お釈迦様もみてる
学院のおもちゃ
今野緒雪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)山を突っ切る険《けわ》しい道
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)現在|祐麒《ゆうき》は
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)学院内に、そんないいもの[#「そんないいもの」に傍点]が
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[#挿絵(img/02_000.jpg)入る]
もくじ
後事の種
失せ物もらい物
悩むな!
嵐の前の平和
推理と事実の落とし穴
Don’t stop!
事後のご褒美
あとがき
[#改ページ]
[#挿絵(img/01_004.jpg)入る]
[#挿絵(img/01_005.jpg)入る]
[#地付き]イラスト/ひびき玲音
[#改丁]
お釈迦様もみてる 学院のおもちゃ
[#改ページ]
目の前に、二つの道が伸びている。
右は、山を突っ切る険《けわ》しい道。
左は、山を避《よ》けて大きく迂回《うかい》した平坦《へいたん》な道。
白の源氏《げんじ》か紅《あか》の平氏《へいし》か。
ここ花寺《はなでら》学院高校に在籍《ざいせき》している限り、いつでもその所属がついて回る。
人生とは、取捨選択の繰り返し。
選ばなければ、先に進めぬ。
一つを選ぶということは、即《すなわ》ち一つを捨てること。
もちろん、人生の岐路《きろ》とて、必ずしも二択《にたく》とは限らない。
行く手に三つの道が伸びていることも。
けれど。
ここでの三つ目は、前人未踏《ぜんじんみとう》のけもの道。
今日も少年は、黒の生徒手帳を胸に挿《さ》し、道なき道をひた走る。
[#改ページ]
「たとえ負けても、生徒会でこき使われたとしても、それに見合う、いやそれ以上のご褒美《ほうび》がおまけで付いてくるだろう」
――それは、アンドレ先輩との勝負に関《かか》わる予言だった。
結局、勝敗に関してはうやむやになってしまったが、現在|祐麒《ゆうき》は自《みずか》ら志願して生徒会でこき使われている。
おまけに付いてきた「仲間」とともに。
彼らが、いわゆるご褒美だとしたら。
予言した柏木《かしわぎ》先輩、恐るべし。
[#改ページ]
後事の種
校門を入って少し行くと現れる分かれ道の前に、華奢《きゃしゃ》で小柄な少年が立っている。
真新しく、そして少し大きめに作られたねずみ色の学ラン姿は、一見、女の子がコスプレしているようにも錯覚《さっかく》しそうだが、ここは男子校。学院内に、そんないいもの[#「そんないいもの」に傍点]がうろうろしているはずもなかった。
もちろん、見覚えのある祐麒《ゆうき》は片手を上げてから小走りで駆け寄った。前方にいた源氏《げんじ》だか平氏《へいし》だかの生徒を、軽い会釈《えしゃく》とともにさらりと追い抜く。
「おはよ、ユキチ」
「おはよう、アリス」
朝の挨拶《あいさつ》を交わし合うと、二人は向かって左の道を並んで歩きだした。平坦《へいたん》で長い平氏の道。一緒にいるアリスこと有栖川《ありすがわ》金太郎《きんたろう》が、平氏だからだ。
「そういえば、昨日トイレで聞いたんだけれど」
「うん?」
アリスは、平氏であれば自然耳に入ってくる情報を、惜《お》しまず祐麒に教えてくれる。源氏からも平氏からも情報が流れてこない祐麒を見ていて、「これはいけない」と奮起《ふんき》したらしい。まるで異国の人に言葉を教えるように、やさしく、かつ丁寧《ていねい》に。コネもツテもない無所属の人間には、こんなにありがたいことはないのだが、最近はまるでお母さんかお姉さんのようになりつつある。
祐麒がアリスに一人称「私」を解禁したせいで、女性化に拍車《はくしゃ》がかかったのだろうか。だとしたら、責任を感じずにはいられない。いや、祐麒は一向に構わないが、生徒たちの中で違和感を覚えたり反発したりする者がいないとも限らないから。
「おーっす。ユキチ、アリス」
再び源平《げんぺい》の道が合流する地点で、ちょうど源氏の山道を下ってきた高田《たかだ》に会った。
「おはよ、高田君」
「おっす、高田。眠そうだな」
並んで歩く高田がカバのような大あくびするのを見て、祐麒は尋《たず》ねた。
「おおよ。寝不足でな」
短髪の頭をガシガシかきながらつぶやく高田は、心なしか目も赤い。
「そりゃ……似合わないな」
「ねー」
アリスと祐麒は、顔を見合わせて笑った。
アリスや祐麒が標準より小さいから目立つということもあるが、高田|鉄《まがね》は高校一年生にしては大柄な方だ。性格も大らかで大雑把《おおざっぱ》、何かあってもくよくよするタイプには見えないのだ。
「部活がさー、決まんねぇんだよー」
「あ」
高田は自分に合った運動部を求めて、いくつかテスト入部をしてみたけれど、どれも今ひとつ決め手に欠けて未《いま》だ本入部まで至《いた》っていないのだった。ガタイだけはいいのだが、球技のセンスがあまりないようなのは、見ていて祐麒にもわかった。
「どーしよー。源氏なのに体育会系の部活に入らないんじゃ、話にならないじゃん」
「いっそ文化部にする?」
歓迎するよ、と紅《あか》い生徒手帳を胸に挿《さ》したアリスが笑う。平氏の本拠地は文化部である。
「白い生徒手帳のままで? それって、ユキチよりヤバクね?」
生徒会室に出入りするようになってからこっち、アリスもそうだが高田も祐麒のことをユキチと呼ぶようになった。あだ名で呼ばれると、より一層近しい間柄《あいだがら》に感じられて嬉《うれ》しくはある。ただし、忘れてはいけないのは、その呼び名をつけたのは誰であろう生徒会長であって、それを考えると内心複雑なのだ。
「黒い生徒手帳でいるのは、何もユキチだけじゃないでしょ。他にもたくさんじゃないけれど、各学年に何人も存在してる。現に小林《こばやし》君だってそうだし」
アリスは、この場にいないもう一人の仲間の名を挙げた。一緒に生徒会の下働きを志願した、祐麒のクラスメイトである。
「小林みたくさ、目立たなきゃいいんだよ。けどユキチはさー、本人望んでないのに目立っちまうからなー」
目立たなければ、気にされない。気にされなければヤバクない。高田の理屈は、そういうことらしい。ならば祐麒が「ヤバクね?」のは、黒い生徒手帳だから、だけではないわけだ。
「今は一部の生徒しか知らないけどさ、生徒会長の烏帽子子《えぼしご》になったなんてことが大っぴらになったら、全校生徒を敵に回すことになるかもしれねーじゃん。源氏と平氏、片足ずつ乗っけて花寺《はなでら》学院高校に君臨《くんりん》しているスーパースターの子分が、どっちからも爪弾《つまはじ》きされている黒手帳って。反発あると思うぜ?」
高田は、思ったことをストレートに言う。まったく悪意もない。歯に衣《きぬ》着せぬだけに、直球で心の真ん中に届いてしまう。
そうなのだ。
生徒会長|柏木優《かしわぎすぐる》が気まぐれで祐麒の生徒手帳に悪戯《いたずら》書き(実は花押《かおう》と呼ばれるサインだったらしいが、そんなこと知らん)したせいで、知らない間《ま》に二人の間に烏帽子親子《えぼしおやこ》の関係が成立してしまっていた。
現生徒会長は、確かにカリスマである。そうだ、親衛隊《しんえいたい》から昼飯当番までいるくらい。高校入学の折には、源氏からも平氏からもお誘いがあったという噂《うわさ》も聞いた。
「大丈夫よ、ユキチ。少なくとも私たちは味方だから。全校生徒が敵、にはならないって」
アリスの言葉に、高田も大きくうなずいた。しかし。
「全校生徒分の、二人か三人が味方……」
この場にいない小林を入れていいのかどうか、今ひとつ自信がない。そもそも、あいつなんで仲間に入ってくれたんだ?
「私の烏帽子親《えぼしおや》の日光《にっこう》・月光《がっこう》先輩だって、ユキチの味方になってくれるって。それに、そうだよ、ユキチには百人力の光《ひかる》の君《きみ》が」
「僕がどうしたって?」
背後から声がして、思わず三人は叫んだ。
「うぎゃっ!」
「……朝から『うぎゃっ』か。ご挨拶だな」
振り返って確認するまでもなく、そこにいたのは花寺学院高校生徒会長、光の君こと柏木優先輩なのであった。まあ、花寺学院高校の生徒である以上、高校校舎付近にいたっておかしくはない。誰より早く登校して生徒会の仕事をする、なんてこと、毎日のわけがないのだ。
「おはよう諸君」
しかし、さわやかな笑顔を振りまく人だ。すらりとした長身、整った顔立ち、それだけじゃなくて文武両道《ぶんぶりょうどう》っていうんだから、神様は不公平だ。熱狂的ファンがいるのも無理からぬこと、と客観的にはうなずける。――なんて、感心している場合じゃない。
「おっ、おはようございますっ」
とにかく、祐麒たちは整列して頭を下げた。生徒会長|云々《うんぬん》以前に、彼は二学年上の先輩である。
「で?」
すました顔で歩きながら後輩たちを抜きつつ、柏木先輩はもう一度尋ねた。僕が何だというのだ、と。
「あのっ。光の君は、何があってもユキチの味方ですよね。何せ、烏帽子親なんですから」
アリスが、後を追いかけながら尋ねた。すると、柏木先輩は。
「うーん」
と、立ち止まり一度空を見上げてから、クルリと振り返った。
「ユキチが、何かしでかす予定でも?」
話しかけたアリスではなく、自分の方に視線が向けられたので、祐麒は首をぶんぶんと横に振った。
「一般論です」
横から、高田が言った。
「ふむ、一般論か。じゃあ……基本味方ってことでいいんじゃないかな。だって烏帽子親っていうのは、烏帽子子が何かしでかしたら、その尻《しり》ぬぐいまでしなきゃならないわけだからね。まあ、さすがにユキチが犯罪に手を染めたりしたら、僕とて庇《かば》いきれやしないから? 結果、見限ることになるだろうけれどな」
柏木先輩は、鞄《かばん》を脇《わき》に挟《はさ》むと、右手のひらを広げ、そこに左手でグジャグジャと書く仕草《しぐさ》をしてみせた。どうやら、祐麒の生徒手帳に書かれた花押を上から塗りつぶす、というパントマイムをしているらしい。それを見ながら祐麒は、本当にグジャグジャってすれば烏帽子親子の縁《えん》は切れるんだろうか、なんてぼんやり考えていた。
「そうですか」
アリスは、ちょっとガッカリしたようにうなずいた。どうやら、「全面的に味方だ」「任せておけ」という答えを期待していたようなのだ。しかし、柏木先輩の言葉で失望することはないと思う。アリスの烏帽子親である、日光・月光先輩は「任せておけ」と言ってくれるかもしれないのだ。
「それより、いいのかい?」
柏木先輩は唇《くちびる》の端を上げた。
「は?」
「こんな所で時間を潰《つぶ》して」
「こんな所で……時間を潰して……?」
祐麒、アリス、高田の三人は、自分たちが立っている場所と腕時計を確認して「あーっ!」と叫んだ。いったい、自分たちは昇降口の前でどれくらい話し込んでいた? せっかく早めに登校してきたというのに、これでは何もならないではないか。
源平道の合流地点ではまだまばらだった生徒の数が、急にゴロゴロと増えたように見えた。突然地底から人が湧《わ》いてくるわけはないから、そうと気づかないくらい夢中で話し込んでいたということか。
「何、僕はここで立ち話していても一向に構わないよ。アンドレにお茶を出してもらう時間が、多少後ろにずれ込むだけの話だから」
最後の「だから」を聞き終わらないうちに、一年生三人は先輩に頭を下げて駆けだした。
「お先に失礼しますっ」
下足場《げそくば》に向かってわらわら走っていると、後ろから「ハッハッハ」という無責任な笑い声が聞こえてきた。
「遅くなりました!」
部屋に飛び込むなり、三人はその場で頭を下げた。床に対して足は垂直、頭から背中にかけては平行。いわゆる、最敬礼ってやつだ。
遅い。いったい、今何時だと思っているんだ。――そう言って叱《しか》られるものと覚悟して来たのに、なかなか叱咤《しった》の声がかからない。
「……?」
恐る恐る頭を上げてみると、そこにいたアンドレこと安藤礼一《あんどうよしかず》先輩(二年生)は、笑顔すら浮かべて祐麒たちを迎えている。
「おやおや。もう来ないのかと思っていたよ」
高校校舎の二階にある生徒会室は、すでに掃除《そうじ》も済み、開け放たれた窓からは春風と朝の暖かい日差《ひざ》しが入ってきてさわやかだ。
「かわいそうに。三人ともそんなに息を切らせて」
発した言葉だけ耳にしていれば、やさしい先輩ととれなくもない。たとえばこれが初対面だったら、祐麒だってそう思ったに違いない。けれど、知り合って十日も経《た》てば、そんな甘《あま》っちょろい先輩ではないことくらい理解できる。
その証拠に、眼鏡《めがね》の中にある目を見てみろ。横わけした長い前髪の下に隠れているから左目はわかりにくいが、右目はまったく笑っていない。大きく上がっている口角《こうかく》に、騙《だま》されてはいけないのだ。
「何も頼んで来てもらっているのではない。お前ら、もとい、君たちがど――――しても手伝いたいと頭を下げたから、仕方なく出入りを許可したのだ。違ったかな?」
ほら、ネチネチと始まった。
「違いません」
祐麒とアリスと高田は、再び頭を下げた。言い訳らしい言い訳など持ってはいないが、とにかく口答えはしない方が賢明《けんめい》だ。すみませんと頭を下げて、嵐が過ぎるのを待つのが正解。
とはいえ、こういう攻め方をする時のアンドレ先輩は、ちょっとばかし機嫌がいいのだ。祐麒たちがしくじったことは、イコール彼の喜びであるらしい。
「花寺学院高校生徒会の仕事を手伝いたい生徒は、そこら中にいるんだよ。やる気がないなら、やる気がある人間に譲《ゆず》ってあげたらどうかな」
いつもは「それくらいで許してやれよ」と間に入ってくれるランポー先輩が、どういうわけか不在のようで、またそのことがアンドレ先輩をのびのびとさせているのだろう。ちなみに日光・月光先輩は、来たり来なかったりとかなり自由な人たちなので、この場にいなくても誰も
「なぜ」とは思わない。
そろそろ膝《ひざ》の裏がヒクヒクしてきた頃、頭頂部の先、つまり礼を向けているアンドレ先輩の方角から、アンドレ先輩以外の声がした。
「他に用事がないようでしたら、お先に失礼させていただいてよろしいでしょうか。今日は日直なもので」
聞き覚えのある声に思わず頭を上げると、そこにはもちろん聞き覚えだけでなく、見覚えもある顔が。
(……こっ、小林っ)
不覚にも、今の今まで気がつかなかった。アンドレ先輩にばかり気持ちが集中していたから、部屋の中を隅々《すみずみ》まで見回す余裕がなかったのだ。考えてみれば、祐麒たちと行動を共にしていなかったのだから、小林が生徒会室に来ていたっておかしくはないのだ。
「ああ、ご苦労だったな。君が来てくれて助かったよ」
「いえ。また、手伝いに参ります」
アンドレ先輩も小林も、頭を下げている三人をいっそ気持ちいいほど無視してくれる。しかし。
(誰が日直だって?)
お前、一週間前に日直やってたじゃないか、と喉《のど》もとまで出かかった言葉を、祐麒は押しとどめた。嵐が過ぎ去るのを待っている時に、別のことを騒ぎ立てるべきではない。そんなことをしたらかえって、話題をすり替えてこの場をうやむやにするつもりだと誤解されかねないから。それも計算の上なのか、小林は三人に声をかけることもなく、すました顔で生徒会室を後にした。日直のことなど、同じクラスの祐麒にしかわからないことだと、高をくくっているのだろう。
遅れてきた三人の代わりに部屋の掃除をしておいてくれたわけだから、小林には感謝すべきなのかもしれない。けれど、なぜか素直に「ありがとう」という気持ちにならないのはなぜだろう。逆に、心に浮かぶ言葉は「何だあいつ」。そもそも、どうしてこういうヤツが、アンドレ先輩との勝負の際祐麒に味方して友達宣言してくれたのだろう。やっぱり謎だ。
(俺たち、いつまでこの姿勢でいるんだ?)
高田がコソッとつぶやいた。察するに、彼も足に疲れが出てきたらしい。
(でも、勝手にやめちゃまずくない?)
アリスの意見はごもっとも。やめてよし、との言葉がないのにやめたら、相手に攻撃の材料を渡すようなものだ。
(じゃ、予鈴《よれい》が鳴ってこの部屋出ていくまでずっとこれか?)
この、朝拝《ちょうはい》前の時間中にアンドレ先輩の口から「やめてよし」が発せられるのは期待できない。遅く来たから予鈴までもうそんなに時間はないだろうけれど、つらい時間というのはいつもより長く感じるものだ。神妙《しんみょう》にしている手前時計を見るのもはばかられるが、十分から十五分といったところだろうか。
諦《あきら》めかけたその時、小林が出ていったばかりのドアが開いた。誰って、思わず頭を上げようとした祐麒に、部屋に入ってきた人物は「そのまま」と言って駆け寄ってきた。そして、言葉通りそのまま祐麒の背中に両手をつく。
ぴょん。
馬跳《うまと》びの要領で、 一瞬のうちに飛び越えられる。
ぴょん。ぴょん。
続いて、高田とアリスも飛び越えられた。
三人済むと、その人物はアンドレ先輩のもとまで進み出て、「濃い日本茶」とひと言告げた。もうおわかりだろう、入ってきたのは柏木先輩だ。
「あ、はい、ただいま」
全校生徒の中で二番目においしいお茶をいれられる男と自負しているアンドレ先輩は、リクエストをもらったからには、さっそく敬愛する生徒会長のため準備に取りかかる。いそいそいそいそ。その様子を満足そうに眺《なが》めた後柏木先輩は祐麒たちに視線を向けて「よし」と言った。
「えっ!?」
アンドレ先輩は慌《あわ》てたようだけれど、振り返った時にはもう遅い。最敬礼をとっていた一年生たちはお許しが出たとばかりに、姿勢を戻して思い思いのポーズで身体《からだ》のコリをほぐしていたのだった。
「おい、ユキチどこに行くんだ」
昼休み、弁当包みを手に教室を出ようという祐麒を、小林が呼び止めた。
「学食ホールか?」
じゃ、一緒に行くよ、というノリで自分の弁当を引っさげて歩き出す小林。
近頃祐麒は、アリスや高田たちと昼飯を食べるようになったから、特に予定がなければ昼休みを学食ホールで過ごす。クラスが違うし、源平の氏《うじ》という共通点もないから、そうでもしないとなかなか仲間内の話もできないのだ。
とはいうものの、学食ホールのテーブルもご多分に漏《も》れず源氏と平氏に分かれているから、氏境《うじざかい》というか、二氏の中間|辺《あた》りの席に何となく集合する、というのが近頃祐麒たちの習慣だった。別に約束しているわけではないから、行かなくても構わない。
そんなわけで小林は、当然祐麒は学食ホールに行くものと思ってついて来たのだろう。仕方なく、祐麒は扉の前で一旦《いったん》止まった。
「違うから」
「違う? じゃ、どこに?」
キョトンと聞き返す小林。こいつ、なんでこう無邪気になれるんだ?
