マリア様がみてる
イン ライブラリー
今野緒雪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)朝の挨拶《あいさつ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)純粋|培養《ばいよう》お嬢さま
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)「瞳子ちゃん[#「瞳子ちゃん」に傍点]、で失礼いたしました。
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[#挿絵(img/19_000.jpg)入る]
もくじ
イン ライブラリー―T
静かなる夜のまぼろし
イン ライブラリー―U
ジョアナ
イン ライブラリー―V
チョコレートコート
イン ライブラリー―W
桜組伝説
イン ライブラリー―X
図書館の本
イン ライブラリー―Y
あとがき
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[#挿絵(img/17_004.jpg)入る]
[#挿絵(img/17_005.jpg)入る]
[#地付き]イラスト/ひびき玲音
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マリア様がみてる イン ライブラリー
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「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶《あいさつ》が、澄みきった青空にこだまする。
マリア様のお庭に集《つど》う乙女《おとめ》たちが、今日も天使のような無垢《むく》な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
汚《けが》れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。
スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻《ひるがえ》らせないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
私立リリアン女学園。
明治《めいじ》三十四年創立のこの学園は、もとは華族《かぞく》の令嬢《れいじょう》のためにつくられたという、伝統あるカトリック系お嬢さま学校である。
東京都下。武蔵野《むさしの》の面影《おもかげ》を未だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎《ようちしゃ》から大学までの一貫《いっかん》教育が受けられる乙女の園。
時代は移り変わり、元号《げんごう》が明治から三回も改まった平成《へいせい》の今日《こんにち》でさえ、十八年通い続ければ温室育ちの純粋|培養《ばいよう》お嬢さまが箱入りで出荷される、という仕組みが未だ残っている貴重な学園である。
図書館って、夢でできたお城だと思う。
その住人である本たちと、できるだけお友達になれたらいい。
中には、気むずかしかったり、人見知りしたりする本もあるかも知れないけれど。一度お友達になれたら、一生もののおつき合いが出来るかもしれない。
忘れないで。
本に生まれたからには、その子たちは、誰かに読まれることを待ち続けているんだってことを。
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イン ライブラリー―T
それは、学園祭が終わった翌々日の火曜日の放課後のこと。
当日に時間の都合で搬出《はんしゅつ》しきれなかった、劇で使った諸々《もろもろ》の道具などを、由乃《よしの》さんと志摩子《しまこ》さんと乃梨子《のりこ》ちゃんと三人で体育館に取りにいって、薔薇《ばら》の館《やかた》の一階に片づけ終えてほっと一息ついたところで、祐巳《ゆみ》はとてつもない睡魔《すいま》に襲われた。
「祐巳さん?」
二階へ続く階段を上る足取りも、徐々にスローペースになる。少し前を歩いていた志摩子さんが、それに気づいて振り返った。
「どうかして?」
「何かさ、突然すごく眠くなっちゃって」
「具合が悪い?」
志摩子さんは祐巳のおでこに手を当てて、「平熱ね」とつぶやいた。
「だから、ただ眠いだけなんだってば」
祐巳は「ふああああ」と生あくびをした。
「ちょっと。昨日、ちゃんと休養をとらなかったの?」
由乃さんが階段を下りてきて、会話に加わった。
昨日は月曜日で全国的には平日だったけれど、リリアン女学園は一昨日の日曜日が学園祭だったため、その代休だったのだ。
しかし、「何のための振り替え休日よ」と正論をかざす由乃さんだって、実際昨日は休養なんてとらずに、令《れい》さまと遊びに出かけたのだということを祐巳は知っていた。平日の午前中の映画館は空《す》いていてすこぶる快適だったと、今朝方《けさがた》自慢げに話していたから。
「家族が通常の活動をしていると、寝坊とかしていられないものね」
志摩子さんがフォローしてくれたけれど、そのへん祐巳はまったく気にせず寝ていられるタイプなのであった。また、福沢《ふくざわ》家もそれを許してくれる家風である。
「……というより、うまく眠れなくてね。昼間とろとろしてたんだけど、夜になると目がさえちゃって。ちょっと時差ボケに似てるかな」
すると、由乃さんがすかさず言葉をはさんだ。
「布団《ふとん》の中で、学園祭の一人反省会とかしてたんじゃないの? 祐巳さんて、ぐじぐじ悩むタイプだもんね。あーすればよかった。こーすればよかった、って」
「……なこと」
ない、と言い切れないところが悲しい。一人反省会はちょっと違うけれど、眠りかけた時に、いろいろなことが頭の中に押し寄せて、眠れなくなってしまったのは遠からず正しい。
「きっと、まだ学園祭のお疲れがとれないんですよね」
言いながら乃梨子ちゃんが階段を下りてきて、祐巳の後ろに回ると「よいしょ」と背中を押した。
「あらら。ありがとう」
「少しは楽でしょう?」
「少しどころか」
極楽極楽、ってな具合。あ、リリアンにふさわしくない例えだったかな。でも、天国天国とはあまり言わないし。
「主役、お疲れさまでした」
可愛《かわい》いな、一年生って。志摩子さんはいいな、こんな| 妹 《プティ・スール》を早々と見つけられて。
(……あれ?)
まずいぞ。何か、これは――。
「祐巳さんって」
志摩子さんがつぶやいた。
「お姉さまがよくご指摘なさっていたけれど、本当に表情がよく変わるのね」
「へ?」
出ました、久々「百面相《ひゃくめんそう》」?
「乃梨子に背中を押されながら、何か嫌なことでも思い出した」
「どうして?」
「機嫌よさそうにしていたのに、一瞬表情が曇ったのよ」
「……なこと」
ない、とこれまた言い切れないのである。
侮《あなど》りがたし、親友たち。
二階の部屋に入ると、そこは温かくていい香りに包まれた空間だった。
「ああ、ご苦労さま」
「そろそろ戻ってくる頃だと思って、お茶の支度《したく》をしながら待っていたのよ」
令さまと祥子《さちこ》さまが、華《はな》やかな笑顔で四人を迎えてくれた。
「|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》のいれたお茶に、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》のお給仕!」
乃梨子ちゃんが歓喜の声をあげた。これでローズヒップティーだったら薔薇《ばら》づくしですね、なんて続けたら、本当にそうだった。さすがに、薔薇のお菓子まではなかったけれど。
「お茶くらい、いれられるわよ。私たちにも一年生の時はあったからね」
令さまが笑って、「ねえ」と祥子さまに振った。
「そうよ。お姉さまたちの味の好みを把握《はあく》したり、お気に入りのカップを覚えたり。今考えると面白いくらい必死だったわ」
「なんか、信じられませんね。|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》も|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》も、ずっと上級生だったみたいに見えますから」
そして、ため息を吐《は》く乃梨子ちゃん。確かに、祐巳も二学年上の先輩たちを見て、自分たちと同じ年齢だった頃があったなんて信じられなかったことがあった。
「乃梨子ちゃんだって、すでに上級生みたいな貫禄《かんろく》があるじゃない」
令さまが言った。
「えっ、滅相《めっそう》もない」
乃梨子ちゃんが、あわてて両手を振って否定する。
「本当よ。うちの妹は、まだまだ子供っぽくて」
「それはうちの妹も同じよ」
祥子さまもため息をつく。それにしても、紅と黄の二人の薔薇さまときたら、可愛《かわい》い妹を目の前にしてよく言えますこと。いや、側にいるからこそ言っているのかもしれないが。
「お二人だって、そのうち| 妹 《プティ・スール》ができれば自然とたのもしく……あっ」
やり玉に挙がっている親友を庇《かば》おうとしたものの、それじゃまったくフォローになってないんだって、志摩子さんは言っている途中で気がついたみたいだ。
「無理無理。特にうちの由乃なんて。早くいい報告を聞きたくて待っているんだけれど、一向に探す気配ないし。この分だったら、私は孫の顔を見ずに卒業しないといけないかも」
江利子《えりこ》さまと由乃さんの約束を知らない令さまは、のんきにカラカラと笑った。
あと一ヶ月そこそこで、期限がくる。負けず嫌いの由乃さんが、底力で妹をゲットした時、妹《由乃さん》べったりの令さまはいったいどうなってしまうのか――。他人事《ひとごと》ながら、心配になってくる。
「その点、祐巳ちゃんはいいわよね。有力候補は二人もいるし、一年生にも人気があるし。その気になったらすぐにでも」
「さあ、どうかしらね」
どうかしらね、なんて祥子さま。さらりと流してくれちゃって。「妹を作りなさい」ってプレッシャーかけたの、どちらさまでしたっけ。
「有力候補、といえば。あの二人、学園祭が終わったら本当に来なくなったね」
令さまが、乃梨子ちゃんを見て言う。乃梨子ちゃんは「有力候補」とも「あの二人」とも称される松平《まつだいら》瞳子《とうこ》ちゃん、細川《ほそかわ》可南子《かなこ》ちゃんのクラスメイトであるからして。
「どんな様子なの?」
「どんな……って。二人とも、何だか忙しくしてます」
「忙しく?」
「ええ。ですから、先程も祐巳さまがわざわざ訪ねてくださったのに、もう教室にいなかったんですよ。瞳子は部活として、可南子さんは何をしているんだか」
乃梨子ちゃんの言葉を最後まで待たずに、由乃さんが祐巳に尋《たず》ねた。「興味|津々《しんしん》」と、顔に書いてある。
「祐巳さんは、何で一年|椿《つばき》組に行ったの?」
「別に。お礼がてら、顔見にいっただけ」
「ふーん。どっちの顔?」
「どっち、って。そりゃ……二人ともだわよ」
シャーペン一本の報酬《ほうしゅう》で助《すけ》っ人《と》を引き受けてくれた二人に改めてお礼を言いたい、って思ったのは偽《いつわ》らざる気持ち。
ついでといっちゃなんだけれど、可南子ちゃんに会ったら、約束のツーショット写真をいつ撮るか決めてこようと考えていた。可南子ちゃんに特にリクエストがなければ、そのまま二年|松《まつ》組まで引っ張っていって、蔦子《つたこ》さんに撮ってもらっちゃおうかな、なんて軽いノリだった。
でも、そんなことを付け加えれば、「どっち」なんてしつこく聞いてくる由乃さんが、もっとうるさくなりそうなので黙っていた。
まったく、どうしてみんな可南子ちゃんと瞳子ちゃんのどちらかが| 妹 《プティ・スール》になるものだって考えているんだろう。祐巳は一度だってどちらかを妹に指名したことはないし、あちらから立候補された覚えもないのだが。
たぶん、前例があるからなんだろう。志摩子さんの妹《スール》になる前に、乃梨子ちゃんは薔薇の館に出入りしていた。去年、志摩子さんもそうだったらしい。
前例。前例。前例。
代々|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》には、| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》と呼ばれる妹がいて、その| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》もまた妹を作って、ってやってきた。
由乃さんじゃないけれど、そろそろ本気で考えなくっちゃいけないのかな、と祐巳は思った。可南子ちゃんか瞳子ちゃんかという限定ではなくて、さりとて二人を排除《はいじょ》するわけでもなく――。
でも、いったいどうやって作ったらいいんだろう。自分が| 妹 《プティ・スール》になった経緯を思い返したところで、祐巳にはまったく参考にならなかった。
(まさか、今この部屋を勢いよく出ていったら、ドアの向こうに一年生が立っていて、ぶつかったのが縁で……なんてことは)
ないない。
(じゃ、銀杏《いちょう》並木のマリア像の前で一年生を呼び止めて、タイでも直してみる?)
………………。
(だから、誰をー)
祐巳は机に突っ伏した。そこが、一番の問題なのである。
たくさんいる一年生の中から、どうすれば妹を見つけ出すことができるのだろう。わかりやすくマークでも付いていたらいいのに。
(そうだよ)
よしんば気に入った一年生が見つかったとして、申し込んでも断られる場合だってあるわけだし。すでにお姉さまがいる可能性だってある。
フリーでも、数ある申し込みをすべて断って独《ひと》り身を通しているような人もいるだろう。
蟹名静《かになしずか》さまみたいに。
部屋に漂《ただよ》うローズヒップティーの香りが、懐《なつ》かしい人の名前を運んできた。
――ロサ・カニーナ。
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静かなる夜のまぼろし
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マッチの炎が作り出した幻影。
それは、この世に別れを告げる少女を哀《あわ》れに思った神様の、プレゼントだったのかもしれない。
欲しいと望み、手に入らなかったものが、最後の最後にマッチ売りの少女のもとにやってくる。
――大好きだったお祖母《ばあ》さん。
翌朝、冷たくなった少女の顔は、ほほえみを浮かべていた。
だから、たとえ夢や幻《まぼろし》と呼ばれるものであったとしてもいいのだ。
他の人たちにはどう映ろうとも、彼女は確かにそれを手に入れることができたのだから。
ならば私は、炎の中に何を見るのだろう。
例えばこの世界からいなくなるその時、ほほえんでいられるためには、何が必要なのだろうか。
◆ ◇ ◆
それは、とても寒い日だった。
雪は降っていなかった。
あたりが暗くなり始めた道を、少女が一人、帽子も被《かぶ》らずに歩いていた。けれど、だからといって凍《こご》えるほどのことはない。なぜって、帽子こそないが、制服もコートも靴《くつ》もマフラーも身につけていたから。少女はマッチ売りではなかった。
(なーんてね)
いっそ雪でも降ればいいのに、と、歩きながら静《しずか》は思った。
カラカラ乾いた落ち葉を巻き上げる木枯《こが》らしは、身体《からだ》の芯まで吹き込んで、心の中にできた小さなささくれを、無遠慮《ぶえんりょ》に逆なでしていくような気がする。
それに比べれば、冷たくても雪の方がよほどいい。しんしんと音もなく降り続けて、空気中に舞い上がった土埃《つちぼこり》をそっと包み込んでくれるだろう。
「雪」
ふと目にとまったのは、ブティックの店先に置かれた樅《もみ》の木の、針のような葉っぱに点々と引っかかった白い綿。その側には、小さな長靴と星の飾り。蝋燭《ろうそく》の形を模した色とりどりのネオンも、ピカピカと点滅している。
いわゆるクリスマスツリー。今日はクリスマス・イブだ。
ジングルベル、きよしこの夜、赤鼻のトナカイ。街には、店々からたれ流されるクリスマスソングが混ざり合い、ドロドロのミックスジュースみたいで気持ち悪い。
静は、誘蛾灯《ゆうがとう》におびき寄せられる虫のように、ふらりとファッションビルに立ち寄った。
何となく書籍コーナーがある五階まで上がったものの、特に欲しい本もなかったのでそのまま引き返すと、エスカレーター脇で声がした。
「お嬢《じょう》さん」
はじめ、自分のことではないと思ったので足も止めなかった。しかし。
「あなたのことですよ。そこの、リリアン女学園のスクールコートを着た髪の長いお嬢さん」
ざっと見渡した限り、髪が長くてリリアンのコートを着た「お嬢さん」と呼ばれるような人間は、自分の他にはいなさそうである。
「私のことですか」
声のした方角に目をやれば、狭く仕切られた占いコーナーのブースの一つから、人相占い師がひらひらと手招きをしている。三十代くらいの女性だ。
「よろしければ観《み》てさしあげましょう」
「いいえ、結構です」
断って通り過ぎようとすると、黒ずくめの彼女はニコリと笑った。
「お代はいらないですよ。ちょうどお客さんも途切れたことですし」
「……」
ちょうど、って。静は苦笑した。このビルにはたまに来るけれど、ここ、占いコーナーに行列が出来ているところなど一度も見たことがない。ブースは三つあるが、こんなのでよく商売が成り立つものだと、常々《つねづね》感心していたほどだ。もちろん、いつも同じメンバーかどうかは知らないし、静が来ない時間帯に繁盛《はんじょう》しているのかもしれないけれど。
結構です、と断りながら去りもせず、かといって勧められた椅子《いす》に座りもしないで突っ立ったままいると、占い師はそれを同意と解釈したようで勝手に静の人相を観はじめた。
「来年、転機がありそう」
「へえ……」
ちょっとした驚き。
まったくといっていいほど静に腕を信用されていなかった占い師だが、多少は当たるようである。それとも、単なる当てずっぽうのまぐれ当たりか。誰にでも、数年に一回くらいの周期で転機は訪れるものだから。
「それから、いいこともあるわね」
「いいこと?」
静は鼻で笑った。いいこと、って? 具体的にどんなこと?
「お父さんに、宝くじでも買うように言ってみるわ」
おざなりに「参考になったわ」と言って、その場を立ち去った。これ以上占い師の調子のいい占い結果なんて、聞く気にはならなかった。
(近い未来に、いいことなんて起こるわけない)
そう思いながらエスカレーターを駆け下り、途中二階のフロアで「いいや」と思い直す。
静の来年の転機を、言い当てた占い師の言うことだ。もしかしたら来年、客観的に「いいこと」はこの身に訪れるのかもしれない。けれど、自分がそれを認識できないのであれば、それはまったく意味のないことだった。
少なくとも、今の自分は来年に何の希望ももっていない。遠からず訪れるであろう「転機」という名の生活の変化についてを考えてみても、高揚《こうよう》感すら生まれなかった。
どうして、こんなに心が冷め切っているのだろう。街や店がクリスマスムード一色で盛り上がれば盛り上がる分だけ、自分のテンションが下がっていく。
ビルの中はこんなに人であふれているのに、静は一人孤独だった。
寒くはない。けれど、行き交う人々と気持ちを共有できないという点で、マッチ売りの少女と同じだった。
一階の出入口付近では、いつもの雑貨売り場のスペースを少し削《けず》って、クリスマスケーキの売り込みに力を入れていた。
「五時からのタイムセール! 今なら一〇パーセントオフな上に、シャンパン一本とサンタキャンドルもつけちゃう」
なんて店員さんが声を張り上げているけれど、六時からのタイムセールではたぶん二〇パーセントオフになるのだろう。
クリスマスケーキには、タイムリミットがある。この山と積まれたケーキを、閉店時間までに売り切るのは至難《しなん》の業《わざ》だ。
「チキンはいかが? 熱々《あつあつ》ですよ」
真っ赤なミニスカートを穿《は》いたお姉さんが、爪楊枝《つまようじ》に挿《さ》した唐揚《からあ》げを差し出すのを、手をあげて断った。
欲しい物はそれじゃない。
そんな物では、心を温めることはできない。
静は、マッチを買ってビルを出た。
家に着くと、母はいなかった。
玄関と廊下《ろうか》の電灯はついているから、ほんの少し前に出かけたのだろう。靴箱《くつばこ》の上の花瓶《かびん》の脇に「注文しておいたケーキを取りに行ってきます」というメモ書きが残されていた。
メモを片手にキッチンを覗《のぞ》くと、オーブンの中には、グリルされた鶏《とり》がすでに焼き上がっていた。冷蔵庫には、ボウルに入ったサラダも冷やされている。
夕食のおかずチェックを一通り終えて、キッチンを出ようとした時、母がセットしていったと思われる炊飯器《すいはんき》のタイマーが、カチリとスイッチを入れてご飯を炊《た》き始めた。
グリルチキンだろうが、蟹缶《かにかん》のフルーツサラダだろうが、主食はお茶碗《ちゃわん》に入った白米なのだから、そこはやはり日本人のクリスマスである。
リビングに入ると、静は鞄《かばん》から通知票を出して母のメモと一緒《いっしょ》にサイドボードの上に置いた。ついでに目についたお菓子《かし》の缶の中からチョコボンボンを一つ摘《つま》み、それからソファにドサッと身体《からだ》を埋めた。
座ってから、エアコンどころか室内灯すらつけ忘れたことに気がついたけれど、わざわざ立ち上がってまでつけにいく気にはならなかった。
廊下《ろうか》からもれてくる明かりと、隣家の庭の、個人宅とは思えない豪勢なイルミネーションのお蔭《かげ》で、室内は薄ぼんやりとしていてかえっていい雰囲気《ふんいき》だった。
そんなに疲れていたわけではないのに。一度腰掛けてしまうと、なかなか立ち上がる気にはなれなかった。母も戻ってこないことだし、しばらくはこのままゴロゴロしていよう、と決めて、チョコボンボンの銀紙をむいて口に放り込んだ。
「ん?」
ソファにごろりと転がった時、股《もも》のあたりに何か固い物があたった。ポケットを探れば、中から出てきた物は、先程買ったきり忘れていた、百円ショップのテープが貼られたマッチ箱。
「小箱六つパックで百円、……か」
それが妥当《だとう》な値段なのか、安いのかがわからない。マッチなど、今まで一度も買ったことがなかった。
なぜ、こんな物が欲しくてしょうがなかったのだろう。薄明かりの中で、かざしてみる。
たぶん、あれだ。心当たりは、すぐ手の届く場所にあった。
学校の図書館通信である『ライブラリィ』の年末号で、「冬に読みたい本」という特集記事のために、静は二週間ほど前に数冊の童話を読み返した。たぶん、きっかけはそれだったと思う。
『クリスマスキャロル』、『雪の女王』、『フランダースの犬』……。その中に『マッチ売りの少女』も入っていた。
久しぶりに『マッチ売りの少女』を読んでみて驚いたのは、この物語についてのとらえ方が、以前と今とではまったく違っていたことだった。
子供の頃は、幼い主人公がお腹《なか》を空《す》かせ、凍《こご》えているのに、誰も手を差し伸べてくれずに死んでしまったという、ただただかわいそうな話だと思っていた。
けれど、今は違う。
死にゆく直前に、幻《まぼろし》にせよ一番見たかったものを見ることができた少女側に立ってみると、これは必ずしも悲劇ではないのではないか、と思われてくるのだ。
少女の亡骸《なきがら》を見つけた大人たちが「かわいそうに」と同情するのは、その一夜に少女に何が起こったのかを知らないから。
少女は「大好きなお祖母《ばあ》さん」に抱かれて、幸せだったに違いないのに。
それからだ。静が、マッチの炎が見せる幻《まぼろし》について、考えるようになったのは。
「幻、か」
静は外装のビニールをむいて、マッチ箱を一つ手にした。ソファから身を起こして座り直し、ガラスの灰皿を引き寄せてから、その上でマッチを一本すってみる。
マッチは、思ったよりずっと明るく勢いよく燃えた。
部屋が薄暗いせいだろうか、炎に照らし出された場所だけ、妙にくっきりと浮かび上がって見える。まるで、そこだけ別の世界から切り取ってきたかのような異空間が広がった。
軸木《じくぎ》の真ん中くらいまで火がついたので、マッチを吹き消して灰皿の中に置いた。家では誰も煙草《たばこ》を吸わないため、まるでガラスの置物のようにいつもピカピカな灰皿に、燃えかすが一つ横たわる。
マッチをする前と後で変わったことといえば、それだけ。
そりゃそうだ。幻なんか、現れるわけもない。
あれは、哀《あわ》れに思った神様が少女にくれた、最初で最後の贈り物なのだから。
凍《こご》えても飢《う》えてもいない、毎日学校にも行ける少女には、与えられるべきものではないのだろう。
「チョコボンボンなんて口に入れなきゃよかった」
そうしたら、お腹《なか》を空《す》かしていたマッチ売りの少女の気持ちに、多少なりとも近づくことができたかもしれないのに。
「私が明日死ぬのなら、神様は私に幻をみせてくれるのかしら」
神様は、何を基準に救いの手を差し伸べるのだろう。満たされた環境に置かれた子羊のことは、放っておいてもいいと思っているのだろうか。
それならそうでいい。そうつぶやきながら、もう一本マッチをすった。
黄色ともオレンジ色ともつかない炎は、日だまり。その中に現れたのは、自分と同じ制服を身にまとった二人の少女の姿だ。
ほら、と静は笑った。私は神様の手なんて借りなくても、自分の力で幻を引き寄せることができるのだ、と。
いや、これは幻とは言えないかもしれない。なぜって、さっき学校を出る前に見た光景を、ただビデオテープを再生するように、再現しているに過ぎないのだから。
手をつないで歩く、二人。
一人はクラスこそ違うが静と同じ二年生で、もう一人は一学年下の一年生。二人は姉妹《スール》だ。
二人の間に言葉はなく、ただ髪を束ねるお揃《そろ》いの黒いリボンが、幸せの象徴のように輝いていた。
静は燃え尽《つ》きたマッチを、灰皿の上に落とした。余韻《よいん》のように、白い煙が立ち上る。
うらやましいわけではない。彼女たちのどちらかになりたいわけでもない。
ならば、どうして自分は、彼女たちのことがこうも気になってしまうのだろう。
確かにそれは、思い出しただけで頬《ほお》がゆるんでくるほど、美しい光景だったかもしれない。だが、ただそれだけのことではないか。
静はまた一本マッチをすった。
火を見ながら思い浮かべるのは、今度はマリア像の前にいる人待ち顔の一年生。
一見、線が細そうなのに、強い目をした彼女のことなら多少は知っている。
待ち合わせの相手は、一度|姉妹《スール》の関係を解消した彼女のお姉さま。お姉さまが現れるやいなや、三つ編みの少女は深々と頭を下げて言うのだ。
「私を妹にしてください」
ほら。
実際その場に居合わせたわけではないのに、静は易々《やすやす》とその映像を甦《よみがえ》らせることができた。それだけ学校新聞『リリアンかわら版』の記事が、強烈で上手《うま》く書かれていたということだろう。もしかしたら、後々彼女たちに影響された数多くの後追い復縁のどれかを目撃していて、それに重ねているのかもしれないけれど。
どちらにしても、彼女の行為が高等部の生徒たちに衝撃を与えたという事実は変わらない。
自ら返したロザリオを、再びその首に取り戻すのは大変なことだ。ゼロからのスタートではなく、マイナスからの巻き返しといっていい。
けれど、そんな躊躇《ちゅうちょ》は彼女にはまったく見られなかった。本当に欲しいものがあったなら、面目《めんぼく》とか体裁《ていさい》とか考えず、真っ直ぐにぶつかっていく。なんてすがすがしい、そして好ましい性格なのだ。
燃え尽《つ》きたマッチを灰皿に落として、静は新たなマッチをすった。
火の中に今度現れたのは、色白の儚《はかな》げな美人。
顔は思い浮かぶけれど、それ以外は何も出てこない。その人のことは、先の二人の一年生が出たついでに、ちょっと思い出してみただけ。
だから、すぐに火を吹き消した。
そう。自分が見たいと思っている幻《まぼろし》は、少なくともそれじゃない。
では、何なら見たいというのか。何を求めているのだろうか。
「わからない」
静は頭を抱えた。
今の状態がつらくて、誰かに救ってもらいたいと渇望《かつぼう》しているのに。具体的に、これが欲しいのだと示すことができないなんて。
これでは、神様だって手を差し伸べようもないはずだ。
今の静には、マッチ売りの少女にとってのお祖母《ばあ》さんの温かい胸や、ネロにとってのルーベンスの絵に値《あたい》する何かを、言葉にすることができなかった。
「……助けて」
目をつぶって、耳をふさぐ。
窓の外のイルミネーションがチカチカとうるさい。
冷蔵庫の低いうめき声や、炊飯器《すいはんき》のコポコポという能天気な笑い声、かなり離れた大通りを走る救急車の悲鳴が気に障《さわ》る。
「ああ……」
どうかしている。
一つ一つは本当に小さい音だ。いつもは、そんなもの気にならないのに。
『静ちゃん』
外界を拒絶したはずなのに、闇の中で声がする。
「静ちゃんみたいに、しっかり者がもう一人|薔薇《ばら》の館《やかた》に欲しいわ」
