マリア様がみてる
特別でないただの一日
今野緒雪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)朝の挨拶《あいさつ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)純粋|培養《ばいよう》お嬢さま
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)|シ《2 》ョック[#「2」はシの上付き小文字。ショックの2乗の意]
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[#挿絵(img/18_000.jpg)入る]
もくじ
|シ《2 》ョック[#「2」はシの上付き小文字。ショックの2乗の意]
チェンジする?
どうなる どうする
ああ、勘違い
ドラマティックス
あとがき
[#改ページ]
[#挿絵(img/17_004.jpg)入る]
[#挿絵(img/17_005.jpg)入る]
[#地付き]イラスト/ひびき玲音
[#改丁]
マリア様がみてる 特別でないただの一日
[#改ページ]
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶《あいさつ》が、澄みきった青空にこだまする。
マリア様のお庭に集《つど》う乙女《おとめ》たちが、今日も天使のような無垢《むく》な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
汚《けが》れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。
スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻《ひるがえ》らせないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
私立リリアン女学園。
明治《めいじ》三十四年創立のこの学園は、もとは華族《かぞく》の令嬢《れいじょう》のためにつくられたという、伝統あるカトリック系お嬢さま学校である。
東京都下。武蔵野《むさしの》の面影《おもかげ》を未だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎《ようちしゃ》から大学までの一貫《いっかん》教育が受けられる乙女の園《その》。
時代は移り変わり、元号《げんごう》が明治から三回も改まった平成《へいせい》の今日《こんにち》でさえ、十八年通い続ければ温室育ちの純粋|培養《ばいよう》お嬢さまが箱入りで出荷される、という仕組みが未だ残っている貴重な学園である。
そんな平凡《へいぼん》なお嬢さまの一人だった彼女――福沢《ふくざわ》祐巳《ゆみ》が、ある日突然高等部の注目をあびる存在になってから早一年。
思い返せばこの一年、いろいろなことがあった。
そもそもの出会いは、マリア像の前。あの時、祥子《さちこ》さまが乱れたタイを直してくださって――、ってのんびりと思い出にひたっている場合じゃない。
様々な問題を抱えていようと、そしてそれが未解決であろうと、お構いなしに学園祭はやって来る。
言い訳したって、神様が太陽の動きを止めてくれるわけないのだから、カレンダーの前でため息ついている暇《ひま》があったら手を動かして、頭を働かせろ、ってことだ。
さあ、忙しい忙しい。
[#改ページ]
|シ《2 》ョック[#「2」はシの上付き小文字。ショックの2乗の意]
それは、この一言から始まった。
「そうそう、学園祭の劇の件だけれど」
時間は少しさかのぼって、修学旅行の直前。今年の学園祭で上演される山百合会主催《やまゆりかいしゅさい》の劇の演目が、初めて一・二年生たちに明かされた。
体育祭も無事に終わったある日の昼休み、薔薇《ばら》の館《やかた》でお弁当を食べながら簡単な打ち合わせをしている最中、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》である小笠原《おがさわら》祥子《さちこ》さまがやにわに立ち上がって言った。
そうそう、学園祭の劇の件だけれど、と。
あまりにさらりと切り出すので、その「劇」が自分たちがやる芝居《しばい》のことだって、妹《スール》である福沢《ふくざわ》祐巳《ゆみ》にもすぐに判断できなかった。なぜって、まるで余所《よそ》のクラブのことでも話題にしているみたいな言い方だったから、お姉さま。
「今年は『とりかえばや物語』をやります。以上」
で、着席。
「とりかえばや……」
「……物語」
「あ」
聞かされた人たちのつぶやきを順に解説すると。
まず最初の「とりかえばや……」が、| 黄薔薇のつぼみ 《ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン》である島津《しまづ》由乃《よしの》さん。
一見友の言葉を引き継いでいるようだが、客観的にはちょっと間が抜けている「……物語」のみのセリフが祐巳。
で、最後の「あ」は、一人のようで実は二人分の声がピッタリと重なったもの。姉妹《スール》になってまだ三ヶ月の初々《ういうい》しいハーモニーは、|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》である藤堂《とうどう》志摩子《しまこ》さんと、その| 妹 《プティ・スール》の二条《にじょう》乃梨子《のりこ》ちゃんの二重奏。
昼休みということもあって、薔薇の館にいたのは薔薇ファミリーと呼ばれる正式メンバーのみであった。一年|椿《つばき》組の助《すけ》っ人《と》二人はこの場にいない――というわけで、紅・白・黄がそれぞれ二名ずつ。計六名也。
「『あ』って何?」
白薔薇姉妹に質問を投げかけたのは、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》である支倉《はせくら》令《れい》さま。
「由乃や祐巳ちゃんとは反応が違うよ、お二人さん」
前の二つのセリフは、単に祥子さまが発表したタイトルのリピートに過ぎないが、最後の「あ」は明らかに何か思い当たった時のつぶやきである。
さて、問題です。『とりかえばや物語』といえば。
「あ」
遅まきながら、祐巳も叫んだ。すると、会議のために少し離れた席にいた祥子さまが、「反応が遅い」とでもいうように眉《まゆ》をひそめた。だが、事情を知らない黄薔薇姉妹にとっては、何がなんだかわからないことであったろう。
「これです」
志摩子さんが自分の手提《てさ》げ鞄《かばん》から一冊の本を取り出して、テーブルの上に置いた。
「図書館の本?」
令さまが手を伸ばす前に、由乃さんが取り上げてパラパラとページをめくった。
「ああ、例の本か」
「由乃、知ってるの?」
「祐巳さんが返却した本を、乃梨子ちゃんが借りたところを見ていたから。ああ、そう。志摩子さん、やっぱりその後この本を借りたんだ」
それは日本の古典文学を集めたシリーズの一冊で、その本の中にもいくつかの物語が収められていた。『とりかえばや物語』も、その一つである。
「なるほどね。だから『あ』なわけ」
令さまは、由乃さんから回された本を眺めながらうなずいた。
「で? 祐巳ちゃんはどうしてこの本を?」
「お姉さまが読むように、って。劇の題材だったなら、はじめからそう言ってくださればよかったのに」
もったいぶって、って、祐巳がチラリとお姉さまの顔を見ると、祥子さまからは意外な答えが返ってきた。
「ばかね。言えるわけないでしょう?」
「え、なぜ?」
「そう言ったらあなた、反対したでしょう? だから、ある程度準備が整うまで黙っていようって、令と相談したの」
「どうして私たちが反対するんです」
そりゃ、『とりかえばや物語』は古典文学とはいえ、男と女の恋愛模様が至る所に盛り込まれていて、途中ちょっと高校生には刺激的な描写なんてものもあったけれど。でもそれを理由に反対するなら、祐巳ではなくてむしろ祥子さまの方でしょうが。
「……じゃないでしょ」
由乃さんがボソリと言った。
「何が?」
「さっきの祐巳さんの言葉。たち、のところだけ抜いて、もう一度どうぞ」
何だかよくわからないまま、祐巳は由乃さんの言うとおりにしてみた。
「どうして私……が反対するんです……? え? 何、私だけ?」
さっきまで一緒《いっしょ》に蚊帳《かや》の外《そと》仲間だった面々、つまり由乃さんを筆頭《ひっとう》に志摩子さん、乃梨子ちゃんが、すでに事情を飲み込んだらしく、一様に首を縦に振って肯定した。
しかし未だわからず、人差し指を自分に向けたまま首を傾《かし》げている祐巳。そんな友を哀れに思ったのか、由乃さんがヒントを出してくれた。
「祐巳さん、この本読んだのよね?」
「読んだ」
「じゃ、連想ゲーム。『桃太郎《ももたろう》』といえば」
「お、鬼退治?」
「『源氏物語《げんじものがたり》』」
「プレイボーイ一代記」
「あれ、一代記っていえるかなぁ……ま、いいわ。『竹取物語《たけとりものがたり》』」
「う、美しきの宇宙人、月に帰るの巻?」
何だ何だ、と訳もわからず答えているうちに、やっと本題へと突入した。
「では『とりかえばや物語』は?」
「そっくりな姉弟《きょうだい》が入れ替わる――って、ええっ!?」
そこで、やっと鈍《にぶ》い祐巳にもわかった。
「ま、まさか」
「まさか、なんて思っているの、祐巳さんくらいなものよ」
祐巳を除く「ザ蚊帳の外ズ」メンバー三人は、いずれも同情の目で祐巳を見ていた。
「お気の毒だけど、決まりでしょ」
由乃さんが含み笑いを浮かべながら、祐巳の肩を叩いた。
「そうよね。せっかく祐麒《ゆうき》さんが手伝いに来てくれるのですもの」
そんな風におっとりと納得してないで、助けて、お願い志摩子さん。
「さすが|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》。いいところに目を付けられましたね」
乃梨子ちゃんまで。でもって、みんな一応は同情しながらも、自分に白羽の矢が立てられなかった幸運を心から喜んでいる顔をしている。
「代わってあげたいけれど、あいにく私たちには祐麒君みたいにそっくりな弟がいないものねぇ」
いたらいたで、何かしら理由をつけて絶対に代わってくれやしないはずだ。由乃さんの可愛《かわい》い顔が、今は悪魔にも見える。
「お姉さまぁ……」
駄目《だめ》でもともと。祐巳は由乃さんに負けないような可愛《かわい》らしい顔を努力で作って、助けを求めてはみたのだが。
「そういうことだから。覚悟を決めてね、祐巳」
見事に玉砕《ぎょくさい》。
愛情の量や質の問題ではない。ただ単に、祥子さまは令さまじゃないというだけの話だ。
「返事は?」
「……はい」
というわけで、去年はデッドヒートの末に免《まぬが》れた主役の座を、今年はぶっちぎりでモノにしてしまった。
――福沢祐巳、十七の秋。
「何でかなぁ」
六時間目を終えて、やれやれ今日も無事授業をこなした、と机に突っ伏しながら、口からもれ出す言葉は、心の中でリピートし続けている疑問である。祥子《さちこ》さまの爆弾発表のショックで、眠い時間の数学と政治経済もしっかり覚醒《かくせい》していられた。授業内容の方はというと、あまり頭の中に入らなかったけれど。
[#挿絵(img/18_017.jpg)入る]
「何でかなぁ、って、『とりかえばや物語』にしたわけ?」
思わず飛び出した祐巳《ゆみ》の独《ひと》り言《ごと》に反応しながら、由乃さんが側までやって来た。
「うん。まあ」
うなずくと、由乃さんは「ちょっと顔かして」みたいに首を廊下《ろうか》に向けた。ホームルームまで少し時間がある。何事かと思いながら教室を出ると、そこにはなぜか志摩子《しまこ》さんが待っていた。
「構想は一年くらい前からあったみたいだ、ってさっき令《れい》ちゃんが言ってたよ。もちろん、祐麒《ゆうき》君の存在を知ったのは今年のお正月なわけだから、祥子さまだって最初から『とりかえばや』を考えていたわけじゃないでしょうけど」
さっきって、いつだ。なんて考えながら、祐巳は由乃さんの話に耳を傾けた。祐巳がショックでぼけーとしている休み時間、由乃さんはずいぶんと精力的に動き回ったらしい。さしずめこの召集は、放課後の集まりに備えての情報交換の場、といったところか。
「そういえば、私も思い出したことがあるの」
志摩子さんが言った。なになに、と左右から詰め寄る二年|松《まつ》組の二人。
「去年の学園祭で江利子《えりこ》さまがね」
「江利子さま?」
由乃さんが、静電気に感電したみたいにビビクンと身体《からだ》を震わせた。それに驚いたのは、志摩子さんである。
「ど、どうしたの?」
「あ、今、由乃さんは江利子さまという名前に過剰《かじょう》反応するの。気にしないで続けて、志摩子さん」
祐巳は由乃さんに替わって説明した。順を追ってすべて話していたら長くなるので、かなり大幅にはしょったが、つまりはそういうことなのだ。由乃さんは現在、卒業した元|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》こと鳥居《とりい》江利子さまにプレッシャーをかけられ続けて日々を送っている。
「……そ、そう? ええと、そう江利子さまが去年、来年は和物にしたら、みたいなこと言っていたとか」
「あ、それ何か聞いた気がする。確か『かぐや姫』にしろって」
祐巳も思い出した。祥子さまの長くてこしがあってサラサラストレートヘアは、アップにするのが難しくて、それを皮肉って言っていたのだ。
「ヒントはあったのね」
「じゃさ、『かぐや姫』でいいじゃない。どうして『とりかえばや』なわけ? 『竹取物語《たけとりものがたり》』はみんなが知っている話だし、そっちの方がいいじゃない」
「ばかね。祥子さまが、『かぐや姫』にするわけないじゃないの」
由乃さんが苦笑した。
「どうして」
「乃梨子《のりこ》ちゃん、かわいそうな祐巳さまに教えてあげて」
振り返ると、遅ればせながらやって来た乃梨子ちゃんがそこに立っていた。
「|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》は今年、ご自分は主役を演じられるつもりがなかったのでしょう。でも『かぐや姫』にしたら、容姿からして|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》を主役にと推す動きがあるかもしれません。それを回避するためには、自分が絶対に主役にならずにすむ物語を選ぶ必要があったわけです」
「それが」
「『とりかえばや物語』」
「抗議してくる」
祐巳は廊下《ろうか》をノッシノッシと歩き出した。目指すは三年松組。お姉さまのクラス。
乃梨子ちゃんの推理が事実なら、自分が主役をやりたくないから、妹を生《い》け贄《にえ》にしたってことじゃない。
「待ちなさいよ」
由乃さんが手首を掴《つか》んだ。
「言葉で祥子さまに敵《かな》うと?」
「う……」
確かに。「それをしてなぜ悪い」の一言で、片づけられてしまうかもしれない。
「じ、じゃあ。『とりかえばや』はテーマが重い。主人公に妊娠《にんしん》出産なんてことも起きるストーリーは、高校生がやる演劇にふさわしくない、って言う」
「そういうの、大幅にカットして、姉と弟が入れ替わったために巻きおこるハプニングとか男らしさとか女らしさとかを問う劇にするって、祥子さまは言っていたじゃない。聞いてたでしょ?」
聞いていたともさ。けれど、やっぱり抵抗したい。
「えっと。時代物はセットも衣装《いしょう》も大変」
「手芸部とか美術部とか、はりきっているらしいよ。依頼するまえに、あちらさんからご用聞きに来たって話」
詳しい内容は教えられないまま、発注された衣裳なり小道具なりセットなりをもくもくとこしらえてくれているのだそうな。タイトルは知らなくても、平安《へいあん》時代あたりの物語であろうことはすでにわかっているだろう。
「じゃね。えっと」
「そういうの、悪あがき、っていうの」
「うー」
「百歩|譲《ゆず》って『とりかえばや』が上演できなくなったとして、よ? 演目替わっただけで、主役は祐巳さんよ」
「どうして」
祐巳が聞き返すと。
「『王子とこじき』」
由乃さんの言葉を受けて、志摩子さんも言った。
「『ふたりのロッテ』」
「『11[#「11」は縦中横]月のギムナジウム』」
続ける乃梨子ちゃん。
「そっくりさんが入れ替わるお話って、古今東西《ここんとうざい》たくさんあるのよ。その舞台を平安時代に移して、一丁《いっちょう》上がり」
一丁上がり、って、由乃さん。おいおい。わざわざホームルーム前の短い時間を利用して集まっておいて、結論が「一丁上がり」なわけか。
「あ、そろそろ戻らないと」
乃梨子ちゃんが、腕時計を見て言った。
「本当。祐巳さん。私たちは出来る限りのサポートをさせてもらうわ。それじゃ」
志摩子さんも二年|藤《ふじ》組の担任の先生が廊下《ろうか》の彼方《かなた》に見えてきたので、その場から去っていってしまった。
「……」
主役回避のために立ち上がってくれたのかと思っていたが、結局のところこの集《つど》い、祐巳を「諦《あきら》めさせる」が主目的だったのではないだろうか。何だか、とたんに脱力感に襲われた。
残された二人はというと、先生はまだ来ないし、教室に戻るきっかけも特になくて、そのまま廊下の壁にもたれてまったりしていた。
「ところで、祐巳さん。祥子さまと姉妹《スール》になって、もうすぐ一周年でしょ? 何か約束でもあるの?」
由乃さんの頭の中では、すでに『とりかえばや物語』には(済)[#「(済)」は「済」を○で囲んだもの]マークがついているらしい。
「別に」
祐巳は首を振った。由乃さんのところは何かしたのか、って逆に聞き返せば、その答えは「したようなしないような、いや、あれはやっぱりイベントだったのかも」であるらしい。
新一年生が高等部に入ってきた日、令《れい》さまは帰宅後自らが焼いたケーキを持って島津《しまづ》家を訪問。由乃さんの部屋にて、二人でショートケーキを一ホール、切らずに直接フォークを突き刺して食べたという。
「思えばあれは、結婚記念日に花を買って帰る夫と同じ心境だったんだろうな、令ちゃん」
首に掛かったロザリオの鎖《くさり》の部分を弄《もてあそ》びながら、由乃さんは笑った。でも、その時は令さまの気持ちに気づかなかったんだって。「あれ、どうしてケーキ?」ってな感じで。ケーキはもちろんおいしく食べたらしいけれど。
「私たちの場合、ずっとお隣さんだったし。ロザリオの授受なんてなくても、心の中では姉妹《スール》になるって決めてたし。記念日も何も。ねぇ?」
結婚記念日だから花を買って帰ったというのに、妻はそんなことすっかり忘れていて、いつもと変わらないお夕飯だったという気の毒な夫。それが令さま。
でも、先に眠られていて、自分でおかずをチンして食べなきゃいけない程|哀《あわ》れじゃない。仲よく一緒《いっしょ》にケーキを食べたんだから。
「でもさ、祐巳さんのところの場合、明らかにうちとは違うじゃない」
「うん、まあ」
「何月何日っていうより、学園祭の夜って方がちょうど一年、って感じでしょ?」
「……うん、まあね」
「二人にとって特別な日だもの、祥子さまにうーんとおねだりして、素敵な記念日にしたらいいわ」
他人事《ひとごと》だと思って、簡単に言ってくれちゃう。おねだり自体が祐巳にとっては高いハードルだし、たとえそれをクリアしたとしても、その先に何を置いておくかが問題だ。
素敵な記念日、っていったい何?
何をしてもらったら、忘れられない一周年記念行事になるの?
「あー、いたいた。由乃さん、祐巳さん」
学園祭実行委員が、教室から顔を出して二人を呼び込んだ。
「ホームルームの前に出店《でみせ》の店番の時間割を決めたいから、席についてくれない?」
「あ、はーい」
返事をして、寄りかかっていた壁から身を起こす。
「ふー。やれやれ」
学園祭の準備は、クラスの中でも着々と進んでいる。
二年松組の今年の出し物は、お祭りの出店。志摩子さんのクラスである二年藤組との合同企画なのである。
もう一人の主役もまた、その事実を聞かされた時に「ま、まさか」と祐巳《ゆみ》とまったく同じつぶやきをもらした。
「その、まさか」
言いながら祐巳は、なるほど自分も数時間前にはこんなまぬけ顔をしていたんだな、なんて思いながら客観的に弟の顔を眺めていた。
「何だよ。同じ立場にしちゃ、ずいぶん余裕《よゆう》かましているじゃないか」
余裕のかけらも見あたらない祐麒《ゆうき》は、責めるような表情で祐巳を見た。そうか、そんな風に見えるわけだ。
「私だって最初聞いた時には、祐麒と同じ反応したんだけどね」
家に帰って、ショックを受けたあの時点から時間とも場所ともほんの少し距離を置いたから、多少なりとも落ち着いたというだけの話だ。驚きって、案外持続しないものだから。でもって、その後からやって来たものといえば、諦《あきら》めという名の開き直り。
しかし、この話を切り出した時間帯が悪かったかな、と祐巳は思った。お祖母《ばあ》ちゃんの胃薬じゃないんだから、食後三十分っていうのもね。もう少し、時間をおいてもよかったかもと、少しだけ反省。あまりのショックに、祐麒の胃袋が、今晩のおかずの和風ハンバーグを消化するのを忘れちゃったら大変だ。
でも、食後の片づけを手伝ってから二階に行ったら祐麒はすでにお風呂《ふろ》の支度《したく》をしているし、祐麒がお風呂から上がるのを待っていたら、きっと「祐巳も続けて入りなさい」とかお母さんに言われて、言う通りにしていると、すぐに祐麒の視《み》たいテレビが始まっちゃうからたぶんゆっくり話せやしないし、その後は祐巳が毎週視ているバラエティ番組があるし。で、今捕まえておかなきゃ、今日のうちに祐麒に伝えることができなくなりそうだったから。
今日中に祐麒に話を通しておくように、祐巳はお姉さまから命じられていた。今週の金曜日からリリアンの二年生は修学旅行だから、その前に花寺《はなでら》側に台本を渡して、約一週間の間に台本に目を通してもらおうという考えなのだ。
この時期まで発表を引っ張ったのは、たぶん主役二人(福沢《ふくざわ》姉弟)に文句を言う暇《ひま》を与えないためだろう。祐巳はイタリアに行ってしまえば、わざわざ国際電話を使ってまで抗議してこないだろうし、つなぎ役の祐巳がいなければ祐麒が勝手に動くことはないだろう、と。――考えたものだ。
「祥子《さちこ》さんにやられたな」
祐麒は手渡された台本を軽く叩きながら、「これじゃ、俺と祐巳以外にやれる人間はいないもんな」と言った。タオルとかパジャマとか、準備していた物をベッドに置いて、学習机の椅子《いす》に身体《からだ》を投げだし、そのままグルーンと一回転した。
「ふーむ。ということは、祐麒は『とりかえばや物語』の内容を知っているってことだ」
祐巳は祐麒のベッドに転がっていたクッションを取り上げ、床に座布団《ざぶとん》代わりに敷いて座った。
「読んだことはないよ。でも、『源氏物語《げんじものがたり》』を全巻読破してなくても、だいたいの内容は知ってるでしょ。そんな程度」
またまた出ました『源氏物語』。こういう場合引き合いに出しやすいのか、それとも雰囲気《ふんいき》が『とりかえばや物語』に似ているから例に出しやすいのか。いや、単に由乃《よしの》さんと祐麒の思考回路が似ているだけだったりして。
「私は『源氏物語』って、プレイボーイ一代記くらいの知識しかないよ。古文の時間で『若紫《わかむらさき》』はやったけど」
雀《すずめ》の子をいぬきが逃がしつる、って文だけは覚えている。確か、「いぬきは人の名前であって犬ではありません」と先生が力説していた。
「一代記? 違うんないんじゃないの? 薫《かおる》がいるんだから」
「薫?」
そういえば「一代記」の発言は、由乃さんにも異論を唱えられたっけ。
「源氏物語は、最後の方では薫を中心に話が進むんだよ。宇治十帖《うじじゅうじょう》って聞いたことない?」
宇治十帖。聞いたことあるような、ないような。
「で、薫って何者?」
「光源氏《ひかるげんじ》の息子だよ。いや。……妻が浮気してできた子っていうか、……まあいろいろあって」
祐麒は口ごもった。姉弟でそういう生々しい話をするのは、気が進まないようだ。祐巳だって、別に率先《そっせん》してしたいわけじゃないが。
「読んだことない割には、いやに詳しいね」
「そういや、そうだな」
祐麒は、椅子《いす》に腰掛けたままうーんと伸びをするみたいに天井を見た。そして何か思いついたのか、元の姿勢に戻ってから苦笑した。
「たぶん、あれだ。柏木《かしわぎ》先輩のせい」
「柏木さん……?」
「『源氏物語』に、柏木って帖があるだろ。で、あの人一部の生徒に『光《ひかる》の君《きみ》』とか呼ばれていたんだ。源氏マニアの生徒たちも、生徒会とかに集まったりしてさ。そんなこんなで『源氏物語』が身近だったんだな、きっと」
「――にしても、光の君って」
口に出して呼ぶのも小恥ずかしくなるほど、すごいネーミング。でも、イメージぴったり。柏木さんって人は、ハンサムで、人当たりが良くて、お坊っちゃまで、頭が良くて。ああ、そうそう。でも女好きの「女」の部分を「男」に変えた方がいいかもしれない。
「あーあ」
祐麒は大きなため息をついた。
「何をやらされようと、去年の柏木先輩に比べたら楽だとふんでいたんだけどな」
「去年、ね」
花寺学院高校とリリアン女学園高等部の生徒会は毎年、学園祭にはお互いに手伝いにいくのが慣例化している。去年のリリアンの学園祭は、花寺の生徒会長だった柏木さんが、シンデレラの劇で王子さまを引き受けてくれたのだが。
「出番も少なくて、それほど大変そうじゃなかったけれど?」
「それは柏木先輩だからだよ。去年の今頃さ、あの人が何やらされるか聞いて、俺たち本気で震え上がったもん」
「どうして?」
「社交ダンスなんて踊れるかよ」
「ああ。なるほど」
実際に習ったことがないから無理、というのも確かにあるけれど。それより何より、人前で、それも女子校の体育館の舞台上でそのような姿をさらすことはとてもじゃないが耐えられない、ということらしい。だからそれを楽々クリアした柏木さんは、その点に関しては男として尊敬に値《あたい》する人だという。見習いたくはないらしいけれど。……わかるようなわからないような。
「で、祐麒は、今回の役どころは、シンデレラの王子さまより楽じゃない、とふんだわけね」
「だってダブル主役じゃん。お隣の学校からの助《すけ》っ人《と》にしちゃ、重労働すぎない?」
「ま、そうね。でもさ、祐麒の場合、ダンス踊るよりセリフ覚える方がましなんじゃないの?」
「程度によるよ。祥子さん、俺が演技力ないの知っているはずなのにな」
そうそう。以前祐麒が「やあ、祥子さん」の一言が言えなくてオロオロしているところを、祥子さまは至近距離で見ていたはずだ。
「顔で抜擢《ばってき》されたんだから、仕方ないんじゃないの?」
「俺、生まれてくる時、お母さんの顔を選べばよかった」
福沢姉弟は、二人|揃《そろ》って父親似のタヌキ顔。
「好きな方選べるんだったら、私もお母さんの顔を選択したと思うよ」
「じゃ、結局だめじゃん」
顔の形は今とは違えども、またまたそっくりさんができあがって、結局『とりかえばや物語』の主役に抜擢されるというわけだ。
「諦《あきら》めてセリフ覚えようか」
「そうだね」
顔がどうこうという話をしたところで、不毛なだけだ。
「とにかく、俺、風呂《ふろ》入ってくるわ。で。こんなことで参っちゃいそうな精神に、カツを入れてくる」
パシッパシッと軽く両頬《りょうほほ》を叩いて、祐麒は椅子《いす》から立ち上がった。
「……いってらっしゃい。悪かったわね大役引き受けてもらって。でも、助かった」
祐巳は、階段の所まで祐麒を見送ってから、自分の部屋のドアノブに手をかけた。途中、祐麒が階段を三段ほど下がってから振り返った。
「祐巳は女だからわかんないかもしれないけどさ」
「ん?」
「気が重いのは、主役とかセリフが多いとかだけじゃないんだ」
何だ、何だ。何か重大な告白をしそうな雰囲気《ふんいき》を漂《ただよ》わせているぞ、少年。祐巳は、ドアノブから手を離して身構えたが。
「とりかえばや、ってことはさ。俺、女装しなきゃいけないわけじゃん」
「へ?」
「それ、かなり辛《つら》い」
祐麒はそう言って後ろ手にバイバイしてから、自分の周囲をどんよりとした空気に汚染《おせん》しながら一階へと下りていった。
「そんなもの、なの?」
残された祐巳は、ちいさくつぶやいた。
舞台で社交ダンスと舞台で女装。男にとって、どちらがより恥ずかしい?
