向かう。何か、並んで歩きたくなくて、でも柏木さんの後からついて行くっていうのは、主導権握られているみたいでシャク。だから、祐巳はどんどん先を歩いた。
柏木さんは別に気にする様子もなく、祐巳の斜め後ろをゆっくりと歩いて来る。ゆっくりなのに歩幅が広いから、距離は広がらない。乗り場にできた列の最後尾に着いた時には、当然のように追いついて祐巳を正しく誘導した。
レディーファーストという言葉が、ポッと頭に浮かんだ。お金持ちのお坊ちゃまは、きっとそういう教育も受けて育つのだろう。たとえ異性に感心がないとしても、社交の場で女性をエスコートする機会はあるわけだから。
「柏木さんって」
「ん? 僕が、何?」
背の高い柏木さんが、ちょっと屈《かが》んで笑った。
「何考えているのか、どういう人なのか、わからない」
祐巳は、思った通りを口にした。すると柏木さんから返ってきた言葉は。
「いいね」
いったい何が「いい」んだか。自分が話題にされて、それも「わからない」と言われているのにうれしそうにしているんだから。この人、自分のことが大好きなんだろうな。そう、祐巳は思った。
「例えば、祐巳ちゃんは僕の何がわからない?」
「どうして、ここにいるか」
「そりゃ、さっちゃんが祐巳ちゃんをジェットコースターに乗せてやりたいと思って、自分の代わりに僕を」
「そうじゃなくて」
今日、遊園地に来たわけ。
遊園地の入り口で会った時からずっと、いつもじゃないけれど時々考えていた。というより、小さな疑問として頭から離れなかった。
どうして、柏木さん(祐麒は巻き添えだから対象外)がここにいるのか。祥子さまと祐巳が遊園地デートするという情報がどこからか耳に入って、同じ日を選んで待ち伏せしたことは間違いないはず。
では、目的は?
今は祐巳と一緒《いっしょ》にいるが、それまではつかず離れず。引っ付いて邪魔《じゃま》するわけでもなく、でも振り向けばいつでも呼び寄せられるくらいの場所にその姿は見つけられた。
「僕はホケンさ」
「ホケン?」
「そう。だから目障《めざわ》りかもしれないけれど、何かがあった時必要になるかもしれない物、くらいに思ってよ」
ということは、保健体育の保健ではなく生命保険の保険なわけだ。
「何か、って何?」
「さあ、それは」
言いながら柏木さんは、列の前が空《あ》いたので祐巳の肩をそっと押す。
「何か、だから。それが何かはわからないよ」
あ、わざと言葉を濁《にご》した。――と、祐巳にはわかった。その「何か」を想定したからこそ、来たのだろうに。たぶん、あえて言わないようにしているのだ。
「そうだな……例えば地震の時のカンパン。渋滞に巻き込まれた車の携帯トイレ」
いわば自分はそんな物だ、と柏木さんは言った。だったら「保険」じゃなくて、むしろ「備え」であろうか。
「何か、は起こるの?」
躊躇《ためら》いながらも、祐巳はあえて聞いた。話の雰囲気《ふんいき》から、それはあまり歓迎すべきことではないようだったから。
「僕は、僕が必要にならない方がいいと、思っているよ」
「……わかった」
「わかった割には、不機嫌だね」
「だって」
うまく言えないけれど、柏木さんが祥子さまのことを考えた上で、ここにいるんだってことが、どうにも悔《くや》しくてたまらないのだ。
柏木さんには、自分本位で、嫌な人でいてもらわないと困る。ライバル心を抱くこと自体、間違っているというか、そもそも柏木さんと同じ土俵《どひょう》の上に立つという意味自体が疑問なんだけれど、祐巳はどうしても負けたくなかった。
「この話は、さっちゃんには内緒《ないしょ》だよ」
唇に人差し指をたてて「内緒」のポーズをする柏木さんに、祐巳は黙ってうなずいた。
ライバルと秘密を共有することは嫌だったけれど、祥子さまに何をどう話したらいいかわからなかったし、話さないほうがいいような気がした。
ジェットコースターの順番を待つ列は、暗黒を思わせるトンネルへと続いていく。
祐巳は、もんもんとした気持ちをジェットコースターで発散した。
4
祐巳《ゆみ》が大声を上げてちょっとはすっきりして戻ってみると、祥子《さちこ》さまと祐麒《ゆうき》が楽しそうにベンチでおしゃべりをしていた。
しかし、男女ペアなのに恋人同士にはとうてい見えず、お姫さまとお供の者といった方がピッタリ。かわいそうだから、祐麒には言わないでおくけれど。
ジェットコースターの件があったから、「無関係」も「勝手」もグズグズになってしまって何となく四人|一緒《いっしょ》にランチをとることになってしまった。園内に何カ所かあるレストランは、一時半を過ぎて、ピークからはやや外れたようで、ちょうど二人がけのテーブルが並んで二つ空《あ》いていた。
レストランといっても、基本はファーストフード店と同じで、カウンターで注文してお金を払い、トレーにのせられた品物をそのまま席に持っていって食べるという方式。以前ファーストフードを体験していた祥子さまは、今度は間違いなく買い物ができた。
「……カレー」
基本は割《わ》り勘《かん》。そのため、それぞれが相談なしで自分の分を注文して会計したというのに、奇《く》しくも、全員のトレーに三色カレーがのっているという結果になってしまった。こうなると、まるで給食のようだ。ちなみにこのレストラン、まだ何種類もメニューはある。
「まあ、気が合うこと」
「……え」
祐巳はどうしてもこれが食べたいというよりも、骨付き肉は食べにくそうだな、とか、揚げ物はちょっとな、といった消去法で決めた。でも、祥子さまが「気が合うこと」と言うなら、そういうことにしてもいい。しかし、横にいる男二人とは「気が合う」ことにしたくない。……難しいところだ。
でも、結果的にはよかった。カレーはかなりスパイシーで、自分一人だけが食べたとしたら、口臭《こうしゅう》が気になって他の人(特に祥子さま)の嗅覚《きゅうかく》をこれ以降ずーっと気にしなくてはいけなかった。そんなデートじゃ、全然おもしろくない。
「祐巳はずいぶんと楽しそうだったわね」
祥子さまはジェットコースターの話題を振った。
「えーっ、下からじゃわからなかったでしょう?」
「そんなことないわよ。キャーキャー叫んでいたのわかったもの。私が祐巳のことを間違えるわけないじゃない」
ということは、本当にちゃんと見ていてくれてたっていうこと?