聞き覚えのある声。それは、なつかしい、前の|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の声だ。
「あら、今だってしっかり者の蓉子《ようこ》ちゃんがいるじゃない」
答えるのは、合唱部の前部長。
思い出した。これは、まだ静が一年生だった時の一コマだ。
場所は音楽室。前|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》は前部長の親友で、合唱部の部活動が始まる前や終わった頃などにフラリと立ち寄って、おしゃべりをしていった。静は話に加わるわけではなかったが、楽譜の整理などをしていると、自然と会話は耳に入った。ちなみに「蓉子ちゃん」とは前|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の妹。世代交代して、今や堂々たる|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》である。
「二年生はね。蓉子一人いればどうにかなるけど」
「けど?」
「一学年に一人くらい欲しいって意味よ」
「ふーん」
前部長はつぶやいてから、静の肩を抱いて引き寄せた。
「でもだめよ、この子は。いつイタリアに飛んで行っちゃうかわからないんだから」
「あら、そうなの? 静ちゃん」
静が答える前に、前部長が脇から言った。
「そう言って断っているのよ。姉妹《スール》の申し出。いろんな人から声かけられてきたのに」
「もしかして、それ方便じゃないの? 実は意中の人がいて、密かにその人からの誘いを待っているとか」
どうなの、と顔を覗《のぞ》き込まれる。今度は前部長が何も言わなかったから、静は「さあ」とあやふやに笑った。
「さあ、って。それ、本当なの? だったら、私たちにちゃんと言いなさい。仲を取りもってあげるから。可愛《かわい》い静ちゃんのためなら、一肌でも二肌でも脱ぎましょう」
「待って。安請《やすう》け合いしちゃ駄目《だめ》よ。相手には、すでに妹がいるのかもしれないし。そうしたら修羅場《しゅらば》よ、修羅場」
三年生の二人は、静を置き去りに勝手に話を進めていく。
「で? その人、妹いるの? いないの?」
詰め寄られて、口を開く。
「あの。私、別に意中の人がいるとは一言も……」
「なんだ、意中の人はいないの? つまんないわね。だったら、どう? うちに白チビが一人余っているんだけれど」
前|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》は子犬か何かみたいに言ったけれど、静にはわかった。それが誰のことだか。
「聖《せい》ちゃんは、だめなんじゃない?」
聖。
前部長の口から改めて名前を言ってもらって、静はホッとするような胸が締めつけられるような複雑な心境になった。
「栞《しおり》さんのこと?」
前|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》は、静かに目を伏せた。
当時の| 白薔薇のつぼみ 《ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトン》、佐藤《さとう》聖さまには、妹ではないが強い絆《きずな》で結ばれた運命の人がいたのだ。
「でも、未来はどうなるかなんてわからないわよ。うちの祥子《さちこ》ちゃんと黄薔薇さんちの令《れい》ちゃんと。並べて負けそうもないのは、今のところ静ちゃんくらいしか見あたらないけれど」
「光栄ですわ|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》」
社交辞令のようにほほえんで、静はその場を離れたのだった。
ありがたいお言葉ですが、私には将来留学する目標がありますから、と、実際言わなかったけれど、その先の言葉までも用意しておいた。
佐藤聖さまはこれから先も妹をもたないだろうということを、漠然《ばくぜん》と信じていた頃の話だ。
あの栞さんでさえ、妹にはなれなかったのに。誰が、あの人の妹になどなれるというのか。
「なのに、どうして」
つぶやいて現実に戻る。今、あの人の隣《となり》には、そこにいるのが当たり前のように、一人の一年生の姿がある。
こんな未来を見るために、イタリア行きを先送りしてきたのではない。
涙が頬《ほお》を伝っていた。静は震える指で、マッチをすった。
祈るような気持ちで。神様、私をお救いください、と。
こんな嫌な感情を、誰も心の中に飼っておきたくはないのだ。
こんな気持ちを抱えたまま、イタリアになんて行けない。人の心に響く歌なんて、歌えるわけもない。
何度か空振《からぶ》りをした末に、やっとマッチに火がともった。
光とともに現れたのは、神様ではなかった。けれど、それは静が今一番求めている人の姿だったかもしれない。
「|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》……、佐藤聖さま」
「ごきげんよう」
その人はニッコリとほほえんで、静を迎える。
「私、あなたのことをずっと好きでした」
「そ。ありがとう」
言った途端、その輪郭《りんかく》はほろほろと崩《くず》れていく。
「――――」
持っていた角度が悪かったのか、マッチが先端部分だけ燃やして消えていた。
静はすぐにマッチをすって、幻《まぼろし》を呼び寄せる。程なく現れる、端正な顔立ち。
この顔に触れたいと、何度願ったことか。静は、そっと頬《ほお》に触れた。これは夢。だから、誰にも遠慮《えんりょ》はいらないし、何も構うことはない。
「聖さま。憧《あこが》れていました」
初めて触れたその肌は冷たく、表面はまるで石像のように固かった。
「そ。ありがとう」
笑うと同時に、固かった頬がまるで砂が落ちるようにさらさらと崩れていく。元は佐藤聖だった砂は、足もとに溜まる前に風がどこかに運び去り、後には何も残らない。
「聖さまっ」
静はあわててマッチをする。すると、現れたのは、さっきよりちょっと雑な作りの佐藤聖。
不用意に触れては、また崩れ去ってしまう。静は慎重に近づいて言った。
「聖さま。大好きです」
すると。
「そ。ありがとう」
返ってくるのは、まったく同じ表情、同じ言葉だけ。けれど、静は待った。マッチの炎はまだ消えていない。もう一言くらい、あるかもしれない、と。
けれど、いつまで待っても、その先何も起こらなかった。テレビのストップモーションのように固まったまま、その人は動かない。
静は、次々にマッチをすった。
そのたびに胸の内をさらけ出しているというのに、いつだってその人はほほえみを浮かべながら、「ありがとう」とただ表面的な礼を返すだけ。
いくらマッチをすっても、その繰り返し。それでも、次はもしやとすり続ける。
マッチをすりながら、静はうすうす気づいていた。その先に行けない本当の理由を。
ここではこんなにも「好き」を連発しているというのに、現実世界では、一度たりとも告白をしたことがないせいだ。
この幻《まぼろし》は、所詮《しょせん》自分が作り出したもの。そう親しくもない下級生に告白された後の佐藤聖の反応を、静はリアルに映像化することができなかったのだ。
告白された時、あの人はどんな風に対応するのだろう。
ただ笑って、冗談にしてしまうだろうか。
すでに妹がいるから、と真面目《まじめ》に断るのだろうか。
それとも――。
「聖さま、待って」
次第にぼやけていく憧《あこが》れの人を、静は必死に呼び止めた。けれど、それで待ってくれるわけもない。それは実体のない幻。
「ここまでおいで、静」
まるでそう言うかのように、ぼやけたままで背中を向ける。
「待って、聖さま。お願い、私をここから救い出して」
いつの間にか、こんなに深い場所まで迷い込んでしまった。ここは、心の中の迷路だ。
「どうしたら抜け出せるか、わかっているくせに」
[#挿絵(img/19_039.jpg)入る]
聖さまの姿形がかき消えた闇の中で、見えないはずの彼女の唇の端が小さく上がったのが見えた。
「わからない」
静は首を激しく横に振った。
わからないから、迷っている。わからないから助けを求めているのに。
「静、あなたは何を望んでいるの?」
姿は完全に消えた。
「もう、答えは出ているんじゃないの?」
そして、声もまた。
「――――」
辺りを見回せば、静は自分の指がかかっている部分だけを残して燃え尽《つ》きたマッチ棒を手にしたまま、もとのリビングのソファに一人座っていた。
相変わらず、隣家のイルミネーションはチカチカと光ってはいるが、冷蔵庫や炊飯器《すいはんき》のたてる音は、まったくといっていいほど気にならなくなっていた。
「ただいまー」
そこに、丁度《ちょうど》母が帰ってきた。
「静、帰ってるの? どうしたの。電気もつけないで」
カチッというスイッチの音とともに、身体《からだ》を包み込むまぶしい光。
「お帰りなさい。何か、うとうとしちゃった」
伸びをして立ち上がろうとすると、手足が冷えきっていて、足がもつれた。
「何、これ」
母は、灰皿の上に積まれたマッチの燃えかすを、目ざとく見つけた。
「マッチ売りの少女ごっこか何かでもしてたの?」
「わかる?」
静は、足をさすりながら言った。
「まあね。普通の家だったら、煙草《たばこ》でも吸っているのかって疑うかもしれないけれど。うちの娘に限ってそれはないから」
「どうして?」
「だって、喉《のど》や肺に悪いことしないでしょ」
「そうね」
確かにその通りだと、笑った。母の答えは気が利《き》いている。静の場合、「信用してる」なんて気持ち悪いことは、言われてもうれしくはないのだ。
「で? 何か出てきましたか」
楽しそうに、ファイヤーストームの跡みたいな黒こげマッチの塊《かたまり》を覗《のぞ》き込む母に、静は首をすくめた。
「我が家で出てくるのは、オーブンの中のチキンと、冷蔵庫の蟹《かに》サラダくらいでしょ」
「プラス、ケーキだわね」
母は、手にしていたクリスマスケーキの箱を、テーブルの上に置いた。一カ月前から予約しておいた、近所のお菓子屋さんの限定二十個の特製チョコレートケーキだ。
「残念ながら、お祖母《ばあ》ちゃんの幽霊はでてこなかったよ」
ケーキの箱を開けながら、静は報告した。すると、キッチンに行きかけた母は「怖いこと言わないでよ」と振り返る。
「お母さん、お祖母ちゃんに会いたくないの?」
「亡くなった時は、お化けでいいから会いたいと思ったわよ」
「今は?」
「思わない。亡くなって何年も経つのに、成仏《じょうぶつ》していないなんてかわいそうでしょ。この世に心残りがある、ってことなのよ」
「心残りか」
静はメレンゲと粉砂糖で作ったサンタの人形を摘《つま》んで口の中に放り込んでから、ケーキの箱の蓋《ふた》を閉めた。
「ちょっと、お父さんが帰ってくる前にケーキ食べちゃだめでしょ」
母が注意した時には、サンタはすでに口の中で溶《と》けはじめていた。
「今死んじゃったら心残りになる原因を、一つなくしたまで」
「……なんてこと言って。お父さんへの仕返しでしょ。夏に食べたお素麺《そうめん》のピンクの一本取られた恨《うら》み」
「そんなことないわよ」
「昔からあなたは、やられたことをしつこーく覚えていて、相手が忘れた頃に報復するのよね」
「そう?」
さすがはお母さん。よく見ていること。
「それから何か悪戯《いたずら》を思いついた時は、そんな顔をする」
「そんな顔、って?」
「コーラを飲み干した後みたいな爽快《そうかい》な顔よ。こら。いったい、何をしでかすつもりなの?」
「しでかす、って。人をトラブルメーカーみたいに言わないでよ」
けれど、「そうかも」と静は思った。自分がこれからやろうとしていることは、ある意味一部の人たちの心をかき乱す行為かもしれない。
それでも、あえてしようと思う。
わかったのだ。自分が何を求めていたのか、を。
欲しかったのは、あの人の真っ直ぐな視線。静だけのために紡《つむ》ぎ出された、偽《いつわ》りのない言葉。
それを手に入れるためには、何をすれば効果的だろう。そのことを考えると、まるで恋のように胸が高鳴る。
「手始めに、髪の毛でも切ろうかな」
静は、自分の長い髪の毛をサラサラと指ですいて笑った。
[#改ページ]
イン ライブラリー―U
祐巳《ゆみ》。
祐巳ったら。
(うーん)
だめじゃない、こんな所で眠ったら。
(あ、はい。すぐ起きます。いえ、寝ていません)
しょうがない子ね。揺り起こしても、目を覚まさないわ。
(だから、あの。寝てません、ってば。お姉さま)
困ったこと。……いいわ、あなた方先に帰ってちょうだい。私? あと五ページでこの本を読み終わるから。それまで、この子を寝かしておくわ。そうね。私もそう思う。
(あなた方、って? 何がそう思う、なんですか?)
ええ、ごきげんよう。
(ごきげんよう、って。待ってください、お姉さま。今、起きますから)
「お姉さまっ!」
祐巳は、自分の悲愴《ひそう》な叫び声で目を覚ました。
「お姉さま……って、夢か。あ、ううん、現実?」
ここは薔薇《ばら》の館《やかた》で、お姉さまの姿はない。お姉さまどころか、祐巳以外の人間は誰一人いなかった。
「えっと」
落ち着け、落ち着け。整理して考えよう。
「まず、志摩子《しまこ》さんたちと体育館に行って、それから薔薇の館に戻ってきて、お姉さまのいれたお茶を飲んで……」
そこまでは記憶にある。その後、学園祭で気になった点を雑談のように話し始めたあたりから怪しい。結論を出すまでもないが、そのままテーブルに突っ伏して眠ってしまったようだ。
「みんな帰っちゃったのかな」
流しにある洗い籠《かご》の中には、使用済みのカップが六つ、きれいに洗って伏せてあった。
何はともあれ「追いかけなくては」と立ち上がってから、「ちょっと待てよ」と思い返す。
「お姉さまだけは、残っていてくれたような……」
本を読み終わるまで、とか何とか。
裏付けるように、祐巳の肩には祥子さまのスクールコートが掛けられていた。椅子《いす》の上には、祥子さまの鞄《かばん》も残っている。
取りあえず、祐巳はほっと胸を撫《な》で下ろした。少なくとも、妹に愛想つかして帰ったわけではないらしい。たぶん「ちょっと近所まで」のノリで、部屋を出ていったのだろう。
だったらすぐに帰ってくるはず。私物の片づけをしながら、お姉さまを待つことにした。
「ん?」
レポート用紙を閉じて鞄に詰めかけたところで、祐巳は「何か」に気づいて、逆回しの要領で再び表紙をめくった。すると、自分が睡魔《すいま》と戦いながらメモったと思《おぼ》しきミミズの這《は》ったような意味不明の線描《せんびょう》に混じって、筆記具を選ばず「払い」や「止め」がしっかり守られた達筆《たっぴつ》な文字が書かれているではないか。
祐巳は声に出して読んでみた。
「『図書館に行ってきます。祥子』」
メッセージはそれだけである。が、それだけでも十分に伝わるものであった。
「そっか。お姉さまは、図書館に行ったんだ」
読み終わった本を返しに行った、きっとそうだ。その時、ミシミシと階段を上るかすかな音が聞こえてきた。
「お姉さまだ」
祐巳は出入り口に駆け寄って、ビスケット扉を思い切り開くと、そのまま部屋を飛び出した。
「ぎゃっ」
ちょうど扉の前に差し掛かっていたその人は、自分が開けもしないのに扉が開いて、尚かつそこから人間が勢いよく吐き出されてきたのに驚いて声をあげた。
「ぎゃっ……って、え?」
「――」
どうも祥子さまらしからぬ声だと思ったら、やはり違った。ちょっと硬直気味に心臓を押さえ、それでも非難するような眼差《まなざ》しを向けている少女が一人。ちなみに、髪型は縦《たて》ロール。といったら、お馴染《なじ》みの――。
「と、瞳子《とうこ》ちゃんか……」
「瞳子ちゃん[#「瞳子ちゃん」に傍点]、で失礼いたしました。では、ごきげんよう」
「ちょっ、ちょっと待った」
クルリと踵《きびす》を返した瞳子ちゃんの腕を、祐巳はあわてて掴《つか》んだ。
「どうして、そこですぐにUターンするわけ?」
「だって祐巳さま、瞳子にはご用がないみたいですから」
瞳子ちゃんは腕を振りほどいて、ツンとそっぽを向いた。
「そんな、酒屋のご用聞きじゃあるまいし。とにかく、入って入って。お茶くらい出すからさ」
「酒屋のご用聞きー?」
瞳子ちゃんは、渋々といった態度だったけれど、背中を押されてそのまま部屋に入った。
祐巳は瞳子ちゃんを椅子《いす》に座らせてから、流しに立ってお茶の支度《したく》をした。
すでに帰り支度をしていたけれど、構わない。一昨日《おととい》までは助《すけ》っ人《と》だったけれど、今日はお客さまなんだから、瞳子ちゃんは。カップはまた洗えばいいんだし、お姉さまだって、せっかく来てくれたお客さまをおもてなしせずに帰せなんて言わないはずだ。
「ところで、その祥子お姉……いえ、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》は?」
「あ、祥子さまに会いに来たの?」
「……違います」
「そうだよね。中に祥子さまがいるかいないかもわからないのに、帰ろうとしたもんね、今」
いいながら祐巳は、「じゃ、瞳子ちゃんは何しに来たんだ?」と首を傾《かし》げた。
「さっき|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》たちにバッタリお会いして、その時、まだ|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》と祐巳さまが薔薇の館にいらっしゃるってお聞きしたので、寄ってみただけです」
「それなら、もうちょっと待ってたらいいよ。祥子さま、もうすぐ戻ってくると思うから」
「だから、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》に会いに来たんじゃない、って言っているでしょう?」
そうでした。
「じゃ、私に会いに来たのかなー?」
冗談っぽく質問してみれば、返ってきたのは意外な答え。
「そうですよっ。でも、もういいです。どうせ私なんか『瞳子ちゃんか……』程度の存在なんでしょうから」
あー、これは相当さっきの失言を根に持っている。
「ごめん。謝るから許してよ。だって、祥子さまが戻ってきたのかと思ったから」
「ふーん。祐巳さまは、お姉さまの前だとあんな顔をなさるんですね」
「あんな、ってどんな顔?」
「筋肉|緩《ゆる》みっぱなしで、すごく不細工《ぶさいく》でした」
「あ、そ、そう」
瞳子ちゃんはさっきの仕返しで、こんな憎まれ口をきいているんだ、と祐巳は心の中で繰り返した。そう思わないと、やっていけない。今後お姉さまの前に顔を出せなくなってしまう。
「で、私に何か話でも?」
テーブルに紅茶の入ったカップを三つ置いてから、祐巳も瞳子ちゃんの真向かいの席に着いた。一つだと瞳子ちゃんが気にするだろうし、自分の分もいれるなら、じきに戻るはずの祥子さまの分も用意しておこうと思ったのだ。
「別に」
「別にぃ!?」
何だ、何だ。その横柄《おうへい》な態度は。祐巳は、思わず立ち上がった。仕返しは、すでに「不細工発言」で済んだはずだぞ、と。
「私は存じません。お話があったのは、そちらなんじゃないですか」
プイッと顔を背《そむ》けて、瞳子ちゃん。
「えっ、わ、私?」
「……だから、もういいです。忘れちゃうくらいの用事、ってことでしょう」
意地悪というより投げやりな感じでつぶやいてから、瞳子ちゃんは「いただきます」と律儀《りちぎ》に頭を下げてお茶をすすった。
何ていうのかな。一人、ぽつりと取り残されてしまった、とでも表現しましょうか。勝手に下りないで瞳子ちゃん、そんな感じの祐巳である。
「ヒント」
「ヒントって、意味がわかりません。そちらのご用を、どうして私がわかるというのです」
「うーん」
総合すると、祐巳は瞳子ちゃんに「ご用」があったはずで、だから瞳子ちゃんは薔薇の館までその「お話」を聞きに来た、と。
「お」
何かが、地引《じび》き網《あみ》に引っかかった。よし、あとはズルズルと記憶の浜辺に引っ張り上げればよし。
「祐巳さま、あの、その綱引《つなひ》きみたいな動作は……」
「ちょっと待ってて」
今、いいところまできているから。ズルズル、ズルズル。
「あ」
わかった。
「もしかして、私が放課後一年|椿《つばき》組の教室を訪ねたこと? それ、誰かに聞いたんだ?」
「ええ、まあ……」
腑《ふ》に落ちないといった顔をしながら、瞳子ちゃんは肯定した。どうも、祐巳がとっていた地引き網のポーズが引っかかっているらしい。
「そうか、ごめんね。ただ、二人にお礼を言いたくて行ったんだ」
「二人に、お礼?」
瞳子ちゃんは片眉をつり上げた。
「そう。なのに、逆に訪ねてもらっちゃって、かえって悪かったな」
「別に悪くはないですけれど……」
「うん?」
「お礼なら、シャーペンもフランクフルトもいただきましたから」
瞳子ちゃんは、少しだけ仏頂面《ぶっちょうづら》で言った。
「改めてのお礼には及びません」
「でも、会いたかったから」
会って、ちゃんとお礼を言いたかったから。正直、期待していた以上に力になってもらったし。本当に楽しかったし。
「……で、可南子《かなこ》さんにはお会いになれまして?」
「いや、それがね」
祐巳が「会えなかった」と言う前に、瞳子ちゃんは窓の外に視線を投げてつぶやいた。
「彼女。変わりました」
「そ、そう」
可南子ちゃんが変わった。それはわかった。そりゃ彼女は学園祭でいろいろあったから、価値観とか人との関わり方なんかが変わったっておかしくはない。
けれど、なぜそこで瞳子ちゃんはそんなことを言い出したのだろう。
「|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》、お戻りになりませんね」
「そういえば、遅いね」
もう、二人ともお茶を飲み終わって久しい。たぶん祥子さまのためのお茶も、待ちくたびれてカップの中でむしろアイスティーへと変化している。
「どちらにいらしたんです?」
「図書館」
「図書館ですって?」
瞳子ちゃんは首をひねった。
「何?」
「いえ。それにしてはすれ違わなかったな、と思って」
「どういうこと?」
祐巳の質問に、瞳子ちゃんは答えた。
「私、図書館からここに来たんです」
と。
[#改丁]
ジョアナ
[#改ページ]
この人は、何を言っているのかしら。
「稽古《けいこ》で満足にできないものを、本番でできるのかしらね」
お言葉を返すようですが、そりゃ逆でしょう。本番で一番いい演技をするために、稽古を重ねるのではないのかしら。
そう言い返すこともできたけれど、私はしばらく「叱《しか》られてしょげる後輩」を装《よそお》うことにした。一つ反論すればその何倍もの言葉が返ってくると、予想はついた。口で負けるとは思わなかったけれど、これ以上稽古が中断すると他の部員たちにも悪いから。
今日の稽古場は、机を全部後ろに下げて作った教室の前半分の空間。演劇部が学園祭で上演する『若草物語《わかくさものがたり》』の稽古も、佳境《かきょう》に入っていた。
黙ってうつむく、――それは私にとってある意味|譲歩《じょうほ》であったのだけれど、勘違《かんちが》いした先輩Aの態度をますます増長させる最悪な結果を招いてしまった。
顧問《こもん》は職員会議で不在。いつもはよき緩衝材《かんしょうざい》となってくれる部長が、学園祭がらみの用事で教室を離れたわずかな時間に起きた出来事だった。エイミー役の私が、一カ所セリフをかんだ。きっかけは、それ。
「松平《まつだいら》さんは主役の一人だし、実力がおありでしょうから、稽古を甘くみていらっしゃるのかもしれないけれど。高等部の演劇部は、中等部とは格が違うの。もっとも、見た目と地だけでキャスティングされたあなたに、演技力を要求する方が、間違っているのかもしれないけれど?」
それを聞いて、その場にいた演劇部員の中からクスリと小さい笑いが聞こえてきた。
(ふーん)
そんな風に思われていたなんてね。それも一人じゃなくて、三人も四人もいたんだ。
(それじゃ、私の演技力も大した物だわ)
傑作《けっさく》。
「何がおかしいの」
多少は堪えてみたけれど、我慢できずに漏《も》れてしまった私の笑いが、先輩Aの気に障ったらしい。
「いえ、別に」
言いながら、これが笑わずにいられようか、と思った。
見た目と地だけでキャスティングされたとは、今の今まで知らなかった。さすが中等部とは格が違うという高等部の演劇部、配役の仕方もぶっ飛んでいますこと。
ならば、さしずめこの先輩は、先生にエイミーのことを告げ口したジェニィ・スノウの役がはまり役だ。上演時間の都合で、エイミーの塩漬けライムのエピソードがカットされたのが惜《お》しまれる。
「私にどうしろというのです」
「エイミーの役をもらったくらいでいい気になるな、ってことよ」
「いい気になっているつもりはありません。ですから、具体的にどうすれば先輩のお気に召すのかもわかりません」
本当はここで涙の一つも流して見せれば、この先輩は満足し、やさしくもなるだろうということくらい私にだってわかっていた。でも、決してそれだけはするまい、と思う。
嘘泣《うそな》きならいくらでもできる。でも、そうまでして仲間に入れてもらう必要がどこにあるのだ。たとえそれが演技であっても、いじめられて泣いたというレッテルを貼られるのは耐えがたい屈辱《くつじょく》だったし、今後にも障《さわ》る。
「どうすれば、って言われたってね」
先輩Aが冷ややかに笑った時、扉が開いて中座していた部長が戻ってきた。
「遅れて、ごめんなさい。あ、稽古《けいこ》の途中だった? 続けてちょうだい」
「じゃ、このシーンの頭からもう一度」
先輩Aは逃げるように背を向けたけれど、私は、そこでこの話はお終《しま》い、稽古に入りましょうなんて気持ちにはどうにもならなかった。
「先輩、まだ答えを伺《うかが》っていません」
[#挿絵(img/19_059.jpg)入る]
「瞳子ちゃん、何のこと?」
部長はその場のただならぬ空気を感じて、私に尋《たず》ねた。私が何も説明しないでいると、今度は振り返って先輩Aに同じ質問をした。
「ただ、私たちの足を引っ張らないで、と一年生に注意しただけよ」
吐き捨てるように答える、先輩A。
「瞳子ちゃんは、足を引っ張っていないでしょう? 一年生とは思えないいい演技をするわ」
「部長は、彼女を贔屓《ひいき》しているからわからないのよ。この程度の演技力の子なら、うちの部にいくらだっているじゃないの」
聞きながら瞳子は、もう何だか面倒くさくなってきた。この先輩は演技がどうこうではなくて、ただ瞳子の存在自身が気にくわないのだから。こちらが何を言ったって、無駄《むだ》。このこじれた関係が修復することは、ありえないのだ。
「だったら、あなたがエイミーをやれば?」
私は言った。見た目と地だけでエイミー役が転がり込んできたとは金輪際《こんりんざい》言わせない、冷ややかな視線とすごみのある低い声で。私の一面しか知らない人たちは、化け物でも見るような目で私を見た。
リクエストがあれば、ディビス先生だってマーチ伯母《おば》さんだって演じ分けてみせる自信が私にはある。この程度がどの程度か、ちゃんと確認してもらいたいものだ。
「ほら、今私がつっかえたセリフ。お手本にやって見せてください」
机の上に置かれた台本を掴《つか》み、そのページを開いて先輩の胸に突きつけた。
「瞳子ちゃん、おやめなさい」
部長の声は聞こえているが、それくらいではまったくブレーキにはならなかった。
「あ、あなた、私ができないと思っているんでしょう」
先輩Aは台本をつかみ取って、目的のセリフを指でなぞった。
「いいえ。きっと先輩は、私なんかよりずっと上手《じょうず》にエイミーをやれますわ」
「もちろんよ。あなたなんかいなくたって、うちの部は困らないんだから」
半泣きになっている先輩ともう一秒だって一緒《いっしょ》にいたくなくて、私は教室を飛び出した。
もう、どうにでもなれ。――なのに。
この人は何を言っているのかしら。
「どういうことか、聞きたくて」
今更、私の気持ちをかき回さないで欲しい。
確かに、あれから二日経って、ちょっとやり過ぎたかも、という気持ちが芽生《めば》え始めてはいるけれど。でも、もうこのことはすっかり忘れて、山百合会《やまゆりかい》の劇に専念しようと気持ちを切り替えることにしたのだ。
それなのに。
『とりかえばや物語』をやめて演劇部に戻れ、だなんて。薔薇の館の人々は、どうしてそんな残酷《ざんこく》なことが言えるのだろう。
私のことを思ってのことだと、一方ではわかっている。
どうにでもなれ、とうち捨てたはずなのに、確かにまだ私は『若草物語』に未練がある。
エイミーをやりたい。
口では「私なんかよりずっと上手《じょうず》にやれますわ」なんて言ったけれど、私以上にエイミーを掴《つか》んでいる役者はいない。あの劇を成功させるためには、私は演劇部に必要不可欠の駒《こま》なのだ。だから戻れるものなら、あの場所に戻りたい。それは本心なのだけれど。
「私は必要ないということですか」
もう一方で、「山百合会にはいらない」と言われたみたいで、傷ついている自分がいる。きれい事を並べようと、結局言っていることは「クビ」なんだから。
何を嘆《なげ》くことがある。ここも私の居場所ではないというだけの話。どうにでもなれ、と、またこちらからうち捨ててしまえばいい。
でも。私に引導《いんどう》を渡しにきたその人は、何を思ったのか、突然役目を放棄《ほうき》して大暴走をはじめた。
『ついていってあげるから、今から演劇部に行こう』?
