スリピッシュ!―ひとり歩きの姫君―(後編)
今野緒雪==著
イラスト/操・美緒
美しき訪問者U
王宮の密事
1
フラーマティブル、フラーマティブル。
馬車の車輪が、|軽《かろ》やかに歌う。
|永久《とわ》に消し去れ、罪深き姫君。
国王のお下がりは、誰の手中に落ちた?
あれ、歌の文句がちょっと違うな。
――そう思いながらアカシュは、もうかなり斜めに傾いていた|身体《からだ》を、「どっこいしょ」と元の体勢に戻した。
正しく|椅子《いす》に座り直すと、ちょうどいい位置に窓がくる。
「よくお休みになっていらっしゃいましたよ」
向かいの席でログが言う。
いつの間にかアカシュの|膝《ひざ》から落ちたであろう報告書の|束《たば》は、|丁寧《ていねい》に|揃《そろ》えられてログの|傍《かたわ》らに積んであった。
「どこ?」
「は?」
「いや、いい」
軽く手を振ってから、アカシュはいつもはほとんど閉め切っているカーテンを、ほんの少しだけ開けた。この馬車が今どの辺りを走っているのかを|把握《はあく》するためだ。
普段ならば、万事エイに任せておけばいい。
だが、今日は紛失したチョギーの|駒《こま》探しのために有能な副官どのを|東方牢《リーフィシー》城に残してきたから、あとどれくらい寝ていていいものかは、自分で判断しなくてはならなかった。
アカシュは手に|香油《こうゆ》がつかないよう、指先だけで|寝癖《ねぐせ》のついた黒髪を整え、ついでにロの周りによだれがついていないかをチェックした(|案《あん》の|定《じょう》、ついていた)。
別に、ログがだめなわけではない。エイが出来過ぎなだけだ。
エイは、アカシュ以上にアカシュのペースを理解しているところがある。そこまでわかっているならばこちらの気持ちも酌《く》めるだろうに、「これはいけない」「あれはこうしろ」と目が合えば|小言《こごと》ばかり言うのだからかなわない。
まあ、そういう彼が脇でにらみをきかせているからこそ、トップが訳ありでも、|東方検断《トイ・ポロトー》は日々|滞《とどこお》りなく機能しているのであろう。
馬車は、すでに王宮前広場に差し掛かっていた。これでは、「もう一眠り」とはいかない。かといって、とっくに|挫折《ざせつ》した報告書を読む気になどなれなかったので、アカシュはしばらく外の様子を眺めながら馬車の振動に身を任せることにした。
いい天気だ。
初夏の日差しが暖かく、王宮前広場の池には子供たちが集まって、水遊びをしている。
なつかしい光景に、アカシュは目を細めた。自分はどれくらい、この日の当たる場所から遠ざかっているだろうか、と。
一、二……と指を折る。五年か。じき六年を迎える。
それはすなわち、一つの命をこの世から消し去ってしまってからの年月に他ならなかった。|懲役囚《ちょうえきしゅう》アカシュは、七年経っても十年経っても、たとえ|赦《ゆる》されても、あのまぶしい場所へはきっともう戻れない。
こうしてラフト・リーフィシーとして、王宮へ|参内《さんだい》するために|牢城《ろうじょう》から出ていようとも、決して自由な身ではないのだ。
|東方検断《トイ・ポロトー》長官は死んだ父、そして兄の代わりに務めているにすぎなかった。|不孝者《ふこうもの》の自分が、ゼルフィ家の|末喬《まつえい》として果たさなければならない義務、そして唯一できる罪滅ぼしなのだ。
「見てくださいよ、長官」
ログの言葉に、外を見る。すると、子供たちの中に一人若い娘の姿があった。
こざっぱりとしたドレスの|裾《すそ》を|膝《ひざ》までたくし上げ、池に足を浸して子供たちとはしゃいでいる。
結い上げもせずに流しっぱなしにしているヘアスタイルや、細身の|肢体《したい》だけとってみれば、遠目には子供に見えなくもない。が、太陽にさらされた足は、抜けるように白く、そしてどこか|艶《なま》めかしい。大人の女と言われれば、そのように見えなくもない。
「|深窓《しんそう》のご|令嬢《れいじょう》かな。まるで日頃の|憂《う》さを晴らすかのようだ」
どこぞの貴族の令嬢か豪商の娘、といったところだろうか。
「どちらにしても、変わり者の姫君には違いない」
それらしきお供の姿も見えないのだから、きっとお忍びで遊びにきているのであろう。
馬車が池の前を通り過ぎるまでの間、アカシュは彼女の様子を目で追いつづけた。
これだけ変わり者の令嬢ならば、社交界ではさぞかし|噂《うわさ》になっているはずだが、|舞踏会《ぶとうかい》や茶話会などことごとく欠席しているアカシュには、それがどこの誰だか見当をつけようにも、手がかりが|一切《いっさい》ないのだった。
2
|象牙《ぞうげ》色の姫君の|駒《こま》がなくなっていたことに気づいたのは、|花の祭り《フラーマティブル》の日だ、とエイは思った。
そして、その前日までは確かにあった。
そう。
トラウト・ルーギル氏がこの部屋を訪ねてきた時に、|花の祭り《フラーマティブル》のことを相談しながら|東方検断《トイ・ポロトー》のトップツーでチョギーをやっていたのだから。
ここは、|東方牢《リーフィシー》城の庁舎内にある検断長官執務室。
現在、エイは一人。
この部屋の主は、国王に|謁見《えっけん》するため、先ほど王官へと出かけた。
|留守番《るすばん》役にと、|一緒《いっしょ》に残されたキトリイは、部下から上がってくる報告書類を取りに、庁舎内の別の部屋に行っている。
王家から|下賜《かし》された家宝が|行方《ゆくえ》不明であろうと、非番月であろうと、事件は王都エーディックで日々起こり続けている。
当番月が外回りで体力勝負なら、非番月は城内で裁断に関わる手続きと書類作成が主な仕事。そのため、むしろ非番月の方が|検断《ポロトー》長官にとっては忙しいと言っていいかもしれない。毎日山のような書類が、長官執務室に回ってくるのだから。
静かな部屋で、エイは腕組みをして頭の中を整理した。
あの時。
トラウトが話に割り込んできて、それに気を取られたのか、長官が珍しくヘマをしてエイが勝った。
王手をかけたのは、象牙色の姫君。間違いない。
あの後、長官が|悔《くや》し|紛《きぎ》れに盤上で駒をグチャグチャとかき混ぜた(王家から|拝領《はいりょう》の駒を、何てぞんざいな!)。床に落ちた駒を拾ったから、エイはよく覚えている。あれは、|焦《こ》げ|茶《ちゃ》色の騎士の駒だった。
エイは、一人であるのをいいことに、あの時の自分の行動をなぞってみた。床に|膝《ひざ》をついて、昨日そこに転がっていた駒の幻を拾いあげる。
「……」
今考えてみると、あの「グチャグチャ」がかなり怪しい。盤上から落ちた駒は、一つだけではなかったのかもしれない。
しかし、駒が落ちた音は一つだった。だから、エイは落ちていた一つを拾ってあとは探さなかったのだ。
そしてこれ以上客人を待たせては申し訳ないと、数を確認もせずに|駒《こま》をチョギー台の中に片づけてしまった。
(私としたことが……!)
普段は長官に|煙《けむ》たがられるほど|几帳面《きちょうめん》な自分。その、らしからぬ行動を|悔《く》やんでも悔やみきれないエイであったが、今は落ち込んでいる|暇《ひま》などない。
時間が経てば経つほど、姫君を見つけ出すのは困難になる。――そんな気がして、気は|急《せ》くばかりだった。
(落ち着け。落ち着いて、状況を整理しよう)
そうだ。
落ちた音は、絶対に一つだった。だから、もしあの時落ちていたとしたら、床ではなく別の場所。小さな駒が転がったところで、ちょっとやそっとでは音の出ない――。チョギー盤の周辺で、そんな場所はあっただろうか。
(ソファの上?)
エイはソファに手の平をのせてから、「いや」と首を横に振った。ここは真っ先に調べた。すべてのソファの足もと、背もたれと腰掛けの間、置いてあったクッションのカバーの中に至るまで、昨日からもう三回は調べている。
あとは、どこにもない。
広い執務室の中には、他にも駒を落として音のでない場所はあるにはある。だが、そこにたどり着くためには、駒は一度床に落ちてから転がって移動しなければならない。
下が無理なら上から、という線も可能性として考えたが、グジャグジャかき混ぜただけで駒は宙を飛んだりしないだろう。たとえ飛んだとしても、かき混ぜていた人間が気づかないはずはない。
だから、エイは仮説をたてた。
確かに、落ちた駒は一つではなかった。しかし、姫君の駒が落ちたのは床ではない。ソファでもない。人間の服の上に落ちたのだ、と。そして、その駒は着ていた人物が身動きをした時、上着の合わせ目とか、ポケットの中などに入り込んでしまったのではないか。
(だとしたら?)
あそこか。
エイは、|二間《ふたま》続きの奥の部屋へ足を踏み入れた。
3
「何かあったのかな」
国王と|謁見《えっけん》するための待ち合いの部屋は、いつもと様子が異なっていた。
まず、順番待ちでソファに座っている貴族たちの姿がない。
しかし、だからといって間違って|謁見《えっけん》のない日に来てしまったわけではないようだ。座っていないだけで、部屋の中に人はほどほどにいる。
ただ、いつものように静かに、また時に談笑などしながら順番を待つというのんびりとした空気はそこには|一切《いっさい》なく、貴族たちは、「騒然」とまではいかないが、誰もが立ったまま落ちつきなく動き回り、対応に出た家来を取り囲んでは、何やら難しい顔をして話し込んでいるのだ。
「聞いて参りましょうか」
ログが飛び出そうとするのを、アカシュは制した。
「いや、いい」
後から来て話に割り込むのも気が引ける。少し離れて眺めていれば、そのうち様子はわかってくるはず。事実、三分ほどの観察で大まかな事情は飲み込めた。
どうやら、本日の謁見は|陛下《へいか》の急な|病《やまい》のため中止、ということらしい。謁見の予定が入っていた者たちの屋敷にその|旨《むね》知らせがいっていればこのような混乱もなかったろうが、周囲の者たちが陛下の病に気づいたのが|今朝《けさ》方《がた》ということだから、連絡が間に合わなかったのも致し方ない。
「お見舞いさせていただくわけには」
などと家臣に詰め寄るどなたさんかの言葉を聞きながら、アカシュは回れ右をして部屋を出た。
中止ならば好都合。さっさと帰って|駒《こま》探しでもしよう。
別に国王に会いたくて、王宮に|参内《さんだい》しているわけではない。義務だから、仕方なく来ているだけだった。
(まあ、あの国王が病にかかったなんて聞くと、気にならないでもないけれど)
しかしそこまで考えて、すぐに思い直す。案外|仮病《けびょう》かもしれないそ、と。今頃、|王妃《おうひ》の部屋で高いびきをかいているのではないか。
(……)
そっちの方が、真実みがあるというのは、一国の王としていささか問題ありだが。
「ああっ、ラフト・リーフィシーどのっ。お待ちをっ」
|廊下《ろうか》を歩いていると、見覚えある王の側近が追いかけてきて、アカシュを止めた。
「しばし、しばしお時間をいただきたく」
「は?」
「こちらに」
側近は問答無用とばかりアカシュの手を引いて、廊下をどんどんと引き返す。抵抗する理由もないし、ここで騒いで見せ物になるといろいろ面倒なので従うと、そのまままたどんどん進み、ついにかなり奥まった場所まで連れてこられてしまった。
|廊下《ろうか》の突き当たりにある扉の前では、衛兵が|槍《やり》を片手に立っている。
「あの」
アカシュは側近に声をかけた。
「ここは――」
何度か来たことがあるから知っている。この先は、国王のプライベートスペースである。
「国王|陛下《へいか》がぜひ、ラフト・リーフィシーどのにお会いしたいと」
「陛下が私に」
「はい。陛下がラフト・リーフィシーどのに」
「……」
そう言われれば仕方ない。アカシュはその場に供のログを残して、|厳《いか》めしい扉の向こう側へ足を踏み入れることになった。
「ご病気では」
「ええ、……まあ、それは……」
側近は、言葉を|濁《にご》した。口に出すのもはばかられることらしい。それは、最終的に連れて行かれた場所からも優に想像がついた。
「ラフト・リーフィシーどのを見込んでのお願いです。ですからここから先見聞きしたことは、|他言無用《たごんむよう》ということで……」
「わざわざ断られなくても、そうするしかないですよ」
部屋の前で、アカシュはため息をついた。そこは王の客間でも寝室でもなく、|王妃《おうひ》の寝室であったのだから。
「陛下。|東方検断《トイ・ポロトー》長官どのをお連れ致しました」
側近はノックをして声をかけ、中からの返事を待たずに外から|鍵《かぎ》を差し入れて、手早く扉を開けた。
「どうぞ」
人ひとり入れるギリギリの|隙間《すきま》を作って、中に入るよう促す。人払いされているようで、|廊下《ろうか》付近には誰もいなかったが、万が一にも部屋の中の様子を誰かに見られるのを、|警戒《けいかい》しているのだろう。
「しかし、ここは……」
頼まれたこととはいえ、さすがに女性の寝室に入るのは|躊躇《ためら》われる。部屋の主は恋人でも母親でもなく、人妻で、その上この国の王の|妃《きさき》なのである。
「ラフト・リーフィシーどの。ご|遠慮《えんりょ》なく。緊急事態ですから」
重ねて言われたので、仕方なく狭い隙間から部屋の中に滑り込む。|検断《ポロトー》を預かる身としては、|建前《たてまえ》上、事件であればどこへでも飛び込んでいかなければならないのだから。
「ラフト・リーフィシーか」
足を踏み入れてみると、部屋の中はアカシュが想像していた中で、悪い方から数えて二番目くらいの状況であった。
国王夫妻が、一つのベッドに並んで横たわっている。
「……」
回れ右して帰りたくなったが、アカシュの後から入室した側近が、後ろ手にドアの|鍵《かぎ》を閉めてそれを許さない。
「|勘弁《かんべん》してくださいよ、|陛下《へいか》」
「|其方《そち》は、|余《よ》がふざけていると思うておるのだろうが」
国王は、ベッドの上から力無くつぶやいた。身を起こそうともしないのを見て、そこでやっと、本当に国王は病気なのかもしれない、とアカシュも思い始めた。
しかし、ならばどうして|王妃《おうひ》の寝所で王妃と|一緒《いっしょ》に寝ていなければならないのだろう。十歩|譲《ゆず》って、夫婦一緒に発病したとしても、この場に医者の一人、看護人一人いないのはやはり|腑《ふ》に落ちない。
首をひねっていると、側近がベッドに近づいて、「こういうことでございます」と、|畏《おそ》れ多くも国王夫妻の上にかかっていた上掛け|布団《ぶとん》をはがした。
「えっ!?」
アカシュは我が目を疑った。もしかしたら、そこに|全裸《ぜんら》の男女が横たわっていた方が、想像していた分、まだショックが少なかったかもしれない。
「この通りだ。助けてくれ」
こともあろうに、国王は|寝間着《ねまき》姿のまま後ろ手に|枷《かせ》をかけられていたのである。そして王妃は――。視線を移動させたアカシュは、更にギョッとした。
「待ってください。この方は、王妃さまじゃないですよ!」
「何を待つのだ? 誰も、|妃《きさき》とは言っておらぬ」
王は首をぐるりと回して、つぶやいた。
「しかし」
王妃の部屋の王妃のベッドで、国王の隣に寝ていた女がいたら、誰だってそれは王妃だと思うに決まっている。
王妃ではない女性は、|舞踏会《ぶとうかい》にでも行くような青いレースのドレスを着て、箱にしまわれた人形のようにおとなしく横たわっていた。
「なぜ、王妃さまでない女性がここにいるのです」
「王妃の部屋に王妃以外の女がいたら悪いか? ならば、王妃の世話係はどうする」
「王妃さまのお世話係は、王妃さまのベッドで寝るのですか」
「場合によっては」
「では、このご婦人は、|王妃《おうひ》さまのお世話係なんですね」
「いや」
「ではなぜ、ここに寝かせておくのですか」
そんなことより、今は一国の王が|手枷《てかせ》をかけられベッドに転がっている方が問題なのだろうが、頭が混乱して思うように物事をうまく整理できない。
王のその様は、まるで捕らえられた囚人そのものだった。いや、|獄舎《ごくしゃ》であっても、こんな状態にされるのはごく一部の者だけである。
|逮捕《たいほ》直後のショックや薬物使用による極度の興奮状態で、手がつけられなくなるほど暴れるような場合、一時的に手足の自由を奪って動けなくするのだ。接する役人だけではなく、その者自身がけがするリスクを少なくするために。
「いい質問だ。ラフト・リーフィシー。来てもらって早々で悪いが、まず|其方《そち》には彼女を抱きかかえてベッドから下ろしてもらいたい」
「は?」
一瞬、聞き違いかと思った。どうして自分が、|介護《かいご》の必要な老人でもなく、ましてや恋人でもない女を抱きかかえてベッドから下ろさなければならないのだ。
同意を求めて、国王の側近を見ると、彼は渋い顔をして首を横に振った。
「あの。このご婦人は、自ら下りることができないので……?」
しかし、彼女は国王のように手に枷などはめられていなかった。目はぱっちりと開いているから、少なくとも就寝中でもない。
「見せてやれ」
国王が|顎《あご》で指示をすると、側近は青いドレスの|裾《すそ》を|摘《つま》み、|膝《ひざ》近くまでめくりあげた。
「あっ」
紳士として、とっさに手で目を|覆《おお》ったものの、指の間からチラリと見えた「それ」を確認するや、|差恥《しゅうち》心など吹っ飛ばされる。
「……どういうことですか、これは」
その女性の両足首には、国王の手首にかけられているそれと、まったく同じ枷がかけられていたのである。
「どうだ? ベッドから下ろしてやってくれるか。そこにいる側近は、自分は年寄りだから女一人は持ち上げられないとほざく」
「……致し方ありません」
アカシュが「失礼」と手を差し出すと、彼女はニッコリとほほえんでそこに手を乗せた。こんな状況でかなりの|余裕《よゆう》。年はかなり若く見えるが、見知らぬ男が|身体《からだ》に触れてもまるで動じず、身を任せる様子は、男相手に商売している女を思わせる。
彼女を|椅子《いす》に座らせて振り返ると、国王が言った。
「|妃《きさき》がやりおった」
「……」
さっきからアカシュもそれ以外に考えられないと思っていたが、だからといって「でしょうね」と返すわけにもいかない。
「しかし、なぜ|王妃《おうひ》さまが|枷《かせ》なんてお持ちなんです」
「聞きたいか」
言いながら国王は、側近に背中をかくように指示をする。
「いえ。いいです」
「そうだな。夫婦の趣味に、他人はあまり立ち入らない方がよい」
それでは、言ってるのも同じではないだろうか。
「|鍵《かぎ》は」
「妃が持って出た」
「スペアはないんですか」
「あったら、今頃こんな不自由な格好でベッドに転がっていないわ。|其方《そち》も呼ばぬ」
「ごもっとも。一応、確認のために聞いただけです」
「ふん。|検断《ポロトー》長官気取りか」
気取ってなどいない。これが本職なのである。
「それで、|王妃《おうひ》さまはいったい今どちらに」
「それがわかれば苦労はない」
「苦労はない、って。居場所がおわかりにならないのですか」
「この女になりすまして、王宮からうまいこと抜け出したのだ。|余《よ》とそこの女を残していって何かあっては大変だから、ご|丁寧《ていねい》に|枷《かせ》で自由を奪ってな」
アカシュは髪をかき上げて、大きくため息をついた。確かに、これくらい大変な状況でなければ、第三者の力を借りようとはしないだろう。
しかし、どういう人たちだ。
国王夫妻に関わると、外れ者の自分でさえいっそ常識人に思えてくる。こんな人が国の頂点に立っているのだから、我がワースホーン国はつくづく平和な国といえよう。
「|陛下《へいか》が、この女性に悪さができないように、ですか」
「まあ、そういうことだな。しかし悲しいことに、それは|嫉妬《しっと》からでた行動ではないのだ。どうせ抱くなら、貴族の娘でなければならぬと言うてな。まあ、それは道理だな。王妃が|娼婦《しょうふ》にドレスを|下賜《かし》するくらいなら笑い話にもなるが、娼婦の腹を借りて王家の世継ぎをもうけたとあってはもはや笑えぬ」
「はあ」
確かに笑えない。しかし、ならばやはり、この女性はその手の職業に従事している女性であったらしい。
「病気をうつされても大変だ」
「まあ、失礼ね。私、病気持ちじゃありません」
そこで初めて女性が口をきいたが、国王の背中をかいていた側近が「口を|慎《つつし》むように」と注意したので、首をすくめてあとはおとなしくなった。
「……で、私に何をせよと?」
アカシュは、本題を聞き出した。
「何、簡単なことだ。この一件をきれいに片づけてくれればよい」
「無茶おっしゃらないでくださいよ。枷の|鍵《かぎ》をこじ開けるくらいのことでしたら、及ばずながらお手伝いさせてもらいますが」
妻の家出は、夫がなんとかしてもらわないと。そんなことで一々|検断《ポロトー》が動いていたら、人手はいくらあっても足りないのだ。
「あまり多くの人間を関わらせるわけにはいかないことくらい、|其方《そち》にだって理解できるであろう」
側近の男に|口髭《くちひげ》を整わせながら、国王が言った。
ということは、内々に王妃を探し出して、連れ戻さなければならないわけだ。そうなると、部下を使って大々的に捜索はできない。もっとも、非番月なのだから、はなから|検断《ポロトー》をあげて、というわけにはいかなかっただろうが。
「わかりました。では、|王妃《おうひ》さまがお出かけになった時の服装と、お立ち寄りになりそうな場所をお知らせください」
仕方ない。|廊下《ろうか》で捕まってしまった時から、こうなる運命なのだ。アカシュは、チョギーの|駒《こま》が見つからなかった場合、この労働で帳消しにしてもらおうと決めた。駒が見つかったならば、|陛下《へいか》に貸し一つだ。
「渋い色目のドレスだった。な?」
国王は、そのドレスの真の持ち主であろう女に向けて確認をした。が、さきほど口を開いて|叱《しか》られた彼女は、黙って、自由のきかない足をさすり続けている。
「しゃべることを許す」
側近に告げられると、彼女は勝ち誇ったような表情で言った。
「ベージュの地に、茶色と白と緑で花模様が描かれていますの」
ベージュに茶色。
「あ」
「どうした」
「いえ」
ベージュの地に茶色と聞いて、アカシュはどこかでそれを見たような気がした。それも、そんなに遠くない過去に。
「行き先なんぞは、わからぬ。ただ、あれは|嫁《とつ》ぐ前も嫁いでからも、外に出歩くことなど|滅多《めった》になかったから――」
「わかりました。取りあえず、ご実家から当たってみましょう」
そうと決まったら、さっさと行動に移さないと。アカシュは一礼してきびすを返した。
「おいおい。|枷《かせ》の|鍵《かぎ》をこじ開けていってくれるのではないのか」
|屈辱的《くつじょく》な体勢で情けない声を出す国王を見捨てていくのは忍びないが、ラフト・リーフィシーとして動ける時間は限られている。アカシュは側近が細く開けたドアの隙間に|身体《からだ》を滑らせながら、ウィンクをした。
「私には無理ですよ。万一今日中に王妃さまが見つからなかったら、その時は|東方牢《リーフィシー》城の|獄舎《ごくしゃ》から一人囚人を|派遣《はけん》しますよ。|錠前《じょうまえ》破りのプロをね」
4
その頃、|東方牢《リーフィシー》城の城門前に|辻馬車《つじばしゃ》が停まった。
「お客さん、着きましたよ」
中から出てきたのは、一人の婦人。
荷物はない。
交通費にと持ってきた一枚のコインは、たった今|御者《ぎょしゃ》に支払ったので消えてなくなった。
長くストレートな黒髪を、結い上げもせずに風になびかせながら高い城壁を見上げ、小さく笑う。
「さて、と」
ダンスのようなステップを踏みながら、城門に向かって歩いていく。
一二三、二二三。
三拍子はワルツ。
三二三、四二三。……コツン。
軽快なリズムを刻んでいた彼女の|靴《くつ》が、何かを|弾《はじ》いた。それは道路を転がり、城門からわずかに外れた城壁にあたって静止した。
「あらあら」
彼女は笑いながら腰をかがめ、自分が蹴り飛ばした物が何であったのか確認した。
「……まあ。私、あなたのこと知っているのではないかしら」
拾い上げ、ドレスに|擦《こす》りつけて|土埃《つちぼこり》を落とすと、それは確かに、いつかどこかで見た覚えのある物。
「ふふふ」
|東方牢《リーフィシー》城に着いて早々、こんな|愉快《ゆかい》なことが起こるなんて。しかし、それにしてもこれはなぜにこんな所に転がっていたのだろうか。
「私みたいにひとりで飛び出したはいいけれど、帰り道を忘れてしまっていたのかしらね、きっと」
彼女は立ち上がり、ドレスの|裾《すそ》の埃を払い、再びステップを刻みながら歩き出す。
「いいわ、私があなたを送り届けてあげましょう」
――と言って。
道中の模索
1
王宮前広場に馬車を止めてみたが、もはやあの女性の姿はなかった。
着ていたドレスの特徴と|失踪《しっそう》した時間からみて、アカシュが王宮に向かう途中で目撃した、広場で水遊びをしていた女性こそが|王妃《おうひ》だったと考えて、まず間違いないだろう。
だが。
