宇宙海兵隊ギガース3
今野 敏
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)割《さ》かれる
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)地球連合|傘下《さんか》
-------------------------------------------------------
〈帯〉
熾烈をきわめる月面都市の戦い!
スペース・ロボット・オペラの決定版!
謎の根源・ジュピターシンドロームの真実に宇宙は震える!
[#改ページ]
〈カバー〉
GIGAS
In 22nd century, Jupiterrian goes into space-warfare at last.
The human race has not Hept a peace anytime, why not ?
地球連合軍VS.木星圏の反乱者=ジュピタリアンの戦いはいよいよ月をめぐる攻防へ! ジュピタリアンの謎を解く鍵・「ジュピター・シンドローム」の真相を知る反乱の首謀者・ヒミカがついに宇宙《うみ》の舞台に登場する。それに対峙する最新型|HuWMS《ヒュームス》(Human-Style Working Machine Standard)「ギガース」の美少女パイロット、リーナ・ショーン・ミズキ少佐の運命は……!? 著者の深いこだわりが炸裂する、スペース・ロボット・オペラの決定版!
FROM 今野 敏
第一巻の著者の言葉で、「全三部作」と書いた。その三巻目だ。物語はまだ終わっていない。終わっていないどころか、これから佳境だ。いつまで続くかわからなくなった。版元の事情が許す限り続けてやろうなどと考えている。ちなみに、今ギガースをフルスクラッチしている。ガレージキットがほしいという奇特な方は、今年のC3というイベントに来てください。売り子をやっています。
今野 敏 BIN KONNO
1955年北海道三笠市生まれ。
日本空手道常心門二段、棒術四段の実力を持ち、自ら「今野塾」を主宰する。
おもな著作に『蓬莢』『イコン』『ST 警視庁科学特捜班』(以上、講談社)などがある。
[#改ページ]
宇宙海兵隊ギガース3
[#地から1字上げ]今野 敏
[#地から1字上げ]講談社ノベルス
[#地から1字上げ]KODANSHA NOVELS
目次
第五章 月路の攻防
[#地から1字上げ]世界解説=大塚健祐
[#地から1字上げ]前川智彦
[#改ページ]
第五章 月路の攻防
1
火星衛星軌道上
ベース・バースーム
強襲母艦アトランティスは、ベース・バースームに寄留していた。人類史上最も高価な宇宙船である地球連合軍のニューヨーク級強襲母艦は、アトランティスを含めて三隻ある。
ニューヨークは現在地球の衛星軌道を周回しており、ダイセツは火星の衛星軌道上にいた。
火星の周回軌道に侵入しようとしたジュピタリアンの巨大戦艦との戦いは両軍にかつてない被害を与えた。
ジュピタリアンは巡洋艦クラスの戦艦を一隻失った。その艦は火星に落下し、マスドライバーを破壊した。
艦の損傷がひどく、火星の周回軌道を離脱できないと判断したのだろう。
マスドライバーは、火星で採掘した鉱物資源や、人工衛星など建造物の材料、そして、軍事基地への物資などを軌道上に打ち上げるための施設だ。
マスドライバーを失ったことは、火星圏の経済活動だけでなく、地球連合軍にとっても大きな痛手だった。
火星の軌道を回っているベース・バースームは、宇宙海軍の基地であり地球連合軍の防衛拠点の一つだ。
ベース・バースームの維持にはマスドライバーが不可欠だった。軍の物資や修理・改築・増築用の機材、そこに居住する人々の生活物資からエネルギー源まで、必要なものの運搬をマスドライバーに頼っていた。
地上から船で物資を軌道上まで運び上げるのはおそろしくコストがかかる。また、船はペイロードが限られているため、一度に多くの物資を運ぶことができないし、ペイロードの多くは人員に割《さ》かれる。
ベース・バースームは、回転により〇・六Gの人工重力を作りだしているが、多くの作業区は、無重量だ。定期的に交代要員を火星に下ろさないと、たちまち筋力が落ちるし、カルシウム欠乏症となってしまう。
人間の体はなかなか宇宙の環境に慣れることはできない。無重力や低重力の環境にいると、体内からカルシウムがどんどん減っていってしまうのだ。
かつては、波止場《はとば》のように華やいだ雰囲気もあったベース・バースームも、マスドライバーが破壊されて以来、ひどく寒々しく感じられる。
エドワード・カーター大尉は、ベース・バースーム内にある酒場に来ていたが、馴染《なじ》みのバーテンダーと互いに渋い顔を見せ合っていた。
「えらい戦いだったそうじゃないか」
バーテンダーがそう水を向けたが、カーターは戦果を自慢する気にもなれなかった。
「カリスト沖海戦以来、何もかもが初体験だよ」
「初体験か。まるで十代の娘っこみたいだな」
「その十代の娘っこも戦っているんだ」
「リーナのことか? 俺は彼女のことを娘っこなどと言ったりはしない。今じゃ、リーナは立派な海兵隊員だ。そうだろう」
カーターはうなずいた。
「ああ。そのとおりだ。リーナは、間違いなく俺たちヒュームス第一小隊の仲間だよ」
「何もかもが初体験ってどういうことだ?」
「カリスト沖海戦まで、誰も宇宙で戦争なんてやったことがなかったんだ」
「空軍は海賊退治をやっていたぞ」
「俺たち海兵隊だって、周回軌道上の戦いの訓練は積んでいる。辺境のパトロール任務もこなしたさ。だが、実際の戦争というのはまったく違う。誰も木星圏の住民と戦争になるなんて思ってもいなかった」
「おまえさんが弱音を吐《は》くなんざ、珍しいな」
カーターは、弱音を吐いているつもりはなかった。
ただ、正直な気持ちを言ったまでだ。木星圏のやつらとの戦いは、間違いなく初めてのことばかりだった。
カリスト沖海戦では、史上初の軌道上での機動兵器同士の戦いを経験した。その後、アストロイド・ベルトでは、これも人類史上初の軌道交差戦を経験した。そして、火星上空では、空間エアフォースとの共同作戦を経験した。
この先、何があるかわからない。それがカーターを不安にさせる。
人間が宇宙の海に出てからそこそこの歴史がある。だが、まだまだ宇宙は謎に満ちているのだ。何が起きるかわからない。
「俺たちは、月に向かう」
カーターは言った。「ベース・バースームじゃ、もうアトランティスの面倒を見ることはできないんだ」
「戦艦が全部引き上げるって話、本当なのか?」
バーテンダーは眉《まゆ》をひそめた。
カーターは、詳しいことは知らない。軍の上層部が決めることだ。だが、ベース・バースームで補給を受けられないとなれば、戦艦は月まで撤退しなければならないだろう。火星の衛星軌道上を回っているダイセツもいずれ、月か地球の周回軌道まで後退するはずだ。
火星の衛星軌道は、地上のミサイル基地と空間エアフォースに任せるしかなくなるかもしれない。
だが、カーターは海軍や海兵隊と馴染みが深いこのバーテンダーに本当のことを話す気にはなれなかった。
「俺はアトランティスが月に向かうと言っただけだ」
バーテンダーは悲しげに店内を見回した。建材は合成樹脂だが、木材を模しており、居心地のいいイギリス風のパブのような造りだった。
「酒の補給が来ない。この店もいつまで続くかわからない」
「マスドライバーの修理が終わるまでの辛抱だ」
カーターは自分の言葉がむなしいことを知っていた。
マスドライバーの復旧の目処《めど》はまったく立っていない。何せ、巨大なジュピタリアンの戦艦が直撃したのだ。施設があった場所には大きなクレーターができていた。
バーテンダーもそれを知っているはずだった。だが、彼はうなずいて言った。
「ああ、そうだな。じきに元通りになる」
カーターはさらにむなしい言葉を続けなければならなかった。
「じきに戻ってくる。それまで、俺たちの留守を守っていてくれ」
*
カーターは兵舎に引き上げた。バーで酒を飲んでも酔えなかった。ベース・バースームに補給能力がなくなった今、艦が月へ向かうというのは仕方のないことだ。
惑星上から船を打ち上げるには、おそろしいコストがかかる。船の運搬力だけでベース・バースームの機能を維持するのは不可能だ。
艦の運用は軍の上層部の考えることだ。カーターが考えてどうなるものでもない。
カーターには、もっと気がかりなことがあった。
サムが生きていた。
サムのクロノスは、カリスト沖海戦で軌道から飛び出してしまい、海の藻屑《もくず》となったはずだった。
そのサムが生きていたのだ。それは、喜ばしいことだが、問題はサムが敵として目の前に現れたことだ。
サムはトリフネに乗っていた。トリフネは、空間エアフォースの戦闘機と宇宙海兵隊のヒュームスの機能を併《あわ》せ持った敵の機動兵器だ。
筋金入りの海兵隊員だった。簡単に敵に寝返るようなやつではない。しかし、彼はトリフネに乗り、ジュピタリアンの側で戦っていたのだ。
サムが乗ったトリフネを沈めることになるかもしれない。そう思うとカーターはひどく動揺する。
戦場に出たら、余計なことを考えている暇《ひま》はない。いつ敵にロックオンされるかわからない。そして、軌道を離脱してしまったら二度とねぐらには戻れないのだ。
トリフネが現れたら夢中で戦うだろう。だが、そのトリフネのどれかにサムが乗っているかもしれないのだ。
すでにそのことは、作戦司令のエリオット大佐に報告していた。エリオット大佐がどう判断するかわからない。
カーターは、サムが生きていたという事実自体、軍にとってどの程度の重みがあるか判断しかねていた。海兵隊員が一人生きていたというのは、軍全体にとってたいした意味はないのかもしれない。
だが、カーターにとっては重要なことだった。サムは、第一小隊で寝食《しんしょく》をともにした仲間だ。しかも同じチーム・グリーンのクロノス・ドライバーだ。家族も同然だった。
サムが乗ったトリフネを沈めろと命令されたらどうしたらいいのだ。
カーターは、思い悩んだ。
いずれまた戦闘が始まる。最新型のヒュームスであるギガースが配備され、さらに艦載機小隊の代わりに空間エアフォースの要撃部隊を積み込んだアトランティスは、現在地球連合軍で最強の艦となった。
つまり、最も重要な作戦を与えられるということを意味している。激しい戦闘が待っているのだ。
カーターは思った。
サムはすでにカリスト沖海戦で死んだのだ。
そう考えたほうがいい。
でなければ、こちらが死ぬことになる。
軍人なのだから、戦争が続く限りは戦わなければならない。
戦争が続く限りは……。
*
オージェ・ナザーロフは、一人で酒場を出ていったカーターの後ろ姿を見つめていた。
ベテランパイロットのアレキサンドル中尉は、月に戻れると聞いて喜んでいた。彼は、地球時代のアメリカ軍の伝統を色濃く残している宇宙海軍にどうしても馴染めない様子だった。
このベース・バースームの酒場には、本物のウォッカがないと、いつもこぼしている。
そして、彼は船が嫌いだった。アレキサンドル中尉によると、代々彼の家系は船が苦手なのだそうだ。
空間エアフォースのエースパイロット、オージェ・ナザーロフ大尉は、火星上空の戦いを地球連合軍の勝利だと考えたかった。敵の戦艦が火星の衛星軌道に侵入するのを阻止したことは事実なのだ。
もし、敵の火星圏への侵入を許していたら、被害はもっと甚大《じんだい》なものになったはずだ。
とにかく、彼らは敵の主力艦一隻と巡洋艦クラスの戦艦二隻を追い払った。巡洋艦クラスのうち一隻は火星に墜落した。
いや、墜落というより自爆だろう。間違いなくジュピタリアンたちの作戦は失敗し、彼らは大切な戦艦を一隻失った。これは、勝利だ。
にもかかわらず心が晴れなかった。
火星上空の戦いは、たしかに海賊退治などとは異質のものだった。衛星軌道上や月の周回軌道上を守る空間エアフォースは、海賊やテロリストとの戦いの経験は豊富だ。
海賊やテロリスト退治は単純な戦いだった。正義は常に自分たちの側にあった。
だが、ジュピタリアンたちとの戦いはどこか違う。実際にトリフネたちと戦ってみるまでは、そんなことは考えたこともなかった。
なぜ違和感があるのだろう。
オージェは自問していた。
規模が桁《けた》違いだからだろうか。
たしかに、巨大戦艦同士の戦いというのはすさまじいものだ。宇宙ステーション同士が超高速で戦うようなものだ。
それは、オージェがこれまで経験したことのないものだ。テロリストの船を沈めるのとはわけが違う。
だが、ジュピタリアンとの戦いにつきまとう違和感の原因は単なる規模の違いではなさそうだった。
初めて本格的なドッグファイトを経験したからだろうか。
たしかに、空間エアフォースの戦闘機は、地球の大気圏内を飛ぶジェット戦闘機などよりはずっと不自由な乗り物だ。一度周回軌道に乗ってしまうと、方向転換もままならない。
軌道を変えるためには大量の推進剤を必要とする。だから、その必要のないように、飛行前に厳密な軌道計算をする。海賊退治のときは、隊列を組んで、二十ミリ無反動機関砲やミサイルを打ち込むという作戦が多かった。
これまで、軌道上ではそれが有効な作戦だった。
海賊船やテロリストの武装船も軌道の呪縛から逃れることはできない。だから、編隊を組んで比較的距離を置いた場所から砲撃やミサイル攻撃をするだけで片づいたのだ。
戦闘機といっても、周回軌道上を主な戦いの場所とするのだから基本的にはスペースシップの一種だ。
自由自在に宇宙を駆け回るというわけにはいかない。推進剤も限られているし、軌道の限界もある。
空間エアフォースでも軌道上でのドッグファイトなど非現実的だというのが常識だった。だが、敵のトリフネは自由に軌道上を飛び回り、海兵隊のヒュームスとドッグファイトを展開した。
オージェも火星上空の戦いで、生まれて初めてドッグファイトを経験したのだった。
「隊長、ずいぶんと浮かない顔じゃないですか」
ひげを生やした生粋《きっすい》のロシア系のアレキサンドル中尉が声をかけてきた。
オージェはほほえんで言った。
「いざ、このベース・バースームとお別れかと思うと、感慨深くてな」
アレキサンドル中尉は、目を丸くして驚いた。
「月に帰れるんですぜ。海軍の基地なんぞ、一日でも早くおさらばしたいですね」
「だがな、アレキサンドル、アトランティスが月に向かうということは、地球連合軍の主力が火星から月に撤退するということなんだ」
「でも、勝ち戦《いくさ》だったんですぜ」
「たしかにそうだが、火星のマスドライバーを失った。おかげで、ベース・バースームの機能は低下して、アトランティスが月まで撤退しなければならなくなったんだ」
「でも、敵は戦艦を一隻失った」
アレキサンドルは満足げに言った。「木星圏の軍を支える経済力を考えれば、やつらにとって戦艦は俺たち以上に大切なはずです。戦艦を一隻失うということは、木星圏の大きな戦力ダウンだ。そうでしょう」
ベテランパイロットらしい発言だとオージェは思った。
たしかに、地球連合軍ほど豊かではないジュピタリアンにとって戦艦は貴重だろう。
「おまえの言うとおりだ、アレキサンドル」
オージェはほほえんだ。「私はちょっと感傷に浸《ひた》っていただけだよ」
「そんなのは、海軍や海兵隊のやつらに任せておけばいいんです。月に帰ったら、俺たちはまた空間エアフォース本来の任務に戻れる」
「いや、そうじゃないだろう」
そう言ったのは、ユーリ中尉だった。冷静沈着で頼りになるパイロットだ。
アレキサンドルは、田舎町でよく見かける気のいいロシア人だが、ユーリは、モスクワなどの都会で出会うエリート・タイプだ。
アレキサンドルがユーリに言った。
「そりゃ、どういうことだ?」
ユーリはこたえた。
「月に帰っても、我々はアトランティスを降りることはないだろう」
「なぜだ? 月には俺たちの基地がある。ノブゴロドだ」
「時代が変わったのだ。アトランティスのたった三回の戦いが歴史を変えた。木星圏には空軍という概念がない。俺たちは長い間、空軍の戦闘機と海兵隊のヒュームスをまったく別のものとして考えていた。だが、木星圏の連中にはそんな区別はない」
「地球連合軍なりの戦い方ってものがある。長い戦闘の歴史の中で培《つちか》われてきた戦い方がな」
「おまえの言う長い戦闘の歴史というのは、地球上で培われたものだ。人類は、宇宙に出てから百数十年ほどしか経っていない。宇宙で戦いをするようになってから、百年も経っていない。宇宙の戦いの歴史はおそろしく浅いんだ。そして、本格的な宇宙での戦争というのは、今回が初めてだ」
「ばかなことを言うな。俺たち空間エアフォースはずっと宇宙で戦ってきた。わが祖国だって、かつて宇宙での戦いを経験している。だからこそ、空間エアフォースが生まれたのだ」
「我々の戦いは、海賊船やテロリストの武装船の討伐《とうばつ》に過ぎなかった。祖国が地球の衛星軌道上で展開した戦いは、軍拡競争の一環でしかなかった。アメリカと中国とEU……。その勢力争いに負けじと参加したに過ぎない」
オージェは二人の議論を聞いていて、自分の考えが整理されていくような気がしていた。ユーリの分析のほうが、アレキサンドルの上をいっている。
たしかに、今回の戦争は人類が生まれて初めて経験する宇宙戦争だ。地球上の国々の高高度の制空権争いとは質が違う。
地球圏の外に敵がいて、それと戦うなど、オージェは予想もしていなかった。だから、オージェは長い間、宇宙海軍も海兵隊も無用の長物だと思っていた。
海軍は、辺境のコーストガードのような役割を担《にな》っていると長い間信じていた。コーストガードのためにニューヨーク級のような巨大で高価な船を作るのは愚《おろ》かだと考えていたのだ。
だが、今は、オージェ自身がその高価なおもちゃに過ぎないと思っていたニューヨーク級に乗り組んでいる。
海軍は、この事態を予想していたかのようだ。
空軍の活動の拠点は主に地球と月の周回軌道上だ。そのために、木星のような辺境の地の情勢に疎《うと》かったということなのだろうか……。
その疑問は、この戦いにつきまとう違和感と何か関係がありそうだった。海軍は、まるでこの戦いのための用意を整えていたように感じられる。
それは考えすぎだろうか。
「……隊長はそのことを、考えてくれているんだ。そうですね、隊長」
ユーリに呼ばれ、オージェは考えるのを中断した。
若い隊員たちが、不安げにオージェのほうを見ていた。
「何だ?」
「ですから……」
ユーリが説明した。「今後、我々にはどういう戦い方ができるのか……。これまでのように海兵隊のヒュームスを操り人形とばかにしてばかりはいられない。彼らと協力しつつも、空間エアフォースとしての立場を主張しなければならないでしょう」
「そうだな……」
オージェは、ふいに物憂げな気分になった。「ギガースを見れば、もう操り人形などと言ってはいられなくなるな。だが、依然として我々の戦闘機は、主力のヒュームスであるクロノスよりはずっと機動力にまさっている。そして、ギガースより作戦行動時間がはるかに長い。単なる艦載機とは違うのだ。それを考えればおのずとこたえは出る」
若い隊員たちの眼に希望の光が宿るのがわかった。
「トリフネはやっかいですね」
若いセルゲイ少尉が、緊張した面《おも》もちで言った。
オージェは、ほほえんでみせた。
「機動力自体はわれわれの戦闘機と互角だ。作業能力は、おそらく海兵隊のヒュームスと同等だ。だからこそ、空間エアフォースと海兵隊が共同の作戦を取ることになったんだ。恐れることはない。戦いには対処できる」
「しかし、あの飛び方は……。まるで軌道の概念を無視したような自由な飛び方。それでいて、統制が取れています」
「問題はそこだ」
ユーリが言った。「ねえ、隊長。木星圏のやつらと、我々はどこが違うのでしょうね」
オージェはまた考え込んだ。
この戦いの第二の違和感の理由はそこにある。
火星上空の戦いのドッグファイトの最中、ギガースが奇妙な行動を見せた。トリフネとの激しい戦いの中で、急に動きを止めたのだ。
軌道上を母艦と等速度で周回していたギガースは静止しているように見えた。敵の標的になるのは明らかだった。
だが、ギガースは無事だった。
ギガースが動きを止めた直後、それまで完璧な連携を取り自由自在に振る舞っていたトリフネの動きが急にぎこちなくなった。
そして、その後すぐにトリフネは引き上げたのだ。
オージェには、ギガースのパイロットが何をしたのか見当もつかない。だが、何か特別なことが起きたのは明らかだった。
リーナ・ショーン・ミズキ少尉。
オージェは、あのギガースの静止と突然のトリフネの動きの乱れには必ず何か関係があると考えていた。
つまり、ミズキ少尉が何かをしたということだ。彼女が何をしたのか知りたかった。それが、この戦争につきまとう違和感に深く関わっているような気がしていた。
いつか機会を見て尋ねてみよう。次の戦いまでまだ時間は充分にあるはずだった。
木星圏は遠い。宇宙航海の時代がまだ幕開けしていない頃、ボイジャーという無人探査機は、地球圏から木星圏まで到達するのに一年半かかったという。海軍の誇る戦艦は、核融合によって強力な加速力をものにし、その行程を半年以内に縮めることができた。
それでも半年近くかかるのだ。
おそらく敵の戦艦であるミラーシップも木星圏から地球圏までは半年ほどかかるに違いない。
その距離のせいで、戦争はおそろしくゆっくりしたペースで進んでいる。それも、これまでの戦闘と違うところだ。
これが一つの戦争なのだろうか。時折、オージェは思う。宇宙における戦争というのは、戦争そのものの概念まで変えてしまった。
長い年月と莫大な費用を必要とする戦争。ジュピタリアンたちは、それを覚悟の上で戦争を始めたのだろうか。
彼らにはそれに見合う何かがあるのだろうか。
オージェの疑問は尽きなかった。
2
地球連合・アメリカ合衆国
ニューヨーク市
ケン・ジンナイ上院議員は、ロビイストのデビッド・オオタに提案した。
「私の秘書にならないか?」
デビッド・オオタは、目を丸くした。彼らは、ケン・ジンナイの自宅で夕食後のコーヒーを飲んでいた。
二人がジンナイの自宅で食事をして、こうして話をしているのは、そこが一番安全な場所だからだった。反戦派のジンナイ議員の外堀は埋められつつある。
地球連合政府は、徐々に戦時下体制に傾きつつある。軍部の発言力が増し、反戦派は腰抜けだという風潮が作られようとしていた。
それだけではない。反戦派に対する目に見えない弾圧が強まっていた。ジンナイは常に軍か政府の監視下にあると考えるようにしていた。
今や、彼のオフィスもオオタのオフィスも安全ではない。連合政府がその気になれば、盗聴器を仕掛けたり、すべての通信を監視することなど簡単だからだ。
こうして二人で話し合っている間も、アパートメントの外では、車の中でオオタが出てくるのを待っている見張りがいるかもしれない。
「私は、特定の政治家のために働いたことはありません」
オオタは、驚きと戸惑いの表情のまま言った。
ジンナイはうなずいた。
「誰かの利益のために、政治家に働きかける。その見返りとして政治家にさまざまな情報を与える」
「そうです。言うなれば、陳情団の代表のようなものです」
「だが、かねてから君の私への情報提供はロビイストの域を越えていた。君がもたらした特定の団体の利益よりも、私に与えた情報の価値のほうがはるかに高かったように思う」
「経済団体の中には根強い反戦派がいます。戦争による戦時下経済を、市場は歓迎していません。私には、反戦派の議員を応援する理由があるのです」
「軍需が拡大すると、儲かる企業も出てくる」
「それは限られた産業です。消費が進まないと、経済は滞《とどこお》ります。そして、戦時下体制は極端に消費を抑えることになるのです。市場はそういう不健全な経済の状態を歓迎しません」
「私たちはともに戦うと誓った。この戦争を終わらせることは、私の戦いであるとともに、君の戦いでもある」
オオタは肩を小さくすくめてみせた。
「その点については、異存はありません」
「君は自分自身を守れると思っているかもしれないが、実は、事態は思ったより逼迫《ひっぱく》しているようだ」
「コニー・チャンの件ですね。あれから、私も充分に気をつけています」
「コニー・チャンのようなジャーナリストにもスパイ容疑をかけようとする。連合政府はますます戦時下体制を強めつつある」
「あれから三ヵ月経ちますが、何事も起きてはいません」
「この静けさが不気味なんだ。君の身にもいつ何が起きるかわからない」
オオタの前にあるコーヒーはすっかり冷《さ》めてしまっていた。彼は、そのカップをちらりと見やってから、視線をジンナイに戻した。
「何をお考えなのですか?」
ジンナイは、オオタを見据えた。
「コニー・チャンと接触した、ジュピタリアンのスパイと接触したい」
オオタは、目を見開き、しばらくジンナイの顔を見つめていた。言葉が見つからない様子だった。
「正気ではないと言いたげだな」
ジンナイは言った。
「そのとおりです」
オオタは声を落とした。「ただでさえ、議員への監視が強まっています。そんなことをしたら……」
「危険は承知の上だ。これは戦いだと言ったはずだ。この戦争は終わらせなければならない」
「しかし……」
「もちろん、私一人の力では無理だ。反戦派の議員の力を結集しなければならない。戦争を受け容れている世論を変える必要もある。だが、そのためには強い説得材料が必要だ」
「ジュピタリアンのスパイがその説得材料を持っているとお考えですか?」
「少なくとも、我々の知らないことを知っている。連合政府と連合軍は、何か秘密を持っている。だからこそ、私たちに圧力を加えようとしているのだ」
「ジュピター・シンドロームですね」
「そうだ。コニーにジュピター・シンドロームの件を調べろと言ったのは、そのスパイだそうじゃないか。彼がコニーと知り合ったのは偶然ではないだろう。彼は、コニーに標的を定め、接触のチャンスを狙っていたんだ」
「敵のプロパガンダかもしれません」
「コニーも私もそれほどばかではないよ」
オオタはしばし考え込んだ。
「私に秘書になれと言った理由が、ようやくわかりました」
「とことん、君を巻き込もうというわけだ」
「いえ、今のままだと私を守りきれないとお考えになったのでしょう。議員の秘書となれば、当局もおいそれと手を出せない。それに、秘書となれば常に行動をともにしていても不自然ではありません」
ジンナイは思わずほほえんだ。
「まあ、どういう理由にしろ、君を巻き込むことには変わりはない。私はコニー・チャンにも協力を要請しようと思っている」
オオタはうなずいた。
「いずれ、こういう日が来るとは思っていました。すぐにでも事務所をたたみましょう。明日、従業員を解雇する手続きをとります」
「従業員は何人いる?」
「二名だけです」
「頼りになる連中か?」
「ええ。ずっといっしょに働いてきましたからね」
「では、その二名といっしょに、私の事務所に来てくれ。首にするのはしのびない」
オオタは驚いた顔をした。
「彼らは彼らでなんとかしますよ。優秀な人材ですから仕事はいくらでもあります」
「それほど優秀な人材ならば、ぜひとも私の事務所に来てもらいたいものだ」
「やりかたが、日本的ですね」
「そうだ。私は日本人であることに誇りを持っている。君もそうだろう」
「私は半分しか日本人の血が流れていませんからね……。それにアメリカ育ちなので、アメリカ流の合理主義が身に付いています」
「義理と人情も必要なことがある。合理主義だけでは人間は動かせない。彼らが特定の政治家のために働くのが気に入らないというのなら話は別だが……」
「ご心配なく。うちのスタッフは二人とも議員の支持者です」
「それはありがたい」
オオタはまた声を落とした。
この部屋は盗聴などの心配はない。外から唇の動きを見られたりしないように、カーテンも閉めている。
だが、やはり無意識のうちに声をひそめてしまうようだ。
「具体的にはどうやって連絡を取るのです、そのジュピタリアンのスパイと……」
「タカメヒコというそうだ」
「タカメヒコ……?」
「コニーが言っていた。UNBI(連合保安局)の捜査員は、そう呼んだそうだ」
「ヒコというのは、ジュピタリアンの高官の称号だそうですね」
「そうらしいな。タカメヒコは、単なるスパイではないのかもしれない。ヤマタイ国《こく》の命運を背負って月までやってきた。私にはそう思える」
「その呼び方はやめたほうが……」
「何のことだ?」
「ヤマタイ国です。それはジュピタリアンたちが一方的に名乗っている国名です。連合政府側は、認めていません」
「そういうところから事実の隠蔽《いんぺい》が始まる。木星圏はいまだに地球連合の支配下にあると、一般の人々に思わせたいのだ。しかし、実情は違う。ジュピタリアンは独立戦争を挑んできたのだ。つまり、すでに彼らは一つの国を築いているのだ」
オオタはまた肩をすくめた。多少不本意ではあるが同意するという意味だろう。
「心配するな」
ジンナイは言った。「私も公式の場で、軽率にヤマタイ国などとは言わない」
「タカメヒコというスパイは、コニーの一件以来姿をくらましました。UNBIの捜査網を逃れたということです」
「地球にはいないだろうな」
「月に戻ったのでしょうか」
「おそらくな……」
ジンナイは考えながら言った。「ならば、むしろ好都合だ」
「どういう意味です?」
「月は自治区だ。地球連合|傘下《さんか》ではあるが、地球よりは身動きが取りやすい」
「月に行かれるおつもりですか?」
「なんとか口実を考えてみる。月の自治区にも、地球連合政府に何らかの要求を持つ人々は多い。その意見を聞いて回るために月に赴《おもむ》くというのは不自然ではない」
「月のアームストロング市は広い。どうやってタカメヒコを探し出します?」
「私が月に行けば、向こうから接触してくるかもしれない」
「希望的観測ですね」
「事前に、誰かを送り込んでもいい」
「誰を?」
「うってつけの人物がいる」
オオタは即座に気づいた様子だ。さすがに、私が見込んだ男だとジンナイは思った。
「コニーですか?」
「そうだ」
「しかし、スパイ容疑で捕まったことがひどくこたえていると思います。我々のために動いてくれるでしょうか」
「三ヵ月経っている。私は、彼女がすっかり立ち直っているほうに賭けるね」
「わかりました」
オオタは言った。「彼女と連絡を取ってみます。そちらは私にお任せください」
「苦労をかけるな……」
「今日からは秘書です。お気づかいは無用です」
「自分の身内だからこそ気をつかうのだ。日本人というのは、そういうものではなかったか?」
オオタはほほえんで、立ち上がった。
*
釈放されてから三ヵ月、コニーは、当たり障《さわ》りのない記事をプラネット・トリビューン社に渡して、おとなしく暮らしていた。
契約の記者は、正式採用の社員ほど身分を保証されていない。だから、いつもスクープを追いかけていた。
それなりに危ない橋も渡った。だが、逮捕|勾留《こうりゅう》されたことは、一度もなかった。あの日、UNBIの捜査員たちが部屋にやってくるまでは。
コニーはショックだった。不当な逮捕をされ、いきなり犯罪者扱いされたことも衝撃だったが、逮捕された自分があまりに無力だったことに打ちのめされた。
彼女は、パニックに陥《おちい》りそうにさえなった。そんな自分の弱さにショックを受けていたのだ。
だが、次第にそんな自分と折り合いがつけられるようになった。そう、私は弱い。今までそれに気づかなかっただけだ。
彼女の中で静かな戦いが続いていた。弱さは自覚すればそれほど問題ではなくなる。今までは、自分の弱さに気づかず、ただがむしゃらに取材を続けてきただけだ。無謀なだけだった。
ノブゴロドに乗り込んだときもそうだった。相手は、空間エアフォース。ロシア軍の伝統を受け継いだ軍隊だ。
ロシア人にアメリカ流の民主主義の主張は通用しない。
ロシアという国は、帝政時代の伝統をいまだに大切にしている。いい点も悪い点もだ。
美しい文化や国民の我慢強さはいい点だ。
国家や軍が一般市民を監視統制するという体制や、官僚主義は悪い点だ。
民主化というのは均一ではないと、コニーはいつも思う。中国の民主主義とアメリカの民主主義は違う。
そして、ロシアの民主主義というのも独特なものだ。それは、おとなしく国や役人、警察の言うことを聞いてさえいれば認められる自由に過ぎない。
だが、それがロシアの伝統なのだ。
コニーは、それを知識では知っていたが、実際にはどんなものか知らなかった。知らないから無謀にもノブゴロドに乗り込むことができたのだ。
スミレ色の眼をした女性士官のはからいで、何事もなくノブゴロドを去ることができた。だが、運が悪ければ、いまだにノブゴロドの中の牢獄にいたかもしれない。
無謀と勇敢さは違う。そのことを理解し、納得するのに、たっぷりと三ヵ月かかった。コニーは、自分の弱さを見つめて、そこから再出発をはかろうとしているのだ。
プラネット・トリビューン社の編集長は、コニーの記事を見てしかめ面《つら》をしている。当たり障りのない記事など、コニーに期待していないのだ。
それはわかっている。だが、二つの理由で今はそれしかできなかった。第一は、自分自身の問題。今は冒険をするときではない。自分自身を見つめるときだと考えていた。
そして、第二はUNBIだ。
釈放はされたが、まだ彼らの監視は続いているはずだった。
あの、ハリー・マーティンとボブ・サントスの二人組。
不気味な灰色の眼をしたハリーは、今でもコニーが何を取材するかを調べ回っているに違いない。
