マリア様がみてる
妹オーディション
今野緒雪
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)朝の挨拶《あいさつ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)純粋|培養《ばいよう》お嬢さま
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
-------------------------------------------------------
[#挿絵(img/20_000.jpg)入る]
もくじ
是か非か オーディション
マリア様の星
ようこそ茶話会へ
中間報告
バトル本番
収穫
あとがき
[#改ページ]
[#挿絵(img/17_004.jpg)入る]
[#挿絵(img/17_005.jpg)入る]
[#地付き]イラスト/ひびき玲音
[#改丁]
マリア様がみてる 妹《スール》オーディション
[#改ページ]
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶《あいさつ》が、澄みきった青空にこだまする。
マリア様のお庭に集《つど》う乙女《おとめ》たちが、今日も天使のような無垢《むく》な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
汚《けが》れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。
スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻《ひるがえ》らせないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
私立リリアン女学園。
明治《めいじ》三十四年創立のこの学園は、もとは華族《かぞく》の令嬢《れいじょう》のためにつくられたという、伝統あるカトリック系お嬢さま学校である。
東京都下。武蔵野《むさしの》の面影《おもかげ》を未だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎《ようちしゃ》から大学までの一貫《いっかん》教育が受けられる乙女の園《その》。
時代は移り変わり、元号《げんごう》が明治から三回も改まった平成《へいせい》の今日でさえ、十八年通い続ければ温室育ちの純粋|培養《ばいよう》お嬢さまが箱入りで出荷される、という仕組みが未だ残っている貴重な学園である。
どうしてこんなことになっちゃったんだろう。――祐巳《ゆみ》はぼんやり考える。
昨日まで夢にも思ってもみなかった事が、突然自分の身に降りかかる不思議について。
例えば。
ぼんやりしているうちにスタートのピストルが鳴って、何が始まったのかと周囲を見回せば、すでにもうみんなその地点にはいなくて。前に見えるは、小さくなっていく友の背中。
そのスピードたるや。目が回るような忙《せわ》しさ。
呆気《あっけ》にとられて見ていたはずなのに、気がついたら、いつの間にか自分もかなり本気で走っていた、そんな感じ。
まあ、生きていれば、たまには思いがけない事態にだって巻き込まれることもあるわけで。
当てはめる数式がない分、ある意味連立方程式より難しい問題なのだ。
何が、って。
突き詰めていけば、人生ってやつ?
[#改ページ]
是か非か オーディション
1
事の起こりは、由乃《よしの》さんの一言だった。
「こうなったら、オーディションでも何でもするしかないと思うのよね」
それは握り拳《こぶし》を顔の高さまで上げての力説だったわけだが、にしては、何の前振りもなかった。
だから、聞いている人間には「唐突《とうとつ》」としか思えなかったのだけれども、由乃さんの中ではかなり前から「ああでもない」「こうでもない」とこねくり回していた事案らしい。
「お?」
「オーディション」
何の? と祐巳《ゆみ》が聞き返す前に、由乃さんは「| 妹 《プティ・スール》のよ、当たり前でしょ」と付け加えた。
「はあ、| 妹 《プティ・スール》の。……って妹《いもうと》の!?」
思わず、テーブルを拭《ふ》く手も止まるってものだ。だって、オーディションっていったら、真っ先に思い浮かぶのは、芸能プロダクションが新人タレントを発掘するために開催《かいさい》するものとか、俳優さんたちがドラマとか映画とかでやりたい役をゲットするために受けるものとかが相場で、芸能界と無関係の自分には一生縁のない世界の話だと思っていたから。
いや。卒業した誰かさんも、以前その言葉使っていた気がするけれどね。確か、生徒会役員選挙のことを山百合会《やまゆりかい》幹部オーディションとか何とか。
「だって、この調子でいったら、私たち三年生になっても妹できないわよ」
窓を開けながら、由乃さんは言った。
十一月に入った最初の月曜日。放課後の薔薇《ばら》の館である。
現在ここにいるのは、クラスの掃除《そうじ》を終えて集まった|つぼみ《ブゥトン》三人。いつもは冷静沈着《れいせいちんちゃく》な乃梨子《のりこ》ちゃんも、さすがに由乃さんの「オーディション発言」には度肝《どぎも》を抜かれたらしく、電気ポットの前でカップを持ったまま固まっている。いや、成り行きを見守っているのか。
「私たちって、……私も入っているんだ?」
祐巳が尋《たず》ねると、由乃さんは「そうよ」と言いながら窓辺から戻ってきた。
「私たちは立場が似ているわ。だって二人とも、お姉さまに| 妹 《プティ・スール》を作れって強く命令されたことないじゃない?」
「あ、まあ……」
祐巳は言葉を濁《にご》した。
実はつい最近、お姉さまである小笠原《おがさわら》祥子《さちこ》さまに「妹を作りなさい」と命じられたばかりなのである。何でそんな大切なことを、親友に打ち明けなかったかといえば、自分自身ショックで、そのことを冷静に受け止めることができずにいたから。
「分析《ぶんせき》するに、祥子さまは去年妹問題ですごくプレッシャーかけられていたから、その辛《つら》さを妹、つまり祐巳さんに味わわせたくないと思っているんじゃないかな。つまり、おやさしいのね」
由乃さん説を聞きながら、祐巳は心の中で「なら、どうして今頃妹を作れっていうんだ」と突っ込みを入れた。
「令《れい》ちゃんの場合は、逆。一学期が始まってすぐに私を妹にしたから、周囲からはまったくプレッシャーをかけられていないわけ。だから、私にもそれをしない。催促《さいそく》することさえ忘れているのかもしれない」
「忘れているってことはないと思うけれど」
先日だって、「早くいい報告を聞きたい」とか言っていたし。
でも、そうか。由乃さんのお姉さま、支倉《はせくら》令さまは、未だにその言葉を直接妹には発していないということらしい。けれど、別方面からプレッシャーをかけられている由乃さんは、尻に火がついた状態なわけで、大至急| 妹 《プティ・スール》が必要となったのだった。
「今、薔薇《ばら》の館は一年生不足なのよ。わかっている? 去年の今の時期、志摩子《しまこ》さんと私と祐巳さん、ちゃんと三人いたのに。今はどうよ」
乃梨子ちゃん、ただ一人です。
「嫁《よめ》不足の農村と同じ。このままでは、生徒会はどんどん過疎化《かそか》が進むわ。乃梨子ちゃん、あなたそれでいいの?」
話を振られた乃梨子ちゃんは、振り返ってきっぱりと言った。
「それは困ります」
まあ、「いいです」とは言わないわな。来年度、順調にいって現二年生が薔薇さまになったとして、乃梨子ちゃんが一人で|つぼみ《ブゥトン》やるっていうのは、相当きつそうだ。いかなしっかり者とはいえ。
「思えば、私には出会いがなかった」
由乃さんは椅子《いす》に腰掛けて、しみじみと言った。もう完全に会話モードに入ってしまっているので、祐巳も台拭《だいふ》きを洗ってから隣《となり》の席に座った。薔薇の館の掃除《そうじ》は終わりだ。
「出会いって由乃さん、剣道部は?」
尋《たず》ねると、由乃さんはうんざりした表情で首を横に振った。
「私が一番ペーペーなんだよ? それでも実力があれば別だけれど、隣に住んでいる伯父《おじ》が剣道の道場をもっているってだけの、まったくの初心者がよ。どの面《つら》下げて、段や級持ちの下級生に| 妹 《プティ・スール》になってくださいって言えるのよ」
「つまり、自分より剣道で勝《まさ》っている妹はごめんだと」
「そりゃそうよ」
由乃さんは威張《いば》りん坊《ぼう》だから、少しでも姉妹《スール》関係で引け目を感じたくないらしい。
「それにね、部活でくっつこうって考えるような人は、一学期のかなり早い時期に出来上がっちゃっているものなの」
「そうか。由乃さんが入部したのは梅雨《つゆ》の頃だったもんね」
部活に入る入らないで、一時期令さまとかなり険悪な関係になったようだ。その時期、祐巳は自分のことで手一杯だったから、細かいところまでは把握《はあく》していなかったけれど。
「でも。もしかしたら、由乃さまを遠くから『いいな』と見ている一年生部員がいるかもしれませんよ」
紅茶をいれたカップをテーブルの上に置きながら、乃梨子ちゃんが言った。
「柔軟《じゅうなん》体操でへばっているような二年生を、いいと思う一年生なんていないでしょ」
「いや、絶対にいないとは――」
フォローしようとした祐巳の言葉を遮《さえぎ》るように、由乃さんが断言する。
「よっぽどの物好きか、令ちゃん目当てよ」
「令さま……」
「私の妹《スール》になれば、令ちゃんの孫みたいなものだから」
「そっか。可愛《かわい》がってもらえるもんね」
なるほど、とうなずく。そういう下心がある一年生が一人もいないとは言い切れないし、本人すら気づいていないパターンだってあるだろう。例えば、スタートは令さまへの憧《あこが》れだったけれど、その気持ちがだんだん進化していって、由乃さんのことも好きになった、とか。
「あーあ、黄薔薇《きばら》革命以前の栄光はどこへやら。これでも過去は、妹にしたい一年生ナンバーワンとまで言われたのよ、私」
由乃さんは首をぐるんと回して、乃梨子ちゃんに言った。豹変《ひょうへん》してからの由乃さんしか知らない乃梨子ちゃんは、あからさまに「嘘《うそ》ぉ」という顔をしていたが、由乃さんの言ったことは紛《まぎ》れもない事実である。
「その点祐巳さんはいいわよね。一年生に人気があるから」
「人気? 違うよ、単なる親しみやすさでしょ」
例えば、温室|栽培《さいばい》された高価な薔薇《ばら》の花束の中に、一本タンポポが混入しているような。ジュエリーケースの中に、宝石に混じってコットンでできたくるみボタンが一個入っているような、たぶんそんな感じ。
「いないいないって言ったって、私と違って身近に瞳子《とうこ》ちゃんや可南子《かなこ》ちゃんがいるんだもんね。あー、一人分けてくれないかな」
「分けてって。どっちも私の所有物じゃないし」
「言ってみただけでしょ。誰も祐巳さんのおこぼれなんて、本気で欲しがらないわよ。だから自力でなんとかする道を模索《もさく》したわけじゃない」
「それが」
「オーディションよ、オーディション。妹《スール》オーディション!」
由乃さんが再び拳《こぶし》を振り上げたちょうどその時、部屋の扉がガチャッと開いた。
「何? 妹をオーディションで選ぼうっていうの?」
それはいいわね、なんて言いながら入ってきたのは祥子さま。相変わらずお美しい立ち居振る舞いで椅子《いす》に座ると、乃梨子ちゃんのいれた紅茶を優雅に一口すすり、「で?」と祐巳に顔を向けた。
「間違えないでください、お姉さま。オーディションをするのは、由乃さんです」
そこの所はちゃんと訂正《ていせい》しておかないと、後でとんでもないことになる。祐巳は、はっきりと言った。
「あら、あなたは?」
「えっ」
「あなたはどうして参加しないの? 妹がいないという点では、祐巳も仲間でしょうに」
「そ、そうですが」
だからといって、当然それに加わるものという考え方は、果たして正しいのだろうか。祐巳としては、「それはちょっと違うのでは」と思うわけだが、祥子さまったら揺るぎない自信に満ちた眼差《まなざ》しで迫ってくるものだから、「もしかしてそっちが正しいのでは?」なんて不安になってくる。
「せっかくなのだから、あなたもその計画に混ぜてもらいなさい」
「ちょっ、ちょっと待ってください。お姉さま」
しっかりはっきり訂正したのに、どうしてそうなるかな。
「出会いがないからオーディション。いいじゃない。どうして、今までそのアイディアに気づかなかったのかしら」
腕組みしてため息なんてついている祥子さまに、横から由乃さんの「待った」がかかった。
「祥子さまっ。困ります。祐巳さんと一緒《いっしょ》じゃ、応募者に差が出ます」
理由はともかく、ここは一票でも多くの反対票をゲットするべく、祐巳は陰から由乃さんを応援した。行け行け、GO! GO! ――と。だが。
「あら、由乃ちゃんらしくない。数が多ければいいってものでもないでしょう? 要は、その中から相性のいい相手と巡り会えるかどうか。百人いたって、見つからないことはあるのだし、たった一人だってかけがえのない妹《スール》となるかもしれない」
「そりゃ、そうですけれど。でも……」
感情が先走って物を言っている人間は、正論で攻められればひとたまりもない。由乃さんは、反論できずに語尾が徐々《じょじょ》にフェイドアウトしていった。
仕方ない、ここは一人で戦うしかない。
「あの……お姉さま、私の意見は」
「意見?」
祥子さまは、祐巳をチラリと見た。
「それは、オーディションなんて必要ない、もう妹にしたい一年生がいます、っていうことかしら?」
「いえ、あの」
「そういうことなら、話は別よ。さっさと連れていらっしゃい。ただし連れてこられないのだったら、由乃ちゃんの予定しているオーディションで、同時に祐巳の妹も募集します。私、もう待つのに飽《あ》きてしまったわ」
「うっ……」
こういう時は、何だっけ。確か、すごくピッタリの言葉を知っていた気がするんだけれど。そうだ、思い出した。勢いよく立ち上がって一言。
「お、横暴ですわ、お姉さまの意地悪」
[#挿絵(img/20_019.jpg)入る]
しーん。
決まった、……かな? いや、全然だめらしい。由乃さんは「やっちゃった」って感じで頭抱えているし、祥子さまは笑っている。
「横暴ですって? 人聞きの悪い。私は可愛《かわい》い妹のために心を鬼にして」
「心を鬼に?」
失礼ながら、そうは見えない。
「悔《くや》しかったら、この部屋を出て探していらっしゃい。案外、妹《スール》候補が扉の向こうに立っているかもしれないわよ」
「で、私にもわらしべ長者になれ、と?」
「何なの、それは」
かすかに眉間《みけん》にしわを寄せる祥子さま。本人には「わらしべ長者」としての自覚、まったくなし。
「わかりました、探してきます。探してくればいいんでしょ」
成り行きで立ち上がったが、もちろんあてがあったわけではない。少なくとも、この部屋で燻《くすぶ》っているよりはまし、くらいなものだ。
一年とちょっと前、祥子さまは前|薔薇《ばら》さまたちに痛いところを突っつかれて、怒りにまかせてこの部屋を出た。その時、祐巳は偶然薔薇の館を訪ねていて、志摩子さんに導かれるまま二階に上がり、部屋を飛び出してきた祥子さまとドシンとぶつかったのだった。人生、何がきっかけで思いがけない方へ転がるかなんてわからない。
神様があらかじめ決まっている姉妹《スール》を結びつけてくれるのなら、もしかしたらこの扉の向こうにまだ見ぬ妹が立っているかもしれない。
扉を開けようとした時、ノブは祐巳の手から逃げた。向こう側から開けられたのだとわかったと同時に、志摩子さんの顔が見えた。勢いよく飛び出してきた祐巳を見て、志摩子さんはとっさに身を翻《ひるがえ》した。
何、このデジャブ? 一年ちょっと前のシチュエーションとまったく同じじゃない。ただし、今回は立場は逆だけれど。――ちょっとの間で、脳はいろんな事を考えるものだ。
ということは、志摩子さんの向こう側にいる人物こそ、運命の妹? ああ、本当にそこに人がいた、って思っている間に「ぶつかるっ」。
もう間に合わない。
覚悟して目を閉じた瞬間――。
バフッ。
(ばふっ?)
やわらかい物に体当たりしたのに床に倒れ込む衝撃《しょうげき》がなかなか訪れないな、と思って恐る恐る目を開けると。
「祐巳ちゃん、勘弁《かんべん》してよ」
令さまの、困ったような呆《あき》れたような顔がそこに。
「私だったから受け止められたものの、普通の女の子だったら大惨事《だいさんじ》に――」
お説教に被《かぶ》るように背後から、祥子さまの声が聞こえた。
「運があるのかないのかわからない子ね」と。
2
「で、開催日《かいさいび》はいつにするの?」
首の前辺りで指を組んで、祥子《さちこ》さまが尋《たず》ねる。
「来週の土曜日あたり、と考えています」
由乃《よしの》は答えた。
結局|令《れい》ちゃんの人間壁面に阻《はば》まれ、部屋にUターンするはめになった祐巳《ゆみ》さんは、多少ふくれた表情のまま、おとなしく祥子さまの隣《となり》に着席している。言いたいことは山ほどあるが、何かを言えば、お姉さまの反論でますます身動きできなくなるであろうことに気づいてか、ひたすら我慢の構え。この場は様子見に徹して、後でゆっくり対策を立てるべきと判断したのだろう。
「まあ」
祥子さまは「早い」とも「遅い」ともとれるニュアンスで、「来週の土曜日ね」とつぶやいた。
「ええ。再来週《さらいしゅう》になると剣道の交流試合がありますから」
さらりと言ったけれど、実はそこはかなり重要なポイントなのである。
放課後に時間が十分とれる曜日といったら土曜日。けれど再来週の土曜日は交流試合があるから、できない。ならばその前に、という流れはいかにも自然だ。
だが、それならば交流試合が終わってからゆっくりでもいいはずなのだが、由乃の予定表ではそれは絶対にあり得ない話だった。なぜなら、試合の日に間に合うように| 妹 《プティ・スール》を作ることが、このオーディションの最大の目的であるからして。
「何の話?」
取りあえず全員着席してすぐに、祥子さまが話を再開したので、それまでの流れがまったくわかっていない令ちゃんが尋ねてきた。令ちゃんと一緒《いっしょ》にたった今この部屋に到着したばかりの志摩子《しまこ》さんも、同じように首を傾《かし》げている。
「私、妹を作ろうと思って」
由乃は「土曜日あたり」と言ったのとほぼ同じトーンで、さらさらっと言った。
「妹!?」
驚いたのは、令ちゃんだ。想像以上のあわてっぷりに、周囲の人間は呆気《あっけ》にとられ、二人の間に割って入ることもできなかった。以降、しばらく黄薔薇姉妹の会話が続く。
「だだだだ誰なのそれはっ」
「そんなのわかりません」
「わかりませんじゃ、わからないわよ」
「だから、オーディションするんだってば」
「そんなの聞いてない」
「でしょうね。さっき初めて言ったんだから」
「由乃ぉ」
立ち上がって、身を乗り出して、顔を真っ赤にして、テーブルを叩いて。結局令ちゃんは、情けない声と共に椅子《いす》に崩《くず》れるように着席し、テーブルの上に頭をコツンと打ちつけた。反対に由乃は、椅子に座ったまま、静かにというかむしろ冷ややかに、お姉さまのことを見つめていた。
その様子を眺めながら祐巳さんが、(令ちゃんに比べればかなり)軽く驚いていたのは、たぶん「由乃さんは、本当に令さまに打ち明けていなかったんだ」と改めて確認したせいだろう。
「由乃……。何で、そんな急に」
「急じゃない。ずっと考えていたわよ。何なの、反対なの?」
「そうじゃないけれど、心の準備が」
「何、今更《いまさら》心の準備とか言っているの。早くいい報告を聞きたいんじゃなかったの? ご希望通り、卒業までに孫の顔を見せてあげられるのよ」
「そりゃ、口ではそう言っていたけれど」
オロオロ、ソワソワ。
娘を嫁《とつ》がせる父。令ちゃんを端《はた》から見れば、そんな風に見えるだろう。
「大体、オーディションなんかで、ピッタリの妹《スール》が見つかるわけないじゃない」
「何で令ちゃんにわかるのよ、そんなこと」
根拠なんて何にもないことは、令ちゃん自身わかっているはずである。でも、何かを言わずにいられなかった。きっと、そう。
令ちゃんと由乃の間に、しばらく沈黙が続いた。軽くピリピリした空気を中和するように、志摩子さんがやわらかい口調で尋《たず》ねた。
「でも、由乃さん。オーディションでピンと来る相手がいなかったらどうするの?」
「そんなことあり得ない。意地でも選ぶから」
きっぱりとした返事に、ちょっと周囲がざわついた。あり得ない? 意地でも選ぶ? そりゃ、いくら何でも不自然だ、と。
「何があったのよ」
「何も」
「嘘《うそ》。何か急いでいる」
さすが令ちゃん、とでも言って褒《ほ》めてやろうか。一見オロオロしているようで、由乃のことはよく見ている。
「急いでなんて――」
由乃は目をそらした。それじゃ、「嘘ついてます」と認めたも同然なのだが、それでも頑《がん》として口を割らないでいると、令ちゃんが大きくため息をついた。
「わかった、じゃこうしよう。オーディションは認める。でも、それは来月にしよう。私は今、交流試合に向けて稽古《けいこ》に集中したいの。それが済んだら一緒《いっしょ》に万全の計画立ててあげられるし、もちろん協力もする」
「それじゃ、間に合わないの」
ここで由乃は、作戦を変更することにした。
これ以上ねばったところで、現状より有利に事を運ぶことはたぶん無理だ。それにこちらはタイムリミットがある分、時間が経てば経つだけ不利になっていくのは目に見えているわけだし。ならば、この辺りで令ちゃんをグッと引き寄せて、味方につけるのが得策《とくさく》だ。
「どういうこと?」
令ちゃんが尋《たず》ねるのを待って、由乃はその人の名前を口にした。
「先日、といってもずいぶん前だけれど、江利子《えりこ》さまとお会いして」
「いつのこと?」
「体育祭の時」
「江利子さま、いらしていたの?」
「うん」
令ちゃんは、「知ってた?」と聞くみたいに祥子さまの顔を見た。祥子さまは「初耳《はつみみ》」と言うように首を横に振り、志摩子さんも同様に知らなかったことを伝えた。乃梨子《のりこ》ちゃんはもちろん江利子さまと面識がないから尋ねられず、そこで何となく質問の流れは止まってしまったから、祐巳さんまではその質問は届かなかった。もし聞かれていたら、祐巳さんは答えに窮《きゅう》しただろうな、と由乃は思った。
それはともかく、江利子さまは本当に体育祭の日、由乃一人にだけ会って帰っていったらししい。
由乃は、続けた。
「お会いした時、江利子さま、何だか元気がなくて。私、励《はげ》ますつもりで、妹ができたら真っ先に紹介します、って言っちゃったの」
「それで?」
令さまが促す。
「交流試合は見にいらっしゃるっておっしゃっていたし、だから……私」
大筋はそのままだけれど、チョコチョコと細かいニュアンスをいじってみればあら不思議、何だか美談になっている。事実を脚色《きゃくしょく》なしで把握《はあく》している祐巳さんが、複雑な顔をしているがかまわない。
由乃は目を伏せた。「このことは私の胸にしまい込んでおきたかったけれど、とうとう言ってしまったわ」という感じ。そんなポーズをとっていると、気分が徐々《じょじょ》に盛り上がってきて、本当に江利子さまのために何かしてあげたいと思ってしまうから面白い。
「そういえば、お菓子の差し入れを持ってきてくださった時も、何だか疲れた顔をなさっていたわ。そうか、それで『由乃ちゃんにくれぐれもよろしく』なんて伝言があったのね。由乃が江利子さまのことを力づけようとしていることを、ありがたく思っていたからだわ。それなのに私ったら、何も気づかないで」
違う。それは絶対に違う。由乃は心の中で突っ込みを入れた。江利子さまは、単純にプレッシャーをかけにきたのだ。けれど、純粋(単純)な令ちゃんは、美しい話をすっかりそのまま信じ切ってしまった。
「そういう事情なら、急がないとね。いいわ、来週の土曜日。山百合会《やまゆりかい》の活動として、学校側に許可をもらおう」
一丁《いっちょう》上がり。ああ、なんて丸め込まれやすい人なんだ。
そして、一部始終を見ていた祥子さまは。黄薔薇姉妹が落ち着くべき所に落ち着いたのを見極めると、ニッコリ笑って言った。
「由乃ちゃん、祐巳。学園祭のポスター用に準備した画用紙が数枚余っているから、それ使っていいわよ」
結局。祐巳さんは意見も聞かれず、しっかり数に入れられちゃっていた。
3
「聞いたわよ。オーディションするんだって?」
二時間目と三時間目の間の休み時間。お手洗いか何かに行っていた山口《やまぐち》真美《まみ》さんが、教室に帰ってくるなり祐巳《ゆみ》の机にコソコソッと近づいてきて、ボソボソッと言った。
「いったい、どこからそれを」
由乃《よしの》さんのオーディション発言があったのは、昨日の放課後のことである。丸一日も経っていないというのに、この情報伝達の速さといったら。
発信源は由乃さんかな、と思って彼女の席を見ると、英和辞典を開いてリーダーの単語を必死で調べていて、こちらに気がつきもしない。
「由乃さんじゃないわよ。聞いたのは|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》から。『リリアンかわら版』で大々的に宣伝してくれ、って。その代わりに、オーディションの模様を記事にする許可をもらったわ」
「……」
祥子《さちこ》さまったら、すごい行動力。オーディション回避のうまい言い訳を妹が探し出すより先に、外堀を埋めてしまおうという腹らしい。
「でも、助かるわ。今年はミスコン紙上アンケートをやらなかったから、学園祭の後、今ひとつ盛り上がりに欠けていたのよ。これで、一気に盛り返すわ」
「どうしてやらなかったの、ミスコン」
「去年とまったく同じことなら、やらない方がいいと判断したのよ。去年とほぼ同じメンバーが顔を揃《そろ》えるんじゃ、つまらないし」
つまり、読者による投票でミス○○を決めるわけだが、みんなわかりやすい記号でも書くように、薔薇《ばら》ファミリーに票を投じるらしい。確かに、アンケートをとるまでもなく、今年もミスター・リリアンは令《れい》さまが選ばれるであろうことは、想像に難くない。
「しかし、オーディションとは考えたわね。とにかく渡りに船。新聞部は全面的に協力させていただくわ。今日の放課後、打ち合わせに薔薇の館に行くことになっているから。……あら?」
早口でまくし立てた真美さん。そこでやっと、祐巳の様子に気がついたみたいだ。
「乗り気じゃないの?」
「乗り気なのは、由乃さん」
「ふうん」
真美さんは、一度由乃さんを見てから祐巳に言った。
「じゃ、祐巳さんのその乗り気じゃない理由を聞きましょうか」
「理由?」
祐巳はコツンと机に頭を預けてため息をついた。
「そんなの、うまく説明できないよ。そもそもそれを理論立てて説明できるんだったら、とっくにお姉さまを説得できている」
すると真美さんは机の傍《かたわ》らにしゃがんで、顔を近づけてきた。
「うまく説明できなくていいんじゃない? 私は祥子さまじゃないんだし」
「そっか。そうだよね」
ハハハと二人で笑い合った後、真美さんがさらりと言った。
「それって、オーディションという形態に反対なの? それとも、自分の妹をオーディションで選びたくないの?」
「わからない」
ただ、お姉さまに命じられるままオーディションに突入するということに対して、ものすごーく抵抗があるのは確か。
「ちゃんと分析《ぶんせき》した方がいいわよ。そうしないと、対策をたてられないから」
「何の対策? オーディション回避の?」
「それを含めて身の振り方でしょ。新聞部としては、|つぼみ《ブゥトン》二人が同時にオーディションを開催《かいさい》してくれた方が盛り上がるからありがたいけれど。友人としては、あまり嫌がる相手に強制したくはないのよね」
三時間目の始業チャイムが鳴ると、真美さんは「とにかく新聞部は一枚かむから」と言い残して自分の席に帰っていった。
「分析か」
