マリア様がみてる
チャオ ソレッラ!
今野緒雪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)それぞれの餞《はなむけ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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もくじ
チャオ ソレッラ!
それぞれの餞《はなむけ》
出だしのハプニング
ゆるゆる問答
真実の口の泣き言
花の都はどんな街
響く! 傾く!! 溶けている!?
インコのヒント
水の都から島国へ
お土産《みやげ》レポート
| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》の不在
あとがき
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[#地付き]イラスト/ひびき玲音
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チャオ ソレッラ!
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「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶《あいさつ》が、澄みきった青空にこだまする。
マリア様のお庭に集《つど》う乙女《おとめ》たちが、今日も天使のような無垢《むく》な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
汚《けが》れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。
スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻《ひるがえ》らせないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
私立リリアン女学園。
明治《めいじ》三十四年創立のこの学園は、もとは華族《かぞく》の令嬢《れいじょう》のためにつくられたという、伝統あるカトリック系お嬢さま学校である。
東京都下。武蔵野《むさしの》の面影《おもかげ》を未だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎《ようちしゃ》から大学までの一貫《いっかん》教育が受けられる乙女の園。
時代は移り変わり、元号《げんごう》が明治から三回も改まった平成《へいせい》の今日《こんにち》でさえ、十八年通い続ければ温室育ちの純粋|培養《ばいよう》お嬢さまが箱入りで出荷される、という仕組みが未だ残っている貴重な学園である。
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【修学旅行】児童・生徒らに日常経験しない土地の自然・文化等を見聞学習させるために教職員が引率《いんそつ》して行う旅行。わが国独特の学校行事。(広辞苑《こうじえん》)
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――と、いうわけで。
やって来ました、非日常の土地。
けれど、場所を移そうとも、セーラーカラーは翻らせずにおしとやかに歩かなくっちゃ。
いつでもどこでも私たちを見守ってくださるマリア様が、この土地ではより近くに感じられるから。
赤いパスポートを握りしめ、いざ初めての海外旅行へ。
チャオ、イタリア!
未知なる国の一週間の、始まり始まり。
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それぞれの餞《はなむけ》
1
「今、何て言われました?」
M駅の改札前で、祐巳《ゆみ》は聞き返した。相当間が抜けた顔をしてしまっていることは、鏡を見るまでもなくわかった。
「『あなたは時々、大胆《だいたん》な行動に出るから心配だわ』」
カセットテープを巻き戻してから再生するように、祥子《さちこ》さまは少しの間をおいてから言った。感心することに、それは先ほどと寸分違《すんぶんたが》わぬ言葉であったのだけれど、残念ながら祐巳が求めていた答えではなかった。
「いえ、その前です」
「その前? じゃ、『肩の力は抜いていいけれど、気は引き締めるのよ』」
「もう一声」
「もう一声? 『明日から修学旅行ね』……?」
「あっ、いえっ」
おいおい、学校の前から乗ったバスがM駅北口に着いた頃までさかのぼっちゃったよ。それじゃ、いくら何でもテープの巻き戻しすぎ。五分も前の話ではなくて、たかだか一分前のことなんだけれど。
もしやとぼけているんじゃなかろうか、と思いながら顔をうかがったところ、存外お姉さまは真顔なのである。
二人の脇を、人が忙《せわ》しく通り過ぎる。これから電車に乗る人、電車から降りてきた人。夕方の改札口付近は、学校帰り会社帰りの人たちで混雑していた。
「お土産《みやげ》は何がいいですか、って私がうかがいましたよね。そうしたら、お姉さまは」
「『あなたたちが無事に戻ってくるのが、何よりのお土産よ』って言ったかしら?」
「はい、そう答えられました」
それは祐巳にとって、ものすごくうれしいお言葉だった。一週間後の自分が「何よりのお土産」になれるわけなんだから。けれど。
「それじゃ何を買って帰ったらいいかわかりません、って私が言ったところ。お姉さまは、『強《し》いて言うなら』と前置きなさって、あの、おっしゃいませんでしたか」
聞き間違いだと思う。だから聞き返したのだ。「今なんて言われましたか」と。
「何て?」
「ローマ饅頭《まんじゅう》もしくはフィレンツェ煎餅《せんべい》と」
控えめに尋《たず》ねると、祥子さまはさらりと言った。
「言ったけれど?」
言ったんだ。やっぱり。
どうしよう、ここは笑うところなのかな。祐巳は迷った。笑いをとろうとして滑るのと、真剣に言った言葉を笑い飛ばされるの、祥子さまにとってはどちらが厳しいことだろう。
二者択一。選択を誤ると、お姉さまのご機嫌をも左右することに。さあ、どっちだ。祐巳は前者がきついと判断した。遅まきながら「あはは」と笑ってみると、祥子さまは腕組みをしてつぶやいた。
「去年、私たちは買いそびれてしまったのよね。もしその機会があったら、どちらか一つでも買ってきてちょうだい」
「……それ、どこで売っているんですか」
「買えなかった私にわかるわけないでしょう?」
「はあ」
冗談じゃなかったのかな。
「楽しんでらっしゃい」
祥子さまは、話を締《し》めくくるように、タイを直してくれた。それだから、祐巳はもう一歩踏み込んで質問できずに、そのままお姉さまと分かれてしまったのだった。
2
何かイベントがあると、集まって外食するのが支倉《はせくら》・島津《しまづ》家の決まり事となっている。
正月しかり、節分《せつぶん》しかり、ひな祭りしかり、お彼岸《ひがん》、お盆《ぼん》、クリスマスと、無節操《むせっそう》この上ないのだが、理由を作って賑《にぎ》やかにしたいというのが本音だろうから、神仏やキリスト教がミックスしていたところで、そこは突っ込んではいけない。その日に都合がつかない場合、数日前後してでも行うほど仲のいい親戚《しんせき》同士の集まりに、水を差すのも野暮《やぼ》なことである。
(ま、身体《からだ》の弱かった私のためだってわかっていたけれどさ)
誰よりも一足先に店を出て、由乃《よしの》は夜空を見上げた。星がきれいだから、思い切り深呼吸する。
昔は遠出とかスポーツとか、そういう遊びができなかったから、特別な日は近場でおいしい物を食べることくらいしかできなかった。でも、手術して健康な身体を手に入れたことだし、そろそろこのマンネリ化したお食事会も見直す時期に来ているのではないだろうか。お父さんのお腹《なか》も、かなりタヌキ入ってきてるし。
(第一。たかだか修学旅行にいくのによ? どうして壮行会なんてものを開いてくれちゃうわけ?)
一週間で帰ってくるっていうのに。まるで、地方に転勤になるサラリーマンの送別会みたいに大げさなんだから。お座敷《ざしき》に出入りするたび首を傾《かし》げていた仲居さんは、最後までこの会の趣旨《しゅし》を理解できなかったようだ。
(当たり前か。一番若そうなのが上座《かみざ》に座って、大人たちからはなむけの言葉をもらっているんだもんね)
クスリと小さく笑った時、背後の格子戸《こうしど》が開く音がした。
「由乃」
名前を呼びながら近づいてくるのは、令《れい》ちゃん。
従姉《いとこ》でお隣さんでお姉さまで。世界一大好きだけれど、時々世界一|憎《にく》たらしくなる。やさしくて、情けなくて、大切な人。
「大人の皆さんは?」
「お母さんと叔母《おば》さんはレジでお会計。お父さんは叔父《おじ》さんの介抱《かいほう》。ちょっと電車じゃ無理そうだから、タクシー呼んでもらうって」
「つぶれたか」
「つぶれたね。うれしいんだよ、由乃が一人前に修学旅行に行けるのが」
で、ついつい飲み過ぎた。
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「うん」
小学校の時は、途中で帰った。中学の時は、クラスメイトたちに見つからないように、お母さんが影ながらついてきた。でも、今回は特別扱いじゃない。いつでも先生の側という定位置からは卒業して、友達と平等に同等に旅行を楽しめるのだ。
「若者は、電車で帰ろうよ」
由乃は、令ちゃんのシャツを引っ張って言った。支倉家三人、島津家三人。計六人ではタクシー一台には乗り切れない。
「そうだね。じゃ、そう言ってくる」
令ちゃんは、格子戸《こうしど》の中に引き返した。
由乃が「今からだったら十時からのドラマに余裕《よゆう》で間に合うな」なんて腕時計を見ていると、令ちゃんが戻ってきて指でOKサインを作った。
行こう、って。大通りに向かって歩いていく背中をちょっとだけ眺めてから、由乃は小走りで追いついた。
自分から手をつなぐ。
並んで歩ける幸せは、それがかけがえのない事だと知っているからこそ。
「本当はね」
由乃は小さくつぶやいて、その先は口をつぐんだ。
「ん、どうした?」
「何でもない。さっ、さくさく帰ろう」
電車で帰ろうと誘った理由は、「若者だから」じゃなくて。二人の時間が欲しかったから。だけど、そんなことは教えてあげない。
令ちゃんが無防備に喜ぶ姿が目に浮かんで、しゃくだから。
でも、こうして手をつないで、今は少しだけ「やさしい由乃」でいてあげる。
だって、一週間も会えないからね。
令ちゃんが青い空を見上げて思い出すのが、「ふて腐《くさ》れた由乃」の顔じゃかわいそうだものね。
3
乃梨子《のりこ》から電話がかかってきたのは、午後の十時過ぎ。
「ごめんなさい。夜遅くに」
「大丈夫《だいじょうぶ》よ。いろいろな方が訪ねていらっしゃるので、うちは宵《よい》っ張《ぱ》りだから」
「でも、志摩子《しまこ》さんは」
「え?」
「早寝早起きじゃないの?」
乃梨子は学校の中では志摩子を「お姉さま」と呼び、外では「志摩子さん」と呼ぶ。姉妹《スール》の契《ちぎ》りを交わした当初は、迷いがあったのか切り替えがうまくいかなかったのか、呼び方に揺れがあったけれど、今はそれで落ち着いている。由乃《よしの》さんが私生活で令《れい》さまを「令ちゃん」と呼ぶことを知ってから、割り切れたようだ。三人称で呼ぶ時も、「志摩子さま」と「志摩子さん」を上手《じょうず》に使い分けている。
「明日の荷物をね、もう一度チェックしていたの」
一週間ほど前から少しずつ準備してきたから、おおかたの支度《したく》は済んでいる。けれど、性格なのだろう、旅行のしおりに書かれた持ち物チェックのページを見ながら、もう一度詰め残しがないか確認してしまった。
「そっか。場所が場所だから、おいそれとは取りに戻れないものね」
「あちらで売っている物でも、気軽に買い物できるかどうかわからないでしょう?」
しかし、なくて困る物なんて、制服とパスポートくらいなものなのである。制服は身につけていくわけだから、忘れようがない。だからパスポートだけ持っていれば、あとは友達から借りるなり現地で調達するなりすれば、旅行を中断するほどのことは起こりえない。快適かどうかは別として。
「私も」
乃梨子が言った。
「私も、忘れ物って気になっちゃうタイプなんだ」
「そう」
「それでね。学校で言い忘れたことがあって、それでちょびっとだけ迷って、やっぱり電話することにしたの。志摩子さん」
「なあに?」
「行ってらっしゃい。もろもろ気をつけて。あの、志摩子さんのことだから、はめを外したりとか、そういったことはあまり心配はしてないけれど」
「ええ」
「待っているから。帰りを、待っているから」
「乃梨子」
いつ飛び立ってもいいように。そう思っていた場所に、帰りを待っていてくれる人ができた。
足かせでつながれた鳥かごではなくて、大切な巣。
いつしかリリアン女学園は、自ら戻るべき場所になっていたのだ。
「ありがとう」
志摩子は、その言葉の意味を噛《か》みしめる。
そこに、大切な雛《ひな》が待っていてくれるのだ、と。
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出だしのハプニング
1
成田《なりた》空港は、正式名称を新東京国際空港という。
午前十時過ぎ。第一ターミナル国際線出発フロアには、深い色の制服をまとった少女たちがひしめき合っていた。
手には赤いパスポート。足もとには、大きなバッグ。「ごきげんよう」の挨拶《あいさつ》も、今日はちょっと緊張気味。
「しかし、何だって二時間以上も早く集合しなくちゃいけないのかしらね」
クラス委員の手にした緑色の旗を目指して歩きながら、由乃《よしの》さんがぼやいた。
「それは行き先が海外だから」
祐巳《ゆみ》が答えると、由乃さんは「そんなことじゃなくて」と言った。
「きょうび、国際電話が簡単につながって、インターネットで世界中の情報を瞬時に入手できて、衛星を使って地球の裏側から生放送できる時代よ? 国と国との間の垣根《かきね》がぐーんと低くなって、すごく近づいてきているわけよ。アジアのどこぞの国へ行く方が、国内の辺境の地へ行くよりずっと早く着くことだってあるでしょ?」
「ふむ」
「旅行者にとって、海外と国内って分ける感覚がなくなりつつあるんじゃないかな」
という由乃さんも、日本脱出は今回が初体験なのだ。一緒《いっしょ》にパスポートを取りに行ったから知っている。
「で?」
「つまり、もっと簡略化できないものかしらね。せめて出発の三十分前に空港に着けばいい、くらいに」
「……」
つまり、由乃さんが何を言いたいのかというと、何も難しい事を論じたいわけではなくて、ただ、思った以上に早起きしなければならなかったので「眠い」ということ。その苦情をぶつける相手がないから、取りあえず「時代」とか「簡略化」とかいう言葉を持ち出して、憂《う》さを晴らしているようだった。
途中、藤《ふじ》組の集合場所の前を通った時、集団の中に志摩子《しまこ》さんの姿を発見した。
「ごきげんよう、お二人ご一緒?」
「ええ。K駅から空港行きの直通バスで」
「あら、そんなものがあるの?」
「ええ。時間はかかるけれどね。荷物持って乗り換え乗り換えじゃ大変だろう、ってお姉さまが。バスに乗ってしまえば、あとは眠っていたって空港まで連れて行ってくれるから」
「でも、由乃さんは眠れなかったらしいの」
「隣で気持ちよさそうに寝息たてている祐巳さんが、こんなに憎《にく》たらしく思えたことはないわよ」
眠らなきゃ眠らなきゃ、って思った由乃さんはかえって緊張して眠れなくなったらしい。こんな時|祥子《さちこ》さまから餞別《せんべつ》でもらった酔い止め薬を飲めばイチコロだったんだろうけれど、自分には自然と睡魔《すいま》がやって来た祐巳には、そんなこと考えつきもしなかった。由乃さん自身、車酔いしているわけではないから薬を飲もうなんて思わなかったらしい。
「失礼。お三方、こちらに目線ちょうだい」
反射的に「こちら」という声の方に顔を向けると、ご挨拶《あいさつ》代わりにピカッ、カシャッとやられた。
「……蔦子《つたこ》さん」
自他共に認める、写真部のエース。武嶋《たけしま》蔦子さんはカメラを下ろして、遅まきながら「ごきげんよう」と笑った。
「出発前の|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》、| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》、| 黄薔薇のつぼみ 《ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン》の様子を一応押さえておこう、と。しかし、グッドタイミングだったわね。マリア様のご加護《かご》かな。次はいつこのスリーショットを拝《おが》めるわからないし」
なんて言いながら、蔦子さんはシャッターを切りまくる。
仕方ない、といった感じで顔を見合わせて、三人はおとなしく被写体《ひしゃたい》になった。旅行中はクラス単位で行動する事が多いから、藤組の志摩子さんと松《まつ》組の面々がいつもこんな風に近くにいられるとは限らない。
「蔦子さんさ、真美《まみ》さんに頼まれた?」
新聞部が、修学旅行という高等部の目玉行事に無関心なわけはないのだ。すると。
「その通りです」
背後から、山口《やまぐち》真美さん(現リリアンかわら版編集長)がぬっと現れた。手には筆記用具を握りしめ、いつ何時でも取材メモをとれるようスタンバイしている。カメラを手放さない蔦子さんといい勝負。この二人がタッグを組むとしたら、それは最強といっていい。
「真美さんは学校以外でも、忙《せわ》しく走り回っていらっしゃるのね」
志摩子さんが、クスクスと笑った。
「先ほどから何度も、ここの前を行き来なさって」
「見られてた? 実はガセネタに踊らされて、案内カウンターまで」
「ガセネタ?」
「アナウンスで、サトウセイって呼び出しが聞こえたのよ」
「サトウセイ!?」
祐巳、由乃さん、蔦子さんが一斉に繰り返した。
「ガセ、って言ったでしょ? 人違い。というより、聞き間違い」
「呼び出しのお名前は、カトウさんだったのでしょう?」
志摩子さんがほほえむ。実は、そのアナウンスを聞いてドキッとした一人らしい。けれどよく耳をすまして聞いたところ、「カトウ」と言っていたので別人だってわかったんだって。相変わらず、落ち着いた人だ。もしこれが私だったら、と祐巳は思った。「オダザワサチコさん」であっても、「オカダワラサチコさん」であっても、全部「小笠原《おがさわら》祥子さん」に聞こえて、呼び出しの場所に飛んで行ってしまうだろう。
「サトウセイであっても、同姓同名って可能性の方が高いよね」
「あー、私、病院でフクザワユミさんと会ったことある。八十くらいのおばあちゃんだった」
由乃さんが言った。
「そういや、小学一年生のヤマグチマミちゃん、っていうのもいたなぁ」
とは、蔦子さん。
「親戚《しんせき》か何か?」
「ううん、見ず知らずの子。近所に小学校があるから、家の前通学路になっているのよね。可愛《かわい》い子だったから近づいてみたら、胸の名札《なふだ》が見えた」
「それって危ないよ、蔦子さん」
見た目は普通の女子高生だから警戒されないかもしれないけれど、中身は変態の小父《おじ》さんそのもの。指摘したって「大丈夫《だいじょうぶ》。まだ七、八年早いから」なんてズレたこと言っている。真美さんは真美さんで、同姓同名が「可愛い子」だったのがよっぽどうれしかったらしく、ご機嫌だし。
「でも、ありがたいわ。藤組と松組が同じグループになって。逆ルートだったら、志摩子さんとはほとんど別行動になってしまうところだった」
そうなのだ。最初に飛行機が着くミラノまでは全二年生|一緒《いっしょ》なのだが、そこから、ローマから回るルート(Aコース)とヴェネツィアから回るルート(Bコース)二つに分けて旅行することになっている。六つあるから、三クラスずつ。両コースは、途中フィレンツェでちょっとだけすれ違う程度しか一緒にならない。
「くじ引きしてくれたという担任の先生方と、マリア様に感謝」
真美さんと蔦子さんは手を合わせ、顔を上向きにして目を閉じた。が、そこには高い天井があるだけだ。
「蔦子さん、いつから新聞部の専属カメラマンになったの?」
「いやいや。真美さんに頼まれたということもあるけれど、個人的な欲望の方が大きいです」
「学園祭の写真部展示コーナーにパネルで飾らせろ、とか?」
「由乃さんたら、ストレートに聞いてくるわね。もう少しぼけてくれないかなぁ」
というからには、蔦子さんはパネルにするつもり満々ということか。
やれやれ。
それじゃ旅行中あまり気を抜いた顔もしてられないな、と由乃さんたちとじゃれながら先を行く蔦子さんの後ろ姿を眺めて祐巳は思った。一緒の部屋じゃないから、着替えとかお風呂《ふろ》とかまでは撮られる心配はないけれど。
「ご武運《ぶうん》をお祈りします、って励《はげ》ましたらいいのかしら?」
祐巳の心を読むように、志摩子さんが言った。
「ありがとう。ちょくちょく会うとは思うけれど、志摩子さんもよい旅を」
首をすくめて、三人の後を追った。ちょうど、松組の集合がかかったところだった。
2
初の海外旅行だから、身構えてしまっていたのだけれど、国を出るのは思ったより簡単だった。
「はい。ここから先はもう日本ではありません」
なんて、先生が声を大にして言うけれど。
出国カウンターでパスポートにスタンプを押してもらって、手続き上は国を出たことになっているとはいえ、まだ成田《なりた》空港の中だし。実感というものが全然ない。
たとえば、あまりいい例えではないけれど、今大地震でもあって、空港もグチャグチャに壊れたとする。もちろん、それでも生きていたらという大前提のもとの話だけれど、その時は時間はかかろうともここから自宅まで自力で帰れちゃうもんね。
すると、祐巳《ゆみ》のつぶやきを耳にした由乃《よしの》さんが、笑った。
「でも、それってすごく日本人っぽい感覚よね」
搭乗《とうじょう》時間まで少し間があるということで、ただ今は十五分間のトイレ休憩《きゅうけい》。祐巳も取りあえずお手洗いを済ませて、帰る途中にあった店をチラリと覗《のぞ》くと、中に由乃さんの姿を見かけたからフラリと足を踏み入れた。本とか化粧品《けしょうひん》とか飲み物とかお土産《みやげ》とか、ゴチャゴチャと並んでいる、まさに「売店」と呼ぶしかないようなお店である。由乃さん以外にもパラパラと生徒たちの姿はあって、先生たちに「イタリアに行く前に、お金を使い果たすんじゃないわよ」なんて注意されていた。
「日本人っぽい?」
レジに向かう由乃さんを追いかけながら、祐巳は聞き返した。
「そ。日本って、海に囲まれた島国で、どこの国とも地続きになってないでしょ。だから、歩いていける場所には外国はない、って思うんじゃないの?」
「地続きか……」
なるほど。
「たとえば、フランス在住のフランス人がイタリア旅行中に大地震にあったとする。交通機関はすべてストップ。でも、理屈ではフランスまで歩いて帰れる」
「地続きだから、か」
「その通り。そういう国で生まれ育てば、外国が自力でたどり着けない遠い国という感覚はないんじゃないの? 極端な話、国境の上に建っている家なんて、一つの部屋の中に二つの国が存在している、なんてこともあるらしいし」
「へぇ……」
「でも、島国のお陰で、自国から外に出ていくって意識が強くなる気がして、いいと思うけどね、私は」
ここはもう日本ではない。
じゃあ、すでにイタリアかって言われれば絶対違うわけだし、イタリアがアメリカならいいってわけでもない。
どこの国でもない場所の通貨は何?