コニーは、マークされていたのだ。ジュピター・シンドロームのことを取材して回ったからだ。
だから、釈放されてからジュピター・シンドロームについては、まったく手つかずだった。今度、捕まったらあのときのように早く釈放してもらえるかどうかわからない。
ジンナイ上院議員が送り込んでくれた弁護士のベン・ワトソンはたしかに有能で、しかもやる気と反骨心にあふれていた。
だが、政府を敵に回すと、彼でも手が出せない事態になるかもしれない。今はおとなしくしているしかない。コニーは自分にそう言い聞かせていたのだ。
プラネット・トリビューン社で時間をつぶし、早めに帰宅して自宅でパソコンに向かっていた。
街の話題といったような軽い記事を今夜のうちにいくつか書くつもりだった。逮捕される前のコニーだったら、こんな記事を書かされることを屈辱と感じただろう。
だが、今は違う。
記事は記事だ。誰かがこの記事を読んでほほえましい気分になってくれるかもしれない。ほほえみを絶やさないこと。それも、大切な戦いだ。
今はまだ、人々の生活に笑いが満ちている。戦争ははるか遠くの出来事だ。木星や火星で何が起きようと、地球の人々の暮らしには直接の影響はない。
だが、徐々に世間は変わりつつある。戦争を批判する声が次第に小さくなりはじめている。戦意|高揚《こうよう》の謳《うた》い文句が次第に街に増えているような気がする。
コニーの戦いの場はそこにもある。プラネット・トリビューンの紙面を軍国主義で埋め尽くさせてはならない。
だが、さすがにキーを打つ手が進まない。何度も文章を打っては、削除していた。
ドアのチャイムが鳴った。
午後八時。人が訪ねてくる予定はなかった。一瞬、UNBIの二人の顔が頭をよぎった。
コニーは緊張してドアに近づき、レンズのついた覗き穴から外の様子をうかがった。
電気会社の制服を着た二人の男が廊下に立っていた。
「誰?」
コニーはドアを開けぬまま尋ねた。
「漏電のチェックです」
「そんなの聞いてないわ」
「ここは古いアパートですからね。定期的なチェックを義務づけられているはずです」
コニーは、用心してもう一度、レンズをのぞいた。すると、目深《まぶか》にキャップをかぶった男が何か書いた紙をそっと掲げている。
ジンナイと書いてあった。
罠かもしれない。
コニーは考えた。
だが、UNBIなら、こんなまどろっこしいことはしないはずだ。
コニーはドアを開けることにした。
ドアの外の男は、ちょっとだけキャップのつばを上げた。コニーは驚いた。ジンナイと親しいロビイストのオオタだった。
オオタは、人差し指を立てて唇に当てた。
「いやあ、ほかの部屋を回っていたらこんな時間になっちまいまして……。夜分すいませんが、俺たちも残業なんですよ」
「入って」
コニーは言った。「さっさと済ませてちょうだい」
部屋に入ると、オオタはもう一人の若い男に言った。
「あっちの部屋を頼む」
コニーは言った。
「そっちは寝室よ」
オオタが言った。
「お嬢さん、すべての部屋をチェックしないと意味がないんですよ」
若い男は、手に提げていた赤く塗られた金属製の道具箱を床に置き、蓋《ふた》を開けた。電気屋にしては奇妙な機械が現れた。アンテナがついた何かの計測器のようだ。
若い男は、平然とコニーの寝室に入っていき、アンテナ付きの機械をほうぼうに向けた。コニーはその様子を戸口で眺めていた。
オオタは何も言わない。
若い男は、リビングルームとキッチンを同様に調べ、それからバスルームを念入りに調べた。
その後、彼は天井と壁をくまなく見て回り、電話や家電製品、そしてスプリンクラーまで調べた。
何をしているのかようやくコニーにも理解できた。彼らは盗聴装置やカメラが仕掛けられていないかチェックしているのだ。
若い男の手際はすばらしくよかった。にもかかわらず、その作業はたっぷり三十分以上かかった。
やがて彼はオオタのもとに戻ってきて、無言でうなずいた。
「どうやら、だいじょうぶのようだ」
オオタはカーテンが閉まっているのを眼で確認してキャップを取った。
「失礼。用心には越したことがないので」
「それにしてもおおげさじゃない?」
「いや、UNBIは、平気で盗聴器を仕掛ける。一度逮捕された者が対象だと比較的容易に手続きができる。違法捜査すれすれだがね」
「そんなことをしたら、記事で叩いてやる」
「それがだんだんできにくい世の中になっている」
それはコニーにも実感できた。
「前触れもなくやってきたのはどういうわけ?」
「事前に連絡をすると、当局に先回りされる恐れがある。どこで情報が洩《も》れるかわからない」
「まるでスパイゲームね」
「そのものずばりさ」
「どういうこと?」
「月へ行ってもらいたい」
「月へ……?」
「そうだ。だが、もちろん断ってもいい。いわれのない罪で逮捕されるというのは、耐え難いものだ。我々はさらに危険なことを君に要求しようと考えている」
「そうね。あたしは、あの事件で自分がいかに臆病であるかを知ったわ」
オオタはうなずいた。
「恥じることはない。誰しも臆病だ。私だって平気なわけじゃない」
「弱い者には弱い者なりの生き方があると思うの」
「そうだな」
オオタはしばらくコニーを見つめていた。
「今夜の話は忘れてくれ」
オオタは、帰り支度を始めた。
「待ってよ」
コニーは言った。「話を最後まで聞いて」
オオタは、手を止めてコニーを見つめた。
「UNBIに逮捕されるまで、あたしは自分の弱さを知らなかった。そして、逮捕されるまで、あたし自身がスパイ容疑をかけられるような立場にいることを知らずにいた。問題はそこなの。知らなかったということ。今は知っている。知っていれば、対処のしようもある」
「弱さにも、今の立場にも……」
「そう。そして、誰かが助けてくれることにも気づいた」
「弱い者には弱い者の生き方があると君は言った」
「そう。弱い者には弱い者の生き方がある。でもそれは、ただ怯《おび》えて人の言いなりになるという意味じゃない。弱い者には弱い者なりの戦い方があるという意味よ」
オオタの眼が強い光を帯びた。コニーはそれを見て、勇気が湧いてくるのを感じた。
「行ってくれるのか?」
「何をすればいいの?」
「ジンナイ議員も、近々月へ行く。タカメヒコと会って直接話がしたいと言っている」
「タカメヒコ……? オレグ・チェレンコのことね?」
「一足さきに月へ行って、彼を探し出してもらいたい」
「わかった」
コニーはうなずいた。「人捜しなら任せて」
「彼は我々に情報を与えたがっている。何かを知らせたいのだ。ジンナイ議員はそれを知りたがっている」
「了解よ」
「正直言って」
オオタは言った。「引き受けてくれるとは思わなかった。私は感動している」
「あなたこそ……。ロビイストがここまでやるの?」
「私は、ジンナイ議員の秘書になった」
オオタは、若い男のほうを向いた。「この男のことは、訊かないでくれ。お互いのためにな」
「秘書……。驚いた」
「私はジンナイ議員とともに戦うことにした。この戦争を終わらせる戦いだ」
コニーは、気分が高揚してくるのを感じていた。
「待ってたのよ」
コニーは言った。「この三ヵ月間、この気分を待っていたの」
3
強襲母艦アトランティス
アトランティスは、火星周回軌道を脱して、月へ向かった。
火星の周回軌道上には、ダイセツが残っていた。今後は、火星圏にニューヨーク級強襲母艦を一隻しか置けない。
だが、この季節、火星と木星は離れつつあり、やがて太陽を挟んで反対側に位置するようになる。
火星の公転周期は、太陽日で六百八十六・九八日。一方、木星は四千三百三十二・五八日だ。
木星圏から火星圏へ攻め込んでくる心配はほぼないと軍司令部では判断したようだった。
逆に地球は、木星に近づきつつあった。危険なのは、月を含む地球圏のほうだった。だからこそ、現在最強の船であるアトランティスが月に移動させられたのだ。
火星を発って三日目、カーターは、エリオット作戦司令に呼ばれた。回転して人工重力を作り出している居住区の、エリオットの部屋へ行くと、リーナ・ショーン・ミズキ少尉がいたので驚いた。
「公式な話ではない。くつろいでくれ」
エリオットは言ったが、上官の部屋でくつろいだ気分にはなれない。リーナも立ったままだった。
カーターは休めの姿勢を取った。
エリオットは苦笑した。
「単なる世間話だと思ってくれ。何か飲むか?」
「いえ」
カーターはこたえた。「けっこうです」
「自分もけっこうです」
リーナが言った。
「では、私は勝手にやらせてもらう。故郷のスコッチだぞ」
カーターはそれを聞いて、ちょっとだけ飲み物を断ったことを後悔した。
エリオットは、ストロー付きのチューブから大切そうに一口、すすった。
「火星上空の戦いでは、奇妙なことが起こったという者がいる」
エリオットが言った。カーターには何のことかすぐにわかった。リーナがここにいっしょにいることを考えれば間違いない。
カーターは、エリオット作戦司令の次の言葉を待った。リーナも何も言わなかった。
「トリフネの動きだ。突然やつらの動きがばらばらになったのだと、何人かの海兵隊員や空軍パイロットが証言している。カーター大尉、君もそう感じたかね?」
カーターは、この持って回った言い方に、少々うんざりした。
「大佐、これは非公式のくつろいだ世間話だとおっしゃいましたね」
「そうだ」
「では言わせていただきます。あの戦場で、リーナ・ショーン・ミズキ海軍少佐が何かをなさったのを、私は知っています。それが何なのかはわかりません。しかし、それは、ミズキ少佐が直接海軍情報部に報告する事柄であり、私たちには関係のないことだと思います」
「ミズキ少佐とは、今それについて話し合っていたところだ。戦場にいた者の眼は欺《あざむ》けない。たしかに、ミズキ少佐は、トリフネの管制システムに関する情報を直接情報部に報告することが義務づけられている。しかし、我々は最前線で戦っている。我々にも知る権利があると思うのだが、どうだね?」
カーターはどうこたえていいのかわからなかった。上層部の問題だ。カーターなどが立ち入るわけにはいかない。
「自分は、命令を受けてクロノスに乗って宇宙の海にダイブしたり、どこかの惑星に上陸する作戦を敢行するのが任務です。そういうことはわかりません」
「戦場では、何が起こった? 私は本当のことが知りたい。作戦司令の私が事実を知らなければ、君たちを危険にさらすことになる」
カーターは、リーナをちらりと見やった。リーナは、口を開こうとしない。
カーターは覚悟を決めて言った。
「トリフネとのドッグファイトの最中、ミズキ少佐のギガースが突然動きを止めました。つまり、母艦と同じ速度で周回運動を始めたのです。危険な状態でした。敵にしてみれば、恰好の標的です。しかし、ギガースは撃たれませんでした」
カーターは落ち着かない気分になり、もう一度リーナを見た。今度はリーナがカーターを見返した。
カーターは眼をそらして続けた。
「トリフネが動きを乱したのは、その直後のことだったと思います。そう感じました。まるで初めて戦闘機に乗った訓練兵の操縦のように見えました。それまでは、信じがたいほどの機動性と統率を見せていたトリフネが、です」
エリオットは、穏やかにリーナを見た。そして、また一口、スコッチをすすった。それから、リーナに向かって言った。
「もう、情報部への報告は済ませたのかね」
「すべての通信による報告は禁じられています。つまり、直接担当官に手渡すことになっています」
「担当官とはどこで会うのかね?」
「月の周回軌道上で、シャトルがアトランティスにランデブーすることになっています。シャトルで乗り込んできた担当官に、直接手渡します」
エリオットの表情はあくまでも穏やかだが、彼の心中は決して穏やかではないはずだ。誰もが情報部のやり方には反感を持っている。
彼らは何もかもを、秘密にしたがる。
エリオットは言った。
「それから情報部では、外に出していい情報と決して外に出さない情報をより分けて、さらに統合参謀本部で情報は水増しされる。我々のところに送られてくるのは、一粒の砂糖をコップ一杯の水で薄めたような情報だけだというわけだ。それも何ヵ月も経ったあとで、だ」
「秘匿されなければならない情報もあります。特に、今は戦時下ですから」
「これは、非公式の世間話だ。だから、ずばり訊く。いったい、君はあの戦場で何をやったんだ?」
「私にそれをお話しする権限はありません」
「権限の問題ではない」
エリオットは言った。「直接ミラーシップやトリフネと戦っているのは我々なんだ」
「戦いは、大局でものを見なければなりません」
カーターは、その場から逃げ出したかった。尉官ごときがいられる雰囲気ではない。
エリオットは、しばらく青い眼でリーナを見つめていた。リーナも、緑がかった茶色の眼でエリオットを見返していた。
エリオットが小さくかぶりを振った。
「肩の力を抜いて話そう。我々はたしかに軍人だ。軍の命令に背《そむ》くことは許されない。だが、いいかね、戦っているのはそこにいるカーターであり、私であり、そして君なのだ。トリフネとの戦いが終わったわけではない。また戦わなければならない。有効な戦術があればそれを採用しなければならないのだ」
リーナは、唇をかんだ。彼女も苦慮している。それが、カーターにはわかった。
長い沈黙が続いた。
やがて、リーナが言った。
「大佐は迷っておいでですね」
エリオットがふと戸惑った様子を見せた。
「私が迷っている?」
「アトランティスに新兵器が集められ、戦力が突出することに疑問をお持ちなのではないですか?」
エリオットは肩をすくめた。
「私は迷ってなどいない」
それから、小さく溜《た》め息をついて言葉を補った。「ただ、ちょっと疑問に思っているだけだ。ギガースが配備され、さらに空軍のツィクロンが配備された。この艦だけにやたら気前よく金をかけるのはなぜだろうと思う」
「私は、今はアトランティスの海兵隊第一小隊の隊員に過ぎません。だから、作戦司令に命令されれば、逆らうことはできません」
エリオットはちょっと驚いた顔をして、それから、かすかにほほえんだ。
「大げさに考えるな。ごらんのとおり、私は少々酔っている。酒飲み話だよ」
リーナはうなずいた。
「お話しします。私は、あの戦場で声を聞いていました」
カーターは仰天《ぎょうてん》した。
リーナは、軍機を洩らそうとしている。それは、情報将校として許されることではないはずだ。
「声……?」
「ちょうど、幾重《いくえ》にも重なるコーラスのような感じに聞こえました」
「サイバーテレパスの君だから聞こえた声というわけだな」
「そうです。その声がトリフネの管制システムに働きかけているのだと思います」
「つまり、トリフネの管制システムにはサイバーテレパスが関与しているということか?」
「そう思います」
「トリフネの動きが乱れたのは、君が一種のジャミングを仕掛けたからなのか?」
「試してみました。私は、コーラスの声とトリフネのシステムの間に入り込もうとしたのです」
エリオットは、しばらく考え込んでいた。やがて、彼はカーターのほうを向いて言った。
「サムが生きていたという話は、ほかの隊員にはしていないな」
カーターはこたえた。
「しておりません」
エリオットはうなずいた。
「カリスト沖海戦では、トリフネに体当たりしたサムのクロノスは軌道を外れた。誰にも助けることはできないと思った。だが、サムは生きていた……」
「敵に救助されたのだと言っていました」
「捕虜になっているというのならわかる。だが、サムはトリフネに乗って戦場に出てきた」
「敵に洗脳されたのかもしれません」
「兵を引けと、サムは言ったのだったな」
「はい」
カーターは、戦場でのことをありありと思い出した。
いきなり腕と脚を展開したトリフネが、カーターのクロノスにつかみかかってきた。軌道上で格闘を挑んできたのかと思い、肝《きも》を潰した。
だが、そうではなかった。ECM(電子戦)の中で通信を可能にするために直接機体に触れてきたのだ。
トリフネにはサムが乗っていた。彼は言った。
「小隊長。兵を引かせてください。これは無駄な戦いだ」
さらに、こうも言った。
「たしかに今はヤマタイ国側で戦っています。しかし、この戦いは間違っている」
すでにその言葉は、エリオットに報告している。
戦争を起こしたのはジュピタリアンのほうだ。今さら「この戦いは間違っている」などという言い草はふざけている。
カーターはそう思った。だが、その一方で、彼も激しく迷っていた。あのとき、サムは何を言いたかったのだろう。そんな思いがぬぐい去れない。
やがて、エリオットは言った。
「二人とも、私の暇つぶしに付き合わせて済まなかったな。今の話はここだけのことにしておく」
カーターは敬礼をした。
リーナが部屋を出るのを待って、カーターもそれに続いた。
廊下に出ると、カーターは言った。
「たまげました。ありゃ、軍機なのでしょう。洩らしたことがばれたら、軍法会議ものですぜ」
「小隊長、あたしは、部下ですよ」
「どうも、二重階級というのはやりにくいな……」
「だから、あたしが情報部の少佐だということは忘れてください」
「そうもいかん」
「あたしは、戦いを経ることで、忘れようとしているのです」
「忘れようとしている……?」
「そう。あたしはアトランティスの乗組員です。海兵隊の少尉として戦うことで、罪滅ぼしをしている気分なんです」
「何の罪滅ぼしだ?」
「アトランティスが常に最前線に送られるのは、あたしがいるからです」
カーターは、リーナから眼をそらした。
「リーナをトリフネとできるかぎり接触させるためだというのは聞いた。だが、海兵隊が最前線に行くのはあたりまえのことだ。おまえさんが気にすることはない」
「アトランティスにいると、みんなが仲間だと実感できます」
「ああ、そうだ。間違いなくおまえさんも仲間だよ」
「だから、あたしは話したんです」
カーターは、リーナを見た。
「そうか」
カーターは眼をそらした。
この年で、どれだけの苦労をしてきたのだろう。そう思うと、リーナが不憫だった。
「サムのこと、気になりますね」
リーナが言った。
「ああ」
カーターはこたえた。「戦場では出会いたくない」
「そうですね」
カーターは歩きだしながら言った。
「さあ、今のうちに休んでおけ。明日は訓練ミッションがあるぞ」
4
地球連合・アメリカ合衆国
ニューヨーク市
コニー・チャンは、プラネット・トリビューン社の編集長に、月へもう一度行かせてくれと頼んだ。
編集長は、デスク越しにコニーを睨《にら》んで言った。
「月で街の話題でも探すつもりか?」
このところのコニーの仕事ぶりに不満を持っているのは明らかだった。フリーランスの記者は、スクープを取ってこないと何の価値もない。
当たり障りのない記事を書かせるために契約しているわけではないと言いたいのだ。しかも、月までの旅費はばかにならない。
「大きなネタをつかんでいるのはご存じでしょう?」
「そのせいで、UNBIに逮捕されたんじゃないのか?」
「あたしへの容疑は晴れました。それに逮捕自体が違法なものでした」
「コニー、ドアを閉めろ」
編集長は、命じた。コニーがドアを閉めると、ガラスとブラインドで仕切られた編集長の部屋は、急に静かになった。
編集長の眼がいっそう厳しくなった。
「いいか、コニー、わが社は、UNBIを敵に回すわけにはいかない」
権力を牽制するのがジャーナリズムの役割の一つであるはずだが、同時に企業であり、新聞は商品だ。すべてのマスコミはそのジレンマを抱えている。
そして、どちらかというと商業主義がジャーナリズムの本質より重視されているのが実情だ。
それは不本意なことだが、コニーは、ここで編集長と、ジャーナリズムと商業主義について論じ合うつもりはなかった。
「わかっています。しかし、これはまたとないチャンスかもしれません」
「何のチャンスだ?」
「この戦争にまつわる大きな秘密が明らかになるかもしれません」
「この戦争にまつわる秘密だと? いったい、それは何なんだ?」
「ジュピター・シンドロームです」
編集長は、大きく溜め息をついた。
「俺を何も知らないばかだと思っているのか?」
「いいえ」
「UNBIはおまえさんをマークしていた。それは、ジュピター・シンドロームについて調べ回っていたからだ。そうだろう」
「軍は何かを隠しています」
「知っている」
編集長はぴしゃりと言った。「軍というのは常にそうだ。今さらそんな話は聞きたくない」
「あたしは、月に行かなくてはなりません。社で取材費を出してもらえないのなら、借金をしてでも出かけます」
編集長はうなった。
「おまえさんとの契約を切らねばならないな」
コニーは、その言葉に思ったほどショックを受けなかった。あらかじめ予想していたからかもしれない。
「それでもあたしは行かなければなりません」
編集長は、表情を閉ざして言った。
「契約社員に退職金を出す義理はない。だが、世話になったことだ。いくらか出してやろう」
コニーは腹が立った。
「そういうお心遣いは必要ありません。お世話になりました」
部屋を出ようとした。
編集長は言った。
「待てよ。金は受け取れ。月への旅費くらいにはなる」
それはかなりまとまった金額を意味していたので、コニーは驚いた。だが、同時に同情されているようで、さらに腹が立った。
「旅費くらいなんとかします」
編集長は声を落として言った。
「わからんやつだな。俺は慎重にやれと言っているだけだ。いいか、おまえさんはUNBIに眼を付けられている。ここでへまをしたら、一生記事など書けなくなる」
コニーは思わず眉をひそめた。
「慎重にやれ? それはどういうことです?」
編集長は顔をしかめた。
「プラネット・トリビューン社までがUNBIに睨まれたら記事を載せることができなくなるじゃないか。だから、おまえさんが月に行くとなれば、契約を切られたという形にしなければならない」
コニーは、ようやく編集長が何を言いたいのか理解できた。
「つまり、月に行ってくるだけの餞別《せんべつ》をいただけると……」
「そうだ」
「そして、大きなネタをものにしたら……」
「そのときは、再び契約の記者として雇ってやる。もちろん、記事を書いてもらう」
コニーは、腹を立てたことを一瞬にして忘れ、編集長に抱きつきたくなった。だが、それはやめておくことにした。
「感謝します、編集長」
「俺は無駄な金は使わない。いいか。ネタをものにしろ。そして、くれぐれも慎重にやれ。何が起きても、プラネット・トリビューン社は助けてやれない。いいな」
「もちろんです」
コニーは言った。「フリーランスの記者は、常にそれくらいの心づもりはできています」
「そのフリーランスが、一度はUNBIに捕まったんだ」
「充分に注意します」
「書類を回しておくから、経理で金を受け取れ」
「ありがとうございます、編集長」
コニーが部屋を出ようとすると、再び編集長が呼び止めた。振り向くと、彼はコニーを見据えて言った。
「ようやくコニーが戻ってきた。俺はこの日を待ちわびたぞ」
月面都市・アームストロング・シティー
コニーは月へ行く定期便を申し込んでから、一週間も待たされることになった。民間のシャトル便もすでに準戦時下体制となって久しい。
シャトル打ち上げ用のマスドライバーは、軍用船に優先的に割り当てられるようになっており、民間の定期便は本数をずいぶんと減らしていた。
ようやく月に降り立ったとき、コニーは以前来たときと雰囲気が変わっているのを肌で感じ取った。
空港では、銃を手にした兵士の姿が目に付いた。完全に中立を保とうとしている月自治区だが、火星のマスドライバーが破壊されたことの影響はぬぐい去れない。
火星も月同様に中立な自治区であると、誰もが信じていた。その火星の重要な施設が壊滅的な打撃を受けた。
月の住民も心穏やかではなくなったということだ。
地球連合軍は、月の守りをいっそう固めつつあるように感じられる。月へ来る前に、コニーは集められるだけの軍事情勢の記事を集めて調べた。
民間のマスメディアの軍事情報は限られているが、それでもある程度のことは読みとることができる。特に、この時期は、火星と木星が離れつつあるので、月を含む地球圏のほうがずっと攻撃を受ける危険性は高い。
月にしばらくいるとぼうっとのぼせたような感じになるのは、重力が地球の六分の一と小さいからだ。
いずれそれにも慣れるだろう。
アームストロング市の風景は、一度訪れた東京に似ていると思った。新しいビルが建ち並んでいるが、個性に乏しい。コニーにしてみれば、実につまらない街並みだ。
かつて訪れたノブゴロド空軍基地のほうが、ずっと味わい深かった。
巨大な天蓋《てんがい》にすっぽりと覆われている月の街は、地下街のような感じだ。巨大な採光システムで取り入れられた太陽光が昼と夜を区別しているが、それはひょっとしたら、地球の大都市にいるよりもずっと心地よいかもしれないと、コニーは思った。
たいていの一流ホテルは、最上層にあった。地下に行くほど生活レベルは下がり、最下層には工場地帯とエネルギー施設、そしてスラム街がある。
コニーは、前回訪れたときに利用したのと同じホテルを予約していた。アームストロング・ハイアットだ。
チェックインをして部屋に向かう途中、バーのそばを通り過ぎた。表通りに面したバーで、アームストロング市の市街地が大きなガラス窓から見渡せる。
夜になると、街のイルミネーションが美しい。そこは、オレグ・チェレンコと初めて出会ったバーだった。
コニーが最初に月に取材に来たときに、向こうから声をかけてきたのだ。それが、コニーにスパイ容疑がかかるきっかけとなった。コニーもいろいろと学んだ。
オレグ・チェレンコは、最初からコニーを利用しようとして近づいたのだ。ジュピタリアンの情報戦の一環だったのかもしれない。
だが、オレグ・チェレンコがもたらしたのは、偽の情報ではなかった。反戦派の上院議員、ジンナイが、同じ事柄に関心を持っていることがわかった。
つまり、オレグ・チェレンコの目的は、この戦争を終結に導くことだったとも考えられる。
戦争を始めたのは、ジュピタリアンだと信じられている。しかし、冷静に考えると、それは連合政府の発表でしかない。これまで、地球圏や、月、火星の自治区の人々は、木星側の言い分をちゃんと聞いたことがないのだ。
オレグ・チェレンコは、木星圏のヤマタイ国ではタカメヒコと呼ばれている。情報将校らしい。
彼が月にいる保証はない。だが、コニーはきっと月に潜伏しているはずだと思った。何とか彼と連絡を取りたい。
部屋に落ち着いたコニーは、計画を練ることにした。オレグ・チェレンコは、アームストロング・タイムズの記者だと名乗った。まず、アームストロング・タイムズ社で彼の所在を訊いてみることだ。
そこから始めよう。コニーが会いたがっていることを知ったら、また向こうから接触してくるかもしれない。
方針が決まったら、コニーはさっそくホテルからアームストロング・タイムズ社に電話をして、人事担当者に会う手はずを整えた。
5
火星から月への軌道上
強襲母艦アトランティス
オージェは、エリオット作戦司令からメールのディスクを受け取った。ノブゴロド空軍基地からの通信だった。
新たに、新鋭機ツィクロンが三機、オージェの隊に配備されることになったという。これは喜ばしいニュースだった。
いまだにオージェの隊では、要撃戦闘機の Mig-105bis ズヴェズダに愛着を持っている者がいる。長年連れ添った愛機というのは、離れがたいものだ。
ズヴェズダは、地球の衛星軌道上や月の周回軌道上などでは有効だが、そこから遠く離れた場所での運用にはかなり不安が残る。
ズヴェズダは、宇宙線を遮断する措置が施《ほどこ》された偏光ガラスの円蓋《キャノピー》でコクピットが覆われている。つまりパイロットはかなり肉眼を使うことを求められる。
オージェ隊のベテランパイロットたちは、そのことに誇りを感じるのだ。空軍パイロットの伝統だ。
しかし、それは同時に宇宙という厳しい環境では、パイロットに対する保護の面での脆弱《ぜいじゃく》さを物語っている。
辺境の地で活動することを前提で作られた海兵隊のヒュームスは、コクピットがすべて対放射能防護措置の施された外壁で覆われている。
そのために、モニター装置が格段に発達している。火器管制システムから軌道制御システムまで、すべてモニターに映し出される。レーダーや各種センサー、望遠などあらゆるモードを瞬時に呼び出すことができる。
そして、船外活動時の航法管制システムがズヴェズダよりかなりコンピュータに依存している。
それはヒュームスが、より宇宙的な兵器であることを物語っている。複雑な軌道計算はコンピュータに任せるしかないのだ。
ズヴェズダは、宇宙戦闘機というより、超高高度用の戦闘機と呼ぶのが正しい。だが、ツィクロンは、ヒュームスで培ったパイロット防護措置を大幅に取り入れた。
有視界用のキャノピーを排してコクピットをすべて外壁で覆った。ヒュームスのようなモニター装置を取り入れ、さらに航法管制を大幅にコンピュータに依存したのだ。
航続距離は短くなったが、攻撃力は増している。その理由は明らかだ。
地球や月の超高高度で運用されていた空間エアフォースの役割が変わりつつあるということだ。
つまり、ヒュームスと同じく、辺境の地で戦うということだ。それは同時に、基地から飛び立ち基地に降り立つ超高高度の作戦ばかりでなく、アトランティスのような宇宙の外洋まで足をのばす船に乗り組み、艦を中心とした戦いをこなさなければならないことを意味している。
隊員を集め、ツィクロンが新たに三機配備されることを告げると、さっそく強情なベテランパイロットのアレキサンドル中尉が顔をしかめた。
「新型は、空軍パイロットが乗るべき戦闘機じゃありません」
オージェは言った。
「参謀本部は、今後の戦いに必要だと考えたのだ。おそろしく金をかけた戦闘機だ。バチが当たるぞ」
「隊長の機を含めてツィクロンが四機。つまり、二人は今まで通りズヴェズダに乗るというわけだ」
「そうなるな」
「一機は、隊長の僚機ということになりますね。つまり、ミハイルが乗るということだ」
きまじめなミハイル中尉は、期待に満ちた顔をオージェに向けた。オージェはうなずいた。
「要撃隊の運用上、僚機同士は同じ機体がいい。アレキサンドルが言うとおり、新型の一機にはミハイルが乗る」
アレキサンドルはさらに言った。
「問題は残りの二機に誰が乗るかですが、俺はズヴェズダがいい。長年連れ添った女房を袖にして新しい女になびくようなまねはしたくない」
オージェはほほえんだ。
「古き良きロシアの伝統だな」
「おい、ユーリ、おまえが乗れ。おまえは新しもの好きだから、願ったりかなったりだろう」
冷静沈着なユーリは何も言わない。
オージェは、アレキサンドルの提案を採用することにした。
「ユーリ中尉。君が新型に乗るんだ。そして、君の僚機のセルゲイ機も当然新型ということになる」
「決まった」
アレキサンドルは言った。「俺とワシリイは、今まで通りズヴェズダで飛び回る」
いつもやる気満々のワシリイは、ちょっと残念そうな顔をしていた。若い彼は新型に興味があったに違いない。
オージェはさらに、今後のアトランティスの針路について説明した。
「海軍の司令部から、この艦は衛星軌道面で月軌道に進入するのではなく、月の両極を通過する周回軌道に入るように指示されたようだ」
「つまり、月を縦に回るわけですか?」
ユーリが尋ねた。
「そういうことになる」
「なぜです?」
アレキサンドルが不満げに言う。「それじゃ、ノブゴロドに向かう軌道とまるで違う」
「そう」
オージェは言った。「この艦は、ノブゴロドにはドッキングしない。周回軌道上で補給を受けつつ、次の作戦に入るようだ」
「次の作戦って、何です?」
アレキサンドルが尋ねる。
「それはまだ知らされていない」
「ノブゴロドの目と鼻の先まで行って、上陸できないんですか?」
アレキサンドルが落胆した様子で言った。その言葉は残りの隊員たちの気持ちを代弁しているようだ。
「ホームシックか?」
オージェは言った。「空間エアフォースがホームシックにかかっているなどと、海軍の連中に知られたら、大笑いされるぞ」
*
カーターと第二小隊のフランク・キャラハン大尉にも、今後の針路についての知らせがあった。そして、エリオット作戦司令は、さらに耳寄りな知らせをもたらした。
「本艦にクロノス改が配備されることになった」
「クロノス改でありますか?」
キャラハン大尉が尋ねた。
「そうだ。クロノスのOSをアップグレードし、さらにギガースで得られたデータをもとに、大出力の推進器を取り付けた機体だ。ギガースの戦闘データが逐次《ちくじ》海軍参謀本部に送られ、機体の開発が急がれていた」
カーターにはまだぴんと来なかった。大出力の推進器ということは、ギガースのようなメインスラスターを持つことを意味しているのだろうか。
すると推進剤の量も格段に増加する。クロノスの機体のどこかにそのスペースを作らなければならない。
カーターは尋ねた。
「それは、何機配備されるのですか?」
「第一小隊にはギガースがあるので、二機配備される。第二小隊には三機配備される。つまり、一分隊分ということだ。チーム・グリーンは、すべてクロノス改を使用する。今まで使用していたクロノスは、チーム・イエローに回す」
キャラハンが言った。
「隊の機動力が格段に上がりますね」
エリオット作戦司令はうなずいた。
「空軍も新型を配備する。今までは、トリフネの機動力と作業能力が我々を上回っていた。だが、もうその心配はない」
キャラハンはうれしそうだった。
「これで、第一小隊だけにいい思いはさせませんよ」
いい思いだって?
