スリピッシュ!―盤外の遊戯―
今野緒雪==著
イラスト/操・美緒
前日
薄暗い部屋の一室で、男が小さく肩を揺すった。
持参してきたランプの灯が背後から彼を照らし、その影はさながら怪物のように壁際で膝《ひざ》を抱える少女を呑《の》み込んだ。
「いい子にしていたら、すぐに帰してやる」
「……」
少女は、ただ黙って男を睨《にら》みつけた。その頬《ほお》には、先ほどまで泣いていた名残《なごり》の、カサカサに乾いた涙の跡がある。
「とんだとばっちりだったな。だが、それも運命と思え。……おや」
男は少女の傍《かたわ》らに置かれた盆に目をやった。それは先ほど部下に用意させた、少女の夕食だった。
「遠慮《えんりょ》なく食べていい。毒なんて、入ってない」
言いながら男はその場に膝をつき、冷めてしまったスープをスプーンですくって自分の口に入れた。
「安心しろ。最初に言った通り、我々はお前をどうこうするつもりはない。おとなしくしていれば、明日か明後日《あさって》には父親のもとに帰してやる。そう、お前はただの巻き添《ぞ》えだ。これから起こる騒動の脇役、小道具でしかない。だからこそ、暗くなればランプをつけてやるし、食事だってちゃんと出すんだ」
スプーンを少女に無理矢理握らせると、男は立ち上がってドアの方に歩いていった。
「恨《うら》むんだったら、ラフト・リーフィシーを恨め」
「ラフト・リーフィシー……?」
はっとしたように、少女はつぶやいた。もちろんそれは、彼女にとっては耳慣れた名前であったに違いないのだ。
「そうさ。これから始まる面白い騒動の、いわば影の主役だ」
彼は扉の彼方《かなた》に消えていく。無機質な音をたてて、外側から鍵《かぎ》がかけられた。
男は少女の残された部屋を振り返りもせずに、狭い廊下《ろうか》を歩いていった。
「待っていろよ、ラフト・リーフィシー。もうすぐ愉快な芝居《しばい》の幕が上がるからな」
「なぁ」
指を舐《な》めながら、アカシュが言った。
「どうして、獄舎《ごくしゃ》のメニューにミルクプディングが出ないのかな」
ここは、東方牢《リーフィシー》城の検断庁舎《けんだんちょうしゃ》にある長官執務室。
部屋の主であるアカシュは、先ほどから『ラフト・リーフィシー』の衣装がしわになるのもお構いなしで、応接セットのソファにごろりと寝転がり、役宅の管理人シイラから差し入れられた好物を貪《むさぼ》るように食べている。
好物とは、言わずと知れたミルクプディング。それこそ「息つく間もなく」という言葉がピッタリとはまる様子で、タルトの形に焼き上げられた白いプディングを、ケーキ用のナイフで切り取っては食べ切り取っては食べを繰り返し、すでに三分の一近くが一人の胃袋の中に収まりつつあった。
「さあ……」
机に広げられた書類から顔を上げかけたエイであったが、上司のつぶやきがあまりにくだらない内容であったため、気持ちのこもらない返事を返しただけで、再び目線を書類に戻した。長いプラチナブロンドが、サラサラと冷たく煌《きら》めきながら机上《きじょう》に流れた。
「何でかなぁ、こんなにおいしいのに。そうだ、試しに一度|献立《こんだて》にのせてみるのはどうだろう」
「却下です」
アカシュの提案に、エイは今度は顔も上げずに答える。
「なぜ?」
「あなたの嗜好《しこう》が、獄舎の囚人すべてと重なるわけではないので」
書類の束《たば》を揃《そろ》える音が、机上でトントンと冷たく響く。
「それに我が東方検断《トイ・ポロトー》では、すでに十分栄養バランスのとれた食事を出しているのです。今更、デザートまでサービスする必要はありません。検断は限られた予算でやりくりしているんですよ。囚人の食費だって、税金で賄《まかな》われているんですからね」
「だからさ、スープに入れるはずの牛乳をプディングに回せばいいじゃないか」
「どうして、わざわざそんなことをしなければならないのです」
アカシュはすると「よくぞ聞いてくれた」とばかり、目を輝かせて言った。
「私が自分のことばかり考えてミルクプディングを推《お》している、と思ったか?」
「違うのですか?」
「牛乳嫌いな人間が、同じ房にいるんだよ。何でも牛乳アレルギーとかで、おかずに牛乳が入っていると私にくれるんだ。味が全部牛乳臭くなったら具まで食べられなくなるんだって。ニンジンだけ残す、みたいな芸当できないからね。だから私は、代わりにパンとかサラダとかあげているんだ。それが主菜だと、食べられるものがなくなって気の毒だと思わないか?」
牛乳が独立していれば、その分牛乳に侵されて食べられなくなる素材の被害が少なくなる、という意味らしい。なるほど、と納得できる説明ではあるが、言っている端《はし》からミルクプディングをうれしそうに切り分ける上官を見れば、先の言葉も方便ではなかろうか、と疑いたくなるというものだ。
「わかりました。検討させていただきましょう」
エイは取りあえず返事を、そこまでで留《と》めた。そして再び書類に視線を落とす。ソファに横になりながらつまらなそうに「そ」とつぶやくアカシュは、気楽なものである。
「それにしても、ミルクプディングって天使の食べ物だと思わないか?」
「……そうですか」
「お前も、書類とにらめっこなんてやめて、ここに来て一切れ食べたらどうだ?」
「……」
無視。
エイが先ほどから何をしているかといえば、ラフト・リーフィシー、すなわちアカシュの作成した書類を(頼まれもしないのに)チェックしているのだ。それも溜《た》め込むだけ溜め込んだものを一気に仕上げたものだから、見直す方はたまらない。もっと計画性をもって仕事をしてもらえないものか、と心の中ではぼやいている。
(ああ、几帳面《きちょうめん》すぎる自分の性格が疎《うと》ましい)
エイはプラチナブロンドのカーテンの中で、密《ひそ》やかにため息をついた。彼だって、極端に完璧《かんぺき》主義の自分の性格にも問題があることを、十分理解しているのである。
――と。浸《ひた》りきる間もなく、突然アカシュが叫《わめ》いた。
「……あっ、うわっ!」
「な、何事ですか!」
上官の尋常《じんじょう》でない声を耳にしたエイは、今度は素早く椅子《いす》から立ち上がりその場に駆け寄った。無視を決め込もうとしても、長官の言動につい反応してしまうのが副官の悲しい憾である。
部下の鑑《かがみ》。西方検断《エスタ・ポロトー》の誰かさんに見せてあげたい。
「――ごめん。ミルクプディングをこぼした」
見ればアカシュのブラウスからズボンにかけて、とろりとしたシミが走っている。髪の艶《つや》やかな黒、ブラウスの薄水色《うすみずいろ》、スーツのピーコックグリーン。それにシミの白が加わって、ちょっと綺麗《きれい》な色合いになっている。
「――長官」
「手が滑《すべ》って床に落としそうになったから、慌《あわ》てて姿勢を起こしたのが災いしたみたいだね」
そんな努力の甲斐《かい》なく、食べかけのプディングは服を縦断した上で床に自然落下してしまったのだ。
「……結局、ミルクプディングも、床も服も、何一つとして救うことができなかったわけなのですね。あなたは」
エイは、その現場を呆然《ぼうぜん》と見つめ、ため息を吐いた。いったいどこをどう突っついたら、事務仕事をする職場がこんな風になれるというのだろう、と。
「……あの、エイ?」
粗相《そそう》を咎《とが》められた子供のように、アカシュは作り笑いを浮かべて、エイの顔を恐る恐る覗《のぞ》き込んだ。
「服を脱いでください。ロアデルに染み抜きをしてもらいますから」
「そ、そうだね。そうしよう、うん」
エイの周囲に立ちこめる冷ややかな空気に恐れをなしたアカシュは、素直に回れ右をしてごそごそと服を脱ぎだした。その間プラチナブロンドのお人形さんは、哀れにも床に膝《ひざ》をついてミルクプディングの残骸《ざんがい》を始末している。――かなり似合わな過ぎる図である。
替えの服を着ようと、アカシュが奥の部屋に入りかけると、背後からエイが振り返りもせずに言った。
「じき終業時間ですから、寝間着[#「寝間着」に傍点]に着替えてください」
「それで?」
「迎えを呼びますから、少し早いですけど別宅[#「別宅」に傍点]にお帰りください。申し訳ありませんが、あなたがいらっしゃるとますます私の仕事が増えていくので」
「あーっ、そうやって私を追い返して、残りの三分の二を一人で食べるつもりだな?」
アカシュは、テーブルの上に放置されたままのミルクプディングを指して叫いた。言われたエイは、床に手をついたまま肩をガックリと落としてつぶやく。
「……情けない」
声は落胆に震えている。
「あなたは今年、いくつになられたのです? 十八ですよ、十八。十八といえば、立派な大人だ。大の大人なのに、頭の中はミルクプディングのことしかないのですか! プディングが惜しいのなら、今すぐ全部食べていったらよろしいでしょう!」
エイは雑巾《ぞうきん》を床に叩きつけて、アカシュを睨《にら》みつけた。彼は、切れると恐ろしいのだ。
「あ、いや、シイラが『二人で』って言ったそうだから、三分の一くらいはお前が食べていいのだよ」
アカシュの計算では、エイの取り分は半分ではないらしい。どこまで行っても、話題はミルクプディングから離れない。
「いい機会だから言わせてもらいますけれど、書類に悪戯《いたずら》描きするのも控えてください。いくら清書前の下書きとはいえ、まだ何度となく部下の目に触れることになるのです。そのたびに、私がインクで黒く塗りつぶしていることをご存じないでしょう」
細かいことだからいちいち言わずにおいたことも、きっかけがあればこうして愚痴《ぐち》となって吐き出されてしまうのだとエイは知った。優秀な副官と称《たた》えられる彼も、所詮《しょせん》は弱冠二十《じゃっかんはたち》歳の若者なのである。
「あ、あれ。お前の仕業《しわざ》だったの? 私はまた、誰かがインクをこぼしたのかと――」
「……恐ろしい。私が気がつかなければあなたは、あの山だか丘だかわからないような絵の描かれた書類を平気で回してしまうおつもりだったのですね」
「失礼な、あれはミルクプディングを描いたんだよ」
残念ながら、アカシュは絵の才に恵まれていない。エイは、うんざりとした表情で吐き捨てた。
「ミルクプディング、ミルクプディング、ミルクプディング! また、ミルクプディングですか! 泣く子も黙る東方検断《トイ・ポロトー》の検断長官が、天下の『ラフト・リーフィシー』がこんなお子ちゃまだなんて、情けなくて涙が出てきますよ!」
ため息をついて鰐職を拾い上げ、エイは再び床を掛き出した。
「ごめん」
背後から、アカシュの声が近づいてくる。だがエイは振り向かずに、すでにきれいになった床を拭き続けた。
「情けない上司で、ごめん」
「――いえ」
考えてみたら、アカシュ・ゼルフィという少年は気の毒な御仁《ごじん》なのだ。運命の悪戯《いたずら》で、検断長官でありながら懲役囚《ちょうえきしゅう》であるという、昼夜正反対の生活を余儀《よぎ》なくされている。日中は鉄格子《てつごうし》の外に出られるとはいえ、こうして検断庁舎でラフト・リーフィシーとして膨大《ぼうだい》な仕事を片づけるのみに時間を費やすばかりで、趣味や恋愛や勉学などにほとんど無縁の生活を送っている。十三の子供のままの部分が、どこかしら残ってしまったのも仕方ないと思わなければならないのかもしれない。
「エイ」
「はっ?」
しんみりと回想していたエイは、自分の正面ギリギリの所にアカシュの顔を発見して眉《まゆ》をひそめた。
「何のつもりでこのように顔を接近なさるのですか、あなたは」
「いや。急に動かなくなるから、本当に泣いているのかと思って」
「こんなことで、、泣くわけないじゃないですか。あれは言葉の文《あや》です。それに、たとえ泣いていたにしても、私は男ですからね。お間違いなきよう」
泣いている女性にはキスをして慰《なぐさ》めるというアカシュの性癖を知っているだけに、エイはミルクプディング臭くなった雑巾《ぞうきん》を前に掲げて、自分の唇をガードした。妙に危ないシチュエーション。せめて、アカシュが着替えの途中でなかったら、胸もとがはだけてなかったらよかったのに。
「ふむ……」
わかっているのかわかっていないのか、アカシュは腕組みしてうなずいてから、雑巾のカーテンをめくってもう一度顔を近づけてきた。
「エイ、男とキスしたことある?」
「……いいえ?」
「私もだ。試しにしてみようと思ったことは?」
「金輪際《こんりんざい》ありません。過去も現在も、たぶん未来においても」
「なるほど」
アカシュは笑いながら、雑巾のカーテンを再び下ろした。
「トラウトに比べると、お前はからかい甲斐《がい》がないな。今ひとつ、面白みに欠けるというか」
「恐れ入ります」
エイは、立ち上がって姿勢を正した。そして廊下《ろうか》に向かって、ハンドベルを鳴らす。程なく部下の一人であるログが入室してきた。
「お呼びでしょうか」
「長官を別宅にお送りするように」
「はっ」
別宅とは、獄舎《ごくしゃ》の別名である。日中ラフト・リーフィシーとして検断長官執務室で過ごしたアカシュは、夜は雑居房《ざっきょぼう》の囚人に戻るのだ。
「あの……、長官?」
お送りするように、と命じられたものの、当の上司は一向に立ち去る気配がない。いつものように囚人服に着替え終えてはいるのだが、後ろを向いて何やら書き物に没頭している。
「ちょっと待って」
「はあ……」
ログは困ったようにうなずいた。視線を移動させれば、副官のエイは無言で床を乾拭《からぶ》きしているわけで、それでは居心地も悪かろう。
「ログ。……これは何に見える?」
やがて振り返ったアカシュは、今いじっていた紙を掲げて聞いてきた。そこには先刻話題になったミルクプディングの絵。
「……山の絵、ですか」
無視を決め込んでいたエイの口から、クッと小さく笑いが漏《も》れた。
「――帰るぞっ」
手にしていた紙をやけくそのようにログの胸に押しつけると、アカシュは足音をたててドアの方に歩いていく。エイが、後ろ姿にボソリとつぶやいた。
「いずれ、ミルクプディングで痛い目に遭《あ》われますよ」
「デザートで、どんな痛い目に遭うというんだ?」
振り返ってアカシュが言った。
「ミルクプディングの海で溺《おぼ》れるとか? 空から落ちてきたミルクプディングに押しつぶされるとか? そんな目になら、ぜひとも遭ってみたいものだよ」
不敵な笑いを残して、東方検断長官どのは雑居房というねぐらにお帰りになられた。
テーブルに残されたミルクプディングをナイフで一口分に切り取り、ロに運びながらエイは一人つぶやいた。
――ミルクプディングの海だって? 私は絶対にごめんだ、と。
それぞれの朝
その日、アカシュはいつもの時刻に起床した。
昨日しかけたちょっとした悪戯《いたずら》の成果が気になって、同房のオキフ老に揺り起こされることもなくバッチリと目が覚めた。
「ほら、さっさと起きねえか」
惰眠《だみん》を貪《むさぼ》る囚人たちを足で転がし、毛布を剥《は》ぐ。文句を言いかける強面《こわもて》の男たちも、相手がアカシュであるのを認めると、顔をしかめて毛布を畳《たた》み、しぶしぶ所定の場所に片づけた。ここではアカシュの言葉は絶対である。なぜなら、彼はこの雑居房《ざっきょぼう》の牢《ろう》名主《なぬし》なのだから。
「早いところ掃除《そうじ》を済ませな」
「へーい」
いつも寝起きのあまりよろしくない牢名主が、今朝《けさ》は妙に張り切っている。同房の囚人たちは首を傾《かし》げながら、ダラダラと雑居房の床を掃《は》き雑巾《ぞうきん》で清めた。
「牢名主。何か、いいことでもあったんですかい?」
懲役囚《ちょうえきしゅう》の男が、つつと近づいてきて興味深げに尋ねた。
「別に」
アカシュは思いだし笑いをしながら、その場を逃れた。
今朝、これから起きようとしていることをエイが知ったら、どんな顔をするだろう。だが、そんなこと、ここにいる者たちに教えるわけにもいかない。
「隠さなくてもいいじゃないっすか。ね、化け物長官のところで、昨日何かいいことを聞きつけてきたんでしょ? 教えてくださいよ」
しつこいぞ、と振り切っても、付きまとって離れない。刑が確定した懲役囚は、取り調べの緊張感やブレッシャーがないから、それだけ退屈なものなのだ。
「そうだよ。内緒で今朝の献立《こんだて》を聞いてきたんだ。それで、ちょっといい気分なだけさ」
「ちぇーっ。そんな小さな幸せですかい」
がっかりしたように、男はアカシュから離れて彼の定位置に腰を下ろした。
(朝食の献立っていうのは嘘《うそ》じゃないからな)
鉄格子から一番遠い場所に重ねられた毛布の上に登り、アカシュもあぐらをかいた。ここが、牢名主である彼の定位置である。
もうすぐ鍵役人が朝の点呼《てんこ》にやってくる。そしてお待ちかねの朝食だ。
エイの場合。
その朝は、目覚めからして最悪だった。
何だか知らないが、巨大な白い物体に追い回され最後にはその下敷きになるという悪夢に飛び起きると、もはや始業ギリギリの時間。
(寝過ごした――? この私が?)
顔を覆《おお》っているプラチナブロンドを右手でかき上げ、エイは窓を開けた。二階から地上を見下ろせば、下《した》っ端《ぱ》の役人たちが、上着を抱えて一目散に庁舎の方に走っていくではないか。
信じられない。よもやこの窓から、こんな光景を目にすることがあるなんて。検断庁舎《けんだんちょうしゃ》の窓からならいざ知らず。
いつもは時間に余裕を持って部屋を出られる副長官どのが、まさかまだベッドの中にいるなんて思いもよらなかったであろう部下たちは、エイの部屋の前の廊下《ろうか》を通っていながら、もちろん声をかけてくれたりはしなかった。
(どうする?)
エイは、きっかり五秒間だけ悩んだ。始業の鐘が鳴るまで、あと五分。
(選択の余地などはない)
寝間着《ねまき》を脱いで布団《ふとん》の間に押し込み、ブラウスとズボンだけ身につけると、彼は廊下に飛び出した。タイッや髪を束《たば》ねるリボンは、脇に抱えた上着のポケットに押し込んだ。不本意だが、ルーズな部下を真似《まね》た格好になる。だが、この際構っていられない。
五分しかないのではなく、まだ五分あるのだ、と自分に言い聞かせる。
だが裸足《はだし》で履《は》く靴《くつ》は、足の裏に変に張り付いて気持ちが悪かった。おまけに髪は、妙に顔にまとわりついて鬱陶《うっとう》しい。それでも、エイは走った。どうせ遅刻だからゆっくり行こうとか、ずる休みしてしまおうとか、潔癖《けっぺき》な彼は絶対に考えたりしないのだ。
階段を下りると、部下たちに倣《なら》っていったん外に出た。東方牢《リーフィシー》城は一階部分ですべての棟《むね》が連絡しているから、いつもならば内部を通って庁舎に通っている。
(なるほど。彼らが外を通るのは、庁舎の廊下だと走れないからか)
走りながら、妙に納得する。いつもと違うことをすると、人間思わぬ発見があるものだ。
前を走っていた遅刻すれすれと思《おぼ》しき一団を一気に抜かすと、彼らは急いでいたことも忘れてことごとくその場に立ち止まった。
「……ふっ、副長官!?」
自分たちはまだ目覚めていなかったのか、とばかり彼らは一斉に目を擦《こす》る。
「立ち止まるな、全力で走れ!」
エイは振り返りざま怒鳴りつけた。聞き慣れた叱咤《しった》の声を耳にして、我に返った部下たちは聡てて上官の後を追った。
「ど、どうなされたのですか」
「寝過ごした」
「副長官がですかっ!?」
「悪いか」
言い捨てて庁舎の入り口に飛び込み、エイは髪を振り乱し放題で階段を一つ飛ばしに上っていった。
まるで嵐のようであった。部下たちの目に残ったのは、膝丈《ひざたげ》のズボンから顔を出したタイツを履《は》かない白いおみ足。
部下の作り上げた美しいイメージを、一瞬にして壊すとは罪な上司である。
「すげぇ……」
一人の役人がつぶやくと、残りの全員が「うん」とうなずいた。
「俺、あんな副長官、初めて見た」
「しかし。副長官があんな必死の形相をするんだから、やっぱりうちの長官ってえらい厳しいお人なんだろうな」
「怒ると怖いんだろうか」
「そうだな。何せ、『化け物』なんだから」
「違いない!」
彼らは顔を見合わせると、ドッと笑った。
何も知らない下《した》っ端《ぱ》役人は、お気楽である。
しかし、今は上官の噂話《うわさばなし》をしている時ではないと、誰か気がついてもよさそうなものではないだろうか?
二階まで一気に走ってきたエイは、自室である副長官の執務室に立ち寄ることもなく、真っ先に検断長官執務室のドアの前までやって来た。
幸い、周囲には人気《ひとけ》がない。
(間に合ったか……)
息を切らせながら、上着のポケットからピカピカの鍵《かぎ》を取り出し、鍵穴に差し込む。どうやら間一髪《かんいっぱつ》で東方検断長官を廊下《ろうか》に立たせたまま放置することだけは避けられたようだ。この部屋を開けられる鍵は三つあるのだが、実質使用されているのはエイの預かっている鍵だけなので、彼が来なければラフト・リーフィシーでさえ中に入れないわけだ。
二つの合い鍵のうち一つは鍵部屋で厳重に管理されているので、そう簡単には借り受けることはできない。もう一つは、この部屋の主が持っていなければならない物であるのだが、いかんせん訳ありの御仁《ごじん》なので身につけておくわけにもいかず、執務室の机の中にしまってある。
つまり、その鍵《かぎ》を使うためには、まずこの部屋を開けなければ不可能という、何とも合理性に欠ける状況がここに存在しているわけである。
カチャリ。
滑りのいい音と感触を指に伝え、鍵は開いた。先日|西方検断《エスタ・ポロトー》のトラウト・ルーギルが力任せに壊してくれたお陰で付け替えられた鍵は、新品で軽いところがとてもいい。
「遅くなりました」
中に誰もいないと知りつつ、エイは声を出してドアを開けた。普段であれば、「おはようございます」と言っているのだが、「早い」と言うのはいささか気がとがめたのだ。
入室と同時に始業の半鐘《はんしょう》が鳴り渡り、エイは一人苦笑した。
(厳密にいえば、私は遅刻ではなかったわけだな)
上着を客用のソファに投げ置き、少し悩んだ末に、まず部屋のカーテンを開けた。
曇り空。
どんよりとした雲が空を覆《おお》い、何だか頭痛の前触れのような天気だ。
(目が覚めなかったのは、そのせいか……)
しかしそれにしては、雨の日も雪の日も無遅刻無欠勤のエイである。
「さて……」
一度|廊下《ろうか》に顔を出し、人が近づく足音が聞こえないのを確認すると、エイはソファに腰をかけて靴《くつ》を脱いだ。
今朝《けさ》のラフト・リーフィシーは、どうやらゆっくりご出勤らしい。ならばこちらも、焦《あせ》らず身支度《みじたく》ができるというもの。
ズボンの脇ボタンを左右二つずつ外して膝上《ひざうえ》まで捲《めく》ってから、上着のポケットにしのばせておいたタイツを履《は》いてリボンで固定する。ズボンを膝下まで下ろし、再びボタンをかけて靴を履く。上着を着込んでガラス窓に姿を映すと、ボサボサ頭の自分がいた。
「……これはひどい」
ひどすぎる。まるで獄舎《ごくしゃ》から出てきたばかりの、アカシュ・ゼルフィのようではないか。こんな姿を、部下にさらしながら走ってきたなんて――。プラチナブロンドの髪を手櫛《てぐし》で整え、ムキになってリボンで束《たば》ねた。
そうして一応の満足をえたエイは、多少時間のロスはあったものの、通常通り東方検断庁舎での一日をスタートさせたのである。
東方検断副長官の朝一番の仕事は、長官執務室の掃除《そうじ》である。二間《ふたま》続きの部屋にある、すべての机、テーブル、棚《たな》を固く絞《しぼ》った雑巾《ぞうきん》で拭《ふ》いていく。床は、奥の間だけ拭けばいい。アカシュ・ゼルフィを連れた役人が、奥で囚人が長官に化けている間に手前の床を拭いて帰っていくのだ。
エイは小さく笑った。
この城は変だ。あまり使用されないとはいえ、副長官執務室はたぶん毎日部下の誰かが掃除《そうじ》している。その部屋の主であるはずのエイは長官執務室の掃除をし、長官であるアカシュは雑居房《ざっきょぼう》の掃除を終えてからこの部屋にやってくるのだから。
それにしても、今朝《けさ》は遅い――。エイは、絞《しぼ》った雑巾《ぞうきん》を窓辺に掛けながら首を傾《かし》げた。
獄舎《ごくしゃ》においては、アカシュがラフト・リーフィシーであることは知られていない。懲役囚《ちょうえきしゅう》の彼はラフト・リーフィシーのチョギー相手という名目で毎日庁舎に通っているわけだから、多少の時間の前後はこれまでもあった。だが連絡もなく、こんなに遅くなるのは初めてだ。
その時、ドアがノックされた。
「長官!?」
急いで駆け寄り、それを開けると、部下のログが驚いたように立っていた。
「書類をお届けに……。え、長官はまだいらしていないのですか?」
「うむ」
エイはログを中に入れ、持参してきた書類の束《たば》を副官の机の上に置かせた。部下といえど、この部屋に入れるのはログをはじめ数人に限られている。彼らは長官の送り迎え係でもある。
「遅いですね」
ログは部屋を見回してつぶやいた。
「今朝の迎えは?」
「キトリイです。でも、時間通りに獄舎に向かいました」
「そうか。では、心配することもないか」
「何かありましたら、連絡を入れてくるでしょう」
ログが遅い同僚の代わりに床を拭いて帰っていくと、再び執務室は静けさを取り戻した。
エイはラフト・リーフィシーであるアカシュのためにチョギー台を出し、ご丁寧《ていねい》に駒《こま》までセットした。本音をいえば、これだけ遅く出勤してきた人間に日課のチョギーを許す必要はないと思っている。だが、エイは何かをしていなければならない質《たち》だった。かといって、長官が来る前から仕事を始める気にもなれない。
もうそろそろ来るだろう、と予測して入れた紅茶は、とっくに冷めてしまっている。もったいないのでそれを飲み干し、几帳面《きちょうめん》にカップを洗ってからエイは執務室を出た。獄舎から執務室まで、いつも利用する通路はわかっている。行き違いになることはまずないだろうから、鍵《かぎ》は締めていくことにした。
この時間まで来ないのだ、何かしでかしたに違いない。まったく、懲役囚アカシュ・ゼルフィはけんかっ早くていけない。牢名主《ろうなぬし》として多少腕力を誇示する必要があるとはいえ、こうしょっちゅうではたまらない。そのたびに謹慎房《きんしんぼう》へ迎えに行く身にもなって欲しい。獄舎の役人たちは東方検断《トイ・ポロトー》のナンバー・ツーであるエイに表立って何も言わないが、陰ではいろいろと噂《うわさ》をしているはずである。客観的に見れば当然である。何しろ、アカシュ・ゼルフィは特別扱いが過ぎるのだ。
(しかし、今度は誰とけんかしたんだ……?)
囚人同士であればまだいい。けんか両成敗だ。だが、いつだったか、止めに入った役人を殴《なぐ》って鼻血を出させたことがあった。あんな事態だけは、二度とごめんだ。
いっそのこと、迎えにいくのをやめてしまおうか――。廊下《ろうか》を歩きながらエイは、現実にはできもしない反抗を思い描いて楽しんだ。獄舎《ごくしゃ》ではただの囚人であるアカシュは、己《おのれ》の力だけで謹慎房から出られはしない。本人がじっくりと反省したところを見計らって、引き取りにいけばいい。幸い今月は北方検断《ナフ・ポロトー》の月番だし、仕事は残務処理ばかり。二、三日押したところで、差し障りはない。
(私もまだまだだな。こんな想像で鬱憤《うっぷん》をはらしているなんて)
階段を下りて西を目指す。途中で、駆け上ってくるログと鉢合《はちあ》わせた。
「ああ、副長官。ちょうどいいところに」
「やはり、長官が何かしでかしたのだな!?」
エイは振り返って問いかけた。
「それとは別件で。いえ、長官にも関わりのある内容ではあるのですが」
要領をえない言葉に、半ばイライラしながら「だから何なのだ」と聞き返す。
「つい先ほど、獄舎の厨房役《ちゅうぼうやく》から苦情が来まして。仕込みの都合もあるから、急な献立《こんだて》の変更は控えていただきたい、と」
「献立の変更だって? 何のことだ?」
どうして検断の副長官が、獄舎の献立のことまで苦情を言われなければならないのか――。エイは正直に首を捻《ひね》った。
「ご存じなかったのですか。昨夕獄舎に回された書類のことを」
「どういうことだ」
「……えっ、今日の朝食にミルクプディングを出すよう、長官のご署名つきで命じられて」
「ミルクプディング!」
エイは声を上げた。またしてもミルクプディングか、と眉間《みけん》にしわが寄る。
「あの――」
「どういうことだ? 長官が作成された書類は、必ず私がチェックしてから各部署に回しているのだぞ。それなのに――」
半ば独《ひと》り言《ごと》のような副長官のつぶやきに、ログは声を出さずに
「しまった」といった顔をした。
「君が獄舎に届けたのか!?」
「申し訳ございません!」
ログは前屈運動さながら、ガバッと頭を下げた。
「長官が、獄舎《ごくしゃ》に行くついでにと、私に届けるよう命じられましたので……。当然、副長官もご存じだと……」
「――やられた」
せっかく整えた髪を、エイはイライラとかき上げた。
「いつだ」
「昨夕です。帰り間際に描かれた、あの絵と一緒に私に手渡されまして」
「絵というのはもしや、山だか丘だかにしか見えない、例の絵のことか」
「はい」
徐々に冷静さを取り戻してはきたが、そうなればそうなったで真面目に会話をしている自分が嫌になる。
「なるほど。私の目に触れようものなら、却下されるに違いない。だからといって、こそこそとせこい真似《まね》などして……」
「も、申し訳ありません」
「君のことではない」
あの迷惑な、人騒がせな黒髪の小悪魔のことを言っているのだ。
「もういい。君は通常の仕事に戻りたまえ」
「はっ」
敬礼をする部下に背を向けて、エイは歩き出した。
ただ上官の命に従っただけのログに、落ち度などない。彼はラフト・リーフィシーの直属の部下である。エイに伺いをたてる義務はない。
責められる者がいるとしたら、それはもちろん上に立つ人間であろう。そして、それを補佐しきれなかった自分である。
それにしても、とつぶやきたくなる。
「まったく、あのお人は何を考えておいでなのか――」
急いでいる時に限ってゴタゴタといろいろなことが重なって、それから獄舎の棟へ着くまでの間、エイは三人の部下に呼び止められ、五つの指示を与えなければならなかった。
庁舎と獄舎を分ける鉄扉《てっぴ》の手前には、三人の役人が手持ちぶさたで立っていた。
「何事か」
「あ、副長官」
部下たちはエイを認めると、敬礼をして迎えた。アカシュを迎えに出る係だったキトリイも、その中にいた。
「今日は何やら向こう側はあわただしいようで、取り調べが行われる予定の囚人の引き渡しが遅れているので」
「あわただしい?」
「はっ」
嫌な予感がする。
「何があったのだ?」
「詳しいことはわかりませんが、気配では人手が不足しているといった感じです。先ほどから引き渡しは、たった一人の鍵役人《かぎやくにん》が対応していますから」
通常四、五人でこなしている仕事を一人でやっているのでは、停滞《ていたい》しても仕方ない。しかし鍵役という重要な任務、人手不足では困りものだ。そうならないように、余裕のあるローテーションを組んでいるはずであるが――。
そこまで考えて、エイははたと気づいた。
(どうして私が、獄舎《ごくしゃ》の人事のことまで頭を悩ませなければならないのだ?)
