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鋏の記憶
今邑 彩
目 次
三時十分の死
鋏《はさみ》の記憶
弁当箱は知っている
猫の恩返し
あとがき
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サイコメトリー(PSYCHOMETRY)
残留物感知能力。
物に触っただけで、その物を所有していた人物のことや、その人物の秘めた感情や体験したことなどを、感知できる超自然的な能力のこと。
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三時十分の死
1
十一月十四日、土曜日。午後。
タクシーを降りて、相良《さがら》邸の門の前に立つと、川上《かわかみ》ウメ子は、やれやれというように、旅行カバンと土産物を詰め込んだ紙袋をおろして、片手で肩を揉《も》んだ。
札幌《さつぽろ》、小樽《おたる》、函館《はこだて》を巡る五泊六日の北の旅は、六十を越えたウメ子には、楽しさよりも疲労感だけを残していた。
門の脇《わき》に取り付けられた郵便箱から郵便物を取り出そうとして、ウメ子は思わず舌うちした。
十一月十一日から十四日までは留守をするから新聞は入れないようにと、前以《まえもつ》て販売店に電話しておいたのに、雨ざらしになった新聞が無造作に突っ込まれていたからである。
何気なく、それを抜き取って日付を見たウメ子は、おやというように目をこらした。新聞は、十一月十日の朝刊だった。
相良家の住み込み家政婦である彼女が北海道旅行に出たのは九日の午後からだったが、十日の朝はまだ主人の利一郎《りいちろう》が在宅していたはずである。利一郎が乗るロンドン行きの飛行機は、たしか十日の午前十時五十分発のはずだった。
利一郎は十日の朝、朝刊を取り込まないで、家を出てしまったのだろうか。
ウメ子は首をかしげた。
なんとなく不審に思いながら、ウメ子は門をくぐり、玄関前まで来ると、いったん荷物をおろし、手提げ袋の中から合鍵《あいかぎ》を出して、施錠されていたドアを開けた。
「よっこらしょ」という掛声と共に、再び旅行カバンと紙袋を持ち上げ、中に入ると、またもや、おやというような顔になった。
広い三和土《たたき》には、ピカピカに磨かれた茶の革靴が揃《そろ》えて脱いであった。利一郎のお気に入りで、ロンドンに履いて行くと言ったので、下駄箱から出して、九日の朝に磨き込んでおいたものだ。その革靴がここにあるということは、利一郎は他の靴を履いて行ったのだろうか、といぶかしく思ったからである。
利一郎の帰国は明日のはずだから、彼が既に帰っていることは考えられない。それに帰っていたら、あの几帳面《きちようめん》を絵に描いたような利一郎が、新聞や、たまった郵便物をそのままにはしておかないはずだ。
ウメ子は漠然とした違和感のようなものを感じながら、リビングルームに入り、荷物をおろした。
しばらくソファに座ってぼんやりしていたが、着替えをすませるために立ち上がった。リビングを出て、左手の廊下を行った奥に、彼女の自室がある。
廊下を歩きながら、一瞬、生ごみか何かの腐ったような臭《にお》いを嗅《か》いだような気がした。台所から臭ってくるのだろうか。しかし、台所は反対方向にある。
ウメ子は立ち止まって、くんくんと鼻をうごめかした。気のせいだろうか。いや、たしかに臭う。四日ほど留守にして閉めきっていたせいだろうか。家の中の空気が饐《す》えている。しかし、それだけではない厭《いや》な臭いが漂っていた。
ウメ子は利一郎が寝室に使っている部屋のドアを見た。直感的に、異様な臭いはあのドアの向こうから漂ってくるような気がしたからだ。玄関や、リビングにいたときにはさほど感じなかった臭い、生ごみの腐ったようなというか、動物の死骸《しがい》が腐ったような臭いが。
動物の死骸?
ある疑惑がウメ子の脳裏をよぎった。
取り込まれなかった十日の朝刊。三和土に揃えられていた茶の革靴。
そんな馬鹿な。彼はロンドンに行ったはずだ。でも、もしかしたら――。
ウメ子は寝室のドアに近付いた。臭いはさらに強まったような気がする。真ちゅうのノブに手をかけた。思い切ってノブをつかむと、回してドアを開けた。
強い臭気がウメ子の鼻孔を襲った。
うっと鼻を押え、目をこらしたウメ子は、ブラインドをおろした暗い室内にあるものを見て、それが何であるか分かると、へなへなとその場に座り込んでしまった。
悲鳴をあげようにも喉《のど》がひりついて声が出なかった。
2
川上ウメ子の通報で、所轄署の警官たちが駆け付けて来たのは、それから二十分近くたってからだった。
警官の手で寝室のブラインドがはねあげられた。午後の外光が窓いっぱいに差し込んで、目をそむけたくなるような室内の様子をくまなく照らし出した。
ベッドの中で、アイマスクを付けたまま四十がらみの男が死んでいた。頭と顔が、数回鈍器で殴られたように無残に砕かれて、血にまみれている。血は羽根|枕《まくら》をそめて、下のシーツにまで染み込んでいた。
刑事の一人が被害者のアイマスクをはぎ取った。目はつぶったままだった。血まみれにしては、死顔は比較的穏やかで、白地にブルーの縞《しま》模様のパジャマを着て仰臥《ぎようが》していた。胸の上まで掛布団がきちんと掛けてあり、姿勢もそれほど乱れてはいない。抵抗したような痕跡《こんせき》は見られなかった。
凶器は被害者のゴルフクラブだった。
「熟睡しているところを襲われたようですね」
ベッドのサイドテーブルの下に落ちていた目覚まし時計を拾いあげた若い刑事が言った。
目覚まし時計の文字盤を覆ったガラスは蜘蛛《くも》の巣状に砕け、夜光塗料を塗った針は、三時十分を指して止まっている。
「被害者の頭と顔を砕いた凶器が当たったのでしょうか。三時十分で止まっています。寝入ったところを襲われたとすると、凶行時刻は午前三時十分ということですかね」
「昼寝をしていたところを襲われたんでないとしたらな。それにしても、この様子から見ると、死後四、五日はたっていそうだな」
ベテランらしい中年の刑事がハンカチで鼻を押えながら、くぐもった声を出した。
相良利一郎の寝室で刑事たちがそんな会話をしていた頃、リビングルームでは、家政婦の川上ウメ子が別の刑事から事情聴取を受けていた。
「それでは、相良利一郎さんは十日の朝の便でロンドンに行くことになっていたのですね」
手帳を片手に年配の刑事がたずねた。
「はい。十日の午前十時五十分発の飛行機で発《た》って、明日、十五日の午後の便で帰ってくるはずでした」
ハンカチを握りしめたまま、ウメ子は答えた。
「ロンドンへは観光ですか?」
「観光というより、利一郎さんは若い頃、ロンドンに留学していたことがありまして、そのとき知り合ったお友達の誕生会に招かれていたのです。その友人というのが、大のチェス好きで、毎年、十一月十二日の誕生日には、チェス仲間を集めて、内輪だけのチェスの会を開くのです。利一郎さんも毎年参加していました」
「なるほど。それで、あなたの方も旅行に出たのですね」
「はい。休みを取る、ちょうど良い機会だと思いまして。家政婦仲間に誘われていた北海道旅行に――」
「あなたが家を出たのはいつですか」
「九日の午後二時頃です。あの、刑事さん、利一郎さんが殺されたのは、おそらく十日の午前三時頃だと思いますが」
ウメ子は訴えるような目で言った。
「なぜそう思うんです?」
「わたしが帰ってきたとき、十日の朝刊が取り込まれていませんでした。その前に殺されたということではないでしょうか。利一郎さんは朝は七時に起きて、朝刊を読むというのが日課でしたから。それに、寝室の目覚まし時計が三時十分を指して壊れていました」
「九日の午後、あなたが出掛けたあとで、昼寝をしたとは考えられませんか。凶行はそのときに行われたとは?」
「いいえ」
川上ウメ子はきっぱりと否定した。
「それは考えられません。利一郎さんには昼寝の習慣はありませんでしたから。毎日が判で押したように決まっている人で、朝七時に起きて、就寝は決まって夜十一時です。その生活パターンを変えたことはないんです。私はこの家に住み込むようになって、四十年近くなりますが、利一郎さんのことは子供の頃からよく知っています。生き字引という言葉がありますが、私に言わせれば、あの人は生き時計みたいな人です。いつも決まった時間に決まったことをやらないと気のすまない人でした」
「ほう。ところで、九日の午後二時頃、あなたが家を出られるまで、利一郎さんは元気だったのですね」
「もちろんです。元気でピンピンしていました。それは順平《じゆんぺい》さんも見ているはずです。あのとき、まさかこんなことになろうとは夢にも――」
ウメ子はハンカチを目頭にあてて啜《すす》り泣いた。
「その順平さんというのは?」
刑事は鋭くたずねた。
「利一郎さんの甥《おい》ごさんです。九日の朝、訪ねてみえて、私が出掛けるときに、一緒に家を出たのです。もっとも順平さんはオートバイでしたが」
「ほう」
「誰かが夜中にこっそりこの屋敷に忍び込んだのではないでしょうか。強盗か何かの目的で」
ウメ子は言った。
「そういえば、裏の勝手口の戸が施錠してなかったようですが」
と、刑事。
「利一郎さんが鍵をかけ忘れて寝てしまったのでしょう。玄関ドアはちゃんとロックしてありましたから、強盗はあそこから忍び込んだに違いありません」
「強盗の線はないと思いますがね」
刑事は手帳に目を落としたまま呟《つぶや》いた。
「どうしてですか」
ウメ子はきょとんとして聞き返した。
「部屋を物色したような跡はないし、被害者はベッドの中で寝ているところを襲われているのです。盗みが目的だったらこんなことはしないでしょう。わざわざ寝ている人間の頭を殴って殺しているのだから、最初から殺人が目的で忍び込んだとしか思えませんね。それとも、何か盗《と》られたものでもありますか」
「いいえ。私の知る限りでは何も」
「犯人は最初から利一郎さんを殺す目的で忍び込んだのです」
「そ、そんな誰が一体――」
ウメ子は恐ろしそうに目を見張った。
「日ごろから利一郎さんを恨むか憎むかしていた人物に心あたりはありませんか」
「い、いいえ、別に」
ウメ子は曖昧《あいまい》に頭を振った。
「隠さずに話してくださいよ。それでは質問を変えます。九日の夜、この屋敷には利一郎さん一人であることを知っていたのは誰ですか。つまり、あなたが北海道旅行に出て留守なのを知っていたのは?」
「それは、さっき話した甥の順平さんと――」
「その甥ごさんですが、利一郎さんとの仲はどうでした? 日ごろから仲の良い方でしたか」
「いえ、それがあんまり」
ウメ子は言いにくそうに口ごもった。
「良くなかったのですか」
「どちらかと言えば、あまり相性は良くなかったかもしれません。順平さんは、利一郎さんのお姉さんの子供なのですが、普段はあまり行き来がなかったのです――」
「普段は行き来がなかったのに、九日の朝、訪ねて来たのですね?」
刑事の目が一瞬光った。
「え、ええ」
「何か用だったのですか」
「さあ。詳しくは知りませんが、お金のことで来たようでした……」
「ほう」
「順平さんは大学を中退して、バンドとかいうんですか、お友達と組んで音楽関係の仕事をしていたらしいんですが、信州の方で、音楽好きな人たちが集まれるようなペンションをやりたいと言い出して、それでその資金の面で――」
「ところで、利一郎さんは何をやって生計をたてていたのです? 話を伺っていると、普通の勤め人ではなかったようですが」
「相良家はもともとこのあたりの地主で、利一郎さんが大学を出たあと、どこにも就職もせずに暮らしていられたのも、先代が遺してくれたマンションやアパートや事務所などからの家賃収入があったからなんです」
「ああなるほど。それで利一郎さんはどうしたのです? 甥ごさんの計画に乗り気だったようですか」
「さ、さあ。わたしにはよく分かりません」
「利一郎さんにご家族は? 奥さんとかお子さんとかはいなかったんですか」
「四十五になる今日まで独身でしたから、順平さん以外に肉親はいないはずです」
「すると、もし利一郎さんにもしものことがあったら、相良家の財産はすべてその甥ごさんが相続することになるわけですね」
刑事の目が再び光った。
「そういうことになるでしょうか。順平さんの母親はすでに亡くなっていますから。相続人は甥の順平さんしかいません」
ウメ子は慎重な口ぶりで言った。
「この土地、屋敷を売れば、相続税分を差し引いても、まだ相当の額が手元に残るでしょうねえ。信州でペンションの一つくらいは十分持てるほどに」
刑事は意味ありげな目付きで屋敷の中をぐるりと見回した。
「そんな。まるで順平さんが財産めあてに、利一郎さんを殺したみたいな言い方――そんなことのできる人じゃありませんよ」
ウメ子は慌てて言った。
「それに、わたしが旅行のことを話したのは、なにも順平さんだけじゃありません。ご近所の方にも世間話のついでに話した記憶があります。たとえば、お向かいの奥さんに、九日の朝、ごみ置き場で会ったときに」
「ほう」
「そうです。お向かいの奥さんで思い出しましたが、利一郎さんを恨んでいる人が一人だけいます」
ウメ子は何かを思い出したような顔で勢い込んで言った。
「誰です?」
「お向かいの息子さんです」
「息子?」
「お向かいは津田《つだ》さんといって、十九になる浪人生の息子さんがいるんですが、あの息子さんなら、利一郎さんを恨んでいたかもしれません」
「それはなぜです?」
「今年の春先のことですが、ここの庭に野良猫が何匹か住み着いてしまったことがあるのです。利一郎さんは、猫の毛のアレルギーで、猫を見ただけで喘息《ぜんそく》の発作を起こすほどでした。それで、野良猫を退治しようと、毒入りの餌《えさ》を庭に撒《ま》いておいたところ、たまたま迷い込んでいた向かいの飼い猫がそれを食べて死んでしまったことがあるのです。その猫は、向かいの息子さんが、良明《よしあき》さんというのですが、たいそう可愛《かわい》がっていたらしくて、うちの飼い猫を殺したといって、いつだったか、大変な見幕《けんまく》でどなり込んで来たことがありました。あの人なら、今でも利一郎さんを恨んでいるかもしれません……」
3
「へえ、向かいの主人が殺されたんですか。どうりでパトカーなんかが停まって、ものものしい雰囲気なんで、何かあったんじゃないかと思っていたんですが」
津田家の応接間で、チャコールグレイのシャム猫を腕に抱いた津田良明はせせら笑うような声で言った。
痩《や》せて顔色の青白い青年だった。薄い唇だけが紅でも塗ったように妙に赤い。向かいの住人、相良利一郎の死を知っても、さほど驚いた様子はなかった。ただ、こめかみに浮き出た青筋をピクリとさせただけである。
「犯人はつかまったんですか」
「それを目下捜査中なんです」
刑事が言う。
「で、ぼくに何のご用ですか」
「聞いたところによると、以前、あなたは飼い猫のことで、相良利一郎さんと大喧嘩《おおげんか》をしたことがあったそうですね」
津田良明の目が二、三度しばたたかれた。
「そういえばそんなことがありましたかね。もう半年以上も前のことですよ」
「相良さんが野良猫を退治するために庭に撒いておいた毒入りの餌を、おたくの飼い猫が食べてしまったとか」
「そうです。あのときはショックでした。ミリーは高価なシャム猫で、子猫の頃から育てて、家族同然でしたからね。そのへんの野良猫とはわけが違う。それなのに、相良さんは、ミリーを殺しただけでなく、庭に穴を掘って死体を埋めてしまうと知らん顔をしていたんです。それをあそこの家政婦から聞かされて、ついカッとして――」
「相良さんは取り合わなかったそうですね」
「ええ。謝るどころか、うちの庭に無断で迷い込んできたものをどう処分しようとこっちの勝手だ。そんなに大事な猫なら、鎖にでもつないでおけばいいと言われました。犬じゃあるまいし、猫を鎖でつないでおけますか。まあ、あの人が猫の毛のアレルギーで、野良猫に悩まされていたと聞いて、野良猫を退治するために毒入りの餌を庭に撒いたことは分かりますが、ミリーにはちゃんと首輪がついていたんです。あれがうちの猫だったことはすぐに分かったはずです。それなのに、うちには何の知らせもなく、庭に埋めてしまうなんて。うちではミリーがいなくなって、何日も探していたんですよ。間違って殺してしまったなら、それなりの詫《わ》びを入れるのが筋じゃないですか」
津田は親指の爪《つめ》を噛《か》みながら言った。
「それで、あなたは相良さんを恨んでいたわけですね」
「そりゃ、恨むのが当然でしょう?」
「ところで、九日の夜、住み込みの家政婦が旅行に出掛けて、相良さんが一人になることを知っていましたか」
「ぼくがですか?」
津田は探るような目で刑事を見た。
「そうです」
「いや――」
「知らなかったんですか」
「知りませんでしたね」
津田はそっぽを向いたが、
「まさか、ぼくを疑っているわけじゃないでしょうね?」
「そういうわけではありませんが。あそこの家政婦が、九日の朝、あなたのお母さんに旅行のことを話したそうで、もしかしたら、あなたの耳にも入っていたかもしれないと思ったまでです。どうも現場の様子から見て、犯人はあの夜家政婦がいないことを知っていたようなので」
「ぼくがミリーを殺されたことを恨んで、相良さんを殺したと考えているんですか」
「いやいや、そこまでは」
「でも、そういう風に聞こえますよ。そりゃ、ミリーは家族同然でしたが、しょせん、猫は猫、ペットにすぎません。殺されたときは頭にきたけれど、半年もたてば忘れますよ。それに、今は、これを飼っていますからね」
津田は腕に抱いたシャム猫の背中を撫《な》でた。シャム猫は陰険な目付きで刑事の方をじっと見詰めている。
「猫一匹のために、人殺しをするわけがないじゃありませんか」
「ごもっともです。ところで、十日の午前三時頃は何をされてましたか?」
「なんですか、それ。まさかアリバイを聞いてるんじゃないでしょうね」
津田はやや気色ばむように言った。
「まあ、ごく形式的なことですから。もうお休みになっていましたか」
「いや、起きてました。勉強を終えて、寝るのはいつも朝方ですから」
「ほう」
「相良さんは十日の午前三時頃に殺されたんですか」
津田は念を押すように聞き返した。
「今のところはそう見られています」
ベテランの鑑識官の所見では、遺体の発見が遅れたので、相良利一郎の死亡推定時刻は限定できず、殺害されたのは、九日の朝から十一日の夜にかけてという、ごくおおざっぱなものだった。
「十日の午前三時頃か。待てよ」
津田は宙に目を据えて独り言のようにつぶやいた。
抱かれているのに飽きたのか、腕の中の猫はひともがきすると、津田の膝《ひざ》から身軽に飛び下りて庭に出て行った。津田は何か考えこんでいて、愛猫を追おうともしなかった。
「それなら、ぼくは犯人を見たかもしれない」
「えっ」
刑事は目を剥《む》いた。
「犯人を見たとは?」
「あれが犯人かどうかは分かりませんが、でも、こんな時間に妙だなと思ったのでよく覚えているんですよ」
「どういうことです? もう少し詳しく」
刑事は身を乗り出した。
「ちょっとこちらに来てください」
津田は何を思ったか、ソファから立ち上がると、さっさと歩きはじめた。
二人の刑事たちも顔を見合わせながら、後に従う。
津田は階段を昇って、奥の部屋に入って行った。八畳ほどの洋間である。窓際に勉強机があり、ベッドがある。津田の部屋らしかった。
「この窓から、向かいの家の門が見えるでしょう?」
津田はそう言って、窓際に立つと、カーテンを開けた。
二階の窓からは、舗装道路を挟んで、相良家の表門がよく見える。
「あの日、ぼくは勉強を終えて、そろそろ休もうかと思い、雨戸を閉めるために窓際に立ったんです。たしか、午前三時半頃でした。だいたい寝るのはその頃ですから、カーテンを開けて、何気なく外を見ると、向かいの家の門から、誰かが出て来るのが見えました。訪問客が帰るにしては、変な時間だなと思い、なんとなく気になっていたんです。そうです。あれが、たしか十日の午前三時半頃でした」
「門から出て来たのはどんな人物でした?」
刑事は勢いこんでたずねた。
「あたりはまだ暗かったのですが、あそこに水銀灯が立っているでしょう? あれが灯《とも》っていましたから、その明かりで、出て来た人物の様子はよく見えましたよ」
勝ち誇った表情で津田は答えた。
刑事たちは収穫ありというように、互いの顔を見合わせた。
「どんな人物でした?」
「男でした。年の頃は、二十六、七、いや、もっといってたかな。とにかく二十代後半という風で、髪を長くして後ろで結んでいました。服装はジーンズに革ジャンだったと思います。わりと背は高めで痩《や》せていました。なんか、こう、あたりをきょろきょろ見回して、誰もいないのを確認してから出て来ましたよ。あ、それから手にフルフェイスのヘルメットを持っていました」
「ヘルメット?」
「ええ。たぶん、オートバイで来たんじゃないですか」
4
「今日は早苗《さなえ》ちゃん、お休み?」
店の前に出されたポリバケツの中の小菊の束を見ていた桐生紫《きりゆうゆかり》は、中年の主婦らしい女性の声に、何気なく顔をあげた。
十一月十六日、月曜日。
駅前にある、佐野《さの》生花店は、高校生の紫が学校帰りによく立ち寄る店だった。今日も秋らしく小菊の束でも買って帰ろうかと、店の前に並べられたバケツの中を物色中に、店内からそんな声が聞こえてきたのである。
「ええ。風邪ひいたとかで」
エプロンを付けて長靴をはいた、店の経営者である中年女性が金歯を光らせて愛想笑いをしている。
「あらそう。悪い風邪がはやってるからね。気を付けないと」
常連客らしい小太りの主婦は手にセントポーリアの鉢植を持って、品定めしていた。
「早苗ちゃんていえば、もうじき結婚するって言ってたわね。お相手はどんな人?」
「それがねえ、奥さん。その話、駄目になりそうなんですよ。本当いうと、早苗ちゃんが今日休んでるの、風邪だけが理由じゃないんですよ」
店の女主人は意味ありげに眉《まゆ》を寄せている。
「何かあったの?」
客は手にした鉢植から目をあげた。
「大変なんですよ」
女主人は声をひそめる。
「何が。どうしたのよ」
「早苗ちゃんの彼氏ね、警察につかまっちゃったんですよ」
「警察?」
客は声をはりあげた。
「つかまったっていっても、まだ犯人って決まったわけじゃないんですけどね。重要参考人っていうんですか。あれらしいんですよ」
「いったい何をしたのよ」
「人殺し」
「ええっ」
「ほら、先日、杉並で起こった地主殺し、ご存じ? 寝ているところを殴り殺されたっていう」
「テレビで見たわ。まさか、その犯人?」
「らしいんですよ。しかも、その殺された地主というのが、早苗ちゃんの彼氏の叔父《おじ》さんにあたる人だとかで」
「んまあ」
「目撃者がいたらしいんですよ。それでね、早苗ちゃんのところにも刑事が来て、いろいろ聞いていったらしいんですよ」
「んまあ。なんで殺しちゃったのよ」
「それがね、なんでもお金に困って、財産めあてとか――あ、いらっしゃい」
紫が店の中に入って、白と黄色の小菊の束を、「これ下さい」と言って差し出すと、花屋の女主人は、客の方に向けていた顔に営業笑いを浮かべて振り向いた。
紫は小菊を包んで貰《もら》うと店を出た。ちょっと迷ったあとで、自宅には向かわず、反対の方向に歩き出した。玄関にでも飾ろうと思って買いもとめた花束だったが、これを早苗へのお見舞いにしようと咄嗟《とつさ》に決めたのだ。
紫が祖母の死をきっかけに、それまで祖母と住んでいた仙台の家を引き払って、上京し、亡父の従弟《いとこ》にあたる桐生|進介《しんすけ》のマンションに引っ越してきたのは、今年の三月だった。
新しい土地で、真っ先に出来た友達が、佐野生花店でアルバイトをしていた青木《あおき》早苗だったのである。花を買いに行っているうちに、親しく口をきくようになり、十も年が離れていたが、なんとなく気が合って、早苗のアパートにも遊びに行ったことがある。
早苗が、夏頃、新宿のライブハウスで知り合ったという、二十八歳のバンドマンと付き合っているのは知っていた。ほんの二週間前に、彼と結婚することに決めた、いつかお金が溜《た》まったら、信州あたりに広い音楽スタジオを持ったペンションを建てて、二人でやっていきたいと、のろけ混じりの夢を聞かされたばかりだった。
生花店の女主人の話だと、その早苗の彼氏が叔父殺しの罪で警察につかまったというか、重要参考人として呼ばれたのだという。バラ色の夢を見ていた早苗には、高い所からいきなり突き落とされたようなショックだったに違いない。
早苗のアパートは私鉄線路沿いに、駅から十二、三分ほど歩いた所にあった。「第一太田荘」という看板の立った、二階建ての木造アパートの202号室である。
紫は、築後十年はたっていそうな、錆《さび》の浮き出た鉄の階段を上って、早苗の部屋のドアをノックした。
二度ほどノックすると、ドアが開いて、早苗が顔をのぞかせた。顔色がいつもより冴《さ》えなかった。白いセーターにジーンズ。七宝焼きのペンダントをしていた。
「こんにちは」
「紫ちゃん」
早苗の色白の丸顔がぱっと輝いた。
「お店に寄ったら、今日は風邪でお休みだって聞いたから。これお見舞い」
小菊の束を差し出すと、早苗は嬉《うれ》しそうな顔になった。
「どうもありがとう。店の売り物を貰うなんて、なんだか変な気分」
「たまには売るだけじゃなくて貰うのもいいでしょ。風邪の方、大丈夫?」
「うん。もう大丈夫。あたしのは怠け病だから。入って、入って」
早苗はドアを大きく開けた。
「お邪魔します」
狭いキッチンの付いた二間だけの部屋は、いかにも二十六歳の若い女性が独りで住んでいるという小奇麗な雰囲気があった。
風邪をひいて寝ていたような痕跡《こんせき》は見られなかった。どうやら、早苗が店を休んだのは、病気が原因ではなかったようだ。
「コーヒーでいい?」
早苗はキッチンに立って、ガラスの花瓶に小菊の束を生けながら言った。
「あ、おかまいなく。すぐに帰るから」
「そんなこと言わないで。ゆっくりしてってよ。どうせ、お兄さん、今日も遅いんでしょ」
「まあね」
同居している桐生進介は兄ではない。しかし、父の従弟と暮らすようになったいきさつを話すと長くなるので、早苗には兄ということにしてある。
「あのね、さっき、お店に寄ったとき、偶然、変な話きいちゃったんだけれど」
紫は制服のスカートの襞《ひだ》を直しながら、さりげなく切り出した。
「なに、変な話って?」
インスタントコーヒーをいれた二つのマグカップを持って、早苗が戻って来た。ガラスのテーブルの上にカップを載せる。
「早苗さんの彼氏、稲垣《いながき》順平さんって言ったっけ?」
「そうよ」
早苗の顔が曇った。いつもなら、この名前を聞くと、もっと嬉しそうな顔をするはずだった。
「その人のことでちょっと――」
「おばさんに聞いたの?」
おばさんとは、店の女主人のことである。早苗は少し尖《とが》った声を出した。
「ううん。店先で、お客さんと話してるの、聞いただけ。その順平さんて人、殺人の容疑で調べられてるって本当?」
「うん」
早苗は暗い表情になって、壁に寄り掛かった。
「それで、容疑は晴れたの?」
「ううん」
激しく頭を振る。
「警察では彼が犯人だと思い込んでるみたい。動機もあるし、事件のあった頃、彼が被害者の家から出て来るのを見たという目撃者もいるもんだから」
「どんな事件だったの?」
「殺されたのは、彼のお母さんの弟、つまり叔父さんだったの――」
早苗は重たい口を開いて、事件の顛末《てんまつ》をポツリポツリと話し出した。
紫は黙って聞いていた。
「それじゃ、警察では、順平さんが叔父さんの財産めあてに殺したって思ってるわけ?」
「らしいわ。バッカみたい。そりゃ、お金に困っていたのは事実だけれど。売れないバンドマンなんかお金にならないしね。ペンションやる資金も欲しかったし。でも、ペンションの夢はあくまでもそれだけの資金が溜まったらって話よ。あたしたちの夢だったのよ。いくらなんでも、そのために人殺しなんてするわけないじゃない。しかも血を分けた叔父を殺すなんて。考えられないわよ。あの人はそんな人じゃないわ。警察の連中、みんなどうかしてる」
早苗は吐き捨てるような口調で言った。
「彼は絶対に無実よ。だって、叔父さんが殺された頃、彼はあたしと一緒にいたんだから」
「え。それじゃ、その叔父さんが殺されたっていう、十日の午前三時頃、早苗さんは順平さんと一緒にいたの?」
「そうよ。この部屋に。朝まで一緒だったのよ。彼はどこへも出掛けなかったわ」
「それって、立派なアリバイじゃない? 警察に話した?」
「もちろん話したわ。警察に呼び出された順平さんが、叔父さんが殺された頃には、あたしと一緒だったって話したもんだから、すぐに刑事が裏付けを取りに来たのよ。彼の話に嘘《うそ》はないってあたし、きっぱり言ってやったわ」
「それなら、順平さんの容疑は晴れたってことじゃないの? 犯行時間に、早苗さんと一緒にここにいたなら」
「でも、警察はあたしの話を信じなかったみたい。あたしは彼にとって赤の他人ってわけじゃないでしょ。結婚することになっていたんだから、いわば身内みたいなものじゃない。だから、あたしが彼をかばうために嘘の証言をしたと思ってるのよ。あたし、嘘なんかついてないのに」
「誰か他にそれを証明する人いないの? たとえばこのアパートの人とか」
紫はたずねた。
早苗は俯《うつむ》いて、胸にたらした七宝のペンダントをいじっている。
「ううん。誰もいない。彼があの日ここにいたということを証明できるのはあたしだけ。あの日、彼は夜の九時頃、ここに来たの。そのとき、叔父さんからお金を借りられそうだって、はしゃいでたわ。ペンションの夢が意外に早く実現しそうだって。だから、彼が財産めあてに叔父さんを殺すなんてこと考えられないのよ。そんなことしなくたって、あたしたちの夢は叶《かな》いそうだったんだから。彼はお祝いにどこかへ行って朝までドンチャン騒ぎをしようって言ったわ。でも、あたしは彼と二人きりでうちにいたかった。やっと夢が叶う幸せを、誰にも邪魔されずに二人きりで祝いたかったのよ。だって、あたし、男には今までずっと裏切られ続けてきたんだもの――」
紫の聞いたところでは、彼女はいわゆる「恋多き女」だった。美人ではないが、小柄で色白、ぽちゃっとした感じが、親しみやすいというのか、男好きするというのか、郷里の焼津《やいづ》にいた頃からもてたらしい。
ただ、早苗の恋は常に一方通行だった。いつも最初に声をかけてくるのは、男の方だったが、どういうわけか、早苗の方が本気になって結婚ということを口にしだすと、男たちは例外なく冷ややかになり、次第に遠ざかっていった。
最初の恋は、高校の先輩だった。相手は医学部をめざす秀才だったが、希望の医大に合格して、東京に下宿するようになると、たった三ヶ月かそこらで、連絡が途絶えてしまった。
待ちくたびれた早苗が、彼の下宿を訪ねてみると、その学生は既に同じ学部の女子学生と半同棲《はんどうせい》のような生活をしていた。
早苗は一日中泣き通し、翌日、美容院へ行って髪形を思い切って変え、最初の苦い恋を忘れた。
二度めは、高校を卒業して、事務員として勤めた地元の商事会社の上司だった。これも、声をかけてきたのは、男の方だったが、早苗が本気になった頃、妻も子もいる十も年上の男は逃げ腰になりはじめた。結局、二人のことが相手の妻にばれて大騒ぎになり、男の方は、ここが潮時とばかりに元のさやにおさまり、早苗の方は、職場にも実家にもいられなくなり、故郷を追われるようにして上京してきたのだという。
「恋多き女」といえば聞こえはいいが、ようするに、人の好さにつけこまれて、男たちの気楽な遊び相手にされていたのである。声をかけやすい分だけ、捨てやすいというわけだった。
東京へ出て来ても、この恋愛パターンは変わらなかった。というより、もっとひどくなった。郷里の男たちは、それでも、最初から早苗をだますつもりで近付いてきたわけではなかったが、都会の男たちは、はなからだますつもりで近付いてくるのが殆《ほとん》どだったからだ。
失恋するたびに、早苗は職を変え、下宿先を変え、髪形を変えた。
だから、稲垣順平と知り合ったときも、早苗はすぐにのめりこみはしなかった。今までの苦すぎる経験が、どうせこれも一夏の恋で終わるに決まってる、と彼女の耳に意地悪くささやき続けていたからである。
ところが、夏が終わり、秋風が身にしみる頃になっても、順平は早苗から離れてはいかなかった。それどころか、ある夜、順平はこんなことを照れながら言い出した。
「おれもさ、もうじき三十だからさ、いつまでもこんな根無草みたいな生活していちゃいけないと思うんだ。でも、だからといって音楽をやめてただのサラリーマンにはなれそうもない。大学も中退しちゃったから、まともなとこじゃ雇ってくれそうもないしさ。それに、おれ、人に使われる仕事って我慢ならねえんだよな。小さくてもいいから一国一城の主《あるじ》でいたいんだ。それで、考えたんだけどさ、ペンションを経営するなんてどうかな。ペンションのオーナーになるんだよ。信州あたりがいいな。こう、アメリカンスタイルの、洒落《しやれ》た家でさ、ビッグな音楽設備を整えたペンションなんかやってみたい。音楽好きなやつらが気楽に集まれるような。そんなペンション、一緒にやらないか?」
それは、早苗が今までの男たちの口からはけっして聞くことのなかった不器用なプロポーズの言葉だった。
そのときから、早苗の心の中に、半ばあきらめかけていた夢が再び芽をふいたのだという。他の女たちはいともたやすく手に入れるのに、自分には、どんなに手を伸ばし、追い求めても手に入れることはできないと思い込んでいた、ささやかな夢。それが再び早苗の胸に小さなつぼみをつけたのだ。
早苗はそのときの気持ちをこんな風に紫に話してくれた。
「小学校六年のときにね、卒業記念に、担任の先生が、クラスの全員にアネモネの種を配ったことがあったんだよ。それを一人ずつ鉢に植えて、陽のあたる場所に並べてね、卒業式が来るまでに、誰の鉢植が一番先に花をつけるか競争しようって、みんなで話し合った。花をつけるのが楽しみで、待ち切れなくて、あたしは毎日のように鉢植を見に行ったっけ。
そのうち、だんだん花が咲きはじめた。友達の名前を書いた鉢植が次々とね。奇麗なアネモネの花をつけはじめたのよ。あたしはワクワクした。いつ自分の名前を付けた鉢植に花が咲くかと思ってさ。でも、あたしの花はなかなか咲かなかった。クラスの子の花が全部咲き揃《そろ》っても、あたしのだけ花をつけないんだよ。なんかすっごく悲しかった。どうして、みんなの花は咲いたのに、あたしのだけ、咲かないのかなって思った。あたし毎日通って見ていたのに。早く咲いてねってあんなに祈っていたのに。男の子たちの中には、アネモネのことなんて全然関心ないみたいな子もいっぱいいたのに、その子たちの鉢植にだって、奇麗な花が咲いていた。それなのにあたしのだけ咲かない。どうしてって神さまに聞きたかった。
でもね、あきらめかけたとき、ある朝、見に行ったら、咲いていたのよ。あたしの鉢植にも。みんなのに較べると、ひねこびたような、みすぼらしい小さな花だったけれど。人間の赤ん坊でいえば、超難産の未熟児みたいな花だった。それでも、嬉《うれ》しくてね。みすぼらしい花だけれど、ようやくあたしの鉢植にも花が咲いたんだ。そう思うと涙が出そうになった。彼から、『一緒にペンションやらないか』って言われたとき、このときのことを思い出したんだよ。あの、みんなのに較べると小さなアネモネの花が咲いたのを見つけたときのこと。あのときみたいな気持ちになった――」
しかし、今、早苗の心の中にようやく咲いた小さな花は、しゃぼん玉のようなはかなさで、突然襲って来た嵐《あらし》に吹き飛ばされようとしている。
「やっぱり、あたしの花は咲かないのかな。彼と二人で信州でペンションをやるというのは、いっときの夢にすぎなかったのかな」
早苗はつぶやいた。
「でも、早苗さんは順平さんのこと信じているんでしょ? 彼が叔父《おじ》さんを殺したんじゃないってこと信じているんでしょ?」
紫は言った。
「あたしは信じてるよ。世界中の誰もが彼を犯人だと思い込んでも、あたしだけはそうじゃないことを知っている。だって、あのとき、彼はたしかにあたしとここに一緒にいたんだもの。ずっと朝が来るまで一緒だったんだもの。彼が二人いない限り、叔父さんを殺せるはずがない。でも、それを知っているのはあたしだけ。あたしが嘘をついて彼をかばっているんだと思われたらそれまでじゃない」
早苗は力のこもらない声で、そう言い返した。
「本当に彼はここにいたのね? たとえば、早苗さんが眠ったあとでこっそり部屋を抜け出したということはありえない?」
紫は念を押した。
「そんなこと、ありえない」
早苗は激しく頭を振った。
「あたしたち朝までずっと起きていたんだもの。どんなペンションにするか、二人でいろいろ計画を立てていたら、眠るどころじゃなくなっちゃって。彼はずっとここにいたのよ。それは絶対に間違いない。でもそれを証明することはできないのよ。まだ彼が犯人だという決定的な証拠は出て来てはいないみたいだけれど、警察は彼が犯人だと決め付けている。バンドなんかやって、三十近くなるまで定職にもつかずにフラフラしている人間なんて、あの連中から見ると、もうそれだけで、みんな犯罪者みたいなものなのよ。きっと厳しく取り調べるわ。拷問まではされなくても、何度も何度も同じことを聞かれて、精神的に追い詰められれば、彼は短気なところがあるから、やってもいないことをやったと言いかねない。そうなったら、もうおしまい」
早苗は投げやりな口調で言った。
「でも、刑事がみんな、そういう人ばかりだとは限らないと思うけどな。そうじゃない人だっていると思うけど」
紫はそう言いながら、早苗の胸元のペンダントに目をやった。
「そのペンダント、可愛《かわい》いね」
話題を変えるように言う。
「これ?」
早苗は気のない顔でちらと下を向いた。
「あたしのお気にいり。高校のとき、美術部の友達が作ってくれたの」
「ちょっと見せてくれない? あたし、七宝焼きに興味があるんだ」
「いいよ」
早苗は両手を首に回してペンダントをはずした。それを紫に手渡す。
紫はしばらく興味ありげに、そのペンダントをいじっていたが、何かを決心したような表情になると、ふいに顔をあげて、きっぱりとした口調で言った。
「ねえ、早苗さん。あたし、もしかしたら、あなたの力になれるかもしれない」
「ええ?」
早苗はぽかんとした顔で紫を見詰めた。
「どういうこと?」
「あたしの兄ね、会社員って言ったけれど、あれは嘘《うそ》なの」
早苗は、紫がいきなり何を言い出すのかとまじまじとした目で見詰め続けていた。
「本当はね」
紫は一息吸うと、思い切ったように言った。
「警視庁に勤めてるのよ」
5
その夜。
マンションの表玄関の前に設けられたゆるやかな階段を上りながら、桐生進介は何気なく、三階の自宅の窓を見上げた。ライトグリーンのカーテンを付けた窓には煌々《こうこう》と明かりが灯《とも》っている。
紫はまだ起きているらしい。
桐生は疲れた頭でそんなことを思いながら、エントランスに入ると、エレベーターのボタンを押した。
三階で降りると、静まり返った廊下を歩いて、桐生進介・紫と表札の出た、312号室の前で止まる。ズボンのポケットを探って、取り出した鍵《かぎ》でドアを開けた。
玄関で明かりもつけずにもそもそと靴を脱いでいると、廊下の突き当たりのドアが開いて紫が出てきた。白地にブルーの水玉模様のパジャマを着ている。風呂《ふろ》にでも入ったのか、肩までたらした髪が濡《ぬ》れていた。
「お帰りなさい」
「まだ起きてたのか」
窓の明かりで気付いていたが、今気付いたような振りをした。
「お風呂沸いてるよ」
「今日はいいや」
桐生はネクタイを緩めながらリビングルームに入った。背後から紫が訊《き》く。
「ごはんは?」
「食べてきた」
「お茶でも飲む?」
「もういいから寝ろよ」
上着を脱ぎながらうるさそうに言うと、
「ちょっと話があるんだけれど」
紫は食器棚から二つの湯飲みを取り出しながら言った。それをリビングに接続したダイニングテーブルに置く。
大小の湯飲みは同じ模様の色違いで、いわゆる夫婦茶碗《めおとぢやわん》の類《たぐ》いだった。こんなのいつ買ったんだろう。テーブルの上にちょこんと置かれた二つの湯飲みをちらと見て、桐生はややあっけに取られた。
そういえば、この手のペアものが、紫が来るまでは病室のように殺風景だった部屋を静かに占領しつつある。洗面台の歯ブラシとコップも、いつのまにかピンクとブルーのペアものに替わっていたし、枕《まくら》カバーも浴室のタオルも……。
桐生はちょっと甘酸っぱいような当惑をおぼえていた。まるで新婚生活でもはじめたみたいだ。
そんなことを考えて、ぎょっとした。
馬鹿なことを考えちゃいけない。紫は成人するまで、いや、せめて高校を卒業するまでの間、紫の祖母から託された大事な預かりものなのだから。絹に包んで押入れの奥にでもしまっておかなければならない高価な陶磁器のようなもの。指一本触れてはならないのだ。
ちなみに、桐生進介は警視庁捜査一課の刑事である。三十一歳。花の独身――のはずだった。
それがひょんなことから、今年の春から十五も年の離れた少女と同居するはめになってしまった。
といっても、桐生紫は、進介にとって全く赤の他人というわけではない。親戚《しんせき》筋にあたる。進介の従兄《いとこ》にあたる人の娘だった。
進介よりも十歳年上だった従兄の桐生|敬《たかし》は、将来を嘱望された少壮気鋭の考古学者だったが、三年前、南米に向かう途中、同行した妻の藤緒《ふじお》と共に航空機事故に巻き込まれて亡くなった。
遺された一粒種の紫は、仙台で開業医をしていた敬の母、桐生|政栄《まさえ》のもとに引き取られたが、その祖母も肺癌《はいがん》で今年の二月にあの世に旅立ってしまった。
政栄は女医だったから、隠されていたにもかかわらず、自分が末期の癌に冒されていることに気が付いていたらしい。進介はある日、上京してきた政栄に呼び出されて、政栄が滞在していたホテルのロビーで病名を打ち明けられた。
「医者が肺癌で死ぬなんてしゃれにもならないやね」
やはり医者だった夫(進介の父の兄)に先だたれてから、女手一つで、医院を切り盛りし、三人の子供たちを育てあげた、男勝りの伯母《おば》は、世間話でもするような淡々とした口調で自分が癌らしいということを打ち明けて、進介を驚かせたが、そのとき、自分にもしものことがあったら、孫を頼むと言われたのだ。
一生とはいわない、せめて高校を出るまでの間だけでいいから、保護者の役を引き受けてくれないかと頼まれたのである。
数多い親戚の中で、孫を託す相手に進介を選んだのは、進介が独身でしかも東京に住んでいるからだった。紫を引き取ったものの、中学を卒業したら、それ以上の教育は東京で受けさせようと政栄は前から決めていたらしく、病気のことがなくても、どのみち、孫を手放す気でいたらしい。またそれは紫自身の望みでもあった。
ただ、まだ十六やそこらの娘を、都会で一人住まいをさせるのは心配なので、高校に通う三年間だけは、東京に嫁いだ末娘の家に預けることになっていたのだが、この末娘が、今年にはいって、夫の両親と同居することになったのを理由に、紫を引き取れないと言ってきたらしい。
それで、しかたなく、進介に白羽の矢をたてたというわけだった。
東京生まれの進介は、大学に入るために上京した敬を実の兄のように慕い、小学生の頃から、よく敬の下宿先に出入りしていた。
敬が学業を終えたあとも故郷に帰って医院を継がず、大学の後輩だった妹尾《せのお》藤緒と結婚して、そのまま東京に新居を構えた後も足繁く通い、紫のことは、赤ん坊の頃からよく知っていた。
紫の方も、もの心ついたときから、うちに出入りしていた、父親によく似た青年に、ごく自然になついていた。そのへんの事情が、政栄にこんな決心をさせたのかもしれなかった。
従兄の忘れ形見を引き取ることはけっして嫌ではなかったが、あのとき、ふと胸をかすめた、一抹の不安というかとまどいは何だったのだろう、と時々思うことがある。
「話って?」
ポットのお湯を急須に注ぎこんでいる紫に、進介はあくび混じりの声でたずねた。
「杉並の地主が睡眠中に殺されたって事件が最近あったでしょう?」
紫はポットから目を離さずに言った。
出かかったあくびがひっこんでしまった。何を言い出す気かと、ちょっと驚いて紫を見る。相良利一郎の事件は、実は今|係《かか》わっている事件でもあった。
ただ、仕事のことはうちでは話さないことにしている。捜査上知り得たことは、たとえ身内だろうとみだりに口外しないということは、刑事として当然のことであり、同時に、昼間の殺伐とした気分を家庭にまで持ち込みたくはないという個人的な気持ちもあった。
紫の方も聞いたことがない。それは二人が同居する上での暗黙のルールになっていた。
「お兄ちゃん、あの事件に係わってる?」
「なぜそんなこと聞くんだ?」
「被害者の甥《おい》が犯人だと思われてるんだってね。でも、その人、無実だよ」
紫は、質問をかわすために進介が投げ掛けた質問を無視して、いきなり核心をついた。
「え?」
「稲垣順平のアリバイは本物だって言ったの。青木早苗という恋人の部屋にいたって言ったんでしょ、叔父さんが殺された頃。それ、本当だよ。嘘《うそ》じゃないよ」
じれったそうに言う。
「いったい――」
進介は言いかけた。
「あたし、その青木早苗という人と友達なのよ。彼女、駅前にある佐野生花店で働いてるの。今日ね、店に寄ったら、店のおばさんがお客とその事件のことを話していたの。それで心配になって早苗さんのアパートに寄ってみたら――」
ははあ、そういうことか。ようやく事情がのみ込めた。世間は広いようで狭い。稲垣順平の恋人が紫と知り合いだったとは。
「警察では、早苗さんが恋人をかばうために嘘をついていると思ってるらしいけど、彼女、嘘ついてないよ。だって、今日、あたし、あれ[#「あれ」に傍点]で確かめてみたから」
「あれ?」
「そう。あれ[#「あれ」に傍点]で」
あれ[#「あれ」に傍点]とはまさにあれ[#「あれ」に傍点]か。
紫に奇妙な能力があることに最初に気がついたのは、父親の敬だった。紫がまだ小学生のときだ。敬の専門は考古学だったが、超能力とか超常現象とかにいつの間にか興味を持っていたらしい。戯れに、ESPカードを使って娘の能力を試してみたら、これが百発百中という驚くべき結果を示したのである。ただ、そのときは、敬はそれほどこの結果を重要視していなかったらしい。
紫が特殊というわけではなく、年端もいかない子供には、みんな、多かれ少なかれ、「鋭い直感」という形で、この種の能力が備わっているものだと思っていたためである。
しかし、そんな子供たちの多くは、成長するにつれて、社会常識を身につけていく過程で、この種の能力を自然に失っていく。二十歳すぎればただの人になるというわけだった。
ところが、敬の予想に反して、紫の能力はいっこうに衰えなかった。ちなみに超能力と一口にいっても色々ある。物を精神の力だけで動かすことのできる|念 動《サイコキネシス》や、相手の心を読むテレパシーなど。紫の能力はそんな派手《はで》なものではなく、超能力の中でも一番潜在能力者の多い、とりわけ女性に多いと言われている、残留物感知能力、横文字を使えば、サイコメトリー(魂の測定)などとも呼ばれる能力だった。
これは、物に触っただけで、その物を所有していた人物のことや、その人物の秘めた感情や体験したことなどを、ある程度感知できる能力のことである。
たとえば、古い一足の靴に触れただけで、なんの予備知識がなくても、その靴を履いていた人物のことや、その人物が体験したことや感情を、文字通り、手に取るように分かってしまうという超能力で、紫にはこの超能力が備わっているらしいのである。
「早苗さんが付けていたペンダントに触ってみたの。稲垣順平が十日の午前三時頃に早苗さんのアパートにいたというのは嘘じゃないよ。それは、ちゃんとペンダントの記憶の中にあったもの」
進介は複雑な表情で黙っていた。
「あたしの言うこと信じられない?」
実をいうと、進介は紫の能力については、半信半疑という微妙な立場を取っていた。もっともこれは、紫に限らず、いわゆる「超能力」というものに対してと言った方がいいかもしれない。
絶対に存在しないとは思わないが、存在していることをあまり積極的に認めたくない、というのが本音だ。テレビなどに登場してくる、自称「超能力者」というのは、どうも見るからにうさん臭い。実際、あの手のショーは殆《ほとん》どが巧妙なトリックによるものだと看破する人もいる。
ただ、紫と暮らすようになって、彼女の並はずれた「勘」の鋭さに驚かされたのは一度や二度ではなかった。たしかに、あれを「勘が鋭い」という言い方で片付けてしまっていいのかと思うこともあった。
「でも、その頃、稲垣が相良邸から出て来るのを目撃した人がいるんだ。その人物が所轄署の刑事に話した、犯人らしき男の様子は稲垣によく似ていた――」
進介は捜査上知り得たことは、たとえ身内であってもみだりに口外しないという、刑事の鉄則をつい忘れて、言ってしまった。すると、紫は言い返した。
「だとしたら、その目撃者が嘘をついているか、犯人は稲垣順平によく似た別の人物かどちらかだよ。絶対にそれは稲垣順平じゃない」
津田良明が嘘の目撃証言をした?