福沢祐麒十六歳。
彼の心の中の天秤《てんびん》ばかりは、どっちにも大きく傾き、その揺れはそう簡単には収まりそうもなかった。
[#改ページ]
チェンジする?
たとえ男であっても、女装に対してまったく抵抗がない人間も、世の中にはたくさんいる。
「いいないいな、女役。ユキチったらうらやましいっ。このこのこのっ」
むしろ進んでやりたい。そう願う男だって確実にいる。ここにも約一名。第二稿と書かれた『山百合《やまゆり》版・とりかえばや物語』の台本をくるくる丸めて、あわよくば降板《こうばん》したいと願っている同級生の肩を興奮に任せパカパカと叩いた。
「女役じゃない。女装して姉と入れ替わる役だ」
「あら、同じことよ」
「同じじゃない」
祐麒《ゆうき》にとっては、その辺のところはっきりさせておきたいらしい。
祐巳はといえば、アリスが言うように、女役も女装もそう変わりないように思えるし、正直なところ弟のこだわりなんかどうでもいいことだったけれど、お姉さまが、アリスと祐麒のじゃれ合いを楽しそうに眺めているのを見れば、それはちょっと嬉《うれ》しくなるのだった。
男の人と接することが苦手な祥子《さちこ》さまだが、ことアリスと祐麒に関してはかなり免疫《めんえき》ができたようである。二人とも男男《おとこおとこ》していないせいかもしれない、って言ったら、祐麒は嬉しくないだろうけれど。
修学旅行に行っていた二年生が無事学校に復活した週の土曜日。今日は午後から、花寺《はなでら》の助《すけ》っ人《と》連中が、芝居《しばい》の打ち合わせ兼お稽古《けいこ》兼|衣裳《いしょう》合わせのためにリリアン女学園にやって来てくれている。
歳《とし》の順に、三年生は日光《にっこう》・月光《がっこう》こと薬師寺《やくしじ》昌光《あきみつ》・朋光《ともみつ》兄弟、ちなみに双子《ふたご》。
続いて、二年生。まずは、筋肉ムキムキの高田《たかだ》鉄《まがね》君。
計算大好き小林《こばやし》正念《まさむね》君。
男子校に咲いた一輪の花、アリスこと有栖川《ありすがわ》……(本人の希望により省略)……君、いや、さん。
最後は祐巳の年子《としご》にして同学年の弟、福沢《ふくざわ》祐麒。――以上六名。
女子校の被服室《ひふくしつ》という、かなり女っぽい部屋に通されたせいか、はたまた自分たちの倍以上の数の女子に囲まれて居心地《いごこち》悪いのか、花寺の面々はさっきからずっと無口である。ただ一人、アリスだけが水を得た魚のように生《い》き生《い》きしていた。
「祐巳さんの男役もきっと素敵でしょうね。祥子さま、本当にすばらしいアイディアです。私、心底|感服《かんぷく》いたしました。学園祭まで、いえ学園祭が終わってもずっとついていきます。何でも言ってくださいね。喜んでお手伝いしますから」
「アリス。はしゃぎすぎ」
五人の中では一番最後に生まれはしたが、一応生徒会長である祐麒が、軽く注意する。だが、そんなことくらいではアリスの興奮は収まらない。
「だって女子校の学園祭なんて。一生参加できないと諦《あきら》めていたのよ。あーっ、これ仮縫《かりぬ》いの衣裳《いしょう》?」
手芸部の部員たちが、準備室から次々に衣装と思《おぼ》しき畳《たた》んだ布を出して、机の上に手際《てぎわ》よく広げていく。
「まあ素敵。こんなの着たいわぁ」
「アリス」
と、再び祐麒。
「はあい」
「いいわよ。ちょっとくらいなら羽織《はお》っても。まだ全員集まっていないから」
祥子さまが、衣装と役者の名前を照らし合わせながら言った。
被服室《ひふくしつ》にはたくさんの女子が集まっているように見えたが、一年|椿《つばき》組トリオの姿はまだなかった。手芸部とか発明部とかの部員が出たり入ったりしているせいで、誰がいて誰が居ないのかちょっとわかりづらいが。
「本当に!?」
「汚さないようにね。ほら、スリッパ脱いで、その、ビニールシートの上でね」
令さまが、着物を適当に選んでアリスに渡した。
「はいっ。心してっ」
指示通りの場所で、いそいそと衣装を羽織るアリス。その様子は、女の子の着替えそのもの。脱いできちんと畳まれた学ランが、哀愁《あいしゅう》を誘う。
「……似合う」
じっと見ていた由乃《よしの》さんが、祐巳にコソッとつぶやいた。
「うん」
「令《れい》ちゃんには悪いけど。だんぜんアリスの方が、姫君って呼ばれるにふさわしい感じだよね」
「あ、えっと」
直線距離にして約一・五メートルの前方に令さまが立っているので、そう思っていても声に出して肯定できない祐巳である。が、身内の由乃さんは言いたい放題だ。
「もしさ。アリスみたいな息子と令ちゃんみたいな娘がいたとする。そうしたら、お父さんもつい取り替えちゃいたくもなるよね」
「あ、じゃあ。令さまとアリスでやったらどうかな? 『とりかえばや物語』」
「やめてよ、祐巳ちゃん」
令さまが振り返り、あわてて駆け寄ってきた。うーん、やっぱり令さまの耳、後ろについていたようだ。
「冗談でもそういうこと言わないでよね」
目が恐い。過去、誰かが言った何気ない一言が現実になるところを、令さまは何度も見てきたのだろう。アリスの方は、満更《まんざら》でもないみたいだけれど。
「じゃ。取りあえずやってみて、いい方にするっていうのはどうですか」
「何寝ぼけたこと言っているの」
祥子さまが話に割り込んできて、畳《たた》んだ着物を祐巳に手渡した。
「去年に続いて今年も主役が二転三転なんて、許されないことよ。それに三年生は舞台に立つ以外のいろいろな役を引き受けているんですから、主役なんてやれるわけないでしょう?」
台本書いたり、舞台|監督《かんとく》したり、今日みたいに衣装《いしょう》とか装置のことで他の部活と打ち合わせしたり……。まあ、その通りだから、祐巳も引き下がるしかないのだが。逆を言えば、主役をやりたくないから、二人して難しい仕事を抱え込んでいるところもあるのかもしれないな、なんて深読みしてみたくもなるけれど。
「じゃ、花寺の皆さんは、狭いですけれど準備室で着替えてください。準備が整い次第こちらからお声をかけますので、よろしくお願いします」
それまでは勝手に出てこないでね。女の子はこっちで着替えているからね。――そういう意味である。アリスはちょっと後ろ髪を引かれるようだったが、羽織《はお》っていた女物の衣装を脱ぎ、自分の名前の付箋《ふせん》がついた男物の着物を抱えて準備室へと消えていった。
男どもがいなくなった被服室《ひふくしつ》で、祐巳たちも試着を始めた。今回は平安《へいあん》時代ということで、和の着物である。女性陣の衣装は、十二単《じゅうにひとえ》を簡素化した物と思ってくれればいい。
もちろん、高校の文化祭で使う衣装に正絹《しょうけん》なんて使えるわけがない。生地《きじ》はワゴンセールなどで安売りされていた物が中心で、ワゴンに限らず安い綿を大量に買って紅茶やタマネギで染めたりもしていたようだ。
基本的に着る物は四枚。
まずは赤い袴《はかま》。これはダボダボでズルズルのズボン。あまり外からは見えないからウエストはゴム仕様で、ちょっと大きめのパジャマのズボンって感じ。
続いて、襟《えり》と袖口《そでぐち》だけ内側に何枚も重ね縫《ぬ》いされている着物を着る。これで重ね着しているみたいに見える仕掛けである。さすがに十二単は、作るのも着るのも無理だから。
それから裳《も》と呼ばれる後ろだけのプリーツスカートもどきを腰から巻いて、最後に打ち掛け風の着物を羽織れば完成。
髪の毛は、予算的にカツラは購入できないので、大判の黒い布をバンダナのように頭に巻いて、余った部分をだらりと後ろに流す。近くで見ると「どうでしょう」って感じだけれど、離れて眺めてみればこれがなかなかいいのである。発明部の力作は、シスターのベールからヒントを得たとか。実際に祐巳たちがつけたところを見て、「結び目を鬢《びん》そぎに見立てられそう」なんてアイディアが広がり、部に持ち帰って更に改良する気らしい。
主役の一人である大納言《だいなごん》の姫君の衣装《いしょう》を身につけているうちに、祐巳はあることに気がついた。
「私の、ちょっと大きくない?」
「どれ? あ、本当だ」
平安時代のお姫さまは、ズルズル引きずってはいるが、それにしても並んで着替えていた由乃さんの裾《すそ》と比べて、ズルズル部分が多い感じ。主役だからって、裾の長さがサービスされるシステムとも思えないし。これは明らかなサイズミス。しかし、そういうことを見越しての仮縫《かりぬ》いなわけである。
「ここ、こうしてここをこう摘《つま》めば、由乃さんと同じくらいになるけど」
側にいた手芸部の部員に提案してまち針で止めようとすると、祥子さまが「だめよ」と言って駆け寄ってきた。
「勝手に直さないで。それ、この後祐麒さんが着るんだから」
「あ?」
サイズ違いで同じ物を作るほど、予算は有り余っていない。福沢姉弟は、一つの衣装を交互に使い回しながら舞台に立つことを要求される。
大は小を兼ねる。というわけで、大きい方の祐麒にサイズを合わせて衣装は作られた。なるほど、とうなずけるが、やはりこのズルズルが気になる。方向転換する時、ジャストサイズの由乃さんは上手《うま》いこと裾|捌《さば》きをしてみせるが、ほんの少し長い裾は身体《からだ》の動きについてきてくれない。
それでも、足が隠れている女物の衣装はまだいい。男女入れ替わって祐巳が男物の着物になった時、足の長さが足りないのは誤魔化《ごまか》しようがない。
「よく考えてご覧なさい、祐巳」
祥子さまは言う。
「花寺の学園祭の前例があるじゃない」
「花寺の?」
「祐麒さんの制服」
「ああ」
そういえば、花寺学院の学園祭で祐巳が祐麒の制服を着た時、やはりズボンが長くて困ったっけ。あの時は確か――。
「まさか、お姉さま私にまたあの下駄《げた》を……」
お姫さまが歩くたびにカランコロン。
公家《くげ》のお坊ちゃまもカランコロン。しかし、むき出しの足もとが下駄《げた》では、若君というよりむしろカラス天狗《てんぐ》。
「あれを履《は》けとは言わないわ。でも上げ底はしないと」
祥子さまはどこからか箱を持ってきて、祐巳に差し出した。蓋《ふた》を開けてみると。
「これ……」
「舞妓《まいこ》さんの履く下駄よ。時代考証は置いておいて、この間の下駄よりはずっと着物に合うわ」
「はあ」
確かに。舞妓さんがこんなの履いて祇園《ぎおん》の街をぽっくりぽっくり、みたいな映像をテレビか何かで視《み》たことはある。あるけれど、どうやって祥子さまはこれを手に入れたのでしょうか。純粋に疑問に思う。
「気にしないで。家にあったの」
「えーっ」
普通ないよ、家に舞妓さんの履き物なんて。――と、思わず突っ込みを入れそうになったが、考えてみれば小笠原《おがさわら》家は、祐巳の認識している「普通の家」から大きく逸脱《いつだつ》している部分があったのだった。
「いやね。家族の誰かが日常に使っているわけじゃないわ。あったのは蔵の中よ」
「蔵っ」
それこそ、普通の家にはなかなかない代物《しろもの》である。田舎《いなか》の古い家ならまだしも。都心から離れているとはいえ、ここは東京。
「大方、祖父か父が馴染《なじ》みの舞妓さんからもらってきたんでしょ。もう、一々反応しないで。さらりと聞き流しなさい」
「あ、……はい」
注意されなくても、祥子さまのお祖父《じい》さまやお父さまプラス女性の話題となった時点で、祐巳は固まってしまっていた。この手の話はタブー。さっさと引き返した方がいい。というわけで、黙って祥子さまの差し出した下駄を履くことにした。――しかし、小笠原家の男性ったら、いったい外で何しているんだか。
女性陣の着替えが済んで、花寺の面々を呼び入れたところで、本格的なサイズ調整とあいなった。手芸部員が手分けして、衣装《いしょう》を着た役者さんたちを回って、長いとか短いとか、太いとか細いとかをチェックし、修正していく。
祐巳もおとなしくぽっくりを履いたままマネキン人形になっていると、ある一角で「わあっ」という歓声が上がった。
「薬師寺さん、本当にお二人とも大きいんですね。お噂《うわさ》には聞いていましたけれど。うーんどうでしょう。丈《たけ》を目一杯出しても、まだちょっと足りないかも」
薬師寺兄弟はほめられたと思ったのか、「うん、大きいんだよ」とうれしそうに笑った。
「丈を足しましょうか、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》? 同じ生地《きじ》だとかえってつなぎ目に目がいくから、同色で模様のついた物でも。二十センチもあれば間に合うと思いますが」
駆けつけた祥子さまに、お伺《うかが》いをたてる手芸部員。
「ちょっと待って。その件は保留にしましょう」
「保留?」
「ちょっとアイディアが浮かんで。でも、一年生たちが来ないと判断つかないこともあるから。……先に祐麒さんと祐巳の衣装《いしょう》合わせをしてしまいましょうか。というわけで、申し訳ないけれど、殿方は祐麒さんと一緒《いっしょ》に準備室に行って待機していていただけますか。ああ、他の皆さんはもう少しそのままの格好でいらしてください」
衣装の紐《ひも》をほどきかけた高田君の後ろ姿に、祥子さまが告げた。
「取りかえっこか」
着物を脱ぎながら、祐巳はしみじみとつぶやいた。
何か、思い出しちゃうな。一年前、『シンデレラ』の衣装合わせで、やっぱり祥子さまと衣装を交換したっけ。
シンデレラと姉B。本番ではどっちがどっちの役をやるか、まだ決まっていなかったから。それは、二人が姉妹になる前の話。
結局、祥子さまがシンデレラを、祐巳が姉Bを演じたから舞台上では一着しか着なかったのだが。今回はどっちも着ることが決まっている。
下着姿の祐巳の代わりに、手芸部の部員が祐巳の脱いだ着物を持って被服室《ひふくしつ》と準備室の間のドアをノックした。で、扉を開けたところに待っていたアリスと持っていた服を「交換」して戻ってくる。衣装合わせも、男の人と一緒だと大変だ。去年は柏木《かしわぎ》さん抜きでやっちゃったから、すごくオープンだったんだけれど。
「あら」
「まあ」
着替え終えた祐巳を見て、その場にいた女子部は一様に含み笑いをしてくれた。
「ホント、似てますよね」
「身長を除けば、見分けがつかない」
それも、履き物で上げ底すれば修正可能。着物って、体形を隠すから、本当にどっちがどっちってわからなくなる。祐巳も鏡に映った自分を見て、一瞬祐麒かと思ったくらいだ。
「すばらしい」
よくわからないけれど、拍手がわき起こった。でもそれは、たぶんそっくりな福沢姉弟への称賛でも何でもなくて、「よくぞここに目を付けた」という祥子さまの功労に対する拍手であるようだった。一テンポ遅れて、準備室から大爆笑が聞こえてきた。どうやら、祐麒の方も着替え終えたらしい。
「男性方、どうぞお戻りになって」
祥子さまが呼び込み、準備室のドアが開くと同時に、廊下《ろうか》側の扉もガラガラと勢いよく音をたてた。
「すみませんっ」
飛び込んできたのは、一年|椿《つばき》組三人娘である。
「遅れまし……た」
先輩を待たせたという焦《あせ》りから、とにかく一秒でも早く、と被服室《ひふくしつ》に入ってきた三人には、中で何が行われているとか想像を膨《ふく》らます余裕《よゆう》がまったくなかったらしい。手芸部の尽力《じんりょく》により、予想以上の仕上がりをみせた衣装《いしょう》に身を包んだ人々がひしめき合うこの部屋は、かなり異様な空気で満ちあふれていたようだ。乃梨子《のりこ》ちゃんの「遅れました」の声で隠れてしまったけれど、瞳子《とうこ》ちゃんの口からは小さく「うへ」って声がもれていた。
「ほーら、可南子《かなこ》ちゃんどう? 祐巳ちゃんきれいでしょー」
令さまが笑いながら、固まっている可南子ちゃんの前に祐麒を押しだした。
「ちょっと、令」
祥子さまがたしなめなくても、一目でわかるって。似てる似てると言われたって、一卵性双生児《いちらんせいそうせいじ》じゃないんだし、性別も違うんだから。
「……」
可南子ちゃんは五秒ほどじっと祐麒を見てから、馬鹿馬鹿しいとでもいうように目をそらした。
「この『間違い探し』には、いったいどんな意味があるんですか」
女装の祐麒から顔を背けてから、男装の祐巳に向かって真顔で尋ねた。
「あ、あの……可南子ちゃん?」
深い意味はない、ってば。軽い気持ちでふざけただけだって、令さまは。だからこんな反応されたら困っちゃう、と思う。
「あのね、可南子ちゃん。抗議するなら、私にしなよ。祐巳ちゃんじゃないでしょ」
ほら。案《あん》の定《じょう》、令さまはオロオロしだした。そんな令さまに、由乃さんは明らかにジリジリしている。このままだと遠くない未来、必ず爆発するはず。由乃爆弾。
爆発すれば、後処理が大変なのはわかっている。わかっているけれど、可南子ちゃんが態度を軟化させる以外に令さまのオロオロっぷりは終息しないだろう。といって、ここで可南子ちゃんを注意すればいいかっていうと、そうではない。だって、どっちが間違っているか、という問題じゃないから。だからこそ、収めどころを探すのが難しいともいえるんだけれど。
さて、この空気をどうしたものか、と頭の中で思案する女生徒たち。
そして、困惑する花寺の面々。
「れ」
「あーっ」
由乃さんがとうとう発した「令ちゃん」の「れ」を、祐巳はとっさにかき消した。
「あのっ、花寺学院の皆さんは二人と会うのは初めてでしたよね。えっと、こちら松平《まつだいら》瞳子ちゃん。そしてお隣は細川《ほそかわ》可南子ちゃん。彼女たちは乃梨子ちゃんと同じく一年生で、学園祭までの助《すけ》っ人《と》です」
我ながらピエロだなぁ、と祐巳は自覚していた。でも、仕方ない。思わず口から出ちゃったんだから、もう引っ込められない。
「よろしくお願いします」
姉の後始末のつもりか、祐麒が率先《そっせん》して挨拶《あいさつ》してくれたけれど、女装しているから何か変だった。
「どっちが祐巳ちゃんの妹で、どっちが由乃さんの妹?」
コソコソと小林君が祐巳に聞いてきたけれど、悪いが無視させてもらった。これ以上、この場をかき混ぜないで欲しいから。
そんな中。
「クラスで何かあったの?」
志摩子《しまこ》さんが、乃梨子ちゃんに尋ねた。少し遅れるとは聞いていたが。一時間は「少し」ではなかったからだろう。
「掃除《そうじ》の後に学園祭のことで話し合いがあったのですが、予想以上に長引いてしまいまして。簡単な決《けつ》をとるだけなので、十分ほどで終わるという話だったんです。でも始めてみると、なかなか……」
「何か、もめちゃって、ね。瞳子なんかに言わせれば、どっちだってそう変わらないんじゃないの、って感じのことなんですけれどね。こだわりのある人って、いるんです。もう面倒くさくなって別のこと考えていたら、『真剣に考えてちょうだい』なんて双方から非難されちゃうし。とんだとばっちりです」
「とばっちり、って。瞳子ちゃん」
自分たちのクラスのことを他人事《ひとごと》みたいに語っているが、そんなことでクラスメイトたちとうまくやっていけるのだろうか。不安を覚えた祐巳だったが、だからといって何をどう伝えればいいのかよくわからず、また自分がアドバイスする立場にあるかどうかも疑問に思い、どうしたものかと迷っているうちに、瞳子ちゃんは目の前からいなくなっていた。
さっそく衣装《いしょう》を合わせてみるよう、祥子さまに促されたからだった。
遅れて到着した一年生が着替え終わって、再び被服室《ひふくしつ》に集った『山百合《やまゆり》版・とりかえばや物語』の出演者一同を前に、祥子《さちこ》さまはとんでもないことを言い出した。
「この中で、ご自分のセリフをすべて覚えてしまった方」
パラパラと手が挙がるのは、たいがい出番もセリフも少ない人間である。例えば、高田《たかだ》君とかアリスとか。
「そう」
ぐるりと一度見回して、祥子さまはうなずいた。
こういう時にお姉さまにいいところを見せようなんて思って、覚えてもいないのに手を挙げるのは正しい選択とはいえない。相手は祥子さまなんだから、嘘《うそ》は必ずや見抜かれる。その後どうなるかなんてことを想像するだけで、小心者の祐巳《ゆみ》は震え上がってしまう。
「その方たちには申し訳ないのですけれど、頭に入ったセリフ、全部忘れていただきます」
……。
数秒の間をおいて。
「え――――っ!?」
一斉に声があがった。
「その方たち、だけですか。自分たちもですかっ」
皆、必死で確認する。そりゃそうだ。全部は入ってなくても、結構な量のセリフが頭の中に入っているんだから。
「台本を、変えるの?」
令《れい》さまの問いかけに、祥子さまは首を横に振った。
「変える箇所《かしょ》もでてくるかもしれないけれど。だとしても、最小限に留めるわ。本番まで日もないし」
それがわかっているなら、なぜセリフを忘れろなんて言う――。皆が息をのんで、祥子さまに注目した。すると、続いて出た言葉は、というと。
「変えるのは配役です」
であった。
「え――っ!?」
今度は「何か来るぞ」と身構えていたので、多少はショックが少ない一同。いや、「少ない」は語弊《ごへい》があろう。ここは「多くない」でどうだろう。同じことか。
もちろん、祐巳も「え――っ!?」の叫び声に加わった者の一人である。よーく考えたら「配役を変える」は歓迎されるべきことであるはずなのだが、人一倍量の多いセリフをここまで覚えたのに、ってことの方が先に頭に浮かんだのだ。もう一方の主役である祐麒《ゆうき》も、同じ顔をしていた。――この、貧乏性姉弟。
「どういうこと? 誰と誰の役を交換するの」
「全員よ」
「え……っ?」
もう、驚くのにも疲れちゃった。
「どうして?」
「よりいいアイディアが浮かんだのに、それを実現させない方がおかしいと思うの。私の考え方、どこか違って?」
違って、って、祥子さま。
それはもちろん正論なのだが、これまで培《つちか》ってきたことと、これから先自分たちに残された時間を考えたら、なかなか踏み切れるものではないのではないでしょうか。
「明日本番だったら、私だってそんな無謀《むぼう》な提案はしないわ。二週間で修正可能だと踏んだから言っているの」
「にしても」
全員の配役を変えるとは。突拍子《とっぴょうし》もないことを考えたものである。本当にいいアイディアかどうかは、聞いてみないことにはわからないが。
[#挿絵(img/18_053.jpg)入る]
「あの。ということは、私は主役ではなくなるわけですか」
恐る恐る、というか控えめに祐巳は祥子さまに尋ねてみた。すると。
「心配しないで。祐巳は主役のままよ」
「……はあ」
別に心配はしていない。ちょっと期待しただけだ。そして、そのちょっと分だけがっかりもした。
「では、俺が主役|降板《こうばん》ですか?」
当然のように祐麒が聞いた。心配も期待も、表情からにじみ出てはいない。
「それもないわ」
「でも、全員役を変える、っておっしゃいましたよね。祥子さん」
「言ったわ」
祥子さまは「よくぞ聞いてくれました」みたいな表情で、ニッコリと笑った。
「だから、祐巳と祐麒さんが役を入れ替えるのよ。そうすれば、どちらも主役のままでしょう?」
「ええっ」
「祐巳と祐麒さんだけではなく、男女を全部入れ替えるつもりよ」
「……」
――嘘《うそ》。被服室《ひふくしつ》に居合わせた祥子さまを除くすべての人の口が、そう動いた。役者だけでなく、衣装さんも大道具さんも小道具さんもみんなだ。
「今から?」
「今から」
祥子さまはうなずいた。
「舞台上で、二重の『とりかえばや』になっている、っていうのをやりたいの」
祥子さまの瞳の中に「本気」を見つけた人々は、すぐさま自分がこれから先にやるべきこととやれることを計算し始めた。
舞台セットは、変更する必要はない。出演者の名前のみで配役までは書かれていないポスターもそのままで行ける。
となると、問題はやはり役者と衣装であろう。
「薬師寺《やくしじ》さんの衣装、小さめだったわよね? それを可南子《かなこ》ちゃんが着る、という風にすれば、すべてを直す必要はないと思うのよ」
実は祥子さまのこのアイディア、アリスが女物の着物を羽織《はお》っているのを眺めてひらめき、薬師寺さんたちの衣装合わせを見て、確信したのだという。
「そうですね。同じ丈《たけ》を出すにしても、女性の着物の方が直線|縫《ぬ》いの分楽かもしれません」
手芸部の部長がうなずいた。すると。
「男性用の袴《はかま》は折ってまつればいいからすぐに対応出来ます」
「女性用の袴はもともと長く作ってありますし、着物の下でほとんど見えないので男性方には腰で穿《は》いて頂《いただ》ければ」
最初及び腰だった手芸部員たちにも、次第にエンジンがかかっていく。
「あの、無理だったら無理って言っても――」
ブレスレット式の針山を腕にはめ、握りばさみを手に、今にも暴走しそうな勢いの少女たちに祐巳が声をかけた。けれど。
返ってきた言葉は「無理じゃありません」。
「何か、やる気が出てきました。もともと仮縫《かりぬ》いなんですから、直しがあるのは当たり前ですもの。大丈夫《だいじょうぶ》、できます。楽勝です」
高笑いする、「チーム衣装部」。制するつもりが、かえってチャレンジ精神に火をつけてしまったようだ。
そうなると。
「私たちもやるしかないわね」
負けず嫌いの由乃《よしの》さんが拳《こぶし》を振り上げた。勢いに流される形で、薬師寺兄弟と高田君が「うおおっ」と後に続く。
「……とすると、芝居《しばい》の稽古《けいこ》の日を増やした方がいいかもしれません。今日と来週の土曜日に加えて、平日二日でどうかな。残りは学校単位で自主連、と」
小林君が頭の中で、スケジュール調整のそろばんを弾《はじ》く。
「すみません。どなたか、リリアンの学校側に許可をもらっていただけませんか」
「あ、それなら大丈夫《だいじょうぶ》」
令さまが手を上げた。
「もしもの時のために、今週と来週の水曜日、花寺《はなでら》学院との打ち合わせ日として予備に申請《しんせい》してありますから」
「女役ができるのね」
アリスははしゃぐ。
「瞳子《とうこ》、男優デビューですぅ」
ちょっと浮かれる瞳子ちゃん。
「というわけだけれど、改めて聞くわ。|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》のご意見は?」
祥子さまは令さまに視線を投げた。
「確かに、それが出来るならば面白い舞台になるとは思うけどね」
「|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》?」
「私や乃梨子《のりこ》は、さほど負担はないので。でも――」
白薔薇姉妹の長女|志摩子《しまこ》さんが、福沢《ふくざわ》姉弟に視線を投げた。
そうです。問題は主役の二人の気持ち。ただでさえセリフが多く、入れ替わりなんかもあってゴチャゴチャしている劇なのに、もう一ひねり加えられて大丈夫なのだろうか。祐巳には、正直自信がなかった。
「そうね」
祥子さまは言いながら振り返り、男たちが団子《だんご》になっている場所までゆっくりと歩み寄り、目的の人物の前で足を止めた。
「祐麒さん」
「は、はいっ」
「無理かしら?」