カーターは思った。
こっちがこれまでどんな思いをしてきたと思っているんだ。
エリオットが言った。
「月に着くまでまだ間がある。それまでに、クロノス改に乗る予定の者は、すべてギガースによるダイブの訓練をしておくように」
カーターは驚いた。
「ギガースで、ですか?」
「そうだ」
エリオットはうなずいた。「クロノス改の推進器は、ギガースのデータをもとにしている。ギガースに慣れておけば、クロノス改を配備したときにすぐに運用できるだろう」
訓練ミッションとしては、あたりまえの指示だ。だが、カーターはギガースに乗り込むことに、妙な抵抗感を覚えた。
ギガースというのは、なにか神聖な機体のような気がしはじめていたのだ。リーナが実は海軍少佐であることを知っているからだろうか。カーターは自問した。
いや、それ以上の何かだ。リーナはサイバーテレパスだから、ギガースのOSであるムーサと特別なコンタクトを取っているような気がしていたのだ。
リーナとギガースは切っても切れない関係にあり、それは余人が立ち入ってはならない、一種の宗教的なものを感じさせるのだった。
だが、訓練ミッションにそんなこだわりを抱いてはいけない。
「了解しました」
カーターはこたえた。「すぐにでも訓練を始めましょう」
「けっこうだ」
エリオットはうなずいた。
「一つ質問があります」
カーターは言った。
「何だ?」
「どうして、本艦は月の両極を通過するような周回軌道に入るのでしょう」
「エイトケン天文台だ」
エリオットが言った。「今、火星と木星は離れつつある。この時期に敵が火星に攻撃を仕掛けてくるとは考えられない。へたをすると、太陽の反対側まで旅をすることになるからな。いくらミラーシップでもその海路は遠すぎる。だが、月を含む地球圏は、地球連合軍の絶対防衛圏内だ。そこにミラーシップが攻撃をしかけてくるのは自殺行為だ。……となると、考えられるのは、情報戦を含むゲリラ戦だ。エイトケン天文台を占拠すれば、木星から直接通信を流し込むことも、大量の情報を発信することも可能だ」
エイトケン天文台というのは、月の南極にある電波天文台だ。地球の電波干渉がないために、高精度の観測が可能な巨大電波天文台だ。
あらゆる波長の電波を傍受できるために、そこの情報は現在、軍が厳しく管理している。エイトケン天文台がジュピタリアンに占拠されたら、たしかにエリオット大佐が言うように、あらゆる情宣活動が可能になるだろう。
エリオットは続けて言った。
「我々はエイトケン天文台を死守しなければならない」
「了解しました」
「明朝、艦内時間で〇〇八〇時、ギガースによる訓練開始だ。以上だ」
カーターとキャラハンは、磁石のついた靴の踵《かかと》を鳴らして、敬礼した。
*
「基本的な操縦は、クロノスと同じです」
リーナがコクピットの外から、カーターに語りかけた。カーターはギガースのコクピットに収まっていた。たしかに、リーナが言ったとおり、操縦席の感じはクロノスとそれほど違わない。
モニターも違和感はなかった。
「ただ、メインスラスターの推力は、クロノスよりはるかに大きいので注意してください」
「わかっている。さあ、ハッチを閉める。離れていてくれ」
「じゃあ、あたしはみんなといっしょに管制室にいますから……」
リーナがヒュームス・デッキからふわりと飛び上がり、手すりの向こうに消えた。カーターは、コクピットのハッチを閉めて管制室からの指令を待った。
「エアロック開きます」
通信装置から、管制官の声が聞こえる。
「ああ。いつでもいいぞ」
正面に宇宙の海が顔を覗かせる。
カタパルトがゆっくりと機体を押し出す。静かなGを感じる。カーターにとっては馴染みの感覚だ。
みるみる宇宙の海が迫り、やがて、ギガースはダイブした。Gが消失してふわりとアトランティスの前方へ押し出された。
アトランティスとギガースは今、同じ速度で移動しているので、互いに静止しているように感じられる。
「エリオットだ。聞こえるか」
通信装置から声が聞こえた。
「聞こえます」
「通常、ミズキ少尉は背面にある翼《よく》でモーメンタル・コントロールをやるそうだ。やってみてくれ」
モーメンタル・コントロールというのは、通常、ヒュームスの腕や脚を動かし、そのトルクで姿勢を制御することを言う。推進剤が貴重なので、ヒュームス・ドライバーはそれを訓練することになっている。
カーターは、翼を動かしてみた。なるほど、腕や脚を動かすより楽にモーメントがかかる。
エリオットが言った。
「さて、艦の周囲を一回りしてみてくれ」
「了解」
カーターは、メインスラスターに推進剤を少しだけ送り込んだ。
とたんに、巨人に蹴飛ばされたように感じた。首がヘッドレストに叩きつけられた。
「うわ……」
カーターは思わず声を洩らしていた。
想像以上の加速力だった。一瞬、血液が全部背中のほうにもっていかれたように感じた。その血液が一瞬にして戻ってくる。
モニターの中を、アトランティスの白い外壁が高速で流れていく。方向を変えるためにレバーを操作すると、また新たなGがかかった。
今度は右側に血液がすべて押しやられる感じだ。
ヒュームス・ドライバーを長年やっているが、こんな強烈なGを絶えず味わったのは初めてだった。
カーターは、前方に向かってスラスターを噴射し、急制動をかけた。またしても強いマイナスのGを感じる。
ギガースは、即座にアトランティスと同じ速度まで減速して等速度運動に入った。アトランティスと同じ軌道上で安定する。
たまげたな……。
カーターは心の中でつぶやいた。
リーナのやつは、いつもこんなGに耐えているのか……。
しかし、最初の驚きが行き過ぎると、カーターは、その加速と自由な機動力にわくわくしてきた。
たしかに、一度この機動力を味わうと、いままでのクロノスがおそろしく鈍重《どんじゅう》に感じられる。まさに翼《つばさ》を得たという実感だ。
加速と方向転換を繰り返しているうちに、カーターは子供のように叫び出したくなった。宇宙の海を自由に泳ぎ回る。それは、今までに味わったことのない快感だった。
カーターは、どうしてもあることを試したくなった。
メインスラスターのレバーを今までより多めに引いてみる。とたんにギガースの機体は一直線に加速した。
「危ない」
通信装置からエリオット作戦司令の声が飛び込んでくる。「その加速は危険だ。軌道を離脱するぞ」
カーターはこたえず、スラスターのレバーをゆるめようともしなかった。
このまま一直線に進んでいくと、エリオットが言うとおり、軌道を脱してしまう。火星から月へ向かう軌道上にいるアトランティスとの距離が開きすぎると、帰還できなくなる。軌道を脱して宇宙の海の深淵に沈んでいくヒュームスを救助する術《すべ》はない。
軌道を変えて救助活動を行い、再び軌道に戻るためには、おびただしい量の推進剤を必要とする。
巨大戦艦のアトランティスといえども、推進剤にそんな余裕はない。
カーターは、レバーを引き続けていた。軌道離脱アラームがコクピット内に響き渡る。カーターの胸も高鳴った。
だが、やがて、機体に自動的に制動がかかるのを感じた。
すべての手動コントロールが無効にされた。カーターは落ち着いてレバーから手を離し、ペダルの足からも力を抜いた。
OSのムーサが軌道離脱防止プログラムを開始したのだ。
軌道離脱防止プログラムはすべてに優先される。ムーサに任せておけば、自動的にギガースを軌道上の安全な位置と速度に復帰させてくれる。
カーターは、リーナが言ったことを思い出していた。
ムーサはヒュームス・ドライバーを助けるために常に全力を尽くす、と彼女は言った。そして、リーナはそれを百パーセント信じているから自由自在に星の海を飛び回ることができるのだ。
軌道離脱アラームが止《や》んだ。カーターは、まったく不安を感じなかった。手動コントロールが復活したので、再び悠々とアトランティスの周囲を飛び回った。
「ギガース、帰投《きとう》しろ」
エリオット作戦司令の声がした。
「了解」
カーターは、スラスターのレバーを巧みに操り、ヒュームス・デッキのハッチへ向かった。「カーター大尉機、これより帰投します」
「あれは、何のまねだ」
エリオット作戦司令が、管制室にカーターを呼んで詰問《きつもん》した。管制官たちが聞き耳を立てている。第二小隊長のキャラハンや、リーナもそこにいた。
「貴重なギガースを海の藻屑にするところだった。いや、それ以前に、君自身の命が危なかった」
カーターは平然とこたえた。
「ムーサに身をゆだねてみたのです」
「ムーサ? ヒュームスのOSだな?」
「ギガースのムーサは、クロノスよりアップグレードされています。軌道離脱防止プログラムもさらに充実しています。クロノス改のOSもそうなのでしょう? ギガースの機動力をもって戦場にいると、どうしても軌道離脱の危険がつきまといます。そのときに、どの程度ムーサが信用できるか試しておく必要がありました。でないと、クロノス改の機動力を生かすことはできません。事実、リーナは、ムーサの能力を最大限に引き出して、自在に海を飛び回っています」
エリオットは、うなった。
「ミズキ少尉の操縦にはかねてから注目してはいたが……」
「クロノス改がギガースと同等かそれに準じる推進力を持っているということは、軌道離脱の危険もそれだけ増したということです。そして、我々はただ海にダイブするだけではないのです。戦いに出るのです。OSの軌道離脱防止プログラムを信頼していないと、自由に行動することはできません。そのために、私はムーサを試しておかなければなりませんでした」
エリオットは、しばらく考え込んでいた。冷静な士官であるエリオットは、感情に任せて我を失ったりはしない。カーターはそう信じていた。だからこそ、エリオットを信頼しているのだ。
やがて、エリオットは言った。
「ヒュームス・ドライバーとして必要なテストだったということだな?」
「はい。不可欠のテストでした」
「それで、その結果は?」
「非常に満足です。ギガースのムーサは信頼に足ります」
エリオットはうなずいた。
「君の言うとおり、クロノス改のOSもアップグレードされて、軌道離脱防止プログラムは充実しているはずだ」
「それならば、安心して戦えます」
「わかった」
エリオットは言った。「次のパイロットは誰だ?」
「第一小隊のホセ・オルティス少尉です」
「よし、君もこの管制室でホセの操縦ぶりを見物しているといい」
カーターは、敬礼をして後方に下がった。気分がよかった。乗り慣れたクロノスと別れるのはちょっとばかり淋しいが、新たな海兵隊の時代がやってくることが実感される。
翼を持った海兵隊員たちだ。
リーナと眼が合った。カーターはうなずいてみせた。リーナも他人がわからぬようにかすかにうなずきかえした。
ホセがギガースで海に出た。その様子が、管制室の巨大モニターに映し出されている。
「ひょう。すごい加速だな」
陽気なホセの声が聞こえる。「こいつは、とんでもないじゃじゃ馬だな……」
ホセはエリオットの指示で、カーターがやったようにアトランティスの周囲を飛び回った。
「体中の血と内臓がシェイクされてる感じだ。やわなやつが乗ったら、即ブラックアウトだな」
ホセが言うと、エリオットがこたえた。
「そんな台詞《せりふ》を空軍のやつらに聞かれたら、ばかにされるぞ」
「たしかに、この推力は戦闘機並ですね」
「カーター大尉が言っていた。軌道離脱防止プログラムを試してみる必要がある、と」
「了解です」
ホセは、一気にギガースを加速した。
危険な方向への加速だ。たしかに見ているとぞっとするな。
カーターは思った。
やがて、ギガースの機体がゆるやかに加速を終え、減速を始める。大きな手に抱かれるようにギガースはアトランティスの方向に引き戻された。
そしてその機体は安定した。
「問題なしです」
ホセの落ち着いた声が聞こえてくる。
「よろしい。帰投しろ。本日の訓練は終了する。ギガースをメンテナンスに回せ」
ギガースがデッキに納まり、ハンガーに戻ると、いち早くリーナが管制室を出て行った。メンテナンスにはドライバーが立ち会わなければならないのだ。すっかり一人前のヒュームス・ドライバーじゃないか。
その姿を見て、カーターは心の中でつぶやいていた。
翌日、第二小隊のチーム・グリーン三人がギガースに搭乗して訓練ダイブをこなした。
三人とも同様にその推力に驚いた様子だった。彼らも、軌道離脱防止プログラムを経験した。
これまで、クロノスでは、常に母艦からの安全距離を保つことを心がけていたので、彼らは故意に軌道を逸脱するような行為は経験したことがなかった。
そのような行動は強く戒《いまし》められていたのだ。だが、それを経験することで、海兵隊員たちの意識が変わりつつあった。彼らはいっそう自由に海を泳ぎ回ることができるようになった。
月へ着くまで、クロノス改に乗る予定の者は、さらに三回の訓練ダイブが義務づけられていた。
その訓練ダイブにはリーナも参加していたが、やはり誰よりも彼女が見事にギガースを乗りこなした。訓練の終盤には、誰もがそれを認めるようになっていた。
6
月面都市・アームストロング・シティー
コニーは、一週間にわたってオレグ・チェレンコを探し回った。
さいわい、プラネット・トリビューンの編集長は、退職金と餞別という名目の取材費を奮発してくれたので、物価の高い月でも金が底をつく心配はなかった。
アームストロング・タイムズ社の人事部に尋ねたところ、たしかにオレグ・チェレンコという記者がいた。コニーは少しばかり意外に思った。
チェレンコは三ヵ月以上前に退社していた。地球へやってきた頃のことだ。つまり、彼は本当にアームストロング・タイムズ社で働いており、地球へやってくる際に会社を辞めたということだ。
考えてみれば、確認を取ればすぐわかるような嘘をつくはずがない。それでは、自分が怪しいと白状しているようなものだ。
チェレンコは、月に潜入するために周到に準備を進めたのだろう。そして、身分をうまく偽造してアームストロング・タイムズ社に潜り込んでいたというわけだ。
その間に、どれくらいのスパイ活動をしていたのかはわからない。だが、目立ったことはできなかったに違いない。
おそらく連合軍や捜査当局の監視の眼は、月にまで及んでいるはずだ。怪しい動きをすればすぐにその監視網にひっかかったはずだ。
退社後のチェレンコの行方はわからなかった。
もしかして、月にはおらず、火星かどこかへ行ってしまったのではないだろうか。チェレンコにとって、火星は月より安全なはずだ。
あるいは、木星圏に引き上げたのだろうか。ならば、コニーが月にやってきたのは無駄足ということになる。
ジンナイからの連絡はまだない。
なんとかジンナイが月にやってくるまでに、チェレンコの行方をつきとめたいと思った。かつてのチェレンコの同僚たちにも話を聞いたが、誰もチェレンコのその後の消息を知らなかった。
彼らは、チェレンコがジュピタリアンのスパイであったことも知らない様子だった。地球連合政府当局は、その事実をまだ秘匿《ひとく》しているようだ。
UNBIは、チェレンコがタカメヒコであることの確固とした証拠を握っているはずだ。だが、月の自治区にはその情報を流していないのかもしれない。
地球連合政府の秘密主義が強まっているのが感じられる。月の自治区政府に対して影響力を強めつつも、すべての情報を明かそうとはしていないのだ。
月は、元来のんびりした土地柄だ。生活環境を整えることが最大の急務であり、つまり人々は生きていくことに最大の関心を注いでいる。それ故に月自治区内部での争いごとはほとんどないし、犯罪も少ない。治安はおそろしくいいので、勢い治安当局もマスコミも地球に比べるとずいぶんとのんびりしている。
わざわざ木星圏のスパイをあぶり出そうとはしないのだろう。
また、地球外に住む者として、月の住民は幾分か木星圏の独立に好意的な向きもある。
コニーは、月独特の低重力症候群に悩みつつ、ホテルに引き上げた。のぼせや頭重《ずじゅう》がとれない。
それでも一杯やりたい気分だった。大勢の人に会い、話を聞いたが手がかりが得られない。そういうときはひどく疲れる。
同じ労力と時間を費やしても、何か耳よりな情報が得られたときは疲れなど感じないものだ。部屋に戻る前に、ビールを一杯やろうとバーに寄った。水のように味けのない月のビールでも、何も飲まないよりはましだ。
バーのスツールに腰を下ろすと背後に人の気配を感じた。コニーは振り返った。そして、息を呑《の》んだ。
そこに立っていたのは、チェレンコだった。
「一杯おごらせてもらおうか」
コニーは、言った。
「ようやく現れたわね」
「俺が君の前に現れるのを予想していたような口ぶりだな」
「予想していたわ。これだけ派手に動き回ったのだから、当然あたしがあなたを探していることが、あなたの耳に入るだろうと思っていた」
「だからといって、君の力になる義理はない」
「義理はある。あたしは、四ヵ月ほど前、あなたのせいでUNBIに逮捕されたのよ」
「あれに関しては申し訳なく思っている。だからビールをおごるよ」
「ビール一杯くらいでちゃらにされてたまるもんですか」
チェレンコは、コニーの隣のスツールに腰を下ろし、ビールを二杯注文した。チェレンコがグラスを掲げたので、コニーは少しむっとした気分でグラスを合わせた。
「つまり、君は俺の正体を知っているわけだ」
「知っている」
「月までやってきて、俺を探していたのはなぜだ? まさか、逮捕されたことへの恨み言を言うためじゃないだろうな」
「それもたっぷりと言わなきゃね。でもその前に大切なことを伝えなきゃならない」
「何だ?」
コニーは、そっと周囲を見回した。バーテンダーは離れた場所にいるし、バーにはほかに客はいない。まだ、バーが混み合うには時間が早い。
コニーの様子を見て、チェレンコが言った。
「ここならだいじょうぶだ。月は地球と違ってバーに盗聴器や監視カメラなどは仕掛けられていない」
コニーはそれでも声を落として言った。
「ジンナイ上院議員があなたと会いたがっている」
さすがにチェレンコの表情が変わった。にわかに真剣な顔つきになると、チェレンコは言った。
「ジンナイが……? なぜだ?」
「上院議員は、数少ない反戦派のリーダー的存在よ」
「それは知っている」
「彼はこの戦争を終わらせようと考えている。そして、あなたが、そのために有効な情報を提供してくれるのではないかと考えている」
「敵国の上院議員が、スパイを信用するというのか」
「ジュピター・シンドロームよ。あなたは、あたしにジュピター・シンドロームについて調べろと言った。そして、ジンナイ上院議員もジュピター・シンドロームに注目していたの。上院議員は、ジュピター・シンドロームがこの戦争の鍵を握っていると考えている。あたしもそう考えている」
チェレンコは、ビールを一口飲み、考え込んだ。
「そいつが罠ではないという保証はない」
「あたしがあなたに罠を仕掛けると言いたいの?」
「UNBIが、君を釈放したのがやけに早いと思っていた」
コニーは、頭に血が上るのを感じた。
「ジンナイ上院議員が腕利きの弁護士を雇ってくれたのよ。あたしは、ジンナイ上院議員とともに戦うことを決意した。この戦争を終わらせるための戦いよ。あたしの記者生命を懸けてもいい。ジンナイ上院議員も、政治生命を懸けているのよ。それをあなたは、信用できないというの?」
「誰も信用できない。でなければ、俺はとっくに死んでいた。これは比喩《ひゆ》じゃない。本当に死んでいたんだ」
コニーは、なんとか冷静に話をしようと努めた。
「月に潜入するのは大変なことだったと思う。でも、それは何のため? あたしと接触してジュピター・シンドロームのことを調べさせたのはなぜ? この戦争にまつわる真実を地球の住民に知らせ、この戦争を終わらせるためじゃないの?」
「たしかに、我々はこの戦争を終わらせようとしている。戦争が長引けば消耗するのは人的資源に乏しい木星圏だ。それに、もともとヤマタイ国は、戦争を望んではいなかった」
「地球圏の人々は、木星側が戦争を始めたと思っている」
「地球連合政府と軍の宣伝だ。真実じゃない」
「じゃあ、真実を伝えなきゃ」
「誰が信じるんだ? 地球連合政府と軍は、マスコミを巻き込んで戦争のキャンペーンを続けている。マスコミと巨大資本の広告代理店が連合政府や軍と手を組んで、都合のいい情報を流し続けている。そこには真実が入り込む余地はない」
「真実は、何より強いの。どんな宣伝より真実が勝つ」
「地球でのほほんと生きている人間の言いぐさだ」
「ふん、情けないわね。じゃあ、何のために月までやってきたのよ。あなたが真実を伝えなければ、誰が伝えるの」
チェレンコは、ビールを飲み干した。
「ジンナイの件については考えさせてもらう」
彼はスツールから立ち上がった。
「ちょっと待ってよ。連絡先を教えて。ジンナイから連絡が入るかもしれない」
「こちらから連絡する」
「また姿をくらますの? 冗談じゃないわ」
「こちらから連絡する」
チェレンコは、言葉を繰り返すと歩き去った。
コニーは唇を噛《か》んで出口を見つめていた。バーテンダーと眼が合うと、彼はさっと肩をすくめた。おそらく痴話《ちわ》げんかだと思ったのだろう。
コニーは、ビールをもう一杯注文した。
7
月周回軌道上
強襲母艦アトランティス
「来たぞ」
ホセ・オルティス少尉が、サンタクロースの到来を告げる子供のような顔をして言った。海兵隊第一小隊の連中は、遠心力による人工重力のある居住区のレクリエーション・ルームに集まっていた。
月面にあるマーレ・オリエンターレ海軍基地から来た輸送船がアトランティスとドッキングした。
マーレ・オリエンターレ海軍基地は、海軍の基地ではあるが、戦艦が寄留することはない。戦艦は、おそろしく巨大なので、惑星や衛星の地表にまで降りることはあり得ない。
マーレ・オリエンターレ海軍基地の役割は、物資の補給と兵器の開発、そして交代要員の駐留だ。海軍基地には、兵器産業や最新のエレクトロニクスの企業などが深く食い込んでおり、軍隊の基地というより工業地区の様相を呈している。
「ドッキングした輸送船には、予定通り五機のクロノス改が積まれていたそうだ」
ホセがうれしげに言った。
「ふん」
同じラテン系のチコ・ドミンゲスがしらけた表情でそれにこたえた。「珍しく、参謀本部が伝票通りの品物を寄こしたというだけのことだ」
チコは、チーム・レッドなので、これまでどおり、テュールに乗り込む。突撃艇にラインでつながれた旧式のヒュームスだ。
チーム・レッドは、最後尾を守るディフェンダーだ。テュールは、空軍の連中に「操り人形」とさげすまれている機体だった。
「そう、くさるなよ」
ロン・シルバー中尉が言った。彼はカウボーイのニックネームで呼ばれている。「突撃艇の機動力があるから、テュールだってまだまだ使える」
カウボーイは、チーム・イエローのリーダーだ。チーム・イエローは、フォワードのチーム・グリーンをバックアップするミッドフィルダーだ。
チーム・イエローは、これまでテュールを使っていたが、チーム・グリーンにクロノス改が配備されることになり、今までチーム・グリーンが使っていたクロノスをそのまま移行して使用することになった。
第一小隊には、クロノスが二機しかなかったので、チーム・イエローのなかで、一機だけテュールが残されることになる。
チーム・イエローでは、突撃艇をその一機のテュールのためだけでなく、クロノスのためにも運用する。突撃艇に載せることで、クロノスの機動力不足を補い、推進剤を大幅に節約できる。その有効性が月へ来るまでの訓練で証明されていた。
引き続きチーム・イエローでテュールを使うことになったのは、リュウ・シャオロン少尉だった。
シャオロンは中国系で、孫子《そんし》の兵法を常に学んでいると本人は言っている。戦いは、頭でやるものだと言い、テュールを引き続き使用するのも、本人が言い出したことだ。
彼は、突撃艇とテュールの組み合わせは、今でも充分に実戦に通用すると言い切った。
クロノス改が配備されると、すぐに運用訓練が始まる。
カーターは、月の周回軌道上で、再び空軍との合同訓練が開始されることをエリオットから聞かされていた。
空軍にも新型機が配備されたという。空軍の新型機はノブゴロドからやってくるようだ。
このところの軍の金のかけ方は、軍人のカーターから見ても常軌を逸《いっ》しているように感じられる。経済活動が戦時下体制に移行しつつあるようだ。
あらゆる経済活動に軍事が優先している感がある。戦艦に乗り、地球を離れていてもそれが感じられる。
軍は本気でジュピタリアンを叩こうと考えているようだ。独立を認めないという確固とした意志の表れだ。
軍の上層部がそういう方針を固めたのなら、兵士であるカーターは戦わなければならない。だが、カーターはやはり、サムのことが気になっていた。
サムは捕虜ではなかった。敵の兵士としてトリフネに乗っていた。ジュピタリアンは捕らえた敵兵を楯に使っているのだろうか。
しかし、サムの様子からはそうは思えなかった。サムは、この戦いが無意味だと言った。それはどういうことなのだろう。
考える時間は、いくらでもあった。宇宙の戦いのペースは実にゆっくりとしている。海が広すぎるからだ。
だが、いくら考えても結論は出なかった。チャンスがあれば、サムと話をしたい。そして、何があったのかを知りたい。
敵のトリフネと絡み合うようにして軌道を脱し、宇宙の外洋に向かって飛び出していったサムだ。敵はトリフネのパイロットと同時にサムをも救助したということになる。
公式に軍で説明されるジュピタリアンは、非道なテロリスト集団だ。だが、実際にはどうも印象が違うような気がする。戦ってみるとそれがわかる。
彼らが信奉する「絶対人間主義」というのも、軍や政府はテロリズムの温床《おんしょう》と公言している。だが、本当にそうなのだろうか。少なくとも、彼らはサムを救助した。サムの命を助けたのだ。宇宙の海の深淵に沈んでいく彼らを救助するというのは、非常に困難だったはずだ。危険も伴っただろう。
だが、ジュピタリアンは救助した。
考えがまとまらぬまま、訓練に入らなければならない。カーターは何とか気分を変えようとした。
そのために、新しく配備されたクロノス改が役に立ってくれることを祈った。
*
オージェは、ノブゴロドから新型機 Su-107S ツィクロンが三機、アトランティスに到着したという知らせを聞いた。
月の周回軌道上にいるアトランティスに、月公転軌道上の地球とのラグランジュ点にあるノブゴロドから直接飛んできたのだ。
空軍のパイロットにとって、周回軌道上は庭のようなものだ。三人のパイロットは、アトランティスで退役になったズヴェズダに乗ってまたノブゴロド空軍基地に引き返すという。
そのくらいの軌道計算は、戦闘機に搭載されたコンピュータで可能だ。
オージェは、ツィクロンに乗ってきた三人の少尉たちにねぎらいの言葉をかけた。彼らは、エースパイロットの言葉に誇らしげなほほえみを返した。
これで、オージェの要撃部隊の六機の戦闘機のうち、四機が最新型のツィクロンとなった。すぐに、訓練を開始した。
加速力、機動力ともにズヴェズダとそれほど変わりはないので、隊員たちはすぐに慣れるはずだ。問題は、コクピットに収まったときの閉塞感だ。
ズヴェズダに乗ったときは、肉眼で周囲を見回すことができる。だが、ツィクロンでは、まるで狭い穴蔵に閉じこめられたような気がする。
だが、モニターをオンにしたとたん、その感覚も消え去るだろう。コクピットの前後左右と上方にモニターがある。操縦席をぐるりとモニターが取り囲んでいる感じだ。
そのモニターは、ほとんどタイムラグなしで外の映像を送り込んでくる。ズヴェズダでは、兵器管制にヘッドアップ・ディスプレイを使用していた。戦闘機乗りの伝統だ。
ツィクロンでは、その代わりにモニターにあらゆる情報が映し出される。慣れれば、そのほうが便利なはずだった。特に、望遠モードは、たいへん有効だ。
そして、主砲のビーム砲は実に頼りになる。亜光速で発射されるビーム砲は、二十ミリ無反動機関砲よりも軸線合わせがデリケートだが、そのマイナス面を補って余りある威力を持っている。
ビーム砲は、海兵隊のギガースに初めて搭載された。初めてその威力を目《ま》の当たりにしたとき、オージェは驚嘆した。
そのビーム砲が今や、オージェの手中にある。連合軍の兵器開発と配備のスピードが格段にアップしている。
戦争とはそういうものだ。
オージェは思った。
人間、追いつめられないと本気にならないものだ。実際、連合軍は追いつめられている。オージェは、そう判断していた。
トリフネという機動兵器は、連合軍統合参謀本部の想像をはるかに超えていたに違いない。そして、ミラーシップも脅威だった。地球連合軍が誇るニューヨーク級強襲母艦も、ミラーシップほど宇宙に適合した乗り物とはいえない。
ミラーシップは、宇宙ステーションをそのまま超高速で飛ばしているようなものだ。その中で生活することを前提としているようだ。地球連合軍の戦艦などよりも、はるかに長い旅ができるのだ。
機動兵器の搭載量も段違いだ。地球連合軍最大のニューヨーク級が、ヒュームス二個小隊と艦載機数機しか搭載できないのに対し、最大のミラーシップはその倍の数のトリフネを積むことができるようだ。
つまり、地球連合軍は、ジュピタリアンをなめていたのだ。辺境の一地区が独立戦争を始めたからといってたいした戦力は持ち得ないと、高をくくっていたのだ。
そして、今地球連合軍は、火星のマスドライバーを失い、事実上月を含む地球圏まで撤退を余儀なくされた。
公式にはそういう発表はされていない。季節的に火星と木星が最遠位置に移行しつつあるので、防衛の必要性が低下し、代わって地球圏の防衛力を増強する必要が増したと、軍のスポークスマンは語っている。
苦しい言い訳だとオージェは思った。火星のベース・バースームの機能が著《いちじる》しく低下した今、軍は火星から事実上撤退しなければならなかった。それだけのことだ。
地球連合軍は、この戦争をいつまで続けるつもりだろう。そして、どういう形で決着をつけるのだろう。
一将校の考えることではない。だが、オージェは考えずにはいられなかった。木星圏は、エネルギー資源の宝庫だ。そして、事実上、核融合に関する最先端技術は木星圏にある。