その推理が正しいものであったとしても、すでにその人の姿が現場から消えているのであれば、後の祭りである。
「|畜生《ちくしょう》。あの時、気づいていたら」
アカシュは、|拳《こぶし》を馬車の|椅子《いす》に叩きつけた。
|悔《くや》しい。悔しすぎる。
けれどその|口惜《くちお》しさは、王家への忠誠心や|検断《ポロトー》のトップとしての使命感から来るものではない。ほんの少しの注意力と想像力があったなら、この先にたぶん待ち受けているであろう|諸々《もろもろ》のゴタゴタを回避できたかもしれないのに、と思ったのだ。
つまり、アカシュはただ面倒くさかった。|獄舎《ごくしゃ》で囚人ににらみをきかせている方が、よっぽどましだ。
しかし、あの時点で、どうして気づくことができただろう。
一国の王妃が、国王の自由を奪った挙げ句城を抜け出していただなんて。国王から|直《じか》にその情報を聞いた今でさえ、「本当なのだろうか」と疑いたくなる話である。しかも、変装して水遊びときた。
「その、水遊びをしていた女がどうかしたのですか」
事情を知らないログが、ワクワクとハラハラをまぜこぜにしたような表情で尋ねてくる。すべての|謁見《えっけん》を中止にするほど|病《やまい》の重い|陛下《へいか》が、ただ一人だけ呼ばれて下されたであろう命令の内容が、気になって仕方ないらしい。
「いや。ただ、内々に保護を頼まれただけだ」
本当のことなんて、とても言えやしない。馬車の窓から外の様子を眺めながら、アカシュは言葉を|濁《にご》した。広場の池の周りは、|彼《か》の女性の姿はなくなったとはいえ、子供たちは、依然として水遊びに興じている。
アカシュは、ふとひらめいた。
「ログ。池の側で遊んでいる子供を一人、ここまで連れてきてくれないか」
「子供、ですか」
「そうだ。一番年かさのある子がいい」
アカシュはラフト・リーフィシーでいる間、外に出ることを禁じられてはいない。しかし、不特定多数の人間が|集《つど》う場所では、この顔をさらすことは避けた方が無難だ。|獄舎《ごくしゃ》で|一緒《いっしょ》になったことがある元囚人にでも見つかったら、かなり|厄介《やっかい》なことになる。
それを知っているログは「わかりました」とうなずいて馬車を降り、池の方に歩いていった。そして連れてきた子供というのが。
「何の用事だよ。俺は忙しいんだ」
――|小憎《こにく》たらしいガキ、であった。
|歳《とし》は十といったところか。ボサボサ頭で目つきが鋭い、|膝《ひざ》の|擦《こす》りむけたズボンをはいた、見るからにガキ大将風の少年だ。
「そうか、水遊びの最中悪かったな」
アカシュは馬車に乗ったまま、窓から顔を出して告げた。
「水遊びじゃねえよ。仕事だよ」
「仕事? 水仕事かい?」
それにしては、食器も|洗濯物《せんたくもの》も見あたらない。すると、少年はうんざりしたようにつぶやいた。
「あそこにいる|爺《じい》さんが、池に懐中時計落としたんだ。見つけたら、銅貨一枚くれるっていうからさ」
「……ああ」
クイッと|顎《あご》で指し示す場所には、なるほど初老の紳士が立っていて、少し離れた池の中をしきりに気にしている。
「失礼した。それは立派な仕事だ」
アカシュも昔は、小遣い欲しさにしたことがある。池や川だけでなく、子供の小さい|身体《からだ》を活かして狭い路地裏や馬車の下に潜り込むこともあった。その副産物で、小銭や鉄くずなんていうものも手に入れられたりするので、集中してやると結構いい|稼《かせ》ぎになるのだ。
「わかったら、さっさと用件言えよ。それとも、あんたも何か捜し物があるのかい?」
捜し物。少年がさらりと言ったその言葉は、アカシュの胸にグッと突き刺さった。そうだ、自分は確かに「捜し物」を見つけるためにこの少年を呼んだのだ、と。
「さっきここで、君たちと一緒に遊んでいた女の人がいただろう。その人を探しているんだ」
「知らないよ、そんなお姉ちゃん」
そっぽを向く、少年。早くも値段の|交渉《こうしょう》に入った模様。相手がその気なら、アカシュも乗るまで。
「じゃあ、どうしてお姉ちゃんだってわかった? 私は、一緒に遊んでいた女の人と言っただけだぞ?」
「知らないよ。俺はお姉ちゃんなんて言ってないもん」
しらっとして答える。それも、たぶん少年の計算の一つなのだろう。
「さっき言ったじゃないか、|小僧《こぞう》」
ログがたまらず口を|挟《はさ》んだ。彼には、駆け引きがよくわからないらしい。
「小僧? それが他人にものを頼む時の態度かい?」
少年は冷ややかにログを見、それからアカシュへと視線を移した。
「ねえ、馬車に乗ってるお兄ちゃん、あんたもそうだよ。高い所から下りてきもしないでさ。そんなに偉いのかい?」
「そんなに偉くもないけれど、日差しに弱い|質《たち》なんだ。大目に見てくれ」
「ふん。じゃあ、仕方ないな」
「こんな生意気なガキに、頭を下げることありませんよ、長官」
抗議するログの肩を|掴《つか》んで、アカシュはなだめた。こんな生意気なガキ[#「こんな生意気なガキ」に傍点]の言うことに、一々反応していたら、それこそきりがないのだ。それより、と耳もとで|囁《ささや》いた。
「|財布《さいふ》を持って来ているか? あったら、銅貨を一枚貸してくれ」
「はい……いいですけれど」
訳がわからないが、それでも上司が金を必要としているわけだから、と、ログはポケットから財布を出した。
「すまんな。私は金を持ち歩かないから。これは、後でエイに請求してくれ」
アカシュは一ペスコインを受け取って、そのまま少年の目の前にかざす。もう少し駆け引きを楽しみたい気持ちはあったが、残念ながらそれをしている時間がない。
「有力な情報なら、これで買う」
少年の|喉《のど》がゴクリと鳴った。急いでいる時は、現ナマが効く。
「どうだ、思い出したか?」
「……ああ。思い出した」
「彼女はいつまでここにいた? どこに行ったか、知っているか?」
「いなくなったのは、結構前だぜ。広場で馬車を拾って、乗っていった」
「結構前って?」
「結構前って言ったら、結構前だよ。わざわざ何時何分だったかなんて、覚えているわけないだろ」
側に時計はあるにはあったが、残念ながら池の中だ。少年は首をすくめた。
「じゃ、彼女はどれくらいここにいた?」
「二十分かそこら。もういいかい?」
「まだだ」
銅貨に伸ばす手をかわして、アカシュは質問を続けた。
「どこに行くって言っていたか?」
「わかんない。けど、馬車はあっちに行ったよ」
あっち。
王宮と逆の方向を指さす。が、それはあまり有力な情報とは言えなかった。王宮に帰るつもりでなければ、たいていはそちらの道を選ぶはずである。|東方牢《リーフィシー》城も|西方牢《ルーギル》城も、まずは一旦南に出てそれから左右に曲がる。
「ありがとう。助かったよ」
アカシュは、少年に銅貨を握らせた。その直後、池の周辺から歓声がわき上がった。
「あーあ、見つかっちまったか」
持ち主の初老の紳士が、時計を見つけた子供にお礼のお金を支払うのを見ながら、残念そうに舌打ちをする少年。しかし彼は、ただいくつか言葉を交わしただけで、それと同じだけの金を得たのである。
「時計は見つかったんだろう? それでも急ぐのか、少年」
金を手にするとすぐに駆け出す少年に、アカシュは声をかけた。
「そうさ」
少年は振り返って笑った。
「池の中の落とし物は、時計だけじゃないんだ」
「にしては、依頼人の姿が見えないようだが」
「見つかったら、届けることになっているんだ。偉い人は、のこのこ出てきやしないのさ。じゃな」
「……誰が何を落としたのかね」
少年の口ぶりから、相当な礼金が約束されているようだ。世の中は、失せ物を探す人で満ちている。
「これからどうなさいますか」
ログが尋ねた。
「彼女がすでにここにいない。となると、次に当たる場所は――」
考えただけでもうんざりした。アカシュは、あの一家があまり得意ではない。
「|東方牢《リーフィシー》城にお戻りになりますか」
「いや」
アカシュは首を横に振って、|御者《ぎょしゃ》に行き先を告げる。
「ラウンディス家へ」
気が重いが、行かないわけにはいかないだろう。
そこが、|王妃《おうひ》の実家である以上は。
2
「こらこら、勝手に中に入っちゃいかんよ」
門をくぐって城内に入ろうとすると、|門衛《もんえい》に止められた。
「どうして?」
彼女は、頭に浮かんだ|素朴《そぼく》な疑問を口にした。
「当たり前だろう。ここは、|検断《ポロトー》なんだ。中には囚人たちだっている。出入り自由のわけないだろう」
「あら、そういうものなの?」
宮殿の城門を出る時はほぼノーチェックだったから、たかだか牢城に入るのにストップがかかるなんて思っていなかった。
「ラフト・リーフィシーに会いにきたのだけれど」
彼女は言った。すると門衛は、「ああ、|検断《ポロトー》にね」と頼みもしないのに言い直して、門の脇にある記帳台を指し示した。
「だったら、まずその用紙に記入して。それとも、分所で作成した書類でも持ってきているのかな」
細身の|身体《からだ》が若く見えたのか、それとも女と思って|侮《あなど》っているのか、まるで子供に話しかけるみたいな口調である。
「聞こえなかったの? 私は、ラフト・リーフィシーに会いにきた、と言ったの。|検断《ポロトー》に用があるのではないのよ」
多少きつめに言うと、門衛は態度をがらりと改めた。
「長官に……? 失礼ですが、あなたは?」
名乗ってもいいが、名乗ったところでこの男にはわかるまい。それより、突然現れて、ラフト・リーフィシーを驚かせてやりたい。
だから、彼女はほほえんで言った。
「|馴染《なじ》みの女が来た、って伝えてちょうだい。それでわかるわ」
3
その日の彼女は目覚めは、すこぶるよかった。
それは、前日の、昼過ぎから夕方近くまで馬車を走らせたことによる|心地《ここち》いい疲労が、深い眠りをプレゼントしてくれたからに他ならなかった。
カーテンの合わせ目から、窓の外の景色を見る。|田園《でんえん》風景の中に、ぽっかりと浮かび上がるようにできたオモチャのような小さな街並み。エーディックから約半日の距離のここは、都から一番近い|宿《しゅく》…|場町《ばまち》だった。
うーん、と一つ伸びをしたところで、ドアが軽くノックされた。
「お客さま、お目覚めですか? 朝食をお持ちいたしました」
ペンダントヘッドの時計を見る。時間通りである。
「ちょっと待って」
メルルは、ガウンをひっかけてベッドから下りた。指定した時間に朝食を運んでもらうよう、|就寝前《しゅうしん》に|女将《おかみ》に頼んでおいたのだ。
|鍵《かぎ》を開けると、そこに立っていたのは、女将ではなく、熊のような大女であった。
「おはようございます」
「……おはよう」
メルルは彼女の手にした盆の上の朝食を確認してから、中に招き入れた。
「女将はどうしたの?」
「|今朝《けさ》、ちょっと具合が悪くて、代わりに私が」
「そう」
ベーコンと玉子と|茄《ゆ》でた野菜、そしてフルーツとお茶のセット。フルーツ以外はすべて湯気がたっている。食べる時間から逆算して作られたのがわかった。
「気をつけてこのテーブルに置いてね。こぼさないように」
「はい」
うなずいてお盆をテーブルの上にのせると、大女は「|隙《すき》あり」と言って素早く振り返りメルルに突進してきた。しかし、ベッドに押し倒される寸前にメルルはそれをかわし、盆の上の|果物《くだもの》ナイフを|掴《つか》むと、大女の|喉《のど》もとに突きつけた。
「馬鹿ね。隙は作ってあげたのよ」
「うっ」
「動かないで。変な|真似《まね》したらグサリといくわよ。いい? あなたが死んでも、私は無罪よ。だってこれは正当防衛なんですから」
宿の人間になりすまして、女性客の部屋に侵入し、襲いかかってきたのだ。どうしたって、言い逃れは出来ない。その上、女物のドレスを来て|化粧《けしょう》までしていては、「変質者」のレッテルをも避けられないと思われる。
「……いつわかったんです」
その女、――いや、二十人いる求婚者の一人は、|口惜《くちお》しそうに言った。途中幾度となく立ちふさがった障害をクリアしここまで追いかけてきたのは立派だが、他の仲間の目を盗み抜け駆けしようとしたのは感心しない。
「そうね。まずは最初の一言かしら」
「最初の一言?」
「ここは、小さい頃から利用しているの。だから、私のことをお客さまと呼ぶ人間なんていないのよ」
どいつもこいつもリサーチ不足。正しくは「お|嬢《じょう》さま」だ。
「しかし。新しい従業員なら……」
お客さまと呼ぶかもしれない。彼の主張は、一般論としては間違っていない。けれど。
「新しい人が入ったら、まず昨日の時点で|女将《おかみ》は私に紹介したはずよ。一般客も泊めるけれど、この宿は我が家の所有物なの。そんなことも知らないの」
|果物《くだもの》ナイフで、チョイチョイと|頬《ほお》を|撫《な》でる。
「べ、勉強不足で」
「極めつけは、このひげのそり残し。私を油断させるために女の格好をしたんでしょうけれど、体格的にも無理があるのよ。真夜中ならまだしも、朝日の中じゃどうしたって目立つわよ。もう少し考えなさいね」
言いながらメルルは、|裸足《はだし》のまま軽く床を踏んで、タンタンと音を立てた。すると。
「お嬢さま、済みましたでしょうか?」
|荒縄《あらなわ》でぐるぐる巻きにされた格好で、宿屋の女将と主人がメルルの部屋に入ってきた。
「ええ」
メルルがうなずくと、夫妻はスルスルスルと簡単に縄抜けをした。そして「命知らずめが」と今まで自分たちを|縛《いまし》めていた縄で、哀れな大女を手早く|縛《しば》り上げた。
「この者はいかがいたしましょう」
「失格の印を付けて、昨夜のお馬鹿さんたちの仲間に加えてあげてちょうだい」
「かしこまりました。では、半日ほど地下倉庫で頭を冷やしてもらいましょう」
「それがいいわ。私は、心静かに朝食をいただくことにしたいから」
メルルはテーブルの上のお盆をのぞき込むと、うーんおいしそう、と深呼吸した。
「レディ。もう一度だけ、私にチャンスを!」
女将夫妻に引きずられていく熊女の声が小さくなるのを聞きながら、ナイフでオレンジを半分に切った。
何をいっているのかしらね、とつぶやきながら。
客人の見張り番
1
|東方検断《トイ・ポロトー》長官執務室にキトリイが飛び込んできた時、エイは|二間《ふたま》続きの奥の部屋の、物入れの中に頭を突っ込んで捜し物に|没頭《ぼっとう》していた。
あの日の服装のことなど考えずに、掛かっているすべての上着を点検し、着替えの時に落ちたかもしれないと床の上を|這《は》いつくばるように探してみた。が、なかった。
ロアデルに|洗濯《せんたく》や|繕《つくろ》い物を頼んだのは、|花の祭り《フラーマティブル》の三日、いや四日前だったか。それ以降はここの服を部屋の外に出していないから、エイの推理が正しければ、|駒《こま》はこの部屋の中にあるはずなのだ。
(それとも)
今日長官が着ていった服。あのポケットにでも入っているのだろうか。いや、しかし一昨日着ていたのは、あの上着ではなかった気がする。
「副長官」
二間を分ける仕切りの扉の前で、キトリイが|急《せ》かすようにノックをするので、エイは作業を中断して前室へと出てきた。|畳《たた》んであったブラウスや|靴下《くつした》の間に手を入れて探っていたところだったが、急ぎの用だから仕方ない。
「どうした」
「門前に変な女が」
「変な女?」
エイは、|袖《そで》についた|埃《ほこり》を払いながら|眉《まゆ》をひそめた。
「長官に会わせろ、と言っているそうです」
「話を聞いて、専門部署に回せ。長官の側に仕える君ならば、わかっているはずだと思うがね。我が|東方検断《トイ・ポロトー》の長官は、|滅多《めった》なことでは表へは出ない。一般市民とも会わない。細かい話は下で解決しろ、と言ってやれ。一々、上まで話を持ってくるな。ただでさえ、それどころではないのだ」
捜査の依頼人、|検断《ポロトー》への苦情を言いに来た人、|獄舎《ごくしゃ》に収容されている容疑者や囚人への差し入れや減刑を望む|嘆願書《たんがんしょ》を持参してきた者、「東の化け物」の顔を拝みに来た怖い者知らず、等々。ラフト・リーフィシーへの面会希望者は、ひっきりなしにやってくる。
「しかし」
部下キトリイは上司の命令を、なかなか行使する様子がない。
「長官に個入的なご用件だということなんですが」
「個人的? どんな用だ?」
東の化け物に、個人的に会いたがる女。何だか嫌な予感がした。
「ですから、それは本人に直接会って話すと」
ますますもって、気になる。まさか、その女性というのは。
「もしや金髪の巻き毛……」
「黒いストレートヘアだそうです」
「そうか。そうだろうな」
予感が外れて、エイはほっと一息ついた。考えてみれば、長官の姉上ならば、そんな回りくどい方法で帰ってくるはずはない。身分証明のついた通行証を提示すれば、|新参者《しんざんもの》の|門衛《もんえい》であっても彼女をすみやかに通すだろう。
「|馴染《なじ》みの女、らしいですよ。長官の」
「それは|解《げ》せない」
「――ですよね」
エイのつぶやきに、キトリイも同意する。
馴染みの女という名乗り方は、夜の街の女たちが得意客に対してよくつかう言葉だ。だが、現|東方検断《トイ・ポロトー》長官に限っては、夜の街を遊び回っている|暇《ひま》など|一切《いっさい》ない。なぜなら、彼は五年という間、夜は|獄舎《ごくしゃ》の|格子《こうし》の中から一歩も外に出ずに、聖職者なみの禁欲生活を送っているのだから。
「それとも。五年以上前の話なのか」
いや。そんなに時間が経っていたら「馴染み」も何もないだろう。第一、当時十三歳前後の不良少年だった彼と、今のラフト・リーフィシーを結びつけて考えられるような女がいるとは思えない。
「いかがいたしましょう」
「わかった。私が会ってみよう」
どのみち、長官は王宮に出向いていて戻っていないのだ。
「副長官自ら、ですか」
ただ指示を出してもらえればいいと思っていたのだろう、キトリイはエイが上着を着込むのを見て驚いていた。
「女が、でたらめを言っているのかもしれません」
「冷やかしならば、それでいい」
ただ、またラフト・リーフィシーの|偽者《にせもの》が|巷《ちまた》で悪さをしているとしたら――。そんな考えが、エイの|脳裏《のうり》をかすめたのもまた事実である。
ラフト・リーフィシーに会いたい。そう言ってやって来る女には、気をつけなければならない。
以前、その一念でこの|牢城《ろうじょう》にやって来た女性がいた。
彼女がラフト・リーフィシーであると信じていた恋人は、実は|検断《ポロトー》とは縁もゆかりもない|偽者《にせもの》で、借金の形に彼女を|娼館《しょうかん》に売ろうとしていたとも知らずに。
そうだ、あの時のロアデルも、|色街《いろまち》から逃げてきたので夜の|蝶《ちょう》のような格好をしていた。そして、今回は自らを
「|馴染《なじ》みの女」と言う女――。
「キトリイ、君は残って|留守番《るすばん》を。早ければ、長官が戻ってくるかもしれん」
言い置いて、急ぎ執務室を出た。
長官と途中でどこかで会うことも考えられるが、広い城内のこと、行き違いにならないとも限らない。また、その女の|素性如何《すじょういかん》によっては、両者を会わせない方がいいわけだから、仮にこちらが先に、帰ってきた長官を見つけたとしても、わざわざカーテンで目隠ししている馬車を止めることはないのだ。
「まったく」
長官執務室を出て、|廊下《ろうか》を小走りになりながら、エイはぼやいた。
「チョギーの姫君は見つからないというのに、予定外の女がご登場とは」
長官の|女難《じょなん》は、すなわち部下であるエイにとっての女難なのかもしれなかった。
2
その人は、門前に駆けつけたエイを見ると、にっこりほほえんで言った。
「まあ、いつからあなたがラフト・リーフィシーになったの? エイ・ロクセンス」
「おっ……!」
普段、あまり顔を|崩《くず》さないエイである。が、今回ばかりは自分でも|顎《あご》が外れるのではないかと思うほど口を全開し、しばらくは閉じることさえ忘れてしまった。
それは、エイが庁舎からここまで来る間に思いつく限り当てはめてみた人物像を、はるかに超えた来訪者であった。
変装のつもりだろうか、いつもとまったく違う様子であるのに、一目でエイに正体がばれてしまうほど圧倒的な存在感がある彼女は、ある意味|東方牢《リーフィシー》城にとって、最強にして最悪な客人といっていい。
ああ、この人が来てしまったのなら、もはやこれ以上の女難などはないであろう。――エイは心の中で、予言者である囚人シャンマに|軍配《ぐんばい》を上げた。
「お、だけ? 久々に会った私に、それしか言うことがないの? エイ」
「いえ、失礼いたしました」
エイは小さく首を振ってから、その場で|膝《ひざ》をついた。「お」のまま止めたのは、その先に続くはずだった言葉を飲み込んだためである。|門衛《もんえい》もいる、一歩外に出れば往来であるこんな所で、彼女の|素性《すじょう》を軽々しく公表するわけにはいかなかった。
「お久しぶりでございます」
エイは彼女の手を取って、うやうやしく口づけた。
|検断《ポロトー》ナンバーツーが、|色街《いろまち》勤めと|思《おぼ》しき女(それも|検断《ポロトー》トップが|懇意《こんい》にしているという)に対して、高貴な姫君に対するような|挨拶《あいさつ》をしている。予想通り、門衛たちはギョッとしていたが、構うことはない。今はこの|厄介《やっかい》な貴婦人の気分を|損《そこ》ねることこそ、恐れなければいけないことだ。
「しかし、本日は突然のご来訪。いったい何事ですか」
「この城の人間は、全体的にあまり賢くないようだわね。私は何度も言ったはずよ」
言いながら彼女は、|挨拶《あいさつ》を終えて立ち上がったエイの|顎《あご》のラインを人差し指でなぞった。
「ラフト・リーフィシーに会いにきた、って」
「……」
こんなことで、怒ってはいけない。挑発的な態度に一々反応していたら、それこそ相手の思うつぼ。ここはいかに冷静に、そしてスムーズに、人目につかない場所まで彼女を連れていくことができるかどうかが勝負の分かれ目である。
「レディ、あいにく我が城の主は、ただ今王宮に|参内《さんだい》していて|留守《るす》をしております」
だから、ラフト・リーフィシーに会いたければ、王宮に行けばいい。――が、それを言ったところで、この状況がいい方に転がるとは思えない。王宮で会うのは面白くないから、彼女は今ここにいるのであろう。
言いたい言葉を飲み込んで、エイは「ですから」と精一杯の微笑を浮かべた。
「よろしければ、|役宅《やくたく》にてお待ちいただけませんでしょうか」
「いいわ」
エイの差し出した腕に、彼女は自分の手を|絡《から》めた。
「もちろん、あなたが案内してくれるのでしょうね」
――と。
3
迎える側のラウンディス家の当主、ハチェット氏もまた、訪問者であるアカシュ同様にうんざりとした顔をしていた。
「何のご用か知りませんが、もし妹が起こした事に関してでしたら、我が家に言われるのはお|門違《かどちが》いです」
|挨拶《あいさつ》の言葉もそこそこ、こちらが用件を切り出す前にまず|釘《くぎ》を刺してくるとは。彼の態度は、久々訪ねてきた客人を迎えるに決してふさわしいものではない。が、用件さえ済めば早々と退散したいと願うアカシュにとっては、むしろ好都合であった。
別に|犬猿《けんえん》の仲というわけではないのだが、ゼルフィ家とラウンディス家はすこぶる相性が悪い。|縁起《えんぎ》が悪い、と言い換えてもいい。近年両家が顔を合わせる時というのは、決まって災難に巻き込まれた時であるからだ。
「そうですか。それでは、まだこちらには顔を出されていないのですね?」
「顔を出す……? では、あれの居所がわからないということですか」
「はあ」
思ったより驚いていないのは、妹の性格を熟知していて「やりかねない」と思っているからだろうか。しかしさすがに血を分けた兄とはいえ、国王に|手枷《てかせ》をかけて、|娼婦《しょうふ》を自分の身代わりに置いてきたことまでは想像できないだろう。アカシュは両家と王家の平和のために、|子細《しさい》については、聞かれるまでは話さないことに決めた。
そこに。
「アカシュなの?」
|甲高《かんだか》い声をあげて、先代の未亡人シリカが駆け寄ってきた。
「まあまあ、嫌だわ。この子ったら、ちょっと見ないうちにこんなに大きくなっちゃって。私が年をとるわけよね」
軽く六十を越えているはずだが、相も変わらず色気のあるご婦人である。白くて豊満な肉体が、神話の女神のように|艶《なま》めかしい。
「ご|無沙汰《ぶさた》いたしております。今は、ラフト・リーフィシーを名乗っております」
今にも抱きついてキスされそうだったので、アカシュは一歩下がって頭を下げた。子供ではないのだ、という精一杯のアピールである。
「ああ、そうだったわね。でも、ラフト・リーフィシーといえば、私はやはり先代の、あなたのお父さまを思い浮かべてしまうものだから。|東方検断《トイ・ポロトー》を継いで何年? 三年、……四年になるかしら?
