スリピッシュ!―東方牢城の主―
今野緒雪
イラスト/操・美緒
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たぶん、何かの間違いなのだ。
だからあの人に会いさえすれば、きっとすべてが元通りになるに違いない。
「そっちを探せ!」
「女の足だ。そう遠くへは行っていないはずだ」
すぐ近くで聞こえる男たちの声を、ロアデルは息をつめてやり過ごした。頬《ほお》と裸足《はだし》の足には、固くて冷たい石の感触があった。
ここは石造りの建物同士がひしめき合う裏通り、路地にもなりえないほど細い道が迷路のように縦横無尽《じゅうおうむじん》に走っている。どういった経緯で、この街に犬や猫の通路がこんなにもできあがってしまったのかはわからない。しかしそのお陰《かげ》で今、人間のロアデルが命拾いする事になろうとは。
「畜生、どこにもいねえや。足の速い女だぜ」
「暗くなる前に、ひっ捕まえなくっちゃ。俺たちが大目玉だぜ」
この街を知り尽くした男たちにとっては、通り抜けられない|隙間《すきま》など、はなから存在していないと同じことなのだろう。だが、それが盲点だった。逆に不慣れだったがため、その空間に迷い込んでしまったロアデルの方が、追っ手の目を一時的に眩《くら》ませたのだ。徐々に先細りして、一つ向こうの通りにも達することができなかった道だが、それでも身を隠すには十分だった。
足音が遠のいたのを確認し、ロアデルは男たちとは逆の方向に駆け出した。
身体が自分のものではないように感じられた。寒いのか暑いのかも、震えているのかそうでないかも、何だかよくわからない。夢の中を漂っている、そんな|錯覚《さっかく》さえ覚えた。
「いったん街を出て、そして東……」
ロアデルは、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。夢みたいでも、決して夢なんかじゃないんだから。|諦《あきら》めたらそこで最後だ。
ああ、それにしてもこの姿。
肩が大きく開いた派手な赤いドレスは、下品なだけで美しいといえる代物《しろもの》ではなかった。|娼館《しょうかん》の連なるこの一角では、それは特別目立つスタイルではないのだが、一歩街の外に出れば否《いや》がおうでも人目を引きつけた。
黄昏《たそがれ》の街、家路を急ぐ商家の女房風の女が、ロアデルの姿を横目で捉《とら》えて舌打ちをした。まるで汚い物でも見るような、あからさまな憎悪の視線。それはその女からだけでなく、そこかしこからロアデルに向けられていた。だが、反発する気にさえならない。数日前の自分ならば、そのような、身を売って金を得るような商売の女を見れば、確かに同じように冷たく一暼《いちべつ》していたに違いないのだから。
ただ、情けないだけだった。こんな格好で、あの人に会いにいかなければならないということが。
それでも、いったん家に帰って着替えるなんてことできやしない。裏通りのアパートに、追っ手が先回りしていないとも限らないのだ。
ロアデルは人々の視線で、自分が色町を抜け出せたことを知った。
「東」
ロアデルは沈みかけた夕日を背に歩を進めた。不思議と、誰かに尋ねなくても迷わずに正しい道を選ぶことができた。
たぶん、何かの間違いなのだ。
ロアデルは、祈るように心の中で繰り返しながら歩いた。
どのくらい歩いた頃だろうか、いつの間にか、足もとの道は石畳《いしだたみ》の上り坂に変わっていた。夕暮れの風に一度身震いをして、また一歩前に足を踏み出す。坂は小高い丘を廻《まわ》りながら頂上に向かって伸びていた。
上りきった場所には、厳《いか》めしい石造りの城がある。見上げれば、そこにはすでにポツポツと灯《あか》りがともり始めていた。
「ああ……、|東方牢《リーフィシー》城……!」
あの窓のどこかに、あの人はいるのだ。――そう思っただけで、急に動悸《どうき》が激しくなった。たとえ足もとの石畳がもっと急勾配《きゅうこうばい》であったとしても、それだけでこれほど胸が高鳴りはしなかっただろう。それだけ、ロアデルの中で彼の存在は大きい。
足の疲れも忘れ、小走りで坂を駆け上った。
訪ねた後どうしようか、などということは考えていなかった。ただ会いさえすれば、彼がすべてを引き受けてくれる、そう思っていた。
災難だったね、ロアデル。――そう言って、きっとあの人は|屈託《くったく》なく笑ってくれる。そうすれば、そこでこの悪夢は終わるのだ。それはたぶん、彼が長い黒髪をかき上げるだけの時間さえあれば足りるだろう。
急げ。
ロアデルは泣きたくなるのを堪《こら》え、歯を食いしばって坂を上った。
*
遠くで微《かす》かに、重い金属音が響いた。
「……珍しい」
横になっていた板張りの床から、少しだけ身を起こしてアカシュはつぶやいた。寝袋のように身体をぐるりと巻いた毛布が、同時に肩から腹のあたりまでずり落ちた。
「牢名主《ろうなぬし》も気がつきなさったかい? 誰ぞ、お仲間がお出《い》でなさったようですな」
隣で寝ていたオキフ老が、身動きもせずに応えた。
「ああ、すまん。独《ひと》り言《ごと》のつもりだったんだが、……起こしちまったか?」
「いいや。声出しなさる前から、起きていたよ。年寄りってやつは、すぐに目ぇ覚めちまうもんさ」
「そうか」
夜も、一番深い時間といっていい頃合いだ。こうやって二人が小声で話していても、他に会話に加わる者はいない。年齢的にはアカシュとオキフの間に位置する同部屋の面々は、比較的過ごしやすい春の夜、それぞれ各人各様の眠りをむさぼっていた。顔や腕に恐ろしげな傷をもつ一見|強面《こわもて》の男たちも、今は皆子供のような|無垢《むく》の表情をしている。
「開けられたのは、仮牢《かりろう》の|鉄扉《てっぴ》か?」
「いや、もう少し別の場所だったような気がしましたなぁ」
若い頃は錠前《じょうまえ》破りの名人だったというオキフは、老人とはいえさすがに耳だけは達者だった。その上長年の獄中《ごくちゅう》生活で、ここ|東方牢《リーフィシー》城の牢舎の間取りはほぼ|完璧《かんぺき》に頭に入っているときているから、彼の言うことならまず間違いはないだろう。頼もしい獄中仲間だ。
「しかし、解《げ》せない」
アカシュは寝袋のように毛布にくるまり直すと、一段と声のトーンを落としてつぶやいた。
背後では大男が「うーん」と寝返りをうって、床が震えた。
「何が、です?」
オキフが、やはり周囲に|遠慮《えんりょ》がちに尋ねた。
「こんな深夜に入牢じゃ、緊急|逮捕《たいほ》ってことだよな? 近所の酒場での喧嘩《けんか》ってのが相場だ。取りあえずということで、酔いが醒《さ》めるまで仮牢に押し込められる」
「普通は、そうですのう。宵《よい》にも、一人ぶち込まれてきたようだったし」
間取りだけでなく現在収容されている囚人の数までも、オキフは把握《はあく》しているのかもしれない。
「仮牢には先客がいたのか? ……なるほど」
アカシュは、そこでニヤリと笑った。
「何かわかりなさった?」
オキフは被った毛布の中で、一度首を捻《ひね》った。
「仮牢ったって、この|雑居房《ざっきょぼう》の半分くらいの広さはある。ってことは、十数人は優に収容できるって勘定《かんじょう》だ。それなのにわざわざ別の牢に入れられたということは、答えは一つじゃないか?」
アカシュは一本立てていた指を、素早く人差し指から小指に替えて言った。
「新入りは女だ、ってことさ」と。
|東方牢《リーフィシー》城の初日
1
窓から温かい光が差し込んでくる。
日だまりに|椅子《いす》を移動させて、ロアデルは針仕事をしていた。やわらかいアイボリーの生地は高価な絹《きぬ》で、たとえ自分が袖《そで》を通すことがなくても触れているだけで幸せな気分になった。
胸もとにはレースをふんだんに使おう。きっと、あの人の艶《つや》やかな黒髪が映《は》えるブラウスが出来上がる。
銀色の細い針が、踊るように生地の間を滑っていく。生地と同色の光る糸が、真っ直ぐな点線を描いて身ごろと身ごろをつないでいく。
やわらかな日差しとやわらかな絹の肌触りが、ロアデルを幸福にした。何だか、歌でも歌いたくなってくる。
下請け仕事の合間にしかできないから、まだまだ先は見えないけれど、次に彼が訪れる時までにはがんばって完成させよう。厳しい任務に就いている恋人のために何か役立ちたいと思っても、ロアデルには服を作ってやることくらいしかできないのだから。
「ロアデル。私だ」
ドアの外で、彼の声がした。――どうしよう、まだブラウスは出来上がってないというのに。
それでもロアデルは針を針山に刺し、生地を|椅子《いす》の上に置いて、いそいそと戸口の方へ走っていった。
「ちょっと、待ってください。今、開けますから」
気休めに髪をなでつけてから、取っ手に指を掛けた。普段着のうえに、今日は紅《べに》ひとつひいていない。
「会いたかった」
ドアが開けられるなり、彼は抱きついてきた。いつもの煙草《たばこ》の|匂《にお》い、甘い声に、ロアデルはうっとりと目を閉じた。
ああ、やっぱりあれは夢だったのだ。悪い人間に|騙《だま》されて、二度と彼に会えないかもしれないと覚悟した、あの色町での出来事はすべて。
「いいや、あんたはあいつに騙されたんだよ」
突然、しゃがれた男の声が、幸福な時間を打ち砕く。あわてて顔を上げると、そこにいたはずの恋人の姿はどこにもなく、代わりに地回り風の男たちが数人いやらしく笑っていた。
「あんたは、あの男に売られたんだ」
「嘘よ!」
彼らには、見覚えがある。あの時、ロアデルを追いかけていた奴らだ。
「嘘なもんか。夢だと思っていたものが、みんな現実だったんだよ」
「えっ……!?」
気がつけばロアデルは、いつもの洗いざらしの服ではなく、胸もとの大きく開いた真っ赤なドレスを身にまとっていた。
「どうして――」
「ほら、ご覧《らん》」
男たちの下品な笑い顔が、目の前でぐるぐると回る。逃げたくても、どこにも出口は見つからない。周囲はすべて黒一色の闇と化していた。
『カーノジョ』
その時、ロアデルは不思議な声を聞いた。
(え……?)
『ね、カーノジョ』
まだ少年のその声はその場にあまりに異質で、それが闇や男たちの顔の、すべてをほろほろとぼやかしていった。ちょうど、水にさらした紙のように。
そして、そこでようやく目が覚めた。
「彼女。何やらかして、ここに入れられたの?」
「えっ?」
自分が今まで夢をみていたなんて自覚がないから、不覚にも顔を上げてしまった。普段なら、こんな馴《な》れ馴《な》れしい軟派《なんぱ》な呼びかけにいちいち応えたりしない。
「おはよ」
ニコリと笑ったのは、同年代の青年、――いや、少年といった方がはまるだろうか、歳《とし》は十六、七であろう――だった。黒くて長い髪が恋人のそれを思い出させるが、質の方は全然落ちる。きちんと油で整えていないために、見た目はバサバサ。荒縄のようなもので一本にまとめているものの、全体的にボサボサとした印象は拭《ぬぐ》えない。しゃがんでいるために正確なところはわからないが、中肉中背。顔もまあ、どちらかに分けるとしたら整っている部類に属する。
頭の中がまだはっきりしていないだけに、ロアデルはこの少年が何者で、どうしてここにいるのかすぐに理解できないまま、ぼんやりとその容姿を観察していた。
「どうしたの?」
にらめっこよろしく、ロアデルにつき合ってしばらく固まっていた彼は、おもむろに尋ねた。
「俺、そんなに長く見ていたいほど、いい男?」
相変わらずニコニコと笑っているのだから、見られていること自体は別に嫌ではないらしい。
「えっ、……あ」
ロアデルは、あわてて視線をそらした。そして、やっと辺りを見回す余裕ができる。
夢と現《うつつ》の境目は、曖昧《あいまい》でもろい。肉体の一部であるところの瞼《まぶた》が開いて、ものの二、三分も経てば、有無《うむ》を言わせず現実世界は自分の身に襲いかかってくる。たとえ、いつまでも幸福な夢の中に漂っていたいと望んでも。
ロアデルはまず、そこが自分の住むアパートでなかったことにがっかりした。斜め上から差し込むわずかな陽の光が、小さな日だまりを作っていることだけは夢と変わらないのだが、そこはまるで別の場所だ。
(また、昨夜の続きなんだ……)
悪夢の様な現実の、最後の記憶をまさぐって、ため息を吐く。それは、確かにこの場所につながっていた。
自分の部屋より、わずかだが狭い部屋。|椅子《いす》も寝台もない。どうやら昨夜は、板張りの床にひざを抱いて夜明かしをしたちしい。絹のブラウスの代わりに、毛布が一枚。これでは、尻が痛くて肩もこるのは当然だ。
(そうだ……)
ロアデルは思い出したように、再び少年に視線を向けた。立ち去りもせず、彼は元の位置にいる。二人の間には、当たり前のように重々しい鉄格子《てつごうし》が存在していた。そこでロアデルは、やはり首を傾《かし》げた。
「ここは牢獄《ろうごく》だよ。それも、エーディックの都の、泣く子も黙る|東方牢《リーフィシー》城。……あれ、もしかして、ここに入ったこと覚えてない?」
「……」
覚えているわよ、とロアデルは心の中でつぶやいてそっぽを向いた。ただ、考えなければならないことが多すぎて、今は頭がパンクしそうなだけだ。
「きれいなおべべ着ているね。夜の蝶々《ちょうちょう》かな?」
鉄格子越しに、真っ赤なスカートの裾《すそ》を摘《つま》んでピタリとめくる。
「やめてよ!」
ロアデルはあわてて裾を押さえると、彼の手が届かない位置まで移動した。少年は、|悪戯《いたずら》っぽく肩をすくめて笑う。
「無許可地区で、商売した? それとも、|娼館《しょうかん》から逃げ出してきた?……裸足《はだし》だもんな」
無視しても、黒髪の少年はかまわずしゃべり続けた。
「でも、ただの足抜けには見えないな。何してここにぶち込まれたのか、教えてよ」
教えて欲しいのはこっちの方だ。どうして自分がいる場所が、鉄格子《てつごうし》を挟んで内側でなければならないのか。
「ねえ、聞いている? カーノ――」
少年が「ジョ」を言い終わるより先に、その襟首《えりくび》が掴《つか》まれ、彼がへばりついていた鉄格子から引き剥《は》がされた。
「アカシュ! この、懲《こ》りないガキめっ!」
「痛ぇな、鍵役のだんな。ぶつことないだろ」
無視を決め込んだロアデルの視界の片隅に、下《した》っ端《ぱ》役人にポカリと頭を叩かれた少年の姿が映った。
「口で言ってもわからんから、俺だって手を出さなくちゃならんのだ。まったく、チョコチョコと牢内《ろうない》動き回りやがって……」
「俺だって、別にチョコチョコなんてしてるつもりはないさ。だけど通路を歩いていたら、久しぶりに女の|匂《にお》いがしてきたんだぜ? フラフラと誘われちまったとしても、それは不可抗力だよ。男の野性本能ってもんだよ」
アカシュと呼ばれた少年は、わざと鼻をヒクヒクと動かした。いったい、何者なのだろう。着ている物は、グレーだか茶だか不明の、すすけた薄手の囚人服らしい上下であるから、たぶんこの監獄の住人であることは間違いないだろう。だが、下級とはいえ役人相手にかなりでかい態度をとっている。
ロアデルがそれとなく観察していると、二十代も半ばと思われる役人はしんみりとつぶやいた。
「……考えてみたら、お前もかわいそうなガキだよな」
「へ?」
「十代後半っていったら、もう頭ん中は女のことで一杯な時期だよな。それなのに、何をやらかしたかは知らないが、青春真っ盛りを牢獄で過ごさなければならないなんて、な。やれ牢名主《ろうなぬし》だ古顔だなんて囚人どもに持ち上げられても、所詮《しょせん》威張《いば》れるのは鉄格子の中だけ。――虚しいよな」
「あれ、同情してくれるわけ?」
アカシュは小馬鹿にするように、目を丸くして鍵役人を見た。
「そうだよ。俺はお前に同情してやっていたんだよ。なのに足枷《あしかせ》を免除してやった恩も忘れて――」
「足枷しないのは、単にだんなが怠惰《たいだ》なせいだ。どうせ短い距離だからって、枷の鍵をかける手間を惜しんじゃってさ」
「何をー?」
哀愁に浸っていた鍵役人の顔が、見る見るうちに真《ま》っ赤《か》になる。
「そう、怒るなって。図星だって認めているようなもんだよ。ご城主さまには、特別に内緒《ないしょ》にしておいてやるからさ」
ご城主さま。
ロアデルはその声の出所に、大きく顔を向けた。考える以前に、身体が反応してしまっていた。
「……何だ?」
アカシュの襟《えり》もとをつかんで締め上げかけていた役人が、少し驚いたようにロアデルに尋ねた。
「……今、ご城主さま、って――」
「言ったけど?」
今度はアカシュが答えた。反応があったことがうれしかったらしく、役人の手から逃れると、間に立ちはだかる鉄格子《てつごうし》にしがみついて笑った。
「言ったけど、何?」
「いえ……いいわ」
しかし、ロアデルは思い直して目をそらした。話したところで、何になる? 二十歳《はたち》にも満たない、それも囚人に、何ができるわけでなし。
「アカシュよ……」
鍵役人がイライラしているのは明らかだった。
「早く行かないと、俺のほうがご城主さまに言いつけるぞ」
「へん。ご城主さまにお目見えできないくらい下《した》っ端《ぱ》の役人なんて、全然怖くないよ」
アカシュは相手を爆発ギリギリのところまで引きつけておいてから、笑いながら通路を走り去っていった。
「こらっ! アカシュ、待てっ!」
彼を連行するのが役目らしい鍵役人は、あわててそれを追いかける。
「俺ならさ、ご城主さまとは仲良しだから、力になれるかもしれないぜ」
走りながらのその声は、たぶんロアデルに向けたメッセージであろう。だが、彼女にはアカシュの言葉がにわかには信じられないものだった。
「城主と……仲良しですって? 一介《いっかい》の囚人が――?」
まさか、とつぶやきながらもやはり気になって、アカシュが消えた方角にロアデルは視線を向けた。
2
「ラフト・リーフィシー!」
大きな声を出し、それに見合うだけの歩幅でドスドスと廊下《ろうか》を踏みしめ、ドアを蹴《け》破《やぶ》るように入ってきたのは、栗《くり》色の髪、四角い顔の青年だった。
「……トラウト。君は、いつも元気だね」
ラフト・リーフィシーと呼ばれた彼は、執務室で髪を束《たば》ねながら振り返った。
「だが、客人として|行儀《ぎょうぎ》は最低だ。エイの案内も待てないのかい?」
「勝手知ったる、さ。グズグスしてると、逃げられてしまうからな」
この忙しい|東方検断《トイ・ポロトー》の長官どのは、と|拳《こぶし》を軽く前に突き出してトラウトは笑う。
「それは嫌味かい? 月番の|西方検断《エスタ・ポロトー》の方こそ、今月は忙しいだろうに」
「何、|所詮《しょせん》私は父上の使いっ走りだ」
勧めもしないのに、やはり勝手にソファに身体を預ける客人は、西方検断長官どののご子息。父親同士が同じ職にあったこともあって、古くから知った仲。言うなれば、まあ幼なじみなわけである。
ワースホーン国の王都エーディックには、東・北・西の三つの検断《ポロトー》(警察と裁判所を兼ねた組織)があり、月代わり、年に四回の当番制で都の法の番人を務めている。間違えられやすいが、三つあるからといって、都を三等分して分担しているわけではない。各検断とも月番には、都全体を巡回し目を光らせなければならない。非番の月だってのんびりできるわけではなく、訴訟《そしょう》の門を閉ざしているだけで、中ではきっちり未整理分の仕事を処理している。検断長官は定期的に王宮に参内《さんだい》しなければならないし、牢城《ろうじょう》は刑務所としての機能もあるから、休みらしい休みは存在していないといっていい。彼らの会話の通り、検断職は多忙なのである。
「あれ、身支度《みじたく》の最中だったのか? 出掛ける用でも?」
鏡に向かってブラウスのリボンを結ぶこの城の主を見て、トラウトはやっと気がついたように尋ねた。
「いや、君が来たと聞いたからね、あわてて見苦しくないように衣服を整えただけだよ」
「朝っぱらから、囚人相手にゲームができるほど余裕のある君が?」
勝負がつくまで、と応接室で待ちぼうけくわされたことを、やはり少し恨んでいるようである。だが検断長官たる者、これしきの嫌味にはまったく動じない。
「ああ。チョギーに、めっぽう強いのがいるんだよ」
ついでに、ふっふっふ、と笑ってみせたりもする。
「じゃあ君は、……その『見苦しい格好』とやらでチョギーをしていたのか?」
すぐに顔に出るトラウトは、心底|焦《あせ》ったようにこめかみから汗をタラリと流した。
「いいじゃないか。別に仕事じゃないんだから、寝間着で遊ぼうが裸で遊ぼうが」
ラフト・リーフィシーは、向かいのソファーに腰をおろして足を組んだ。
「そ、それじゃ、しゅ、囚人に、示しがつかんじゃないかっ!」
逆に今度はトラウトが、怒鳴った勢いで立ち上がる。ハアハアと肩で息をする客人の背後で、カチャリと控えめに扉を開ける音がした。
「失礼いたします、長官。トラウトどのは、……やはりこちらでしたか」
「エイか」
部屋に入ってきたのは、|東方検断《トイ・ポロトー》で副官を務めている青年。トレードマークであるサラサラのプラチナ・ブロンドの乱れようから、応接室からここまでの廊下《ろうか》を走ってきたものらしい。
「困った客人だね。トラウトは子供みたいに、応接間でおとなしく待っていられなかったそうだ」
長官の言葉を聞いてホッとしたのか、エイはいつもの冷静さを取り戻してうなずいた。検断長官執務室への入室の管理は、副官の仕事の一つとされているから、勝手に通られては彼の面目に関わるわけだ。
「はあ……。では、こちらにお茶を」
「そうしてくれるかい?」
「かしこまりました」
上司と部下の会話が、熱く拳を握りしめる客人を置き去りにして淡々と進む。かわいそうに、立ちん坊のトラウトは所在なさげに、エイが部屋の隅に歩いていくのを目で追っていた。
「彼が、お茶を?」
部屋の隅には小さなテーブルがあって、そこにはティーセットが置いてあった。
「まあね。お茶は天から降ってこないだろう?」
「だって、彼は副官じゃないか?」
「そうだよ。|東方牢《リーフィシー》城では、副官が長官のお茶を入れるんだ」
「|西方牢《ルーギル》城では、メイドが入れにくるぞ」
「だがうちの副官は、君の父上のメイドに引けをとらないほど、若くて美人じゃないか?」
ラフト・リーフィシーがそう言うと、トラウトは立ったままの姿勢で固まってしまった。性格同様四角四面の顔の中、目をエイと友人に交互に泳がせ、口はさながら魚のようにパクパクさせている。
「嫌だな、冗談だよ。別に深い意味はない」
「な、何だ……」
どうやら|真面目《まじめ》なトラウトは、東方牢城では長官と副官がよからぬ関係にあると勘違いしたらしい。……だが、そうなると西方牢城のメイドの仕事内容がものすごく気になるものだ。
「君は、面白いね。トラウト」
「そうか、それはよかったな。あいにくと、私の方は全然面白くないんだがね」
彼は憮然《ぶぜん》としている。
「まあ、座れよ。もうすぐお茶もくるから」
東方牢城の主は、エイの後ろ姿を指さして言った。真っ直ぐなプラチナ・ブロンドの向こうから、香ばしい|匂《にお》いを伴ったやわらかい湯気が立ちのぼっている。
「……ところで、何だっけ?」
友人の肩を押さえてソファーに座り直させてから、ラフト・リーフィシーはつぶやいた。相変わらずの|仏頂面《ぶっちょうづら》だが、根が|真面目《まじめ》なトラウトは「適当な格好をしていては、囚人に示しがつかない、と私が言ったところで君の部下が入室してきたんだ」とご丁寧《ていねい》に教えてくれた。
「非番の月だ、遊ぶなとは言わないよ。いや、君は遊んでいたとしても、ちゃんと仕事だけはこなしているのだから、それは偉いとさえ思う。……だが、頼むから検断長官としての体裁《ていさい》くらいは保ってくれ。我が国の検断組織の品位を、下げないでもらえないか」
「それは、ちゃんと着替えろ、ということなのか?」
「そうだ」
「……別に、君が言いふらさなければ、寝間着で執務室をウロウロしている事実はバレないと思うが……。でも、いいよ、約束しよう。この部屋にいる時は、非番でも寝間着は脱ぐよ」
「脱ぐだけでは困ります。きちんとした格好をする、とお約束してください」
横から、エイが会話に割り込んできた。白いカップの中で湯気をたてている紅《あか》く透き通ったお茶が、トラウトの前に置かれた。
「お前は、私の部下ではなかったのかい?」
自分のカップを受け取ったラフト・リーフィシーは、上目遣いでエイを見た。
「恐れ入ります。長官に正しい格好をしていただくことに関しましては、私はトラウトどのと意見が完全に一致しておりますので」
毎朝繰り広げられる「服を着替える」「着替えない」という低レベルな口論に、いいかげんうんざりしているといったところだろうか。普段だったら決して、会話にロをはさむことはない彼が、ここぞとばかりに責め立てるのだから。
「いい部下をもっているじゃないか」
トラウトはニヤリと笑った。頼もしい味方を得たことで、少しばかり機嫌を回復したようだ。
「きちんとって、こんな格好?」
ラフト・リーフィシーは立ち上がって両手を広げた。上半身はレースのふんだんに使われた薄手のブラウスの上に、膝上《ひざうえ》まで丈《たけ》のあるベストとジャケットの重ね着。下はというと、膝小僧がやっと隠れるくらい短いズボン。そこからタイツの足がニョッキリと顔を出している。
「そういう格好だ」
満足そうにうなずく友もまた、似たり寄ったりの服装をしている。ベストの丈《たけ》が短いとか、外出用のブーツが太すぎてあまり上品ではないとか、そんなささいな違いである。
「私はね、日中はほとんどこの部屋で過ごすのだよ? エイ以外、誰にも会わない日だって多いのに」
|窮屈《きゅうくつ》だな、と言いかけて口に|鍵《かぎ》をかけた。見れば同盟を結んだばかりの二人が、無言でこちらをにらみつけているのだ。
「……わかった、約束しよう」
やがてラフト・リーフィシーは両手を上げてつぶやいた。この城の主人であるはずの彼が、友人と部下からの圧力に耐えかねて、とうとう屈した瞬間であった。
ところで、何か用があって来たのではないか。――そう聞いたところ、トラウトは「そうだった」と言って膝を叩いた。
「昨夜、こっちにぶち込まれたのがいるだろう?」
「うん?」
ラフト・リーフィシーは軽く首を斜めに振った。これでは、肯定にも否定にもどちらにもとれる。だが、トラウトはそんなことは気にせず、エイの入れた紅茶でのどを潤《うるお》してから、また話を続けた。
「何でも、暴れるものだから、一番現場に近かった東方牢城に一時的に預かってもらった、っていうじゃないか。悪かったな、非番だっていうのに」
「いや、お互いさまさ。……じゃあ、君は身柄を引き取りにきたのかい?」
「ま、そういうことだ」
前述の「使いっ走り」は、この辺りにつながっているらしい。
今月は|西方検断《エスタ・ポロトー》の月番。そのため、|東方検断《トイ・ポロトー》では民事・刑事にかかわらず、新たな訴訟《そしょう》は受け付けない。だから、何らかの事件が発生して犯人を緊急|逮捕《たいほ》したとしても、規則で月番に引き渡さなければならないわけだ。
「どれ?」
必要書類に目を通すと、ラフト・リーフィシーは「ああ、夕方逮捕された酔っぱらいのことか」とつぶやいた。
「傷害事件です。酔った勢いで、三人に怪我《けが》を負わせています」
エイが横からフォローした。
「なるほど。それでは呵責《かしゃく》(厳重注意)で放免、というわけにはいかないね。……いいよ。西方牢城に連れていってくれたまえ」
サインしよう、と言って東方検断長官が二間続きの奥の部屋に引っ込むと、トラウトは小声でエイに尋ねた。
「本当のところ、彼は……どうなんだい?」
「は?」
「|敏腕《びんわん》と言われているけれど、何だかしっくりはまらなくてな。……もしや君たち有能な部下が周りを固めているから、大任が務まっているだけではないか、そう思ったりしてな」
腕組みして|唸《うな》った。トラウトの言動は単純な悪口ではなく、明らかに友人を心配する気持ちからきている。
「長官は切れ者ですよ」
エイは、真っ直ぐにトラウトを見据えて答えた。
「でも今の様子じゃ、書類だってろくすっぽ読んでないみたいじゃないか」
「朝は、弱い方なのです。昼前から本調子を出されます」
「女みたいな男だ」
「ええ……まあ」
「それなのに、朝っぱらから囚人相手にチョギーか?」
「目覚まし代わりだそうです」
「なるほど」
まるで取り調べのような彼らの会話は、客人のため息で終結した。
「お待たせ」
そこにちょうど|噂《うわさ》の男が、書類のインクを乾かしながら戻ってくる。
「何の話だい?」
「い、いや……別に」
まさか本当のことは言いにくいらしく、トラウトはキョロキョロと部屋の中を見回して、話題になりそうな物を探した。
「……そうそう。この部屋も久しぶりだな、と思ってね」
|誤魔化《ごまか》し方が、あからさまなのだ。エイなど、直視できずに後ろを向いてしまった。
「ふうん?」
ラフト・リーフィシーは|眉毛《まゆげ》を片方上げて、トラウトの茶色い瞳をマジマジと見た。
「昔、まだ君の父上がここの主だった時、城内探検して以来だ。……あの時は、そうだ。君の兄上も一緒だった。もう少しで東方牢城を制覇《せいは》できるところだったのに、小父《おじ》さまに見つかって叱《しか》られた。そうだ、確かこの部屋に踏み込んだところだっただろう? ……それで」
「それで?」
「それで……えっと」
焦ると、トラウトには饒舌《じょうぜつ》になる癖《くせ》があった。それを知っている幼なじみに冷ややかに見つめられれば、それは冷や汗も出るだろう。
「それで……奥の部屋はどうなっているのかな、って少し考えていたところだった」
慣れない嘘をここまでつければ、それはそれで立派である。
「奥の部屋ね。悪いが、あそこにはできるだけ人を入れないようにしているんだ」
ラフト・リーフィシーは友の言葉を受けて、たった今自分が出てきた奥の扉をゆっくりと振り返った。
「どうして」
「出る、からね」
「出る、って……?」
トラウトは声をひそめて聞き返した。本当は聞きたくないのだが、聞かずに帰ればその先が気になって、夜眠れなくなるだろう。――彼は心の動きが素直に顔に出るタイプだ。
「父上がこの部屋に近づけさせなかった理由が、今になってよくわかった」
見る見るうちに青ざめるトラウトの表情。それには気がつかないように、東方牢城の主は一人納得するようにうなずいた。
「……だから、出るって何がだよ」
「やっぱり、あれだろう。……この城には、刑場もあることだし」
そのとたん、まるでバネ仕掛けのようにトラウトの身体がソファーから飛び跳ねた。
「どうした?」
ラフト・リーフィシーは、「何事か」という表情で直立不動の青年を見上げた。
「――帰る」
「もう? 久しぶりだから、もっとゆっくりしていったらいいのに。そうだ、エイ。お客さまにお茶をもう一杯差し上げたら?」
「かしこまりました」
「いや、もういい。もうお腹一杯だからっ」
エイがカップに手を掛けそうになるのを、トラウトは両手を大きく前に振って辞退した。
「トラウト?」
「悪いが、それ以上何も言うな。私をおとなしく帰してくれ」
よろよろと出口の方に向かうその姿は、老人のそれに似ていて、思わず手を貸してやりたいくらいだった。
「そう言うけどね」
笑いをこらえながら、ラフト・リーフィシーはタイツの足を|大股《おおまた》に開いてトラウトの側まで歩み寄った。
「うわぁ! ……来るな、|喋《しゃべ》るな。何をきっかけに、何か[#「何か」に傍点]が出るとも限らんじゃないかっ」
「大丈夫、そんなことは絶対にないから」
ほら、と言って忘れ物の書類を握らせる。これがないと、牢《ろう》から囚人を出すことができない。
「……引き取って帰るのは、この一名だけだな」
大切な書類を忘れるほど取り乱したのが気まずかったのか、トラウトは事務的な確認をして取り繕《つくろ》った。
「そう。昨夜|入牢《にゅうろう》した男[#「男」に傍点]は、彼以外いないよ」
「じゃあ」
「また、おいで」
ラフト・リーフィシーは、友人のために扉を開けてやり、そして明るく手を振った。
「……しばらくは、|遠慮《えんりょ》しておく」
「そうかい? 残念だね」
トラウトの、あの去っていく後ろ姿では、本当に当分の間は東方牢城には寄りつかないだろうと思われた。
「いいのですか? あんな風に|脅《おど》かして」
ティーカップを片づけながら、エイが諌《いさ》めた。しかし、彼も目では正直に笑っている。
「何を? 私はただ、『何かが出る』と言っただけだ。彼が勝手に勘違いしたとしても、私に責任はないよ。それにしても、彼は見ていて飽きない」
「悪い人ですね」
「だがそのお陰で、しばらくトラウトは来ないじゃないか」
友達であっても、あまり踏み込んで欲しくない領域がある。相手が善人であれは、|尚更《なおさら》、自分のもっている暗い部分は見せずに済ませたいものだ。
今の関係を壊したくないから、トラウトとはある程度の距離を保ってつき合いたい。そのためには、|頻繁《ひんぱん》に東方牢城に来られたり、また勝手に執務室のドアを開けられたりしては都合が悪い。だから、少々|脅《おど》かして足を遠のかせるように仕向けたわけだ。