『こっちの劇もでてもらう』?
何言っているんだ、この人は。とどめは『家に来れば?』だって。
ばっかじゃないの。
私を説得するために、ここで待ち伏せしたんでしょう? ちゃんと「クビ」って言わなければ、後で「大好きなお姉さま」に叱《しか》られてしまいますよ。
しかし、そんなことはまったく気にしていない。打算のないほほえみ相手に、何を言ったところでこちらが負けだ。
「わかりました」
私は握られた手を、そっと引き抜いた。
やさしい手はいらない。私は、ベスの抱いている哀れな人形《ジョアナ》じゃないから。
そろそろ、エイミーに戻らないといけない。だから――。
歩き始めた私に、能天気な声が追いかけてきた。
「よく寝てよく食べてストレスはため込まない。愚痴《ぐち》を言いたくなったら、私の所に来る、いい?」
まったく、この人は。
ばっかじゃないの。
苦笑しながら私は、物語の中とは違ってまったく人見知りしないベスに、小さく頭を下げたのだった。
[#改ページ]
イン ライブラリー―V
「図書館? そうなの?」
瞳子《とうこ》ちゃんの口から飛び出した思いがけない言葉に、祐巳《ゆみ》は目を瞬かせた。それならどうして会わなかったんだろう、と口に出す前に瞳子ちゃんが言った。
「でも、まあ。図書館と薔薇《ばら》の館《やかた》を結ぶ道は何通りもありますから。すれ違わずに行き違いになった、ということなんでしょうね」
「でもさ」
祐巳はレポート用紙を出して、祥子《さちこ》さまのメッセージと自分が書いた意味不明の文字が羅列《られつ》してある一枚をめくり、白紙に簡単な図形を書いた。
「今、ここね。で、図書館がここ。そうなると、間にある校舎が――あれ?」
一年半通った高等部校舎。言わずと知れたテリトリーであるが、いざ平面に置き換えようとすると、なかなか難しい。書きかけの配置図を前に悪戦苦闘していると、瞳子ちゃんが「失礼。校舎はこういう形でこの向きです」と脇からうまいこと修正してくれた。
「うん、そうそう。でね、私が祥子さまだったらこのルートを通ると思うのね。目的地が最初から図書館って決まっているわけだから」
順当に行くなら、それが一番短時間で図書館に着ける道のりだ。祐巳はシャーペンの背で、簡易地図をたどった。
祥子さまは、時折宇宙人のような言動が見られるとはいえ、肉体的には普通の人間なので、壁を素通りすることも建物を飛び越えることもできない。だから薔薇の館と図書館の二点を定規で真っ直ぐにひいた線上を突き進むことは不可能であって、故に校舎内の移動は大概《たいがい》は廊下《ろうか》を歩くことになる。
「瞳子も、そのルートを逆行して来ました。わざわざ校舎の裏を通る必要はありませんし……」
「祥子さまだって、同じだと思わない?」
「ええ」
じゃあ、なぜ二人は出会わなかったのだろう。
「瞳子ちゃん、図書館のどこにいたの?」
「閲覧室《えつらんしつ》です。|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》はどちらに?」
「本を返しに行ったわけだから、やっぱり閲覧室だよね」
図書館の中には、他にも会議室とか書庫とかいろいろな部屋があるのだが、利用者の大部分は閲覧室で用を足す。
「瞳子ちゃんが閲覧室を出るより前に、祥子さまがすでに着いていた、とか」
「瞳子、かなり長いこと出入り口近くの貸し出しカウンターの側にいましたけれど、見かけませんでした。|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》たちがいらしたのには、気がついたのに」
「令《れい》さまたち、図書館に行ったんだ」
ならば、さっきの仮説は成立しない。よもや祥子さまが、令さまより先に図書館に到着した、なんてことはないだろうし。
「瞳子ちゃんさ、ここに来る途中でどこかに立ち寄らなかった?」
最短(と思われる)ルートから、一時的であれ外れることがあったなら、その時行き違いになったという可能性はある。しかし、瞳子ちゃんは「寄りません」としっかりはっきり答えた。
「寄られたというのなら、瞳子じゃなくて|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の方じゃないですか」
「どこに?」
「そりゃ……教室かどこか?」
「そっか。ならわかる」
廊下《ろうか》を歩いている最中に何か忘れ物を思い出して、自分の教室に立ち寄ってから図書館へ。それならば、遅くなっている原因の一つにもなる。――が。
「にしても遅いですよね」
瞳子ちゃんが、ポツリと言った。
「そう? やっぱり、瞳子ちゃんもそう思う?」
祐巳もそう思っていたところだったので、思わず立ち上がる。
瞳子ちゃんが薔薇の館に来てから、かれこれ二十分は経っている。ということは、祥子さまがここを出ていったのは少なくともそれ以前なわけで。また、祥子さまとは会っていないという瞳子ちゃんの証言から、三十分くらいは戻っていないものと思われた。
「でも、教室でクラスメイトと話し込んでしまったら、それくらいは」
「私を待たせているのに? おしゃべりなんてするかな」
言った後で、祐巳は考えた。祥子さまの場合「可愛《かわい》い妹だから待たせちゃかわいそう」と思うのだろうか、それとも「妹は身内だから少々待たせても大丈夫《だいじょうぶ》」と思うものか。
「|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》はそんなつもりなくても、引き留められてしまうことはありますよ。深刻な話をしている最中に、一人『妹を待たせているから、さようなら』とはいかないでしょう?」
「深刻な話……か」
「例えですってば」
ふうむ。
「ちょっと見にいってこようかな」
「えっ」
「祥子さまを救いに」
「迎えに、の間違いでは?」
「そうとも言う」
祐巳は窓の側まで歩いていって、外を見下ろした。薔薇の館の出入り口付近も、一階の校舎の窓ごしにも祥子さまの姿は見えない。このままでは、また五分や十分は簡単に経ってしまうように思われた。
「ご勝手に」
瞳子ちゃんが、テーブルに両手をついて立ち上がった。
「瞳子は帰ります」
「待った」
祐巳は瞳子ちゃんのもとまで駆け寄って、腕を掴《つか》んだ。
「お願いが」
瞳子ちゃんは「ほら来た」といった顔つきで、掴まれた腕を払った。
「留守番《るすばん》なんてしませんからね」
「わかっているって」
「じゃ、何なんですか」
「五分だけ待ってて」
「五分?」
「ここ片づけちゃうから」
「で?」
「瞳子ちゃんと一緒に出る」
「はっ?」
「で、もう一つお願い。悪いんだけれど。私が三年|松《まつ》組を覗《のぞ》きにいっている間、この廊下《ろうか》のこの部分で待機してもらいたいんだ」
祐巳は、さっき二人の共同作業で出来上がった地図の一点を「この部分」と指さした。そこは、最短ルート上の一点で、祥子さまの教室への分岐点《ぶんきてん》でもあった。
「行き違いにならないように、ですか」
瞳子ちゃんは、少し考え込むような仕草をしてから言った。
「わかりました。それくらいでしたらおつき合いいたします」
「ありがとー」
祐巳は瞳子ちゃんの両手を握って、ぶんぶん振った。
「そんなことしている暇《ひま》あるんですか、あと三分ですよ」
「ひゃあ」
というわけで、祐巳は使ったカップをせっせと洗いはじめた。せっかくいれた祥子さまのお茶は、もったいないので一気飲み。急いでいたので、軽くむせた。
瞳子ちゃんは、そんな祐巳の様子をじっと見ていた。
先週までは、こういったシチュエーションだと必ずといっていいほど手を出していたのだが、今日はまったく手伝おうとはしない。「学園祭までの助《すけ》っ人《と》」という肩書きが外れた今、瞳子ちゃんの中でもきっちりと線引きをしているのかもしれない。
「大きなお世話かもしれませんが、行き違いになった場合を考えて、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》に手紙を残していかれた方がよろしいのでは?」
「行き違いにならないために、瞳子ちゃんがいるのに?」
「万が一ということもあります」
瞳子ちゃんは、ぶっ飛んでいるように見えて、意外と慎重なのだ。
「なるほど」
しかし一理あるので、レポート用紙の新たなページに「図書館に行ってきます」と書いて置いていくことにした。
「……」
迷った挙げ句が祥子さまと同じ文面とは、間抜《まぬ》けである。でも本人|宛《あて》に、「お姉さまを迎えに行ってきます」は変だし、「ちょっと出てきます」だとどこに行ったのかがまったく伝わらない。
薔薇の館から校舎に入ると、廊下《ろうか》は人気《ひとけ》がなくひっそりとしていた。ここのところ急に寒くなって、廊下の窓も教室の扉もピッチリと閉められているせいかもしれないが、教室に残っている生徒たちの声もあまり廊下までは漏《も》れ出てこない。そうなると、あまり大声で話しながら歩くのも気が引けて、祐巳は約束の場所に着くまでの間、瞳子ちゃんと遠慮《えんりょ》がちに二、三言しか言葉を交わさなかった。
「じゃ、悪いけれどここで待っていてね」
そう言って駆け出すと、後方から瞳子ちゃんの声がした。
「走らなくてもいいですよ。ちゃんと待ってますから」
「うん」
とは言ったものの、やはりこちらの都合で引き留めているわけだから、祐巳は早足でどんどん進んだ。お姉さまのクラス三年松組は、通い慣れた場所である。明かり取りの窓から漏《も》れ出る室内灯の光が、まるで祐巳を「おいでおいで」と手招きしているようだった。
「お邪魔《じゃま》しまーす」
三年松組教室の扉を開けると、中に数人の生徒が残っていて、一斉に振り返った。
「あらあら、福沢《ふくざわ》祐巳ちゃん」
一番扉の側にいた生徒が、もたれていた机から身を起こしながら言った。
「ごきげんよう。あの、うちのお姉さまは――」
「祥子さん? ここにはいないわよ」
「のようですね」
ざっと見渡せば、お姉さまがいるかいないかくらいはわかる。
「今日は薔薇の館に行ったのではないの?」
「あ。さっきまでいたんですけれど、ちょっと出たっきりなかなか戻ってこないものですから」
祐巳が説明すると、どこからか声があがった。
「祥子さんなら、図書館に行ったわよ」
聞き覚えのある声だと思ったら、生徒の中からひょっこり顔を出したのは『リリアンかわら版』の元編集長、新聞部の築山《つきやま》三奈子《みなこ》さまだった。でも、彼女は確かこのクラスではないはず。
「三奈子さま、どうしてこちらに?」
集団から一人抜けて歩み寄ってくる三奈子さまに、祐巳は尋《たず》ねた。
「私にだって、クラスの垣根《かきね》を越えたお友達くらいいるんだけれど?」
「失礼しました」
そりゃ、そうだ。三奈子さまといえば、スクープを追いかけている姿ばかりを思い浮かべてしまうが、新聞部以前にリリアン女学園高等部の一生徒なのである。普通に授業を受けるし、普通にお友達と雑談したりもしているはずなのだ。
「どこかで祥子さまとお会いになったんですか?」
さっきの「祥子さんなら、図書館に行ったわよ」を受けて、祐巳は質問をした。すると。
「うん。そう……三十分くらい前かな、あっちの廊下《ろうか》でバッタリ会って、その時図書館に行くって言っていたわね。何、祥子さん、まだ戻っていないの?」
「はあ」
「そりゃ、遅いわね。本を返しにいくだけだって話だった割には――」
三奈子さまは、腕時計を見ながらつぶやき、それから背後のお友達に向かって手を上げた。
「悪い。私、急用ができたので失礼させていただくわね。皆さま、ごきげんよう」
そのまま教室を出ていってしまうものだから、祐巳はそれについて行きつつ、三年松組教室の中と三奈子さまの顔とを代わりばんこに見ながら尋ねた。
「あの、いいんですか」
「行方《ゆくえ》不明って聞いた以上、気になるもの」
「行方不明、ってわけじゃ」
「とにかく、今のところ私が最後の目撃者なわけでしょ?」
力になりましょう、と胸を叩く三奈子さま。しかし最後の目撃者といっても、今のところ目撃者と呼べるのは祐巳と三奈子さまの二人だけなのだ。瞳子ちゃんは、祥子さまに会っていないわけだから。
でも、まあ、手伝ってくれるというのだから、祐巳はお言葉に甘えて、歩きながら事情|聴取《ちょうしゅ》をさせてもらうことにした。
「三奈子さまはさっき、あっちの廊下で会われた、っておっしゃいましたけれど」
あっち、は、祐巳と瞳子ちゃんが歩いてきた廊下がある方角である。やはり、ルートは間違えていないようだ。
「別れた時、祥子さまはそのまま図書館の方角に行ったんですよね?」
「それが、わからないんだ」
「え?」
「会ったのは確かに廊下だったんだけれど、別れたのは別の場所だから」
会ったのは廊下で、別れたのは別の場所。そして、その別れた場所からは、相手がどちらの方向に行ったか判断できないという……。なぞなぞか、それ?
「答えはお手洗い。バッタリ会って、それから二人でこんな風に歩きながら少し話をして、途中、私トイレに寄ったのよ」
「トイレ、ですか」
「尾籠《びろう》な話で恐縮だけれど、さっきまで妹の真美《まみ》と中庭で話し込んでいて冷えちゃって、急にトイレに行きたくなって。祥子さんと廊下《ろうか》で会った時も、実はトイレに向かっていたところだったのよ。だけれど、話しはじめた話題がまだ終わってなかったから、祥子さんがついてきてくれたのよ。で、個室の中と外でおしゃべりをして、ちゃんときりのいいところまで話し終わったから、祥子さんが一足先にお手洗いを出て行ったっというわけ。
なるほど、そういうわけなら、祥子さまが図書館に行ったかどうだかは断言できないはずだ。
「そうか、祐巳さんを待たせていたから急いでいたのね」
三奈子さまはしみじみつぶやいたけれど、お友達とのトイレタイムを犠牲《ぎせい》にしてまで急いでくれていたと知っても、それはそれで、何となく複雑な気分になるのであった。
先程の場所に戻ると、瞳子ちゃんは別れた時と同じ場所、同じ姿勢のままで待っていた。
「瞳子ちゃん、一つわかったよ。祥子さまは間違いなくこのルートを通っていたけれど、お手洗いに立ち寄ったから瞳子ちゃんと会えなかったんだわ。なぜわかったかというと」
「新聞部の築山三奈子さまが、そう証言なさった」
「あれ、どうして」
「この状況を見れば、それくらいの推理は導き出せます」
祐巳の背後には二人羽織《ににんばおり》の相方よろしくピッタリと三奈子さまがくっついてきていて、「ごきげんよう、演劇部の松平《まつだいら》瞳子さん」と明るく挨拶《あいさつ》をした。
「……ごきげんよう」
瞳子ちゃんは、笑いもせずに応えた。
「祥子さま、来なかったんだ」
祐巳が三年松組に行って帰ってしている間の首尾《しゅび》は、逆にここの状況を見れば、おおよそ見当はつく。祥子さまがここを通ったなら、瞳子ちゃんが引き留めていてくれたはずである。
「ありがとう、瞳子ちゃん。付き合わせちゃって、ごめんね」
「いえ。では、これで」
上級生二人に頭を下げ、瞳子ちゃんは昇降口へと歩き出した。
「ごきげんよう」
祐巳が手を振って見送り、さあ図書館に向かおうと一歩踏み出したところ。
「あの。一つお聞きしてもいいですか?」
突然、瞳子ちゃんが振り返って言った。
「な、何?」
聞き返した祐巳にではなく、視線はまっすぐ三奈子さまに向けられている。
「三奈子さままで、なぜ祐巳さまについて行かれるんです?」
「そりゃ。気になるからに決まっているじゃない。ことの顛末《てんまつ》を明日聞くより、今自分の目で確かめた方がだんぜん面白いもの」
三奈子さまは笑った。
「そうですか」
「答えになっていた?」
「ええ、ありがとうございます」
もう一度頭を下げて、瞳子ちゃんはスタスタと歩いていってしまった。
「あの、瞳子ちゃんは何を言いたかったんでしょう?」
祐巳は首を傾《かし》げた。
「何が、って。会話、聞いていたでしょ?」
三奈子さまが笑いながら先を歩いていく。
「聞いていましたけれど」
でも、表面的な意味だけじゃなく、何か含みがあったような。瞳子ちゃんというより、むしろ三奈子さまの受け答えに。
「それより私、誤解していたかもな」
「は?」
それより、って。何を受けて言っているのか、祐巳にはさっぱりわからなかった。すると、三奈子さまは来客用出入り口から外に出ながら言った。
「彼女、松平瞳子さん。ほら。祐巳さんと祥子さんがけんかしていた時、私ったら取り越し苦労しちゃったじゃない。私の友人の話を引き合いに出して」
「ああ――」
思い出した。確か、お姉さまに二股《ふたまた》かけられた生徒が、卒業式にロザリオを投げつけてジ・エンド、ってやつ。
「私、あの子が祐巳さんのライバルになるって勘違《かんちが》いしていたんだけれど、――あ」
話の途中だったが、三奈子さまは図書館の前に一人の生徒を見つけると、祐巳に「ちょっと失礼」と駆けだした。
「ごきげんよう。図書館?」
「ああ、三奈子さん」
振り向いた顔に覚えはない。たぶん、祐巳とはまったく接点のなかった三年生なのだろう。年上に向かって失礼かもしれないが、おとなしそうで可愛《かわい》らしいタイプの人だ。
お邪魔《じゃま》にならないように、祐巳はできるだけゆっくりと歩いていった。けれど秋の庭は、放課後|掃除《そうじ》したにもかかわらずすでに落ち葉や小枝がかなり散らばっていて、そっと歩いたつもりだったのに、カサッとかパキッとかの音がたってしまうのであった。そんな抜き足差し足の祐巳の耳に、聞くとはなしに入ってきたのは三奈子さまの妙な言葉。
「私、今から閲覧室《えつらんしつ》に行くけれど。中の様子見てこようか」
「いいのよ。今日は返すだけだから」
その人は、手提げから三冊の本を出してほほえんだ。
「周りが思うより、本人は気にしていないんだけれど」
「そう」
何か、二人の表情からそれは複雑な話題のようであったが、だからといって祐巳は今更《いまさら》立ち止まることも、方向転換することもできなかった。
「彼女にしても、そうだと思うの。でも、私たちの気持ちはどうでも、やっぱり好奇の目で見る人はいるし。それを一々否定して回るのもおかしな話よね。人前でわざと仲よくしてみせるほどの道化《どうけ》には、私はなれないから」
そう言って、その人は不可思議《ふかしぎ》な行動に出た。図書館の入り口にあるブックポストに、本を一冊また一冊と投入していったのである。時間外ならともかく、まだ閲覧室《えつらんしつ》は開いているというのに。
「本当は、彼女のことを意識せずに済むようになれれば一番いいんだけれど」
「難しいわね」
三奈子さまが、どこかが痛いような、そんな表情で言った。
「そう。難しいのよ」
三冊の本をすべてポストの口に滑り込ませると、その人は「ごきげんよう」の言葉を残して、マリア像へと続く図書館の脇の道を歩いていってしまった。
その姿が曲がり角の向こう側に消えると、三奈子さまは「はあー」っと大きなため息をついた。どうしたのかな、と思って祐巳が見ていると、やがて独《ひと》り言《ごと》のように言った。
「どっちも友達だから、きついんだ」
「は?」
理由を聞いても、やはり三奈子さまがなぜどんよりとした表情でいるのかわからなかった。どっちも、って言うからには、登場人物は二人必要なのに。今の人がその一人だとして、もう一人は誰のことを指しているのか。
すると、三奈子さまが言った。
「祐巳さんさ、さっき何の話していたか覚えている?」
「ええっと。あの、確か瞳子ちゃんの話題でしたっけ」
「そのちょっと前。二股《ふたまた》の話したよね」
三奈子さまは、屈《かが》んで足もとに落ちていた小枝を拾った。ちょうどYの字の形。二股、だ。
「ああ」
そうでした、と祐巳はうなずく。でも、で?