若いのに、ちゃんと仕事をこなしているそうじゃない。すばらしいわ」
キスは|免《まぬが》れたが、腕や背中を|撫《な》でられた。これだから、この家は苦手なのだ。当主は愛想なし。その母は|過剰《かじょう》なスキンシップ。
「そうだわ、私の部屋でお茶を飲んでいらっしゃいな。もうすぐ、おいしい|苺《いちご》のパイが焼き上がるのよ」
「せっかくですが、急いでおります。今度、ゆっくりごちそうになりに来ます」
「『今度』は、苺のパイがありませんよ」
苦しい社交辞令でやり過ごそうとしたが、なかなか許してくれそうにない。
「それに。今度今度って、いったいいつになるのかしら。本当につき合いが悪いんだから。あなた、陰で何て言われているかご存じ?」
「東の化け物は人目にさらせない容姿だから、社交の場に出てこない、ですか?」
「そうよ。わかっているんじゃない。実物は、こんなに美しい少年なのに。ねえ。社交界に出ないと、いいお|嫁《よめ》さんだって見つけられませんよ」
「|畏《おそ》れ入ります。しかし、私のことはお構いくださいますな」
「いけませんよ。あなたにはお母さまがいらっしゃらないのですから。私のように、少々お節介な|小母《おば》さんでも面倒みてあげないとね」
「もう、大人です。母親が恋しい|歳《とし》ではありませんから」
「まあそう。大人だったのね、ごめんなさい。だったら、次は夜遊びにいらっしゃい。お酒は飲める?」
ああいえばこう返ってくる。そしてベタベタ、|撫《な》で撫で。
「あの、ですね」
|勘弁《かんべん》して欲しい。世の母親とは、皆こういうものなのであろうか。
「母上。ラフト・リーフィシーどのはお忙しいのです。お引き留めしてはご迷惑ですよ」
たまりかねたハチェットが、間に割って人ってくれた。彼にとっては実の母親。母が若い男にベタベタするのは、あまりいい気はしないであろう。
「あら」
「あまりしつこくすると、もう二度と遊びに来てくれなくなります。母上の|飼《か》っていた白い猫みたいにね」
「私の猫ちゃんみたいに……?」
想像するに、この家の飼い猫は、未亡人の|過剰《かじょう》な愛情に嫌気がさして、家出をしたらしい。思わず、猫の方に感情移入してしまうアカシュである。
「本当? アカシュ」
「さあ、どうでしょう」
アカシュは、笑いながら言葉を|濁《にご》した。しつこくされてもされなくても、今後この屋敷に積極的に遊びに来ることはないと思う。
「いいわ。キスしてくれたら退散する」
シリカが|悪戯《いたずら》っぽい目をして|頬《ほお》を指さすので、仕方なくアカシュはそこに軽くキスをしてやった。
「ふふっ。またね、アカシュ」
彼女は満足し、スキップで屋敷の奥へと消えていった。
「申し訳ない」
あんな母で、と頭を下げる当主は、アカシュよりも二十も年上の紳士であった。
「もし妹が来たら、|東方牢《リーフィシー》城に行くように言えばいいのですか」
「いえ。取りあえずは、こちらにお引き留めしておいてください。その上で、お手数ですが王宮と|東方牢《リーフィシー》城に知らせを」
「王宮だって? 何でまた……」
「大事になりますと、いろいろ|厄介《やっかい》なことになりますので、|双方《そうほう》で|諸々《もろもろ》相談の上迎えの馬車の手配などを。できましたら、何事もなかったかのように王宮にお戻ししたいので」
「それは無理だろう」
「無理、とは?」
「そんなことをしたら、あの子は暴れるに決まっている。あの子は王宮になんか帰りたくはないんだから」
「そうなんですか? 初耳です」
多少変わったところはあるが、仲むつまじいご夫婦だと思っていた。
「ばかな。君が一番承知しているはずでしょう。それとも、それは新種の冗談ですか。だとしたら、私は頭があまり柔らかくないので、申し訳ないが|率直《そっちょく》に言っていただけないとわかりません」
「は?」
「えっ?」
二人は顔を見合わせた。さっきから、どうも双方の話が食い違っているようなのである。
そう。
話題にしている対象が、微妙にずれているようないないような。だが、アカシュは訪ねる家を間違えたりしていない。|王妃《おうひ》は、|正真正銘《しょうしんしょうめい》この家の娘であって。この家の娘といったら――。
「あっ」
アカシュが誤解に気づいたその時、ハチェットもまた同時にそのことを理解したようであった。
「アカシュ君……」
目の前の紳士の顔が、みるみる青ざめていく。
「|行方《ゆくえ》不明なのは……、まさか、まさかリザなのか!?」
その通り。
行方不明なのは、リザの方。
アカシュは静かにうなずいて、肯定した。
「そ、それは一大事じゃないかっ!」
すっかり人違いしていたハチェットは、今更ながら|慌《あわ》てふためくのであった。
4
エイが客人を連れて|役宅《やくたく》に現れたのを見た時の、シイラの表情といったら。
「あら、まあ。まだここでこき使われているの、シイラ。もういい|歳《とし》なのに、お気の毒なことね」
「お……っ!」
シイラのその反応はあらかた予想していたものの、あらためて|目《ま》の当たりにすると、気の毒としか言いようがないほどの驚きっぷりであった。脇でその様子を眺めながら、たぶん十分ほど前には自分も同じような顔をしていたのであろうと|分析《ぶんせき》するにつけ、どんよりと落ち込むエイである。
「お?」
|深紅《しんく》の|薔薇《ばら》色の唇が、かすかに上がる。
「いえ、リ――」
言いかけてシイラは、その先の育葉を飲み込んだ。客人の常ならぬ姿を見て、瞬時に判断したのだ。
たぶんこれは変装であって、そうなるとこの来訪はお忍びということになるのだろう、と。その証拠に、お供の者の姿が一人も見あたらない。ならば、うかつに実名で呼んで、その身分に見合った扱いをすることが正しいことなのか|否《いな》なのか。
「このご婦人は、ラフト・リーフィシーさまにお目に掛かりたい、とおっしゃって」
困惑するシイラに、エイが手短に説明した。
「は、|旦那《だんな》さまに」
しかし、シイラのこんがらがった思考は、ますます混乱していくようである。それは、まあ致し方ない。
旦那さまは、この|役宅《やくたく》の主でありながら、ほとんどここで過ごすことはない訳ありのお人。旦那さまに会いたければ、日中は庁舎、夜は|獄舎《ごくしゃ》に行くのが適当であろう。
「あいにく、本日は王宮に|参内《さんだい》する日でしてね。戻るまで、役宅でお待ちいただこう、と。|検断《ポロトー》庁舎は男ばかりでむさ苦しい場所ですし、ここならば気心の知れたシイラもいるので」
「……ああ、そういうことでございますか。かしこまりました。どうぞ、奥までお進みください。応接間はこちらでございます」
多少顔を|強《こわ》ばらせながら、シイラは先に立って歩き始めた。
主人の不在がちな役宅であれば、応接間もまた、普段はほとんど使用されていない部屋の一つに数えられる。それでも使用人たちの努力の成果であろう、ソファにしわ一つなく、床に|埃《ほこり》も落ちておらず、窓は程よく開られていて風通しもいい。つまりそこに通された客人が気持ちよく過ごせるような、そんな部屋となっていた。
「ただ今、お茶を」
客人にソファを勧めると、シイラは一礼して部屋を出ていった。それを、エイは「手伝います」と後から追う。
「お構いなくねー」
客人ののんびりした声を背中に聞きながら、二人がもつれるように|厨房《ちゅうぼう》に入れば、さっそく作戦会議の開始である。
「すみません、シイラ。こんな|厄介《やっかい》なことを持ち込んでしまって」
「いいえ。エイさまの判断は間違っていませんよ。この場合、やはり役宅にお通しするのが正解でしょう」
言いながらシイラは、ヤカンに水を入れて火にかけた。そして、心の|動揺《どうよう》を|紛《まぎ》らわすかのように、厨房の通路を行ったり来たり、食器|戸棚《とだな》や食料庫の扉を開けたり閉めたりして、目を血走らせながらお茶の|支度《したく》をするのだった。手伝うと言って出てきたものの、役宅厨房にある茶葉の|吟味《ぎんみ》や茶器の点検などはシイラの領分であるから、エイはただ黙って見ているしかなかった。
ある程度準備ができ、あとはお湯が適温になるのを待つだけという段になって、やっとシイラは口を開いた。
「なぜ、突然|王妃《おうひ》さまが。|旦那《だんな》さまにどのような用件で」
「わかりません」
「どうしましょう。ああ、どうしましょう」
不意打ちでやって来たのが、一国の王妃。パニックを起こすのは当然だ。
「落ち着いて、シイラ。あなたは、あの方をここに留め置いてください。その間に、私は王宮に行ってこのことを国王にお知らせします。たぶんあのご様子では、王宮を黙って抜け出してきたに違いないから」
お供の一人も連れず、おまけに変装のような|真似《まね》までしている。
「ええ、そうですとも。早く迎えにきていただかなくては。旦那さまが帰っていらっしゃいます」
「帰ってくる……。そうでした」
エイは上着のポケットから懐中時計を出して、時間を確認した。――昼前。早ければ、帰ってきてもおかしくないか。
しかし、国王はラフト・リーフィシーをことのほかお気に入りで、他の|謁見者《えっけんしゃ》に比べて引き留める傾向にある。うっかり捕まって、帰りが夕方になってしまったことだって、過去には何度もあったから、帰宅の予定時間なんてあってないようなものなのだ。
それに、国王が王妃の不在に気づいているかいないかによって、本日の謁見時間は大きく左右されるであろう。
「いつも通る道を行きますから、王宮か途中のどこかで長官とは会えるでしょう」
「では、旦那さまにお帰りにならないよう、言ってくださいまし」
「いや、それは無理です」
|懲役囚《ちょうえきしゅう》アカシュ・ゼルフィが夕方の|点呼《てんこ》に遅れれば、|大事《おおごと》になる。客人はアカシュでなくラフト・リーフィシーに用があるのだが、二重生活は一方に無理がかかるともう片方にまでしわ寄せがくるもの。
「でも」
「長官には|速《すみ》やかにお帰りいただき、客人がお引き取りになるまでは|獄舎《ごくしゃ》で待機していただくしかないでしょう」
庁舎の執務室では片手落ちだ。毎度のトラウト・ルーギル氏のように押しかけられでもした日には、彼を隠し通せる自信がない。
「そうね。それがいいかもしれないわ。獄舎ならば、規則を|盾《たて》に拒絶することができるもの。エイさま、では旦那さまのことよろしくお願いします」
「はい。では」
さっそく、とエイが回れ右したその時。
「あっ……」
二人の頭の中には、同時に同じ人の顔が浮かんだ。
「メルル!」
彼女のことをすっかり忘れていた。
「どうしましょう。お|嬢《じょう》さまがお帰りになると、|旦那《だんな》さま以上に|厄介《やっかい》なことに――」
そうなのだ。この家の一人娘が、近日中に帰ってくるという手紙が最近届いたばかりなのである。段取りを決めて、さて実行という時に、作戦会議のやり直しだ。
「よもや、今日帰っていらっしゃるというようなことはないでしょうけれど……」
「ええ。でも万一のことを考えて、知らせを出した方がいいでしょうね」
帰ってくるのが明日明後日であっても、その時まで客人が居座り続けたらそれでアウトだ。
「もう、領地を出られたでしょうか」
シュンシュンとヤカンの口から、勢いよく湯気が立っている。シイラは小さく舌打ちをして、ヤカンを火から下ろした。どうやら、沸かしすぎてしまったらしい。
「|花の祭り《フラーマティブル》が済んでから、という話でしたので、早ければ今日あたりあちらを|出立《しゅったつ》されるのでは」
「では、速達で手紙を出しても間に合いませんね。こちらから出迎えて、王都の手前の|宿場町《しゅくばまち》あたりに足止めするしかないでしょう」
「でも、迎えといっても。誰が」
この仕事は、その辺にいる部下を捕まえて命じればいい、という|類《たぐい》のものではなかった。事情|通《つう》で、口が堅く、その上城主の姉と顔見知りでなければ役目を果たすことができない。欲をいえば、|早馬《はやうま》を飛ばせられる馬の乗り手がいい。
自分が行ければ一番いいのだが、とエイは思った。しかし、エイが領地に向かってしまったら、今度は王宮に知らせに行く者がいなくなる。
長官を迎えにいって|獄舎《ごくしゃ》に届けるだけなら、キトリイでも事足りる。だが事の次第を直接国王に伝えられるのは、お目見えが許されている者にしかできない。つまり、今現在|東方牢《リーフィシー》城にいる人間ではその資格があるのはエイのみであった。
「やはり、直に|陛下《へいか》に申し上げないとまずいでしょうし」
事が事だけに、報告する相手は見極めなくてはいけない。宮殿にいる者を誰彼構わず捕まえてしゃべっては、とんでもないことになってしまうだろう。
宮殿から帰ってから領地に向かって、それでも間に合うだろうか。エイが思案していると、シイラが言った。
「領地には私が行きましょう」
「あなたが? それは助かりますが――。しかし、そうすると客人のお相手は」
「ああ、そうでした。あの方を一人でここに残していくことなど、恐ろしくてとてもできません」
「それは同感です」
|身体《からだ》が二つあったらどんなにいいか、と考えるのはこんな時だ。普通の生活をしている者でさえふとそう思うことがあるのだから、|検断《ポロトー》長官と|懲役囚《ちょうえきしゅう》という二つの顔を持つあの人は、何度欲しいと思ったであろう。
「シイラっ!」
その時、|厨房《ちゅうぼう》に飛び込んできた者がいる。|役宅《やくたく》で働くロアデルだ。
「どうした?」
尋ねたエイの顔を見て、ロアデルは表情を少しだけゆるめて言った。
「あの、姉君さまがお帰りのようなんですけれど――」
ロアデルが言い終わらないうちに、エイとシイラは「しまった」と厨房を飛び出した。
5
馬車の中で、アカシュは途方に暮れていた。
ラウンディス家にも、|王妃《おうひ》はいなかった。
それどころか、立ち寄った形跡さえない。
「さて、どうするか」
当てにしていた王妃の実家がはずれならば、もはや探す場所など思いつかなかった。
そもそも、王妃のことなどそんなに詳しく知らないのだ。失礼ながら、あまり興味もない。
「長官。いかがいたしましょう」
ログの言葉に、「そうだな」とだけ返事をする。
どこに行ったらいいのか、わからない。わからないが、ずっとラウンディス家の門前に馬車を止めたまま思案しているのは、どう考えても時間の|無駄《むだ》だ。
「取りあえず、帰ろう」
王妃を見ませんでしたかと、王都中聞き込みして回るわけにもいかない。ここは|東方検断《トイ・ポロトー》の頭脳、エイ・ロクセンスの知恵を借りるのが賢明であろう。
「しかし、まったく」
アカシュは、小さくつぶやいた。
このところ、自分たちは捜し物ばかりしているのではないだろうか、と。
6
エイとシイラが厨房から駆けつけた時には、玄関には誰もいなかった。
「あの」
後から二人を追うような形でたどり着いたロアデルは、ためらいがちに言った。
「私は、姉君さまをこちらでお出迎えしたわけではないんです……けれど」
「え?」
ロアデルの「お帰りに」の言葉に反応して、思わず玄関に直行してしまった二人だったが、そういうことならこの場に誰もいないのも道理にかなう。
「では、なぜあなたは、姉君さまがお帰りになったと思ったんです?」
エイが強く尋ねると、ロアデルは自信なさげにつぶやいた。
「私、何か間違えたのでしょうか」
彼女が言うことには。
先程、昨日借りていたドレスを返しに姉君さまの部屋に行ったところ、ドアが開いていて部屋の中に見慣れない人影があった。それで、あわてて引き返し、シイラを捜すために一階に下りたという。近日中に姉上さまがお帰りになると耳にしていたのだが、あいにく顔を知らなかったから、失礼があっては悪いと、とっさに判断したという。
「黒髪の真っ直ぐな長い髪でしたので、てっきり姉君さまかと」
「ああ、なるほど」
確認するために応接室に行ってみると、|案《あん》の|定《じょう》、そこにいたはずの人の姿は消えていた。
「そういうことか」
「そういうことみたいですね」
エイとシイラは、顔を見合わせホッと息を吐いた。とにかく、まだ最悪の事態にはなっていなかった。
が、この状態だって決していいものではないのだ。
「とにかく、お|嬢《じょう》さまの部屋に行ってみないことには」
「そうですね」
シイラの言葉に、エイは大きくうなずいた。
本当のところロアデルが目撃したのが誰なのか見当はついているけれど、この目で確かめてみないことには。
憶測で物を言う前に、まずは裏をとれ。――|検断《ポロトー》の仕事と同じである。
「すみません。私、まったく状況がわかっていないんですけれど」
階段を上っていくエイとシイラの後をついて来ながら、ロアデルが不安げにつぶやいた。
「一言で説明するのは難しいのですが」
エイは言った。しかし、後が続かない。
ロアデルに、どこまで話したらいいのだろうか。|東方牢《リーフィシー》城の主人の秘密を知っている彼女であれば、たぶんすべて打ち明けても支障はないのだろう。だが。
「姉上さまの部屋にいらっしゃるご婦人が誰であるか、今私の口からは言えません。ただ、その方は、長官に会いにいらしたのです」
王家が|絡《から》んできては、さすがのエイも口が重くなる。これが|東方牢《リーフィシー》城内のことであれば、ある程度自分の裁量で物事を即決できるのだが。
「|旦那《だんな》さまに、会いにいらした」
ロアデルは、不思議そうに聞き返した。
お客さまならば、普通応接室に通すもの。それなのになぜ、この家の娘の部屋にいるのか。――それは、エイにだって理解しがたいことである。
「詳しくは申せませんが、その方は、長官にとって……いえ、ゼルフィ家にとっても大切な方です。くれぐれも|粗相《そそう》のないよう」
「は、はい」
ますます困惑した表情になるロアデル。しかし、今はその程度の説明をするのがやっとである。この家の複雑な人間関係と、それを取り巻く|突拍子《とっぴょうし》もない性格の持ち主たち、それを正しく|把握《はあく》し理解するためには、一分や二分ではとても足りない。それより、まず優先されるべきことは、動物園の|檻《おり》から逃げ出した|雌《めす》ライオンをおとなしくさせること。
「レディ」
声をかけながら、エイは真っ先に部屋に入っていった。何だか、事件の|渦中《かちゅう》に突入する時の気分に似ている。
油断してはいけない。敵を|侮《あなど》ってもいけない。あくまでこちらが主導権をもって事に当たる。ゆめゆめ、あちらのペースに巻き込まれないように。
――が。十分すぎるほど引き締めたはずのエイの気は、部屋を一歩入ったところでもろくもくじけてしまった。なぜなら迎え撃つ敵、|否《いな》、客人は、|東方検断《トイ・ポロトー》副長官といえども予見不能な姿でそこに存在していたからである。
「し、失礼」
一目見るなり、エイはあわてて背中を向けた。
「本当に、失礼だこと」
本当に失礼なのは、他人の家のプライベートスペースに勝手に入り込んで、そこでドレスを脱いでいる人間である。しかも、ドアを全開にしたまま。
しかし、いかなる理由があろうとも、女性の下着姿を見てしまった男の立場は弱い。いくら「女性のよう」と形容されようとも、エイは|正真正銘《しょうしんしょうめい》の男である。紳士としては、何を置いてもまず謝らなければならない。
これが|娼館《しょうかん》のがさ入れとか、容疑者の女の家に踏み込むとか、そういう場合ならば話は別なのだ。仕事と割り切れれば、たとえ女が|全裸《ぜんら》で男と寝ていようと、動じることなく任務を|遂行《すいこう》することができた。
「どういうおつもりですか」
背中を向けたまま、エイは質問した。
「応接室でお待ち|頂《いただ》いているものと思っておりましたが」
すると後ろから|半裸《はんら》の女性が近づいてきて、耳もとで|囁《ささや》く。
「汗をかいたし、|埃《ほこり》っぽかったから着替えをしようと思って」
「それでは、|速《すみ》やかにその作業を完了してください」
|戯《たわむ》れに男の髪をいじっている|暇《ひま》で、という言葉を、エイはどうにかこうにか飲み込んだ。これが一国の|王妃《おうひ》か、と思うと情けなくなる。
「そうねえ」
王妃リザは、トロリとした口調でつぶやいた。
「でも、どれにしようか迷ってしまって。このクローゼットの中にあるのは、みんなセンスのない時代遅れのドレスばかりで、私に似合わないんですもの。そうだわ。今流行のデザイナーの店でドレスを仕立てさせてて、総入れ替えするっていうの、どう? いいアイディアだと思わない?」
「思いません」
強い香水のかおりが鼻をくすぐる。エイは正直苦手だったが、この|匂《にお》いがこの女性をより魅力的にみせるものであることくらいはわかる。
「意地悪な、エイ。それなら、この中からあなたが選んでちょうだいな。私、あなたが選んだ|田舎《いなか》臭《くさ》いドレスを着ることにする」
だめだ、とエイは観念した。この人は、自分の手に負えない。下町でくだを巻くごろつきどもや、強盗団の方がまだ扱いやすい。
「すみません、代わっていただけますか」
ドアの側で待機していたシイラに、声をかけた。シイラは「わかりました」というように一度うなずいて、部屋の中に入っていく。
「センスのないドレスだなんて。そのようなことございませんよ。お|嬢《じょう》さまの趣味はよろしゅうございます」
クローゼットから、いくつかドレスを取り出して見せる気配がする。背中で様子を|伺《うかが》いながらエイは、やはりシイラに頼んで正解だったと思った。男の自分には、女性の着る物などまったくわからなかった。
――が。
「古くさいデザインだから、年寄りウケするのよ」
「まあ」
|穏和《おんわ》なシイラも、リザの|横柄《おうへい》な態度に少しピリピリしだしている。
「それでは、いったいどのようなドレスがご|所望《しょもう》なのでしょうね」
「胸が大きく開いていて、腰が細くしまったドレスはあって? 色は、そうね|葡萄《ぶどう》色か鮮やかな青。スカートの脇に切れ目が入っていて、歩くとそこから下着がチラリと見える。そんなのもいいわ」
女の着る物などまったくわからないエイであるが、わからないなりに、そのような|大胆《だいたん》なドレスよりも、上品な色の|清楚《せいそ》なドレスの方が貴婦人としては好ましいスタイルだと思った。
「……リドラスさまのクローゼットになら、あるいはあるかもしれませんが」
リドラス。エイは、久しぶりにその名を聞いた。
「死んだ人のなんて嫌よ」
まだこの家に、あの人のドレスなんてあったのか、と素直に驚いている。
彼女が亡くなった当時は、エイもいろいろと思うところがあったが、今となっては、その人がこの家にいたという|爪痕《つめあと》のようなものを、ただ静かに|懐《なつ》かしむだけである。
「それがお嫌でしたら、この中から選んでいただくよりありませんでしょう」
「しょうがないわね」
どうやら、リザはこの部屋のドレスで|妥協《だきょう》することにしたらしい。しかし、「あれもだめ」「これも気にくわない」と|無駄《むだ》にクローゼットの中をかき回すだけで、待てども一向に決まる様子がない。
どのドレスだって、下着姿のままよりはよっぽどましである。女というのは本当に面倒くさいものだ、とエイがため息をついたところで、女性陣に動きがあった。
「あら、それは何?」
何かに気づいたリザが、スタスタと歩いて|廊下《ろうか》まで出た。
「ちょっ……」
あわてて、エイは回れ右をした。下着姿を避けるために後ろを向いていたのに、前に出られては、その意味がまったくなくなってしまうではないか。
「どうして一枚だけ出しているの?」
どうやら、ロアデルの抱えていたドレスのことを言っているようである。
「あ、これは私が昨日お借りした物で」
「あなたは?」
リザは、そこでやっとロアデルに興味を示した。まずはドレス。彼女らしいと言えば、彼女らしい。
「ロアデルと申します」
「何者?」
「少し前から、|役宅《やくたく》で働かせていただいております」
「なるほど、使用人ってわけね。でも、不思議な話。その使用人が、どうしてこの部屋のドレスを借りたりするのかしら?」
「それは」
「わかったわ。使用人というのは|建前《たてまえ》で、本当はもっと別な立場の人でしょ」
「はっ!?」
「どうなの? そうなの?」
|畳《たた》みかけられるように迫られて、言葉に詰まるロアデル。確かに、別にやましいことはなくても、このドレスを借りた経緯についてはなかなか説明しづらいものがあった。
「長官のご命令です」
仕方ないので、代わりにエイが答えた。もちろん、後ろを向いたままである。
「あら、長官の命令って、どんな? |検断《ポロトー》の仕事で使ったの?」
「それはご説明する必要はないと存じますが」
|西方検断《エスタ・ポロトー》副長官、トラウト・ルーギルのお見合いのリハーサルに使用したなんて、口が|裂《さ》けても教えてやるものか、とエイは思った。言ったが最後、彼女の口から面白おかしく尾ひれがついて、|噂《うわさ》が王都中を駆けめぐることは明らかである。
「まあ、ご|挨拶《あいさつ》だこと」
|悔《くや》し|紛《まぎ》れにエイの耳のラインを後ろから指で一度なぞってから、リザは「ま、いいわ」とつぶやいて|身体《からだ》を離した。何をする気かと思って見ていたら、そのままロアデルのもとに駆け寄って言った。
「いくつ?」
「は?」
「|歳《とし》よ、あなたの」
「十九、ですけれど」
戸惑うロアデル。当然の反応だ。
「そう。じゃ、ラフト・リーフィシーより一つ年上ということね」
「あの……それが何か?」
「いいえ、別に。ただ聞いてみたかっただけよ」
リザは、ニヤリと意味不明の笑みを浮かべた。
「片づけなくていいわ、ロアデル。私そのドレスを着ることにするから、着替えを手伝ってちょうだい」
リザが着替えの続きをする気になったのであれば、何にしてもありがたい。
「レディ。申し訳ないのですが、私は所用がありますので失礼させていただいてよろしいでしょうか」
「ええ、いいわ。ついでに、シイラも下がっていいわよ。私、このロアデルに相手になってもらうことにするから。構わないでしょう、シイラ?」
エイとシイラは顔を見合わせた。
「ええ、それはもちろん――」
客人のお|守《も》り役をどうしようかと思案していた二人だけに、それは願ってもない提案だった。しかし、状況を何も理解していないロアデル一人に、この大変な貴婦人を押しつけていっていいものなのであろうか。
「ロアデル、ちょっと」
リザのもとにシイラだけ残して、エイはロアデルを|廊下《ろうか》に連れ出した。ロアデルが客人の相手を嫌だと言えば、|無理強《むりじ》いする気はない。
「そういう成り行きになってしまいましたが、|大丈夫《だいじょうぶ》ですか」
「はい」
力強くうなずいたロアデルであったが、これからシイラとエイが|役宅《やくたく》を|留守《るす》にすると聞かされると、さすがに心細そうな顔をした。
「大丈夫ですか」
エイはもう一度尋ねた。
「……たぶん」
「ロアデル」
無理をしなくてもいいのだ、と言いかけると、ロアデルは顔を上げて笑顔を向けた。
「私がお留守をまもることで、エイさまもシイラもお務めがしやすくなるのでしょう? だったら、私がんばります。安心して行ってらしてください」
強い女性だ、とエイは思った。つい先日、長官が言った言葉を思い出して、うなずく。
ロアデルはお母さんみたいだ。――確かに、その通りだ。
しかし、その強いロアデルであろうと、相手は|一筋縄《ひとすじなわ》では行かない相手である。
「いいですか。今は機嫌よくしていますけれど、あの人はくせ者ですよ」
「くせ者?」
「その上高慢で、気分屋で、|嘘《うそ》つきです。それを|肝《きも》に|銘《めい》じて、平常心で接してください」
本人に聞こえないのをいいことに、これでもかと、そのきつい性格を並べ立てた。女性について陰口をたたくのは気が進まなかったが、これくらい言っておけば、何かあった時のロアデルのショックを|和《やわ》らげることができるのではないか。
「平常心、ですか」
「平常心です」
ロアデルが「わかりました」とうなずいた時、シイラが部屋から出てきて渋い顔をした。
「年寄りはお役ご|免《めん》だそうよ」
やれやれと肩を回すシイラは、これからゼルフィ家の領地へと向かう。そっちの方が、年寄り[#「年寄り」に傍点]にとっては、着替えの手伝い以上にハードな仕事ではなかろうか。
シイラはロアデルに、役宅に他の使用人は残っているから何かあったら助けを呼ぶように、しかしロアデルだけは決して客人から目を離さないように、と注意事項を手短に述べた。
「それじゃ、ロアデル。後をよろしくね」
「行ってらっしゃい、シイラ」
「できるだけ早く帰ってきますから」
「はい。エイさまも、お気をつけて」
エイとシイラは客人に|気取《けど》られないように、足音を忍ばせて|廊下《ろうか》を歩いていった。階段を半分くらい下りた時、リザののんびりした声がエイの耳に届いた。
「ロアデルー。早く来て、背中留めてちょうだいなー」
「はい、ただ今」
たった今までロアデルが見送ってくれていた場を見上げたが、そこにはすでに彼女の姿はなかった。
本当に、|大丈夫《だいじょうぶ》だろうか。
いや、とエイは不安な気持ちを振り払った。
ロアデルならば大丈夫だろう。
エイは、彼女を信じて|役宅《やくたく》を後にした。
嘘つきの嘘
1
「あ」
馬車の窓から外を眺めていたログが、小さくつぶやいた。
「あれ副長官じゃなかったですか。ね、そうですよね、長官」
「何が?」
片目を開けて、アカシュが聞き返す。気持ちよく、ウトウトしかかっていた。「あれ」と言われたって、わかるわけがない。
ガタガタと車体が軽く揺れている。そして、ぽかぽかとしたこの日差し。向かいの席にいるログは、よくもまあ眠らずにいるものである。