「いつか聞かれたら、何が出ることにしましょうか」
エイが、思いついたようにつぶやいた。
「そうだねー」
ラフト・リーフィシーは腕組みをして考えた。
「いい答えが見つかるまで、取りあえずは『ネズミ』にでもしておこう」
3
アカシュとかいう少年が、突風のように目の前を通り過ぎてからどれくらい経っただろう。
あの後下働きらしき男が来て、パンとスープの朝食を置いていったが、ロアデルはすぐに手をつける気にはなれなくてそのままそこに放置していた。すっかり冷め切ってしまったスープ。それはここに置き去りにされている自分と、どことなく似ているかもしれない。
「あれ、まだ食べてないのか」
見回りにきた男が、やれやれといった感じでつぶやいた。さっきアカシュに付いていた鍵役人だ。
「監獄の食事、ったってうちのはけっこう評判がいいんだよ。話のついでに、一口食べてごらんよ」
何を言っているんだろう、この男は。ロアデルは内心イライラしていた。おいしいから食べるとか、まずいから食べないとか、本気で思っているのだろうか。――話のついで? 笑わさないで欲しい。誰が好きこのんで監獄に入った自慢話をするもんですか。
口に出すのもかったるく、無視し続けたらやがて男は|諦《あきら》めて|踵《きびす》を返した。
「あっ、待って」
あまりにも|呆気《あっけ》なく去るので、ロアデルはあわてて呼び止めた。まさか、ただ様子を見にきただけとは思わなかった。男は冷たくなった食事を下げもしない。
「何か、言ったか?」
「……取り調べは、いつなんですか?」
これを逃せば、次はいつ人と話ができるかわからなかった。気が進まないが、仕方ない。
「取り調べ?」
役人は首を傾げた。
「逮捕《たいほ》したからには、取り調べがあるんでしょ?」
「聞いてないなぁ。……それに、取り調べがあるとしても、|西方牢《ルーギル》城に行ってからじゃないの?」
「西方……?」
今度はロアデルが首を傾げた。何やら嫌な予感がしないでもない。
「今月うちは非番だから、何か事件に関わっても月番の|西方検断《エスタ・ポロトー》に回すんだよ」
「えっ……!?」
初めから長官|直々《じきじき》の取り調べがあるなどとは、ロアデルだって思っていなかった。それでも|東方牢《リーフィシー》城にいる限り、いつかはチャンスが巡ってくるに違いない、そう思えばこそ、現在獄中にある身だって好転させて考えられたのに。
「……でも西方牢城には、ラフト・リーフィシーさまはいないんでしょう?」
「そりゃそうだよ。うちの長官は|東方検断《トイ・ポロトー》のトップだもの」
至極《しごく》当たり前の答えなのに、ロアデルはどっぷりと落ち込んだ。
――失敗した。月番なんてこと、今の今まで考えもしなかった。
「それ……いつ引き渡されるんですか?」
「迎えが来るか、こっちから送るかによって違うけれど。……まあ、日が暮れる前には済んでしまうだろうね」
「日が暮れる前……」
ロアデルは自分の肩を抱いて、小さく苦笑いした。だからこの男は「話のついで」に食べてみろ、と言ったのだ。すぐに西方牢城へ転送される身ならば、確かに東方牢城の飯の味は試してみる価値があるのかもしれない。
「しかし、今の若い娘《こ》は怖いもの知らずだね。仮にも、泣く子も黙る東方牢城に忍び込もうとは」
「――」
あんな大胆な行動をとったなんて、自分自身が驚いている。だが、門衛が城中に入れてくれなかった以上、ロアデルには城壁を登るしか道は残っていなかった。少なくとも、あの時はそう思ったのだ。捕まったってかまわない。城内に入れさえすれば、すぐにでもあの人に会えるものだと信じていた。
「おーい、鍵役。仕事だ」
その時、どこか離れた場所で呼び声があがった。その役人は「今行く」とだけ返事をして、そちらに小走りで向かう。
数分後、何やら打ち合わせをして戻ってきた鍵役人は、ロアデルの独房の前を通り過ぎる時、格子越しに言った。
「西方牢城からの迎えが来たんだけど、あんたを引き渡す書類は見あたらなかったよ」
そして少し離れた牢屋《ろうや》にいた、軽い傷を負った男だけを連れ出して、長い廊下《ろうか》の彼方《かなた》へと消えていってしまった。
4
各検断長官が国王|陛下《へいか》からお預かりしている牢城は、多少の違いはあるにせよ、基本的には東も西も北も同じ構造をしている。高い城壁に囲まれた広い敷地の中に、石造りのどっしりとした建物が建っていて、内部はその性質上大きく三つに分けられる。
中央の棟《むね》は、検断庁舎。長官をはじめとする、検断職に従事している役人たちが仕事をする場である。
検断庁舎の両脇には、獄舎《ごくしゃ》と役宅がある。扱いは違うが、どちらも人間の住居部だ。獄舎は囚人の牢獄であり、未決囚の留置所でもある。役宅は検断長官の住まいの棟と、それとは別に役人たちの住まいの棟があった。
ところで。
さんざん友人に脅《おど》されたトラウトは、さっさと仕事を済ませて帰りたいと思っていた。ラフト・リーフィシーの執務室は二階にあるから、一度階段を下りて獄舎に向かう。各棟は外見上は一つの建物のように見えるが、一階の一部分で繋《つな》がっているのみ。|西方牢《ルーギル》城で慣れているとはいえ、別の棟に赴《おもむ》くためにいちいち一階まで下りなくてはならない構造は、やはりかなり億劫《おっくう》だ。――年だろうか。
一階にある検断庁舎の玄関には、供《とも》をしてきた|西方検断《エスタ・ポロトー》の役人が彼を待っていた。
「坊ちゃん、どうなさいました? お顔の色が……」
「坊ちゃん、って言うなっ」
額にあてがわれそうになった手を振りほどいて、トラウトは獄舎に向かって進んでいく。父親が長官だと、小さい頃からの延長で部下までが「坊ちゃん」呼ばわりである。……二十歳《はたち》の男を捕まえて、坊ちゃん。そんなことでいいわけがない。
周囲がこんな調子で|庇《かば》うから、いつまで経っても長官からは子供の使いみたいな仕事しか任せてもらえないのだ。――こうは見えても、彼は西方検断の副官という立場にある。|東方検断《トイ・ポロトー》でいえば、エイと同じ地位だ。年もそう変わらないのに、やっている仕事はかなり違う。エイが長官の仕事を補佐しているのに引き替え、トラウトは外回りが多い。
(だが。私は父上のお茶の支度《したく》なんていう、|女々《めめ》しい仕事は断じてしないぞっ)
価値観は、人それぞれ。誰しも、譲れない一線はある。
「坊……、いえ、トラウトさま」
十歳は年上の部下が、おろおろと後を付いてくる。
「何だ」
「あの……東方検断長官どのからは、引き渡しの書類を頂いてきてくださいましたでしょうな」
「当たり前だっ」
その、書類を振り回しながら振り返って怒鳴る。至近距離にあった部下の顔に唾《つばき》が飛んだ。
「それくらいの用事もできないと、本気で思っているのか」
「い、いえ。そんな」
一階部分を獄舎《ごくしゃ》に向かって歩いていると、廊下《ろうか》の窓から庭が見えた。とたんにトラウトの足取りは重くなった。東方牢城の刑場はどの辺りだったか、などとふと考えてしまったのだ。
これまでこの城を訪れても、変に意識したことがないのだから、きっとこれは、先ほどラフト・リーフィシーが「出る」なんて言ったせいに違いない。それにしても、そんなことで|怯《おび》えてしまう小心者の己が口惜《くちお》しかった。そう年は変わらないのに、いつも落ち着きはらっているラフト・リーフィシーやエイが、こんな時は心底うらやましく思えるのだ。
というわけで、トラウトは獄舎に着いても落ち着きなくそわそわとしていた。刑場もさることながら、牢獄という場所もよくよく見れば薄気味悪い場所である。だから書類に目を通した鍵役人が首を傾げたところなどろくすっぽ見ていなかったし、「引き取りは、一人だけですか?」と問われても、単純な確認くらいにしか思えなかったのだ。彼の心は、すでに家路にあったから。――その平和な我が家も、ここと似たり寄ったりの環境なのだが。
自分の家のお墓は怖くないが、他人の墓は怖い。それと似ているかもしれない。
「もし……。西方検断のお役人さま」
城門を出た所で、西方検断の馬車は呼び止められた。
「何者だ」
「申し訳ございません。もしや、妹がその馬車に乗っているのではないか、と思いまして、お声をかけさせていただきました」
春物のコートの襟《えり》を高くして、帽子を|目深《まぶか》に被っているその青年は、顔こそはっきり見えないが、着ているものはかなり上等で、言葉遣いもきちんとしている。
「妹御が、なぜ私の馬車に乗っているなどと?」
トラウトは身分で人を差別するような男ではないが、やはり相手がどこか良家の子息かもしれないと感じられれば、殊《こと》さら無下《むげ》にできようはずもない。それに、何やらわけありの様子。話だけでも聞いてやるのが人情と、馬車の窓から身を乗り出した。
青年の話は、かいつまむとこのような内容だった。
昨夜から妹が行方《ゆくえ》不明で、懸命《けんめい》に探しているがまだ見つからない。聞き込みしたところ、昨夜、妹らしい娘がこの付近で目撃されているのだという。
「――それで、もしや東方牢城に保護していただけたのでは、と考えました。さすれば、今月月番の西方に送られるに違いないと、無礼を承知で護送馬車を止めさせていただいた次第です」
「妹御……? いや、そういう一件はなかったぞ」
覗《のぞ》いてみろ、と言うように、トラウトは扉を開けてステッキの柄《え》で馬車の内部を指し示した。当然中にいるのはトラウトとお供の中年役人、そして二日酔いでげんなりしている傷害容疑で護送中の男だけである。
昨夜、娘が一人東方牢城に忍び込んだ事実を、もちろんトラウトは知らない。彼にとっては、自分が把握していないことは、起こっていないことと同じなのだ。
「……そうですか。お手間をとらせまして」
そう言って帽子|目深《まぶか》青年がそそくさと去りかけるのを、トラウトは「ちょっと待て」と呼び止めた。
「はっ……? 私に、何かご不審な点でも……」
「そう怯えずとも、別にとって食おうとは言ってないぞ」
「……すいません」
仮にも西方検断のお偉いさんに「待て」などと言われたら、善人でもドキリとする。おまけに、ご丁寧《ていねい》に馬車から降りてきたのであるからあわてるのも無理はない。だが検断の役人たちは、|庶民《しょみん》からこのような怯えた目で見られることには慣れっこだった。
「妹御のことだ。着ている物とか顔の特徴とか、聞いておこう。そうだ、名前は?」
「はあ。ロアデルと申しまして、若干こちらの方が弱いのでございます」
そう言って、彼は帽子の上から自分の頭を指さした。
「妄想癖《もうそうへき》っていうんですか、そういうところがあるものですから、少々気がかりで……」
「わかった。では、このまま一緒に西方牢城に来ないか? もしや分所の者が保護して、西方に連絡がきているかもしれないし。また、|捜索《そうさく》願いを出すなら、早い方がいいだろう」
「い、いいえ。それには及びません」
「|遠慮《えんりょ》するな。ついでだ」
それは思惑とかあっての言葉ではまるっきりなく、彼の場合は純粋に親切心から来ている。
「東方牢城にいないことを確認できれば、……それでいいのですから」
「いいからいいから。おい、そこの荷物を足もとに置けば、もう一人乗れるな?」
馬車の内部に頭を突っ込んで、トラウトは席をつめ始めた。
「い、いえ。結構ですので」
青年は逃げるようにその場を去ってしまった。傍《はた》で見ていれば、何か訳ありだと気づけるものだろうが、そこはそれ、人のいいトラウトのこと、「走って探し回るほど、妹が心配なんだな」くらいにしか思わなかった。
そうして、その件はすっかり忘れられてしまったのである。
5
「出ろ」
通路側から声が聞こえた。膝を抱えてうつむいていた顔をそっと上げると、役人の薄汚れた短いブーツが独房の鉄格子《てつごうし》越しに見えたので、呼ばれたのは自分なのだとロアデルはぼんやりと考えていた。
「お待ちかねの、取り調べがあるぞ」
視線をゆっくり上にスライドさせると、まず|鍵《かぎ》の束《たば》を握る手が見え、その延長上にはあの鍵役人の顔がついていた。
「だって私は、|西方検断《エスタ・ポロトー》に引き渡されるはずだったのでしょう?」
ロアデルはつぶやいてから、重い腰を上げた。長く同じ体勢でいたせいで、身体はすっかり固まっていた。まるで半日で三十も年をとったみたいだ。
「こっちだって、わかんないさ」
鍵役人は一応規則だからと、手に軽く縄をかけてからロアデルを独房から出した。懲役囚《ちょうえきしゅう》だと、縄が鎖になるらしい。
無言で、通路を歩く。今朝方《けさがた》アカシュとかいう少年が、駆け抜けていった方角だ。
ロアデルの入っていた独房は比較的出口の近くにあったらしく、他の囚人たちが入れられている独房や雑居房の前は通らなかった。
「ご城主さまが、私をお呼びになったのね? そうでしょう?」
歩きながら考えるに、やはりそれくらいしか思い当たることはなかった。月番の西方検断に引き渡さず、|東方牢《リーフィシー》城に留め置く理由。それは、あの人が遅まきながらもロアデルのことを耳にして、手を打ってくれたからではないのか。ロアデルは囚われた時、恋人の置かれている立場を思って何も話していなかった。だから彼も、行動を起こすことが遅くなってしまったのだろう。
「どういった理由であんたが呼ばれたかとか、誰が取り調べを行うかとか、俺にわかるわけないよ。検断庁舎《あちらさん》の意向なんでもの、獄舎《こっち》は把握してないんだから」
鍵役人はボソリとつぶやく。東方牢城の庁舎と牢獄、そして住居部で働く人々は、それぞれが互いの領域を侵さないように、きっちり分業されているらしい。一つの城を仲良く使っているということは、馴《な》れ合ってしまう危険性が伴うことだから、けじめをつける上では専門的に独立していることは大いに結構なことなのかもしれない。東方牢城城主である東方検断長官が全体を把握して、ちゃんと平和に治めているのだからそれでいいわけだ。
重そうな鉄の扉の前までくると、鍵役人は止まった。彼と同じような格好の男が、その扉を隠すように立ちはだかっている。扉を衛《まも》るのが、仕事らしい。
「検断庁舎からの呼び出しだ。一人通してくれ」
「そりゃ、また中途半端な時間じゃないか。ちょっと待ってろ」
扉番の役人は、扉の脇にある詰め所のような小さな部屋から帳面を取り出し、何かを調べだした。
「昨夜《ゆうべ》の飛び込みだからそっちの帳面じゃないだろう」とか、「だったら何だってさっき西方検断に連れてってもらわなかったんだよ面倒くせーな」とか、そういう内輪《うちわ》のやりとりがあった後で、役人たちは目的の帳面にペンで記録を済ませ、そしてやっと重い扉が開いた。
「……お役目、ご苦労」
開いた扉の向こう側には、また別の役人が現れた。予想していなかったがために、ロアデルは少なからず驚いたのだが、牢獄《ろうごく》の鍵役人は当然のように、「後はよろしく」と言って、ロアデルの両手を軽く結わえた縄の先を、待っていた役人に手渡してしまった。
「あっ、あの……!」
心細くなって振り返る間もなく、ロアデルが押し出されると、無情にも鉄の扉は閉まってしまった。検断庁舎の役人と思われる男は、付いてくるように、と目で合図してから縄を引いて先導した。
「私は、……どこへ――」
ひんやりとした廊下《ろうか》を歩きながら、ロアデルは尋ねた。
「取調室だ。お前を連行することが私の仕事で、それ以上のことは知らない」
なるほど、徹底して分業なわけである。
「じゃあ、アカシュって男の子も、あなたが取調室に連れていったのですか?」
「……アカシュ?」
「あ、朝のうちに来たでしょう?」
「確かに来たが……、それがどうした」
「いいえ、いいの」
ロアデルはうつむいて、首を左右に振った。
本当は、あの黒髪の少年のことなどどうでもよかった。ただ、何でもいいから|喋《しゃべ》る話題が欲しかっただけだ。自分の行く手が見えないこの状態はいかにも中途半端で、言いようのない不安を何かで埋めてしまいたかった。取調室に着きさえすれば、余計なことなど考えずに済むのかもしれない。だが、それはそれでどこか怖いような気がするのだから、矛盾《むじゅん》している。
役人は同じ様な扉がいくつもある一角で立ち止まり、そのうちの一つを開いた。
「入れ」
中は二メートル四方くらいの小さな部屋で、飾り気《け》のない四角いテーブルが一つと、それを挟んで二脚の|椅子《いす》が置いてあった。窓はなく、壁掛けタイプのランプによって作り出される光と影が、不思議な|雰囲気《ふんいき》を生み出していた。
「そこの|椅子《いす》に座って待つように」
役人は、奥の椅子を示して命じた。
何を待つのか、という疑問は、ロアデルが椅子に腰掛ける間に解けた。その、待ち人と思われる人物が、程なく部屋に入ってきたから。
今までの役人とは、格というものが違う。――一瞬で、それが理解できた。
彼は銀に近い金色の髪を青いリボンで一本に結《ゆ》わえ、やはり服も同色でまとめている。色白でブルーの瞳という上品な容姿もさることながら、背筋を伸ばした堂々たる態度が、彼の低からぬ身分を物語っていた。
ロアデルを連れてきた役人は、敬礼をしてから部屋の隅に直立不動で控えた。そんな行為一つとっても、若く見えるこのブロンドの青年がかなり上級の役人であることが知れる。
「さて」
彼はロアデルの向かいの席に、当然のように座った。
「私はエイという。あなたの名は?」
「――」
黙ってうつむいていると、隅に控えた役人が「答えろ」と厳しく命じた。だがエイと名乗った青年は、「まあまあ」と年長の部下をなだめる。
「言いたくない、という顔ですね。……ロアデル?」
「――!」
不意打ちに、思わず顔を上げた。呼ばれた名前は、|紛《まぎ》れもなく自分のものだった。
「どうしてそれを……」
もしやあの人が教えたのでは、とまず考えた。だがそれならばどうして、彼自らが会いにきてくれないのだろう。
「|東方検断《トイ・ポロトー》を甘く見てもらっては困ります」
エイは、テーブルの上で白い指を組んで言った。平民で、その上囚われの身である小娘相手に、ずいぶんと丁寧《ていねい》な言葉を遣う男だ。
「あなたは自分で名乗ったはず。昨夕、城門の門衛に、東方検断長官への面会を申し出た女がいた。それが、あなたであるのならね」
「ああ……。そういうことですか」
思い出した。ロアデルは確かに名乗っていた。だが事前に約束もないただの小娘では、門前払いは当たり前だった。親しい付き合いだと言えば、あるいは取り次いでくれたかもしれないが、それではあの人に迷惑がかかる。ロアデルの格好はどう見ても、男を相手にする夜の商売女にしか見えなかった。せめて名前だけでも彼の耳に入らないものかと、本名を名乗ってみたが、無駄だった。緊急の用件でなければ明日改めて来るか、または月番の西方検断を訪ねるように、そんな風に追い払われたのだ。
そして、ロアデルは城壁を登ろうとして、見回りの役人たちに捕まってしまった。
――と、いうことは、やはり自分のことはあの人の耳にはまだ入っていない可能性が大きいのかもしれない。
「判然としない部分があるので、あなたを西方に引き渡すことを見送ったのですが――」
エイは胸もとから書類を取り出すと、ざっと目を通して指で弾いた。それは、ロアデルに関する報告書のようなものであると思われた。
「……まず、|未遂《みすい》とはいえ、牢城《ろうじょう》への侵入は一般の民家に忍び込むより罪が重いことを、あなたは知っているだろうか?」
ロアデルは正直に首を横に振った。
「罪の重さなんて……そんなもの……」
ただ、城の中に入りたかっただけだ。刑罰《けいばつ》のことを考えている余裕など、あの時にはなかった。
「脱獄の手引きとか、重要機密書類を盗むためとか、けっこう見逃せないケースが多い。だから威嚇《いかく》の意味も含めて罪を重くしているわけです。……わかりますか?」
ロアデルはコクリとうなずいた。
「でも、私はそんなつもりじゃ……」
「そう。我々も昨夜から今朝《けさ》まで内々に調べてみましたが、脱獄を企《くわだ》てそうな囚人は浮かんでこなかった。もちろん、あなたが否定してくれたお陰で、我らの調査不足ではないことが裏付けられて安心したのだけれど」
エイは満足そうに目を細めた。
「だがそうなると、どうしてあなたが東方牢城に潜《もぐ》り込まなければならなかったかという疑問が残ります。どうしました、恋しい男でも牢に入っているのですか?」
「え……?」
膝の上に置かれた、ロアデルの束縛《そくばく》された手が微《かす》かに震えた。彼女が言葉に詰まったので、エイは質問を変えた。
「門衛には、検断長官に目通りしたい、と申し出ていますね?」
「はい」
「あなたは長官に会いたいがために、城壁を越えようとしたわけですね?」
「――」
ロアデルの表情を見て、エイは|眉《まゆ》を微妙に動かしてから小さく「なるほど?」とつぶやいた。
「では、その理由を聞かせてもらいましょう」
静かに、それでいて有無《うむ》を言わせぬ口調で、エイは言った。
「それは……、東方検断長官さまに、直《じか》にお話ししたいことがあったからです」
言葉を選びながら、ロアデルは答えた。あの人との関係を隠したままで、面会を許可される方法があるとしたら、それはこの一秒一秒にかかっているのではないか、そう思えたのだ。
「話したいこと? 内容は?」
「……申し上げたくありません」
「どうして」
「あなたが、東方検断長官さまではないからです」
エイは一瞬、不思議そうに首を傾《かし》げた。だが、それは見逃してしまいそうなほどの速さで、すぐに元の真顔に戻ってしまった。
そしてブルーの瞳が、真っ直ぐロアデルを捉えて言った。
「話しなさい、ロアデル。私が、東方検断長官だ」
6
きっと彼は、検断長官に面会を申し込んだことと侵入|未遂《みすい》事件とを、分けて考えていたのかもしれない。例えば恋人の無実を検断長官に直訴しようとしたが叶えられず、せめて一目だけでも恋人の顔を見たくて城壁を越えようとした、とか、そういった経緯を。
「そんなの、嘘よ!」
ガタン、とロアデルの座っていた|椅子《いす》が床にひっくり返った。ロアデルは勢いで立ち上がったまま、東方検断長官と名乗ったばかりの男を見下ろした。
「なぜ、嘘だと?」
エイは顔だけ斜めに上げて、ロアデルの目を見た。
「だって、あなたはあの方ではないもの! 第一、ラフトさまは金髪じゃなくて、黒髪だわ!」
「……ラフトさま?」
「あっ!」
その唇が微《かす》かに上がったところで、ロアデルは自分がはめられたことにやっと気がついた。
「なるほど、私は長官ではない。長官が黒髪であることも、正しい事実です」
エイは言いながら立ち上がると、控えていた役人に倒れた椅子を直すように命じた。そして、ロアデルをもう一度そこに座らせる。
「あなたは個人的に長官を知っている、そういうことですか?」
「――」
「どのような関係でしょう?」
「――」
「答えてください」
ロアデルは、口を結んで目をそらした。もう、これ以上あまり余計なことは言わない方がいいのかもしれない。
「そうか。それは、少々困ったことになりましたね」
ロアデルが無視しようとも構わずに、エイは話を続けた。どんな素振りであっても、彼女がその話に関心を示さないはずはないという、揺るぎない自信が感じられた。
「長官は取り調べの態度|如何《いかん》では、あなたを放免してもいいというお考えだったのに」
「えっ!?」
彼の思惑通り、ロアデルは顔を上げた。
「私のことを知って……?」
「残念ながら、そうではありません」
エイはきっぱりと言い切った。
「長官は少なくとも、ロアデルという名前を聞いてそう判断したわけではないでしょう。私はその場にいましたから、それは間違いない。あの方は、侵入|未遂《みすい》の女の名前などには、興味を示されていなかった」
それは、どちらの意味なのだろう。ロアデルの名前を知った上で無関心を装ったのか、それとも犯人の名前など聞いても無駄、と知ろうとしなかったのか。それは、似ているようで全然違う。だがロアデルは、敢えてそれをエイに尋ねることはできなかった。
エイは話を続けた。
「さっき言った通り、牢城《ろうじょう》への無断侵入は未遂《みすい》であっても罪は重い。だが極端な話、どこかのすばしっこい子供が、飼い猫を追いかけているうちに塀《へい》を越えてしまった場合、同じ罪に問えるだろうか」
答えは否《いな》だ、と首を振る。脱獄の手助けをするため侵入した者と、間違って紛《まぎ》れてしまった者を同列に並べて裁《さば》くなどということはできない。
「私は、……その、罪のない子供ですか?」
自嘲《じちょう》を込めて、ロアデルは笑った。
「被害者が訴えなければ、侵入罪は成立しないのです」
至って|真面目《まじめ》な顔をして、エイはそれに応えた。
「とかく女子供は差別の対象になりがちだが、こんな時にはそれを逆手《さかて》にとればいいのです。自分は女ゆえに無知であった、そんな風に許しを請えば、事を荒立てることもない」
彼は、そこまで言うと、小さく息を吐いた。
「――というのが、我が長官のお考えだったわけです。未遂であったし、前科はないようだし。恋人か知人かに、ただ会いたいがために起こした行動であれば、それもまた哀れだ、と」
「でも、私が会いにきたのは囚人ではありません」
「そう。だから、少々困った事態だと言っているのですよ」
「なぜです!?」
ロアデルは身を乗り出して叫んだ。
「決して、エイさまにご迷惑はおかけいたしません。お願いです、検断長官に会わせてください!」
「気の毒だが、会わせることはできません」
「なぜ!?」
「私には|東方牢《リーフィシー》城のトップを守る義務があるからです」
「私が、彼に危害を加えるとでも!?」
「あなたの人となりなど、私にわかるはずがない。長官との関係も、話の内容も言えない、そんな不法侵入未遂の女を信頼しろ、という方が虫がよすぎる」
「そんな――」
だが、それももっともな意見だった。城主と知り合いだったら、塀など乗り越えずに正面から会いにこられるはず。そう疑われれば、返す言葉もない。
一言、自分はラフト・リーフィシーの恋人だ、と言えばいいのだろうか。そうすれば、この青年は彼に会わせてくれるのだろうか。
「私、どうしたら……」
できない、ロアデルは唇を噛《か》みしめた。あの人に恥《はじ》をかかせるわけにはいかない。あの人との約束を違《たが》えることはできない。気がつけば、縄で自由を奪われた手の上に、ボロボロと涙の粒がこぼれ落ちていた。
「謝って一度家に帰るのが、一番賢いやり方ではないかな。そもそも獄舎《ごくしゃ》にいたところで、何かいいことがありますか? 長官が|直々《じきじき》に取り調べることなど、この城ではありえません」
「え――」
「長官がお出ましになるのは、死刑を宣告する時だけ。だからこそ、あの方は死神のように恐れられているんですよ」
「死刑……」
だからといって、死刑になるような重犯罪を犯すことなどできはしない。
「長官との面会は|諦《あきら》めなさい。そして、家に帰りなさい」
手の甲で両頬《りょうほほ》の涙を拭《ぬぐ》ってから、ロアデルは「帰れません」と言った。
「なぜ?」
その問いにも、黙って首を横に振った。色町から抜け出してきたから、帰れば待ち伏せしているであろう男たちに連れ戻されてしまうだろう。ロアデルをよく知らないこの青年が、どこまで信じてくれるかなんてわからないのだから。下手すれば、証文《しようもん》を握っている|娼館《しょうかん》に引き渡される可能性だってある。
エイが、ため息をつくのがわかった。当たり前だ、何も言わない、それでいて助けて欲しい、なんて、虫がよすぎるのだ。
「拒否するのなら、独房に逆戻りですよ」
「……わかっています」
彼が指を弾いて合図すると、隅にいた役人がロアデルの側に近づいてきて、手首を縛《しば》った縄の先を引いた。
ロアデルは目を伏せて、立ち上がった。
何だか、無性に疲れた。何が正しくて、何を守らなくてはいけないのか。そんなことが、急に不確かに感じられてきたのだ。
今は、考える時間が必要なのかもしれない。
そう、あの独房には考えるための時間が十分に用意されている。
「ロアデル」
役人に連れられて部屋を出る時、エイが言った。
「忠告しておきます。この状況は、あなたにとってマイナスでしかない。最初に言った通り、|東方検断《トイ・ポロトー》を甘くみてはいけない。時間を延ばせば、その分こちらはあなたの身辺を調べることになる。あなたの身元も、隠していると思われるいくつかの事実も、いずれ知れてしまうでしょう」
ロアデルには、答える言葉が何も見つからなかった。
*
「ロアデルねぇ……」
上を向いて、下を向いて、黒髪をカシカシとかいて、うーんと|唸《うな》った末に、ラフト・リーフィシーは「思い出せないな」と言った。そして積み上げられた書類の山からまた一枚取り出して、読み始める。朝からの来客がリズムを|崩《くず》したせいか、どうも今日は仕事がはかどらない。
執務室に山積みされたこれらの書類は、その大半が明日に繰り越しの気配である。日が出ているまでが仕事、残業はしない。それが彼のポリシーだった。
「年は二十歳《はたち》前ですね。真《ま》っ赤《か》なドレスを着ていて、髪は――」
「茶。気の毒なくらい傷《いた》んでいる。枝毛バサバサだ」
エイの言葉を途中で奪って、多忙な検断長官どのが言った。デスクワークに没頭しているように見せてはいるが、本当のところは話をしたいのだ。エイは、昨夜捕らえられた|娼婦《しょうふ》風の女の取り調べから、戻ってきたばかりだった。
「よくご存じですね」
「アカシュがね、今朝方《けさがた》会っているんだよ。顔はまあまあで、胸の大きく開いた真っ赤なドレスを着ていただろう?」
「……かなり偏《かたよ》った情報ですね」
「十八の少年だったら、まず容姿を見るのは当然だ」
ふふっと笑って、ラフト・リーフィシーは本格的に片づけを始めた。窓から夕日が差し込んできた。
「……髪は重要なポイントだよ。彼女、――ロアデルといったか、商売替えして間もないか、もしかしたら、まだ客はとっていないかもしれない」
「なぜです?」
「私が娼館の主人だったら、商品である女の子にはできるだけ見栄えをよくさせる。男たちはいい女を買いにやってくるのだから」
「元々は、髪の手入れをほとんどしていなかった素人女《しろうとおんな》だった、と?」
「どうだろうね」
香油《こうゆ》をつけて梳《す》いてやればいくらかでも見栄えは変わるものだ、と言うように、彼は長い黒髪を指に巻きつけた。
「ロアデルか……」
「本当に覚えがないのですか? 例えば、何か誤解されるようなことをしたとか」
それを聞くと、ラフト・リーフィシーは、横目でエイをチラリと見て笑った。
「私がどこかで遊んでいないことは、お前が一番よく知っているくせに」
「でも、それが五年も前のことであったら、絶対ないとは私でも言い切れないわけで……」
「そんな前の話なのか?」
「いえ、それはまだ聞いていません」
次に取り調べがあったら尋ねてみます、とエイが言うと、東方検断長官どのは一つ伸びをしてから必要ない、と言った。
「ちょっと、アカシュに探らせてみてはどうだ? 何か手がかりが得られるかもしれない」
「どうだ、って言われても、もうお決めになっているくせに……」
エイはため息混じりにそう言うと、やれやれと上司の仕事の片づけを手伝い始めたのであった。
7
どこをどうやって帰ってきたのか、ロアデルはほとんど覚えていなかった。
ただ、見覚えのある鉄格子《てつごうし》の内側に座ってつらつら考えてみると、行きと同じ通路をまるっきり逆に戻ってきたようである。鍵役人たちがまたガチャガチャとやりとりしていたことは、何となく覚えている。
どこかで、点呼《てんこ》をとる声がする。ロアデルの独房からは、冷えきってしまった今朝《けさ》の食事が消えていた。
時を計るものはない。頭を上げてはみたが、遙《はる》か上方にある申し訳程度の小窓から感じられる外の|雰囲気《ふんいき》はただ薄ぼんやりと暗く、それが夕方であるのか、ただ曇っているだけなのかは不明だった。
そういえば、お腹が空《す》いた。
今がたとえ曇った昼過ぎであったとしても、まる一日は物を口にしていないことになる。意地をはらずに、朝食を食べればよかった。こういう場所で、一日何回食事が支給されるかわからないが、次はきっと食べよう、とロアデルは思った。持久戦になるかもしれないのだから。
点呼の声が近づくにつれて、通路側が明るくなっていく。
「ここは……番号はなしか。えーっと、ロアデルはいるな?」
「は、はい」
自分が呼ばれたので、あわてて顔を上げた。すると鍵役人は満足そうにうなずき、手にしたランプを独房近くの通路に一つ引っかけていった。ロアデルはそれで、日が暮れたのだとわかった。
「ロアデル」
小さく、声がした。しかしそれは、さっきランプを持って点呼に回っていた鍵役人の声とは違った。
「ロアデル」
もう一度。空耳ではなかったようだ。だが見回せど、彼女にはその出所を探しだせない。