祐巳の頭の中がグジャグジャにかき回されているというのに、由乃さんは日本円を出してリップクリームを一個買った。
「そうか。値札《ねふだ》が円表記なんだもんね。普通の店と同じだよね」
ハハハと笑い飛ばすと、由乃さんは「そうでもないわよ」と言ってレシートをピラリと見せてくれた。
「消費税、とられてない」
なるほど。やっぱりここは日本の外なのかもしれない。
3
座席の上の荷物入れは、ラッシュアワー並みの混み具合。なぜなら、リリアン女学園高等部二年生全員の旅行バッグが詰め込まれているから。
リリアンの修学旅行では、時間の短縮とトラブルを避けるために、荷物は機内預けにせずすべて手荷物扱いで飛行機に乗り込むことが決められていた。
煎《せん》じ詰めれば、海外の修学旅行と国内の修学旅行、持ち物の量が極端に違うことはないわけである。外出着は制服オンリーだし、あとはホテルの部屋着とパジャマ、旅行用の洗面用具などなど。とすれば、スーツケースなんか必要はないだろう。――というのが学校側のご意見。
でも、若いとはいえ全員女だから。あれもこれもと、細々《こまごま》とした物を入れていくうちにバッグはパンパン。持ち物を取捨選択したり、クリームとか洗顔フォームとかを小分けにしたりと、ギリギリまで出したり入れたりしてやっと荷造りした、という人ばかりだった。そうしてやっとファスナーが閉まったバッグを、今度は飛行機の棚《たな》に収めるのだ。それとこれを並べて上にあれを載せる、なんて。まるでパズルみたいに出したり入れたりした結果、ようやく棚の蓋《ふた》は全部閉まった。自分のシートの上に荷物がある生徒はラッキー。不運なことに、荷物が隣のクラスの方まで流されてしまった人もいる。
「約十三時間よろしくね」
ミラノまで隣の席の蔦子《つたこ》さんと、シートベルトを締めてから改めてご挨拶《あいさつ》。
「蔦子さん、本当に窓側でなくていいの?」
「いいの、いいの。私は、飛行機の外より中の方に興味があるから」
「……左様《さよう》ですか」
なんて言っている間に、飛行機がゆっくりと動き始めた。とはいえ、窓の外の風景が前進しているってことは、こちらが後退しているという証拠。なのに、そこここで早くも「おおっ」なんて声があがっている。フェイントだろうがなんだろうが関係ない。それは、飛行機が動いていることに対する反応らしい。お嬢《じょう》さま学校とはいえ、祐巳《ゆみ》みたいに海外へ行くのは初めての生徒は多いし、もちろん飛行機がお初《はつ》という人だって少なからずいた。
前面のスクリーンには、さっきから救命|胴衣《どうい》の着け方とか、緊急避難の手順とかが、繰り返し映し出されている。客室乗務員のお姉さんも、空気の入っていない胴衣《どうい》を被《かぶ》って実演してくれる。一応、皆注目してはいるけれど、真剣度合いに差があるのは、たぶんこれまでに飛行機に乗った回数と何らかの関係がありそうだ。
あれあれ。
そうこうしているうちに、飛行機は前方へと進み出している。電車のように発車ベルなんてないから、どこまでが滑走路上の移動か、どこからが離陸のための助走(?)なのか、よくわからない。
「おや、道世《みちよ》さんが震えながらお祈りしている」
通路側に身を乗り出して、蔦子さんがつぶやいた。
「シートベルトしてなきゃ、前に回って撮れるのに」
「……悪いわよ」
飛行機という鉄のかたまりが空を飛ぶという事実を、現代に生きる人々は簡単に受け入れすぎている。神様にお願いする道世さんや、薬を飲んでさっさと眠ってしまうという祥子《さちこ》さまや、他にもこの機内で恐怖と戦っている人たちの生存本能の方が、むしろ正しく機能しているのではないだろうか。
「まあ、ずいぶんとまともで良識的なご意見を言うものね。うん、まあ確かにお気の毒ではあるけれど。でも、いい写真になったと思うよ。凍《こご》える小鳥のようないい表情。つくづく残念だわ。私にとっても、彼女にとっても」
さすがは美しい女子高生の『今』を、輝いたまま保存する義務を天から与えられたと自負している蔦子さん。言うことが違う。
「おおっと」
飛行機はゴオオッという音とともに徐々に加速して、一気に飛び立った。車輪が地面から離れる瞬間、フワッと浮く感じがちょっと気持ち悪いけれど、あとは大丈夫《だいじょうぶ》。ジェットコースターみたいに、外の風をもろに受けないからだろうか。実際は、ジェットコースターなんか比べようもないほどすごい体験をしているはずなんだけれど。
「わ、高い」
窓の下には、今飛び立ったばかりの地上の風景が、みるみる小さくなっていく。
「ねね、蔦子さん。マリア様って、こんな感じで私たちを見ているのかな」
袖《そで》を引っ張って言うと、蔦子さんは全身の力が抜けたみたいにフニャフニャと笑った。
「前言|撤回《てっかい》。……祐巳さんって、やっぱり面白いわ」
そんなこんなありながら、リリアン女学園高等部二年生が乗った飛行機は、午後十二時半すぎ、無事新東京国際空港を旅立ったのであった。
4
外の景色が青い空と白い雲だけになり、シートベルト着用サインが消えると、生徒たちは途端にリラックスして、文庫本とかトランプとか長旅のお供グッズを出したり、席を移動したりしはじめた。なんて言ったって、イタリアは遠い。半日以上飛行機に乗っている勘定《かんじょう》になるわけだから、できるだけ快適に過ごしたいもの。震えていたという道世《みちよ》さんも、十三時間ずっと怖がっているわけにもいかないと開き直ったのか、今は逸絵《いつえ》さんたちと「大貧民《だいひんみん》」をしている。しかし、一方方向しか向いていない飛行機の座席でのトランプはなかなか大変そうだった。
海外へ飛ぶ飛行機の機内は、身体《からだ》を慣らすために、行き先の現地時間で動いているらしい。で、お客さんも腕時計の時間もそれに倣《なら》って七時間戻す。そうすると、あら不思議。今が朝の五時前に早変わり。タイムマシンを使わなくったって、時間を戻せる方法があるじゃありませんか。何だか得した気分。
「でも帰りは否応《いやおう》なく七時間とられちゃうんだよ」
「ああ、そうか。じゃ、一生イタリアで過ごせば七時間得したままなんだ?」
「ちょっと、やめてくれない? その大ボケ話。祐巳《ゆみ》さんの話聞いていると、こっちまで調子狂う」
前の席の由乃《よしの》さんが、立ち上がって振り返った。
「実際に時間が戻っているわけじゃないんだから、損も得もないでしょうが。何年何月何日なんて、人間が便宜《べんぎ》上言ってるだけ。日付変更線の引き方を変えれば、イタリアの方が先に暦《こよみ》が変わることだってありえるわけよ。祐巳さんが地球上のどんな遠くに移動しようと、祐巳さんの身体に流れる時間は変わらないわよ」
「地球上に限定なわけ?」
ちょっと引っかかったので、そこのところを質問してみると、今度は蔦子《つたこ》さんから答えが返ってきた。
「宇宙に行っちゃうと、浦島《うらしま》効果の問題が絡んでくるからでしょ」
「浦島効果?」
「光の速さに近い宇宙船で宇宙を旅して帰ってくると、地球では思った以上の時間が経っている、って話。アインシュタインの相対性理論《そうたいせいりろん》を理解できないと、納得できない」
「蔦子さんは? 理解して納得しているの?」
「そういう話、ってだけ頭に入っているけれど、完璧《かんぺき》にはわかってない」
そういう話、って頭に入っているだけでも、「すごいなぁ」と感心しちゃう祐巳である。
「浦島|太郎《たろう》は、宇宙船に乗って竜宮城《りゅうぐうじょう》に行ったの?」
「亀はUFO、乙姫《おとひめ》さまは宇宙人。そんな説は結構あるね」
だから戻ってきた時に、何百年も経っていた、と。
「行ったのが宇宙じゃ、『絵にも描けない』はずだ」
「そういうこと。で、私たちは飛行機の中で機内食をいただく」
客室乗務員のお姉さんたちが、ワゴンを押して朝ご飯(気分的には遅めのランチ)を配り始めていた。これはイタリアの航空会社の飛行機で、日本人(らしき人)とイタリア人(らしき人)が半分半分働いている。
献立《こんだて》は、朝ご飯らしく、チーズやハムの載ったオープンサンドやサラダといった軽い食事で、育ち盛りとしては少し物足りなかったけれど、後々と考えてみると、機内ではほとんど運動なんてしないのだから、あまりたくさんのカロリーをとるものではない。
「蔦子さん、この食事|撮《と》っておいてよ」
真美《まみ》さんが言った。
「えーっ。こんなのに、私の貴重なフィルムを使いたくないわよ」
蔦子さんがぼやくと、真美さんは「じゃ、いい」と自分の使い捨てカメラを差し出した。
「このカメラで撮って。私、こういう近い物撮るの苦手なのよ」
手ぶれや、ピンぼけになりがちだという。
「はいはい」
蔦子さんはチーズの上にプラスティックの楊枝《ようじ》で刺されていたオリーブの実を口に入れながら、渋々と立ち上がった。ホントに、人間(女子高生)以外に興味ないんだから。でも、使い捨てカメラをいじるのは久しぶりらしく、結構アングルとか変えて何枚か撮っていたけれど。
で、ご飯が済んだら消灯。現地時間に合わせるんだったら、今は活動時間のはずなのに。どうしたことか。
「文句言わない。お客さんが寝ているのが、機内の平和のために一番いいのよ」
配られた毛布で首から下をすっぽり覆《おお》って、蔦子さんが言った。
確かにね。お客さんがずーっと起きていると、客室乗務員の休む暇《ひま》もない。それにお客さんだって、眠っていればその分退屈なフライト時間が省略されるわけだし。
どうしても眠りたくない人は、起きていてもいい、ってことだけれど。ピンポイントの読書灯だけが頼りだと、文字通り読書くらいしかすることがない。それに、そこここから気持ちよさそうな寝息が聞こえてくると、確かに自分も眠いようだと思い当たり、隣の友人に倣《なら》って毛布を被《かぶ》って眠る態勢に入るのだった。
リクライニングを倒す時に、後ろの席のクラスメイトに声をかけようとしたが、彼女もすでに眠りの国へと旅立った後のようだったので、祐巳は起こさないようにそっと座席を倒した。
お姉さまは今頃何をしているだろう。
時計の時刻を変えてしまったので、時間の感覚がよくわからなってしまった。よく考えれば七時間進めればいいのだけれど、眠りの国に片足突っ込んだ状態だと、その計算をすることがとてつもなく難しいことのように思えるのだった。
5
――こんな調子だったら、祥子《さちこ》さまがずっと寝ていたというのもうなずける。
ご飯食べて、寝て、トイレ行って、寝て、ご飯食べての機内ライフが終わる頃には、少なからずブロイラーの気分が味わえた気がする。
「フライトボケが時差ボケに勝ったわね。身体《からだ》が日本時間にもイタリア時間にもどの時間にも適応してない感じ」
「変な夢いっぱい見ちゃった」
「うん。ずいぶん寝てた割に、疲れがたまっているよね」
「退屈しのぎの文庫なんて開く暇《ひま》なかったわ」
ミラノのマルペンサ空港に下り立ったリリアン女学園の面々は、肩や首を回し、思いっきり伸びをした。現地時間で、午後六時過ぎである。
今回の旅行では、ミラノに逗留《とうりゅう》する予定はない。ここは中継地点で、数時間後発の飛行機で、最初の訪問地へ飛ぶことになっている。Aグループはローマ。Bコースはヴェネツィア。つまり、成田《なりた》空港に到着した海外からのお客さまが、名古屋《なごや》行きとか福岡《ふくおか》行きとかの飛行機に乗り換える、そういうのと同じことである。たぶん。
ローマ行きの飛行機の搭乗《とうじょう》時間まで二時間ほど時間があるので、トイレ休憩《きゅうけい》をかねて一時間の自由行動となった。ただし、移動はこのフロアのみ。二人以上のグループで行動すること。三十分後に中間|点呼《てんこ》を行うので、必ずこの場所に戻ってくること。という制約つきだ。でも、それでも「いちいちうるさいな」とか「過保護すぎるんじゃない?」とか文句を言う気になれないのが海外旅行初体験組。こんな所で迷子《まいご》になっては大変。初めて一人でお使いに行った時の不安が、十年ぶりくらいに思い出されるのであった。
当たり前のことなんだけれど、空港内には日本語がない。イタリア語とか英語なんだろうけれど、一々確認する気にならないほど見事にアルファベットばかりで何だか目がチッカチカする。普段何の気なしに目に映っている、ひらがな・カタカナ・漢字にいかに慣れきって生きているかを思い知らされる。時々観光客向けの小さな表示に日本語を見つけたりすると、それだけでうれしくなったりして。
空港内は、さすがファッションの本場イタリアだけあって、ブランド物の免税《めんぜい》ショップが数多く並んでいる。一応、お小遣《こづか》いは二万円までと決まっているので、靴《くつ》やバッグが欲しくても買えない。クレジット会社の家族カードをこっそり持ってきたとしても、手荷物扱いのバッグに余分な隙間《すきま》がなければ持ち帰ることはできない。スーツケースが禁止なのは、ブランド物の買い物を控えさせる、という予防策でもあるようだ。
「コインが必要な生徒は申し出て」
中間|点呼《てんこ》に集合した松《まつ》組の生徒に、鹿取《かとり》先生は言った。通貨の両替は、各自日本で済ませてきているのだが、替えられたのは紙幣《しへい》のみということで、小さなお金はイタリアに着いてから調達することになっていた。こちらは日本と違ってチップ大国。ホテルや飲食店ではサービスに対する心付けが不可欠で、そのための小銭が必要なのだと事前説明会で学んでいた。
先生は、着いてすぐに小銭をまとめて両替してきたので、希望者には紙幣をくずしてくれるという。広い意味では両替も社会勉強なのかもしれないけれど、不慣れな生徒たちは最初は勝手がわからないだろうし、というわけだ。
「由乃《よしの》さんは?」
一緒《いっしょ》にトイレに行って戻ってきた由乃さんに、祐巳《ゆみ》は尋《たず》ねてみた。
「取りあえず、去年|令《れい》ちゃんが使い切らずに持ち帰った小銭を餞別《せんべつ》にもらってきたから。当座はそれでしのげる、かな? 後は、お土産《みやげ》とか買った時にでもくずせばいいと思っているけど。……おっと」
由乃さんは、「まずい」といった感じで口を押さえた。小銭の分、二万円を多少オーバーしてしまったことは内緒《ないしょ》らしい。それって、いくらまでと決められた遠足のお菓子を、消費税分オーバーしたくらいの罪であろうか。
「祐巳さん、どうする?」
逆に振られて、祐巳は迷った。「鹿取先生銀行」で両替するのは確かに楽だけれど、それじゃ面白くない。
「自力でくずしてくる。何事も、経験」
イタリアに来たのだから、ここでしかできない体験をしようじゃないか、と。日常経験できないことを見聞学習するのが、修学旅行の目的であるからにして。
「おお、チャレンジャー」
由乃さんが、パチパチと拍手をしてくれた。
さて、そうと決まったら手段を考えなくっちゃ。
お札をこまかくする方法としてすぐに思いついたのが買い物である。というわけで、免税《めんぜい》ショップに入店し、何か安い買い物をして小銭をゲットする作戦にでた。無駄《むだ》な買い物かもしれないけれど、長い目で見れば、金額以上のものを与えてくれそうだ。
「ガムとか、チョコレートとかでいいんじゃない?」
由乃さんがレジ近くのコーナーを指をさすけれど、祐巳にはなんかピンと来なかった。食べたことのないお菓子類って、当たり外れがありそうで二の足を踏んでしまう。
「チャレンジャーじゃなかったわけ?」
「でもさ。買ったはいいけれど、全然口に合わなかったらすごくもったいなくない? 貴重なお小遣《こづか》いで買うんだから」
「ま、一理《いちり》あるわ」
イタリアというお国柄《くにがら》だからだろうか、お菓子もファッショナブルで、見るからに着色料や香料がふんだんに入っている感じ。
「じゃ、チョコレートは? これなんか、日本でも売ってるメジャーなチョコだよ」
「うーん」
それは祐巳も食べたことがあるから味はわかる。茶色い袋《ふくろ》を開けると、中には色とりどりにコーティングされたボタンのようなチョコレートが入っているあれだ。
「でも、チョコレートってそれこそギャンブルじゃない?」
開封せずに鞄《かばん》の中に入れている分にはいいけれど、一度封を開けたら、輪ゴムとかで縛《しば》っておかないと中身がボロボロこぼれ出て、知らない間に鞄の中身を汚してしまいそうだ。まして、知らずに温かい場所に鞄を置いてしまったりした日には。几帳面《きちょうめん》な人なら、絶えず注意を払っていられるだろうけれど、他に熱中していると注意力|散漫《さんまん》になるという自分の性格を、祐巳は十分自覚しているのである。
「じゃ、何ならいいの? 迷っているうちに集合時間になっちゃうよ」
「うーん」
安くて、かさばらなくて、当たり外れがない物。日本のコンビニでだって、すぐに思いつくのは難しいかもしれない。焦《あせ》ればその分、頭の回転が悪くなりそう。
「わかった、これ」
祐巳はすぐ脇の棚《たな》から、それを一本「えいやっ」と引き抜いた。
「何、それ」
「サインマーカー」
「そんなの、見ればわかるけど……」
由乃さんは、海外での初買い物がサインマーカーじゃお気に召さないらしい。
「日本でいくらだって買えるでしょうに」
「いいの。だったら、チョコレートだって同じでしょ。ここでの目的は、一人で買い物をすることと、小銭をゲットすることの二点。それさえクリアできたら、大成功なんだから」
「にしても、マーカー」
「プリントでもらったイタリアの地図に印つけるの。この場所、行きました、って。日本に帰ったって、使えるよ。教科書のアンダーラインとか」
「はいはい。わかりました。わかりましたから、さっさと買ってきてちょうだい。私は店の出口で待っているから」
「ら、らじゃー」
レジの列に並んで、順番を待つ。さすが国際空港。店内を見回すと、肌や髪や目の色が違う人々が、思い思いの品を手にして買い物を楽しんでいる。その中で、リリアン女学園の黒い制服はちょっと目立つ。祐巳以外にもそこここにいる生徒たちは、外国人の人たちの注目を浴びていた。いや、ここでは日本人の方が外国人なんだけれど。
「ボ、……ボンジョルノ」
お店に入ったら、まず挨拶《あいさつ》をしましょう。と、いう教えを守り、レジのお姉さんに向けて言ってみたところ、向こうからは「ボナセーラ」と返されてしまった。日本でも、「こんにちは」と「おはよう」「こんばんは」の境目が曖昧《あいまい》なことがあるから仕方ない。それを考えると、リリアン女学園定番の「ごきげんよう」はなんて合理的な挨拶なのだろう。
そんなこんなを経《へ》て、祐巳はめでたく紙幣《しへい》でマーカーを買い、お釣りで小銭を手に入れることに成功したのであった。初めてのお使い完了。空港内の売店だから、レジに金額が打ち出されるので、イタリア語も英語も話せなくたって大丈夫《だいじょうぶ》だった。
小走りで由乃さんのもとに急いでいる途中、「ロサ・ギガンティアが」という言葉を耳にした。振り返ってみればなんて事はない、リリアンの生徒たちが数名集まって立ち話していただけだったんだけれど。
(志摩子《しまこ》さんたら、何かしたのかな)
引き返して聞いてみてもよかったのだが、由乃さんが正面で「急げ」と無言のプレッシャーをかけているし、そのグループの中に親しい人の顔もなかったのでやめた。
祐巳や由乃さんならともかく、真面目《まじめ》で几帳面《きちょうめん》でしっかり者の志摩子さんに限って、何かあるとも思えないし。――と思ったら、その志摩子さんが藤《ふじ》組の集合場所にいた。
「元気?」
「ええ。あら、もう何か買ったの?」
「へへへ。両替を兼ねて、初めてのお使い」
祐巳が照れくさそうに笑うと、横で由乃さんが「それがマーカーなのよ」と頼んでもないのに補足してくれた。
「そう。……ああ、そうだわ」
志摩子さんは、「思い出した」というように手をパチンと叩いた。マーカーにはさほど興味がないようである。
「お二人に相談しなければ、と思っていたの。薔薇《ばら》の館へのお土産《みやげ》は、三人からということでお金を出し合って買えばいいかしらね」
「いいと思うけど」
「あ、そうだね」
経済的だし。その分、いい物が買えるし。由乃さんも祐巳も、異議なしである。そうなるだろうな、って暗黙の了解があった気がする。
「帰りの空港でいいわよね。荷物になるし」
「やっぱり食べ物かしら。近頃、瞳子《とうこ》ちゃんや可南子《かなこ》ちゃんも手伝いに来てくれているから、彼女たちの分も数に入れて」
「そうか。さっきのショップで、あたりをつけておけばよかった」
「そうね。でも、大丈夫《だいじょうぶ》よ。帰りの飛行機も乗り継ぎには時間があるから」
志摩子さんと由乃さんが、どんどん話し合いを進める中、祐巳の頭の中ではもやもやとふくらむものがあった。
キーワードはお土産《みやげ》。そして、それは食べる物。
「あのさ。お土産のことなんだけれど」
迷った末に、祐巳は二人に打ち明けることにした。
「何?」
「何かいい考えでもあって?」
ああ、そんなに期待に満ちた顔を向けられると、言いづらくなる。でも、言いかけたからには、それを最後まで伝えないと許してもらえないだろう。伝えた後に、どんな反応が待っていようとも。
「できれば、ローマ饅頭《まんじゅう》かフィレンツェ煎餅《せんべい》がいいんだけれど……」
志摩子さんと由乃さんが、しばし固まってしまったのは言うまでもない。
6
ローマの入り口、フィウミチーノ空港は、別名レオナルド・ダ・ヴィンチ空港という、日本でもよく知られた芸術家の名前がついている空港である。
ミラノから飛行機に乗ること一時間強。到着した時には、すでに午後の九時半を過ぎていた。
「やれやれ、やっと着いた」
と、ホッとするのはまだ早い。空港からローマ市内にあるホテルへ行くために、ここから更にバスで移動するという。
先生たちのスーツケース(学校側から持たされた荷物も入っているので大きい)がターンテーブルで回ってくる間に、点呼《てんこ》や明日の予定なんかをざっとおさらいし、それから三クラスは空港入口で待っていた二台のチャーターバスに、分散して乗り込んだ。
程よい揺れが、睡魔《すいま》を誘う。
ちょっとウトウトしただろうか、クラスメイトの「わあっ」という感嘆《かんたん》の声で目が覚めた。そして祐巳もまた、窓の外を見て「わあっ」と声を上げたのである。
少し前までは、日本のどこかにありそうな普通の道を走っていたのに。いつからか、遺跡の街に迷い込んでいたのだ。
「きれい」
次々と古い石造りの建物がライトに浮かび上がる様は、まるで映画のセットのよう。けれど映画のセットと違うのは、そこここに現代の産物が同居していることだ。ブランドの看板、ショーウィンドウ、信号機、横断歩道のライン、煌々《こうこう》とした電気の街灯たちは、そこにいるのが当然のように、古都の中で堂々とその存在を主張している。
やがて、バスは街路樹《がいろじゅ》の間の道に入って停車した。時計を見れば十時半。今度こそホテルに到着である。
ロビーでカードキーを配られると、追い立てられるようにエレベーターに乗り込む。それほど大きなホテルじゃないから、二台目のバスが来る前に一台目の生徒たちを部屋にいかせないと、ロビーがギュウギュウ詰めになってしまうのだ。
「231」
カードキーを見ながら指をパネルに伸ばすと、Aのボタンはすでに点灯していた。
「といっても、二階ではないらしいわね」
真美《まみ》さんがメモを見ながら言った。ヨーロッパの階の数え方って、日本とは違うそうだ。日本では地上の階が一階だけれど、こっちでは一つ階段を上った所が一階。つまり地上はゼロ階。日本でいう地下一階二階と同じ理屈で地上の階も数えられるのだ。その上ホテルだと、途中に朝食堂階なんてものが存在するから、231号室が日本でいうところの何階かは、すぐに計算はできない。
「あー、疲れた」
部屋に入るなり、ルームメイトの由乃《よしの》さんが、ドアに近い方のベッドに倒れ込んだ。
「あ、祐巳さん、こっちのベッドの方がよかった? だったら、すぐに代わるけど」
「ううん。それはどっちでもいい」
首を横に振り、祐巳は自分の鞄《かばん》を持って窓側のベッドの方まで歩いていった。夜トイレが近いとか、廊下《ろうか》を歩く足音が気になるとか、そういった気がかりは特にない。右と左でベッドの寝心地《ねごこち》が違うとも思えないし。
「じゃ。このままで」
由乃さんはゴロンと転がったまま、目も開けずに言った。
「制服がしわになるよ」
「うん」
辛《かろ》うじて靴《くつ》は脱いでいるけれど、あまりお行儀《ぎょうぎ》がいいとは言えない状態。でも一度こうなっちゃうと、なかなか起きあがる決心がつかないものだ。
やれやれ、と祐巳は鞄《かばん》のファスナーを開き、中からTシャツとトレーナー地の七分丈《しちぶたけ》パンツを取り出して着替えをした。ベッドに腰掛けてしまいたかったけれど、由乃さんの二《に》の舞《まい》になりそうなので我慢した。二人しかいない部屋で、二人つぶれたらおしまいだ。
制服を脱いでハンガーに掛ける時、ポケットから小銭を取り出してナイトテーブルの上に置いた。ベルボーイさんに荷物の運搬《うんぱん》をお願いした場合のチップとして、用意していたものだ。結局、荷物は自分の手で部屋まで持ってきてしまったので、使わなかった分は明日の朝、ルームメイドさんへのチップとして置いておくことにした。
携帯用のスリッパを出して、そこに靴下《くつした》を脱いだ素足を滑らせる。足がホッと息をついたところで、やっと部屋を見回す余裕《よゆう》が生まれた。
アイボリーの壁、濃い紫色の地に臙脂《えんじ》の小花模様のカーペット、建具《たてぐ》や家具が茶色という、シンプルでちょっとレトロな雰囲気《ふんいき》の部屋だった。けれどその分、カーテンが自己主張している。黄色と薄緑の幅《はば》の違うストライプに花模様が浮かび上がっている華《はな》やかでおしゃれなデザインで、部屋に一脚だけある一人がけソファと共布《ともぬの》だった。
「由乃さん」
「う……ん、もうちょっとだけ」
「仕方ないなぁ」
祐巳はバスルームに入って、取りあえずバスタブにお湯を張ることにした。
お湯を張る際、決してあふれさせてはいけません。事前説明会で、先生が繰り返し念を押していた。何でも、過去、バスルームを水浸しにして、下の階の天井を水漏《みずも》りさせた先輩がいたんだそうな。
それはかなり自分もしでかしそうな失敗なので、用心のために祐巳はお湯が適量入るまでその場に留まることにした。
お湯の温度を時折確認しながら、バスルームの中もチェック。
「ゴージャスだなぁ……」
壁も床もキャラメルアイスのようなマーブル模様。これは、あれだ。そう、大理石。
白い陶器《とうき》でできているのは、洗面台とバスタブと便器と――。
「おお、そして噂の」
ビデ。ヨーロッパの人がトイレの後に使う物らしい。が、現物を目の前にしたところで、今ひとつ使い方がわからない。説明会で「子供用の洗面台ではありません」とは教えられたが、先生も「このようにして使用します」なんて、ポーズをとってまでは見せてくれなかったから。
「ねー、これって、どうやって使うのかなー」
ドアを開けて、由乃さんに向かって話しかけてみる。が、予想通り返事はない。
なんか、つまらない。こういうのは、一人じゃなくて、誰かとキャーキャー言いながら見るのが楽しいのに。
そうこうしている間に、お湯がたまった。
「由乃さん、お風呂《ふろ》の準備ができたよ。入って」
部屋に戻って寝ている友の肩を揺すりながら、「私は新妻《にいづま》か」と心の中で自分に突っ込みを入れる。
「ゆ……さん……おさ……ぞ……もす……ねさ……て」
「はあっ?」
この難解極まりない暗号を解読するに、たぶん「祐巳さんお先にどうぞ。もう少し寝させて」。
「由乃さんたら」
「うーん」
だめだ、こりゃ。ここは主張通り、一眠りさせた方がいいかもしれない。叩き起こすのもかわいそうだし、かといって赤ちゃんじゃないんだから、眠ったままお風呂《ふろ》に入れてやれるわけもないし。
由乃さんと長ーいつき合いの令《れい》さまは、こういう時どういう風に対処するのかな、なんて考えながら祐巳は洗面用具の入ったビニール製のポーチと新しい下着を持って、バスルームへと向かった。
「おっと、そうそう」
引き返して、クローゼットにかけておいた制服を持ってバスルームの中へ。閉めたドアのフックに、ハンガーのまま引っ掛ける。こうすると、水蒸気の働きで、洋服の軽いしわがとれるんだって。
準備万端。さてお風呂タイムに突入、と言う時に、祐巳ははたと気がついた。
「……洗い場がない。ということは……掛け湯ができない」
郷《ごう》に入《い》っては郷に従え。けれど、日本人はお風呂が大好き。とにかくまずは湯船にざぶんと浸《つ》かる。
「湯船の中で、頭洗って、身体《からだ》洗って、顔を洗って……結局今浸かっているお湯は栓《せん》を抜かなくちゃいけないわけか」
福沢《ふくざわ》家では、追い焚《だ》きしながら家族四人が入るお湯。もったいない。けれど、シャンプーや石けんを使わないわけにはいかない。ならばせめてじっくり入ろう、と決めたものの、温かいお風呂に浸かって身体がリラックスしたら、一度は追い払った眠気が再び呼び覚まされてしまった。
「だめ。ここで寝たら、冗談じゃなく水死するかも」
もうすぐ明日になろうという時刻。日本時間では、朝の八時。機内で仮眠したとはいえ、細切れで浅い睡眠しかとれていない。眠くて当然なのだった。
あくびをしながらどうにか全身を洗って、お風呂タイム終了。
髪の毛を備え付けのドライヤーで乾かしている間に、今度は由乃さんの分のお湯を湯船に溜める。しかし、シャワーが学校のプールのそれのように壁の上部に固定されていて、湯船の縁《ふち》についた泡《あわ》を流すのにも一苦労。もちろん、自分の身体《からだ》を洗うのだって相当の技術がいった。
「由乃さん。私、出たよ。起きて」
「うーん」
由乃さんは祐巳が部屋を出た時と変わらず、制服のままベッドに横たわっている。
「それとも、お風呂《ふろ》やめる? だったら、お湯止めてくるけど」
「今は、入らない」
あれま、微妙なお答え。
「後で入るの?」
「わからない」
「とにかく、風邪《かぜ》ひくから、ちゃんと寝た方がいいって。ほら、制服は脱いで。バスルームに掛けておいてあげるから」
「……起きられない」
そう言いながら、由乃さんが気怠《けだる》く両手を前に差し出すので。
「しょうがないなぁ」
祐巳は、その手をとって引っ張った。
「はい、おっきしましょう」
お母さんか私は、なんてまたまた突っ込み。そうでも言わないと、やってられない。
「ん?」
その時、祐巳は気がついた。
「……由乃さん」
「何?」
身を起こして、やっとのことでベッドに腰掛けた由乃さんは、ポーッとした顔で祐巳を見つめた。
「もしかして、熱があるの?」
「どうかな、って思ったけど。でも、祐巳さんの手は冷たく感じないから、それ程でもないかも」
「それほどだよ! 私はたった今、お風呂から出てきて温かいんだから」
それなのに、由乃さんの手は同じくらいの熱さだった。
「先生呼ぶ」
何かあった時のためにと言われて、先生の部屋番号をメモしておいた紙が確かどこかにあったはず。祐巳がそれを探しに行こうとすると、由乃さんが腕を掴《つか》んで言った。
「大丈夫《だいじょうぶ》だから、お願い」
先生には言わないで、って。具合が悪いのにこんな力が残っているんだ、っていうくらい強く握られた。
「でもっ」
「微熱よ。いつものことなの。濡れタオルでおでこを冷やして寝てれば、そのうち治るわ。だから」
「由乃さん……」
由乃さんの瞳には、涙があふれていた。それは、身体《からだ》がつらいからではない。他の人たちに知られるのが口惜《くちお》しくて、それで流れた悔《くや》し涙なのだ。
「いつものことなのね?」
祐巳はベッドの傍《かたわ》らに膝《ひざ》をついて、由乃さんの顔を見た。由乃さんは小さく、それでもはっきりとうなずく。
「おでこを冷やせば治るのね」
「ええ」
今度ははっきりと声に出した。
「わかった。じゃ、そうしよう」
祐巳はそう言って、まずは湯船に注いでいたお湯の蛇口《じゃぐち》を閉めた。それから、由乃さんの鞄《かばん》からパジャマを出して、着替えさせ、ちゃんとベッドに寝かせた。
「タオルは、ホテルの一番小さいサイズのでいい?」
「あのね。鞄《かばん》のポケットに入っているハンドタオルでお願い」
「鞄《かばん》のポケットね」
指示された場所を探ると、そこからはヒヨコ柄《がら》のタオルが出てきた。
「……これは、かなり年代物だね」
ずいぶん色あせているし、ほつれた箇所《かしょ》を繕《つくろ》った跡もあちこち。タオルなのに、ずっと大切にしてきたぬいぐるみみたいな趣《おもむき》があった。
「うん。でも魔法のタオルなの。いつも私の熱を下げてくれてきたのよ。私、小さい時これがないと眠れなかったの」
「そっか。じゃ、またお仕事してもらおう」
祐巳は洗面台でタオルを濯《すす》ぎ、軽く絞《しぼ》ってから由乃さんの額《ひたい》の上に置いた。
「ありがとう。きもちいい」
「そう。よかった」
祐巳は、由乃さんの枕もとまで椅子《いす》を引いてきて、腰掛けた。心なしか、由乃さんの顔つきがはっきりしてきた気がする。
「心臓の発作《ほっさ》はなくなったけれど。疲れたりすると、やっぱり熱が出ちゃうのよ。でも、徐々にその回数も少なくなってきているの」
「うん」
「ごめんね」
由乃さんは、告白した。
「先生に知られると、私、またみんなと一緒《いっしょ》にいられなくなりそうで嫌だったの」
「そっか」
病弱だった由乃さんは、課外授業があってもいつも特別扱いで、移動も宿泊も先生の側で、ハードな遊びは見ているだけ、分担仕事は免除、といった感じで、クラスメイトは仲間はずれにしたわけではなかったろうけれど、どこかで疎外《そがい》感を感じていたという。それでも、参加できるだけましなのだ。遠足なんて、しょっちゅう休んでいた。
「ホームルームでホテルの部屋分けした時ね。祐巳さんと一緒の部屋がいいって、私が強く希望したでしょ? みんなが引くぐらいにね」
「そうだっけ」
と答えたものの、祐巳もその時のことはよく覚えている。「ぜひとも、祐巳さんと同部屋で」とあまりにストレートに言われて、正直うれしかった。そんなに好かれていたのかな、なんて。由乃さんの性格上、何か考えがあってのことだって、思いもしなかった。
「うん。そうなの。それはね、もしかしたらこういう事が起きるかもしれない、って考えたからなの。クラスメイトたちが意外にすんなり了解したのも、同じ理由だったと思う」
お互い幼稚舎《ようちしゃ》からリリアンなのに、祐巳は由乃さんと初めて同じクラスになった。けれど、これまで一緒だった生徒たちは、手術前の由乃さんのことをきっとまだ覚えている。旅行中に調子が悪くなる可能性を考えたら、やはり由乃さんが安心できる人を側に置いておいた方がいい、と判断したのだろう。
[#挿絵(img/17_059.jpg)入る]
「祐巳さん。世話をかけるね」
古いコントで、病気の年老いたお父さんが娘たちに向かって言うセリフみたいだ。その後続く娘のセリフは、「それは言わないお約束」なのだ。
「友達はね、損な役回りを引き受けるためにいるものなんだって。だから、気にしない気にしない」
以前、前|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の水野《みずの》蓉子《ようこ》さまが言っていた。黄薔薇革命の時だったろうか。
「でも、それって客観的に見た場合の言葉だよね。だって私、こうして由乃さんのお世話するのを損な役だなんて、思わないもん。だから、こういうことはやっぱり友達が引き受けるべきことなんだ、って思う」
「ありがとう」
「もうしゃべらないで。眠って」
祐巳は部屋の電気を半分消した。
「でも。明日の朝、熱が下がってなかったら、先生に言うからね」
「わかった」
自分のベッドに横たわったけれど、気になって眠れない。身体《からだ》はすごく疲れているけれど、気が張っているようだ。由乃さんの額《ひたい》のタオルも、たまに取り替えてあげたいし。どっちみち、今晩はちゃんとした睡眠はとれないと覚悟しておいた方がいい。
(明日の朝、ちゃんと起きられるかな)
ふと、そんなことが頭に過《よぎ》って、身を起こした。しまった。目覚ましを、まだセットしてない。
(えっと、明日の松《まつ》組の朝食時間は……と)
すでに寝息を立てている由乃さんを起こさないように、ベッドからそっと抜け出し旅行のしおりを確認する。
(七時十五分から四十五分か)
ということは、七時前には起きてないと。いや、全員|揃《そろ》って「いただきます」ではないので、七時半に食堂に行ったって構わないのだ。ただ、ある時間に集中するのを避けるために、大まかにクラスごとに区切っているだけのことだから。
歯を磨《みが》いて、顔を洗って、制服を着る。一連の作業を十五分で行うことにして、七時|起床《きしょう》と決定する。髪の毛は、食事の後でやったっていい。
(さて、目覚ましは――)
ベッドとベッドの間のナイトテーブルの辺りを探る。普通、この辺りにあるものだ。家族旅行で宿泊したホテルでは、大概《たいがい》電話の隣かテーブル自体に組み込まれていた。
が。
(ない)
ホテルにあると思《おぼ》しき物は、持参しないのが旅|上手《じょうず》。歯ブラシとスリッパと浴衣《ゆかた》はない、ということは先生から聞いていたが、まさか目覚まし時計もないとは思わなかった。腕時計をしているから、その他の時計のことなんて考えもしなかった。
(モ、モーニングコール?)