「彼女はその当事者の一人」
三奈子さまは、一点から同じように左右に伸びた枝を撫《な》でながら言った。
「で、もう一人は、図書館の中にいる。たぶん」
それは、先程の「不可思議《ふかしぎ》な行動」に対するあまりに説得力のある答えだった。
[#改丁]
チョコレートコート
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人気《ひとけ》のない古い温室に、一人、少女がいる。
待ち人はまだ来ない。
左腕を目の高さまで上げて、時間を確認する行為は、だんだんと間隔《かんかく》が短くなっていく。
最初は五分に一回。次は三分に一回。そして一分に一回、と。
そこまできたら、もう時計だけを見ていればいいものとも思われるが、そうすれば今度は、待ち人が現れてもすぐにそうとわからなくなってしまうから。
三十秒に一回。自分の時計が動いていることだけ確認して、また腕を下ろす。
それでも、彼女は立ち去らない。待ち人は、必ず来ると信じている。
待ち合わせの場所は、ここであっていただろうか。体育館の横にある、新しい温室。もしかしたら、そちらと間違っていやしないのか。
だが確認に行っている間に「あの子」が来たとしたら――、そう考えると、やはりこの場を動くことはできない。むやみに動き回って、人目につくのも困る。
今日は、至る所で生徒たちがチョコレートを受け渡ししている日。だからこそあの子は、こんな目立たない場所を待ち合わせ場所に選んだに違いない。
もう、どれくらい待っているだろうか。
身体《からだ》は芯《しん》から冷えている。
けれど彼女は、決して苦痛に感じない。
これは、自分に与えられた罰《ばつ》。
そう思わないことには、罪悪感で、胸がつぶれてしまいそうだ。
いっそ、雪が降ればいい。
あの子を待つ罪深いこの身を、白い雪がこの温室ごと覆《おお》い隠してしまえばいい。
そうしたらマリア様も、多少は哀れんでくれるかもしれないから。
寧子
人間だから、誰にだって間違いはある。
けれど、長い人生、時に取り返しがつかないほどの大間違いをしでかしてしまうことだってあるのだ。
*
それに気づくまでの十七年間、寧子《やすこ》はただの平凡《へいぼん》な女の子として生きてきた。
中等部からリリアン女学園の生徒となり、ほどほどに勉強してほどほどにスポーツをして、ほどほどに遊んでいるうちに、あっという間に三年間が過ぎ、気がついたら高等部に進んでいた。
平凡《へいぼん》は退屈かもしれないけれど、大切なことだ。人波にのって進む。たまの寄り道はいいが、大きく道をはずさない。それこそが人生の荒波をおぼれずに渡りきるコツなのだと、寧子は信じていた。
友達に誘われるままにボランティア部の部員になり、そこで知り合った一学年上の先輩に気に入られて一学期の終わりに姉妹《スール》の契《ちぎ》りをむすんだ。
お姉さまからロザリオをもらった時、もちろんうれしいという気持ちでいっぱいだったが、その中には多分に安堵《あんど》感が含まれていた。自分たち一年生は、陳列棚《ちんれつだな》に並べられた商品のようなものだと思っていたから。比較的早めに買いあげられたことで、ほっと胸をなで下ろしたわけだ。――まったく、とんでもない勘違《かんちが》いをしていたものである。
そんな寧子だから、二年生になって最初の目標は、一日も早く| 妹 《プティ・スール》をつくることだった。
「でも、どんな子でもいいってわけじゃないわよね」
ガードレールの内側を歩きながら、クラスメイトの花苗《かなえ》さんが言った。今日は、ボランティア部の奉仕日で、放課後寧子たちは学校の側の公立図書館へと向かっていた。児童館の子供たちを集めて、絵本の読み聞かせをすることになっている。
「やっぱり、やさしい性格で、素直な子がいいわ。それでいて、連れていてちょっと鼻が高いくらいの可愛《かわい》い容姿」
「ちょっと、ってところが重要なのね」
寧子は笑った。
同じクラスの、水野《みずの》蓉子《ようこ》さんみたいに「鼻高々」な美少女を妹にした日には、気後《きおく》れするに決まっている。まあ、蓉子さんの場合は、彼女自身が才色兼備《さいしょくけんび》だから気にならないのかもしれないけれど。それに| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》としては、将来の|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》候補ということも鑑《かんが》みて妹を選ばなくてはならないわけだし。何にしても大変だ。
「部活動の後輩なんてありがちだけれど、うちの部って地味だから、新入部員はなかなか入ってこないしね」
花苗さんがぼやく。彼女もまた、妹が欲しいのに未《いま》だこれぞという相手に巡り会っていない、寧子のお仲間だった。
「テニス部とかだと、わんさか入ってくるらしいわよ」
「聞いた。だから、早い者勝ちみたいなところがあるんですってね」
二人は声をひそめた。部員がたくさんいるから、相手を見つけやすい。相手を見つけやすいという噂《うわさ》を聞きつけて、部員が増える。いつの時代もテニス部は大盛況《だいせいきょう》。うらやましい気持ちは、ないといったら嘘になる。
「で、寧子さん、心当たりは?」
花苗さんが、探るように尋ねてきた。
「具体的に、この人っていう生徒はいないけれど……」
寧子は、ドライヤーで傷んだ髪を人差し指に絡《から》めながらつぶやいた。
「具体的にはいないってことは、漠然《ばくぜん》とならいるの?」
何気なく発した言葉なのに、花苗さんは妙に食いついてくる。寧子は苦笑した。
「そんな期待しないで。現実的じゃない話よ」
実は寧子には、以前から「こんな子がいい」と思っている相手がいた。それは、いつも朝の電車で一緒《いっしょ》の車両になる少女で、リリアンとは別の私立中学の制服を着ていた。彼女は寧子より先に電車に乗っていて、たいていはいつも同じ座席に腰掛け、本を読んでいる。それは、教科書だったり、文庫本だったり、時にはゲームの攻略本だったりした。
寧子は、彼女から少し離れた場所で手すりにつかまり、その様子を眺めながら電車に揺られる。肩より少し長めの髪はいつもサラサラ。時折肩からパサリと落ちて、それを耳にかけなおす彼女の仕草がとても好きだった。
二年生になったら、あの子みたいな妹が欲しい。そんなことを考えながら、寧子は彼女を置いて電車を降りる。ただ、それだけ。
けれど寧子が二年生になると、彼女は突然姿を消した。いや、「姿を消した」では語弊《ごへい》があるかもしれない。いつも寧子が乗る車両内では、見かけなくなったということだ。
新学期だから、進学などで以前とは別の学校に通い出したという可能性はある。家が引っ越して、交通手段が変わったということも考えられる。
とにかく、いつものあの時間、あの車両のあの席には、見知らぬ太った小父《おじ》さんが座るようになっていた。それは寧子の、ささやかな日課が、なくなってしまったことの証明だった。
予定時間より少し早く公立図書館に着いてしまった寧子たちは、読み聞かせをする予定の児童書コーナーではなく、一般の閲覧室《えつらんしつ》で時間をつぶした。今日の絵本は、かなり読み込んできたから、今更《いまさら》リハーサルする必要もない。それより、学校以外の図書館の本棚《ほんだな》が新鮮でならなかった。
リリアン女学園の中高等部図書館も、かなり充実しているが、やはり十代の女の子が利用するという前提のもとに集められた本は多少|偏《かたよ》りがあるもの。その点、公立図書館は、広く、深く、堅く、そして柔らかい、各ジャンルが平等に並べられていて刺激的だ。
それは利用者も同じだった。子供を連れたお母さん、参考書とノートを広げて勉学に勤《いそ》しむ男子学生、編み物の本を吟味《ぎんみ》しているお婆《ばあ》ちゃま、背広《せびろ》姿の会社員……。
その時、寧子はドキリとした。
書き物などをするための机とは別の、ちょっとした腰掛けに、「あの子」の姿を見つけたのだ。
電車のシートに座って本を読んでいたのとまったく同じ姿勢で、彼女は熱心に分厚《ぶあつ》い本のページを繰《く》っていた。例の私立中学の制服姿ではなく、白いブラウスに水色の花模様のフレアスカート、そしてクリーム色のカーディガンを着ていた。
「どうしていたの? 心配していたのよ」
駆け寄って声をかけたい衝動《しょうどう》を、寧子は押さえた。なぜって、目の前にいる彼女は、寧子のことなど知らないはず。いきなり現れて親しげにしゃべりかけたりしたら、きっと驚くだろう。変な人だと思われるかもしれない。
けれど、どうしたらいい? 寧子にはわからなかった。このまま別れたら、もう二度と会えないかもしれないのだ。
「どうしたの、寧子さん」
「ごめんなさい。あの、ちょっと」
動悸《どうき》が激しくなり、寧子はトイレに駆け込んだ。戻すことはなかったが、胸のむかつきは止まらなかった。
結局、今日の読み聞かせは、寧子の分担していた箇所《かしょ》を含めて、すべて花苗さんが引き受けてくれた。
寧子は、かろうじて児童書コーナーで花苗さんの隣《となり》に座っていることはできたのだが、心は一般|閲覧室《えつらんしつ》へ飛んでいた。帰りがけに、まだ彼女があの椅子《いす》に腰掛けていたら……、考えるとまた冷や汗が流れるのだった。
「調べたわよ」
翌朝、教室で花苗さんが言った。
「林浅香《はやしあさか》さん十五歳。あの図書館から約五十メートル離れたマンションに、ご両親と住んでいるんですって。ご近所ということもあって、図書館を小さい頃からお家の書庫みたいな感覚で利用しているらしいわよ」
それは紛《まぎ》れもなく、昨日閲覧室にいた少女のプロフィールだった。
「どうして」
寧子は、ただ呆然《ぼうぜん》と聞き返した。探偵でもない花苗さんが、どういったトリックを使って、短時間でそこまで知ることができたのか。そもそも、なぜ彼女のことを調べようだなんて、思ったのだろう。
種明かしは簡単だった。
「図書館のトイレで、寧子さん、理由を話してくれたじゃない。だから、あなたが個室に籠《こも》っている時に、ちょっと抜け出してお節介《せっかい》してみたのよ。さりげなく、司書《ししょ》さんに聞いてみたりして」
「聞けば教えてくれるものなの?」
驚いて尋《たず》ねてみると、「いいえ」と花苗さんは首を横に振った。
「守秘《しゅひ》義務だって。でも、直接聞いてみればって、彼女を紹介してくれた」
「それで」
「もちろん、直接聞いたわよ。そうしたら、名前と連絡先を教えてくれた」
「そんな簡単に?」
若い娘が、たとえ相手が同性だとしても、見ず知らずの人間に声をかけられて、すぐに自分の身元を明かすものだろうか。
「ほら、私たち昨日は制服を着ていたじゃない? それが身分証明になったわけよ。同じ学校の生徒なら、警戒心もゆるむわよ」
「同じ学校……?」
「よかったわね、寧子さん。彼女、高等部の一年生だったのよ。お姉さまは、まだいないんですって」
「え」
「もっと喜んでよ」
花苗さんはクスリと笑った。
「妹ができるかもしれないんだから」
「妹……」
寧子は、つぶやいた。
「そうよ、妹」
花苗さんにうなずかれて、じわじわと実感がわいてくる。
あの子を、妹に出来る。
夢のような話を現実に引き寄せるように、寧子は何度も「妹」とつぶやいた。
花苗さんの「お節介《せっかい》」にはアフターケアがついていた。彼女は、乗りかかった船、と、林浅香と会えるようお膳立《ぜんだ》てまでしてくれたのだ。
マリア像の前で、寧子は浅香の首にロザリオをかけた。浅香はその日のうちに、ボランティア部に入部届けを出した。
しかし。
「え?」
ボランティア部の月例会議が終わった後の雑談で、浅香が耳を疑うような発言をした。
「ですから。私は徒歩通学なんです。中学も地元の公立でしたから、今まで通学にはバスも電車も使ったことがなくて。定期券に少し憧《あこが》れます」
「浅香ちゃん。それはね、とても幸せなことだわよ」
寧子のお姉さまが、指を立てて言った。
「そうでしょうか」
「満員電車、きついわよ」
「でも、お姉さまとなら楽しい……かも。いつも帰りは校門までしかご一緒《いっしょ》できなくて、ちょっと寂しい」
「まあ、ごちそうさま」
三年生たちが、声を上げて笑った。
会議が終わると、花苗さんが「ちょっと」と言って、寧子をクラブハウスの外まで連れ出した。
「どういうことよ」
「人違い、ってことみたい」
寧子は答えた。
「あちゃー」
花苗さんは、両手を頭の上にのせて仰《の》け反《ぞ》った。彼女は、二人の仲人《なこうど》役でもあったから。
「でもね、花苗さん。私、浅香のこと本当に可愛《かわい》いと思っている。だから、あなたには本当に感謝しているの。今はね、電車の彼女が浅香を妹にするきっかけをくれたんだ、って思えるの。お願い、このこと浅香には言わないでね」
「……そうね」
花苗さんはうなずいた。言ったところで浅香を傷つけるだけだと、思い至ったのだろう。
「その電車の彼女がうちの生徒だったなんて、そんなうまい話あるわけないわね。彼女の分まで、浅香ちゃんを大切にしてあげなさい」
「ええ、そのつもりよ」
寧子はうなずく。心から、そう思っていた。
しかし、「そんなうまい話」は確かにそこに存在していたのだ。ただ、寧子がそうと気がつかなかっただけで。
浅香を妹にしてから一月《ひとつき》ほど経ったある日、いつもの車両でそれは判明した。
彼女が、あの席に座って聖書を読んでいる。それだけではない。なんと、リリアン女学園高等部の制服を身につけているではないか。
一瞬、電車通学に憧《あこが》れた浅香が、面白半分にどこかから乗ってきたのかと、思った。けれど、浅香は知らないはずだった。逆算すれば何時の電車かくらいは割り出せたかもしれないが、いつも寧子がどの車両に乗っているということまでは。
あまりに熱く寧子が見つめていたから、視線を感じたのだろうか、彼女が顔を上げた。
その時、初めて正面から彼女の顔を見た。
浅香ではない。
目を伏せた顔は、あんなに似ていたのに。真っ直ぐにこちらを見つめる顔は、まったくの別人だった。
「ごきげんよう」
彼女は、少し照れくさそうにそう言って立ち上がった。電車は、M駅のホームにゆっくりと停車する。
「どうして」
寧子は、挨拶《あいさつ》を返すより前に、彼女に問いただした。
「ええ。中高一貫教育の私立の中学に通っていましたけれど、高校はリリアンを受けたんです。前の学校は大学までありませんでしたし、家からも遠かったので、思い切って」
「車両を替えたのは?」
「入学式の直前、足のけがをしたクラスメイトがいて。家が一番近かったのが私でしたので、しばらく一緒《いっしょ》に登下校していたんです。松葉杖《まつばづえ》だと、鞄《かばん》を持ったりするのが大変ですし……。リリアンの生徒が多い車両の方が何かといいので、しばらくはそちらに。でも、昨日から松葉杖もとれたので、私もお役ご免ということになりました」
「そう」
その、足のけがをした生徒を恨《うら》むのは筋違いであると、寧子は重々承知していた。だが、その生徒さえけがをしなければ、二カ月前の四月に、自分たちはこのような出会い方ができていたはずなのだった。
彼女の名は、伴《はん》真純《ますみ》。寧子も自分の名とクラスを告げた。
「お姉さま」
M駅の北口に下り立つと、なぜだかそこに浅香がいた。
「あら、真純さんも。ごきげんよう。……お二人はお知り合いでしたの?」
聞かれて、寧子と真純は顔を見合わせた。
知り合い、そう呼んでいいのだろうか。言葉を交わしたのは、今日がはじめてだった。
「たまたま同じ車両に乗り合わせていたみたいで、ホームに出る時ご挨拶《あいさつ》したの。それで、そのままお話ししながらここまで来たのよ」
真純の説明は、間違っていなかった。ただ、それ以前の話が省略されていただけだ。
「まあ、世間って狭いわね」
浅香は、「こちらクラスメイトの伴真純さん」と紹介し、「そして、こちら白川《しらかわ》寧子さま」と続けた。
「浅香さんの、ご自慢のお姉さまね」
二人が姉妹《スール》であると説明する前に、真純が言った。
「お噂《うわさ》はかねがね。公立図書館での運命的な出会い、とか」
「嫌だ、真純さんたら」
浅香は顔を赤らめて、真純の肩を叩いた。その様子は、見ていてあまり気持ちいいものではなくて、寧子はたまらず口を開いた。
「どうしてここに浅香がいるの」
「ちょっと、バス通学の気分を味わおうと思って」
浅香は甘えるように、寧子の腕をとった。
「それじゃ、お邪魔《じゃま》なようなので」
真純が笑いながら、先に歩いていってしまう。追いかけたいという衝動《しょうどう》は起きなかった。むしろ、いなくなってくれてホッとしていた。
「変なこと、言いふらさないでよ」
「変なこと、って?」
「運命的な出会い、とか」
「ああ、私じゃなくて。噂《うわさ》好きのクラスメイトが、おもしろがって誰彼かまわず言って回っているんです」
それでも、その「噂好き」に伝わる前に少なくとも一人には浅香は言ったはずである。公立図書館で見初《みそ》められて、妹になった、と。
「でも、嘘《うそ》じゃないからいいじゃないですか」
「……そうだけれど」
浅香のしがみついた左腕が、なぜだかとても重かった。
真純
その人のことは、以前から知っていた。
中学三年生の一年間、真純《ますみ》はいつもの車両で彼女のことを意識してきたのだから。
*
いつもその人は同じ手すりにつかまって、こちら側を見ている。もちろん、自分が見られているなんて都合のいいことを考えているのではない。背後にある窓ガラスの向こう側の、変わりゆく景色をたぶん眺めていたのであろう。
それでも、顔を上げれば、きっと彼女と目が合ってしまう。だから真純は、彼女が乗り込んでくる駅が近づくと、鞄《かばん》から本を取り出して広げる。
駅のホームで、彼女はいつも同じ場所に立っている。そこは階段の近くで、時には発車ベルがけたたましく鳴る中、ホームに駆け上ってきてギリギリ開いたドアに飛び込む、なんてシーンも見られた。
そして彼女と同じ空間に身をゆだねている間、真純は開いた本に目を落とすのだ。集中出来る日と、内容がまるで頭に入らない日があった。
M駅で彼女の後ろ姿を見送り、ホッとしたような物足りないような気分になりながら、真純はその先、学校の最寄《もよ》り駅まで電車に揺られる。
揺られながら、いつも考える。
この気持ちは何なのだろう。
名前も知らない。歳《とし》も知らない。知っているのは、いつも彼女が乗り込んでくる駅の場所とリリアン女学園の生徒だということ。それだけ。
けれどそれ以上、何が必要だというのだろう。こうして、毎朝同じ電車でひとときを過ごす、それだけの関係でしかない二人の間に。
それだけ。
果たしてそれだけなのだろうか。真純の思考は、毎日少しずつ、だが確実に先へ進んでいく。
確かに、あの人にとっては「それだけの関係」だろう。けれど、自分にとってもそれを当てはめてみていいのだろうか、と。
ただドアから入ってくる姿を確認し、彼女の存在を意識しながら一緒《いっしょ》の時間を過ごし、後ろ姿を見送る。少なくともそれは「それだけの関係」以上の感情を含んでいるように思えるのだった。
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毎朝同じ車両に乗るのは、彼女だけではない。隣《となり》に座っているサラリーマンも、向かいの席のOLも、条件的には同じではないか。
それなのに、気になるのはあの人だけ。
リリアンの制服だからだろうか。そう考えて真純は、少しだけ答えに近づけたと思った。
リリアン女学園の制服を着た自分を想像した時、胸が高鳴ったのだ。
秋に入って、真純は付属の高校への進学を取りやめ、受験勉強を始めた。リリアン女学園の高等部一本に絞《しぼ》った。
春になって、晴れてリリアンの制服に身を包んだ真純は、入学式の日、いつもより早めの電車に乗った。初日だから時間に余裕《よゆう》をもって、なんて心に言い訳しなければならなかったのは、この制服姿をあの人に見られるのが恥ずかしかったから。
見ず知らずの少女の制服など、一々覚えてなどいないかもしれないけれど、それでも同じリリアンの制服であれば「おや?」と気にしてくれるかもしれない。自分自身に違和感があるうちは、この姿をさらしたくない、真純はそう思った。この制服が、身体《からだ》の一部のように馴染《なじ》んでからでないと、あの人の前に出ていく勇気がわかなかった。
そんな真純の願いが天に通じたのか、入学早々担任の先生から仕事を仰《おお》せつかった。春休みに足をけがしたクラスメイトの、登下校をサポートするというものである。彼女、築山《つきやま》三奈子《みなこ》さんと真純の家は、市境のあちらとこちらで、住所はまったく別だったけれど、直線距離に直すと百メートルと離れていないご近所だった。
「悪いわね、入学早々」
松葉杖《まつばづえ》をつきながら、三奈子さんが言った。
「部活動の見学とかあったら、遠慮《えんりょ》なく言ってね」
「大丈夫《だいじょうぶ》よ。どうしても入りたい部活ってないし。入りたくなったら、入ればいいくらいに思っているの。途中入部が駄目《だめ》な部なんて、あまりないでしょう?」
「でも、お姉さまが欲しいなら早めがいいわよ。私の足のせいで、真純さんが運命のお姉さまと巡り会えなかったら困るわ」
「そんな」
お姉さまのことなんて、それまであまり考えていなかった。だが、お姉さまと聞いて頭に思い浮かんだ。それは、あの人の顔だった。
「だからね、私に遠慮しないで」
「でも、一人で帰るの大変よ」
「いやね。私も一緒《いっしょ》に見学に行くの。悪いけど、しばらくはお世話になるって決めたから」
そんな三奈子さんだったから、すぐに仲よくなった。彼女は中等部から上がってきたので、学園のことに詳しく、他校から入ってきた真純にいろいろなことを教えてくれた。
朝は後ろから二両目の車両が、リリアンの生徒が多くていい、と言ったので、いつもの車両からはしばらく遠ざかることとなったが、もともとあの人に会うのが気恥ずかしかったからちょうどよかった。
そのうち借り物のようだった制服も肌に馴染《なじ》み、「ごきげんよう」の挨拶《あいさつ》も、マリア様に手を合わす行為も自然に出来るようになった頃、三奈子さんは松葉杖《まつばづえ》なしで歩けるようになり、真純も「ありがとう」という言葉ときれいなハンカチをもらって、鞄《かばん》持ちの仕事から解放された。
しばらくは三奈子さんの手助けをしようと思っていたが、彼女はさっさと部活動に入ってしまい、朝も夕方も忙しく部の仕事に没頭《ぼっとう》していた。新聞部だ。
それで、三奈子さんに合わせる必要がなくなった真純は、久しぶりにあの車両に乗ってみた。あの人はいるだろうか。学校では一度もすれ違っていない。もしかしたら、もう卒業してしまっただろうか。
けれど、いた。
そして、自分のことを知っていてくれた。リリアンの制服姿の真純を見て、「どうして」と理由を尋《たず》ねてくれたのだ。
リリアンの生徒でごった返す車両に、二カ月乗って、学校内の至る所に同じ制服姿の少女たちを見慣れたのに、やはり真純はその人を冷静に見つめることができなかった。
リリアンの制服への憧《あこが》れ。それは、同じ制服を着てこの人と同じリリアンに通いたい、その気持ちの現れだったのかもしれない。
白川寧子《しらかわやすこ》さま。
自己紹介してくれた名前を、真純は心の中に大事にしまった。二年生という学年を知って、抑えようにも抑えられない期待がふくらんだ。だが、その期待は駅を出てすぐにしぼんでしまった。
「お姉さま」
同じクラスの、林浅香《はやしあさか》さんが手を振って寧子さまに駆け寄ってきたのだ。
浅香さんが学校の外で見初《みそ》められたという話は、三奈子さんから聞いて知っていた。
浅香さんが、二人を紹介し合う。すでに自己紹介は済んでいたが、それをわざわざ言う必要はないので、軽く挨拶《あいさつ》を交わして別れた。
否《いな》、真純は逃げたのだ。
寧子さまと浅香さんが、仲むつまじく登校する姿を眺めながらバスに揺られるなんて。とても耐えられそうもなかったから。
いっそ、また電車の車両を変えようかと真純は思った。あんな思いは、二度としたくはなかった。
浅香さんの登場で、はっきりわかった。真純は、リリアン女学園に通いたかったわけではない。白川寧子さまの、妹になりたかったのだ。
一週間ほど後ろから二両目の車両で登校しただろうか、ある日、その車両にいるはずもない人の姿を発見した。
「なぜ?」
寧子さまは、真純の隣《となり》に立って言った。
「気にしているの?」
それだけの言葉で、寧子さまの言いたいことがわかった。けれど、真純はどう答えたらいいのかわからず、無言でうつむいていた。
なぜ、車両を変えたのか。それは、寧子さまに会うのがつらいから。
浅香さんのことを気にしているか、という問いかけには、その通りだと答えるしかない。
浅香さんは徒歩通学で、M駅から来たのはあの日だけだったと後になって聞いたけれど、だからといって何が変わるだろう。
寧子さまの妹は浅香さんで、自分はどうしたって寧子さまの妹にはなれないのだ。
M駅に着いて扉が開くと、寧子さまは一言だけ言って真純に背を向けた。
「私に会うのが嫌なら、私が車両を変えるから」
そこで、そのまま別れてしまえばよかったのかもしれない。だが、真純は寧子さまの腕をとってしまった。
「変えないでください」
「え?」
「私も変えません。だから――」
だから。
そうして、二人のささやかな逢瀬《おうせ》が始まったのだ。
毎朝、真純の乗っている車両に寧子さまが乗り込む。寧子さまは目の前までやってきて、真純に鞄《かばん》を預け、二人は語り合い、時に見つめ合いながらM駅までの時間を過ごす。
駅からはバス。
一緒《いっしょ》に乗り込むが、あまり言葉を交わさない。どちらかのクラスメイトが同乗していれば、自然に分かれてそちらと話をする。知り合いに会わなくても、バスを降りたら少しずつ離れるように歩いていく。