通路に灯《あか》りが点《とも》ったとはいえ、獄舎《ごくしゃ》の中は物がはっきりと見えるほど明るくはなかった。ロアデルは通路に人影がないのを確認すると、背後の小窓に目を向けた。独房は、三方を壁で囲まれ、鉄格子《てつごうし》に向かい合う壁面にだけ天井近くに小さな明かり採《と》り窓がついていた。
「そこじゃないよ、こっち」
こっち、と言われて再び向きを変える。目を細めて鉄格子の間を凝視すると、通路を挟んで向かい側で何やら小さい物がせわしなく動いているのが見えた。
「やっとわかった?」
その小さい物がピタリと止まる。更に目を凝《こ》らしてやっと、それが人間の手であると知れた。手は、別の鉄格子からぬっと出ていた。ロアデルに場所を示すため、長いこと振っていたのかもしれない。
「アカシュ……」
通路を挟んで向かいの独房に、見覚えのある少年の姿を発見した。はす向かいなので、身体全体をロアデル側の壁に寄せて、それでも今朝《けさ》と同様にニコッと笑った。
「あれ? 名前覚えてくれたんだ」
彼からは、うれしそうな声が返った。
「あなたも、ね」
「だって、鍵役のだんながそう呼んでいたじゃないか。ロアデル、でいいんだろ? それ、本名だよね?」
「そうよ。……じゃあ、アカシュは本名じゃないの?」
「正真正銘《しようしんしょうめい》、本名だよ。でもさ、こーいう所にいる人って、粋《いき》がって生まれた時の名前捨てちゃうことがよくあることだから」
「まあ」
若い癖《くせ》に、何だか世の中見てきたような生意気な言い草に、つい吹き出してしまった。こんな場所でも笑えるなんて、何だか不思議だ。
「あなた、いくつ?」
「十八。ロアデルは?」
「十九よ。……あなた、若く見えるわね」
今朝見た時は、十六くらいかと思っていた。
「男に向かって『若い』って、誉《ほ》め言葉じゃないよ」
「そうなの?」
「少なくとも、俺はうれしくない」
「ふうん」
点呼《てんこ》をとって、ランプを置いていったばかりだから、しばらくは役人は見回りに来ないだろう、とアカシュは言った。ここの生活を知り尽くしている、そんな感じだ。
「アカシュは、ずっとそこにいたの? 私が気がつかなかっただけ?」
すると鉄格子《てつごうし》二枚を隔《へだ》てた向こう側で、彼は首を横に振ってみせた。
「違うよ。さっき部屋替えがあったんだ。いつもは大部屋。男ばかりの雑居房《ざっきょぼう》でさ、むさ苦しいの何のって」
「どうして、部屋替えがあったの?」
「俺が、ロアデルの側がいい、ってご城主さまに頼んだからじゃない?」
「え!?」
身を乗り出すこともできず、鉄格子に両手を掛けて顔を押しつけると、アカシュはクックックと肩を揺らした。
「――そんなこと、あると思う?」
「……冗談だったの」
両手を離して、その場に膝をついた。
年下の男に、いいように遊ばれてしまった。アカシュが検断長官と仲良しなどと言っていた、あの言葉もきっと気をひくための嘘だったのだろう。ほんの少しでも、期待した自分が馬鹿だった。
「あ、怒った?」
「別に」
「怒っている」
「そんなこと、ないわよっ!」
ロアデルはカッとなって、毛布を|被《かぶ》ると背中を向けてコロンと横になった。身体全体で、アカシュを拒否してやる。
「ロアデル」
「……」
「ねえ、ロアデルったら」
何度かの呼びかけを無視すると、やがてはす向かいの独房は静けさを取り戻した。もう一度呼ばれたら振り向いてあげようか、そう思ったのに、次はなかなかやってこない。
「アカ――」
やがて焦《じ》れたロアデルがそっと振り返ってみると、鉄格子《てつごうし》の間から依然としてこちらを見ていたアカシュは、「勝った」という顔をした。
「何て奴……」
もう一度ふて寝をしてやろうとした時、彼が呼び止めた。
「ごめんね」
無邪気そうなその笑顔を見れば、許せないことなどないような気がした。
「まったく、あなたって人は」
ロアデルは笑った。
「不思議なこね」
本当に、不思議。
でもアカシュのお陰で、一時でも笑うという行為を思い出すことができた。
それからしばらくして、食事が運ばれてきた。アカシュは役人の前では、それまでのおしゃべりをピタリと止めておとなしい模範囚を演じた。
パンは二個。湯気のたったシチューには、野菜と肉のかけらが入っていた。今朝《けさ》の献立《こんだて》より、豪華だ。
食事を配る気配で、アカシュとロアデル以外、この辺りには囚人がいないとわかった。
「非番月だからさ。当番月だと、独房も|雑居房《ざっきょぼう》に変わっちまう」
皿に口をつけて、アカシュはズズズーッとシチューを平らげる。さすが、育ち盛りの男の子は食欲というものが違う。
「当番月の時に増えた人間を、非番月の時にどれだけ減らせるかが勝負だな」
「減らす?」
「そりゃ……釈放されることもあるし、離れ島の牢獄《ろうごく》に送ることもあるし、死刑を執行《しっこう》することもあるんじゃない?」
「死刑」
思わず、スプーンを動かす手が止まる。
「心配しなくても、簡単に死刑になったりしないから大丈夫だよ」
ロアデルが自分の刑について心配しているのだと、アカシュは思ったのかもしれない。だが彼女の声が曇ったのは、検断という組織に課せられたつらい仕事を憂《うれ》いたからだった。
「死刑は、王さまの許可をもらわないと裁断できない。誰も、好んで人の命を縮めたくはないから、慎重になるんだ。その証拠に――」
アカシュは、ロアデルに食器を見るように言った。盆も、皿も、スプーンも、すべてが木製だった。この時代、陶器の方が大量生産されて安価だった。
「陶器だと、武器になる危険性が大きくなる。そのまま殴打《おうだ》しても打撃は強いし、割れた破片は角度によって鋭利な刃物になるからね」
監獄内で死亡事故を起こすことは避けなければならない。他殺であれ自殺であれ、捕らえられたために人間の死が早まってしまうなんて許されていいはずはない、というわけだ。
「それ、誰の受け売り?」
「ラフト・リーフィシー」
「嘘ばっかり」
今度は|騙《だま》されない、とばかりにロアデルは軽く鼻であしらった。
「本当だよ。ここの長官とは仲良しだ、って今朝《けさ》も言ったろう?」
「そんなこと――」
「あれ、話さなかったっけ? 俺、毎朝チョギーの相手をしているんだ」
「チョ、チョギー……?」
「そ、ゲームだよ」
聞いたことはある。確か、駒《こま》を使ったゲームだ。自分の城を守りながら敵の国王を討ちとるという、一対一で行うやつ。
「俺さ、チョギーには少々自信があるんだ。いわば、ここの長官の指南役《しなんやく》ってところかな」
「まさか」
ロアデルは一笑に付《ふ》した。
しかし話半分だとしても、アカシュは一度や二度チョギーの相手をしたことがあるのかもしれない。だからこそ、今朝は鍵役人との会話の中で「ご城主さまには内緒にしてやる」なんて言葉が飛び出したのではないか。
「本当なの……?」
「うん」
「もし本当なら――、ううん」
嘘でも構わない、ロアデルはそう思った。喉《のど》の奥に熱いものがこみ上げてくる。
「あの方、お元気?」
「……元気だよ。ピンピンしている」
「そう」
言葉と同時に、一粒の涙がこぼれた。どうしても、彼のことを考えると涙を止められない。ただ一言、元気でいると聞くだけで嬉しかった。そう、それがたとえこの少年の口から出まかせであってもいいと思えるくらい。
「でも、どうして? ロアデルは、ご城主さまのこと知っているの?」
「うん……ちょっとね」
「珍しいね。あの人、顔を出したがらないんだけれど」
「……それは、お忍びで――」
ロアデルは、そこで言葉を濁《にご》した。自分より年下の少年であるせいか、つい余計なことまで|喋《しゃべ》ってしまいそうになる。アカシュは「ふうん」と言って、食器の置かれていた盆を端に寄せて伸びをした。それを横目で見ながら、彼女はパンをちぎって口に運び、スプーンでシチューをかき混ぜた。
「ここの飯、どう?」
「うん……思ったよりおいしい、かも」
味だけではなく、至るところに気配りが感じられた。まだ温かさが残っているパンは、たぶん焼きたて。シチューの具は、栄養のバランスを考えて数種類に及んでいる。
「献立《こんだて》にはご城主さまも口を出しているから、賄《まかな》い役は手を抜けないんだ」
嬉しそうにアカシュは言う。やはり食べ盛りの少年には、食事のうまいまずいはかなり重要なことであるのだろう。
「あの人、たまに俺たちと同じ食事をとって、チェックしているからね」
「じゃあ、もしかしたら今夜、このシチューを口にされているかもしれないの?」
「そうかもね」
「……だったら、お気の毒」
ロアデルは小さく、思い出し笑いをした。
「どうして?」
「あの方、にんじんと玉ねぎがお嫌いなのよ。付け加えれば、乳製品」
それでいつも、それらが入っていない献立を考えるのに苦労させられた。どうして、こう何にでも入れられているようなメジャーな野菜が食べられないのか。|呆《あき》れすぎて、抗議する気もおきなかった。
「それ、誰の話しているの?」
声に顔を上げると、アカシュが不思議そうにこちらを見ていた。
「ラフト・リーフィシーさま、でしょ?」
「……そっか」
食べ物の好き嫌いを知っているなんてことまで言って、少し|喋《しゃべ》りすぎただろうか。うまい言い訳を考えようとしたが、アカシュは別にそんな部分を攻めたりしなかった。
「意外だなぁ、って。あの人って、見るからに健康そうじゃない? 何でも食べちゃいそうで、さ」
「……それ、誰の話しているの?」
一言の狂いもなく、今度はロアデルが同じ言葉をつぶやいた。
「東方検断長官のことだ……けど?」
「そうよね」
色白でヒョロリとしたあの人を、「健康そう」と言うアカシュに首を傾《かし》げながら、それでも人間の感じ方なんてそれぞれだから、とロアデルは思い直した。
アカシュも同じように感じたのか、それとも何も考えていないのか。それから何となく会話が途切れて、見回りを兼ねて役人が食器を下げにきたのをきっかけに、二人はそれぞれの毛布にくるまり、夜を越えるための準備を始めた。
一時間か二時間かに一度、見回りが通路を歩いた。何度目かの巡回で、通路のランプが消されたところまでは起きていたのだが、その後は覚えていない。きっと、いろんな事があり過ぎて、思った以上に身体が疲れていたのだろう。
(ああ……。これからのことを考えなくちゃいけないのに……)
眠りに落ちる狭間《はざま》でそんなことを考えたが、重くなった瞼《まぶた》をもう持ち上げることはできなかった。
その晩、ロアデルは夢もみずに眠った。
アカシュという少年
1
よくよく考えてみたら、獄舎《ごくしゃ》の中というのは、危険な物を極力置かないようにした結果、このようにガランと何もない空間が生まれたのかもしれない。天井近くの明かり採《と》りから差し込む光を見ながら、ロアデルは思った。
それとも、多くの人間を収容できるように、余分な物を排除した結果だろうか。ロアデルのいる独房は、|東方検断《トイ・ポロトー》が当番月であれば、|雑居房《ざっきょぼう》になるということだし。
(だとしたら、寝台一つな違由がわかるな。他はどうか智奮けど、ここには衝立《ついたて》の陰に便器があるだけだもの)
光の中で、無数の埃《ほこり》が踊っている。これらは、どこからわいてくるのだろう。
「えーっ!?」
穏やかな一日の始まりを打ち砕くような、間の抜けた声が通路の方から聞こえてきた。ロアデルが窓の方から視線を移動させると、明るさに慣れきった目が捉えたのは、ひょろひょろ泳ぐ朱色だか黄色だかの光の残像と、鉄格子《てつごうし》の二枚向こうにあるアカシュ少年のふくれっ面《つら》だった。
「そんなの、聞いてないよ」
アカシュの独房の前には、役人の後ろ姿があった。目でそれを確認すると同時に、ロアデルの鼻はいい|匂《にお》いをかぎ当てていた。どうやら朝食を運んできた役人に何か言われて、彼は抗議しているらしい。
「聞いていようといまいと、検断庁舎からのお達しなんだからしょうがないだろう? いいか、今日は、チョギーは休みだそうだ。あっちに行かなくていいからな。わかったな、アカシュ」
「でもさ、王宮に参内《さんだい》する日だって、ご城主さまは俺をお呼びくださるんだよ……」
納得できないようで、アカシュはまだぶつぶつとつぶやいていた。
(驚いた……! このこって、本当に毎日あの人のチョギーの相手をしているんだ……)
「腹を下されたとか、頭が痛いとか……。いいや、それでも毎朝のチョギーは欠かさない人だよな。もしかして、俺よりチョギーの強い相手が見つかっちゃったのかな……」
「さあ、そんなことまでは知らんよ」
少年の|愚痴《ぐち》にいちいちつき合っていられないらしく、役人は早々に切り上げてロアデルの独房に朝食の盆を入れた。
「じゃあさ、今日、俺はどうやって過ごせばいいわけ?」
アカシュは、次のエリアに向かおうとする役人の背中に向かって尋ねた。
「あ、そうだ。それを言い忘れた。お前は今日一日、洗濯《せんたく》係だ」
「洗濯ー!?」
「マイザが腰痛で休みだそうだ。よかったな、ちょうどやることがあって」
はっはっはっ、と笑いながら去っていく役人。ちょっとばかり、いい気味だと思っているに違いない。
「よかないよっ!」
手にした黒パンを鉄格子《てつごうし》から出して役人に向かって振り上げたが、もったいないと思い直したらしく引っ込めた。そのままでは納まらないのか、やけ食いとばかりげんこつ大のそのパンを一個まま乱暴に頬張《ほおば》っている。あんな食べ方では、味も何もわからないだろうに。
やれやれ、とロアデルは自分の食事を始めた。目の前には、澄んだスープと黒パン、そして四分の一に切ったリンゴ。玉ねぎの薄切りが浮かんだスープをスプーンですくって、ふと思った。
「ご城主さま」は、今朝《けさ》この献立《こんだて》を口にしたのだろうか、と。
リンゴの芯《しん》を残して全部食べ終わった時、見計らったようにアカシュが声をかけてきた。
「おはよ」
「……おはよう」
そういえば、今朝はまだ|挨拶《あいさつ》もしていなかった。
「洗濯だって?」
「そう。聞いてた? 嫌になっちゃうよ」
聞いていたも何も。あんなに騒々しくしてくれたら、聞きたくなくても自然に耳に入ってしまう。
「よりにもよって、マイザも今日を選んで腰痛になることないのにさ。あ、マイザって、獄舎で下働きしている洗濯専門の小母《おば》さんのことなんだけど。彼女がまた、太っているんだ。だから、腰とか膝とかにきちゃうんだろうね。でも洗濯のプロだよ」
一週間に一度洗濯してもらうんだ、と囚人服を示して言う。ここに収容されている人間すべての服を一人で洗うのかとビックリしていると、六日に分けてだそうで、ひたすら洗い続けてやっと仕事が回るらしい。
「雨が続いた時なんか、乾かす場所求めてさ、通路にまで縄張ったりするんだぜ? もう、囚人服の洗濯に、命かけてんの」
アカシュは、手振りを加えて嬉しそうに語った。その大変な仕事を今日自分が引き受けることを、しばし忘れているのかもしれない。
「アカシュ。あなた、ここ長いの?」
ふと、気がついて尋ねてみた。
「どうして?」
「だって、ずいぶん詳しいから」
言った後で、こういう場所で罪状とか刑期とかを聞いてよかっただろうか、と心配になった。だが彼は、別に隠す様子もなく「いち、に、さん……」と|唸《うな》って片手の指を折りだした。
「約五年、かな?」
「五年!?」
「……失礼しちゃうな。自分で聞いておいて、そんなに驚くなよ」
アカシュは目だけで、ロアデルをにらみつけた。
「ご、ごめんなさい。でも、そんなに若いのにー」
「う・そ」
すると、彼は舌を出した。
「えっ!?」
「……あ、五年は本当。そうじゃなくて、怒ってないってこと。俺ってさ、誰かに聞かれて、『十三から監獄暮らしだぜ』なんて答えるじゃない? その時の、相手の驚いた顔見るの、快感になってきちゃった。同部屋になった二十も年上のすごく悪そうな男がさ、『じゃあ契兄《あに》さん、って呼ばせていただきます』って言った時には、さすがに困っちゃったけどね」
頭をかきながら、照れくさそうに言う。いったい、何をしでかして獄中生《ごくちゅう》活を送る羽目になったのか、その|屈託《くったく》のない笑顔からはまるで想像がつかなかった。
――しかし、五年。五年もいれば、ここの生活に慣れきっていて当然なのかもしれない。
「あー。でも、洗濯かぁ。かったるいなー」
「やったことは?」
「あるよ。ここでの生活が始まって間もなく、一度だけ。マイザのアシスタントに駆りだされたの。……だから、かったるいってわかるんだよ」
「そうか。なるほどね」
ロアデルは、「お気の毒さま」とクスクズ笑った。
「ロアデルは? 今日も取り調べ? 昨日は口を割ったの?」
「口を割る……?」
「だって取り調べなんて、口を割るか割らないかじゃない? あ、嘘を言うとか、無実を訴えるとか、っていうパターンもあるか」
何だか、変な気分になった。取り調べとか、牢獄《ろうごく》とか、罪とか、町中で普通に暮らしていたら声を潜めて語られなければならない言葉たちが、ここでは日常会話でポンポン飛び出してくる。何か特別のことではなく、生活の一部に溶け込んでしまっているのだ。違和感を感じるのは、ロアデルが二日前まで、貧しいながらも平穏に暮らしてきた証拠だろうか。
「取り調べか……。気が重いな……」
あの、お人形さんのような白と青の青年にまた尋問《じんもん》されるかと思うと、拒否反応で胃が痛くなりそうだった。
「気が重い? でも、洗濯よりましでしょ?」
「洗濯の方がましよ」
「じゃ、洗濯にしよう!」
アカシュは独房の中で、一つ手を打った。そして通路に思い切り顔を近づけると、突然悲痛な叫び声をあげた。
「鍵役のだんなー! 大変だ、早く来てくれー!」
「アカシュ……? あなた、いったい――」
「いいから、黙ってて」
彼は小声で告げると、また大声で「助けてくれー!」と叫び続けた。、当然ながら「どうした」と、息せき切って役人が駆けつける。アカシュはロアデルにしか見えない角度で、片目を閉じて笑った。
「あのさ。今日、ロアデルの取り調べある?」
「えっ?」
何のことかわからない鍵役人は、息を整えながら首を傾《かし》げた。大騒ぎしていたはずのアカシュはピンピンしているし、周囲だって別段変わった様子はない。
「お前――」
「やっぱ、早かったね」
振り回されたのだとわかって、役人の顔は怒りでじわじわと紅潮していった。
「聞かせてもらおうか。いったい、何が大変なんだ……?」
役人の右手がギュッと握られた。
「一人でする洗濯、かな?」
「じゃあ、助けてくれ、っていうのは?」
理不尽《りふじん》な受け答えに、握った拳はぶるぶると震えだした。
「誰か、助《すけ》っ人《と》が欲しいなぁ、……って」
「じゃあ、何で助っ人でもない俺を呼びつけた!」
とうとう、拳が振り上げられた。
「やだな、さっき言ったじゃないか。ロアデルのスケジュールを聞きたかったんだよ。……それで、どうなの?」
瞬間、拳はなえた。真剣に怒ることさえばかばかしくて、振り下ろす元気もなくなったようだった。
「あれ……、どうしたの? 走り過ぎて、ノックダウン?」
がっくりと膝をついた役人に、「年かな?」などと、とぼけたセリフを吐いて追い打ちをかけるアカシュ。
「畜生、わかったよ。調べてきてやるから、そこでおとなしく待っていろよっ!」
二十代半ばの役人は、あとはもう意地になって、|大股《おおまた》で詰め所に戻っていった。言われた通り黙って見ていたロアデルは、年下の囚人にうまいように使われている役人が、心底気の毒になってしまった。
「ロアデルは……、今のところ取り調べの予定はないな」
戻ってきた役人は、帳簿《ちょうぼ》を見ながらそう言った。
「じゃ、手伝ってもらっていい?」
アカシュは機嫌よく尋ねた。
「でも、彼女は懲役刑《ちょうえきけい》でここにいるわけじゃなくて、あくまで容疑者なわけだから……」
「あーっ、ぐじぐじうるさいなぁ。いいの? 悪いの?」
立場が、完全に逆転している。
「前例がないから、わからんよ」
「だったら、聞いてきてよ。副官のエイさまに」
「何で、俺がお前の使いっ走りを……」
「何なら、俺が聞きにいってもいいけれど?」
しかし、召しだされてもいない囚人を、牢《ろう》から出して自由に歩かせるわけにもいかず、役人はしぶしぶと検断庁舎に伺《うかが》いをたてに行った。|所詮《しょせん》は囚人の我がまま、放っておけばいいようなものを。アカシュが検断長官に直接口をきける立場にあることが、やはり少なからず怖いらしい。
「いいってさ」
投げやりに、鍵役人は言った。精神的にも肉体的にも、獄舎の役人が検断庁舎のお偉い方に会いにいくことは疲れることのようだ。
「ごくろうさん。でも、エイさまと直《じか》に話したなんて、きっと同僚にうらやましがられるよ」
「まあ……そうだな」
アカシュは、人を怒らせるだけでなく、いい気持ちにさせることもうまい。鍵役人は|仏頂面《ぶっちょうづら》をしてはいるものの、満更《まんざら》でもない、といった顔をしていた。
「俺もうれしいな。ロアデルと一緒にいられるんだからな」
「へえ……」
しかし、少年の幸福そうな笑顔を見ながら、彼女は思った。
取り調べがないのなら、別に洗濯に逃げる必要はなかったのではないか。やはり自分も、アカシュにうまいように使われているのではないか、と。
2
久しぶりの外は、太陽がまぶしかった。さわやかな風が吹いていて、まさに洗濯|日和《びより》。
獄舎《ごくしゃ》を出てすぐ、芝の生えた一角にアカシュとロアデルは連れて行かれた。
必要以上に高い城壁と獄舎に挟まれた庭から天を見上げれば、空は小さく四角く切り取ってそこに張りつけたようだった。塀《へい》を境に内と外では、青空の量にさえ差があった。
一目で洗濯場であるとわかる、物干し台と井戸と大きなたらい。その横に太った中年女性が、|椅子《いす》をだして座っていた。
「待っていたよ」
「マイザ!」
アカシュが飛びつきそうになったが、彼の手鎖《てぐさり》と役人とをつなぐ荒縄がピンと張っても、マイザと呼ばれたその女性まではまだぜんぜん届かなかった。
「久しぶりだね。やだよ、こんなに大きくなっちゃって」
マイザは椅子から立って自ら前に進み出ると、そのふくよかな肉体で少年の身体を包み込んだ。
「何だい、腰痛でくたばったんじゃなかったのか?」
「だから、あたしは洗濯はしないよ。監視役に来てやったんだ」
大きな身体に比例して、豪快に笑った。
「敵《かな》わねえな」
アカシュも、肉に埋もれながら大口を開けて笑った。
二人をここまで連れてきた役人は、アカシュの手鎖とロアデルの手首を縛《しば》った縄を解いた。
「じゃ、マイザ。しっかり働かせてやってくれ。特に、この小生意気なガキの方」
「任しておきな」
胸を手で叩くと、豊満な乳房がブルンブルンと揺れた。ロアデルがその迫力に圧倒されていると、マイザは視線に気づいてニーッと笑った。
「いいか、二人ともこの線から外に一歩も出てはならんぞ」
そう言い残して、役人は持ち場に帰っていってしまった。後には彼の描いた、井戸を中心にした半径ニメートルほどの円が残っている。落ちていた小枝を握って、フリーハンドで線を引いたのだから、多少|歪《ゆが》んでいるのはご愛敬《あいきょう》だ。
「こんな円、無駄なのに」
アカシュはまだ役人の背中が見えているというのに、境界線をまたいだ。だが、それでも役人の姿が消えたのをいいことに、脱走しようとかはまるで考えていないようで、マイザが「アカシュ!」とにらみをきかせると、やがて肩をすくめて円の内側に戻ってきた。
「さ、始めるかね。えーっと、そこのお嬢《じょう》ちゃんは――」
「あ、ロアデルです」
ロアデルはあわてて頭をちょこんと下げた。
「えらいべっぴんさんだろう? マイザには、ちょっと負けるけどさっ」
自分の恋人でもないのに、アカシュは自慢げに言った。
「ああ。若い頃のあたしみたいだね。……しかし、あんたも囚人なのかい?」
「えっ……」
言葉に詰まると、アカシュが代わりに答えてくれた。
「取り調べ中。でも、きっとすぐに釈放されるよ」
「そうかい、よかった。ここは、若い娘が長くいる場所じゃないからね」
「……」
少し、後ろめたいような気持ちになった。誰かに心配をさせて、申し訳ないような、そんな気持ち。
「おいで。あたしの前掛けを貸してあげる」
「え?」
「そのままじゃ、きれいなドレスが台無しになっちゃうだろう?」
マイザは自分の着けていたエプロンを外して、ロアデルの腰に巻いた。堂々たる胴回りにあったエプロンはロアデルには大きめだったが、その分ドレスが隠れてちょうどよかった。
「ありがとう」
「なーに!」
マイザからは、母親の|匂《にお》いがした。ロアデルは両親を早くに亡くしたが、母さんが生きていたら、側にいるだけでこんな風に温かく、そして切なく感じるものなのだろうか。
「さあてと、さっさと片づけちまおうかね。アカシュ、洗濯物を井戸の側までお運び」
腰痛のマイザは、もとの|椅子《いす》にどっしりと腰を下ろしてから、足もとを指し示した。椅子の側には大きな籠《かご》が置いてあって、その中にはくすんだ色の囚人服が山のように積まれていた。しかも、籠は一つではない。一つ、二つ……。一つの籠に何枚分詰め込まれているのだろう。途中まで考えてもう、数えるのも嫌になった。
「ロアデル、井戸から水を汲《く》んでおくれ。アカシュはその籠を運び終えたら、足をきれいに洗うんだよ」
「うへー。やっぱり、俺が重労働担当か」
「当たり前だろ? 男なんだから」
文句を言いながらも、アカシュはズボンの裾《すそ》を膝上までたくし上げている。どうやら手動ならぬ、足踏み式人間洗濯機であるらしい。たらいの中に水と洗濯物と少量の石鹸《せっけん》をぶち込んで、ひたすら踏む。踏んで踏んで踏みまくり、繊維に染み込んだ汚れを落とすわけである。
ロアデルといえば、アカシュの踏み終わった洗濯物を濯《すす》ぐ仕事を、任じられた。こちらも、濯いで濯いで濯ぎまくる。少しも気を抜けない。濯いで絞《しぼ》って空のたらいに入れていく。一つのたらいを片づけたと思っても、アカシュからはまた洗い終わった洗濯物がドーンとたらいごと流れてくる。
「マイザはいつも、これを一人でやっているの!?」
「まさか」
|椅子《いす》の上でふんぞり返りながら、マイザは呵々《かか》と笑った。
「若い頃はね、やってやれないこともなかったけどさ。この間までは娘に手伝わせていたんだ。だけど、遠くに嫁《よめ》に行っちゃってね」
それから後は、下《した》っ端《ぱ》役人をアシスタントにしていたらしい。
「募集してくれているらしいんだけどねぇ。最近じゃ、こういう地味な重労働したがる若者、少なくなったから、なかなか集まらないのさ。これも、ご時世ってやつかねぇ」
「あーっ、汚ねぇ!」
アカシュが叫んだ。だが「汚い」といっても、洗濯物の汚れを指しているのではないらしい。ぼやきながら、悔しそうに洗濯物の上で地団駄《じだんだ》を踏んだ。
「いつも自分らがやっている仕事を、俺たちに押しつけやがったんだな。……役人のくせに、あいつら」
やってられねえや、とたらいの中からピョンと芝の上に飛び降りた。短気を起こして中途半端でやめたのかと思いきや、洗濯物が山盛り状態だった籠《かご》はすべて空。畜生、畜生、と言いながらスピードアップして、ラストを洗い終わってしまったらしい。
「何、笑っているんだよ」
ロアデルの視線に気がついて、アカシュが不機嫌そうにチラリと見た。
「|真面目《まじめ》で可愛《かわい》いな、と思って」
「何それ、俺のこと?」
「ええ」
それを聞いて、アカシュはガックリと肩を落とす。
「……ロアデル。この際だから教えてあげるけど、可愛い、っていうのもさ、誉《ほ》め言葉にならないんだからね」
「そうなの?」
「あんた、男とつき合ってないだろ?」
「失礼ね。私だって恋人くらい――」
そこまで言って、言葉に詰まった。
「何だ、いるのかぁ」
アカシュは、ロアデルが濯《すす》いで絞《しぼ》った洗濯物を、たらいの中から一つ拾い上げて笑った。濡れた布の塊《かたまり》の両端を持って、無造作にギュッと絞る。けっこう大きな彼の手を伝って、ダラダラと水がしたたり落ちた。芝が、キラキラと光る。
「力が、あるのね。――そう誉《ほ》めるのもなし?」
「それはあり」
片目を閉じて笑ってから、少年は手にしていた洗濯物を両手で振って広げた。
バサッ。バサッ。
くすんだ色の囚人服が、小さな風を起こす。小さな風に、小さな水しぶきが飛ぶ。
手を動かしながら、ロアデルはその光景に見とれていた。ほんの小さな青空と、緑の芝と、風と水しぶき。ここが牢城《ろうじょう》の中であることを忘れてしまうほど、ささやかなさわやかな光景だった。
「干して」
アカシュは手にしていた物を、当然のように差し出した。
「え?」
「濯ぎ終わったんだろ? 絞るのは俺がやるから。その方が、効率いいよ」
「ふーん」
「何だよ、ふーん、って」
「何でもない」
年下のくせに何となく頼もしくて、でもそんなこと言ったらまた機嫌をそこねられてしまうかもしれないから、ロアデルは言われるままに物干しロープに向かった。
「早く片づけちゃおうぜ。それでさ、俺たちも一休みしよう」
後ろから、アカシュが小声で|囁《ささや》く。
「も?」
「そ。『も』」
洗濯物を絞りながら顎《あご》を突き出して「見ろ」の合図をする先には、|椅子《いす》にもたれてうたた寝を始めたマイザの姿があった。監視役のはずの彼女も、ぽかぽか天気とさわやかな風には勝てなかったようだ。ロアデルは肩をすくめてから、OKの合図に親指と人差し指で丸を作ってみせた。
目標を決めると、人間、仕事が速くなる。二人で早々に洗濯物干しを完了すると、アカシュは比較的水がかかっていない芝生を見つけてロアデルを誘った。それでも結局は役人の引いた円の内側であるから、ひねくれているように見えてその実はやはり真面目な少年なのだ。
「ね。ロアデルの恋人って、どんな奴?」
並んで腰を下ろすと、アカシュが|唐突《とうとつ》に尋ねてきた。
「どうして?」
「俺には恋人なんていないから、すごく興味がある」
まさに、ストレート。興味がある、以上に説得力がある言葉はないといえるくらいに。
「そうね……」
ロアデルは青い空を見上げて、つぶやいた。
「忙しい人。たまにしか会いにこられないくらい」
「へえ……。その人、何してるの?」
「すごく立派な仕事している人よ。その割に、お金持ちじゃないけどね」
「立派な仕事しているのに?」
アカシュは、うさんくさそうに|眉《まゆ》をひそめた。
「貧乏人からは金をとらない医者かなんか?」
ロアデルは笑って首を横に振った。彼の想像力はかなりいい線いっているけれど、正解からはほど遠い。
「詳しくは言えないけれど、管理職よ。何でも、臨時で仕事をしてくれた人とかには、ポケットマネーでお金を払っているんだって。だから、いつも小銭くらいしか持ってないの」
情報提供者や、個人的に雇った偵察《ていさつ》隊などに支払う分だ。そういう縁の下で支えてくれる人間がいるお陰で、検断組織はどうにか仕事を回していけるのだ、とあの人はよく言っていた。
「そんなんじゃ、ロアデルに、口紅の一っも買ってやれないじゃないか」
「プレゼント、もらったことあったわよ。ピンクの、可愛《かわい》い花束」
「でもさ、それって知り合って間もなくの頃だろう?」
「そうよ。どうしてわかったの?」
ロアデルは目を丸くした。
一年前の夕方、路地でうずくまる青年を見つけた。確か、仕立て上がったドレスをある商家に届けた帰り道だった。注文通りに作ったにもかかわらず、言いがかり以外の何ものでもない苦情を言われて、さんざん値切られガックリしていた時だった。だからかもしれない、傷ついている人を見捨てて通り過ぎることができなかったのは。
「どうしたんです? 具合でも、悪いんですか?」
「えっ……」
驚いたように、彼は顔を上げた。艶《つや》やかな黒髪と身につけている絹製品を見て、ロアデルは住む世界が違うと思った。
よく見ると二の腕から血が流れている分が、ブラウス越しにわかった。
「お医者さまに……!」
「いや、いい」
「検断にも――」
「それにも、及ばない」
その人はロアデルの手をつかんで、「いいんだ」ともう一度言った。だからロアデルは、少し大きめのハンカチで傷口を縛《しば》ってやった。それきりのはずだった。落ち込んでいたロアデルは、小さな親切で自己満足した、それだけのことだ。
だが、彼は忘れた頃に彼女の前に姿を現した。ピンクの可愛《かわい》い花束を持って、ロアデルの部屋のドアをノックした。
「先日は、どうもありがとう」
彼の名は、ラフト・リーフィシー。ハンカチに刺繍《ししゅう》された名前だけで、ロアデルの家を探し当てられる人だった。
「何でわかったか、だって? 教えてやるよ、ロアデル。男、っていうのはな、初めの頃は誰でもまめなのっ」
幸福な回想を|邪魔《じゃま》するように、アカシュが言った。
「信用なんねえな、その男。自分の都合のいい時だけ、ロアデルの所に来るんだろう?」
「だって、それは忙しいから……」
「本当に、忙しいの? そいつが、そう言っているだけじゃないの?」
からかうように、彼は笑う。何も知らないくせに。
だが、ふとロアデルは思った。自分だって、本当は何も知らないのではないか? 何も知らないくせに、こんな場所に|紛《まぎ》れ込んでしまったのではないか?