「どこでもいいだろ。ついてくるなよ。お前は教室に残って、日直の仕事でもしてろ」
嫌味のつもりで言ってやったが、小林は一向に悪びれない。
「あ、朝のあれ? やだな、あんなの一々気にしていたわけ? 嘘《うそ》も方便《ほうべん》、ってやつだろ」
「俺にはあれが、つかなきゃいけない嘘には思えなかったけどな」
「ふうん。そんなものかなぁ」
笑いながら首を傾《かし》げるクラスメイトを残して廊下に出た、はずなのに、振り切ったはずのクラスメイトはピタッと祐麒についてくる。
「で?」
「何か、『で?』だよ」
仕方なく、また足を止める。
「最初の質問に答えてないだろ、ユキチ」
どこに行くんだ、と。しつこい。
「……生徒会室」
祐麒は、バカ正直に白状した。嘘つきの小林相手だから、方便返しをしたってよかったんだけれど、そうなると平気で嘘をつく人間と同類になってしまう。
「何で? お前、昼休みは行かないことにしてたんじゃなかったの?」
小林は、ごもっともの指摘《してき》をした。その通り。祐麒は朝と放課後はほぼ毎日生徒会室に通っているものの、昼休みにはあまり顔を出さない。
朝も放課後も平気で入り浸《びた》っているくせに、なぜに昼休みだけは別なのか。
それは自分自身の小さい気重《きおも》が主たる原因で、いつの間にかまるで決まり事のように昼休みは行かなくなった。また、祐麒がいない方が生徒会室の昼休みは平和な気がして遠慮している、というのもある。
しかし、そうも言っていられない。
「今朝、出遅れて何もできなかったし」
仲間に引きずられる感じで生徒会室に出入りするようになった、小林はいい。祐麒は大本《おおもと》なのだ。生徒会を手伝わせて欲しいと自《みずか》ら志願した以上、その責任は果たさなくてはならない。だから朝できなかった分を取り返すために昼休みに行く、それだけだ。
話を聞いて、小林はわかったようにうなずいた。
「なるほど。点数|稼《かせ》ぎか」
「はぁっ?」
なるほど、じゃねーよ。点数稼ぎって、何だよ。正直、むかついた。なのに、理論的にうまく抗議することができなかった。
弁が立つ立たない、の問題ではない。
点数稼ぎじゃないなら何なのだ、と。自分の行動の原動力がいったい何からできているのか、祐麒には説明できなかったのだ。
「ぬけているようで、結構抜け目ないんだな。ユキチは」
論破《ろんぱ》はできないが、小林に腹がたつのは変わらない。ムカムカを抱えながら、祐麒はまた歩き出した。小林にかかずらっていては、せっかくの昼休みがつぶれてしまう。
「気になるならお前も生徒会室に行けばいいだろ」
一緒に来い、とは言いたくなかった。だが、小林の行動を制限する権利もない。結果、そんな言い方をするのが、今の祐麒にはギリギリ精一杯なのだった。
しかし、小林はついてこなかった。
「いいって。邪魔しないよ」
手をひらひら振って、祐麒を見送る。
「なぜだ? お前も、点数稼ぎとやらに参加すればいいじゃないか」
「今朝の一件で、俺のポイントは上がっている。今お前と一緒に行動なんてして、せっかくの好印象が薄まっちまうのはもったいない」
「……」
何だ、こいつ。一人廊下を歩きながら、祐麒は思った。
アンドレ先輩との勝負の際友達宣言してくれたのも、もしかして――。
「わっ」
廊下の曲がり角で祐麒が鉢合《はちあ》わせしたのは、二年生のランポー先輩だった。
「お、ユキチ」
「どうしたんです」
ここまで、全速力で走ってきたみたいに見えた。行き交《か》う生徒が多い昼休みの廊下、よくもまあこんな危険行為を、と感心してしまう。もしかしたら、いやもしかしなくても、髪を振り乱して走る生徒会役員の姿に恐れをなして、みんな避《よ》けてくれたのだろう。
「ちょうどいい。お前、盾《たて》になってくれ」
「は?」
「追われているんだ」
追われている、って。首を傾げる暇《ひま》も与えず、ランポー先輩は祐麒の腕をつかんで引き寄せ壁際へと連れていった。どうやら、壁と祐麒の間に挟まって、追っ手が通り過ぎるのを待とうという腹らしい。
「俺には無理ですって。日光・月光先輩じゃないですから」
二メートルの長身を引き合いに出すこともないが、どう考えても、ランポー先輩の方がでかい。身長だけでなく、横幅だってそうだ。どちらかというと小柄な祐麒が、隠れ蓑《みの》になれるわけがなかった。
「いいから。自然に。友達同士立ち話しているみたいにしてろ」
そうまで言われては仕方ない。祐麒は不自然に見えない程度、ランポー先輩を隠すように立った。しかし、友達同士の立ち話ってどんなのだ。いざ考えてみるとわからなかったので、肩に手をかけてみた。
「いいぞ」
ランポー先輩は軽く屈《かが》んで押さえつけられているというポーズを作る。すると立ち話というより、むしろプロレスの技の掛け合いみたいになる。ちょうどその時、二人の脇をバタバタと数人の生徒が走り去った。
「この角を曲がったはずだが」
「走るのは彼の得意分野だからな」
「こっちは四十五分間なんてもたないよ」
追っ手は口々に言いながら、その次の角へと消えていった。
戻ってくることも考えて、しばらくの間プロレスごっこしてから、ランポー先輩は祐麒から離れた。
「助かったよ」
「どうしたんですか」
「それがさ」
多少なりとも関《かか》わりをもってしまった祐麒には説明しないと悪いと思ったのか、ランポー先輩は軽くため息を吐いてから口を開いた。
「彼らに無理な頼まれ事をされてね。はっきり断ったんだが、あまりにしつこくて。休み時間のたびに追いかけっこみたいなことはしたくないが、これじゃ落ち着いて昼飯も食えないだろ」
どんな頼まれ事かまでは言わなかったが、相手も必死ということだろう。どっちかが根負けするまで追いかけっこが続くとしたら、精神的にも肉体的にも厳《きび》しいことこの上ない。
「しかし、あんなんで騙《だま》せちゃうんですね」
プロレスの技の掛け合いなんて、お互いに動いているから、顔だって完全に隠れてはいなかったはずなのだ。
「だから彼らには、表面しか見えていない、ってことさ」
ランポー先輩は祐麒に軽く手を振ると、追っ手が消えたのとは逆、つまり自分が来た方向へと戻っていった。
「誰かと思えば、お前か」
生徒会室で祐麒の顔を見るなりそんな悪態《あくたい》をついてくるのは、アンドレ先輩と相場《そうば》が決まっている。
「だが、それでもいないよりましだ」
思わず回れ右したくなった祐麒だが、自分の着ている学ランの裾《すそ》がアンドレ先輩の手中に収まってしまった以上、もう逃げようがない。
「この散らかった部屋を、今すぐ片づけろ」
相変わらず高飛車《たかびしゃ》な。しかし、言われて部屋を見回すと、なるほどこれはすごい荒れようである。
まず床。目につくのは、散乱したおびただしい書類。少し視線を移すと、棚にあったはずの鉢植《はちう》えが落下して、陶器の破片と、土と、根っこのむき出しになった枝の折れた観葉植物の集合体、という変わりはてた姿を発見できる。ひっくり返ったゴミ箱のゴミは、グジャグジャに撒《ま》き散らかされていた。
それ以外にも、テーブルクロスは破け、筆記用具がぶちまけられ、椅子《いす》の脚《あし》には真新しい傷が見られた。
[#挿絵(img/02_031.jpg)入る]
「いったい何があったんです」
他には人がいなかったから、祐麒は仕方なくアンドレ先輩に問う。
今朝ここに来た時には、いつもと何ら変わらなかった。いつもと変わらないというのは、日常的に乱雑な部分はゴチャゴチャしていて、片づいている所はすっきりしている、そんな状態である。そして「そんな状態」をキープしつつ、露出している部分を掃《は》いたり拭《ふ》いたりするのが生徒会室の掃除のやり方だった。でもって、今朝は遅れた祐麒やアリスや高田の代わりに、小林が行った。――それが、前回までのあらすじである。
「口を動かすなら手も動かせ」
「はあ」
アンドレ先輩が書類を拾っているので、祐麒は箒《ほうき》とちりとりを持ってきて床の土を掃き取った。それをビニール袋に移して、かわいそうな植物を載《の》せて応急処置し、ゴミを拾ってゴミ箱に戻した。
「急げ、グズグズしていたら光の君がいらしてしまうだろう」
これでも急いでいるのだ。けれど二人で片づけるには、ちょっとやそっとの時間では無理なほど散らかっている。かといって、学食ホールにいるであろうアリスや高田を呼びに行く時間で、もう少し何かをどうにかできそうなのだ。
土で汚れた床をモップで拭いていると、テーブルクロスを新しく替えていたアンドレ先輩が突然笑い出した。
「ハハハハハハハ」
面白《おもしろ》いことを思い出したというより、もうやけっぱちで笑うしかない、そんな感じの笑いだった。
「今日に限って弁当当番が遅いのは、運が良いのか悪いのか」
「幸か不幸か、柏木先輩もまだですしね」
「その点だけは、間違いなくラッキーだな」
ハハハハハ。立派《りっぱ》なのは、笑いながらも手は動かしているということだ。
柏木先輩が来ていて、部屋が荒れていて、昼食の準備ができていない。たぶん、それがアンドレ先輩の想定したであろう最悪の事態だ。
「四時間目が終わって来たら、こうなっていたのだ」
「え?」
「だから、片付けの手を止めずに聞け」
「あ、すみません」
アンドレ先輩は朝拝が始まる直前にこの部屋を出て、その後は昼休みまで立ち寄っていないという。授業と授業の間の短い休み時間には、余程《よほど》のことがない限り来ることはない。まあ、そうだろうな。
「誰かがその間に?」
「だが、鍵《かぎ》はかけて出た」
そして四時間目の授業を終えてやってきたアンドレ先輩は、鍵を開けて中に一歩足を踏み入れて、この惨状《さんじょう》を目にしたわけである。
この部屋の出入り口は一カ所で、鍵は決められた人間しか持っていない。もちろんスペアキーはあるが、職員室の中で管理されている。
どういうことだろう、と祐麒が手を止めて考え込んでいると、アンドレ先輩は言った。
「しかし、窓の鍵は開いていた」
「え?」
祐麒は二つある窓を見た。片方は閉まっているが、向かって左側の窓は観音《かんのん》開きで全開している。
「鍵はかけなかったが、窓は閉めていったのだ。犯人はこの窓から侵入し、この窓から出ていったのだろう」
「でも、ここ二階ですよ」
「二階だが、すぐ隣は階段で、その窓は一階と二階の中間だ。窓|枠《わく》に足を引っかければ、こっちの窓に届かないとは言い切れない。また、窓のすぐ側《そば》まで桜の枝が張り出してきている。身軽なヤツなら、そこから易々《やすやす》と飛び移れるだろう」
いつの間にか、アンドレ先輩の手も止まっている。否《いな》、やっつけ仕事ではあるが、取りあえずは生徒会長がここで食事をできるくらいの体裁《ていさい》は整え終えたのである。祐麒もモップを片づけ、観葉植物と土が入ったビニール袋を机の陰《かげ》に隠した。
「けど、何のために?」
生徒会役員への嫌がらせか、それとも何か捜し物でもあって、結果このような状態になったのか。
「わからん」
ならば、アンドレ先輩にさえわからないことを、祐麒があれこれ推理しても無駄である。
「散らかっていたのは、さほど重要ではない書類だったし。無くなっているものがあったとしても、我々はすぐに気がつかないかもしれん」
それはそうだ。たとえば小さな消しゴム一つ消えていたとして、消しゴムを使う段にならなければわからない。
「とにかく、これは窓の鍵をかけ忘れた俺の責任だ」
「でも」
放課後下校する時ならまだしも、日中ほんの数時間ならばおおもとの扉に鍵をかけたら、中の窓まで鍵をかけないことだってありじゃないか、と祐麒は思った。一般住宅じゃないんだし、校舎内ならば人目があるから奇行をすれば嫌でも目立つ。セキュリティが甘い、と頭ごなしに責められるものではないのではないか。
「いいから。お前は何も言うな。光の君には、俺からちゃんと報告する」
ものすごい勢いで迫られたので、祐麒はつい迫力に負けて「うん」とうなずいた。そんな時、ドアを開けて部屋に入ってくる者があった。
「体育の授業が長引きまして、遅くなりました。申し訳ありません、申し訳ありません、本当に、申し訳ありませんっ」
何度も何度も、まるで水飲み鳥のおもちゃみたいに頭を下げる。状況から察するに、生徒会長の弁当当番であろう。息も絶え絶え、ここまで走ってきたといった感じだ。
「ああ、ご苦労」
いつもならば「遅い」と一喝《いっかつ》するであろうアンドレ先輩も、柏木先輩が来る前に片づけ終われたことに気をよくして、笑顔さえ浮かべて弁当箱を受け取りテーブルの上にセッティングした。お小言《こごと》一つもらえないとなると、かえって恐ろしく思えるわけで、弁当当番は「いつ雷《かみなり》が落ちるだろう」と縮《ちぢ》みあがっているようだ。背後の扉が元気よく開いただけで、ビクッと大きく肩を上下させた。
「悪い。待たせたか」
満《まん》を持《じ》して、生徒会長柏木優先輩の登場である。
「いえ、当番も今来たところですので」
すぐにお茶を、と水場に向かうアンドレ先輩。ついさっきまで、髪を振り乱して部屋の片づけ&掃除をしていた人にはとても見えない落ち着き様。
「福沢《ふくざわ》。手が空《あ》いているなら手伝え」
「あ、はい」
呼ばれるままにアンドレ先輩のもとに行くと、流し台の脇にある戸棚を開き、中から四角い包みを出して渡された。心なしか先輩がホッとして見えるのは、部屋は荒らされたがその包みは無事だったからであろう。
「これを、光の君の向かいの席に置いて、包みを開け」
「はい」
言われたとおりにしていると、やっと視界に入ったのか、柏木先輩は椅子に座りつつ今更《いまさら》ながら言った。
「おや、ユキチもいたのか」
「ええ、まあ」
昼休みに生徒会室にいることがちょっと居心地《いごこち》悪かったので、祐麒は目を伏せて作業に没頭《ぼっとう》した。
さて、風呂敷《ふろしき》包みを解くと、出てきたのは重箱みたいな蒔絵《まきえ》黒塗りの箱だった。小振りだが、ちゃんと二段重ねになっている。これが弁当箱だとしたら、それに見合うだけの中身はかなり豪勢なものと思われた。しかし、このゴージャス弁当(たぶん)がセッティングされたのは柏木先輩の前ではなく、向かいの席なのだ。柏木先輩の前には、たった今当番が持参した大降りだがごく普通の弁当箱が「ここが自分のテリトリー」とばかり居座っているのだ。
「あの、あれは」
テーブルを離れアンドレ先輩に尋ねると、急須《きゅうす》から湯飲み茶碗《ぢゃわん》に焙《ほう》じ茶を注ぐ手も止めずに鼻で笑われた。何だ、そんなことも知らずに生意気言っていたのか、と。
「光の君が柏木家からお持ちになったお弁当である」
「へ?」
だって弁当当番がいるんだろう、なのになぜ、って、当然の疑問であろう。
「だから、弁当当番は光の君の弁当を準備し、光の君の弁当をありがたくいただく。時間が許せば、ここで歓談《かんだん》しながら昼食をとる、というわけだ」
「……何だ」
それじゃあ、単なる取り替えっこじゃないか。一方的に昼飯を貢《みつ》がせているのかと思っていた。そのことにどうしても納得いかなくて、でも生徒会の下働きを買って出たからには批判ばかりもしていられなくて、でもって言いたいことも言わずに我慢《がまん》しているのも心身によくないから、昼休みには生徒会室に近寄らないようにしてきた。でも、取り替えっこだったら、大賛成とまではいかないが、異を唱《とな》えるものでもない。
「だから、お前は何も見えていないってことさ」
アンドレ先輩は、盆に二つの湯飲み茶碗を載せてテーブルの方まで歩いていった。香《こう》ばしい湯気をたてた茶碗は、取り替えたばかりのテーブルクロスの上にそっと置かれる。この部屋の長と、真向かいの席だ。
「遠慮していないで、君も座りたまえ」
柏木先輩に勧《すす》められて、弁当当番はおずおずと着席した。以前ここで会った生徒とは違って場慣れしていないというか、もしかしたら新人なのかもしれない。クラスは違うが、一年生のようだった。
「ユキチとアンドレも、一緒にテーブルにつきたまえ」
「はあ」
「ぐずぐずしていると昼休みも終わるぞ」
邪魔していいのかな、と思って弁当当番を見ると、ちょっとホッとした顔をしている。カリスマ生徒会長と差し向かいで食事するのだ、相当あがっているようだった。何をしてくれなくても、同じテーブルに他の人がいるだけで、多少は緊張もやわらぐものだろう。だから、祐麒は二人からできるだけ遠い席を選んで座った。アンドレ先輩も湯飲みを一つ手にして祐麒の隣りの席に着き、自分の弁当を開いた。嫌われている祐麒のお茶は、当然のように用意されていない。自分でいれにいってもよかったが、何となくアンドレ先輩が不機嫌になりそうなのでやめた。
「御仏《みほとけ》と皆さまのおかげによりこのご馳走《ちそう》を恵まれました。ありがたくいただきます」
柏木先輩の音頭《おんど》で、皆|一斉《いっせい》に「いただきます」と合掌《がっしょう》する。祐麒もつられて合掌した。高田やアリスと一緒に食べる時はやらないことが多いが、誰かが食前の挨拶をしたならついそれに倣《なら》ってしまう。幼稚園から花寺学院であれば、その習慣が染《し》みついているのだ。
柏木先輩が家から持ってきたという弁当は、入れ物に負けず劣らずすごい弁当だった。二段重ねで、上のおかずスペースには大きな海老《えび》フライ、ジャガイモフライなどの揚げ物、野菜の煮染《にし》め、具だくさんの玉子焼き、蛤《はまぐり》の佃煮《つくだに》、漬物《つけもの》など彩《いろど》りよく詰められ、下のご飯は俵《たわら》型のおにぎりが五個、それも筍《たけのこ》ご飯、梅紫蘇《うめじそ》ご飯、菜《な》の花ご飯、ちりめんじゃこご飯、海苔《のり》で巻いたご飯と、すべて違ったご飯でできている。弁当当番がびびって、どこから箸《はし》をつけたらいいのか困っているのもうなずける。
そんな彼の心情を知ってか知らずか、柏木先輩は和《なご》やかに話しかける。
「入学してそろそろ一カ月。何か困ったこととかないかな」
「は、はあ」
「三年生にもなると、初々《ういうい》しさとともに、入って間もなく苦労したことなんかをつい忘れてしまってね。生徒会を引っ張っていく上で、君たちみたいな新しい風の話を是非《ぜひ》とも聞かせてもらいたいんだ」
新しい風、って。何ちゅう小っ恥《ぱ》ずかしいフレーズをさらりと言ってのけるのだ、この人は。聞いているほうが赤面してしまいそうだ。
「と、特に困ったことなどはっ」
弁当当番は、言いながらゴージャス弁当を豪勢にかき込んだ。口の中が空《から》っぽだから、会話をしなければならないのだ。口からあふれるほどに頬張《ほおば》れば、喋《しゃべ》りたくても喋れない。そうすれば、気の利《き》いた受け答えができなくともこの場はどうにか乗り切れる。――たぶん、彼なりにそう結論づけたのだと思う。
そんな弁当当番の態度に慣れているのか、柏木先輩は「君の母上が作られたのかい? この玉子焼きはおいしいね」などと、返答は首の上下運動で事足りる会話に切り替える。大した人だ。
「どうした?」
突然、柏木先輩がアンドレ先輩の方へ顔を向けた。
「はい?」
「何か、僕に言いたいことでもあるかい?」
すべてを見透《みす》かすような静かな視線を向けて笑いかける。最初はとぼけてみたアンドレ先輩だったが、やがて観念して「実は」と切りだした。
「どうも窓から猫が入り込んだようで、鉢植えを一つ落としてしまいました」
聞きながら祐麒は「猫、って」と思った。さっきは猫の仕業《しわざ》だろうとは、ひと言も言っていなかった。
「鍵をかけ忘れた私の失態です」
「鉢植えだけ?」
「今のところは」
聞きながら祐麒は「今のところは、って」と、再度心の中で突っ込みを入れた。猫はともかく、被害は鉢植え一つではなかったはずだ。
「しょうがない。後で園芸部に行って、余っている適当な大きさの植木鉢がないか聞いてみよう」
「私が手配しておきます」
「じゃ、頼んだよ」
そんな会話が進む中、弁当係はひたすら食べ続けている。箸で摘《つま》んで、口に入れて、咀嚼《そしゃく》し、飲み込む。その繰り返しを、からくり人形みたいに行っている。味わっているようにはとても見えない。
そもそも量が多いのだ。高田や日光・月光先輩みたいに大きな身体の人間なら食べる量も多いだろうが、この弁当当番、祐麒とさほど変わらない体型である。胸もとの生徒手帳の色を見れば、思った通り平氏だ。平氏だったら、部活でたくさんのエネルギーを消費することもない。
しかし生徒会長の弁当を残すなんて罰当《ばちあ》たりなことはできないようで、箸は決して置こうとしない。こうなると、まるで拷問《ごうもん》だ。もう、涙目になっている。
「おっ、うまそうだな。一つもらっていいか?」
祐麒は身を乗り出して、弁当当番の前に置かれた重箱から、ジャガイモフライとおにぎり一個を取って自分の弁当箱の蓋《ふた》に置いた。助け船を出したつもりはない。そろそろ自分もお腹《なか》いっぱいになりかけてはいるが、苦しそうな人間を見ているほうがきつかった。
「あ」
弁当当番は、小さく声をあげただけで、取り返そうとはしなかった。一瞬目が合ったけれど、そのままプイッとそっぽを向かれて、それ以降は視線も言葉も交わさないまま昼休みが終わった。
「ああ、それね」
廊下の壁にもたれて、アリスが言った。
「最初は、光の君へファンからの差し入れって感じで始まったらしいわよ」
祐麒は重い腹を抱えて午後の授業に出たものの、ホームルームと掃除を終えた頃には身体もすっかり軽くなっていた。若さとは、そういうものなのだ。
それで、生徒会室に行く前に隣のA組に顔を出し、部活に向かう前のアリスを訪ねた。校内で疑問に思ったことがあったら、大体はアリスに聞けばわかる。アリスがわからないことならば、源氏の領分で、高田に聞けばいいのである。
「差し入れ?」
「うん」
アリスはうなずいた。
「源氏にも平氏にも属していて、毎日忙しくしているから、お疲れさまどうぞ食べてください、みたいな感じでね。光の君ってああいう方だから、ありがとうってニコニコ受け取っていたらしいんだけれど、受け取ってもらえると知ると、みんながこぞって差し入れするようになって。いくら何でも一人の人間にお弁当が十も二十も食べられるわけないし、もちろんお家《うち》でもお弁当は持たせてくれるし。で、当然だけど破綻《はたん》しちゃったわけよ」
そりゃそうだろ、と祐麒も思う。
「でも光の君は、その時の見知らぬ生徒たちとのふれ合いが忘れられなかったのね。差し入れはお弁当一日一個と決めて、受け取ることにしたんだって。ファンたちは光の君の負担にならないように、自主的に順番を決めて弁当係とした。それが始まりらしいわ」
「お前、何でも知ってるな」
今更ながら感心する。平氏のことならともかく、一個人のいわばファンクラブ組織である弁当当番の歴史までも。一年生では生徒会室への出入りが一番多い祐麒であるが、まったく太刀打《たちう》ちできない。
「ユキチが知らなすぎるだけ。きっと高田君だって、源氏の先輩から聞いているはずだよ。ユキチと同じ無所属の小林君だって、そっちこっちアンテナ張り巡《めぐ》らせてるから、意外に情報通みたいだしさ」
「小林か」
あいつのことは、本当に何考えているのかわからない。味方なのか敵なのか。いや、源氏からも平氏からも爪弾きされた祐麒の友達として名乗りをあげてくれたのだから、味方のはずなのだが――。
「そろそろ、行くね」
背中を壁から起こしながら、アリスが言った。
「ああ。ごめん引き留めて」
これから部活動なのだ。アリスらしいというか何というか、書道部という真面目《まじめ》そうなクラブを選んだ。
「いいってば。昼休み話せなかったからね」
書道はほぼ個人プレーだから、少しくらい遅くなってもうるさく言われないらしい。これが運動部だったら、「気合いが入っていない」とか言われてグラウンドを何十周も走らされるところだ。
「でも」
歩き出したアリスが、ふと立ち止まった。
「生徒会室の件、心配ね。本当に猫の仕業なのかしら」
まったく、と祐麒はうなずいた。その時、二人の前をものすごいスピードで駆け抜けていったものがある。
「心配というなら、あれも――」
今、目に映ったものを指差して祐麒はつぶやいた。
放課後の廊下で、ランポー先輩がまた誰かと追いかけっこしている。
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失せ物もらい物
柏木《かしわぎ》先輩が、文字通りお荷物[#「お荷物」に傍点]を持ってふらりと放課後の生徒会室に現れたのは、それから数日後のことだった。
「これ、やる」
唐草《からくさ》模様の風呂敷《ふろしき》包みが、「ほら」と祐麒《ゆうき》に向かって投げられる。反射的に、両手を前に出して抱えるようにキャッチ。ドッヂボールをはじめ、大抵《たいてい》の球技は得意だ。
ボサッ。想像以上に、軽い手応《てこた》えに首を傾《かし》げる。
「何です」
言いながら、取りあえず包みの結び目を解きにかかった。中身が何かわからなければ、もらっていいものかどうかの判断もできない。
ところで。
アンドレ先輩が窓の施錠《せじょう》を徹底したおかげか、あれ以来生徒会室が何者かによって荒らされることはなくなった。傷ついた観葉植物は新たな鉢《はち》に植え直され、破けたテーブルクロスは縫《ぬ》い合わされて洗濯アイロンを経《へ》て甦《よみがえ》り、一見何もなかったかのように平和だ。アンドレ先輩が柏木先輩に「猫説」を撤回《てっかい》しないところを見ると、書類や貴重品などで今のところ盗《と》られた物は見当たらないのだろう。口止めされているから、祐麒も余計なことは言っていない。
「何です」
包みを開いた祐麒は、出てきた物を見て、もう一度さっきと同じセリフをつぶやいた。
字面《じづら》では同じだが、ニュアンスは明らかに違う。先刻のが漠然《ばくぜん》とした疑問、つまり「あなたは何をしようとしているんですか」とか「中身は何ですか」とか「俺がもらう理由は何ですか」といったものを全部ひっくるめての「何です」であるなら、今度のは「何じゃこれ」というたった一つの意味しかない。
本当に、これは「何じゃこれ」だ。
竹で編《あ》んだざるの中に、豆絞《まめしぼ》りの手ぬぐいと、カセットテープ、あと五円玉に二カ所|輪《わ》になった紐《ひも》が結びつけられている物――。何か、嫌な予感がした。部屋にいたアンドレ先輩も、このアイテムを見て覚えがあるような表情を浮かべている。
「『安来節《やすぎぶし》』セットであーる」
柏木先輩は笑った。
「いりません」
嫌な予感は当たるものである。祐麒は風呂敷の四隅《よすみ》を手早く縛《しば》って元のいびつな唐草模様のボールに戻すと、柏木先輩に突き返した。こんなの受け取ったら最後、「どじょうすくい」を踊らされるはめになる。
「まあ、そうむげに断らなくても」
柏木先輩は腕組みをした。卑怯《ひきょう》な。そうして、受け取るための両手を隠しやがったんだ。
「俺には必要ない物ですから。欲しい人にあげてください」
誰が欲しがっているか、はすぐに思いつかなかったけれど。そうだ、アンドレ先輩。先輩ならば、柏木先輩大好きだから、くれる物ならば何でも欲しがるかもしれない。そう思って側《かたわ》らを見れば、当のアンドレ先輩はただニヤニヤして二人の会話を聞いているだけだ。完全に、無関係を決め込んでいる。
「ユキチ君。何もただであげようとは言っていない。それに、これは未来の君に必要になる物なのだよ」
「はあっ?」
「君のために晴れ舞台を用意した。場所は体育館。観客は全校生徒だ。それなら文句ないだろう」
柏木先輩は、両手を大きく広げて言った。
「五月の第二土曜日、生徒総会が開かれる。その席で、余興《よきょう》としていくつかの部活が舞台を使った演技をすることになっている。生徒会を代表して、今年はユキチにその晴れ舞台に立つ権利を授《さず》けようと言っているんだ」
[#挿絵(img/02_051.jpg)入る]
「何言ってるんすか」
祐麒は笑った。また、そうやって何も知らない一年生をからかって遊ぼうという腹なのだろうが、お生憎《あいにく》さま、こっちだってそうやすやすと信じやしないのだ。冗談もここまで。ちょうど柏木先輩が胸の前で組んでいた腕もほどけたことだし、早々にお開きにしようと包みを無理矢理押しつけた。
「生徒会を手伝いたいと言ったね? これは紛《まが》う方《かた》なき生徒会の仕事だ」
風呂敷包みを抱えた柏木先輩が、ジリジリと迫ってくる。
(冗談じゃない?)