それは、相談し合ったことではない。二人の間で、自然にできあがっていったルール。それでも、真純は十分幸せだった。
けれど夏休みに入ったとたん、寂しくてたまらなくなった。学校が休みになること、イコール寧子さまに会えなくなること、なのだ。
去年まで、夏休みといえば、学業から解放され、宿題さえ片づければ毎日好きなことをして過ごせる夢の期間だった。祖父母の家に長期滞在したり、映画の梯子《はしご》をしたり、一日中プールの中ではしゃいだり。
けれど、今年は何をやっても心から楽しむことはできなかった。心のどこかで、今頃寧子さまは何をしているだろう、と思ってしまうのだ。
老人ホームの慰問《いもん》だとか、小児病棟《しょうにびょうとう》に本を読みにいくとか、手話の講習会への参加とか、公園の清掃《せいそう》をしにいくとか。夏休みといえどもボランティア部の活動は忙しいらしい。姉妹《スール》の契《ちぎ》りを結んだと同時にボランティア部に入部したという浅香さんも、たぶんその活動に参加しているはずだった。
もし自分が妹になっていたら、と真純は思う。浅香さんと同じように、きっとお姉さまの後を追ってボランティア部に入部し、お姉さまと一緒《いっしょ》に活動をしていたに違いない、と。
そう考えると、浅香さんがうらやましくてたまらない。彼女がいるあの場所に、そっくりそのまま入ってしまいたいとさえ思う。
でも、他人をうらやむことは無意味なこと。どんなに願ったところで、真純は浅香さんにとって代わることなどできないのだから。
寂しくて、寂しくて。それでも、電話なんてかけられなかった。
かけて、いったい何を言えばいいのだろう。
妹の浅香さんならば、用事がなくても無邪気《むじゃき》に電話をかけられるかもしれない。けれど、自分はその立場ではないのだ。
朝、同じ電車に乗り合わせるだけの二人。その関係に、つけるべき名前などない。
ボランティア部の活動があると聞いていた日の午後、真純はついにM駅まで来てしまった。
同じ電車を利用する。それだけが二人のつながりならば、と、心の中で何度も念じながら、改札口の内側で行き交う人々を何人も見送り続けた。
時計を確認すれば、そろそろ一時間。けれど、そんなにも待ったように感じられなかった。待っている時間は、まるまる寧子さまに捧げられた時間だから。その一秒一秒が、まるで宝物のように感じられるのだった。
やがて北口の階段を上りきった所に、寧子さまが姿を現した。そして真純の姿を見つけると、立ち止まって小さく口を開いた。
かなり離れている改札口からも、はっきりとわかった。
ますみ。
真純はうなずいた。そして、走った。左端の改札口から、右端の改札口まで。人の波を押しのけて。
寧子さまも駆けてくる。真純の目指す改札に向かって。
二人には、周りの物が見えなかった。あと少しでお互いの伸ばした手が触れあうというその時、自動改札の扉がそれを阻《はば》んだ。
「だめだよ。キップか定期券かカードを入れなきゃ」
駅員さんの笑い声は、まるで天から降ってきた言葉のように真純には感じられた。
その日、寧子さまはM駅の駅ビルで、ペンダントを買ってくれた。ショウウインドウに飾られていた涙型のガラス玉がきれいで、じっと眺めていたらプレゼントしてくれたのだ。安物だったけれど、うれしかった。うれしかったけれど、笑顔で「ありがとうございます」とは言えなかった。
これは、真純にとってのロザリオ。だから浅香さんのことを考えると、胸が苦しくなる。
寧子さまも、笑わなかった。ただ、帰りの電車の中で、無言のまま真純の手をギュッと握りしめた。二人は罪を共有していた。
真純は、学校のイベントが嫌いになった。イベントというものは、どうしても姉妹《スール》単位で行動することが多いから。運動会の袴《はかま》競走、学園祭の校内巡り……。独《ひと》り身《み》が辛いのではない。寧子さまと浅香さんが姉妹《スール》であることを、嫌でも思い知らされてしまうのが嫌なのだ。
クリスマスが近づいて、浅香さんが毛糸玉を学校に持ってくるようになった。お姉さまにマフラーを編むのだそうだ。編み物をしているのは、浅香さんだけではない。お姉さまのいるクラスメイトたちは示し合わせたみたいに、小物や大物を作り始めた。
「真純さんも、何かお作りになったら?」
休み時間、話し相手も減って退屈している真純に、浅香さんが言った。
「でも、プレゼントする相手もいないし」
「それなら、ご自分のでもいいじゃないの」
本当は、プレゼントしたい相手がいる。けれど、浅香さんの前で編んでいた物を、寧子さまに手渡すことなどできるわけがない。
「自分のなんて、寂しいわ」
真純は首をすくめて席を立った。何も知らない幸せな浅香さんが、憎らしく見えた。
「だったら、あなたのお姉さまに差し上げてもいい?」
口からそんな言葉が飛び出す前に、撤退《てったい》するに限る。
お手洗いに行く振りをして振り返ると、浅香さんは話をしているうちに編んでいた目の数を忘れてしまったようで、一生懸命数え直しをしていた。
クリスマスが終わってほっとする間もなく、ヴァレンタインデーがやってくる。
マフラーは無理だけれど、口の中にとけてなくなるチョコレートなら渡しても許される気がした。世の中には、義理で授受するというチョコだって存在するのだ。
「今日の放課後。古い温室に来ていただけないですか」
真純は、電車の中でそう告げた。寧子さまは、もちろん何のことかわかっていて、「わかった」と言ってうなずいた。
朝の電車の中で渡すことだってできたけれど、それでは嫌だった。マリア像の前なんて贅沢《ぜいたく》は言わない。どこかの片隅だっていい。真純はどうしても、学校の中でチョコレートを渡したかったのだ。
浅香
もう、ずいぶん前から浅香《あさか》は知っていた。
お姉さまとクラスメイトの関係を。
*
最初に二人が一緒《いっしょ》のところを見たのは、悪戯《いたずら》心でM駅で待ち伏せした時。でも、あの時はさほど気にもとめなかった。
同じ車両に乗り合わせた仲。確かに、あの時はそれだけの関係だったと思う。真純《ますみ》さんは入学早々、三奈子《みなこ》さんに付き合って登下校していたから、見知らぬ上級生と個人的に親しくなるなんてチャンスはなかったはずだ。
けれど、いつからだろう。浅香は感じ始めていた。お姉さまの心の中には、自分以外の人間が住んでいる、と。
姉妹《スール》の契《ちぎ》りを結んだ時から変わらず、お姉さまはやさしい。いや、向き合っている時は以前よりやさしさを増しているようにさえ思える。だが、ちょっとした時に見せる横顔が、声をかけるのをためらわせるほど浅香を拒絶していた。誰か、別の人のことを考えているように見えた。
最初に意識したのは、夏休み前だったろうか。浅香が雑談でクラスメイトの話をした際、ほんの少しだけお姉さまの表情が曇った。「真純さんがね」と言ったすぐ後のことだった。
こんなこともあった。
「それじゃ、築山《つきやま》の後ろの林《はやし》、今の文訳して」
先生が浅香とは別の方向を見て、指名した。
「あ、林じゃない。伴《はん》か」
顔を上げた真純さんを見て、先生はすぐに訂正した。
「いや、すまん。似ていたものだから」
その時は、単純に苗字《みょうじ》のことを言っているのだと解釈した。林と伴。どちらも漢字一文字だし、出席番号も続いている。
けれど、それからすぐ、真純さんが髪の毛をばっさりと切ってきた。ただの偶然かもしれない。けれど、浅香の心の中に小さな疑惑が芽生《めば》えたとしたら、それはその時だったかもしれない。
それからしばらくして、真純さんが中学時代、同じ路線のM駅より少し先の学校に通っていたことを知った。
だから何だ、ということもない。
何の接点もなかった寧子《やすこ》さまが、なぜ浅香を妹に選んだのかという疑問の答えを、わざわざそこに見つける必要があるだろうか。
どれも、どうということはないエピソードだ。すべてをつなげて考えるなんて、ばかげている。
けれど、そういう真純さんの小さなエピソードの一つ一つが、浅香の目の前を通り過ぎるたび心の突起に引っかかって、ぽとんぽとんと落ちて足もとに転がる。それが積もり積もって、いつしか浅香は身動きがとれなくなってしまった。
試しに、頭の中で真純さんをお姉さまの隣《となり》に置いてみる。すると、それ以上の答えはないと思えるほど、しっくりとパズルのピースがはまってしまった。
秋の放課後、中庭に一人|佇《たたず》むお姉さまの姿を見つけたことがある。お姉さまは、二階の窓を静かに見上げている。そこには一人の少女がいて、同じように静かに見下ろすだけ。それが真純さんだった。
それはとても美しい情景で、シェイクスピア悲劇のワンシーンを思い起こさせた。物語では、確かかわいそうな恋人たちは、互いの家と家とに仲を引き裂《さ》かれてしまうのだ。
二人は、別の校舎から浅香が見ていることに気づかず、五分ほど見つめ合って別れた。その五分が、浅香には一時間にも二時間にも感じられた。
お姉さまは、自分より真純さんを好きなのではないだろうか――。疑念を抱きながら、けれど浅香は自らそれを確かめることができなかった。
問いつめて、不実をなじれば、もしやお姉さまは真純さんと別れてくれるかもしれない。でもそうなったら、自分とお姉さまの関係も今のままでいられなくなるだろう。
そんなのおかしい。
何の落ち度もない人間が、そんな目に遭《あ》うなんて。
物わかりのいい妹になって身を引くことも、怒りをぶつけて般若《はんにゃ》のようになることも、浅香にはできなかった。
なぜなら、この関係を始めたのはお姉さまだから。
他に好きな人ができたのなら、お姉さまが頭を下げて「姉妹《スール》を解消して欲しい」と頼めばいいのだ。少し、いや、かなり泣くかもしれない。でもそうしてくれたなら、浅香はきっと許したはずだ。そこにお姉さまの誠意が見えたなら。自分以外の人間を好きになったとしても、やはり浅香にとっては大好きなお姉さまなのだから。
けれど、お姉さまは何も言ってこなかった。クリスマスにも、浅香の、少し編み目が不揃《ふぞろ》いのマフラーを受け取り、代わりにビーズで花模様が描かれた可愛《かわい》いポーチをプレゼントしてくれた。
浅香はポーチにリップクリームやハンドクリームを入れて、学校に毎日持っていった。積極的に見せびらかしたりはしなかったけれど、どこかで真純さんの目に映っていればいいと思っていた。
どんな形であれ、寧子さまの妹は自分だと、アピールしないことには気持ちを保っていられない。そんな自分を決して好きではなかったけれど、浅香にはどうすることもできなかった。
そして、ヴァレンタインデー。
浅香は妹らしく、お姉さまに手作りチョコレートを作った。アーモンドの代わりに、煎《い》ったコーヒー豆をチョコレートでコーティングした物。
ほろ苦くて、甘くて、切ない味。
昼休み、順番待ちをしてマリア像の前で手渡した。それは姉妹《スール》の王道だから、そうしたいと浅香がおねだりしたのだ。
お姉さまは、たいていのお願いは聞いてくれる。それはもしかしたら、後ろめたい気持ちがあるからかもしれない。けれど、浅香は気づかないふりをして、無邪気《むじゃき》な可愛《かわい》い妹を演じる。お姉さまが幕引きをしてくれない限り、その役から降りることができなかった。それが、時間が経てば経つ分、汚れていく役であろうとも。
辛《つら》かった。
大好きなお姉さまを疑い、クラスメイトを監視《かんし》するなんて。好きこのんでやりたい人間なんて、いるだろうか。
その日、真純さんの手提げ袋の中には、チョコレートが入っていた。確かめてみなくても、そぶりでわかる。それくらい、浅香は真純さんのことばかりを見て過ごしていた。
いつ渡すのだろう。気にしながら放課後を迎えた。
このまま渡さずに帰るのだろうか、そう思った矢先、真純さんはやにわに手提げ袋を掴《つか》んで教室を出ていった。
「あっ」
追いかけようとすると、三奈子さんが雑巾《ぞうきん》をちらつかせて浅香を呼び止めた。
「浅香さんは教室担当でしょうが」
「あ……はい」
真純さんは、掃除《そうじ》分担区域に向かっただけなのだった。けれど、きっと清掃が終わればその足で寧子さまのもとへ行くに違いない。
浅香は教室の掃除をさっさと済ませ、お姉さまの教室を覗《のぞ》きにいった。
お姉さまは、ちり取りにゴミを集めている。真純さんはまだ来ていないようだ。ここで待ってさえいれば、彼女はチョコレートを渡すことはできない。
学校の外でのことまで、監視《かんし》はできない。けれど、校内でだけは、チョコレートの授受を認めたくなかった。ここでの妹は、浅香なのだから。
教室の前の扉付近に立っていると、そうとは気づかないで、お姉さまは後ろの扉から廊下《ろうか》へと出た。振り返らなかったから、浅香の姿は見えていない。
とっさに後を追った。真純さんと待ち合わせているに違いなかった。マリア像の前でなんかチョコレートを渡したりしたら、絶対に許さない。そう心の中でつぶやいた。
だが、お姉さまの向かった先は、それとは逆方向だった。廊下《ろうか》を校舎の端まで歩いていって、中庭に下り立った。少し離れて、浅香もついていく。ヴァレンタインデーの今日、校内にはまだ生徒がたくさん残っていたから、比較的尾行はしやすかった。
校舎の裏を通って、どんどん進む。この先は武道館。そして裏門へと通じる道。
途中、古びた温室の中に、お姉さまは入っていった。外から見た限り、人影は一つ。まだ真純さんは来ていない。
浅香は、道の入り口までゆっくりと引き返した。ここならば温室から自分の姿は見えない。そして校舎側から温室に行くためには、必ず通らなければならない場所だった。
真純さんは来るだろうか。
浅香は、来て欲しいのか来ないで欲しいのか、自分の気持ちがもうわからなくなっていた。でも、それを確かめないまま、この場を去るなんてことはできない。二人から逃げたくはなかった。
裏門を目指して下校する生徒たちを何人か見送る。十分二十分と時間が経っていく。
もう来ないだろうか。約束なんてなかったのではないか。そう思い始めた時、校舎の脇を走ってくる人影があった。
真純さん。
やはり、こういう勘《かん》は嫌な方に当たってしまうものらしい。
息を切らした真純さんは、浅香の姿を見つけると、急にスピードを落として目の前で止まった。
「ごきげんよう」
浅香は、ほほえんで挨拶《あいさつ》をした。
「ご……きげんよう」
「どうなさったの。そんなに急いで」
「え? いいえ」
真純さんは言葉を濁《にご》した。寧子さまを待たせているから急いでいるのだとは、まさか言えるわけがない。
「浅香さんこそ、こんな所で何をしてらっしゃるの?」
「私はね。お姉さまと待ち合わせしているの。用事を片づけるから、ここで待っていてって言われて」
そう言って前に立ちはだかる寧子さまの妹を押しのけてまで、真純さんが温室に向かったならば、天晴《あっぱ》れと浅香も見直したことだろう。けれど、真純さんはそうはしてくれなかった。
「そう」
ただ、それだけつぶやいて。踵《きびす》を返した。
これではまるで、自分が一方的に意地悪をしているみたいだ、と浅香は思った。でも、惨《みじ》めなのは、自分の方。泣きたいのも、きっと自分の方だった。
真純さんを見送ってから、浅香は温室の中へと入っていった。
「浅香……」
お姉さまは、現れたのが待ち人ではなかったから驚いていたようだったが、浅香は構わず奥へと進んだ。
「探しちゃった」
「どうしたの」
言いながら座っていた棚《たな》から、腰を浮かす。そんなに焦らなくてもいいのに。後から、真純さんが現れるなんてことは金輪際《こんりんざい》ないのだから。
「私、次に公立図書館に行く時のことで、ひらめいたことがあるの。それをお姉さまに早く聞いて欲しくて」
「わかった。じゃ、うちの教室に行こうか」
「お姉さまの教室に?」
「ここは寒いし、浅香がくれたチョコレートを食べながら相談しよう」
お姉さまにやさしく肩を抱かれて、浅香は「ええ」と小さくうなずいた。
いつまでこんなことが続くのだろう。
お姉さまの冷たい手と自分の手をつないで歩きながら、浅香は真純さんのことを思った。
彼女はどこかで、自分たちのことを見ているかもしれない。それとも、校舎の片隅ででも一人涙に暮れているだろうか。
想《おも》いを、甘いチョコレートで隠したまま、三人はどこまで歩いていくのだろう。
誰かがこの均衡《きんこう》を壊さない限り、きっとずっとそのまま続いていく。それがいい状態だとは、誰も決して思っていないというのに。
悔《くや》しいけれど、恨《うら》めしいけれど、それでもまだ「好き」の方が上回っているから。
それが逆転した時、浅香は首にかかったロザリオをはずすことができるだろう。
いつかはわからない。
それは明日かもしれないし、半年後、一年後かもしれない。
お姉さまが、天を見上げた。
浅香も真似《まね》して見上げてみたが、そこにあったのはただ曇り空だけだった。
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イン ライブラリー―W
「小笠原《おがさわら》祥子《さちこ》さん? ええ、ずいぶん前に本を返却しにいらしたけれど」
二股《ふたまた》の枝のもう一方は、図書館|閲覧室《えつらんしつ》の貸し出しカウンターの中で、微笑して答えた。
「そう。三十分くらい前かしら……ごめんなさい正確な時間はわからないわ」
三奈子《みなこ》さまに改めて「この人」と教えてもらわなくても、祐巳《ゆみ》にはなぜだかわかってしまった。さっきの人と、どこかしら雰囲気《ふんいき》が似ている。
どっちがどっちとは、あえて聞かなかったけれど。二人のうちの一人が「他の人のお姉さまと陰でつき合っていた人」で、もう一人が「お姉さまにロザリオを投げつけた人」だなんて。あの二人にそんな激しい過去があったなんて、本人を目の前にしてみても、とても信じられるものではない。
「本の返却時間は何時になっているの?」
三奈子さまはカウンターに身を乗り出して、なおも聞いた。
「ちょっと混雑していたから、すぐに処理できなかったの。返却の本はそのままお預かりして、あとでまとめてコンピュータに入力したから」
図書委員のその人は、カウンターの後ろを振り返った。作業台のような場所に積まれた本の中に、今日の昼休みに祥子さまが読んでいたのと同じ本の背表紙がチラリと見えた。
「……来たんだ」
お姉さまは、間違いなく当初の目的は果たした。と、すると、あとは薔薇《ばら》の館《やかた》に帰るはず。
「祥子さんが閲覧室《えつらんしつ》から出るところ、見た?」
三奈子さまが尋《たず》ねると、その人は「いいえ」と首を横に振った。
「そうよね。混雑していたんだもの。人の出入りなんて、一々見ていられないか」
「少なくとも、その後本を借りには来ていないわ」
ありがとう、とカウンターの中にお礼を言ってから、三奈子さまは祐巳の方に振り返った。
「祥子さん、返却だけしにきたのよね」
「はあ」
祐巳は頼りなくうなずいた。今となっては、それも怪しい。何せ、『図書館に行ってきます』なのだ。
「ずいぶん前に来たっていうから、もう帰ったかもしれないけれど、一応閲覧室の中を探してみましょう」
三奈子さまの提案で、二人は左右に分かれて回って真ん中で落ち合うことになった。広い閲覧室《えつらんしつ》、確かにその方が効率がいい。
「あと十分で閉館です」
そんな図書委員の声を背中に、祐巳は逆時計回りで壁沿いに歩きだした。歩きながら、本棚《ほんだな》と本棚の間の通路を丹念《たんねん》に調べていく。
「あ」
どれくらい進んだ頃だろう、祐巳は、目立たない一角に見覚えのある二人の人物を発見した。
本棚の側面にもたれかかり、寄り添うように一冊の冊子《さっし》を読んでいた二人の姿はまさに一枚の絵。こんな時でもなければ、遠くからしばらく眺めていたいものだが、今はそんなのんびりもしていられない。申し訳ないが、水入らずで過ごす白薔薇姉妹のお邪魔《じゃま》をさせてもらうことにした。
「ごめん、志摩子《しまこ》さん」
二人は、同時に本から顔を上げた。
「あら、祐巳さん」
「お先に失礼してしまって、すみませんでした。祐巳さま」
「あ、いえいえ。こちらこそ」
祐巳は取りあえず、頭を下げた乃梨子《のりこ》ちゃんに頭を下げ返した。帰ろうって時に、居眠りしていた方に問題がある。
「ところで、二人ともいつからここに?」
「薔薇の館から直接来たのよ。まあ、いつの間にか一時間も経ってしまったのね」
志摩子さんは、時計を見ながらあきれ顔でつぶやいた。本って魔物だわ、と。
とにかく、ずっと閲覧室にいたならば祥子さまの行方《ゆくえ》を知っているのではないか。祐巳が切り出そうとすると、それより先に志摩子さんの方から絶望的な質問が投げかけられてきた。
「祥子さまは? ご一緒《いっしょ》?」
「ああ……」
期待していただけに、祐巳は思わず膝《ひざ》から崩《くず》れた。志摩子さんがあわてて手を添えてくれたから、床におしりをつかずに済んだけれど。
「ど、どうしたの? 私、何か悪いことを言って?」
「ううん。そうじゃなくて」
祐巳は祥子さまが置き手紙を残していなくなったことと、本を返却しにいっただけにしては時間がかかりすぎているので、心配で見にきたことを手短に説明した。
「もしかして、瞳子《とうこ》じゃないですか?」
黙って聞いていた乃梨子ちゃんが、ボソリと言った。
「瞳子ちゃん?」
「さっき閲覧室の入り口でばったり瞳子にあって、私、放課後に祐巳さまがうちのクラスまでいらしたことを言ったんです。そうしたら、すぐに図書館を出ていってしまって……。途中、こちらに向かわれていた|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》とどこかで鉢合《はちあ》わせして、そのままミルクホールとかに引っ張っていった、とか。瞳子ならやりかねませんもの」
「いや、その線はない」
瞳子ちゃんはその時間、祥子さまとミルクホールで苺《いちご》牛乳を飲む代わりに、薔薇の館で祐巳と紅茶を飲んでいたのだから。
「一緒《いっしょ》に探すわ」
志摩子さんは冊子《さっし》を閉じた。乃梨子ちゃんもうなずく。
「あの、そんな大げさな話じゃないし」
「でも、現実に行方《ゆくえ》不明なんでしょう?」
いや、行方不明というより、ただちょっと見あたらないというだけで。
「案外、薔薇の館に戻ってきているかもしれないし」
「それならそれでいいじゃない」
「でも、お二人は本を――」
「本なんて、いつだって読めるわ。それより祥子さまを見つけるのが先決」
どうしよう。大騒ぎして祥子さまがひょっこり見つかった場合、その時この状況をどう取り繕《つくろ》えばいいのか。
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「乃梨子、いいからその冊子《さっし》を戻してちょうだい」
「はい」
乃梨子ちゃんが冊子を本棚《ほんだな》に戻す時、祐巳の目にそのタイトルがチラリと映った。
「『桜組伝説』?」
「ええ。桜亭《さくらてい》で読ませてもらってとても面白かったのだけれど、混んでいたから長くいられなかったの。二年桜の人に聞いたら、そのうち希望者には抽選でプレゼントするという話だったのだけれど、確実に読みたければ図書館に数冊|寄贈《きぞう》したから行ってみれば、って教えてもらって。それで乃梨子と来てみたの」
「でも、それ、ちょっと違わない?」
祐巳も桜亭で一度は手に取ったからわかる。似ているけれど、明らかにあの本とは違う。
「そう。これは今年のじゃないのよ」
志摩子さんは笑いながら、冊子を戻した棚を手で撫《な》でた。そこに並んでいたのは、色の濃さや本のサイズ、時折タイトルも微妙に違っていたが、どれも背表紙がピンク色の冊子だった。
「これ、すべて『桜組』の由来について書かれている本なのよ」
興味深いでしょ、って。
――うん、確かに。
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桜組伝説
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リリアン女学園高等部の校舎二階一番端に、二年|桜《さくら》組教室はある。
年代物の木の扉は黒ずみ、もう何の木だかわからない。けれどこの教室を使う生徒たちなら、それが桜の木であるということを知っている。先輩から後輩へ、代々言い伝えられてきたからだ。
さて、その扉を横にスライドさせて中を覗《のぞ》けば、現在、二年桜組はホームルームの真っ最中である。
黒板には『桜亭を考える』という議題が大きく書かれ、学園祭実行委員を中心に大いに盛り上がっている。
「では、多数決により今年の桜亭《さくらてい》は喫茶店に決定いたします」
桜亭。
これは、学園祭で桜組が伝統的に守り継いできた店の名前。出し物はその年ごとに違えども、名前だけはいつも同じ桜亭なのだ。ちなみに去年は、カレー屋さん。過去にはおそば屋さんとか、甘味処《かんみどころ》、芝居《しばい》小屋なんていう年もあった。その点、今年決まった喫茶店というのは今も昔も安定した人気で、数年に一回の割合で登場している。
すんなり決まったところで、この議題は晴れて解決。……かと思いきや、実はここからが本題なのである。
「音楽喫茶なんてどうかしら。お茶を飲みながら、生演奏を聴いていただくという」
まずは、フォークソング部に所属する生徒が提案した。
「賛成」
合唱部、箏曲《そうきょく》部の部員が、次々に手を挙げる。
「あの、ショータイムのようなものを設けていただいて、そこにダンスなどもおりまぜるというのはいかがでしょう」
ダンス部員が、出遅れてなるものかと加わる。
ギターにコーラスにお琴《こと》にダンス。音楽という括《くく》りがあるとはいえ、これはかなり統一感に欠ける喫茶店になりそうだ。