「マジな話、その男はロアデルのことどう思っているんだろうね?」
「どう……、って」
「恋人なんだろう? 将来のこととか、話し合わないの?」
「――いつか結婚できたら、って」
「それは、よかったね」
全然、よかったという言い方ではなかった。
「いつ? 『奥さんとの離婚が正式に成立したら』とか、まさかね」
「――!!」
ロアデルは、心底驚いた。しかしその顔を見て、アカシュの方こそ目を丸く見開いたまま固まってしまっていた。
「冗談のつもりだったのに、マジかよ……。本当に、そんな常套《じょうとう》手段を信じちゃえるんだ」
「何の、常套手段……?」
恐る恐る、ロアデルは尋ねた。いちいちしゃくに触《さわ》るけれど、彼の言うことはなぜか聞かずにはいられない。
「女を|騙《だま》すワンパターンの文句だよ。妻とはうまくいってない、安らぎが欲しい、それから――」
言い終わる直前に、ロアデルの手の平はアカシュの頬《ほむ》を直撃していた。気持ちいいほど、乾いた音が青空に木霊《こだま》した。
「あなたも、あいつらと同じことを言うの!? あの人が、私を|騙《だま》したって、そんなこと――」
「何だ、他にもいるんだ。そう言った奴」
アカシュは、叩かれた頬を撫でながら言った。叩かれた分、言う権利があるといった目でロアデルに迫る。
「俺は、そいつを知らない。だが女房持ちで、夫婦仲が冷め切っているとか言って口説《くど》く男なんて、それだけで信用できない。だったら、妻とは別れない、それでよければ愛人になれ、そう言う男の方がまだましだよ。どっちも、いけ好かないけどな」
彼は最後、吐き捨てるように言った。それから立ち上がって、尻についた芝を払う。
「でも、……ごめん。ちょっと、きつ過ぎたかな」
そして、いつもの無邪気な笑顔で、手を差し伸べる。ほんの少しの躊躇《ちゅうちょ》の後、ロアデルはその手をとった。力強く手を引かれ、そして次の瞬間アカシュの腕の中に納まった。
「でも、言ったことは本当。俺、女の味方なんだ」
耳もとで囁《ささや》いて、すぐに身体を離す。十三から監獄暮らしとか、恋人がいないとか、そんなことが嘘のように、アカシュは女性の扱いがうまい。やさしくて、つい寄りかかってしまいたくなるほど、包容力がある。
だが、彼の言うことを受け入れるには、ロアデルの中に住む恋人の存在は絶対でありすぎた。でも昨日今日知り合った年下の少年は、尚も心を動揺させる。
「ロアデル。どうして、こんな所にいるんだ?」
「えっ……?」
「ここは、長くいる場所じゃない。マイザも言っていたろう?」
傍《かたわ》らの、居眠りしている巨体を振り返って、アカシュは告げた。
「その男のことをはっきりさせるためにも、早く自由の身になった方が利口だよ。仮に、そいつが誠実な男だったとしてもだよ、ロアデルが囚われの身であることを悲しく思わないはずないじゃない」
何て口がうまい男なのだ、と思いながら、その実ロアデルは感動していた。少なくとも彼は、言葉の選び方はともかく、ロアデルのために忠告してくれているのだ。見返りなんて、今の彼女からは何も期待できない。それなのに、なぜ――?
「今なら、まだ間に合うよ」
呪文のように、少年が言った。
彼は何か、知っているのだろうか。何かを、誰かから聞かされているのだろうか。
「アカ……」
その時、一陣の風が吹いた。ロアデルの疑問は、はためく洗濯物の音でかき消されてしまった。
やっと目覚めたマイザが、大きな伸びをした。その巨体の向こう側に、様子を見にやってきたと思われる鍵役人の姿が、見え隠れしながら次第に大きくなっていった。
3
「――それで、お話しくださる気になった。そういうわけですね?」
プラチナブロンドのお人形さんの唇が、確認するようにゆっくりと単語を区切って聞き返した。
「十八歳の、懲役刑《ちょうえきけい》の囚人に説得されて?」
「年も、立場も、関係ないんじゃありませんか?」
「なるほど。ではあなたは、彼の本質を見抜いたというところかな」
そんなエイの言葉にも、ロアデルはうっすらと微笑を返すことができた。ほんの少しだけれど、余裕がある。二度目のせいだろうか、取調室も取調官も前の時より受け入れやすくなっていたのかもしれない。
「名は?」
「ロアデル。ロアデル・キアナ」
「年は?」
「先月、十九になりました」
エイが走らせるペンの音が、心地よさを感じさせた。ロアデルは目を閉じて、布を裁《た》つハサミを思った。
「……では、あなたのお話を聞かせていただきましょうか」
机の上で両手の指を組んで、エイが促した。ロアデルは、一度深呼吸をしてから語りだした。
「私は、下町で仕立てや繕《つくろ》いの仕事をしています。両親は早くに亡くなり、一人でアパート住まいです」
「お針子《はりこ》ですか」
彼女の身につけた真《ま》っ赤《か》なドレスは、誰が見ても針仕事には必要ない華美と下品を併《あわ》せもったデザインだった。
「これは……、先日悪い人間に|騙《だま》されて、|娼館《しょうかん》に連れて行かれたのです。でも、店に出されると知って、逃げ出してきました。信じてください、私には覚えがないのに借金がこしらえられていたんです。借金の形《かた》に身を売って返せって、無理矢理連れて行かれて」
ロアデルは、その時の様子をつぶさに語って聞かせた。男たちが借金の証文《しようもん》をちらつかせて彼女の部屋に踏み込んできた様子や、女たちに押さえつけられて真っ赤なドレスを着せられた時の|屈辱《くつじょく》、そして|隙《すき》を見つけてここまで逃げてきた途中の出来事など、すべて。
「言えば、娼館に引き渡されてしまうと思いました。だって、相手はどこでこしらえたか、証文まで持っているんだし」
「よく、わかりました。……でも、|肝心《かんじん》なことはまだお聞きしていませんね?」
「はい」
それはもちろん、なぜ|東方牢《リーフィシー》城に忍び込もうとしたか、ということを指しているに違いない。例えば身柄の保護を求めるとしても、月番の西方に行くのが正しい選択だ。
「昨日の話では、あなたは我が東方検断長官と面識があるようでした。あなたは、長官に会いたいがために城壁を越えようとまでした。……それは、今でも変わりませんか?」
「そうです」
「それは、あなたを騙した者への制裁《せいさい》とその者からの保護を求めるため、そう解釈していいですね?」
「……はい」
「あなたと長官はどういった関係ですか」
言葉を選ぶように、それでいて直接的に、エイはその質問をした。ここまできたからには、それは当然話さなくてはならないことだが、やはりほんの少しだけ言葉に詰まった。
「私は……恋人だと、思っていました」
存在を忘れがちな隅《すみ》に控えた役人が、直立不動のまま目をむいた。だが、そこはプロ。すぐに何もなかったように、無表情に戻した。
エイは、さほど驚いた様子はなかった。昨日から丸一日、ロアデルの答えをいくつか想定していたのかもしれない。
「恋人、ですか」
「情婦《じょうふ》でも、愛人でも、好きなように解釈してくださって結構です。恋人、と思っていたのは、私だけかもしれません。あの方が私をどう思っていらしたのか、それはあの方にしか答えられないでしょ、うから」
アカシュに洗脳されたとは思いたくなかったが、確かに「恋人」であると胸を張って言い切れる自信がロアデルにはなくなっていた。いや、もしかしたら以前から不安はどこかに抱えていたのかもしれない。
一方的にしかコンタクトがとれない関係。口では一緒になりたいと言いながら、奥方と別れる気配がない態度。もしかしたら自分でなくてもいいのではないか、という疑念。
だが、それを口に出して確かめるのが怖かった。その結果、彼を失うことになるかもしれないと思ったら、そんな考えはなかったことにして笑っていることしかできなかった。やっとつかみかけた幸せ。ロアデルは、ずっと家族が欲しいと思っていた。
「いつから、つき合われているのですか」
「……一年ほど前からです」
「あなたが口をつぐんだのは、長官のお立場を考えてのことですね?」
「そうです」
「わかりました。結構です」
意外に、あっさりと取り調べは済んだ。エイは少しの間、二、三のメモを取っていたが、やがて顔を上げて微笑した。
「……実は、あなたの身元調査は完了しています。あなたが逃げ出してきた|娼館《しょうかん》も、|東方検断《トイ・ポロトー》はすでに調べだしている。でも、あなたが自ら告白されたことは、大きな意味があります。あなたが黙秘し続ける限り、我々東方検断はあなたを救いたくとも救う手だてがなかった」
もし向こうサイドが早々に足抜けした娼婦の捜索を検断に願い出たとしたら、彼女は|西方検断《エスタ・ポロトー》に引き渡しを要求されただろう。その場合、黙秘し続けるロアデルを守り抜く術《すぺ》など東方検断にあるわけがない。
「でも、もう心配はいらない」
エイの白い指が、ロアデルの手首を縛《しば》っていた縄をほどいた。
「後は私たちに任せてください」
「……?」
「あなたの身柄は、東方検断が預かりました。ただし、もう囚人に戻る必要はありません。……いや、もともとあなたの存在は、宙に浮いていたのですが――」
立ち上がり、彼はロアデルの背後に回った。
「ご自分に会いにいらしたあなたを、我が長官が侵入罪で訴えることはないでしょう」
そして、「どうぞ」とロアデルの|椅子《いす》を引く。エスコートされ慣れていないから、ロアデルは心底戸惑ってしまった。身分の高い男というのは女にやさしくするように教育されると聞いたことがあるが、皆が皆、彼のように細やかな気遣いを励行《れいこう》しているものなのだろうか。
「あの、これからどちらに……?」
出口の扉を押さえて待っているエイに、ロアデルは尋ねた。
「取りあえず、役宅にお連れいたします。お話を聞いた以上、あなたは長官の客人としてお迎えしなければなりません」
「そんなことをしたら、ご迷惑に――!」
役宅ならば、そこには家族もいるに違いない。あの人の話では、両親はすでに亡くなっているだろうが、奥方は一緒に暮らしているはずだ。そんな所に、立場的には日陰者のロアデルが現れたら――。
「ご|遠慮《えんりょ》なく」
エイがあまりに頓着《とんちゃく》していないので、かえってロアデルの方が心配になってしまうほどだ。
通路に出て、しばらくは元来た道を歩いていく。途中の角を、獄舎《ごくしゃ》方向には曲がらずに真っ直ぐ進む。それで、本当に知らない場所に向かっているのだと実感できた。
「あ……。私、アカシュに何も言ってこなくて」
「彼だって、わかってくれますよ」
やんわりと、獄舎に立ち寄ることを拒否された。城主の客人という待遇《たいぐう》になったからには、それも仕方ないのかもしれない。
「ラフト・リーフィシーさまには……」
「もちろん、お会いいただけるよう取り計らいましょう。ただあの方は本日、お役宅にお戻りにはなりません」
ご多忙な方ですからね、と先回りされてしまったので、ロアデルはそれ以上のことは聞けなくなってしまった。
取調室は半地階だったらしく、一階分の階段を上がると、自然光で十分の明るさがまだあった。検断庁舎の役人らしき男と時折すれ違ったりもしたが、エイが側にいるせいか、皆ロアデルのその場にそぐわないドレスにさほど驚いた様子も見せず、丁寧《ていねい》に礼をして二人に先を譲った。
どれくらい行った頃だろうか、やがて小さな中庭が現れた。池には可愛《かわい》いアーチ型の橋が掛かっていて、それを渡ると落とし格子《ごうし》のある入り口があり、その奥には両開きの扉が開いていた。
「東方検断長官の役宅です」
「――」
ここが、あの人の住む家。何があっても訪ねてきてはいけない、――そう教え込まれた場所なのだ。今更ながら、震えてきた。主人が留守なのをいいことに、勝手に上がり込んでしまうなんて。こんな事態になってしまって、彼は怒りはしないだろうか。
(ああ……、それでも)
胸の高鳴りは正直だ。
(ここで、あの人は暮らしている。今日は会えなくても、待っていれば必ずここに帰ってくるんだ……!)
胸もとを手で押さえながら、ロアデルはエイの後に続いた。
扉を抜けてすぐ、そこは大広間になっていた。
二階分は優にある吹き抜けで、大きな暖炉《だんろ》と豪華なシャンデリアが目に入った。ロアデルの入ってきた入り口の対面の壁には、別に大きな両開きの扉があって、今は閉まっているがそちらの方が外に通じる、本来の出入り口であるように思われた。
静かだった。
手入れは行き届いているのに、どこか幽霊屋敷のように人のぬくもりがあまり感じられない。ただ単に、広い空間に人がいないという、それだけのことなのに。
「シイラ?」
エイが奥に向かって呼びかけると、やがて「はいはい、ただ今」という声とともに中年女性が現れた。洗濯女のマイザとは対照的に、こちらは小柄《こがら》でやせていた。
「まあ、エイさま。お久しぶりでございますね」
「お元気でしたか?」
「ええ、ええ。おかげさまで」
|屈託《くったく》のない笑顔でエイを迎えた後、シイラは彼の横に立っているロアデルに気がついた。
「こちらは?」
「ロアデル・キアナ嬢。長官のお客人です。訳あって、このようなドレスをお召しですが、腕のいいお針子《はりこ》さんです」
「は、初めまして」
ロアデルは紹介されるままに、シイラという女性に頭を下げた。下働きにしてはいいドレスを着ているが、城主の家族にも見えない。取りあえず年齢から奥方ではないと判断して、少しだけ安心した。
「ようこそ、ロアデルさま。私は|旦那《だんな》さまの乳母《うば》で、現在はこの役宅の管理を任されておりますシイラと申します」
シイラはうれしそうに自己紹介した。この落ち着き、人当たりのよさ、さすが管理人といった感じである。聞けば、若い頃から奉公にあがって、ここから嫁に行ったという。その後は通いで手伝いにきていたが、十年ほど前に夫を亡くしてからは、再び住み込みで働いている。
「長官がお留守の間、このお嬢さんのお世話をお願いします」
「ええ、もちろん。責任をもって、お預かりいたしますわ」
小さいながらも「大船に乗って」とばかりに自信満々で請け負うので、エイは「では、よろしく」と言って、さっさと検断庁舎に戻ってしまった。
「まあまあ、お客さまなんてどれくらいぶりかしら? 何だか、ウキウキしてきてしまったわ。今晩のお食事は何にしましょう。ロアデルさまは、何か食べられない物はあるのかしら?」
エイがいなくなると、シイラは堰《せき》を切ったようにしゃべりだした。
「えっ……、あの……別に……」
「そう。好き嫌いないのはいいこと」
「はあ」
「あら、嫌だ。私ったら興奮して、つい立ったまま話し込んでしまって――」
シイラは肩をすくめて小さく笑い、それから「じゃあ行きましょうか」とロアデルの前に立って歩きだした。行き先はどうやら上階らしく、広間から蝣のように伸びた右回りの螺旋《らせん》階段を上つていく。
役宅は、東方牢城の中にありながら、獄舎《ごくしゃ》とも庁舎とも違う|雰囲気《ふんいき》をもっていた。それは、ここに来た当初感じた「人気のない」ということとはまったく別の次元で、建物のもつ色気とでもいうのだろうか、そういうものが感じられるのだ。
螺旋、唐草《からくさ》模様、丸い柱。機能重視の四角四面ではなく、空間を無駄に切り取ってでも丸みを出す。人々の手になじむように造られた、そんな屋敷なのかもしれない。
「あの、ラフト・リーフィシーさまのご家族の方は――」
階段を上りきった所で、ロアデルは思い切って尋ねてみた。
「|旦那《だんな》さまのご家族は、こちらには住んでいらっしゃいません」
シイラはさらりと答えた。
「えっ!?」
「ご領地の方に、お暮らしですわ。何分あちらも広いでしょう? 管理する方がいらっしゃらないと」
「……そうなんですか」
だから、こんなに静かなのだろうか。エイも、ロアデルを簡単にここに置いていってしまえたわけだ。
(――そう。奥さまは一緒に暮らしてはいなかったんだ……)
少し安心して、少し悲しくなった。夫婦仲が悪くなって別居したとしても、別の事情で離れて暮らしているとしても、同じことだった。奥方が側にいない、ならばその穴埋めのように自分はそこに存在していたのではないのか。
現実に触れることは、恋人の知らない一面を突きつけられることなのかもしれない。
(私は、こんな立派な家の奥方になどなれるはずもない)
あの人は、肩書きだけ恐れられているくせにいつでもお金に窮《きゅう》している貧乏役人、などではなかった。広大な領地をもっている大貴族だったなんて、一度も聞かされたことはない。
「こちらの部屋をお使いください」
通された部屋は、女性用の客間だった。明るい色調の壁に、格子《こうし》の出窓。カーテンで隠されたベッドとドレッサー、それにチェスト。小さいながらも、テーブルと|椅子《いす》のセットがある。同じ個室でも、さっきまでいた独房とは天と地ほどの違いだ。
「そうそう。着替えも用意して差し上げなければなりませんわね。どうしましょう。取りあえず、どなたかのドレスを着ていただきましょうか。えっとロアデルさまの体型ですと――」
シイラは少し離れてロアデルのスタイルを確認した。彼女がメルルとかリドラスとかつぶやいているのは、誰かの名前らしい。
「着替えなんてどうでも……」
言いかけて、やめる。こんな派手な格好で屋敷内に留まること自体が、失礼なのかもしれない。ならば見ず知らずの人の物よりシイラの服を貸してもらおうと考えたが、小柄な彼女の服にはとても身体が収まりそうもない。
仕方ない。シイラが準備してくれる服を、おとなしく着ることに決めた。
「でも、あの……」
このままでは、部屋も貸してもらう服も汚してしまいそうだ。思ったより独房はこぎれいではあったけれど、やはり着通しで二泊もしてしまうと、自分が薄汚れているように感じてならない。
有能な管理人、シイラは察して、ポンと手を打った。
「そうそう。お風呂《ふろ》も準備しましょうね」
そしてすぐさまお湯を沸《わ》かすべく、踊るように階下に下りていったのである。
4
貴族の風呂というのは香水が入っているものなのだと、初めて知った。
一階の、|厨房《ちゅうぼう》の側には入浴専用の部屋があって、暖炉の上では大きな|鍋《なべ》がかかっていた。自宅に風呂があるということ自体驚いているのに、風呂のお湯を沸かすためだけの暖炉がここにはあるのだ。
大人が三人は十分入れるほどの深くて大きな桶《おけ》にお湯を張って、その中で髪と身体を洗う。男性だと嫌だろうからと、シイラが側について湯を運んでくれた。
静かに思えたが、これだけの屋敷を維持していくために必要な人手はちゃんと確保してあるようだ。あれから何人か、使用人と思われる男女と廊下《ろうか》ですれ違ったし、隣《となり》の|厨房《ちゅうぼう》では料理人達の掛け声が聞こえている。だが、やはり城主の家族らしき人の姿は見あたらなかった。
ロアデルが桶から出た頃、おいしそうな|匂《にお》いが漂ってきた。
シイラが準備してくれた服は、あまりに美しすぎて、袖《そで》を通すのを躊躇《ちゅうちょ》するほどだった。
見とれている間に、ドレスが頭から|被《かぶ》せられた。そしてあれよあれよといううちに、シイラはロアデルの着つけを完了させてしまった。
まだ湿っているロアデルの髪を、リボンで簡単にまとめながらシイラは感嘆のため息をつく。
「……まあ、思った通り。空色がとてもよくお映りになりますわ」
髪が出来上がると、手を休めて。[#「。」にママの表記]似合うドレスを選んだ自分を自画自賛するように、シイラは離れたり近づいたりしてその姿を眺め回し、それから大広間に向かう途中の通路にある、全身が映る姿見までロアデルを連れていった。
「これ……、私……?」
確かに、違和感がない。空色に茶色と薄紅《うすべに》の細かい花模様が描かれた襟《えり》ぐりの小さなドレスは、ロアデルの茶色い髪と瞳に似合っていた。知らない人が見れば、良家の令嬢として通るかもしれない。
「人は……、着る物で他人の目を誤魔化すことができるのね」
「でも、それは少しの間だけですよ。長くつき合えば、服装などでは補えない品性というものが自《おの》ずと見えてきてしまいますからね」
シイラの言葉を聞きながら、ロアデルはなぜかアカシュのことを思い出した。
「それで……、これは、どなたの……」
まさか奥方のものでは、と突然心配になった。とてもじゃないが、使用人の中から借りてきた物ではない。職業柄、触れてみれば生地の善《よ》し悪《あ》しくらいはわかる。これは上質の絹で織られた布地だ。
「|旦那《だんな》さまの姉君さまのドレスです。やはり年格好が一番近いようですので」
「えっ?」
ロアデルは聞き返した。
「お姉さまが、いらっしゃるの?」
「いらっしゃいますよ。小さい頃から、それは仲のよろしいお二人で。ご両親さまももういらっしゃらないし、兄上さまがお亡くなりになってからは、唯一の家族と、何かにつけお互いを心の支えになさっておいでで」
「唯一……? ちょっと待って、奥さまは?」
「奥さま……?」
ロアデルの言っている意味がわからないといった仕草で、シイラは首を小さく傾けた。
「いったい、どなたの話をしていらっしゃるのです?」
「どなた、って――」
ラフト・リーフィシー。
ロアデルはその名前を留み込んだ。そしてつい最近も、同じような会話が誰かと交わされたことを思い出した。
ラフト・リーフィシー
1
あまりにフカフカのベッドは、床に直接横たわるよりも寝心地が悪いものだ。
翌朝ロアデルは、一番鶏《いちばんどり》が鳴くよりも早く目が覚めてしまった。起き出したところで、やることもない。だからいつまでもグズグズと毛布を被《かぶ》って、日が昇るのを待った。
部屋には数冊の本が置いてあったが、開く気にはならなかった。取りあえず字は読めるけれど、詩集を楽しめるほどの教養はない。
「せめて、食事の支度《したく》くらい手伝わせてもらえたらいいのに」
一宿一飯《いっしゅくいっぱん》の恩義《おんぎ》とでもいうのだろうか、悲しいかな一般|庶民《しょみん》出はのうのうと「お客さん」をしていられないのだ。だが昨夜《ゆうべ》の夕食の後片づけだって、頑《かたくな》に拒まれてしまった。あの様子からして、とてもじゃないが手伝いなんかさせてもらえそうもない。あちらはお客さんをもてなすのが仕事なのだ、と|諦《あきら》めるしかないようだ。
うっすらと明けてきたので、ロアデルはベッドを出て昨日借りたドレスを着た。昨夜脱いだ時の手順を逆にたどって、どうにか一人で着ることができた。婦人物の仕立ても引き受けているので、見れば大体の作りは理解できた。
「食事……か」
また、広いテーブルに一人で食事をするわけだ。こんな時城主の家族がいたら|賑《にぎ》やかだろう、などと馬鹿な想像をしてしまうくらい、寂しい夕食だった。
夕食のメニューは「これでもか」というほど豪勢だったが、ロアデル一人に給仕が五人では、なかなか喉《のど》に通るものではなかった。あれだったら、ここの使用人たちと一緒の食卓の方がどれほどいいか知れない。
昨夜の献立《こんだて》は、すべて城主の好物だそうだ。鶏の丸焼きを特製ソースで煮込んだもの、スモークサーモンと香草《こうそう》のマリネ、三種類の豆を使った温サラダ、焼きたての白パン。デザートには、木苺《きいちご》入りのミルクプディングまで出た。
貴族というのは、毎日あんな料理をロにしているのだろうか。それなのに、なぜこのドレスが着られるだけのスタイルを維持できるのかは謎《なぞ》である。
カーテンを引いて、ベッドを直す。面積の広い布に触れていると、不思議に落ち着いた。お屋敷の客間はカーテンから花瓶《かびん》敷《し》きまで、様々な布であふれていた。滅多にお目にかかれない貴重な織物や|贅沢《ぜいたく》な刺繍《ししゅう》は、目の保養になる。
そしていつの間にか、ロアデルは頭の中でそれらを使って洋服を仕立てていた。型を決めて、裁《た》って、縫《ぬ》いつける。そのイメージが、リズミカルに頭の中を走り抜けていく。そういえば、今日でどれくらい針をもっていないだろう。三日? 四日? お針を覚えてから、一日たりとも休んだことがなかったというのに。
だから、ドレッサーの引き出しの中にソーイングセットを見つけた時には、なつかしくて涙が出そうになった。たぶん刺繍《ししゅう》や簡単な小物を作るためにあるのだろう、握りバサミ数種類の針に指ぬき、そして何色もの糸。それらが、小さなバスケットの中に揃《そろ》っていた。ロアデルは針山からそっと針を引き抜き、そのわずかな重みをしばし親指と人差し指の二本で味わってから戻した。
程なくして、部屋にシイラが訪れた。
「おはようございます。……あら、もうお目覚めでしたか」
彼女の手は、見覚えのある紅《あか》い布の塊《かたまり》を持っていた。それは、昨日まで着ていた胸もとの大きなドレスだった。
「昨夜《ゆうべ》のうちに洗濯をしておきましたから、お返ししておきます。でも、姉君さまのドレスを着ていてくださいませね。ロアデルさまにとってもお似合いですから、|旦那《だんな》さまにもぜひお見せ申し上げないと」
アイロンをかけられ丁寧《ていねい》に畳《たた》まれたドレスは、チェストの中にしまわれた。
「あの」
「何でしょう、ロアデルさま」
「……その、『さま』はやめてもらえませんか。ロアデル、で結構ですから」
さま付けで呼ばれると、何となく落ち着かないのだ。シイラにしてみれば、大切な旦那さまの客人という立場に敬意を払っているのだろうが、|所詮《しょせん》自分はお針子なのである。
「はあ。わかりました」
何となく呼びづらいといった感じであるが、それでもシイラは客人の頼みを聞いてくれた。
「では、ロアデル。よろしければ、一緒に階下に。朝食の支度《したく》ができていますから」
「あ、はい」
「すでにテーブルについて、お待ちになっている方がおいでですよ」
シイラはそう言って、うれしそうにニコッと笑った。
もしやこの家の主人が戻ったのかとドキドキして食堂に入ったのだが、それは間違いだったようだ。
「おはようございます」
ロアデルの顔を見ると、その青年は朝からさわやかなプラチナ・ブロンドを揺らして近づいてきた。エイだった。
「……おはようございます」
「やあ、見違えましたね。とてもきれいだ」
社交辞令《しゃこうじれい》であっても、このように美しい笑顔で言われると悪い気はしない。
「あなたの様子を聞きに上がったのですが、シイラに食事を誘ってもらいまして。こうして図図《ずうずう》しく、ごちそうになることに」
エイはロアデルをエスコートして席につかせ、自分もその隣《となり》に座った。そして給仕役の男性を手で呼びつけて、すでに向かいの席にセットされていたナイフやスプーンをこちら側に運ばせた。
「あんなに離れていては、話もできませんからね」
長いテーブルの両端に向かい合って座ったのでは、あまりに遠すぎた。
朝食は、ロアデルが心配したほどの量は出なかった。自家製ベーコンと半熟卵、生野菜のサラダと焼きたてのパンくらいだ。
「エイさまは、どちらにお住まいなのですか?」
「城内に住んでますよ。この近くに役人用の居住区がありまして、そこから庁舎に通っているわけです。結婚していませんから、そう部屋数も必要ありませんし。仕事が忙しいこともあって、寝《ね》に帰るだけですから」
聞けば、独身男性のほとんどはそういった形で城内に住んでいるらしい。外から通うのが億劫《おっくう》だから結婚が遅れるのだ、と笑う彼はどう見ても二十そこそこで、遅れるなんていうにはまだまだ早いように思われた。
朝はほとんど食事しないというエイだが、出された皿はきれいに平らげた。彼にしろアカシュにしろ、若い男性はよく食べるものらしい。偏食《へんしょく》の恋人の食事風景しか知らないから、それは見ていて気持ちいいものだった。
「旦那《だんな》さまは、今日お戻りになるのですか?」
ミルクで煮出した紅茶のお代わりをエイのカップに注ぎながら、シイラがいそいそと尋ねた。
「そうですね。まず庁舎に行ってみないと、本日のスケジュールはわかりませんね。でも、シイラが会いたがっているとお伝えしておきますよ」
「ええ、ぜひ!」
エイの言葉を聞くと、まるで乙女《おとめ》のようにシイラははしゃいだ。一日やそこら会えないだけで寂しがるなんて、可愛《かわい》い女性だ。
「ロアデル、紅茶のお代わりは?」
「いえ、もう結構です」
「では、何かご用があったら呼んでくださいね」
シイラは歌うように言って、ポットを手にスキップするように下がっていった。その後ろ姿をほほえましげに見送りながら、エイはロアデルに告げた。
「長官には、あなたのことも報告しなければなりませんね。現在は役宅にいる、ということを」
「あの方は、まだご存じないのですか?」
「ええ。私もあなたをこちらに送り届けてからは、お会いしていませんから」
エイはナプキンで口を拭《ぬぐ》った。
「何だか、怖いです」
ロアデルは、自分でも気がつかないうちにつぶやいていた。急に不安になって、両手で肩のあたりを抱きしめた。
「何が? 長官に会うことがですか?」
「わかりません。……いいえ、きっとそう。私は、あの方にお会いするのが怖いんです」
約束を破ってここまできてしまったことを、彼にとがめられるかもしれない。確かにそれも怖い。だがそれ以前に、彼に会うこと自体を恐れている。
ここに来て感じた。自分が思い描いていたラフト・リーフィシー像は、少しずつずれ始めている。もし、|東方牢《リーフィシー》城内の人々が語る彼の姿に偽《いつわ》りがないとしたら、ロアデルに見せていた姿は何だったのだろう。
「不思議ですね。今までは、あの方に会えさえすれば、と思っていたのに」
傍《はた》からは要領を得ないであろうロアデルのつぶやきを、エイは黙って聞いてくれた。そして|椅子《いす》から立ち上がって、静かにつぶやいた。
「長官は、おやさしい方です」
「エイさま――」
「あの方を信じてください。きっと悪いようにはなさいません」
必要以上に言葉を飾らない。だが、その言葉はロアデルの心をほのかに温めてくれた。
エイは庁舎に去っていった。
(長官はおやさしい方です)
ロアデルは彼の言葉を心の中でつぶやいてみた。
(あの方を信じてください)
ロアデルは、そう言ったエイの言葉を信じることにした。
2
「今日帰るか、って?」
ラフト・リーフィシーは|眉間《みけん》にしわを寄せて、書類から顔を上げた。
「そんなこと、わかるものか。この、|膨大《ぼうだい》な書類の山に聞いてくれ」
そう言って、手にしていた冊子《さっし》をパシッと叩く。エイはやれやれといった顔をして、今にも|崩《くず》れそうな書類の山を|揃《そろ》え始めた。
「するとお前は今朝《けさ》役宅《やくたく》に行って何をしていたかというと、おいしい朝食《えさ》をもらって女たちの伝言を請《う》け負ってきたわけなのだね?……さながら伝書鳩《でんしょばと》のように」
今朝は執務室に着くなり、大好きなチョギーもせずに机にかじりついて仕事を片づけているせいか、東方検断長官どのは少しピリピリしていた。それでも約束通り、自主的にちゃんとした格好をしているあたり、余裕と可愛《かわい》げがある。
「たまには帰って差し上げないと、シイラも寂しそうでしたよ」
「そうだな」
「ロアデルも、あのまま放っておくわけにはいかないでしょう」
「わかっているよ」