祐麒は身構えた。けれど足のほうは、ジリジリと後退してしまう。柏木先輩は真顔《まがお》だった。笑顔を浮かべているが、その目は真剣だった。
こうしていると、入学式の日の出会いを思い出す。あの時背中にあったのは小さな祠《ほこら》の屋根だったが、今はもうすぐそこまで壁が迫っている。逃げ場はない。否《いな》、この人からはどうやったって逃げられない。
黒い生徒手帳の自分の名前の下に、試し書きのような彼の花押《サイン》がある限り。
観念して、祐麒は風呂敷包みを受け取った。
「けれど、俺は役員でも何でもないし」
生徒会代表なんて、そんな立場じゃなかった。
「忘れちゃ困るよ、ユキチ。君は僕の烏帽子子《えぼしご》じゃないか」
忘れてはいない。今だって、それが自分を縛っているのだと思い知ったところだ。けれど、シャクだから黙っていると、柏木先輩は祐麒の胸ポケットから生徒手帳を抜き取り、例のページを開いて祐麒の頬《ほお》を叩《たた》いた。
ああ、水戸黄門《みとこうもん》だって印籠《いんろう》を見せるだけで、それで悪党を叩いたりはしないのに。
「烏帽子親《えぼしおや》と烏帽子子の関係を知らないわけではあるまい?」
知っているとも。華奢《きゃしゃ》な少年を柄《がら》の悪い生徒から守るために、にらみをきかせてくれる、それが烏帽子親だ。少なくとも、日光《にっこう》・月光《がっこう》先輩はアリスにとってそういう存在だった。その代わりに踊れ、なんて無茶な要求をしたことはないはずだ。
それに祐麒は、一度だって「烏帽子親になってください」と頼んだことはない。知らないうちに、烏帽子子にされていたのだ。
それなのに、どうして「烏帽子親と烏帽子子の関係を知らないわけではあるまい」なんてことを問われなければならないのか。
「でも、それはあなたが勝手に」
「そう。僕が君に断りなく書いた。しかしそんな経緯《いきさつ》はどうだっていい。福沢《ふくざわ》祐麒という名前の下に僕のサインがある。それは紛《まぎ》れもない事実だ。君がどんなに違うと言っても、これを見た花寺《はなでら》の生徒は、君が僕の烏帽子子だと認めるんだ」
「そんな」
知らない間に生徒手帳に悪戯《いたずら》書きをされて、それをしたのがたまたま生徒会長だったというだけで、生徒会の代表として舞台でどじょうすくいを踊らなければいけなくなるなんて。そんな馬鹿《ばか》げた話があるだろうか。こっちは何も非はないはず。だって、知らない間に烏帽子親子《えぼしおやこ》になっていたんだから。
しかしそんなことを抗議したって、また口八丁《くちはっちょう》で丸め込まれるに決まっている。後には、祐麒の疲労感が残るだけだ。
「考えてもみたまえ。この先、現生徒会長の烏帽子子として得することだってあるはずだ。人生楽あれば苦あり。塞翁《さいおう》が馬。だったら今のうちに、嫌なことの一つや二つ片づけておけ」
無口になったことが承服《しょうふく》の意思表示と解釈したのだろう、柏木先輩は自分の仕事ぶりに満足して部屋を出ていった。風呂敷包みとともに、ぽつんと祐麒は取り残された。
「これ、渡されてもどうしていいか」
祐麒は、風呂敷を開いてため息をついた。
「カセットテープはあるけど、ビデオじゃないし」
『安来節』セットを預けられて、生徒総会で舞台に立つよう言われたのだから、どじょうすくいの踊りをマスターしろという意味だろう。しかし、これだけでは振り付けがまったくわからない。テレビの民謡《みんよう》番組だか演芸番組で見たことはあるけれど、それを頼りに踊れるほどの天才ダンサーじゃないのだ。
「お前、馬鹿か」
少し離れた場所から、声がした。そうだ。すっかり忘れていたが、部屋の中にはアンドレ先輩もいたのだった。
「わからなければ自力で調べろ」
すでにテーブルで、柏木先輩が来る前にしていた仕事を再開している。何だかわからないが、難しそうな書類の作成だ。なぜ難しそうと思ったかというと、ずいぶん長いこと取り組んでいるようなのに一向に終わる気配がないからだ。
「調べる? ああ、そうか」
なるほど。祐麒は、右手のひらと左手のひらを打ちつけて、パチンと音をたてた。
「図書室に、もしかしたら振り付けの本があるかもしれない」
閲覧《えつらん》室には、かなりマニアックな本も置いてあった。駄目で元々、あたってみる価値はあるだろう。
「アンドレ先輩、アドバイスありがとうございました」
祐麒は風呂敷包みを取りあえず椅子《いす》の上に置き、「俺、今から行ってきます。じゃ」と生徒会室を飛び出した。
やる気が出たわけではなかったけれど、取りあえず『安来節』の踊りがどんなものか、調べてみる必要はあるだろう。
つまりはそういうことなのだ。
放課後、といっても、午後の四時も過ぎた図書室は、あまり混雑してはいなかった。
清掃時間直後などは、部活に向かう前に本を返却しにくる者や、下校ついでに寄る者などで貸し出し返却カウンターの周囲には生徒が群れているものであるが、波が一段落したこの時間は、静かに宿題や調べ物をする生徒の姿がむしろ目立つ。入り口側にあるパソコンの検索機も、三つすべて空《あ》いている。
「えっと、や・す・き・ぶ・し……っと」
キーボードを叩いて本を探す。タイトルに心当たりはないから、まずキーワードからそれらしいタイトルを導き出して、あらためてどんな本か調べてみるしかない。たとえ題名に『安来節』と入っていても、ジャンルが小説では、振り付けが図解入りで載《の》っているなんてことはまず期待できない。
「民謡、踊りとかも足しておいたほうが、ヒットしやすいか」
カチャカチャ、でOKをクリック。
「あー」
思った通り、それっぽい本はみんな書庫に保管されている。東京在住の高校生の男子が『安来節』の振り付けを調べる機会は、そう多くはないという証拠だ。
少々|面倒《めんどう》くさいが書類に記入し、カウンターにいる図書委員に出してもらうしかない。中身を見ないことには、借りる借りないの判断もつかない。
「さて」
まずは候補本のタイトル名をプリントした紙を持って筆記台に行き、備え付けの棚に挿《さ》してある「出庫依頼書」という用紙を出す。壁に貼《は》られた「書庫の本を出してもらうためには」なる模造紙《もぞうし》に書かれたポスターを読むと、どうやら手続きには図書カードも必要らしい。
「確か、……ここに」
祐麒は生徒手帳を出して、カバーに付いているポケットからキャッシュカード大のプラスティック板を取り出した。ピッカピカのおニュー。それもそのはず。入学式にもらって以来、まだ一度として使用していないのだ。高校図書室に来たことはあったが、高田《たかだ》やアリスとしゃべっていただけで本を借りたことはなかった。
では用紙に記入しようか、とボールペンを手にした時。
「おい」
背後から、声がかけられた。
「お前、 一―Bの福沢だろ」
いかにも自分は一年B組の福沢である、と判断した祐麒はゆっくりと振り返った。
相手の語気がお世辞《せじ》にも友好的とは言えないものだったから心の準備はしていたつもりだったが、いざその姿を見て予想以上の展開に戦《おのの》いた。
敵は四人いたのである。それも、どう見ても上級生ばかり。祐麒の弱気がそう見せているのかもしれないけれど、みんなけんかが強そうだ。
いや、敵と決めつけるのは早急かもしれない。しかし、味方は「ちょっと顔貸せや」なんて言ってガンつけてはこないものだった。
「な、何か話しでも?」
「おう」
「じゃ、今聞くけど」
場所を移したりしたら、人目につかない所で何をされるかわかったものではない。
「わかっちゃいないな」
先頭の生徒が笑った。素速く胸もとを確認する。白の生徒手帳。源氏《げんじ》だ。
「図書室は静かにする所だ。仲よくご歓談《かんだん》する場所じゃねーんだよ」
「違いない」
後ろに控《ひか》えた三人も「ワハハ」と笑った。白、紅《あか》、紅。どういうことだ。目から入った情報を、うまく処理できない。
源氏か平氏《へいし》、どちらかならまだわかる。いや、からまれる理由はわからないが、何か祐麒に気にくわないところがあったのだろう。そう、例《たと》えばアリス。
アリスが源氏の二年生二人に言いがかりをつけられていた時、見かねて渦中《かちゅう》に飛び込んだことがある。助けるなんて立派《りっぱ》な行為にまでは至《いた》らなかったけれど、邪魔された恨《うら》みを晴らそうとその生徒が機会を窺《うかが》っていたということは十分考えられる。
しかし、今回祐麒の前に立ちはだかっているのは、源平混合チームだ。また、源氏の二人に見覚えもない。
「そんなわけで、我々は福沢君とゆっくりお話ししたいわけだ」
「断ったら?」
「もちろん断れない」
もう、日本語の受け答えが滅茶苦茶《めちゃくちゃ》だ。そして、お話に誘うだけなのに、ポキポキと指を鳴らす必要があるのだろうか。
四対一。
たとえ一対一でも、けんかになったら勝つ自信がない。けれどこのままだったら、無理矢理連れていかれてしまうだろう。四人といったら、一人の人間を取り囲んで歩くのに十分な人数だ。
まだ何もされていない。だから助けは呼べない。今連れ出されなくても、図書室の外で待ち伏せされれば万事休《ばんじきゅう》す。
逃げるしかない。
「あーっ!」
祐麒は大声を出して、彼らの後方を指差した。突然であれば、当然四人とも振り返る。その隙《すき》に、出口に向かって駆けだした。
「うわっ」
一歩目を踏み出した時に、何かに足を取られて滑ったが、そんなことで立ち止まってなんかいられない。すぐに祐麒の策略に気づいた敵が、逃がすまじと追ってくる。
廊下は走るな。しかしそれは建前《たてまえ》で、廊下とは走るものだ。少なくとも、今は走る場合なのだ。
階段を上り、また廊下を走って階段を下りる。自分で選んでいるわけではない。目の前にある道を進んでいるだけだ。
走りながら、校舎を出る。もうやけくそだった。
校舎沿いの道をひた走る。いつまで走るのか。それは相手が諦《あきら》めるまでだ。
しかし、このまま捕まったらまじヤバイ。
いつかは校舎の端まで来る。校舎の裏手や、中学校とか小学校とかの境界にある森のような庭なんかでお話し[#「お話し」に傍点]が始まってしまったら、人目は届かないと言ってもいい。だからといって、引き返せばそこにはヤツらが待っている。もう、前に向かって走るしかないのだ。
もうすぐ横にあった壁が途切れる。仕方ない、ここは建物に沿って曲がろう。そう思った時――。
「ユキチ、こっちだ」
壁の方向からぬっと出てきた手に腕をつかまれ、強く引っ張られた。ゴトゴトゴツンという音とともに、肩や腕に感じる打撲《だぼく》。ちょうど壁に体当たりしたみたいな衝撃だ。
「えっ!?」
小さく叫ぶと、
「しっ」
後ろから抱えられるようにして、口を押さえられる。けれど塞《ふさ》がれていない目では、しっかり見えている。
「その角を曲がったはずだ」
「もう袋の鼠《ねずみ》だ」
と、今まさに四人の追っ手が目の前を通り過ぎるところだ。
これはどういうことだ。そして、背後にピッタリくっついているこの人は誰なのだ。
確かに、さっきユキチと聞こえた。自分を「ユキチ」と呼ぶ人間は限られている。
「追っつけ奴《やつ》らが引き返してくる。この先にいなければ、ここもすぐに探されるだろう。その前に行こう」
その人は祐麒を解放して、前に押し出した。すると急に視界が開ける。
振り返ってみれば、そこは校舎と校舎のつなぎ目で、幅五十センチ奥「行き約一メートルほどの隙間が空いている場所だった。そして、祐麒に続いて出てきたのは――。
「ランポー先輩! どうして」
「道々話す。とにかく歩こう」
もと来た道を、二人並んで早歩きで進んだ。
「俺も別の奴らと、さっきまで追いかけっこしていたんだよ」
と、ランポー先輩は言った。
「やっとこさ撒《ま》いてきたのに、なぜか背後からこっちに駆けてくる足音が聞こえてきたから、慌《あわ》ててあの場所に身を隠して様子を窺っていたってわけだ。そうしたら、追われているのは俺じゃなくてユキチじゃないか。とっさに引っ張り込んだが、勢いがついていたし、狭いしで、結構あちこちぶつけちまったな。すまん」
「いえ。助けていただいただけ、ありがたかったです」
祐麒は、打撲した腕をさすりながら頭を下げた。
「何、この間俺も助けてもらったしな。他人事《ひとごと》じゃないというかさ」
ランポー先輩は笑った。相手は違えども、追いかけられる立場は同じ。気持ちの上で相通《あいつう》ずる部分があるということだ。二人は校舎の中に入った。
「先輩。部活中じゃなかったんですか」
歩きながら祐麒は、さっきからずっと気になっていたことを尋《たず》ねた。
「まあな。これじゃ、違うって言うほうが嘘《うそ》だな」
先輩は、サッカー部のユニフォームの胸もとを摘《つま》んで軽く引っ張った。
「俺を追いかけている奴らも、さすがに部活にまでは押しかけてこない。それは助かっている」
「でも」
祐麒がつぶやくのとほぼ同時に、ランポー先輩はうなずいた。
「そう。その通り、ならばなぜ部活中に追いかけっこが始まったかという疑問を、ユキチがもつのは当然だ」
それはこういうことらしい。実はランポー先輩、追いかけっこを回避《かいひ》するため掃除《そうじ》の後あわてて部活に行った(部活中は邪魔しないという暗黙の了解があったからだ)。そのため、うっかりトイレに寄るのを忘れた。しかし準備運動とか走り込みとかしているうちに、にわかに尿意《にょうい》が襲《おそ》ってきた、と。
それで部長に断って練習を抜けたものの、敵はそれをしっかり目撃していた。トイレ休憩《きゅうけい》は部活ではないと判断されて、トイレから出た途端《とたん》にまた追いかけっこだ。
しかし、その人たちっていったい何者なのだ。ランポー先輩にどんな無理難題を突きつけているのか。
「あいつら、誰だと思う?」
祐麒の心の中を読んだように、ランポー先輩が問題を出した。
「……さあ」
ランポー先輩が、「絶対無理だ」と断り続けるような頼み事をする人たち。それってどういう団体だ? 自分の追っ手同様、祐麒には皆目《かいもく》見当がつかなかった。
「平氏なんだよ。推理小説研究部」
「推理小説研究部ぅ?」
意外な組織名に、祐麒は首を傾げた。もちろん予想できなかったのだから意外も何もないわけなのだが、しっくりこないというか何というか。つまり部活にしても、もっと厳《いか》つい名前でないと「ああそうですか」とは納得いたしかねる感じなのである。
推理小説を研究する人たちが、殺人犯でもないランポー先輩のことをどうして追いかけているんだ、ってことだ。それとも、実は何かの犯人なのか?
「勧誘されている」
「はあっ?」
「入部してくれ、って」
「はあ……」
また意外な働きかけをされているものだ、ランポー先輩。
「源氏の俺に、推理小説研究部に入れなんて無茶な話をなぜもってくる。いや、知っているんだ。どうしてかってことくらいは、俺だって。だが、それはあまりに俺の人権を無視した話だから」
そこまで言って、ランポー先輩は自分がサッカースパイクで校舎に上がり込んでいたことに気づいたようだが、そのまま歩き続けた。祐麒も、上履《うわば》きで外に出たまま校舎に戻ったので同罪である。あまり細かいことを気にしていると、男子校ではやっていけない。
少し間《ま》をおいてから、ランポー先輩は言った。
「あいつらが欲しいのは、俺についているこの名前だけだ」
「あ」
突然、つながった。推理小説研究部とランポー先輩の接点。祐麒は、ランポー先輩の本名を思い出した。そう、確か――。
江戸川正史《えどがわまさみ》。
「あいつら、かの推理小説の天才|江戸川乱歩《えどがわらんぽ》と横溝正史《よこみぞせいし》の名を両方いただく素晴らしい名前だとほざきやがった」
「……そっか」
そうか横溝正史もあったのか、と今更《いまさら》ながら祐麒は気づいた。ただ苗字《みょうじ》が江戸川だから江戸川乱歩、そしてランポーになったのかと思っていた。関係あるのかないのかわからないが、先輩のヘアスタイルは、名探偵|金田一耕助《きんだいちこうすけ》そのものである。
「悪いが、俺はこの名前のせいで推理小説が大嫌いになった」
どうやら、ヘアスタイルは関係なかったらしい。
「まったく興味がないやつをなぜ誘う。いや、それも俺は知っている。奴らは部員不足に悩んでいるんだ。生徒総会までに規定の十人が確保されなければ、同好会に格下げされるから」
つまり今年度思うように部員が集まらない推理小説研究部は、広告塔として江戸川正史という打ってつけの名前をもつランポー先輩を担《かつ》ぎ上げようと計画した。彼が入部してくれれば、それに続く生徒が山ほど集まるだろう。なぜなら彼は名前だけでなく、生徒会という看板《かんばん》もぶら下げて歩いている。絶大なる権力を誇る、花寺学院高校生徒会役員という肩書きが、ここでものを言うわけだ。
部活のかけもちが許されている花寺学院高校では、源氏の生徒が文化部に、平氏の生徒が運動部に入ることは不可能ではないらしい。ただし、よほどその部で実力を発揮《はっき》しないと長くは続かない。なぜって、居心地《いごこち》が悪くなるからだ、
「柏木先輩とかアンドレ先輩とかに、相談とかは」
祐麒が尋ねると、ランポー先輩はため息をついた。
「言ったら大事《おおごと》になりそうで、言えないよ。推理小説研究部のやり方はむかつくが、だからといって廃部にしたいわけじゃない。だが、このままだといつかはあの人たちにも知られるだろうな」
二人は生徒会室の前まで来た。無計画に歩いていると思っていたが、そうではなかったらしい。
「あれ、鍵《かぎ》が締まっている。アンドレはどうしたんだ」
扉をガタガタいわせて、ランポー先輩がつぶやく。
「さっきまでいましたけど。俺が図書室に行く前ですが」
二十分から三十分前まで、といったところだろうか。図書室にいた時間も、追いかけっこしていた時間も、計っていなかったから正確にはわからない。
「しょうがないな。生徒会室ならお前も安全だと思ったんだが」
部活を抜けてきたランポー先輩は、もちろん今合い鍵を持ってはいない。取りに行ってくれそうな勢いだったが、そこまでやってもらっては申し訳ない。
「いいっすよ。俺、こっそり帰りますから」
「そうか? 気をつけろよ。それじゃ、俺もこっそり部活に戻るから」
ありがとうございましたと頭を下げて見送ると、突然ランポー先輩が振り向いた。
「ところで、お前何をやったんだ?」
「さあ?」
祐麒は首を傾げた。それは、自分でも誰かに教えて欲しかった。
その答えは、意外に早く出た。
追っ手に見つからないようにこっそり下校しようと決めた祐麒だったが、下足場《げそくば》で重大なミスに気づいた。
「図書カードが」
ない。
念のため生徒手帳の中を見てみたが、取り出した記憶があって戻した記憶がない以上、そこに存在しているはずもなかった。
確か、書庫から本を出してもらおうと思って図書カードを出した。書類に記入している間、一時的に筆記台の上に置いたところまでは間違いない。それからどうしただろう。そうだ、見知らぬ源氏と平氏の四人組に絡《から》まれて、そのまま追いかけっこに突入してしまったのだ。
祐麒は慌てて図書室に駆け込んだ。閉室の時間が迫っていて、図書委員もカウンターの片づけなどをしていて忙しそうだ。
「借りるんだったら、急いで」
委員の声に「借りません」と返し、さっきの筆記台に直行する。『安来節』の振り付けの本は、今日はもういい。それより図書カードを探さないと。
しかし、カードは見当たらなかった。
そういえば、と思い出す。逃げる時に何かを踏んで滑ったっけ。あれが、もしかしたら図書カードだったのではなかったか。
名前を呼ばれて振り返った時に、図書カードが床に落ちた。逃げる時に、それを踏んで滑った。考えれば考えるほど、正解な気がする。だったら床に落ちているのではないかと、筆記台の周辺を見回したが一向にそれらしい物は発見できない。
上履きが滑ったということは、カードのほうも床を滑った可能性はある。カードは何といっても薄い。床と書棚の間に入り込んでしまうことだってなくはないと、這《は》いつくばって探したがなかった。
「小銭でも落とした?」
見かねて、図書委員が声をかけてきた。
「いえ」
正直に「図書カードをなくしました」と言えばよかったのかもしれないが、なぜか言えなかった。言ったら、この図書委員はどんな反応をするだろうと考えたら恐くなったのだ。
自分は源氏でも平氏でもないから誰も守ってくれない。さっきも誰だかわからない生徒たちに絡まれて、その理由さえ理解できずにいる。
誰が味方で誰が敵なのか、皆目見当がつかないのだ。見知らぬ相手に、弱みを見せるのが恐かった。
「ちょっとメモを落としたみたいで」
とっさに、嘘が口をついて出た。
「メモ? 大事なメモ?」
「あ、大丈夫です。ただの覚え書きですから」
祐麒は立ち上がって、背を向けた。無意識に、生徒手帳の色を見られないようにそうしたのだと、やってから気がついた。
「あの」
一旦《いったん》扉に向かって帰りかけたが、思い直して顔だけ振り返る。
「たとえば、図書室で落とし物とかあったらどうなるんでしょう」
図書カードが拾われていた場合、その行き先を聞いておきたかった。
「うーん。物によると思うけれど、普通は図書室で保管とかはしないかな。校内の落とし物として届けるはずだよ。でも、破けたメモとかになると、届けるかどうかは微妙だな。そうだ。もし何だったら、委員たちに捨てないでおいてって周知するから、そのメモの特徴とクラスと名前を――」
「ありがとうございます。いいんです」
祐麒は、逃げるように図書室を出た。
いい人だった。閉室|間際《まぎわ》の忙しい時に、声をかけてくれて、紙切れ一枚ごときに心を砕《くだ》いてくれた。源氏か平氏かもわからない、一生徒のために。それなのに自分は疑って、嘘をついて、挙句《あげく》の果てには居たたまれなくなって逃げ出した。
まったく嫌気がさす。こんな嫌なヤツ、見知らぬ生徒からいちゃもんつけられて当然だ。
「あの、福沢君」
トボトボと廊下を引き返していたら、声をかけられた。正面からでも背後からでもなく、真横からのアプローチ。たぶん廊下の端に立っていたその人の前を、祐麒が知らずに通り過ぎた瞬間に呼び止められたのだろう。名前を呼ばれたと気づくまでの間、二、三歩前進してしまったので立ち止まって振り返る。そこには、一年生らしき生徒が一人で立っていた。さっきの四人の中の一人ではない。
(でも)
見覚えがある。誰だったっけ。
「弁当の」
彼は言った。
「ああ」
思い出した。祐麒が久しぶりに昼休みに生徒会室にいた時、柏木先輩と弁当を交換したあの一年生だ。でも、その彼が何の用だろう。その登場の仕方は、まるでここで祐麒を待っていたみたいに見えた。
「ごめん」
あの日の弁当当番は、前置きもなく頭を下げた。
「何が?」
「さっき福沢君にあの、何ていうか、声をかけて、それで福沢君が逃げて、それを追いかけていった人たち」
「え?」
日本語の文法がグチャグチャで何ともわかりにくい説明だったが、つまりあの四人組のことを言っているようだ。
「つまり、あの人たちはお弁当当番なんだ」
「お前の仲間なのっ?」
それは考えてもみなかった。ランポー先輩が推理小説研究部に追いかけられているのを知った時と同じくらい、意外だった。それじゃ、生徒会室に出入りしている無所属の一年生が目障《めざわ》りで、ちょっかい出してきたっていうのか。
「ごめん」
「だから、何が?」
一部の弁当当番がした行動に、下級生が責任を感じることはないはずだった。しかし、彼はブルブル震えている。
「たぶん、福沢君があんな目に遭《あ》ったの、僕のせいかも、って」
「お前、何したんだ?」
カッとなって、思わず胸ぐらをつかむ。
「ひゃああ、打《ぶ》たないで」
「……打たねえよ」
目をつむって両手で頭を守ろうとする姿を見ていたら、途端に萎《な》えた。これじゃ、まるで弱い者いじめしてるみたいじゃないか。
祐麒が手を放したので、彼はホッとしたように話を再開した。
「僕あの日初めて独《ひと》り立ちして、でも、あまりうまいこといかなくて。どうだった、って先輩たちに聞かれて、それで困って、ついあの日福沢君がいたことを話しちゃって」
「……昼休みにあの場にいただけで、因縁《いんねん》つけられるのか」
「じゃなくて、たぶん福沢君が光《ひかる》の君《きみ》のお弁当を味見したことが、気に障《さわ》ったというか」
「ああ」
そうだった、と祐麒は思い出す。ただあの場にいただけじゃなくて、弁当当番でもないのに柏木先輩の弁当を口にした。自分にとっては何てことない出来事だったが、柏木先輩のファンたちにしてみれば許し難い行為だったのかもしれない。ファンじゃないので、よくわからないけれど。
「僕は助かったんだけど、でも先輩たちはそうはとらなくて。一部の過激な人たちが決起《けっき》して、何か『福沢|絞《し》めようぜ』みたいな空気になっちゃって。もう訂正《ていせい》できなくなったっていうか――」
「わかったよ」
そう言って、祐麒は言葉を遮《さえぎ》った。これ以上、聞く必要はなかった。言い訳を聞く気になれなかった。
「あの」
「わかったから、もう行けよ。俺と話しているところをあいつらに見られたりしたら、大変なんだろ」
そいつは、「うん」とうなずいてその場を去った。軽く、「本当にごめんね」と言い置いて。
「素直なのか、計算高いのか」
それでも、黙ったままでいるより、マシなのかもしれない。
意地悪く考えるなら、黙っていることに耐えられなくなって、重荷を祐麒に肩代わりさせただけともとれる。
でも、どうだっていいや。
もう考えるのが面倒くさい。
取りあえずは、これで良しとしよう。少なくとも、今回追いかけっこした相手と理由がわかっただけ。
図書カードのことも、『安来節』のことも、弁当当番のことも、明日あらためて考えよう。
今日はもう疲れた。
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悩むな!
今日死なない限りは、明日はちゃんとやって来る。
しかし明日が来る前に、眠れない夜がやって来た。
考えるのは「明日」にしたはず。だから今晩は思い悩むことなく、疲れた心身を休めるべきなのだ。けれど考えないようにしようと思えば思うほど、思考がそっちに傾いていく。眠らなきゃと意識したが最後、目がさえてしまうのと同じだ。
ウトウトしては目が覚めるを繰り返しているうちに、いつしか「明日」が今日になってしまった。だから、祐麒《ゆうき》の自分で決めた「考えなくていい」時間はあっけなく終わりを迎えた。
考えてみたら。
図書カードは、誰かが見つけて落とし物係に届けてくれた場合、間違いなく本人のもとに戻ってくるはずだった。なぜって、ハンカチではないのだ。ちゃんと持ち主のクラスと名前が書いてある。
(でも、いつまで待っても届かなかったら――?)