地球連合政府が木星圏の独立を認めたくない理由はそこにあるのだろうと、オージェは考えていた。
だが、それだけだろうか。資源問題ならば、もう少し外交的な努力がなされたはずだ。軍人であるオージェにとっても、今回の戦争の勃発は唐突《とうとつ》な印象があった。
テロリストの蜂起。
公式にはそう発表されている。木星圏の住民は、地球圏への侵略を目的としている。独立の主張は、その第一歩に過ぎない。地球連合政府は、マスコミを動員してそのような印象を市民に植え付けている。
だが、果たしてそうなのだろうか。
オージェは、疑問に思っていた。
この戦争は、木星圏に分がある。
オージェは、そんな気がしていた。
もちろん、軍人なのだから、地球連合軍のために力のおよぶ限り戦うという覚悟はある。しかし、それと戦争の結果は別問題だ。
地球連合は、物量の面で圧倒的に有利だ。にもかかわらず、オージェは地球連合が不利だと感じていた。長い間の平和が、地球連合政府と軍を堕落させた。
当初、地球連合軍には、宇宙で戦争を始める用意などなかったのだ。海軍は、辺境の監視をする、いわばコーストガード的な役割しか持っていなかったし、空軍は、高高度の制空権争いの結果生まれたに過ぎない。
一方、ジュピタリアンたちは、地球の人々よりずっと宇宙に順応していた。彼らには、宇宙で戦争をする準備があった。
軍のシステムがそれを物語っている。ジュピタリアンの軍には、地球のような海軍や空軍といった区別はない。
地球連合軍も、遅まきながらそのシステムを模倣しようとしている。その試みがこのアトランティスなのだ。空軍の戦闘機を積み込んで、海兵隊のヒュームスといっしょに運用する強襲母艦。
それは、地球連合軍の歴史始まって以来、初めて登場した戦艦だ。
海軍や海兵隊と、空軍が反目している場合ではないのだ。
オージェは思った。
彼は、不意にギガースのドライバーのことを思い出した。
リーナ・ショーン・ミズキ少尉。
なぜか、オージェは彼女に意見を聞いてみたいと思った。
この戦争について、海軍と空軍の共同作戦について、そして、ジュピタリアンについて……。
オージェは、独り言をつぶやいた。
「なぜ、私は彼女にそんなことを尋ねたいと感じているのだろう……」
*
「じき、アトランティスがECMを始める」
カーターは言った。「無線が通じなくなるぞ。レーダーも役に立たん」
「わかりきったことをいちいち言うな」
空間エアフォースのアレキサンドルの声が返ってくる。
「わかりきったことでも、確認しないと忘れるばかがいるんでな」
カーターは言った。「今後はすべて、ヒュームスの合図に従え」
「わかってるよ」
アレキサンドルが言う。「野郎ども、お人形さんを守ってやろうぜ」
通信が途絶えた。
アトランティスが電子戦を開始したのだ。それが訓練開始の合図だった。
第一小隊と第二小隊のヒュームスが敵味方に分かれて模擬戦を開始した。
空間エアフォースも二手に分かれて、それぞれの小隊に付いている。第一小隊には、アレキサンドルとワシリイのズヴェズダ二機とツィクロン二機が加わっていた。
第二小隊には、オージェ機とその僚機のツィクロンが付いていた。
巨大なアトランティスの船体の向こう側から、唐突にツィクロン二機が現れた。
オージェたちだ。月の地表に対して垂直に上昇している。
次の瞬間、二機のツィクロンは、メインエンジンノズルから高温のガスを噴き出し、前方へ加速した。
「奇襲か……」
カーターは、クロノス改の左手を高々と掲げ、五本の指を開いた。
左側のギガースと、右側のホセのクロノス改が左右に展開していった。
大きく開いた最前列のチーム・グリーンの間を縫って二機の空軍戦闘機が飛び出していった。ズヴェズダだ。アレキサンドル機とその僚機のワシリイ機だ。
「やつら、功を焦《あせ》っているのか……」
カーターは舌打ちした。
クロノス改には、ビーム砲が配備されており、現在は模擬戦用に出力を絞って使用している。
アレキサンドル機とワシリイ機がそろって二十ミリ無反動機関砲を撃ち始めた。曳光弾《えいこうだん》が両機の移動に合わせて曲線を描く。
オージェたちのツィクロンは、機首をこちら側に向けたまま、すいと横に移動した。機首側に等速度運動を続けながら、スラスターで真横に移動する。宇宙空間ならではの操縦だ。
カーターは第二陣を探していた。
第二小隊のクロノス改が、チャンスをうかがっているはずだ。
ギガースが動いた。軌道の下のほうへ移動している。
いた。
アトランティスの下方、つまり月面側からクロノス改が三機やってくる。やつらもビーム砲を手にしている。
「行くぞ。空軍に後れを取るな」
カーターは、無線が通じていないのを承知の上でそう言うと、クロノス改の左手を高く掲げ、それを前方にさっと振り出した。
メインスラスターを噴《ふ》かすと、体がシートに強く押しつけられた。クロノス改は瞬時に加速した。
正面のモニタースクリーンの中で、正方形や円の幾何学模様がはげしく動き回る。バージョンアップされたムーサの火器管制システムが自動的に、敵をロックオンしようとしている。
敵が先に撃ち始めた。
リーナ機が螺旋《らせん》を描くようなコースで敵に向かっていく。
カーターは、メインスラスターのレバーを引いた。再び、体がシートに押しつけられ、血液が背中のほうに押しやられるように感じる。
ホセ機もぴたりとついてきた。
たしかにかつてのクロノスとはまるで違う。かつてのクロノスは海を泳いでいただけだ。だが、このクロノス改は、海を飛び回れる。その心理的な開放感は想像以上だった。
まさに自由自在だった。
だが、その機動力のせいで、絶えず変化する強烈なGに耐えなければならない。
カーターは歯を食いしばった。
「これくらのGが何だというのだ」
クロノス改の右手のビーム砲と連動している火器管制システムのディスプレイが赤く点滅した。敵をロックオンしたのだ。
カーターは、操縦桿に付いているボタンを押した。
出力を抑えているため、肉眼ではほとんどビームを確認することができない。
「やったか……」
第二小隊のクロノス改は、急加速でビームの直撃を避けたようだ。
「やるな……」
カーターは、さらにビーム砲の照準を合わせようとした。戦闘機と違い、腕を自由に動かせるヒュームスは、銃器の軸線合わせが自在にできる。
カーターの相手をしているのは、第二小隊長のキャラハンだ。
突然、コクピット内に警戒音が轟いた。照明が赤く変化する。
敵にロックオンされたのだ。
「させるかよ……」
カーターはレバーをわずかに引いた。
メインスラスターのたくましい推力を感じた。ロックオンの警戒音が止んだ。照明が元に戻る。
たった一度のメインスラスターの噴射で敵のロックオンを回避することができた。
ギガースが正面のモニタースクリーンの中を横切るのが見えた。変化に富んだ飛行パターンを描いている。
「おい、よくあんなGの変化に耐えられるな……」
カーターは思わずつぶやいていた。
ギガースがあらぬ方向にビーム砲を撃った。
「なに……」
カーターは、そのビーム砲の軸線上を目で追った。
クロノスがいた。
敵のチーム・イエローだ。空軍とクロノス改の派手な登場は、陽動作戦だ。
ギガースは、そっと近づきつつあった敵のチーム・イエローの先鋒を撃ったのだ。撃たれたクロノスは、状況離脱した。アトランティスへ戻っていく。
カーターは、味方のチーム・イエローに向かって、前進するように合図した。
「うちのツィクロンは、いったいどこにいるんだ?」
味方の二機のツィクロンの姿が見えない。
最前線のドッグファイトを抜け出して近づいてくるツィクロンに気づいた。オージェ機だ。
「くそっ。こっちだって、今までのクロノスじゃないんだよ」
カーターは、オージェのツィクロンをビーム砲の照準に捕らえようとした。ムーサの武器管制システムが忙しく働きはじめる。
突然、再びコクピットの中に警戒音が鳴り響き、照明の色が赤に変わった。
「くそっ」
カーターはメインスラスターを噴かした。だが、今度は振り切れなかった。オージェの赤外線イメージ誘導ミサイルにロックオンされたのだ。
五秒以内に振り切らないと、カーター機のムーサが状況離脱を宣言する。
カーターは激しく機体を揺さぶった。しかし、警戒音は消えない。ロックオンの警戒音が、軌道離脱の警戒音に変わった。
「ちっ……。これまでか……」
カーターは、操縦桿から手を離した。
ムーサが軌道離脱防止プログラムを開始する。同時に、ムーサは、状況離脱を宣言していた。
「オージェにやられちまった。巣へ帰るか……」
カーターは、ムーサがクロノス改を安全な位置と速度に戻すまで、やることがないのでモニターを眺めていた。
空軍の戦闘機にやられたのが口惜しかった。
オージェは、こちらのチーム・イエローを突破しようとしている。チーム・レッドを突破されたらこちらの負けだ。
だが、カーターはそのとき、二機のツィクロンが敵のクロノス改をかわして、敵陣深く入り込んでいくのを見た。
リーナのギガースがそれをうまく援護していた。
「あのツィクロン……、ユーリたちの機だな……」
やがて、リーナ機は、敵のチーム・レッドの突撃艇をビーム砲で沈黙させた。
二機のツィクロンが敵のテュールの砲撃をかわして突っ込んでいく。敵のチーム・レッドを突破したのだ。
カーターたち第一小隊側の勝利だった。
突然、ECMが止み、エリオット作戦司令の声が聞こえてきた。
「本日の状況終了。全員、帰投しろ」
その声を聞いたのは、カーターがヒュームス・デッキに引き上げる直前のことだった。
8
月面都市・アームストロング・シティー
ホテルにいるコニー宛に、匿名のメールが届いた。どこにでもあるレンタルサーバから発信されたものだ。
「叔父さんには、無事会えただろうか。こちらは、家族全員で訪ねる用意ができた」
デビッド・オオタからのメールだった。あらかじめ、符丁を決めておいたのだ。
「オレグ・チェレンコには会えたか? こちらは、ジンナイ上院議員とともに月に行く用意ができた」
そういう意味だ。
コニーは、そのまま送り主に返信した。
「叔父さんには会えました。でも、家族と話し合うことには、あまり乗り気ではないようです。叔父さんは、仕事が忙しく、時間が取れたら向こうから連絡をくれると言っていました」
これで、意図は通じるはずだ。
そのメールを送ってしまうと、コニーは何もすることがなかった。ただホテルでチェレンコからの連絡を待つしかない。
活動的なコニーにとって、部屋でじっとしていなければならないのは、耐え難かった。退屈で、しかもいらだったが、どうしようもなかった。ホテルにある遠心重力施設で、低重力障害を軽くすると、多少は気分が落ち着いた。
その五日後、突然、オオタが、アームストロング・ハイアットに現れて、コニーは驚いた。
「こんなに早く来られるなんて……」
「最速の軍用シャトルに潜り込んだ」
オオタが言った。「議員の部屋に来てくれ。今後のことを相談したい」
「議員もいらしているのですか?」
「当然だ。さ、急いで……」
コニーは、オオタの後についていった。
ジンナイの部屋は、会議室が付いたスイートルームだった。
「月自治区の視察ということになっている」
ジンナイはコニーに言った。「滞在中に、こちらのマスコミのインタビューを受けたり、アームストロング市の人権団体の代表にも会わなければならない。自由になる時間は限られている。一刻でも早く、彼に会いたいのだが……」
ジンナイがいつもの冷静な口調で言った。
コニーはこたえた。
「こちらからは連絡が取れないんです。あの……、彼はすごく用心深くて……」
ジンナイはうなずいた。
「そうだろうな。だが、君は彼と接触できた」
「はい」
「どうやって?」
「派手に探し回れば、向こうから接触してくると思ったんです。案の定でした」
「なるほど……」
ジンナイは小さく溜め息をついた。落胆しているのが明らかだ。
コニーは、叱られた子供のような気分になった。
「私もコニーを手伝って、彼と連絡を取る方法を探ってみましょう」
オオタが言った。
ジンナイが何か言おうとしたとき、部屋の電話が鳴った。
ジンナイはオオタに言った。
「誰かにこの部屋のことを教えたか?」
「いいえ」
オオタはこたえた。「ホテルのフロントではないでしょうか」
オオタが電話に出た。
その表情がみるみる固くなっていく。コニーは何事かと思った。
「議員はここにいる」
オオタがジンナイを見ながら言った。
コニーは、事情を悟った。電話の相手は、チェレンコに違いない。
「待ってくれ」
オオタが言った。「アームストロング市の地理には不案内だ。それに、事前に下調べした上でないと、議員を連れて行くことはできない」
オオタはその後も、「待て」を繰り返した。だが、電話が切れたようだった。
受話器を置くと、オオタは言った。
「オレグ・チェレンコからです。ヤマタイ国のタカメヒコですよ。指定の場所に来るようにと言っていました」
「どこだ?」
「三十六番区にあるヘンドリックというパブだそうです」
「三十六番区……」
思わずコニーは言った。「最下層の地域です」
「最下層?」
ジンナイが尋ねた。
「階級的な意味や差別的な意味ではありません。ご存じのとおり月の都市は何層かに分かれています。三十六番区というのは、その最も下の層にある地区です」
それからコニーは付け加えた。「差別的な意味ではないと言いましたが、実を言うと最下層地区は、月の都市の中では最も治安が悪い地域です」
「何があるのだ?」
「工場地帯とエネルギー施設。そして、スラム……。三十六番区はスラム街です」
「なるほど……」
ジンナイは言った。「せっかく視察に来たのだ。スラム街をこの眼で見ておくのも悪くはないな」
オオタが目を丸くした。
「危険です。相手は、一人とは限りません。それに、スラム街の得体の知れないパブなどに、議員をお連れするわけにはいきません」
「危険?」
ジンナイが言った。「君は、以前に話し合ったことを忘れたのか? これは、文字通り命を懸けた戦いなのだ」
「しかし……」
「タカメヒコと会えるまたとないチャンスなのだ。このチャンスを無駄にするわけにはいかない」
ジンナイは、コニーに言った。「三十六番区へどう行ったらいいか、知っているのかね?」
「はい」
コニーは言った。「リフト・シャトルがほぼ、三分置きに各階層を往復しています。シャトルの駅からは、バスもタクシーも電車もあります」
「けっこう。相手の指定した日時は?」
オオタがこたえた。
「一時間後です」
コニーは言った。
「じゃあ、すぐに出かけなければ……」
ジンナイはうなずいて、ソファから立ち上がった。
「では、出かけよう」
ジンナイは戸口に向かった。オオタとコニーはあわててその後を追った。
月面都市・アームストロング・シティー三十六番区
リフト・シャトルというのは、ビルのエレベーターと地下鉄の車両の中間のような乗り物だ。
駅から出ると、ジンナイはバスに乗ろうと言った。オオタはタクシーのほうが安全だと言ったが、ジンナイは月自治区の実態を見ておく必要があると主張した。
バスは、市街地を抜け、やがて廃墟のようなビルが建ち並ぶ一帯にやってきた。だが、そのビル群は廃墟ではなかった。
ベランダからはたしかに人が住んでいる様子がうかがえる。そして、ベランダの様子はおそろしく無秩序だった。
鉄柵はさまざまな形にひしゃげていたし、あらゆる形の板が打ちつけられている。洗濯物が並んでいるベランダもあれば、得体の知れない機械の部品が積み上げられているところもある。
街角には、職にあぶれたような人々がたむろしている。物騒な雰囲気の少年たちの集団もいた。
商店の照明は暗い。
総じて、この階層の照明は暗い。遠くに工業地帯が見え、その先にはエネルギー施設があるようだ。
それが、夕暮れ時ほどの明るさの照明に照らし出されている。貴重な太陽光は、この最下層の地区ではわずかにしか供給されない。
「このあたりが、三十六番区です」
コニーは、ジンナイに言った。
「よし、次の停留場で降りて、ヘンドリックという酒場を探そう」
バスを降りると、コニーは急に危険を肌で感じた。たしかにここは、最上階層の安全な繁華街とは違う。
月自治区は、治安のいい土地だと言われていた。だが、人が住む限り、必ずこういう場所ができる。
どんなに科学や経済が発達しようとも、こうした人間の営みはどうすることもできないのだ。
オオタが街角にたたずんでいたひげ面の男にヘンドリックの場所を尋ねた。オオタは、彼に小額紙幣を手渡さなければならなかった。
戻ってくると、オオタは言った。
「この路地を行ったところのようです。あまり足を踏み入れたくない路地ですね」
「ニューヨークの連合政府ビル付近で仕事をしていた君にとってはそうだろうな」
「議員は平気なのですか?」
「政治家は、けっこう修羅場《しゅらば》をくぐっているんだよ」
三人は、暗い路地を進んだ。道が湿っている。両側は、ビルの壁だ。手すりや非常階段が錆び付いている。
やがて、薄ぼんやりとした明かりが見えてきた。
「あれらしいな」
ジンナイは言った。
たしかにそこはヘンドリックという名の店だった。オオタはパブだと言ったが、どうもイギリスのパブなどとは雰囲気が違う。
店に入ると、すぐにカウンターがあり、そこでうずくまるように何人かの男がビールを飲んでいた。もちろん建材は木材ではない。月の砂で作るコンクリートと合成樹脂だ。
テーブル席には客はいない。
バーテンダーは、胡散《うさん》臭げに三人を見ると言った。
「何にします?」
「人に会いに来たんだ」
オオタが言った。
痩《や》せたバーテンダーは、無表情に言った。
「うちは、酒を飲ませるのが商売でね」
ジンナイが言った。
「スコッチはあるか?」
「月で作る安物ならね」
「じゃあ、それをくれ」
それから、何か飲むようにコニーとオオタに眼で合図した。
オオタとコニーはビールを注文した。
それぞれに飲み物がゆきわたり、コニーがビールを一口飲んだとき、カウンターの向こう側の通路からチェレンコが現れた。
「わざわざお運びいただいて、恐縮です、議員」
チェレンコの口調は決して皮肉なものではなかった。彼は、本当に恐縮している様子だった。
「私があなたのような人と安全に会える場所は、ここしかなかったのです」
「なるほど……」
ジンナイは言った。「ここは、君らのアジトなのかね?」
「協力者が集まる場所です」
こんなところに潜んでいては、アームストロング・タイムズ社のかつての同僚たちが、彼の所在を知らないのも無理はない。
コニーはそう思った。
月では新聞記者はエリートと見られている。エリートは、こんな場所へはやってこない。
「二階に部屋を用意してあります。そちらのほうが落ち着いて話ができると思います」
バーテンダーは、チェレンコが現れてからジンナイたち三人にはまったく関心を示さなかった。
ぼんやりとテレビを眺めている。だが、コニーは気づいていた。彼は周囲を警戒していた。
カウンターで酒を飲んでいる男たちも、よく観察すると、いつ何が起きてもいいように集中しているように見える。
彼らはチェレンコの仲間なのだろうか。
つまり、ジュピタリアンか、そのシンパということになる。地球連合政府の主張だと、彼らはテロリストの仲間だ。
地球連合政府の言い分が百パーセント正しいとは思わない。だが、やはりコニーは緊張していた。
ジンナイが落ち着いているのはさすがだと思った。政治家は修羅場をくぐっていると彼は言った。その言葉は、嘘ではないようだ。
チェレンコが言った、パブの二階の部屋は、宿泊ができる施設のようだ。もしかしたら、商売女が使うための部屋なのかもしれないとコニーは思った。
古い丸テーブルがあり、その周囲にちょうど、四脚の椅子があった。カードをやるためのテーブルのようだ。
「ここは安全です」
チェレンコが言った。「盗聴器も監視カメラもありません」
「君たちの仲間が盗聴してようと、私はいっこうにかまわないよ」
ジンナイは言った。「私は、真実を明らかにするためにここへやってきたのだ」
「お掛けください、議員。飲み物を持ってこさせましょう」
「スコッチを置いてきた。あれを持ってくるように言ってくれ」
「承知しました」
チェレンコが電話をかけると、ほどなく先ほどの痩せたバーテンダーがスコッチのボトルとグラス、それにオオタとコニーのビールを持ってやってきた。
「この会見に乾杯しよう」
ジンナイが言った。
チェレンコは、スコッチを注いだグラスを手にして、ジンナイのグラスと合わせた。小さく透き通った音が響いた。
「議員は、この戦争を終わらせたいとお考えになっている。そのために、私に会うことを決意なさった。そうコニーから聞きましたが……」
ジンナイはうなずいた。
「そのとおりだ」
「本当に戦争を終わらせられますか?」
「私はそう信じている。私は無駄なことに労力を費やしたりはしない」
「しかし、どうやって……」
「いくつもの方法を同時に進行させなければならない。まずは、反戦派の議員を組織化することだ。その点については、まずまず順調に進んでいる。そして、世論を反戦の方向に導かねばならない。今、地球連合は、ジュピタリアンという敵を作ることで一つになっているように見える。だが、それは戦争推進派の宣伝活動によるものだ。健全なあり方ではない。さらに、外交活動も必要だ。月と火星の自治区は、現在中立を保っている。そのために戦争を静観している。地球よりも木星に近い火星などは、へたなことは言えないというのが本音だろう。だが、実際火星の上空が戦場となり、マスドライバーが破壊された。これを機に、自治区に反戦のムードを高めようと考えている」
「月自治区や火星自治区は、事実上地球連合の支配下にあります。地球連合軍に守られているのです」
「自治区の政府は、地球連合の支配に甘んじているわけではない。戦争なんてやめてほしいに決まっている。特に火星はそうだろう。木星に近い分、今後も戦場となる恐れがある」
「しかし、自治区政府が反戦を声高《こわだか》に叫ぶことはあり得ないように思えます」
「民衆の反戦の声が高まれば、状況も変わる」
「地球連合の民衆は、戦争推進に傾いている。そして、その傾向はますます強まっているようです」
チェレンコは言った。「これまで戦争は、地球からはるか離れた場所で行われました。カリスト沖海戦、メインベルトでの軌道交差戦、そして、火星上空の戦い……。いずれも地球に住む人々にとっては、テレビゲームを見ているようなものでしょう。軍は常に勝利の報道を繰り返している。さらに、地球連合は、我々をテロリストと決めつけている。人々はこの戦争が正義の戦いだと信じている」
「本当にそうならば、私にできることはない」
ジンナイがそう言うと、チェレンコは、片方の眉を上げた。忘れていたことを思い出したような表情だった。
「もちろん、我々はテロリストではありません。そして、戦争を望んでいるわけでもありません」
「独立戦争を仕掛けたのは、木星圏だということになっている」
「それしか方法がなかったのです。木星圏に住む住民の命と人権を守るためには……」
「戦争を終わらせようという私の計画を成功させるためには、いくつか必要なことがある。軍の発言力を弱めることもその一つだ。軍は、戦争推進派の政治家を動かしている。地球連合政府そのものが戦時下体制へと移行しつつある。まず、その流れを変えなければならない。そのためには、軍の弱みを握る必要がある」
「軍の弱み?」
「この戦争には、何か秘密がある。軍が一般市民に知られたくない何かだ。それが軍の弱みだ」
チェレンコの態度はあくまでも慎重だった。
「それが何なのかご存じなのですか?」
「いいところまでは行っていると自負しているのだがね。いまひとつ、肝腎《かんじん》なところがわからない。だから、君に会いたいと思ったのだ。君は、単に木星圏のプロパガンダを地球圏に流そうとしているだけじゃない。地球の住民に真実を知らせようとしている。違うかね?」
「あなたのような方が、地球にいてくれることが、ほとんど奇跡のように感じられますよ」
「私は本当のことが知りたい。木星圏のプロパガンダではなく、本当のことが。君は、コニーに、ジュピター・シンドロームのことを調べるように言った。それはなぜだ?」
「ジュピター・シンドロームが、この戦争の原因だからです。そして、地球連合政府や軍はそのことを極秘扱いしています」
「それを私が知ることは、軍の弱みを握ることになるかもしれない」
「その希望はあります」
「説明してくれ」
チェレンコはしばらく考えていた。
コニーも知りたかった。今、この戦争の最大の秘密が、チェレンコから語られようとしている。
「ジュピター・シンドロームがどのようなものかご存じですね?」
チェレンコが問うと、ジンナイはうなずいた。
「木星圏の風土病だ。木星がもたらす強烈な放射線と磁場の影響で、各種の癌《がん》や白血病が多発する。それだけではなく、遺伝子にも影響を及ぼし、障害を持つ子供が生まれる確率が高い」
「地球ではその程度の認識なのですね」
「そのために、木星圏での平均寿命は五十歳に満たない。その劣悪な環境をなんとかしようと考えるのは当然のことだ。木星圏で生活する人々にも快適に暮らす権利はある」
「それで我々が独立を旗印に戦争を起こし、環境の改善という条件を地球連合から引き出そうとしている……。そうお考えですか」
「今私が話したのは、ごく一般的な考えだ。ジュピター・シンドロームは軍と深く関わっている。だからこそ、軍はジュピター・シンドロームについて機密扱いしたがるのだ。コニーが調べたところによると、問題は、ジュピター・シンドロームの第二世代、第三世代のようだ。つまり、遺伝子が影響を受けて、特殊な子供が生まれる。障害を持つ子もいれば、特別な能力を持つ子も生まれる。いわゆる超能力というやつだ。そして、軍がそれに注目した。そこまではわかっている」
「もともと木星圏というのは、流刑地《るけいち》のようなところでした。終身刑の者や政治犯が重水素やヘリウム3の採掘・精製の労働力として使われていました。それを管理していたのは、地球連合政府の法務局ですが、事実上は、連合軍の木星方面隊が支配していたのです」
「木星圏の歴史くらいは知っているつもりだ。やがて、採掘された重水素やヘリウム3による核融合技術のプラントが作られ、研究が盛んになった。その頃から木星圏はただの流刑地ではなく、科学者と技術者、そして総合商社などの複合企業がぞくぞくと植民した。木星開発のために、巨額の資金が動き、にわかに地球圏の景気がよくなった」
「そう。木星圏の歴史の第二幕の始まりでした。人々は、木星の衛星であるカリスト、ガニメデ、エウロパにコロニーを作り、生活を始めました。しかし、そこは地獄のような環境でした。極寒の地であり、人々は、常に強烈な放射線や磁場と戦い続けなければなりませんでした。その象徴がジュピター・シンドロームです。人々は病《やまい》に冒《おか》される不安に苛《さいな》まれて暮らしていかなければならなかったのです。そして、生まれてくる子供に高い確率で障害が発生することがわかると、人々は絶望しました。地球のエネルギー政策上、重要な場所。しかし、まったく救いのない場所。それが木星圏です」
「想像に余りあるな……」
ジンナイはうめくように言った。「氷の海にカプセルを埋め、そこに街を作る。そこで死ぬまで暮らしていかなければならないのだ。私には、言葉もない」
「同情の必要はありません」
チェレンコは、肩をすくめた。「カリスト、ガニメデ、エウロパ。この三つの衛星のコロニーに住む人々や企業、そして軍は、常に環境の改善に力を注いできました。その結果、住み心地は、おそらく議員がお考えになっているほど悪くはありません。この月の最下層地域とそれほど変わりはないのです」
「だが、人々は絶望から解放されなかった……」
「そうです。自らが癌や白血病に冒される恐怖。そして、生まれてくる子供たちへの心配。木星圏の人々はジュピター・シンドロームのせいで、文字通り絶望していたのです。しかし、ジュピター・シンドローム第二世代の新たな一面が発見されました。コニーが調べたとおり、特殊な能力を持った子供も生まれてくるのです。その能力にはさまざまなバリエーションがありました。ピアノの天才もいれば絵画の天才もいる。数学の天才もいました。そして、超常能力を持つ子供も生まれてきたのです。お調べのとおり、軍がそれに眼をつけました。軍の情報部はかねてから、超能力についての研究を続けていました。そして、軍は、ジュピター・シンドロームのデータを集めはじめました」
「患者のプライバシーの問題がある。医者には守秘義務があるはずだ」
「木星圏でそんな言い分は通りません。病院も事実上は軍が統轄していたのです。そして、ついに、軍の情報部は人体実験を始めました」
ジンナイの顔に衝撃が走った。
オオタも同様の表情だった。
コニーもショックを受けていた。
人体実験。その言葉はあまりに現実離れしていた。
「いったい……」
ジンナイは尋ねた。「いったい、どんな実験をやったのだ?」
「超常能力を持つ子供たちを強制的に施設に収容したのです。そして、さまざまな検査をした後に、実戦に対応できる能力であるかどうかのテストを繰り返したのです。精神に失調をきたす子供が後を絶ちませんでした。死亡した子供もいます。ジュピター・シンドローム第一世代の親たちは、自らの病と同時に子供を軍に奪われるという恐怖にも直面したのです」
「そんなことが許されるはずはない。いったい、軍は何のためにそんなことをするのだ。たしかに、二十世紀、米ソの冷戦時代には、双方の国で超能力の軍事利用がさかんに研究されたという。だが、今は、地球連合という一つの政府なのだ」
「地球連合政府は盤石《ばんじゃく》ではありません。いまだに内部に火種を抱えています。そして、いつ分裂するかわからない。そのために、軍の主流派は、常に絶対的な軍事力を確保しようとしているのです」
「たしかに軍人はそう考えるだろうが……。しかし、それは軍の暴走だ」
「地球圏では考えられないことです。でも、木星圏でなら、その考えられないことが起こりうるのです」
「待ってくれ」
オオタが割って入った。「軍の木星方面隊は、戦略的にも防衛的にも木星圏に駐屯《ちゅうとん》する意味はないということになり、撤退したじゃないか」
「地球圏ではそう発表されているのでしょう」
チェレンコは言った。「しかし、事実は違います」