そういうの苦手なんだけれど、と思いつつレポート用紙を一枚破いて自分の気持ちを書き出そうとしたところで、リーダーの先生が教室に入ってきた。由乃さんはギリギリ単語を調べきったらしく、辞書を閉じて小さくガッツポーズをしていた。
質問:オーディションに賛成ですか? (はい・いいえ・わからない)
答え:「わからない」に○印一つ。
三時間目と四時間目、半分授業を聞きながら残りの半分の脳みそを使って考えてみたけれど、うまく考えはまとまらなかった。
お弁当を持って薔薇《ばら》の館に向かう道々は、ため息ばかりが出た。今日のランチタイムの話題は、妹《スール》オーディションがらみの話になるってわかっている。別に招集がかかっているわけでもないし、生徒会の仕事が溜《た》まっているわけでもない。今日はパスして教室で食べようか、なんて途中真剣に考えたりしたのだが、結局祐巳はUターンせずに薔薇の館の前まで来てしまった。どうせ自分抜きでも話は進むのだろうし、自分がいない時に重要な採決がされたりしたら、取り返しがつかないことになりかねない。男の人と手をつないでダンスしなければならなくなった、祥子さまの前例だってある。
よっしゃ、と一つ気合いを入れて館の入り口ドアを開けると、目の前に階段をしずしずと上る後ろ姿があったので追いかけた。
「志摩子《しまこ》さん」
「わ、ビックリした。祐巳さんなの」
静かに上っていたはずの階段が、突然ガタピシ揺れだしたので驚いたのだろう。志摩子さんは手すりを掴《つか》んだまま、胸を押さえて振り返った。
「志摩子さんは、どう思う?」
もちろん志摩子さんは超能力者ではないので、クラスも違う祐巳が授業中にしていた考え事なんか知るよしもない。だから、ここは当然「何のこと?」というお言葉が返ってくる。
「オーディションのこと。昨日、反対とも賛成とも聞いていなかったから」
「ああ――」
志摩子さんはつぶやいて、再び階段を上りはじめた。
「私は賛成や反対を言う立場ではないわよ」
妹を選ぶのは姉となる由乃さんと祐巳なのだから、という姿勢らしい。祐巳は志摩子さんを追いかけた。
「そうかもしれないけれど。でも、私の妹《スール》は志摩子さんにとっても仲間になるのよ。その仲間がオーディションで選ばれることに、抵抗はない?」
「そうね」
最後の一段を上りきってから、志摩子さんはほほえんだ。
「まったく抵抗がないといえば嘘《うそ》になるかしら。でも、そのオーディションをきちんとしたものにできるなら、やってみる価値はあるかもしれないと思うの」
「やってみる価値?」
祐巳が尋《たず》ねると、志摩子さんは「あくまでこれが私だったら、の話よ」と前振りをしてから言った。
「例えば、私にまだ妹がいなかったとするでしょう? そうしたら、由乃さんと一緒《いっしょ》に妹を募集するかもしれないわね」
もちろん志摩子さんにはすでに乃梨子《のりこ》ちゃんという可愛《かわい》くて優秀な妹がいるわけだから、「たら」とか「れば」の話はあまり意味のない話なのかもしれない。それでも、祐巳は聞きたいと思った。サンプルとして、少しでも多くの人の考えを集めたかった。
「どうして? 抵抗ないわけじゃないのに?」
すると志摩子さんは、ビスケット扉のノブを引っ張りながら言った。
「だって、その候補者の中に乃梨子がいるかもしれないじゃない」
扉が開かれたその向こう側に、一人の一年生が立っていて、入ってきた二人を見つけると、秋なのに春風が吹いたみたいにほほえんだ。
「ごきげんよう」
――乃梨子ちゃんだ。
ああ、そうか。祐巳は少しだけわかった。志摩子さんは、もし春に乃梨子ちゃんとの出会いがなくても、いつかきっと乃梨子ちゃんを妹《いもうと》に選んだだろうという自信があるんだ。だから、どんな出会い方かということはさほど重要視していない。
「スタート地点はどうでもいい、ってこと?」
「私にとっては、そうね」
志摩子さんにとっては、乃梨子ちゃんが側にいてくれることが、何より優先されるべきことなのだろう。
椅子《いす》に座ると、乃梨子ちゃんが「緑茶です」と言って、湯気のたった湯飲みを祐巳の目の前に置いた。
「乃梨子ちゃんは」
「は?」
「オーディションで志摩子さんの妹になるの、どう?」
「どう、って尋《たず》ねられましても」
困りながら、しかし賢い乃梨子ちゃんは、祐巳が何かを模索《もさく》しているのだということを察したらしく、逆に質問を投げかけてきた。
「祐巳さまは、| 妹 《プティ・スール》をもつことに対してはお嫌じゃないんですよね」
「たぶん」
祥子さまの妹になってからは、いつかきっと自分も妹をもつんだろうな、と漠然《ばくぜん》と思っていた。二年生の二学期まで妹ができなかったのは、だから頑《かたく》なに拒絶した結果ではなく、何となくつくりそびれて今日まで来てしまったというだけの話だ。
「それでは、オーディションの形式に抵抗感がおありなのですか」
「それはあるかもしれない。でも、反面それも一つの選択|肢《し》だとは思う」
「では、由乃さまがオーディションで妹を選ばれることに関しては」
「由乃さんは由乃さんだから、反対しない」
頼まれれば、お手伝いくらいするだろう。
「でも、ご自分のこととなると話は別、と」
「そういうことになるよね。どうしてなんだろう」
ふーむ、と二人して考え込むと、黙って聞いていた志摩子さんが「たぶん祐巳さんが」と口を開いた。
「引っかかっているのは、審査する、という点なのでしょう?」
「それだ」
祐巳は、音は出なかったけれど、指を鳴らすポーズをした。
「私の妹《スール》になりたいって殊勝《しゅしょう》な一年生が何人いるかわからないけれど、その中から一人選ぶなんて厳しいよ。だって、何を基準に選別するの? 選ばれた人と選ばれなかった人の差って、いったい何? 妹を選ぶはずなのに、何だか勝ち抜き戦みたいで変だよ。その中で私の立場は? 審査員? 高みから何様なんだ、って思っちゃう」
そう言った時。
「何様で悪かったわね」
扉がバタンと開いたかと思ったら、そこに由乃さんが立っていた。
4
「教えてあげるわ」
由乃《よしの》は、ノッシノッシと部屋の中央へ進み出た。
「何様って、私たちは未来の『お姉さま』よ。高みから? 結構じゃない。何が悪いの」
そうだ。そんな風に強気にならないことには、| 妹 《プティ・スール》なんて作れやしない。オーディションに応募してくる人間だって、「選ばれるか」「選ばれないか」の二つに一つだってことくらい、重々承知しているはず。選ばれないというリスクを深刻に思い悩むようなら、応募する資格がないといっていい。
突き詰めれば、応募した時点で、彼女らは自分の意志で姉を選んだのと同じことではないか。お互いさま、のはずだ。
「何よ、同じクラスなんだから、私のこと待っててくれたっていいじゃない」
お弁当包みをテーブルの上にトンと置いて、由乃は祐巳《ゆみ》さんの顔を覗《のぞ》き込んだ。四時間目が終わった後、お手洗いに行って帰ってみれば、教室に親友の姿がない。クラスメイトに聞けば、すでにお弁当を持って薔薇《ばら》の館に行ったという。
「あれ? 今日の昼は、剣道部のミーティングがあるとか言っていなかったっけ」
祐巳さんは、頭の回りにクエスチョンマークを飛ばしながら言った。
「ミーティングは選手だけってば。だから、令《れい》ちゃんがお昼休みに薔薇の館に来ない、って私はそう言ったのよ」
「あ、そうなのか」
「ちょっと、しっかりしてよ」
交流試合は、残念ながら剣道部員全員が出られるわけではない。というか、出場できるのは五人だけなので、ほとんどの部員は当日会場に行ってもひたすら裏方に徹することとなるのであった。高等部二年生にして、初心者。おまけに一番新入りの由乃は、もちろん選手の候補者にさえ名前が挙がることはない。遺伝子と環境とが揃《そろ》っているのだから、始めればすぐにでもレギュラーになれるような気がしていたが、現実は甘くないということだ。
「で、何? 祐巳さんは、やっぱりオーディションが嫌なの」
「嫌っていうか」
「なーに、その顔。どこがどう気にくわないのか、言ってご覧《らん》なさいよ。参考までに、是非《ぜひ》聞かせてもらいたいものだわ」
さあさあ、と由乃は煮え切らない友に畳《たた》みかけた。祐巳さんが「どう切り抜けたらいいのだろうか」というような表情を浮かべていると、思いがけず横から助け船が出された。
「祐巳さんが懸念《けねん》していることはよくわかるわ。私も、そのようにコンテストのような形だったら反対だもの」
言ったのは志摩子《しまこ》さん。
「と、いうと?」
由乃は腕組みしながら、片眉《かたまゆ》を上げた。
「同じ生徒同士なのに、主催者《しゅさいしゃ》側が応募者を選別するなんて行為、どうかと思うもの」
「そういえば志摩子さん、さっきオーディションがきちんとしたものにできるなら、って言っていたよね。条件付きで賛成、だったってわけ?」
祐巳さんが確認すると、志摩子さんは「ええ」とうなずく。由乃が来る前に、いくつかやり取りがあったらしい。よくわからないけれど。
「なら志摩子さんに聞くけれど。生徒会役員選挙はどうなのよ。生徒が生徒を選ぶ、って点では、同じことなんじゃないの?」
「選挙は別よ。全校生徒の代表を生徒自身で選ぶのだから」
志摩子さんのこういう、臆《おく》せずに整然と自分の意見を言う姿勢は、見ていて時々憎らしくなる。ただ、それは嫌いって意味では全然なくて、むしろ逆。自分にはできないことを、簡単にやってのけてしまう友への憧《あこが》れ。嫉妬《しっと》と憧れは表と裏だから。
「わかった。じゃあ、全校生徒が投票して一番票を獲得《かくとく》した人が妹《スール》になる、っていう形なら志摩子さんは賛成ってことね?」
「妹《スール》を、生徒全員で、選ぶ?」
志摩子さんは首を傾《かし》げた。自分でも滅茶苦茶《めちゃくちゃ》な理論だってよくわかっていたけれど、由乃はただ言い負かされるのがシャクだった。
「でも由乃さま」
今度は乃梨子《のりこ》ちゃんが、横から口を挟《はさ》んだ。
「多数決で決まったからといって、その人を妹《スール》として受け入れられるんですか」
「そりゃ、NOだね」
はいこれがあなたの妹よ、って手渡されたって困る。既製品《きせいひん》のお人形をプレゼントしてもらうわけでもなし。
「だから、その線は考えるだけ無駄《むだ》です」
「ふーむ」
由乃は、唸《うな》りながらお弁当包みを開いた。何だか乃梨子ちゃんにうまく丸め込まれてしまったみたいだが、ここは一旦引き下がる。
そこで残りの三人も、それぞれ自分のお弁当箱を開けた。議論に夢中になり、お昼ご飯を食べることをすっかり忘れていたらしい。
「祥子《さちこ》さま、いらっしゃらないわね」
志摩子さんがつぶやいた。
「そうだね」
お箸箱《はしばこ》からお箸を取り出しながら、祐巳さんも首をひねっている。お姉さまから、何も聞いていないようだ。
剣道部の試合とは、まったく無関係な祥子さま。ここに来ていない理由が、令ちゃんと同じではないことだけは確か。招集がなければもちろん来なくてもいいのだけれど、学園祭前は忙しくてお昼休みもここに来て細々とした仕事をして過ごしていたので、その流れで何となく集まるのが当たり前のようになってしまっている。
「ちょっと聞いていい?」
由乃はふと気になって、お箸を休めて言った。
「三人は、オーディションっていうシステムが、学校で行われること自体を反対しているんじゃないよね」
だとしたら、根本から考え直さなければならない。すると、祐巳さんが答えた。
「例えば、学園祭の劇で主役を決めるとか、そういう場合はありだと思う……けど?」
チラリと見ると、志摩子さんと乃梨子ちゃんも祐巳さんに大きくうなずいた。由乃は、重ねて聞いてみた。
「それは、個人的なことを公《おおやけ》でするな、ってこと?」
「えっと」
祐巳さんは、困ったような難しいような顔をした。何だか、数学であてられて黒板の前に向かう時の顔に似ている。それでも律儀者《りちぎもの》の祐巳さんは、あてられたからにはどうにかして答えを捻《ひね》くり出す。
「もしかしたら、人間の感情って、個々の物差しによって割り切れるようになっているのかもしれないけどさ。例えばここまでは可、ここからはみ出したら不可、みたいに。でも普通は、そんなこと一々考えないで、漠然《ばくぜん》と『何となく嫌』とか『よくわからないけれどいいような気がする』って思いながら生きているでしょ」
「うん」
「だから、公式のことはよくわからない」
なるほど。祐巳さんは、人間としての勘《かん》で物を言っているわけだ。
「じゃさ、もし、私が個人的に自宅でお茶会を開くとする。私の妹《スール》になりたい人は、お茶会にいらっしゃい、っていうのは? 祐巳さんの中ではあり? なし?」
「あり、じゃないの? でも、学校で張り紙したり、学校新聞に広告出したりするのはNGかな」
そう考えると、祐巳さんの考えは「個人的なことを公でするな」に近いかもしれない。
「口コミならOK、と。何となくわかった」
「由乃さん、まさか――」
「しないわよ。家でオーディションなんか」
由乃は、カラカラと笑った。
ただ、ここにいる仲間たちの感覚を把握《はあく》したかったので、聞いてみただけだ。
意外と、由乃は自覚しているのだ。家族や親戚《しんせき》の中でお山の大将として君臨《くんりん》してきたせいか、自分は少し感覚がズレていても気づかないところがある、ということを。もちろん個人差があるから、祐巳さんたちが一般的な考え方をするとは限らない。けれど、自分が好ましいと思える人物を見本として前に置いておくのは、いいことだ。もちろん、照れくさいから口に出しては言わないけれど。
というわけで、由乃は最初の考えを修正することにした。
「私は、コンテスト形式だって構わないと思っていたけれど。みんながそうまで言うなら、合わせないこともないわ。どうしても勝ち抜き戦にしたいという、こだわりがあるわけでもないんだし」
そう言うと、祐巳さん志摩子さん乃梨子ちゃんの三人は、同時に何かに化《ば》かされたみたいな目をしてこちらを見た。
「何よ」
軽くにらみつけると、代表して祐巳さんが言った。
「だって、部屋に入ってきた時の勢いだと、由乃さんの意見はてこでも動きそうになかったから」
「揺るぎない自信があるときはね。戦うけれど。どっちでもいいと思えることなら、聞く耳もつわよ」
すると。
「よし、わかった。じゃ、私も腹を据《す》える」
何に感化されたのか、祐巳さんが立ち上がった。立ち上がっただけでなく、拳《こぶし》を胸の前でギュッと握った。
「今すぐ妹を連れてくるかオーディションするか、二者択一しかないのなら。やりましょう、オーディション。その代わり、やるからには自分の納得がいく形を提案する」
何だ何だ。祐巳さんってば、見ている方が拍手でもしてやらないと悪いくらいの決意表明じゃないか。
志摩子さんがにっこりとほほえんだ。
「今日の放課後、具体的に話し合いをするのでしょう? それまで、大筋だけでも譲《ゆず》れない点や条件なんかをまとめておいた方がいいわね」
「手伝ってくれるの?」
祐巳さんが、嬉《うれ》しそうに志摩子さんの顔を見た。
「もちろんだわ。ね、乃梨子」
お姉さまに同意を求められた乃梨子ちゃんは、ちょっとだけ上の空だったみたいで、一秒ほどの空白の後に「はい」と言った。それから、ためらいがちに言葉をつなげた。
「祐巳さま、あの、本当にいいんですか?」
「へ? 何で? 乃梨子ちゃんが手伝ってくれるなら、百人力だよ」
祐巳さんの満面の笑みに、乃梨子ちゃんはただ「お手伝い、頑張《がんば》ります」と答えたのだが、もしかしたら言いたかったことはそのことではなかったのかもしれない。
由乃はぼんやりとそう感じたけれど、そのままにしておいた。気のせいかもしれないし、そうでなかったとしても、乃梨子ちゃんが言わずにおいたことをわざわざ掘り起こすのはどうかと思われたからだ。
その日の昼休み、祥子さまは結局|薔薇《ばら》の館には現れなかった。
5
どうしてあんなことを、と乃梨子《のりこ》は思った。
それは、祐巳《ゆみ》さまに「本当にいいんですか」なんて言ったことを、振り返ってのことだ。
祐巳さまは、あの時意味を取り違えた。そして自分は、それをそのまま放置してしまった。
「ああ」
こんな調子で、午後の授業はため息ばかり。
わかっているのだ。
余計なことなら、言わなければいいのだ。そして、言いかけたなら最後までその言葉に責任をもつべき。
中途|半端《はんぱ》な関わり方をしてしまったから、不完全燃焼というか、後味が悪いというか、つまりはクヨクヨしているのである。
それでも。やってしまったことは仕方ないと割り切るしかない、と乃梨子はほうきの柄《え》を握りしめながら思った。幸い、祐巳さまは手伝いについての話だったと疑うこともない様子だった。ただ、たぶん志摩子《しまこ》さんと由乃《よしの》さまは気づいただろう。
具体的に「本当にいいんですか」が何を指しているのかわからなくても、乃梨子が言いかけたことを引っ込めた、そのことについては、たぶん。
「どうしたの、乃梨子さん」
「うわっ」
ぼんやりしていたら、キスしそうなくらい近くに瞳子《とうこ》の顔が接近していたので、思わず後ろに飛び退る。
「まあ、失礼ね。さっきから同じ所を掃《は》いていらっしゃるから、ご注意申し上げようとしただけですのに」
「……ごめん。考え事をしてた」
「そう」
瞳子は考え事について追及せず、掃除《そうじ》用具入れの中からちり取りを出してきて、乃梨子がかき混ぜていた綿埃《わたぼこり》やちりを集めてゴミ箱に落とした。そのままゴミ箱を持ってゴミ捨てに行こうとする後ろ姿を、乃梨子は呼び止めた。
「瞳子」
「何?」
二つの縦《たて》ロールが、バネのように揺れる。
「祐巳さまのこと、どう思ってる?」
「どう、って」
瞳子は、間をおいてから言った。
「落ち着きなくて、お顔の表情が豊かで、お人好《ひとよ》しで、おっちょこちょい」
見事に「お」で始まる言葉ばかり並べたものだと感心しそうになったが、最後だけ違った。
「それから、一年生に人気がある、らしいわね」
「みたいね」
乃梨子は微笑した。
祐巳さまと違って、瞳子は質問の意味をわざと取り違えた上で答えを返して寄越《よこ》したのだ。本当は、乃梨子が何を聞きたいのかわかっている。けれど、できればはぐらかしたいと思っているのだろう。
[#挿絵(img/20_049.jpg)入る]
だが、乃梨子は先程の教訓から、聞きかけたことを途中で引っ込めることをやめた。
「祐巳さまの妹になりたいと思っている?」
その質問を投げかけると瞳子は、今まで見せたことがないほど恐い顔をした。
「それを聞いて、どうするの?」
乃梨子は、たじろいだ。瞳子自身を恐ろしいとは思わない。ただ、開けてはいけない箱の蓋《ふた》を開けてしまったような気がして、そのことは言いようのない不安を誘った。
向かい合う二人の回りを、クラスメイトたちが通り過ぎていく。下校する生徒、部活に向かう生徒。その中に、ひときわ目立つ背の高い少女が混じっていた。挨拶《あいさつ》もそこそこに、腕時計を見ながら長い髪をなびかせて廊下《ろうか》へと走り去っていく。
「私、瞳子の力になりたい」
乃梨子は、正直な気持ちを伝えた。祐巳さまに「本当にいいんですか」と聞いた時、頭に浮かんでいたのは、可南子《かなこ》さんでも誰でもない、瞳子の顔だった。
もしかしたら乃梨子が「本当にいいの」と聞きたかったのは祐巳さまではなく、瞳子だったのかもしれない。オーディションで妹を決めることになったことを瞳子に知らせて、「このままでいいの?」と。
「乃梨子さんの力を借りることなんて、何もないわ」
プイッと教室を出ていってしまった瞳子の後ろ姿を眺めながら、乃梨子はなぜかわかってしまった。
「……瞳子」
口に出さなかったのに、その答えが。
6
「で?」
祥子《さちこ》さまが言った。結局何が言いたいのかしら、と。
「ですから、オーディションという名前は誤解を招くので避けたい、と思っています」
祐巳《ゆみ》は、はっきり言った。
放課後、薔薇《ばら》の館に集まったのは、三色の薔薇ファミリーが各二人ずつで計六人、プラス新聞部を代表して山口《やまぐち》真美《まみ》さん。連日|稽古《けいこ》に忙しい令《れい》さまも、今日は部活をちょこっと抜けて臨時会議に出席している。可愛《かわい》い由乃《よしの》さんの妹《スール》問題なわけだから、「お任せしますのでよろしく」というわけにはいかないのだろう。
「オーディションではないなら、何と呼んだらいいのかしら?」
「茶話会《さわかい》、もしくは懇談会《こんだんかい》とでも」
サラサラとシャーペンの走る音が聞こえる。真美さんがメモをとる音だ。
「変えるのは名前だけ?」
その質問に、今度は由乃さんが答えた。
「目的を私たちの妹選びと限定することなく、広く姉妹《スール》を求める生徒を集め、出会いの場を提供します」
それが、昼休みお弁当を食べてから四人でプチ会議を開いて決めた大まかなラインだった。
上から「こうしなさい」と言われるのを待つよりも、自分たちなりに意見をまとめて「このようにしたい」と申し述べる方がいいと判断した結果である。
「つまり」
令さまが言った。
「集団見合い、ってこと?」
「古いわね、それをいうなら合コンではなくて?」
祥子さまが、被《かぶ》せるように訂正《ていせい》したけれど。
「まあ、平たくいえばそうですが」
どっちもそう変わらないな、と祐巳は思った。
「それで? その茶話会の参加者はどのように決めるの?」
「リリアンかわら版にて募集してもらいます」
祐巳がそう言うと、真美さんはサラサラを一時中断して、「了解」と言うようにうなずいた。
「今回は一年生二年生それぞれ同数の定員を定め、応募者多数の場合は抽選で決定する予定です。人数については、今後|検討《けんとう》を重ね、適当と思われる数を割り出そうと思いますが、今の段階では各二十名程度と考えています」
祐巳の陳述《ちんじゅつ》の後、志摩子《しまこ》さんが続けた。
「条件としては、一年生は過去|姉妹《スール》の契《ちぎ》りを交わしたことのない生徒。二年生の場合、姉がいることは問題ありませんが、妹をもったことのない生徒とします」
「これは、今回の企画に参加するための姉妹《スール》別れを防止するためです」
乃梨子ちゃんが言葉を補う。
「なるほど。それで、参加者はお茶を飲んでお話をして、どうするの?」
祥子さまが、祐巳をじっと見て言った。
「それだけです」
「それだけ?」
オーディションなのに? と、祥子さまの顔には、明らかに呆《あき》れた表情が見えた。
「この茶話会は、あくまで出会いの場。あとは、個人個人の問題ですから」
「妹になってくださいとか、ごめんなさいとか、そういうのはないの?」
どこでそういう知識を仕入れてきたのか、祥子さまはカップルをつくるイベントでのお約束ごとのことを言っているようだ。
「はい。なしで」
「それで、あなたは| 妹 《プティ・スール》を決められるの?」
「その場で決められるものなら、もちろん申し込むつもりです。決め手がなくて、でも迷うようなら、何人かに声をかけて、薔薇《ばら》の館に手伝いにきてもらおうと思っています」
「お試し期間、というわけ?」
祥子さまは、白薔薇姉妹をチラリと見た。
「まあ、それも一つの道だわね」
志摩子さんも、乃梨子《のりこ》ちゃんも「お試し期間」を経て薔薇の館の住人になったという経緯がある。ここにいる人々が、仲間の選んだ妹《スール》をよもや爪弾《つまはじ》きにするとは思えないが、相性というものがあるから。迷った時、薔薇の館に一番|馴染《なじ》んだ子を妹にするという選択方法もあるかもしれない。
「だいたいのことはわかったわ」
祥子さまはうなずいた。そして、おもむろに席から立ち上がった。
「そういうことなら、あなた方でおやりなさい」
「えっ」
それが単なる中座ではなく、話し合いの場から抜けるつもりなのだということは、鞄《かばん》やスクールコートといった荷物に手をかけたことで明らかだった。
「ま、まってください、お姉さま」
祐巳はあわてて後を追った。
「ただの茶話会《さわかい》、集団お見合いなら、審査員なんて必要ないわけだし。私のやることなんてないでしょう」
「でも、茶話会に出席してくださるくらい――」
すると、祥子さまは呆《あき》れたようにため息をついた。
「バカね。三年生の上に妹もちの私は、茶話会参加条件に当てはまらないわよ。私の席を用意するくらいなら、その分で招待する一年生を一人増やしなさい」
それは、まったくもっての正論なのだが、だからといって「そのとおりです」とか「そのようにさせていただきます」という気持ちになかなかなれるものではない。
妹選びという大事なイベントなのに、側にお姉さまがいないなんて。ああだこうだと話し合いをしていた昼休みには、一ミリグラムも考えたりしなかった。
「祥子」
祐巳の後ろから追ってきた令さまを見て、祥子さまは目を細めた。
「だからといって、令。あなたの行動まで規制するつもりはないわ。あなたが首を突っ込むのは勝手よ」
「……」
令さまは、祥子さまの顔をしばらく見つめて、それから小さくうなずいた。
「わかった。私も、手を引く。試合も近いし」
由乃さんが無言のまま、椅子《いす》を立った。けれど令さまはそちらには軽く視線を向けただけで、特に言葉をかけなかった。
「私たち二人は、お手伝いさせていただだきます。もちろん、裏方として」
退室しようという祥子さまと令さまを見送りながら、志摩子さんが言った。
二年生なのに妹のいる志摩子さん、そしてすでに姉のいる一年生の乃梨子ちゃんも、祥子さまや令さま同様、茶話会《さわかい》参加者の条件に当てはまらない存在である。
「ありがとう。そうしてもらえると助かるわ」
「真美さんも。後のことは、よろしくね」
言い残して、扉の向こうに消えていった三年生二人。
「何なの、あれは」
階段がたてるきしむ音を聞きながら、由乃さんが憤慨《ふんがい》したように言った。「当てつけ?」と。
乃梨子ちゃんも、不安そうにつぶやく。
「|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》は、私たちが勝手に進めてしまったことを、お怒りになったのでしょうか」
「それは違うわ、乃梨子」
志摩子さんが訂正《ていせい》し、祐巳もそれにうなずいた。
「うん。怒ってなんていない」
表面的には、感情を抑えていたけれど。お姉さまは、心の中では確かに笑っていた。
そこまでわかっているのに。
いったい本心では何を考えているのか、未だお姉さまの言動を理解しきれずにいる祐巳なのである。
薔薇《ばら》の館の二階は、二人いなくなった途端、室温が下がったように感じられた。
[#改ページ]
マリア様の星
1
「『――ついては、茶話会《さわかい》に参加される生徒を募集いたします。応募条件は――』」
あっちからも、こっちからも。
「『今回の茶話会は、出会いの場をつくるといういわば実験的な試《こころ》みです。出席したからといって必ず誰かと姉妹《スール》にならなくてはいけない、というものではありません』
朝からずっと。休み時間ごとに、そのニュースを知らせる学校新聞、つまり『リリアンかわら版』を読み上げては噂話《うわさばなし》に花を咲かせる声が増えていくのは、気のせいではない。
「『尚、| 黄薔薇のつぼみ 《ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン》と| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》も参加する予定』だって、きゃーっ」
今日何度目の「きゃー」だ、と乃梨子《のりこ》は文庫本に視線を落としながら思った。
こううるさいと、読書に集中できない。この学校に入学して半年、女子校の騒がしさに多少は慣れたつもりだったが、今日のはすごい。また、その内容が自分も関わっている事だけに、耳に入ってきたものに脳が一々反応してしまうから厄介《やっかい》なのだ。いつものように、「ああ、小鳥たちが何かさえずっているな」と聞き流すことができない。
「ねね、乃梨子さん。茶話会のことだけれど」