「たった今、向こうの道をすごい勢いで馬が駆けていったんですよ。乗っていた人の顔は見えませんでしたが、それはもうすばらしいプラチナブロンドで」
「ふうん」
それでは、ログもエイだと思うわけだ。エイの髪は、そんじょそこらではお目にかかれないほど、上品でゴージャスなサラサラストレートヘアである。
しかし、なぜエイが|早馬《はやうま》を走らせているのかは|謎《なぞ》だ。彼は今頃|検断《ポロトー》庁舎で、姫君の|駒《こま》を探しているはず。
「どっち行った?」
「西、……王宮の方です」
「エイだとしたら。何だ? 私を迎えに来たのかな」
ログが「向こうの道」と言った道は、いつもアカシュが王宮への行き来に使っている道である。今日は途中ラウンディス家に寄ったから、別の道から戻ってきたが、このまま馬車を走らせて、いずれは
「向こうの道」へ軌道修正して|東方牢《リーフィシー》城に帰ることになっていた。
「追いかけますか?」
「いや、いい」
アカシュは、|御者《ぎょしゃ》に声をかけようとするログを制した。
「|今更《いまさら》、追いつけまい」
それがエイだと決まったわけでなし。
たとえエイだったとしても、それを追いかけてまたすれ違いになるよりも、庁舎の長官執務室で待機していた方が利口だ。それに城に帰れば、キトリイか誰かがいるはずだから、多少なりとも状況がわかるはずだ。
「着いたら起こしてくれ」
アカシュは足を組み直して、再び目を閉じた。
|役宅《やくたく》で何が起こっているか、まだ何も知らないまま。
2
「ねえ、ロアデル」
その人は、長椅子《ながいす》の上に足を投げ出すように座って、真っ直ぐな黒髪を気怠《けだる》そうに手櫛《てぐし》で梳《す》いた。
肌の色は抜けるように白く、全体的に|華奢《きゃしゃ》で、手首とウエストは|殊《こと》に細く、着替えを手伝ったロアデルが思わずため息を|漏《も》らしたほどだった。お|針子《はりこ》時代、お金持ちの奥方やご|令嬢《れいじょう》のドレスを何着も|縫《ぬ》ったが、これほどまでに細身の女性は初めてである。
|歳《とし》はいくつ位なのであろう。
若く見える。けれど、自分より少なくとも三つは上に感じられる。
話し相手にと言われ、向かいの席に座らされたロアデルは、目の前にいる女性を眺めて|漠然《ばくぜん》とそう思った。
着替えが済んでも、その人は応接間に戻ろうとはしなかったので、それに付き合う形で、ロアデルも未だ姉君さまの部屋に留まっている。
しかし、初対面のこの女性と、いったい何を話したらいいのだろう。ロアデルは戸惑っていた。若い女性という以外に、果たして二人の間に共通点はあるだろうか。生まれてから|今日《こんにち》まで、二人はあまりにかけ離れた人生を歩んできたように思われた。
「あなた、私が誰だか聞いた?」
|高飛車《たかびしゃ》な態度というものは、美しい容姿があってこそ|映《は》えるものである。と、ロアデルは知った。
「この家にとって大切な方だと」
まずは慎重に答える。
「そうね」
答えに満足したように赤い唇が笑い、続けて言った。
「ラフト・リーフィシーの姉よ」
まるで、チョギーで王手をかけたかのような表情。
「お|嬢《じょう》さま、ですか」
ロアデルは確認した。目の前の彼女が、「姉君さま」だと言われても、なぜだかしっくりこなかった。
「あら、信じていない顔ね」
二人の間の温度差にかなり不満なのだろう、黒髪の婦人は、少しふくれるような表情で言った。
「私がものすごく|嘘《うそ》つきだって、エイが言ったのでしょ?」
「え……いえ」
確かに言った。だが、それを白状するのが正しいことではない様な気がして、ロアデルははっきり答えなかった。
エイがそう言っても言わなくても、たぶん自分は同じような反応をしたであろうと思ったからかもしれない。
|艶《つや》やかで真っ直ぐな黒髪は、この家の主人とまるっきり同じといっていいほど、そっくりである。
だが。
どうしてなのだろう。ロアデルは、素直にうなずけなかった。
知らず知らずに「姉君さまはこのような人」と、勝手にイメージをふくらましていたのだろうか。
だから対極ともいえる女性が現れて、戸惑っている。そういうことなのだろうか。
「いいのよ。私が嘘つきなのは、本当のことだから」
「……」
では、「姉君さま」はやはり|嘘《うそ》なのだろうか。ロアデルがそう思い始めた時、自称姉君さまは、突然声をあげて笑った。
「ああ。嘘つきが、『本当』なんて言ったらおかしいわよね」
自分で言ったことが、かなりツボにはまったらしい。お|腹《なか》を抱え、身をよじる。
「ねえ、ロアデル。嘘つきが自分のことを『嘘つき』だって言いながら嘘を言うと、嘘つきが自分のことを『正直者』だって言いながら真実を言うの、どちらが誠実かしら」
「は?」
しばらく一人で笑い転げていたかと思ったら、その人は突然、何かの|問答《もんどう》のような質問を投げかけてきた。
「あ……えっと」
ロアデルは|怯《ひる》んだ。小さい頃から働いていて、学校もろくすっぽ行っていないのである。そんな、哲学っぽい質問をされても気の|利《き》いた答えを導き出せるわけがない。
けれど、出題者は|諦《あきら》める気配がない。
「どう思って?」
「どう、って……」
つまり。「私は嘘つきです」という自称嘘つきがつく嘘は、嘘なんだってわかっている分、その逆が真実だと教えられているようなもの。
「私は正直者です」という嘘つきが言う本当のことは、「本当のこと」なんだから、もちろん真実。
でも、前者は嘘つきのくせに「私は嘘つきです」なんて本当のことを言うのは|矛盾《むじゅん》している。後者もまた、嘘つきのくせに本当のことを言うのはおかしい。
考えれば考えるだけ、ロアデルの頭の中はグジャグジャにこんがらがった。そもそも、人間とは嘘つきと正直者の二つに、きっちり分けられるものなのだろうか。
「あなたの前に二人がいるのよ。さあ、どっちを信用する?」
「私だったら……? それなら、どちらも同じです」
「どうして?」
「私はその人たちのことを知りませんから。嘘つきだってこともわかりません。だったら、自分のことを嘘つきだって言いながら嘘を言われるのも、正直者だって言いながら真実を言われるのも同じことです」
どうにかこうにか自分の意見を口にすると、黒髪の貴婦人は真顔で「なるほど。そりゃそうだわね」とうなずいた。
「じゃ、あなたはどう? 私とあなたは初対面だけれど、私の言葉を信じるの? 信じないの?」
「信じます」
|嘘《うそ》つきだと聞かされようと、その言葉の中にしっくりいかない何かを感じてしまおうとも、最初から疑ってかかっては、人と人との|絆《きずな》なんてできやしないのだ。
「リザよ」
と、その人は言った。
「は?」
「それが私の名前」
「リザさま……」
それは間違いなく彼女の名前だ、とロアデルは直感的に思った。パズルのピースのように、それ以外に正解はないと思えるほど、その人に|馴染《なじ》んだ名前だ。
けれど。
同時に、聞いたことがない名前だ、とも思った。
いや、珍しい名前ではない。ワースホーン国では、ありふれたとまでは言わないが、たまにお目に掛かれる名前だ。ただ、ここ|東方牢《リーフィシー》城に居を移してからこっち、アカシュ、エイ、シイラといったロアデルの身近にいる人たちの口からは、一度も出てきたことがないというだけのこと。
「では、メルルさま、……は?」
ロアデルは、耳にしたことのある名前を口にしてみた。
「メルルは私の妹」
「このお宅に、お|嬢《じょう》さまはお二人いらしたんですか」
「いいえ。一人よ」
リザはニッコリとほほえんだ。
「あの……」
「私と彼、似てるでしょ」
リザは、ロアデルの顔の前に自分の顔を接近させて、黒髪を|手櫛《てぐし》でサラサラとといた。
「……|御髪《おぐし》は、|旦那《だんな》さまの髪によく似ていらっしゃいますが」
|蛇《へび》ににらまれたカエル、というのであろうか。じっと見つめられたロアデルは、動くことができない。
「髪以外は似ていない?」
「はい。お顔立ちはあまり」
すると、リザは顔を離して笑った。
「あなた正直ね。似ている、って勢いで言ってしまった方が、面倒くさくないのに」
「は?」
目の前の人が何を言いたいのか、ロアデルはわからなくなってしまった。しかし、リザは一向に構わず、話を勝手に先に進めるのだ。
「でも、当たりよ。彼とは、血がつながっていないのですもの。似ていないのは当然なの」
「でも、今、姉君さまと」
「言ったわ」
そう言った後、リザは何か、例えば少し前の会話を|反芻《はんすう》するかのように、うつむいて一人ぶつぶつとつぶやいた。そして結論が出たのか、顔を上げた時、その表情は妙に明るかった。
「そう。そうよね。血がつながっている人たちを、普通は家族っていうのよね」
「いえ。そうではない場合もあると思いますけれど」
ロアデルの発言は、先ほど自分で言った言葉と|矛盾《むじゅん》した。しかし、思い直したんだから仕方ない。夫婦や|配偶者《はいぐうしゃ》の親族などは、血はつながっていないが「家族」とか「身内」と呼ぶものだ。
「いいの。血のつながりが大切だっておっしゃい」
けれど、思っていないことをそうだとは言えない。黙っていると、リザは突然ロアデルの|頬《ほお》をつねった。
「何なさるんです」
長い|爪《つめ》が食い込む、|容赦《ようしゃ》ない痛み。ロアデルは、思わず手で手を払って、座っていた|椅子《いす》から飛び退いた。
「どうしてかしらね。私ね、あなたみたいな子を見ると、ついいじめたくなるの。でも誤解しないで。それは嫌いだからじゃないのよ。むしろ逆。|可愛《かわい》いからいじりたくなるの。わかるでしょう?」
「わかりません、そんなの」
頬を押さえて、顔を見る。こんな女性、初めて会った。
「ほら。また、そんな反抗的な態度をとって、いけない子。それは私に、どうぞいじめてください、って言ってるようなものなのよ」
リザは立ち上がり、ロアデルのもとに歩み寄る。ロアデルがジリジリと後ずさりする以上に、リザの近づくスピードが早くて、すぐに壁際に追いつめられてしまった。
「ここに|鞭《むち》も|手枷《てかせ》もないのが残念。ふふ、|怯《おび》えた顔がまた素敵。でも|大丈夫《だいじょうぶ》よ。私だって、|余所《よそ》のお宅ではそんなことしないから」
それじゃ、自宅では「そんなこと」をするということだろうか。
いったい誰に? 何のために? 自分の常識の中では収まりきらない話に、ロアデルの頭は混乱した。
「未知の世界を知りたくなったら、私の部屋へいらっしゃい。やさしく教えてあげるわ」
「いえ、結構です」
手枷や鞭という単語に、「やさしく」はあまりにそぐわなかった。こういう誘いは、たとえ社交辞令であっても軽々しく「はい」と言ってはいけない。
「そう、残念ね。私のクローゼットを見せてあげようと思ったのに。ここにある物なんかとは比べものにならないほど、すごいドレスばかり|揃《そろ》っていてよ。そうね。気に入ったら、あなたに何着でもプレゼントするわ」
お|針子魂《はりこだましい》をくすぐる誘い文句。ここにある物よりすごいドレスとは、いったいどんなものなのか。
そんなすごいクローゼットが、この世に本当にあるのなら。死ぬまでに、一度でいいから拝んでみたい。
「失礼します」
その時、ノックと共に料理人シガレが部屋の中に入ってきた。
「あら、気が|利《き》くこと」
リザはシガレの手にしていたお|盆《ぼん》の中身を見ると、ロアデルの側から離れて、ソファに戻った。パンケーキと紅茶だ。
「このような物しかございませんが」
シガレがテーブルの上にセッティングするのを見ながら、ロアデルは「危なかった」と思った。シガレが来てくれなければ、もう少しでリザの言葉にうなずいてしまいそうだった。
「ロアデル、何か用はあるかい?」
シガレの言葉に、ロアデルは首を横に振った。
「下にいるから。声をかけておくれ」
「ありがとう」
「では、ごゆっくり」
シガレは頭を下げると、部屋を出ていった。出かける前のエイかシイラに、そうするように言われたのだろう。客人とは目を合わさず、言葉も交わさない。リザの様子から見ても、彼とは|面識《めんしき》はないようだ。その証拠に、運んできた者より運ばれてきたパンケーキの方に興味があるらしく、さっそくフォークで突っついている。
「悪くないわ。この味」
一口食べて、リザははしゃいだ。
「|東方牢《リーフィシー》城は城主が食いしん坊だから、食事がおいしいって|噂《うわさ》、本当だったのね。|役宅《やくたく》だけでなく、庁舎や|獄舎《ごくしゃ》にも、腕のいい料理人を入れているらしいじゃない? そうなの?」
「さあ。私は、役宅の料理人のことしか存じませんので」
いつまでも壁際に立っているわけにもいかないので、ロアデルは戻ってリザの正面のソファに着席した。
「あら、でも顔は知らなくても食べてみればわかることでしょう? ああ、そうね。ロアデルにわかるわけないわ。庁舎ならまだしも、獄舎の食事なんて、そうそう食べる機会なんてないものね」
「……」
実はロアデル、黙っていたが過去に|獄舎《ごくしゃ》の食事を食べたことがあった。
確かに、低予算の割には、栄養価も高く味もおいしかったと記憶している。
城主が朝晩食べる食事である。質が落ちれば、すぐに改善命令が下るのだからまずいわけがない。獄舎の料理人は、もちろんそんなことは知らずに作っているのである。
「ロアデル。あなたも食べていいのよ」
リザが、パンケーキの皿を指し示して笑う。
一応「はあ」と答えたものの、ロアデルはとても口を付ける気になんかならなかった。初対面の客人と真向かいで話をするだけでも荷が重いのに、その人は何を考えているか、何をしでかすかまったく予測がつかないのである。
エイの言葉を思い出す。彼女は高慢で気分屋で|嘘《うそ》つき。だから、こちらは平常心で接しなければならない。
けれど、何が自分の平常心なのか。
目の前で繰り広げられる小事があまりにめまぐるしくて、それすら見失ってしまいそうなのだった。
3
彼女が|東方牢《リーフィシー》城の城門をくぐったのは、午後の三時過ぎのことであった。
「いつも、ご苦労さまね」
馬車を止めて通行証を提示すると、|門衛《もんえい》は敬礼をして「お帰りなさいませ」と出迎えた。見たことがない門衛であるが、彼女は「ただいま」と言ってほほえむ。その様子を見ていた他の門衛たちも、|慌《あわ》てて詰め所から出てきて|挨拶《あいさつ》をした。
「お一人ですか。よろしければ、|手綱《たづな》をお引きいたしましょうか」
「いいのよ。このまま|役宅《やくたく》の前まで馬車を乗り付けるから」
言いながら、上ってきたばかりの坂道を振り返る。
(確認するまでもないか)
王都に入る前から、後をついてくる馬の気配は一頭としてない。
昨夜、宿に入る前までですでに六人が脱落。
宿で、彼女にちょっかいを出そうとしてあえなく捕まった身の程知らずが七人。
出発前の彼女の馬車に|潜《ひそ》んでいた無礼者二人は、引きずり下ろした時に多少力が入ってしまって、どちらもポキッと骨の鳴る音が一つずつ聞こえたから、当然戦線離脱だろう。
|宿場町《しゅくばまち》を出た時に、ついてきたのは三人。
残りの二人は、たぶん街道を先回りして待ち伏せしていたのだろうが、そんなこともあろうかと、裏道を通って来たのだ。
(本当に、世の中お馬鹿さんたちが多くて困ってしまうわ)
王都までついて来られたら話を聞く、と言ったのだ。宿屋で襲ったり、待ち伏せしたりしてどうする。そんな紳士失格の男と結婚する気になるかどうか、考えるまでもなくわかりそうなものだろうに。
彼女は、城門から中の様子を眺めた。|懐《なつ》かしい光景。緑に満ちた領地の|田園《でんえん》風景もいいが、やはり幼い頃から|馴染《なじ》んだ場所は懐かしい思い出が詰まった場所である。
「変わりはなくて?」
|門衛《もんえい》たちのほとんどは「はい」と答えたが、中に一人何かを言いかけてやめた者があった。詰め所から最後に出てきた門衛だ。
「なあに? おっしゃい」
促されて、彼は答える。
「はあ。先ほど、私が番をしていた時、長官に女性の客人がありまして」
「女性?」
彼女は聞き返した。それは聞き捨てならない。幼児であろうと|老婆《ろうば》であろうと、女は女なのである。名前を名乗らなかったというから、ますますもって怪しい。
「その後、しばらくしたら|役宅《やくたく》のシイラと副長官のエイさまが別々に馬を飛ばして出て行かれまして」
「シイラと、エイが? それで、ラフト・リーフィシーは城内にいるの?」
「いえ。王宮に行かれたまま、まだ」
「けれど、その客人はまだ城内にいるのね?」
尋ねると、その門衛は少し首を|傾《かし》げるような仕草をした。
「城内にいらっしやる……」
言いながら、じわじわと表情が変わっていき、|終《しま》いには何か|詞《いぶか》しむような探るような目つきになった。
「つかぬ事をうかがいますが。姉君さまは、先ほどのお客さまではありませんよね」
それを聞いた瞬間、メルルは馬に|鞭《むち》を当てていた。
もはや疑いようもない。
その客人とは、あの女なのである。
4
この人は、誰だろう。
ロアデルは、さっきからずっと考えている。
城主の姉と名乗りながら、血縁関係は否定する。
ならば他人なのだろうと推理してみれば、この屋敷は自分の家と言わんばかりの|威張《いば》りよう。そしてエイやシイラの、彼女に対する気の遣いようも引っかかった。
「ロアデル。あなた、兄弟はいて?」
紅茶を飲み干して、リザが尋ねる。
「いえ」
「そう」
やや間があってから、リザがつぶやく。
「私には兄と妹がいるわ」
「はあ」
ゼルフィ家の娘ならば、「兄と妹」ではなく「兄と弟」のはずだ。それを指摘しようとしても、リザは言いっぱなしで、すぐに別の話題を始めてしまう。
「ここに来るのにね、|辻馬車《つじばしゃ》に乗ったの。金貨を出したら、お釣りがないって|慌《あわ》てふためいていたわ。ちょっと面白かった」
「それでどうなさったんです」
「ねえ、ロアデル。何か、なぞなぞだして」
「……は?」
さっきから、こんな感じの会話を繰り返している。だから、話は一向にふくらまず、だからもちろん|弾《はず》むことなどありえない。
この人は、それで楽しいのだろうか。
ロアデルは、リザを静かに見つめ返した。
けれど彼女はさしてつまらなそうでもなく、どちらかといえば顔は笑っている。
だから、たぶん楽しいのだろう。ロアデルを戸惑わせることに、喜びを感じているようにも見えた。
「それで? あなたの部屋はどこにあるの? |旦那《だんな》さまと|一緒《いっしょ》のベッドで眠るの?」
「ベッ……!」
思いがけない質問を受けて、ロアデルはうろたえた。
「わ、私はシイラの隣に部屋をいただいていて、だ、旦那さまのお部屋で休んだなどは、一度もございませんっ」
「まあ。ちょっとからかっただけなのにあわてちゃって、|可愛《かわい》らしいこと。わかったわ。あなたもラフト・リーフィシーのことが好きなのね」
リザは手を伸ばして、ロアデルの|頬《ほお》に触れた。またつねられるかと思ったが、今回は紅くなった頬を一回|撫《な》でられただけで済んだ。
「|旦那《だんな》さまのことは、使用人の立場からご尊敬申し上げています」
ロアデルは、それだけ言うのがやっとだった。するとリザは、「そう」とソファを立ち上がり数歩あるいて振り返った。
「ラフト・リーフィシーは、時たま|役宅《やくたく》に顔を出したりするの?」
「――あの」
「|大丈夫《だいじょうぶ》よ。私は彼の秘密を知っているから」
秘密。
その言葉に、ロアデルは身構えた。
この人はやはり通りすがりの客人ではない、とその時悟った。親友のトラウト・ルーギルですら、|東方牢《リーフィシー》城城主の二重生活については知らされていないというのに。
このことは一部の選ばれた人間の間で、固く守られてきた秘密である。それなのにロアデルが知ってしまったのは、いわばハプニング。|東方牢《リーフィシー》城に忍び込もうとして捕まり、仮に入れられた|獄舎《ごくしゃ》で囚人のアカシュと出会ったのがきっかけだから。
「へえ。あなたも知っているとはね」
ロアデルの顔色を読んで、リザがつぶやいた。
自分は当然ながらすべてを|把握《はあく》しているけれど、つい最近役宅の使用人になった小娘までもがそのことを知っているなんて意外、といった表情である。
「何のことでしょう」
ロアデルは、「平常心」と心に言い聞かせた。リザは|鎌《かま》をかけているのかもしれない。うっかり、|迂闊《うかつ》なことを口走ったりしたらこちらの負けだ。
けれど、リザは笑いながら言った。
「彼には別宅があるから。夜はこちらに戻ってこないのでしょう?」
「……それならば、私が旦那さまと|一緒《いっしょ》のベッドで眠らないことくらい、おわかりでしょうに」
「お馬鹿さんなロアデル。私は一言も夜なんて言っていなくってよ。何も男と女の情交は夜に限ったことではないわ。だから聞いたの。彼はあなたを抱きしめるために、時々は|役宅《ここ》に帰ってくるのかしら、ってね」
「いえ。私はただの使用人ですので」
平常心、平常心。ただの使用人は、こんなことで|動揺《どうよう》なんかしてはいけない、とロアデルは自分を|戒《いまし》めた。
「そう? でも、使用人でもうまくやれば奥方になれるかもしれなくってよ。ここの家は、|大雑把《おおざっぱ》で生まれとか|家柄《いえがら》とかに|頓着《とんちゃく》しない人が多いから」
「あの……」
なぜ、この人はゼルフィ家の事情をペラペラとしゃべるのだろう。それも、|一介《いっかい》の使用人相手に。
「知っている? 父親なんて、貴族でも何でもない女を妻にしたのよ」
「|旦那《だんな》さまのお母上のこと、ですか」
一介の使用人であっても、気になることはある。つい、ロアデルはリザの話に乗ってしまった。
「ううん。後妻。あら、あなたそんなことも知らないの?」
「申し訳ありません」
ここでどうして謝らなければならないのか、ロアデル自身さっぱりわからなかった。
気をつけているつもりでも、いつの間にかリザのペースに乗ってしまっているのだ。だんだん「平常心」の|呪文《じゅもん》も効き目が悪くなってきた。
「退屈ね。何かして遊びましょうか」
そう言って、リザはあくびを一つした。ラフト・リーフィシーは帰らない。エイもシイラも戻ってこない。
「あいにく|不調法《ぶちょうほう》で、チョギーくらいしかお相手できませんが」
貴族の|令嬢《れいじょう》がどんな遊びを好むのかはわからないが、チョギーならばできる。この屋敷に来てすぐ、シイラに教えてもらったからだ。
「チョギーねぇ」
リザは、胸もとの飾りをいじりながらつぶやく。あまり、乗り気じゃないらしい。
「それより、私お人形さんごっこしたいわ」
「お人形、ですか」
ロアデルは聞き返した。大人になっても人形遊びをするとは、上流階級の女性はやはり優雅なものである。
けれど、ざっと見た限り、この部屋には人形は見あたらない。ただしまい込んでいるだけなのかもしれないが、少なくともロアデルにはその場所の心当たりなどなかった。
「いるじゃないの、お人形さんなら」
「はっ?」
そこに、と指さされた場所は、まさにロアデルのいる場所。念のために背後を振り返ってみたが、そこに人形の姿はない。
「……まさか」
ロアデルは立ち上がり、後ずさりした。リザの目つきが怖い。
「そういうことよ。わかったら、さ、そのドレス脱ぎなさい」
「えっ」
「今から、あなたは私の着せ替え人形よ」
言うが早いか、リザはロアデルの腕を|掴《つか》んで、抱きしめると、背中の合わせを留めていた|紐《ひも》をスルスルと外し始めた。
「ちょっ……、やめてください」
「ああ素敵よ、ロアデル。もっと暴れなさいな」
暴れろと言われても。ロアデルの自由を奪っているのは、その細い|身体《からだ》には、あまりに不釣り合いな強い力なのである。
「昨日手に入れた女の子はね、脱ぎなさいと言ったら簡単に脱ぐのよ。面白いと思ったのは最初だけ。やっぱり、|裸《はだか》を売り物にしている女のドレスを脱がしたって、楽しくもなんともないわね」
だからといって、嫌がる女の服を脱がしたら、それは犯罪である。ロアデルは|懸命《けんめい》に|抗《あらが》った。けれどリザが|執拗《しつよう》にドレスを引っ張るものだから、|束縛《そくばく》から逃げるためには、|本末転倒《ほんまつてんとう》だがドレスを脱ぎ捨てるしかなかった。
このままでは、|真《ま》っ|裸《ぱだか》にされる。ロアデルは下着姿のまま、部屋中逃げ回った。
自分の部屋に逃げ込みたいが、この姿では|廊下《ろうか》に出ることすらままならない。
しかし、このままずっと逃げ回ってもいられないだろう。いずれ誰かが帰ってくる。シイラならいい。けれど、それ以外の誰かだったら――? 考えただけでも|空恐《そらおそ》ろしい。
「さあ、次はどちらに逃げる?」
リザが笑いながら、ゆっくりと近づいてくる。
その時である。
「何やっているの、私の部屋で!」
声とともに、勢いよくドアの開く音がした。
5
その頃、街道を一頭の馬が南西に向けて走っていた。
荒々しい|手綱《たづな》さばき、風を切るようなその走りっぷりは、戦場に向かう騎士のように勇ましかった。
しかし、騎士にしては服装がおかしい。
「ほら、ご|覧《らん》よ」
街道を行く旅人や行商人たちが、立ち止まって指をさす。
「すごいお|転婆《てんば》がいるものだ」
「いやいや、あれは|小柄《こがら》な男が女装しているんだろう」
そんな声が聞こえているのかいないのか、女物の帽子を|被《かぶ》り、長いドレスの|裾《すそ》をたくし上げて馬にまたがった人物は、「はいよっ!」と馬の尻に|鞭《むち》を当てる。
急がなければならない。
急いでお|嬢《じょう》さまを止めなければ。
その|騎乗《きじょう》の女性こそ、シイラであった。
何年ぶりかで馬に乗った。
初めての馬だったが、予想以上にうまく乗りこなすことが出来た。と、自分でも思う。
若い頃覚えたコツは一生の宝だ。
これでも昔は、王家|主催《しゅさい》の乗馬大会に出て、先代の|陛下《へいか》からお|褒《ほ》めのお言葉をいただいたことだってあるのだ。
おぼっちゃま二人とお嬢さまに乗馬をご教授申し上げたことも、今では|懐《なつ》かしい思い出。
「止まれ」
最初の|宿場町《しゅくばまち》の手前で、二人の男が道の真ん中で手を広げ、行く手をふさいでいた。
「……どう」
シイラは馬を止めた。
やろうと思えば強行突破することもできたが、彼らにけがを負わせてしまったら気の毒だし。何か理由があって通せんぼしているのかもしれない。
「何かあったのですか?」
尋ねたシイラの顔を見て、男の一人は小さく笑った。
「悪いな、人違いだ」
「行っていいぜ、|婆《ばあ》さん」
もう一人が、|顎《あご》をしゃくって進行方向を指し示した。
婆さん、とは失礼な。それに人違いならば、まず謝るのが筋というもの。これだから近頃の若者は――、と苦情を言いかけたが、シイラのことなどもはや眼中にない男二人の会話が耳に飛び込んできたため、ついそちらに気を取られてしまった。
「王都から来る馬を止めてどうする。彼女はそっちへ向かっているんだぞ」
「でも、こんなに待っても来ないんだ。予定を変更したのかもしれないし。それに、一人で馬に乗るような女なんて、そうそういないだろう」
「そうそういない女」シイラは、文句を言うのをやめて、とにかく|宿場町《しゅくばまち》へと急いだ。
もう一人の「そうそういない女」のことが気になって仕方がなかった。
程なくたどり着いた宿場町では、妙な光景を目にした。
街に入ると、シイラは|往来《おうらい》の|邪魔《じゃま》にならないように馬から下り、|手綱《たづな》を引いて歩いた。宿場町に着いてすぐにするべきこと、それはまずゼルフィ家の宿に行き、お|嬢《じょう》さまに関する情報を収集することである。
妙な光景に|遭遇《そうぐう》したのは、宿に向かう途中にある馬商人の店先だった。
店頭で、数人の男たちが|小競《こぜ》り|合《あ》いをしている。いや、店主を囲んで商談をしているのかもしれないが、それにしては皆けんか腰であった。
人数は、ざっと見ても七、八人。貴族の紳士風、下町の若者風、|豪商《ごうしょう》の|若旦那《わかだんな》風と、いろいうなタイプが|揃《そろ》っている。無理に共通点を探そうとするならば、すべてが男性ということ。付け加えるならば、どの男も着飾っていて、あまり旅慣れたスタイルではないということだろうか。
「私が先に店に入ったのだ」
「ならば、私はこの男の倍の値を出す」
先着順を主張する者もいれば、右手で|紙幣《しへい》を高く|掲《かか》げつつ左手で|梱《つか》んだ馬の手綱を離さない者もいる。まるで、城下の朝市での|競《せ》りを見ているよう。
「ケガしている者は、|遠慮《えんりょ》したまえ。そんな足じゃ、途中でギブアップするに決まっている」
「だからこそ、馬が必要なんだ」
皆、口々に自分に有利な主張を言い立てる。
「皆さん、落ち着いてくださいよ。どう計算したって無理ですよ。馬五頭に買い手が九人なんて」
「馬商人のくせに、なぜ五頭しか置いてないのだ」
「馬なんて高い買い物、日に一頭売れるか売れないかですよ。この宿場は王都に一番近いんだ。王都を|発《た》ってきた人は王都で準備してくるだろうし、王都まで行く人は、|今更《いまさら》ここで馬を買うことないでしょう。旅の途中で馬が弱ったとか、旅費に困って馬を売るとか、うちはそういう旅人相手に商売しているんですよ。もちろん、ちょいと離れた郊外に牧場を持ってますから、一日待って|頂《いただ》けたらとびっきりの名馬を何頭でも連れてきますがね」
「それでは全然間に合わないんだ!」
九人は同時に叫んだ。
「今すぐ王都に戻りたい」