例《たと》えば、誰からも見つけられないほど、あまりに辺鄙《へんぴ》なところに落ちていた場合。そりゃ、いつまで待っても戻ってこないだろう。
祐麒を好ましく思っていない誰か(弁当当番の四人とか)が見つけて、何かの時に使ってやろうと隠し持っているという可能性はどうだ。それはかなり恐ろしい。何かの時って、どういう時だ。
「祐麒どうしたの」
「へっ?」
思考中の頭脳の中に声が乱入してきたから、顔を上げる。と、そこにあったのはお母さんの顔のアップ。
「さっきから、お母さんがうっとり見とれちゃうほどのすごい食欲。祐巳《ゆみ》ちゃんの分までトースト食べちゃった」
「えっ」
隣の席を見ると、今度は呆《あき》れ顔の姉と目が合う。祐麒はすぐにテーブルを確認し、状況を理解した。
自分の目の前に、いつもパンを載《の》せている皿が二つ。いつの間にか、祐巳の皿を引き寄せてそこにあったトーストを食べてしまったらしい。しかも、皿はすでに両方とも空《から》だ。つまり、厚切りトースト二枚が、よく味わわないうちにこの腹の中に収まってしまったらしい。考え事しながら飯《めし》を食うのは危険だ。
「ごめん」
人の分まで食べたのだから、取りあえず謝罪。
「いいよ、別に。まだ時間あるし、私のはまた焼けばいいから」
祐巳は立ち上がって、トースターの所まで歩いていく。そして、パンの入ったビニール袋を持ち上げて笑った。
「ついでに祐麒の分ももう一枚焼いてあげようか?」
「いや、結構です」
ありがたいが、その申し出は丁重《ていちょう》にお断りする。もともと、食欲が有り余って食べてしまったわけではないのだ。これ以上食べたら、たぶん胃もたれを起こしてしまう。それでなくても、考え事で胸がいっぱいなのに。
しかし、我が家の女性陣はというと。
「きっと、育ち盛りだからお腹《なか》がすくのね」
「何かいいことあって、張りきっているんじゃないの?」
「あー、それ言えてる。こら、白状しろ」
高一男子の健康な肉体の中にナイーブな精神が宿っていることを、まったく理解できていないのだ。
アンドレ先輩のことは嫌いじゃない。
第一印象はあまり好感をもたなかったけれど、馴染《なじ》んでくると何とも気持ちいい人なのである。威張《いば》っているし、毒舌《どくぜつ》だし、すぐ感情的になるし、意地悪なのだけれど、それがすべてというか、裏にも表にも、何も隠し持っていない感じがするのだ。
だから、本心では何を考えているのか、とか考える必要がない分、つき合っていて楽だ。向こうはどう考えているかは知らないけれど。でも、気にかけてはくれているようだ。でなければ、アドバイスをしてくれたりしないだろう。
「そういえば、昨日は図書室に行くと言っていたが。成果はあったのか?」
今朝も、生徒会室の床を掃《は》いていたら、そんな風《ふう》に声をかけてきた。昨日の『安来節《やすぎぶし》』の件を覚えていてくれたのだ。
「それがですね」
祐麒は、箒《ほうき》を持つ手を休めて言った。
「行くには行ったんですが、バタバタしちゃってゆっくり本を探してられなかったんですよ。今日の休み時間とか、また行ってみます」
バタバタの内容も、図書カード紛失《ふんしつ》のことも、言えなかった。お前は馬鹿《ばか》じゃないかと、叱《しか》られるのが恐かったのではない。誉められたことではないが、アンドレ先輩に小言を言われることには慣れている。
(そうじゃない、そうじゃなくて――)
たぶんランポー先輩が推理小説研究部の件を柏木《かしわぎ》先輩やアンドレ先輩に打ち明けないことや、アンドレ先輩が柏木先輩に生徒会室の被害を少なく報告したことと、まったく同じではないかもしれないけれど、どこか通じるものがありそうな気がした。
「うむ、そうか」
祐麒が答えにたどり着く前に、アンドレ先輩は背を向けた。まあ、言うなれば雑談なのだから、反応としてはそんなものだろう。
再び箒を動かしていると、アンドレ先輩に話しかけているアリスの声がした。
「これは何かご存じですか? 椅子《いす》の上にあったんですけれど」
「ああ、それは福沢《ふくざわ》のだ」
「ユキチの?」
アリスの言葉に被《かぶ》るように、祐麒も「俺の?」と振り返る。
「これ、どうしたの?」
差し出されたのは、唐草《からくさ》模様の風呂敷《ふろしき》包み。柏木先輩|曰《いわ》く、「『安来節』セットであーる」なわけであーる。
「それは……」
やばっ、もっと目立たない所に隠しておけばよかった。でも、いつまでも仲間たちに内緒《ないしょ》にしてもいられないのだ。
祐麒は風呂敷包みを抱えているアリスの腕をとって、部屋の隅《すみ》まで連れていった。すると、高田《たかだ》と小林《こばやし》も「何だ」「何だ」と集合してくる。
「実は」
部屋にはあと事情を知っているアンドレ先輩しかいないから、本当はコソコソ打ち明けなくてもいいはずなのだが、恥《は》ずかしさも手伝ってどうしても小声になる。
「生徒総会で『安来節』を踊るように、柏木先輩から命じられた」
「えーっ!?」
予想はしていたが、思った以上に大きな声があがった。
アリスが包みを解いた。そこに竹ざるを初めセットの小物が現れると、この話がリアルであることが裏づけられる。
「生徒全員の前で一人……」
「それは……きついな」
「おまけに『安来節』って、どじょうすくいだろ?」
同情してくれるものの、セットが一人分なのを見て、みんな「自分じゃなくてよかった」とホッとしているはずだった。当たり前だ、祐麒だって誰か一人|犠牲《ぎせい》になるのなら、間違いなく「自分じゃなければいい」と祈る。
「お前たち、これはとても名誉なことなんだぞ?」
少し離れた場所から、声がした。一斉《いっせい》に振り返ると、アンドレ先輩がほほえんでいる。
「名誉、ですか」
『安来節』と名誉がイコールで結べなくて、祐麒は首を傾《かし》げた。他のメンバーも、漏《も》れなく頭の上に「|?《はてな》マーク」を浮かべている。それに対して、アンドレ先輩は。
「そうだ」
自信満々にうなずいて答える。
「生徒会を代表しての演技だ。生半可《なまはんか》な生徒には任せられない大切な仕事を、福沢にならと生徒会長|自《みずか》らが選んだということを忘れてはならない。だから同情するのではなく、ここは福沢を応援し盛り上げてやるのが友人として正しい姿だと思うが、どうだろう。かく言う俺も、去年はその役を仰《おお》せつかった。もちろん、今でもやってよかったと思っている」
その時、全員がアンドレ先輩の「どじょうすくい」を頭の中で想像したはずである。それは、『安来節』と名誉以上にミスマッチな取り合わせだった。試しにどうだ、踊らせないまでも、豆絞《まめしぼ》りの手ぬぐいを頭に被せてみただけで、何というか……笑えるのだ。
「そ、そうだな」
「がんばれ、ユキチ」
「俺たちにできることがあったら、何でも言ってくれ」
だから友たちが早口に励《はげ》ましの言葉を並べ立てたのは、吹き出しそうになるのを誤魔化《ごまか》してのことである。
「ありがとう、みんな」
祐麒も、ちょっとだけ笑った。昨日からの悶々《もんもん》が、ほんの少しだけれど晴れた。
問題は山積みで、自分に反感をもつ人間は多いかもしれないけれど、嫌なことを一時でも忘れさせてくれる友達がいるのはありがたい。
そして。
自分の恥ずかしい経験をネタにして激励《げきれい》してくれるアンドレ先輩は、やっぱり「いい先輩」なのだ。
とはいえ、肝心《かんじん》の『安来節』の振りがわからないのでは話にならない。
取りあえず祐麒は、昼休みにまた図書室に行ってみた。昨日の夕方あんなに探したのになかったのだから、今日簡単に見つかるはずもない。だから、目的は図書カード探しではない。探すのは、『安来節』のヒントだ。
閲覧《えつらん》室の中に、振り付けが載っている本があれば、その箇所だけコピーすることだってできる。しかし、そううまい具合にいかないことくらい、昨日コンピュータ検索したから知っている。
こんなにたくさんの本が棚に並んでいるのに、閲覧室の中には一冊として自分が求めている答えを示してくれる本がなかった。かといって、書庫の本を出庫してもらうには図書カードがいる。図書カードは見つからない。何だか、絶望的になってきた。こうなったら家の近所の図書館に行ってみるか、とぼんやり思った。
ずいぶん長いこと行っていないから、新規で登録しないといけないだろうけれど、それでも「図書カードをなくしました」と言わなくていいだけ気持ちが楽だ。それとも祐巳に頼んで、リリアン女学園の図書室から借りてきてもらうか。花寺《はなでら》ではそれらしい本が探せなかったから、とか何とか言って。
「いや、だめだ」
そんなことしたら、『安来節』を踊ることまで話さなくてはいけなくなる。適当なことを言って誤魔化そうにも、『安来節』の振り付けが載っている本が必要な人間のほとんどは、『安来節』を踊る予定のある人物だろう。
「何が、『だめだ』なんだ?」
後ろから、声がした。
「えっ」
我に返って振り向くと、そこには高田が立っている。
「やっぱりユキチも図書室なんだ」
「も?」
「ああ。だってほら」
そう言う高田の目線を追っていくと、そこにはアリスと小林の姿があった。二人は一台のパソコンの前に座って、真剣にキーボードを叩《たた》いている。
「俺にしちゃ珍《めずら》しく閃《ひらめ》いちゃってさ。『安来節』の本借りてって、学食ホールでお前に見せようと思ったんだが、みんな同じこと考えてたんだな。これじゃ、抜け駆けにならないよ」
「高田……」
何か感動。みんな、何ていいヤツなんだ。弱気になっていたせいか、つい目頭《めがしら》が熱くなってしまった。
「協力するって言っただろ?」
高田は親指を立てると、祐麒の肩を抱いて、アリスと小林がいるパソコンの前に連れていく。すると。
「ユキチ。もっといい物が、この学校にあるぞ」
画面から目を離さずに、小林がつぶやく。
「いい物?」
「動画だ。古い作品だが、図書室の資料室に『安来節』の振りが入ったビデオテープがあって、それを借りることができる。お前んち、VHSのビデオを再生できるデッキあるか」
「あ、ある」
それが本当だったら、すごいことだ。振り付けが、写真なりイラストなりで細切れに載っているより、実際に踊っている映像を見たほうが真似《まね》しやすいに決まっている。
「あ、だめだよ。小林君。貸し出し中になってる」
アリスが画面を指差しながら、「ほら」と言った。
「え」
わけもわからず、祐麒も画面に注目する。一つのパソコンに四人が押し合いへし合いだから、もう押しくらまんじゅう状態である。
「本当だ。あー、残念、ユキチ。こりゃタッチの差だったな。返却予定日から推理するに、借りられたのは昨日だ」
「じゃあ、こんなマニアックなビデオを必要とする生徒が、うちの高校の中にもう一人いるってことか?」
「ユキチが借りたんじゃないの?」
友たちは思い思いに言葉を発したが、祐麒は最後のアリスの言葉にだけ返事をした。
「……違う」
そんないい物が学校の図書室で借りられることだって、今初めて知ったのだ。それにすでにそれを手に入れているならば、抱えている悩みの約半分は解決済みといっていい。
「しかし、誰だそいつ?」
「生徒総会で、他にも『安来節』を披露《ひろう》する予定の人がいる、とか」
時期的に、そう考えたくなるのは仕方ない。
「でも、生徒総会で演技するのって、生徒会代表、つまり今年はユキチだな、――以外は団体で、どこかしらの部だって話だ。うちの学校に民謡《みんよう》部なんてあったか?」
うーん。四人は腕組みして唸《うな》る。
そんな部、聞いたことがない。ならば、まだ結成して間《ま》もない同好会、とか。会員募集をアピールするために、総会でのパフォーマンスを思いついた。それならわかる。
でも、そうなると『安来節』を踊る同好会って何の同好会だ、って話だ。やはり、民謡同好会か? この時代、民謡に熱中する高校生はそう多くないように思えるのだが――。
「でも、だったらユキチが『安来節』を披露する理由もわからないよ。それも、生徒会代表でさ」
それは祐麒にもわからない。
うーん。世の中、どころか校内という小さな社会一つをとってみても、わからないことだらけだ。
「とにかく、このビデオ予約するなり書庫の本出してもらうなりして、引き上げようぜ。俺、腹減った」
「ああ、そうだな。続きは、ユキチが放課後にどうするか決めればいい」
「じゃ、学食ホール行く? ……でも、その前に」
アリスが椅子から立ち上がって、祐麒の側《そば》につつつと進み出ると、顔を覗《のぞ》き込んできた。
「ユキチ、また何か隠し事しているでしょ」
「えっ」
「わかっちゃうんだよね」
とっさに繕《つくろ》おうにも、あまりにストレートだったので、どうしていいかわからなかった。
「何のこと?」って、軽く笑い返すこともできない。ただ岩のように固まって、アリスの顔を見つめ返すだけだ。
「マジかよ」
「今度は何をしでかした」
何も言い返せない祐麒を見て、高田も小林も騒ぎ出す中、アリスの瞳《ひとみ》は静かだった。
「ユキチが、私たちに心配かけまいと思っていることくらいわかってるよ。でも、何ていうんだっけ? こういうの」
「――水くさい」
「そう。覚えているんじゃない」
アリスはお母さんがそうするみたいに、ほほえみながら祐麒の髪をそっと撫《な》でた。だから、素直に頭を下げた。
「ごめん」
すると、残りの二人も祐麒の頭をグジャグジャとかき混ぜる。
「ったく」
「遠慮してんじゃねーよ」
多少乱暴に。どっちかというと、こっちはお父さんみたいだ。
哀《あわ》れ祐麒は、結局そのまま閲覧室から出て、学食ホールまで歩く間に、すべて口を割《わ》らされてしまった。図書カードをなくした件、柏木先輩のお弁当当番に絡《から》まれて追いかけっこした件、ちょこっとだけれどランポー先輩も推理小説研究部と追いかけっこをしている件なども(ただし、これはさすがにみんな知っていた)。
で、結局学食ホールは人気《ひとけ》がありすぎるので、予定を変更して、中庭の校舎の外壁に寄りかかってのランチタイムと相成《あいな》った。
「光《ひかる》の君《きみ》に言った方がいいと思う」
祐麒以外では、仲間内で唯一《ゆいいつ》烏帽子親《えぼしおや》をもつアリスが言った。
「何を? 図書カードの事? それとも弁当当番の事?」
「どっちもだよ。だって烏帽子親なんだよ? ちゃんと報告して、どうしたらいいか判断を仰《あお》ぐのが筋《すじ》じゃないの? 後からとか、他からとか、耳に入ったりしたら大恥《おおはじ》かかせることになる。そんな仕打ち、烏帽子子《えぼしご》として申し訳ないと思わない? それこそ、『水くさい』だよ」
ごもっともな意見である。
「でも、図書カードは俺だけの問題だからともかく、弁当当番のことはさ」
祐麒がつぶやくと、高田が横から口を挟《はさ》んだ。
「弁当当番のことは、何だよ。『俺だけの問題』じゃなければどうだって言うんだ?」
「ユキチは、そいつらに罰《ばつ》が下されたりしたら、って考えてるんだよ。自分がチクったから、みたいで後味悪いんだろ」
小林の指摘《してき》は図星《ずぼし》を指していた。弁当当番は、つまりは柏木先輩のファンたちの集まりなのである。自分が好きな人から注意を受けたり罰を下されたりするのは、相当に厳《きび》しかろう。また、その原因を作った祐麒にますます敵意を募《つの》らせるのではないか、と考えたのも確かだ。
「そんなこと一々気にしていたらお前、寄ってたかっていじめられて、すぐにスクラップになるぞ。そりゃ、俺たちだってついてはいるけど、お前も自分の身は自分で守ろうって気構えをもたないと」
高田が、ご飯粒を飛ばしながら熱弁する。そうだ。相談にのってはもらえても、決断は自分でしないといけないのだ。
興奮《こうふん》した高田の箸《はし》から、里芋《さといも》が滑り落ちた。コンクリート打ちっ放しの校舎の土台に一度着地し、そこからコロコロと土のむき出しになった地面に転がっていく。
「待てっ」
洗って食べるのかどうかはともかく、獲物《えもの》を逃がすまいという動物の本能が働いた高田が、慌《あわ》てて後を追いかけた。しかし、もうじき箸が届こうというところで、横から現れた人間以外の生物に掻《か》っさらわれた。
「お、俺の里芋ちゃんが」
そいつは大胆《だいたん》にもその場でくちゃくちゃとそれを咀嚼《そしゃく》し、ごくんと飲み込んだ後「ニャーン」と一声鳴いて走り去った。そんなに大きくはない、白と黒のブチ猫だった。人間でいうと、まだ中学生か高校生といったところだろうか。
猫を見ていて思い出した。
「生徒会室の件は、柏木先輩に言わなくていいと思う?」
祐麒がそう尋《たず》ねると、三人は呆れたように笑った。
「……そりゃ、アンドレ先輩が考えることだろ」
お前は自分のことだけ考えてろ、って。
――本当に、その通りだった。
たぶん、アリスの考えが正しいのだろう。自分のことでなかったら、祐麒もそうしろとアドバイスする気がする。
柏木先輩に打ち明ける。
図書カード紛失の件は覚悟して叱られ、弁当当番の件は間に入ってもらって彼らとの仲を取り持ってもらう。
しかし、頭ではわかっていても、実行できないことはある。
忙しい柏木先輩は、放課後は生徒会室を留守にすることが多かったけれど、朝と昼はだいたい来ている。「ちょっとご相談が」と切りだせば、話を聞いてくれるだろう。
弁当当番との衝突を避けて、祐麒はまた昼休みに生徒会室に行くことをやめていた。そうすると、必然的にその機会は朝ということになる。
「あ、あの」
何度か言いかけた。でも、言葉を発しようとすると、途端《とたん》に緊張して、結局何も言えずに終わってしまう。
「何だい?」
「いえ、別に」
「そうか?」
自分の手のひらの汗《あせ》と足の震えを感じながら、柏木先輩の背中を見送ったことは一度や二度のことではない。
そんな時、決まってアリスがじれったそうに見ている。でも、アリスにはわからないのだ。
これまで、祐麒は柏木先輩のことを烏帽子親だと認めないできた。自分の生徒手帳に、柏木先輩のサインが書かれていようと、それは一方的だと、自分の意志で結ばれた関係ではないのだと、主張してきたのだ。それなのに、こんな時だけ「あなたは烏帽子親なのだから助けてくれ」とどうして言えるだろう。口が重くなって当然ではないか。
そうだ、甘えられないのだ。
水くさいのは当然。柏木先輩は、アリスたち仲間とは違う。祐麒の生徒手帳に名前が記されているというだけの、二学年上の先輩でしかない。
打ち明けなければいけない。そう思いながら、時間だけは過ぎていく。
仲間たちは、『安来節』の振り付けが載っている本を書庫から出してコピーしてくれた、それを見ながら、家の自室でちょっと踊ってみたけれど、やればやるほど「やる気」は落ちていった。当然『安来節』セットは生徒会室の片隅《かたすみ》に置きっぱなしで、できるだけ見ないようにしている自分がいる。こんなことではいけない、そう思いつつ、重い腰はますます上げられなくなっていく。
「おい、ユキチ。『安来節』踊ってみろ」
柏木先輩にそう命じられたのは、火曜日のことだった。
「えっ」
放課後、祐麒が生徒会室に行ったら、珍しく柏木先輩がいた。アンドレ先輩もランポー先輩も日光《にっこう》・月光《がっこう》先輩もアリスも高田も小林も、つまり他には誰も来ていなくて、図《はか》らずも二人きりになった。
だからといって、もはや図書カードをなくしたことや弁当当番とのことを相談する気にはならなかった。頼み事や相談事のように言いづらい話をする時は、勢いに乗る必要がある。いわば、「今言わなければ」という旬《しゅん》だ。祐麒の場合のそれは、仲間たちに口を割らされたあの時だった。あれから数日|経《た》ってしまい、「もう今更《いまさら》」という気になっていた。つまり、時機を逸《いっ》してしまったのだ。
「踊ってみろ、と言った。本番は今週の土曜日だ。そろそろ、見せられるくらいには仕上がっている頃だろう」
「い、いえ。まだお見せできるほどには」
愛想《あいそ》笑いしながら後ろずさりしてはみたが、そんなことで許してもらえる雰囲気《ふんいき》ではなかった。
「それでもいいから。僕が見て、うまくないところは指摘してやる。自分じゃわからないだろう」
ほら、と『安来節』セットが投げられる。受け止めた時軽く埃《ほこり》が舞った。そのことに明らかに気づいているのに、口には出さない柏木先輩が恐ろしい。
「あの、それじゃ少しだけ」
渋々《しぶしぶ》と風呂敷包みを解く。中から現れたのは、久しぶりに会う竹ざるや手ぬぐいや五円玉という小道具たち。
「扮装《ふんそう》はいい。ざるだけ持って踊れ」
柏木先輩がカセットデッキを持ってきて、テープをセットした。音楽が流れる。もう、「ちょっとタイム」は言えない。
(えっと、こうだっけ?)
うろ覚えのまま、とにかく曲に合わせて身体《からだ》を動かす。柏木先輩は立ったまま腕組みし、その様子を見ている。
「もういい」
まだ半分もいっていないところで、デッキのストップボタンが押された。
「話にならない」
音楽がぷつりと消えた空間で、声は妙に冷ややかに響《ひび》いた。
「うまくないところを指導してやるとはいったが、それが全部じゃとても面倒《めんどう》見切れない」
「あ、あの……」
「これを渡してから、一週間以上あったろう。君はいったい何をしていたんだ」
何をって。いろいろあったさ。
図書室で弁当当番に絡まれて追いかけっこしたり、図書カードをなくしたり、友達にアドバイスもらったり、柏木先輩に相談しようとしてできなかったり。そんなことをしているうちに、いつの間にか一週間経ってしまったのだ。
けれど、祐麒の口から出たのは別の言葉だ。
「何で、俺にこんなことさせるんですか」
『安来節』の練習をできなかった理由は、多忙だったからじゃない。諸々《もろもろ》の悩みが心を占《し》めていたせいでもない。
なぜ自分はこんなことをやらなければならないのか。その疑問がいつでもついて回って、上達するという目的も練習する意義も見いだせなかった。
「何で、とは?」
柏木先輩は、カセットデッキからテープを取り出して差し出す。
「俺はあなたのおもちゃじゃない」
「その通りだ。僕は君のことを、僕のおもちゃだなんて思っていない。君は僕の、可愛《かわい》い烏帽子子だ」
祐麒がカセットテープを受け取らずにいると、柏木先輩はテーブルの上に広げられた風呂敷の上にそっと置いた。
「仮に、あなたがそう思っていてくれたとして」
「仮にも何も、本当の気持ちだ」
「じゃ、その可愛い烏帽子子をどうして笑いものにしたいんですか」
全校生徒の前で。五円玉で鼻を潰《つぶ》して、滑稽《こっけい》な仕草《しぐさ》で踊らせるなんて。ちょっとでも可愛いと思っていたら、そんなことできるわけない。
「笑いもの? 違うよ。君は笑いをとるんだ」
「言ってる意味がわからないよ」
祐麒は柏木先輩から目をそらした。そこには豆絞りの手ぬぐいや紐《ひも》を通した五円玉が、これまた能天気な唐草模様の風呂敷の上でぬくぬくと休んでいる。
「ユキチ。僕は君の烏帽子親になったことを後悔はしていない。でも、もう少し時間をかけていれば、と思わないでもないんだ」
柏木先輩が言った。
「君が僕の烏帽子子だということを知っているのは、今はまだ一部の生徒だけだ。だから正体のわからない無所属の君が生徒会室に出入りすることを訝《いぶか》しんだり、反発を覚えたりする人間もいる。事情を知らなければ、勝手に生徒会幹部にまとわりついている一年生にしか見えないかもしれない。だから急いだ。生徒総会で、君が生徒会代表を務めることにより、君の立場を明確にできる。僕が選んだ人間、なんだと」
「え……?」
まさか、知っていたのか。弁当当番とのいざこざを、いいや、この人のことだ。祐麒が気づいていない表面化していない動きまでも、すべて把握《はあく》しているのかもしれなかった。
「それを何だ。何もわかっちゃいない。いや、わからないのはいい。わからないなら、なぜ聞かない。一週問も悩むな。もったいない」
いつでも冷静で人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべている柏木先輩が、珍しく声を荒らげている。ああこの人も怒ることがあるんだ、と祐麒はぼんやりと眺《なが》めていた。
「ユキチ、君は生徒会をなめているのか。本番までに仕上がらなかったら、舞台に上がらなくても済むと高をくくっているんじゃないのか?」
確かに。舞台に上がらなくて済むとまでは思っていなかったけれど、適当に踊ればお茶を濁《にご》せるのではないかと心のどこかで考えていた。
「覚えておけ。本番が来たら、泣いても暴れても一人で舞台に上げるからな」
それなのに、柏木先輩は本気なのだ。お茶を濁すなんて、とんでもない話だった。
「学校を休んだら、家まで迎えに行く。本当の病気でも、たとえ入院していても、ベッドから引きずり出してやるから逃げられると思うなよ」
むちゃくちゃだ。だが、どうしてだろう心の中が熱い。
祐麒は広げた風呂敷の四隅《よすみ》を掴《つか》んで、そのまま部屋を飛び出した。熱くなった心の中から、何かが飛び出してきそうだった。何だろう。わからない。喩《たと》えるなら、眠っていた小さな翼竜《よくりゅう》が揺り起こされて行き場を求めているみたいな衝動だった。
「わ――――――っ!」
雄叫《おたけ》びをあげて、廊下を走る。
大丈夫か、福沢祐麒。走りながら、後頭部の後ろ辺《あた》りで、もう一人の自分が冷ややかに見ている。でも、先を突っ走っている自分を止めることはできない。
「わ――――――っ!」
大丈夫だ。
内にいる小さな翼竜は、自分に危害を加えない。
自由に空に放っていい。
小さな翼竜どころか、本人がかなり自由に校内を走り回った。
昔、ドキュメンタリーだったかニュースだったかで、元気が有り余っている犬たちに橇《そり》をひかせる映像を見たことがあったが、今の自分はまさにそんな感じだと祐麒は思った。
程よい疲労感を抱えて教室に戻った頃には、幾分《いくぷん》冷静さも取り戻していた。
一年B組教室には、誰も生徒はいなかった。放課後もずいぶんと時間が経っている。下校したか、さもなくば部活に行っているかであろう。
「一と、二と、三と、四と」
机の上に仲間たちがコピーしてきてくれた振り付けのイラストを広げながら、口でリズムをとって踊り始める。教室のどこかに英語の教材を聴くためのカセットデッキはあるはずだが、探す手間がもどかしい。それにクラスメイトの誰かが戻ってきた時に、すぐに取り繕《つくろ》えるようにしておきたかった。
不思議と、『安来節』を踊っている姿を見られるのが恥ずかしいとは思わなくなっていた。ただ、生徒総会まではできるだけみんなに知られたくない。何も知らずに観《み》たほうが、面白《おもしろ》いに決まっているから。
「一と、二と、三と、四と」
コピーを見ながら、真剣に振りをさらう。何が、自分を突き動かしているのか、祐麒はわかった。
あの時、柏木先輩が本気で怒ったのを見て、実感したのだ。
柏木先輩は、もうずっと前から祐麒の烏帽子親だったのだ。身内だから祐麒が舞台でみっともない姿をさらすことに、我慢《がまん》ができなかったのだ。
彼の目が語っていた。祐麒のすることは自分の一部なのだ、と。
それなのに、祐麒自身はまだ柏木先輩の烏帽子子にはなりきれていない。
そんなことでどうする、そう思った。
なぜ自分はこんなことをやらなければならないのか。
その答えは、「自分のため」だった。
その機会を与えてくれた柏木先輩に、全校生徒の前で大恥をかかせてはいけない。笑いをとれるか笑いものになるかはやってみなければわからないけれど、今できるのは、『安来節』を自分のものにするまで踊り込むことだけだ。
「一と、二と、三と、四と。……うーん、やっぱ、この振りとこの振りのつなぎ目がよくわからないな」
手引きがイラストの図解だけだから、これでいいのか今ひとつ自信がない。
「あ、そうか」
柏木先輩が「自分じゃわからない」と言っていたのは、きっとそういう部分のことだったのだ。
(……)
明日、もう一度見てくれるだろうか。
(そうじゃない)
自分から「見てください」と、頼まないとだめだ。
そして、ちゃんと謝って、そうだ、図書カードのことも打ち明けよう。
そろそろ部活を終えた生徒が教室に戻ってくる時間だ。祐麒は、風呂敷包みからカセットテープだけ抜き取って、残りを丸めてロッカーに押し込んだ。家で練習するのだったら、振り付けの書かれたコピーと音楽だけあればいい。ざるなんて、下敷きでも野球キャップでも代用できる。
(そうだ)
図書カードのことを何とかしたら、あのビデオだって借りることができるかもしれない。もしかしたら、返却予定日より前だけれどもう返却されていたりして。
思いついたら、どうにもコンピュータで確認せずにはいられなくなって、我慢できずに図書室に走った。
しかし。
「『本日は閉室しました』……か」
勇んでやって来たのに肩すかしである。扉にかけられたプレートの文字を、思わず音読してしまった。
「そりゃそうだよ」
左腕の時計を見てうなずく。
でも、がっかりすることはない。たとえあのビデオが返却されていたとしても、カードが再発行されていない今は、まだ借り出せはしなかったのだから。
祐麒は図書室の扉に向かって柏手《かしわで》を打った。
(どうぞあのビデオを、近々に借りられますように)
仏教の学校なのに、と気づいた時は、図書室の神様にお願いし終わった後だった。
下足場《げそくば》でロッカーを開けると、上履《うわば》きを入れるスペースに、四角くて黒い何か、パッと見ビデオテープみたいな物が入っていた。
「――って、もろビデオテープじゃん!」
あわてて取り出すと、一緒にプラスティック片のような物が滑り出て、落下した。一旦《いったん》床に着地したそれは、あろうことか対岸の簀《す》の子の下にスルスルと潜ってしまった。
「……図書カード?」
落ち着け、落ち着け、と言い聞かせる。見間違いかもしれない。そうだ、願いが強すぎるからちょっと似ている物もそれに見えてしまうのだ。
とにかく、右手に持ったままだったビデオテープに張られているラベルを見た。
「『楽しく踊ろう! 民謡大全集・中国四国編』」
目を擦《こす》ってもう一度確認したが、間違いない。小林が検索をかけて見つけた、そしてその時すでに貸し出し中だった、あのビデオである。
「じゃ、じゃあ、あのカードは」
結構な大きさのある簀の子を、思いっきり持ち上げた。火事場の何とやら、である。火事ほど切迫《せっぱく》していないが、気は急《せ》いた。
プラスティック片はかなり奥まで滑っていったようで、簀の子の縁《へり》を肩で担《かつ》いで、足を伸ばして引き寄せなければならなかった。砂と埃と上履きの足跡をつけて、やっと救出されたそれはなつかしい姿をしていた。
「フクザワ ユウキ」
自分の名前が書かれた図書カードだ。
「あれ、ユキチ何してんの?」
テスト入部の部活が終わり下校しようという高田が通りかかって、祐麒に声をかけてきた。
「お前、肩とかすげー汚れてるぞ。誰かにやられたのか」
拳《こぶし》を振り上げてキョロキョロと辺りを見回す高田に、「違うんだ」と首を振った。
「神様が」
「え?」
首を傾げる友に、祐麒は靴のロッカーに入っていた二つの物をそっと差し出す。
「神様は不公平じゃないかもしれない」
と、言って。
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嵐の前の平和
神様がいるって思うと、祐麒《ゆうき》は俄然《がぜん》元気が出てきた。
心を入れ替えて前向きになったから、――『安来節《やすぎぶし》』もやる気になったし、柏木《かしわぎ》先輩に対してもっと素直になるべきだと反省したから――物事が好転し出した気がするのだ。
とはいえ、そんな神様も時には悪戯《いたずら》をする。
深夜の一時に、家族が寝静まってからそっと和室のテレビで借りたビデオを視《み》ていたら、トイレに起きた親父《おやじ》に見つかってしまった。
「およっ……ゆ、祐麒」
廊下に灯《あか》りが漏《も》れていたのだろう、寝ぼけ眼《まなこ》の父は「何だろう?」と軽い気持ちで襖《ふすま》を開けた。が、そこで目撃したのは、音量を絞《しぼ》ってこそこそとビデオを視ている息子の姿。――そりゃ、固まるわ。
「お、親父っ、これは」
おいこら、動揺するな祐麒。かえって怪《あや》しまれるじゃないか。しかし親父は、次の瞬間クルリと背中を向けた。やべ、完全に誤解している。
「行かないでっ」
祐麒は父の肩を掴《つか》んで和室に引っ張り込むと、襖を閉めた。とにかく、とにかく話だけでも聞いてくれ、と。
「お父さんは別に怒らないよ。ただ祐麒ももうそういうのに興味をもつような年頃なのか、と思っただけで」
「違うから」
確かにそういう年頃ではあるけれど、今回のは違うから、って。言ってて、自分でもよくわからない。
「ただ、うちには年頃の娘もいるから、気をつけてもらわないとな。そうだこのデッキ古くなったから、買い替えて、テレビを付けて祐麒に下げ渡してやるか。でも、そうすると祐巳《ゆみ》ちゃんが不平言うだろうな。事情を説明するのもはばかられるし――」
ああ、もう完全にいかがわしいビデオを視ていたことにされてるよ。見つかった瞬間に、とっさにリモコンのストップボタンを押してしまったから、今画面に映し出されているのは何チャンネルか知らないけれど古そうな洋画だし。
「……洋モノか」
横目でチラリと見て、父が言った。
何ですと? 慌《あわ》てて振り返ると、ブロンドの可愛《かわい》い女の子とちょっとツッパリ入っている黒髪の男の子が、手をつないで歩いている。昼間の公園だ。でも、このまま映画が進んだら、こいつらいったい何を始めるかわかったものではない。とにかく、チャンネルだけは素速く変えた。
「お父さま、テレビもデッキもいりません。お願いですから、一緒に僕が視ていたビデオを視てくださぁい」
祐麒は懇願《こんがん》した、もう、最後は涙声になった。
これが本当に女の人の裸《はだか》とかが映っているビデオだったなら潔《いさぎよ》く認めるけれど、そうじゃないのに誤解されるのは、何ていうか……損《そん》だ。
「えー、いいよ」
息子となんて視たくないって、頭をかく親父。そういうビデオだったら、こっちだって願い下げだ。
その後どうにか父を拝《おが》み倒して、『楽しく踊ろう! 何たらかんたら中国四国編』を視てもらうところまでこぎ着けた。
「祐麒の趣味って変わっているな。こんなんで興奮《こうふん》するわけ?」
画面では着物の裾《すそ》をまくり上げた中年男性が、民謡《みんよう》『安来節』に合わせて、見えないどじょうを楽しそうにすくっている。
「親父、本気で言ってるの?」
「もちろん冗談だ」
よかった。そういう嗜好《しこう》の人もいるだろうけれど、祐麒にとっては「女性の裸を視ていた」以上に厳《きび》しい誤解である。
「でもこんなビデオなら、深夜じゃなくて女性陣の前で堂々と視ればいいのに」
「そんなことしたら、どうして『安来節』なんて研究してるのかって、しつこく聞かれるに決まってるだろ」
「あ、そうか。どうしてなんだ?」
しつこく聞かれるのも困るが、まったく疑問を持たれないのも心配だ。まだ半分寝ぼけているのか、それとも息子が本気で民謡に傾倒《けいとう》していると思っているのか。
「……生徒総会で踊るんだよ」
「へえ、ご苦労さまだな。祐麒は、お母さんや祐巳ちゃんには知られたくないんだ?」
「うるさいじゃん」
どうして、とか、踊ってみせて、とか。想像しただけで疲れる。
「まあ、そうかもな」
父は立ち上がった。
「男ってのは、女にいい格好《かっこう》ばかり見せていたいものだからな」
女にって。母親や姉だぞ、って言いかけたが、やめた。きっと親父は、妻や娘にいい格好を見せたいと思っているのだ。
「お前もほどほどにしないと、次はお母さんが起きてくるかもしれないぞ」
うーんと伸びをしてから襖を開ける。
「親父、このことは」
パジャマの広い背中を呼び止めると、何もかも承知《しょうち》といった顔で振り返り、親指を立てた。
「わかってるよ。男と男の秘密だ」
福沢祐一郎《ふくざわゆういちろう》という人は、息子の前でも格好つける男のようだった。決して、キマってはいなかったけれど。
掘って、掘って、蹴《け》ったらポーズ。
クルリと回して。
「いいじゃないか、ユキチ」
ポンポンと、柏木先輩の手が叩《たた》かれる。
「ぎこちない動き、一杯一杯の表情。だけど一生懸命さが伝わる」
「はあ」
その言い方、あまり誉《ほ》められたような感じはないんだけれど。でも「いいじゃないか」が出たということは、及第点《きゅうだいてん》という意味だろう。練習し始めて数日の、にわかどじょうすくいである。熟練した踊り手に敵《かな》うほど上達できるだなんて、考えるほうがおこがましい。
「――って、何してんですか」
ざるを風呂敷《ふろしき》包みの上に置いていたら、背後からギューッと抱きしめられて、豆絞《まめしぼ》りの手ぬぐいを被《かぶ》った頭をよしよしと撫《な》でられた。
「何って。スキンシップ?」
「どうしてっ」
どうして『安来節』の出来の最終チェックの後に、「当然」みたいな流れでスキンシップがやってくる?