じっと目を見る祥子さま。本人は、そんな気持ち毛頭《もうとう》ないのかもしれないけれど、目に見えるような圧力が祐麒にギュウギュウとかかっていく。
「え、いえ」
多少は慣れた妹の祐巳でさえ、この距離で迫られたら、考えることを放棄《ほうき》して首を縦に振ってしまうだろう。案《あん》の定《じょう》祐麒は、すぐに陥落《かんらく》した。
「絶対に無理とは……」
「そう、よかった。じゃ、努力してください」
「……はい」
女の美貌《びぼう》は、時に最大の武器になる。弟を責めたところで、これはしょうがないことなのだ。
期待通りの答えを引き出せた祥子さまは、祐巳の前を素通りして元の位置に戻ると「では決定します」と言った。
「あの。|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》? 祐巳さまにも確認をとらなくてはいけないのでは」
乃梨子ちゃんがあわてて尋ねた。すると祥子さまは。
「祐巳なら大丈夫よ」
自信満々にほほえんだ。
「できるわ」
「……お姉さま」
時たま。
祥子さまはこんな風に、祐巳を買いかぶってくれることがある。そんな時祐巳は、お姉さまが自分のことみたいに語ってくれるのがうれしくて、どういうわけか実力以上にがんばれちゃうのだ。
でもって、今回もやはりそれにのってしまった。
「もちろんやります」
摩訶不思議《まかふしぎ》。お姉さまマジック。
たとえ男であっても、女のように勘《かん》の鋭い人間が世の中にはいる。
今後の修正方法の相談なんかを含めた衣装《いしょう》合わせを済ませると、すでに午後四時近くなっていた。
それでもとにかく一時間だけでも新たな配役で台本《ほん》読みをしよう、ということになって、花寺《はなでら》の生徒会六人衆と山百合会《やまゆりかい》幹部六人プラス二人の助《すけ》っ人《と》は、ぞろぞろと大移動を始めた。目指す新地は薔薇《ばら》の館《やかた》。
最後尾を並んで歩きながら、アリスがぼそりと祐巳《ゆみ》に言った。
「私、嫌われているみたい」
「え?」
誰に、って聞く前に答えが返ってくる。
「あの、ハリガネに」
「ハリガネ?」
ハリガネ、って針金? 首を傾《かし》げる祐巳に、アリスは集団の先頭を急ぐ一年生の群れに向けてクイッと顎《あご》を動かした。
「ハリガネ……って可南子《かなこ》ちゃんのこと?」
「似てるじゃない、ハリガネに。新しい一年生が乃梨子《のりこ》ちゃんと一緒《いっしょ》に入って来た時、すぐに思ったわ。あ、この子たちハリガネとバネだ、って」
「……やめなって、そういうの」
しかし。言葉とは裏腹に、祐巳はつい笑ってしまった。
ハリガネとバネだって。
こういうあだ名の付け方って、決して褒《ほ》められることではないけれど。ピッタリすぎて、なんか逆に二人が可愛《かわい》くなってくる。
祐巳たちの前にいる何人もの人影の向こう側に見え隠れしている、可南子ちゃんと瞳子《とうこ》ちゃんの後ろ姿は、今まさに廊下《ろうか》を曲がろうというところ。
「気にしなくていいよ」
祐巳はアリスに言った。
「可南子ちゃんは、何て言ったらいいのかな、……そう、ちょっと男の人が苦手みたいなところがあって。だから、アリスだけが特別嫌いというわけじゃないと思うよ」
「男嫌い、か。こんな私でも、男に入れてもらえるわけだ」
アリスは自嘲《じちょう》気味に笑った。
「あ、ごめん」
「あん、いいのいいの。別に私は、自分が女扱いされたいわけじゃないの。でも、そうか。男嫌いなの、あの子。じゃあ、やっぱり私のこと、見ていて不快かもしれないわね」
「……」
(おかまのくせに)
不意に祐巳の頭に、可南子ちゃんの声が甦《よみがえ》った。確かに、よく思っていないのは間違いないようだけれど。
「でもさ。どうしてそう思うの? 私が見ていないところで、可南子ちゃんがアリスに何か言った?」
「言わないけど」
アリスは首をすくめた。
「衣装《いしょう》合わせの時ね、背中に何かぞわっとしたものを感じたのよ。で、振り向いたら彼女がいた。あ、別に敵意むき出しの顔をされた訳じゃないのよ。でも、何か感じちゃうんだなぁ、私。そういえば、一月《ひとつき》くらい前にも、こんなことがあったなぁ」
「アリス、霊感があるんだって?」
祐巳は、微妙に話題をそらした。
「いやあね、ユキチに聞いたの?」
アリスにはあえて知らせてないけれど、以前可南子ちゃんが祐巳を心配して、花寺の生徒会メンバーを尾行したことがあった。その時も、アリスは「いやーな気分」になったらしい。それが霊感と直接関係があるのかどうかはわからないが、勘《かん》が鋭いのは間違いないのかもしれない。
それからアリスは、薔薇の館に着くまでの道すがら、これまで自分が体験した不思議な出来事をいくつかピックアップして話してくれたのだが、祐巳はそのほとんどを記憶に留められなかった。
理由の一つは、可南子ちゃんのことを考えていたから。
もう一つは、単純にその手の話題が苦手だったから。耳に入れても、右から左へと聞き流してしまった。自分で話を振っておいたくせに失礼極まりないのだが、恐いものは恐い。こればっかりはしょうがない。
「とにかく。可南子ちゃんのことは私に任せて。アリスはあまり気にしないで。男嫌いだからって、それだけで引っ掻《か》いたり噛《か》みついたりはしないはずだから」
そう、太鼓判《たいこばん》を押した祐巳だったけれど。
「私、やりたくないです」
可南子《かなこ》ちゃんは噛みついた。アリスではなく祐巳《ゆみ》に。
「可南子ちゃん……」
「噛《か》みついた」というのは、もちろん比喩《ひゆ》。反抗した、という意味。祐巳は泡《あわ》だらけのカップを、つい落としそうになった。
台本《ほん》読みとかなり大雑把《おおざっぱ》な立ち稽古《げいこ》一回を終えた段階で五時を少し回っていたので、本日は解散ということになった。で、乃梨子《のりこ》ちゃんと瞳子《とうこ》ちゃんが花寺《はなでら》の面々を正門まで送っていったため、祐巳が可南子ちゃんと一緒《いっしょ》に流しで洗い物をすることにした。先の言葉は、一連の作業が中盤にさしかかった頃に突然飛び出したのだ。
「やりたくない、って何が?」
背後で、テーブルの上を拭《ふ》いたり、窓を閉めたり、ゴミを片づけたり、予備の椅子《いす》を部屋の隅に寄せたりしている仲間たちに聞こえないように、祐巳は小声で聞き返した。
「劇には出たくない、ということです」
泡を洗い流す手を止めずに、可南子ちゃんは淡々と答えた。
「隣の学校の男子と芝居《しばい》をするだけでも苦痛なのに。どうして、わざわざ男役なんかをしなくちゃいけないのか――」
「けど、今になってどうして」
台本《ほん》読みもやった。立ち稽古もやった。その間、確かに楽しそうではなかったけれど、可南子ちゃんはみんなと足並みを揃《そろ》えていたはずだった。だから当然、同意してくれているものだと思っていたのだ。しかし、違った。
「そうね」
祐巳は、泡のついたスポンジを右手でギュッと握った。
「私たちは、被服室《ひふくしつ》であの時、可南子ちゃんの意見を聞かなかった。今になって、も何もないよね」
「……」
「そうか。嫌だったの。ごめんね、気がつかなくて」
祐巳は小さく頭を下げた。すると可南子ちゃんは、もっと小さく首を横に振った。
「私は、どなたかの妹《スール》じゃないし。意見を言える立場じゃないし」
でも、一緒に劇を作り上げていく仲間だ。祐巳は自分のことに精一杯だったから、可南子ちゃんのことを見ているつもりで、その実、ちゃんとは見えていなかった。
もし可南子ちゃんに疎外《そがい》感をもたせてしまったのだとしたら、それは祐巳が悪い。可南子ちゃんを手伝いに引き入れたのは、間違いなく祐巳なのだから。
「気持ちはわかった。でも、その上で私は、可南子ちゃんに劇に出てもらいたい」
祐巳は考えた。なぜ「今になって」なのか、を。
被服室で賛否を問うた時、確かに可南子ちゃんに直接聞かなかった。でも、だったらなぜ台本読みにも立ち稽古にも参加したのか。本気でやめるつもりなら、花寺学院の人たちがいる時に宣言した方がより効果的だろう。
もちろん、山百合会《やまゆりかい》の面目を気遣ってくれた、という考え方もできる。でも、それならばあえてこのシチュエーションを選んだのはなぜなのだろう。すぐ後ろを振り返りさえすれば、責任者である紅・白・黄の三人の薔薇さまたちがいるのに。
「ね、可南子ちゃん」
だから、祐巳は思った。可南子ちゃんは、ただわかってもらいたかっただけなのではないか。
学園祭の劇を、花寺学院との関係を、グジャグジャに壊したいわけではない。ただ、自分はここにいるのだ、と。不満を抱えたままここに存在しているのだ、と。
やめたい、という言葉は、あるいは本心かもしれない。でも、その言葉の裏には言葉では表現できない無数の気持ちが隠れているような気がした。だからストレートに、「やめたい」だけに注目してはだめなのだ。
やめたければやめればいい。そう切り捨てるのは容易《たやす》い。けれど、たぶんそれでは何も解決しない。祐巳の中に、きっと悔《く》いが残るだろう。
「約束してくれたじゃない。学園祭を手伝う、って」
いやだなぁ、こういう縛《しば》り方って。そう思いながらも祐巳は、他に可南子ちゃんをつなぎ止めるべき言葉を探せなかった。
「約束なんてしなければよかった」
可南子ちゃんは、すすいでいた最後のカップの水を切って籠《かご》の中に伏せた。
「あ、可南子ちゃん」
祐巳は泡《あわ》のついたままの手を洗ってから、水道の蛇口《じゃぐち》を締めて追いかけた。隣にいた可南子ちゃんは、すでに流しの側から去り、志摩子《しまこ》さんたちの手伝いに回っている。
「約束なんてしなければよかった、か」
可南子ちゃんは、はっきりとそう言った。ということは、まだお手伝いを継続する意志がある、ということなのだろう。
でも、これで一安心というわけではない。可南子ちゃんは不満を残したまま。依然として、花寺学院の生徒会メンバーと衝突する危険性を抱えている。
「これはどうにかせなあかんな」
そうつぶやいてから、祐巳は。
どうしてここで関西弁なんだ、と自分自身に突っ込みを入れてみた。
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どうなる どうする
『とりかえばや物語』は。
作者|不詳《ふしょう》、書かれた年代は『源氏物語《げんじものがたり》』以降|平安《へいあん》時代末期以前、なんていう何だか掴《つか》み所のない物語である。
むかしむかし、時の大納言《だいなごん》には二人の奥さんがいて、同じ頃に男の子と女の子を授かった。めでたいことに、二人ともとってもきれいな子供で、お母さんが違うというのにうり二つだった。
けれど、どういうわけだか若君は引っ込み思案で、子供の頃から家の中で絵を描いたりお人形遊びしたりするのが好きだった。
反対に姫君は、落ち着きがなく外で遊ぶのが大好きときたものだから、父の大納言は幼い二人の成長を見るにつけ「とりかえられるものならとりかえたいものよのう」なんて思っていた。
【ばや】……終助詞。活用語の未然形について、希望を表す。
――というわけで、『とりかえばや物語』は現代語訳すると『とりかえたいものだなぁ物語』というわけ。
それでも、その頃はまだ大納言も本気じゃなかった。大人になれば、自然に本来の姿に戻るだろう、なんて楽観視していたのだ。
年を重ねるにつれ、二人は「本来の姿」に戻るどころか、ますます若君は女性らしく、姫君は雄々《おお》しくなっていく。で、とうとう性別を偽《いつわ》って、互いに宮中に仕官までしてしまったのが間違いの始まり。
そこから先は、もう目も当てられない。
姫君は縁談が断りきれずに右大臣《うだいじん》の娘の婿《むこ》になってしまうし、その嫁というのが姫君の身に覚えのない子供を(当たり前だ)産んじゃったりするし、で、その子供の父親が姫君の親友ともいえる同僚《どうりょう》だったと判明するし、またその同僚はあろうことか姫君に「男でもいいや」なんて迫ってきて、挙げ句の果てに姫君まで妊娠《にんしん》してしまうし。世間では男として通っているのにお腹《なか》が大きくなっては仕事ができないから、人知れず都を離れて子供を産まなければならなかったり。……と、姫君の人生は波瀾万丈《はらんばんじょう》。
一方若君の方はというと、女性として、皇女の側近くに仕えたのだが、あまりに近くにいすぎたために彼女と恋仲になる。一見幸せな毎日と思われたが、ある日姉の突然の失踪《しっそう》を知り、はたと目が覚め、「自分が探し出そう」と一念発起《いちねんほっき》、あっさり男の姿に戻ってしまう。
で、無事見つかって帰ってきた姉は弟と立場を交換して本来あるべき姿に戻り、新たな居場所を得てめでたしめでたし。
「……でいいわけないじゃないの」
それが、『とりかえばや物語』を読み終わった祐巳の、最初の感想である。
姫君の産んだ子供は。皇女の産んだ子供は。振り回された人たちへの落とし前は、いったいどうしてくれるのだ、って話だ。
親が新たな人生を歩み始めたからといって、置きざりにしたり、世間に公表できないからって引き離されたりして、それで八方丸く収めたつもりになるなよな。――と作者(不明)に言いたい。
もちろん、現代だって家庭の事情でそういうこともあるとは思う。けれど、子供の立場にたったら、たぶん「この時点で取りあえず手打ちにいたしましょう」とはいかない。物語はそこで終わったとしても、昨日と今日の延長線上に明日はあるから。エンドマークの前と後で、すっぱりわけてもらっては困るのだ。
ま、そんなこんなで熱くなったが、それはあくまで原作のお話。
一方、『山百合《やまゆり》版・とりかえばや物語』はというと。
「とりかえっこ」の骨格のみをのこして、男女間のどろどろした愛憎模様はカット。もちろん妊娠《にんしん》騒動もなし。恋愛はないわけではないが、すべてがあわいプラトニック。高校の学園祭だからね。当然だ。
水曜日。
「『私は何て幸せ者なんだ。二人の妻に、娘と息子が生まれた。愛《いと》しい子らは、どちらも妻に似て美しい』」
パンパン、と手が叩かれて、芝居《しばい》が中断する。
「そこ。大納言《だいなごん》……えっと可南子《かなこ》ちゃん。そこのセリフ、もうちょっとうれしそうに言えないかしら?」
祥子《さちこ》さまが指示を出した。
「うれしそうに、ですか」
無理に笑顔を作った可南子ちゃんは、唇が引きつったままなかなか下りない。
「OK。それで言ってみて」
そんなのでいいのか、と祐巳は見ていたが、舞台だからいいんだって。多少大げさに見えるくらいの方が。
「『私は何て幸せ者なんだ』」
ありゃ、今度は棒読《ぼうよ》みになっちゃった。そうしたら、やっぱりカットがかかる。
「何か嘘《うそ》っぽいわね」
「嘘っぽい?」
「言わされている感じ」
実際、言わされているんだから、仕方ないのではないか、と、ど素人《しろうと》の祐巳《ゆみ》は思った。でも祥子さまは「そんなところでいいんじゃないの」的な妥協《だきょう》を許さない。やるからには最高のものを目指すのだ。
「言わされている、なんて漠然《ばくぜん》とした指摘をされてもわかりません。具体的に指示してくださらないことには」
可南子ちゃんだって、言われっぱなしではない。
「具体的に? ……そうね。はっきり、大きな声で溜めて言って。そうしないと、その後|薬師寺《やくしじ》さんたちにスポットが当たった時、笑いがとれないから」
「はあ」
で、再チャレンジしてみたが、やっぱりうまくはいかなかった。むしろ、さっきより悪くなっている気すらする。言われた通りに修正すればするほど、どつぼにはまっていくようだ。
「どうしてかしら。ここ以外の演技はすごくいいのだけれど。何か、ここだけのらない感じ。……いいわ、次のシーンにいきましょう。可南子ちゃんも自分で演技を考えてみてね。時間が経てば、気持ちがのるかもしれないし」
祥子さまは演劇の鬼ではない。出来ない人にはそれ以上を望まない。しつこく演技をつけているのは、たぶん可南子ちゃんが「もっとできるはず」の子だからなのだ。
――どうしてかしら。祥子さまのつぶやきが、祐巳の耳に残る。二人の子供ができてうれしい、って、そこはただそれだけのセリフなのだ。
「子供たちが美しい、ってところが引っかかっているんじゃない?」
隣でスタンバイしている祐麒《ゆうき》が、ボソリと言った。
「……」
確かに。祐巳は、平安《へいあん》朝の着物を肩から引っ掛けた薬師寺兄弟に視線を向けた。彼らはいいよなあ、と。
どうひいき目に見ても女性には見えないごっつい巨漢の女装は、登場しただけですでに観客の笑う準備を整えたも同然。そこのところに、真顔で「美しい」と形容が加わるわけだから、「ドッカーン」と大爆笑が起きることは約束されているようなもの。
でも、あらかじめ「面白《おもしろ》」を背負わずに「美しい」を引き受けなくてはならない福沢《ふくざわ》姉弟は正直辛いのだ。「美しい」と言われるたびに周りを見回して、「こんなタヌキ顔に比べたら、美しい人なんて山ほどいるだろう」って突っ込みを入れたくなる。
だからセリフとして口に出す可南子ちゃんが、言いにくいのも道理なのである。自虐《じぎゃく》的に思う。――いっそのこと、『山百合版・タヌキの国のとりかえばや物語』にタイトルを変えてもらえないものだろうか。
なんて考えているうちに、名前を呼ばれた。
「次。祐巳、祐麒さん、お願い」
「はーい」
姉弟仲よく返事を揃《そろ》えて、前に出る。薬師寺兄弟が抱いていたお人形が、月日とともにこんなに大きくなりましたという、主役二人の初登場シーン。
「ああ、ほら立ち位置が逆よ。祐巳は宰相《さいしょう》の姫の息子だから昌光《あきみつ》さんの方に立って。祐麒さん、あなたは中納言《ちゅうなごん》の姫の娘だから、朋光《ともみつ》さん側。もう、二人とも自分の母親くらい覚えてちょうだい」
「……なこと言っても」
無理だって。
「何、祐巳」
「あ、いえ」
祥子さまからキッとにらむような視線を向けられれば、それ以上何も言えなくなる。
だが。薬師寺兄弟は一卵性双生児《いちらんせいそうせいじ》で、何から何までそっくりだから、よーく見たとしてもほとんど区別がつかないのである。それでも長年|一緒《いっしょ》にいる仲間は、何となく見分けられているのだそうだ。しかしそうはいっても、簡単だが衣装《いしょう》とカツラを引っ掛けた姿ではわずかな手がかりすらもかき消されてしまうわけで、さすがの祐麒もお手上げ状態。
「もう、何が何だか」
物語の中で男らしい姉と女らしい弟が入れ替わるだけじゃなくて、役者すべての性別が逆転しているという複雑なお芝居《しばい》なのである。演じている本人だって頭の中がこんがらがってくるというのに、この複雑な図式を一々|把握《はあく》して的確な指示を出せる祥子さまは、やはりすばらしい。
「えっと。私のお母さんが昌光さんで」
「俺の母親が月光《がっこう》先輩」
指示されるまま二人が移動すると、薬師寺両先輩までが金魚の糞《ふん》のようについてきた。
「ああっ、薬師寺さんたちは動かないで」
祥子さまが丸めた台本を左右に振った。
「でも、我《われ》は祐巳ちゃんの母だから」
「我《われ》はユキチの母だから」
しずしずではなくズシズシ。
「……えっ」
結論からいうと、最初に立ち位置を間違えていたのは薬師寺先輩たち。でもって、そのことに気づかなかった祥子さまはというと。
「四ページ目の最初のセリフから」
何事もなかったように練習を再開した。――さすがだ。
「いいわ。それじゃ、次。右大臣《うだいじん》夫妻のシーン」
「瞳子《とうこ》ちゃんは今日はお休みだけど」
令《れい》さまが言った。かけもちで演劇部の舞台にも立つ瞳子ちゃんは、本日は向こうの劇の稽古《けいこ》に行っている。売れっ子女優さんさながらの忙しさだ。
「そうだったわね。でも高田《たかだ》さんの立ち位置とかを確認したいから、誰か代わりに相手になってくれない?」
「OK」
令さまが台本片手に立ち上がると同時に、部屋の扉が開いた。
「遅くなりましたっ!」
と、現れたのは。
「瞳子ちゃん?」
「はいっ、松平《まつだいら》瞳子ただ今到着いたしましたっ。あの、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》、私のシーン、もうやっちゃいました?」
「今、始めようと――」
「そう。よかったです。あ、高田さんよろしくお願いしますね」
瞳子ちゃんは待たせては悪いと思ったのか、烏帽子《えぼし》のような冠《かんむり》だけちょこんと頭につけて、着物はただ肩から引っ掛けただけで前に出た。冠の横から縦《たて》ロールがはみ出てちょっと面白かったけれど、演技に集中する瞳子ちゃんの真剣な表情に押されて、誰も笑えなかった。
「『是非《ぜひ》、当家の婿《むこ》に』」
いつもの甘ったるいしゃべり方から一転、腹から声を出し貫禄《かんろく》すら感じられる瞳子ちゃんは、自らがそう名乗るように根っからの「女優」なんだな、と改めて祐巳は思った。
そんな瞳子《とうこ》ちゃんにもいろいろあるんだ、って知ったのは、翌木曜日の放課後のことだった。
「瞳子ちゃんが、演劇部の芝居《しばい》を降板《こうばん》?」
瞳子ちゃんと同じ一年|椿《つばき》組の乃梨子《のりこ》ちゃんの口から飛び出したその話は、まさに寝耳《ねみみ》に水《みず》。祐巳《ゆみ》は、自分の耳を疑った。
「ええ。クラスメイトが演劇部の人から聞いたらしいのですが。部内でちょっともめたらしくて」
「もめた、って?」
「詳しくはわかりません」
首を横に振る乃梨子ちゃんは、清掃《せいそう》時間終了間際に祐巳の掃除《そうじ》区域に駆け込んできたのであった。息せき切ったその様子から、その情報を入手するやいなや、取るものも取りあえず祐巳のもとに知らせに来たものと思われる。いつもは瞳子ちゃんのことを鬱陶《うっとう》しがっているけれど、ここは「友人の危機」とばかり奮起したらしい。
祐巳は掃除用具を片づけてから、乃梨子ちゃんを伴《ともな》って校舎の片隅に行った。連日放課後は薔薇《ばら》の館《やかた》に集合ということになっていたが、瞳子ちゃんも来るかもしれない場所で、瞳子ちゃんに関する相談事をするわけにはいかなかった。
ため息をつくように、乃梨子ちゃんは言った。
「山百合会《やまゆりかい》の劇に出演することと、演劇部でのゴタゴタがまったく関係ない、とは言えないと思うんです」
「演劇部の稽古《けいこ》に支障が?」
「それもあると。すみません、でも本当に何があったのかはよくわからないんです。それなのにこんな漠然《ばくぜん》とした相談を持ちかけてしまって」
「いいってば。知らせてくれてありがとう。このこと、薔薇さまたちには?」
「まだ」
言った後、乃梨子ちゃんは「あ」と、今更《いまさら》思い当たったみたいにつぶやいた。
「私ったら。どうして祐巳さまに――」
いつもは冷静な乃梨子ちゃん。突然の友人の危機に際し、彼女も相当混乱しているようだった。
祐巳《ゆみ》が乃梨子《のりこ》ちゃんと一緒《いっしょ》に薔薇の館に着くと、すでに瞳子《とうこ》ちゃんがいて、鼻歌まじりにお茶の準備なんかしていた。しかし、よくよく聞くとそれは古い演歌で、「女の恨《うら》み節《ぶし》」みたいな内容の歌詞。なのに妙に明るく歌っているところが、また何とも不気味だ。
「瞳子ちゃん。今日は演劇部の方じゃなかったっけ?」
事情を知らない令《れい》さまが、明るく尋ねた。
「ええ。あちらは順調に仕上がっているので、臨時《りんじ》のお休みになって」
「あー、だから機嫌がいいんだ」
「そう見えます? ふふふ」
ふふふ、じゃないよ瞳子ちゃん。祐巳は見ていてハラハラした。機嫌がいいんじゃなくて、空元気《からげんき》かやけっぱちのどちらかなんじゃないか。
「順調とはうらやましいことね。さ、お茶を飲んだら私たちもお稽古よ。演劇部には負けていられないことよ」
祥子《さちこ》さまのげきが飛ぶ。
祐巳はその日の稽古《けいこ》中、瞳子ちゃんから目が離せなかった。そして得られた結論は。
瞳子ちゃんの演技力は素晴らしい、ということだ。
親戚《しんせき》で、長いつき合いがあるはずの祥子さますら騙《だま》せてしまうほどの、完璧《かんぺき》な演技をしてのけた。
松平《まつだいら》瞳子は間違いなく才能のある女優であり、そしてとてつもなく嘘《うそ》つきなのだった。
稽古を終え、一年生たちが先に帰ったのを見計らってから、祐巳は乃梨子ちゃんから聞いたことを包み隠さず三年生と二年生に伝えた。
最初はみんな驚いていたようだが、「そういえば」と、今日の瞳子ちゃんの態度で思い当たることなどをあげて、妙に納得し合っていた。
「どうしたらいいでしょう」
祐巳はお伺《うかが》いを立てた。こういう時、やっぱり頼りになるのは三年生の二人である。
「どうもこうも」
「考える余地ある?」
祥子さまと令さまは、テーブルごしに顔を見合わせた。
「あの、それはどういう……」
おずおずと尋ねる。
「客観的に考えてごらんなさい。瞳子ちゃんにとってどっちの劇が重いと思う?」
「そりゃ、やっぱり演劇部、ですよね」
リリアン女学園高等部の演劇部といったら、地域でも一目《いちもく》置かれていて、結構本格的な劇をやるって評判も上々らしいし。損得で考えるのはどうかと思うけれど、どちらかの劇を選ばなくてはならないのなら、演劇部をとった方が瞳子ちゃんのためにはなるだろう。
横目でチラッと令さまを見れば、「うんうん」とうなずいているところから、やはり祥子さまと同じ考えらしい。
すると、由乃《よしの》さんがおもむろに椅子《いす》から立ち上がった。
「放っておいたらいいんじゃないんですか? だって、瞳子ちゃんは誰にも相談なしで演劇部の芝居《しばい》を降板《こうばん》してきたんでしょ? だったら自分で考えて、自分で落とし前をつけるのが筋ってもんです」
「由乃ちゃんの意見は、ある意味正しいけれど。まだ一年生なのに、そこまで突き放していいものなのかしら」
祥子さまは腕を組む。
「|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》のご意見は?」
指名された志摩子《しまこ》さんは、静かに席を立って意見を述べた。
「私も、両立が不可能ならば瞳子ちゃんを演劇部にお返しする方がいいと思います。何といっても、瞳子ちゃんはあちらの正規の部員なのですし、こちらは無償《むしょう》でアシスタントをしてもらっているだけですから」
「そうね。所属だけとってみても、演劇部の活動の方に力を注ぐべきだわ」
剣道部と生徒会、どちらにも力を注いでいる令さまがつぶやく。自分がその立場に置かれたら、たぶんどちらか一方なんて選べないと思うけれど。
「まあ……、間違った方の道を選ばないように指導するのも、先輩の役目ではあるけれど」
立ちっぱなしで座るきっかけを失っていた由乃さんは、志摩子さんとともに着席した。
「というわけで、だいたいの意見はまとまったわね。それでは」
祥子さまが言った。
「瞳子ちゃんには、祐巳。あなたからお言いなさい」
「え」
「山百合会《やまゆりかい》の芝居《しばい》を下りて、演劇部の舞台に戻るように」
「私が、ですか」