まるで練習してきたみたいに、息もピッタリ。もしやこの者たちは、仲間なのであろうかと、その脇を通りながらシイラは思った。
「わかりましたよ。じゃあ、こうしましょう。ジャンケンでもクジでも何でもいいから、そちらさんで五人決めてくださいよ。うちはその五人に定価で買って頂きます。残りは……そうですね。宿屋でも飯屋でも|辻馬車《つじばしゃ》屋でもいいから、取りあえずどこかの店に入って、馬を売ってもらうよう|交渉《こうしょう》されたらいい。皆さんお急ぎならば、ここで言い争っているよりずっと効率がいいんじゃありませんか」
店主の言い分はもっともである。
さっそく男たちはジャンケンを始め、すぐに勝敗が決まった。勝者五人が店主に馬の代金を支払っている間に、敗者四人は馬を求めて街中に散らばっていく。他の八人より先に、王都に着かなければならない、そんな感じに見えた。
「何かの試合かしら」
シイラがつぶやくと、|野次馬《やじうま》の一人が教えてくれた。
「皆、馬に逃げられたらしいよ」
「全員?」
「そう。馬を逃がしたヤツがいてね、その犯人を追いかけるために急いで馬を用意しなきゃいけない、ってわけさ」
「まあ」
どんな事情があるか知らないが、他人の馬を九頭も逃がしてしまうなんて。思い切ったことをする人もいるものだ。すぐに新しい馬を買えるだけの金を持っている、この男たちもすごいけれど。
「女だそうだよ」
「女」
その言葉を聞いたシイラに、再び嫌な予感が走った。その予感を早く打ち消さなくては、と足早に宿屋を目指すと、背後から「すみません」と|遠慮《えんりょ》がちに声をかけられた。
振り返ってギョッとする。そこに立っていたのは、先ほど|競《せ》り|合《あ》いに参加していた男の一人だった。
「無理を承知でお願いします。その馬、売っていただけませんか」
こちらがまだ「売る」とも「売らない」とも答えていないのに、すでに|財布《さいふ》を出して、金を出そうとしている。言葉と行動がまるで合っていない。
「ごめんなさい。これは私の馬ではないので勝手に売れないんです」
答えながらシイラは、目を伏せた。彼の顔を面と向かって見てはいけない、とっさに判断したのだ。
「そうですか」
彼はうちひしがれて背中を向けた。その後ろ姿を見送りながら、シイラはつぶやいた。
「お|嬢《じょう》さまが……まさか……」
彼の|額《ひたい》には、何かの塗料で大きく×マークが描かれていた。
よくよく見ると、九人全員が、顔のどこかしらに×をもっているのだった。
姫君の代価
1
「何やっているの、私の部屋で」
部屋に入ってきたのは、まばゆいばかりの黄金の巻き毛を背中で躍らせた、美しい貴婦人だった。
一目見て、ロアデルは「誰かに似ている」と思った。
「何、って。見ればわかるでしょ、お人形さんごっこよ」
リザは首をすくめて答えた。
「お人形さんごっこ、ですって?」
貴婦人は|強《こわ》ばったような笑みを浮かべながら二人のもとに歩み寄り、リザとロアデルの間に割って入った。
「相変わらず、人を人とも思わない|傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な女だわね」
「そうだわ。いいこと思いついた。このお人形さんを使って、どちらが上手に着飾らせることができるか勝負しないこと?」
「ふざけないで」
巻き毛の貴婦人は、リザの手からドレスを引ったくると、後ろ手で
「着なさい」とロアデルに回した。
ロアデルがそれを受け取り急いで着込んでいる間に、彼女は旅行|鞄《かばん》を床に下ろし、手袋と帽子を外した。そして着替えが終わるのを待って、あらためて振り返って手を差し出した。
「初めまして。|階下《した》でシガレに聞いたわ。あなたが新しいお手伝いの方ね。えっと」
「ロアデルと申します。ロアデル・キアナです」
ロアデルは差し出された手を両手で包んで腰を落とした。
「そう、ロアデル。いくつ?」
「十九……です」
「そう。あの子より一つ年上か」
「あの?」
確か、さっきもリザに同じ質問をされ、同じような反応が返ってきた気がする。
「いえ、こっちの話。私はメルル・ゼルフィ。ここの娘よ」
「お|嬢《じょう》さま……ですか」
「ええ、そうよ。それが何か?」
「|旦那《だんな》さまに似ていらっしゃいませんね」
ロアデルはつい、感じたままを口にしてしまった。初対面で|不躾《ぶしつけ》だったと気づいた時には、言ってしまっていたのだから、もう遅い。
「よく言われるわ」
メルルは苦笑し、リザはプッと吹き出した。
「では、こちらの方は――」
ロアデルは先程からどうしても|解《と》けない疑問を、メルルに尋ねた。
メルルの姉で、けれどラフト・リーフィシーとは血がつながっていなくて。またゼルフィ家の娘は一人であるというのなら、ここにいるこの女性はいったいどこの誰なのだ。
「ふうん」
メルルは振り返って、冷ややかにリザを見た。
「リザ。あなた、まさか自分のことをラフト・リーフィシーの姉だなんて、|嘘《うそ》言ったんじゃないわよね?」
「いいじゃない、別に。それに、まるっきりの嘘じゃないわ。姉みたいなものでしょ? ロアデルだって信じてくれたわよ。私と彼、とても似ているって」
それは嘘だ。ロアデルは「とても似ている」とは言っていない。
「それはこんな物|被《かぶ》っているからでしょ。いい加減に外しなさいよ、腹立たしい」
メルルはリザの髪の毛を引っ張った。すると。
「あっ」
声をあげたのは、ロアデルだった。黒髪の下から現れたのは、まばゆい|絹糸《きぬいと》のような金髪だったからだ。
「カ……ツラ?」
「そうよ、カツラ」
リザは床に落ちた黒髪を拾い上げて、まるで|愛玩《あいがん》用の小犬にするように、いいこいいこと|撫《な》であげた。
「これはね。ラフト・リーフィシーの髪に似せて作ったカツラなのよ。よくできているでしょう? 私の部屋にはね、エイのカツラもあるのよ。今度私のドレスと|一緒《いっしょ》に見せてあげるわ、ロアデル」
「いえ。結構です」
ロアデルは丁重にお断りした。リザの部屋には、カツラやドレスの他に、確か|手枷《てかせ》や|鞭《むち》もあったはず。
「そうよ。行かない方がいいわ」
メルルが、ロアデルの肩をポンポンと叩いた。
彼女はリザに比べると、かなり常識的な人間でありそうなので、ロアデルはホッとした。正体のわからない敵に攻め込まれていたところに、異国からの援軍が到着したような、そんな心持ちである。
肩の力が抜けたところで、ロアデルは二人を見比べて思った。
「お二人はとても似ていらっしゃいますね」
さっきまでは髪の色が違ったからわかりにくかったけれど、髪の色が|揃《そろ》った二人は、まるで|双子《ふたご》のようにそっくりだった。ストレートと巻き毛の違いこそあれ。
「仕方ないわよね、メルル。片親が同じなんですもの」
リザは|呵々《かか》と笑った。
「はっ?」
「何変な声出しているの、ロアデル。さっき言ったわよ。私たちは姉妹だって」
「えっ、でも」
リザはラフト・リーフィシーの姉ではないはず。けれど、メルルはこの家の娘で。その二人が姉妹ということ――。いったいぜんたい、どういう事なのだ。
「いつも言ってるでしょ。私のこと、妹とか言わないで」
メルルが、リザをにらみつける。
「真実から目をそらしてどうするの。あなたの|身体《からだ》に流れる血は、間違いなく半分私と同じなのよ」
「あ、あのっ、ちょっと待ってください」
ロアデルが目を白黒させていると、メルルが「もしかして聞いてないの?」と|呆《あき》れたように言った。
もしかしなくても聞いていない。ロアデルがうなずくと、メルルは「しょうがないわね」と説明してくれた。
「私は生まれてすぐに、王宮前広場に捨てられていたのよ。それをこの家のお父さまが拾って育ててくれたの。ここまで、いい?」
「……」
ロアデルはパクパクと口を開いたまま、どうにかうなずいた。本人はカラリと言うが、聞く側にとってそれは思いがけなく、かなり重い話題であった。
「捨てられていた、って言ってもね、形だけなのよ。産んだのは私の母親だってわかっているし、父親は」
脇から口を挟《はさ》むリザの言葉を、メルルは「やめてよ」と遮《さえぎ》った。
「捨てられてたのよ。生みの親なんていないわ」
「あらそうかしら」
すでに慣れっこなのだろう、リザはメルルに怖い顔をされようと一向に気にしない。そればかりか。
「じゃああなたは、この世に一人で生まれてきたっていうの?」
赤ん坊が採れるキャベツ畑や赤ん坊を運んでくれるコウノトリが存在するのであれば、|是非《ぜひ》ともその連絡先を教えて欲しいわ、などと、ここぞとばかりに|揚《あ》げ足を取る。
「そうじゃないでしょ。人間に大切なのは、誰から生まれたかではなく、誰に育てられたか、そう言いたいだけよ。だから私の両親は、ゼルフィのお父さまとお母さまだけだって――」
「生まれより育ち? でも、メルル。考えてみて。ゼルフィの|小父《おじ》さまだって、出自を重んじたからこそ、|厄介《やっかい》な荷物になると知りつつあなたを引き受けたのではないの? ほら、そう考えれば筋が通る」
「お父さまを|愚弄《ぐろう》する気?」
「別に愚弄なんてしてないわ。事実を言っただけ。……ああ、ちょっと待って。ロアデルがまた目を白黒させている。あのね、メルルは私の母と、私の夫の父親との間に出来た子供なのよ。互いに|伴侶《はんりょ》と死別していたから、別に|不倫《ふりん》じゃなかったけれど。子供の縁談について相談しているうちに、そんな仲になってしまったから、|世間体《せけんてい》が悪くて、大っぴらにできなかったのよね」
で、今は亡き前ゼルフィ公が引き取って大切に育てた、と。
「はあ、そうですか」
うなずいたものの、ロアデルはほとんどついていけなかった。もういいです、私に構わず会話を進めてください。そんな感じの相づちしか、打つことができない。
出かける前、エイが「一言で説明するのは難しい」と言った意味が、|今更《いまさら》ながらよくわかった。たとえあの時説明してもらったとしても、ロアデルはまったく理解できなかったろう。
「ロアデル、気にしないでそこで少しお休みなさいな」
「そうね。そうしたらいいわ。この話を初めて耳にすると、|大抵《たいてい》の人はその晩|知恵《ちえ》熱《ねつ》出しちゃうのよ」
「いえ、|大丈夫《だいじょうぶ》です」
ロアデルは辞退した。
立ったまま口論しているお|嬢《じょう》さまたちを差し置いて、使用人が座るなんてできるわけがない。
しかし、リザとメルルは「この先倒れられては大変だから」とロアデルをソファに無理矢理座らせた。けんか中であるはずなのに、この時だけは二人すごく息が合っていた。
「とにかく、目にとまった身よりのない子をすべて引き取っていたら、この家は孤児院のようになっていたはずよ」
ロアデルをソファに押しつけるとすぐに、姉妹のバトルは再開された。
「お父さまはやっていたわよ。でも、その前に捨てた親を捜しだして、育てるように説得するの。説得するだけじゃなくて、力にもなったわ。仕事を見つけてやったり、病院に入れるよう手続きしてやったり。それでもどうしてもだめな場合は、里親をさがしてやって。引き取られた後も、時折様子を見にいっていたわ」
「そんな立派な方なのに、どうして子育てを失敗したのかしら」
「失敗?」
メルルは|片眉《かたまゆ》を上げた。
「ゼルフィの次男坊は、ろくに学校にも行かずに下町で不良少年を従えて悪さしている、って。五年ほど前、王宮のサロンでは評判だったわよ」
「それは……」
リザの言葉を聞くと、さっきまで|威勢《いせい》がよかったメルルのテンションが突然落ちた。自分のことであればいくらでも戦える彼女の、唯一の弱点が、血のつながらない弟なのだとロアデルにはわかった。
「あの子は、寂しかったのよ」
「そんな理由で一々ぐれていたら、|検断《ポロトー》がいくつあっても足りないわね」
リザはそこが攻めどころとばかり、追い打ちをかける。
「そして、人を殺して寂しかったんですで済むなら、|検断《ポロトー》なんていらないのよ」
「罪は|償《つぐな》っているわ」
「でも、何年|牢獄《ろうごく》に入っていようと、たとえ刑期を終えて出所しようとも、本当の意味で罪が|相殺《そうさい》されることはないわ」
「そんなことわかっている」
わかっているけれど、|庇《かば》わずにいられない。声にならなかったメルルの言葉が、ロアデルには痛いほど伝わってきた。
それは、ロアデルも同じだから。
アカシュの罪がどんなに重いものであろうと、きっと|止《や》むにやまれぬわけがあってのことなのだろう、と、どうしても思ってしまう。
今の彼を知っているから。過去の彼のことも、信じたいのだ。
「そうだわ。ねえ、ロアデル」
笑いながら、リザが振り向く。
「あなたは、知っているの? あなたの大好きな|旦那《だんな》さまが、どうして|懲役刑《ちょうえきけい》を受けているのか」
「えっ」
ロアデルは身構えた。彼女は、何を言おうとしているのだろう。
「彼はね――」
「やめてよ、リザ!」
メルルが叫んだ。その時。
「人を殺したんだ」
リザではない声が、言った。
――ヲ殺シタンダ。
三人の女は、一斉にドアを振り返った。
「アカシュ……」部屋の入り口に、黒髪の青年が立っていた。
2
エイが王宮に|早馬《はやうま》で乗り付けた時、門前はちょっとした騒ぎになっていた。
「どうしたんです」
エイは、馬を止めて尋ねた。
「あ、|東方検断《トイ・ポロトー》の――。いえね、大したことではないんですが」
衛兵は首をすくめる。
一人の少年が王宮の入り口に座り込んで、動かないという。その側を数人の衛兵たちが取り囲んでいるのは、通行の|邪魔《じゃま》になっている少年をどうにか移動させようとしているかちらしい。しかし、少年はてこでも動かない。
「構わず入ってください。馬車じゃないから、あの脇を通れるでしょう」
「うむ」
多少気にはなったが、今は急いでいたので、エイは言われた通りに入城することにした。座り込んだ少年の側を通る時、聞くとはなしに彼らの会話を聞いていた。
「エドアって人に会わせてくれよ」
エドア。その名前が耳に飛び込んでこなければ、たぶんエイはその場で馬を止めたりはしなかっただろう。
「だから、どこの所属か言わなければ調べようもない、ってさっきから言っているじゃないか。この城にはな、たくさんの人間がいるんだ。突然訪ねてきて、名前だけ言って、さあ面会させうったって、無理に決まってるんだよ」
「所属なんて小難しいこと、わかんねえよ。けど、たぶん偉い人だよ。その人に買ってもらいたい物があるんだ」
「偉い人が、お前みたいなガキから物を買ったりするものか」
「するよ。だって、きれいなお姉ちゃんがそう言ったんだから。エドアって人にこれを見せれば、いくらだって出すはずだって。だから、俺、必死になって池の中を探したんだよ。子分たちを何人も使ってさ。こっちだって元手がかかってるんだ。所属がどうのって言われたからって、簡単に引き下がれっかよ」
衛兵たちが手を引っ張るのをふりほどき、地面に大の字にひっくり返った。
「死んでも動くもんか。どうしてもどかせたかったら、殺してみやがれ」
そう言われたからといって、「はいそうですか」と殺せるわけがない。こうなると、大人たちも手に負えない。
そこで、エイは声をかけた。
「少年」
「何だよ。兄ちゃん……いや、姉ちゃん?」
少年が身を起こして、自分に声をかけた人の顔をマジマジと見た。
「――お兄ちゃんだ」
場合によっては決闘も辞さないほどの|屈辱《くつじょく》的な言葉だったが、相手が子供ということと、「エドア」という単語についての情報収集のために、グッと怒りを抑えた。
「エドアの下はわかるか」
「エドア・ギって言ったかな」
エドア・ギ。
なんて事だ、とエイは思った。
「――わかった。その人に売るはずだった物を、私が買ってやる」
すると少年は、死んでも動かない場所を簡単に動いて、エイのもとに駆け寄ってきた。
「今、何て言ったんだい?」
「私が買う、と言った」
「えっ? お兄ちゃんが、エドアさんなの?」
「違う」
「エドアさんじゃないのに、どうして買い取ってくれるんだい? これが何だか知っているの?」
少年は|拳《こぶし》を握ったまま、馬上のエイの前に突き出した。どうやら商品は、子供の手の中に収まるほどの大きさらしい。
「知らないよ。けれど、エドア・ギという人のことは知っている。これから会う予定だから、まずは私が代金を立て替えておいて、そっくり彼に買い取ってもらおうってわけさ。だから、君の手の中に何が入っていようと一向に構わない。……そうだな。私の手に|噛《か》みついたりしない物ならね」
「噛みつきやしないけれど」
少年は|拳《こぶし》を下ろすと、探るようにエイを見た。
「本当? 本当にエドア・ギさんと知り合いなのかい?」
「疑うならいい。この話はなしだ」
エイは|手綱《たづな》を引いて、馬に進行方向を示した。
「私にはどうでもいいことだからな」
すると。
「待ってよ」
少年は、あわてて追いかけてきた。
「疑ったんじゃないんだ。ただ、これはエドア・ギさん以外にはまったく価値がないものだって聞いたから」
「黒髪の、きれいなお姉ちゃんがそう言っていたのかい?」
「どうして知っているの?」
「さっき会ったからね。お兄ちゃんはお姉ちゃんの知り合いだ」
知り合い。口をついて出た言葉だったが、まったくの|嘘《うそ》ではない。
「そっか。じゃ、お兄ちゃんは味方なんだね」
「ああ」
エイはうなずいた。しかし何が味方で何が敵なのか、言っている自分もさっぱりわからない。
「じゃ、売った」
「いくらだ」
「銀貨五枚」
「ふっかけたものだな」
銀貨一枚だって多いくらいだ。
「銀貨三枚でどうだ」
「四枚。これ以上はまけられないよ」
「まあ、いいだろう。ほら」
エイはポケットから|財布《さいふ》を取り出して、少年に銀貨を四枚握らせた。転売できなかった場合痛い買い物になるだろうが、仕方ない。このチャンスを逃して、後で|後悔《こうかい》するよりよっぽどましだ。
「ありがとう、お兄ちゃん」
少年は広げたエイの手の平の上に、小さな鉄の|塊《かたまり》をのせて走り去った。後に残されたエイは、手の中の物をしげしげと眺めてから首をひねった。
「……|鍵《かぎ》?」
わからない。
「なぜ、こんな物をあの方が欲しがるのだ……?」
一般的にはあまり知られていないが、エドア・ギとは現|陛下《へいか》の|幼名《ようみょう》なのであった。
3
「アカシュ……」
メルルの唇が、小さく動いた。
「ご|無沙汰《ぶさた》しています、姉上。相変わらずですね」
アカシュは両手を広げながら部屋の奥へと進み、姉と軽い抱擁《ほうよう》を交わした。しばらく会っていなかったが、最後に会ったのがまるで昨日のように感じる。この女性は、いつだって離れていた距離や時間を感じさせない人だった。
「相変わらず、って?」
|身体《からだ》を離して、メルルが質問した。アカシュは笑って答える。
「|威勢《いせい》がよくて、お美しい」
「うれしい|褒《ほ》め言葉ね。はい、ラフト・リーフィシーにお|土産《みやげ》」
床に置いた旅行|鞄《かばん》を開いて、「はい」と封筒のようなものを差し出す。
「何ですか、これは」
「女性からの手紙」
差出人の名前を見て、アカシュは目を輝かした。
「ラアナだ」
|宛名《あてな》は『|東方検断《トイ・ポロトー》長官ラフト・リーフィシー様』とある。
「アカシュ宛のも預かってきたけれど、こっちは獄舎の方に回しておくわね」
「そこにあるのに」
「手続きは踏まないとね。残念ね。こっちはラブレターなのに、|検閲《けんえつ》が入るのよ」
で、その手紙の返事を書いたとしても、また検閲が入るわけだ。やれやれ。
――と。
「ねえ、そのラアナっていくつ?」
少し離れた場所から、尋ねる声。
「確か……十歳だったかしら」
メルルが答える。
「十? じゃ、相手じゃないわね」
相手じゃない、って。何の相手をさせようとしていたんだか。――などと思っているアカシュの顔めがけて、ヒュッとハンカチが飛んできた。
「私を無視し続けるなんて、いい根性じゃない。ラフト・リーフィシー」
「失礼」
アカシュは、足もとに落ちたハンカチを拾い上げた。
「無視したわけではないのですが。変装して城を出られたということでしたので、私が簡単に見つけてしまっては、ご不快になられるかと存じまして」
見つけたくないな、という気持ちがチラッとでも働かなかったかといえば、|嘘《うそ》になる。だが、目をそらしたところで目の前の難題が消えないことくらい、十分すぎるほどアカシュにはわかっていた。
「ラフト・リーフィシー、あなたが帰ってきたということは、エイは間に合わなかったのね。お気の毒さま。彼、私をあなたに会わせないために|躍起《やっき》になっていたわよ。部下の苦労を、察することもできないなんて、無能な上司だこと」
なるほど。ということは、ログが見た|早馬《はやうま》はやはりエイだったわけだ。
「エイとは行き違いになりましたが」
アカシュはリザの前まで進んで、ハンカチを差し出した。
「それでも城門で|謎《なぞ》の女性が私を訪ねてきたという報告を聞いて、無能の上司にも大体の事情はわかりましたよ。まあ、それだけなら、あなたがお帰りになるまで|獄舎《ごくしゃ》に隠れているのも一つの策だと思いましたけれどね。遅れて姉上も帰ってきているとなったら、そうもいかないでしょう」
「どうして?」
「あなた方お二人は、会えばすぐにけんかするから」
「あら、ならばあなたは、私たちを|諌《いさ》めるためにこの場に来たということかしら?」
左手でハンカチを受け取り、入れ違いで右手を前にすっと出すリザ。アカシュは、|仰々《ぎょうぎょう》しくひざまずいた。
「ご|挨拶《あいさつ》が遅れました。ごきげんよう、|王妃《おうひ》さま」
彼女の手に口づけたその時。
「おっ、王妃さま!?」
横合いから、|驚愕《きょうがく》の声があがった。あまりに静かだったから、つい存在を忘れていた。ロアデルがソファから立ち上がり、リザを指さし口を大きく開けたまま固まっていた。
「あれ、彼女にまだそのことを教えてなかったんですか」
「そう言えば」
メルルとリザは顔を見合わせた。
「でも話の内容から、わかってもよさそうよね」
「じゃ、じゃあ本当なんですか。リザさまが王妃さまって」
ロアデルは泣きそうになっている。無理もない。知らなかったとはいえ、一つ部屋に二人で結構な時間を過ごした相手が、女性で最高位の人物だったのである。
たとえ貴族であっても、位が低ければ一生言葉をかわすことも叶わない王族。根っからの|庶民《しょみん》であるロアデルのショックといったら、相当なものであったろう。
「この人の夫がこの国の王だから、そういうことになるんじゃないの?」
リザを指して、メルルが苦笑した。
「……ということはメルルさまは」
メルルはリザの妹でもあるが、リザの夫の妹でもあるわけで。
「世が世なら王女さま、だわね」
リザの言葉を聞くやいなや、ロアデルは「ご無礼いたします」と言ってソファにバタンと倒れ込んだ。
「おい、ロアデル。|大丈夫《だいじょうぶ》かっ」
アカシュが駆け寄ると、ロアデルは目をぱっちりと開けて答えた。
「すみません。急に足の力が抜けて。まるで|身体《からだ》中の血液がすべて頭に集中したみたい」
「わかった。少し休んでいろ」
肩をポンポンと叩いて、ソファを離れる。この場にソファがあってくれて、助かった。そうでなければ、身体がいくつあっても足りない。取りあえずアカシュは、口げんかがヒートアップしてきた二人の女性のもとに戻った。
「王女さまとか言うのやめて、って言ってるでしょ。それ以上言ったら、お手入れしたての|爪《つめ》で引っ|掻《か》くわよ」
「まあ、何その態度。少しは年長者を|敬《うやま》いなさい」
「敬って欲しければ、先に敬えるような人になってくださらないことには」
ああ言えばこう返す。あまり関わりたくはないが、このままではいつまで経っても終わりが見えない。
「ストップ!」
アカシュは覚悟を決めて、二人の間に割って入った。
「ほら、またけんかする。二人とも、いい加減にしてください」
「二人? 注意するなら、リザだけにしてよね。リザがけんかを売るから、私が買わなきゃならなくなるんだから」
買いたくない物は、買わなくていいのだ。それが買い物の正しいあり方である。
「売ってないわよ。でも、メルルは真実を言い当てられるとカッとくるみたいね」
「何ですって」
と、手を振り上げかけたものの、そこで|激昂《げきこう》しては、先のリザの言葉、『メルルは真実を言い当てられるとカッとくる』を認めることになると判断したのだろう、メルルは努めて穏やかな表情を作って毒づいた。
「……さっさと帰ってくれない? |目障《めざわ》りなのよ」
「あなたに言われる筋合いのことじゃないわ。私はラフト・リーフィシーの客人よ」
リザは、自分の髪の毛をいじりながら微笑した。
「だったらアカシュ、早くこの人を追い出しなさい」
「かしこまりました、姉上」
結局、最後はこちらにおはちが回ってくるのだ。アカシュは、メルルに頭を下げてからリザと向き合った。
「下の応接室で、ご用件を|伺《うかが》いましょう」
「いいわ」
アカシュが腕を差し出すより前に、リザは自分の腕を|絡《から》めてきた。三歩ほど歩いたところで、予想通り、メルルの怒り声が背中に突き刺さった。
「待ちなさい、アカシュ。私は彼女を追い出して、って言ったのよ。エスコートしろなんて、一言だって言ってやしないわ。あなた、いったいどちらの味方なの!」
やれやれ。
「姉上の味方に決まっているじゃないですか」
アカシュは振り返って言った。
「でもこの方が私に会いに来られた以上、ご用件を伺うのが筋でしょう」
「この人にご[#「ご」に傍点]用件なんてないわよ。気まぐれに思いたって、ただ我が家をかき混ぜに来たに決まってるんですから」
「まあ、メルルったら。意地の悪い見方しかできないのね」
アカシュの陰から顔を出して、リザが舌を出す。
「意地が悪いのは、どっちよ。まったく、顔を見てるだけで気分が悪くなる女だわ」
「ですから、姉上はここに残る。私は|階下《した》で客人のお話をうかがう。それでいいじゃないですか」
少なくとも|口喧嘩《くちげんか》で脱線しまくらなくなる分、話がスムーズに運ぶはずである。
いずれは時間をかけてじっくりと、この二人のいざこざについては解決しなければならないだろうけれど、今はそれをしている|余裕《よゆう》はない。
「それでいい? いい、わけないでしょう? リザとあなたと二人きりにするなんて、そんな危険なこと、姉として断じて許すわけにはいかないわ」
王宮で|手枷《てかせ》をはめられた誰かさんと同じで、信用ないわけだ。
「でも、階下にはシガレたちもいるし」
「いる、って言っても、|厨房《ちゅうぼう》でしょ?」
「そりゃ……」
「とにかく|一緒《いっしょ》に行くわ」
メルルは、アカシュとリザの後ろにピッタリと引っ付いた。すると、そのまた後ろからか細い声が追いかけてくる。
「私も」
「ロアデル!」
ソファでダウンしていたはずのロアデルが、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。メルルがあわてて駆け寄り、ロアデルの|身体《からだ》を抱き寄せた。
「ああ、あなたはいいのよ。ここで休んでいらっしゃい」
「いいえ、もう|大丈夫《だいじょうぶ》です」
「そうは言っても」
「お願いします。|一緒《いっしょ》に行かせてください」
|這《は》ってでもついてきそうな気迫に負けて、メルルは同行を許した。しばらく安静にしていたせいだろうか、ロアデルの足取りは心配するには及ばないほどしっかりしていた。
「だったら、わざわざ場所を変える必要ないんじゃないかな」
階段を下りながら、アカシュは首をひねった。
リザとメルルを引き離すために、部屋を分けることにしたのだ。四人がそっくりそのまま移動したなら、状況は依然として変わらない。
「いいじゃない。私、何か飲みたいわ」
メルルが言った。
口論しすぎて、|喉《のど》がカラカラに|渇《かわ》いたらしかった。
4
応接間の|椅子《いす》には、一対二で向かい合う形で座った。もちろん一は客人、二はゼルフィ家の当主とその姉。
「どうぞ」
料理人が用意したレモン水をテーブルまで運んできたのは、|役宅《やくたく》の使用人、――つまり、ロアデル。ソファで何を悟ったか、吹っ切れたみたいに、今はいつもの彼女に戻っている。
「気になるんでしょ。居ていいわよ」
下がりかけたロアデルに、メルルが言った。
「でも」
|伺《うかが》いを立てるようにこちらをみるので、アカシュも「いいよ」と告げた。ここまでこの家のゴタゴタをさらけ出したのだから、|今更《いまさら》隠すものはない。
ロアデルは一礼してから、応接室の扉の前に控えた。
「ゼルフィ家の当主としてご用件を伺う前に、|東方検断《トイ・ポロトー》長官ラフト・リーフィシーから一つ質問をしたいのですがよろしいですか?」
アカシュは、リザに尋ねた。
「どうぞ?」
「|鍵《かぎ》はどうしました」
「鍵?」
「あなたが王宮を出られる時に、持って出られた|手枷《てかせ》の鍵です」
国王の|名誉《めいよ》のために、その手枷をかけられた人物の名は明かさなかったが、メルルは瞬時に察したらしい。アカシュにだけ聞こえる声で、「馬鹿夫婦」とつぶやいた。
「なくしたわ」
「な、なくした?」
「そう。な・く・し・た。残念ながら、持ってないの」
「どこで」
「王宮前の公園の池の中に落としたの」
「池!?」
アカシュは、思わず立ち上がって声をあげた。
「アカシュ?」
隣のメルルが、心配そうに尋ねる。アカシュは片手を広げて「|大丈夫《だいじょうぶ》だ」という仕草で応えてから、|椅子《いす》に座り直した。顔では平静を|装《よそお》っているが、心の中では「なんて事だ」と繰り返し叫んでいる。