その上また、もっと詳しい情報があるだろうと、乃梨子のもとに聞きにくるクラスメイトがいるんだ、これが。
「ああ、それね」
無視するわけにもいかないから、相手になるにはなるが。
「そこに書かれていること以外に、私も知っていることはないの。でも、ご興味があって条件もクリアしているなら、ぜひ応募してちょうだいね」
文庫本から顔を上げて、ニッコリ営業スマイル。今回のお客さんは、二人組。確か、この天使たちは――。
「興味はあるけれど」
「条件がね」
残念そうに顔を見合わせるお二人さんは、そうそう、敦子《あつこ》さんと美幸《みゆき》さんでした。聖書朗読クラブという、奇特な部活動をしていらっしゃる。二人とも、すでに部活の先輩からロザリオをもらっているので、茶話会への参加資格はない。
ということで乃梨子は、話もこれ以上|弾《はず》まないだろうと判断し、読書に戻ることにしたのだが、お客二人は机の前から一向に立ち去ろうとしない。
他に何か、と聞き返そうとした時に、敦子さんが言った。
「ところで、乃梨子さん」
「はい?」
「瞳子《とうこ》さんはご招待されているのよね?」
「瞳子?」
茶話会《さわかい》関連で、質問攻めにされることはある程度予測がついていた。だから事前にいくつかの質問を想定し、その答えも準備しておいたのだが、その中に「瞳子」というキーワードはなかった。なぜ二年生の|つぼみ《ブゥトン》二人以外に固有名詞がでてくるのだ、と首をひねりつつも乃梨子は、美幸さんが手にしていた印刷物を指して言った。
「『リリアンかわら版』お読みになった? 応募者多数の場合は抽選、ってここに書いてあるでしょ?」
「でも、ねえ」
「第一、瞳子が応募するかどうかなんて、私だって知らないわよ。そういうことは、本人からお聞きになれば?」
言ってから乃梨子は、「そういえば、このところ瞳子はこの二人と一緒《いっしょ》にいないな」と気がついた。入学当初は「瞳子です」「敦子です」「美幸です」って、アイドル三人組の自己紹介みたいにくっついていたものだが。
「瞳子さんなら、応募しなくても……じゃないの?」
「え?」
何を言っているのか、よくわからなかった。眉《まゆ》をひそめていると、敦子さんと美幸さんは乃梨子に構わず二人で会話を続けた。
「あ、でも、祐巳《ゆみ》さまも茶話会に出席なさるということなら、妹選びはやっぱりまだ白紙ということなのかしら」
「それ、カムフラージュってことはない?」
「だったら、可南子《かなこ》さんは?」
「そうね。どうなっているのかしら」
つまり、可南子さん有力説も捨てがたいが、祐巳さまの妹に今一番近いのは瞳子であり、この茶話会という名の集団見合いで何らかの優遇処置(別名ひいき)がとられるのではと、クラスメイトたちの間でまことしやかに囁《ささや》かれているようなのである。
「それにしても、瞳子さんがんばったわね」
「いつか薔薇《ばら》さまになりたい、って中等部の頃から言ってらしたもの」
それじゃまるで、と言いかけてやめた。自分が感情的になってどうする、と思ったからだ。ここは冷静に対処しないと。乃梨子は一呼吸おいてから言った。
「そういう事実はないけれど――」
「でも、乃梨子さんが知らないだけかもしれないわよ」
「えっ?」
「だって、ここに書かれていること以外は知らないんでしょう?」
ええ、確かに言いましたけれどね。
無邪気《むじゃき》で、素直で、フランクな分、天使は厄介《やっかい》なのだと乃梨子は思った。
2
「で? 今のところ何人集まったの」
招待状の草稿《そうこう》を書きながら、由乃《よしの》さんが言った。
「今日の昼休み時点で一年生七人、二年生五人」
答えたのは、このところ昼休みと言わず放課後と言わず、すっかり薔薇《ばら》の館に入り浸《びた》っている真美さん。ライフワークである『リリアンかわら版』の仕事を持ち込んでの出向《しゅっこう》である。新聞部の後輩たちも手伝いで来てくれているので、クラブハウスを行ったり来たりするより仕事がはかどると言っているが。何だか、「新聞部薔薇の館支部」ができたみたいだった。
その代わりと言っては何だが、三年生があまり来なくなった。
「あなた方でやりなさい」宣告をしたわけだから、当たり前かもしれない。それでも、特に薔薇の館を避けているわけではなく、用事があれば来るし、特に何もなくてもお昼休みにフラリと現れてお弁当だけ食べていくこともある。ただ、脇で茶話会《さわかい》の相談をしていても、それには一切《いっさい》加わらない。すべてひっくるめて、「大人だ」って感じられた。
「うーん、やっぱり思ったより少ないわよね」
一応『リリアンかわら版』で募集をかけたこともあって、新聞部の真美さんが応募用紙の取りまとめ役をやってくれている。
「十二人だもんね」
祐巳も招待状のレイアウトする手を休めて、顔を上げた。確かに、当初想定していたよりかなり少ない人数ではある。
オーディション改め茶話会募集の記事が『リリアンかわら版・号外』に載ったのは、木曜日。応募はその日の放課後から受け付けたわけだから、翌月曜日の放課後である現在、まる四日が過ぎようとしている。学校が休みの日曜日を除けば、まる三日となる。
「応募方法がわかりにくいことは、ないと思うけれどなぁ」
真美さんが、応募要項が掲載《けいさい》された『リリアンかわら版』を取り出して言った。
「受け付けは薔薇の館一階まで、って簡潔です。これ以上文字を大きくしたら、見出しと見間違えてかえって混乱するので、これでいいと思います」
乃梨子《のりこ》ちゃんが言う。『リリアンかわら版』に問題はない、と。
そもそも、条件が厳しいのかもしれない。この時期まで妹(姉)をもたなかった人の中で、本当に出会いを求めている人はどれくらいいるのだろうか。その中で、今回の茶話会《さわかい》の趣旨《しゅし》に賛同し、協力してもいいという人、と考えたら、そう多くはない応募者数だって納得できるというものだ。
「それとも、薔薇《ばら》の館の敷居が高いのかしら」
記憶が呼び覚まされたのだろうか、志摩子《しまこ》さんが祐巳《ゆみ》を見てつぶやいた。確かに過去そういう事例もありました、と感慨《かんがい》にひたる間もなく、由乃さんが勢いよく椅子《いす》から立ち上がった。
「薔薇の館に怖《お》じ気《け》づいているような一年生だったら、私たちの| 妹 《プティ・スール》になんてなれないわよ」
「由乃さん――」
それは間違っているよと、祐巳だけではなく、真美さん、志摩子さん、乃梨子ちゃん、みんなの視線が言っていた。
「何?」
「そもそもの発端《ほったん》は、私たちの妹選びかもしれないけれど。今はほら」
「そっか。集団見合いだっけ、一般生徒たちの。だったら、中には気弱な生徒もいるかもね」
納得、と着席する由乃さん。今はストップがかかってしまったが、エンジン全開、いつでも突っ走れる準備がある。
「これでも、応募者に気を遣っているのにね」
いきなり二階に上がってこい、というのは乱暴なので、薔薇の館の一階に机を出して、その上に応募用紙とボールペン、そして三十センチ四方の段ボール箱で作ったポストを置いて受付としたのである。ポストを出しておくのは昼休みと放課後のみで、その側には常に案内係を配置。今の時間は新聞部の一年生が番をしてくれている。
「計十二人か。ポストの大きさが空《むな》しいわね」
「その割に、応募用紙だけは確実に減っていますが」
乃梨子ちゃんが言うには、最初に用意した応募用紙の枚数|−《ひく》今日の昼休みに調べた未使用の応募用紙の枚数が、現在の応募者数とイコールになりはしなくても、そんなに開きがあるはずはないのに、あまりに違うという。
「書き間違えて破棄《はき》した分もあるでしょうし、一応持ち帰って、応募するかどうか検討《けんとう》している人だっているんじゃないの?」
「こんな少ない記入事項しかないのに書き間違う人や、迷っている人が、合計四十人近くもいるとは思えませんけれど」
きっちりしている乃梨子ちゃんが、呆《あき》れたように言った。すると真美さんが、思い出したようにガサゴソと紙袋から茶封筒を取り出した。
「回収されている分もあるわよ。でも、応募とは無関係だから弾《はじ》いておいたの」
「何?」
一同、身を乗り出す。
「要望とか、励《はげ》まし? そんな感じの手紙」
言いながら真美さんは、一枚取り上げて読み上げた。
「『祐巳さま、がんばって素敵な妹をゲットしてください』」
「あらら」
「『由乃さまの妹希望、祐巳さまの妹希望、って、ちゃんとわかるようにした方がいいんじゃないでしょうか』」
「何ですって?」
「『ちょっと聞きたいんですけれど、一般の二年生って必要なんですか? その分、一年生を多く招待したらいいと思うんですが』」
「……」
みんなの興味は完全に|つぼみ《ブゥトン》の妹選びに集中しているようである。これでは、わざわざ茶話会《さわかい》にした意味がなくなってしまう。
「まだあるけれど、ま、似たり寄ったりだから割愛《かつあい》させていただくわ。全部で二十通ほど。参考になることもあるかもしれないから、後で目を通しておいてね」
しかし、応募者以外からのメッセージが応募書類より多いということはやはり問題かもしれない。ということで、箱を二階に移動させるべきではないかという提議ももちあがった。冷やかしとまでは言わないが、応募者でない人はわざわざ階段上がってまでメッセージを入れにはこないだろう、と。
「でもさ」
祐巳は言った。
「今のところ実害ないし。一応、応援してくれているわけだし。ゴミとか入り出したら、考えない?」
「誰もゴミなんて入れないわよ。番している人が見ているんだもの」
結局、ただでさえ少ない応募者のハードルをも上げることになりかねないので、変更はしないことになった。水曜日の締め切りまで、あと二日。今更《いまさら》変えるのもどうか、ってことだ。
「応募者に関しては今ひとつ盛り上がりに欠けているかもしれないけれど、それなりに反響はあるのよ、茶話会。薔薇の館の外では、面白い現象も起きているし」
真美さんが言った。
「面白い現象?」
「この中途|半端《はんぱ》な時期に、姉妹《スール》の契《ちぎ》りを結ぶ生徒が増えている」
「そうなの?」
そういう噂《うわさ》に疎《うと》い祐巳はもちろん初耳《はつみみ》だったのだが、由乃さんや志摩子さんも知らなかったようだ。乃梨子ちゃんはリリアン一年生だから、例年のことなど知らなくて当然。たぶん蔦子《つたこ》さんあたりだと、写真の依頼などがあるだろうから詳しいはずだ。
「まず一学期。五月半ばあたりかな、部活動に新入生が入ってきて一段落って頃、一山《ひとやま》来るわよね。唾《つば》つけた、ってやつね」
真美さんの講義は続く。
「お次は学園祭。クリスマスにヴァレンタインデーなんていうイベントがあると、くっつきやすい。あと、学期にかかわらず終業式ね。たとえ断られても、次の日からお休みに入ってリセットできると思うと踏ん切りがつくからでしょうね」
ふむふむ確かに、とうなずく面々。
「で、この時期。普通は姉妹《スール》誕生に関しては閑散期《かんさんき》。去年は、誰かさんの影響で離れたりくっついたりが盛んだったけれど、それは近年まれなことよ」
誰かさんと言いながら視線を投げかけられたら、名指しされたも同然である。黄薔薇《きばら》革命で時の人となった由乃さんは、「今更《いまさら》何よ」といった表情で見返した。
「真美さんは、どう分析《ぶんせき》しているの?」
「駆け込み現象とでもいうのかしら。例えばちょっと気になる一年生がいるとするでしょ? あ、もちろんその子もお姉さまはいないのね。ちょっと気になるけれど、決定的な出来事もないまま何となく仲よくしているわけよ。で、今回の茶話会《さわかい》」
「うん?」
「もしかしたら、その子は茶話会に応募するかもしれない。実際に、『応募しようかどうか迷っている』という相談を受けたりなんかもする。その時、はたと気がつく。『あ、他の人にあげるのもったいないな』」
「はあー、なるほどね」
「『茶話会に行くなんて言わないで、私の妹になりなさい』って言われたら、その一年生だって考えるわよね。一から姉妹《スール》の関係を作り出すより、気心が知れたこの人と、って。全部が全部じゃないけれど、そういうカップルも少なくないはずよ」
参加しなくても、茶話会がキューピッドになって姉妹《スール》ができる。直接でないにしろ、この企画が、姉妹を欲しいと思っていて叶えられないでいる人同士の出会いの場になる、という目的を果たしたのなら喜ばしいことではある。
「この分だと、応募者全員ご招待になる可能性もあるわね。ま、受付最終日には多少増えると思うけれど。こっちも駆け込みでね」
真美さんは、冷ややかに笑いながら分析《ぶんせき》した。
「あのー、四時半になったので、受付を終了してきました」
新聞部の一年生二人が、ビスケット扉の陰から顔を出す。
「あー、ご苦労さま。寒かったでしょ、中入って」
椅子《いす》を勧め、お茶を出す。一人はいつだったかクラブハウスにある新聞部の部室で会ったことがあった、「期待のルーキー」さんだ。
「何人来た?」
「十人くらいです。そのうち応募用紙を入れていったのは、七人。ただ、何人の人がちゃんと応募しているかは……」
段ボールポストの裏側を開けて、放課後に新たに投函《とうかん》された分の応募用紙をテーブルに出した。うち一つを「どれ」と取って、由乃さんが開いた。
「あ、本当だ。名前なし、クラスなし、アピールコメントなし、で、裏に何か書かれてる。うわっ、名指しで反対票だ。『松平《まつだいら》瞳子《とうこ》さんは、小笠原《おがさわら》祥子《さちこ》さま目当て』だって。何これ、恐《こわ》……っ」
すると、乃梨子ちゃんが暗い顔をして言った。
「なーんか、嫌な感じなんですよね」
「うん」
乃梨子ちゃんじゃなくても、人の悪口は聞いていていい気はしない。その場にいたみんなは「そうだね」ってうなずいたのだったが、乃梨子ちゃんが「嫌な感じ」と言っていたのは、そのことだけではないようだった。
「クラスの雰囲気《ふんいき》もそうなんです。っていうか、瞳子に対するクラスメイトの視線に何か変なフィルターがかかっているみたいな。今回の茶話会《さわかい》についても、出席するとかしないだろうとか陰でこそこそ噂《うわさ》しているし。そういうことは本人に直接聞け、っていうの」
相当溜まっていたのだろう、乃梨子ちゃんはここぞとばかり怒りを爆発させ、言葉がかなり荒くなった。
「それで、瞳子ちゃんは?」
祐巳が尋《たず》ねると、乃梨子ちゃんは「何も」と首を横に振った。
「気づかない振りをしているのか、無視しているのか。けれど、察しているはずです」
「そうだよね。あの子、すごく繊細《せんさい》だもん」
言った途端に、なぜだか部屋中がしんと静まりかえった。
あれ。瞳子ちゃんが繊細、は、同意が得られなかったのだろうか。それとも、祐巳がそのような発言をするのが、キャラじゃなくて似合わない、とか思っているのか。
うーむ、と考え込んでいると、志摩子さんがつぶやいた。
「でも、どうして瞳子ちゃんは反感をかっているのかしらね」
「……さあ」
乃梨子ちゃんは語らなかった。けれど、もしかしたら漠然《ばくぜん》とわかっているのではないだろうか。だが、確信がもてるまで軽々しく口に出せないとか、それを表現する適当な言葉を探せないとか、そんな理由で言わない、そんな気がした。
「その、松平瞳子さんもだけれど」
真美さんが、回収した応募用紙を開いて言う。
「細川《ほそかわ》可南子《かなこ》さんも未だ応募してこないわね」
すると、新聞部の期待のルーキーが会議で発言するように、「はい」と右手を上げた。
「可南子さんは、祐巳さまの妹にはならない宣言をしていましたが」
「それは聞いたわ。でも、女心と秋の空、っていうじゃない。学園祭の手伝いで薔薇《ばら》の館に出入りしているうち、気が変わったかもしれないでしょ」
その会話を聞きながら、祐巳は「そうかな」と思った。この間瞳子ちゃんも言っていたけれど、可南子ちゃんは以前とは確かに変わった。険《けん》がとれて丸くなった。一言でいえば、つき合いやすくなったということなのだろうけれど、それなのに接近するどころかどんどん離れていくように感じられる。ゴツゴツして触れると痛いような可南子ちゃんは、手を伸ばせばすぐ届く距離にいたはずなのに。
「へえ。この子」
真美さんが、一枚の応募用紙を叩いて笑った。
「アピールコメントを、ストレートに書いてあるわよ」
なになに、と興味を示す聴衆を前に、街頭演説のように立ち上がって抑揚《よくよう》のある声で読み上げる。
「『高等部に入ったら、薔薇の館の住人になりたいと思っていました。祐巳さまでも由乃さまでも、どちらでもいいので妹にしてくださいませんか?』――以上」
どちらでもいい、って。
「それが正直な気持ちでも、普通は相手に与える印象なんかを考えて、もう少し真綿《まわた》でくるんだ表現するよね」
「余程自分に自信があるのか。世間知らずのお子さまなのか。それとも、|つぼみ《ブゥトン》二人にけんかを売っているのか――」
由乃さんが、意味もなく腕まくりする。
「一年|菊《きく》組、内藤《ないとう》笙子《しょうこ》……知っている?」
真美さんの質問に、「いいえ」と答える乃梨子ちゃん。新聞部の一年生二人も、首を横に振る。中等部から上がってきたので顔くらいは知っているらしいけれど、今まで一緒《いっしょ》のクラスになったことがないそうで、どんな人なのかまではわからないらしい。
「それ、もしかして内藤|克美《かつみ》さまの妹じゃないの?」
由乃さんが言った。
「鳥居《とりい》江利子《えりこ》さまと三年間同じクラスだったために、常にクラス二番の成績に甘んじていたあの内藤克美さま。確か、妹がいたはずよ。そうか、実の妹を使って黄薔薇ファミリーに報復しようって腹ね」
「その推理、無理がない?」
暴走しかける由乃さんに、さりげなくブレーキをかける志摩子さん。
「克美さまの妹さんが由乃さんの妹になることが、どうして報復になるの?」
「そりゃ、妹《スール》になった途端、暴れ放題。お姉さまである私を、困らせるつもりなのよ」
暴れ放題。姉を困らせる。何だか、まるで誰かさんのことを言っているみたいだと思ったけれど、それこそ暴れられそうなので黙っていた。
「仮にそういう計画をたてていたとして、だったら『由乃さまの妹になりたい』と書くのではなくって? 祐巳さんでもどちらでもいい、なんておかしいわ」
「そっか。じゃ、真の目的は何だろう」
志摩子さんの言葉に一応は納得したものの、迷探偵《めいたんてい》由乃の、まだ見ぬ「内藤笙子」という一年生に対して向けられた疑いの目は、簡単には解除されることがないようだ。
一方、祐巳はというと。
(内藤克美さまと、妹の笙子さん……か)
その二つの名前を聞いて、一瞬何かを思い出しそうになったのだが、茶話会《さわかい》のこととか瞳子ちゃんのこととか可南子ちゃんのこととかお姉さまのこととか、頭の中には考えなくちゃいけないことがパンパンに詰め込まれていたので、新たに芽生《めば》えた思考のための余分なスペースなど確保できず、結果、すぐに忘れてしまった。
思い出したのは、数日後、本人に会った時なのであった。
3
「瞳子《とうこ》ちゃんのこと、祐巳《ゆみ》さんに関係あるのでしょう?」
帰りがけ、並木道でさりげなくみんなから離れて二人になると、志摩子《しまこ》さんが立ち止まって言った。乃梨子《のりこ》が驚いていると、志摩子さんはほほえんだ。
「だから、言えなかったのね」
「すごい……。わかっちゃうんだ、志摩子さんには」
「不思議とね」
前を歩く祐巳さまと由乃《よしの》さま、そして新聞部の三人の姿が、緩《ゆる》やかなカーブの向こう側へと消えて見えなくなった。
「あなたが話したくないなら、無理に聞き出そうとはしないわ。でも、誰かに話すことで少しでも気持ちが軽くなるなら、って。そう思ったのよ」
言うべきことは言ったというように、志摩子さんは再び歩き出した。その手が自分の手の届く所にあるうちに、乃梨子はそっと触れた。
「ううん。志摩子さんに話したくない、なんてことない。独《ひと》りで抱えているの、正直きつかったんだ。でも、やっぱり全部お見通しなんだね」
志摩子さんは、志摩子さんというだけですごい。自分のことになると、どうしたらいいのか混乱することがあるけれど、他人のことはよく見えている。だから乃梨子は、志摩子さんになら安心して相談できる。どうしてこんなすごい人が、自分のお姉さまなんだろう、って時々思うこともあるけれど。
「瞳子がいろいろ言われているのは、……たぶんあれは、みんなの嫉妬《しっと》から生まれたものだと思うの」
乃梨子は、自分なりの考えを言った。
「そう」
志摩子さんは、ほほえみながら静かにうなずく。二人は手をつないだまま、ゆっくりと並木道を歩いた。前の一団の姿が、また見え始めた。
「祐巳さま、人気があるから」
知的で見目麗《みめうるわ》しいというイメージ先行の薔薇《ばら》ファミリーの中にあって、親しみやすい庶民《しょみん》派のお姉さまである祐巳さまは一年生たちのアイドルだった。乃梨子も庶民派では負けていないつもりでいるが、如何《いかん》せん親しみやすさが伴《ともな》わない。貫禄《かんろく》をとってみても、祐巳さまにはまったく敵《かな》わないし。
「誰が言い始めたのかわからないけれど、瞳子は祐巳さまの妹候補ナンバーワンってことになっていて」
「妹候補のナンバーワン?」
「以前、薔薇の館に手伝いにきていたからだと思うけれど」
みんなのアイドルだった人が、ただ一人の人のお姉さまになるかもしれない。いつかそんな日が来るだろうと漠然《ばくぜん》と覚悟していても、いざ具体的になると認めたくない、たぶんそんな風なんだろうな、と想像はつく。
それにしても。ちゃんとお姉さまがいる人に限って、あれこれと口うるさいのはどういうわけなのだ。自分たちのことを他人に干渉《かんしょう》されたらどんな気持ちになるのか、ちょっとでも想像してみたらわかるだろうに。
「でも、それだけで」
少し考え込んで、志摩子さん。
「去年、私が薔薇の館にお手伝いにきた時も、祐巳さんが山百合会《やまゆりかい》の劇に出演することになった時も、騒ぎにはなったけれど、それほど反発はなかった気がするのだけれど。乃梨子の時だって、そうだったでしょう?」
「うん。まあ」
乃梨子はうなずいた。
「でも瞳子の場合、素直に応援しづらい過去の言動が、あるにはあるから」
「過去の言動?」
「梅雨《つゆ》の時期、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》と祐巳さまがけんかっていうか、少し疎遠《そえん》になった時期があったでしょう? あの原因を作ったのが瞳子だって、みんな言っている」
|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》がお休みしていた日の昼休み、ミルクホールで二人が言い争いをしているのを大勢の生徒が見ていた。その後、祐巳さまの機転で瞳子を手伝いとして薔薇《ばら》の館に引っ張り込んだことで、その噂《うわさ》はうやむやのうちにフェイドアウトしたのだが。
「あったわね、そんなこと」
志摩子さんが、懐《なつ》かしげにつぶやく。梅雨明け間近い初夏のことだ。
「大きなお世話なんだけれど。人気者の祐巳さまの妹に、敵対していた瞳子が納まるのってみんなは面白くないんじゃないかな。瞳子にしても、あんなことがあったんだから、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》目当てで祐巳さまに近づいたんだって思われても仕方ないし」
「それじゃ乃梨子は、瞳子ちゃんが祥子さま目当てに祐巳さんの妹になるとは、思っていないのね」
乃梨子はコクリとうなずいた。瞳子は|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》に憧《あこが》れてはいるけれど、そんなことは絶対にしない。
「それで瞳子ちゃんは、何て?」
志摩子さんの問いかけに、乃梨子は首を横に振った。
「口をきいてくれないから。私、瞳子が触れて欲しくないことを聞いちゃったみたいで」
「あらあら」
「いや、まったくの無視ではないんだけれど。『そこ掃《は》くからどいて』とか『使っていないならその竹尺貸して』とか言ってたから」
「竹尺……。被服《ひふく》で浴衣縫《ゆかたぬ》っているの?」
「ええ」
「本当に、必要最小限の会話だけなのね」
「あ、そうだ。そうじゃない会話も、一言だけありました。今回の『リリアンかわら版』をもってきて、乃梨子さんはこれのこと言っていたのかしら、って笑ってた。でも、本当は笑っていなかったのかも」
クラスメイトたちも不気味だけれど、瞳子もかなり不気味だ。
悪気もなく、陰でいろいろ囁《ささや》きあう人たち。
気にしているくせに、平気な顔をしている一人の友。
そして何とかしたくて、でも空回《からまわ》りしている自分。
全部ひっくるめて、嫌な感じ。けれど一年|椿《つばき》組は、表面的にはまったく問題なく機能しているのだった。
もしかしたら自分の感じ方がおかしいだけなのだろうか、と乃梨子は思った。
本当は何もかも正常なのに、自分の目に異常があって世界が歪《ゆが》んで見える。もしかしたら、そういうことだってあるかもしれない。
「祐巳さまは、瞳子じゃなくてもいいと思う」
ふと、乃梨子は立ち止まった。志摩子さんも足を止める。
「でも、瞳子は」
そこまで言って、頬《ほお》の上を熱い物が落ちていったことに気づいた。
「あれ? どうして涙が出てきちゃったんだろう」
手であわてて拭《ぬぐ》うと、志摩子さんが自分のハンカチを出して、乃梨子の瞼《まぶた》の下をそっと押さえてくれた。そして、顔を覗《のぞ》き込んでほほえむ。
「乃梨子は、瞳子ちゃんが好きなのね?」
「うん。たぶん」
その指摘は、意外なほどすんなりと認められた。
「私は瞳子が好きだから、きっと涙がでちゃうんだ」
今が夕暮れで、辺りが薄暗くてよかった。みんなから離れていてよかった。そう、乃梨子は思った。
瞳子のことを、祐巳さまに気づかれてはいけない。
乃梨子は、志摩子さんの手をぎゅっと握った。
[#挿絵(img/20_081.jpg)入る]
そして、みんなに涙の跡を見られないよう、バスを一台見送ることにした。
4
考えてみたら、内藤《ないとう》笙子《しょうこ》を妹《スール》にしましたと言って紹介した場合、江利子《えりこ》さまは相当に驚くんじゃないだろうか。
自室の机の上に置いたプリントの上に顎《あご》をのせて、由乃《よしの》はぼんやりと考えた。
内藤姉妹の思惑《おもわく》は取りあえず脇に置いておいて、インパクトだけで勝負するなら、今のところ内藤笙子がダントツトップだ。もちろん、書類選考で妹を決めるわけではないので、実際に会ってみないことには始まらないのだが、自分の妹という枠《わく》に当てはめてみて想像することくらいしても罰《ばち》は当たらないだろう。
しかし、罰は当たらないかもしれないが、じわじわと自分の首を絞《し》める危険な遊びであることは間違いない。
実はこのプリント、数学の授業中に解ききれなかった問題集を自宅でやってくるという宿題で、考え事が邪魔《じゃま》をしてさっきから一問も進んでいないのだった。
苦手な数学から逃げたくて余計なことを考えてしまうのか、思考が邪魔《じゃま》して数式が解けないのか。どっちもそう変わりないのだが、とにかくプリントを睨《にら》んでみたところで、答えがあぶり出しのように浮かび上がってくるものでなし。
「よっしゃ」
もはやここまで、と踏ん切りをつけて立ち上がった。時計を見れば、八時ちょっと過ぎ。頃合いかもしれない。
由乃がプリントを持って階段を下りると、居間にいたお母さんが小さな手提《てさ》げの紙袋を掲《かか》げて言った。
「そろそろだと思って用意していたの。どんぴしゃりね」
「何? その袋」
「お隣《となり》に行くんでしょ? 今日デパートで買ってきたお菓子。お裾分《すそわ》けです、って伯母《おば》さんに渡して」
「どうして自分で届けなかったの?」