それはありえないことではないと、進介はふと思った。津田が、飼い猫のことで、相良利一郎に恨みを抱いていたらしいということは、所轄の刑事から聞いていた。
目撃者も純然たる第三者というわけではないのだ。ただ、動機の点からいえば、津田よりも稲垣の方が、犯人としての可能性ははるかに高いように思える。いくら家族同然といっても、半年も前に亡くした猫一匹のことが原因で、津田が相良利一郎を殺したとは考えにくい。
しかし、同時に、もし稲垣が犯人だとすると、腑《ふ》に落ちないこともあった。津田良明の証言が本当だとしたら、稲垣はなぜ、叔父《おじ》を殺したあと、いくら深夜とはいえ、堂々と相良家の表門から出て来たのかということだった。この疑問は当初から喉《のど》につかえた小骨のように気になっていた。
相良邸には裏門もある。現場の状況からみて、犯人は施錠のされていなかった裏口から侵入している。当然、出るときもそこから出たのだろう。とすると、表門よりも裏門から出た方が自然な気がする。そばに水銀灯が立っていて、門のあたりを明るく照らしている表門よりも、裏門の方が闇《やみ》にまぎれて逃げるには好都合のはずだった。
それに、人を殺したばかりの人間の心理としては、裏へ裏へ、闇へ闇へと逃げ込むのが普通ではないか。闇にまぎれて裏口から入る。ここまでは分かる。ところが逃げる段になって、わざわざ表に回って、水銀灯の明かりで堂々と顔をさらして、表門から逃げている。この心理が矛盾しているのだ。
所轄署の刑事の中には、たぶん乗ってきたオートバイを表門の近くに停めておいたからではないかと言う者もいたが、これも考えてみると妙である。
稲垣が犯人だとすると、これは明らかに計画犯罪だ。深夜こっそり忍び込んで、ベッドの中にいた叔父を殴り殺しているのだから、口論の末にカッとなってなどという突発的な犯行ではない。とすると、深夜、相良邸のそばにオートバイを停めるにしても、人目につかないところ、たとえば裏門の近くに停めるのが普通ではないだろうか。
それに、向かいの津田が、偶然、犯人らしき男の姿を目撃していたというのも、まるで推理小説の中の話のように出来すぎている。
津田は本当に稲垣の姿を見たのだろうか。
もし、紫の言う通り、稲垣が犯行当時、恋人の部屋にいたのだとしたら、津田の証言そのものが怪しいということになる。津田の勘違いか、あるいは、故意に嘘をついたのか。
もし嘘をついたとしたら、なぜだ?
なぜ嘘をつく必要がある?
進介ははっとした。
鑑識の報告の中に、相良邸の裏口のドアのノブから、身元不明の指紋が検出されたというのがあったことを思い出したのだ。それは、照合の結果、相良利一郎のものでも、家政婦の川上ウメ子のものでも、稲垣順平のものでもなかった。
ただ、裏口のドアということで、御用聞きか何かの指紋である可能性もあり、事件とは無関係ではないかと考えられていたのだが、もしあれが真犯人のものだとしたら――。
どちらにせよ、津田については、もう一度調べ直す必要があるかもしれない。
進介はそう考えていた。
6
「何度同じことを訊《き》くんですか」
津田良明はうんざりしたような声で言った。
十一月十七日の朝。
桐生進介は所轄署の若手と一緒に津田の家を訪ねていた。いつもならまだ寝ているところをたたき起こされたせいか、津田良明の機嫌はすこぶる悪かった。
「ぼくはたしかに十日の午前三時半頃に、相良邸の門から出て来る稲垣を見たんですよ」
「そのとき、出て来たのが稲垣順平だと知っていたのですか」
桐生はすかさずたずねた。
「い、いや、そのときは知りませんでした」
津田はややうろたえたように声を詰まらせる。
「ヘルメットを持った革ジャンの男ということしか。あとで、あの男が稲垣といって、相良さんの甥だと、もう一度訪ねてきた刑事さんから聞かされたんです」
「稲垣を見たのは十日に間違いありませんか。たとえば九日だったとか、十一日だったとかはありませんか」
「しつこいなあ。十日といったら十日ですよ。間違いありません。十日の午前三時半頃です。稲垣にアリバイでもあるんですか」
津田は不安げな表情でたずねた。
「ええまあ。結婚相手の女性の部屋にいたと言い張ってるんですよ、その時刻には。女性の方もそれに間違いないと言ってましてね」
桐生は肩を竦《すく》めて見せた。
「そんなのはきっと偽アリバイですよ。証言したのがフィアンセじゃ、あんまり信用できないんじゃないですか」
津田は嘲《あざけ》るように言った。
「ところで、ちょっとこの人物を見て戴《いただ》きたいのですが」
桐生は手袋をした手で懐から一枚のスナップ写真を取り出した。
「なんです?」
津田はうさん臭そうな顔つきで、桐生の手元を見た。
写真には二十代後半と思われる男の上半身が写っていた。
「手に取ってよく見てください」
桐生がそう言うと、津田は写真を持って、じっと見詰めた。
「あなたが見た男は、稲垣ではなくて、その男ではありませんでしたか」
津田は写真に落としていた視線をあげた。
「それはどういうことです?」
「実は、相良さんの交友関係を調べていたら、稲垣以外に、その人物が容疑者として浮かんできたんです。その男にも相良さんを殺す動機があるんですよ。しかも、彼にはアリバイがない。見たところ、年格好も稲垣と同じくらいですし、その男もオートバイを持っているのです。ですから、もしかしたら――」
「真犯人は稲垣ではなくて、この男ではないかと言うわけですか」
唇をなめながら、そう問い返した津田の目が動揺したようにキョトキョトした。
「まあそんなところです。いかがですか。よく見てください」
「この男の方にはアリバイがないんですね」
津田はもう一度写真に目を落として、念を押すように言った。
「そうです。我々としてはそちらの方が臭いと睨《にら》んでいるのですが」
「そういえば――」
津田は写真をじっと見詰めたまま、小首をかしげた。
「この男だったかもしれません」
「本当ですか」
桐生は身を乗り出した。
「よく見てくださいよ。大事なことなんですから」
「よく見てますよ」
津田はうるさそうに言った。
「どうです?」
「いや、その、髪形や服装が違うので、断言はできませんが、そう言われてみれば、こちらの方が門から出てきた男に似ているような気がします。そうです。この男だったかもしれない」
「そうですか。いやあ、どうもご協力ありがとうございました」
桐生は津田の手から写真を奪いかえした。懐にしまおうとしていると、庭の方から若い女性の黄色い声がした。裏口から入って来たらしい。
「ああら、ミリーじゃない。おまえ、どこへ行ってたのよ。急にいなくなったから、みんなで心配してたのよ」
ふと見ると、応接間のガラス戸を通して、庭でチャコールグレイのシャム猫を抱き上げて、頬《ほお》ずりしている、二十代の女性がいた。
「どなたです?」
桐生が問うと、
「姉です。去年、結婚したんだけど、嫁ぎ先が近いもんだから、しょっちゅうやって来るんですよ」
津田は迷惑そうに眉《まゆ》を寄せて答えた。
「あの猫もミリーっていうんですか。たしか、ミリーというのは、前に飼っていた猫の名前じゃありませんでしたっけ」
相棒の若い刑事がたずねた。
「え? ええ。毛色は違うけど、同じシャムだし、他の名前を付ける気にならなくて、あれもミリーにしたんです」
津田は渋々という感じで答える。
「よほど前の猫を可愛《かわい》がっていたんですね。同じ名前をつけるということは」
桐生は津田の目をじっと見ながら言った。
「というか、まあ、呼び慣れた名前だったんで、そのまま使っただけですけどね。他のを考えるのが面倒臭くて」
津田は、神経質そうな引きつった笑いを口元に浮かべた。
「はあ、なるほど」
「あの、もう用がないなら、帰ってもらえませんか。そろそろ予備校に行く時間なんで」
津田は壁の掛時計を眺めながら、ソファから立ち上がりかけた。
「あ、これはどうもお邪魔しました」
桐生ともう一人の刑事も立ち上がった。
「ミリー、いつ帰って来たの」
庭で津田の姉が、竹箒《たけぼうき》を持った母親らしき年配の女性と話していた。聞く気はなくても、甲高い声なので聞こえてくる。
「十二日の夜だったかしら。ひょっこり」
「もう、悪い子ね。四日間もどこへ行ってたのよ、おまえは」
姉はそう言って、明らかに厭《いや》がっている猫を抱き締めた。
「でも無事でよかったわね。良明の言った通りにならなくて。今度もまた向かいの家に迷い込んで、あそこの人に殺されたんじゃないかって、あの子、血相変えてたじゃない。今度こそ許さないって」
「しっ。めったなこと言うもんじゃありません」
母親のたしなめるような声。近付いて、何かひそひそやっている。姉の方がはっとしたようにこちらを見た。慌てて口を押えている。おおかた、「刑事が来ている」とでも言われたのだろう。
二代目ミリーも行方不明になっていた?
姉の言葉からすると、二代目ミリーがいなくなったのは、十一月九日のことらしい……。
見ると、津田良明の顔が青ざめていた。
どうやら、新たな動機が発見されたようだ。
桐生はそう直感した。
津田邸を出ると、近くに停めておいた、相棒の車に乗った。
助手席に座り、シートベルトを付けてから、懐から例の写真を取り出した。
「津田の指紋、ついてますか」
相棒の刑事がエンジンをかけながら聞く。
「バッチリだ」
桐生は親指をたてた。
「相良邸の裏口のドアのノブに付いていた指紋と一致するといいんですがね」
「それにしても――」
桐生は写真を見ながら言った。
「なかなかハンサムじゃないか。きみのお兄さんは」
7
「嘘《うそ》を吐《つ》くのもいいかげんにしろっ」
五分刈りの、こわもての中年刑事に、グローブみたいな手で机をドンとたたかれると、津田良明は今にも飛び上がりそうな顔になった。
「な、何も嘘なんかついちゃいませんよ」
「十日の午前三時半頃に相良邸の門から革ジャンの男が出て来たのを見たというのは嘘だろうって言ってんだよ」
「本当に見たんです。何度言ったら気がすむんですか」
「ほらほら。それがお猿のおけつみたいな真っ赤な嘘だって言ってんだよ」
「う、嘘じゃありませんよ。ヘルメットを持った革ジャンの男が出てくるのを見たのは本当なんです。ただ、それが稲垣かどうかまでは確信はないけれど。昼間、そこの刑事さんが見せた写真の男だったかもしれない」
津田は、取り調べ室の壁に寄り掛かって、涼しい顔で腕組みしている桐生の方を救いを求めるような目で見た。
「その男ってこれかい?」
刑事はせせら笑って、例の写真を取り出した。
「そ、そうです。この男が容疑者なんでしょう。だったら、この男を調べればいいじゃないですか。なんでぼくがこんなところに呼び出されなきゃならないんだ」
「相良利一郎を殺したのはおまえだからだよ」
「ば、馬鹿な。何を証拠にそんなでたらめを」
津田は震え上がりながらも、精一杯の虚勢をはった。
「証拠はほれ、これだよ」
刑事は津田の鼻先で例の写真をひらひらさせた。
「それが何の証拠になるっていうんだ」
津田の目が不安そうに、素早く桐生の方に向けられ、再び写真に戻った。
「この写真に付いた指紋と、相良邸の裏口のドアの内がわのノブに付いていた指紋のひとつとが完全に一致したんだよ。右手の親指の指紋がな。こう言えば、どういうことだか、血の巡りの悪いおまえさんにも分かるだろうが」
「く、くそ。容疑者の写真だなんて言って、おれの指紋を取るつもりだったのか」
津田は悲鳴のような声をあげて、桐生を睨《にら》みつけた。桐生は眉《まゆ》をちょっとつり上げただけだった。
「ちなみに相良家の家政婦に聞いてみたら、お向かいのお坊ちゃんが裏口から訪ねて来たことは一度もないそうだ。それなのに、ちゃんとお向かいのお坊ちゃんの指紋は裏口のドアに残っている。ということは、お向かいのお坊ちゃんは家政婦のいないときに、こっそり訪問したとしか考えられないじゃないか。さあ、何をしに裏口から入ったのか、とっととしゃべって貰《もら》おうか」
ここで、もう一つ机をドン。
「これ以上てこずらせると、一晩泊まってもらうよ」
「ね、猫を探しに行ったんです……」
津田は観念したように話しはじめた。
「そんな蚊の鳴くような声じゃ聞こえねえな」
刑事は片手を耳にあてた。
「猫を探しに行ったんですっ」
津田はやけくそのように大声を出した。
「猫?」
「ミリーです。うちの飼い猫ですよ。九日の夜から姿が見えなくなって、十日になっても帰って来なかったんです。それでもしかしたら、また向かいの家の庭に迷い込んだのを相良さんがって思ったんです」
「相良さんがどうしたと思ったんだ?」
「だから、前のミリーのときみたいに、毒入りの餌《えさ》かなんか食べさせて殺したんじゃないかって。それで、またミリーの死体を庭に埋めたんじゃないかって思い出したら、いてもたってもいられなくなって」
「それで相良利一郎を殺しに行ったのか」
「違いますよっ。ミリーを探しに行っただけです。まだ生きてるかもしれないと思ったし」
「それは何時頃だ?」
「十日の午前二時頃です。うちの者はみんな寝てましたから、こっそりうちを抜け出したんです」
「それで?」
「向かいの家に忍び込んで、庭をぐるりと回って調べていたら、裏口のドアに施錠がしてなくて、ノブを回したら開いたんです。それで、つい魔がさしたというか、中へ入ってしまったんです」
「そして、寝ている相良さんを襲ったんだな?」
「違います。ぼくが入ったときには、もう相良さんは死んでいたんです。ベッドの中で顔や頭をめちゃめちゃに殴られて。ぼくはもうびっくり仰天して、慌てて出て来たんです」
「もう死んでいた? 午前二時頃に行ったときにはか?」
刑事は聞き返した。
桐生は壁から身を起こした。
「嘘をつけ。おまえがやったんだろう。二度も飼い猫を殺されたと思い込んで逆上していたおまえは、熟睡している相良さんを見て、ムラムラと殺意に駆られたんだろう。住み込みの家政婦は旅行に出掛けて留守だし、当の相手はアイマスクをして熟睡中だ。チャンスとばかりに、相良さんを殴り殺したんだろうが」
「違う。ぼくは何もしていないっ。ぼくが行ったときはもう死んでいたんだ。だから、あとで刑事が来たとき、犯人と間違われるのが怖くなってあんな嘘をついてしまったんだ。九日の午後、たまたま二階の窓から、あそこの家政婦とヘルメットを持った革ジャンの男が出てくるのを見ていたんです。家政婦は旅行カバンを提げていました。そのことが頭にあったもんだから、つい、昼間見た男の姿を、十日の朝がたに見たように言ってしまったんです。自分でも何であんなことを言ってしまったのか分かりません。魔がさしたとしか言いようがありません」
「しょっちゅう魔がさしてるんだな、おまえは」
刑事は呆《あき》れたように言った。
「つまり、きみが稲垣順平の姿を見たのは、九日の午後だったのか」
口を挟んだのは桐生だった。
「そうです。たしか午後二時頃でした。髪なんか伸ばして、見るからにまともそうじゃなかったんで、あいつが犯人だって言ったら、警察も信じるだろうって思ったんです」
「もうひとつ聞くが、きみが侵入したとき、相良利一郎の寝室の目覚ましはすでに壊れていたのか」
「はい、壊れて床に転がっていました。はっきり時間までは見ませんでしたが、針は止まっていたようです」
「しかし、妙だな。もしおまえの言うことが本当だとしたら、相良利一郎は一体いつ殺されたことになるんだ? 目覚ましはあきらかに凶行があったときの衝撃で止まったんだ。あの三時十分というのは、十日の午前三時十分のことではなかったのか」
五分刈りの刑事は疑わしそうに津田を見た。
「もしかしたら、時計の針は午前じゃなくて、午後を指していたんじゃないでしょうか」
津田は一縷《いちる》の望みにすがるような顔で言った。
「午後? ということは、相良が殺されたのは、九日の午後三時十分だというのか」
「そう考えればつじつまが合います」
「それはもっと妙だな。相良利一郎はベッドで眠っているところを襲われたんだぜ。午後三時頃にパジャマを着てお昼寝かよ。幼稚園のガキじゃあるまいし」
「風邪でもひいて昼間から寝ていたとは考えられませんか」
津田も必死で言いつのる。
「それだったら、家政婦がそう言うだろう」
「家政婦の話だと、相良利一郎という男は毎日非常に規則正しい生活を送っていたそうで、毎朝七時に起きて、夜十一時に就寝。このパターンを何十年と変えたことはないそうです。しかも、昼寝の習慣はなかったということですから」
若手の刑事が口を挟んだ。
「解剖の結果、睡眠薬等の痕跡《こんせき》も見られなかったそうだから、パジャマを着て、ベッドに入ったのは、被害者自らの意思としか思えない。となると、やはり凶行は夜十一時以降に行われたとしか考えようがないな」
「嘘です。あの家政婦が嘘をついてるんですよっ」
いきなり津田がわめいた。
「なんでそう思うんだ?」
「相良さんが毎日午前七時に起きて、午後十一時に寝ていたなんて嘘です。だって、ぼくは何度も、相良さんが午後十一時をすぎても起きているのを見ているんです。ここ一週間くらい続けて見てるんですよ。勉強部屋から向かいの二階の窓がよく見えるんです。向かいの家の二階の窓に明かりが煌々《こうこう》とついていて、ときたま人影が動いているのを何度も見ているんです」
「家政婦じゃないのか」
「あれは家政婦じゃありません。体つきからして男でした。影だけじゃない。相良さん本人が真夜中に庭に出ているのを見たことがあります。相良さんが午後十一時に必ず寝ていたなんて嘘ですよ。そうだ。時間で思い出しましたが、あの家にはもう一つ奇妙なことがあるんですよ」
津田は何か思い出したように身を乗り出した。
「なんだ、妙なことって?」
「あそこのリビングルームには時計が三つありますよね。壁に掛けたのが一つと、あとは置き時計が二つ」
「それがどうした」
「ぼくが忍び込んだとき、どういうわけか、三つの時計が三つとも三時間も進んでいたんです」
8
十一月十八日。午後七時。
玄関のチャイムが鳴った。
進介にしては早いと思いながら、紫《ゆかり》がドアを開けると、かすみ草とピンクの薔薇《ばら》をあしらった大きな花束を持った、青木早苗がにこにこしながら立っていた。
「早苗さん」
紫は目を丸くした。
「こんばんは。お兄さん、帰ってる?」
「ううん、まだ」
紫が首を振ると、早苗はちょっとがっかりしたような顔になったが、
「もしお邪魔でなかったら、少し待たせて貰《もら》えるかな。お兄さんに会って、ぜひお礼を言いたいの」
「お礼?」
「順平のこと。彼の無実が証明されたのよ。叔父《おじ》さんが殺された頃、あたしと一緒にいたってアリバイ、警察にやっと信じて貰えたの。これも紫ちゃんのお兄さんのおかげよ。何も聞いてないの?」
「仕事のことは何も話さない人だから。とにかく入って」
紫はドアを大きく開いた。
「あの、実は彼も一緒に来てるんだけど、いいかな?」
早苗は少し照れたように言った。
「え?」
「順平」
早苗は背後に呼び掛けた。
するとドアの陰に隠れていた革ジャン姿の青年がのっそりと現れた。
長い髪を後ろで結び、膝《ひざ》や腿《もも》のあたりが破れたブルージーンズをはいていた。
「稲垣です。どうも」
青年は革ジャンの両ポケットに突っ込んでいた手を慌てて出すと、ペコンと頭をさげた。
この人が稲垣順平か。紫は突然のことであっけにとられていると、
「紫ちゃんの所へ行くって言ったら、彼もぜひ行きたいって言ったもんだから連れてきちゃった」
「どうぞ。二人とも入って。兄の帰りは何時になるか分からないけど」
「じゃ、ちょっとだけね。あ、それから、これはほんのお礼と、この前のお返し。ほんとは店中の花全部買い占めたい気分だったけれど、これで勘弁して」
早苗は頬《ほお》を染めて花束を差し出した。
「わあ、どうもありがとう」
紫は花束に鼻を埋めた。甘酸っぱい香りがした。それはまさに早苗の幸せの匂《にお》いのような気がした。
「あの、順平さんの無実が証明されたっていうと?」
リビングルームに二人を通して、紅茶の準備をしながら、紫はたずねた。
「真犯人がつかまったらしいの」
早苗はソファに座りながら嬉《うれ》しそうに言った。
「え、ほんと」
紫は一瞬ティーカップを取り出す手を止めた。
「つかまったといっても、まだ取り調べ中で、確実な証拠が揃《そろ》ったわけではないらしいんだけれど」
「叔父さんの向かいに住んでいた、津田という浪人生だったんだよ、犯人は。おれを二階から見たと言った当の本人さ」
部屋の中をきょろきょろ見回しながら、順平が言った。
「そうなの。全くとんでもない奴《やつ》だわ。自分が殺しておきながら、嘘の証言をして、順平に濡衣《ぬれぎぬ》を着せようとしたんだから」
早苗はまだ怒りがおさまらないという表情。
「あの日さ、昼間叔父さんの家から出て来たおれの姿を、奴は二階から見ていたらしいんだ。それで、あんな偽証をしたってわけ」
順平は革ジャンのポケットから煙草とライターを取り出しながら、忌ま忌ましそうに舌うちした。
「そういうことだったの」
目撃者が怪しいという直感がはずれていなかったことを知って、紫の声も弾んだ。
「でもよかったね。順平さんの無実が分かって貰えて。これで早苗さんの夢が叶《かな》うじゃない。やっとアネモネの花が咲いたんだね」
紫は紅茶をいれながら言った。
「なんだ、アネモネって?」
順平が不思議そうな顔で早苗を見た。
「ふふ。なんでもない。二人だけのヒ・ミ・ツ」
「なんだよ。教えろよお」
「だめだめ」
早苗は両手で口を覆って笑いころげた。この前会ったときとは別人のような明るさだった。二人はしばらく子犬のようにじゃれあっていたが、早苗がふと真面目《まじめ》な顔になって言った。
「こんなこと言ったら、すごく不謹慎かもしれないけれど、本音を言うとね、あたし、津田っていう浪人生に感謝してるくらい。だって、もし、順平の叔父さんが死んでくれなかったら、あたしたち、一生ペンションなんか持てなかったかもしれないもの。人の財産をあてにするのはいけないかもしれないけれど、叔父さんの遺産で、少なくとも三人の人間が幸せになれるかもしれないんだから、亡くなった叔父さんも迷わず成仏してもらいたいわね」
「三人?」
紫はつい聞き返した。
「あたしと順平と、あともう一人、川上ウメ子さん」
早苗は指を折って数えた。
「川上ウメ子って――」
「叔父さんとこの家政婦だよ。身寄りがなくて気の毒な人なんだ。叔父さんがあんなことになって、おれが遺産を相続したら、あの屋敷は売りに出すつもりだから、彼女は職と住む所をいっぺんに失ってしまうことになる。六十すぎているから、他の勤め口を探すのも難しいだろうし。おれ、おふくろを早くに亡くしたからさ、なんだか、あの人がおふくろみたいな気がしてさ、それで、早苗と相談して、彼女にもおれたちの夢に加担してもらおうと思ったんだ」
貧乏ゆすりをしながら、煙草をふかしていた順平が言った。
「彼女、料理がうまいんだよ。だから、ペンションの料理係をやって貰おうかなって思って。早苗のは今いちだもんな。おふくろの味なんて、こいつには逆立ちしても出来っこないし」
順平は早苗の額を指でこづいた。
「ひっどーい」
早苗は順平をたたく真似をした。
「だってそうじゃないか。肉じゃが作れば、砂糖と塩いれ間違えるし――」
「ウメ子さんは承知したの?」
紫がたずねると、
「うん。信州は彼女の生まれ故郷だって言うんだ。涙流して喜んでたよ」
二人は紫のことをそっちのけで、どんなペンションにするか、将来の夢を語り合った。一時間くらい、そんな調子であっと言う間に過ぎてしまった。
「あ。いっけね。もうこんな時間だ。おい、そろそろおいとましようぜ」
順平は腕時計を見ながら、吸いかけの煙草を灰皿で揉《も》み消すと、慌てて立ち上がった。
早苗も立ち上がりかける。
「どうせだから、一緒にごはん食べていかない? そのうち、兄も帰って来ると思うけど」
紫がそう言うと、
「せっかくだけど、順平の仲間が小さなパーティを開いてくれることになってるの。だから、今夜はこれで帰る。また出直すわ。お兄さんによろしく」
早苗はそれだけ言って、順平と連れ立ってそそくさと帰って行った。
二人がいなくなると、部屋の中が急にがらんとした感じになった。
紫は一つ溜息《ためいき》をついた。
なんとなく気の抜けたような感じだった。
紫は人の不幸を喜ぶような不幸な性格には生まれついてはいなかったが、人間が他人と分かち合えるのは、もしかすると幸福よりも不幸の方なのかもしれないと、ふと感じていた。
不幸なときの早苗は紫のそばにいた。でも、今の早苗はなんだか遠くに感じる。紫を必要としていない。今、早苗の頭には順平とペンションのことしかないみたいだ。
それが紫にはちょっとさびしい。女友達なんてこんなものかもしれない、とも思う。
他人の幸福を見せ付けられたときに感じる、あのちょっぴり妬《ねた》ましさとさびしさの入り混じった複雑な気持ち。しばらくそれを噛《か》みしめていたが、
「ま、いいか」
と、独り言をいって立ち上がった。
テーブルの上の吸い殻のたまった灰皿を片付けようとしたとき、灰皿の陰になって見えなかった金属製のライターに気が付いた。
進介のものではなかった。
稲垣順平が忘れていったのだ。
すぐに追い掛ければ手渡せるかもしれない。
そう思って、紫はそのライターをつかんだ。
次の瞬間、紫は顔を歪《ゆが》めてライターを放り出していた。
安物のライターは乾いた音をたてて床に落ちた。
紫は信じられないものでも見るように、鈍く金色に光るライターを見詰めていた。
9
桐生進介が帰ったとき、紫は明かりを消した暗いリビングにいた。
「あ、びっくりした。真っ暗だったから、もう寝たのかと思った」
リビングの照明スイッチをつけて、ソファに紫が座っていることに気が付いた進介は、ぎょっとしたように言ったが、紫の様子がおかしいことにすぐに気が付いて、眉《まゆ》をひそめた。
「どうしたんだ?」
紫はそれには答えず、茫然《ぼうぜん》とした様子で座っていた。魂が抜けてしまったような顔だ。
「誰か来たの?」
プレゼントらしい花束。テーブルの上の吸い殻の残った灰皿や三つの紅茶カップ。進介は素早く視線を走らせた。
「さっき、早苗さんが――」
紫は感情のこもらない機械のような声で答えた。
「ああ、あの稲垣順平の彼女って子か。いや、来客はもう一人いる。それくらいはシャーロック・ホームズでなくても分かるぞ」
「稲垣順平も一緒だった」
「なんだ。先に言うなよ。今当てようと思ったのに。おい、どうしたんだよ。うつけたような顔をして」
「分からない」
紫はつぶやいた。
「え?」
「分からない。どうして……」
「何ブツブツ言ってんだ?」
進介は紫が片手にライターのようなものを握っているのに気が付いた。
「どうしたんだ、そのライター?」
「稲垣順平が忘れていったの。返しに行こうと思って触ったら――」
進介の顔が引き締まった。
「何か感じたのか」
紫は頷《うなず》いた。
「何を?」
あるどす黒い予感が進介の胸をよぎった。
「相良利一郎を殺した犯人がつかまったって本当?」
紫は夢から覚めたような顔で聞き返した。
「稲垣から聞いたのか」
「うん。向かいの家の浪人生だって」
「まだ犯人と決まったわけじゃない。相良邸に忍び込んだことは認めたが、殺しは否認し続けているし、おまけに妙なことを言い出した」
「妙なことって?」
「現場に行ったとき、すでに相良利一郎は殺されていたって言うんだ。しかも、そのとき、相良邸のリビングにあった時計が全部三時間ずつ進んでいたとも。所轄の連中は信用していないが、どうもおれには、津田が嘘《うそ》をついているようには思えない」
進介は紫のとなりに座った。
「その人、嘘ついてないよ」
紫は言った。
「どうして分かる?」
「だって、その人が相良利一郎を殺したんじゃないもの。相良利一郎を殺したのは――」
紫の声が凍り付いたように途切れた。
「誰なんだ?」
「稲垣順平だもの」
10
「もう一度伺いますが、あなたが、十一月九日、家を出たのは何時頃でしたか」
翌日。取り調べ室で、机を挟んで、桐生進介は川上ウメ子にたずねた。
「午後二時頃でした」
ウメ子は緊張しきった声で答える。
「そのとき、稲垣順平さんも一緒だったんですね」
「はいそうです」
「相良さんはどうでした?」
「は?」
ウメ子の顔に不安が走った。
「相良利一郎さんは、あなたがたが出掛けるとき、何をしていましたか」
「利一郎さんは――」
ウメ子は一瞬、絶句してから、
「た、たしか、リビングで雑誌を読んでいました。難しい横文字の雑誌です」
「稲垣順平が訪ねて来たのは何時頃でしたか」
「たしか朝の九時頃でした」
「朝の九時から午後の二時まで、あなたはずっと相良邸にいたのですか」
「いいえ。あの、ちょっと買い物に出ました。近くのスーパーに」
「それは何時頃です?」
「お昼頃です。午後十二時から三、四十分くらいの間でしょうか」
ウメ子は思い出すように目を宙にすえた。
「ところで、十四日の午後、あなたが帰って来たとき、相良邸の時計が進んでいるということはありませんでしたか」
桐生はしばらく下を向いて何か考えていたが、顔をあげると、話題を変えるように言った。
ウメ子の目にはっとした色が浮かんだ。
「い、いいえ」
「時間は正確だった?」
「はい」
「あなたが旅行に出掛けるときはどうです? 時計が進んでいるということはありませんでしたか」
「いいえ。そんなことはありません。利一郎さんはそれは時間にうるさい人で、一分でも狂っていると文句を言うような人でしたから、わたしはいつも時報に合わせて、遅れたり進んだりしないように気を付けていました」
「それは妙ですね。津田良明が十日の午前二時頃、おたくに忍び込んだとき、リビングにあった三つの時計が三時間も進んでいたと言っているのですがね。つまり、どれも五時を指していたというのです」
ウメ子は酸素が足りないというように口を開けた。明らかに動揺している。
「そ、それは何かの間違いです。そんなはずはありません」
「ところで、相良さんは非常に規則正しい生活をしていたとおっしゃいましたね」
「はい。それはもう、ここ何十年も、朝は七時に起きて、夜は十一時に寝るという習慣を変えたことはありませんでした」
「しかし、そういう生活パターンを維持してきたとなると、海外旅行などをされるときは大変でしょうね」
桐生は世間話でもするような口調で言った。
「はあ」
ウメ子は火事のときに非常口を探すような目付きできょろきょろした。
「そういえば、相良さんは毎年今ごろになると、ロンドンの友人の家で開かれるチェスの会に招かれていたそうですが?」
「は、はい」
「チェスというのは、ぼくはやったことがありませんが、相当|頭脳《あたま》を使うゲームなんでしょう?」
「そうらしゅうございますね」
「内輪の会とはいえ、良い成績をおさめるためには、万全の体調を作っておかなければならないでしょうね」
「は、はい、それは」
「とすると、当然、時差ボケの対策は何かこうじられていたんでしょうね」
「は?」
目に見えて川上ウメ子の顔色が変わった。
「時差ボケですよ。ジェットラグ・シンドローム。長距離を短時間で飛行すると、体内時計が狂ってしまい、体調を大きく崩しがちなのです。これにかかるとせっかくの海外旅行も台なしですね。めまいや吐き気、頭痛、持病があればその持病が悪化したりもするそうですが、たしか、利一郎さんには喘息《ぜんそく》の持病があったそうですね」
「はい」
ウメ子は青ざめた顔で頷いた。机に載せた両手がわなわなと震え出した。
「毎年、ロンドンへ行っていたなら、時差ボケの辛《つら》さは知っていたはずです。あれにかかると、観光すらもままならない。ましてチェスどころではない。当然、利一郎さんも、なんらかの対策をこうじていたはずですが?」
「わたしには何とも――」
ウメ子は首をかしげた。
「ところで、ロンドンと日本の時差をご存じですか」
「さ、さあ。わたしはこの歳になるまで、恥ずかしながら、外国へは行ったことがございませんので」
「サマータイムの期間以外は、ちょうど九時間[#「九時間」に傍点]なんですよ。ロンドンの方が東京よりも九時間遅れているのです[#「ロンドンの方が東京よりも九時間遅れているのです」に傍点]」
「さ、さようでございますか」
「九時間の差は大きいですね。向こうとこちらでは昼夜がほぼ逆になるといってもいいわけです。日本の朝の七時というのは、あちらでは前日の夜十時にあたるわけですから」
「はあ」
「いや、実は時差が九時間と聞いて、おやと思ったことがあるんですよ。津田良明の証言です。十日の午前二時頃に忍び込んだとき、おたくの時計が三時間も進んでいた、と彼は言っているのですが、これは、津田の思い違いで、時計は進んでいたのではなくて、遅れていたのではないか[#「時計は進んでいたのではなくて、遅れていたのではないか」に傍点]と思ったのです。午前二時のはずなのに、五時を示していたというのは、三時間進んでいたとも考えられますが、同時に、九時間遅れていたとも考えられるわけです。アナログ型の時計ならどちらともとれますからね。たしか、相良邸のリビングにある時計はすべてアナログ型のものでしたね?」
「は、はい」
「津田は三時間進んでいたと思い込んでしまったが、実は、リビングの時計は九時間遅れていた。しかも、殺された利一郎さんが訪れる予定になっていたロンドンと日本の時差がちょうど九時間。これは偶然の一致でしょうか」
「…………」
ウメ子は押し黙っていた。
「もうそろそろ本当のことを話してくれませんか。相良邸の時計がなぜ九時間も遅れていたのか。相良利一郎は一体いつ誰に殺されたのか。あなたはすべて知っているはずだ。これ以上隠すと、あなたも共犯ということになりますよ」
「ち、違いますっ。わたしは共犯ではありません。何も知らなかったのです。北海道から帰って来るまで何も知らなかったんです。本当です。信じて下さい。まさか利一郎さんがあんなことになっているなんて――」
ウメ子はわななく両手で顔を覆った。
「さあ、全部知っていることを話して下さい」
桐生は川上ウメ子をいたわるように話しかけた。
「刑事さんのおっしゃる通りです。利一郎さんは、何日も前から時差ボケ対策として、ある方法を取っていたのです」
老家政婦は観念したように顔から手を離し、鼻水を啜《すす》りあげながら話しはじめた。
「それは、出発日の九日前から、家中の時計を毎日一時間ずつ遅らせて、睡眠時間を調節することで、少しずつロンドン時間に近付けて行くという方法でした。前には、何日か前に現地入りして、チェスの会がはじまるまでに体を慣らすという方法を取っていたのですが、これだと滞在費もかさみますし、出発直前まで日本にいなければならない用事のあるときなど不便なのです。
それで、数年前から、日本にいても出来る方法を試すようになりました。これが、九日前から一時間ずつ時計を遅らせていって、少しずつロンドン時間に体を慣らしていくというやり方でした」
「具体的に言うとこういうことですか。一日めは一時間遅らせて、朝八時に起きて午前零時に寝る。二日めにはさらに一時間遅らせて、朝九時に起きて午前一時に寝る。こういうやり方で、毎日一時間ずつ遅らせていって、九日めには、午後四時に起きることになるわけですね。これで、ロンドンのデイタイムにほぼ体が慣れたことになる。日本の午後四時は、ロンドンの午前七時にあたるわけだから」
「そうです。勤め人がやるには、面倒で、無理な方法ですが、さいわい利一郎さんは勤め人ではなかったので、それほど不自由なく出来たのです」
「まさか、あなたも?」
「いいえ。滅相もない。わたしは普段通りの生活をしていました。時間を遅らせる生活をしていたのは利一郎さんだけです。それで、やってみると、面倒なようですが、この方法の方が、何日も前に現地入りするより、良いコンデションを保てるということでした」
「ということは、リビングだけでなく、寝室の目覚ましも遅らせてあったのですね」
「はい」
「つまり、あの壊れて止まっていた目覚ましの三時十分というのは、日本時間の三時十分ではなくて、ロンドン時間の三時十分を示していたというわけか」
「そうです。日本時間でいうなら、午後十二時十分でした。ちょうどお昼どきでした。でも、ロンドン時間では未明の午前三時十分、つまり深夜にあたります。だから、利一郎さんはベッドに入って熟睡していたのです」
「その熟睡している利一郎さんを殺したのは、稲垣順平だったんですね」
「はい。あの日、わたしがお昼の買い物に出掛けている間に、順平さんが寝室に入り込んで利一郎さんを――。わたしは何も知らなかったのです。利一郎さんの起きてくるのは、午後四時のはずでしたから、出掛けるときも起こしてはならないと思い、寝室を見に行くようなことはしませんでした。まさか、あのときすでに殺されていたなんて。てっきり睡眠中だとばかり思い込んでいたのです」
「利一郎さんには会わずに旅行に出てしまったわけか」
「はい。利一郎さんの予定では、九日の午後四時に起きて、そのまま寝ないで十日の午前十時五十分発のロンドン行きに乗り、飛行機の中で八時間の睡眠を取るというものでした。こうすると、ロンドンに着く頃には、うまく向こうの時間に合わせることができるらしいのです。
ところが、十四日の午後、旅行から帰ってきたわたしは、寝室へ行って、そこではじめて利一郎さんが殺されているのを知りました。わたしにはすぐに犯人が分かりました。順平さんしかいません。動機もすぐに見当がつきました。順平さんは以前からペンションをやるお金を利一郎さんに無心していました。でも、利一郎さんはあまり乗り気ではないようでした。だから、九日のお昼頃、わたしが買い物に出掛けて、寝室で熟睡している利一郎さんと二人きりになったとき、順平さんの心に悪魔が忍び込んだのです……」
「しかし、あなたはそこまで知っていながら、なぜ黙っていたのです?」
「警察の人に本当のことを言わなければと思いながら、どうしても言えませんでした。順平さんのことは子供の頃から知っています。幼いときには、母親に連れられて遊びに来たこともあったからです。わたしはこの歳になるまでずっと独り身で、連れ合いも子供もおりません。そのせいか、わたしになついてくれた順平さんがなんだか自分の息子のような気がしていました。順平さんも、わたしには優しくて、いつかペンションを持てるようになったら、わたしをそこで働かせてくれると言ってくれました。それだけではありません。わたしが働けなくなったら、老後の面倒も見ると言ってくれたのです。しかも、信州はわたしの生まれ故郷でした。もし、生まれ故郷で余生を送り、そこに骨を埋めることができたなら、どんなに素晴らしいかと思いました。だから、わたしはひそかに願っていたのです。順平さんの夢が一日も早く叶《かな》うように。なぜなら、順平さんの夢はわたしの夢でもあったからです。
でも、もし順平さんが警察につかまるようなことがあったら、わたしの夢もそこで終わります。六十をすぎた身寄りもない女を誰が雇ってくれるでしょう。あとは雀の涙ほどの年金を頼りに独りで暮らすだけです。
そうならないためには、順平さんを犯人にしてはいけない。そう思いました。わたしさえ黙っていればいいのです。利一郎さんが殺されたとき、家の時計が全部九時間遅れていたことを黙っていればいいのです。利一郎さんの死体を発見したとき、わたしは咄嗟《とつさ》にそのことだけを思ったのです」
「すると、九時間遅れていた相良邸の時計を元に戻したのは、あなたですか。津田が忍び込んだとき、時計はまだロンドン時間だったわけだから、あのあとで誰かが元に戻したということになる」
「はい、わたしです。警察に電話をかける前に、家中の時計の針を元に戻しておいたのです」
「あなたを味方にひきいれるために、最初から稲垣順平は計算していたとは思いませんか。それで、あなたに、あのペンションの話を前以《まえもつ》てもちかけていたのだとは」
桐生はたずねた。
すると、川上ウメ子は溜息《ためいき》を一つついて言った。
「そうだったのかもしれません。でもそれならそれでいいのです」
11
「早苗ちゃんなら辞めましたよ」
一週間後、学校帰り、久し振りに佐野生花店に立ち寄った紫に、女主人はそっけなくそう言った。
「辞めた? いつですか」
驚いて聞き返すと、
「おととい、電話がかかってきて、一身上の都合で辞めますと一言いってガチャン。理由を聞く暇もなかったわ。まったく最近の若い子はこれだからね。自分の都合のことしか考えないんだから。こっちの都合はどうなるのよ。親身になって面倒見てやっても、ちょっと何かあると、さっさと辞めちゃうんだから――」
ぶつくさ文句を言い続けている女主人を尻目《しりめ》に、何も買わずに紫は店を出た。その足で早苗のアパートに向かった。
稲垣順平が相良利一郎殺害の容疑で逮捕されてから、早苗には会っていなかった。早苗と顔を合わすのがつらくて、佐野生花店の前をしばらく避けて通っていたからである。
相良家の家政婦、川上ウメ子がすべて自供したと聞いて観念したのか、稲垣順平は、素直に犯行を認めたという。
紫は俯《うつむ》いて歩きながら考えていた。
もし、あのとき、順平が忘れていったライターを手に取らなかったら、あのライターの中に秘められていた恐ろしい記憶を読み取らなかったら、どうなっていただろう?