「そうよ。瞳子ちゃんを引っ張り込んだのは、あなたでしょう」
「私というわけでは……」
可南子《かなこ》ちゃんを学園祭までの助《すけ》っ人《と》にしたのは確かに祐巳だが、瞳子ちゃんの場合は押しかけ女房のように自ら志願してここに来た。
でも。
とっさに、「そうじゃない」って祐巳は思い直した。私は何も関わっていません、なんて逃げることはできなかった。
梅雨《つゆ》の頃、祥子さまがお祖母《ばあ》さまのことで学校をお休みしていた時に、瞳子ちゃんを手伝い要員にしたのは祐巳だったのだ。そのこともあって、可南子ちゃんが助《すけ》っ人《と》になったと同時に、瞳子ちゃんも動いた。それは、たぶん間違いない。
「そう。私なんですね、きっと」
そんな風に考えると、乃梨子ちゃんが瞳子ちゃんのことを真っ先に祐巳に相談してきたのも、何だか納得できるような気がしてくるのだった。
翌日の放課後は、掃除《そうじ》を少し早く抜けさせてもらって、いち早く薔薇《ばら》の館《やかた》に向かった。瞳子《とうこ》ちゃんが中に入るのを、水際で阻止《そし》するためである。
案《あん》の定《じょう》、部活をサボっている瞳子ちゃんは早々とやって来て、館の入り口前で祐巳《ゆみ》が通せんぼしているのを不思議そうに眺めた。
「どういうことか、聞きたくて」
祐巳は尋ねた。
「何が、でしょう」
構わず中に入ろうとするので、祐巳は瞳子ちゃんの腕を掴《つか》んだ。
「部活はどうしたの?」
「今日はお休みです」
力一杯腕をふりほどく瞳子ちゃんの目の前に、祐巳は一枚の紙を掲《かか》げた。
「これ演劇部の活動スケジュール表よ。体育館の舞台使用許可をもらっている日に、お休みのわけないでしょ。いくら順調だからって」
これで言い逃れは出来ないだろう。そう思ったら、今度は瞳子ちゃん開き直った。
「私だけがお休みです。それでいいですか」
「よくないよ。それってサボリじゃない。部活に出ない日が続けば、その分戻りにくくなるんだよ」
「……」
黙っているところをみると、そのことは本人も重々承知しているようだ。祐巳は本題を切り出した。
「降板《こうばん》って噂《うわさ》を聞いたけれど。それ本当?」
「ええ」
「何でまた」
「別に」
瞳子ちゃんは、中庭の方を見て静かに言った。
「何か、つまんなくなっちゃっただけです」
「嘘《うそ》つきね」
挑発するつもりなんかさらさらなかったが、つい口をついて出てしまった。だって、本当にそう思ったから。
「嘘?」
瞳子ちゃんは、祐巳の言葉に眉《まゆ》をひそめた。
「瞳子ちゃんお芝居《しばい》好きでしょ? そんなの見ていればわかるよ。演劇部がつまらなくなるなんてありえないよ」
「……わかったような口きかないでください」
「何があったの?」
「別に」
また、別に、だ。けれどさっきの「別に」とは違って、今度は後があった。
「ただ、レベルが低いんです。ちょっとセリフをかんだりすると、ここぞとばかりに攻撃してきたりして。まあ、一年生で大きな役もらっちゃって、ひがまれるのも仕方ないんですけれどね。日頃の私の態度も気に入らないみたいだし」
どうやら、演劇部の誰かのことを言っているらしい。
「私、『若草物語《わかくさものがたり》』のエイミーだったんです」
「『若草物語』?」
『若草物語』といえば、言わずと知れたオルコット作の四人姉妹の物語。確かエイミーは末っ子で、上にはメグとジョーと……あと誰だっけ、名前がすぐに出てこないけれどもう一人お姉さんがいる。
「それって、すごいじゃない。主役の一人だ」
祐巳はうれしくて、その場でピョンコピョンコと飛び跳ねた。この時点では『山百合《やまゆり》版・とりかえばや物語』では自分が主役なのだということは、すっかり失念している。だって、こういっちゃ何だけれど、リリアン女学園高等部の演劇部の劇は、生徒会が余興の延長線上で行う芝居《しばい》とは違って、かなり本格的なのである。
「うわぁ、楽しみ。観にいくからね、絶対」
「だった、と過去形で言ったんですけれど、私」
瞳子ちゃんは苦笑した。
「あ……」
そうだ、と祐巳は思い出した。そういえば、降板《こうばん》って話だったっけ。
「でも、どうして」
少し話したら弾みがついてしまったのか、瞳子ちゃんは首をすくめてから語り出した。
「全員じゃないんですけれど、一人ネチネチネチネチしつこいの何のって先輩がいるんです。稽古《けいこ》なんですから、間違ったり試行錯誤《しこうさくご》したりして当然のはずなのに。本番で完成していればいいんですよ、こんなものは。そう言ったら、あ、もう少し言葉は選びましたけれど、そうしたら生意気だ、って。稽古でできないものを本番でできるのかしら、って。ああ、今思い出しても腹が立つ。あれ、私ったら何でこんな話を祐巳さまに言ってるんだろう。でも、話し始めちゃったんだからしょうがない。……とにかく、その先輩の話を聞いているうちにだんだん馬鹿馬鹿しくなってきちゃって。もう、面倒くさいな、って。で、とうとう爆発っていうんですか? 口に出してしまったんですよね」
「な、何て?」
「だったらあなたがやれば、って」
その場にいなかったのに、まるで現場を見てしまったみたいに血の気《け》が引いた。
恐い、瞳子ちゃん。
祐巳が一番同情したのは、口喧嘩《くちげんか》を目撃してしまった演劇部の部員たち。さぞかし恐ろしかったことだろう。
「それで、エイミーはその先輩がやることになったの?」
「わかりません。そのまま稽古場《けいこば》を飛び出して、それっきり顔を出していませんから」
「そっか」
「私がいなくても、『若草物語』は上演できると思うんですよね。でも、その先輩がエイミーをやるのは実力的に無理でしょう。私、それがわかっていて言ったんです。たぶん彼女もわかっている。……そうか。わかっているから、あの人、私を責めずにいられなかったんだわ」
瞳子ちゃんは途中から祐巳を置き去りにして、ぶつぶつと自分の考えを懸命《けんめい》にまとめているようだった。ついカッとなって、売り言葉に買い言葉で応戦したことを反省しているのかな、と祐巳は思った。
「|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》たちはね、瞳子ちゃんは演劇部に戻った方がいいと考えているみたい」
「私は必要ないということですか」
突然、キッと目をつり上げる瞳子ちゃん。さっきまで演劇部に向けていた牙を、一転山百合会へと向けた。
「必要ないなんて、そんなこと言っていないでしょ。たぶん、祥子《さちこ》さまは瞳子ちゃんのためを思って、解放しようとしている」
[#挿絵(img/18_089.jpg)入る]
「どうだか」
何が気にくわないのか瞳子ちゃん、「大好きな祥子お姉さま」のことさえ信じようとしないなんて。
「私はね、瞳子ちゃん。瞳子ちゃんが手伝いに来てくれてすごく感謝しているの。でも、ずっと頑張《がんば》ってきた部活動に支障を来《きた》すなら、それはやっぱり問題だと思う」
「きれい事なら聞きたくありません。私は祐巳さまのそういういい子ちゃんみたいなところを見ていると、腹が立つんです。どうせ祐巳さまは、私に引導《いんどう》を渡す役を押しつけられてきたんでしょ? だったら言葉なんか選ばずにただ一言、『クビ』って言えばいい。それで一気に解決するじゃないですか」
「……しないよ」
「クビ」なんていえるわけない。たとえ言えたとしても、それで解決なんてしない。
「確かに、私は瞳子ちゃんに引導を渡すように言われてきたけれど。それじゃ駄目《だめ》だって、今わかった」
「はぁっ?」
「瞳子ちゃん。今から演劇部に行こう。私ついていってあげる。それで、もう一度エイミー役をやらせてもらえるように頼んでみようよ。駄目だったら、その時は『通行人A』とか『通行人B』とかでいいから使ってもらえるように話をしよう」
「……そんな役はないです」
「例えだってば。とにかくどんな役であろうと、瞳子ちゃんは演劇部の舞台に立たないとだめだよ。だって、右大臣《うだいじん》の役をあんなに上手《じょうず》にできるんだもん。瞳子ちゃんを使わないなんて、リリアン女学園演劇部にとって大きな損失だよ、損失」
「……今度は、ほめ殺しですか」
瞳子ちゃんは眉《まゆ》をひそめた。
ほめ殺しといったら、あれだ。とにかく必要以上にほめてほめてほめまくって、相手を自滅させる、という政治家がよくやるお口の戦略。
「なわけないじゃない。損失だと思ったから、損失だって言ったまで。こうなったら、こっちの劇もちゃんと出てもらうからね。そうだよ、もったいない」
「あの……」
「まずは演劇部の活動を優先ね。いい? 部員たちに文句を言わせないくらいいい演技するのよ。で、余力で『とりかえばや』を頑張る。練習時間が足りなかったら、私、時間つくって瞳子ちゃんの練習相手になるから。そうだ。家にくれば? 祐麒《ゆうき》もいるから、ちょうどいいよ」
想像したら楽しくなってきて、祐巳はちょっぴり浮かれてしまった。そんな態度に反比例するかのように、瞳子ちゃんの顔はみるみる不機嫌になっていく。
「思ってもいないことを言わないでください」
「どうして、思っていないなんて思うの?」
「どうして、って」
瞳子ちゃんは、少しだけ言いよどんだ。
「だって、私なんかがお邪魔《じゃま》したらご迷惑でしょう?」
「そんなことないよ」
祐巳は瞳子ちゃんの手を取って、ギュッと握った。
「祥子さまや柏木《かしわぎ》さんの家に比べるとかなり狭いけど、うちの両親お客さまとか好きだし。夕ご飯くらいなら出ると思うよ。どう?」
「……またそういう無防備な顔をする」
「へ?」
「わかりました。わかりましたから、この手を離してください」
「じゃあ」
パッと瞳を輝かせる祐巳に対して、瞳子ちゃんの態度は冷たい。
「早合点《はやがてん》しないでください。お宅にお邪魔する必要はありませんし、演劇部にも一人で行きます」
「あ、……そ、そう?」
何だかつまらない。
「外でけんかして親に仲直りさせられる子供、じゃあるまいし」
「まあ、わからないでもないけれど」
瞳子ちゃんが校舎に向かって歩き出すので、何となくの流れでくっついていくと。
「だから、ついてこないでください、って言っているんです。もう、恥ずかしいじゃないですか」
顔を赤くして怒るので、祐巳は諦《あきら》めて立ち止まった。瞳子ちゃんは二つのバネをブルンブルン揺らしながら歩いていく。怒りのパワーなのかもしれないけれど、歩き方に力がみなぎっているように見えたので、一人で行かせても大丈夫《だいじょうぶ》だって思った。
「瞳子ちゃん」
校舎の入り口に差し掛かった時、祐巳は呼び止めた。
「ただし、無理は禁物《きんもつ》だよ。よく寝てよく食べてストレスはため込まない。愚痴《ぐち》を言いたくなったら、私の所に来る。いい?」
瞳子ちゃんは「はい」とも「いいえ」とも答えず、ただ苦笑して頭を下げた。それでも祐巳は満足だった。
瞳子ちゃんの姿が見えなくなったので、クルリと回れ右して薔薇の館に戻ったら、ノブに手を触れる前に自動ドアのように向こう側から開いた。
「まったく、あなたって子は……」
「わっわっ、お姉さまっ!」
何が何だかすぐにはわからなくって、祐巳がパニックを起こしていると、祥子さまだけじゃなく、その後ろからは令《れい》さまと由乃《よしの》さんまでが現れた。
それでやっと、わかった。みんなは心配のあまり、ドアの内側で立ち聞きしていたらしい。道理で、誰も現れなかったわけだ。
信用ないんだ、なんて怒る気はしなかった。だってみんなが心配した通り、祐巳は役目を果たすことができなかったのだ。
「ごめんなさい。勝手なことをして」
「まったくね」
祥子さまは呆《あき》れたようにほほえんでから、祐巳の襟《えり》を直した。
「でも。たぶん、あなたは瞳子ちゃんのために一番いい選択をしたんだわ」
「……自信はないけれど」
つぶやくと、由乃さんが飛び出してきて言った。
「駄目《だめ》よ、自信もちなさい。祐巳さんが胸はってドーンと構えていなくちゃ、瞳子ちゃんのやる気が失せるわよ」
「由乃の言う通りだよ」
令さまが笑った。それで、「学園祭までの祐巳ちゃんの座右《ざゆう》の銘《めい》は『成せばなる』ね」なんて勝手に決められてしまった。
「さ、それじゃ二階に行きましょうか。志摩子《しまこ》一人に一年生の子守りを押しつけてきたから」
先頭立って階段を上っていく祥子さまの背中を見ながら、祐巳は由乃さんと顔を見合わせて笑った。
「子守りだって」
「ねえ」
一番いい未来を思い浮かべて歩いていこう、そう祐巳は思った。
これから学園祭までまだ山あり谷ありの道のりが続くかもしれないけれど、それを一つ一つクリアしていけば、きっとゴールには素敵な未来が待っている。そう信じられたら、ちょっとやそっとのことではへこたれないぞ、ってパワーがわいてきた。
「ほら、二人とも笑ってないで、さくさく上がる」
令さまの声に「はーい」と返事をして、それから由乃さんとまた、意味もなくクスクスと笑いあった。
それから瞳子《とうこ》ちゃんは、ほとんど薔薇《ばら》の館《やかた》に姿を見せなくなった。
「演劇部の練習にちゃんと出ているみたいです。部長や顧問《こもん》の先生方からも、休む前よりも演技に広がりが出た、って評判がいいらしいですし」
水曜日の放課後。花寺《はなでら》の生徒会メンバーを迎えに行く道すがら聞いた乃梨子《のりこ》ちゃんの話では、あの日|祐巳《ゆみ》と別れた後瞳子ちゃんは体育館に直行し、舞台|稽古《げいこ》していた演劇部の部員全員の前で深々と頭を下げて、許可なく稽古をサボったことを謝罪し、できることならエイミー役に復帰したいと頼み込んだという。
「正直、演劇部も瞳子が抜けて困っていたらしいんです。だからといって、帰ってきて欲しいと、部の方から手を差し伸べるなんてこと金輪際《こんりんざい》できなかった。部員たちに示しがつきませんものね。けれど、瞳子の方から出向いて頭を下げた。それで取りあえずの面目は保てたわけですから、ここらで手打ちにしよう、ということに」
「じゃあ、瞳子ちゃんのエイミーは観られるんだ」
「そういうことになります。祐巳さまのお蔭《かげ》です」
「私? 何もしていないけれど」
思いがけない言葉に、祐巳は目を丸くして自分自身を指さした。
「そうですか? 祐巳さまに何か言われたから瞳子は奮起したんだ、って私は思っていたんですけれど」
「ううん、何も。何か役に立ちたかったんだけど、断られた」
一緒《いっしょ》に演劇部に行こうっていうのも、家に来て芝居《しばい》の稽古をしようっていうのも、愚痴《ぐち》を言いにおいで、っていうのも。全部。
「ま。何にしても、瞳子ちゃんが真面目《まじめ》に部活をやっているなら良しとしよう」
「そうですね」
ぽろぽろと落ち始めたギンナンを避けながら、何だか長年連れ添った老夫婦のように乃梨子ちゃんと二人、のんびり歩いた。
なんか「平和」って感じ。もちろん、これは「嵐の前の静けさ」なのかもしれないけれど。
それにしても、男子が敷地内に入るだけで、いちいちお出迎えして道案内しないといけないっていうの、どうにかならないものだろうか。伝統ある女子校のさだめ、と納得するしかないのかもしれないけれど。毎回となると、かなりの負担である。
「本番までずっと来ないの?」
「瞳子ですか? いえ、土曜日の、花寺学院との最後の通し稽古には出るそうです。演劇部は顧問《こもん》の先生が午後からいないので、翌日の本番に備えてお休みにしましょうって」
「案外、真面目に頑張《がんば》っている瞳子ちゃんへのご褒美《ほうび》だったりしてね」
「まさか」
乃梨子ちゃんは笑い飛ばしたけれど、その可能性を否定したくない祐巳である。だって、そう考える方が気持ちいいから。
「ところで、祐巳さま。学園祭の入場チケット余っています?」
「あ、全部はけちゃった」
「ですよね」
祐巳が「どうして」って尋ねると、乃梨子ちゃんは「実は」と打ち明けた。
「公立の高校に行った中学の同級生たちが、女子校に興味をもっちゃって。今になって、学園祭に来たいっていってきてるんです。でも、うちってチケット制だから。人数分のチケットを準備できないのに、気軽にいらっしゃいとは言えませんし」
乃梨子ちゃんは離れて暮らしているご両親と妹さん、同居の大叔母《おおおば》さま、そして趣味仲間のタクヤ君にチケットを渡して、手もとには一枚も残っていないという。
祐巳も両親と祐麒《ゆうき》に一枚ずつ渡して、それから来られるかどうかはともかく、山梨のお祖母《ばあ》ちゃんに郵送した。あ、あと、池上弓子《いけがみゆみこ》さんの家のポストにも、お手紙を一緒《いっしょ》に添えて投函《とうかん》してきた。
学園祭のチケットは、生徒一人につき基本的に五枚配られる。基本的に、というのは、申請《しんせい》すればもうちょっと融通《ゆうずう》してくれるということだ。だが、如何《いかん》せん手続きが面倒くさい。配る相手の名前と生徒との関係を、全員分書いて提出しなければならないのだ(やたらめったら配られでもしたら大変だからだろう)。
だから大抵は、みんな友人間で余った分をやりとりしてまかなうことになる。幼稚舎《ようちしゃ》からリリアン女学園に通っている生徒は、他校の友人を招待することもあまりないし、平均して兄弟の数も少ないから、五枚もらっても全部使わない人がいるのだ。
「瞳子も余っていないって言っていたし……、可南子《かなこ》さんにも当たってみようかな」
可南子さん。乃梨子ちゃんがその名前を出したので、丁度《ちょうど》いいから祐巳は尋ねてみた。
「乃梨子ちゃんさ、可南子ちゃんのご家族のこと知っている?」
「いいえ? えっ、まさか大家族とか」
「ううん、違う。じゃなくて、私も知らないんだ」
兄弟がいるかどうかすら聞いたことがない。お母さんはたぶんいると思うけれど、お父さんは……何か訳ありみたいだった。
「祐巳さまもご存じないんですか」
意外そうに、乃梨子ちゃん。
「うん。だから、余っているかどうか予想もつかない」
「でも。可南子さんも私と同じで、他校からリリアンに入ってきたから。中学時代のお友達とかに配ってしまいましたよ、きっと」
それは十分に考えられる。乃梨子ちゃんは、可南子ちゃんから譲《ゆず》り受けるという線は諦《あきら》めたようだった。
「あ、もし何だったら祐麒の分取り上げてもいいよ。だってあいつは山百合会《やまゆりかい》の助《すけ》っ人《と》だから、別口で入場券を手にしているはずだし」
と、祐巳がつぶやいたところで、校門が見えてきた。待っていた一団の中で、祐麒がこちらに気づいて軽く手を上げた。自分のチケットが、取り上げられようとしているとも知らないで。
だが。
「ないんだ、実は」
姉の話を聞きながら祐麒は、次第にそわそわしだし、最後に沈痛《ちんつう》な面持《おもも》ちで告白した。
「ない、って」
「ごめん。取られた」
「嘘《うそ》っ」
祐巳は、右手の平を弟に差し出したまま凍《こお》りついた。
「ちょっと、何してるのよ。あれは裏にゴム印で私の名前が押されているのよ。その取った人が、リリアンで悪さしたら、私が呼び出されるんだからね。非売品で手に入らないからって、チケットが過去に高額で売り買いされたこともあるのよ。そんなことにでもなったら祐麒、どう責任とってくれるのよ」
「売られることも、悪さすることも、たぶんないとは思う」
歩きながら、祐麒はボソリと言った。
「でも、ごめん。死守できなかった。っていうか、祐巳の名前の入ったチケット、何だかわかんないけどみんなが狙っていて。俺の知らないところで争奪戦なんかやってて。もちろん、俺は誰かにやるなんてつもりはなかったけど、噂《うわさ》が噂をよんでさ。バトルロイヤル始めるってことに」
「バ、バトルロイヤル!?」
バトルロイヤルっていえば。生き残るために、自分以外の敵を全員倒さなきゃならない、っていう究極の格闘技。しかし、どうして花寺でそんなことが。
「みんな知ってるのよ、ユキチが山百合会からもチケットをもらえること。その上、うちの学園祭以降、どういう訳か祐巳ちゃんのファンが鰻登《うなぎのぼ》りに増えちゃって」
アリスが、二人の背後からチョロチョロと出てきた。
「生徒会が気づいた時には、もう正直|収拾《しゅうしゅう》つかない状態で。だって、ユキチすら敵と見なして集団で襲ってくるんだよ。いくらユキチだって、死守するのは無理だってば」
「で?」
とられてしまったというのだろうか、弟は。祥子さまじゃないけれど、考えただけでクラクラする。男子校って、いったいどういう場所だ。
「でも、諦《あきら》めかけたユキチの前に、救世主が」
目をキラキラさせながら、アリスは言った。本物の救世主が花寺学院に現れたのなら、もっと話題になっているはずから、もちろんそれは比喩《ひゆ》だろう。
「誰、それ」
「光《ひかる》の君《きみ》」
「……柏木《かしわぎ》さん、って言ってよ。お願いだから」
腰砕《こしくだ》けになる。花寺のあだ名って、慣れてないとキツイ。
「たまたま通りかかった柏木先輩が、『祐巳ちゃんのチケットは僕がもらう約束をしていたんだ』って持って行っちゃったんだ。あの人相手に戦おうって野郎、少なくとも在校生の中にはいないから」
祐麒が言った。
「私、柏木さんとも祐麒とも、そんな約束した覚えないけど?」
「でも、そのお蔭《かげ》で誰も血を見ないですんだ。祐巳だって、自分のチケットが原因でけが人が出たら嫌だろう?」
「嫌だけど」
事情はわかった。けれど、チケットを他の人に渡した弟をすんなり許すのもね。なんかシャクだから、ちょっとだけ突っついてみることにした。
「ふーん。なるほど、未だに柏木さんは花寺学院高校で権力があるんだ」
「……るせっ」
祐麒はギンナンを蹴飛《けと》ばした。
あ、すごーく気にしてる。しょうがない、これくらいで勘弁《かんべん》してやるか。
「余っているわよ。何枚欲しいの?」
乃梨子《のりこ》ちゃんの「チケット余っている?」の質問に、可南子《かなこ》ちゃんは無表情でさらりと答えた。
「な、何枚あるの?」
何枚欲しいか、なんて聞けるほど余っているんだ。と、脇で見ていて祐巳《ゆみ》は思った。
祥子《さちこ》さまと令《れい》さまが席を外していることもあって、薔薇《ばら》の館《やかた》は休み時間の教室のように雑然とした雰囲気《ふんいき》に包まれていた。
「二枚……待って、四枚までならいいわよ」
「うわっ、リッチ」
見ていたアリスと小林《こばやし》君が、同時に声をあげた。花寺《はなでら》学院内では、リリアン女学園高等部の入場チケットはプラチナチケット。それを友人に無償《むしょう》で放出しようという可南子ちゃんは、いわば太《ふと》っ腹《ぱら》のゴージャス娘、というわけ。
勝手に興奮する男どもを無視して、可南子ちゃんは鞄《かばん》からチケットを五枚取り出して、一枚を自分の前に置き、残りを乃梨子ちゃんに差し出した。
「来ないかもしれないけれど、一応母の分だけは取っておかないといけないから」
「いいの?」
「どうぞ。私が持っていたところで、無駄《むだ》になるだけだわ。ただし、条件をつけさせて。このチケットは男には渡さない、って」
この狭い部屋に男が六人いたって、構わず言う。どうやら可南子ちゃんは、男と一緒《いっしょ》に芝居《しばい》を作り上げていく状況の中、彼らの異性を完全無視することで自分を保つことにしたらしい。
「了解」
乃梨子ちゃんはまず四枚受け取って、そこから二枚引き抜くと残りの二枚を可南子ちゃんに返した。
「どうしたの? 二枚じゃ足りないでしょ」
「うん。でも、あとはどうにかするからいい」
「……そう」
可南子ちゃんは、返された二枚にさっき自分の前に置いた一枚を加えて鞄《かばん》に戻した。その一連の動作を男たちはヨダレもので見つめていたのだが、自分が「男」である以上「余っているならその二枚をください」とは、とても言えないようだった。そりゃそうだ。
館の外で用事を済ませてきた祥子さまと令さまが戻ってきたところで、いよいよ稽古《けいこ》開始、と思ったら、二人の後をついて賑《にぎ》やかな団体が入ってきた。
「二年|桜《さくら》でーす。学園祭で出店する喫茶店《きっさてん》の、コーヒーとクッキーをおもちしました」
「わーい」
こういう差し入れは大歓迎。薔薇の館にいた全員が手放しで喜んだ。
女子は、純粋にお菓子が大好きだから。男子校の男どもは、「女子の手作り」に飢《う》えているのだ。
「後で食器を引き取りにきますから、その時|率直《そっちょく》な感想をお願いしますね」
彼女たちが身につけている「桜亭」と書かれたピンクのエプロンには、見覚えがあった。去年の桜亭が使っていたものだ。よーく見ると、落としきれなかったカレーの染みが点々とついているエプロンもあったけれど、よーく見なければわからないので、見なかったことにした。
こういう懐《なつ》かしい物に再会したりすると、一年経ったんだな、ってしみじみ思う。去年の今頃、まだ「どっちがシンデレラをやるか」なんて祥子さまと二人で張り合っていたっけ。いや「どっちがやらずにすむか」が正しいか。
二年桜のお手伝いでコーヒーをテーブルに運んでいた乃梨子ちゃんが、やはりクッキーを運んでいた可南子ちゃんにすれ違いざま言った。
「可南子さん、取りあえず送ってみるのも一つの道だと思うよ」
その時可南子ちゃんは何も答えなかったが、コーヒータイムから芝居《しばい》の稽古《けいこ》に移るわずか数分間の間に、鞄《かばん》の中から入場チケットを取りだしてじっと見つめていた。
可南子《かなこ》ちゃんのもとに残った三枚のチケットは、それからしばらくの間可南子ちゃんの鞄の中に眠っていた。
実際に見たわけではないけれど、何となくわかってしまうことはある。
可南子ちゃんは、芝居の合間とか雑談の最中とか、ちょっと気を抜いている時に、よく自分の鞄に目をやっている。
でも、鞄自体が気になるわけではなくて、たぶん気になるのは中身の方なんだ。
乃梨子《のりこ》ちゃんに言われてから、迷いはじめた。チケットの行く末。
祐巳《ゆみ》は、チケットについて可南子ちゃんに尋ねなかった。乃梨子ちゃんが一回アドバイスをした。それで十分だと思った。
これは想像でしかないけれど。うち一枚はお父さんの分だと思う。
可南子ちゃんは以前、お父さんはいない、と言っていた。でも、その言い方は死別という感じではなかった。だとしたら、一緒《いっしょ》に暮らしていないのかもしれない。その辺の事情は、わからない。それぞれ家庭のことだから、あまり踏み込むのもどうかと思うので聞いていない。
事情はわからないけれど、可南子ちゃんが迷っていることだけはわかる。離れているお父さんにチケットを送るかどうか、頭の中ではずっと考えているのではないだろうか。
今なら、まだ郵送で間に合う。
今日の速達で出せば、学園祭の前日までには確実に着く。
都内だったら、宅配便で急げば半日。
そうやって、だんだん条件が悪くなっていく日々を見送り続けているのだろう。そして、たぶんまだお父さんのチケットは鞄《かばん》の中にある。今日は土曜日。学園祭は明日だ。
でも諦《あきら》めちゃいけない。ギリギリ、明日お父さんに校門まで来てもらって、入場前に直《じか》に手渡すという方法だってあるのだから。
(あれ……?)