「今日、由乃は令《れい》ちゃんと別々に帰ってきたから。絶対に会いにいくと踏んでたの。訪問の理由があった方が、何となく格好がつくじゃない。だから、この仕事由乃に譲《ゆず》ってあげることにしたわけ。逆に令ちゃんがうちに来たなら、お土産《みやげ》に持たせればいいんだし」
「私も行かないで令ちゃんも来なかったらどうしたの?」
「生菓子じゃないから、大丈夫《だいじょうぶ》よ。賞味期限は今月の末日だもの」
「今月末日?」
嫌なこと思い出しちゃった。
「でも、絶対にどっちかが会いにいくと確信していたから。……え、違うの?」
「違いません」
由乃は紙袋を受け取って、玄関を出た。見透かされてて、ちょっとシャクだったけれど、お母さんだから敵《かな》わないと諦《あきら》めた。
「こんばんはー」
お隣《となり》といっても、同じ敷地内。玄関と玄関が数歩のお気軽さだ。
「いらっしゃい。そろそろだと思って、りんご剥《む》いてたところよ。お友達から箱で送ってきたの。今年まだでしょ? 袋に詰めておくから、持って帰ってね」
「あ、はい。ありがとうございます」
伯母《おば》さんも、どうやらうちのお母さんと同じことを考えていたらしい。お菓子のお裾分《すそわ》けを差し出してそのことを話すと、大笑いしていた。
――が。
「令ちゃん」
この人はまったく予期していなかったらしく、自室のベッドで『秋桜友達《コスモスフレンド》』の最新号なんて眺めながらゴロゴロしていた。
「あれ、由乃。どうしたの?」
「お菓子のお裾分けを届けに」
「へえ……」
「――というのは建前《たてまえ》で、本当は宿題教えてもらいにきた」
由乃は、伯母さんに持たされた剥きりんごが入ったガラスのお皿と、家から持ってきた宿題のプリントをちゃぶ台風テーブルの上に置いた。
「どれ?」
仕方ないな、とベッドから身を起こす令ちゃん。髪の毛が、寝癖《ねぐせ》みたいにちょっとはねている。
「こんなの簡単じゃない。公式に当てはめればいいだけなんだから」
「そんなことわかっているもん。ただ、どの公式に当てはめるかわからないから聞きにきただけ」
これは教えてもらう者の言葉じゃないな、と由乃は自分でもそう思った。
「ここで使う公式なんて、迷うほどないわよ。教科書開いて。あれ、何で持ってこないのよ。もう。二年生の教科書、どこにしまったんだっけ」
何から何まで面倒みていただいて。由乃は心の中で、お姉さまであり、部活の先輩であり、隣人でもある頼もしい従姉《いとこ》に手を合わせた。
「令ちゃん、あのね。今日、薔薇《ばら》の館でね――」
「……由乃。雑談だったら、後でね」
令ちゃんは、忙しそうに本棚《ほんだな》の奥を探る。寝癖《ねぐせ》ではねた毛先に、粉雪のように埃《ほこり》がとまる。由乃は構わず話し始めた。
「あのね。茶話会《さわかい》の応募用紙をチェックしていたら、内藤|克美《かつみ》さまの妹らしき一年生の名前があったの。これって、どういうことだと思う?」
「どう、って?」
令ちゃんは振り返った。後で、って言ったくせに、しっかり話に乗っかった。
「何か、思惑《おもわく》があると思わない? だって内藤克美さまって、江利子さまのライバルだった人でしょ?」
「それとこれとは話が別なんじゃないの? 江利子さまと克美さまが在学中ならともかく。今はお二人とも他大学に進学なさったんだから、競い合う理由がないわよ。それに、いくら克美さまでも実の妹の行動まで干渉《かんしょう》しないでしょ」
去年使っていた数学の教科書を差し出しながら、令ちゃんが言う。
由乃は令ちゃんの教科書が好きだ。一言でいえば、「きれい」だから。使っていないきれいさでなく、使い込んでいるきれいさ。余白に要点をまとめた書き込みがあったり、アンダーラインがカラフルだったり。いかにも「女の子」って感じの教科書なのだ。
「姉妹といえば」
ヒントだけ与えてあとは試験|監督《かんとく》になってしまった令ちゃんが、思い出したようにつぶやいた。
「去年、私と大将戦で当たった太仲《おおなか》女子の田中《たなか》さん」
「ああ、本当だったら私が令ちゃんの敵討《かたきう》ちするはずだった人ね」
残念ながら去年三年生だったため、今年の試合で由乃はお手合わせすることが叶《かな》わなかったが。それ以前に、試合に出してもらえるほどの実力がまだないんだけれど。
「あの田中さんは卒業しちゃったけれど、今年は妹が出るらしいよ。やっぱり太仲から」
「ふうん。で、強いの?」
「噂《うわさ》ではね。田中さんのお祖父《じい》さんが道場やっていて、田中四姉妹っていったら、結構有名なのよ」
「四姉妹? 今度出るのは上から何番目?」
「二人目と三人目。二年生と一年生の年子《としご》なんだって。ちょっと待って」
令ちゃんはまた本棚に手を突っ込んで、手探りで奥の方から「剣道B」と書かれた分厚《ぶあつ》いノートを取り出した。それは令ちゃんが雑誌や新聞の切り抜きなんかをまとめたスクラップ帳で、他にも「お菓子E」とか「手芸A」とかがある。
「ほら。確か、ここに」
地方紙か市報をコピーした物と思われる記事を、令ちゃんの指がさし示す。写真も載っているが、コピーを何度も繰り返したようで、画像が荒くて顔とか全然わからない。
「でも、ここに『太仲の田中三姉妹』って書いてあるよ」
「いや、確か四人だったと思うんだよね。大昔、地区の小学生大会で四人並んでたのを見たことがある」
「じゃ、四番目は太仲じゃないとか」
「そうか。中学生だから、まだ太仲に入っていないんだ!」
ポン、と一つ手の平を拳《こぶし》で叩く令ちゃん。
「ね、令ちゃん。姉妹が、みんな同じ高校に入るとは限らないよね」
「あ」
内藤姉妹も田中姉妹の上三人も、同じ高校に進んだから、何だかそれが当たり前のことみたいに錯覚《さっかく》してしまった。
「そりゃそうだ。ふふふ」
「ははっ」
そんなことが何だか無性に面白くて、二人してお腹《なか》を抱え、ヒーヒーとのたうち回って笑った。三分ほど思い切り笑った後、由乃は笑いすぎて出た涙を拭《ふ》きながら言った。
「令ちゃん。私さ、楽しみなんだ。妹ができるの」
「え?」
令ちゃんは、少し驚いたように顔を上げた。
「どんな妹であろうと、令ちゃんとはまったく違う関係になると思う」
「……由乃」
令ちゃんがせつなそうな顔をするから、由乃はあわてて両手を振った。
「あ、私たちの関係を否定しているわけじゃないから。そこのところ誤解しないでね。私と令ちゃんは、すごく濃い間柄で、とても仲がよくて、素晴らしい姉妹だって自慢できる。でも、かなり特殊だよね。辺りを見回しても、こんな姉妹《スール》いないもの」
「うん。そうだね」
「令ちゃんさ。江利子さまの妹になれて、楽しかったでしょ?」
遠慮《えんりょ》がちに、でもはっきりうなずく令ちゃん。
「私ね、かなり嫉妬《しっと》したよ。令ちゃんを見ていてわかったもの。でも、今なら理解できそうな気がするんだ。別の環境で育った未知の人と、新たな関係を築いていくのは、何ていうのかな、すごく清々《すがすが》しい感じがする。だからといって、令ちゃんのことがどうでもよくなるわけじゃないんだね。不思議なんだけれど、妹ができても、令ちゃんのことは変わらずずっと大好きなままでいられそう」
腕にまとわりつくと、令ちゃんは小さく笑って、指で由乃のおでこをコツンと弾《はじ》いた。
「じゃあ、今度は私に、由乃の妹と由乃を取り合う楽しみができるのかな」
それもいいかもね、って。
5
火曜日。
昼休みに、細川《ほそかわ》可南子《かなこ》ちゃんが薔薇《ばら》の館を訪ねてきた。
その時、ちょうど祐巳《ゆみ》は由乃《よしの》さんと一階の階段の前でポストの見張り番をしていたので、一瞬、可南子ちゃんが茶話会《さわかい》に応募しにきたのかと思った。
「お仕事中、ごめんなさい。少し祐巳さまとお話したかったのですが、……無理ですよね」
状況を見て、可南子ちゃん。実際、こうして薔薇の館に足を踏み入れるまで、ここが茶話会参加希望者の窓口になっているとは知らなかったらしい。
「いいわよ。ポストの番くらい、一人でもできるから。手が必要になったら、二階に声をかけて、乃梨子《のりこ》ちゃんでも志摩子《しまこ》さんでも下りてきてもらうし」
由乃さんが、可南子ちゃんというより、どちらかというと祐巳に返事をした。
「そう? じゃ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
祐巳は座っていた椅子《いす》から立ち上がり、可南子ちゃんを伴《ともな》って外に出た。
さっきまで、数人の一年生が遊びに来ていたのだが、結局誰一人応募することなく去っていってからは開店休業状態。今なら、持ち場を離れても大丈夫《だいじょうぶ》そうだ。
薔薇の館を出て、特にあてもなく歩いた。
秋晴れの昼休み、中庭では生徒たちが食後の散歩をしたり、リクリエーションを楽しんだりする姿が見られたが、校舎の裏側に回るとぷっつりと人影が途絶えた。
「いつでしたか、放課後一年|椿《つばき》組にまで会いに来ていただいたみたいで」
「ああ、うん」
その時、残念ながら可南子ちゃんも瞳子《とうこ》ちゃんも教室にはいなかった。すでに下校したわけでもなかったようなので、たぶん間が悪かったのだろう。
「すみません。こちらから伺《うかが》わなくてはと思いつつ、放課後は毎日何だかバタバタしてしまってなかなか――」
祐巳は「いいって」と手を振って言った。
「学園祭で手伝いをしてくれたお礼を言いたかっただけだから。それと、ツーショット写真のことも気になっていたし」
「写真、――ああ」
やっと思い当たったように、可南子ちゃんがつぶやいた。もう写真のことなんてどうでもよくなっちゃったのかな、なんて祐巳が思っていたら、それが顔に出たのか、「もちろん忘れていません」と付け加えられた。
「確か、学園祭でいい働きをしたら一緒《いっしょ》に写真を撮ってくださる、そういうお約束でした」
「あ、撮ってくださる、なんて。そんな偉そうなものじゃ」
ただ、体育祭が終わった頃の可南子ちゃんは、まだまだ見ていて危うい感じだったから、口実を作って仲間に引っ張り込みたかっただけで。どういうわけだか可南子ちゃんは、一度は幻滅したはずの祐巳とのツーショット写真なんて欲しがる奇特な人だった。
「写真のお話がでるということは、祐巳さまは私のことを、学園祭でいい働きをした、と評価してくださったわけですね。嬉《うれ》しい」
「もちろんだよ」
「それならよかった。少しでもお返しできたのなら」
可南子ちゃんとこうして向かい合うのは、ずいぶん久しぶりな気がする。実際に会わなかった時期は、そんなに長かったわけではないのに。そう感じてしまうのは、いったいどうしてなのだろう。
「学園祭では私、むしろ皆さんに逆に感謝しなくてはいけない立場ですから」
可南子ちゃんはほほえんだ。
「え? 何で?」
「父と夕子《ゆうこ》先輩、それから次子《ちかこ》のこと」
ああ、そのこと。――って、うなずきかけた首をあわてて横に振った。
「でも私、何もしていないよ」
「いいえ。確かに、していただきました。だからこれ以上、ご褒美《ほうび》をいただいたらいけないと思っています」
「可南子ちゃん……」
確かに可南子ちゃんは変わった、って祐巳は思った。短期間でずいぶんと。どんな風に、って一言でいうのは難しいけれど。重い殻《から》を脱ぎ捨てたみたいに、軽《かろ》やかになった。
「それで、私が今日ここに来た理由ですが」
可南子ちゃんは本題を切り出した。
「話がある、って」
祐巳が確認すると、「ええ」とうなずく。
「茶話会《さわかい》の発表以降、私の周辺もいろいろ賑《にぎ》やかで」
「ごめん。迷惑かかっている?」
も、っていうことは、たぶん瞳子ちゃんと同じようなことが、可南子ちゃんの身の上にも起こっているのだろう。
「迷惑だなんて。別に苦情を言いに来たんじゃないんです。私はもともとクラスでも浮いていたから、あんなのは痛くも痒《かゆ》くもありません。だから基本的には、言いたい人には言わせておけ、なんです。けれど、祐巳さまだけには、私の気持ちをちゃんと話しておくべきだと思ったので」
「気持ち?」
その言葉のもつ重そうな響きに、祐巳は身構えた。
「私には、茶話会《さわかい》に参加する意志はありません」
「ああ……」
それは、公開でお姉さまを求めようとは思わない、と言っているとともに、祐巳の妹になる気もないという宣言をしているのに他ならなかった。
だが、祐巳はどこかでわかっていた気がする。
可南子ちゃんは、自分の妹《スール》にはならない。
祐巳が可南子ちゃんを妹に選ばないわけではなく、可南子ちゃんが祐巳を拒絶するでもなく。ただ、漠然《ばくぜん》と。二人は姉妹にはならないだろう、と。
可南子ちゃんは、そのことにたぶん祐巳より先に気がついていた。もうずいぶん前から。それだけのことだ。
漠然とわかっていたことでも、改めて言われればそれなりに寂しかった。手から離れた風船が、風に乗ってどこかへ飛んでいくのを見つめるみたいな気分だ。
しんみりしていると、可南子ちゃんが話題を変えるように言った。
「私、部活を始めたんですよ」
「えっ、本当?」
それは、寝耳《ねみみ》に水。
「もしかしてバスケ?」
思い当たる部活といったら、それしかない。そう思って尋《たず》ねたら、「ええ」という答えが返ってきた。
「以前、お誘いを受けてお断りしたことがあったんです。でも、また始めたくなりましたので」
新入りだから、一番最初に体育館に着いていないといけないし、ボールの準備もしないといけないし大変なんです、ってぼやくけれど、何だか楽しそう。さっき言っていた「放課後のバタバタ」の理由は、それだったらしい。
「部活で、お姉さまはできそう?」
「いいえ。私は、今のところどなたの妹にもなる気はありません。来年になったら、妹はもってみようかと思いますが」
「そっか」
口に出して言わなかったけれど、可南子ちゃんにとって、お姉さまと呼べる人がいるとしたら、それはこの世で夕子さんだけなのかもしれない。――祐巳は、そう思った。
「もう察していらっしゃると思いますが、私、花寺《はなでら》の学園祭の頃まで、祐巳さまに夕子先輩を重ねてたんです」
「うん」
可南子ちゃんが、自分の中に誰かを探していることを、祐巳はいつからか知っていた気がする。そしてリリアンの学園祭で夕子さんに会って、「この人だったんだ」ってわかった。
「この学校で祐巳さまと出会い、私は中学時代の夕子先輩を見つけた気になりました。だから、もう二度と同じ間違えをさせちゃいけない、って。偉そうに、この人は自分が守るんだ、なんて粋《いき》がってました」
そんなこともあったなあ、と、祐巳も今だったら懐《なつ》かしく思い出せる。
「でも、幻滅させちゃった」
可南子ちゃんが求めたものはあまりに高く、現実の祐巳はそれにまったく追いつかなかったのだ。
可南子ちゃんは静かにうつむいた後、突然思い出し笑いをした。
「何?」
「祐巳さまは、不思議な例えをなさったことがあったでしょう? 双子《ふたご》の片っぽが火星に行った、みたいなこと。覚えていらっしゃいます?」
「うーん」
言ったような言わないような。体育祭の前だっただろうか。
「私、それで気が抜けたんです。気が抜けたと同時に、肩の力が抜けたんでしょうね。無理して一人で戦わなくてもいいんだ、って」
「可南子ちゃん……」
「私の憧《あこが》れていた祐巳さまとは、もう会えない。会えないのは悲しいけれど、あの人はちゃんと火星で生きている。顔は似ているけれど別の人間と割り切るならば、地球に残った方ともつき合っていける気がしてきました。で、実際そうしてみたら、思った以上に味のある人間だったものだから。いつの間にか、こっちの方に親しみを感じるようになってきて」
それは素直に喜んでいい話なんだろうな、と思いながら、祐巳は可南子ちゃんの話に耳を傾けていた。
「祐巳さまは、私の抱いていた祐巳さまのイメージを全否定しないでくれました。あの時、私が見ていた物はすべて幻《まぼろし》だって言われていたら、たぶん私は救われなかったと思います。幻だったものは、私の想いです。ずっと抱いていた想いを否定されたら、……心を否定されるのは、それはとてもせつないことだから」
「……うん」
そうだね。つらいね。
でも、可南子ちゃんは今笑っている。
「夕子先輩と再会して、私、正直どうなっちゃうか不安だったんですけれど。会ってみたら、祐巳さまのように夕子先輩も双子《ふたご》の片方だったんだって気づいたんです。だったら、しょうがないか、って。たぶん、昔、私と同じ一つのバスケットボールを追いかけていた夕子先輩は、今はきっと火星で生きているんですよね」
「えっ、また火星なの?」
祐巳が聞き返すと、可南子ちゃんは真顔でうなずいた。
「ええ。祐巳さまの片方と一緒《いっしょ》です。私、マリア様の星だと思っています」
「ま……、マリア様の星。それは、また」
ロマンチックなのかもしれないが、考えようによってはミスマッチな――。
「嫌だ、そんな顔しないでください。祐巳さまが作ってくださった世界ですよ。私、一生大切にします」
そこには、過去に愛したものがある。
遠い夜空で、今日もちゃんと輝いている。
確かに、この世に存在したということを忘れないために。
ここから先に進むための、お守りとして。
「可南子ちゃん」
祐巳は、可南子ちゃんの手を取った。何だろう、胸がいっぱいになった。
「やっぱり、ツーショット写真撮ろうよ」
「えっ」
「そうだ、今から」
善は急げ。返事も聞かずに、歩き出した。蔦子《つたこ》さんは、今どこにいるのだろう。教室か。でなければクラブハウス。
「祐巳さま、でも」
「可南子ちゃんとの約束だからじゃないよ。私が欲しいの、可南子ちゃんとの写真」
可南子ちゃんは一瞬目をパチクリしたが、やがて笑ってうなずいた。
手をつないで、ちょっとだけ走る。
枯れ葉も、カシャカシャと笑っている。
冷たい風が、気持ちいい。
可南子ちゃん。――祐巳は空を見上げて思った。
がんばれ。
姉妹にはならないけれど、私たちは友達だからね。と。
6
水曜日の放課後。
一年|椿《つばき》組に、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》がやって来た。
「掃除《そうじ》は済んで? 瞳子《とうこ》ちゃんを呼んでちょうだい」
その時、取り次ぎに出た(というより、怖《お》じ気《け》づいたクラスメイトに取り次ぎを押しつけられた)乃梨子《のりこ》は、珍しく軽いパニックをおこしてしまい、「いったい、何のご用でしょう」なんて余計なことを聞いてしまった。
「今日の乃梨子ちゃんは、まるで瞳子ちゃんのナイトのようね」
「すみません」
まるで、今まさに悪戯《いたずら》しようとしていた時に母親と鉢合《はちあ》わせしたみたいな気分だ。乃梨子はスカートのプリーツを手の平でそっと押さえて、股《もも》の辺りにあるポケットの入り口を隠した。ナイトなんて、とんでもないことである。
「聞いたわ。茶話会《さわかい》のせいで、いろいろ大変なんですってね。そんな時に私が訪ねて来たら、やはり警戒するわね」
「いえ、そんなことは」
その時、掃除日誌を出しに職員室に行っていた瞳子が戻ってきた。しかし、教室の扉の前で立ち話をする二人に気づきはしたものの、自分とは無関係と思ったのか、ただ会釈《えしゃく》して脇を通り過ぎた。
「瞳子」
乃梨子は、ピンと背筋の伸びた後ろ姿を呼び止めた。
「|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》は、あなたに会いにいらしたのよ」
「私に?」
ゆっくりと振り返って、瞳子は言った。
「いったい、何のご用でしょう」
乃梨子がさっき言ったのと寸分違わぬ言葉が返ってきたのがおかしかったのか、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》は軽く笑った。
「一つ聞きたいことがあって。すぐ済むわ」
「そうですか」
ではお聞きしましょう、とでも言うように、瞳子は顔の角度をほんの少しだけ変えて待っている。取り次ぎが済んだ段階で場を外すべき第三者の乃梨子ではあったが、見るに見かねてつい口を挟《はさ》んでしまった。
「あの。ここでは何ですから、場所を変えられては」
いくら何でも、掃除直後の教室の出入り口は人通りが多すぎる。
「そうね」
|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》はうなずいたが、瞳子はツンとすまして言った。
「私は構いません。どうぞおっしゃってください」
聞いてる乃梨子の方がハラハラする。すると、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》が苦笑した。
「……私も構わないけれど。でも、瞳子ちゃん。話の内容を聞く前に、よくそんなこと言えるわね。それとも、何を言われるか想像がついているのかしら」
「瞳子」
ここは譲《ゆず》れ。乃梨子は、目に力を入れて必死で合図した。|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の言う通りだ。どんな話か知りもしないで軽はずみな判断をして、痛い目に遭《あ》うとすれば瞳子自身なのだ。
「瞳子ちゃん。友達のアドバイスは聞いておくものよ」
その言葉に、瞳子は答えずにいた。が、それが渋々《しぶしぶ》とはいえ合意の意思表示であることは、明白だった。
「薔薇《ばら》の館ではない方がいいわね」
|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の提案を聞いて、乃梨子は「たぶん、祐巳さまと関係がある話なんだな」と思った。
歩き始めた|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》は、一度立ち止まって振り返った。
「乃梨子ちゃんも一緒《いっしょ》にいらっしゃい」
「は?」
乃梨子はもちろんビックリしたが、瞳子も「どうして?」という顔をしていた。確か、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》が用があったのは、瞳子だけだったはずだから。
「瞳子ちゃんのナイトじゃないの?」
まだそれを引きずっていたとは。しかし、それを言うということは――。
「|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》は、瞳子をどうにかしようとお考えなんですか」
|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》はフッと笑った。
「言ったでしょ。聞きたいことがあるだけだ、って」
その笑いがくせ者だ。ナイト役であるかどうかはともかく、乃梨子はやはりついていくことにした。
「どうして茶話会《さわかい》に応募しないの?」
歩き始めてすぐ、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》は瞳子に尋《たず》ねた。
「どうして、ですって? 応募することにならともかく、応募しないことに理由なんてあるんですか」
「あなたにはありそう」
話をする場所を探している間に、済んでしまうくらい簡単な話だからだろうか。それとも、歩きながらの会話は、意外に他人に聞かれづらいと判断したせいなのか。とにかく、二人は話を始めた。その後ろを歩く乃梨子は、会話を聞き漏《も》らすまいと必死で耳をすます。
「誤解がないように言っておくけれど。私は、祐巳の妹が誰になろうと構わないの。特にあなたがいいとも思っていない」
「では、なぜ私に茶話会《さわかい》に応募するようけしかけにいらしたんです」
「応募しろとは言っていないわよ。応募しない理由を聞いているだけ」
そうはいっても、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》。あの言い方では、けしかけているととられても仕方ないのでは。
「どうしてそんなことを聞きたいのか、こちらの方が聞きたいです。聞いてどうするんです」
「どうもしないわ。私、最近のあなたを見ていると、イライラするの。納得できる理由を提示してもらって、すっきりしたいだけだわ」
何て自分勝手。何て高飛車《たかびしゃ》。でも、それが似合ってしまうところが、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》のずるい、もといお得な部分なのだ。
「もちろん、あなたには迷惑な話でしょうけれど。単なる自己満足につき合わされるわけだから」
あ、ちゃんと自覚しているんだ。と乃梨子は思った。
「瞳子ちゃんを見ていると、以前の私を見ているようで辛《つら》いのよ。素直に生きるのはとても勇気がいることだけれど、その分得る物も多いのよ」
瞳子は何も言わなかった。うつむきがちに無表情で黙っているから、聞いているのか聞いていないのかわからない。だが、きっとちゃんと聞いているはずだ。
「私が言いたかったのは、それだけ。時間とらせたわね」
まだ廊下《ろうか》の途中だったが、もうここまででいい、というように手で合図して、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》は二人を残して去っていった。
「|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》はたぶん、筋違いだって重々承知した上で言ってくれてるんだよ」
乃梨子は、瞳子に言った。|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》をフォローするというより、むしろ瞳子のための言葉だ。
「でも私、瞳子が自分で『もういいや』って思うまでひねくれていればいいと思う」
誰かに言われるままに行動するなんてこと、瞳子がするわけない。心が決まれば、誰に何を言われようとも真っ直ぐ突き進むはずなのだ。
「だから、私も大きなお世話をしようと思っていたけれど、やめるね」
乃梨子は、ポケットから「一年椿組 松平《まつだいら》瞳子」と書いた応募用紙を出して、ビリビリと破いた。今日の放課後、茶話会の応募受付締め切りまでに瞳子が薔薇《ばら》の館に現れなかった時のことを予想して、一応準備していた。実際に出すかどうかはともかく、保険のつもりで記入しておいたものだ。
「それ……」
瞳子が、久々に口を開いた。
「もうゴミ捨て済んじゃったから、ちゃんと家に帰ってから捨てるわよ」
乃梨子はビリビリにした紙くずを丸めて、再びポケットに収めた。
「乃梨子さん」
「さ。一旦、教室戻ろうか」
今はまだ何も起こらないかもしれないけれど。
|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》が投げた小石が、いつか瞳子の心に波紋を広げ、自ら動くきっかけになったらいい。
そう思わずにはいられない、乃梨子だった。
[#改ページ]
ようこそ茶話会へ
1
電気ポットが、シュンシュンと湯気をたてている。
「カップよーし、スプーンよーし、紅茶缶の中身確認よーし」
土曜日。午後一時四十五分。
祐巳《ゆみ》が薔薇《ばら》の館で茶話会《さわかい》の準備の指さし確認をしていると、受付の様子を見に階下《した》へいっていた由乃《よしの》さんが、大きな手提《てさ》げ籠《かご》のような物を二つ抱えて戻ってきた。
「お菓子同好会から、スコーンが届いた」
「わあっ」
焼きたてホカホカ。まだ湯気が出ているスコーンが、籠からはみ出さんばかりに顔を出している。おいしいよ、おいしいよ、って。
「真美《まみ》さんに渡せばわかるから、そう言って帰っちゃったけれど――」
由乃さんがそう伝えると、名札の名前書きをギリギリ終えた真美さんが「了解」といった風にうなずいた。
「でも、どうしてスコーンが?」
甘くていい匂《にお》いを吸い込みながら、祐巳は尋《たず》ねた。
「茶話会《さわかい》といえば、アフタヌーンティー。アフタヌーンティーといえば、紅茶とスコーンでしょ」
一《ひい》、二《ふう》、三《み》……と数を数えながら真美さん。「人数分は、余裕《よゆう》であるわね」なんて、つぶやいている。