早苗のペンダントから得た情報と、順平のライターから得た情報とは、完全に矛盾していた。ペンダントは順平の無実を訴え、ライターは順平の罪を告発していたのである。
そのことがいっとき紫の頭を混乱させたが、この矛盾はある一つの真実を教えていることに気が付いた。それは利一郎を殺害したのは、甥《おい》の順平に間違いないが、犯行時刻は、当初そう思われていたような、十一月十日の午前三時十分ではなかったということである。
皮肉にも、犯人が相良邸の門から出て来るのを二階の窓から見たという津田良明の証言は、結果的には真実だったというわけだった。
津田は自分でも知らないうちに真犯人を告発していたのである。
九日の午後二時頃にフルフェイスのヘルメットを抱えて門から出て来た男こそ、利一郎を殺害した直後の犯人だったのだから。
それにしても、あのとき順平のライターを手に取らなければ――。
紫は思った。
稲垣順平の罪は暴かれることはなかったかもしれない。早苗は、叔父《おじ》の遺産を相続した稲垣と結婚して、二人で夢見た通りのペンションを信州のどこかに建てていただろう。川上ウメ子を迎え、三人で幸福に暮らしていたのだろうか。
そう考えると、紫は自分が不思議な能力を持って生まれてきてしまったことを呪《のろ》いたくなった。
この能力が果して、自分や自分の周りにいた人間を今まで幸せにしただろうか。知らないでいいことまで知ってしまうことは、いつも自分ばかりか、周りの人間まで不幸にしてきたような気がする。
もちろん、稲垣順平のことは、紫の透視がなかったとしても、いずれは暴かれていたかもしれない。
しかし、紫には、今の早苗の不幸は自分の責任のような気がした。
早苗のアパートにたどり着くと、202号室のドアをノックした。返事はない。ドアに掛かっていた表札がなくなっていた。
まさかと思い、ドアを開けてみると、鍵《かぎ》はかかっていなかった。
部屋の中には何もなかった。
レンタルだったらしいダイヤル式のカラー電話機が赤茶けた畳の上にポツンと置いてあるだけだった。
紫は慌てて階段を降りると、アパートの前を掃除していた、大家らしい初老の女に声をかけた。
「あの、202号室の青木さん、引っ越したんですか」
「らしいね」
大家さんは仏頂面で答えた。
「どこへ行ったか知りませんか」
「さあねえ。行き先なんて知らないよ。こっちに何の挨拶《あいさつ》もなしで、夜中にこっそり出て行ったらしいからね。今月の家賃だってまだ入れてなかったんだから。なに、考えてんだろうね、今の若い子は」
花屋の主人と同じようなことを言う。
紫はなんとなく後ろ髪をひかれる思いで、早苗が住んでいたアパートを後にした。振り返ると、アパートの二階の、カーテンの無くなった寒々しい窓の軒下に季節はずれの風鈴が揺れていた。
早苗はどこへ行ったのだろう。
郷里へ帰ったのだろうか。それとも、まだ東京のどこかにいるのだろうか。どこかでひそかに稲垣順平の帰りを待つつもりだろうか。
それとも、今までそうしてきたように、終わった恋を弔いながら、一晩泣き明かし、涙が涸《か》れた頃、また新しい職を見付けて、髪形を変え、新しい土地で暮らしはじめるのだろうか。やがてまた、新しい恋に出会うまで――。
そうやって恋の墓標を幾つも胸の中に作っていくのか。それとも、いつか小さなアネモネの花を咲かせるのか。
晩秋の夕暮れの中を歩きながら、紫はふと思った。
いつかどこかで早苗と擦れ違う日が来るかもしれない。そんな予感がした。
そのとき、彼女はどんな顔をして通り過ぎていくだろう。
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鋏《はさみ》の記憶
1
耳元で電話が鳴っていた。
桐生紫《きりゆうゆかり》は被《かぶ》っていた布団からもぞもぞと手だけ出すと枕元《まくらもと》を探った。手探りでコードレスホンの子機を探りあて、それを布団の中に引っ張りこんだ。半ば夢うつつで受話器を耳にあてる。
「もしもし……」
「紫ちゃん?」
元気の良い声がストレートに耳に飛びこんできた。
「はい……」
「あたし。誰だか分かる?」
「…………」
紫はうっすらと目をあけて、枕元の目覚ましを見た。午前七時になろうとしていた。
三月二十一日。土曜日。高校はすでに春休みに入っている。休みの日の午前七時といえば、低血圧で朝が苦手な紫にとっては、まだ「早朝」にあたる。
これが間違い電話か何かだったら、大声でわめいてから切ってやる。そう思いながら、布団から頭を出すと不機嫌な声でたずねた。
「どちらさまですか」
「どっか悪いの?」
心配そうな声で相手が言った。
「え?」
「なんか死にかけたばあさんみたいな声してるよ」
「…………」
寝起きはいつもこうだ。
「ホントに紫ちゃんだよね?」
不安そうに念を押す。
「ホントに紫です」
「あたし、ニヘイノリコ」
相手はようやく名乗った。
「ニヘイ……」
と言われてもすぐに思い出せない。
「ほら、この前おたくにお邪魔したとき、玄関でゲロはいた」
「ゲロ? あ」
アイツか。
思い出した。二瓶乃梨子《にへいのりこ》。紫の同居人、桐生|進介《しんすけ》の高校時代の同級生である。二週間ほど前、久し振りに同窓会に出た進介が、高校時代の悪友を数人引き連れて夜中に帰ってきたことがある。
二瓶乃梨子はその中の紅一点だった。来たときからへべれけに酔っ払っていて、しかも、マンションのドアを開けて入った途端に、タクシーの中でずっと我慢していたという「小間物」を盛大に「広げて」くれて、後始末が大変だったのを、紫はシッカリ覚えていた。
忘れろったって忘れられない。
たしか美大を出て、今は漫画家になっているとか言っていた。
「思い出した?」
「はあ」
「今、暇?」
「ええまあ」
「お願い、助けて」
乃梨子は悲鳴のような声をあげた。
「どうしたんですか?」
紫の眠気はいっぺんに吹っ飛んだ。
「今日が締め切りだというのに、アシが急病になっちゃってパニックなの。バイト代はずむから、ベタ塗り手伝って」
アシというのは、アシスタントのことだろう。
「え、でも、あたしベタ塗りなんてやったことないから」
「簡単、簡単。あんなのすぐにおぼえるって。今タクシーそっちに回すから。それじゃね」
「あ、ちょっと」
と言いかけたときには電話は切れていた。
紫は切れた受話器に向かって口をとがらせた。はじめて会ったときといい、今度といい、なんて人騒がせなヤツなんだろう。ヒトを朝の七時に電話でたたき起こして、勝手にしゃべって勝手に決めて。行くなんて言ってないじゃない。
しかし、頭の方はすっかり覚めてしまっていた。もう一眠りしようという気にもならなかった。それにたしかバイト代をはずむとか言ってた。ちょうどお小遣いが足りなくてピンチだった。今日はこれといって予定もない。しょうがない、手伝ってやるか。渋々そう決心するとベッドから起き上がった。
パジャマのままダイニングルームに行くと、テーブルには、昨夜作ってラップをかけておいた夜食がそのままになっていた。
進介の部屋をのぞいてみた。ベッドには寝た気配がない。
昨日は帰らなかったのか。なんとなく溜息《ためいき》をついてドアを閉めた。
きっと警察の宿直室かどこかに泊まったに違いない。何か厄介な事件でも追っ掛けているのだろうか、紫は思った。
同居人の桐生進介は三十一歳の独身で、警視庁の刑事である。
ある事情から父の従弟《いとこ》にあたるこの男のマンションに居候するようになって、そろそろ一年になるが、時々こんな日があった。
洗面台で顔を洗って、タオルで拭《ふ》きながら、紫は鏡の中の自分に話しかけるように言った。
電話くらいすればいいのに。
2
「やったア」
凄《すご》い形相で最後の一枚にカリカリとペンを走らせていた二瓶乃梨子は、ペンを放り出して、うんと大きく背筋を伸ばした。
「はい、これがラスト」
その原稿を隣の机で背中を丸めてせっせと筆を動かしていた紫に渡す。
これがラストと聞いて、紫はやれやれと思った。
あのあと、乃梨子の差し向けたタクシーに乗るというより、殆《ほとん》どさらわれるようにして国分寺《こくぶんじ》の仕事場まで来ると、挨拶《あいさつ》も抜きで、紫はエプロンを渡され、アシスタント用の机に座らされたのである。
昼食もとらず、水いっぱい飲ませて貰《もら》えず、机の前に座りっぱなしで筆を動かしていたせいか、ちょっと背筋を伸ばそうとしただけで身体《からだ》中がぎしぎしと痛んだ。
「はじめてにしては上出来だよ。ウン」
乃梨子は紫の仕上げた原稿を点検しながら頷《うなず》いた。
「今のアシ、首にして、今度から紫ちゃんに手伝って貰おうかな」
冗談とも本気ともつかぬ口調で言いながら原稿を揃《そろ》えると、壁の時計を眺め、
「お、もうこんな時間か。おなかすいたでしょ。ピザでも取ろうか」
「その前に水いっぱい下さい」
筆を動かしながら紫は掠《かす》れた声を出した。
「はいはい。水でもお茶でもなんでも差しあげますよ」
仕事をしていたときとは別人のような上機嫌さで乃梨子はいそいそと、二つの紅茶カップにティーバッグを放り込むと、ポットを傾けてお湯を注いだ。
紫は、ようやく最後のベタ塗りを終えて、大きく伸びをした。
「御苦労さん」
「漫画家ってのも大変なんですね」
昨晩は一睡もしていないという乃梨子の腫《は》れぼったい顔と、ボサボサの髪を輪ゴムで結んだだけの馬のしっぽみたいな、色気のない頭を見ながら紫は溜息まじりに言った。
「まあね。好きで入った道とはいえ、けっして楽な仕事じゃありませんな。売れなきゃ売れないで困るけど、売れたら売れたで、こんな修羅場が毎日のように繰り返されるんだから」
湯気をたてているカップの一つを紫に手渡すと、乃梨子は出窓の出っ張った部分にヒョイと腰かけ、裾《すそ》を折ったブルージーンズの細い足をぶらぶらさせて、音をたてて紅茶をすすった。
「でも、ひと仕事を終えて、こうして飲むお茶がうまいんだなあ、これが。オチャケだったらもっと良いけど」
そう言ってうふふと笑う。
出窓から射し込む午後の日差しが、仕事部屋に借りているというアトリエを明るく照らし出していた。
「アンティックな家具が多いんですね」
紫は紅茶を半分ほど飲んで一息つくと、今やっと気が付いたと言うようにあたりを見回した。
なにせタクシーをおりて玄関の呼び鈴を鳴らすなり、待ってましたとばかりに、襟首をつかまれるようにして仕事場の机の前に据えられたので、部屋の中を見回すゆとりもなかった。
広いフローリングの床には、幾分時代がかった家具やら電化製品やら置物が、まるで骨董品《こつとうひん》屋の店先みたいに雑然と置かれていた。
こんな骨董品に興味を持っているらしいところが、いかにも美大出という感じだと紫は思った。
「こんなテレビ、仙台のおばあちゃんちにもありました」
昭和三十年代にはやったような、家具調テレビを見付けて、紫はなつかしそうに言った。
「あ、こんなミシンも」
古い足踏み式のミシンもあった。三年だけ暮らした仙台の祖母の家の廊下にも、こんな昔のミシンが出してあって、刺繍《ししゆう》をした布のカヴァーがいつも掛けてあった。紫はそこで宿題をしたり本を読むのが好きだった。
「古いもの集めるのが好きなんですね」
「古いから集めたわけじゃない。集まったのがたまたま古いものばかりだったわけ」
「?」
「なんか気に入ったのがあったら持っていっていいよ」
「え、いいんですか。こういうのって買うとけっこう高いんでしょ」
驚いて乃梨子の方を振り返った。
「買えばね」
「買えばねって?」
「うちのはただだもん」
「ただ?」
「そ。ただ。全部拾いもの。まあ、多少費用がかかっているとしたら、修理代くらいなもんだね。ゴミだったんだよ。そこにあるの、ぜーんぶ」
「ゴミィ?」
紫はただでさえ大きな目をさらに丸くした。
「これが全部? ゴミ?」
「そうだよ。買ったものなんて一つもない。全部、ゴミ捨て場から集めてきたものばっかし。あたしさ、売れてないときに少しでも生活費浮かそうと思って、電化製品とか家具なんか全部貰い物か拾い物で済ませてたんだよね。それが癖になっちゃってさ。今なら多少経済的な余裕があるけど、買うのもったいないというか馬鹿らしくて。それにゴミ拾いって、いったん味をしめると面白いんだ、これが。もう今じゃ趣味だもん。乞食と漫画家とゴミ拾いは三日やったらやめられないってね」
アッケラカンとした顔つきで乃梨子は言った。
「これだけのものが本当に捨ててあるんですか」
紫は信じられないという目で見回した。
「それが捨ててあるんだなあ。これからのシーズンが収穫時よ。転勤とか引っ越しとかで、まだまだ使えるものでも古くなったものはどんどん捨てていくからね。不況不況ったって、ゴミを見ている限り、どこが不況かって言いたくなるよ」
「これなんか、アンティックショップに飾れば、ウン十万で売れるんじゃないですか?」
紫はヨーロッパ調の青い陶磁器の人形を手に取った。古びていても壊れたところはなかった。
「そうだね。あんなとこで高い金払って買うやつはバカだよ。山手かどっかの高級住宅街にでも行ってみなさい。そんなの、ゴミ捨て場にワンサカ捨ててあるんだから」
乃梨子はケラケラ笑った。
「信じられない」
紫は口の中で呟《つぶや》いた。
「それにさ、まだ使えるのに古くなったからって捨てられたゴミとかガラクタって、一種独特の哀愁が漂っていると思わない?」
「腐臭じゃなくて?」
紫は呆《あき》れて言った。
「キミはまだ若い。ゴミが漂わせている哀愁を理解するには十年早いな。これが理解できるようになったら一人前の大人だね」
「ゴミの哀愁ですか」
「売れなかった頃さ、よく出版社に持ち込み原稿ってのをしたんだよね。出版社の玄関を入るときは光輝く芸術作品だった原稿が、出るときはただのゴミになってるんだ。そういう経験を何度もしたからね、そのへんに捨てられたゴミを見ると拾いあげてなんとかしたくなるんだなあ」
へえ、ねっからの楽天家のように見えるけど、この人も苦労してるんだ。
そう思いながら、紫は人形を元の場所に戻した。陶器の人形のそばには、黄色いアヒルのおまるとか、大事なところが欠け落ちた狸の置物とかがある。
そんなものに混じって鋏《はさみ》があった。
それは布地などを裁つときに使う、やや大振りの裁ち鋏だった。かなり古いものらしく錆《さ》び付いていたが、これだって刃の部分を研げばまだ使えそうだ。
そう思って何気なく手を触れようとしたその瞬間、紫の手に電流のようなものが走った。ガシャンと鋭い音がした。
乃梨子がびっくりしたように顔をあげた。
鋏が床に落ちていた。紫は本能的に右手を左手でかばった。まるでやけどでもしたように。視線は床の鋏に釘《くぎ》づけになっている。
「どうしたの?」
異状を感じた乃梨子は出窓から飛び下りると、紫のそばにやって来た。
「怪我《けが》した?」
紫が右手をかばっているので、心配そうに覗《のぞ》きこんだ。血は出ていない。怪我をしたようには見えなかった。それなのに、紫の顔は真っ青で苦痛に歪《ゆが》んでいた。
「この鋏――」
紫は食いしばった歯の間から言った。
「この鋏がどうかした?」
乃梨子は鋏を拾いあげた。
「ただの鋏じゃないの。これがどうかしたの?」
チョキチョキと刃を動かしながら、不審そうに紫の顔を見る。
「血の臭いがした」
「えっ」
「血を流したことがある。この鋏」
紫はうわごとのように呟いた。
「ちょっと、何言ってるの?」
乃梨子は気味悪そうに紫を見た。
「こども。ちいさなこども。男の子だわ」
「子供?」
「小さな男の子が――」
紫は吐き気をこらえるように片手で口を覆った。
「子供がどうしたの?」
「小さな男の子が刺されたんです。その鋏で」
3
「ちょっと、大丈夫?」
二瓶乃梨子は心配そうに紫の顔を覗きこんだ。紫の顔は脳貧血でも起こしたように血の気がひいていた。
「この鋏、小さな男の子を刺したことがあります。今じゃなくて、ずっと昔。ハッキリ感じたんです。この鋏に残っている幼児の苦痛と恐怖、血の臭いと、それから、それから」
「ねえ、何言ってるの。鋏から感じたってどういうこと? もっと分かるように説明して」
乃梨子は紫の肩をつかんで揺さぶった。
「あたし――」
紫はためらいがちに言った。
「物に触ると感じることができるんです。その物を所有していた人のこととか、その人にどんなことが起きたとか、そういうことがただ触っただけでなんとなく分かってしまうんです」
「それってもしかしてサイコメトリー?」
乃梨子はぎょっとしたような顔で言った。
「知ってるんですか」
「知ってるよ。超能力の一種でしょ。前に超能力の漫画を描いたときにちょっと調べたことがあるんだ。あなたにそれがあるっていうの?」
「あるみたいなんです。小さいときからそうだったから」
「うっそー。信じられない」
乃梨子は目を真ん丸にした。
「でもあたし、そうなんです……」
「ねえ、試してみてもいい? 紫ちゃんの言うことを信じないわけじゃないよ。でもね、百聞は一見にしかずともいうから」
「いいですよ。口で言っただけで信じて貰《もら》えるとは思わないですから」
紫はやや冷ややかな口調で言った。
「うーんと。そうだな。何かあたしの持物で」
乃梨子は自分の机まで飛んでいくと、しばらく物色していたが、ペンケースの中から何か取り出して持ってきた。
「これ、あたしの宝ものなんだけど、なんで宝ものか分かる?」
そう言って差し出したのは、使いこんで小さくなった、ただの薄汚い消しゴムだった。紫はそれを手に取った。暖かい日の光をつかんだような感触が掌《てのひら》にじわりと広がった。
「高校のときに使っていたんですね?」
紫は目をあげずに言った。
乃梨子の喉《のど》がゴクリと唾《つば》を飲んだように動いた。
「最初にこれを持っていたのはあなたじゃありません。あなたの隣の席にいた男の子です。たぶん、テストか何かの最中、あなたが消しゴムをなくして困っているのを見るに見かねて貸して――」
「もういいわ」
乃梨子は幾分慌てたように紫の手から消しゴムを取り戻した。
「違ってました?」
紫は不安そうにたずねた。
「合ってた。その通りだよ。まさか、その男の子の顔や名前までは分からないよね……?」
急にうろたえた目になった。
「そこまでは。もう少し触っていたら分かるかもしれないけど」
紫がそう答えると、ほっとしたような顔になった。
「いいの、いいの。これだけ分かればもう十分」
「それじゃ、あたしの言ったこと、信じて貰えますか」
「信じる、信じる」
乃梨子は真剣な目で言った。
「この鋏が小さな男の子を刺した凶器だったと言うんだね?」
「そうです」
「子供は死んだの?」
「分かりません。感じたのはその子の苦痛と恐怖だけです。でもとても大量の血が流されたように感じます。小さい子供がそんなに血を流せば、たぶん生きていないのではないかと思います……。それに、その鋏には、もう一人の人の感情もこめられています」
「刺した相手だね?」
「そうかもしれません。昔のことなのでそこがハッキリしないんですけど。とにかく、その鋏の持主です。その人はその鋏をずっと長い間持っていたんです。鋏を頻繁に使う仕事か何かしていたようです。でも、その鋏が子供の血を流して、その人にもその子供以上の苦痛と大きな悲しみをもたらしたんです。あたしがさっき持とうとして思わず手を離したのは、その女の人の凄《すご》い苦痛が掌に生々しくはい上がってきたからです。血が流されたのはずっと昔、何十年も昔のことなのに」
「女? これを持っていたのは女なんだね」
「女の人です。もしかしたら」
紫はとまどいを感じて言葉を呑《の》んだ。
「もしかしたら、なに?」
乃梨子が先を促す。
「その男の子の母親かもしれません……」
「母親――」
乃梨子は目を剥《む》いた。
「母親が自分の子供をこの鋏で刺したって言うの?」
「いえ、そこまでは分からないけど。ただ、その鋏を持っていた女の人の苦痛は、母親の苦痛って気がするんです。だって、昔、あたしが風邪から肺炎を引き起こして、何日も高い熱がさがらなかったとき、あたしの額に手を置いた母の掌から感じた苦痛の感じにとてもよく似ているんです。でも、鋏の中にこめられた女の人の苦しみや悲しみの方が何倍も大きいって気がします」
「つまり、こういうことね? この鋏を所有していた女が、昔、小さな男の子を、もしかしたら自分の子供を、この鋏で刺して死なせてしまったことがある。そういうことなんだね?」
「ええまあそんなところです。今のところ感じられるのは」
「うーん。それが本当だとしたらただごとではないね。この鋏を持っていた人物に一体何が起きたのか」
「これ、どこで拾ったんですか」
紫ははっとしたようにたずねた。
「えーと、どこだったかな。たいてい、この周辺のゴミ捨て場を漁《あさ》りにいくんだけど、時々、めぼしいものがないときには、遠出したこともあったから。ちょっと待ってよ」
そう言って、乃梨子は爪《つめ》を噛《か》みながらじっと思い出すような目付きをしていたが、
「あ、そうだ。思い出した」
ポンと手をたたいた。
「どこです?」
「たしかね、これは中野だよ。東中野。車であそこまで足を延ばしたときに拾ってきたんだ。うん、そうだ。それに間違いない」
「いつ頃ですか」
「えーとね、拾ったのは半月くらい前だったかな、これくらいのダンボールの箱に入ってゴミ捨て場に捨ててあった。ダンボール箱ごと持ってきたはずだから、一緒に入ってた他のガラクタもどこかにあるはずだけど」
乃梨子はそう言いながらガラクタの山を掻《か》き分けた。
「あった、あった」
旧式の錆《さ》びたアイロンと霧吹き、それと、ところどころ破れて、中に詰めた綿が飛び出している、手作りらしい古いクマのぬいぐるみを探し出してきた。
「これこれ」
紫はそれらのものに順々に触ってみた。
「このアイロンと霧吹きを使っていたのは、鋏を使っていた人と同じ人です。同じ感触があります。たぶん、この女の人は年を取っていて、布地を切ったり縫ったりする仕事、洋裁か何かをずっとやっていた人です。それに、このクマのぬいぐるみもこの人が作ったものです。とても愛情がこもっています。小さな男の子がこれを大事にしていました」
「その男の子が?」
「ううん。鋏で刺された子じゃありません。もっと大きな子です。五つか六つくらいの。
刺された子供の方は二つか三つくらいだから。ぬいぐるみの名前はマアちゃん。もしかしたら、その男の子がそう呼ばれていたのかもしれません」
「子供が二人いたということ?」
乃梨子は怪訝《けげん》そうな顔をした。
「さあ。とにかく、鋏で刺された子供とこのぬいぐるみの持主は別の子供です」
「どういうことかな。二人の子供は兄弟かなにかで、母親が弟の方を鋏で刺したということかな?」
「分かりません」
紫は首を振った。
「でもさ、もし小さな子供が鋏で刺されて殺されたとしたら、当然殺人事件として騒がれていたはずだよね」
乃梨子が考えこむような目で言った。
「だとしたら、凶器である鋏が今ごろになってゴミ捨て場から発見されるというのは変だよね。だって、殺人なら凶器は証拠品として警察に没収されるはずだから残っているわけがない。ということは……」
乃梨子はブツブツ言いながら、恐ろしそうに紫の顔を見た。
「警察はこの事件のことを知らない[#「警察はこの事件のことを知らない」に傍点]ということになるよね?」
「そうなりますね」
「これはどういうこと? 幼児一人が殺されているかもしれないのに警察が知らないということは」
「子供は怪我《けが》をしただけで助かったのか、それとも」
「刺した犯人が子供の遺体をどこかに隠して、事件そのものを揉《も》み消してしまったか」
乃梨子と紫は互いの目の中を覗《のぞ》きこんだ。
「だとしたら、これは大変なことだよ。とんでもないものを拾ってきちまった」
「何かもっと他に手掛かりはないでしょうか。これだけでは殺人だったのか事故だったのかさえも分かりません。せめて、この鋏を持っていた女の人の名前でも分かれば」
紫は呟《つぶや》いた。
「どちらにしても、これを拾ったゴミ捨て場の近くに住んでいることは間違いないね。あのあたりの家を片っ端から当たれば、該当する人物が浮かび上がってくるはずだよ」
「でも、たとえ、鋏の持主が分かったとしても、それ以上は調べようがありません。この鋏を持って、これおたくのですかなんて、まさか聞きに行くわけにもいかないし。もし、その人が子供を殺していたとしたら、そんなことおいそれと他人に話してくれるわけありません」
紫はがっかりしたように言った。
「そりゃそうだ。真相を知るには直球を力任せに放ってもだめだね。カラメテより攻めるしかない。何か探り出す良い手はないものかな」
乃梨子はしばらく頭を捻《ひね》って考えていたが、
「ねえ、ところで、桐生はあなたの能力のこと知ってるの?」
と思い出したようにたずねた。
「え? ええまあ」
「だったら、とりあえずあいつに相談してみたらどうだろう?」
「お兄ちゃん?」
「うん。桐生なら仕事が仕事だから、警察手帳でもちらつかせればどんな情報だって手に入れられるんじゃないか」
「それはどうかな。これだけの手掛かりで警察が動いてくれるとはとても思えません。もっと何かちゃんと証拠のようなものがないと警察の力を借りるのは無理じゃないかなあ。それに昔のことだから、殺人だとしてもとっくに時効が成立しているかもしれないし」
「何も公に動かなくても、桐生が個人的にちょっと調べてみるくらいなら」
「ウーン。でも、今何か厄介な事件扱ってるらしくて忙しそうだし」
紫は気乗りのしない顔で言った。
「殺人かどうかも分からない古い事件のために動いてくれるとは思えないな。話すだけ無駄って気がしますけど」
「そうか。あいつは昔からちょっと融通のきかないところがあったからね、警察手帳ちらつかせて、仕事の合間にチョックラ調べるなんて器用な真似はできないかもしれないな。でもさ、だからといって、このままで済ますわけにはいかないよ。子供が一人殺されているかもしれないんだから。よし。こうなったら、乗り掛かった舟だから。自分でやるしかないか」
「自分でって?」
「原稿を編集者に渡したら、二、三日オフになるからさ、あたしが探ってみる」
乃梨子は目を輝かせて言った。
「探るってどうやって?」
紫が驚いたような顔でたずねると、
「これを使うのさ」
乃梨子は何やらひらめいたらしく、自信ありげに、ボロボロになったクマのぬいぐるみを手に取って見詰めた。
4
二瓶乃梨子から再び電話があったのは、翌日の夕方のことだった。紫が、エプロンを付けて流しで米を研ぎはじめたとき、リビングの電話が鳴った。
「あたし、二瓶だよ」
手を拭《ふ》きながら受話器を取ると、弾んだ声が飛び込んできた。この明るい声からすると、何か収穫があったに違いない、と紫はすぐにピンときた。
「どうでした?」
「鋏の持主、分かったよ」
「え、ほんと」
「うん。名前は杉原《すぎはら》さとえ。さとえは平仮名。紫ちゃんの言う通り、若い頃からずっと洋裁の仕事をしていた人だった。あのクマのぬいぐるみは彼女が自分の子供が小さいときに作ったものだったらしい。子供の名前はマサキ。正しい樹木の樹の正樹《まさき》。マアちゃんというのは、どうやら、この息子の名前だったらしいね。今では立派に成人して、五歳と三歳の子供の父親になってる――」
「ちょ、ちょっと待って」
紫は一方的にしゃべりはじめた乃梨子をようやく遮った。
「なに?」
「杉原さとえという人に会ったんですか」
「うんにゃ。会って聞きたくても杉原さとえはもうこの世の人じゃなくなってた」
「え?」
「亡くなっていたよ、一年近く前に。病死だってさ。あの鋏やぬいぐるみは、さとえの嫁さんが捨てたものらしいんだ。つまり、正樹の妻だね。なんでも、この春に東京の短大に入学が決まった自分の妹を居候させるために、姑《しゆうとめ》の部屋を片付けたんだって。それでいらなくなったガラクタを捨てたってわけ」
「それだけのこと、いったい誰から聞いたんですか」
「藤村《ふじむら》さんちのおばあちゃん」
まるで知り合いのように言う。
「藤村さんちのおばあちゃん?」
「このばあさまがまあ、とんでもないオシャベリでさ、最初は玄関のところで話してたんだけど、そのうち立ち話もなんだから上がれということになって、上がったら最後、しゃべり疲れるまで帰してくれない。羊羹《ようかん》とお茶まで出してきて、聞きもしないことまでもうペラペラしゃべってくれたよ」
「一体、どうやってそこまで聞き出せたんですか」
人なつっこそうな乃梨子の外見や性格もあるのかもしれないが、見ず知らずの他人にそこまでしゃべらせるとは、乃梨子は魔法か催眠術でも使ったのだろうか、と紫は不思議に思った。
「鋏のことをいきなり持ち出したら、いくらなんでも相手に警戒されると思ってさ、クマのぬいぐるみを捨てた人を探してるって風に言ったんだよ。紫ちゃんの透視によれば、鋏の持主とぬいぐるみの作り主は同一人物だってことだったからね。それで、ゴミ捨て場の近くの家を一軒ずつ回って、こういう風に聞いたわけ」
乃梨子は思い出し笑いでもするように笑い声をたてた。
「いやあ、我ながら上手《うま》い口実を思い付いたもんだと思うよ。嘘《うそ》つくのがこんなに上手くなるってえのはヤッパ職業病かなあ」
なんて呑気《のんき》なことを言っている。
「上手い口実って?」
話が脱線しそうになったので、紫は慌てて元に戻した。
「あのね、こうよ。うちの子供が近くのゴミ捨て場からボロボロになったクマのぬいぐるみを拾ってきたんだけど、それがよっぽど気に入ったらしくて、同じものを買ってくれとせがんでしょうがない。でも、見たところ既製品ではなく手作りらしいので、作った人に作り方を教わって、我が子にも同じものを作ってやりたい。というわけで、このぬいぐるみを捨てた人を探しているのですが」
「うまいっ。それなら聞き手に怪しまれませんね」
紫は思わず感心して言った。
「でしょ。我が子に手作りのぬいぐるみを作ってやりたい一心でそんなことを聞きにきたけなげな母親ってシチュエーションなら、誰もそんなに警戒しないだろうと思ってさ。それで、目指す相手を見付け出したら、ぬいぐるみの作り方を教わるという口実で接近して、それとなくこっちの知りたいことを聞き出すという作戦。どう? ショカツコウメイだってこんな名戦略は思い付かないよ」
「それで?」
乃梨子の自画自賛がはじまりそうな気配がしたので、紫は先を促した。
「うん、それでね、そうやって一軒一軒聞いて回っているうちに、五軒めで、さっき言った藤村のばあさまにぶち当たったんだよ。幸か不幸か。ばあさま、よっぽど暇をもてあましていたんだね、ぬいぐるみ云々の話をするや否や、いきなりあんたはエライとのたまった。どこがエライんじゃと思ったら、ばあさまいわく、どうも近ごろの母親は何でもかんでも店で売っているものを簡単に子供に買い与えるからけしからん、おやつでもおもちゃでも、わしらの若い頃は何でも手間暇かけて自分で作ったもんじゃ。その点、あんたは若いのにエライ。てなわけで、のっけからすっかり気に入られて、立ち話もなんだからって、ばあさまの隠居部屋に通されて、お茶うけは羊羹がいいかどらやきがいいかって聞くから、そうですねえ、どちらかといえば、わたしは羊羹の方が。ほう、そうか。羊羹がええか。それなら〈とらや〉の上物があるでの」
乃梨子の体験してきたことをはじめからまともに聞いていたら、夜が明けそうな不安に駆られたので、紫は適当な所で口を挟むことにした。
「それで、そのおばあさんから杉原さんのことを聞いたわけね」
「え? うんそうそう。亡くなった杉原さとえとは親しかったらしくて、もうあることないこと洗いざらい話してくれたよ。三十年前に越してきた時から話をはじめるんだからね、このばあさまの言うことをまともに聞いていたら、夜が明けそうだって内心気が気じゃなかったよ。それで、まあ、適当にこっちで話の矛先を誘導してやったんだけどね」
紫は笑いをこらえるのに苦労した。
「なんでも、杉原さとえの夫というのが、ナニガシ銀行に勤めていて、昭和三十八年頃に、札幌の支店から東京の本店に栄転になったのをきっかけに、親子三人、札幌から移り住んできたらしい」
「親子三人?」
「そう。正樹は一人っ子で、後にも先にも兄弟はいなかったそうだよ。というのは、なんでも杉原さとえは子供のできにくい体質だったらしくて、一粒種の正樹にしても結婚十年めにしてようやく恵まれた悲願の子供だったんだって」
「どうりで」
紫は思わず呟《つぶや》いた。あの古いクマのぬいぐるみにこめられていた作り主の子供への愛情には並々ならぬものがあった。それが何十年たっても少しも色褪《いろあ》せることなく紫にも感じ取ることができたくらいだ。
「だけど、正樹が一人っ子だったとしたら、あの鋏《はさみ》の犠牲になったのは一体」
「そうなんだよ。さとえの子供ではなかったということになるね。ああ、それからその鋏の一件だけどね、分かったよ」
乃梨子はこともなげに言った。
「分かったの?」
紫はいささか拍子抜けしたように聞き返した。昨日の今日である。まさかこんなに早く真相が分かるとは夢にも思っていなかった。
「あれは殺人事件でもなんでもなかったよ。裁ち鋏が凶器で、しかも幼児が被害者らしいなんて聞いたからさ、すごくおどろおどろしい事件が背後にあったんじゃないかって想像してたけど、事実は全然違ってた。
藤村のばあさまの話だと、たしかに今から三十年近く前、ちょうど杉原一家が越してきて二年たった頃に、杉原家でちょっとした事件が起きたらしい。なんでも、当時五歳だった正樹が、母親のさとえの胸を鋏で突いたというのだよ。
事実は紫ちゃんの透視とは逆だったらしいね、母親が幼児を刺したんじゃなくて、幼児の方が母親を刺したらしいんだ」
「そんなはずはない――」
紫は自分でもぎょっとするような鋭い声を出していた。
あの鋏から感じ取った二重の苦痛と恐怖。一つは肉体的なもので、もう一つは精神的なものだった。同じ苦痛と恐怖でも全く次元が違っていた。前者は単純で原始的な痛みと恐怖。明らかに幼い子供のものだった。後者はもっと複雑で深く、今の紫の能力では的確にその感情を読み取ることができないくらいに入り組んだ大人の苦痛であり恐怖だった。
だから、あの鋏で刺されたのは子供の方なのだ。それは絶対に間違いない。読み間違いであるはずがない。刺した犯人が母親であるかどうかまではハッキリしなかったが、被害者が幼児であることは間違いなかった。
「でもさ、藤村のばあさまの話だと、鋏で刺したのは正樹の方で、刺されたのは母親のさとえの方だったってことだよ」
「正樹はなぜ母親を刺したの?」
「刺したといっても、もちろん故意にしたことじゃないんだよ。まあ、事件というより、弾みで起こった不幸な事故といったところだね。五歳の正樹が鋏をおもちゃにしているのを見たさとえが、危ないと思って取り上げようとしたとき、正樹が取られまいとして腕を振り回し、そのとき運悪く、鋏の切っ先がさとえの胸元をかすったんだって。だから、刺したといっても、傷はそんなにたいしたものじゃなかったらしい。
一時は救急車を呼ぶような大騒ぎをしたものの、結局、さとえは病院に行かなかったらしいから。ただ、いくら弾みとはいえ、大好きな母親を傷つけて血を流させてしまったショックで、むしろ正樹の方に精神的な後遺症が残ったらしいけどね」
「精神的な後遺症って?」
「正樹はそのことがあってから鋏を怖がるようになったんだって。鋏恐怖症になってしまったんだね。三十三になった今でも、鋏が使えなくて、小刀で代用しているっていうんだからさ、幼児体験というのは恐ろしいよね」
「違う……」
紫は呟いた。
「え、何か言った?」
「違うよ。絶対に違う」
「何が違うのよ?」
乃梨子の怪訝《けげん》そうな声。
「子供が母親を刺したんじゃない。子供が刺されたんだよ[#「子供が刺されたんだよ」に傍点]」
「でもさ、事実は逆だったんだから。あのばあさまが嘘《うそ》をついているようには見えなかったし、あったことを逆さまにして話すほどボケているようにも見えなかったよ。それに、ばあさまの話だと、杉原さとえという女は母性愛のかたまりみたいな女だったらしいよ。子供が命みたいなさ。そんな女が小さな子供を鋏で刺すなんて、ちょっとおかしいよ。まして、それが自分の子供だったらなおさらさ。藤村のばあさまの言った話の方がずっと現実味があると思うけどね」
「だけど、あの鋏にはたしかに――」
「あ、悪い。あたしこれから出掛けなくちゃならないんだ。てなわけでさ、一件落着。幽霊をつかまえてみたら枯れ尾花ってところだったね。じゃあ」
「乃梨子さ――」
そう言いかけたときには、またもや電話は切れていた。
どうも二瓶乃梨子には一方的にしゃべりまくって勝手に電話を切る癖があるらしい。
紫は受話器をゆっくり元に戻した。
おかしい。
乃梨子の話したことが本当だとしたら、どうしてあの鋏からそれを感じ取れなかったのだろう。もし、本当に正樹という子供が母親を誤って刺してしまったなら、その記憶が鋏には残っていたはずだ。
ところが、紫があの鋏から読み取った記憶は全く違っていた。まるで逆なのである。
刺されたのは子供の方であり、しかも、かすり傷などではない。かなりの血が流れたはずなのだ。二つか三つの幼児ならそれだけで命を落としても不思議ではないほどに。
しかも、もしクマのぬいぐるみの持主が杉原正樹だとしたら、あの鋏の犠牲になった、もう一人の子供は一体誰だったのだろう。
紫は茫然《ぼうぜん》としたようにリビングのソファに腰をおとした。
そういえば、こんなことが前にもあった。紫は爪《つめ》を噛《か》みながら、ぼんやりと思った。
全く矛盾しあう二つの事実が同時に成立してしまう。どちらかが間違っているはずなのに、どちらにも嘘や間違いの入り込む隙《すき》がない。どちらも真実であり、しかし両方が成り立つことはありえない……。
こんなジレンマに悩まされたことがあった。あれはいつだったか。そうだ。あの杉並で起こった地主殺しのときだ。青木早苗のペンダントから透視した事実と、稲垣順平《いながきじゆんぺい》のライターから透視した事実とが真っ向から対立してしまったのだ。あのときの混乱した気分によく似ていた。
紫が透視した方が真実なのか。それとも、二瓶乃梨子が聞いたという話の方が真実なのか。鋏で刺されたのは子供だったのか、それとも母親の方だったのか。
紫は窓の外が真っ暗になって、玄関のチャイムが鳴るまで、この不可解な矛盾を解こうと必死で頭を悩ませていた。
5
玄関のチャイムが鳴った。
その音でようやく桐生紫は我にかえり、エプロンを付けたまま、闇《やみ》の中に座りこんでいた自分を発見した。
いっけない。何してたんだろう。
慌てて部屋の照明をつけ、時計を見ると、すでに午後七時を回っていた。二瓶乃梨子の電話を受けてから一時間以上もボンヤリと座りこんでいたことになる。
再びチャイムの音。
玄関に出てドアを開けると、片手をコートのポケットに突っ込んだ格好で進介が立っていた。
「いるなら早く出ろよ」
さっそく文句を言う。
「帰ってきたの?」
「帰ってきちゃ悪いのか、自分のうちに」