「お姉さま」
そう。離れていたって、二人はこんなにつながっているんだから。天にも昇る気持ちの祐巳を、祐麒が地上に引き戻した。
「お前の声、かなり響いていたんだよ。俺にだってわかったぞ」
「それに引き替え優《すぐる》さんは、ずいぶんおとなしかったわね。もしかして、恐かったの?」
ジェットコースター組は、それぞれの理由でガックリと肩を落とした。
男の子チームと合同ランチをしたことで、よいこともある。祥子さまと祐巳が食べきれずに残したナンを、柏木さんと祐麒がペロリと平らげてくれたのだ。女の子にはちょっと多く、食べ盛りの男子にはちょっと物足りない量だったから、プラマイゼロ。祥子さまが残した物が柏木さんの口に入ることに対する抵抗は、以前お寿司《すし》で経験済みなので、それほどなかった。実際は、女子二人が残したナンを一つのお皿にのせて男子二人の真ん中に置いたので、祐巳の食べ残しが柏木さんの口に入った可能性もあって、そっちの方がむしろ「うわあ」って感じだった。祐麒に食べられるのは、全然平気なのにね。
食後、腹ごなしに散歩をした。ランチを挟《はさ》んでも、祥子さまのテンションは落ちなかった。いや、ますます磨《みが》きかがかかったというべきか。
「ほら、あそこにキャラクターの着ぐるみが」
とか、
「見て、チュロスが売っているわ」
とか、
「橋が、橋が」
とか。
まるで、初めて遊園地というものに触れて興奮する幼児のように、弾《はじ》ける弾ける。遊園地に行きたかったのは祐巳の方だったはずなのに。何ていうのかな、専売特許《せんばいとっきょ》をとられたというか。片方がはしゃいじゃったら、もう一方はもうブレーキ役になるしかないし。
いつも(ヒステリー時は除く)はおしとやかな人が、こんなハイテンションで大丈夫《だいじょうぶ》なんだろうか。後ろを振り返って、十五メートルほど離れて歩く祥子さまの従兄《いとこ》にお伺《うかが》いの意味を込めて視線を投げれば、何を勘違《かんちが》いしたか、彼はうれしそうに手を振って寄越《よこ》すだけでまったく当てにならない。
「ねえ、あそこに人が集まっていてよ。何かしら、見にいきましょう」
「あ、はい。あの、もうちょっとゆっくり……って、ああ、もう全然聞いてないし」
おちおち後ろも向いていられない。幼稚園児《ようちえんじ》のお母さんって、いつもこんな感じなのだろうか。
こんなお姉さま見たことない、と追いかけながら祐巳は思った。まるで、何か悪い物でも食べさせられたみたいだ。でも、お昼は全員同じメニューだったし。あ、でも朝からテンションは高めだったから、問題があったなら朝ご飯かな。いや、小笠原《おがさわら》家のブレックファーストに変な物が出るとは思えないけれど。――なんて頭の中でいろいろ考えている間に、人が集まっている場所に着いていた。
そこは、園内の通路で、比較的幅の広い、いわばメインストリートといった感じの場所だった。でもパレードを見物する時みたいに道の両端に分かれて人が集まっているわけではなく、お菓子に群がる蟻《あり》のような一カ所集中型で、その集団の中心に何かがある、または誰かがいるものと思われた。
「大道芸だ!」
笑いあふれる人と人の間から顔を出して中を覗《のぞ》けば、二匹の子熊のキャラクターがジャグリングをしている真っ最中だった。
「わ、わ、わ」
感情が昂《たか》ぶらないようセーブしていた祐巳も、思わず興奮。祥子さまの保護者役は一時返上して、その可愛《かわい》らしい様子に見入ってしまった。
ただ人間がやっているのだって、見れば「すごい」と感心するのに。それが、一枚着ぐるみを着ただけで、可愛《かわい》さ楽しさが十倍にも百倍になる。
三つの箱を入れ替えながら常に真ん中の箱を宙でキープする芸で、子熊の一人が箱を一つ落としてしまったのは失敗なのか演出なのか。でも、それを一生懸命拾う様がコミカルでおかしいから、どっちだっていいや、なんて思っちゃう。
「ね、お姉さまあの棒の芸……」
見て見て、と、子熊に集中しながら横にいる祥子さまの腕に手を伸ばす。だが祐巳の手は、なぜだかスカッと空を切った。
「おね――」
あわててお姉さまがいたはずの場所を見れば、何としたこと、お姉さまはその場にしゃがみ込んでいた。
「お、お姉さまっ!?」
髪の間からチラリと見える頬《ほお》は青白く、一目で具合が悪そうだとわかる。
「お姉さま、どうしたんですか」
あわてて手を触れようとすると、脇から別の手が伸びて祐巳を阻《はば》んだ。
「しっ。祐巳ちゃん大丈夫《だいじょうぶ》だから」
「……柏木さん」
「みんなの迷惑になるから、騒がないでそっと出よう」
もう、すでに側にいた人たちは気づいて、「大丈夫ですか」なんて言いながら少しずつ詰めて祥子さまの周りに空間を作ってくれたりしていたけれど。でも、子熊さんたちはまだ一生懸命に芸を続けている。
「立てるかい?」
柏木さんが、祥子さまに尋《たず》ねる。
「でも」
具合が悪そうにしてしゃがんでいるのに、立てだなんて。そう思ったから、つい祐巳の口から「でも」が出た。すると、その言葉の先を察した柏木さんが言った。
「その方がいいね、さっちゃんも」
祥子さまの頭が小さく上下する。
「ちょっと触れるけれど、許してくれ」
柏木さんは、祥子さまではなく祐巳に断ってから、祥子さまの肩を抱いて輪の中から抜け出た。
「祐巳」
祐麒に急《せ》かされて、二人に続く。道を空《あ》けてくれた人たちに、「すみません」「ありがとうございます」と声に出さずに頭を下げながら、祐巳は泣きそうになった。
何やっているんだろう私、って。祥子さまのお母さん役だなんて、いい気になって。
お母さんだったら、熊のジャグリングなんかに気を取られて、子供の不調に気づかないなんてことはない。
お母さんだったらむやみに騒いだりせずに、冷静に対処できるはず。
お母さんだったら、こんな時泣いてはいけない。
お母さんだったら。お母さんだったら――。後悔《こうかい》や自己|嫌悪《けんお》が、次から次へと心に押し寄せる。
「おい、祐巳。ふらふらしないで、しっかり歩けよ」
祐麒が注意する。ここで転んでケガなんかしたらバカだぞ、って。
本当に、その通りだ。反省なんて、あとでいくらでもすればいいのに。具合が悪そうな人を見たショックで調子が悪くなるなんて、迷惑もいいところ。何で私ってこうなのだ、って祐巳は結局泣いてしまった。泣いたことで、また落ち込んだ。
