[#表紙(表紙.jpg)]
蛇神
今邑 彩
目 次
日登美の部
日美香の部
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日登美の部
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第一章
夫の秀男がやや荒々しい足音をたてて寝室に入ってきたとき、日登美は自分の布団《ふとん》に娘の春菜を寝かしつけたばかりだった。
「まったく何を考えていやがるんだ、あいつは」
秀男は憤懣《ふんまん》やるかたないという表情で、どかっと枕元《まくらもと》にあぐらをかいて座り込むと、吐き捨てるように言った。
「あなた、大きな声を出さないで。今、寝付いたばかりだから」
日登美はしっというように、唇に人差し指をあてた。
三つになったばかりの春菜は、幼児のわりには寝付きの悪い方で、おまけに、ちょっとした物音にも敏感に目を覚ます性《たち》だった。
「あ、すまん……」
秀男は、はっとしたように、かたわらの布団の中で親指をしゃぶりながら眠っているわが子の方を見た。幸い、春菜は目を覚ますこともなく、すやすやと寝息をたてている。
愛娘《まなむすめ》の寝顔を見つめる秀男の顔が少し和らいだ。
しばらくそうやって、娘の寝顔を見つめていたが、秀男はふいに押し殺した声で言った。
「……あいつにはやめてもらうことにしたからな」
日登美はちらと夫の顔を見ただけで何も答えなかった。
何も言わなくても、日登美が夫のこの決意を誰よりも喜んでいることを、秀男は十分承知しているはずだった。
「さっきも酒|呑《の》んで帰ってきたから、ちょっと意見したら、白目を剥《む》いて俺《おれ》を睨《にら》みつけやがった。休みの日くらい何をしてもかまわんが、まだ未成年なんだから酒は呑むなと言っただけなのに。まるで狂犬みたいな目付きで睨みやがるんだからな。ついかっとして、明日の朝、荷物をまとめて出て行けってどなりつけてやった」
秀男は、再びこみあげてきた怒りを押さえるように、あぐらをかいた自分の右膝《みぎひざ》を拳《こぶし》で殴りつけた。
「……新庄さんから紹介された手前、俺の手で一人前にしてやりたかったんだがな。レジの金に手をつけるわ、未成年のくせに酒はくらうわ、おまけにちょっと意見すれば、こっちが悪いみたいな目付きで睨みつけやがる。可愛《かわい》げってもんがこれっぽっちもない。俺にはもうあいつの面倒は見切れんよ」
最後はため息混じりの声でつぶやく。
「しょうがないわ……」
日登美は夫を慰めるように囁《ささや》き声で言った。
「あなただって、あの子のためにやれることはすべてやったんだから。それで駄目だったんだから、新庄さんだって、きっと分かってくださるわ」
「お義父《とう》さんに話してこようか。事前に相談するべきだったかもしれないけれど、俺もついかっとしてしまって」
秀男は、ふいに悪びれたような顔になると、そう言って立ち上がりかけた。
「いいわよ、明日で。もう遅いから父も寝てるわ」
日登美は立ち上がりかけた夫をあわてて制した。
「そうか……」
秀男は枕元の目覚まし時計の方をちらと見やると、思い直したように、浮かしかけた腰を降ろした。目覚ましの針は、午後十一時をとうに回っていた。
日登美の父、徹三は、春菜の兄にあたる孫の歩《あゆみ》と一緒に、階下の部屋で既に眠りについている頃だった。
「それに……」
日登美は囁き声で付け加えた。
「お父さんも賛成してくれると思うわ。実をいうと、あの子のこと、最初からあまり心よく思っていなかったみたいだから」
「そうなのか?」
秀男は初耳だという顔で聞き返した。
日登美は黙って頷《うなず》いた。
「それならどうして、それを俺に言ってくれなかったんだ」
秀男は不満そうに言った。
「だって、店のことはもうすべてあなたに任せたのだから、従業員を雇うも辞めさせるもあなたの裁量で決めればいいことだって……」
日登美はやや口ごもりながら言った。
「でも……」
秀男は抗議するように口を開きかけたが、彼なりに徹三の胸のうちを察したらしく、結局何も言わずに口を閉じた。
日登美の家は新橋《しんばし》の駅前にあり、祖父の代から、『くらはし』という小さな蕎麦《そば》屋を営んでいる。
秀男は中学を卒業するとすぐに徹三のもとにやってきた。住み込みで定時制高校に通いながら、蕎麦粉の選び方から蕎麦打ちまで、職人|気質《かたぎ》の徹三にみっちりと仕込まれた。
やがて、一人娘の日登美が短大を卒業した年に、徹三は秀男の実直な性格と腕を見込んで、婿養子として迎え入れたのだ。
翌年、長男の歩が生まれると、徹三は、まだ五十代の若さだというのに、何を思ったのか、店のことは若夫婦に任せると言い出した。自分は厨房《ちゆうぼう》には出るが、店の経営については今後一切口を出さないというのである。
でも、日登美は知っていた。これが婿養子の秀男が萎縮《いしゆく》しないで家業に専念できるようにと父なりに考えたことであることを。
というのも、徹三と秀男では、店の将来に関して、かなり異なった意見を持っていたからだ。
徹三は、祖父譲りの職人気質の男で、蕎麦の味や品質には徹底的にこだわる方だったが、経営者としてはかなり無頓着《むとんちやく》で、店の規模はあまり広げず、小さくても近隣の顧客に末長く愛される店でいいと思っていたようだが、秀男の方はそうではなかった。
将来的には店の規模ももっと広げ、いずれは日本全国にチェーン店を持つほどにしたいという、事業家としての野望も密《ひそ》かに抱いているようだった。
そんな両者の考え方の違いから、いずれ生じるであろう衝突を、徹三は自分が経営から身を引き楽隠居《らくいんきよ》を気取ることで、賢明にも避けようとしていたのだということを、日登美はよく解っていた。
日登美自身は、父の考えに近いものを持っていたが、夫の気持ちも解らないわけではなかった。
いずれは日本全国にチェーン店を持ち、「くらはし」の味を全国の人に知ってもらう。
しかし、そんな夢がそうやすやすとかなえられるはずがない。日登美には夫の野望が夢のまた夢のような気がしていた。
ところが、そんな秀男の夢が、ひょんなことから現実化の兆しを見せたのは、今からちょうど半年ほど前のことだった。
それは、店のことがある雑誌の「隠れた名店紹介」という特集記事に取り上げられたことがきっかけだった。その雑誌を見たという一人の男がふらりと店を訪ねてきたのだ。
男の名前は新庄|貴明《たかあき》と言った。時の大蔵大臣、新庄信人の秘書であり、女婿でもあるという男だった。
新庄貴明は、蕎麦の旨《うま》い店があると聞くと、じっとしていられないというほどの無類の蕎麦好きらしかった。
幸い、「くらはし」の味は、かなりの蕎麦通らしい新庄の舌をも満足させたようで、すっかり「くらはし」のファンになった新庄は、忙しい合間をぬって何度も店に足を運んでくれるようになった。
一人でふらりと来ることが多かったが、時には、家族連れで来ることもあった。舅《しゆうと》にあたる信人も何度か婿に連れられて来たこともあった。
こういったことが、自然に人の口の端にのぼって、それが、「くらはし」にとって、格好の宣伝になったことは言うまでもない。
しかも、ともに女婿という立場で、年齢的にも近かったせいか、新庄貴明と秀男は、すぐに意気投合し、まるで十年来の旧友のような親しさで口をきくようになった。
慶応の法学部出身だという新庄は、百八十を越える長身にイタリア製のスーツを一分の隙《すき》もなく着こなし、見るからにサラブレッドという感じの男だったが、その性格は意外に気さくで庶民的なところがあった。
秀男が、「くらはし」の味をもっと全国的に広げたいという夢を持っていることを知ると、新庄は、自分にできることなら何でも援助しようと言い出した。
実際、彼の口きき(というか、陰で舅である信人が動いたのだろうが)で、今まで融資を受けることが難しかった或《あ》る大手銀行から、多額の融資を受けられるようになったのである。
ただ、その見返りというわけでもあるまいが、新庄の方からも秀男に頼みたいことがあると言い出した。
知人の息子で高校を中退してぶらぶらしている少年がいるのだが、この少年を預かってくれないかというのである。「くらはし」で修業させて、将来は店一軒任せられるくらいの蕎麦職人に育てあげてほしいというのだ。
この話は、秀男にとっても、まさに渡りに船だった。いずれ、店の規模を広げれば、従業員の数も増やさなければならない。
それならばいっそ、今から、自分の手元で、全く白紙状態の若者を、一から仕込んでみたいと秀男は思ったのだ。自分が徹三のもとでそうしてきたように。徹三と徹三の父が作り上げた「くらはし」の味を守るためにもその方がいい。
新庄の話では、その少年は群馬の出身で、父親を早くに亡くし、病身の母親と二人きりだという。その母親とは古い知り合いとかで、息子の就職の世話を頼まれていたらしい。
新庄貴明の知人の息子であるならば、身元の上でも信用がおけるに違いないし、新庄は、東京での身元保証人には自分がなるとも言ってくれた。
悪い話ではない。
秀男は、彼なりの計算と思惑から、まさに二つ返事で、新庄の申し出を受けたのである。
そして、やってきたのが、十八歳になる矢部稔という少年だった。
矢部稔は、大柄で手足ばかりひょろ長い無口な少年だった。矢部が身の回りのものだけを詰めたボストンバッグを持って立っているのをはじめて見たとき、日登美は奇妙な胸騒ぎのようなものをおぼえた。
うつむきがちな少年の目が、時折、ふてぶてしいまでの強い光りをおびて、上目使いに自分に注がれることに、生理的な不快感を感じたのだ。
なんだか扱いにくそうな子……。
日登美の矢部に対する第一印象はあまり良いものではなかった。
日登美のこの直感がはずれていなかったことは、矢部を雇いいれて二カ月ほどで思い知らされることになった。
最初の一カ月くらいは、少年はまさに借りてきた猫の子状態でおとなしくしていた。秀男や徹三の言うこともよく聞き、店の掃除をはじめとする「修業」に黙って従っていたが、それも長くは続かなかった。そのうち本性を現しはじめたのだ。
だんだん仕事を怠けるようになり、秀男や徹三が意見しても素直に聞き入れず反抗的な態度を示すようになった。隠れて喫煙や飲酒もしているようだった。
どうやらレジの金にまで手を出しているらしいと最初に気づいたのは、会計を受け持っていた日登美だった。
何度計算しても売上の帳尻《ちようじり》が合わないことに不審の念を抱いた日登美は、まさかと思い、それとなく矢部の素振りを見張っていたら、ある日、矢部がレジの金をズボンのポケットにねじ込むのを見てしまったのだ。
日登美はこのことをすぐに秀男に告げた。そして、それとなく、矢部を辞めさせるようにほのめかした。
しかし、秀男は苦い顔をしながらも、矢部を解雇することには同意しなかった。何よりも、紹介してくれた新庄貴明のメンツが潰《つぶ》れることを気にしていたのだろう。
「俺から注意しておく」と憮然《ぶぜん》と言い放っただけだった。
だが、矢部の言動は悪くなる一方で、少しも改まることはなかった。そして、ついに、秀男の堪忍袋の緒《お》が切れてしまったというわけだった。
ようやく秀男が布団に入って軽いいびきをかきはじめた頃、日登美は階下の風呂場《ふろば》に行くために、パジャマと着替えを持って、そっと寝室を抜け出した。
忍び足で、古い木造の階段を降り、北向きに伸びる廊下を歩いた。階下はしんと静まりかえっている。
この廊下沿いにある部屋の手前まで来ると、日登美の足はふと止まった。矢部稔に与えた部屋があるのだ。矢部はまだ起きているらしかった。天井の裸電球だけが灯《とも》る薄暗い廊下に、ドアの隙間《すきま》から漏れる明かりが白い筋を作っている。
中から物音は聞こえてこない。
日登美は、なんとなく緊張しながら、その部屋の前を足早に通り過ぎた。
風呂場の脱衣所で衣類を脱ぎ、腰まである長い髪をピンを使って器用にたばねてから、祖父の代から使っている古風な檜《ひのき》作りの風呂|桶《おけ》の蓋《ふた》を取った。
手をいれてみると、湯垢《ゆあか》の浮いた風呂の水はだいぶぬるくなっていたが、夏場ということで、沸かし直すほどではなかった。春菜が徹三と一緒に入ったときに遊んだらしい黄色いあひるのおもちゃが湯船に浮かんだままになっていた。
日登美はざっと身体を洗ってから、湯船に入った。
ぬるま湯に肩まで浸《つ》かると、今日もこれで一日が無事に終わったというようなほっとした気持ちになった。
しかし、今回はその安堵《あんど》感には別の意味もあった。
明日の朝、矢部稔がこの家から出て行ってくれれば、自分の胸に巣くっていた、あの言い知れぬ不安のようなものも消えてなくなるのだ。
そう考えると、思わず、安堵のため息が日登美の唇から漏れた。
日登美は、入浴剤のために緑色に染まった湯を片手で掬《すく》って、自分の剥《む》き出しの両肩にかけた。ぴちゃぴちゃという水音が、夜のしじまのなかでやけに耳に響く。
日登美の染みひとつない白い肩は、湯水を玉にしてはねかえした。二十六歳になるというのに、その肌《はだ》の透明感と肌理《きめ》の細かさは十代の少女のようだった。
日登美の肌はほんとにきれいだねえ……。
まだ幼い頃、今は亡き祖母と一緒に風呂にはいったときなど、祖母は孫娘の肌を慈しむように撫《な》でながら、口癖のようにそう言ったものだ。
お母さんにそっくりだねえ……。
祖母はそうも言った。そして、そう言ったあと、必ずしまったという顔になって、気まずそうに黙りこんでしまった。
日登美は母の顔を知らない。日登美を生んですぐに亡くなったと聞かされていた。どういうわけか、母の写真はうちには一枚も残っていなかった。自分を生んでくれた人のことが知りたくて、父に尋ねても、父は苦い表情になって、その話題を避けるような素振りを見せた。
祖父母に聞いても、やはり同じような反応が戻ってきた。いつしか、子供心に、日登美は母のことは話題にしてはいけないのだと思うようになっていた。
それでも、成長するにしたがって、自分が母親似らしいということを、祖父母のちょっとした言葉で察することができた。
中学に入った頃、父と母が正式に結婚していなかったことを知った。母が父の籍に入る前に日登美が生まれてしまい、その直後に母が病死してしまったからだと祖母は話してくれたが、そのときの祖母の顔付きから、どうやら、父と母が正式に夫婦になれなかったのは、それだけの理由ではなさそうだということに、聡明《そうめい》な少女は薄々気が付いていた。
しかし、母を知らないからといって、日登美は寂しい思いをしたことは一度もなかった。祖母が母代わりになってくれたからだ。その祖母も日登美が高校二年の冬に病死した。
日登美が短大に入った年に、まるで妻を追うように他界した祖父も、たった一人の孫娘をそれは嘗《な》めるように可愛《かわい》がってくれた。
祖父母だけではなかった。
父の徹三が日登美をどれほど愛していたかは、父が母が亡くなったあとも妻帯せず、戸籍の上ではずっと独身を貫き通したことでも、窺《うかが》い知ることができた。
家族の愛情には十分すぎるほど恵まれて育ったと日登美は思っている。
しかも、同じ屋根の下で何年も暮らし、いつのまにか兄のように慕うようになっていた秀男と結婚したあとも、すぐに二人の子供に恵まれ、秀男との相性もよく、この六年というもの、言い争いひとつしたこともない。
平凡だが幸福な二十六年だったとしみじみ思う。
ただ……。
その曇りない青空に、ある日突然、一人の少年が黒い不吉な影となって現れたのだ。
でも、この黒い影も明日になれば消えてなくなる。矢部稔がこの家から出て行ってくれさえすれば、また今までどおりの平穏な、信頼できる家族だけの日々を取り戻すことができるのだ……。
日登美はそう信じて疑わなかった。
風呂場の外でカタッと物音がした。
湯船に浸《つ》かってすっかりくつろいでいた日登美は、その物音に、はっと身を強《こわ》ばらせた。
誰かが脱衣所の戸を開けて入ってきたような気がしたのだ。
誰?