他にもやらなくてはならない仕事が、山ほど残っているというのに。それでも性格というのだろうか、新たなる取り調べの未決囚《みけつしゅう》を連れてきた鍵役人を捕まえて問う。
「他の三人はどうした?」
「一人は急病、一人は雑居房《ざっきょぼう》の苦情処理に駆け回っていて、もう一人はこの忙しいのにサボりなんだよ、まったく」
鍵役人はろくに相手の顔も見ずに、忙しそうに取って帰ろうとした。だが気になる言葉を耳にしたエイが「待て」と肩を後ろからつかんで呼び止めると、鍵役人はギョッとして目を剥《む》いた。
「し、失礼しました。ふ、副長官どのでありましたか……」
「雑居房の苦情処理って何だ?」
エイは冷ややかに尋ねる。
「は」
「まさか、誰か[#「誰か」に傍点]が喧嘩《けんか》などをしたのではあるまいな」
「ち、違います。いえ、はい。結果的には、それが原因で喧嘩している者もいるにはいるのですが」
東方検断《トイ・ポロトー》のナンバー・ツーと直《じか》に話し慣れていない鍵役人は口ごもって、要領を得た説明は返ってこない。
「それで?」
少々|苛《いら》つき気味に、エイは先を促した。
「喧嘩の原因となった『それ』というのは?」
「あの」
「何なのだ。はっきり言いたまえ」
今更何を聞いても驚かない自信が、エイにはあった。小さな事でいちいち驚いていたら、あの長官の下で働いていられないのだ。
「便所争いで」
「はあっ?」
さすがの彼も鍵役人《かぎやくにん》の口からこぼれ出た一言には声を裏返らせて反応してしまった。
「ですから、便器を取り合って囚人たちが騒ぎを起こしまして。その対応に大わらわで……」
「わかった。もういい」
エイは開いた手の平を前に出して、その先の説明を止めさせた。
何という低レベルな争いなのだ。その上、その渦中《かちゅう》に自分の上官がいるというシーンが、まざまざと瞼《まぶた》に浮かんでしまうものだから、自分でもうんざりするのだ。
「とにかく。私は庁舎に帰るから、至急騒ぎを静めて、アカシュを寄越したまえ」
もうこれ以上、囚人の食事やトイレのことで頭を使うのはごめんだった。一刻も早く自席に戻り事務的な仕事に埋没《まいぼつ》しよう、それがエイのささやかな願いだった。
「アカシュですって?」
去りかけたエイに、鍵役人は不審そうな声を発した。
「あいつ、まだ庁舎に着いていないんですか?」
「――『まだ』?」
エイはゆっくりと振り返る。
「だって、アカシュは小一時間も前に獄舎《ごくしゃ》を出ていったはずですが」
目の前の男の言葉に、一瞬頭の中が真っ白になった。
その朝は、目覚めからして最悪だった。
「ああ、もうっ」
厨房《ちゅうぼう》に入るなり、ロアデルは前掛けを着けながらつぶやいた。
「何?」
先に来て朝食の下ごしらえをしていたシイラが、顔を上げて尋ねた。
「何、って?」
ロアデルが真顔で聞き返すと、シイラは苦笑して答える。
「だって、嫌なことでもあるんでしょう?」
「あら、どうしてわかったの?」
「口に出していたわよ。『ああ、もうっ』って」
「本当!?」
それを聞いて、ますますロアデルは落ち込んだ。自分がぼやいていたことさえ気づいていなかったなんて、最低だ。
「何があったのよ」
母親ほど年の差があるシイラは、身体は小さいが頼りがいのあるほほえみを浮かべた。料理を作る手を休めずに聞いてくるから、押しつけがましくないところがいい。
「でも、シイラに愚痴《ぐち》ったところで仕方がないことなの」
ロアデルはため息を一つつくと、戸棚《とだな》から食器を取り出してテーブルの上に並べた。
「そう?」
「……だって天気のことだもの」
「天気?」
「そう。この今にも雨になりそうな、どんよりとした曇り空。どうにかならないかしら」
そう言って、ロアデルは自分の茶色い髪を指さした。
「湿気を吸っちゃって、ただでさえまとまりにくい癖《くせ》っ毛《け》が、もう最低」
「あら、まあ。そんなことで世界の終わりみたいな顔ができちゃうなんて、やっぱり若い娘なのね。よかったこと」
「よかった?」
「そうよ。初めてこの役宅に来た時、あなた髪の毛のことなんて考える余裕なかったでしょう?」
「そりゃ、そうだけど」
傷ついてこの城にたどり着いたロアデルは、主人であるラフト・リーフィシーに救われた。あの時は商売女の派手なドレスを身につけ、乱れた髪も気にする暇《ひま》がなかった。
「今朝《けさ》は用事があって、検断庁舎《けんだんちょうしゃ》に行くから」
「なるほど。旦那《だんな》さまの前に出るってわけね」
今更取り繕《つくろ》ってもしょうがないのだろうけれど、少しでも見栄《みば》えを良くしたいというのが女心というものなのだ。
「わかったわ。後で、私が髪を結い上げてあげましょう。だから、落ち込むのはもうおしまい」
シイラはスープの味見をしながら、「うん」とうなずいた。
「本当に?」
「愚痴ってみて、よかったでしょう?」
「ええ!」
ロアデルはシイラに抱きついた。さっきの憂鬱《ゆううつ》な気分が嘘《うそ》のように、気持ちが晴れ晴れしてきた。
こんな時、友達っていいな、と思う。たわいのない愚痴を聞いてくれて、そして甘えさせてくれる。他人の助けなどいらない、そんな風に肩肘《かたひじ》をはって生きてきた一月《ひとつき》前までの自分が嘘のようだ。
「……ところで、シイラ。変な匂《にお》いしない?」
ロアデルはシイラの肩から顔を上げてつぶやいた。
「あっ!」
言われた彼女もすぐに気がつき、二人同時に竈《かまど》の方に走り寄った。香ばしいというよりも、焦げ臭い煙がもうもうと立ち上っている。
竈の蓋《ふた》を開けて、咳《せ》き込みながら中の天板を出したシイラは落胆のため息をついた。
「ロアデル。やっぱり最低な朝のようだわね」
その朝、シイラは役宅に勤めるようになって初めて、自慢の自家製パンを真っ黒に焦がした。
西方検断《エスタ・ポロトー》のトラウト・ルーギルは、天気などに左右されるような男ではない。彼は曇りであろうと気持ちいい目覚めを迎えるし、カラリと晴れあがっても寝坊する時はする。よく言えばマイペース、詰まるところ鈍感であった。
それで今朝《けさ》のご機嫌はというと、それはもう「かなりよろしい」のである。西方牢城《ルーギル》の役宅で母親お手製の『やわらかトースト』にハチミツをたっぷりかけて三枚食べたし、炒《い》り卵《たまご》の堅さも申し分なかった。何よりうるさ型の父が昨日から領地見回りに出ていて留守ということが、気分をどこまでも高揚《こうよう》させた。
だから、まあ、ウキウキ気分も手伝って、東の友達を訪ねてみようなんて気になったわけである。今月は北方検断《ナフ・ポロトー》の月番。こんな時でもなければ、東と西に分かれて働く検断の役人は親交も深められないのだから。
「そうさ。私だって、強いて頼まれればチョギーの相手くらいしてやるのだ」
自家用馬車を東に走らせながら、フフンと鼻を鳴らしてうなずいた。
「囚人を相手にするくらいだ、ラフト・リーフィシーのチョギーの腕前は大したことがないのだろう」
――どうやらトラウト氏は日頃、弱い相手としかゲームをしないらしい。
「いつも偉そうな彼の鼻をへし折ってやろう」
そんなことを考えていた時、馬のいななきとともに馬車がガタンと大きく揺れて止まった。
「ど、どうした」
「済みません、坊ちゃん。おけがはありませんか」
供はあわてて御者台《ぎょしゃだい》から下りると、窓に近寄って中にいるトラウトの安否《あんぴ》を確かめた。いつもは『坊ちゃん』と呼ばれることを嫌うトラウトであるが、それはそれ、機嫌がいいから小さなことなど気にせず穏やかにうなずいた。
「あの荷馬車、急に路地から飛び出して来たかと思ったら、そのまま速度も落とさずに走り去って行きやがったんです」
「ほう?」
窓から身を乗り出して背後を見れば、牛乳か何かを積んだ荷馬車が小さくなっていくのが確認できた。
「何を急いでいたのか知らないが、まったく危ないな。でも、まあ、事故にならずによかったよかった」
今朝《けさ》絶好調なトラウトは、大らかに笑った。
「……坊ちゃん」
しかし供は馬車の点検を始めると間もなく、絶望的に暗い声で訴えた。
「車輪が壌れて、動かないのですが――」
序盤戦
役宅に向かおうと廊下《ろうか》を出ると、そこにロアデルが立っていた。
「エ、エイさま」
彼女は今まさにノックしようと身構えていた右腕を、恥ずかしそうに下ろして笑った。いつもと違ってきっちりとまとめた髪型が、少し大人っぽく見せていた。
「ちょうどいい処《ところ》に」
エイはその腕をとって、検断長官《けんだんちょうかん》執務室に引き入れた。
「どうなさったのです?」
「少々聞きたいことが――」
「聞きたいこと?」
ロアデルは部屋の中を見回し、二間《ふたま》続きの奥の部屋に人の気配が感じられないと、小さく首を傾《かし》げた。
「アカシュさまは……? 今日はお城にいらっしゃる日ではありませんよね?」
「ええ」
椅子《いす》に掛けてください、と、エイは身振りでロアデルに告げた。ロアデルは左手に抱えていた荷物を自分の脇に置いて、長椅子に腰掛けた。
「私に聞きたいことって――」
「長官のことなのですが……」
「アカシュさまの?」
その反応を見て、エイはその先を尋《たず》ねずとも理解できてしまった。
ロアデルからは、彼が期待しているような情報は得られないだろう。それは、検断で重要参考人を取り調べてきた経験からわかる。だが、エイは質問を続けた。勘《かん》だけでは何の裏付けにもならないことを、十分に理解しているからだ。
「今朝《けさ》、長官は役宅にお戻りになりましたか?」
「いいえ?」
予想通り、ロアデルは首を振った。
「では、その他の場所であの方を見かけたことは?」
「アカシュさまが、どうなさったのですか?」
まるで取り調べのような口調に、何も知らないロアデルは訝《いぶか》しげに聞き返した。彼女が少なからずこの城の主に好意を抱いているだけに、その反応は当然のものと予想はついていた。
「ロアデル」
だが、エイは冷ややかに名を呼んだ。いや、冷ややかというより、ただいつもの余裕を欠いていただけなのだ。
「申し訳ないのだが、あなたからの質問は後回しにさせてください。今は、こちらが尋ねたことに正直に答えていただきます」
「……はい」
ロアデル・キアナは、アカシュ・ゼルフィがラフト・リーフィシーである事実を知っている数少ない人間の一人だ。長官が見込んだだけに、さすがに空気を読むのがうまい娘だった。
「アカシュさまは今朝、役宅にお帰りになっていません。少なくとも、私がこちらに伺《うかが》うまでの間にお見かけしませんでした」
「わかりました、ありがとう」
「まだ、いらしていないんですね」
部屋の隅《すみ》に置かれたチョギー台に視線を向けて、ロアデルがつぶやいた。黒と白の駒が、スタート前の定位置に一糸《いっし》乱れず並んでいる。エイがうなずかなくとも、この部屋の主の不在は一目瞭然《いちもくりょうぜん》であった。
エイは今朝からのことを、かいつまんでロアデルに説明した。とにかく、ラフト・リーフィシーがアカシュの姿のまま消えてしまったという事実を。
股《もも》の上で指を組み、エイはできるだけサラリと告げた。ロアデルはそれに真剣な面もちで聞き入り、時折小さくうなずいた。
「昨日くだらない事で言い合いをしてしまいましてね。それで、拗《す》ねて隠れておいでなのだとは思うのですが……」
とは言いながら、東方検断《トイ・ポロトー》の副長官としてやるべきことはやった。鍵《かぎ》役人《やくにん》には事実関係が明らかになるまでは世蕣冊、と堅く口止めをしたし、鏨では鵬やかに各房の蔵呼を行い、それとともに取調室や使役労働の箇所《かしょ》の見回りを行った。
その結果わかったことは、行方《ゆくえ》不明なのはアカシュ・ゼルフィただ一人であることだった。
門衛の証言では、今日アカシュらしき少年を城門から外に出していないというから、たぶん東方牢《リーフィシー》城内にいると思われる。だから現在、引き続き信用できる部下に城中を探させている最中である。
「私、一度役宅に戻ってシイラに聞いてみます。洗濯場《せんたくば》にいるはずのマイザの所も、まだ探しに行かれてないですよね?」
「ロアデル!」
立ち上がりかけた彼女の左手を、エイはあわてて掴《つか》んだ。
「えっ?」
「あ……いや。その……大げさにしたくはないんで……」
掴んだはいいが、自分がどうしてそんな行動にでたのかがわからず、とっさに頭に浮かんだ書葉をつぶやく。
「大丈夫です。騒ぎ立てたりしませんから」
ニッコリ笑うと、ロアデルは右手でエイの手に触れて、そのまま自分の左手をそっと引き抜いた。
「――ああ、失礼。あなたを信じていないわけでは、決してないのですが。長官が我々を驚かせようとかくれんぼしているとしたら、帰りづらくなりますからね」
「ええ。わかっています」
心当たりの場所を見回ったらすぐに戻ってくる、と言って、ロアデルは扉の向こうに消えていった。そのまま椅子《いす》の上に置き去りにされた彼女の荷物は、昨日染み抜きを頼んだラフト・リーフィシーの服だった。
「まったく、あの方も人騒がせな――」
エイはつぶやいて笑ってみた。だが、頬《ほお》が引きつって、うまく唇を上げることができない。
「かくれんぼ、なんて」
冗談めかしてロアデルにはああ言ったが、本当は自分を落ち着かせようとしていたように思われた。
あの人だったらこれくらいの悪戯《いたずら》はするだろう、と。そう思わなければ、悪い方へ悪い方へと考えてパニックを起こしてしまいそうだから。
(悪い方へ……?)
どうしたことだ。
検断の仕事であればいつも、最悪の事態を想定し、あらゆることを疑ってかかるくせに。
よく考えてみろ、と心の中で冷静になった自分が言う。
いくらあの人だって、ここまで人を心配させるか? 第一、囚人服のままで、どこに隠れているというのだ?
「事故」。
その二文字が、まず頭の中をかすめた。
いや、事故ならばまだいい。それが「事件」であれば、ただ事では済まない。雛と姿を消したアカシュは、ただの囚人ではない。東方検断長官でもあるのだ。
エイは長椅子《ながいす》の傍《かたわ》らに、ガックリと膝《ひざ》をついた。万一に備えて、最悪の事態も考えに入れておかなければならないのかもしれない。
ミルクプディングの染みは、きれいに落ちている。それなのに、この服に袖《そで》を通すべき人がここにはいない。
「長官。……今でしたら叱ったりしませんから、出てきてくださいませんか」
主《あるじ》不在の広い執務室で、彼の虚しいつぶやきに声を返す者などいるはずもなかった。
洗濯場に出した椅子《いす》にどっかりと座った大女が、空を見上げてため息をついた。
「どうしたの? マイザ」
「ああ、ロアデルかい」
声をかけると、口もとを上げて眉《まゆ》を下げ、首をすくめてマイザは笑った。
「何だっていうんだろうね、この天気」
「そうね」
ロアデルはマイザが座っている椅子の側まで歩み寄ると、長いスカートをたくし上げてからそこにしゃがんだ。こうやって二人で話をするのは、ずいぶんと久しぶりに思えた。ほぼ毎日洗濯場に顔を出してはいるのだが、元々は針と糸を持つ仕事に就《つ》いていたロアデルは力仕事は不得意で、洗濯物を取り入れて畳《たた》んだり、繕《つくろ》い物を主に担当している。洗って濯《すす》いで干すといった部分は、マイザが腰痛を抱えてからというもの、相変わらず獄舎《ごくしゃ》の役人や囚人たちにお鉢《はち》が回っているのである。
「いっそのこと雨になっちまえば、諦《あきら》めもつくんだけどさ。きっと洗濯を始めた途端にザーって降ってくるんだよ。でさ、天気は中途半端なくせに―――」
「腰や膝はシクシク痛むんでしょ?」
「そうさ。よくわかるね」
「わかるわよ。だって私の髪がまとまりにくい日は必ず、マイザの身体が不調なんですもの」
「そうだったかね」
マイザは豪快に肩を揺すって笑った。
「ねえマイザ」
ロアデルは、膝掛けの上からマイザの膝をさすった。こうすると、少しは楽だと以前聞いたことがある。
「何だい?」
マイザは膝をさすられて、気持ちよさそうに小さく唸《うな》った。
「手伝い、遅いわね」
「そうなんだよ。どうしたんだろうね、まったく。最近の若者はなっちゃいないよ。少々口が悪くても、アカシュみたいに働き者だといいんだけどね」
獄舎の建物を顧《かえり》みるマイザの表情を見て、少なくともここには来ていない、そうロアデルは思った。
程なく鍵《かぎ》役人《やくにん》が手伝いの囚人を連れてやって来たので、ロアデルはスカートをはたいて立ち上がった。
そして役宅に戻る途中、ふと自分がエイと似た表情をしていたような、そんな気がした。
馬車は動かなくなったが、それを割り引いても今日はいい日だ。
そう考えながら、トラウトはご機嫌もよろしく東方牢《リーフィシー》城に続く石畳《いしだたみ》の坂道を歩いていった。
予定よりずいぶん遅れてしまったが、それは致し方のないこと。いい行いをすると、人間、魂《たましい》が洗われるように気分がいいものなのだ。
彼は自家用馬車から降りると、辻《つじ》馬車《ばしゃ》を拾うべく大通りを歩いた。こんな風に非番の日に、眺める街はまた趣《おもむき》があっていい。
今日も陛下《へいか》のお治めになるこの国は、平安で美しかった。
それもこれも、我ら検断の働きあってこそ――などと悦《えつ》に入っている時、彼のブーツが何かを踏んだ。拾い上げると、それはただの一プス銅貨《どうか》だった。
銅貨一枚といえども現金に変わりはない。正義感の強いトラウトは、もちろんそれを最寄《もよ》りの検断分所に届けてきたのだ。だが彼にはいいことをしたという満足感が残ったろうが、プス銅貨一枚のために書類を起こさなければならなかった分所の役人はいい迷惑だったに違いない。一プスは百分の一リーヤオ。財布《さいふ》にでも入っていなければ、落とし主など見つかるはずもない。それでも西の検断副長官自らの届けであれば、蔑《ないがし》ろにできようはずもないのだ。
そんなこととは露知《つゆし》らず、おめでたいトラウトは鼻歌混じりに東方牢城の城門が見える辺りまでやって来たのであった。気分がいいついでに、辻馬車を途中で降りてきつい坂を徒歩で上ってしまうあたり単純な彼らしい。
「あっ」
「これは失礼」
誰かと肩先がぶつかっても、ムッとはしない。こういうことはお互いさまだ。
「あの……もし旦那《だんな》」
今し方ぶつかった男が、トラウトを呼び止めた。
「何だ?」
「これ、落とされましたよ」
差し出されたのは、見覚えのある物。毎朝母が準備してくれる、トラウトの名前入りのハンカチだ。
「や、これはどうもありがとう」
礼を言って、ポケットにしまう。額からはドッと汗が吹き出た。
トラウトは、ほんのちょっぴり反省した。浮かれているから、落とし物をしても気づかず歩いていってしまうのだ。
しっかりしろ、トラウト。
自分自身に檄《げき》を飛ばして、彼は厳《いか》つい城門をくぐった。
その頃。
東方検断庁舎長官執務室では、一人副官であるエイが、眉間《みけん》にしわを寄せてうなり声のような大きなため息をついていた。自分の机ではなく来客用の長椅子《ながいす》に浅く腰掛けているのは、何か知らせがあった時に立ち上がりやすいから、ただそれだけの理由だった。
「いったい、何が起こったというのだ……」
顎《あご》の前で組んでいた左右の指を外して、そのまま額にかかった髪をかき上げる。人形の苦悩《くのう》する姿には、またいつもと違った美しさがある。
「エイさま」
顔を上げると、そこには心配そうな顔をしてロアデルが立っていた。
「ノックしたんですけれど、お返事がないので――」
「ああ、それは済みませんでした」
エイはほほえんでから、彼の正面にある椅子を勧めた。
「それで」
「役宅にもマイザの所にも、アカシュさまはいらっしゃいませんでした」
「……そうですか」
先ほど部下から、井戸の探索をした結果見つからなかったという報告が届いた。城内には、すでに探すべき場所はなくなってしまった。
「あの」
ロアデルは遠慮《えんりょ》がちに尋ねた。
「私に何かお手伝いできることは」
「そうですね――」
エイが思案しているところに、部下のキトリイが入室してきた。
「副長官、あの……」
ロアデルが同席していることで一瞬|躊踏《ちゅうちょ》したが、エイは構わず報告を入れるように命じた。
「あの、長官を雑居房《ざっきょぼう》から引き出した鍵《かぎ》役人《やくにん》の件ですが」
「見つかったか」
「いえ。同僚の者の話ではペイトは……あ、その鍵役人の名前ですが、いつの間にか見えなくなったとかで、確認しましたら城外に出ていることがわかりました。門衛が『早退する』と言って出ていく彼を、覚えておりました」
「長官も一緒か」
「いえ。彼は一人だったそうです」
「わかった。至急ペイトを探して連れ戻せ」
「はっ」
キトリイが退室すると、エイはロアデルに首をすくめて見せた。
「今朝方《けさがた》、鍵《かぎ》役人《やくにん》がぼやいていた『この忙しいのにサボり』というのは、ペイトという男だったらしい」
「――彼が、アカシュさまを?」
「それは何とも」
エイは一度目を閉じ、それから瞼《まぶた》を静かに上げて答えた。
「だが、何も関わりがないとは思いにくい。長官がいなくなった朝に、無断早退した人間を、疑うなという方が無理でしょう」
「……ええ」
そう。今は何も断定できない状況だった。何が起こったのか、手掛かりがほとんどないに等しい。だから気になる事は一つずつ当たってみるしか方法がない。
「ところで、ロアデル。先ほどのあなたのお申し出、ありがたく甘えさせていただいていいですか?」
エイが、立ち上がった。
「少しの間、ここで留守番をしていてもらいたいんです」
「お留守番を?」
ロアデルが聞き返すと、彼は「すぐに戻りますから」と告げた。
「部下からの報告はすべてこの部屋に届くことになっているのですが、ちょっと獄舎《ごくしゃ》に行ってきたいので」
部下が来たら、エイが戻るまでここで待つように告げるのがロアデルの仕事だった。
「この老《お》いぼれをお呼びとは、珍しいこともあるものですな」
髪の薄い老囚人が、取調室に入るなりそう言った。
「それも副長官|直々《じきじき》とは――」
何かあったな、といった顔をして、指示されたエイの向かいの席につく。彼をここまで連れてきた役人は、手首の縛《いまし》めを解くと部屋を出ていった。
「仕事を中断させたかな、オキフ」
「いえ。ちょうどキリがいいところでしたから」
アカシュと同じ懲役囚《ちょうえきしゅう》のオキフは、時計の修理や点検を仕事として与えられている。盗賊《とうぞく》団の錠前《じょうまえ》破りの過去をもつ彼の腕は、刑が確定してからこっち、小さなネジやぜんまいを扱うのに役立っている。自由になった手首を、調子を確かめるようにグルグルと回した。
「今更、取り調べではないでしょうな?」
「もちろん。先代が裁断した刑を、今になって調べ直したりすることはありえない」
「それを聞いて一安心です」
オキフは軽く笑ってから、「で、わしに何か聞きたいことでも?」と目を細めた。
「時計を診《み》てもらおうと思って」
エイの懐《ふところ》から銀の懐中時計が出され、机の上に置かれた。
「最近、少し遅れるのだ」
「そうですか。どれ、拝見」
オキフは一度エイに頭を下げてから時計を手に取り、それから耳に付けて音を聞いた。
「音の感じじゃ、油が足りなくなってきたくらいで、あとはどこも問題なさそうです。中を診て差しあげたいが、生憎《あいにく》と修理の道具は携帯できないきまりで」
「そうか。じゃあ、今度ゆっくり診てくれ」
エイはそう言って、差し出された時計を受け取った。年寄りながら、オキフは耳がいい。ちょっとした機械なら、外側から壊れた箇所《かしょ》を言い当てられるといった特技をもっている。
「実は、……アカシュのことなのだが」
懐に健常な時計を戻しながら、エイは切り出した。取り繕《つくろ》っている時間などないのだ。
「はあ、牢《ろう》名主《なぬし》の」
老人はのんびりと聞き返す。
「彼とは同じ房だったな」
「ええ。時たま房替えがあって、あのお人は見回りのように雑居房《ざっきょぼう》を転々としてますから、いつもというわけではありませんが。――今朝《けさ》までは一緒でした」
今朝のことを聞きたい、とエイは言った。それも、できるだけ詳しく、と。
「今朝?」
オキフは首を捻《ひね》った。当然だ。
鍵役人には口止めをしてある。アカシュが行方《ゆくえ》不明であることは、ごく一部の人間を除いてほとんど知られていなかった。庁舎の役人にさえ明らかにしていないのに、囚人に思い当たるわけがない。
「今朝、というと、あの便器争奪騒動の事ですか」
オキフの言葉を聞くと、エイは顔をしかめながら咳払《せきばら》いをした。――嫌な事を思い出してしまった。
「――悪いが、それよりもう少し前の話を」
「そうですなあ。それより前、といいますと……」
天井を見て、老人はうーんと考える。
「牢名主《ろうなぬし》は、今朝《けさ》は目覚めが非常によろしかったですな」
「目覚めが、いい?」
「何でも、献立《こんだて》のことが気になった、とかで」
(献立……?)
エイは眉《まゆ》を寄せた。すごく引っかかる言葉であるが、今は話の先を聞くことにする。
「それで?」
「それで、って別に。あのトロンとした白いデザートを機嫌よく三つばかし食べて、それでいつも通り鍵《かぎ》役人《やくにん》に連れていかれましたよ」
「トロンとした、白い、デザート……?」
(ここでも、またミルクプデイングか!)