なんて事だ。一時、あんなに側まで近づいたというのに。
なんて事だ。広場で声をかけた少年の会話の中に、たくさんのヒントが転がっていたというのに。
気づくことができずに、その場を去ってしまった。あの時、もう少し|勘《かん》を働かせていたら、少なくとも鍵の件だけはすぐに解決していたものを。
|悔《くや》しい。自分の|迂闊《うかつ》さが|悔《く》やまれた。
「……わざとですね」
含み笑いのリザに、アカシュは|詰問《きつもん》した。
「そうよ。言ったでしょう? 『なくなった』のではなくて『なくした』。『落ちた』のではなくて『落とした』って」
「どうして、そんなことを」
「さあ。池の中の落とし物を捜す子供たちが、あまりに楽しそうだったからかしら。もしかしたら、仲間に入りたかったのかもしれないわね。ああ、大丈夫よ。探し出したら、ちゃんと|陛下《へいか》の所に持っていくように言ってあるから」
どうしてこの人は、こんなにも|無邪気《むじゃき》なのだろう。それとも、単なる世間知らずなだけなのか。
「大丈夫じゃないと思います」
何でこんなことまで教えなければならないのだろう、と思いながらアカシュは告げた。
「あら、どうして?」
「あのような子供が、|陛下《へいか》に会おうとしたって無理なんですよ。たぶん、城門の前で|弾《はじ》かれます」
「そうなの?」
「何のために衛兵がいるとお思いですか。彼らはただ飾りで門の脇に立っているのではないんです。あそこで城への出入り、主に入る方を規制しているんです」
「そういえば、王宮を出るのは比較的楽だったけれど、|東方牢《リーフィシー》城に入るのは結構チェックが厳しかったわね」
「……ここの場合は出るのも厳しいですよ」
|獄舎《ごくしゃ》があるから。脱獄者が出ないよう、目を光らせている。
(しかし)
そうなると、今日中に|手枷《てかせ》の|鍵《かぎ》を取り戻すのは難しいかもしれない、とアカシュは思った。
|今更《いまさら》池をさらったところで、子供たちが拾い上げた後だろうし、これから急ぎ王宮に向かってももはや夕暮れ。暗くなってまだ、彼らがあの場所にいるとは思えない。
明日もう一度広場に行って、あの少年を探すか。いや、今日中にどうにかすると陛下と約束したからには、やはりエイが帰り次第、|獄舎《ごくしゃ》のオキフ老を連れて王宮に行かせるより他に、選択|肢《し》はないかもしれない。
(一時にせよ囚人を一人城外へ出すというのは、手続き上かなり面倒くさそうだな)
いっそ、|内緒《ないしょ》で出してしまおうか、と考えないでもないけれど、その場合万一出先で何かあった時に申し開きができなくなってしまう。
(ここはやはり、正規の方法をとらないとだめか)
行き先は王宮であることだし、とんぼ返りしたって、夕方の|点呼《てんこ》には間に合わない。
「わかりました。鍵の件は、もういいです」
アカシュは|東方検断《トイ・ポロトー》長官の肩書きを一旦脇に置いて、今度はアカシュ・ゼルフィとしてリザに向き合った。
「ご用件を|伺《うかが》います」
ゼルフィ家にとって、あまり楽しい用件ではないだろうことは想像がつく。しかし、リザの口から出た言葉はというと。
「チョギーをしましょう」
――であった。
「はっ!?」
アカシュやメルルだけでなく、部屋の端で控えていたロアデルまでも同じように間抜けな声をあげた。
「ち、チョギーをやりにいらしたのですか」
「ううん。でも、気が変わったの。チョギーでもしながら話をした方が、|交渉《こうしょう》が有利に運ぶと思って」
「……言っておきますが、私はチョギーに強いですよ」
「知ってるわ。でも、勝ち負けは関係ないのよ」
ということは、少なくとも『負けた方が勝った方の言うことを聞く』という条件をつける気ではないようだ。
「どう? するの? しないの?」
リザの真の目的がわからないのに、誘いに乗るのは危険だ。だが。
「一勝負ついたら、帰ってあげるわ」
そう言われれば、乗らないわけにはいかない。一勝負。リザとチョギーをやったことはないから実力のほどはわからないが、たとえ長くても一時間とかからずに片はつくだろう。
懐中時計を取り出して、針の位置を確認する。夕方の|点呼《てんこ》の時間まであと一時間ある。アカシュは決断した。
「わかりました。お相手しましょう」
|焦《あせ》りは|禁物《きんもつ》だが、のんびりしていては二重生活に支障を|来《きた》す。
「ロアデル。|支度《したく》してくれるかい?」
「はい」
ロアデルは一旦下がると、木製の箱を持って戻ってきた。その|懐《なつ》かしい箱の中には、子供の頃よく遊んだ盤上ゲームがいくつか入っている。|蓋《ふた》を開けると、一番上に見えたのがチョギー盤だ。
アカシュが小箱の中から白い|駒《こま》を取り出すと、メルルが「手伝うわ」と言って黒の駒を並べ始めた。
黒白ともに半分ほど並べ終えた頃、リザがアカシュの手を押さえて言った。
「これじゃなくて。王家からもらった駒があったでしょ? せっかくだから、あれでやりましょうよ」
王家からもらった駒。
その言葉を聞いた瞬間、アカシュの心臓は止まりそうになった。|動揺《どうよう》して駒を落とさなかったのは立派だったと、自分でも思う。
「あいにく、あの駒は|役宅《やくたく》にはないんです。今日のところはこれで我慢してください」
駒並べを再開しながら、告げる。どうにかこれで納得してくれますように、と祈るような気持ちで。だが。
「嫌」
|一刀両断《いつとうりょうだん》である。
「あれは庁舎の執務室にあるんですよ」
こちらが|駄目《だめ》だと言えば言うだけ、あちらが引かなくなることはアカシュにも十分わかっていた。しかし、わかっていても、「あの|駒《こま》を使いましょう」とはどうしても言えない。ここは多少強引であっても、こちらの主張を押し通すしかなかった。
「わかったわ。じゃ、庁舎に行きましょう」
「無理言わないでください。庁舎は仕事場です」
いい加減|諦《あきら》めてくれないか、と思う。しかし、昔から|他人《ひと》が嫌がることに|食指《しょくし》が動くような人である。
「おかしいわね。その仕事場に、どうして遊び道具のチョギーがあるのかしら?」
いつものリザの言動とは不釣り合いな、まとも過ぎるご意見まで飛び出す。
「王家からいただいた物だから、庁舎で大切に管理しているんです。とにかく庁舎は関係者以外が気軽に入っていい場所じゃありませんから」
リザがあまりに例の駒にこだわるので、アカシュは「もしや」と疑問を感じはじめた。
その時である。
|業《ごう》を煮やしたメルルが、イライラと言った。
「ああ、面倒くさい。盤はここのを使って、駒だけ取ってくればいいじゃない。それでいいんでしょ、リザ?」
「いいわ」
リザは満足げにうなずく。
「姉上……」
助け船を出してくれたつもりなのだろうけれど、それは弟の首を|絞《し》める行為に等しかった。しかし、メルルはそのことにまったく気づいていない。
「ちょっといいですか」
アカシュはメルルの腕を|掴《つか》んで、部屋の隅まで連れていった。これ以上味方同士で足を引っ張らないようにするためには、作戦会議が必要だ。
「実は、執務室の駒が一つ|行方《ゆくえ》不明なんですよ」
コソッと告げると、メルルはにわかには信じられない様子で、一言「うそ」とつぶやいた。
「本当です」
「ばかね。だったら、どうしてそれに似せて駒を作らないのよ」
|偽物《にせもの》、ダミー、替え玉、|偽造品《ぎぞうひん》。何でもいいから|影武者《かげむしゃ》をたてて、せめて表面だけでも取り|繕《つくろ》うべきだったのに、と責める。メルルにとっては、王家への忠誠心なんてまるで意味のないもののようだ。
「まったく、頭の回転が悪い子ね」
「お言葉ですが姉上。なくなったと気づいたのは、昨日なんです」
特注なのだ。急がせたって、十日はかかる。
「どうするのよ」
「だから困っているんです」
ゼルフィ姉弟、絶体絶命大ピンチ。
「いつまで待たせるのかしら」
レモン水の入ったグラスを揺らしながら、リザがつぶやく。|独《ひと》り|言《ごと》を気取っているが、明らかに聞こえるように言っている。
「失礼」
アカシュは、メルルを|伴《ともな》って席に戻った。作戦会議の結論は出ていないが、|粘《ねば》ったところで簡単に答えは見つかりそうもない。
「まさか、姫君の|駒《こま》が|行方《ゆくえ》不明なんてことはないわよね」
勝ち誇った表情のリザを見て、アカシュは「そうか」と小さくため息をついた。
「どこで見つけられましたか」
「何のこと?」
「チョギーの駒です。あなたが保管してくださっているのですか」
だから、あんなに|執拗《しつよう》に庁舎の駒にこだわっていたのだ。少なくとも、そこに姫君の駒はないと知っていたから。
「あら、本当になくしていたの?」
「しらばっくれて。あなたが盗んだんじゃないの?」
リザにつかみかからんばかりの勢いで迫るメルルを、押しとどめながらアカシュは言った。
「姉上、それは違います」
駒がなくなったのは、たぶん一昨日、そしてリザが来たのは今日。この二日のブランクを埋めるのは、なかなか難しい。
「この人ならやりかねないわ。どんな手でも使って、自分の思い通りに事を運ぼうとする人だもの」
「そうね。で? 仮に私が取ったとしましょう。だったらどうするの?」
「返して」
「ただで?」
リザの言葉を聞いて、メルルは一瞬絶句した。
「何言っているの? それはうちのものよ。正当な持ち主に返すのは当たり前でしょ?」
「なるほど」
リザはメルルから視線を外して、アカシュに向き合った。
「じゃあ、ラフト・リーフィシー。その前に、まず私たち夫婦の所有物を返していただけないかしら」
「意味がわかりません」
答えながらアカシュは、「そう来たか」思った。
「わかっているでしょう? メルルのことよ」
「返すもなにも。姉上は、我がゼルフィ家の人間ですから」
「育ててもらったゼルフィ家には、本当に感謝しているわ。でも、こちらの事情も酌んでちょうだい。メルルは私たち夫婦にとっては、たった一人の娘なのよ」
瞳を|潤《うる》ませて|懇願《こんがん》する。リザのことをよく知らない人間だったら、この表情にコロッと|騙《だま》されてしまうだろう。
「娘ー!? 馬鹿言わないで。リザ、あなた今いくつ?」
「|歳《とし》のことは言わないでよ。あなただっていい歳なんだから、聞かれたくないでしょ」
二人は急にテンションを落として、ボソボソと言い合う。まったく女というものは、いくつになってもその話題に過激に反応するものである。
「……そうね、歳の話題は避けましょう。でもね、私とあなたは十も離れていないのよ。どうしろっていうの、この|矛盾《むじゅん》」
「馬鹿はどっちよ。|比喩《ひゆ》に決まっているでしょ」
クールダウンかと思いきや、またもやヒートアップか。リザの|偽涙《にせなみだ》も、すでにカラッカラに乾いている。
「私たち夫婦には、もう十年も子供ができないの。王家としては、そろそろ世継ぎのことを考えないといけないでしょ? でも、|陛下《へいか》には兄や弟がいないし。女きょうだいだって、|里子《さとご》に出した妹が一人きり。その彼女は、生まれて間もなく手放されたことを|恨《うら》んでか、王家に帰ることを|拒《こば》んでいるし」
「だったら、|叔父《おじ》でも|従兄弟《いとこ》でも連れてくればいいじゃない。王族を一同に集めて、王さまをやりたい人を|募《つの》れば、ごっそり手が挙がるわよ」
「ええ、そうね。でも、私たちは愛し合っているから、できれば二人の血を残したいのよ」
「じゃ、せいぜい子作りに|励《はげ》めば?」
もちろん、それは正論なのだが。それを言っては、お|終《しま》いだろう。
「励んでるわよ。でも、できないんですもの。しょうがないじゃない。あなたには、欲しくても身ごもれない女の気持ちなんて、わからないでしょうけれど」
「……あなたにだって、五年前の私の気持ちはわからなかったはずだわ」
二人の女が、テーブルを|挟《はさ》んで静かに向かい合った。負けまいとしてほほえみを浮かべているけれど、どちらも心で泣いていた。
その立場に置かれなければ、本当の意味で理解できない悲しみはある。どちらが深いとか大きいとか、計る|術《すべ》などないのだから。
「とにかく、私たちは|可愛《かわい》い妹に帰ってきて欲しい。そして王家を|託《たく》したいの」
気持ちを切り替えるように、大きく深呼吸してからリザは言った。
「姉上。そうおっしゃってますけれど」
帰りたいですか、とアカシュはメルルに尋ねた。
「嫌に決まっているでしょ」
「でしょうね」
答えがわかり切った質問だが、一応確認しただけ。
「というわけです。姉は、これまで通りゼルフィ家に」
「姫君の|駒《こま》が返ってこなくてもいいの?」
「致し方ありませんね。たかが駒一個で、姉を売る気はありません」
そんなことをしたら最後、アカシュは家宝をなくす以上の痛手を受けることになるに決まっている。
目には目を、裏切り者には報復を。――メルルとはそういう人だ。
「あら、いいの? あれは国王|陛下《へいか》から|拝領《はいりょう》した物でしょう?」
よくはないが、仕方ない。
「陛下に謝ることにしますよ」
答えたその時。
「謝るには及ばぬぞ、ラフト・リーフィシー」
応接間の扉が開いて、黄金の巻き毛を持つ男が入ってきた。
「あれは先代にやったものだ」
「陛下……」
満を持してというか、|今更《いまさら》というか。
――ついに、ワースホーン国の国王登場である。
5
国王は少し赤く|腫《は》れた手首を回しながら、応接間の中央に進み出た。
アカシュの知らないところで、何がどうしたのかはわからないが、とにかく|枷《かせ》は外れて、めでたく自由の身になったらしい。
「出たわね、スケベ|親父《おやじ》」
メルルがつぶやく。
「思ったより早いお出迎えじゃない?」
と迎えたのは、リザ。
「これは夢、これは夢。だから、余計なことは考えなくていいの」
自国の王が自分の前を通り過ぎるのを見送りながら、うわごとのように口を動かし続けるロアデル。確かに、そんな風に言い聞かせないことには、精神がもたないかもしれない。何せ、今まで遠目にも見たことがない大物が、次から次へと登場しているのだから。
「遅くなりまして」
国王の後ろからは、|東方検断《トイ・ポロトー》副長官どのが入室した。彼はアカシュがこの場にいるのを見て、明らかに|落胆《らくたん》していた。
「元気か、我が妹」
国王は両手を広げ、メルルを抱き寄せようとした。が、メルルは半歩下がって腰を落とし、わざとらしく|仰々《ぎょうぎょう》しいお|辞儀《じぎ》をして見せた。
「ご機嫌|麗《うるわ》しゅう。|陛下《へいか》」
「相変わらず、きつい目で見る娘よのう」
「きつい目にさせるのは、どちらさまでしょうね」
「|余《よ》だとでも言うのか? 余が|其方《そろ》に、いったい何をした?」
「|誘拐《ゆうかい》騎士団や二十人の男を寄越しておきながら、何をしらばっくれているんです」
アカシュとエイとロアデルは、「誘拐騎士団」や「二十人の男」の意味がわからず顔を見合わせた。
「ああ、そうだったわね。メルル、二十人の中に気に入った男はいて?」
思い当たったリザだけが、国王の肩に両手をかけながら|愉快《ゆかい》そうに笑った。
「いるわけないでしょ、冗談じゃない」
誰も彼も最低な男ばかり、とメルルが毒づいた。どうやら国王夫妻は、メルルの|花婿《はなむこ》候補をまとめて二十人、領地へ送り込んだらしい。
「気に入らないとな。ならば、よかろう。自力で婿を探して連れて参れ。|其方《そち》が選んだ男なれば、多少の欠点は目をつぶろうほどに」
「だから、私はゼルフィ家から出ないって言っているでしょう?」
「わかった。それならば、無理に王宮に戻らなくてもよい」
と、メルルに物わかりがいい言葉を告げた国王が、九十度方向転換して、アカシュに何を言うかと思えば。
「そういうことだから。ラフト・リーフィシー、頼む。メルルと結婚してやってくれ。そして授かった一人目の男子を、我ら夫婦にくれると約束して欲しい」
「お断りします」
アカシュは、即座に断った。まったく何を考えているんだこの人たちは、と、もはや|呆《あき》れるしかない。
「王家を見捨てる気?」
「|邪魔者《じやまもの》扱いで捨てたくせに、|今更《いまさら》何言っているの?」
「メルルのことは、時期をみて王宮に迎えることになっていたのよ。でもゼルフィの|小父《おじ》さまが返してくれなかったの。息子の|嫁《よめ》にする、って」
「息子の嫁!?」
部屋の片隅から、声があがった。途端、視線が一カ所に集中する。注目されたロアデルは、両手で口を|覆《おお》ったまま、ドアのすぐ脇の壁に張りついていた。会話をおとなしく聞いているつもりだったらしいが、つい声が|洩《も》れてしまったようだ。
「俺じゃない。死んだ兄上のこと」
アカシュは、小指で耳の穴をかきながら説明した。ここに一人、王家とゼルフィ家の事情を|把握《はあく》しきれてない人物がいることを、うっかり忘れていた。
「……あ、兄上さま。……そうですか。……失礼をっ」
ロアデルは|詫《わ》びを言って、大きく頭を下げた。それから、恥ずかしさもあってか、追加分の飲み物を取りにいくという名目で、逃げるように応接間を出ていってしまった。
話を中断されたリザは、ロアデルの|慌《あわ》て様を見ているうちに、どこまで話していたかわからなくなったらしく、続きを|諦《あきら》めて「つまり」と話をまとめにかかった。
「――つまり。あなたは血のつながりでいえば、陛下に一番近い人間なのだから。あなたを必要としている王家の期待に、|是非《ぜひ》とも応えるべきでしょう?」
「勝手ね」
メルルはつぶやいた。
「あなた方に子供がいても、私のことをこんなに構ってくれたのかしら」
「それはっ……!」
反論しかけた妻を制して、国王が口を開いた。
「それを言われると、一言もない」
「ならば、お引き取りを」
「わかった。今日のところはおとなしく帰ろう。突然押しかけて、返答を求めるにはいささか重い話題であった。だが、|其方《そち》のことを諦めたわけではない。日を改めて、話し合いの場をもとうではないか」
「日を改めても、きっと私の気持ちは変わりません」
「何。其方の心が揺れ動くような条件を、きっと考えてみせようぞ」
楽しみに待っておれ、と豪快に笑う。しかし、ゼルフィ姉弟はまったく期待していなかった。国王夫妻が|捻《ひね》くりだすアイディアならば、「喜び」よりも「怒り」を呼ぶ確率の方が高いに決まっているからである。
「|邪魔《じゃま》したな、ラフト・リーフィシー。帰るぞ、|妃《きさき》」
「待って」
リザは、夫の手をふりほどいた。
「|駒《こま》の件がまだ片づいてないわ」
「おお、そうだったな。|其方《そち》が持っているなら、それ、返してやれ」
「嫌よ。メルルと交換するんだから」
「だが、ラフト・リーフィシーは交換しないと言っているのであろう? 何の|駒《こま》か知らないが、一つじゃ其方の役には立たぬぞ」
「私の役には立たないけれど、ラフト・リーフィシーを困らせることはできるわ」
「えっ!?」
その場にいた全員が|唖然《あぜん》とした。
「だってシャクじゃない。私は盗んだのではなくて、拾ってあげたのよ? ただで返したりしたら、|不手《ふて》際《ぎわ》があったくせに、ラフト・リーフィシーの一人勝ちになるわ。そんなの、おかしくない?」
「もう、よいではないか。ラフト・リーフィシーには、いろいろと世話になっているし、今後のこともある」
「|陛下《へいか》が許しても、私は許さないわよ。『ラフト・リーフィシーは、王家から|拝領《はいりょう》した品をなくした』。サロンでみんなに言いふらしてやる」
「そんなことして何になる」
「私は勝ちたいの。勝つためには、私が得をするか、彼に大きなダメージを与えて、差し引きでマイナスにするかしかないじゃない」
「……損得なのか」
国王も、ほとほと困り顔である。
過去「不良息子」とか「東の化け物」などと|囁《ささや》かれてきたサロンでの|噂《うわさ》に、|今更《いまさら》「家宝紛失」が加わったところで、本当のところアカシュは痛くもかゆくもないのである。しかし、このままリザの気持ちをくすぶらせたまま帰すのは、両家にとって得策とは言えない、そんな気がしてきた。
「よくわかりました。駒を拾って|頂《いただ》いた、お礼をさせていただきましょう」
こちらが下手に出ることで、駒が返ってくるならば何よりである。
「|検断《ポロトー》でも、落とし主は拾った人にお礼をするよう指導しています。何がお望みでしょう。私にできる範囲のことであれば、させていただきますが」
「メルルはだめということ?」
「駒を紛失したのは私の落ち度。姉は無関係でしょう」
「あなたの一存でできること?」
「はい」
その時。|土下座《どげざ》くらいで済めばいいな、とアカシュはぼんやり思っていた。逆立ち、とか言われたらどうしよう。裸踊りになると、自信がない。
「わかったわ。それじゃ、唇にキスして。|極上《ごくじょう》のキスよ」
「|極上《ごくじょう》のキス、……ですか」
それは、予想外の要求だった。
「逆立ちで部屋中歩いてもらったって、みんなが|一緒《いっしょ》に見てるのだったら私一人が得することじゃないもの。そんなの面白くないわ」
笑いながらリザは、アカシュの唇を指で|撫《な》でた。
「なるほど」
それは一理ある。納得してリザに向き合うと、背後からメルルがアカシュの肩を乱暴に|掴《つか》んだ。
「やめなさい、アカシュ。|男娼《だんしょう》じゃあるまいし。あなたには、男の誇りってものはないの?」
「誇り?」
アカシュは笑った。|懲役囚相《ちょうえきしゅう》手に、男の誇りを|説《と》くとは。そんなものは、|入獄《にゅうごく》する前に、血まみれの私服と一緒に脱ぎ捨ててきた。
今は身なりだけ整えて|検断《ポロトー》長官らしくはしているが、アカシュの中身は|紛《まぎ》れもなく囚人だった。
再び誇りを身にまとえる時が来るとしたら、それは放免される日。罪を犯した時に着ていた、もはや小さくて着られなくなった服を手に、獄舎の正面口から外に出る瞬間に他ならない。
だが、それは言っても|詮無《せんな》いことだ。
「きれいな女性に誘われて、それを断る理由はないだけですよ。姉上」
「馬鹿ね。あなたに、リザが満足するようなキスができるわけないじゃないの」
そんなメルルに見せつけるかのように、リザはアカシュの首に腕を巻き付けてきた。
「できるかできないか確かめてみたいわ」
「いいでしょう」
アカシュもリザの後頭部に手をあてがい、顔を引き寄せた。
「あの、……いいんですか」
心配そうにエイが、国王に確認した。アカシュがキスをしようとしているのは、一応彼の妻であるわけだから。
「構わぬよ、別に。私の前でする分には」
「では|遠慮《えんりょ》なく」
夫の許可が出たところで、アカシュはリザの唇に自らの唇を重ねた。
彼女の言う極上のキスとはどのようなものかわからないが、とにかく|蝶々《ちょうちょう》が|触《ふ》れあうような子供だましのキスでは許されないだろう。
やさしく、荒々しく、根気強く。ベッドで恋人を相手にしているように、長い長いキスをした。
こんなキスをするのは何年ぶりだろう。息をすることすら忘れ、次第に頭がくらくらしてきた。
自分と相手の口の中身が、区別不能なほどもつれ込むと、支えていたリザの|身体《からだ》がガクンと重くなった。
ほぼ同時に、ガチャンというグラスの割れる音が響く。
そして、メルルの|怒号《どごう》。
「いつまでやってるのよ。離れなさいっ!」
しかし、フニャフニャと力が抜けたままの女性をここで突き放すわけにもいかず、抱き続けていたら、リザの手がアカシュの手を取って彼女の胸もとへと導いた。
「合格よ。はい、これ」
胸の谷間から出てきたもの。それこそ、姫君の胸の谷間から出てきたもの。それこそ、姫君の|駒《こま》だった。なんて場所に隠していたのだ。
「これはどこに……?」
「|東方牢《リーフィシー》城の門前よ。どうしてあんな所に転がっていたの?」
「さあ。それは私にも」
「少なくともスリピッシュではないわね。これは王の駒ではないのだから」
「でも、あなたの一手で移動しました」
「そうね」
二人でほほえみ合った瞬間、アカシュの|頬《ほお》に衝撃が走った。
「今すぐ胸から手を離しなさい!」
|熊手《くまで》のように開いたメルルの指先の、一本一本の|爪《つめ》がこちらに向かって|牙《きば》をむいていた。あれで引っかかれたのか、と思うと、じわじわと痛みがこみ上げてくる。
リザは怒りに震えるメルルの顔を見て、クスリと笑った。
「帰るわ」
たった今、若い男との激しいキスを見せつけたというのに、リザは悪びれもせずに夫の腕をとって歩き出した。国王も国王で、にこやかに「では参ろうか」と応じるのだから、ほとほと変わった夫婦である。
見送りに出たエイの前で、リザは立ち止まった。
「エイ。あなたなら、メルルに子供を産ませることができて? |首尾《しゅび》よくいったら、未来の国王の父親になれるわよ」
「お|戯《たわむ》れを」
エイは静かに頭を下げた。
「ああ、そうね。つい、忘れてしまっていたわ。あのような方が産んだあなたを、王家に入れてはいけないのだった」
「リザ!」
「怒らないの、メルル。私は事実を言っただけ」
不敵な笑みを残して、玄関前に横付けされた王家の馬車に乗り込むリザ。
国王夫妻が、側近数人の供を従えて|仰々《ぎょうぎょう》しく|東方牢《リーフィシー》城を後にしたのは、日暮れ間近のことだった。
応接室に戻ると、馬車の姿が見えなくなるやいなやとって返したロアデルが、床にしゃがみ込んで割れたグラスの後片づけをしていた。
「あーあ。また、派手にやったね」
散乱したガラス片とともに、レモン水二杯分がまき散らされている。
「申し訳ありません」
「割れちゃった物はしかたない。それよりケガはない?」
「はい。あ、でも。これ、すごくいいグラスだってシイラが」
すごくいいグラスだと聞いたことがあるから、ロアデルは国王のためにそのグラスを出してきた。
そして、応接室に戻ったとたん、この家の当主と|王妃《おうひ》の濃厚なラブシーンが目に飛び込んできて、驚きのあまりグラスの載った盆を落としてしまった、と。そういうことらしい。
「そんなにいいグラスじゃないわよ。ただ、アカシュのお気に入りだっただけ」
「姉上っ」
メルルは|慰《なぐさ》めているつもりかもしれないけれど、それではかえってロアデルを落ち込ませてしまう。
「ああ、どうしましょう。ごめんなさい。|弁償《べんしょう》しますっ。毎月のお給料から天引きで」
「いいって言ってるだろう? 形ある物は、いつか壊れるんだ」
「そうそう。アカシュだって、小さい頃はいろんな物をよく割ったわ」
今度はナイスフォロー。
「だから、割れ物を片づけるのは慣れているよ。手伝おう」
アカシュはしゃがんだ。
「あ、いいです。私が」
「一人じゃ大変よ。シイラはいないし、シガレは料理にかかりきりだし。他の使用人を探しに行っている|暇《ひま》があったらやっちゃいましょうよ。えっと、まずは|掃除《そうじ》の道具ね」
メルルが部屋を出かかったところで、エイと|鉢合《はちあ》わせした。手にはバケツやモップ。割れ物を入れるための袋まで用意してある。
「さすがね」
「私も、幼い頃よりよくこちらで過ごさせていただき、|粗相《そそう》もいたしましたから。勝手は知っております」
というわけで。
四人で手分けして片づけをしたお陰で、思いの|外《ほか》早く応接間の床はきれいになった。
「それじゃ、申し訳ないですけれど、姉上。そろそろ私は、|獄舎《ごくしゃ》に帰らせていただきます」
アカシュは、メルルに向き合った。
久しぶりに帰宅した姉とゆっくり話もせずに去るのは失礼極まりない、と重々承知しているが、あいにく|点呼《てんこ》の時間が迫っている。このままの姿で獄舎に向かうわけにはいかないから、まず執務室に行って着替えをし、ログなりキトリイなりに連れていってもらわなければならない。逆算してギリギリだった。
「獄舎には帰る[#「帰る」に傍点]の?」
「はい。それで明日の朝、また庁舎に行って仕事をするんです」
その繰り返し。そんな生活を早五年。
「そう。いいわよ、私はあと二、三日はここにいるつもりだから」
「そうですか」
「迷惑そうな顔」
「いえ、そんな」
これ以上顔を見られていては、痛くもない腹を探られかねない。こういう時は、早々に退散するに限る。
「では」
軽く頭を下げて|踵《きびす》を返しかけると、不意にメルルの手が伸びてきて、アカシュの胸ぐらを|掴《つか》んだ。
「あなた、いつからあんなキスができるようになったの」
「|色街《いろまち》のお|姐《ねえ》さん相手に練習したんです。ファーストキスの相手に、|下手《へた》くそって言われてから」
すると、メルルは。
「……最低な男」
アカシュを乱暴に突き放して、応接間を出て行った。バタンというドアが閉まる大きな音が、彼女の怒りを示していた。
「何で怒られるんだろう」
正直に話しただけなのに。
「私には、わかりません」
しかし、と言いながら、エイはポケットからハンカチを取り出してアカシュに渡した。
「?」
「唇と|頬《ほお》」
言われるままにそれをあてがうと、|口紅《くちぺに》と血、どちらも鮮やかな赤が、白いハンカチに点々と小花模様を描いていた。
未決の対話
1
|宿場町《しゅくばまち》の宿の食堂で、中年女性と初老の男性が向かい合って夕食をとっている。
落ち着いた|雰囲気《ふんいき》は、長年連れ添った夫婦にも見えなくはない。が、二人の関係は、どちらかというと戦友に近かった。
「しかし、こんなところでシイラに会えるとは」
男性が、グラスを傾けて言った。女性も、グラスに軽く手を添えてほほえむ。