「じゃなくて。これ、素直にもらっちゃっていいものなの?」
スコーンが差し入れで届くなんて、今まで一言も聞いていなかった。
「いいの、いいの。協賛ってことにしてあるから」
「協賛? そういうの、事前に言っておいてもらわないと困るのよね」
由乃さんが、胸の前で腕を組んで言った。
「お菓子同好会から、内緒《ないしょ》にしておいてって言われていたのよ。うまくできたら持っていくって。あまり自信がなかったみたいね」
その割に上手《じょうず》に焼けているけれど、と真美さんは籠《かご》から一つ取って、手で三等分すると「味見」と称して祐巳と由乃さんの口に一片ずつ放り込んだ(部屋には三人しかいなかった)。
「おいひい」
ハフハフ。甘すぎず上品なお味。これは、紅茶に合いそうだ。
「で、見返りは? まさか、ただで提供してくれたとは思いがたいんだけれど」
祐巳がただただ味わっている間に、由乃さんは真美さんにこのスコーンに関する説明を求めた。もう、一個手をつけちゃったんだから、今更《いまさら》返すわけにも行かないだろうに。
「山百合会《やまゆりかい》に迷惑はかけないわよ。『リリアンかわら版』にスコーンの写真と部員募集の広告を載せるって約束しただけ」
「商売|上手《じょうず》」
「魚心《うおごころ》あれば、水心《みずごころ》よ」
真美さんは、時代劇で賄賂《わいろ》を受け取る悪いお代官さまの顔をしてみせた。
「スコーンをのせるお皿なんて、用意してないわよ」
本日はお客さまが多いため、カップなどはさすがに薔薇《ばら》の館にある分だけでは足りなくて、家庭科室から借りてきたのだ。今から、追加で借りにいく時間はない。
「いいじゃない。この籠のまま出せば」
「そうね」
というわけで、スコーンの籠はテーブルの中心あたりに並べて置かれた。これで、この部屋のスタンバイは終了。あとはお客さまを迎えるだけ。
机と椅子《いす》も校舎の地下倉庫から借りて運び入れたから、いつもよりはずいぶん、いや、かなり狭苦しくはなったけれど、まあ良しとした。取りあえず、全員着席をして一杯目のお茶を飲む最初だけ、窮屈《きゅうくつ》かもしれないけれど、フリータイムになったら一階の部屋へ行ってもいいし、幸い天気もいいから誘い合って中庭に出るのもいいだろう。
「そういえば、階下《した》に蔦子《つたこ》さんいた? 今のうちに、スコーンの写真を撮ってもらいたいんだけれど」
真美さんが尋《たず》ねると、由乃さんはパンと一つ手を叩いた。
「ああ、そうだ。蔦子さんよ、蔦子さん。蔦子さんさ、今し方|茶話会《さわかい》の撮影は遠慮《えんりょ》するって言いにきたけれど、もちろん聞いていないわよね」
お菓子同好会からスコーンが届いて、すっかりスコーンに注目が集まってしまったが、そもそも由乃さんが二階に上がってきたのは、蔦子さんの伝言を上にいた二人に伝えるためだったとか。二階に行くならついでにスコーンを持っていって、となったらしい。
「どうして遠慮するの?」
茶話会の企画が発表されてすぐ、蔦子さんにカメラマン役を依頼した時には、二つ返事でOKしてくれたのだ。今日だって午前中いっぱい同じ教室で授業を受けていたというのに、ここにいる三人のうち誰一人「遠慮」の話は聞いていなかった。
それなのに今頃、わざわざ薔薇《ばら》の館まで断りにくるなんて。蔦子さんに、何か急用でもできたのだろうか。
「参加者が入るところと出てきたところは、望遠で撮るし、茶話会終了後に予定されている参加者全員の集合写真はちゃんと撮るって言ってたわよ」
「じゃ、具合が悪いとか、用事があるとかじゃないんだ」
ならば単純に、「気が変わった」ということか。
「蔦子さんが言うにはね、部外者のカメラマンが入ったら、参加者が意識してリラックスできないでしょ、って。ほら、宮中|晩餐会《ばんさんかい》だって、食べているところはテレビで映さないじゃない、それと同じらしいわ」
「うーん、それはものすごく正しい理由の気がする」
だから、何かが引っかかるなんておかしいのだが。なぜだか、祐巳はすんなり納得がいかないのだった。心が素直でないということだろうか。
「茶話会の間はクラブハウスで待機しているから、何かあったら呼びに来て、って言っていなくなっちゃった。それでいい?」
「いいも悪いも。無理矢理連れ戻すわけにもいかないでしょ。いいわ。スコーンは、私が撮るから。茶話会の間も、リクエストがあれば、不肖《ふしょう》私がカメラマンを引き受けさせていただきましょう」
真美さんは小型カメラをポケットから取り出し、スコーンを撮《と》った。右から左から、角度を変えて。失敗を恐れてもう一枚、と、結構な回数シャッターを押していた。お菓子同好会同様、腕に自信がないらしい。
「真美さま。あの、そろそろ受付を開始したいのですが――」
一階でスタンバイしていた新聞部のルーキーさんが、二階の部屋に顔を出した。
「あ、そうだった。名札、名札」
真美さんはさっき書き終えたばかりの名札の集団から二つだけ残して、箱の中に入れ、それをルーキーさんに手渡した。
祐巳と由乃さんは、残ったその二つの名札の中から自分の名前の方を選んで胸につけた。
『二年|松《まつ》組 福沢《ふくざわ》祐巳』、『二年松組 島津《しまづ》由乃』。
二人は主催者《しゅさいしゃ》側ではあるけれど、出席者として招待客と同じ名札をつけるのだ。
「では」
新聞部のルーキーさんが数を確認して部屋を出ようとすると、真美さんが「ちょっと待って」と呼び止めた。後輩を呼び止めておいて、なぜか祐巳の方を見る。
「カップは余分に借りてきてあるのよね」
「うん」
「カップよし。……で、スコーンもよし。で、未使用の名札もある」
「何なの?」
質問している間に、真美さんはマジックペンをキュッキュッと走らせて、新たに名札を二つ作成した。
「蔦子さんの言っていたことは一理あると思って。取材とはいえ、山百合会幹部でもない私たちが薔薇《ばら》の館の中でうろうろしていては、出席者の気が散ると思うの。だから――」
「『二年松組 山口《やまぐち》真美』?」
祐巳は、一つ名札を手に取り、書かれた文字を読みあげた。
「そうよ。私たちには参加資格がある」
「……たち?」
ルーキーさんはもう一つの名札を目の前に突き出されて、明らかに顔を引きつらせている。
なぜって、そこに自分の名前が書かれていたから。
ルーキーさんのお名前は、高知日出実《たかちひでみ》。
祐巳は、今初めてその名を知った。
2
薔薇の館の玄関前には、すでにお客人たちが集まってきている。扉のガラスに映る人影で、その様子は、館に入ってすぐのフロアで受付の準備をしている乃梨子《のりこ》にも、伺《うかが》い知ることができた。
時計を見れば、あと五分ほどで午後の二時。招待状に書き記された開始時間を、まさに迎えようとしていた。
「もうすぐね」
志摩子《しまこ》さんがつぶやいた。
「どうしよう、ちょっと緊張しちゃう」
「乃梨子が緊張してどうするの」
わかっちゃいるけど、ソワソワはおさまらない。
「でも、あの中に未来の仲間がいるかもしれないんだし」
「そうね。でも、私たちにはこうして、ほんの少し祐巳《ゆみ》さんや由乃《よしの》さんのお手伝いをすることくらいしかできないのよ」
ギッシギッシという階段を下りる音が聞こえたので、顔を向ければ、先程までここにいて上の様子を見にいっていた日出実《ひでみ》さんが戻ってきたところだった。
「名札、持ってきました」
お菓子の空箱《からばこ》にザックザックと入っている名札を、一つずつ出して受付の机の上に置く。学年順に黙々と並べる日出実さんは、心なしかさっきより元気がないように見える。何か二階で不都合でもあったのだろうか、と心配しはじめたその時、乃梨子の目に「それ」はキラリと映った。
「ひ、日出実さん。その名札は、まさか……!」
日出実さんの胸もとを指さして、乃梨子は叫んだ。
じっくり見比べるまでもなく、そこにつけられた透明プラスティックの四角い名札は、今から招待客に配られる予定の名札と寸分|違《たが》わぬ物だった。あえて違いを見いだすならば、名札の中に填《は》め込まれている白い厚紙に書かれた文字。そこには、黒マジックではっきりと『一年|桃《もも》組 高知《たかち》日出実』と書かれていたのである。
「ええ」
肩を落として、日出実さん。
「不本意ながら、真美《まみ》さまとともに茶話会《さわかい》に列席させていただくことに。これも、潜入取材だと思えば……。そうよ。そう思わないと、やっていられないわ」
最後は、自分に言い聞かせるように言った。
「あら、日出実さんはお姉さまを作らない主義なの?」
志摩子さんが、不思議そうに尋《たず》ねる。日出実さんが、あまりに「嫌です」といった顔をしていたからだろう。
「そういうわけでもないんですが……」
そんな主義があるにせよないにせよ、開始直前十分前に茶話会の出席者にされてしまったなら、戸惑うのは当たり前だ。せめて昨日のうちにでも決まっていたら、少しは気の持ちようも違っていたかもしれない。
「それは大変ね」
志摩子さんが、しみじみと同情の声をあげた。とはいえ、今から二階に駆け上がって、日出実さんを外してあげるよう働きかけるのは無理だ。それに「不本意」と言いながらも、日出実さん自身がすでに承諾《しょうだく》したことである。
「もしかしたら、いい出会いがあるかもしれないよ」
乃梨子も、励《はげ》ますつもりで声をかけた。これがきっかけで、素敵なお姉さまができないとも限らない、と。
「いい出会いなんて」
ため息混じりにつぶやいてから、日出実さんは志摩子さんに向き合った。
「こういう仕儀《しぎ》になりましたから、茶話会《さわかい》の間は薔薇《ばら》の館からあまり離れることができなくなってしまいました」
茶話会本番、新聞部からは真美さまと日出実さん二人が手伝いにきているわけだが、茶話会に出席するとなると、なかなか手が回らない、というわけだ。
「いいわよ。何かあったら、私や乃梨子が動けるから。事務や雑務のことは気にしないで、接待役の方をしっかりお願いね」
志摩子さんの言葉に、日出実さんは力無く「はあ」とだけ答えた。
「それじゃ、二時になりましたら受付を開始してください。私は、祐巳さまや由乃さまと二階でお出迎えすることにいたします」
「承知したわ」
「招待状と生徒手帳を提示してもらって、本人を確認した上で名札を渡してください、とのことです。では、よろしく」
軽く頭を下げてからふらふらと階段を上っていく。こんな調子で、「潜入取材」を成功させることができるのだろうかと、心配になってくるのだが。
ともかく、二時になったので、乃梨子は玄関の扉を開けて客人を中に招き入れた。
「お待たせいたしました。いらっしゃいませ」
乃梨子の挨拶《あいさつ》に、お客人たちは「ごきげんよう」と応える。
「お手数ですが、こちらに一列にお並びいただき、受付をお願いいたします」
志摩子さんがスタンバイしている机の前に案内しながら、乃梨子は一、二、三……と数を数えた。全部で二十五人が館に入ったところで、一旦扉を閉める。遅刻者、欠席者なし。素晴らしい。
水曜日の放課後の応募締め切り時点での、最終応募人数は一年生十五人、二年生十人の計二十五人だった。当初予定していた各二十名に達しなかったので、全員に招待状が届けられることになった。学年によって人数に差があるのは、やはり|つぼみ《ブゥトン》二人目当ての一年生が多いせいだろうか。それとも、学園生活の残りの日数と関係があるのだろうか。どっちにしても、一年生と二年生に分かれてフォークダンスを踊るわけではないので、数が揃《そろ》わなくても構わないわけだが。
実際部屋を準備していて気づいたのだが、机を運び入れると思った以上にキツキツだったから、これくらいの人数で収まったのはかえってよかった。予定人数だったら、立食ならぬ立飲パーティーになるところだった。
ただ、抽選が行われなかったことを思うにつけ、瞳子《とうこ》が応募していれば参加できたのに、と残念に感じてしまう乃梨子だった。
結局、瞳子は応募してこなかった。
「受付をお済みの方は、階段をお上りいただきまして二階へお進みください」
招待状と生徒手帳で本人を確認し、名札を手渡す。簡単な作業だが、あえてゆっくり時間を使う。間違えがないように、なんていうのは基本中の基本。老朽化《ろうきゅうか》している階段に、人が集中しないよう調整しているのだ。
先に受付を済ませた二年生が二階に移動しはじめ、一年生の順番になっても、リリアンに高等部から入学した乃梨子にとっては、クラスが違えばほとんどが知らない生徒だった。
「ごきげんよう。薔薇《ばら》の館にようこそ」
「ごきげんよう、乃梨子さん。お仕事お疲れさま」
自分は知らないのに、相手側は自分をちゃんと知っている。志摩子さんの妹になって以来、そういうことがたびたび起こるようになった。
「ありがとう、素敵な会になるといいですね」
以前は面倒くさいと思っていた乃梨子だったが、最近ではこういうやりとりをむしろ楽しんでいる。声をかけてもらうのは自分が|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》の妹だからに外ならず、志摩子さんがいるからこそ、そこにつながりが生まれるのだと思い至ったから。つまり、志摩子さんが運んできたふれ合いなのだ。大事に思わないことはない。
受付ラストは、ふわふわしたセミロングの少女だった。
「一年|菊《きく》組、内藤《ないとう》笙子《しょうこ》です」
この子が例の――。そう思うより先に、「あ、可愛《かわい》い」と思ってしまった。
由乃さまが、いろいろ言っていたから、どんな強烈な人が登場するかと思いきや。普通に可愛らしく、それなりにお上品で、表情も軟らかい、どちらかというと親しみやすい感じのタイプだった。
笙子さんは薔薇の館が珍しいのか、キョロキョロと辺りを見回していた。キョロキョロしているうちに、最後になってしまったのかもしれない。
「名札をどうぞ」
「あ、どうも」
取りあえず制服の胸の辺りにそれを留めてから、笙子さんは言った。
「茶話会《さわかい》の出席者とは別に、どなたかいらっしゃるのですか?」
「はい?」
回収した招待状を揃《そろ》えながら、乃梨子は首を傾《かし》げる。今、彼女は何を言ったのだろう。
「えっと、『リリアンかわら版』の取材とか入るのかな、って思って」
すると、隣《となり》で聞いていた志摩子さんが答えた。
「出席者以外で同席させていただくのは、私と乃梨子だけです。新聞部の取材はありますが、記者二名もまた茶話会の出席者ですから、あまり気にならないと思いますよ」
「新聞部……。その他には――」
「他? |紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》とか|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》でしたら、本日はいらっしゃいませんけれど」
乃梨子は、先回りして答えた。それ以外に、「他」を思いつかなかったから。けれど、内藤笙子さんが指していた「他」は、もしかしたら薔薇さま方ではなかったのかもしれない。
「いえ、あの」
笙子さんは口ごもりながらうつむき、結局「そうですか」と言って、自ら振った話を終わらせてしまった。
「笙子さん?」
まだ何か言いそびれたことがあるのではないか、そう思ったが、笙子さんは顔を上げてにっこりと笑った。
「ごめんなさい。お手間とらせちゃって。早く二階に行かないと、皆さんをお待たせしてしまいますね」
すでに人の姿が消えた階段を一人|軽《かろ》やかに上っていく天然パーマの少女。その後ろ姿を、乃梨子が無言で見送っていたら、志摩子さんが肩を叩いた。
「本当に何か必要なことだったら、後ででもちゃんと言うでしょう」
「そうかな」
「ええ。さ、私たちも二階に行きましょう」
大丈夫《だいじょうぶ》、というほほえみにうなずき、乃梨子も階段を上っていった。
茶話会が、始まる。
3
本日は、お越しいただきましてありがとうございます。
この会は、『リリアンかわら版』および招待状にも記しました通り、姉妹を欲しいと思いつつもなかなかご縁がないとおっしゃる方々に出会いの場を提供しようという趣旨《しゅし》で開かれたものです。一時間半という短い時間ではありますが、普段はなかなか交流する機会がない方々とぜひとも親睦《しんぼく》を深めていただきたいと願っています。
――なんて挨拶《あいさつ》しながら、由乃《よしの》は「この中の何人の招待客が、こんな堅苦しい挨拶を真剣に聞いているものか」と思っていた。そんなことより、品定めに忙しいんじゃないの? ――と。
ほら、そこの二年生。彼女なんて、目を皿のようにして一年生の顔と名前をチェックしている。
取りあえず客人たちには、部屋に入った順にサックリと席についてもらった。お茶を一杯飲んで自己紹介した後に、フリータイムで自由に席を移動できることになっている。その時、目星をつけていた生徒の側にいかに迅速《じんそく》に移動できるかが、勝敗を分ける鍵《かぎ》だとでも思っているのだろう。みんな必死だ。
十三対十六。
数の上では一年生が勝っているわけだから、素直に考えれば二年生に有利な市場ということになる。だが、そこは単純にはいかないわけで、一年生の中の何人かは、明らかにただ一人の二年生を目当てに来ている。そのためたとえ十三対十六であろうと、そこそこ釣り合うのではないか、と思われた。
ほら、そこの一年生。あからさまに、祐巳《ゆみ》さんばかりを見ているんじゃない。仮にも、挨拶している人がいるんだから、祐巳さんを五秒見たらこっちを二秒見る、くらいの気配りをするものだ。
「――以上。この茶話会《さわかい》が、よき前例となりますように」
客人たちがソワソワしだしたので、由乃は適当なところで切り上げた。長いスピーチは嫌われるものだ。
まばらな拍手に軽く頭を下げ、由乃は席を立った。挨拶をしている間に、志摩子《しまこ》さんと乃梨子《のりこ》ちゃんがお茶の支度《したく》をしてくれていたので、祐巳さんと一緒《いっしょ》にカップを配るためだ。
「あの、お手伝いを」
さっき祐巳さんをじっと見ていた一年生が、立ち上がり近寄ってきたのを手で制する。
「お気持ちだけ、ありがたく受け取らせて頂《いただ》きます」
「座っていてください。皆さんも」
一人が飛び出すものだから、「私も」「私も」とみんな腰を上げ始めた。このただでさえ狭い会場にやっと席におさまった人間が、立ち上がって一カ所に集中したらどうなるか。ちょっと考えれば、わかりそうなものだが。
実際、由乃が持ったお盆の上には、紅茶の入ったカップが五つのっているのだ。すわ、水牛の大移動が始まったのかと見まごう勢いに、思わず手が滑りそうになった。
「どうぞ、席をお立ちにならないでくださいっ」
停留所にさしかかったバスの車内アナウンスか、と心で突っ込みを入れつつ、それでもどうにか善意の暴動を未遂《みすい》に収めホッとすると、そのほとんどが立ち上がりかけていた一年生の中で、ただ一人|悠然《ゆうぜん》と座り続けていた少女と目があった。
ふわふわ巻き毛。由乃が気がつくと、ニッコリほほえむ。
(へえ……)
変に媚《こ》びないところが気に入った。それでいて、社交性がないわけでもないし。由乃の場合、考え方が多少ひねくれているから、手が足りているのに「手伝います」と出てこられると、どうしても「点数|稼《かせ》ぎか?」と疑いたくなる。
それにしても、当初の計画では終始優雅な茶話会《さわかい》となる予定だったのに、何だかドタバタしたスタートとなってしまった。段取り通りには、なかなかいかないものだ。
お茶が行き渡ると、端から自己紹介となった。お客さまにいきなりトップバッターをお願いするのは悪いので、主催者《しゅさいしゃ》側からまず祐巳さんが立ち上がった。
「二年|松《まつ》組 福沢《ふくざわ》祐巳です。苦手科目、得意科目はありません。平均点が売りです。姉は小笠原《おがさわら》祥子《さちこ》。えっと……おしまい」
何じゃ、そりゃ。由乃は、いつもながら自己紹介|下手《べた》な親友を「とほほ」と見つめた。平均点が売りなんて、全然自己アピールになっていない。その上、お姉さまの名前なんて。そんなこと、ここにいる全員が知っているよ、と。
「二年松組 島津《しまづ》由乃。剣道部所属。一年生の中にはご存じない方もいるでしょうが、去年の今頃心臓の手術をして、虚弱なイメージをすっかり脱ぎ捨てました。好きな作家は池波《いけなみ》正太郎《しょうたろう》。趣味はスポーツ観戦。一日も早く、妹をもちたいと希望しています。我と思わん方は、フリータイムにでもぜひ立候補を」
[#挿絵(img/20_125.jpg)入る]
ここはあえて、令《れい》ちゃんの「れ」の字も出さない。令ちゃん目当ては門前払《もんぜんばら》いするくらいの気構えで、由乃は臨《のぞ》んでいるのだ。
「二年松組 山口《やまぐち》真美《まみ》です。『リリアンかわら版』の編集長を務めております。いつもご愛読ありがとうございます。ご存じのようにこの茶話会《さわかい》は、企画段階から新聞部がお手伝いに入っています。茶話会が成功し、おまけで可愛《かわい》い妹ができたらラッキー、という気持ちでお仲間に入れて頂《いただ》きました。よろしく」
「一年|桃《もも》組 高知日出実《たかちひでみ》です。この企画が持ち上がるまで、お姉さまのことはあまり考えていませんでした。今は新聞作りが面白くて仕方ないので。もし、よい出会いが私にあるとすれば、それは私が新聞部で活動することに、大いなる理解を示し応援してくださるお姉さまの存在が不可欠です」
さすがに「嫌々引き込まれました」とは言えないので、慎重に言葉を選んで自己紹介している。が。やはりこれではまったく自己アピールになっていない。日出実さんは暗に、「私のお姉さまになったら、大変ですよ」と牽制球《けんせいきゅう》を投げているようなものだ。
続いて、一般参加のお客さまの自己紹介となる。慣れない薔薇《ばら》の館で緊張しているのか、それとも突拍子《とっぴょうし》もないことを言って滑るのを恐れてか、どちらさまも無難な自己紹介ばかりで、由乃の網《あみ》に引っかかるものはほとんどなかった。
そんな中。あの、ふわふわ少女が立ち上がった。
「一年|菊《きく》組 内藤《ないとう》笙子《しょうこ》です」
へえ、この子が。由乃は、ちょっと身を乗り出した。
「中等部在学中から、山百合会《やまゆりかい》の皆さんに憧《あこが》れていました。こうしてお近づきになれただけで、うれしいです」
(中等部在学中から、実の姉が元山百合会の鳥居《とりい》江利子《えりこ》さまに煮え湯を飲まされてきました。これから徐々《じょじょ》に復讐《ふくしゅう》できるかと思うと、うれしいです)
面白半分に心の中でそんな言葉をあててみたのが空《むな》しくなるほど、内藤笙子は嫌なところの見当たらない、感じのいい女の子だった。もしかして、内藤|克美《かつみ》さまの意志なんて始めから働いていないのかもしれない。
「ねえ」
隣《となり》に座っていた祐巳さんの腕に触れると、祐巳さんは由乃とはまた違う表情で、内藤笙子を見つめていた。
「見つけた……」
笑いを押し殺したように、つぶやく祐巳さん。
「え?」
由乃は、正直焦った。
見つけた、って。何を?
もしかして、妹っていう意味?
4
「祐巳《ゆみ》さまは、どのような妹をお望みなのですか? ご自分のように親しみやすく可愛《かわい》らしいタイプ? それとも、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》みたいに気位が高くてお美しいタイプ?」
フリータイムである。
フリータイムとは、自由に席を立って、気になる人に声をかけてみましょう、という時間だ。しかし。
「えっと、あの、そういう風にタイプに分けて考えていないというか」
祐巳はさっきから、自由に席を立てない状況にある。三人の一年生に取り囲まれて、質問攻めに遭《あ》っているのだ。ちょうど、はさみ将棋《しょうぎ》で隅に追いつめられ、身動きできなくなった駒《こま》のようだ。部屋の端の席に座ったのが、命取りとなった。
本当は、内藤《ないとう》笙子《しょうこ》さんとお話ししたいのだが、そう言って今ここにいる三人を切り捨てられるものでもない。好意をもってもらっているのはわかるし、そうとなればこちらだってうれしいもの。だから、こうして一つ一つ質問にも答えを返している。まさか、「ここから出たいからそこを退いて」とも言えないから。
「姉妹って、出会った時に、やはり雷が落ちたような衝撃《しょうげき》があるものなのですか?」
と尋ねる藍子《あいこ》ちゃんは、お茶の準備の時に一番最初に立ち上がった子だ。
「さあ。人それぞれだと思うけれど」
志摩子《しまこ》さんの場合、お姉さまの時も妹の時も桜の下で、それぞれ印象的な出会いをしたらしいが、由乃《よしの》さんのところなんて生まれた時からのつき合いだから、ときめきすらなかったようだ。
「では、祐巳さまの場合は? |紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》との出会いの時はいかがでした?」
千草《ちぐさ》ちゃんが、目を輝かせて質問する。
「私は、ずっと憧《あこが》れていたからドキドキしたわよ。でもお姉さまの場合は、そういう感情とは無縁だったみたい」
「まさか」
のぞみちゃんが小さく叫んだ。
「本当よ。だって、しばらくは私との出会いを忘れていたくらいだもの」
祐巳の言葉に、三人がドッカーンって感じで同時に笑った。受け狙いで言ったわけじゃなかったので、複雑な気分。場が和《なご》んだのは、喜ばしいことだが。
「あら、祐巳さん。ハーレム状態ね」
通りかかった由乃さんが、冷やかすように言った。
「うらやましいこと。仲間に入れてもらってもいいかしら?」
一年生たちは、もちろん「どうぞどうぞ」と前を開ける。
祐巳はただ、由乃さんがこの場に加わるだけだと思っていた。一年生三人も、同じだったろう。けれど、席を譲《ゆず》ろうと立ち上がった千草ちゃんに、由乃さんは「いいから」と言って祐巳の手を叩いた。
「じゃ、タッチ交替」
「へ?」
混乱している祐巳を無理矢理立たせて、由乃さんはその席に収まった。入れ替わる時、耳もとで囁《ささや》かれた。
「祐巳さん、あの子と話をしたいと思っていたでしょ」
あの子、と振り返るは内藤笙子ちゃん。
「すごい」
よくわかったこと、と驚いていると、「親友を舐《な》めるなよ。それくらいお見通しさ」とのこと。ラストは「うまくいくといいね」と送り出された。
「うん」
って、思い切りうなずいて輪から外れた後で、祐巳は首を傾《かし》げた。何で由乃さんが、「うまくいけばいい」と祐巳が思っていることを知っているわけ? 由乃さんは、やっぱり超能力者なんじゃないだろうか。ただ、「うまくいくといいね」の声のトーンが低めだったのが、若干《じゃっかん》気になるのだが――。
振り返れば由乃さんは、祐巳を追いかけてきそうな一年生たちを、うまくなだめてくれていた。心の中で手を合わせて、祐巳は笙子ちゃんに声をかけた。
「ごきげんよう。楽しんでいる?」
「ええ」
笙子ちゃんの側にいた真美《まみ》さんが、それをきっかけに離れていく。祐巳は、その空《あ》いた席に座った。
「内藤笙子さん。内藤|克美《かつみ》さまの、実の妹さんだって情報が入ってきたけれど……」
本当? と聞けば、あっさり「はい」と返ってきた。
「隠していたわけではないんですが。姉は卒業しましたし。それに、言ったところで不利にはなっても、有利にはならないでしょう?」
「どうして?」
「たぶん山百合会《やまゆりかい》の方たちは、姉に好印象はないでしょうから」
「そうかなぁ」
祐巳は、直接克美さまのことは知らない。多少は詳しい由乃さんは、ガーガー言っていたけれど。
「高等部に入ってから、在学中の姉の話をいろいろ聞かされまして。大抵は、似ていないね、といった話の流れからなんですが。ガリ勉で、イベント事をバカにしていた、とか。鳥居《とりい》江利子《えりこ》さまを、ライバル視していたようですし」
でました、鳥居江利子さま!