日登美は耳をすませた。
秀男も徹三も既に眠っているはずだ。もし、誰かが入ってきたとしたら、それは……。
日登美は矢部稔の部屋の明かりがまだついていたことを思い出した。
まさか……。
「誰?」
日登美は湯船に浸かったまま、思い切って声を出してみた。
風呂場と脱衣所を仕切る磨《す》りガラス戸の向こうに誰かいるような気配を感じた。
返事はなかった。
やがて、またカタカタという音がしたかと思うと、その気配が消えた。
日登美は湯船からあがると、磨りガラス戸をそうっと細めに開けて見た。
脱衣所には誰もいなかった。
しかし、誰かが入ってきたような気がしたというのは、けっして気のせいではない。その証拠に、しっかり閉めたはずの脱衣所の戸が僅《わず》かに開いていた。
たぶん、入ってきたのは矢部稔だったのだろう。日登美の声を聞いて、慌てて逃げ去ったに違いない。
日登美はほっとすると同時に、なんともいえない嫌《いや》な気分になった。
こんな経験ははじめてではなかった。前にも二、三度経験していた。夜遅く、終《しま》い湯に入っていると、こっそり誰かが覗《のぞ》きに来るのだ。それが矢部稔であることも見当がついていた。
日登美が矢部をなんとなくうとましく思い始めたのも、実は、秀男や徹三には打ち明けてはいなかったが、矢部のこうした行動に気づいた頃からだった。
店にいるときも店に続いた住居にいるときも、ふと粘りつくような人の視線を感じて振り向くと、そこには必ず矢部稔の姿があった。目があうと、少年はすぐに視線をはずして、こそこそと日登美の視野から逃げ出した。
それだけではなかった。
物干しに干しておいた下着がいつのまにかなくなっていたり、脱衣所の籠《かご》にきちんと脱いだはずの衣類が妙に乱れていたりしたこともあった。
十八歳の少年が、八歳も年上で、おまけに二人も子供のいる女に変な感情を持つはずがないと、胸にわいた疑惑を打ち消そうとしても、どうしても打ち消しきれないものが残った。
矢部稔が来る前はこんなことは一度もなかったからだ。
矢部を預かったとき、最初の頃は、まだ少年だからと、母親役をやるのは無理にしても、せめてなんでも気楽に相談できる姉のような存在になろうと思っていたが、そんな思いは次第に日登美の中で薄れていった。
矢部と接していても、可愛《かわい》いという気持ちがまったく湧《わ》いてこなかった。可愛いどころか、自分よりもはるかに上背のある矢部が、無言でぬっと目の前に立ちはだかったりすると、恐怖に近いものを感じた。
物言いや立ち居振る舞いにはまだ幼さのようなものが残っていたが、身体だけはもう立派な大人だった。
体格は、男としてはやや小柄な部類に入る夫の秀男よりも良いくらいだったのだ。本気で格闘にでもなれば、秀男の方が負けるのではないかと思うくらいだった。
今のところ、矢部は日登美の回りをこそこそとうろつくだけで、それ以上のことは何もしなかったが、それがだんだんエスカレートしていかないという保証はなかった。
それに、秀男や徹三にどなられたり、時には横面《よこつら》の一つも張り飛ばされることがあっても、矢部は野良犬のように白目を剥《む》くだけで、腕力に訴えたりすることはなかったが、矢部の中に蓄積されたものがいつマグマのように噴出するか分からない。
矢部稔という少年の内部には、いわば一触即発的な凶暴さのようなものがあることに、日登美は本能的に気づいていた……。
パジャマ姿のままで、風呂桶の湯を落としていると、ふと子供の泣き声を聞いたような気がした。
日登美は作業する手をとめた。
泣き声は二階の方から降ってくる。
春菜の声のようだ。
どうやら、また目を覚ましてしまったらしい。
日登美はやれやれというように、ため息を一つつくと、足早に風呂場を出た。
矢部の部屋の前を通るとき、何げなく見ると、部屋の照明は既に消えていた。
階段の下まで来ると、案の定、階段の一番上の段に春菜が腰かけて泣いていた。
ピンクのパジャマに、お気に入りのペンギンのぬいぐるみを抱いている。
「どうしたの? また怖い夢でも見たの」
日登美は足音を殺して階段を昇りながら、泣きじゃくっている幼い娘に優しく声をかけた。
春菜は母親の顔を見ると、安心したように泣きやみ、鼻水をすすりあげている。
「おまえ……お顔に何をつけているの?」
春菜を腕に抱き取ろうとして、日登美は娘の頬《ほお》のあたりに赤いものが付いていることに気が付いた。
この子ったら、またわたしの口紅をいたずらしたのかしら……。
日登美はとっさにそう思った。
以前、寝室に置いてある鏡台から口紅を見つけだして、顔中に塗りたくったことがあったからだ。インディアンの子のようだと家中で大笑いになったことがあった。
日登美はくすっと笑いながら、指で娘の頬をぬぐった。日登美の指には赤いものが付いてきた。それを間近で見た瞬間、日登美の顔から笑みが消えた。
それは口紅ではなかった。
何これ……?
日登美は呆然《ぼうぜん》としたように指の腹を見つめた。
それに、よく見ると、赤い染みがついているのは顔だけではなかった。春菜のパジャマにも点々とついているではないか。胸に抱いていたぬいぐるみの陰になって気が付かなかったが。
まさか……血?
そう思い当たった途端、日登美の顔からまさに血の気が引いた。
一瞬、春菜が怪我《けが》をしたのではないかと思ったからだ。
「どうしたのっ? どこが痛いのっ」
日登美は慌てて娘の身体を調べた。しかし、パジャマをめくりあげて素肌を調べても、春菜の身体にはどこにも傷らしきものは見当たらなかった。
怪我をしたわけではないらしい。
ほっと一安心しながらも、日登美は小首をかしげた。
この赤いものは血ではないのだろうか。もし、血だとしたら、一体どこで……。
日登美は春菜を胸に抱き取り、何げなく、二階の廊下の奥の寝室の方を見た。
襖《ふすま》が開いたままになっている。
そのとき、妙なことに気が付いた。
秀男が起きてこないことだった。
春菜はかなり前から大声で泣いていたはずだ。隣に寝ていた秀男がその声で目を覚まさないというのは、考えてみると妙だった。
あなた……。
日登美の身体に電流のような悪寒が走った。
一度胸に抱き取った春菜を慌てておろすと、日登美は半ば駆けるように廊下を走って、寝室の中に転げこんだ。今が夜中だということは既に日登美の頭にはなかった。
秀男はそこにいた。
掛け布団《ぶとん》の半ば剥《は》ぎ取られた布団の上に仰向《あおむ》けに大の字になっていた。
血まみれで……。
目の前の凄惨《せいさん》な光景に、日登美の両膝《りようひざ》からすーっと力が抜けた。
何も考えられない。頭の中が空白になってしまった。
寝室の入り口にへたりこみながら、日登美はうわ言のようにつぶやいた。
うそ……。
これは夢?
わたしは悪い夢を見ているの?
そんなつぶやきだけがわんわんと真っ白になってしまった頭の中で鳴り響いた。
どのくらいそうしていただろう。時間にすればほんの数秒のことだったのかもしれない。
魂が抜けたように座り込んでいた日登美は、ようやく我にかえって跳ね起きると、布団の上の血まみれの夫の身体にしがみついた。
「秀男さんっ。返事をしてっ」
殆《ほとん》ど絶叫のような声をあげて、ぴくりともしない秀男の身体を狂ったように揺さぶった。夫の身体はまだ生あたたかかった。
しかし、瞼《まぶた》はかたく閉じられ、既に息はなかった。
「お父さんっ」
日登美は、まるで子供にかえってしまったような声で父を呼んだ。何が起きたのか分からなかった。なぜ、ほんの数時間前までいびきをかいて寝ていた夫が、今こうして鮮血にまみれ物言わぬ物体のようになって横たわっているのか。
「お父さんっ、お父さんっ」
日登美は洗い髪を乱し、夫の血をパジャマにつけたまま寝室を飛び出した。二階の廊下の途中で、母親の半狂乱の様をぽかんと見ていた春菜が、また火がついたように泣き出した。
子供心にも、何か非常事態が起きたということを察したらしかった。
しかし、そんな春菜に日登美はかまっていられなかった。自分にすがりついてくる娘をつきとばすようにして階段を駆け降りた。それは降りるというより、半ば足元から墜落するというような降り方だった。
階下はなぜか静まり返っていた。
春菜の泣き声がサイレンのように響き渡り、日登美の絶叫や騒々しい足音が階下にも聞こえたはずなのに、一階の寝室に寝ている徹三も歩も起きてくる気配がまるでなかった。
無人の家のように静まりかえっている。
深夜にたてた物音がどれほどのものだったか、それは隣家の飼い犬が不穏な声で吠《ほ》えはじめたことでも分かる。
それなのに、同じ家に住む父も息子も起きてはこないのだ。
なぜ?
日登美は心臓を冷たい手で鷲掴《わしづか》みされたような恐怖をおぼえた。
お父さん。
歩……。
膝《ひざ》ががくがくと震えて立っているのがやっとの状態だった。父の寝室の前まで来ると、日登美の全身から最後の力が抜けた。
寝室の襖《ふすま》は閉まっていた。だが、襖の表には、べっとりと赤い手形のような跡がついていたのだ。
日登美には、その襖を開ける勇気がすぐには出なかった。
それでも、ようやく勇気を振り絞って、一気に襖を開けた日登美の目に飛び込んできたのは、二階の光景よりもさらに凄《すさ》まじい光景だった。
並べられた二つの布団の上で、寝間着姿の徹三と白いパジャマを着た歩が折り重なるように倒れていた。
二人とも血まみれだった。
徹三の浴衣《ゆかた》のはだけた胸には、内臓の色が見えるほどぱっくりと口を開いた傷口が無数につけられていた。
その上に折り重なるようにして、うつ伏せに倒れた五歳の幼児は、壊れた人形のように見えた。
真っ白なパジャマがまるで赤いパジャマのようだ……。
日登美は、自分が叫び出すのを恐れるように、両手を口にしっかりと当てていた。
そして、そのあまりにも非日常的な光景を今にも飛び出しそうな目で凝視しながら、日登美の頭は妙に日常的なことを考えていた。
歩の髪がずいぶんのびている。
明日、切ってあげなければ……。
それが、日登美が気を失う直前に彼女の頭をよぎった唯一の考えだった。
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第二章
仮通夜の間中、日登美はまるで魂の抜けた生き人形のように、ただぼんやりと座っていた。
葬儀の段取りや何かは、四国の松山に嫁いでいた徹三の姉にあたる伯母が、急遽《きゆうきよ》駆けつけて来てすべて手配してくれた。
弔問客の応対や春菜の世話は、近所の主婦たちがやってくれている。
日登美は化粧もしない憔悴《しようすい》しきった顔に、喪服だけを着て、ただ三人の遺影の前に座っているだけだった。
何も考えることができなかったし、何も感じることもできなかった。
まだ覚めない悪夢の中を彷徨《さまよ》っているような気がしていた。
仮通夜が終わり、親戚《しんせき》の者だけを残し、近所の人も弔問客も帰ったあと、まだ遺影の前にぼんやりと座っていた日登美の前に一人の男が進み出てきた。
「……奥さん」
そう呼ばれても返事を返すことができない。どうやら自分のことらしいと頭では分かっても、現実感覚というものがすっかり麻痺《まひ》してしまったような感じなのだ。
「このたびは、なんとお詫《わ》びしてよいのか……」
その男は、絞り出すような苦しげな声でそう言うと、畳に両手をつき、深々と頭をさげた。
畳にこすりつけるようにして頭をさげていた男がようやく顔をあげた。
新庄貴明だった。
「新庄さん……」
日登美はつぶやくように言った。
この人は何をわたしに謝っているのだろう。
日登美は、ぼんやりとそう思い、不思議そうな目で新庄を見つめた。
「矢部の母親も、せめて一言なりとあなたにお詫びをしたいと言っていたのですが、もともと病弱の上に、今回のことで大変なショックを受けて、とても起き上がれる状態ではないので……」
新庄は、喉《のど》に腫《は》れものでもできているような苦しそうな声でそう言った。
矢部?
母親?
日登美の頭がゆっくりと反応した。
「まさか、彼がこんな大それたことをしでかすとは……。すべては、彼を紹介した私の責任です」
新庄は言葉に詰まったように黙った。日登美を見る新庄の白目は兎のように真っ赤だった。
ああ、そうだわ……。
日登美は妙に呑気《のんき》に思った。
父たちを殺したのは矢部稔だった……。
ずっと思い出せないことを思い出したように、日登美は心の中でつぶやいた。
あの夜、日登美は階下で徹三と歩の死体を発見したあと、気を失ってしまったのだ。気が付いたとき、病院のベッドの上にいた。
あとになって、矢部稔が、「人を殺してしまった」と警察に電話をかけていたことを知らされた。すぐに駆けつけてきた警官によって、日登美は救急車で近くの病院に運びこまれ、矢部はその場で逮捕されたということも……。
そのことを他人事のように思い出しても、奇妙なことに、矢部に対する怒りも恨みの気持ちも全く湧《わ》いてこなかった。
虚《うつ》ろになってしまった心の中を一陣の風が吹き抜けるような空しさしか感じなかった。
「……警察の話では、矢部は深く反省しているそうです」
新庄がようやく言うべきことを見つけたように再び言った。
「反省?」
日登美はオウム返しに聞いた。
「反省」などという、まるで万引きでもしたときに使うような言葉がおかしかったのだ。
五歳の幼児を含めた三人の人間を、出刃包丁で滅多剌しにして殺しておいて、「反省」している?
「あ、いや、その……」
新庄はややうろたえたように言い直した。
「一時の激情に駆られて、とりかえしのつかないことをしてしまった。奥さんには本当に申し訳ないことをした。一生を掛けても償いたいと泣いてばかりいるそうです……」
だからどうだというのだ。
日登美は口には出さなかったが、心の中でそう思った。
矢部が自分のしでかしたことを「反省」し、償いたいと思っているのが本心だとしても、それがどうしたというのだ。
亡くなった三人を生き返らせてくれるとでもいうのか……。
「あの子は……矢部は、なぜあんなことをしたのですか。夫や父だけでなく、幼い歩まで殺すなんて……どうして?」
日登美は食い入るように新庄の顔を見つめて聞いた。
「それが……歩君のことは殺す気はなかったようなのです。ただ、徹三さんを刺していたときに、隣に寝ていた歩君が目を覚まし、『おじいちゃんに何をするんだ』と自分に向かってきたので、つい弾みで刺してしまったと……」
新庄はそう説明した。
「それじゃ、夫や父は最初から殺すつもりだったというの? なぜ? なぜなの。あんなに親身になって面倒を見てあげたのに。なぜ、殺されなければならないのよ?」
日登美の目に涙があふれ出てきた。ようやく、怒りという人間らしい感情が戻ってきたようだった。
「……彼の供述によると、あの夜、秀男君から突然解雇を言い渡されて、目の前が真っ暗になってしまったというのです。今まで、秀男君や徹三さんにどんなにどなられ殴られても、じっと我慢してきたのは、一日も早く一人前になって、郷里の母親を安心させてやりたい一心からだったのに、それを、秀男君から、突然、『クビだ。出て行け』と言われて、どうしてよいか分からなくなったというのです。彼が一人前になるのを何よりも楽しみにしている母親がこのことを知ったらどんなにがっかりするだろうと思うと、絶望的な気分になったというのです」
新庄はそこまで言うと、ふと口をとざした。そして、ややためらいがちにこう続けた。
「それと……彼が解雇を言い渡されて絶望したのにはもう一つ理由があったようです」
新庄はそう言ったものの、その「もう一つの理由」というのをなかなか話そうとはしなかった。
「なんですか。もう一つの理由というのは」
日登美は痺《しび》れを切らして先を促した。
「それが……あなただというのです」
新庄は言いにくそうに言った。
「わたし?」
日登美はびっくりしたような顔で新庄を見た。
「彼は……どうやらあなたに、その……思慕の念を抱いていたようです。ここを追い出されたら、もう二度とあなたに会えなくなる。そう思ったら、何もかもがどうでもよくなってしまったと……」
「…………」
日登美は言葉もなく目の前の男の端正な顔を見つめた。
矢部稔が自分に妙な感情を抱いている。そう感じたのは自意識過剰でもなければ気のせいでもなかったのだ……。
「自分ではあなたへの思慕の感情をひた隠しに隠していたつもりなのに、秀男君に悟られてしまった。だから、秀男君は、あなたから彼を遠ざけるために、突然解雇を言い渡したに違いないと……」
「そんな馬鹿な」
日登美は思わず悲鳴のような声をあげた。
矢部の不審な行動のことは、自分の胸ひとつにおさめ、秀男にも徹三にも話してはいなかったし、秀男がそのことに気が付いていたとも思えなかった。
「主人が解雇を言い渡したのは、あの子がまったく仕事をおぼえようとする気もなく、主人や父の言うことを素直に聞こうともしなかったからです。それに、あの夜、未成年だというのに、お酒など呑《の》んで帰ってきて……。それで、主人はもう面倒が見切れないと見限ったんです」
「まあ、すべては彼の妄想というか、逆恨みと言ってしまえばそれまでなのですが……」
新庄は日登美をなだめるようにそう言った。
「とにかく、秀男君に解雇を言い渡されたあと、部屋に閉じこもって、そのことばかり考えていると、アルコールが入っていたこともあってか、だんだん秀男君や徹三さんのことが憎くなってきたというのです。そして、ついには、それが殺意にまで高まってしまった……」
秀男と徹三を殺すことを思いついた矢部は、そのときちょうど、自分の部屋の前を通り過ぎる足音を聞いたのだという。それが、終《しま》い湯に入りに行く日登美の足音だとすぐに分かった。
そこで、彼は、部屋をこっそり出ると、台所に行き、出刃包丁を持ち出した。風呂場《ふろば》に寄って、日登美がまだ風呂に入っていることを確かめると、足音を忍ばせ、二階にあがった。
寝室でいびきをかいて寝ていた秀男の上に馬のりになると、その胸に何度も包丁を突き立てた。
そして、そのまま階下まで降りてくると、徹三の寝室に入り、秀男を殺したのと同じやり方で徹三を襲った。だが、そのとき、隣に寝ていた歩が目を覚まし、自分につかみかかってきたので、つい手にした包丁で刺してしまった。
これだけのことをやり終えると、矢部は自分の部屋に帰り、全身に返り血を浴びた姿のまま、布団《ふとん》をひっかぶって震えていたのだという。
日登美は新庄の話を聞きながら、呆然としていた。あの夜のことをまざまざと思い出したのだ。