「喫茶店に音楽が流れているのなんて、当たり前すぎやしませんか? ここは奇《き》をてらって、音楽を一切排除《いっさいはいじょ》するのも一案かと」
お、発言に新しい流れが。囲碁《いご》部の生徒だ。
「音楽を排除して、いかがなさるの? まさか、碁盤をおいて対戦するとか」
「その通り」
すると、ここぞとばかり将棋部の生徒が加勢する。
「場合によっては、将棋《しょうぎ》盤を混ぜてもいいと思います」
勝負喫茶・桜亭。それはそれで、斬新《ざんしん》なアイディアではあるが――。
「お話になりませんわ。勝負がつくまで席を立たなくなって、お客の回転が悪くなるに決まっています」
「ならば、音楽だって同じこと」
どうやら、皆、自分の得意分野で勝負したいらしい。最初はさほど具体的なイメージをもっていなかった生徒たちも、会議が白熱していく中、負けてなるものかと次々に参戦しだすからますます混乱していく。
絵画のある喫茶店(美術部)、漫画喫茶(漫画研究部)、花のある喫茶店(華道部)などなど。ピンポン喫茶(卓球部)や編み物喫茶(手芸部)なんてものになると、もうさっぱり訳がわからない。まとめ役の議長も、やれやれと大きなため息をついた。
「皆さんの主張はわかりました。けれど、このままではクラスの意見がまとまりそうもありません。そこで、いかがでしょう。今日の話し合いはここまでといたしまして、後日発表の場を設けて、レポートなりプレゼンなりで大いにアピールしていただくというのは。学園祭実行委員会には、取りあえず喫茶店ということで申告しておきますから」
賢明な意見だ。皆、熱くなっているから、ここは一旦頭を冷やした方がいい。一晩寝たら、どうしてあんなことを発言したのか、というようなことはよくあるし。それでもなお、いいアイディアだと思うのなら、改めて大いにアピールすればいい。
「よろしいかしら」
今までずっと黙っていた文芸部の生徒が、満を持してといった感じで手を挙げた。
「そういうことでしたら、私も数に入れてくださいな」
「文芸喫茶桜亭?」
どこからか、茶化《ちゃか》すような声があがった。
「ええ。でも、私はただ自分の作品を発表する場にしたいと思ってはいませんわ」
「というと?」
「皆さんと一緒《いっしょ》に、桜組でなければ作れない冊子《さっし》を作ってそれを店に置きたいと考えているんです。そこで」
文芸部員は、クラスメイトたちをぐるりと見渡す。
「プレゼンに先駆けて、皆さんから広く桜組伝説に関する物語、詩歌《しいか》、論文を募集致します」
「桜組伝説?」
「そうです。高等部各学年六クラスある中、なぜに二年生だけ桜組が存在するのか。逆に、なぜ一年・三年にある李《すもも》組が二年にないのか。皆さんだって考えたことがあるはずです」
あるはずと問われて、生徒たちはざわめく。
「この教室だけ桜の木の扉だからでしょ?」
「佐倉《さくら》先生っていう、名物教師がいたクラスだったからじゃないの?」
あちらこちらから、声が上がった。
「ほら。皆さんだって、一つや二つ伝説を知っていらっしゃるじゃないですか。それを字にしてください。文で語ってください」
参加の呼びかけに、教室の中は「ちょっと面白そう」なんて空気になっている。何だかんだ言っても、若い娘たちはこの手の話題が好きなのだ。
議長が腕時計で時間を確認した。
「他にも、何か言い足りない人がいたら今のうちにどうぞ」
見回したところ、もうそのような人はいないようである。
「では、来週のこの時間に、プレゼンテーションを行うということでよろしいですか」
全員挙手を確認すると、議長役の学園祭実行委員はこちらを向いて言った。
「ということで、先生。帰りのホームルームを行ってください」
桜の中の魔
こちらとあちらは合わせ鏡。
取り替え合った心の一部が、私の心を呼び寄せる。
枝を揺らして花びらを降らせるから。
合図に気がついたなら、きっときっと会いに来て。
* * *
「白雪《しらゆき》さん?」
どうなさったの、と言ってクラスメイトたちが振り返る。
「いえ、別に。ごめんなさい、すぐ行きます」
白雪はセーラーカラーを翻《ひるがえ》しながら桜の花びらを踏んで、クラスメイトの小さな集団に追いついた。いつの間にか、十メートルほどの差がついてしまっていた。
「何か気になることでもあって?」
小首を傾《かし》げるクラスメイトに、白雪は「別に」と言葉を返した。
気になることはあったけれど、それをどう説明していいものかわからない。だから、そのまま後ろをかえりみた。そこに答えが転がっているわけでもないのに。
朝拝からの帰り道、お聖堂《みどう》を出て程なく誰かに呼び止められた気がして、足を止めた。ただそれだけのこと。
けれど、見回してみても人の姿はない。そこには、枝では支えきれないほどの花を誇らしげに咲かせた桜の木が一本生えているだけ。
「白雪さんたら、また」
「桜の花にでも酔われたのかしらね」
少女たちのコロコロという笑い声につられて、白雪も小さく笑った。
桜に酔った。そう考えると、妙にしっくりくるから不思議だった。
二年|李《すもも》組の教室に帰ってからも、白雪は自分に投げかけられた声のことが気になって仕方なかった。いや、時間が経てば経つほど、心を占《し》める割合が増してきて、四時間目の授業など、ノートをとるどころか教科書すら開かずにあの声のことだけ考えていた。酔いならば、時間と共に醒《さ》めていくもののはずなのに。
昼休みになると、白雪は何かに急きたてられるかのように、あの場所に舞い戻った。自分が何に誘われたのか、それを確かめずにはいられなかった。
「誰?」
朝呼び止められた場所に立ち、白雪は逆に呼びかけた。
すると。
「誰?」
木霊《こだま》のように、声が返ってくる。白雪は夢中になって呼びかけた。
「どこなの?」
「ここなの?」
ここ、とつぶやいて辺りを見回せば、そこに彼女を見つけることができた。
横に伸びた太い枝の上に、ちょこんと腰掛けたあどけない顔の少女が一人。
着ているのはリリアン女学園の制服。けれど、白雪の身につけている物とどこかが違う。
「誰?」
今度は少女の方から尋ねてきた。
「……白雪」
目と目があっては、答えずに済むわけがない。
「そう。私は白妙《しろたえ》」
白妙は、うれしそうにほほえんだ。茶色くて真っ直ぐな髪は、腰掛けた枝に届くほど長く伸びている。肌の色は、まるであちら側が透けて見えてしまうほどに色素が薄い。
否《いな》。透けて見えてしまうほど、ではない。本当に透き通っているのだ。
――魔。
瞬間的に、白雪は思った。彼女は、この世の物ならざる物。普通の人間の肌は、背後の桜の花々を透かして見せたりしないものだ。
白雪は駆けだしていた。
「あ、白雪?」
背後から、白妙のおっとりとした声が聞こえた。彼女は、自分が何者なのかわかっていないのだろうか。
どこをどう走ったのかわからない。けれど、気がつけば白雪は自分の教室に舞い戻っていた。
「どうしたの?」
クラスメイトの一人が、何かを感じたのか、食べていたお弁当の蓋《ふた》を閉じて、白雪のもとに駆け寄ってきた。
「顔色悪いわよ」
百代《ももよ》さん。日頃から、そういったオカルトっぽいことに関して、妙に詳しい人だ。
「私、今、幽霊を見た」
「幽霊?」
「わからない。もしくは魔」
普通だったらとても信じてもらえないようなことなのに、百代さんは笑いもしないで白雪の話を最後まで聞いてくれた。「そう、それで」と相づちを打たれているうちに、段々と心が落ち着いてきた。
「そんなバカなことってないわよね」
今見てきたこと、今聞いてきたことをすべて語りきった最後に、白雪はつぶやいた。
「透き通った人間なんて、おかしいわ」
しかし、オカルト好きの友は相変わらず笑いもしない。
「おかしいって言ったって、見たのでしょう?」
「でも」
「白雪さん」
どうなの、と促されて、白雪は「ええ」とうなずいた。
「信じてくれるの?」
「嘘《うそ》なら、むしろその方がいいのよ」
真顔で、答える友。
「まず朝ね。その場に何人もいたのに、白雪さんだけが気がついてしまった。それだけじゃないわ。もう一度その場に戻って、今度は自分から呼びかけてしまったのでしょう? それって、ちょっとまずいのよ」
「まずい……?」
「魔であれ幽霊であれ妖怪であれ鬼であれ、この世の物でないものとつながりをもつのは危険だってこと。白雪さんだって、人混みの中ですれ違った人のことを一々覚えていないでしょう? けれど、例えば誰かとぶつかって、その人がアイスクリームか何かで白雪さんの服を汚したとする。印象残るわよね」
「ええ」
「その上、その人は平謝りで、『クリーニング代です』って言ってお財布《さいふ》からお札を出したりしたら」
「もらえないわ」
「うん。すると『受け取る』『受け取らない』の押し問答か。まあ、どうにか決着がついたとして、そうなるとその人はすでに『街中ですれ違った人』ではなくなっているわよね」
「私の服にアイスクリームをつけて、クリーニング代を出そうとした人」
「そうよ。もし次にどこかで会ったら、白雪さんは『ああ、あの人』って思うはず。でも、もしアイスクリームをつけられなかったら? 次に会っても、気がつかない可能性は大だわ」
百代さんの指摘を聞いて、白雪は背筋が寒くなるのを感じた。
「何が言いたいの?」
「相手があなたを覚えたということ」
「覚えられたら、どうなるの?」
「相手が何者で、何が目的かわからないから、何をされるかなんて想像もつかない。でも、用心はしないと」
「どうしたら」
「その場所に行かないことよ。聞けば、彼女は桜の枝に座っているんでしょう? 桜の化身とか、桜の木に縛《しば》られているとか、そういう類《たぐい》のものかもしれない。だとしたら、そこから動けないわ。あなたさえ行かなければ、済むことよ」
「でも、校内よ。二度と行かないなんてこと、できるわけがないわ」
「だったら、桜が咲いている間だけでも」
「……できるかしら」
「するのよ。それからもしどこかで彼女から話しかけられても、もう返事をしてはだめ。いくら呼びかけても反応がなければ、人違いと思って諦《あきら》めるかもしれない。難しいことかもしれないけれど、これは自分の身を守るために必要なことよ」
「やってみるわ」
うなずいた時、白雪は本当に百代さんの言う通りにしようと思っていた。けれど、昼休みが終わって、五時間目六時間目と時間が過ぎていくうちに、とても切ない気持ちになってきた。
教室の窓から、桜が見える。あの桜ではない。別の桜なのに。風が枝を揺らし、花びらを降らせる音が、白雪、白雪と聞こえる。
白妙が自分を呼んでいる。
名前を教えたあの時の、白妙の笑顔が、白雪には忘れられない。
「学園祭の出し物を決めるから、掃除《そうじ》が済んだらもう一度教室に集合ね」
学園祭実行委員が、声を張り上げる。決まらなかったら、部活にも行かせませんからね、と。学園祭なんて半年後のことなのに。他のクラスとの調整のため、各クラスの希望をアンケートで提出するという。
「はーい」とも「いやー」ともつかない返事を残しながら、クラスメイトたちはめいめい自分の掃除《そうじ》分担区域へと出かけていく。白雪も、その流れにのって教室を出た。
自分の掃除区域なんて、思い出せない。それなのにただ、足は勝手に動く。どこに向かっているのか、自分に問いかける必要はない。それは、あの場所以外にはあり得なかった。
「白妙。私を呼んだ?」
その桜の木の前に立ち、呼びかけると、枝の間から白妙の姿が浮かび上がってきた。
「呼ばない。呼んだのは白雪の方でしょ?」
白妙は、不思議なことを言った。
「授業中、白雪が桜の枝を揺らして私を呼んだのよ。白妙、白妙って。だから、私はここに来たんだわ」
「授業? 授業に出ているの?」
「そうよ。だってここは学校じゃない」
「――そうだけれど」
まさか、魔物が授業を受けているなんて想像していなかったので、ちょっと笑えた。
「失礼ね。何笑っているの」
愉快《ゆかい》なので、白雪は少しこの話を続けることにした。
「じゃ、白妙は何年何組なの?」
[#挿絵(img/19_143.jpg)入る]
「二年|桜《さくら》組」
桜に棲《す》む魔が桜組。できすぎていて面白い。
「白雪は?」
「私は二年|李《すもも》組」
すると、白妙がケラケラと笑った。
「うちの学校には李組なんてないわよ」
そして桜組、藤《ふじ》組、菊《きく》組、桃《もも》組、松《まつ》組、椿《つばき》組、と指折り数えながら言い上げていった。
六組中五組は、まったく同じ。なのに一組、なぜだか李と桜だけが違うのだった。
「二年李組の白雪さん。あなたはこの世の物ではないのかもしれない。だって、そんなに透けているのだもの」
「透けているのは、あなたの方よ」
「まあ、それでは、私のこの世はあなたのこの世とは別の物なのかしら」
「この桜の木が境界線?」
冗談めかして言ってみてから、白雪は「そうかもしれない」なんて思い始めていた。
自分が現《うつつ》のことだと信じていることのどれほどが、本当に正しいことと言い切れるであろう。自分が身を置いている世界の中で物を考えている限り、外の世界における常識のことなど考えられはしないのだから。
白妙《しろたえ》が自分を惑わすためについた嘘《うそ》。そう考えるのはたやすい。けれど。
「あなたは、魔ではないの?」
「ロザリオを持っている魔なんていて?」
白妙は、自分の襟《えり》もとに手を入れて、そこからロザリオを取り出した。そして首から外して、よく見えるように手にのせて白雪の方に差し出した。
白雪は背伸びして見た。それは紛《まぎ》れもなくロザリオだった。白雪が持っている物にかぎりなく似ている、金色に光るロザリオ。
その時、白妙の手の平からロザリオが滑り落ちた。受け止めようと手を差し出す白雪と、落とすまいと手を伸ばす白妙。その手と手が、一瞬触れあった。
刹那《せつな》。
「あっ!」
二人は同時に叫んだ。
手から全身へと走る衝撃《しょうげき》。痛いような熱いような、しびれと同時に頭が真っ白になる。
一瞬、時が止まる。
そして次の瞬間、さっきとは別の衝撃《しょうげき》が訪れたのだ。
ドサッ。
「痛っ……」
自分の身体《からだ》が地面に激突した音だとわかったのは、少しだけ苦痛が和《やわ》らいで、状況が判断できるようになってからだ。地面には桜の花びらがカーペットのように敷き詰められてはいたが、そんな物がクッションになるわけもない。
「もう、何なのよ」
制服についた土埃《つちぼこり》と花びらを払ってから、何気なく腕時計を見る。
「いけない。学園祭の相談するんだった」
駆け出そうとして、上履《うわば》きが何かを蹴飛ばした。それは、さっき落としたロザリオだ。
「ああ、そうか」
このロザリオを拾おうとして、枝から落ちたのだ、と思い出す。けれど、その場にもう一人少女がいたことなど、彼女はすっかり忘れている。
教室に戻ると、百代さんが仁王《におう》立ちで待っていた。
「掃除《そうじ》サボったって? どこに行っていたの? まさか……」
「行ってないって。ちょっと具合が悪くて、トイレで休んでいただけ」
「そう。ならいいわ。あの桜の木の側には行っちゃだめよ」
「ええ。百代さんのアドバイス、身にしみた」
「身に――?」
百代さんは訝《いぶか》しげに聞き返したが、その先は学園祭実行委員の大きな声でかき消されてしまった。
「あ、白妙[#「白妙」に傍点]さん戻ってきた? じゃ、全員|揃《そろ》ったようなので話し合いはじめます」
二年桜組学園祭の出し物。
板書する時、実行委員の彼女はうっかり「桜」の文字を間違えた。木偏《きへん》の木の位置を左端でなく、上に平べったく書いてしまったのだ。
「あ。今、李って書こうとしたでしょ」
クラスメイトたちに冷やかされた彼女は、昨年度一年李組だったため、照れ笑いして書き直した。
「そういえば、どうして二年生だけ桜組なのかしら。ご存じ?」
隣《となり》に座ったクラスメイトが、こそこそと話しかけてきた。
「さあ?」
白妙はほほえんで首を傾《かし》げ、肩についていた桜の花びらを指で摘《つま》み上げた。
二年桜組の教室の中で。
桜の扉
「霞《かすみ》さーん」
建て付けの悪い扉をギギギと開けて、生徒が教室に入ってくる。
お昼休み。皆、お弁当も済んで、くつろいでいる時間。
「霞さんならいらっしゃらないわよ」
「どちらにいらしたかご存じない? 先生が、日誌の件で聞きたいことがあるっておっしゃって。……ああ、もうこの扉ときたら」
開けたはいいが、今度は閉まらない。年季《ねんき》の入った木の扉は、下に蝋《ろう》を塗ったくらいじゃ言うことをきかない。
「内部が腐っているらしいから、そろそろ新しいのと交換しないとだめなのよ」
生徒三人がかりで、「よいしょ」と閉める。進級してこの教室で学ぶようになって二週間、もはや皆慣れっこになってしまった。
「そうそう、霞さんだったわね。何も言わずに出ていかれたから、たぶんあそこではないかしら」
「ああ、あそこ――」
教室に入ってきた生徒が思い当たったように、手の平を拳《こぶし》で叩く。霞さんがまとまった休み時間にフラリと出かけていくということもまた、皆慣れっこになりつつあった。
「迎えに行ってもいいけれど、お邪魔《じゃま》するのも気が引けるわ」
「人の恋路を邪魔するやつは、ってね」
「人の趣味|嗜好《しこう》はそれぞれ。――にしても」
生徒たちは「ええ」とうなずきながら、窓の外に視線を向ける。
「植物と逢《あ》い引《び》きなんかして、楽しいものかしらねぇ」と。
* * *
霞さんは、クラスメイトの私たちから見て少し変わった少女でした。
見た目は他の生徒と変わらない、ごくごく普通のお嬢《じょう》さまで、どちらかと言えば可愛《かわい》らしいタイプ。成績はいい方です。人当たりだって決して悪くはありません。ですから、クラスメイトたちともそれなりに仲よくおつきあいされていますし、クラスでのけ者にされたり嫌われたりすることだって、一切《いっさい》なかったように思われます。
ただ霞さんは、あまり一般的でない趣味を持っておいででした。
校内に生えている一本の桜の木を愛《め》でていらっしゃるのです。それはもう、尋常《じんじょう》とは言えないほどに。
朝な夕な、時間があればその桜のもとにやってきては、木肌を撫《な》で、話しかけ、幹にもたれて過ごされます。最初は訝《いぶか》しげに見ていた私たちでしたが、それが一年も続くと「ああ、また始まった」くらいに思うようになりました。何せ、花が咲き乱れる春以外も、相変わらず同じ調子で桜と過ごされるのですから、これはもう本物と認めるしかありません。
去年は、葉に毛虫がわく季節になるとご自分のお屋敷からお抱《かか》えの植木職人を連れてきて、その桜の木のみならず周囲の木にも殺虫剤を散布させたそうです。化学薬品は嫌いだから天然の材料で薬を作ってくれと、桜自身が言ったとか言わないとか。クラスメイトたちが、面白おかしく噂《うわさ》しておりました。
とにかく、霞さんにとってはその桜の木は人間と同等、もしくはそれ以上の愛情を注ぐべき相手だったようです。それで霞さんがお幸せならばと、私たちは温かく見守ることにいたしました。
けれどある日、霞さんに異変が起きたのです。
その日の昼休み、霞さんはいつものようにフラリと教室を出ていったきり、一時間経っても戻ってこられませんでした。心配になった私たちは、先生に許可をいただいて数人で迎えに行ったのです。これまで、授業に遅れるようなことはありませんでしたから。
嫌な予感がしました。そして私たちは、桜の木の根もとに霞さんが倒れているのを、発見したのです。
すぐに病院に運ばれましたが、霞さんは昏々《こんこん》と眠り続けるだけ。外傷はありませんでしたから、病気ということは間違いないのでしょうが、何の病《やまい》かさっぱりわかりません。
当時|羽振《はぶ》りのよかった霞さんのお父さまは、日本中から名医と呼ばれるお医者さまを集めて霞さんを診《み》せたそうです。けれど、誰一人として原因はおろか病名すら言い当てられる医師はおりませんでした。
次々と医師が娘を見限っていくと、霞さんのお父さまは今度は占い師や祈祷師《きとうし》などをお呼び寄せになりました。
こちらの方々は医師たちとは違い、すぐにこれが原因だろうと断言し、祓《はら》うための儀式などを執《と》りおこなったそうです。けれど、その効果はまったく現れませんでした。ですから、理屈では霞さんは、蛇、狐、猫などに取り憑《つ》かれたまま眠り続けていることになります。
もはややせ細る娘の傍《かたわ》らで涙を流すしかなくなった霞さんのお父さまのもとに、ある日一人の年老いた尼僧《にそう》が訪ねてきました。
「お嬢《じょう》さまの病のことを耳にしましたもので」
お父さまはこれまで同様、効果もないのに礼金だけ受け取っていく輩《やから》がまた来たのだと思い、金子《きんす》を渡してお引き取り願おうとしたそうです。もうこれ以上、娘に塩をまかれたり、寝台の周りに蝋燭《ろうそく》を立てられたり、身体《からだ》に変な模様を描かれたりするのはごめんだと思っていらっしゃいましたから。
けれど尼《あま》は、お金はいらないし、娘さんには一切《いっさい》手を触れずに治せると言いました。そこでお父さまは、取りあえず尼の話を聞くことにしました。
尼の指示はただ一つでした。霞さんの恋人ともいえる、あの桜の木を切り倒す、それだけです。
お父さまは、それに懸《か》けてみることにしました。桜の木を切ることによって、即病状が悪化するとも思えませんから。駄目《だめ》で元々です。
しかし、それには一つ問題がありました。その桜の木は、学校の敷地内に生えているのです。個人が自由に切り倒していいものではありません。
お父さまは、学園長のもとを訪ね、土下座《どげざ》してお願いしたそうです。もう藁《わら》をもすがる思いでしたから、心の内を包み隠さず打ち明けたということです。
娘が可愛《かわい》い。このまま死なせてしまうのは不憫《ふびん》すぎる。娘が助かるのなら、全財産をなげうっても悔《く》いはない。娘の代わりに自分の命を差し出したいほどだ、と。
子を思う親心に打たれた学校側は、異教徒の尼《あま》が言ったことと知りつつも、桜の木を伐採《ばっさい》することを許可いたしました。それで霞さんが助かると信じたわけではなく、ただ、見殺しにはできなかっただけでしょうけれど。
けれど、伐採《ばっさい》したと同時に、霞さんは目を覚ましたのでした。
霞さんのお父さまは非常に喜んで、お礼のお布施《ふせ》をしようと尼僧《にそう》を探したそうですが、すでにどこかへ行ってしまわれた後でした。
回復した霞さんは、一月もするとまた学園に復帰されましたが、不思議なことにあの桜のことはまったく覚えていらっしゃいませんでした。
伐採された桜の木は、二年|李《すもも》組の扉として生まれ変わりました。
霞さんは、暇《ひま》があればその扉にもたれています。
桜の埋葬
月明かりの下で、桜の木の根もとを掘る。
一人、ただ黙々と。
穴は深い方がいい。けれど花壇《かだん》の手入れ用の小さなシャベルで、どれくらい掘れるものなのか。
真夜中の学校は、この世の果てのよう。
粉雪のように、花びらが降る。手を休めて見上げれば、今が盛りと咲き誇る桜。
髪に絡《から》みついた花びらを、櫛《くし》ですいてくれる人はもういらない。
桜よ。
私の想《おも》いを食らって、狂おしいほど美しい花びらを散らしておくれ。
* * *
珍しく、八重《やえ》さんが遅刻をしてきた朝。
教室の窓から見える桜は、満開にはまだ少し届かない、多分七|分《ぶ》か八分といった咲き具合だった。
「車の車輪がね、溝《みぞ》にはまってしまって難儀《なんぎ》いたしました」
一時間目を三十分も過ぎてから教室に姿を現した八重さんは、休み時間になって机の周りに集まってきたクラスメイトたちを前に、そんな風に遅刻の理由を説明した。
「まあ、それは災難でしたわね」
「それで、お怪我《けが》はありませんでしたの?」
お気の毒に、という空気が教室中に充満する中で、富士子《ふじこ》だけは違った目で輪の中心人物のことを見ていた。
「うれしそう? うれしそうだった、っておっしゃるの? 私が?」
昼休みに二人きりになった時、思ったままを口にすると、八重さんは少し驚いたように目を見開き、それから「本当に」と言ってほほえんだ。富士子さんには敵《かな》わないわね、と。
食事の後に講堂の側を散歩するという二人の日課は、内緒《ないしょ》話をするのにはもってこいだった。
「そう。確かに災難だったけれど、ちょっと素敵なこともあったのよ」
八重さんは白状した。
「素敵なこと?」
「溝《みぞ》に落ちた車輪を引き上げるのを、助けてくださった親切な方がいらして」
男性だ。と、富士子は敏感に感じ取った。
「若いの?」
「お年はわからないわ。でも、……そうね二十歳《はたち》過ぎくらいかしら。どちらかのお屋敷の書生《しょせい》といった雰囲気《ふんいき》だったわ」
「それで?」
「それだけよ」
八重さんは首をすくめた。
「車輪が溝から抜け出しさえすれば、車は動くのだから。私は学校に急いで行かなければならないし」
「行かなければ、ね」
なるほど。「それだけ」だったけれど、八重さんは、その彼のことを好ましく思ったわけだ。気持ちはわからないでもない。困っている時に救いの手を差し伸べてくれた人は、現物より何割か増しに見えるものだ。
「後日お礼を、って。運転手は名前とか連絡先とか尋《たず》ねていたようだったけれど、その人は何も言わずに去っていってしまったの」
「ふーん。奥ゆかしいのか格好つけなのか、どちらかね。その人」
「そうね」
八重さんはほほえむと、制服のポケットからつげの櫛《くし》を取り出して、富士子の髪をすいた。この話はこれでおしまい。そういうことだ。それで富士子は、八重さんのほのかな「ときめき」を大目に見てやることにした。
学校といえばずっと女子校で、屋敷と学園の間は自家用車。身内以外の異性といえば、使用人か老教師か父親の客人くらいだから、こういうアクシデントでもない限り、ときめきなんていうものにはお目にかかれない。