わかっているが、どうしようもない。一昨日《おととい》までの繰り越し分と、昨日まるまる休んでしまった分のしわ寄せは、そう簡単に挽回《ばんかい》できるものでもないのだ。非番だというのに、いろんな事が未解決の宙ぶらりん状態。どんなに忙しくても、五のつく日は王宮へ参内《さんだい》しなければならない。こんな生活をしながら、お忍びで下町の恋人を訪ねられる奴がいたのなら尊敬に値するぞ、と彼は本気で思った。
「よし、決めた」
「はっ?」
長官がしばらく静かだっただけに、エイは少し驚いたように声をあげた。
「今日一日、死ぬ気で仕事をやっつけてやる。そして、明日になったらロアデルの件をどうにかする」
「できますか」
「できますか、じゃなくてやるんだよ。悪いが、明日の昼頃トラウトに来てもらうように手配してくれないか」
「先日|脅《おど》したばかりで、素直にお出《い》でいただけるでしょうか」
「仕事だ、と言えば来るよ」
長年のつき合いだと、友人の性格が手に取るようにわかっている。トラウトは怖がりだが根が|生真面目《きまじめ》なので、仕事がらみならば渋々でもやって来るに違いない。
「それでも来なかったら、私が危篤《きとく》だとでも言うといい。嘘だとわかっても、それが嘘だということを絶対確かめに来るから」
「……私、長官と友人関係にあるトラウトどのに、心底同情いたします」
「そうかい?」
薄ら笑いを浮かべて、ラフト・リーフィシーは再び書類に視線を落とした。
ここに積んである物のほとんどは、部下が作成した調書と断案、そして参考書ともいえる判例集だった。
先にも述べたが、検断長官は忙しい。すべての訴訟《そしょう》を自ら調べ裁断することなど、どうがんばっても不可能。だから部下があらかじめ調べて作成した書類を、長官が吟味《ぎんみ》して然《しか》るべき処理をする仕組みである。自分で取り調べない、と聞けば意外と簡単そうではないか、と思われがちであるが、そんなことはない。検断長官の命を受けて取り調べが許されている補佐官は十人いるのだが、彼らがそれぞれ二、三人の部下をフル|稼働《かどう》させてやっと処理しきれるほど、訴訟の量は多い。
読むだけでも大変なのに、書類はただ読んだだけでは済まない。部下の断案が納得できなければその書類を差し戻して、再吟味《さいぎんみ》を命じる。断案が|妥当《だとう》であると判断できれば、軽刑は決裁し、重刑の場合は国王陛下《へいか》への伺《うかが》い書を作成した。
読んで、調べて、決断して、サイン。それらがまるでエンドレスのように、繰り返されるのだ。気の遠くなるような作業である。人の人生にかかわることだから、適当に処理するわけにもいかない。
だがラフト・リーフィシーは、すばらしい集中力で目の前の山を猛スピードで平野に切り崩していった。
机の上が片づいて、エイがそこに紅茶を運ぶことができるようになった時、彼の頬《ほお》を窓からの夕日が紅茶色に染めていた。
「お疲れさまです」
「んー」
半ば、放心状態で紅茶をすする。
「帰って、寝る」
言ってる先から、上着やベストを脱ぎ出す。目はすでにトロンとして、寝ぼけた子供のようだ。
「どちらにお帰りですか?」
長官がこういう状態の時は、ズボンやブラウスまで拾って歩くのが副官の務めである。少なくとも、|東方検断《トイ・ポロトー》においては。
「……別宅《べったく》」
「わかりました。では役宅の女性方には、そのようにお伝えしましょう」
エイはラフト・リーフィシーに頭から寝間着《ねまき》を|被《かぶ》せると、廊下《ろうか》の扉を開けてハンドベルを鳴らした。すると程なく、庁舎の若い役人が執務室に現れる。
「お呼びでしょうか」
その合図で呼び出されるのは、長官と副官が選《え》りすぐった一部の役人のみであるから、長官のそのような(だらしない)お姿を目にしたところで動じることはない。優秀なのだ。
「長官は、ひどくお疲れだ。心して別宅までお送り申し上げるように」
「かしこまりました」
役人が肩を貸して、長官を支えた。今この場にトラウトがいないことを、エイは心から喜んだ。|囚人《しゅうじん》とチョギーをする姿と、今の姿と、あの御仁《ごじん》はどちらがより情けないと言うだろうか。
「あ、そうだ」
ドアを出かけて、ラフト・リーフィシーは突然ギョロンと目を剥《む》いた。
「ロアデル嬢《きう》は、変わりないのだろうね?」
ほとんど寝ぼけ状態だと思っていたので、部下二人はギョッとした。
「えっ……ええ。メルルさまのドレスを着て、長官のお帰りを待っていますよ。……気になるのでしたら、様子を見にチラリとでも戻られればよろしい」
「……きれい?」
その「きれい」が何にかかるかエイは一瞬わからなかったようだが、やがて察して答えた。
「ロアデルですか、きれいでしたよ。見にいかれますか?」
「見たいけど、この時間じゃね。でもとんぼ返りしたら、ミルクプディングを食べられるだろうか」
「それは、無理かと存じます。昨夜《ゆうべ》の残りのプディングは、朝食前に私がいただいてしまいましたので」
エイは済まなそうに告白した。
「えーっ……」
「申し訳ありません」
エイは、この場にトラウトがいなかったことを、改めて喜んだ。泣く子も黙る東方検断の長官が、プディングごときでこのように肩を落とすなど、本当は部下だって信じたくはないのだ。
「もう、いい。連れていってくれ」
ラフト・リーフィシーは、役人にもたれ掛かるようにして命じた。
「はあ――」
この城の主は、ズルズルと通路を引きずられるように去っていった。あの体勢ではさぞや重かろう、と部下に同情しながら、エイは自分の肩を回した。肩が凝《こ》っている。長官ほどではないにしても、あのハードワークにつき合ったのだから疲れていて当たり前だ。
この後、書類を格納して、判例集を書棚に戻して、カップを片づけて、部屋を施錠《せじょう》して……。まだ、しばらくは帰れそうにない。
トラウトに言われたからではないが、時たま、素直な気持ちで疑問に思うことがある。
(どうして、副官がこんな仕事をしているんだろう……?)
だが、考えるだけ無駄なことなのだ。エイはそれをよく知っている。
誰が副官であっても、あの長官の下で働くのであれば、これらの仕事を受け入れなければならない。
(いや、そうではない)
たとえ副官でなくても、エイにその役が回ってくる運命だったのだ。
(どちらにしろ、長官のお守《も》りができるのは私だけなのだろうし)
その事実は|諦《あきら》めであると同時に、彼の誇りでもあった。
3
螺旋《らせん》階段を下りた大広間はすでにシャンデリアが消され、外と中庭に通じる二つの出入り口付近と、階段を照らすランプだけが|蝋燭《ろうそく》の火を揺らめかせていた。主人のいない屋敷というものは慎《つつ》ましやかなものだ、とロアデルは思った。食後の片づけが済めば、使用人たちは|各々《おのおの》の部屋に帰ってしまうので、役宅《やくたく》の内部は急にひっそりと静まり返った。
食堂の方からほのかな灯《あか》りが見えたので、ロアデルはそちらに足を向けた。まだ、休むには早い時間だった。
「あら……、ロアデル」
食堂にいたのは、シイラだった。
「まあ、どうしたのそのドレス!」
目をパチパチと瞬《まばた》かせて、ロアデルを上から下まで眺める。その驚きはもっともである。なぜならロアデルが身につけていたのは、昨日借りた空色のドレスではなくニンジン色のドレス、だったのだ。
「どうかしら」
「どう……って」
「作っちゃった」
「作ったって、あなたが!?」
「ええ」
朝、ソーイングセットを見つけてから、何か作りたくてソワソワしていた。だが糸と針はあっても、|肝心《かんじん》の布がない。お屋敷にはすばらしい布があふれているが、勝手に失敬《しっけい》するわけにもいかないし……。と、いうことでロアデルはあの真《ま》っ赤《か》なドレスをほどくことにした。元はといえばこれも自分の物ではないのだが、悪い奴らに無理矢理着せられたわけだから、それほど躊躇《ちゅうちょ》なく糸にハサミを入れられた。
「これ、あのドレスだったの? でも、色が違うでしょう?」
「裏返してみたの。そうしたらニンジン色だったから、こっちの方がいいかな、と思って」
あの下品な赤に比べれば、どんな色でもよかった。
「それにしても、まあ……」
シイラから、感嘆のため息が漏《も》れた。
「……それにしても、あなたすごいわ。あの、空色のドレスを|真似《まね》たのでしょう? 見ただけで、こんなに早く作れてしまうなんて」
「|生地《きじ》が足りない分、少しだけアレンジしたけれど」
ロアデルは肩をすくめた。大きく開いた胸もと分を捻出《ねんしゅつ》するため、袖《そで》ぐりを小さくしたり、肩布をなくしたり。それでもどうにか一着分出来上がった。つぎはぎした部分も、端布《はぬの》で作ったフリルで飾ったので、言わなければ気づかれないだろう。
「上出来よ」
シイラがとても誉《ほ》めてくれたので、素直にうれしかった。今日の裁縫《さいほう》は、時間つぶしにもなったし、ストレス解消にもなった。ラフト・リーフィシーは、待てども結局は現れなかった。
「シイラは、何をしていたの?」
テーブルには帳面のようなものが出ていて、脇には計算したメモも見えた。
「帳簿《ちょうぼ》つけをしていたんですよ。|旦那《だんな》さまのご家族の方がこちらにお住まいでしたら、私のような者が金銭の管理までしなくていいんですけれどね」
でも最近は目が遠くなって大変で、とつぶやく。シイラにとって、細かい作業の連続である裁縫《さいほう》など、拷問《ごうもん》にも等しいらしい。
「さて、お終《しま》い。お茶でもいれましょうか、ロアデル」
帳面をパタンと閉じて、シイラは|椅子《いす》から立ち上がった。
「あ、私が」
「いいのよ。座っていて」
半ば強制的に、ロアデルは椅子に押し込められる。役宅内はシイラのテリトリーであるわけだから、下手《へた》に逆らわないほうがよさそうだ。
「ねえ、シイラ。|旦那《だんな》さまが帰らなくて、寂しいでしょう?」
当然、「寂しい」という答えが返ってくるかと思いきや、シイラはカップを温めながら意外にもカラッと笑った。
「いつものことですから、もう慣れっこですよ」
「……え!?」
「近頃、あまり役宅には戻られませんからねぇ」
ポットにお茶の葉を入れ、お湯を注ぐ。戻られませんからねぇ、という彼女の言葉が立ちのぼる湯気の中で見失われそうになった。
「戻られない、って、どうして……!?」
ロアデルのつぶやきに、シイラは一瞬ハッとした表情を見せた。明らかに、口を滑らしたといった顔だった。
「ね、いったいどういうこと?」
「ど、どういうこと、と聞かれましても、私には――」
「じゃあ、あの方は家にも帰らず、どちらに泊まっていらっしゃるの?」
しつこく問い詰《つ》めると、シイラは困り果てたように告げた。確かに自分はどこにいるのか知っているが、それをロアデルに話していいものなのかわからないのだ、と。
「後生《ごしょう》ですから、後は旦那さまに直接聞いてくださいな」
シイラが本当に困っているようなので、聞き出すことを断念した。親切にしてくれた人間が困却《こんきゃく》する姿など、誰だって見ていたくはない。ロアデルは差し出されたお茶を、無言ですすった。
でも、知れば知るほどわからなくなる。ラフト・リーフィシー。いったい、何を考えているのだろう。何を隠しているのだろう。彼のイメージは陽炎《かげろう》のようにゆらゆらと揺らぐ。もう、元の姿を思い描くことなど不可能なほどに。
「ゲームでも、しましょうか?」
ロアデルの考え事が「退屈」に見えたのか、シイラが気をきかせて立ち上がった。
「ゲーム……」
「広間のキャビネットの中に、確か盤上《ばんじょう》ゲームがいくつか入っていたはず――」
答えも聞かずパタパタと食堂を出ていくと、彼女は抱えるくらいの木製の箱を持って帰ってきた。その中に、ゲームが入っているのだろう。
二ヶ所ある留《と》め金《がね》が外され、ゆっくりと蓋《ふた》が開けられた。そこに現れた小さな空間が、別世界の入り口だった。
「わぁ……」
高さのあまりない長方形の箱の中には、正方形のゲーム盤が何枚か重ねてしまわれ、空いた空間にはそれらのゲームに使用される駒《こま》や采《さい》、疑似《ぎじ》コインなどの入った小箱が納められていた。盤上ゲームなんて、下町の男たちが狭い路地にたむろして遊んでいた、|博打《ばくち》まがいのものしか見たことがない。それらは手近な物でこしらえた代用品で、革に線を描いた盤だったり、木片に文字を書いただけの駒であったりしたのだ。
「何か、やりたいゲームはありますか? 私でよろしければ、お相手させていただきますよ」
そんな風に言ってくれても、ロアデルにはルールを知っているものなんて一つもない。小さい頃から働いていたから、遊びというものに縁がなかった。正直にそう答えると、シイラは、「若いお嬢《じょう》さんですものね」と微笑した。どうやら、貴族ならば男女を問わずやるものでもないらしい。
「私は、昔からお役宅に奉公《ほうこう》に上がってますでしょう? 若いお坊ちゃまたちの遊び相手にもなりましたから、覚えたようなものですよ」
「お坊ちゃまって……、今の|旦那《だんな》さまとか?」
「ええ。旦那さまにはこれら全部、私が手ほどきして差し上げました」
少し得意げに、シイラは言った。それが、彼女の自慢の一つらしい。
「シイラは、ここにあるゲームすべてできるの?」
「ええ、もちろん。どうです? 一番簡単なゲームから、覚えてみますか? ……そうそう、これなんか割と――」
木箱からゲームを選び出そうとする手を、ロアデルはそっと押さえて尋ねた。
「ね、チョギーはこの中にある? チョギーを教えてちょうだい」
ロアデルには、ある考えが浮かんでいた。
二人の主
1
さて、翌朝。
いつものように役人の先導で東方検断長官の執務室を訪れたアカシュは、ドアを開けた瞬間、いつもと違うものをそこに見つけた。
「おはよう、アカシュ」
いつもはそこにいないもの[#「いつもはそこにいないもの」に傍点]は、ニンジン色のドレスも鮮やかにニコリと笑った。
「うわっ!!」
頭をかいていた右手の人差し指を思いっきり前に突きだし、目をむいてアカシュは叩いた。
「どーして、ロアデルがここにいるんだよっ!?」
驚いて、当然である。一昨日《おととい》の夕方に獄舎《ごくしゃ》を引き払った彼女が、どういうわけで東方検断長官の執務室のソファの上に乗っていなければならないのだ。それも、何か企《たくら》んでいるような含み笑いまで浮かべて。
「驚いた?」
ロアデルが尋ねたので、彼は取りあえず今の素直な気持ちを「ああ」という言葉にのせてうなずいた。嫌な予感に視線を泳がせば、いつもの麗《うるわ》しのお顔を渋く歪《ゆが》めた東方検断副長官どのにぶつかった。
「……お陰で、眠気が一気にぶっ飛んだね。悪いんだけど、俺にわかるように話してもらえないかな」
眠気が吹き飛んだ割にはおぼつかない足取りで、アカシュはヨロヨロと部屋の中心部に進み出た。同時にエイが手で合図をし、アカシュを連れてきた役人が静かに下がる。
「あのさ」
いつものすすけた囚人《しゅうじん》服の、ズボンを少しつまんでひざあたりに余裕をもたせ、ソファにドサッと身体を埋めた。ちょうどロアデルの正面に来る形だが、アカシュはまずエイの方を向いて尋ねた。
「この部屋って、長官の許可がないと入れないんじゃなかったっけ? ロアデルは、許可されたの?」
「許可は、されていません」
と、エイ。
「それってすごくまずくない? 副官として、責任問題じゃないの?」
「すごくまずい、と思います」
美形の苦悩《くのう》した顔というのも、悪くはない。
「これは、私の不|手際《てぎわ》。……長官がいらしたら、何てお詫《わ》びをしたらいいか――」
「エイさまは悪くないわ。私が勝手にやったことよ」
エイの言葉に|被《かぶ》るように、ロアデルが訴えた。
「……ってことは、ふーん。まだ、ラフト・リーフィシーはここに来ていないんだ?」
「そういうことだ」
エイが答え、ロアデルがうなずいた。アカシュは、二人の顔を別々にじっと見据えた。
「――わかった。じゃあ、今のうちに話を聞きたいな。そもそもロアデルは何しに来たの?」
「チョギーよ」
「チョギー!?」
アカシュはまたもや、すっ頓狂《とんきょう》な声をあげた。予想外の答えに、もしや今のは聞き違いではないかと思う。いや、むしろそっちのケースの方があり得るのではないか。――そう考え直して、彼は聞き返した。
「今、チョギーって言った?」
「そう。私、あなたとチョギーをするためにここに来たの」
チ・ョ・ギー。
ロアデルは聞き取りやすいように、はっきりとした発音で言い直した。だが、アカシュはますます疑問形の表情を浮かべ、「チョギー、チョギー、チョギー……ね」と繰り返しつぶやきながら、自分のひざに突《つ》っ伏《ぷ》した。
「……悪いけど、全然わかんない。俺、理解力ないのかなあ。どうしてロアデルと俺が、チョギーをしなきゃならないわけ? それも、|東方検断執務室《こ こ》でさ」
「それについては、私から説明しましょう」
しばらく黙っていたエイが、|咳払《せきばら》いをして二人の間に割って入った。
「今朝《けさ》、私がお役宅《やくたく》に伺《うかが》ったところ、食堂で二人の女性が向かい合っていました。お二人ともそれは真剣な表情をしていらして、私が側《そば》に近づいたのにも気がつかないといった状況でした。一人は役宅を管理しているシイラという女性で――」
「もう一人は、ここにいるこの人?」
アカシュがロアデルをチラリと見ると、エイが「その通り」とうなずいた。
「私たち、チョギーをしていたの」
「……話の流れ上、それ以外にはないだろうね」
カリカリと頭をかきながら、アカシュはつぶやいた。ロアデルは少しむくれたように、「まあね」と肩をすくめて見せる。
「お二人は確か、徹夜《てつや》でチョギーに興《きょう》じていたのでしたね?」
エイが、確認しながら話を進めた。
「徹夜!?」
「そう。東方検断長官にチョギーを教えたシイラが、直々《じきじき》に手ほどきしてくれたの。私は駒の並べ方から知らなかったから、彼女と対等にゲームができるようになった頃には夜が明けていたわ」
チョギーって楽しいものね、とカラカラ笑うロアデル。今朝《けさ》はいつになく明るいと思ったら、それは徹夜明けの興奮状態だったらしい。
「それで?」
「エイさまに聞いたら、ラフト・リーフィシーさまは昨日は庁舎にいらしたそうじゃない? それなのに、一向に私と会ってくださらない。それは、きっとお仕事が忙しいせいだと思うの」
ロアデルは少しうつむいてつぶやいた。
「お仕事が忙しいのだったら、私のために大切な時間を割《さ》いていただくわけにもいかないわ。でも、考えたのよ。毎朝チョギーをするのが日課なら、その相手役をアカシュに譲ってもらえないか、って」
「私が『無理だ』と説得しても、ロアデルは一向に引き下がらなくて」
「ここまで勝手について来たのよ」
「無理矢理帰そうとすると、叫び声をあげるので、もうお手上げで……」
「なるほどね」
二人が交互に言うのを聞きながら、アカシュはうなずいた。
「でもね、ロアデル。ご城主さまのチョギー相手は、誰でもいいというわけではないんだよ。その辺、わかっている?」
「アカシュと対戦して私が勝てば、いいんでしょう? アカシュを負かせば、私の方がお相手するのに|相応《ふさわ》しいということになるわ」
寝ていないなんて信じられないほど、ロアデルの瞳はギラギラと輝いていた。恋する女のパワーとは、何とも恐ろしい。
何だか予想外の方向に話が進んできた、とアカシュは思った。でも退屈な獄舎《ごくしゃ》の中にいるよりは、予期できない出来事の方がずっと面白い。
「いいよ」
アカシュはニコリと笑った。
「そんなに自信があるなら、一勝負しよう」
しばらく、この状況を楽しんでみることにした。
2
一勝負しよう、とアカシュは言った。
「いいの……?」
信じられなくて、ロアデルが聞き返すと、「自分で提案したくせに、どうしてポカンとした顔するかなぁ?」と、いつもの笑顔で答えた。
「本当に、勝負するつもりで……?」
エイは、焦《あせ》ったようにじっとアカシュを見つめた。どうやら、彼はアカシュがロアデルを説得するものと思っていたらしい。――当然かもしれない。長官が来る前に、執務室でチョギー大会が行われては大変だ。
「待ったなしの一本勝負。大丈夫、すぐに決着がつくから」
まるで仲間にでも話しかけるような口調で、アカシュはエイに告げた。かえってエイの方が丁寧《ていねい》な言葉遣いなものだから、他人事《ひとごと》ながらハラハラしてしまう。
この部屋のチョギー盤は、盤というより台だった。いや、それよりテーブルといった方が近い代物《しろもの》。なるほど、この部屋の主がチョギーの愛好家だけあって、専用台が置いてあるわけだ。一見、木製の小さな四角いテーブルなのだが、天盤部分に九×九のマス目が彫り上げてあり、二つの|抽斗《ひきだし》にはそれぞれの駒《こま》がしまってある。
「悪いんだけど、エイさま。廊下《ろうか》でお偉いさんが入ってくるのを阻止《そし》しててくれない?」
焦げ茶色の駒を盤に並べながら、アカシュは大胆にもそんなことまで言い出した。
「ちょっと、アカシュ……」
たしなめると、彼はあっさりと言ってのける。
「でも、俺とロアデルが対戦する以上、見張りができるのはエイさまだけだよ。勝負している最中に、|邪魔《じゃま》されるのご免だな。たとえ、それが誰であってもね」
誰であっても――。ロアデルはそれを、「この城のトップであっても」と解釈した。もちろんアカシュが先に指した「お偉いさん」にしても、この時点ではラフト・リーフィシー以外に思い浮かびはしなかった。
「そうですね。では、私はドアの向こうに待機《たいき》していましょう」
あっさり引き下がるエイを、ロアデルは|妙《みょう》だと思った。役人が、こんな簡単に|囚人《しゅうじん》の言いなりになっていいのだろうか。気を散らせたくないというアカシュの言い分もあるが、仮にもここは検断長官の執務室。そんな場所に、部外者二人を残していくことに抵抗を感じることはないのだろうか。
しかしアカシュの駒がすべて並ぶ頃には、部屋の中にエイの姿はなくなっていた。ロアデルが執務室の内部をぼんやりと眺めていると、コツコツとチョギー盤を爪《つめ》で叩く音がした。
「……?」
「早く並べて。時間がないんだから」
急《せ》かされているのだとやっとわかり、ロアデルはあわてて象牙《ぞうげ》色の駒《こま》を引き出しから取り出した。
手のひらに、ジンワリと汗を感じた。アカシュが、じっと手もとを見ている。並べる順序や場所に間違いがないか、チェックしているのだ。
「先手はロアデルでいいよ」
並べ終わった瞬間に、アカシュが言った。駒の置き方については、取りあえず合格らしい。ロアデルは彼がしているように、取り出した|抽斗《ひきだし》を底を上にして途中まで差し込んだ。それが相手から取った駒を見せるための駒台として使われることを、後になって知った。
ロアデルは、歩兵《ほへい》を一歩前に進めた。シイラに教えてもらった、初心者でも簡単には負けない戦法でいこうと考えた。消極的な手だが、まずは守りが大切だ。奇をてらった攻め方をして、すぐに決着がついたら元も子もない。
「へえ……」
アカシュは口もとで小さく笑い、そして後手を指《さ》した。
ロアデル、アカシュ、ロアデル……。交互に指しながら、段々と元の配置が|崩《くず》れていく。ロアデルの思惑《おもわく》通りにゲームは進んでいた。さっきの含み笑いで、相手に作戦を読まれたと思ったのは気のせいだったらしい。
「ねえ、ロアデル」
姫君《ひめぎみ》の駒に指をかけながら、アカシュがつぶやいた。
「えっ?」
「君の恋人って、そんなにいい男? まだ、愛している?」
「どうして?」
「だって、君が今ここにいるのは、全部そいつのせいだろう?」
「あっ!」
焦げ茶色の姫君は、大胆にも|象牙《ぞうげ》色の陣地に単独で乗り込んできた。さっきまでおとなしく動かしていたくせに、アカシュは何ていう思い切った戦法に出るのだろう。
「取るわよ」
「どうぞ?」
大駒を取られた割に、アカシュは笑っていた。
「その姫君は、君に似ているね。|東方牢《リーフィシー》城に乗り込んで、そして囚《とら》われの身になった」
「何、言っているの?」
「でも、本質的にはまるで違う」
そう言いながら、姫君を取るために象牙《ぞうげ》色の副官《ふくかん》が動いた場所を通ってアカシュの長槍《ながやり》がロアデルの国王《こくおう》の斜め前の位置まで侵入した。
「俺の姫君は、取られることで道を作った。そら、王手《おうて》」
長槍は、ひっくり返って動き方が変わる。直進オンリーだったのが、一マスずつだが将軍と同じ縦横斜め前が可能になる。
「何が王手よ、国王に取られるじゃない」
象牙色の国王が、元は長槍だった駒《こま》を取った。
「でも、これで君の戦法は|崩《くず》れただろう? 国王が動いたし、副官はいなくなったし。姫君や長槍が一つずつ減ったからって、初心者相手だったら俺は十二分に戦える」
「憎たらしい。だったら、最初にハンデつけなさいよ」
「馬鹿だな、ロアデル。ラフト・リーフィシーの対戦相手を賭《か》けた勝負なのに、ハンデ戦にしてどうするんだよ? それで俺に勝てたとして、彼との勝負にもハンデをつけてもらうわけ?」
「………」
一言もない。ロアデルは当初の目的を忘れかけていた。アカシュに勝つというのは、あの人に会うための過程にすぎないことだった。
「最初の質問の答えがまだだよ。彼のこと、どう思っているの? 愛しているから、こんなことまでしているわけ?」
「……何のこと?」
「君は恋人に会いにここまで来た。それは、ラフト・リーフィシーという名前だったんだろう?」
どうして彼がそんなことまで知っているのかとか、ロアデルには考える余裕はすでになくなっていた。次の手を指し終えたアカシュは、彼女の瞳を真剣に見つめて言った。
「君は、|騙《だま》されているんだよ。その男に」
「え……」
ロアデルは笑って見せた。だが、なかなかうまくいかず、ただ頬《ほお》の肉が引きつったような表情しか浮かべられなかった。
「――そうか。薄々は気づいていたんだ」
アカシュが、ロアデルの代わりのようにほほえみを浮かべた。それは、哀れみでも同情でもない。ただ、あるがままを受け入れていいような、そんなやさしさがあるだけだった。
「気づいてなんか……」
横に振りかけた首が、途中で止まった。ロアデルには、アカシュの指摘を否定できるだけの自信がなかった。
「どうぞ。君の番だよ」
彼は見た目少年の笑顔を浮かべて、首を軽く倒した。
ロアデルは、急にアカシュが恐ろしくなった。一つ年下の、少しませた少年だと思っていたのに、今はただの十八歳には見えない。年齢|不詳《ふしょう》。成熟した壮年《そうねん》にも、人生を知り尽くした古老にも見える表情を浮かべ、じっとこちらを見つめている。
盤に目を落とすと、|象牙《ぞうげ》色の国王はすでに周囲を焦げ茶の駒《こま》たちに包囲されている。王手だ。
ロアデルは逃げ道を探し、国王を斜め前に動かした。アカシュは、ロアデルの国王が元いた場所に彼の駒を進めた。依然、王手のままである。
「本当はもう少し、役宅《やくたく》でおとなしくしていてもらおうと思っていたんだけど。君は、ずいぶん早く行動を起こしたね」
彼が何を言っているのか、ロアデルにはわからなくなった。難しい単語など何一つないのに、意味がすんなりと頭に入ってこない。
「わからない? 俺はね、君に、自分から真実を見つけてもらいたかったんだよ。君の恋人とラフト・リーフィシーは別人だと教えてやるのは簡単だけど、他人の口から聞かされるよりも、自分で感じた方がいい。その方が、ずっと受け入れやすいからね」
「何、……言っているの?」
「俺が事実を教えてやったとしても、君に耳を傾けるだけの準備がなければだめだってこと」
「じゃあアカシュは、あの人が東方検断長官ではなかったって言うの?」
「そうだよ」
チョギーの方は、すでに勝負は見えている。だが、ロアデルは逃げた。単独で逃げ回る象牙色の国王は、もはや歩兵《ほへい》の一人も従えてなかった。
「ラフト・リーフィシーでないのなら、あの人はいったい誰だっていうの」
「そんなことまで、知らないよ。ただ、君の恋人は東方検断長官ではない。それだけは揺るぎない事実だ」
「あの人が、私をからかっているわけじゃなくて……?」
「まだ、そんなこと言ってるの?」
この期《ご》に及んで、といった顔でアカシュはため息をついた。
「からかっているとか、そんな段階じゃないだろう? 君だってすでに気づいているはずだ。具体的には見えなくても、肌で感じたんだ。東方牢城のどこを探しても、君の恋人の気配はないんだよ」
大体、どこの世界に自分の個人情報を間違える人間がいるんだよ、とアカシュはつぶやいた。
「彼は正真正銘《しょうしんしょうめい》の独身だし」
「独身……」
ロアデルの|脳裏《のうり》に、「奥さま」と聞いて首を傾《かし》げるシイラの姿が浮かんだ。
「それに俺の知っている限り、彼はニンジンも玉ねぎも食べられる。乳製品なんか、特に大好物だ。なのに、どうして食べられない振りをしなくちゃいけないんだ? そうすることによって、何かメリットある?」
「あっ……!」
一昨日《おととい》の夜、デザートとして出されたミルクプディング。シイラは「旦那《だんな》さまの大好物」と言っていた。
「嘘をつくならもっと調べてからにした方がいい、ってその男に言ってあげたいよ」
王手。もはや、どこにも逃げ場はなかった。
ロアデルは、大きくため息を吐いた。
「――参ったわ」
「どっちに?」
「両方よ。チョギーも、あなたの推理力にも」
「それは、どうも」
|象牙《ぞうげ》色の国王をチョギー盤からつまみ上げて、アカシュは手の中で転がした。ロアデルの国王が、盤上から消えた。張りつめた気がゆるんで、目に映った物すべてがグラリと揺らいだ。
「ごめん。泣かせちゃったね」
アカシュが、ロアデルの頬《ほお》をなでた。そっと離れた彼の指に、真珠のような水滴が伝っているのを見て、ロアデルは自分が涙を流していたことを知った。
「じゃあ、あの人は誰だったの? 今、どこにいるの?」
泣くのは、恋人に会った時。その腕の中だと決めていたのに。でも、あの人はもうどこにもいないのだ。少なくとも、ロアデルが信じていた人は実在しなかった。
「探しているから」
チョギー盤を挟《はさ》んで、アカシュがやさしく見つめていた。吸い込まれそうな黒い瞳、そして同じ色の長い髪。ボサボサだけれど、よく見れば思ったより傷《いた》んでない。それどころか、|頻繁《ひんぱん》に風呂に入れない獄中生活で、なぜこんなにも清潔にしていられるのだろうか。
ぼんやり考えていた時、廊下《ろうか》からエイの声が聞こえた。
「申し訳ございません。ただ今取り込んでおりますので、今しばらく別室でお待ちください」
どうやら、部屋に誰かが入ろうとしているらしい。エイはその人物に告げるというよりも、むしろ内部にいるアカシュやロアデルに知らせるために、大声を上げて応対している。
「あちゃ。思ったより早くお出ましだ」
アカシュはバネのように立ち上がって、二間《ふたま》続いた奥の部屋に駆け込んだ。