風呂場に行こうとして、矢部の部屋の前を通ったとき、ドアの隙間《すきま》から明かりが漏れていたこと。あのとき、あのドア一枚隔てた向こうでは、矢部稔が、親鳥が卵を抱くように、恐ろしい考えを暖めていたというのか……。
そう考えると、今更ながらに、肌《はだ》に粟立《あわだ》つ思いがした。
「……魔に見入られるという言葉がありますが、あの夜の彼はまさにそんな状態だったのかもしれません。矢部自身、あの夜のことを、まるで自分ではない何かに操られているようだったと言っているそうです。実際、一連の犯行を終えたあと、彼は突然、正気に戻ったというのです。あのあと、逃げも隠れもせず、自分から警察に電話をして自首したことから見てもそれは本当だと思います。供述も素直にしているそうですし、心から自分のしでかしたことを後悔しているというのも嘘《うそ》ではないようです。だからといって、彼のしたことが許されるわけではないのですが……」
新庄は沈痛な面持ちでそう言った。
「……ねえ、日登美ちゃん」
翌日。祖父母の墓のある寺で葬儀を終えたあと、帰りのタクシーの中で、伯母のタカ子が言った。
松山で旅館業を営んでいる伯母は、忙しい身体らしく、葬儀が終わり次第、飛行機で松山に帰ることになっていた。
伯母を空港まで見送るために、春菜を近所の人に預けて一足先に帰って貰《もら》い、日登美は伯母と一緒のタクシーに乗ったのである。
「これからどうするつもり?」
タカ子は心配そうに姪《めい》の顔をのぞき込んだ。
「どうするつもりと言われても……」
日登美は口の中でそうつぶやき、困ったような顔で窓の外を見ていた。
先のことなど何も考えていなかった。というか考えられなかった。
今、考えることができるのは、この先、まだ幼い春菜を守って、一人で生きていくしかないということだけだった。
「あんた一人では『くらはし』は続けていけないだろうし……」
伯母は独り言のように言った。
「店は売りに出すつもりです」
日登美はようやくそれだけ答えた。伯母の言うとおり、父や秀男がいなくては店は続けていけない。
蕎麦《そば》を打てる職人を雇うという手もあったが、そこまでして、店を続ける気力は今の日登美にはなかった。それに、祖父と父が作り上げた「くらはし」の味がなくては店の暖簾《のれん》を守り続ける意味もない。
経済的なことは、徹三や秀男の生命保険金がおりれば、しばらくはそれでなんとかなるだろう。
「とりあえず、アパートかマンションを借ります。あのうちにはこれ以上住んでいたくないし……」
日登美は伯母に言った。
「そう。もし、あなたさえよかったら、うちに来て貰ってもいいんだけれど……?」
伯母はそう言ってくれたが、日登美には、日ごろからあまり行き来のない伯母の世話になるつもりはなかった。
「ありがとうございます。でも、しばらくこちらでやってみます。何か仕事を探します。それに、新庄さんが力になると言ってくれているので……」
矢部稔のことでは新庄貴明もかなり責任を感じているらしく、今後、日登美と春菜の生活が成り立っていけるよう、出来る限りの面倒は見ると言ってくれていた。
そんな新庄の好意に甘えて、店を売却する件も、就職口のことも、すべて彼に任せることにしたのだ。
やがて、タクシーが浜松町駅に着くと、伯母は、フライトの時刻までまだ時間があるから、どこかでお茶でも飲もうと言い出した。二人は駅近くの喫茶店に入った。
「……緋佐子さんのお身内はやっぱり誰も来ていなかったわね」
注文した紅茶をしばらく黙ってすすっていた伯母が、ふと思い出したように、カップを皿に戻しながら言った。
緋佐子というのは、日登美の母親の名前だった。
「伯母さん……」
日登美は、母の名前が出たことで、このさい、思い切って母のことを伯母に聞いてみようかという気になった。
日登美が生まれたときには、既に、この伯母は松山に嫁いでおり、その後も、法事か何かで集まるときくらいしか顔を合わせることもなかった。
あまり、親しく口をきいたこともなかったのだが、父の姉なのだから、昔のことや母のことも何か知っているのではないかと思ったからだ。
「わたしのお母さんってどんな人だったんですか」
そう聞くと、伯母の顔にやや当惑めいた表情が浮かんだ。
「徹三から何も聞いてないの?」
伯母はそう問い返した。
「何も……。わたしを生んですぐになくなってしまったとしか。母のことを聞いても、父は話したくないみたいだったし……」
「わたしもあまり緋佐子さんのことは知らないのよ。会ったこともないしね。わたしが松山に嫁いだあとに来た人だから。あとでちょっと徹三に聞いただけで……」
伯母は曖昧《あいまい》な口調でそう言った。本当に知らないのかもしれないが、その妙に歯切れの悪い口ぶりには、何かを隠しているような素振りも感じられた。
「父は母とは正式に結婚してなかったんですよね?」
さらにそう訊ねると、伯母は相変わらず当惑したような顔つきのまま、
「そう……みたいね」とだけ言った。
「何か結婚できない事情でもあったんですか」
「さあ」
伯母は首をかしげる。
「ただ、わたしが知っているのは、緋佐子さんが長野の人で、徹三が若い頃、良い蕎麦粉を求めて蕎麦どころを旅して歩いていたときに知り合ったらしいということだけなのよ……」
「長野?」
これははじめて聞くことだった。
「なんでも、長野のヒノモト村とかいう小さな村の出身だとか……」
伯母は思い出すように言った。
「ヒノモト村……」
日登美はその名前を頭に刻み付けるように繰り返した。
「ひょっとしたら、緋佐子さんには……」
伯母がふいに言った。
「徹三と出会ったとき、既に夫がいたのかもしれない」
伯母の突然の言葉に、日登美はえっと目を見張った。
「それって……」
「駆け落ちでもしてきたのかもしれないわ。そう考えれば、徹三と正式に結婚できなかった理由も分かるでしょ? それに」
伯母は何か言いかけ、思い直したように黙った。
「それに、何ですか」
日登美は伯母の沈黙が気になって先を促した。
「……実は、徹三から口どめされていたんだけれど」
しばらく黙りこんでいた伯母が、何かを決心したような顔で、じっと姪《めい》の顔を見ながらそう言った。
日登美は嫌な胸騒ぎがした。
聞かない方がいいかもしれない。
日登美の本能がそう告げていた。
「こんなことにならなければ、わたしも話すつもりはなかったんだけれど……」
伯母はまだためらっていた。
「でも、わたし以外にあのことをあんたに話してあげられる人はいないわけだし……。わたしだって、この先、いつどうなるか知れたもんじゃないし……」
伯母は自分に言い聞かせるようにぶつぶつと独り言を言った。
「あのことって……」
日登美の胸は急に早鐘のように鳴り出した。
「……あんた、確か、血液型はAB型だったわよね?」
しかし、伯母は日登美の質問をはぐらかすように、突然、全く関係のないことを聞いた。
「え? ええ、そうですけど、それが……?」
「片方の親がO型の場合、もう片方の親がどんな型であろうとも、AB型の子供は生まれないってこと知ってた?」
「…………」
日登美はただ伯母の顔を見つめていた。そんな話を昔聞いたことがあった。あれは、中学の理科の時間だっただろうか。それとも保健体育の時間だったか……。そんなことを薄ぼんやりと思い出しながら。
「片方の親がO型だった場合、生まれてくる子供は絶対にAB型にはならないそうなのよ」
伯母は改めてそう言い切った。
「……それが、どうしたんですか?」
日登美はおそるおそる尋ねた。伯母の返事を聞かなくても、ある疑惑が日登美の胸の中に生まれていた。
まさか、わたしは……。
「徹三はね」
伯母のタカ子は言った。
「O型だったのよ」
日登美は伯母の顔を穴があくほど見つめていた。すぐに声が出なかった。
「それじゃ、わたしは……」
ようやく掠《かす》れた声で言った。
「父の子供ではないってことですか?」
伯母は黙って頷《うなず》いた。
「で、でも、父がO型だというのは間違いないんですか」
食い下がるように聞く。何かの間違いということも考えられる。日登美の血液型のことは学校で調べて貰《もら》ったものだから、たぶん、間違いはないだろう。しかし、父の方は……。
「間違いないと思うわ。若い頃、徹三は交通事故に遇《あ》って輸血を必要としたことがあったのよ。そのとき、病院で調べて、徹三の血液型がO型だと分かったんだから……」
伯母はきっぱりとそう言った。
「それに、あんたは東京で生まれたんじゃないのよ、本当は」
「え……。でも、わたしの戸籍はあの家の住所になっていますけれど」
日登美は驚いて言った。
「緋佐子さんが徹三のもとに来たとき、既に生まれたばかりのあんたを連れていたらしいのよ。たぶん、あんたは、緋佐子さんの郷里であるヒノモト村というところで生まれたんじゃないかしら。ところが、緋佐子さんは、徹三のもとに来て、すぐに病気で亡くなってしまった。それで、徹三はあんたを自分の娘として籍に入れて今まで育ててきたのよ……」
日登美は言葉もなく伯母の顔を見ていた。伯母のこの突然の告白に大きなショックを受けてはいたが、心のどこかで、ああ、やっぱりと思っている自分もいた。
徹三も祖父母も、この二十六年、日登美を血のつながった我が娘、我が孫として接し続けてくれたが、成長するにしたがって、日登美の心のどこかで、自分が父にも祖父母にも全く似ていないということが小さなわだかまりになっていたのだ。
日登美は死んだ母親似だから……。
父や祖父母にそう言われるたびに、わたしはたまたま母の血が濃く出ただけなのだと思い込もうとしていたが、それでも、漠然《ばくぜん》と感じはじめた疑惑は、日登美の心の一番柔らかいところに抜けない刺《とげ》のように食い込んでいた。
だから、伯母の突然の告白にショックを受けたというよりも、今まで漠然とした疑惑として抱き続けてきたことが、伯母のこの告白によって厳然とした事実になってしまったということに、日登美はショックを受けたのだ。
「こんなときに追い打ちをかけるみたいに残酷なことを言うと思うかもしれないけれど……」
姪の顔色が目に見えて変わったことに、伯母は心苦しさを感じたように、言い訳めいた口調で言った。
「こんなときだから打ち明けておこうと思ったのよ。さっきも言ったように、このことを知っているのは、亡くなった父母と徹三とわたしだけなんだから。徹三がこんな形で亡くなってしまわなければ、わたしだって決して打ち明けようとは思わなかったんだけれど……。でも、日登美ちゃんの本当の父親は別にいるんだよ。ひょっとしたらまだ生きているかもしれない。緋佐子さんの郷里だという、その長野県のヒノモト村という所に今も住んでいるのかもしれない。昔、その人と緋佐子さんの間で何があったかは知らないけれど、もし、あんたが訪ねて行けば、実の娘なのだから……」
「わたしの父は倉橋徹三だけです」
伯母の言葉を遮るように日登美はきっぱりと言い切った。
「…………」
伯母は鼻白んだように黙った。
「たとえ、父との間に血のつながりがなかったとしても、わたしにとっては、倉橋徹三だけが父なんです」
「そ、それは、そうね。生みの親より育ての親って言うものね。ただ、わたしが言いたいのは、徹三が亡くなったからといって、あんたは天涯孤独になったわけじゃないってことなのよ。この先、まだ小さい春菜ちゃんを抱えて、誰かの助けを借りたくなるときもあるでしょう。そのとき、もし、あんたさえその気になったら、ヒノモト村を訪ねてみたら……って思ったもんだから」
伯母は、幾分慌てたようにそれだけ言うと、その場の気まずい雰囲気にいたたまれなくなったのか、これみよがしに和服の袖《そで》をめくりあげて腕時計を眺め、「あ、もうそろそろ行かなくては……」と、伝票をつかんで腰を浮かした。
空港まで見送ると言う日登美を「ここでもういいから」と振り払うようにして、伯母は急ぎ足で喫茶店を出て行った。
伯母の口紅のついたティカップをぼんやりと見つめながら、日登美は虚脱したように座っていた。すぐに立ち上がることができなかった。
わたしは父の本当の娘ではなかった……。
伯母がいなくなってみると、その事実の重さがあらためて日登美を打ちのめした。
それなのに、この二十六年もの間、父はそんなことはおくびにも出さず、実の娘として、いや、実の娘以上の愛情を注いでわたしを育ててくれた。自分の半生を犠牲にして……。
そう思うと、わけもなく涙があふれてきて両頬《りようほお》を濡《ぬ》らした。空のカップを片付けにきたウエイトレスは、声もたてずに静かに泣き続ける若い女客を不思議そうな目付きで眺めていた。
ベランダで布団《ふとん》を干していると、玄関のチャイムが鳴った。
日登美が出ようとすると、玄関前の廊下で遊んでいた春菜がいち早くドアに飛びついて開けていた。
「ママー。しんじょうのおじさんだよ」
ドアの向こうに立っている新庄貴明の姿を見ると、春菜は嬉《うれ》しそうに声を張り上げた。
「はい、春菜ちゃん、おみやげ」
新庄は笑顔で手に持っていた大きな包みを春菜に手渡した。
「今日はなあに?」
春菜はこぼれそうな大きな目で新庄の顔を見上げた。
「さあ、何かな? 開けてごらん」
新庄は春菜のオカッパの頭を撫《な》でながら優しく言った。
「……くまさんのぬいぐるみだあ」
廊下にあぐらをかくように座り込んで、包みを乱暴に破いて開けた春菜は、中から大きな熊のぬいぐるみが出てくると、無邪気な歓声をあげた。
「いつもすみません……」
日登美は新庄をリビングルームの方に通しながら頭をさげた。
新庄は訪ねてくるたびに、何かしら春菜の喜びそうなものを土産《みやげ》に持ってくるのだ。彼にも幼い子供がいるせいか、子供の扱いには手慣れたものがあった。春菜もすっかり新庄になついていた。
「いかがですか、ここの住み心地は?」
新庄は真新しい部屋の中を見渡しながら快活な声で言った。
あの忌まわしい悪夢のような事件から一カ月ちかくがたっていた。ようやく心神喪失の状態から抜け出した日登美は、春菜を連れて、新庄が見つけてくれた賃貸マンションに移り、新しい生活をはじめていた。
「新庄さんには何から何までお世話になってしまって……」
日登美は恐縮したようにまた頭をさげた。
店の売却の件も、あんな事件のあったあとなので買い叩《たた》かれるかもしれないが、なんとかより良い条件で売却できるように話をすすめている最中だという。
矢部稔のことで責任を感じたからとはいえ、新庄貴明の面倒見の良さは半端ではなかった。まるでかゆいところに手が届くような細やかさで、日登美たちの新生活が快適に成り立つように気をくばってくれた。
それでいて、それを恩に着せたり、威張るようなところは微塵《みじん》もない。いかにも切れ者のエリートという外見とは裏腹に、気さくで、なんでも気軽に相談できるような打ち解けた雰囲気があり、その笑顔にはわざとらしさのない正真正銘のさわやかさがあった。
日登美は、それまで政治家というか政治屋としかいいようのない連中には、幾分嫌悪に近い感情を持っていたし、彼らのイメージはけっして良いものではなかった。
選挙の前は満面の笑顔でへこへこしているくせに、選挙が終わると、がらりと態度が変わって横柄《おうへい》になる。そんな代議士タイプを何人も見てきたせいもある。
しかし、新庄貴明はそういった人種とはまったく違っていた。
新庄の話では、彼自身、政治家になる気は全くなかったのだという。慶応の法学部に入ったときは、弁護士をめざしていたらしい。ところが、たまたま入ったテニス同好会に、新庄信人の一人娘である新庄美里がいたことが、彼の人生を大きく変えてしまった。
新庄は美里を大物政治家の娘とは知らずに付き合いはじめ、大学四年のときに、美里との結婚を本気で考えるようになった。親元に挨拶《あいさつ》に行くと、美里の父親は結婚には反対しなかったが、一つの条件を出してきた。それは、新庄家に婿入りし、将来は信人の地盤を引き継げるだけの政治家になる、という条件である。
この条件には、まだ学生だった新庄は夜も眠れないほど悩んだらしい。弁護士への夢も捨てられないし、さりとて、新庄美里もあきらめきれない。結局、彼が悩みに悩んだ末に選んだのは、新庄美里との恋愛を貫き通すという道だった。
「……だから、政治家になりたくてなったんじゃなくて、家内と一緒になるには、こうするしかなかったんですよ」
いつだったか、新庄が夫人と子供たちを連れて、「くらはし」に来たとき、そんな昔話をして、照れたように笑ったことがあった。
夫人の美里は、大物政治家の娘とは思えないほど、地味で控えめな感じの女性で、大恋愛の末に学生結婚で結ばれたという夫を、今も恋人を見るような潤んだ目で見つめながら微笑んでいた。
まさにおしどり夫婦という印象だった。
「……それで、就職の件なんですが、もう少し時間を戴《いただ》けませんか」
日登美がいれたコーヒーに口をつけながら、新庄はさっそく言った。
「すぐにでも来てほしいというところがないわけじゃないんですが、今一つ就労条件が良くないのですよ」
「わたしなら、どんなところでもいいんですが……。これといって何か資格があるわけではないし、よそで働いた経験もないわけですから、贅沢《ぜいたく》は言えないと思うんです」
日登美は慌ててそう言った。
短大を出てすぐに結婚してしまったので、就職の経験は全くなかった。学生時代もアルバイト一つしたことがなかった。学校に行かない日は店の手伝いをしていたからだ。そんな日登美に出来ることといったら、同じような飲食店の接客か、会社の事務くらいのものだった。
「だめですよ、そんなご自分を安売りするようなことを言っては」
新庄はたしなめるように言った。
「実は、知り合いがやっている建設会社で事務をやれる人をほしがっているところがあるんですが、できれば経験者がいいと言っているんです。でも、交渉次第では、なんとか話がつきそうなんです。だから、もう少し待ってくれませんか。それでもし……その、経済的なことでお困りなら、無期限無利子ということで、私がご融通しますが……?」
新庄は日登美の自尊心を傷つけないように慎重に言葉を選びながら言った。
「お金のことなら大丈夫です。就職のことも新庄さんにおまかせしますので……」
日登美がそう言うと、新庄のやや寄せられた眉《まゆ》が安心したように開いた。
「そうですか。もし、何か他にもお困りのことがあったら何でも遠慮なさらずに言ってください。それじゃ、私はこれで」
新庄はそれだけ言うと、半分ほど中身の残ったコーヒーカップをテーブルに置いて、そそくさと立ち上がった。