「だが、実際に木星圏には長い間連合軍は駐留していなかった」
「木星方面隊は、撤退したのではありません。消滅したのです」
「消滅……?」
ジンナイが聞き返した。
「そうです。ジュピター・シンドロームの恐怖に怯えるのは軍人も例外ではありません。そして、木星圏で結婚した軍人もいるのです。その瞬間から、彼らは軍に子供を取り上げられる不安に苛まれるわけです。一般人にとっても、軍人にとっても絶望の時代でした」
コニーは、その気持ちを想像してみようとした。だが、無理だった。木星圏の実際を知らない。それは、おそらく地球で暮らす人間には想像もできない世界なのだろう。
チェレンコの説明が続いた。
「そこに、救世主が現れました。彼女はまさに救世主でした。彼女は自らヒミカを名乗り、人々を救うために立ち上がったのです」
「絶対人間主義……」
ジンナイがつぶやくように言った。
「そうです」
チェレンコはうなずいた。「宇宙では、どんな資源よりも、人間という資源が一番大切だ。人間という資源を大切にするためにあらゆる努力をしなければならない。それが、絶対人間主義です」
「今さら言われるまでもない、という教義に聞こえるがな……」
オオタが言った。「人命が大切だというのは、地球でも同じことだ。それがなぜ、木星圏を席巻《せっけん》したのだろう」
チェレンコは言った。
「地球では過剰な人口が問題になって久しい。それ故《ゆえ》に、月や火星に植民地を築いたのです。そして、地球は他の惑星に比べればずっと安全で住みやすい。しかし、木星圏ではただ生きているだけで、生命の危険にさらされているのです。人間の命の尊さを説いても、地球で聞くのと木星圏で聞くのとではまったく意味が違ってくるのです。そして、絶対人間主義は、その言葉のとおり、何よりも人間という存在を大切にするのです。重水素やヘリウム3といったエネルギー資源や、各種の鉱物資源、そして、金などよりも……。それは、愛を説く宗教とは違います。そう。愛よりも人間そのものが大切だという思想です」
「地球人は、愛や正義という言葉に弱い」
ジンナイが言った。「だが、絶対人間主義では、そこのところがちょっと違うわけだな」
「そうです。愛や正義よりも、そして神よりも人間そのものが貴重なのです。いかなる障害を持っていようと、いかに悪事をはたらこうと、人間である限りは何よりも尊重されねばならないのです」
「なるほど」
ジンナイが言う。「劣悪な木星圏の環境では説得力があるかもしれない」
「説得力などというものではありませんでした。文字通り、人々は救われたのです。若くしてジュピター・シンドロームで死ぬ人も、自分がこの世の何よりも大切な存在として生き、死んでいくと実感することができました。絶対人間主義は、急速に木星圏全体に広まっていきました。それは、軍の情報部の方針とは相容《あいい》れないものでした。しかし、多くの軍人も、絶対人間主義を信奉しはじめたのです。そして、木星方面隊の軍人たちはヒミカに帰依《きえ》したのです。木星方面隊は消滅しました」
「それが真相か……」
ジンナイは、重い溜め息とともにつぶやいた。
「そう。木星方面隊の兵士たちも、絶対人間主義を信奉することでようやく救われたのです。この私も、かつては地球連合木星方面隊の下士官でした」
コニーはそれを聞いて驚いた。
今まで、私は木星圏のことをちゃんと考えたことがなかった。
コニーはそう思った。
突然、木星圏に人が降ってわいたわけではないのだ。木星圏に移住した人々ももともとは地球の住民だったのだ。
「ヒミカの絶対人間主義は、カリスト、ガニメデ、エウロパのコロニーを一変させました。それから、その三つの衛星のコロニー群は、人命を第一に考えた環境作りを必死で始めたのです。それまで、エネルギー開発に注がれていたテクノロジーや労働力が、住民の命を守るために活かされるようになりました。三つの衛星のコロニー群は連合し、やがてヒミカを指導者として、『ヤマタイ国』を名乗るようになります。木星方面隊の組織も解体され、軍人と政治家の職分を併せ持った身分が作られました。我々は、軍の高級士官にヒコという称号を与えますが、それは同時に政府の高官であることも意味するのです」
「ひどく危険な制度のように聞こえる」
オオタが言った。「それは軍事政権じゃないか」
「地球の軍事政権とは性格が違います。根本には絶対人間主義があるのです。過酷な環境では、生半可《なまはんか》な民主主義よりも命令系統がはっきりとした組織が必要になります。戦争という極限状況では軍隊という上意下達《じょういかたつ》がはっきりとした組織が必要なように。そう。木星圏で生活するということは、文字通り環境との戦争なのです」
「原始的な政治形態のような気がするのだが……」
ジンナイが言った。「例えば、古代の都市国家のような……」
「地球の議会制民主主義は堕落しています。政治家は、選挙のことしか考えず、票に結びつく特定の団体や企業が優遇される。一般市民は政治に絶望していても、選挙にその意思を反映することができない。誰が当選しても政治は変わらないとあきらめている。木星圏にそのようなシステムを持ち込んでも無意味なのです。私腹を肥やし、特定の団体の利益ばかりを考えている政治家や官僚などに木星圏をまかせていては、たちまち滅んでしまうでしょう。我々にはもっと単純で力強いシステムが必要だったのです。ヒミカという指導者のもと、私利私欲をかえりみない実行力のある人々による政治形態。それが、原始的と言われるのならそうかもしれない。しかし、木星圏にはその原始的なシステムが必要だったのです。事実、ヒミカとヒコたちによる政治が始まってから、人々の心は癒《いや》され、暮らしは飛躍的に快適なものになっていきました。ジュピター・シンドロームの罹患率も下がり、平均寿命も伸び始めました」
「耳が痛いな」
ジンナイは言った。
その言葉は皮肉や冗談ではなさそうだった。
「ヒミカとヒコたちは、軍の施設や、地球連合政府が管理していたエネルギー資源の採掘施設、核融合研究施設を次々とヤマタイ国の管理下に置いていきました。その報告を聞いた地球の軍司令部や官僚たちが、軍事クーデターが起きたと騒ぎはじめたのです。遠い地球では、実際に木星圏で何が起きているか正確に把握《はあく》することはできません。軍事クーデターという誤った情報を信じた地球連合政府は、軍事介入を決定しました。以前から木星方面隊の消滅を問題視していた連合軍司令部は、ニューヨーク級の戦艦、アトランティスとダイセツを木星圏に派遣しました。その結果、カリスト沖海戦が起きたのです。ヒミカは、地球連合政府の軍事介入を機に独立を宣言しました」
「それが、独立戦争開戦の真相なのか」
オオタが言った。「地球で報じられているのとはかなり違うな。どちらが正しいのかは、私には判断できない」
「あたしたちは、連合軍の発表を検証することができませんでした」
コニーは言った。「木星圏はあまりに遠く、月や火星でも実情を知ることはできませんでした。そして、木星圏への往来は連合政府によって厳しく制限されており、マスコミは連合政府と軍の発表を報道するしかなかったのです」
「戦争報道というのは、そういうものだ」
ジンナイが言った。「君が語った内容には説得力がある。だが、一つだけ疑問が残る」
「何です?」
チェレンコが訊いた。
「戦争とジュピター・シンドロームの関わりだ」
「ヒミカが真っ先に地球連合政府の支配から解放したのは、ジュピター・シンドロームの患者を収容し治療している病院と、そして情報部の実験施設でした。軍情報部は、抵抗しようとしましたがすでに木星方面隊は解体されていたので、抵抗する術《すべ》を失い、地球圏へと撤退したのです。それが戦争となったきっかけです」
「子供たちを軍情報部から救おうとする気持ちは理解できるな……」
ジンナイが言うと、チェレンコはうなずいた。
「ヒミカが軍情報部の施設を真っ先に解放したのには、特別な理由があります」
「何だ?」
「ヒミカ自身が、軍情報部の施設に収容されていたことがあるのです」
コニーは驚いた。チェレンコが話す内容は驚くことばかりだった。
ジンナイも驚きを隠しきれない様子だ。
「つまり、ヒミカという君たちの指導者もジュピター・シンドロームの第二世代か第三世代というわけか?」
「そうです。ヒミカは特別な能力を持っています。そして、その能力を使い、自らが先頭に立って戦う。だからこそ木星圏の民衆は彼女を信奉し、ともに戦うのです」
「ヒミカはどこにいるのだ?」
ジンナイが尋ねた。「カリストか? ガニメデか? それともエウロパか?」
チェレンコはかすかにほほえんだ。
「そんな質問にこたえられると思いますか?」
「我々を信じていないということか?」
「信じる信じないは、この際関係ありません。我々は敵同士なのです。お忘れですか?」
「忘れていたよ。君の話があまりに衝撃的だったのでな……」
コニーは、チェレンコの話の内容を繰り返し頭の中で検証しようとしていた。だが、あまりに手持ちの材料が少ない。
ただ、軍情報部がジュピター・シンドロームの第二世代、第三世代を実験の対象にしていたという話はうなずける。
軍や政府は、コニーがジュピター・シンドロームについて取材することを嫌がっていた。UNBIは、コニーを最初からスパイ容疑で逮捕しようとしていたわけではない。コニーがジュピター・シンドロームについて調べはじめた時点でマークを始めていたのだ。
ジンナイがチェレンコに言った。
「会ってくれたことを感謝する」
「わざわざ月までお越しいただいたのですからね。こちらも礼儀を尽くさないと……」
「君が言ったとおり、私たちは敵同士だ。だが、戦争を終わらせようという目的は同じだ。違うかね?」
「物事はそれほど簡単ではありません。もし、我々が会見したことが、軍の情報部やUNBIにばれたら、あなたはたちまち失脚してしまう。そうなると、戦争を終わらせるどころではなくなるでしょう」
「たしかに私は危ない橋を渡っている。だが、安全なところにいては、本当のことがわからない」
「おっしゃるとおり、ここはあなたたちにとって安全な場所とは言えません。議員を人質にとって、政府と何らかの交渉をするという手もある。そうはお考えにならなかったのですか?」
オオタが緊張するのがわかった。コニーも緊張した。だが、ジンナイはほほえんでいた。はったりの余裕ではない。彼は本当に笑みを浮かべたのだ。
「政府は、反戦派の私を煙たく思っている。私に人質の価値はないよ」
すると、チェレンコもほほえんだ。
「気をつけてお帰りください。このあたりは、裕福そうな恰好をしているだけで、標的にされかねませんから」
会談の終わりの宣告だった。
ジンナイが、グラスの中のスコッチを飲み干して立ち上がった。
*
ヘンドリックを出ると、コニーは無事にリフト・シャトルの駅までたどりつけるか不安になった。時間が経つにつれて三十六番区の一帯はいっそう物騒な雰囲気になってきたように感じられる。
おそらく、最後にチェレンコが言った一言が影響しているのだろうと思った。
その様子に気づいたのか、ジンナイが言った。
「そう怖がらなくてもいい」
「危険な地区であることは、間違いありません」
「チェレンコはなかなか礼儀を心得ている。街角の要所要所に、監視員を立たせているようだ。我々に何かあったら、きっと彼らが即座に駆けつけてくれる」
「どうしてそんなことがわかるんです?」
オオタが言った。
「チェレンコは、この戦争が始まった経緯を我々に伝えたかったのだ。そのために苦労してきた。我々に万一のことがあったら、その苦労が無駄になる」
「私は、議員のように楽観的にはなれません」
「楽観主義は、勝利者の条件の一つだよ」
ジンナイが言うとおり、コニーたちは何事もなくタクシーを拾い、リフト・シャトルの駅に着いた。そして最上階層のアームストロング・ハイアットに戻ることができた。
ジンナイのスイートルームでチェレンコの情報の内容について話し合うことになった。ソファでくつろいだジンナイは、オオタに尋ねた。
「彼の話をどう思う?」
「我々が知っていることと、あまりにかけ離れていますね。ジュピタリアンのプロパガンダだという可能性は否定しきれません」
「慎重な意見だな。コニーはどう思う?」
「彼の説明によって、不明だった点がいくつか明らかになったように思います」
「つまり、彼の話には信憑性《しんぴょうせい》があるということだな?」
「軍がなぜジュピター・シンドロームを機密扱いしたがるのか、どうしてもわからなかったのです。彼の説明は筋が通っています」
「巧妙なでっち上げかもしれない」
オオタが言った。「タカメヒコは、情報戦の専門家なんだろう?」
「彼は戦争を終わらせたいのです」
コニーが言うと、オオタが反論した。
「はっきりそう言ったわけじゃない。先に戦争を仕掛けたのは、連合政府が発表したようにジュピタリアンかもしれない」
「軍が何か秘密を抱えているのは事実だ」
ジンナイが言った。「そして、コニーがジュピター・シンドロームのことを調べただけでUNBIがマークしはじめた。この事実は、タカメヒコの話の内容を裏付けていると思うが……」
オオタは考え込んだ。
「その点については納得できますが……」
「さらに、タカメヒコは、我々が想像もしなかったことを教えてくれた。ジュピタリアンの指導者のヒミカがジュピター・シンドローム罹患者の子孫で、軍情報部の実験施設でモルモットにされていたことがあるという事実だ」
「自分たちが被害者だと思わせたいだけかもしれません」
「ヒミカの影響力は、絶対人間主義によるものだけではない。政治家ならばわかる。主義主張だけで人心を一つにまとめられるものではない。それ以上の何かが必要だ。ヒミカの場合、それはジュピター・シンドローム第二世代、第三世代に時折見られる超能力なのかもしれない」
「では、議員はタカメヒコの話を信じるのですか?」
「うかつに信じるわけにはいかないことはわかっている」
ジンナイは言った。「だから何か証拠が必要なんだ。軍の情報部に切り込む手はないだろうか」
「もっとも手強《てごわ》い相手ですね」
「何か手はあるはずだ。例えば、どんな場所にも内部告発者はいるものだ」
「軍情報部の内部告発者など、すぐに消されてしまいますよ」
「ここが正念場だ」
ジンナイは言った。「軍情報部が、ジュピター・シンドローム第二世代、第三世代をモルモットにしていたという事実が公《おおやけ》になれば、我々はおおいに有利になる」
コニーは、その言葉に、思わず力強くうなずいていた。何か手はあるはずだというジンナイの言葉を、彼女は心の中で繰り返していた。
9
月周回軌道上
強襲母艦アトランティス
「アトランティスの少し上の軌道を回っている船がある」
エリオット作戦司令が、カーターとオージェをブリッジに呼んで説明した。「惑星軌道面とほぼ四十五度を成す軌道で航行しており、少しずつ角度を変えている。このままいくと、我々の軌道と同じ角度になる。識別信号によると民間の輸送船のようだ。光学観測では、水素タンカーらしい。だが、コースから考えて臨検の必要がある」
オージェが尋ねた。
「海賊船の可能性があるということですか?」
「あるいは、もっと問題があるかもしれない。我々の軌道と同じ角度ということは、南極上空を通過することになる。エイトケン天文台を狙っているテロリストとも考えられる。もし、その船が南極上空を通る軌道までやってきたら、第一小隊のチーム・グリーンが臨検を行う。オージェ隊はそのバックアップだ。待機してくれ」
「了解しました」
カーターは応じて敬礼をした。オージェも同時に空軍式の敬礼をした。
ブリッジを出ると、カーターは壁を蹴りながら廊下を飛んだ。
「その海軍の無重量下での身のこなしは、いつも感心するな」
オージェが後ろから声をかけてきた。
カーターは言った。
「いいかげん、慣れてほしいな。別に特別に訓練されたわけじゃない」
「艦内勤務に慣れる前に戦争が終わってくれないかと思うよ」
「エースパイロットらしくもないことを言うじゃないか」
「この戦争は、続けるべきじゃない。宇宙は戦争をするところじゃない」
「ふん、市民運動家あたりが言いそうな戯言《ざれごと》だな」
「そうじゃない。宇宙は戦争には向いていないということだ。そして、地球連合軍は宇宙の戦争に慣れていない」
思わず、カーターは壁に手をついて空中に静止した。オージェがぶつかりそうになった。
「ほら、慣れていない者が無理をするとこうなる」
オージェはなんとかバランスを回復した。
カーターは、オージェの顔を見つめて言った。
「連合軍が負けるということか?」
「ハンディーがあるということさ。ジュピタリアンたちは、私たちが想像を絶する世界で生き延びてきた。宇宙という環境と常に戦い続けてきたんだ」
「俺たち軍人だって、いやというほど宇宙で訓練をこなしてきた」
「ジュピタリアンたちは、毎日二十四時間が訓練と同じだった。いや、彼らの一日が二十四時間かどうかは知らないが……」
「二十四時間だよ。コロニーの中では、地球と同じサイクルで昼と夜の区別がある。出撃前にくだらんことを言わないでほしいな」
「なかなか話をするチャンスがないものでな。あなたの部下たちとも話をしてみたいものだ」
「ああ、生きて帰ったらな」
「ただの臨検だろう。そんなに固くなることはない」
カーターは壁を蹴って海兵隊の居住区に向かい、オージェは空軍の居住区に向かった。
*
エリオット作戦司令から待機命令が出てから、地球時間で十二時間後に出撃命令が出た。
輸送船が南極上空を通る軌道までやってきた。アトランティスは、軌道を上げてその船とのランデブー態勢に入っていた。
「行くぞ」
カーターはコクピットからリーナとホセに呼びかけた。「クロノス改での初仕事だ」
カタパルトがカーター機をゆっくりとエアロックに向かって押し出す。やがてカーターの乗るクロノス改が星の海にダイブした。
腕と脚を動かしモーメンタル・コントロールで体勢を整える。ホセ機がそれに続き、最後にリーナのギガースが出てきた。
空軍機六機も艦載機用のエアロックから出てきた。彼らは、二機ずつの編隊を組んで待機している。
アトランティスの前方に問題の輸送船が見えている。軌道を変える様子はない。アトランティスとランデブー状態にあるため、双方は静止しているように見える。
月の引力は小さいので軌道が地表に近い。大気もないので、モニターを通して地表の様子がはっきりとわかる。
輸送船は、意外と大きい。惑星間航行用の船のようだ。重水素か何かのタンカーに見える。
船体には、「シドニー号」の文字が見える。カーターは、民間の公用周波数に切り替えて呼びかけた。
「シドニー号、こちらは地球連合軍戦艦アトランティスの海兵隊だ。これから臨検を行う。作業用のハッチを開け」
船には、ヒュームスの規格に合わせた作業用のハッチが必ずある。ヒュームスはもともと作業用に開発された。宇宙空間での船外活動用や、地上での荷の積み降ろし、修理などにヒュームスを使用する。そのためのハッチだ。
「海兵隊、こちらはシドニー号。了解した。ヒュームス用エアロックを開ける」
返答があった。やがて、船の左舷後方にある作業用エアロックが開くのが見えた。
カーターは軍用の周波数に切り替えた。
「これから、臨検のために船に乗り込む。空軍機は、船に妙な動きがないか外から監視していてくれ」
「了解だ」
オージェの声が返ってきた。「気をつけてくれ」
カーターは、笑みを浮かべた。
「ただの臨検だから固くなるなと言ったのは、誰だったかな」
カーターは、クロノス改のメインスラスターをワンショットしてシドニー号の作業用ハッチに向かった。すぐ後にホセ機とリーナ機が続く。
みるみるハッチが迫ってくる。カーターは前方に向けてスラスターを噴かして減速し、エアロックに着いたときには、速度はほとんどゼロになっていた。クロノス改の扱いにすでに慣れてきている。
カーター機は左腕を伸ばし、壁に手をついた。ホセ機とリーナのギガースもハッチから中に入ってきた。
「ハッチを閉めて与圧します」
シドニー号からの無線が入った。
「待て。エアロックは閉めるな」
カーターは命じた。「与圧する必要はない」
「わかりました。エアロックは開けたままにしておきます」
「積み荷は何か?」
「重水素です。危険ですから近づかないほうがいいですよ」
「責任者に会いたい」
「こちらからそっちには行けません。船内は〇・六気圧に保たれています。与圧されていないそこに行くためには宇宙服を着なければなりませんが、減圧するためには十時間以上かかります」
宇宙服の中は、通常〇・二七気圧ほどだ。たしかに、時間をかけて減圧しなければたちまち減圧症にかかってしまう。スキューバダイビングをやっていて急浮上するのと同じことだ。カーターたちも、出撃前には必ず減圧するのだ。
「積み荷を調べる。場所を教えてくれ」
「了解。ヒュームス用の廊下をまっすぐ進んで突き当たりを左です」
カーターは、無線の周波数を切り替えてホセとリーナに言った。
「積み荷を調べに行く」
カーターはクロノス改を操り、ヒュームス用の廊下を進んだ。シドニー号乗組員の指示どおり左に曲がろうとしたとき、モニターの隅に大きな影が映った。
ヒュームスか……。
反射的にカーターは、前方のスラスターを噴かしていた。後方にいたホセ機とぶつかった。
その直後、カーター機の前を弾幕が通り過ぎていった。二十ミリ無反動機関砲の弾丸だ。真空のため音も衝撃波もないが、強力なエネルギーを肌で感じる。
「くそっ。後退しろ」
背後を見るとエアロックが閉じつつある。「野郎……、何考えてやがる……」
カーターは、クロノス改のビーム・ライフルを構えた。
「小隊長」
リーナの声が聞こえた。「船を破壊してはいけない。こんなに大きな船を破壊したら、デブリが月上空に拡散します」
デブリとは宇宙のゴミだが、それは危険なゴミだ。高速度で軌道上を回るデブリは、航行する船に激突して甚大な被害をもたらす。
「わかってる。リーナ、エアロックを打ち破れ。脱出するぞ」
ギガースは即座にビーム・ライフルをエアロックに向けた。閉じつつあるエアロックが閃光とともに溶けて吹っ飛んだ。
「アトランティス、こちら第一小隊チーム・グリーン」
カーターは言った。「敵の発砲を受けました」
ギガースはすでにスラスターを噴かして船外に飛び出していた。それにホセ機が続く。カーター機は後ろ向きに出口に立った。
アトランティスから返信があった。エリオット作戦司令の声だ。
「カーター、攻撃を受けたのか?」
「ヒュームスらしいものに、発砲されました。今から船を離れます」
「よろしい、今からアトランティスが投降を呼びかける。空軍機とともに船外で待機していろ」
「了解」
カーターは後ろ向きに、星の海にダイブしようとした。そのとき、ヒュームス用廊下の角から姿を現したものを見た。
カーターは目を見張った。
「アトランティス、こちらカーター。ヒュームスらしきものの正体はトリフネだ。繰り返す。われわれはトリフネの攻撃を受けた」
カーターはクロノス改の前方のスラスターを噴かして後ろ向きに船を離れた。
「トリフネだと……」
その直後、無線が通じなくなった。ECMだ。アトランティスが電子戦を始めたとは思えない。
ということはシドニー号がやっているのだ。
「くそっ。ジュピタリアンめ……」
ECMで母艦からの指示が受けられない。こういう場合は母艦に引き返すべきなのだが、どうやらその暇はなさそうだった。
シドニー号から次々とトリフネが飛び立ってきた。船内ではたしかに二本脚のヒュームスタイプで行動していた。今は、戦闘機型をしている。
「ちくしょう。便利な機械だぜ」
カーターは、戦うことを決意した。相手はジュピタリアンだ。そして、この軌道上にいるということは、エリオット作戦司令が言っていたようにエイトケン電波天文台を狙っているのだろう。
それは阻止しなければならない。
カーターはクロノス改の左手を高く掲げ、それを前方に振り出した。かかれの合図だ。リーナ機が飛び出した。
「何機だ?」
カーターは周囲を見回した。「トリフネは何機出た?」
視認した限りでは三機だ。だが、まだシドニー号に隠れていそうだ。船の大きさから見て六機は積み込めるだろう。
空軍が動き始めた。
「今までのクロノスと思うな」
カーターは、メインスラスターを噴かした。力強い加速を感じる。カーター機はたちまちシドニー号を離れた。視界が広がる。すると、さらに三機のトリフネが見えた。
全部で六機のトリフネだ。
カーターは牽制のためにビーム・ライフルを撃った。
直撃は避けなければならない。
「やっかいだな……」
月の軌道上でトリフネやシドニー号を破壊すれば、破片がすべてデブリとなる。
シャトルや輸送船の軌道上での事故のほとんどはデブリによるものだ。
特に、月の上空では地球のように大気圏で燃え尽きることもなく、デブリは軌道上を周回しつづける。
そして、通信用の衛星などを破壊してさらにデブリを作り出す。デブリがデブリを生み、やがて、船舶が航行できなくなることもあり得る。
ここでシドニー号のようなでかい船を破壊したら、デブリが月上空に広がり、エイトケン電波天文台にも影響が出るだろう。月の引力に引かれて落下したデブリが天文台を破壊するかもしれない。
トリフネは、二十ミリ無反動機関砲を撃ちまくる。彼らは、月の周りにデブリをまき散らすことなど何とも思っていないかもしれない。
カーターは弾をよけるために、常に移動しながら、戦況を把握しようとした。ホセ機もギガースもカーター機と同様に目まぐるしく飛び回っているが、デブリをまき散らすことを警戒して有効な攻撃ができずにいる。
それは空軍機も同様だった。
数にまさるアトランティス側も、なかなか手が出せないので戦況は不利だ。月の周回軌道を人質に取られているようなものだ。
ほどなくシドニー号とアトランティスは、エイトケン天文台がある月南極上空を通過する。
何か有効な手段はないか……。
カーターは、クロノス改を操りながら必死で考えていた。
*
オージェは、カーターとホセのクロノス改とギガースが船に乗り込むのを見て援護できる位置に移動した。
僚機のミハイル機がぴたりと付いてくる。新型のツィクロンはズヴェズダより質量が増えているが、その分エンジンの出力も上がっているので、反応は悪くない。
オージェ機の動きを見て、アレキサンドル機とその僚機のワシリイ機が船の反対側に移動した。
ユーリ機とセルゲイ機は、オージェたちのはるか左側に展開している。シドニー号と船体に記された船のコクピットを狙える位置だ。オージェはその動きに満足していた。
いずれの機も機首をシドニー号に向けたまま等速度運動している。
カーターとアトランティスの通信を傍受した。
「アトランティス、こちら第一小隊チーム・グリーン。敵の発砲を受けました」
「カーター、攻撃を受けたのか?」
「ヒュームスらしいものに、発砲されました。今から船を離れます」
「よろしい、今からアトランティスが投降を呼びかける。空軍機とともに船外で待機していろ」
「了解」
ややあって、カーターの驚きの声が響いた。
「アトランティス、こちらカーター。ヒュームスらしきものの正体はトリフネだ。繰り返す。われわれはトリフネの攻撃を受けた」
オージェは、笑みを浮かべていた。
「ふん。トリフネか……。ジュピタリアンめ、輸送船に化けて月軌道に侵入するなど、姑息《こそく》なことを……」
ECMが始まり、無線が途絶えた。
そのときにはすでに、カーターたちのヒュームスは船外に脱出していた。エアハッチをビーム・ライフルで破壊しての脱出だ。
トリフネが出てくる。
オージェは前方左側と後方右側のスラスターを噴射して機体の方向を百八十度変えると、メインエンジンを噴かしてシドニー号と距離を取った。
ミハイル機がすぐにそれに従った。
再び二つのスラスターを使って方向転換する。機首のビーム砲の軸線をカーターたちが破壊したエアロックに合わせていた。
だが、トリフネをビーム砲で撃ち抜くことができないことを、オージェは知っていた。トリフネの機関部を破壊して爆発させたら、おびただしいデブリを月の周回軌道上にばらまくことになる。
周回軌道上を主な活動場所としてきた空間エアフォースのオージェは、デブリの恐ろしさをいやというほど知っていた。
同様の理由で、シドニー号を爆発させることはできない。これほどの大きな船が爆発したら、今後、月周回軌道上でどれほどの事故が起きるかわからない。
「敵も考えたな……」
オージェはつぶやいた。
シドニー号とアトランティスは同時に軌道を回り、じきに南極上空に達する。そのときに、敵は思い切った行動を取るに違いない。
トリフネが出てきた。
左舷側から三機、右舷側から三機、合計六機だ。戦闘機型をしているが、マニピュレーターを持っている。機首に二十ミリ無反動機関砲を持っているが、マニピュレーターにも武器を持っている。こちらも二十ミリ無反動機関砲のようだ。
機首から撃つだけでなく、ヒュームスのように自由に腕を動かして撃ってくる。
オージェは海兵隊のヒュームスたちがドッグファイトに入ったのを見た。ギガースとクロノス改は、トリフネに遜色《そんしょく》のない機動力を発揮しているように見える。
アレキサンドルとワシリイのズヴェズダが戦闘に加わる。負けじと、ユーリ、セルゲイのツィクロンもドッグファイトを開始した。
海兵隊のヒュームスたちも空間エアフォースの戦闘機も目まぐるしく動き回っている。
突然、僚機のミハイル機が急加速した。
「ロックオンされたか……」
オージェは、周囲のモニターを見回した。「どいつが狙っているんだ?」
ミハイルのツィクロンを追うトリフネを探した。ミハイルは、なんとかロックオンを逃れようと、前方に加速しながらさまざまな位置のスラスターを駆使して機体を上下左右に揺らしている。
「やつだ」
オージェは、ミハイル機を後方から追って加速しているトリフネを見つけた。
スラスターを使ってそのトリフネをビーム砲の軸線上に捕らえようとした。やがて、相手をロックオンした。
それでもそのトリフネはミハイル機を追うことをやめない。
「ロックオンの脅しだけじゃだめか」
オージェは操縦桿のトリガー・ボタンに親指をかけた。トリフネの前方にわずかに軸線をずらして二十ミリ無反動機関砲を撃った。
ビーム砲より曳光弾のほうが脅しが利く。