「ちょっ、とにかく放してっ」
ジタバタもがいて、やっとの事で逃れてにらみつけると、柏木先輩はいつものようにさわやかな笑顔をこちらに向けたまま、両手を腰に当てたポーズ。
「だって、この間ユキチさ、自分のこと可愛い烏帽子子《えぼしご》だと思われていないみたいな発言したから。これは態度で示してやらないとかわいそうかな、って」
「いいです。そういうの、いりません。辞退します。ノーサンキューっ」
「そう?」
そう言いながら、ギャラリーたちに視線を移す柏木先輩。その場にいた日光《にっこう》・月光《がっこう》先輩および高田《たかだ》は「さあ?」というような表情で応《こた》える。――そりゃそうだ。
実はこの柏木先輩による「スキンシップ」なるもの、困ったことに彼らの前で大っぴらに行われていたわけである。いや、二入きりのほうがむしろヤバイか。
金曜日の放課後である。
ここのところ、生徒総会の準備でいろいろ雑用に追われてはいるけれど、祐麒の心の中は平和で充実していた。
水曜日の朝に、柏木先輩に謝罪し、これから真面目《まじめ》にがんばります宣言して、これまでの態度を許してもらった。それから毎日放課後の早い時間、こうして『安来節』を踊って柏木先輩に見てもらっている。今日がその最終日なのだ。
「明日もその調子でがんばれ。じゃ、僕はテニス部に行ってくるから」
部活のかけもちに忙しい柏木先輩は、毎日違う部活に顔を出す。時には、一日に二つとか回ることもあるらしい。サービス精神|旺盛《おうせい》で、喜んで広告塔になりましょうって人。ランポー先輩と、真逆《まぎゃく》を行っている。
柏木先輩が生徒会室を出ていこうと扉を開けた時、ちょうど小林《こばやし》が現れた。
「お、ショーネン。元気か」
すれ違いざま、小林の肩をポンと叩いて柏木先輩が声をかけた。
(ん? ショーネン?)
祐麒は首を傾《かし》げた。ショーネンって、少年のことか? 高田も首を傾げている。日光・月光先輩は、小さいことは一々気にしない。で、小林はというと。
「ショーネンって、ぼ僕のことでしょうかっ」
呼ばれてから三秒ほどの間《ま》をおいてから振り返ったので、柏木先輩はすでに廊下を数歩先に進んでいた。
「うん。この間、あだ名つけてくれって言ってただろ?」
振り返ってニッコリ笑う柏木先輩に、小林はガバッと頭を下げた。
「光栄です」
えっ、光栄なんだ。と、祐麒は驚いた。そもそも、あだ名をつけてもらいたい、なんて話も初耳である。いろんな人間がいるものだ。と、感心しているその横を、すごい勢いで駆け抜けるヤツがいる。
「光《ひかる》の君《きみ》!」
次の瞬間、まるでワープしたみたいに、高田が柏木先輩の前に立っていた。
「自分にも、あのっ、お願いできないでしょうか」
二人目のガバッ。えっ、高田も小林と同じなのか。もしかして、そっちのほうが多数派だったのだろうか。
「高田君にもねぇ」
もちろん、頼まれたのは柏木先輩だから、むげに断ったりしない。「うーん」と腕組みして天を仰《あお》ぎ、落ちてきた何か[#「何か」に傍点]を捕まえてから言った。
「テツとアイアンどっちがいい?」
質問されたのは、あだ名をつけられる本人である。え、今度は二択《にたく》?
「えー? じ、じゃあアイアンで」
短い髪をカシカシとかきながら、はにかむ高田。そこをすかさず。
「なら、テツに決定」
さらっと言い置いて、柏木先輩は「じゃ」と去っていった。フリーズした高田が解凍した頃には、もうすっかり姿は見えなくなっていた、というわけだ。それって、言い逃げなんじゃないか。
「ユキチよぉ。あれ、どういった意味で聞いたんだと思う? 俺がテツって言ったらアイアンになってたのかなぁ。それとも最初からテツで決まりだったのかなぁ」
高田がしなだれかかってくる。
「知るか。本人に聞け」
いくら烏帽子子だからとはいえ、こんな後始末までも引き受けなきゃならないなんて、聞いていない。
「なー、ユキチ。よく考えたら、俺のは、正念《まさむね》を音読みにしただけじゃねぇか? 手抜きと思わない?」
小林まで、祐麒に問い合わせてくるからたまらない。
手抜きというなら、福沢って苗字《みょうじ》だけで「ユキチ」はどうだ。聞くところによると、アンドレ先輩のあだ名をつけたのも柏木先輩だっていう話だし。あの人の命名は基本手抜き、いや、お手軽なのだろう。それが嫌なら、頼まなければいい。しかし、それでも「光栄」と言われるわけだから不思議なものだ。
「ショーネンってのはさ」
ボソッと、日光先輩が言った。
「うん。少年探偵団の小林君じゃないの?」
うなずきながら、月光先輩も言った。
「あ」
ワイワイ騒いでた一年生三人の動きが、ピタッと止まる。ぼ、ぼ、僕らは――の小林少年。そっちか、と。
「それにしたってさー」
「いいじゃん、小林は。俺こそ、ただの音読み。それも二択で、俺が捨てた方だぜ」
「ああ、もううるさい。だから、そういうことは本人に言えよ」
それはともかく。
今更《いまさら》友のことを「ショーネン」だの「テツ」だのとは、とても呼べそうもない祐麒なのであった。
そう、平和なのである。
祐麒の心の内だけでなく、祐麒を取り巻くその周囲も。
少し前までの、大荒れに荒れていた日々が嘘《うそ》のよう。
生徒会室が荒らされることもなくなったし、弁当当番に追いかけられることもなくなったし、図書カードは見つかったし、ビデオは借りられたし、ついでにランポー先輩の追いかけっこもこのところ見られなくなった。
災難|癖《ぐせ》がついてしまったのか、世の中うまく回っていると何だか不安になる。これでいいのか。もしや、これが「嵐の前の静けさ」なのではないのか、と。
生徒会室の件は、厳重な戸締まり徹底が功《こう》を奏《そう》しているのかもしれない。
弁当当番の件は、一度|因縁《いんねん》をつけたことで彼らも満足したのかもしれない。
しかし、図書カードとビデオの件はどうしてなのか未《いま》だに説明がつかなかった。
「何か、気持ち悪いんだよな」
ランポー先輩が、生徒会室に来るなり机の上に突っ伏してそう言った。
「えっ。大丈夫ですか」
具合でも悪いのかと慌てて駆け寄ったら、違う違う、と顔は上げずに手だけ振られた。「気持ちが悪い」は身体《からだ》の不調のことではないらしい。取りあえず祐麒は、よかったと胸を撫《な》で下ろした。生憎《あいにく》他に残っていた人がいなかったから、具合が悪いと訴えられても、どう介抱《かいほう》したらいいものやら困ってしまっただろう。
「ここのところ、推理小説研究部がまったく接触してこないんだ。学校生活を邪魔されなくなったのは、ありがたい話ではあるが、何とも」
「理由がわからない?」
尋《たず》ねると、ランポー先輩はガバッと顔を上げて、祐麒の手を握ってきた。
「そう。わかってくれるか、ユキチ」
乱暴なシェイクハンド。
「はい」
わかり合えたのは、祐麒がランポー先輩の心を察したというより、自分もまた同じような気分だったからに外《ほか》ならない。どういった理由で今の平和が保たれているのか理解できなければ、本当の意味で心安らかになれない。その気持ちはよくわかる。
「そうか。お前もいろいろあるんだな。例の、あの追いかけっこか」
「それもありますが。図書カードとビデオの件が、どうにも腑《ふ》に落ちなくて」
「図書カードとビデオ?」
ってことは、犯人はランポー先輩でもないわけだ。一番怪しそうな柏木先輩に聞いたら、「僕じゃないけど」と言っていたし。祐麒が生徒総会で『安来節』を踊ることを知っていて、祐麒が図書カードを落とした時もしくは落とした直後に図書室にいた人物。しかし、拾ったならなぜにすぐに返さず、わざわざ借りたビデオと一緒に靴のロッカーに入れたのだろう。さっぱりわからない。いっそ、本当に神様の仕業《しわざ》なんじゃないのか、と思ったりして。
「まるで『小僧《こぞう》の神様』だな」
「え?」
「志賀直哉《しがなおや》。おや、未読?」
ランポー先輩は笑った。図書室にあるからそのカードで借りるといい、と。短編だし、すぐ読めるという話だ。
「そういや、日光・月光は?」
今思いついたように、ランポー先輩は部屋をキョロキョロと見回した。
「帰りました」
明日の準備は済んだから、と言って。つい十分前、といったところだろうか。日光・月光先輩が帰るなら、と高田と小林も一緒に下校した。誘われたけれど、祐麒はもう少し居残ることにした。明日の本番に向けて、もう何回か『安来節』を通しで踊っておこうと思ったのだ。
「鍵《かぎ》持ってないユキチ一人残して帰ったのか?」
「でも、アンドレ先輩かランポー先輩は絶対来る、って言ってましたよ。自信満々に」
事実、その予言から十分ほどで、本当にランポー先輩は来た。そのうち、アンドレ先輩も来るのだろう。
「完全に行動読まれてるな」
「ですね」
目配《めくば》せして笑い合うと、ランポー先輩は部屋の隅《すみ》まで歩いていき、なぜか電気湯沸かしポットを持ち上げて中に入っているお湯の量を確かめた。
「コーヒー飲むか」
「えっ、あ、はい」
うなずくと、戸棚から、コーヒードリッパーとたぶんコーヒーが入っている筒型の缶とコーヒーカップ二つが取り出された。
「インスタントじゃないんですか。それに俺、この部屋にある飲み物ってお茶だけだと思ってました」
焙《ほう》じ茶、玉露《ぎょくろ》、玄米《げんまい》茶、ウーロン茶、紅茶……。茶筒《ちゃづつ》に書いてあるラベルで確認できるだけでも、ざっと五種類はあった。それ以外にも、ラベルの張っていない茶筒や陶器の壺《つぼ》がいくつも並んでいる。お茶の種類によって使い分けているのか、茶碗《ちゃわん》や急須《きゅうす》もいろいろ取りそろえられている。たぶん夏になると、冷蔵庫に麦茶とかも加わりそうだ。
「ああ、うん。アンドレがお茶にこだわってるからな。ああ、豆は挽《ひ》きたてじゃないし、ポットのお湯だからあまり期待するなよ」
柏木先輩のためのお茶を準備するアンドレ先輩の繊細《せんさい》な動きとは正反対に、ランポー先輩がコーヒーをいれる作業は大胆《だいたん》だった。紙のフィルターをセットしたドリッパーをカップの上に直置《じかお》きし、そこに缶を傾けてコーヒーをザッザッと落とし、ポットのお湯をドドドと注ぐ。一つのカップに表面張力ギリギリまでコーヒー液ができあがったらドリッパーを外して、その内半分をもう一つのカップに移す。それだけ。注ぎ口の細いヤカンで、とか、コーヒーの粉を膨《ふく》らまして、とか、そういうこだわりはまったくないらしい。
「ほい」
「いただきます」
差し出されたカップを受け取って、口をつける。意外、と言っては失礼かもしれないが、大雑把《おおざっぱ》に作った割りには結構イケた。
「どう思う?」
ランポー先輩が聞いた。
「うまいっすよ」
「そうじゃなくて。推理研のことだ」
「すいりけん? ……ああ、推理小説研究部ですか」
「休み時間のたびに押しかけてきたあいつらが、昨日も今日も、まったく顔を見せていない」
何かあったのかと、ランポー先輩は放課後推理小説研究部の部室の様子を見にいってきたらしい。しかし、扉の上方についているガラスから中を窺《うかが》ってみると、彼らには何事も起こっておらず、至《いた》って平和な部活動が行われていた。まあ、つまり本を読んだり、のんびりと書き物をしたりしていた、ってことだ。
「先輩を追いかける必要がなくなった、ってことですかね。単純に考えるなら」
祐麒は自分が思ったままを述《の》べた。複雑に考える、ってのは、自分でもよくわからないけれど。
「うん。そういうことになるんだろうな。じゃ、どうして俺のことを追いかける必要がなくなったか」
「えっと」
ランポー先輩を勧誘《かんゆう》しなくてもよくなった、ということだから――。
「部員の数が、十人|揃《そろ》ったんだろ」
扉が開いて、アンドレ先輩が入ってきた。
「考えるまでもない」
そんなこともわからないのか、と祐麒を見下《みくだ》す。いつものことである。
「気づいていたのか」
ランポー先輩が尋ねると、アンドレ先輩は「ああ」とうなずいてから、シンクに置きっぱなしになったコーヒードリッパーを見て顔をしかめた。が、それについて特に何か言うことはなかった。
「お前らの追いかけっこを知らない人間は、花寺《はなでら》学院高校にはいない。推理研の奴《やつ》らだって、そろそろどこかしらから注意があると踏んでいるだろう。部員が揃ったなら、これ以上危ない橋を渡る必要はない。ここら辺で手を引くのが上策だ。ヤツらがただのバカじゃないならな」
部活に行っていたのだろうか。湿気を帯びた前髪を手櫛《てぐし》ですいてから、アンドレ先輩はランポー先輩から祐麒に視線を移した。
「そもそも、だ。弱小部が部活として存続できるかどうかなんて、総会では時間が余らなきゃ話し合わない議題だ」
「そうなんですか」
今度は、祐麒がランポー先輩を見た。すると、「ああ」という返事。
「生徒総会ったって、ケツ、つまり終了時間は決まっているからな。重要度の高い報告とか議題とかを先に片づけちまって、時間切れで残った議題は生徒会が持ち帰って後日協議します、ってことになる」
ここ数年というもの、すべての議題を時間内にこなせたためしはないらしい。けれどサクサク進まないという保証もないから、弱小部活は取りあえず総会までに部員十人を確保しておかなければならないわけだ。推理小説研究部も規定の十人をクリアしたから、あとは息をひそめていようと方向転換したというのが、アンドレ先輩の見解だった。目立った行動をして別の理由でつるし上げをくらったら元も子もない、と。
「ケツが決まってる……」
祐麒はつぶやいた。
「――が、余興《よきょう》はやるぞ。別枠《べつわく》だ」
アンドレ先輩が、冷ややかに言う。どうやら、時間切れなら余興がカットされると、勘違《かんちが》いしたと思われたらしい。
「わかってます。じゃなくて」
祐麒は、ざるやら手ぬぐいやらを風呂敷で包むと、椅子《いす》の上に置いてあった学生|鞄《かばん》を引っさげた。
「俺、これで失礼させていただきます」
時計を見なから、二人の先輩に頭を下げて飛び出した。
「図書室のケツがあるんで」
――と。
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推理と事実の落とし穴
土曜日。
ついに生徒総会の当日がやって来た。
やるだけのことはやった。だから前日の夜は、ゆっくり風呂に入って、図書室で借りてきた本を読んで、ぐっすり眠った。
たかが余興《よきょう》。けれど、祐麒《ゆうき》にとっては生徒総会の本編よりも、おまけの余興のほうが本番だった。
これは絶対にやり遂《と》げなければならない。生徒会の威信《いしん》にかけて、というより、むしろ自分自身のために。
だから、昨日アンドレ先輩は誤解したようだけれど、時間切れの余興カットなんて、祐麒にしてみればとんでもない話なのだ。
余興は別枠《べつわく》。上等だった。
今日は、授業をすべて潰《つぶ》して、四時間分すべて生徒総会に当てられる。余興は生徒総会の最後とはいえ、遅刻なんて事態は許されない。そんなことをしたら、無駄に柏木《かしわぎ》先輩の手を煩《わずら》わせることになってしまう。来なければ家まで迎えに行く、とまで言ったのだから。あの人は。
というわけで、祐麒はいつもよりずっと早く登校することとなった。ちょっと早めに家を出たつもりが、道がすいていてバスが思った以上にスイスイ進んだからだ。
校門から源氏《げんじ》の道を選んで校舎まで。その間会った生徒は、二、三人。もちろん教室には、クラスメイトの姿もない。
「はよー。……って、誰もいないか」
シーンと静まりかえった教室を目にして、もしかしたら朝練に出る生徒より早く着いてしまったのかもしれない、と思った。
「ま、いいか」
その分、どじょうをすくう練習でもしていればいい。祐麒は机の脇《わき》のフックに鞄《かばん》を掛けると、教室の後方に歩いていって、昨日の帰り際にロッカーにしまった『安来節《やすぎぶし》』セットを取り出した。
「とはいえ」
ここで踊るわけにはいかない。放課後ならばまだしも、今は朝だからこれからどんどんクラスメイトが増えていく。
駄目元《だめもと》で、風呂敷《ふろしき》包みを抱えて生徒会室に行ってみた。が、思った通り鍵《かぎ》は開いていなかった。昨日のうちに総会の準備はすべて終えていたから、早出をする者などいないのである。
さあ、どうする。
どうにかなるだろう、と祐麒は歩き出した。どこだっていいから、人目につかない場所を見つけて稽古《けいこ》しよう。何、生徒会室が開くまでの間のつなぎだ。
しかし、そう易々《やすやす》とはいかないようで、当たりをつけて回った箇所はことごとく、何らかの理由で諦《あきら》めざるをえなかった。
「……屋上は鍵、美術室前の廊下には先客、中庭は教室から丸見え、と。仕方ない、校舎の外側に出るか」
幸い、今日は天気もいい。非常口から出て、校舎にそって歩いてみることにする。そういえば、と思い出す。ここは、弁当当番に追いかけられていた時に走った道だ。
進んでいくと、案の定、ランポー先輩に引っ張り込まれたあの小さな空間が現れる。
「さすがに、ここは」
一応入って、風呂敷包みを持ったまま一回転してみたけれど、踊りの練習をするには狭すぎた。人目につきづらいという条件では、ピッタリなのだが。
あまり先に進むと、中学校舎のほうまで出てしまう。そろそろ引き返さないと、と思いつつ校舎の角を曲がると、そこは思わず「おお」と声が漏《も》れてしまうほど、理想的な場所だった。
中学校舎と高校校舎、どっちからも裏手にあたるため、ここなら滅多《めった》に人は現れないだろう。校舎の二階の窓にも届きそうな木々が、生徒の行き来を遮《さえぎ》るように植えられているし、側《そば》には古い物置小屋が建っているため、日当たりはあまりよくない。が、そんなことは踊りの練習には無関係だ。四畳半の和室くらいのスペースが確保できるようだから、十分である。
「さて」
では踊りますか、と風呂敷を解こうとした時、近くで物音が聞こえた気がして、祐麒はその手を止めた。
「……ゃ……ぁ……」
いや、物音ではない。人の声? それとも猫か? 「にゃあ」か「あー」か、そんな風《ふう》に耳には届いた。
上を見る。ここから見える校舎の窓には、いずれも人影はない。
今しがた自分が来た方角を見る。誰かが来る気配もない。
中学校舎の方角を見る。何本もの木が茂っていて、確認できない。そっちか? 祐麒は、ゆっくりと歩いていった。
猫かもしれない。だったら、一々気にする必要などない。さっさと踊りの練習をすればいい。
(でも)
一度気になってしまったものは、どうしようもなかった。
「……ぁ……」
もう一度聞こえた。けれど、それは前方からではない。間違いなく横から届いた。
祐麒は立ち止まり、身体《からだ》の向きを変えた。
そこには、物置小屋がある。古いというより、ぼろい。今にも壊れてしまいそうな小屋だ。
中学の頃、先生が「危ないからあの小屋には近づかないように」と言っていた。そんな風に注意されると冒険したくなるお調子者たちがいて、何人か中学・高校の境界線に植えてある木々を抜けて見にいった、という噂《うわさ》を聞いたことがある。けれど、入り口には鍵がかかっていて、外から眺《なが》めて帰ってきたという、結果は何ともお粗末《そまつ》なものだった。
聞いていた通り、入り口の扉には外から南京錠《なんきんじょう》がかけられ、ご丁寧《ていねい》にその前には木箱を積んで通せんぼ、その上小屋全体を縛《しば》るようにロープがぐるりと巻かれていて、『立ち入り禁止』の札が引っかかっている。
中に人がいるとは、とても思えない。念のために扉に耳を当てて、中から何か聞こえるかどうか確認してみた。
「にゃー」
やはり、猫だ。猫ならば、どこか隙間《すきま》から入り込むことは可能だろう。ざっと見えるだけでも、壁のあっちこっちに亀裂《きれつ》が入っている。
入れたならば、出られるだろう。一々構っていられない。さて、どじょうすくいどじょうすくい、と再び風呂敷を開こうと思った時。これは放っておけない事態である、ことが発覚した。
すでに背中を向けた小屋の中から、四度目の声が聞こえてきたのだ。
「お母さーん」
――猫は、決して「お母さん」とは鳴かない。
体育館に、高校の全校生徒が続々と集まっている。
入学式や卒業式、また仏教行事の式ではないので、パイプ椅子《いす》は出さない。床に大まかにカラーテープを貼《は》って仕切られた三年生・二年生・一年生のエリアの中に、A組から順にF組まで並んで腰を下ろす、という形で一般生徒の席はできていた。
壇上には議長団の席が並べられ、すでにマイクのセッティングも済んでいる。
アンドレこと安藤礼一《あんどうよしかず》は、舞台|袖《そで》の狭い空間を行ったり来たりしていた。そんなことをしたところで、待ち人がその分早く来るわけではないのだが、そうせずにはいられないほど焦《あせ》っていた。
こんなにイライラするくらいなら、朝のホームルーム終了|次第《しだい》体育館に直行という段取りを無視し、自分が直接一年B組に出向けばよかった。放送|朝拝《ちょうはい》直前に生徒会室で解散した際も、実はちらっとそうしようかと思った。しかし、同じクラスの小林《こばやし》がいるのだからと、その考えを却下したのだった。
礼一は、その小林が来るのを待っていた。
いや、少し違うか。
小林がもたらすであろう、福沢《ふくざわ》に関する情報を待っていた。もちろん、福沢本人が直接来たって一向に構わない。
そうじゃない。
むしろ、福沢来い。早く顔を見せろ。
今朝、福沢は生徒会室に来なかった。それが礼一の胸を騒がせる。優《すぐる》さまをはじめ、ランポー、日光《にっこう》・月光《がっこう》、有栖川《ありすがわ》、小林、高田《たかだ》、みんな揃《そろ》っていたというのに。
早く来すぎて生徒会室が開いていなかったから、どこか別の場所で踊りの最終チェックをしていた。――それならいい。
ほんの少し寝坊《ねぼう》して、朝拝ギリギリに登校したから生徒会室に立ち寄る暇《ひま》がなかった。――けしからんが、まあ許そう。
いずれにしても、ホームルームには間《ま》に合って、今頃小林とともにこちらに向かっているわけだから。
しかし。
まだ、学校に来ていなかったとしたら? ――それは、どういうことなのだろう。
「どういうことなんだろう」
隣で誰かがそう言った。礼一は、それまで繰り返していた「二歩あるいてターン」を一旦《いったん》止めて、横を見た。そして、目に入った人はというと。
「優さま……」
