スリピッシュ!―ひとり歩きの姫君―(前編)
今野緒雪==著
イラスト/操・美緒
シャンマの予言
ワースホーン国の王都エーディックには、三つの|牢城《ろうじょう》が存在する。
東、西、北と王城をぐるり取り囲むその様は、国王を守るかのようにも、また王都の|平穏《へいおん》を乱す|不坪《ふらち》な|輩《やから》に対し三方から目を光らせているようにも見えるのだった。
とにかく、ワースホーン国が今日も平和でいられるのは、三方の牢城城主と彼らが|率《ひき》いる|検断《ポロトー》組織の働きによるところが大きい。
それは、各城主たちが|下々《しもじも》の者から『東の化け物』、『西のゆでダコ』、『北の|鉄面皮《てつめんぴ》』などという、親しみを込めたあだ名で呼ばれているところからもわかるであろう。
さて。
その中の一つ、|東方牢《リーフィシー》城の夜である。
むさ苦しい男たちが一緒くたに詰め込まれた|雑居房《ざっきょぼう》の中では、相も変わらず奇妙な光り広げられていた。
「口から出任せ言ってろよ、シャンマ。このデタラメ野郎が」
笑いながら吐き捨てたのは、黒髪の少年。どう|贔屓目《ひいきめ》に見てもその房では一番年下であるようだが、|鉄格子《てつごうし》から一番遠い場所に、毛布をうずたかく積み重ね、その上に|鎮座《ちんざ》し、年上の囚人どもを偉そうに見下ろしている。
「未来が見えるなんて、誰が信じる。もし仮にそれが本当ならさ、どうしてお前は今頃こんな場所にいなくちゃなんないんだ? 検断に捕まるってわかっていたなら、さっさと逃げればよかったじゃねえのか? ええ?」
少年の言葉に、囚人たちが「違いない!」と笑った。だが、シャンマと呼ばれた|痩《や》せぎすの|小男《こおとこ》は、突かれた|矛盾《むじゅん》にも動じず、唇の|端《はし》をかすかに上げて言う。
「それで逃げ通せたなら、アタシの予知は外れということになりましょうな。それこそ矛盾しませんか、|牢名主《ろうなぬし》」
「ふむ。……なるほど、そうだな」
牢名主の少年は、腕組みをしてうなずいた。|童顔《どうがん》で年より二つ三つ若く見えるが、これでも十八歳。|懲役《ちょうえき》刑で服役して五年。|腕《うで》っ|節《ぷし》の強さと度胸、そして持ち前の|愛嬌《あいきょう》で、東方牢城の数ある雑居房のどこに入れられても、必ず主に収まってしまうという不思議な少年である。
「シャンマ、じゃ聞くけどさ。お前は、自分の予知能力を正しいものと証明するために、捕まったっていうのか」
「いいや。本当のところは、まるっきり自分の未来には気づかなかっただけの話で」
ドッと、先ほどを上回る大爆笑が巻き起こる。話にオチが付いた。今回はシャンマも、口を大きく開けて笑った。
確かに、未来のすべてをわかっているなら、「いかさま|占《うらな》い|詐欺《さぎ》」なんかしなくても十分暮らしていけただろうし、そうなれば被害者たちに訴えられることもなく、当然|牢獄《ろうごく》の中でこのように|車座《くるまざ》になって男ばかり|面《つら》つきあわせて|暇《ひま》つぶしの雑談に|興《きょう》じているはずもなかったうう。だからシャンマのその能力は、彼の人生を定める上であまり役に立っていない|代物《しろもの》のようである。
「で、何だっけ?」
少年が高い位置から肩を揺すった。
「|牢名主《ろうなぬし》の遠くない未来に起こることを、占って差し上げよう、と」
「いいぜ。当ててみろよ」
「見事当ててご覧に入れたら、何かご|褒美《ほうび》をもらえますかね」
シャンマは下から見上げた。
「褒美? 俺にできることなんて、たかが知れているぜ?」
「結構です。何も、|牢獄《ここ》から出してくれ、なんて大それたことは頼みませんよ」
「……当たり前だ」
おもしろくなってきた。|下《した》っ|端《ぱ》の囚人たちは、にわかに騒ぎはじめる。早くもその占いが当たるか外れるかをネタに|賭《か》けを始めているのだ。賭けといっても、|獄舎《ごくしゃ》内のことである。囚人は、一ペス銅貨一枚の所持も許されない。従って、囚人間でのやりとりといったら、毛布の貸し借りとか、|献立《こんだて》の一品を賭けるとか、せいぜいその程度のことである。
それでも、自由を|剥奪《はくだつ》された退屈な男たちにとっては、十分魅力的な刺激なのであろう。皆、|固唾《かたず》をのんで予言者の口から次の言葉が発せられるのを待っている。
シャンマはその期待に|応《こた》えるように、あぐらをかき、目を閉じ、|合掌《がっしょう》するといったそれらしいポーズをとる。昔取った|杵柄《きねづか》であろう。普段より幾分ひくくゆっくりとした声を出して、聴衆の注意を更に引きつけた。
「女に気をつけた方がいい」
「え?」
少年が聞き返した。聞き間違いをした、と思ったのだ。だがシャンマは、「女」と繰り返す。
「牢名主には、|女難《じょなん》の相が出ています。ここ数日の間は、女に要注意」
「は……」
|一拍《いっぱく》置いて、周囲から笑いとブーイングが巻き起こる。
「ばかか、お前は」
獄舎の住人には、異性と接触する機会はほとんどないのである。もちろん|東方牢《リーフィシー》城にも|女囚《じょしゅう》はいる。けれど、房は離れているし、|使役《しえき》に出る際も仕事場は男女きっちり分けられているので、ただ姿を拝むだけであっても、チャンスはそうそう転がっていないのだ。|雑居房《ざっきょぼう》の中では一番の実力者である「|牢名主《ろうなぬし》」であっても、|一介《いっかい》の囚人であれば立場は変わりない。少年も|使役労《しえきろう》で|獄舎《ごくしゃ》から出ることはあるが、出先は|検断庁舎《けんだんちょうしゃ》という、輪をかけて女っ|気《け》のない場所であった。難に|遭《あ》おうにも、難を運んでくる女性がいないのでは話にならない。というわけで、結果「当たる」方に|賭《か》ける人間がいなくなってしまい、お楽しみの|博打《ばくち》は不成立とあいなった。誰も、みすみす負ける方に賭けやしない。
「……お前、本気で言っている?」
ざわめきの中で、少年は小さく吐き捨てた。
「信じてもらえないようですね。じゃ、|小手調《こてしら》べにもっと単純でわかりやすい予言をしましょうか。それが当たったら、さっきの賭け、のってくださいよ」
シャンマは自信満々である。その表情は、年若い牢名主を挑発しているようにも見える。いったい、この男は何を望んでいるのか。
「おもしろい」
少年は笑ってうなずいた。売られたけんかは、残らず買ってきた。だからこそ、この若さで牢名主を張っていられるのだ。
「いいよ」
高く積まれた毛布の山から飛び降りると、シャンマだけに聞こえる声で|囁《ささやい》いた。
「お前の言う通りになったら、一つ願いを聞いてやるよ」と。
フラーマティブル
フラーマティブル、フラーマティブル
|永久《とわ》に消し去れ、手作りの品
|手中《しゅちゅう》に隠せ、誰かのお下がり
刃物で壊せ、買いたての品
忘れるなかれ、オリーブと|野薔薇《のばら》のブーケ
――それから、それから何だっけ?
フラーマティブル、歌は呼ぶ。|乙女《おとめ》のために準備される品は、全部で五つ。
だから残りあと一つ。
忘れてしまった最後の品は、いったいぜんたい何だった?
作戦会議
1
「誰だろう」
アカシュは、机から顔を上げてつぶやいた。今はまだ昼過ぎという時間であるから、レースのついた白いブラウスにピーコックグリーンの長いジャケット、|膝丈《ひざたけ》のズボンからは白いタイツの足をにょっきり出すといった、|東方検断《トイ・ポロトー》長官ラフト・リーフィシーらしく、まことにお上品な格好をしている。ここはおなじみ、|東方牢《リーフィシー》城の|検断庁舎《けんだんちょうしゃ》にある長官執務室である。当番月でできた仕事をいかにこなすかが勝負の非番月、今日のスケジュールは下から上がってきた書類をチェックし、ひたすらサインし続けること。大好きな盤上ゲーム「チョギー」の|駒《こま》も、今日は一マスたりとも動いていない。
「誰、とは?」
東方検断のナンバー・ツー、「|白銀《はくぎん》の人形」という|異名《いみょう》をもつエイ・ロクセンスが聞き返した。いつになく|真面目《まじめ》モードで仕事をしている上司に油断して、うっかり言葉を返してしまったのだ。だが、独り言に返事をしてしまったら、そこからは会話である。目の前にいる黒髪の小悪魔が退屈して仕事を|放棄《ほうき》するのは防ぎようがないにしても、せめて自分の仕事だけ億続行させたかったエイである。
「俺が近々会いそうな女さ」
ペンを置いて「うーん」とまず伸びをし、|椅子《いす》をずらして机に足を投げ出す。アカシュは本格的に|休憩《きゅうけい》の態勢に入ってしまった。こうなってはエイも一人で仕事を続けることは不可能。無視すればいいのだが、|几帳面《きちょうめん》で|潔癖性《けっぺきしょう》の彼は、アカシュの態度をどうしても見逃すことができないのである。椅子を立ち上がって、|検断《ポロトー》長官の重厚なる机まで進むと、おもむろに上司の足首をつかんで床に下ろした。
「たとえ五つの子供であっても、|乗合《のりあい》馬車に後ろ座りする場合は|靴《くつ》を脱がねばならないことを知っていますよ」
「ああ」
叱られた子供のように、アカシュは「しまった」という表情を浮かべた。しかし、靴を脱いで白いタイツの足を再び|机上《きじょう》に投げ出すわけだから、大した反省ではないというか何というか、とにかく副官の心情などまったくわかっていない人なのだった。
「ついでですからご注意申し上げますが、近頃この部屋にいる時の言葉遣いが荒れています。このところ、ラフト・リーフィシーとアカシュのけじめがついていないようにお見受けします」
|小姑《こじゅうとめ》のように細かいところをネチネチ突っつきたくはないが、勤務時間のほとんどをこの部屋で二人きりで過ごす状況では、自分以外にこの人に|諌言《かんげん》する人間はいないではないか、とエイは心の中でぼやいた。
「そうか。そうかもしれない。以後、気をつけよう」
「そのようにお願いいたします」
王宮に|参内《さんだい》している時などに、うっかり俗っぽいしゃべり方をしてしまっては大変なことになる。そもそも|懲役囚《ちょうえきしゅう》と|東方検断《トイ・ポロトー》長官が同一人物だということ自体が問題なのだが、今更それを|蒸《む》し返したところで仕方ないのだ。アカシュ・ゼルフィ十八歳。十三の年に実の父親から懲役刑を言い渡されて、囚人歴早五年。その父親の死と同時に「ラフト・リーフィシー」という名前とともに東方検断長官という役職が|巡《めぐ》ってきたのは、神のいたずらというよりむしろ王家の|不手際《ふてぎわ》。同じ城の中で両極端ともいえる二重生活を送るのは、想像以上に大変なことであろうが、せめて東方検断長官として仕事をしている時くらいはもう少ししゃっきりしていて欲しい。エイの願いなんて、そんなささやかなものなのだ。
「ここ何日かの間に、お目にかかれそうなご婦人について考えていたのだ、私は」
アカシュは足を下ろし、わざとらしく|襟《えり》のリボンなども直してから言い直した。
「ご婦人? それはどなたのことです?」
「だから、それが誰なのだろうか、と考えていた。聞いていなかったのか」
「……でしたね」
確かに、きっかけは「誰だろう」というつぶやきだった。しかし、いつもながら話の流れがわかりにくい人である。エイはため息混じりに、プラチナブロンドの長い髪をゆっくりとかき上げた。その時、部屋にノックが響き、部下の一人であるログが入室してきた。
「失礼します。資料のファイルをお届けにあがりました。それと、|役宅《やくたく》からロアデルが来ていますがいかがいたしましょう」
「ロアデルが?」
「仕事が立て込んでいるようでしたら、代わりに用件を聞いておきますが」
「いいよ、ここに呼んで。ちょうど一休みするところだ」
勝手に一休みにされても困る、とエイは思った。だが一旦中断してしまった以上、先ほどまでの集中力で仕事を片づけるのはもはや不可能と|諦《あきら》めた。
「ロアデル、……か」
ログが再び扉の向こうに消えると、二人は何とはなしに顔を見合わせた。
「そういえば、彼女はもっとも身近にいるご婦人の一人ですね」
「うん。でも、ちょっと違うかなぁ」
程なく、|検断《ポロトー》長官執務室に|癖《くせ》のある茶色い髪を一つに束ねた若い娘が現れた。すると部屋の中がとたんに|華《はな》やぐ。やはり、男ばかりの部屋というのは味気ないものなのだ。
「一休みと|伺《うかが》ったので、お茶をお持ちしました」
「ああ、ありがとう。こちらでいただきます」
エイが盆を受け取ると、そこには湯気のたった二つのカップと焼き菓子、そして薄い木製の木箱が乗っていた。
「役宅に届きました|旦那《だんな》さま宛の手紙と、シイラからお菓子の差し入れです」
「わーい」
アカシュが手放しで喜んだのは、もちろん手紙ではなく、シイラ特製の菓子であろう。ついさっき、「気をつける」と約束したばかりなのに、もう自分の立場を忘れてはしゃぎまくって――。エイは注意しようと試みたが、相手はもはやこちらなど見向きもしない。視線は、テーブルに置かれた菓子一点に注がれている。
「あの。|繕《つくろ》い物とか|洗濯物《せんたくもの》とか、何かありましたらお預かりしていきますが」
ロアデルがエイに尋ねた。彼女も「旦那さま」のことは|端《はな》からあきらめているのだろう。役宅は検断長官の自宅であるから、用事といえばラフト・リーフィシーであるところのアカシュに関することがほとんどであるのだが。
「では、長官のブラウスとタイツを|洗濯《せんたく》に。あ、そうそう上から二番目のボタンが取れかかっているので、付けなおしてもらえると助かります」
エイは奥の部屋から汚れ物を出してくると、ロアデルに渡した。
「かしこまりました。この中でお急ぎの物はありますか?」
「いえ、特には」
ロアデルと会話をしながら、エイは何か納得できない気持ちになっていた。どうして治安を守るという責務を負った|検断《ポロトー》の副長官が、長官の衣類のことまで気にしなければならないのだろう。|西方検断《エスタ・ポロトー》の副長官は、|賭《か》けてもいいが絶対にそんな仕事はしていない。時間になるとお茶を入れに来るというメイドだって、そこまで面倒は見てくれないはず。
「子供みたい」
ロアデルが軽く|畳《たた》んだ服を手にして、目を細めた。その視線の先には、木イチゴの入ったタルトをうれしそうに切り分けるアカシュの姿。
「あれ、かわいいですか?」
エイは小声で尋ねた。
「え? ええ。あ、いえ、どうなのでしょう。いつもじゃないんですけど、時々とてもかわいらしい時があります。そう思われるの、ご本人はお嫌いみたいですけれどね」
ロアデルは笑いながら答えた。
「そうですか」
「何か?」
「いや」
エイは質問したことを後悔した。ロアデルはいい。年上の女性としては、それが正常な感覚であろう。彼女と比べてみたところで、参考になどならないのだ。
「うめー!」
突然、奇声が上がった。
「おい、エイ。お前もここに来て食べてみろよ。シイラの菓子は最高だ」
声につられてそちらを見た。エイは、思わず回れ右をしてしまった。アカシュがテーブルに身を乗り出して、|貧《むさぼ》るようにタルトを|頬張《ほおほ》っていたのだ。
見てはいけないものを見た。このまま真っ直ぐドアまで歩いていって、部屋を出ていってしまいたい。
これが泣く子も黙る|東方検断《トイ・ポロトー》長官、ラフト・リーフィシーだとは。情けなくて、涙も出ない。
しかし今逃げたところで、この部屋はいつでもそんなものであふれているのだ。見たくないからといって、目隠ししたままでは仕事もできない。
いつの日か、こんな上司のだらしなさにも慣れてしまう日が来るのだろうか、とエイは思った。だがそんな未来の自分を想像しても、あまりうれしくはなかった。いっそ|諦《あきら》めてしまえば楽なのかもしれないが。それができてしまえるほど、育ちきってはいないのだった。誰かがそっとエイの背中に触れた。振り返ってみると、そこにはやさしくほほえむロアデルの姿。
「エイさま。甘い物を少しでも口に入れると、疲れがとれますよ」
「……」
自分はそんなに疲れた顔をしていたのだろうか、と一瞬エイはドキリとした。が、ロアデルはただ、アカシュのもとに戻るきっかけを作ってくれただけのようだ。
「さ、エイさま」
エイはそのまま、ロアデルに前へと押しだされた。
「そうですね。一休みでした」
アカシュについてはまだいろいろと言いたいことはあるのだが、確かにそれを一時脇に置いておいてもいいほどにシイラの菓子は魅力的ではある。だからエイもまた、黙って来客用のソファに収まったのだった。
「ロアデルってさ、何かお母さんみたいだよね」
ロアデルが部屋から出ていくと、アカシュが彼女の用意していった小皿とフォークを|弄《もてあそ》びながらつぶやいた。
「だから、彼女は違うと思うんだ」
タルトをもう一切れナイフで大きく切り分けて自分の小皿に確保し、残りを向かいの席のエイに向かって押し出す。
「何が、でしょう」
エイは控えめにカットし、小皿に取り分けた。
「私が振り回されるであろう女性が、さ」
アカシュはすでに三切れ目。いつもながら、すごい食欲である。
「振り回される? 何なんです、それはいったい――」
先ほど言っていたご婦人のことであろうか、とエイは思った。
「アカシュ[#「アカシュ」に傍点]が|今《いま》いる|雑居房《ざっきょぼう》に、予言者がいて。今ちょっとしたブームになっている」
「予言が、ですか」
|牢獄《ろうごく》生活は退屈だ。だから、様々な刑で収容されている罪人が一緒くたに詰め込まれた雑居房では、時折寄せては返す波のように|流行《はや》り物が現れ、いつの間にか消えていく。パンをくり抜いた穴におかずを詰めて食べるだの、囚人服の|袖《そで》を左右違う長さにめくり上げて着るだの、どれもたわいもないことばかりである。
「で、あなたもその予言者に何か|占《うらな》ってもらったのですね」
乗る乗らないはともかく、取りあえず一度はブームに首を突っ込むタイプである。
「そ。で、女に気をつけろ、って言われたわけだ」
「はあ」
「どうやら、女に振り回される相が出ていたらしい」
「それに対して、他の囚人たちの反応は」
「大爆笑。今度ばかりは外したようだ、と」
「――でしょうね」
|懲役囚《ちょうえきしゅう》に異性と接する機会などあろうはずはない。普通ならば、それが常識なのだろう。だが。
「ラフト[#「ラフト」に傍点]・リーフィシー[#「リーフィシー」に傍点]ならばあり得る、と?」
「そうだ」
「なるほど」
「女は好きだ。だから、振り回されるというのも悪くない。しかし、ゴタゴタは困る」
アカシュは真顔でつぶやいた。|密《ひそ》かに二重生活を送っている彼にとって、一方がもう一方の生活を|脅《おびや》かすことなどがあっては、それこそ死活問題なのだった。
「当たるんですか、その予言というのは」
「ずっと同部屋だった囚人の話じゃ、結構当たっているらしいよ。明日の天気とか、|雑居房《ざっきょぼう》の部屋替えがある日のこととか」
「そんなレベルなんですか」
エイは顔をしかめた。どうせだったら大きな天災とか、大事件に関わることとか言い当ててくれないものだろうか。
「占おうとして占うものではないらしい。頼みもしないのに、役に立たない過去や未来の断片が降りてくるらしいよ」
「それは、まぐれ当たりという|類《たぐい》の話では――」
「そうとも言い切れないんだ」
「なぜ」
「五年前の|女難《じょなん》ほどではないから安心するように、だって。その予言者」
アカシュの言葉に、エイは動きを止めた。
「五年前、ですって?」
探るように聞き返すと、アカシュはうなずく。
「そう、五年前だ」
「……なるほど」
五年前、アカシュが起こした事件は、一握りどころか|一摘《ひとつま》みの人間しか知らないことだった。人数が限られているからこそ、情報の流失が抑えられている。その一摘みの誰かが今更、囚人に|漏《も》らすとは考えにくい。かといって、その予言者を全面的に信じるのもどうかと思われるが。一応、その予言者の名前を聞いておきましょう」
エイは尋ねた。どんな小さいことであっても、|把握《はあく》しておかなくては気が済まない性格だ。
「シャンマだよ」
「シャンマ……」
いかさま|詐欺師《さぎし》だ。確か二年前に|逮捕《たいほ》され、|懲役《ちょうえき》三年が確定して服役中の。特にあやしいところもない、ごく普通の目立たない囚人だ。
「すぐに決着がつくさ。長くて五日って話だ」
それでアカシュは身近な女性を想定しているわけだ。信じているのか信じていないのか。外見上は、楽観的というか、自分の身に降りかかるかもしれない未来を、あれこれ想像して楽しんでいるようにも見える。
「ロアデルでないとすると……、あとはシイラくらいですか。|東方牢《リーフィシー》城内で長官が会われる可能性のある女性としたら。アカシュに関しては、|洗濯《せんたく》労働の予定も今のところ入っていませんからマイザも除外するとして」
エイは|役宅《やくたく》を切り盛りする女性と、囚人の洗濯を一手に引き受ける女性、二人の名をあげた。
「死刑執行予定の|女囚《じょしゅう》はいなかったね」
指についた菓子のかすをなめながら、アカシュが確認する。
「はい。男女とも今月中の執行はありません」
表だった仕事のほとんどを副長官に代行させている|東方検断《トイ・ポロトー》長官ではあるが、死刑の宣告だけは例外である。それは|検断《ポロトー》長官に課せられた義務で、検断誕生以来今日まで守られてきた大切な決まり事なのだった。決まりといえば。
「五日後は王城に行かれる日です。あそこには不特定多数のご婦人がいらっしゃいますが」
「……どちらかといえば、そっち方面が怪しいな」
うんざり、というような表情で|椅子《いす》を立ち上がる。女性は好きだが、宮廷の貴婦人方は苦手らしい。その気持ちは、エイもかなり正確に理解できる。菓子に満足したアカシュは、長官の机に置かれた手紙の束を手に取った。ロアデルが持参したそれらは、東方検断の長官へ|宛《あ》てた|公《おおやけ》の手紙ではなく、個人的な手紙である。わざわざ別々に分けて役宅に届けているのにも関わらず、アカシュ本人がほとんど役宅に戻らないので、結局はこちら検断庁舎に回ってくる。だから手紙の仕分け係の苦労は、本当のことを言ってしまえば|徒労《とろう》なのである。
「|舞踏会《ぶとうかい》の招待状に、音楽会へのお誘い、……か。|辛抱《しんぼう》強い人たちって、世の中にはいるものだな」
「滅多に顔を出さないラフト・リーフィシーと、お近づきになりたいのでしょう。あなたは王宮に|参内《さんだい》しても、王さまに|謁見《えっけん》したらすぐに帰ってしまうから」
エイは優雅にお茶をすすった。向かいの席の小皿上に存在する食べ散らかされた菓子の粉は見なかったことにして、自分の分のタルトをフォークで口に運ぶ。やはり、シイラの手作り菓子は最高だった。腹を立ててふいにしなくてよかった。
「私は見せ物か」
やれやれ、と首をすくめてアカシュは封筒を机の上で仕分けした。返事を出す分、保存する分、|破棄《はき》していい分、という具合だ。その様子を眺めながら、もう一口タルトを食べようとしたエイの耳に、「ああっ」という|動揺《どうよう》の声が届いた。
「どうなさいました」
「……エイ」
アカシュの手には、一通の手紙が握られている。
「有力な候補者を忘れていた」
「はっ?」
エイが聞き返すと、アカシュは複雑な表情を浮かべて言った。
「姉上の様子がおかしい、と。領地の|執事《しつじ》が言ってきた」
「えっ」
「まさか、こっちに出てくるようなことは……」
――それは、予言者でなくても|一波乱《ひとはらん》起きることが十分想像できることなのであった。
2
「|女難《じょなん》は訪れましたかい、|牢名主《ろうなぬし》」
やせた|小男《こおとこ》が、近寄ってくる。
「うるさい。来るな」
アカシュは背中を向けてシャンマを|拒絶《きょぜつ》した。いや、シャンマというより、シャンマの手にしている物を見ないようにしているのである。
「今日のシチューはまた格別で」
「ああそうかい」
「肉の切れ端が、まあやわらかくてうまいの何の」
シャンマが手にした盆の中には、なぜか|主菜《しゅさい》の|椀《わん》が二つ。白くてとろりとしたシチューが湯気をたてて、「おいしいよ」「食べてごらんよ」と誘っている。
「ふん」
アカシュは自分の盆の上からパンをつかんで、乱暴に口に運んだ。あのシチューにこのパンを|浸《ひた》して食べたら、どんなにおいしいことだろう。が、それは|叶《かな》わぬ夢である。他の囚人たちは、今日に限ってアカシュから離れた場所を選んで食事をとっている。二人のやりとりが気になる様子ではあるが、今はとにかく自分の食料を守ることに必死で、猛スピードでガツガツと口内にかき込んでいる。
「どうです、アタシの予言を少しは信じてもらえましたか」
シャンマがわざわざアカシュの正面に回り、そこにしゃがんだ。左右に一つずつ椀を持つと、見せびらかすように|代《か》わる|代《が》わるに口をつけてシチューをすする。
「|献立《こんだて》当てなんて、確率の問題だろう」
いつまで待ってもシチューの入らないアカシュのロからは、負け惜しみくらいしか吐き出されなかった。
「確率……。そうですね、そう言えなくもありません。しかし牢名主、あなたは確率からでは当てられなかったでしょうな」
「まさか三日前と同じメニューが出るとは考えられなかったからな」
で、その結果「|小手調《こてしら》べ」の|賭《か》けに負けて、アカシュは主菜をシャンマに奪われたわけである。まったく、ロ|惜《くちお》しい限りだ。
「|女難《じょなん》は、まだのようですな」
シャンマは、右手に持った|椀《わん》の中身を飲み干して笑った。アカシュは背中を向けて、野菜の|酢漬《すづ》けをかじった。
「俺の未来が本当にわかるなら。近い未来なんてのじゃなくて、将来の展望みたいなことをみてくれよ。いったい、俺はいつ|娑婆《しゃば》に出られることになっているんだい?」
だが、返ってくるのは「さあ」という|手応《てごた》えのない言葉である。
「役に立たねえな。じゃ、国王の|世継《よつ》ぎはいつ生まれる?」
「それもわかりません。知りたいことが全部わかるなら、こんな所に|薫《くすぶ》ってやしませんよ。アタシがわかるのは、皆ちっぽけで役に立たないことばかりで」
「ちっぽけ……、役に立たない……。なるほど」
だからこそ、神は彼にその能力を与えたまま放任しているのかもしれない。役に立たない、というところがポイントなのだ。
「何にしても、お前の役に立たない予知能力に、俺の大したことない未来が降りてきてくれたことは愉快だ」
アカシュは笑いながら、最後のパンの一切れを口に入れた。シャンマにとって役に立たないことならば、きっとアカシュにとっても役に立たないことなのだろう。ならば予言なんてあってもなくても同じこと。その者に覚悟を促す、それくらいの役割なのかもしれない。
それにしても、パンと|漬《つ》け|物《もの》だけでは育ち盛りの腹が満たされるわけがない。今夜は、シイラの作った菓子の夢をみてしまいそうだ。
3
「ラフト・リーフィシー!」
そんな大きな呼び声とともに|東方検断《トイ・ポロトー》長官執務室に飛び込んでくる人間がいたら、|西方検断《エスタ・ポロトー》副長官のトラウト・ルーギルと思ってまず間違いはない。彼が|東方牢《リーフィシー》城を訪れると、
「勝手知ったる他方の|検断庁舎《けんだんちょうしゃ》」とばかり取り次ぎを無視して奥へ奥へと踏み込んでくるので、案内役の者が後からあわてて追いかけてくるという不思議な現象が、毎度のごとく繰り広げられるのであった。迎える側の立場から言わせてもらえるなら、部外者に内部を勝手に歩き回られるのは迷惑なことなのだが、そのことに対してトラウト本人はまったく気づいていない。そればかりか、「仕事の手間を|省《はぶ》いてやっている」と思い違いをしてるきらいまであるのだから困ったものだ。さて、そのトラウト。いつでもそんな調子だから、一々手厚く出迎えてなどもらえなくなってしまった。
「やあ、トラウト。悪いが少し待ってもらえないか」
ラフト・リーフィシーは、顔も上げずにそう告げた。父親の跡を継いで|襲名《しゅうめい》して以来この友は、アカシュという本名で呼ぶことをトラウトに禁じている。
「いらっしゃい、トラウトどの」
その向かいの席に座ったエイは、かろうじて顔だけは上げたが、|挨拶《あいさつ》を済ませると彼の上司と同じように二人の真ん中に|据《す》えてある台に集中した。こうしてうつむき黙ってしまうと、女性と見まごうばかりである。――という所感はさておき。
「……何をしてる」
威勢よく部屋の中に乗り込んできたトラウトであったが、ドアを開けてわずか三歩でその出鼻をくじかれた。
「会議」
ラフト・リーフィシーは、右手の親指と人差し指で|焦《こ》げ茶色の|駒《こま》を|摘《つま》みながら答えた。もちろん、顔をこちらに向けることはない。
「チョギーだろうが」
トラウトは四角い顔の中で太い|眉《まゆ》をひそめ、|東方検断《トイ・ポロトー》長官と東方検断副長官の間にある四角いゲーム盤を指さした。
「わかっているなら聞くな」
「客人を待たせて、ゲームか。いい気なものだ」
天下のラフト・リーフィシーが朝っぱらから盤上ゲームにうつつを抜かしているという|噂《うわさ》を、トラウトももちろん知ってはいる。が、実際現場を押さえたのは今回が初めてである。
「客人といっても、約束していたわけでなし。取り次ぎを無視して勝手に乱入してきておいて、文句言うのもどうかな」
「――」
言われてみれば、その通りなのである。トラウトは素直なので、自分の主張が誤っていたと気づけば、それを認めることのできる男だ。
「私はただ友人として、君に忠告してやろうと」
しかし悔しいので、それくらいの憎まれ口は言いたいのである。
「それはどうもありがとう。|今朝《けさ》は、その忠告とやらのためにわざわざ?」
ラフト・リーフィシーはやっと顔を上げた。この笑顔がくせ者。何もかも見通されているような気分になる。
「いや」
トラウトは首を横に振った。
「……君と話がしたいと思って来た」