再び玄関チャイムが鳴ったのは、新庄貴明が帰って一時間ほどした頃だった。
春菜を連れて買い物に出ようとしていた日登美は、すぐにドアを開けた。
すると、ドアの向こうには、年の頃は二十七、八歳の見知らぬ男が立っていた。
すらりとした細身で、女性的な顔立ちをした、思わず目を見張るような美青年だった。
「……倉橋日登美さんですね」
男は言った。
見たところ、セールスや何かではないらしい。そんな雰囲気ではなかった。しかも、日登美には、この男の顔に見覚えがあるような気がした。が、どこで会ったのかはすぐには思い出せなかった。
「そうですが……なにか?」
日登美は不審そうな目で男を見た。
「神《みわ》緋佐子という女性をご存じですね?」
男はいきなりそう言った。
「神緋佐子なら……わたしの母ですが」
日登美はびっくりしたように男の顔を見つめた。突然訪ねてきた若い男から、母の名前が出たことに意表をつかれたのだ。
「あなたは一体……」
「僕はこういう者です」
男は名刺を差し出した。
名刺には、神|聖二《せいじ》とあった。長野県の日の本村というところで、神社の禰宜《ねぎ》をしているという。禰宜というのは、宮司《ぐうじ》に次ぐ神職の位である。
「神って、まさか……」
日登美は、はっとしたように、名刺から男の顔に視線を移した。
神と書いて、みわ[#「みわ」に傍点]と読ませる姓はかなり珍しいはずだ。その姓が同じということは……。しかも、長野県の日の本村といえば……。
突然のことで混乱しながらも、日登美の頭は目まぐるしく働いた。
「母とはどういう……?」
おそるおそるそう尋ねると、神聖二と名乗った男は、
「神緋佐子さんは僕の叔母にあたる人です」と答えた。
「おば……」
「ええ。父の妹なんです。これを見てください」
神はそう言うと、肩にかけていたショルダーバッグから、一枚の写真を取り出し、それを日登美の目の前に突き出した。
それを手に取って見た日登美は息を呑《の》んだ。写っていたのは一人の若い女性だった。日登美は母の顔を知らなかったが、そこに写っているのが母の緋佐子だということは、すぐに解った。日登美に生き写しだったからだ。まだ十代の頃の写真のように見えた。
もはや疑いようがなかった。
目の前の男は、亡くなった母の身内にあたる人なのだ。そういえば、男の顔には、明らかに母との血のつながりを示すような相似点があった。
この人がわたしの従兄《いとこ》……。
そう思った途端、身体中の血がかっと熱くなるような奇妙な感覚があった。それはまるで、この男の身体に流れる血と、日登美の身体に流れる血が瞬時にして共鳴しあったとでもいうか、そんな不思議な感じだった。
「……さぞ驚かれたでしょう。突然訪ねてきた見も知らぬ男からいきなりあんなことを言われて……」
神聖二は、リビングルームのソファに腰掛けながら、そう言って苦笑した。
「でも、あなたにお会いするのははじめてではないんです。お忘れかもしれませんが、以前、『くらはし』の方にも一度顔を出したことがあったんですよ」
神にそう言われて、日登美はあっと思った。ようやくこの男をどこで見かけたか思い出したのだ。もう半年以上も前になるが、客として店に来たことがあったのである。そのときの記憶が日登美の脳裏にかすかに残っていたらしい。
「『くらはし』といえば、このたびはたいへんでしたね……」
神は傷ましそうな目で日登美を見ながら言った。
「新聞で事件のことを知って驚きました。早くお会いしたかったんですが、あなたもあんなことがあって心の整理がすぐにはつかないだろうと思って、ほとぼりがさめるまで待っていたんです」
「あの……前にお店にいらしたときには、わたしが神緋佐子の娘だとご存じだったんですか」
日登美は尋ねた。
「ええ、まあ。というか、それを確かめるために客を装って店に行ったんです。というのも……」
聖二の話では、日登美のことを知ったきっかけは、ある雑誌の「隠れた名店紹介」という記事だったのだという。
「あの記事を僕もたまたま目にしていたんです。あれには店で働くあなたの写真が載っていましたよね?」
日登美はあのときのことを思い出した。取材の人が、ぜひ日登美の姿を店をバックにして撮りたいというので、気が進まなかったが被写体になったのだ。
出来上がった雑誌を見たとき、大きな活字で「美人妻」などと書かれていて赤面した記憶があった。
「あのときはびっくりしました。あなたの顔が失踪《しつそう》した緋佐子さんにあまり似ていたものですから」
「失踪?」
日登美は思わず聞き返した。
「ええ、村ではそういうことになっていました。二十六年前のことです。ああ、村というのは、長野県の日の本村というところですが。緋佐子さんはそこの生まれなんです……」
聖二の話はこうだった。
聖二の父、神|琢磨《たくま》は、その日の本村で、日の本神社という千年以上も続く古社の宮司をしているのだという。緋佐子は琢磨の妹だったが、二十六年前の春先、何の書き置きも残さず、生まれたばかりの日登美と共に忽然《こつぜん》と村から姿を消したのだという。
すぐに警察に捜索願いが出されたり、村の者が手分けして探したりしたが、結局、緋佐子母子のゆくえはようとして知れず、二十六年がむなしく過ぎた頃、たまたま、聖二が目にした雑誌に緋佐子にそっくりな女性を見つけて、もしやと思ったというのだ。
「緋佐子さんが失踪したとき、僕はまだ二歳かそこらで、叔母の顔はおぼえていなかったのですが、緋佐子さんの若い頃の写真は見たことがありましたから。それでぴんときたのです。さっそく父と相談して、僕がそれを確かめるために上京したんです……」
そのあと、聖二は、新宿にある探偵社に出向いて、「くらはし」のことを詳しく調べさせたのだという。そこで、緋佐子が既に亡くなっていたことを知ったらしい。
「それなら、どうして、店にいらしたときにそのことを話してくれなかったんですか」
日登美は不思議に思ってそう尋ねた。
「話したいという気持ちはあったのですが、今さらそんな昔のことを話してどうなるものでもないと思ったんです。緋佐子さんは何か事件に巻き込まれたわけではなく、自らの意志で、倉橋徹三さんの下に行かれたのだということも解りましたし。それに店で働くあなたの姿はとても生き生きとして幸せそうに見えました。優しそうなご主人と可愛《かわい》いお子さんたちに囲まれて。今のあなたの生活を壊したくないと思ったのです。それで、結局何も言わずに帰ってきました」
「あの……もしかして、母は結婚していたのではないですか。その日の本村というところにいる頃に……」
日登美はためらったあと、思い切って、そう聞いてみた。
「結婚?」
聖二はびっくりしたような顔をした。
「いいえ、そんなはずはありません。緋佐子さんが村を出たときは独身でした。独身のまま、あなたを出産されたのです」
「それなら、どうして……母は父と正式に結婚しなかったのでしょうか」
「それは……」
聖二はやや難しい顔になって言った。
「もしかしたら、日女《ひるめ》の掟《おきて》を緋佐子さんなりに守り通そうとしたのかもしれませんね……」
「ひるめの掟?」
日登美は聞き返した。
「神家というのは千年以上も昔から大神に仕える一族なのです。とりわけ、神家に生まれた女は、日女と呼ばれて、大神の妻となるべく生まれた特別な存在なのです。ですから、一生涯、誰とも結婚することを許されないのですよ……」
「つまり、母は巫女《みこ》のような存在だったということですか?」
日登美は驚きながら言った。
「そうです。神に最も近い女性として非常に神聖視されているのです」
「そうだったんですか……」
日登美はため息のような声を漏らした。
自分の母親が巫女だったと聞かされて、少なからず驚いてはいたが、同時にほっともしていた。母がいわゆる不倫の末に父と結ばれたわけではなかったことが解ったからだ。
巫女として生まれついた母には、愛した男性と一緒になるためには、ああするしかなかったのだろう。
でも、だとすると……。
日登美の頭には新たな疑惑が生まれた。
わたしの父親は一体誰なのだろう?
巫女として生涯独身を貫き通さなければならなかったはずの母は、一体誰の子供を身ごもり生んだというのだろう?
そのことを聖二に聞こうかどうしようか迷っていたとき、
「それで……今日伺ったのは、実はそのことに関係があるのです」
聖二はようやく本題に入るというように改まった口調で言った。
「今の話でお分かり戴《いただ》けたと思うのですが、あなたのお母さんは村になくてはならない大切な人だったんです。日の本村には、毎年十一月に行われる大神祭という祭りがあるのですが、そのとき、日女が祭りの主催者となるのです。村では、一応宮司や何かは男性がやっていますが、それは所詮《しよせん》雑事を引き受けているにすぎません。祭りの最も神聖で重要な役目は神家の女、すなわち日女によって執り行われる慣習が千年以上も昔から連綿と続いているのです……」
聖二は話を続けた。
二十六年前、緋佐子が失踪《しつそう》したのちは、緋佐子の姉にあたる女性、つまり聖二の父親のもう一人の妹がずっとこの役目をやってきたのだという。しかし、日女はもともと短命であることが多く、この女性も、三十歳になる前に亡くなってしまった。
その後、聖二の姉がその役目を引き受けてきたのだが、この姉が五カ月ほど前に子宮ガンを患っていることが分ったのだという。幸い、発見が早かったことで手術によって大事には至らなかったが、術後の体調が思わしくなく、今でも寝たり起きたりの生活をしているらしい。
「……今の姉の体調では、とても十一月に予定されている大神祭に、日女として祭りを司《つかさど》ることは難しいのではないかと思われています。妹もいるのですが、まだ十二歳になったばかりで幼なすぎます。このままでは、大神祭を司る日女がいないことになってしまうのです。しかも、今年は七年に一度の大祭と重なってもいるのです。祭りをとりやめるわけにはいきません。それで……あなたにお願いがあるのです」
聖二は二重の美しい目をひたと日登美の顔に当てて言った。
「……なんですか?」
「村に帰ってきてほしいのです。そして、今度の祭りで、姉に代わって日女《ひるめ》として祭りを司ってほしいのです」
「わたしが?」
日登美はびっくり仰天したような声をあげた。
「そうです。あなたには日女だった緋佐子さんの血が流れています。ということは、あなたも立派な日女なんですよ。離れて暮らしてきたとはいえ、あなたも神家の女なんです。十分、資格があるんです」
「で、でも、そんな……。わたしにはそんな巫女《みこ》みたいなことはできません。それに、巫女になれるのは独身の人だけなんでしょう? わたしは結婚してましたし、子供もいるんですよ」
日登美は慌ててそう言った。
「それは問題にはなりません」
聖二はきっぱりと言った。
「問題にならないって……?」
「日女が独身でなければならないというのは、あくまでも建前にすぎないんですよ。形式的に独身でありさえすればいいんです。つまり、戸籍の上で結婚さえしていなければ、恋人がいようが、事実上の夫がいようがかまわないのです。子供を生んでいてもいっこうにかまいません。かまわないどころか、それは村にとっては有り難いことなんです。日女の血を絶やすわけにはいきませんから。
それに、あなたの場合、戸籍の上でも結婚していたとはいえ、そのご主人を亡くされている。いわば、今は事実上の独身というわけですからね。資格はあるんです。何よりも大切なのは、日女の血をひいているということなんです。これこそが何にもまして優先することなんですよ……」
「でも、やっぱり無理です。祭りの主催者になって神事のようなことをするなんて……」
「大丈夫です。あなたの役目そのものはそれほど難しいことではないんです。さきほどは祭りの主催者などという言い方をしましたが、もっと正確に言うと、祭りの本当の主催者は、大日女《おおひるめ》様なんです。あなたはその補佐的な役割をしてくれればいいのです。補佐的といっても、大神と村人を結ぶ、大変重要な役目ではありますが」
「大日女様……?」
日登美は思わず聞き返した。
「その……俗な言い方をすれば、日女の総元締めのようなお方です。村で最も力のある女性です。神職の頂点に立つお方です。この方は、正真正銘の独身を貫き通されてきた方で、真性の巫女なのです」
神家の女は、生まれ落ちるとすぐに、この大日女の託宣で、若日女とふつうの日女とに峻別《しゆんべつ》されるのだという。
若日女に選ばれた女児は、真性の巫女となるべく、家族から引き離され大日女のもとで育てられる。むろん、生涯、男性と交わることはできない。いずれは、この中から次代の大日女が選ばれるのだという。
しかし、ふつうの日女にはそこまでの厳しさは要求されてはいない。親元で暮らすことができるし、生涯独身でいるというのもうわべだけのものにすぎない。祭りでの役割も、難しい祝詞《のりと》を読んだり、ややこしい作法のある神事をこなすわけではないという。
「……ですから、難しく考える必要はありません。何度も言うようですが、大切なのは血筋ということなんです。年々、日女が減ってきているのです。このままでは、いつか日女の血が絶えてしまうかもしれない。日女の血を引く女性がどうしても必要なのです。お願いです。どうか村に帰ってきてください」
聖二はそう言うと、何を思ったのか、ソファから立ち上がり、床に座り込んで両手をついた。
「神家の者だけではありません。日の本村の村人全員があなたの帰りを待っているんです。あなたは村にとって必要な人なんです」
「や、やめてください」
日登美は慌てふためいて、聖二に手をあげるように言った。しかし、聖二は床に手をついたまま、なかなか立ち上がろうとはしなかった。
「それに、日女の血があなたの中にも流れていることを、あなたは無意識のうちに自覚されているではありませんか」
神聖二はふいに勝ち誇ったような声でそんなことをいいだした。
「わたしが自覚? どういうことですか?」
日登美はぎょっとしたように言った。
「その髪の毛です」
聖二はそう言った。
「髪?」
日登美はぽかんとした。
「見たところ、とても長くて美しい髪をしていらっしゃる。もしかしたら、生まれてから一度も切ったことがないのではないですか」
たしかに、日登美の髪はたらせば腰の下あたりまで届きそうなほど長い。ふだんは丸めてアップにしたり、一本に編み込んだりしているが、今日は、無造作に後ろに流していた。
しかも、定期的に毛先を切り揃《そろ》えるだけで、もの心ついてからずっと伸ばし続けてきた。
「長い黒髪は、日女のシンボルであり条件なのです。髪は神にも通じ、神意が宿るとされています。ですから、神に仕える女は、子供の頃から髪を切ることを禁じられているのです。長く伸ばすことを半ば義務付けられているんです。あなたは誰に教えられるわけでもなく、そうして髪を伸ばしてきた。それは、まぎれもなく、あなたの血の中にある日女の誇りがさせたことなんですよ……」
「いえ、これは……」
日登美はそう言いかけ、黙ってしまった。日登美が髪を伸ばし続けてきたのには、それなりに理由があった。それは、小さい頃に、亡くなった母が髪の長い人だったと祖母から聞かされて、なんとなく自分も伸ばしてみようと思ったのである。
でも、そんな気まぐれも、ひょっとしたら、この男の言うように、自分の中に眠っていた、日女の血がそうさせたものだったのだろうか……。
日登美が反論しようとして黙ってしまったのには、そんな思いがふいに自分の中に湧《わ》いたせいだった。
「と、とにかく、もう少し考えさせてください……。いきなりそんなことを言われても、わたしにはすぐに決めかねます」
日登美はようやくそれだけ言った。このままだと、この一見おとなしそうだが、けっこう弁のたつ男に押し切られてしまいそうだった。
「……そうですね」
神聖二はようやく立ち上がると、
「あなたのお気持ちも分ります。突然押しかけてきて、すぐに決断せよというのも無茶な話ですよね。では、こうしましょう……」
神は、ショルダーの中から手帳とボールペンを取り出すと、それに何か書き込み、破いて日登美に手渡した。
「明後日までなら新宿のホテルに滞在しています。もし、その間に、決心がつかれたら、こちらに連絡して戴《いただ》けませんか」
見ると、メモには、ホテルの名前と部屋番号、それに電話番号が記されていた。
その夜、電話が鳴った。
かけてきたのは、新庄貴明だった。
「実はあまり良くない知らせなのですが……」
新庄の声は心なしか沈んでいた。
「昼間話した建設会社の就職のことなのですが、残念ながら、既に他の人に決まってしまったそうです」
「そうですか……」
「あ、でも心配しないでください。すぐに別口を当たってみるつもりですから」
「あの、新庄さん」
日登美は新庄の声を遮るように言った。今自分が思い悩んでいることを新庄に打ち明けて、相談してみようと思いたったのだ。新庄なら適切なアドバイスをしてくれそうな気がした。
「実は……」
日登美は昼間あったことを手短かに新庄に打ち明けた。
「……それで、まだ決断がつかないというわけですか」
新庄は、日登美の話を聞き終わると、そう言った。
「ええ。なにせ突然のことだったので、まだ頭の整理がつかなくて……」
「その神という人の話は信用できそうなのですか。あなたのお母さんのお身内というのに間違いはないのですね?」
新庄は念を押すように尋ねた。
「ええ、それは間違いないと思います。母の若い頃の写真を持っていましたし、神さん自身がどことなく母に似ていましたから……」
「そうですか。だとしたら、迷う事は何もないではありませんか」
新庄は快活な声でそう言った。
「え? でも……」
「その日の本村という所へ帰るべきです。この先、幼い春菜ちゃんを抱えて、身内の全くいない東京で暮らすよりも、血のつながったお身内のいる田舎で暮らした方が何かと心強いのではありませんか?」
「それはそうなんですが……」
日登美は口ごもった。
「それに、その村ではあなたを必要としている人たちがいるというのでしょう?」
「ええ。神さんの話では、神家の人だけでなく村中の人がわたしの帰りを待っていると……」
「それならば帰るべきです。人は自分を必要としてくれる人たちの中で暮らすのが一番幸せだと思いますよ……」
そう言われると、日登美には返す言葉がなかった。それは新庄の言う通りだった。今、この大東京で日登美を必要としている人が一体何人いるだろうか?