「どうしたの? ラフト・リーフィシーさまが、いらしたの?」
「そうじゃないよ」
ロアデルが後を追うと、彼は中で囚人《しゅうじん》服を脱いでいた。
「きゃっ」
あわてて後ろを振り向いても遅い。アカシュの裸の上半身が、瞳にくっきりと焼きついてしまった。
「悪いけど、着替え終わるまでしばらくそうしてて」
「え、……ええ」
背後で、衣《ころも》が擦《す》れ合う音がする。正面に見える頑丈《がんじょう》そうな扉は、ドンドンという音を立てて開けるよう創かしている。
「ラフト・リーフィシー! いるんだろう? 呼びつけておいて、待たせるとは何事か!」
「え……?」
少なくとも、ドアを叩いているのはラフト・リーフィシーではないことになる。自分に呼びかけるなんて変だ。
「|西方牢《ルーギル》城のトラウト・ルーギルって人だよ。今日、ラフト・リーフィシーと会う約束をしていた」
アカシュが手短に説明をした。
「お願いですから、そんなに叩かないでください。ドアが壊れてしまいます!」
外ではエイが必死でドアを守っている。
「退《ど》きたまえ。副官の君が甘やかすもみだから、彼がしゃっきりしないのだ。どうせ、中で囚人とチョギーに興《きょう》じているんだ。おーい」
ドンドンドンドン。
「ど、どうするの?」
後ろに向かって尋ねると、アカシュは何か思い出したように「そっか」とつぶやいた。
「……着替えが済んだところで、ロアデルがここにいたらややこしくなるな」
彼が言い終わるより早く、ロアデルは腕をつかまれ、背後に引き寄せられた。
「えっ?」
驚く間もなく、側《そば》にあったドアが閉められる。アカシュが着替えていた奥の部屋に、ロアデルは連れ込まれたのだ。
「何する――」
にらみつけようと視線を上げて、息を呑《の》んだ。そこにいた人は、もはやアカシュではなかった。
「なっ……!?」
長いベストと長いジャケット。膝下丈《たけ》のズボン。レースも華《はな》やかなアイボリーのブラウス。ただ惜しむらくは、ベストとジャケットの前ボタンがすべてはめられていないことと、ズボンからニョッキリと出た足のタイツが曲がっていたこと、あとはブラウスの前がはだけていることである。取りあえず着ている、といった感じだ。
「アカシュ、どうしたの? 他人の物、勝手に着たりしちゃだめじゃない」
「いいんだよ」
アカシュは荒縄《あらなわ》を外して、ボサボサの髪を手櫛《てぐし》でといた。
その時、廊下《ろうか》側から絶え間なく聞こえていたドンドンという音が消え、代わりにバタンという音が響いた。
「あー!!」
次いで、エイの悲痛な叫び声。
客人がめちゃくちゃに叩くものだから、たぶんその勢いで扉が壊れてしまったのだ。
「いいって……?」
手前の部屋に誰かが入ってくる気配がしても、ロアデルは目前の疑問から目をそらすことができなかった。
そうだ。どうしてこんな状況で、アカシュは着替えなどする必要があるのだろう。
「チョギーでは勝てなかったけど、願いは叶《かな》ったね」
「え……?」
「ラフト・リーフィシーに、会いたかったんだろう?」
彼はニコリと笑った。――と同時に、中扉が勢いよく開いて、四角い顔の見知らぬ青年が飛び込んで叫んだ。
「ラフト・リーフィシー!」
「やあ。トラウト」
アカシュは和《なご》やかにそちらにほほえむと、客人を迎えるために一歩前に歩み出た。だが、その客人、――西方牢城のトラウトはみるみる顔を赤らめて、その胸ぐらをつかんだ。
「君って奴は――」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。トラウト!」
「囚人とチョギーまでならまだしも、朝っぱらから婦女子を執務室に連れ込むなんて……! それでも検断長官かっ!」
ハッと気づいたように、アカシュは自分の格好を顧《かえり》みた。あわてて着替えたのは事実であるし、女性がいるのも間違いない。おまけにロアデルの顔に泣いた跡まであるのだから、この状況では疑うなというほうが無理かもしれない。
「ち、違う」
「問答《もんどう》無用!」
トラウトが拳を握って前に突き出す寸前、ロアデルの視界がグラリと傾いた。次いで何かが床に|崩《くず》れ落ちるような、ドサッという音がした。
「えっ?」
組み合った男たちが、驚いたようにこちらに顔を向けた。
「ロアデル!」
アカシュが駆け寄ってくるのが、ぼんやりと見える。
「ロアデル! しっかりしろ」
床に崩れたロアデルを、アカシュが抱き起こした。
(さっきの音は、私が卒倒した音だったのか……)
間抜けな話だが、そう気づいたときには、ロアデルはもはや瞼《まぶた》を開けることはできなくなっていた。
3
目が覚めた時、ロアデルは役宅《やくたく》の客間のベッドの上にいた。
だから、目覚める前の出来事がすべて夢ではなかったかと、まず最初に思った。アカシュとチョギーをしたことも、彼が豪華な服をあわてて着たことも。夢だから、つじつまが合わないことでも許されるのだ。でなければアカシュが客人に、ラフト・リーフィシーなどと呼ばれるはずがない。
だが――、と彼女は考えた。すべてが夢なら、それはどこからスタートしたものだろうか。アカシュとチョギーをしたのが夢なら、シイラにチョギーを教えてもらったのも夢だろうか? いいや、自分は今チョギーのルールを知っている。だからシイラとチョギーをしたところまでは、少なくとも現実に違いない。でも徹夜してその足で執務室に向かったのだから、アカシュとの一件もそれらと地続きになっているはずだ。
「じゃあ、全部、現実なんだ……」
ロアデルはつぶやいて、寝返りを打った。窓に掛かった薄いカーテンが、外からの光をやわらかく変えている。そのぼんやりとした空間に、男性の後ろ姿が見えた。
「ああ……、気がついた?」
カーテンの|隙間《すきま》から窓の外を見ていた人影は、振り返って言った。
「寝不足とショックが重なっちゃったみたいだ。よく寝れば大丈夫だって、医者が言っていた」
「――アカシュ」
ゆっくりと歩いてくる彼は、どこから見ても貴公子そのものだった。ブラウスのリボンもきちんと結び、ベストのボタンもすべてはめ、タイツのよれも直してある。髪は香油で梳《す》かれ、あのボサボサ頭が嘘のように艶《つや》やかに輝いている。
「それとも、ラフト・リーフィシーさまって呼んだ方がいい?」
しばしの沈黙の後、彼は少し首を斜めに倒して答えた。
「アカシュでいいよ」
その表情こそ、彼が本物のラフト・リーフィシーであるという何よりの証《あかし》であった。アカシュは、床に膝をついてベッドを覗《のぞ》き込んだ。
「あなたもなの……? あなたも、私を|騙《だま》していたの?」
アカシュの落ち着いた態度が、腹立たしかった。外側は穏やかな|容貌《ようぼう》を|被《かぶ》っていながら、腹の中では馬鹿な女をからかっているかと思うと、悔しくてたまらない。
「違うよ」
「何が、違うの? アカシュなんて|偽名《ぎめい》を使って、|囚人《しゅうじん》のふりまでして! さぞかし愉快だったでしょうね!」
ロアデルは|枕《まくら》をつかんで振り上げた。彼がどれほどの地位にいる人物であろうと構わない。検断長官だろうと囚人だろうと、怒りの度合いが変わるわけない。
「違う、ったら! 聞けよ!」
枕をつかんだ左手はアカシュによって押さえられた。ただ振り上げた右手も、一度空をきったきり後は動かない。
「――!?」
「聞け、っていってんだろうが」
アカシュの声が、すぐ側《そば》で聞こえた。暴れようとしても、身体はビクともしない。ロアデルは、抱きすくめられていた。
「……愉快だなんて、心外だ」
「アカ――」
「俺が、東方検断長官だっていうことは本当だ。それを黙っていたことも、謝《あやま》る。だけど、嘘なんかついていないから」
ゆっくりと腕の中から解放されて見上げた彼の顔は、よく知っているアカシュでもラフト・リーフィシーという名の貴公子でもない。身動きができないほど強く抱きしめた、やさしい顔の男だった。
「暴力反対。……いい?」
ロアデルは黙ったままうなずいた。そしてアカシュは、勢いで飛び乗ってしまったベッドからそっと下りた。
「嘘、ついていないって……?」
「アカシュは本名だ、って前に言ったろ? アカシュ・ゼルフィっていうのが、本当の名前」
「え……? じゃあ、ラフト・リーフィシーは……」
「襲名《しゅうめい》だよ。東方検断長官が代々受け継ぐ名前なんだ。だから父親も、祖父《じい》さまもラフト・リーフィシーだった」
王都エーディックを護《まも》るべく組織された三つの検断。初代長官の名は、北東西の順にコッド・カムルチー、ラフト・リーフィシー、ロミス・ルーギル。彼らは当時の国王の信任も厚く、その功労から長官職は世襲制で親から子へと受け継がれていくよう命じられた。
「でも、三代でリーフィシー家の直系が途絶《とだ》えたんだ。それで、困った王さまが、一番頼りにしていたゼルフィっていう家臣を後がまに据えた。それが俺の祖父さまの祖父さま。貴族同士だからね、リーフィシー家とは遠い|親戚《しんせき》ではあったけど。だけどね、三代も経つと城の名前が家名で呼ばれることが定着しているわけ。東方牢城のことはリーフィシー城、西方牢城のことはルーギル城って呼ぶだろう?」
「ええ……」
「北と西はスムーズに世代交代が行われているから、いいんだけどね。リーフィシー城の城主がゼルフィっていうのも変だし、初代に敬意を払って、ラフト・リーフィシーの名前を名乗るように|陛下《へいか》から命じられたわけ。だから東方だけ、代々初代の名前を名乗っている。ラフト・リーフィシーで襲名するから、ラフトが名前でリーフィシーが姓《せい》というわけじゃないんだよ」
「本当に……!?」
ロアデルは、口もとに両手をあててつぶやいた。
「でも私、あの人のこと『ラフトさま』って呼んでいたのよ」
「そう。じゃあ、偽者《にせもの》は少なくとも貴族じゃないな」
リーフィシーと呼ばれても、ラフトと呼ばれることはない。アカシュはそう言って、唇の端を上げた。それから、ロアデルの恋人だった男の特徴を細かく尋ねた。
話している間にも、ロアデルの中でラフト・リーフィシーだったあの人が、どんどん別の人間に変わっていく。名前が消え、素性《すじょう》もわからなくなり、そして今どこにいるのかさえつかめない。その人を呼ぶ名前がなくなると、確かだった面影《おもかげ》すら段々と輪郭《りんかく》がぼやけていく。
アカシュがラフト・リーフィシーであるのなら、あの人はいったい誰だったのだろう。
心の中に、乾いた風が吹いた。
果たして、彼という人物は本当に存在したのだろうか? それさえも、もしや夢ではなかったのか?
「ロアデル」
現実のラフト・リーフィシーが呼んだ。
「何?」
「いや、大丈夫かな、と思って」
「……今のところは大丈夫みたい。あなた、いい人ね」
「いい人なんかじゃないよ」
そう言って、アカシュは目をそらす。そのまま、どこか遠く、過去ほど遠くに彼は視線を漂わせた。
ロアデルは、黙ってその横顔を見つめていた。体温を置き忘れたような、冷たい横顔。
アカシュは、いろいろな顔をしてみせる。どれが本当の顔なのか、どれも本当の顔なのか、それはわからない。ただ、今は声をかけることがためらわれた。彼は、世界を閉じていた。
「そろそろ、帰らないとな」
やがて立ち上がったアカシュは、いつもの穏やかな表情に変わっていた。
「どこに?」
「決まってるだろう、獄舎《ごくしゃ》のねぐら」
「本当に、あそこに住んでるの!?」
「うん。だから、嘘じゃない、って言っただろ?」
アカシュは笑って、もう一度腰を下ろした。
「あんまり時間がないから、簡単に説明するね」
彼|曰《いわ》く。――朝と夜の点呼《てんこ》までに戻らないと、大変なことになる。
「遊びで|囚人《しゅうじん》やってるんじゃないんだよ。俺は正真正銘《しようしんしょうめい》の懲役囚《ちょうえきしゅう》なんだ」
囚人|名簿《めいぼ》にアカシュの名は記載されているし、入牢証文《にゅうろうしょうもん》だって存在しているという。
獄舎では日中の出入りが激しいため、朝夕の点呼と夜間の見回りで、脱獄者がないことを確認する。未決囚《みけつしゅう》は取り調べのために庁舎に呼び出されることもあるし、懲役囚は使役労《しえきろう》に駆りだされる。言い換えれば、夕方から朝まで獄舎にいれば、囚人としてそこに存在していたことになる。もちろんアカシュの場合は特別で、獄舎に収容されているすべての人間が日中好き勝手していられるわけではない。それでも毎朝チョギーを理由に、獄舎《ごくしゃ》から出て検断庁舎に出勤して、検断長官としての仕事をすることができるのは、昼間の点呼《てんこ》がないお陰なわけである。
「え……、でもあなたが検断長官なのに」
「俺が最初にここにぶち込まれた時、父上がラフト・リーフィシーだったけどね」
――と、いうことは実の父親に罪を裁かれたということだろうか。その割には、サバサバとした口調でアカシュは答えた。
「ほら、検断長官職は世襲《せしゅう》だろう? 父上が死んだ時、すでに兄上もこの世にいなかったものだから、無条件で俺がラフト・リーフィシーにされてしまったわけ」
領地で亡くなったためか、アカシュの兄の死は意外と王都では忘れられている。それは、失礼ながら国王|陛下《へいか》にしても例外でなかった。一言フォローすると、一国の王たる者、貴族とはいえその家の当主でもない限り、人の生き死になんて覚えていられないのである。一応報告を受ければ、それ専門の家臣に命じて弔文《ちょうぶん》を書かせるが、如何《いかん》せん、この時代簡単に人が死ぬ。覚えていろという方に、無理がある。
そういうわけで、東方検断長官の職を亡きゼルフィ公の息子に継がせるという旨《むね》の書類が回ってきた時、国王陛下は深く考えることなくサインをしてしまったわけだ。そしてそれが受理されてしまった後になって、重臣の一人が真《ま》っ青《さお》になった。それは、ラフト・リーフィシーを継いだばかりの息子に、現在|東方牢《リーフィシー》城で懲役刑《ちょうえきけい》を受けているという事実が判明したからだ。
「陛下は、俺を王宮に呼び出して尋ねられた。東方検断長官になる気があるなら、刑を減じて放免してやるがどうか、ってね。国王には、|囚人《しゅうじん》の刑を軽くできる権限があるからね」
ちなみに、重くするなんてことはできない。人の人生がかかっているから、当然といえば当然の規則だ。
「それで?」
ロアデルは尋ねた。
「断ったよ。どうして職を継ぐことと刑期とが、一緒に語られなくちゃいけないわけ? 恩赦《おんしゃ》でもないのに、俺だけ刑が軽くなっていいわけないだろ? そんなズルを許せるようじゃ、検断のトップなんかやってられないよ」
「でも、今やっているんでしょ?」
「まあね」
アカシュは苦笑した。
「陛下が、俺の啖呵《たんか》を面白がっちゃって。じゃあ、服役《ふくえき》しながらやってみろってさ。……変な王さまだよ」
外部で知っているのは、国王と重臣たち、あとは北と西の検断長官だけ。内部では、副官のエイとその配下の数人、役宅《やくたく》を預かるシイラ。領地に帰れば、兄の妻や一部の親戚《しんせき》などは承知しているが、何ぶん遠いのであまり関係ない。
蛇足《だそく》だが、トラウト・ルーギルはまだ気づいていない。友人からも実の父親である西方検断長官どのからも教えてもらえない、かわいそうな男なのである。
「スリピッシュ」
アカシュはそう告げて立ち上がると、今度こそ扉に向かって歩き出した。
「スリピッシュ?」
尋ねると、彼はポケットから先ほどチョギーで使った国王の駒《こま》を取り出して、放ってよこした。
「そ。俺は二重生活の王さまだからね。そろそろ獄舎《ごくしゃ》に戻らないと」
ドアを開けたところで、ホットミルクを持ってきたシイラとぶつかりそうになる。
「まあ、お坊ちゃ……いえ、|旦那《だんな》さま」
「シイラ。悪いけど、ロアデルのこと頼むね」
肩に手をかけて、頬《ほお》にキス。
「もうお帰りですか? たまには、ゆっくりしていらしてくださいませ」
「次はきっと朝から来るよ。だから、ミルクプディングを作っておくれ」
「はいはい」
シイラはうれしそうに何度もうなずいた。それからアカシュは、たぶんロアデルのために準備されたであろうカップに指をかけ、中身のミルクを一ロクイッと飲んでしまった。
「じゃあ、ロアデル。明日またトラウトに来てもらうから、執務室で今日の続きを話し合おう」
「あ、アカシュ」
「ごちそうさま」
止める間もなく、彼は廊下《ろうか》を走り去った。これから中庭を抜けて検断庁舎の執務室に向かい、そこで着替えた後に配下の役人に伴《ともな》われて獄舎《ごくしゃ》に帰るのだ。なんて大変な生活をしているんだろう。
「相変わらず忙《せわ》しないこと」
シイラは「やれやれ」とつぶやき、カップの乗ったお盆を手にしたまま、アカシュが去っていった廊下をしばらく眺めていた。ミルクをまた沸かし直してくるというのを、ロアデルは構わないからと答えてそのまま受け取った。
ホットミルクは人肌《ひとはだ》で、ほんのりと甘かった。
「ハチミツを少しだけ入れるんですよ。これは|旦那《だんな》さまのお好みでね」
眠れない夜、|風邪《かぜ》をひいた時、叱られて泣いた後。シイラはアカシュのために、甘いホットミルクをこしらえたそうだ。
何て温かいのだろうか。――ロアデルは彼の子供時代をうらやんだ。寂しくても、悲しくても、この一杯のミルクがあればベッドの中で震えずに済むだろう。荒《すさ》んだ心も、その温《ぬく》もりで溶かしてもらえるだろう。
「あら、これはどこの駒《こま》かしら?」
シイラはロアデルの布団《ふとん》の上に転がる、|象牙《ぞうげ》色の国王を拾い上げた。
「あ……。執務室の」
アカシュが放り投げて帰った、あの駒だ。
「そう。道理で、立派だこと」
細くて小さくてそして少ししわのある手の中で、普通より大振りの駒が転がされるのを見ながら、ロアデルは思い出していた。これを投げてよこした時、アカシュが言った言葉。……えっと、そう。
「――スリピッシュ!」
するとシイラが、「おや?」と顔を上げた。
「よくご存じですね」
「いいえ、知らないわ。スリピッシュって、何?」
ロアデルは、ベッドの上で身を乗り出した。言葉を発した本人が、その意味を尋ねるのは|妙《みょう》な話かもしれない。だがシイラは不思議そうな顔をしながらも、丁寧《ていねい》に教えてくれた。
「チョギーのルールの一つですよ。ロアデルは初心者だから、まだお教えしていませんでしたけれどね」
それは大がかりであるために、滅多に使われない手であるらしい。
「通常国王を守るために、盤上《ばんじょう》に砦《とりで》を作るでしょう?」
「ええ」
ロアデルはうなずいた。
要はチョギーというゲーム、国王を取った方が勝ちである。だから国王の周囲は強い駒で固める、それは基本だ。その囲いを砦、という。
「通常、砦は一つ。だけれどもう一つ、別の場所にまるっきり同じバターンで砦を築いた場合。国王は間にいくつ駒があろうと飛び越えて、空《から》の砦に一手で移動することができるルールがあるのです」
「それが――」
「そう。スリピッシュ」
二重生活の王さま。
シイラから国王の駒を受け取り、ロアデルはアカシュのことを考えた。
彼は二つの砦を持っている。一人しかいないのに、巧《たく》みに二間を移動して、さも二人存在しているかのように目くらましをかけていたのだ。
東方牢城という名の、チョギー盤の上で。
偽者
1
|西方検断《エスタ・ポロトー》のトラウトという人は、アカシュやエイとはまるで正反対の熱い人だった。
昨日の一件である程度予感はしていたが、勧善懲悪《かんぜんちょうあく》主義で、彼が「良からぬこと」と判断したら即決でその対象と戦う姿勢を示す。それで今まで早のみこみも多々あったらしく、そのたび反省するのだが、悪事を見かければ頭にカーッと血が上り、前後の見境なく飛び出してしまう|癖《くせ》は未だに治っていないという。――本人談。
「な、何たることかっ!」
ロアデルの身の上話をひと通り聞き終わると、彼は握り拳を振り上げて|椅子《いす》から立ち上がった。
「トラウト。少し落ち着きたまえ」
彼の向かいのソファに座ったアカシュが、慣れているように静かに諭《さと》す。
ラフト・リーフィシーが執務室に婦女子を連れ込んだという誤解は、すでに解けていた。トラウトは再会すると開口一番、ロアデルに丁重《ていちょう》に詫《わ》びをいれてきた。あのような状況下であったとはいえ、頭からそのような関係であると信じ込んでしまって申し訳ない、そんな風に言って頭を下げた。彼は、紳士《しんし》だった。だが、その紳士はいつでもなぜか怒っている。
「これが落ち着いていられようか」
トラウトは「とにかく」と、アカシュに座り直させられた。馬のように鼻息が荒い。
「じゃあ、聞くけれど。君はいったい、何に腹をたてているのかい?」
「何、って」
指摘されてから、「えっと」と考え込むトラウト。取りあえず何かに腹がたったから怒ってみた、という感じ。ストレートな性格だ。
「……そう! そうだ、まず悪の大本《おおもと》は|娼館《しょうかん》なのだ。偽《にせ》の証文《しようもん》を盾《たて》に身売りを強要するなんて、許しておけん、最低だ!」
攻めるべき悪人を見つけたトラウトは、がぜん張り切って演説をぶちかます。
「今すぐ逮捕《たいほ》しに行くから、店の場所を教えたまえ! そもそも、娼館なんてものがこの世に存在することが間違っとるんだ! 女性を何だと思っている!」
「……あのねぇ、トラウト」
いつものように髪をかき上げかけたアカシュは、香油で髪を整えていたことを思い出したのか、寸前でやめた。
「論点がずれているんだけど」
「む」
「それに証文《しょうもん》が偽物《にせもの》かどうかなんて、現物を見てみないとわからないだろう?」
「むむっ」
西方検断副長官どのは徐々にしぼんで、やがておとなしくソファに納まった。しかしそのままではしゃくなのか、じゃあ君の意見を聞かせてみろ、というポーズをとってみせる。
「取りあえず、やるべきことは二つあると思うんだ」
アカシュは指を二本立てて言った。一つは、ラフト・リーフィシーを名乗る偽者の正体を突き止めること。もう一つは、ロアデルに覚えのない借金を負わせた張本人《ちょうほんにん》を逮捕《たいほ》して、証文を無効にすること。ともすると一緒くたになりがちだが、別々に探るべきだろう、と主張した。
「どうして? 彼女は|娼館《しょうかん》の主人に、『恋人に|騙《だま》された』って聞かされたんだろう?」
ロアデルの方を見て、トラウトが尋ねる。
「……はい」
「だったら、その男もグルじゃないのか?」
「ええ……、でも――」
ロアデルが口ごもると、横からアカシュが口を挟《はさ》んだ。
「それだって、娼館の主人の一方的な言い分だろう? 証文と同じで、調べてみなければわからないよ。|偽名《ぎめい》を使っていたからって、他の罪まで疑ってかかるのはどうかな」
検断長官らしい、もっともな意見である。
「彼女の捜索願が出されていないのなら、|娼館《しょうかん》側にも何かやましい気持ちがあるのかもしれない。だからトラウト、君は証文《しょうもん》が有効であるかどうかを調べてくれないか。それと、その証文が娼館に渡った経緯もね」
「わかった。――って、おい!」
一度うなずきかけた四角い顔が、ピクリと止まる。
「どうして君が主導権を握るんだよ。今月は西方検断の月番だろう」
「もちろんそうさ。だからこの事件は、西方が仕切ってくれ、と言っているんじゃないか。しかし途中まで関わってしまったんだ、落着《らくちゃく》を見ないで手を引くのはこちらとしては何だか気持ちが悪いもの。それはわかってくれるね?」
「う……、それはまあ……」
もともと|東方検断《トイ・ポロトー》が目をつけた事件、それを西方に譲ってくれるというのだから、そうそうアカシュを蔑《ないがし》ろにはできない。それに、ここら辺で大きな手柄《てがら》をたてたいという欲望が、トラウトの全身からユラユラとした熱気となって立ちのぼって見える。
「と、いうわけで、私にも何か手伝わせてくれるんだろう?」
「手伝い、だぁ?」
「そ。君がリーダーだからね」
アカシュは、友人の肩をポンポンと叩く。四角い顔の男は、リーダーという響きがいたく気に入ったらしく、少し顔をほころばせた。
「東方検断の私たちは表だって行動が起こせないから、裏方《うらかた》に徹しなければならない」
「そうか。……そうだな、じゃあ証文の件は私の方で調べてみるか」
「頼むよ、リーダー」
そんな風にアカシュは、トラウトを持ち上げてうまく丸め込んでしまった。まったく、調子のいい男だ。調子がいいのだけれど、どこか憎めない。彼の口車は、とても乗り心地がよさそうだった。もしかするとトラウトという人間も、そうと知って友人につき合っているのかもしれない。――いや、それは考えすぎか。
差し当たっては、偽《にせ》ラフト・リーフィシーを捜し出すということで、顔以外の特徴や会話の中で気になったことなどを聞かれた。人相についてはすでにアカシュが、人相画専門のお抱え画家に依頼済みとかで、エイが今、城内の別室に出来上がった絵を取りに向かっていた。
「しかし、なりすます相手は別に、私じゃなくてもいいのに」
ロアデルの口述《こうじゅつ》を適当な紙切れに箇条《かじょう》書《が》きしながら、アカシュがブツブツと言った。
「何?」
「偽者は自称二十三で、私《ほんもの》は十八だろう?」
仕事がずさんだなあ、という意見である。どうせ名前を騙《かた》るなら、もう少し調べてもよさそうなものではないか。――と、本物としては思うらしい。そんなものなのだろうか。
「仕方ないよ。|東方牢《リーフィシー》城の主は、『東の化け物』って呼ばれているんだから」
トラウトがからかうように言った。
「化け物?」
「そう。彼はね、十日に一度お役目で宮殿に上る以外、ほとんどこの城に籠《こも》りきりらしいんだ。若すぎることを気にしているのか、あまり人前に顔を出さないし、個人情報も極力流さないようにしているんだよ」
「顔が割れると、検断長官として動きにくいからだよ」
「じゃあ、死刑を言い渡す時だけしか|囚人《しゅうじん》にも顔を見せない、っていうのは?」
「……うるさいな」
「だがお陰で、姿をさらせないほど凄《すさ》まじい容姿《ようし》だと、さんざん噂《うわさ》されるんじゃないか。カエルをつぶしたような顔とか、ブタのような体型だとか。おまけに名前がいつでもラフト・リーフィシーなものだから、代替わりしたことも知らずに百を越えた爺さんだと信じている庶民だっているわけさ」
だから、東方検断長官は正体不明の化け物と、巷《ちまた》であだ名されているわけだ。ちなみにトラウトの父は「西のゆでダコ」、北方検断長官は「北の鉄面皮《てつめんぴ》」と、親しみを込めて[#「親しみを込めて」に傍点]呼ばれているらしい。
「誰も見たことのない化け物だからばれやしない、偽者はそう思ったんじゃないか。ちょっとくらい噂と違った方が、よりリアルだ」
ロアデルもトラウトの意見にうなずいた。
その通りなのだ。最初にあの人がラフト・リーフィシーと名乗った時、あまりにイメージとかけ離れていたがためにかえってすんなりと信じられた。実際、本物はアカシュのような少年だったわけだから、現実なんて結構そんなものなのだ。
「それにしても、そんな適当な考えで人を|騙《だま》していいのか」
アカシュがぼやく。
「いいんじゃないの? 騙すのは一般|庶民《しょみん》なんだから」
そう。騙されたのはロアデル。貴族のこととか検断のこととか、何も知らないから簡単に信じ込まされてしまった。
「でも、わからない。なぜ、あの人は嘘をついていたのかしら……?」
「嘘をつき慣れているとね、嘘をついている方が安心できるようになってしまうことがあるんだよ」
本物が、静かに目を閉じた。
「最初は、単に検断を呼ばせないためについた嘘だったのかもしれない。だが君は、ラフト・リーフィシーだと思い込んで、彼につくした。彼は、ラフト・リーフィシーの振りをしている時の自分が好きだったんじゃないか?」
「そんな……」
ロアデルは、寂しいと思った。偽《いつわ》りの自分の方が好きだという、そんな人がいるなんて。そしてそれを寂しいと感じるロアデル自身が愛していたのが、その人が描いた虚像の方だったなんて。
「同情してる?」
うつむいていた顔を上げると、アカシュが微笑していた。
「同情なんか……」
していない、とは言い切れなかった。
検断に事件の解決を託《たく》したとはいえ、ロアデルにはまだあの人を信じたいと思う気持ちが心のどこかに残っていたのだ。たとえ動かぬ証拠が揃《そろ》っていたとしても、何かの間違いということはないのだろうか、そんな風に思ってしまうのが人情である。嘘をつかれていたとしても、恋人だった男なのだから。
「親告罪《しんこくざい》だからね、君が許してやりたければ訴えなくてもいいんだよ」
「えっ……?」
余罪がなく、ただ女の気をひくためだけに嘘をついていて、尚かつロアデルがそれを望むののなら、呵責《かしゃく》だけで放免してもいい。――そう、彼は言った。
「おい、勝手な約束するなよ!」
あわてて、トラウトが横から口を|挟《はさ》む。アカシュは、まあ聞けよ、と笑った。
「でもその男が悪質だと判断したら、どんなに君が懇願《こんがん》しても西方に引き渡す。たとえ君が訴えなくても、ラフト・リーフィシーの名を騙《かた》られたというだけで、私には訴えるだけの十分な理由があるのだからね」
アカシュはただのやさしい裁《さば》き手ではないのだ。やさしい中に見え隠れする、彼の厳しさ冷たさをほんの少し知った。
そこに、ドアがノックされ、もう一人の個性的な男性が執務室に登場した。
2
「遅くなりまして」
プラチナ・ブロンドのお人形さん、|東方検断《トイ・ポロトー》のナンバー・ツーのエイは困惑顔で部屋に入ってきた。手には数枚の紙を持参している。
「どうした、そんな顔をして」
アカシュが尋ねると、エイは皆が集まっているソファまで歩いてきてから言った。
「……私、存じませんでした。長官は、ただ出来上がった人相画を取りに行くように命じられただけでしたから、てっきり目撃者と画家を引き合わせて下絵を作ったと思うじゃないですか」
「あ、すまん。そのつもりだったんだが、すっかり忘れていたんだ」
「だからといって、こんな絵を元に人相画を完成させろなんて――。これではどんな優秀な絵師だって、お手上げですよ」
「そうかな」
アカシュは、きょとんとして答えた。
エイが差し出した紙を見て、ロアデルは唖然《あぜん》とした。現れたのは、十歳の子供でも描けないだろうと思われるほどの幼稚《ようち》な絵だった。下手《へた》すぎて、すでに芸術の域に達している。
しかしさすがにこれではわからないかもと案じたのか、作者によって所どころ矢印で注釈《ちゅうしゃく》がついている。二、三挙げれば、「長い黒髪」とか「細い|眉《まゆ》」とか、そんな身体的な特徴である。確かに、それがなければ長い黒髪であるとか細い眉であるとかは、見る人に伝えることはできそうにない。
「画家連中には、私の絵だと思い込まれてしまいましたし」
「済まなかったね、下手な絵で」
アカシュがふてくされたように言い捨てた。
(と、いうことはこの絵、アカシュが描いたの!?)