トリフネは前方のスラスターを使って減速した。
ミハイル機がくるりと向きを変えて等速度運動に移行した。ミハイル機は、トリフネに機首を向けた。逆にロックオンしようとしているようだ。
トリフネが真横に移動していく。ミハイルの危機は去った。
オージェは、ツィクロンの機首を巡らし、シドニー号にビーム砲を向けた。
「デブリをまき散らすわけにはいかない。だが、方法がないわけじゃない」
空間エアフォースはこれまで、海賊船やテロリストの船と戦ったノウハウを蓄積している。
オージェは、シドニー号のメインエンジンのノズルスカートを狙っていた。まき散らす破片を最小限にとどめるためには、ピンポイントで狙う必要がある。
オージェは相手の推進力を奪うつもりだった。エンジンのノズルを破壊すれば、シドニー号は、月面に向かうために減速することも、軌道を変えるためにリブーストすることもできなくなる。
同じ軌道上を回り続けるしかない。軌道上の漂流船と化すわけだ。やがて、エアが底をつく。乗務員は投降するか、死を待つかの選択を迫られるわけだ。
だが、エンジンノズルは、機関部に近い。推進剤や燃料に引火すると、エンジンが誘爆する危険がある。
そうなると、シドニー号は爆発し、大量のデブリが発生することになる。
「ビーム砲の出力を絞るしかないか……」
オージェはためらっていた。
突然、コクピット内に警戒音が鳴り響き、照明が赤に変わった。
「ロックオンか……」
オージェは、反射的にメインエンジンを噴かして急加速した。さらに、操縦桿で各部のスラスターを操って機体を左右上下に揺すった。
ロックオンをなかなか振り切れない。
「しつこいやつだ」
メインエンジンの加速をやめ、オージェはサイドのスラスターを使い、くるりと機の向きを変えた。後ろ向きで飛んでいる形になる。
追ってくるトリフネを逆にロックオンしてやろうとした。
モニターの中を白い影が横切った。
「なに……」
ギガースが螺旋を描きながら、オージェ機をロックオンしていたトリフネに向かっていった。
そして、その質量をそのままトリフネにぶつけた。体当たりだ。
トリフネは、制御を失いキリモミ状態になった。姿勢制御に専念しなければ、軌道を逸脱してしまう。ロックオンが解除された。
「私を助けたというわけか」
オージェはつぶやいた。「だが、無茶をやる」
ギガースは、オージェ機に近づいてきて、腕を伸ばした。
ミズキ少尉の声が聞こえてくる。
「船のエンジンノズルを狙っていましたね?」
「そうだ。推進力を失った船は人工衛星と同じだ」
「でも、躊躇《ちゅうちょ》してましたね」
「ああ。エンジンノズルはエンジンブロックに近い。エンジンを誘爆させたら、このあたり一帯にデブリをまき散らすことになる」
「わかりました。それは、海兵隊向きの仕事ですね。援護をお願いします」
ギガースは、メインスラスターから高温のガスを噴射すると、弾を避けるように螺旋を描きながらシドニー号に近づいていった。
最後部のエンジンノズルに向かっている。
「たしかに、ヒュームス向きの作業だな」
オージェは、周囲を見回しながらつぶやいた。
「躊躇していただと? このドッグファイトの最中にそれを見て取ったというのか……」
つくづく不思議な少女だと、オージェは思った。
大の男でも実戦となれば、我を失うほど緊張することがある。だが、ミズキ少尉にはまったくそんな様子はない。
何の不安もなく飛び回っているように感じられる。それが戦場にまったくそぐわない。
ギガースがシドニー号のエンジンノズルに取り付くと、その目的を察知したらしいトリフネが近づいていった。
「邪魔はさせない」
オージェは、そのトリフネをロックオンした。だが、トリフネは、ギガースへ接近し続けた。
「しょうがない……」
オージェは、ビーム砲の出力を絞って、操縦桿のトリガー・ボタンを押した。荷電粒子がトリフネの機首の装甲を叩いた。
そのトリフネはそれ以上の損傷を恐れて、離脱した。すると、入れ替わりで別のトリフネがギガースに向かっていった。
「なかなかの連携プレイだな……」
オージェは同じようにロックオンすると、出力を絞ったビーム砲を撃った。今度のトリフネは、コースを変えようとしなかった。
オージェのビーム砲が脅しだということがわかっているのだ。だが、オージェは、トリフネたちもギガースを撃てないことを知っていた。
ギガースを狙えば、シドニー号に向かって撃つことになる。ギガースのエンジンを直撃して爆発させでもしたら、シドニー号も運命をともにすることになる。
ギガースは、シドニー号のエンジンブロックのすぐそばにいるのだ。
だが、トリフネはただの戦闘機ではない。ヒュームスと同様の機能も持っている。機首の二十ミリ無反動機関砲だけが武器ではない。
オージェは舌打ちした。
「ミズキ少尉、早くしてくれ。これ以上はもたんぞ……」
ギガースを見ると、ほぼ作業を終了している様子だ。
ギガースは、マニピュレーターの質量をそのままシドニー号のメインエンジンについているノズルスカートに叩きつけていた。つまり、殴っていたのだ。
単純だが有効な作業だ。
オージェは思った。
シドニー号は、三基のエンジンノズルを持っていた。ギガースはそのすべてのノズルを叩き壊し、さらに、マニピュレーターで破片をつかんで引き抜いた。
その破片を月面の方向に向かって放り投げた。破片は月の重力に引かれて月面に落ちるだろう。小さなクレーターを作るだろうが、実害はない。デブリになるよりはずっとましだ。
トリフネの一機が腕と脚を展開してギガースに取り付いた。力ずくでギガースを落とそうというのだ。
ギガースは、シドニー号にしがみついたまま、メインスラスターを噴かした。その高温のガスはすべて背後から接触してきたトリフネに叩きつけられた。
トリフネは吹き飛ばされてコントロールを失った。
「やるな……」
ギガースはシドニー号を離れた。
今や、シドニー号は、エンジンのノズルを破壊され、ただ軌道上を周回している物体に過ぎなくなった。
「それにしても、妙だな……」
オージェはつぶやいた。「今日のトリフネの動き……。以前見たときとちょっと違うような気がするのだが……」
*
「くそっ。アトランティスは何をしている。どうして援軍を出さん?」
クロノス改の機動力に揺さぶられながら、カーターはわめいた。
たしかにかつてのクロノスとは桁違いの機動力だ。だが、そのために絶えずさまざまな方向の強烈なGに耐えつづけなければならない。
体中の血が泡立ち、内臓がひっくり返りそうな気がする。
カーターは、オージェ機とギガースの動きに気づいた。
「何だ? 何をやろうってんだ?」
やがて、ギガースがシドニー号のエンジンノズルを破壊しているのが見えてきた。オージェ機がそれを援護している。
「なるほど、その手があったな」
兵力はアトランティスのほうが圧倒的に上だ。船の推進力を奪えば、白兵戦に持ち込むことも可能だ。
アトランティスの方向に小さな輝点《きてん》が見えた。太陽光を反射して、みるみる近づいてきた。
「第二小隊のクロノス改だな。ようやく来やがった」
トリフネは、シドニー号にアトランティスの部隊を近づけまいとしている。やはり、白兵戦を恐れているのか……。
カーターは思った。
だが、第二小隊のクロノス改が加われば、こちらが圧倒的に有利になる。ギガースが破壊したエアロックから再び船に侵入することも可能になるだろう。
月面の地平線に小さな光が見えてきた。
南極のエイトケン天文台を含む施設の明かりだ。
「このまま、エイトケン天文台を通過しちまえ」
カーターは、牽制のビーム・ライフルを撃ちながら言った。
そのときだった。シドニー号は、月面に向けている背の大きなドアを開き始めた。巨大なペイロード・ベイを開こうとしているのだ。
「何をやろうって言うんだ……」
やがて、ペイロード・ベイのドアが開ききると、そこから着陸船らしきものが切り離された。
大きなエンジンノズルが目立つ。かなり大きな着陸船で、兵員を二個分隊ほど送り込めそうだ。
「上陸しようってのか……」
カーターは、メインスラスターを噴かそうとした。そのとき、モニターにゲージが現れて点滅を始めた。
「くそっ。推進剤がもたないのか……」
クロノス改の作戦行動時間は約三十分。ドッグファイトで派手に推進剤を使うと、その分、作戦行動時間も当然短くなる。
モニターには、さらに母艦に帰投を命じるメッセージが現れた。
「ムーサが巣に帰れと言ってるのか……」
それに従うしかなかった。作戦行動時間を無視することは、そのまま死につながる。
カーターは、アトランティスに向かうコースを選択し、メインスラスターを噴かした。
敵の着陸船は、どんどん高度を下げていく。
どの程度の高度で打ち落とせば空間を飛び回るデブリにならずに、月の引力に引かれて落ちるのか咄嗟《とっさ》には判断できない。
山勘で着陸船を撃ち抜くわけにはいかない。
「トリフネは時間稼ぎだったのか……」
帰投コースに乗ったクロノス改の中でカーターは唇を咬んでいた。
月面に向かって小さくなっていく敵の着陸船を肩越しに睨《にら》みつけていたカーターは、思わず叫んだ。
「なに……」
着陸船をギガースが追っている。
「ばかな……。リーナのやつ、自殺する気か。いくらギガースだって月まで追っていけるものか……」
カーターは、ハーネスでシートに固定されているのも忘れて思わず身を乗り出そうとした。
無線で呼びかけようにも、ECMで通信は完全に途絶えている。
トリフネたちは、隊列を組みつつ次第にシドニー号へと後退しつつある。目的を達成したということなのだろう。
アトランティスが発光信号を撃った。
赤の光の玉だ。
帰投命令だ。エリオット作戦司令も状況を見て取ったのだ。
敵の着陸船を追うことはできない。敵の作戦を阻止できなかったと見て、帰投を命じたのだ。
帰投命令は、リーナも見ているはずだ。命令に従って、戻ってくるはずだとカーターは思った。だが、ギガースは戻ろうとしなかった。
「ムーサはどうした。軌道離脱防止プログラムは、最優先で機能するはずだ」
カーターは、モニターを拳《こぶし》で叩いていた。
10
月面都市・アームストロング・シティー
ニュー・ヒースロー空港
軍用シャトルにジンナイら三人の席を確保し、出発を待っていたコニーは、ニュー・ヒースローと名づけられた空港の待合ロビーで放映されていたケーブルテレビのニュースに注目した。
どこかの飲食店が、麻薬取締法違反などの容疑で警察の手入れを受けたというニュースだ。
彼女は次第に身を乗り出して、耳を澄ませた。
手入れを受けた店は、三十六番区にあるという。まさかと思った。ニュースキャスターは、店の名前がヘンドリックであることを告げた。
コニーは、売店に走った。新聞にはすでに記事が出ているかもしれない。アームストロング・タイムズをはじめとする三紙を買った。
ロビーの椅子に戻って記事を探した。
あった。小さな記事だ。ヘンドリックで麻薬や覚醒剤の売買が行われているという情報をもとに、警察が手入れを行い、その際に銃撃戦になったという。
ヘンドリック内で抵抗した者たちが五人、警察によって射殺されたという。その五人の名前と顔写真が載っていた。コニーは、チェレンコの顔を探した。
見覚えのある顔があった。バーテンダーとバーカウンターにいた客の一人だ。あとは知らない顔だった。そこにチェレンコの名前も顔もなかった。
コニーは、なぜかほっとしている自分に気づいた。
ジンナイとオオタが、出発前のインタビューから戻ってきた。
コニーは、ジンナイに新聞を差し出し、言った。
「議員、この記事……」
ジンナイはうなずいた。
「知っている。おそらく、地球連合軍のスパイ掃討作戦だ。月の警察は、しぶしぶ協力したのだろう」
「チェレンコは生き延びたようですが……」
「月に彼らのアジトがあったという事実も驚きだが、地球連合軍がそれを突き止めて月自治区内で、軍事的な行動を取ったということも問題だな……」
「あそこがチェレンコたちのアジトだったことは、闇に葬られました。誰もが、麻薬の手入れだと思うでしょう」
「人々が次第に目隠しをされ、耳をふさがれていく。これが戦時下体制だ。我々もいっそう行動に注意しなければならない」
そのとき、空港内にアナウンスが入った。
「月の周回軌道上で、戦闘が始まった模様です。お急ぎのところ申し訳ありませんが、すべてのシャトルの発射を、しばらく見合わせます。繰り返します。月の周回軌道上で戦闘が始まった模様です。すべてのシャトルは……」
コニーは、思わずジンナイの顔を見つめていた。
ジンナイは、オオタに言った。
「詳しい状況を空港の者に訊いてきてくれ」
「わかりました」
オオタは、駆けていった。カウンターのところで、航空宇宙公社の係員に話を聞いている。
やがて、それでは埒《らち》があかないと判断したのだろう。彼は、軍用シャトルの搭乗員を見つけて話しかけた。
オオタは、ジンナイとコニーのところに戻ってくると、言った。
「月の周回軌道上に、木星側が民間の輸送船に偽装して侵入したそうです。海軍のアトランティスがその船の臨検をし、そのまま戦闘状態になったということです」
「今も戦闘が続いているのか?」
「そうらしいです。しかし、詳しい状況はわかりません。待つしかないですね」
「待つのはかまわん。宇宙の旅だ。何があるかわからない。だが、敵が月にまで侵入したというのは問題だな……。地球連合軍は、さらに強硬な手段に出るかもしれない」
ふと、ジンナイは表情を曇らせた。「敵の狙いは何だったのだろう?」
オオタは声を落とした。
「どうやら、エイトケン天文台のようです」
「電波天文台か……。なるほど、あそこを占拠すれば、木星圏から直接電波を送り、それを地球圏に流すことができる」
「情報戦の一環ですね」
「タカメヒコたちは、その作戦のために事前の準備や手引きなどをやっていたのだろうな」
「軍情報部がそれを知って……」
「そういうことだろう。だが、またしてもアトランティスか……」
「何です……?」
「海軍の船だ。これまでの木星圏との主な戦闘にすべてアトランティスが絡んでいる」
「地球連合軍の中で最も金をかけた軍艦ですからね」
「だが、ニューヨーク級は他にもある」
コニーは、ふと気づいて言った。
「アトランティスにはギガースが配備されています」
ジンナイがコニーを見た。
「どういうことだ?」
「カリスト沖海戦の後に、海兵隊の新兵器、ギガースというヒュームスが配備されたんです」
「それは知っている。それがどうかしたのかね?」
「アトランティスは、それ以来、常に最前線に送られ続けています。そして、メインベルトで、軌道交差戦を行った後には、空軍の要撃部隊がアトランティスに乗り組みました。エースパイロットのオージェ・ナザーロフの隊です。ギガースの配備以来、アトランティスは、だんだんと最強の戦艦に仕立て上げられたような気がします」
「考えすぎじゃないのか」
オオタが言った。「アトランティスは、カリスト沖海戦で、人類史上初めての宇宙戦争を経験した艦だ。その経験を戦争に活かそうと考えるのは当然だろう」
「いや……」
ジンナイが言った。「軍隊というのは、そういう考え方はしない。誰かが何かを経験したとしたら、それを共有して軍全体の技術や能力を上げようと考えるのだ。コニーが言ったことにも一理ある。アトランティスが最前線に送られているのではない。ギガースが送られているのだと考えれば、つじつまが合う」
「何のために……」
「単純に考えれば、新兵器の運用データを取るためだろう」
「では、艦載機の代わりにオージェの要撃部隊を載せたのは……」
コニーが言った。「ギガースを守るためですか?」
オオタが言った。
「いや、海兵隊と空軍が共同で作戦をこなすのは、敵のトリフネという機動兵器に対抗するための措置だと聞いた」
「その点も、コニーの発想に分があるな。たしかに、軍艦に空軍の戦闘機を載せるのはトリフネに対抗する措置だが、軍はアトランティスにエースパイロットのオージェの隊を配備した。やはり、ギガースを守るためと考えられなくもない」
「それじゃ……」
オオタは困惑の表情を浮かべた。「軍はまるで、この戦争で新兵器の実験をやっているようなもんじゃないですか」
「そう。戦争には常に新兵器の実験という一面がある。だが、ギガースに関してはそれだけではないような気がする。単に新兵器の実験だとしたら、金がかかりすぎている。それにオージェのような人材も集中しすぎている」
「単に新兵器の実験じゃないとしたら……?」
「タカメヒコの話を思い出してみるんだ。何か臭《にお》わないか……」
「そうですね……」
オオタは考え込んだ。
コニーは、頭に浮かんだことを言葉にした。
「実験というと、軍の情報部のことが連想されます」
ジンナイがうなずいた。
「私もそのことを考えていた」
オオタはいっそう声を落とした。
「軍情報部が何の実験をしていると……?」
「それはわからない。だが、今回我々が月で知り得た情報と無関係ではないかもしれない。いずれにしろ、あまり時間がないのはたしかだ。私もいつまで無事でいられるかわからない」
その言葉に、コニーは再びジンナイの覚悟を感じ取った。
もう後には引けない。
コニーは思った。ジンナイと運命を共にするだけだ。この戦いには、運命を懸ける価値がある。
*
オージェもギガースが敵の着陸船を追っているのに気づいた。
「無茶にもほどがある……」
オージェは、操縦桿を操りギガースに向かって加速した。
僚機のミハイル機がそれに従った。
「付いてこなくていい」
オージェは怒鳴ったが、通信が途絶えているので、その声がミハイルに届くはずもない。
コクピット内にけたたましい警戒音が鳴り響いた。軌道離脱の危険を知らせるアラームだ。
じきにヒュームスと同じく軌道離脱防止プログラムが働きはじめるだろう。
オージェは、すべての操縦をマニュアルにするようにシステムを切り替えた。ヒュームスにはない空軍戦闘機独自の機能だ。
ミハイル機は、軌道離脱防止プログラムに従ったらしい。オージェ機から離れていく。
「それでいい、ミハイル。私に付き合うことはない」
月の重力を感じはじめた。
エースパイロットのオージェといえども、戦闘機で月面に着陸したことはない。理論上は不可能ではないが、経験がなかった。
やってやれないことはないだろう。だが、ギガースは別だ。いくら推進力があるといっても、所詮ヒュームスなのだ。月面着陸など無謀きわまりない。
地球の六分の一しかないといっても、重力は重力だ。地表に行くまでにはおそろしく加速されているはずだ。
オージェは、スラスターを使って後部の熱核エンジンの噴射口を月面に向けた。その状態を保ち、徐々にギガースに近づいていった。
ギガースが手を伸ばしてきた。その手がツィクロンに触れて通信が可能になった。
「危険です。ナザーロフ大尉」
ミズキ少尉の声だ。
「それはこっちの台詞《せりふ》だ。何を考えている」
「敵の作戦は、月に上陸してエイトケン天文台を占拠することです」
「ヒュームスで何ができるというのだ」
「ギガースなら、月面への着陸は可能です。そう設計されています」
「だが、やったことはあるまい」
「もちろんです。でも、ムーサが誘導してくれます」
「軌道離脱防止プログラムはどうした。最優先で働くはずだろう」
「ムーサが月面着陸を認可しました。着陸誘導モードになっています」
「帰投命令が出ている。命令違反だぞ」
「それは大尉も同じですね」
オージェは舌打ちした。
「こっちはマニュアルで操縦している。不時着するしかない」
「だいじょうぶ。地球に降下するよりずっと簡単ですから」
「気楽に言ってくれる。これから姿勢制御に入る。離れていてくれ」
「了解です」
ギガースが距離を取った。
オージェは、コクピットで初めて不安を覚えた。逆噴射をするタイミングが遅すぎたら機体は地面に叩きつけられて粉々になる。
タイミングが早すぎたら、着陸する前に推進剤を使い切ってしまうかもしれない。
そのとき、オージェは、ミズキ少尉の言葉を思い出した。彼女は、ムーサが誘導してくれると言った。
ムーサというのは、ヒュームスに搭載されているOSだ。つまり、ギガースはコンピュータで制御されて月面着陸をするということだ。ならば、ギガースに合わせて減速すればいい。
ミズキ少尉の無邪気ともいえる物言いも、オージェの心を落ち着かせた。
つくづく不思議な少女だ。
まるで宇宙を知り尽くしているかのようだ。
ギガースのメインスラスターが月面に向けて噴射を始めた。みるみる速度が落ちていく。オージェもメインエンジンを噴かした。
ギガースと同じ速度になるように調節する。
「むう……。月といえども、重力というのはやっかいだな……」
ツィクロンの機体がびりびりと震動を始めた。着陸の衝撃で、機体がいくらか破損するのは覚悟の上だった。だが、エンジンが爆発したり、ばらばらに分解するのだけは願い下げだった。
敵の月面着陸船を視界の隅にちらりととらえた。彼らはエイトケン天文台のすぐ近くに着陸するつもりだ。
厳密にコースの計算をしていたはずだ。
オージェはそれきり、敵の着陸船もギガースも見ることはできなかった。周囲の地形に気を配らなければならなかったのだ。
できるだけ平地に着陸したい。
「どんなに技術が発達しても、こういうときはアポロ時代とやることは変わらんな……」
機体の震動が激しくなる。オージェは機体の姿勢を保つことに神経を集中させた。ツィクロンは、機首を天に向け、メインエンジンのノズルを地面に向けている。
左右のモニターに月の地平線が見えてくる。オージェは衝撃にそなえた。ツィクロンは後方から着地した。
思ったより衝撃は少なかった。だが、コクピット内に警報が鳴り、モニターの中に次々と障害箇所の報告が列記されていく。
メインエンジンのノズルをやられたようだ。
モニターはまだ生きており、オージェは周囲を見回した。
ちょうどギガースが着地するところだった。腕と脚を折りたたみ、モーメンタル・コントロール用の翼《よく》も最小にしている。その状態で、メインスラスターのノズルを地表に向けていた。
着地の瞬間、体中のスラスターを使って姿勢を制御していた。脚をたたんだまま、着地した。尻から落ちる恰好だ。
なるほどあの恰好が一番損傷が少ないのだろう。オージェはそう思った。
だが、それに続くギガースの動きにオージェは驚かされた。ギガースは、まず、地面に手をつき、それから脚を伸ばして月面に立ち上がったのだ。
ギガースにはほとんど損傷がない。軌道上から月面に着陸する機能があるというのは、本当だったようだ。
通信装置が回復していた。シドニー号のECMの影響下から抜け出したのだ。
「大尉、だいじょうぶですか?」
ミズキ少尉の声だ。
「ああ。だが、高価な新型機を修理に回さなければならなくなった。お目玉を食らうだろうな」
「敵がエイトケン天文台に向かっています」
「月面の地上軍に任せればいい」
「それじゃ降りてきた意味がありません。推進剤は残っていますか?」
「ああ。まだかなり残っている」
「ギガースにそれを移します」
「そうしてくれ。どうせ、ツィクロンはここに置いていくしかない」
ギガースが作業を始めた。ツィクロンの推進剤注入口を開け、ギガースのタンクにつながるチューブを差し込む。ヒュームスはもともと作業用のマシンとして開発されたので、こういう手仕事には向いている。
「大尉、外に出る準備をしてください。ギガースでエイトケンまでお連れします」
「仕方がない」
オージェは、パイロットスーツの気密をチェックした。そして、気圧が船外活動用の〇・二七気圧であることを確認した。
武器はサイドアームの四五口径無反動拳銃しかない。心許《こころもと》ないが、何もないよりはましだ。
ギガースが推進剤の移し替えを終えた。
「大尉、ギガースの手に乗ってください」
「敵の動きはどうだ?」
「月面移動車に分乗してエイトケン天文台に向かっています。総員、十名。軽装備です」
「シドニー号とアトランティスは、地平線の向こうに行ったらしいな。通信が届かない」
オージェは、コクピットのハッチを開いて外に出た。与圧されていたコクピットから派手にエアが飛び出す。外に出ると、パイロットスーツが膨《ふく》らむのを感じた。
ギガースが姿勢を低くして、マニピュレーターを差し出している。オージェは、パイロットスーツの通信装置からミズキ少尉に呼びかけた。
「握りつぶさんでくれよ」
「だいじょうぶ。マニピュレーターのセンサーはデリケートですから。行きますよ」
ギガースはメインスラスターを噴かしてジャンプした。それを繰り返してエイトケン天文台の明かりを目指す。
激しい上下動に、戦闘機パイロットのオージェも閉口した。
これで、ミズキ少尉は平気なのか……。
しかし、この移動方法が月面で有効なのは確かだった。ヒュームスのアクチュエーターの力とスラスターの推進力をうまく活かしている。
エイトケン天文台の中心に建つ観測センターがみるみる近づいてくる。巨大なパラボラアンテナを含む、広大な施設だ。
基本的には月面都市と同じ構造になっている。地上にはシールドを巡らし、太陽からのX線や放射線を避けるために、居住区などの主要な施設は地下に作られている。
クレーターのわん曲に沿って設置された数万基のアンテナが、一つの巨大なパラボラアンテナとして機能し、宇宙《そら》の半分を常に監視している。
近づくと、月面天文学研究所のエアロック付近ですでに銃撃戦が始まっていた。
「ここで下ろしてくれ」
オージェはミズキ少尉に言った。「ギガースは、敵を制圧しろ。私は地上軍に合流する」
「了解。大尉、被曝《ひばく》量に気を付けてください。月面では太陽からの放射線が容赦なく降り注ぎますから」
やはり、宇宙を知り尽くしているような口ぶりだ。
「心得ている」
ギガースが姿勢を低くすると、オージェはマニピュレーターから飛び降りた。重力は六分の一だ。着地した衝撃はほとんど感じなかった。
ギガースがメインスラスターを噴かすと、砂が舞い上がった。
月面着陸船で上陸した敵は、まさかヒュームスが追ってくるとは思ってもいないだろう。月面のマーレ・オリエンターレ海軍基地には、ヒュームスは配備されていないから、彼らは最初からヒュームスを除外して考えているはずだ。
ギガースは、彼らの計画をたたきつぶすはずだ。
ミズキ少尉はそこまで考えて行動したのだろうか。
「まさかな……」
思わずオージェはつぶやいていた。
「何かおっしゃいましたか?」
ミズキ少尉の声が聞こえてきた。
「何でもない。私は敵の勢力が手薄な出入り口を探して地上部隊と連絡を取る」
「これから制圧に入ります」
ギガースが敵の潜入部隊を蹴散らすところを見物していたかった。
だが、そうのんびりもしていられない。早く研究施設の中に入らないと被曝の心配がある。
ギガースは、銃撃戦のど真ん中に降り立った。敵が慌《あわ》てふためいているのがわかる。
「危険を冒して着陸した甲斐があった。これで勝負ありだな……」
オージェはカンガルー跳びでいくつかあるエアロックの一つを目指した。エアロックの前で何者かが作業をしているのが見えた。
見たことのない宇宙服を着ている。
「ジュピタリアンの別働隊か……」
敵は三人いる。一人が振り向き、オージェに気づいた。
オージェは四五口径無反動拳銃を抜いた。トリガーセイフティーの銃なので、トリガーを引くだけで安全装置がはずれて発砲できる。
敵が銃を取り出した。九ミリの無反動サブマシンガンだ。
オージェは、躊躇なく撃った。敵の胸に命中する。そのエネルギーで敵は派手に後方に吹っ飛び、壁に激突した。さらにその反動で前方へ飛んだ。
エアロックを開ける作業をしていた二人が同時に振り向いた。彼らは、武器を出すのが遅れた。
オージェは、彼らに二発ずつ撃ち込んだ。やはり彼らは、後方に飛んだ。重力が弱いので、漫画のように吹っ飛ぶ。
銃弾によってあいた穴からエアが吹き出している。宇宙服内の気圧は急速に下がり、血液に溶け込んでいた気体がすべて泡になる。
彼らは助からないだろう。
いい気分ではなかったが、仕方がない。
これが戦争というものだ。
オージェは、自分にそう言い聞かせた。
宇宙では常に死と隣り合わせだ。だからこそ、人命を尊重する。宇宙で人を殺すという行為は宇宙開発の歴史から見てあまりに非常識だ。
だから、宇宙と戦争はそぐわないと感じるのだ。
なるほど、この気持ちが絶対人間主義を生んだのだ。
オージェは、三人のジュピタリアンが使用していた機材を見た。エアロックを開けるための電子ロック解除装置だ。
「驚いたな。地球連合軍とほとんど同じ仕様だ」
オージェは、それを不自然に感じた。
軍隊が使用する機材は、結局は似通ってくる。よけいな機能を排除しているからだ。
しかし、地球上でも多少の差異はある。冷戦時代には、アメリカの仕様とソ連の仕様はかなり異なっていた。
似すぎている。
オージェは思った。
まるで、地球連合軍の機材をそのまま流用しているようですらあった。
「ともあれ、この状況ではありがたいと言うべきだな……」
地球連合軍仕様の機材なら、扱うことができる。
敵はすでにエアロックの電子ロックに接続を完了していた。あとは、自動的に暗証番号をサーチさせるだけだ。
四桁の番号をサーチするのに、要した時間は、一分ほどだった。エアロックが開いた。オージェが足を踏み入れると、地球連合軍の月面地上軍兵士が自動小銃を手に現れた。
身振りで手を挙げろと言っている。興奮している様子だ。突然、襲撃を受けて慌てふためいているのだろう。
パイロットスーツの通信装置と彼らの宇宙服の通信装置は同じ周波数を使っているはずだ。オージェは両手を挙げたまま呼びかけてみた。
「このパイロットスーツが目に入らないのか」
地上軍の兵士たちは、とまどった様子で目を見合った。まだ自動小銃をオージェに向けている。
「何者だ?」
地上軍兵士の一人が誰何《すいか》した。
「オージェ・ナザーロフ空軍大尉。アトランティスから来た」
「オージェ……。空軍のエースパイロット……」
誰かがつぶやいた。「じゃあ、敵とともに降りてきた正体不明の飛行物体は……?」
「表で戦っている海兵隊のギガースと、私の新型機ツィクロンだ」
「海兵隊のギガース……? まさか、ヒュームスが軌道上から降りてこられるはずがない」
別の声が通信装置に飛び込んでいた。
「中隊長、聞こえますか? 海兵隊の新型ヒュームスです」