いつからそこにいたのだろう。生徒会のアンドレともあろう男が、何たる不覚《ふかく》。誰より敬愛する優さまのお出ましにも気づかずに、その人の前をウロウロと行ったり来たりしていたとは。
「どういうこと、とは――」
つぶやきながら礼一は、言わずもがなのことであったと思った。優さまは、福沢の烏帽子親《えぼしおや》なのだ。福沢が今どうしているのか、一番気を揉《も》んでいる人であるはずだった。
優さまは、フッと笑ってうつむいた。たぶん、さっきのは独《ひと》り言だったのだろう。だから礼一もそれ以上は語らず、ただ黙って横に並んだ。そうだ、こういう時は焦れば焦るほど、焦るのだ。
それにしても、遅い。
小林だけでなく、高田も有栖川もまだ来ない。全員別のクラスなのだから、ホームルームが長引いたわけでもあるまい。っていうか、一年はA組もB組もC組もすでに生徒が揃って体育座りしているぞ。それなのにあいつら、何ぐずぐずしているんだ。ぐずぐずといえば、ランポーもまだだ。日光・月光のようにいつでもアレなタイプだと、いっそ気にもならないのだが、普段はそつがない人間が遅いと気になって仕方がない。
「遅くなりました」
舞台袖に、小林が駆け込んできた。
「ユキチは」
「ホームルームには出てません」
聞いた途端《とたん》、「ぬおおおおっ」と叫びたくなるところを、礼一はグッと堪《こら》えた。優さまの御前《ごぜん》である。
「今、『には』と言ったな。ショーネン」
優さまが、慎重に聞き返す。小林はうなずいた。何だ、いつの間に小林にあだ名がついたんだ。いや、そんな驚きはさておき。
「一度教室には来ています。机にユキチの鞄が掛かっていました」
「なっ」
つい漏れてしまった言葉を、礼一は自分の両手で口の中に押し戻した。優さまが、チラリとこちらを見た。そうだ、邪魔してはいけない。話はまだ途中なのである。「なにいいいいっ」も「ぬおおおおっ」同様後回しだ。
「靴は」
優さまが言い終わらないうちに、小林が察して答える。
「ここに来る途中に下足場《げそくば》を見てきました。あいつのロッカーには、下足が。つまりユキチは、現在|上履《うわば》きを履《は》いています」
「ということは、家に帰ったわけじゃない、ということか」
ホッとしたような、ますます不安になったような、優さまは複雑な顔をしていた。そして、思い出したように小林に尋《たず》ねる。
「アリスとテツは?」
テツ? テツって? この流れでいうと、高田のことかと想像はついたけれど、こちらも質問などせずあえてスルーする。今はそれどころじゃないことくらい、礼一だって重々|承知《しょうち》しているのだ。
「二人は、念のため源氏《げんじ》と平氏《へいし》のトイレを見てからこちらに来ると。もしかして調子が悪くて個室で籠《こ》もっているかもしれないし」
「わかった。ご苦労」
優さまが、小林の肩を叩《たた》いた。そして礼一は。
(普段あまりパッとしないヤツらだが、思ったより頭も身体も働くじゃないか)
と、思った。そして、それと同時に閃《ひらめ》いた。
「そうか。……じゃあ、保健室も」
見にいくべきではないか。振り返って一歩踏み出したところに、遅まきながらランポーが現れた。
「保健室なら行ってきたぞ」
礼一にそう言ってから、ランポーは優さまのもとまで歩いていって報告した。
「ユキチは来ていないそうです」
すまん、ランポー。ぐずぐず、とか侮辱《ぶじょく》して。遅まきながら、とか軽《かろ》んじて。心の中で手を合わせていると、続いて有栖川と高田が到着したので、こっちにもついでに「すまん」と心の中で手を合わせた。
一年生二人は優さまの顔を見ると、首を横に振った。福沢はいなかった、ということだろう。そして。
「どこにいるんだろう、ユキチは」
「どうしたんだろう、ユキチは」
突然、上のほうから声がした。驚いてそちらのほうを振り返ると、いつからそこにいたのか、日光と月光が立っていた。これだけ大きいのに、声を発するまでまったくその存在をみんなに気づかせないというのも、一種の才能ではないかと思われる。
どこにいるのだ。どうしたんだ。日光・月光だけでなく、ここに勢揃《せいそろ》いしている仲間全員が思っていることだった。
「ここにいない、ということは」
礼一はつぶやいた。沈黙に絶えられなくなったのだ。
「福沢は逃げた、とか」
「アンドレ先輩!」
予想通り、一年生が揃って「何てことを」と抗議してくる。それを抑えるように間に入って、優さまが言った。
「アンドレ。思ってもいないことを口にするな」
「……え?」
言い当てられて、礼一はドキッとした。確かに、自分は福沢が逃げたとは思っていなかった。なのにどうして、心にもないことを口走ってしまったのか。それは、きっと誰かに強く言ってもらいたかったからなのだ。
ユキチは逃げるようなヤツじゃない。ユキチはちゃんと来て、立派《りっぱ》に『安来節』を踊る。――と。
その言葉は、優さまがくれた。
「ユキチは来るよ。だから予定通り総会を始めるんだ」
何も根拠はない。けれど、優さまの一声は、みんなを力づけた。福沢は来る。大丈夫だ。
「ショーネン、テツ、アリス。悪いが君たち、クラスに戻らないで引き続き我々の側についていてくれないか。もしかしたら、手を借りることがあるかもしれない」
テキパキと、指示をしていく。
「元より、そのつもりです」
「何でも言ってください」
心なしか、仲間たちの士気《しき》が上がっている。
本当は優さまだって不安なはずだ。けれど、それを少しも顔に出さず、みんなの気持ちが揺るがないように「任せておけ」とどんと構えている。惚《ほ》れ惚《ぼ》れする。これがトップに立つ者の器《うつわ》だ。
自分たちには、それがない。来年、優さまがいなくなった生徒会はどうなってしまうのか。鬼に笑われようとも、考えずにはいられない。
「アンドレ」
ちょっと、とランポーに呼ばれて、礼一は我に返った。そのまま、体育館の袖から用具室の手前に出る階段へと誘《いざな》われる。人気《ひとけ》のない場所を求めた結果、行き着いたといっていい。内緒の話があるようだった。
「光《ひかる》の君《きみ》は、ああおっしゃりはしたが」
声を落として、ランポーは言った。
「逃げたわけではないとしても、ユキチが自力で体育館に来られない事情はあるかもしれない。そうは考えられないか」
「自力で来られない? ……拉致監禁《らちかんきん》とか」
礼一は、言いながらその単語に自分自身が驚いた。拉致監禁って。たぶん生まれてこの方、一度も使用したことがない四文字熟語だ。
「しっ。例《たと》えばの話だ」
「しかし、誰が何の目的で」
福沢を誘拐《ゆうかい》してどこかに閉じこめて、それで得する人間なんているのか? 優さまならともかく、あんな小物、利用価値があるとは思えなかった。
「それがわかれば、苦労はしない。ただ、最近何か気になったことがあったなら、ユキチの失踪《しっそう》に関《かか》わっていないかどうか、洗い出しておいたほうがいいかもしれん」
ランポーは、これが思った以上に大事《おおごと》であると判断したのだ。
「あいつは弁当当番に追いかけられていた」
福沢が弁当当番に追いかけられていた? いったい、いつの話だ。
「一度きりのことだったらしいが、逃げ切ったから決着はついていない。なのにそれきりちょっかいを出してこないというのは、少し気になる」
「なるほど」
弁当当番たちが、福沢にいい感情をもっていないことは察せられる。すばしっこい福沢が逃げ切ったということは、弁当当番側は標的を泣かせることはおろか言いたいことの一つも言えなかったわけで、モヤモヤが残っているはず。必ず次がある、と考えるのは自然なことだ。
「アンドレ、お前は心当たりがないのか。どんな些細《ささい》なことでもいい」
「最近、気になったこと――」
少し前だが、生徒会室が荒らされていたことは気になることではある。しかし、あれと福沢とは、線でつながらない気がする。
(けれど)
目的は福沢ではなく、生徒会だとしたら。
福沢が優さまの烏帽子子《えぼしご》であると、知っている誰かの仕業《しわざ》だとしたら――。
たまらなくなって、礼一は舞台袖まで引き返した。
「アンドレどうした」
ランポーが追いかけてくる。
「でも、いったい誰が」
袖から舞台下のフロアを見ながら、礼一はつぶやいた。
全校生徒のほとんどが、ここ体育館に集まっているというのに。
その、祐麒であるが。
拉致監禁は大げさとして、ある意味「自力で体育館まで来られない事情がある」ことは間違っていなかった。
少し、時間は遡《さかのぼ》る。
早く登校しすぎたので『安来節』の練習をする場所を求めてさまよっていた祐麒は、中学校舎と高校校舎が背中合わせというかお尻《しり》合わせで近づいている、人目につきにくい日の当たらないスペースに建っている物置小屋の前で、「お母さん」という声を聞いた。
猫だったら「自力で何とかするだろう」と放っておいただろうが、人間であれば捨て置けない。
生まれてこの方、人間を出産したことがなかったから自分が呼ばれたわけではないことだけは確かだったが、取りあえず声の聞こえた小屋へと引き返した。「お母さん」は、「助けて」の同意語として使用されることがままあるのだ。
「誰か、いるのか」
言いながら、南京錠のかかった扉を叩いてみる。すると中から、微《かす》かだが嗚咽《おえつ》のような声が返ってくる。壁に阻《はば》まれてはっきりしないが、「助けて」にも聞こえた。どうやら子供のようだ。
「待ってろ」と言いつつ、小屋の周りを巡《めぐ》ってみたが、どこから救出したものか一向にわからない。考えてみれば、猫で想定していたと同様、入った場所から出られるのではないか、人間だって。それとも、入ったのは扉からだがその後外から鍵をかけられてしまった、とか。いや、それにしては、扉の前に積まれた木箱は、最近動かされた形跡がない。
「泣かないで答えろ。お前、いったいどこから入ったんだ?」
祐麒が声をかけると、少し間を置いてから答えがあった。
「……うえ」
「上?」
言いながら、見上げる。なるほど、小屋の屋根から中に入ったということか。これだけぼろければ、人間が通れる穴の一つくらい開いているかもしれない。しかし、どうやってあそこまで上ったんだ?
小屋の上には、すぐ脇に植わっている木の技が張り出している。しかし、いくら子供だって、あの枝を伝って屋根の上まではたどり着けないだろう。その前に必ずポキッと折れる。あれが渡れるとしたら、それこそ猫までである。
「きばこにのって……」
また、声がした。
「え? 木箱に乗って、って言ったか?」
木箱っていったら、入り口の扉を塞《ふさ》ぐように積んであるこの木箱のことか。これに乗って屋根まで上る。不可能ではないだろうけれどまるで曲芸師《きょくげいし》だな、と思った。箱の大きさがまちまちなので、手や足を引っかける場所はあるにはある。
「しょうがない。やるか」
乗りかかった船である。祐麒は手に唾《つば》をペッペッと吐いた。一番下の木箱の上に足をかけ、下から二番目の箱に手を伸ばしかけたところで。
「おっと」
思い直して一旦戻り、地面に置いておいた『安来節』セットを拾って腰に括《くく》りつける。大事な物からは目を離してはいけない。図書カードの一件で学んだことである。
仕切り直して、木箱を上る。上ってみてわかったのだが、容易に動かせないようにか、箱は空《から》ではなく何かを入れて重くしてある。お陰《かげ》でグラグラしないから、思ったよりも上りやすかった。
上までたどり着くと、案の定屋根の一部が壊れて穴が開いているのが見えた。
(そこから入ったのか)
さすがに立って歩くのは恐いので、這《は》って穴まで進む。中を覗《のぞ》き込むと、物と物の間に少年らしき人影がある。目が慣れてくると、膝《ひざ》を抱えて泣いているのがわかった。入ったはいいが、出られなくなったといったところか。
「待ってろ、すぐ助けてやるからな」
自分一人ではとても無理だ。とにかく応援部隊を呼ぼう。そう思って、引き返そうと重心をずらした時。
「お兄さん、気をつけて!」
少年が叫んだ。
「え」
何を、と思った時は遅かった。祐麒はたった今自分が覗き込んでいた穴の縁《ふち》を踏み抜き、一回り大きな穴へと作り替えながら、小屋の中へと落下していった。
生徒総会は、始まってしまった。
まず初っぱなの、生徒会長による開会宣言はすばらしいの一言。優さまは、優雅《ゆうが》で堂々としていて立ち姿も凜々《りり》しく、声にも張りがあり、――つまりいつものように完璧《かんぺき》な「生徒の代表」であった。
福沢が見つかっていない不安を、おくびにも出さない。もしかしたら、本当に不安などないのではないか、と思えるほどの落ち着きである。いや、もしかしたらではなく、それもあり得る。優さまは根拠もないまま確信しているのではないか、と礼一は思った。福沢は必ず来る、と。
議長団が選出されると、しばらくは生徒会役員たちの出番はない。そこからの進行は、議長団が引き受けてくれるからだ。
議長団を壇上に残し、生徒会役員は下がる。そして、各委員会の代表たちと同様、フロアの前方に準備された席につくこととなる。席は舞台を背にして配置されていた。つまり、大多数の生徒たちと対面するような形だ。
一委員会につき机は一つで、代表して委員長がつくがその後ろに椅子を出して、副委員長や会計・書記などが控《ひか》えることは可能である。
それに対して生徒会役員席は長テーブル一つあてがわれているから、特別|待遇《たいぐう》であることは間違いない。テーブル席には優さま、ランポー、日光が座り、日光の後ろに椅子を置いて月光、その隣りの椅子、つまりランポーの後ろに礼一が座った。本当は、気持ちが急《せ》いて座っているのがもどかしかった。背後にいる有栖川、高田、小林のように、いっそ立っていたかった。
「アンドレ先輩」
有栖川が屈《かが》んで耳打ちしてきた。
「僕と高田は、ユキチを探しに抜けていいでしょうか」
「何?」
「小林は置いていきます。何かご用ができましたら、小林を呼びに出してくださればすぐに戻りますので」
「……そうだな」
礼一は会場を見回した。こうして若くて元気なヤツらに、生徒総会の進行をただぼんやり眺めさせておくのはもったいないかもしれない。
「よし、行け。ただし、目立たないようにな」
小さくうなずいた有栖川と高田は、腰を屈めることもなく小走りになることもなく、堂々と歩いて体育館を退場していった。まるでそうすることがあらかじめ決まっていたかのように見えて、こそこそするよりかえって目立たなかった。
(もしかして、あいつらは掘り出し物だったか……?)
『では、ここで昨年度の生徒会行事の報告と今年度の予定について発表してもらいます』
議長の言葉を受けて、ランポーが立ち上がり、前方中央にあるマイクの位置まで歩いていく。
『生徒会副会長の江戸川正史《えどがわまさみ》です。生徒会行事について説明させていただきます。まずお手もとの資料をご覧《らん》ください』
(ふん)
優さまと同じように、いつもと何ら変わらないランポーだ。こういうところが、自分には欠けているのだろうとアンドレは思う。すぐに感情的になって、顔にも態度にも出てしまう。ならば、と考える。自分のセールスポイントはどこなのだろう。
(………………)
すぐに思いつけないところが情けない。隣やその前にいる月光や日光にだって、誰にも負けない得意分野があるというのに。
(ん? 日光・月光の得意分野?)
思いついて、礼一は隣りに囁《ささや》いた。
「月光。今日体育館にいない生徒ってわかるか」
返事はすぐにあった。
「二、三年生ならわかるよ」
「一年生は」
「クラスの出席人数だけだな。まだ顔と名前を覚えてない」
「それでいい」
じゃ、さっそく調べてくれと言う間もなく、結果が届けられる。
「二年B組の安田《やすだ》、三年D組の岸和田《きしわだ》、三年F組の岩代《いわしろ》、川辺《かわべ》……敬称略」
いつもながら、すごい。何だこの能力は。頭の中のデータベースがすごいのか、処理能力が早いのか。たぶん、両方なのだろう。
「一年A組は一人、B組は二人、C組は一人欠席」
「それは欠席じゃなくて、有栖川、小林、福沢、高田だ」
「ああ、そうか」
そうか、じゃない。何大ボケかましてる。
(しかし)
月光の報告はかなり信用できる、とも言える。A組B組C組の生徒が、その分足りないのは事実なのである。
安田は、骨折で一週間前から休んでいる。さすがに、三年生の欠席理由まではわからない。
「岸和田先輩、川辺先輩、岩代先輩に関して何かデータは」
礼一がわかることといったら、彼らが優さまの弁当当番ではないことくらいだ。
「推理研《すいりけん》ではない」
今年度の生徒会行事報告と来年度の予定発表を終えたランポーが戻ってきて、着席しながら言った。入れ替わりで、日光が席を立って中央のマイクに向かって歩いていく。続いて昨年度の決算報告と予算案についての説明だ。
「なぜ推理研?」
後ろからランポーに尋ねると、椅子の位置をずらすふりとともにコソッと返事があった。
「いや、それは俺が追いかけられていた団体だった」
「……そうか」
どんなに些細なことでも、と言ったランポーだ。自分のトラブルが福沢に飛び火した可能性も、考えてみたのだろう。しかし、仮に犯人が推理研だとして、福沢を誘拐する動機がまったく想像つかない。
「三年生三人については、接点はないな。岩代・川辺については、同じF組だが源氏と平氏なのでさほど交流もない。……敬称略」
月光が言った。先の質問の答えである。
「一学年につき二、三人の欠席者がいるのは普通だろう。通常授業がない割りには、出席率は高いほうだ」
優さまの声がした。頬杖《ほおづえ》をつくように唇《くちびる》を隠しているため、遠目には雑談しているようには見えないはずだ。しかし、さすがは優さま。耳は前だけでなく、後ろ向きにもついているようだ。
確かに、出席率は高い。しかしそれは今年に限らず、例年通りといっていい。生徒総会に出席するのは、生徒としての当然の権利であり義務である。と、個人の意識が高まっているわけではなく、源氏も平氏も、仲間同士で「絶対休むなよ」とプレッシャーをかけ合っているからなのだ。生徒総会が平穏《へいおん》に終わればそれでいいが、何か事が起きた場合、数で勝《まさ》っていたほうが有利である。その場で多数決などという事態は滅多にないことだが、人数が多ければ勢いがつく。だから多少身体に不調があっても、生徒たちは出席する。そのため、休んだ者はますます目立つ。
そんな生徒総会で、問題行動を起こすバカが果たしているのだろうか。
いや、いないとは限らない。高校生の男子なんて、大半《たいはん》がバカでできている。そう考えれば、どんな可能性だって否定できないのではないか。そうだ、ランポーが言っていたように。
「替わってくれ」
礼一は、ランポーの肩をつかんだ。
「えっ」
「席」
その迫力に押されたか、ランポーは椅子を立って譲《ゆず》ってくれた。優さまがチラリと横を見るが、そのまま隣りに着席した。もともと長テーブルには『生徒会役員席』という紙が貼られていただけなので、席替えしたところで問題はないはずだった。
「どうした」
静かに、優さまが問う。
「福沢は、弁当当番と一悶着《ひともんちゃく》あったようです」
礼一は、「お手もとの書類」を見るふりをしながら言った。当たり前だが、席が隣だとやはり話がしやすい。
「うむ。それで?」
「今回のことと何か関係があるかも、と」
「弁当当番がユキチを監禁する理由でも?」
「余興の形をとっていますが、今回の『安来節』は事実上福沢のお披露目《ひろめ》といってもいい。それを阻止《そし》しようと」
「面白《おもしろ》い推理だ」
優さまは小さく笑いながら、手もとでは「お手もとの書類」の余白に何かメモ書きをしている。
「推理といえば、推理研も怪《あや》しいです」
『何で?」
「わかりません」
「わからない、じゃ駄目だろう」
優さまは、振り返ってランポーに小林を呼ぶよう告げた。その理由もまったくわからなかったが、とにかく礼一は話を続けた。
「でも、弁当当番も推理研も、突然おとなしくなってしまい。それはまるで嵐の前の静けさのよう」
「おとなしくなったのには、相応の理由があるからだろう。……ああ、ご苦労」
小林が、時代劇の忍《しの》びのように、音もなく優さまの椅子の側《かたわ》らに膝をついた。優さまはメモ書きした紙を千切《ちぎ》ると、そっと手を下ろして目立たないようそれを渡した。小林は渡された物を見て一瞬驚いた顔をしたが、優さまが何も言わなかったので、そのまま下がった。
気になる。いったい何を指示したのだろう。
「他には何かあるか?」
優さまが促《うなが》す。顔は正面を向いて日光の報告を聞くポーズをとり、内緒《ないしょ》の話をしながら、別の人間に指示を出す。なんて器用な人なのだ。
とても真似《まね》できない凡人《ぼんじん》は、別のことに気をとられないで一つに集中するしかない。
「……先日、生徒会室が荒らされました」
もっと早く打ち明けておくべきだったかもしれない。けれど、あの時、どうしてか被害を小さく報告してしまった。優さまに心配をかけたくなかった。生徒会に刃向《はむ》かう者などこの学校にいないのだ、ということにしておきたかった。
「知っている。猫だろう?」
ああ、それなのに優さまは、その報告を疑いもしないでいる。
弁当当番も推理研も理由があっておとなしくなったならそれでいい。けれど、生徒会室が荒らされた一件は、ポジティブに解釈しようがなかった。
「猫じゃないかもしれません。いいえ、私は猫ではなかったと思っています。最初から。申し訳ありませんでした」
これは、生徒会|転覆《てんぷく》を謀《はか》る生徒による犯行。福沢もきっとその犠牲《ぎせい》になったのだ。あいつは抜けているから、ヤツらの計画をうっかり耳にしてしまい、口封じされたのかもしれない。
「アンドレ……何一人で盛り上がっているのかは知らないが」
優さまは、礼一の顔を見て言った。
「猫だよ」
「え?」
「あれは、間違いなく猫の仕業だったんだ」
にゃー。
耳もとで、声がする。
あれ、小屋にいたのってやっぱり猫だったのか。でもおかしいな、猫って「お母さん」とか「お兄さん、気をつけて」とかしゃべれたっけ? ああそうか、物真似する鳥だっているくらいだから猫だってそれくらいできるか。
「お兄さん」
それにしても、人間そっくりだな。オウムとかって、もっと機械を通したような声でしゃべるぞ。さすがほ乳類だな。――っていうか、むしろ人間が「にゃー」って鳴き真似してるって考えるほうが、自然じゃね?