「ええ、イタセン。この宿の玄関に飛び込んできたあなたを見て、私心臓が飛び出しそうになりましたわ。お|嬢《じょう》さまに何かあったのかしら、って」
「驚いたのはこっちだよ。先に出たお嬢さまがどうにも心配で追ってきたら、シイラがいたんだ。悪い知らせを覚悟した」
こんな調子だから老け込むのだ、と二人は笑った。
会うのはどれくらいぶりだろう。長年ゼルフィ家に仕えていながら、普段は王都と領地に分かれて暮らしているから、ずいぶんと久しぶりな気がする。
「今夜は気にするのをよしましょう」
「ええ。心配したところで、ここでは何もできないんですからね」
シイラは、こんがり焼いた豚肉を口に運んでうなずいた。
王都に入るのを|阻止《そし》しよう思っていたお|嬢《じょう》さまとは、どういうわけか行き違いになってしまったらしい。そのことを宿で確認した時点で、すでに日暮れ前であったからもはや引き返せる時間ではなかった。夜道は危険だ。余程の事がない限り、夜は移動しないというのが旅の鉄則である。
「なるようにしかならない」
「そうそう」
メルルは今頃|東方牢《リーフィシー》城に着いてしまっているだろうし、リザと会えば|一悶着《ひともんちゃく》は避けられないだろう。
けれど、ここであれこれ思い悩んだところで、きっと今頃、すべて収まるべきところに収まっているに決まっている。
顔に×マークを描かれた男たちのことも、若い女を待ち伏せしているらしい男たちのことも、無理に真相究明することはない。すればその分、シワや|白髪《しらが》が増えるだけだ。
「ここで会ったこと、お|嬢《じょう》さまには|内緒《ないしょ》にしておいてくれないか」
「あら。ここまで来たのだから、明日王都まで|一緒《いっしょ》に行きましょうよ。お坊ちゃ……いえ、|旦那《だんな》さまにも会えるわ」
「いいや」
イタセンは、白い|髪《ひげ》についた茶色いソースを指でしごいた。
「私は、ご領地に帰る。そして、何事もなかったかのように、お嬢さまのお帰りを待つことにするよ」
「そう」
「お坊ちゃまのことは、シイラに任せる」
しばらく見ないうちに、イタセンはずいぶんと老け込んだようだ。
「……任せられてもね」
答える自分も、たぶんイタセンから見れば一回りほど|身体《からだ》が小さくなったように見えるのかもしれない。――そう、シイラは思った。
2
「約束だ。何をして欲しい」
アカシュは、シャンマに言った。
一時間ほど前に|役宅《やくたく》で誰かに言ったようなセリフを、今度は|雑居牢《ざつきよろう》で。まったく、今日は、捜し物か誰かのお願いを聞くか、そんなことしかしていない気がする。
「|女難《じょなん》がきたんですな」
「ああ」
ふて|腐《くさ》れるようにうなずく。
「ふふふ。その顔じゃ、黙っているわけにはいきませんやね。どうしました、女にやられましたか」
「えっ、|牢名主《ろうなぬし》。女に会ったんですかっ」
女の姿なんて、ここしばらく拝んでいないむさ苦しい男たちは、「女」と聞きつけて、取るものも取りあえず、牢名主があぐらをかいている毛布の|櫓《やぐら》の周りに集まる。
「いったいどこで? どんな女で? いい女ですか?」
身を乗り出して話をせがむ囚人たちを、アカシュは「まあ、聞けよ」と両手を開いて黙らせた。
「女って言っても、猫さ」
「ね、猫ぉ!?」
雑居牢に飛び交うのは、明らかにがっかりとした声。
「ラフト・リーフィシーの所でさ、メス猫のけんかがあってね。|仲裁《ちゅうさい》したらこの様だ」
「猫かぁ。いいなぁ」
その場の温度が一気に下がる中、動物好きの男だけがニコニコとうれしそうだ。「女を抱きてえ」という声が各所からあがる中、一人「猫を|撫《な》でたいなぁ」とつぶやいていた。
顔を引っ|掻《か》くような猫だぞ、と聞けば、それでもいいと言う。
「ご城主さまは、どんな猫をお|飼《か》いなんですか」
「いいや、飼ってない。知らない間に、勝手に入り込んでいたみたいだよ」
「メス同士でもけんかをするんですね」
「するさ。俺は|娑婆《しゃば》にいる頃、何度も見たことがある」
そしてそのたびに、止めに入った者が痛い目に|遭《あ》ってきたのだ。一度、とことんやり合った方がいいのかもしれない。
「|爪《つめ》のひっかき傷は、治りが遅いって言いますからね」
猫好きが、アカシュの|頬《ほお》にそっと触れた。
「おい、やめろっ」
飛び上がる程ではないが、やはり傷口がチリチリと傷む。
「あー。こりゃ、しばらくはかかりますよ。跡は残らないと思いますが」
「いいさ。俺には、この先見合いの予定なんて入っていないから」
「違いねえや!」
|雑居房《ざっきょぼう》の全員が、笑った。|懲役囚《ちょうえきしゅう》に見合いの話。こんなにそぐわない組み合わせもないだろう。
「しかしなぁ、シャンマの予言が当たるんなら、シャンマに|賭《か》けておきゃよかった。そうしたら一人勝ちだったのに」
そう思ったのは、一人二人ではないはずだった。あの時、誰もがアカシュに賭けたから、賭けは不成立に終わった。
まったく、一人くらい冒険をする者はいなかったのかね、とアカシュは思った。|娑婆《しゃば》ではそれなりに悪いことをし、危ない橋だって渡ってきただろうに。
「で、シャンマ。お前、|牢名主《ろうなぬし》にいったい何をしてもらうんだい?」
みんなが突っつく。
「アタシはね。予定ならば、あともう少しで娑婆に出られるんでさぁ」
「そりゃ、めでたいな。で、それがどうした」
|離《はや》したてる囚人たちを無視して、シャンマはアカシュに向き合った。
「出たら牢名主、あんたの子分にしてもらいたい」
その言葉は、聞いていた男たちの大爆笑を誘った。
「シャンマ。おい、気は確かか? 出所しようって人間が、|牢屋《ろうや》に入っているお人の子分になってどうするんだよ」
「いいんだよ。ちょっと、黙っていておくれよ。アタシは、牢名主と話をしてるんだから」
シャンマの目は、真剣そのものだった。だからアカシュは、一声周囲に向かって「静かにしろ」と命じた。
「今じゃなくて、出てからの話か」
「そうです」
「俺が娑婆に出るまで待つということか」
「囚人のあんたも魅力的だ。だが、アタシがこの先の人生をかけるのなら、娑婆に出た時のあんただ」
「俺がいつここを出るかわらない、お前はそう言ったよな?」
「ええ」
「出てから何をするかだって、わからないんだろう?」
それとも、黙っているだけで、シャンマにはアカシュの未来が見えているのだろうか。
「ええ、わかりませんよ。でも、親分がすることに黙って従う、それが子分ってもんでしょ」
何をするかわからない、けれど子分にして欲しい。それは、牢名主アカシュでも|東方検断《トイ・ポロトー》長官ラフト・リーフィシーでもなく、一人の人間として彼に買われた証拠である。
「わかった。お前が娑婆に出たら子分にしてやる」
アカシュは、シャンマの肩を叩いた。
その時。
「|牢名主《ろうなぬし》、間違ってますよ」
囚人の一人が、笑いながら指摘した。
「シャンマが出ても、牢名主が出なきゃ何にもならねえ」
そりゃそうだ、と他の連中も腹を抱えて笑う。
その晩、アカシュのいる|雑居房《ざっきょぼう》は、酒も入っていないのに、まるで|酒盛《さかも》りのように、いつまでも笑い声が絶えなかった。
3
あわただしい一日が、やっと終わろうとしている夜。
「いい?」
|東方検断《トイ・ポロトー》長官執務室の扉を開けて、一人の女性が入ってきた。
「もう少し、警備を厳重にしないとだめですね」
エイは振り返り、笑った。|西方検断《エスタ・ポロトー》副長官どのにも、よく|侵犯《しんぱん》される部屋である。
「私は、特別よ。警備の甘い|箇所《かしょ》をよく知っているの。小さい頃は、よくここに来て、父の仕事を見ていたわ」
「よく許されましたね」
「あら、|叱《しか》られたわよ。女の子が来る場所じゃない、って。でも、見ていたかったの。お父さまの大きな背中が大好きだった。こんなに早く死なれるなら、もっともっと見ていればよかった」
メルルは|役宅《やくたく》の|厨房《ちゅうぼう》からくすねてきたと|思《おぼ》しき果実酒の|瓶《びん》を、テーブルの上にドンと置いた。
「飲まない?」
「長官執務室ですよ」
「就業時間は終わっているでしょ」
しかし、エイの机には、書類が山のように積まれていた。
昨日と今日、まるまる|検断《ポロトー》の仕事を休んでしまった。長官を|獄舎《ごくしゃ》に送り出した後、気休めに書類を広げてみたのである。
だが、なかなか集中できなかった。
「いつもなら、あじけない独身寮のベッドに転がっている時間ですが――」
エイは|棚《たな》からグラスを二つ出して、メルルの前に座った。
「誰かと|一緒《いっしょ》に飲みたかったんだけれど。シイラも帰ってきそうもないし。何となく、あなたがここに残っているような気がしてね」
「いい|勘《かん》してますね」
グラスに|號珀《こはく》色の液体を半分ほど注いで、静かに乾杯をする。
アルコールが|喉《のど》を流れ落ちていく瞬間、エイは気づいた。
部屋に帰りそびれたのは、仕事が気になったからではない。自分も誰かとこうして酒を飲みたかったのだ、と。
「ロアデルはどうしています?」
「食事の後片づけが済んだので、部屋に下がらせたわ。何も知らせてなかったから、いろいろショックだったようよ。明日まで引きずらないといいけれど」
「何も、ってことはありませんよ」
一番すごい秘密は、比較的早く知っていた。
「いい|娘《こ》入れたじゃない。気に入ったわ」
「そうですか。それはよかった」
エイは早くも|空《から》になったメルルのグラスに果実酒を注ぎ、ついでに自分のグラスにもトクトクと注ぎ足した。
向かい合ったまま、二人は静かに酒を飲んだ。窓から見える星の瞬きが、最高のつまみになった。
「気にしない方がいいわ」
ふと、メルルがつぶやいた。
「は?」
「リザの言ったこと」
「――ああ」
思い当たって、エイは微笑した。
「別に気にしていません」
「そう?」
「はい」
事実を事実として受け止める。それだけだ、とエイは思っている。
どうあがいても、自分の|出自《しゅつじ》は変えられない。ならば「気にする」なんて|無駄《むだ》なことに、エネルギーを使うのは馬鹿げたことだ。
「たぶん、あの人は自分が不幸だと感じているから。誰彼構わず傷つけることで、自分を保とうとしているだけなの」
「ええ」
「考えてみれば、かわいそうよね。あの人が生まれや家柄なんかにすがるのは、自分自身が|縛《しば》られているからでしょ?」
誰に育てられたかを重視するメルルと、生まれにこだわるリザ。
同じ母親から生まれていながら、こうも考え方が違うのは、やはり育った環境が違うせいだろうか。
それでも二人は、|双子《ふたご》のようにそっくりな顔をしていた。
「アカシュは、どう?」
「ちゃんと働いていらっしゃいますよ」
メルルが書類に目をやりながら言うので、たぶん仕事のことだろうと察してエイは答えた。
「あなたがいてくれて、助かっているわ」
「いえ至りませんで」
「何を言うの。あなたは、小さい頃から父が仕込んだ副官じゃない。|謙遜《けんそん》しないで。天国の父が泣くわ」
「ええ、でも。私の力など微々たるものです。長官は、今は眠れる|獅子《しし》ですが、すばらしい資質をもっていらっしゃる。表に出られないのは、もったいないと思います」
「そう。皮肉なものね」
メルルは、言いかけた言葉を酒と|一緒《いっしょ》に飲み干した。
それは、もうずいぶんと前に亡くなった人の名前だったかもしれない。けれど、エイはあえて尋ねなかった。
今夜は、そんな気分じゃない。
だから、メルルもあえて口にしなかったのだろう。
「私が王宮に行けば、あの子は楽になるのかしら」
「でも、あの方はそれを望んではいない」
「そうかしら」
「私はそう思います」
「あなたは、相手の欲しい言葉を探し出すのがうまいわね」
注いで、とグラスを差し出すメルル。すでに目がとろんとしているが、まだまだ飲む気満々のようだ。
「無事城に帰り着いた姫君に」
乾杯、とグラス同士が打ち付けられて響く|心地《ここち》よい音を聞きながら、エイは大切な忘れ物を思い出した。
「いけない。長官に頼まれていたのに」
ポケットから、夕方|託《たく》されていた|駒《こま》を出して、チョギー台へと向かった。丸二日、お供もつれずに出歩いていた姫君の帰還だ。
「さあ、お帰りだよ」
仲間の中に、そっと戻してやる。姫君を迎える|象牙《ぞうげ》色の|駒《こま》たちが、どこかうれしそうにエイには見えた。もしかして、これは酔いが回った証拠だろうか。
「ねえ、エイ」
メルルが呼ぶ声も、心なしか、どこか遠くに感じられる。
「アカシュは、あのスケベ|親父《おやじ》の要求のどの部分を断ったのだと思う?」
「は?」
聞き返してみたが、こちらの姫君は「いえ、いいわ」と言ってその話を打ち切ってしまった。
姫君のつぶやき
私の名は、|象牙《ぞうげ》色の姫君。象牙の国の王女さまだ。
人によっては「我が姫」とか「白の姫君」なんて呼ぶこともあるけれど、|愛《いと》しいあの人が私のことを語る時の呼び名が一番気に入っているから、自分では「象牙色の姫君」だと決めている。
私は、十年くらいこの小さなお城に住んでいる。
以前は別のお城で暮らしていたけれど、ワースホーン国がとても|賑《にぎ》やかなある日、一族|揃《そろ》ってこの土地に移リ住むことになった。
|下賜《かし》された、って言うのだそうだけれど、難しい言葉はよくわからない。
ただ、いままで私たちの遊び友達だったエドアが、「今日の記念に」と言って私たちを差し出し、ラフト・リーフィシーが「末代までの家宝に」なんて答えながら、うやうやしく頭を下げていたのはこの目で見ていた。
そのやり取りが行われた瞬間、私たちはラフト・リーフィシーの所有物になったらしい。
聞くところによると、エドアはその日お|嫁《よめ》さんをもらったんだ、って。
だから、って。もう私たちとは遊ばない、っていうのはどういうことかしら。
もしかしたらそのお嫁さんが、|嫉妬《しっと》心から私を遠ざけようとしたのかもしれない、って私は今でも疑っている。だって私は、彼の一番のお気に入りだったんですもの。
エドアのお嫁さんって、どうせよく彼のところに来ていた、あの高慢で意地悪な女でしょ? やりそうなことよね。
あの女。――名前、忘れちゃったけれど、自分より色白の私にやきもち焼いていたのよ。
そうそう。
私たちのお引っ越しには、お隣の|焦《こ》げ|茶《ちゃ》の国の一族もくっついてきた。そして今も、私たちの城の隣にある同じくらいの城に住んでいる。|抽斗《ひきだし》、っていう名前のね。
ラフト・リーフィシーが私たちを大切に|膝《ひざ》に抱えてリーフィシー城に戻った時、そうとは知らなかった私は、あっちとこっちに分かれて、焦げ茶の国の人たちとは今度こそさよならかと思った。
だから、この部屋に連れてこられて「さあ、着いたよ」ってラフト・リーフィシーに外に出された時は、本当に驚いたわ。だって、そこに焦げ茶の姫君がいたんだもの。彼女の方も、ピックリした目で私を見ていたけれど。
やはりエドアが、焦げ茶の国も|一緒《いっしょ》にラフト・リーフィシーに下賜してしまったんだって、その時わかった。
象牙の国と焦げ茶の国は、しょっちゅう対立している、いわば犬猿の仲。なのにどうしていつも側にいるのかって、常々不思議に思っていた。
でも、私たちは光と影なんだって、ある時象牙の国の王さまが教えてくれた。
一方だけでは、本来の働きができない、そんな存在。だから、いがみ合っていても一緒にいるんだって。
聞いたときは「ふーん」くらいの感想しかなかったけれど、今は少しだけわかる気がする。
私が大好きなあの人に会えるのは、二つの国の真ん中にある広場で、|焦《こ》げ|茶《ちゃ》の国と|戦《いくさ》をする時だけ。
私たちは、チョギーという|盤上《ばんじょう》ゲームの|駒《こま》なのだ。
リーフィシー城に来てから、五年くらい経った頃だろうか。
ある日を境に、私たちはラフト・リーフィシーからぷっっりとお呼びがかからなくなった。
それまでは、毎日のように私たちをチョギー台という名のお城から出して、ゲームを楽しんでいた彼なのに。
これはいったいどうしたことか。|象牙《ぞうげ》の国では、わかる者は誰一人としていなかった。
『エドアと同じで、|嫁《よめ》をもらったのではないか』
騎士が言った。
『だから、もう我らのことなど構っていられなくなったのだ』
それを聞いて、象牙の国はしんと静まりかえった。
『……では、我らはどうなる。また、誰かに|下賜《かし》されるのか』
不安を一番最初に口にしたのは、誰だったろう。|長槍《ながやり》だったかもしれない。
『それはない』
副官が説明した。
『下賜とは、エドアがエドアの下の者に下げ渡すという意味なのだ』
『ラフト・リーフィシーがエドアの下? エドアの方が若く見えたが……』
『|歳《とし》ではない。位のことだ。エドアはワースホーン国の王だから』
『では、ラフト・リーフィシーはエドアの家来なんですか?』
歩兵の一人が尋ねた。
『さあ、それはわからん。ただ彼はエドアに、末代までの家宝に、と言った。それは、エドアからもらった品だから、もうどこにもやらずに大切にします、という意味だ』
『ならば、一安心じゃないですか』
その約束がある限り、リーフィシー城から追い出されることはない。私たちは、ここでの生活を気に入っていた。
『ずっと、このままお呼びがかからなくても?』
ぽつりと聞こえた誰かのつぶやきに、再び、誰もが黙り込んだ。
『それより、彼に何かあったのではないか』
王さまが言った。
『なぜ、そう思われます』
家臣たちが聞き返す。
『外の様子がおかしい』
『おかしい?』
『最後にチョギーをした後、何だかバタバタしていた気がする。今思えば……、という程度のことだが』
『バタバタしているのはいつものことでしょう』
『そうですよ。バタバタの中には、ラフト・リーフィシーの足音が混じっていたし、声も聞こえていました』
『けれど、ここしばらくはこの部屋は静まりかえっていないか』
そういえば、と皆が外に向かって耳をすました。
今までラフト・リーフィシー以外の人間も、|頻繁《ひんぱん》に出入りしていたこの部屋。最後に扉が開閉する音を聞いたのは、いったい何日前のことだったろう。
『時折、来るのは……えっと、あの副官の。何だったか名前は』
『ラソウダ』
『そう、彼。何だか、重いため息ばかりついている。ラフト・リーフィシーに何もないなら、ラソウダがここに来る必要があるか?』
『ラフト・リーフィシーの代わりに、仕事をしている、と?』
やっぱり、彼の身に何かあったんだ。口にこそ出さないが、皆心の中ではそのように思っているようだった。
議論に参加せずただ見ていた私も、心のどこかで覚悟をしていた。
私たちを一生大切にしてくれるはずのラフト・リーフィシー。彼がいなくなってしまったら、私たちはどうなってしまうのだろう。
予感通り、しばらく私たちは放っておかれた。
そして、月日だけが積み重なっていった。
|二月《ふたつき》も閉じこもっていると、|焦《こ》げ|茶《ちゃ》の国の一族が|懐《なつ》かしく思い出されるようになる。
半年も経つと、皆待つのに疲れて眠り始めた。
私も、ついうつらうつらして、チョギー盤に立つ夢をみて、目覚めることもしばしばあった。そんな時、自覚するのだ。私はやはり広場で戦っているのが好きなんだ、って。
そして、私たちは眠り続けた。
自分たちがチョギーの|駒《こま》であることを、忘れてしまいそうなくらい、それは長い長い時間だった。
ある日、眠れる城の扉が開いた。
「ああ、これは――」
チョギー台の|抽斗《ひきだし》を開けて、中を|覗《のぞ》き込んだのは目の覚めるようなプラチナブロンドの青年。彼は、真っ先に私を抱き上げて言った。
「かわいそうに。ずっと忘れられていたんだね」
エイ・ロクセンス。
瞬間、私は彼に心を奪われた。
それからすぐに、私たちが以前の生活に戻ったかというと、そうではなかった。
ラフト・リーフィシーは依然として姿を見せないし、私たちを|盤上《ばんじょう》に呼んでチョギーをする人が現れるわけでもない。
けれど、それでも私たちは暗闇で眠り続けた日々に比べれば、何倍も穏やかな気持ちで、いずれやって来るであろう「私たちが本来の働きをする日」を待つことができた。
なぜなら、エイが私たちに会いに来てくれるから。
だから私たちは、「決して忘れられてはいないのだ」と、そのたびに確認することができた。
『あれは、ラフト・リーフィシーが|可愛《かわい》がっていた子供だね。見たことがある』
将軍が言った。
『ああ。そう言えば――」
|長槍《ながやり》がうなずく。
『人間っていうのは、ちょっと見ないうちに大きくなったり、|萎《しぼ》んだりするものだからかなわないよ』
そういえば、ラフト・リーフィシーの|役宅《やくたく》には、自分の子供・他人の子供入り混ざって何人かの子供がいて、時折この部屋にも遊びに来ていた。その中にプラチナブロンドの少年がいたのかもしれないけれど、私は覚えていない。
だって、私が好きなのは、パタパタ走り回る騒がしい子供じゃなくて、やさしく私を抱き上げる今の彼なんですもの。
彼は時折、私たち一人一人をやわらかな布で|磨《みが》いてくれた。そして作業の終わりには必ず、「きれいだ」と|褒《ほ》めてくれる。もちろん言われるのは私だけではなかったけれど、そんなことは構わない。
彼の手で、丹念に|埃《ほこり》を払われ、見つめられている瞬間、私は世界に彼と私二人きりしかいないように感じられた。
エイだけが、私たちの出会える唯一の人間。そんな日々が続いたある日。
|象牙《ぞうげ》の国は、たった一つの|噂《うわさ》のために活気づいた。
『ラフト・リーフィシーが帰ってきたらしい』
『本当か?』
『そうさ。だって、今、誰かがラフト・リーフィシーって呼ばれて返事をしたぞ』
『彼の声じゃなかったようだが』
何とも|心許《こころもと》ない情報だったけれど、皆はとても|嬉《うれ》しそうだった。
私たちは、ラフト・リーフィシーが大好きで、心の中でずっと、彼が私たちの前に戻ってくる日を、ずっと待ち続けていたのだ。
『ああ、早く彼とチョギーをしたいものだ』
浮かれながら、口々に言う。私たちは、ラフト・リーフィシーがチョギーをするために、存在しているのだから。
「チョギーでもしませんか」
いつものように、エイが私たちを|磨《みが》きながら言った。
「それは名目だろう」
誰もいないと思っていたのに、どこかから返事があった。
「お父上も、朝一番にチョギーをやっていらしたみたいですよ。寝ぼけた頭の中がすっきりする、とか」
「ふん」
見れば、黒髪の少年が、ラフト・リーフィシーの|椅子《いす》の上で、|膝《ひざ》を立てて座っている。おやまあ、すごい|仏頂面《ぶっちょうづら》。
「やりたきゃ、お前一人でやれ」
「一人ではできませんからね」
苦笑いして、エイが私たち|駒《こま》をしまいかける。すると、少年が椅子から飛び降りて言った。
「しょうがない。一勝負だけだぞ」
「はい、ラフト・リーフィシー」
『ラフト・リーフィシー!?』
しかし。|焦《こ》げ|茶《ちゃ》の駒の前に座った男は、私たちの知っているあのラフト・リーフィシーではなかった。
象牙の国の駒も焦げ茶の国の駒も、誰もが最初は混乱した。
『おや。ラフト・リーフィシー。ずいぶんと、若返ったものだな』
『よくご|覧《らん》よ。あれは、次男坊だよ。ほら、あの悪ガキだった』
『何で次男坊がラフト・リーフィシーなんだい?』
『知らないよ、そんなこと』
私たちが眠っている間に、世代が交代したのだと知ったのは、それから間もなくのことだった。
* * *
そんなこんなで、私たち|象牙《ぞうげ》の国の一族は、|検断《ポロトー》長官という職務と|一緒《いっしょ》に、新しいラフト・リーフィシーへと引き継がれた。
親から息子に、そして孫に。末代まで、とはそういう意味らしい。
前のラフト・リーフィシーには、二人の息子がいたから、私たちは当然長男が|家督《かとく》を継ぐものと思っていた。
けれど、その長男は、前のラフト・リーフィシーより先に死んでしまった。何度か、この部屋に来たことがあったけれど、賢くてやさしくて穏やかな人だった。
よく「いい人は早く死ぬ」って言うけれど、本当ね。彼が検断を継いでいたら、私のエイだってもっと苦労が少なかったはずよ。
でも、まあいいでしょう。新しいラフト・リーフィシーが父親に|倣《なら》って毎朝チョギーをするようになってから、私たちはようやく、本来の活躍ができるようになった。
ラフト・リーフィシーは|焦《こ》げ|茶《ちゃ》の|駒《こま》。象牙の駒はエイ。
私は、いつもエイの指示通りに動く。
私を動かしながら彼が「王手」と言う瞬間、何とも言えない|爽快感《そうかいかん》と充実感が私のもとへ訪れた。
「ラフト・リーフィシー!」
あら、いらっしゃったわ。エスタ・ポロトーのトラウト・ルーギル。
私、この人嫌い。悪い人じゃないけれど、何だかスマートさに欠けると思うの。
いつもバタバタとやって来て、バタバタと何か言って、バタバタと帰っていく。少しは落ち着いて、エイの優雅な身のこなしを見習ったらいいのに。
これでもエイと同じ、ポロトーで副長官やっているなんて、信じられないわ。
ほら、今日だって、エイとラフト・リーフィシーがチョギーをしながら会議をしているのに|邪魔《じゃま》ばかりして。静かに座って待っていろ、って言われたのに、すぐに横から口を|挟《はさ》むんだから。
え?
会議の内容?
明日のフラーマティブルの相談だったかしら。何でも、|役宅《やくたく》のロアデルのために、計画をたてているみたいよ。
そうそう、ロアデル。
彼女のことは、微妙。悪い人じゃないし、むしろ嫌いじゃないタイプ。だけど、一点だけ許せないことがあった。私のエイが、この部屋で彼女を一度だけ抱きしめた。彼が弱っている時だったから仕方ない、そう割り切ろうとしたけれど、やっぱり無理。
「王手」
エイが、私を動かして言う。勝利が見えた。|焦《こ》げ|茶《ちゃ》の王さまは、もう逃げられない。
「おい待てよ、国王が姫君をとれるじゃないか。まだ|諦《あきら》めるのは早いよ」
トラウト・ルーギルが、馬鹿げたことを言った。この人、チョギーのこと全然わかっていないんじゃないかしら。私の後ろにはお供がついてきているの。焦げ茶の王さまが私をとったって、次の一手が王さまの息の根を止めるわ。
『あん。ちょっと、断りもなく私に触らないでよ』
言っても彼には聞こえない。だから「これをこうして」なんて盤の上を勝手にいじる。そんなことをしてもしなくても、エイの勝ちは揺るがない。ラフト・リーフィシーだって、ちゃんと負けを認めている。
こんな不器用さんに教えてあげることもないのに、ラフト・リーフィシーは解説してからグチャグチャとかき混ぜた。
ああ、なんていうこと。私たちは、|畏《おそ》れ多くも「|下賜《かし》」なんだから。そんなぞんざいに扱ったら、|罰《ばち》が当たるわよ。
『あっ』
心配していた通り、私は盤から転落した。
『痛っ……!』
向こう側では、いち早く落とされた焦げ茶の国の騎士の叫び声。けれど、人間たちには、「カツン」という衝撃音しか聞こえていない。
エイが、騎士を拾い上げる。そんなこと、ラフト・リーフィシーにやらせればいいのに。やさしいから、彼。
『エイ。私も』
私は彼を呼んだ。でも、彼は騎士を拾っただけで私に気づいてくれない。
『エイ、エイ』
何ていうこと。エイったら、私を残してチョギー台を片づけ始めた。
『ここよ、ここ』
私は叫んだ。ひどいわ、エイ。
『あら?』
ふと、私は疑問に思った。そういえば、ここはどこなのかしら。チョギー盤から落ちたところまでは間違いない。けれど、未だ痛い思いはしていない。そして私には、待てども焦げ茶の騎士のような「カツン」もやって来ない。
私は、自分の周りを観察してみた。|身体《からだ》の下にあるのは、フワフワと肌触りの良い、上質な|生地《きじ》。
『まあ』
あろうことか私は、床に落ちる前に、|間一髪《かんいっぱつ》、誰かの服のシワに引っかかったようである。
『あ』
不意に、大きな上下の振動が、私を襲う。同時に私は布の表面を転がり落ちて、あっという間に暗闇にすっぽりと吸い込まれてしまった。
そこは、上着の|袖口《そでぐち》についた折り返し部分だった。
「君は女性と交際したことがあるか」
かなり近い所で、そんな声が聞こえてきた。嫌だ。これって、トラウト・ルーギルの声じゃない。
どうせだったら、エイの袖に落ちたかった。それが無理なら、ラフト・リーフィシーの袖でもいい。
そうよ。多少痛くても、いっそ、床に落っこちた方がよかったわ。だってこの人ったら、声も身動きも大きくて、側にくっついていると、めまぐるしくて、頭がくらくらしてくるんですもの。
とにかく、ラフト・リーフィシーとトラウト・ルーギルは、トラウトの見合い話なんていう、私にはまったく興味のわかない話を始めてしまった。つまらないから、エイの声だけ聞いていようと耳をすましたけれど、彼ったらお茶を準備して出て行ってしまった。
退屈。
この話題が終わるまで、ウトウトしちゃおうかしら。――なんて思ったところで、例のごとくトラウト・ルーギルは突然大きな声をあげたり、手を振り回したりするから、なかなかそういうわけにもいかない。
『この人、早く帰らないかしら』
つぶやいた時、天に願いが通じたのか、ラフト・リーフィシーに手を引かれてトラウト・ルーギルが立ち上がった。
「早く帰って、明日着る上着でも選んだらどうかな」
ラフト・リーフィシーの声。よし、トラウト・ルーギルは間違いなく帰るらしい。出口に向かって、どんどん歩いていく。
『ちょっと待って』
はたと、私は気がついた。トラウト・ルーギルが帰ったら、彼の袖口に|挟《はさ》まっている私は、どうなっちゃうわけ?