その忌《い》まわしい響きの言葉に、エイは一人頭をかかえた。
「今、み、三つと言ったか」
「はい」
聞けば、他の囚人からもらったものだという。
「わしはああいう何だか歯ごたえのないような物は好かんので。それと同じ房に、牛乳嫌いの奴が一人います」
「一人で、――三人分。何て……情けない」
さすがはラフト・リーフィシー、行方《ゆくえ》不明になりながらも部下を腰砕けにさせることにかけては外さない。
「あの……副長官どの?」
「ああ、済まない」
勢い机に突っ伏してしまったエイであったが、ハッと我に返って背筋を伸ばした。そして仕事用の顔に戻して言った。
「取りあえず確認すると、今朝の変わったことといえば、アカシュが早起きしたこととミルクプディングを三つ食べたことだな?」
「それと、便器争奪騒動」
「だが、それはアカシュが房を出た後のことなのだろう?」
「そうでした」
老人は思い出したように、ポンと手を叩いて笑った。
これ以上有益な情報を得られそうもないので、エイは取調室から退散することにした。去り際、ふと気になってオキフに尋ねた。
「よく、そんなことが原因で喧嘩騒《けんかさわ》ぎなんかあるのか」
「『そんな』?」
「その……手洗いの順番なんかで……」
便器、という言葉はあまり口にしたくなかった。その手の話題自体が苦手な分野なのだが、もし便器の数が足りなくて毎日騒動が絶えないようなら、増設も検討しなければならないと考えたのだ。――こんな時でも、細々としたことが気になってしまう。エイは根っからの仕事人間なのかもしれない。
「よく、なんかないですよ」
オキフはカラリと答えた。
「こんなこと一年に一回かそこらです。一斉にお腹を下《くだ》したりした時くらいで。……でも、今朝《けさ》は、あいつら下痢《げり》って感じでもなかったですなぁ」
「そうか、参考になったよ」
確かにそれは、「その朝の変わったこと」ではあったようだ。
「ミルクプディング、ですって?」
詰め所に現れた意外な来訪者の言葉に、鍵《かぎ》役人《やくにん》たちは目を丸くして答えた。
「そうだ。プディングに使われた牛乳が、悪くなっていたんじゃないか。それが原因で、腹がゆるくなった者が出た、とか」
「ええ、まあその線は私たちも考えなくはなかったんですけれど。しかし副長官、ミルクプディングっていうのは、一度牛乳に火を通すんですよ。それに東方牢《リーフィシー》城では、先代から取り引きしている信用おける牛乳屋からしか買わないんです。場所が場所ですからね」
牛乳屋は日に二回、しぼり立ての牛乳を配達する。朝届けられた分はその日の夕食に、夕方届いた分は翌日の朝食に加熱調理して使い切るので、牛乳が原因で集団食中毒が発生したことはここ二十年ないという。そういう実績があるからこそ、東方検断《トイ・ポロトー》ではその牛乳屋を替えずに今日まで懇意《こんい》にしてきたのだ。
「昨日の夕刻届けられた牛乳は、いつもの店の物だったのだな?」
「さあ。でも通行証がなければ城内に入れませんし。厨房《ちゅうぼう》の者にしても、いつもと違う人間が配達に来ていたら怪しむでしょう」
「そうか」
エイはうなずいた。
取調室の帰りにふと引っかかりを覚えて獄舎《ごくしゃ》に寄ってみたのだが、どうやら勘《かん》は外れたらしい。
「厨房《ちゅうぼう》の下働きで、最近雇った者は」
「いません」
「君たち鍵《かぎ》役人《やくにん》は厨房に自由に出入りできるのか?」
「よしてくださいよ。空の樽《たる》とかを業者に返す手伝いはできても、囚人に出す食材の側には近づけやしません」
「わかった」
と、いうことは、ペイトが何かを食材に混入させるチャンスはなかったことになる。
執務室に帰ろうと詰め所を出たところで、一人の鍵役人と鉢合《はちあ》わせした。今朝《けさ》は見かけなかった顔なので、一瞬彼がペイトかと思ったが間違いだった。今朝は急病で持ち場を離れていた者だそうだ。
そう。確か、一人は急病、一人は雑居房《ざっきょぼう》の苦情処理、もう一人はこの忙しいのにサボり、という話だった。
「もう、身体の方は平気なのか?」
「まだ、少し胃が痛みますけど。吐き気はどうにか収まりました」
「吐き気?」
意外な言葉に、エイは眉《まゆ》をひそめた。
「そうです。私の場合、下痢《げり》じゃありません。嘔吐《おうと》したんです」
彼もまた、ミルクプディングを疑っていた。鍵役人の中でミルクプディングを食べたのは自分だけだったから、だそうだ。
「欲張って三つも食べるからさ」
詰め所で聞いていた役人が、話に加わって同僚《どうりょう》を小突いた。聞けば、乳製品が好きな彼が他の鍵役人たちが食べなかった分をすべて平らげたらしい。――何だか、誰かを思い出させるエピソードだ。
「あの時は、何だか朦朧《もうろう》としながら吐き続けました。食べ過ぎだったのかなぁ。牛乳のこと考えると、ムカムカするから、絶対だと思ったんですが」
「が?」
「厨房役人に牛乳は大丈夫なはずだって聞いて。その上、プディング食べないのに、腹がゆるくなった囚人がいたものだから、やっぱり外れだったかなぁって思い始めていたところだったんです」
新種の風邪《かぜ》なのではないか、と鍵役人たちは勝手に結論を出していた。だからプディングを食べなかったペイトだって、早退したのだ、と。
しかし、エイはそれにうなずけなかった。
いくら新種でも、人間一人消してしまう風邪《かぜ》なんてあり得ないことだった。
エイが検断長官執務室に戻ると、出かける前より人の数が増えていた。
一瞬、長官、もといアカシュ・ゼルフィが見つかったのかと思ったが、そうではなかった。
かといって報告にきた部下というわけでもない。あれは、あの斜め後ろからでもわかるあの四角い顔は――。
「申し訳ありません、エイさま」
留守を任されていたロアデルが、いち早く駆け寄って大きく頭を下げた。そして客人には聞こえないくらい小声で告げた。
「ラフト・リーフィシーさまはお留守だと申し上げたのですが、無理矢理入って来られて――」
「……気にしないで、ロアデル。その時の様子なら想像はつくから」
きっと、また扉の鍵《かぎ》を壊しかねない迫力で、強行突破してきたのであろう。相手が彼なら、誰を留守番に残していっても、こんな結果になったはずだ。
エイは「その場を引き受けた」といった表情でうなずき、ロアデルにはお茶を二つ頼んだ。
(やれやれ)
何も、こんな取り込んでいる日を選んで来なくてもよかろう。――そう思いながら、エイは深呼吸をしてから大げさな身振りと笑顔を作って歩き出した。
「ようこそ、トラウトどの」
「やあ、エイ。久しぶりだな」
ヒソヒソ話など聞いていない、たった今エイに気がついたというように、トラウト・ルーギルは振り返って挨拶《あいさつ》をした。いや、彼に限っては、本当に気がついていなかったに違いない。
耳に入っていながら知らんぷりをできるほど、彼は器用ではない。
「ええ。ご無沙汰《ぶさた》いたしまして」
「ラフト・リーフィシーは、留守なんだって?」
「ええ。生憎《あいにく》と」
それを強調するように、エイはあえてトラウトの正面に座った。いつもならばラフト・リーフィシーが座る場所だ。二人の間のテーブルに、ロアデルがお茶を入れたカップを置いていく。
「そうか、残念だな。彼とチョギーでも、と思ったんだが」
「私がお相手したいところですが、長官ほどの腕もありませんからね。その上少し調べ物がありますので、お茶一杯くらいしかおつき合いできないのですよ」
普通の人間ならばこれくらい言えば、お茶一杯飲んだら帰って欲しいというこちらの意向をくみ取ってくれるのであろうが、西方の副長官どのは鈍感で有名であった。
「いいとも。君は気兼ねなく仕事をしたまえ。私はラフト・リーフィシーが戻るまで勝手に待たせてもらうから」
「えっ!」
「時間はあるし。非番だし、父上も遠出しているから、どうせ暇《ひま》なんだ。何か不都合でもあるかい?」
「……いえ、別に」
頬《ほお》を引きつらせながら、エイはお茶を一口すすった。トラウトはなまじっか嫌みがないところが厄介《やっかい》な客人だった。これが」と一癖《ひとくせ》も二癖《ふたくせ》もある人物ならば、こちらも強気に出られるものを。
「ところで、彼はどこに行っているんだ? 留守なんて、珍しいこともあるものだな」
「ええ……ちょつと」
さて、どうしたものだか。この様子ではフフト・リーフィシーに会うまでは、日が暮れても帰りそうもない。
(アカシュ・ゼルフィだけでなく、ラフト・リーフィシーの不在理由も考えなくてはならないなんて――)
しかし、適当に理由をつけるわけにはいかない。絶対会いに行けないような場所に居ることにしておかないと、事後処理に困ることとなる。
(絶対に会いに行けない場所……)
と、その時。
「お茶のお代わりいかがですか」
ロアデルがティーポットを手に歩み寄ってきた。
「あっ」
エイがそれと察した時にはもう、遅かった。彼女は何もない場所[#「何もない場所」に傍点]で大げさによろけ、ティーポットを落とした。ボットは、トラウトの足もとで粉々に割れ、熱い紅茶が弾け飛んだ。
「し、失礼を……!」
あわてて駆け寄り、お茶のかかった客人のズボンを自分の前掛けで拭《ふ》く。
「本当に、申し訳ありません。ああ、何ていう粗相《そそう》を」
「いや、大丈夫だよ。誰にも失敗はある」
トラウトは紳士《しんし》なので、女性にはやさしい。
「そう言っていただけると……。ああ、でもよろしゅうございました。トラウトさまはご立派なブーツを履《は》いていらしたから、紅茶がかかっても火傷《やけど》はなさらなかったようですわね。けれどズボンのお膝《ひざ》あたりは、もしや染みになってしまうやも知れません。すぐに染み抜きをした方がよろしいですわね。……でも、このような高価な生地になりますと、私などが勝手にいじりますとかえって染みが広がりそうで。これは早くお戻りになって、専門家に染み抜きしていただいた方が――」
「――ロアデル」
エイは頭を抱えた。客人を帰すためとはいえ、芝居が見え見えなのだ。しかし、相手はトラウト。そんなこととはまるで気がつかず、「そうした方がいいかなぁ」などと言いながら、自らも服に弾けた紅茶を攤おうと、胸もとに手をいれてハンカチを取り出した。すると、それと一緒に何かが床に落ちた。
「何だ、これ?」
ギリギリ紅茶の水たまりにはまらずに済んだそれを、トラウトは無造作に取り上げて見た。
何やらそれは、封筒のようだった。
「ラフト・リーフィシー宛《あて》だ」
そのまま封筒はエイの手に渡る。
「長官に? 西方検断《エスタ・ポロトー》からですか?」
「いいや。覚えがない」
白い封筒の宛名《あてな》の部分には、ただラフト・リーフィシーの名前だけ書かれている。東方牢《リーフィシー》城や東方検断《トイ・ポロトー》という文字、もちろん部署名も記されていない。名前の横には、『親展』そして『大至急』とあった。
「分所に寄った時に預かったかなぁ。そんな記憶ないけどなぁ」
トラウトはしきりに首を捻《ひね》っている。エイは、手紙をテーブルの上に置いた。
「どういう方法を使ったかはわかりませんが、少なくともこれをあなたに託《たく》した人物は、あなたがトラウト・ルーギルであるということと、ラフト・リーフィシーに直接会える存在であると知っていたようですね。だからこそ、こんなに早くこの部屋に届けられたんです」
「どういうことだ?」
「つまり、検断に届けられる手紙の量というのは毎日|膨大《ぼうだい》な数ですからね。郵送や門前のポストを経由していたら、いつ相手に届くかなんてわかったものではないでしょう?……ああ、もちろん西方牢《ルーギル》城にお住まいのトラウトどのでしたらご存じのことでしょうけれど」
「うん、まあ。待ちかねていた手紙が、手紙仕分け室で滞《とどこお》っていたりしたこともあるな」
牢城には、そこに勤めている役人に個人宛で手紙も届けられる。それを含めて各部署ごとに仕分けして分配する。だから所属部署名なし名前オンリーでは、自動的に弾かれて後で部署を調べられることとなる。そんなこんなで遅れるわけだ。
ところで、検断長官宛というのは部署なしでもすぐに仕分けられるケースである。それでも本人の手もとに届くのはかなり遅れる。そればかりか、届けられないこともある。検断長官宛の手紙というのは、大多数が検断に対する苦情や要望、または訴訟《そしょう》に関するものであるから、事前に開封され、各担当に回されるからだ。
「ちょっと待て。じゃあ、個人|宛《あて》の恋文なんかも見られてしまうではないか。検断長官になったら、プライバシーがなくなるのか!」
トラウトは、解説中のエイに詰め寄った。いずれ西方の検断長官になる可能性がある彼としては、そこらへんは聞き逃せないポイントであろう。
「本当に親しい関係でしたら、役宅宛に手紙を出しますよ。もちろん親展扱いでね」
「なるほど」
エイの言葉にホッとしたような表情を見せるトラウト。もう染みのことなど、すっかり忘れてしまったようだ。
とにかく手紙の差出人は、ある程度知恵が働く者らしい。どこかでトラウトを発見し、配達人としてこれ以上の適任はいないとばかり、手紙を託《たく》したのだ。たとえこの場で偶然手紙を発見されなくても、トラウトの性格上見つければ必ず届けにくるだろうから、それでもやはりかなり早くラフト・リーフィシーの手に渡るはずだ。
「――この手紙は、私が責任を持って長官にお届けいたします。今日の所はお引き取りいただけませんか」
「だが、彼は留守なのだろう? 至急と書いてあるが、大丈夫か?」
「ええ、大丈夫です。ほら、ロアデルもズボンの染みを心配していますし」
急《せ》かすように、エイが先に立って扉まで先導する。
「ああ、そうだな。……ロアデル、別に気にしなくていいからね」
「は、はい。ありがとう存じます。お気をつけて」
ロアデルが、深々と頭を下げて扉を開けた。
「後日、改めてお詫《わ》びに伺いますので」
「そんな心配はしないでくれ」
「そうですか。そう言っていただけると……」
エイが肩を抱くようにして、トラウトと一緒に廊下《ろうか》に出た。
「では。ラフト・リーフィシーによろしくな」
何か釈然としないといった表情ではあるが、無事客人は検断長官執務室を後にした。
しばらくの間トラウトの後ろ姿を見送っていたエイは、その姿が見えなくなるとすぐ執務室に取って返した。
「ロアデル……。まったく君って人は――」
「ごめんなさい!」
皆まで言う前に、彼女は大きく頭を下げた。
「あれくらいしか考えつかなくって」
「それにしても、無謀《むぼう》すぎる。長官の客人にお茶をかけるなんて」
相手がトラウトだったから、大事にならずに済んだのだ。しかし、考え方を変えれば、ロアデルは人を見て行動に出たといえなくもない。
彼女はモジモジしながら言い訳をした。
けれどお茶は十分冷ましておいたし、割ったポットは蓋が欠けて処分しなければならない物であった、と。
「――今度、トラウトどのに何か埋め合わせするように」
そう言って咳払《せきばら》いすると、エイはそれ以上|咎《とが》めないことにした。
「はい。長手袋でも作って差し上げることにいたします」
物でお茶を濁《にご》されてはトラウトがいかにも気の毒に思えたが、女性からプレゼントされた長手袋をうれしそうにはめる彼の姿を想像すると、それくらいが妥当《だとう》であるようにも思えてしまうのだ。
エイは自分の机に戻って、引き出しからぺーパーナイフを取り出した。そして預かっていたラフト・リーフィシー宛《あて》の手紙を机上《きじょう》に置く。
「あの、それ、トラウトさまが持っていらした手紙ですよね。いったいどうなさるおつもりですか?」
様子を見ていたロアデルが、ためらいがちに声をかけてきた。
「開けてみるつもりです」
「でも、親展、って」
「ええ。だが大至急、とも書いてあるでしょう? 長官がいらっしゃらない今、私の判断で開封させてもらう。お咎めを受けようとも、これは開けなければならないでしょう。ご覧《らん》なさい」
エイは封筒を裏返して、ロアデルに見せた。そこには差出人の代わりに、次のような文字が書かれていた。
『あなたの捜し物をお預かりしている者より』
敵陣・自陣
「ここは、どこだ」
薄ぼんやりと瞳に映る光景を見て、アカシュは声にならない声を発した。
二人分の人生を歩んでなどいると、普通一般の人にはなかなか見られない変な癖《くせ》がついてしまうものだ。例えば一度記憶が途切れて復活した時、――通常は寝起きなどがその例であるが、アカシュは無意識のうちに自分が誰であるかを自分の中で確認する作業を必ずしている。
今、自分はどんな格好でいるのか。周囲にいる人間は、自分を誰であると認識しているのか。
目が覚めて飛び込んできた風景が、鉄格子《てつごうし》であればそれは日常である。懲役囚《ちょうえきしゅう》の牢《ろう》名主《なぬし》であればいい。
エイの怖い顔が見えた時は、大概執務室で居眠りをしてしまった場合だ。叱られるのは気が進まないが、それでも安心できる空間であることには間違いない。美しい上に出来のいい部下の前では、アカシュ・ゼルフィとかラフト・リーフィシーといったどちらか一方でいる必要がない分、楽ではある。
気をつけなければならない場合は、王宮で陛下に謁見《えっけん》する際に待たされて、ついうたた寝してしまった時など。そんな時、陛下の側近などに揺り起こされたりなどしたら、状況を把握するのにかなり時間を要してしまうのだ。自分は誰として行動しなければならなかったのだろうか、と。
それでも落ち着いて考えれば、じわじわと思い出してくるものだ。居眠りする前の、馬車に揺られて王宮に登城《とじょう》した記憶も、待合室に通されて眠気を誘うクッションの椅子《いす》に座った記憶も、頭の奥底をかき集めればちゃんとどこかに存在しているのだから。
だから、今回目覚めた時、アカシュは相当混乱したのだ。
薄ぼんやりとしている室内には、まったく見覚えがなかった。ここまで移動した記憶などもちろんないし、ひんやりとした床に転がっていること自体、普通ではない。
「……っう」
起きあがろうして、両手の自由を奪われていることを知る。足も同じだ。ご丁寧《ていねい》に縄《なわ》で縛《しば》ってある。普通じゃないどころか、大変な事態に陥《おちい》っているらしい。
見える範囲に人影はない。だから、いったい誰がこんな目に遭《あ》わせたのか、見当もつかない。そもそも、いったいここはどこなのだ。
東方牢《リーフィシー》城内であるのか、それとも別の場所に連れていかれたのか。
懸命《けんめい》に最後の記憶をたどってみる。
(今朝《けさ》は?)
――いつものように獄舎《ごくしゃ》の雑居房《ざっきょぼう》で目覚めた。
(エイには会ったか?)
――いいや。執務室には行っていない。
(では、事が起きたのはその間の短時間だ)
そこまで考えたところで、頭がガンガンしてきた。
「……まいったね」
アカシュは一人つぶやいた。喋《しゃべ》るという作業だけは、それで辛《かろ》うじて可能だと知る。ということは、ここから大声を出して外部に助けを求めても無駄だということだ。彼を拉致《らち》した何者かが、この部屋に走り込んでくるのがオチだろう。だったら、今は少しでも自分の置かれた状況を把握した方がいい。
アカシュは身体をくねらせて、ゴロリと方向を変えた。そうして部屋の中を観察する。
獄舎の雑居房よりわずかに狭いくらい、部屋の隅には雑然と箱や樽《たる》のような物が積み上げてある。印象としては、商店の地下倉庫かなにかのように思われた。天井近くに小さな明かり取りらしき物があるが、これだけ弱い光では時間の判断はできそうもない。せいぜいが、夜中でないという断定ができるくらいだ。
ため息をついて、また記憶を手繰《たぐ》った。
掃除《そうじ》を済ませて、朝の点呼《てんこ》を待ったところまでは覚えている。
(朝食は食べたか? 献立《こんだて》は何だった?)
――ミルクプディング!
思い出したら、急に吐き気がした。しかし手足の自由を奪われた身には、顔の向きを変えるのが精一杯。
為《な》す術《すべ》もなく、アカシュは自分の転がされている床に、誰した。しかし、ほとんど吐く物はなかった。粘《ねば》りけのある苦い胃液が、少しだけ頬《ほお》と床を汚しただけだ。
「ち……っくしょう」
胃がキリキリと痛む。すでにどこかで吐いてきたらしい。
「何だってこんな目に――」
アカシュは身をのけぞらせて、激しく咳《せ》き込んだ。不自然な体勢でいるから、吐いた胃液が気管に侵入してしまった。
その時、背後から肩をぎこちなく抱えられた。
「だ、……誰だ!?」
「――ラアナ」
少女の声だ。この部屋に別の人間がいたなんて、今の今までまったく気がつかなかった。
「大丈夫?」
背中がやさしくさすられる。少なくともその手の温《ぬく》もりからは、敵意は感じられない。だからアカシュは、されるがままに身を任せることにした。
「ありがとう。お陰で、どうにか収まった」
そしてやっと振り返って見た少女は、思ったよりずっと幼い容貌《ようぼう》をしていた。
「レディに年を聞くのは失礼かな?」
「そうよ」
そう言いながらも、彼女は両手を全部開いて見せた。――それは十歳と言っているらしい。
洗い晒《ざら》しの木綿《もめん》のドレスに白いエプロン姿という、身につけている物を見た限りは平凡な庶民《しょみん》の娘に見える。黒い巻き毛に太い眉《まゆ》、濃い睫毛《まつげ》は、誰かに似ている気がした。
「君は、ここの人?」
アカシュは尋ねた。
「違うわ」
「どうして、ここにいるの?」
「わからない」
ラアナは静かに首を横に振った。昨日の夕方、買い物に出たところで数人の男に取り囲まれ、そのまま馬車でここに連れてこられたという。馬車の窓は目隠しされていたから、彼女もここがどこかわからないらしい。頬《ほお》には涙の乾いた跡があった。アカシュが来る以前に、すでにずいぶん泣いたものと思われる。
「あなたは、ラフト・リーフィシーじゃないんでしょう?」
少女はポツリと言った。
「えっ?」
ドキリとした。だが冷静に考えれば、今の彼を見てそう思えるわけはないのだ。
「囚人の服着ているものね。……あなたがラフト・リーフィシーのわけないわ」
少女はがっかりしたように、自分で答えを下した。
「どうして、その名前が出てくるわけ?」
アカシュは尋ねた。
「あの人が言っていたから。ラフト・リーフィシーを誘《おび》き出すために、私を誘拐《ゆうかい》したんだ、って。だから、この部屋にあなたが連れてこられたの見て、ちょっとがっかり」
「ラフト・リーフィシーに会いたかったの?」
「違うわ。ラフト・リーフィシーが来ないことには、家に帰れないからでしょう?」
「なるほど」
アカシュは苦笑した。
「ラアナは賢《かしこ》いな」
「そんなことないわ。……えっと」
「アカシュだよ」
「アカシュ」
少女は一度口の中で反芻《はんすう》してから、妙に大人びた口調で
「アカシュがお馬鹿《ばか》さんなだけよ」
と笑って言った。
そんな時だ。外から鍵《かぎ》を開ける音が聞こえて、アカシュの背後の扉が開いたのは。
「おや、お目覚めかな?」
そう言いながら部屋に入ってくる男を、アカシュは座った姿勢のままじっと見つめた。
初めて見る顔だ。後ろに付いている部下らしき男にも、まったく見覚えはない。
リーダー格の男。年は三十前といったところか、ガッチリとした筋肉質の体格。燃えるような赤い髪は上下二つに分け、耳までの毛は長く伸ばして後頭部でひっつめ三つ編みにして長く流し、それより下は大胆に刈《か》り上げるといった不思議なスタイルである。
「情熱的な目をしている」
男はアカシュの前まで歩み寄ると、威圧的に見下ろした。
「どれ」
アカシュは乱暴に顎《あご》を掴《つか》まれ、それから顔にかかった長い髪を撫《な》で上げられた。
「噂《うわさ》通り、美しい少年だ。……大いに結構」
肘《ひじ》まで腕まくりした左腕には、鮮やかな鮫《さめ》の刺青《いれずみ》が見えた。
(――鮫?)
不思議なことだが、その刺青だけはどこか見覚えがある。
「あんた、誰?」
アカシュはそこで初めて口を開いた。
「噂って何さ」
相手の真意がわかるまで必要以外の言葉は言うまいと思ったが、こんな調子ではらちがあかない。
「声も、いいね。まだ完全に大人の声になりきってない。……少しかすれているところが気に入った」
男はアカシュの顔から手を離すと、少し離れた樽《たる》の上に座って足を組んだ。
「私が誰か、って? そうだね、君には特別に『リヒ』と呼ばせてあげよう」
「リヒ?」
「そうだよ」
リヒは満足そうに笑った。
「じゃあ、リヒ。言いにくいんだけれど、人違いじゃないの? 俺はあんたたちを知らないし、脱獄《だつごく》を手伝ってもらう覚えもないんだけれど」
「そんなことはないはずだよ」
「俺が誰だか知っていて誘拐《ゆうかい》したわけ?」
それはアカシュにとって、即刻知らなければならないことだ。彼らがここにいる自分を誰として認識しているか、それを理解しないことには、こちらの出方も決められない。
「知っているよ」
男は答えた。
「アカシュ・ゼルフィ、十八歳。十三の年から懲役刑《ちょうえきけい》で東方牢《リーフィシー》城に服役《ふくえき》中。どうだい、間違いないだろう?」
「まあね」
どうやら最悪の事態だけは避けられそうだ、とアカシュは気持ち胸を撫《な》で下ろした。どちらもありがたくはないことだが、事件に巻き込まれるのならば、検断長官よりも一囚人の方がもちろんましである。
「でもリヒ。囚人を誘拐して、何かいいことがあるわけ?」
もちろん、とリヒは片唇を上げて言った。
「君はただの囚人ではないからね。利用価値は高い」
「どういう意味さ」
「手始めにどうだろう、東方牢《リーフィシー》城に君の身代金《みのしろきん》を要求するというのは?」
「あんた自分で何言ってるのか、わかってる?」
アカシュは笑った。ラフト・リーフィシーと知らないくせに、どうしてアカシュで身代金を取れると考えるのだ。
なるほど、要求されればエイは副長官の判断でそれをのむかもしれない。だが、それは彼がアカシュをラフト・リーフィシーであると認識できている人間だからだ。一囚人に対してではなく、東方検断長官の身柄に対してだからこそ多額の身代金をも準備するのだ。
「懲役囚《ちょうえきしゅう》が一人消えた。脱獄《だつごく》したかもしれない人間に、どうして検断が金を出す?」
「検断ならね」
リヒは不敵に笑って言った。
「だが、我々の標的はラフト・リーフィシー個人だよ」
「ラフト・リーフィシー?」
「そうさ。彼ならば、君の身体にいくらの価値をつけてくれるか。……君も興味があるんじゃないか?」
「どういう意味だ」
「さあ?」
ニヤリと笑って、樽《たる》を下りる。それからリヒが腰に挿したナイフを引き抜くのを、アカシュは見た。
「――ところで、アカシュ。君は女性も好きかな?」
「あんたさ、さっきから何を言っているのか、さっぱりわからねえよ」
「簡単さ」
ナイフを手の平の上で転がしながら、リヒの視線は、少し離れて膝《ひざ》を抱えている少女に注がれていた。ラアナは少し身を強《こわ》ばらせた。
「君がこのレディに無体なことをしないと誓《ちか》えるなら、手足の警を解いてやろう。どうだ?」
「へえ……」
アカシュは少し考える振りをしてみたが、答えはすでに決まっていた。
「女は好きだが、ラアナには手え出さない」
「よかろう」
リヒ自らが、ナイフでアカシュの足を縛っていた縄を切った。
「縛めがなくなったからって、逃げられるとは思うな」
腕の縄にナイフの刃を当てながら、耳もとで男が囁《き》く。
「あの扉の向こうで待機している私の部下は、荒くれ者ばかりでね。十歳だろうと女ならいい、っていう奴らだ。昨夜だって、そうさ。私が始終目を光らせていたからお嬢ちゃんは無事だったんだよ。けれど、私もいろいろ忙しくてね」
ジョリジョリという音とともに、次第に手首が軽くなっていく。
「君は腕力があるんだろう? だったらそうだな、一人ならあるいはここからの脱出も可能かもしれないねぇ。だが、一人で残された彼女がどういう目に遭《あ》うか、想像してもらいたいな」
「自分の身が危ないって時に、今さっき会ったばかりのガキのことまで面倒みられるかよ」
アカシュは背後の男に向かって、吐き捨てるように言った。
「できるなら、やってみな」
笑いを含んだ声を合図に、手首が完全に自由になった。それと同時に、アカシュの身体のどこかに痛みが走った。
見れば、右手の甲に真新しい切り傷がある。
「待て、この野郎!」
「失礼。手もとが狂ったようだ」
笑いながら、リヒは扉に向かって歩いていった。追いかけようにも、長く縛《しば》られていた足は麻痺《まひ》していてうまく歩けない。そうしている間にも、手の傷からは鮮やかな血がにじみ出てくる。傷を舐《な》めながら、アカシュは扉が閉まる音を聞いた。
にこやかに笑いながら、何て奴だ―。アカシュは唇を噛《か》んだ。
「あいつ、わざと斬《き》りつけていきやがった」
*  *  *
「君、何者?」
アカシュは尋ねた。
「何者、って?」
黒い巻き毛を指にクルクルと巻きつけながら、少女が聞き返す。
「さっきから考えているんだけれど、どうも納得できないんだよな」
「だから、何が!?」
「君と俺とが仲良くここに閉じこめられている訳。俺は君を知らない。君も同じだ。そこまでは間違いないよね?」
「ええ」
手持ち無沙汰《ぶさた》なのだろう、ラアナは自分の髪を小分けにして編み出した。お人形遊びの延長だ。領地に住む姉も、昔はよく人形の髪を編んだりしたのを思い出す。
「俺は君を置き去りにして逃げるなんてことはしないけど、でもさ、それだけのために君がここにいるのは不自然だ。もちろん拉致《らち》された時にだって、君は直接関わっていなかったし」
「何が言いたいの?」
「つまり、君の役割がわからないんだ」
髪をいじっていた指が、ピクリと動きを止めた。そして、十歳とは思えない鋭い目つきでアカシュを見据えた。
「私、奴らの仲間じゃないわ」
「そんなこと、言っていないだろ」
「……うん」
再び、髪を編み始める。そのうちそれにも飽《あ》きたのか、今度はアカシュの側に寄って彼の髪に手を伸ばした。
「本当は、真っ直ぐなのね。……きれいな髪!」
ボサボサの黒髪が、少女の手櫛《てぐし》で梳《す》かれる。
「いいな。真っ直ぐな髪」
小さな手からこぼれた髪は、サラサラと流れて彼の背中に落ちた。
「若い娘は、どうして癖《くせ》のない髪に憧《あこ》がれるのかな。俺の知っている女の子も、よく茶色くて元気のいい髪の毛を嘆いている」
できればエイさまの豪華な髪、せめてアカシュさまの真っ直ぐな髪――。そんな口癖《くちぐせ》の娘をふと思い出した。彼女も今頃はきっと、行方《ゆくえ》不明になった自分を心配しているはずだ。
「アカシュって、囚人なの?」
ラアナが尋ねた。
「ああ、そうだよ」
答えると、また重ねて聞いてくる。
「何したの?」
「さあね」
少女の手から髪の束を取り返して、アカシュは立ち上がった。
「君がどうしてここにいるか話してくれたら、教えてやるよ」
「……だから、知らないって言っているでしょ」
「そう」
つぶやきながら、アカシュは部屋の点検を始めた。縛《しば》られて痺《しび》れていた手足も、ずいぶん回復していた。
「じゃあ、例えば――」
唯一の扉を、内側からそっと引いてみる。
「奴らの秘密か何かを、偶然見ちゃった?」
「そんなもの、見てないわよ」
思った通り、扉は外側から鍵《かぎ》がかけられている。
「じゃあ、目的は君の周囲にいる人間かな?」
アカシュは今度は反対側の壁に近づき、天井付近を見上げた。明かり取りの窓は、あまりに小さい。樽《たる》を二つ重ねて踏み台にしたとして、あの窓から外に出るのは不可能だ。たとえ出られたとしても、そこがどこにつながっているかわからない。
と、いうことは、決して自力では脱出できない空間に閉じこめられたわけだ。牢城《ろうじょう》の一般囚人と何ら変わりない。
「君はどこに住んでいるの? お父さんの職業は?」
「――」
「十歳なら、言えるだろう?」
しかし、ラアナは口をつぐんだまま首を左右に振った。
「そっか。言いたくないんだ」
何となく見えてきた、アカシュはそう思った。何かを隠しているとは感じていたが、なるほどそういうわけなのか、と。
ラアナは誰かを庇《かば》っている。もちろん、それはリヒやその部下たちではなく、彼らに利用された人間だろう。ラアナを人質にされ、仕方なく犯罪に荷担《かたん》した。アカシュはその人物に心当たりがあった。
アカシュはため息をついて、小さくつぶやいた。
「泣く子も黙るラフト・リーフィシー、意外と下の者には信用されていないようだな」
『当方あなたの大切な物をお預かりしています。つきましてはー』
ラフト・リーフィシー宛《あて》の手紙を開封したエイは、文字を追いながら絶句した。
できればこのまま封筒に戻して、開封ロをのりで貼《は》り付けて、中身を見なかったことにしてしまいたいくらいだった。
「あの……エイさま?」
ロアデルが心配そうに声をかけた。
「――とんでもないことになりました」
「は?」
「長官が、誘拐《ゆうかい》されました。犯人グループは、身代金《みのしろきん》を要求しています」
国王陛下から王都の警護をお預かりしている検断組織の長が、白昼堂々それも牢城内で拉致《らち》されるなんていう事実、あっていいわけがない。
「畜生、どうして東方検断《トイ・ポロトー》でこんなことが起きなくてはならないのだ……!」
エイは拳を机に叩きつけた。この屈辱《くつじょく》、どうしてくれよう。
「でも、この手紙はラフト・リーフィシーさま宛の物でしょう? 本人に身代を要求するなんて――」
「ああ……失礼」
手紙の内容に気を取られて、つい彼女の存在を忘れていた。エイは噛《か》みしめていた唇から力を抜いて、微《かす》かな笑顔を作ってみせた。
「犯人は長官とは知らずにアカシュ・ゼルフィを誘拐《ゆうかい》した、そういうことなのでしょう」
この最悪の状態の中それが唯一救いかもしれない、エイはそう思った。
「ちょっと待ってください。アカシュさまが検断長官だと知らずに、どうして身代金《みのしろきん》を取れるんです?」
「彼らは、長官……いやアカシュに、囚人以上の価値を見出《みいだ》したんですよ。だから脅迫する相手は東方検断長官ではなく、ラフト・リーフィシー個人のつもりなのでしょう。……えっと、もっと詳しい説明が必要ですか、ロアデル?」
「……すみません」
彼女の思考が混乱しているようなので、エイはかみ砕いて説明することにした。
「これは私の想像でしかありませんが」
「はい」
「犯人グループの中には、獄舎《ごくしゃ》に詳しい者がいます」
「あの……、それはいなくなった鍵《かぎ》役人《やくにん》のことですか?」
「そうかもしれないし、違うかもしれない」
別に内部の者である必要はないのだ。以前|東方牢《リーフィシー》城に捕らえられたことがあれば、ことたりる。
「アカシュという少年は、毎日ラフト・リーフィシーに呼び出されている。それはなぜなのでしょう?」
「チョギーの相手をするため、じゃないですか?」
「表向きは、ね」
囚人たちがすべてが、そう好意的に思ってくれているかは疑問だ。現にエイは、何度か馬鹿げた噂《うわさ》を耳にしたことがある。
「私が囚人だったら疑うでしょうね。朝から夕方まで、本当にチョギーだけして過ごしているのだろうか、と」
「じゃあ、他に何をしていると?」
ロアデルが身を乗り出すと、エイは静かに笑った。
「我々は二人が同一人物だと知っているから」
だが、庁舎側の状況を知らない彼らは、まるで理解できていないはずである。検断長官の仕事が遊び半分にはできないほどハードであることとか、始終副官のエイが執務室に詰めていることなどは・ラフト・リーフィシーが囚人の前に出るのは死刑の宣告をする時だけだから、外からは仕事しているように見えないのは仕方ないことなのかもしれない。
「つまり、アカシュさまはラフト・リーフィシーさまの――」
「恋人である、と勘違《かんちが》いされてますね。少なくとも誘拐犯《ゆうかいはん》には」
エイは机に広げた手紙を指し示して言った。
「そんな、馬鹿な……」
「だが馬鹿げていようと、我々はこの脅迫状を無視できない。長官の安全を確保するまで、口惜しいが犯人グループの要求に従わなければならないんです」
エイに再びムカムカと、怒りが甦《よみがえ》ってきた。
誘拐した人間|宛《あて》に脅迫状を出すなんていう間抜けなことをしておきながら、何て可愛《かわい》げのない物を要求してくるのだ。
「誘拐犯なら、それらしく現金を要求すればいいものを……」
犯人の指定してきた物は金ではなかった。もっと持ち運びが簡単で、そしてすぐに準備できるもの。だが、それは決して人手に渡せないものでもあった。
「リーフィシー家の家宝、私の一存では――」
個人の感情では、人の命に勝《まさ》る物はないと思う。ましてや人質に取られているのは、当の家長だ。一も二もなく差し出していいはずだ。
だがラフト・リーフィシーの意向は、どうだろうか――。エイはもう一度脅迫状を読み返した。
『当方あなたの大切な物をお預かりしています。つきましては王家よりご拝領の紋章入りダイヤの指輪と交換にて、身柄をお返ししたくお手紙を差し上げました。引き渡し場所などにつきましては、追ってご連絡いたします』
握りつぶしたくなる衝動をやっと抑えて、便箋《びんせん》を封筒にしまう。これは夢でも幻《まぼろし》でもない。紛《まぎ》れもない事実だった。
家宝は国王陛下から拝領した品。それを失ったことが世に知れれば、王家への忠誠を疑われ家名に傷がつくは必至。ゼルフィ一族は、リーフィシー家を返還させられ東方検断《トイ・ポロトー》にもお咎めがあるかもしれない。
何より、誘拐なんていう卑劣《ひれつ》な行為に屈していいのだろうか。人を馬鹿にした犯人グループを一網打尽《いちもうだじん》にして、その上で煮え湯を飲ませてやらなければこの怒り収まりがつかないではないか。
(かといって、レプリカなどを作る時間の余裕はないし。どうしたら――)
しかし、ここで悩んでいても始まらない。エイは封筒を机の引き出しに入れて、鍵をかけた。
「エイさま……?」
「ロアデル、引き続き留守番をお願いできますか? 犯人グループから、新たな指示が来るかもしれないので」
「は、はい」
ブラウスのリボンを結び直し、袖《そで》や上着のボタンを点検するエイを見て、ロアデルが尋ねた。
「あの、エイさまはどちらに?」
それに対して、彼は真剣な面もちで答えた。
「ちょっと、王宮まで行ってきます」と。
*  *  *
何て慌《あわ》ただしい日なのだろう。
通常なら自室から庁舎へ通い、一日のほとんどを執務室か取調室で過ごすことが多いというのに。
今日は宿舎から庁舎の長官執務室、それから獄舎《ごくしゃ》の入り口まで行って執務室に帰り、取調室、獄舎の鍵《かぎ》役人《やくにん》詰め所を転々とし、今度は王宮に向かおうとしている。その間に客人の相手までしたのだから、我ながらタフだな、と思うエイである。
「馬車……ではなくていいか」
愛馬に鞍《くら》を付けて厩《うまや》から連れ出し、その背にまたがった。優雅な王宮では、早馬はあまり好まれないのだが仕方ない。できるだけ速い方がいい。
雪のような白馬は、国王陛下所有の名馬が父という優れた血統の馬だった。陛下がラフト・リーフィシーに漆黒《しっこく》の名馬を下賜《かし》された折に、エイのプラチナ・ブロンドに似合うから、と一緒に下されたものだ。謁見《えっけん》を許されているとはいえ、陪臣《ばいしん》が馬を与えられることは珍しく、当時は宮廷サロンでずいぶん話題になっていた。
城門を出ると、エイはできるだけ人通りの少ない道を選んで馬を走らせた。
(まったく、どんな手を使って長官を拉致《らち》したのか)
ああ見えて、ラフト・リーフィシーは切れる男だ。おめおめと拉致されるような人間ではない。
(ご無事なんだろうな)
馬を走らせている間は他にすることがないから、考え事がついつい深くなってしまう。
エイはそろそろ気づいていた。
これは、単なる金欲しさに起こした犯行ではない。
ならば目的は何だ?