「お兄さんってば」
揺さぶられて、祐麒はハッと身を起こした。
「痛《い》ってー」
どこだかわからないけれど、どこかがすごく痛い。
「大丈夫?」
顔を覗き込んでいるのは、少年だ。たぶん、さっき屋根の上から小屋の中を覗き込んだ時に見た、あの泣いていた少年。
ということは。
記憶をずるずるとたぐり寄せてみる。そして嫌な予感に手を引かれるように、上に視線を移すと。
「そう、落ちちゃったんだよ」
少年が先に言った。やっぱり。たぶんそうじゃないかと思ったんだ。
「助けてやるとか言いながら、様《ざま》ぁねえな。……っ」
頭をかしかしとかこうとしただけで痛い。後ろだからよくわからないけれど、どうやら左肩から背中にかけてケガをしたらしい。痛いけれど手足を動かすことはできたから、幸い骨は折れていないようだ。
少年は、もう泣いていなかった。一見小学生に見えるが、中学の制服を着ている。
「俺、ずいぶん気を失ってた?」
「ううん、ちょっとの間だよ」
小屋の中は雑然としていた。物置というより、むしろ粗大ゴミ置き場のイメージに近い。いらなくなったり壊れたりした機械とか机や椅子、キャビネットや棚なんかもある。端のほうには棒とか鋭利《えいり》な刃物とかの類《たぐい》も見えるから、変な場所に落ちなくてよかったとつくづく思う。
「お前、ケガは?」
「平気。僕が落ちた時は、ここに段ボール箱が積んであったの。でも、落ちた時|崩《くず》して潰しちゃったから、お兄さんの時はそれほどいいクッションにならなかったかもね」
言われて自分が敷《し》いていたものを見ると、確かに段ボール箱が潰れた物だった。中からは布が飛び出している。古いカーテンか何かみたいだ。
「今、落ちた、って言った?」
「うん」
「遊んでいて出られなくなったんじゃないのか」
「うん」
「また、どうして」
「猫だよ」
「猫?」
「うん」
ほら、と言って何かバッグみたいな物を持ち上げて見せる。それがなぜか「にゃー」と鳴いた。
「……本当だ。猫だ」
バッグは側面が網《あみ》状になっているキャリーバッグで、中に猫が入っている。しかし、キャリーバッグに入った猫から少年の落下の理由を推測するのは、かなり困難である。
「この猫、お前のか」
「ううん。野良《のら》。でも、まだ子猫なんだ」
「野良なのに、キャリーバッグに入っているのか」
「昨日見たらケガしてたんだ。だから、獣医さんに連れていこうと思って。お母さんに話したらうちで飼ってもいいって。だから捕まえるために、今朝早く登校したんだ。やっと見つけたら、この小屋の屋根に上ったきりなかなか下りてこないし」
そこまで教えてもらえれば、かなりストーリーが見えてくる。
「それで、お前も屋根に上ったんだ」
キャリーバッグを手に、あの木箱に乗って。で、やっと猫を捕まえて、さて下りようと思った矢先、傷《いた》んでいた屋根を踏み抜いて落ちてしまった。――どうだろう、かなり近いのではないか。
「立ち入り禁止になっていたわけだ」
「そうだね」
自分たちが落ちてきた穴を見上げて、二人は大きくため息をついた。平屋《ひらや》だが、屋根までの高さは結構ある。自力で、脱出できるものだろうか。
かといって、救助隊がくるのを待ってたら、いつになるかわからない。はたして、救助隊がくるのかどうかも疑問だった。
祐麒もこの少年も、朝早く登校したから、校内でほとんど人に見られていない。休みだと思われているかもしれない。だとしたら、すぐに探してなんてもらえないだろう。騒ぎになるとしたら、夜になっても帰らない息子を心配して親が捜索願を出した後のことだ。
それは、まずい。祐麒は立ち上がった。左肩から背中にかけて痛みが走ったが、そうも言っていられない。
「どうするの?」
「そこら辺の机や椅子を積んで階段を作る」
とにかく、今できることをしてみる。それだけだ。すると少年は、斜《なな》めに視線を落として顔を曇《くも》らせた。
「僕もそれは考えたけど」
「けど?」
「ここにあるのは、壊れてるのとか、もうすぐ壊れそうなのばっかりなんだ」
「なるほど」
さすが粗大ゴミ置き場。使用可能な物ならば、こんな所に追いやられてはいないわけだ。
屋根に開いた穴に届くくらいまで机や椅子を積み上げるとしたら、何段必要だろう。少なくとも三段、といったところか。ただ机や椅子を三つ重ねた上に乗るのだって恐ろしいのに、それがすべて壊れかけだなんて、想像しただけでぞっとする。
でも、やるしかないんだろうな、と祐麒は思った。やって駄目なら諦められるが、やらずに諦めるのはやる気がないということだ。
取りあえず、台になりそうな移動可能の物を物色《ぶっしょく》した。思った通り、ほとんどの机や椅子は脚《あし》が折れていたり天板《てんばん》が割れていたりで重ねて乗るには適当でない代物《しろもの》ばかり。
「いったい何時代の遺物《いぶつ》だ」
祐麒たちが教室で使用している机や椅子も、かなり年代物であるけれど、それでも脚は鉄パイプ製だ。なのにすべて木製って。もしかしたら、ここは粗大ゴミ置き場でもなく博物館なのではなかろうか。
選べるほど数はなかったが、それでも比較的|破損《はそん》が少ない机と椅子をオーディションして積んでみた。バランスを考えると、下段に机を三つ、中断に机を一つ、上段に椅子一つであろうか。
少年は端《はな》から無理だと静観していたが、祐麒が段上から「椅子取ってくれ」と頼めば、手伝ってくれた。しかし、その椅子を中段の上に配置し、祐麒もそこに体重をかけた時。
ミシッ。
嫌な音が耳に届き、続いて視界が傾《かし》いで、祐麒は再び床に落ちた。足場にしていた下段の机の、脚の一本がポッキリ折れていた。
「絶望的で、もう泣くしかないでしょ」
「そうだな」
二人は穴から顔を覗かせた空とそこに張りだした枝を見上げて、ため息をついた。
もう、生徒総会は始まっているんだろうな、と思った。自分がいなくて、みんなどう思っているだろう。逃げ出した、そう思われているだろうか。それとも、どこかで事故にでも遭《あ》っていると?
床には、祐麒の『安来節』セットが転がっていた。腰に縛りつけておいたのに、屋根から落下した時にどこかに引っ掛けてはずれたのだろう。対角線に結んだ風呂敷の結び目が片方解けて、中身がチラリと顔を出している。
このままだと、『安来節』は踊らなくて済むんだろう。いくら柏木先輩だって、ここを見つけて引きずり出すことはないだろう。
っていうか。見つけて引きずり出して欲しかった。『安来節』は踊らなくて済むんじゃなくて、踊れなくなるのだ。
いやだ、そんなの。祐麒は、風呂敷包みをもう一度腰に括《くく》りつけた。
「お兄さん?」
「もう一度やる」
脚の折れた机は倒れたままそこに置き、机二つに一つの机を載せた。
「もう一回、椅子を取ってくれ」
手を伸ばすと、少年は床に落ちた椅子を拾って無言で差し出す。祐麒は三段目にそれを載せる。
「俺がここから出られたら、大人を呼んでくる。だから泣かないで待ってろよ」
そう言い置いて、祐麒は中段の机、続いて上段の椅子の上に乗った。よし、椅子も机も無事だ。
「がんばれ、お兄さん」
一人だが、頼もしい応援が聞こえてくる。しかし。
「くっ」
屋根に指先は届いたが、そこまでだった。指の力だけで、自分の体重を引き上げられるほど身体は鍛《きた》えていない。そんな技《わざ》、たとえ肩にケガをしていなくても、無理だ。
「あと一段あれば」
つぶやくと、少年が下から叫んだ。
「もう無理だよ」
「俺もそう思う」
これ以上は積めないだろう。頑丈《がんじょう》な椅子や机の予備はなく、たとえあったとしても、固定せずに四段重ねた机や椅子の上に乗るのは危険だ。
「だから、お願いします」
上からで申し訳なかったが、祐麒はその場で頭を下げた。
「えっ」
「お前が乗ってくれ。俺が肩車すれば、上半身くらい外に出るだろう」
「ええっ!?」
思いがけない依頼に、少年はかなり面食《めんく》らっていた。きっと「無理だよ」と断られるものと、覚悟の上で頼んだのである。ただ今の祐麒は、藁《わら》をもつかむ思いなのだ。
「む……」
言いかけてから少年は、思い直したように別の質問をした。
「お兄さん。何か用でもあるの?」
「え?」
「さっきから、時計気にしてるし。そうかな、って」
「ああ」
生徒総会が終わるまでにここを脱出したい。今は十一時過ぎ。出番は最後だから、今ならまだ間に合うだろう。終了予定時間は、十二時だ。
「いいよ。チャレンジしてあげる」
少年は言った。
「お兄さんに何があるかは知らないけど、人生には、どうしても抜けられない用事ってあるものらしいから。それに僕に気づかなかったら、とうに間に合っていたわけでしょ? ちょっと責任感じちゃうし」
「本当か」
「でもワンチャンスだよ。落ちてケガしたら、治療代|請求《せいきゅう》するからね」
「よし、請《う》け負った」
しかし、実際にチャレンジしてみると、狭くて高い場所での肩車は、思った以上に難しいことがわかった。
試しにやってみたものの、肩車をしてから机や椅子を上るなんてとうてい無理な話だった。だから必然的に祐麒が上段、つまり椅子の上にしゃがんだ状態で待っていて、後から上ってきた少年が肩の上に乗る、という方法を採用するしかない。けれど、一人用の椅子の座面というのは、大概《たいがい》人間一人分のケツを載せる大きさにできているわけで、先に祐麒が乗っかってしまえば少年の足場となるスペースがほとんどなくなる。
「これができたら、俺たち曲芸師になれるな」
祐麒は椅子の背もたれを掴《つか》み、「右」「左」と声をかけながら身体をずらし代わりばんこに足を置くスペースを作って、少年を上らせた。
「俺の頭に手をかけろ」
「……うん」
少年の喉《のど》から、ごくっと唾《つば》を飲む音が聞こえた。
「大丈夫だ。俺はこの背もたれを放さない。お前は俺の頭に置いた手を放さない」
「乗るよ」
その言葉を認識した時にはもう、少年は祐麒の肩に両|股《もも》をするりと乗せていた。肩に痛みが走る。けれど、あと一息だ。
「いいか、立つぞ」
祐麒はゆっくりと腰を上げた。椅子は、ちゃんと穴の真下にくるよう配置してある。
「もうちょい右」
少年の誘導で微調整し、「ここ」という位置で両手を背もたれから放して立ち上がった。
「どうだ?」
「うん。頭が出た」
「そうか」
肩も頭も軽くなったのは、少年が両手を屋根の上に出して身体を支えているからだ。
「外に出られそうか」
「ちょっと待って。うーん」
あと少し高さが足りないようだ。
「わかった。お前肩の上に靴で乗れ。穴の縁に掴まれば立てるな」
「う、うん」
ここまで来て、躊躇《ちゅうちょ》はない。少年は祐麒の左肩に左足をかけた。弾《はず》みをつけて右足を宙に浮かせた瞬間。
「うっ!」
左肩から背中にかけて、激痛が走った。さすがに今度ばかりは声が出た。
「だ、大丈夫? お兄さん」
「大丈夫だから早く」
「わかった」
今度は上半身が楽々出たようで、少年はするりと穴から身体を抜いて屋根の上に降りた。
「すぐに先生呼んでくるからね」
穴から顔を出して、少年が言った。
「頼んだぞ。あと、屋根の上は屈んで慎重に進め。また落ちたりしたら、元も子もない」
「了解」
笑顔を交わし合うと、少年の顔が穴から消えた。けれどまだ近くにいる。ミシミシと音をたてて、小屋が揺れる。今屋根の端まで来た。壁の方向から音が聞こえるのは、扉の前に置かれた木箱を下りているところなのだろう。程なく、ストンと地面に下り立った。
「泣いちゃ駄目だよ」
外からそう声をかけてから、走り去る足音が聞こえてきた。祐麒はひとまずホッとして、積み上げた椅子や机から下りた。
「全然大丈夫じゃねえよ。痛《いて》ーよ」
床に腰を下ろして、左肩にそっと触れる。ズキズキする。たぶん、切れている。学ランは破けていないけれど、触った感じ、尖《とが》った物で強く引っかいてできたみたいな糸のつれたキズが走っている。
「泣いちゃいそうだよ」
何か言葉を発していないと、不安に押しつぶされそうだった。今、少年が助けを求めにいっている、希望の光が見えてきたはずなのに、実際自分はまだこの薄暗い小屋の中から一人出られずにいるのだ。
「一人で待っているのって、すげー時間が長く感じるな。あれから五分くらいしか経《た》っていないのに」
「にゃー」
その時、キャリーバッグの猫が抗議するみたいに鳴いた。
「ごめん、ごめん。一人じゃなくて、お前もいたんだっけ」
「にゃー」
「お前も、もう少しの辛抱《しんぼう》だからな」
バッグから出してやりたいけれど、逃げたらまた捕まえるのが大変だ。それにケガをしているということだし、あまり動かさない方がいいだろう。
「まだかな」
少年が助けを呼ぶなら、中学校の教師を選ぶだろう。中学校舎の職員室に行って事情を話して、ここに戻るまで何分かかるか。十分。いや、十五分といったところか。けれど、それは「早くて」だ。今中学校は授業中だろうから、職員室に適当な先生が残っていないかもしれない。先生がいても、小屋の扉にかけられた南京錠の鍵はすぐに見つからないかもしれない。実は南京錠は錆《さ》びついていて、鍵があっても開かないかもしれない。鍵を壊すなり扉を壊すなりするためには、それなりの工具が必要だ。場合によっては、あの穴から縄梯子《なわばしご》を下ろしてもらって上らなければならないかもしれない。うわっ、そんな物探していたら三十分くらい軽くかかっちゃうんじゃないの? ――そんなことを考えているうちに、居ても立ってもいられなくなってきた。
「だめだ。ただ待っているなんて、性《しょう》に合わない」
祐麒は立ち上がって、目についたものを片っ端から集め出した。それこそ、脚の折れた机や椅子、ほとんどただの棒と化したモップの柄《え》、何が入っていたのかわからない穴の開いた木箱、なぜか竃《かまど》で炊《た》くようなごっついお釜《かま》、潰れた段ボール箱からはみ出したカーテン、ブックスタンド、車のタイヤ――。もう、何でもござれだ。
少年が帰ってくるのを、信じていないわけではない。
ただ、何かせずにはいられなかった。
[#改ページ]
Don’t stop!
「猫だよ」
優《すぐる》さまはそう言った。
「あれは間違いなく猫の仕業《しわざ》だったんだ」
「えっ、でもだって……」
――猫。
それは被害を過小報告する際に礼一《よしかず》がついた、嘘《うそ》であるはずだった。嘘で語弊《ごへい》があるとすれば、自分がそうであったらいいという、かなり偏《かたよ》った見解である。
生徒総会は続いている。日光《にっこう》が今年度の予算案を発表し終え、今は一般生徒からの質問に答えている。それをBGMに、生徒会役員が二人|内輪話《うちわばなし》をしているのだから、決して誉《ほ》められた話ではない。
「アンドレ。では、君は誰か人間の仕業だと本気で思っていたのかい?」
予算案がプリントされたページに書き込みをしながら、優さまが笑った。
「違うんですか」
礼一は、聞き返しながら横目で優さまの手もとを見た。今度は本当に予算に関する覚え書きをしている。
「普通の人間は、あの窓から侵入できない」
「しかし、階段踊り場の窓からなら」
あるいは入れるのではないか、そう思った。だから生徒会室を荒らした人間は、窓から侵入したのだと礼一は結論づけたのだ。そう考えなければ、納得できなかったから。合い鍵《かぎ》を使われたなんて、思いたくなかった。
「僕が試した。入れなかった」
「えっ」
「僕は高校生にしては背が高いほうだ。身軽だし、運動神経もそこそこある。それでも無理だった。日光・月光《がっこう》みたいに身長が二メートルあっても、あの踊り場の窓から生徒会の窓まで手が届くかな。その前に、身体《からだ》が重くてバランス崩《くず》して落ちそうだね」
「……」
本当に試したんだ、この人。
頭脳だけで考えないで、自分で行動して裏付けをとる。すごいすごいとは思っていたが、これほどまでとは。安藤《あんどう》礼一著『柏木《かしわぎ》優伝説』(未刊)に、また新たな一ページが書き加えられた。
「でも」
あの窓から人間は入れないという理由だけで、即猫の仕業と結論づけるのは早急ではないだろうか。
「理由はそれだけじゃない」
礼一の心を読むように、優さまは言った。
「あの日の放課後、僕は君が来る前に生徒会室に立ち寄った。すると机の隅《すみ》になぜかプリント類がバラバラに重ねられている。不審《ふしん》に思って確認すると、そのうちの何枚か猫の足跡がついたものもあった」
「気がつきませんでした」
「僕に見苦しい部屋を見せまいと、慌《あわ》てて片づけたからだろう。で、君があらためて書類を整理した時には、僕がすでに足跡を手で払ってしまった後だったというわけだ。……こんなことなら、証拠として残しておけばよかったね」
「いえ、そのような」
もう、参りましたと言うほかはない。
「事実なんてそんなものだ」
優さまが拍手《はくしゅ》をした。気がつけば、体育館中が拍手に包まれている。議長が、今年度の予算案の承認の可否《かひ》を問うたのだ。結果は、もちろん可決だ。日光が、生徒たちに頭を下げて席に戻ってきた。
「あの、もしかして、さっき言っていた推理研や弁当当番のおとなしくなった理由というのも――」
礼一は、問いかけた。事実なんてそんなもの、という先程の言葉が妙に頭に引っかかっていた。
「もちろん、見当はついてるよ」
優さまはさらりと答えた、
「だって、どちらも僕が動いたから」
「ええっ」
人目を気にしながらの雑談だということを一瞬忘れて、礼一はつい声をあげてしまった。僕が動いた、って。嘘だろう。
「だって、校内の追いかけっこって、最初はともかく、長続きすると見苦しいじゃないか」
弁当当番には、代表を呼んで内々に話をした、ということだ。
「ユキチが生徒会室に出入りしている理由も説明した。生徒総会でお披露目《ひろめ》することも含めてな。ユキチには彼らの領域を侵《おか》さないようにさせるからと言って、ちょっかいをださないよう約束もさせた」
「じ、じゃあ推理研は」
「ランポーの代わりに僕が入部した。それで十人|揃《そろ》ったので彼らは安泰《あんたい》、一件落着だ」
「何ですって」
そうつぶやいたのは、後ろの席のランポーである。黙っていたが、ずっと聞き耳をたてていたらしい。
では、生徒会室が荒らされたのも、弁当当番も、推理研も、福沢《ふくざわ》の失踪《しっそう》とは無関係だったということか。
「では、ヤツは今いったいどこにいるんです」
「それは」
優さまは目を細めた。
「それは僕も知りたい」
「アリス。高田《たかだ》」
七三わけの銀縁眼鏡《ぎんぶちめがね》が「おーい」と手を振ると、前方で話をしていた、ガタイのいい短髪と華奢《きゃしゃ》な童顔が顔を上げた。
「あ」
「小林《こばやし》君」
名前を呼ばれた眼鏡が、二人に駆け寄って尋《たず》ねる。
「いたか。って見りゃわかるか」
ターゲットの姿は、どこにも見当たらない。もっとも見つかっていたら、こんなところでぐずぐずしているわけもないのだ。
普通にしゃべっているのに、声が妙に響《ひび》く。しんと静まりかえった高校校舎の廊下で、一年生三人は再会した。
「あいつ、いねーよ。少なくとも高校校舎にはな。俺、初めて教職員用のトイレ覗《のぞ》いちまったよ」
高田が言った。
「私も念のためユキチの家に電話してみたんだけれど、やっぱり帰っていなかった」
アリスがつぶやく。それに被《かぶ》るように、小林が質問した。
「おい、行方《ゆくえ》不明だって言ったのか」
親を巻き込んだりしたら大事《おおごと》になってしまうだろう、ってわけだ。
「ううん。学校が違う友達のふりして、祐麒《ゆうき》君いますか、って。そうしたらお母さんが、今日は学校行ってます、って」
「グッジョブ」
親指を立てる小林に、しょぼんとうつむくアリス。
「でもないよ。名前聞かれたから、私、とっさに高林《たかばやし》ですって。……嘘ついちゃったの」
高林。高田と小林のミックス形だ。
「いいって。嘘も方便だ」
高田が、アリスの頭をクシャクシャと撫《な》でた。
「ところで小林君は、どうして来たの? 光《ひかる》の君《きみ》が私たちを呼びにいけって?」
乱れた髪を直しながら、アリスが尋ねる。
「違う。悪いが、手伝ってくれ」
プリントの余白を破ったようなメモを、ポケットから取り出す小林。そこに書かれた文字を見て、アリスと高田は声をあげた。
「おい、これって!」
「光の君は、いったい!?」
[#ここから3字下げ]
以下の物を至急用意せよ
手ぬぐい(フェイスタオルでも可)、五円玉一枚、綴《つづ》り紐《ひも》または輪ゴム二本、
ざる(なければ洗面器かボウル)[#この4行のメモ部分は底本では罫線で囲まれている]
[#ここで字下げ終わり]
――それは、どう考えても(簡易《かんい》)『安来節《やすぎぶし》』セットであった。
さて、その頃。
例のオンボロ小屋を出た少年がどうしていたかというと、「お兄さん」との申し合わせ通り、助けを呼びにまずは中学校舎へ走った。
時計を見るまでもなく、四時間目の授業真っ最中で、職員室を覗くと数人の教師しかいなかった。
大人の助けは必要だが、変な相手に相談したら、かえってややこしくなる。これは人を選ばないといけない、と思って一旦《いったん》引き返すと、運悪く雷神《らいじん》みたいな風貌《ふうぼう》の、恐い体育教師に見つかった。
「おい。お前、授業はどうした」
「は、はいっ、あのっ」
こうなったら仕方ない。怒るとものすごい雷《かみなり》を落とす先生だけれど、これも御仏《みほとけ》のお導きだと覚悟を決めて、実はこれこれこういうわけですと打ち明けた。
「何?」
話を聞いてからの雷神の行動は早かった。まず、職員室の棚にあった工具類が入った缶のケースを抱え、残っていた教師に「ちょっと出てきますから、うちのクラスのホームルームをお願いします」と断り、少年の肩を抱いて廊下に出た。
「先生、鍵は?」
「高校職員室にあるんだ」
この時点で、少年は「当たり」を引いたと確信した。鍵のありかを知らない教師だったら、無駄に時間を浪費《ろうひ》していたに決まっている。その上、ケガをした高校生がまだ閉じこめられているという切迫《せっぱく》した状況に、雷神は雷を落とすことも忘れているし。
高校校舎は、授業中にしても異様なほど静かだった。まるで休みの学校みたいだ。
「ああ、今日は高校の生徒総会だからな」
雷神が説明してくれたので、少年は「ああ」と納得する。ならばあのお兄さんは、生徒総会に出るために急いでいたのかもしれない。大切な仕事があったのだとしたら、巻き添えにして悪かったな、と思う。
途中、静かな校舎の廊下を三人の生徒がバタバタと走っているのを目撃した。黙っていられない性格なのだろう、雷神は注意をしようと一旦足を止めたが、思い直して彼らを見逃した。今、そんなものに関《かか》わっている時ではないのだ。
しかし、なぜ生徒が高校校舎に残っているのだろう、と少年は首を傾《かし》げた。生徒総会というのは、全校生徒が出るものではないのだろうか。
高校職員室で鍵を借りる時、やはり理由は話さなければならなかったようで、そんな事情から高校の教師一人が新たに救出部隊に加わった。担当は体育ではないらしいけれど、こちらも体格はいい。
そんなこんなの寄り道で、思ったより時間がかかってしまって、小屋に戻ってきたのは十二時ちょっと前だった。
「お兄さん、遅くなってごめんね。今、先生が鍵を開けてくれるからね」
少年は扉をドンドンと叩《たた》いた。その間に、二人の教師が前を塞《ふさ》いでいる木箱を退《ど》かしにかかる。
「お兄さん?」
しかし、いくら呼びかけても返事がない。
「どうしよう、先生。お兄さん死んじゃったのかもしれない」
泣きながら訴える横で、高校教師が必死に鍵をガチャガチャと回す。鍵は外れたが、扉が錆《さ》びついていてなかなか開かない。
「せーの」
結局三人がかりで全力で引っ張って、扉は開いた。
「お兄さん!」
しかし、中に「お兄さん」の姿はなかった。
その代わり、小屋の中央にさっきまではなかった塔《とう》がそびえ立っている。
「何だ、この芸術的なオブジェは」
高校教師がつぶやいた。
机や椅子《いす》やがらくたの数々を積み上げ、引っ掛け、絡《から》めて造《つく》りあげられたそれは、さながら小さな穴の空を目指して伸びていく一本の太い樹のように見えた。
その樹の麓《ふもと》に、キャリーバッグが置かれている。
少年はよろよろと近づき、バッグごと抱き上げながら中の猫に尋《たず》ねた。
「あの人、……神様?」
ランポーが壇上でリフティングをしている。ランポーと一緒に、五人。一人が一つのボールを、頭に載せたり鞠《まり》のように蹴《け》り上げたりして会場を沸《わ》かせている。――女性アイドルグループの歌に合わせて。
いかにも楽しそうだが、何となく嫌だ、と礼一は思った。こんな時に、友達のそういうおちゃらけた姿を見るのは。
時間になったので、残りの議題は予定通り後日検討ということで議長団が解散した。慌《あわ》ただしく舞台を片づけ終わると、堅苦しい時間はお終《しま》い、お待ちかね余興《よきょう》タイムが始まった。
しかし、「お待ちかね」でない人間もいる。大トリを飾る予定の、『生徒会代表』グループの面々である。
「どうします」
礼一は、優さまにお伺《うかが》いをたてた。
「どうする、とは?」
舞台|袖《そで》で舞台上の演技を見ながら、優さまが聞き返す。
「たとえば棄権《きけん》する、とか」
「それはできないな。プログラムに『生徒会代表』と載っている以上は」
そういう答えが返ってくるだろうことは、礼一にも予想がついていた。土壇場《どたんば》になって棄権なんて、生徒会の威信《いしん》に関わる。
「わかりました」
礼一は、つぶやいた。優さまは両腕を胸の前で組み、背中を向けたまま「何が、わかった」と問うた。
「福沢の代わりに、私が出ます」
「え?」
優さまは、振り返った。
「幸い、誰が何をやるのかまではプログラムに書いていない。要《よう》は、生徒会の誰かが舞台に立って演技を行うことです」
考えたままを口にすると、間髪《かんはつ》入れずにチェックが入る。
「剣舞《けんぶ》を披露《ひろう》するつもりか? だったらだめだ」
「なぜです」
君の剣舞は美しいと、いつも誉めてくださるのにどうして。誉めてくれたのは優さまだけではない、去年の生徒総会で舞った時も、会場中から大|喝采《かつさい》を受けた。
「あえて去年と同じものを出すなら、去年以上に魅《み》せないといけない。衣装も小道具もなしでは、技術がどうであれ見劣りする。その上、踊り込んでもいないだろう」
「……はい」
何も言い返せなかった。確かに、観客の三分の二は去年やった礼一の踊りを知っている。急場しのぎの間《ま》に合わせ感はぬぐえないだろう。
「でも、サッカー部で出てしまったランポーは、もう使えません。我々の仲間内から即席に出せる芸なんて、あとは日光・月光に円周率とか平方根《へいほうこん》とかを延々《えんえん》|諳《そら》んじさせるくらいしかありませんよ」
「それは、……あまり面白《おもしろ》くないな」
想像してみて、優さまは苦笑する。面白い面白くないなんて、こだわっている場合なのだろうか。
「だったら、どうするつもりです。ああっ。もう、今やっている落研《おちけん》の『四人落語』が終わったら、次は我々の番なんですよ」
棄権はしない、礼一には踊らせない、日光・月光は面白くない、ではもうお手上げではないか。隠し芸を持っているいない以前に、一年生は体育館を出ていったきり誰も帰ってこないし。
「あまり興奮《こうふん》するな。血圧上がるぞ」
肩に触れる優さまの手を、礼一は払った。
「あなたは、どうして落ち着いていられるんですか」
逆に聞きたい。何か対策があるなら教えて欲しい。
「落ち着いているんじゃない。待っているんだよ」
「待っている? ……福沢を?」
この段になっても、まだ福沢が来ると信じているというのか、この人は。あと五分か十分か、いずれにしてもタイムリミットがもうすぐそこまで迫っている。それなのに、まだ。
「いや。ユキチじゃない」
優さまは、首を横に振った。
「この時間になっても来ないということは、ユキチは自力じゃどうにもならない事態に陥《おちい》っているんだと思うんだよね」
「自力じゃどうにも、って」
「例《たと》えば、穴に落ちたとか、何かに引っかかっているとか、挟《はさ》まっているとか。だから、生徒総会が終わったら、彼を捜しにいかないといけないね」
「なら、いったい誰を待って――」
質問しながら、礼一は「あ」と思い出した。小林に渡していたメモ。あれは何だ。
メモ書きを受け取るなり、小林はいなくなった。あれはどういうことだ。
(優さまは、小林を待っている……?)