このまま、新庄の世話でどこかに就職できたとしても、それは日登美でなくても勤まる職種にすぎないだろう……。
「ただ、このマンションも引っ越してきたばかりですし……」
「そんなことなら気にしなくてもいいですよ。すぐにでもあちらにたたれたいというのであれば、あとのことは私がすべて処理します」
新庄は即座にそう言った。
「とにかく一度帰ってみたらいかがですか? しばらくあちらで暮らしてみて、やはり都会の方がいいと思ったら、またこちらに戻って来れば良いではないですか。そのときには、私でよければいつでもお力になりますから」
「…………」
電話を切る頃には、それまでぐらついていた日登美の気持ちはかなり固まりかけていた。新庄の力強い助言に勇気づけられたということもあるが、もしかすると、日登美の無意識の中ではすでに答えを出していたのかもしれない。
母が生まれたという村を一目見てみたかった。それに、実の父親のこともあった。日の本村に行けば、ひょっとしたら、実の父親に会えるかもしれない。そんな思いもあった。
伯母のタカ子には、「たとえ血はつながっていなくても、父親は倉橋徹三だけだ」などと啖呵《たんか》を切ったものの、その気持ちに今も変わりはないとはいえ、実の父親に対する関心や思慕の念のようなものが全くないというわけではない。それどころか、あれ以来、日登美の心の中では、まだ見ぬ実父の存在が次第に膨らんでいたのだ。
日の本村へ行こう……。
一晩おいて、もしこの決心が変わらなかったら、神聖二に連絡を取ろう。
その夜、日登美はそう心に決めて、ようやく眠りについた……。
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第三章
朝方、上野で神聖二と落ち合って乗り込んだ特急あさまは、昼前には、長野駅に到着した。
「連絡しておきましたから、駅に村長が迎えに来ているはずです」
棚にあげた日登美のスーツケースをおろすのを手伝いながら、神聖二が言った。
聖二の話では、日の本村は、長野市街からさらに車で二時間以上も行った山奥にあるのだという。
駅の改札を抜けると、聖二は村長の姿を探すようにきょろきょろしていたが、すぐに片手をあげた。
すると、それに応《こた》えるかのように、待合所の椅子《いす》に背中を丸めて腰掛けていた六十年配の男が弾《はじ》かれたように立ち上がった。
小太りの短躯《たんく》を転がすようにして、こちらに駆け寄ってきた。
「これはこれは……。日登美様、春菜様。お待ち申し上げておりました」
赤ら顔の村長は、満面に笑みを浮かべてもみ手をするような仕草を見せた。
「村長の太田さんです」
聖二が短く紹介した。
「太田でございます」
村長はそう言って、ぺこぺこと米つきバッタのように何度も頭をさげてから、大仰に細い目を見開いて、日登美と春菜を交互に眺めた。
「あれまあ、ほんとうに、日登美様は緋佐子様に瓜《うり》二つですなあ。春菜様の方は、これまたお小さい頃の緋佐子様にそっくりで……。まっこと血は争えませんなあ」
感心したようにそんなことを言う。辺りはばからない破れ鐘のような大声で、しかも「様」付けで呼ばれて、日登美は気恥ずかしさにもじもじした。
日登美に手をひかれた春菜はぽかんとした表情で、村長の田舎の好々爺《こうこうや》めいた顔をめずらしそうに見上げていた。
村長は、駅舎を出ると、三人を車を停めた所まで案内した。小豆色《あずきいろ》の古びた国産車の車体には、いかにも長い山道を走り抜けてきたとでもいうように、あちこちに泥がはね飛んでいた。
長野市街を出て小一時間も走ると、窓から見える景色は山また山ばかりになった。その山々に挟まれた曲がりくねった細い山道を、持ち主同様、かなり年季の入った中古車は、ぜいぜいと息を切らすように走り続ける。
その間、太田村長は運転をしながら、日の本村の由来について、聞きもしないのにぺらぺらと喋《しやべ》り続けていた。
村長の話によると、日の本村ができたのは、今から千数百年以上も昔に溯《さかのぼ》り、開拓者は古代の大豪族として知られる物部《もののべ》氏であった。
大和《やまと》の大豪族だった物部氏が、当時は科野《しなの》と呼ばれ、あまり開けてはいなかった信州の山奥になぜ移り住んだのかというと、それにはこんな歴史的ないきさつがあったという。
欽明《きんめい》天皇の時代、仏教が伝来し、それをめぐって崇仏《すうぶつ》派の蘇我《そが》氏と、排仏派の物部氏が激しく対立した。
物部氏の「物」とは本来「霊《もの》」を意味し、物部氏は、日本にはじめて神道を持ち込んだ祭祀《さいし》集団でもあった。
天皇の外戚《がいせき》として勢力を延ばしつつあった蘇我氏は、仏教を使って、それまで強大な権力を握っていた神道派の物部氏を潰《つぶ》そうと画策したのである。
そして、五八七年、用明《ようめい》天皇の時、蘇我|馬子《うまこ》の率いる蘇我氏が、物部|守屋《もりや》率いる物部氏を打ち破り、古代の大豪族物部氏は没落した。その後、仏教が公認され、蘇我氏が中央権力の座についた。
一方、権力の座を追われた物部氏の残党は、東北や信州に辛くも逃げ延びた。その残党の中には、物部守屋の一子がいて、日の本村を作ったのは、その守屋の子であるとも伝えられているという。
「そもそも、この日本という国号は、物部氏の神祖によって付けられたと言われておりますのじゃ……」
村長は誇らしげに言った。
物部伝承によれば、物部氏の神祖であるニギハヤヒノミコトが、天磐船《あめのいわふね》に乗り、天降《あまくだ》りしたとき、「虚空《そら》に浮かびてはるかに日の下を見るに、国有り。因りて日本《ひのもと》と名付く」と言ったとあるという。
つまり、「日本」という国号は、太古、九州から大和一帯を実質的に支配していた物部王国の国号だったというのである。
それが、物部氏の没落後、大和朝廷によって取り上げられ、それまでの「倭《わ》」に代わって使われるようになったのだという。
「おそらくは……」
村長は妙にしみじみとした声でこう付け加えた。
「大和を追われ、科野の山奥に蘇我氏の厳しい詮索《せんさく》の目を逃れて隠れ住まざるをえなかった我がご先祖様は、過去の栄華をしのんでか、あるいは、いずれ、再び権力の座に返り咲くことを祈願してか、村に「日の本」という名前を付けたのでしょうなあ。……まあ、こんな山奥ですから、自慢できるものといえば、蕎麦《そば》と温泉くらいのもんですが、あの物部氏の末裔《まつえい》ということで、村人はみな誇りをもっておりますのじゃ……」
蕎麦……。
日登美は村の由来のことよりも、村長が何げなく口にした蕎麦という言葉が気にかかった。
「お蕎麦がおいしいんですか」
ついそう聞いてしまった。
「はあ、それはもう。ここの蕎麦は絶品ですわ。信州はもともと蕎麦所ですからな。戸隠《とがくし》蕎麦なんてのも有名ですが、わしに言わせりゃ、日の本村の蕎麦には遠く及びません。ここの蕎麦が信州一、うんにゃ、日の本一じゃて……わっははは」
村長のお国自慢を適当に聞き流しながら、日登美はふと思った。
伯母のタカ子の話では、徹三は若い頃、良い蕎麦粉を求めて、蕎麦所をあちこち旅して歩いたということだった。
そのとき、きっと、日の本村の蕎麦の噂《うわさ》をどこかで聞いて、こんな山奥まで足を延ばしたに違いない。そして、そこで巫女《みこ》だった母と運命的な出会いをしたのだ……。
「……あと、白玉温泉というのがありますのじゃ」
いっときも黙っていられない性分らしく、また村長が言った。
「これは、別名|日女《ひるめ》の湯とも言われて、日女様の肌《はだ》が神々《こうごう》しいばかりに白く美しいのは、この温泉を産湯《うぶゆ》にしているからだと言われております。どんな醜女《しこめ》でも、この湯に入れば、たちどころに、日女様のようなすべすべ肌の美人になれるというので、旅行案内にも載っていないようなちっぽけな村だというのに、どこで聞いたのか、時折、都会の若い女の子たちが群れをなして訪ねてくることもあるくらいでして……。
まあ、三日も滞在して、朝晩温泉に浸《つ》かっていれば、ニキビだらけの女の子も、多少は見られる御面相になって帰っていきますわ。とはいっても、さすがに、その昔、大神にその美しさを愛《め》でられたという日女様のようには逆立ちしてもなれませんがな、わははは」
「そういえば……」
日登美は、村長にというよりも、さきほどからずっと黙って助手席に座っている神聖二に向かって言った。
「その大神というのは一体……?」
聖二が奉職しているという古社では、一体どんな祭神を祀《まつ》っているのだろう。ふとそんな疑問がわいたのだ。
「天照《あまてらす》大神《おおみかみ》ですよ」
しかし、底抜けに陽気な声でそう応《こた》えたのは、村長だった。
「天照大神?」
日登美は不思議そうに聞き返した。
「天照大神って、あの……?」
日本神話では、八百万《やおよろず》の神々の最高位に君臨するといわれている太陽神のことだろうか。
「でも、天照大神って女の神様ではなかったかしら……」
日登美はつぶやくように言った。
前に聖二から聞いた話では、日女は、いわば「神の妻」だということだった。しかも、今、村長も、「大神にその美しさを愛でられた云々」という言い方をしていた。女神である天照大神が、同性である巫女を「妻」として愛でるというのは、どうも変な話のような気がするのだが……。
「天照大神は……」
そう言ったのは聖二だった。
「本当は男神なのですよ」
「天照大神が男神……?」
日登美はびっくりしたように言った。バックミラーを見ると、聖二がミラー越しに話しかけるように、こちらに顔を向けていた。
「本来、神道とは、日祀《ひまつ》り、すなわち日神を祀ることをいうのです。ですから、神道派の物部氏は当然日神を祀っていました。しかし、それは女神ではなかった。本来は男神だったのです。
そもそも、太陽神はその名からして、陽神、つまり男の神であることが多いんです。エジプトからインド、中国と世界的に見渡しても、おおむね太陽神は男神とされています。
二世紀後半頃、神武《じんむ》天皇が大和いりしたとき、そこは既に物部氏によって支配されており、日祀りが盛んに行われていたのです。その場所は、奈良の三輪山《みわやま》あたりだったと言われています。今もそこには大神《おおみわ》神社という古社があります。その大神神社の摂社と言われる檜原《ひばら》神社は元伊勢とも呼ばれ、天照大神の御神体が伊勢神宮に移る前は、そこにあったと言われている所です……」
ところが、神武に大和の覇権を奪われた物部氏は、そのとき、内物部と外物部に分裂したのだという。神武にくみするものはそのまま大和に残って内物部となり、まつろわぬものは大和を離れ、東北方面に新天地を求めて外物部になった。
「……大和に残った内物部は、新朝廷の配下にくだりながらも、日祀りの主催者としての絶大な権力は持っていたのです。ところが、さきほど村長が言ったように、六世紀頃になって、仏教をめぐって、新興勢力の蘇我氏との戦いが起こった。そして、その闘争に敗れた内物部は、大和からも撤退せざるをえなくなったのです……」
その後、いったんは権力の座についた蘇我氏だったが、歴史的事件としても名高い大化改新で、やはり神道派だった中臣《なかとみ》氏によって滅ぼされ、この中臣氏がのちに藤原と姓を変え、中央権力の座に着いたのだという。
「……藤原氏はまず、唐にならって、天皇を頂点とするゆるぎない中央集権国家『日本』を造りあげようとしました。それには、天皇の絶対化、つまり、天皇は日神の直系であるがゆえに貴いとする万世一系の神話が必要だったのです。この頃、古事記や日本書紀が編まれた背景にはこうした事情があったのですよ。
そして、この神話には、神武以前から大和を支配していた物部の伝承や神話も多く取り入れられました。ただ、藤原氏としては、せっかく没落してくれた物部氏が息を吹き返すのを恐れたのか、物部神話を採用するにあたり、そのまま使うのではなく、かなりの歪曲《わいきよく》を加えたのです……。
その一つが、最高神である日神のいわば性転換でした。物部が男神として祀っていた日神を女神ということにしてしまったのです。もっとも、これは、日神に仕えた巫女である日女を神にまで昇格させたといった方がより正確かもしれませんが。
これには、おそらく、時の天皇が持統《じとう》という女帝であったことが大きく影響していたのでしょう。最高神を女性ということにして、持統とダブらせることによって、持統天皇を神格化しようと目論んだのです。
さらに言うと、物部が天照大神として祀っていたのは、物部の神祖であるニギハヤヒノミコトであったとも言われています。このニギハヤヒノミコトは記紀にも登場していますが、その描写は殆《ほとん》ど印象に残らないほど短く冷淡なものです。
藤原氏は、この物部の神祖が日本の最高神として後々までも語り継がれ、日本国民に崇拝されることを何よりも恐れたのです。そのことによって、物部の力が蘇《よみがえ》ることを……」
「……天照大神が本来は男神であることを証明する記述は、実は、よく読めば、古事記や日本書紀の中にもちらちらと現れているのですよ」
聖二はなおも続けた。
「たとえば、天照大神の弟神とされる須佐之男命《すさのおのみこと》が母神の住む根の国に旅立つ前に、いとまごいをするために天照大神に会いにきたとき、日ごろから弟神の乱暴な性格を知っていた天照大神は、須佐之男が攻めてきたと勘違いして戦おうとする場面があります。ここで、天照大神は『髪を解いてみずらに結い、背には矢を千本もいれた武具を背負って、足を踏み鳴らし、雄叫《おたけ》びを上げて、須佐之男命を迎えた』というような描写がしてありますが、これなどは、まさに男の姿そのままです。『髪をみずらに結う』というのは男の髪形なのです。戦いを予感して、勇ましく男装されたのだというように解釈されていますが、もともとは、男神だった天照大神の姿をうっかりそのまま残してしまった箇所のようにも思われます。
それに、日本書紀の中には、やはり須佐之男命とのからみでこんな場面もあります。天照大神が機織《はたお》り場で神御衣《かむみそ》を織っていたときに、その天井を破って、須佐之男命が逆はぎにした馬の死体をほうり込んだというのです。神聖な機織り場を動物の不浄の血で汚したことを天照大神は怒って、この後、天の岩戸に閉じこもってしまうのですが、これもおかしいのですよ。
機織り場で神に着せるための衣を織るというのは、いわば神に仕える巫女《みこ》の役目なのです。最高神であるはずの天照大神が神御衣を織っていたということは、まるで天照大神の上にさらに別の神がいたように見えるではありませんか。
さすがにこの矛盾に気づいたのか、機織り場にいたのは、天照大神の妹であったとしたり、一機織女であったとする書もありますが、これなども、天照大神が本来は男神で、その神に着せるための衣を神妻たる日女《ひるめ》が織っていたとすべきところを、その日女を天照大神ということにしてしまったために生じた矛盾ではないかとも考えられるのです。
それに、天照大神が本来は男神で、しかも蛇体ではないかという疑惑は、かなり昔から、当の伊勢神宮関係者の間でも囁《ささや》かれ続けてきたことなんです」
「じゃたい?」
日登美は自分の耳を疑った。
「蛇ですよ。天照大神の本体は男の蛇ではないかというのです。それが、こともあろうに伊勢神宮に奉職する神官たちの間から出てきたというのです。『通海参詣記《つうかいさんけいき》』という書物によると、鎌倉《かまくら》時代の高僧、通海上人が伊勢に参詣したおり、伊勢神宮の関係者から妙な質問を受けたというのです。それは、『天照大神は男の蛇ではないか。その証拠に、斎宮の寝所には毎朝蛇の鱗《うろこ》が落ちている……』というものだったというのです。
もし、天照大神が女神だとすれば、斎宮の寝所に毎夜通うというのもおかしな話です。寝所に通うというのは、男神が神妻としての巫女《みこ》に会いに行くということですから。しかも、その寝所には蛇の鱗が落ちているというのです。
ただ、現実には、蛇は怪我《けが》か病気でもしない限り、移動するだけで鱗を落とすことはないそうですから、こんな話は根も葉もないデタラメだろうと言う人もいますが、確かに、この話そのものはあまり信用できないにしても、天照大神の本体が蛇であったということはデタラメでも何でもないことなんです。なぜなら、物部が祀《まつ》っていた日神とはまさに蛇体の神だったのですから……」
「……物部が奈良の三輪山で祀っていた日神は蛇の神様だったのです。いまでも、この三輪山の麓《ふもと》にある大神神社には、大物主《おおものぬし》という大蛇の神様が祀ってあります。この大物主のことは、記紀にも出てきます。たとえば、古事記では……」
崇神《すじん》天皇の時代に、疫病が蔓延《まんえん》し、多くの民が死に絶えた。それを憂えた天皇の夢枕《ゆめまくら》に、大物主大神が立ち現れ、「これは自分のしたことだ。オオタタネコという自分の子孫に祀らせれば、世は平らかに治まる」とのお告げがあった。疫病が神の祟《たた》りであることを知った崇神はさっそく、このオオタタネコという者を探し出し、大神を祀る神社の神主にしたところ、疫病はたちどころにやんだという。
このオオタタネコというのは、大物主大神と活玉依姫《いくたまよりひめ》という人間の女性との間に出来た、いわば神と人の混血児の子孫だったのだが、この者が大神の血筋と分かったのには、こんな逸話があった。
その昔、活玉依姫は一人の美しい男と出会い、夫婦の契りを結び、やがて懐妊した。ところが、夜しか訪れない婿の正体を怪しんだ姫の親に知恵をつけられて、姫は、夫の衣の裾《すそ》に麻糸を通した針を刺しておいた。
翌朝みると、その糸は、部屋の戸の鍵穴《かぎあな》を通り抜けて、三輪しか残っていなかった。糸の行方《ゆくえ》を辿っていくと、そこは神の社だったというのである。
こんなエピソードから、三輪という地名が付いたという。
「これは一種の神婚|譚《たん》ですが、これと似た話は、日本書紀の方にもあるのです……」