人一人|誘拐《ゆうかい》し、検断のトップに脅迫状を送りつけておいて、愉快犯もないだろう。
東方検断《トイ・ポロトー》、あるいはラフト・リーフィシーに恨《ち》みを持つ者の仕返しか?
(だとしたら、最終目的は――)
エイは、そこまで考えて思考を中断した。王宮につながる大通りに出て、人通りが多くなったからではない。その先を考えるのが恐ろしくなったからだ。
犯人は、アカシュ・ゼルフィをラフト・リーフィシーの恋人だと思っている。もしラフト・リーフィシーヘの恨みが犯行のきっかけだとしたら、どうすれば彼によりダメージを与えられるか考えはしないだろうか。
身代を要求したことは、ただ混乱させようとしているだけかもしれない。
エイは王宮の門をくぐった。気分が悪い。
せめてアカシュがラフト・リーフィシーであると知られないように。今はそれを祈るばかりであった。
突然|謁見《えっけん》を申し出て、陛下に会える可能性というのはかなり低い。
ましてやエイは、東方検断の副長官という肩書きはあるものの一介《いっかい》の役人。かろうじて身分は貴族に引っかかっているが、その位置はかなり下にある。本来ならばお目見えなど叶《かな》わない立場であるが、物好きな陛下の一存で御前に出ることを許されていた。
「はあ、急用でございますか」
国王の側近が取り次ぎに出て、おっとりと聞き返した。
「一応お伺《うかが》い申し上げてみますが、本日は二代前の陛下の命日であらせられるので、お会いになるのは難しいかと存じますねぇ。まあ、あまりご期待なさらずに、こちらでお待ちなさいませ」
通されたのは、謁見の待ち合いに使われる部屋だった。時たまラフト・リーフィシーの供《とも》をして王宮を訪れる際、いったんこの部屋に通される。ここの椅子《いす》はクッションがとてもいい具合で、よく誰かさんは居眠りをしてしまうそうだ。
「しかし、参ったな。命日だったとは――」
それを裏付けるように、部屋には謁見待ちの人が誰もいない。国王は歴代王の命日には華々《はなばな》しいことを避け、静かに先祖のために祈りを捧《ささ》げて過ごすのが習わしであった。
今日はことごとくついていない日なのかもしれない。エイはクッションのきいた椅子に深く腰をかけて、大きく息を吐いた。
どれくらい待たされたであろうか。そろそろ諦《あきら》めかけた頃、廊下《ろうか》をヒタヒタと足音が近づいてきた。たぶん取り次ぎに行った近習《きんじゅう》ではないかと予想をつけると、果たして待合室の扉の前で足音はピタリと止まった。
(吉《きち》と出るか、凶《きょう》と出るか)
エイは立ち上がり、頭を下げて扉が開くのを待った。
(吉ならば、謁見《えっけん》の間へ案内され、そこで陛下にお目にかかれる)
陛下の今日のご機嫌はいかがだろうか。今は誠心誠意ご説明申し上げて、ぜひともお力を貸していただかなければならない。
(もし、凶と出たら……)
その場合のことは、まだ考えられなかった。今はまだ考える必要がないのだと、自分に言い聞かせていた。
扉を開いた人物は、部屋に入ると素早く内側から鍵《かぎ》をかけ、ゆっくりと近づいてきた。その気配は、先ほどの近習《きんじゅう》ではない。
顔を上げると、長い黒髪と水色の女物の薄いガウンが見えたので、あわてて目を伏せた。
(女性……? でも、王妃《おうひ》さまは陛下と同じ色の豪華な金髪だし、他のお身内にも黒髪なんて――)
それでも城内をこのような薄着で歩いてしまえるのならば、それ相応の立場の女性であるに違いない。エイはその場で膝《ひざ》をついた。汗が、どっと噴き出した。
女物の室内|履《ば》きが、目の前で止まる。
「急用って?」
頭上から聞こえてきたのは、思いの外《ほか》低い声だった。その上、どこかで聞き覚えが――。エイは恐る恐る視線を声の主の顔に移動させた。そして、そこに見たのは――。
「へ、陛下!?」
「何だ、今気がついたのか」
女物のガウンに黒髪のカツラ。しかし唇の上に生やした細い髭《ひげ》が妙に不自然な、いささか大きな女が一人。
「これは……何の余興《よきょう》なのですか」
「余興とはご挨拶《あいさつ》だな。其方《そち》が急用と言うから、妃《きさき》のベッドから飛んで来たのだというのに」
彼は前あきのガウンからすね毛がはみ出すのもお構いなしに、手近な椅子《いす》に足を組んで座った。控えめに目を向ければ、胸を強調するデザインの大きな襟《えり》から金色の胸毛が覗《のぞ》いている。
エイは咳払《せきばら》いして、膝をついたまま姿勢を正した。
「――あの」
「存じておるか? 先祖の命日というのはな、本来女も絶たなければならないのだ。厄介《やっかい》なものよのう」
なのに、悪びれもせず妃の寝所からやって来たと言う、この男性こそが、(もうおわかりだと思うが)ワースホーン王国を束ねる当代国王陛下その人であった。
「なに、余《よ》が子作りに精を出しているのだ。天のお祖父《じい》さまも喜んでくれているであろうよ。苦節十年、未だ世継ぎができぬので、家来たちももはや見て見ぬ振りでな」
「はあ……」
こういう会話の場合、目下の者はどう答えていいのだろう。誰かに教えてもらいたいエイである。
「一般の謁見《えっけん》もなし。其方《そち》だから特別会ったのだ」
「では、そのお召し物とカツラは、カモフラージュというわけで……」
「いや。ガウンは妃《きさき》の物を借りて参った。まさか裸で廊下《ろうか》は歩けまい?」
「では、そのカツラは――」
「たまには気分を変えたくてな、妃と東方検断《トイ・ポロトー》ごっこをしておったのだ。よくできたカツラであろう? 妃にはプラチナ・ブロンドのカツラを被《かぶ》せてな」
「――もう、その先は」
エイは無礼を承知で、国王の話を遮《さえぎ》った。そのカツラを被ってベッドの上で何をしていたかなんて、とてもじゃないが静聴する勇気などはない。
「で、ラフト・リーフィシーに何があったのだ?」
カツラの黒髪を地毛のように耳にかけて、国王はニコリと笑った。「なぜ、それを」とあやうく声を出しかけたエイであったが、すんでのところで押し留《とど》めた。
「……鎌《かま》をかけないでください、陛下。私はまだ何も言ってはおりません」
「おや、そうであったか」
とぼけた振りしても、目が笑っている。相変わらず、食えないお人であった。あまりに頭が良すぎるので、一般人にはついていけないところがあるのだ。
「でも、悪くない推理だったはずだ。うん」
国王は細い口髭《くちひげ》を指でなぞりながら、一人満足げにうなずいた。
「それでは、そろそろおとなしく其方《そち》の話を聞くとしよう。面白いことならありがたいが――」
「残念ながら、あまりお楽しませできないことかと」
「――であろうな。それは其方《そち》の来訪を耳にした時からわかっておった。余《よ》に、何をして欲しくて参った? 申してみよ」
さすがは陛下、話が早い。エイは扮装《ふんそう》して椅子《いす》にふんぞり返った男性に、敬意を込めて改めて頭を下げた。
「できますれば陛下、子細《しさい》は聞かないでいただきたいのですが」
「子細を聞くな? 面白いことを言うものだな。其方《そち》は、詳しくは話せないことに、余の力を貸せと申しておるのか?」
「はい」
エイが真面目に答えると、国王は身をのけ反《ぞ》らせ大声で笑った。のけ反りついでに、黒髪のカツラがずれて中から黄金のような巻き毛が顔を見せた。
「国王になってだいぶ経つが、そのように愉快なことを言ってのけた者は初めてだ。普通はな、話せないことならば、それらしく適当な言い訳を用意してくるものだぞ?」
「私は主人であるラフト・リーフィシーを介して陛下に忠誠を誓《ちか》っております身、嘘《うそ》を申し上げるわけにはいかないので」
「でも本当のことは言いたくない、と言うわけだ。――上に馬鹿がつく正直者だな」
ふーむ、と腕組みをして考え込んでから、国王は「ま、いいことにしよう」と言った。
「このまま何も言わずに帰られてしまっては、妃《きさき》のベッドに戻ったところで、気になって眠れないからな。それ、子細《しさい》は聞かぬから申してみよ」
椅子《いす》から身を乗り出して急き立てるので、エイは決心して口を開いた。
「リーフィシー家に代々伝わる指輪の件です」
「指輪とは、あれか? 初代の検断長官に当時の国王が与えた、ダイヤのついた銀の指輪のことか」
「はい」
「指輪がどうした」
緑色の瞳が、澄んだ湖のようにこちらを見ている。エイは何もかも見透かされているような錯覚《さっかく》を覚えた。どのみち陛下相手に、言葉を飾っても無駄だった。
「実は――」
エイはゴクリと囓を留み込んだ。
「私はこれから、私の一存であの指輪を東方牢《リーフィシー》城外に持ち出すつもりです」
「ほう」
「ですから、もし万一のことがあった場合、一切の責任は私にあります。リーフィシー家へのお咎《とが》めはご容赦《ようしゃ》いただきたく、お願いに上がりました」
プラチナブロンドの髪が、待ち合い室の床を一掃《ひとは》きした。
「面《おもて》を上げよ、エイ」
国王は怪訝《けげん》そうに眉間《みけん》にしわを寄せて、平伏したまま微動だにしない東方検断《トイ・ポロトー》ナンバー・ツーに声をかけた。
「万一、とは。紛失《ふんしつ》や盗難などがあった場合のことか?」
「――」
「答えないところを見ると、どうやらそうらしいな」
うれしそうにフッフッフッと笑う。
「だがのう、エイ。其方《そち》が指輪を失《な》くしたとして、どうしてリーフィシー家に咎めがあるのだ? あれはすでに、リーフィシーにくれてやった物。どう処分しようと、余《よ》や王家が口出しすることではないわ」
紛失騒ぎがあったなら、当人同士で決着つければいい。にべもなく、国王はそう言い放った。当人同士、とはエイとラフト・リーフィシーということになるのだろうが――。
「でも」
「ん?」
「あの指輪には王家の紋章が刻まれています」
紋章は、その家の象徴ともいえる大切なもの。だからこそ、国王から王家の紋章が入った品を拝領することは、信頼の証《あかし》であり、この上ない誇りとされるのだ。
国王陛下だと思って大切に保管し、傷つけるだけでも言語道断とされた。
「別に構わぬよ。人手に渡ったところで、王家の紋章がある限り正規の流通ルートでは流せないのだから、せいぜいがただのダイヤと銀の塊《かたまり》とに分けて売りさばかれるくらいだ」
「でも、たとえお咎めがなくも、王家より拝領の品が無くなったとなれば、リーフィシー家に傷はつきましょう」
「それはそうだろうな」
口さがない貴族連中は、盛んに言い囃《はや》すだろう。不忠者のラフト・リーフィシー、と。
検断を毛嫌いする上流貴族の中では、陛下に気に入られているくせに社交界にあまり顔を出さない彼に、どうにか恥をかかせたいと思っている人々もいるという噂《うわさ》である。
そんな人には、格好のネタになるのは間違いない。
「なるほど、だから其方《そち》は其方の一存で持ち出したことにしたいわけか。それでもし何かあっても、エイ・ロクセンスが一人で責任をとることでリーフィシー家を守れる、そう考えたのだな。東方検断《トイ・ポロトー》にしても、長官より副官の失敗の方がダメージが少ないからな」
「子細《しさい》は聞かないお約束です」
「気にするな。これは独《ひと》り言《ごと》だ」
「独り言とは、人に聞こえないようにするものでは」
「うるさいなぁ」
国王はエイの指摘を完全に無視して、なおも独り言を続けた。
「それにしても、まるで失《な》くすことが前提のような話ではないか。もしや指輪は、もう失くしてしまった後なのではなかろうな?」
「……まだありますよ」
仕方なく、エイは答えた。
「ふむ、其方《そち》はやむを得ず指輪を持ち出さなければならない状況に置かれている、と。だが、おめおめと誰かにくれてやるつもりなどないのだろう?」
「もちろんです」
国王は「それは重畳《ちょうじょう》」と機嫌よくうなずく。
「ならば、確認するぞ? 其方《そち》は結局リーフィシー家と東方検断《トイ・ポロトー》の面目さえ保てればいいのだな? そのためにその身を犠牲にする覚悟である、と」
「まあ、簡単に言えば。そういうことに」
「それでは、余《よ》にはあまり楽しみがないのう」
自分の指をいじりながら、国王はあくびをした。退屈なのか、そのうち手の中で何か小さな物を弄《もてあそ》びはじめた。
「はあ、楽しみ、……ですか」
「余は、何が起こるのかも教えてもらえないのだぞ。結果、指輪が無事戻れば何も変わらず、紛失したらしたで其方《そち》が自害するか検断を辞めるかして責任をとるだけなのだろう? どうやって楽しめというのだ」
「では、どうしろと」
「いい質問だ」
国王はそう言って、手の中で転がしていた何かをポーンと上に放り投げた。天井ギリギリに放物線を描き、それはキラリと煌《きら》めいて落下してきた。
「これは……!」
思わず手に受けてしまった物を見て、エイは目を見開いた。
「余を楽しませるための前金だ。しくじった時の形《かた》は、其方《そち》自身ということでどうだ?」
エイにとっては命を懸《か》けた真剣勝負でも、この陛下にかかってはただ暇《ひま》つぶしのゲームにされてしまうようだった。
「副長官のエイが動いている」
リヒが部屋に入るなりそう言った。
「どうやら、ラフト・リーフィシーも心を決めたようだ。どう思うかね、アカシュ君」
「どうも何も、俺は何が何だかわかんないんだけど。どうして俺がここにいるのか。あんたらが俺を餌《えさ》に、何を要求しているのか。それから、あんたがどうしてわざと俺にけがをさせたのか。そんなこと、すべてね」
床に尻をついていたアカシュは、ふてくされたように来訪者に視線を向けた。するとその態度に満足したのかリヒは、「それは失礼したね」と友好的にほほえみかけてきた。手には、湯気のたったカップが一つ握られている。
「胃の中空っぽだろう、そろそろ腹を空かしているんじゃないかと思ってね。こんな物しかないが、どうだい?」
カップを受け取ったとたん、アカシュは「うげっ」と顔を背《そむ》けた。いつもだったら手放しで喜ぶホットミルクであるが、今は胸がムカムカして見るのも匂《にお》いを嗅《か》ぐ嫌だった。[#嗅ぐ「のも」抜け?]
「お気に召さなかったようだね」
「あんた、俺に意地悪して楽しんでいるんだろう」
「とんでもない。これは純粋な好意から持参したんだけれどな。でなければ、傷を作ってしまったお詫《わ》びと思ってくれていい」
「どうだか」
詫びにホットミルクを持ってくるぐらいだったら、はじめからけがなんかさせるな。――アカシュはこころの中でつぶやいた。
「お姫さまの分は?」
隅《すみ》ではラアナが、膝《ひざ》を抱えて座っている。アカシュの視線を追ってきたリヒは、そこに少女がいたことをやっと思い出したように、肩をすくめて笑った。
「どうせ無駄になるから、用意してこなかった。……どうだ娘、お前も飲みたいか?」
ラアナはうつむいたまま、声を出さずに首を横に振った。
「我々の用意した食事は絶対に口にしない。気の強い娘だ」
「毒が入っていると思われているんじゃないの?」
「滑稽《こっけい》だな。殺される価値もないくせに」
独《ひと》り言《ごと》のようにつぶやいて、リヒはアカシュの傍《かたわ》らに腰を下ろした。ラアナのことには、あまり関心が向かないらしい。
リヒは配下を廊下《ろうか》に置いて一人で入ってきた。だから部屋にいるのは、現在三人。
(敵は一人。一人なら、ねじ上げるのも不可能じゃない)
幸いリヒは、この犯罪グループの頭。彼の命を盾《たて》にできれば、あるいはこの場を切り抜けられるかもしれない。
しかし、やがてアカシュはその計画を諦《あきら》めた。まず第一にリヒの自由を束縛《そくばく》できる凶器がないこと。第二に強硬手段に出た場合、ラアナの安全を確保するのが非常に難しいということ。第三に自分の置かれているこの場所がどこなのか、建物のある地区どころか外に通じる出口までの順路さえわからないということ。
(……頭が痛い)
少し考えればわかりそうなことだが、体調が悪いせいか思考はうまくまとまらない。
どのみちこの太い腕に敵《かな》うかどうかは疑問だが――、と視線を移すと、リヒはアカシュが床に置いたホットミルクを午後のお茶よろしく優雅に小指を立ててすすっていた。
「ちょっと、あんた。何、落ち着いちゃってるわけ?」
立ち去る気配のないリヒに、アカシュは眉《まゆ》をひそめた。
「君と少し話をしてみたくなってね。迷惑だったかな」
迷惑って、……まったく変な提案をしてくるものである。何だかなあ、と思いながら、アカシュは尋ねてみた。
「話題のテーマは?」
「何でも」
リヒは手の平をヒラリと上に返して、その先をアカシュに向けた。
「君のリクエストで」
「いったいどういう誘拐犯《ゆうかいはん》だよ」
彼が何を考えているのか、アカシュには量り知れなかった。
長い獄中生活でずいぶんいろいろな人間を見てきたつもりだが、こんなにわかりにくい男は初めてだ。少なくとも小物にはいないタイプ。見た感じは、かなり危ない橋を渡ってきたような落ち着きがある。が、たぶん今まで検断に逮捕《たいほ》されたことはないだろう。大物であれば、逮捕《たいほ》であれ釈放であれ脱獄であれ、必ず各検断に報告がくるはず。
「あんたさ、俺のこと何で知ってんの?」
「ん?」
「会ったことは、ないだろ。これだけ特徴のある人間、一度会ったら忘れないからね」
誘拐されたのは、ラフト・リーフィシーではなく、アカシュ・ゼルフィだ。ならばリヒが知り得た情報も、必然的に懲役囚《ちょうえきしゅう》として獄舎にいる彼のことであるはずだ。
「東方牢《リーフィシー》城の若き牢名主《ろうなぬし》のことは、よく聞かされていたよ。性格とか嗜好《しこう》とか。君が忘れてしまうような目立たない人間からね」
「それじゃ、心当たりがあり過ぎて見当もつかないな」
そうだろう、というようにリヒは不敵に横目で笑った。ありふれたリヒという名前も、彼個人を限定するにはまったく役に立たない情報だった。
(こいつ、いったい誰だ……? 何考えているんだ?)
側にいる相手が、何者かわからない。それは、人間を漠然《ばくぜん》とした不安にさせるものだった。
「テーマは何でもいいっていったよね。じゃあ今回の事件について話をしたいな」
アカシュは頭を切り換えて提案した。相手がその気でいる時しか、情報は聞き出せない。圧倒的に不利な今の状態から、いくらかでも抜け出すしか打開策を見出《みいだ》すきっかけは得られないのだから。
「いいとも。君には知る権利があるからねぇ」
リヒにじっと見られて、思わず背筋に寒気が走った。鮫《さめ》でなく爬虫類《はちゅうるい》の何かを刺青《いれずみ》にした方が似合ったのではないか、とアカシュは思った。
よく見ると眉《まゆ》の位置に毛がない。剥《む》き出しの額と刈《か》り上げた襟足《えりあし》などは、ツルリと冷たい鱗《うろこ》を連想させる。そうなると後頭部の長い三つ編みも、だんだん南方の蛇《へび》に見えてきた。
「東方検断《トイ・ポロトー》の副長官が先ほど王宮に向かったそうだよ」
リヒが言う。さしずめ東方牢《リーフィシー》城を見張っていた手下から報告でも入ったのだろう。だから機嫌がいいのか、その辺が少し気になるのだが。
「右腕というべきエイが動いているからには、ラフト・リーフィシーも考えがまとまったというわけだろう」
「考え?」
「君を切り捨てるか、身代《みのしろ》を差し出すか。……どちらにしろ、方向性を決めたという点に関しては間違いないだろう」
「何でエイさまは王宮に行ったわけ?」
「聞いても、私にはわからないよ。ラフト・リーフィシーの辞表でも、陛下に届けにいったかな?」
本人がここにいる以上それだけはないと思うけど、――と、アカシュは心の中で舌を出した。しかしエイが陛下のもとに行ったとなると、それはそれで気になってくる。
(あいつ、一人で突っ走っているんじゃないだろうな)
その性格を知っているだけに、自分一人で何もかも背負ってしまおうとしている部下の姿が目に浮かんでならない。エイは頭が切れる分、切れた[#「切れた」に傍点]時はそれはそれは恐ろしいことになるのだ。
その恐ろしいことを想像していると、リヒが「どうした?」と聞いてきた。まさか本当のことは言えないので、アカシュは「いいや」とヘラヘラ笑って誤魔化《ごまか》した。
「でもさ、検断って傍《はた》から見るよりずっと台所事情が苦しいらしいんだぜ? 法外な金額要求しても、払えやしないと思うけど」
「検断は貧乏でも、ラフト・リーフィシーは金持ちだ」
「――へえ、そうなの」
「広大な領地を持っているという噂《うわさ》だ」
うち半分は別の人間が所有者だということまでは、噂では教えてくれないらしい。その土地の人間だって、その事情を知らない者は多いから仕方ないが――。
「じゃあ、領地でももらう気?」
「……アカシュ君。君は面白い冗談を言うね。だが、さほど悪い推理じゃない。我々が要求したのは、金ではないからね」
「じゃ、何?」
「指輪さ」
「ゆびわー!?」
アカシュは顎《あご》を外しそうになった。その線は、まったく考えていなかったのだ。だから指輪と言われてまず考えたのは、母の形見《かたみ》のサファイアだった。
「北・東・西の検断長官の屋敷に代々伝わる家宝だ。それをいただこう、っていう計画だ」
「……俺の命と引き替えに、指輪一個か」
「高いかな? それとも安いだろうか?」
「さあね。それは人それぞれじゃないの?」
物の価値というものは、あるようでその実ないも同然のものだから。
「そう。だからこそ、ラフト・リーフィシーの出方が知りたい。彼は君のために、人生を捨てられるかな?」
「人生って?」
「その指輪は王家からの授かり物だそうだ。囚人を連れ去られただけでも面目丸つぶれなのに、その上恋人の命を買い戻すために家宝まで差し出してたとあっては、いかなラフト・リーフィシーとはいえ検断長官職を続けていけはしないだろう」
「ちょ、ちょっと待って」
思わず、アカシュはリヒの言葉を遮った。ほぼ、反射的といっていい。
「……恋人、ってもしかして俺のこと?」
耳を疑った。言うに事欠いて何を言っているんだ、といった感じた。
「言い方が間違っていたかい? 愛人、それとも情夫という呼び方がお好みかな?」
言葉を替えたところで、意味は同じだ。――知らないということは、本当に恐ろしい。
「へえ。囚人らの間では、そんな風に噂し合っていたわけか。勉強になるなぁ」
取りあえず誤魔化《ごまか》して汗を拭《ぬぐ》った。
「ラフト・リーフィシーの個人情報はなかなか外に漏《も》れないが、それでも東方牢《リーフィシー》城の役宅に奥方を住まわせていないことくらいは知られている。外に女を囲っている気配もないしな」
「だから、何が言いたいの?」
「彼は性的関心が女性には向かないのだ」
「すごい推理」
「だから、君や人形のような副官を側に侍《はべ》らせておくんじゃないか?」
「――」
エイが聞いたら、血管の二、三本はブチブチ切りながら怒り狂うであろう発言であった。
「他に、質問は?」
「どうやって俺を拉致《らち》したんだ?」
「まるでスリピッシュのようだったろう?」
相手がアカシュであったからか、リヒはチョギーのルールに引っかけて洒落《しゃれ》た。盤面上に同じ砦《とりで》を二つ作れば、国王の駒はその間を一手で瞬間移動できるという、あれだ。
「ふん。同じ砦なもんか。獄舎《ごくしゃ》の方が数倍居心地がいいよ。第一移動する王さまの意向も聞かないで勝手に飛ばすのはどうかと思うぜ。飛ばした場所が盤外っていうのも気にくわないね」
「わかっていないようだね。今、君はただの駒だ。駒はプレイヤーの意志で動かされるのが宿命じゃないか」
リヒはアカシュの手の平の上に、チョギー駒のように自分の人差し指を立てて笑った。
「じゃあ、あんたはチョギーをやっているつもりなんだ。誰と? ラフト・リーフィシー?」
「そうかもしれない」
「で、指輪が手に入ればあんたの勝ちなわけ?」
アカシュは鬱陶《うっとう》しくなったリヒの指を払った。
「違うよ」
手の平を追われた指先は、アカシュの頭を吸い付くように掴《つか》んでリヒの顔の前まで引き寄せた。髪を撫《な》でられながら、耳もとに熱い吐息がかかる。
「君が生きていたらラフト・リーフィシーの勝ち。死んでしまったら、彼の負けだ」
言い終わると同時に、手の平を返すように突き放された。とっさのことで手をつく暇《ひま》さえ与えられなかったアカシュは、顔面からもろ床に激突した。
「君には赤い血がよく似合う」
立ち上がりざま、リヒはアカシュを見下ろして目を細めた。
「……おい、待てよ」
広い背中が扉の彼方《かなた》に消えるまで、そう時間はかからなかった。囚《とら》われの駒でしかないアカシュには、リヒを止める手段はない。
乾き始めた手の甲の傷の上に、鮮やかな水玉模様が点々と描かれていくのが見えた。
「みっともねぇ、……鼻血かよ」
アカシュはそのまま仰向《あおむ》けになった。喉《のど》に鉄のような味のものが流れていく。
天井を見ながら考える。鼻血なんて大したことはないのだ、と。
(奴は何て言っていたか……?)