「ここだ」
手を上げる柏木さん。その側には、さっきの人だかりから一番近いと思われるベンチがあって、祥子さまが座っていた。
「祐巳ちゃん、泣かなくっていいから。さっちゃんは貧血っていうか、人いきれっていうか。つまり、一瞬クラッとしちゃっただけで。ほら、もう大丈夫《だいじょうぶ》だよ」
「ごめんなさい、祐巳」
顔を上げて力無く笑う祥子さまだったが、確かにさっきよりは明らかに血色もよくなっている。
「いいんです。それより大丈夫ですか」
祐巳は、涙を手で拭《ふ》き拭きベンチの傍らにしゃがみ込んで尋《たず》ねた。柏木さんから「大丈夫」と聞かされたけれど、お姉さまの口から聞かなければ安心できなかった。
「ええ。心配かけたわね。もう大丈夫だから」
「……よかった」
本当に、もう大丈夫のようだ。
「優さんの言うとおりなの。ジャグリングを見ていたら、急に立ちくらみがして。思わずしゃがんでしまったのよ」
「昔から、さっちゃんはよく出先で気持ち悪くなってたよね」
柏木さんの言葉に、祥子さまがうなずく。
「そうね。成長しても、治っていなかったのね。がっかりだわ」
だから、よくあることなんだって。それを聞いて、「そうか」って。悪い病気じゃないんだ、って。不安な気持ちが、少しだけれど引いていった。
「これは僕からの提案だけれど」
そう、柏木さんが言った。
「どうだろう、今日のところは一旦引き上げて、続きは後日ということにしたら」
「もうよくなったわ」
だから私のことなら気にしないで、と祥子さま。だが、柏木さんは否定した。
「君のためじゃないよ。僕たち三人のためだ。このまま遊んだって、君のことが心配で楽しめない。遊園地は逃げないよ。また来ればいい」
祥子さまは黙り込んだ。君のためじゃない、とまで言われたら、「それでも」と通すことなどできやしない。
「どうだい?」
意見を求められて、祐巳と祐麒はうなずいた。
柏木さんに先にそれを言われたことも、提案したのが柏木さんだということも、柏木さんの味方になることも、全部シャクだったけれど、祐巳は「今日のところは一旦引き上げて」という意見を支持した。
だって、お姉さまの身体《からだ》の方が大切だから。無理して欲しくないから。ああ、どうして自分はもっと早く「帰りましょう」と言ってしまわなかったのだろう、と悔《くや》しかった。
「三対一。決まりだ」
柏木さんは祥子さまのショルダーバッグを取り上げて、ヒョイと肩から提げた。
「あ、私が」
また先を越された、とあわてて手を伸ばせば。
「祐巳ちゃんはこっち」
柏木さんから祐巳に手渡されたのは、祥子さまの手だった。
「落とさないようにしっかり握ってて」
「――」
(この人、本当にキザだ。キザだ、キザだ、キザだっ!)
お姉さまの手は、ちょっとだけ冷たかった。庇《かば》うようにゆっくり歩きながら、祐巳はどうしてか敗北感に襲われていた。
確かに祐巳は、祥子さまの手が柏木さんではなく自分の手とつながったことに、ほっとはした。でも、だからといって、イコール自分が祥子さまにとっての一番を獲得《かくとく》した、という意味にはならない。
柏木さんが、祥子さまを独占しようとする人だったら、正面から反発できるのに、と思った。もっとダメな人だったらよかったのに、と。
午前中にハイテンションで駆け抜けたメインストリートを逆行し、出口のゲートを抜ける。祥子さまは一度|名残惜《なごりお》しそうに振り返ったが、祐巳は振り返らなかった。少しでも、この場所に未練があるって思われたくはなかった。
「ここで待っていて。駐車した場所がちょっと遠いから、僕だけ行って車をここまで回すから」
そう言って、一人駆け出す柏木さん。
(ああ、そうか)
どうして柏木さんがここにいるのか、って疑問の答えはここにあったのだ。自分のことを「保険」だって言った意味も。自分が必要にならない方がいい、といったわけも。
彼は、祥子さまが体調を崩《くず》すかもしれないと予測していたんだ。具合が悪いのに、電車を乗り継いで帰るのは大変だってふんで車を準備した。
十分ほどして、見覚えある真っ赤な車が三人の前に現れた。祐巳は後部座席のドアを開いて、祥子さまを乗り込ませた。
「先輩」
祐麒が、運転席の柏木さんに声をかけた。
「君たちも乗りたまえ」
「いや、俺と祐巳は電車で帰るから」
な、祐巳、と祐麒が確認してくる。本当は、ずっとお姉さまの側にいたかったけれど、祐巳は小さくうなずいた。
「何、遠慮《えんりょ》しているんだよ」
「遠慮じゃないよ。一刻も早く祥子さんをお宅まで送って欲しいんだ。俺らが便乗すると、どこかの駅で降ろしてもらうにしても、多少のロスは生まれる」
祐麒は時々、祐巳がびっくりするくらい、ちゃんと物事を考えている時がある。
「今は、祥子さんの身体《からだ》が優先だろう」
すると、柏木さんは少し考えるようなそぶりをした後、やがて真顔で答えを出した。
「わかった。じゃ、君たちも一旦|小笠原《おがさわら》の家まで来てくれ」
「え?」
「今は祐巳ちゃんに、さっちゃんの側にいて欲しいんだ」
さっちゃん優先と考えてくれるなら、是非《ぜひ》とも。そう言われて、福沢《ふくざわ》姉弟は派手な車に乗り込むことになった。座席の横に座った祐巳を見て、祥子さまは目を細めて「ありがとう」と言った。
程なく、紅い車は遊園地の駐車場を滑るように発車していった。
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ため息のミルフィーユ
1
祥子《さちこ》さまが、ブランケットを首から下にかけて眠っている。
一般道に出てすぐくらいだろうか、祐巳《ゆみ》の肩に頭をもたれかけて、祐巳の手を握って「ここにいてね」と言ったかと思うと、すぐに寝息が聞こえてきた。
「さっちゃんはね、人が大勢いる所が苦手なんだ。あ、知らない人が、っていう意味だよ」
ハンドルを握りながら柏木《かしわぎ》さんは、助手席にいる祐麒《ゆうき》に向かってなのか後部座席の祐巳に向かってなのかわからない口調で話し始めた。柏木さんの運転は、やればできるんじゃないというくらい丁寧《ていねい》だった。
「普段はそう見えないだろう? まあ、苦手だからって避けて通れないこともあるから、何ていうか……そう、だましだまし」
「柏木さんは」
祐巳は口を開いた。
「こうなるって予測していたんでしょ? どうして、止めなかったの?」