やはり、崇神天皇の時代、ヤマトトヒモモソ姫という女性が、若く美しい男と知り合い、夫婦の契りを結ぶ。しかし、夜しか訪れない夫の正体を怪しんだ姫は、ある日、夫に決して見てはいけないと言われていた櫛箱《くしばこ》の中を見てしまう。すると、そこには、美しい小さな蛇がいた。やがて、その蛇は巨大な大蛇となり、姫が自分の戒めに従わなかったことをなじって、三輪山の方角に消えてしまった。
夫の正体が三輪山の神であったことを知った姫は、悲しみのあまり、箸《はし》で自分の陰部をついて自殺してしまう。
檜原神社の近くにある箸墓という古墳はこの姫の墓だと伝えられている。また、この古墳は、邪馬台国《やまたいこく》の女王、卑弥呼《ひみこ》の墓であるとも言われているという。
「……この美男の婿殿が夜しか現れないというのは、この婿が日神であったことを表しているのです。昼間は太陽神として天空にいるので、夜しか人間の姿になれないというわけです。活玉依姫もヤマトトヒモモソ姫も、ともに三輪山の日神に仕える巫女だったのですよ。日女だったのです。
ヤマトトヒモモソ姫の箸で自らの陰部を突くという奇妙な自殺の仕方にしても、一説には、日神と巫女との契りを表す性的儀式のようなものがこのような説話になって残ったのではないかと言う人もいます……」
聖二はそう言った。
「つまり、天照大神の御神体が大和の三輪から伊勢に移された段階で、大和の大蛇神である大物主大神から日神の尊称は剥《は》ぎ取られてしまったのです。逆にいえば、天照大神の本体が蛇であるということが隠されてしまったということです。
しかし、こうしたいきさつを知る人々が後々までも密《ひそ》かに語り継ぎ、それが、時代を経て、通海上人が聞いたという、『アマテラスは男の蛇』という奇怪な噂《うわさ》を生み出すもとになったのではないかと思いますね。まさに火のないところに煙りはたたないのです。
それに、元伊勢と呼ばれる古社は、奈良以外にもあるのですが、例えば、あの天橋立《あまのはしだて》近くにある京都の籠《この》神社がそうです。ここの主祭神が天火明命《あめのほあかりのみこと》という、これまた蛇体の男神なのです。元伊勢ということで、女神の天照大神も合祀《ごうし》されているのですが、これはおそらく、時の権力の目を欺くための神社側のカムフラージュでしょう。あくまでもこの古社の主祭神は天火明命なのです。
この天火明命というのは、名前こそ違いますが、三輪山に祀られた神と同体の神と考えられるのです。京都のあのあたりにも、物部郷がありましたから、同じ神を祀ったとしても不思議はありません。
時にはニギハヤヒノミコトと呼ばれ、時には大物主と呼ばれ、時には天火明命と呼ばれても、本来は同じ蛇体の日神なのです。
そして、実は、この大神にはもう一つ名前があるのですよ。ニギハヤヒよりも大物主よりも天火明命よりも、もっと有名な名前です。日本神話に明るくない人でも、この名前くらいなら知っているであろうと思われるほど有名な、そして最も不名誉な……。
何という名前か分かりますか?」
そう聞かれても、日登美には想像もつかなかった。黙っていると、聖二はこう言った。
「ヤマタノオロチというのです」
「ヤマタノオロチって、あの出雲《いずも》神話の……?」
日登美は驚いたように言った。
「そうです。あのヤマタノオロチです」
ヤマタノオロチの話ならむろん知っている。小さい頃、子供向けに書かれた絵本か何かで読んだ記憶があった。
確かこんな話だった。
天界を追われた須佐之男命が出雲の国まで来ると、老夫婦が泣いている。理由を聞くと、毎年やってくる頭が八つに尾が八つもある大蛇《だいじや》の化け物に、かわいい娘が食べられてしまうのだという。娘は八人いたのだが、そのうち七人まで食べられてしまった。一人だけ残った娘もこのままでは大蛇に食べられてしまう。そう言って泣くのである。
それを聞いた須佐之男命は、そのヤマタノオロチを退治してやろうと老夫婦に約束する。そして、八つの酒壷《さかつぼ》を用意し、酒好きのヤマタノオロチが酒を飲み干して寝入ったすきに、その身体を剣でずたずたにして切り殺してしまう。
すると、オロチの尾の部分から立派な神剣が出てきた。天叢雲《あめのむらくも》の剣。後の草薙《くさなぎ》の剣である。須佐之男命は、それを、高天《たかま》が原《はら》に住む姉神の天照大神に献上して、自らは、助けた姫と結婚するという話である。
「……あのヤマタノオロチこそ、神の衣を剥ぎ取られ、魔物にまで貶《おとし》められた古代の太陽神の成れの果てなのです」
聖二は言った。
「日本書紀の一書には、ヤマタノオロチが怪物でも魔物でもなく、神であったことを表している描写があります。それは、須佐之男命がヤマタノオロチに八つの箱船に入った酒を飲ませるとき、『汝、其、貴き神なり。饗《みあえ》せざらんや』、すなわち、『あなたは貴い神なのでおもてなしをいたしましょう』と言っているのです。
それに、出雲地方では、古くから蛇を穀物神として尊び、祀る風習があります。神社のご神木に藁《わら》を蛇に見立てて巻き付け、これに供物や酒を捧《ささ》げるのです。これは現代に至っても続けられているのです。
蛇を神として尊ぶ風習のある土地で、蛇を殺す話が英雄|譚《たん》として言い伝えられるというのはなんとも奇妙な話です。しかも、出雲国風土記には、こんな大蛇の話はまったく出てこないのです。
おそらく、あのヤマタノオロチ伝説は、本来その地に根付いていた出雲伝承とはかなり違うのではないかと思われるのですよ。藤原氏によって日本神話に組み込まれるときに、かなり話が歪曲《わいきよく》されてしまったのではないかとも考えられるのです。
ヤマタノオロチとは、出雲の地で祀られていた日神だったのです。ヤマタノオロチを表現する言葉に、『赤かがちのような目』、いわば『真っ赤なほうずきのような目』というのが出てきますが、これなども明らかに天空に光り輝く赤い太陽の形を連想させます。
ヤマタノオロチの姿形というのは、記紀には、『その丈は、谷八つを越えるほど巨大で、苔《こけ》むした背中には檜《ひのき》や杉を生やし、腹は血でただれ、目は赤かがちのように輝いていた』と書かれているのですが、これは、檜や杉の生えた山脈の上に昇る太陽の姿、まさに日祀《ひまつ》りの光景そのものを描写したもののように思われます。
ヤマタノオロチに食べられてしまったという娘たちも、日神に仕えた日女《ひるめ》であったと推測されます。須佐之男命が助けたという稲田姫《いなだひめ》は、もともとは日神に仕える巫女《みこ》だったのでしょう。
それに、そもそも、このヤマタノオロチと須佐之男命の関係ですが、一般に知られた出雲神話では、須佐之男命はヤマタノオロチを殺した英雄ということになっていますが、果たしてそうだったのでしょうか。
実は、須佐之男命自身も蛇体の神と言われているのです。祇園《ぎおん》社の別名で有名な京都の八坂《やさか》神社では、須佐之男命は、仏教の牛頭天王《ごずてんのう》と習合されて祀られているのですが、この牛頭天王というのは、頭は牛で、その背中には黒い鱗《うろこ》が生えた蛇体と言われています。いわば竜神なのです。しかも、八坂神社の八坂という言葉には、八尺の意があり、長大な蛇を表しているというのです。
そう考えると、須佐之男命はヤマタノオロチの敵対者というよりも、むしろ、同族の者、いや、日神たる大蛇神を祀る神官だったのではないかと思われるのです。
というのも、須佐之男命がヤマタノオロチに対して行った行為、例えば酒壷《さかつぼ》を用意したり、その酒をのんで寝入ったオロチを剣でずたずたに切り刻んだという行為はすべて、日神を祀る神官としての儀礼的行為とも取れるからです。
オロチの身体をずたずたに切り刻むというのは、一見、残酷な殺戮《さつりく》的行為のように見えますが、実は、これは古い蛇を殺すことで新しい蛇を生み出す再生の儀式なのです。
もともと、蛇という生き物が神道において神聖視されたのは、脱皮によって生き続けていく不老不死的なイメージが、古代の人々を畏怖《いふ》させたからでしょう。ですから、古い蛇を殺すという行為はそのまま、新しい蛇を生み出すという行為にもつながるのです。けっして、退治する目的でずたずたに切り刻んだのではないのです。それはちょうど、春に新しい枝を芽生えさせるために、冬に古くなった枝を切り払う、あの剪定《せんてい》にも似た儀式だったのですよ。
それが、蛇への信仰が薄れていく過程で全く誤解されてしまったか、あるいは、蛇信仰が根幹にある神道を日本から一掃したいと願っていた人々の意図的な作為によって、全く逆の意味にすりかえられてしまったのです。
そして、さらに言えば、須佐之男命というのは、古来蛇体の日神を祀っていた物部氏そのものでもあったとも考えられるのです……」
「……須佐之男命というのは、日本神話の中でも、非常に複雑な二面性をもった神として描かれています。
高天が原にいたときは、姉神であり最高神たる天照大神の神経を逆なでするような反逆的な行為ばかりをする非道で乱暴な神として描かれているのですが、ひとたび天界を追放されて行き着いた出雲の国では、その地を荒らす怪物を退治し、その怪物の身体から出た神剣を天照大神に謹んで献上するような、忠実な弟神として描かれています。
この奇妙な二面性も、本来は全く違った部族の伝承を一つの神話にまとめようとしたために生じた矛盾だろうとする説もありますが、須佐之男命の持つこの二面性は、そのまま、当時の物部氏の二面性と重ね合わせることができるのです。
神武が大和の覇権を握ったとき、それまで大和を支配していた物部氏が内物部と外物部に分裂したと、さきほど話しましたが、須佐之男命には、この分裂した物部のそれぞれの姿が反映されているのです。
女神の天照大神を大和朝廷、須佐之男命を物部氏と想定すると、この両者の微妙な力関係が、さほど矛盾もなく理解できるのです。
高天が原にいたころの乱暴者の須佐之男命は、まさに、神武にくみすることを拒否して東北に新天地を求め、遠賀川沿いに新物部王国を築き、大和朝廷に反抗し続けた外物部の姿を彷彿《ほうふつ》とさせますし、出雲の国に下ってからの須佐之男命には、神武の配下として大和に残ることを選んだ内物部の姿が反映されているようです。
天照大神が自分にいとまごいにきた須佐之男命を、『攻めてきた』と勘違いして、いきなり武装して出迎える箇所などは、明らかに、何時反旗をひるがえして攻めてくるか分からない外物部に対する、朝廷側の不安と恐れが反映されているようにも思えます。
そして、須佐之男命が、切り殺したオロチの尾から出てきた神剣を天照大神に献上したというのは、まさに、大蛇神を祀っていた物部がその覇権を大和朝廷に譲り渡さざるを得なかった苦悩にみちた姿を象徴しているのです。
オロチの尾から出てきた神剣とは、まさしく覇王の印としての王剣だったのですから……」
「……須佐之男だけではありません。出雲神話のもう一つのハイライトである、あの大国主命の国譲り神話にしても、実は、大和朝廷と物部の闘争を暗に表しているようにも見えるのですよ。
記紀では、神武天皇が大和いりしたとき、既にそこには天界から天降《あまくだ》りしたニギハヤヒノミコトという天孫族の神がいて、その地の族長であるナガスネヒコという者の妹を妻に娶《めと》っていたのですが、神武に大和の覇権を要求されたニギハヤヒは、神武に逆らおうとするナガスネヒコを切り捨て、その覇権を神武に譲り渡したと書いてあります。
もっとも、物部伝承では、このとき、ナガスネヒコは密《ひそ》かに大和を逃れ、遠く東北まで逃げ延びたとされています。つまり、外物部とはこのナガスネヒコの子孫だというのです。
これは、ちょうど、大国主が天照大神からの使いの神に出雲の覇権を要求され、譲り渡した話によく似ています。
古事記によると、この国譲りのとき、大国主の子供の一人である事代主命《ことしろぬしのみこと》は、国譲りに賛成しますが、もう一人の子供であるタケミナカタノミコトは猛然と反対し、使いの神と力競べをします。結局、これに負けたタケミナカタは、出雲を追われ、遠く信州の諏訪《すわ》まで逃げ延び、追いかけてきた使いの神によって、その地に封印されるのです。今もなお、タケミナカタは、諏訪大社の上社のご祭神として祀られています。ちなみに、このタケミナカタも蛇神であると言われています。
実は、タケミナカタだけではありません。大国主にも蛇体説があるのです。大国主を主祭神として祀った出雲大社の御神体は三重にとぐろを巻いた海蛇だとされています。
そもそも、正月に日本人が神だなに供える鏡もちというのは、三重にとぐろを巻いた蛇の姿を模したものなのですよ。今でこそ、丸餅を三重に重ねるような形になっていますが、古くは、餅を細長く棒状に練って蛇に見立て、それを三重にしたものなのです。鏡もちという名も、本来は、カガというのは蛇の古語ですから、蛇身《かがみ》、つまり、蛇の身の餅という意味なのです。
ついでに言えば、あのしめ縄も、本来は、雌雄の蛇の交合の様を模したものと言われています。さらに、御幣は、蛇の鱗《うろこ》を模したものなのです。
蛇という概念は神道のいわば心臓部にあたるほど重要なものなのです。ですから、由緒正しい古社であればあるほど、蛇との縁が深く、蛇にまつわる何らかの伝説があるのは当然のことなのです。
そう考えれば、ヤマタノオロチの伝説を持ち、蛇を神として貴ぶ風習が古来からあった出雲で、蛇を祀った神社がないという方がよっぽど奇妙なのです。
これは、ないのではなく、あったことを権力側の思惑で巧みに隠蔽《いんぺい》されてしまったと言った方がいいと思うのです。
つまりは、出雲大社のご祭神も本来は蛇神だったのではないかということです。出雲も物部と縁のある土地ですから、物部によって、大蛇の神が祀られていたとしても不思議はありません。
実際、記紀には、大国主の荒魂《あらたま》が三輪山の神だという記述があります。ただし、これは逆ではないかと思いますね。三輪山の大蛇神が、出雲でも祀られていたのではないかと思うのです。さらに言ってしまえば、伝説の中ではおどろおどろしい怪物にまで貶《おとし》められてしまった、あのヤマタノオロチこそが、出雲大社の正統な主祭神であったとも考えられるわけです。
しかし、朝廷側にとっては、この事実は隠しておきたいことだったのです。由緒ある大社のご祭神が蛇だということは……。
だから、三輪山の日神を伊勢に移すときに、蛇神であることを隠してしまったように、大国主の場合も、因幡《いなば》の素兎《しろうさぎ》を助ける気の優しい大黒《だいこく》様の話などをかつぎだしてきて、真のご祭神の姿を隠蔽しようとしたのです。
これは神社側にとっても同じ思いだったでしょう。時代が移るごとに、日本人の蛇に対するイメージは畏怖《いふ》から嫌悪へと悪くなる一方ですから、そんな悪いイメージの蛇と神社とが根の部分で深くかかわっているという事実はあまり大っぴらにはしたくないことだったのかもしれません……」
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第四章
「……ここからは参道なので歩きましょう」
聖二がふいに言った。
蛇神の話に聞き入っていた日登美は、はっと我にかえった。
窓から外を見ると、山また山ばかりだった景色は、いつの間にか鄙《ひな》びた村落のある風景に変わっていた。
前方に古色蒼然《こしよくそうぜん》とした両部鳥居が見えてきた。その向こうには、うっそうとした杉林が続いている。
村長は車を鳥居の少し手前で停めた。
「春菜。起きなさい」
日登美は、自分の膝《ひざ》に頭をのせて眠ってしまっていた春菜を揺すぶって起こした。目を覚ました春菜は、寝ぼけたような顔であたりを見回していた。
車から降りた村長は、後部トランクに入れておいた日登美のスーツケースを出してくると、それを手渡しながら言った。
「いやあ、ここも年々過疎化が進んでましてな、若い衆はみんな都会へ出て行ってしまうんですが、それでも、祭りのときには必ず帰ってくるんですわ。それが、今年は耀子《ようこ》様があんなことになって、祭りは中止になるやもしれんと聞いて、みんながっかりしてましたんじゃ。わしの倅《せがれ》なども……」
さらに何か言いかけた村長を、聖二が、「太田さん。話なら明日の夜にでもゆっくり」と遮るように言った。
「ほい、そうじゃった。では、明日、あらためてお伺い致しますので」
太田村長は禿《は》げあがった額をぴしゃりと叩《たた》き、日登美と聖二に向かって深々と頭をさげると、そそくさと車に乗り込んだ。
やがて、村長のぽんこつ車は砂煙をたてて遠ざかって行った。
「明日の夜、村のおもだった人だけを招いて、あなたたちの歓迎会をうちで開くことになっているんです」
聖二はそう言うと、春菜を抱き上げた。
春菜は抱かれてもむずかるようなことはせず、安心しきった顔で親指をしゃぶっていた。行きの列車の中で、ずっと遊び相手になってくれたせいか、聖二にすっかりなついてしまったようだ。
まだ独身のようだが、そのわりには、小さな子供の扱いに慣れている様子だった。聞くと、幼い弟が七歳を頭に四人もいるのだという。一番下の弟は二歳になったばかりだとも言っていた。
「……本当に蛇みたいだわ」
日登美は鳥居の前までくると、それを見上げてふと呟《つぶや》いた。
「日の本神社」と書かれた額をいただく鳥居の貫木《ぬきぎ》には太いしめ縄が張られていたのだが、そのしめ縄は、明らかに頭にあたる部分と尾にあたる部分とに分かれており、まるで生きた大蛇が貫木に巻き付いているような生々しさがあった。
車の中で、この神社に祀《まつ》られているのが大蛇の神であると聞かされたせいか、日登美は微《かす》かに身震いした。
聖二には申し訳ないが、やはり、蛇は好きになれなかった。
「しめ縄というのは、ふつう、右を本、つまり頭として、左を末、つまり尾として張り巡らすのですが、ここでは逆になっているのですよ……」
聖二がそんなことを言った。
なるほど、見ると、頭と思われる部分が左側に来ていた。
「どうして、逆になっているのですか」
そう聞くと、聖二は、「さあ」というように首をかしげたが、
「よくは知りません。しめ縄というものが神域を示すものとして使われるようになった由来は記紀にも詳しく書かれているのですが……」