日本のホテルでだって、そんなものしたことがない。しかし、自力で起きられそうもないのだから、もうそれに頼るより仕方がないのだった。
(由乃さんに相談するわけにもいかないし)
先生に質問するにしても、もう深夜一時を過ぎている。それに、先生の部屋に電話をかけて、由乃さんの様子を聞かれでもしたら、うまく嘘《うそ》をつく自信がない。
迷っている間に、時間はどんどん過ぎていく。決心して、祐巳は電話と向き合った。ごく普通のプッシュ式の電話で、数字の横に短縮ダイヤルみたいなボタンがついている。たぶん、このうちのどれかを押せばいいはず。小さく書かれた文字の中に、モーニングコールを匂《にお》わせるボタンはなかった。
(ってことは、フロント?)
しかし、フロントという文字もない。
(えー。どこにかければいいのー)
ルームサービスじゃないしルームメイドやランドリーでもなさそう。残ったのは、オペレーターとレセプション。オペレーターは何となく電話交換手というイメージなんだけれど、レセプションが何だかわからない。
(さあ。どうする、祐巳)
二者択一。どっちを選んだところで、自信はないのだ。今度海外旅行をする際は、目覚まし時計と英和辞典を持ってこよう、とかたく心に誓《ちか》って、受話器に手を伸ばす。間違っていたら、その時はかけ直せばいいこと。レセプションというボタンを押した。
「Hello?」
五回コールで相手方は出た。低い男の人の声。早口だったのでよくわからなかったが、多分「何かご用でも?」みたいな事を言っているのだと思う。
「えっと、モー――」
言いかけて、とっさに「違う」と思い直した。
「ウェイクアップ・コール、プリーズ」
モーニング・コールは和製英語だから通じない。いつだったか英語のリーダーの時間に、先生が言っていた言葉を思い出す。人間追いつめられると、記憶の引き出しがいろいろ開くものである。
「アット、セブン」
うわっ、すごい棒読《ぼうよ》み英語。リーダーであてられた時は、もう少しまともな発音で英文を読めるのに。
でも、ま、この際、通じればいいか、と開き直る。「Could you」とか「Would you」で始まる文章をこねくり出したところで、うまく言えずに向こうに通じなければしょうがない。
「OK」
電話の向こうから返事があった。どうにか理解してもらえたらしい。その後、再びベラベラと早口で話しかけられたが、やはりヒヤリングできなかった。辛《かろ》うじて、「セブン」と「ツースリーワン」が聞き取れたので「イエス」と言っておいた。
「ニーサンイチネ。オヤスミナサイ」
そう言って電話は切れた。日本人観光客もよく訪れるのだろう。向こうの方が、一枚上手のようだった。
由乃さんの額《ひたい》のタオルを、もう一度水で冷やしてから、祐巳もベッドに潜り込んだ。
いつもより八時間長い一日が終わる。
目覚まし問題も片づいたことだし。少しは睡眠をとらないと。
由乃さんじゃないけれど、一旦目をつぶれば、しばらくは起きあがれそうもなかった。
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ゆるゆる問答
1
モーニング・コールが来る前に目が覚めた。雨の音が耳に入ってきたからだ。
暗いのは、天気のせいか、それともカーテンが閉まっているせいか。あるいは、まだ夜が明けてはいないとか。
起きあがって窓の側まで歩いていけば、すぐに判明することなのに、瞼《まぶた》も身体《からだ》も重くて、ぐずぐずと毛布にくるまり丸くなった。鼻が冷たい。
「そうだ、由乃《よしの》さんっ!」
そこでやっと昨夜のことを思いだし、祐巳《ゆみ》の目は一気に覚めた。しかし隣のベッドを見ても、そこには誰もいない。もぬけの殻《から》といった感じで、人の寝ていた形をキープしたままの毛布の空洞《くうどう》が残されているだけ。
「ト、トイレ?」
にしては、シーツのぬくもりがない。空洞の中に手を突っ込んだまま、祐巳は固まった。これは、ベッドを抜け出してから結構時間が経っている。少なくとも、五分やそこらではなさそうだ。
「ど、どっ……」
急に気持ち悪くなって、吐いているのかもしれない。現在進行形ならまだしも、祐巳が爆睡《ばくすい》している間のことで、そのまま気を失って倒れていたりしたらどうしよう。
もつれる足でバスルームの前までやって来て、扉を開ける。すると。
「……!」
中から鍵《かぎ》がかかっているではないか。
「由乃さん!?」
調子が悪い時にトイレに入る場合は、鍵を掛けてはいけません。島津《しまづ》家では、そういうルールはないのだろうか。
「由乃さんたらっ、大丈夫《だいじょうぶ》!?」
ドンドンドンと扉を叩く。応答はない。吐いた物を喉《のど》に詰まらせて窒息《ちっそく》でもしていたら、それこそ取り返しがつかない。こんなことなら、由乃さんにどんなに懇願《こんがん》されようとも、やっぱり昨夜のうちに先生の手にゆだねた方がよかったかもしれない。
「どうしよう」
助けを呼ぼうと決心して、扉の前から離れようときびすを返したその時、祐巳はあることに気がついた。
カーテンの合わせ目から、うっすら日が差している。
(え?)
なのに、いまだ続いている雨音。それは、バスルームの中から聞こえていた。
「よ、由乃さん?」
よーく耳を凝《こ》らすと、その中には鼻歌のようなものまで混じっている。
まさか。
扉の前で、祐巳は立ちつくした。すると程なく雨音が止《や》み、あちら側から扉が開かれた。
「ごめん、祐巳さん。トイレだった?」
「――」
何と、中からバスローブを引っかけた由乃さんが、髪を濡らしたまま出てきたのである。口をパクパクしながら、祐巳は首を横に振った。
「そう? じゃ、悪いけれど、髪の毛だけ乾かさせて」
言いながら扉の向こう側に戻る由乃さんを見送って、祐巳はその場にしゃがみ込んだ。信じられない。数時間前にあんなに具合が悪そうだったのに、今はケロリと治って、シャワーまで浴びていたのだ、由乃さんは。
時計を見れば、午前六時半。ひとまずベッドに戻ったものの、気持ちがモヤモヤしてどうにも落ち着かない。
(心配して損した)
友達関係は損得じゃない、って。昨夜の自説はどこへやら。
(予定より三十分早く起こされた)
由乃さんの体調がよくなったならそれでいい、と、すべてを善の方向に受け入れられるような十七歳だったら、もはやその人は福沢《ふくざわ》祐巳ではなくて聖人である。リリアン女学園に通って、イエズス様の教えを学ぶ必要はないかもしれない。
「あー、さっぱりした。お待たせ、祐巳さん」
機嫌よくバスルームを出てきた由乃さんに、祐巳は一言文句をいってやりたい衝動にかられた。
「あのさ」
すると、察した由乃さんは、先に答えた。
「いつものことだから、おでこ冷やして寝てれば治るって、言ったでしょ?」
「聞いたけど」
でも、そうはいっても、心配するでしょう、普通は。
「制服、シャワーの前にバスルームから出して、クローゼットにしまっておいたから湿気《しけ》てないはずよ」
言いながら、由乃さんはカーテンを開けてテレビをつけた。当たり前だけれど、そこに映し出されたキャスターは、流暢《りゅうちょう》なイタリア語でニュースをしゃべっている。
祐巳ではなく、画面を見ながら由乃さんは言った。
「心配かけたわね。弱み見せられるの、同級生では祐巳さんだけよ」
そんな殺し文句を言われてしまったら。「もういいか」って気持ちになるしかないじゃない。
もう、いいか。
由乃さんに振り回されている令《れい》さまの気持ちが、ちょっとだけわかった気がする。
祐巳も、由乃さんでなくテレビに向かって言った。
「ホント、心配したんだからね」
テレビのニュースが七時を告げてから二分後に、部屋の電話が鳴った。
2
七時二十分に、ロビーの階と一階の間にある食堂に着くと、すでに一部のクラスメイトたちは席について食事を開始していた。
「祐巳《ゆみ》さん、由乃《よしの》さん、こっち」
食堂に入ると、蔦子《つたこ》さんと真美《まみ》さんが手を振って招いた。「ちょうど二つ席が空《あ》いているから」と。
「ごきげんよう」
挨拶《あいさつ》を交わし、由乃さんとともに着席する。するとウェイターのような男の人が近づいてきて、二人に何か尋《たず》ねた。最初の「ボンジョルノ」しか聞き取れなくて、でもまあそれは挨拶なので、こちらも一応「ボンジョルノ」と返す。
「飲み物は何にするか、って言っているのよ」
蔦子さんが教えてくれた。一応朝食はビュッフェスタイルなのだが、先に飲み物だけ注文するらしい。それにしてもすごいヒヤリング力。早口でボソボソ言っているから、祐巳なんか全然わからなかったのに。
「私たちだってわからないわよ。でも、さっきまでその席にいた藤《ふじ》組の生徒が教えてくれたの。ほら、何にするの?」
「何、って」
そう言われても、メニューはないし。と思ったら、由乃さんが躊躇《ちゅうちょ》なく注文した。
「カフェオレ、プリーズ」
しかし、首を傾《かし》げるウェイター。
「蔦子さんたちのカップに入っているの、何?」
祐巳は尋ねた。
「カフェラテ」
「じゃ、私も。カフェラテ、プリーズ」
由乃さんも続けて。
「ミートゥー」
今度はちゃんと注文が通った。よくよく考えてみたら、カフェオレはフランスの飲み物なのだった。
蔦子さんと真美さんは、顔を見合わせて含み笑いをした。二人もやっぱり、先の藤組の生徒を真似《まね》してカフェラテにしたんだって。最初からスマートにできるわけない。
スクランブルエッグとベーコンと粉砂糖がまぶしてあるクロワッサンをお皿にとって戻ってくると、すでに席にはカフェラテが置いてあった。野菜が足りないかな、なんて思っていたら、由乃さんがトマトジュースをグラスに注いで持ってきてくれた。
「飲めたよね?」
昨夜のことがあったからだろうか、何だかやけにサービスがいい。
「で? いかがでした、昨夜は」
カフェラテのお代わりを自分で注ぎながら、真美さんが話題を振ってきた。いつも持っている取材用のメモはないので、これは単なる雑談らしい。
「シャワーが使いにくいよね」
「あー、トイレを流すの、どれだかわからなくなかった?」
真美さんは用を足した後、同室の蔦子さんを呼んで相談したらしい。確かに、日本でよくあるレバーの様な物は見あたらず、祐巳も最初は迷った。壁にくっついた大きな四角いボタン(学習机の引き出しくらいの大きさはある)がそれだと気づいた時は、ちょっと感動してしまった。所変われば、である。
「トイレといえば、便器が小さくて冷たくない?」
「うん。腰掛けたとき、ヒヤッとくるよね」
「ねえ、それくらいにしておかない?」
食事時なので、その手の話題は早々に打ち切った方がいい。
「そういえば、目覚まし、持ってきた?」
祐巳は昨日の夜、パニック起こしながら頼んだモーニング・コールのことを打ち明けた。すると。
「テレビについてたよ。ね?」
真美さんと蔦子さんは、顔を見合わせて言った。
「本当?」
「予約録画みたいな感じかな? 時間になると、テレビのスイッチが自動的に入って起こしてくれる」
「……気づかなかった」
いや、テレビをつけていれば気がついたのかも知れないけれど、昨夜はそれどころじゃなかったし。
「いいじゃない? お陰で、貴重な体験できたんだから」
先に食事を終えた二人は、笑いながら手を振って席を後にした。後から来た人たちが、席を探していたからだ。
「こちら、いいかしら?」
同じ松《まつ》組の、道世《みちよ》さんと逸絵《いつえ》さんだ。桜《さくら》組の生徒の顔も、ぼちぼち見え始めている。
「ええ、どうぞ」
祐巳と由乃さんはニッコリと笑って、二人を出迎えた。ウェイターが、新規のお客さんに「ボンジョルノ」と挨拶《あいさつ》にくる。
「飲み物は何にしますか、って言っているのよ」
そう教えてあげたのは、言うまでもない。
3
八時半に一階の玄関を出て、待っていたバスに乗り込み、中で簡単なお祈りをしてから出席をとる。
今日はクラスに一人ガイドさんがついて、案内してくれる。松《まつ》組のバスに乗車してきたのは、お母さんくらいの年齢《ねんれい》の日本人女性で、イタリアでお仕事している旦那《だんな》さんについてきて早七年という。
「これからヴァチカン市国に向かいます。まずは美術館。その後で、サン・ピエトロ大聖堂を見学します。みんな、体調はいいですか?」
「はーい」
真っ先に、誰より大きな声で答えたのは由乃《よしの》さん。幼稚舎《ようちしゃ》の児童のように、手を思いっきり上にあげちゃっている。
「……何よ。ガイドさんは、昨日の晩とは言ってないでしょ?」
視線を感じたのであろう、祐巳《ゆみ》はまだ何も言っていないのに、隣のシートでふんぞり返っている由乃さんが言い訳するように言った。
「とにかく、今は絶好調なわけね」
「そういうこと」
小さくピースサイン。まあ、身体《からだ》の調子だって機嫌だって、悪いよりいいに決まっているけれどね。由乃さんに限らず。
「忘れないうちに、連絡事項。ホテルの部屋の使用方法について、二、三注意および説明があります」
先生がメモを見ながら話し始める。一種のホームルームだ。
「目覚ましはテレビについています。機械の操作に自信がない生徒は、レセプションのボタンを押してモーニング・コールを頼むように」
やはり、わからなくて困った生徒たちの報告があったのだろう。誰だかわからないけれど、祐巳は仲間を見つけた気分でうれしかった。
「バスタブの上からたれている紐《ひも》は、換気扇《かんきせん》のスイッチではありません。あれは緊急呼び出し用の紐ですから、むやみに引っ張らないこと」
この先生の言葉に生徒の半分くらいが笑い、残りの半分くらいはちょっと蒼白になった。ホテルの従業員が駆けつけるに至ったケースが何組あったかは不明だが、少なくとも「何だろう」と軽くクイックイッと引っ張ってみた生徒は半分近くいるということだと思う。かくいう祐巳もその口だ。結構な力で引いてはみたけれど、何も起こらなかったので諦《あきら》めた。諦めてよかった、と今更胸をなで下ろす。しかし、本当に緊急の場合、そんな馬鹿力を出せるものだろうか。疑問が残った。
「トイレは、壁についている大きなボタンを押せば流れます。……って、それについてはすべて解決済みのはずですね?」
これは全員笑った。流さないで出てきた人はいないようだ。
先生の注意事項が終わって間もなく、バスが停車して昇降用のドアが開いた。十分ほど乗っただろうか、思ったよりずっと早く着いた。
「本当に着いたの?」
窓の外を眺めてもそれらしい建物がない。雰囲気《ふんいき》としては、どこかの駅前大通りといった感じの場所だ。
「さあ、皆さん。荷物を持って降りてください。このバスは、ホテルに引き返して桜《さくら》組が乗りますからね。降りたら、私の前に二列に並んでください」
ガイドさんがテキパキと指示を出す。聞けば、美術館の入り口はもっとずーっと先なんだけれど、行列ができているからその最後尾《さいこうび》辺りでバスを停めたのだそうだ。一度入り口までいって、列の最後まで下って並んでいたのでは、時間と体力の無駄遣《むだづか》いというわけだ。どの辺まで列が伸びているかあたりをつけられるのは、やはり現地に住んでいるガイドさんならではの技であろう。
松組の旗を持ったガイドさんが先頭、一番最後に先生、と二人の大人に挟《はさ》まれて、長蛇《ちょうだ》の列に並んだ。前や後ろをキョロキョロしてみると、いろいろなタイプの人たちの姿が見える。さすがはすべての道がつながるローマ。世界中から観光客が集まってくるのだ。
一足早くホテルを出発した藤《ふじ》組の集団が、前方に見える。制服のせいで全体的に黒くて、ある意味目立っていた。校外で、制服の集団は目立つ。だから学校側は、修学旅行にまで制服を着用させるのだろう。生徒がアクシデントやトラブルに巻き込まれた場合、目立つ方が先生たちも早く反応できるから。
「バスに乗っていた方が、ずっと短かったね」
由乃さんがつぶやいた。
行列はゆっくり、けれど確実に進んでいる。大通りから、少し細い通りに入ると、おしゃれなバールとかアパートなどが現れ、それを見ながら進むのは、祐巳は決して嫌じゃない。
「この国、緩《ゆる》い」
その声は、すぐ後ろに並んでいる真美《まみ》さんのもの。
「緩い?」
祐巳は振り返った。
「規則とか道徳とか環境問題とか、そういったものがね」
メモをとりながら、真美さんが言う。
「まず道が汚い」
確かに、吸い殻《がら》とか紙くずとかビニールとか当たり前のように落っこちている。東京も道はそれほどきれいじゃないけれど、もうちょっと控えめにゴミが落っこちている気がする。
「それに、喫煙《きつえん》者の天国のような場所だね、この国は」
真美さんの隣の蔦子《つたこ》さんが、付け加える。
今や世界の至る所で、肩身の狭い思いをしている喫煙者。ホテルのロビーでも、カフェのテーブルでも、道ばたでも、みんな堂々と煙草《たばこ》を吸っている。
「あと交通ルールね」
信号のない場所でも、歩行者は横断する。車の流れが途切れた時、とかじゃなくて、普通に走っている間をスイスイ抜けていくのだ。ドライバーも慣れたもので、急ブレーキなんて踏まなくてもうまいこと歩行者を避けていく。
「でも、全否定しているわけじゃないのよ」
そこのところ間違えないでね、と真美さんは言った。蔦子さんも大きくうなずく。
「ゆるゆるなのは、大らかということだし、寛容とも言い換えることができるからね。ほら、ご覧なさいな」
クイって顎《あご》で指し示された方向を見ると、道端にお爺《じい》さんが座っていて、お爺さんの前に置かれた空き缶の中に、今まさに通行人がお金を入れるところだった。
「あれは……?」
「自分の富を、他の人に分け与えるという行為。日本では、あまり街中でお目にかかれない風景でしょ」
やっぱりここがキリスト教の国だからかな、って蔦子さんがつぶやいた。
慈悲の心が生む施しの文化。
公共ルールが緩いのもまた文化。
どっちがいい、悪いではない。それが、お国柄というもの。
ただ異文化に驚いているだけでは失礼だ、って。確かにそうだ。
何て言っても、こちらは旅行者。この国にわずかな期間お邪魔《じゃま》させてもらっている立場なのだ。
「いろんなこと、見つけられるといいな」
この旅行で、って祐巳は思った。今まで自分たちが知り得なかった世界を知り、まずは受け入れてみる。それは難しいことだけれど、とても大切なことなんだって思えてきたから。
「いろんなこと?」
由乃さんが聞き返す。具体的に、どんなことよ、って。
「いろんなことって言ったら、いろんなことよ」
そうね、例えば――。
祐巳がそうつぶやいた時、クラクションのけたたましい音が鳴り響いた。思わずそちらに注目する生徒たちは、「あ!」と皆小さく歓喜の声を上げた。
「結婚式だ」
ゴテゴテと飾り立てられたオープンカーに、ウエディングドレスの花嫁《はなよめ》さんと白いタキシードの花婿《はなむこ》さんが乗っている。
「ああ、そうか。土曜日だものね」
お友達と思《おぼ》しき若者たちの乗っている車が新郎新婦の車の前後を固めていて、祝うというより冷やかすといった感じで盛り上がっている。
「いいわね」
女子高生たちは、とろけた目でどんちゃん騒ぎの車を見送る。
そのすぐ後を、飼い主に無理矢理|綱《つな》を引っ張られたダルメシアンが、糞《ふん》を垂れ流ししながら走っていった。
「……やっぱり、緩《ゆる》い」
真美さんがうんざりとつぶやいた。お腹《なか》の調子が悪かったらしく、その犬の落とし物も、相当緩いものだった。
4
五十分並んで、やっと美術館の入り口にたどり着いた。
美術館というものは、そこにある物をすべて同じように吸収しようとしてはだめだ。――と、祐巳《ゆみ》は入館わずか十分で悟った。
最初は気合い入れて観ていたのだが、次から次へと現れる展示品はあまりに膨大《ぼうだい》で、一人の人間の脳の容量ではとても収まらないものであった。前に記憶した絵を頭から出さないことには、次の絵が入らない。そのうち、入れ替える作業もできなくなってしまった。どれもこれも、立派な宗教画なだけに、マリア様に申し訳ない。
「いいのよ、それで」
鹿取《かとり》先生が言った。
「ぼんやり観ていても、自分が好きな絵はわかるものだし。一つの美術館で一点か二点、好きな絵が見つけられたら『当たり』くらいに考えた方がいいわよ。そうしないと目が回っちゃうでしょ」
「要所要所で解説はしますけれど、私の言葉はBGMと思ってくださっていいですよ。興味がある絵のところだけ、耳を傾けて」
ガイドさんもそう言ってくれているので、一気に気が楽になった。美術に造詣《ぞうけい》が深い人であっても、絵でお腹《なか》がいっぱいになりそうな場所である。
そうして祐巳がヴァチカン美術館で「当たり」と思った絵はというと、ミケランジェロの『最後の審判』だ。
礼拝堂の大きな壁面の中央上部に審判者のキリスト、傍《かたわ》らに聖母マリアを据《す》え、その周囲には審判を受ける多くの人間が配されるといった構成の、あまりに有名な壁画である。一言でいうなら、まさに天国と地獄。
有名な絵だから引き寄せられる、ということもあるかもしれないけれど、逆に人の心に何かを訴えかける絵だからこそ、これだけ有名になったのかもしれない。大きさも手伝って、すごい迫力だ。
呆然《ぼうぜん》と観ていたら、知らない間に志摩子《しまこ》さんが横に立っていた。いや、藤《ふじ》組の方が先に出発しているはずだから、知らずに祐巳が志摩子さんの側まで歩いてきて、壁画を見上げていたのだろう。
ここで会ったのも素敵な偶然。祐巳は「ごきげんよう」と挨拶《あいさつ》しかけた。が、友の顔を見て、ギョッとした。
「――えっ!?」
志摩子さんは、涙を流していたのだ。
「し、志摩子さん?」
「どうしてかしら、涙が止まらないの」
大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれて頬《ほお》をキラキラと輝かせていた。
[#挿絵(img/17_083.jpg)入る]
それは、裁かれる者である人間を哀れんでの涙だろうか。それとも、裁かなければならないキリストの絶望や目を伏せる聖母の悲しみを慮《おもんぱか》っての涙か。
志摩子さん自身も、何のための涙かわからないという。でも、ただ一つ確かなことは、そこにあるのは、信仰《しんこう》だということ。
壁画を見つめる志摩子さんは、マリア様くらいきれいだった。
藤組の集合がかかって、志摩子さんが礼拝堂を後にすると、由乃《よしの》さんが祐巳に近づいてきてボソリと言った。
「何とも、お太りになられたイエズス様だこと」
わずかな間に、両極端ともいえる反応を見てしまった。
けれど。
どちらも、祐巳の大切な友人なのである。
5
美術館内には、時々出店が出現する。それは大概《たいがい》テーブルの上に商品を並べただけの簡易な店で、ヴァチカン美術館に関する物が売られている。様々な国の言葉に翻訳《ほんやく》されたガイドブックだったり、きらびやかな小物だったり、展示品のレプリカやミニチュアなど、その店によっていろいろである。
「由乃《よしの》さん、何してるの?」
広い廊下《ろうか》の途中の出店の前で、由乃さんが動かない。何かめぼしい物でも見つけたか、と脇に回り込んで見る。すると、そこには。
「ロザリオ……」
真剣な目つきでテーブルに並んだロザリオを眺める由乃さん、ロザリオの横のマリア様の御絵《ごえ》なんてまったく見えていない。
「本気で、腹|括《くく》ったんだ」
たぶん、未来の妹用に、と考えている。近々に妹を作ろうという決心を、形にしようとしているように見えた。
「新しいの買うの?」
「うん。志摩子《しまこ》さんは乃梨子《のりこ》ちゃんに、聖《せい》さまからいただいたのをあげたらしいけれど」
聖さまもそのお姉さまからいただいた物だっていうから、白薔薇さんちのは何代も続いているロザリオなのである。
「私のは、私のために令《れい》ちゃんが買ってくれた物だし」
だから令さまは、江利子《えりこ》さまからのロザリオをいまだ持っているということになる。
姉妹《スール》の契《ちぎ》りで授受するロザリオは、代々受け継いだ物でも、新たに購入した物でもどちらでも構わないことになっていた。「代々」と限定してしまうと、いろいろ不都合があるからだろう。
「祐巳《ゆみ》さんのロザリオは? 祥子《さちこ》さまが蓉子《ようこ》さまから譲られた物かしら?」
「知らない」
そういえば、聞いたことがない。
「少なくとも、私のために用意してくれた物でないことだけは確かだけれど」
祥子さまは、初めて言葉を交わしたその日のうちに、突発的に姉妹宣言をした。結局、その時祐巳はお受けしなかったのだが、現在祐巳の首に掛かっているのは、最初に授受が行われそうになった時のロザリオだった。
「そっか。祥子さまは、祐巳さんの前に志摩子さんに申し込んだんだものね」