「そうじゃなくて、ばかに早いから。八時前に帰ってきたことなんてなかったじゃない」
「こういう日もあるんです。どうでもいいけど腹へった。めしめし」
コートを脱いで紫の頭にスッポリかぶせると、ダイニングルームに入って行った。
「済ませてきたんじゃないの?」
「何を?」
「ごはん。いつも外で食べてくるじゃない」
「今日はうちで食べるのヨ。さあて、今夜のおかずはなんでしょうね」
ネクタイを緩めながらキッチンにたつと、進介はコンロの上の鍋《なべ》の蓋《ふた》を開けて見ていたが、不思議そうな声で、
「なんでからっぽなんだ」
「これからやるんだもん」
紫は小さな声で言った。
「これから?」
信じられないという顔で振り返った。
「今何時だと思ってるんだよ」
「たまに早く帰ってきて、勝手なこと言わないでよ」
「たまに早く帰ってきたから勝手なこと言うんじゃないか。いつもは外食で手間はぶいてやってるんだから」
「言っとくけど、あたしは奥さんでも家政婦でもないんだからねっ」
紫は進介のコートを丸めてソファにたたきつけた。
「無駄飯食いのただの居候だってことは言われなくてもよく分かってるよ」
進介は気の抜けたような声でそう言うと、ダイニングテーブルの椅子《いす》をひいて腰かけた。
「腹へって言い争う元気もないや。もういいよ。めしだけよそってくれ」
「だから言ってるじゃない。これからやるって」
「…………」
テーブルに頬杖《ほおづえ》をついたまま、進介はじっと紫の方を見た。
「何よ?」
「今の空耳だよな?」
「何が?」
「これからやるって、まさか」
「これからお米研いで炊くんだよ」
「ああよかった。これから稲刈りに行くって言うのかと思ったよ」
進介はめまいを起こしたように額に手をあてた。
「たまに早く帰ってくればこれだもんな」
「ちょうどお米を研ごうかなって思ってた矢先に二瓶さんから電話がかかってきたんだもの。文句あるなら彼女に言ってよ」
紫はぶつぶつ言いながら、キッチンに入ると、流しで中断していた作業をはじめた。
「二瓶ってあの二瓶か」
「そう。あの二瓶さん。高校のとき、お兄ちゃんがテストの最中に消しゴムを貸してあげた、あの二瓶乃梨子さんだよ」
紫は米を研ぎながら言った。
「消しゴム? なんだそれ」
「貸してあげたことあるんでしょ。彼女が隣の席になったとき」
「そんなことあったっけ」
進介は冷蔵庫を開けると缶ビールを取り出し、首を捻《ひね》った。
「なんだ、忘れちゃったのか」
「おぼえてないな」
プルトップを引き抜きながら呟《つぶや》く。
「彼女の方は覚えているよ」
「そんなつまらないことを電話で話したわけ?」
「ううん、そうじゃないけど」
紫は研いだ米を炊飯器に移しながら思った。やっぱり、あのこと話しておいた方がいいかもしれない。珍しく早く帰ってきたところを見ると、今まで関わっていた厄介な事件が一段落したのかもしれないし。
「あのさ」
エプロンで手を拭《ふ》きながら、キッチンを出ると、ダイニングテーブルの所に行った。
「昨日、朝方、二瓶さんから電話で呼び出されてね……」
例の鋏《はさみ》の一件を進介にすべて打ち明けた。
「ゴミ拾いねえ。あの二瓶らしいや」
紫の話をビールを飲みながら聞いていた進介はそう言って笑った。
「向こうもそう言ってたよ」
「え、なんて?」
「融通のきかないところは昔のまんまだって」
「…………」
進介は飲み切ったビールの缶を片手で潰《つぶ》した。
「ねえ、どう思う?」
「二瓶が嘘《うそ》を言っているとは思えないな。昔からバカ正直だけが取りえの女だったから。どうせそれも変わってないだろうし」
「藤村っておばあさんがでたらめ言ってるとも思えないんだよね。二瓶さんの話を聞いてると。でもだからといって、あたしの透視が間違っていたとは思えないし、どういうことだろう」
紫はテーブルに肘《ひじ》をつき、両手で細いあごを支えて、溜息《ためいき》をついた。
「その矛盾を解決する方法はひとつしかないね」
「なに?」
「凶行に使われた鋏は一つではなかったと考えることさ。つまり、紫が透視した鋏と、正樹が母親を刺したという鋏は別ものだった」
「ええ? それじゃ、杉原さとえの周りで二度も鋏を使った事件が起きたってこと?」
「そういうことになるな。事件は二度あった。どっちが先か分からないが、一方は幼児が鋏で刺され、一方は幼児が鋏で刺した。そう考えれば矛盾は解決する……」
「だとしたら、やっぱり、あたしが透視したような事件は起きていたということだよね?」
「そうなるね……」
進介は考えこみながら言った。
「刺された子供はどうしたのかしら。あたしの感じでは、その子はもう生きていないように思えるんだけど」
「もし杉原さとえがその子供を殺していたとしたら、それはいつ頃のことか、刺された子供は誰だったのか。そしてその子供の遺体はどうなったのか。発見されなかったにしろ、少なくとも、一人の幼児が行方不明になっていることは確かなわけだから、親からの捜索願が出ているはずだ。そのへんを本庁か所轄署の古い資料で当たれば、何か分かると思うが」
「あたしね、もしかしたら、杉原さとえが札幌にいた頃の事件じゃないかなって思うんだけど」
「なんで?」
「札幌で起きた事件だとしたら、乃梨子さんが会ったという近所のおばあちゃんが知らなくても不思議はないし、札幌を出たとき、正樹は三つくらいだったらしいんだよね。殺された幼児もそのくらいの年頃だと思うんだ。だとしたら、札幌にいたときの方が可能性はあるんじゃない?」
「でも、刺された幼児は正樹ではなかったんだろう?」
「うん。違うと思う。ぬいぐるみの持主が正樹だとしたら、刺された子供は正樹じゃないよ。でもね、正樹が札幌にいた頃の年齢とその殺された子の年齢が近いというのが少し気になるんだ。偶然の一致かもしれないけど。その子は正樹の遊び友達か何かだったんじゃないかって気がして」
「それだったら、杉原さとえがその幼児と出会う接点はあるわけだが」
進介はそう呟き、何を思ったか立ち上がると、リビングの棚の引き出しを開けた。
「札幌といえばカメさんがいたな。たしか今年も年賀状が来てたっけ」
中から葉書の束を取り出し、それを調べはじめた。
「カメさんて誰?」
紫がたずねた。
「前にある事件で世話になった、札幌署の刑事だよ。二年前に定年退職になって、今は孫のお守りをしていると聞いた。律義な人で毎年必ず年賀状をくれるんだ。カメさんなら暇を持て余しているだろうから、頼めば調べてくれるかもしれない。あった、これだ」
進介は年賀状を一枚抜き取ると、電話機の前に行った。受話器を肩に挟み、賀状を見ながら番号をプッシュした。
「――あ、亀淵《かめぶち》さんのおたくですか。桐生と申しますが、恒吉《こうきち》さん、おられますか」
やや間があって、
「どうも、桐生です。ええ、東京の。いやあ、こちらこそご無沙汰《ぶさた》してしまって。その後、お変わりありませんか。はあ。そうですか。お元気そうでなによりです。え? 私ですか。こっちは相変わらずですよ。
いや、用というほどでもないのですが、実はですね、もしお手数でなかったら、カメさんに少し調べて貰《もら》いたいことがあるんですよ。ええ。かなり昔のことなんですがね。もっとも、まだ事件かどうかはハッキリしないのですが。いや、そうじゃありません、プライベートな事件でして。
今から三十年くらい前、昭和三十七、八年頃か、あるいはもっと前のことかもしれないのですが、二、三歳になる男の子が鋏状の凶器で刺されるという事件はなかったか知りたいんです。ええ、そうです。鋏です。たぶん札幌市内で。凶器も発見されず、迷宮入りした事件だと思うのですが。
もしくは、遺体は発見されなくても、その頃に行方不明になっていまだに発見されていない子供はいないか。ええそうです。二、三歳の男の子です。いやあ、それがこれ以上詳しいことは分からないんですよ。ええ、子供の名前も。どうも申し訳ありません。なんとも漠然としたお願いで。
いやいや、別に急ぐわけではありませんから、まあ、暇を持て余しているときにでも、ちょっと当たって戴《いただ》ければ幸いなんですが。あ、そうですか。引き受けてくださいますか。どうも有り難うございます。ええ、はいはい。それではよろしくお願いします」
電話を切ると、進介は紫の方に向かって指でオーケーのサインを出した。
「調べてみてくれるってさ。鋏による殺人、しかも幼児が被害者なんて事件は珍しいから、もし起こっていたらすぐに分かるだろう」
「ああよかった。なんかあの鋏のことが気になって落ち着かなかったんだ」
紫はほっとしたように言った。
「さてと、とりあえず一件落着したところで、そろそろめしにしようか。もう炊けた頃だろ」
リビングのソファから機嫌よく立ち上がると、進介はダイニングテーブルに戻ってきた。
鼻歌まじりにテーブルの上にあった夕刊をバサリと広げる。
「あっ」
紫が突然、椅子《いす》を蹴倒《けたお》すような勢いで立ち上がった。
「どうかした?」
進介は広げた夕刊から目をあげた。
「炊飯器のスイッチ入れるの忘れてた」
「…………」
6
札幌の亀淵恒吉から電話が入ったのは翌日の午後九時すぎのことだった。
亀淵の話では、昨夜の依頼の件、さっそく調べてみたところ、鋏状の刃物で刺された男児の遺体が発見されたという記録はどこを探してもなかったが、当時、二、三歳の男児で、行方不明になったまま今日に至るまで発見されず、その生死すらも分かっていないという件なら、一件だけ該当するものがあるという。
「ありましたか?」
進介は受話器を握り直した。
「行方不明になった子供の名前はマツナガアキヒコ――」
「ちょっと待ってください」
受話器を肩に挟み、メモを取る用意をした。
「どうぞ」
「松永《まつなが》は木の松に永久の永。明彦《あきひこ》は明るいに彦根の彦。失踪《しつそう》当時、三歳と二ヶ月だった。住まいは札幌市××。両親はパン屋を経営していた。行方不明になったのは、昭和三十八年の五月五日、皮肉にも端午の節句の午後三時頃で、自宅近くの公園で母親に連れられて遊んでいる最中に、母親がちょっと目を離した隙《すき》にいなくなったそうだ」
「それで今に至るまで何の手掛かりも?」
「ない。失踪直後、自宅に脅迫電話等はかかってこなかったというから、営利誘拐の線は薄い。また明彦なり両親なりが誰かの恨みを買っていたという事実もなかった。ただ、明彦がいなくなって半年くらいの間、自宅に何度か無言電話がかかってきたそうだ」
「無言電話ですか」
「まさか三つの幼児がそんな電話をかけるはずがないから、おそらく明彦を連れ去った犯人からのものと思われるが、それも半年を過ぎるとプッツリと途絶えたらしい。どうだい。きみの探しているのは、この子供かね」
「たぶんそうだと思います」
「ところで、一体何を調べているのかね」
「いや、それが。申し訳ありませんが、まだお話しできる段階ではないので……」
「そうか」
亀淵は残念そうに呟いた。
「ああそうだ。それから、その松永明彦の失踪当時の写真だが、もし必要なら速達ででも送ろうかね」
「それはぜひお願いします。あ、それとお願いついでにもう一つ」
「なんだね」
「松永明彦の両親に、スギハラサトエという女性と面識があったかどうか確かめてもらいたいのですが」
「スギハラサトエ?」
「ええ。木の杉に原っぱの原、サトエは平仮名です。当時札幌に住んでいた主婦で、夫は銀行員、正樹という、松永明彦と同じ年頃の子供がいました」
「まさか、その女が?」
「もしかしたら、その失踪事件に関与していた人物かもしれないんです」
「わかった。それで、その、明彦という子供だが」
亀淵が言いにくそうにたずねた。
「絶望的なのかね」
「かもしれません」
しばらく重苦しい沈黙があった。
「しかし、たとえ最悪の結果だったとしても、両親にとっては子供の生死が分からないままでいるよりはましかもしれないからな。それじゃ、あんまり長話をしていると、嫁がうるさいんでな」
亀淵は小声でそう言って電話を切った。
ソファに戻ってくると、
「あったの?」
と紫が身を乗り出した。
「行方不明になっている子供が一人いた。松永明彦。失踪当時三歳と二ヶ月。あとで写真を送ってくれるそうだ」
進介は走り書きしたメモを紫に渡した。
「写真さえあれば、あの鋏《はさみ》で刺された子かどうか、たぶん分かると思う」
紫はメモから顔をあげて、目を輝かせた。
「しかし、杉原さとえが殺害したのが、この松永明彦という子供だとしたら、動機は何だったんだろうか。それになぜ凶器が洋裁用の裁ち鋏なのか……」
進介はソファに座って首を捻《ひね》っていたが、
「鋏が凶器ということは、明彦はさとえのうちで殺害され、しかも犯行は計画的なものではなかったと言えるかもしれない。凶器として持ち出すとしたら、どうも鋏というのは不自然だ。もっと凶器らしいもの、たとえばナイフとか包丁とかを選ぶはずだ。つまり、明彦をうちに連れてきたときには、さとえには殺意はなかったに違いない」
「さとえは明彦とは顔見知りだったのかもしれないね。明彦の家がパン屋だったということと、さとえにも同じ年頃の正樹がいたことから考えれば。だから、迷子になった明彦と偶然に会ったさとえは、保護する目的でうちに連れてきたんじゃないかしら。たとえば、明彦はおなかをすかせて泣いていたのかもしれないし、転んで怪我《けが》でもしていたのかもしれない。それで、さとえはあとで送り届けるつもりで、いったん明彦をうちに連れてきたとは考えられない?」
紫は言った。
「そうだね。さとえは、あとで、明彦を送り届けるつもりだった。ところが、そうする前に、何かが起こった。さとえが明彦を鋏で刺してしまうような何かが――」
「事故」
紫がはっとしたように言った。
「事故だったんじゃない?」
「事故?」
「事故だったんだよ。一度あることは二度あるって言うじゃない。同じ事故がきっと札幌でも起こったんだよ」
「同じ事故……」
「そうよ。東京に来てから起きた事故。鋏をおもちゃにしていた正樹がさとえに取り上げられそうになって、抵抗した拍子にさとえの胸を傷つけてしまったというあの事故。それと同じことが札幌でも起こっていたとしたら?」
「…………」
「でも、このとき、鋏に興味を持ったのは正樹ではなくて、松永明彦だったとしたら? 明彦はさとえが洋裁するために出しておいた鋏をおもちゃにしはじめた。それを見たさとえが危ないからと取り上げようとして、そのときに、明彦とさとえの間に起こったんじゃないかしら。さとえは鋏を取り上げようとしているうちに誤って明彦を刺してしまった」
「不運な事故だったというわけか」
進介が唸《うな》るように言った。
「そう考えた方が自然かもしれないな。明彦と同じ年頃の子供を持つさとえが、どんなにカッとするようなことがあっても、幼い子供を鋏で刺すというのは考えにくい。ただ、そうすると、なぜさとえはすぐに明彦を病院に連れていかなかったのだろうか」
「出血がひどくてもう助からないと思ったのかな」
「それはどうかな。たとえ助からないと思ったとしても、本能的に子供の命を助けようとするんじゃないだろうか。母親なら――」
進介は腕組みして唸った。
「ねえ、もしかしたら、明彦を刺したのはさとえではなかったのかもしれないよ。さとえは知らなかったんだよ。それで、気が付いたときには明彦は冷たくなっていた。もうどうやっても生き返らないことが分かって、さとえは明彦の遺体をどこかに隠した」
「どういうことだ?」
「正樹だよ。正樹をかばうために」
「それじゃ、明彦を刺したのは正樹だったというのか」
進介は唖然《あぜん》とした顔で紫を見返した。
「二人の子供が鋏を取り合って喧嘩《けんか》になったって考えられない? それで、正樹が誤って明彦を刺してしまった。二年後に母親を刺してしまったみたいに。まったく同じことが偶然札幌でも起こっていたんだよ」
「偶然……か」
進介はそう呟《つぶや》いて考えこんでいたが、何かひらめいたという顔つきで言った。
「とにかく、一度、その、杉原正樹という男に会ってみる必要があるかもしれないな」
7
三月二十七日、土曜日、午後。
桐生進介は久し振りに休みを取り、二瓶乃梨子《にへいのりこ》から聞き出しておいた杉原正樹の家を訪ねた。
「杉原」と表札の出た家のチャイムを鳴らすと、ポロシャツの上にカーディガンを羽織った、いかにも休日を楽しむサラリーマンという格好の男が出てきた。三十代前半という年頃である。
「杉原正樹さんですね」
そうたずねると、相手は頷《うなず》いた。
「私はこういう者ですが」
桐生が名刺を見せると、杉原はやや警戒するように顔を強張《こわば》らせた。
「警察の方?」
「少し伺いたいことがあるのですが、今出られませんか」
家族のいない所で話した方がいいだろうと思い、テレビの音のする方をそれとなく窺《うかが》いながら言うと、杉原は怪訝《けげん》そうな表情のまま、しばらくためらっていたが、
「おい。ちょっと出掛けてくる」
と奥に一声かけると、玄関に脱ぎ捨ててあったサンダルをつっかけて出てきた。
「この先に喫茶店がありますね。あそこで話しましょうか」
歩きながら桐生は言った。
杉原邸から五、六分歩いたところに、「ラ・メール」という純喫茶があった。二人はそこに入ると、奥の席についた。
「どういうご用件でしょうか」
注文を聞きに来たウエイトレスが離れるのを待って、胸ポケットから煙草を取り出しながら、杉原は不安そうにたずねた。
「古い話になるのですが、三十年ほど前、杉原さんは札幌に住んでいらしたことがありますね」
桐生はどう切り出そうかと考えあぐねた末にそう言った。
「ええ。私は札幌で生まれたのです」
杉原は煙草をくわえながら答えた。
「札幌のどのあたりですか」
「たしか、××です」
「東京に来たのは、昭和三十八年の?」
「十一月だったと聞いています」
やっぱりな、と桐生は思った。亀淵恒吉の話では、松永明彦の家に半年の間、よく無言電話がかかってきたという。もしあの電話をかけていたのが、杉原さとえだとしたら、半年後に電話がかからなくなった理由も納得がいく。さとえが夫の転勤で札幌を離れたからだ。
「札幌時代のことを覚えていますか」
「私がですか?」
杉原は煙草に火をつけてから言った。
桐生が無言で頷くと、
「いやあ、殆《ほとん》ど覚えていませんねえ。あちらにいたのは三年足らずでしたから」
「松永明彦という名前に聞き覚えありませんか」
「松永明彦……」
杉原はオウム返しに繰り返し、思い出そうとしているようだったが、すぐに頭を振った。
「いや、記憶にありませんが」
「近所のパン屋の子供で、年はおそらくあなたと同じくらい、もしかすると、あなたの遊び友達だったかもしれないのですが?」
「遊び友達といっても……。当時、私は病弱だったそうで、いつもうちで母と一緒にいたそうですから」
「それなら、よけい同じ年頃の男の子と遊んだ記憶は残っていると思いますが? どうです。そんな記憶はありませんか」
「そうですねえ、そう言われてみれば、ボンヤリとではありますが、そんなことがあったような――」
杉原は曖昧《あいまい》な表情で呟《つぶや》いたが、すぐに怪訝そうな顔になって、
「しかし、それが何か?」
ウエイトレスがコーヒーを運んできた。彼女が立ち去るまで、桐生はしばらく黙っていたが、
「実は」
と切り出した。
「その松永明彦という子供が、昭和三十八年の五月五日に行方不明になったまま、いまだに消息が知れないのですよ」
「はあ。で、それが私とどういう?」
「それが最近になって、人から、明彦ちゃんが行方不明になった日、あなたの家の近くで、明彦ちゃんによく似た幼児を連れた杉原さとえさんを見掛けたという情報が入りましてね」
紫のサイコメトリーの能力のことを話すわけにはいかないので、桐生はしかたなくそんな言い方をした。
「母を、ですか」
杉原は驚いたように目をしばたたかせた。
「それはどういう意味です?」
「ですから、言葉の通りの意味です」
「ま、まさか私の母が、その明彦という子供を誘拐したとでも?」
「いやいや、そこまでは言ってません、あなたのお母さんが保護する目的でうちに連れてきたのではないかと考えたわけです。ただ明彦ちゃんの足取りはそこで途絶えているので、もしかしたら、あなたのお母さんがそのあとのことを何かご存じなのではないかと」
「母なら昨年亡くなりました」
杉原は冷淡な声で言った。
「それは知っています。杉原さとえさんに直接伺えたらよかったのですが。それができないので、こうして、息子さんであるあなたにおたずねしているのです。さとえさんはたぶん明彦ちゃんを自宅に連れ帰ったと思うのですが、そんな記憶はありませんか。五月五日です。おそらくあなたのうちでも端午の節句の祝いをしたはずです。そのへんから記憶をたどっていただけませんか」
「…………」
杉原は黙りこんでコーヒーを飲んでいたが、
「変じゃありませんか」
突然、昂然《こうぜん》と顔をあげて、桐生の顔を睨《にら》みつけた。
「どうして、今ごろそんなことを調べているのですか。三十年も昔のことを。それに、母がその子供と一緒にいるところを見たという人ですが、なんで今ごろになってそんなことを言い出したのです。なぜ、もっと早く言わなかったのです。おかしいじゃないですか」
「あなたが疑問に思うのは当然ですが、その件に関しては私の方も札幌署の方から依頼を受けただけで、詳しい事情はよく分からないのですよ。どういう事情で、今ごろになって、そんな証言が飛び出してきたのかということまでは」
桐生はいささか苦しい言い訳をした。
「とにかく、事情はさておき、それが事実なのか調べるのが先決だと思ったわけです。どうです。何か思い出せませんか」
「…………」
杉原は返事をしなかった。テーブルを見詰めて煙草をふかしている。しかし、心の動揺をあらわすように、煙草を挟んだ指がわずかに震えていた。
この男は今、とざされた記憶の襞《ひだ》を必死にめくろうとしているのだ。
杉原の強張《こわば》った顔をそれとなく見ながら、桐生はふと思った。
「鋏《はさみ》」
どんな反応を示すだろうと、何気なく、その単語を口にしてみた。
杉原の反応は予想以上だった。
明らかにびくっとしたように肩が動いた。
「鋏がなんです」
脅《おび》えたような目で桐生を見詰めた。
「いや、ちょっと小耳にはさんだのですが、東京に移ってから二年ほどして、鋏でお母さんに怪我《けが》を負わせてしまったことがあったそうですね」
「あれは事故だったんです」
切り返すようにそう言った杉原の声は悲鳴に近かった。顔からも血の気がうせていた。
近くの席に座っていた女性客が、杉原の大声に驚いたように、ちらとこちらを見た。
「事故だったんです」
杉原は声を抑えて繰り返した。
「私が花鋏をおもちゃにしているのを見た母が取り上げようとしたとき、私は抵抗して腕を振り回したそうです。それで」
「花鋏?」
桐生は口をはさんだ。
「花鋏だったんですか」
二度めの事故は裁ち鋏ではなくて、花鋏だったのか。やはり、事件に関係した鋏は二つあったのだ。
「花鋏です。母が生け花をしていて、ちょっと席を立ったときに、私が鋏に興味を持って」
そこまで話して、杉原は口をとざした。脂汗のようなものがびっしりと額に浮き上がっていた。
「それはあなたの記憶ですか。それとも、あとでお母さんにそう言われたのですか」
桐生は言った。もし自分の推理が正しいとすれば、真相はそうではなかったはずだ。
「どういうことです?」
杉原は脅えたように聞き返した。何かが彼を不安にしている。彼も気が付いているのだ。
「あなたは花鋏なんかおもちゃにしてはいなかった。そうじゃない。お母さんが鋏をあなたの手に握らせて、無理やり傷つけさせようとしたのではありませんか」
桐生は一気に畳み込んだ。
「そんな、まさか」
杉原は反駁《はんばく》しかけたが、その声が次第に力を失った。桐生の指摘に反駁しきれない記憶が彼の頭に蘇《よみがえ》ったとでもいうようだった。
「よく思い出して下さい。あなたが鋏を振り回してお母さんを傷つけたのではない。お母さんがわざと[#「わざと」に傍点]あなたに傷つけるようにしむけたのです。そうではありませんでしたか」
「は、母がなぜそんなことをしなければならないんです? わざとだなんて」
杉原は思わず口が滑ったというように言った。やはり、鋏による二度めの事故は偶然ではなく、杉原さとえがわざと起こしたものだったのだ。桐生はそう確信した。
「たぶん記憶をすり替えるためです」
「記憶をすり替える?」
杉原はぽかんと口をあけた。
「あなたのもう一つの記憶を別の記憶にすり替えるためです」
「な、なんですか。そのもう一つの記憶というのは」
「これは私の想像にすぎませんが、おそらく、札幌でも同じようなことがあったのだと思います。あなたは鋏をおもちゃにしていて、弾みで誰かを傷つけてしまった。でも、それはお母さんではない。それは、たまたま、その日、あなたの家にいた、あなたと同じ年頃の子供だった……」
杉原の顔が目に見えてスーッと白くなった。
「あなたのお母さんはその忌まわしい記憶をあなたの頭から永遠に消すために、別の同じような記憶をあなたの頭に植え付けようとしたのです。だから、札幌で起きた事故と同じような事故を東京の自宅であえて再現した。そして、あなたが鋏を怖がる原因は東京で起きた事故のせいだと、あなたにも周囲の人間にも思わせようとしたのです」
「それじゃ、私が、この私がその明彦という子供を――?」
杉原の目は恐ろしそうに見開かれた。
「そんな記憶はありませんか」
「ちょっと待ってください。それはおかしい」
杉原はすぐに否定するように首を振った。
「もしも、もしも、あなたのおっしゃるようなことがあったとしましょう。その日、母が、外で出会った松永明彦という子供をうちに連れてきた。その子と私が遊んでいて、私が弾みでその子を――。でも、うちには父もいたはずです。だって、その日は五月五日。端午の節句だったんでしょう。休日だったわけじゃありませんか。父もうちにいたはずです。父はどうしたのです? 父は私や母のしたことを知らなかったというのですか」
そうだ。そのことが桐生の頭を悩ましたことでもあった。あの日、杉原さとえの夫がうちにいたとしたら、夫もさとえの犯罪に手を貸したことになるのだ。そのへんがどうも納得いかなかった。さとえの夫がそこにいたら、事故が起きたとき、もう少し冷静な判断をしたような気がする。間違っても、我が子をかばうために、松永明彦の遺体を隠して事件そのものをなかったようにしてしまうなどということを妻にさせなかったのではないかと思えてならなかった。
しかし――。
その点について、一つだけ考えられることがあった。それは、杉原一家が東京に引っ越してきた理由が、さとえの夫の「栄転」によるものだったということだ。もうその頃には、東京の本社への異動が分かっていたのかもしれない。いわば出世のチャンスをつかんでいたということになる。そんなチャンスを目の前にして、夫は不祥事を起こすのを恐れたとも考えられるのだ。たとえ、それが不幸な事故にすぎなかったとしても、人一人、しかも幼児を死なせてしまったことが知れれば、法的にはともかく、社会的な制裁はまぬがれない。出世コースからはずされること。それを何よりも恐れたのではないだろうか。だから妻の犯罪に加担した……。
一人の幼児が忽然《こつぜん》と姿を消してしまった事件の背景には、女親の我が子だけに注がれる過剰な母性愛だけでなく、仕事を何よりも優先する男親の冷ややかな男の論理があったとしたら……。
そのことを杉原に言おうか言うまいかとためらっていると、やや勝ち誇ったように、「父はどうしたのです」と言っていた杉原の表情がガラリと変わった。
一瞬にして表情が凍り付いた。杉原の内部で起こったことが瞬時にして彼の表情を凍らせた。そんな変わり方だった。
あっけに取られていると、杉原は苦しそうに胸のあたりを押えた。
「どうかしましたか」
桐生は心配になって相手の顔を覗《のぞ》きこんだ。
「気分が」
掠《かす》れた声を絞り出すように言う。
「気分が悪いのです。もう帰らせて貰《もら》えませんか」
よろよろと立ち上がりかけた。
「大丈夫ですか」
そう言って腕を取ろうとすると、杉原は桐生の手を邪険に振り払った。
「大丈夫です」
そして、睨みつけるような目で桐生を見ながら、
「とにかく、あなたのおっしゃったことはすべて想像の産物にすぎない。私を取り調べる気なら、ちゃんとした手続きを踏んでから出直すことだ。推理や想像で勝手なことを言われるのは迷惑です」
そう言い捨てると、よろめくような足取りで喫茶店を出て行った。
桐生はあとを追わなかった。杉原正樹の言う通りだったからだ。今のところ、これ以上は踏み込めない。踏み込む権利がなかった。
それに、突然見知らぬ人間に三十年も前のことを思い出せと詰め寄られ、杉原自身無意識のうちに忘れたがっていたに違いない忌まわしい記憶を引《ひ》っ掻《か》き回されたのだから、彼の内心の動揺、恐怖、怒りがどれほどのものであったか、想像がつかないわけでもなかった。
ただ杉原正樹にこうしてじかに会ってみて、松永明彦の失踪《しつそう》には、九十九パーセントの確率をもって、杉原親子が関係していたという確信だけは得ることができた。
問題は、このあとどうするかということだった。肝心なことは杉原正樹に幼児期の犯罪を思い出させることではなかった。杉原さとえが、いや杉原夫妻が松永明彦の遺体をどこに隠したか、それを知ることにある。せめて遺骨だけでも札幌に住む松永明彦の親のもとに返してやらなければならない。
そうしなければ、よりによって端午の節句の日に忽然と姿を消した子の帰りをいまだに待ち続けているに違いない両親の、三十年間の空白が埋まらないのだ。
もう少し時間がかかりそうだな、と桐生は思った。杉原の気持ちがもっと落ち着けば、忘れていたことを思い出すかもしれない。それに、今では彼も五歳と三歳の子を持つ親になっているという。冷静にさえなれば、松永明彦の両親の心情も察することができるだろう。杉原の気持ちが変わるのを待つしかない。
桐生はテーブルの上の伝票をつかんで立ち上がった。
8
桐生と別れてうちへ帰ってくると、杉原正樹は二階の書斎に鍵《かぎ》をかけて閉じこもり、机に肘《ひじ》をついて頭を抱え込んだ。
あの男の言ったことは本当だろうか。おれが三十年前、松永明彦という子供を鋏で刺し殺してしまったというのは。そして、母がその事実を隠すために、明彦の遺体をどこかに隠したというのは。
父は何も知らなかったに違いない。なぜなら、たぶん父はあのときうちにいなかったからだ。
正樹はあることを思い出していた。あの喫茶店で、桐生という刑事に、「父はどうした?」と勝ち誇ってたずねたとき、ふいにあることを思い出してしまったのだ。
小学生のときだったか、父と一緒にお風呂《ふろ》に入ったとき、父の下腹に大きな傷があるのを発見してたずねたことがある。
「パパ。この傷はどうしたの」
あのときたしか父は札幌にいた頃に盲腸の手術をした痕《あと》だと答えた。父が盲腸の手術をして入院していた頃が、ちょうど、その松永明彦という幼児の失踪の日と重なっていたとしたら?
あの日、父は病院にいたのかもしれない。だから、うちにはいなかった。その可能性に気が付いたとき、正樹の心臓は凍り付いたようになってしまった。
それに、五歳のときの記憶。あのときのことは朧《おぼろ》げに覚えていた。あの男の言った通りだ。おれは母の花鋏をおもちゃになんかしていなかった。あの頃からもう鋏が怖かったからだ。触ることすらできなかった。あれは、母がしたことだった。いやがるおれの手に花鋏を握らせて、わざと自分の胸を傷つけさせたのだ。なぜそんなことをするのか分からなくて、あとになって、あれはおれの記憶違いで、母の話の方が真実だと思いこむようになったが、あの男に言われて、今ようやく思い出した。
あれは記憶違いなんかじゃなかった。
それに母の臨終のときの、あの何か訴えかけるような目。妻や子供たちを外に出して、おれだけに話があると言ったときの、あの苦しそうな目。でも母はただ苦しそうな目でおれの顔をじっと見上げるだけで、結局、何も語らずに死んでいった。
あのとき母は何を語りたかったのだろう。何を訴えたかったというのだろう。おれをかばうために、三十年前に自分がしでかした罪のことだったのだろうか。
三十年前、札幌で何があったのだ。おれは一体何をしでかしたのだ。
思い出せない。何も思い出すことができない。すべてが濃い霧にとざされている。あの霧の向こうに一体何があるのだ。何があったのだ。
正樹は叫び出したい気持ちを必死に抑えて、机に自分の頭を何度も打ち付けた。
9
やりきれない気分をまぎらわすために、時々立ち寄る馴染《なじ》みの小料理屋で一杯やってから帰った桐生進介を紫《ゆかり》は待ちかねていた。
「遅かったじゃない。ずっと待ってたんだよ」
桐生は紫を押しのけるようにして中に入ると、上着を着たままリビングのソファにごろりと横になった。
「水くれ」
「杉原正樹には会ったの?」
紫はキッチンの方に行きながらたずねた。
「会いましたよ」
「どうだった?」
「おまえもとんでもないものを掘り当ててくれたよな」
やりきれない気持ちがつい皮肉になって出てしまった。口に出してからすぐに後悔したが遅かった。
「…………」
水を入れたコップを持ってきた紫の顔に傷ついたような表情が浮かんでいた。
「やっぱり杉原正樹が?」
「十中八九間違いないだろうなあ」
「昼間、速達が来たよ」
紫はむっつりした顔でダイニングテーブルに載せてあった封書を持ってきた。
裏を返すと札幌の亀淵恒吉《かめぶちこうきち》からだった。
「明彦って子の写真だと思ったけど、一応お兄ちゃん宛《あて》になってたから、開けなかったよ」
桐生は寝そべったまま、封書を破って開けた。中には古い写真と便箋《びんせん》が二枚入っていた。
羊羹《ようかん》色の写真を見ると、吊《つ》りズボンをはいた、坊ちゃん刈りの男の子の上半身が写っている。
「可愛《かわい》い子だったんだな」
桐生は溜息《ためいき》をついた。
「見せて」
紫が横から奪うように写真を取り上げた。
『前略
松永明彦の写真を同封します。明彦の両親から借りてきたものです。両親には事情は話してありませんが、もしや明彦の行方が分かったのではないかと、一縷《いちる》の望みを抱かせてしまったようで心が痛みます。なお、杉原さとえという女性には心あたりはないそうですが、よくパンを買いに来るお客の一人であったかもしれないと言っていました。
両親は、今も明彦の帰りを待ち続けています。とりわけ母親の方は、「明彦は神かくしにあったのだ。待ち続けてさえいれば、必ず神さまが返してくださる」と信じています。
明彦は長子だったそうで、失踪以来、もうあきらめて次子を作ったらどうだと周りから勧められたようですが、あきらめてしまったら明彦は二度と戻ってこないという母親の強い信念から、子供は作らなかったそうです。
できうるなら、この写真が良い結果につながってくれることを小生としては願ってやまないのですが……。
[#地付き]草々』
こっちだってそれは願ってやまないよ。できれば良い結果を知らせたかった。桐生はそう言いたい気がした。しかし、結果は残酷だった。現実とはこういうものなのだ。
どんなに残酷なことでも、それは人間的ないっさいの希望も祈りも踏みにじって起きてしまうものなのだ。
おそらく、この吊りズボンをはいた可愛らしい幼児はどこか深い土の中で白々とした小さな骨になっているだろう。両親が何十年、何百年待ち続けたとしても、子供はもうあの写真のような無邪気な姿では戻らないのだ……。
「違う」
紫が突然言った。
桐生はものうげに目をあげた。
写真を見詰めている紫の血相が変わっていた。
「どうした?」
「この子、違うよ」
大きな目をいっぱいに見開いて、紫は繰り返した。
「違うって何が?」
「この子じゃない。あの鋏で刺されたのはこの子じゃないよ。この子はクマのぬいぐるみの持主の方だよ」
紫の言葉は、桐生の身体《からだ》をソファからガバッと引き起こすだけの衝撃力を持っていた。
10
階下でチャイムの音がした。
杉原正樹は明かりもつけずにじっと座りこんでいた椅子《いす》から僅《わず》かに身を起こした。
何時間こうしていただろう。妻の和美《かずみ》が心配して声をかけにきたが、仕事をしていると言って、追い返した。夕食のしたくができたと知らせに来たときもそうだった。今忙しいからあとで食べる。そう言って妻を追い返し、書斎に閉じこもり続けた。
下の食堂へ行って、明るい蛍光灯の下で何も知らない妻や子供たちといつものように食卓を囲む気にはとてもならなかった。
階段を昇ってくる足音がしたかと思うと、三度めのノックがした。
「あなた」
和美のためらいがちな声。
「なんだ」
「あなたに会いたいという方がいらしているんですけど」
「誰?」
正樹は闇《やみ》の中でたずねた。家族の顔すら見るのがつらいというのに、こんな時間に誰だろう。
「桐生さんとおっしゃる警察の方」
正樹の心臓が大きく打った。
あの刑事。なぜ今ごろ? まさか、何か決定的な証拠でもつかんだというのだろうか。
「何の用だって」
「それが、ぜひあなたに会って話したいことがあると――」
和美は不安そうな声で言った。夫の様子がおかしいことと、刑事がこんな時間にうちに訪ねてきたことへの動揺が声にあらわれていた。
「わかった。ここへ通してくれ」
「はい」
「あ、それからお茶とか運んでこなくていいから。しばらく二人きりにしてくれ」
正樹はのろのろと立ち上がると部屋の照明をつけた。和美の階段をおりて行く足音。
しばらくして、違う足音が階段を昇ってきた。
ノックの音。
ドアを開けると、昼間の男が立っていた。
「どうも夜分にすみません。どうしてもお話ししなければならないことがあったものですから」
桐生はにこりともしないで言った。
「どうぞ」
正樹は桐生を中に入れると、妻や子供たちが下にいるのを確かめるように階段を見下ろしてからドアを閉め、内鍵《うちかぎ》をかけると、さっきの椅子に座った。
「先に言っておきますが、昼間の件なら何度聞かれても同じことです。私には何も思い出せません」
「そのことなんですが、あれは訂正しなければなりません。私が間違っていました。大変な勘違いをしていたのです」
桐生は立ったままそう言った。
「間違ってた?」
正樹は唖然《あぜん》として聞き返した。
「間違っていました」
「そ、それじゃ、昼間言ったことは、あれは全部、あなたの想像にすぎなかったんですね。あなたのおっしゃったようなことは何もなかった。そういうことですか」
正樹は今まで胸にのしかかっていた重たい石が取り除かれたような顔で立ち上がりかけた。
「いや、全く違っていたというわけではありません。しかし、肝心なところで、私の推理は間違っていたのです」
「と言いますと?」
正樹は椅子に座り直した。喜ぶのはまだ早いと思い直したのである。「間違っていた」ということだけを言いに、昼間の刑事がわざわざやって来るわけがない。それに、目の前の桐生の顔つきは、昼間会ったときよりもむしろ険しくなっているような気がした。
もしかすると、もっと悪いことが分かったのではないか?