その故事によると、須佐之男命の乱暴な行いに怒った天照大神が天の岩戸に閉じこもってしまったとき、困った八百万《やおよろず》の神々は策略をもちいて、天照大神を岩戸から出そうとしたのだという。
やがて、神々の策略が功を奏して、天照大神は岩戸を開けて少し出てきた。このとき、一柱の神が、天照大神の手を取って外に引っ張り出し、もう一柱の神が、すかさず、尻久米縄《しりくめなわ》というものを、天照大神の後方、すなわち出てきた岩戸の入り口に張り巡らして、「この中へ還《かえ》ってはいけません」と言った。
これがしめ縄の由来だというのである。
「……しめ縄には、出入り禁止の意があるのですよ。ふつう、神社の鳥居や拝殿などに張られているしめ縄は、参拝客などに対して、ここからは神域であるからむやみに入ってはいけないという意が込められていると思うのですが、それが、本末逆に張られているということは、ひょっとしたら、祀られている神に対して、ここより外に出てはいけないという意が込められているのかもしれません。
つまり、それは、祀られている神が祟《たた》り神であることを暗に示しているとも考えられます……」
「祟り神?」
日登美はぎょっとしたように聞き返した。
「ええ。昔は、疫病や災害などが起こると、それが神の祟りであると考えられていたのですよ。さきほど話した三輪山の神もやはり、祟り神として恐れられていたのです。ちなみに、この神を祀る大神神社のしめ縄も、このように逆に張られているのです。そして、あの出雲大社でも……」
蛇神と聞いただけでも何やら薄気味悪いのに、その上、祟り神とまで聞かされて、日登美はいっそう気味悪くなった。思わず鳥肌のたった裸の腕をさすりながらあたりを見回した。
今、立っている場所は、空をも覆い隠すような背の高い杉が両脇《りようわき》に立ち並ぶ、昼なお暗い参道である。
蝉の声が降るように聞こえてくるだけで、あとはしんと静まりかえって物音ひとつしない。
空気も晩夏とは思えないほどひんやりとしていて、まさに信州の山奥の神域という厳《おごそ》かな雰囲気があった。
まっすぐ続いた参道をしばらく歩いて行くと、白衣に浅葱色《あさぎいろ》の袴《はかま》を着けた青年が参道を竹箒《たけぼうき》で掃き清めていた。
日登美たちの姿を見ると、箒を動かす手をとめて、深々とお辞儀をした。
「弟の雅彦です」
聖二は、その青年をそう紹介した。
間近で見ると、年の頃は二十二、三歳のその青年は、どことなく聖二に似た顔立ちの美青年だった。
白衣と袴の浅葱色が清潔なりりしさを醸し出している。
「日登美様。春菜様。お帰りなさいませ」
大学生くらいの年頃だろうが、今時の若者とは思えないような丁重な物腰で、青年はそう挨拶《あいさつ》した。
日登美は慌てて頭をさげた。
長野駅で太田村長に「様」付けで呼ばれたときも、その大仰さにいささかうろたえたものだが、従弟《いとこ》にあたる若者にまで同じような挨拶をされて、日登美はすっかり面食らっていた。
「聖兄さん。さっき武彦から電話があって、明日の夜までには帰ると言ってましたよ」
雅彦は、聖二の方を向きながら、こちらはいかにも身内に話すという気軽な口調でそう言った。
「光彦は? もう帰っているのか」
聖二も、日登美と話すときとは別人のようなぞんざいな口調で、弟に聞いた。
「光彦なら帰ってます」
雅彦はそう答えた。
「あの……」
日登美に一礼して、また参道を掃きはじめた雅彦を尻目にさっさと歩いて行く聖二に、日登美は声をかけた。
「何ですか?」
聖二は振り向いた。
「ずいぶん……ご兄弟が多いんですね」
確か、前に聞いた話では、聖二には姉と妹がおり、しかも列車の中では、四人の幼い弟がいるとも言っていた。そのうえ、今の短い会話から察するところ、雅彦以外にもあと二人弟がいるようだった。
「え?」
聖二は一瞬きょとんとしたが、すぐに口元に笑みを浮かべて、
「ああ、そうなんですよ。うちは十一人兄弟ですから」
と、こともなげに言い放った。
「十一人……」
さすがに呆《あき》れたように日登美は呟《つぶや》いた。
「九男二女なんですよ。あの雅彦は僕のすぐ下の弟で、去年東京の大学を出て帰ってきたんです。あと、あれの下に、武彦と光彦という弟がいます。武彦の方は今年大学を出て、長野市内の会社に勤めています。光彦はまだ大学生なんです。あともう一人、兄がいるのですが……」
聖二は歩きながら言った。
「本来なら長男である兄が父の跡を継ぐべきなのでしょうが、兄は神職を嫌って、今は東京で、サラリーマンをしているんです。しかたがないので、次男である僕が父の跡を継ぐことになったんですよ。田舎の神主なんて本当はあまり気がすすまなかったんですがね……」
聖二はそう言って苦笑した。
村には小学校と中学校があるが、あまり教育水準の高いものとはいえないので、神家の男の子供は、中学から上の教育はすべて東京に出て受けてくるのだという。
彼自身も、中学生のときから東京で暮らし、ある私立大学の経済を出たあと、国学院大学に編入して神道学を二年学び、郷里に帰ってきたのだと言った。
やがて、参道は三つ叉《また》に分かれていた。
前方には二の鳥居が見えた。
聖二は、まっすぐ行けばお社、左手に曲がれば宮司宅、右手に曲がれば天照《あまてらす》大権現《だいごんげん》を祀《まつ》る日の本寺があると言った。
「お寺もあるんですか」
日登美は右手の方角を何げなく見ながら聞いた。
「平安時代あたりに神仏の習合が行われた名残りです。まあ、神道だ仏教だと争っていたのは遠い昔の話ですからね。それに、寺といっても、代々、神家の血筋の者が住職を務める神宮寺ですし、天照大権現というのも、天照大神の仏教的な呼び名にすぎません。村には旅館といえるものが一軒しかないので、ふらりと訪ねてきた観光客などを泊める旅館代わりにもなっています。あそこの住職が蕎麦打《そばう》ちの名人なのですよ……」
聖二の話を聞きながら、日登美はふと思った。もしかしたら、昔、ここを訪ねてきた父も、その寺に泊まったのかもしれない……。
すたすたと左手の道を行く聖二のあとに付き従いながら、なんとなく後ろ髪を引かれる思いで、日登美はその寺があるという方角を振り返った。
左の道をしばらく行くと、涼しげな葦《あし》のすだれのずらりと並んだ重厚な構えの日本家屋が見えてきた。神家の住居らしかった。どっしりとした古い屋根瓦《やねがわら》の趣といい、かなりの旧家のようだった。
聖二は玄関の前で抱いていた春菜をおろすと、戸を開けた。広い三和土《たたき》に立って、「ただ今、帰りました」と奥に声をかけた。
すると、その声に応《こた》えるように、奥の方から、一人の女性が走り出てきた。年の頃は、五十代後半といったところで、小柄で痩《や》せこけており、割烹着《かつぽうぎ》姿のままだった。
「お帰りなさいませ」
その女性は頭に被《かぶ》っていた手ぬぐいを毟《むし》り取るようにしてはずすと、上がりかまちに両手をつき、深々と頭を下げた。
「母の信江です」
聖二はそう紹介した。
日登美も挨拶を返していると、奥の方から、もう一人、初老の男性が足早に出てきた。
こちらは六十前後の年頃で、頭には白いものが混じっている。やや腹の突き出た大柄な体躯《たいく》に白衣と浅葱の袴を着けていた。
「これはこれは、日登美様、春菜様……。よくぞお帰りくださいました」
聖二の母同様、上がりかまちのところに袴の膝《ひざ》を折り、両手をついて頭をさげる。
「父の琢磨です」
聖二はそう言った。
「く、倉橋日登美です。お世話になります……」
日登美は、宮司夫妻のこの丁重きわまる出迎えに、またもやどぎまぎしながら、ぎこちなく頭をさげた。
この人が母の兄にあたる人なのか……。
そう思うと、胸がふいに熱くなった。
神琢磨の顔には、頬《ほお》や目の下に染みやたるみはできているものの、若い頃は、聖二のような美青年だったのだろうと思わせるものがかろうじて残っていた。
「さぞお疲れでしたろう。おい、風呂《ふろ》は沸いているのか」
神琢磨はかたわらの妻にどなりつけるような口調で言った。
「あ、はい。支度はできております」
宮司の妻はかしこまったままそう応えた。
「ささ、どうぞ、おあがりください、日登美様」
立ち上がった琢磨は、日登美の手からスーツケースを奪うように取ると、それを妻に押し付けた。
「何をぼけっとしておる。早くお部屋にご案内しないか」
またもや妻に向かってどなりつけた。
「は、はい」
宮司の妻は、スーツケースをさげると、まるで旅館の仲居のような物腰で、日登美に向かって、「こちらでございます」と先を促した。
いつのまにか、四人の幼い男の子たちが物珍しげな顔で集まっていた。いずれも、女の子のような奇麗な顔立ちの子供ばかりだった。聖二の弟たちに違いない。
「あっちへ行ってなさい」
神信江は、子供たちを蹴散《けち》らかすようにしっしと手を振った。
すると、四人の子供たちは、蜘蛛《くも》の子を散らすように散ったが、立ち去りはせず、太い柱の陰から、かたまってじっと日登美たちを眺めていた。
春菜も同年配の子供たちの存在が気になるらしく、男の子たちの方をしきりに振り返っている。
日登美はそんな春菜の手をひいて、神信江の後に続いた。玄関から奥に続く薄暗い廊下は鏡のように磨き抜かれており、その長い廊下を何度も曲がって、辿《たど》りついたのは、日当たりの良い八畳ほどの和室だった。
壁の掛け軸や、文机《ふづくえ》などの調度品はかなり古びてはいたが、畳だけは、最近張り替えたばかりらしく、青々として、イグサの良い香りがぷんとした。
葦のすだれが微風に揺れる縁側では、色|硝子《ガラス》の風鈴が涼しい音色をたてている。
「ただ今、お茶をお持ち致しますので」
信江は、スーツケースを部屋の隅に置くと、そう言い残して、足早に消えた。
そのとき、ふと鈴の音を聞いたような気がした。最初は風鈴の音かと思ったが、違うようだ。りんりんという鈴の音色は、ある一定のリズムを持って、外から聞こえてくる。
日登美は窓を開け放したままの縁側に出てみた。
すると、庭を挟んで、向かいの部屋に人影が動くのを見た。
女性のようだ。
腰の下までありそうな長い黒髪をひとつに結んでたらし、白衣に濃い紫色の袴を着けた若い女性が、両手に鈴を持ち、舞のようなものを一人で舞っていた。
黒髪の陰からちらりと見えた横顔が青白く臈《ろう》たけて、息を呑《の》むほど美しい。
あれが、聖二の姉という人だろうか。
日女《ひるめ》とかいう……。
白衣に紫の袴という巫女《みこ》のようないで立ちに、日登美はふとそう思った。
背後で足音がしたかと思うと、信江が茶菓を載せた盆を持って入ってきた。
日登美は、信江の方を振り向いた。
「あの方は……?」
目で向かいの部屋の方を指し示すと、茶をいれていた信江は、そちらの方をちらりと見やり、
「ああ、あの方なら耀子様でございますよ」と言った。
耀子様?
まさか、自分の娘を「様」付けで呼ぶはずはないから、聖二の姉ではないのだろうか。しかし、太田村長が別れ際に、「耀子様があんなことになって……」と言っていたことを思い出した。
日登美はいぶかしく思い、それ以上聞こうとしたとき、聖二が部屋に入ってきた。
聖二が入ってきたのとすれ違いに、信江は空になった盆を持って、そそくさと出て行った。
聖二は両手に何やら装束《しようぞく》のようなものを抱えていた。
「この廊下をまっすぐ行った突き当たりに湯殿《ゆどの》があります。そこで一汗流したら、これに着替えていただけませんか。お疲れのところ申し訳ありませんが、お社の方にご挨拶に行かねばなりませんので」
畳に膝を折り、抱えていた装束のようなものを日登美の方に差し出すと、聖二はそう言った。
見ると、それは白衣に濃い紫色の袴の一式だった。
向かいの部屋の女性が着ていた装束と同じもののように見える。
「あの、聖二さん……」
日登美は思わず言った。
「はい?」
聖二は二重の涼しい目を見開いて、日登美の顔をまっすぐ見た。
「向かいのお部屋にいる方は……?」
そう尋ねると、聖二は、ちらと外に目を遣《や》り、「姉です」と即座に応えた。
「耀子さんとおっしゃる……?」
重ねて聞くと、聖二は頷《うなず》いた。
「でも、さっき、信江さんは、あの方のことを『耀子様』とまるで……」
そう言いかけると、聖二は、質問の意味を察したらしく、すぐにこう言った。
「前にも話したと思いますが、この村では日女様は特別な存在なのです。それは神家の者にとっても同じです。うちでは、日女様のことは、たとえ自分の娘であろうと妹であろうと、『様』を付けて敬語で話す習わしがあるのですよ。ですから、僕も、これからは、あなたのことを、『日登美様』と呼ばせていただきます。慣れないうちは少々気恥ずかしいでしょうが、なに、そのうちすぐに慣れますよ……」
そういうことだったのか。
だから、村長や宮司夫妻ですら、自分に対して、妙に物々しいしもべのような口のききかたをしたのだ。
日登美はようやく合点がいく思いがした。
「それでは、あとでお迎えにあがります」
そう言って、聖二が立ち上がりかけたとき、廊下側の襖《ふすま》の陰からくすくすと子供の笑う声が聞こえてきた。
見ると、幼い男の子が二人、襖の陰から小リスのように顔を覗《のぞ》かせていた。さきほどの子供たちだった。
「二人とも隠れていないで、日登美様と春菜様にちゃんとご挨拶しなさい」
聖二が後ろを振り向いてそう言うと、二人はもじもじしながら中に入ってきた。
「七男の翔太郎とその下の郁馬です」
聖二は弟たちを紹介した。
子供たちは畳に紅葉《もみじ》のような小さな手をついてぺこんとお辞儀をした。
「お幾つ?」
二人の仕草の可愛《かわい》らしさに微笑みながら、日登美が尋ねると、翔太郎は、「五歳」と口で答え、郁馬は、「三歳」というように指を三本たててみせた。
五歳といえば、ちょうど歩と同じだ……。
日登美は、翔太郎のあどけない顔に、亡くなった長男の顔を重ね合わせ、ようやくかさぶたになりはじめていた傷口を掻《か》き毟《むし》られるような思いがした。
しかし、その思いをあえて封印し、
「郁馬ちゃんは春菜と同い年なのね。仲良くしてね」
そう言うと、郁馬は春菜の方を見て、照れたようにうふふと笑った。春菜も、興味しんしんという顔で、二人の方を見つめている。
「一緒に……あそぼ」
郁馬がたどたどしい口調で言った。
「うん!」
春菜は嬉《うれ》しそうに立ち上がった。
「春菜様は日女様になられるお方だ。二人ともそそうのないように気をつけるんだぞ」
聖二が釘《くぎ》をさすように言った。
「はい」
弟たちは元気よく答えると、春菜と手をつないで出て行った。
わあっという子供のかん高い泣き声が聞こえてきたのは、日登美が湯殿からあがって、部屋に戻り、聖二から渡された装束を身につけようとしていたときだった。
春菜の声に似ていた。
何事かと、日登美は慌てて部屋の外に出た。
泣き声は、廊下沿いの部屋から聞こえてきた。
行ってみると、四畳半ほどの和室の真ん中で、春菜が顔を真っ赤にして泣きわめいていた。そのそばで、郁馬が、ブリキのロボットを両手で抱き締めるようにして、こちらも半べそをかいている。
二人の間で、翔太郎が困ったような顔で突っ立っていた。
「……どうしたの?」
日登美が聞くと、春菜は、「あの子がぶったあ」と、郁馬の方を指さして訴えた。郁馬は涙目で春菜を睨《にら》みつけている。
「春菜ちゃんが、郁馬のロボットに触って足とっちゃったから……」
弟の代弁をするように、小さな声でそう説明したのは翔太郎だった。
見ると、確かに、郁馬が大事そうに抱き締めているロボットの片足が取れて転がっていた。
徹三や秀男に甘やかされて育ったせいか、春菜には、女の子にしては幾分粗暴で、我がままなところがあった。
「ごめんね、郁馬ちゃん。おばさんが後でロボットの足なおしてあげるから」
玩具をめぐるたわいもない子供の喧嘩《けんか》だと分かって、日登美はほっと胸をなでおろすと、郁馬にむかって優しく言った。
郁馬は、涙目のまま日登美を見上げていたが、ふいにその目が脅えたような色を帯びた。
しかし、その目は日登美ではなく日登美の背後に向けられていた。
振り向くと、声を聞き付けて駆けつけてきたらしい聖二がそこに立っていた。
白衣に浅葱《あさぎ》の袴《はかま》姿になっていた。
無表情で郁馬を見下ろしていた聖二は、つかつかと部屋の中に入ってくると、いきなり、ものもいわずに、弟の顔を平手で二度ほど殴りつけた。
ばしっばしっと鋭い音がして、郁馬の両頬《りようほお》が真っ赤になるほど、それは容赦のない往復ビンタだった。
郁馬は火がついたように泣き出した。翔太郎の方も自分が殴られたように脅えて立ちすくんでいる。
春菜も泣くのをやめてぽかんとしていた。
「ちょ、ちょっと待ってください。悪いのは春菜の方みたいなんです。郁馬ちゃんの玩具を壊してしまったらしくて……」
日登美は、これまで物静かに見えた聖二が、幼い弟に加えたこの突然の暴力にびっくりしながら、慌てて止めに入った。
「喧嘩の原因はどうでもいいんです。なんであれ、日女《ひるめ》様に手をあげるとは……」
聖二は日登美に向かってそう言い、声をあげて泣いている郁馬の襟髪《えりがみ》を片手でむんずとつかむと、「ちょっと来い」と言って、部屋から引きずり出した。
郁馬は、足をばたつかせ泣きわめきながら、廊下を兄に引きずられて行った。
その廊下には、二歳ほどの幼児を抱いた信江の姿もあったのだが、おろおろとするだけで、聖二を止めようとはしなかった。
しばらくすると、どこからか子供の悲鳴が断続的に聞こえてきた。郁馬の声のようだった。
折檻《せつかん》でもされているようだった。
聖二が何事もなかったような顔で戻ってきたのは、それから二十分ほどしてからだった。
「郁馬にはよく言ってきかせましたから、もう二度とあんなことはいたしません」
微笑すら浮かべてそんなことを言った。「よく言ってきかせた」とは言っているが、口で叱《しか》ったわけではないことは、耳を覆いたくなるような、あの子供の悲鳴を聞けば、いやでも想像がつく。
「な、何もあんな小さな子にあそこまでしなくても……」
日登美が聖二のおとなげなさを責めるように言うと、