別に思い出してくれなくてもいい事を、由乃さんがつぶやいた。未来の妹のために買った物だとしたら、漠然《ばくぜん》と志摩子さんの事を思い浮かべていたかもしれない。……ちょっと複雑。
「ね、祐巳さんも買わない?」
「あ、仲間に引き入れるつもりだな」
「それより、いいこと思いついちゃった。ロザリオ占い」
「何、それ?」
「ここにあるロザリオの中で、インスピレーションを感じた物を買うの。で、帰国してから、学園内で一番そのロザリオが似合う一年生を妹にする。どう?」
「どう、って」
靴《くつ》のサイズでお妃《きさき》さまに選ばれた、シンデレラじゃあるまいし。おまけに、占いって言いながら、全然占いになってないし。
「やめておく」
祐巳はそう言って、テーブルから離れた。ロザリオ占いは脇に置いておいて、そこに並べられた中からロザリオを選ぶ気にならなかった。
色石を使った華《はな》やかな物より、もっとシンプルな方が好き。
取りあえず、そういうことにしておく。
6
美術館の後は、サン・ピエトロ大聖堂へ。
ここはカトリックの総本山。ローマ法王のいらっしゃる場所。殉教者《じゅんきょうしゃ》聖ピエトロのお墓の上に建てられた寺院だそうだ。
広場へ通じる入り口に並んで入場を待つ。美術館同様、すごい観光客の数である。二年|松《まつ》組ご一行の十人くらい前に並んでいた西洋人っぽい中年の小父《おじ》さんと、直前の東洋系のカップルが、入場を拒否されていた。小父さんは短パンにサンダル履《ば》きで、カップルは女性の方が肌の露出の激しいスリップドレスを着ていたから、というのがガイドさんの説明だった。神聖な場所だから、それにふさわしい服装でなければ足を踏み入れることすら許されないのだそうだ。
カップルの方は、女性が男性のシャツを羽織《はお》って肌を隠すことにより入場が許されたが、短パンの場合は即席でどうにかなるものではない。小父《おじ》さんは肩をすくめて引き返していった。
「あの人、キリスト教徒じゃないのかしら?」
後ろ姿を見送りながら、真美《まみ》さんがつぶやいた。
「自分がどんな宗教を信仰《しんこう》していようと、神聖な場所を訪ねるという認識があるなら、それなりの格好をしてくるべきでしょ」
由乃さんが追い打ちを掛ける。正論だが、かなり手厳しいご意見。
「じゃさ、日本人なんか危ないんじゃない? 日頃からしっかりとした信仰心をもって暮らしている人が少なそうだし」
思ったままを祐巳《ゆみ》が口にすると、蔦子《つたこ》さんが言った。
「日本人は、結構|大丈夫《だいじょうぶ》だと思うな」
「どうして?」
「ガイドブック買って予習してくるでしょ? そこにしっかり服装には気をつけるように、って書いてあるからね」
真美さんも由乃さんも大きくうなずいたところを見ると、どうやら三人ともガイドブックを隅々まで読んで予習してきた口らしい。
「そういえば、入る時、パスポートいるのかな」
ふと思いついたように、真美さんが言った。
「パスポート?」
「ヴァチカン市国は、文字通り一つの国だからね」
そうそう、世界最小の独立国なのでした。
「じゃ、この中はイタリアじゃないんだ」
「ま、そういうことになるね」
「でも、それなら、美術館に入る時は? パスポートは見せなかったよね? でも、あそこだってヴァチカン市国の一部でしょ?」
ヴァチカン美術館という名称なのだから、多分そう。
「イタリアじゃないのに、ローマ法王が統治するとはこれいかに?」
「ヴァチカン市国なのにスイスの衛兵が守るが如し。さ、行くよ」
チェックに引っかかった小父さんとカップルの後しばらくは、服装で引っかかる人もいなかったせいか、入場は滞《とどこお》りなく進み、あっという間に祐巳たちの順番がきた。なるほど、制服の場合は、先頭の一人を見れば、あとは一々調べる必要がないからスムーズに流れるというわけだ。
パスポートの提示などなくても、サン・ピエトロ広場に入ることができた。入り口に立っている係の人の前を通る時、飛行機に乗る前の手荷物検査を通過する時みたいにドキドキした。もちろん、リリアン女学園の制服が「ふさわしくない」とはじかれるわけはないのだけれど。
広場の第一印象は、「野外ステージのよう」であった。正確に言うと、「設営中のコンサート会場の客席」だろうか。寺院に向かうような形で、膨大《ぼうだい》な数の椅子《いす》が並べられている。
「明日の準備をしているんですよ」
ガイドさんが教えてくれた。
日曜日のミサには、世界中から信者たちが集まるという。カトリック総本山で行われるミサに参加することは、信者にとっては生涯《しょうがい》の夢であるのかもしれない。
大聖堂は、外観もさることながら、中も度肝《どぎも》を抜かれるほどの造りだった。
まず、天井がすごーく高い。そして絢爛豪華《けんらんごうか》。綺麗《きれい》。煌《きら》びやか。荘厳《そうごん》。華《はな》やか。とにかく「すごい」の一言で、美術館でゴージャスな物は見尽《みつく》くしてきたというのに、一介《いっかい》の日本の女子高校生たちは、あんぐりと口を大きく開けたまま立ちつくすしかなかった。
世界は広い。こんな建物見たことない。
ぼーっとした頭のまま、ガイドさんに導《みちび》かれて、ミケランジェロの『ピエタ像』や『聖ピエトロ像』を見た。有名なあの像はここにあったのね、という感想しかもてなかった祐巳は、やはり相当にカルチャーショックを受けていたのであろう。
7
半ば放心状態でサン・ピエトロ大聖堂を後にした二年|松《まつ》組一行だが、しばらく歩いて平常心を取り戻していくに従い、ある感情がふつふつとわいてきた。
「お腹《なか》が空《す》いた」
腕時計を見れば、もう午後二時近い。美術館と寺院とを梯子《はしご》したのだ。それくらいの時間になっていてもおかしくない。これでも、急ぎ足で回ったんだけれどね。じっくり見学するなら、一日かけても足りないという。
「もう少しだから待ちなさい」
餌《えさ》を親鳥にせがむ雛のように、列のあっちこっちから「お腹空いた」の声。その事で、今まで意識してなかった生徒たちまでも、自分の空腹に気づいてしまうものだから厄介《やっかい》だった。
予約を入れていたオープンカフェ(のようなもの)に着くと、淑女《しゅくじょ》たちはむさぼるように出されたパニーニを食べた。よく歩いたから、おいしい。
イタリアのミネラルウォーターには、炭酸《たんさん》が入っている。だから普通のお水が欲しい時は「ガスなし」を頼まなければいけない。
祐巳《ゆみ》たちは同じテーブルの仲間たちで相談し、半分ずつ頼んで飲み比べてみた。最初は目新《めあたら》しくて引っ張りだこだった「ガス入り」だったが、食事が終わる頃には皆「ガスなし」に手が伸びるようになった。やはり、人間は幼い頃から馴染《なじ》んだものに帰っていくものなのだろうか。中にはえらく「ガス入り」がお気に入りで、日本に買って帰ろうかと思案していた人もいたけれど。しかし、イタリア土産《みやげ》に水。たぶん重くてかさばると思う。
さて。チャレンジャーの祐巳としては、ここでお店のお手洗い初体験を済ませることにした。
お掃除《そうじ》の小母《おば》さんがいる時のことを考えて、小銭を持って、いざ店の奥へ。
ガイドブックによれば、イタリア語でトイレはバーニョ、女性用はドンナ。外から鍵《かぎ》がかけられているトイレの場合、カウンターで借りる鍵はキアーヴェ。
忘れないようにそうつぶやきながら客席の間をすり抜けていくと、目の前に階段が現れた。階段の前の壁に張り出されている紙には、下に向かう矢印とToiletteの文字が書かれている。どうやらこの店のトイレは地下にあるようだ。祐巳は薄暗い地下に向かって、ゆっくりと階段を下りていったのであった。
「――のであった、って。何もったいつけているのよ。報告は簡潔、迅速《じんそく》にしてちょうだい」
お手洗いを済ませた祐巳が、元のテーブルでバーニョ初体験レポート&感想を事こまかく語っていると、由乃さんがイライラした様子で横から口出ししてきた。
「つまり、トイレは地下にあるってことでしょ? で、お金は払ったの? 払わずに済んだの?」
「……払いませんでした」
「ペーパーの有無《うむ》」
「有《あり》」
「よし。それだけ聞けば、十分。報告ご苦労」
「あ、由乃《よしの》さん」
呼び止めるのも聞かずに、バーニョ体験第二部隊は小走りで店の中へと消えていってしまった。よほど切羽詰《せっぱつ》まった状態だったのだろう。それは仕方ないことだ。けれど。
「……便座がないって、どうして言ってくれなかったのよ」
戻ってきて、いきなりの文句はどうかと思う。だから祐巳は。
「足の筋肉を鍛《きた》えるのに、もってこいのトイレだったと思えば?」
とだけ答えておいた。しかし、返ってきた言葉はというと。
「筋肉以前に、平衡《へいこう》感覚じゃないの?」
どうやら由乃さん、腰を浮かせずに、洋式便器の上に乗って用を足したらしい。
そっちの方が、むしろ大変だって思うけれど。
8
遅いお昼ご飯の後は、サンタンジェロ城を見学し、バスで一旦ホテルに戻ってから、クラス単位の自由行動となった。
事前にホームルームで話し合った結果、祐巳《ゆみ》たちは今日の夕方、散歩がてらスペイン広場とトレヴィの泉に行くことが決まっていた。同じく自由行動の明日は、コロッセオと真実の口が予定に組み込まれている。つまり、松《まつ》組のテーマは『ローマの休日』なのである。
「なんかさ、人が鈴なりになっている、って感じだよね」
有名なスペイン階段には、たくさんの人々がひしめき合っていた。何をするでもなく、ただ座っている人がほとんどだが、どこかで調達してきたらしく、中にはアン王女を真似《まね》てジェラートを食べている人もいる。
「階段に座るだけなのに、何が楽しいんだか」
ぼやきながらも、座らずにいられないのが人情。ミーハーと笑わば笑え。ここまで来たのだから、座ってみたって罰《ばち》は当たらないだろう。――というわけで、形だけでも、と階段に腰を下ろす松組の面々。そこをすかさず、蔦子さんが写真にとる。「隣のオヤジ邪魔《じゃま》」とか何とか、こちらもぼやきながら。
「祐巳さん、何考えているの?」
「え?」
「時々、フッと考え事しているでしょ。今日の……そうね、昼過ぎ頃からかな」
カメラのレンズ越しに、蔦子さんが言った。さすがは写真部のエース、よく人の顔を見ている。
「もう、ホームシック? それとも、お姉さまに会いたくなった?」
「嫌だ、違うわよ」
手と首をぶんぶん振って、祐巳は否定した。日本を発《た》って、まだ一日半しか経っていない。いつもの週末ならば、お姉さまとそれくらい会えないのは普通だし、長期の休みだって姉妹《スール》になってから何回も経験している。
「じゃ、何?」
蔦子さんは笑って、カメラを下ろすと、祐巳の脇に腰掛けた。由乃《よしの》さんと真美《まみ》さんは、一度階段に腰掛けたらそれで満足したらしく、今は噴水を見にいっている。腕まくりして水を腕で受けて、はしゃいで、楽しそうだ。
「さっき、サンタンジェロ城に行ったじゃない」
祐巳は蔦子さんに告白した。
「ああ、『トスカ』の舞台になったって言われている、あの城ね」
歌劇『トスカ』は、恋人を助けるために人殺しまでしたのに、報《むく》われず、恋人を銃殺されてしまった女性が、テラスから身を投げて自殺するという悲劇である。簡単に言えば。
「それでね。歌劇と聞いて、ふと蟹名静《かになしずか》さまのことを、思い出してね」
「ロサ・カニーナか」
以前、志摩子《しまこ》さんと|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》の地位を争った歌姫。三年生に進学する前に、音楽の勉強をするためにイタリアに旅立っていった人。
「どうしているかな。元気なのかな、って」
今、イタリアの地に立ってみて、当たり前だけれど、広くて人が多くて。この広い空の下のどこかに静さまがいるのかもしれないけれど、番地どころか住んでいる都市の名前も知らない、通りすがりの修学旅行生は、会いたいと思ったところで見つけようもないんだろうな、って思っていたのだ。
「元気なんじゃない? 便りがないのは元気な証拠、って言うじゃない」
蔦子さんがそう言うと、背後から真美さんが「便り、っていえば」と現れた。
「ビックリした。いつ戻ってきたの」
「今。蔦子さんと祐巳さんが、いいムードで内緒《ないしょ》話しているみたいだから、聞き耳をたてにね」
「別に、内緒話じゃないけど。で、何が『便り、っていえば』なの?」
「ああ、そうそう。知ってる? ヴァチカン美術館の中に郵便局があって、そこで日本|宛《あて》に絵葉書を書いて出したんだって、桜《さくら》組の生徒たち」
「家族に?」
「ううん。お姉さまや妹によ」
お姉さまと聞いて、祐巳は俄然《がぜん》うらやましくなった。ホームシックじゃないけれど、お姉さまに会いたくて我慢できないわけでもないけれど、でも海外からお姉さまに絵葉書を出すなんてチャンス、次はいつ巡ってくるかわからない。今からでも、と思ったけれど、ただ今土曜の夕方。この国の郵便局の営業時間はわからないし、切手を買わないことには、ポストを見かけても投函《とうかん》することができない。
「さあ、トレヴィの泉行くよー、松組集合ー」
先生の号令がかかったので、立ち上がってスカートを払った。
旅行者というのは、頭が働かないし自由もきかないものなのだ。
9
トレヴィの泉は、夜の方が趣《おもむき》があって好きだな。と、鹿取《かとり》先生は言った。
その一言があったから、松《まつ》組は土曜の夕方のスケジュールにトレヴィの泉を組み込んだのだった。
名作『ローマの休日』は五十年経っても女の子には人気のある映画で、松組に限らず藤《ふじ》組も桜《さくら》組もその舞台めぐりを計画している。でも、夜ライトアップされたトレヴィの泉を見るのは松組だけだ。他の二組は、明日の日中予定されている。物語中のアン王女は、明るいうちに来ていたからだと思う。
先生のお薦《すす》め通り、夜のトレヴィの泉は美しかった。暗がりの中にライトで浮かび上がって見えるのは、美しい白い彫像の数々。その足下から泉に注がれる噴水。実はこれ、ポーリ宮殿の壁面なのだそうだが、建物の壁にしてはあまりに芸術的すぎる。
後ろを向いて、泉にコインを投げる。そうすれば、いつかまた、この場所に戻って来られるという話だ。
祐巳もお財布《さいふ》からコインを出して、「えいっ」とやった。後ろを向いているから、自分の投げたコインがどのように泉に入ったのかわからないのが残念なところ。
「武嶋《たけしま》さんも撮るだけじゃ何だから、福沢《ふくざわ》さんたちと一緒《いっしょ》にそこに並んだら? シャッター押してあげる」
鹿取先生がそう申し出てくれたけれど、蔦子《つたこ》さんは「お気遣《きづか》いなく」と遠慮《えんりょ》した。撮られるより撮る方が、数倍好きなのだ。
「先生は投げないんですか?」
「そうねぇ。でも、投げなくても、ここにはしょっちゅう来ているからね。投げるだけ、お金の無駄《むだ》じゃない?」
しょっちゅう来ているから、「夜の方が好き」なんて言えるのだ。昼のトレヴィの泉も、夜のトレヴィの泉も、知っているからこその言葉。
「先生の時代も、イタリア?」
「いや。九州だったけど」
鹿取先生はリリアン女学園のOGである。十数年前は、まだ海外に修学旅行にいくという案はまったく出ていなかったらしい。
「去年も今年も二年生の担任になったから、二年連続イタリアに来ているのよ」
来年のことはわからないけれど、リリアン女学園の教師でいる限り、また何度かはイタリア旅行をしそうだ、と鹿取先生は言った。
「先生、リリアンの先生でいるの好き?」
「うん。そうね、好きだな」
「じゃ、やっぱりコイン投げたらいいですよ。また来られますように、って。修学旅行の同伴でイタリアに来ている間は、リリアンの先生でいられるわけだし」
「いやあね。だったら、個人旅行で来られるようにお願いしたいわ」
つぶやきながらお金を出して、先生はコインを投げ入れた。
それはひときわ大きな弧を描き、ライトに照らされてキラキラと輝きながら、泉の中に落ちていった。
10[#「10」は縦中横]
「未確認情報なんだけれど」
夕食の席で、真美《まみ》さんが声をひそめて言った。
ホテルの側のレストランでの話だ。ポルチーニ茸《だけ》がこんがりとローストされて、白身魚と一緒《いっしょ》にお皿の上に載せられて運ばれてきた頃。
「さっき桜《さくら》組の生徒から、ネタの提供があってね。あ、この話、オフレコでお願いね。裏がとれたら、リリアンかわら版に載せようと思っているんだから」
しかし、桜組の生徒から仕入れた時点で、そのネタはスクープでもなんでもなくなっているんじゃないかな。その上、発表前に自分で噂《うわさ》を漏《も》らしてどうする。けれど、真美さんは構わず続ける。イタリア滞在中だから、記者|魂《だましい》までもがゆるゆるになっているのかもしれない。
「夕方のクラス行動で、桜組はどこ行ったか知ってる?」
「ボルゲーゼ公園の散策でしょ?」
間髪《かんはつ》入れずに由乃《よしの》さんが答える。もったいつけずに、さっさと話せ、という感じである。
「そう、そこでちょっとしたアクシデントがあったわけよ」
「一人の生徒が、はぐれたんでしょ。その話なら、みんな知っているわよ。お気の毒だけれど、スクープになんかならないわ」
蔦子《つたこ》さんの指摘に、祐巳も「そうそう」とうなずく。
結局その生徒が泣きながら公園をさまよっていたら、親切な現地の老夫婦が声をかけてくれて、クラスメイトたちの所まで連れていってくれた、って。トレヴィの泉から戻ってきた時、ホテルのロビーにいた藤《ふじ》組の生徒たちに教えてもらった。真美さんが一報を聞いたのだって、たぶんその時だったはず。
「私、思い切ってその生徒の部屋を訪ねて、インタビューしてきたのよ」
「……よく答えてくれたわね」
「匿名《とくめい》というお約束。だから、仮に……Aさんということにしましょうか」
ボルゲーゼ公園に着いた桜組は、いろいろな条件付きで、数人単位のグループ行動が許されたのだそうだ。Aさんも最初はもちろん、七人の仲よしグループで、地図を片手に公園の中を歩いていた。見事な彫像の側で写真を撮ったり、数人乗りの自転車を乗り回す現地の若者に手を振ったりと、結構楽しかったらしい。
「なのに、どうしてAさんははぐれちゃったの?」
「そこよ」
真美さんは声をひそめた。
「彼女はあるものに気をとられて、グループから離れてそちらの方にふらふらと歩いていってしまったわけよ。集合時間も近づいてきていたし、そろそろ戻りましょうか、って感じの時だったので、グループの人たちも一人抜けたことに気づかなかったらしいのよ。辺りも薄暗くなってきた頃だし、ずっと一緒《いっしょ》に行動していたんだから、グループ内で一々|点呼《てんこ》なんてとらないわよね」
「だから、その、あるものって何なのよ。ホント、真美さんはもったいつけて話すんだから。いい性格してるわ」
憎《にく》まれ口をたたいているけれど、本音は由乃さんは先を知りたくてイライラしているのだ。それがわかっている真美さんは、たぶんリリアンかわら版に載せる記事もこのパターンで書くことは間違いない。
昼間のヴァチカンや夕方のトレヴィの泉などの話題で盛り上がっている生徒たちの中で、このテーブルだけがまるで密談でもしているかのように顔をつきあわせ、小声で話をしている。クラスメイトたちは気にならないのかな、と祐巳の方が気になってしまったが、他の人たちは自分たちの話に夢中で、まったくこっちのことなど気にしていなかった。
それでも、真美さんは声のトーンを更に落として言う。
「彼女、佐藤《さとう》聖《せい》さまを見たんですって」
――と。
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真実の口の泣き言
1
ローマの地下鉄は、A線とB線の二路線しかない。
シンプルだから、少なくとも東京の地下鉄路線図のように見れば見るほど何が何だかわからない状態になる、ということはなさそうである。
しかし、それでも異国の地。勝手がわからないので、キップ一枚買うのも大仕事なのだった。
クラス毎《ごと》の自由行動。本日の予定地は、サンタ・マリア・マッジョーレ教会、コロッセオ、真実の口。事前の話し合いで、「いい機会だから地下鉄に乗っていきましょう」と全員一致で決定したのだが、実際にチャレンジしてみると結構大変なものだった。
とにかく、混んでいる。今日は日曜日なのである。
三十数人が同じ車両に乗り込むのは無理だから、三つのグループに分け、何度も降りる駅名を確認し、ホームに降りたら出口へと向かう人の流れをやり過ごしてから点呼《てんこ》。全員|揃《そろ》ったのを確認してから移動。駅を出る前に点呼。出てすぐに点呼。万事そんな調子なのである。昨日の桜《さくら》組の一件があるから、先生もいつも以上に神経質になっているのだ。
地下鉄という言葉が出た時、先生があからさまに「面倒くさいことを」という顔をした意味が、今になってわかった。それでも、生徒が決めたことは危険じゃなければやらせてみるのが、鹿取《かとり》先生。また、高等部の方針でもある。
ホテルの側の駅からA線を使って、まずはテルミニ駅へ向かった。ここはB線と交差する駅でもあり、国際線国内線が発着する国鉄の駅でもある。ローマ一大きな駅なのだそうだ。
テルミニ駅から五分ほど歩いた所に、サンタ・マリア・マッジョーレ教会がある。ここは、マリア様のお告げによって建てられた教会だ。偶然にも、今日は雲一つない晴天で、マリア様のお心を思わせる真《ま》っ青《さお》な空の下、『雪の聖マリア』と呼ばれる白い建物は、清楚《せいそ》な美しさで輝いている。
教会の中に入ると、ちょうど日曜日のミサの真っ最中だった。
広い聖堂の中心部にロープのような物で簡単に仕切り、中に椅子《いす》を並べて神父さんと信者さんたちが祈りを捧《ささ》げている。お説教やお祈りの言葉は違うけれど、リリアンのお聖堂《みどう》で行われるミサと重なる部分も多い。キリスト教の学校に通う者として、祐巳たちも信者さんたちの後ろで手を合わせてお祈りをした。
テルミニ駅に戻って、今度は地下鉄B線でコロッセオ駅へ。駅を降りてすぐに、有名な円形競技場が現れる。実はここは、見学コースに入れるか入れないかで、二年|松《まつ》組のホームルームでは賛否両論があった。
賛成派は、「『ローマの休日』でアン王女が観光した地を、一カ所でも多くこの目で見てみたい」と主張し、反対派は、「殺し合いを見せ物にしていた場所になんて行きたくない」と言う。結局、間をとって、外からだけ建物を眺めることになった。一駅分手前で降りたことになるが、真実の口に行く通過点にコロッセオがあった、という考え方で双方が合意したのだ。
緑が多く、風通しのいいひらけた古い石畳《いしだたみ》の上をリラックスしながら歩いているうちに、小さくて古い教会に着いた。
サンタ・マリア・イン・コスメディン教会。本当にここにあの「真実の口」があるのだろうか、と疑いたくなるほど目立たない。けれど、教会からはみ出ている行列を見れば、「そうなんだろうな」とうなずかずにはいられない。
「もっと教会の奥にひっそりとあるかと思ったら……」
「うん。道から見える場所にあるんだね」
そんな会話をしつつ、取りあえず二年松組一行も列の最後尾《さいこうび》に並んだ。行列の先頭位置は、教会の入り口を入ってすぐ左に折れ、道沿いの細長い通路の突き当たり。そこに「真実の口」がある。
「真実の口」は、海神トリトーネの顔が掘られた大理石の円盤で、その口に嘘《うそ》つきが手を入れると食べられてしまうという言い伝えがある。
古代のマンホールの蓋《ふた》ともいわれている円盤が、これほどの人を集めるなんて。やはり『ローマの休日』での、あの有名なシーンの影響だろうか。祐巳《ゆみ》たちが見ている限り、プラドリー記者の真似《まね》をして、手が抜けない振りをして騒ぐ人はいなかった。
自分たちの後ろに並ぶ人の量を理解している観光客たちは、皆|分別《ふんべつ》をわきまえており、順番が来ると一人につき一、二枚「真実の口」の前で写真を撮ると、次の人に場所を譲《ゆず》っていった。そのため、思っていたよりずっと早く順番が回ってきた。もちろん、リリアンの生徒たちもその暗黙のルールに従ったのは言うまでもない。
祐巳と由乃《よしの》さんが同時に「真実の口」に手を突っ込んだところで、蔦子《つたこ》さんがパシャリ。「二人|一緒《いっしょ》に」というのは、新聞部と写真部からのリクエスト。志摩子《しまこ》さんが同じクラスだったら、きっと「三人で」と言われたに違いない。
写真を撮り終わってから、聖堂に入ってみた。古くて暗くて小さいけれど、床のモザイクが綺麗《きれい》な、雰囲気《ふんいき》のある教会だ。観光客の中には、「真実の口」に手を突っ込んだらそれで満足して帰ってしまう人も少なくないようだけれど、もったいないことだ。数歩あるけば、そこに素敵な教会があるのに。