「何だと?」
別の声がこたえた。「どういうことだ? 状況を説明しろ」
「新型ヒュームスが敵の移動用車両と着陸船を破壊。おそらく、あれがビーム砲でしょう。すごい威力です。敵は、ヒュームスを見て後退を始めましたが、逃げ場がありません。じきに制圧できる見通しです」
「ヒュームスがどこから来た?」
「わかりません。ですが、まちがいなくあれは新型のギガースです」
表で戦っている連中とその指揮官との会話のようだ。
オージェは言った。
「今の通信を聞いただろう」
オージェの前にいる地上軍の兵士は銃口をさっと上に向け、敬礼をした。ほかの兵士たちも慌ててそれにならった。
「失礼しました、ナザーロフ大尉」
「指揮官のところに案内してもらおう」
「こちらです」
一番前にいた兵士が言った。「ですが、本当に空から降りてきたんですか?」
11
チェレンコは、天文台に付属する研究施設の係員の一人になりすましていた。月自治区では、比較的自治体の管理が甘く、身分を詐称することは、それほど難しくはない。
ヘンドリックでジンナイたちと会ったときには、すでに天文台の職員としての身分を手に入れて、昼間は天文台で勤務していた。
周回軌道から降りてきた連中が入り口を突破した後、チェレンコは彼らを誘導して素早く天文台を占拠することになっていた。
その後はヤマタイ国本国から映像やデータが送られてくる。それを、地球圏に向けてぶちまけるのだ。
アマチュア天文学者や無線愛好家がその電波を傍受するだろう。ウェブ・サイトにも多量のメッセージを送り込むことになっていた。
他の係員たちは、この施設を守っている連合軍の月面地上軍とテロリストが銃撃戦を行っていると聞いて、全員が震え上がっていた。
チェレンコと同じ部屋にいるのは、科学者や技術者たちだ。戦闘と聞いて怯えるのも無理はない。
「どうなるんだろうな……」
係員の一人がチェレンコに話しかけた。
「地上軍がなんとかしてくれるだろう」
チェレンコはこたえたが、それは万に一つもないと思っていた。研究施設に駐屯している地上軍の兵力は少ない。
ヤマタイ国の精鋭部隊が軌道上から降りてきたら、対処することなどできないに違いない。
「あんたも、赴任して間もないというのに、とんでもないことになったもんだ」
その部屋には十数人の科学者や技術者がいたが、みんな不安そうに知らせを待っている。彼らは地上軍の指揮官に、そこから動くなと厳命されていた。
壁の通信用のモニターに、突然地上軍の指揮官の顔が映し出され、全員が注目した。
指揮官は言った。
「皆さん、ご安心ください。テロリストは我々が制圧しました。もう危険はありません。繰り返します。もう危険はありません」
とたんに、歓声が上がった。
チェレンコも皆と同じく笑顔を作らなければならなかった。
失敗か。
チェレンコは思った。
まさか、突入部隊が制圧されるとは思わなかった……。
作戦が失敗したら、チェレンコはすぐに撤退するように命令されていた。ここを出て行くのは簡単だ。
だが、いったいなぜ失敗したのかを知りたくなった。あり得ないことが起こった。そう感じた。
チェレンコは、部屋を出て戦闘が行われたゲートに向かった。
*
地上軍の中隊長は、アルフレッド少佐といい、軍人にしては腹が出過ぎていた。
「わざわざ無茶をして空から降りてこなくても、私たちだけで対処できたものを……」
アルフレッド少佐は、皮肉な口調でオージェに言った。
とてもそうは思えなかった。オージェはここに来て初めて知った。安全な月自治区で長年過ごしていたせいで、地上軍の兵士たちはたるみきっていた。
民間のガードマンですら、もう少しましな働きをしそうだな。
オージェはそんなことすら思った。
伝令がやってきた。
アルフレッド少佐は、尊大な態度で言った。
「何だ?」
「状況の報告に参りました」
「聞こう」
「敵の総勢は十名。そのうち、四名が死亡、三名が負傷しています。当方は、二名が死亡、負傷者五名です」
死亡した四名の敵のうち、三名はオージェが殺したのだ。それが、地上軍の戦果となる。アルフレッド少佐は、戦闘の現場にすら行かなかった。
「ゲートの中に集めておけ」
アルフレッド少佐は言った。「抵抗したら、撃ち殺せ」
オージェは言った。
「負傷者の手当てをするべきでしょう」
「ここは私たち地上軍の管轄だ。口出しはやめてもらおう」
相手は、少佐だ。オージェは従うしかなかった。
アルフレッド少佐は言った。
「ごらんのとおり、立て込んでいるんで、空軍のエースパイロットのお越しとあっても、歓迎などできんぞ」
「本隊と連絡を取りたいのです」
「本隊? 空軍か?」
「いえ、海軍のアトランティスです。現在周回軌道上の月の裏側にいるはずです。あと、三十分もしたら、通信が可能になると思います」
「空軍のエースパイロットが戦艦に乗っているのか?」
「戦況は刻々と変化しています。ご存じありませんでしたか?」
「空軍のことも海軍のことも知らんよ。通信したければ、好きにしてくれ。どれ、私は捕虜の顔でも拝んでくるか」
「ごいっしょしてよろしいですか?」
アルフレッド少佐は、じろりとオージェをにらんだが、拒否はしなかった。
「好きにすればいい」
明らかに、ヤマタイ国軍のほうが鍛え上げられている。オージェは、捕虜たちを見たときそう感じた。
怪我をしている者もそうでない者も、その眼には力強い意志の光が宿っている。
「指揮官は誰だ?」
アルフレッド少佐は尋ねた。
「私だ」
ひげを蓄えた男が言った。
「名前は?」
「ヒュウガヒコ」
「ヒコというのは、称号だろう。本名を訊いている」
「今は本名がヒュウガヒコだ。ヒミカ様に与えられた名誉ある名だ」
いきなりアルフレッド少佐がバックハンドでヒュウガヒコと名乗る相手の頬を殴った。ヒュウガヒコは、顔をそむけたが、すぐにまっすぐに視線をもどした。
「ここで偉そうな口をきくな」
アルフレッド少佐は怒鳴った。
オージェは、思った。
軍人としての格が違う。こんな軍人が指揮官をつとめているようでは、連合軍はもたない。内側のエアロックが開き、ヒュームスのドライバースーツ姿が飛び込んできた。
「ミズキ少尉」
オージェは呼びかけた。
アルフレッド少佐が、ミズキ少尉のほうを見た。
「上官の前だぞ。ヘルメットを取らんか」
「まずは礼かねぎらいを言うべきではないですか」
オージェは言った。「危険な月面着陸をやってのけ、敵を制圧したのです」
「口をつつしんだほうがいい」
アルフレッド少佐が言った。「頼んで来てもらったわけじゃないんだ」
ミズキ少尉がヘルメットを取った。
地上軍の兵士たちは、ヘルメットの中から美しい少女の顔が現れたので、驚いた様子だった。
だが、ヤマタイ国軍の兵士たちの驚きようはそれどころではなかった。
オージェが彼らの反応に驚いたほどだった。ヤマタイ国軍の兵士たちは、衝撃のあまり、顔色さえ失っていた。
何だ……。
オージェは思った。
何をそんなに驚いているんだ。
「まさか……」
ヒュウガヒコが驚愕の表情のままうわごとのような調子で言った。「ヒミカ様……」
オージェはそのつぶやきを聞き逃さなかった。
「何だって?」
オージェは、ヒュウガヒコに言った。「ヒミカだと?」
ミズキ少尉もヒュウガヒコを不思議そうに見ている。
オージェは再び尋ねた。
「なぜ、彼女を見てヒミカと言った?」
ヒュウガヒコは我に返った様子だった。彼は口を閉ざして何も語ろうとしない。
オージェがさらに問いただそうとしたとき、アルフレッド少佐が言った。
「捕虜と勝手に話をするな」
佐官には逆らえない。オージェは口をつぐむしかなかった。
アルフレッドは地上軍の兵士に命じた。
「捕虜どもをどこかの部屋に閉じこめておけ。さあ、行け」
兵士たちは、怪我をした者も含めて捕虜を連行していった。
「彼らと話をさせてほしいのですが……」
「出過ぎたまねはやめてもらおう」
「彼らは、そこにいるミズキ少尉を見て、ヒミカと言ったのです。ヒミカとは彼らの指導者の名です」
「捕虜の戯言《たわごと》に耳を貸すな。こちらを攪乱《かくらん》しようとしているだけだ」
「しかし……」
「ヒュームスと戦闘機を軌道まで戻す手はずを整えなけりゃならん。まったく、面倒な話だ」
そう言うとアルフレッド少佐は、去っていった。
「マスドライバーまで運んで打ち上げれば、アトランティスが拾ってくれます」
ミズキ少尉が言った。
オージェは軌道に戻ることなど心配していなかった。月面ではそれは簡単なことだ。
それより、気になることがあった。
「敵は、君を見てヒミカと言った」
「はい。私も驚きました」
「私はヒミカがどういう人物なのか知らない。容貌も年齢も……。だが、今わかった。ヒミカは君に似ており、年齢も君くらいなのだ」
「そういうことになりますね」
「何か、知っているのか?」
「いいえ。私は何も知りません」
「よほど似てなければ、彼らはあんな反応は示さない」
「そうかもしれません。ですが、本当に私はその理由について何も思い当たりません」
オージェは、ミズキ少尉の受け答えを訝《いぶか》しく思っていた。何かを隠しているのではないか。そんな気がした。
「他人のそら似というわけか」
ミズキ少尉は、肩をすくめた。
「そうとしか考えられません。それより、大尉、すぐに医務室に行って被曝量と減圧症の検査を受けてください。船外活動をした者にはそれが義務づけられています」
「君も検査を受けたほうがいい」
「ええ。そうします」
無邪気に振る舞っていたと思えば、急に謎めいてくる。オージェは、ミズキ少尉のとらえどころのなさに、困惑していた。
*
チェレンコは、柱の陰に隠れてそっと様子をうかがっていた。
仲間がゲートのエアロックの前に集められている。
やたらに偉そうに振る舞う指揮官の様子が見えた。その指揮官は、ヒュウガヒコの頬を殴った。
それでもヒュウガヒコは毅然《きぜん》としている。
さすがだな。
ヒュウガヒコは、歴戦の勇者だ。木星方面隊時代からの仲間だが、彼ほど腹がすわっている者はいない。
だからこそ、この作戦は成功すると信じていたのだ。
エアロックが開き、ヒュームスのドライバースーツを着た人物が入ってきた。小柄なやつだ。
ヒュームスだと……。
チェレンコは作戦が失敗した理由を悟った。天文台に軍用のヒュームスなどないと考えていたのだ。
敵は、ひそかにヒュームスを置いていたというのか。そんなはずはなかった。チェレンコは事前に天文台と研究施設を調べてあった。ヒュームスなど隠し持っているはずはなかった。
では、どこからやってきたのだ……。
ヒュームスのドライバーがヘルメットを取った瞬間、そんな疑問など吹き飛んだ。
チェレンコはあやうく声を上げそうになった。
ヒミカ様……。
ヘルメットを取ったヒュームス・ドライバーは、ヒミカにうり二つだった。髪の色も同じ、眼の色も同じだ。緑がかった神秘的な茶色の眼。
チェレンコは信じられない思いで、彼女を見つめていた。
冷静になれ。
チェレンコは、自分にそう言い聞かせなければならなかった。
冷静になれ。ヒミカ様がこんなところにおられるはずはない。あれは、別人だ。
チェレンコは誰かに見つからないうちに、部署に戻ることにした。そっと来た通路を引き返す。
だが、あのヒュームス・ドライバーはいったい何者だ?
他人とは思えない。それほど、よく似ていた。いったいどういうことだろう。
考えてもわかるはずはなかった。だが、考えずにいられなかった。ヤマタイ国軍の兵士は全員ヒミカに忠誠を誓っている。
形だけの忠誠ではない。心から敬愛しているのだ。
それだけに心理的な衝撃が大きかった。
ジンナイとまた接触してみるか。コニーというあの女記者なら、何か探り出してくるかもしれない。
当分本国とは連絡がつかない。
チェレンコは、ジンナイかコニーに再度連絡を取る方策を考えることにした。
12
月周回軌道上
強襲母艦アトランティス
アトランティスは、推力を失ったシドニー号に第二小隊を送り込んだ。トリフネの抵抗はなかった。シドニー号に補給の設備はなかったのだ。
カーターは、喜んで第二小隊のフランク・キャラハンにシドニー号制圧の名誉を譲った。ドッグファイトの直後に白兵戦までやらされるのではたまらない。
トリフネ六機と月面着陸船でペイロードのすべてを占めていたようだ。第二小隊は、ヒュームスから降りて白兵戦を挑み、シドニー号を占拠した。
船にはトリフネのパイロットと、シドニー号の操縦クルーが三名いただけだった。彼らは、ほとんど無抵抗で捕虜となった。
おそらく、月に着陸船を送り込んだことで彼らの任務は終わっていたのだ。
シドニー号は、そのまま月周回軌道上に残された。空軍がその船体をいずれ回収することになった。
カーターは、シドニー号に何かジュピタリアンの特別な装置や書類が残されているとは思わなかった。しかし、偽装に手を貸した地球圏の住人がいるかもしれない。その手がかりが見つかる可能性はあった。
そのために船体を回収して調査しなければならない。
いずれにしろ、空軍がやることだ。
カーターは、任務が終わったあとの虚脱感を覚えていた。
アトランティスは、月から上がってくる輸送船とランデブーし、荷物を受け取ってから加速をして月の周回軌道を脱出し、ノブゴロド空軍基地に向かう軌道に乗る予定だった。
カーターは、リーナが生きているという知らせを聞いて心から安堵《あんど》していた。さらに、ギガースがエイトケン天文台を守ったという話を聞き、なぜか落ち込んだ。
本来なら、俺がやるべき仕事だった。
そんな思いがあった。
だが、それは不可能だった。クロノス改の作戦行動時間は、ギガースには及ばない。いや、それ以前に、カーターにはヒュームスで月面着陸をするなどという無茶はとても思いつかなかっただろう。
リーナとギガースにしかできない芸当だ。
それが口惜しかった。素直にリーナは特別だと認めてしまえばいいのかもしれない。しかし、それはできない。
海兵隊小隊長の誇りがある。
カーターは、複雑な思いでリーナの帰りを待ちわびていた。
月面からマスドライバーで打ち上げられた軍の輸送船にはギガースとオージェのツィクロンが載せられていた。アトランティスは周回軌道上でその輸送船とランデブーし、ギガースとツィクロン、そして、オージェとリーナを回収する。
ツィクロンの修理は、ノブゴロドでなければ無理だ。そして、捕らえた九名の捕虜を収容する必要もあり、アトランティスは、ノブゴロドにドッキングすることになったのだ。
予期しなかった上陸の機会が与えられた。ノブゴロドは、ベース・バースームよりずっと住み心地がいいという噂だ。
なにせ高価なコロニーなので、遠心重力は一Gに保たれており、気圧も一気圧に与圧されている。地球と同じだ。
コロニー内には、森や湖もあるという。建物は、ロシアの伝統的な建物やスターリン様式を模して建てられているという。
カーターは、ノブゴロドに上陸するのが少しだけ楽しみだった。もしかしたら、地球に降りたような気分を味わえるかもしれない。
「輸送船が見えたそうです」
ロン・シルバー中尉、通称カウボーイがカーターに告げにきた。「みんな、エアロックの前でリーナを待ちかまえています」
カーターは小さく溜め息をついた。
「あいつは、帰投命令に違反したんだ。歓迎は控えめにしないとな……」
「ヒュームスで月面着陸をやってのけ、エイトケンに突入しようとしていた敵を蹴散らしたんですぜ」
「リーナ一人にやらせるべきじゃなかった」
「わかってますよ。俺の突撃艇なら着陸できたかもしれません。しかし、あのときはトリフネとのドッグファイトの最中だった。それに、敵が上陸することは予想外だったんです。エリオット作戦司令だって、計画にない月面着陸を命じるわけにはいきません」
「帰投命令が出たら帰投しなければならない」
「命令が出たときには、ギガースはすでに着陸態勢に入っていたんでしょう? おかげでエイトケン天文台を守れたんです。結果オーライですよ」
カウボーイは、楽天家だ。
楽天家であることは、宇宙で生き延びる一つの資質といえる。悲観的にものを見る者、すぐに諦める者は、宇宙では生きていくことはできない。
俺もかつては自分のことを楽天家だと思っていた。だが、この戦争が始まって何かがおかしくなっちまった。
カーターは、かぶりを振ってほほえんだ。
俺もカウボーイを見習うことにするか。
「じゃあ、命令違反のじゃじゃ馬を出迎えに行くとするか」
カーターは、カウボーイとともに部屋の出口に向かった。
*
オージェは、輸送船に乗っている間、ミズキ少尉との会話の内容を選ばなければならなかった。
狭いコクピットの中では輸送船のクルーたちに聞かれてしまう。
ヤマタイ国の捕虜たちが、ミズキ少尉を見てヒミカと呼んだことは、軽はずみには話せないと判断した。
アルフレッド少佐が、そのことを上層部に報告するかもしれない。だが、それは地上軍を統轄する司令部が判断することだ。
オージェは、そのことに関しては口をつぐんでいることにした。
もう一つ気になったことがあった。その話題ならば、他人に聞かれても問題はなさそうだった。
「今回、月の周回軌道上で戦ったトリフネだが……」
オージェは、隣のシートのリーナに話しかけた。彼らは、並んだシートにハーネスで固定されていた。
「何です?」
ミズキ少尉の声が聞こえてくる。
「以前戦ったトリフネとどこか違うように感じた。君はどうか?」
「そう。明らかに違っていました」
「以前戦ったときは、ECMの最中にもかかわらず、まるで互いが密に連絡を取り合っているかのように動きに統制が取れていた」
「はい。トリフネは未知の管制システムを使っているのではないかといわれています。しかし、今回はその管制システムを使っていないようでした。我々と同じく、通信の途絶えた状態で戦っていたのでしょう」
「それはなぜだろうな……」
「カガミブネが関係しているのかもしれません」
「ミラーシップが……?」
「かつて、私たちが戦ったトリフネはすべてカガミブネから発進していました。つまり、カガミブネがすぐそばにいたのです」
「なるほど……」
「ジュピタリアンの管制システムは、カガミブネとトリフネがセットになっているのかもしれません」
「いったいどんな管制システムだというのだ?」
「それはまだ明らかにされていません。海軍や海兵隊でも知らないことです」
「そうだろうな」
トリフネの管制システムが解明されていたら、いち早くその知らせは軍全体に行き渡るはずだ。
いや、果たしてそうだろうか。
オージェは思った。
軍というのは、それほど純粋な組織だろうか。事実、メインベルトの軌道交差戦までは、空軍と海軍は、ライバル意識をむき出しにしていた。
それぞれ独自のテクノロジーで兵器を開発してきたのだ。その背景には、地球時代の大国の面子《メンツ》があった。米ソの冷戦時代から続く宇宙開発競争の名残《なごり》だ。今では、それに中国や旧EUが加わっている。
新しいテクノロジーを秘密裡に解明して、それを独占しようとする勢力があっても不思議ではない。
地球連合軍は一枚岩《いちまいいわ》ではない。事実、アルフレッドのような指揮官もいる。
オージェが考えに沈んでいると、ミズキ少尉の声が聞こえた。
「トリフネの管制システムは、この戦争の悲しさを象徴しているような気がします」
オージェは、思わず眉をひそめた。
「どういうことだ?」
ミズキ少尉は何もこたえなかった。
輸送船のクルーが二人の会話を聞いているかもしれない。これ以上つっこんだ話はできない。
オージェはそう思った。
ミズキ少尉は、たしかに私の知らない何かを知っている。だが、それを聞き出す権利が自分にあるのだろうか。それは空軍パイロットとしては必要のないことなのかもしれない。
だが、好奇心を激しく刺激された。
いや、それは好奇心以上のものだった。それを知ることで、こちらの身の振り方も決まってくる。
オージェは、危険を承知でそんなことを考えていた。
*
エアロックを開けたとたんに、オージェは驚いた。
エアロックの向こうには、海兵隊の第一小隊の連中と、要撃隊員たちが顔をそろえていた。
海兵隊員たちは、歓声を上げ、狭い廊下でミズキ少尉のキャッチボールを始めた。地球で言う胴上げやハイタッチに当たる行為だ。
それに比べ、要撃隊員たちはひかえめだった。彼らは、四方の壁に磁石の靴で立ち、オージェに向かって敬礼をした。
ユーリがほほえんでいった。
「お帰りなさい、隊長」
オージェはユーリに言った。
「エイトケンに駐留していた地上軍には冷たくあしらわれたので、この歓迎はうれしいな」
「ツィクロンで月面着陸をやってのけるとは驚きました」
「私も、驚いたよ。あのミズキ少尉のおかげで無事だった」
「冗談じゃない」
アレキサンドルが言った。「あいつが無茶さえしなければ、隊長が月まで降りる必要はなかったんだ」
「だが、それではおそらくエイトケンは、敵に制圧されていただろう」
「地上軍がいたでしょう」
アレキサンドルがむっとした表情のまま言った。
「ああ、いた。たしかにいたよ。だが、それだけだ」
アレキサンドルは奇妙な顔をした。
ようやく海兵隊員たちの手荒い歓迎の儀式が終わった。ミズキ少尉はようやく解放されていた。
オージェはミズキ少尉に言った。
「さあ、ブリッジに行こうか。我々は命令違反の罰を受けなければならない」
「はい」
ミズキ少尉は言った。
「俺も行こう」
カーター小隊長がミズキ少尉に言った。
「いいえ、それには及びません」
「俺は状況を見ていた。帰投命令が出たとき、おまえさんはすでに月の重力に引かれていた。命令に従うのは不可能だった」
オージェはほほえんだ。
「その言い訳は私に対する弁護にもなるな」
カーターはうなずいた。
「どうかな。あんたの僚機は戻ってきた」
「新型に乗っていたものでね。扱いに戸惑ったのだ」
「エースパイロットの台詞じゃないな。だが、礼を言っておく。最後までリーナを助けようとしたのは、あんただけだ」
オージェはその言葉を、ありがたく受け止めた。
それから壁を蹴り、ブリッジへ向かった。すぐ後ろにミズキ少尉が続き、それからカーターが続いた。
*
「帰投命令に違反したことは許し難い」
エリオット作戦司令は、厳しい表情で言った。
カーターは、磁石の靴で直立し、エリオットと眼を合わせずに正面を向いていた。
特別に同席を許可してもらったのだ。やたらに発言はできない。カーターは、発言のチャンスを待たなければならなかった。
「宇宙で運用しているのは、いずれも高価な機械だ。そして、何よりもそれに乗っているパイロットやドライバーの命はさらに尊い。軍は一人のパイロット、一人のドライバーを育てるために莫大な金を費やす。私は、被害を最小限に食い止めるために作戦を考え、命令を下す。それを無視するということは、軍全体に対する反逆だ。私の命令に従わない者は、船を降りてもらう」
カーターは、慌てた。まさか本気じゃないだろうな。
ギガースに乗るリーナとオージェがこの艦からいなくなったら、一気に戦力ダウンだ。
「わかっているのか?」
エリオットが一喝した。
「|はい《イエッサー》」
カーターは緊張して、エリオットの次の言葉を待っていた。
エリオットはしばらく無言でいた。自分の言ったことを相手がちゃんと理解するまで待っているようだった。
作戦司令はおもむろに口を開いた。
「君たちが帰投命令に従わなかったことについて、カーターが何か言いたそうだ。カーター」
カーターは、唇をなめてから話し出した。
「サー、帰投命令の信号が上がったとき、リーナのギガースは、すでに月の重力に引かれていたものと思われます。あの状態からアトランティスに帰投するのは無理だったと思われます」
そして、カーターは嘘を付け加えた。「それは、ナザーロフ大尉のツィクロンも同様だったと思われます」
フライトレコーダーを調べればこんな嘘はすぐにばれる。だが、それは承知の上だった。
エリオット作戦司令は、しばらく黙ってカーターを見つめていた。カーターは、目をそらしてまた正面を見据えた。
「カーターはこう言いたいのだ。君たちは命令に従わなかったのではなく、従えなかったのだ、と……。ナザーロフ大尉、そうなのか?」
「はい。カーター大尉の言うとおりです」
「ミズキ少尉、君はどうだ?」
「はい。カーター大尉の言うとおりです」
それから、エリオットは溜め息をついた。
「君たちにはいつもはらはらさせられる。こちらの身にもなってくれ」
オージェもリーナも無言で立っている。
エリオットは言った。
「今回の件については、艦長から一言あるそうだ」
エリオットが艦長のほうを見た。艦長のクリーゲル准将は、シートにハーネスで体を固定したままだった。
「人類の宇宙での生活の歴史はまだ浅い」
クリーゲル艦長は言った。「我々は手探りでいろいろなことをしている。今回、二人は戦闘機とヒュームスで周回軌道上から月面に降りられることを証明してくれた。それは今後の作戦におおいに役立つだろう。冒険は船乗りの宿命だ。冒険をしない船乗りは船乗りではない。おっと、飛行機乗りもいたな。飛行機乗りだってそうだろう。私が言いたいのはそれだけだ」
艦長は、二人の行動を評価しているようだ。だが、命令違反は命令違反だ。カーターは心配していた。
まさか、ノブゴロドへの上陸取り消しになるのじゃないだろうな。特にオージェにとってそれはつらい措置《そち》だ。
カーターは、リーナとともにノブゴロドの景色を見てみたかった。
エリオット作戦司令が、リーナとオージェのほうを見た。
カーターも緊張した。
「ノブゴロドに着くまでの三日間、自室で謹慎していろ。部屋から出ることは許さん」
独房入りと同じことだ。
カーターは思った。
それから、エリオットは付け加えた。
「ノブゴロドでは、二人に勲章が待っている。上陸をおおいに楽しめ。以上だ。解散」
13
月南極
エイトケン天文台
アルフレッド少佐は、突然軍情報部の将校の訪問を受けた。
軍の誰かがやってくるときは、必ず司令部から事前に知らせがあるはずだ。それもよりによって軍の情報部がやってくるというのは、解《げ》せなかった。
やってきた将校は、みるからに情報部の人間という顔つきをしていた。まったく無表情だ。制服の階級章で、その男が大佐であることを知った。
情報部の大佐は、二人の部下を連れていた。その二人は少佐だった。だが、その二人も大佐と似通っていた。無表情で無口だ。
彼らは、何を考えているかわからない不気味な雰囲気があった。
彼らは名乗らなかった。アルフレッド少佐は、身分証を確認したいと言ったが、彼らはそれには応じなかった。
「身分を確認できないことには、協力はできませんね」
アルフレッド少佐には、ここが自分の城だという思いがあった。これまでは、安全な城だった。研究施設の護衛のために駐留しているだけだ。
これまで、事件らしい事件もなかった。楽な仕事で、しかも指揮官として優遇される。だが、先日の出来事で、事情は変わったようだ。
ヒュームスは降りてくるわ、空軍のエースパイロットはやってくるわ、挙げ句の果てに情報部だ。早く、もとどおりののんびりした日々に戻ってほしい。
情報部の大佐が言った。
「私は協力しろとは言っていない。命令に従えと言っているのだ」
アルフレッドはうんざりした。
「お言葉ですがね、ここは地上軍の管轄だ。司令部に話を通してください」
「話は通っている」
「何ですって……」
「捕虜に会わせてもらおう」
「地上軍の捕虜ですよ」
「違う。地球連合軍の捕虜だ」
アルフレッドは、相手の眼を見ているうちにおそろしくなった。冬の空のような灰色をしている。
こんなやつに関わりたくない。早く、立ち去ってもらおう。そのためには、ちょっと我慢をして言うことをきいてやろう。
「わかりました。こっちです」
アルフレッドはわざと大股でジャンプして廊下を進んだ。月に慣れていないと、なかなかついてこられないはずだ。
だが、彼らは、滑《すべ》るように移動して楽々とアルフレッドについてきた。
ますます気味の悪い連中だ。
だいたい情報部というのは、軍の嫌われ者だ。軍の秘密を一手に握っているつもりでいる。実際、やることがすべて秘密めいている。
アルフレッドはドアを開けた。
「ここです」
「下がっていてくれ」
中はひどい臭いがした。風呂どころか、トイレも与えずに閉じこめておいたのだ。捕虜たちは部屋の隅に排便排尿をするしかなかった。
「捕虜の扱いについてあれこれ言わんでください」
アルフレッドは言った。「もともとこの天文台に捕虜を収容する施設なんてなかったんですから」
大佐は何も言わなかった。
二人の少佐がいきなり銃を抜いて部屋の中に向けて撃ちはじめた。
アルフレッドは仰天した。
少佐たちは、弾を撃ち尽くすと、さらにマガジンを替えて撃った。
アルフレッドは腰を抜かしそうだった。
硝煙がたなびいている。
中の捕虜たちが一人残らず死んだことは、見なくてもわかった。それくらい徹底した射撃だった。二人の少佐は、マガジンを拾うと、銃といっしょにしまった。顔色一つ変えなかった。
大佐がゆっくりとアルフレッドのほうを見た。
「この捕虜たちが、ギガースのドライバーと顔を合わせたとき、君もその場にいたのかね?」
「ギガース?」
「月面に降りてきたヒュームスだ。その場にいたのか?」
「はい」
アルフレッドは、正直にこたえるしかなかった。彼は震え上がっていた。
「やつらは、何と言った?」
「覚えていません」
「本当のことを言ってもらいたい。重要なことだ」
アルフレッドはごくりと唾を飲み込んだ。
「ヒミカと……」
大佐はうなずいた。
彼が脇によけると、後ろに少佐の一人が立っていた。
アルフレッドは信じられなかった。
その少佐がアルフレッドに銃を向けている。
何かの冗談だろう。
そう思いたかった。
笑いを浮かべようか、抗議をしてやろうか。そう考えているうちに、何もわからなくなった。
アルフレッドの思考は永遠に停止した。彼は、銃声を聞いたとたんに死んでいた。アルフレッド少佐は宇宙より深い闇に沈んだのだ。
月面都市・アームストロング・シティー
チェレンコは、三十六番区にたたずんでいた。ヘンドリックの前だった。ドアに銃弾の跡がある。
ガラスは割れ、店の看板も割れていた。
いまだに警察が封印していた。黄色のテープが入り口に張り巡らせてある。ここで仲間が死んだ。本国から潜入した仲間もいたし、貴重な月自治区の協力者もいた。
今朝、エイトケン天文台で起きた事件についての報道があった。