こんなに祥子さまのことをわかっているのに。具合が悪くなるまで、黙って後ろから眺めているだけだった柏木さんの行動が、祐巳にはどうしても理解できなかった。
「それは、さっちゃんがものすごく楽しそうだったからだよ」
西に傾いた太陽。柏木さんはハンドルから左手だけ放して、フロントガラスの庇《ひさし》を下げた。
「楽しそうだったんだよ。本当に。出かける前も、ここに着いてからも。僕は、あんなに笑顔のさっちゃんは見たことがない。大丈夫《だいじょうぶ》か、気分が悪くなるんじゃないかなんて、水を差すのはかわいそうだ」
「でも」
「予測は、必ずその通りになるということではないし。先回りして一切《いっさい》を排除《はいじょ》していたら、何も残らない」
「……よくわからない」
「さっちゃんは、祐巳ちゃんと一緒《いっしょ》にいろんなことをしたいんだよ。それを阻《はば》むことの方が、僕には酷《こく》だと思えた。そういうことさ」
それから、しばらくは誰も話さなかった。祐巳は、お姉さまの肩をブランケットごと抱きかかえながら、窓の外を流れる景色を眺めていた。
今日はいろんなことがあって、それぞれ考えるべきことがありそうなのに、何一つ考えがまとまらない。
時折、答えらしき物が目の前を通り過ぎるのに、うまく捕まえられない。
柏木さんの言葉が、たまに胸にチクンと刺さる。それはたぶん、直視しなくてはいけない問題をはらんでいるからに違いない。なのに、それが何かも祐巳にはわからない。
やがて、助手席の祐麒と柏木さんが、たわいのないばか話を始めた。「アリス」とか「日光《にっこう》・月光《がっこう》」とか、そういった馴染《なじ》みのある名前を聞いているうちに、すこしだけ肩の力が抜けてきた。
祥子さまは、家に着くまで祐巳の手を離さなかった。
2
車が小笠原《おがさわら》邸に入り、駐車場に停車するより前に、清子小母《さやこおば》さまが玄関から出てきて四人を出迎えた。
「まあまあ、祥子《さちこ》さんたら」
辺りはもう夕闇に包まれていて、小母さまの白いエプロンだけが妙にくっきり浮かび上がって見えた。
「すみません、小母さま」
祐巳《ゆみ》は手を添えて祥子さまを車から下ろすと、清子小母さまに託《たく》した。
「祐巳ちゃん。いやあね、謝らなくちゃいけないのはこっちの方でしょうに。子細《しさい》は優《すぐる》さんから電話で聞いたわ。せっかくのデートを切り上げさせてごめんなさいね。とにかく、みんな中に入って。温かいお茶でも飲みましょう」
挨拶《あいさつ》もそこそこに、招き入れられる。祥子さまが無事帰り着いたらすぐにお暇《いとま》するつもりでいた祐麒《ゆうき》などは、あわててぼさぼさの髪の毛を直していた。
「小母さま、お料理か何かなさっていたんですか?」
廊下《ろうか》を歩きながら、祐巳は尋《たず》ねた。エプロンをはみ出して、小母さまのセーターやら髪の毛やらあちこちに白い粉が付着していたからだ。
「わかる? 突然思いついてお菓子を焼いていたの」
歌うように、清子小母さまは答えた。
「お菓子、ですか」
「そう。ミルフィーユよ。もうすぐできるから、祐巳ちゃんぜひ食べていってね。祐麒君も、優さんも」
「はあ」
客人三人はうなずきながらも、顔を見合わせた。
「なあに、その顔。まさかみんな、娘が調子悪い時によくお菓子作りなんかできるな、って思ってやしない?」
小母《おば》さま、鋭い。少なくとも、祐巳はそう思ってしまった。
「違うわよ。お昼前から取りかかっていたの。祥子さんのことが気になって途中でちょっと中断したから、今日の出来は今ひとつかもしれないけれど」
「何で、突然思いつかれたの?」
柏木さんの車にあったブランケットを肩から被《かぶ》ったまま、祥子さまが応接室のソファに腰掛けながら尋《たず》ねた。自分の部屋で休むようにとみんなが言ったのだが、仲間に入りたいらしく一緒《いっしょ》についてきたのだ。
「お父さまがね、昨日きれいな落ち葉を拾ってきてくれたの。それがうれしくて、作りたくなったのよ」
お手伝いさんがワゴンで運んできたお茶を配りながら、小母さまは白状した。
「ああ、落ち葉」
「なるほどね」
祥子さまと柏木さんは妙に納得していたけれど、福沢《ふくざわ》姉弟は落ち葉からお菓子につながる流れがまったく理解できないでいた。すると、小母さまがやさしく教えてくれた。
「ミルフィーユって、千の葉っぱって意味のお菓子なのよ」
ああ、そういえば。
「サクサクって」
「そう。降り積もる落ち葉を連想するでしょ?」
その優雅な発想もさることながら、清子小母さまが融小父《とおるおじ》さまから落ち葉をもらったことがそんなにうれしかったという事実の方に、祐巳は驚きを覚えていた。
「さてと。じゃ、ちょっと失礼してミルフィーユの仕上げに取りかかろうかしら」
カップが全員に行き渡ったのを確認した小母さまが立ち上がると、祥子さまが呼び止めて懇願《こんがん》した。
「お母さま、お願い。具合が悪くなって途中で帰ってきたこと、お父さまとお祖父《じい》さまには黙っていて」
心配をかけたくないのか、ばつが悪いのか。祥子さまは、小笠原家男性陣にはこのことを内緒《ないしょ》にしておきたいらしい。
「私からは言わないけれど、いずれ知れるわよ」
ドアの前で振り返って、小母さまは答えた。
「だから、家の者たちに口止めしてくださらない?」
「口止めしてもいいけれど、絶対にお耳に入ると思うわ。だって往診《おうしん》を頼んだ岩松《いわまつ》先生は、お祖父さまの囲碁《いご》仲間ですもの」
話の内容から察するに、岩松先生というのは小笠原家と懇意《こんい》にしている医師で、特にお祖父さまとはツーカーの仲らしい。
「え、先生をお呼びしたの?」
「もちろん頼んだわよ。だって、電話で様子を聞いたくらいじゃわからないじゃない」
清子|小母《おば》さまはそう言った後、娘の姿をまじまじと見てから「そうね」とつぶやいた。
「もう、大丈夫《だいじょうぶ》そう。先生に電話して、お断りしましょうか」
清子小母さまが立ち上がったところで、来客を伝える呼《よ》び鈴《りん》が鳴った。
「……間に合わなかったみたいね」
小笠原母子は、顔を見合わせた。
「仕方ないわね、祥子さん。お部屋に行って、取りあえず先生に診《み》てもらいなさい」
「えっ」
「でも、無理言って来て頂《いただ》いたのよ。そのままお帰しできないでしょ」