いずれ、親の決めた相手と当たり前のように結婚するのがさだめ。小説に書かれたような恋愛は望めないのだから、一瞬くらい心の中に温かい灯《あか》りをともしても罰《ばち》は当たらないのではないか、と。
お返しに、富士子も八重さんの髪をとく。黒々として真っ直ぐで、背中で切りそろえられているきれいな髪。すーっと櫛《くし》を通すと、風のいたずらで絡《から》みついた花びらが、ふるふると小さな輪を描きながら地面に落ちていった。
それから少しして、八重さんは時折ふさぐようになった。いったい何があったのか気にはなったが、富士子は自分からは尋《たず》ねなかった。その時が来たら、八重さんはきっと話してくれるだろうから。八重さんのお父さまが株で失敗したという噂《うわさ》を耳にしていただけに、尚更聞けなかったのだ。
「富士子さん。どうしよう」
いつもの散歩道で、八重さんはついに口を開いた。
「私、恋したみたい」
「恋!?」
てっきりお家のことだと思っていたので、富士子は心の準備もしていなかった。
「相手は、車輪を引き上げるのを手伝ってくれた彼よ。お裁縫《さいほう》の教室に行く途中で、街で偶然会って、それで」
八重さんはそれからというものの、毎日のようにその男と会っているというのだ。やれお花だ、やれお茶だと習い事を口実に、お供でついてくる下働きの若い娘には口止め料を握らせて。
「私、彼のこと本当に好きなの。ね、どうしたらいいと思う?」
「どうしたら、って。どうしようもないでしょう」
八重さんの口から「恋」という言葉の出る違和感。富士子は自分こそどうしたらいいのかわからず、うろたえた。そうしてやっと探し出した言葉は、取って付けたようなものでしかなかった。
「八重さんには、許嫁《いいなずけ》がいらっしゃるのよ。高等部を出たら、その方に嫁《とつ》がれるって決まっているのでしょう?」
「親の決めた相手よ」
「でも、八重さんだって納得したから結納《ゆいのう》をかわしたのではないの?」
「そんなこと」
吐き捨てるように、八重さんは言った。
「恋することを知らなかったから、できたことだわ」
友の中に自分の知らない女の顔を見つけて、富士子はぞっとした。
「じゃあ八重さんは、私にどんな答えを求めていたの? 婚約解消して、新しいその方とどうぞお幸せになってちょうだい、って? そう言えば、満足するの?」
「そんな言い方しないで。私だって、どうしたらいいのかわからない。わからないから聞いているのよ」
八重さんは、その場でしゃがみ込んで顔を覆《おお》った。富士子は立ったまま、友の髪に降る桜の花びらを見つめていた。
「今なら間に合うわ。まだ誰も気づいていないのでしょう?」
だから、その人とは別れなさい。
そんなアドバイスは、それこそ恋することを知らない者にしか言えない言葉だった。
「わかったわ」
八重さんはそう言って立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。
だから、八重さんが「わかった」ことが、何だったのかは、富士子はとうとう尋《たず》ねることができなかった。
その夜。
富士子の家に、八重さんのお母さまから電話がかかってきた。
夕方、八重さんが家を飛び出して行方《ゆくえ》がわからない、もし訪ねてくるようだったら、引き留めて連絡して欲しい、という。早口でそれだけ言うと、すぐに電話は切れた。たぶん、また別のクラスメイトに電話をかけるのだろう。
そんな大事《おおごと》にされてしまったら、学校来にくくなってしまうだろうに。そう思って受話器を置いてから、富士子は思い直した。学校のことなんて気にしていられないくらい、切迫した状況なのかもしれない。
だとしたら八重さんは、親の手が回っているであろうクラスメイトの家に、果たして逃げ込むだろうか。
否《いな》。八重さんとは、昼間言い争ったまま気まずく別れた。頼って来てくれるわけがない。
部屋に帰って予習のために教科書を開いたが、八重さんのことが頭から離れない。昼間の思い詰めたような顔を思い出し、ギュッと拳《こぶし》を握る。
今頃、どこでどうしているのだろう。
頭ごなしに反対したことを後悔《こうかい》した。応援はできないにしても、もっと別の言い方があったかもしれない、と。
コツン。
窓ガラスが、小さな音をたてた。
「八重さんっ!?」
富士子は窓に駆け寄った。家の者の耳に届かないように、そっと窓を横に引けば、果たしてそこには八重さんの姿があった。
「富士子さんの部屋が一階で助かったわ」
富士子の家は学校の近くにあるので、八重さんはこれまで何度か遊びに来ていた。
「さっき、八重さんのお宅から――」
「ええ」
八重さんは長い髪をバッサリと切って、男の子のようだった。いや、髪だけではない。着ている服も男物で、これでは道ですれ違っても八重さんだとわからない。本当に少年のようだった。
「昼間の私の言葉が……?」
富士子がそう言うと、八重さんは「いいえ」と首を横に振った。
「富士子さんとは関係ないの。父にばれただけ」
「お父さまに……」
それは最悪な事態だった。しかし、ならばそれを逆手にとることだってできるはず。
「お父さまに知れてしまったのなら、説得なさったら? 娘が家出するくらい思い詰めているとわかったら、お父さまだって」
けれど八重さんは、「だめなの」と言った。
「うちね。事業で失敗して、多額の借金を抱えそうなのよ。だからね、私の結婚を早めようとしていて」
八重さんの婚約者のお家は、銀行とか百貨店などを手広く経営している一族で、八重さんのお父さまの会社の立て直しに協力してくれるという話だった。
「それじゃ、会社のために八重さんを……」
「私が嫁《とつ》ぐことで、父やその下で働く従業員たちが助かるならそれでもいいかな、って思わないわけでもなかったけれど」
けれど、できなかったのだ。
「恋することを知ったから?」
富士子が尋《たず》ねると、八重さんは少し驚いたように目を見開き、それから「ええ、そう」と言ってほほえんだ。
「私は、両親を捨てられるほど、あの人のことを愛しているの。彼も、私のためにすべてを捨てて逃げてくれる、って」
予想していた答えだったのに。実際に八重さんの口から聞かされると、予想以上に打ちのめされた。
「引き留めて欲しくて、私を訪ねてきたのではないのね」
「さようならを言いに来たの」
「八重さんが来た、って。私が大人たちに告げ口するとは思わないの?」
「そんなこと」
八重さんは、小さく笑った。
「そうね。富士子さんは、私のことを思ってしゃべってしまうかもしれない。でも、それでも私はあなたに会いに来ずにはいられなかった。もう二度と会えないかもしれないから」
「二度と……」
つぶやいた時、富士子の瞳からボロボロと涙があふれ出た。
「泣かないで」
八重さんは、富士子の手の平をとって、つげの櫛《くし》を握らせた。
「差し上げるわ。私の髪は、こんなに短くなってしまったから」
それは、まるで形見《かたみ》分けのように感じられた。
「いやよ。そんなの」
富士子は窓越しに、友を抱きしめた。
「行かないで」
道徳に反するとか、苦労するとか、そんな理由で引き留めるのではない。
もう二度と会えない。
大好きな人が、自分の人生から姿を消す。それが耐えられないから懇願《こんがん》するのだ。
「ありがとう」
八重さんは富士子の背中に手を回して、なだめるようにぽんぽんと叩いた。
「お願い。行かないで。私の側にいてよ」
けれど、それで八重さんの気持ちが変わるわけもないことは、富士子にだって十分わかっていた。
どうしよう。このままでは、行ってしまう。
いっそ、ここで八重さんの首を絞《し》めて息を止めてしまおうか。そうすれば、もう八重さんはどこにも行かない。
もう二度と会えないのならば。
死んでしまうのと、どこがどう違うというのだ。
「八重さん」
富士子は、腕に力を込めて抱きしめた。
抱きしめながら、友がそんなことを考えていたなんて、八重さんは思いも寄らなかったことだろう。
翌日の学校は、すごい騒ぎだったらしい。
生徒が男と駆け落ちした。それだけでも十分スキャンダラスだったのだが、相手の男は特高《とっこう》に目をつけられていたとか、婚約者が二人の首に懸賞金をかけたとか、尾ひれだか誇張だかわからないおまけがついて、噂《うわさ》は凄《すさ》まじい勢いで学園中に広まったそうだ。
その日、富士子は学校に行かなかった。
大騒ぎになっていたことはわかっていたし、身体《からだ》中がだるくて動きたくもなかった。
八重さんの失踪《しっそう》を知っていた両親は、娘がショックを受けているのだと察して、黙って休ませてくれた。明け方、服を土で汚して帰宅したのを使用人に見られてしまったから、そのことも影響しているのかもしれない。母は親戚《しんせき》に電話で、精神科のお医者さまを紹介して欲しいと頼んでいた。
本当のことを言ってもよかったが、そっちの方が説得力に欠けるので結局黙っていることにした。
真夜中に、穴を掘るためだけに学校に行っていたなんて。誰がそんなことを信じてくれるだろう。富士子自身、どうしてそんなことをしたのか、その時の気持ちを言葉にできない。
ただ、あの時はそうせずにはいられなかった。八重さんの形見《かたみ》を、一時《いっとき》たりとも手もとに置いておくことなどできなかった。だから葬《ほうむ》り去った。それだけだ。
けれど、そのことが後になってちょっとした波紋《はもん》を呼んだ。
校内の、ある桜の木の根本の土が軟らかく盛り上がっていたため、教師が掘り返してみたところ、そこからつげの櫛《くし》が出てきたというわけだ。
確認したところ、それがいつも八重さんが身につけていた物であることがわかったため、またもや学園中がどよめいた。
八重さんは、桜に食われてしまったのだ、と。
その噂《うわさ》は幻想的で美しいから、皆は好んで広めていった。
桜があのように美しい花を咲かせられるのは、根もとに何かが埋まっているから。
それは何なのか、誰も知らない。
「ねえ、八重さんは桜に食べられてしまったんだと思う?」
時折思い出したように、クラスメイトが尋《たず》ねる。
「さあ」
富士子は花が散ってしまった桜の枝の間から青空を見上げた。
死んでしまって会えないことと、生きているのに会えないこととは、絶対的に違うのだ、と。
八重さんも、今頃どこかでこの空を見上げていることを信じて。
◆ ◇ ◆
「『桜組伝説』? これ、いつのです?」
桜の花びら模様が描かれたピンク色の表紙の冊子《さっし》を取り上げながら、鹿取《かとり》先生が尋《たず》ねる。
「今年のです。学園祭の喫茶店に置くとか置かないとか。……結構おもしろいですよ」
答えたのは、山村《やまむら》先生。
リリアン女学園高等部の職員室。昼休みのひとときである。
後ろの席を通りかかった四谷《よつや》先生も立ち止まり、「ほほう」と笑った。
「四、五年の周期ですかね。こういった話題で盛り上がるのは」
「オリンピックかうるう年、って感じですよね。でも、どうしてかしら」
山村先生は、座ったまま椅子《いす》をコロコロと転がして、床の上を二メートルほど移動し、ファイルや冊子《さっし》類などが詰まった棚《たな》に手を伸ばした。そこには、大きさ厚さは違えども、ピンク色の表紙の冊子が何冊も並んでいる。その一番端の一冊を抜き取って、「ああ、やっぱり前回は四年前」とつぶやいた。
「一つ前に盛り上がった先輩たちと入れ替わりに高等部に入学してきた生徒たちがね、することだからですよ。彼女たちは、自分たちのオリジナルだと信じているんだなぁ」
四谷先生は、愉快《ゆかい》そうに肩を揺すった。
「ああ、なるほど」
「鹿取先生の時代は?」
山村先生が鹿取先生に向かって尋ねる。二人とも、リリアン女学園高等部のOGである。仲間はずれにするつもりはなくとも、男性教諭はその話題に加われない。
「どうだったんでしょうね。桜組じゃなかったので、記憶にないです」
「実は、私もそうなんですよ」
二人のOGは、「残念でしたけれど」とつぶやいた。内心、桜組をうらやましく思っていたらしい。
「本当のところ、どうして二年生にしか桜組がないか、どなたか知っていらっしゃいます?」
山村先生が尋ねた。
「扉が桜の木だから、じゃないんですか?」
と、鹿取先生。しかし、その理屈ならば、扉が杉《すぎ》の木ならば杉組、ヒノキならば檜《ひのき》組が存在しなければならない。
「じゃあ、戦時中に何かあった、っていうのは?」
「ああ、空襲があった時、生徒たちが桜の木の下にいたお蔭《かげ》で弾《たま》が避けられた、っていうあれ? でも、そこまで戦争が激しくなってたら、生徒たちは疎開《そかい》していたんじゃないかな」
リアルタイムでは知らないけれどね、と四谷先生は笑った。そのうち、他のことをやっていた先生たちも「何だ何だ」と集まってくる。
「学園祭で桜にちなんだ劇を上演してから、っていう噂《うわさ》も聞いたことがあるけれど。ワシントンでしたっけ?」
と、渥美《あつみ》先生。
「それを言うなら、藤原頼之《ふじわらのよりゆき》伝説でしょう?」
訂正したのは、坂本《さかもと》先生。
「あの教室に棲んでいた座敷童《ざしきわらし》の名前が、桜ちゃんだったんですよ」
保科《ほしな》先生説。
「クラスのプレートに、間違って桜組って書いてしまったから、って聞いたことが……」
倉田《くらた》先生説。
というわけで、侃々諤々《かんかんがくがく》の議論の結論は。
「真相を知っている教師はこの職員室内にはいない」と、なりそうだ。
やれやれ。
山村先生は今年の『桜組伝説』を、棚《たな》の一番端に並べた。
このようにして、伝説は増え続けていくのである。
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イン ライブラリー―X
1+1+1−1+2=4。これ、何の数字だ?
答え、祥子《さちこ》さま探しに参加している人の数。
祐巳《ゆみ》と瞳子《とうこ》ちゃんから始まって、三奈子《みなこ》さまが参加して、瞳子ちゃんが抜けて、志摩子《しまこ》さんと乃梨子《のりこ》ちゃんが加わって現在四人。
「通路は私たちが見ますから、祐巳さまは机の方を見にいってください」
「は、はいっ」
乃梨子ちゃんの、年下とは思えないテキパキとした指示に祐巳は思わず返事をした。とはいえ、閉館十分前ともなると、のんびり机で本を読んだり勉強をしたりする生徒は数えるほどしかいない。それでもとにかく、まずは椅子《いす》の背もたれから頭が出ている所を見つけては、祥子さまかどうか確認するという、地道な作業をしていくしかない。
いざ閲覧室《えつらんしつ》の中心部にある机の並んだコーナーに向かおうと踵《きびす》を返すと、目の前に立ちはだかる人たちがいる。
「祥子さま、行方《ゆくえ》不明なんだって?」
まず、先頭にいた由乃《よしの》さんが言った。
「どうしたっていうの」
令《れい》さまは、いつになく真剣な顔をしている。
4に2が足されて6になったかな、と思ったらまだお次が控えていた。
「マリア像の前で、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》たちにお会いして、……それでつい」
事情を話して黄薔薇姉妹を巻き込んだ瞳子ちゃんまで、責任を感じたのか舞い戻ってきてしまった。そして。
「何か、事件らしいし」
こういうことには妙に鼻のきく新聞部の山口《やまぐち》真美《まみ》さんと写真部の武嶋《たけしま》蔦子《つたこ》さんが、当たり前のようにそこにいた。
「あの、皆さん」
計九人。大捜索隊だ。
「祐巳さんの言いたいことはわかる。こんなに助《すけ》っ人《と》はいらないわよね。でも、聞いて。私たち、――私とお姉さまだけれど、祥子さまに会ったのよ」
由乃さんの口からは、意外な言葉が飛び出した。
「会った? どこで?」
「ここ。閲覧室《えつらんしつ》の中。本を返しに来た祥子さまに、私たちから声をかけたの」
「えっ」
それは、今のところ一番新しい目撃情報に違いない。
「祥子、祐巳ちゃんを置いてきたから早く帰らなくちゃ、って言っていたのよ。なのに、いったいどこに――」
令さまの不安げな表情に、その場にいた全員が黙り込んだ。
「こんなことなら、由乃に急《せ》かされようと、祥子を待って一緒《いっしょ》に図書館を出るんだった」
「私を責めてるの? のど渇《かわ》いたって言ったら、じゃミルクホールでリンゴジュースでも飲もうかって言ったの、令《れい》ちゃんじゃない」
「由乃のせいになんかしてないでしょ。私は、ただ」
「ストーップ」
蔦子さんが、姉妹の間に割って入った。
「姉妹げんかするなら、外でしてください」
注意されて我に返った黄薔薇姉妹は、ばつが悪そうに「ごめん」と言って口をつぐんだ。
「でも、祥子さまはどうして由乃さんたちと一緒に図書館を出なかったのかな。もう、本の返却はし終わっていたんでしょ?」
祐巳は疑問に思ったことを、率直《そっちょく》に尋《たず》ねた。早く帰らなくちゃ、と言いつつ、なぜ閲覧室に留まり続けてといたのか、と。
「それが」
由乃さんが言った。どうやら、心当たりがあるようだ。
「私が、例の……ほら一冊だけ色の違う本、あれを令ちゃんに見せにきたんだって、そう言ったら。祥子さまも興味をもたれたみたいで、ついでだからに見ていく、って奥の方へ――」
「あの本か!」
思い当たった祐巳は、小走りで駆けだした。目指すは、日本の古典文学コーナー。そこには、いわくありげな一冊の本があるのだ。
学園祭の劇で上演された『とりかえばや物語』を順番に借りていた時、祐巳と由乃さんと志摩子さんが気づいた。同じシリーズの本なのに、一冊だけなぜだか色が違っている。
「……ない」
目的の棚《たな》の前で、祐巳はつぶやいた。
一時間ほど前、由乃さんと令さまがここに来た時には確かにあったはずのその本は、棚に一冊分の隙間《すきま》を残して消えていた。
「祥子さまと一緒に――?」
『万葉集《まんようしゅう》』も『竹取物語《たけとりものがたり》』も『方丈記《ほうじょうき》』もちゃんとあるというのに。
『枕草子《まくらのそうし》』だけがそこにはなかった。
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図書館の本
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それは、本当に偶然の出来事だった。
先客がいるとは思わずに足を踏み入れた、校舎の裏にある温室。
そこで、みきが見つけたのは眠れる妖精。
もちろん、自分と同じ制服を着ているその人が生身の人間であることは疑いようもない事実だし、クラスメイトの多くが憧《あこが》れている、三年生のお姉さまだということも、すぐにわかった。
元華族《もとかぞく》の末裔《まつえい》のお嬢《じょう》さまだ、とか。お隣《となり》の花寺学院《はなでらがくいん》に通う許嫁《いいなずけ》がいらっしゃる、とか。二年生の| 妹 《プティ・スール》をおもちになっている、とか。噂《うわさ》だけなら、みきもいろいろ知っていた。
でも、そんな現実をすべて忘れてしまうほど、彼女は俗《ぞく》世間からは遠くかけ離れた存在に見えた。本当に、一瞬妖精かと見違えてしまうほどに。
それは、側に咲いている紅《あか》い薔薇《ばら》のせいだったかもしれない。
植木鉢《うえきばち》が並べられた台の片隅に、空《あ》いた場所をつくって横たわり、木々に守られながら寝息を立てている彼女。長い黒髪は真っ直ぐで、まるでひな壇《だん》に掛けた毛氈《もうせん》のように、階段状の棚《たな》に沿うようにつやつやと流れていた。
きれいだった。
みきは、温室に入った本来の目的も忘れて、彼女の姿にしばし見とれた。
七月のはじめの、お昼過ぎ。
温室の中は温かく、彼女は首すじにうっすらと汗をかいていた。
その日の四時間目、みきのクラスは体育で、内容は水泳だった。
「ダッシュ!」
体育終わり。安美《やすみ》さんと二人で、競い合うように校舎に向かって走っていく。
水泳の後の適度な疲労感で、身体《からだ》がフワフワした。走るたびに風に跳ねる重い髪の毛も、足に絡《から》みつくプリーツスカートのひだも、まるで夢の中で躍っているようだった。
「あっ」
みきは突然、右目に痛みを感じて、その場にしゃがみ込んだ。
「どうしたの、みきさん」
安美さんが、気がついて戻ってくる。
「虫」
目に虫が飛び込んできたのだ。みきは、右の目をハンカチで押さえた。
「どれ?」
「目開けられない。痛くて」
「だったら、洗い流した方がいいかもしれないわね。確か、そこの中に水道があったと思うけれど――」
安美さんが振り返る先にあるのは、温室。でも、みきは一度も入ったことがなかった。
「わかった。そうさせてもらう。だから、安美さんは先に行ってちょうだい」
「でも」
「ミルクホールに行かないと。目を洗ったらすぐに追いかけるわ」
安美さんはこの日のパン当番で、昼休みに、注文してあったクラスのパンを取りに行かなければならない仕事があった。二人がいち早く着替え、更衣室から飛び出したのは、そういう理由からだ。
「ごめんなさい。じゃ、行かせてもらうわね」
安美さんは温室の入り口までみきを連れていってくれて、それからまた駆け足で校舎の方へと消えていった。ゆっくりと着替えていたクラスメイトたちが、すでに道の先にちらほらと見え始めている。
みきは温室の扉を開けた。中の空気は、外気よりも、温度や湿度が少しずつ高いような気がした。
「水道は……」
温室はそう大きくはないのだが、みきの背丈《せたけ》ほどの木が植えられていたり、植木鉢《うえきばち》の置かれている棚《たな》や吊《つ》り鉢などがあって、あまり見通しがよくなかった。
そうして不慣れな場所を、迷いながら進んでいくうちに、みきはその人を見つけたのだった。
眠れる妖精。
どれくらい見つめていただろう。水道で目を洗わなくても、涙に混じって小さな羽虫が流れ出るくらいの時間はゆうに経過していた。
それでも、みきは動かなかった。
時間が許す限り、ずっとこうしていたかった。
しかし、温室の外から聞こえる少女たちのはしゃぎ声が、ついに妖精の目覚めを誘ってしまった。
彼女は目をぱっちりと開けると同時に、身を起こして言った。
「今、何時?」
みきが「十二時三十七分です」と答える前に、その人はポケットから時計を取り出して確認した。どうやら、先の質問はみきに向けてのものではなかったようだ。
「いけないっ。五時間目がっ!」
「あの……」
まだ一時にもなっていないのだから、そんなにあわてることもないのではないか、と思われたが、彼女は「寝過ごしたわ」と言いながら、猛ダッシュで駆け出した。
「あの」
どこをどう走り回ったのか、その人はもう一度みきの前に舞い戻ってきた。
「出口は……あっちだったわね」
寝起きで自分の現在位置がわからなくなったらしい。照れ隠しのような笑顔で、「あなたも急がなくちゃ。ほら、もう一時半を過ぎている」と言い残し、今度こそ温室を出ていってしまった。
「いえ。ですから。十二時三十八分ですってば……」
みきのつぶやきは、もう届かない。
さっきまで彼女が寝ていた棚《たな》の上には、一冊の本が残されていた。
「そうか」
みきは腕時計を外し、上下逆さまにしてうなずいた。
「何? 時計止まったの?」
みきの机の前を通りかかった安美さんが、みきの手の平を覗《のぞ》き込んできた。
五時間目が終わった休み時間だというのに、わざわざ十二時半に時刻を合わせた時計をいじくり回しているのだから、そう思われても無理はないが。
「ねえ、安美さんの憧《あこが》れているあの方のことだけれど……」
丁度《ちょうど》いいので、みきは安美さんに尋《たず》ねることにした。
「私が憧《あこが》れているあの方?」
「ほら三年生の、髪の毛が長くてさらさらの」
「ああ、さーこさまのこと?」
「さ、さーこさま、なの?」
みきは聞き返した。なぜって、リリアン女学園では上級生には名前に「さま」を付けて呼ぶのが、習《なら》わしだったから。
安美さんは首をすくめた。
「私が勝手に、心の中で呼んでいるだけよ。どうせその他大勢。呼び方くらい、他の人たちとは別にしたいわ。大丈夫《だいじょうぶ》。直接名前をお呼びする日なんて、来やしないんですもの」
確かに安美さんの言うとおり、心の中でくらい何と呼ぼうが、それは自由なのかもしれなかった。
「で? さーこさまが、どうしたの?」
「あ、いえ。どちらのクラスだったかしら、って思ったものだから」
「三年|松《まつ》組だけど。その『あ、いえ』っていうの、何? 気になるわね」
「ごめん。さっき温室で会ったの」
「会った!?」
安美さんは目をむいた。大いなる誤解が生まれそうなので、みきはあわてて否定した。
「会った、じゃないな。見た、くらい」
「喋《しゃべ》らなかったの?」
「時間を聞かれた」
「それで?」
「答える前に、焦って走って出ていかれた。たぶん、時間を間違ってたんだと思う」
文字盤に数字が書かれていない時計の十二時三十七分は、パッと見一時半過ぎに見えなくもない。さーこさまの時計は、短針と長針の長さも極端に違ってはいないのだろう。
「で、みきさんは、どうしたの?」
「目を洗って、教室に帰ってきたわ」
そして、お弁当を食べて、五時間目の授業をうけて。今、安美さんの目の前に。
「どうして追いかけなかったの?」
「何で追いかけるの? 追いかけて、何を言うの?」
「例えば……そうね。うーん、何を言ったらいいのかしら」
心の中で「さーこさま」なんて慕《した》っている、安美さんでさえわからないのだ。にわかファンのみきに、何が出来ようか。
いや、行動はしていた。
そのまま放置しておいてもよかったのに、みきはその場に残されていた本を持ってきてしまったのだ。
それは日本の古典文学を集めたシリーズの中の一冊で、『枕草子《まくらのそうし》』の巻だった。『枕草子』を枕にして植物の中で眠るなんて、あまりに出来すぎで笑ってしまったけれど、それをふまえて思い返してみれば、あの時のさーこさまは妖精というより現代に甦《よみがえ》った清少納言《せいしょうなごん》と喩《たと》えた方がピッタリだったかもしれない。