「でも、仲がいい姉妹なんでしょ?」
「そんなことないです。小さい頃から反発し合ってます」
「へえ……」
その割には――と思ったが、口にはしなかった。
「じゃあ克美さまへの反発から、山百合会で仕事をしたいと思うようになったの?」
「ちょっと違います。去年……いえ、今年のヴァレンタインデーに、宝探しのイベントがありましたよね。その時」
「ヴァレンタインデーの宝探し?」
それは、また。思いがけないところに、話は飛ぶものだ。
「あの時、私は中等部の生徒でしたが、楽しそうだったから高等部まで行ったんです」
「フライング」
祐巳の言葉に、笙子ちゃんは笑って「フライングです」と認めた。
「その時、元気に走り回る祐巳さまを見ました」
「あ、あれ……」
それは、あまり覚えていて欲しくない映像である。宝探しというより、むしろ追いかけっこで。スカートなんてバッサバサ、すごい形相《ぎょうそう》で走り回っていたはず。
「すごく生《い》き生《い》きして、楽しそうで。ああ、いいな、って。それが、『リリアンかわら版』を頼りに想像するしかなかった山百合会の方々を、生身の人間として意識した最初でした」
生き生き。物は言いようだ。笙子ちゃんは続けた。
「高等部に入学してからは、事あるごとに注目していました。驚きと感動に包まれた新入生歓迎会は、今でも忘れられません。体育祭では、薔薇さまとか|つぼみ《ブゥトン》とか関係ない一生徒であるはずなのに、山百合会の幹部の方たちはなぜかいつでも、みんなの目を引いていました」
「……」
何て相づちを打ったものだろうか。しかし何を言ったところで、堰《せき》を切ったように胸の内を語る笙子ちゃんの勢いを止められそうもなかった。
「そして、学園祭。劇も素晴らしかった。でも、一番うらやましかったのは、写真部の展示場に飾られたパネルの中でキラキラ輝いている皆さんでした」
「写真部のパネル?」
「私は、あの中に入りたいと心から思ったんです。どうしたら入れるか、ずっと考えていました。そんな時に、この茶話会《さわかい》の企画を知って」
ああ、そうか。やっとわかった。
「だから、私でも由乃さんでもよかったのね」
笙子ちゃんが、何を望んでいるのか。
それを叶えるために、本当に必要なのは誰の力なのか。
もしかして、その人もまた。――と、短い時間で、祐巳の頭の中には様々な思いが駆け抜けた。
「すみません。バカ正直に書きすぎました。気を悪くなさいましたよね」
「してないよ。ただ、話を聞いていて、笙子ちゃんは勘違《かんちが》いしているって感じただけで」
「勘違い?」
笙子ちゃんは、首を傾《かし》げた。何をどう勘違いしているのか、自分ではまったくわかっていないのだ。
「山百合会の中心にいなければ、生《い》き生《い》きできないわけじゃないんだよ。中心にいるからといって、それだけで生き生きできるともかぎらないし」
祐巳は言った。
「生徒会の仕事の中にだけ、楽しいことがあるなんて、そんなことはない。どこにいたって、何をしたって、輝いている人はたくさんいるんだよ。だから笙子ちゃんがただ写真の中で輝きたいと願うなら、別に、|つぼみ《ブゥトン》の妹になんてならなくたっていいんじゃないのかな」
笙子ちゃんは、黙って祐巳の話を聞いていた。賢そうな子だから、これだけ言えばわかってくれただろう。
「つまり。私は、振られてしまったのですね」
うん、と祐巳はうなずいた。言葉はともかく、笙子ちゃんを妹にしないことだけは、祐巳の中では決定だった。
「私は、私の妹になりたいと心から思ってくれる人を妹に選びたい。笙子ちゃんにも、かけがえのないお姉さまを見つけて欲しいと思う」
「それじゃあ、どっちでもいいと思っていた由乃さまでもだめということですね」
笙子ちゃんは、振り返って由乃さんを見た。由乃さんは三人の一年生の側を離れて、別の一年生に声をかけていた。
「気にしないで。ただの私の独《ひと》り言《ごと》だから」
「独り言にしては、胸にグサッと突き刺さりましたよ」
「ごめん。気を悪くした?」
「私の無礼なアピールコメントと相殺《そうさい》にしてください」
「了解」
祐巳は右手を出した。笙子ちゃんも、それに応えて右手を出した。
「言っていただいて、すっきりしました」
ギュッ。固く握手を交わす。何の握手かって問われても、うまく説明できない。けれど、その時二人は心がつながったことがうれしくて、そのことを相手に伝えたかったのだと思う。
「|つぼみ《ブゥトン》狙いでしたが、変更することにします」
そう言って笙子ちゃんは、祐巳の側から離れていった。お姉さまを見つけるつもりかどうかはわからないけれど、二年生にも一年生にも積極的に話しかけて、茶話会《さわかい》を楽しんでいるようだった。
今、ここに蔦子《つたこ》さんがいたら。学園祭で展示されたパネル写真に負けないほど、いい顔が残せただろうに――。祐巳は、少しだけ残念に思った。
5
「笙子《しょうこ》ちゃん、ちょっといい?」
茶話会が始まってそろそろ一時間といった頃、| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》である祐巳《ゆみ》さまに呼ばれた。見れば、お菓子みたいな扉の側で手招きをしている。取りあえず笙子は、「はい」と返事をして歩み寄った。
「手を貸してもらってもいいかな」
声をひそめて言う。通りかかった二条《にじょう》乃梨子《のりこ》さんが「何かご用でしたら」と声をかけてきたけれど、祐巳さまは乃梨子さんに「じゃ、紅茶のお代わりくれる?」とお願いし、それから笙子に向き合った。
「実は、お使いを頼みたいの。薔薇《ばら》の館の外なんだけれど」
「お使い? いいですよ。どこですか?」
祐巳さまは主催者《しゅさいしゃ》の一人でもあるから、気軽に館を出られないのだろう。笙子はそう判断して請け負った。自分でよければ、お手伝いしましょう、と。
「助かるわ。場所はクラブハウスなの。写真部の部室に行って、取ってきてもらいたいものがあって」
「写真部?」
その単語は、笙子の心臓を飛び上がらせそうになった。
「クラブハウスの位置はわかるよね」
「はい」
勢いでうなずいてしまってから、「どうしよう」とうろたえた。
「でも、私。部外者ですし」
懸命に断る口実をさがしたが、とっさにうまい言い訳は出てこないものだ。
「大丈夫《だいじょうぶ》。クラブハウスの建物に入ったら、二階に上がるでしょ。写真部の部室を見つけたら、ドアをノック。たぶん中に誰かいるはずだから、その人に私に頼まれたことを言えば入れてもらえる。ね、簡単でしょ?」
「は、はあ」
一度行くと言った手前、嫌だとは言えない。それに嫌だと言えば、その理由も話さなければならない。
仕方ない。笙子は、腹をくくった。
嫌なわけではないのだ。ただ、もしそこにあの人がいたら、と考えると逃げ出したくなるだけで。薔薇《ばら》の館に入る前、もしかしたらここで再会するのではないか、と一度は心の準備をしてきたはずなのに。
「わかりました。何を取ってくればいいんですか」
「写真立て。修学旅行で買った物よ。マーブル模様だから、見ればすぐわかるわ」
写真部に写真立て。そこにあっても不思議はない気はするが、なぜそんな物を今取りにいかなければならないのだろう。
「そうね。三時半までに持ってきてくれたらいいから」
祐巳さまは、腕時計を見て言った。
「三時半? あと三十分以上ありますけれど」
笙子は、だんだん不安になってきた。
「本当に、すぐわかるものなんですか」
疑いたくはないが、そんなに時間がかかるとしたら、相当見つかりにくい場所にあるのでは、と思うのは仕方ないだろう。
「時間になっても見つからなかったら、帰ってきていいよ」
じゃあ、行ってらっしゃい、と肩を押され、笙子は階段を下りていった。疑問点はいろいろ残っているが、とにかく行ってみないことには。
階段が何か言いたげに、ギッシギッシと音をたてた。
クラブハウスの中は、薄暗かった。
土曜日の放課後ということもあって、中で活動しているクラブがあまりないのか、廊下《ろうか》には明かりがついていない。
入り口に描かれた配置図で場所を確認し、二階に上がる。新聞部の隣《となり》に、写真部の部室はあった。
扉は開いていた。中に、人がいる。ただ一人。座っている後ろ姿がある。
その人を、笙子は知っていた。
やっぱりいた。
人の気配を感じてたのか、笙子がノックをする前にその人は振り返った。
「ああ」
彼女はほほえんだ。まったく驚いていない。まるで、今日笙子とここで会うことを約束していたみたいに自然だった。
「お久しぶり。一年|菊《きく》組、内藤《ないとう》笙子ちゃん」
武嶋《たけしま》蔦子《つたこ》さまは、約八ヶ月前には名乗らなかった笙子の苗字《みょうじ》も、現在のクラス名も、間違いなく言い当てた。
「私のこと、いつから知ってらしたんですか」
「かなり前。四月に入ってすぐくらいかな。宝探しの時は中等部の生徒だったのね。道理で、見つけられなかったはずだわ」
「その節は、失礼しました。ばつが悪くて、なかなか蔦子さまの前に出られませんでした」
「いいえ。今日まで声をかけずにいたのはこちらも同じ。お互いさまです」
深々と頭を下げ合ってから、蔦子さまは「どうぞ」と椅子《いす》を引いて笙子を座らせた。
写真部の部室は、思ったよりずっと狭かった。たぶん四畳半《よじょうはん》くらいのところに、机や棚《たな》などが入っているから、かなり窮屈《きゅうくつ》に感じられた。
こんなところでよく活動できるものだと感心して見回していたら、壁に扉を発見した。笙子が入ってきたのとは、また別の扉だ。たぶん、そこに暗室などがあるのだろう。前室であるここも、ほのかに薬品の匂《にお》いがした。
「その後、どう? 写真撮られるの、慣れた?」
「そう簡単には慣れません」
「根深いんだっけね」
「ええ」
自分の話をしながら、笙子は別のことに興味が向いていた。蔦子さまは、笙子が来るまで、ここで何をしていたんだろう、と。
何か作業をしていたにしては、机の上はそれほど散らかっていなかった。写真屋さんでプリントを頼むと一緒《いっしょ》にくれるような、厚紙とビニールでできた簡易フォトアルバムが一冊と、クラフト紙で包装された教科書くらいの大きさの包みが一つ。そして、彼女のトレードマークとも言えるカメラが二台。
「私を捜してくださったんですか」
さっき蔦子さまは、笙子のことを「見つけられなかった」と言っていた。そのことを受けて聞いた。聞かずにいられなかった。
「うん。ヴァレンタインデーの直後ね。でも、見つからなかった。そうしたら、新学期になったとたん、そこここで見かけるようになったじゃない。狐《きつね》に摘《つま》まれたみたいな気持ちになったわ」
蔦子さまは笑った。
「狐に摘まれたといえば、さっきもね」
「さっき?」
「中庭で薔薇《ばら》の館の扉が開くのを待っていた、笙子ちゃんを見て」
「あ……」
蔦子さまは、あの場にいたのだ。至近距離ではなかったのかもしれないけれど、その様子が窺《うかが》えるくらいは近くに。
その時自分はどんな顔をしていたのだろうか、と笙子は思った。そして茶話会《さわかい》に応募したことを知って、蔦子さまはどんな風に感じたのだろうか。
「それでね」
蔦子さまは言った。
「本当は茶話会の模様も撮るって約束していたんだけれどね。キャンセルしたんだ」
「もしかして、私のせいで?」
「ただのきっかけ。最初はね、私がいない方が笙子ちゃんは楽しめるんじゃないか、って思った。でも、それは笙子ちゃん以外の招待客にもいえることだって、考え始めたのよ。だから、そうしたまでで――」
蔦子さまは、頬杖《ほおづえ》をつく。
「それで? どう、楽しめた?」
「はい」
「それはよかったわ。あれ、そういえば茶話会は? 終わったの?」
「いいえ。祐巳さまが私に用事を頼まれて……」
笙子はやっと思い出した。まったく、これじゃお使いを忘れたアリさんだ。
「祐巳さんが? 何?」
「写真立てを取ってきて欲しい、って」
「写真立て?」
明らかに「解《げ》せない」という表情で、蔦子さまは聞き返す。心当たりがないのだろうか。
「はい。マーブル模様の、イタリアで買った物だそうです」
笙子は、祐巳さまの言っていた特徴を思い出しながら、部屋をぐるりと見回した。
「でも、ないですね。すぐにわかる、っておっしゃってましたが」
さて、困った。これは、本当に手ぶらで帰るはめになるかもしれない。棚《たな》や段ボール箱の中を勝手に覗《のぞ》かせてもらっていると、どこからかブツブツと念仏《ねんぶつ》を唱えるような声が聞こえてきた。
「どうして、写真部に祐巳さんの私物があるわけ? いや、ないのよ。実際、祐巳さんの物なんて。どういうこと?」
何とそれは、蔦子さまの独《ひと》り言《ごと》だった。
「あの、すみません」
もしもし、と笙子は声をかけた。考え事中申し訳ないけれど、ちょっと気になる言葉を耳にしたもので。
「そもそも祐巳さんは、あの店で写真立てなんて買っていた? ――って、え、何? 笙子ちゃん」
「祐巳さまは、取ってきてもらいたい物とはおっしゃってましたが、私物とは言っていなかったかも」
すると、蔦子さまは「え」という口の形のまま固まった。
何か、まずいことでも言ってしまったのだろうか。笙子が心配しはじめた頃、蔦子さまは一度右手で頭を抱えるようにうつむいてから、言葉を絞《しぼ》り出した。
「やられた」
「は?」
「祐巳さんは、私がいるって知った上で、あなたを寄越《よこ》したんだわ」
「え? 誰かいるはずとは言ってらしたけれど、どなたとまでは」
「知っていたのよ。私が、部室で待機してるって言い残していったから」
「あの」
ということは、どういうことだ?
祐巳さまは、蔦子さまが部室にいると知っていた。
祐巳さまは、笙子を部室に送り込んだ。
故に、祐巳さまは、蔦子さまと笙子を会わせようとしたという仮説が成立する。
けれど、たとえその仮説が正しいとしても、祐巳さまがどうしてそんなことを画策《かくさく》しなければならないのか、という謎《なぞ》は残る。
確かに、祐巳さまとはさっき写真の話はした。でも、その時蔦子さまの名前は一切《いっさい》出なかった。
「そういえば、何かの都合で祐巳さんがここに来た時、これ見られたからな。……だからか」
蔦子さまは、クラフト紙で包装された荷物を、ちょんちょんと指で触れた。
「私、全然状況が理解できていないんですが」
これ、って言われても。中身が何か知らないし。
「ああ、ごめん。私も頭の中がうまく整理できなかったものだから」
そして蔦子さまは、「これ」を笙子に差し出した。
「はい?」
「開けてみて。これが、笙子ちゃんをここに来させた原因」
「これが?」
開けてみてと言われたので、遠慮《えんりょ》なく包装紙を留めていたテープを剥《は》がしにかかる。中に入っている物が何なのか、気になってしかたない。
「さっき笙子ちゃんを見かけて、後で渡そうと思ってあわてて包装したから。こんな包装紙しかなかった」
蔦子さまが「ごめんね」と言うと同時に、包装はとれた。
現れたのは、何と、マーブル模様の写真立てだった。それも、祐巳さまが取ってきて欲しいと言っていた特徴そのままの。
中には、すでに写真が入っていた。セピア色の、きれいな写真だ。
少女が二人。向かい合って、箱に入ったお菓子か何かを摘《つま》んでいる。見ていて、どうしてか胸が締めつけられそうになった。これを撮ったのが蔦子さまだとしたら、蔦子さまはやはりすばらしい写真家だ。
「プレゼント」
「え?」
「だって、約束したじゃない」
そこまで言われて、笙子はやっとあることに気がついた。少女のうちの一人は、姉の克美《かつみ》だ。そしてもう一人は――。
「嘘《うそ》。私、こんなきれいじゃない。お姉ちゃんだって、こんなにやさしい顔はしていないし」
「でも、これは笙子ちゃんでしょ?」
「……ええ」
「間違いなく、お姉さんでしょ?」
「ええ」
笙子は、写真立てごと抱きしめた。涙が出そうになったけれど、一生懸命に堪《こら》えて笑った。だってこんなことで泣いたりしたら、蔦子さまにきっと変な子だって思われる。そんなの嫌だ。せっかく、こうしていい雰囲気《ふんいき》でおしゃべりできたのに。
「ありがとうございます。この写真、生涯《しょうがい》の家宝にします」
これで、一生分の写真運を使っちゃった気がするけれど。でも、いいんだ。この先すべてがひどい顔でも、この一枚があれば、それでいい。
「大げさね」
蔦子さんは笑ったけれど、笙子は本気だった。それくらい、写真|写《うつ》りに関しては深刻な悩みを抱えてきたのだ。
「写真立て、どうしましょう」
「バカ正直に、祐巳さんに持っていかないでよ。それは笙子ちゃんにあげたんだから」
「でも、だって……」
この写真立ては、祐巳さまと関係あるのではないのか。だが思い返してみれば、祐巳さまの私物ではない、と聞いた気もする。
「プレゼントだって言ったでしょ? 写真を渡すのが遅くなったお詫《わ》びを兼ねて。よかったら、写真立てごと写真をもらってちょうだい」
「いいんですか?」
「もちろん。笙子ちゃんへのお土産《みやげ》に、私が買ってきた物なんだから」
「うれしい……!」
素敵な写真立てだから、うれしい。
でも、もっとうれしいのは、蔦子さまが遠くイタリアの地を旅していた時、一瞬でも自分のことを思い出してくれたということ。
「――と、袖《そで》の下を受け取ってもらったところで、さっそく交渉《こうしょう》に入りますか」
「は? 交渉?」
蔦子さまは、意味ありげに笑った。
「実は、笙子ちゃんの写真はまだあるんだな。私ね、学園祭とか展示会とか、時には『リリアンかわら版』紙上の場合もあるけれど、発表する場合は被写体《ひしゃたい》である本人の許可をもらうことにしているの。そこでこれ」
差し出されたのは、写真屋さんのくれる例のフォトアルバム。表紙をめくれば、出るわ出るわ。アップから全身まで。そのすべてが、笙子のスナップ写真だった。
桜の花びらの絨毯《じゅうたん》を、踏んで歩く笙子。
傘《かさ》をさす瞬間の笙子。
スポーツタオルをターバンのように頭に巻いてクラスメイトとふざけ合う、プール帰りの笙子。
体育祭で棒を引っ張る笙子。フォークダンスを踊る笙子。
学園祭で、クラスの呼び込みをしている笙子。『とりかえばや物語』を見終わって、ちょっと放心状態の笙子。
いつの間に、こんなにたくさん――。
「表に出していいという、許可をちょうだい」
蔦子さまはカラリと言った。それなのに笙子ときたら、返事をしないどころか、じめじめ湿ってきて、ついにはうつむいてしまった。
「あ。だめ? じゃ、いい物と悪い物に分けて印なんかつけてもらえたら……」
笙子がずっと黙ったままでいたからだろう、蔦子さまは少し弱気になったのか、譲歩《じょうほ》案を出してきた。
「……いいです」
「え?」
「全部、いいです。その代わり」
笙子は顔を上げて言った。
「私にも焼き増ししてください。これ、全部」
蔦子さまは、笙子の頬《ほお》を流れ落ちたものを見て、正直驚いたと思う。でも、やさしいから「そんなもの見えていません」って顔をして、さっきのカラリに負けないくらいカラッカラの笑顔とアルバムをくれた。
「こんなにすんなりOKをもらえるなら、もっと早く交渉《こうしょう》にいけばよかったかな。そうしたら、学園祭に間に合った」
「そうですよ」
笙子は、素早く涙を拭《ぬぐ》ってうなずいた。
今日まで名乗り出なかった自分の行動を棚《たな》に上げて何だが、笙子は「どうして」と問わずにいられなかった。
学園祭で、この写真を見ていたなら、祐巳さまの言う「勘違《かんちが》い」をしなくて済んだのに。こんな回り道も、することなかったのに。
「笙子ちゃんが気づかないうちに隠し撮りするの、純粋に楽しかったのよ。このこと知ったら、警戒するでしょ」
「そりゃ」
事あるごとに、「蔦子さまのカメラ」が狙っているかも、とキョロキョロしたりドキドキしたりするだろう。
「だ・か・ら」
一日でも長く、隠し撮りを続けたかったんだって。同じ学校に通う女子高生だから許されるけれど、部外者の男性だったら、即ストーカーのレッテルを貼られるところだ。
「さて」
そろそろ、と蔦子さまが立ち上がった。時計を見れば、三時二十分。茶話会《さわかい》の終了時間が近づいていた。
「みんなで記念写真撮るからね」
「えっ」
笙子は身構えた。
「大丈夫《だいじょうぶ》だって」
蔦子さまは、笑ってカメラを手にすると、部室を出ていく。それを追いかけて、笙子は懇願《こんがん》した。
「私が気づかないうちにシャッターを切ってください」
「それは無理。集合写真なんだから、『はいチーズ』くらい言わないと、他の人たちに怒られちゃう」
「うわっ、最悪」
撮るぞ撮るぞ、が一番苦手なのに。
「たまには不細工《ぶさいく》な写真もいいじゃない」
蔦子さまったら部室の鍵《かぎ》をかけながら、無責任なことを言うんだから。
「不細工だったら、公表の許可を出しませんもの」
それこそ名案と笙子は思ったのだが、すぐさま「それも無理」と却下《きゃっか》された。
「茶話会《さわかい》の応募要項読んだでしょ? 『リリアンかわら版』に記事と写真を載せてもいいって人だけ、応募できるのよ」
確かに、そんなことが書いてあった気がしないでもない。絶体絶命。こうなったら、最後の手段。
「エスケープは、感心しないな」
クラブハウスを出たところで、ダッシュで逃げようと思ったのに、蔦子さまに先手を打たれてしまった。どうして読まれてしまったのだろう。
「エスケープしたら、写真を加工して、風船の中に笙子ちゃんの顔写真を入れるからね」
「えーっ」
やだやだと駄々《だだ》をこねると、蔦子さまはため息をついて言った。
「わかったわかった。それじゃ、何枚か撮って一番いいのを選ばせてあげるから」
「本当?」
「本当。その代わり、内緒《ないしょ》だからね」
「内緒!」
笙子は、蔦子さまの腕にしがみついて笑った。
蔦子さまの写真が好きだ。
蔦子さまが好きだ。
薔薇《ばら》の館で生徒会の仕事をしなくても、輝くことはいくらだってできる。
胸に抱えた、アルバムの中にいるたくさんの自分。蔦子さまが撮ってくれた一人一人の自分が、それを証明しているのだった。
結局、笙子は三時半に写真立てを持って薔薇の館に戻ってきたので、祐巳さまのお使いを完了した形になってしまった。
それでも祐巳さまは、笙子に写真立てを渡せとは言わなかったし、蔦子さまを伴《ともな》って帰ってきたことについても、特に触れることはなかった。
蔦子さまは、祐巳さまに会うなりこう言った。
「祐巳さんなんかにお節介《せっかい》されるとは、私も焼きが回ったものだわ」
「あら、何のこと?」
笑いながら、向こうに言ってしまう祐巳さま。
「まったく、もう」
お節介は、時にしくじることもあるだろうけれど。結果は別にして、「お節介せずにはいられないという」友の気持ちというのは、かなりうれしいものらしい。
――と、蔦子さまの顔を見ていて、笙子はそう思ったのだった。
[#改ページ]
中間報告
1
月曜日の放課後、薔薇《ばら》の館で祥子《さちこ》さまが尋《たず》ねた。
「で? どうなったの?」
主語は省略されていたが、それが示しているものは聞き返さずとも明らかだった。お姉さまは、茶話会《さわかい》の報告を求めているのだ。
「その場で姉妹となったのは二組。後は、本人次第とでもいいますか。もう少しお互いのことを知ってから結論をだす、といった方たちも少なくありませんでした。この会がきっかけで、姉妹になる可能性は大いにあります」
その辺については新聞部が追跡取材をして、姉妹になった場合は『リリアンかわら版』紙上にて「茶話会姉妹」として発表、といった運びになっている。祥子さまは紅茶を飲みながら、ふんふんと報告を聞いていたが、やがて祐巳《ゆみ》が「以上です」と締めくくると、カップを置いて美しい顔をしかめた。
「私が一番聞きたいのは、私の妹のことであり、令《れい》の妹のことよ。その場で姉妹になった二組という中に、あなた方は入っているの? いないの?」
結構な迫力である。祐巳と由乃《よしの》さんは、思わず顔を見合わせた。
「……入っていません」
「まさか、どっちもってことはないわよね」
目がキラリと光る。恐い。だが、嘘《うそ》をつくわけにもいかないので、正直に白状する。
「そのまさか、です」
「まあ……っ」
呆《あき》れた、とうんざりした顔でため息をつく祥子さま。由乃さんから聞いて大体のことを把握《はあく》している令さまが、「もうそれくらいで勘弁《かんべん》してやりなよ」って感じで肩を叩いたが、祥子さまはやめなかった。
「それじゃ、茶話会《さわかい》をやる前と今と、何も変わらないっていうの?」
「あ、それなら」
祐巳は、ポンと手を叩いた。
「私たちの妹になりたいと言ってくれた一年生に、放課後手伝いに来るよう声をかけてあります。一度にでは多いので、曜日を決めて、という形で今日から」
祐巳三人、由乃さん二人。ちょうど五人だから、月曜日から金曜日まで各一人ずつ。月曜日の今日は確か、祐巳にベッタリだった藍子《あいこ》ちゃんが来ると言っていた。
「なるほど。で、その子は今どこに?」
キョロキョロと、わざとらしく辺りを見回す祥子さま。そんなことしなくても、この部屋にいつものメンバー以外誰もいないことはわかっているはずなのに。
誰の目にもご機嫌斜めと映っているようで、志摩子《しまこ》さんや乃梨子《のりこ》ちゃんですらフォローをためらっている。触らぬ神に祟《たた》りなし。一々反応すれば、ますますこじれることを経験上理解しているのだ。
「おかしいですね。道にでも迷っているのかしら」
祐巳は愛想笑いで答えた。すると、祥子さまの眉《まゆ》の角度が更に上がった。
「それが事実なら、その子をあなたの妹にするのは反対よ。半年以上は通っている校内で迷うなんて、どうかしているわ。そもそも、一昨日《おととい》来たばかりの薔薇《ばら》の館に一人で来られないなんて、問題……いえ、問題外だわ」
しまった、と思ったが後の祭り。
「お姉さま、冗談ですって」
「冗談って笑えるものではなくって? 少なくとも、さっきのあなたの例えは笑えるものではなかったけれど」
「すみません」
だって、何で来ないかわからなかったから。
藍子ちゃんは、一応祐巳の妹候補の一人として薔薇《ばら》の館に出入りするわけだから、祐巳が面倒をみ、指導もしなければならないというのに。「来ない理由がわかりません」とは祥子さまにとても言えなくて、つい冗談に逃げてしまったのだった。
今日来る人を決める時、真っ先に手を上げたのは藍子ちゃんだったから。一番乗りがうれしいと張りきっていたので、よもや、忘れているとは思えないのだが。
そんな時。
「ごきげんよう。お手伝いにきました」
藍子ちゃんが元気をいっぱい振りまいて、二階の部屋に入ってきた。
「お手伝い……」
もうすぐ四時である。
その場にいた全員が同時に自分の腕時計を見、そしてすぐさま隣《となり》の人の腕時計も見た。自分の時計が間違っていないかどうか、確認したのだろう。まるでコントのようだった。それでも、四時であることは変わらない。
「わあ、皆さんお揃《そろ》いですね。私、一年|李《すもも》組の――」
自己紹介し終わるのも待たずに、祥子さまが「何か、あったの?」と質問した。
「は?」
「急に手伝いに来ることになったわけだから、本当は予定があったのでしょう。だったら遠慮《えんりょ》しないで、誰かに代わってもらいなさい。それもできない状況だったなら、無理して来なくてもいいのよ。手が足りなくて、困っているわけではないのだし。ただし、その場合はちゃんと事前に断りを入れること」
妹の妹候補とはいえ、今はまだ藍子ちゃんは見習い半分お客さま半分といった立場。祥子さまは極力感情を抑えて、でも言うべきことはしっかり言った。
が。
「いいえ。予定はありませんでした。ただ、薔薇さまはじめ皆さまにお目にかかるので、身だしなみを整えるのに時間がかかってしまいまして。実は、今日体育があったんですね。その時、鉢巻《はちま》きでついた髪の毛の癖《くせ》がなかなかとれなくて――」
その返答に、全員が唖然《あぜん》とした。
「そ、そう」
祥子さまは、もう怒ることさえ忘れて、顔を引きつらせている。
これはまずい。かなりまずい。
祐巳は、藍子ちゃんの手を引いて部屋の隅まで連れていった。
「あのね。髪の毛なんて、どうでもいいのよ」
「え……? でも。私、みっともない姿で祐巳さまの前に出るなんて……」