――君が生きていたらラフト・リーフィシーの勝ち。死んでしまづたら、彼の負け。
(マジで、すごくまずい状況じゃないか)
アカシュが死ねばリヒの勝ち。
即《すなわ》ち。
リヒは自らの勝利のために、最終的にはアカシュを殺す気でいるということに他ならないのだった。
中盤戦
エイがその男を見つけたのは、王宮から東方牢《リーフィシー》城に戻る途中にある街の一角だった。この辺りは古くから栄えた街で、立ち並ぶ店も王宮や牢城にも出入りできるような老舗《しにせ》が多く集まっている地域だ。
陛下から持ちかけられた妙な商談にうなずかされてしまったエイは、その時一刻も早く東方牢《リーフィシー》城に帰ろうと先を急いでいた。懐中時計を取り出して時間を確認すれば、すでに正午であった。
その時である。東方の鍵《かぎ》役人《やくにん》の制服が視界に飛び込んできたのは。
「あれは……」
顔に見覚えなどはない。だが彼であると直感した。
「ペイト!」
エイは愛馬を降りて声をかけた。
「えっ、あっ、……副長官!?」
背中を丸めて歩いていた彼は、エイの姿を認めると、一目散に逃げ出した。エイは再び馬にまたがり、その後を追った。
馬と人間の足である、最初から勝負は見えている。やがてペイトは力尽き、易々《やすやす》とエイに取り押さえられてしまった。
「わ、私が何を」
「やましいことがないのなら、どうして逃げた」
「あの、仕事を無断で早退したので……」
「じゃあ、その話をゆっくり牢城で聞こうか」
エイが細い腕に似合わず怪力でねじ上げると、ペイトは観念したのか、おとなしくなってうなだれた。
「あれ? 副長官、どうしてこちらに?」
騒ぎを聞きつけて、路地の間から部下数名が現れた。彼らはエイが王宮に向かうよりかなり前に、ペイトを連れ戻すよう命じた者たちである。アパートの彼の部屋が不在だったので、市中を探索中であったというが――。
(こんなにたくさん部下がいるのに、何故《なぜ》私が見つけるより前に捕らえることができないのだ……)
馬上で風を切りながら、エイは眉《まゆ》をしかめた。
(私の、それにお預かりしている長官直属の部下たちは、皆優秀な者ばかりのはずだぞ。なのに何で、私が何から何まで全部始末して回らなければならないのだ……)
もちろん、部下が怠《なま》けているわけではない。人には「そういう巡り会わせ」と諦《あきら》めるしかないことがままあるものだ。
しかし今のエイには、そんな風に悟りの境地になどとうてい達することはできそうもなかった。
「エイさま!」
長官執務室の扉を開けると、ロアデルは転びそうな勢いで駆け寄ってきた。
「申し訳ございません」
米つきバッタのように、大きく何度も頭を下げる。何だかこの状況は、過去の比較的近い時期に一度経験したような気がする。
「私、何が何やら、……もう」
彼女が振り返った肩越しには、やはり既視感《きしかん》とでもいうべき光景が待ちかまえていた。
「トラウトどの――?」
「やあ、エイ」
ロアデルが「何が何やら」と言ったのが、今更ながら染み入るように理解できた。あの時帰ったはずのトラウトが、どうして再び客用のソファに座っているのだ。
「お忘れ物か何か……?」
エイは控えめに尋ねた。
「いいや」
四角い顔の顎《あご》をしゃくって、トラウトは答えた。一度は西方牢《ルーギル》城に帰ったようで、先ほどとは別の服を身につけての再訪問である。
「申し訳ありませんが、長官はまだ帰っておりませんけれど」
「そうか。それは困ったな」
まさかさっきと同様のドタバタ喜劇を再演して、客人に帰っていただくわけにもいかない。ロアデルはやる気十分のような顔をしているが、あれはいかにも心臓に悪い。
どうしたものかと思案していると、トラウトが服のポケットをゴゾゴソと探り始めた。
「えっと、どこに入れたか……」
上着の右ポケットを見て、左ポケットを見て、ベストの左右を確認してまた上着のポケットに戻って。そうしてやっとその左ポケットから、目的の物は見つかった。
「何が何やらわからないのだが」
トラウトは先刻誰かが言ったのと似たような言葉をつぶやきながら、それをエイに差し出した。
「これだよ」
「これは――」
ラフト・リーフィシーの名前が書かれた、白い封筒《ふうとう》。
「おまけに、『親展』『大至急』の文字まで一緒……」
いよいよ既視感《きしかん》の様相が強くなってくる。それとも、あれもこれもすべて夢だったのだろうか。
「エイ、私は先ほど君に封筒を渡して帰ったのだったね」
「ええ。もちろんです」
エイは急ぎ自分の机に駆け寄り、引き出しの鍵《かぎ》を開けた。
「――ある」
そこに封筒を発見して、エイはホッと息をついた。よくよく考えれば、鍵をかけた上でロアデルが留守番していたのだ、そこに有って当然なのだ。封筒が一人でスリピッシュするはずはない。
「お預かりしている分は、確かにここに」
エイは開封口が見えないように持って、少し離れたトラウトに掲げて見せた。そして素早く引き出しに戻す。ラフト・リーフィシー宛《あて》の手紙を開封したと知られては、後々面倒くさいことになるからだ。
「じゃ、こっちは何だ?」
トラウトは、テーブルの上に置いてある未開封の封筒を指さした。
「さあ……? それはどちらにあったのですか?」
「上着のポケットだ。……これじゃなく、さっき着ていた方の上着だぞ」
トラウトが言うには、西方の役宅に戻って上着を脱いだ時見つかったそうだ。これを忍ばせた犯人のもくろみ通り、生真面目《きまじめ》なトラウトは今行ってきたばかりの東方牢《リーフィシー》城に再度手紙を届けにきた、というわけなのだ。部下を使いっ走りにするには、『親展』の文字が重すぎたのだろう。
「いったい、何だったんだろうな。……でも、もういいや。君に預かってもらえれば安心だから、私は帰らせてもらうよ」
今度は意外とあっさり、トラウトは帰る素振りを見せた。
「トラウトどの!」
エイはとっさに彼の前に立ちはだかり、行く手を遮《さえぎ》った。
「申し訳ないですが、お時間をいただけないでしょうか」
「何で?」
トラウトは、雀《すずめ》のようにキョトンとした。
「待ったところで、ラフト・リーフィシーの帰宅は何時になるかわからないんだろう?」
「ええ、それはそうなのですが……。実はまだ詳しくお話しできない段階なのですが、今、東方検断《トイ・ポロトー》は独自で捜査している事件がありまして。ぜひとも、トラウトどのにご協力いただけないものかと」
「捜査、って。東方は今月非番じゃないか。……ということは、数ヶ月がかりの大捕り物があるんだな? ああそうか、わかったぞ。ラフト・リーフィシーは、それで留守をしているのか!」
「えっ……」
「わかった、そういうことなら子細《しさい》は聞くまい。もちろん、協力だってさせてもらうぞ。そうか、ワクワクしてきたな。それで? 私は何をしたらいいんだ?」
そんな具合に、トラウトは都合よく勝手に解釈してくれた。
「トラウトどのには、この手紙を託《たく》した人間を思い出していただきたいのです」
「思い出す? そんなの、無理だ」
第一、いつどこで託されたかさえわからないのだぞ、とトラウトは拳を握りしめて力説する。けれどエイは天使のようにほほえんだ。
「大丈夫です、トラウトどのなら」
桁外《けたはず》れに整っているその顔は、見ようによっては悪魔にも似ていた。
「もちろん、私も思い出すお手伝いをいたしますから」
そしてエイは、ハンドベルを鳴らし部下を呼んだ。
「お呼びでしょうか」
「ああ、ログ。資料室に人相画ファイルを用意しておいてくれないか。今から西方検断《エスタ・ポロトー》副長官どのと一緒に行くから」
「ファイルは分類別になっておりますが、何をご用意いたしましょう」
「そうだな、掏摸《すり》関係を」
「はっ、かしこまりました」
ログが去ると、トラウトは「あの、エイ」と情けない声を出した。
「君は何を考えているんだ」
「お聞きの通りです。あなたには人相画ファイルを見ていただきます」
二度ともそれと気づかれることなく手紙を服に滑り込ませられるならば、相手はプロの掏摸かその経験者と考えてほぼ間違いはないだろう。
「ファイルの中に、今日どこかで見た人物がいたら教えてください」
「いなければ?」
「それはそれで結構です」
エイは扉を開けた。
ファイルになければ、それまでと諦《あきら》めるしかない。たとえ逮捕状《たいほじょう》が出ていても、前科がなければそっくりな人相画は存在しないはず。
「特に、本日最初に東方牢《リーフィシー》城にいらした時の記憶を丁寧《ていねい》に思い出していただきたい」
「来る時か?」
「ええ。たぶんその犯人はあなたが城に入る直前、時間にすれば短い数分という間に接触しているはずです」
「あの……どうしてそんなことわかるんですか?」
黙って聞いていたロアデルが、辛抱《しんぼう》できなくなったように質問した。トラウトも、彼女に同意して説明を要求する。
「本日トラウトどのは、当牢城をフラリとお訪ねになったのでしょう?」
「あ、ああ。約束があったわけではないが」
「だからですよ」
その者はラフト・リーフィシーに手紙を届けたかった。もちろん、トラウトが東方牢《リーフィシー》城を訪れることなど知るはずはない。だから、もしかしたら最初は門衛か遅番の役人などに託《たく》す予定だったのかもしれない。
しかし、トラウトの姿を見かけた時点で、計画は変更された。友人であるトラウトの方が、よりラフト・リーフィシーの近くまで行けると計算されたのだ。ならば行動を起こしたのも、トラウトが東方牢《リーフィシー》城にかなか接近してからということになる。
「東方は非番、人の出入りもあまりなかったはず。ですから、あなたは必ずその者を見ています。いくら名人でも、遠くから手紙を内ポケットに飛ばすなんてことはできませんから」
「帰り道ならばどこで手紙を擦《す》り入れてもいいから、その者を特定しにくいわけですね」
納得、と言った感じでロアデルはポンと手を叩いた。
「その通りです」
「わかった。思い出してみよう」
うなずいて、トラウトは資料室に向かうべく廊下《ろうか》に出た。
ロアデルに「留守を頼む」と目配せをして、エイも執務室を後にした。たぶん二通目の脅迫状であるはずの手紙は、未開封のままボケットに忍ばせた。
骨折り損に終わるか、それとも何かつかめるか。今は一つでも持ち駒が、情報が欲しかった。
それによって、これからのこちらの出方も違ってくるのだから。
「副長官」
ペイトとそれを囲んで事情聴取していた部下たちは、エイが扉を開けると一斉に視線を向けた。
「どうだ、吐いたか」
「いいえ。相変わらずのだんまりで」
「同じ検断の役人だからといって、遠慮《えんりょ》することはない」
エイは指の関節を順番に一つずつ鳴らしながら、ペイトの正面に立って威圧的に見下ろした。ペイトは耐えられなくなったようにうつむいて、取り調べ机の表面に視線を移した。
「今朝《けさ》アカシュを牢《ろう》から出したのは、ペイトだ。そしてキトリイ、庁舎からの迎えである君にアカシュが引き渡されなかったのだから、その罪状は明白ではないか」
用意された椅子《いす》に、エイは静かに腰掛けて足を組んだ。
「さて、ペイト。君はアカシュをどうした? 彼は、今どこにいる?」
「し、知りません」
「君は十年来無遅刻無欠勤の優秀な鍵《かぎ》役人《やくにん》だ。きっと、何か事情があってのことと思う……違うかな?」
「い、いえ。何も」
ペイトは背中を丸め、肩を落として小さく固まった。小心者の犯罪者の、一つのパターン。すでに罪悪感をもっているのだ。取り調べをする者は、そこを上手に突いて頑《かたくな》な心をほぐしてやればいい。
「アカシュを誘拐《ゆうかい》した犯人が、長官を相手に身代《みのしろ》を要求してきた」
「えっ……」
「彼らは、こんな物を送りつけてきた」
エイは封筒の中に入っていた折り畳《たた》まれた紙を開いて、ペイトに見せた。そこにはアカシュの髪と思われる真っ直ぐな黒髪が、ひとつまみ載っていた。
「身代金目的の誘拐は、最高刑が死刑だということくらい、検断の役人ならば知っているな? たとえ主犯格でなくても、人質が殺されたりした場合、私は犯行グループすべてを死刑にする自信がある。……犯人は、恐れ多くもラフト・リーフィシーに挑戦状を叩きつけたわけだからね」
髪の毛と一緒に封筒に入っていた二通目の脅迫状には、日没までに指定場所に指輪を持参しなければ人質は殺す、と書いてあった。だが、ふざけたことに当の受け渡し場所については一切記されていない。
手をこまねいて次の連絡が来るまで待っていたら、それこそ日が暮れてしまうだろう。ここはペイトを追及して、知っていることを全部吐かせるしかなかった。
「聞けば、君は奥方を亡くして娘を男手一つで育てているそうじゃないか。君が死んだら、娘さんはどうなる?」
「娘……」
娘と言う言葉が出たところで、ペイトは思い出したようにポロポロと涙を流した。彼のネックは娘でありそうだ。
「今すべてを話したら、罪を減じてやろう。君は、たぶん利用されているだけなのだから。だが、アカシュが今夜の点呼《てんこ》までに戻らなければ、それは事件として陛下に報告しなければならない。そうなれば、君の罪だって私の一存でなんとかしてやることもできなくなる」
「副長官……」
だが、ペイトは何かを言いかけてからあわてて首を左右に振った。
「いいえ。何でもないのです」
「娘に会いたくないのか?」
「会いたいですとも! でも、会いたいからこそ……!」
言葉はそこで途切れた。アカシュ誘拐《ゆうかい》に荷担《かたん》したことだけでなく、ペイトは他にも何かを隠しているのだ。
「どういうことだ」
エイはうつむいた男の顔を、人差し指一本で上に向けさせた。
「娘に何かあったのだな?」
「――」
ペイトは頬《ほお》を涙で濡らしたまま、口を真一文字に結んで目をそらした。
「言わないか、ペイト。君は、東方検断《トイ・ポロトー》が信用できないのか」
「勘弁《かんべん》してください。どうか私たち親子のことは、もう放っておいてください」
あとはもう泣きじゃくるばかりである。エイがため息をつくと、キトリイが「その娘のことですが」と耳うちしてきた。ペイトの娘は、アパートにいなかったというのだ。エイはそこから、一つの推論を下した。
「わかった。もう、聞くまい。だがいいか、聞かなかった上は、君の娘がどうなろうと東方検断《トイ・ポロトー》は一切関知しないからな」
ただ鎌をかけただけのつもりだった。だがその言葉は、ペイトのみならず他の部下たちの表情をも凍らせた。
「これだけ手を差し伸べているのに君が我々を拒絶するのは、君が犯行グループの人間であるからなのだろう。だが、考えてみたまえ。奴らもまた、君のことを仲間だと思ってくれているかな? 君には何と言ったか知らないが、人質というのは大半は口封じに殺されるものだ。……仕方ないね、犯人の顔を見ているのだから」
自分の頬《ほお》を指で指し示して、エイは冷たく微笑し、続けた。
「たとえ彼らが積極的に殺さなかったとしても、犯人側のアジトに我々が踏み込んだ場合、娘は巻き添えで死ぬかもしれないな。我々の課せられた任務は、拉致《らち》された囚人の救出のみ。わかっているとは思うが、こちらだって命を懸《か》けているのだ。犯人の娘まで助ける義務などない――ま、これは仮《かり》の話だがね。実際に君の娘が現場にいないのなら、そんな心配はする必要がない」
それを聞くとペイトはブルブルと震え、「待ってください」とつぶやいた。
「何だ?」
「私が話せば、娘を助けてくれますか?」
「全力を尽くすが、保証はできない」
「えっ……」
「すでに殺されていたとしたら、私には何もできはしない。……君は、最初の選択を誤ってしまったからな」
ここにきて、根拠のない希望など与えてはかえって酷《こく》だ。生きているから、と。必ず無事救出するから、と。そう言ってやることの方が、本当はエイにとっても楽なのだ。だが、アカシュという人質を得た犯人グループにとって、もはや鍵《かぎ》役人《やくにん》の娘の利用価値などあるだろうか。
アカシュはまだ生存している可能性が高い。だが、ペイトの娘はいつ殺されても不思議はない。
アカシュ拉致《らち》に力を貸す前にペイトが相談してくれていたら、検断だってもっと動きやすかったのだ。
「……副長官には、ご家族がいらっしゃらないから――」
絞《しぼ》り出すように、ペイトが言った。
「家族がいなければ、どうだというのだ」
エイは眉《まゆ》をひそめる。
「副長官は東方検断《トイ・ポロトー》の面目を第一に考えて、アカシュを探しているんでしょう? そんなお方には、私の気持ちなどわかりはしません」
「何だと――」
「一人で決断などせずに東方検断《トイ・ポロトー》に委《ゆだ》ねるべきであると心ではわかっていても、愛する者の命を盾《たて》にとられていたら、どんな無理な要求でも呑《の》んでしまうものです。誰かに言えば娘を殺すと脅《おど》されれば、たとえ陛下に命じられても口を開きはしないでしょう」
涙を流し唾《つば》を飛ばしながら、ペイトは必死に訴えた。
「お顔も知らない長官や陛下よりも、私には実際に娘を拉致した男たちの方が怖い。アカシュに恨《うら》みなどないけれど、彼の命と引き替えに娘が無事に戻るのなら、私は喜んで犯罪を犯します。私が死刑になっても、娘が生きていればそれでいい。一番恐ろしいのは、あの子が死んで私がおめおめと生き長らえることです」
とうとうペイトは机に泣き崩《くず》れてしまった。
「ペイト……」
十も年上の男を慰めるように、エイはその肩を撫《な》でた。
「わかるよ。家族はいないが、私にだって大切な者はいる」
自分だって、ワースホーン王国の最高権力者に話せなかった。人に話して、大事になるのが怖かった。
自分の行動一つで、ラフト・リーフィシーの命を、名誉《めいよ》を、立場を、傷つけてしまうかもしれない恐怖。東方検断《トイ・ポロトー》は自分で保《も》っているという自信など、とうに消え失《う》せてしまった。
やはり、彼がいなくてはだめなのだ。東方検断《トイ・ポロトー》のためではなく、彼を取り戻すために、ひいては自分自身のためにエイは走り回っているのだということが嫌というほどよくわかった。
「すべて話してくれるね?」
エイの気持ちが伝わったのか、ペイトは瞼《まぶた》を擦《こす》りながら「はい」と大きくうなずいた。
エイたちが牛乳屋の入り口と勝手口を押さえたのは、それから間もなくのことである。
「やっぱり牛乳屋だったか……」
エイは舌打ちをした。
もう少し踏み込んで考えれば、たどり着けたかもしれない答えだった。
ペイトの話で、牛乳に毒が混入されていたことがわかった。古くなっていたわけではないのだから、熱を通したからといってそれで大丈夫というわけではなかったのだ。
厨房《ちゅうぼう》の中に犯人と接触した者はいない。ならば、やはり牛乳屋を疑ってみるのが常套《じょうとう》であったろう。いつもの彼ならば易々《やすやす》ど導き出せたことかもしれない。それだけ混乱していたということだろう。
商店の立ち並ぶこの通りは、ペイトがエイに捕らえられた通りでもあり、場所的にも二ブロックと離れてはいない。
「そうか、君は一人で乗り込もうと思っていたのか」
傍《かたわ》らのペイトに尋ねると、彼は自信なさげにうなずいた。武者震いなのか、戦慄《せんりつ》を覚えてのことか、その身体はわずかに震えている。
鍵《かぎ》役人《やくにん》は捕り物に不慣れなため牢城で待っているようにと言ったのだが、ペイトは頑《がん》として連れていって欲しいと聞かなかった。娘の安否《あんぴ》が気がかりであると察せられるだけに、エイも同行を許したというわけなのだ。
他の部下はといえば、すべて長官または副長官直属の部下たちで、皆事情を知っている上にエイが手足として動かせる者ばかりである。十人余りという少人数ではあるが、非番月ということではこれが精一杯の動員数だった。北方の目をかすめて捕り物をするわけであるから、目立つわけにはいかない。
「昨夕と今朝《けさ》牛乳を配達に来た者ですが、二ヶ月くらい前から勤め始めた若い男だそうです。真面目でよく気が付くとかで、主人に気に入られて、半月程前から配達も徐々に任せられるようになったとか」
近所に聞き込みにいっていたログが帰ってきて、エイに耳打ちをした。
「なるほど。時々出入りしていたのなら顔つなぎもしていただろうし、厨房《ちゅうぼう》の者も不審には思わないな」
「ええ。ペイトの話では、空の牛乳|樽《だる》にアカシュを押し込んで運んだというのですから、門衛だって気がつかないはずですよね」
「……さぞかし窮屈《きゅうくつ》だったろうな」
急病になった鍵役人と同じだけミルク・プディングを食べたのだから、吐きながら意識が朦朧《もうろう》となっていたはずである。
いくら乳製品好きだからといっても、ミルクプディングが原因で嘔吐《おうと》して、その最中に後頭部を殴《なぐ》られ、牛乳臭い樽に押し込められて長い道のりを馬車に揺られては、ひとたまりもないだろう。
エイの指示で、部下の一人が牛乳屋の扉を叩いた。
「ごめんください。あの、牛乳を分けてもらいたいのですけれど」
配達を主流としている牛乳屋であるので、通りに向けて大きく開け放った造りの店ではない。ただこういう店は、頼めば小売りしてくれるものなのだ。
「すみません、誰もいませんかー?」
夕方の配達にはまだ早い。主人夫妻と二人の従業員、全員が出払っているなんてことがあるだろうか。取っ手を引くと扉は難なく開いた。鍵はかかっていない。裏口も同様だった。
エイの指笛を合図に、表と裏口の双方から侵入する。
エイは表の扉から中に入った。牛乳臭い空気が、ムッと鼻をつく。薄暗い店舗《てんぽ》を歩けば、牛乳の入った樽にぶつかった。そこは店舗とはいえ、倉庫兼牛乳の一時保管所のような使い方をされているようであった。歩きながらエイのブーツは、小分け用の柄杓《ひしゃく》や漏斗《じょうご》などを踏んだ。
食品を扱う店で、タイルの床に無造作に道具が転がっているのが気になった。
一階の中心部で、裏口から入ってきた部下たちと鉢合《はちあ》わせした。
「副長官。二階部が住居で、地下に物置があるようです」
「よし。では再び二手に分かれよう。裏口から入ってきた者は、上を見てくるように。表からの者は、私に続け」
足を忍ばせて、エイはゆっくりと地下に歩を進めた。下方はしんと静まっている。耳を澄ましても、部下たちが階段を慎重に踏みしめて上る振動が、頭上から微かに伝わるだけだ。
先頭に立って廊下《ろうか》を進み、物置と思《おぼ》しき部屋の前までやって来た。中から、物音は聞こえてこない。扉の脇に立ち、腰の剣を音をたてずに引き抜いた。
もし向かってくる者が二人や三人だったら、剣の地肌打《じはだう》ちで瞬時に動きを封じる自信はある。刃向《はむ》かう者が多ければやむを得ない、いくらかの血は流れることになるだろう。先手必勝、相手が次の行動に出るより早く人質を救出しなければならない。
目で合図し、部下に扉を開けさせると、エイはそのまま中に乱入した。だが、気配で感じていた通り、中には誰もいない。
(外れ、……か?)
用心深く中を探索する。しかし少し前までは人が確かにいた気配が、そこここに残っていた。
空気は澱《よど》んでいないし、樽《たる》にはうっすらと積もっている埃《ほこり》が、床の中心部だけきれいになっている。
(血……?)
ふと、床の染みが目に付いた。エイはしゃがみ込んで、すでに黒茶けたその染みに触れてみた。間違いない、これは血だ。
誰の血かを考えるより前に、その側に嘔吐《おうと》の跡を発見する。
(――まさか)
目の前が真っ暗になった。これが仮に自分の想像している人間のものだとして、どうして彼が血など流さなければならないのだ。
血は点々と床を移動し、そして雑然とした部屋の隅へとエイを誘《いざな》った。
「副長官……?」
「その場で少し待て」
埃が舞う。ハンカチで口を覆《おお》いながら、エイは樽と樽の間の人一人入るのがやっとであるほど狭い空間まで迷い込んだ。
「灯《あか》りです」
どこで見つけてきたのか、ログが背後からランプを差し掛けた。
「ああ、ありがとう」
エイはそれを受け取り、自ら床を照らした。
「これは……」
思わず、息を呑《の》んだ。そこにあったのは、血染めのメッセージだったのだ。
「アカシュは、間違いなくここにいた」
エイは狭い空間から這《は》い出て言った。
「誰か、水で湿らせた紙を載せて、これを写し取ってくれ。何を言いたいのか、ここでは判読しきれないからな」
「はっ……?」
その足で部屋を出て階段に向かうエイを、最後尾にいたペイトが追いかけた。
「娘は、娘は無事でしょうか!?」
「わからん」
階段に片足掛けたまま、エイは振り返った。
「ただ、アカシュと一緒に移動させられた可能性はある。犯人グループはここを引き払ったように見えるが、まだ店全体の探索が済んでいないから――」
二階を見にいくつもりであると、言いかけた時、上から転げ落ちるように部下が階段を下りてきた。二手に分かれた際、二階に向かった部下の一人だ。
「た、大変です。副長官」
「何事か」
エイが厳しく尋ねると、部下は我に返って直立し、基本姿勢で報告を入れた。
「二階で男性二名、女性一名が殺されていました」
「何だって!?」
仰天《ぎょうてん》したエイとペイトは、次の瞬間には我先にと階段を一段抜かしで駆け上がっていた。
「副長官!」
二階に到達すると、部屋の扉を塞いでいた部下がさっと身を引いた。ペイトを従えて、恐る恐る部屋に足を踏み入れる。
血しぶきが部屋中に飛んでいた。
「発見した時のままで、動かしてはいません」
「そうか」
三人の遺体は、お互いを庇《かば》うようにうつ伏せに折り重なって果てていた。一番上は中年男性。その次が若い青年で、一番下が女性のように見えた。
エイはその場にしゃがんで、二番目の遺体の顔を確認した。
「――違う」
黒髪で年格好も近いが、それは自分の知らない青年だった。
「こっちも、娘じゃありません」
ペイトが叫んだ。
そのホッとした表情を、エイは見逃さなかった。そして自己嫌悪に苛《さいな》まれる。ペイトの顔は、今の自分の顔だった。
死んだ人間が、自分たちの案じている人でなかったから、喜ぶのは人間の感情として自然なことかもしれない。
だが。
(ここに、不当に命を奪われた人間がいるのだ……)
人の命は平等に重い。それは、日々自分に言い聞かせていることだ。
それなのに、そのことを一瞬忘れた。
(私は検断の副長官として失格なのではないか)
エイはブラリと下ろした右の拳を、震えるくらいに強く握りしめた。
検証の結果、殺されていたのは牛乳屋の主夫婦と勤続五年の店員であると確認された。
よくよく考えてみれば、瀕死《ひんし》の重傷を負いながら、犯人の目をかすめてメッセージを残すのはかなり難しいことではないか。だから、少なくともアカシュは生きている。怪我《けが》をしているとしても、それは致命傷ではないだろう。
執務室で、エイは静かに考えてみた。机の上には、部下が紙に写し取ってきた血のメッセージを広げている。
「これは、何が書かれているのですか?」
ロアデルが尋ねた。だがエイはただ首を横に振る。
「それがわかれば、いいんですがね」
「何が書かれているかわからないのに、なぜ、これがアカシュさまのメッセージだと思われたのです?」
「……この下手くそな絵。描いたのは、あの方以外の何者でもないでしょう」
何しろ、文字がほとんどない。その大半が、何だか訳のわからない動物の絵なのである。
だからこそ、判読ができずに写してきたのだ。今頃、北方検断《ナフ・ポロトー》が殺人事件の現場検証しているであろうから、写しを採っておいて正解だったと言える。
結局は、振り出しに戻ったということだろうか。何も進展しないまま、時間ばかりが過ぎていった。
あの時こうしていれば、とか、選択が間違っていたのでは、とか思うのは簡単だ。だか[#「だが」の誤植か?]、思い悩む時間があったら、少しでも解決策を考えた方が賢《かしこ》い方法だった。
「『リヒ』か……」
「えっ?」
「唯一の文字です。誰かの名前かと思うのですが、心当たりはありません」
念のため、過去の犯罪者リストからリヒという名前を抜き出す作業をさせてはいるが、何分《なにぶん》ありふれた名前である。そこから犯人を特定するのは、あまりに難しいと思われる。
「それにしても、これは何だろう? 鳥かな、それとも豚《ぶた》だろうか」
エイが紙の向きを変えながら首を捻《ひね》ると、ロアデルは苦笑しながら答えた。
「足がないんですから、魚ではありませんか?」
「ああ、……魚」
エイが納得したところで、トラウトが部屋に飛び込んできた。
「いたよ、いたいた!」
うれしそうに何かを振り回しながら、エイが座つている机の正面に立つ。
「何が、……でしょうか」
「何が、ってご挨拶《あいさつ》だなぁ」
言いながら、トラウトは手にして回た物を机上《きじょう》に置いた。エイは、そこでやっと思い出した。トラウトには掏摸《すり》の人相ファイルをチェックしてもらっていたのだった。
この男だ、と指し示されたのは、年の頃は三十前後、茶色い髪のさっぱり顔で、これといって特徴のない男だった。
「間違いない。この城に入る直前にすれ違って、ハンカチを拾ってもらった」
「なるほど。まずハンカチを掏《す》っておいて、それで隠すように手紙を渡したんでしょう」
「えっ。……そうだったんだ」
言われて初めて、西方の若様はそのトリックに気がついたらしい。
「もしかしたらまずハンカチのイニシャルを確認して、トラウトどのであるとの自信をつけて行動に出たのかもしれませんけれど」
エイはつぶやいて、その人相画について書かれた情報を目で追った。
「残念ながら、リヒではないですね。ルアジ・ラボテ、二十八。一年前に一度掏摸の現行犯で西方に捕まって、前科と余罪がなかったので懲役《ちょうえき》半年で放免されている」
ルアジという男がトラウトの顔を知っていたのは、取調官がトラウトだったからではないだろうか。エイもロアデルも同時にそう思ったが、トラウトの名誉《めいよ》のために黙っていた。
(腕に鮫《さめ》の刺青《いれずみ》……?)