今更|繕《つくろ》ったところで、どうなるものでもない。トラウトは、友に相談事があって訪ねてきたのだ。
「それなら、少し待ってもらえるね?」
「うむ」
うなずくと、トラウトはおとなしく「そこで」と指さされたソファーに納まった。そこはエイの隣の席で、ラフト・リーフィシーに対して斜め向かいに位置する。
「さて、議題はどこまで進んだっけ?」
ラフト・リーフィシーが口を開くと、エイは|象牙《ぞうげ》色の|駒《こま》を動かしながら答えた。
「|縁起物《えんぎもの》五つの分担です」
「そうそう、縁起物。シイラが菓子を焼いてくれるって?」
|焦《こ》げ茶色の駒が、盤上を移動する。
「ええ。ですから、『|永久《とわ》に』は任せてくれ、と」
「それは心強いね」
ラフト・リーフィシーは、満足げにうなずいた。
「では、決めるべき物は残り四つということか。エイ、お前に何か案があるならばまず聞こう」
エイが口を開きかけたところで、我慢できなくなってトラウトが尋ねた。
「あの、二人はいったい何の話をしているのだ?」
「会議の|邪魔《じゃま》をしないでもらえないかな、トラウト。君の話は後でゆっくり聞くから、今は、そこで、静かに、座って待っていてくれ」
「あ、失礼」
トラウトは|咳払《せきばら》いしてから、両手を胸の前で小さく上げた。
邪魔するつもりはなかった。つい、口をついて出てしまっただけだ。しかし、議題とは。会議というのはあながち|嘘《うそ》ではなかったらしい。チョギーをやりながらということと、会議の内容が|検断《ポロトー》とはあまり関係なさそうな点が|若干《じゃっかん》気になりはするのだが。
「『|手中《しゅちゅう》に』は、私に任せてくれるかい。問題は『刃物で』だね。|陶器《とうき》を割るというのはあまりに芸がないし、|無闇《むやみ》にゴミを増やすだけのようで美しくもない」
「同感です。それは私に考えがあります」
黙って聞いていても、話が少しも見えてこない。それどころか、ますますわかりにくい迷路に誘われていくようだ。所々に道しるべのようなキーワードが転がっているのだが、それが何なのかトラウトにはなかなか思い出せないのだった。だいたい、何なんだ。「永久に」だの「手中に」だの「刃物で」だの、文章を略すにも程がある。――と、頭の中で一つ一つ並べたところでひらめいた。
「ああ、そうか。|縁起物《えんぎもの》って、|花の祭り《フラーマティブル》のことだ!」
トラウトが右の|拳《こぶし》を左の手の平に打ちつけると、ラフト・リーフィシーとエイが同時に彼に視線を向けた。
「すまん、また」
今更、拳を口に持っていっても出てしまった言葉は元には返らない。静かに待っていうと言われた先からこれだ。まだ、ラフト・リーフィシーに注意されてしまう。が。
「意外に|勘《かん》がいいね」
友は別段怒っている風でもなく、軽く笑って許してくれた。
「トラウト、花の祭りがどんな祭りか知ってる?」
「もちろん。娘が十六歳になった祝いをする祭りだ」
それくらいのこと知らないでどうする。トラウトは胸を張った。
「いや、失礼。君には女きょうだいがいないから、ピンとこないかと思っていた」
「馬鹿にしているのか、君は」
たとえ家に娘がいなくても、一般知識として頭に入っていて当然の行事ではないか、トラウトは|憤慨《ふんがい》した。各家庭に国王|陛下《へいか》はいらっしゃらないが、即位記念日には全国民をあげてお祝いする、それと同じことだ。いや、少し違うか。
「だが、君の周りにだって十六の娘なんかいないだろう?」
ゼルフィ家には娘が一人いるが、現在十八歳のラフト・リーフィシーの姉なわけだから、当然とうの昔に十六は越しているわけである。――となると。
「ロアデルだよ」
ラフト・リーフィシーは、手の中でラフト・リーフィシーは、手の中で|駒《こま》を弄《もてあそ》びながらつぶやいた。
「ロアデル? 彼女は君より一つ年上じゃないか」
「三つくらい目をつむるんだよ。私は、花の祭りでパーッと盛り上がりたい」
「何かにかこつけて騒ぎたい、とでも? 君が?」
「その通り」
「へえ……」
珍しいこともあるものだ、とトラウトは目を丸くした。ラフト・リーフィシーは極端に人と会うことを嫌う性質で、十日に一度お役目で陛下に|謁見《えっけん》する以外はほとんど|東方牢《リーフィシー》城を出ないという変わり者だった。その彼が、祭りを楽しみたい、とは。日頃の|出不精《でぷしょう》の反動だろうか。
「たまには、いいんだよ。そういうのも」
ラフト・リーフィシーが|童顔《どうがん》で|悪戯《いたずら》っぽく笑った瞬間、ずっと黙っていたエイがニヤリと笑っで|象牙《ぞうげ》色の|駒《こま》を滑らせた。
「王手」
「あっ!」
いつの間にか、|象牙《ぞうげ》色の姫君の|駒《こま》が|焦《こ》げ茶色の国王の駒の目の前まで来ていた。
「逃げ場はない、か。……何たることだ」
ラフト・リーフィシーはガックリと肩を落とした。自分と話をしていてゲームに集中できなかった結果が勝負を分けたとしたらどうしよう、とトラウトは|焦《あせ》って盤上に視線を泳がせた。多少なりとも責任を感じているのである。そして今更ながら、どうにか国王を逃がす手だてはないだろうか、と道を探した。
「おい待てよ、国王が姫君をとれるじゃないか。まだ|諦《あきら》めるのは早いよ」
歓喜に満ちた声をあげながら、トラウトは「これをこうして」と駒を動かしてみた。だが。
「それじゃだめだよ、トラウト」
その手は|呆気《あっけ》なく|却下《きゃっか》されてしまった。
「姫君の背後に|歩兵《ほへい》がついてきている。国王が姫をとるためには、駒を一つ動かさねばならないから、次の一手で歩兵が王をとるさ」
ラフト・リーフィシーはその先に行われるであろう二手をトラウトに見せてから、駒をグジャグジャと|崩《くず》した。
「そういうことです」
エイは落ちた駒を拾いながら言った。
「会議は終わりました。トラウトどの、どうぞ長官とお話しください。私はお茶でも入れてきましょう」
勝者の|余裕《よゆう》か。チョギー盤の台も、駒も一人で片づけて、|尚《なお》かつほほえみまで浮かべて部屋を出ていくエイ。対して負けたラフト・リーフィシーはというと。
「実力|伯仲《はくちゅう》のゲームでは、おしゃべりは禁物だな」
ふて寝するように|長《なが》椅子《いす》に横になってため息をついた。
「すまん」
「君を責めているんじゃない。自分にがっかりしているだけさ。修行が足りない、ってね」
うーん、と伸びを一つすると、ラフト・リーフィシーはバネ仕掛けのように勢いをつけて飛び起き、尋ねた。
「で? 君の話、って何だい?」
* * *
「君は女性と交際したことがあるか」
トラウト・ルーギルは椅子に座り直すと真顔で尋ねた。
「交際、って?」
トラウトの口から女性の話題を振られるとは。あまりに新鮮で、思わず笑い出しそうになるのを、アカシュは必死で押しとどめた。ここで笑っては、トラウトはへそを曲げて帰ってしまうに違いない。
「いや、あの、つまり……、特定のご婦人と一対一でおつき合いするというか、何というか――」
照れているのか、言いあぐねてトラウトの話はなかなか要領を得ない。しびれを切らしたアカシュは、ストレートに聞き返した。
「女と寝たことがあるか、ってこと?」
「ね、ね、寝たって! そこまで、あの、あれではなくて」
さすがは親子。顔の形は違えども、真っ赤になると「西のゆでダコ」のあだ名で親しまれている|西方検断《エスタ・ポロトー》長官そっくりである。
「あれ、ではなくて、って?」
「いや、それも含めてしまって一向に|構《かま》わないのだ。構わないのだけれど、それだけではなく、何て言うか――」
「あれ」とか「それ」とか。トラウトは、よほどこの手の話題に|免疫《めんえき》がないらしい。それにしても、何という回りくどさだ。
「あるよ。それで?」
アカシュは先を促した。
「そうか……。そうだよな」
「何なんだよ」
トラウトはアカシュの答えを聞いて、かなり失望したらしい。が、それも一瞬のことで、すぐに気を取り直したように言った。
「君が経験者なら、好都合というものだ。女性とは、どのようにエスコートすれば喜ぶものなのか、ぜひとも教えてもらえないか」
「エスコート?」
聞き返すと、トラウトははにかみながら小声で告白した。
「恥ずかしながら、この|歳《とし》まで女性を誘って出かけたりしたことがないのだ」
「それは貴重な。|是非《ぜひ》とも、大事に取って置きたまえ」
アカシュは、笑いながら友の肩に手を置いて言った。しかし、トラウトはその手をつかんで訴えた。
「時間がないのだ!」
その声に被《かぶ》るように、エイがお茶を持って戻ってきた。トラウトのただならぬ|形相《ぎょうそう》に何かを察知したのか、上司と客人、二人分のカップをテーブルに置くと、「何かあったらお呼びください」と言い残して退室した。
「……わからないな。なぜ時間がないんだ?」
アカシュはカップに手を伸ばし、温かいお茶をすすった。
「デ、デートの日時が迫っている」
「ますますもって不可解な。ご婦人を誘えるだけの度胸があるというのに、どうして自信がないんだい? 日時が決まっているというのなら、相手は|承諾《しょうだく》したのだろう? 半分成功したも同然だろうに。そもそも、段取りも考えられない君が女性をデートに誘ったこと自体、純粋に驚いてしまうがね」
「お見合いなんだ。段取りもくそもあるか」
珍しく汚い言葉を吐き捨てると、トラウトもカップに手を伸ばし|渇《かわ》いたのどを|潤《うるお》した。
「お見合い? あ、そういうことか」
ならばわかる。親レベルで話はすでにまとまっていて、さあ二人で出かけていらっしゃい、とまあそんな具合にとまあそんな具合にお|膳立《ぜんだて》が、トラウトには人生最大の難関のようである。
「君、見合いの経験は?」
突然、トラウトが尋ねた。
「それはないが」
「話は来るだろう?」
「うん。でも、今のところすべて断っている」
別段隠し立てすることもないので、アカシュは正直に答えた。
「断りきれなくないか」
「いや、別に。父上が死んだと同時に縁が切れた人たちは多いし、|親戚《しんせき》づき合いもあまりしていないし。時々、思い出したように縁談を持ちかける手紙が届くが、十八で|若輩者《じゃくはいもの》だからまだその気はない、と返事を書けば、しつこく勧められることはないよ」
「そうか」
「実際忙しいし、今はそんな|余裕《よゆう》はない」
|検断《ポロトー》長官と囚人の二重生活をする身で、この上夫の役目まで果たすなんて、到底無理な話だ。今だって、ギリギリの|綱渡《つなわた》りだというのに。
「だが、いつかは結婚するのだろう?」
「どうだろうね」
「しかし、結婚しなければ子供はできないそ。子供が生まれなければ、|東方牢《リーフィシー》城は君の後誰が引き継ぐ? 次のラフト・リーフィシーは?」
他人の家のことなど心配している場合ではないだろうに、トラウトは真顔で尋ねてくるのだった。
「別に。どこかからまた、王家が適任者を連れてくるだろう。リーフィシー家が|途絶《とだ》えた時にゼルフィを|据《す》えたように」
「ふむ」
納得したのか、トラウトは一度小さくうなずいた。そして、すぐにその顔を上げて言った。
「だが、私はルーギル家を絶やすわけにはいかない」
「そうだね。それで見合いを?」
アカシュは足を組みなおして、向かい合うトラウトの顔をじっと見た。四角い顔、|融通《ゆうづう》の|利《き》かない真っ直ぐな性格。世の中を渡り歩く上で本人は何かと大変かもしれないが、少し離れた場所から彼を見ているのは結構楽しい。
「見合いといっても、ほぼ決まっているんだ」
トラウトは指を組んで、ため息に似た深呼吸をした。
「親の決めた|許嫁《いいなずけ》、ってやつだ。本人同士が嫌でなければ、そのまままとめてしまえ、と」
「嫌[#「嫌」に傍点]かどうか見定めるために、二人きりで会うわけか。そりゃ、厳しいね」
「だろう? まるで学校の進級試験みたいだ」
「その|喩《たと》えが果たして正しいのかどうなのかは、わからないがね」
アカシュは苦笑した。たぶん|真面目《まじめ》なトラウトは、その「進級試験」なるものを毎回ちゃんとクリアして学校を卒業したに違いない。その当時のことを思い出したのか、|眉間《みけん》にしわを寄せたり含み笑いを浮かべたりと忙しい。
「本題の、女性のエスコートの仕方だけど」
ずいぶん脇道にそれた話を、アカシュは一旦元に戻した。
「誠意をもって接すれば、いいんじゃないの? 基本的に女性にやさしい君のことだ。マナーだってわきまえているはずだし」
「それじゃ、答えになっていないじゃないかぁ」
わざわざ馬車をとばしてまで|東方牢《リーフィシー》城に来たというのに、とトラウトは自分勝手な|理屈《りくつ》で|喚《わめ》いた。
「あのさ、トラウト。女性とのつき合い方に正解なんてないんだって」
「それは、ある程度|場数《ばかず》を踏んでいるからこそ言える文句だ」
「そんなには経験ないって」
アカシュが逃げ腰になると、そうはいくかと腕を|掴《つか》まれた。
「だが、少なくとも私よりはあるだろうがっ」
トラウトの目は、血走っていてちょっと怖い。
「……そんなことで、なぜ責められなくちゃいけないのかな」
アカシュは腕を振りほどいて|椅子《いす》に深く座り直し、|肘掛《ひじか》けの上で指を組んでから天井を見上げた。確か当初トラウトは、
「教えを|請《こ》う」立場にあったはず。なのに今は|眉毛《まゆげ》がつり上がって、すごい|形相《ぎょうそう》なのである。よほど|鬼気《きき》迫っているのだろう。だだっ子にも通じるものがあった。
「友達だろう、助けてくれよ」
今度は泣き落としだ。
「私にどうしろと言うのだ」
アカシュは手の平を上に向けて首をすくめた。本当に、もうお手上げである。
「だから、|下見《したみ》に一緒にでかけて、アドバイスをしてくれないか」
「えっ、まさかデートの?」
「デートの、だ」
「……」
トラウトの言葉に、アカシュは絶句した。ストレートな性格だとは知っていたが、こうもひねりのないアイディアをよくも真っ直ぐにぶつけてこられるものだ。それも、まるで悪党の親玉が気の|利《き》いた|企《たくら》み事を手下に打ち明けるかのように、|斜《しゃ》に|構《かま》えてニヤリとやるのだから、|素人《しろうと》は恐ろしい。
「どうだ?」
「……嫌だよ。何が悲しくて、男同士でデートコースを回らなくちゃいけないんだ。それに、私が外に出たがらないことは君だってよく知っているだろう?」
アカシュは頭を抱えた。
「そこを曲げて。学生時代私は、予習していっても教師に当てられると舞い上がって答えられなかったぐらい本番に弱いんだ」
「だったら、かえって予習しない方がましなんじゃないの?」
「そんなわけに行くか!」
――トラウトの場合、どうやら「そんなわけ」に行ったためしがないらしい。しかし、だからといってアカシュも首を縦に振れない事情がある。いくら友の頼みでも、|白昼《はくちゅう》堂々目立つ|街中《まちなか》を出歩く危険を|冒《おか》すわけにはいかなかった。
「あのさ、いっそ君の母上にお願いしたら?」
「両親には知られたくない。私にもプライドがあるのだ」
「……ああ、そうですか」
変なところで変なプライドが顔をだす。|厄介《やっかい》なものである。ということは、|西方牢《ルーギル》城内で同伴してくれる人間を探すわけにはいかない、と。
「だからといって、|東方牢《リーフィシー》城に来られても――」
|東方検断《トイ・ポロトー》長官ラフト・リーフィシーの|名代《みょうだい》としてならば、アカシュは迷うことなくエイを指名するであろう。しかし、これは間違いなくプライベート。第一、エイに押しつけた場合、|後々《あとあと》の仕返しが怖い。別にトラウトを嫌っているというわけではないのだが、女の代役という一点集中でエイは|拒絶《きょぜつ》するに違いなかった。
「仕方ない。シイラにでも頼むか……」
つぶやいた時、アカシュは「あっ」とひらめいた。
「ロアデルだ!」
ほぼ同時に、トラウトも同じ言葉を発していた。ロアデルだ。ロアデルがいるじゃないか。すぐそこに同世代の女性がいるのに、無理に母親ほど|歳《とし》の離れた女性を選ぶこともない。
「ロアデルだったら、過去に恋愛経験もあるし適任だ。ロアデルにお願いしてくれるかい?」
打って変わって、晴れやかな顔をしてトラウトは言った。
「いいけど」
「けど、って何だよ」
「何かうれしそうだね、君」
「いや、別に」
などといいながら、トラウトの|口角《こうかく》は上がっていく。若い方がいいというのはわからないでもない。が、トラウトがうれしそうにしているのが、なぜだか面白くないアカシュである。
「ロアデルは、|検断庁舎《けんだんちょうしゃ》にも|獄舎《ごくしゃ》にも顔を出しはするけど、基本的には|役宅《やくたく》の人間なんだよね。つまり、彼女は私個人が|雇《やと》っている使用人なわけ」
面白くないので、少しもったいつけることにした。
「大切な使用人を貸すんだから、私からもいろいろと注文をつけさせてもらうよ。いいね?」
「注文、って?」
「門限とか、まあそのようなものだよ」
「とか、ってところが気になるな」
|東方牢《リーフィシー》城に|頻繁《ひんぱん》に出入りするようになってから、トラウトは多少|勘《かん》が良くなってきたようだ。以前が以前だけに、人並みに近づいたという程度のものだが。
「細かいことは気にするな。それより、善は急げ。決行は明日にしよう」
アカシュは手を一つ叩いた。
「明日? そりゃ、いくら何でも早すぎないか。それに明日は|花の祭り《フラーマティブル》だろう」
「だからいいんだよ」
自ら|椅子《いす》を立ち上がり、|急《せ》かすようにトラウトの手も引いた。
「トラウトくん。君は早く帰って、明日着る上着でも選んだらどうかな」
「時々、君が何を言っているのかわからなくなることがあるのだが。それは私の国語力に問題があるせいだろうか」
出口に向かって背中を押されながら、トラウトはつぶやいた。今ひとつ納得できていない様子だが、それは当然の反応であろう。
「エイもたまにそう言うよ。とにかく、明日の朝またここに来たまえ。ロアデルには言っておくから」
「あ、ああ……、それはすまないね」
「お客さまのお帰りだ」
アカシュは扉を開け、|廊下《ろうか》に向かって声をかけた。隣の部屋からエイが、また別の部屋から長官直属の部下たちがわらわらと出てくる。
「ご案内いたします」
「ああ、ありがとう」
|体《てい》よく追い払われようとしているというのに、紳士であるトラウトはそれに気づかず、|丁寧《ていねい》な|挨拶《あいさつ》をしてから部下キトリイに連れられて退場した。
「何を|企《たくら》んでいるのです」
廊下で並んで見送っていたエイが、アカシュに尋ねた。
「別に」
「私がこれまで、どれくらい多くの取り調べに関わってきたと思います?」
「顔を見ただけでわかるわけ? そりゃ、怖いな」
立ち会ったことはないが、エイの取り調べならばかなり厳しそうである。アカシュは|早々《そうそう》に白状することにした。
「いや、トラウトを逆に利用しようと思ってね」
|検断《ポロトー》長官執務室の扉を開けながら、アカシュは告げた。
「利用?」
後に続いたエイが扉を閉めながら首を|傾《かし》げる――と同時に、廊下からタッタッタッタッと駆け足のような音が聞こえてきた。それは徐々に大きくなり、二人の背後にある扉の前でピタリと止まった。
「ラフト。リーフィシー!」
デ・ジャ・ブ? アカシュとエイは顔を見合わせた。今帰したばかりのトラウト・ルーギル氏が、またもや扉を勢いよく開けてそこに立っているではないか。
「どうした。トラウト」
「言い忘れたことがあって戻ってきたのだ」
それを証明するように、案内役のキトリイが|慌《あわ》てふためいて廊下を戻ってくるのが確認できた。
「何を言い忘れたんだ?」
「忙しいとか何とか理由を付けずに、つき合っているというその女性と、早々に結婚したまえ。婚前|交渉《こうしょう》は、感心できない」
「あは……」
アカシュは笑いかけたが、何とか寸前で押しとどめた。
「君らしいアドバイスだ」
「あまり待たせて、傷つくのは女性だからね」
「心に|留《と》めておこう」
「うむ。では」
今度こそ、本当にトラウトは帰っていった。
「知らないということは、時に|残酷《ざんこく》なものですね」
エイが、カップを片づけながら言った。
「だから私は彼が好きなんだよ。もちろん、すべてを知っているお前の|気苦労《きぐろう》を思うと、申し訳ないが」
「私だって、長官のことをどれくらいわかっているものか」
「そうか。うん、そうだね」
アカシュは笑った。
だが五年も前に終わった恋だということを、エイは知っていてトラウトは知らない。
それが、思い出すたびに胸が苦しくなる、|辛《つら》く悲しい恋だったということも。
本日多忙
1
|役宅《やくたく》の管理人シイラはその日、いつもよりほんの少しだけ早く目覚めてしまった。昨夜は遅くまで起きていたというのに、窓の外がほんの少し|白《しら》んできた頃にはもうベッドから下りて髪を|結《ゆ》い上げていた。先代の|旦那《だんな》さまから|譲《ゆず》り受けた銀の懐中時計の文字盤を見ると、針はまだあと三十分は眠っていていいと告げていた。が、一度目が覚めてしまうと、なかなか寝直すことなどできはしないのだった。
「|歳《とし》なのかしら」
いつもだったら、鏡に映った顔のしわや髪に混じる|白髪《しらが》の量などを眺めながらそんな風につぶやくのだが、|今朝《けさ》は違う。特別なことがある日、人は早起きをしてしまうものだ。それは|老若《ろうにゃく》男女《なんにょ》の別なく、広く一般的な人間の性質であろう。
「フラーマティブル、フラーマティブル」
エプロンをつけながら、つい歌も飛び出すというものだ。シイラは引き出しの中にしまった古い箱形の缶を手に取ると、ふたを開けて中に詰まった紙片を一枚取り出した。母から|譲《ゆず》り受けた、レシピ・カードだ。
「粉が足りなくなるかもしれないわ。注文しておいた花を花屋に取りに行くついでに、街で買ってきたらいいわね」
それは、何年かぶりに作る菓子だった。手順はともかく、材料の分量は覚え書きを見なければ作れない。黄ばむというよりむしろ茶色くすすけたカードには、母のものでも祖母のものでもない文字が、それは楽しげに踊っていた。
「|永久《とわ》に消し去れ、手作りの――、ああ、いけない」
シイラはあわてて口をつぐんだ。うっかりこんな歌をうたってしまって、隣の部屋のロアデルに届いては大変だ。起こしてしまってはかわいそうという気持ちももちろんある。だが今、それより問題としなければならないのは、むしろ歌詞の内容なのだった。
「今日が花の祭りだということを、ことさら強調してはだめ」
心に言い聞かせて部屋を出る。少し早いが、|厨房《ちゅうぼう》に行って日課のパンを焼こう。今日はいろいろやらなくてはならないことがあるから、今から時間のやりくりをしていくのはいいことかもしれない。
|廊下《ろうか》を歩き出して、ふとロアデルの部屋の扉を振り返った。
「きっと疲れて寝ているわね」
いろいろと気になることはある。が、様子見にいきたい気持ちを|堪《こら》えて、シイラは再び歩き出した。
「問題はロアデルの目をどうやって|逸《そ》らせるか、なんだけど……。ああ、そうだわ」
シイラは一人、廊下で手を叩いた。
「ロアデルに……そうよ、そうすれば、きっとうまい具合にことが進む」
何てすてきな思いつきだろう。
「フラーマティブル、フラーマティブル」
封じたはずの歌なのに、シイラはすっかり忘れて口ずさみながら厨房へと向かった。今日は花の祭りの日。久しぶりに、ワクワクしていた。
2
その朝、トラウトは|早々《はやばや》と|東方牢《リーフィシー》城に現れた。
彼は紳士であるから、待ち合わせをしたならばそれに間に合うよう十分|余裕《よゆう》をもって自宅を出るし、間違っても約束を|違《たが》えることはない。その上今回は、自分の頼み事であるせいか、はたまた初デートのプレッシャーに耐えかねたのか、|検断庁舎《けんだんちょうしゃ》の始業前に現れたものだから、役人たちは大わらわである。こう見えてもトラウトは|西方検断《エスタ・ポロトー》の副長官であるわけで、東西の別はあろうと同じ検断の仕事をしている立場から、|粗略《そりやく》に扱うわけにもいかない。
それはさておき。
|獄舎《ごくしゃ》の外ではそんなこんながあろうとなかろうと、|服役《ふくえき》中の囚人にとって、その日もいつもと代わり|映《ば》えしないただの一日だった。
アカシュは通常通り|鉄格子《てつごうし》の中で目覚め、朝食をものすごい勢いで平らげ、荒くれ者の新入りを軽く痛めつけて配下に加え、|鍵《かぎ》役人によって|雑居房《ざっきょぼう》から引き出さて検断庁舎へ引き渡され、部下のキトリイに連れられる形で検断長官執務室までたどり着いた。
その時には、すでにトラウトは三杯目のお茶を飲み干していたというから、時間の量や質というものは人によってずいぶん違うものである。
「ラフト・リーフィシーは何をしているのだ」
珍しい場所の|馴染《なじ》みのないソファで|居《い》心地《ごこち》悪げに天井を見上げ、トラウトはつぶやいた。
「今、迎えにいっておりますから、しばしお待ちください」
ソワソワしている西方の検断副長官に対して、東方の副長官は向かいの椅子にどっかと身を預け|悠然《ゆうぜん》と返答した。ここは彼、エイ・ロクセンスのテリトリーである。
「ところで、|今朝《けさ》はどうして長官執務室に通さないのだ?」
「申し訳ありません。あいにく、まだ鍵がかかっておりまして」
これは|嘘《うそ》。エイはトラウトが訪れる直前に、彼の管理している長官執務室の鍵を開けている。鍵を鍵穴に差し入れて回した瞬間、|廊下《ろうか》の向こうから|大股《おおまた》で歩いてくるトラウトを見つけ、あわててこの副長官執務室に連れてきたのであった。
「――ということは、ラフト・リーフィシーはまだ検断庁舎に来ていないということか。けしからんな」
「お待たせして申し訳ありません。しかし、まだ始業時間前ですから」
「彼はいつもギリギリなのか」
「ええ、まあ……」
エイはあやふやにうなずいた。まさか「|懲役囚《ちょうえきしゅう》の労働開始時間の関係上」などと、本当のことを告げるわけにもいかない。
「そういえば、朝は弱いと言っていたな。女みたいだ」
「それに引き替え、トラウトどのはお早いお出ましでもしゃっきりなさっておいでで。さぞかし朝にお強いのでしょうね」
エイは多少皮肉を込めて言ったのだが、単純なトラウトは気にするどころか、男らしいと|誉《ほ》められたものと|勘違《かんちが》いして喜んでさえいる。
「これでも、道が混んでいて予定時間より少し遅れてしまったのだがね」
「……」
いったいトラウトは、|今朝《けさ》は何時に起きたのだろう。そして、毎晩何時に|床《とこ》に入るのであろう。興味深いことである。
「わかった」
何が「わかった」のかわからないが、トラウトは|突如《とつじょ》立ち上がった。
「あの……?」
これが取り調べ中の容疑者であれば、ある程度次の行動を予測することができるのだが、|如何《いかん》せん相手はトラウト・ルーギル氏。いかなやり手のエイでも、先読みは不可能といっていい。
「私が迎えにいけばいいのだ」
「えっ!?」
遅まきながら、エイはあわてて席を立った。迎えになどいかれたら大変なことになる。何より、この極めて危険な時間帯に|検断庁舎《けんだんちょうしゃ》の中を勝手にうろうろされては困るのだ。万が一にも、変身前の誰かさんと|鉢合《はちあ》わせするような事態だけは避けなければならない。だからこそ、この部屋に招いて|拘束《こうそく》、もとい、引き留めているというのに――。
「どうして気づかなかったのだろう。ラフト・リーフィシーが遅れたなら、私から出向けばいいだけの話じゃないか」
「お待ちください!」
一旦気づいたなら、次の行動が早いトラウトである。エイが呼び止めるのを振り切り、出入りのドアを目指してどんどんどんどん歩いていく。
「本当にもうすぐいらっしゃると思いますので」
「それはわかったから」
何もわかっていない。わかっていたら、手をかけたそのドアノブから|速《すみ》やかに手を下ろし、引き返しておとなしく|椅子《いす》に腰掛けなおしてくれてもいいはずだ。なぜなら、エイはそうしてくれと遠まわしに頼んでいるのだから。
「何、案内は不要だ。子供の頃、何度か遊びにきたことがあるから、|役宅《やくたく》へは迷わず行かれるはず。君は安心して仕事にとりかかりたまえ」
「いえ、それは」
どうして、安心なんてしていられよう。かといって|執拗《しつよう》に制止しすぎて、かえって怪しまれたりしても大変である。
「あの、トラウトどの」
エイは、トラウトがドアを開いて作ってしまった空間に先に|身体《からだ》を滑らせた。
「お茶のお代わりはどうです」
「もう、十分にいただいた」
「では、私とのおしゃべりなどはいかがでしょう」
「…………なぜ?」
今日に限って、とトラウトは首をひねった。提案した側から見ても、それはかなり不自然な申し出であるとうなずける。が、ここで|怯《ひる》むわけにはいかない。
「とにかく、一度戻ってください。私、トラウトどのに|常々《つねづね》お|伺《うかが》いしたいと思っていたことがありまして」
エイは向かい合うトラウトの両肩に手をかけ、一歩前に出た。
「そうか?」
すると、つられてトラウトも一歩後退する形になる。うまい具合だ。この調子でソファまで戻ってしまえばいい。ほっとしたまさにその時、災難はやって来た。エイの背後にある|廊下《ろうか》を、人の気配が通り過ぎたのだ。
「ラフト・リーフィシーの声だ」
すぐに後ろ手でドアを探ったが間に合わなかった。エイが扉を閉めるよりトラウトが廊下に顔を出す方が、一瞬早かった。|万事《ばんじ》休《きゅう》すか。だがエイはとっさに、ニュッと突きだしたトラウトの頭をつかんで部屋へ思い切り押し戻した。
「な、何をする」
「失礼、手が滑りました」
見られただろうか。大丈夫だったろうか。エイが横目で廊下を盗み見ると、囚人姿のラフト・リーフィシー、そして部下キトリイの姿がしっかり確認できた。
(早くっ!)