祐巳はそこで、自分が、可南子ちゃんがお父さんにチケットを渡せたらいい、と思っていることに気がついた。何となく、可南子ちゃんがお父さんに学園祭に来て欲しいと願っている、と感じたからかもしれない。
「ね、祥子《さちこ》さま? 優《すぐる》お兄さまに学園祭の入場チケット渡された?」
通し稽古を終えた小休憩の時、瞳子《とうこ》ちゃんが舞台上から下にいる祥子さまに尋ねた。久しぶりにして最後の舞台稽古に参加したというのに、瞳子ちゃんたらブランクを感じさせないどころか、他を圧倒するほどの迫力ある芝居《しばい》をして、祥子さまに「もうちょっと抑えめに」なんて指示まで出されていた。右大臣《うだいじん》である瞳子ちゃんの妻、小林《こばやし》君なんか、パワーアップして帰ってきた夫に、面白いくらいうろたえていた。
「チケット?」
祥子さまは、台本に覚え書きをしていた手を止めて答えた。
「ええ、一応ね」
一応、でも何でも、贈ったんだやっぱり。祐巳はそれを聞いて、正直あまり面白くはなかった。
妹のやきもちと、笑わば笑え。だって、自分のチケットが柏木《かしわぎ》さんの手もとに渡ったのは不測の事故だけれど、祥子さまの場合は、そこに自分の意志というものが確実に入っているのだ。
一応、従兄《いとこ》だし。まだ一応、婚約者ってことになっていることだし。あげたって当然、むしろあげない方がおかしいくらい。――そう心の中でつぶやき、納得させる。けれど、祥子さまにならって「一応」だけはくっつけておく。
「じゃあ私が差し上げたら、チケットが二重になってしまいますわね。実は今夜、柏木の家に行く用があるので、お兄さまに演劇部のお芝居のチケットと一緒《いっしょ》にお渡ししようと思っていたんですけれど」
やめた方がいいでしょうか、とお伺《うかが》いを立てる瞳子ちゃん。祥子さまに対して、やはり遠慮《えんりょ》があるようだ。
「あら、差し上げたらいいのではなくって?」
祥子さまは、さらりと言った。
「実際に使うのは一枚でも、優さんに来て欲しいという瞳子ちゃんの気持ちは伝わるわ」
いいことを言う、祥子さま。その言葉、舞台|袖《そで》の可南子ちゃんにも届いただろうか。そう、大切なのは気持ちだって、気持ち。
そう思ったところで、祐巳はハッとした。ということはやっぱり、祥子さまは柏木さんに来て欲しいと思った、ということだろうか。……複雑。
「そうね。そうしますぅ」
瞳子ちゃんは、袴《はかま》の裾《すそ》を踏まないように股《もも》の当たりを摘《つま》んで、ピョンコピョンコと舞台袖に向かってスキップしていった。
「何てうらやましい人なんだ、柏木先輩……」
何か仕事をする振りをして二人の会話を聞いていた男たちが、聞き終わって一斉にため息をついた。
「それに、二重じゃなくて三重だしな」
そんなこんなありながらも、通し稽古《げいこ》は無事終了。
衣装《いしょう》の直しもちゃんと間に合い、山百合会《やまゆりかい》の舞台劇は、明日の本番を迎えるだけとあいなった。
[#改ページ]
ああ、勘違い
「ごきげんよう。リリアンの学園祭にようこそ」
自分以外に投げかけられた言葉を聞きながら、水野《みずの》蓉子《ようこ》は腕時計を確認した。
九時四十分。
この場所に立ってから三十分。彼女の前を、これまで何人の人々が、通り過ぎていったことか。様々な格好をした様々な年代の人たちは、皆|掃除機《そうじき》で吸い寄せられるように蓉子の背後にある背の高い門の中へと入っていく。
明らかに生徒の両親であろう男女。祖父母。彼らに伴《ともな》われた、幼い子供はたぶん兄弟。――ひとくくりに、家族。
ちょっと背伸びした私服の集団は、たぶん生徒の友人たち。同じ小学校や中学校で学んだ仲間だろう。
品のいい小紋《こもん》の着物を身につけた小母《おば》さまは、リリアンの卒業生だろうか。それとも、お茶や日舞《にちぶ》の師範《しはん》で、弟子の学校生活をのぞきに来たか。
「入場チケットをご呈示いただけますでしょうか。ありがとうございます。パンフレットをどうぞ。お帰りになるまで、チケットはおなくしにならないでください」
学園祭実行委員たちのハキハキした声。もう、何度も繰り返し耳に入ってきたから、いいかげん覚えてしまった。
「ごきげんよう。リリアンの学園祭にようこそ」
こんな目立つ所ではなく、もっと別の場所で待ち合わせた方がよかっただろうか。と、蓉子は思いはじめていた。けれど「わかりやすい」にかけては、ここの右に出る場所はない。待ち合わせ相手の、「場所が見つからなかった」なんてとぼけた言い訳を聞くのだけはごめんだった。
「チケットをお持ちでない方は、こちらに。生徒の関係者の方は――」
九時四十五分。
しかし、「一緒《いっしょ》に学園祭に行こうよ」と待ち合わせの場所と時間を指定した人間が遅刻してどうする。まったく、高校生の頃と何も変わっていないんだから。
(あと五分待って来なかったら、一人で入っちゃおうかな、人間観察もそろそろ飽《あ》きてきたことだし)
と、思ったところに、遠目にも目を引く派手なファッションの男性二人連れが、歩道橋をゆっくりと下りてくるのが見えた。
(これは、江利子《えりこ》がいたら大喜びするであろう、希少価値のある……)
何と言えばいいのだろう。リリアンの学園祭にやって来る人たちの中では、珍しいグループに属するタイプ。第一印象を一言でいえば、「その筋の人」。
これは、江利子でなくても興味を引かれるサンプルである。蓉子は彼らが目の前を通り過ぎ、門をくぐってリリアンの敷地に入っていくまでの間、詳しく観察することにした。
一人は初老のすらりと痩《や》せた男性で、黒のシルクサテンのシャツ、グレーに白の水玉模様のネクタイ、明るいブルーの上下スーツを着て、ロマンスグレーにパナマ帽に似た白い帽子を被《かぶ》っている。
もう一方の男性は、先の男性よりやや若くガッチリしている。黒地に赤と緑の模様が描かれた派手なアロハに白いスーツ、きれいにそり上げた頭部はむき出しのまま。顔と同じ色に日焼けしているところから、スキンヘッド歴は相当長いとみた。
二人は、仕上げに仲よく黒いサングラスをかけていた。もう、「一丁《いっちょう》上がり」って感じだ。
さて、彼らを迎えた受付の反応はというと。
「ご、ごきげんよう。リリアンの学園祭へようこそ」
生徒はもちろん、教師もかなりびびっている。
「ち、チケットをお持ちでない方は――」
「チケットだって……?」
二人の男性は顔を見合わせ、同時に胸ポケットに手を入れた。
「ヒッ」
思わず仰《の》け反《ぞ》る生徒。固まる教師。飛びだしかける守衛《しゅえい》さん。しかし。
「持ってます」
取り出されたのは、いずれも入場チケットである。そりゃそうだ。ピストルが出るわけがない。
「は、拝見致します」
気を取り直して、応対する実行委員。がんばれ。さっきの「ひっ」は、なかったことにしていい。
(ああ、チケット裏返して生徒名を見たい)
蓉子は思った。この人たちは、誰の、どのような関係者だったのだろう。すごく気になる。だが、駆け寄って「見せてください」とはとても言えないし、言ってはいけない。それはルール違反だ。
父兄だろうか。
(だとしたら、あの二人は生徒の父と祖父。……にしては、似ていないわね)
いや、「父と母方の祖父」なら二人が似ていなくてもOK。だが、服のテイスト、というより醸《かも》し出す雰囲気《ふんいき》は非常に似ている。
(しっくりくる関係は、父と祖父というより、やっぱり親分と子分なんだけれどなぁ)
そうこう考えている間に。
「お待たせ」
待ち人|来《きた》る。そして気になる二人組は、銀杏《いちょう》並木の彼方《かなた》へと消えていく。
「遅い。どれぐらい待たせたら気が済むの」
「どれくらい待った?」
「四十分かな」
「約束の二十分も前に来たのは自分のせいでしょ」
「でも、残りの二十分はあなたのせい」
「しーましぇん」
反省しているようにはとても聞こえない態度で謝った、佐藤《さとう》聖《せい》。蓉子とは腐《くさ》れ縁《えん》の親友。
「江利子はまだ?」
聖は辺りをキョロキョロと見回した。水野蓉子、佐藤聖ときたら、あとは鳥居《とりい》江利子である。リリアンの元三羽がらす、もとい元三薔薇さまだ。
「電話してみたけれど、来ない、って」
蓉子は苦笑しながら、首を横に振った。江利子が自分より遅刻していると、聖は本気で思っているのだろうか。
「|山辺先生《くま》とデート?」
「どうも違うみたいよ。あまり頻繁《ひんぱん》に出没したら、由乃《よしの》ちゃんがかわいそうだから、とか何とか言っていたけれど。ねえ、江利子って、そんなに高等部に現れているの?」
「いや。聞いてない。ただ、この間、お菓子を差し入れしてはいたみたいだけど――」
二人は顔を見合わせた。
「……何か企《たくら》んでいる」
「そのようね」
江利子が何をしようとしているのかはわからないが、何かをしようとしていることくらいはわかる。
「三人|一緒《いっしょ》だと嫌でも目立つから、変装でもして後でそっと様子を見に来るつもりかもしれないわね」
「言えてる。じゃ、さっさと入場しますか。私たちが門の前に居座っていると、江利子が入れなくて困るかもしれないし。……あ、そうだ」
言いながら聖はバッグをガサゴソと探って、紙袋を取り出すと、「これ」と蓉子に投げてよこした。
「何?」
「旅行のお土産《みやげ》。乾燥ポルチーニ。好きって言ってたでしょ」
「……ありがとう。って、イタリアなの?」
ポルチーニ茸といえば、言わずと知れたイタリアの松茸《まつたけ》。
「どうして?」
「行きたかったから」
「二年前、修学旅行で行ったのに」
「いいじゃない、別に」
「私、あなたのことわからなくなる時があるわ」
「そりゃ、うれしいなぁ」
「ほめてるんじゃない、って」
「まあ照れないで。入りましょう、入りましょう」
照れてるわけでもないんだけれど。でも、ここで立ち話しているのも何なので、足を一歩前に踏み出す。
「……ちょっと待って」
校門を入りかけた時、蓉子の目の端に目を疑う光景が飛び込んできた。それは、門から数十メートル離れた塀《へい》をよじ登ろうとしている女性の姿だった。
「やめなさい。何しているの」
駆け寄って引きずり下ろすまでもなく、彼女の足はすぐに地面についてしまった。突起がほとんどない高い塀《へい》は、手をかける場所も足をかける場所もなく、乗り越えるなんてはなから無理な話なのだ。
「大丈夫《だいじょうぶ》?」
バランスを崩《くず》してよろけるので支えてやると、彼女はバタバタと身をよじりながら暴れた。
「離してください。私、どうしても中に入りたいんです」
もう何度もチャレンジしたのであろう。よじ登る手がかりにされたようで、壁面を這《は》っていた蔦《つた》が、無惨《むざん》に葉を散らしていた。
「あなた、何者?」
聖が笑った。
「失礼よ、そんな言い方」
よくよく見れば、まだ少女といっていい年代である。聖や蓉子より二つ三つ若いだろうか。制服を着ていないから、リリアンの高等部の生徒ではないようだが。
「別に私たちは、あなたをどうこうしようっていうんじゃないの。ただ、塀を上るのは無理。無駄《むだ》にケガをするだけ、っていうアドバイスをしにきただけよ。では、ごきげんよう。行きましょ、聖」
蓉子は少女から手を離すと、背中を向けた。そのまま聖の腕をとって、どんどん正門目指して歩いていく。
「うーん、健在ね」
聖が、蓉子にしか聞こえない声で囁《ささや》いた。まったく。わかっているなら、黙ってつき合ってくれればいいのに。
「あのっ」
思った通り、少女は二人を呼び止めた。待ってましたという感じにならないように、二秒ほど数えてから振り返る。すると彼女は、駆け寄ってきて言った。
「私。ここの生徒の……身内なんです」
「身内?」
それがさっきの「あなた何者?」に対する答えだったとしたら、まったく予想していなかった答えといっていい。
「チケット、どうしたの。身内だったら、持っているんじゃないの?」
女の子が塀を乗り越えようというところからして、予想外だったけれど。では、どんな人だったら予想の範囲内かと問われれば、まず頭に浮かぶのはチケットを入手できなかったお隣《となり》の男子生徒。だったら毎年数人目撃されているが、蓉子の在学中に成功した者はいない。
「なくしたの? 忘れたの? 私たち一緒《いっしょ》に受付まで行ってあげるから、事情を話して入れてもらいなさい。生徒のクラスと名前と、それからあなたの名前、連絡先、生徒との関係なんかを書けば入場できると思うわよ。女性だし」
「さっき、受付でもそう言われました。でも」
少し口ごもってから、少女は言った。
「彼女のクラス名がわからないんです」
「身内なのに?」
からかうように笑う聖に「ちょっと黙っていて」と言ってから、蓉子は話を続けた。
「学年くらいはわかるんでしょう? だったら、調べてもらえるはずよ?」
「はい。ただ、確認のために放送で生徒をここに呼ぶ、って」
「呼んでもらったらいいじゃない」
たとえ店番していたとしても、呼び出されれば飛んでくるはず。
「それじゃ、駄目《だめ》なんです。まず、来てはくれないと思うし。来たとしても私の顔を見たら、たぶん彼女は知らない人だって言うと思います」
「ずいぶん嫌われたもんだ」
今度は、蓉子も聖のつぶやきを注意しなかった。同じ感想をもったからだ。
「本当、それじゃお手上げだわ」
「だから、もう塀《へい》を乗り越えるしか」
目の前に立ちはだかる高い塀を見上げる少女。この人とその生徒の間には、目に見えない別の塀も存在しているのかもしれない。
「あのね。女子校の塀が簡単に乗り越えられるようなものじゃ、駄目《だめ》でしょう」
「そうか。じゃあロープとか、縄《なわ》ばしごとかがあれば」
言いかけて、彼女は自分の考えを撤回《てっかい》した。
「そうですよね。道具があれば上れるのなら、そこら中にチケットのない男の人が引っかかっていますよね」
ジャンパースカートを穿《は》いているところからして、彼女は計画性なんて言葉とはほど遠い場所にいるようだった。
「忍者か体操の選手なら、道具を使えばどうにかなるかもしれないけれど。……あなた、運動は?」
「中学時代、バスケを。こんなことなら、棒高跳《ぼうたかと》びでもやっておくんだった」
なるほどその手があったか、と蓉子と聖は手の平を拳《こぶし》で叩いた。けれどその技術があったところで、実際に跳び越えるのは無理だろう。依然として、適当な棒をどこから調達したらいいかという課題は残るわけだし、助走のためのスペースがない。
「それより、チケット余っていませんか、って方が手っ取り早いんじゃない?」
聖が提案した。
「難しいと思うな。チケットは例年不足気味なんだし。たとえ余っていたとしても、生徒の身内やお友達だったら、その生徒に迷惑かかると悪いから見ず知らずの人にあげないでしょ。さっきも、中年の小父《おじ》さまが門前で入場者に声をかけていたけど、全然相手にされていなかったもの。怪しまれて通報されて、守衛《しゅえい》さんとか先生とか門の外まで見に来たから、場所を移動したみたいだけどね」
今頃裏門あたりで、入場者に声をかけているかもしれない。
「すみませんでした。いろいろ。あの、私に構わず、どうぞ入場してください」
少女がぺこりと頭を下げた。
「で、どうする気?」
言いながら蓉子は、「この子、誰かに似ている」と思っていた。顔じゃなくて、全体的な雰囲気《ふんいき》だ。
「どうにかします」
「どうにかするって言ってるけど。……聖、どうしたらいいと思う?」
「どうしたら、って。もう決めているくせに」
聖はやれやれと、山百合会《やまゆりかい》から送られてきたチケットを蓉子に渡した。
「ありがとう」
「あなたの世話焼きには、慣れているからね」
蓉子はほほえんでから、それを少女に差し出した。
「これ、使いなさい」
「えっ。でも。そうしたら」
どちらか一人が入れなくなるのではないか、と不安そうな目が尋《たず》ねてくる。
「彼女……佐藤さんは、リリアン女子大の学生なの。チケットがなくても、学生証を見せれば中に入れるのよ」
少女の瞳が、パッと輝いた。
「その代わり、私たちと一緒《いっしょ》に行動するのよ。約束できる?」
「は、はいっ」
元気よく返事をして、うれしそうについてくる。少女は門の前で一度足を止め、キョロキョロと辺りを見回した。
「どうしたの? 何か探している?」
「いえ。何でもありません」
そう、小さく首を横に振ってから、彼女は門をくぐった。
ごきげんよう。リリアンの学園祭にようこそ。
蓉子は聞き飽《あ》きたフレーズが飛び交う、懐《なつ》かしい敷地の中に歩を進めた。
「そういえば、あなた名前は?」
聖の問いかけに、少女ははっきりと答えた。
「夕子《ゆうこ》。細川《ほそかわ》夕子といいます」
高等部校舎の裏というか、ミルクホールへ向かう道の脇というか、第二体育館の手前というか、古い温室やプールに行く時に通る場所というか。そういった漠然《ばくぜん》とした位置に、『フジマツ縁日《えんにち》村』はある。
村といっても、先住者の桜の木とか体育倉庫から借りてきたハードルやポールといった物に縄《なわ》を渡して作り上げただけの簡易な空間。そこに一日限りの縁日を開こうと手を組んだのは、二年|松《まつ》組と二年|藤《ふじ》組の両クラスであった。
一学期のうちに提出した第一希望で企画がかぶり、何度か話し合いをもったにもかかわらずうまく調整がつかなくて(というか、どちらも企画を譲《ゆず》らなくて)、結局「ならば合同で出店したら」という学園祭実行委員長の一声で決まった。そんな裏話は、なかったことのように両クラスは和気藹々《わきあいあい》とした雰囲気《ふんいき》の中……いや、それを通り越しててんやわんやの大騒ぎ。開村前の準備も佳境《かきょう》に入って、もう忙しいの何のって。
祐巳《ゆみ》も、入り口の椅子《いす》に座って、食券を揃《そろ》えたり、お釣り用の硬貨が取り出しやすいように小銭入れの箱の位置を変えたりしてみた。
本当は、大きなお鍋《なべ》でお湯を沸かしたり、鉄板の温度管理したり、お汁粉の味見をしたりしたいんだけれど、「お会計どころ」という食品には一切《いっさい》手を出せない場所に回されてしまったので許されない。理由は、忙しくてしょっちゅう出入りしそうな人がローテーションに加わると混乱するし、火を使っている場所でチョロチョロされると危ないから。――つまり、邪魔《じゃま》だというわけ。
ならばお金の出し入れだって、扱う人が変わるのはまずいんじゃないか、と思ったら、案《あん》の定《じょう》、出納《すいとう》係(お金の出し入れ責任者のことをそう言うらしい)は別にいて、祐巳や由乃《よしの》さんはアシスタントという名の呼び込み係に任命されているのであった。山百合会《やまゆりかい》の劇や、学園祭がらみの用事ができたらいつでも抜けていいよ、ってなわけだ。
ありがたいけれど、つまらない。
藤組の志摩子《しまこ》さんなんて、浴衣《ゆかた》を着て一時間ほどヨーヨー釣りの店番をさせてもらえる、っていうのに。一緒の村で縁日を再現するとはいえ、会計や運営方法はクラスごとに違うのだ。
ともあれ『フジマツ縁日村』は、予定通り本日午前十時から開く予定。それまで、もう少々お待ちください。
開村十五分前ともなると、すでに展示会場なんかを見てきた来賓《らいひん》や生徒たちが流れてきて、遠巻きに縄張りの中を眺め始めた。
「さあ。頑張《がんば》るわよ」
妙にはっぴが似合う由乃さんが、力拳《ちからこぶし》を振り上げた。
「私たちは、二年松組のアイドル。食券を売って売って売りまくるぞっ。……あら、祐巳さん、おーってなぜ言わないの」
「おーっ……。相変わらず、テンション高いね」
「アシスタント」が、いつの間にか「アイドル」に変わっちゃっているし。由乃さん、はりきるはりきる。
手術後初の学園祭も、パワー全開というところか。「手術後初」もそろそろ一巡《いちじゅん》するから、その後は少しは落ち着くと思うけれど。
開村して三十分くらいは予想以上に混んだ。
そのため、自称アイドルの呼び込みなどまったく必要なく、それどころか一時は逆に入場制限を行うまでの大盛況《だいせいきょう》で、クラス一同うれしい悲鳴をあげた。
「祐巳さま」
ちょっと波がひいた頃、瞳子《とうこ》ちゃんがひょっこりと現れた。
「繁盛《はんじょう》していますね」
「あ、よかったら食べていって」
祐巳は出納《すいとう》係に行って、三枚の食券を前借りしてきた。フランクフルト三本お買いあげ也《なり》。あとの二枚は、乃梨子《のりこ》ちゃんと可南子《かなこ》ちゃんの分だ。
「おいくらですか」
「いいって。私のおごり」
「そうはいきませんよ」
お財布《さいふ》を出す瞳子ちゃん。
「可愛《かわい》くないなぁ。こういう時は、ただごちそうさまでした、って言えばいいのに」
このセリフってどこかで聞いたことがあるな、と祐巳は思った。
「おごっていただく理由はありませんもの」
「理由? 理由は――」
あれ、何だっけ、その後続く言葉は。何かすごく納得できる決めゼリフが、あったはずなんだれど。
「えーっと、劇を手伝ってくれるお礼の気持ち。かな?」
「お礼?」
すると。
「ごちそうさまでーす」
どこからか沸いてきた数人の男どもが、祐巳を取り囲んで頭を下げた。
「……」
いつの間に忍び寄ってきたのだろう、勢揃《せいぞろ》いしている花寺《はなでら》生徒会メンバーたち。私服を着ていたから、まったく気がつかなかった。
「劇を手伝ってくれるお礼の気持ち。ということは、僕らもお相伴《しょうばん》にあずかれるわけですよね、ね、ね」
「えっ、それはっ」
瞳子ちゃんたちは可愛《かわい》い後輩だから、って。付け加えようにも、無心コールでかき消されてしまう。
「フランクフルトっ、おでん、おーしるこ」
口を滑らした方は確かに悪い。だが、少しは遠慮《えんりょ》というものをしたまえ少年たち。
「祐麒《ゆうき》」
助けを求めようとして弟を探しだせば、明らかに一度目があった後でそらした。こうなったら、収拾《しゅうしゅう》するのが難しいということなのだろうか。由乃さんも「知ーらない」と、あきれた顔をしている。
祐巳は宙ぶらりんの食券三枚を机の隅に置いて確保してから、財布《さいふ》を開いた。で、さっきの分と追加で六枚分のフランクフルトの食券の代金を、出納《すいとう》係に渡す。今月のお小遣いピンチ。おのれ弟、覚えていろよ。
「いっただきまーす」
食券を手にした男どもが、怒濤《どとう》のように屋台の方に流れていった後、瞳子ちゃんはやれやれといった感じで言った。
「今、乃梨子さんと一緒《いっしょ》に手芸部を見てきたんです。『とりかえばや物語』の衣装《いしょう》も何点か展示してありましたよ」
「あ、そうなの?」
「ええ」
それらの衣装は、本番直前に体育館に持ってこられて、終わり次第また展示するという。どちらにとっても宣伝効果があるので、手芸部の部長と祥子《さちこ》さまが相談してそうすることになったらしい。
「後で、私も行ってみようかな。瞳子ちゃんたちのクラスの展示も見にいきたいし」
「うちのクラスですか? だったら、瞳子ご案内しますよ。祐巳さま、ここのお仕事はいつまでです?」
「え、案内してくれるの? 本当? あのね、上がる時間はね」
言いかけたとき、少し離れた場所で由乃さんの声がした。
「| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》は、舞台劇『とりかえばや物語』に出演中以外は、ずーっとこちらに詰めている予定です」
「ちょっ……、由乃さんたら、何言ってるのよ」
あわてて駆け寄ると、由乃さんの前には三人の一年生が立っていた。だからさっきの声は、瞳子ちゃんの質問に対する答えではないらしい。
「にしても、聞き捨てならない」
祐巳は「ちょっとごめんなさいね」と一年生たちに断ってから、由乃さんの腕を掴《つか》んで少し離れた場所まで連れていった。
噂《うわさ》していた本人が突然現れて驚いたのか、三人は「ヒャッ」という何だか不思議な悲鳴をあげていた。
「あの子たちと、いったい何を話していたの?」
祐巳は小声で、由乃さんに聞いた。
「祐巳さんは何時頃までここにいるのか、って聞かれたから。答えただけよ」
「でも、その答えが嘘《うそ》じゃない」
舞台に立っている以外は、ずっとここにいるなんて話はもちろんない。