そんな不安が正樹の頭をかすめた。
「まあ、とにかく、お座りください」
不安を払うように、つとめて冷静な声で、傍らの椅子をすすめた。
「話をする前に一つ伺いたいことがあるのですが」
桐生は椅子に座りながら言った。
「なんです?」
「札幌にいた頃の写真が残っていますか」
「私の写真、ですか」
正樹は唐突な申し出に面食らったような顔をした。
「そうです。赤ん坊の頃から三つになるまでの写真です」
「そんなものを見てどうするのです?」
「確かめたいことがあるんです」
「ちょっと待ってください」
正樹は立ち上がると、書棚の下に身をかがめて、アルバムを取り出した。
「これです」
それを桐生に渡した。
桐生はアルバムの表紙をめくった。一頁めには、写真館で撮って貰《もら》ったような、眼鏡をかけて実直そうな顔つきの三十代の父親と和服を着た細面の母親が生まれたばかりの赤ん坊を抱いている、家族三人の写真と、眠っている赤ん坊の写真が数枚|貼《は》ってあった。
しかし、次の頁をめくると、いきなり七五三の晴れ着を着た五歳くらいの男の子と両親の写真になっていた。「正樹、五歳」とペン字で記してある。桐生はあとの頁もペラペラとめくって見ていたが、すぐにそれを返してよこした。
「写真は赤ん坊からいきなり五歳に飛んでいますね。その間の写真が抜けています。撮らなかったのでしょうか」
「さあ」
正樹は曖昧《あいまい》に首をかしげた。
「妙だと思いませんか。五歳以降は欠かさず毎年のように撮っています。あなたの成長の記録が克明に記されています。たしか、あなたは一人っ子だそうですね」
「ええ、そうです」
「なぜ、ご両親は他にお子さんをもうけなかったのでしょうか」
「なぜって、母が子供のできない体だったからですよ。私を産んだあと、次子は無理だと医者に言われたそうです。もともと子供のできにくい体質だったらしくて、私にしても、両親が結婚して十年めにやっとできたくらいですから」
「あなたはご両親にとって、あとにも先にもたった一人のお子さんだったわけですね」
「ええ、そうです。そのせいか、それはもう大事にされましたよ。世界中探しても、私の両親ほど子供を愛した親はいないでしょう。それは自信を持って言えます」
「それほど、大切な一粒種なのに、なぜ、赤ん坊から五歳になるまでの間の写真が一枚も残っていないのでしょうか」
「それは」
正樹は言葉に窮したように天井を見上げた。
「撮ったのにアルバムに貼るのを忘れたのかもしれませんね。どこか探せば出てくるかもしれません」
「そうでしょうか」
桐生は疑わしそうな目で言った。
「そうでしょうかって、そりゃ、どういう意味です?」
「ご両親がもしあなたを愛していたら、たとえその写真が残っていたとしても、焼き捨てるか何かして処分したのではないかと思ったものですから」
「何を言っているのか分からないな」
正樹は呟《つぶや》いた。
「ご両親はあなたをとても愛していた。だからこそ、このアルバムには空白の部分を作らざるをえなかったんです。赤ん坊のときならいざ知らず、二つ三つとなると個性が出てきますからね」
「それはどういうことです」
「これを見てください」
桐生は背広の裏ポケットを探って、一枚の写真を取り出した。それを正樹に手渡した。
「うちの正宏《まさひろ》じゃないですか」
正樹は写真をちらっと見ただけですぐにそう言った。
「マサヒロ?」
「私の次男です。今年三つになる――いや、待てよ。違うな。よく似ているが、正宏じゃない。それにずいぶん古い写真のようだし」
正樹ははっとしたように、もう一度写真を眺めた。
「その写真に見覚えありませんか」
桐生はじっと正樹の顔を見詰めた。
「さあ……」
「それが松永明彦なんです」
「え?」
正樹が驚いたように顔をあげた。
「あの、行方不明になったという?」
「そうです。三十年前に忽然《こつぜん》と姿を消したきり、生きているとも死んでいるとも知れなかった三つの幼児。松永明彦」
桐生は少し息を整えてから言った。
「つまり、あなたなんです」
11
「私?」
杉原正樹は一瞬|痴呆《ちほう》のような顔をした。
「あなたです。あなたの三つのときの写真なんですよ、それは」
「何をおっしゃるんです? 気はたしかですか。私は杉原正樹ですよ。なぜ私が――」
正樹は笑いとばそうとしたが、顔が引き攣《つ》って泣き笑いのような顔になった。
「その写真は札幌の松永明彦の両親から借りてきたものです。その幼児が松永明彦であることは間違いありません。あなたが松永明彦だったんです。三歳二ヶ月までそう呼ばれていたんですよ」
「う、うそだ……」
「本当です。私も実はここへ来るまではまだ半信半疑でした。そんなことがありうるのだろうか。三十年もの間、一人の子供が別の子供にすり替えられて、そのまま誰にも怪しまれずに成長していたなんて。そんなことがありうるのか。そう思ってね。しかし、今はようやく信じることができました。あなたが本当は松永明彦だということが。あなたはさっきその写真の幼児をあなたのお子さんと間違われた。あなたの次男と松永明彦が似ているのは偶然じゃない。あなたの次男があなたの子供の頃にそっくりだというのは偶然じゃないんです。それは単なる遺伝にすぎないのだから」
「分からない」
杉原正樹は混乱しきった顔つきで、無意識のように両手を頭に持っていった。
「一体どういうことなんです。私が松永明彦ならなぜ杉原正樹としてここにいるんです。分からない。私にはなにがなんだか分からなくなってしまった」
「落ち着いて下さい。三十年前に札幌で何が起こったのか、今から話しますから。細かいところは間違っているかもしれませんが、大筋はこういうことだったのではないかと思うのです」
桐生は松永の落ち着くのを待ってから、話をはじめた。
「昼間私が話したことはおおむね間違っていないと思うのです。昭和三十八年の五月五日。松永明彦が母親とはぐれて迷子になり、杉原さとえという女性に出会ったこと。さとえは明彦をうちに連れてきた。うちにはさとえの子供の正樹がいた。このとき、父親の杉原がどうしていたのかまでは分からないのですが」
「たぶん、父は入院していてうちにはいなかったのかもしれません」
少し冷静さを取り戻した正樹は言った。
「え?」
「思い出したんですよ。父が札幌にいた頃に盲腸の手術をしていたことを。もし、父の入院がこの頃だとしたら、父はうちにいなかったとも考えられるのです」
「なるほど。まあ、とにかく、うちには二人の幼児と杉原さとえしかいなかった。そう考えた方がいいでしょう。そして、おそらくさとえがちょっと目を離したすきに、二人の幼児の間で何かがあった。子供らしいおもちゃの取り合いでもあったのかもしれません。ただそのおもちゃというのが、洋裁を仕事にしていたさとえの裁《た》ち鋏《ばさみ》だった。ふざけ合うか、取り合うかしているうちに、一方の幼児の持っていた鋏がもう一人の幼児の体に突き刺さってしまった。昼間の話と違うのは、ここのところなのです。逆だったんです。刺されたのは明彦ではなかった[#「刺されたのは明彦ではなかった」に傍点]。正樹の方だったのです[#「正樹の方だったのです」に傍点]。正樹の母、さとえが事故に気付いたときには、おそらく手の施しようがなかったに違いない。たぶん正樹はすでに死亡していたのです。杉原さとえは思いもよらなかった我が子の死に直面にして、一瞬気がおかしくなってしまったのかもしれません。彼女にとっては、正樹はあとにも先にもかけがえのないたった一人の子供だった。その子が死んでしまった。替わりがないのです。しかし、狂乱した母は咄嗟《とつさ》にあることを思い付いた。替わりならそばにいるではないか。そう思ったに違いない。明彦を正樹の替わりにすることを思いついたのです。明彦を連れて来るところを誰にも見られなかったと思ったのかもしれない。それに、半年後には、夫の栄転で東京へ引っ越すことが分かっていたからかもしれない。半年の間、明彦を正樹と偽ることができれば、東京にさえ出てしまえば、周囲の者にばれる心配はないと思ったのでしょう。しかも、すり替える子供はまだ幼く、学校に通うような年にはなっていなかった。おまけに、昼間のあなたの話では、正樹は病弱で外で遊ぶことも少なかったということでしたね。もしそうだとしたら明彦を正樹に見せ掛けてうちにかくまっておくことは、さとえにとってそれほど困難なことではなかったのでしょう。明彦の方も最初こそは実の母親に会いたがり、実の家に戻りたがったでしょうが、そこはまだもの心つかない幼児のことです。さとえは一心に愛情を傾け、自分が本当の母親だと明彦に思わせることができたのです」
「父は? 父は母のしたことを黙って見ていたというのですか」
正樹が喘《あえ》ぐように言った。
「結果的にはそうなったのでしょうね。もしあなたが言ったように、杉原さんが盲腸の手術を受けて入院しており、留守の間に起こったことだとしても、戻って子供の顔を見れば、それが我が子かそうでないかくらいは見分けるはずです。たぶん、杉原さんもたった一人の子供を失ったことに耐えられなかったのかもしれません。だから、いわば事後共犯のような形で、妻の計画に加担したのかもしれません」
「父は、父は知っていたというのですか。知っていて、そんなことはおくびにも出さず、あんなにも私に優しく」
あとは言葉にならず、正樹は両手で顔を覆っていたが、はっとしたように顔をあげた。
「それでは、本当の正樹は、私が殺したのかもしれない正樹はどうなったのです?」
「これは想像にすぎませんが、正樹の遺体は庭かあるいは床下にでも埋められ、半年後、引っ越すときにはすでに白骨化していたはずですから、それを焼くかどうにかして、一緒に持ってきたのではないでしょうか。まさか、札幌に置いてきたとは思えませんから」
「そういえば、仏壇の中に小さな骨壺《こつつぼ》のようなものが納めてあって、母が時々取り出して眺めていたことがあります。あれがもしかしたら」
「本当の正樹の骨が納まっていたのかもしれませんね」
「そうか。母は亡くなるとき、それを私に告げたかったのか。だからあんなに苦しそうな目をして。私が本当の正樹ではなく、松永明彦だということを告げたかったのですね……」
「こんなことを今すぐ受け入れろと言う方が無理かもしれませんが、分かっていただけましたか」
「正直いって、すぐには信じられない話です。でも、そう言われてみれば、私にも幾つか心あたりがあります。いつだったか、うちに遊びにきた友達が、私のように両親に似ていない子供は鬼っ子というのだと言ったのを聞き付けた母が、その友達に二度とそういうことを言うなと凄《すご》い形相でどなりつけたことがありました。普段の優しい母からは想像もつかないような恐ろしい顔で……」
「どうでしょう、札幌の本当のご両親にお会いになってみては?」
桐生はそう言ったが、正樹はうなだれたきりで何も答えなかった。
「もし、許されるならば、私はこのことは聞かなかったことにしたいのですが」
長い沈黙の末に、正樹は思い切ったように言った。
「札幌の両親には私は死んだと伝えて欲しいのです。どんなことを聞かされようとも、杉原の父と母が幼児誘拐と言う重罪を犯した犯人だと知らされようとも、私にとっては親と呼べるのはこの二人しかいないのです」
「しかし杉原さん」
「だから、もしできることならば、松永明彦は三歳のときに事故で死んだ。今こうして生きているのは杉原正樹の方だということにして欲しいのです。私にとっての真実はこれ以外にはありえません」
「お気持ちは分かります。ただ、札幌のご両親のことも考えてみて下さい。お二人とも三十年間もひたすらあなたが帰ると信じて待ち続けているのです。これは、札幌にいる知り合いから写真に同封された手紙ですが、読んでみて下さい」
桐生は写真と一緒に持ってきた亀淵恒吉の手紙を取り出すと、それを正樹に渡した。
正樹はそれを俯《うつむ》いて読んでいたが、読み終わると、声を殺してむせび泣いた。
「何もどちらが本当の親かなんて決める必要はないじゃありませんか」
桐生は言った。
「あなたには最初から四人の親がいたんですよ。二人の母親と二人の父親。そう思いませんか」
12
「それで、杉原正樹はどうするって?」
その夜、桐生から話を聞いた紫はたずねた。
桐生は首を振った。
「さあね。どうするつもりなのか、もうすこし時間をかけて考えてみなければ答えは出せないんだろう」
「そんな。時間をかけるって」
紫は口をとがらせた。
「それじゃ、札幌のご両親にはまだ知らせてないの? 明彦は生きていたって」
「明彦は生きてはいないよ」
桐生はそっけなく言った。
「え?」
「ある意味で松永明彦は死んだんだ。三歳二ヶ月でね。杉原正樹が自分が松永明彦であるということを認めないということは、そういうことじゃないか。理性では認めても、感情が認めないんだ。三十年間、彼はもの心ついた頃から、杉原正樹として生きてきたんだ。杉原正樹として学校を出て、杉原正樹として就職して、杉原正樹として結婚した。それが、今になって突然、おまえは本当は松永明彦という人間だ、と言われてもハイそうですかと受け入れるわけにはいかないさ。もし、ここで札幌の両親に連絡をすれば、両親はたしかに大喜びするだろう。すぐ会いに飛んでくるだろう。おとぎ話だったら、ここでメデタシメデタシで終わることができる。でも現実は違う。ここから別の困難が始まるのだ。両親と再会したあとどうなる? そこで何もかもが終わるわけじゃない。それぞれにはそのあとの人生があるんだ。札幌の両親は、彼に松永明彦としての人生を求めるかもしれない。両親にしてみれば、三十年前の明彦のイメージしか持っていないのだから当然だ。しかも、明彦を養子に出したわけじゃない。ずっと不当に奪われたと思ってきたんだ。しかし、杉原正樹は杉原正樹として生きることを選ぶと言っている。言い換えれば、彼は自分を誘拐した犯人たちの子供であり続けることを選ぶと言っているのだ。人は死が最悪だと思いがちだけれど、この世には死よりも最悪なことはいくらでもある。札幌の両親にとっては、もしかしたら、これほど残酷な結末はないかも知れない。再会の喜びもつかのま、へたをすれば、いっそ死んでくれていた方がよかったと両親が思う事態にだってなりかねない。そうならないためには、杉原にはよく考える時間が必要なのだ。それに家庭を持っている彼にはもうこれは彼だけの問題じゃない。妻や妻の両親との関係もある。これから、どうやってつきあっていくのか。彼は妻ともよく相談して答えが出たら、そのときは必ず家族を連れて札幌に行くと言っていたよ」
「ふーん」
紫は大きな溜息《ためいき》をついた。
「大人の世界は複雑だね。あたしにはよく分からないよ」
「ま、そのうち、嫌でも分かるようになるさ」
「そうかな……」
「さてと、風呂《ふろ》にでも入ってくるか」
桐生はソファから立ち上がると、バスルームに消えた。
リビングには紫が一人残された。
思えば、二瓶乃梨子《にへいのりこ》の仕事場に無造作に置いてあった、あの古い錆《さ》びた鋏《はさみ》。あの鋏に偶然触ったことからすべては始まったのだ。杉原さとえは何も語らずに死んでいったというが、さとえの語りたかったことを雄弁に語ってくれたのかもしれない。あの鋏にはさとえの魂がこもっていたのだ。
もしかしたら、あの日、乃梨子のアシスタントが急病になって、紫が乃梨子の仕事場に行くはめになったのも、ただの偶然ではなくて、あの鋏が自分の思いを語りたいがために、紫を呼び寄せたのかもしれない。紫の能力を必要としたのだ。
不幸なことばかり探り当てる自分の不思議な能力を紫は呪《のろ》わしいと思ったことがある。あの杉並の地主殺しのときもそうだった。もし、あたしにこんな能力がなかったなら、あの花屋の店員、青木早苗は幸せになっていたかもしれない。あたしが早苗を不幸にしたのだと。
でも、振り返ってみれば、こんな考え方は紫の思い上がりだということもできる。幸福は他人から与えられるものではない。自分でつかみ取るものだ。不幸だって同じだ。他人に不幸にさせられるのではなく、自分から不幸を招きよせるのだ。そういうことに紫は少しずつ気が付きはじめていた。
紫は早苗を幸福にも不幸にもしなかった。もし早苗が不幸になってたとしたら、それは早苗が自分から不幸になったのだ。
おそらく紫の持っている能力はそれ自体は良くも悪くもないのだろう。動物の声を聞くように、物の声を聞くにすぎないのだ。時には知らなくてもいいことまで知ってしまうこともあるが、知ってよかったということもある。
むしろ問題は、その知り得た事実にどう対処するかという、その後の人間側の対処の仕方にある。今度の場合、杉原正樹が三十年間も隠されてきた、彼自身のアイデンティティにもかかわる、幼児すり替え事件という事実にどう立ち向かっていくかで、彼や彼を取り巻く人々の幸・不幸がきまるのだ。
たぶん杉原正樹はもっとも良い答えを見付けるに違いない。そして、いつか札幌にいる両親に会いに行く日がくるだろう。
紫はテーブルの上の松永明彦の写真を取り上げた。
進介の話だと、正樹の次男がこの写真にそっくりだという。今も明彦を幼いイメージのままでとらえている札幌の松永夫妻にとっては、もしかしたら、孫にあたる正宏という子供が明彦の替わりになるかもしれない。
そして、この正宏こそが、明彦であることを捨てた正樹と、明彦を待ち続けている札幌の両親との間にできた、深い心の溝に架ける橋の役割を果たすかもしれない、と紫はふと思った。
それは予知めいた直感でもあった。
13
松永|芳子《よしこ》は夕暮れが近付くと、いつものように子供部屋に行って、開け放した窓からボンヤリと外を眺めた。
街並みに一つ二つと明かりが灯《とも》り、外で遊んでいた子供たちを呼ぶ母親の声。さよならを言い合う子供の声。豆腐売りのラッパの音。そういう夕暮れのざわめきの音を聞きながら、あたりに夜の帳《とばり》がおりるまで、小さなベッドの上のぬいぐるみを撫《な》でたり、ブリキのおもちゃや、水鉄砲や紙風船に触るのが好きだった。
明彦の部屋は明彦がいなくなったときのままになっている。いつ帰ってきてもいいように。
こうして待ち続けていれば、いつか必ず、いつもの小道を歩いて、あの子が帰ってくる。いなくなったときの恰好《かつこう》のまま、あの子は帰ってくるに違いない。
この三十年の歳月は、神さまが私を試すためにお与えになった歳月なのだ。あの子のことをあきらめずに、忘れずに、こうして待ち続けてさえいれば、神さまはきっとあの子を返してくださる。いなくなったときのままの姿で、無傷で返してくださる。
芳子はそう信じていた。
明彦が忽然《こつぜん》といなくなったときから、彼女はそう信じてきた。白くつやつやとしていた芳子の顔に深い皺《しわ》が刻まれ、黒く豊かだった髪に白いものが混じるようになっても、彼女の信念は薄れるどころか、ますます深くなっていく。
それはすでに信仰の域に達していた。芳子の亡くなった祖母が口癖のように言っていたこと。神や仏がいると思うから信じるのではない。いると信じきったとき、神や仏がたち現れるのだ。その祖母の血を芳子はひいていた。でも、芳子の信仰の対象は神でも仏でもない。いなくなった我が子だった。
あの子は帰ってくる。
必ず、いなくなったときのままの姿で。
必ず、必ず……。
もし今日がだめなら、明日だ。明日がだめならあさってだ。あさってがだめでもしあさって――。
芳子の目が何かをとらえた。
何か白いものが小道を歩いてくる。
あれは――。
芳子は老眼になった目を何度もしばたたかせた。
わたしは幻を見ているのだろうか。
あれが小さな男の子に見える。三つくらいの坊ちゃん刈りの、吊りズボンをはいたあの子に見える。
子供は顔がハッキリ見えるところまでやって来た。
明彦だった。
間違いない。
あれは明彦だ。
幽霊?
違う。生きている。
足がちゃんとあるもの。
幽霊じゃない。
怪我《けが》もしていない。
あの子が帰ってきた。神さまがやっとあの子を返してくれたのだ。
神さま、ありがとうございます。
そう呟《つぶや》いた途端、膝下《ひざした》からスーッと力が抜けた。床にストンと腰を落としながら、芳子は自分の中の三十年という歳月が、このとき、恐ろしいようなスピードで巻戻されていくのを感じていた。
[#改ページ]
弁当箱は知っている
1
春とはいっても名ばかりの四月のとある夕暮れのこと。新宿にある賃貸マンションの管理人室の窓が外からコンコンとノックされた。
老眼鏡をかけて夕刊を読んでいた管理人の菅野康夫《すがのやすお》は、顔をあげて、眼鏡を少し下にずらした。黒いブルゾンの襟を立てた三十がらみの男が、薄ら寒そうな恰好《かつこう》で窓の外に立っていた。
「何か?」
菅野は窓を開いた。
「312号室に住んでいた戸塚美鈴《とつかみすず》さんがどこへ引っ越したか分かりませんかね」
男はそうたずねた。暗く低い声だった。贅肉《ぜいにく》をそぎ落としたような顔に、剃刀《かみそり》でスーと切れ目を入れたような細い目が針のような光を放っている。
「戸塚?」
菅野は老眼鏡をはずしながら問い返した。
「七年前まで312号室にいた若い女ですよ。小柄で髪の長い、ちょっと奇麗な」
「ああ、もしかしたら、あの人かな」
菅野はすぐに思い出した。七年前、菅野はこのマンションの管理人ではなかった。それでも、心あたりがあったのは、二月ほど前に、みなりの良い二十代半ばくらいの女が、やはりここの住人らしき人物を訪ねてやって来たからである。
そのとき聞いた話では、その女も七年前にここに部屋を借りていたそうで、訪ねてきたのはその頃親しくしていた女友達だという。結局、その女友達もどこかに引っ越してしまって会えなかったようだが、女は懐かしそうに当時のことなど語り、菅野のような老人の心にも春めいた浮き浮きした気分を残して去っていった。
かなり印象に残る美人だったので、忘れろと言ったところで忘れられるものではなかった。その女の名前がたしか米倉《よねくら》美鈴と言った。
「でも、名字が違ってますよ。戸塚じゃなくて、今は米倉さんです」
菅野はそう言った。
「米倉?」
男の目がキラリと光った。
「結婚して姓が変わったんですよ」
「結婚……」
男が口の中で呟《つぶや》くのを菅野は聞いた。
「それはいつのことです? 結婚したのは」
男がたずねた。
「七年前だそうです。それでここを出たらしいんですね」
「美鈴の、いやその米倉さんの今の住所が分かりますか」
「あの、失礼ですが、あなたは?」
菅野はじろじろと男の様子を見た。どことなく堅気ではなさそうな雰囲気の男だった。あの女性のことを教えてよいものだろうか。それに七年前に結婚したことも知らないところを見ると、友人ではなさそうだ。菅野は咄嗟《とつさ》にそう思った。
「あ、兄です。前に貰《もら》った手紙にここの住所が書いてあったもので」
「お兄さんなのに、妹さんが七年前に結婚されたことも知らなかったんですか」
どうも怪しいな、という風に菅野は男をじろりと見た。
「その、旅行に出てたもんで。長い旅行に出てたもんで知らなかったんです。そうですか。結婚したんですか。それはよかった。ぜひ一度会ってお祝いを言わなければ」
菅野は半信半疑ながら、まあいいかという気分で、
「詳しい住所は知りませんが、たしか今住んでいるのは練馬《ねりま》の西大泉だと聞きましたよ」
「西大泉ですか……」
男はおぼえこむように呟いた。
「それで、美鈴が、妹が結婚したというのは米倉という男なんですね」
「ええ、なんでもご主人は、家電メーカーにお勤めのサラリーマンだそうで、年はだいぶ上のようですが、お幸せそうでしたよ」
「そうですか……いや、どうも」
男は軽く頭をさげると、風邪でもひいているのか、湿った病的な咳《せき》を二度ほどして、ブルゾンの襟を片手で掻《か》き寄せた。
菅野ははっと息を呑《の》んだ。
それまで両のポケットに突っ込んでいた男の手を見てしまったのである。あまり日に当たったことのなさそうな異様に白い手には小指がなかった。
まさか……。
肩幅の広い背中を丸めるような恰好で、ガラス扉を開けて出て行く男の後ろ姿を見送りながら、菅野はなんとなく嫌な予感がした。
2
「あれっ。係長? 係長じゃないですか」
行きつけの小料理屋ののれんをくぐった松崎俊也《まつざきとしや》は、L字型のカウンターの奥まった所で、ポツンと独りでいる中年男を見かけると、思わずそう声をかけた。
「やあ、松崎君か」
中年男はドロンと濁った目をあげると、弱々しく笑った。
「お元気でしたか、係長」
松崎は嬉《うれ》しそうに近寄ってくると、中年男の隣のスツールに腰掛けた。
「元気なわけないだろ。それにおれはもう係長じゃないよ」
中年男はそう言って苦笑した。よれよれのレインコートを脱ぎもせず、撫《な》で肩をすぼめるようにして銚子《ちようし》を傾けている。飲めば飲むほど青くなるようなナスビ型の顔には不精髭《ぶしようひげ》が目立った。
「あ、そうか。すいません、つい癖で」
松崎は頭を掻いた。ビールを注文してから、眼鏡をはずし、おしぼりで顔を拭《ふ》いた。
「もう三月《みつき》になりますか、係――じゃなかった、米倉さん」
「そうだな。もう三月か」
米倉|忠雄《ただお》はしみじみと味わうように呟いた。中堅どころの、ある家電メーカーの庶務課の万年係長だった米倉が、不況ゆえの人員削減、いわゆるリストラの対象になって、十八年勤めあげた会社を辞めたのが、今から三月前のことだった。
松崎俊也はその米倉の部下だった男である。
「新しい勤め先は見付かりましたか」
「いや。どこも駄目だね、今は」
米倉はかぶりを振った。
「今日も一日、むだに歩き回っただけだった」
「そうですか」
松崎は気の毒そうに元上司の顔を見た。
「まあ、こうなったら腰を据えて気長に探すさ」
米倉は空《から》元気めいた大声を出した。
「でも大変ですよねえ。家のローンなんかまだ残ってるんでしょう? ま、一杯」
松崎はビールを差し出しながら言った。
「ただ不幸中の幸いというか、うちは子供がいないからね、教育費とかかからないだけ、まだましな方かもしれない」
米倉はグラスを取ると、それに松崎が差し出すビールを受けた。
「今どきの教育費ってやつは、ホント、ばかにできませんからね。ところで、奥さん、お元気ですか」
「え? ああ、まあね」
米倉は曖昧《あいまい》な口調で答えた。
「でも残念だったなあ。おれ、一度、米倉さんのおたくにお邪魔して、美人の誉れ高い奥さんのご尊顔を拝したかったなあ」
松崎は、まだどこか学生気分の抜けないような声で無邪気に言った。
「ご尊顔ってほどじゃないよ」
米倉は苦笑した。しかし、今度の苦笑は、ほろ苦いながらも、こそばゆそうな趣がある。
「ご謙遜《けんそん》を。評判でしたよ。米倉さんとこの奥さん、若くて超美人で、おまけに今どき珍しい、亭主に尽くすタイプだって。係長の愛妻弁当っていえば、いまだにうちの課の語り草になってるくらいスから」
「そんなことくらいしか、おれの印象ってなかったのかな」
米倉はまた苦笑した。
「佐々木《ささき》課長なんかよく言ってましたよ。女房だけはあいつに負けたって」
松崎はうっかりそう言ってしまってから、あわわと口を押えた。
「ど、どうもすみません、失礼なこと言っちゃって」
「今さら口押えたって遅いよ」
米倉は苦笑するのも疲れたという表情で、空の銚子を未練ありげに盃《さかずき》の上で何度も振っていた。
佐々木課長というのは、米倉と同期に入社した男で、三浪したあげくに一年留年して大学を出た米倉よりも年が若く、男前で、仕事ができて出世が早かった。しかし、さらなる出世を見込んでか、部長だかの縁続きの娘を貰ったために、うちへ帰っても妻に頭があがらないと専らの噂《うわさ》だった。その上、その妻というのが佐々木よりも年上で、おまけに器量も良いとは言いかねる方だったらしい。
「たしか、奥さん、美雪さんて言いましたっけ」
見るからに、ただ今失業中という札を首からぶらさげているような米倉にとって、唯一自慢になりそうな話といえば、若くて美人の妻の話しかないと、本能的に感じたらしく、松崎はその話を続けた。
「美鈴だよ」
米倉は訂正した。
「あ、そうでした。美鈴さん。名前までビジンって感じですよね。米倉さんと十五も年が違うんですって?」
「まあね」
米倉は妻の話題を続けたいのか、避けたいのか、どちらともつかない口調で答えた。
「羨《うらや》ましいなあ。おれも十五も年下の若い子と結婚したいなあ」
「きみより十五も下といったら、まだ小学生じゃないか。アブナイこと言うなよ」
「あ、そうか」
松崎はまた頭を掻いた。
「でもこう言っちゃなんですが、米倉さんは、たしか三十七までずっと独身だったんですよね」
「うん。母がいたからね。つい婚期を逸してしまった」
「男にも婚期ってあるんですか」
「そりゃあるだろう。一番脂の乗った時期というか」
この人に脂の乗った時期なんてあったのかなという顔で、松崎は、カラカラに干上がった塩ジャケのような元上司を見た。
「はあ。でもそうすると、結婚したとき、奥さんはまだ二十二だったわけですよねえ」
「そういう勘定になるね」
「どこで知り合ったんですか。そんな若い子と」
松崎は横目を使って、「このこの」というように、くの字に曲げた肘《ひじ》で米倉の肘をつついた。
「まあ、ちょっとネ」
米倉は咳ばらいしてお茶を濁した。
「まさか見合いじゃないですよね」
米倉のようなしょぼくれた男に、十五も年下の美人との見合い話がそもそも来るわけがないと決め付けるように、松崎は言った。
「見合いじゃないよ」
「としたら、やっぱ恋愛、ですか」
これはもっと信じられないが、というように松崎。
「うん、まあ、その中間みたいなもんかな」
米倉の返事はあくまで抽象的だった。
「中間?」
「何度か会ううちに、お互い、なんとなくウマが合ったというか」
「はあ、そうなんですか。で、どこで会ったんですか」
「まあいいじゃないか」
振っているうちに酒が溢《あふ》れ出るとでも思っているのか、米倉は性懲りもなく、二本めの空の銚子も逆さに振っていた。
「ディスコとか?」
「まさか。おれはああいうとこへ腰振りに行く趣味はない」
「そうでしょうねえ」
松崎はしみじみと納得したように頷《うなず》き、
「カラオケバーとか?」
「おれは自慢じゃないが音痴だ。〈北国の春〉を最初から最後まで音はずして歌えるくらいだからね。めったにカラオケなんか行かないよ。聞いたやつらがみんなひっくりかえるからな」
「もう勿体《もつたい》ぶらないでどこだか教えて下さいよ。若くて奇麗な子に会えるんだったら、おれも行きますから」
「もう行ってるんじゃないのか」
米倉は呟《つぶや》くように言った。
「え?」
「いや、何でもない」
「なにはともあれ、こんなところで油売ってていいんですか」
何がなにはともあれなのか分からないが、松崎はそう言った。
「うちで美人の奥さんが首を長くして待ってるんじゃないスかあ」
「待ってないよ」
ブスッとした口ぶりで米倉は答えた。
「そんなことないでしょ。まだ八時ですよ。寝るには早すぎます。朝はにわとりと共に起きて、毎日毎日、愛情こめた愛妻弁当を作ってくれた奥さんが、亭主が帰る前にさっさと寝てしまうわけがない。米倉さんの帰りを今か今かと時計と睨《にら》めっこして待ってますよ、きっと」
「待ってないって言ってるだろう。いないんだから」
米倉はつい口がすべったというように言った。
「へ?」
思わずアホ面《づら》になる松崎。
「い、いないって、まさか」
「逃げられたんだよ」
3
「逃げられた? ヤッパリ」
松崎はそう言って、また慌てて口を押えた。
米倉のレインコートの三番めのボタンが今にも取れそうになっているのを見たときから、まさかとは思っていたのだ。夫に愛妻弁当を欠かさず持たせるような情愛深い妻がいるなら、これを黙って放っておくわけがない。ということは……。
「なにがヤッパリだよ」
米倉が血走った目でじろりと睨んだ。
「い、いやその」
「勘違いするなよ。おれが失業したんで、それで愛想つかして逃げたってわけじゃないんだからな」
「えっ、違うんですか」
「そんな驚いたような声で、『違うんですか』なんて言うなよ。傷つくじゃないか」
米倉は気を悪くしたように言った。
「すみません。根が正直なもんでつい」
「そういうことを正直に言うなって言ってるの」
「あ、どうもどうも。それじゃ、どうして奥さん、逃げたんですか。まさか、若い男とかけおち?」
と言いかけて、また米倉に睨まれそうになったので、松崎は口をつぐんだ。
「美鈴だって、逃げたくて逃げたんじゃない」
米倉は自棄酒《やけざけ》をあおるように、ぐいっと三本めの銚子を傾けたが、これも空なのに気が付くと、儀式のようにしばらく振っていたが、仕方なく追加を注文した。
「どういうことなんですか」
「こういうことだよ」
米倉は、ボタンをはずしたコートの胸に手を差し入れて、ごそごそと懐を探っていたが、何やら紙片を大事そうに取り出して、それを松崎に渡した。
「なんですか、これ」
「まあ読んでみな」
米倉はあごをしゃくった。
松崎はその畳んだ紙片を開いた。それは一枚の便箋《びんせん》だった。流麗なペン字で埋められていた。
『あなた、私は出て行きます。探さないで下さい。あなたにご迷惑はかけられません。私がここにいたら、三沢《みさわ》はあなたにも危害を加えるでしょう。だから、私はあなたの元を去らなければならないのです。この七年、美鈴はとても幸せでした。さようなら』
松崎は便箋を取り上げ、声に出して読んだ。
「なんですか、これ」
釈然としない顔を米倉の方にねじ曲げる。
「察しの悪いやつだな。まだ分からないのか」
「分かりません、サッパリ」
松崎は首をひねった。
「文字が所どころかすんでいるだろ」
「ええ、よだれでもたらしたみたいに」
「おれの女房は牛か。それは涙だよ。涙」
「涙ってことは、奥さんはこの手紙を泣きながら書いたってことですか」
「決まってるじゃないか。涙流して笑いながら手紙書くやつがいるか」
「しかし、この三沢ってのは誰なんです?」
「これもんだよ」
米倉は頬《ほお》を人差し指でスッと撫《な》でてみせた。
「へえ?」
松崎は目を丸くした。
「三沢|裕次《ゆうじ》。昔、美鈴と付き合っていたというか、食いものにしてたやつだよ」
「なんでそんなやつと奥さんが?」
「さっき、美鈴とどこで知り合ったかって聞いただろ。あんまり言いたくなかったが、このさいだから教えてやろう、実はな――」
米倉は松崎の顔にいきなり口を近付けた。
「な、なにするんですか」
松崎はわっと飛びのいた。
「なにするって、耳を貸せよ」
「あ、なんだ。そういうことか。ああ、びっくりした」
「なにびっくりしてんだ?」
「だって、いきなり口を近付けてくるんだもの。奥さんに逃げられて、変な気起こしたのかと思った」
「おまえアホか」
「で、なんですか」
松崎は今度は自分から耳を突き出してお出迎えに行った。
「大きな声じゃ言えないが、美鈴と出会ったのはな――」
「えっ。そーぷらんどォ」
松崎はばかでかい声で繰り返した。
米倉は慌ててあたりを見回し、目の前に突き出ている耳をひきちぎったろうかという顔をした。
「声がでかい。なんのために耳を貸せと言ったと思ってるんだ」
「すみません。つい驚いたもんで」
「そんなに驚くことかよ」
「考えてみれば、しごく当たり前のことですね。米倉さんはそのとき三十七の独身だったわけだから」
「そうだよ」
「あれ、待てよ」
松崎はワンテンポ遅れてついた蛍光灯みたいに、ひらめいた顔つきになって、
「ということは、なんですか、奥さんはまさか、その結婚前は、ソ、ソ、ソ」
ソクラテスかプラトンかとでも歌い出すかと思ったら、
「ソープランドで働いてたってことですか。ソープランドで」
「なんでおまえはソープランド、ソープランドって、そこだけ強調するんだ」
「米倉さんもけっこう強調してますよ、ソープランド、ソープランドって」
「…………」
「驚いたなあ。そんなこと一言も言ってなかったじゃないスか。たしか中流のサラリーマンの家庭に育って、短大の英文科を出たとかって聞きましたよ。小さい頃からピアノ習ってたとか。風俗出身だなんて一言も」
「そんなこと自分から吹聴《ふいちよう》するか。それに、中流のサラリーマンの家庭に育って短大の英文科出たってのは本当だぞ。生まれつき風俗だったわけじゃない」
「それがどうしてまた?」
「だから、悪い男に引っ掛かってしまったんだよ。美鈴は世間知らずのお嬢さんだったからな。短大出て、社会に出てはじめて恋した男が、よりにもよってやくざだったんだ。それでいいように騙《だま》されて、甘い汁吸われて」
「気が付いたら、苦界《くがい》に身を沈めていたというわけですね」
「古風なこと言うじゃないか。でも、まあその通りだよ」
「そうか。そういうことだったのか。いやあ、これで納得しましたよ。なんで米倉さんのような人があんな若い美人と一緒になれたのか。庶務課の七不思議の一つだったんだよなあ」
「米倉さんのような人とはどういう意味だ」
「まあ、その、深い意味はありません。でもどうして今さら別れなければならないんですか。だって、米倉さんは奥さんの職業を知ってて結婚したわけでしょう。それなら何も」
「当たり前だ。その仕事場で知り合ったんだから、知るも知らぬもあるもんか」
「ですよねえ」
「三沢さえ出てこなければ、おれたちは今まで通りでいられたんだ」
「出てくるって?」
「実は、この三沢というやつ、人を刺し殺して、七年前に刑務所にぶち込まれたんだが、それがこの四月に刑期を終えて出てくるんだよ」
「へえ」
「こいつが今でも美鈴は自分の女だと思い込んでいるみたいなんだ。たぶん美鈴が結婚したことも知らないに違いない。こんなやつだから、ムショ暮らしなんて、ちょいと温泉場に静養に行ったくらいにしか思ってない。戻ってきたら、美鈴を探し出して、また食いものにしようとするだろう。美鈴はそれを恐れているのだ」
「なるほど。なんとなく事情がのみ込めてきました。でも、美鈴さんはもう米倉さんのれっきとした奥さんなんだし、オレのオンナに手を出すなって言ってやれば」
「口で言って分かるような相手なら何も苦労はしないよ。いいか、テキは人一人殺したことがあるやつなんだぞ。しかも、その殺された被害者というのが、美鈴にちょっかい出そうとした学生だっていうんだ。ちょっかい出そうとしただけで刺し殺しちゃうんだぞ。結婚までしたと分かったらどうすると思う?」
「刺し殺すなんてもんじゃないでしょうね。剃刀《かみそり》でフグ刺しみたいに薄切りにして食っちまうかもしれませんね」
松崎は妙に嬉《うれ》しそうに言った。
「美鈴の話だと、それくらいのことはやりかねない男らしい。だから、美鈴はおれに危害が及ぶのを恐れて、逃げ出したんだよ。しかも、もしやつが美鈴を見付け出したら、前みたいに食いものにするなんてまだいい方かもしれない。へたすれば、美鈴はなぶり殺しの目に合うかもしれないんだ」
「え、どうしてですか。米倉さんと結婚しちゃったから?」
「それもあるが、三沢が逮捕されたのは、実は美鈴が警察にちくったからなんだよ。つまりさ、オトコを売ったんだよ。美鈴は三沢から逃げたい一心で、三沢を警察に売ったんだ。もし三沢がそのことを知ったら――」
「それはただじゃおきませんよ」
「そう思うだろ? だから、おれはどうしても美鈴を探し出さなくちゃならないんだ。三沢が美鈴を探し出す前にな。今のおれにとっては再就職なんてどうでもいいんだ。今日だって勤め先を見付けに行ったんじゃない。朝から美鈴を探して歩き回っていたんだ。早く探し出して、三沢から守ってやらなくちゃならないんだよ。体を張ってでもな」
「凄《すご》いなあ。なんかハードボイルドしてるなあ。カッコいいな、米倉さん」
松崎は、この元上司をはじめて尊敬のまなざしで見詰めた。
4
隣の犬がさっきからやけにほえている。
何かあったのかしら。
廊下の拭《ふ》き掃除をしていた沢田三千子《さわだみちこ》は不審に思い、雑巾《ぞうきん》を放り出すと、玄関に出て、そっとドアを開いてみた。
すると、犬の声に追いたてられるようにして、一人の男が隣の門から出てくるのが目に入った。
黒いブルゾンを着た背の高い男だった。男は忌ま忌ましそうに犬の方を見て舌打ちした。そして、ドアの隙間《すきま》から顔を覗《のぞ》かせてじっと自分の方を窺《うかが》っている三千子に気付くと、じろりと凄い視線を投げ掛け、大股《おおまた》で去って行った。
な、なに、あれ。
三千子はぞっとしながら思った。
5
米倉忠雄は我家の見える所まで来ると、はあっと大きな溜息《ためいき》をついた。七年前、美鈴と結婚したとき購入した二階建ての家には明かりはついていなかった。
レインコートのポケットに両手を突っ込んで、駅からとぼとぼと歩きながら、もしや、家に明かりが灯《とも》っているのではないか、美鈴が帰っているのではないかと期待していた米倉は、闇《やみ》の中に黒々とうずくまっている我家を見て、身体《からだ》から空気がもれるような溜息をつかずにはいられなかった。ただでさえ棒のようになっていた足がいよいよ重たく感じられた。
家の前まで来ると、米倉の足音を聞き分けたのか、飼い犬のソックスがのそのそと犬小屋から出てきて、甘えるようにくんくん鳴いた。ソックスは柴犬の血の混じった雑種である。前足だけソックスでもはいているように白いのでそう呼んでいた。
「よしよし、腹減ったか。今、ご飯作ってやるからな」
米倉はしゃがみ込んで、ソックスの頭を撫でながら優しく話し掛けた。ソックスはちぎれんばかりにしっぽを振り、米倉の冷えた手を無心に嘗《な》め続けた。
よっこらしょと立ち上がり、コートのポケットに手を突っ込んで鍵《かぎ》を取り出した。それで施錠を解き、中に入ると靴を脱いだ。そんな米倉の姿を、家の前の公衆電話ボックスの陰からじっと見つめている人影があった。
廊下を歩いて居間のドアを開けた米倉の目が、闇の中で点滅している留守番電話の赤ランプにとまった。