エイが声を出さずに告げると、両者は瞬時に状況を察して、長官執務室の扉の中にあわてて身を滑らせた。
「何なんだ、さっきから君は」
トラウトは、乱れた髪をなでつけながら文句を言った。
「いえ、別に」
「別に、って。君らしくないな」
「……」
自分らしくない。エイだって、それは|重々《じゅうじゅう》承知していた。|東方検断《トイ・ポロトー》の副長官として、いつも|冷静沈着《れいせいちんちゃく》を心がけている。が、取り乱させるような人間がそこここに存在するのだから、平常心を保っていられなくても仕方ないではないか。
「ところで、さっきラフト・リーフィシーの声がしなかったか?」
「そうですか? ならば、部下が呼びに来るでしょう」
トラウトは後ろ髪を引かれる思いだったようだが、エイの言葉に「そうか」とうなずいて|椅子《いす》に戻った。そして、少し声をひそめて尋ねてくる。
「あれは、例の何か?」
「は?」
トラウトが指している「あれ」も「例の」もすぐには思いつかなかったので、エイは聞き返した。
「ラフト・リーフィシーのチョギー相手とかいう囚人なのだろう? 思ったより若そうに見えたが。いったい、|歳《とし》はいくつなのだ」
「ああ――」
うまくごまかせたと思ったのだが、さっきの光景はしっかりトラウトに見られていたというわけだ。しかし後ろ姿を一瞬しか見られなかったということと、ラフト・リーフィシーとあのような格好がイメージとしてまったく結びつかなかったことが幸いして、最悪の事態だけは|回避《かいひ》できたようである。トラウトは、先ほどの人物を友として認識できていない。
「歳……。さあ、いくつと言っていましたか……」
エイは言葉を|濁《にご》した。あくまで、その人物に対しての情報をよく知らないという態度が大切だ。トラウトは囚人の歳に対して、特別に興味を示しているわけではないのだから。そこを取り違えて|過剰《かじょう》に反応すれば、自分の首を自分で|絞《し》めることになりかねない。
「まあ、それはどうでもいいが」
トラウトが言った。
「庁舎内に呼ぶのならば、もう少し格好だけでも改めさせてはどうだろうか」
「格好、と言われますと?」
「あれでは囚人だと全身で宣伝しているようなものだ。せめて、何だ。囚人に見えない格好に着替えさせてだな、部屋まで連れて来るとか。周囲の者たちが|配慮《はいりょ》してやるとか」
「はあ……」
「見つけたのが|旧知《きゅうち》の仲の私だったからよかったものの、執務室を訪ねてきた客人の目にはどう映るだろうか。天下のラフト・リーフィシーの名に泥をぬってもいいのか?」
「いえ、そんな」
執務室に直接訪ねてくる客など、西方のトラウト以外にはほとんどいないのだが、エイはそれについて触れず、ただ「ご助言感謝いたします」とだけ言ってほほえんだ。それにしても、「囚人服から|検断《ポロトー》長官の普段着に着替える」という日課に加えて、「囚人に見えない格好に着替える」までもねじ込まなければならなくなったらどんなに大変だろう。仮定してみて、エイは|他人事《ひとごと》ながらうんざりしてしまった。突然、ノックなしに扉が開いた。
「トラウト・ルーギル!」
いつもの誰かのように副長官執務室に乱入してきたのは、先ほどのすすけた囚人服とは打って変わって、白のブラウスに空色の上下を身につけたアカシュであった。それはどこから見てもラフト・リーフィシーの名にふさわしい正しい格好であるから、今度は間違いなく、|勘《かん》の悪いトラウトにも彼が旧知の仲[#「旧知の仲」に傍点]の友であるとすぐに気がつけるはずである。
「おはよう、ずいぶん待たせてしまったんだって? 君はいつも早いな。ちゃんと朝食を食べてきたのかい?」
アカシュはハイテンションでまくし立てた。派手に騒いで、先ほどの件を忘れさせてしまおうという|魂胆《こんたん》が見え見えである。
「ああ、食べてきたともさ」
のせられて、素直に答えてしまうトラウトもトラウト。
「母上のやわらかトーストに、|今朝《けさ》はたっぷりと木イチゴのジャムをかけてだな、……それから|鶏《とり》のささみ入り夏野菜のサラダ、あとは果物とナッツを少々」
「それはおいしそうだ」
アカシュは大げさにほめた。|献立《こんだて》をすべて|列挙《れっきょ》することもないと思うのだが、トラウト・ルーギルは|真面目《まじめ》が|取《と》り|柄《え》。ここは指折り数える彼の言葉に気持ちよく耳を傾けるのが、真の友である。が。
「プラス、この部屋でお茶を三杯だ」
という言葉が真顔で飛び出した時には、さすがにアカシュもエイも吹き出してしまった。
「ん? 何だ? 私は何か変なことをしゃべったか?」
「いや、君は面白いよトラウト。今度は私の部屋に場所を移して、|是非《ぜひ》とも四杯目のお茶を飲んでくれたまえ。飲みながら、今日の打ち合わせをしようじゃないか」
アカシュの提案に、「ん、わかった」とトラウトは一旦は立ち上がった。しかし。
「いや、悪いが少し待ってくれ」
トラウトは|先導《せんどう》しようとする友に軽く手を挙げて合図してから、もう一度|椅子《いす》に座って正面のエイに向き合った。
「あの、トラウトどの?」
エイにしてみれば訳が分からなかったが、とにかく客人に正面に座られたわけだからと、やはり浮かした腰を元に戻した。
「先に君の話を聞く約束だ。何だ、私に聞きたいこととは」
トラウト・ルーギル氏は、生真面目《きまじめ》で融通《ゆうずう》が利《き》かなくて勘が鈍《にぶ》くて女性を誘えないほどシャイだが、根っこはどこまでも紳士なのである。
「……すみません、忘れました」
その場を取り|繕《つくろ》うためとはいえ、こういう人を相手に、ではない。エイは素直に反省し、それを|肝《きも》に|銘《めい》じたのだった。後先考えずに|迂闊《うかつ》なことは言うものではない。
エイは素直に反省し、それを肝《きも》に銘《めい》じたのだった。
3
少し、時間はさかのぼる。自分のいないところで、|密《ひそ》かな計画が進んでいるとはつゆほども知らないロアデルは、いつも通り|役宅《やくたく》の自分のべッドで朝を迎えた。少しうつらうつらしただろうか。遅くまで内職して|床《とこ》についたのは夜の深い時間。一眠りしたと思ったら、もうすぐに朝になってしまった。窓の外で|雀《すずめ》が鳴いている。鳥の世界には時計などないから、日が昇ればそれが彼らにとっての朝なのだった。ロアデルはベッドの上で「うーん」と伸びをしてから、茶色い|癖《くせ》っ|毛《け》を|手櫛《てぐし》でといた。
今日は晴れだ、髪の調子がいい。寝不足の瞳には、朝の日差しがまぶしかった。でも、ロアデルは元気だ。これから、|東方牢《リーフィシー》城の一日が始まる。|身支度《みじたく》を終え部屋の|掃除《そうじ》をしていると、誰かの歌声が耳に届いた。
「フラーマティブル、フラーマティブル」
どこかで聞いたことのある|旋律《せんりつ》。習ったわけではない。ちゃんと歌ったこともない。だが、確かに知っている、|懐《なつ》かしい耳慣れた歌だ。
「|永久《とわ》に消し去れ、手作りの――」
歌は徐々に近づき、ロアデルの部屋の前でピタリと止まった。
「ロアデル、いい?」
軽いノックとともにそっと扉を開けて顔を出したのは、この屋敷の管理人シイラだった。
「おはよう、シイラ」
彼女からは、朝のパンが焼ける|香《こう》ばしい|匂《にお》いがした。
「まあ、もう起きていたの? |昨夜《ゆうべ》はずいぶん遅くまで|夜業《よなべ》していたのだから、ゆっくりしていていいのに」
「それを知っているということは、シイラこそ寝不足の上に早起きなんじゃない?」
本当は親子ほども年が離れているけれど、シイラは|小柄《こがら》だし気持ちも若いから、ロアデルは一緒にいて年の差を感じることがあまりない。二人は役宅の使用人同士という以前に、気の合う女友達なのである。シイラはやれやれとため息をついた。
「私はね、年寄りだから目が早く覚めてしまうの。でもロアデルはまだ十代でしょ」
「十代といっても、あと一つで|二十歳《はたち》の大台にのる十九歳だもの」
「それでも若いんだから、十分に寝ないとお肌に|障《さわ》るわよ。|旦那《だんな》さまだって、私につき合わなくてもいいように、部屋を別々に用意してくださったのだろうに……」
シイラは「旦那さま」と言う時、少し|頬《ほお》をゆるめた。王都エーディックで「東の化け物」と恐れられているこの城の|主《あるじ》も、|乳母《うば》として仕えたシイラにとっては、いくつになっても|可愛《かわい》らしい天使であるのだろう。
「それより、シイラ。これが気になって来たんでしょ?」
ロアデルは、壁に掛けておいたドレスを下ろして差し出した。
「ああ、できたのね。本当に、無理を言ってすまなかったわね」
シイラはほっとした顔で受け取った。昨晩シイラの友達が、至急サイズ直しをしてくれとロアデルに泣きついてきたものだ。ウエストの詰めと|裾《すそ》を少しだすだけだったから、翌朝、つまり|今朝《けさ》までに仕上げる約束をして預かった。この時期お|針子《はりこ》はどこも忙しく、急な依頼が入り込む|隙間《すきま》はないことをロアデルは知っていた。それだけに、困って頼ってきた人の頼みをむげに断ることができなかったのだ。|花の祭り《フラーマティブル》。今日の日を迎えるために、ワースホーン王国中のお針子の針は、新しいドレスを|縫《ぬ》い、サイズ直しをし、また|縁起物《えんぎもの》をこしらえるために、休む|暇《ひま》なく動き続けるのだ。
「こんな感じでどうかしら」
「上出来よ。本当にロアデルは腕がいいわね。お針子一本の方が、ずっといい|稼《かせ》ぎになるでしょうに。安給料で、怪しげな|牢城《ろうじょう》なんかにこき使われちゃって」
「でも、|東方牢《リーフィシー》城が好きだから」
「……それは同感だわ」
怪しげな牢城なんか[#「怪しげな牢城なんか」に傍点]に何十年も勤めているシイラが、神妙な顔でうなずいた。
|検断庁舎《けんだんちょうしゃ》と|獄舎《ごくしゃ》と役宅。すべて総合して|東方牢《リーフィシー》城。
ここは犯罪を|裁《さば》く人間と裁かれる人間、それに関わる|諸々《もろもろ》の人たちが一カ所に集まっている不思議な空間だった。若い娘が長くいるところではないとよく言われるが、離れがたい。牢城ならばどこでもいいというわけではない。|東方牢《リーフィシー》城だから|留《とど》まりたいのだ。
「さっそく、ドレスを届けてくるわ。|手間賃《てまちん》、うーんと|弾《はず》んでもらいましょうね。それでね、ロアデル」
ドレスをしわにならないようにサックリと|畳《たた》みながら、シイラは早口で続けた。
「夜業させたお|詫《わ》びといっては何だけれど、今日一日あなたに臨時のお休みをあげようと思うの」
「え?」
「だから、今日は部屋でゆっくり休養をとるといいわ。ね、ぜひともそうしてちょうだい」
「……ええ……」
シイラが押し切るような態度をとることは非常に珍しい。何かあったのだろうか。ロアデルは首をひねったが、理由を尋ねようにもシイラはすでにドレスを抱え、|忙《せわ》しなく部屋を出ていってしまった後であった。
4
「いいかい、トラウト。君の任務は、ロアデルにブーケを買うことだ」
ラフト・リーフィシーは、彼の執務室に着くなりそう告げた。
「ブーケ?」
トラウトは客用のソファに腰をかけた。部屋は|掃除《そうじ》が行き届き、今し方窓を開けた割には風が気持ちよく通っている。だが、部屋の|主《ぬし》である友は、待てども向かいの席にはつかず、|廊下《ろうか》で部下より渡された書類を執務机に運んで仕分けなどしてる。部屋をざっと見回してみたが、先ほど廊下にいた囚人の姿は見つけられない。客人があるので、|獄舎《ごくしゃ》に帰されたのかもしれない。
副官のエイは、トラウトにとって四杯目となるお茶を出すと、部屋を出ていった。|役宅《やくたく》へ行ったのだ。
「そ、ブーケ」
ラフト・リーフィシーは顔を上げて言った。
「今日、街には祭りの|縁起物《えんぎもの》を売る|出店《でみせ》が山ほど出ているから、適当な店で求めるといい」
「ああ、縁起物のブーケか」
トラウトは大きくうなずき、手帳を開いて書き留めた。花の祭りの主役には、周囲の者が|健《すこ》やかな成長を|祈願《きがん》して縁起物を贈るのが習わし。まあ、まじないのようなものである。
「それから。食事をしたら、あまりゆっくりせずにロアデルを送り届けて欲しいんだ。役宅でパーティーをするからね」
パーティー、とメモに書き加えられる。
「何時から?」
「午後三時。ああ、もちろん君も出席してくれたまえ」
ニッコリ笑う友に、トラウトはあわてて手を振った。
「あっ、いや、そんな気遣いは……」
|催促《さいそく》したわけではないのだ。人見知りのラフト・リーフィシーとは違って、トラウトはそれなりに夜会や|舞踏会《ぶとうかい》などには出席しているから、パーティーと聞いただけで浮き足立つようなことはない。が。
「シイラが菓子を焼くって言っているが?」
トラウトはパーティーが嫌いではないし、甘い物はむしろ大好物だった。
「別に、私は出席したくないと言ったわけではない。君がぜひにと|強《し》いて言うのなら、参加しないでもないんだ、うん」
「じゃ、ぜひに」
ラフト・リーフィシーは書類の仕分けを終えると、今度はチョギー盤をいじり始めた。
「ふむ……」
相手がいなくても、ラフト・リーフィシーはチョギーの|駒《こま》を盤の上に並べるわけだ。よほどチョギーが好きらしい。しかし、客を放ったらかしとはけしからん。
「トラウト」
視線に気づいたのか、背中をまるめてチョギー盤に向かっていたラフト・リーフィシーが振り返って言った。
「花の代金、先に渡しておこうか?」
「いや、いい。私からのプレゼントにさせてもらうよ」
ロアデルには、デートの予行演習につき合ってもらうわけだし、先日などは品のいい長手袋を作ってもらったことだし。花束くらい|自腹《じばら》でプレゼントしなければ、こちらの気が済まないというものだ。
「あの、でもどんな花を買えばいいんだ?」
少々不安になって、トラウトは尋ねた。確か基本はオリーブとか|野薔薇《のばら》とかだったようだが、近年花束であれば何でもいいというような風潮になって、多種多様な花々が束ねられて売っているのだ。
「ロアデルに選ばせるんだよ。買ってやるとほのめかせば、金額の安いものを探すだろうから、さりげなくどの花が好きか尋ねるんだ」
「なるほど」
深くうなずくと、それを見てラフト・リーフィシーは笑った。
「感心ばかりしてないで。これは君にとってはリハーサルなんだからね」
「そうだった」
リハーサルであれ何であれ、女性に花をプレゼントした経験があるのとないのでは大違いかもしれない。ロアデルにスマートに花束を贈れたら、きっと本番でもそれができる。自信とはそういうものではないだろうか。何だかうまくいきそうな気がしてきた。トラウトが右手を握り|拳《こぶし》にして突き上げると、足もとでゴソゴソと気配がする。もちろん、現在この部屋にいるのは二人で、そのうち一人がトラウトなわけだから、犯人はというと。
「……君は何をしてるんだね」
犬のように|這《は》いつくばる友を、トラウトは見下ろして尋ねた。
「ちょっと捜し物」
「捜し物?」
捜し物と聞いて、思わず腰を|屈《かが》め床に視線を向けたが、しかし見える範囲には何も見あたらない。
「いったい、何を?」
「コマ」
ラフト・リーフィシーは髪をかき上げ、ため息混じりにつぶやいた。
「え?」
「|駒《こま》が一つ足りない。チョギーの駒」
「チョギーの駒だぁ!?」
トラウトは思わず声をあげた。天下の|東方検断《トイ・ポロトー》長官がこのように床にこすらんばかりに頭を下げて探し回っているのが、ゲームの駒一つとは。
「どの駒がないというのだ」
「姫君だよ、|象牙《ぞうげ》色の」
「昨日まではあったじゃないか」
トラウトは言った。昨日この部屋を訪ねてきた時、ラフト・リーフィシーとエイがチョギーの対戦をしている真っ最中であったのだ。
「うん、ゲーム終了まではあったよね」
ラフト・リーフィシーがつぶやいた。
「エイが私に王手をかけたのは、確か象牙色の姫君だった」
「ああ、|歩兵《ほへい》を連れていた姫君か」
確かに、そんなやりとりがあった。エイの王手を|回避《かいひ》するために「象牙色の姫君をとればいい」と言ったことをトラウトは思い出した。残念ながら、そのアドバイスは採用されることはなかったけれど。
「そうだ。確かあの時、エイが床に落ちた駒を拾っていたぞ?」
「どの駒かわかる?」
「騎士の駒だったかな、|焦《こ》げ茶色の」
しかし、|行方《ゆくえ》不明なのは象牙色の姫君だ。
「あれがないと、ゲームができない。困ったなぁ……」
言いながら、ラフト・リーフィシーは|廊下《ろうか》に向かってハンドベルを鳴ちした。程なく現れたのは、彼の部下である。確か、キトリイといったか。
「お呼びでしょうか」
「|今朝《けさ》、この部屋を|掃除《そうじ》したのは?」
「ログです」
「呼んできてくれないか」
「かしこまりました」
キトリイは一礼して部屋を出ていった。閉まった扉を眺めながら、トラウトは質問した。
「なぜ、ログを?」
「今朝、掃除をした時、何か床に落ちていなかったかを聞く」
「ふむ」
しかし、部屋に現れたログは、何もなかったと報告した。念のためにと、今朝回収したゴミまで調べさせたが、|駒《こま》は見つからなかった。
「さて、どうしよう」
ラフト・リーフィシーは、おもむろにソファを動かしはじめた。
「なぜ、そんなに|躍起《やっき》になって探すんだい? 駒に足が生えているわけじゃないんだから、いずれ見つかるさ。それまで別のセットを使えばいいだけの話だろう?」
トラウトは首をすくめた。だが、ラフト・リーフィシーは「そうもいかない」と言った。
「なぜだ?」
「君さ、例えば王家から|拝領《はいりょう》した指輪をこの部屋の中で落としたらどうする?」
「|躍起《やっき》になって探すだろうね」
「指輪にだって足はないよ。いずれ出てくるだろうから、それまで別の指輪をはめていればいいんじゃないの?」
「だが、なければ困る物ってあるんだよ。決してなくしてはならない物って」
「チョギーの駒が、まさにそれ」
友は、ソファをどかした床に|這《は》いつくばった。
「えっ?」
「|陛下《へいか》ご|成婚《せいこん》のお祝いに参じた父が、愛用の品を私的にもらってきたんだ」
「おい、待てよ。まさか、それがチョギーなのかい?」
「駒だけだけどね」
台はそれに合わせて特注で作らせたものだ、とラフト・リーフィシーは言った。ということは、チョギーの駒は、いわばゼルフィ家の家宝ということになる。
「なぜそれを早く言わない」
そういう事情だったら、一緒に探さないこともないのだ。トラウトは別のソファの背もたれを|掴《つか》んで、力任せに押した。
「うちの父は、チョギーの|駒《こま》なんてもらってこなかったがなぁ」
「チョギーをやらないからだろう? 他の物をもらってきたんじゃないのか?」
「あ、そうか」
言われてみれば、|陛下《へいか》からよくわからない|花器《かき》をもらって帰ってきたことがあった。|西方検断《エスタ・ポロトー》長官の|役宅《やくたく》の客間に、|仰々《ぎょうぎょう》しく|飾《かざ》られているのがそれだ。
「君の父上もチョギーをやったのか?」
「陛下のチョギー仲間だった」
「それは初耳だ」
長官の机の下、副長官の机の下と|潜《もぐ》って調べてみたが、|象牙《ぞうげ》の姫君は見つからなかった。
「エイに聞いてみた方がいいんじゃないのか?」
いい加減疲れてきたので、トラウトは提案した。
「エイ?」
ラフト・リーフィシーは、カーテンを揺らしながら顔を向けた。
「駒を隠したか、って?」
「違うよ。駒を片づけたの彼だろう? その時の状況とか、聞くんだよ」
「わかってるよ」
鼻で笑ったところをみると、さっきのは冗談だったらしい。食えない男だ。
「でも、彼は今役宅に行っている」
ロアデルを借り受けにいっているのだ。ラフト・リーフィシーときたら、昨日は話を通しておくようなことを言っておきながら、役宅に帰らなかったとかで、まだロアデルには話してないという。まったく、無責任この上ない。昨夜はどこで何をしていたことやら。
「じゃ、ひとっ走りいってくるわ」
「おい、待て」
トラウトはエイが帰ってきたら、という意味で聞いてみうと言ったのだ。だが、ラフト・リーフィシーは行く気満々である。
「ついでにあれも取ってこよう。うん」
「あれ?」
「うん。だから、少しここで待っていてくれないか」
「おい、私を一人にする気か」
トラウトはいつだったか聞かされた、執務室の奥の部屋に何かが出るという話を思い出して心細くなった。
「心配なら、部下を一人置いていくが。おーい、誰か」
ラフト・リーフィシーは|廊下《ろうか》に向かって手を叩いた。すぐ戻るから、客人のお相手をするように、と。
「おい。あれ、って何のことだ?」
トラウトはラフト・リーフィシーの|袖《そで》を|掴《つか》んで質問した。
「|手中《しゅちゅう》に隠せ、だよ」
「手中に隠せ?」
ということは――。
「だれかのお下がり……?」
首を|傾《かし》げた時、ラフト・リーフィシーとほぼ入れ違いにキトリイが入室してきた。彼はソファやテーブルの位置が変わっているのを確認すると、眼を|瞬《しばたた》かせて言った。
「いったい何をなさっていたのですか」
「私もよくわからん」
キトリイの持つ盆の上にのったカップの中では、トラウトにとって今日五杯目となるお茶がほかほかと湯気をたてていた。
5
「おはよう、ロアデル」
エイが|役宅《やくたく》に現れたのは、ロアデルが玄関フロアで|花瓶《かびん》の水の入れ替えをしている時だった。シイラにはゆっくりしているようにと言われたが、そういうのはどうも|性《しょう》に合わない。ちょこちょこと仕事を見つけては、|片《かた》っ|端《ぱし》から片づけていった。どういうわけだか、今日は役宅の人間は皆何だか|忙《せわ》しなく動いているから休みのロアデルが働いていようと、あまり気にとめられることもなかった。
「あれ、シイラは?」
プラチナブロンドのストレートヘアをサラサラと揺らして、エイはフロアを見回した。
「シイラは出かけているんです」
ロアデルが答えると、エイは「出かけた?」と声をあげた。吹き抜けの天井に、彼の声が金管楽器のように響きわたる。
「城下に住んでいるお友達のところですから、すぐに戻ると思いますけれど」
「すぐ戻る。……でしょうね」
「サイズ直ししたドレスを届けにいっただけです。その方の娘さんが祭りに着ていくので、朝のうちに届ける必要があって」
「……そうか。今日は|花の祭り《フラーマティブル》でしたね」
エイは、右手の|拳《こぶし》で左手の手の平をポンと打った。|花の祭り《フラーマティブル》は若い女性の祭りだから、男性には縁の薄いものなのかもしれない。
「シイラに何かご用でしたか」
「いや。シイラというか、ロアデルというか」
「はい?」
「本日日中、ロアデルを|検断庁舎《けんだんちょうしゃ》に貸してもらえないかと|交渉《こうしょう》しに来たんです」
「庁舎? |獄舎《ごくしゃ》じゃなくて?」
ロアデルは|役宅《やくたく》の仕事を主にしてるが、以前は短期間だが獄舎の|洗濯《せんたく》係として働いていたこともあった。だから今でも、時々手が|空《す》くと獄舎に手伝いにいくことがある。
「庁舎です。いや、正確にはそれも違うが」
「|伺《うかが》います」
内容も聞かず、ロアデルは即答していた。もう役宅ではするべき仕事も底をついたので、獄舎にいってマイザの手伝いでもしようかと思っていたところだ。
「え、でもシイラに断らなくても大丈夫かな」
「今日一日、お休みをもらっているので」
「休みを……?」
エイは少し考え込むような仕草をしていたが、やがてロアデルに向き合って告げた。
「では、お手数ですが着替えてから庁舎の長官執務室まで来てください。えっと、ああそう。以前長官の姉上さまのドレスを借りたことがありましたね。あれがいい」
「あの――?」
「長官のご命令です」
「私、いったい何をするのですか」
応じたはいいが、段々不安になってきたロアデルである。彼女は決して|華美《かび》ではないが、ちゃんと洗濯したドレスを身につけている。汚れても大丈夫な服に着替えてこい、というならまだわかる。けれど豪華なドレスを借りてまでする仕事とはいったい――。
「それは長官からお話しします」
エイはほほえんで、ロアデルの肩に手を掛けた。
「取りあえず、いうとおりにして来てください。嫌な仕事だと思ったら、断ってもらって|構《かま》いませんから」
――と。
いったい何をするのだろう。混乱しながら、ロアデルは役宅の|螺旋《らせん》階段を上に向かって歩いていった。
(そりゃ、今までだって庁舎に出向いてお手伝いしたことはあったけれど)
もちろん|検断《ポロトー》の仕事ではなく、|染《し》み抜きとか|裾《すそ》の上げ下ろしといった、主に検断長官の衣服に関することである。それでも時には、|留守番《るすばん》や客の接待だってさせてもらえた。しかし、「着替えてこい」などと言われたことは、今まで一度もない。
女性にしかできない、特別な用事なのだろうか。例えば|密偵《みってい》とか、|囮《おとり》とか。けれどそんな大事な仕事なら、|素人《しろうと》のロアデルに任せるとも思えなかった。姉上さまの部屋の扉は、日中|鍵《かぎ》がかかっていない。夕方シイラが鍵をかけ、朝になるとまた開けるのだ。|旦那《だんな》さまのたった一人のお身内という姉上さまは、領地の方にお住まいで現在お留守。だが、いつ帰ってきてもいいように、毎日部屋には風を通すし、|掃除《そうじ》なども欠かさずしていた。
「失礼します」
一応ノックをし、小さく一礼してから部屋に入った。用事があって何度か入室したことはあったが、一人で入ったのは今回が初めてだった。命じられて服を取りにきただけなのに、ドキドキする。ロアデルは意外に小心者なのだ。
姉上さまのクローゼットを開くと、夢の国に|紛《まぎ》れ込んだかのような気分になる。そこはいつでも四季の花が咲き乱れ、|蝶《ちょう》が乱舞し、南国の鳥が羽を広げているのだから。
幾度も重ねることにより微妙な色合いを染めつけた上質な|絹織物《きぬおりもの》、|華《はな》やかな|刺繍《ししゅう》、|貴石《きせき》をふんだんに編み込んだレースなど、|服飾《ふくしょく》の仕事に|携《たずさ》わっている者でなくても思わずため息が出るようなドレスの数々。
このドレスの持ち主は、さぞかしやさしくてしとやかで|聡明《そうめい》な女性なのだろう、とロアデルはうっとり思う。ご|姉弟《きょうだい》は似ているだろうか。だとしたらきっと、真っ直ぐで豊かな黒髪をもった美しい人に違いない。
空色の|地《じ》に茶色と|薄紅《うすべに》色の小花模様が描かれたドレスは、最初に|役宅《やくたく》を訪れた日にシイラが選んで出してきてくれたものだ。その|懐《なつ》かしいドレスを見つけて取り出した時、ロアデルの耳は|微《かす》かな物音をとらえた。
ガタリともゴトッとも表現に困る低くて鍛い音は、この部屋の中から発せられたものではなく、壁を|挟《はさ》んで隣の部屋から|漏《も》れてきた音だ。
(隣……?)