「私は髪の毛がはねていたって、それが原因で藍子ちゃんを嫌いになったりしないわよ。それより、部屋の掃除《そうじ》をしたり、お茶の準備をしたりしてくれた方が助かるの。お手伝いっていっても、直接生徒会の仕事を任せるわけにはいかないでしょ? まずは雑用をしながら、ここにいる皆さんと仲よくなってもらいたい。そのつもりで呼んだのよ」
そこまで言ってやっと、藍子ちゃんは自分の失敗に気づいたようだった。
「祐巳さま、私」
どうしましょう、と泣きついてくる。今更《いまさら》掃除をすることもできないし、お茶の入ったカップはすでにみんなの分行き渡っている。
「わかったから落ち着いて。じゃね、まずはあなたの分のお茶を入れましょう。ついでに、皆さんにお茶のお代わりを勧めたらいいわ。大丈夫《だいじょうぶ》。それに、まだ後片づけが残っているから。おひらきになったら、率先《そっせん》してカップを下げて洗ってね」
祐巳は、小声でまくし立てた。あっちに気を遣い、こっちに気を遣い。お姉さまって大変だ。
「はい」
藍子ちゃんがうなずくと、祥子さまが独《ひと》り言《ごと》のように言った。
「誰か、お茶のお代わり入れてくれないかしら」
「はい、ただ今っ」
湯沸かしポットに急ぐ藍子ちゃんを見送って、祐巳は祥子さまに「ありがとうございます」の頭を下げた。
お姉さまのお姉さまも、大変だ。
2
「ああっ、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》だ。すみません、サインしていただけますか」
火曜日の放課後は、由乃《よしの》の妹志願のその子ちゃんが手伝いに来た。
「さ、サイン?」
本当は部活に行くはずだった令《れい》ちゃんだったが、やはり妹の妹候補が気になるらしく、胴着《どうぎ》のまま薔薇《ばら》の館にやって来た。その子ちゃんの顔を見たら、すぐに武道館に行くつもりだったらしい。
それが、会った途端「サイン」ときたものだから、昨日の祥子《さちこ》さま同様、顔が引きつったまま固まっていた。
恐れていたのはこれだ、と由乃は思った。
この一年生は、「令ちゃんファン」。本人にその自覚があるかないかはわからないが、このはしゃぎようは相当なものだ。
こんな私でも妹になりたいと言ってくれる一年生がいる、そう思って感動すらしていたのに。それが、令ちゃん目当てだったなんて。
もうプライドはズタズタだ。おのれ、その子。どうしてくれよう。
(もったいないが、これは切り捨てねばならないか)
二人と三人。ただでさえ、祐巳《ゆみ》さんに数で後れを取っているというのに。一人切ったら、もうあとは一人しか残らない。
どうする、由乃。
(でもこの子は、昨日の祐巳さんファンと違って、遅刻はしなかったし。フットワークは軽いし。明るいじゃない)
懸命にいいところを探して、ギリギリ切り捨てるのを押しとどめた。
結局押し切られて、令ちゃんはレポート用紙か何かに自分の名前を書かされ、そのままふらふらと部屋を出ていった。精気を吸い取られたみたいだ。こんな調子で、稽古《けいこ》は大丈夫《だいじょうぶ》なんだろうか。
「あ、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》。|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》もサインお願いします。ここ、ここに。|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》もいいですか?」
(前言撤回)
令ちゃんのファンというより、ただの軽いミーハーじゃないか。
魔の手(?)が祐巳さんにまで及んだ時、由乃の堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》はついにきれた。
「あなた、クビね」
その子ちゃんは、なぜ由乃がキレたのかわからず、しばらく目をパチクリさせていた。
3
水曜日に来たのぞみちゃんは、クラスメイトを四人も連れてきて、お茶を飲んでおしゃべりして、そのまま嵐のように去っていった。
木曜日。由乃《よしの》さんの妹に名乗りを上げた美佐江《みさえ》ちゃんは、由乃さんがちょっと注意しただけで、泣いて帰ってしまった。
金曜日に予定していた千草《ちぐさ》ちゃんに至っては、ついにやって来なかった。
そして、運命の土曜日を迎えることになる。
[#改ページ]
バトル本番
1
まあ、あまり期待はしていなかったけれど。
待ち合わせの場所に時間通りに現れたのは、紅薔薇姉妹と白薔薇姉妹の四人だけだった。
「由乃《よしの》ちゃんは、先に行ったの?」
祥子《さちこ》さまが、祐巳《ゆみ》に聞いた。
「はい。試合には出ませんが、一応剣道部ですので。令《れい》さまたちと一緒《いっしょ》に。掃除《そうじ》は免除です」
地域の高校の交流試合とはいえ、学校内では普通の土曜日である。祐巳たち一般生徒は四時間目まで授業を受けて、ホームルームに出て、掃除を終えてから昇降口に集合となった。
それは、去年の交流試合の日とまったく同じ。けれど、メンバーは違う。
祥子さまと志摩子《しまこ》さんと祐巳。それに今年は乃梨子《のりこ》ちゃんが加わり、去年いた蓉子《ようこ》さまと聖《せい》さまは今はいない。あれから、もう一年も経ってしまったのだ。
「他は……もう来ないみたいね」
「のようですね」
|つぼみ《ブゥトン》の妹候補五人には、剣道の交流試合があるから一緒《いっしょ》に応援に行きましょう、と誘ってあったのだが。まだ、一人も来ていない。
「祐巳の妹候補三人はまだしも、由乃ちゃんのところの二人は何を置いても来るべきなのに」
立場的にはそうなのだが、片や由乃さんに「クビ」と言われた人。もう一人は、泣いて帰ってしまった人である。たぶん、どっちも来ないだろう。
「五分待ったわ。行きましょう」
祥子さまの判断に、だから誰も反対はしなかった。
「由乃さん、とうとう江利子《えりこ》さまに妹を紹介できなかったわね」
歩きながら、志摩子さんが言った。
「うん」
祐巳もうなずく。
由乃さんはまだ江利子さまに会っていないだろうから、正確には「できそうもない」が正しい。だが、候補者二人が会場に行かないのであれば、「できなかった」になるのは時間の問題だと思われた。
「考えてみると」
祥子さまがつぶやく。
「乃梨子ちゃんなんて、出来すぎなくらいなのよね。瞳子《とうこ》ちゃんも、可南子《かなこ》ちゃんも、思い返せばよく気がつく子だったわ」
どうやら、妹候補五人と比べて、の話らしい。
「すみません」
「祐巳が謝ることないわ。あの子たちは、きっと平均の女子高生なのでしょう。はじめはどうでも、あなたが指導してちゃんとした子になればいいわけだし」
指導したくても、ついてきてくれなければどうしようもない。彼女たちをそこまで引き上げられないのは、お姉さま候補の力不足なのだろう。ふがいない、と祐巳は思う。
「たぶん、幻想だったんじゃありませんか」
乃梨子ちゃんが、考えを述べた。
「幻想?」
「薔薇《ばら》さまとか|つぼみ《ブゥトン》とか。ただ、憧《あこが》ればかりが先行して。少しでも近づきたい、彼女たちはそう願っていたんだと思います。側にいれば、きっと素敵なことばかり起こる。そんな幻想を抱いていた。でも、現実にはそんなことないですもの」
「幻滅した、ってこと?」
ちょっと笙子《しょうこ》ちゃんに似ているかもしれない、と祐巳は思った。彼女も、|つぼみ《ブゥトン》の妹になれば写真の中で輝けると信じていた。
「というか、幻想だったと気がついたのではないでしょうか。彼女たちは今まで、薔薇の館に憧れても、その中に自分を置いて考えたことがなかったんです。考えたことさえなかったのに、ある日突然それを現実世界で突きつけられて、戸惑ってしまった。茶話会《さわかい》のお客さまのままでいる方が、幸せだったのかもしれません」
想像ですが、と乃梨子ちゃんは締めくくった。けれど聞いていて、確かにそうかも、と祐巳は思った。
だとしたら、彼女たちは今頃傷ついているのかもしれない。――かわいそうに、と。
市民体育館の周囲をぐるりと取り囲む公園には、主に三種類の制服を着た少年少女たちがくつろぐといった、懐《なつ》かしい光景が繰り広げられていた。
会場に着くと、席は去年以上に埋まっていて、やはり二人ずつに分かれて座るしかなさそうだった。
というわけで、紅薔薇姉妹と白薔薇姉妹は、試合終了後に落ち合う場所を決めて二手に分かれた。途中コンビニで買ったサンドイッチと紙パックのコーヒー牛乳をそれぞれ持って、二つ空《あ》いている席を求めてレッツゴー。
「ほら。お姉さま、あそこ」
祐巳は指をさして、駆けだした。
「あ、祐巳?」
後ろから見た限り、二つ並んで人の座っていない椅子《いす》を発見。とはいえ、荷物を置いて席を立っている可能性もあるから、まずは近づいてみることにした。
「……」
OK。荷物なし。
「あの、ここ空《あ》いていますよね」
一応|隣《となり》の席の人に尋《たず》ねてみた。すると、その人が答えるには。
「座りたかったら、そのサンドイッチ一つ置いてけ〜」
「――」
置いてけ、って『置いてけ堀《ぼり》』の妖怪か。そんなことを言う人、祐巳の知る限り一人しかいない。
「どうして、ここに聖さまがいるんですかっ」
「だって、今から面白いことが起きるんでしょ。江利子に聞いたよん」
「え、江利子さま?」
この場合、祐巳が発した「江利子さま」は単に聞き返しただけで、決して呼びかけたわけではない。だが、聖さまの向こう側からはなんとそれに答える声があった。
「はーい」
うわっ。本人。
手まで上げちゃって。すごい上機嫌。
「ご、ごきげんよう。江利子さま」
考えてみたら、江利子さまに限っては、ここにいて当たり前なんだけれど。いざ本人を目の前にすると、「ああ、由乃さんは本当に無謀《むぼう》な約束をしてたんだな」としみじみ思うわけである。
ついでにいうと、江利子さまが誘ったのは聖さまだけではなかった。
「後ろ姿で、もしやと思いましたけれど――」
追いついた祥子さまが、江利子さまの隣《となり》に座っていた人に「お姉さま」と声をかけた。
そう、蓉子さままで。学園祭では拝めなかった、前|薔薇《ばら》さまの三役そろい踏みが、今日ここで拝めるとは。
(ああ)
親友二人を引き連れて。それは、江利子さまが、今日の日をどれくらい楽しみにしていたのかを物語っている。
当然だ。由乃さんが妹を紹介できなければ、「そらご覧《らん》なさい」と勝利の気分に酔いしれることができるわけだし、紹介したならしたで、その妹を品定めする楽しみが待っているのだから。こんな愉快《ゆかい》なことはない。
「祐巳ちゃん。由乃ちゃんの様子、どうだった?」
祐巳が着席するとすぐ、江利子さまは身を伸ばして尋《たず》ねてきた。
「何がです?」
ここは慎重に答えないと。江利子さまは、口がうまいから。言わなくてもいいことまで、喋《しゃべ》らされてしまう。間にいる聖さまや、江利子さまの向こう側に座っている蓉子さまは、黙ったまま二人の会話に耳を傾けている。というより、祐巳がどのようにこの危機を乗り切るか、面白がって見ているのだ。
何でそんなことわかるか、って? だって、二人とも顔が笑っているのだ。
「お菓子の箱見て、悔《くや》しがってたでしょ」
ああ、そのこと。
「申し訳ありませんが、親友として言えません」
危なく妹の話と思い込んで、下手《へた》な対応をするところだった。
「残念。それはぜひ見てみたかったわ」
「私、何も言ってませんが」
「言わなくたってわかるわよ。祐巳ちゃんの顔を見れば」
蓉子さまと聖さまが、堪《こら》えきれずにプッと吹き出した。祥子さまが、小声で「バカね」と言う。第一ラウンドは、誰の目から見ても祐巳の負けだった。
祐巳がサンドイッチを摘《つま》んでいる間は、勘弁《かんべん》してくれていた江利子さまだが、最後の一個を食べ終わりコーヒー牛乳の紙パックがズズズッと最後の音を発すると、また第二ラウンドを開始した。
「ところで、由乃ちゃんの妹はどんな子?」
「さあ」
ちなみに前薔薇さま三人は、会場に来る前に近くのファミレスでランチをとってきたらしい。だから聖さまの「置いてけ」は冗談だったはずなのだが、気を抜いたちょっとの間に、やっぱり一個食べられてしまった。
「祐巳ちゃん、惚《とぼ》けたって駄目《だめ》。さっき自分で言っていたわよね。由乃ちゃんとは親友だって。親友が知らないわけないじゃない」
やっぱり。気をつけていたはずなのに、早くも余計なことを言ってしまったわけだ。
「それが、まだ紹介してもらっていないんですよ、私」
だが、こちらの強みは、本当に知らないということ。「どんな子」と聞かれたって、知らない物は答えようがない。
「たぶん令さまも、……と思いますよ。由乃さんは、江利子さまにまず一番に報告するんだって言ってましたから」
それを聞いて、ちょっといい気分になったらしい。江利子さまは、第二ラウンドを呆気《あっけ》なく終了させた。引き分け、といったところか。
「誤魔化《ごまか》すのうまくなったわね、祐巳ちゃん。ま、いいわ。お楽しみは長い方がお得だものね。いくら延ばしたって今日中に片はつくはずだし」
美しいほほえみを浮かべているのに、異様に恐い。江利子さまは本気だ。何が何でも、今日この会場で、片をつけるつもりらしい。
由乃さんに「逃げて」とテレパシーで教えたいけれど、逃げたところで江利子さまはどこまでも追いかけてくるような気がした。
「じゃさ。由乃ちゃんの妹がどの子か、三人で当てっこしない? 今日、この会場に来ているはずだから」
試合が始まるまでの暇《ひま》つぶしに、江利子さまは恐ろしい遊びを思いついた。
「いいわね」
恐ろしいと感じているのは、妹候補なんてここに来ていないと知っている現紅薔薇姉妹だけ。なので、聖さまも蓉子さまも「やろうやろう」と大乗り気である。
「あ、あの」
「ヒントになるとつまらないから、祐巳ちゃんと祥子は黙っていてね」
ヒントも何も。候補者なんていないんだから、教えたくても教えようがない。
あまりに馬鹿馬鹿しくて、祥子さまは無言のまま文庫本を取り出して読み始めた。早くも、一抜けた、である。できれば祐巳も抜けたかったのだが、隣《となり》の席の聖さまにガッシと腕を掴《つか》まれて、無理矢理仲間に引きずり込まれた。どうやら、祐巳の反応を見ながら予想をたてる気らしい。しつこいようだが、顔色を見たってヒントになんかならない。
じゃ、私から、と。ジャンケンで一番手となった聖さまが、まず指をさした。
「向こう側の席の前から三列目のあの子」
「前髪をピンで留めているあの子? 駄目《だめ》よ聖。あれは二年生だもの。見たことあるでしょ。新聞部の」
「あー、築山《つきやま》三奈子《みなこ》の妹だ。じゃ、その隣でいいや」
その隣は新聞部のルーキー、日出実《ひでみ》ちゃんである。可能性は皆無《かいむ》じゃないけれど、まず由乃さんの妹にはならないだろう。ヒントは出すなという命令だから、もちろんそんなことは言わないけれど。
次は蓉子さまが選ぶ番だ。
「志摩子の隣にいる子は? 確か、山百合会《やまゆりかい》の劇にも出ていたわよね」
「残念でした。あれは志摩子の妹」
聖さまが答えた。
「ああ、あれが」
蓉子さまと江利子さまが、同時にうなずく。その視線に気づいた志摩子さんが、こちらに向かって会釈《えしゃく》し、続いて乃梨子ちゃんが頭を下げた。
「まるで西洋人形と日本人形ね」
前薔薇さまたちがそんなことを言ってゲラゲラ笑っていることなんて、遠く離れた席にいる志摩子さんたちには思いも寄らないことだろう。
「カメラちゃんの隣《となり》にいる子は? 妹?」
蓉子さまが、祐巳に聞いてきた。見れば、蔦子《つたこ》さんが笙子《しょうこ》ちゃんを伴《ともな》って会場入りしている。
「そう言う話は、聞いていません。確かに一年生ですが」
「そう。じゃ、あの子にする。顔が可愛《かわい》いから」
「……え?」
所詮《しょせん》は、お遊びである。第一印象で決めるわけだから、雰囲気《ふんいき》とか顔とかしか判断材料がない。が、蓉子さまが、人を顔で選ぶなんて、祐巳にはちょっとショックだった。意外に面食い、って。だがそれは、祥子さまを妹に選んだことで証明済みだった。
蓉子さまが決定宣言すると、江利子さまが唸《うな》った。
「あのカメラちゃんの隣の子、見たことある気がする。でも思い出せない」
笙子ちゃんは内藤克美《ないとうかつみ》さまの妹だから、面差《おもざ》しがどこか似ているのかもしれない。それとも過去、本人に会ったことがあるのだろうか。江利子さまたちが卒業するのと入れ替わりで入学してきたから、高等部での接点はないはずなのだが。
江利子さまは一分ほど考え込んでいたが、結局、笙子ちゃんのことを思い出すのは諦《あきら》めて、由乃さんの妹当てを再開した。
「私がラストね。あそこにいる二人のうちのどっちかにしようかな」
すると、その指先を見て蓉子さまが言った。
「ああ、一人は夕子《ゆうこ》ちゃんの娘だわ」
で、もう一人は何と瞳子ちゃんだった。二人は隣同士で座っている。ということは、一緒《いっしょ》に来たということなのだろう。
いつの間に、こんなに仲よくなったのか。以前は天敵だったはずなのに。
「蓉子は、何で母親の名前まで知ってるの?」
江利子さまが尋《たず》ねると、聖さまが笑った。
「私も知ってるよ。そこにいる夕子ちゃんの娘は、……確か、可南子ちゃんだっけ」
確認するように祐巳の顔を見るので、仕方なく「ピンポーン、正解です」とつき合ってあげた。
「私、もしかして二人から遅れている? そうだ、去年の今頃もこんなことがあったような。これって、デジャブ?」
デジャブじゃないだろうけれど。確かに江利子さまは、親知らずで悩んだり入院したりしている間に、学園内におこった大事件さえ気づかなかったという、特殊な過去をもった人ではある。
「で? その夕子ちゃんの娘の可南子ちゃんは一年生なの?」
「そうよ。でも可南子ちゃんは、違うと思う」
「違う、って?」
「由乃ちゃんの妹にはならない、ってこと。可南子ちゃんはね、夕子ちゃんがいいのよ」
「まあ、マザコンなの!?」
「まあ、そういう感じ」
事情を知らない江利子さまを、聖さまと蓉子さまは混乱させて楽しんでいる。
「その隣《となり》は?」
「あれは電動ドリルちゃん。あの子も、由乃ちゃんの妹タイプじゃないわね」
指さす生徒指さす生徒、ことごとく否定されて、江利子さまはとうとう「もうこの中にはいない」と言った。本当はまだまだリリアンの生徒はいるのだけれど、どうやら自分と親友二人の情報量の違いが面白くはないらしい。
すると、聖さまが言った。
「それじゃ、制服とか学年とか関係なく一人選んでいいよ」
おいおい。段々、趣旨《しゅし》が変わってきているよ。――祐巳は、心の中で突っ込みを入れた。由乃さんの妹当てだったら、リリアン女学園高等部一年生という最低条件だけはクリアしないといけないんじゃないのか。
「じゃ、私、あの子にする」
江利子さまは、機嫌を直して一人の少女を指さした。試合場を挟《はさ》んだ向こう側だから、遠いが正面から見える。ワンレングスの、セミロングの少女だ。
「なーる」
蓉子さまがニヤニヤした。
「何よ」
「人は自分に似たタイプを好むものだな、って」
「似てる?」
「顔というより、雰囲気《ふんいき》がね」
それを受けて、聖さまが言った。
「ヘアバンドでおでこ上げたら、顔も似ている気がするな」
「ふうん。それじゃ、ぜひとも由乃ちゃんに推薦《すいせん》したいところね」
満更《まんざら》でもない、と江利子さまは笑う。どこか自分に似た少女を由乃さんに「妹」と紹介されることを想像するのは、さぞかし愉快《ゆかい》なことだろう。
「惜《お》しむらくは、私服だってことよね」
「おまけに、敵だし」
そう。江利子さまが「決めた」由乃さんの妹は、ベビーピンクのトレーナーを着ているばかりか、何とライバル校である太仲《おおなか》女子の制服の一団の中に埋もれていたのである。
「うまくいかないものね」
江利子さまは、残念そうにため息をついた。
たとえあの子がリリアンの制服を着ていたとしても、由乃さんと無理矢理くっつけるわけにはいかないのに。
とはいえ、前薔薇さま三人は、試合開始までの数分間を十分に楽しむことが出来たようだ。
「お楽しみは、これからよ」
試合場に、選手や関係者たちが現れる。令さまたち選手の後ろに、荷物を抱えた由乃さんの姿も確認できた。
祥子さまが、栞《しおり》を挟《はさ》んで文庫本を閉じた。
いよいよ二時。
試合が始まろうとしていた。
2
試合に出る選手たちの後ろでスタンバイしながら、由乃《よしの》は「ふう」と密やかなため息を吐いた。
選手のフォローといっても、やることなんてほとんどないのだ。
学校を代表する選手となれば、全員が有段者。それなりに試合経験もあるから、場慣れしているし、袴《はかま》だって防具だって一人でスイスイつけてしまう。手を貸そうとすれば、かえって「邪魔《じゃま》」と言われる始末。
支度《したく》や試合前の気持ちの作り方には、その人なりのペースというものがあるらしく、用を言いつけられるまでは何もしない、というのが正解らしい。
つまり。今日は、荷物の見張りをしながら試合を眺める、というのが由乃の主な仕事なのである。
けれど、令《れい》ちゃんは言う。由乃が会場に来て、間近で試合を見ることには大きな意味がある、と。
由乃が側にいれば、それだけで令ちゃんの力がわく。そういう意味だと思って素直に喜んだら、「見取り稽古《げいこ》」のことなんだって。
他人の試合を真剣に見るのは、それだけで稽古《けいこ》なのだという。特に交流試合は、日頃見ることのできない他校の選手の動きを見ることのできる絶好の機会だから、是非《ぜひ》とも目に焼きつけて、吸収できるものは何でも吸収するように、と。
そんなこと、言われなくたってわかっている。
由乃の趣味は、スポーツ観戦なのだ。何の競技であれ、生《なま》で間近で見られることは一番の幸せだって思っている。ましてや、特別思い入れがある剣道。
なのに。
(……だめだ)
目の前でリリアンの次鋒《じほう》が竹刀《しない》を振り回しているというのに、全然集中できない。隣《となり》で体育座りしていた田沼《たぬま》ちさとなんか、四《よ》つん這《ば》いになるほど身を乗り出して応援しているというのに。
これが終わったら、江利子《えりこ》さまに会わなければならない。
もしや江利子さまは、約束のことなんかすっかり忘れているのではないか。
もしや、試合の日を間違って記憶していやしないか。
しかし、そんな希望的観測も、その麗《うるわ》しいお姿を会場客席で拝見した瞬間に、もろくも砕《くだ》け散った。
そう。
あの人が、(あの人にとって)こんな面白いことを忘れるわけない。記憶違いなんてするわけもない。
江利子さまは令ちゃんの試合を観戦し終えたらおもむろに立ち上がり、会場を出たあたりでスタンバイするだろう。
そして試合会場から出てきたリリアン女学園の剣道部の一団の中から、まず令ちゃんを見つけて声をかける。由乃が立ち止まらずに前を通り過ぎようとした瞬間、「そういえば」と思い出したように由乃を呼び止めるのだ。由乃ちゃんの妹さんはどこにいるの、と。
(ああ)
細部にわたって、イメージできる。
そう遠くない未来に、それが現実に起こることを考えると、とてもじゃないが試合どころじゃないのだ。
(やだやだ)
由乃に妹なんていないのだと知った時の、江利子さまの勝ち誇った顔。想像しただけでも腹がたつ。
無謀《むぼう》な約束をした方が悪いのはわかっている。だが、往年のライバルである江利子さまにだけは、素直に「ごめんなさい」と許しを請う気にはなれないのだ。
(そういえば、先鋒《せんぽう》同士の試合はどっちが勝ったんだ?)
それすら覚えていない。
「ちさとさん。これ、まだ予選だよね」
心配になって尋《たず》ねると。
「そうよ?」
何を今更《いまさら》、といった感じで顔を見られてしまった。さすがに、そこまで記憶がぶっ飛んではいないようで安心した。
落ち着いて、相手方の垂《た》れに書かれた学校名をみれば、書いてある文字は「田倉沢《たくらざわ》」。確か、去年はリリアンとは対戦しなかった高校だ。
去年。
去年は交流試合に来られなかった。その日、心臓を手術したから。
手術をする前は、一年後に剣道部の部員としてこの場所で令ちゃんの試合を見るなんて思ってもみなかった。
江利子さまが、卒業した後もこうしてしつこく意地悪してくるとは思わなかったし。
(でも、ま。それにこうして対抗できるのも、身体《からだ》が丈夫《じょうぶ》になった証拠)
対抗?
そこまで考えて、由乃は絶望的になった。今日はこれからどうやって戦えばいいのだ、と。
こうなりゃ、その辺にいるリリアンの生徒ひっ捕まえて「妹です」って突き出すか。
それとも、妹は風邪《かぜ》をこじらせて今日は来られません、と仮病を使うか。
「終わったよ」
「え」
「先鋒《せんぽう》勝ち、次鋒《じほう》負け、中堅《ちゅうけん》勝ち、副将《ふくしょう》勝ち、大将《たいしょう》勝ち。で、予選突破」
田沼ちさとが、呆《あき》れたように言った。
「ちょっと、しっかりしてよ。決め手はともかく、それぞれの勝敗くらいそらで言えなきゃ、令さまががっかりするわよ」
「すみません。お世話になります」
勝ち負け勝ち勝ち勝ち。よし、覚えた。
令ちゃんが面《めん》を決めたところは見た気がするんだけれど、あとは本当に覚えていないんだから重傷だ。
決勝こそはちゃんと見ないと。本当にまずい。
決勝は大方の予想通り、リリアン女学園と太仲《おおなか》女子高等学校が勝ち上がってきた。
(いるいる)
太仲の田中《たなか》三姉妹の次女と三女。次女は大将のようだから、令ちゃんと当たることになる。
(闘志むき出しだわ)
去年、実の姉が最後判定で令ちゃんに敗れたリベンジ、とでも思っているのだろうか。中堅の三女までがメラメラしている。
由乃もメラメラ返しを試みたが、田中姉妹は選手でもない下《した》っ端《ぱ》部員なんか目じゃないようで、まったく気づいてもらえなかった。何だか無性に傷ついた。
試合が終わったら、後片づけをすべてエスケープしてまずはこの場を逃げることにしよう、と由乃は決めた。
逃げた後のことは、逃げてから考えればいい。江利子さまが諦《あきら》めて帰るまでかくれんぼをするか、途中でリリアンの一年生を拝み倒して妹の振りをしてもらうか。その場の成り行きに任せることにした。
一応決心したことで、次からはどうにか試合を見ることができそうだった。
太仲女子高等学校とリリアン女学園による決勝戦が、いよいよ始まる。
令ちゃんが気持ちよく勝つところを、しっかり目に焼き付けておかなくちゃ。
3
「――――」
勝利校の中にいる敗者と、敗北校の中にいる勝者は、どっちがより気の毒なのだろう。
まさか決勝戦が、こんな結果になるとは。由乃《よしの》は、選手たちにかける言葉も見つからなかった。
だって、リリアンが負けるなんてこと、思ってもみなかったのだ。
ドラマだって、小説だって、スポコンの主人公は、挫折《ざせつ》しかけたりアクシデントに見舞われたりしながら、最後は必ず勝利を手にするものだ。だから、リリアンが負けるわけない。心のどこかで、信じていた。
けれど、太仲《おおなか》の剣道部員からすれば、主人公は彼女たちなわけだ。予選で敗れた田倉沢《たくらざわ》高校や、|月見ヶ丘《つきみがおか》高校にしても同じだろう。世の中というものは、立っている場所によって見え方が違うということだ。
令《れい》ちゃんは勝った。けれど、リリアンは負けた。
副将《ふくしょう》同士の対戦が終わった時点で、すでに先鋒次鋒《せんぽうじほう》副将と三勝していた太仲の優勝は決まっていたのだ。
「令ちゃんは格好よかったよ」
「うん。そうでしょ」
令ちゃんは意外にサバサバしていて、負けた選手たちを気遣う余裕《よゆう》すら見せていた。今日負けたことで、明日はもっと強くなるんだよ、って。泣かせるね。
泣かせるといえば、優勝した太仲の大将|田中《たなか》(次女)さん。顔を真っ赤に腫《は》らして号泣していた。どうひいき目に見てもうれし泣きではないので、令ちゃんに負けたことがよほど悔《くや》しかったと見える。
顧問《こもん》の先生らしき人や部員たちに囲まれて、退場していった。
そんなこんながあったから、由乃はすっかり出遅れてしまった。予定では、試合が終わったらすぐに姿をくらますつもりだったのに。
あわてて、さっきまで江利子《えりこ》さまがいた席を見る。三人官女《さんにんかんじょ》のように並んでいた聖《せい》さまと蓉子《ようこ》さまの間に、ぽっかり空席ができている。
(しまった!)