身体的特徴の項を読んでいて、そこの箇所《かしょ》で引っかかった。
「鮫……」
エイがつぶやくと、トラウトとロアデルが同時に「鮫?」と聞き返した。
「この絵のことか?」
トラウトは、目聡《めざと》く血で描かれた魚の絵を見つけて指さした。
「トラウトどのには、それが鮫に見えますか。私には、どうひいき目に見てもヒラメか鯛《たい》にしか……」
指摘されるまで魚にも見えなかったことは、黙っていることにした。トラウトは自信ありげにそれを鮫《さめ》だと主張した。
「だって背びれでわかるだろう」
彼|曰《いわ》く、大きな三角の背びれは鮫の特徴であるから、多少|寸胴《ずんどう》でも鮫であると認めてやるべきなのだそうだ。なるほど、丸々と太った身体の上方には三角の大きな背びれが確認できた。
「イルカにも似たような背びれを持っているのがいるけど、えらがあるのは魚だからね」
胸を張って講義するトラウトは、さながら魚博士のように知的に映った。――人間、何かしら取り柄というものはあるものである。
「あの、鮫って刺青《いれずみ》のことじゃないですよね」
得意げなトラウトの後ろで、今度はロアデルがつぶやいた。
「どうして、それを」
「偶然でしょうけれど、腕に鮫の彫《ほ》り物《もの》のある囚人を見たものですから」
「いつ?」
「今朝《けさ》です。マイザの所で、洗濯の手伝いに駆《か》り出されていました」
「ああ、そうか!」
エイはファイルを取り上げて、「確かこの辺に」とページをめくり始めた。最近、どこかで見た気がする。それも文字ではなく、実際にその刺青を。
それは比較的新しいファイルの中に探し出せた。現在|東方牢《リーフィシー》城で半年の懲役刑《ちょうえきけい》に服している男、彼もまた鮫の刺青が特徴として記されている。エイは直接取り調べていないが、部下の取り調べに同席したことがある。その時、たぶん見たのだろう。
「この男ですね?」
「ええ、そうです」
トラウトが側にいたので口には出さなかったが、その囚人はアカシュと同じ雑居房《ざっきょぼう》に入れられている囚人だった。だとしたら、もしやそのことを伝えたかったのだろうか。だが、彼の名もまたリヒではない。
「トラウトどの、どうもありがとうございました」
「何だ、役に立てたのか?」
「ええ、もちろん。でも、申し訳ないのですが急用を思いつきまして。私は失礼しますけれど、よろしければゆっくりしていらしてください」
ギュッとトラウトの手を握ってから、エイは部屋を後にした。後にはロアデルと客人が残される。
「トラウトさま、お茶をいかがですか?」
「……えっと。また今度ごちそうになることにしよう」
トラウトはそそくさと帰っていった。また紅茶をこぼされては大変だ、と彼の顔にありありと書いてあったとか。
今度はちゃんとおいしいお茶をいれようと思っていたのに――、とは後になってロアデルから聞いた話である。
*  *  *
「いずれ細工をするから、牛乳嫌いの振りをしてアカシュって奴におかずを回すように言われていたんです。何でも、薬を微量に押さえることで、大量に食べた者にだけ症状がでるようにするとかで」
二ヶ月前に掏摸《すり》の現行犯で逮捕《たいほ》され、すでに半年の懲役刑《ちょうえきけい》が確定して服役中のその男は、エイの追及にいとも呆気《あっけ》なく口を割った。
「ずっと一匹|狼《おおかみ》でやってきたんですけどね、今度闇の掏摸組織みたいなものに入れてもらうことになりまして。上前ははねられるけれど、危なくなったら外国に逃がしてもらえるらしいですし、これからのことを考えたら、やっぱりね。……で、忠義の証《あかし》っていうんですか? まずは手みやげ代わりに一仕事して見せなきゃならないわけで」
口が軽いだけのことはあって、この男は下《した》っ端《ぱ》も下っ端。その組織の拠点となる隠れ家《が》はおろか、ボスの名前すら知らない小物だった。
「怪しまれないように便器争いにも参加したんですけれど、どうしてバレちゃったのかなぁ」
腕をポリポリかきながら、男はぼやいた。偉そうな鮫《さめ》の刺青《いれずみ》が情けなく歪《ゆが》んでいた。
「この仕事を無事成功させたら、ボスに引き合わせてもらうはずだったんだけど、どうなっちゃうんだろう」
それは残念そうに舌打ちをしたが、本当に残念だったのは、彼から何も聞き出せなかったエイの方であった。
終盤戦
犯人側から最後の手紙がきたのは、夕方の点呼《てんこ》二時間前であった。
「……考えたな」
長官執務室で、エイは髪をきつく縛《しば》り直しながらつぶやいた。
「何がです?」
小さく動かしていた針を休めて、ロアデルは尋ねる。
「街の子供にお駄賃《だちん》をやって、手紙を届けさせてきたことですか?」
「いや、それはある程度予測していたことですから」
犯人側からのアクションがあると読んでいたから、エイは城門近くで部下のキトリイを張り込みさせていた。三度目もトラウトを使うことはないだろう。だとしたら、こちらも相手からの信号を積極的に受信する必要があった。
犯人もこちらの動きを見ているのだろう。手紙を託《たく》された子供は、門衛ではなくキトリイに迷わずそれを手渡した。キトリイは周辺を探してみたがそれらしい大人の姿はなく、五つかそこらの幼児には頼んだ者の特徴など言えやしなかった。
エイが感心したのは、身代《みのしろ》の受け渡し方法だった。犯人は場所を指定することなく、ただ単にラフト・リーフィシー一人に城外に出ることを要求した。指輪を持って城下街の本通りを真っ直ぐに進めば、やがて向こう側から指示があるという。
それでは、受け渡し場所に部下を先回りされる心配もないわけだ。
「副長官。ご命令通り、城門は閉ざしましたが」
ログがノックの返事を待たずに入室して、報告した。
「ご苦労。私が外に出るまでは、城外に出ることを極力制限しろ。急用であっても、黒髪の男だけは絶対出すな。犯人に人違いされては困る。それから君たちは私が城を出た後、分かれて検断の分所に待機したまえ。手が必要な時は最寄《もよ》りの分所に連絡を入れるから、それまで手出し無用だ」
「はっ」
ログは敬礼をして、出ていく。
「やはり、エイさまが行かれるのですね」
ロアデルが糸を玉止めし、それをハサミで切った。
「私、不安です。アカシュさまが行方《ゆくえ》不明になって、エイさまにまで何かあったら……」
「ロアデル」
「お役に立ちたいけれど、私には検断の仕事なんか何もできないし」
それまで気丈《きじょう》に振る舞っていたロアデルが、一瞬心細げな表情を見せた。指示を与える人間が不在になる不安に、今彼女は押しつぶされてしまいそうなのだ。ロアデルはたぶんこれまで、もやもやした恐怖や不安の波を、エイという防波堤ではね返すことによって自分を保ってきたに違いない。エイの指示に従ってさえいれば、きっとアカシュは帰ってくるのだ、と。だからエイがいなくなることによって、不安を封じ込める拠《よ》り所《どころ》をなくしてしまったのだ。その気持ちが、痛いほどよくわかった。
「大丈夫。すぐに長官と一緒に戻ってきますから」
エイはロアデルの肩を抱いて、努めて明るい声で告げた。そして、彼女の手にした服を見てつぶやく。
「ああ、できましたか。ありがとう。ロアデルがいてくれて助かりましたよ」
それは、今朝方《けさがた》ロアデルが届けたラフト・リーフィシーの服だった。エイが着るために、ロアデルに少し短い丈《たけ》を出してもらったというわけである。
アイロンで仕上げてパリッとさせれば、ピーコックグリーンの上下はあつらえたようにエイにピッタリだった。
「胴回りはアカシュさまと一緒なのに、袖《そで》と裾丈《すそたけ》はエイさまの方が長いんですね」
ロアデルは、ブラウスのリボンを直してやりながらつぶやいた。リーフィシー家の家紋《かもん》をデザイン化して刺繍《ししゅう》してあるこのスーツは、ラフト・リーフィシーであることを強調するためには不可欠な小道具だった。
「ヒョロヒョロ伸びて白いから、まるでもやしみたいでしょう?」
「もやしだなんて、そんな」
ロアデルは少し笑った。だから、エイは彼女を置いて行けると思った。
「ご無事で」
執務室の扉の前で見送るロアデルを、エイは抱きしめた。
「エイさま……?」
「すみません。少しでいいんです、こうしていてください」
ロアデルは最初驚いたようだったが、望み通り彼の身体を支えてくれた。
「ロアデル、私は震えていますか」
不安なのは、自分なのだ。恐怖しているのも、崩《くず》れてしまいそうなのも、みんな自分のことだったのだ。
ロアデルは、言った。
「震えていらっしゃいますけれど……。でも、それは悪いことなんですか?」
「え……?」
「私、かえって安心しました。完璧《かんぺき》そうに見えるエイさまも、悩んだり不安になったりされるんですね」
「安心、ですか」
これから人質救出に行くのに不安になっている男を見て、安心したというロアデルがエイは不思議でならなかった。でも身体を離して覗《のぞ》き込んだ顔は、「適当な慰めを言ってみた」といった風でもなくごく自然に出た言葉のようだった。
「大切な人を助けにいくんですもの、心が揺れるのは当たり前じゃありませんか?」
「でも、私は検断の副長官なんですよ。そんな私情――」
「ペイトさんは、娘さんの身を一番に考えているじゃありませんか。アカシュさまのことを誰かが思って差し上げてもいいはずです」
ここに身を案じるご家族がいらっしゃらないのですから、私たちが心配しても構わないはずです、とロアデルは必死になって力説した。要点が絞《しぼ》れてない気がするが、言いたいことは十分に伝わった。
「ありがとう。お陰で、がんばれそうな気がします」
エイはロアデルの肩を軽く叩くと、微笑して執務室を後にした。
なぜ、犯人は王家の紋章入り指輪を要求したのだろう――。エイは城門を出てから、そのことをずっと考えていた。
陛下の指摘通り、それは出所がはっきりしている場合に限ってのみ値打ちのある物だった。
盗品は闇のルートでしか流通できない。また、ばらしてしまえば価値は半減する。
一番高く売りさばくならば、それは元の持ち主に買い戻してもらうことだ。王家から拝領した品であれば、盗難に遭《あ》ったことを隠したい一心で、かなりの言い値でも引き取るだろう。
だが、今回犯人は、換金する目的で指輪を手に入れようとしたわけではない。金目当てだったら、最初から好きな額の身代金《みのしろきん》を要求すればよかったはずだ。
(彼らの目的は、何だ)
坂を下って街に出る。本通りは一歩入っただけで人の数が違った。
じき夕方だというのに衰えない、街には庶民《しょみん》の活気があふれている。店じまいの安売りを目当てにやって来た買い物客、日暮れまでの時間を惜しんで歩道の隅で石蹴《いしけ》りをする少女たち、家路を急ぐ少年――。
帽子を目深《まぶか》に被《かぶ》って、人混みを歩いた。いつもと違う出で立ちのエイに、巡回で顔見知りとなっている人たちも、まるで気がつかなかった。
東方牢《リーフィシー》城の城下であるのに、ここは知らない街のように落ち着かなかった。すれ違う人の中に、それとも沿道に佇《たたず》む人に紛《まぎ》れて、自分を監視している犯人がいるかもしれないのだ。
自分は今、ラフト・リーフィシーらしく振る舞えているだろうか。
犯人がラフト・リーフィシーという人間を実際見たことがないのだと信じるならば、騙《だま》しきることが可能だろう。だがラフト・リーフィシーとして無防備に街中を歩くことは、かなり危険な状態であるともいえた。どこからか、飛び道具で狙われてたら、ひとたまりもない。
(これか……?)
犯人グループの目的は、ラフト・リーフィシーの命を狙うことなのだろうか。
(だとしたら、なぜ?)
検断は人に恨《うら》まれやすい商売だ。東方検断《トイ・ポロトー》に逮捕《たいほ》された過去を持つ犯罪者で、逆恨みしているケースもあるだろう。ラフト・リーフィシーに身内の死刑を宣告された者だって、どう思っているかわかったものではない。いずれ仕返しをしようと馬鹿な考えを持つ者だって少なからず存在してしまうのは、この仕事の宿命であるともいえる。
(だが、ここまで凝《こ》るだろうか)
まず鍵《かぎ》役人《やくにん》の子供を誘拐《ゆうかい》し、牛乳屋を襲撃して牛乳に毒を仕込み、そして無理難題ともいえる城外不出の家宝を要求する。
東方検断長官に恨《うら》みをもつならば、もっとスマートに命を絶つ方法はあったはずだ。ただ一人の命を奪うために、無関係な三人の命を絶ち、二人の人質を拘束《こうそく》しなければならない必然性はどうしても見出《みいだ》せない。
(いや、そうだろうか)
少なくとも牛乳屋における三人の死は、送りつけられた髪の毛よりは遙《はる》かにエイを恐怖に陥《おとしい》れたことは確かだ。罪のない人間の死を突きつけられることにより、殺人をもためらわない集団であることを強烈に印象づけられたといっていい。
もし恋人が人質として囚《とら》われていたならば、すぐにその人の死を考えてしまうだろう。大切な人が同じような目に遭《あ》わないように、犯人の要求を一も二もなくのもうと決意させるに十分だ。たとえば、周囲が猛反対したとしても。
(そうだ。誘拐《ゆうかい》されたのがただの一囚人であったなら、私は副官として、一人で犯人グループに接触しようとする長官を必ずや止めたに違いない)
エイは、そこで奇妙なことに気がついた。
(ラフト・リーフィシーは試されている……?)
副官の反対をはね除《の》けて、恋人を助けるために単独で行動できるか。
リーフィシー家の名誉《めいよ》を傷つけると承知の上で、家宝の指輪を差し出すことができるか。
そして彼らは、常に要求をのむ方に懸《か》けている。笑いながら、自分たちの手持ちの駒《こま》にどれくらい高値をつけられるかを見守っているのだ。
ペイトに対しても同様だ。彼らはその仕事に対し、非常に満足しているに違いない。ペイトは娘のために、ラフト・リーフィシーまでも裏切ってくれたのだから。
まるでゲームのようだった。
ルールは一方的のハンデ戦。だが受けて立たなければ、その場で負けが決定する。
(これがゲームならば、どうすれば勝てるのだろう)
もちろん人質を無事救出し、指輪を手放さずに犯人|逮捕《たいほ》する。それ以外に解決の方法などない。
(ではこちらの負けは、どのような場合なのか)
ラフト・リーフィシーが殺された時? ――否《いな》、プレイヤーを殺してもそれは勝ちとはいえないだろう。
ならば、人質だ。指輪を取られても、犯人を逮捕できなくても、人質を殺されることのダメージに比べれば遙かにましだ。
(犯人の最終目的は人質の死だとするなら、今私は何のために指輪を手に街を歩かされているのだろう)
わからない。
(もっとよく考えろ!)
エイは自分を叱咤《しった》した。こうしている間にも、長官やペイトの娘の身は危険にさらされているかもしれないのだ。
「小父《おじ》ちゃん」
その時、エイは上着の裾《すそ》を引っ張られた。驚いて振り返ると、そこには七つくらいの小さな女の子が立っていた。石蹴《いしけ》りをしていた少女の一人であろうか。
「何だい?」
子供にかかっては弱冠《じゃっかん》二十歳《はたち》でも小父さんなのだ、と苦笑しながら尋ねると、少女は小さく折り畳《たた》んだ紙片を差し出して言った。
「あそこの小父ちゃんが、これ渡してくれって言ったの」
「あそこ?」
振り返って指さす方を見ても、そこにあるのは絶えず流れる人の波である。
「あれ、いなくなっちゃった。あのね、黒い服をきた頭の茶色い男の人」
「そう」
エイがお駄賃《だちん》の小銭《こぜに》を握らせると、少女はピョンピョン跳ねながらまた石蹴りの輪の中に紛《まぎ》れていった。
ついに、来た。犯人からのつなぎだ。
『ラフト・リーフィシーへ
次の角を右に曲がり、三つ目の道を左折、右手五軒目の屋敷、王の部屋』
「何だ、これは」
開いた紙片に書かれた文字を読んで、首を傾《かし》げた。途中まではわかるのだが、一番最後がよくわからない。
「王の部屋」
その屋敷に、人質を預かっているという意味だろうか。取りあえず角に差し掛かったので、それを指示通り右に曲がった。本通りを外れただけで、道幅は狭まり、店の数も行き交う人の数もぐんと減る。細い道三つ分も奥に入ると、辺りは住宅地といった趣《おもむき》に変わっていった。エイは今度は左折した。
右手を見ながら五軒分家を数える。行き着いた家は、よく知っている医者の屋敷で、ここに人質たちが監禁されているとはとても考えにくかった。立ちつくしていると、医者の奥方が外出先から戻って、エイを不思議そうに見てから屋敷に入っていった。彼女とは挨拶《あいさつ》くらいする仲であるが、多分エイとはわからなかったのだろう。
王の部屋。何か、意味があるはずだ。
エイは煉瓦塀《れんがべい》に手をついて、息を吐いた。
(落ち着け、落ち着くんだ)
犯人側は、ラフト・リーフィシーならばその暗号を解けるだろうと踏んでメッセージを書いたのだ。考えれば必ずや答えが出る。
王、とは何を指すのだろう。国王陛下のことか、東方牢《リーフィシー》城の主《あるじ》という意味か、それとも――。
(チョギーの駒《こま》か……!)
そうだ、犯人はラフト・リーフィシーのチョギー相手を誘拐《ゆうかい》したのだ。ラフト・リーフィシーならば、王と聞いてすぐに駒を思い出さなければならない。
そしてエイは、その屋敷の塀《へい》の煉瓦《れんが》の珍しい造りに気が付いた。
一枚がほぼ正方形の煉瓦を縦横九枚に組んである。縦横九マスといえば、チョギー盤と同じだ。
(じゃあ、王の部屋っていうのは――)
エイはあわててしゃがむと、一番下の段の真ん中のマスを見た。国王の駒は、この位置からスタートするのだ。
そのマスは、周囲のマスと特に変わった部分はないように見えた。だが、エイはそのマスに手を掛けた。たぶん、ここに何か仕掛けがあるはずなのだ。
よく見るとそれは周囲から多少浮き上がっていて、少しずつだが前に引き出せるようになっていた。故意にそう造られたわけではなく、古くなって目地の部分が緩《ゆる》くなっていたようだ。
たぶん、このマスが取れることを医者一家は誰も気づいていないのではないか。
たまに人の通りがあると、あわてて塀から離れて取り繕《つくろ》った。そんな時、東方検断《トイ・ポロトー》副長官でありながら人目を気にする自分がとても不思議だった。
煉瓦を引き出して空いた穴の中には、やはり紙片が入っていた。それを取り出すとエイは元のように煉瓦を戻し、そして歩きながらメッセージを読んだ。
「……図書館だって?」
また、とんでもない場所が記されていた。
「私たち、死ぬの?」
ラアナがつぶやいた。
「さあね。でも、どっちにしろ今日中にはその結果がわかるとは思うけれど」
アカシュはそう答え、「今が今日のどの辺りなのか自信がないけどね」と付け加えた。目隠しをされているので、時間に関してはまったくといっていいほどわからない。
自信がないのは、今がいつなのかだけではない。さっきまではどこにいるか理解できていたのに、今はもうどこに連れてこられたのかさえわからなくなってしまった。
両手を後ろに縛《しば》られ、目隠しされて幌《ほろ》馬車《ばしゃ》のようなものに乗せられた。正確にはわからないが三十分か四十分ほどでこの場所に着いた。
街中を走行中、曲がり角などで馬車が徐行した時など、一人ならば逃げるチャンスが何度かあった。目隠ししていようが縛られていようが、出口を塞ぐ男に体当たりを食らわして、荷台から飛び下りて助けを求めれば、手足の捻挫《ねんざ》くらいで済むのではないかと計算した。それを押し止《とど》めたのは、ラアナを連れてはできないからだ。一か八かの賭《か》けというのは身一つの時にするものだ。万に一つも自分だけ助かってラアナを犠牲にすることはできない。それがわかっているから、リヒも逃げられることを警戒していないのだ。
牛乳屋を引き払ったのは、予定通りのことだったのだろうか。それとも、検断の動きを見て変更されたことだったのだろうか。
(エイは見つけてくれたかな)
鼻血で書いたメッセージ。しかし、書いた本人が犯人の正体を知らないのだから、あれだけでここまで助けに来てくれるなんて虫のいいことは期待できそうもない。
この場所に閉じこめられる前、潮《しお》の匂《にお》いを嗅《か》いだ。今もあの時ほどではないが、微《かす》かに匂いがする。
たぶん、ここは海の側なのだろう。いや、海の上の、船の中だ。
床が揺れて感じるのは、目隠しされているせいばかりではない。荷物のように運ばれてきたから定かではないが、ここは船の甲板《かんぱん》から急な階段を下がった場所、倉庫の一つか何かではないだろうか。
確かめようにも、リヒや手下たちは今さっき外に出てしまった。手足を縛《しば》って目隠しまでしているのだし、外からは鍵《かぎ》もかけているのだから、二人きりにしても逃げられる心配はないと踏んでいるのだ。
「死ぬのは、かわいそうかしら?」
ラアナがつぶやいた。
「たぶんね」
アカシュはその声を頼りに、ラアナの側ににじり寄った。
「私は怖くないわ。お母ちゃんの側に行くだけだもん」
「かわいそうなのは、残された者だよ」
「知ってる。お父ちゃん、お母ちゃんが死んでから、ずっとかわいそうだった。死んじゃって残念なのは、お父ちゃんが私のために泣くところを見られないことだわ」
鼻先がラアナのスカートにかすったので、アカシュはそこで体の向きを変えて身を起こした。
「でもさ、泣き顔より笑顔の方を見たくない?」
アカシュはラアナの顔の側に自分の顔を近づける。
「え?」
「ちょっとだけ、辛抱《しんぼう》して」
アカシュの唇は、最初はラアナの耳にぶつかった。それから頬《ほお》の方に這《は》っていって、やがてこめかみまで達すると、歯で噛《か》んで彼女の瞼《まぶた》を覆《おお》っていた布製の目隠しを頭から外した。
「……ちょっぴり、びっくりしちゃった」
ラアナはそう言いながらも、お返しにアカシュの目隠しを唇で外そうとしてくれた。だがあまり上手くいかずに、結局目隠しは彼の鼻を潰《つぶ》すように乗り越えて顎《あご》の下に落ちた。こんなにしつこく顔に歯を立てられたのは初めての経験だった。できれば、あと十歳年を重ねた女性であったらうれしかったのだが。
「暗いわね」
目隠しを取ってみても、状況はあまり変わりはしなかった。ここには窓がないのだ。ただ目が慣れてくると、天井と扉とのつなぎ目からわずかにもれる外光に、室内の雰囲気《ふんいき》がぼんやりと浮かび上がって見えてきた。
「後ろ向いて。そう。手の縄《なわ》を解いてやるから、足は自分で外せよ」
アカシュはラアナの背後に転がって、荒縄《あらなわ》に歯を立てた。
「無理しないで、アカシュ。私、別に死んだっていいんだよ。アカシュが一緒に天国まで行ってくれるなら、怖くないもん」
「馬鹿いえ」
歯茎《はぐき》からか唇からかにじみ出た血を、口の中に入ってくる藁《わら》のかすと一緒に吐き出しながら作業を続けると、徐々に結び目が緩《ゆる》くなっていった。
「ラアナ。たぶんここは旧エーディック港だと思う」
「旧エーディック港?」
手首についた縄の跡をさすりながら、ラアナは聞き返した。
「君が生まれた年くらいまで、王都の港だった場所だよ。今は私有の小型船くらいしか利用しなくなった。陛下が新しく大きな港を造ったからね」
使われなくなった古い倉庫の鍵《かぎ》が壊され、勝手に使用されたり、許可のない貿易船が闇に紛《まぎ》れて着岸するという事件がごくたまに問題になる。検断が視察に出向いても、察知したように姿をくらませてしまわれるケースが大半で、なかなか逮捕《たいほ》まで至らないのだ。年に三、四回のことで、実質的な被害がないから、常時役人を監視させるわけにもいかないのが現状である。
「ということは、ちょっとやそっと騒いでも、誰も助けにきてくれやしないだろうな。……ところで、かけっこは得意?」
「……まあまあ」
「よろしい」
ラアナにほどいてもらって手足が自由になると、アカシュは親指を上に向けて笑った。
「いざっていう時は俺が暴れるから、隙《すき》を見て逃げろよ」
船は停泊している。壁を通して聞こえる物音で、荷の積み卸《おろ》しをしているのがわかる。
「アカシュは?」
「後から追いかける。だけど、君の方がすばしっこそうだから、先に行って人を呼んできて欲しいんだ」
少し考えてから、ラアナは
「わかった」とうなずいた。
「外は暗くなっているかもしれない。捕まりそうになったら、そいつの股間《こかん》を蹴《け》り上げろ。陸に下りたら、灯《あか》りを目指して海沿いを進むんだ。そうすれば新しい港に着く。そこまで行けば役人が巡回しているはずだし、検断の分所もあるから保護してもらえ」
「でも、アカシュはすぐに追いつくんでしょう?」
「もちろん。それに、これはいざって時の話さ」
「うん」
ラアナは、アカシュの肩にもたれかかった。
(エイ! お願いだから、『いざ』が来る前に助けにきてくれよ)
海辺の湿った空気にしんなりとした少女の黒髪が、アカシュの鼻先をくすぐった時、リヒが扉を開けて入ってきた。
その頃エイは、図書館にいた。
メッセージには閲覧室《えつらんしつ》の部屋と棚《たな》の番号、そして書籍名のみが記されてある。それだけを手掛かりに、エイは棚の間を早足で歩いていった。じき閉館時間だと告げる司書の声に焦り始めたのか、主な利用者である紳士たちは少し落ち着きなく館内を行き交っていた。
目的の書物は、一番奥の棚の一番上段に目立つことなく収まっていた。誰かに借りられては大変と不安になったが心配無用であった、と手を伸ばしかけると、脇からぬっと人が現れて、エイとほぼ同時にその本に手を掛けた。
「あ」
相手は黒いスーツが上品な、三十がらみの紳士。いつもならば相手に譲《ゆず》るところだが、今回は絶対に手を離すわけにはいかない。
「すみません。病気の妹が、どうしても読みたいと言っているのでお願いします」
罪悪感をもちながらも、苦しい嘘《うそ》をついた。
「難しい数式ばかり集められた本をご所望《しょもう》とは、変わった妹さんですな」
そう言いながら、紳士は本を譲ってくれた。エイは帽子を取って丁寧《ていねい》に礼を言い、すぐにその場を去った。貸し出しカウンターに向かう振りをして、棚《たな》の陰でページをめくる。貸し出しカードのポケットの中から、メッセージは見つかった。今度こそ身代《みのしろ》の受け渡し場所を指定してあると思って紙片を開いたエイは、またしてもガックリと肩を落とした。
「宮殿前広場の池の花壇《かだん》の中を見よ、だって――?」
いったい、どういうことなのだ。一つメッセージを見つければ、そこに書いてあるのは次のメッセージの在処《ありか》ばかりではないか。
いつまで、こんなことが続くのだ。エイは棚にもたれて、大きく息を吐いた。
部下の尾行を完全に絶つために、あちらこちらを歩き回らせているのだとしても、ここまで念入りなのは行き過ぎだ。これには、もっと別の意味があるのではないか。
(ゲームか)
この意味を解けなければ、負けなのかもしれない。ゲームの相手が、フェアに戦うと思っていては後で泣きを見ることになる。
辺りに先ほどの紳士が見あたらなかったので、エイは本を元の棚に戻した。そして命題を考えながら、人の流れに沿って歩いていく。
(わからない。彼らは、ラフト・リーフィシーが必死になって駆けずり回るのを、単に面白がっているだけなのか?)