ロアデルは音の聞こえてきた方の壁に、ゆっくりと顔を向けた。気のせいかもしれない、と思ったからだ。しかし耳を傾けていると、またさっきと同じ音が聞こえてきた。やはり、空耳ではない。
(でも、そんな)
隣は旦那さまの私室で、姉上さまの部屋同様ほとんど使用されていない部屋である。
(シイラ?)
その部屋の用事は、ほとんどをシイラが一人で行っている。だが、シイラは|留守《るす》なのだ。戻ってくるまでには、もう少し時間がかかるはず。ロアデルはドレスを置いて、そっと部屋を出た。忍び足で|廊下《ろうか》を歩き、隣の部屋の前まで来た。扉は中途|半端《はんぱ》に開いていた。|隙間《すきま》から中を|覗《のぞ》くと、そこには何とキャビネットの|抽斗《ひきだし》がいくつも開け放たれ、中の物が散乱するという|凄《すさ》まじい光景が繰り広げられていた。
「ど……っ」
泥棒だ。ロアデルは悲鳴をあげそうになった口を、自らの手で|塞《ふさ》いだ。
中にいたのは、もちろんシイラではなかった。扉で視界が|狭《せば》められているからはっきりとは確認できないが、男物の上着を着た背中が落ち着きなく動き回っているのがチラチラと目に映る。
誰かに知らせないと、と|踵《きびす》を返した時、ロアデルはうっかり足先を扉に引っかけた。それは、ほんの小さい音だった。しかしそれに気がついたのだろう、部屋の中からこちらに向かってすごい勢いで足音が近づいてきた。捕まえられる。ロアデルは足をもつれさせながらも、その場を離れようとした。しかし、わずかに開いていた扉から、ぬっと伸びてきた手に手首を|掴《つか》まれてしまった。
「きゃっ……」
小さく叫んだ瞬間、部屋の中に引きずり込まれた。
|漠然《ばくぜん》と、「殺される」と覚悟して目を閉じた。
しかし。
「何しているの、ロアデル」
「え?」
恐る恐る目を開けると、そこには|漆黒《しっこく》の髪と瞳をもつ、見慣れた青年が立っていた。
「アカシュ――、いえ、|旦那《だんな》さま」
「何驚いているんだよ」
「泥棒かと」
「ひどいな。俺の部屋に俺がいるだけなのに」
アカシュは長い髪をかき上げようとしてやめた。これは彼が囚人である時の|癖《くせ》なのだが、|検断《ポロトー》長官の身なりの時にやると、手に整髪の油がついてしまうのだ。
「だって、日中お部屋にいらっしゃることなんてないから」
「明るいうちでなきゃ、来られないだろ」
日中は検断の長として仕事をし、夜は囚人として|鉄格子《てつごうし》の中で過ごす彼は、一人二役を秘密にしているため、夜の|点呼《てんこ》以降朝までの間の自由はない。
「何か、捜し物でも?」
ロアデルは散乱した部屋を見渡して尋ねた。こうなる前に、シイラに相談して探してもらえばいいものを。
「うん。でも、もう見つかったからいい」
しかし、彼は手に何も持っていなかった。
「先ほど、エイさまから検断庁舎に行くよう言われましたが」
「あ、うん。面倒くさい用事を頼まれて欲しいんだ」
「それは|東方検断《トイ・ポロトー》長官の用事なのですか? それとも|懲役囚《ちょうえきしゅう》の?」
「うーん。難しいなぁ」
アカシュはとうとう頭をかいてしまった。|爪《つめ》の間に入り込んだ油を見て一瞬渋い表情をしたが、知らん顔をして上着で|拭《めぐ》った。
「取りあえず、俺を『ラフト・リーフィシー!』と呼ぶ|御仁《ごじん》がらみのお願いなんだけど」
「……あ」
それは、かなり大変な任務になりそうだとロアデルは覚悟した。脳に浮かぶのはただ一人、四角い顔の男性である。
「では、お手伝いするのは、|西方検断《エスタ・ポロトー》のお仕事なのですか」
「違うよ。彼の個人的な用だ」
「トラウトさまの?」
ロアデルにはさっぱりわからなかった。西方検断の仕事にかり出されるという考えも多少無理があると思えるのだが、ラフト・リーフィシーの友人であるトラウト・ルーギル氏の個人的な用事など、想像力をフル|稼働《かどう》したって|導《みちび》き出せるものではなかった。
「トラウトは今日一日、ロアデルとデートがしたいんだって」
「えっ……?」
一瞬、|腰砕《こしくだ》けになりそうになったが、ロアデルはすぐに気を取り直して尋ねた。
「何か、訳がおありなのですね?」
「さすがだ、と|誉《ほ》めるのが適当だろうか。それともトラウトに同情した方がいいのかな」
アカシュは、|愉快《ゆかい》そうに肩を揺すった。彼とて、二人の間に恋愛感情がないことくらい、百も承知しているのだ。
「そうだよ、ロアデル。トラウトには親同士が決めた結婚相手がいて、今度二人きりでデートする運びになったのだが、エスコートする自信がないと俺に泣きついてきた」
「それで、私相手にリハーサルを?」
「その通り。話が早くて大いに結構」
「はあ」
それで、姉上さまのドレスが必要なわけだ。貴族の|子息《しそく》がエスコートするのだから、相手はそれなりの身なりをしていないとおかしい。
「でも、私なんかに」
貴族のお|嬢《じょう》さまの代役なんて大役が、果たして務まるだろうか。――ロアデルがそんな心配を顔に表した時、先回りしてアカシュが言った。
「大丈夫。それより、君に断られたらもう彼には誘う相手がない」
「そうですか」
実はロアデル、トラウトには借りがあった。先日|東方検断《トイ・ポロトー》庁舎で彼にぬるいお茶をかけでしまったのだ。|詫《わ》びの品としてすぐに長手袋を作って贈ったものの、それくらいでは彼の前でわざと[#「わざと」に傍点]ポットを|落としてしまった罪悪感をぬぐい去ることはできない。だからトラウトの役に立つことなら、という気持ちにはもちろんなれる。
「君は、ただ彼と一緒に歩いたり食事をしたりして、若い娘の|率直《そっちょく》な感想を教えてやってくれればいいんだ」
それならば、とロアデルは承知した。
「ありがとう。じゃ、着替えたら直接城門に行って。トラウトに、馬車を回しておくよう言っておくから」
アカシュは言いたいことだけ言うと、すぐに|役宅《やくたく》を出ていってしまった。
「そうそう、ロアデル。俺がここに来たこと、シイラには内緒だよ。彼女の顔を見ずに帰ったなんて知れたら、何と言って責められるかわかったもんじゃない」
帰りがけにそんな言葉を残されても困るのだが、十八歳より二つ三つ幼く見える少年の顔で|可愛《かわい》らしくほほえまれては、ロアデルも首を縦に振るしかない。シイラじゃないが、それはまさに天使のほほえみなのである。
しかし、|夢見心地《ゆめみごこち》なのは一瞬のこと。我に返れば、ロアデルは散らかった部屋に一人取り残されていた。さて困った。シイラが帰ってくる前に、まずはこの部屋を何とかしないといけないようだ。
部屋を片づけ、急ぎ着替えて|役宅《やくたく》を出たところで、ロアデルはルアジと会った。
「ああ、ロアデル。シイラは?」
彼は早ロで尋ねた。
「出かけているわ。何か、用?」
「あちゃー」
ショック、というように彼は頭を抱える。こうしていると二十代後半くらいに思えるのだが、時に五十歳くらいに見えることがある。本当の|歳《とし》を、ロアデルは知らない。
「|獄舎《ごくしゃ》のマイザに伝言を頼もうと思って来たんだ。エイの|旦那《だんな》に急に仕事を命じられちゃって、今日、俺は手伝いにいけない、ってさ」
「行けない? じゃ、|洗濯《せんたく》はどうなるの?」
今日は晴れている上に微風が吹いていて、まさに洗濯|日和《びより》なのだった。
「あ、それは大丈夫。|懲役囚《ちょうえきしゅう》の中から、ちゃんと|使役《しえき》を出してくれるって。だけどそいつが洗濯場につくまでには、時間がかかるだろう? ほら、マイザは血圧が高いし待ちくたびれて頭に血が回って、倒れちゃったら大変だからね。かといって俺が自分で伝えにいったら、もう絶対に解放してもらえないからさ」
彼は最近エイの子分になったのだが、普段は洗濯係として働いている。獄舎の洗濯を一手に引き受けるマイザに、気に入られたのが運の尽きである。
「エイさまの仕事じゃ、仕方ないわね」
ロアデルは考え込んだ。シイラはまだ戻らないし、他の勤め人たちは役宅内にいるのだが、なぜか皆パタパタとしていて捕まえることができない。
「いいわ。私がマイザに伝えてきてあげる」
すると、ルアジはホッと胸を|撫《な》で下ろして言った。
「本当? 恩にきるよ、ロアデル。洗濯物を取り込む時間までには戻るからさ。あれ、ところで今日はずいぶんとめかし込んでいるじゃないか。あんたこそ、何か用事があったんじゃ……」
「ええ。でも、大丈夫よ。出かけるついでに、洗濯場に寄ることくらいできるわ」
ロアデルはドレスの|裾《すそ》をたくし上げて、小走りで|獄舎《ごくしゃ》に向かった。何だか急に忙しくなってきた。でも仕事がないのは退屈だからそれよりはずっといい、と思うのだった。
「おや、今日はロアデルが手伝いにきてくれたのかい?」
巨体を揺らして、マイザは豪快に笑った。彼女は|洗濯《せんたく》に命をかけている。最近は腰痛が出て重労働はしないが、ルアジなどを手足として使い、以前同様囚人服をパリッと仕上げている。
「残念だけど」
ロアデルはほ億えんだ。
「……だろうね。洗濯するには、おべべが上等すぎる」
「ルアジさんが今日は来られないという伝言を届けにきたの。マイザが気にしていると悪いから」
「ああ、そうかい。だったら代わりの者は、アカシュがいいね」
「アカシュは……、たぶん無理だと思うわ」
「ふん。また、上の人とチョギーとかいうゲームをしているのかい」
マイザは渋い顔をして、人差し指を一本上に向けた。
「そのようね」
その「上の人」と|懲役囚《ちょうえきしゅう》のアカシュが同一人物であることを、マイザは知らない。
「今日はいい天気ね」
「ああ、そうさ。こんな日は、洗濯物の番もしなくていいから、干してしばらくは|野暮《やぼ》用《よう》を済ませることもできるってもんだ」
うーんと伸びをしたマイザの|身体《からだ》の向こう側に、ルアジの代役で洗濯場に回された懲役囚が、役人に連れられやって来るのが見えた。
|迷《まよ》い子
1
「こっそりついていったら面白かったろうな」
書類から顔を上げて、アカシュは言った。
「こっそり?」
エイが、|書棚《しょだな》の本を抜き取りながら聞き返す。
「トラウトがどんな風に女性をエスコートするのか、ちょっと興味がある」
「|本末転倒《ほんまつてんとう》ですね」
自分で行けないから、ロアデルに代役を頼んだのに――。確かに、エイの言う通りである。
今日は祭りではあるが、だからといって|検断《ポロトー》の仕事も休みというわけではない。非番月は表立った活動を当番月の検断に|譲《ゆず》るものだが、多くの人出が予想されるようなこんな日は、街に点在する検断の分所に警備の応援をたくさん出しているわけで、部下が汗水たらして働いている時にトップが遊んでいるわけにもいかないのだった。
ただでさえ、今日は長官・副長官|揃《そろ》って三時に早退する予定でいる。だから、それまでは|真面目《まじめ》に働くべきだということは、頭ではわかっている。だが、これから|役宅《やくたく》で予定されている「お楽しみ」や、デートの予行演習に出かけた友人のことなどを考えると、なかなか仕事に集中できないのもまた事実。情けないことである。
「食事は済んだよな。食後のお茶を飲んで、公園を散歩でもしている頃か」
書類に承認のサインをし、それを口で吹いて乾かしながら、やはり気になってアカシュはつぶやく。しかし、エイは冷静なものである。
「今日は祭りでどこも混んでますから、あまり散歩向きではないかもしれません」
「そうか。その辺も、どうやって乗り切るかぜひ見てみたかったな」
アカシュは、オロオロしているトラウトが大好物だった。ロアデルには悪いが、彼がとんでもない失敗をしでかして、笑い話を|土産《みやげ》に持ち帰ってくれたらいい、と真面目に思っていた。
「やはり、ありませんね」
エイが、ため息をついて言った。何が、と尋ねそうになって思い出した。エイが|掃除《そうじ》済みの床をもう一度|丁寧《ていねい》に|拭《ふ》き、書棚の本を抜き取ってぺージの間を一冊ずつ確認していたのは何のためか。それはどこかで迷っているはずの、|象牙《ぞうげ》色の姫君を|速《すみ》やかに救出するためなのだった。うっすらと|額《ひたい》に汗をにじませたエイは、噴水の側に置かれた彫像のようだ。
「これだけ探してもないのですから、この部屋の中にはないのでは」
「だが、チョギーの|駒《こま》には足がない」
アカシュは席を立って|書棚《しょだな》まで歩いていくと、|傍《かたわ》らにしゃがんで軽くエイのふくらはぎを突っついた。
「生まれて間もない、まだ歩けない赤ん坊が、|誘拐《ゆうかい》されるという事件はあります」
エイは|鬱陶《うっとう》しそうに、ちょっかいを出す指を手で払う。
「誰かが持ち出した、と?」
だが、昨日から今日にかけて、|東方検断《トイ・ポロトー》長官|執務室《しつむしつ》に出入りした者は五人しかいない。長官、副長官、部下のログとキトリイ、そしてお騒がせな客人トラウト・ルーギル氏。誰もが、この部屋では|馴染《なじ》みの人物であった。この中の誰かが駒を持ち出して、知らんぷりしているなどということはちょっと考えられなかった。かといって、外部からの侵入者によって盗み出されたとなると、|検断《ポロトー》としての|面目《めんぼく》は丸つぶれである。
「本当にあなたではないんですね」
エイは真っ正面からアカシュを見た。
「私?」
「あなたには前科があるので。一度、|役宅《やくたく》に駒を置いてきてしまったでしょう?」
「あれは、ロアデルに預けてきたんだ。お前にも、すぐに断った」
以前、ロアデルとこの部屋でチョギーの対戦をした時に、流れでそんなことをしたことがあった。後からエイに|叱《しか》られたので、よく覚えている。
「むきにならないでください。ただ確認しただけですから」
「ふうん。それよりお前、今、落ち込んでいる?」
「……よくおわかりですね」
昨日、チョギーを片づけたのはエイである。その時、珍しく駒の数の確認を|怠《おこた》ったことを、さっきから悔やんでいるのだ。もちろん、だから駒が消えたというわけではないが、いつの時点でなくなっていたかという確定ができなくなったのは痛い。
「大丈夫だよ。駒が一つ見あたらないくらい」
「でも」
「なくしたってばれなきゃ、いいんだろう?」
万一誰かが、|陛下《へいか》からの|拝領《はいりょう》の品をぜひ見せてくれと言ってきても、家宝だからと断ればいいのだ。だが。
「陛下自らの|思《おぼ》し召しがあった場合どうしたら――」
「……」
「……」
二人はたっぷり一分間、考え込んだ。それは断れないだろう、どうしたって。
「……そんなことはたぶんない、と」
「ないよな」
力無く笑い合うのは、互いを|慰《なぐさ》めるためか。そんな偶然あり得ない、と。そう思いたいのは山々だが、あの国王|陛下《へいか》に限って「絶対」はない。よもや陛下の手の者が|駒《こま》を盗んだとは思っていないが、ここぞという時に運と|勘《かん》が働くお人だから油断はならない。面白そうなことに対しては、めっぽう|食指《しょくし》が動かれた。
それにしても、どこにあるのか――。何も解決しないまま、再び机に戻ろうとしたまさにその時。タッタッタッタッ。いつもの駆け足が聞こえてきた。
「ラフト・リーフィシー!」
予想に|違《たが》わず、扉を開けて四角い顔が現れる。
「おや、早かったねトラウト。楽しめたかい?」
「ロアデルは?」
そう言うなり彼は部屋の中に踏み込み、辺りをキョロキョロと見回し、机の下やカーテンの裏など、かくれんぼでもしていなければおおよそ人が|潜《ひそ》んでいそうもない場所を探り回った。
「ロアデル?」
行動だけでなく言うことも面白い、と二人は顔を見合わせた。ロアデルだったら、|今朝《けさ》トラウト自身がデートの予行演習のために連れ出したではないか。
「ここには戻っていないのか……」
つぶやくと、トラウトはその場でガバッと頭を深く下げた。
「すまない!!」
「え?」
何が、と聞く前にトラウトは|唾《つば》を飛ばしながら大声で言った。
「ロアデルとはぐれた」
「はぐれた!?」
アカシュだけでなく、エイも同時に聞き返した。
「厳密にいうと、レストランで私が席を外してしまった間、いなくなったというか――」
|狼狽《ろうばい》していてなかなか言葉が出ないのか、トラウトは身振り手振りを加えてどうにか伝えようとする。
「席を外したって? 手洗い?」
「いや。あの、女性を追いかけていて」
それを聞くやいなや、アカシュはヒュウと口笛を吹いた。
「ふーん。やるじゃないか、君もなかなか」
「そうじゃないんだ」
「何がそうじゃない」
同伴した女性を置き去りにして別の女性を追いかけたのが事実なら、いかなる理由があろうとも、言い訳は通用しないはずである。
「ロアデルが追いかけるように言ってくれたので、つい」
「ふーん」
アカシュはトラウトの顔を見た。その追いかけた女性というのが誰かというのはすぐに見当がついたが、それには触れずに尋ねた。
「で? ブーケは買ったのか?」
「それは、買った」
丸まった背中をちょっとだけ伸ばして、トラウトは答えた。しかし約束の買い物をしたからといって、女性のエスコートを|放棄《ほうき》した罪が許されるわけではない。
「トラウト、君さ。デートの|善《よ》し|悪《あ》し以前に、紳士として失格なんじゃない?」
「……その通りだ。返す言葉もない」
ちょっと突っついただけで、またうなだれた。わかりやすい男である。
「ロアデルはしっかりしているから|迷子《まいご》なんかにはなっていないでしょうけれど、祭りで人出もありますし、心配ですからちょっと見にいってきます」
脱いでいた上着をつかんで出口に向かうエイを、トラウトが「待て」と呼び止めた。
「あの。……帰ってきているはずなんだ、彼女」
「帰ってきている? ロアデルが?」
「ああ。帰ってきているってここの|門衛《もんえい》に聞いたから、まずは君の所まで|詫《わ》びに来たんだ。|東方牢《リーフィシー》城に戻っていないなら、引き返して|街中《まちじゅう》を探しているよ」
「ふうん」
それは、一理ある。だが一人の人間の力で、祭りで混雑する街中の人捜しなどできるとも思えないが。
「それじゃ、直接|役宅《やくたく》に帰ったのかな」
アカシュはつぶやいた。彼女は借り物のドレスで出かけたのだ。早く|窮屈《きゅうくつ》な服を脱いで、楽になりたいと思ったのかもしれない。
「見てきましょうか」
エイが申し出たが、アカシュはそれを断った。
「私が行くから、いい」
「では、私も」
トラウトが手を上げてついてきた。責任を感じているのだろうが、はっきり言って|邪魔《じゃま》だった。
「君はここで|待機《たいき》していたまえ」
「えーっ」
「ロアデルがこの部屋に来るかもしれない。そうしたら、行き違いになるだろう? ここは、分散していた方がいい」
「うむ……」
今ひとつ納得しきれていないトラウトをエイに預け、アカシュは一人役宅へ向かうことにした。扉に手を掛けたところで、振り返って尋ねた。
「参考までに聞かせてくれるかい、トラウト? はぐれる直前までは、デートはどんな感じだったんだい?」
すると、トラウトは|至極《しごく》真面目《まじめ》に答えた。
「馬車ででかけて、途中で馬車を降りて、歩いてレストランまで行く途中の|露天《ろてん》でブーケを買った」
「あ、そ」
そんな説明では、楽しかったのかつまらなかったのか、まるで伝わってこなかった。あまりにも面白くなかったので、アカシュはちょっと意地悪な質問をトラウトにしてから部屋を出た。
「ところで、その|頬《ほお》のきれいな花模様は、いったい誰につけてもらったんだい?」
2
トラウト・ルーギル氏を一言で表すならば、「四角」であろう。
顔が四角、体格もゴツゴツしてしなやかさに欠ける。そして何より、性格が四角い。曲がったことが大嫌い。思い込んだら|猪突猛進《ちょとつもうしん》。女性にやさしいという点のみを取れば「丸い」と見えなくもないのだろうが、それは女好きとは似て非なるものなのである。彼の場合、ただ道徳的な教えに従い|実践《じっせん》しているに過ぎず、だから、女性に親切をすることはいくらでもできるのだが、甘い言葉を囁《ささや》いて|口説《くど》くなんていう高度なテクニックは持ち合わせていないのだった。
「トラウトさま。ごきげんよう」
「おはよう、ロアデル」
待ち合わせ場所の城門で馬車にもたれて待っていた彼は、先日ロアデルがこしらえてプレゼントした長手袋をしっかり身につけていた。初夏の、うっすら汗ばむ陽気に、である。彼は相当な紳士といっていい。
「ずいぶんとお待たせいたしましたか」
「いや。そんなには待っていないよ。それより、すまない。無理なお願いを聞いてもらって」
紳士たるもの、女性に待たされても文句は言わない。もちろん、その女性が現れたなら手を差し伸べ、馬車に乗るための手助けをすることも忘れない。
「今日はどちらに?」
「レストランの予約をとっているから、昼の食事を一緒にどうかな」
「はい」
二人が馬車の|椅子《いす》に納まると、|御者《ぎょしゃ》が馬をゆるりと進ませた。ルーギル家の|家紋《かもん》がついた馬車が、|東方牢《リーフィシー》城の城門を出ていく。入れ違いに城門をくぐるシイラの姿が見えたが、花束と粉屋の大きな紙袋を抱えてわき目もふらずに歩く彼女には、馬車の中にいるロアデルの姿は気づけなかったようだ。馬車は、小高い丘をぐるりと取り囲む|緩《ゆる》やかな坂を下りる。
「ロアデル」
馬車に揺られながら、トラウトが言った。
「本当のところ、どうなのだろう。迷惑ではなかったかい?」
「は?」
「私はあまり面白みのある男ではないし。見た目も中身もスマートとは決して言えないし」
おや、とロアデルは思った。珍しい。典型的な|良家《りょうけ》のお坊ちゃんで、いつも|威張《いば》って、いや、堂々としている彼が自信を失っているようだ。
「それに気の|利《き》いた話題も――」
「失礼ですが、トラウトさま?」
しばらくはおとなしく話を聞いていようと思ったロアデルだったが、このままでは|際限《さいげん》なく欠点の|羅列《られつ》が続きそうだったので、ついには横から口を|挟《はさ》んでしまった。
「な、何だ?」
トラウトが|身構《みがま》えた。
「|率直《そっちょく》な感想を、というお話ですので、言わせていただきますけれど」
「う、うむ」
「女性を誘っておいて、面白みがないだのスマートでないだのと、ご自分を|卑下《ひげ》するような言葉をおっしゃるのはおやめになった方がよろしいのではありませんか。せっかくの楽しい時間が、台無しになってしまいますわ。第一」
ロアデルは真っ直ぐな視線でトラウトを捕らえた。
「そんなつまらない男のために、お相手のお|嬢《じょう》さんの貴重な時間を使わせようなんて、思っていらっしゃるんですか? その方はきっと、トラウトさまと楽しい時間を過ごしたいと思って出かけていらっしゃるに違いないのに」
「そうは言っても、ロアデル――」
だが、トラウトは言いかけた抗議の言葉を|呑《の》み込んだ。そして代わりに、ロアデルに一つの質問をした。
「楽しい時間になると思うか」
「それは、トラウトさま次第です」
「私次第……か。うむ、わかった」
トラウトはうなずく。素直な彼は、他人の意見に傾けるべき耳をちゃんともっていた。
「その意気です」
ロアデルはほほえんだ。つられて笑ったトラウトの顔は、笑顔がとても魅力的だった。ただ、ロアデルの言った言葉を一々メモするのはどんなものだろうか。勉強熱心なのは感心するが、本番デートでそれをやられては|雰囲気《ふんいき》がぶちこわしである。あとで、さり|気《げ》なく注意しておいた方がいいかもしれない。今日の城下は、ロアデルが知っているいつもの街ではなくなっていた。馬車の中にいても感じられる、外の|喧燥《けんそう》。必要以上にゆるゆるとした馬の足並み。時折何かを避けるように急に左右に振られる、|御者《ぎょしゃ》の|手綱《たづな》さばき。車道も歩道も、人であふれていた。
「何だか、|賑《にぎ》やかだな」
トラウトが、窓から顔を出した。すると。
「フラーマティブル!」
まるで狙っていたかのように、路上で浮かれている人々から、花びらのシャワーがお見舞いされた。
「な、何だ、これはっ!?」
彼は、あわてて髪にかかった色とりどりの花びらを払う。馬車の中が、甘い花の香りでいっぱいになった。
「今日は|花の祭り《フラーマティブル》ですもの」
ロアデルは笑いながら答えた。
「ああ、そうか。来る時は朝早かったので、まださほど人出がなくてわからなかったが……」
今日はワースホーン国の至る所で祭りが行われている。|花の祭り《フラーマティブル》は、娘の|健《すこ》やかな成長を祝ってのお祭りだった。
昔、|身体《からだ》の弱かった王家の姫が、十六歳の誕生日に神に花を|奉納《ほうのう》したところ|丈夫《じょうぶ》になった、という|逸話《いつわ》が起源であるといわれている。でも今では、神に感謝するというよりも、むしろ年頃になった娘をお|披露目《ひろめ》するという意味あいの方が強くなっているようだ。
地方によっては、結婚式より金をかけて、|祝儀《しゅうぎ》にやってきた客人を三日三晩もてなすこともあるとか。娘がたくさんいる家は、その数に応じて資財が減っていくとも言われている。
しかし、王都エーディックでは、そのようなことはない。せいぜい主役の娘が着飾って街を|闊歩《かっぽ》したり、ご近所連中に|樽酒《たるざけ》を振る舞ったり、子供たちに菓子の包みをまいたりするくらいなものだ。
それでも、美しい娘たちを見ようという人たちは集まるので、商店は大安売りをするし、街には|露店《ろてん》が建ち並ぶ。関係ある人もない人も、純粋に祭りを楽しんでいるのだ。肉屋や薬屋など、あまり|花の祭り《フラーマティブル》には関係ない店であっても、今日は意識して看板に花を飾ったりしていた。
馬車は城下の|賑《にぎ》やかな街を一旦抜け、住宅地に入った。入り口に大きな花輪が掛けられているのは、年頃の娘がいる家だ。娘の有無《うむ》に関わらず、鉢植《はちう》えや花束を門前に置いて道を飾る家がとても多い。
「誰もが幸せに見える」
トラウトが目を細めた。
「ええ」
まだ十歳にも満たないであろう少女たちが、髪に花を飾ってはしゃいでいる。祭りの主役であるお姉さんの、おこぼれにでも預かったのだろう。興奮して道の真ん中で追いかけっこなど始めるから、|御者《ぎょしゃ》があわてて|手綱《たづな》をさばく。|野良犬《のらいぬ》さえも浮かれている。今日は祭りだ。
ガタン。
――と、軽い振動を|伴《ともな》って馬車が止まった。
「申し訳ございません、坊ちゃん」
|御者台《ぎょしゃだい》から、声が届く。
「道はこの先、本日通行規制だそうです」
「通行規制、だと?」
王宮につながる道は、祭りの日などには混雑を避けるため、許可のある馬車以外の通行が禁止されることがあった。
「……何たることだ。レストランはこの先にあるのだぞ」
トラウトは髪をかきむしった。
「降りましょう、トラウトさま」
ロアデルは、|椅子《いす》から立ち上がった。
「降りる?」
「ええ。歩いていきましょう」
「ロアデルはそれでいいのか? まだ、結構距離はあるぞ?」
いいも悪いも、レストランに予約を入れていて、そこまで馬車が乗り入れられないのなら、歩いていくより他はない。しかし、きっちり計画をたてていたであろう|生真面目《きまじめ》なトラウトは、予定外の出来事をすぐには認められず、対応に時間がかかるようだった。
「|賑《にぎ》やかな街を歩くのも、いいものですよ」
「うむ、それなら」
トラウトはうなずくと、先に馬車を降りてロアデルが降りる|介助《かいじょ》をした。どうにか、気持ちに折り合いがついたらしい。
「お前はここで|待機《たいき》しているように」
軌道修正を完了したトラウトは、胸を張って御者台の|供《とも》に指示を出す。しかし、最後にこそっと付け加えるのを忘れないのだった。
「その、『坊ちゃん』だけは、お願いだからやめてくれ」と。
トラウトを納得させるために言った言葉だったが、賑やかな街はロアデルの心をもワクワクさせた。
「そこの|旦那《だんな》さん。恋人にブーケをプレゼントしてやりなよ」
「中古の指輪が安いよ」
「切れ目のついた|陶器《とうき》はどうだい? 刃物を押しつければ、すぐさま壊れる新製品さ」
街の至る所から呼び声がかかる。
|縁起物《えんぎもの》を売る|露店《ろてん》は這の|両端《りょうはし》に所狭しと並んでいる。さすがは王宮のお|膝元《ひざもと》、|東方牢《リーフィシー》城の城下とは比べものにならないくらいの賑わいである。これでは、車の通行を調節するのも無理はない。
「|花の祭り《フラーマティブル》に必要な物は何だっけ」