「そういうことにしておいた方がいいんだって。さっきも、花寺の学ラン着た男子が来て、祐巳さんの上がる時間聞いてきたの。何でですか、って問いつめたら、時間ができたら祐巳さんに案内して欲しいって。何だかわからないけれど、祐巳さんって花寺の生徒とリリアンの一年生に人気があるから気をつけてね。午前中だけだなんて、口が裂《さ》けても言ったら駄目《だめ》。一々対応していたら、祥子さまとデートだってできなくなっちゃうから」
「でも」
[#挿絵(img/18_131.jpg)入る]
「嘘にはならないって。そのつもりだったけれど、予定が入っちゃって持ち場を離れました、ってことはあるでしょ。まあ、任せてよ」
由乃さんは、祐巳が思案している間に勝手に話を切り上げ、待たせていた一年生のもとへ戻っていった。
「……そんなんでいいのかな」
戻りながら祐巳も、何か忘れているような気がした。
「あ」
そうだ、瞳子ちゃんを待たせていた。まだ、話の途中だったはず。
「しまった」
あわてて戻ったが、すでに瞳子ちゃんの姿はなかった。
「縦《たて》ロールの一年生だったら、どこか行っちゃったわよ。お取り込み中みたいだから失礼します、って」
その場にいた出納係が、教えてくれた。
「そう。……ありがとう」
瞳子ちゃんったら、ちょっとくらい、待っててくれればいいのに。
「あと、ごちそうさまでした、って。祐巳さんへの伝言も預かっているけど?」
「え? ごちそうさまでした、って言ってたの、瞳子ちゃん」
出納《すいとう》係が指さす場所を見れば、机の片隅に置いておいた三枚のフランクフルト券がなくなっていた。
「すみません」
リリアン女学園裏門の手前で、柏木《かしわぎ》優《すぐる》は声をかけられた。
「はい」
呼びかけられたのが自分であると自覚し、尚かつ気持ちに余裕《よゆう》がある時ならば、彼はさわやかに振り返る。だから時折、街中でよく見られる宗教の勧誘などにも、笑顔で応えてしまうことがあるが、彼の場合「間に合っています」とニッコリほほえんで断ることができるので、今のところたいした実害はない。
「あの……リリアンの学園祭に行かれるんですよね」
声をかけてきたのは、中年の男性だった。
「ええ、そうですが」
この道は、リリアン女学園の裏門へ続く一本道である。「違います」と言うのも不自然だ。
「まさか、チケットが余っているなんてことは……」
おずおずと尋《たず》ねる男性を、柏木は興味深く眺めた。何ていうのか、かなり特徴的な男なのである。
「余っていますよ」
そう柏木が答えたのは、目の前の彼がとてもダフ屋には見えなかったからだ。
ファッションは、朝の満員電車でよく見かける、普通のサラリーマンが日常出勤する際に着るような、渋い色目の上下スーツ。中年なのにそれなりにピシッと着こなしているのは、背が高くガッチリとした体格のお蔭だろう。そう、ちょうどスーパーのチラシなどでポーズをとっていそうなおじさんだ。
(日光月光《にっこうがっこう》より、やや小さいくらいか。……って、かなりでかいということだな)
だが彼が目立つのは、ただ「でかい」だけが理由ではなかった。彼の抱えている荷物が、サラリーマンスタイルにはミスマッチな上に、かなり人目を引く代物《しろもの》だからなのである。
「その余ったチケット、譲《ゆず》っていただけませんか」
話の流れからしてそう来るとは思ったが、柏木は一応「なぜですか」と聞いてみた。簡単に「はいどうぞ」とはいかないが、理由によっては助けてやらないこともない。
「娘に会いたいんです」
「娘さんに、会いたい?」
はて、面妖《めんよう》な。
「わかっています。信じていただけないでしょう。娘がリリアンに通っているなら、どうして直接チケットをもらわないのか、って思っていらっしゃいますよね。でも、私は正真正銘《しょうしんしょうめい》あの子の父なんです。怪しい者ではありません」
「いや、あなたの娘さんのことは存じあげませんので、何とも……。ただ、あなたに関してのみ言わせていただければ、残念ながら怪しい者というより、いいお父さんにしか見えませんよ」
柏木は、思ったままを口にした。すると、背の高いサラリーマン風の自称「怪しい者ではない」男は、うつむいて首を横に振った。
「いや……。いいお父さんではないんです」
「何か訳がおありなのはわかりました。その家その家に、他からはうかがい知れない事情っていうのはありますから、詮索《せんさく》しません。でもチケットを差し上げる以上、何かあっては困ります。今、身分を証明できる物を何かお持ちですか」
「免許証くらいしか」
男はスーツのポケットを探って、運転免許証を取り出し、柏木に渡した。
「結構です。ありがとうございました。それで、今日は新潟からわざわざ?」
免許証を返しながら、柏木は尋《たず》ねた。たまたま住所の欄《らん》に目が止まったからだ。
「ええ。去年、故郷に戻りまして家業の農業を継ぐことに」
自称「怪しい者ではない」改め「いいお父さんではない」男は、ポケットに免許証をしまってから、肩から斜めがけにして胸のあたりで抱えている大きな荷物の位置を、「よいしょ」と直した。
「重そうですね」
柏木は思わずつぶやいた。
「ははは。ええ。でも、慣れてますから。それに二人目ですし、……かなりブランクがあるんですが」
なるほど、と、道の先に視線を向ける。今日は高等部の学園祭だ。
「それでは」
柏木は、ポケットからチケットの束を取り出した。一番上の一枚をどけて、残りの十一枚をトランプの要領で扇形《おうぎがた》に広げる。
「どれがいいですか」
「えっ」
その枚数の多さに、男は明らかに驚いていた。
「あ、あなた、この学校の関係者ですか」
いえいえ、と柏木はさわやかに笑う。
「ただの隣《となり》の学生です。幸せなことに、いろいろな人がプレゼントしてくださいまして。身体《からだ》一つに一ダースのチケットはさすがに多いと、申し訳なく思っていたところだったんです。ですから、遠慮《えんりょ》なくどうぞ」
「……はあ」
迷った末に一番端の一枚を抜き取った「おとうさん」に、柏木は「もう一枚いりませんかね?」と真剣に意見を求めた。
「は?」
柏木は、不思議顔の「お父さん」の胸もとを指さして言った。
「いや。乳児っていうのは、人間一人としてカウントしないのかな、と思って」
「はい、祐巳《ゆみ》さん。フランクフルト持ってニッコリ笑って」
カシャッ。
「由乃《よしの》さん、おでんの容器を『どうぞ』って前に出す感じで、目線こっち。あ、『あちちっ』って表情も欲しいなぁ。はい、蔦子《つたこ》さんシャッター切って」
カシャッ。カシャッ。
「あのさ。これ、やらせって言うんじゃないの?」
祐巳が食券売り場で引き続き出納《すいとう》係のアシスタントをしていると、突然新聞部の山口《やまぐち》真美《まみ》さんと写真部の武嶋《たけしま》蔦子さんがやって来て、由乃さんともども屋台の前まで連行されたかと思うと、いろいろなポーズをとらされ写真を撮られた。
ちょうど波が引いた時だったから、フランクフルト係もおでん係も「どうぞ」なんて場所を空《あ》けてくれちゃったんだけれど。何か違うんじゃないかな、ってポーズをとりながら考えた。しかし、真美さんは。
「何を言うの、祐巳さん。松《まつ》組の二人が桜亭《さくらてい》のエプロン着てお運びさんやっている写真をわざわざ撮ったら、それは純然たるやらせよ、やらせ。でも、うちのクラスの人間がうちの出し物のお仕事しているのよ。どこに問題あるの」
「それにしたって」
「ねえ」
顔を見合わせる、| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》と| 黄薔薇のつぼみ 《ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン》。
「だって、せっかくクラスの出し物が縁日《えんにち》なのに、お二人の写真が食券販売しているところしかないんじゃ、『リリアンかわら版』読者には何だか伝わらないしつまらないでしょ。ほら、次はお汁粉コーナーよ」
「蔦子さぁん」
何とか言ってよ、と助けを求めても、彼女はカメラを下ろそうとはしない。
「私は、真美さんに頼まれただけだから。ま、新聞に出す出さないは写真が出来上がってから双方で相談すれば?」
「そういうこと。文句は後で受け付けます。私たちは忙しいの。二年生の全クラスと、めぼしい文化部を駆け足で取材しないといけないんだから。あーっ、志摩子《しまこ》さんストップ。ごめん、悪いけど三十秒だけ戻ってヨーヨー釣りの前で写真を一枚。ああ|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》の浴衣《ゆかた》姿、絶対いいっ」
店番が終わり、『フジマツ縁日村』を出ようとしていた志摩子さんを無理矢理引きかえらせ、ヨーヨーを手に持たせて数枚(一枚と言っていたのに)の写真を撮った後、『リリアンかわら版』の編集長と写真部のエースは風のように『フジマツ縁日村』を去っていった。
「だめだ、こりゃ」
「今日はずっとあの調子なんだろうね」
やれやれ忙しい人たちだ、と元いた村の入り口付近に戻ると、志摩子さんが乃梨子《のりこ》ちゃんと一緒《いっしょ》に目の前を通った。これから志摩子さんは制服に着替えて、そのあと二人で学園祭を回るのだという。
「お疲れさま。あとでまた」
初々《ういうい》しい姉妹《スール》を、手を振って見送る。乃梨子ちゃんには、「フランクフルトごちそうさまでした」とお礼を言われた。
「どういたしまして」
瞳子《とうこ》ちゃんから、食券が渡ったらしい。
「さて、気合い入れてがんばりますか」
正規の拘束《こうそく》時間は正午までなので、あと三十分ほど。たぶんお昼前後が一番混むと予想されるので、これからが最後のひと踏ん張りである。
「おでんに、甘酒、フランクフルトに綿菓子《わたがし》はいかが」
「フジマツ縁日《えんにち》村はこちらです」
呼び込みをしていると、校舎沿いの道を、目がチカチカするような服を着た男性二人が、こちらに歩いてくるのが見えた。
「何かすごい存在感のある」
としか、祐巳は表現できなかった。少なくとも、市役所とか銀行とか学校とかで働いている人で、こういう格好をしている人は見かけない。
「私、すごく似たスタイルを最近見た」
祐巳の肩を後ろから抱きしめて、というより、祐巳の後ろに隠れて、といった方が正しい立ち位置の由乃さんがつぶやく。ちょっと声が震え気味。
「深夜テレビでやっていた任侠《にんきょう》映画でさ、主役のスキンヘッドが刀を振り回して、ライバルの組長をめった切りに……あ、もう一人はその組長そっくりじゃない。それで組長ったら血まみれになりながら、最後の力を振り絞《しぼ》って、隠し持っていたピストルでスキンヘッドの背中に一発お見舞いして、ジ・エンド」
「どうしてそんな映画を」
「古い時代劇|録《と》るはずが、予約のチャンネル間違えちゃったんだもん。でも、視《み》はじめたら結構はまっちゃって」
由乃さん曰《いわ》く。「恐いけれど、めちゃくちゃ格好よかったの」だそうだ。主役の二人が。
「いやーん、こっちに近づいてくるよ。どうする、ここでドンパチ始めちゃったら」
「ちょっと。映画と混同しないでよ。ヤクザの敵同士が、仲よく学園祭に現れるわけがないじゃない」
「わからないわよ。うちの組に殴《なぐ》り込み……」
「そりゃ、組[#「組」に傍点]違いだよ」
由乃さんにとっては、相当強烈だったようだ。その映画。
ここに少なくとも一人、自分たちの存在に怯《おび》えている少女が待ちかまえているとも知らず、任侠映画そっくりさん二人は、とうとう『フジマツ縁日村』の入り口までやって来てしまった。まずはチラリと中の様子を見てから、団子のようになった祐巳と由乃さんに歩み寄り、おもむろに口を開いた。
「フランクフルト二本と――」
「日本刀《にほんとう》!?」
由乃さんが叫んだ。
「それから、おでん二皿ね。あ、おでんってがんもある?」
「銃《ガン》も!?」
またしても、由乃さん。注文に一々過激に反応し飛び上がっているが、周囲の者からは、単に復唱しているようにしか見えない。
「日本刀に銃……」
だめだ。その手の人だと思いこんでるから、何を聞いても由乃さんはすべて危険な物に結びつけてしまうのだ。
「しっかりしてよ、由乃さん。フランクフルトとおでん券、二枚ずつだってば」
祐巳は、別の世界に行っちゃっている由乃さんの肩を揺らして現実世界に呼び戻しながら、お客さんも放っておけないので接客もこなさなければならなくなった。
「失礼しました。えーっと、おでんにがんもどきは入っていません。すでにパックになっているものなので、具は決まっているんです。……あの、お客さま?」
スキンヘッドが、じっと由乃さんを見ている。おでんの具より、そっちの方が気になるらしい。
「由乃さんって。もしや、島津《しまづ》由乃さん?」
スキンヘッドが言った。
「うわっ、いつの間に私の名前を」
もうだめだ、と逃げようとする由乃さん。
「ははは、面白い人だな由乃さんは。……わかった。じゃあ、あなたが福沢《ふくざわ》祐巳さんでしょう」
「あ、はい」
そこまで言われてやっと、祐巳は「この人どこかで見たことがあるな」と思った。といっても、テレビでお目にかかったわけではない。例の任侠《にんきょう》映画も視《み》ていないし。
(えーっと)
そんなに前ではない。たぶん一ヶ月かそこら。その時はサングラスなんてかけていなくて、こんなファッションでもなくて。ある意味インパクトに関しては、負けていない格好で――。
「あ」
わかった、袈裟《けさ》姿で走るお坊さんだ。
「志摩子さんの、お父さん!」
「わかってもらえましたか。いつも娘がお世話になっております」
「こちらこそ。それにしても、この前とはまったく違う装《よそお》いで……」
「いや、何。体育祭の時には悪目立ちしたようで、帰ってから志摩子に叱《しか》られてね。カトリックの学校なんだから、少しは気を遣って宗教色のない格好をしてこい、と。で、変装というか、逆ベクトルのスタイルにしたわけ」
やりすぎだよ、と祐巳は心の中でつぶやいた。この格好を見たら、志摩子さんがまた頭を抱えそうだ。店番を終えてこの場にいないのが、せめてもの幸い。
「こちら、志村《しむら》さん。彼が、先日|視《み》たテレビをヒントにコーディネートしてくれたんだよ」
志摩子さんのお父さんが、隣にいる「組長」を紹介した。
「志村さん……って、まさか」
志村さんと呼ばれた小父《おじ》さまは、「はい」と言って祐巳に向かってピースサインを出した。
「ガールフレンドの乃梨《のり》ちゃんが、いつもお世話になっております」
「……こちらこそ」
乃梨子ちゃんのボーイフレンドのタクヤ君は、想像していたタクヤ君とは少し、いやかなり違う人物だった。
「お疲れ」
祐巳《ゆみ》は囁《ささや》くようにクラスメイトたちに告げて、そっと『フジマツ縁日《えんにち》村』を抜け出した。交替時間だから本来ならば堂々と出ていっていいのだが、由乃《よしの》さんが「劇出演以外はずっと詰めている」なんて余計なことを言ってくれたものだから、トイレにでも行くみたいにさりげなく出ていかなければならなくなってしまったのだ。
その由乃さんは。
「祐巳さん、この後どうする? 祥子《さちこ》さまと約束とか、ある?」
「お姉さま、一時までクラスの当番があるんだって。だから、三十分くらいその辺をぶらぶら見て歩いて、それから祥子さまのクラスの展示を見て、その後できれば一緒《いっしょ》に瞳子《とうこ》ちゃんのお芝居《しばい》を観にいければ、なんて計画しているんだ」
『若草物語《わかくさものがたり》』の開演時間は午後一時三十分、『とりかえばや物語』の開演時間は三時半。二つの劇の間には『プチ音楽祭』という合唱部や軽音部やマンドリン部などのコンサートがプログラムされているので、演劇部の舞台を観てから楽屋に入っても、十分間に合う。
「私は、令《れい》ちゃんとデート。桜亭《さくらてい》で待ち合わせしてるんだ。あ、よかったら祐巳さんも、祥子さまの交替時間まで一緒にお茶する?」
「遠慮《えんりょ》しておきます。発明部とか美術部とか手芸部とか、見たいところいっぱいあるから」
デートと聞いて、ご一緒できますか。
「写真部は、祥子さまと?」
「うん。蔦子《つたこ》さんが去年撮った、『パネルの前で一枚』の前でもう一枚写真を撮りたいんだって」
「ご愁傷《しゅうしょう》さま。じゃ、後でね」
由乃さんは桜亭に行くため、近道である非常口から校舎に入った。祐巳が、さてどこから回ろうかと思案しながら校舎沿いを歩いていると、突然脇道から人が飛び出してきた。
「あ、危ないっ」
「きゃっ」
こっちの肩と向こうのどこかがぶつかったらしい。弾《はず》みでバランスを崩《くず》した祐巳は、地面におしりと両手の平をついた。
「すみません、ごめんなさい」
勢いで植え込みに踏み込んでしまった足を抜きながら、その人はあわてて祐巳のもとに駆け寄った。同年代の女の子だ。
「おケガはないですかっ。私ったら、急いでいたものだから」
「大丈夫《だいじょうぶ》です。転んだというより、よろけただけだから。それよりあなたの方が」
祐巳は彼女のジャンパースカートから出た足を見た。枝でひっかいてできた傷が、何本もできている。
「あ、こんなのはかすり傷だから」
「でも、後から血がにじんでくるかも。保健室までご案内しましょうか」
「いいんです。お気遣いなく」
彼女がニッコリ笑うので、それ以上は勧めずに祐巳は自分のスカートの汚れを払った。急いでいるというのだから、どこかに連れていったり引き留めたりしては迷惑かもしれない。
その人は、辺りをキョロキョロと見渡して言った。
「ところで、おでんはありますか」
「へ? おでん――? おでんは……ありますよ。この先に」
答えながら、「なぜ今おでん?」と首をひねった。
急いでいる理由が、おでんと関係あるのだろうか。単に空腹を満たすための物がおでんで、切羽詰《せっぱつ》まった状態なのか。それとも今おでんの当番をしている誰かの知り合いなのか。――短時間の間に、祐巳の頭の中はグルグル回った。
しかし、今ここにいる人が急いでいるのは事実であるので、深く尋《たず》ねることもせずに『フジマツ縁日《えんにち》村』までの道を教えてあげることにした。
「あの……おでんはこの先にあるんですか」
「はい」
「そうですか。外に」
意外そうにつぶやいてから、彼女は軽く頭を下げて「ありがとう。では」と目的地に向かって走っていってしまった。
「縁日村の屋台だもん。外にあるよ」
つぶやいてから、何かがかみ合っていなかった気がしてきたが、そんな気がしただけで追いかけるのもどうかと思い、それよりまずは汚れた手でも洗おうと手近な入り口から校舎に入った。普段は来客《らいきゃく》用の出入り口だが、今日はどこから出入りしたって構わない。
入るとすぐに、中にいた人たちから「祐巳ちゃん」と声がかけられた。
「わあ、蓉子《ようこ》さま! 聖《せい》さま!」
前|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》と前|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》がお揃《そろ》いで。麗《うるわ》しいったらありゃしない。
「ご無沙汰《ぶさた》しております。来てくださってうれしい」
二人に駆け寄って、祐巳はぴょんぴょんと跳びはねた。
「お招きいただいたからね。万障《ばんしょう》繰り合わせて来ますともさ」
なんて言っているけれど。紅・白ときて、一つ足りない色がある。
「で、江利子《えりこ》さまは?」
すると、二人は顔を見合わせた。
「私たちが二人になったとたん、みんなが聞いてくるようになったね」
「それだけ三人トリオの印象が強いのね」
うんざりといった感じでつぶやく二人。ここに来るまで、かなり「江利子さまは」「江利子さまは」と聞かれたようである。
「二人になった? じゃ、やっぱりさっきまで江利子さまがいらしたんですか?」
「ブブーッ。はずれ。いたのはユウコちゃんです」
クイズで不正解を告げる司会者のように、聖さまは言った。
「ユウコちゃん?」
「うん。入る前に道で拾ったの。でも、ちょっと目を離した隙《すき》に逃げられちゃった」
「ユウコちゃんって」
佐藤《さとう》聖さまは、また猫か何かと仲よくなったらしい。しかも、すぐにユウコなんて、すごく人間ぽい名前までつけちゃったわけだ。
「あ」
黙って何か考えていた蓉子さまが、豆電球がともるようにつぶやいた。
「わかった。誰かに似ている似てると思っていたんだけれど、ユウコちゃんは祐巳ちゃんに似ているんだわ。顔じゃなくて雰囲気《ふんいき》が。あー、すっきりした」
「……それ、あんまりうれしくないですけれど」
相手が猫じゃね。
でも蓉子さまは「そう?」なんて言ってくれちゃう。生物間の垣根《かきね》のようなものは、それほど気にならないらしい。
「祐巳ちゃん、祥子のクラス行く?」
「あ、ご案内しますよ」
こちらです、って先導しようとした時、祐巳の視界にある物が飛び込んできた。
「ああっ。これは……っ!」
頭の中に豆電球がともるのを通り越して、流れてきた強い電流に負けてショートしてしまった感じ。祐巳はそれを指さしたまま、膝《ひざ》から崩《くず》れた。
「さっきの人が探していたのは、おでんじゃなくて――」
――お・でんわ。
(……電話にお[#「お」に傍点]なんかつけないでよ)
事務室の前には、緑色のカード式テレフォンがどっしりと構えていたのであった。
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ドラマティックス
「え? いないんですか? 当番なのに?」
祥子《さちこ》さまがいるはずの教室にOG二人を伴《ともな》って行ってみたら、そこには祥子さまの姿はなかった。
「さっき、保健委員がやって来て、祥子さんのこと連れていっちゃったの」
三年|松《まつ》組の生徒は祐巳《ゆみ》にそう説明をしてから、背後の元薔薇さまたちを見て「あ、いらっしゃいませ」と頭を下げた。
「保健委員が連れていったって。じゃあ、祥子さまは保健室に行ったんですか?」
「さあ、どうだったかしら。あの時、ここ、バタバタしていたから覚えていないなぁ。あら、大丈夫《だいじょうぶ》よそんな心配そうな顔しなくても。別に祥子さんが具合悪くなったわけじゃなくて、栄子《えいこ》先生が呼んでいるとか、そんな感じだったから。行き違いになると何だから、ここで遊びながら待っていれば?」
「はあ」
祥子さまのクラス三年松組の企画は、『おいしく体力測定』。
そこには、ゲーム感覚で体力測定をしながらお菓子がもらえる、という楽しい世界が繰り広げられている。
一例を挙げると。
壁にくっついた飴《あめ》をとる「垂直跳び」とか。
成績に応じてチョコレートがもらえる「反復横跳び」とか。
反らした高さと同じ長さ分の麩菓子《ふがし》がもらえる「上体反らし」、――などなど。
太りすぎを気にしているお父さんには逆効果だけれど、子供たちには大好評らしい。
「やってみよ、やってみよ」
面白好きの聖《せい》さまが、さっそく食いつく。腕を引っ張られた蓉子《ようこ》さまも、「そうね」と言って教室の中に入っていく。祥子さまが来るまでの時間つぶしには丁度《ちょうど》いい、って。
そうなったら、「祐巳ちゃんも競争しようよ」というお誘いに、祐巳だってよっしゃと腕まくり。まずは、空いていた反復横跳びコーナーに三人並んでスタンバイした。
「いいですか、よーい……」
ストップウォッチをもった係の「スタート!」のかけ声とともに、一斉に横っ飛び開始。タタンタタンと、床に貼られた白いテープをまたぎながら右に左にステップを踏む。
けれど始めて間もなく、自分たちの刻むリズムとは別の足音がドタバタと聞こえてきて、『おいしく体力測定』教室の中まで入ってきた。
「可南子《かなこ》ちゃん?」
思わず横飛びの足も止まる、ってものだ。
「ゆ、祐巳さまっ」
入ってきた可南子ちゃんの方もまた、そこに祐巳がいたことに驚いていた。が、すぐに「すみません、混ぜてください」と三人でキツキツの反復横跳びエリアに無理矢理入ってきて、すでに全員の足が止まっている場所で、一人反復横跳びを始めた。
「ど、どうしたの」
「追われているんです」
その言葉を裏付けるように、またすぐにバタバタと廊下《ろうか》を走る足音が聞こえてくる。
「お願い。知らんぷりしてください」
可南子ちゃんは、必死で反復横跳びをしている。高い身長を少しでも目立たないようにしたいのか、腰を低く落として頭の位置を低くキープしている。その姿勢で反復横跳びはかなりキツイだろうに。