往診《おうしん》が済んで先生が帰ったらまた応接室に戻ってきていいから、と言われて、祥子さまは渋々立ち上がった。
「じゃ、悪いけれど優さん、少しの間祐巳ちゃんたちのお相手お願いね」
小母さまが祥子さまを伴《ともな》って応接室のドアを開けた時、祐麒が一緒《いっしょ》に立ち上がった。
「あの、電話お借りしていいでしょうか。家に連絡しておきたいから」
「ええ、もちろん。この部屋を出て廊下《ろうか》の左側の個室にある電話を使ったらいいわ。それとも、この部屋まで子機を持ってこさせましょうか?」
「あ、結構です。自分で行きます」
祐麒はそう言って、小母さまが押さえていてくれるドアの間に身体《からだ》を滑り込ませた。
「僕の携帯貸してもいいけれど?」
柏木さんの申し出に、弟は手を振って断った。
「ついでにトイレも借りるから」
「……ごゆっくり」
ついでじゃなくてそっちの方がメインなんじゃないのか、って。ちょっと急いでいるような感じで、そう思った。
五人いた部屋から三人いなくなると、さすがにがらんとした印象を受ける。それも残った相手が、よりによって柏木さん。ジェットコースターでやっぱり二人にはなったけれど、周りに見知らぬ人たちがたくさんいたからあまり「二人」って意識はなかった。
静か。
あまりに静かで、エアコンの音まで聞こえてきた。
柏木さんは客人に対する礼儀《れいぎ》とでもいうように、座る位置を一つ移動して祐巳の正面に座り直した。
「やっと二人きりになれた」
「なっ!?」
「――と思っているのは、僕じゃなくて祐巳ちゃんじゃないのかな」
(……)
完全にからかわれている。カッとなった気持ちを抑えるために、祐巳は心の中で五つ数えてから言った。
「自惚《うぬぼ》れてますね」
「それほどでもない。僕は、別に祐巳ちゃんが僕に気があるなんて勘違《かんちが》いはしていないよ。ただ、僕と話をしたいんじゃないかな、と思っただけで。それも間違っている?」
ああ、何でこう一々|癇《かん》に障《さわ》る言い回しをするのだろう。この人は。そして、わかっているくせにどうして自分は一々反応してしまうのだろう。
「私、柏木さんのこと嫌い」
「それはよかった」
「どうしてそういう答えが返ってくるんだか」
「祐巳ちゃんってさ、誰か気に入らない人がいても、それを堂々と本人には言わないタイプに見える。だから、それをあえて口にするってことは、それがたとえ怒りや憎しみであったとしても、僕にかなり強い感情を抱いているということだ。それは、僕にとってうれしいことだよ。何とも思われていないことの方が辛《つら》い」
柏木さんは、笑いながら股《もも》の上で左右の指をゆっくりと組んでいく。彼の、さっきのお説が正しいのかどうかはともかく。
「私は、嫉妬《しっと》しているんだと思う。柏木さんに、たぶん」
「それはわかっているよ。君はさっちゃんのことを好きだ。僕のことが目障りなのは、理解できる」
柏木さんの言葉は、それ以上でも以下でもない、紛《まぎ》れもない真実。
祐巳は、間違いなく祥子さまのことを好きだった。
そして。
「柏木さんだって、祥子さまのことが好きでしょう」
「好きだよ」
もう少し考える時間があってもいいのに、柏木さんは即答した。
「だったら、どうして祥子さまにあんなこと言ったの?」
「あんなこと?」
首を傾《かし》げる柏木さん。
「自分は同性愛者だなんて」
祐巳の発したその一言で、柏木さんの自信満々の好青年ぶりが、一瞬|崩《くず》れた。
「……まいったな。どこまで知っているんだ」
組んでいた指をほどいて、髪をかき上げて大きく息を吐く。以前祥子さまから聞いたこの話は、もしかしたら口に出すべき言葉ではなかったのかもしれない。でも、もう遅い。言ってしまったものは取り消せない。
「結婚はするけれど、二人の間に子供はできないから、祥子さまは余所《よそ》で子供を作れって。そう言ったって本当?」
「そんなことまで喋《しゃべ》ったのか、さっちゃんは」
柏木さんは気持ちを切り替えようとするように、外に視線を向けた。カーテンが開け放たれていた窓に、難しそうな顔をしている柏木さんと、それを追いかける切ない瞳の祐巳の姿が映っている。
「でも、それは嘘《うそ》なんでしょ? 柏木さんは、祥子さまのことを愛しているんでしょ? 見ていてわかる。なのに柏木さんは」
「『柏木さんは』?」
何だい、と正面から真っ直ぐ問われ、祐巳はその瞬間に謎《なぞ》が解けた。
「……そう言って、祥子さまの方から婚約を解消するようにし向けたんだわ」
「そうか」
答えは必要なかった。柏木さんの瞳が「正解」と言っていた。でも、どうしてそんなこと――。
「君には見えていない部分もあるんだよ」
「え?」
見えている部分と見えていない部分とは、いったい何だろう。でも、それが見えたからといって、柏木さんが祥子さまを好きだという事実は変わらないのではないか。
「僕は確かに、さっちゃんを好きだし、愛しているかと問われればイエスと答える。でも、好きにもいろいろある」
「いろいろって」
「さっちゃんが好きだが、祐麒も好きだ。そして、もちろん祐巳ちゃんのことも好きだよ」
滅茶苦茶《めちゃくちゃ》なことを言う。
「祥子さまが一番じゃないんですか」
「一番って何だい? 犬が好きだ。メープルパーラーのゼリーが好きだ。剣道が好きだ。車が好きだ。それは許されないことなのかい? どれも同じ天秤《てんびん》では量れないだろう」
「でも、人だもの」
犬とゼリーは形態が違うし「好き」の種類が違うから比べるのが難しいかもしれないけれど、それが人と人の話なら。
「祐巳ちゃんは、お父さんとお母さんどっちが好き?」
「え?」
「それに祐麒を加えたら? さっちゃんは? 一番なんて決められないだろう?」
確かに、決められない。だって、お父さんはお父さん、お母さんはお母さん。お父さんとお母さんは違う。お父さんと祐麒も違う。家族の中でさえそうなのだ。祥子さまを連れてきて比べることなんて、できるわけがない。
(あ)
もしかして柏木さんの「いろいろ」も、そういうことを言っているのだろうか。少しだけ、ほんの少しだけだけれどわかるような気がしてきた。
「さっちゃんを好きだよ。でも、結婚する気はない。祐巳ちゃんにだから話すけれど、それが今の正直な気持ちだ」
「柏木さんは、相手が祥子さまだから結婚しないの? それとも、誰ともする気がないの?」