歩きながら、トラウトが聞いた。
「手作りの物、お下がり、新品、それからブーケ」
言いながら、ロアデルは指を折る。
「ああ、何か歌があったよね。なぞなぞみたいな」
「ええ」
|永久《とわ》に消し去れ、手作りの品
|手中《しゅちゅう》に隠せ、誰かのお下がり
刃物で壊せ、買いたての品
忘れるなかれ、オリーブと|野薔薮《のばら》のブーケ――
その後は、どう続いたのだったろう。ロアデルは思い出せなかった。もしかしたら、最初から覚えていなかったのかもしれない。その歌は、誰かに教えてもらったわけではなく、毎年この時期に自然に耳に入ってくる曲だったから。
「ロアデルも、ご両親に何かやってもらったんだろう?」
トラウトの問いかけに、ロアデルは
「いいえ」と首を横に振った。
「私は|花の祭り《フラーマティブル》をしていないんです」
物心ついた頃に両親が亡くなり、それからはずっと働き通しだった。自分が十六だった年も、忙しすぎてそのことを思い出すことはなかった。祭り用の|巾着袋《きんちゃくぶくろ》を作ったり、ハンカチの|刺繍《ししゅう》をしたり。それがすぐに燃やされる運命だとも知らずに、|一針一針《ひとはりひとはり》心を込めて針を動かしたものだった。
「すまん、忘れていた。君はご両親を、早くに亡くしていたんだった。それを、私ときたら――」
人のいいトラウト・ルーギル氏は、自分の|失言《しつげん》に相当ショックを受けていた。
「こういうところがだめなのだ。ああ、もう」
「気になさらないでください。私自身、何とも思っていないのですから」
「いいや、それでは私の気がすまない」
それほどのことではないのに。これでは、かえってロアデルの方が恐縮してしまう。
「ああ、そうだ。お|詫《わ》びといっては何だが、私に|花の祭り《フラーマティブル》の|真似事《まねごと》をさせてくれ」
「え、いいんです。そんな」
「いや。今日つき合ってくれたお礼にでも。ちょうどいいから」
何がちょうどいいのかわからないが、トラウトはロアデルの手首を|掴《つか》んで|露店《ろてん》の|傘《かさ》の下に飛び込んだ。
「ブーケをくれ」
「はいよ、|旦那《だんな》。大きいのから小さいのまで、種類も豊富。どれになさる」
「私はわからん。ロアデル、君がいいのを選びたまえ」
|遠慮《えんりょ》していても|坪《らち》があかないので、ロアデルは小ぶりのブーケを選んだ。オリーブの葉と|野薔薇《のばら》の花だけで作られた、かわいい花束だ。
「それでいいのか? もっと大きいのを選んでもいいんだぞ?」
トラウトがのぞき込んで言った。
「いえ。これが気に入りました」
「そうか。うん、言われてみれば悪くない。……おい、これをもらおう」
「へい毎度あり」
トラウトは|財布《さいふ》から少し多めの金を出して、店主に渡した。|縁起物《えんぎもの》を買う時の慣例である。
「お|嬢《じょう》さんに幸せがきますように」
店主はそう言って二人を見送った。きっと、ロアデルが十六歳だと思ったのだろう。
3
「ロアデルですって? 部屋にいませんでしたか?」
シイラは目を丸くして聞き返した。彼女がたった今|窯《かま》から取り出したばかりのケーキ型の中では、|生地《きじ》が黄色に焼き上がりほかほかと湯気を立てている。
「それがいないんだ」
アカシュが、ため息混じりに答えた。庁舎にいないのならば、絶対に|役宅《やくたく》に戻っているのだと踏んできたのだがロアデルは彼女の部屋にはいなかった。
「おかしいですわね」
シイラは両手から|鍋《なべ》つかみを外して、|額《ひたい》の汗を|拭《ゐぐ》った。
「どこかに出かけてしまったのでしょうか」
「いや、城内にいるはずだよ」
言いながらアカシュは、ボウルに入った粉砂糖を指でつまんで口に入れた。シイラはその悪い手を軽く叩いたが、強くしかりはしない。育ち盛りの十八歳にとって|厨房《ちゅうぼう》は宝箱のような空間だと、きっと彼女も知っているのだろう。
「帰ってきたのを、トラウトが確認しているんだ」
「帰ってきた?」
アカシュのつぶやきに、シイラは食いついた。
「では、ロアデルは出かけていたというのですか?」
「ああ、そうだよ。あれ、知らなかった?」
「知らないも何も。今日は私、あの子にお休みを与えて……。静かだから、てっきり部屋で休養をとっているものだとばかり――」
「休み? 突然だね」
「ええ。|昨夜《ゆうべ》、遅くまで仕事をしてもらったのでその代わりに、と」
それに、とシイラは続けた。
「今日は、|厨房《ちゅうぼう》や食堂に近づかれたくなくて」
「なるほど。ロアデルがいたら|邪魔《じゃま》だよね」
アカシュは|悪戯《いたずら》っぽく笑った。それは、彼にも十分身に覚えのあることなのであった。
「それにしても、どこに……」
二人が腕組みをして考え込んでいると、そこに|役宅《やくたく》の料理人シガレが入ってきた。どうやら、調理中の|鶏《とり》の焼け具合を確認しにきたらしい。実はさっきからいい|匂《にお》いがしていたのだが、鶏の丸焼きでは、さすがのアカシュでもつまみ食いするわけにはいかない。
「おっ、これは|旦那《だんな》さまっ」
使用人が当主の姿を見て幽霊にでもあったかのようにギョッとしてしまうのは、この屋敷では無理もないことだった。アカシュが役宅に戻ったのは約一ヶ月ぶりで、腕のいい料理人と顔を合わせたとなると、まさに三ヶ月ぶりのことである。
「お久しゅうございます。お元気そうで……」
「変わりないか」
「は、お陰さまで。旦那さまも」
だが、久しぶりに|拝《おが》めた旦那さまの顔に、つまみ食いしたナッツの|欠片《かけら》がついてたのだから、先代が生きていた頃からこの家に仕えてきた彼はさぞかしガッカリしたことだろう。|案《あん》の|定《じょう》、シガレはそれを見なかったことにして話題を変えた。
「ところでシイラ。|今朝《けさ》はすまなかったね。食材の仕入れや何やで、バタバタしていたものだから」
「何のこと?」
「朝食後の片づけだよ。君がしてくれたんだろう?」
「いいえ、していないわよ」
シイラは首を|傾《かし》げた。
「それより、|花瓶《かびん》の水を換えてくれたの、シガレ?」
「いや」
「……」
「……」
この辺りから、二人は会話がかみ合っていないことに薄々気づき始めていた。しかし確信がないので、その答えをどちらも口にしなかっただけである。
そんな時。
「シガレ。ロアデルを見た?」
間を割って、アカシュが尋ねた。
「ええ。でも、|今朝《けさ》会ったきりですが」
今日は|役宅《やくたく》の使用人たちはシガレばかりでなく、皆バタバタとしていた。久しぶりに行われるパーティーの準備に大わらわで、周囲を眺めている|暇《ひま》などなかったという。
「今朝か。それじゃ、その情報はあまり役に立ちそうもないね」
アカシュは首をすくめた。今は午後。夕方と呼ぶには、まだ少し早いくらいの時間だ。
「ロアデルが、何か?」
「いや。ただ、|居所《いどころ》がわからない」
「ほう、居所が――」
シガレはそこまで言って、目を見開いた。
「ロアデルが|行方《ゆくえ》不明では、困るじゃありませんか!」
ことの重大さに、彼もやっと気づいたようである。内緒で進められてはいるが、パーティーの主役はロアデルなのである。そして|主催者《しゅさいしゃ》であるこの屋敷の|主《あるじ》には、タイムリミットがあるわけで――。
「日が暮れたら、私の計画は台無しだなあ」
つぶやきながら、アカシュが豆サラダに手を伸ばす。シイラは、寸前でボウルを取り上げて宣告した。
「そうなったら、|旦那《だんな》さまぬきで決行しますよ」
「言ってくれるね、シイラ。私をいじめて楽しいかい?」
「やさしくしてもらいたかったら、もっと|頻繁《ひんぱん》に役宅に顔を出してくださいませ」
赤ん坊の頃から世話をしてきたシイラには、泣き落としも|威圧《いあつ》もほめ殺しも通用しないのだった。
「……そうしよう」
アカシュは気まずそうに|咳払《せきばら》いを一つしてから、気を|利《き》かせて背中を向けていた料理長に声をかけた。
「ところで、シガレ。お前が見たとき、ロアデルは何をしていた?」
「何、って。あの、食堂でカーテンのほころびを|縫《ぬ》っていました……けれど」
「カーテンだって?」
「昨日でしたか、ケビが|窓枠《まどわく》の修理をした時|釘《くぎ》で引っかけてしまったんです。さほど目立たないし、そのうちでいいと言っておいたんですが、どうも気になったようで――」
すると。
「あ」
シイラが突然、思いついたように|厨房《ちゅうぼう》を出ていった。そして戻ってきた時に手にしていたものは、飾りっ|気《け》のないノートだった。
「……やっぱり!」
ページを繰りながら、シイラは小さく叫んだ。
「|昨夜《ゆうべ》私がつけた|帳簿《ちょうぼ》の|検算《けんざん》も、いつの間にか済ませてあります」
「何だって?」
「ロアデルですよ、きっとあの子です」
「じゃあ、ロアデルは食事の後片づけを一人でして、帳簿の見直しをして、|縫《ぬ》い物をして、|花瓶《かびん》の水まで取り替えて、それから出かけたというのか。休みだっていうのに……!」
だが、誰も「信じられない」とは言わなかった。ロアデルは働き者なのである。休みだからといって、|布団《ふとん》の中で丸まっていられるようなそんな娘ではない。もしや、もう一つ二つ仕事をしていったかもしれない――。三人が顔を見合わせた時。
「ラフト・リーフィシー!」
|喚《わめ》きながら、厨房に一人の青年が乱入してきた。言わずと知れた、トラウトである。
「……|執務室《しつむしつ》で待っていろと言ったのに」
アカシュはうんざりとつぶやいた。いるとややこしくなるから、彼を残して一人で|役宅《やくたく》へ様子を見にきたのに、ついてこられたら何もならない。
「そうはいっても、やはり気になるではないか。ロアデルに何かあったらと思うと、居ても立ってもいられず……」
「わかったから。その大きい声をどうにかしてくれないか。うるさくて耳が痛い」
一緒にいたシイラも、控えめではあるが手で耳を押さえていた。シガレに至っては、|鶏《とり》の焼け具合を確かめるのもそこそこに、厨房を出ていってしまった。
「ロアデルはやはりいないのか? ……どうしよう、私の責任だ」
トラウトは、どんよりと肩を落とした。
「まあいいさ」
反省しきりの友人の顔をのぞき込んで、アカシュは肩を軽く叩いた。
「ロアデルが城内にいるなら、危険な目に|遭《あ》っているということもないだろうし」
そこで少しだけ言葉を区切ると、吹き出しそうになるのを|堪《こら》えて続けた。
「君は十分|制裁《せいさい》を受け、それによって傷ついているようだからね」
トラウトの|左頬《ひだりほほ》には、五本の指が確認できるほどはっきりと、|紅《あか》い手形が残されていたのであった。
4
「オリーブと|野薔薇《のばら》というのは、たぶん魔よけみたいなものではないかな」
デザートの焼き菓子にたっぷり|蜂蜜《はちみつ》をかけたものを|頬《ほお》ばりながら、トラウトは言った。本当はコースにないメニューなのだが、ここはルーギル家が|馴染《なじ》みにしているレストランということで、リクエストすれば出してくれるらしい。ここでも彼は「坊ちゃん」と呼ばれていた。
「ほら、|野薔薇《のばら》には|棘《とげ》があるだろう? あれは、たぶん魔を寄せつけないという意味を表している。オリーブの葉は、思うに鋭い|刃《やいば》ではないだろうか」
「刃……」
ロアデルは、テーブルの|片隅《かたすみ》に置いたブーケに視線を向けた。オリーブの細長い葉は裏から見ると白銀に光って見え、なるほど銀製のナイフに似ているのだった。
「ああ。刃物で壊せ、という文句に通じますね」
「その通り」
トラウトの話は面白かった。だが、一般的な若い娘にうけるかどうかについては、かなり微妙な線ではある。
「『|手中《しゅちゅう》に隠せ』という物については、指輪が使われることが多いだろう? 古くから、指輪にはお守りとしての役割があると信じられてきた」
「では、『|永久《とわ》に消し去れ』はどういうことでしょう? 手作りの品を燃やしたりしますよね」
「うーん、身代わりかな」
将来背負うかもしれない|疫病《えきびょう》を、代わりに引き受けてもらうために。――そう、トラウトは解釈してみせた。
「トラウトさま、すばらしい推理力ですね」
「|誉《ほ》めてもらってうれしいが、いざという時に|発揮《はっき》できないんじゃしょうがないんだ」
ちょっとうつむいて、トラウトはつぶやいた。彼は、偉大なる父の陰に隠れてなかなか思うように|手柄《てがら》がたてられないことを悩んでいるようだった。同じ年頃、同じ立場のエイがバリバリ働いている様子を見れば、落ち込む気持ちもわからないではない。だが、本来比べるべきことではないように思われた。
「トラウトさまはきっと、前線で|指揮《しき》をとられるより、時間をかけて物事を|見極《みきわ》める能力に|長《た》けているのですわ」
「私も常々そう思っている。だが、内にこもってばかりいては、将来、|検断《ポロトー》の長官はやっていけないだろう?」
東と西と北にある|検断《ポロトー》の長官は|世襲《せしゅう》制で、親から子に無条件で受け継がれる職務であった。だから、たとえ|懲役囚《ちょうえきしゅう》であってもその役が|巡《めぐ》ってきてしまうことがあるのだ。
「でも。ラフト・リーフィシーさまも、あまり表には出られませんが、ちゃんとお務めを果たしていらっしゃいますよ」
|励《はげ》まそうとか|慰《なぐさ》めようとか、そういうつもりはぜんぜんなくて、ただロアデルは思ったままを口にしただけだった。けれど、トラウトはその言葉にいたく感激したようで、彼女の手をとって握手した。
「ああ、そうだ。本当にその通りだ。ロアデル、君と話していると元気が出てくる。君は、なんて素晴らしい女性なんだ!」
「……恐れ入ります」
その喜びようといったら、こちらが当惑してしまうほど。握った手を上下に激しく振られたので、借り物の大切なドレスの|袖口《そでぐち》に、ちょっとだけ|蜂蜜《はちみつ》がついてしまった。
(ああ……)
ロアデルが|染《し》み抜きの心配をしていると、突然、店内に流れる美しい音楽を切り|裂《さ》くように、女性の声が|轟《とどろ》いた。
「トラウト・ルーギル!」
それはまだ年若い少女の声で、呼びかけるというより|叱《しか》りつけるといった感じで伝わってきた。――つまり、かなり|怒気《どき》を含んでいた。
トラウトは何が何だかわからないようだったが、それでも自分の名を呼ばれたわけだから|椅子《いす》から立ち上がり、周囲をキョロキョロと見回した。そしてある一点で視線を止めると、瞬時に表情を|凍《こお》らせた。
「ア、アイナー?」
店の出入り口付近にいた、こちらをにらみつけている娘。彼女こそが、先ほどの声の|主《ぬし》のようだった。
「どうして、ここに……」
トラウトのつぶやきが聞こえたかどうか定かではないが、彼女は友好的な|挨拶《あいさつ》を交わすこともなく、背を向けて逃げるように店から出ていってしまった。彼女のお付きらしき女性が、後から困ったように追いかけていく。
「ま、待ってくれ。誤解だっ」
トラウトは|椅子《いす》から立ち上がったままの体勢で、左手を伸ばした。
「あの、トラウトさま。差し出がましいようですが、追いかけた方がいいのでは」
――まずはその、右手で握りしめたフォークを皿に戻してから。
「ああ、ロアデル。君のアドバイスはいつでも的確だ。ではお言葉に甘えさせてもらうよ。悪いが、君はここでしばらく待っていてくれるね」
言い残して、トラウトは席を立った。逃げていった彼女は、高貴な|家柄《いえがら》のお|嬢《じょう》さんといった感じだった。たぶん、彼女こそが本来ロアデルの座っている椅子に腰掛けるべき人間だったのだろう。
(誤解をさせてしまったかしら)
ロアデルはブーケを引き寄せ、オリーブの葉にそっと触れた。
かわいそうなことをした、と思った。トラウトが追いついて、ちゃんと誤解をといていればいいのだけれど、と。
5
アカシュが|役宅《やくたく》から一旦|検断庁舎《けんだんちょうしゃ》に戻ると、長官|執務室《しつむしつ》ではエイがスッキリしない顔で出迎えた。
「トラウトどのは役宅に?」
「うん。うるさいから、シイラに預けてきた。食堂の飾り付けを手伝って欲しい、って持ち上げて」
「なるほど」
部屋は出かけた時と、さほど様子は変わっていなかった。|書棚《しょだな》は元に戻されてはいるものの、|机上《きじょう》の書類は手つかずのまま。わずかな時間を惜しんで仕事をするエイが、珍しいことだ。
「|便秘《ぺんぴ》か」
「違います」
上司のつまらない冗談を、部下はさらりと受け流した。相手にしてもらえなかったアカシュは、来客用のソファにドッカと座って今度は|真面目《まじめ》に尋ねた。
「では、お前は何につまずいているのだ?」
朝から一向に|検断《ポロトー》の仕事が片づかないという苦情だろうか、それとも|行方《ゆくえ》不明の|駒《こま》を|憂《うれ》いているのか――、などと思っていたら、少々違った。
「ロアデルです」
「ロアデル!? いたのか!?」
「いえ。ただ、ロアデルのその後の足取りがわかりました」
「トラウトと別れた後のか?」
「そういうことになりますね」
エイは立ち上がり、アカシュのもとまで歩いてくると、一通の書類と砂糖菓子入りの|瓶詰《びんづ》めをテーブルの上に置いた。
「何だ、これ。検断分所からの問い合わせ状?」
「要約しましょうか?」
「お願い」
「王宮の城下で|迷子《まいご》を保護して分所に届けた女性がいたのですが、その容姿がロアデルによく似ていたので本人かどうか確認をとってくれないか、と。まあ、そういう依頼です。迷子の親が、ぜひ礼を言いたいと探しているとか」
「砂糖菓子はそのお礼なのか」
「いえ。それはまた別口で。|東方牢《リーフィシー》城の城下にある|駄菓子屋《だがしや》から届いたものです。ロアデルへの贈り物であることには、間違いないのですが――」
「なるほど」
アカシュは砂糖菓子の瓶を指で|弾《はじ》いてから、部屋を|俳徊《はいかい》した。
「お前が|便秘《ぺんび》顔をしてたわけがわかったよ」
ロアデルへの問い合わせや届け物がとどいているのに、本人はいない。スッキリしないのもうなずける。
「しかし、いったいどこに行ったんだろう」
人差し指一本で、チョギー盤の|溝《みぞ》を|撫《な》でる。
「ロアデルですか? それとも、チョギーの駒?」
「両方」
どちらも、一人でさまよっている姫君だ。この城がゲーム盤であるとしたら、たぶん彼女はその盤上にいるはずなのである。それなのに、見つからない。まるでスリピッシュの目くらましにあっているかのようだ。
「ああ、そうだ。忘れていました」
エイが|抽斗《ひきだし》を開けながらつぶやいた。
「|役宅《やくたく》に届くはずの個人|名義《めいぎ》の手紙が、|東方検断《トイ・ポロトー》長官宛のものの中に|紛《まぎ》れ込んでまして、|検断庁舎《こちら》に届いていました」
「うん?」
「姉君さまからです」
白い封筒が、アカシュに差し出される。
「何か、いやーな予感がするなぁ」
先日、|執事《しつじ》から彼女の身辺に何か異変があったようだと手紙がきたばかりである。で、今度は本人から。いったい領地で何が起こっているというのか。エイが神妙な|面《おも》もちでうなずく。
「ですから役宅に戻さず、私が預かっておきました。お急ぎの用ですと、|障《さわ》りがありましょうし」
「ふむ」
気が重いが、封を開けないわけにもいかない。アカシュはペーパーナイフを封筒の上部にあてがい、ゆっくりと滑らせた。その|途端《とたん》、甘い香りが鼻をくすぐる。なつかしい、姉が好んでつけている香水の|匂《にお》いだ。
アカシュは、一文字一文字|噛《か》みしめるように読んだ。手紙の内容は短くて簡潔だった。何度読み返しても、それはたった一つの事実だけを伝えていた。
「来る、って」
「え?」
「こっちに出てくる、ってさ。あの人が」
「……そうですか」
ある程度予想していたのか、エイはやっぱりといった表情でうなずいた。
「何か、怒っているみたいだ」
文字が荒れている。余計なことが|一切《いっさい》書かれていないことも気になる。
「……ああ、本当だ。かなりお怒りみたいですね」
差し出された手紙を見て、エイも同意した。
「|花の祭り《フラーマティブル》が終わったら、とありますから、明日にでもあちらを|発《た》たれて、こちらに着くのは早くても|明々後日《しあさって》といったところですか。いらっしゃる前に相応の対策をたてないとなりませんね」
「うん」
ゼルフィ家の一人娘が王都の役宅を訪れると必ずや一騒動ある、ということは過去の統計から言い切ることができるのだった。――あまり胸を張って言える実績ではないが。
「とにかく、今はロアデルを捜すのが先決だ。姉上のことは、今日が済んだら考えることにしよう」
「そうですね」
「取りあえず、私はこれを持っていきついでに役宅で|待機《たいき》しているよ。準備だけはしておくように、シイラにも言ってあるから」
これ、と砂糖菓子の|瓶《びん》を抱えると、エイも書類を急ぎ片づけ、「私も」と扉に向かって歩き出した。
「庁舎の中や|獄舎《ごくしゃ》の周辺など、もう一度心当たりを探してみます。見かけた者がいるかもしれませんし」
「そうしてくれ」
執務室を出た瞬間、二人はほぼ同時にため息をついた。ロアデルを驚かせようと計画したことなのに、逆に彼女に振り回されることになるなんて――。
|女難《じょなん》。
忘れていたその言葉が、ふと頭に|過《よ》ぎる瞬間だった。
6
フラーマティブル、フラーマティブル。
最後の品は何だったろう。
|乙女《おとめ》のために準備される品は全部で五つ。だから、あとはもう一つ
忘れてしまった|縁起物《えんぎもの》。
|露店《ろてん》を眺めて歩いたけれど、それらしき品は売っていない。
レストランでしばらく待ってみたが、トラウトはなかなか戻ってこなかった。|花の祭り《フラーマティブル》ということで店内は満席で、席が|空《あ》くのを待っている人もいた。
会計はルーギル家のつけになっているというので、トラウトへの伝言を残し、ロアデルは一人店を出た。
店の主人は「またお越しください」と深々頭を下げて見送ったが、ロアデルはたぶん二度と来ないだろうと思った。食事は大変おいしかったが、王都エーディックで五本の指に入る高級店では、|庶民《しょみん》が気楽に入れるわけもない。
店の看板を振り返って、ロアデルは小さく笑った。
たぶん、トラウトの連れであるロアデルを、店主は|上客《じょうきゃく》だと見誤ったのだろう。上等なドレスを脱いでいつもの洗いざらしを着ていても、同じように「またお越しください」と告げるとはとても思えなかった。
東へ向かう乗り合い馬車の発着所まで、|賑《にぎ》わう街なみを見ながら歩いた。
思い返せば、|花の祭り《フラーマティブル》を楽しんだことなどこれまでなかったように思う。
不思議なものだ。
十九年。ここ、エーディックの都に住んでいたというのに。
ロアデルは、歩きながら肩を抱いた。そうしていないと、自分がどこかに連れ去られてしまいそうだった。
街はこんなに人であふれているというのに、すれ違うのはどれも知らない顔ばかりだ。
これまで何度となく、この道を歩いた。なのに、今日に限ってなぜか、異国の街に放り出されたような気持ちになった。
そんな時だ。
街はずれで、|迷子《まいご》を拾った。
建物と建物の間の、猫や小犬の通路にしかならないような|隙間《すきま》に、五つくらいの女の子がうずくまっていたのだ。日陰で目立たない、誰も気づけないような場所である。だがどうしてか、ロアデルは見つけてしまった。
「こんにちは」
ロアデルが近づいてしゃがみ込むと、女の子が顔を上げた。泣いてはいなかったが、顔中に涙の乾いた跡がある。たぶん激しく泣きじゃくって、手で|縦横無尽《じゅうおうむじん》にこすったのだろう。
「一人?」
女の子は少し|身構《みがま》えたものの、声を掛けてきたのが若い女性ということもあって、本当に確認できるかできないかくらい、それは小さくうなずいた。
「どこから来たの?」
「あっち」
指さす方角は、王宮につながる街の中心地だ。
「お母さんと一緒だったの。でも……」
「そう」
賑《にぎ》わう人々に押し流されて、はぐれてしまったのかもしれない。話しをしている最中も、菓子を振る舞う娘の後をついて回る子供たちの一団が、奇声を上げながらすごい勢いで二人の脇を駆け抜けていった。街はずれでこれだから、|繁華街《はんかがい》ではどんなにすごい人波か。
「そうだわ」
少し道を戻った所に|検断《ポロトー》の分所があった、とロアデルは思いだした。
「お姉さんも一人なの。一人は危ないから、一緒に歩いてくれるかしら?」
手を差し出すと、女の子はうなずいてその手をとった。
一人は危ない。
自分を見失って、迷子になるかもしれない。たぶん、それほど長い道のりではなかったはずだ。だが、ロアデルには何だかとても長く感じられた。二人は、きつく手を握りながら歩いた。何か大きな波に飲み込まれてしまわないように。口を開かず、一歩一歩、踏みしめながら、|煉瓦《れんが》の道を歩いた。|検断《ポロトー》分所の前までくると、建物の中にいた女性が転がるように飛び出してきた。
「お母さん!」
少女はいとも簡単にロアデルの手をふりほどき、真っ直ぐ駆け寄った。髪を振り乱し、手を広げて娘を受け止める女性は、間違いなく母親だと断言できるほどに、少女に顔がそっくりだった。
「ああ、よかった。本当によかった。神様ありがとうございます」
母親は天を|仰《あお》いで、何度も感謝の言葉をつぶやいた。
その光景を見ていて、ロアデルは胸が締めつけられた。
よかった、と喜べるはずなのに、どうしてだろう。その場にいるのがつらくなって、今来た道を逃げるように引き返した。
フラーマティブル、フラーマティブル。
最後の品は何だっただろう。
|乗合《のりあい》馬車に揺られながら、ロアデルはまた最後の一品について考えていた。何か、|漠然《ばくぜん》としたものだった気がする。形がない物、――たぶんそう。
再会した母子を見た時、一瞬思い出しそうになったのだが、今はまた遠い。
乗合馬車の客はほとんどが祭り見物の帰りで、誰もが花の|匂《にお》いを|伴《ともな》い、話題もそれ一色だった。
王宮前広場には国王夫妻がお見えになって、着飾った娘たちの|品評会《ひんぴょうかい》を行った、とか。どこそこのご|令嬢《れいじょう》のドレスには、本物の|真珠《しんじゅ》が二百個ついていた、とか。|漏《も》れ聞こえてくるそんな話に耳を傾けているうちに、程良い揺れも手伝って、ロアデルはついウトウトとしてしまった。
フラーマティブル、フラーマティブル。夢の中でも、誰かがその歌をうたっている。
だが、最後の一つの部分はいつまで待ってもうたわれない。
ガタンという振動で、目が覚めた。窓の外を見ると、見慣れた街並み。|東方牢《リーフィシー》城の城下まで来ていた。
「あ、降ります」
ロアデルは、|御者《ぎょしゃ》に告げて下車した。いつの間にか、客はロアデルだけになっていた。|椅子《いす》の背もたれで乱れた髪の毛を、そっと|撫《な》でつける。その髪の感触に、嫌な予感がして空を見上げた。あんなにいい天気だったのに、いつの間にか雲が厚くなっている。急いで帰ろうと思ったところに、見知らぬ|老婆《ろうば》から声を掛けられた。
「すみませんね、お嬢さん」
「はい?」
「この辺りに、|駄菓子屋《だがしや》はありませんかね」
「駄菓子屋、ですか? えっと――」
ロアデルは頭の中に、街の地図を思い描いた。
「この通りを真っ直ぐ行って、三つ目の角を左に折れて」
「はあ」
|老婆《ろうば》はもう、この辺りで説明についていけなくなっている感じだ。ただでさえいつもより人出があって、道の数を数えながら歩くのは困難だ。
「いいです。連れていって差し上げますわ」
|東方牢《リーフィシー》城とは正反対だったが、このまま別れてしまっては気になってしょうがない。
「ご親切に、ありがとう」
「いいえ」
今日は|迷子《まいご》の面倒をみる日、と割り切った方がよさそうだ。ロアデルは老人の|歩幅《ほはば》に合わせようとゆっくり歩き出したが、意外にも老婆は|杖《つえ》を頼りにスタスタと元気に歩いていく。
「いつもこんなに|賑《にぎ》やかなものなんですかね」
スピードは|緩《ゆる》めず、老婆は首を左右に振りながら聞く。時折杖を振り回すものだから、行き交う人々は圧倒されて道を|譲《ゆず》った。
「今日は|花の祭り《フラーマティブル》ですから、特別ですよ」
「ああ、そうだったそうだった。年よりは、物忘れが激しくていけない」