うす紫色の上品な表紙には、リリアン女学園中高等部図書館のラベルが貼ってある。大きさといい厚さといい、枕にするには丁度《ちょうど》いいサイズのハードカバーだった。
早く返さなくちゃ、と思いつつ、五時間目の授業に突入してしまった。言い訳をするなら、その人のクラスを知らなかったから。
でも、今は三年松組だとわかった。
みきは教室の時計を見た。六時間目の授業まであと七分はあった。三年生の教室まで行って帰るだけなら、急げば五分で済む。
「それでね、今から……」
「ごめん、みきさん。その話、続きはトイレの後で聞くわ」
「あ、安美さん」
呼び止めたが、安美さんはバタバタと廊下《ろうか》を駆けていってしまった。
「一緒《いっしょ》に三年松組に行きましょう、って誘おうと思ったのに。……もう、一人で行っちゃうから」
下級生にとって、上級生というものは、憧《あこが》れの対象であると同時に怖い存在でもある。大勢で教室の前を歩くのさえ、少し緊張するというのに、一人で、ほぼ初対面の三年生を訪ねるなんて、一年生にとってはとんでもなく勇気のいることだった。
けれど、みきは三年松組の教室の前に立った。さーこさまが持っているべき本が自分の手もとにあることが、だんだん重くなってきたのだ。
「あの、すみません」
ドキドキしながら、出入り口のドアの側にいた生徒に声をかけた。
「はい?」
けれど、こちらの緊張なんて相手には無関係なことのようで、「お名前は?」などと事務的に応対されるのだった。
「一年桃組のホリベさん? 聞いたことない名前だけれど……」
首を傾《かし》げながら廊下《ろうか》まで出てきたのは、間違いなく先程温室で会った上級生だった。制服の肩のあたりが、昼寝の名残《なごり》で少しだけ白っぽく汚れていた。
「ごめんなさい。確か、どこかでお会いしたわよね。えっと……ホリベさん?」
「祝部《ほうりべ》です。祝部みき」
「ホウリベ? あの、祝《いわう》、って書く? おめでたそうで良いお名前だこと。ご先祖は神主《かんぬし》か何かなさっていた?」
「はい。大昔だそうですけれど」
苗字《みょうじ》の音《おん》を聞いて、漢字を言い当てられたのが初めてなら、先祖の職業を推理されたのも初めて。お金持ちできれいだけじゃなく、さーこさまは博識でもあるようだ。
「じゃあ、みきは御神酒《おみき》のみきかしら?」
「平仮名《ひらがな》です。でも、御神酒からとったらしいです」
「素敵」
温室でも少し思ったけれど、近くで会って喋《しゃべ》ってみると、やわらかくて社交的で、気さくな感じがする。遠くから見ていた時は、もっと近寄りがたい人かと思っていた。
「祝部さん。申し訳ないけれど、急ぎの用じゃなかったら、放課後もう一度来ていただけるかしら。私、今からちょっと行こうと思っていた場所があって」
お手洗いかな、と思った。こちらの用事は急ぎではなかったけれど、本を渡すだけだからすぐに済む。
「あの、これ」
みきは『枕草子』を差し出した。すると。
「まあ」
さーこさまは、目を輝かせた。
「わかった。温室で会ったのね、あなたとは」
「そうです」
「ありがとう。わざわざ持ってきてくださって。図書館に届けられたら、図書委員にお叱《しか》りをうけるところだった。何か、お礼をしたいけれど。何がいいかしら」
「そんな、結構です。思いつかないし」
「じゃ、思いついたらいつでも言って」
いつでも、なんて。次の機会が、あるかどうかもわからなかった。
みきは、ただ黙って頭を下げた。
「すみません、急いでいらしたところ」
しかし、さーこさまは首を横に振った。
「温室に行こうと思っていたのよ。でも、あなたのお蔭《かげ》で行かずに済んだわ」
やわらかいほほえみに、六時間目のチャイムが被《かぶ》った。
そのことは、何となく安美さんには言いそびれてしまった。
安美さんが先に憧《あこが》れていたさーこさまと、五分に満たないわずかな時間とはいえ、二人でお話ししてしまったことに対する罪悪感、それがあるから無邪気《むじゃき》に報告できなかったのかもしれない。
みきはそれから毎日のように、放課後図書館の閲覧室《えつらんしつ》に行った。
本を返却しにきたさーこさまに、もしかしたら会えるかもしれない。そんな期待が、図書館に足を向けさせたのではない。むしろ、ここでは会いたくなかった。
みきは、ただ、日本の古典のシリーズの中で、『枕草子』の抜けた隙間《すきま》を確認できればそれでよかった。なぜ、そんなことをしているのか、自分でもよくわからない。
ある日、『枕草子』が戻ってきていた。みきは、見つけたと同時にその本を棚《たな》から抜き取った。どうしてだろう。他の誰かに、借りられては大変、と、とっさに思ってしまったのだ。
図書委員に貸し出し手続きをしてもらい、自分の手提げ袋に入れて、やっと安心した。それほどまでに自分が『枕草子』を読みたかったとは、とても思えなかった。
みきは、『枕草子』に本屋さんのペーパーカバーを掛けて持ち歩いた。それが図書館の本であることも、『枕草子』であることも、誰にも知られたくなかった。
一学期の期末試験が終わり、明日からはしばらく試験休みという、生徒たちが解放された時間。
掃除《そうじ》区域に行っていた安美さんが、バタバタと教室に帰ってきて興奮気味に言った。
「|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》から、サインもらってきちゃった!」
「えーっ」
教室に残っていたクラスメイトたちが、安美さんを取り囲んだ。図書館に行こうと廊下《ろうか》に出かかっていたみきも、あわてて引き返した。
安美さんの真新しいサイン帳の一ページ目には、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》のフルネームと日付と座右《ざゆう》の銘《めい》のような言葉が堂々とした文字で書かれている。
「勇気を振り絞《しぼ》って教室を訪ねてね、サインください、って言ったら、ちょっとビックリしていたけれど、快《こころよ》くサインをしてくださったのよ」
安美さんの言うことには、卒業間近の先輩に記念のサインをお願いしても、人気者だと競争率が高くなるし、登校しない日も多くなるのでもらえない可能性も高くなる。運良くサインをもらえたとしても、急いで大量に捌《さば》くから走り書きで名前だけ、がいいところだ、と。その点、今ならライバルはいないし、面白がっていろいろと書いてくれるだろうと踏んで、本日決行したらしい。断られたとしても、明日から試験休み。|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》だって、そんな一年生の顔は忘れてしまうだろう、というわけだ。
「で、見事ゲット」
安美さんは、得意げにピースサインをして見せた。
「いいなぁ。私も、お願いしようかしら」
クラスメイトたちの羨望《せんぼう》のまなざしの中、みきは「ちょっと」と安美さんの腕をとって教室の隅に連れていった。
「安美さん、あの、さーこさまは……」
サインをもらうなら、まず一ページ目はさーこさまであって然《しか》るべき。
「さーこさま? ああ、さーこさまは近寄りがたくって。以前から|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》もいいな、と思っていたんだけれど。これでぐーんと|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》の好感度アップ」
「そういうものなの?」
「そういうもの、よ。所詮《しょせん》、我らは十把一絡《じっぱひとから》げの一ファン。ファンの強みはね、いつでも別のスターに鞍替《くらが》えできるという点なの。姉妹《スール》だとそうはいかないわ」
「そうなんだ……」
「あれ、何、がっかりした顔をして」
「がっかり、って」
「大丈夫《だいじょうぶ》よ。みきさんと私はお友達。飽《あ》きたらポイ、なんてあり得ないわ」
「ええ」
「どこ行くの? 一緒《いっしょ》に帰りましょうよ」
「ごめん、図書館行くから。先帰って」
みきは、手提げだけ持って教室を出た。
「みきさん、ってば。待っててあげるよ」
安美さんが呼び止めたけれど、振り返りたくはなかった。
何だかよくわからなくなってしまった。
取りあえず、図書館に行って、当初の目的である、貸し出し延長手続きをしてもらった。
試験休みがあるので、『枕草子』の返却日は終業式の日になっていたけれど、終業式の日に返せるかどうか自信がなかったから。
読み終われないとか、当日図書館に行く時間がないとか、そういうことではない。単に、気持ちの問題だった。
すぐに教室に帰りたくなくて、校舎の周りを歩いた。
安美さんの顔を見たくなかった。何に腹を立てているのか自分でもわからないけれど、とにかく頭を冷やさないことには、勢いで安美さんに何かひどいことを言ってしまいそうだった。
時間つぶしで、あてもなく彷徨《さまよ》っていると、向こう側から一人、知った顔が歩いてくるのが見えた。
「あら」
その人も、こちらに気づいて立ち止まる。鞄《かばん》を持っているから、たぶん下校するところなのだろう。
「……さーこさま。あっ」
言ってから、みきは「しまった」と口を押さえた。いつの間にか、安美さんの呼び方がうつってしまっていた。
「いいわよ。学校ではないけれど、家族や親戚《しんせき》にはさーことかさっちゃんとか呼ばれるから。えっと祝部《ほうりべ》……、そう、みきさんだったわね」
「さーこさま。今、私の名前出てこなくて、御神酒《おみき》徳利《とっくり》を頭の中で思い浮かべたでしょう」
「勘《かん》が鋭いこと」
さーこさまは、華《はな》やかに笑った。折しもそこはマリア像の前で、さーこさまの美しいお顔は、マリア様のほほえみと重なって見えた。
「何か、思いついて?」
お礼の話よ、とさーこさまは言った。
「妹にしてください、っていうのは無理ですよね」
冗談めかして言ったのに、さーこさまは真剣な顔をしてしまった。
「ええ。ごめんなさいね。私にはもう妹がいるから」
「じゃ、サインをください」
「サイン?」
「この本に」
「本……?」
ペーパーカバーが掛かっているから、さーこさまには、それが何の本なのかはわからないはずだった。
「いいわよ」
図書館の本であることを気づかれませんように、そう思いながらみきは「ここに」と表紙を開いて、本の見返し部分を指し示した。
「私の名前を書けばいいの?」
さーこさまが、本を受け取る。
「はい」
答えながら、みきは内心ドキドキしていた。今、さーこさまがカバーをとったら、いや、ページを一枚めくっただけでも、そこに図書館の本であるということを示すゴム印が押されているはずだった。
通りすがりの一年生が読んでいる本に興味はなくとも、自分がサインをする本が何であるのか、くらいは気になるかもしれない。
さーこさまは、タイトルを見るだろうか。
見ないで欲しいと思う反面、気づかれてもいいや、という投げやりな気分もあった。
しかしさーこさまは、見返し以外のページを開かなかったし、カバーも外すことはなかった。鞄《かばん》から万年筆を取り出して、きれいな文字で自分の名前をサインをすると、右上に「祝部みきさんへ」と付け加え、みきに本を返して寄越《よこ》した。
「ありがとうございました」
みきは本を抱きしめて、大きく頭を下げた。
「どういたしまして」
「さようなら。さーこさま」
みきは「ごきげんよう」ではなくて、「さようなら」と言った。
さーこさまも「さようなら」と応えた。
そして二人は、マリア像の前から左と右に分かれていった。
教室に帰ると、安美さんがみきの椅子《いす》に座って本を読んでいた。
「待ってる、って言ったでしょ」
みきが入ってきた気配を感じて顔を上げた安美さんは、軽く笑って立ち上がった。
「うん。帰ろうか」
みきは、机の脇に掛けておいた鞄《かばん》を持った。不思議なことに、いつの間にか、安美さんに対するもやもやは消えていた。
「どうしたの? 目、赤いよ」
安美さんが、顔を覗《のぞ》き込んでくる。
「さっき虫が入ったの。でも、もうとれたから大丈夫《だいじょうぶ》」
「みきさん。この間も、虫が目に飛び込んできたものね。虫に好かれるタイプなんだ」
「まあ、ひどい」
みきは、安美さんの肩を叩いて笑った。なぜだか、おかしくて仕方なかった。
そのことで、みきの心の中は一応決着がついたのだが、それでこの件を終わりにしてしまうことはできなかった。
帰宅して間もなく、みきは自分がしでかしてしまったことの大きさに愕然《がくぜん》とした。こともあろうに、学校の所有物である図書館の本を汚してしまったのだ。
いくらきれいな文字であろうと、みきとさーこさま以外の人間にとって、それは単なる落書きに過ぎない。そう、インクをこぼしてできた汚れ、と同じ物なのだ。
一週間悩んで、結局本屋でそのシリーズの『枕草子』を買って、弁償《べんしょう》した。
「汚したくらいで、わざわざ買わなくていいのよ。どれくらい汚れたのか知らないけれど、その本を持ってきてくれたら、修理するか買い換えるかはこちらで判断することだし」
図書委員は呆《あき》れたようにそう言ったが、持ってこられないから、みきは代わりの本を買ったのだった。
というわけで、『枕草子』は無事シリーズに復活したわけなのだが、新しく求めた本は改訂《かいてい》版で、表紙の色が少しだけ異なった。
薄紫色ではなくピンク色なのだ。
みきは、この棚《たな》の前に来るたびに、心がキュッと締めつけられる。
けれど、そのことを忘れないためにも、時折確かめにやってきた。
一冊だけ、色の違う本。
きっと、この痛みは一生消えないだろう。
この学校を卒業しても。
たとえば結婚して、子供が生まれようとも。
◆ ◇ ◆
「あら?」
日本文学の本棚《ほんだな》の前で、志摩子《しまこ》さんがつぶやいた。
「何?」
ちょっと離れた場所で、別のジャンルの本を吟味《ぎんみ》していた祐巳《ゆみ》だったが、そちらの方が興味深かったので、取りあえず本を持ったまま志摩子さんの近くまで歩み寄った。
もともと、読みたくてたまらない本を探していたわけではなかったから。学園祭の劇で使う小道具の参考になる本でも見つけられたらいいな、程度の気持ちで友人たちにくっついてきた図書館の閲覧室《えつらんしつ》だ。
「気がつかなかった。ほら、この本だけ色が微妙に違うでしょう?」
「ああ、本当」
最近、志摩子さんに日本の古典文学ブームがやってきつつある。そのきっかけになったのは、祥子《さちこ》さまから祐巳、乃梨子《のりこ》ちゃんと渡って志摩子さんに回ってきた一冊の本で、現在その本は――。
「借りてきたわよ」
本日より、由乃《よしの》さんが借り主となっている。
「借りてきたって報告するのに、何で、そんな嫌そうな顔をしてるの」
と聞いてはみたものの、だいたい想像はついた。教科書以外で、古典文学と向かい合うなんて不本意、と由乃さんの顔に書いてある。これが近世文学で、お侍《さむらい》さんがチャンチャンバラバラだったらウキウキして読むのだろうけれど、残念ながら中古文学だから。十二単《じゅうにひとえ》着ているようなお姫さまは、あまり刀を振り回す機会がない。
「無理に借りなくてもいいのよ」
さっきまで借り主だった志摩子さんも、由乃さんに言った。
「だって。祥子さまや祐巳さんだけじゃなくて、乃梨子ちゃんまで借りたんでしょ? 話題に乗り遅れたくないし。ぐずぐずしているうちに、瞳子《とうこ》ちゃんや可南子《かなこ》ちゃんが手を出すかもしれないもの」
「そうですか」
由乃さんらしいけどね、と祐巳は思った。負けず嫌いだし。ちょっとでも仲間はずれ感があると、敏感に反応しちゃう人だし。
「で、何が『本当』なの?」
由乃さんは、志摩子さんの手にした本を覗《のぞ》き込んだ。
「色が違うの。この一冊だけ」
「あれ、本当だ」
「『枕草子』ね。この一冊だけ、何かの理由で買い換えられたのかもしれないわ」
破損、汚損《おそん》、紛失。本には様々な災難が降りかかる。ましてや、学校の図書館の本であれば、たくさんの生徒に触れられてきた歴史がある。
「『枕草子』……あれ?」
「何、祐巳さん?」
「何だろう。何か思い出しそうなことが」
「何を思い出すの?」
志摩子さんが尋ねた。
「そうだ。うちにもあるの。この本」
「これ?」
由乃さんが、借りたてほやほやの本を掲《かか》げる。
「ううん。『枕草子』の方。確か、押入の奥を探った時に見た気がする」
「押入の奥? 本棚《ほんだな》じゃなくて?」
「うん。お母さんはそれほど古文が嫌いだったのかと思って、その時は見て見ぬふりしたけれど」
「嫌いだったら、取っておかないでしょ。それに、どうしてお母さんのだって思ったの?」
名探偵由乃が、さっそく推理を始める。
「あれ、どうしてだろう。ああ、そうだ。名前が書いてあったから。祝部みきさんへ、って。あ、祝部って、お母さんの旧姓ね」
「祐巳さんのお母さんって、みきっていうんだ。じゃさ、もしかしてお父さんの名前、祐一《ゆういち》とか祐太郎《ゆうたろう》?」
「……」
惜《お》しい。祐一郎《ゆういちろう》だ。
「祝部みきさんへ、なら。プレゼントじゃないの?」
「あ、そうか。そうそう。だんだん思い出してきたもう一つ名前が書いてあった。えーっと、何だっけ。菊なんたら清子《さやこ》。あ、清子《きよこ》かな、普通は」
[#挿絵(img/19_199.jpg)入る]
小笠原清子《おがさわらさやこ》さまとお知り合いになってからこっち、「清」という文字を見ると、つい「さや」と読んでしまう祐巳である。
「祐巳さんのお母さま、卒業生なんでしょ? 意外と、お家《うち》にあった本、元々|図書館《ここ》の本だったりして」
「まさか」
その場では笑ってみせたけれど、もしかしたら、って祐巳も心の中で思った。
そんな時。
「清少納言の清なんて、素敵ね」
志摩子さんがほほえんだ。
そんな名前の人から『枕草子』をプレゼントされたなんて、って。
[#改ページ]
イン ライブラリー―Y
「お姉さまは、この中にいます。絶対!」
祐巳《ゆみ》は、力強く言い切った。
「その根拠は?」
令《れい》さまが尋《たず》ねる。
「あの本がなくなっているからです」
「祥子《さちこ》が本を持って出たら、ここにあるわけないよ」
「お姉さまは、本を借りていないんです。貸し出し手続きをしないで、外に持ち出すような人でもありません」
「それで、この中のどこかで読んでいると思うわけね。でも、祥子以外がその本を借りていった可能性だってあるでしょ」
「だったら、とっくに薔薇の館に戻ってきているはずです。他の人が借りた後にお姉さまがここにやって来たなら、あきらめて帰るでしょうし、お姉さまがここに来た後で誰かが借りたのなら、お姉さまはすぐに目的を果たしたということ。少なくとも、その本から手を離していたわけですから」
「なるほど。一冊だけ色が違うということを確認しただけでは満足できずに、その本を抜き取り、場所を移動して読みふけっている、ということ?」
祐巳は、うなずいた。
「でも、祐巳さんが待っているのに」
「志摩子《しまこ》さん言ったじゃない。本は魔物だって」
ちょっと一ページのつもりが、やめられなくなってしまった。常に本を携帯しているほど読書家の祥子さまのことだ、考えられないことではない。
「とにかく、絶対ここにいるんです」
妹が断言するので、図書館の外へ行きかけた第二探索隊も引き返し、一極集中で閲覧室《えつらんしつ》内を探すことになった。
祥子さまが見つかったのは、それから程なくのこと。発見現場は祐巳の推理通り、閲覧室内。
発見のニュースを聞いて駆けつけた者たちは、その状況を見て誰もが同じ文句をつぶやいた。
「……信じられない」
何と祥子さま、利用者が本を読んだり調べ物をしたりする机の椅子《いす》に座り、その隣の席の椅子に頭をのせて横になっていたのだった。一瞬、具合が悪いのではと心配したが、規則正しい安らかな寝息と幸せそうな寝顔が、ただのうたた寝であることを物語っていた。
「ピシッとして見えたけれど、やっぱり疲れていたのね」
「寝ようと思ってこの体勢になったというより、座ったままズルズルと横に倒れたって感じだものね。足は床についているし」
「かなり早い段階で力|尽《つ》きたらしいわ。開いているページ、目次だもの」
皆、好き勝手に観察し、感想を言ってくれちゃう。こんな祥子さまを見る機会なんてめったにないから、ちょっと楽しんでいる感もある。
「皆さん、そのくらいで勘弁《かんべん》してください」
見せ物になりつつあるお姉さまを庇《かば》うべく、祐巳は通せんぼするみたいに前に立ちはだかり、手足を広げて皆からの視線を遮《さえぎ》った。
「あら、祐巳さんがなかなか起こさないから悪いのよ」
「私が、ですか」
「あなた以外に、誰が起こすの。ほら、もう閉館時間なんだから急いで」
ご指名ということで、畏れ多いことではあるが小笠原《おがさわら》祥子さまをお起こしする役を引き受けることにした。
「では、僭越《せんえつ》ながら」
ちょっと咳払《せきばら》いして、からそっと肩に手を置いてみる。
「お姉さま」
「う……ん」
「目を覚ましてください」
祐巳は肩を揺すった。すると、祥子さまはまぶしそうに目を開けてつぶやいた。
「……おかしいわね」
「は?」
「今、私祐巳のこと起こしていたはずなのに」
いつの間に入れ替わったのかしら、と言いながら祥子さまは身を起こす。まだ、ちょっと寝ぼけが入っている。ここがどこだか、わかっていないようだ。
図書館の中。
祥子さまは一つ伸びをしてから、辺りを見回した。そして。
「あら、いったいどうしたの?」
祐巳の後ろにずらりと並んだ知った顔の数々を見つけると、小さく笑うのだった。
「まるで『大きなかぶ』みたいだわ」
と。
[#改ページ]
あとがき
こんにちは、今野です。
この文庫は、番外編集第二弾となります。『続・バラエティギフト』とか『バラエティギフト2』とか喩《たと》えるとわかりやすいかもしれません。雑誌Cobaltで、2004年に発表したものをまとめたものです。
発表した順は「チョコレートコート」が2月号、「桜組伝説」が4月号、「図書館の本」が8月号、「静かなる夜のまぼろし」が12[#「12」は縦中横]月号。で、「ジョアナ」とのりしろ部分(とアニメの声優さんたちが言っていた)である「イン ライブラリー」を書き下ろしまして、『イン ライブラリー』という一冊の本になりました(インとライブラリーの間に「ザ」は入りません)。
今回、舞台を図書館にしようと思いついたのは、雑誌で「桜組伝説」を書き終えて、次はどうしようかと思案していた頃でした。いずれ、またこれらをまとめる日が来る。『バラエティギフト』の時は何も考えていなかったけれど、共通点とかキーワードとか括《くく》りがあれば一冊にした時すっきり並ぶのではないか、と。それで遅まきながら、すでに書き上げた二作を並べて考えました。「チョコレートコート」は、校外ですが図書館が出てきます。「桜組伝説」は、冊子の中の物語がテーマです。で、「これだ!」とひらめきました。そして、「図書館の本」へとつながります。「静かなる夜のまぼろし」では、主人公である静《しずか》は図書委員です。
図書館がらみの思い出といえば。
私が通っていた中学の図書室便りの名前が、確か「らいぶらりぃ」でした。中二か中三か覚えていないのですが、お友達のSさんが図書委員で、彼女が中心になってかなりいいものを発行していたという記憶があります。レイアウトもきれいだったし、余白にファミリーレストランのCMの替え歌で「らいぶらりぃ」のテーマソングが書かれていたりで、遊び心満点。それでいて中身もちゃんとしていました。まあ、そういういいイメージから、リリアン女学園の高等部図書委員の発行する図書館通信の名前も「ライブラリィ」にしたのでした(しかし、手もとに現物が残っていないのに、結構覚えているものです。……子供の記憶、侮《あなど》りがたし)。
私はこの文庫の中の小説を書くために、数冊の本を読み(返し)ました。この本を読み終えて、図書館や本屋さんに行きたくなった人が一人でも二人でもいてくれたら幸せです。残念ながら「桜組伝説」という冊子は一般的に出回っていませんが、現実に読める本のタイトルは作中何回か登場しますからね。
あなたは、そのうち何冊読んだことがありますか?
[#地から1字上げ]今野緒雪
底本:「マリア様がみてる イン ライブラリー」コバルト文庫、集英社
2005年1月10日第1刷発行
このテキストは、
(一般小説) [今野緒雪×ひびき玲音] マリア様がみてる 第19巻 「イン ライブラリー」.zip tLAVK3Y1ul 30,321,696 1d62a1f4f21ebac6fcfc844addb96cfd
を元にOCRと手入力版を作成してエディタで比較校正しました。
放流者に感謝。
※ 短編部分はコバルトのが使えたのでかなり早くできました。
******* 底本の校正ミスと思われる部分 *******
底本p010
由乃《よしの》さんと志摩子《しまこ》さんと乃梨子《のりこ》ちゃんと三人で体育館に取りにいって、
祐巳を加えて四人では?
底本p076
出て行ったっというわけ。
出ていったというわけ。
底本p172-173
なぜ閲覧室に留まり続けてといたのか、と。
留まり続けていたのか、と。
底本p173
ついでだからに見ていく、
ついでだから見ていく、
底本p204
ちょっと咳払いして、からそっと肩に手を置いてみる。
咳払いしてから、そっと肩に手を
底本p198
だんだん思い出してきたもう一つ名前が書いてあった。
だんだん思い出してきた。もう一つ名前が書いてあった。
※ 文庫収録前からのミスだし、意図的に読点を省いてある?
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