サンタ・マリア・イン・コスメディン教会から少し歩いた所にあるレストランで遅い昼食をとってから、チルコ・マッシモ駅まで歩き(いい腹ごなしの散歩になった)、地下鉄B線に乗ってテルミニ駅で降り、A線に乗り換えてホテルへ帰った。
2
「聖《せい》さま目撃情報けど」
お箸《はし》をペンのように握り替えて、真美《まみ》さんが言った。
「桜《さくら》組のAさんだけじゃなかったのよ。他にもいたの」
ホテルに帰ってから夕食までのわずかな間にも、真美さんは部屋でくつろいだりはしないらしい。ロビーにいる生徒たちに声をかけたり、時には桜組や藤《ふじ》組の知り合いの部屋を訪ねて、情報収集をしているようである。ルームメイトの蔦子《つたこ》さんはというと、その間部屋でフィルムの残量を計算したりカメラの手入れなんかしているわけだから、ちょうどいいのかもしれないけれど。お互いに「我が道を行く」タイプだ。
「他にも、って?」
由乃《よしの》さんが、根菜《こんさい》の煮物を頬張《ほおば》りながら尋《たず》ねた。今夜は久々の和食である。そろそろお米が恋しくなった頃かな、という学校側の配慮《はいりょ》で、日本料理のお店が組み込まれているのだ。
郷《ごう》に入《い》っては……の精神から見ると邪道《じゃどう》かもしれないけれど、オリーブオイルのかかっていない料理、正直ありがたい。
「藤組の生徒がミラノの空港で、やっぱり似ている人を見かけたって。藤組ではちょっと話題になったみたいよ。元|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》のそっくりさんが歩いていた、って」
「ミラノの空港で……?」
聞きながら祐巳《ゆみ》は、何だかその場に居合わせていたような気がした。サインマーカーを買った直後、固まっていた藤組の生徒たちの口から発せられた「ロサ・ギガンティア」という単語。あれは、志摩子《しまこ》さんのことではなかったのだ。
「それから成田《なりた》でも、そっくりさんがいたって話なのよ」
「あれは名前が似てただけでしょ」
真美さん自身が、「カトウ」を「サトウ」と間違えたのだと認めていたはず。同じテーブルについていた三人が同時に突っ込みを入れると、真美さんは「そうとも言い切れないのよ」とつぶやいた。
「名前のそっくりさんじゃなくて、顔のそっくりさんを見たんだって」
「でも、志摩子さんも……」
「うん。放送を聞き直して、カトウさんだったって言い切っていたわよね。でも、聖さまに似た人を見たっていう生徒がこんなにいるのよ。ただの偶然だと思う?」
偶然にしては、多すぎる。確かに、そう思う。
「聖さまが、イタリアに来ているっていうのね?」
由乃さんの問いかけに、真美さんは小さく首を横に振って訂正《ていせい》した。
「ローマによ」
ローマ。
三人は言葉を噛《か》みしめた。聖さまが、ローマに来ている。何だか急に、気持ちがぽわわーんとなってしまった。
「何でいるのかな」
「旅行じゃないの?」
「学校は?」
「そうだ。大学は今、試験休みよ」
じゃあ、スケジュール的には問題はないわけだ。
「でも、聖さまの頃だって修学旅行はイタリアだったはずよ。二年前に来た場所に、またすぐに来るものなのかしら。フランスでもイギリスでもいいんじゃない? ヨーロッパまでの飛行機代を出すんだったら」
「そうよね」
由乃さんの意見は、妙な説得力がある。
「じゃ、やっぱり他人のそら似……?」
「聖さまのそっくりさんを見た、って聞きつけた人たちが、次々に暗示にかかってしまった、っていうのは? 聖さまって、日本人場慣れした顔立ちしているし。こっちの人に見えなくもないでしょ」
「成田も、ミラノも、ボルゲーゼ公園も? 全部、他人のそら似?」
「うーん」
三人は、腕を組んで考え込んでしまった。取りあえず、運ばれてきた日本茶をすすって頭を休める。
「もし本人だったら、向こうから接触してきそうなものだけれど」
確かにそうだ、とうなずきながら、四人は同じように湯飲みを両手で持ち上げてお茶を飲み干した。
お夕食が終わっても、この話題は結論がでそうもない。
実際に自分がその「そっくりさん」を見たわけではないから、四人とも今ひとつ確信がもてないのだった。
3
その夜、祐巳《ゆみ》がお風呂《ふろ》に入っている時、由乃《よしの》さんが令《れい》さまに電話をかけていた。
こちらが日曜日の夜十一時頃だったから、日本は月曜の朝六時頃ということになろうか。令さまは朝の身支度《みじたく》などもあるだろうに、結構長電話をしていたようだ。
日本への電話は、ホテルの部屋からコレクトコールでかけるのが決まりだった。そのため生徒は、必然的に自宅へかけることしかできなくなる。姉妹《スール》の声が聞きたいと思っても、相手方の家に電話代を負担してもらってまでは叶えることは不可能だろう。
しかし由乃さんの場合、お姉さまである令さまはお隣に住んでいる従姉《いとこ》だから、いろいろと融通《ゆうづう》が利《き》く。自宅に電話して令さまを呼び出すこともできるし、コレクトコールで令さまの家に電話しても、親戚《しんせき》だから電話代を立て替えておいてもらうことだってできる。
祐巳がお風呂《ふろ》から上がってもそれに気づかずに、ベッドに座って笑っている由乃さんの後ろ姿を見て、心からうらやましく思った。
祥子《さちこ》さまの声が聞きたい。ばか話をして、叱《しか》られたい。
いろいろな場所を回っている時には、慌《あわ》ただしさも手伝って、さほど寂しさを感じないけれど。一日が終わって、ホッと一息ついたこんな夜は、無性《むしょう》にお姉さまが恋しくなる。
気を紛《まぎ》らわせるためのテレビ番組も、ここにはない。バラエティー番組も、イタリア語では笑えない。
人はそれをホームシックというのかもしれないけれど、違う。言うなれば、これはシスターシック。
だって、家に電話をしたって、この寂しさだけはどうにもならないことだから。
今すぐ会いたい。会いたいと思っているこの気持ちを、祥子さまにわかってもらいたい。
日本とイタリア。今は「地図上の距離」という、わかりやすい物差しで離れ離れになっているから、飛行機に乗って帰国しさえすれば改善されるとわかっている。
けれど。
いずれ「環境」とか「日々の生活」とか「時間」とか、そういった漠然《ばくぜん》とした理由で二人が引き離されてしまった時、いったいどうすればいいのだろう。
考えたら、涙がじわじわとあふれてきた。
お姉さまが卒業した後の事なんて、わざわざ修学旅行中に考えることはないじゃないか、と自分に言い聞かせたところでもう遅い。
じわじわがうるうるに、そしてぽろぽろになって収拾《しゅうしゅう》がつかない。
由乃さんの電話が終わる気配がなかったから、祐巳は開きかけたままのドアをそっと戻した。
引き返したバスルームの中で、冷たい水を使って何度も涙を洗い流した。
明日は、フィレンツェ。
気持ちを切り替えなくっちゃ。
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花の都はどんな街
1
月曜日。
テルミニ駅を十一時少し前に出るユーロスターに乗って、フィレンツェへ向かう。ユーロスターというのは、日本でいうところの新幹線みたいな列車だ。
国鉄の駅は、地下鉄と違って改札口がない。キップは各自で刻印して乗ることが義務づけられている。刻印を忘れると、罰金《ばっきん》をとられたりすることもあるそうで、システムを知らずに涙をのんだ旅行者は数知れない、と思われる。
お昼のサンドイッチを食べながら、窓の外を流れていく田園風景を眺《なが》める。
目にしみるような緑。乾いた土の色。澄みきった空。石造りの建物。現れては消えていく風景は、まるで油絵の具で描いた絵そのものだった。こういう美しい土地だからこそ、芸術も花開いたのかもしれない。
一時間四十五分ほどユーロスターに乗って、二つ目の滞在地フィレンツェの、サンタ・マリア・ノヴェッラ駅に着いた。
花の都フィレンツェは、小さい街だ。市内は路線バスがたくさん走っているが、ガイドブックに載っているような観光地はドゥオモを中心にした半径700メートルほどの円の中に集中しているため、その気になれば徒歩で回れる。
そんなわけで、駅からホテルまでも当然徒歩だ。観光客でごった返す道を避けて南下し、アルノ川に沿って歩いていくと、程なくホテルに着いた。
チェックインの時間がまだなので、荷物を預けてから、ドゥオモ周辺を軽く散策する。小さな街とはいえ、見所は盛りだくさん。すべて見て回れないので、まずはどこに何があるかをチェックし、明後日の自由行動の参考にするように、と先生は言った。
ドゥオモは、おとぎ話に出てくるような、きれいな教会だ。表から見ると、ウェディングケーキみたいな華《はな》やかさがあって、ぐるりと回ると、チョコレートパウダーのかかった丸いケーキが現れる。
思ったまま口にすると、クラスメイトたちはカラカラと笑った。
「祐巳《ゆみ》さん、お腹《なか》が空《す》いているんじゃないの?」
「そんなことないわよ。だって、さっきイノシシの像を見たって食べたいと思わなかったもの」
すると。
「じゃあ、祐巳さんはすごくお腹が空いている時、生きている牛とか豚とか鶏《とり》とか見て、おいしそうって思うの?」
なんて、ますます笑いを誘ってしまった。確かに、それはないか。水族館の蟹《かに》を見れば、それはおいしそうと思うけれど。
「わかったわ、祐巳さんは今、甘い物に飢《う》えているのよ」
その指摘、今度はすぐには否定できなかった。なぜって。今まさに目の前にあるサン・ロレンツォ教会の壁面を見て、コームで表面のクリームを整えた紅茶のシフォンケーキを想像してしまったから。
「でも、それは私もちょっと思ったな」
由乃《よしの》さんが、ボソリとつぶやいた。
そうそう。
フィレンツェは、ケーキ屋さんみたいでおいしそうな街なのだ。
2
軽い観光を終えてチェックインしたホテルは、ローマのホテルとは趣《おもむき》が異なり、シンプルでシックだった。
外観も内装もモノトーンを基調とし、ガラスやシルバーといった硬質でクールな素材が多く用《もち》いられている。
「おおっ、今度のシャワーにはホースがついている! ラッキー!」
バスルームの中に真っ先に飛び込んで、由乃《よしの》さんが声を上げた。
「うーむ、やっぱり歯ブラシセットは置いてないのね。不思議だなぁ。そうだ、祐巳《ゆみ》さん聞いた? あんなに説明会で念を押されたのに、歯ブラシ持ってこなかった生徒、結構いたらしいわよ。大半は、成田《なりた》で買っていったんだけれど、ホテルについてから気がついた人も中にはいた、って。でも、先生も予想していたから、用意していたんだって。あの大きなスーツケースの中身は、そういうもので一杯なんじゃない? ねえ、祐巳さん聞いてる?」
由乃さんたら、はしゃぎまくりだ。ローマのホテルに着いた時は、調子が悪くて部屋を探検して回るなんてことできなかったけれど。本来彼女は、そういうタイプなのだ。でもって、祐巳がローマのホテルでやりたかったのも、実はこれなのだった。
「ねえねえねえ、ビデって使ってみた?」
トイレの脇にある、低い洗面台もどきを指さして由乃さんが尋《たず》ねた。
「一度も使ってない。わからなくて」
由乃さんのテンションに圧倒されながら、祐巳は答えた。
「だよね。わからないよね」
「トイレに関しては、私は日本のシャワー付きトイレの方がいいと思うな」
「同感。あと、お風呂《ふろ》。私、洗い場とバスタブが別々のお風呂に入りたい」
「あ、私もっ」
意見の一致をみた二人は、笑いながらパチンパチンと手を打ち合った。
郷《ごう》に入《い》っては郷に従え。
けれど、遠い異国で長年慣れ親しんだ環境を懐《なつ》かしむのも、また仕方のないこと。
現代でさえ、そうなのに。
その昔、キリスト教を伝えるために初めて日本の土を踏んだ宣教師たちは、さぞかし大変だっただろうな、と思わずにはいられない。
3
その夜食べた夕食は、ボリュームがあった。
若い女の子たちが食べるのが前提でメニューを選択してあるはずなのに、一皿に載っている量がとてつもなく多いのだ。
野菜が煮込まれたスープが、ドンブリのような器《うつわ》でドーンと置かれる。ローストビーフはスライスせずに、塊《かたまり》のままズシーン。その上パスタもパンもババーン、って。いくら育ち盛りでも、こうなると食べきれるものではない。
「もったいないよ」
と嘆《なげ》きつつ、完食できた生徒は一人もいなかった。
少し離れた席で食事をしていた地元の人らしき老夫婦は、リリアンの生徒たちのメニュー以上にボリュームがある食事をしながら、ワインをグイグイいっていた。
お腹《なか》が一杯で食事を残さなきゃいけない時、祐巳《ゆみ》は「ここに祐麒《ゆうき》がいたらな」と思う。たぶん喜んで、バクバク平らげてくれるだろう。
「祐麒君だけじゃだめよ。小林《こばやし》君や、高田《たかだ》君や、アリスは心許《こころもと》ないけれど、日光《にっこう》・月光《がっこう》先輩も呼ばなくちゃ」
由乃さんが笑いながら言う。そうしたら、きっと残さず食べてくれるのにね、と。
「祐麒君て、祐巳さんの弟でしょ? 今年の花寺《はなでら》の生徒会長。うちの学園祭に助《すけ》っ人《と》に来るって聞いたけれど、何やるの? やっぱり、去年みたいに王子さまとか?」
「王子さまー!?」
うちの弟に限ってないない、と祐巳は首を横に振った。福沢《ふくざわ》家は、姉弟|揃《そろ》ってタヌキ顔。祐麒が王子さまをやるとしたら、タヌキ王国の話をやる時だけだ。
「ある意味、王子さまよりすごい役よ」
「由乃《よしの》さんっ」
ちょっと口が軽くなった由乃さんに、牽制球《けんせいきゅう》を投げる。
「……っと、修学旅行から帰ってくるまではマル秘だったっけ。ごめん」
「そこまでいっておいて、やめるなんて。もう少しヒント。ね、いいでしょ、祐巳さん」
「内緒《ないしょ》だってば」
「まさか、姉弟でラブシーン!?」
「――やめてよ」
もともとお腹《なか》が一杯だったけれど、それがきっかけで祐巳のフォークはピタリと止まった。祐麒とラブシーン? 冗談じゃないよ、気持ち悪い。
それなのに、食後のケーキが運ばれてくればちゃんと食べるんだから。女の子の胃袋は、摩訶不思議《まかふしぎ》なシステムで動いている。
「フィレンツェはケーキ屋さんの街なんだから、食べなきゃね」
なんて言い訳つきで。
ケーキの街に、今晩別のイメージが加わった。
肉の塊《かたまり》。
今後祐巳は、大量の肉を見るたびに、フィレンツェのことを思い出すだろうと思った。
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響く! 傾く!! 溶けている!?
1
火曜日。
今日の予定は、サン・マルコ美術館とピサ。
美術館関係は混むので、朝八時にホテルを出た。
昨日の午後歩いた人通りの多かった道も、店が開く前ということでガラガラだ。途中にあるドゥオモの雰囲気《ふんいき》も、人気《ひとけ》のない朝の冷たい空気の中で見上げると、どこか違って見えるから不思議だ。もちろん、それはデコレーションケーキとアイスクリームケーキくらいの差異なんだろうけれど。
サン・マルコ美術館に着いたのは八時半。ちょうど開館するところで、何時から待っていたかは知らないけれど、二、三組の観光客が入り口付近に集まっていた。それがなければ、どこが入り口だかわからないくらい地味な扉だ。それもそのはず、ここは修道院の中にある美術館なのである。
美しい中庭を見ながら回廊《かいろう》を進んでいく。
奥の階段を上りきった所に、アンジェリコ作『受胎告知《じゅたいこくち》』はある。
これは壁に描かれたフレスコ画で、五百年以上前に描かれた物であるが、未だ美しい色彩を保っている。『受胎告知』は、たくさんの画家によって描かれ続けてきた題材であるけれど、図鑑で見比べてみて、祐巳はアンジェリコの『受胎告知』が一番好きだと思った。天使の羽の鮮やかさをはじめとする色の美しさもすばらしいけれど、お告げを受けるマリア様の清らかなお顔の表情が美しい。
幼稚舎《ようちしゃ》のクリスマス会の劇で、イエズス様のお誕生のシーンをやったことがあったと、ふと思い出す。その時、百合《ゆり》の花を持った大天使が、マリア様のもとに降りてきて言うのだ。
「恐れてはいけません」
そして、救い主がその身体《からだ》に宿ったことを告げる。
驚くって、普通。けれど、普通でなかったマリア様は、その信じられない事実を受け入れちゃうわけだ。いや、受け入れられるような女性だったからこそ、神様はマリア様を選ばれたのかもしれない。
「きれいだなぁ」
ヴァチカン美術館の『最後の審判』の前で立ちつくしていた志摩子《しまこ》さんのように、立ち去りがたい。額に入れられた油絵みたいに、他の美術館への「貸し出し」がないから、ここに来なければ見られない絵。逆に、この絵が存在する限り、ここに来ればまた見ることができる絵。
「ほら行くよ、祐巳《ゆみ》さん」
由乃さんが手を引っ張ってくれたので、ようやく動くことができた。
いつかまた、このマリア様に会いにこられたらいいな、と思う。
ちなみに、幼稚舎の劇で祐巳は、イエズス様の誕生を祝うためにやって来た東方の三博士の一人を演じた。セリフは、何一つ覚えていない。
僧坊《そうぼう》に描かれたフレスコ画を眺めてから外に出ると、ちょうど大型バスで団体客が到着したところだった。
2
サンタ・マリア・マッジョーレ駅から電車に乗って、一時間ちょっとでピサ中央駅に着いた。
お昼時ということで、駅のファーストフード店に入ってお腹《なか》を満たす。
大手有名ハンバーガーチェーン店は世界中にあるわけだ、と実感。ハンバーガーやポテトを食べて、「懐《なつ》かしい」と言い合う現代の日本の若者たち。うーん、これはかなりアメリカナイズされている。
駅前から、バスが出ている。バスは現金では乗れないから、事前に券売機とかタバコ屋さんでチケットを購入しなければならない。乗ったらすぐに、チケットを機械に挿入しガチャンと刻印する。この辺は、鉄道と同じだ。
お昼ご飯を食べていたせいで電車の到着時間とかち合わなかったからだろうか、それともちょうど前のバスが行ったばかりだったからなのか、クラス全員が一台のバスに乗ることができた。
バスに揺られること約十分。斜塔《しゃとう》のあるドゥオモ広場前に到着した。
バスから降りた二年|松《まつ》組の面々は、ほぼ同時に叫んだ。
「すごい、本当に傾いている!」
たぶん、ここに来た人は皆、言語は違《ちが》えども同様の言葉を発することだろう。塔が傾いている、――と。
いや、大半の人は塔が斜めに立っているのを知りつつ、この地を訪れているはずなのだ。けれど、やはり自分の目で確認すれば、その傾きっぷりに驚き、つい口に出してしまうもの。本当に、よくもまあ倒れないものだ。
「ピサって、斜塔があるだけだと思っていたけれど……」
「ええ。他にも、いくつか建物が見えるわね。えっと、ちょっと待って。ドゥオモ、洗礼堂、美術館なんかがあるそうよ」
バッグからガイドブックを取り出したクラスメイトが、説明してくれる。ピサは古代ローマ時代からある、海運王国なんだって。
斜塔の側の芝生《しばふ》まで来ると、鹿取《かとり》先生は列の進行を止めて振り返った。
「それじゃ、今から三時半までは自由行動。わかっているとは思うけれど、はめを外さないでね。何かあったら、この辺りに来てみて。私がぶらぶらしているはずだから。それから斜塔に上る申し込みをしていた人は、一時四十五分に斜塔前に集合。それじゃ、解散」
先生が手を叩いたのを合図に、松組の生徒たちがグループ毎《ごと》に散る。まずは蔦子《つたこ》さんが「こっち」と率先《そっせん》して行くので、祐巳たちはついていくことにした。
それにしても、ここは「観光地観光地」した観光地だ。道の端にずらーっとお土産物《みやげもの》屋さんが並んでいて、ピサの斜塔の置物とか、ピサの斜塔の絵葉書とか、ピサの斜塔のTシャツとか、ピサとはあまり関係ないけれどピノッキオの人形とか、名画を印刷したネクタイとか、そんな物がゴチャゴチャと売られている。
「あれ、許可とってると思う?」
世界一有名なネズミのキャラクターが、倒れそうなピサの斜塔を支えている図の描かれたTシャツを指さして、由乃《よしの》さんが笑う。
「それより、あの斜塔を支えられるだけの巨大ネズミがいることを想像してみてよ」
真美《まみ》さんがつぶやく。
「……」
それは、ちょっと怖いかも。ちょっとじゃなくて、かなり怖いな。ゴジラとどっちが大きいのだろう。
「ここで写真とろう」
蔦子さんがストップをかけた。
「ピサに来たら、ベタな写真を撮りたいと思っていたんだ。祐巳さん、協力して」
「いいけど?」
そこと言われた場所に立って、言われたままのポーズをする。横を向いて両手を伸ばして、足は片方だけ膝を曲げて前に出して前傾姿勢。これ、って。
「そうです。題して『| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》、一人で斜塔《しゃとう》を支える』」
「確かにベタだわ」
真美さんが、脇から突っ込みを入れる。
「ベタ、大いに結構。ご当地でしか撮れない写真を撮るのに、照れはいけない。ささ、微調整するからもう一度ポーズ決めて」
「はいはい」
その後、蔦子さんは由乃《よしの》さんにも同じポーズをとらせ、調子に乗ってタイトル『|つぼみ《ブゥトン》二人で支える』も撮った。最初は「ベタ」と小馬鹿にしていた真美さんも、見ているうちにうらやましくなったようで、結局加わって一番真剣な顔をして斜塔を支えた。
「これで志摩子《しまこ》さんもいたら『紅・白・黄薔薇、そろい踏み』なのに。……残念」
そろい踏みって、大相撲《おおずもう》の千秋楽《せんしゅうらく》じゃあるまいし。と、祐巳が突っ込みを入れようとした時、視線の端にそれは映った。
「志摩子さんならいるよ」
その場にいた残り三人が、同時に「えっ?」と辺りを見回す。
「ほら、あそこに」
祐巳《ゆみ》は、芝生の中でくつろいでいる人たちに向かって指をさしてから、駆けだした。
「志摩子さーん」
「まあ、祐巳さん」
志摩子さんは座っていた芝生から立ち上がって、笑顔で祐巳を迎えてくれた。二人は再会を喜んで、取りあえず「ごきげんよう」と挨拶《あいさつ》を交わした。
「藤《ふじ》組も来てたんだ」
「ええ。祐巳さんたちは、サン・マルコ美術館の後で来たのでしょう? 私たちは、まずこちらから来たのよ」
「そうなんだ」
祐巳は、何気なく視線を落とした。「志摩子さん、一人なのかな」って辺りを見回したのかもしれない。
すると。側に腰を下ろしていた、一般の観光客と目があった。「あれ、この人誰だっけ?」なんて思うと同時に、向こうの方から声をかけられた。
「ごきげんよう。祐巳さん」
「ロサ・カニーナ!」
祐巳を追いかけてきた三人が、祐巳より先にその人の名を叫んだ。そう、その人こそ、誰であろうロサ・カニーナこと蟹名静《かになしずか》さまなのであった。
「静さまっ!? どうしてっ」
祐巳は芝生《しばふ》にしゃがみ込んで、思わず静さまの肩をぽんぽんと叩いた。夢じゃない、本物だ。髪の毛がずいぶん伸びたけれど。それを除けば、半年前までリリアン女学園に在学していたままの静さまがここにいる。
「会いに来たに決まっているでしょ? あなた方に」
まあ、静さまがこの広場に住んでいない限り、ここで偶然会えるということは考えられないけれど。
「それにしても、よくスケジュールがわかりましたね」
「情報をもらしてくれたペンフレンドがいるのよ」
「ペンフレンド? それって、もしかして」
[#挿絵(img/17_129.jpg)入る]
聖《せい》さま!? って、祐巳も、由乃さんも、蔦子さんも、真美さんも、みーんな思った。けれど、静さまの口から飛び出した名前は。
「志摩子さんよ」
志摩子さんは「ええ」とほほえんだ。
「ペンフレンド!? お二人が!?」
「何か、おかしいかしら」
「だって」
聖さまと志摩子さんて、生徒会役員選挙の時にいろいろあったから。それだけじゃなくて、聖さまをはさんで微妙な関係とでもいったらいいか。その上、新聞部のウァレンティーヌス企画では、静さまが志摩子さんの隠した白いカードを見つけ出し、二人で半日デートなんてことまでした。とにかく、一言では言い表せない仲なのである。
だから「おかしいかしら」と問われても、何がおかしいかも答えられない。ただ、何で静さまと志摩子さんが仲よししているの、とは思っちゃうのだ。
「ちょっとよろしいですか」
真美さんが挙手して、発言した。
「新聞部の山口《やまぐち》真美と申します。聖さまがイタリアに来ているって、もっぱらの噂《うわさ》なんですが。それについて、静さまは何か情報をおもちでしょうか」
聞かれた静さまは、答える代わりに志摩子さんを見た。
「聞いている?」
「いいえ?」