老婆は自分の|額《ひたい》を軽く叩いて笑った。
「この街の方ではないようですけれど」
大事そうに背中に括った大きな荷物を見て、ロアデルが尋ねた。
「ええ。孫娘に会いに来たんですよ。|田舎《いなか》から一人で出てきて働いているんです」
「お孫さん……?」
あの駄菓子屋で働いているのだろうか。そういえば、ロアデルよりも二つ三つ年若い店員がいたかも知れない。口をきいたことがあるが、明るくていい娘だ。
「フラーマティブル、フラーマティブル。|永久《とわ》に消し去れ手作りの」
口ずさみながら、老婆の足どりはますます軽い。
「その歌」
ロアデルは追いかけながら尋ねた。
「最後の品は何でしたっけ。手作りの品、お下がりの品、新品、ブーケ……」
「おや」
|老婆《ろうば》は振り返って、|呵々《かか》と笑った。
「|肝心《かんじん》なところを忘れちまうとは」
「肝心?」
ロアデルが聞き返すと、老婆は大きくうなずいた。
「それはとても大切なものですよ。簡単に見えるが、手に入れるのは案外難しい。実はね、私もそれを届けるためにはるばる王都まで出てきたんだ」
「お孫さんに?」
「今年十六になるもんだから。早死にした息子夫婦の代わりに、|是非《ぜひ》とも届けないとならなくてね。ああ、ついた」
老婆は|駄菓子屋《だがしや》の看板を見つけ、小さく|跳《は》ねた。そしてそのまま子供のように駆けだすと、店の扉を開けて中に飛び込んだ。
「あ、あの……っ」
まさに、「あっ」という間の出来事だった。|可愛《かわい》い孫のことで、頭の中はいっぱいだったのだろう。
ともあれ、無事送り届けられたのだからよかった。満足して、ロアデルは|踵《きびす》を返した。その時。
「待ってください」
店の中から少女が出てきて、ロアデルを呼び止めた。
「お|祖母《ばあ》ちゃんを、ここまで送ってくださったんでしょう?」
「え? ええ」
思った通り、老婆の孫は駄菓子屋の看板娘だったようだ。名は、確かソニナといったか。
「どうもありがとうございました。ぜひ、中に入ってください」
「ありがとう。でも、今度ゆっくり寄らせてもらうわ。雨が降ってきそうだから」
「あ、本当。私の髪もそう言っている」
ソニナは、束ねた自分の髪を指に巻きつけて笑った。それは色といい質といい、ロアデルの髪の毛にとてもよく似ていた。
「|牢城《ろうじょう》のロアデルさんでしたよね。今度は絶対に寄ってくださいね。お茶と、試食のお菓子くらいお出ししますから」
「ええ。きっと」
ロアデルがうなずくと、ソニナは「ああ、そうだわ」とエプロンのポケットに手を突っ込んで中を探った。
「確かここに……。あ、あった」
探り当てると、|悪戯《いたずら》っぽく笑ってロアデルに「あーん」と言う。素直に口を開けると、そこにコロンと|飴玉《あめだま》が入れられた。
「フラーマティブル!」
ほっぺたが痛くなるほど甘い飴は、小さい頃食べたくても食べられなかった、|憧《あごが》れの味がした。
7
「あ、いたいた。エイの|旦那《だんな》。例の品、買ってきましたよ」
|検断庁舎《けんだんちょうしゃ》の一階でエイを呼び止めたのは、彼の子分であるルアジ・ラボテ。
「あ? ああご苦労」
一瞬、何を頼んだのかと混乱したが、すぐに買い物を頼んだことを思い出した。|獄舎《ごくしゃ》の|洗濯《せんたく》係として|雇《やと》っている彼を私的に使うのは|職権乱用《しょっけんらんよう》かもしれないが、今回は長官の許可を得ている。
ルアジは元|掬摸《すり》だが、ひょんなことからエイと出会い、彼を慕って|東方牢《リーフィシー》城に住み着いたのだった。
すばしっこく、裏社会に通じていて、その上変装名人ということで、いずれは陰ながら|検断《ポロトー》の仕事を手伝わせることもできるだろうと、近くに置いて様子をみている。今のところは雑用ばかりであるが、エイの命じたことは何でも喜んでやるから|重宝《ちょうほう》しているのだ。
「しかし、慣れない買い物ってのは|難儀《なんぎ》なものですね。あんな店に入ったことないし、買い物しようにも勝手がわからないし。……あれ、どうしたんです? 浮かない顔をして。|便秘《ぺんぴ》ですか」
「……」
自分の浮かない顔は、イコール便秘顔なのだろうか。エイは今日二人目の指摘に、心底ガッカリした。
「ロアデルがいないんだ」
「へえ、ロアデルねぇ……」
ルアジはここまで包んできた上着をとってから、頼まれた買い物をエイに手渡した。
「たぶん、獄舎じゃないかな」
改めて着込んだルアジの上着には、湿った真新しい水玉がまばらに描かれていた。雨が降ってきたらしい。
「獄舎?」
「ええ。さっき|獄舎《ごくしゃ》の庭に寄ったら、マイザも俺もいなかったのに、|洗濯物《せんたくもの》が取り入れられていたんですよ。失礼ながら、役人の|旦那衆《だんなしゅう》の中にそんな気のつくお人はいないし。ま、何にしても雨にやられなくて大助かり――」
「ロアデルだ!」
エイは検断庁舎を飛び出して、獄舎に向かった。外に出てみたら、確かに細かい雨が降っていた。
けれど、洗濯場にはロアデルの姿はなかった。
「……いない」
井戸の周りも干し場もまったく|人気《ひとけ》はなく、ただ雨が音もなく風景を濡らしているだけだった。
「当たり前でしょ、|旦那《だんな》。雨の中、いつまでも洗濯場で突っ立っているわけないですよ」
「一応、確認しに来ただけだ。足取りを追っていくのは、基本だからな」
「それって、捜査の、でしょ? じゃ、まるでロアデルが犯人みたいだ」
ルアジの指摘に、エイも思わず笑った。
「本当にそうだな」
もう少しのところで容疑者を取り逃がした、そんな時の気持ちによく似ていた。
ルアジが衣類部屋に案内するというので、エイはついていった。そこは洗濯済みの囚人服を|畳《たた》んで保管するだけでなく、|解《ほつ》れを|繕《つくろ》ったり取れたボタンを付けたりする作業所にもなっている。獄舎に手伝いに来ている時のロアデルは、主にこの部屋で働いているそうだ。洗濯物を取り込んだ人間がロアデルならば、必ず衣類部屋に立ち寄るはずだとルアジは言った。
「でも、あれ? いませんね」
ぐるりと部屋を見回して、ルアジはつぶやいた。その部屋は壁一面の|棚《たな》に、衣類が種類やサイズごとに整然と収納されている。しかし、ロアデルどころか、|日勤《にっきん》で勤めているはずの役人の姿も見えないのはどういうわけだろう。
「あ、けど、さっきまでいたみたいですね」
「なぜ、わかるんだ?」
エイは尋ねた。するとルアジは、作業台の上に畳んである洗濯物をそっとめくりながら言う。
「これは、たぶん今日の分ですし」
「それが?」
「こんなにきっちり畳める人間は、衣料部の役人の中にはいませんぜ」
「ロアデルの仕事だと?」
「まず、間違いないでしょうね」
雨の気配を察して|洗濯物《せんたくもの》を取り込むという気の|利《き》く人間ならば、ついでにここで洗濯物を|畳《たた》んでいっても不思議じゃない。
「それにしても、衣料部の役人たちは何をしているんだ。人手不足などという話は、上がってきてないそ」
イライラと口走ってから、エイは「しまった」と思った。ただでさえ、日々の仕事が|山積《さんせき》しているのだ。|検断《ポロトー》とは無関係の|大事小事《だいじしようじ》も次々に押し寄せてくる。この上、|獄舎《ごくしゃ》の|人事《じんじ》のことまで面倒みるのはごめんだった。そんな時。
「ロアデル、お疲れさま」
|噂《うわさ》をすればとはよく言ったもので、この部屋の責任者が湯気の立ち上るカップを二つもって、ニコニコと現れた。
「ロアデルだと?」
「えっ、あっ」
|東方検断《トイ・ポロトー》のナンバー・ツーが、職場に突然現れたのである。|年齢《ねんれい》では上回るが階級では下に位置する役人が、驚きのあまりカップを落としそうになっても、それはきっと仕方のないことなのだ。
「こ、これはっ、ふ、副長官どのであらせられましたかっ!」
「やはり、彼女はここにいたのだな」
エイは冷ややかに尋ねた。
「あ、はいっ。ついさっきまでは、確かにいたのでありますです」
パニックを起こした役人の口からは、変な敬語がいくらでも飛び出す。
「君一人か」
「すみません。若い者が二人急に休みをとりまして、今日に限って人手不足でして。あの、で、ロアデルが見かねていろいろ手伝っていってくれまして。それで」
|労《ねげら》いに、温かい飲み物を用意してきたというわけか。しかしすでにロアデルの姿はここになく、代わりに|検断《ポロトー》の副長官と新入りの洗濯係が待っていたのだから、この衣料部の役人、さぞかし驚いたことだろう。
「急に休みをとった、だと? 病欠か? それとも|忌引《きび》きか?」
|花の祭り《フラーマティブル》に二人も休むとは。たとえ偶然であっても、疑いたくなるような話ではないか。若い者、というところも気になった。
「申し訳ありませんっ」
たぶんエイより|十《とお》は年上であろう役人は、部下の身代わりに思い切り頭を下げた。
「まあ、いい」
エイはそれ以上責めるのをやめた。今日のところは、ロアデルに免じて許してやろう。
彼女はここでうまくやっている。カップに入った温かい飲み物が、それを何よりもよく物語っていた。
「だが、すでにここからいなくなっているとなると。ロアデルは今、どこにいるのだ」
エイは上着の内ポケットから、懐中時計を取り出した。夕方の|点呼《てんこ》まで、あと一時間しかなかった。
8
相変わらず雲行きはあやしかったが、ここまで来たついでに布屋に寄っていくことにした。
ここには、ロアデルがずっと目を付けていた布がある。店の|隅《すみ》に追いやられた、少し古い布だ。
一目見て、欲しいと思った。|孔雀《くじゃく》色の地に白と黄色と黒の花が描かれていて、それはそれは美しい布なのだ。
目立たず、それなのに結構|値《ね》が張るから売れ残っているらしい。この店の前を通るたび、いつかこれでドレスを仕立てようと思いながら眺めていた。
だが、今日は違う。
「こんにちは」
店に入ると、布屋の主人は明るい笑顔でロアデルを迎えた。
「やあ、きれいだね。見違えたよ、ロアデル」
お|針子《はりこ》一本でなくなったとはいえ、ロアデルは未だ布屋のお得意さまなのである。
「今日は何を?」
「布を取り置きしておいてもらいたくって」
|東方牢《リーフィシー》城から出るお給金はそんなに高くないが、ロアデルは住み込みだから月々の出費はたいしてなく、その分少しは|蓄《たくわ》えがあった。それにシイラの友人からの|手間賃《てまちん》を加えれば、どうにかドレス一着分の長さの布が買えそうだった。
「どの布だい?」
「あの、奥に立てかけてあった孔雀色の――」
ロアデルは視線を移動させたが、いつもの位置にその布は探せなかった。
「あっ、……あれか」
店主は渋い顔をした。嫌な予感がする。
「ロアデルが目を付けていたんだったら、奥に引っ込めて置いたのに」
「え!?」
「あれ、売れちゃたんだよ。ほんのちょっとの差で」
「……本当に?」
信じられなかった。一ヶ月くらい、いや、たぶんもっと前からずっとあの位置で埋もれていたのに。何も今日売れることはないのに。
「あの、全部?」
|諦《あきら》めきれなくて、ロアデルは尋ねた。せめて|端布《はぎれ》なりとも残っていれば、と思ったのだ。
「そのお客が、ドレス一着分欲しいって言うからさ、少し多めだったんだけどサービスでつけちゃったんだよね。あんな古い布を結構な値段で買ってくれたんだ。こっちも助かるし……。すまないね」
わびることはない。店主は、商売人として当たり前の商いをしただけだった。古い布だから、布|問屋《どんや》にももはや置いてはいないだろう。縁がなかったと、諦めるしかないようだ。しかし、分量までもロアデルが買おうとしていたドレス一着分とは。何とも皮肉なものである。
「どなたがお買い求めに?」
「さあ。大きなお屋敷の使用人みたいだったよ。ご主人だか奥様だかのお使いできた、って感じだったな。本当にたった今だから、探せばまだそこら辺を歩いているかもしれないけど――」
店主は扉を開けて外を見回した。
「ありがとう。でも、いいんです」
見つけたところで、どうなるものでもないのだった。その布を|譲《ゆず》ってくださいと、頼めるわけもない。
ただ、どんなお屋敷のどなたのドレスになるのか、ちょっと興味があっただけ。
いや、そうじゃない。店を出て歩きながら、ロアデルは思った。たとえ自分の物にはならなくても、その布を|裁断《さいだん》し|縫《ぬ》ってみたかったのだ。
大きなお屋敷なら、外に仕立てに出すかもしれない。
お金はいらないから、その仕事をさせて欲しい。――なんてバカなことを|半《なか》ば本気で思ってしまうくらい、ロアデルは根っからのお|針子《はりこ》で、そしてその布にそれくらい|魅《み》せられていたのだった。
いつしか、辺りはどんよりと暗くなっていた。
そろそろ、一雨くるだろう。
ロアデルは、|東方牢《リーフィシー》城を目指して走り出した。
9
ロアデルが見つかったのは、エイが肩を落として|役宅《やくたく》にやって来たのとほぼ同時刻であった。
その間、皆はパーティーの|支度《したく》をしながら、本日の主役を役宅の内外、|検断庁舎《けんだんちょうしゃ》、そして|獄舎《ごくしゃ》と手わけして探し回ったのだが、一向に手がかりを得られぬまま、時間ばかりが過ぎて|途方《とほう》に暮れていた。
そんな時。
アカシュが、思いがけない場所でロアデルを見つけた。なんと、|役宅《やくたく》の|風呂場《ふろば》に彼女はいたのである。
「そこで何をしているの、ロアデル」
アカシュは目を丸くして尋ねた。
「あ、アカシュさま」
風呂場といっても、風呂に入っていたわけではない。ロアデルは昼間着ていたドレスを広げて、|染《し》み抜きをしていたのだ。
「『あ、アカシュさま』じゃないよ。みんなで君を捜していたんだよ! 今までいったいどこに行っていたんだ」
アカシュが大きな声を出すと、事態をまったく|把握《はあく》していないロアデルは、目を白黒させながら答えた。
「どこ、って。トラウトさまと出かけて」
「それは知っているよ。聞いているのは、|東方牢《リーフィシー》城に帰ってきてからのことだ」
「帰ってきてからのこと……?」
ロアデルはドレスの|裾《すそ》を布でポンポン叩きながら、比較的新しい記憶を呼び起こした。
「えっと。雨が降ってきたから、獄舎の庭で|洗濯物《せんたくもの》を取り入れて」
「うん」
「それを|畳《たた》みながら、|繕《つくろ》い物をして」
「――それから?」
アカシュは腕組みをしながら、顔をしかめた。
「|厨房《ちゅうぼう》が|賑《にぎ》やかだったのは気になっていたんですけれど、取りあえず着替えるために部屋に戻って。そうしたら雨が強くなってきたので、役宅の部屋の窓を閉めて回って」
「ああ、そんなことまで」
「そうしているうちに、お借りしたドレスの|袖《そで》に|蜂蜜《はちみつ》をつけてしまったのを思い出したんです。最初は部屋で染み抜きをしようと思ったんですけれど、よく見たら|裾《すそ》にも草の染みがあって。……たぶん|洗濯物《せんたくもの》を取り入れた時に、うっかりつけてしまったんだと思うんですけど。それで大がかりなので|風呂場《ふろば》で作業しようかと」
「そっか。わかった。ロアデルは忙しかったんだね」
|東方牢《リーフィシー》城に戻る以前も、|迷子《まいご》を拾って届けたり、|駄菓子屋《だがしや》で何かをしたりしてきたみたいだし。――アカシュは、笑いながらやれやれとため息をついた。
「でも、その作業はちょっと中断してくれないかな」
「は?」
「夕方の|点呼《てんこ》まで、一時間切ったんだ」
「ええ」
「つまり、俺がラフト・リーフィシーでいられる時間はあと少しなわけ」
「はい」
「……ああ、まどろっこしい。|問答無用《もんどうむよう》!」
アカシュはロアデルの手を引いて風呂場を出た。そして|廊下《ろうか》を歩きながら「ロアデル見つけたよ」と大声で叫び、役宅内の人間にそれを告げた。
「あの、どうなさったのですか」
食堂の扉の前まで来ると、ロアデルは肩で息をしながら尋ねた。アカシュはそれを無視して言った。
「扉開けて」
「扉を?」
「いいから。言うとおりにして」
ロアデルは最初少し|躊躇《ちゅうちょ》したが、やがて前掛けで手を|拭《ねぐ》い、腕まくりを下ろしてから扉に手をかけた。両開きの扉が、ゆっくりと押し開かれる。すると。
「|花の祭り《フラーマティブル》、おめでとう!」
中で|待機《たいき》していた人々が、ロアデルに向かって一斉に花びらを投げた。
「これは何なの? いったい――」
食堂に集合していた面々は、エイ、トラウト、ルアジ、そしてシイラをはじめとする|役宅《やくたく》で働く仲間たち。
「|花の祭り《フラーマティブル》だよ。三年遅れだけど、主役をやってくれるね?」
アカシュが、ロアデルの肩を後ろからポンと叩いた。
「……私のために?」
「みんな、何かにかこつけて騒ぎたいんだ」
「そうそう。気にしないの。さあさ、席についてちょうだい」
シイラが、ロアデルの肩を抱いて着席させた。すると、皆が主役を取り囲むように集まってくる。
「しかし、うまくいかないものだね。ロアデルに内緒で事を運ぼうと、シイラがしくんだ臨時|休暇《きゅうか》は|空振《からぶ》りだし。トラウトに外へ連れ出してもらったまではいいが、途中ではぐれて、|行方《ゆくえ》不明になってしまうし」
「まあ、それじゃ今日のことはすべてお|芝居《しばい》だったのですか?」
ロアデルが尋ねると、皆が口を|揃《そろ》えて「それは違う」と反論した。
「それぞれがその場に応じてよかれと思ってやったことが、結果的にかみ合っていなかったというだけのことだよ」
|昨夜《ゆうべ》シイラの友人が突然やって来て、ドレスのサイズ直しを頼んできたのは|嘘《うそ》じゃない。トラウトが、デートの予行演習をしたいと泣きついてきたのも事実だそうだ。
そうと知っていたら、道草せずに真っすぐ帰ってきたのに。染み抜きだって、もっと目立つ場所を選んでしたのに。
だが、知らなかったからこそ、思いがけない喜びがロアデルに届いたのだった。
「時間がないわ。さっそくだけど、|縁起物《えんぎもの》の出番よ。まず、最初に必要な物は何だったかしら、ロアデル?」
シイラが答えるよう促す。
「『|永久《とわ》に消し去れ、手作りの品』」
「そうよ。だから、これね」
テーブルの上に掛けてあった大判のナプキンがはずされると、そこに花のような菓子が現れた。型に入れて焼き上げたケーキを砂糖でコーティングし、花びらを散らした、シイラ特製の手作りケーキだ。砂糖と花びらと、二つの甘い香りが混ざり合って周囲に広がり、思わずうっとりやさしい気持ちになる。
「さあ、ロアデル。手で|千切《ちぎ》って口に入れて」
「え? 燃やすんじゃないの?」
|永久《とわ》に消し去れという文句から、その|縁起物《えんぎもの》には火がつけられ、灰になるまで焼かれるのが一般的である。
「いやだ、もったいない。いいのよ。全部食べれば見えなくなるわ。今日中にみんなのおなかの中に入れて、|永久《とわ》に消し去ってしまいましょう」
「まあ……!」
ロアデルは言われるままに、手で千切ってケーキを|頬張《ほおば》った。思った通り、それは甘くて、幸せになる味がした。
消し去るために、食べてしまうなんて。今まで、考えたこともなかった。
でも、それはとてもすてきな考えだった。大事な|縁起物《えんぎもの》を燃やしてしまうより、やさしくて、おいしくて、ずっといいと思われた。
「ロアデル、次は?」
アカシュが聞いた。
「『|手中《しゅちゅう》に隠せ、誰かのお下がり』」
「そうだよ。だから、ほら手を出して」
「手?」
ロアデルが手の平を上に向けて開くと、アカシュの手が|蓋《ふた》のように合わさってきて、何か小さな物を置いて去っていった。
「しっかり握って隠すんだよ」
彼の言葉に従って、ぎゅっと握りしめる。その大きさや形は指輪のようでもあったが、少し違うようにも感じられた。
いつまで握っていたらいいのだろう。戸惑っていると、アカシュは笑いながら言った。
「もう、開いていいよ」
そして、ロアデルは手の平をゆっくりと開く。すると、そこには|陶製《とうせい》の指ぬきがのっていた。
「きれい――」
小さいのに、細かい花模様が絵付けされている。形も美しい。まるで、小さな妖精のコップを逆さまにしたかのよう。
「これはね、私を生んでくれた母の物だ。君には指輪より、ずっと|相応《ふさわ》しいと思って」
彼が|今朝方《けさがた》部屋を散らかしてまで見つけなければならなかったのは、どうやらこれだったらしい。
「でも、そんな大切な物を……」
母親の形見の品だ。それを、ロアデルがもらっていいのだろうか。けれど、アカシュは首を横に振る。
「私には指ぬきは必要ないし、領地の姉も|裁縫《さいほう》はあまり得意じゃない。腕のいいお|針子《はりこ》さんにもらってもらえれば、亡き母も喜ぶと思うんだ」
聞きながら、ロアデルは手の中で指ぬきを握りしめた。
「ありがとうございます。大切にします」
うれしかった。指ぬきをもらったことももちろんそうだが、大切な形見の品を持っていていいと言われたことで、まるでこの場所にいていいのだと許されたみたいな気持ちになった。
「今度は、私の番ですね。ロアデル、次の文句をどうぞ」
「――『刃物で壊せ、買いたての品』」
「というわけで、これはさっきルアジが買ってきたばかりの物です」
エイが差し出した包みを開いて、ロアデルは思わず「あっ」と声をあげた。そこにあったのは、欲しくて欲しくてたまらなかった、あの|孔雀《くじゃく》色の布だった。
「でも、どうして……」
「私は|東方検断《トイ・ポロトー》の副長官ですよ。あなたが欲しがっていた品を割り出すことくらい、何でもありません」
エイは微笑した。
「ロアデル。|縁起物《えんぎもの》よ。形だけでいいから、|鋏《はさみ》を入れて」
シイラが鋏を手渡した。
「ああ、刃物で壊せ!」
「その通り」
料理用の鋏だったが、|研《と》いであったからちゃんと切れた。ロアデルは布の|端《はし》を小さく切りとって、それを前掛けのポケットに大切にしまった。|暇《ひま》ができたら、きちんと|裁断《さいだん》して|余所《よそ》行きのドレスを作ろうと思った。そしてそれができあがったなら、大好きな人たちにぜひ見てもらいたい。
「『オリーブと|野薔薇《のばら》のブーケ』は、トラウトさまに買っていただきましたし」
「――だってね。女性のエスコートもままならない男にしては、上出来だ」
アカシュは意地悪く言ったが、うれしそうな笑みをこぼしていた。トラウトが|完璧《かんぺき》なデートを成し|遂《と》げたら成し遂げたで、きっとつまらなかったのだろう。
「ところで、ロアデル。最後の文句は?」
アカシュが耳もとで|囁《ささや》く。
「え?」
「『何がなくとも、祈りの口づけ』だよ」
次の瞬間、ロアデルの|頬《ほお》に花が咲いたような小さなキスが降ってきた。
「ロアデルが幸せになれますように」
「あ……」
「これは|東方検断長官《ラフト・リーフィシー》ではなく|一囚人《アカシュ》からだ。彼は、何ももっていないからね」
どちらもあなたなのでしょう、とはロアデルは言わなかった。彼女も時々、二人は別々の人間なのではないかと|錯覚《さっかく》することがあるのだ。けれど、どちらがどうだというわけではない。どちらもとても魅力的な男性だった。
「何をひそひそやっているんだ」
トラウトが、二人の間に入ってきた。
「トラウトさま、その頬……!」
ロアデルは、思わず彼の|左頬《ひだりほほ》を指さして声をあげた。
「それは、もしや――」
「いや、聞かないでくれ、ロアデル」
トラウトはあわてて頬を押さえた。あきらかに、誰かに叩かれた跡である。二人でレストランにいたことと、何か関係があるのではないだろうか。けれど「聞かないで」と言われたからには、それ以上追及することはできなかった。
「悪いが、私はここで|中座《ちゅうざ》させてもらうよ」
アカシュが、エイの懐中時計をチラリと見てから告げた。
「仕事があるんだ。すまないね、ロアデル」
「いいえ」
ロアデルはほほえんで首を横に振った。もうじき、|獄舎《ごくしゃ》では|点呼《てんこ》が行われる。|検断《ポロトー》長官から囚人に。ラフト・リーフィシーがアカシュに変わる時間だった。
「おいおい。パーティーの|主催者《しゅさいしゃ》が、中座か? せっかく、うまそうな物がたくさん出てきたというのに?」
トラウトの言った通り、テーブルには続々とパーティー料理が並び始めている。
「そうだな。これは|縁起物《えんぎもの》だし」
後ろ髪をひかれたアカシュは、シイラ特製のケーキを指で|千切《ちぎ》って口に入れた。
「うまいっ。やっぱり、シイラの菓子は最高だ!」
するとそれを聞きつけたシガレが、どこからともなく飛び出してきて、アカシュに取りすがった。
「|旦那《だんな》さまっ。|後生《ごしょう》ですから、私の作った|鶏《とり》料理も一口召し上がっていってください」
「よしよし」
アカシュがそれを口に運ぶと、シガレは涙を流して喜んだ。たぶん、旦那さまが料理長の食事を口にしたのは相当久しぶりのことだったのであろう。
「ここの料理人は、大げさだな。それとも君は、滅多なことでは鶏の丸焼きすら作らせてやらないほどの締まり屋なのか?」
「ははは。どうだろうな」
アカシュは言葉を|濁《にご》した。事情を知っている者たちは、下を向いて肩を震わせるしかなかった。
「皆、私に|構《かま》わず、ゆっくり楽しみたまえ」
アカシュがそう言って、エイを|伴《ともな》い食堂を出ようとすると、トラウトまでがその後をついていった。
「私も失礼することにする」
「どうした、君も仕事か?」
アカシュが尋ねる。
「あ、いや、……何」
トラウトは、モゴモゴと口ごもった。
「そうだな。今日中にもう一度、その手形をつけてくれた女性に頭を下げにいっておいた方がいいね」
「……君は年下のくせに、|穿《うが》った見方をするな」
トラウトが面白くなさそうに口をとがらせたところを見ると、アカシュの推理は|満更《まんざら》間違ってもいなかったようである。
「おやすみ、ロアデル」
アカシュとエイ、そしてトラウトが、笑顔を残し|役宅《やくたく》の玄関から出ていった。
「おやすみなさい。……今日は、ありがとうございました」
三人の後ろ姿が、夕闇に小さく消えていくまで、ロアデルはずっと玄関の扉の前に立って見送っていた。
大好きな人たちが目の前からいなくなってしまったけれど、不思議と寂しさは感じられなかった。昼間、街で感じた、取り残されたような気持ちは、今はもうどこにも残っていない。
手の中に隠しもつ指ぬきが、刃物で切り取られた布の切れ端が、魔を|跳《は》ね飛ばす花束が、祝福の口づけが、ロアデルの中に残っている。
「さあ。じゃあ、|旦那《だんな》さまの分まで盛り上がることにしましょう」
|永久《とわ》に(お腹の中に)消し去るケーキの制作者が、ロアデルの肩を抱いて引き寄せた。食堂では、すでに宴会が始まっているようで、|賑《にぎ》やかな笑い声がここまで届いた。
「ええ」
ロアデルは、少し甘えるようにシイラの腕をとって歩き出した。そして、やさしい人たちの輪の中に入っていく。
「乾杯しよう、ロアデル」
役宅の仲間たちが、果実酒で満たされたグラスを手渡した。
「フラーマティブル!」
「ロアデルに祝福を!」
グラス同士を軽くぶつける音が、楽器のように楽しく響く。その音を聞きながら、ロアデルは心の中でつぶやいた。
ただいま。
ここが、やっと帰りついた場所だった。
10
外に出ると、雨はすでにやんでいた。
天の恵みに洗われた空気はおいしい。アカシュは大きく深呼吸した。
|検断庁舎《けんだんちょうしゃ》の前でトラウトとは別れた。
気が|急《せ》いていたのだろう、|挨拶《あいさつ》もそこそこに馬車を待たせている城門目指して走っていく後ろ姿は、見ていてほほえましくさえある。
果たして、彼は自力で解決できるのだろうか。相手のご|令嬢《れいじょう》は気が強そうだから、なかなか|手強《てこわ》いかもしれない。
しかし、女性と二人でいる場面を目撃して怒って叩いたという話ならば、多少は脈ありとみていいのではないか。もちろんそんな大切なことを、みすみすトラウトに教えてやる気はなかった。
「いろいろありましたが、皆、楽しそうでよかったですね」
長官|執務室《しつむしつ》で、エイが言った。
「長官の急な思いつきを聞いた時は、どうなることかと思いましたが」
「何かさ、おとなしく待っているっていうのは|性《しょう》に合わないんだ。|女難《じょなん》が来るなら早く来い、って感じだったんだよ。それなら|花の祭り《フラーマティブル》がうってつけだと思ったまでさ」