「祐巳ちゃんとだったら、してもいいけど?」
「悪いけれど、そういう冗談笑えないから」
「了解。やめよう」
柏木さんは、両手を肩の辺りまで上げて笑った。
「最後に一つだけ。僕を倒したって、君は勝てないよ」
「それは、どういう――」
「僕に嫉妬《しっと》しているようじゃ、まだまだってこと。こんな所に留まってないで、もっと上のステージを目指せよ」
「……」
「そんな目をしたってだめだよ。これ以上のヒントはあげない」
足を組んで腕も組んで、柏木さんは深くソファーに身体《からだ》を沈めてから目を閉じた。ここからは自分で考えるように、そういうことだろう。まるで、アクセスを拒絶しているような感じだ。
「敵じゃないとしたら、柏木さんは何なの?」
だめで元々、祐巳はアクセスを試みた。すると、柏木さんの目が片方だけ開いた。
「同志」
柏木さんがそう言って再び両目を閉じた時、ちょうど祐麒が応接室に戻ってきた。
「祐巳。家に電話しておいた。それから、祥子さんが部屋に来て欲しいって言っているらしいけど……どうしたの?」
「ううん、別に」
祐巳は立ち上がって、セーターの下に着ていたブラウスの前ボタンの胸の辺りを、セーターごとギュッと握った。
「祐巳?」
「何でもない。祥子さまの部屋に行ってくるね」
変に勘《かん》が鋭いところがあるから、祐麒は姉の態度を不審に思ったかもしれない。でも、うまく取り繕《つくろ》うことができそうもないから逃げるように部屋を出た。
柏木さんに何をされたわけでもない。
でも、今ここにはいたくない。祐麒に顔を見られたくはない。
祐巳が部屋を出て後ろ手でドアを閉めた時、やはり祐麒が柏木さんに「何があったのか」と問いつめていた。
熱くなる祐麒とは反対に、柏木さんは静かに言った。
「ゲームの話をしていただけだよ」
そして祐巳は、廊下《ろうか》に出たと同時に、固くなった手をやっと胸から離すことができた。
3
祥子《さちこ》さまの部屋に向かう途中、廊下で、お帰りになるお医者さまとすれ違った。
「大したことないけれど、疲れているみたいだから少し話したら休ませてやって」
祐巳《ゆみ》の肩をポンポンと叩く初老の男性。白衣を着ていないから、すぐにはお医者さまだとわからなかった。一瞬、お祖父《じい》さまが帰ってきたのかと思ったけれど、融小父《とおるおじ》さまのお父さんにしてはいささか若すぎる。
時計を見たらもうすぐ七時だったけれど、小父さまもお祖父さまもまだ帰ってこない。歳末《さいまつ》ということもあって、会社の上の人たちはこの時期いろいろとつき合いなどで遅くなることが多いそうだ。
「ありがとうございました」
一緒《いっしょ》にいた清子小母《さやこおば》さまについて、玄関までお医者さまをお見送りしてから、祥子さまのお部屋を訪ねた。二階にある祥子さまのお部屋には、以前お邪魔《じゃま》したことがあったから、案内がなくとも一人で行けた。
祐巳は、ノックをして中に入った。
「祐巳」
お姉さまはちゃんと寝間着《ねまき》に着替えて、ベッドの中でおとなしくしていた。
「応接間に戻るつもりだったのだけれど」
「いいんです。寝ていてください」
祐巳は掛《か》け布団《ぶとん》をそっと直してから、ベッドの側の椅子《いす》に腰掛けた。
今、手の届く所にお姉さまがいる。
柏木《かしわぎ》さんと話をしていた時、まるで祥子さまが遠くにいる人のように感じていたのに。
けれど、いる。
今は、難しい宿題を忘れて、一緒にいられる幸せに浸《ひた》っていたい。
「どうかして?」
祥子さまが、祐巳の髪にそっと手を伸ばした。
「私、今日柏木さんに嫉妬《しっと》しました」
撫《な》でられながら、祐巳は言った。
「あら」
「だって。私がしたくてもできないことを、難なくやってしまうし、私が知らないお姉さまのことだってよく知っているし」
それに大人だし。認めたくないけれど、敵《かな》わないことはたくさんある。
柏木さんが言うようにもしも二人が同志というならば、彼はずいぶんと先を歩いているに違いない。その余裕《よゆう》から、時折振り返って遅れた祐巳に笑いかけるのだ。
「ばかね」
けれど、お姉さまは一笑《いっしょう》に付《ふ》した。
「祐巳にできて優《すぐる》さんにできないことだってあるのに。例えば」
「例えば……?」
いろいろなことが渦巻《うずま》いて、気持ちが晴れないでいる祐巳は心底知りたかった。こんなちっぽけな存在に、柏木さんに勝るものなんてあるのだろうか。
「今、私が会いたいと思ったのは祐巳の笑顔よ。車の中で、私の手を握っていて欲しかったのは祐巳の手だわ。優さんじゃないの。それはだめ?」
[#挿絵(img/21_187.jpg)入る]
「だめなんて」
祐巳は激しく首を振った。
それにね、と祥子さまは続けた。
「知っていることの多さなんて、つき合いの長さが違うのだから当たり前でしょう? それを言うなら、私だって祐麒《ゆうき》さんに嫉妬《しっと》しないといけなくなるわ」
「祐麒に、嫉妬?」
祐巳は思わず笑ってしまった。それで、またちょっと楽になった。
「お見舞いに来たのに、逆に励《はげ》まされちゃった」
そんなことないわ、とお姉さまは言った。
「祐巳はいつも私に力をくれるわ」
「お姉さま」
やっぱり、励まされてしまった。
お医者さまに言われていたので、祐巳は「そろそろ」と椅子《いす》を立ち上がった。すると、ベッドの中で祥子さまが言った。
「祐巳。今日はごめんなさいね。必ず、リベンジするから」
「お姉さま。リベンジなんて気を張らないで、今度行く時は肩の力を抜きましょうよ。また具合が悪くなったっていい、って気持ちで。一度も二度も同じだから、私に遠慮《えんりょ》なんかいりません」
祐巳は屈《かが》んで、お姉さまの手にそっと触れた。
「そうね。少し遠出したし、延び延びになっていた遊園地デートだったし、今日はちょっとがんばり過ぎちゃったのね、きっと」
「ええ」
「失敗したっていいって、もっと楽に考えればいいのよね。祐巳とは、これっきりというわけじゃないのだもの」
祐巳はうなずいて、枕もとのライトのスイッチを切った。
「そうよね」
祥子さまの言葉が、ぼんやりとした光の残像とともに、暗くなった部屋の中でしばらく漂っていたような気がした。
4
祐巳《ゆみ》が応接間に戻ると、祐麒《ゆうき》が「帰るぞ」と言った。