「記録にならないけれど、ま、つき合いますか」
聖さまが可南子ちゃんに合わせて横飛びを再開したので、祐巳もそうした。四人はギュウギュウだからって、蓉子さまが抜けた。
追っ手は、教室の前で一度スピードを落とし、中の様子をざっと見てから再び駆け出す。「知らんぷりして」と言われたからには、できるだけ見ないようにしていたが、やっぱり気になって後ろの出入り口の前を通る一瞬、その人の姿を確認した。
「おでん……」
祐巳がつぶやいた時、蓉子さまもまたその人を見て「ユウコ……」と言った。聖さまは反復横跳びを真剣にやっていたため、「ユウコ」を見逃してしまったらしい。その代わり可南子ちゃんのことは飛びながら観察していたようで、反復横跳びを終えた後、祐巳に小声で「この子|背後霊《はいごれい》ちゃんだよね」と囁《ささや》いた。
「助かりました」
お礼を言って教室を出て行こうとする可南子ちゃんを、祐巳は呼び止めた。
「何があったの?」
「ちょっと会いたくない人とバッタリ。それで、逃げたら追いかけてきたので」
「どっ」
どうして会いたくないの、って言いかけた言葉を飲み込んだ。そんなの大きなお世話、かもしれない。
その時、祥子さまが教室に帰ってきた。
「……可南子ちゃん。どうして」
祥子さまは、そこにいるのが見えているはずなのに、蓉子さまでも聖さまでも、ましてや祐巳でもなく、真っ直ぐに可南子ちゃんのもとに歩み寄った。
「ちょっといらっしゃい」
「は? どちらに」
「保健室よ」
「なぜです」
可南子ちゃんと同じように、祐巳も「なぜ」「どうして」という疑問を表す副詞ばかりが、シャボン玉みたいにポンポンと頭の中に浮かんでは消えた。
「道々話すわ。祐巳もいらっしゃい」
それから祥子さまは、振り返って蓉子さまの前に進み出た。
「お姉さま」
「お取り込み中みたいね」
「すみません。せっかく来ていただいたのに、バタバタしていまして」
「気にしないで。私たちも、用事ができたから。……また後で会いましょう」
聖さまが「私たちの用事って?」と聞き返したけれど、蓉子さまはただほほえんだだけで、聖さまの手を取り教室を出ていってしまった。
祥子さまと可南子ちゃんと祐巳、三人で人の波をかいくぐりながら廊下《ろうか》を歩いていると、少し先に瞳子《とうこ》ちゃんの姿が見えた。
「と……」
祐巳が手を上げて、声をかけようとしたら、瞳子ちゃんはプイッと横を向いて、そのまま駆けていってしまった。
(こっちを見ていたと思ったんだけれど。気がついていかなかったのかな)
その先は体育館につながっているから、ただ『若草物語』の準備のために急いでいただけなのかもしれない。そう思いながら祐巳は、小さくなっていく瞳子ちゃんの後ろ姿を見送った。
「さっき、保科《ほしな》先生に呼ばれたの」
歩きながら、祥子さまが言った。
「保健室に父が来ている、っていうの。だから会いにきなさい、って。保健委員が先生の伝言をもってきて。おかしいでしょう?」
「え? 融小父《とおるおじ》さま、いらしているんですか」
祐巳は尋《たず》ねた。だったら、清子小母《さやこおば》さまも一緒《いっしょ》だろうか。でも、祥子さまは違うという。
「父は一昨日《おととい》、急にニューヨーク行きが決まって、昨日の午後の便で成田《なりた》を発《た》ったの」
成田からニューヨークまでってどれくらいかかるんだろう、と祐巳は考えた。とんぼ返りしたならば、今東京にいることは可能なのかどうなのか。
「何かの間違いだとは思ったけれど、一応保健室に行ってみたわ。それで、やっぱり人違いだったの。その人は私の父ではなかった」
「でも、だったらどうしてお姉さまが呼ばれたんですか」
「保科先生が、勘違《かんちが》いなさったのよ。その方が娘さんに会いに来たとおっしゃったことと、私の名前が入ったチケットを持っていたことが結びついて、誤解されたみたいね」
「えっ」
一つ疑問が解けたら、また一つ謎《なぞ》が。じゃあどうして祥子さまのチケットが、別の生徒のお父さんに渡っているの、って。すると、祥子さまは笑った。
「優《すぐる》さんに、今度たっぷりお灸《きゅう》を据《す》えておかないと」
「優さん、って。犯人は、柏木《かしわぎ》さんだったんですか!?」
「ええ」
容姿などの特徴から、無断でチケットを譲渡《じょうと》したのは柏木さんであるのは間違いないらしい。まったく、あの人は何しているんだ。
「ちょっと驚いちゃったわ。保健室の前で待っていた保科先生が、実は妹さんも来てる、なんておっしゃるのですもの。祐巳のことかと思ったら、違うっていうし。もしやお父さまの隠し子かしら、なんてチラッと頭を過《よぎ》ったりして。ね、心臓に悪いと思わない?」
黙って話を聞いていた可南子ちゃんの足が、突然止まった。保健室まであと三メートルという所だった。
「どうしたの、可南子ちゃん」
祥子さまが静かに聞いた。けれど、可南子ちゃんは答えない。
でも、「どうもしない」顔ではなかった。何かを思い詰めたような、深刻な表情。
「まさか」
代わりに、祐巳がつぶやいた。
「そうよ、祐巳。中にいたのは、可南子ちゃんのお父さまだったの」
可南子ちゃんのお父さん、って。
「ええーっ!!」
それは、何ていうかすごい偶然の話で。教室に戻ってきた祥子さまが、可南子ちゃんを見て驚いていたのも、話を聞いた今なら「なるほど」とうなずけるってものだ。
祥子さまは、可南子ちゃんの正面に立った。
「可南子ちゃん。私は無理に会えとは言わないわ。だから、お節介《せっかい》はここまで。会う気があるなら、自分の意志で中にお入りなさい。会いたくないなら、引き返したっていい。ただこういう機会はめったにないということも、覚えておきなさい。離れて暮らしているのだから、次はいつ会えるかわからないわ。もしかしたら、一生会えないことだってあるのよ。その時、言っておきたいことがあったのに、って後悔《こうかい》しても遅いの」
お節介はここまで。無理に会えとは言わない。――そう言いながら祥子さまは、間接的には「会え」と言っているわけだし、それは十分にお節介に値するアドバイスなんじゃないかと、祐巳は思った。
「墓に布団《ふとん》は着せられず、ってその通りよね」
大きなため息をついて、祥子さま。すると、黙って立ちつくしていた可南子ちゃんが、そこでやっと口を開いた。
「父は、なぜ保健室なんかにいるんです。どこか悪いんですか」
「さあ。私は何も。ただ、保科先生の話では、真っ青《さお》な顔をして保健室に入ってきたそうよ。ベッドを貸してもらえないかって」
それ聞いた可南子ちゃんは、それこそ真っ青な顔をして保健室に飛び込んでいった。
「お父さんっ」
その様子を満足そうに眺めてから、祥子さまは祐巳に「嘘《うそ》はついていないのよ」とニッコリ笑いかけたのだった。
「か、可南子《かなこ》……?」
可南子ちゃんのお父さんは、ベッドには寝ていなかった。
可南子ちゃんが飛び込んできた時は、保科栄子《ほしなえいこ》先生の机の前に椅子《いす》を引いて、雑談をしている最中で。――つまり、ぴんぴんしていた。
しかし、椅子《いす》に座っていても背がものすごく高いってわかる。やっぱり可南子ちゃんのお父さんなんだな、って祐巳《ゆみ》は思った。
「おっ、お父さんは最低よ」
具合が悪くて休んでいるものと思っていたのに、ケロリとしていて腹がたったのか。それとも、父親のことで取り乱してしまったことに対する照れ隠しか。理由はともかく、可南子ちゃんは開口一番、お父さんを「最低」と罵《ののし》った。
「可南子ちゃん、私たちはこれで」
保健室に入りかけた足を、同時に廊下《ろうか》側に戻す紅薔薇姉妹。さすがの祥子さまも、こういう展開になるとは予想だにしていなかったようだ。
「いいんです。お二人とも聞いてください。うちの父がどんなにひどい人間なのか」
可南子ちゃんは、お父さんを見ながら言った。
「でも」
「ええ」
言いながら可南子ちゃんのお父さんを見れば、腹をくくったのか「いてやってください」というように頭を下げた。しかし、久しぶりにあった娘に「最低」と言われてしまうお父さんって、いったい……。
「この人は」
可南子ちゃんは言った。
「バスケの全日本だか何だか知らないけれど、昔の栄光にしがみついて、夢ばかり見て生きているんです。一緒《いっしょ》に暮らしていた時は、お母さんに朝から晩まで働かせて、自分は家でゴロゴロして。時たま後進の育成とか何とか偉そうなこと言って、コーチなんてやっていたけれど、あんなの仕事じゃなくて趣味の延長よ」
そこまで一気にまくし立てると、可南子ちゃんは肩で息をしながらお父さんをにらみつけた。
「反論ないの?」
「……うん。その通りだから」
その通りなのか、と祐巳は思った。けれど、こういっちゃ何だけれど、今可南子ちゃんが羅列《られつ》したお父さんについての苦情のいったいどれが、可南子ちゃんが男の人をあそこまで毛嫌いする原因になったのかよくわからなかった。
だって。今時は夫が家事を一切《いっさい》引き受けて、妻が外へ働きに出るという夫婦だって増えているし。それに夫を働かせて家でゴロゴロしている妻だっているんだから、男だけだめっていうのも変な話だ。夢ばかり見てというのは夢をもち続けているとも言い替えられるわけだし。コーチしてもらって助かっている人だっているだろうし。
「そうよ。お母さんが毎晩お酒に逃げるのも、私の身長がこんなに伸びたのも、劇のセリフをうまく言えないのも、全部お父さんが悪いの」
「あの、細川《ほそかわ》さん。それを全部お父さんのせいにするのはどうなのかしら」
栄子先生がなだめようとしたが、逆効果。可南子ちゃんは、上履《うわば》きで床をドンドンと踏みしめながら癇癪《かんしゃく》を起こすように言い切った。
「全部全部、お父さんが悪い!」
一瞬、しんと静まりかえった。誰もが、可南子ちゃんの怒りのパワーに押されて、言葉を失ってしまったのだ。
「うん。お父さんが悪いな」
可南子ちゃんのお父さんが、ポツリと言った。
「可南子の言う通りだ。全部お父さんが悪かった」
すると。
どうしたことだろう。それが魔法を解く呪文《じゅもん》だったかのように、可南子ちゃんの険しかった表情が、みるみる崩れていった。
「可南子ちゃん?」
「わ、私だって」
ついに泣き顔に変わった可南子ちゃんがつぶやく。
「私だってわかっていたわよ。お母さんが働いていたのは、仕事に生き甲斐《がい》があったからだってことくらい。育児のために仕事を辞めたくない、って希望をお父さんが叶えてあげた、ってことも。お父さんが家を出ていったのも、お母さんが仕事のストレスをお父さんにぶつけたから。このまま一緒《いっしょ》にいたら、互いに傷つけ合うだけだって考えたから、距離を置こうとしたのよね」
あれれ。どうしたことか、可南子ちゃんは今度はお父さんをかばい始めた。
「私、お父さんのこと大好きだった。背が高くて、バスケが上手《じょうず》で。お父さんがうちの中学のバスケ部の臨時コーチになった時、お母さんには悪いけれど毎週会えるのがうれしかった。お父さんのこと、すごく自慢だったのよ」
何だ、端《はた》から見たらいい親子じゃないか、と祐巳が思ったその時。可南子ちゃんが「でも」と突然氷のような冷たい目をした。
「お父さんが夕子《ゆうこ》先輩にしたことだけは、絶対に許せない」
ユウコ。あれ、今日何回目だろう、その名前を耳にしたのは。
「無理矢理|妊娠《にんしん》させて、せっかく入った高校辞めさせて。バスケの選手になる夢だって、お父さんのせいで断たれたんだよ」
うわっ、突然すごい深刻な話に突入しちゃった。案《あん》の定《じょう》、祥子さまは祐巳の隣《となり》で固まってしまった。
「ちょっと待て」
女子校の保健室で女の敵のように罵《ののし》られた可南子ちゃんのお父さんは、あわててストップをかけた。
「お父さんが全面的に悪いが、無理矢理って部分だけは訂正《ていせい》させてくれ」
「嘘《うそ》。夕子先輩は、ずーっと男嫌いだったんだよ。中学時代はいつだって『男なんていらない』って言っていた。中学卒業して、半年やそこらで何が変わるの。お父さんが何かしたに決まってる」
つまり、無理矢理疑惑については脇に置いておくとして。可南子ちゃんのお父さんは、可南子ちゃんの中学時代の先輩とどうにかなっちゃって、その先輩は子供ができたから高校を中退して、同時にバスケもできなくなった、ということらしい。で、名前はユウコさん。
「夕子に聞いてくれ」
可南子ちゃんのお父さんが言った。
「聞いたわよ。お母さんから正式に離婚するって言われて、原因を聞いて、私信じられなくて。それで夕子先輩に会いに行ったら、夕子先輩泣いていたもの。こんなはずじゃなかった、って。お父さんが夕子先輩の人生を滅茶苦茶《めちゃくちゃ》にしたのよ。そうでしょっ!?」
「違うわ」
突然、背後から声がした。祐巳たちは前方の親子の言い争いに集中していたから、正直なところ保健室に人が入ってきたことにはまったく気がついていなかった。
「可南子。ごめん。違うの。全部誤解なの」
振り向けばそこには、さっき「お電話」を探していた彼女が立っていた。なぜか、蓉子《ようこ》さま聖《せい》さまに伴《ともな》われて。なるほど、この人がユウコさん。――何だ、猫じゃなかったんだ。
おでんは(わ)さん改め猫のユウコ改め夕子さんは、「久しぶりね」と可南子ちゃんにほほえんでから、可奈子ちゃんのお父さんに言った。
「ごめんなさい。学校に入れたことを知らせたかったんだけれど、公衆電話が探せなくて」
祐巳は「うわっ、やっぱり」と、うつむいた。
「違うって、どこが違うの?」
可南子ちゃんは、冷ややかに夕子さんを見た。
「どこから話したらいいかしらね」
ゆっくりと可南子ちゃんの前に進み出た夕子さんは、ポツリポツリと語り始めた。
「私、高校に入ってすぐに、交通事故で足にケガをしてね。完治《かんち》したけれど、医者からバスケはもうやめた方がいいって言われたの」
部活の顧問《こもん》の先生に相談したら、「マネージャーにならないか」って勧められたそうだ、夕子さん。
「ケガをしてもしなくても、レギュラーでやっていくのは難しかっただろう、って言われて。結構きつかったな。でも、そうだよね。中学時代バスケでそこそこの成績を残したとしても、高校になると私なんかよりずっと上手《じょうず》な人ばかり。身長だって全然伸びないし。潮時《しおどき》かな、なんて客観的には思ったりするわけよ。でも、私は自分がボールを追いかけたかった。どうしたらいいかわからなくて一人|悶々《もんもん》としていた時にね、細川コーチ、……可南子のお父さんのことを思い出したの。やっぱり昔|身体《からだ》をこわして現役《げんえき》から引退したコーチなら、私の気持ちをわかってくれるって。気がついたら、電話をしていた」
それから、二人はたまに会うようになった。――そう、夕子さんは説明した。
その辺の事情はよーくわかった。けれど、当事者と可南子ちゃん以外の人間、つまり祐巳と祥子さまと蓉子さまと聖さまと栄子先生は、他人の家の込み入った話が耳に入って来ちゃって、正直「どうしよう」状態。ここまで来ると、もうただ立って成り行きを見守るしかない。そっと保健室を出て行けばいいのかもしれないが、話の内容が深刻すぎて、身動きをとるのも物音をたてるのもはばかられるのだ。
夕子さんは続けた。
「こんなはずじゃなかった、というのは、妊娠《にんしん》したことでも高校を中退したことでもないの。可南子をこんなに悲しませてしまった。私が昔味わったと同じ、父親を他の女の人にとられるという苦しみを可南子に味わわせてしまった、そのことを悔《く》やんで泣いたの。私は、二つ下の可南子が可愛《かわい》くて。本当に自分の妹のように可愛くて。でも、馬鹿な私は、よりによって可南子のお父さんなんか好きになっちゃって」
「好きに、なった?」
不可解な言葉を耳にしたとでもいうように、可南子ちゃんは聞き返した。
「そう。好きになったの。だから可南子が私のことでお父さんを許せないのだとしたら、それは私のせいなの」
夕子さんは、一つ深呼吸をした。
「私はあの時、逃げないで言わなければいけなかったのよね。可南子のお父さんが素敵だったから、私は好きになった。許してもらえなくても、憎まれても、それだけはちゃんと告げなければいけなかったんだわ」
それから、可南子ちゃんをそっと抱きしめた。
「ごめんね。可南子」
「夕子先輩、夕子先輩っ」
背の高い可南子ちゃんが、頭一つ分低い夕子さんにしがみついて泣いた。
うるうる、くすんくすん。二人を取り囲む形で、女性五人も静かに頬《ほお》を濡らす中。
「うわあ、あ――――っ」
突如《とつじょ》地の底からわき出してきたような大音響が、保健室にひびき渡った。見れば、可南子ちゃんのお父さんが、仁王《におう》立ちになって滝のような涙を流していた。
すごい。大人の男の人が、子供のように泣いている。ちょっとビックリしちゃって、思わず祐巳の涙は引っ込んでしまった。
「お父さん、みっともないからやめてよ」
「う、うん。そうだな」
必死で笑顔を作りながら、しゃくり上げる可南子ちゃんのお父さん。なのに、泣き声はまだ続いている。
「うわああああん」
でも、どうして? 可南子ちゃんのお父さんは、辛《かろ》うじて泣きやんでいる。ということは――。
皆、顔を見合わせた。
「いけない、忘れていたっ」
あわてて衝立《ついたて》の向こうに駆け込んだのは、可南子ちゃんのお父さん。そして、ハッした顔をしたのは、心当たりのある女性たちだ。
「ベッドに、誰かいるんですか」
心当たりのない祐巳が、誰とはなしに質問を投げかけると、すぐにその答えが目の前、つまり衝立の向こう側からひょっこりと現れた。可南子ちゃんのお父さんが抱いて現れたのは、一歳になったかならないかという赤ちゃんだった。
「さっきここでおむつを替えさせてもらったんだけれど、そうしたら気持ちよくなったのか寝ちゃったんだ。でも、きっとお父さんの泣き声にビックリして起きちゃったんだな」
赤ちゃんは、お父さんに抱かれて落ち着いたのか、顔を涙とヨダレでグチャグチャにしながらニコリと笑った。どことなく、可南子ちゃんに似ている。
「次子《ちかこ》。次の子って書くんだよ」
「次子」
名前を呼びながら、可南子ちゃんは自分の妹の頭にそっと触れた。
「抱いてみて」
夕子さんが次子ちゃんをお父さんから受け取って、可南子ちゃんに差し出した。
「む、無理よ」
「大丈夫《だいじょうぶ》。首はすわっているんだから。ちょっとやそっとじゃ壊れないって。わかった、手を添えていてあげるから」
可南子ちゃんがおっかなびっくり手を前に差し出した時、祐巳の肩がポンポンと叩かれた。顔をそちらに向ければ、祥子さまが目で「行きましょう」と合図している。蓉子さまも聖さまも栄子先生も、すでに保健室を出ていた。家族団らん、じゃないけれど、少しの間四人にしてあげましょう、というわけだ。
うん、それがいいね。そう思って、祐巳も保健室を後にした。
扉一枚|挟《はさ》んでこっちは、向こう側とは別世界だった。廊下《ろうか》は生徒やお客さんが、相変わらずがあっちへ行ったりこっちへ来たり。そうだ。今日は学園祭だった。
「さて。我々も、どこか回りますか」
聖さまが「うーん」と伸びをした。
「そうね。まだ一時半ちょっと前だから――」
蓉子さまのつぶやきに、ハッと我に返る。
「いけないっ。『若草物語《わかくさものがたり》』が!」
えっと、保健室から体育館にはどう行ったらいいんだっけ。プチパニックを起こしていると、祥子さまが人差し指を真っ直ぐ廊下《ろうか》の彼方に向けて言った。
「先にお行きなさい。私たちは後から追いかけるから」
クラーク博士像みたいなお姉さまに、ほれぼれしながら「はいっ」と返事。
「あ、栄子先生。可南子ちゃんに『とりかえばや』には遅刻しないで、って言っておいてください。それじゃっ」
先生や生徒会長の前だけれど、祐巳は廊下を走らせてもらうことにした。といっても、人がたくさん歩いているから、そんなにスピードは出ない。
「祐巳ちゃんは何でそんなに焦《あせ》ってるの?」
背中に、蓉子さまの声が聞こえた。
「演劇部の舞台に、山百合会《やまゆりかい》の手伝いをしてくれている一年生が出るんですの」
祥子さまの答えが小さくなっていく。最後の声は消え入りそうだったけれど、はっきり聞こえた。
「ああ、あの電動ドリルか」
――電動ドリルって。悪いよ、聖さま。
瞳子《とうこ》ちゃんのエイミーは素晴らしかった。
演劇部の『若草物語』は大成功で、アンコールを何回ももらっていた。しかし、自分のことじゃないのに、よく知っている人が出ていると、大きな拍手に対して「ありがとう」って気持ちになるのはなぜなのだろう。
「いやだわ、すでにフィナーレみたいな顔しないでちょうだい。まだ、これから私たちの劇があるのよ」
幕が閉じて体育館の出口で再会した祥子《さちこ》さまが、あきれ顔で言った。
「はいっ。負けないようにがんばります」
気をつけして敬礼したら、お姉さまは「それでいいわ」と笑った。
「劇が終わったら、一緒《いっしょ》に学園祭を回りましょう。可南子《かなこ》ちゃんのこととかあって、まだ写真部すら覗《のぞ》いていないものね」
わ、デートだ。
「私、桜亭《さくらてい》にも行きたい」
「いいわね」
「お姉さま、私にコーヒーとクッキーをご馳走《ちそう》してください」
「いやよ」
「えーっ」
「だって、お二人でどうぞって、ただ券もらったんですもの」
先日試食してもらったお礼に、人数分置いていったんだって。祥子さまは、二枚の食券をピラピラさせて笑った。
「何だぁ」
腕に腕をからませて、そのまま楽屋になっている更衣室へと雪崩《なだ》れ込む。しかし、中にはまだ『若草物語』の役者さんたちが残っていたものだから、二人は一斉《いっせい》に注目をあびてしまった。
「あ、失礼」
あわてて隅の方に移動する。祐巳《ゆみ》はざっと更衣室内を見回した。まだ楽屋入り時間まで少しあるから、由乃《よしの》さんたちや志摩子《しまこ》さんたちは来ていなかった。――と、目が一点にとまった。
あの後ろ姿は瞳子ちゃんだ。
みんな似たような衣装《いしょう》を着ているのに、そこだけ空気がピリピリしているからすぐにわかってしまう。その上、あんなに騒がしく入ってきたのに一人だけ振り返らない。絶対に振り向いてやるものか、ってそんな風にさえ見えた。
「お姉さま」
祐巳は、隣にいる祥子さまに小声で言った。
「楽屋入り、十五分ほど遅れてもいいですか」
お伺《うかが》いをたてられた祥子さまは、一瞬驚いていたようだけれど、やがて静かにうなずいた。
「……いいわよ」
「ありがとうございます」
一礼してから、瞳子ちゃんの後ろに立った。何も聞かないところをみると、祥子さまはこれから祐巳が何をしようとしているか、ちゃんとわかっているようだった。
「瞳子ちゃん。よかったよ」
「遅刻してきたくせに」
あ、廊下《ろうか》で見たのと同じ「プイッ」だ。
「あれ? 気がついた? でも、瞳子ちゃんが最初のセリフを喋《しゃべ》る前だってば」
回り込んで顔を覗《のぞ》き込むと、避けるように急に歩き出す。
「着替えるんで、そこどいてください」
瞳子ちゃんたら、歩きながら背中のファスナーをさぐるものだから、なかなか引き手をつまめない。手伝ってあげようかと手を伸ばしかければ、「触らないで」と言うみたいに振り払おうとする。
「瞳子ちゃんさ、それ脱いだらそのまま『とりかえばや物語』の衣装《いしょう》を着るの?」
「もちろんです……けど?」
「それ脱いで、まずは制服着て、でまた制服脱いで、それから『とりかえばや』の衣装じゃ、やっぱり面倒くさいよね」
「何おっしゃっているんですか」
「じゃ。いっそ、このまま出かけない?」
「はっ?」
瞳子ちゃんは、間の抜けた顔をした。
「ほら。約束したじゃない。瞳子ちゃんが一年|椿《つばき》組を案内してくれるって」
「い、今?」
「そ。悪いけれど、私、今しか時間ないんだわ。というわけで、よろしく」
返事を待たずに手を取った。幸い、ファスナーだってまだ下りていないことだし。
「祥子お姉さまぁ」
手を引かれながら、助けを求める瞳子ちゃん。だが祥子さまは。
「残念ながら、遅刻二十五分までは私は何も言えないの。でも、二十五分を一分でも過ぎたら、その時は許さないわよ」
「お許しが出た。ほら急いで」
「あれのどこがお許しなんですかっ」
瞳子ちゃんは引きずられながら抗議したけれど。わかってないなぁ。祥子さまのあれは、正真正銘《しょうしんしょうめい》「お許し」なんだってば。