「ぷっ」
ロアデルより先に、どこかで吹き出す声が漏《も》れた。
「ぷぷ……、ぷぷぷぶぶぶ」
出所を探ると、四角い顔を真《ま》っ赤《か》に染めたトラウトが、肩を震わせながら必死で笑いと戦っていた。目の前にある絵だけでもおかしいのに、|生真面目《きまじめ》なトラウトの笑いをこらえる姿が弾《はず》みになり、とうとうロアデルも声を出してしまった。
「ククッ」
一度笑ってしまったら、もう歯止めはきかない。トラウトとロアデル、そして終《しま》いにはエイまで加わって、執務室は大爆笑となった。東方検断長官が、自信家のアカシュが、こんな下手くそな絵を描くなんてあまりにも面白すぎる。
ひとしきり笑いが納まったところで、アカシュが咳払《せきばら》いをし、軽く全員を見据えた。わざと不機嫌そうに振る舞ってはいるが、目の奥は笑っている。
「……それで?」
彼はエイに向かい尋ねた。
「笑っていないで、ちゃんと報告をしたまえね。人相画家は、この絵では無理だと、ただ突き返してきたのか?」
「いえ。それではあまりなので、取りあえず仮に十枚ほど描いてみたそうです」
エイはここからはけじめとばかり、ピシッと背筋を伸ばして、残りの書類を渡した。覗《のぞ》いてみると、長い黒髪の男の顔ばかり数枚の絵が重ねてあった。その中で比較的似ているものがあれば、それを元にして人相画を仕上げさぜることもできる、とのことだ。
「わかった。取りあえず彼女に見てもらって、だめならこれから画家の工房にいってもらおう」
ロアデルは、画家の描いた数枚の絵を手渡された。
「どうだい?」
一枚目、二枚目。さすが東方検断お抱えの絵師が描いただけあって、どの絵もうまい。だが、似ているかといえばやはりいま一つ。どれも長い黒髪で細い|眉《まゆ》なのに、印象が全然違う。
五枚目、六枚目。人相画は、虚《むな》しくテーブルの上に重ねられていく。
「やっぱり、だめか……」
七枚目、八枚目。
「ちょっと待って」
最後の一枚。その時、ロアデルの目はその絵に引きつけられた。
「これ……!」
「似ているのか!?」
「ええ」
画家が十枚|描《か》き殴《なぐ》ったのが、功を奏した。うち一枚が、あの人の面影《おもかげ》にかなり近い。
男たちは、目を輝かせた。一斉に立ち上がり、どこが似ていてどこが違うのかというような質問を、ロアデルに浴びせかけた。
「もう少し目を細めて、唇も薄くすれば……」
「目と唇ですね?」
エイが聞きながらサラサラと、その絵を修正した。こちらは、結構な腕前だ。アカシュが描いた下手《へた》な絵の作者と思われては、さぞかし心外だっただろう。
「どうですか?」
筆を置いて見せられた紙の中には、ロアデルがずっとラフト・リーフィシーだと思い込んでいた男がいた。
真っ直ぐで艶《つや》やかな黒髪、細い顎《あご》のライン、一重《ひとえ》の切れ長の目、細い|眉《まゆ》、皮肉げな唇。
久しぶりの対面が、こんな形だなんて。涙が出そうになった。
「ふーん。私ほどいい男じゃないな」
修正後の人相画を取り上げて、アカシュが笑った。爪《つめ》で絵の中の鼻をパシッと弾くと、あわててトラウトが横からそれを奪い取った。
「破けたらどうするんだ!」
「大丈夫だよ。それに、画家にちゃんと描き直させるから」
「それにしたって――」
言いながらトラウトが、「ん?」という顔をした。それから、手にした絵を離したり近づけたりして|唸《うな》った。問えば、どこかで見たことがある気がするという。
「どこでだったかな」
トラウトは頭を抱えて考え込んだ。物忘れには、まだ早い。
「そう親しい関係ではないんだ。でも、言葉を交わしたことある」
「|西方牢《ルーギル》城でか? それともプライベートで?」
「あーっ、ちょっと黙っていてくれないか。横でゴチャゴチャ言われると、思い出せるものも遠ざかる」
ガシガシと、茶色い癖毛《くせげ》をつかんで苦悶《くもん》する。何事にも熱い彼は、悩む姿も激しく燃える。
「ウォー、どうして思い出せないんだー!」
とうとう野獣のような|雄叫《おたけ》びがあがった。驚きのためにロアデルは座ったまま固まり、アカシュが彼女の肩を叩いて席を立った。
「放っておいて、お茶でも飲もうか?」
「あ、私が」
立ち上がると、エイがすでに支度《したく》を始めていた。
「じゃあ、カップを出してください」
彼は気持ちよく手伝いをさせてくれた。男性なのに、|手際《てぎわ》もいい。その様子を、アカシュと一緒に眺めた。高価な葉の、高級な香りが部屋中に広がる。ロアデルが恋人をもてなすために買い求めた、下町で一番高い茶葉だってこんなに上品な香りはしていなかった。
トラウトは、一人まだ記憶の糸をたぐっている。ロアデルは、アカシュを見上げた。
「何だよ?」
視線に気がついて、彼が顔を向ける。
「アカシュって、トラウトさまとだと話し方が違うのね」
「そうかな」
ほんの少し、偉そう。そしてしゃべり方に落ち着きと、ほんの少し毒がある。自分の呼び方だって、『私』だし――。と、言いかけたら、考え事に没頭していたはずのトラウトが、目を丸くしてこちらをじっと見ていた。
「何で、彼女は本名で君を呼ぶ?」
トラウトは信じられないといった顔つきで、身を乗り出した。
「私には、アカシュと呼ぶことを禁じておきながら」
「えっ、それは……」
正体を知らずに獄舎《ごくしゃ》で知り合ったから、などと本当のことは言えるはずない。トラウトはアカシュが二重生活していることを知らないのだから。
「まさか、彼女は君の恋人なのか?」
彼の導き出した|突拍子《とっぴょうし》もない答えに、膝の力がガクッと抜ける。どこをどう突っついたら、そんな考えを浮かべることができるのだろう。たった今、ロアデルがつき合っていた男の人相画を作成していたことを、彼は完全に忘れてしまっている。
「ロアデルが恋人なわけないじゃないか!」
アカシュがはっきりと告げるのを聞いて、ロアデルは少しだけ胸がドキリとした。
「……ロアデル?」
一瞬、トラウトは奇妙な顔をした。それから、ロアデル、ロアデルと呪文《じゅもん》のようにつぶやき、やがて何かがわかったように、目を輝かせて「ロアデルだ!!」と叫んだ。
「わかった。この男、ロアデルという娘の兄なのだ!」
そしてテーブルに置かれた人相画を取り上げると、大きくうなずいたのであった。
「うん。そうか、ロアデルか。すっかり忘れていた」
アカシュとエイ、そしてもちろんロアデルも、もはや置き去り状態である。トラウトの暴走には、誰も追いつけない。
「いや、先日ここから帰る途中で、気の毒な青年と会ったのだ」
一人納得して、すっきり顔した彼が言うことには、妹を捜しているというその青年と、人相画の人物が非常によく似ているらしい。もっとも、帽子を目深《まぶか》に被《かぶ》っていたそうだから、あまり当てにはならないかもしれない。
「ああ、でもこんな偶然あるんだな。同じ名前だなんて」
「あのさ、トラウト。君、本気で偶然だなんて思ってる?」
「えっ?」
トラウトが会ったその男は、東方検断にロアデルという娘がいると思っていた。そして、事実ここにはその名前の娘がいる。
「西方に帰って調べてご覧《らん》。賭《か》けてもいいけど、彼、妹の捜索願いなんか出してやしないよ」
「それは、すでに妹が見つかったということじゃ――」
「ならば、おめでたい」
アカシュは笑って、忘れ去られていた紅茶をそれぞれに配った。そして乾杯、とカップを掲げてから口をつける。
「彼が……来ていた、ってことなのね?」
カップの重みや温度を両手に感じながら、ロアデルはつぶやいた。
「たぶんね」
「また、嘘ついて……?」
「君にお兄さんがいないなら、そういうことになるね」
馬鹿馬鹿しくて、涙も出やしない。代わりに笑った。だけれど、それは先ほどアカシュの絵を見た時のような、腹の底からわき上がる愉快なものではなくて。荒野に吹く風のような、乾いた虚《むな》しい笑いだった。
しかしトラウトは、信じられないといった顔をして尋ねた。
「じゃあ、あの青年がでたらめを言っていたというのか?」
「さあ? ロアデルの話を基準に考えれば、そういうことになるね。だから彼の言い分を聞いてみよう、と言っているんだ。頭から決めつけるわけじゃなくね。人違い、というケースだって消えたわけじゃないし」
「そうだな」
正当な意見であるだけに、トラウトも納得した。だがロアデルは少し突き放されたような気がして、寂しくなった。
(そっか……)
アカシュは、無条件でロアデルの味方をしてくれるわけではないのだ。東方検断長官として、彼が中立の立場に立っていることを思い知らされた。
(そうだよね)
アカシュは職務上、親身に話を聞いてくれただけだ。それ以上、そこには何も存在していないのだ。彼のやさしさは彼独自のもので、きっとそこにいたのがロアデルでなくて別の人間であっても、同じように同情を寄せたに違いないのだ。
男性たちは、今後の作戦をたてている。だがロアデルには、何だかどうでもよくなっていた。彼らは、あの人を捕らえる相談をしているというのに、それがとてつもなく遠く感じてならない。まるで自分以外の人間が楽しんでいるゲームを、|傍観《ぼうかん》しているみたいだ。
実際、恋人が目の前に現れたわけではない。
そうなった時の自分なんて、まだ予想もできない。
だから、だろうか。今は目の前の一人に、ロアデルは気が[#「が」にママの表記]とられていた。考えに熱中して、香油でまとめた黒髪を構わずかき上げてしまったチョギー・プレイヤー。
だが、彼は遠い。
今、ここで同じお茶を飲んでいたとしても、それは一時的なもの。どんな結末にしろ、この事件の片が付けばロアデルは元の塀《へい》の外に出ていかなければならない。
それを寂しいなんて感じる自分が、ロアデルには何だか不思議に思えてならなかった。
3
人相画の男は、意外と早く見つかった。
その日のうちに人相画は有能な画家の手で完成され、翌日にはその写しが|西方検断《エスタ・ポロトー》のトラウト直属の部下らに配られた。そして翌々日には、|東方牢《リーフィシー》城に偽《にせ》ラフト・リーフィシーの姿があったのだから、作戦を練った日から数えて三日目。速攻だ。
男をここまで連れてこられたのは、トラウトの力が大きい。西方検断長官はこの件を息子に一任した。まあ緊急を要する事件ではないし、|東方検断《トイ・ポロトー》が合力《ごうりき》すると聞いて心強く思ったのだろう。がんばって解決してみろ、と押し出してくれたそうだ。そういった事情もあって、トラウトは張り切ったわけなのである。しかし、そこにはアカシュやエイのアドバイスを素直に実行したという、裏技があったことを、もちろん付け加えておかなければならない。
さて、時間は少しさかのぼって二日目の昼過ぎ。
アカシュとロアデルが執務室でチョギーをやっていると、|娼館《しょうかん》に聞き込みに行っていたトラウトが鼻息も荒く帰ってきた。
「わかったぞ!」
ここしばらくアカシュはこの事件に集中するとかで、別の仕事は執務室からシャットアウトされていた。現在、執務室は偽ラフト・リーフィシー事件の指令本部と化している。その割に、リーダーは外回り、留守番はゲームに興《きょう》じるといった不思議な光景が展開しているのだが。
二人がやっているチョギーは、もちろん真剣勝負ではない。初めから駒《こま》の数に差をつけた、ハンデ戦だ。それでも、やっぱりロアデルは一勝もあげられなかった。
トラウトがやってきたのは、その三回戦が終わった頃だった。
「何が、わかったんだ?」
駒を片づけながら、アカシュが尋ねた。トラウトの情報など、さほど期待していないといった様子だった。
「まずは、これを見てくれ」
彼は胸を張って、一枚の書類を掲げた。
「これは、ロアデルの証文《しょうもん》だ」
「証文!?」
驚いたのは、それを見せられた一同である。
「どうして、そんな物を君が持っていられるんだ」
と、アカシュ。
「まさか、盗んできたんじゃ……」
青ざめるエイ。ロアデルは側《そば》に寄って、本物かどうか確認した。
「君たちは、そこまで私を信用してないのかっ! これは、|娼館《しょうかん》から借りてきたんだ」
心外だ、とトラウトは四角い顔を真《ま》っ赤《か》にして怒った。怒って当然、彼はただがんばっただけなのに。
「それにしても、よく大事な証文を貸してくれたな」
信じられないような顔をして、アカシュはその証文に目を通した。そこにはロアデルの名前と拇印《ぼいん》が押されていた。確かにロアデルが、娼館で一度見せられた物だ。
「借用書を置いてきた。結構、話のわかる主人だったよ」
トラウトは得意げに言う。
「それだけじゃない。この証文を取り交わした男の名前まで、教えてくれた。ユゴイ・ブルバーっていう奴だ」
「ユゴイ・ブルバー……」
ロアデルは声に出してみた。だがその名前を知ったところで、何も感慨はない。
「だろうな」
彼女の表情を眺めていた、アカシュがつぶやく。
「ユゴイなんて聞いても、それは君にとっての彼じゃないからね」
だが、その男が偽《にせ》ラフト・リーフィシーであることは間違いなさそうだった。トラウトが人相画で娼館の主人に確認している。
「やっぱり、ユゴイって男が怪しいね。娼館の主人はただ金を貸したが、返済されないので仕方なく、借金の形《かた》になっていたロアデルを引き取っただけだよ」
「どうして、そんなことがわかる?」
「だって、主人がそう言っていたから」
それを聞いて、アカシュは頭を抱えた。
「……君は、何でも言われた通り信じるのか?」
証文《しょうもん》を貸してくれたから、その上男の名前まで教えてくれたからいい人で、その人が言うことだから嘘じゃない。そんなに素直でいいのか、仮にも西方の副官を務める人間が。そもそもトラウトは、娼館撲滅《しょうかんぼくめつ》を訴えていたはずではなかったか。
「私はひねくれているから、何でも疑ってかかるよ。トラウト」
アカシュは言う。人ひとりを売り買いする証文、いくら検断に求められたとしても、普通は貸したりしない。その証文で借金の形《かた》となっている娘自身が行方《ゆくえ》不明では、尚さら用心するだろう。せいぜいが、写しを取らせてもらうところ止まりだ。また、やましいところがないのなら、なぜ娼館の主人は娼婦の捜索願いを出さないのか。
「だから私の場合、娼館の主人が何か企《たくら》んでいると考えるね」
「何を?」
「さあ? 例《たと》えば、突つかれればいろいろ出てしまうから、比較的|粗《あら》の目立たない証文を握らせて検断にお帰り願ったとかね。……ところで、ロアデル。君、字は書ける?」
――と、急に会話の流れが変わる。
「ええ、一応」
「じゃ、書いてみて」
真《ま》っ新《さら》な紙に、ペンとインクを添えて差し出された。
「何て書いたら……」
「そうだな、名前がいい」
言われるままに、自分の名前を書く。続いてアカシュは、ロアデルの右親指をインクで汚して紙に押しつけた。
「なるほど。サインは偽物《にせもの》、拇印《ぼいん》は本物か」
証文と見比べて、うーん、と|唸《うな》る。
「どれ?」
トラウトやエイにも順次|回覧《かいらん》され、彼らもアカシュと同様の結論を出した。
「でも、私、こんな証文に拇印なんてつかないわ!」
それなのに、なぜ指紋が一致するのだろう。証文のサインは自分のものではない。だったら拇印だって別の誰かのものでなければ、つじつまが合わないのではないか。
「ロアデル。本当に、押した覚えがないのですね? 例えば、別の書類にでも受け取り代わりに拇印をついたとか、白紙に遊びで指紋をとってみたとか……」
淡々と、エイが質問した。ロアデルが嘘をついていると想定しているわけではなく、あくまで押捺《おうなつ》した事実があるかどうかの確認をしているようだ。拇印を先にとって、後で証文を作り上げてしまう悪質な手口もあるらしい。
「拇印《ぼいん》を押した覚えはありません」
ロアデルは、はっきりと告げた。
「私の両親、借金の保証人になって、店手放しても返せなくて、それで自殺したんです。だから、十歳まで育ててくれた叔母《おば》に、絶対に借金だけはするなって言われていたから……。拇印とかサインとかには、すごく気をつけているんです」
わかった、とアカシュがうなずいた。
「じゃあロアデルは、そうとは知らずに拇印をとられたんだ」
そう言いながら彼はロアデルの右手をとって、ハンカチで汚れた親指をそっと拭《ふ》いた。
「でも、そうなると君の恋人、もう見逃してやれないな」
「え……」
「君を|娼館《しょうかん》に売ったの、たぶん彼に間違いないよ」
静かに上げた顔。アカシュの黒い瞳は、冬の夜空のように冷たく澄んでいた。
4
ひねくれ者のアカシュが見越した通り、娼館の主人も一癖《ひとくせ》ある人物のようだった。
トラウトは指示通り、娼館にとって返し、周辺で張り込みを開始した。獲物《えもの》はその日の夜更け、人目を避けるようにして現れた。トラウトによると、娼館で見かけた男に引きずられるようにして来たというから、呼び出されたものと思われる。彼は、三時間ほどで店の外へ放り出された。
東方検断《トイ・ポロトー》にトラウトから報告が入ったが、エイは少し泳がせてから声をかけるように指示した。すでにアカシュは獄舎《ごくしゃ》にいる時間、ロアデルも役宅《やくたく》に帰されていた。
「彼……ユゴイだっけ、ちょっと痛めつけられたみたいだ」
翌朝、ロアデルが執務室に行くと、ラフト・リーフィシー姿のアカシュが言った。
「夜明け頃、あるアパートに寄ってね、血のついた服を着替えた。調べてみると、そこは独り暮らしの女性が住んでいる部屋だった」
「そう」
もう、何を聞いても驚かなくなっていた。気になる、ならない、の問題ではなく、知らない人の噂話《うわさばなし》を聞いているようにしか思えないのだ。
「それより、シイラからの差し入れを持ってきたんだけれど」
アカシュがリクエストしていたミルクプディング。持ち運べるように、大きなタルト|生地《きじ》の中にプディングを入れて焼き上げてくれた。
テーブルの上に置くと、アカシュとエイは子供のように目を輝かした。指ですくい取ろうとするアカシュの手を、エイが軽くパチンと叩いた。
ロアデルは小皿とナイフをエイに出してもらい、タルトを切り分けた。
(まったく……)
与えられるまでジタバタと足踏みをするのが、東方検断長官であるなんて、誰が本気で信じるだろう。
トラウトからの最後の報告が届いたのは、アカシュが二切れ目を食べ終わった時だった。|西方検断《エスタ・ポロトー》の役人が持参したメモには、走り書きでこのように書かれていた。
『ロアデルのアパート付近で声をかけた。予定通り、今から連れ帰る』
予定通り。
逮捕《たいほ》という形ではなく、あくまでトラウトは、以前会った人の良い西方検断の役人としてユゴイに声をかける。そして、妹を保護しているから引き取りに来るように、と|東方牢《リーフィシー》城へと誘う。友好的に、疑っている素振りなど絶対に見せることはなく。トラウトの腕の見せ所だ。
結果、偽《にせ》ラフト・リーフィシーことユゴイは東方牢城へとやってきた。
応対に出たのは、エイだった。
「ユゴイどの、ですね?」
執務室に招き入れるなり、開口一番、その男を本名で呼んだ。
「え」
呼ばれた彼は、瞬時に固まった。取り繕《つくろ》う間もないほどの不意打ちに、その人であると認めたも同然の反応しかとれなかったようだった。
「お待ちしておりました。私は東方の副長官で、エイと申します。どうぞ、お掛けください」
一度軽い急襲を加えた後に、エイは大切な客人を迎えるような態度をとる。ユゴイという名の男は、怖《お》ず怖《お》ずと勧められたソファに腰を下ろした。その隣《となり》にトラウトが、客人の向かいにエイが座る。予定通りの席順だ。
奥の間で息をひそめて様子を見守っていたロアデルは、ゴクリと唾《つば》を呑《の》んだ。隣にいるアカシュが「見えたか」と唇を動かしたのに、小さくうなずく。執務室を二分する扉に空けられた小さな穴を通して、その男の横顔がはっきりと確認できた。それは|紛《まぎ》れもなく、ロアデルの前ではラフト・リーフィシーを演じていたあの男だった。いつものように高そうな上着を羽織《はお》り、襟《えり》や手首の辺りからレースの飾りが覗《のぞ》いている。だが、下町のアパートで彼を見ていた時ほど、彼が輝いて見えなかったのはどうしてだろう。執務室のソファに浅く座る姿は、トラウトやエイに比べて安っぽい印象を与えた。
ロアデルはアカシュを見た。夢と現実が交差する。二人のラフト・リーフィシー。彼らが扉を挟《はさ》んだだけで、こんなに近く存在している。
震える肩を、アカシュは抱いてくれた。そして、扉の向こう側の世界を見るようにと、その眼差しで命じる。ロアデルは小さくうなずいて、それに従った。
「あの……」
しばしの沈黙に耐えかねたように、ユゴイは口を開いた。
「なぜ、私の名をご存じなのですか」
|道端《みちばた》で声をかけられ、ここまで連れてこられた彼としては、当然の疑問であろう。その声をかけてきたトラウトは、数日前に一度チラリと会っただけの人間だ。
「ああ……」
エイは意味ありげにほほえんだ。
「あなたのことは、少々調べさせてもらいましたので」
こんな含み笑いをされては、かなり調べ上げられたように思うであろう。しかし実のところ、まだ名前くらいしかわかっていない。
「私は、何の|嫌疑《けんぎ》でこちらに連行されたわけですか?」
「嫌疑? ……おやおや」
困りましたね、とエイは軽く笑った。
「私たちがそのようなこと言いましたか? それとも何か、覚えでも……」
「い、いや」
ユゴイは目をそらした。そして、あわてて取り繕《つくろ》う。
「東方検断の副長官がお出ましとあっては、たとえ身に覚えがなくても不安になるってものじゃないですか。妹を引き取りにくるように言われたが、ここにはいないようだし」
落ち着きなく、キョロキョロと周囲を見回す。扉の方に彼の視線が向けられた時、ロアデルは目があった様な気がしてドキッとした。自分の姿が、相手には見えていないことを忘れていた。
「ロアデル嬢は、確かにこの城にいます」
「では――」
すぐに連れて帰ります、とユゴイが腰を浮かしかけると、隣《となり》からぬっと伸びた手がその肩をつかんでソファに戻した。先ほどから無言で座っていたトラウトは、客人を引き留めるための要員だったらしい。
「あなたにロアデルをお渡しするのは、少し問題があります」
エイは冷たくほほえんだ。当然ユゴイは、その理由を聞き返す。
「あなたが、ロアデルの兄ではないからです」
「な、何を根拠に!」
「お忘れのようですが、私たちはあなたの本名まで知っているのですよ。ロアデルという名の妹がいるかどうかだって、調査済みだと考えられませんか?」
「うっ……」
そこでユゴイは黙ってしまった。
ロアデルは扉の向こう側を、息を詰《つ》めて見守っていた。しかし傍《かたわ》らのアカシュには、まるで緊張感がない。この部屋にあわてて隠れた時に一緒に片づけたプディングを、いつからか音をたてずに食べていた。
目があって、食べるか、と手振りで聞かれたが、そんな気になれるわけもない。プディングは残り半分をきっている。ロアデルは再び覗《のぞ》き穴に顔を近づけた。
「何のために、妹でもない女性を妹と偽《いつわ》って捜していらっしゃるのですか」
エイが、丁重《ていちょう》に尋問《じんもん》する。ユゴイの額から、汗が噴き出していた。彼がこんな表情をするところなど、ロアデルは今まで見たことがなかった。
「何のため……と?」
一度、彼は真意を探るように聞き返した。
「ええ。何のためにロアデルを捜しているのか、お聞きしているんです」
女のような顔だからといって、エイを侮《あなど》ってはいけない。答え方一つで、とんでもない落とし穴にはまる。そのことが、ユゴイにもわかってきたようだった。
ほんの少し彼は考え込み、やがて大きく息を吐いて顔を上げると、思いがけない言葉を口にした。
「愛しているからに、決まっているじゃないですか」
「!?」
声をあげそうになったロアデルの口を、辛《かろ》うじてアカシュの手がふさいだ。そのため彼が持っていたプディングが床に落ち、クシャッという小さな音をたてた。
ユゴイが扉の方に顔を向けたが、エイはそのまま話を続けた。
「今、愛している、とおっしゃいましたか?」
「え? ……ええ」
何もなかったようなエイの態度に、ユゴイの視線は自《おの》ずと扉から遠ざかる。
「愛しているから、捜しているんですよ。それ以外にありますか?」
ロアデルは思わず、扉を開けて飛び出しそうになった。それを、アカシュは抱きしめて止めた。
「兄と名乗ったのは、その方がすんなり引き渡してもらえそうだったからです」
同情をかうような目で訴える男に、エイは重ねて質問した。
「でも、西方検断の馬車を止めたのはすごい度胸だ。それも、愛ゆえですか?」
「もちろん」
「じゃあ、何か? 妹は頭が弱いと言ったのも、それも愛しているからだというのか!?」
黙って聞いているのがたまらなくなったというように、トラウトが口を挟《はさ》んだ。
「この……、でたらめばかり言いやがって!」
熱くなって興奮気味の彼を、エイが「まあまあ」となだめる。それから、少し思案して告げた。
「申し訳ありませんが、西方検断副長官どの。しばし、席を外してください」
「何だと!?」
トラウトは、ユゴイに向けていた怒りを反転させた。
「私に命令する気か?」
「ここに彼を連れてくるところまでがあなたの役目です。ロを挟まれては、うまくいく交渉もうまくいかなくなる」
エイは|眉《まゆ》を下げて微笑した。
「エイ……君は、私に喧嘩《けんか》を売っているのか」
「お好きに解釈してくださって結構。ただここが東方検断である限り、あなたにも従ってもらいます」
「覚えてろよ……!」
というわけで、捨てぜりふを残してトラウト退場。アカシュたちとは反対の扉を開け、廊下《ろうか》へと去っていった。
扉が閉まったのを確認してから、エイが言った。
「あの方は、少々頭が固くていけませんね」
「どういうことです? 交渉、とは――」
何が起きたのかわからないユゴイは、探るように質問した。エイはソファの上で、大きく伸びをした。もったいぶって、すぐには言わない。相手を焦《じ》らしてから、頃合いを見計らってつぶやく。
「困っているんですよ」
「え……?」
「実は。……私どもの長官、ご存じですか?」
「ラ、ラフト・リーフィシー」
名前だけは、と口ごもりながらユゴイは答える。
「いたくロアデル嬢にご執心《しゅうしん》でね」
「は?」
「彼女の面倒をみたいと」
長官の我がままに窮《きゅう》する副官が、そこにいた。深いため息、|眉間《みけん》のしわ。彼の演技は、|完璧《かんぺき》だ。
彼は、語った。
ラフト・リーフィシーは、東方牢城に侵入|未遂《みすい》をして囚われた若い娘を気に入って、愛人にしたいと言っている。あまりに夢中になりすぎて、仕事もせずに役宅《やくたく》に籠《こも》っているという始末。ぜひとも、譲ってもらえないだろうか、と。
「譲る、ですって……」
ユゴイ自身も、|狐《きつね》につままれたような顔をして聞き返した。
「ええ」
プラチナ・ブロンドの狐は、真っ直ぐに獲物《えもの》をとらえてうなずく。
「もちろん、ただでとは言いません。それなりのお礼はさせていただくつもりです」
「お礼……!?」
「ああ、でも無理でしょうね。あなたは、彼女を愛しているんですから」
「ええ……まあ」
歯切れの悪い返事だ。彼も、東方検断に呼び出されて、こんな話を聞かされるとは思ってもみなかったのだろう。
そこでエイは話題を変えた。
「面白い娘ですね。捕まった当初、自分はラフト・リーフィシーの恋人だ、なんて喚《わめ》いていたんですよ」
これは圧力だ。お前がラフト・リーフィシーを騙《かた》っていたことを知っているんだぞ、と暗に仄《ほの》めかしている。これではユゴイは、ロアデルを置いたまま勝手に逃げられはしないだろう。
押したり引いたり。容疑者から供述《きょうじゅつ》をとるときのエイのやり方なのかもしれないが、とても二十歳《はたち》そこそことは思えない。
「は、はあ……。少し、妄想癖《もうそうへき》があるもので」
暑くもないのに、客人は額の汗を拭《ふ》いた。
「ああ。西方の副官も、そんなようなことを言っていましたねぇ」
「――」
ユゴイの目が泳ぐ。膝が揺れる。何か考えているのだろうか、うつむいたかと思うと今度は指先が落ち着かない。煙草《たばこ》を求めているらしいが、ここには灰皿がなかった。
「……ですか」
やがて消え入りそうな声が、ユゴイから聞こえてきた。
「え?」
「いくらくれるんですか、って聞いているんです」
開き直ったのか、今度は大きな声で返ってくる。ロアデルは耳を疑った。さっき、愛しているといったその口で、恋人の値段を聞いている。
「いくらとは、礼金のことですか?」
「それ以外に、ありますか」
「直接的ですね。大いに結構」
いくら欲しいのか、エイは逆に尋ねた。すると、百リーヤオという答えが返ってきた。
「ずいぶん、ふっかけましたね」
「ロアデルには借金がある」
「ほう?」
「ロアデルを好きにしたければ、まず彼女の借金を引き受けてもらわなければ困るんだ」
「彼女の? あなたのじゃないんですか?」
ユゴイの顔色が、一瞬変わった。だが金がかかっているせいか、すぐに持ち直して駆け引きを始める。
「……どっちだって同じことさ。あいつが身体で返すはずだった金なんだから」
とうとう地が出て、言葉遣いは乱れ放題だ。
「嫌なら、いいんだぜ? スケベ長官に、ロアデルのことは|諦《あきら》めてもらえよ」
「そう、出ましたか」
「ロアデルか金かを、期日までに|娼館《しょうかん》に渡さないとひどい目に遭《あ》うからな」
「なるほど。彼女を捜していたのは、そういうわけでしたか」
娼館から借り受けた証文《しょうもん》に記《しる》されていたロアデルの借金は、確か五十リーヤオだった。だが、エイは知らない振りをして|承諾《しょうだく》した。
「わかりました。お支払いしましょう」
ただし、とエイは続けた。
「こちらは相当な金を出すわけですからね、後々のためにも一筆書いてもらいましょうか」
「一筆?」
「百リーヤオと引き替えにロアデルから|一切《いっさい》手を引く、と書いてください」
立ち上がり、少し離れた机から紙とペンを持ってくる。
「いいのかよ。そんなの残したら、人身売買の証拠になるぜ?」
「見つからなければいいんですよ。それより一筆もらっておかなければ、今後あなたがまた無心《むしん》にこられそうで心配ですから」
どうぞ、とペンを差し出した。だが、まだユゴイは躊躇《ちゅうちょ》している。そこでエイは再び机に戻り、五十リーヤオ硬貨袋を二つ持ってきてテーブルの上に置いた。ユゴイの喉《のど》が、ゴクリと音をたてた。
「どうしました? もしや、字が書けないのですか?」
「馬鹿いえ」
ペンが引ったくられる。
「そこまで言われたら、一筆書くけどな」
カリカリとペンが動く。
「これをネタに、あんたが俺を逮捕《たいほ》したりしたら許さないからな」
カリカリ、カリカリ。
「約束しますよ。私はあなたを逮捕したりしません。何のために西方のトラウトを追い出したと思っているんですか」
出来上がった受け取りを、エイは息を吹きかけて乾かした。そして、何げなく言った。
「あなたは、これで娼館の主人に顔向けができる。袋叩《ふくろだた》きにも遭《あ》わずに済むし、その上しばらくは遊んで暮らせる」
「何言いたいんだよ」
硬貨袋に手を掛けながら、男は斜《はす》に見上げた。
「ただ、知りたいだけです。最後に教えてくれませんか? あなたにとってロアデルは、何だったのでしょうか?」
彼は金を手にして気が大きくなったのか、少し考えてからだが、ちゃんとエイの質問に答えた。
「|暇《ひま》つぶし」
「え?」
「これといって美人じゃないが、人を疑うってことを知らないからな。たまに構ってやれば、それで満足して洋服作ったり飯こしらえたり。至れり尽くせりさ。女房持ちだって嘘つけば、結婚も望みやしない、扱いやすい女だよ。本当はもう少し可愛《かわい》がってやろうと思ったけれど、|娼館《しょうかん》に通い詰めた借金で首が――」
彼は最後まで言えなかった。言葉を|遮《さえぎ》るようにして、突然ドアが大きな音をたてて開いたからだ。
ユゴイは音の方を見た。そして見る見るうちに、|驚愕《きょうがく》の表情に変わる。
そこに、たった今彼が捨てた女が、ナイフを握りしめて立っていたのだから。
5
合図があるまでは、奥の部屋で隠れている約束だった。
だが彼の一言葉に、頭の中は真っ白になってしまった。そして、気がついた時にはロアデルは飛び出していた。
止めようとするアカシュの手をすり抜けると、そこにちょうどシイラのプディングがあった。目に飛び込んだ銀のナイフを無我夢中で握りしめた。アカシュは、ナイフを奪い取ろうとしたが、ロアデルは自分に向けて伸ばされた手に、とっさにプディングを乗せてかわし、そしてそのままドアを思い切り開けたのだった。
「殺してやる」
ロアデルは男めがけて駆け寄り、その喉《のど》もとにナイフを突きつけた。
ユゴイの側《そば》にいたエイ、音を聞いて駆けつけたトラウト、そしてアカシュ。予想だにしていなかったロアデルの行動に男たちは出遅れ、誰も止めることができなかった。
「これ以上、何か言ったら……!」
喉を切り裂いてやる。
きっと、どんなにひどい男かを教えてくれるために、エイは語らせたのだろう。でも、もういい。最低な男。十分わかった。
「ロアデル、落ち着け!」
手にプディングをのせたまま、アカシュが叫んだ。
「止めないでよ。この男を殺して、私も死ぬんだから!」
汚い言葉で、ロアデルの過去を汚《けが》した罪。
美しい思い出。やさしかった日々。
それらをすべて、この男が汚した。
ロアデルの愛した人は、この男ではない。恋人は、もうどこにもいない。この男が、殺したのだ。過去も未来も。ロアデルが大切にしていたすべての物を、笑いながら奪っていった。
(それなのに、なぜ)
「あの人じゃないくせに、何で同じ顔しているのよ……!?」
ロアデルは銀のナイフを振り上げた。悔しい。この男が生きていることが。
思い出と一緒にすべてなくしてしまおう、そう思った。自分のこの身体も、愛した記憶とともに。
「ひいぃぃぃ……っ!」
ユゴイが頭を抱えてうずくまった。
「だめだ、ロアデル!」
アカシュが叫んだ。
「愛していたなら、殺しちゃいけない!」
ピクリと、ロアデルの手が止まった。
「君は、彼を愛していたんだろう?」
どうしてだろう。アカシュの声だけが、心に真っ直ぐ届く。
(愛していたなら……?)