どうする。決行するか、予定を変更するか。
迷いながら急ぎ客席全体に目を走らせると、立ち往生《おうじょう》する江利子さまの姿が。試合が終わった直後だから、人の波ができていてなかなか出口にたどり着けないでいるのだ。
「ごめん、お先っ」
部の荷物を田沼《たぬま》ちさとに押しつけて、由乃はダッシュで駆けだした。試合場を突っ切れば、江利子さまより先に出口を突破できる。
「こら、待て。由乃っ」
退場ラッシュの中から聞こえるは、間違いなく江利子さまの怒声《どせい》。由乃が逃げようとしていることは、すでにあちらさんにはバレバレだ。
「すみません、通してください」
由乃は出口付近の人波をかき分けて、どうにかこうにか体育館の通路に出た。
(右か、左か)
右は通路の先に階段。左はロビー、抜ければ建物全体の玄関。
道は、どちらかというと左が混んでいるが、大差ない。
「よし、決めた」
由乃は右を選んだ。
階段は、ロープで上への通行は禁止されていたので、下しか行けない。だが、そこには確かお手洗いがあるはずだった。個室に入ってしまえば、いくら江利子さまだってドアを蹴破《けやぶ》るまではしないだろう。
「由乃ちゃん!」
階段を下りようとした時、背後から由乃を呼び止める声がした。
振り返ってみるまでもなく、それは江利子さまの声だった。どんな神業《かみわざ》を使って、あのラッシュを抜けてきたのか。
ここが年貢《ねんぐ》の納め時か。いや、まだ諦《あきら》めちゃいけない。逃げたのは事実だが、妹の件はまだうやむやのままだ。
「江利子さま」
由乃は、ゆっくりと振り返った。
「ごきげんよう」
「何を急いでいるのかしら」
逃げた、と直接言わないのが、江利子さまの意地悪なところだ。
「えっと」
「ああ、お手洗い?」
「ええ。そう、お手洗いに」
「そうよね。まさか、妹ができなくて私から逃げるなんて、そんなこと由乃ちゃんがするわけないわよね」
江利子さまに挑発されれば、それにするりとのってしまうのは毎度のこと。
「まあ、江利子さまは私を見くびっておいでですか」
これで、完全に由乃の退路は断たれた。「ごめんなさい」と可愛《かわい》く謝って、許してもらうのはもう無理だ。
「じゃ、妹はできたのね」
「も、もちろん」
本当は、できていません。けれど、もうそんなレベルではない。由乃は、どんどん袋小路《ふくろこうじ》に追いつめられていく。
「ところで、ロザリオは修学旅行で買ってきた?」
「え……? いえ」
「じゃ、妹さんには、令からもらった物を?」
「はあ」
よくよく考えてみれば、ロザリオは修学旅行で買ってこなくても、入手先はいろいろあるのだ。だが、切羽詰《せっぱつ》まっていた由乃は、考えが追いつかず、イタリアで買ってこなかったのだから、妹には令ちゃんからもらった物をあげたはずだろうと、架空のストーリーを作り出していた。
しかし。
「おかしいわね。それ、ロザリオじゃないの?」
江利子さまが、由乃の衿《えり》もとから覗《のぞ》いている鎖《くさり》を指さした。ダッシュしたり人波をかき分けたりしているうち、ロザリオが飛び出しそうになってしまったらしい。
「ええ。ロザリオです」
由乃は余裕《よゆう》があるように見せようと、わざわざ首から外して、右手から左手、また右手、と手の平の上を転がした。
「実は、儀式は江利子さまの前でと思って、まだしていないんです」
どういうわけか、口から出任《でまか》せがすらすら出てくる。
「まあ、うれしいことを言ってくれるじゃないの。で、肝心《かんじん》の妹さんは?」
そうだ。肝心《かんじん》の「妹さん」がいない。
「妹は――」
由乃は、江利子さまから視線をそらした。ちょうどそこに張り紙があって、そこに書かれていたのが斜め下向きの矢印と「お手洗い」の文字。
「今、お手洗いに」
見えた物をそのまま言うなんて芸がないが、切羽詰《せっぱつ》まったら何でも利用するしかない。
「お手洗い?」
「ですから私、江利子さまにご挨拶《あいさつ》させようと、急いで迎えに来ましたのよ。ええ、お手洗いに用があったのは私ではなく、実は妹なんです。それにしても遅いこと、混んでいるのかしら。ちょっと見てきます」
由乃は階段を駆け下りた。けれど、それを見逃してくれる江利子さまではない。
「待って私も行くわ」
「いえ、それには及びません」
「遠慮《えんりょ》しないで」
「してません、って」
階段を上がってくる人たちの間をぬって、ひたすら下りる。下りきった廊下《ろうか》の壁に、再びお手洗いのマークと今度は左向きの矢印が。
(左!)
あの曲がり角の先に、目指すトイレがある。
幸い、通路上の人気《ひとけ》は途絶えている。一気に曲がって、突き放せ。
そして、由乃は曲がった。
その瞬間、目の前に突然人が現れる。出会い頭《がしら》の事故。そんな言葉が頭に浮かぶ。けれど、そこにいた人は、いとも簡単に身をかわし、急ブレーキをかけた由乃だけがつんのめって転んだ。
「痛たたたた……」
「大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
そう言って顔を覗《のぞ》き込んできたのは、ピンクのトレーナーを着たセミロングの髪の少女だった。
「きれいなロザリオ」
いつの間に拾ったのか、彼女は由乃が転んで床に手を着く瞬間に手放したロザリオを、電灯にかざしてつぶやく。
そりゃ、きれいなはずだ。令ちゃんがわざわざ由乃のために、肌の色によく似合うロザリオを選んでくれたんだから。鎖《くさり》に、ダークグリーンの色石がついているやつだ。
うっとりとした目をしてロザリオを手の平で転がす少女の姿を眺めながら、由乃は「この子、どこかで見たことがあるような気がする」と思った。
どこでだったろう。記憶ははっきりしない。でも、漠然《ばくぜん》とまったく知らない人ではないような気がするのだ。もしかしたら、直接会ったのは初めてなのかもしれないけれど。
「あ、ごめんなさい。お返ししますね」
視線に気づいた少女が、あわててロザリオを差し出すので、由乃はその手の平から摘《つま》み上げた。江利子さまが曲がり角から姿を現したのは、まさに二人の手と手が触れあった瞬間だった。
「よしのちゃ――」
由乃を追いかけてきたはずの江利子さまは、二人の姿を見ると、なぜか電池切れのようにその場に立ちつくした。だから由乃も、つい逃げるのを忘れてしまった。
「まさかその子」
その時、やっと由乃にも理解できた。江利子さまは、たまたまここに居合わせた彼女を、由乃の妹だと勘違《かんちが》いしているのだ。
トイレに行った妹を迎えにきた由乃と、トイレを出た廊下《ろうか》で向かい合う少女。おまけに、二人の手はどちらも一つのロザリオにかかっている。
「ええ、まあ」
由乃はうなずく。うなずいて視線が下にさがったその時、天は自分に味方したと確信した。
[#挿絵(img/20_193.jpg)入る]
今由乃の隣《となり》にいる女の子は、ピンクのトレーナーにばかり目がいってしまっていたが、実は下にリリアンの制服を着ていたのである。
由乃は少女に、小声で「話を合わせて」と囁《ささや》いてから江利子さまに言った。
「紹介しますわ。彼女が、私が妹にしたいと思っている子です」
「そう」
名前を聞かれる前に少女が自己紹介したので、正直由乃は助かった。
「有馬《ありま》菜々《なな》と申します。初めまして」
アリマナナ。
聞いたことがない名前だった。
有馬菜々。
漢字を聞いても、ピンと来ない。だから、さっき、どこかで見たことがあると思ったのは、気のせいだったのかもしれない。
「そう。菜々ちゃんね、覚えておきましょう」
ではこれで、と有馬菜々を連れてこの場から去ろうとしたのだが、やはり江利子さまは許してくれなかった。
「私の目の前で儀式をしてくれるんじゃなかったの?」
「あの、それはいずれ。今日のところは、紹介ということで」
儀式は江利子さまの前で、とは確かに言った。だが、今日するとは言っていない。
たとえその場しのぎのお芝居《しばい》だとしても、由乃は令ちゃんがくれたロザリオを、無関係の女の子の首にはかけたくはなかった。
「なぜ? ついでですもの、済ましてしまいましょうよ」
疑っているのだろうか。それとも、面白がっているのだろうか。江利子さまは、なかなかにしつこい。
「それは……、いろいろと事情がありまして」
「事情?」
江利子さまは、今度は由乃ではなく有馬菜々の顔を見た。すると、菜々が言った。
「申し訳ありません。私の方の事情で、今すぐロザリオをお受けすることができないんです」
「その事情が何だか気になるわね」
「いろいろです」
「いろいろ、ね」
江利子さまは値踏みするように、菜々を上から下まで眺めた後「わかったわ」とうなずいた。
「いろいろ、なのね。納得しましょう」
途中でボロがでやしないか、と由乃は正直ハラハラしながら成り行きを見守っていた。だが、菜々は意外なほどに冷静に受け答えし、ついには江利子さまを黙らせてしまった。
「そういえば、由乃ちゃん。体育祭で言っていた、気になる一年生はどうしたの?」
「は?」
だから、それがこの有馬菜々なのではないか(嘘《うそ》だけれど)。江利子さまは、何を勘違《かんちが》いしているのだろう。
「ま、いいでしょう。こっちの方が、むしろ面白くなりそうだから」
何を一人で完結してしまっているのか。江利子さまは意味ありげにニヤリと笑って、踵《きびす》を返した。
「さて。私はそろそろ失礼しようかな。蓉子と聖が、今頃ロビーで待ちくたびれているはずだから」
ということは、無事乗りきったということだろうか。由乃は、思わず万歳三唱《ばんざいさんしょう》したくなったが、そこをグッと押さえた。
「ごきげんよう、由乃ちゃん。妹を紹介してくれたご褒美《ほうび》に、しばらくはそっとしておいてあげるわ」
「そんなこと言わずに、いつでも遊びに来てくださいよ」
と笑顔で答えながら、由乃は(もう百億年来るな)と心でつぶやいていた。後ろ姿に舌を出してやろうと思ったところで、突然江利子さまが振り返った。
「あ、そうだ。あなた……菜々ちゃん」
「はい」
「身だしなみはきちんとね。トレーナーの中を直しなさい」
そう言い残して、江利子さまは元来た道を戻っていった。通路の先の階段へと姿が消えたところで、「もう安心」と由乃は菜々に向き合いお礼を言った。
「ありがとう、助かった」
だが、菜々が言うには。
「――でも、ないと思いますよ。あの方、ちゃんと見破っていましたもの」
「何を?」
「私に、資格がないこと」
「資格が、ない?」
何の、って。そりゃこの場合、由乃の妹になる資格以外にないだろうけれど。でも、たった今会ったばかりで、言葉も少し交わしただけなのに、どうして資格があるかないかを判断できるのだろう。
「リリアンの制服は目立つので、トレーナーを被《かぶ》って応援していたんですけれど。失敗しました。いつの間にかリボンがほどけていたのに、気づきませんでした」
ほら、と、トレーナーをめくって見せる菜々。その時、由乃の目に映ったものは――。
「あ、あなた」
自分の着ている制服とほとんど同じだが、決定的に違う胸もと。
「中等部の生徒だったのっ!?」
由乃は指をさして叫んだ。セーラーカラーのラインからつながる黒くて細いリボンは、中等部の印だった。
「はい。三年生です」
「ああ」
別に本当に妹にするわけではないのだから、中等部だろうと高等部だろうと構わないのだろうけれど。何だか、知った途端一気に脱力した。江利子さまに見破られたという事実も、それに追い打ちをかける。
「それじゃ、私も失礼します」
菜々は、トイレから出てきた連れらしい女子高生に手を上げて合図すると、由乃に軽く頭を下げた。
「支倉《はせくら》令さまの妹さま」
離れ間際、菜々が真顔で言った。
「あなたの妹は、そのロザリオをもらえるんですか」
「え?」
菜々が返事を待たずに去ってしまったからよかったようなものの、もし答えるだけの時間があったなら、自分は何と言っただろう。――由乃は、心臓がドキドキした。
何もしていないのに、こんな風になるなんて。手術以来初めてだった。
そんな状態だったから、菜々の連れが太仲女子の制服を着ていることについても、「なぜ?」と疑問に思う余裕《よゆう》すらなかったのである。
4
「由乃《よしの》さん」
肩を叩かれて我に返ると、そこに祐巳《ゆみ》さんが立っていた。
「何でここに?」
「江利子《えりこ》さまが、トイレの前にいる由乃さんを迎えにいってやって、って。それよりどうしたの、ぼんやりしちゃって。正面から歩いてきたのに、私のこと全然見えてなかったでしょ」
「……うん」
まるで、夢をみていたようだ。どの辺からかっていうと、江利子さまと追いかけっこをしていたくらいから。でも、江利子さまが祐巳さんを迎えに寄越《よこ》したのであれば、全部現実ということになる。追いかけっこしただけで、江利子さまが由乃を解放してくれるわけはなく、そうなると有馬《ありま》菜々《なな》という女の子も実在しないとおかしい。
「で、どうなった?」
祐巳さんが、興奮気味に尋《たず》ねる。
「江利子さま、謝ったら許してくれた?」
謝るも何も。
「ちゃんと紹介したもの」
「えっ。いったい、誰を!?」
妹候補のどちらかが会場に来ていたのか、って聞くから、どっちも来てないって答えた。すると祐巳さんは、かなり驚いていた。当然だけれどね。この成り行きには、由乃が一番ビックリしているんだから。
「有馬菜々」
「え?」
「有馬菜々っていう子」
「いつの間に……、私、聞いていないよ」
抗議する祐巳さん。江利子さまに紹介するしないはともかく、そういう一年生がいるという情報くらい、事前に教えてくれても罰《ばち》はあたらないだろう、と。まあ、それも親友としては当然の主張だろう。でも。
「教えたくても、さっき会ったばかりだから」
「――」
それには、さすがに絶句していた。
「どんな子だか、これから調べるのよ」
「由乃さん……いったい、何があったの」
不安げな顔をする祐巳さんに、「それが、よくわからないんだ」とだけ答えた。
本当に何が起こったのか、よくわからない。そして、これから何が起ころうとしているのかも。
「ただ一つ言えることは、祐巳さんにはできるだけ速《すみ》やかに妹をつくってもらいたい、ってことだけよ」
「えっ。何それ」
「だって万が一のことがあったら、乃梨子《のりこ》ちゃんがかわいそうじゃない」
万が一。
もしかしたら、そういう選択|肢《し》だってあるのかもしれない。
由乃は、その時|聖《せい》さまのことを考えていた。
[#改ページ]
収穫
1
「いろいろって、本当にいろいろ問題がありすぎるよ、あの子」
明けて月曜日。
朝、祐巳《ゆみ》は二年|松《まつ》組の扉を開けて入るなり、そこで待ちかまえていた由乃《よしの》さんに、「ごきげんよう」もなく教室の隅まで連れてこられた。
「聞いて、祐巳さん。あの有馬《ありま》菜々《なな》ってね。田中《たなか》さんの妹だったのよ、実の」
「田中さんて? 何組の田中さん?」
日曜を挟《はさ》んですっかり気分がリセットされていたから、有馬菜々が誰だったか思い出すのにも多少時間がかかった。その上、田中さんってどちらさま?
「何組って。違う違う、リリアンじゃなくて太仲《おおなか》女子だって。太仲の田中三姉妹だか四姉妹だかの、一番下だったのよ。どこかで見たことがあるって思ったのは、令《れい》ちゃんのスクラップに貼ってあった新聞記事の写真だったんだわ」
当然誰でも知っているもののように話を進められてしまっているのだが、残念ながら祐巳には太仲の田中三姉妹も四姉妹も初耳《はつみみ》だった。想像力をフル回転して理解に努めた結果、つまりは由乃さんが妹として江利子《えりこ》さまに紹介した有馬菜々という人は、決勝戦で令さまと戦った太仲の田中さんと関係があるということがわかった。
「でも、有馬なんでしょ?」
「そうよ。だから、騙《だま》されたって言ってるの」
騙されたなんて、言ってたっけ? ――と首をひねりつつ、祐巳は話を続けた。
「じゃあ、田中有馬菜々って名前なの?」
「田中が苗字《みょうじ》で、有馬菜々が名前? そりゃすごいね」
由乃さんは鼻で笑った。
「お祖父《じい》さんの苗字が有馬で、そのお祖父さんの養女になったから田中じゃないんだって。でも、三世代同居しているから、養女といっても名前だけの話で、生活は田中姉妹と何も変わらないのよ。違いといったら、お祖父さんのたっての希望でリリアンに入ったくらいなもので」
「ほう」
土日の二日間で、由乃さんはずいぶんと調べあげたものである。
「ほう、じゃないでしょ。それがどういう意味かわかる?」
「まったくわかりません」
由乃さんの推理は、次の通りだった。
「菜々のお祖父さんは、支倉《はせくら》の家よりずっーと大きな道場とずーっと大勢の弟子をもってるの。たくさんいる孫娘の中から、一番下の菜々を養女に選んだということはよ? いずれは菜々に後を継がせようと思ってのことでしょ。それは即《すなわ》ち、菜々には姉たち以上に剣道の才能があるということ。違う?」
違う? と聞かれても困る。祐巳は剣道のことも、道場のことも、養子縁組のことも、すべてにおいて疎《うと》かった。
「じゃ、やめたら? 自分より強い妹は嫌なんでしょ」
「……」
「おまけに、二つ下だって話じゃない。そんな面倒な子を妹にすることないよ。令さまだって、卒業した後じゃ妹の妹を可愛《かわい》がれないし」
「令ちゃんの妹じゃないでしょ!」
言った後で、由乃さんは「しまった」というような顔をした。
「ほら、やっぱり気に入っているんじゃない」
祐巳は笑った。
「鎌《かま》かけたな」
恨《うら》めしそうに言う由乃さん。
「まあね」
由乃さんは「問題ありすぎる」って言いながら、どうしても有馬菜々のことを切り捨てられないでいることくらい、見ていればわかる。それこそ「親友を舐《な》めるなよ。それくらいお見通しさ」なわけだ。
「気に入っているというか……」
由乃さんは、つぶやいた。それから自分の心に問いかけるように、静かに中等部校舎の方角に視線を向け、やがてはっきり宣言した。
「わかった。三年生になっても妹ができていなかったら、その時は私、有馬菜々を妹にする」
2
「――と、言っています」
銀杏《いちょう》の並木道を歩きながら、祐巳《ゆみ》は祥子《さちこ》さまに由乃《よしの》さんの妹騒動の顛末《てんまつ》を伝えた。
その日の放課後。
今日は薔薇《ばら》の館での集まりがなかったので、久しぶりに紅薔薇姉妹二人は水入らずで下校したのだった。
「それで?」
祥子さまは尋《たず》ねる。
「それで……。私は、ますます追い込まれました」
「そのようね」
風は冷たく、落ち葉を気まぐれに巻き上げていく。
マリア像の立っている小さな庭には、比較的|常緑樹《じょうりょくじゅ》が多い。だが、それでも何種類かは紅葉して葉を落とした後で、何となくマリア様の回りも寒々として見えた。
それでもマリア様は、いつもと変わらずやさしいほほえみを浮かべて生徒たちを見守ってくれている。
「あなたの方はどうなったの?」
「私は」
合わせた手をもとに戻してから、祐巳は答えた。
「私は今日、一年生三人のクラスを訪ねて、もう手伝いに来なくていい旨《むね》伝えました」
「あなたがわざわざ出向かなくても、もう誰も来なくなっていたのではなくて?」
令《れい》さまの試合に来なかったのがそれを裏付けている、と祥子さまは言う。応援に行けないなら行けないと、一言断って然るべきだ、と。
「でも、気にしていたかもしれないから」
「……そうね。あの子たちは、ホッとしているかもしれない。私にしてみれば、あなたはかなりお人好《ひとよ》しに見えるけれど」
祥子さまは妹候補だった一年生たちを批判したけれど、ただでさえ薔薇《ばら》の館という特殊な場所で緊張していたんだから、なかなか自分から「もう来ません」とは言いだせなかったのかもしれない。
祐巳は、この縁が実を結ばなかったことを残念に思うことはあっても、彼女たちに未練はなかった。
もし、彼女たちがまだ薔薇の館に手伝いに来ようと思っていたとしたら、祐巳の「来なくていい」という言葉を、すんなりと受け入れはしなかったろう。――だから。
「まあ、いいわ」
祥子さまは、それ以上責めなかった。けれども、祐巳に妹を作らせることを諦《あきら》めたわけではないらしい。今のところは、これくらいで勘弁《かんべん》しておいてあげましょう。そんな感じだ。
「あら? あれは」
つぶやく祥子さまの視線の先を祐巳も目で追うと、グラウンドに向かう蔦子《つたこ》さんと、後ろをついて歩く笙子《しょうこ》ちゃんの姿が木々の合間から小さく見えた。
「あそこは?」
どうなの、と、祥子さまが尋《たず》ねる。
「まだみたいですよ」
笙子ちゃんは、蔦子さんを追いかけてとうとう写真部に入ってしまった。でも、今のところはそれだけ。ロザリオ云々《うんぬん》という話は、祐巳もまだ聞いていない。
蔦子さんのところはまだだけれど、茶話会《さわかい》がご縁で姉妹となったカップルがまた一組増えたことは報告しておかないと。
それは意外なことに、真美《まみ》さんと日出実《ひでみ》ちゃんなのだった。元々同じ新聞部で親しくはあったが、茶話会をきっかけに、互いを姉、妹として仮定してみたらピッタリはまったようである。
だが二人は、『リリアンかわら版』紙上の追跡取材で自分たちを「茶話会姉妹」としてカウントすることを、頑《がん》として拒否している。たぶん、照れくさいのだろう。何にしても、目出度《めでた》いことだ。
「私ね、お姉さま」
祐巳は今の気持ちを、祥子さまに伝えたかった。
「茶話会をやってよかったと思うんですよ。妹はできなかったけれど、やる前よりもずっと妹のことを真剣に考えるようになりました」
「あら、どんな風に?」
「何も、複雑なことはないんですよね。お互いに大好きだって思える相手に出会ったら、それでいいと思います」
「そうね」
歩きながら、静かに祥子さまはうなずいた。
「それは単純だけれど、意外と難しくて、そして一番大切なことだわ」
大好きが一番。そう言ってくれたのは、祐巳の一番大好きな人だ。
「祐巳」
祥子さまは、そっと手をつないで言った。
「私たちみたいに、そう思える妹を見つけなさいね」
「はい」
ほほえんで、祐巳は背の高い校門をくぐった。
さわやかで、やさしくて、せつなくて、胸が高鳴る。
この感じ。
お姉さまに、わかってもらえるだろうか。
[#改ページ]
あとがき
これは、右(↑)に書いてある通り「あとがき」です。
読者が本編を読んだ後にたどりついたという前提のもと、話をしますので、ネタばれなどあるかもしれません。
それだと支障があるな、と思われた方はお戻りください。
それでも一向に構わない方、このままお進みください。
こんにちは、今野です。
ついに、『妹《スール》オーディション』。タイトルだけ見ると、ぶっ飛んでますね。
新刊案内などで事前にタイトルを知っていた方は、「あんな話」「こんな話」と、いろいろ想像して楽しめたのではないでしょうか。
例えば。
応募者「一番、○○です。身長百七十センチ。スリーサイズは、上から九十五、五十八、九十三(ちなみに某《ぼう》グラビアアイドルのサイズ)」
審査員「サバを読むのもいいかげんになさい!」
あるいは。
応募者「特技は、鼻からおうどんをいただくことです」
審査員「……見せてもらおうじゃないの」
[#地付き]――なんてね。
どういうわけか、この場合の審査員は祥子《さちこ》の顔しか浮かびません。
漫才でいえば、祥子は基本的にはボケだと思うのですが、突っ込みのセリフだけはピシッと決まるから。逆に祐巳《ゆみ》は一見ボケなんだけれど、本質は突っ込みなんじゃないかな、と思います。
隠れボケ隠れ突っ込みの紅薔薇漫才。見てみたいような、隠しておきたいような。いつの間にか両方ボケて、収拾《しゅうしゅう》がつかなくなったりして。
白薔薇姉妹は、完全に志摩子《しまこ》がボケで乃梨子《のりこ》が突っ込みです。
黄薔薇姉妹は、どっちがどっちだか迷いますが、たぶん由乃《よしの》が「ボケをやりたい」と言って押し切るだろうな。で、基本的には夫婦《めおと》漫才。締《し》めのセリフは「もう、あんたとはやってられへんわ」、一呼吸あって「どうもありがとうございましたー」(←しかし、なぜに関西弁?)。
冗談はさておき。
今回のお話を書いて、思ったこと。
「もし、私がリリアン女学園高等部一年生で、祐巳(由乃)に憧《あこが》れていたら。果たして、茶話会《さわかい》に応募するだろうか」
で、結論からいうと。
今の自分だったら、応募すると思います。だって面白そうだから。話の種に、という感じですね。別に、|つぼみ《ブゥトン》の妹に選ばれなくても「ま、しょうがない」と気持ちを切り替えられるような気がします。もちろん、ショックはショックなんですが。
十五、六の頃の自分だったら、たぶん応募しない気がします。理由は、傷つくのが恐いから。祐巳(由乃)に妹として選ばれなかったら、自分の存在自体を否定されたくらいに落ち込むと思うんですよ。
どうしてあの頃はあんなに真剣で、不思議なくらい周りが見えなくなって、二者択一でしか物事を考えられなくて、いろいろなことを許せなかったんでしょう。それが若さ、ってやつかもしれないけれど。
みんながみんなとは言いませんが、女の子にはそういう時期があると思います。時代は変わっても、人間の成長過程はそれほど変わってないんじゃないかな。いただくお手紙の中に、時折、喜怒哀楽が激しかった中学高校時代の同級生たちの姿を見つけて、懐かしくなることがありますから。
だから蓉子《ようこ》のような、優等生で達観しているような存在は、非常に珍しいサンプルです。反抗期がなかったはずはないから、彼女の場合、早くきておまけに短かった、ということにしておきます。
というわけで、茶話会につぼみ目当てで参加した一年生は「行動力があるな」と、私は感心してしまうのでした。
はーい、注目(やたらと張りきる若い女教師口調で)。
今回、一年生キャラがたくさん出てきましたが。その中で、内藤《ないとう》笙子《しょうこ》。もしや、忘れられているかも、と心配になったのでここらで一応おさらいをしておきまーす。
覚えている人は、この辺すっ飛ばしてもいいですよー。
彼女は、新キャラではありません。『バラエティギフト』の「ショコラとポートレート」に出てきた、写真うつりが悪くて悩んでいた女の子でーす。
ちゃんと覚えておくように。これは試験に出ますよー(嘘《うそ》)。
さて。
今回はあとがきのページ数が多いので、小説の内容から離れて、たまには私の身の回りに起きたことなどをつらつらと。
雑誌Cobaltにもちょこっと書いたのですが、最近、我が家の庭にメジロが二羽やって来るようになりました。寒い時期だったので食糧難なのか、リンゴのかけらなんて木に吊《つる》しておいてやると、喜んで食べてくれました。
あ、メジロってわかりますか? ウグイスみたいな色の小鳥です。目の回りが白いので、メジロってそのままの名前がつけられちゃった鳥。
可愛《かわい》いな、なんて家の中から眺めていたのですが、そうしたら今度はその何倍もの大きさの鳥がやって来たのです。ヒヨドリでした。
メジロはスズメよりももう少し小さい感じで、ヒヨドリはハトよりちょっと小さい感じ。当然、ヒヨドリの勝ち。身体《からだ》が大きければ食べる量も半端《はんぱ》じゃありません。リンゴなんて、すぐになくなってしまって、メジロの食べる分が残りません。
野鳥相手に贔屓《ひいき》も何もないでしょうが、私はメジロを応援したくなりました。自分がホビット族の出身(笑)なもので、小さい者が大きい者と戦っていると、どうしても小さい方にエールを送ってしまうのです。昔から、小兵《こひょう》力士が大好きだし。
で、メジロを応援するといっても、別にたいしたことはしません。ただ、ヒヨドリが来たらその姿をじっと見る。それだけ。ヒヨドリはお食事タイムを見られるのが嫌いみたいで、ちょっと食べたらすぐに退散してしまうのです。そうしてメジロがやって来ると、今度は窓ガラスの側には絶対に行かない。メジロもお食事タイムを見られるのが嫌いだから。
この作戦の残念なところは、可愛いと思っているメジロの食事風景を、近くでじっくり眺められないということです。ああ、ジレンマ。
最近は、温かくなって餌《えさ》が豊富にあるのか、どちらもあまり姿を見せません。寂しい反面、少しホッとしています。
むやみに野生動物に餌をやって、って。何となく、志摩子さんに叱《しか》られそうな気がしていたので。
でも、また冬になったら禁を破るんでしょうね。
[#地から1字上げ]今野緒雪
底本:「マリア様がみてる 妹オーディション」コバルト文庫、集英社
2005年 4月10日第1刷発行
このテキストは、
(一般小説) [今野緒雪×ひびき玲音] マリア様がみてる 第20巻 「妹オーディション」.zip tLAVK3Y1ul 28,003,635 2fead1b92dadbe9e2fa724ac2961e263を元に、OCRと手打ちの2種類のテキストを作成し、両者をエディタの比較機能で比較して差異を底本と照合、修正する方法で校正しました。
毎度のことながら、画像版の放流神に感謝します。
*********** 底本で気になった部分 ***********
底本p027
帰っていったらししい。
どみみ、みそそ、れふぁふぁ、らししい♪
底本p056
お手伝いさせていただだきます。
いただきます。
底本p058
「『今回の〜』
"」"で閉じ忘れ。
底本p154
笑いながら、向こうに言ってしまう祐巳さま。
向こうに行ってしまう
底本p176
親知らず
「親不知」なのか「親知らず」なのかと思って検索してみましたが、
医療系のページでは「親知らず」のようです。黄薔薇革命では「親不知」
だったので、あっちが専門用語的には間違いのようです。
底本p204
支倉の家よりずっーと大きな道場とずーっと大勢の
「ずっーと」と「ずーっと」。やっぱりどちらも「ずーっと」でしょう。
********************************************