「お客さまのお帰りだ」
待って、ラフト・リーフィシー。トラウト・ルーギルは帰してもいいから、その前に私をここから出してちょうだい。
「ご案内します」
ちょっと、あなた。ラフト・リーフィシーの部下。えっと、キトリイって言ったかしら。トラウト・ルーギルを連れて行かないで。
『エイ。助けて』
トラウトの|袖口《そでぐち》が、一瞬、見送りに出たエイの上着に軽くかすった。私はそっちに飛び移りたかったけれど、|所詮《しょせん》駒《こま》だからそんなことできるわけがない。
どんどん離れていくエイと私。
ああ。私が王の駒ならば、スリピッシュで瞬間移動するものを。
『このままルーギル城まで行くのかしら』
私の気持ちは、雨が降る直前の雲のようにどんよりしてきた。
トラウト・ルーギルは、いつになったら私のことを気づいてくれるものか。彼の生活がさっぱりわからないから、予想なんか立てられやしない。
お見合いの話があるのだから、奥さんはいないのよね。じゃあ、服の管理はいったい誰がしているのかしら。
願わくば、服の手入れをちゃんとしてくれる|几帳面《きちょうめん》な使用人が、トラウト・ルーギルにいますように。
そうしたらきっと、私は今日中にその使用人によって見つけられる。その者はすぐに、主人にこのことを報告するはずよね。
そこまでいけばしめたものだわ。明日の朝、トラウト・ルーギルは必ずや私をラフト・リーフィシーの部屋へと連れ帰ってくれる。
けれどもし――。トラウトが、ずさんに服をしまっていたとしたら。考えただけてもぞっとする。
この服が、ブラッシもかけられずに、ただクローゼットに突っ込まれて、次の出番がなかなかやってこなかったとしたら。
『絶望的だわ』
来年になっても、帰れないかもしれない。
『トラウト・ルーギル、お願い。引き返して』
私は|懇願《こんがん》した。すると、奇跡が起こった。
届くはずもない声が、トラウト・ルーギルに届いたのだ。彼は立ち止まり、クルリと回れ右をしてもと来た|廊下《ろうか》を戻っていったのである。
『いいわ、トラウト。その調子』
私の|励《はげ》ましに、タッタッタッタッとトラウト・ルーギルの足取りが速くなる。キトリイが気ついて呼び止めるのも、彼の耳には届かない。
そしてラフト・リーフィシーの部屋の前まで来れば、扉を開けていつもの一言。
「ラフト・リーフィシー!」
「どうした。トラウト」
ラフト・リーフィシーは、何が何だかわからない表情で友を見た。隣には私のエイ。彼も、軽い驚きをもってトラウトを迎えている。
『さあ、私を戻して』
私はトラウト・ルーギルに命じた。が、彼は|袖口《そでぐち》にいる私のことなど|一切《いっさい》見向きもせずに、言ったのだった。
「言い忘れたことがあって戻ってきたのだ」
|所詮《しょせん》、人間とチョギーの|駒《こま》との間に、コミュニケーションなんて成立しないのよね。「奇跡」なんて浮かれた私が馬鹿だったわ。
エイだって同じ。私が一方的に想いを|募《つの》らせているだけ。私がどんなに『助けて』って言っても、まったく気づいてはくれないんですもの。
|落胆《らくたん》した私は、助けを呼ぶ気力もなくなっていて、ただ黙って、小さくなっていくエイの姿を見つめ続けた。
次は、いつ会えるかわからない。だから、目に焼き付けておこうと思った。
さようなら、エイ。元気でね。――って。
ところで。私の期待を見事に打ち|砕《くだ》いてくれた、トラウト・ルーギルの
「言い忘れたこと」って何だと思う?
「忙しいとか何とか理由を付けずに、つき合っているというその女性と、早々に結婚したまえ。婚前|交渉《こうしょう》は、感心できない」
――ですって。
私|腰砕《こしくだ》けになっちゃった。この人、本当に何もわかっていないのね。
昼と夜、まるで違う格好で別人のように生活している忙しいラフト・リーフィシーに、結婚なんてできるわけないじゃない。
それから、「つき合っている人」なんて言ったけれど。そんな女性がいるなんて話、私は一度だって聞いたことがなかったもの。
検断庁舎の近くに停めておいたルーギル家の馬車に乗り込む前、トラウト・ルーギルは一度|役宅《やくたく》の方向を見た。
「坊ちゃん。よろしかったですね」
迎える|御者《ぎょしゃ》が、言った。
「坊ちゃんはやめろ。……で、何がよかったんだ?」
「いえ。こちらに向かう時は、この世の終わりみたいなお顔をなさっていたのに、今は笑みを浮かべていらっしゃる。ラフト・リーフィシーさまにお会いして、何かが解決されたのかな、と思いまして」
「私は笑ってなどいない」
「はい。お友達とは、いいものですな」
「ふむ」
ふむ、って。何|威張《いば》っているのかしらね、この「坊ちゃん」は。
そんなこんなありながら、私はトラウト・ルーギルの|袖《そで》の折り返しにはまったまま、馬車に揺られることになった。
じき、城門にさしかかる。
ここをくぐれば、もうリーフィシー城ではない。
「うわっ!」
突然、トラウトが叫び声をあげた。
「うわっ、うわっ、うわっ」
「どうしました、坊ちゃん」
|門衛《もんえい》に通行証を提示するため、馬車を一時停止して、|御者《ぎょしゃ》が振り返った。
「は、|蜂《はち》が窓から飛び込んできて」
あら、本当。結構大きい蜂だわ。
「払っちゃだめですよ。ますます攻撃してきますから」
のんびりとした口調でアドバイスした後、御者は再び馬車を走らせた。
「そうは言っても。私は昔、こいつに刺されたことがあって。うわぁ、私の腕に止まった」
トラウトは、腕を窓から出して激しく振った。その腕、っていうのが、私のくっついていた方の腕だったのは、私にとって不幸だった。
『きゃあ!』
蜂より先に、私が振り落とされてしまったのだ。
チョギーの|駒《こま》が自分の袖に|挟《はさ》まっていたことも、自分がそれを振り落としたことも気づかないまま、トラウト・ルーギルの乗った馬車は西を目指して走り去ってしまった。
『痛……っ』
私は勢いよく路面に激突し、カツンカツンとあっちこっちに跳ねて、やがて止まった。あんなに衝撃があったのに、どうやら壊れていない模様。不幸中の幸いだ。
でも、走る馬車から振り落とされたのだもの。多少は傷がついたかもしれないわね。エイが見たら、さぞかしがっかりするでしょう。
『もう一度、会えたらね』
クスリと笑ってみてから、すぐに私は泣きたくなった。散乱したクローゼットよりも、もっと条件的に厳しい場所に放り出されてしまったのだ。
トラウト・ルーギルのクローゼットの中にいれば、時間がかかろうとも、いずれは救出されるという望みはあった。
けれど、ここは|往来《おうらい》。
トラウト・ルーギルだけじゃなく、見知らぬ人たちが通り過ぎる場所。
地面に転がった私には、人間の足ばかり見えた。
馬車も通る。
私の|身体《からだ》すれすれを車輪が通った時は、もうお|終《しま》いかと思った。あれにひかれては、さすがの私も粉々にくだけてしまうだろう。
カツーン。
私は時たま人間に|蹴《け》られながら、リーフィシー城の前をあっちに行ったりこっちに行ったり。蹴った人間は、誰一人として私をチョギーの|駒《こま》だとは思っていない。
突き当たりがリーフィシー城という、|緩《ゆる》い上りの坂道。だからこの道を歩いている人の多くは、この城に用事がある人間で、だからだろうか、皆足早に通り過ぎて、足下に注意を払うような人はなかなかいないようだ。
「お母さん。お人形さんが落ちているよ」
五つくらいの女の子が、私を拾おうとしゃがみ込んだ。
「そんな物、落ちてるわけないじゃないの。ああ、落ちてる物を拾うんじゃないの」
母親は女の子の手を強く引いて、坂道を下りていった。
他に私のことに気づいたのは、黒くて|痩《や》せた|野良犬《のらいぬ》くらいだ。
『しっ、しっ』
そいつは、私のことをくんくんとしつこく|匂《にお》いを|嗅《か》いだ。たっぷり三分は私を鼻先で転がし、それからやっと食べ物ではないとわかってくれたようで、また気ままな散歩を再開した。
『最低』
濡れた鼻を押しつけられたせいで、私の身体はベタベタにしめった。その直後に、|土埃《つちぼこり》の混じった風が舞い上がったから、私の表面はうす茶色の粉まみれになってしまった。
もはや私は、|象牙《ぞうげ》色の姫君ではない。形が変わっているだけで、そこら辺に転がっている石と同じ色。
周囲の風景に、完全にとけ込んでしまった。
夜が来て、誰もこの道を通らなくなった。
私は、朝になったらすべてが夢であればいいと思った。
本当は、私は|象牙《ぞうげ》の国の仲間たちのいるチョギー台という城の中にいて、大好きなエイによって起こされる。ラフト・リーフィシーが奥の部屋でもそもそと着替えをしている間、エイが|駒《こま》を|丁寧《ていねい》に配置する。私は彼を見ながら、自分の番が来るのを待ち続けるのだ。
けれど、朝が来ても、私の悪夢は覚めなかった。
私は、依然として|土埃色《つちぼこり》のまま、リーフィシー城門前の道端に、ふて|腐《くさ》れるように転がっている自分の姿を見つけて悲しくなった。
悪夢が現実ならば、仕方ない。それならば、せめて楽しかった記憶も|一緒《いっしょ》になくなってしまえばいいのに。私は、そう思った。
私から「象牙色の姫君」などと呼ばれた過去がすべて消えてなくなれば、私は何も考えずにただの石としてこの先ここに転がっていられる。
過去の幸せな記憶がなければ、そこに戻りたいという期待もしない。今の自分を悲しむこともない。
けれど、そんな願いは、徐々に近づいてくる馬車の、|蹄鉄《ていてつ》や車輪の音によって否定される。
『トラウト・ルーギル!』
間違いない。彼の馬車だ。
『お願い、止まって』
私は、まだ過去の幸せな自分に未練があるのだ。やっぱりもう一目、エイに会わないことには、石になんてなっていられない。
『トラウトの馬鹿! |鈍感《どんかん》! 私を振り落とした責任をとれ!』
ああ、私は。
トラウト・ルーギルに、何度期待して、何度裏切られたら済むのだろう。
車輪が|弾《はじ》いた小さな|砂利《じゃり》をコツンと私にぶつけただけで、馬車は無情にもリーフィシー城の高い|塀《へい》の中へと消えていってしまった。
それからしばらくして、トラウト・ルーギルの馬車は、城を出て再びこの道を逆向きにさっさと走っていったけれど、私はもう叫ばなかった。ロアデルとのデートに浮かれているような男に、私の声が聞こえるわけない。
疲れ果てた私は、ぼんやりと空を見上げる。抜けるような青空。
空を見ているうちに、どうでもよくなってきた。
|自暴《じぼう》自棄《じき》というより、むしろ無気力。
だから、トラウトと一緒に出かけたはずのロアデルが一人で帰ってきたことも、ルーギル家の馬車がさらに私の前をもう一往復したのも気づかなかった。
夕方、雨が降ったのは知っている。
お陰で私の身体についた土埃は流されたけれど、あちらこちらにできた水たまりの泥が、馬車や人の行き来によって私にかかったので、結果的にはより汚くなったといっていいかもしれない。
私は、表面上だけでなく、心の中の石化もどんどん進んでいった。
一夜明けて、またいい天気で。
湿っていた地面も朝のうちにあらかた乾いてしまったけれど、だからといって、それについてどうこう感想をもつこともなかった。
今日が、ラフト・リーフィシーが王宮へ|参内《さんだい》する日だということも、彼の乗った馬車が私の脇をガタゴトと過ぎて、坂を下りて見えなくなって、そしてやっと「ああ、そういえば」なんて思い出したくらい。
人間に見つめられなくなって、|愛《め》でられなくなると、途端に私たちの心は厚みをなくしていく。
私たちは|慈《いつく》しまれることによって、生を|享《う》ける。心を寄せてくれる人間がいるから、私たちは単なる「物」ではなくなるのだ。
だから、前のラフト・リーフィシーがいなくなった時、私たちは眠ってしまったのだろう。
眠りながら、次に命を吹き込んでくれる人を、私たちは待ち続けていたのだ。
『エイ』
私は、急速に言葉を忘れていっている。けれど、エイの名前だけは、最後の最後まで手離したくない。だから繰り返し呼ぶ。
『エイ』
彼は、今頃どうしているかしら。私がいなくなったことに、気づいたかしら。一つ|駒《こま》がなくなったら、大好きなチョギーもできないわね。
そこまで考えた時、私は|愕然《がくぜん》とした。
チョギーができなくなる?
そうだ。
私が一人いなくなっただけで、残りの駒すべての仕事がなくなるのだ。なぜそんな大切なことを、今まで忘れていたのだろう。
|象牙《ぞうげ》の国のみんな。それだけでない。|焦《こ》げ|茶《ちゃ》の国の一族すべてが、|今朝《けさ》は無言のままチョギー台の中でお呼びがかかるのを待っているはずだ。
自分の不幸ばかりを|嘆《なげ》いていたことが、恥ずかしい。私は私一人の物ではなかったのだ。
考えることをやめて、ただの石になるのは楽かもしれない。けれど、私は、他の仲間のために|是非《ぜひ》とも帰りたいと願った。|否《いな》、帰らなくてはならなかった。
願った瞬間、眠っていた力がそこかしこからわいてきた。
『私は象牙色の姫君よ。誰にも代わりになれはしないわ』
失っていた言葉も、どんどん|甦《よみがえ》ってくる。
『そうよ。|諦《あきら》めたら、石になってしまうだけ。自分がかけがえのない存在だって思っている限り、私は私であり続けられるわ。表面が汚れていたって、そんなことは大したことではないのよ。私は姫君なんだから。必ず我が国に帰還してみせる』
根拠のない自信が、私を|奮《ふる》い立たせた。心の厚みは、すっかり元に戻った。以前より、強くなったくらいだ。
『念ずれば通じる』
そうつぶやいた時、私はまたもや誰かの足に蹴られた。
『痛っ! 無礼者!』
昨日から、いったい何度目だろう。もう、いい加減に慣れたけれど。
今度はどこに転がることやら、と黙って身を任せていると、私は城門からわずかに外れた城壁にあたって静止した。
「あらあら」
私を蹴ったのは若い女だった。彼女は私を追いかけてきて腰をかがめると、自分が蹴り飛ばした物が何であったかを確認した。
「……まあ、私、あなたのこと知っているのではないかしら」
彼女は私をドレスに|擦《こす》りつけて、|土埃《つちぼこり》を落とした。ちょっと乱暴だったけれど、それくらいしないと、私の汚れは落とすことができなかった。
『驚いた。私もあなたのこと知っているわ。エドア・ギのお|嫁《よめ》さんでしょ。カツラを|被《かぶ》っていたって、見間違えたりしないわ。あなたには、かなり意地悪されたもの。そうよ、思い出した。いつだったか、あなた、私を|鉢植《はちう》えの土に|挿《さ》したことがあったわね。あの時の|恨《うら》み、忘れていないわよ』
「ふふふ」
『でも、もう許してあげる。その代わり、あの時のお詫びに、私をエイのもとに連れて行きなさい』
「私みたいに一人で飛び出したはいいけれど、帰り道を忘れてしまったのかしらね、きっと」
『あら、あなたと|一緒《いっしょ》にしないで。あなたのはプチ家出でしょうけれど、私のは|不可《ふか》抗力《こうりょく》なんですから。だいたい、あなたね――』
久しぶりに人間と触れあって、私は|饒舌《じょうぜつ》になった。また話し足りなかったけれど、エドア・ギのお嫁さんはそれを無視して私を彼女の二つの胸の間にムギュッと押し込んだ。
「いいわ、私が送り届けてあげましょう」
貸しは作っておくものだわ。
私は思いがけず、リーフィシー城の中に帰るチャンスをものにした。
それからしばらくは、外で何が起こっていたのはわからない。
胸と胸の間っていうのは、思ったよりずっと|居心地《いごこち》が悪いもので、身動きはとれないし、しゃべり声だってほとんど届かないのだ。
エドアのお|嫁《よめ》さんが着替えをした時、ちょっとだけ外の空気を吸えたけれど、あとは全然。
何度かエイの気配は感じたことがあったけれど、切れ者の彼も、まさか私が胸に押しつぶされているなんて思いも寄らないみたいで、まったく気づいてはくれなかった。
「はい、これ」
そんな、エドアのお嫁さんの声と共に、私は突然外の世界へと連れ出された。
「これはどこに……?」
私を|摘《つま》んでいるのは、間違いなくラフト・リーフィシーの指。彼の間の抜けた顔を見て、それで、やっと私は「帰れたんだ」って思った。
「リーフィシー城の門前よ。どうしてあんな所に転がっていたの?」
「さあ。それは私にも」
『それはね。ラフト・リーフィシー、あなたのグジャグジャと、トラウト・ルーギルの弱虫のせいよ』
せっかく教えてやったのに、二人は「スリピッシュ」とか言って笑い合っている。シャクに|障《さわ》ったけれど、すぐにラフト・リーフィシーには|天罰《てんばつ》が下った。
横から別の女が出てきて、彼の|頬《ほお》を引っ|掻《か》いたのだ。
『この人のこと、知っているわ。エドアの妹。あ、エドアもいるじゃない、お久しぶり』
それから私は、エイを捜した。けれどようやく見つけた時に、間が悪いことにラフト・リーフィシーが、私を上着の右ポケットに入れてしまった。
ポケットの中で、ラフト・リーフィシーの右手が、私の|身体《からだ》をやさしく|撫《な》でる。
私は、彼のことだって嫌いじゃないから、触れられているうちにだんだん気持ちよくなって眠くなった。
ここでなら、眠ったって|大丈夫《だいじょうぶ》。だって、私はラフト・リーフィシーの物なのだから。
彼の手の中ならば、目が覚めた時に石になっているなんてことには決してならない、と私は知っていた。
私はポケットの中から、大好きな彼らにラブコールする。
明日も、|一緒《いっしょ》にチョギーをしましょうね、ラフト・リーフィシー。
これからもきれいに|磨《みが》いてねエイ。
私たちのことを大切にしてくれるかぎり、私はあなたたちの友達でいられる。
過去に何があったかとか、誰が産んだ子供だとか。
人間世界の、そういう難しい話は、ねえ、エイ? 私たちにとって無意味なのよ。
深夜になって、エイはチョギー台まで私を連れて行った。
「さあ、お帰りだよ」
どことなくほろ酔い気味のエイが、私を仲間の間にそっと下ろしてくれると。
『わあ、姫君が戻ってきた』
『お帰り!』
『お帰りなさい。よくぞご無事で』
|象牙《ぞうげ》の国は国を挙げての大盛り上がり。耳をすませば、|焦《こ》げ|茶《ちゃ》の国でも、隣国の姫君の帰還を喜んでくれているようだった。
いろいろ話したいことはあるけれど、とにかく今は|万感《ばんかん》の思いを込めて、たった一言だけ口にした。
『ただ今』
私は象牙色の姫君。
長いようで短かった、私のひとり歩きが、今やっと終わった。
あとがき
オオカミがきたぞー。
こんにちは、|今野《こんの》です。
いやー、あとがきで予告なんてうつもんじゃありませんね。
『スリピッシュ! ―ひとり歩きの姫君―』の前編で、後編は『マリア様がみてる』を一冊はさんだ後、みたいなことを書いておきながら、一年以上放ったらかし。
すっかり|嘘《うそ》つきになってしまいました。
でも、あの時点では本当にその予定だったの。
諸事情でなかなかこのシリーズを書けなくて、『スリピッシュ!』ファンには本当に申し訳ない、と思っていました(ところで、私の作品で『スリピッシュ!」だけを読んでいる人って、いるのかな。『マリア様がみてる』オンリーとか『夢の宮』一筋とかなら、いる気がしますけれど)。
前編のあとがきを眺めながら、これは「一冊」という二文字を書かなければよかったんではない、と思いました。
そうしたら、少なくとも嘘にはならなかった。間には、間違いなく『マリア様がみてる』しかはさんでいませんからね(……六冊という数はさておき)。
というわけで、お待たせしました。『スリピッシュ―ひとり歩きの姫君―』の後編をお届けいたします。
今回のお話で、ゼルフィ家と王家の関係が明らかになったと思うのですが、ちゃんと伝わったかどうかが心配です。
あとがきから読む読者に|配慮《はいりょ》して、あえてここでは「○○と××は△▼」のような解説は入れませんが、『夢の宮』ばりに複雑な人間関係であることは間違いありません。
ですから、新聞にはさまっているチラシの裏面の白い部分などを使って、家系図を書きながら読んで頂けると、たぶんわかりやすいです(んな面倒なことできるかい、という読者の声が聞こえる気がする。そうよね、通勤通学の電車で読む人だっているものね)。
あ、でも前編を読んでくださった方は、ある程度予想しながら後編に突入しているでしょうから、結構すんなりと受け入れられちゃうものなのかもしれませんね。
さて。
アカシュの「|女難《じょなん》騒動」はこれで一応決着がつきましたが、まだまだ解明されていない|謎《なぞ》があります。
一巻目からの謎。アカシュは何をしでかして、|牢屋《ろうや》に入っているのか。……これは、少しだけ明らかになりましたが、まだ真相は明らかになっていません。
トラウトの縁談は、どうなったでしょう。彼のほっぺに赤い花模様を描いてくれたお見合い相手と、今後進展はあるのでしょうか。
今回、エイの出生の秘密なんていう謎も、新たに追加されてしまいましたし。
リザとメルルのこれからも、私自身、気になるところです。
次の予告はもちろんうちませんが、いずれこの続きを書きたいという野望はもっていますので、『スリピッシュ!』を好きだと言ってくれる皆さん、気を長ーくもって、待って頂けるとありがたいです。
そうそう。
毎度のお願いですが、このシリーズは、ぜひとも出ている順に読んでくださいね(ちなみにこの文庫はシリーズ四冊目にあたります)。
ところで。
昨夜(|梅雨《つゆ》入り前日です)、今年初めてヤモリを見ました。
ガラス窓の向こう側に張りついているので、白いお腹しか見えないのだけれど、しっぽを入れると十センチくらいで、ゆっくり歩く時の手のグーパーする動きが、それはそれは|可愛《かわい》いこと!
あ、向こう側にいるから可愛いというのは、もちろんありますよね。過去二回ほど全長三センチくらいの赤ちゃんヤモリが家の中に|紛《まぎ》れ込んだことがあったのですが、結構なパニックになりましたから。恐くはないけれど、間違って踏んだりドアで挟んだりしたら嫌なので、できるだけ|棲《す》み分けをしていたい。
……と、ここまで書いて、「あれ?」と疑問。
過去二度とも、家の中で目撃するのは、いつもそれくらい小さいヤモリでしたが、それはなぜ?
ただの偶然?
小さいから、いろんな|隙間《すきま》から家の中に入ってきちゃうの?
でも、その場合、家の中で成長したら出て行けなくなるんじゃない?
それとも、家屋の中に卵が生みつけられて、ある程度大きくなったら外を目指すの?
でも、その説だったら、卵を産んだ親はどこから入ってきたの?
|諸々《もろもろ》気になったので、図鑑で調べてみたら、ニホンヤモリは木の幹や壁の|隙間《すきま》に二個ずつ卵を産むのだそうです。
それで「そうか、納得!」と、なればいいんですが。一つ解決すれば、それに|伴《ともな》う疑問が生まれてきちゃうんだから困りものです。
その、壁の隙間って、外壁? 内壁?
そこには書いてなかったけれど、卵ってどれくらいの大きさ?
米粒くらい? イクラくらい?
疑問を書きっぱなしじゃ悪いので、|暇《ひま》になったら調べてレポートしたいと思います(しかし、興味ある人いるかな)。そのうち、ってことで、ご|容赦《ようしゃ》ください。
あ、知ってました?
ヤモリってね、お腹側と背中側じゃ、全然印象が違うんですよ。子供だったからかな、上から見たらなんかグレーのゴムでできたオモチャみたいでした。
それでね、去年二階で発見した時は、捕まえて外に逃がしてあげようとしたんですが、あちらもパニックを起こして、すごい勢いで階段を跳ねながら(というより自分の身体を打ち付けながら)転がり落ちました。
手でサッと捕まえられればよかったんでしょうけれど、さすがにそれはできなくて、紙袋に追い込んで捕まえようとした|手際《てぎわ》の悪さが災いしたのかもしれません。彼(彼女?)の|慌《あわ》てっぷりは、相当なものでした。
過《あやま》って踏みたくない。そんな理由で用心深く階段を下りた時には、どこかの陰に逃げ込んでしまってすでに|行方《ゆくえ》不明(小さいし色も地味だから、ちょっとやそっとでは見つからないんですよ、これが)。
結局、二日ぐらい経って一階のリビングの窓の側で外に出たそうにしていたので、そっと出してあげましたけれどね。
いやー、行方不明だった間は、夜|廊下《ろうか》を歩くのも気をつかいましたよ。
何度も書きますけれど、私はヤモリを絶対に踏みたくないです。……人間に踏まれたら、たぶん彼らはひとたまりもありませんよ。
昨夜。
「あとがき、六ページ以上で」
という担当さんからの電話を受けた時は、正直「書けるかな」とクラクラしましたが、案外書けちゃうものですね(もう、六ページ目だ!)。
あとがきを書いていて、思うこと。
「読者の皆さんは、どんなあとがきが好きなんだろう?」
制作秘話みたいなもの?
キャラクターにまつわるいろいろなこと?
読者の反応?
作者の日常?
こんなこと書いちゃっていいのかな、とか。これ読んで面白いのかな、とか迷いながら、作家(というより、私)はあとがきを書いています。
本編が面白ければ、それでいいのかもしれないけれど、おまけのあとがきだって、面白いに越したことはありませんからね。
あ、忘れていました。
久々に担当さん情報。また、新しい担当さんになりました。「新しい」といっても、替わってからもうじき一年になるんですけれどね。
今年の一月と四月のサイン会で、横に立っていたおにーさん。彼が今度の担当さん。
これは|嘘《うそ》ではありません。
今野 緒雪
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〒101-8050 東京都千代田区一ツ橋2―5―10
集英社コバルト編集部 気付
今野緒雪先生
底本:「スリピッシュ!―ひとり歩きの姫君―(後編)」コバルト文庫
2004(平成16)年7月10日第1刷発行
入力:suk
校正:suk
2005年08月01日作成
青空文庫ファイル:
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