ロアデルは、ゆっくり振り返った。
「どうして……?」
どうして、愛していたら殺してはいけないのだろう。愛していたからこそ、許せないことだってあるのではないだろうか。
「君のためだよ」
アカシュはゆっくりと近づいてくる。
「私のため?」
「そうだ。こんな男を庇《かば》っているわけじゃない」
彼は静かな瞳で、ロアデルを見つめていた。
「愛していた人間を手に掛けると、一生その恋から解放されないよ」
最後は憎しみだけしか残っていなかったとしても、愛していた頃の思い出は残っているのだから。――彼は、そう言った。自分だけが年をとり、恋人の面影《おもかげ》だけはいつまでも色あせない。
「不思議なものでね、人の心はいい部分だけをとっておくんだよ。そして時々取り出しては、必要以上に磨《みが》くんだ」
「アカシュ……」
まるで、自分が経験したことのように、アカシュは言うのだ。彼こそが、過去に愛《いと》しい人を手に掛け、解放されることのない恋の最中《さなか》にいるかのように。
「今、君が自分の手で彼の命を絶ったとしたら、愛していた頃の思い出しか残さないだろう。そして、いずれ偽者《にせもの》だった彼の姿こそが真実になってしまう。そんな真実でいいのか? 君の人生を染めてしまうほどの価値が、この男にあるのか?」
「価値……?」
ロアデルは、男を見た。
「ロ、ロアデル……」
ガタガタと震えている。最低な男だ。
「認めたくないから殺すのではなく、君は認めなければならない。この男の本当の姿を」
ラフト・リーフィシーであると信じていた彼と、この男は別人なんかじゃない。やさしい言葉をかけたのも、甘い口づけをくれたのも、この唇。さっきの汚い言葉を吐いたのと、同じ唇なのだ、ということを。
「彼の筆跡は、証文《しょうもん》の筆跡と一致しています」
どこからか、エイの声が聞こえた。
「……私を|娼館《しょうかん》に売り飛ばしたのも、やっぱりこの人なの……ね?」
そうだよ、とアカシュが答える。
「気づかないうちに拇印《ぼいん》をとるなんてこと、ベッドを共にする恋人くらいしかできないんじゃないか」
「助けてくれっ!」
「『助けて』……?」
何を言っているんだろう、この人は。ロアデルだって、何度助けを呼んだか知れないのに。
「私は、店に出されそうになって、それでもあなたのために逃げて……。牢屋《ろうや》に入れられても、あなたの立場を真っ先に考えて……」
言ったところで、この男にはわからないかもしれない。ロアデルがどんなに愛していたか、あの時どんなに会いたかったか。
「それなのに、あなたはまた私を売ろうとして……」
情けない。
ロアデルは、フッと笑った。
女遊びでできた借金を、自分の女に身売りさせて相殺《そうさい》しようとしたくせに、ナイフを向けられたくらいで取り乱している。
「もう、……いいわ」
ナイフが男からそらされる。
「確かに、この男にはそれだけの価値がないから」
力が抜けて、ロアデルはその場にヘタヘタと尻をついた。自分が起こした行動の大胆さに、今更ながら震えがきた。
「ありがとう。ロアデル」
持っていたプディングをテーブルの上に置いて、アカシュがロアデルの手に触れた。
「……どうして、お礼を言うの?」
「君が彼を刺したら、私は君を逮捕《たいほ》しなければならなかった」
極度の緊張からか手が固まっていて、なかなかナイフは離れなかった。アカシュはあの大きな手で、ナイフごとロアデルの手を包んで温めてくれた。それで、ロアデルはボロボロと涙を流した。温かくて、涙が止まらなかった。
「は、早く、この女を、逮捕してくださいよ!」
ロアデルと同じく床に尻もちをついていたユゴイは、助け起こしにきたトラウトに必死で訴えた。
「逮捕するのは、お前の方だよ」
トラウトは鼻で笑うと、廊下《ろうか》に向かって指を鳴らした。すると|西方検断《エスタ・ポロトー》の若い役人が、数名わらわらとやってきて、|手際《てぎわ》よくユゴイの身体に縄を掛けた。
「えっと、容疑は取りあえずラフト・リーフィシーの名誉毀損《めいよきそん》でいいか。証拠が揃《そろ》ったら別件で逮捕してやるからな。……ロアデル、証言してくれるね?」
「ええ」
ロアデルはしっかりとうなずいた。彼の罪を、最後まで見届けてやる。
「なっ、逮捕しないって約束しただろう!?」
縄で暴れることもできないユゴイは、足だけバタバタと動かした。
「そんな約束、知らん。したとしたら、エイだろう」
トラウトはニヤニヤと笑った。
「えっ!」
「ああ、確かに約束しましたね。だから、私は逮捕してないじゃないですか。約束なんかしなくても、最初からトラウトどのにその役は譲るつもりでしたけど。今月は西方の月番ですし」
悪意のかけらもないような美しい顔をして、飄々《ひょうひょう》と答えるエイ。一度トラウトを退場させておいたのは、このためだ。
「|騙《だま》したな!」
「その言葉、あなたなんかに言われたくないな」
冷ややかに一暼《いちべつ》するとエイは、背を向けた。
「お、覚えておきやがれ!」
「連れていけ」
トラウトが命じると、西方検断の役人たちはユゴイの縄を引いた。トラウトが部下をぞろぞろと連れてきてしまったものだから、犯人一人を四人が連行するという、すごい大がかりな図になってしまった。
「待った」
途中、アカシュが立ちはだかった。
「何だ、お前?」
彼が誰だか知らないユゴイは、顎《あご》をしゃくる。アカシュはニコッと笑って尋ねた。
「ミルクプディングは好き?」
「えっ?」
いつの間にか手にしていたプディングを振り上げ、そのまま偽者《にせもの》の顔にお見舞いした。
「畜生、何しやがる!」
縛《しば》られているから為《な》す術《すべ》もなく、もろにプディングを顔で受ける。あまりの早業《はやわざ》に、一同|呆気《あっけ》にとられて見ているしかなかった。
「お味は?」
「こんなもん、うまいわけ、ないだろう!」
「そう。君も、覚えておくがいい。これがスケベ長官[#「スケベ長官」に傍点]の大好物だということをね」
お陰で、元恋人は最悪にして最高の顔でロアデルの|脳裏《のうり》に焼き付くことになったのだ。
「ロアデル。こんな敵討《かたきう》ちしかできなくて、ごめんね」
指についたプディングをなめながら、アカシュが笑った。いつか、牢城《ろうじょう》から見上げた青空に似ていた。
*
ユゴイと、トラウトの部下たちが消えた執務室で、ロアデルは放心状態のまま床に座り込んでいた。
エイとトラウトは検断間で交わされる書類について話し合っている。アカシュは、自分でやったことの後始末で床を拭《ふ》いていた。風景が、いやにはっきりと見える。
「ロアデル?」
アカシュが、顔を覗《のぞ》き込む。顔を手で覆《おお》い隠そうとして、やめた。自分がどんなに腫《は》れぼったい顔をしているかわかったけれど、そのままそれが今の自分なのだ。
「……ラフト・リーフィシーさま」
すんなりと、その名が出てきた。ロアデルの中に住んでいたラフト・リーフィシーが消え、やっとその事実を認められた。
「アカシュでいいよ」
「じゃあ、……アカシュ……さま……?」
「何だよ、それ」
アカシュは苦笑すると、ロアデルの隣《となり》に腰を下ろした。
「ありがとうございました」
正面に向き直って、頭を下げた。
「何が?」
「いろんなこと」
筆頭《ひっとう》は、めぐり会ってくれたこと。ロアデルの人生に関わってくれたこと。
「いろんなこと、ね」
そうつぶやいて、アカシュは黒髪をかき上げた。彼の肘《ひじ》が、ロアデルの肩をかすめた。体温が感じられて、不思議にまた涙が流れてきた。
「あれ……、どうしたんだろう」
涙は、かれることがないらしい。さっきあんなに泣いたのに、まだボロボロとこぼれている。アカシュは指でそれを拭《ぬぐ》ってくれた。そのまま彼の顔が大きくなる。
(え……?)
軽いキスをされたとわかったのは、唇同士が音をたてて離れたから。
「な、何するんですかっ」
ロアデルは驚いてアカシュを見た。ちょうどそのシーンを目撃していた約二名も、あんぐりと口を開いたまま立ちつくしていた。
アカシュは、何で騒いでいるかわからないように首を傾《かし》げる。
「泣いている女がいるのに、キスして慰めてもやれない男は最低だ、って怒られたことがあったから」
「誰に……」
「初恋の人。あれ、……普通、唇じゃないのか?」
そう一言、キョトンとして言った。
慰めるためのキス。
でも、それは夢から覚めるための呪文《じゅもん》となった。
心の中に、さわやかな風が吹き込む。
ロアデルは、久しぶりに神さまに感謝した。
アカシュに会わせてくださってありがとう、――と。
落着
「やっぱりさ、|娼館《しょうかん》なんてあっちゃいけない」
トラウトが言った。
「思った通り、あの娼館の主人、かなり悪党だったんだ。高級娼館なんていって相場の倍の金をとっていたばかりか、つけで遊ばせておいて、ある程度借金がたまったら急に厳しく取り立てるようになる。それこそ殴《なぐ》る蹴《け》るなんて当たり前、って感じでね」
何が「思った通りだ」と思いながらも、ラフト・リーフィシーことアカシュは耳を傾けていた。この友人は一時、|噂《うわさ》の娼館の主人を「話がわかる」などと形容していたのではなかっただろうか。
「それで生命の危機を感じさせるわけか」
「そう。命が惜しければ、金返せ。金がなければ、商品にできる女を差し出せ、ってわけだ。ご丁寧《ていねい》に証文《しょうもん》の作り方まで指導してね。ひどい話だと思わないか?」
「思うさ」
と、いうことは、ロアデルは被害者の中でも比較的幸運な方だったのかもしれない。同じような手口で借金の形《かた》にとられた娼婦たちの中には、訴訟《そしょう》はおろか証言をすることすら拒《こば》んだ者たちが多かったことだし。|騙《だま》されたとはいえ、身を売ることを生業《なりわい》にして生きてきた彼女たちが、解放された後は一日も早く過去を忘れたいと願うのは当たり前かもしれない。そんな背景もあって、|娼館《しょうかん》の主人は財産没収、五年の流刑《るけい》という比較的軽刑に留《とど》まってしまった。ユゴイ・ブルバーは王都からの永久追放。
「そうそう、そのロアデルだけれどね」
トラウトは思い出した、と膝を打った。
「気になって様子を見にいったんだけど、彼女あのアパートを引き払っていた」
「引き払った?」
「そう」
仕立ての下請《したう》けの仕事も、数日前に辞《や》めていたらしい。
「彼女は腕もいいし小金も貯《た》めていたから、どこかに店でも出すんじゃないか、って仕立屋《したてや》は言っていたけど。貴族の振りしていた男につくしていたんだから、金なんか残ってないと思うけれど」
「そうだな」
かわいそうに。留守中に、部屋の周りを人相の悪い男がうろついたり、検断の役人たちが出入りしたりと、いろいろあったから、悪い|噂《うわさ》でもたって、それでアパートには居づらくなったのだろう。一言相談してくれれば、いいアパートを紹介してやることもできたのだが。
(いいや)
しかし、アカシュは思い直した。ロアデルはただ、過去を切り捨てただけなのかもしれない。自分で決めて、自分の足で歩いて――。そこに、もはや過去の自分が進んで関わることはない。だからこそ、彼女は何も言わずに消えたのだ。
「あ、もうこんな時間だ」
トラウトがソファから立ち上がった。
「忙しそうだね」
「ああ。あの事件以来、父上が少々私のことを見直してくれてね。会議とか、視察とかに、私を伴《ともな》ってくれるのだ」
「それは、よかったじゃないか」
アカシュは一緒に歩いて、友のために扉を開ける。
「君たちのお陰だ」
トラウトは、ほんの少し照れくさそうに笑った。
「君が、がんばったからだろう?」
「そうかな? ハッハッハッ」
スキップをしながら廊下《ろうか》を去っていく二つ年上の友人。その後ろ姿を見ながら、アカシュは考えた。
(あの単純で素直なところが、彼の短所であり長所でもあるんだろうなぁ)
トラウトと入れ違いのように、エイは帰ってきた。
「あれ、お客さまでしたか?」
テーブルに二つ出されたカップを見て尋ねる。彼は未決囚《みけつしゅう》に刑の宣告をするため、獄舎《ごくしゃ》まで出向いていたのだ。
「トラウトだ」
「ああ、そうですか」
エイはまめまめしく、汚れたカップを片づけ始めた。
「それじゃあ、やっぱり彼が連れてきたんですね」
「え?」
「あれ……。でもカップは二つか」
一人ぶつぶつと考えているので、アカシュは部下の肩をつかんで、誰の話をしているのか詰問《きつもん》した。
「え……? 今、ロアデルに似た娘を見たので――」
「ロアデル!? どこで!?」
「……もちろん、この城で、ですけど」
アカシュは執務室を飛び出した。
庭を歩いている後ろ姿を、建物の中から見ただけ。遠かったから見間違いかもしれないとエイは言ったが、アカシュは確信していた。それは、ロアデルに違いない。
検断庁舎の建物を出て、獄舎の庭を目指した。まさか刑場などうろついているとは思えなかったので、探すべき場所は限定されていく。庭ならば、たぶんマイザの所。そう考えたところで、アカシュは自分の格好を思い出した。
「くっそ……」
今、彼はラフト・リーフィシーだった。マイザの前に出るためには、アカシュでなければならない。そうかといって、執務室にとって返して着替えたとしても、|囚人《しゅうじん》で一人庭を徘徊《はいかい》したりしたら不審に思われないわけがない。
「エイに助けてもらうか……。それにしても、面倒くさいな。いっそ、このまま行ってしまうか。もしかしたら、マイザも気がつかないかもしれないし」
思案《しあん》していたところに、ちょうどロアデルが向こうから歩いてくるのが見えた。
「ロアデル!」
「あら」
乾いた洗濯物をたくさん手にした彼女は、当たり前のように「こんにちは」と|挨拶《あいさつ》をした。
「……何、してるの?」
「洗濯」
そんなことは、見ればわかる。
「何で」
「何で、って……お城で、洗濯女を募集していて」
ちゃんとした人が見つかるまで手伝いに来ているのだ、と彼女は説明した。
「普段使わない部分を使うから、筋肉痛になっちゃって。体力は半人前でも、ほつれた衣服なんか繕《つくろ》えるから重宝《ちょうほう》がられているんです」
「――て、いつから来てるんだ?」
アカシュは叱るような目をして尋ねた。ロアデルは少し首を竦《すく》める。
「七日」
「七日!? 君は七日間も、私に黙ってここにいたっていうのか!」
大声に驚いて、ロアデルが洗濯物を落としそうになる。アカシュはあわてて、|崩《くず》れそうな布の塊《かたまり》を手で押さえた。
「怒らないでくださいね」
彼女は頬《ほお》を紅潮《こうちょう》させて言った。
「何かをしてもらいたくて、……アカシュさまを頼ってきたのではないんです」
「じゃあ、何で」
さあ、とロアデルは笑う。
「今はただ、この城から離れがたくて。だから、理由はこれから考えようと思っているんです」
アカシュは、|呆《あき》れてため息をついた。
「若い娘が|東方牢《リーフィシー》城に居たいなんて、普通、思うかな」
「そうですか?」
それにしても、彼女は見違えたように楽しそうに笑う。
「……半分、持ってやるよ。ただし、途中までだけどな」
「お役人に、見つかると大変ですものね?」
「そういうこと」
アカシュはロアデルから洗濯物を半分取り上げた。高い塀《へい》に囲まれて空の小さな城ではあるが、それらからはむせ返るような太陽の|匂《にお》いがした。
ロアデルがそうしたいなら、気が済むまでここにいればいい。
いつの日か。彼女が何かに満足して、自らこの城を去っていく時まで。
「――で、どこに引っ越したんだ? この近く?」
獄舎の通用口の手前で、アカシュは尋ねた。
「ええ」
ロアデルは斜め前方を指さした。
「シイラの部屋なんです。夕方は、役宅《やくたく》で彼女の手伝いをしています」
「えっ?」
「だから、獄舎《ごくしゃ》と役宅を行ったり来たり。……あ、アカシュさまと一緒ですね」
「え!?」
度肝《どぎも》を抜かれて立ちつくすアカシュの手から洗濯物を取り上げると、ロアデルは笑いながら建物の方へと駆けていった。
「ロアデル!」
大声で呼ぶと、彼女は一度振り返って言った。
「スリピッシュ!」
ロアデルの満面の笑みとともに、その言葉は小さな青空に響きわたった。
あとがき
こんにちは、今野《こんの》です。
またもや、コバルト文庫に「同じ間取りの別の部屋」を借りてしまいました。新シリーズ、ってやつです。
「スリピッシュ、何それ?」
そんな声が、どこからともなく聞こえてくるような気がします。これを書いているのは発売前だから、もちろんそれは空耳なんですけれど。
例えば。
新刊案内でタイトルと発売日をチェックしている人の口から、あるいは本屋で何気なくこの本を手にとった人の口から。近いところでは、直接私に新刊のタイトルを尋ねた友人知人たちの口から、六行前の言葉がつぶやかれるであろうことは、鮮明な映像で目に浮かぶわけです。
実際にコバルト編集部でも、そういう声が聞かれたらしいですし。いちいち説明しなきゃいけないタイトルでごめんね、担当女史(と、一応フォロー)。
では、いったいスリピッシュとは何なのか。
それは本文に書いてあります。――そう片づけてしまえば、元も子もない(笑)。
別に秘密にしなければならない事情もないので、もったいぶらずに説明してしまいますね。
スリピッシュとは、このお話の舞台ワースホーン国の王都エーディックに流行している「チョギー」というゲームの、ルールとでもいいましょうか技の名前です。その決まり事が、主役《ヒーロー》(だと私は思っている人物)と重なるためにタイトルに決めました。ちなみに『スリピッシュ!』はシリーズ名です。ですから、第二弾はたぶん周スリピッシュ! ―○○○―』となります。『夢の宮』と同じですね。
ところでチョギーは、格子《こうし》が描かれたゲーム盤の上で駒《こま》を動かして二人で遊ぶ一種の戦争ゲームです。西洋でいうところのチェス、東洋の将棋《しょうぎ》に、似ています。ルーツが同じかもしれません。ちなみにチェスも将棋も、インドのチャトランガというゲームが先祖だということですので、その辺りがすごく怪しい気がします。
さて、新シリーズということでまず心に決めたこと。それは、長生きするキャラクターです。
といって、老人をテーマにする、というわけじゃありませんよ。老《お》いらくの恋、もいいけど、コバルトだしね。
私はデビュー以来『夢の宮』というシリーズをもっていまして、ほとんどのキャラクターが一回で消えてしまうんです。一話完結だから仕方ないとはいえ、これには作者もけっこう寂しい思いをしています。
その上、このところ読者のひいきキャラが死ぬというパターンが続きまして、どうもいかんな、という感じがありました。――というわけで、ここはぜひとも安心して応援できるキャラクターを生み出したい、そういう願いが私の中でムクムクとわき起こってきた次第です。それも、めちゃくちゃかっこいいヒーローを、ね。
ですからアカシュ、ラフト・リーフィシー、エイ、そしておまけでトラウト。誰か一人でも、気に入ってもらえるとうれしいです。
トラウトはどうか、というご意見もあるでしょうが、意外とそういうキャラの方がうけたりするんですよ。だって『夢の宮』でも、主役より脇の中年|親父《おやじ》を気に入ってくれるファンがいたりするんだもの。今後シリーズが続けば、更に個性的な男性キャラを登場させたいと企んでいます。
今回はチラリとしか描かれていませんが、アカシュは若いながらも|東方牢《リーフィシー》城の|雑居房《ざっきょぼう》で牢名主《ろうなぬし》をしています。いずれ獄舎《ごくしゃ》を舞台に進行する物語の時に、その一端をお見せできるかもしれません。
サブタイトル「東方牢城の主」は、ですから検断庁舎のラフト・リーフィシー、そして獄舎《ごくしゃ》のアカシュの双方を指しているわけです。
アカシュは何をやらかして|懲役《ちょうえき》刑を受けているのか、その辺もこれから徐々に解き明かしていこうと思います。
こっちのシリーズは、『異邦のかけら』シリーズに比べると比較的早く第二弾をお届けできるのではないでしょうか。
さてさて。
今回イラストをお願いした操《みさお》・美緒《みお》さんは、第7回コバルト・イラスト大賞で準大賞をとられた方です。残念ながらご本人にはまだお目にかかったことはないのですが、操さんのイラストとの出会いは去年の秋。たまたま用があって編集部を訪れた時のことでした。
ちょうどその頃、雑誌の読み切りでイラストを描いてくださる方を決めなくてはならない段階で、「参考までにご覧になりますか?」というお言葉に甘えてイラスト大賞で最終候補まで残った作品のコピーや原画を拝見させてもらったのです。すでに賞は決まっていたとはいえ、発表前だから、これはいわゆる青田《あおた》買《が》いってやつでしょうか(笑)。
そこで、操さんのイラストに一目《ひとめ》惚《ぼ》れしました。発表号に掲載されていたイラストとは別の、数枚あった応募作のうち一枚が構想段階だった今回の『スリピッシュ!』のイメージと重なったのです。
「この人、この人、この人に描いてもらいたいっ!」
と、私。
「えっ、どの話をですか?」
冷静な担当女史。
そう、もとはといえば雑誌で発表するイラストを探していたはずでした。それは現代の女子校を舞台にしたほんわかした物語。私が手にしていた操さんのイラストはというと、美女がこちらをにらみつけている(ように私には見えた)もので、どちらかといえばシャープな感じでしたから。
「えっと……お奉行《ぶぎょう》さまの方」
タイトルも、キャラクター名も、検断《ポロトー》という組織名もまだ形になっていなかった頃、私はこの話を仮に「お奉行さま」もしくは「牢名主《ろうなぬし》」と呼んでいたのでした。もちろんちょんまげのイメージじゃありません。単に相当する言葉が探せなかったから、便宜《べんぎ》上そう呼んでいただけなんですけどね。
二月には『夢の宮』が決まっていたし、そうなると順当に行けば次は五月。五月刊のイラストならば半年以上も先になるのでしたが、操さんに了解していただき描いていただける運びとなりました。
原稿を読んでもらった後、私のファックスに操さんの描いた大量のラフが届きました。そこにはいろんなパターンのアカシュやエイ、ロアデルやトラウトの姿。ラフなのに、エイの美しさっていったら、……もう(至福の時)。
ちなみに、送ってもらったラフを見て、担当さんと電話で打ち合わせした時、「A(パターン)のエイ」とか「Bのエイ」といった会話になって頭がこんがらがっちゃいました。音だけ聞くと「AのA」「BのA」みたいに聞こえたの、ちょっとおかしかったです。
操さん。いろいろご迷惑、そしてご苦労をおかけして申し訳ありませんでした。きっとシリーズ化しますから、今後ともよろしくお願いします。名前に同じ文字が入っているので、何か親近感をもってしまいますね(笑)。
ところで雑誌の方ですが、やはりその場でイメージ通りほんわかしたイラストを描かれる方に一目《ひとめ》惚《ぼ》れして(浮気者ですね)、無事掲載されました。というわけで、いつも好きな人ばかりに描いてもらって、私ったら幸せ者だなあ、と思う今日この頃なのです。
さて、次回は『夢の宮』です。
この予告を入れておかないと、絶対に「『夢の宮』は終わりですか?」という手紙が届くと思うので一応書いてみました。
手紙といえば最近、プリクラを貼ってくれているものが目につくようになりました。やっぱり浸透しているんですね。どんな人が書いてくれたのか一目瞭然《いちもくりょうぜん》なので、楽しませてもらっています。サイズも手頃だし、シールっていうところがいいですよね(特大写真とか送られてきたら、さすがに困ってしまう)。
それに、みんなとても可愛《かわい》いし。――と、書くと、担当さんにまた「今野さんって女の子好きですよねぇ」と言われてしまいそうですが(男の子も好きなんですけどね)。
この本が出る頃は、春真っ盛りですね。
寒がりで冷《ひ》え性《しょう》の私は、これからの季節を考えるとうれしくてたまりません。
読者の夢を壊しかねない凄《すさ》まじい防寒スタイルで、私は毎年の冬を乗り切っています(靴下四枚|履《ば》きでしもやけになるなんて、信じられます? ここ、東京なのに!)。
活動期がゴキブリと同じなんて情けない。いえ、それこそ作品のイメージ|妨害《ぼうがい》ですから、せめて熊の冬眠くらいにしておきましょうか。
人間の適応する季節は生まれ月に関係する、っていう説、正しいような気がします。
私の小説に春や夏が多く登場するのも、きっとそういう理由からかもしれません。
今野 緒雪
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〒101-8050 東京都千代田区一ツ橋2―5―10
集英社コバルト編集部 気付
今野緒雪先生
底本:「スリピッシュ!―東方牢城の主―」コバルト文庫
1997(平成9)年5月10日第1刷発行
2003(平成15)年2月10日第2刷発行
入力:suk
校正:suk
2005年03月20日作成
青空文庫ファイル:
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