いや、違う。小林が、メモに書かれていた「何か」を遂行《すいこう》して戻るのを、待っているのだ。
(では、それはいったい何だ)
考え込んでいると、目の前に大きな物体が二つ現れて、優さまと礼一の間のわずかな空間に割《わ》って入って壁を作った。
「柏木先輩。放送部が」
「落研終了後すぐに、預かってたカセットのテープの曲を流していいのか、って」
日光・月光だった。暇《ひま》そうなので、言伝《ことづて》を頼まれたらしい。しかし、放送部に預けておいたカセットっていったい――。
「うーん。そうだな、その前にちょっと僕がしゃべろうか。で、手を上げて合図したら曲をかけてもらう、っと」
そこまで言って、優さまの目は何かを発見した。日光・月光の後ろの、礼一の、さらに後ろである。確認するやいなや、すぐに先の言葉を撤回《てっかい》した。
「あ、いいや。今の段取りなし。落研終了後、すぐ曲でOKと伝えてくれ」
「了解」
「了解」
日光・月光が、放送部に返答を伝えに戻っていく。入れ替わりで、小林がやって来た。有栖川《ありすがわ》と高田も一緒だ。
「遅くなって申し訳ありません」
「ご苦労」
労《ねぎら》いの言葉をかけながら、小林が抱えてきた物に素速く手を伸ばす優さま。落ち着いているようで、その実かなり焦《あせ》っていたように見える。
「でかした」
受け取った物を調べて、うんとうなずく。用意するよう頼んでおいた物が、すべて揃《そろ》っていたのだろう。
「家庭科室から借りてきました」
ざると手ぬぐいを指す有栖川。
「これは教室にあった消耗品《しょうもうひん》をちょっと失敬して、お金は僕の財布から」
見れば、五円玉にゴムが二本くっついた代物《しろもの》ではないか。それに先のグッズを加えたら。
(ちょっと待て)
これは、どこからどう見たって例のセットではないか。では、放送部に預けたカセットテープっていうのは。
「『安来節』だろ?」
優さまが言った。
安来節。
それは見ればわかる。しかし、福沢はここにいない。その場にいた者たちは、固唾《かたず》を飲んだ。
優さまに、聞きたくても聞けない言葉がある。
――いったい誰が踊るんですか!
その時、姿の見えなかったランポーが現れた。
「光の君。これでいいですか」
なぜかその手には、体育で使用する紺色《こんいろ》のジャージの上下が握られている。チラリと見える胸の名札には、まぶしい「柏木」の文字が。
「ああ、悪かったね。悪いが、ロッカーの鍵はもう少し預かっていてくれないか」
「はい?」
使いを頼まれたランポーも、それがなぜ必要かまでは知らされていなかったようだった。だから次の瞬間、優さまがその場でズボンを脱いだ時には、他の者同様に仰天《ぎょうてん》した。
「ま、まさか」
礼一はつぶやいた。
「烏帽子子《えぼしご》の抜けた穴は、烏帽子親《えぼしおや》が埋めるものだろう」
学ランとワイシャツと上履《うわば》きと靴下を脱いで上下ジャージを着込んだ優さまは、袖とトレパンの裾《すそ》を折り返しながら当たり前のように言う。
「踊れるんですか」
みんなが同時に尋ねた。
「君たちは、僕が自分でできもしないことをユキチにやらせるとでも?」
「いいえ、そんな」
ってことは、できるんだ。優さまの趣味の領域は、みんなの思考が追いつかないほど広げられているらしい。
手ぬぐいを帽子のように頭に巻いてスタンバイする優さまは、あまりに格好《かっこう》良すぎた。
鼻を五円玉で潰《つぶ》して変な顔を作っても、ハンサムだった。
できることなら、このような姿を全校生徒に見せたくはない。礼一だって、見たくはない。しかし、優さまがそうすると決心した以上、目を背《そむ》けてはいけないのだ。たとえどんな姿であれ、見守るのが側近《そっきん》アンドレの使命である。
『お後がよろしいようで』
落研の四人が、お辞儀《じぎ》をして座布団《ざぶとん》から立ち上がった。そのうち一人が、足がしびれたらしくてうまいこと歩けず難儀《なんぎ》している。
「落研なのに、正座が苦手とは」
ははは、と優さまは大口開けて笑っている。礼一は、この落研の生徒が、ずっとしびれたまま舞台からはけられなければいいのに、と思った。そうすれば、いつまでも優さまが出ていかなくて済む。けれど、気がついた仲間が引き返してきて、両|脇《わき》を支えてそそくさと退場してしまった。
「最後のが一番ウケたね」
まるで文楽《ぶんらく》の人形と人形|遣《つか》いみたいで、落語のオチを言った時より笑いが大きかった。
「あれ以上の笑いとれるかなぁ。自信ないな」
「笑いが欲しいんですか」
「そりゃそうだよ。何のための『安来節』だ?」
言いながら優さまは、袖に戻ってきた落研部員をハイタッチで迎える。それがスイッチになったのか、「さて」と真顔《まがお》になってざるを頭に被った。
打ち合わせ通り、カセットの曲が流れてきた。
『大トリ、生徒会代表の演技です』
進行役の、放送部のアナウンサーが紹介する。
「ご武運を」
礼一は舞台に向かう優さまを、最敬礼で見送った。
その時。背後がざわついた。
「待ってください」
その声に覚えがある。だから振り返って確かめることなく、優さまの肩をつかんで引き留めた。そして。
「ユキチ……」
優さまと一緒に、後方を見た。そこには、間違いなく福沢の姿があった。まるで罠《わな》から逃げ出してきたウサギ、いやタヌキみたいにボロボロだ。
「俺に、俺に踊らせてください」
福沢は腰に巻いていた風呂敷《ふろしき》包みを外して、中から素速く手ぬぐいと竹ざるを取り出した。
「ああ、そうしてくれ」
優さまはほほえんだ。すでに裸足《はだし》になって鼻に五円玉をつけた人間を、止めることなんてできやしない。
「ユキチ」
優さまが、ジャージの上だけ脱いで渡した。それは、まるでキャプテンマークみたいに映った。
曲が始まってもなかなか舞台に人が現れないので、観客たちが少しざわついている。
「じゃ、行ってきます」
福沢は学ランを素速く脱ぎ捨て、優さまのジャージを羽織《はお》ると舞台に躍《おど》りでた。
やっと登場した主役に対し、観客の反応は冷ややかだった。
体育館のフロアに腰を下ろした生徒のほとんどは、生徒会代表として誰が登場するか知らされていなかった。
今年初めて高校の生徒総会に出席した一年生たちは、生徒会長が出てくるものと思っているかもしれない。
二年生、三年生は去年を知っているだけに、まさか生徒会長が芸を披露《ひろう》することはないだろうと予想していただろうが、それでも生徒会幹部の誰か、例えばランポー先輩やアンドレ先輩、日光・月光先輩あたりがその役を引き受けるものと了解していたようだった。聞くところによると、去年代表を務めたアンドレ先輩は、入学当初から生徒会長にピッタリくっついていたからその存在は有名だったらしい。
なのに今年は、こんなわけのわからないちんちくりんが現れるとは。――であろう。それは仕方のないことだ。
舞台中央まで進み、ざるを抱えて正面を向いてニカッと笑う。
しーん。
(あちゃー。ここは大事なつかみの部分だったのに)
誰も笑わないどころか、あちらこちらから「誰?」「誰?」と指を差される。この余興の大筋《おおすじ》を理解していない人間たちは、突然「面白」を提供されたところで、はいそうですかと素直に笑えないものらしい。
だからといって、笑う準備ができるまで踊りを中断なんてできやしない。祐麒はざるを床に滑らせて、どじょうをすくいにかかった。
(どじょう、どじょう、いっぱい入れ)
心の中でつぶやきながら、足ですくってざるに誘い込む。よしよし、結構|捕《と》れている。
やがて、踊っているのが「福沢祐麒」であると知った一部の生徒から、ブーイングが起こり始めた。するとその存在を知らなかった人間も、面白がってブーブー言いながら親指を下に向ける。ヤジも聞こえる。
今日はずいぶんカエルが鳴いている。おっと、せっかく捕まえたどじょうが逃げた。こら、待て。そっちに行ったか。
ぬるぬるぬるぬる。どじょうは何て掴《つか》みにくい。よし、押さえた。お前、もう逃げるなよ。
さて、何匹びくに入っているか数えてみるか。ひい、ふう、みい……大漁《たいりょう》大漁ワッハッハ。
踊りながら祐麒は、本当に楽しくて楽しくて仕方なかった。
あの小屋の中にいた時の、絶望感が嘘のようだった。がらくたを集めて塔を作って、それに上って穴から外に出た。あの時、空に抱かれた爽快《そうかい》感もたまらなかったけれど、今のほうが何倍も気持ちいい。
つるりと足が滑った。おやおや、どうした。アドリブで、滑った場所を触って首を傾げる。今日は小川もぬるぬるだ。
頭の中がポーッとして、自分が踊っていることだって忘れてしまいそうだ。ただ、どじょうを捕るのが、面白くて仕方ない。ランナーズハイってこんな感じかな、と祐麒は思った。
気がついたら、カエルの鳴き声は一切聞こえなくなっていた。
そして自分が発したわけでもないのに、ワッハッハという声がどこかから聞こえたような気がした。
福沢が、舞台に出て踊っている。
最初から喝采を博《はく》するなんてことは期待していなかったが、踊り始めて数分で大ブーイングに包まれるとは、袖で見ていた礼一も予想だにしていなかった。
「優さま」
思わず、側《かたわ》らにあった腕に触れる。誰かに助けて欲しかった。
「大丈夫だ」
優さまは、福沢から目を離さずにそう言った。そうだ。いくら見ていられない状況であっても、ここで幕を下ろすわけにはいかない。ならば自分たちは、いや自分は、福沢を見守るしかないのだ。全校生徒のほとんどが否定しても、残り何人かの仲間たちはお前を認めているのだと、ここから伝え続けなければならない。
「光の君、これ見てください」
有栖川が駆け寄って、優さまに何かを渡した。
「……これは」
一目見て、優さまは絶句した。福沢が脱ぎ捨てていった学ランだということは、隣にいた礼一にもすぐわかった。だが、それがどうして問題なのかはわからなかった。
「ユキチを止めないと」
舞台に飛び出しそうになる有栖川を、優さまは「待て」と引き戻した。
「だって、……そんなっ」
ヒステリックに泣き叫ぶ有栖川の口を手で押さえて、優さまは抱きしめた。
「わかっている。だが、最後まで踊らせるんだ」
優さまの手から落ちた学ランを、礼一は拾った。そして、やっと有栖川の興奮のわけを理解した。
「優さま!」
福沢の学ランの裏地に、ベッタリと血の跡があったのだ。場所からいって、左肩|辺《あた》りか。ケガをしていると考えるのが妥当《だとう》である。
「あれしきの血で死にはしない」
優さまは動かない。しかし。
「でも、舞台上に血痕《けつこん》が」
礼一が指摘《してき》すると、「何!?」と一瞬揺らいだ。有栖川を抱いたまま、優さまは舞台を注視する。
遠目にはわからないだろうが、踊っている福沢の周辺にある床板が、わずかに濡《ぬ》れている。初めは汗《あせ》だろうと礼一は思っていたが、そういう目で見ると、あれは確かに血だ。出所《でどころ》を探せば、福沢の左のふくらはぎに一筋の赤っぽい線が走っている。肩から流れた血が、背中、足を伝って床に落ちたのだ。
「それでも」
優さまは、絞《しぼ》り出すように言った。
「今止めたら、あいつがかわいそうだ」
「……ええ」
礼一もうなずく。優さまの意見に従ったのではない、自分自身心からそう思った。
福沢が、幸せそうだったのだ。
きっとケガが痛いだろうに、それを押してコミカルに踊っている。もしかしたらケガのことも忘れているのではないかと思えるほど、楽しそうに笑っている。
最後まで踊らせてやりたい。そう願った。
その時、礼一は気がついた。さっきまであんなにうるさかった、ブーイングとヤジが消えている。
いつからだ。
福沢の血を見てからこっち、そのことばかりに気を取られて、観客の反応にまで注意が行かなかった。
みんなが、福沢の動きを真剣に追っている。
ケガのことに気づいたからじゃない。ただ、目が離せなくなっているのだ。
何てことだ。福沢が、観客を魅了《みりょう》している。信じられない。あの、単なる迂闊《うかつ》でお調子者の子だぬきが。
「あ」
福沢がつるっと滑った。踏ん張って、転倒を留まったその時、どっと笑いが起きた。とぼけた顔で床を撫でて首を傾げると、笑いが上乗せされて指を差して腹を抱える者さえ出る。
自分の流した血に足を取られて滑ったのだと、誰も知らない。
それでいい。それがいい。
もうすぐ、曲が終わる。待ちわびていたのか、名残惜《なごりお》しいのか。ただ、福沢のショータイムのフィナーレだ。
「有栖川、こっちに来い」
礼一は少女のような少年を呼び寄せた。手ぶらになった優さまは、一瞬不思議そうな表情を浮かべたものの、すぐに真意を察して笑みを浮かべる。
福沢が曲に合わせて、笑いながらひょこひょこと歩いてくる。その延長線上には、仲間たちが集結して彼の帰りを待っていた。
その一番前に、優さまが手を広げて立っている。
舞台袖にたどり着いた福沢は、真《ま》っ直《す》ぐに優さまの腕の中に倒れ込んだ。踊り疲れたのか、気がゆるんだのか、最後は足がもつれてしまった。
「大丈夫か、ユキチ」
優さまが顔を覗き込む。福沢は、珍《めずら》しく優さまの目を見て素直に笑った。
「柏木先輩、俺さ」
「何だ」
声が聞こえるのに、二人がどんな顔をしているのか礼一にはわからなかった。なぜだかわからないが、水の幕を張ったように視界がぼやけてしまったからだ。けれど眼鏡を拭《ふ》こうとは思わなかった。原因は眼鏡よりもっと内側にあることを、自分自身で理解しているからだ。
「すげーブーイングだったけどさ」
福沢の声がする。
「すげー楽しかった」
聞きながら礼一は、「こいつやっぱりバカなんじゃないのか」と思った。
この、割れんばかりの拍手の意味がまったくわかっていないなんて。
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事後のご褒美
いろいろなことが起こった先には、それ相応の後始末が待っている。
『安来節《やすぎぶし》』を踊り終わって袖《そで》に戻った祐麒《ゆうき》は、あれよあれよという間に日光《にっこう》・月光《がっこう》先輩に両|脇《わき》を抱えられて保健室に連れていかれた。その前に、二言三言|柏木《かしわぎ》先輩と言葉を交わしたような気がするが、ハイになっていたので何を言ったかさっぱり覚えていない。
肩の傷は五針|縫《ぬ》った。
保健室から最寄《もよ》りの病院に連れていかれ、そのまま呼び出しを受けた母親とともに帰宅したから、ケガは当然親の知るところとなり、その夜はこっぴどく叱《しか》られた。
立ち入り禁止の物置小屋の屋根から落ちたという大雑把《おおざっぱ》な説明を先生から聞いて、二人とも息子が面白《おもしろ》半分で小屋に忍び込んだと勘違《かんちが》いしたらしい。しかし、あまり弁明するとどうしてあんな人気《ひとけ》のない場所に行ったのかという理由まで浮かび上がってくるので、そのままにしている。
今更《いまさら》と笑われようとも、『安来節』の一件は、できれば一生家の中では封印《ふういん》しておきたかった。
そんなこんなで、日曜日は学校が休みだったから、仲間たちにお礼とかお詫《わ》びとかの言葉も言えないまま二つの夜が過ぎていった。
電話をしようかどうか迷ったけれど、どこからどこまで電話をしたらいいのか迷っているうちに、とうとう日曜日が終わってしまったのだ。
明けて月曜日。
なぜか、「福沢《ふくざわ》祐麒」は有名人になっていた。『安来節』効果だとはわかっているのだが、評価が芳《かんば》しくなかった割りには、声をかけてくる生徒はみんな友好的なのである。――不思議だ。
「何言ってるの? みんなすごく良かったって、評判は上々だよ?」
花の茎《くき》にぱちんとハサミを入れながら、アリスが笑う。
「アンコールの拍手《はくしゅ》が鳴りやまなくて、でもユキチが出ないから、代わりに……その、光《ひかる》の君《きみ》が出ていったんだから」
どういう理由かそこでアリスが頬《ほお》を赤らめるものだから、何かあったのかと祐麒は椅子《いす》を立って詰め寄った。
「まさか、先輩がアンコールでどじょうすくいを!?」
そういえば直前まで踊る気でいたんだった、あの人。でもアリスは、「違う違う」と慌《あわ》てて否定する。何だ、紛《まぎ》らわしい表情なんかするから、てっきりそうかと思った。
放課後の生徒会室。
二人の他にはまだ誰も来ていない。日光・月光先輩が生徒会室の鍵《かぎ》を開けたらしいけれど、アリスが来たら「後よろしく」と出ていってしまったらしい。相変わらずマイペースな、いや二人だからアワペースな人たちだ。
「あ、でも光の君が舞台に出ていったのは本当。マイクでお話ししただけだけれどね。ユキチのこと、ちゃんと烏帽子子《えぼしご》だって説明してくれたよ」
ぱっちん。
アリスはさっきから花を生《い》けている。生徒会へ差し入れで届いたという花束は、真っ赤な薔薇《ばら》を中心に様々な花が集まって、全体的にはピンク色に見えた。
「そっか」
でも、知らなかった。自分が保健室で先生に叱られたり、医者で治療してもらっていたりしていた裏で、そんなことがあったなんて。
「そっか」
柏木先輩の烏帽子子だと発表されたんだ。
またもやブーイングの嵐だったのではないか、と祐麒は思った。
「あのさ、またそんな顔するけれど。大半《たいはん》の生徒は納得したみたいよ」
花器《かき》に花を挿《さ》し終えて、アリスは祐麒の正面に立った。
「納得?」
「光の君はずっと烏帽子子をもたなかったでしょ。それは何でだろう、ってユキチは考えたことある?」
「ない」
「だよね」
座って、と椅子の背をポンポンと叩《たた》いて命令するから、祐麒は素直に従った。今日のアリスは、看護師さんか。安静にしていろと重圧をかけてくる。
「思うに、あれほどの人の烏帽子子っていったら、周囲からも多大な期待がかかるから、おいそれとは烏帽子子をもてなかったんじゃないかな」
柏木先輩の烏帽子子っていうだけで、誰もが生徒会長の後継者だって考えるだろう、ということだ。
「でも光の君の後釜《あとがま》になんて、誰も入れはしないんだって」
「だから、あの人、三年生なのにまだ生徒会長をやってるのか」
「たぶんね」
私見だけど、とアリスは笑った。
「だから、ユキチを見てみんなホッとしたのよ、きっと」
「どう見たって、俺は後継者の器《うつわ》じゃないもんな」
「そうよ」
現生徒会長は、次の生徒会長を育てようと烏帽子子をもったのではない。今まで側《そば》にはいなかったタイプだから、面白がって身近に置いているだけだ、と。
「でも、光の君はどう考えているのかわからないけれどね」
アリスは花を飾った花器を、テーブルの中央に置いた。
「豪華《ごうか》な薔薇の後にカーネーションを持ってきても気後《きおく》れするだけだわ。だったらいっそ、この霞草《かすみそう》くらい遠い植物のほうがいいのよ」
アリスは時々難しいことを言う。本当は単純なことを言っているのかもしれないけれど、花の名前が出た時点で、祐麒の思考にストップがかかる。
脳みその違いなんだろうから仕方ない、そう考えていたところ、祐麒以上に花が似合わない風貌《ふうぼう》の男が現れた。
「お、ユキチがいた」
しばらくと、ハイタッチを強要するから、仕方なく右手で応《こた》えた。
「朝も昼休みも会っただろ、高田《たかだ》」
「でも、弁当食ったらすぐにいなくなっちゃったから。昼休み以来だな、久しぶり、でいいじゃん。そうだ、あの後中学校舎に行ったんだろ? どうだった?」
どうもこうも。
「お騒がせしました、って謝ってきたよ。そうしたらさ、雷神《らいじん》……中三の時の担任なんだけど、その雷神に『神様ってお前だったのか』って言われた」
「神様?」
「小屋で一緒になった中坊が、俺のこと神様だって思ってるらしくて」
小屋で待っているはずの人間が、変なオブジェを残して消えてしまったのだから、そう思う気持ちもわからないでもないが、中学生にもなって、と突っ込みを入れたくもある。
「でさ、神様が見てるから真面目《まじめ》にやれ、ってネタ、しばらくはそいつに使えるから、神様らしくそのまま黙って帰れって早々に追い返された。先生に」
「変なの」
まったく。うちの学院は、中学もどこかずれている。
「で? 生徒会室を荒らして、俺の芋《いも》を食っちまった猫ちゃんは、無事その中学生の家に引き取られたというわけか」
「その猫が、あの猫やあの猫とは限らないだろう」
もう足形を照合できないのだから、たぶん一生わからずじまいだ。
「ところで、ユキチ。お前ケガしてるんだし早く帰ったら?」
高田の言葉に、アリスがほほえむ。
「光の君を待っているんですって」
「へえ」
「何だよ。借りていたジャージを返すだけだよ」
テーブルの上には、洗濯した紺色《こんいろ》のジャージ(上)が、いつでも返せるように置いてある。本当は今朝返そうと思ったのだが、生徒会室に入るやいなや先輩や仲間たちに取り囲まれ質問攻めにあったために、返しそびれてしまったのだ。放課後だって、こうしてどんどん人が集まって来れば、朝の二の舞《まい》になりかねないので気をつけないと。
「やった、ユキチがいた」
ほら、また。今度は小林《こばやし》が現れた。
「何が、やったなんだ?」
「そこの廊下で、アンドレ先輩に会ったんだ。でさ、駄目元《だめもと》で、たまには僕らにも学院で二番目においしいお茶を飲ませてくださいって言ったら、お前が賭《か》けに勝ったらな、だってさ」
「何の賭け?」
「この時間、ユキチが生徒会室にいるかどうか。アンドレ先輩はいないほうに賭けたから、俺の勝ち」
ピースサインを出す小林。
「僕ら[#「ら」に傍点]って言ったんだよな? だったら、俺ら[#「ら」に傍点]も飲ませてもらえるな」
確かにやっただー、と両手を上げる高田。
「案外、アンドレ先輩はユキチに飲ませたいだけだったりして」
アリスが、祐麒の顔をチラリと見た。
「何で?」
「ご褒美《ほうび》」
アンドレ先輩に限ってそれはない。だから祐麒は「まさかぁ」とだけ答えた。
ともあれ、四人の一年生は、身を寄せ合ってじっと扉が開くのを待っている。
足音が聞こえてきた。
次に扉を開けて入ってくるのは、誰だろう。
アンドレ先輩か、ランポー先輩か、はたまた日光・月光先輩か。
生徒会室の前で、足音が止まる。
そうだ。
もしかしたら、柏木先輩かもしれない。
[#改ページ]
あとがき
ごめん、祐麒《ゆうき》。
私は、自分で踊れもしない『安来節《やすぎぶし》』を可愛《かわい》いあなたに強要しちゃったね。
こんにちは、今野《こんの》です。
さーて、キャラへのお詫《わ》びも済んだので(どうして謝ったかというのは、本編を読んでいただければわかると思います)、「あとがき」さくさくいってみましょう。
お待せしました、『お釈迦様もみてる』第二弾です。
お陰《かげ》をもちまして、二冊とはいえ複数巻。無事、シリーズと呼べるようになりました。ありがとうございます。
今回の物語は前巻の続きから、というより途中からスタートします。『アンドレの憂鬱《ゆううつ》』なんて、時間的には完全に飲み込まれています。この方式は、そう、「あの場面、裏ではこんなことがあったのか」とか、「あの人こんなこと考えていたのね」っていうアレですね。二冊並べて読んでも面白《おもしろ》いかも。
姉版『マリア様がみてる』の中にも、「これってこの時のこと言っていたんだ」ってシーンを探せるかもしれませんが、きりがないので一つ一つ挙げません。読み返した時にでも、「うふふ」なんて笑ってもらえると楽しいな、と思っています。
シリーズが進むと、キャラ情報が徐々《じょじょ》に明らかになってきます。
今回判明したことは、ランポーのフルネームと所属する部、アリスの所属する部。
判明ではないけれど、小林《こばやし》と高田《たかだ》の呼び名が新たに決まりました。
あと……、何かあったかな。あ、そうそう、生徒会幹部の肩書きが一部出てきました。チラッとですが、日光《にっこう》・月光《がっこう》やアンドレの特技(芸?)なんかもね。
ところで、猫。
リリアン女学園に生息しているランチ(ゴロンタ、メリーさんともいう)に続き、こちら花寺《はなでら》学院でも猫が出没《しゅつぼつ》しています(これくらいじゃネタバレにはならないと思う)。広い敷地ですから、きっと一匹だけじゃなくて、何匹も暮らしているのではないでしょうか。
猫を特別|扱《あつか》いしているわけではないんですが、何かと都合がいい動物だから出演してもらっちゃうんですよね。
近頃|野良《のら》犬ってほとんど見かけないし(私が子供の頃は近所にゴロゴロいましたが)、一般的に犬は木登りとかしないから塀《へい》に囲まれた学校に入ってくることってなさそうだし。その点、猫は野良に限らず飼い猫だっていろんな所に出入りします(我が家の庭にもよく来ます)。
リスとかネズミとかも花寺学院の中にいそうだけれど(何せ、小さいが山がある)、彼らはあまり人間の側《そば》までは来そうもないので絡《から》みづらいわけです。
そんなわけで猫、今後ともよろしく。
男子校が舞台だけに男の子がたくさん登場しているので、そろそろご贔屓《ひいき》のキャラクターなんてものもできたんじゃないかなー、と思います。以前から『マリア様がみてる』にちょくちょく顔を出していた祐麒や柏木優《かしわぎすぐる》(なぜ彼だけフルネーム!?)はもともと人気があるのですが、『お釈迦様もみてる』開始と同時にやって来た、新参者《しんざんもの》のアンドレのことが気になっている読者も結構いるみたいです。
だから、今回のへたれぶりでそっぽ向かれなければいい、と祈るばかりです。
ファンが減ったとしたら、私のせいだ。――ごめんねアンドレ。
[#地から1字上げ]今野 緒雪
底本:「お釈迦様もみてる 学院のおもちゃ」コバルト文庫、集英社
2009(平成21)年4月10日第1刷発行
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2009年05月14日作成
2009年12月31日校正