「私も聞いていないわ。来ているんだったら、連絡をくれたっていいのに。私の家の住所も電話番号も教えてあるのよ」
じゃ、やっぱりガセネタか。真美さんは明らかに落胆《らくたん》していた。うまくいったら、聖さま静さま志摩子さんのスリーショット入り記事を、リリアンかわら版紙上に発表できたのに、って。瞬時のうちに皮算用《かわざんよう》していたらしい。
「三人とも、今来たばかりなんでしょう? 塔《とう》は上るの?」
静さまが、スカートを払って立ち上がった。
「はい、……一応」
声が小さくなる。実は祐巳、学校でまとめて申し込みをした際、つい勢いで「上る人」の声に手を挙げてしまったのだ。何となく、こういうのって縁起物《えんぎもの》だって感じだし。でもって、今本物を目の前にして、正直|怖《お》じ気《け》づいている。「こんなに大きかったんだ」プラス「こんなに傾いていたんだ」、って。
「何時?」
「二時の回です」
「じゃ、時間はあるわね。よかったら、一緒《いっしょ》に洗礼堂に行かない?」
「実はね、祐巳さんたちが来るのを待っていたから、私も入っていないのよ」
藤組の自由時間は二時までということで、もうしばらく待っても松組が来なければ、静さまと志摩子さんは洗礼堂に行こうかと話し合っていたところだったらしい。
時計を見れば一時二十分。さっそくチケットを買って、洗礼堂に向かった。
「でも、どうして洗礼堂なんです?」
志摩子さんも理由を教えてもらってなかったらしく、静さまに尋《たず》ねていた。案内してくれる場所がドゥオモでも美術館でもなく、洗礼堂でなければならない理由。すると静さまは、唇に小さな笑みを浮かべて、「私のお気に入りの場所だから」と言うだけに留めた。
洗礼堂は、広場の入り口寄りにあるので、少し戻るような形になる。丸くて白くて可愛《かわい》い建物だ。
扉の前で迎えてくれた係の人は、若くてきれいな金髪のお姉さん。たぶんこういう人のことを、「イタリア美人」と言うのだろう。それが警察官かガードマンのようなユニフォームを着ているものだから、ものすごく格好いい。
中に入ると、そこは仕切りのない大きな空間だった。中央には八角形のバスタブのような物があって、それが洗礼盤なのだそうだ。
「どう?」
求められたので、祐巳は率直《そっちょく》な感想を述べた。
「はあ、大きなお風呂場《ふろば》みたいですねぇ」
「ちょっと、祐巳さん」
不謹慎《ふきんしん》よ、と真美さんがひじで祐巳の腕を突いた。けれど、静さまは言ったのだ。
「さすが祐巳さんね」
「へ?」
「さっきの質問の本当の答え。私がここを気に入っている理由。それは、大きなお風呂場だからなのよ」
「はあ」
答えと言いながら、ますます謎《なぞ》めいていく静さまの言葉。誰か解説してくれないかと、辺りを見回したが、誰もが首を傾《かし》げていた。
その時、洗礼堂の内部が突然薄暗くなった。今まで開いていた扉が、ぱたんぱたんと閉められていたのだ。
何が始まるのだと、ざわめく観光客。先ほどのイタリア美人が中央に進み出て、「しーっ」と言って静かにするよう指示をする。
洗礼堂が静まると、イタリア美人はポン、ポンと手を叩いた。すると。
ポ――ン、ポ――ン。
木霊《こだま》のように響き合う。
(あ)
わかった。反響するんだ。
声を出せないから、祐巳は静さまを見た。大きなお風呂場《ふろば》、ってこのことだったんだ、って。静さまはほほえんでうなずく。正解、らしい。
続いてイタリア美人は、「あ――」と声を出した。きれいな声。そして最初の「あ――」が消えないうちに、二つ目の音の「あ――」を天井に向かって飛ばす。三つ目、四つ目。すべて別の音。けれど、和音になっているから、重なり合っても濁《にご》ることなく、互いに他の音を引き立てて美しい音楽を奏《かな》でる。
ここは、一人の人間の声を幾重《いくえ》にもかさねることができる場所なのだった。
一節歌い終わると、聴衆からは拍手がわき起こった。その拍手もまた、天井に反響して、人数以上の拍手を作り出していた。
扉が開かれる前に、静さまはイタリア美人に歩み寄って、イタリア語で何かを言った。「どうぞ」みたいな仕草が返ってくると、静さまは先ほどのイタリア美人が立っていた位置について、すーっと息を吸った。そして、次の瞬間。
「あ――」
天に突き抜けるような声が、洗礼堂に響き渡った。
そして、第二声。美しい和音。
鳥肌が立つ。
賛美歌《さんびか》かアリアの一節だろうか、聞いたことがない曲だった。透き通るような、青い空を思わせる曲だ。
残響の中で、静さまは深々と頭を下げた。思いがけない飛び入りに、各国から来た観光客たちはやんややんやの大喝采《だいかっさい》。握手を求めてくる人たちもいた。
「何ていう曲ですか」
「即興《そっきょう》。既製の曲で、きれいに響き合うのを思いつかなかったの」
まだ残っている前の音に被《かぶ》っても汚くならない音を重ねていかなければ、せっかくの反響が台無しになるとか。ペダルを踏みっぱなしでピアノを弾《ひ》くのと、同じ原理だから。
「一度やってみたかったのよね」
静さまは舌を出した。
「あなた方をだしにしたのよ」
そんなこと言っちゃって。本当は、遠い日本からやって来た後輩に、歌をプレゼントしようと思ってくれたのだろうに。
3
洗礼堂を出ると一時四十分になっていたので、静《しずか》さま、志摩子《しまこ》さんに別れを告げて、仲よし(?)四人組は斜塔《しゃとう》へ向かった。
斜塔は、両手を空《から》にして上るのが原則だとか。少し離れた場所にある、ロッカーに荷物を預けてスタンバイ。蔦子《つたこ》さんは首から下げていたカメラをバッグにしまい、代わりに小型のカメラを取り出してポケットに入れた。いったい、いくつ持ってきているのだろう。
「何だか、ドキドキしてきたね」
ジェットコースターに乗る前みたいな、へんな緊張感がある。
松《まつ》組の中で斜塔に上るのは半分以下の十六人。この数を多いと見るか、少ないと見るか。ちなみに藤《ふじ》組の志摩子《しまこ》さんは、上らなかったそうである。理由は「高くて怖いから」。ごもっともな意見、と、うなずくしかない。
わざわざ聞いてこなかったけれど、祥子《さちこ》さまは去年ピサに来ても斜塔には上らなかったんだろうな、と祐巳《ゆみ》は思った。でも、負けず嫌いで天《あま》の邪鬼《じゃく》の祥子さまのこと、決して「怖いから」とは言わなかったはず。「塔なんかに上って何が楽しいんだか」とか、「傾いている所が気にくわないわ」とか言って拒否したに決まっている。
時間になったので、ぞろぞろと斜塔の中に入る。
中は石造りの階段で、壁もしっかりあるから、外から見て想像していたよりは怖くはない。筒《つつ》状の建物の内側に螺旋《らせん》階段がついているような物だから、階段をひたすら上っている分には外の景色が見えないのだ。
ただし、怖くはないが、歩きにくい。だって、傾《かし》いでるのだ。当たり前だけれど。
しかし、うまくできすぎている人間の脳は、目から入ってきた情報を勝手に加工処理して、真っ直ぐ建っているかのように修正してしまう。だから、頭では傾いでいることはわかっていても、感覚的にステップに垂直に足を乗せようとしてしまう。でも、本当のところは斜面に足をかけているのだから重力が斜めにかかっているみたいで気持ちが悪いのだ。壁が場所によって、身体《からだ》にくっついたり離れたりするように感じられるのも慣れない。
「令《れい》さま、よく許してくれたわね」
表面が摩耗《まもう》して滑りやすい石段をあの高さまで上るのは、たとえ傾いでなくてもハードだ。こう言っちゃ何だけれど、過保護な令さまは、自分がいない所で由乃さんが無茶するのを、何よりも嫌がりそうなのに。
「令ちゃんの許可なんて、とってないもん」
息を切らしながら、由乃さんが言う。
「っていうか、勝手に誤解してくれたから。『祐巳さんたちは斜塔に上るんですって。度胸あるわね』って言ったら」
「――」
その言い方だと、令さまでなくても、由乃さんは斜塔《しゃとう》に上る気がないのだと思うって。
「由乃さん、よく真実の口に手をかまれなかったこと」
「嘘《うそ》ついてないもの」
だって。まったく、しらっと言うんだから。
「うーん、無理無理。出られない」
途中、要所要所にあるバルコニーみたいな場所に出る穴から顔を出してみて、真美《まみ》さんがブルブルと震えた。
「内側歩いているだけでも心許《こころもと》ないじゃない? 外側なんて、立てるわけないわ。だって地面が斜めに傾いているのよ」
正しくは、塔が斜めなのである。
「おまけに柵《さく》もないし」
柵がない。それは、たとえ塔が斜めじゃなくても「無理無理」だ。世界遺産だから、できるだけ元の形に手を加えないようにしているのだろうか。日本だったら、この、外に出る穴に鉄格子《てつごうし》か何かをはめ込んで出られなくしちゃうだろう。
「とにかく、上まで行ってみましょう」
急に萎《な》えた真美さんを、蔦子さんが励《はげ》まして導く。後ろから人が来ているから、上るか外側に出るかしないと、ここで詰まってしまうから。
もう、ずいぶんと上ったな、と思ったところで、石段の幅《はば》が狭くなったような感じになって、やがて少し開けた場所に着いた。先に上った人たちが、思い思いにくつろいでいるところを見ると、ここが終着点なのかもしれない。
「三層に分けて考えた場合、一番上の小さい円柱と二番目の長細い円柱のつなぎ目だわね、ここ」
床にあたる部分に手をついて、移動はほとんど四《よ》つん這《ば》い状態。立ち上がるなんて、空恐ろしいことはとうていできない。何度も言うようだが、床が斜めなのだ。バランスを崩《くず》して転がれば、そのまま塔から落ちかねないくらい危うい場所である。ここには一応柵はあるのだが、細いし、人ひとりくらい楽々すり抜けられるほど間隔《かんかく》が広いのだ。この柵を過信してはいけない、と、生存本能が言っている。
人々の間を恐る恐るすり抜け、やっと四人が腰を下ろせる場所を見つけた。上から見れば、大きい円の上に小さい円を乗せた残り、つまりドーナッツ状の輪っか部分に二十人ほどの人間がひしめき合っている。
遙《はる》か下には、傾いだ地面。遠くに視線を移せば、サッカーグラウンドが見えた。
斜塔の上から、風にあおられながら地上を眺めていると、不思議な気持ちになる。ほんの少し角度と高さが違うだけで、世界はずいぶん違う見え方がするものだ、と。だから、人間関係だって、もしかしたらほんの一歩前に足を踏み出したり、横に回って同じ目線で物を見たりすることができれば、もっと理解し合えることもあるのかもしれないな、なんて。高い場所から、偉そうなことを考えたりしてしまった。
「まだ、上がありそうだけれど……」
どうする、って蔦子さんがシャッターを切った後、カメラをポケットに戻しながら聞いてきた。見上げれば、今四人が寄りかかっている円柱の天辺《てっぺん》まで行けるようになっているようで、すでに上っている人の気配がある。
塔《とう》の一番上は、鐘堂《しょうどう》のようなもので、形は円柱というよりむしろ筒《つつ》である。筒の輪になった部分の、幅《はば》の細い道(それも傾いている)なんて、とてもじゃないが歩けない。この場所に座っているのも精一杯なのに。
「無理無理」
「パス」
「私も」
真美さん、由乃さん、そして祐巳がリタイアを宣言すると、最初に尋《たず》ねてきた蔦子さんも「ああ、よかった」とつぶやいた。三人が上るって言ったら、どうしようかと思ったそうだ。
ということで、全員一致で「ここまで」と決めて、塔を下りることにしたのだった。
4
滑らないように慎重に石段を下って、出口につくと、そこに静《しずか》さまが待っていた。
「じゃ、先生失礼いたします」
丁寧《ていねい》に頭を下げてから、鹿取《かとり》先生のもとを離れる。そうか、鹿取先生は去年も二年生の受け持ちだったから、静さまのことも知っているのだ。
「お帰りになってしまわれたのかと思っていました」
祐巳《ゆみ》が駆け寄ると、静さまはこう言った。
「祐巳さんとあまりゆっくり話せなかったから」
だから待っていてくれた、って? くーっ。うれしいことを言ってくれるじゃないか。確かに祐巳も、あれでお別れだなんて寂しいと思っていたのだ。
「祐巳さん。私たちお手洗いに行ってくるけど」
由乃さんが、祐巳にロッカーからとってきた手提《てさ》げ鞄《かばん》を渡しながら言った。祐巳さんはどうする、と。
祐巳は「私はいい」と答えた。ここで待っているから、みんなで行ってきて、と。
「いいの?」
静さまが尋《たず》ねる。
「はい。駅のファーストフード店で済ませてきましたので」
ドゥオモの裏手に向かって歩いていく三人を見送ってから、祐巳たちは芝生《しばふ》の中に入って座った。何ていうか、久々にどっしりと安定できるのっていい。
「静さまは、この近くにお住まいなんですか」
尋ねると、静さまは「そんなに近くではないわね」と言って、バッグの中から手帳を出した。そしてそこにサラサラと文字と数字を書くと、ビリッと破って「ここよ」と祐巳に差し出した。外国の住所をもらっても、すぐにどの辺りかなんてわからないものだが、静さまの説明によるとむしろフィレンツェの街のそばらしい。今は親戚《しんせき》の小母《おば》さまがイタリア人の旦那《だんな》さまと暮らしている家に転がり込んで(静さまがそう言った)いて、イタリア語と声楽《せいがく》の私塾に通いながら、大学受験に向けて諸々《もろもろ》準備をしているとか。
「ご親戚のお家でしたら、ご両親も安心ですものね」
「そうね。それでも、しょっちゅう電話がかかってくるわよ。うるさいくらい。でも、変わりはないか、元気だろうか、声が聞きたい、って態度で示されると、やっぱりうれしいものよ。気にしてくれているんだ、って。ストレートなだけに、すごくわかりやすいもの」
「静さまからは、電話とかなさらないんですか?」
「国際電話は、高いから。もっぱらこっち」
静さまは、手帳の間から何かを取り出した。
「あ」
ピサの斜塔《しゃとう》の絵葉書だ。すでに宛名《あてな》も本文も書いてあって、切手まで張ってある。
「コンピュータとか苦手な両親だから、メールのやり取りなんかできそうもないし。近況《きんきょう》報告くらいなら、多少時間がかかっても構わないし。何より形として残るでしょう? だから、こういった観光地なんかにくると、そこの絵葉書を買って手紙を出すのよ。メールはメールでもエアメールの方ね」
「あのっ、葉書どこで買ったんですか? お土産物《みやげもの》屋さん? 切手は? 私、ひとっ走り行ってきていいですか?」
ヴァチカン美術館でできなかったことが、ここで叶うかもしれない。そう思ったら居ても立ってもいられなくなって、静さまの返答を待てずに立ち上がった。
「どうしたの? 落ち着いて、祐巳さん。まずは、ここに座って。日本に葉書を出したいの?」
「はい」
「祥子《さちこ》さんにね?」
コクンとうなずくと、静さまはさっきの手帳の別のページを開いて、また何かを取り出した。
「これ、あげるわ」
差し出されたそれは、さっきとは別だが、またピサの斜塔《しゃとう》の写真の絵葉書だった。もちろん、未使用の物だ。
「え?」
癖《くせ》で、いつも何枚か買ってしまうらしい。日本の友達なんかに出すこともあるけれど、使い切らないことも多いから、って。
「切手もあるわよ」
「そんな。じゃ、あの、これ売ってください」
「可愛《かわい》くないわね、祐巳さん。そういう時は、ただありがとうございますって言えばいいのよ」
ずいぶん前に、祥子さまに似たようなことを言われた記憶がある。令《れい》さまの剣道の交流試合の会場で、サンドウィッチのお金を払うの払わないのって時。
「でも」
静さまはお姉さまじゃないし。もらう理由ないし。でも、頑《かたく》なに拒否するのも、何だか失礼な気がしてきた。
「年上ぶりたかったんだけれど、ま、いいわ。切手代だけもらいましょう」
「はい」
互いに譲《ゆず》り合って、交渉《こうしょう》成立。祐巳は静さまから譲り受けた葉書に、ボールペンで祥子さまの住所と名前を書いた。
「うーん」
いざ本文、って段になって、さあ困った。まずは、何を書いたらいいものか。年賀状なら「あけましておめでとうございます」とか「謹賀《きんが》新年」。季節の手紙なら「暑中お見舞い申し上げます」なんていう、決まり文句があるんだけれど。「拝啓《はいけい》」や「前略」では、ちょっと変な気がするし、いきなり本題でもいいんだろうけれど、頭語《とうご》っていうんだっけ? まず何か簡単な挨拶《あいさつ》のような物が欲しいと思った。
「ごきげんよう、ってイタリア語で何て言うんでしょうね?」
「ごきげんよう? こんにちは、っていうニュアンスならボンジョルノだと思うけれど。祥子さん宛《あて》なら、チャオくらいでいいんじゃないの?」
「チャオ」
「そう。『ごきげんよう、お姉さま』なら、『チャオ ソレッラ』ね」
日本語の姉妹は、英語ではシスター、フランス語でスール、イタリア語だとソレッラに変化する。祐巳は、静さまに綴《つづ》りを教わって、ミラノの空港で買ったマーカーで大きく『Ciao sorella!』と書いた。そしてその下に、『今、ピサに来ています。旅行は楽しいです』とボールペンで書いた。
「祐巳さん、妹はまだ?」
書き終えて祐巳がボールペンの蓋《ふた》をすると、静さまが聞いてきた。
「ええ、まあ」
「祥子さんは、うるさく言わない?」
「今のところは」
「そう。でも、そのうち、そうも言っていられなくなるでしょうね」
静さまの漠然《ばくぜん》とした予言は、祐巳の不安定な予感と重なった。
「だから、今のうちうんと甘えちゃったらいいわ」
その言葉と、静さまのご両親の電話のエピソードに背中を押され、祐巳は葉書の一番下に、『お姉さまに会いたいです』とこっそり書き加えてから、見られないように急いで手提《てさ》げ鞄《かばん》の中にしまった。静さまだけじゃなくて、トイレに行っていた面々が戻ってきたから。こんなこと書いたと知られたら、冷やかされるに決まっている。
「有料トイレだったわ。入り口で小母《おば》さんにお金を払うの」
それでも日本ではできない体験をして、楽しそうな由乃さん。
「お釣りをくれるところが良心的だった」
「お金を払って利用する所なわけだから、そんなに汚くはなかったわ」
蔦子《つたこ》さん真美《まみ》さんの報告を聞きながら、チャレンジャー祐巳としては経験しておいた方がよかったかな、とも思ったけれど、祥子さま宛《あて》に葉書を出すのもまたチャレンジであるわけだから、良しとした。
「戻る道すがら三人で話していたんだけれど、イタリアン・ジェラート食べたくない?」
「私たちが斜塔《しゃとう》に上っている間に、逸絵《いつえ》さんたち食べたんですって」
「スペイン階段で、食べ損《そこ》ねたし、ね?」
そう誘われて断る理由はない。いや、むしろ率先《そっせん》して食べたい。祐巳は、かなりの甘党だった。
「ジェラートのお店ね。ここを真っ直ぐ行くと、バールとかレストランとかが並んでいる通りに出るの。そこにあるわ」
静さまは、「すぐわかると思うけれど」と言った。
「え? 静さまは?」
「祐巳さんともお話しできたから、そろそろ失礼するわ。帰って、明日の授業の予習もしないといけないの」
「そうですか」
「それに、今日は暖かいからちょっとね」
付け加えられた言葉が、ちょっと気になったけれど、深くは追及しなかった。暖かいと勉強がはかどるとか、声が出しやすいとか、そういうことがあるのかもしれない、って。
「そうだ、祐巳さん。葉書、私のと一緒《いっしょ》に投函《とうかん》しておいてあげましょうか。いろいろなところにポストはあるけれど、いざ探してみると見つからないのだから」
「あ、いいんですか? ありがとうございます。助かります」
とは言ったものの、ちょっと『お姉さまに会いたいです』の一行を読まれたら恥ずかしい。でも、今更「やっぱりいいです」とも言えないから、ピサの斜塔《しゃとう》の写真を上にしてそっと渡した。
「じゃ、またね」
「絵葉書、ありがとうございました」
「妹ができたら、報告の手紙をちょうだい」
「はい」
出入り口に向かって歩き始めた静さまを見送って、祐巳たちはジェラート屋さんに向かった。
こちらでは、ダブルサイズが普通らしい。ガラスケースの中を覗《のぞ》くと、たくさんの種類のアイスクリームが並んでいる。チョコレートのようにそれが何なのかすぐにわかるものもあれば、何だかよくわからない果物《くだもの》が入っているようなものもある。けれど説明してもらって理解できるほどの語学力がないので、適当にあたりをつけて「これとこれ」みたいに身振り手振りを使ってどうにか買った。
道の端に移動して、早速《さっそく》食べてみる。
「おいしい」
でも、日本にある一般的なアイスクリーム屋さんのアイスに比べると、すごくやわらかい。「この国アイスまでゆるゆるだわ」と真美さんがつぶやいたので、思わずみんなで笑ってしまった。
「ロサ・カニーナさ」
バニラのジェラートを舐めながら、由乃さんが言った。
「きっと私たちに遠慮《えんりょ》したのね」
もしかしたらそうかな、って祐巳も思っていたから、由乃さんに言われてやっぱりそうか、って単なる憶測が確信に変わった。そんなことをボーっと考えていたら。
「あー、祐巳さん。たれてる、たれてる!」
チョコレートのジェラートが溶《と》けて、コーンを伝って手から地面にぼとぼと落ちている。
「うわっ」
急いで舐めるけれど、それを上回る速さでジェラートも液化を続けている。
「あーん、こんなんじゃ味わえないよ」
静さまが言っていた「暖かいからちょっとね」の意味が、今ようやくとわかった。一言注意してくれたらいいのに、って恨《うら》めしく思ったけれど、静さまって昔からちょっぴり「いたずら」を仕掛けるようなところがある人だった。人の本質なんて、外国に行ったくらいじゃそんなに変わらないのかもしれない。でもって、今回は、油断をした祐巳の負け。
「祐巳さん、目線こっちちょうだい」
言葉につい反応して顔を上げた瞬間、シャッター音がカシャッ。
「うわっ、……やられた」
それはもう、不細工《ぶさいく》な顔をしてたって。今。
「いただき」
一足早くジェラートを食べ終えた蔦子さんからも、軽く一本とられてしまった祐巳である。
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インコのヒント
1
水曜日は、一日グループで自由行動だ。ローマに比べてフィレンツェの街は小さくて、先生たちの目が届きやすいからできることらしい。
祐巳《ゆみ》たちはまず、午前中にウフィツィ美術館へ行った。学校側が事前に希望者の人数分予約を入れていてくれたんだけれど、それでも世界中から押し寄せる観光客の数は多く、予約している人の列もそうでない人の列も、どちらも長蛇《ちょうだ》。美術館の入り口から伸びる行列を見ただけで、諦《あきら》めて帰ってしまう観光客も多かった。
二十分ほど待って、無事入館。がんばって全部観ようとすると、一日つぶれてしまうということだから、ガイドブックで観たい絵を決めて、さくさく回ることにした。
まずは、あまりに有名なサンドロ・ボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』そして『春』。
『ヴィーナスの誕生』は、大きな貝の上に立つヴィーナスを中心に、左手には抱き合いながらヴィーナスを岸辺に運ぶ風を起こしている二人の風の神と、右手にマントを持ってヴィーナスを待っている娘の姿が描かれている。海と空の青。マントや花といった要所要所に配されたピンク色が美しい。
『春』は昔から、祐巳にとって「よくわからない絵」という位置にある。花咲き乱れる森にヴィーナス、三美神、春の女神フローラ、他妖精などが配置されているのだが、全体を観ると、何だかまとまりがない絵のように思えてならない。美術の図鑑だったか、中学の美術の教科書だったかは覚えていないが、最初にこの絵を知った本が、春の女神フローラのみの部分|掲載《けいさい》だったせいだろうか。今、現物を前にしても、やはりコラージュしたみたいに見えてならない。
「そうかな。深く考え過ぎじゃないの?」
由乃《よしの》さんはそう言う。
これは、「マリア様の心」同様、祐巳が一生抱き続ける疑問なのかもしれない。
レオナルド・ダ・ヴィンチの作品は、『受胎告知《じゅたいこくち》』。ダ・ヴィンチといえば、言わずと知れた『モナ・リサ』であるが、残念ながらそれはここにはない。彼の『受胎告知』は今回初めて知ったけれど、これもマリア様がきれいに描かれていて、祐巳はとても気に入った。アンジェリコに続いてナンバーツーの『受胎告知』であると、勝手に決めた。
そして「観たい絵」の大トリは、ラファエロの『ヒワの聖母』。洗礼者ヨハネが手にしたヒワを撫《な》でる幼いイエズス様、それを見守るマリア様の、それはそれは美しいこと!