「そんな急がなくてもいいじゃない。ちょうどミルフィーユもできたことだし。そうそう、お夕飯を食べていってちょうだいな」
清子小母《さやこおば》さまが引き留めてくれたけれど、祐麒はがんとして譲《ゆず》らなかった。
「いえ、母に家で食べると連絡しましたから、もう」
すみません、と頭を下げる。
「そう……」
小母さまは残念そうにつぶやいた。
「お母さまがご飯を作って待っていらっしゃるの。それじゃ、無理強《むりじ》いしては悪いわね。わかったわ。でも、ちょっとだけ待ってくれる?」
バタバタと部屋を出ていく小母さまに首をすくめてから、柏木《かしわぎ》さんはソファの背もたれに掛けられたブランケットをヒョイと摘《つま》み上げて言った。
「送っていくよ」
でも、祐麒はその申し出を断った。
「いい。まだ電車もバスもあるから」
柏木さんは腕組みして、祐麒を冷ややかに見た。
「じゃ、お前だけそうしろ。だが、祐巳ちゃんは俺の車で帰るからな」
「何だよ、それ」
「さっちゃんの妹を、ここまで巻き込んでおいて勝手に帰れなんて言えるわけないじゃないか。俺が送らなきゃ、きっと小笠原《おがさわら》家が車を出すぞ。それでいいのか」
「……」
祐麒は黙り込んだ。でも、結果的に誰かの車で帰らなければならないのならば、大げさにならない方がいいに決まっている。だから、祐巳は言った。
「柏木さん、送ってくれる?」
「祐巳っ」
「いいじゃない、柏木さんに送ってもらおう。私は送ってもらうよ。ね、だから祐麒も。別々に帰ったら、変だよ」
すると祐麒は、不機嫌そうに言った。
「祐巳こそ変だよ」
まるで、何かに怒っているみたい。
「祐巳は、先輩のこと嫌なんじゃないのか」
「え?」
みたいじゃなくて、祐麒は怒っていた。それもかなり。たぶん、柏木さんと自分の姉の間に何かあったと勘《かん》ぐって。
「ユキチ。本人の前で、ずいぶんなことを」
柏木さんが苦笑した。その笑いが、ますます祐麒を逆なですることになるって、わかっているのかいないのか。
「別に、嫌なことなんかないから」
祐巳は祐麒の肩に触れて、「ね」と笑いかけた。そんなことで祐麒の霧《きり》は晴れなかったようだけれど、でも、柏木さんの車で一緒《いっしょ》に帰ることは渋々同意した。
「じゃ、そうと決まったら祐巳ちゃんも上着きて」
柏木さんは紳士《しんし》らしく、着やすいようにジャケットを後ろ向きに広げて待ってくれたけれど、祐巳はそれには手を通さず、ただ無造作《むぞうさ》に受け取った。
何となく、柏木さんに触れたくなかった。
ちょっとだけ待っていてと言った清子|小母《おば》さまは、五分ほどで応接間に戻ってきた。手には、一ホールのケーキが入っているような大きな箱を抱えている。
「はい。じゃ、これお土産《みやげ》」
「あ、あの」
戸惑っていると、小母さまは言った。
「ミルフィーユよ。ご両親と食べてね」
「こんなに?」
お裾分《すそわ》けにしては、かなり多い。こんなに大盤振《おおばんぶ》る舞《ま》いして、融小父《とおるおじ》さまやお祖父《じい》さまの分がなくなってしまわないのか。
「心配しないで、まだこの四倍はあるのよ」
「えーっ」
そういえば、小母さまの手料理は極端だという話だった。
朝ご飯でパンを食べたいと思ったら、まず粉を計るとか。遠足のお弁当を作っているつもりが、なぜかお夕飯になってしまった、とか。今回のミルフィーユに関しての「極端」は、量という形で現れたものと思われる。
「小母さま。僕の分もあったらください。福沢《ふくざわ》姉弟を送って、そのまま帰りますから」
「まあ。優《すぐる》さんも帰ってしまうの?」
「ええ。今日のところは」
一旦戻ってきたら、という小母さまの言葉に、柏木さんは首を振って「また来ますから」と言った。
「わかったわ。祐巳ちゃんのこと、よろしくね」
柏木さんにも同様の箱を手渡した清子小母さまは、ミルフィーユを作り終えた達成感が顔からにじみ出ていた。
外は一段と冷え込んでいた。
「それじゃ、失礼します」
祐巳はジャケットの前を押さえ、寒さに引きつる頬《ほお》で、見送りに出た清子小母さまに挨拶《あいさつ》をした。
駐車場には、エンジンをかけた柏木さんの赤い車が、その周囲だけ空気を温めながら祐巳と祐麒を待っていた。
祐麒は、今度は助手席ではなく、祐巳の脇の後部座席に収まった。ここは、さっき祥子さまが座っていた場所。さっき祥子さまが被《かぶ》っていたブランケットは、今は助手席にある。
柏木さんの運転は、さっきよりほんの少しだけ雑だった。
左右に揺れるたびに、ミルフィーユが箱の中でカサカサと音をたてる。
「もう少し、やさしく運転しろよ」
相変わらず、祐麒のご機嫌は直らない。
「ユキチはうるさいな。やっぱり、瞳子《とうこ》の方がよかった」
「瞳子ちゃん?」
祐巳は、聞き返した。柏木さんの従妹《いとこ》だというのに、その名前、今日は初めて耳にした気がする。
「そ。最初は瞳子を誘ったんだけど、断られたからユキチが繰り上がった」
「……俺は補欠かよ」
ますます、機嫌が悪くなる祐麒。でも、弟の機嫌をとる気力なんて、祐巳にはもう残っていなかった。
窓の外の、外灯やらコンビニエンスストアの灯《あか》りなんかを目に映しながら、ぼんやり頭の中で単語を並べる。
ミルフィーユ。
ゆ、祐巳。
み、ミルフィーユ。
ゆ、祐巳。
一人でやるしりとりは、壊れたレコード盤のように同じところを何度も繰り返すだけ。
それが積み重なって層になって、いつしかため息できた巨大なミルフィーユが出来上がってしまうのではないかと思われた。
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あとがき
原稿を書き上げたその日、無性にミルフィーユが食べたくなりました。
何の気なしに階下に降りて台所に立ち寄ると、目に飛び込んできたのは何と「ミルフィーユ」の文字。
「おっ、以心伝心《いしんでんしん》か?」
でも。普通、ミルフィーユに「ミルフィーユ」なんて文字は書いてないもの。
そうです。
それは母がスーパーマーケットから買ってきた、菓子パンの名前なのでした。
食べたかったのとは、微妙ーに違う。
でも、食べた。
意外に、おいしかったです。……別物として。
こんにちは、今野《こんの》です。