出口付近は、少し混雑していた。中ではぐれた連れを待つ者の間を、用を済ませた利用客が すり抜けて帰っていく。街中の人混みほどの混雑である。
時間だけが、無駄に過ぎているような気がして、焦《あせ》りは最高潮に達している。自分は本当に間に合うことができるのか。彼を助けることができるのか。約束の日没まで、もう一時間を切っていた。
そんな時だ。
(エイ!)
耳もとで、自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
ハッとしたエイの右手は、考えるよりも先に胸ポケットに侵入してきた何かを掴《つか》んだ。思わず掴んだ物が人間の手首であったことを認識したのは、胸もとからそれを取り出した時で、その手の持ち主が先ほど本を謝ってくれた紳士であったことに気づくまでには、また若干《じゃっかん》の時間を要した。
「畜生」
悔しそうに顔を歪《ゆが》める男は、もはや紳士の皮を脱ぎ捨てていた。
「なるほど、そういうわけか」
エイは手首を握ったまま残った左手で男の肩を抱き、閲覧室《えつらんしつ》の方に引き返した。これなら儂から見ても、さほど怪しい光景ではないはずだ。
「畜生、離せ」
男は抵抗したが、逮捕《たいほ》や護送に慣れているエイはびくともしない。
「下手に騒ぐと、北方を呼ぶぞ」
周囲にまだ利用客がいたので、男性用のトイレに連れていくことにした。
「うまく化けたものだな、ルアジ・ラポテ。その格好だと、とても掏摸《すり》には見えない。私もすぐにはわからなかったくらいだ」
男の袖《そで》を乱暴にたくし上げると、そこには間違いなく鮫《さめ》の刺青《いれずみ》があった。
「やっと読めたよ」
エイは冷ややかに笑って、その腕をねじり上げた。
「お前は、私から指輪を掏《す》ろうとしたのだろう? 計画通りことが運ばなくて、残念だったな」
「ど、どうするつもりだ」
「さあ、どうしようか」
エイは膝《ひざ》でルアジの鳩尾《みぞおち》を打った。ルアジは「うっ」と小さなうめき声を上げて、その場に膝をつく。
「立て」
紳士らしくセットした男の髪を鷲掴《わしづか》みにし、エイが立たせた。
「おまえには前科がある。このまま北方検断《ナフ・ポロトー》に引き渡せば、ただで済むとは思っていないだろうな」
「……北方?」
「そう。『北の鉄面皮』は『西のゆでダコ』の息子なんかと比べられないくらい恐ろしい男だ」
「騙《だま》されるもんか。そういうあんたは東方なんだろう? ……だけど本当に『東の化け物』なのか?」
ルアジは上目遣いでエイを見た。
「東方の副長官だ」
「『白銀の人形』、エイか! そうか、あんたも化けていたのか」
「口のきき方に気をつけろ」
エイは片手でルアジの顎《あご》を掴《つか》み、両頬《りょうほほ》を圧迫した。
「お前の処遇《しょぐう》がどうなるも、私の気持ち次第なのだからね」
「と、言われますと?」
現金なもので、ルアジの言葉遣いがガラリと変わる。
「全部白状したら、お前の身柄は東方検断《トイ・ポロトー》で預かってやる」
「それってどこが得なんですか」
「すぐに無罪放免っていうわけにはいかないが、私の懐《ふところ》を狙った件だけは見逃してやる」
「『ゆでダコ』の息子の懐《ふところ》をポスト代わりに使用した件は」
「それも忘れてやろう」
ただし、とエイは冷たく続けた。
「人質が無事に救出された時に限り、という条件付きだ。もし殺されていたら、お前らの仲間全員、地の果てまでも追いかけて皆殺しにしてやる」
腰に挿《さ》した剣を鞘《さや》から少しだけ出して、冷たく鋭い刃先を見せた。この剣に掛かりたくなければ――、とまでは言わずとも通じるはずである。
「旦那《だんな》も、かなり怖いお人だ」
「検断の副長官だって、人間だからな」
エイは表情も変えずに告げた。
「どうする? 『リヒ』の報復が怖いか?」
「そりゃ、怖いですけどね」
「リヒを庇《かば》ってやって何になる? お前はな掏摸《すり》の現行犯|逮捕《たいほ》だ。二度目なら、五年は堅いぞ。つとめを終えて戻ってみたところで、お前らの組織がどう変わっているかわからないし、たとえまだ残っていたとしても、五年も前に消えた人間を覚えていてくれるかどうか」
「もう結構です、旦那。それ以上は」
ルアジは左手を上げて、その先の言葉を遮《き》った。
「どのみち、失敗した者が帰れる場所じゃありません。俺がニタリのボスに惹《ひ》かれたのだって、そんな怖いお人だったからで」
「ニタリ?」
「リヒ・ニタリ。掏摸の元締めやっている闇の貿易商です」
「もっと詳しく教えろ」
エイはルアジの胸ぐらをつかんだ。ルアジは知っていることを全部話すその前に、一つだけ聞きたいことがある、と条件を出した。
「何、大したことではありません」
ルアジは自らのボケットからいくつかの品を取り出して、トイレの床に並べた。
「まず、これはお返ししておきます。お確かめを」
「なっ……」
よくよく見れば、それらはすべてエイの持ち物だった。ハンカチ、財布、鍵《かぎ》、時計、そして前の二つのメッセージまで。
「……驚いた。いつ掏《す》った?」
「えっと、そうですね。街で二回、図書館で一回。二回目を試みて失敗したんです」
「すごい腕の持ち主だったのだな」
これでは、掏りたくなる気持ちもわからなくはない。苦笑いしてから、エイは掏られた自分の持ち物をはたいて、元のポケットに戻した。
「で、私に何を聞きたいのだ?」
「例の指輪はどこに隠してあるんです? 服のポケットには、どこにもありませんでした。それでいて、指にはめているわけでもない」
「そんなことを聞きたいのか」
「ええ。たとえこの先蛋磆に殺されようとも、それだけは是非」
掏摸《すり》とはそんなものか、と思いながら、そんな些細《ささい》な願いであれば教えてやってもいいだろう、とエイは思った。教えたところで、ルアジが反撃に出て指輪を奪えはしないだろうかち。
「ここを使ったんだよ」
そう言いながら、エイは人差し指で自分の頭をトントンと叩いてみせた。
「はあ、頭を」
ルアジは一度首を傾《かし》げてから、やがて手を打って「なーんだ」と言った。
「アカシュ君、逃げる算段はできたかね?」
リヒはランプを手に、一人登場した。
身を隠すように、ラアナはアカシュの背後にしがみついた。
彼が入ってきた時、空が少しだけ見えた。外の様子はまだ夕方といった感じだが、窓のないこの空間では灯《あか》りが必要と思ったのだろう。
「甲板にいる奴らをどっかに片づけて、あんたが後ろを向いていてくれたらどうにかなりそうだよ」
「かなり厳しい条件だね」
「まったく、そうさ」
アカシュはボリボリと頭をかいた。リヒは、二人が戒《いまし》めや目隠しを外したことについて、これといって何も咎《とが》めなかった。
「そういえば、ゲームはどうなっている? ラフト・リーフィシーは勝てそう?」
「仲間から届いた最後の報告では、無事|東方牢《リーフィシー》城を出たらしい。よかったな」
「よかったな、って」
「ラフト・リーフィシーが約束の日没まで無反応だったら、君を殺して城の門前に死体を届けようと思っていたんだけどね」
危うく、そこでゲームセットになるところだったわけだ。ラアナが不安げに、アカシュの袖《そで》をギュッとつかんだ。大丈夫だよ、というようにその手にそっと触れてやる。
そう。まだ、大丈夫だ。
「じゃあ、指輪と引き替えに解放してくれるっていう話、本気にしてもいいのかな」
アカシュは明るく尋ねてみた。
「もちろん。アカシュ君はラフト・リーフィシーにお返ししよう。ただし指輪を持ってここまでたどり着けたら、の話だよ」
「俺だけ……? ラアナは?」
「おや? 指輪はアカシュ君一人の身代《みのしろ》だったはずだよ。お嬢《じょう》ちゃんのことは、ラフト・リーフィシーには関係ないだろう。ラフト・リーフィシー宛《あて》に出した脅迫状には、ラアナのことなど一言も触れてはいないからね」
ランプの光に照らされて、リヒの顔が不気味に笑った。
「約束が違うわ!」
ラアナがアカシュの肩ごしに叫んだ。
「おとなしくしていたら、お父ちゃんの所に返してくれるって言ったじゃない!」
「約束、ねえ」
リヒが肩を揺らした。
「もちろん、父親に返してやりたいと思っているんだが、迎えに来ないみたいだからね。アパートに使いを出したけれど、留守だったし。連絡がとれないんだから、仕方ないだろう?」
そうは言いながら、迎えに来たら来たで口封じに殺していたに違いないのだ。
「アカシュ君。未成年者は、ちゃんとした大人が保護してやらないといけないと思わないかね」
「ちゃんとした大人、ってどこにいるんだよ? まさか、罪のない人間を誘拐《ゆうかい》して身代を要求するような大人じゃないよね」
腹を抱えて笑うアカシュの頬《ほお》を、リヒは無表情のまま張り倒した。そしてラアナの手首を強引につかみ、アカシュの背後から引きずり出した。
「いやっ!」
「ラアナ!」
アカシュはあわてて起きあがり、その後を追った。ラアナは暴れ、手こずったリヒはナイフを取り出してそれを少女の喉《のど》もとに構えた。
「アカシュ!」
ラアナの動きがピタリと止まった。悔しいが、アカシュも同様にするしかなかった。
「リヒ。……ラアナを離せ」
「人質の分際で、命令か?」
勝ち誇ったように、リヒは片唇を上げた。
「娘、いいか。私はお前を殺しても全然かまわないんだぞ? だがわずか十でこの世を去るのは気の毒だから、お情けで命だけは助けてやろうと言っているんだ」
「親もとに返す気もないくせに、何言ってやがる! ラアナをどこに連れていく気だ!」
「彼女は私たちと一緒にこのまま外国に行く」
「外国?」
「私は商人だ。金になるのだったら、何でも買うし何でも売る。……そうそう人間はね、遠くの国へ売るのがコツなんだよ」
リヒはナイフの背でラアナの頬《ほお》を撫《な》でた後、髪の毛をすくい取った。
「やめて……」
震えるラアナの頬に、涙があふれる。死は怖くない、という強がりは、もはや彼女の中には存在していない。
「そうだな、東洋の金持ちにでも買ってもらおう。あちらは真っ直ぐな髪が多いから、巻き毛は珍重されるんだよ。それと、言葉が通じないというのはかなり重要だからね」
「爬虫類《はちゅうるい》みたいな奴だと思っていたが、やっぱり人間じゃねえな」
アカシュの毒づきも、彼はまるで意に介《かい》さない。それどころか、むしろうれしそうに視線を向ける。
「大丈夫、君は売ったりしない。もちろんその気になればこの娘以上の高値で売る自信はあるがね。……君は、もうすぐ死ぬんだ。恋人に美しい屍《しかぱね》を残してね」
リヒはうっとりと目を閉じた。
「君には死出の旅路の餞《はなむけ》に、小さなボートをプレゼントしよう。あいにく花を買い忘れてしまったが、君の真っ赤な血が花びらのように彩《いろど》ってくれるだろう」
「……あんた、立派な変態だよ」
「何とでも」
その時リヒの関心は、完全にアカシュに向いていた。自分から注意がそれたその一瞬を狙って、ラアナはナイフを持つ男の手に噛《か》みついた。
(まずい……!)
思った時にはすでに遅かった。リヒはナイフを落とすこともなく、腕から逃れた少女の背中目がけて、迷わずそれを振り上げていた。
「ラアナ!」
間に合わない。そう思った瞬間、アカシュはラアナの前に飛び出していた。振り下ろされたナイフは、彼の左肩をかすった。
凄《すさ》まじい痛みが、全身に信号のように伝わった。べージュの囚人服が傷口を中心にじわじわと赤い色に染まっていく。
「アカシュ、アカシュ! ごめんなさい、私のために」
転んだだけで済んだラアナは、自分のエプロンを破ってあわてて彼の傷を止血《しけつ》した。
「君は、本当に私を喜ばしてくれるね」
リヒが上から見下ろしてつぶやいた。
「身を張って女守れないようじゃ、男とは言えないからな」
かっこいい強がりを言ってはみたが、さすがに痛かった。これが致命傷になることはないだろうが、この傷を抱えながらあと何戦かするのはかなり厳しい。
「おい、誰かいるか」
リヒが上に向かって声をかけた。
「ボス、何か」
天井を四角く切り取って、太った男が顔を見せた。
「ちょっと下りてこい」
「へい」
一人の手下が腕まくりしながら、細い階段をミシミシきしませて下りてきた。彼の腕にも鮫《さめ》の刺青《いれずみ》が施《ほどこ》されている。
やっぱり以前同じ物を見たことがある、――アカシュはそう思った。だがそれが、いつ、どこで、誰の、ということになるとさっぱり思い出せない。
「荷はどうした」
「あらかた積み終えました。今は倉庫内を整理していますが」
「ご苦労。追加で一つ荷を運んでくれ」
リヒは、顎《あご》をラアナに向けた。
「大切に扱えよ。商品価値が落ちるからな、傷物にしたら許さないぞ」
「へい」
手下がラアナの手首をつかんだ。それをきっかけにアカシュは飛び出し、その男の顎を殴《なぐ》り飛ばした。あわててリヒが駆け寄るのを、今度は足を蹴《け》って転ばせる。向こうずねを強打された彼は、倉庫の床を転げ回って苦しんだ。
「今だ」
呆然《ぼうぜん》としている少女の手を取って、一気に階段を駆け上る。扉は太った男が入ってきた時のまま、開け放たれている。
外に顔を出したとたん、潮を含んだ風が髪をなびかせた。帆《ほ》を畳《たた》んだ三本のマストが、威圧的に二人を見下ろしている。
思った通り、ここは旧エーディック港だった。
降り口までの甲板上に、運良く人影はない。
「走れ! 振り返るな!」
岸壁の方角に向けて、ラアナの背を押す。
「あっ、お前ら何してる!」
物音を聞きつけて、船内から男たちが一人二人と出てきた。
「先に行け!」
アカシュはラアナと男たちの間に立った。
向かってくる男を、手加減ぬきで殴った。右手を使っても、左の肩に響く。いつまでもこんなことを続けられるとは思えない。一人につき一撃だ。
「アカシュ!」
「打ち合わせ通りだろう?」
今が「いざ」だ。何としてでも、ラアナを逃がさなければならない。この機会を逃《のび》せば、たぶん次はない。
「でも」
「ペイトに会えなくなってもいいのか!」
右手と足を使いながら、大声で叫ぶ。
「あ……」
ラアナは驚いたように目を見張った。
「知ってたの?」
「ああ。君の父ちゃんは、俺の頭を思い切り殴ってくれた男だからな」
「……アカシュには悪いけど、それって私すごくうれしい」
「だったら、行けよ」
笑いながらアカシュがぶっきらぼうに告げると、ラアナは小さくうなずいてから背中を向けた。そして二度と振り返ることなく、甲板を走り、岸壁に渡した板を下っていった。
安心したと同時に、パチパチとかったるい拍手が聞こえてきた。
「やってくれるじゃないか、アカシュ君。……とっても格好いいね」
振り返るとそこには復活したリヒが、口もとは笑いながらも眉《まゆ》をひそめて立っていた。彼は目で、手下たちに退《ひ》くよう命じる。
リヒは足を引きずりながら、ゆっくりと近づいてきた。アカシュは荒い息を整えながら、それを迎えた。負傷しながらの激しい運動は、さすがに身体に堪《こた》える。
「どうして、お嬢《じょう》ちゃんと一緒に逃げない?」
「そんなことしたら、一緒につかまるのがオチさ。だったら、ラアナだけでも逃がした方がいい」
船の降り口は一ヵ所。待ちかまえてそこから先に行かせない限り、ラアナに追っ手は掛からない。
「それにさ、ラアナには悪いけど、あんたにとって彼女はあまり重要じゃないんだろう? 確かに金儲《かねもう》けの対象ではあるだろうけど、それは付加価値みたいなもんでさ。このゲームの中で、ラアナはあくまで外野の人間、逃げられたってどうってことはないんだ。彼女が検断なりに保護された頃には、俺を殺してトンズラすればいいんだからね」
「よくわかっているな。腹をくくったか」
リヒの言葉に、「いいや」と首を一度横に振る。
「俺は黙って殺されるつもりはさらさらない。それに、ゲームはまだ終わっていないはずだろう?」
「終わってない、だと? なるほど、そうかもしれないな。だか、[#「だが」の誤植]結末はもう決まっているんだよ」
「どういうことさ」
「聞きたいか?」
ついて来るように、と目で合図しリヒが背を向けた。
手下の男たちがラアナを追う気配がないことを確かめてから、アカシュはその後に続く。リヒは先ほど出てきた、狭くて薄暗い空間に入っていった。
「どうした、聞きたくないのか?」
躊躇《ちゅうちょ》していると、リヒが四角い穴から顔を出した。
「いや」
アカシュもまた、階段を下りてその中に入っていった。二人は倉庫の中央付近まで戻り、ランプを挟《はさ》み向かい合って座った。
「ラフト・リーフィシーはここには来ない。たとえ来られたとしても、彼には君を買い戻す手だてがすでにないはずだ」
「指輪は?」
「残念ながら、今頃なくして焦《あせ》っている頃だ。どこかで落としてしまったのか、もしかしたら腕のいい掏摸《すり》にでも抜かれたのかもしれない」
とんでもない不吉なことを、リヒはかなり具体的に憶測《おくそく》してくれた。それも、まるで見てきたように自信満々だ。
「どうせあんたが仕組んだんだろう? フェアじゃないな」
「どうして? 途中で掏《す》らせてはいけないなんてルールはない。もし掏られたとしても、ぼんやりしている方が悪い」
そう、リヒは悪びれもしない。ランプの光が静かに揺れて、向かい合う男の顔の影を不気味に震わせた。
「勝手な理屈だぜ。……で、指輪もろとも俺の命も取ろうっていうわけ」
「指輪なんて、最初から欲しくはないさ。ルアジっていう掏った手下に、報酬としてやる手はずになっている」
リヒはしばらくエーディックを離れてしまうから、分け前を分配している暇《ひま》がないのだそうだ。
「王家の紋章入り指輪を、……掏摸にね」
ため息が出たが、どうせばらせばただの小さなダイヤなのだ、と思い直した。その小さなダイヤのために朝から葛藤《かっとう》し、今も苦悩しているのかと想像すると、エイが気の毒に感じられてならない。
リヒの話では、ラフト・リーフィシーが一人で城を出たということである。だとしたら、それは性格上エイでしかあり得ない。
しかし、今回彼でよかったのかどうか。目立つ上に、面が割れている。アカシュは若干の不安を覚えた。
「だけど、……そう。是非とも彼には助けにきて欲しいものだね」
リヒがつぶやく。
「どうして?」
「私はラフト・リーフィシーに会ってみたいんだよ。会って、足下にひれ伏させて、そして泣き顔を見たいんだ」
リヒを、それほどまで執着させるものは何なのだろう。彼はラフト・リーフィシーに実際会ったことはない。
ただの興味本位にしては、屈折し過ぎている。
「ラフト・リーフィシーに、どんな恨《うら》みがあるってーの?」
「契弟《おとうと》をね、殺されたんだよ」
勝利を確信した余裕からか、リヒはかなりすんなりと教えてくれた。
「へえ……」
「そういった意味では、君も同罪だ」
「そりゃ初耳だね」
少なからず驚いた。
ラフト・リーフィシーが殺したというのなら、心当たりがなくもない。死刑の宜告をされた罪人、逮捕劇《たいほげき》で抵抗したため斬殺《ざんさつ》された容疑者、殉職《じゅんしょく》した部下……。それこそ、数えきれないほどいる。だが、それがアカシュ絡みであることはまずあり得ない。
「俺が、いったい何をした?」
「君は自分の罪も自覚していない、幸せな人間なんだ。……いいだろう、教えてあげよう。このまま死んだら心残りだろうからね」
リヒは左腕をまくって、灯《あか》りの前に突き出した。
「これは私のグループの証《あかし》だ。同じ刺青《いれずみ》を、どこかで見たことはないか?」
「ちょっと考えさせてくれないか」
確かにいつか見たことがあるのだ。一年、いや二年くらい前かもしれない。リヒのように日に焼けた太い腕ではない、もっと白くて細い、だからこそ印象的だった。
「思い出さなくて当然か。君の前を何人もの囚人が通り過ぎていったんだからな。君はきっといつでも彼らのことを平等に面倒をみ、平等に忘れていくだけなんだろう」
「……キアンか!」
アカシュの脳裏に、金髪の少年が浮かんだ。少年といっても当時はアカシュより年上で、色白で小さくて、二十歳《はたち》といっても十五くらいに見えた。
リヒは肯定はしなかったが、その表情で正解だったと知った。
「ちょっと待て、キアンはな、西方で死罪になったんだぞ? あいつが半年の懲役刑《ちょうえきけい》を終えて東方を出所してから、一度として会っていない」
恨《うら》むのなら西方検断《エスタ・ポロトー》だろう、と言いかけてやめた。西方だって正規の方法で断罪したのだ。
トラウトたちが悪いのでもない。更生《こうせい》できず、再び犯罪を犯したキアンに罪がある。
「あいつは掏摸《すり》の腕はまあまあだったが、ちょっと頭が緩《ゆる》くて私が弟分にして可愛《かわい》がってやるまではずいぶんいじめられたんだ。だから、ちょっとしくじって東方にぶち込まれた時も、雑居房《ざっきょぼう》で数人に手足押さえられて、あやうく襲われかけたって。ちょっと見は女みたいだったからな、あいつ」
リヒは小さく笑った。
その日のことは、アカシュもはっきり覚えている。夜、見回りが途切れた時間帯に、離れた雑居房から泣き叫ぶ声が漏《も》れてきた。口を塞がれているようで、声はとぎれとぎれだったが確かに「助けて」と聞き取れた。アカシュは大声で鍵《かぎ》役人《やくにん》を呼び、問題の雑居房を指して「病人がいるらしい」と告げた。
困ったもので、新入りが入ると時々そういうことが起きるのだ。それとなく見回りを強化させてはいるのだが、年中監視するには無理がある。
「誰かが役人を呼んでくれたお陰で、助かったそうだよ。次の日、獄舎《ごくしゃ》中から一目置かれているアカシュという少年が、部屋替えでキアンの房に入ってきたそうだ。……君は腕《うで》っ節《ぷし》の強さと面倒見の良さで、どこの雑居房《ざっきょぼう》に入れられても牢《ろう》名主《なぬし》になってしまうらしいな」
「だから? どうすれば、俺がキアンを殺したっていう話につながるわけ?」
「あいつは、年下の君に憧《あこが》れた」
「じゃあ、あんたは嫉《しっと》妬して俺を殺すわけ?」
「いいや」
リヒは馬鹿にしたように言った。瞳は、「そんな低レベルな」とでも言いたげだった。
「出所してからキアンは夜《よ》な夜《よ》なベッドで君の話をしたが、それは仕方のないことだ。あいつは隠し事なんかできない奴だったし、私だって離れていればキアン以外の男と寝ることがあるしね」
「――あんた、男専門だったんだ」
アカシュは一瞬身の危険を感じて身構えたが、しかし考えてみれば端から「殺す」と言われているわけだから、身の保証などもともとなかったことに気がついた。
「君を見た時、うれしかったよ。思っていた通り、いやそれ以上に美しい少年で。キアンを殺した片割れがたいしたことないようじゃ、がっかりだからね」
リヒがアカシュの髪を撫《な》でる。虫を追い払うように避けると、相手は呆気《あっけ》なく手を離した。
「だから? どうして俺とラフト・リーフィシーが、キアンを殺したことになるんだよ」
イライフと、アカシュは足で床を叩いた。忘れかけていた左肩の痛みが、ズキズキと呼び覚まされた。
「キアンは君に憧れていた。会えなくなってからは、ますますその気持ちが強くなった。……結局、あいつは君になりたかったんだよ」
「俺に?」
「そう。半ば本気でね。別の人間になんかなれっこないのに、あいつは君になりたい、君と同じことをしたい、と思い始めたんだ。最後にあいつを見た時、髪を黒く染めて笑っていたよ。わかるか? 君になって、ラフト・リーフィシーに愛されたい、そこまで願うようになった」
まだ見ぬラフト・リーフィシーに、焦《こ》がれて焦がれて会いたくて。――そして、とんでもない事をしでかしてしまったのだ。
「……本当かよ」
「強盗殺人をして、西に逮捕《たいほ》された。君になったつもりで、気が大きくなったのかな。以前のあいつだったら考えられないことだ。本当、最後まで馬鹿な奴だよ。ラフト・リーフィシーに会いたいのなら、東方の当番月を狙えばいいのに」
「ラフト・リーフィシーに会いたかったから、強盗殺人を犯したっていうのか」
「アカシュ・ゼルフィに会いたければ、掏摸《すり》でつかまるだけで十分だろう?」
だからたぶんリヒは、どちらかといえばラフト・リーフィシーに多く恨《うら》みを向けることになったのだろう。
「わかったよ、リヒ。あんたは、ラフト・リーフィシーの恋人としての俺を殺すんだね? 愛している者を殺される気持ちを、彼にも思い知らせてやりたいから」
そのためにはどのように殺せばより効果があるのか、彼は考えたのだ。
無理な要求を突きつけて、どれだけ愛しているかを確認させたり。それから、指輪を気づかれないうちに掏《す》って、身代《みのしろ》を払えなくさせたり。そうすれば、ラフト・リーフィシーは自分の力不足から恋人を死なせてしまうという心の傷を一生抱えて生きなければならなくなる。
「どんな男だろうか、ラフト・リーフィシー」
「まるであんたが恋しているみたいだ」
「どうかな。……もう自分の気持ちもよくわからないよ。ただ、私はキアンの願いを叶《かな》えてやる。もちろん死刑宣告を受けるなんていう消極的な方法じゃなくて、東方牢《リーフィシー》城から一人引きずり出してやるのさ」
「リヒ――」
どこかで、誰かが泣いているような気がする。
あれは海風だろうか、それとも波の歌声か。キアンの泣き声に少し似ていた。
「かわいそうだな。あんたは、誰かに自分と同じ傷をつけなければ、生きていけないのか」
「偉そうなことを」
「そんなことをして、キアンが喜ぶと思っているのかよ」
「言うな」
リヒの右手が、アカシュの傷口を乱暴につかんだ。
「……っく」
そこに心臓があるように、左肩が大きく脈打つ。今の衝撃で、傷口が大きくなったのは間違いない。頭の中が、ガンガンと音をたてている。
「君は人質なんだよ。ただ死ぬためだけに用意された、私の手駒だ」
「大事な手駒だったら、……大切に扱えよ。いざ使う段になって、ぶっ壊れちまってたらさ、……あんたの負けだろ」
力を振り絞《しぼ》って、右手でリヒの手首をつかんだ。食い込んだ彼の指を一本一本引き離すと、じわりと熱い感触が肩先一杯に広がった。
「負け?」
リヒは笑いながら、自分の右手の指を一本ずつ舐《な》めた。
「ルール違反は反則負けだ」
「ルール違反? よくわからないな」
「俺の命は指輪と交換なんだろう? ラフト・リーフィシーが来る前に俺を殺したら、それはルール違反だ」
脅迫状にそう記してあるのなら、それは基本ルールであろう。途中で指輪を掏《す》らせるとか掏らせないとか、それとは明らかに別問題だ。
「面白いね。君はこんなにされても、ラフト・リーフィシーを信じているわけだ」
「俺が知っているラフト・リーフィシーなら、どんなことをしてでも助けに来るさ」
「そんなこと、どうしてわかる」
アカシュは苦痛に歪《ゆが》ませた顔を、わずかだが緩《ゆる》めてほほえんだ。
「さっきから、何となく近くにいそうな気がするからね」
頭上が騒がしくなったのはその時だった。
「ボス! 何者かが船に侵入してきましたぜ」
四角い扉を開けて、リヒの手下が中に叫んだ。
「ラフト・リーフィシーか!?」
「たぶんそうです。黒いつば広帽を目深《まぶか》に被《かぶ》っているので顔はわかりませんが、ピーコックグリーンの上下スーツは東方牢《リーフィシー》城で仲間が確認したのと同じスタイルで」
「一人か?」
「一人です」
そこまで報告するのがやっとといった感じで、その男は姿を消した。
「お出《い》でなさったみたいだな」
リヒは複雑な顔で、アカシュを振り返った。
「約束通り一人でね。だから今度はあんたが応える番だ」
「チョギーみたいに、代番《かわりばん》こか?」
「そうさ。逃げるなよ」
「逃げる? 私が?」
馬鹿な、とつぶやいて腰を上げる。そんな会話をしている間にも、図上では激しい乱闘が繰り広げられているようだ。
「アカシュ君。君が先に出るんだ」
リヒはナイフをちらつかせて命じた。下手なことをすれば、背後から容赦《ようしゃ》なく刺すだろう。
(それでなくても、殺したがってるんだから)
やれやれ、とアカシュも腰を浮かせた。左手が痛いから、身を支えることができなくて、立ち上がるのも難儀《なんぎ》だ。
「何している。グズグズするな」
リヒが階段の下で待ちかまえていた。
「あんたがけがさせたから悪いんだろうが」
「何だと?」
「いいや、こっちのこと。……お待たせ。じゃ、急ごうか。ラフト・リーフィシーがばてちゃう前にさ」
タンタンタンと軽快に、アカシュは階段を上っていった。あまりに素速いので、リヒはあわてて追いかけた。
甲板には、リヒの手下に混じって一人毛色の違った青年がいた。ピーコックグリーンのス! ツに身を包んだスラリと伸びた肢体《したい》をフルに使い、次から次へとかかってくる相手を剣の地肌でバッサバッサと薙《な》ぎ倒していく。すでに伸《の》された男たちが、甲板のそこここに転がっていた。
(格好いいぜ。ラフト・リーフィシー)