「わかった」
古代彫刻や胸像の並ぶ廊下《ろうか》を歩きながら、祐巳はつぶやいた。
「私は、マリア様がきれいに描かれている絵が好きなんだ」
すると。
「私もわかったことがある」
由乃さんがつぶやいた。「何が」って聞き返すと、こんな答えが返ってきた。
「これだけたくさん、男の人の裸の像があると、いちいち顔を赤らめてもいられなくなる、ってこと」
――なるほど。
2
お目当ての絵の他は、ざっと流す感じに観て、美術館の外に出ると、お昼をちょっと回った頃だった。
「さて、どうしますか」
祐巳《ゆみ》、由乃《よしの》さん、蔦子《つたこ》さん、真美《まみ》さんの四人は、顔を見合わせた。午後の予定は、一応ショッピング(ウインドウも含む)と決めてはいたが、腹が減っては――というわけである。学校側は、希望者にはパニーニを準備してくれるという話だったが、四人は希望しなかったので今のところお昼ご飯のあてがない。昨日の夕方、先生が希望者の確認をしていた時は、「上らなくてどうする」の精神で斜塔《しゃとう》を制覇《せいは》した余韻《よいん》があったので、「ランチくらい自力で食べられなくてどうする」なんて気が大きくなっていたのだ。
で、取りあえず「どうしますか」と相談を始めたわけである。アルノ川を眺めながら。
「日本だったら、ファーストフード店とかコンビニとか探すんだけれど。この地図には載ってないわね。駅に行けばあるだろうけれど」
真美さんがガイドブックのページをパラパラと繰りながら行った。
「えーっ。昨日のお昼ハンバーガーだったのに、今日もなんてやだ」
「でも、由乃さん。お店に入って食べる自信ある?」
「ない。第一、作法《さほう》がわからない」
ねえ、と振られて、祐巳もうなずく。
「お金の払い方だってよくわからないよ。税金とかチップとかサービス料とか、難しそうだし」
ならば、どうする。
「とにかく、歩きながら考えない? 私、お腹《なか》すいちゃった」
蔦子さんの一声で、四人はアルノ川の向こう側へ行ってみることにした。食べ物屋さんの前を通れば、意外にすんなり解決策が浮かぶかもしれない、って。
ポンテ・ヴェッキオは、両側にずらりと貴金属のお店が並ぶ不思議な橋だ。最初はお肉屋さんとか八百屋《やおや》さんなんかがお店を出していたらしいけれど、フェルディナンド一世が匂《にお》いを嫌って、金銀|細工《ざいく》師のお店に総入れ替えさせたんだって。偉そうに、何様なのその人は、って調べたら、「トスカーナ大公《たいこう》さま」なのだそうだ。
高校生に貴金属は必要ない。本当は気になるけれど、持ってきたお小遣《こづか》いでは、とてもじゃないが買えそうもない。というわけで、ポンテ・ヴェッキオのお店はひたすら外から眺めるだけで我慢。大人になって、お勤めして、自由なお金ができたらまた来ます。
「でも、古くていい町並みだから」
蔦子さんに促されて、橋の上で記念写真を撮ってから橋を渡りきった。
ポンテ・ヴェッキオの延長線上にある通りを真っ直ぐ進むと、ピッティ宮殿の前に出た。ガイドブックによると、この周辺にも美術館や博物館がたくさんあるらしいけれど、観光をしていたら当初の目的のショッピングができなくなるので、この辺りで引き返すことにする。どちらかというと、こちらアルノ川左岸は、駅のある右岸の方よりもゆったりとしている印象をうけた。
「よし、わかった」
突然、真美さんが立ち止まって言った。
「ここの店で、テイクアウトすることにしよう」
ここ、と言われて足を止めれば、目の前にあるのはイタリアではどこにでもあるようなバール。
「テイクアウトか……なるほど」
これで、少なくとも作法《さほう》やチップの心配はなくなる。そして、もちろんハンバーガーではないという条件もクリア。
「この案に乗る人、この指とまれ」
真美さんの出した人差し指を、残りの三人が握った。
「キャンナイテイクアウトオーケー?」
テイクアウトは日本のように「お持ち帰り」の意味では使われないらしい、と、後になって知ったんだけれど、そのお店のお兄さんはちゃんと理解してくれた。四人はそれぞれ、パニーニとペットボトル入りの飲み物を購入して、店を出た。
「どうにかなるものだわね」
「そうよ。あっちは売りたい、こっちは買いたい。一生|懸命《けんめい》、相手の言っている言葉の意味を理解しようとするもの」
ポンテ・ヴェッキオを再び渡って、一旦ホテルに戻った。道端《みちばた》で食べるのはお行儀《ぎょうぎ》が悪いし、広場とか公園のような場所を探し回る時間で、ホテルに着いてしまうと判断したから。
パニーニと飲み物。結局、学校で用意した物と同じランチになってしまったけれど、四人には達成感があった。結果が同じかもしれないけれど、プロセスが違う。
日本でするのは容易《たやす》いけれど、外国ではちょっとした冒険。
修学旅行って、ワクワクでドキドキの塊《かたまり》だ。
3
ランチを食べたら、再び外へ飛び出した。
まずは、マーブル紙を使った文房具を売っているお店へ行って、祥子《さちこ》さまへのお土産《みやげ》を買った。
「瞳子《とうこ》ちゃんや可南子《かなこ》ちゃんにも、何かお土産を買った方がいいかな」
乃梨子《のりこ》ちゃんには、お姉さまである志摩子《しまこ》さんが何か買っていくだろうし。祐巳《ゆみ》がつぶやくと、由乃《よしの》さんがそれに答えた。
「いいんじゃない?」
「いいんじゃない、ってどっちの意味?」
買った方が「いいんじゃない?」と、買わなくても「いいんじゃない?」。でも、由乃さんの「いいんじゃない」は、買っても買わなくても「いいんじゃない?」だって。令《れい》さまへのお土産《みやげ》を選ぶのに夢中で、それどころじゃないらしい。そりゃそうだよな。真美《まみ》さんも築山《つきやま》三奈子《みなこ》さまへのお土産を迷っているし、蔦子《つたこ》さんは誰用なのか知らないけれど写真立てなんか吟味《ぎんみ》しているし。狭い店内、他にもリリアンの生徒が何人か買い物に来ている。
やがて、可愛《かわい》い小箱を二つレジに持っていった由乃さんは、思い出したようにさっきの会話の続きを始めた。
「買うのはいいけれど」
「けど?」
「祐巳さん、どっちを妹にするの?」
「どっち……?」
この場合の「どっち」とは、たぶん瞳子ちゃんと可南子ちゃんを指しているのだろう。
「二人|一緒《いっしょ》に妹にできないんだから、あまり期待させない方がいいわよ」
「期待、か」
お土産一つで、するかな。そう思ったけれど、周囲から誤解されることもあるのなら、気をつけた方がいいかもしれない。
妹。
一年前、注目の的だった祥子さまの言動一つで、祐巳が「妹候補」だと高等部中で噂《うわさ》になったことがあった。あの時は、いろいろあったから、周囲から投げかけられる好奇の視線が怖かった。結局、妹になっちゃったから、今では笑って思い出せるけれど。彼女たちにああいう思いをさせるのは、かわいそうだ。しないで済むなら、それに越したことはない。
「そう言う由乃さんは? ヴァチカンで、未来の妹にロザリオ買ったの?」
「買わない。気が変わったの」
「へえ、そりゃまたどうして」
「プレゼントする相手を思い浮かべられない買い物って、空《むな》しいのよ。それに」
「それに?」
「令ちゃんが私にくれた大切なロザリオをあげてもいいくらい、可愛《かわい》いと思える妹を選ばなくちゃだめだと思ったの」
それって、すごく説得力がある言葉だ。
由乃さんは真剣にそのことを考えているんだって、祐巳にはよくわかった。
4
一度レジで精算しても、友達の買い物を待ちながら店内の商品を眺めているうちに、また欲しい物が見つかったりするものである。で、追加でいくつかの文房具を購入してから、四人はドゥオモに向けて歩き出した。
アルノ川沿いを歩いて、ポンテ・ヴェッキオまで戻り、そこから北へ。ドゥオモからは西へ進路を変えて、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会周辺まで行ったら、適当な所で南下してアルノ川に出、そこからホテルに帰る。大まかなコースとしてはそんな感じだが、気になる通りがあれば、もちろん脇道に逸れるのもOK。
ブランド店なんてはなから無理なので、お目当ては小物を売っている小さなお店とか、お土産物《みやげもの》を売る屋台が集まる市など。イタリアのデパートなんていうのも、どんなものだかちょっと気になる。
「ゴキゲンヨウ」
ゴチャゴチャとした出店が連なる通りで、祐巳《ゆみ》たちは突然、そんな声を聞いた。日本語の上にこの挨拶《あいさつ》。当然自分たちに話しかけられたのだと思って、周囲をキョロキョロ見回したのだが、それらしき人は見あたらない。ここでそんな挨拶をするのは、リリアンの生徒か先生くらいなものなんだけれど。
気のせいかな、と思って再び歩き始めると、また聞こえる。
「ゴキゲンヨウ」
真美さんが「あ、あれだ」と指さした。
そこは、革製品のバッグやベルトを売っている出店で、売り物ではないのだろうが、商品と同じ高さにつるされた鳥かごの中に、大きなインコがいたのだ。
「あれが、しゃべったの?」
「たぶんね。ごきげんよう」
真美さんは鳥かごに話しかけた。すると。確かに「ゴキゲンヨウ」と返されてきたではないか。
「わあ、すごい。お利口《りこう》さんね。ごきげんよう」
鳥とお話するのが面白くて、みんなで口々に挨拶をした。そのたびに、律儀《りちぎ》に返事をくれるインコさん。
「ゴキゲンヨウ」
先にここを通った、リリアンの生徒が教えたのかも知れない。ヴェネツィアから回った、Bコースの生徒たちということも考えられる。
インコのお陰で若い娘たちが店で立ち止まるのがうれしいらしく、店の主人もニコニコ笑いながら「ゴケゲンヨ」と言った。がんばっているのはわかるのだが、残念ながら、人真似《ひとまね》の技術に関しては飼い鳥に及ばないらしい。
「ゴキゲンヨウ」
インコは調子に乗ってしゃべり続ける。
「ヨウコソ、フィレンツェエ」
きっと、録音したテープの再生ボタンが突然押されるみたいに、ふとしたきっかけで別の言葉が飛び出るのだろう。
「フィレンツェヨイトコイチドワオイデ」
誰が教えたんだろうこんな言葉、って最初は呆《あき》れながら聞いていたのだが。続いて飛び出した言葉に、祐巳はギョッとした。
「フィレンツェセンベイ、フィレンツェセンベイ」
「やだ、ここは鞄《かばん》屋さんでしょ?」
蔦子《つたこ》さんと真美《まみ》さんはお腹《なか》を抱えて笑ったけれど、祐巳と由乃《よしの》さんは、思わず顔を見合わせた。フィレンツェ煎餅《せんべい》って、もしかして実在するの? ――って。
その時だ、インコが極めつけの言葉を発したのは。
「モウヤメナサイヨ、サトーサン」
サトーサン。
さとうさん、佐藤《さとう》さん、って。まさか。
――まさか、佐藤|聖《せい》さまっ!?
5
「ねえ、やっぱり聖《せい》さまだと思う?」
祐巳《ゆみ》は、バスルームから出てきた、茹《ゆ》でたてホカホカの由乃《よしの》さんに尋《たず》ねてみた。
「わからない。ねえ、いくら考えても、ここで結論なんて出ないわよ。聖さまが今すぐ私たちの目の前に現れないかぎりね」
あの後、歩きながらずっとそのことを話しているのだ。ホテルに帰ってからも、夕食の席でも。顔を合わせれば、話題は決まって「聖さまはイタリアにいるのか否《いな》か」。あらゆる推理をしてみたけれど、推理は所詮《しょせん》推理。推理小説の解答編のように、名探偵が登場して、ビシッと真実を示してくれるわけもない。
「あ、私にもちょうだい」
祐巳が手にした小瓶《こびん》のラベルを見て、由乃さんが手の平を上にして差し出した。これは、消化吸収を助ける胃薬。
毎晩別のお店なのに、示し合わせたように大量の肉がお出迎えしてくれる。元来農耕民族だった日本人。若さをもってしても、これだけたくさんの肉、一時に消化しきれるものではない。
「それより、まだ荷造り済まないの? 考え事ばかりして、手がお留守《るす》になってるんじゃないの?」
明日の朝、このホテルを引き払って、最後の滞在地ヴェネツィアに向かう。手はお留守になっていないけれど、今日買ったお土産《みやげ》を鞄《かばん》にいかに上手《うま》く詰めるかが問題なのだ。相手は文房具だから、折れたりつぶれたりしないように。
「帰国したら、わかることよ」
由乃さんはそう言って、ペットボトルの水で胃薬を喉《のど》に流し込んだ。
「そりゃそうなんだけれどね」
お肉と同じで、今夜一晩くらいはこの話題で、消化不良を起こしそうだった。
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水の都から島国へ
1
午前十時半過ぎにサンタ・マリア・ノヴェラ駅を出発したユーロスターは、午後一時半頃にヴェネツィア・サンタ・ルチア駅に到着した。約三時間かかった計算だが、途中ウトウトしたので、さほど長く感じなかった。ここに来て、どっと疲れが出たのかもしれない。
駅に着いてからは、水上バスに乗ってサン・マルコ広場へ。ヴェネツィアは水の都。自動車は一台も走っていないのだそうだ。
明日は帰国するため、ヴェネツィアには一泊だけ。実質半日の滞在となるので、サン・マルコ広場に面したオープンカフェでランチをとって、ホテルに荷物を預けたら、さっそく街に繰り出した。
まずはサン・マルコ大聖堂を見学し、それから本日のメインイベント、ヴェネツィア名物ゴンドラ乗りに挑戦だ。
ゴンドラ乗り場に行き、料金の交渉《こうしょう》をするところからスタート。
「最初はふっかけられるそうだから気をつけなくちゃ」
四人は、それぞれのガイドブックを照らし合わせて、事前の打ち合わせをした。
「じゃ、一人につき最高二千五百円までなら出す、ってことで」
コースによって多少は違うらしいけれど、だいたい相場は日本円で一万円というところらしい。
料金は、ゴンドラを一|艘《そう》出すにつきいくらかかるかという計算なので、乗船人数によって上下することはない。しかし結局は人数で割《わ》り勘《かん》するわけだから、一人につきいくらまでなら出すという話し合いは必要だ。
で、単純計算、10000÷4=2500(円)也《なり》。
「二千五百円をオーバーしたら?」
「別のゴンドラ漕《こ》ぎと交渉《こうしょう》する。何も私たちは相場を無視して無謀《むぼう》な金額で乗せろとは言っていないんだから」
他をあたるという気配を見せるだけで、相手方が折れることもあるらしい。事実、蔦子《つたこ》さんは最初にこちらの予算の二倍以上の料金を言ってきたゴンドラ漕ぎとの駆け引きに勝って、予算内に収めることに成功した。
「そんなにお金持っていないから、いいわ」
日本語で言って、背を向け、祐巳《ゆみ》たちの肩を抱いて立ち去ろうとする。ゴンドラ漕ぎはあわてて追いかけてきて、「じゃあ、いくらなら持っているんだ」というようなことをイタリア語の混じった英語で言う。そこであまりに低い金額を出すと交渉決裂だから、一人につき二千円くらいのことを提案してみたが、あちらも商売「そんなの無理だ」というポーズで応《こた》える。結局、約一万円で四十五分コースということで手を打ったのだが、相場通りなんだから、損したとも得したとも言えない。
後で聞いた話によると、あるグループは交渉|上手《じょうず》が一人もいなかったせいで、同じ四十五分コースで日本円にして約二万円を支払ったという。六人グループだったから、一人あたり三千三百円くらいになったらしいけれど、窮屈《きゅうくつ》な上に高いお金を払わされた彼女たちは、非常に悔《くや》しそうだった。
さて、交渉成立した四人は、サン・マルコ広場の近くにある船着き場からゴンドラに乗り込んだ。漕ぎ手はゴンドリエという。祐巳たちが乗ったゴンドラのゴンドリエは、若いお兄さん。横縞《よこしま》のシャツとつばの広い帽子はユニフォームなのか、ゴンドラ上で櫂《かい》を操る人たちはみんな似たような格好をしている。
大運河を軽く流した後、小運河に入る。大通りから裏道に抜ける感覚かな。
パステルカラーの三階建てとか四階建の建物が並ぶ裏手を、ゴンドラはスイスイと進む。ゴンドラが通り抜けられるくらいの低い橋は、煉瓦《れんが》でできている物や大理石みたいな白い石造りの物など様々で、どれもとても美しい。
ゴンドリエは、とてもおしゃべりだ。ゆっくりした英語を使って、途切れなくこの街のことを解説してくれている。
「三分の一もわからないよ」
ニコニコ笑いながら、由乃《よしの》さんが言った。うん、確かに。でも、所々聞き取れる単語を寄せ集めて、「だいたいこういったことを言っているのだろうな」くらいに思いながら、ぼんやりゴンドラに乗っているのもいいと思う。だって、十三世紀に何があったとか、昔この辺りを支配していた人の話とかは、後から調べればすむことだから。古い裏通りの景色を眺め、運河を抜ける空気を感じられるのは、今この瞬間しかない。
旅行の始めのうちは取材メモばかり取っていた真美《まみ》さんも、最近は手帳を開いていない。リリアンかわら版の読者に旅行の楽しさを伝えるためは、まず自分が肌で体感し楽しまなければ、と思い当たったらしい。
見通しの悪い運河の交差点では、ゴンドリエは遠吠《とおぼ》えみたいな声をあげる。「私のゴンドラは今交差点にさしかかってますよ」みたいな合図なのだろう。信号がないから、事故防止のために声を掛け合う決まりらしい。
途中、かなり川幅《かわはば》の狭い場所もあって、そんな時に限って向こう側から荷物を積んだボートが来たりする。
「ぶつからないのかな」
しかし、ちゃんとゴンドラを操作してやり過ごすのだからさすがプロ。若いけれど、お兄さんはゴンドリエ三代目で、お祖父《じい》さんが乗っていたゴンドラを何度も修理しながら使っているんだって。
ゴンドラは一見同じように見えるけれど、持ち主によって、内装とか装飾とかが違う。車が好きな人が、ちょこちょこいじって自分だけの自動車を作るのと同じかもしれない。たぶん、そのへん各自の「こだわり」なのだ。
一旦、広い運河に出て、リアルト橋をくぐる。橋の上には、リリアンの制服を着た少女たちの姿が見え、誰だかわからなかったけれど、橋の上とゴンドラの上から手を振り合った。
リアルト橋を抜けると、さっきとは別の小運河に入る。櫂《かい》さばきも調子のいいゴンドリエは、カンツォーネを一節歌ってくれる。すごくいい声。
「歌の上手《じょうず》でないイタリア人だっていると思うけれど、下手《へた》な人は一切《いっさい》歌わないのかな。それとも、歌がうたえなければ、ゴンドリエにはなれないのかな」
素朴《そぼく》な疑問が浮かんだけれど、それを質問できるだけの語学力がない。
「代々ゴンドリエなら、血と環境でどうにかなるんじゃないの?」
由乃さんが言う。
「なるほど」
血と環境でどうにかなるとふんで、剣道を始めた人の言葉には妙な説得力があるものだ。ただし、彼女の場合、どうにかなるのかどうかわかるのは、もう少し時間が経ってからのことだ。
サン・マルコの大運河に差し掛かる手前にあるのは、『ため息橋』。
「この橋の下を通る時、キスすると永遠の愛が手に入る、って伝説があるそうだけれど――」
真美《まみ》さんがそうつぶやいた時、ゴンドリエの解説に「キス」とか「トラディション」とかいう言葉が聞き取れた。
「キスねぇ」
それを教えてもらったからといって、女子高生四人組はいったいどうしたらいいものか。ああそうですか、と含み笑いするしかない。するとゴンドリエは、「次は恋人とおいで」みたいなことを言った。
「でもね」
ため息橋をくぐり終えた所で真美さんが、先ほど尻切れトンボになってしまった話の続きをした。
「本当はあの橋、昔囚人が渡る時に、もう戻って来られない我が身を嘆《なげ》いてため息をついたから『ため息橋』っていうらしいわよ。夢を壊して悪いけれど」
「えーっ」
ドゥカーレ宮殿とそれに隣接する牢獄《ろうごく》の間を結ぶ橋――、それがため息橋。だからたぶん、その説は正しい。でも、これまでこの橋の下でキスをした数限りないカップルたちの気持ちは、どうなってしまうのか。
「あら、たとえ囚人のため息が名付け親だと知っても、キスの伝説まで否定しなくたっていいのよ」
「まあ、そうだけれど」
でも、囚人のため息の下でキスをするって。知った途端に、考え直すカップルも少なからずいると思う。
「うーん。私ならどうするかな」
相手もいないのに、考え込む女子高生四人組。
日本語のわからないゴンドリエは、客人たちが何を悩んでいるのかわからず、ニコニコ笑いながら運河の水に櫂《かい》をさす。
ラストスパート。
ゴンドラの船着き場が見えてきた。
2
集合時間の五時までは少し時間があったから、ちょっとだけお土産物《みやげもの》屋さんを覗《のぞ》くことにした。
ヴェネツィアといえば、ヴェネツィアン・グラス。お家に何か買っていこうかと、軽い気持ちで値札《ねふだ》を見て、あらびっくり。
「意外と高いものね」
「観光地価格なんじゃないの?」
観光客は、多少高くても買っていく。でも、しがない女子高生は、お小遣《こづか》いに限りがあるから、多少高いと手が出せない。
結局、何軒かお店を覗《のぞ》いて、祐巳《ゆみ》はお母さんにはヴェネツィアン・グラスのペンダントヘッド、お父さんにはヴェネツィアン・グラスのネクタイピン、祐麒《ゆうき》にはヴェネツィアン・グラスのブックマークをお土産《みやげ》に買った。
あるお店のご主人は、片言《かたこと》だけれど日本語をしゃべって接客していた。きっと日本人観光客が多く訪れるからだろう。
夕暮れのリアルト橋に立つと、何だか賑《にぎ》やかな音が聞こえてきた。何だろうと、足下に目をやると、楽団を乗せたゴンドラが音楽を奏《かな》でながら橋の下を通過するところだった。
3
ヴェネツィアの料理は、魚介類が豊富でとてもおいしい。
海老《えび》、蟹《かに》、烏賊《いか》、そしてシャコ。日本を思い出させる素材が、ゴロゴロ登場する。さすがは、水の都である。フィレンツェの肉で疲れた胃が、人心地《ひとごこち》ついた、といった感じだ。もちろん、刺身ではなく、オリーブオイルで料理されてはいるんだけれど。
ホテルの部屋は広くて、ゴージャスで、そして古めかしかった。今時カードキーではない金属の重い鍵《かぎ》で、その上|錠《じょう》も重くて、かけるのにも開くのにもちょっとしたコツを要した。しかしそのお陰で、鍵を持たずに廊下《ろうか》に出て閉め出され、ホテルの人のご厄介《やっかい》になるという生徒は出ずに済みそうだ。
お風呂《ふろ》から出ると、由乃《よしの》さんが赤とピンクと金の花柄《はながら》のベッドの上に荷物を広げたまま、テレビを観ていた。
「ほら、これ」
テレビから流れている音は日本語で、画面には日本|家屋《かおく》のお茶《ちゃ》の間《ま》が映っている。
「何、これ?」
「日本のドラマ」
でも、セットがいかにもセットって感じ。俳優たちはシリアスな演技をしているのに、なぜかお茶の間コントみたいに見えた。
「たぶん二十年以上前のものだわね」
どうしてわかるの、って聞いてみたら、由乃さんのお母さんが昔好きだった俳優が出ているんだって。その俳優、祐巳《ゆみ》たちが生まれるより何年か前に亡くなっているのだ。
「あー、このお兄さん、知ってる。あの人だよね、えっと名前は出てこないけれど、今やっているドラマで、主人公をいじめるちょっと悪い小父《おじ》さん」
「そうだ!」
由乃さんの荷造りの手が止まってしまうのも無理はない。遠く離れたイタリアで、日本のテレビ番組を観られるとは。そして、それは突っ込みどころ満載の昔のドラマ。
「先週なんて、ホントひどかったよね。でも、主人公の出生の秘密の鍵《かぎ》を握る人物だから、毎回出てくるし」
「私、あのドラマやめられない。毎週木曜日が楽しみ――」
ひとしきり盛り上がったところで、二人はハッと気づいた。
「今日、何曜日!?」
嫌な予感がする。すごくすごくする。答えを出す前に、由乃さんが電話に飛びついた。
「もしもし、伯母《おば》さん? 令《れい》ちゃん出して!」
時計を見ると、夜の十一時少し前。八時間足さないといけないから、日本は朝の七時頃か。令さま、そろそろ起きてきてはいるだろうけれど。
「あ、令ちゃん?」
由乃さんは、『元気?』とか『朝早くごめんね』とかの前振りなく、いきなり本題を早口でまくし立てた。
「えっ? うん。あ、そうなの。いや、じゃ、いい。行ってらっしゃい」
由乃さんが力無く受話器を置いたところを見ると、当ては外れたらしい。
「そうだよ。令ちゃん、あのドラマ辛《つら》すぎて観ていられないって、途中リタイアしたんだっけ。あー、失敗した。木曜の夜にドラマ観て、金曜の朝出発だったから、バタバタしてすっかり忘れてた。ああ、由乃のばかばか」
本当に口惜《くちお》しそうに地団駄《じだんだ》を踏んでから、由乃さんは何かひらめいたように祐巳の肩をガバッと抱いた。
「祐巳さん」
「は、はいっ」
「もちろん、祐巳さんは録《と》ってきたよね。ね、見終わったらそのビデオ貸して。できれば来週の放送の前に」
そんな、ものすごくかわいい顔をしておねだりされても。
「……実は私も忘れました」
「えっ」
「ごめん」
祐巳とて、由乃さんと同じなのである。これが金曜日のドラマだったら、出がけに「録らなきゃ」って思ったかもしれないけれど、木曜日の夜はドラマを観て満足しちゃったから、次週の放映の日に帰国しているかどうかなんて、思い巡らなかったのだ。
古いドラマが終わって、画面はニュース番組に切り替わった。こちらは真夜中だというのに、日本で毎朝お馴染《なじ》みのアナウンサーがいつものさわやかな笑顔で「おはようございます」と告げる。そして日付の後に、はっきり言った。
「金曜日、朝七時のニュースです」
木曜日の夜のドラマは、みんなで楽しくゴンドラに乗っていた頃にはすでに放映し終わっていたのであった。
4
イタリア時間で金曜日の朝。
サン・マルコ広場から水上バスでマルコ・ポーロ空港へ行き、そこから空路でミラノへ向かう。
ミラノのマルペンサ空港は、一週間前最初にイタリアに下り立った懐《なつ》かしい空港だ。
成田《なりた》行きの飛行機が出発するまでは二時間ほどあるので、一時間の自由行動となり、祐巳《ゆみ》たちは薔薇の館へのお土産《みやげ》を買うべく空港の免税店へ向かった。
「フィレンツェの街で、お煎餅《せんべい》は見つけられなかったわ。同じグループの人たちも、聞いたことがないって」
と、歩きながら志摩子さん。自由行動の際、律儀《りちぎ》に探してくれたらしい。
「売ってるわけないじゃないの、そんな物」