イントロ(「ごきげんよう」「ごきげんよう」からはじまる、あれね)にもありますように、この本は三組、つまり黄薔薇・白薔薇・紅薔薇それぞれ一つずつ、計三つの物語からできています。その三層構造が、薄焼きパイとクリームを交互に重ねたミルフィーユに似ているんじゃないかな、と思ってサブタイトルにしました。
じゃあ、サンドイッチとかアメリカンクラブサンドでもいいんじゃない? ――なんて言わないでくださいね。
ミルフィーユって発音は可愛《かわい》いし、見た目もキュート。だから決定。
試しに入れ替えてみましょうか。
『薔薇のサンドイッチ』
――悪くはないけれど、ピクニックにでも行きそうですね。
『薔薇のアメリカンクラブサンド』
――もう何だか、わけがわかりません。
しかし。この文庫がミルフィーユならば、物語はパイなのかクリームなのか。……うーん。どちらかというと、パイかな。じゃ、パイということで。
さて。三つの物語には三題噺《さんだいばやし》じゃありませんけれど、いくつか同じ部品を入れ込んであります。例えば、「お菓子」「車」「男の人」。まだいくつかありますので、お暇な方は探してみてください。私自身も数えながら入れているわけではない(というか、書き上げたので忘れてしまったものも多い)ので、例のごとく正解発表はいたしませんけれどね。
学校の外で物語が進行する、というのも共通点の一つではあります。
そうそう。彼女たちが行った場所がどこだか推理して、自分も行ってみようと思ったよい子の皆さん。時間と交通費の無駄《むだ》ですのでやめましょうね。
ホテルも遊園地も幼稚園(さすがにここがどこだか当たりをつけた人はいないだろうけれど)も、実在はしません。理由は単純。私が特定の場所を取材してきっちり書いてはいないからでーす(これまでも、そういうことはよくありましたが)。
もちろん、私の行ったことがある場所が反映されている場合もありますので、ピンポイントで似ている箇所《かしょ》はあるかもしれませんけれど。だからといって「ここだ!」と思っても、実際に行って歩いてみたら「ここにこんなものはない」とか「ここからこんな風には抜けられない」という矛盾《むじゅん》が生まれることでしょう。
つまり、小説に都合よく良いところ取りをしています。そういうわけですので、深い追及はご容赦《ようしゃ》くださいませ。
ところで、文中に由乃《よしの》が戦に関する言葉を引用していましたが、二つとも出典はご存じ『孫子《そんし》の兵法』です(二つの出所が同じだってことを由乃が知っていたかどうかは、かなり疑問です)。
「動かざること――」は「風林火山《ふうりんかざん》」でお馴染《なじ》みですが、武田信玄《たけだしんげん》発じゃありません。
大胆《だいたん》にも動かざる「山」をせせら笑った由乃。疾《はや》き「風」や侵掠《しんりゃく》する「火」ならば共感するのか、聞いてみたいものです。徐《しず》かなる「林」は却下《きゃっか》だっていうのは、何となくわかるんですけれどね(笑)。
今日、家の冷凍庫のひきだしを開けたら、今度は「ミルフィーユ」と名の付くアイスクリーム(正確にはアイスミルク)を発見しました。
「もしや、全国的にミルフィーユ流行《ばや》り……?」
それとも、我が家(というか母)限定ブームなのでしょうか。
あとがきを書いている今の時点で、母は今回のサブタイトルをまだ知りません。
[#地から1字上げ]今野緒雪
底本:「マリア様がみてる 薔薇のミルフィーユ」コバルト文庫、集英社
2005年7月10日第1刷発行
このテキストは、
(一般小説) [今野緒雪×ひびき玲音] マリア様がみてる 第21巻 「薔薇のミルフィーユ」.zip tLAVK3Y1ul 31,165,249 e81dfcc161a1f849138246fc35f765a5
を元に手打ちテキストを作成し、
(一般小説) [今野緒雪] マリア様がみてる 第21巻 「薔薇のミルフィーユ」 (青空文庫txt形式 挿絵付き).zip Ac8uU4eWPr 2,437,212 f0775dfed37f95ee1554fb278fc11fd2
のテキスト版とエディタの比較機能で比較して差異を底本と照合、修正する方法で校正しました。
それぞれの放流神に感謝します。
*******【大漁踊りも】底本の校正ミスと思われる部分【もう飽きた】*******
底本p013
どうせ剣道談義くらいしかないんだろうし。
剣道談議
底本p033
そんな男、令ちゃんにはもったいない。
これでは文意が逆になってしまう。「そんな男には、令ちゃんはもったいない」の誤りであろう。
底本p035
履《き》き替えて
「履《は》き替えて」のルビ振りミス。
底本p062-063
結婚式を挙げてしまうしまうわけではない。
しまうしまう
底本p087
問われば
問われれば
底本p090
志摩子さんには今年度卒業する姉さまはいないんだし、
「姉さま」 → 「お姉さま」のがよさそうな
底本p094-95
「志摩子の兄貴なの、あれ」
「ええーっ!?」
「志摩子さんって、一人っ子じゃないんですか」
「一人っ子かって、本人に聞いたことある?」
どちらも乃梨子の台詞のはずだが、なぜか分かれている。誰かが急に会話に加わってきたのかとおもった。地の文を入れ忘れたか、間を置いたということを表現したかったのか。
底本p097
昔から一緒《いっしょ》にいても兄弟に見られた例《ためし》がないので
この場合、「兄妹」のほうがいいと思われ。
底本p121
(ああ。私の返事を待ち)
「返事待ち」でいいんでないか?
底本p135
ボーっとなっては、
ボーッとなっては、
底本p146
また子供の心が抜けきれていない
まだ子供の心が
底本p150
祐麒は一瞬「えっ」って顔をしたが、質問にはきちんと答えた。
"「え」って" か "「えっ」て" かどっちだろう。
底本p153
たとえ異性に感心がないとしても、
感心 → 関心
底本p160
いや、ますます磨《みが》きかがかかったというべきか。
「磨《みが》きがかかった」の誤記。
底本p162
可愛《かわい》さ楽しさが十倍にも百倍になる。
十倍にも百倍にもなる。
底本p195
いつしかため息できた巨大なミルフィーユが
「ため息でできた」の脱字。
底本p197
三題噺《さんだいばやし》
三題噺《さんだいばなし》 ルビのミス
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