アカシュは、遠巻きに眺めてそう思った。誰も偽物《にせもの》だとは気づいていない。帽子の下から黒髪をなびかせて戦うラフト・リーフィシーは、影武者のくせに本物よりも堂々として威厳《いげん》があった。美しすぎて、『東の化け物』とはあまりにかけ離れているのだけれど。
「ラフト・リーフィシーか?」
リヒが叫んだ。と、偽《にせ》ラフト・リーフィシーの動きが止まった。
声の方向に顔を向けた時、彼と目が合った。黒髪のエイは、アカシュを見たとたん、今向かい合っていたリヒの手下を剣で斬《き》った。
(あーあ、とうとう切れちゃったよ)
アカシュのため息の中、手下はその場に崩《くず》れてしまった。死にそうもないが、かなり痛そうだ。
「人質を負傷させるなんて、最低だな。リヒ・ニタリ」
すでにエイは犯人グループの正体を知っているようだ。アカシュも知らないフルネームでボスの名を呼んだ。
「おいおい、間違えてもらっては困るな。これはアカシュ君が好きでこしらえた傷だよ」
「言い訳無用。人質の安全管理は、誘拐犯《ゆうかいはん》の最低義務だ」
一人人間を斬ったことで気が済んだのか、エイは冷静に向き直ってアカシュに「大丈夫か」と声をかけた。
「まあね」
舌を出して答えると、エイはやっといつもの笑顔でうなずいた。
「ずいぶん早かったな」
リヒが勝ち誇ったように笑いかけてきた。聞きしにまさる容姿だ、とエイは思った。赤いとはいえこんなに派手な髪だとは、刈《か》り上げているとはいえこんなに大胆に刈り上げているとは。
目はぎらぎらと変に光りながら、こちらを舐《な》めるように観察し、薄くて大きな唇は、下手すれば一飲《ひとの》みされてしまいそうな迫力がある。
「図書館から真っ直ぐにきたからな」
エイは負けずに強気な顔を作って答えた。
「何だと……?」
「その後の宮殿前広場や時計台、劇場も全部省略してきた。律儀《りちぎ》に全部回っていたら、時間オーバーになるのは目に見えている。もっとも、それを計算に入れて私を走り回らせたのだろうが」
次から次へのメッセージリレーは、指輪を掏《す》り取るためのものでもあったが、時間稼ぎをするためのものでもあったのだ。劇場の何番目だかの椅子《いす》の裏に張り付けられていた、最後のメッセージを見てこの旧港にたどり着いていたのでは、とても日没までには間に合わなかった。
もし指輪を掏れなかった場合でも、時間を理由に人質を殺せるよう、リヒは二重の仕掛けを準備していたのだ。
「それで? 約束の物は、持ってきたか?」
リヒが尋ねた。彼までの距離はおよそ四メートル。
「もちろん」
エイは剣を持っていない方、左手の甲を前に差し出した。船に乗り込む前にはめた指輪が中指でギラギラと輝いた。
その輝きを目《ま》の当たりにし、エイ以外、甲板上のすべての男が言葉を失い立ちつくした。指輪はルアジにやると口約束をしていたはずのリヒですら、しばらく呆然《ぼうぜん》と見とれていた。
「すばらしい」
リヒは感嘆のため息をついた。
「噂《うわさ》では、こんなに大きなダイヤではなかったが……」
「ちゃんと見てくれ。王家の紋章が入っている」
「いや、偽物《にせもの》だなんて言っていないよ」
手間賃《てまちん》代わりにやってしまわなくてよかった、といったところだろうか。ダイヤだけの商品価値を、リヒが素速く皮算用しているのがわかった。
「人質と交換だ」
エイは指輪を外した。
「よかろう。指輪を投げろ」
「馬鹿な。人質が先だ」
双方譲らない。どちらも相手を信用していない証拠だ。
「なら中間地点で交換だ。指輪を甲板の上に置いて二歩下がれ。それ以上は譲らない」
リヒは、ナイフをアカシュの顔の前でチラチラ揺らした。指図《さしず》に従うと、リヒはアカシュを連れて前に進み出た。リヒが指輪を拾うためにしゃがんだと同時に、アカシュは走り出した。
「アカシュ、後ろ!」
エイが叫ぶ。リヒの投げたナイフが、真っ直ぐアカシュの背中を狙って飛んでくる。
アカシュは身を伏せた。エイは彼の右手をつかみ、引き寄せたまま甲板の上に抱き合い倒れ込んだ。
倒れた拍子に、頬《ほお》が触れ合った。その頬の熱さで、彼が生きていることを初めて実感できた気がする。
ほんの一呼吸後、二人の耳をかすめてナイフが甲板に刺さった。すぐには動けなかった。横を見ればぼやけるほどの至近距離で、ナイフがまだユラユラと揺れていた。
「ありがとう」
覆《おお》い被《かぶ》さっていたアカシュが、上から避いた。エイも続いて立ち上がったが、周囲の状況はあまりいいとはいえなかった。
「美しい抱擁《ほうよう》だ」
リヒをはじめその手下たち十名ほどに、二人はぐるりと取り囲まれていた。
「こんなことだと思っていたよ」
アカシュがぼやいた。
「だってさ、リヒ。あんた常識的じゃないもん」
「人生そうそううまくいかないのだ、と覚えておきたまえ。今度生まれ変わった時に、きっと役にたつだろう。それから、正義が必ず勝つとは限らないということもね」
リヒは指輪を手の上で満足そうに転がした。その指輪が自分自身であるかのように思えて、エイは身震いをした。
「少し予定とは違ってしまったが、ここで二人一緒に殺してあげよう。多少手間取ったゲームだったが、延長戦で私の勝ちだ」
男たちは、各《おのおの》の武器を構えてじわりと一歩前に出た。輪が一回り小さくなる。アカシュは、甲板に刺さっていたナイフを引き抜いて前に構えた。
(戦力となる手下は十人。とすると、一人あたり五人勘定《ひんじまう》か)
エイはとっさに計算した。だが手負いの人間に、あと何人倒せるかは保証できない。
背中を合わせた相俸がそんなことを考えているなんて思ってもいないだろうアカシュが、赤い髪の男に向かって静かにつぶやいた。
「リヒ、そうじゃないよ。残念だけど、あんたの勝ちじゃない」
「負け惜しみか、アカシュ」
リヒは鼻で笑って取り合わなかった。だがアカシュは、構わず先を続ける。
「あんたは指輪とラフト・リーフィシー両方を手に入れたつもりでいるかもしれないけれど、それは勘違《かんちが》いなんだ。どちらも偽物《にせもの》、あんたごときに本物が登場するわけがないだろう」
「何を馬鹿げた――」
言いながらも、リヒの目は泳いでエイの顔で止まった。
「まさか……!?」
「悪いな」
エイは帽子とカツラを取った。
「エイ・ロクセンス!」
するとリヒ、そして手下たちが全員一斉に声をあげた。
「騙《だま》したな!」
「それはお互いさま」
最初から負けないゲームを仕組んでおいて、「騙したな」も何もないだろう。その上指輪を得た途端に、大勢で取り囲んで刃《やいば》を向けるような人間たちに言われる筋合いはない。
「……なるほど。東方検断《トイ・ポロトー》の副長官が、不肖《ふしょう》の上官に代わってお出ましなわけか」
「よくできたカツラだろう?」
お陰で、指輪を隠すのにはもってこいだった。腕利《うでき》きの掏摸《すり》であるルアジも、「知っていたとしてもとても手を出せない場所だった」と誉《ほ》めていた。
「ふん。偽者だって構うことはないから、殺しちまえ。副官のエイまでも一緒に失えば、ラフト・リーフィシーは立ち直れないほどの大打撃のはず。自分自身で助けに来なかったことを、生涯悔やませてやる」
リヒは大《おお》太刀《たち》を抜いた。
「それで? 俺たちを殺して、あんたらはどうするわけ?」
アカシュが無邪気に尋ねる。
「どうするか、だって? もちろん、予定通りほとぼりが冷めるまで外国にいくさ」
「船もないのに?」
「えっ」
その時風が吹き、それにあおられて異様な匂《にお》いが船上を覆《おお》った。
「な、何だ、あれは!」
甲板のどこかから、灰色の煙が漏《も》れだしている。リヒの手下が駆け寄り、船内に通じている扉の一つと思《おぼ》しき床板を、思い切り開けた。
すると。
「うわっ!」
待ちかまえていたように、出口を求める煙たちが一斉にそこから吹き出してきた。その中でアカシュだけが、一人平然と成り行きを見守っていた。
「何をしたんです、……いったい」
エイは小声で尋ねてみた。
「ちょっとね。あの部屋を出る前に、ランプをひっくり返してきた。しかしグッド・タイミングだったね」
煙が一段落すると、四角い穴からは勢いよく燃える炎が確認できた。エイの登場で手下が総動員されていて、誰も出火したことには気づかなかったのだ。
リヒの手下たちは、武器を投げ出して消火活動を始めた。だが、すでにここまで広がった火を消し去ることなど不可能。もはや手遅れであることは、誰の目にも明らかだった。
「やりやがったな」
リヒは顔を歪《ゆが》めてククッと笑った。
「俺たちを殺しても、もう逃げられないよ。それとも心中したい?」
「――いや」
手下たちが消火を諦《あきら》め、まだ火の回っていない倉庫からめぼしい品を運び出した。しかし、岸壁には東方検断《トイ・ポロトー》の役人たちが待ちかまえていて、せっかく下ろした荷ごと逮捕《たいほ》となる手はずである。
指輪をかざしながら、リヒはエイに尋ねた。
「アカシュ君がこれも偽物《にせもの》といったが、それは事実かな?」
「リーフィシー家に代々伝わる家宝かどうか、という問いならば、偽物ということになるな」
「ならば、こうしてもいいな!」
エイは大きく振りかぶり、指輪を炎目がけて投げ込んだ。
「あっ、馬鹿!」
「馬鹿!」
アカシュとエイは、ほぼ同時に叫んだ。最初の『馬鹿』は、リヒに向けてアカシュが言ったもの。後の方は、そのアカシュが指輪を追いかけて炎の中に飛び込んだのを見たエイが、後を追いながら叫んだ言葉だ。
「馬鹿め」
二人の背後でリヒがついでのようにつぶやき、去っていった。だが、エイは凶悪グループの長をみすみす逃がすしかなかった。今は、四角い穴の中に身を投じたアカシュを救うことが先決だった。
エイはハンカチを口に当てて、穴の中に上半身を傾けた。目の前にあった馬鹿者の背中を抱えて、ずるずると引きずり出す。炎と煙で、目を開けてなどいられなかった。これでは小さな指輪など、見つかるわけがなく、一分として持ちこたえられはしないだろう。
「あなたは、何ていう無謀《むぼう》なことをなさるのです!」
アカシュの頬《ほお》に、エイの平手が飛んだ。
「あなたが死んだら、何もかも無駄になってしまうんですよ」
「ごめん、エイ。……でも、あの指輪が無くなったら、お前困るんだろう?」
「えっ……」
私のために? その言葉を、エイは呑《の》み込んだ。そして黒髪が少し焦《こ》げ臭くなった少年を一度ギュッと抱きしめて、
「いいんですよ、そんなこと」とつぶやいた。
本当にいいのだ、そんなことは。
ただ、この人が無事であるならば。そしてこの人の家が、率《ひき》いる検断が、いつまでも堅く輝くダイヤのように誰にも傷つけられずにいるならば、それでいい。そのためだったら、これまでだって、これからだって、自分はみっともない姿をさらしながら走り回ることができるのだ。
「そうだ、リヒは!?」
二人は同時に叫んだ。
見回したが甲板の上の人影は、負傷して逃げ遅れた者たちがまばらに残っているだけだ。エイは岸壁に合図して部下たちを船上に呼び寄せ、甲板の上でうめき声を上げている男たちを下船させるよう命じた。
「長官も下りて、けがの手当てをしてください」
「馬鹿いえ。こんなのかすり傷さ」
「では、一緒に」
彼が言い出したら聞かないお人だとわかっているので、エイはまず自分が先に立ってリヒを捜した。
部下の報告では、すでに逮捕《たいほ》された者の中にリヒらしき男はいなかった。ならば、まだ船上にいる。二人は、次第に火勢が強まっていく船の甲板を走った。
すでに辺りは薄暗くなっていた。雲の立ちこめた今日という日は、夕焼けという派手な演出も抜きに、いつしか夜を迎える準備を始めている。
リヒは船尾近くの甲板にいた。闇に紛《まぎ》れて逃亡しようと企《たくら》んだのであろう、小型のボートを海上に下ろそうとしているところを発見された。
「待て、リヒ!」
エイが叫ぶと、リヒは振り返って言った。
「私は逃げるんじゃない。改めてラフト・リーフィシーと勝負するために、一時身を隠すだけだ」
「我々が、このままお前を見逃すとでも思っているのか?」
「ならば、お前らを殺すだけだ」
リヒは、大きく反った太刀《たち》を構えた。研ぎ澄まされた刀身に、彼の船を呑《の》み込もうとする炎がユラユラと映っていた。あの太刀ならば、たとえかすっただけでも皮膚《ひふ》がパックリと割れてしまうだろう。
アカシュを後ろに下がらせて、エイも腰から剣を抜いた。それを待たずに、リヒが太刀を振り上げてかかってくる。
刃《やいば》同士がぶつかり合い、激しく火花が飛んだ。リヒはかなり場数を踏んでいるようで、正式に剣術を修得したエイ相手に互角に戦っていた。だが、互角ではだめなのだ。ここで永遠に勝負がつかなければ、結局は囚《とら》われてしまうことを、彼はよくわかっていた。
見切りを付けたリヒは太刀を腰の鞘《さや》に納め、船端まで駆け寄った。
「ラフト・リーフィシーによろしくな」
リヒは、そのまま足をかけて船縁《ふなべり》を乗り越えた。あわてて駆け寄ったエイは、間一髪《かんいっぱつ》、海の中に身を投げかけた男の左手をつかんだ。
「ち、……畜生、離せっ!」
片手一本でつながったリヒは、ぶら下がったまま暴れた。
「それはできん」
「あんたには、是非とも裁きを受けてもらわないとね」
アカシュも無事な右手でエイに加勢した。
「お前ら馬鹿か! 誰がむざむざ捕まるか!」
だが、二対一。じわじわと、リヒは引き上げられていく。
「悪いな、捕まえるのが私たちの仕事だ」
「捕まったら、死罪か?」
リヒは真顔で尋ねた。
「それはわからん。裁くのは北方だ」
もう少しだ、とエイは力を振り絞《しぼ》って腕に力を込めた。
「そうか。たとえ死罪でも、ラフト・リーフィシーには会えないわけだ――」
うっすらと笑ったかと思うと、リヒは右手で腰の太刀《たち》を抜き、目にも留まらぬ早さで自分の肘《ひじ》から下を切断し黒々とした波の中に吸い込まれていった。
「ああっ!」
いままで支えていたものがなくなり、エイとアカシュは反動で甲板に背中と腰を強く打ち付けた。
何が起こったのか、混乱して、すぐにはわからなかった。ただエイの右手には、鮫《さめ》の刺青《いれずみ》のついた太い腕が握られていて、その先にリヒの姿はなかった。
あまりのことに呆然《ぼうぜん》となった。リヒは自分の腕を切り捨ててまでも、検断を拒んだのだ。
何という激しさ。
何という執念。
なぜか、涙がこみ上げてきた。隣《となり》を見ると、肩を負傷した黒髪の少年もまた、頬《ほお》に涙が伝っていた。
その直後のことは、よく覚えていない。
気がつけば火はかなり回っていたのだが、二人とも半ば放心状態で、助けにきた部下たちに抱えられるようにして船を下りたようだ。
岸壁には十数名の部下と、その倍以上はいると思われる北方検断《ナフ・ポロトー》の役人たちが待ちかまえていた。もうすっかり日は暮れていて、所々でランプが掲げられている。
北方の指揮官が『鉄面皮』でないことを確認できたので、その場の処理は全部エイに任せることにした。この場は、ただの「誘拐《ゆうかい》された囚人」でいた方が都合よさそうだ。
「アカシュ!」
大勢の中から、少女が飛び出してきた。
「アカシュ、アカシュ! よかった!」
「ラアナも、無事だったんだね」
抱きつかれて肩の傷に少し堪《こた》えたが、うれしかったので我慢した。
「アカシュのお陰よ、ありがとう」
「いーや」
アカシュの指示通り海沿いを走っていたラアナは、偶然逆方向から馬を走らせてきたエイと鉢合《はちあ》わせして助けを求めた。そのためエイも、アカシュの正確な居場所を知ることができたのだ。
「ラアナ。ペイトが着いたよ」
エイが見覚えのある鍵《かぎ》役人《やくにん》を連れてきた。黒いクリクリの髪。おかしいくらいそっくりな親子だ。
「ラアナ!」
「お父ちゃん!」
ラアナはアカシュから離れて、ペイトに飛びついた。
「お父ちゃん、逃げて! 死刑になっちゃうよ!」
「いいんだよ。父ちゃん死刑になっても、お前さえ無事なら……!」
他の物など何も目に入らないように、二人はギュッと抱きしめ合っていた。
「妬《や》けますか」
エイが尋ねた。
「何を言う」
とはいえ、うらやましくないことはない。自分には、もうあんな風に抱いてくれる親はいない。何とはなしに隣《となり》の男に顔を向けると、彼も同じようにこちらを見ていた。
長かった一日が終わろうとしている。
取りあえず今日は、これでよしとしよう。
後片づけ
「部下がお借りした物、確かにお返しいたしましたからね」
「うむ……。そうか、残念だな」
陛下はつまらなそうにつぶやいた。テーブルの上には、黒髪のカツラと紋章入りダイヤの指輪。
アカシュ、いやラフト・リーフィシーが国王陛下のもとを訪れたのは、事件から三日後のことであった。
五のつく日ではないから、正式に謁見《えっけん》を申し込んで待合室で待っていると、居眠りする暇《ひま》もないほど早く呼び出された。まるで、「待ってました」といった印象を受けた。
謁見の間《ま》は堅苦しいからと、国王は彼を私用に使う居間へと誘った。差し向かいでお茶をごちそうになりながら、後の謁見は全部キャンセルするのではないかと、少し心配になった。
「それにしても、国王の象徴ともいえる大事な指輪を簡単に貸さないでくださいよ。見ていて冷や冷やしたじゃないですか」
ラフト・リーフィシーは、珍しく諌言《かんげん》なんかをしてみた。陛下は黒髪のカツラを膝《ひざ》の上に置いて、犬でも抱いているように撫《な》でた。
「別に失《な》くしてもよかったのだぞ。余《よ》が失くしたといえば、それで済むのだからな」
「大臣たちに叱られますよ」
「叱られるくらい何ともない」
エイにもきっとそう言ったんだな、と想像できた。切羽詰《せっぱつ》まっていた彼は、それで普通だったら考えられない申し出を受けてしまったわけだ。
「それはそうと、エイはどうした? 一緒に連れてこなかったのか?」
「生憎《あいにく》と、熱を出しまして」
「ほう、大事にするよう伝えよ」
「は……」
熱を出した理由を知ったら陛下はどんな顔をするだろう、と思いながら、ラフト・リーフィシーは下を向いた。
「ところで、報告書では東方牢《リーフィシー》城の懲役囚《ちょうえきしゅう》が誘拐《ゆうかい》されたことになっていたが、……あれでよいのか?」
「ええ、事実その通りですから」
「それは、ずいぶんと潔《いさぎよ》いな」
「恐れ入ります」
事件に北方が関わってしまった以上、それだけをもみ消すわけにはいかない。
牛乳屋殺しも、旧エーディック港での商船炎上事件も、アカシュ・ゼルフィが夜の点呼《てんこ》に間に合わなかったことも、誘拐《ゆうかい》騒動なしではつじつまが合わなくなってしまう。誘拐された囚人の名前は伏せ、エイが行動した部分をすべてラフト・リーフィシーに置き換えてはいるが、ほぼ事実通りに報告書を仕上げた。もちろん国王に迷惑がかかるから、指輪はリーフィシー家の物を使ったことにしてある。
その結果、牢城内で誘拐事件が起きたという失態よりも、囚人のために財産を投げ出そうとしたラフト・リーフィシーの美談の方がクローズアッブされてしまって困っている。待ち合いのサロンでも、早耳のご婦人方が彼に気づかず噂《うわさ》をしていた。
「ところで、エイが指輪を失《な》くした場合のペナルティは何だったのですか?」
「『何でも一つ言うことを聞く』」
答える陛下は、やはりまだ残念そうだ。
「あまり具体的ではないのですね」
「そう約束しておけば、考える楽しみがその後たくさんあるではないか?」
王妃《おうひ》さまと相談した結果一番有力だったのは、女装でダンス・パーティーに出す、だったそうだ。エイが自分の命を懸《か》けて、陛下の申し出を受けたと想像できるだけに、気の毒でこの話はとても彼に伝えられない。また、熱が上がってしまうだろう。
(しかし、エイもデリケートだよな)
陛下が指輪をはめるのを見ながら、ラフト・リーフィシーの中のアカシュが思った。
――ダイヤが火に弱いからとっさに口に入れて守っただけなのに、下の方から出てきたことを今朝方《けさがた》報告しただけで気絶してしまうんだから。
まったく、修業が足りない。
抜けるような青空を見ながら、エイはため息をついた。
長官は肩の傷がまだ完治していないのに、部下の代わりに陛下に会いに行ったという。それなのに、情けなくも自分は自室のペッドで空を見上げている。
「お加減、いかがですか?」
さっきはシイラ、今度はロアデル。滅多に仕事を休んだりしないから、役宅の女性たちが心配して覗《のぞ》きに来てくれる。
「情けないところをお見せして」
「お疲れが出ただけです。仕事のことは忘れて、たまにはゆっくりお休みになればよろしいんです。エイさまは、少し働き過ぎですもの」
額を冷やしていたタオルを、ロアデルが水で濯《すす》いで絞《しぼ》り直す。冷たくなったタオルは、身体の火照《ほて》りをすーっと奪っていって気持ちがいい。
「ありがとう。ついでにすまないが、一つ頼まれてくれませんか」
「アカシュさまの服でしたら、もう丈直《たけなお》ししておきましたけど」
それとは別に、と言うと、ロアデルは「また仕事のことをお考えなんでしょう」と呆《あき》れていた。
「新しい洗濯係の様子を見てきてくれませんか?」
「ああ、それならアカシュさまに言われたので、さっき見てきました。よく働いていますよ。右手が少し不自由らしいけれど、足腰が強いからマイザも気に入ってました。どこで見つけてきたんだろう、って」
「そうですか」
利き手の中指の腱《けん》を斬《き》って更生を誓《ちか》ったルアジ・ラボテは、エイを慕って東方牢《リーフィシー》城の住人となった。
自分の左腕を斬って海に落ちたリヒ・ニタリは、まだ見つかっていない。あれだけの傷を負って助かりはしない、というのが北方検断《ナフ・ポロトー》の見解だった。
だがエイは、リヒがどこかで生きているような気がしてならなかった。そして自分やラフト・リーフィシーに復讐《ふくしゅう》するため、いつかまた目の前に現れる日が来るのではないか、と。
「そういえば、獄舎《ごくしゃ》でペイトさんに会いましたよ。あの方、免職だけで済んだそうですね」
「ええ。まあ娘|可愛《かわい》さゆえの幇助《ほうじょ》ですし、反省もしていますからね」
「長官のご厚意でご領地に仕事を世話してもらったって、喜んでました。検断の仕事とは全然違うけれど、娘さんともっと一緒に過ごす時間ができるから、って」
それにのどかな田園地帯なら、今回のような危険もそうそうは転がっていないだろう。相変わらず長官の計らいは憎《にく》いものがある。
布団《ふとん》を直してから、ロアデルはそっと部屋を出ていった。
明日はちゃんと仕事をしよう。目を閉じて、エイは思った。
今日これだけ寝たのだから、朝寝坊などしないで定時に長官執務室の扉を開けられるだろう。
いつも通り掃除《そうじ》をして、長官を迎えて、そして溜め込んだ仕事を片づけるのだ。
宮殿前広場の花壇《かだん》と劇場に放置されたメッセージの後始末もあるし、そうだ、新しい牛乳屋も探さなければならない。
こんな調子だから、ロアデルに仕事のし過ぎだと言われるのだ。
取りあえず今は、身体を休めよう。
天気はいい、気持ちいい風が入ってきた。
「エイ!」
どこかで、自分を呼ぶ声がする。
夢の中の少年は、青空をバックに平和に笑っている。
ぽっかりと浮かんだ雲は、彼の描くミルクプディングの形をしていた。
[#改ページ]
あとがき
こんにちは、今野です。
半年ぶりに、『スリピッシュ!』をお届けします。
@とかAとかつけるとゴチャゴチャしてしまうので、通し番号はなしでいきますが、順番としてはこれは二巻目にあたります。『スリピッシュ! A ―盤外の遊戯―』。ほら、これだとちょっと収まりが悪いでしょ? ストーリーは発行された順番通り進行していますが、個々の事件は独立しているので、「ま、いいかな」と番号をとってしまいました。一巻目の秘密が秘密じゃなくなってしまうけど、途中から読んでもOKのつもりです。
さて前回『スリピッシュ! ―東方牢城の主―』を発表してからいただいた読者からのご意見ご感想ですが、多種多様でとても面白かったです(新シリーズだもんね)。
『夢の宮』よりずっと好き、とか。やっぱり『夢の宮』以外は読みたくない(でも、一応チェックしてくれているってことだよね、ありがとう)、とか。
この作品は今野緒雪らしくない、とか。何を書いても結局は今野緒雪だ、とか。
意見が偏《かたよ》っていなかったところが、すごく嬉《うれ》しかったです。いろんな趣味をもついろんな人が読んでいてくれているんだなぁ、と改めて思ったりして。
では、お約束。キャラクターに関するお話をいたしましょう。
正確な統計はとっていないのですが、エイが一番人気であることは確実なようです。これは、予想通り(仕方ないよね、私自身が好きなんだから)。考えてみれば、物語におけるナンバー・ツーというのは昔から主役を食ってしまうようなところありますよね。色でいうなら主役の赤より脇の青、とでもいいますか。人気があるからというわけでは決してないのですが、今回はエイを中心にお話を進めてみました(一作目を書きながら私は、すでに「次の表紙はエイ」と決めていたんですよ)。
アカシュはですね、人気はあるんだけど今ひとつ損をしている部分があるようです。彼の場合、ラフト・リーフィシーにも票が分かれて入ってしまっているんですね。アカシュの方が好き、とか、ラフト・リーフィシーの方が好きとか。同一人物として気に入ってくれている場合ももちろんあるんだけど、やっぱり一巻目の途中まで別人だと思われていたから、その辺仕方ないみたい。ただ、彼に関する謎《なぞ》(何をしでかして牢屋《ろうや》送りになったのか)は、読者の皆さん一様に「気になる」と言ってくれるので、今後は徐々に票が伸びるかもしれません。相手のことが気になる、ところから恋愛は始まるものだしね。
トラウト。彼の場合は、わかりやすいです。大好きになってもらえるか大嫌いと言われるか、どちらかしかない極端なキャラクター。それなのに、その理由はほぼ一つなのがおかしい。「自分と似ているから(読者談)」だそうです。自分と似ているから好き、自分と似ているから嫌い、というわけ。
うーん、すごくわかるなぁ、と思いました。トラウトの中に自分を見つけてしまって毛嫌いする人の気持ち。それは相当に嫌でしょうね(笑)。逆に「親しみを覚えるから大好き」といってくれる人の気持ちも、わかります。格好いいヒーローばかりじゃね、たまには漬け物でお茶漬けを食べたくもなるよね。でも、自分と似ているから、という同じ理由を挙げてくれてはいるものの、『好き派』と『嫌い派』ではそれだけで性格が違うような気がしました。
作者の立場から言わせていただければ、トラウトは書きやすいです。それはダントツ。今回初登場の国王陛下も、甲乙《こうおつ》つけがたいほど好き勝手に動いてくれてますけれど。そういった意味では、かなり好きなキャラクターです。
番外でロアデル。……私は前作を書き終えた時、ロアデルは女性に嫌われるタイプだと確信していました。なのに、どうしたことでしょう。結構人気があるじゃないですか! 若い女性が一人だけだから、ということだけではないらしくて、純粋に彼女の性格を愛してくれているらしいのです。次の作品(これ)ではロアデルと会えなくなるのでは、と心配してくれた人は(なぜか)たくさんおりました。ご安心ください。ロアデルはレギュラーです。シイラもマイザも、東方牢《リーフィシー》城で働いている限りはチラチラと出てくると思います(そう。シイラファン、マイザファンも結構いるんですよ)。
ところで、今年の夏もイベントに行ってきました。
今回は広島《ひろしま》。実は私、広島は初めてでして、その初めて訪れた日が毛利元就《もうりもとなり》生誕五百年の年の平和記念日という、ものすごく特別な日でした。台風の関係で、飛行機が飛ぶか危ぶまれましたが、無事行って来られてよかったです。
サイン会でいただいたお手紙に、「広島の名物は、お好み焼きと宮島《みやじま》です」と書いてありました。宮島はさすがに時間の都合で無理でしたが、お好み焼きはちゃんと食べたし、平和公園にも行けたし、夜は灯籠《とうろう》流し(すごくきれいでした!)も見ることができ、一百問にしては広島を満喫《まんきつ》できたかなぁ、と思っています。ご一緒させていただいた若木先生、響野先生、藤原先生にも仲良くしてもらったし、楽しい旅になりました。
会いにきてくれた人たち、ありがとう。また、どこかでお会いできたらいいですね。
私にしては珍しく残暑に体調を崩《くず》してしまいましたが、涼しくなったせいか今はすっかり元気になりました。窓辺のヤモリも最近はとんと姿を見せなくなったし、最近はお布団《ふとん》の中で丸まってぬくぬく眠っている自分を発見したりします。……秋なんですね。
今野 緒雪
底本:「スリピッシュ!―盤外の遊技―」コバルト文庫
1997(平成9)年11月10日第1刷発行
2003(平成15)年2月10日第2刷発行
入力:suk
校正:suk
2005年06月01日作成
青空文庫ファイル:
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