更衣室を出ると、瞳子ちゃんはやっと抵抗するのをやめた。観念したのか、はたまた暴れるのは端《はた》から見るとみっともないと気づいたのか。
「おい、祐巳? どこに行くんだ?」
途中、渡り廊下《ろうか》でバッタリ会った祐麒《ゆうき》が、体育館から逆走してくる姉を何事かと呼び止めた。
「祐巳さん? えっ、瞳子ちゃんも?」
乃梨子《のりこ》ちゃんと一緒《いっしょ》に歩いてくる志摩子さんもまた、目を丸くしている。
「時間がないからまた後でね」
どちらにもそう言って、スピードも緩《ゆる》めずに校舎に向かって突き進んだ。
古い形のドレスを身にまとった瞳子ちゃんは、かなり人目をひいた。何かのパフォーマンスか、って思った人もいたみたいだ。
そうだ、こんなシーンどこかで見たことがある。祐巳は走りながらそう思った。ラスト、主人公が教会から花嫁《はなよめ》をさらって一緒に逃げるっていう古い映画。ちゃんと観たことはないけれど、有名だから知っている。
「約束なんて……」
ふて腐《くさ》れるような顔して走りながらも、エイミーはつないだ手を、ギュッと握り返してきた。
『山百合《やまゆり》版・とりかえばや物語』は、大混乱と大爆笑のうちに幕を閉じた。
初《しょ》っぱなから、薬師寺《やくしじ》兄弟がやってくれた。あんなに繰り返し確認したのに、やっぱり本番でも立ち位置を間違えてしまったのだ。
でも二人ともあまりにそっくりな上に、役者もスタッフも幕が開いたら自分の仕事で精一杯で誰もそのことに気づかず、二人のセリフがいつもと逆の方向から聞こえてきたことで事態を把握《はあく》した祥子《さちこ》さまの機転で、上手《かみて》と下手《しもて》に分かれてスタンバイしていた福沢《ふくざわ》姉弟が舞台下の通路を走って入れ替わる、という荒技をやってのけた。
お蔭で、ギリギリ登場シーンに間に合った主役二人は、舞台が始まったばかりというのに全力|疾走《しっそう》したみたいに息を切らし、その後、場面転換するまでの間は稽古《けいこ》とは左右逆の演技をし続けるはめになった。
ところで、その原因を作った薬師寺さんたちはというと、最後まで自分たちの間違いに気づいていなかった。
「登場シーンで、祐巳《ゆみ》ちゃんは何で息を切らせていたんだ?」
「そういえば、ユキチも息を切らせていたぞ」
「……」
なんてうらやましい性格をしているんだ。――薬師寺兄弟を除く、その場にいた全員がそう思ったはずだ。だが、二人はそこに存在しているだけで予想以上に笑いをとってくれたから、しょうがない。許す。
あとは、宰相《さいしょう》(由乃《よしの》さん)が姫君(祐麒《ゆうき》)の着物の裾《すそ》を思いっきり踏んづけてしまい、二人|一緒《いっしょ》に床の上に這《は》いつくばってしまったり。
移動中にどこかにぶつけてヒビでも入っていたのか、帝《みかど》(志摩子《しまこ》さん)の座っていた床板がみしみしと割れていき、最終的には上段にいるはずなのに他の人たちと同じ目線になってしまうというハプニングがあったり。
右大臣《うだいじん》の母(高田《たかだ》君)が「母は」というセリフをつい「ママは」と言ってしまって(家でそう呼んでいるんだろう)、仕方なく右大臣の父(瞳子《とうこ》ちゃん)が「父は」を「パパは」というアドリブをかまして誤魔化《ごまか》したり、――といったところだろうか。
まあ、いろいろあったけれど、全体的にドタバタしていたから、お客さんはどこまでがギャグでどこまでがハプニングかわからないまま、笑って観てくれたようだ。娘と息子の晴れ舞台を見に来た両親が後々そう言っていたから、間違いない。
可南子《かなこ》ちゃんは、言いつけ通りちゃんと『とりかえばや物語』の舞台を踏んだ。「愛《いと》しい子ら」のセリフは相変わらず上手《じょうず》には言えなかったけれど、でも以前よりは少しだけ表情が和《やわ》らいでいるように見えた。でも、それは「そうあってほしいな」という祐巳の気持ちが、そう見せたのかもしれないけれど。
あの後、三人でどんな話をしたのかは聞いていない。だけど、控え室でお化粧《けしょう》している時、可南子ちゃんが乃梨子《のりこ》ちゃんに「チケットはちゃんと渡したわよ」と報告していたから、いい感じなんじゃないのかな、と、これまた勝手に解釈してしまおう。
「さ、アンコールよ」
令《れい》さまの声が、出演者たちを舞台へと押し出す。
可南子ちゃんのお父さんと夕子《ゆうこ》さんと次子《ちかこ》ちゃんが、この会場のどこかで見ていてくれているといいな、と、思いながら、鳴りやまない拍手と、まぶしいスポットライトの中で、祐巳は客席に深々と頭を下げたのだった。
パチパチと音をたてながら、炎が天に向かって伸びていく。
長いこと準備してきたのに、学園祭の一日って瞬きのようにすぐに終わってしまうものなんだった。そういえば。
振り返れば、すごく濃い一日だった。充実していた、とも言い換えられるけれど。
そんな中身の詰まった日中だったからこそ、日が暮れてしまうと、一気にその反動のようなものが心の中に押し寄せてきて、言葉にするのは難しいけれど、寂しいというか切ないというか、しんみりした気持ちになるのかもしれない。
グラウンドの真ん中では、毎年恒例のファイヤーストーム。
聞こえてくるは、アコーディオンの調べ。ギターの歌声。マンドリンの哀愁《あいしゅう》。
火を囲み、輪になって踊る少女たち。そこでは、まだ祭りは終わっていない。だからきっと、祐巳は何となく輪の中に入りそびれてしまったのだ。
トラックの外の土手の上にしゃがみ、離れた場所からストームの火の揺らめきをぼんやりと眺めた。
何やっているんだろう、って。何をしたいんだろう、って思いながら、でも今はただそうしていたかった。
「あなたって、後夜祭は毎年一人でいるのね」
肩を叩かれて振り返れば、そこに祥子《さちこ》さまが立っていた。
「……毎年って。たまたま去年と今年、重なっただけで」
「そうね。で、いったい何をしているの?」
「黄昏《たそが》れているんです」
お祭りの後の寂しさを、噛みしめているのだ。
「黄昏なんていう時間は、もうとうに過ぎたけれど」
祥子さまは、スカートのプリーツを膝《ひざ》の裏側にはさみながら、ゆっくりとしゃがんだ。どうやらつき合ってくれるらしい。
「それで、お姉さまは毎年私を捜し出すんですね」
「邪魔《じゃま》だった?」
「いいえ」
祐巳《ゆみ》は首を横に振った。祥子さまならいい。祥子さまでなければ駄目《だめ》だ。
祭りの終わりに、二人|一緒《いっしょ》に、何も言わないで遠い火を見ている。たったそれだけのことなのに、だんだん心が満たされていく。
祭りのさなか、『桜亭《さくらてい》』でお茶をしたり、写真部で記念写真を撮ったり、『フジマツ縁日《えんにち》村』で遊んだり、できるだけたくさん見ようとクラスやクラブを駆け足で回ったりした時に感じた充実感。それとはまったく別の幸せだった。
ずっとこのままでいたいような気がした。けれど、それが叶わないことだってちゃんとわかっている。
夜がもっと深くなれば、自分たちはぞれぞれ家路につくだろう。この瞬間を切り取って、そこに留まることなんてできないのだ。
二人の間の沈黙を破ったのは、祥子さまだった。
「祐巳」
「は、はい」
ドキッとして、肩が上下してしまった。
「何なの。そんなに驚くこと?」
「いえ」
「一年|椿《つばき》組はどうだったのかしら、って聞こうと思っただけよ。瞳子《とうこ》ちゃんに案内してもらったのでしょう?」
「あ、それならとてもすばらしかったです」
一年椿組は乃梨子《のりこ》ちゃんが仏像マニアってところからヒントを得て、『他教のそら似』展という、仏教とキリスト教の共通点を探してレポートを発表したのだ。
「でも、瞳子ちゃんの話では、乃梨子ちゃんよりも、むしろ他のクラスメイトたちの方が熱心になっちゃったそうですよ。それで侃々諤々《かんかんがくがく》の議論を戦わせたらしいけれど、その結果、いいものができたんですって。先生や父兄の方たちの評判もまずまずだったみたいです」
「そう。見にいけばよかったかしら」
「え、行かれなかったんですか」
一緒《いっしょ》に学園祭巡りをしていた時、一年椿組の前を素通りしたから、てっきりもう見ていたのかと思っていた。
「だって。とてもじゃないけれど、全部を回る時間なんてなかったじゃない。祐巳が行ったなら、それでいいと思ったのよ」
祥子さまは、さらりと言った。
「えっ」
うわ、まずい。こんな何でもないような会話で涙腺《るいせん》ゆるんでいるようで、どうする。祐巳は、あわてて言葉を探した。
「そういえば、入場記念にビーズで作った数珠《じゅず》リオっていうのをもらえるんですけれど、瞳子ちゃんが作ったのってすぐわかっちゃって。ほら」
手首にぶら下げたブレスレットを外して、お姉さまに差し出した。一年椿組の『他教のそら似』展を見た人が出口で記帳するともれなくもらえる、いわばお土産《みやげ》である。形はロザリオに似ているけれど、十字架はついていなくて、長さも短い。数珠とロザリオの中間みたいな腕輪だ。
「数珠リオ? あら、まあ」
輪の部分は大きなビーズが紅・白・黄の配列で並んでいる。本来十字架があるべき先の部分には小さなビーズで作った紅い薔薇《ばら》・白い薔薇・黄色い薔薇が緑色のリボンで括《くく》りつけられていた。
「すごく派手……、いえカラフルでしょ? これだけ、すごく目立ってました。他の人が作ったのは同系色でまとめたり、グラデーションをつけたり、結構シックな物が多かったんです」
「そういえば、志摩子《しまこ》もそんなのをしていたわ。白っぽくてシンプルなの」
「きっと乃梨子ちゃん作、じゃないですか」
「そんな感じね」
祥子さまは笑いながら、ブレスレットを返してよこした。
「瞳子ちゃん、喜んでいたでしょう? 祐巳が自分の作った物を選んで」
「どうなんですかね」
本当にどうなんですかね、としか言えないような態度なものだからわからない。瞳子ちゃんの作ったブレスレットを手に取れば、怒ったみたいな顔をしているし。それじゃあ、と、別のブレスレットを取れば、ふて腐《くさ》れるみたいな表情になるし。可愛《かわい》いんだか可愛くないんだか。本当に、どうなんでしょうね、だ。
「祐巳」
祥子さまが立ち上がった。
「はっ」
突然だったから、ビックリして身構える。
「少し、歩かない?」
「は、……はい」
返事をしてから、後に続いた。隣《となり》を歩いてもよかったんだけれど、何となく半歩後ろを歩く。
半歩が一歩になり、一歩が二歩になった。お姉さまは、いったいどこに行くつもりなんだろう。それがわからないから、何となく足取りが重くなるのだ。
グラウンドの喧噪《けんそう》が次第に遠くなり、いつしか木々のざわめきに変わる。
「祐巳」
突然、祥子さまが振り返った。
「は、はいっ」
またしても、飛び上がってしまった。すると、祥子さまは言った。
「あなた、私相手に何をそんなに警戒しているの」
「警戒、しているように見えますか」
祐巳は、自分が警戒しているのかどうか、よくわからなかった。ただ、お姉さまにはそんな風に映っているんだ、って。そう思った。
「それとも怯《おび》えているのかしら。私が、何かするとでも思って?」
「何か、する予定でもあるんですか」
「質問を質問で返すの、おやめなさい。ただ、私はあなたと一緒《いっしょ》に歩きたいと思っただけよ」
ため息を吐いて、祥子さまはまた先を歩きはじめた。呆《あき》れられたかな、と思いながらも、祐巳は後をついていく。お姉さまは「一緒に歩きたかった」と言ったのだから。ついてくるなとは言わないだろう。
マリア像の前まで来た時、祥子さまは何か思い当たったみたいに立ち止まって、祐巳に尋《たず》ねた。
「去年の後夜祭で私たちは姉妹《スール》になって、それからちょうど一年だから? もしかして、それと関係あるの?」
指摘されて、初めて祐巳もそうかもしれないと感じた。黙っていると、祥子さまは察したみたいに祐巳の肩に手を置いた。
「あなたって、不思議な子ね。もし、それで私が何かをするとしたら、うれしいことを期待するのではなくて?」
一ホールのショートケーキが、祐巳の頭に浮かんだ。
「まさか、ロザリオを返せって私が言うなんてこと、これっぽっちも思っていないのでしょう?」
「はい。それは」
たぶん、自分は学園祭の日を誕生日のような記念日にするのを恐れているのだ、と祐巳は思った。一年目の今年はいい。でも、今年二人で祝ってしまったら、今年のその記憶が楽しければ楽しい分だけ、来年一人で学園祭の日を迎えるのが辛《つら》くなる。だから――。
でも、そんなことをお姉さまには言えない。卒業したら嫌、だなんて。言ったところでどうにもならないことを言っても、お姉さまを困らせるだけのことなのだ。
「私はね、祐巳」
「はい」
「今夜、特に何かするつもりはなかったわ」
祥子さまは、子供に諭《さと》すようにゆっくりと告げた。
「忘れていたわけじゃないの。あなたの誕生日やホワイトデーみたいに、何かしなくちゃって思いながらなかなかしてあげられなかった、というのとも違うの。どうしてだかわかる?」
祐巳は、首を横に振った。
「私にとっては、何も今日だけが特別な日ではないからよ」
今日だけが特別な日ではない。――何だろう、その言葉のもつきらめきは。
「だって、明日も明後日《あさって》も、変わりなく祐巳は私の妹で、今までもそしてこれからもそうなのに。どうして、わざわざ一年で区切らないといけないの。私にとっては、今日は特別でも何でもない、昨日と変わらないただの一日よ」
「あ……」
祥子さまの言葉は、キラキラと輝いて祐巳の心に降ってくる。受け取ってみて初めて、それが今、自分にとって一番欲しかったものだと知った。
「私の言っている意味、わかるかしら」
祐巳は、今度は大きくうなずいた。
「目から鱗《うろこ》がはがれて、涙が出てきました」
「ばかね」
どうしよう、涙が止まらない。
うれしかったり、悲しかったり、切なかったり、ありがたかったり、大好きだったり、寂しかったり、いろいろな気持ちがミックスされて、何味だかわからない涙が、次から次へとあふれてきた。
祐巳は、祥子さまにすがりついた。
お姉さまが泣かせたんだから、遠慮《えんりょ》なんかいらない。たとえすべてがお姉さまのせいじゃなくても、構わない。
祐巳は、祥子さまのただ一人の妹。だから、いいんだ。独《ひと》り占《じ》めしたって。誰に遠慮《えんりょ》することがある。
しばらく抱きしめてくれた後、祥子さまはそっと身体《からだ》を離して、グジャグジャになった祐巳の顔を真っ直ぐに見た。
「祐巳」
そして言う。
「あなた、妹を作りなさい」
「え……っ」
[#挿絵(img/18_189.jpg)入る]
祥子さまは嘘《うそ》つきだ。
特別でないただの一日だなんて言いながら、姉妹《スール》になって一年目の今日、決して容易ではない課題を祐巳に与えたのだから。
[#改ページ]
あとがき
たとえば。
小春日和《こはるびより》。
祐巳《ゆみ》と祥子《さちこ》が、制服のまま、学校の屋上かなんかでごろりと寝っ転がっています。
昼休みの延長、って感じがいいかな。
場合によっては、午前中からずっとそうしているのかもしれない。
澄んだ空に、雲がぽつんぽつんと浮かんでいます。
それをただぼんやり眺めながら、祥子さまは「平和ね」なんてつぶやき。祐巳は、飛行機雲を指さしながらくしゃみをしたりして。
それで、まあ午後の三時くらいになって、少し陽も陰ってきたし、そろそろ下におりましょうか、ということになる。
立ち上がって、スカートの埃《ほこり》をはたきながら一言。
今日は、何もない一日だったわね。
――みたいな話。想像していませんでしたか? 『マリア様がみてる 特別でないただの一日』というタイトルを知った時。
こんにちは、今野《こんの》です。
でも、そりゃ成立しないってば。
まず、何もなければ、ページ埋まらないもの。
二十ページくらいだったらどうにかこうにか小細工《こざいく》して埋まるかもしれないけれど、文庫本一冊分はとうてい無理。間に、別ネタをいくつか挟《はさ》んでもいいという条件付きなら、あるいは可能かな。
気が向いたらチャレンジしてみるのもいいけれど、屋上ごろりはやっぱりだめでしょう。だって。
午後の授業どうなっているんですか。
一応いつも真面目《まじめ》に授業を受けている二人が、出席しているのに授業に出ていなかったら、担任もクラスメイトも探しますってば。で、二人がのんびりしている間に大事《おおごと》になっていて、発見されたと同時にその日は一転して「特別な一日」に。
わかりました、じゃあ土曜日の午後ということにいたしましょう。
だとしたら、たぶん、もっと早いうちに屋上のドアを内側から閉められちゃうと思う。鍵《かぎ》をしめに来た先生なり守衛《しゅえい》さんなり生徒なりが、運よく見つけてくれればいいけれど、二人がそこにいることに気づかず施錠《せじょう》してしまったらどうするの。
「開けてー、開けてー」ドンドンドンドン。
もしくは、「助けてー」って屋上から地上に向かって大声で手を振り続ける。えーっ、祥子さまが? まさか。
あ、ちなみに携帯電話で助けを呼ぶというのは無理ですから。学校には持ってきてはいけないことになっています。
かといってなぁ。鍵をかけにきた誰かに見つかっちゃうのも、それはそれで、すごく恥ずかしいだろうけどね。
何てったって、姉妹《スール》でごろん、だもん。見つけた方も赤面ものだ。
というわけで、これでは全然「特別でないただの一日」にはなりません。
たとえ、何事もなく平和なお昼寝タイムを終えたとしても。たぶん、間違いなく日焼けしていると思いますしね、お二人さん。とすると、「特別なことはないけれどヒリヒリした一日」ですか。
与太話《よたばなし》はさておき。
お待たせしました、とうとう学園祭です。
姉妹《スール》になって一周年です。記念日です。アニバーサリーです。メモリーです。
でも、「特別じゃない」なんてタイトルをつけてしまいました。なぜなら、作者が天《あま》の邪鬼《じゃく》だから。あ、うそうそ。私が天の邪鬼なのは本当ですが、タイトルは素直に決めました。
しかし、ついに一巡ですよ。
前作『チャオ ソレッラ!』までで十七冊(プレミアムブックは、別格なのでここでは数に入れない)。初めのうちは一ヶ月一冊|勘定《かんじょう》で計算していたので、まる一年物語が進行したら十二冊くらい、と漠然《ばくぜん》と思っていましたが、結構書きましたね。前後編もあったし、番外編集もあったりしたので、結果まあこんなもんかな、とも思いますが。
物語は一年ですが、一巻目が出たのが九十八年だからもう六年も経っている。祐巳より年下だった読者だって、もうずいぶんと前に蓉子《ようこ》たちの歳《とし》を追い越しているかもしれません。
何か、すごいなぁ。もちろん、最近読み始めました、って方は、そういう感覚はほとんどないでしょう。
約六年間で一年分。逆に、たった一行で百年くらい経過させてしまうことだってできるわけだし。小説って(漫画も、ドラマも、映画もそうですが)面白いですね。
ここら辺で、本編の話を少し。
学園祭だから、ぐっちゃぐっちゃ感がありますよね。話の中には出てこなくても、陰ではいろいろなことが起きているような気がしませんか。
たとえば、あの人とかこの人とかは学園祭に来ていたのかしら、とか。
その人と彼《か》の人は、どこかでニアミスしていたっておかしくないよね、とか。
想像しただけで、短編をいくつか書けそうです。機会があったら、どこかで発表するかもしれないし、誰かの口から「こんなことがあったよ」という形でお知らせするかもしれません。
……って言いながら、すっかり忘れることもありえるけれど。
先日もお風呂《ふろ》で髪の毛を洗っている最中に「そうだ、これをあとがきに書こう」とひらめいたのに、脱衣所を出たときにはすっかり忘れて未だに思い出していません。「あとがきに書こう」の方だけ覚えていたって、何も役に立たないっていうのに。
でも、髪の毛洗っている時にはさすがにメモれないってば。
ねえ?
[#地から1字上げ]今野緒雪
底本:「マリア様がみてる 特別でないただの一日」コバルト文庫、集英社
2004年10月10日第1刷発行
このテキストは、
(一般小説) [今野緒雪×ひびき玲音] マリア様がみてる 第18巻 「特別でないただの一日」.zip tLAVK3Y1ul 29,432,583 6a66e64efc80292d95ef1e8bbabc5419
を元に、OCRと手打ちの2種類のテキストを作成し、両者をエディタの比較機能で比較して差異を底本と照合、修正する方法で校正しました。
画像版の放流神に感謝します。
*******【踊れ】底本の校正ミスと思われる部分【大漁踊り】*******
底本p014
「う、美しきの宇宙人、月に帰るの巻?」
美しき宇宙人
底本p021
発注された衣裳なり小道具なり
底本p035
芝居《しばい》の打ち合わせ兼お稽古《けいこ》兼|衣裳《いしょう》合わせのために
底本p036
あーっ、これ仮縫《かりぬ》いの衣裳《いしょう》?」
「衣装」と「衣裳」。他はすべて衣装なので統一したほうがいいと思う。
底本p028
「一代記? 違うんないんじゃないの? 薫《かおる》がいるんだから」
違うんじゃ
底本p057
残りは学校単位で自主連、と」
自主練
底本p084
「よくないよ。それってサボリじゃない。
サボ"る" から、「サボり」とするか、名詞形は「サボリ」と考えるか。
サボタージュ(死語)とするわけにもいかんし。
底本p102
もっと話題になっているはずから、
底本p104
彼らの異性を完全無視することで自分を保つことにしたらしい。
「彼ら異性を」か。「彼らを完全無視」、「異性を完全無視」とシンプルにしたほうがすっきりすると思う。
底本p108
右大臣《うだいじん》である瞳子ちゃんの妻、小林《こばやし》君なんか、
右大臣の妻は高田君(底本p076-077、底本p178)
※ 後出の底本p178についての注記も参照
底本p109
瞳子ちゃんは、袴《はかま》の裾《すそ》を踏まないように股《もも》の当たりを摘《つま》んで、
当たり → 辺り
余談ですが、ルビ無し版では 股→太股 にしたいような。
股《また》の辺りを〜と読まれそう。
底本p127
あったはずなんだれど。
底本p127
どこからか沸いてきた数人の男どもが、祐巳を取り囲んで頭を下げた。
"沸いて" → "湧いて"
底本p139
志摩子さんを無理矢理引きかえらせ、
引きかえさせ
底本p149
誰かに似ている似てると思っていたんだけれど、
「似ている」か「似てる」のみにするか、「似ている似ている」「似てる似てる」にするか。
底本p152
一斉に横っ飛び開始。
底本p153
思わず横飛びの足も止まる、ってものだ。
底本p153
聖さまが可南子ちゃんに合わせて横飛びを再開したので、
"横跳び" か、"横飛び" か。この三箇所以外は "横跳び" になっている。
底本p156
気がついていかなかったのかな)
"気がついていなかったのかな" あるいは "気がつかなかったのかな"。
底本p159
それ聞いた可南子ちゃんは、
それ"を"聞いた
底本p165
可奈子ちゃんのお父さんに言った。
底本p169
そして、ハッした顔をしたのは、
ハッとした
底本p170
廊下《ろうか》は生徒やお客さんが、相変わらずがあっちへ行ったりこっちへ来たり。
相変わらずが → 相変わらず
底本p171
「あ、栄子先生。
レイニーブルーp101によれば、「栄子センセ」は一部生徒が親しみを込めて陰で呼んでいるだけ。直接話しかけるときは「保科先生」。よほど焦っていたと解釈するなら、祥子達からの突っ込みが欲しかった。
底本p178
右大臣《うだいじん》の母(高田《たかだ》君)が「母は」というセリフをつい「ママは」と言ってしまって(家でそう呼んでいるんだろう)、仕方なく右大臣の父(瞳子《とうこ》ちゃん)が「父は」を「パパは」というアドリブをかまして誤魔化《ごまか》したり、――といったところだろうか。
高田君と瞳子ちゃんは右大臣夫妻(底本p076-077、底本p108)。なので、引退して子が右大臣職を継いだというストーリーでない限りは、
"右大臣の母" → "右大臣の妻"
"右大臣の父" → "右大臣"
が正しいのではないかと思われます。
底本p181
夜がもっと深くなれば、自分たちはぞれぞれ家路につくだろう。
ぞれぞれ → それぞれ
********************************************