由乃《よしの》さんがケラケラと笑う。インコの言葉に、「もしかしてあるのかも」と一瞬思ったくせして。
「それじゃ、どうする?」
店内のお菓子売場をくまなく探してみたけれど、やっぱり『ローマ饅頭《まんじゅう》』や『フィレンツェ煎餅』は見つからなかった。
「チョコレートでいいのではないかしら? 去年と同じになってしまうけれど」
「無難だけれど、おいしかったものね」
志摩子さんと由乃さんは、去年の今頃すでに薔薇の館の住人だったから、去年の修学旅行のお土産を知っているのだ。知っているだけではなくて、もちろん食べていたわけで、それは祐巳にとってかなり、いや、ものすごくうらやましいことではあった。
結局、いろいろな種類のチョコレートが箱の中で整列しているチョコレートを一箱、三人でお金を出し合って買った。
それでもまだお小遣《こづか》いが残ったので、祐巳は、家にドライトマトと乾燥ポルチーニ茸《だけ》を買っていくことにした。本当はオリーブオイルも買いたかったけれど、瓶《びん》は重いし、途中で割れてしまうと怖いので諦《あきら》めたのだ。
「あのさ、志摩子さん。聖《せい》さまのことだけれど」
レジの前で順番を待ちながら、祐巳は言った。フィレンツェでのインコの一件を、まだ話していなかったから。しかし、それを聞く前に志摩子さんは答えた。
「やっぱり、いらしていたのでしょう?」
「会ったの!?」
ビックリして由乃さんと二人、声を上げた。
「いいえ」
志摩子さんは、首を横に振る。
「でも、感じたのよ。近くにいる、って」
似ている人を見たという証言より、インコがサトーさんの名をしゃべった事実より、志摩子さんの「感じる」の一言の方が信憑性《しんぴょうせい》があるのはなぜなのだろう。
「じゃあ、どうして聖さまは接触してこないの?」
静《しずか》さまみたいに。自由行動の時だったら、いくらでも会うことができるのに。祐巳は聞きたかった。それは聖さまの気持ちだから、志摩子さんに聞くことではないのかもしれないけれど。
「自惚《うぬぼ》れかしらね」
志摩子さんは、ちょっとはにかむように微笑した。
「私のためだって、思うのよ」
志摩子さんのため。
志摩子さんの口から出たその言葉こそが、たぶん「正解」なのだ。
聖さまは、志摩子さんのために会いに来なかった。そうか、そういうことなのか。
志摩子さんと聖さまは、離れていてもいつもどこかでつながっている。祐巳にとってそれは、とても素敵なサンプルだった。
5
機内では行きと同様、寝て・起きて・食べて・お手洗いに行って、を二巡くらいして、ようやくと日本に帰ってきた。行きより帰りの方が早く感じたのは、単に飛行時間が短かったということだけではなくて、たぶん疲れて寝ている時間が多かったせいだと思う。
日本は、土曜日の午前中。
周囲に飛び交う日本語に、じーんと帰国を噛みしめたものの、外国ボケしている祐巳《ゆみ》は、成田《なりた》空港のトイレで扉を開けてくれた先客に、つい「サンキュー」と言ってしまった。相手は日本人だったかもしれないのに。
クラス毎《ごと》に簡単なホームルームを行って、空港で解散。
先生の話の内容は、主に諸注意。「気をつけて帰ること」「寄り道しないこと」「月曜から学校だから、週末は家で身体《からだ》を休めること」。たぶん、わざわざ注意してもらわなくても、生徒たちはそれを実践《じっせん》したはず。誰もが疲れて、早く自分の布団《ふとん》で休みたいと思っているはずだった。
土曜日だから道路が渋滞しそうだとか、この時間なら朝のラッシュにぶつからないな、とか考え、祐巳は電車で帰ることにした。
「じゃあね」
K駅まで、バスで寝ながら帰るという由乃《よしの》さんとは空港で別れた。
「お土産《みやげ》持たせて申し訳ないわ」
志摩子《しまこ》さんが、由乃さんに言った。
「いいっていいって。私が一番学校に近いんだし、徒歩通学だから電車やバスのラッシュで、箱がつぶれちゃったりチョコが溶《と》けちゃったりの心配がないもの」
いつになく、サービス精神|旺盛《おうせい》の由乃さんは。
「それより、祐巳さん」
クルリと首を回して、祐巳に接近した。
「はいっ」
「祐麒《ゆうき》君に、くれぐれもよろしく」
「……伝えます」
祐巳が答えると、由乃さんは満足そうにうなずいて、それから結構重い荷物を振り回しながらバス乗り場へと消えていった。
「どうして?」
志摩子さんが、不思議そうに首を傾《かし》げる。
「由乃さんがビデオ録画し忘れたドラマ、うちの祐麒が気を利《き》かせて私のために録《と》っておいてくれたことがわかってね。それをあてにしているのよ」
「あらまあ。それであんなにうれしそうに」
「そういうこと」
でも、あれだけ鞄《かばん》を振り回しては、ラッシュがなくてもチョコレートが壊れるのではなかろうか。二人は同時にそう思ったのだったが、顔を見合わせただけでどちらも口に出さなかった。
もう、由乃さんの姿は見えなくなってしまったしね。
「祐巳さん、志摩子さん、途中まで一緒《いっしょ》に帰りません?」
真美《まみ》さんと蔦子《つたこ》さんが、エスカレーターの側で手を振って待っている。
「ええ」
返事をしてから、祐巳と志摩子さんは二人に合流した。ちょっとだけセーラーカラーが翻《ひるがえ》ったけれど、それは由乃さんの元気な鞄《かばん》とそう変わらないことだった。
身体《からだ》は疲れているのに、何となくみんなが浮かれ気味で帰路につく。
あー、楽しかった、って。
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お土産《みやげ》レポート
1
これが時差ボケなのかどうかはわからないけれど、土曜日は旅行中に使った物を洗濯《せんたく》しただけで力|尽《つ》き、日曜日は一日とろとろと寝て過ごした。
そんなわけでお姉さまに帰国報告の電話をかけようかとも思ったけれど、祐巳《ゆみ》がちゃんと目覚めている時間に限って、あまり余所《よそ》さまに電話をかけるのに適当な時間ではなかったこともあって、結局しないまま月曜を迎えた。
「ただいま、お姉さま」
「おかえりなさい」
一週間ぶりに会う祥子《さちこ》さまは、いつもと変わりなくきれいだった。何となく、恥ずかしいのは、「会いたい」なんて手紙を出してしまったから。
朝拝前に教室を訪ねて、中庭でお土産《みやげ》を渡した。マーブル模様が表紙の、小さいフォトアルバムだ。
「写真はたくさん撮ってきて?」
中を開きながら、祥子さまが言った。
「あ、はい。蔦子《つたこ》さんが撮ってくれました」
「そう。楽しかった?」
「はい」
大きくうなずくと、祥子さまは「よかったこと」と笑った。
「あの、でも『ローマ饅頭《まんじゅう》』も『フィレンツェ煎餅《せんべい》』も見つけられなくて」
「え?」
「ですから、あの」
祐巳が説明しようとするのを遮《さえぎ》って、祥子さまが言った。
「あれ、本気にしていたの? 冗談に決まっているでしょう?」
「じ、冗談!?」
嘘。
「それがわかっていたから、祐巳だってあの時笑ったんじゃなかったの?」
[#挿絵(img/17_185.jpg)入る]
笑っていたというより、むしろ引きつっていたんですけれど。
「おかしいわね。あれ、聖《せい》さまの冗談なのに、祐巳には受けなかったのね」
「あ。いえ、すみません」
聖さまが言ったのなら、たぶん笑った。でも、祥子さまが真顔で冗談を言うなんて思わないから。同じギャグでもキャラクターによって、受ける受けないはあるのである。
「一年生たちに、お土産《みやげ》買ってきたの?」
「はい。乃梨子《のりこ》ちゃんのは志摩子《しまこ》さんが買ったので、瞳子《とうこ》ちゃんと可南子《かなこ》ちゃんの分。由乃《よしの》さんには、期待させるから買わない方がいい、って忠告されたんですけれど、やっぱり、なんとなく」
「期待されてもいいの?」
「いえ。ですから、瞳子ちゃんと可南子ちゃん以外にも買ってきたんです。花寺《はなでら》学院の面々に」
「花寺の……?」
「学園祭ではお世話になりますし、第三者の助《すけ》っ人《と》という立場では、瞳子ちゃんや可南子ちゃんと同じですから」
「なるほどね。お手伝いへの感謝の気持ちなわけね」
「はい」
「八方美人、って言われるかも知れないわよ」
「いいんです、それでも」
瞳子ちゃんや可南子ちゃんがどんな風に思うかはわからないけれど、とにかく誤解をおそれて何もしないよりは、お土産をあげたいという自分の気持ちに、忠実に行動してみたのだ。人へのプレゼントは自己満足だから。ありがたがられてもそうでなくても、あげた時点で行為は完結しているのだ。
「あなたの気持ち、わかったわ」
祥子さまは、うなずいた。そしてそれから、伸びをしながらつぶやいた。
「私も蔦子ちゃんに焼き増しを頼もうかしら」
「は?」
何の写真ですか、って祐巳が聞き返すと、祥子さまは「さあ?」と笑いながら背中を向けた。
もしかして、って思ったけれど、祐巳の自惚《うぬぼ》れっていうのは、よく空振《からぶ》りするから。あまり舞い上がらないようにしよう、と戒《いまし》めた。
それにあまりしつこくまとわりついていると、「みっともない」って叱《しか》られるかもしれない。今朝《けさ》は中庭のあちらこちらに、生徒の姿が見られた。みんな、お姉さまや妹に旅行のお土産を渡しているようだった。
「もう、お終《しま》いなの? あなたって、押しが足りないわね」
祥子さまが、振り返って言った。もう少し重ねて尋《たず》ねたならば、教えたのに、って。
「じゃ、教えてください」
「そのうちね」
そう言って、祥子さまったら手をひらひらと振りながら、教室に戻ってしまった。
志摩子さんのようにお姉さまの心を読みきれる妹になるまでには、まだまだ修行が足りないのだろうか。
「たまにすごくわかりやすいこともあるんだけれど」
祐巳は、取り残された中庭で腕組みをしながら「うーん、わからん」とつぶやいてみたのであった。
2
背が高く髪の長い女の子と、目が大きくて髪の毛が縦ロールの女の子が、笑いもしないでこちらを見ている。
きっと、二人並べられて何があるんだろう、って、警戒しているのだ。
「はい」
祐巳《ゆみ》は右手と左手それぞれに持った小袋を、可南子《かなこ》ちゃんと瞳子《とうこ》ちゃんに同時に渡した。
「お土産《みやげ》。よかったら使って」
マーブル模様のシャーペン。
二人は、祐巳の顔をまずチラリとうかがってから、「ありがとうございます」と受け取った。
多大な期待はしていなかったけれど、どっちもあまり笑わない。
でも、その可愛《かわい》くないところがまた可愛いな、なんて祐巳は思った。
二人は双子のように、背中合わせに袋の中身をのぞき見ていた。
3
さて、修学旅行の話には後日談がある。
帰国して一週間。学園祭の準備も佳境《かきょう》に差し掛かっていたある日のこと、薔薇《ばら》の館でお弁当を食べ終わると、祥子《さちこ》さまが「ちょっと」と言って祐巳の肩に触れてから先に部屋を出ていった。
仏頂面《ぶっちょうづら》だったから、「私、何かヘマでもしただろうか」なんてドキドキしながら後をついて階段を下りた。
「あの?」
外に出て、薔薇の館の外壁に寄りかかり、それから祥子さまは、まず「あなたね」と言った。ここは中庭とは逆サイドだから、校舎からは死角となる場所で、あまり人目にはつかない。
「あなたね。どうして、こう段取りの悪いことをするのかしら」
「段取り? え、体育館の舞台への搬入《はんにゅう》とかで不手際《ふてぎわ》がありましたか? それとも、各クラブの部長|宛《あて》の通達の順番が違ってましたか」
「そうじゃなくて。山百合会《やまゆりかい》の仕事は、ちゃんとやってくれているわよ。それは、私も認めているわ。でもね」
祥子さまは長い髪をかき上げて、大きく息を吐いて続けた。
「あなたが何気なくしたことのしわ寄せが、今頃になって私のもとにくるのをどうしてくれるの。その上あなたは、やりっ放しですっかりそのことを忘れているでしょう」
「はい?」
山百合会の仕事がらみじゃなくて、お姉さまを困らせるようなことを最近しただろうか。祐巳《ゆみ》が考え込んでいると、祥子さまは「仕方ない」というような表情でつぶやいた。
「……これ」
「え? あっ!?」
目の前に差し出されたのは、紛《まぎ》れもなくピサの斜塔《しゃとう》の絵葉書。
「今頃届いて、私はどう反応すればいいの? 毎日会っているのに」
「ああっ!」
しまった。
そうだ。静《しずか》さまは、確かに言っていた。エアメールは多少時間がかかるって。あの時、ちゃんとヒントをくれていたのに。
「で、それはいつ……?」
「昨日帰ったら、届いていたわ」
「そうですか」
深夜に書いたラブレターは、一人で盛り上がってしまって、後々読むと恥ずかしい、とはよく聞くけれど。たぶん旅先から書く手紙というのも、それによく似ていると思う。しかも葉書。小笠原《おがさわら》家のどなたかの目に触れたかもしれないと思うと、顔から火が噴き出しそうになった。
「ごめんなさい、お姉さま。この手紙、なかったことに」
取り返そうと手を伸ばすと、祥子さまは手を上に伸ばしてそれから逃れた。
「なかったことに? 冗談じゃないわ。これは、祐巳からもらったアルバムに、祐巳の写真と一緒《いっしょ》に入れて取っておくに決まっているでしょう?」
「はあっ?」
「一生忘れてあげないわよ」
怒ったような表情だったのに、今は少し頬《ほお》がゆるんで紅潮《こうちょう》している。あれ、ちょっと違うな、って、そこでようやく祐巳も気づいた。
「とにかく、そういうことだから」
以上、話し終わり。なんて感じで、もたれていた壁から身を起こした祥子さまは、数歩あるいてから立ち止まった。
そして。「会いたかったのは、私だけじゃなかったのね」と言い残すと、急ぎ足で薔薇の館へと戻ってしまった。
「一生忘れてあげない、だって」
祥子さまの後ろ姿を見送りながら、祐巳はつぶやいた。それから、自分も祥子さまと同じくらい耳が赤くなっているのだろうなと、耳たぶに触れてみた。
「……そっか。わかった」
祥子さまは、照れるとちょっと怒った感じになるんだ。うん。
チャオ、ソレッラ!
うれしくって思わず見上げた空は。
青くて。
澄みきっていて。
そして、真っ直ぐ。
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| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》の不在
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九月の終わりのある日。
薔薇《ばら》の館は静かだった。
いや、薔薇の館だけではない。高等部校舎全体が、どこかひっそりとしている。
二年生がいない。それだけのことなのに。
六クラス分。それは、幼稚舎から大学まである学園全体から見れば、大した数ではないかもしれない。けれど、そこにいつもいる生徒たちがごっそりといなくなってしまえば、やはり閑散《かんさん》という表現がピッタリはまる。
放課後、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》である小笠原祥子は、薔薇の館で一人お茶を飲んでいた。
静かだ。
令《れい》はいない。部活に行っている。
学園祭関連の仕事は、細々《こまごま》とした仕事は、あるにはあるが、切迫したものはないのでひとまず休むことにしたのだ。
このところ、忙しすぎたから。一年生たちにも、その旨《むね》告げた。
久しぶりに早く帰ってもよかったのだが、祥子は何となく足が向くままここに来てしまった。
薔薇の館で、ゆっくりお茶を飲む。なんて贅沢《ぜいたく》な時間だろう。
大きな仕事としては、山百合会主催《やまゆりかいしゅさい》の劇の準備がある。しかし、それこそ二年生がいないことにはなかなかスムーズには進まない。
祥子は、出来上がった台本のページを繰りながら、小さくクスリと笑った。
物語とキャストを発表した時の、祐巳《ゆみ》の顔といったら――。思い出しただけで、楽しくなる。
お茶のお代わりを自分で入れる。椅子《いす》に座り直した祥子は、ふと気がついて顔を上げた。
「あら?」
薔薇の館に、誰かが入ってきた気配。あまりに静かだと、二階にいても一階のドアの開閉の音がよく聞こえる。
呼びかけはなく、すぐに階段のきしむ音がしはじめた。と、いうことは、この館に頻繁《ひんぱん》に出入りしている生徒なのだろう。祥子はカップを下ろして、ビスケットに似たドアが開くのを待った。
ガチャリ。そして。
「あ」
ドアを開けた来訪者は、そう言葉を発したきり、しばし固まった。中に先客がいることなど考えずに、ここに来たようだ。
祥子の方は、誰かが上がってきたことを知っていた分、余裕《よゆう》があった。それでも、その誰かが彼女だということで、多少驚いていた。
「ごきげんよう」
祥子は先に声をかけた。
「ご、ごきげんよう、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》」
我に返ったように、頭を下げるは細川《ほそかわ》可南子《かなこ》。髪も長いし身長も高い。
「すみません。私、今日は放課後の会合はないと聞いていたので、どなたもいらっしゃらないと思って」
「入れば?」
「……はい、じゃあ」
何しに来たのだろうと、祥子が気にしていると、細川可南子は窓辺に置いてあった彼女の手提《てさ》げ袋《ぶくろ》を手にした。どうやら、忘れ物を取りに来たらしい。
理由がわかったので、祥子は再びお茶をすすり、台本に視線を落とした。
が、細川可南子の退室する気配はなかなか訪れない。
「どうぞ。私にお構いなく」
祥子は告げた。
「でも」
上級生が一人で台本チェックを行っているので、彼女も帰りづらいのかもしれない。それでも「帰れ」と重ねて告げてあげる気にも、タイを掴《つか》んで引っ張り出す気にもなれなかったので、放っておくことにした。
「居たいのなら、いいわ。お座りなさい」
取りあえず祥子は椅子《いす》を指し示した。好きになさい、と。背の高い細川可南子に何もせずに突っ立っていられると、気になっていけない。
「|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》は」
「え?」
「私がここに居ることを、快《こころよ》く思っていらっしゃらないのではないですか」
「居たいなら座りなさいと言っただけでしょう?」
ああ面倒くさい。祥子は、あからさまにうんざりとした顔をしてみせた。
「いえ、そうではなく」
細川可南子は言った。
「今の話ではないんです」
「ああ――」
このところ、学園祭の手伝いということで、薔薇の館に出入りしていることを言っているようだ。どちらにしても、面倒くさい話であることには変わりない。
「あなたや瞳子《とうこ》ちゃんが来てくれて、助かってはいるけれど」
「でも、私のこと目障《めざわ》りでしょう?」
ずいぶんストレートに聞いてくるものだ。
「どうして?」
「……花寺《はなでら》の学園祭の前日、古い温室」
そういえば、そんなこともあった。彼女には悪いが、もはやそれは祥子にとって「そんなこと」なのだが。
「私はね、あの時言いたいことは言ったから、もういいの」
けれど、言いたいことを言われた方は、モヤモヤとしたものが残っていたらしい。あの日以来、もちろん何度も顔を合わせてきたけれど、二人きりで言葉を交わす機会がなかったため、今日まで引きずってきたのだろう。
「大切な祐巳さまを傷つけた私を、お許しになると?」
細川可南子の言葉には、少し皮肉が含まれていた。
「許すも許さないも。あなた同様、私だって世界の法律ではない。間違いもするし、知らない間に他人を傷つけていることだって、きっとあるでしょう。ただの小さくて不完全な人間だわ。……裁く立場にないわ」
「不完全な……。|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の信奉者が聞いたら、なんて言うか」
「聞かせたいわね、むしろ」
声を大にして、と祥子は言った。
代々薔薇さまたちには、完璧《かんぺき》なイメージがつきすぎてきた。だから、山百合会の幹部と一般生徒の距離がなかなか埋まらなかったのだ。憧《あこが》れられる存在になるのはいいことだ。けれど、祭りあげられるのは本意でない。
「祐巳が一年生に人気がある理由は、少し考えればすぐにわかることだわ」
「どうして、私にそんな話を」
「さあ」
どうしてかしらね、と祥子はつぶやいた。自分でもなぜだかわからない。
「それじゃ、私が祐巳さまの妹になっても構いませんか?」
「祐巳があなたを選んだのならね。別に反対はしないわよ」
カーテン越しに差し込んでいた西日が、少し陰った。雲が出てきたのかもしれない。
「でも、あなたは祐巳の妹にはならないのでしょう?」
「ええ」
「じゃあ、それでいいじゃないの」
「そうですね」
静かだ。
「お茶のお代わりいかがです」
そう、細川可南子が言って立ち上がった。
「構わなくていい、って言ったでしょう?」
「いえ。私が飲みたいので、ついでです」
「ついで、ね。じゃ、お願いしようかしら」
祥子はカップを差し出した。
そして二人は、それから静かな部屋の中で一杯ずつお茶を飲み干すと、それぞれの家へと帰っていった。
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あとがき
たまには、こういうお話があってもいいでしょう。
こんにちは、今野です。
というわけで、修学旅行編です。
さすがは、リリアン女学園。イタリアですよ。すごいなぁ。きっと一年生の時から、修学旅行積立金なんてやっているんでしょうね。
さて。
この本を執筆するに先だちまして、昨年(2003年)の十月、私はイタリアに行ってきました。リリアン女学園の修学旅行は九月の終わりだから、時期的には祐巳《ゆみ》たちより少し後になりますね。コバルト編集部に連れていっていただきました。初めての取材旅行です。
祐巳たちとほぼ同じ日程で、ローマ・フィレンツェ・ヴェネツィアの三都市を回りました。
しかし、こちとら大人の個人旅行。祐巳たちは、お嬢《じょう》さま学校とはいえ団体旅行。まるっきり同じというわけにはまいりません。いくら何でも、修学旅行でタクシー移動なんてしないでしょう。ですから、想像で書いた部分はたくさんあります。もちろん、私が体験したことをリリアンの生徒たちにやらせたこともありますけれどね。
この修学旅行編を書くにあたっては、「困ったこと」がありました。大雑把《おおざっぱ》に括りますと、ここ数年もしくは数ヶ月の間に変化のあった物事はどうしたらいいかなぁ、ってことです。
例えば、2002年リラからユーロへ通貨の切り替えがありました。
ピサの斜塔《しゃとう》は1990〜2001年の間修復工事が行われていたため、立ち入り禁止で上れませんでした。
美術館の展示品は、貸し出されていてそこにない場合が多々あります。
書くことによって、物語の時期が限定されてしまうのは困ります。だからといって、それらを避けていたら、今度は物語の内容が制約されてしまいます。それでは、本末転倒《ほんまつてんとう》でしょう?
で、考えた結果。
イタリアでは通貨の単位を出さない。すべて日本円に換算。工事や貸し出しについては、考えない。それらは本来の形で存在し、あるべき場所にある、ということにしました。
そんな訳ですから、「祐巳が一年生の時は○年だ」なんて計算するのは無意味です。これまでも、クリスマスやバレンタインデーとの兼ね合いで「○年に違いない」なんて断定していた読者がいらしたようですが、作者自身がどこにも当てはまらなくていい(むしろ当てはまらない方がいい)と考えているんですから。
そうそう。困ったと言えば、今回、コンピュータで書いた小説がハードディスクから呼び出せなくなるというアクシデントに見舞われまして、それは、相当に困りました。一応、フロッピーに落とせるには落とせるけれど。そのデータも、開けない状態。
ワープロソフトのサポートセンターに電話して、いろいろ試みましたが全然だめ。「ああ、私の小説八十数ページ分がっ!」って、本当にパニックを起こしちゃいました。
幸い、コバルト編集部のコンピュータに詳しい方が、開けないフロッピーディスクを無理矢理開くというすごい技をもっていたので、事なきを得ました。復元された小説は多少文字化けし、一部(多分七〜八ページくらい)はなくなってしまったんですが、それでも八十数ページが全部消えてしまうことを考えたら。感謝、感謝です。もし復元できずにいたら、たぶん発売日には間に合わなかったことでしょう。考えただけでも、ぞーっとします。
てなわけで、この文庫を書くにあたっては、最初から最後までコバルト編集部のお世話になりっぱなしなのでした。
[#地から1字上げ]今野緒雪
底本:「マリア様がみてる チャオ ソレッラ!」コバルト文庫、集英社
2004年4月10日第1刷発行
2009年04月01日ルビのミス修正(暇な人z7hc3WxNqc 647行 懇願《こんこん》→懇願《こんがん》)
******* 底本の校正ミスと思われる部分 *******
底本p024
次はいつこのスリーショットを拝めるわからないし
拝めるかわからないし
底本p037
時間の感覚がよくわからなってしまった。
わからなくなってしまった。
底本p038
Aグループはローマ。Bコースはヴェネツィア。
「グループ」と「コース」、統一したほうが。
底本p107
海神トリトーネの顔が掘られた大理石の円盤で
顔が彫られた
底本p108
「聖さま目撃情報けど」
目撃情報だけど
底本p111
聖さまって、日本人場慣れした顔立ちしているし。
日本人離れした
底本p130
聖さまと志摩子さんて、生徒会役員選挙の時にいろいろあったから。
静さまと志摩子さんて
底本p131
「三人とも、今来たばかりなんでしょう? 塔《とう》は上るの?」
祐巳+由乃+蔦子+真美=四人では?
底本p154
ガイドブックのページをパラパラと繰りながら行った。
言った
底本p167
パステルカラーの三階建てとか四階建の建物が
表記は統一してほしいところ。「三階建て」「四階建」
底本p168
リリアンかわら版の読者に旅行の楽しさを伝えるためは、
伝えるためには、
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