捕虜の反乱があり、再び地上軍との戦闘となった。そして、捕虜全員が射殺された。なお、その際に、陣頭指揮に立っていた駐留軍中隊長のアルフレッド少佐が殉職した。
ニュースキャスターは、淡々とそう告げた。
捕虜の反乱だと……。
チェレンコは、そのニュースを聞いたとき思った。
そんなことが起きるはずはない。武器も持たず、どうやって反乱を起こすんだ。
捕虜は消されたに違いない。軍隊のやることではない。少なくとも、軍人の誇りがあるのなら、捕虜を全員抹殺などできないはずだ。
駐留軍中隊長のアルフレッドというのは、ヒュウガヒコを殴った偉そうにしていた将校だろう。
彼が死んだという事実があることを物語っていた。
つまり、あのヒュームス・ドライバーだ。
ヒミカにうり二つのヒュームス・ドライバー。
ヒュウガヒコたちは、彼女の顔を見たがために消され、そして、アルフレッドという将校は、ヒュウガヒコが彼女をヒミカと呼んだのを聞いたがために消された。
軍にはそれほどまでして、守りたい秘密がある。そして、その秘密は、あのまだ少女といってもいいヒュームス・ドライバーに関わっている。
戦闘の報道により、あの少女は、強襲母艦アトランティス所属の新型ヒュームス・ギガースのドライバーであることを知った。
アトランティスとギガース。
それは主戦場に必ず姿を現す。
チェレンコは、激しい怒りをなんとかなだめようとしていた。スパイ活動をする彼にとって感情に左右されるのは、最も危険なことだった。
死んだヒュウガヒコのことは、一生忘れられないだろう。また、忘れてはいけないと思った。
戦場で死んだのならまだ救われる。捕虜となり、そして連合軍の秘密を守るために殺された。
それが、なんとも無念だった。
「私も死ぬときは、チェレンコではなく、タカメヒコとして死にたいものだ」
チェレンコはそうつぶやくと、ヘンドリックの前を離れた。今のところ、UNBIやその他の地球連合政府当局の監視や尾行はついていない。
だが、いつ見つかるかわからない。
事を急がねばならない。なんとか、ジンナイかコニーに連絡をつけたい。だが、すべての通信手段は危険だった。
電子メールもディスクを郵送するのも危険だ。連合政府の情報統制は次第に強まっている。
情報を伝えるのに一番的確なのは、直接会うことだ。しかし、それには別の危険が伴う。通信に伴うよりも、もっと実際的で切実な危険だ。
つまり、生命の危険だ。
チェレンコは、ヒュウガヒコを思いやった。そして、決意した。
生命の危険など、もとより承知の上だ。だが、私は生き延びる。そして、この戦争がなぜ始まったのかを伝える義務がある。
戦争に勝つことではなく、戦争を終わらせることがヒミカ様の最大の願いなのだ。
チェレンコは、再び地球に潜入する方策を練るため、ねぐらへ引き上げることにした。
*
ノブゴロドの空気を胸一杯に吸い込み、カーターは、感動していた。地球と同じ匂いがする。
一G型のコロニーというのは、こんなに快適なものなのかと改めて思った。空気には適度な湿度があり、樹木の匂いが混じっているように感じられる。
宇宙ステーションのベース・バースームとは大違いだった。さすがに、空軍最大の基地があるコロニーだ。
街の風景も美しい。尖塔《せんとう》形のビルや、レンガを模した建物。本当にロシアの街を歩いているようだ。カーターはちょっとした旅行気分だった。
隣を歩くリーナも気分がよさそうだった。
カーターとリーナの案内役は、オージェだった。彼は、ノブゴロドの中心街を案内してくれた。コロニーの中は、季節の変化もあるということだ。
今は夏時間で、夜になっても外は明るい。
「一杯やらないか」
オージェが言った。「本物のウォッカをおごる」
カーターはこたえた。
「ビールならよろこんで付き合おう。そして、このお嬢さんにはコーラか何かがいいな」
「ノブゴロドには何でもある」
オージェは、薄暗いバーに入った。彼はカウンターではなく、奥のテーブルを選んだ。
三人が腰を落ち着けると、オージェは顔見知りらしいバーテンダーに三人の飲み物を注文した。ノブゴロドでは、オージェは有名人だ。誰もが彼を知っていた。
飲み物が来て、乾杯をすると、オージェは小さなショットグラスに入ったウォッカを一息に飲み干した。
それから、まるで世間話をするような態度を装って言った。
「空軍がトリフネを分解して調査した」
カーターは興味を引かれた。
「彼ら独自の管制システムの秘密がわかるかもしれない」
「ところが、入手したトリフネには、特別な装置など付いていなかった。システムのほとんどは驚くほど地球のものに似ていたそうだ」
「そういえば、あのときのトリフネの動きは、前に見たのとちょっと違っていた。俺たちの動きと変わらなかった。特別な装置を取り外していたのだろうか」
「何のために」
「地球連合軍に奪われたときのことを考えてじゃないのか」
オージェはリーナを見た。
「君はどう思う?」
「トリフネには、もともと特別な装置などないのかもしれません。地球連合軍との違いは、その使い方ではないかと思います」
「どういう使い方をすれば、ECMの最中に互いに連絡を取り合っているような連携が可能なんだ?」
「それは……」
リーナはかぶりを振った。「わかりません」
オージェは何か勘づいているのだろうか。
カーターは訝《いぶか》った。
リーナが、実は情報部所属の海軍少佐であり、サイバーテレパスであることを知っているのは、アトランティスでは四人だけだ。カーターとエリオット作戦司令、クリーゲル艦長、そしてリーナ本人だ。
オージェは戦いを通して何かに気づいたのだろうか。
「私はエイトケン天文台で、敵が使っていた電子ロックの解除装置を見た。それも、地球連合軍が使っているものと、ほとんど同じ仕様だった」
「何が言いたいのだ?」
「私たちは、ジュピタリアンはまったく異文化の人々であり、理解のできないテロリストだという印象を持っていた。それは軍から与えられた情報によるものだ」
「事実、トリフネやミラーシップの運用方法は、地球連合軍とはおおいに違っている」
「それはおそらく、木星圏という生活環境が生んだものだ。彼らは私たちより宇宙に適合せざるを得なかったということだろう」
「もちろん、木星圏に住む人々だってもともとは地球人だったんだ。だが、敵は敵だ」
「そう。敵だ。だが、その敵が何を目的としているのか、考えたことはあるか?」
「ない」
カーターは、きっぱりと言った。「それは俺たちの考えるべきことじゃない。俺たちは、命令を遂行するだけだ」
オージェはうなずいた。
「そうだな。だが、戦いが進むにつれ、気になることが増えている」
「気になること……?」
オージェがカーターに言った。
「これは、ここだけの秘密にしておいたほうがいいと思うのだが……」
「何だ?」
「エイトケンで捕虜にしたジュピタリアンの兵士が、ミズキ少尉を見て、ヒミカとつぶやいたのだ」
カーターは、眉をひそめた。
それから、リーナを見た。
リーナは、戸惑ったような表情を浮かべている。
「本当か?」
カーターはリーナに尋ねた。リーナはうなずいた。
「本当です」
「それはどういうことなんだ?」
「あたしにはわかりません。ヒミカという人があたしに似ているというだけのことかもしれません」
オージェが言った。
「どうも、ミズキ少尉は、何か秘密を持っているような気がして仕方がないのだが……」
カーターは、その秘密について知っているつもりでいた。だが、オージェの話を聞いて、それは彼女が抱える秘密のごく一部なのではないかという気がしてきた。
リーナが言った。
「あたしは、ギガースのドライバーとして戦うだけです」
「火星上空での戦いのことだ。君は戦場で動きを止めた。その直後、トリフネがコントロールを失ったような動きを見せた」
カーターはリーナを見た。
オージェの眼を欺《あざむ》き通すことはできないと感じた。
リーナはカーターを見返してかすかにうなずいた。
「これは軍機に属する事柄なので、ここだけの話にしてください」
オージェは思わずカーターを見ていた。カーターは、これがばれたら営倉《えいそう》入りくらいじゃ済まないと思い、顔をしかめていた。
リーナは言った。
「あたしはサイバーテレパスです。高度に発達した電子装置、たとえばコンピュータなどと直接コンタクトすることができます。トリフネとの戦いの最中に、あたしと同様のサイバーテレパスの存在を感じました。それが、トリフネの管制システムに関わっているはずです。あのとき、あたしはサイバーテレパシーによるジャミングを試みたのです。つまり、サイコキネシスによる電波妨害のようなものです」
オージェは、じっとリーナを見つめていた。長い沈黙のあと、彼は言った。
「もう一杯やりたい気分になった」
オージェは、ウォッカのおかわりを注文した。ウォッカが来るとそれをまた一気に飲み干した。
それから、彼は言った。
「なるほど、それは聞かなかったことにしたほうがよさそうだ」
カーターは、リーナが情報部所属の海軍少佐であることまでをしゃべらずに済んだのでほっとしていた。
「それで……」
オージェはさらにリーナに尋ねた。「君とヒミカが似ているという点については、本当に何も知らないのか?」
「知りません。あたしも初めて知ったことです」
カーターはリーナと付き合いが長いし、同じ小隊で常に行動をともにしている。彼女を理解しはじめているという自負があった。
だから、彼女は嘘をついていないということがわかった。
彼女は本当に戸惑っている。
オージェは独り言のようにつぶやいた。
「この戦争はどこかおかしい」
カーターは笑い飛ばした。
「まともな戦争なんて、どこにある」
オージェもかすかに笑った。
「それはそうだな」
だが、実は、オージェの一言がひっかかっていた。サムのことを思い出したからだった。
「さあ、夜はとびきりのレストランに案内しよう」
オージェは突然口調を変えて言った。「ロシア料理を見直すこと、請け合いだ」
オージェはここで話されたことは決して口外しないだろうと、カーターは思った。オージェにはそれくらいの良識はあるはずだ。
オージェの夕食の誘いに、リーナは嬉しそうにはしゃいでみせた。
無邪気そのものに見える。
カーターは、その無邪気さは、抱えきれないほどの軍機と何かの運命を背負わされた少女の必死の抵抗なのではないかと思った。
そう思うとリーナを哀れに、そして愛《いと》おしく思った。
何があっても、こいつを守ってやりたくなるな。
カーターはそう思い、リーナを眺めていた。リーナの向こう側の窓から、美しいノブゴロドの夕暮れの風景が見えていた。遠くの林のシルエットが、リーナをより美しく見せていた。
[#地付き](第三巻 終わり)
[#改ページ]
「地球連合の成立とその現状」
[#ここから3字下げ]
高麗大学政治経済学部政治学科常勤講師
キム・ギョクスン
オオツカ、ケンスケ訳
(初出・「Korean Socialdemocrat」)
[#ここで字下げ終わり]
国民国家の超越
18世紀末期にフランスに誕生した、民族の自決権を根底に据えた「国民国家」は、愛国主義に脚色された多分にフィクショナルな存在だった。にもかかわらず、その統合と集約の機能は他に類を見ないほど高く、この後2世紀以上にわたって地球上に君臨した。
国民国家は、職業軍人に代わって「国民軍」を誕生させ、その破壊力は世界を植民地主義時代から帝国主義時代へと変貌させた。ナポレオンの遠征が、その始まりと言える。19世紀は、それまでの人類史上もっとも凄惨な血の時代となった。
こうした国民国家の猛威に最初の一撃を加えたのは、最先発の工業国家であるイギリスに生まれながら、後発の農業国家で花開いたマルクス主義である。
ロシアで打ち建てられたソビエトという「階級国家」は、国民国家よりさらにロマンティックな存在であり、故にその実験は残酷な結果を残した。彼らは国際主義を唱えて武力革命の輸出を試み、これによって国際主義と国家主義の対立という軸が20世紀世界に生まれた。
しかし皮肉にも彼らは、自らが拠って立つ生産性至上の社会主義経済が質的劣化の袋小路にはまり込み、自壊してゆく。
その幕間というには悲惨すぎる出来事だが、二度の世界大戦、特にその欧州戦域における黙示録的な人的被害が、欧州各国に大きく四つの変化を促した。
一つは、宗教勢力が持つ政治指導力の決定的な低下。
救いの手を差し伸べなかった「残酷な神」への依存を諦めたことにより、人々は、自らの救済は自らで行なわなければならないという当たり前の事実を、真摯《しんし》に認識するようになった。
一つは、剥き出しの資本主義に対する警戒感の高まり。
資本は必ずしも「万人の万人に対する闘争」をもたらしたとは言えなかったが、「万国の万国に対する闘争」を必然的に内包していた。
第2次大戦を引き起こしたドイツのナチズムは、社会主義混合経済ではあったが、資本が要請する帝国主義に参加することによって、急激な発展と、それ以上に急激な破滅を迎えることになったのである。
一つは、国境変更要求の自粛。
第1次大戦後、敗戦国のドイツからフランスが領土を奪ったことが、第2次大戦の大きな原因となった。
この教訓から、それまで自明視されてきた戦果としての領土割譲が否定され、無秩序な帝国主義に一定の歯止めがかけられた。
それと同時に、絶対視されてきた民族自決、一民族一国家というテーゼも、現存国境の変更を意味するため否定された。
そしてもう一つは、国家間協力関係の進展である。
世界大戦を終わらせるために創られた枠組みである国際連合、独仏不戦の誓いを形にした欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が、その具体的な成果である。
その背景には、ソビエト・アメリカという二潮流の超大国のあいだで、内部で一つに結束せざるを得ないという欧州固有の事情があった。だが、ECSCの創設者ジャン・モネは欧州合衆国の誕生を夢見た真の国際主義者であり、その精神の一部は欧州連合(EU)として結実する。
国連とEUは、全世界を包括する国際主義か、欧州という部分で結束する地域主義かという決定的な性質の差はあったが、国家間の和解と平和創出のための機能を果たした。
しかしこれらはあくまでも個々の国家の存在を前提とした組織であり、超国家を目指したわけでもなければ、国民国家を絶対的な地位から引き摺り下ろそうとしたわけでもなかった。
その役割を果たしたのは、歴史上最強の国民国家としていくつもの帝国を解体・吸収し、地球上に君臨したアメリカ合衆国のエゴと、その挫折であった。
最強国家の破綻と、地球連合の成立
17世紀初頭、わずか百余名の清教徒植民者からはじまったアメリカの歴史は、果てがないかのように思われた膨張の物語である。
18世紀末の英国からの独立以降、19世紀後半のただ一度、彼らが「市民戦争」と呼ぶ内戦で時計が止まったかのように見えたものの、その終結の直後に彼らは国内の「開拓」を終了し、植民地獲得競争に乗り出す。
そして、剥き出しの侵略が不可能になってからも、経済による進出、情報による支配、武力による恫喝が止む事はなかった。
その歴史は「アメリカ魂」という、極めて強固だがまったく抽象的な国民意識を形成する。そしてその抽象性ゆえに、意識は膨張の拠り所となり、膨張によって意識が再生産された。
二つの大戦によって屍《しかばね》を並べた欧州の先発帝国主義国家は、軍事力で大きくアメリカに後れを取った。
そしてアメリカの支配層は20世紀末期、最強の軍事力をフルに活用することによって最大のライバルたるソビエトを崩壊に導き、あまつさえ劣化した経済を立て直すことにまで成功した。
あまねく世界に君臨するかと思われたアメリカだったが、21世紀初頭、三つの大きな危機に直面する。
一つは、旧オスマン・トルコ帝国勢力下にルーツを持ったイスラム武装勢力による、国内の都市やインフラに対するテロ行為。
一つは、国内の反グローバリゼーション勢力による、生産設備破壊行動の頻発。
そしてもう一つは、バブルの破裂に起因する経済の崩壊である。
これら三つの危機はすべて、「アメリカ」の抽象的な単一性、膨張性向に端を発する。
最強の軍事力も、テロリストや組織労働者といった非政府組織相手には機能せず、まして、国民の多数を占めるようになった貧困層が国力の配当を求める声に対しては、何の役にも立たなかった。
そして際限のない軍備の拡張は、財政赤字をもはや世界経済が耐えきれない水準にまで拡大させた。アメリカ一国のみならず、先進各国すべての経済が、その影響を受けて沈滞した。アメリカ国民は自信を喪失し、力と神への信仰を弱めた。
合衆国第45代大統領ヒルダ・カーンは、対外積極関与策を停止して国内産業基盤の再生と共同体の再建に全力を傾斜する、いわゆる新モンロー主義を公約に掲げて当選した。
カーンは当選直後、アメリカはもはや単独で世界に対する影響力を行使することはないと言明する。
しかしこれは、アメリカが世界史から退場するということを意味しなかった。むしろ、21世紀を「アメリカの世紀」と決定づけたのは、彼女の行なった歴史的な決断による。
カーンは、経済を虫食んだ元凶でもある合衆国軍の主力を、国連に有償貸与するという前代未聞の政策を断行したのである。
もちろん、国軍を傭兵とするような政策が許されるわけはなく、国際安全保障確立のための多国籍部隊建設という名目ではあったが、実体としては遠征軍の貸出に他ならなかった。
彼女はこの決定に強く反発した国内の反連邦主義者によって爆殺されるが、現在に至るまで地球連合、およびその軍の中でのアメリカの地位は揺るぎないものになった。
この多国籍部隊建設にまず追従したのが、欧州と中国の狭間にあって孤立感を深め、戦略核兵器の維持費用にも事欠いていたロシアである。彼らはその航空宇宙技術の卓越によって、地球連合軍の中に独自の地位を確立することに成功した。
また、憲法によって固有の軍事イニシアティブを制限する国家であった日本も、アメリカに追従する形でこの政策に参画する。
アメリカが海軍を中心とした遠征軍と軍事技術を、ロシアが空軍と航空宇宙技術を、日本が海上戦力と官僚機構を提供する形で形成されたこの部隊は、ロシア共和国第4代大統領マキシム・アレクセイの提案により地球連合軍と命名された。
連合軍の拡大と地球連合会議の誕生
連合軍の創設とほぼ同時に、軍事情報を収集して、共有化するための独自機関として、国際連合捜査局(UNBI)が設立された。
その創設スタッフには、アメリカ連邦捜査局、ロシア連邦保安局、日本国警察庁公安部から集められた精鋭があたった。
集められた陣容を見ればわかるように、この組織は当初から単なる情報組織とは言えず、諜報組織としての側面を持っていた。
UNBIはこの後、連合軍の政治力を裏から支えるだけでなく、様々な部分で暗躍するようになる。
連合軍は当初、米・露・日の3国から派遣された軍人と官僚によって参謀本部を形成し、UNBIを従えて国連安全保障理事会の指揮の下に入った。
しかし、連合軍にEUや中国が参加し、相対的にアメリカの影響力が下がりはじめると、経済復興を遂げたアメリカの国内では、供出した兵力を撤収するべきだという声が強くなった。
かつてのアメリカの専横が復活することを望まない各国は、これを脅威と受け止め、国連総会において、地球連合軍を維持・運用する主体となりうる機構としての自己変革を決議する。
その内容は、上下二院制の議会と、議会によって選出される議長による意思決定機関、地球連合議会を結成するというものである。
これはつまり、全会一致原則や安全保障理事会での綱引きというくびきに繋がれていた国連の消滅と、参加各国に対して従来よりもはるかに大きな強制力を持つ超国家の誕生を意味していた。
ただし旧安全保障理事会常任理事国5カ国は、上院での過半数の議席数を特権的に与えられ、残りの部分は連合への提供資本の総額によって配分された。
また、下院の議席は人口と領土・経済水域面積の和によって配分されたものの、人口に対して領土面積の大きい米・露、そして広大な経済水域を有する日本の主張により、人口よりも面積を重視する計算式が設定された。
地球連合議会は独自の行政機構を持ち、実質的にその機能は「政府」そのものであったが、敢えてその名を冠さず、あくまで主権は所属各国にあるとした。
したがって各国には、独自の外交活動を行なう権利や、軍事力を保有する権利が引き続き認められた。
もっとも、連合軍の活動が活発化し、世界的な平和維持機構としての機能が信頼されるようになると、各国は軍事費支出を削減していった。
それにつれ、各国の軍隊は国内治安の維持を主たる目的とした、警察の特別部門といった性質の存在に変貌していった(数少ない例外として、アメリカは本土防衛のための有力な航空宇宙軍を維持しており、ロシアと中国も首都周辺に防空軍を配置している)。
同じ時期、連合議会への供出金を出すのを嫌って、主権を放棄する国もあらわれた。
こうした国家は、おおむね極く少数の富裕層が支配する独裁体制の国家であり、権力の維持さえ保証されるのならば国家主義にこだわる理由がなかったのである。
放棄された議席は他国に再配分される規定になっていたため、先進国の中には主権放棄の後押しをする国家まであった。
国家が消滅した地域では、民族や部族、あるいは地域単位で自治体が構成された。しかし、主権返上国の中には官僚機構が未整備な地域が少なくなく、公共ブロックの崩壊によって貧富の差は拡大、治安や衛生状態も悪化した。国家の継承や再建を求める勢力の中には武装闘争に打って出るところもあったが、これはUNBIと連合軍により容赦なく弾圧された。
こうした抑圧は、反連合主義の跳梁《ちょうりょう》とテロリズムの源泉となった。
連合の宇宙への鉱大と非国家組織の参加
議会と軍の二つの柱を持つようになった地球連合は、連合軍が優れた航空宇宙技術を持っていたことから、国際宇宙開発においても中心的な力を発揮しはじめる。
その背景に、原子力発電に関する利権を持つ、いわゆる「アトミック・マフィア」の援助があったことは見逃せない。
21世紀前半、原子力発電所や再処理施設、核廃棄物輸送ルートなどに対して行われたテロ行為は、大きな人的・経済的被害を出し、世界的な反対運動に火を付けた。運動は各国政府を動かすことに成功し、地球上での原子力発電所の稼動を原則として禁止する「包括的核発電禁止条約」―通称トマリ条約を産み出す。
彼らはまず、冷戦終結後の長期不況に喘ぐ米国の航空宇宙産業に大規模な資金注入を行い、経営権を握った。
そして、レールガン式マスドライバーと地上追尾式マイクロ波ロケット、軌道間エレベーターを組み合わせた、保守的だが現実性の高い軌道打ち上げシステムを連合軍に対して提案した。
完成した打ち上げ設備は、人員輸送にこそ向かわなかったものの、運用コストが安く、安全性も非常に高いことが実証され、これによって宇宙への核動力炉投入に目星がついた。完成した打ち上げ設備は、人員輸送などには向かなかったものの、極めて安全性に優れている事も実証され、これによって宇宙への核動力炉投入に目星がついた。
まず、それまで遅々として進まなかった月開発を支援するため、月−地球間の往還航路に核動力イオン推進ロケットが投入された。
このロケットは、月面に核分裂発電炉を建設する資材を運び、エネルギー的に自立した月は、急激に開発のピッチをあげる。
発電炉の能力が過剰になってくると、今度はマイクロ波とレーザーによる送電・推進システムが月−地球間に張り巡らされた(宇宙船乗りが「波に乗る」という時に指している波とは、元々はこの地球近海における電磁波航路のことを指している)。
このシステムにより、核動力を持たない安価で小型の船舶すら、地球と月の間を経済的に航海することが可能になった。
地球圏の宇宙は、完全に地球の版図の中に組み込まれたのである。
連合軍の任務として、こうした人類の共有財産を守ることが追加され、局地的な任務は空軍が、広範な空間にわたる任務は海軍が担当することとされた。
また、反連合主義を取り締まるため、連合軍とUNBIは断固たる処置を取った。逮捕された活動家は宇宙開発の最前線に、労働者としての権利を剥奪された懲役《ちょうえき》者として投入され、その死傷率は極めて高かったと言われる。
特に海軍は、こうした懲役者の使用に積極的で、法務局から実質的なフリーハンドを取り付けて自ら管轄した。
海軍情報局は、そのための監視機関としての任務が与えられて陣容を拡大し、悪名高い海兵隊武装警察がその手足として活躍した。
反連合主義者への弾圧という鞭を振るう一方、治安の安定のためにアメも振る舞われた。
2079年、大型自治体や非政府組織(NGO)の一部に対し、国家と対等な基準による下院議席の配分を行なう議案が議会に提出され、通過したのである。
これは実質的に、国家にのみ特権的な地位を与える「国家の時代」の終わりを意味する歴史的な決定だった。
しかし、連合議会と連合軍による治世が長期の安定成長を世界にもたらし、宇宙居住者・宇宙労働者をはじめ無国籍市民の数が無視できない数になっていたこともあり、この議案には大きな反対は起こらなかった。
現在、地球連合に所属する国家の数は272、大型自治体153、NGO28。
オブザーバーとして月・火星の自治区からもメンバーが参加している。
議席数は上院100名(うち米16、EU・中10、露・印・日5)、下院761名。
二院の関係は、議長は下院から選出されるが、議決権は上院が優越することで調整されている。
連合議会と我が民族の今後
超国家である地球連合が世界に君臨する世の中になったとはいえ、決して国家や民族という単位が無意味になったわけではない。
いや、むしろ今ほど、その意味が重要になった時代はないとも言える。
何故なら、地球連合という一つの家の中で、各国、各民族が自由かつ公平な競争を行なうことが可能になったからだ。
この小論の最後として、地球連合の置かれている現状と、我が民族がその課題に対してどのように対処すべきかを概括して、締めくくりとしたい。
核分裂機関によって火星圏への路が拓け、核融合パルス機関によって木星圏への人類の到達が可能になるというように、月開発以降の宇宙開発も「アトミック・マフィア」が先導する体制は変わらなかった。
そして宇宙開発の前線は人類の前線であり、そこは地球連合軍とUNBIによる「保安法」が支配する世界であった。
この三者による支配が、フロンティアにおける矛盾《むじゅん》を極大化し、社会の不安定化を招いたという事は否めない。今後、労働者の待遇改善など、なにがしかの対応が必要となるだろう。しかし、それによって武力行使が正当化されるわけではない。「絶対人間主義」を標榜する木星圏のテロリスト集団は、可及的速やかに解体されるべきである。そして彼らは非公的部門の犯罪者集団として処遇されなければならない。
その理由は、彼らが危険な新宗教原理主義者であるということに留まらない。彼らを「国家」として認知するということは、人類が何十世紀にもわたって続けてきた、国家対国家の戦争の歴史を、再び呼び起こすことに他ならないからだ。
しかし連合軍にとっても、本格的な宇宙戦争は初めての経験である。木星圏のエネルギーインフラはこの上もなく貴重なものであり、これを傷つけることなく奪い返すことは、軍事技術的にも困難だ。
テロ集団ですら、ヘリウム3や重水素などの全面禁輸に踏み切れずにいるのは、人類共有の財産を私するようなことがあれば、すべてが敵にまわることを理解しているからだろう。連合軍にも慎重な対応が求められている。
軍が積極攻勢に出た場合、鎮圧は時間の問題だと思われるが、この戦いが連合の未来に対してどのような影響を与えるのか、いまだ予断を許さない情勢にある。
上院では、強硬姿勢を取る米・露・中のグループに対し、EU・印・非同盟諸国は消極的な姿勢を取り続けている。
日本は前者寄りだが、海軍戦艦「ザオウ」の喪失以来、国内で反戦論が高まっており、マスドライバー施設を失った火星のオブザーバーも即時停戦を声高に叫んでいる。
最大の問題は、高騰する戦費をどのように分担するかという点である。
有力な宇宙軍需産業を抱える米・露・中・日に対し、相対的に高負担を強いられる他の諸国が反対するという対立構造になっており、議会はここ数十年来見られなかったような緊張感に包まれている。
我が民族は無論、かつてたどった困難な過去を背景に、他のどの民族よりも平和を愛していることと信ずる。
しかし、露・中・日という旧帝国主義の大国に包囲され、独自の行動を取り難い地政学的位置にあるだけでなく、産業もこの3カ国と深く結びついているのが現実である。
また、歴史的な民族融和以降、連合軍内部で非常に多くの同胞が活躍しているのはご存知の通りだ。我らは世界全体の中では少数派なれども、勇猛をもって鳴るその武徳は決して他に劣るものではない。
この戦いは、有力国ひしめく地球連合議会の中で、我が民族が躍進を成し遂げる機会と捉えることができる。
予想される臨時増税は心楽しくなるようなものではないが、我らが名誉のために大宇宙の絶望的虚空で戦っている子弟のことを考えれば、如何ほどのものでもない。
我ら朝鮮民族社会は一丸となってこの試練を戦い抜き、国際社会の中で名誉ある地位を占めようではないか。
輝かしき未来は、もうそこまで来ているのである。
[#改ページ]
底本
講談社 KODANSHA NOVELS
宇宙海兵隊《うちゅうかいへいたい》ギガース3
著 者――今野《こんの》 敏《びん》
二〇〇三年六月六日 第一刷発行
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社 講談社
[#地付き]2008年7月1日作成 hj
[#改ページ]
底本のまま
完成した打ち上げ設備は、人員輸送にこそ向かわなかったものの、運用コストが安く、安全性も非常に高いことが実証され、これによって宇宙への核動力炉投入に目星がついた。完成した打ち上げ設備は、人員輸送などには向かなかったものの、極めて安全性に優れている事も実証され、これによって宇宙への核動力炉投入に目星がついた。
置き換え文字
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26