用件は二件入っていた。米倉はもしやと思った。壁のスイッチを押して照明をつけると、留守番電話の留守ボタンを押した。
最初のは何のメッセージも入っていなかった。録音時間は、午後二時十分。
次のも最初は無言だった。これも何もなしかと思いかけたとき、女の声が流れた。美鈴の声だった。
『あなた。わたしは今池袋のビジネスホテルにいます。わたしのことは心配しないで。それよりあなたもすぐにそこを出た方がいいわ。三沢は必ずわたしの居場所をつきとめます。あれは蛇のような男です。あなたも危険なのよ。早くそこから逃げて』
メッセージはそこで途切れていた。録音時間は午後九時十分だった。
米倉は腕時計を見た。午後九時二十分になろうとしていた。ほんの十分ほど前にかかってきたことになる。思わず舌うちした。なんでもっと早く帰ってこなかったんだ。あと十分早く帰っていれば、美鈴からの電話を受けることができたのに。そうすれば、池袋のビジネスホテルの名前を聞き出すことができたのに。
自分の頭を思いっきり殴りつけたい衝動に駆られた。
こうなったら、池袋のビジネスホテルに全部電話をかけてやろう。米倉はそう決心すると、電話帳を取り出して広げた。
そのとき玄関のドアが音もなく開いた。足音をたてずに人影がするりと中に入ってきた。黒い革の手袋をした手がドアをゆっくりと閉めた。
人影は靴を脱ぎ、忍び足で廊下を歩いて、台所に入った。照明もつけずに流しに行くと、流しの下の戸棚を開いた。扉の内側に包丁が差し込まれていた。それを物色するように見ていたが、真ん中の刺身包丁を取り出すと、切れ味を確かめるように、手袋をつけた指で刃の部分をそっと撫《な》でた。それを逆手に持ち、忍び足で台所を出た。
廊下の奥から話し声が聞こえてきた。
「そちらに米倉美鈴という女性は泊っていませんか。もしかすると、偽名を使っているかもしれませんが――」
開いたままのドアの隙間《すきま》から男の背中が見えた。よれよれのレインコートを着たまま、受話器に耳をあてて熱心に喋《しやべ》っている。
「そうですか、いやどうも失礼しました」
がっかりしたような声でそう言うと、男は電話をいったん切り、台の上に広げた電話帳の上に覆いかぶさるようにして覗《のぞ》き込んだ。
人影は足音をたてずに、背中を向けている男に近付いた。片手に持った刺身包丁を高々と振り上げる。
そして、全く無防備な男の背中に向けて一気に振り下ろした。
6
午後十一時すぎ。
警視庁捜査一課の桐生進介が通報を受けて、練馬《ねりま》区西大泉の現場に駆け付けたとき、その家の門の前には既に何台ものパトカーがものものしい雰囲気で停まり、門の中では飼い犬が狂ったようにほえまくっていた。
その鳴き声に呼応するように近所の犬という犬があちこちでほえ、家から出てきた近隣の者たちがひそひそ囁《ささや》き合いながら遠巻きにしていた。
桐生は門の前に立っていた制服警官に警察手帳を見せて中に入った。
廊下の突き当たりの部屋を鑑識班が出たり入ったりしていた。
居間のドア近くの電話機の前で、よれよれのレインコートを着た男が俯《うつぶ》せに倒れていた。背中は鋭い刃物で何度も突き刺されたような傷があり、血潮で真っ赤に染まっていた。男の右手には、背後から襲われたときに思わずちぎり取ったらしい電話帳の頁が握られていた。
現場を見回していた桐生を唖然《あぜん》とさせたのは、居間のソファにもクッションにも、男を襲ったのと同じ凶器でやったらしい、無数の刺し傷、切り傷があったことだった。革のソファやクッションは刺され、えぐられ、切り刻まれて、中の詰物が飛び出していた。
またコーナーボードに飾ってあったらしい写真立てが床に落ち、粉々に割れたガラスがあたりに散乱していた。
桐生は写真立てを手に取ってみた。スナップ写真は真ん中から引き裂かれていた。片側にはアロハシャツを着た被害者と思われる中年男が写っていた。男の隣に誰が写っていたのか分からないが、犯人はそちらだけ持ち去ったらしい。
「凶器はこの包丁のようですな」
所轄署の年配の刑事がビニール袋にいれた刺身包丁を見せた。包丁の刃も柄の部分も血のりで汚れ、刃こぼれしている。
「この家のものですか」
「らしいですな。遺体のそばに捨ててありました」
「怨恨《えんこん》、ですかね」
桐生は思わず言った。部屋の中には犯人のどす黒い憎悪がまだブスブスとくすぶっているような気がした。
「そんなとこでしょうな。この荒れ方からすると。ガイシャをめった刺しにしただけでは飽き足らなくて、ソファやクッションまでもズタズタにしていくんですから。かなりの怨恨ですよ、これは」
「死亡推定時刻は?」
桐生はたずねた。
「午後九時から九時半ってとこでしょうか」
「発見者は?」
「ガイシャの奥さんですわ。二階で話を聞いてます。なんでも池袋のビジネスホテルに二日前から泊っていたんだそうですが、電話をかけたところ、最初は留守番電話になっていたのに、次にかけたときは留守機能は解除されていたんだそうです。ということは亭主は帰宅したということですな。それなのに、何度かけても誰も出ない。それで心配になってチェックアウトして帰ってきたところが、うちの中はこの有り様」
「ビジネスホテルに泊っていたというのは、どういうことです?」
桐生は怪訝《けげん》そうにたずねた。練馬に自宅があるのに、なんで池袋のビジネスホテルに泊らなければならないのか。
「何か訳があるらしいんですがね、なんせ興奮してるので、もう少し落ち着いてからと思って。それに犯人を知ってるというんですよ」
「犯人を……?」
「三沢というやくざだそうです。昨日、刑務所から出てきたばかりだとかで。まあ、今調べてますが」
桐生は居間を出ると階段を昇った。
階段を昇りきった右手の部屋のドアが開いていた。刑事らしき男と、白いセーターを着た女の姿が見えた。
桐生が入って行くと、俯《うつむ》いていた女が顔をあげた。
女は若かった。被害者の年恰好《としかつこう》からして、妻というからには、もう少し年配の女性を想像していたので、桐生はやや意表をつかれた思いがした。
白い、というより透き通るような肌をした美しい女で、印象的なのは、いっぱいに見開かれたその目だった。まばたきもせずに桐生の方を見上げているその目は、まるで四、五歳の幼児のように、あどけなく澄みきっていた。年の頃は、二十代半ばくらいに見えたが、目だけが子供のようだった。
誰かに似てる。桐生はその吸い込まれそうなほど大きな目を見ながら、ふとそう思った。そして、それが誰であるかすぐに気が付いて、少しうろたえた。
「ご主人を刺した犯人を知っているのですか」
そうたずねると、女はこっくりと頷《うなず》いた。
「刺したのは三沢です。三沢裕次に間違いありません。あんな酷《ひど》いことをするのはあの悪魔しかいません。昨日、刑務所から出てきたばかりの男です」
女は細いがハッキリした声でそう答えた。華奢《きやしや》な肩が小刻みに震えていたが、少しは落ち着いたのか、思ったより取り乱してはいなかった。
「池袋のビジネスホテルに泊っていたそうですが、それはまたどうして?」
「三沢から逃げるためです。三沢が出所してくると知って、あの男から逃げるためにうちを出たのです。わたしさえいなければ主人には危害を加えないかもしれないと思ったのに」
女の大きな目から真珠のような涙がポロポロッとこぼれ落ちた。
「三沢という男とあなたはどういう関係なんですか」
「七年前まで付き合っていた男です。冷酷なくせに独占欲だけは強くて、わたしを自分の持物か何かのように思い込んで……」
時々、啜《すす》り泣きで中断はしたが、女はそれまでのいきさつを話した。
何不自由のない中流家庭に育った米倉美鈴の人生が狂い出したのは、短大を卒業した年、両親を交通事故でいっぺんになくしたことがはじまりだったという。両親をなくして途方に暮れていた美鈴の前に現れたのが、三沢裕次というやくざ者だった。
「そのときはやくざだなんて知らなかったんです。腕のいいバーテンだと聞いていました。あの頃はまだ小指もあったし、出会った頃はとても優しい人だったんです。いつか自分の店を持つというのが夢でした。それが付き合いはじめて一月もしないうちに――」
お定まりのコースであった。三沢は客と喧嘩《けんか》したことでバーテンの仕事を首になり、美鈴のヒモのような存在になりさがった。どんなに稼いでも、すべて三沢に吸い上げられてしまった。やがて、半ば強制的に風俗関係で働くはめになり、ほとほと愛想がつきて逃げ出そうとしても、必ず見付け出されて、殴る蹴《け》るの暴行を受けたという。
そんなとき、美鈴は遠藤《えんどう》という医学生と知り合った。遠藤は彼女に好意を持ってくれ、彼女の方も遠藤が好きになりかけていたのだが、それが三沢に知られ、激怒した三沢は、深夜、酔って遠藤の下宿先を訪れ、遠藤を手近にあったナイフで刺し殺してしまったのだという。
三沢は一週間ほどあちこちを転々と逃亡していたが、持ち金を使い果たしたのか、美鈴のマンションに電話してきて、金を持ってこさせようとした。美鈴はひそかに警察に通報し、待ち合わせ場所に現れた三沢を、張り込んでいた警察が逮捕したというわけだった。
米倉とはそのあとで出会ったらしい。米倉はすべてを知った上で美鈴と結婚する決心をしてくれたのだという。
「この七年、主人は本当にわたしを大切にしてくれました。わたしも一生この人のそばを離れたくないと思っていました。年こそ離れていましたが、わたしたちは心のそこから愛し合っていたんです。三沢さえ出てこなければ、あの悪魔さえいなければ――」
そう言って、米倉美鈴は、唇を震わせた。
「居間のコーナーボードにあった写真立てには、ご主人とあなたが写っていたのですか」
桐生はそうたずねた。
「ええ。新婚旅行でハワイに行ったときに撮ったものです」
やはり、米倉を襲ったのは三沢という男に間違いないようだなと、桐生は思った。新婚旅行の写真が引き裂かれていたのは、三沢が美鈴の姿が写っている方だけ持ち去ったからだろう。七年前に別れた女への屈折した執着が感じられた。犯行現場の異常な荒れ方も、美鈴の話を聞けば納得がいく。あれは七年前に自分を裏切った女と、その女を奪った男への煮えたぎるような憎悪のあらわれだったに違いない。
「しかし、三沢は出所したあと、どうやってあなたの居場所をつきとめたんでしょうか」
ふと疑問に思って、桐生はたずねた。
「それが分からないのです。もちろん、面会はおろか、手紙も出したことはありませんし、どこでどうやって、わたしが結婚して米倉の妻になり、ここに住んでいたのを知ったのか、さっぱり分かりません。でも、蛇のように執念深い男ですから、ありとあらゆる手段を使って、わたしのことを調べたに違いありません」
美鈴はそれだけ言うと、たまりかねたようにわっと泣き伏した。
7
三沢裕次が重要参考人として所轄署に連行されてきたのは、それから二日後のことだった。
取り調べ室のパイプ椅子《いす》に座らされると、三沢はふてくされたような態度で、「米倉を殺したのは自分ではない」と開口一番に言った。しかし、二日前の午後九時から九時半頃までどこにいたという質問には、新宿で映画を見ていたと答え、アリバイはないも同然だった。
「あの日の昼間、午後二時頃、米倉の家へ行っただろう?」
取り調べの刑事が言った。
「行ってねえよ」
三沢はブスリと答えてそっぽを向いた。
「嘘《うそ》をつけ。ちゃんと隣の主婦がおまえの姿を見てるんだぞ」
米倉家とブロック塀ひとつ隔てて隣合う、隣家の主婦が、隣の飼い犬がばかにうるさくほえるので、不審に思って、外を見てみると、黒いブルゾンを着た背の高い男が両手をポケットに突っ込んで足早に出てくるのを目撃したという情報を得ていた。
三沢の写真を見せて確認したところ、この男に間違いないということだった。
「だけど美鈴の亭主が殺されたのは夜だったんだろう。おれが行ったのは昼間だぜ。なんでそれで犯人ってことになるんだよ」
三沢はギロリと剃刀《かみそり》のような目を剥《む》いた。
「じゃ、昼間、あそこへ行ったことは認めるんだな」
桐生が口をはさんだ。
「ああ。でも留守みたいだったし、馬鹿犬がキャンキャンうるさいんですぐに出てきたんだ」
三沢は渋々そう答えた。
「どうやって、美鈴さんの居場所を知ったんだ?」
桐生は重ねてたずねた。
「美鈴が七年前に住んでいたマンションへ行ったんだ。そこの管理人に聞いたんだよ」
三沢はボソリと答えた。
「七年も前に引っ越した女のことを管理人がおぼえていたのか」
桐生は少し気になって聞いてみた。
「そうじゃねえよ」
三沢はブルゾンに両手を突っ込んだまま、あごを襟もとに埋めて言った。
「二月くらい前にたまたまあの女があそこのマンションを訪ねていたんだ。昔の友達に会うとかで。そのときに管理人といろいろ話したらしい。管理人のじいさん、それをおぼえていたのさ」
「その管理人から練馬の住所を聞いたのか」
「そこまでは聞いてねえ。でも、米倉って名前と練馬の西大泉ってことだけは分かったから、西大泉まで行って、公衆電話ボックスの電話帳で調べたんだ。米倉ってのは一軒しかなかった。住所はそれで調べたんだよ。一応、訪ねてみたが、さっき言ったように、留守だったんでそのまま帰ってきた」
「そして、夜になるのを待って、もう一度行ったんだろう。そうしたら、家には明かりがついていた。玄関のドアは施錠してなかった。だから、おまえはこっそりと玄関から入って、台所の刺身包丁を取り出すと、居間で電話をかけていた米倉さんを背後から刺した。そうじゃないのか、え?」
と所轄署の刑事。
「そんなことするもんか。おれはその日の宿を決めてから新宿に出て映画館に入ったんだ」
「白々しい嘘《うそ》をつくんじゃないっ」
刑事が威《おど》すように大声を出すと、
「嘘じゃねえよっ」
三沢はどすの利いた声で怒鳴りかえした。
「なんで美鈴に会いに行ったんだ?」
桐生はとりなすように言った。
「なんとなくだよ」
三沢は呟《つぶや》いた。
「なんとなく? 結婚のお祝いでも言いに行ったのか」
刑事があざ笑うように言った。
「そんなとこだな」
「ふざけるな。おまえが七年前に何をやってぶち込まれたか、ちゃんと調べはついてんだぞ」
「…………」
「だいぶあの女を食いものにしていたそうじゃないか。どうせまた七年前と同じことをしようと思って出てきたんだろう。ところが相手はもう結婚していた。それでカッとなったおまえは――」
「誰がそんなこと言ったんだ」
三沢が細い目を見開いて、妙に静かな声でたずねた。
「そんなことって?」
刑事が言った。
「おれが美鈴を食いものにしてたなんて、誰がそんなことを言ったんだよ」
「あの女に決まってるじゃないか。おまえのことを悪魔だって言ってたそうだ」
「…………」
三沢の態度が微妙に変わった。それっきり、何をきいても暗い顔をして貝のように黙り込んでしまった。
8
「どうも変だな」
取り調べ室から出てくると、桐生はそう呟いた。
「変って何がです?」
首を左右にコキコキと鳴らしていた、三枝《さえぐさ》という若い刑事がたずねた。
「犬だよ」
「犬?」
「米倉の飼い犬さ。昼間、三沢がたずねたときは、隣の主婦に聞こえるくらいほえたわけだろう。ところが、夜、米倉が殺された頃、隣の住人は犬の鳴き声を聞いていない。なぜだろう。それに、米倉の死に方もそうだ。犯人に背中を向けているところを刺されたわけだ。ということは、犯人が家に忍び込んだとき、玄関そばの犬小屋にいた犬はほえなかったということになるんじゃないか。もし犬がほえていたら、米倉は不審に思って見にいったはずだからね。とすれば、犯人と真っ向から向かい合うことになり、あんな死に方はしないはずだ」
「あ、なるほどね。そう言われてみれば変ですね。我々が行ったときも、狂ったようにほえまくってましたからね、あの犬。もし三沢が夜こっそり忍び込んだとしたら、あの犬は絶対ほえるはずですよね」
「そうなんだ……」
「でもこうは考えられませんか。昼間下見して犬がいることを知った奴《やつ》は、犬を黙らせるために、夜忍び込むときは、犬の好きそうな食い物か何か用意して行った――」
「食い物で黙らせたというわけか」
「行きと帰り、食い物を投げ与えておけば、犬は黙って食べてるでしょ。その間はほえません」
「そうか。そういう手があるか。しかし……」
まだ何か腑《ふ》に落ちないことでもあるのか、桐生の眉《まゆ》は晴れなかった。
「三沢が起こした七年前の事件だが、本当に米倉美鈴が言った通りのものだったんだろうか」
「違うと思うんですか」
「彼女が嘘を言っているようには見えなかったが、どうも気になる。もし三沢が犯人だとしたら、今回の事件の動機は、七年前の事件にあるともいえるんだ。ようするに、あの男の異常なまでの嫉妬《しつと》深さが二つの事件を引き起こしたといえるわけだから。だから、七年前、三沢が遠藤という医学生を刺し殺した動機が嫉妬にあるとしたら、今回の事件の動機も納得がいくんだ」
「たしか、あの事件は遠藤のマンションがあった代々木で起こったんでしたね。代々木署に行けば、詳しいことが分かるかもしれません」
三枝が言った。
9
「それは少し話が違いますな」
桐生たちの訪問を受けた、代々木署の土門《どもん》という中年の刑事がお茶を啜《すす》りながら言った。
「違うといいますと?」
桐生は聞き返した。
「戸塚美鈴、今は米倉美鈴か。彼女の話は一言で言えば、事実とは全く違いますね」
「どう違うんです」
「まず、我々の調べたところでは、美鈴が最初に知り合ったのは、三沢裕次ではなく、遠藤|俊行《としゆき》の方だったってことです。遠藤とは短大に在学中から交際があったんですよ」
「殺された医学生の方が先だったんですか」
桐生は思わず身を乗り出した。
「そうです。美鈴が風俗にはまり込んだのだって、もとはと言えば、この遠藤が原因だったんですよ。遠藤というのは、実家が大きな個人病院を経営している、いわば金持ちのボンボンでしてね、親から買って貰《もら》ったポルシェかなんか乗り回してかなり派手《はで》に遊んでた、いわばプレイボーイです。
ルックスが良くて将来はお医者さまとなれば、周りの女どもが放っておきませんや。ガールフレンドも一人や二人じゃなかった。美鈴もその一人だったんです。ただ、美鈴はごくふつうのサラリーマンの娘だったから、遠藤と付き合うのは何かと物入りだったようです。遠藤は車と女は自分を引き立てるアクセサリーくらいにしか思っていなかったようで、いくら美人でも貧乏臭い恰好《かつこう》した女なんか見向きもしない。だから、遠藤の気を引くには、美鈴としては、いつも遠藤好みのブランド物の服やらバッグやらを身につけていなければならなかったんですな。しかし、ふつうのサラリーマンの娘の彼女にはそんな金がおいそれとできるわけがない。それでまあ、よくある話ですが、カードで借りまくって、気が付いたときには、カード地獄に陥っていたというわけです。しかも、せめて両親でも健在だったら何とかしてもらえたんでしょうが、その両親も不幸なことに、彼女が短大を出た年に事故で二人ともなくなってしまった。それで、美鈴としては、風俗で働いて、ふくれあがった借金を返すしかなくなったんです」
「それじゃ、やくざの三沢に半ば強制的にというのは?」
「嘘ですよ。三沢に会ったのは、もう風俗に染まってた頃ですよ。それに三沢はやくざじゃありません。たしかに、あの人相で、左手の小指が欠けてますからね、そう見られてもしょうがないんだが、バーテンとしては超一流の腕をしていたそうですよ。ただ、美鈴と知り合ったことが、彼の運命を狂わせたといえるかもしれません。小指をなくしたのだって、美鈴と関わっていたやくざものとの喧嘩《けんか》が原因だったらしいんです。あの女のために指をなくしたようなものですよ。それで仕方なくバーテンの仕事は辞めざるをえなくなった。だって、あんな手じゃカクテル一つまともに作れないし、何より、スジモノと間違われて客が寄り付きませんよ。それでは店に迷惑がかかります。だから、それまで勤めていたバーを辞めたのも、クビというより、自分から辞めたんです。銀座でも一流の店にいたんですがね、彼は」
土門は惜しむように溜息《ためいき》をついた。
「すると遠藤を刺したのも、遠藤が美鈴にちょっかい出したからだって言うのは?」
美鈴から聞いていた三沢像と、土門刑事が語る三沢像との、あまりのギャップに、桐生はいささかとまどいながら、そうたずねた。
「それも違いますね。三沢が怒ったのは、遠藤が美鈴に手を出したからではなくて、まるで反対。遠藤が美鈴をボロ切れかなんぞのように捨てたからです。まあ、我々から見ると、ふつうのお嬢さんだった美鈴がああなったのも、自業自得って気もするんですが、あの女にぞっこんだった三沢にとっては、女の方も悪いという発想は頭からなかったんですな。遠藤が彼女をあそこまで追い込んだと思い込んだわけです。それで、遠藤が親が決めた女性と婚約したと聞いて、プッツンしちまったんです。しかも、遠藤が、美鈴のことを最初からいっときの遊び相手くらいにしか思ってなかったことを当の本人から嘲笑《ちようしよう》混じりに聞かされて、それでついカッとして、たまたま手近にあった果物ナイフで刺してしまったというのが真相ですよ」
「それじゃ、事実は美鈴の話とは全く逆ということですか」
桐生は唖然《あぜん》としながら言った。
「女は自分を悲劇のヒロインに仕立てるのが好きですからなあ。だから、そんな嘘《うそ》をついたんでしょう。私に言わせれば、一番|可哀《かわい》そうなのは、あの三沢ですよ。あの女に関わったせいで、一生を棒に振ったも同然なんですから。しかも、今度は刑務所から出たその足で美鈴の亭主を殺したっていうじゃありませんか? それが本当に奴の仕業なら、あいつの人生はもうこれでおしまいですからね。しかし、分からないのは、なぜ奴が美鈴の亭主を殺したかってことです」
土門は首をかしげた。
「それじゃ、土門さんは、三沢が異常な嫉妬に駆られて、美鈴の夫を殺したのだとは思わないというのですか」
「思えませんね。あの男は美鈴という女に、我々の理解を超えるほれ方をしてましたからね。なんというか、並のほれ方じゃなかったですね、あれは。私らの目から見れば、あんな女はちょっと見てくれが良いだけの、どこにでもいそうな女にしか見えないんですが、三沢の目には、この世にたった一人しか存在しない女神か天女みたいに映っていたんじゃないですか。泡だらけの天女にね」
そう言って、土門は苦笑いをしたあとで、こう付け加えた。
「だから、もし三沢が犯人だとしたら、米倉という男が、美鈴にとってあまり良い亭主ではなかった、つまりあの遠藤のように、美鈴を不幸にする悪い男、そういう風に見えたのかもしれません。だとしたら、奴は、彼一流のヒロイズムに駆られて、女を救い出すために、米倉を殺しかねませんがね」
10
「米倉君ですか。彼を善人と呼ばなくて、いったい誰を善人と呼ぶのかと聞きたくなるようなすこぶるつきの善人でしたよ。なんせ善人すぎて出世できなかったクチですから」
米倉忠雄の上司だったという、庶務課長の佐々木は煙草を揉《も》み消しながらそう言った。
米倉忠雄の評判を聞くために、桐生と三枝は、代々木署を出ると、その足で新宿に本社のある、某家電メーカーを訪れていた。ちょうど昼どきということで、会社近くの喫茶店で佐々木から話を聞いていたのである。
「奥さんにたいしてはどうでしたか。良い夫だったようですか」
桐生はたずねた。
「良い夫どころか、愛妻家というのはああいう男のことを言うんでしょうね」
佐々木は自分の妻を思い浮かべたのか、げっぷでもこらえるような顔で言った。
「女房が鼻風邪ひいたくらいでも、会社休んで看病しかねない男ですよ。そういう男だからこそ、イの一番にリストラの対象にされたわけです。企業にとっては、会社より家庭を大切にするサラリーマンなんて、不況のときは真っ先にお払い箱にしたいでしょうからね」
佐々木はやや脂ぎった端整な顔に薄笑いを浮かべた。
「それでは、奥さんとしては、米倉さんと結婚して幸せだったわけですね」
「さあ、奥さんが幸せだったかどうかは知りませんが、米倉君の方が幸せだったことは間違いないでしょうな。三十七までずっと独身を通して、というか、独身でいるしかなかった中年男が、ようやく巡り合えたのが十五も年下で、おまけに人も羨《うらや》む美人となれば、鼻の下を伸ばすなと言う方が無理でしょう。それに奥さんの方も米倉君のことをそれなりに愛していたんじゃないですかね。というのも、米倉君はこの七年間というもの、欠かさず愛妻弁当を持参してきましたからね。いかに愛情深い妻を持ったかということを見せびらかすように、いつも嬉《うれ》しそうに食べてました。ま、もっとも、あれは私にたいするひそかないやがらせだったのかもしれませんがね」
佐々木はちょっと複雑な顔で言った。
「いやがらせ?」
「私と彼は同期入社なんですよ。だが、こう言ってはなんだが、出世は私の方が早かった。結婚したのも私の方がずっと早い。しかも家内は営業部長の姪《めい》にあたります。そんなこんなで、彼は私に対してライバル意識というか、劣等感のようなものを抱いていたんじゃないかと思うんですよ。すべての点で私に負けていましたからね。ところが、そんな彼にも唯一誇れるものができた。それが若い美人妻だったというわけです。まあ、正直いって、妻に関しては彼に負けたなと私も内心認めてますよ。若くて奇麗というだけなら、どうってこともないんだが、毎朝、夫よりも早く起きて愛情のこもった弁当を作るかいがいしさ。新婚当時ならともかく、それを毎日欠かさず七年も続けたっていうんですからね。これだけは、どんなに望んでも、今どきの女性にはなかなか望めないことです。
あまり大声では言いたくありませんが、うちの家内なんて、弁当はおろか、結婚以来、私より早く起きたことすらないんですよ。わたしゃ、実を言うと、家内がどんな顔してたか最近思い出せないことがあるくらいなんです」
佐々木は深刻な顔つきになって、ひそひそ話をするように声を低めた。まるで、佐々木の妻が喫茶店のテーブルに盗聴器でも仕掛けたのではないかと疑ってでもいるような声のひそめ方だった。
「いや、家内の顔を思い出せないといっても、べつにアルツハイマーとかじゃありませんよ。いつ見ても寝てるからです。朝は私より遅くまで寝てるし、夜は私が帰るより早く寝てしまいますからね。布団ひっかぶって寝てる妻しか見たことないんですよ。休日は休日で、こっちは接待ゴルフか、向こうはナントカ会とかで、めったに顔合わせたことがないですし。
それに比べれば、たしかに米倉君は、長いこと待ったかいがあって、若さ、美貌《びぼう》、愛情とそれこそ三拍子|揃《そろ》った奥さんを迎えることができたんですから、本音を言うと、少し羨《うらや》ましく思ってたんです。もっとも、部下の松崎君から聞いた話だと、米倉君の奥さんというのは、結婚前、なんですってね、その――」
佐々木はニヤリと差し歯を見せて笑うと、ゴニョゴニョと言った。
「まあ、そういうところにいた人なら、まともな結婚なんかあきらめてたかもしれないから、米倉君のところへ二つ返事で来てくれたんでしょうねえ。しかし、こんなことになってしまって、さぞかし悲嘆に暮れているでしょうね、奥さんも。ま、もっとも、経済的な意味だけを言うなら、米倉君がなくなってくれた方が、かえって助かるくらいでしょうが――」
「かえって助かるとはどういうことです」
桐生は鋭く佐々木の言葉尻《ことばじり》をとらえた。
「え? だってそうじゃありませんか。松崎君の話だと、米倉君はうちを辞めてから、三月近くも再就職もせず、ブラブラしていたそうですからね、奥さんとしたら気が気じゃなかったはずですよ。すぐに食うに困るということはなかったでしょうが、この不景気では、なかなか次の仕事も見付からないでしょうし、家のローンだってまだだいぶ残っていたようですしね。それが米倉君がなくなったおかげで、一億近い生命保険がおりるわけですから、ローンの残りも返せるし、退職金などを含めれば、十分女ひとりでもやっていけるだけの金が手元に残ることになるじゃありませんか」
「米倉さんは生命保険に入っていたんですか」
桐生はたずねた。
11
「今度の事件、三沢裕次を犯人と決め付けるのは、ちと早いかもしれないな」
佐々木と別れたあと、桐生はJR山手線に乗るべく、新宿駅に向かいながら、三枝刑事に言った。
「まさか、米倉美鈴を疑っているんじゃないでしょうね」
三枝がぎょっとしたように答えた。
「もし美鈴が真犯人だとすると、米倉が殺された夜、飼い犬がほえなかった理由は説明がつく。犬が犯人に慣れていたからだよ。それに、美鈴は三沢のことを故意にねじ曲げて我々に話した。あれは土門刑事が言ったような、たんなる悲劇のヒロインを気取りたかったからだけじゃないと思うね。最初から三沢を犯人に仕立てたかったんじゃないだろうか。
それに考えてみれば妙なことは他にもある。あの晩、我々が駆け付けたとき、彼女は、お釈迦《しやか》さまの臨終に駆け付けたツバメのように身奇麗だっただろう。白いセーターには血のしみ一つついていなかったし、両手も奇麗だった。ということは、池袋のビジネスホテルから帰ってきて、米倉の死体を発見したとき、夫の死体には指一本触れようとしなかったってことだよな」
「それのどこが妙なんです」
「妙だと思わないか。倒れていたのは、赤の他人じゃない。七年連れ添った夫だぜ。何はともあれ、まず駆け寄って抱き起こすのがふつうじゃないのか。抱き起こせば、当然、手にも衣類にも被害者の血がついたはずだ」
「それは、米倉の死が一目瞭然だったからじゃないですか……?」
三枝は自信なさそうに言った。
「理屈はそうだが、理屈通りに動かないのが人間じゃないか。もう明らかに死んでると理性では分かっていても、遺体にむしゃぶりつくのが家族の感情ってもんじゃないのか。むしろ、死んでるからといって、遺体に触れもせず、さっさと一一〇番する方がちょっと珍しいくらいだ」
「でも、美鈴が犯人だとすると、あの留守番電話の録音はどうなるんです? あのテープでは、彼女が池袋から電話を入れたのは、午後九時十分だったんですよ。ちゃんと記録が残っているんですから。米倉が殺されたのが、午後九時半としても、たった二十分で、池袋から西大泉の自宅まで戻ることは不可能ですよ」
「あの電話を入れたのが、本当に池袋からだとしたらそうだろう」
桐生はそっけなく答えた。
「えっ。じゃ、違うって言うんですか」
「あれは自宅近くの公衆電話からかけたんじゃないだろうか。つまり、美鈴はあのとき、池袋のホテルにいたわけじゃない。こっそり西大泉に戻ってきていたとしたらどうだろう? それで自宅近くからわざとあんな電話を入れて、録音を残した。あとでさも自分が池袋にいたように我々に思わせるためにだ。そして、米倉を殺害したあと、またホテルに舞い戻って、今度はホテルの電話を使って自宅にかける。留守番機能が解除されているのに、米倉は出ない。むろん出るわけがない。そこではじめて、ホテルをチェックアウトする……」
「し、しかし、それはちょっと信じられません」
「なぜ?」
「だって、いったい動機はなんですか」
「さっき佐々木という男が言ってたじゃないか。保険金だよ。米倉の生命保険金。一億といえば、庶民にとってはなかなか魅力的な額だ。それが最初から目当てだったとしたらどうだろう? 美鈴は最初から三沢のことなど恐れてはいなかった。だからこそ、昔住んでいたマンションにわざわざ出向いて、管理人に自分を印象づけ、今の住所をそれとなく教えるような真似をしたのだ。あれは、彼女がわざとしたんだよ。刑務所を出た三沢が、真っ先にあのマンションを訪ねるに違いないと計算して」
「そんな。それは桐生さんの勘ぐりすぎじゃないですか。それじゃ、米倉を包丁でめった刺しにしたのも彼女ですか。あんなガラス細工みたいな華奢《きやしや》な女に、あれほどの力業ができるでしょうか」
「体格が立派だから力があるとは限らない。逆も真なりだ。華奢に見えるからといって非力とは限らない。いざというときに人間が出せるパワーというのは凄《すご》いものがあるらしい。俗にいう火事場の馬鹿力ってやつさ」
「で、でも、佐々木の話では、美鈴は結婚以来ずっと米倉の弁当を毎朝作り続けたわけでしょう。愛情もないのにそんなことができるでしょうか」
「できたのかもしれないし、あるいは――」
桐生はそこまで言ってふと口をとざした。
「ま、とにかく、これからあの女のところへ行けばそれは分かるよ」
桐生は謎《なぞ》めいた言い方をした。
12
「保険金ですか」
米倉美鈴は幼女のように澄んだ目で桐生をまっすぐ見詰めて言った。疑うのが刑事の仕事とはいえ、こんな目をした女まで疑わなくてはならないとは、桐生は、自分が人間以下の、ひどく醜く忌まわしい動物にでもなったような気がした。
「はい。たしかに主人が何口か入っていてくれました。そのおかげで、なんとか一人でも生きていけそうです。主人には本当に感謝しております」
美鈴はまったく悪びれることなくそう言った。
「そうですか」
桐生はそう言うしかなかった。夫が多額の保険に入っていたからといって、それが別段悪いわけではない。
「あのう、三沢がつかまったと聞きましたが、もう自白したのでしょうか」
美鈴は不安そうな顔でたずねた。
「いや、それがまだ否認し続けているんですよ。しかも、出てくるのは状況証拠ばかりで、物的証拠が今のところ何もないのです。決め手がないのです。ですから、このままだと、勾留《こうりゆう》期限が切れて、釈放ということにもなりかねませんね」
「釈放!?」
美鈴は悲鳴のような声をあげた。
「そんな馬鹿な。そんなことになったら、あいつはきっとわたしを殺しにきます」
「せめて物的証拠の一つでも発見されればいいのですが」
桐生は困ったような顔で言った。
「物的証拠といいますと?」
美鈴は鳩のように首をかしげた。まなざしは真剣だった。
「たとえば、手袋です」
「手袋……?」
「三沢は犯行時おそらく手袋をしていたと思われるのです。凶器の柄には指紋がついていませんでしたし、この家のどこからも彼の指紋は出ませんでしたから。それと、返り血をふせぐために何か着ていたとも思われます。つかまったとき、三沢の衣服には血はついていませんでした。彼が持っていたボストンバッグの中の着替えの中にも血のついた衣服は入っていなかった。おそらく、血のついた手袋も衣類も、どこかに捨てたか隠してあるのでしょう。これらのものが見付かれば、それが物的証拠になりうるのですが」
「まだ見付からないんですか」
美鈴はたずねた。
「ええ、見付かってません。彼もそれについてはダンマリを決め込んでいます。しかし、ようやく、犯行のあった日と、翌日の二日間泊ったという旅館をつきとめました。新宿にある二軒の旅館を利用していたのです。一日めに泊ったのは『清原荘』という旅館で、二日めに泊ったのが、『笹本荘』です。
これから、まず『清原荘』の方を捜索するつもりです。まあ、『笹本荘』の方の捜索は明日になってしまうでしょうが。とにかく、もしこの二軒の旅館のいずれかから、血のついた手袋や衣類が発見されれば、三沢を黒とする、かなり重要な証拠になるというわけです」
桐生が生まじめな顔でそう話している間、三枝刑事はあっけにとられたような表情で桐生の顔を見ていた。
「そうですか。それさえ見付かれば、三沢を有罪にすることができるのですね……」
美鈴はまばたきしない目で目の前の刑事を見詰めながら、呟《つぶや》くようにそう言った。
「そういうことです。ところで、奥さん。この七年間、米倉さんが退職されるまで、毎朝欠かさず弁当を作っていたそうですね」
桐生は話題を変えるように言った。
「え?」
美鈴はふと夢からさめたような顔になり、
「ええ、はい。作っていました」と答えた。
「不躾《ぶしつけ》なお願いで恐縮ですが、その弁当箱を一日貸して貰《もら》えませんか」
「えっ?」
美鈴は目を丸くした。驚いたのは、彼女だけでなく、三枝刑事も同じだった。
「お弁当箱をですか」
「そうです」
「そんなものを何になさるのですか」
「ええ、ちょっと」
「…………」
美鈴はしばらく考えるように黙っていたが、
「今、持ってまいります」
そう言って、応接間を出ると、しばらくして戻ってきた。
「あの、これですけど」
彼女が差し出したのは、アルマイトのやや古びた弁当箱だった。蓋《ふた》を開くと、梅干の酸で蓋の裏がわが少し変色していた。
「今となっては、この弁当箱は米倉さんの形見になってしまいましたね」
桐生が弁当箱を手にしてそう言うと、
「ええ……」と美鈴は目を伏せて頷《うなず》いた。
「空っぽでも、奥さんの米倉さんへの愛情がいっぱいに詰まっているせいか、重たく感じますよ」
いささか歯の浮くセリフを桐生は照れもせずに口にすると、空の弁当箱の重さを手ではかるような仕草をした。
美鈴は目を伏せたままだった。
13
その夜、桐生は米倉美鈴から預かった弁当箱を持って自宅へ帰ると、それをまだ寝ずに待っていた紫《ゆかり》の前に置いた。
桐生紫は、桐生の従兄《いとこ》の忘れ形見で、桐生の同居人である。高校二年になる彼女には、常人にない、不思議な能力があった。それは、物に触っただけで、それを所有していた人物のことや、その人物の秘めた感情や体験したことを、ある程度感知できる能力である。
残留物感知能力。横文字を使えば、サイコメトリーなどとも言われる。
桐生自身は、この種の超能力に関して、全面的に信じているわけではないが、ただ、「信じない」と言い切ってしまうには、紫の「直感力」が鋭すぎることに気が付いていた。
信じようと信じまいと、この手の超能力が、欧米などでは既に殺人事件や誘拐事件の捜査に使われていることは事実だった。
つい一月前にも、紫は、二瓶乃梨子《にへいのりこ》という、桐生の高校時代の同級生で、今は漫画家になっている女がたまたま拾ってきた古びた裁《た》ち鋏《ばさみ》から、東中野に住むあるサラリーマンの秘められた生い立ちを探り当てたばかりだった。
「なに、これ?」
紫は、なんのへんてつもないアルマイトの弁当箱を前に、きょとんとした顔をした。
「それに触って、その弁当箱に秘められた情報を読み取って欲しい」
桐生は言った。
「これが今扱ってる事件に関係あるの?」
紫は大きな目で、まず弁当箱を見て、それから、この十五歳年上の同居人の顔を見上げた。
「まあね」
先入観を与えないために、桐生は曖昧《あいまい》な答え方をした。
米倉をめった刺しにした凶器の包丁を触らせた方が、犯人を割り出す方法としてはてっとり早いが、重要な証拠物件である包丁をむやみに自宅に持ち帰ることはできないし、たとえそれが許されたとしても、人一人の命を奪った凶器だと分かっている刃物を紫に触れさせる気にはとてもなれなかった。凶器に秘められた記憶が凄《すさ》まじすぎて、紫の神経を壊しかねなかった。
「やってみる……」
紫はそう言って、両手をアルマイトの弁当箱の上に置いた。しばらく、そうやって触っていたが、
「このお弁当箱を使ってたのは、四十くらいの痩《や》せた男の人で――」
なんの予備知識もないのに、紫は、米倉忠雄の外見の情報をその弁当箱からかなり正確に読み取った。
「その人はこのお弁当箱をとても大切にしていたみたい。これを持っていつも会社かどこかに行ってたんだね。でも、この人、四十すぎていたみたいだけど、独身だったんだね」
紫はそんなことを言った。
「独身? いや、米倉には――」
桐生は思わずそう言いかけたが、
「なんでその弁当箱の持主が独身だと分かるんだ?」
「だって、もし奥さんがいたら、奥さんがお弁当箱におかずやごはんを詰めたり、洗ったりしてたわけでしょ。でも、このお弁当箱にはそんな記憶はぜんぜんないよ。あるのは、これを使っていた男の人の記憶だけ。この男の人がお弁当箱を洗って、おかずやごはんを詰めていたっていう記憶しか――」
「なんだって」
桐生は愕然《がくぜん》として、紫と弁当箱を交互に見た。
「あたしの言っていること間違ってる?」
紫は不安そうにたずねた。
「いや、たぶん」
桐生は憂鬱《ゆううつ》な気分で答えた。
「たぶん、間違っていない……」
紫は間違っていない。アルマイトの弁当箱に秘められた米倉の秘密[#「米倉の秘密」に傍点]を残酷なほど正確に読み取ったに違いない。
米倉忠雄が七年間欠かさず持っていった「愛妻弁当」は、美鈴が作っていたものではなかった。米倉自身が自分で作っていたのだ[#「米倉自身が自分で作っていたのだ」に傍点]。この七年間ずっと。
なんという滑稽《こつけい》で哀《かな》しい芝居を七年も続けてきたのだろうか。自分自身で作った弁当を嬉《うれ》しそうに食べ続けていたとは。
おそらく、彼を小馬鹿にし続けてきた同僚や部下、とりわけ、同期入社で彼よりも出世の早かった佐々木という男、かつてのライバルだった男に見せつけるためだけの一人芝居だったのかもしれない。ライバルに何ひとつ打ち勝てるものを持たなかった中年男の、ささやかな見栄。
やはり米倉を殺害したのは、妻の美鈴だ、と桐生は確信した。
そして、自分の読みが正しければ、美鈴は今夜のうちに、どこかに隠しておいた血のついた衣類と手袋を持って、桐生が告げた「笹本荘」に泊りに行くに違いない。そして、三沢を殺人者に仕立てるために、それらのものを旅館のどこかにそっと忍ばせてくるに違いない。
三沢を罠《わな》にはめようとして、自らが罠にはまりに行くのだ。
翌日、三沢裕次が泊りもしなかった旅館[#「三沢裕次が泊りもしなかった旅館」に傍点]から、なにゆえか米倉忠雄の血のついた犯人の遺留品が発見されるだろう。
いや、その前に、あの女は張り込んでいた所轄署の連中によって取り押えられるかもしれない。あの、幼女のように澄んだ目をいっぱいに見開いて、夫の血のついた手袋や衣類を抱えたままで。
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猫の恩返し
1
猫の鳴き声を聞いたような気がした。
誘うような甘えるような声だった。
サフィー?