アカシュは奥の部屋で、上質な上着を脱ぎながら答えた。
「とか言って。あれは、ロアデルへのご|褒美《ほうび》なんでしょう?」
「さあね」
ズボンを脱ぎ捨て、下着類を脱ぎ捨て、つまりすべて脱いでから|獄舎《ごくしゃ》で配給された囚人服を着込む。|廊下《ろうか》では、部下のログがうろうろしながら待っているはずだった。|点呼《てんこ》に遅れたら、獄舎の役人から苦情を言われるのは引き渡しをする彼なのだ。
「取りあえず、これで女難が終わってくれたならいいんだけどね」
アカシュのつぶやきに、エイが笑った。
「最初に『ロアデルじゃない』と言ったのは長官ですよ」
「あ、そうか」
アカシュはリボンをとき、|香油《こうゆ》を布で乱暴に|拭《ぬぐ》いとった髪をわざとぼさぼさにしてから|荒縄《あらなわ》で結び直した。囚人らしくするにもそれなりに手順があるのだ。
「やはり、本命は姉上さまじゃありませんか」
「うーん。だとすると、かなりの難をつれてやって来そうだね」
恐ろしいというか、面倒くさいというか。とにかく、|前途多難《ぜんとたなん》であることには間違いない。
「|駒《こま》の件も未解決ですし」
「そうだった」
アカシュは虫の脱皮のごとく服を置き去りにして、奥の部屋から出てきた。後始末は、結局エイの役目となってしまう。
「本当のところ、|象牙《ぞうげ》色の姫君はどこに行っちゃったんだろう。ロアデルはとっくに戻ってきたというのに」
歩きながらアカシュは、駒ののっていないチョギー台をひと|撫《な》でした。
「それとこれとは、無関係ですよ」
「でも、なんか、混同しちゃわない?」
「しません」
上司の脱いだ服を腕にかけながら、エイはきっぱり否定した。
「お前は、相変わらずクールだね」
アカシュは見送るエイに手を振ると、|執務室《しつむしつ》の扉を開け、待っているログに「連れていってくれ」と言った。
とにかく、今日は疲れた。ねぐらに帰って休むとしよう。
後のことは、また明日。
明日。難しいことはラフト・リーフィシーに任せることにして、囚人アカシュは|雑居房《ざっきょぼう》の中で高いびきと決め込もう。
* * *
お酒も入って、男たちが歌い、踊り始めた。
それぞれ故郷が違うので、てんでバラバラだったが、それが妙に調和して、見ている者の目にはそれは楽しげに映るのだった。
いつしか|手風琴《てふうきん》や縦笛の音が混ざって、|賑《にぎ》やかさを増す。シイラのはやし声を、はじめて聞いた。
(あれ……)
すごく楽しいのに、ロアデルに突然|睡魔《すいま》が襲ってきた。なめた程度の果実酒の酔いが、今頃回ってきたのだろうか。そういえば、|昨夜《ゆうべ》はほとんど眠っていない。
今日は今日で、いろいろ忙しかったし。
(ああ、でも)
眠ってしまってはもったいない。眠ったら、心の中にいっぱい詰まったうれしい気持ちが、どこかに消えてしまいそうだ。
「ロアデル?」
どこか遠くで、シイラの声がする。
「まあ、眠ってしまったわ。子供のような顔をして」
眠ってなんかいない。そう言おうとしたのに、|瞼《まぶた》が重くて、ロアデルはもう目を開けることができなかった。
フラーマティブル、フラーマティブル。夢の中で歌が聞こえた。
永久《とわ》に消し去れ、手作りの品
|手中《しゅちゅう》に隠せ、誰かのお下がり
刃物で壊せ、買いたての品
忘れるなかれ、オリーブと|野薔薇《のばら》のブーケ
何がなくとも、祈りの口づけ
――それら、|乙女《おとめ》の|健《すこ》やかな成長を守るためのもの。
美しき訪問者
黄金の貴婦人
1
初夏のとある午後。
ここはワースホーン国の郊外。王都エーディックからほんの少し離れているというだけで、四方八方、それこそ見渡す限り|田圃《たんぼ》や畑が広がるのどかな土地。――平たくいえば、|田舎《いなか》である。
その田舎の、広大な麦畑の真ん中にのびた街道を、一頭の黒い馬が軽快にパカパカと進んでいた。
その背に揺られるは、若き貴婦人。白い大きな帽子で顔ははっきり見えないが、遠目からでもわかる|抜群《ばつぐん》のスタイルに、仕立てのいい上品なデザインのドレスを身につけている。身のこなしはスマートでエレガント。それらはどれ一つとってみても、彼女の低からざる身分を物語っていた。
――に、してはお|供《とも》の姿が見えない。横座りで自ら|手綱《たづな》をさばくその様は、すがすがしいものではあるが、たとえのどかな田舎町の日中であっても、貴族の女性は普通一人で外出しないものなのだ。
「……どう」
彼女は道の途中で、馬を止めた。うっすらと|額《ひたい》にかいた汗をハンカチで拭い、自分を取り囲む風景をぐるりと見渡して目を細める。
どこまでも続く緑色の|絨毯《じゅうたん》。何種類もの麦が青々と成長し、微風にサワサワと揺れている様はいつ見てもうれしいものだ。今年の仕事も順調。このままいけば、例年通り、いい作物が満足いく量|収穫《しゅうかく》できそうである。
きれいな空気と水、そして良質な土。
天の恵み。
働き者の領民。
私の土地。
こんな穏やかな幸せ、ほかにあるだろうか。
「――なんて、|浸《ひた》っている場合じゃないみたいね」
つぶやくがはやいか、背後から二頭立ての馬車が突然スピードを上げてこちらに向かってくるのが目に飛び込んだ。
道幅は十分。どこに馬を止めていようとも、ゆうゆうすれ違えるだけの広さはある。
ブルル……、と愛馬が何か言いたげに鳴いた。
「心配することはないわ、クロ」
軽く首筋を叩いてやる。
「私だって、|譲《ゆず》り合いという言葉くらいは知っているのよ」
彼女は、馬を道の端に寄せた。それでトラブルが回避されるのならば、安いものだ。こちらがそこまで|譲歩《じょうほ》しているというのに、驚くことに馬車はスピードを落とすでもなく、まるで狙っているかのように彼女にまっすぐ迫ってくるではないか。馬の暴走には見えなかった。なぜなら、|御者《ぎょしゃ》は馬を制止するどころか、|鞭《むち》で激しく叩いて、それ以上の加速を試みていたのだから。
「やっぱり」
その馬車が、街道からつかず離れずついてきたのは知っていた。だから、わざわざのんびりと進んで、あちらの出方をみていたのだ。馬車は相変わらず、こちらに合わせてゆるゆると後をっいてきた。
このままこれ[#「これ」に傍点]を連れて帰ると、ややこしくなる。ということで、彼女は試しに見晴らしのいい場所を選んで止まってみた。
馬車は同じように止まるのか、それとも、そのままのスピードで彼女を追い抜いていくのか、試してみようと思ったのだ。
けれど、結果はこれだ。
「まさか、突っ込んでくるとはね」
あちらも、人通りの少ない場所に出るのを待っていたのかもしれない。
「どうしようか、クロ」
全力で走れば、屋敷に駆け込めないことはない。しかし、逃げるという行為は彼女のポリシーに反した。
「どこの馬鹿よ。この、命知らずが」
左道の端に寄って待ちかまえ、ギリギリまで引きつけて交わした。御者は馬を方向転換させようとしたが間に合わず、右の一頭はかろうじて道路上に戻ることができたものの、左の馬は曲がりきれずに麦畑の中に突っ込み、馬車は左後方の車輪を脱輪させてやっと止まることができた。
「レディ!」
あまり意味のないブレーキを引いて、男が御者台から降りた。続いて傾いた馬車の中から、三人の男たちが路上に飛び出し、全員で彼女を取り囲んだ。
「どういうつもり?」
視界を|狭《せば》める大きな帽子は|邪魔《じゃま》だ。馬上から脱ぎ捨てると、帽子の下からは真昼の太陽の日差しにも負けない、見事な黄金の巻き毛が現れた。男たちのうち三人は、その髪の色を見て、明らかに一瞬たじろいだ。
「ご同行願いたい」
唯一動じなかった男が、彼女の落とした帽子を拾いながら一歩前に出た。二十代後半の、髪の赤い男。たぶん、彼がこのグループのリーダーなのだろう。真っ正面から目を合わせて告げているからには、残念ながら人違いではなさそうだ。
「人ひとり|櫟《ひ》きかけたのだから、まずは『ごめんなさい』じゃないのかしらね? わざと、わざとでないに関わらず」
「失礼、レディ。でもあなたが相手では、とても正攻法でことを成すことは難しく――」
「まあ。それを知っていて、どうしてやって来るのかしら」
彼女は大げさに驚いてみせた。なんてお馬鹿さんなんでしょう、と。
「ある方のご命令で、致し方なく」
「『ある方』なんて、わざわざ隠さなくてもわかっているわよ。どうせ、あのスケベ|親父《おやじ》でしょ」
馬車の|家紋《かもん》は一応シールで隠してはあるが、リーダー格の彼には見覚えがあった。いつだったか、にやけたあの男の背後に神妙に控えていたのを見たことがある。地味な顔に似合わない派手な赤い髪がいやに目立っていたので、よく覚えている。確かその場は彼女にとってあまりに退屈で、よそ見ばかりしていたように記憶している。
「レディ、どうかお言葉をお|慎《つつし》みください」
リーダーは、その髪に引けを取らないほど顔を紅潮させて訴えた。『ある方』なんて称したところで、あの男がスケベである事実は変わらないのだが。
「で? あの男が私を|誘拐《ゆうかい》してこい、って?」
彼女はドレスのスカートをたくし上げ、鞍から軽く腰を浮かせると、横座りをやめ、正しく馬にまたがった。
「いいえ。お連れするように、と」
「言葉は言いようよね」
愛馬に話しかけ、そっと首筋を|撫《な》でてやる。
馬鹿馬鹿しい。男数人がかりで嫌がる女性を連れさったら、それはもうどう言い訳しようと立派な誘拐であろうに。
「それで? 『ある方』は、私がけがしてもいいって言っていたわけ?」
二頭立ての馬車が、真っ正面から突っ込んできたのだ。うまく交わせたからよかったものの、まともに受けていたら間違いなく大けがをしていたはずだ。いや、|下手《へた》をすれば、今頃天国の両親に再会できていたかもしれない。
「かすり傷程度は仕方なかろう、と。野生の|雌鹿《めじか》を無傷で捕らえるのは、とても難しいことですから」
「野生の|雌鹿《めじか》を捕らえる? 牧場から|牝馬《ひんば》を盗む、の間違いじゃない?」
四人の男を、馬上から冷ややかに見つめてやる。うち三人は、当惑気味に目を伏せた。紅い髪の男だけは、視線を外さずに訴える。
「その牝馬は、元はあの方の持ち物でした」
「|邪魔《じゃま》で手放したんでしょ。今更、何よ」
「あの方のご意志ではありません。時が来れば、お迎えに上がるとのお考えでいらっしゃいました」
「話にならないわ」
自分がいいと判断したことが、万人に支持されると思ったら大間違いだ。あのスケベ|親父《おやじ》、周囲から甘やかされて|脳《のう》味噌《みそ》が|溶《と》けてしまったのではないだろうか。
「レディ、どうかあの方のもとにお戻りください。それが、あなたのお幸せにもつながるはず」
「変ね。同じ言語を|遣《つか》っているというのに、どうして話が通じないのかしら」
「ご同行いただけないとあらば、致し方ございません。不本意ではありますが、我ら力に訴えてでもお連れせねばなりません。どうかご無礼のほど、お許しを」
ジリッ、ジリッと、男たちは彼女を取り囲んだ輪を|狭《せば》めていく。
「仕方ないわね」
彼女は馬上で護身用の短剣を|鞘《さや》からぬき、|構《かま》えた。
「いいわ、かかってらっしゃい」
できるものなら、力ずくで連れていったらどうなの――。と
* * *
夕刻。街道を奇妙な一団が目撃された。泥だらけの馬車を引いて、王都に向かう男たちの姿である。馬車といっても、馬はいない。大の大人が四人で、馬ぬきの車を|運搬《うんぱん》しているのだ。前に二人。後ろに二人。乗っている人間はいない。
「何だい、あれは」
目撃した者は皆、指をさして笑った。
「馬が、魔法で人間の姿に変えられたのかね」
「いやいや。|催眠術《さいみんじゅつ》で自分が馬だと思い込んでいる人間さ」
「しっ。こっちを見た」
車を引いていた赤毛の男が、不意に顔を上げた。しかし、力無く観衆に|一瞥《いちべつ》くれただけで、再びうつむき黙々と歩く作業に|没頭《ぼっとう》した。
騎士としてのプライドを守るために、剣を抜くことさえ、今の彼らにはできなかった。
彼らは一様に傷ついていた。
心と|身体《からだ》、両方ともに。
馬車と同じくらいに、服は泥と|土埃《つちぼこり》で汚れている。そして所々、刃物で切り裂かれたような真新しい破れ目までもある。でも、一番厳しいのは、騎士、いや男としての自尊心をずたずたにされたことだ。
四対一で負けた。そして、その「一」は女性だった。
殺してはいけないという気持ちが、力に歯止めをかけたのは否めない。だが、男四人に女一人という事実の前には、もはやどんな言い訳も通用しなかった。
四人は腕に覚えのある者たちばかりで、だから尚更この敗北はショックだった。
こんなこともあろうかと、あの方は剣の使い手を四人もお使わしになったのだろうか。自分一人で十分だと豪語した、数日前の自信|過剰《かじょう》な自分たちが懐かしく、できることならあの頃に戻りたいと本気で思った。
次の宿場町で馬を買い求められれば、――という、希望のみが、彼らの足を黙々と動かしていた。そうすれば、少なくとも、馬の代わりに馬車を引くという、間抜けな行為だけは解消するはず。
馬を失ったのは、不覚だった。
馬のいない馬車など、車輪のついたただの大きな箱だ。重いだけで、まるで役に立たない。手押しの荷車の方が、軽くて小回りが利く分、どれだけましか。
しかし、|邪魔《じゃま》だからといって、車を捨てて帰るわけにはいかなかった。シールで目隠しされてはいるが、馬車には彼らの主人の|家紋《かもん》が描かれているのだ。
こんな情けない姿をさらしているが、それでもみすみす証拠を残していくほどバカではないつもりだった。
赤毛の男は、車を引いた。
とにかく、この作戦は中止だ。
いったん王都に帰って、主人より次の指示を待とう。そう思った。
しかし、いったいどの面下げて帰ればいいのだろうか。
――今は、馬を引きながらそれを思案するしかないようだった。
2
「お|嬢《じょう》さま。よろしゅうございましょうか」
|老執事《ろうしつじ》イタセンが部屋を訪ねてきたのは、使用人たちも自室に引き上げた夜更けのことであった。
彼は、「部屋の|灯《あか》りがついていましたので、失礼とは存じましたが」とまず断ってから部屋に入り、たっぷり一分間はためらってから決心したように尋ねたのだった。何かあったのでございますか、――と。
「いいえ。どうして?」
メルルは|帳簿《ちょうぼ》に落としていた視線を上げ、イタセンを見た。毎日会っているのだが、こうして改めて向かい合ってみると、彼はずいぶんと年を取ったように思える。白黒のまだらだったあごひげはなめがね顎髪もいつしか誰も足を踏み入れていない雪原のごとく真っ白となり、丸い鼻眼鏡も手伝って、近頃めっきり|山羊《やぎ》に似てきた。
「ドレスの手入れをしたメイドから、報告がありましてな。何でも、|裾《すそ》におびただしい|土埃《つちぼこり》がついていたとか」
「……今日は埃っぽかったわね」
帳簿を閉じながら、メルルは答えた。そして、かったるそうに首を回す。彼女の黄金の巻き毛が、背中で大きく揺れた。
「それに、風も強く吹いていたし」
「それで被っていかれたお帽子も、なくされたのですね」
イタセンが、|謁《いぶか》しげな表情で確認を入れてくる。こういう時の彼は、かなり疑ってかかっているのだ。しかし、だからといって「見抜かれた」と、焦って口を割っては負けだ。
「ええ。すまなかったわね。あれは私のお気に入りだったのよ。そうだわ、|爺《じい》や。すぐに王都から同じ物を取り寄せてちょうだい」
「ああ、そうですな。では、さっそく」
イタセンはうなずくと、回れ右をして扉に向かった。――が、三歩あるいたところで、はたと気づき、あわてて引き返してきた。
「……ああ、危ない危ない。うまいこと丸め込まれるところだった。私が申し上げたいのはそんなことではないのです。ドレスに関してですが、まだいくつか疑問点が上がってきておりますぞ」
「疑問点――」
メルルはペン先を布で|拭《ふ》きながら、心の中で舌打ちをした。年老いたとはいえ、まだまだイタセンは|煙《けむ》に巻かれたままでいる男ではないらしい。
「お|袖《そで》に、刃物でかすったような|痕《あと》が数カ所あったというのは、いったいどう説明していただけるのですかな」
「まあ。刃物でかすったような痕ですって? どうしてそんなものが、私のドレスにあるのかしら」
「覚えがおありにならない、とでも? 本当に?」
イタセンはメルルに顔を近づけると、|眼鏡《めがね》をずらして見た。幼い頃からこうやって、じっと目を見つめられ、|悪戯《いたずら》やおいたの白状をさせられてきた。だが、もはや彼女も|二十歳《はたち》を過ぎた大人。それで簡単に口を割るようなことはなくなった。
「まったく記憶にないわ。不思議なこともあるものね」
「そうですか」
がんとして白状しないメルルに|諦《あきら》めたのか、それとも作戦を変更したのだろうか。イタセンは「|怪誹《けげん》」から「嘆き」に表情を変えて言った。
「私は本当に、お|嬢《じょう》さまのことが心配でございます。お二人のお坊ちゃま以上に大切にお守りするよう、亡き|大旦那《おおだんな》さま、大奥さまより命じられた言葉を胸に、今日までお嬢さまのお側で勤めてまいりましたものを」
「だから、お前には言えないんじゃない」
メルルがボソリとつぶやくと。
「は? 今、何と?」
などと、|漏《も》らさず聞き返してくるのだから、この|老執事《ろうしつじ》、耳はさほど|衰《おとろ》えていないとみえる。
それは何よりなのだが、だからといって「女だてらに四人の男相手に短剣を振り回し、かすり傷や軽い|打撲《だぼく》とはいえ全員に手傷を負わせ、彼らが動けず道ばたに倒れているのをいいことに、馬車につながれていた馬から馬具を外して|鞭《むち》をあて、方々に逃がしてしまった」なんて打ち明けようものなら、「女は家にいて家庭を守るべし」という古い考えをもっている彼は、たぶんショックのあまりその場で卒倒してしまうに違いなかった。
だからメルルは、当たり|障《さわ》りのない言葉でお茶を|濁《にご》すしかないのだ。
「いいえ。お前にはいつも心配かけてすまない、と言ったのよ」
「そのようなお気持ちがおありでしたら、少しはおとなしくお暮らしいただくわけにはいきませんか」
イタセンは軽く|咳払《せきばら》いをして、「私ももう年寄りですし」と言った。
「そうしたくても、そうさせてくれない人たちがいるの。私にどうしろというの」
今日のように馬車で突っ込んでくる人間相手に、おとなしくしていたら命がいくつあっても足りないではないか――。メルルは|椅子《いす》から立ち上がると、ベッドの|天蓋《てんがい》を開けた。執事の|愚痴《ぐち》から逃げるには、|就寝《しゅうしん》するのが一番だ。聞くのが苦痛で、あくびも出てきたことだし、ちょうどいい。
「お屋敷からお出にならなければいいのです」
イタセンの言葉に、メルルの眠気は吹っ飛んだ。
「お前、私に死ねと言っているわけ?」
「ごく一般のご婦人は、ひがな読書や|刺繍《ししゅう》をして過ごされるものですよ。時には、お友達をお呼びになりお茶会などなされませ。それで十分です。何がご不満なのです」
「私は、領主よ。領地を見て回らなければならないし、領民との交流だってしなくてはならないわ。一般家庭のご婦人と一緒にしないでちょうだい。夫がいない分、私は男と同じように仕事をしなければならないのだから」
彼女の主張に、イタセンは腕組みして「ごもっとも」とうなずいた。
「ならばいっそ、お|婿《むこ》さまをお迎えになりますか。|大旦那《おおだんな》さまも、そうするように|遺言《ゆいごん》なさってお亡くなりになりましたし」
「やめてよ」
まずい、やぶ|蛇《へび》だ。今のところイタセンにシャットアウトしてもらっている、降るようにくる縁談が、今後こちらに回ってこないとも限らない。
「第一、私と釣り合う男がいると思って?」
メルルはあわてて訴えた。
「まあ、この世の半分は男なのですから、その気で探せば、お|嬢《じょう》さまのお相手だってきっとどこかにはいらっしゃいましょうな」
「ええ、いたわね。確か、過去に一人。若死にしちゃったけど」
「それは、当家にとっても、お嬢さまにとっても、非常に残念なことでしたな」
「本当に、そうよ」
運命の人が死んで、大事に育ててくれた両親ももはやこの世にはいなくて、生きているが死んでいるのとあまり変わらない弟は、もう何年もこの家に帰ってこないし。
誰にも頼れないものならば、女としての幸せなど求めずに、いっそ男のように生きた方が楽ではないか。
「男子にお生まれになりたかった、――と?」
イタセンが尋ねたが、メルルは首を横に振った。
「女でよかったわ。男だったら、今頃ここにはいられなかったもの。きっと」
「その通りでしたな」
老執事は、|髪《ひげ》を|撫《な》でながらうなずいた。
女だったから、これくらいのことで済んでいるのだ。
男だったら、とうの昔に命をとられていたかもしれなかった。
* * *
その夜、イタセンは王都に向けて手紙を書いた。
報告したところで、心配させるだけなのだとはわかっているが、口をつぐんだままではいられなかった。
ドレスの件だけでない。
領民たちが目撃した、王都から来た騎士とおぼしき四人の男たちの奇妙な行動も気になってならない。
それはただの偶然で、お|嬢《じょう》さまとは何もつながりはないかもしれない。証拠もない。だが、長年仕えた者の|勘《かん》が「危険」とサインをだしている。
いずれ、お嬢さまの身に何か起こるのではないか。いや、お嬢さまの方から何かに向かって飛び込んでいく可能性も大いにある。
そんなことになったら、どうすればいいのだ。
当主の|留守《るす》を預かる重い立場を与えられているが、この老いぼれにいったい何ができるというのだ。
上のお坊ちゃまが亡くなった時も、何もできずに手をこまねいていた。
下のお坊ちゃまがグレるのだって防げなかった。
そして、今度はお嬢さま――。
仕事が忙しくてほとんど王都に詰めていたが、生きていらっしゃるだけで心の支えであった|大旦那《おおだんな》さまももうこの世にいない。
これは仕方ないことだったのだ、と。そんな風に、悔やむ心をやさしく包んでくれる言葉は、これからはどんなに待ってもこの身に訪れはしないのだ。
イタセンは居てもたってもいられなくなって、ペンをとった。
何もしてもらえなくていい。ただ、この不安を、誰かにわかってもらいたい。|杞憂《きゆう》に終わればもっけの幸いである。むしろ、「取り越し苦労が過ぎる」と笑い飛ばしてもらいたかった。
その相手は、お坊ちゃん以外には考えられない。|宛先《あてささ》はエーディックの|東方牢《リーフィシー》城。
お坊ちゃんはお嬢さまの唯一のお身内なのだ。それくらいしてもらっても、|罰《ばち》は当たらないはずだった。
3
「赤毛が戻ってきたのでしょう?」
騎士の駒を指で|摘《つま》みながら、彼女は言った。
|弱翠《ひすい》でできたチョギーの|駒《こま》は、白く細い手の中で一度転がされ、それからポンと宙に放り投げられた。
「おいおい」
寝台の上で向かい合っていた男が、情けない声をあげる。が、彼女は一向に気にする様子はない。
ほぼ下着といっていい薄手のガウンが午後の日差しで透け、|身体《からだ》の線があらわになろうとも|頓着《とんちゃく》しない女性である。ハンドベルで召し出された家来ももはや慣れたもので、目に見えないものとして冷たい飲み物を置いて部屋を出ていった。
「役目を果たせない|駒《こま》など、何の価値があるのでしょう」
投げられた緑色の駒は、部屋の壁までは届かず、テーブルの脚にぶつかって床に落ち、少しだけ|弾《はず》んで|椅子《いす》の下に潜り込んだ。
「その上、面白みに欠けるわね。どうせへまをするのだったら、私が笑ってしまうくらいのことをすればいいのに」
「それは言えているのう」
言いながら、男はゲーム盤の上に転がっているオパールの|賽《さい》を手に取った。しかし、それは女によってあっさりと取り上げられてしまう。
「次は私の番だわ」
「おお、そうだったか」
「もうお忘れになったの? あなたの駒の色は緑、私が桃色」
彼女は真っ直ぐな黄金の髪を耳にかけ、男の唇に自分の唇を軽く押しつけてから賽を手の中で転がした。
「しっぽを巻いて逃げ帰ってきたのは、緑色の騎士よ。なのに赤い髪を振り乱し、青ざめた顔をして戻ってきたなんて、無様で|滑稽《こっけい》」
歌うようにつぶやきながら、女はベッドの上に賽を放った。
「……退屈」
出た目の数だけ、|薔薇輝《ばらき》石の|駒《こま》を盤上に滑らせる。
「明日は、|見目《みめ》よい少女たちをいっぱい集めることになっている。気に入ったら、側に呼んで着せ替えごっこでもして遊ぶといい」
「そうね。でも、きっとすぐ飽きてしまうわね」
最初から|媚《こ》びる相手では物足りない。遊び相手に|相応《ふさわ》しいのは、おいそれとこちらの誘いに乗らない屈強の者。
その者を、引きずり出して足下にひれ伏させ、涙を流させて|乞《こ》わせたい。
愛しています。
許してください。
あなたのためなら何でもします。
だから、私をあなたの好きにしてください。
――と。
クククッ。彼女は笑った。それは、何て素敵な考えなのだろう。想像しただけで楽しくなってくる。
「何を考えている?」
男が首筋に唇を押しつけてきた。そのとたん、楽しい気分が消え去って、元の面白みのない現実が現れる。
「別に」
振り払うのも面倒くさいので、彼女はされるがままに後ろから抱きしめられた。
|飽《あ》きたのかどうなのかもわからなくなるほど多く、この男とは肌を合わせてきた。
それは、義務のようなものだから。仕方ないと|諦《あきら》めることではなく、むしろ彼女にとっては落ち着く行為だった。
日常のほとんどを、規則に|縛《しば》られることなく|奔放《ほんぽう》に生きているから。強要されることが一つくらいあるのも悪くない、そんな感じだ。
「退屈だわ」
彼女は、もう一度言った。真っ直ぐな金色の髪の毛が枕の上で乱れ、ほどなくそこに激しく荒れ狂う|大海原《おおうなばら》を描き出すことだろう。
「誰か私を楽しませてくれないものかしらね」
吐息は|気怠《けだる》く、そしてほんのりと甘い香水のかおりを含んでいた。
彼女はゆっくりと目を閉じ、夢の続きを引き寄せる。
美しい者、待っていなさい。
お前たちのために、素敵な|罠《わな》を用意してあげるから。
* * *
背筋に寒いものが走って、メルルは身震いした。
「奥さま?」
黒髪の巻き毛の少女が、心配そうに尋ねた。
「ああ、ごめんなさい。大丈夫よ。ちょっと寒気がしただけ」
「|夏風邪《なつかぜ》でしょうか。あの、お休みになられたらいかがですか。私、失礼いたしますから」
少女が心配そうに顔をのぞき込んできた。
「大丈夫よ。ここまで下書きを済ませてしまいましょう。そうしたら、あなたも家で清書してこられるし」
「はい」
少女はうなずくと、再びペンを動かした。
最近、父親が領内の仕事を得て、王都からこちらに移り住んできた娘だ。|行儀《ぎょうぎ》見習いをかねて、時折館に手伝いにきているのだが、素直で賢いところが気に入っている。今十歳というから、十以上|歳《とし》は離れていることになるだろうか。メルルには下に弟がいるだけだから、妹のようにかわいがっていた。
今日も王都へ手紙を書きたいといってきたので、屋敷の食堂で書き方を教えていたところだ。世話になった人たちに、お礼と近況報告をするのだとか。仕込み|甲斐《がい》のある娘だ。
「奥さま。|綴《つづ》りはこれであっていますか」
「そうよ。よくできたわ」
昔からこの土地にいた者はメルルを「お|嬢《じょう》さま」と、新しく入ってきた者は「奥さま」と呼ぶことが多かった。
どちらで呼ばれようとも|構《かま》わないのだが、年寄りになってからも「お嬢さま」では少々不都合があるのでは、と一時は思ったこともあった。だが、そうなる頃にはそう呼んでいた者たちの数もめっきり少なくなっているはず、ということで、世の中は何となくうまくできているのだった。
「あなたは、この彼のことがとても好きなのね」
メルルは尋ねた。
一通目の形式的な礼状の下書きは終え、今はもう一通の少女自身がとても感謝している男性へ|宛《あ》てた手紙を書いていた。
「はい」
素直に好きと言える少女が、メルルにはうらやましかった。自分もこのくらいの歳には、こんな目をして|殿方《とのがた》に「好き」と言っていたのだろうか。思い出しただけで、恥ずかしいようなこそばゆいような、変な気分が|蘇《よみがえ》ってくる。
「どんな人?」
「やさしい人です。ちょっと|柄《がら》は悪いんですけれど。強くて、頼もしくて、真っ直ぐな黒髪なんです」
「そう?」
ほほえましい。メルルは少し|頬《ほお》をゆるめた。この娘の中では、真っ直ぐな黒髪というのはかなり高得点であるらしい。
「きっと、素敵な人なのね」
「はい」
うなずいた後、少女はあわてて付け加えた。
「あ、でも。|旦那《だんな》さまも、素敵な方だと思います。お会いしたことはありませんけれど、お父ちゃ……いえ、父を助けてくださったんですもの」
もう一通の相手に、|配慮《はいりょ》したのだろう。だからメルルも、身内としてそれをありがたく受け取った。
「ええ。素敵な人よ。きっと、あなたの彼に負けないくらいね」
二通の手紙の|宛先《あてさき》住所は同じだった。
一通は|東方牢《リーフィシー》城検断庁舎内、ラフト・リーフィシー。
もう一通は、|東方牢《リーフィシー》城獄舎内牢名主アカシュ。
黒髪の少女の名は、ラアナといった。
4
フラーマティブル、フラーマティブル。
|永久《とわ》に消し去れ、手作りの品
|手中《しゅちゅう》に隠せ、誰かのお下がり
刃物で壊せ、買いたての品
忘れるなかれ、オリーブと|野薔薇《のばら》のブーケ
何がなくとも、祈りの口づけ
――それら、|乙女《おとめ》の|健《すこ》やかな成長を守るためのもの
「今度は、何なの……」
外出先から戻って馬車を降りたとたん、メルルは|眉《まゆ》をひそめた。目の前に現れた男が、手を差し伸べてこう言ったからである。
「レディ。どうか私と結婚してください」
その言葉を教科書通りに解釈するなら、それは間違いなく求婚の意思表示と理解していいであろう。男が帽子をとってひざまずき、意を決したように発した言葉である。服装も正装ではないが、それに準じる物だ。使者をたてず、待ち伏せして直接申し込むという|掟《おきて》破りの行為も、気持ちを抑えきれず|急《せ》いた結果であると好意的に解釈できなくもない。
しかし。
「どうして、二十人一緒にプロポーズしなきゃいけないわけ?」
そう。男は一人ではなかった。
馬車が屋敷の敷地内に入るやいなや、どこに|潜《ひそ》んでいたのか突然男たちが四方八方より出現し、目の前で一列に並んだかと思ったら開口一番言ったのが先の言葉だ。
腰に持病のある|御者《ぎょしゃ》は、驚いた|拍子《ひょうし》に発症し、それでも「お|嬢《じょう》さまの一大事」と転がるようにして屋敷内に助けを求めに行った。
「それとも、求婚者は一人で、残りは|付添人《つきそいにん》なのかしら?」
彼女は、一度は抜きかけた護身用の短剣をしまいながら尋ねた。
花の祭りの祝いに呼ばれ、日の高いうちから果実酒を飲んでちょっといい気持ちで帰ってきたというのに。せっかくのほろ酔い気分がさめてしまった。
「|付添人《つきそいにん》なんてとんでもない。我ら、全員あなたに求婚しているのです」
「……全員? バカにされたものね」
そこは、まるで男の見本市だった。
下はまだ十五にも満たない少年から、上は七十近いと思われる老紳士まで。見たことある顔もあれば、初顔もある。
タイプもバラバラ。長身あり、|肥満体《ひまんたい》あり、筋肉質あり、美形あり、色白あり、色黒あり、岩石みたいな顔あり。さあ、これだけ|揃《そろ》えたのだから一人くらい好みのタイプがいるだろう、と。この者たちを寄越した人間の意図が、もろ見え見えであった。
「聞かせてもらおうじゃないの。これは、いったいどういうゲームなわけ? 私をおとせば、誰かからご|褒美《ほうび》がもらえるのかしら?」
「いいえ。そのような方のご意向などはまったく」
そのような方[#「方」に傍点]。ご[#「ご」に傍点]意向。これでは、白状しているも同じではないか。
何て頭の悪い人たちなのだろう、とメルルには|哀《あわ》れみの気持ちさえわいてきた。しかし、そもそも「そのような方のご意向」に従って、ここまでのこのこやって来るところからして、賢さからは遠く離れた人たちに違いないのだ。
「言っておくけれど、私の|婿《むこ》に納まっても我が家が所有している領地の半分しか手に入らないわよ」
ひざまずいて手を差し出す男たちを、メルルは冷ややかに見下ろした。
「心外な。我ら、財産目当てではありません」
我ら、って。二十の|身体《からだ》に一つの意志でもあるまいし。
それぞれの|思惑《おもわく》があって|然《しか》るべきなのに一緒くたにまとめるあたりが、すでに、たった一つのルールに|則《のっと》って集められた集合体だと認めているようなものである。
もちろん、偶然などということは、|端《はな》から彼女も思っていなかった。しかし、平等であろうとの|配慮《はいりょ》からか、一言ずつ発言者が変わっていくというのはかなり|滑稽《こっけい》だった。ずいぶんとリハーサルを重ねただろうか、よどみなく会話が流れていくのは立派ではある。
「じゃ、何? 身一つでも|嫁《よめ》に欲しい、と?」
ならば、二十人も一人も同じである。別々にやってこられることを考えれば、面倒くさくなくていい。
「その通りです」
「ますますもって、気にくわないわね」
身一つでいいということは、即ち身体目当てということにほかならない。領地に魅力を感じたから、と言われた方が、よほどメルルの心には響いたことだろう。
「だからといって、レディ。我らは、あなたの美しい容姿ばかりに目が|眩《くら》んでいるのではありません」
岩石のような男が言った。
「じゃ、何?」
「あなたを構成する細胞の一つ一つを、その身に流れる赤い血の一滴までも、|愛《いと》おしく思わずにはいられません」
色白の男は目を閉じ、自分の言葉にうっとりと酔いしれた。たぶん、これまでこのような歯の浮くような|台詞《せりふ》で女たちを落としてきたのだろう。決まった、というような表情で、ターゲットを見ると――。
「それが気にくわないというのよ」
不快きわまりない表情で見下す、貴婦人の姿。そもそもメルルを一般|淑女《しゅくじょ》と同じ|枠《わく》に|填《は》め込んで考えていた時点で、敗北は決まっていたようなものである。
「私の|座右《ざゆう》の|銘《めい》は、『生まれより育ち』なの。私を好きなら、それくらいのこと調べてから来なさい」
メルルは男たちに背を向けて、|御者台《ぎょしゃだい》の上に置き去りになった|鞭《むち》を手に取った。そこに。
「お|嬢《じょう》さま!」
腰を抜かした御者がやっとのことで屋敷内にたどり着き呼んだであろう応援が、到着した。先頭は|執事《しつじ》のイタセンだ。
「ラアナ呼んできて」
メルルは馬車の扉を開けると、|椅子《いす》の上にのせてあった荷物を抱えて取り出した。花束と、花びらの砂糖漬けだ。
「私、ここにいます」
あわてて駆け寄ってきた少女に、取り出した荷物を手渡す。
「お|土産《みやげ》よ。あなたにあげるわ」
本当は一緒に午後のお茶をしようと思って帰ってきたのだが、状況が変わった。まったく、あのスケベ|親父《おやじ》にはがっかりだ。よりによって、わざわざ花の祭りを選んで男たちを寄越さなくてもいいだろうに。
「ラアナ、手紙の清書はできていて?」
「はい。奥さま」
「それじゃ、それを私の|旅行鞄《りょこうかばん》につめて持ってきてちょうだい。急いでね」
「かしこまりました」
ラアナは花束と花びらの砂糖漬けの入った|瓶《びん》を抱えて、急ぎ屋敷に引き返した。その間、求婚者たちは何が何だかわからない様子で、ポカンと口を開けて見ていた。ただ一人、イタセンだけは、何かを察したように不安げな声でメルルを呼んだ。
「お|嬢《じょう》さま……」
「予定より少し早いけど、私、今からエーディックに行ってくるわ。もう、|堪忍袋《かんにんぶくろ》の|緒《お》がきれた」
「ですが、御者が」
腰を抜かした彼は、玄関で助けを求めると、その場でへたり込んで動けなくなっているという。
「ああ、いいわ。ゆっくり休ませてあげてちょうだい」
「では、別にお|供《とも》を」
「いらない。一人で大丈夫よ」
馬の扱いは慣れている。|鞭《むち》を一度振り下ろし、ヒュッと音をさせた。自ら|手綱《たづな》を握った方が、よっぽど早く着けるだろう。
「もって参りました」
ラアナが戻った。メルルは|鞄《かばん》を馬車の中に入れるよう指示してから、おもむろに御者台に飛び乗った。
「レ、レディー!?」
二十人の男たちは、同時に叫んだ。
「我々はどうしたらいいのですか」
この男たち、まだいたのか――。メルルは心の中で、彼らの存在をすっかり|隅《すみ》に追いやっていた。
「帰れば?」
何だか面倒くさくなって、|明後日《あさって》の方角を見て冷たく言い放った。
「お返事をいただくまで帰れません」
それは、もっともな話である。彼らは求婚しにきたわけだから。「そのような方」の「ご意向」がある限り、たとえ断られたとしても結果は持ち帰らないとまずいだろう。
「今すぐ? じゃ、ノーに決まっているでしょ」
ブレーキを解除して、彼らを見た。皆、一様に涙目で、捨てられた子犬みたいにすがるような表情をしてメルルを見上げている。
「それは我々のことを、まだよく知らないという理由からですか」
「そういうことになるわね」
一人一人に対して、恨みはないし、断る理由もすぐには探せない。
「では、今少しお時間をいただけないでしょうか」
「そうです。我々の話を聞いてください」
「知っていただければ、きっと気に入っていただける点も見つかりましょう」
男たちは、口々に訴える。確かに、それは一理あった。
「……そうね」
メルルは、ほんの少し考えた。このまま彼らを置いていっても、屋敷の者も迷惑するだけ。かといって、二十人もの男をずるずると王都まで|引率《いんそっ》する気にもなれない。|物見《ものみ》遊山《ゆさん》の旅ではないのだから。
「いいわ。王都までついて来られたら、話を聞いてあげる」
メルルは|鞭《むち》を馬にあてた。
そして馬車は御者台に彼女一人を乗せて、勢いよく駆けだしたのだった。
* * *
|花の祭り《フラーマティブル》は、たった一日。
年に一度、ワースホーン国中が花で埋め尽くされる、|華《はな》やかな祭りだ。
王宮前も毎年この日、噴水を中心に広場をケーキのように飾りつけ、そこに十六歳の少女を集めての|品評会《ひんぴょうかい》が行われる。
今年は老大臣の孫娘が出るとか。侍従が事前に耳打ちをしてきた。暗に、その娘を側近くに呼んで|褒美《ほうび》を取らせよ、と言っているのだろうが、そういう|小細工《こざいく》をされた時点で早々と候補から外してしまった。
かわいそうに。その娘には何の罪もないのだけれど、自分以外の|思惑《おもわく》通りに事が進んでいくのは、あまり好きではない。
「次は、粉屋の娘……」
特設に設けられた観覧席で、リザはリストを眺めながらつぶやた。
「少しは期待できるかのう」
隣の席にいる彼女の夫が、指で|髭《ひげ》を|撫《な》でた。品評会は、身分の上下や|貧富《ひんぷ》の差はなく、十六歳の娘という条件のもと、平等に|壇上《だんじょう》に乗ることができた。もちろん、この最終選考に残るまでには、一次、二次、三次と予選を勝ち抜いてこなくてはならないのだが、|裕福《ゆうふく》な家庭の娘は、親が地域の実力者であることが多いこともあって、最終選考まで残ることが約束されているようなものだった。だからこそ、貧しい家の娘が最終予選まで残るというのは大変なことで、残っただけで絶世の美女であると証明されたようなものだった。
「まあまあね」
「まあまあだな」
顔の作りは悪くない。ただし、|素朴《そぼく》なドレスの方が顔を引き立てると計算したのが、くすんだ色のドレスに前掛けまでつけて現れるあたり、あからさますぎてかえって不快だった。
去年はリザの気まぐれで肉屋の娘を優勝させたから、今年もその線で攻めようと考えたのだろう。だが、|壇上《だんじょう》にいる娘の家は、粉屋といっても王都で一番大きく、粉以外にも手広く商売をしている豪商だった。
「次は、出場辞退……。まあ、貴族なのに珍しい。どうしたのかしらね」
リザのつぶやきを耳にして、侍従が斜め後ろから囁く。
「この娘、集合時間までに、現れなかったそうです」
「現れなかった?」
「親は病気だと取り|繕《つくろ》ってましたが、どうも会場に向かう途中でいなくなった、とか」
「まあ、もしかして|誘拐《ゆうかい》かしら?」
|不謹慎《ふきんしん》だが、気持ちが騒いだ。
「途中で気が変わったのではありませんか。もともと乗り気じゃなかったみたいですし」
「そう。そういう娘にこそ、私のドレスを着させたかったものだったけれど」
|品評会《ひんぴょうかい》なんて、単なる見せ物。それに気づいた娘は賢い。
最終選考に残れば、玉の|輿《こし》も夢じゃないし、それなりの|箔《はく》もつく。商店の看板娘ならば、彼女目当てで客が増えるため、給金が二倍三倍に跳ね上がるケースもざらにあるし、高い金を積まれて別の店に引き抜かれることもあった。
だが、浮かれてばかりもいられない。品評会で顔を売ってしまったがために、見知らぬ男につけねらわれたり、うまい言葉で|巧《たく》みに|口説《くど》かれ水商売に転じた挙げ句、身を持ち|崩《くず》したりする娘も少なくなかった。|庶民《しょみん》だけではない。貴族の中にはいつしか、「品評会の最終に残って当たり前」という|風潮《ふうちょう》が生まれ、出場しなかったというだけで、その娘は見せられないくらいすごい顔の持ち主なのだと、おもしろおかしく|噂《うわさ》をたてられ、まとまりつつあった縁談が流れたなどという被害もしばしばあった。
「|飽《あ》きたわ」
|真珠《しんじゅ》をちりばめたドレスを着て得意げに歩く娘は、大トリ。大臣の孫娘だ。
「まあ、お|祖父《じい》さま似でさっぱりした顔をしていること」
顔がドレスに負けるというのは、ある意味とても不幸なことだと彼女は思った。ここにいる観衆は家に帰る頃、ドレスのすごさだけはきっと鮮明に覚えているが、それを着ていた娘の顔はすっかり忘れていることだろう。
「|陛下《へいか》。そろそろ」
侍従が|囁《ささや》く。娘の中から今年の花の女王を決め、側に呼んで|褒美《ほうび》をとらせるよう促しているのだ。
「そうね」
隣をみれば、夫は誰でもいいという視線を投げて寄越す。
リザは、リストに目線を落とした。確かに、誰でもいい。というより、もうそんなことはどうでもよくなっていた。
あくびをかみ殺し、目を閉じ、参加者の名前の上で人差し指をくるくる回す。適当なところで止めて、その時指の下にあった名前に決めた。
「じゃ。この娘で」
指し示された名前を見て侍従は驚いていたが、一旦リザの口から出た言葉に意義を申し立てることなど許されるはずはなかった。
「|近《ちこ》う」
リザは、今年の花の女王を側に呼んだ。
適当な決め方だったが、ある意味いいくじを引き当てたかもしれない。
絶世の美女ではないが、細身の体型が娘たちの中ではリザに一番近い。
どうせドレスをあげるなら、サイズ直しなしで着られる相手に着てもらった方がいいではないか。――というのは、|建前《たてまえ》の理由。本当のところは、その娘の|素性《すじょう》がとても興味深いものであった。
娘はこざっぱりしたドレスを着て職業を隠してはいたが、住所は下町の|娼館《しょうかん》になっていた。
リザは花束と一緒に、レースがふんだんに使われたブルーの夜会着を抱えて、選ばれた娘にほほえみかけた。
「おめでとう。あなたが今年の花の女王よ」
あなたに、心からの祝福を。
退屈な|催《もよお》し物だったが、最後の最後にリザの気分はパッと晴れ上がった。
だって、こんなに面白いことがあるだろうか。
その日。
ワースホーン国では建国以来初めて、|娼婦《しょうふ》が|王妃《おうひ》の着物を|下賜《かし》されるという|前代未聞《ぜんだいみもん》の出来事が行われたのであった。
5
「やっぱり、ないな」
|東方牢《リーフィシー》城の検断庁舎長官|執務《しつむ》室で、アカシュがつぶやいた。
|花の祭り《フラーマティブル》から一夜明けた今日、|象牙《ぞうげ》色の姫君の|駒《こま》の|行方《ゆくえ》を追って、再度部屋の中を探しているのである。
|東方検断《トイ・ポロトー》の長官と副長官、そして新たに直属の部下二名も加えての探索。これが事件の捜査ならば、|検断《ポロトー》のトップニ人が|揃《そろ》っているのだから|大捕物《おおとりもの》といっていい。しかし、実際は|二間《ふたま》続きの一室内でのこと、どちらかといえば引っ越しか|大掃除《おおそうじ》といった方が|雰囲気《ふんいき》は近いかもしれない。
「お前の言うように、この部屋にはないのかもしれない」
アカシュが、エイに向かって言った。部屋の|隅《すみ》と隅で、黒髪とプラチナブロンドが互いに背伸びをしての会話である。二人の間には、|書棚《しょだな》やソファセットや机などが定位置から動かされて、今は|無秩序《むちつじょ》に放置されていた。
「チョギーの|駒《こま》には足がない、は?」
「|撤回《てっかい》する」
「……すると、どういうことになりますか」
「庁舎内に範囲を広げればいいのかな。けど、そうして探して、本当にあると思う?」
「そんな難しいこと、私にはわかりません。この部屋から出た手順すら、わからないんですから」
「うむ」
切れ者のエイをもってしても、解けない|謎《なぞ》。いったい、|麗《うるわ》しの姫君は今頃どこに隠れているのか。
「取りあえず、今のところ誰かが故意に持ち出したという線は考えずに探しましょう」
エイは明らかに「盗まれた」という言い方を避けていた。仮定の話であっても、検断庁舎で|窃盗《せっとう》など|金輪際《こんりんざい》あってはならないことだと考えているからだろう。
「誰かが故意に持ち出したとすれば、その誰かは必ず我々にコンタクトをとってくるはずですから」
「|象牙《ぞうげ》の姫ばかり集めているコレクターでもない限り、ね」
アカシュは首をすくめた。
チョギーの|駒《こま》一つだけ盗んでいく泥棒などいない。なぜなら、それ一つでは大した価値にはないからだ。ゲームの駒は、すべて|揃《そろ》って初めて価値がつく。|売却《ばいきゃく》目的で持ち出したならば、すぐ側にある残りの駒を置いていく意図がわからない。
けれど、この駒の特別な価値を知っている人物ならば話は別だ。つまり、王家から|拝領《はいりょう》した物と承知していたとしたら、駒は一つでも十分なのだ。
駒は一つでは意味がない。だが裏返せば、たった一つなくなっただけで、残りの駒も意味をなさなくなるという物ともいえた。
「|身代金《みのしろきん》目的の|誘拐《ゆうかい》、かも?」
アカシュは苦笑した。
王家より|下賜《かし》された品をなくした不忠者という|烙印《らくいん》から逃れるために、盗まれた品を大金を出して買い戻す貴族は少なくない。そのほとんどが検断に訴えずに泣き寝入りしてしまうので、正確な数字は不明だが、|逮捕《たいほ》した窃盗団の自白などからも相当の被害があるはず。
だが、検断を相手に勝負をかけてくる泥棒なんて、果たしているのだろうか。そして厳重なる検断庁舎に、外部から侵入することは本当に可能なのだろうか。
「やはり、ありませんでした」
出入り口の扉付近にしゃがみ込んでいたログが、大声で報告した。
「庁舎のゴミをすべて調べてみましたが、チョギーの駒は出てきませんでした」
「……ご苦労」
念のため、この部屋だけでなく、|一昨日《おととい》と昨日建物内で出たすべてのゴミを調べさせたが、やはりなかった。
「|獄舎《ごくしゃ》や|役宅《やくたく》のゴミも調べますか」
「いや、いい」
それを初めては、規模が大きくなりすぎる。多くの人が関われば、このことが外に|漏《も》れる危険性が高まるだろう。今はまだ、最小限で事に当たった方がいい。アカシュは言った。
「庁舎から消えて、獄舎や役宅に現れるなんて、普通は考えられないよ。スリピッシュじゃあるまいし」
「スリピッシュ?」
|窓枠《まどわく》から身を乗り出して下方を伺っていたキトリイが、振り返って質問をした。
「チョギーのルールだ。盤上に同じ|砦《とりで》を二つ作ったなら、その一方の中にいる王の駒は、一手でもう一方の砦に移動することができる、という。つまり、一カ所に留まるわけでなく行ったり来たりして相手をかく乱させる戦法だ」
エイが、チョギー台の上の|駒《こま》を移動させながら説明した。盤上には、相変わらず|象牙《ぞうげ》色の姫君だけが|行方《ゆくえ》不明のままである。
「ははあ。何だか、長官みたいですね」
キトリイが感心してつぶやいた。
「そうだよ。私は毎日、獄舎と庁舎をスリピッシュしているんだ」
アカシュは、象牙色の王の駒を指一本で軽く触れた。すると。
「長官。そろそろお出かけになった方がよろしいかと。|東方牢《リーフィシー》城から王宮には、残念ながらスリピッシュはできませんので」
エイが懐中時計を取り出して告げた。
「……そうか。今日は|参内《さんだい》する日だった」
アカシュは伸びを一つして、首を左右にコキコキと鳴らした。
「お|供《とも》した方がよろしいですか」
「いい。お前は、ここで姫君の後始末を」
部屋は、それこそ泥棒に入られた後のような散乱ぶりだった。一旦、駒がここにないと判断したからには、すべての家具を|速《すみ》やかに元の位置に戻すべきであった。
「そういたします」
エイはアカシュに上着を着せると、ブラウスのリボンが曲がっていないか、それからタイツがよれていないかをチェックした。国王陛下に|拝謁《はいえつ》するのだ。見苦しい格好で送り出すわけにはいかない、と。アカシュはエイとキトリイを残し、供としてログを連れていくことにした。行きたくないが、仕方ない。十日に一度の王宮参内は、検断長官の義務だ。しかしこんな状況で、チョギーをくれた人に会いにいくのは正直厳しい。
「ねえ。どこにいるか、知らない?」
アカシュは、焦げ茶色の姫君をチョギー台からそっと|摘《つま》み上げて尋ねた。象牙色の姫君がどこにいるのか、さっぱり見当がつかない。今は何にでもすがりたい気分だった。
「敵に聞いてどうします」
エイが冷ややかに笑って、駒を取り上げた。この上、焦げ茶色の姫君までなくされては大変、と警戒したのだろう。
「そうか。こんなにそっくりなのに、彼女たちは敵同士なのか……」
アカシュはつぶやきながら、扉の取っ手を握った。
そっくりなのに、敵同士。
その言葉は、よく知った誰かのことを一瞬思い出させたが、馬車に乗って城門を出る頃には、アカシュはもうすっかり忘れてしまっていた。
エイの持たせた、王宮へ提出する報告書を読み直ししようと開いたのが間違いだった。それがあまりに|膨大《ぼうだい》な量だったせいで拒絶反応をおこし、瞬く間に|睡魔《すいま》に襲われて夢の国に連れ去られてしまったのだ。
フラーマティブル、フラーマティブル。
馬車の振動が、より深い眠りへと誘う。
フラーマティブル、フラーマティブル。予言者の言った「女難」は、ゆっくりだが確実に近づいている。
しかし、まだアカシュはそのことに気がついてはいなかった。
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あとがき
――で、「つづく」。
こんにちは、今野です。今、『スリピッシュ! ―盤外の遊戯―』の奥付を見てビックリしてます。なぜって、何と発行年月日が一九九七年十一月十日、とあるじゃありませんか!
月日の経つのは早いこと。|光陰《こういん》矢《や》のごとし。本当にその通りです。
というわけで、まる五年ぶりとなる『スリピッシュ!」シリーズです。|辛抱《しんぼう》強く待っていてくださったファンの皆さん、いつもお手紙に「そろそろ『スリピッシュ!』を」とやわらかな圧力を加え続けてくれたそこのあなた(あなたですよ。あなた。覚えがあるでしょ?)、大変お待たせしました。アカシュ、エイ、トラウトらが久しぶりに文庫に帰って参りました。
ご存じではない方のために一応説明させていただきますと、この文庫は『スリピッシュ!』シリーズの第三巻目にあたります。
できれば、既刊二冊を先に読んでほしいな、というのが作者の希望です。
もし、お|財布《さいふ》に|余裕《よゆう》がなくて三冊も買えない、ということなら、(こんなこと書くと集英社に|叱《しか》られるかもしれないけれど)この文庫を|書棚《しょだな》に返して一巻目の『スリピッシュ! ―東方牢城の主―』をレジに連れていってください。先の二巻が品切れだったら、友達や図書館に借りてもいいです。ぜひ、一巻を読んでください。
このシリーズは、どこから読んでも大丈夫の「夢の宮」シリーズと異なり、順番通りがお勧めです。だって、二巻目以降は一巻の秘密が全部ばれちゃっているんだもん。
本編を読んでからあとがきを読んで、初めてシリーズものだと知ったという人向けには、もちろん「ばれていても面白いよ」とのフォローはしておきますけどね(笑)。
さて。
近況というか、今現在私がどのような生活をしているかというお話をここでちょっと。
えー。ただ今、私には個室というものがありません。仕事部屋がないけど寝室はあるとか、その逆とかじゃなくて、そのものずばり「自分の部屋がない」のです。
実は我が家、現在リフォーム真っただ中でありまして、ほぼ全面リフォームを住みながらやるという暴挙に出た結果、一階をいじっている間は二階へ避難し、一階ができあがった|暁《あかつき》には速《すみ》やかに下に降りて二階のリフォームに取りかかるといった計画で、約二ヶ月半のキツキツ生活を|強《し》いられることになったのでした。
で、今はどんな状況かといいますと、二階の三室に家族四人が肩寄せ合うという暮らし進行形。
使用|頻度《ひんど》の低い物は倉庫会社のトランクボックスに預かってもらっているものの、それでも部屋中に生活必需品らの入った段ボール箱がうずたかく積み上がっています(だから、今大地震がきたら、冗談ぬきで本当にうちは危険です。一階の柱とか壁とか床とか、所々欠落している部分もあるしね)。
というわけで、これまで一階で暮らしていた私の生活は一変。荷物の大半は家族の共有スペースへ置き、夜は姉のベッドの脇に|布団《ふとん》を敷いて寝るという暮らしをしています。
もちろん、仕事もノート型パソコンを持ち歩き、|空《あ》きスペースを見つけて、そこでやります。狭い空間では家族が足並みを|揃《そろ》えないと生活できないので、当然のようにすごい早起きになりました。|風呂《ふろ》なし台所なし(かろうじてトイレあり)に突入した現在は、たぶん、サバイバル生活のピークだと思います。
そうそう。十何年かぶりに銭湯にも行きました。意外に利用者が多くて、一安心。まだ通いはじめで施設を有効に利用しきれていないけれど、しばらくは銭湯通いをすることになりそうなので、そのうち定番の「湯上がりの飲み物」にもチャレンジしてみたいです。フルーツ牛乳って、まだあるのかなぁ。
この文庫が本屋さんに並ぶ頃、一階のリフォームが終わって二階に着手しているはず(予定では)です。でも、今度の私の部屋は二階になるので、放浪生活はまだまだ続いているはずです。
――いやはや、先は長い。
さて、話題を本編に戻します。
二つ目のお話「フラーマティブル」には元ネタがあります。それは、今年(二〇〇二年)の雑誌Cobalt8月号で発表された「ロアデルは本日多忙」という作品です。確か、その号は「ヒロイン特集」ということだったので、ロアデルを主役にして読み切りを一本書きました。今回『スリピッシュ!』シリーズ再開にあたって、このエピソードをどうしようかと正直悩みました。番外編としてとっておく、という方法もあったのですが、いろいろ考えた結果、あえて本編に組み込むことにしました。
そのせいかどうか、二人の新女性キャラが、前編ではラストにチラリとしか顔を出していませんね。でも、あの勢いなら後編ですぐに取り返しそうです。
その、後編ですが、間に『マリア様がみてる』を一冊はさんだ後、ということになりそうです。また少しお待たせしてしまうことになりますが、五年ということはありませんからご安心を(笑)。
果たして、アカシュに|女難《じょなん》は訪れるのか。
トラウトの縁談は進むのか。
メルルもリザも、本格的に物語になぐり込み、もとい、関わってくることでしょう。
――|乞《こ》うご期待、と後編の予告をいれて、パソコンのスイッチを切ることにします。
今野 緒雪
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今野緒雪先生へのお手紙のあて先
〒101-8050 東京都千代田区一ツ橋2―5―10
集英社コバルト編集部 気付
今野緒雪先生
底本:「スリピッシュ!―ひとり歩きの姫君―(前編)」コバルト文庫
2002(平成14)年11月10日第1刷発行
入力:suk
校正:suk
2005年08月01日作成
青空文庫ファイル:
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