小寺雅道《こでらまさみち》はふと立ち止まると、かたわらの公園に目をやった。人気《ひとけ》はなかった。
どこかにサフィーがいるのではないか。あのときのように、酷《ひど》い怪我《けが》をして、紫陽花《あじさい》の葉陰にうずくまっているのではないか。そんな気がして、小寺は公園の中を見回した。
しかし、どんなに目をこらしても、サフィーはおろか、猫の姿らしきものはどこにも見当たらなかった。
空耳か。
小寺は苦笑を漏らすと、右手に提げていた買い物袋を左手に持ち替え、重い足取りで公園を通り過ぎた。
あの公園を通るたびに、猫の鳴き声を聞く。いや、聞いたような気がして立ち止まってしまう。サフィーがいなくなって、もう三月《みつき》になるというのに。
猫は三年の恩を三日で忘れるというじゃないか。きっと、どこかで相性の良い牡《おす》でも見付けたのか、あるいは、誰かに拾われたのか。もう私のことなど奇麗に忘れているだろう。待っていても、戻るはずもないのに。
小寺は自嘲《じちよう》ぎみにそう思った。
買い物帰りのこんな夕暮れ、あの公園で怪我をしてうずくまっていた、一匹の牝猫《めすねこ》を見付けたのは、昨年の秋のことだった。
猫の背中には異様なものが突き刺さっていた。近付いてみて、それがボウガンの矢であることを知ると、小寺は眉《まゆ》をひそめた。誰か心ない者が気まぐれで、この猫をボウガンの標的にしたのだろう。
矢は背中から入って、腹を突き抜けていた。小寺は手早く傷の具合を調べた。猫は逃げようともせず、ぐったりとして、ただ弱々しく鳴き続けている。
薄汚れていたが、灰色がかった白い毛並みで、目はマリンブルーだった。雑種だろうが、明らかにシャムの血が入っている。子猫から、ようやく大人の猫になりかけたとでもいうような、そんな頼りない身体《からだ》つきをしていた。
首輪をしていないところを見ると、野良なのか。それとも、どこかで飼われていて、飼い主の都合で捨てられたのか。
「よしよし、今、助けてやるからな」
小寺はガリガリに痩《や》せた猫を懐に抱き上げた。
今は看板をおろしてしまっていたが、三年前まで、小寺は獣医をしていた。
公園から歩いて十分ほどのところにある、医院を兼ねていた自宅に連れて帰ると、久し振りに白衣を着て、診察室に入った。
かなり衰弱していたので、手術に耐えられないのではないかと危ぶんだが、猫は華奢《きやしや》な身体に似合わぬ気丈さで生き抜いた。
不幸中の幸いで、矢は内臓の重要な部分はそれていた。矢を抜き、傷口の手当てをしてやると、猫は安心しきったような表情でこんこんと眠った。
小寺は、診察室の片すみのダンボールに古いタオルを敷き詰めて、仮の住まいを作ってやった。
翌朝、ミルクをやってみると、喜んで飲んだ。そして、日数を経るごとに、見る見るうちに回復して、いつのまにか、一人住まいの小寺のうちに住み着いてしまった。
小寺はその牝猫にサファイアという名前を付けた。最初見たとき、宝石のようなマリンブルーの目が印象的だったからだ。呼ぶときは、縮めて、サフィーと呼んだ。
三年前、小寺は、学校を出て、父親と同じ道を歩み出そうとしていた、一人息子の雅広《まさひろ》をバイク事故で亡くしていた。妻を早くに病で亡くし、男手ひとつで育てあげた自慢の息子だった。その一人息子の突然の死が、小寺から何もかも奪ってしまった。健康も生きる希望も。
ショックと過労で倒れ、何日も病院のベッドで点滴を受けて暮らした。なんとか退院はしたものの、仕事を続けていく気力がすっかりうせていた。
三十年も続けてきた、「小寺動物病院」の看板をおろし、それからというものは、ただ食べて寝るだけの廃人同様の生活がはじまった。
そんな小寺の生活に微妙な変化が訪れた。青い宝石のような目をした小さな生き物は、少しずつ、閉ざされていた初老の男の心を開き、生きる希望のようなものを蘇《よみがえ》らせてくれたのである。
小寺はもの言わぬ生き物を相手に、ありし日の息子の思い出を語って飽きることがなかった。サフィーは、まるで小寺の言葉を理解しているような顔で、話しかけている間、じっと小寺の顔を見上げていた。
しかし、しょせん、猫は猫でしかなかった。死にかけていたのを助けてやり、あれほどかわいがっていたのに、ある日、サフィーは小寺のもとからいなくなった。フラリと外に遊びに出たっきり、二度と戻らなかったのである。
小寺は、サフィーがいなくなっても、サフィーの好きだったキャットフードとミルクを買うのをやめなかった。しかし、それは手つかずのまま棚に仕舞いこまれ、むなしく三ヶ月が過ぎた。
まあ、いいさ。あいつがどこかで気の合う牡猫でも見付けて、猫の世界に戻ったなら、それはそれでいいじゃないか。
小寺はそんな風に思うことにした。娘を嫁に出したと思えば良い。あの子が元気で幸せなら、それでいいんだ。
そうは思っても、やはり、胸の中に小さな穴が開いてしまったような寂しさは癒《いや》しようがなかった。
そんなことを思いながら、自宅の近くまで来て、小寺はおやというように目をこらした。
玄関の手前の、紫陽花の葉陰に、何か白いものがちらと見えたような気がしたからである。一瞬、それが猫のしっぽのように見えた。
サフィー?
そう思いかけ、小寺は首を振った。性懲りもなく……。どうせ、あれも目の錯覚か、風に飛ばされてきたチラシか何かに決まってる。
小寺は期待しないように、そう自分にいい聞かせながら、それでも、なんとなく胸のときめく思いで、葉陰に近付いた。
あっと思った。
猫ではなかった。といって、風に飛ばされたチラシでもない。
若い女だった。若い女が膝《ひざ》を折って、崩れるように、紫陽花の葉陰にうずくまっていたのだ。女の着ている灰色がかった白いワンピースの裾《すそ》が、まるで猫のしっぽのように見えたのである。
「どうかされましたか」
小寺は驚いて声をかけた。
「急にめまいがして――」
かぼそい女の声。少し掠《かす》れたハスキーな声だった。
腰まで伸びた艶《つや》やかな黒髪が華奢な肩や背中に広げた扇のように散っていた。その風情が妙に古風でなまめかしい。小寺はなんとなくドキリとした。
「それはいけない。手を貸しますから、中へお入りなさい」
買い物袋を置くと、女に手を貸そうとした。
「いえ、軽い貧血ですから、こうしていれば」
女は遠慮するようにそう言って、うずくまったままだったが、小寺は構わず、手を貸して女を立たせると、抱えるようにして玄関の中にいれた。
ほっそりとしていたが、頭ひとつ分だけ、小寺よりも背が高かった。
「どうもすみません」
顔をあげて、はじめて小寺の方を見た。息を呑《の》むほど美しい顔だった。やや目尻《めじり》のあがった大きく美しい目が、傾きかけた日差しの加減か、ふと青みがかって見えた。
女のしなやかな髪が小寺の頬《ほお》に触れた。ひんやりとした感触に、小寺は胸の奥がざわめくのを覚えた。
2
冷やしたタオルと冷たい麦茶を盆に載せて、応接室に戻ってくると、ソファに横になっていた女が慌てて起きようとした。
「あ、そのまま、そのまま。無理をすると、また気分が悪くなりますよ」
小寺はそう言ったが、女ははにかんだように笑って、
「もう大丈夫ですわ。ちょっと立ちくらみがしただけですから」
ソファに座り直すと、乱れた髪を片手で掻《か》きあげた。ふわりとした袖口《そでぐち》から覗《のぞ》いた二の腕がぞっとするほど白い。小寺は見てはいけないものでも見てしまったように目をそらした。
そして、心の動揺を押し隠すように、手にした盆をテーブルの上に置き、濡《ぬ》らしたタオルを女に渡した。
「これで顔を冷やせば、さっぱりしますよ」
「どうもすみません」
女はタオルを受け取ると、それを顔にあてた。
「ほんと。気持ちがいい。井戸水はやっぱり違いますわね」
何気ない言い方だったが、小寺ははっとした。なぜ、この女は、タオルを裏の井戸水で冷やしたことを知っているのだろう? 戦前に建てられたこの家の裏手には井戸があり、今でも、夏場はよく利用していた。
「どうしてこれが井戸水だってことを――」
小寺は怪訝《けげん》そうにたずねた。
「あら、違いました?」
女はタオルから顔を覗かせ、目を丸くした。目尻のあがった大きな目と、きりっと引き締まった赤い小さな口。猫顔というのだろうか。
やや化粧が濃いような気がしたが、けっして下品ではなかった。
「いや、その通りですが」
「音が聞こえたんです。ポンプの柄を動かすような音が。うちにも昔、井戸がありましたから。それでもしかしたらって」
「ああ、そうですか」
なんだというように、小寺は苦笑した。裏のポンプの音がここまで聞こえていたのか。
「あの、申し遅れましたが、わたくし、白川雪子《しらかわゆきこ》と申します」
女はタオルを盆に戻すと、そう言って、やや改まった様子で頭をさげた。
名前にも顔にも全くおぼえがなかった。うちの前でうずくまっていたところを見ると、うちを訪ねてきたらしいが、と小寺が思っていると、
「あのう、もしかして、雅広さんのお父様でいらっしゃいますか」
女は小首を傾げるような仕草で、おずおずとたずねた。
雅広。その名を聞くたびに、小寺の胸が古傷に触れられたようにズキンと痛んだ。この娘は雅広の知り合いなのか。それにしては、雅広の口から、「白川」という女性の名前は聞いたことがなかった。
「あなたは倅《せがれ》のお知り合いですか」
「やっぱり、雅広さんのお父様ですのね。面差しが似てらっしゃるので、もしかしたらと思いまして」
白川雪子と名乗った女は、ハンドバッグからハンカチを出すと、それで口もとを押えながら、まじまじと小寺の顔を見詰めた。どことなく、艶を含んだまなざしだった。
「たしか、獣医さんをなさっているとか?」
「ええ、三年前までは。しかし、体を壊したのを機にやめましたがね」
「それでは、今は、雅広さんがお一人で病院の方を切り盛りされているわけですか」
「いや――」
小寺は口ごもった。この娘は、雅広が三年前に亡くなったことを知らないらしい。それにしても、雅広とどういう間がらだったのか。少なくとも、小寺が獣医をしていて、雅広がその跡を継ごうとしていたということは知っているようだが。
「失礼ですが、あなたは、雅広とはどういう?」
小寺は思い切って聞いてみた。
「同級生です」
雪子は言った。
「同級生?」
「ええ。でも、東京の学校ではありません。雅広さんが、小学校五年のときに、小児|喘息《ぜんそく》の治療を兼ねて、上諏訪《かみすわ》の方で、二年ほど暮らしたことがございましたでしょう? わたくし、あの頃の同級生なんです」
「ああ……」
小寺はようやく合点がいったというように大きく頷《うなず》いた。白川雪子の言う通りだった。小学校五年から六年にかけての二年間だけ、その頃ひどい小児喘息に悩まされていた雅広を、上諏訪にある小寺の姉の嫁ぎ先に預けたことがあった。
ちょうど、その直前に、妻の司津江《しづえ》を病気で亡くしており、病院の方が忙しかったこともあって、「しばらく雅広をうちに預けたら?」と言う姉の誘いに甘えて、二年だけ手放したことがあったのだ。
目の前の女は、その頃の同級生だという。ということは、若く見えたが、三十は過ぎているということか。
「そうだったんですか。あの頃の――」
小寺は懐かしそうに目を細めた。そういえば、雅広が見違えるように元気になって、東京に戻ってきた年の夏休み、向こうで仲良くしていたという同級生が四、五人、雅広を慕って、泊りがけで遊びに来たことがあったのを思い出した。
その頃凝っていたカメラで、家の前で子供たちの写真を撮った記憶がある。雅広の部屋の机の上には、今でもその写真が飾られていた。しかし、あのとき、やって来たのは、たしか男の子ばかりだったから、この白川雪子という少女はいなかったはずだ。
こんな美しい女なら、子供の頃もさぞかわいらしかっただろうから、あの中にいたら、印象に残っていたはずである。しかし、こんな美少女がクラスにいたなんて話を雅広から聞いたことはついぞなかったが……。
「お父様だけに打ち明けますけれど」
白川雪子は少しはにかみながら言った。
「雅広さんはわたくしの初恋の人だったんです」
「ほう。そうだったんですか。いや、雅広からそんな話は一度も……」
小寺は驚きながらそう答えた。ちらと女の左手を見た。指輪はなかった。まだ独身なのか。なぜか、そのことを知って、ほっとしている自分に気付いて、小寺はうろたえた。
「きっと、わたくしのことなんか、雅広さんは眼中になかったんですわ。雅広さんはクラスの人気者でしたもの。わたくしは遠くから憧《あこが》れていただけです。あの頃のわたくしときたら、痩《や》せっぽちの醜いアヒルの子でしたから」
雪子はそう言って、ややさびしげな笑顔を見せた。
「雅広さんはもう奥さんをお貰《もら》いなんでしょうね。お子さんはいらっしゃるのですか」
やや不安そうな探るようなまなざしで、雪子はそうたずねた。
「いや、それが――」
小寺は苦しそうに言った。小学校の、しかもたった二年、地方にいた頃の同級生なら知らなくても無理はなかった。
「実は、雅広は三年前に亡くなりました」
「亡くなった?」
雪子は信じられないという顔になった。手にしたハンカチで口を押える。ただでさえ大きな目が飛び出しそうに見開かれていた。
「バイクの事故でした。飛び出してきた猫をよけようとして、ハンドルを切りそこね、転倒して、頭を強く打ったのです。ほぼ即死でした」
小寺は目を伏せた。
「猫をよけようとして、ですか」
雪子は今にも泣き出しそうな目でたずねた。
「そうです。見ていた人の話だと、ただの野良猫だったそうです。野良猫など轢《ひ》き殺しても平然としているドライバーもいるというのに、小さい頃から動物好きだったあいつらしい死に方でした」
「…………」
雪子の目からゆっくりと涙がこぼれ落ちた。彼女は啜《すす》りあげもせず、声も出さず、静かに泣いていた。
小寺の胸がふいに熱くなった。目の前の女を抱き締めて、その艶やかな髪に顔を埋めて、雅広の思い出を語り明かしたい。そんな衝動に駆られた。サフィーがいた頃、彼女の艶やかな毛並みに頬を寄せて、よくそうしたように。
ふだんはむやみと抱かれることを厭《いや》がるサフィーも、そんなときだけは、まるで小寺の言葉が分かったように、じっとしていた。
「すみません。つい取り乱してしまって」
雪子は泣き笑いのような表情で、ハンカチで瞼《まぶた》を拭《ぬぐ》った。
「いや……」
年がいもなく取り乱しそうになったのはこっちだ、と小寺は思った。
「東京へ来るようなことがあったら、遊びにおいでよと言われたことがあったんです。あれからずいぶんたってしまいましたけれど、ちょっと用があって出てきたものですから、つい懐かしくなって。一目お会いして、あの頃の思い出話でもと思って参ったのですが――そうですか。亡くなられていたのですか」
雪子は放心したように、溜息《ためいき》とも吐息ともつかぬ深い息を吐いた。
「それは残念なことをしました。もう少し早くお会いできていれば」
小寺はそこまで言いかけて黙った。雅広は亡くなるまで独身だった。学生の頃から、女の子にはもてていたようだが、特別の間がらの女性はいなかったようだ。「そろそろ嫁のことも考えないとな」と、小寺が持ち掛けると、面倒くさそうに、「まだいいよ」などとお茶を濁していた。
しかし、もしこの女性に再会していたら、雅広の気持ちは大きく動いたのではないだろうか。子供の頃はさほどではなかったかもしれないが、今はこんなに美しい。父と子だけあって、小寺と雅広は好きな女優の好みなどもよく似ていた。きっと、雅広もこの美しい同級生に心ときめく思いをしたことだろう。小寺にはそんな気がしてならなかった。
「あの、せめて、お線香だけでもあげさせて貰えないでしょうか」
雪子が言った。
「ぜひあげてやってください。あれも喜ぶでしょう。仏壇は、廊下に出て――」
小寺がそう言いかけると、雪子はみなまで聞かずに、ひょいと立ち上がり、猫のような[#「猫のような」に傍点]しなやかな身のこなしで、応接室を出て行った。
小寺はあっけに取られていたが、すぐにソファから立ち上がった。
廊下に出てみると、すらりとした女の後ろ姿が、迷うことなく、廊下の奥の右側の部屋に消えるのが見えた。まるで、その部屋が仏壇のある部屋であることを最初から知っていたように[#「まるで、その部屋が仏壇のある部屋であることを最初から知っていたように」に傍点]……。
部屋は他にもある。なぜ、彼女ははじめての家なのに、仏壇のある部屋があそこだと分かったのだろう。
小寺は不思議に思いながら、雪子の消えた部屋に行った。
しめやかな線香の香り。ふすまの陰から見ると、女は頭《こうべ》を垂れて、手を合わせていた。白いワンピースのスカートがぼたんの花のように畳にふわりと咲いている。
その後ろ姿に、小寺はなぜかサフィーを連想して、はっとした。サフィーは時々、どういう気まぐれからか、この仏壇のある部屋に入り込んで、雅広の遺影を見上げて、じっと座りこんでいることがあった。その後ろ姿にどことなく似ていたのだ。
にゃお……。
小寺の耳にまた空耳のように猫の声が聞こえた。どこからともなく、誘うような甘えるようなかぼそい声で――。
3
六月のとある土曜日の午後。
二瓶乃梨子の仕事場を訪ねてきた桐生紫《きりゆうゆかり》は、玄関のインターホンに伸ばしかけた手を途中で止め、ちょっと考えてから、インターホンは鳴らさずに、そのまま裏手に回った。
もし締め切り間際の修羅場だとしたら、インターホンに出る手間さえ惜しんでいるだろうと推測したわけである。
二瓶乃梨子は、紫の同居人、桐生進介の高校時代の悪友の一人で、美大を出て漫画家をしている。
以前、締め切り間際にアシスタントが急病になったとかで、朝がた電話で呼び出されて、ベタ塗りを手伝わされたことがあった。それ以来、土日の暇なときなど、国分寺にあるこの仕事場に、紫は時々助っ人として顔を出していた。
裏に回って、乃梨子のデスクが置かれている窓の外から覗《のぞ》くと、案の定、乃梨子は例のボサボサ頭で、ペンを握り締め、親の敵でも見るような目で、ケント紙に向かっていた。乃梨子は一人だった。アシスタントの姿が見えない。
紫は窓ガラスをコンコンと指でたたいた。
乃梨子がひょいと顔をあげた。
「こんにちは」
「あらあ」
乃梨子の顔がぱっと輝いた。
「暇だから来ちゃった」
窓ごしにそう言うと、
「あがって、あがって。そこ、開いてるから」
サッシのガラス戸を指さした。
「おじゃましまーす」
紫は靴を脱ぐと、ガラス戸を開けて中に入った。中は、相変わらず、時代がかった家具やら電化製品やら置物やらが、骨董品《こつとうひん》屋の店先のように雑然と置かれていた。
といっても、乃梨子が買ったものはひとつもない。すべて、ゴミ捨て場を漁《あさ》って、拾ってきたものばかりだそうだ。
駆け出しの頃に、生活費を浮かせるために始めたゴミ拾いが、今では乃梨子の唯一の趣味であり娯楽になっていた。
前に、このゴミの山に埋もれていた、古い裁《た》ち鋏《ばさみ》から、紫は、その鋏の持主の女性の驚くべき過去を探り当てたことがあった。
ちなみに、桐生紫には不思議な能力がある。それは、サイコメトリーとも呼ばれる超能力の一種で、物に触っただけで、その物の持主のことや、その人物の秘めた感情や体験、などを感知できる能力のことである。
ただ、あの古鋏の一件があってから、ここへ来ても、紫は、古道具にはむやみと触らないようにしていた。へたに触って、またとんでもない事件に巻き込まれるのはこりごりだったからだ。
「ちょっと待っててね。これだけ仕上げたら、休憩にするから。そこにある、おせんべでも食べてて」
ペンを走らせながら乃梨子が言った。今日は、その声にも態度にも、それほど切迫したものが感じられなかった。どうやら、締め切り間際というわけではないらしい。
そうでなかったら、待ってましたとばかりに、エプロンを押し付けられて、アシスタント用のデスクに座らされていただろう。
「洋子《ようこ》さんは?」
紫はアシスタントの名前を言った。乃梨子は、田代《たしろ》洋子という、同じ美大出身の二十三歳になる漫画家志望の女の子をアシスタントにしている。
「実家に寄ってから来るって。朝がた電話があって、お父さんが倒れたんだってさ」
と乃梨子。
たしか洋子の実家は麻布《あざぶ》で大きな八百屋をやっていると聞いたことがある。
「お父さん、たいしたことなければいいですね」
紫は、サイドテーブルの上に袋ごと出されていた海苔《のり》巻きせんべいをつまみながら言った。
「もしこのまま亡くなって、葬式なんてことになれば、こっちも困るよ。洋子ちゃん、取られちゃうからね。ねえ、そうなったら、手伝いに来てくれる?」
「そんな、勝手にアシスタントの身内を殺さないでください」
「まあ、電話の様子だと、その心配はないみたいだったけどね。あのおやじ、江戸っ子気取りで朝湯が好きだから、どうせ湯あたりかなんかじゃないの。さ、できた、と」
乃梨子はそう言って、ペンを放り出すと、くるりと回転|椅子《いす》を回して振り向いた。
「お昼、まだでしょ?」
「え、まあ」
「ピザでも取ろうか」
「いいですね」
「トッピング、何にする?」
乃梨子はピザ店のチラシを取り上げた。
「あたしはシーフードにしようかな。おぬしは?」
「えーとね、エッグスペシャル」
「シーフードとエッグスペシャルをハーフ・ハーフで注文しようか。チキンパックはつける?」
「つけます」
「遠慮というものを知らない子だね」
「だって、どうせ食べた分だけ、あとでこき使う気でしょ」
「食べた分だけエネルギーにして出さないと太るからね。ダイエットに協力してるだけですよ」
「あたし、保健の先生から痩《や》せ過ぎだって言われてます。もっと食べて太れって」
「ドリンクは?」
「無視しましたね」
「ドリンク!」
「コーラ」
「あたしは、ウーロン茶と。これで決まりだ。サイズはMでいいね」
「洋子さん、帰ってくるかもしれませんよ。あの人、ピザには目がないから、Lにしといた方がいいんじゃないかな」
「お昼くらい、向こうで食べてくるよ」
そう言いながら、乃梨子はコードレスホンを取り上げた。
4
「センセイ」
玄関の方から元気すぎる声がした。
乃梨子と紫は、たった今届いたばかりの、あつあつのピザの切れ端を持って、口を開けたまま、互いの顔を見合わせた。
「あ、ピザの匂《にお》いがする」
くんくん鼻を鳴らしながら、仕事場に滑り込んできたのは、アシスタントの洋子だった。
「やっぱりピザだ。今そこでピザ屋のバイクと擦れ違ったから、もしかしたらと思ったんだ。センセイ、あたしの分もあるんでしょうねっ」
「もちろん、あるわよ……」
「グッドタイミング」
「ほんとに良いタイミングでやってきたね」
乃梨子は恨めしそうに言った。
「もうお腹ぺこぺこ」
「うちで食べてこなかったの」
「食べてけって言われたんだけど、センセイ一人で大変だろうなって思ったから、我慢してきたんですよ」
「そんな我慢しなくていいのに」
「あ、これ、うちの父から」
洋子は四角い箱を差し出した。
「なに?」
「メロンです」
「あらそうお。いつも悪いわね」
乃梨子の顔が途端に愛想良くなった。
「で、お父さまの具合はどうだったの?」
メロンの威力たるや凄《すご》い。「あのおやじ」が、いきなり「お父さま」になった。
「どうもこうもありません。まんまとはめられました」
洋子はピザにむしゃぶりつきながら、くやしそうに言った。
「はめられた?」
「そうです。仮病だったんです。あたしを呼び寄せるための」
「あらまあ」
「父が倒れたって言えば、慌てて駆け付けてくるだろうって、目黒の伯母《おば》がそそのかしたんです」
「目黒の伯母って、人の髪いじるのと、男女の仲を取り結ぶのが三度の飯より好きだという、あの美容院やってるおばさん?」
「そうです。あの伯母の入れ知恵だったんですよ」
「てことは、見合いの話だったのか」
「そーなんですよっ。もう頭にきちゃう。何が悲しくて、茨城の農家の次男坊の見合い写真見るのに、朝っぱらからタクシーで駆け付けなきゃならないんですかっ」
「あたしに聞かないでよ。で、どうだったの、その次男坊とやらは?」
「もうお話になりません」
洋子がぶすりと言った。
「そんなにひどかったの」
「豚の種つけじゃないんですよ。もう少し、相手の容姿というものも念頭において、話を持ち込んで貰《もら》いたいわ」
洋子はプンプンしながら、恐るべきピッチでピザを口に詰め込んでいく。その勢いにのまれて、紫は手が出せなかった。
「面食いじゃない洋子ちゃんがそこまで言うんだから、よっぽどひどかったんだ」
乃梨子はにやにやした。
「次男坊だから、うちへ養子に来てもいいって言ってるんですって。それ聞いただけで、うちの両親が大乗り気になっちゃって、あとの条件なんかもうどうでもいいって感じなんです。農作物を相手にするんだから、農家も八百屋ももともと親戚《しんせき》みたいなもんだなんて。それだけの理由で話まとめようとするんですからね。あたしの好みとか将来の夢とかはどうなるんですか」
たしか洋子は一人娘のはずだった。
「で、どうしたの」
「どうしたもありません。きっぱり断りましたよ。あたしには、漫画家になるという夢があるんですから」
「だけどさ、案外、ここが潮時かもよ。この世界、二十歳すぎるとデビューするのが難しくなるからねえ。素朴な農村青年を養子に迎えて八百屋を継ぐというのが、一番堅実な道かもね」
乃梨子がしかつめらしい顔で言った。
「ひどい。センセイまでうちの親と同じようなこと、言わないでください。あたしにはまだ夢があるんです。ぜったい、今年中に、新人賞取って、デビューしてみせますから。親にもそうたんか切っちゃいましたから。あ、それでね、あたし、ひとつ漫画のネタになりそうな話、目黒の伯母から聞いてきたんですよ」
洋子の顔つきが変わって、目が輝きはじめた。
「転んでもただでは起きない子だね、キミは」
「そうなんです。あたし、小さい頃から、『十円つかみの洋子ちゃん』って言われてましたから」
「なにそれ?」
「転ぶといつも十円拾って起き上がってたそうです」
「…………」
「あれ、漫画にしたら、けっこう面白い話になると思うんだけどなあ」
ようやくピザを食べるのをやめると、洋子は腕組みして、天井を見上げた。
ちなみに、洋子がピザを食べるのをやめたのは、ピザがなくなったからである。
「どんな話なの?」
紫の方を、「Lサイズにしとけばよかったね」という目で見ながら、乃梨子があまり気乗りのしないような声でたずねた。
「ほら、『鶴《つる》の恩返し』って話、あるでしょ?」
「ああ。純朴な独身青年のよひょうどんが怪我《けが》をした鶴を助けたら、それがある夜、美女に化けて恩返しにやって来たって話ね」
「あれの猫版なんです」
「ネコバン?」
「ええ。タイトルは、ズバリ」
洋子は、パチンと右手の指を鳴らして言った。
「猫の恩返し」
5
「猫の恩返し? なんだ、鶴のパロディか」
乃梨子はしらけたような顔になった。
「パロディじゃありませんよ。これ、れっきとした実話です」
洋子はむきになって言い返した。
「実話?」
「そうなんです。目黒の伯母から聞いた、本当の話なんです。前にほら、伯母が懇意にしている獣医さんの話、しませんでしたっけ」
「伯母さんの飼ってるチンだかプードルだかがよく世話になったとかいう?」
乃梨子はそばのティッシュをつかむと鼻をかんだ。
「ええそうです。その獣医さん、小寺さんて言うんですけど、三年前に、一人息子を事故で亡くしてから、病院の看板もおろして、すっかり世間から引きこもった生活をしていたんですが、伯母がそれを見かねて、再婚でもしたらまた生き甲斐《がい》ができるんじゃないかって、ことあるごとに見合いの話を持ち掛けていたんだそうです。
もっとも、小寺さんは伯母の話になんかてんで耳を傾けようとしなかったんですが、最近になって、小寺さんの家に若い美人が住み着いたようだという噂《うわさ》を聞きつけて、伯母がそれとなく事情を探ろうと、小寺さんの家を訪ねたんだそうです」
「あんたの伯母さんも暇ねえ」
「美容院の方、あまりはやってないもんですから、暇もてあましてるんです。そうしたら、小寺さんが言うには、その美人というのは――」
洋子は、目黒の伯母から聞いたという話をした。
「へえ。それじゃ、なくなった息子の幼なじみだとか言って、突然現れた美女というのが、そのサフィーとかいう猫だというわけ?」
話を聞き終わると、乃梨子はあっけに取られたような顔でたずねた。
「と、小寺さんは思っているようだと、伯母は言うんです」
「でも、動物相手でもお医者でしょ。医者といえば、まあ科学者のはしくれじゃない。そんな人が猫が女に化けたなんて話を本気で信じるかね。それとも、その小寺って人、年くってもうろくしちゃったのかね」
乃梨子はズケズケと言った。
「もうろくするほどの年じゃありませんよ。たしか、六十一、二のはずですもん。息子さんのことがなかったら、まだ現役でバリバリやってたはずだとか」
「でもねえ。猫顔の美人なんてよくいるし、その女が、サフィーという猫の毛並みと同じ色のワンピースを着てたからって、そんなのただの偶然だろうし。それだけで、猫の化身と思いこんじゃうなんて、単純すぎない?」
「それだけじゃないんですよ。小寺さんのおたくというのは、戦前に建てられた古い家で、裏に井戸があるそうなんですけど、その女性、はじめて来た家なのにそのことを知ってたみたいだし――ま、もっとも、この点については、それなりの理由があったそうですが、おかしいのは、そのあと、小寺さんが教えもしないのに、その女性が、仏壇のある部屋にすたすた迷わずに行ったことなんですよ。これはどう考えても、妙ですよ。はじめて来た家なのに、仏壇のある部屋を知っていたなんて」
「それだって、たんにその女が勘が良かっただけとも取れるじゃない。戦前に建てられた家ったって、部屋数が二十も三十もある大邸宅ってわけじゃないんでしょ」
「まあ、6DKくらいの、ふつうの家だと思いますが」
「だったら、仏壇のある部屋くらい、勘で分かるってこともありうるじゃない」
「そりゃまあ、そうですけどね。その女性が猫の化身うんぬんって話は、小寺さんがそう信じているっていうよりも、うるさく詮索《せんさく》する伯母を煙にまくために言った冗談かもしれませんけどね」
「で、その女、結局、その小寺ってじいさんのうちに住み着いちゃったわけ?」
と乃梨子。
「らしいんです。そもそも、その女性が、東京に出てきたのは、郷里で両親を亡くして天涯孤独になってしまったんで、思い切って上京して、仕事口を探しに来たらしいんですよね。でも、東京には知り合いがいなかったそうで、小寺さんの息子さんのことを思い出して、幼なじみのよしみで、どこか就職口を世話してもらおうと思って訪ねてきたんだそうです――」
「ところが、はるばる訪ねてきたら、その幼なじみは事故で死んでいたというわけか」
「ええ。それで途方に暮れてしまったその女性は、思い詰めたような顔で、小寺さんのうちでお手伝いとして、しばらく働かせて貰えないかって言い出したんだそうです。家のことをしながら、仕事先を探し、良いところが見付かり次第出て行くという条件で――」
「はあ、なるほど」
「でも、その女性が来てから、廃人同様だった小寺さんが見違えるように元気になったんですって。伯母の勘だと、あれはもしかするともしかするかもなんて」
「もしかするかも?」
「その女性、そのまんま、小寺さんの家に住み着いてしまうんじゃないかって。つまり、お手伝いとしてじゃなくて」
「でも、だいぶ年が違うんだろ」
乃梨子は眉《まゆ》を吊《つ》り上げた。
「三十くらい年の離れた夫婦なんて、それほど珍しくないですよ。それに、その女性、今どき珍しいというか、言葉遣いとか物腰なんか古風というか、とにかく今風じゃないんですって。だから、案外、小寺さんみたいな年配の人とはうまが合うんじゃないかと」
「ふーん。なるほどね。だけど、漫画にするなら、それだけじゃ、話として面白くもなんともないじゃない」
乃梨子はシビアな顔つきで腕を組んだ。
「ですから、実話はここまでで、これを使って、あとは創作にしようと思うんですよ」
洋子はそう言って、身を乗り出した。
「どういう風に?」
「『鶴の恩返し』では、よひょうの女房になったおつうが、ある日、鶴の姿になって機《はた》を織っているのを、よひょうに見られて、泣く泣くよひょうの前から姿を消すって話でしたよね」
「そう。みーたな〜ってやつ」
「で、これをふまえて、小寺さんの家に住み着いた、その女性も、ある夜――」
「あんどんの油をピチャピチャ嘗《な》めてるのを、ご亭主に見られて、みーたな〜ってか」
乃梨子が言った。
「それじゃ、化け猫じゃないですかっ」
「鶴の恩返しと化け猫の合体作」
「いまどき、あんどんなんてどこ探したら出てくるんですか。これ、現代の話なんですよ」
「それじゃ、台所でてんぷら油をラッパ飲みしてた、てことにするか。そこを見られて、油まみれの口を拭《ふ》きながら、みーたな〜」
「…………」
「だめ?」
「もうセンセイが考えると、どうしてそうお笑い路線になってしまうんですかね。それに、なんで化け猫がてんぷら油なんか飲むんですか。あんどんの油を嘗めるのは、あれが魚の脂で出来てるからでしょ。てんぷら油ったら、植物油じゃありませんか」
「まあ、まあ、細かいことは抜きにして」
「とにかく、そんなんじゃなくて、もっとまじめに、奇麗にやりたいんです。あたしはこれを幻想|譚《たん》風に仕上げたいんだから」
「で、どうするのよ、ラストは?」
「ある夜、小寺さんがそっと妻の入浴姿を盗み見してしまうんです」
「うむ。老人の変態性欲。谷崎潤一郎の世界ですな」
「まあ、そんな感じで。すると、湯気に煙るほのかに白い妻の裸体の背中には、なんと、まるで酷《すご》い手術でも受けたような、醜い傷跡があるではありませんかっ」
「うーん。そのへんは江戸川乱歩の世界かな。孤島の鬼。哀れ、可憐《かれん》な秀ちゃんは――」
「それを見て、思わず、小寺さんはあっと叫んでしまう。おお、あの傷跡こそ、サフィーの体からボウガンの矢を抜いてやったときの手術の跡に間違いない、ということは、おまえはやっぱりサフィーだったのか」
洋子は大袈裟《おおげさ》な身振りをつけた。
「風呂《ふろ》場の戸口に立っていた夫の気配に、女ははっと振り向く」
「そこで、女の口が裂けて、みーたな〜」
乃梨子がまたちゃちゃを入れたが、洋子はかまわず、
「女は夫に正体を知られてしまったことを知ると、世にも悲しそうな顔になって、『そうです。わたくしは、あのとき、あなたに助けられた猫だったのです。でも、正体を知られてしまったからには、もうあなたのおそばにいることができません』と告げる。そして、そう告げるや否や、一匹の白猫に姿を変えると、風呂場の窓からするりと抜けて、夜の闇《やみ》にまぎれていずこへともなく消えた……」
「消えちゃうの?」
乃梨子がぽかんとして聞いた。
「消えます」
「恩返しもしないで?」
「あ」
「あ、じゃないよ。鶴の方はさ、おつうが甲斐性のないよひょうのために、自分の体から羽根を抜いて、痛い思いをしながら奇麗な機を織ってやるんだろう。それでよひょうを金持ちにしてやって、恩返しするわけだ。その猫は、どこでどう恩返ししたんだよ?」
「えーと、うーんと、それは」
洋子は白目を剥《む》いた。
「これだから素人は困るねえ」
乃梨子は玄人風を吹かせた。
「それじゃ、どうすればいいんですか」
洋子は口をとがらせた。
「そうねえ。あたしなら――」
乃梨子は腕組みしたまま、「うーん」と唸《うな》っていたが、すぐに、「ひらめいた」と言って指を鳴らした。
「ラストはこうするのよ。白猫は風呂場の窓から逃げ出したんじゃなくて、風呂場の壁に頭ぶつけて自殺しちゃうんだよ」
「え。頭ぶつけて自殺?」
「そう。自殺しちゃうの。それでね、死ぬ間際に苦しい息の下から、夫にこう言うのだ。『どうぞ、わたしの皮をはいで、三味線屋に売ってください』」
「…………」
「どう? これなら、立派に恩返しになってるじゃない」
「そんなのちっともウツクシクない」
洋子が猛然と抗議した。
「どこがウツクシクないのよ。奇麗にオチが決まったでしょうが」
「小話作ってるんじゃないんですよ。オチなんてどうでもいいんですっ。こう、胸にじーんとくるような美しいラストにしたいんです、あたしは。そんな、風呂場の壁に頭ぶつけて、三味線の皮にしてくださいなんて、ダッサイ」
「ダサイ? このオチのどこがダサイのよ」
乃梨子が目を吊り上げた。
「ダサイですよ。もう同じ美大の先輩とは思えないセンスです。ねえ、紫ちゃん、そう思わない?」
洋子はそう言って、同意を求めるように、それまでずっと黙っていた紫の方を振り向いた。
「え?」
紫は夢から覚めたような顔をした。まるで二人の話を聞いていなかったような顔をしていた。
「どうしたのよ。さっきからボーとして」
乃梨子も怪訝《けげん》そうに紫の方を見た。
「ちょっと、思い出したことがあったもんだから、つい……」
紫は慌ててそう言って、ぎこちない笑顔を見せた。
「一人で白日夢にふけらないでよ」
「で、なんの話ですか?」
「だからさ、洋子ちゃんが新人賞に応募する漫画のラストの話。洋子ちゃんはね――」
乃梨子はもう一度二人の案を説明した。
「わかった?」
「ラジャー」
「で、どっちがいいと思う?」
「そうですねえ」
紫も乃梨子につられて腕組みすると、天井を見上げた。
「あたしは――」
「あたしは?」
「どっちもどっちだと思います」
6
「おい、なんで消すんだよ」
その夜。風呂あがりのパジャマ姿で、テレビの前に陣取っていた桐生進介は、びっくりしたように振り向いた。
進介は紫の父の従弟《いとこ》で、警視庁の刑事である。紫がこの男のマンションに同居するようになって、一年半がたとうとしていた。
「話があるって言ったでしょ」
紫は澄ました顔で、テレビのリモコンを手にしたまま言った。
「スポーツニュースやるとこなのに。巨人・ヤクルト戦の結果知りたいんだよ」
進介は熱烈なヤクルトファンである。
「それなら、あたしが教えてあげる。六対○で、本日の巨人・ヤクルト戦は、ヤクルトのボロ負けでした」
「…………」
「見ても血圧あがるだけだよ。それより、あたしの話聞いてよ。まじめな話なんだから」
「なんだよ」
進介はしぶしぶ、首にかけたタオルで頭を拭きながら、紫と向かいあった。
「今日ね、二瓶さんの仕事場に行ってきたんだけど――」
紫はそう話しはじめた。
「また二瓶かよ」
進介は露骨に厭《いや》な顔をした。
「あんまり、あの女と付き合わない方がいいんじゃないか。あれ、まともじゃないからさ」
「あたし、あの人、好き。あたしの友だちのことでとやかく言わないでよ」
「友だちったって、年が十五も違うじゃないか」
「年なんか関係ないもん。あたしが友だちだって思ったら、友だちなんだから」
「ああそうですか。で、なんだよ、話って。また二瓶のところで、ガラクタにでも触って、何か嗅《か》ぎ付けたのか」
テーブルの煙草の方に手を伸ばしながら、面倒くさそうに言う。
「そうじゃない。二瓶さんとこに、洋子さんていうアシスタントがいるんだけど、その人から、少し気になる話を聞いたんだよ」
「気になる話って」
進介はあくびをしながら先を促した。紫は、洋子から聞いた話をした。気のない顔で聞いていた進介の顔が、次第に真剣味を帯びてきた。
話を聞き終わっても、しばらく黙って煙草をふかしていた。
「ねえ、あの事件に似てると思わない?」
痺《しび》れをきらして、紫は言った。
同居人は黙ったままだ。
「去年の、ちょうど今ごろだったよね、板橋に住む一人暮らしの老人が殺されたって事件。あれ、まだ犯人つかまってないんでしょ」
「そうか、もう一年になるな……」
進介は独り言のように言った。
「犯人は殺された老人の家で住み込みのお手伝いをしていた女性らしいってことまでは分かってたんでしょ」
「まあな」
進介は呟《つぶや》いた。
あれは今から一年前、六月の半ばに起きた事件だった。板橋に住む、六十八歳になる、柴田弥一《しばたやいち》という区役所の元職員が、自宅の押し入れから、電気コードを首に巻き付けられた絞殺死体となって発見されたのである。
柴田宅の異状に最初に気付いたのは、新聞の集金人だった。玄関に新聞が何日分もたまったままになっているのを不審に思い、警察に通報してきたのである。死体は殺害されてから、四、五日はたっていた。
柴田老人は数年前に妻をなくしてから、ずっと一人暮らしだった。近所との付き合いは殆《ほとん》どなかったようだが、容疑者はすぐに浮かんだ。被害者は日記をつけており、その日記の内容から、一月《ひとつき》ほど前から、「柳沢良子《やなぎさわりようこ》」と名乗る二十九歳の女性を、住み込みのお手伝いとして雇っていたらしいことが分かったのである。
このお手伝いが姿を消しており、しかも、被害者名義の預貯金がキャッシュカードですべておろされていたこと、さらに、遺体の右手が握っていた犯人のものと思われる髪の毛が、血液型がO型の成人女性のものであるという鑑識の報告から、他の状況証拠などとも考え併せて、この柳沢と名乗る女が犯人であるとほぼ断定された。
ここまでは比較的容易に割れたのだが、そのあとの捜査が予想外に困難をきわめた。このお手伝いの女の身元が全くつかめなかったのである。モンタージュを作ろうにも、近隣の者は、誰もこの女の顔をまともに見ていなかった。女は顔を見られるのを警戒してか、買い物などは近くの個人商店を避けて、すべて大手のスーパーで済ませていたようだった。女のことは、柴田老人の日記の内容から推察するしかなかった。
老人の日記によると、柳沢という女は、やや化粧は濃いが、目鼻立ちのはっきりした美人だったらしい。物腰も言葉遣いも今どきの女性にしては、女らしく上品で、被害者がこの女を初対面からかなり気に入っていたことが文面から窺《うかが》われた。
分かったのはそれだけで、どうやら女が老人のもとに住み込んだのは、最初から金めあての計画的なものだったらしく、名前も出身地も、老人に話したことは、すべてでたらめであったことが、後の捜査で分かったのである。
女が奪ったのは、現金とキャッシュカードだけのようだった。キャッシュカードの暗証番号などは、被害者からうまく聞き出したものと思われた。足のつきやすい宝石類や、家や土地の権利書などには手を触れていなかったために、その後の女の行方はようとして知れなかった。
「たしか、その女は、老人の亡くなった奥さんの教え子とか言って訪ねてきたんだったよね」
紫が思い出すような顔で言った。進介は頷《うなず》いた。
「柴田老人の妻というのは、亡くなる直前まで小学校の教師をしていたらしい。それで、柴田はすっかりその女を信用してしまったんだ」
「目黒の元獣医さんの場合は、亡くなった一人息子の同級生だと言って訪ねてきたんだよ。死んだ身内をひきあいに出して信用させるところが、どこか似てない?」
「たしかに臭《にお》うな。柴田弥一が、柳沢と名乗った女をすぐに信用して、ろくに身元調査もせずに、お手伝いとして雇ったのは、亡妻の教え子という、女の話をすっかり真に受けてしまったからだ。柴田夫婦には子供がなく、柴田はかなりの愛妻家だったらしいから、その妻の教え子と聞いただけで嬉《うれ》しくなってしまったんだろうな。まして、相手は柴田から見れば、うら若い美人だ。一人暮らしの老人の孤独につけこんだ、卑劣で冷酷な手口だよ」
進介は吐き捨てるように言った。
「白川と名乗った女が、もし、その板橋の女と同一人物だとしたら、当然、元獣医さんの家のこととか、亡くなった息子さんのこととか、事前に調べておいたんだよね。だから、元獣医さんのうちに井戸があることや、家の間取りとか知っていたんじゃないのかな」
「うーん」
進介は唸《うな》った。
「それは考えられるな。板橋の事件から一年たって、犯人はうまく逃げおおせたと安心したのかもしれない。そろそろ盗んだ金も底をつく頃だし、次の獲物を狙《ねら》いはじめたとも考えられる。とにかく、一度、その元獣医という人に会って、直接、話を聞いた方がいいな」
「そうだよ。ぼやぼやしてると、その女、また同じことを繰り返すかもしれないよ」
「目黒って言ったな。目黒のどこなんだ」
「ちょっと待って。洋子さん、まだ仕事場にいると思うから、電話で聞いてみる」
紫はそう言うと、ソファから立ち上がった。
7
翌日。目黒の小寺雅道の家を訪ねた桐生は、玄関の新聞受けに二、三日分と思われる新聞がたまったままになっているのを見て、厭な胸騒ぎを感じた。
遅かったか――。
それでも玄関の呼び鈴を鳴らしてみた。何度鳴らしても人の出てくる気配はない。玄関の引き戸には錠がかかっている。
小寺が旅行に出たとは考えられなかった。たとえ小寺がいなくても、例のお手伝いの白川という女がいるはずだ。それに新聞受けにたまっていた新聞。もし、小寺と白川が二人|揃《そろ》って旅行にでも出たのだとしたら、新聞は前以《まえもつ》て止めていくはずではないか。
中で何か異常なことが起きた。そう考えざるをえなかった。桐生は玄関を離れると、裏手に回ってみた。ささやかな庭には、盆栽の鉢が並んでいる。居間らしき窓にはカーテンがしまっていた。なるほど、話に聞いていた通り、井戸があった。
勝手口と書かれたドアに手をかけると、ここは施錠されておらず、ドアは開いた。桐生は中に入って、もう一度声をかけた。しかし、やはり応答はない。家の中はしんと静まり返っている。
靴を脱ぐと中にあがりこんだ。台所を抜けて、廊下を足音を忍ばせて歩く。黒ずんだ古い廊下はみしみしと軋《きし》んだ。
一階には四部屋あった。三部屋が和室で、玄関に近い、応接室らしき部屋だけが洋室だった。家の中は塵《ちり》ひとつなく片付いていて、鼻をうごめかしてみても、異臭は漂っていなかった。
片っ端から押し入れや物入れを開けてみた。異常がないことを確認するたびに、ほっと胸を撫《な》でおろした。
一階は風呂《ふろ》場からトイレから全部見て回ったが、異常はなかった。むろん、遺体らしきものは見付からなかった。どの部屋も奇麗に片付いており、一階の様子だけを見たら、小寺は泊まりがけで旅行にでも出たのではないかという気にさえなった。
しかし、まだ二階がある。桐生は薄暗い階段を見上げた。もし何かあるとしたら、この上だ。片足をかけた。廊下同様、階段も一足昇るごとに、みしみしと軋んだ。
二階は二部屋あった。階段を上がりきったところにあるドアを開けると、そこは、南向きの広く明るい洋室だった。窓以外の壁には、書棚がずらりと並んでおり、ベッドと机がある。机の上には、地球儀と、五人の小学生らしい少年たちを撮った古い写真が飾ってあった。
書棚には動物学や自然科学関係の本がぎっしり並べられていた。なくなった息子の雅広が使っていた部屋らしい。
桐生は隣の部屋に行ってみた。六畳ほどの和室だった。三面鏡が置いてあるところを見ると、女性の部屋のようだった。もし白川雪子が使っていたとしたら、この部屋ではなかったろうか、と桐生は当たりをつけた。
白川と名乗る女が、「柳沢良子」と同一人物かどうかは、彼女の髪を調べれば分かる。板橋の犯人は髪の毛を遺留品として残していったのだ。髪の毛一本あれば……。
桐生は三面鏡に近付いて、ヘアブラシを探した。しかし、どの引き出しにもヘアブラシはなかった。どうやら、女はヘアブラシを持ち去ったらしい。
畳の上をざっと見ても、まるで嘗《な》めたように奇麗に掃除が行き届いていて、髪の毛一本落ちていなかった。
しかし、鑑識の手で徹底的に調べれば、指紋や髪の毛の一本くらい、必ず見付かるはずだ。
そう考え、立ち上がろうとしたとき、階下で物音がしたような気がした。桐生はその部屋を出ると、階段をおりた。
みしみしという音。
「誰だっ」
下の方から男の声がした。
はっとして階段の途中で足を止めると、濃紺のレインコートを着た初老の男が驚いたような顔で見上げていた。
8
「だ、誰だ。人の家に入り込んで何をしているんだ」
初老の男は桐生を睨《にら》みつけた。人の家に、というところを見ると、これが小寺雅道か。桐生は小寺が生きていたことにほっとしながら、すぐに階段をおりていった。
「小寺さんですね」
「あんた、誰だ」
「怪しい者ではありません。私はこういう者です」
背広から警察手帳を出して見せた。
「警察? 警察の人が私の家で何をしてるんです」
小寺は、警察手帳と桐生の顔をじっくり見比べてから、まだ警戒しているような硬い声でたずねた。
「旅行にでも出てらしたのですか。玄関に新聞がずいぶんたまっていたようですが」
桐生は小寺の足元に小型のボストンバッグが置いてあるのに気が付いて、逆にたずねた。
「ちょっと上諏訪まで。急に思いたって出掛けたので、新聞を止めるのを忘れていたんですよ」
小寺はそう答えた。
「それより、警察が一体――」
「それは、これからお話しします。その前に一つ伺いたいんですが、白川雪子と名乗る女性がお手伝いとして住み込んでいたというのは本当ですか」
「え、ええ。でも、彼女なら出て行きました」
小寺の顔が曇った。
「出て行った? いつです」
「四、五日前です。それで私は――」
小寺は何か言いかけ、
「そんなことはどうでもいい。なぜ警察の人がここにいるのか、先に事情を話して貰《もら》いましょうか」
「実は――」
応接室に通されて、テーブルを挟んで、小寺と向かいあうと、桐生は、昨年の六月、板橋で起きた例の事件の話をかいつまんで話した。
「それでは、その柳沢という女が、白川さんだというのですか」
小寺はレインコートを脱ぐのも忘れ果てた顔で桐生の話を聞いていたが、驚いたように口を挟んだ。
「その可能性が考えられます。それで、こうしてあなたの様子を見に来たんです。そうしたら、玄関に新聞がたまっていたものですから、まさかと思い――」
「私が彼女に絞め殺されて、押し入れにでも放りこまれているのではないかと?」
小寺は苦笑いをもらした。
「まあ、とにかく、ご無事のようでよかった。ところで、さきほど、白川さんは出て行ったとおっしゃいましたが、さしつかえなければ、その理由をお聞かせ願えませんか」
「私がいけなかったのです。年がいもなく、あんなことを言い出したから」
「あんなことと言いますと?」
「結婚を申し込んだのです」
小寺はやや薄めの唇を歪《ゆが》めた。
「結婚、ですか」
「おかしいでしょう? 娘ほども年の離れた女性に、しかも、出会ってまだ一月にもならないうちに。こんなことははじめてです。私はどうかしてたんです。いや、どうかしてたと言っても、何も若い女性だから血迷ったというわけではないんです。
一目見たときから、彼女には何かふつうの女性とは違うものを感じたのです。今どきの若い女性とは全く違う何かをです。古風というか、神秘的というか。それに、全くの初対面なのに、前に会ったことがあるような、何かこう懐かしい気持ちになりました。この人となら、もう一度人生をやり直せるかもしれない。ふと、そんな夢みたいなことを考えてしまったのです。
でも、結局、私のひとりよがりにすぎませんでした。おそらく、白川さんは私のような年よりと一生を共にするなんて考えたこともなかったのでしょう。私の突然の申し出を断るにも断れず、いたたまれなくなって、私が眠っているうちに荷物をまとめて出て行ってしまったのですよ」
小寺は幾分|自嘲《じちよう》ぎみに話しているが、桐生から見て、小寺はまだ「年より」とは呼べないような気がした。身嗜《みだしな》みもよく、落ち着いた知的な雰囲気を身につけていた。このくらいの年配の男性としては、魅力のある方ではないかという気がする。もし白川という女が出て行ったとしたら、それは小寺との結婚を厭《いや》がったのが理由だとは思えなかった。
「白川さんを雇われるときに、当然、身元は確認されたんでしょうね」
桐生はたずねた。
「一応、履歴書のようなものは預かりましたが、住所も名前も何もかもがでたらめであったことが分かりました」
小寺は苦しそうに言った。
「でたらめだった? それを確認されたんですか」
「そのための旅行だったんですよ。彼女が出て行った翌日、すぐに思い立って、私は彼女のあとを追いました。おそらく、郷里の上諏訪に帰ったのだと思いましたから。履歴書にあった本籍地を訪ねれば、彼女に会えると思ったのです。いえ、追ったと言っても、べつに未練がましくつきまとうつもりだったわけじゃありません。彼女にあるものを返すためだったのです」
「あるもの?」
「手鏡ですよ。これです」
小寺はボストンバッグを開くと、中から丸い古風な手鏡を取り出した。
「これは、彼女のお母さんの形見だそうで、いつも肌身離さず持ち歩いていると聞いていました。うちを出るときに忘れていったのです。大切なものでしょうから、返してあげたいと思いまして」
「しかし、履歴書にあった住所には、白川さんはいなかったのですね」
「そうです。訪ねてみると、そこには白川という家はおろか、人家など建っていませんでした。それで、しかたなく、倅《せがれ》の卒業した小学校を訪ねました。倅の雅広は、小児|喘息《ぜんそく》の治療で、二年ほどあちらで暮らしたことがあるのです。小学校もあちらで卒業しました。それで、そこへ行けば、白川雪子という女性のことが何か分かるのではないかと思ったのですが――」
「そこにも彼女はいなかったのですね」
「ええ。卒業生の名簿に、白川雪子という名前はありませんでした。古くからいる先生方にも何人か話を伺いましたが、どなたも白川雪子という生徒をおぼえていませんでした。同級生にも何人か会ってたずねたのですが、結果は同じでした。白川雪子は存在していなかったんですよ。彼女が雅広の同級生だというのは嘘《うそ》だったんです」
小寺はそう言って深い溜息《ためいき》をついた。
「刑事さんのおっしゃる通り、彼女は柳沢という老人殺しの女と同一人物なのかもしれませんね。そうでなければ、あんな嘘の身の上話をしてまで、私に近付くはずがありませんから。倅のこともどこかで調べあげてきたのでしょう。どこでどう調べたのか、よく知っていましたよ。私はすっかり騙《だま》されていました。しかし、もし、彼女が私の金めあてに近付いたのだとしたら、なぜ目的を果さないうちに逃げ出したのでしょうか」
「被害は何もなかったのですか。キャッシュカード等はどうです。まさか暗証番号などは教えてないでしょうね」
小寺は苦笑して首を振った。
「聞かれれば教えていたかもしれませんね。全く信用しきっていましたから。そうでなければ、いくら血迷ったとはいえ、結婚しようなんて思いつきませんよ。でも、被害は全くありません。盗《と》られたものは何もないし、キャッシュカードは旅先でも使いましたが、私の知らぬ間に使われた形跡はありませんでしたよ。盗むどころか、母親の形見だという大事な手鏡を置いていく始末で。これは一体どうしたことでしょう」
たしかに妙な話ではある。もし、白川雪子が板橋の老人殺しの犯人だとすれば、彼女はなにゆえ、目的を遂行する前に逃げ出さなければならなかったのか。小寺から結婚を申し込まれたとしたら、そこまで信用されたことを利用して、かえって「仕事」はやりやすくなったはずではないか。
それとも、犯罪者特有の勘で、ここに留まっていてはまずいと感じるものでもあったのか。あるいは、冷酷な殺人者といえども、人の子である。赤い血も流れていよう。まして、女である。板橋のときとは違って、次の獲物に選んだ、小寺という元獣医に、ひとつ屋根の下で暮らすうちに愛情のようなものを感じてしまったのかもしれない。
しかし、いずれにせよ、白川雪子と柳沢良子が同一人物である証拠をあげるのが先決である。
「勝手ながら二階も見せて貰いましたが、白川と名乗った女が使っていたのは、和室の方ではありませんか」
「ええそうです。あそこは昔は家内の部屋だったんです」
「とにかく、彼女が板橋の老人殺しの犯人と同一人物か確かめなければなりません。そのために何かとご協力願うことになると思いますが」
「そういう事情でしたら、もちろん、私にできることは何でも協力しますよ」
小寺は複雑な表情でそう答えた。
「てはじめに、その手鏡を拝借したいのですが、よろしいですか」
桐生は言った。
「これですか」
「そこに、白川雪子の指紋が残っていると思います。板橋の現場から、柳沢良子のものと思われる指紋が幾つか採取されているのですが、それと照合してみたいのです」
この説明は嘘ではなかったが、桐生には、この手鏡を持ち帰る動機はもう一つあった。
小寺はすぐに承知して、手鏡をビニール袋に入れて桐生に手渡した。
「それとお願いついでにもう一つ。白川雪子の髪の毛が手に入りませんか」
「髪の毛ですか」
小寺は面食らったような顔をしたが、桐生がその理由を話すと、困ったような顔になって、
「ヘアブラシは持って行ったようなんです。それに、ごらんの通り、家の中には塵《ちり》ひとつ落ちていません。彼女は大変な奇麗好きで、実にまめに掃除してくれたのです。もっとも、今から思えば、いざ逃げるときに自分の遺留品を残さないようにするためだったのかもしれませんがね。ですから、髪の毛など残っているかどうか……。ゴミも、ゴミの日に出してしまったから」
「そうですか」
まあ、いざとなったら、鑑識に動いて貰えばいいかと思いながら、桐生はふと思い付いて言ってみた。
「風呂《ふろ》場に行ってもいいですか」
「え? ええ、どうぞ」
小寺は怪訝《けげん》そうな顔で頷《うなず》いた。桐生は応接室を出ると、さっき一度|覗《のぞ》いた風呂場に行った。白川雪子の髪の毛が採取できる唯一の場所を思い付いたのだ。風呂場の排水口である。白川はこの家に一月近くいたはずだ。その間に風呂を使っただろうし、髪も洗ったはずである。排水口に女の髪の毛が付着している可能性はきわめて高い。
しかし、排水口を調べてみて、桐生は思わず舌打ちした。白川雪子の奇麗好きは生半可ではなかった。排水口には髪の毛一本ついてはおらず、ここも嘗《な》めたように掃除の手が行き届いていた。
ついでに洗面所の排水口も調べてみたが同じ結果だった。
桐生はふと疑問に思った。今度の方が徹底している。白川が老人殺しの犯人だとしたら、板橋のときよりも神経質になっていた。柳沢良子はここまで神経質ではなかった。柴田老人の家には、彼女のものと思われる指紋があちこちに残っていたし、風呂場の排水口などは全く掃除した痕跡《こんせき》がなかった。
はたして同一人物だろうか。手口には似通ったところがあるが、両者の性格の違いのようなものを漠然と感じた。
しかも、白川の行為は矛盾している。排水口まで掃除して、自分の痕跡が残らないように気を遣いながら、あんな手鏡をうっかり忘れていくとはどういうことだ……。
9
「この手鏡が白川雪子のものだというわけ?」
紫《ゆかり》は、ビニール袋に入った丸い手鏡を覗きこんだ。鏡に紫の顔が映った。
桐生は、この手鏡を板橋の所轄署に持ち込む前に、紫に透視させてみようと思いたったのである。これが本当に白川雪子の母親の形見の品だとすれば、鏡の記憶を探ることで、白川雪子と名乗って現れた不思議な女の正体が、ある程度つかめるのではないかと思ったのだ。
紫はビニール袋の上から、両手でそっと鏡に触れた。焚《た》き火にあたるように、そのままじっと手をかざしていたが、
「痩《や》せて土色の顔色をした女の人の顔が見える。年は四十くらい。病気みたい――」
雪子の母親だろうか。
「それから、七、八歳くらいの子供の顔。片っぽの頬《ほお》に大きな痣《あざ》のある子供が口紅を塗ってる」
紫は何も映っていない鏡に触りながらそう続けた。
子供? 頬に大きな痣? 桐生の脳裏に何かひらめきかけたが、ハッキリとした形にはならなかった。
「二十五歳くらいの奇麗な女の人。髪が長くて、少しお化粧が濃い――」
白川雪子か?
「猫だわ」
紫がふいに驚いたように言った。
「猫?」
「猫の顔が一瞬映った。ブルーの目に灰色がかった白い毛並みの」
小寺が助けたという、サファイアとかいう猫だろうか。しかし、妙だな――。
「六十くらいの男の人の顔。悲しそうに鏡を覗きこんでいる」
小寺だろう。雪子が出て行ったあとで、鏡に気が付いて、覗きこんだに違いない。
「これだけだよ。この鏡の記憶に残っている人たちは」
紫は大きく息をつくと、両手を鏡の上から離した。
「でも、この鏡を持っていた人が人殺しだという記憶は読み取れなかった。そんな邪気みたいなものはこの鏡からは何も。ただ、この鏡を持っていた人がこれをとても大切にしていたらしいってことは感じられたけど」
「板橋の老人殺しは白川の仕業ではなかったということかな」
桐生は思わず言った。
紫の透視は役に立たなかったのか。それとも、元獣医の家に現れた女は、板橋の事件とは何のかかわりもなかったのか。どちらにせよ、あとは、科学的捜査にまかせるしかない、と桐生は思った。
もし二人の女が同一人物なら、鏡に残された指紋の中に、板橋の現場から採取された指紋と一致するものがあるはずだから。
しかし、もし白川雪子が老人殺しの犯人ではなかったとしたら、なぜ、名前も出身地も偽り、死んだ息子の同級生のような振りをしてまで、元獣医のもとに現れなければならなかったのか。白川に何かの犯罪の計画でもなければ、なぜこんなことをしたのか。
それともう一つ謎《なぞ》はある。鏡に、小寺が助けたと思われる猫の顔が映っていたということだ。これも妙な話だ。白川雪子が小寺の家に来たとき、すでに猫は小寺の家にはいなかったはず。それなのに、なぜ猫の顔が――。
白川と名乗った女はやはり猫の化身だったのか。
桐生はふとそんな妄想にとらわれた。
10
数日後。桐生は再び目黒の小寺邸を訪れた。
「どうでしたか。白川雪子はやはり板橋の老人殺しの――?」
小寺は桐生を応接室に通すと、すぐに不安そうな面持ちでたずねた。
「いや、それが」
桐生は例の手鏡を取り出すと、それをテーブルの上に載せた。
「鑑識の調べでは、この手鏡からは二種類の指紋が検出されたそうですが」
「一つは私のものです」
小寺がすかさず言う。
「ええ、それは分かってます。しかし、このいずれも、板橋の現場から採取された柳沢良子のものらしき指紋とは一致しなかったそうです」
「ということは」
小寺の目が輝いた。
「白川雪子は柳沢という女とは別人ということですか」
「おそらく」
桐生がそう答えると、小寺の顔にほっとしたような色が浮かんだ。
「しかし、そうなると、なぜ彼女は、倅《せがれ》の同級生のような振りをして私に近付いたのでしょうか」
「さあ」
桐生は首を傾げたが、
「一つ考えられることは、白川と名乗った女は一年前の板橋の事件を知って、それに便乗しようとしていたのではないかということです」
「便乗?」
「犯人がつかまっていない事件などの場合、しばしばあるんですよ、便乗犯というやつが。新聞やテレビなどの報道を研究して、手口をまねるんです。板橋の事件のときは、被害者の亡くなった妻の昔の教え子だと言って、犯人は近付いたのです。その手口をまねて、あなたの息子さんのことを持ち出したのかもしれません。しかし、結局、犯行を行う前に、なぜか逃げ出してしまった――」
「そうですね。真相はそんなところだったのかもしれませんね」
小寺は溜息《ためいき》混じりにそう言った。
「ところで、以前にボウガンで傷ついた猫を助けたことがあるそうですね」
桐生はふとたずねた。
「ええ。それが何か?」
「ブルーの目をした、白っぽい毛並みの?」
「そうです」
「その猫は、白川と名乗る女が現れる前に姿を消したのですか」
「え、ええ。しかし、それをどうして」
小寺は怪訝そうな顔になった。
「その後、猫は戻ってきましたか」
桐生は構わず続けた。紫の透視によれば、この鏡には、例の猫が映っていたという。ということは、猫は、白川雪子が住み着くようになってから、一度この家に戻ってきたということではないだろうか。
「いや」
小寺は首を横に振った。
「いつでも戻ってこられるように、裏の小窓は開けたままにしてあるのですがね。姿を見掛けたことはありません。でも、ときどき、声だけするのです。私の空耳かもしれませんが、どこからともなく猫の声がすることがあるんですよ」
「すると、あなたが気付かないうちに、猫がこの家に戻ってきたかもしれませんね?」
「そうだったのかもしれません。そういえば、一度、台所に出しておいたミルクの皿が奇麗になっていたことがありました。どこかの野良猫の仕業だったのかもしれませんが、あれはサフィーが戻ってきたのかもし――」
そこまで言いかけて、小寺はふと黙った。聞き耳をたてるように、じっとしている。
「今、聞こえませんでしたか」
ふいに言った。
「え、何がですか」
「猫の声ですよ。かすかな猫の鳴き声が」
「私には――」
聞こえなかったと、桐生が言いかけたとき、二階の方から、明らかに猫の鳴き声と思われるものが降ってきた。
「ほら、また」
小寺はソファから立ち上がった。
「聞こえました」
「私の空耳ではありませんね。サフィーが戻ってきたのかもしれない」
小寺はそう言うと、応接室を出て行った。桐生もあとを追った。
階段を昇っている最中も、やはり上の方から猫の声が聞こえてきた。誘うような甘えるような声だった。
「きっと雅広の部屋です。あそこは日当たりがいいので、サフィーがよく日なたぼっこしていた部屋ですから」
小寺は階段を昇りながら言った。階段を昇りきると、半開きになっていた雅広の部屋のドアを開けた。
しかし、中には猫の姿はなかった。
「ここから来て、逃げたんだ」
小寺は開け放したままの窓から首を出した。
絨毯《じゆうたん》の上には、猫の泥足の跡がかすかについていた。机の上にも足跡は残っていた。桐生は腰をかがめて、絨毯に落ちていた写真立てを拾いあげた。おそらく、猫が逃げるとき、ぶつかって、机から落としていったものに違いない。
机に戻す前、桐生は何気なく、その写真を眺めた。五人の小学生らしき少年たちが映っている古い写真だった。背景にあるのは、この家の玄関のようだった。
桐生の目が突然、あるものにくぎづけになった。
「小寺さん。この写真は――」
窓の外に首を出していた小寺が振り向いた。
「ああ、そこに写っているのは、雅広が上諏訪にいた頃の同級生ですよ。雅広がこちらに戻ってきた年の夏休みに、その四人の同級生たちが遊びに来たんです。それで、家の前で私が記念に写真を撮ったんです。真ん中にいるのが倅です」
「この右端にいる少年の名前を覚えていますか」
桐生は五人の中で一番小柄で華奢《きやしや》な体格をした半ズボンの少年を指さした。
「さあ、名前までは」
小寺は写真を覗《のぞ》きこんで、首を傾げたが、
「裏に書いてあるかもしれません」
と言うと、桐生の手から写真立てを受け取り、写真を取り外した。それの裏を返し、
「やはりありました。黒川幸雄とあります」
「黒川幸雄[#「黒川幸雄」に傍点]……」
桐生は呟《つぶや》いた。間違いない[#「間違いない」に傍点]。
「この少年をよく見てください。この顔に見覚えはありませんか。誰かに似ていませんか」
桐生はそう言って、幾分興奮しながら、片方の頬に大きな痣のある[#「片方の頬に大きな痣のある」に傍点]、黒川幸雄という少年を指さした。
「白川雪子に似ていませんか」
桐生は思い切って言った。
「この少年が、ですか」
写真をじっと見ていた小寺は、驚いたように顔をあげた。
「どうです。似てませんか」
「そう言われてみれば、多少――」
小寺は視線を写真に戻して、食い入るように見詰めていたが、
「しかし、この少年が白川雪子に似ているとはどういうことですか。まさか、白川雪子はこの少年の身内とか?」
「いや、身内ではありません」
桐生はきっぱり言い切った。
「え……」
「白川の素顔を見たことがありますか。化粧を落とした顔を」
桐生はたずねた。
「いいえ。彼女はけっして私に素顔は見せませんでした。朝は起きると、すでに化粧は済ませていましたし、風呂にはいつも私が寝てから入っていたようなので」
「かなり濃い化粧だったのではありませんか」
「ええ。そうですね。下品な感じはしませんでしたが、もう少し薄くてもいいのではないかと思ったことが――」
「頬《ほお》の痣《あざ》は化粧で隠していたのか、あるいは、整形手術でもして取ってしまったか」
桐生は呟いた。
「頬の痣って、一体何を言ってるんです」
小寺は呆然《ぼうぜん》としたように桐生の顔を見詰めた。
「つまり」
桐生はやや言いにくそうに口を開いた。
「この少年と白川雪子はおそらく同一人物だということです」
「え――」
小寺はあんぐりと口を開けた。
「し、しかし、この子は男の子ですよ。名前だって、黒川幸雄とあるじゃありませんか」
「ですから」
桐生は複雑な表情で言った。
「あなたの前に白川雪子と名乗って現れたのは、女性ではなかったんですよ」
11
「え、そんな馬鹿な」
小寺は信じられないという顔をした。
「彼女が男だったというのですか。男が女装していたと?」
「いや、女装していたというのではないと思いますね。その程度なら、一月近くもひとつ屋根の下にいて、全く気付かれないということは考えられません」
「彼女は女性以外の何者でもなかった。もちろん、服を脱いだところなど見たわけではないが、お、男だなんて――」
小寺は酸素が不足しているとでもいうように喘《あえ》いだ。
「たぶん、女装などという中途半端なものではなく、もっと本格的に女性化、つまり、性転換していたのではないかと思うんです」
「性転換……」
「しかし、子供の頃はまぎれもなく男性だった。白川雪子という偽名も、本名の黒川を白川に、幸雄を雪子に変えて作ったとは思いませんか。偶然の一致というには、似すぎています。それに、先日、小寺さんは、彼女とは初対面なのに、前に会ったような懐かしさを感じたとおっしゃいましたね。懐かしいはずです。本当に会っていたんですから。白川雪子は、子供の頃に、黒川幸雄として、この家に遊びに来たことがあったんです」
「そ、それじゃ、彼女がうちに井戸があることや、仏壇のある部屋を知っていたのは――」
小寺ははっとしたように言った。
「子供の頃の記憶が残っていたのでしょう。あの頃と仏壇の位置など変わってはいないとしたらの話ですが」
「変わっていません。あの子供たちが来てから、何ひとつうちの中は変わっていません。それじゃ、彼女の身の上話はまんざら嘘《うそ》というわけではなかったのか」
「そうです。雅広さんの同級生だったというのは本当だったんですよ。訪ねてきた理由も彼女が言った通りのものだったに違いありません。けっして何か下心があったわけではなかった。ただ、自分が本当は男だということだけは打ち明けられなかっただけです。それで、白川雪子などという、本名をひねった偽名を使ったのだと思います。
彼女が古風で神秘的に見えたのも、どこかふつうの女性と違って見えたのも、すべて彼女が生まれついての女性ではなかったからですよ」
「なんてことだ。私は彼女が男とも知らずに結婚を申し込んだというのか」
小寺は泣き笑いのような表情を見せた。
「白川、いや黒川幸雄としては、さぞ面食らったでしょうね。たとえ性転換の手術を受けて、完全に女性化していたとしても、戸籍上は、まだ黒川幸雄という男性です。肉体を変えることはできても、これは一生変えることはできない。たとえあなたとの結婚を望んだとしても、それは法的には許されないことなんですよ」
白川雪子が小寺から求愛されて逃げ出したのは、小寺を嫌ったからではなく、むしろその反対の理由だったからではないか、と桐生は思った。おそらく、白川の方も、小寺に愛情のようなものを感じはじめていたに違いない。だからこそ、結婚できない理由を打ち明けなければならない苦痛に耐えられなかったのではないだろうか。
「それにしても――」
小寺は不審そうに桐生を見た。
「あなたはなぜ、黒川幸雄という少年が白川雪子だと分かったんです? 彼女に会ったこともないのに」
「いや、それは」
桐生は返事に詰まった。桐生の話した推理の根拠は、紫の透視にある。例の手鏡を見ながら、「頬に大きな痣のある子供が口紅を塗っているのが見える」と言ったとき、桐生の脳裏をふとかすめたものがあった。そのときは、それが何であるか分からなかったが、さっき、猫が落としていった写真立てを拾いあげたとき、突然、何もかも分かったのだ。
前にこの家に忍び込んだとき、雅広の部屋でちらりと見た、この写真の中に、「頬に大きな痣のある少年」が映っていたことを。
紫は鏡に見えた子供のことを男とも女とも言わなかった。ただ口紅をつけていたという行為から、雪子の子供の頃、当然女の子だと思ったのかもしれない。
しかし、もしこの子供が男の子だとしたら。男の子が鏡に向かって口紅をつけているという行為は、容易に、その後の女性化を連想させた。白川雪子が元は男性で、しかも、小寺の息子の同級生だったとすれば、この女を取り巻いていた不可思議な謎《なぞ》はすべて奇麗に解けるのである。
だが、この推理の過程を説明するには、紫のサイコメトリーの能力に触れなければならない。どうはぐらかそうかと考えあぐねていると、桐生を見詰めていた小寺の視線が、フイとそれた。
信じられないというような表情で桐生の背後を見詰めている。
自分の後ろに誰かいるのか。桐生は思わず後ろを振り返った。
桐生の背後には窓があった。
応接室の窓――玄関側に向かって開かれた窓の外に、一人の女が立っていた。
髪の長い、ほっそりとした女が。
12
「で、それが白川雪子だったの?」
紫の話を聞いていた二瓶乃梨子《にへいのりこ》はごくりと唾《つば》を飲み込んでからたずねた。アシスタントの田代洋子も、昼食用のピザの切れ端を口の手前で止めて、目を丸くしていた。
数日後。乃梨子の仕事場である。
紫は黙って頷《うなず》いた。
「ということは、彼女は戻ってきたんだね、その元獣医の家に」
と乃梨子。
「そうなんです。母親の形見の手鏡を返して貰《もら》いに」
紫は、進介から聞いた話をそのまま繰り返した。
「で、彼女は元獣医の家から突然逃げ出した理由を話したの?」
興味しんしんという顔でたずねる乃梨子。
頷く紫。
「本当に男だったわけ?」
「そうらしいんです。彼女の、いえ、彼の――なんかややこしいですね。その彼女の話だと、本名は黒川幸雄。小寺さんの息子の同級生だというのは本当だったんです。でも、つい最近上京したというのは嘘で、高校を卒業した年にもう上京していたんだそうです。その頃から女になりたいという気持ちが強かったらしくて、夜の仕事をしながらお金をためると、去年、思い切って海外で性転換手術を受けてきたという話で」
「チョン切っちゃったのっ」
洋子が悲鳴のような声をあげた。
「チョン切った?」
紫は面食らったような顔をした。
「ちょっと。花も恥じらう女子高校生にむかって、『チョン切った』なんて露骨な言い方、するんじゃないわよ」
乃梨子は洋子の方をじろりと見た。
「あ、すいません、つい」
洋子は片手で口を押えた。
「まあ、最近の女子高校生が花も恥じらうかどうかはともかくとして――で、どうなの。ホントにチョン切っちゃったの」
乃梨子は紫の方を見てたずねた。
「センセイだって言ってるじゃないですか」
思わず抗議する洋子。
「チョン切ったってどういう意味か知りませんけど、完全に女性の身体《からだ》になったのかという質問なら、答えはイエスです」
紫はにやにやしながら言った。
「どういう意味か知りませんけどだって。カマトトぶっちゃって」
乃梨子が洋子の横腹を肘《ひじ》でつついて、ささやいた。
「なんか言いました?」
と紫。
「べつに。へえそう、じゃ、完全に女になっちゃったんだ。勿体《もつたい》ない」
乃梨子は言った。
「何が勿体ないんですか」
と不思議そうに訊《き》く洋子。
「それじゃ、なんで白川雪子は元獣医の家を訪ねてきたのかな」
アシスタントの質問を無視して、不審そうな顔で乃梨子が言った。
「だって、最初の話だと、元獣医の息子に就職口を世話して貰おうってことだったんだろ。でも、高校を出てすぐに上京してたなら、都会暮らしも長いわけだし、何も――」
「就職口うんぬんというのは口実で、白川さんとしては、とにかく一目小寺雅広さんに会いたかったんだそうです。手術を終えて女になった自分を真っ先に見せるのは、雅広さんだと固く心に決めていたとか」
紫が説明した。
「え。てことは、その元獣医の息子ってのは」
乃梨子が唖然《あぜん》とした顔で言った。
「白川さんの初恋の人だったんです。小児|喘息《ぜんそく》の治療にやって来た、東京の転校生に出会ったことがきっかけで、彼女は自分の中の女性性に気が付いたというわけなんです。もっと小さい頃から、女性的な傾向はあったらしいんですけど、雅広さんに出会ったことで、ハッキリ女になりたいと思いはじめたんだそうです」
「ところが、そこまで思い詰めていた小寺雅広は、訪ねてみると、すでに亡くなっていた――」
「ええ。彼女としては、それを聞かされたときは相当ショックだったようです。でも、一人息子をうしなって寂しそうな小寺さんを見ているうちに、同病相哀れむというか、小寺さんのそばにいてあげたいと思ったそうで。それで、とりあえず、お手伝いとして、小寺邸に住み着く決心をしたんだそうです」
「で、一緒に暮らしているうちに、最初は同情でしかなかったものが、だんだん愛情に変わっていったってわけか」
と乃梨子。
「そうです。当然、親子だから、雅広さんと小寺さんは似てるわけだし。息子の方に持ち続けていた純愛がいつの間にか父親の方に移っていたというか」
「まあ、死んじゃったものをいつまでも慕ってもしょうがないしね」
「以心伝心というか、小寺さんの方も同じような気持ちになっていた。で、つい年の差も忘れてプロポーズしてしまったというわけです。でも、身体は完全に女になっても、戸籍上は男のままですから、白川さんとしては、小寺さんのプロポーズに応えるわけにはいかない。といって、自分のことを女と信じて疑わない小寺さんに本当のことを打ち明ける勇気はない。それで、思いあまって家を出てしまったといういきさつで――」
「なーるほどねえ。そのとき、慌ててたもんだから、つい形見の手鏡を忘れてきてしまったというわけか」
「あ、それはそうじゃないんです」
紫がすぐに言った。
「そうじゃないって?」
「忘れたわけじゃなくて、持って行くことができなかったらしいんですよ」
「持って行くことができなかった?」
乃梨子はぽかんとした顔をした。
「どういうこと、それ?」
「猫が――」
「猫?」
「うちを出ようとした朝、いつの間にか部屋の中に猫がいて、それが、手鏡のそばに寝そべっていたんですって」
「まさか、その猫って」
「サフィーです。白っぽい毛並みのブルーの目をした、シャム猫ふうの猫だったと言うから。あたしが鏡で透視したのと同じ猫です」
「サフィーが帰ってきたわけ?」
「そうらしいんです。どういうわけか、白川さんの使っていた部屋に入ってきて、よりにもよって手鏡のそばに寝そべっていたんです。白川さんが鏡を取ろうとすると、ひっかいたり、毛を逆立てて唸《うな》ったりするので、しかたなく、鏡をそのままにして家を出たというんです」
「その猫、なんでそんなことしたんだろ」
乃梨子が不思議そうに呟《つぶや》いた。
「さあ」
紫は首を傾げた。
「それで、白川雪子はどうしたの? 手鏡を返して貰ってまた出て行ったわけ?」
「ううん。それが、今までどおり、お手伝いとして暮らすことにしたんだって」
「え。それはまたどうして?」
「小寺さんのたっての希望で」
「へえ。相手が本当は男だと分かっても?」
「そうらしいんです。このさい、もう性別は関係ないみたいで」
「でも、どんなに愛しあっても、正式に結婚とかはできないんだよねえ」
乃梨子は二人に同情するように言った。
「それはできないけど、世の中にはそういうカップルってけっこう多いじゃありませんか」
紫がおとなびた口調で言った。
「カップルねえ。カップルと言うには、なんとも複雑怪奇な関係だよなあ。でも、小寺さんにとってはよかったのかもしれないね。少なくとも、一人暮らしの孤独からは救われたわけだから」
「そうですね。動物病院の方もまた再開するかもしれないって言ってたそうです」
「ところで、板橋の老人殺しの犯人だけど、あっちはどうなったのよ」
乃梨子が思い出したようにたずねた。
紫は首を振った。
「あの事件はまだ解決してないみたいです」
「結局、今回のこととは全く無関係だったというわけか」
「一応、白川さんの去年のアリバイを調べたら、ちゃんと確かなものがあったそうです。だから、彼女が老人殺しの犯人と同一人物じゃないかっていう、あたしの勘は見事にはずれました」
紫はそう言ってちらと舌を出した。
「はずれてよかったよ。一人暮らしの老人をたらしこんで、あり金奪ったあげくに絞め殺すなんて、女の風上にも置けないやつだ。早くつかまればいいのに――」
乃梨子が言いかけると、
「ねえセンセイ、あれ、ひょっとして、猫の恩返し[#「猫の恩返し」に傍点]じゃありません?」
突然、洋子が興奮したように言った。
「え?」
「ほら、さっきの話。サフィーがなぜ白川雪子に手鏡を渡すまいとしたかっていう」
「ああ。でも、それのどこが恩返しなのよ」
きょとんとする乃梨子。
「サフィーは何もかも見通してたんじゃないでしょうか。猫には神通力があるっていいます。だから、白川さんが小寺さんのもとにまた戻ってこられるように、あんなこと、したんではないかと」
「それはいくらなんでも考えすぎじゃない?」
乃梨子は腕組みして苦笑した。
「猫がそこまで考えるかね」
「でもセンセイ、三毛猫ホームズは推理までしますよ」
洋子がまじめな顔で反論した。
「バーカ。あれは小説じゃないか」
「だけど、動物って、人間以上に鋭いところがありますよ。こちらの考えていることがテレパシーか何かで分かっちゃうというか。うちのアドルフなんか、あたしがそろそろ餌《えさ》をあげようかなって思っただけで、どこにいてもすっ飛んできますもん」
洋子はピザに手を伸ばしながら言った。アドルフというのは、洋子の実家で飼っている三毛猫のことで、目付きが悪くて、口の上にチョビ髭《ひげ》のような黒い模様があるので、そう呼ばれているそうだ。
「そりゃ、たんに、おたくの猫が食い意地張ってるだけでしょうが。飼い主に似て」
乃梨子がさめた声でそう言うと、洋子はピザに伸ばしかけた手をさっとひっこめた。
「でも洋子さんの言う通りかもしれません。それに、お兄ちゃんが黒川幸雄という少年のことに気付いたのだって、雅広さんの部屋に侵入した猫――これもサフィーらしいんだけど――が机の上の写真立てを落としていったおかげなんです。もし、あのとき、猫が侵入していなければ、あの写真の中の少年と白川雪子が同一人物だとは気が付かなかったかもしれないって言ってました」
紫が考えこみながら言った。
「そうかなあ。あたしには、ただの偶然って気がするけどなあ」
半信半疑の乃梨子。
「偶然じゃありませんよ。サフィーは何もかも知ってたんです。だから、それとなく、白川雪子の正体を小寺さんに教えようとして、写真立てをわざと落としていったに決まってます。猫は三日で恩を忘れるっていうけど、そんなことありませんよ」
とむきになる猫派の洋子。
「猫だって、ちゃんと恩を返します。ただ、犬みたいに、これみよがしに忠義を尽くすわけじゃなくて、もっとスマートに遠回しにやるから、鈍感な人間には分からないだけですよ」
「それに、たしか洋子さんの話だと、小寺さんの息子さんの死因も猫がらみでしたよね」
紫が思い出したように言った。
「そうそう。雅広さんのバイク事故は、そもそも飛び出してきた野良猫をよけようとして起きたんです。ということは、息子の方も、一匹の猫の命を助けていたんです。親子二代にわたって、野良猫を助けていたんですよ。いかに薄情な猫といえども、これでは恩を返さないわけにはいかないじゃありませんか」
「そういえば、白川雪子が奇妙なことを言ってたそうですよ」
紫がふいに言った。
「性転換の手術を受けようと決心したのは、ある日、白川さんの部屋にまぎれこんできた一匹の野良猫に『そうしろ』と言われたような気がしたからだって」
「ええっ。ほんとなの、それ?」
乃梨子が疑わしそうな顔で紫を見た。
「ほんとです。もちろん、口に出して言われたわけじゃなくて、猫の目をじっと見ていたら、催眠術にでもかかったような気分になって、それまで迷っていた性転換の手術を受ける決心がついたんだそうです。だから、小寺さんから雅広さんが亡くなった原因を聞かされたとき、すぐに思ったそうです。あのとき、ふいに迷いこんできたのは、もしかしたら、雅広さんが助けようとした猫だったんじゃないかって」
「すごい。それじゃ、小寺さんと白川さんを結び付けようとしたのは、雅広さんが助けた猫だったってことになりますよ。猫の恩返しはそのときからはじまっていたんです[#「猫の恩返しはそのときからはじまっていたんです」に傍点]」
洋子が目を輝かせた。
「まさか、その猫がサフィーだったとか?」
乃梨子もつられたように、つい言ってしまった。
「それはないと思いますけど、案外、サフィーはその猫の子供か何かだったのかもしれません。親子二代にわたって受けた恩を、親子二代にわたって返そうとしたのかもしれませんね……」
洋子は夢見るような目でそう言った。
[#改ページ]
あとがき
この作品は、1993年から1994年にかけて、「小説王」という雑誌に発表した連作短編をまとめたものです。
こうしてホラー文庫に収められることになりましたが、書いた当時は、「ホラー」というより「ちょっと風変わりなミステリ」を書くという感覚で取り組んだせいか、読み返してみると、全体的にホラー風味はやや薄いかもしれません。
表題作でもある『鋏《はさみ》の記憶』については、実をいうと、これを書く前に、おおいに刺激を受けた作品が二つあります。
一つは、かのホラー漫画の巨匠、楳図《うめず》かずお氏の『神の左手悪魔の右手』という連作中編集に収められた「錆《さ》びた鋏」という作品。
これは正真正銘のホラーで、不気味な仮面をつけた女が幼い子供ばかりを付け狙《ねら》い、鋏で容赦なく切り刻むという、世にも恐ろしい話なのですが……。
もう一つは、「バットマン」シリーズでもお馴染《なじ》みの、ティム・バートン監督の映画「シザーハンズ」。
わたしが観たのはビデオでしたが、後にテレビ放映もされたようなので、ご存じの方も多いはず。両手が鋏というユニークな人造人間のお話で、おどろおどろしいパッケージからホラー物と勘違いして借りてきたら、実は、悲しくも心温まるファンタジーだったと知って、ちょっと驚いた記憶があります。
で、この二大傑作に刺激を受けて意気込んで書いたのが『鋏の記憶』だったりするのですが、結局、できたのは……。
まあ、その、出来はともかく、自分の中ではけっこう気に入っている一作でもあります。
って、作者が自己満足していてもしょうがないので、少しでも楽しんで貰《もら》えたら嬉《うれ》しいです。
平成十三年五月十二日
[#地付き]今邑 彩
この作品は、平成八年二月、小社より刊行されました。
角川ホラー文庫『鋏の記憶』平成13年6月10日初版発行