「ここでは日女様が絶対の存在であることを子供のうちから知っておかなければならないのです……」
聖二は涼しい顔でそう答えた。
あたりには、既に夕暮れの気配が漂いはじめていた。
白衣に濃紫の袴《はかま》に着替えた日登美は、聖二の後について、社に続く二の鳥居をくぐった。
袴など着けるのは、短大の卒業式以来だった。しかし、不思議なことに、こんな着慣れないものを身に着けても、それほど違和感はなかった。違和感どころか、むしろ、本来の自分に生まれ変わったような清々《すがすが》しささえ感じていた。
そういえば、成人式も短大の卒業式も、振り袖を選ぶ級友たちが多いなかで、日登美は迷わず袴の方を選んだ。誰にいわれたわけでもないのに、そうするのが当然だと思ったのだ。
今から思えば、もの心ついたときから髪を伸ばしてきたのも、式典などに出席するとき、振り袖ではなく袴を選んだのも、いつか聖二に言われたように、自分の血の中に眠っていた日女《ひるめ》の血がそうさせたものだったのかもしれない。ふとそんな気さえした。
二の鳥居をくぐって、またしばらく参道を歩いて行くと、やがて、古びた拝殿が見えてきた。聖二の話では、日の本神社には本殿はなく、社の背後に聳《そび》える山が御神体なのだということだった。
山は鏡山といい、現在では鏡という字を当ててはいるが、古くは、蛇身と書き、その美しいピラミッド型の形状が、ちょうど三重にとぐろを巻いた巨大な蛇の姿に似ていることから、この名がついたのだという。
聖二がまず拝殿に参拝した。まず一礼し、四度|柏手《かしわで》を打ち、さらに一礼する。冴《さ》えた柏手の音が静まり返った境内に響いた。日登美もそれを真似て同じことをした。
「……それでは、大日女《おおひるめ》様にご挨拶《あいさつ》に行きましょう」
拝殿への挨拶を終えてそのまま帰るのかと思ったら、聖二はそう言い、社の右手にある小道の方にすたすたと歩いて行った。
この小道を行った先に、大日女と若日女たちが棲《す》む住居があるのだという。大日女に直接お目通りがかなうのは、神家の神職につく者だけだと聖二は言った。村人たちが大日女の姿を見ることができるのは、年に一度の祭りのときだけなのだという。
杉木立の中にぽつんと家屋があった。その家屋に近づいて行くと、玄関から一人の少女が出てきた。やはり白衣に紫色の袴を着けている。長い黒髪を後ろで一つに束ねた美しい少女だった。
ただ、その抜けるように白い、あどけなさの残る顔には、まるで泣いたあとのような腫《は》れぼったさがあった。
「……真帆様。どうかされたんですか」
聖二も少女の様子に気づいたらしく、顔を覗《のぞ》きこむようにして尋ねた。
「なんでもありません」
しかし、少女は顔を背けるようにして、小さな声でそう答えると、聖二たちを避けるようにして社の方に行ってしまった。
聖二はやや心配そうに少女を振り返って見ていたが、すぐに気を取り直したように、家屋の玄関の戸を開けた。
三和土《たたき》に立ち、薄暗い奥に向かって、「聖二です。日登美様をお連れしました」と声をかけると、すぐに、奥から袴姿の女性が出てきた。こちらは幾分年かさで、二十代後半くらいに見えた。
「ご苦労さまでした。大日女様がさきほどからお待ちかねです。どうぞおあがりください」
女性は奥に差し招いた。
「澄子様……」
聖二は履物を脱いであがると、その女性に近づき、
「今そこで真帆様にお会いしたのですが、どうかされたんですか。泣いていらしたように見えましたが」と言った。
「それが……」
女性は眉《まゆ》をよせ、聖二の耳に何か囁《ささや》くように耳打ちした。それを聴いていた聖二の顔が一瞬険しくなった。
「そんな……真帆様はまだ十歳になられたばかりでしょう?」
愕然《がくぜん》としたように言う。
「あの娘は少し早く来てしまったようです。さきほど、気が付いて……。わたしが手当してさしあげたのですけれど」
「それは……」
聖二は考えこむような顔になった。
「困ったことになりましたね……」
「そうなのです。そのことで、大日女様があとであなたにお話があるそうです」
「分かりました……」
聖二は思案顔で頷《うなず》いた。
「澄子」と呼ばれた若日女と何やら密談めいたことをしたあと、聖二は日登美を促して、奥の部屋に入った。
その部屋の、床の間のような一段高くなった場所に、その女性は座っていた。
純白の上衣に純白の袴。
何もかも白ずくめの中で、床を這《は》うほどに長い髪だけが黒い。しかし、その髪にもわずかに白い筋が走っている。
年の頃はにわかには判断しがたい容貌《ようぼう》だった。美しいが、若くはなかった。見ようによっては三十そこそこにも見えるし、既に六十を過ぎているようにも見える。
身体つきは、まるで子供のように華奢《きやしや》で小柄だったが、その白ずくめの身体からは、近寄りがたい威厳のオーラのようなものを発散していた。
これが大日女と呼ばれる女性だった。
聖二は、大日女の前に袴の膝《ひざ》を折ると、畳に両手をついて、深々と頭をさげた。
日登美も同じしぐさをした。
それは、聖二のしぐさを真似たというよりも、目の前の女性の厳しい雰囲気に圧倒されて、思わず跪《ひざまず》いてしまったという風だった。
「日登美……顔をあげなさい」
大日女の声が頭上からした。
日登美はおそるおそる顔をあげた。
聖二はまだ頭をたれたままだった。
「ああ……ほんとうに緋佐子によく似ていること……」
日登美の顔を見つめながら、大日女が小さく呟《つぶや》いた。その能面のように白く無表情だった顔に、僅《わずか》に人間的な感情のうねりが走ったように見えた。
「あのときの赤子がこんなに大きくなって……」
大日女は遠い昔を思い出すような目になって、なおも独り言のように呟いていたが、すぐに、その顔から人間的な表情は拭《ぬぐ》ったように消えた。
「緋佐子は……おまえの母は、大神に仕える日女として最も恥ずべき罪を犯した」
大日女の口から出た言葉は、日登美を鞭《むち》で打ちのめすような厳しいものだった。
「日女が大神へのご奉仕を放棄し、勝手にこの村を出るなど、けっして許されることではない。しかも、緋佐子の罪はそれだけではない。よりにもよって、若日女として大神に捧《ささ》げるはずだった赤子を連れて逃げるなど……」
日登美ははっと息をのんだ。
「若日女として大神に捧げるはずだった赤子」というのは自分のことだと察したからだった。
神家に生まれた女児は、生まれ落ちると同時に、大日女の託宣によって、若日女に選ばれることもあると、以前、聖二から聞いた話を思い出していた。
若日女に選ばれた女児は、親元から引き離され、大日女のもとで真性の巫女《みこ》となるべく養育されるのだとも……。
自分は生まれ落ちた瞬間から、その若日女として生きるよう定められていたのだ。
「……大神に背いた緋佐子の罪はどう償っても償い切れるものではない。しかし……」
大日女の峻厳《しゆんげん》な顔が僅かに和らいだ。
「大神にお伺いをたてたところ、我が印を与えた子を生んだ女ゆえに、その罪を特別に許すとおっしゃっておられる……」
我が印を与えた子?
一瞬、日登美は自分の耳を疑った。
それはどういうことだろうか。
わたしのことを言っているのだろうか。それとも……。
大日女に聞きただしたい気もしたが、この場でそれを口に出す勇気はなかった。
「……もし、おまえがこれから母の分まで心をこめて大神にお仕えすれば、おまえの母の罪も祓《はら》われ大神のご寵愛《ちようあい》はますます深いものになるだろう。だが、もし、おまえもまた大神のお心に背くようなことがあれば、今度こそ、いかに寛大な大神とてお許しにはなるまい……。ゆめゆめ、そのことを忘れるな」
それだけ言うと、大日女は、日登美に向かって「さがれ」というしぐさをした。そして、まだ頭をさげたままでいる聖二の方に向かって、
「聖二。話がある……」と言った。
「はい」
聖二はかしこまってそう答えると、ようやく頭をあげた。
大日女と話があるという聖二を残して、一足先に一人で宮司宅に戻ってきた日登美は、部屋に置いてきた春菜の姿が見えないのに気がついた。
うろうろと探していると、廊下を夕餉《ゆうげ》の膳のようなものを抱えて、足早にやってきた信江にでくわした。
「あの、春菜は……?」
そう尋ねると、
「春菜様なら、さきほどから郁馬たちと一緒に耀子様のお部屋にいらっしゃいます」
信江はそう答えた。
ああ、あの方の……。
日登美は、さきほどちらりと見かけた耀子の臈《ろう》たけた白い横顔を思い出した。
さっそく、耀子の部屋まで行ってみると、開け放したままの襖《ふすま》の向こうから、子供たちのきゃっきゃっという賑《にぎ》やかな笑い声が聞こえてきた。
「失礼します」
そう声をかけて、覗《のぞ》いてみると、そこには、紫の袴《はかま》姿の耀子を取り囲むようにして小さな子供たちが集まっていた。その中には春菜の姿もあった。
トランプをして遊んでいたらしい。
「あ、ママだ……」
日登美に気が付いた春菜が歓声をあげた。うつむいていた耀子が顔をあげ、日登美にむかって軽く頭をさげた。
「お邪魔してすみません……」
そう言うと、耀子は微笑した。
聖二の姉というのだから、年は、少なくとも聖二よりは上のはずなのだが、白衣と紫の袴姿のほっそりとした姿は、まるで少女のような印象だった。
病《や》み上がりということもあってか、顔色は白いというよりも青白い。その静脈が透けて見えるような青白さが、まるで蜉蝣《かげろう》のようなはかない美しさをその姿に与えていた。
「あの、倉橋日登美です」
耀子にはまだ挨拶《あいさつ》していなかったことに気づいた日登美は、慌てて畳に膝《ひざ》をつき、頭をさげた。
「耀子です」
耀子の方も言葉すくなにそう言った。
そのとき、廊下の方から足音がして、一人の青年が現れた。その顔を見て、一瞬、参道で出会った聖二の弟の雅彦かと思ったが、よく見ると違う。似ていたが、こちらの方が幾分若い。それに、Tシャツにジーンズという今どきの若者らしい格好をしていた。
「弟の光彦です」
耀子がそう紹介した。
光彦と呼ばれた青年は、日登美に向かって一礼すると、
「さあ、今度お風呂にはいるのは誰だ」と子供たちに向かって陽気な声で言った。
「ぼく、ぼく」
翔太郎と郁馬が争うように手をあげる。春菜まで一緒になって手をあげていた。
「よおし、それじゃ、まとめてみんな面倒みてやろう」
光彦はそう言うと、三人の子供をひきつれて部屋を出て行った。郁馬と春菜は仲良く手をつないでいた。二人ともさきほどの騒動のことなどけろりと忘れたような顔をしていた。
それを見て、日登美はほっとした。
あんな理不尽な叱《しか》られ方をして、幼い郁馬の心に傷でもつかないかと少なからず心配していたからだ。
今の郁馬の様子を見ると、その心配は杞憂《きゆう》に終わったようだ。
「ご兄弟が多いと賑やかで楽しそうですね」
日登美は微笑しながら耀子に言った。
「ええ……」
耀子も子供たちの去った方を名残りおしそうに見やりながら微笑んだ。
幼い弟たちが可愛《かわい》くてたまらないという表情だった。
日登美は、なんとなくこの従姉《いとこ》になつかしさのようなものを感じた。そのたおやかな姿形が、前に聖二に見せて貰《もら》った写真に写っていた母の若い頃にどことなく似ていたせいかもしれなかった。
「さきほど、大日女様にお目にかかってきました……」
思い切ってそう言うと、耀子の口元から微笑が消えた。
「あの……耀子さんは、わたしの母のことを何かご存じですか?」
そう尋ねると、耀子は小首をかしげ、
「緋佐子様のことはおぼろげにしかおぼえていないのよ。あの方がここからいなくなったのは、わたしがまだ三つかそこらのときだったから。でも、あなたが生まれたときのことは、かすかにおぼえているわ……」
と言った。
「わたしはこの家で生まれたのですか」
日登美は重ねて聞いた。
「もちろんそうよ。日女はこの家で出産するのよ。お産婆さんの手を借りて……」
そう答えた耀子の表情が心なしか曇った。
日登美は、耀子の病名が子宮ガンであったことを思い出した。聖二の話では、手術は成功したということだったが、その手術というのは、もしかしたら、子宮の摘出ではなかったのかと思い当たった。
この人は、一人も子供を生まないままに子宮を失ってしまったのだ……。
同性として、痛ましい気持ちで耀子を見つめながら、日登美はさらに尋ねた。
「母は……どうして生まれたばかりのわたしを連れて、この村を出たのでしょうか」
「それは……」
耀子は言葉を探すように、しばらく視線をあたりに漂わせていたが、やがてこう言った。
「あなたを救《たす》けたかったからではないかしら」
「救ける?」
日登美は思わず聞き返した。
「あ、いえ、救けるというか、手放したくなかったのよ」
耀子はすぐにそう言い直した。
「あなたは、生まれたとき、大日女様の託宣で若日女に選ばれたのよ。若日女に選ばれるということは、大日女様の下に預けられて、そこで養育されるということなの。緋佐子様はきっとあなたが可愛かったのね。ご自分の手で育てたかったのよ。でも、この村では大日女様のお言葉は絶対なの。誰も逆らうことなどできないのよ。それで、思い余って、あんなことを……」
耀子はため息をつくような声で言った。
「あの……大日女様は、わたしのことを『大神から印を与えられた子』という言い方をされたのですが、印というのはどういう意味なのでしょうか」
日登美はそう聞いてみた。
「え?」
耀子は一瞬わけがわからないという顔で日登美を見つめた。
日登美は、大日女から言われた言葉を思い出すままに耀子に伝えた。
「……それはあなたのことではないわ」
しかし、しばらく沈黙したあと、耀子はそう答えた。
「それでは、母はわたし以外にも子供を生んでいたということなのですか? わたしには兄弟がいるんですか」
日登美は詰め寄るようにして尋ねた。
「あなた……そのことで聖二さんから何も聞いてないの?」
今度は耀子の方が驚いたように聞き返した。
「え……」
日登美は言うべき言葉を失い、ただ耀子の顔を見つめるしかなかった。
「ねえ、日登美さん。この家がどうしてこんなに子沢山なのかご存じ?」
耀子は、やや悪戯《いたずら》っぽい表情で、ふいにそんなことを言い出した。
「…………」
日登美に答えられるはずがなかった。やや皮肉めいた言い方をすれば、よほど宮司夫妻が産児制限というものに無関心だったのだろうとしか言えない。
「一番下の弟は二歳になったばかりなの。信江さん、いえ、母は、来年還暦を迎えるような年なのよ。まさか、あの母が生んだとは思わないでしょう?」
耀子はそう言った。
確かに、それはなんとなく奇妙に思っていたことではあった。
廊下で二歳ほどの幼児を抱いておろおろしている信江をみかけたとき、その姿は母親というよりも、まるで孫を抱く祖母のように見えたものだ。
女性が閉経を迎えるのは、おおむね、五十歳前後と聞いたことがある。そう考えると、五十代後半に見える信江が、二歳の幼児の母親というのは、なんとなく奇妙だった。
しかし、それは、信江が見た目よりも若いのかもしれないし、女性の閉経期には個人差があるから、遅い女性もいるのだろうくらいにしか思わなかったのだ。
「それと、さっきここにいた子たち、翔太郎や郁馬も母の子供ではないわ。いいえ、幼い子たちだけじゃないわ。光彦もわたしも聖二も母が生んだ子供ではないのよ……」
耀子はさらにそんなことを言い出した。
「え……」
日登美はさすがにびっくりして目を見張った。
幼い子供たちだけならともかく、聖二や耀子まで信江の子ではないとは……。
「母が実際に自分のおなかを痛めて生んだのは一人しかいないのよ。わたしの兄にあたる長男だけ。もっとも、兄といっても、わたしと同い年だけれど。あとの子はみな戸籍上の子供にすぎないわ」
「それは一体……」
日登美はそう言ったきり、次の言葉が出てこなかった。
「わたしたちはね」
耀子は不思議な微笑を湛《たた》えながら言った。
「みんな、日女《ひるめ》の子なのよ……」
日女の子……。
日登美はその言葉を頭の中で反芻《はんすう》した。
「……わたしの本当の母親は、夕希子と言って、父の妹にあたる人なの。もう亡くなったのだけれど……」
聖二のすぐ下の三人の弟たち、すなわち雅彦、武彦、光彦も、この夕希子という女性が生んだ子供なのだと、耀子は言った。
そういえば、母の緋佐子がこの村を出奔したあと、「父のもう一人の妹」が日女だったと聖二が言っていたことを日登美は思い出した。
「ということは、その夕希子さんという方は、わたしの母の……」
日登美がそう言いかけると、耀子はにっこり笑って、
「姉にあたるのよ。だから、わたしたちは、本当に従姉妹《いとこ》同士になるわけ……」
「それじゃ、あの、郁馬ちゃんや翔太郎ちゃんの実の母親というのは……?」
日登美ははっとして言った。
その夕希子という人が既に亡くなっていたとすれば、あと日女といえるのは……。
「わたしよ」
耀子は悪びれる風もなく、さらりとした口調でそう言った。
「翔太郎も郁馬もわたしが生んだのよ。本当は弟ではないわ」
ああ、それで……。
日登美は、さきほどちらと垣間《かいま》見た、幼い子供たちを見る耀子の優しいまなざしを思い出した。
あれは、姉の目ではなく、母の目だったのか。
耀子はさらに、二歳になる末っ子も、翔太郎の上にいる七歳の男の子と十二歳の女の子も、自分の子供だと打ち明けた。
つまり、彼女は、子供を一人も生んだことがないどころか、本当は、五人もの子供の母親だったということになる。
「で、でも、耀子さんは、その、まだ独身なのですよね……?」
日登美は、耀子のプライドを傷つけないように、慎重に言葉を選びながら、おそるおそる尋ねた。
「まだ独身ではなくて一生独身でいなければならないのよ、日女は」
耀子は笑いながらそんな答え方をした。
「でも、それは表向きのこと。ふつう田舎では、女が未婚のまま子供を生めば、何かと噂《うわさ》されたり、後ろ指をさされたりするでしょうけれど、ここではそんなことはないわ。というか、日女に限ってはそんなことはないのよ。日女が未婚のまま何人子供を生もうと、村人がそれをとやかく言うことは決してないわ。それどころか、日女が無事出産したと聞けば、殊にそれが女の子だと分かれば、村中でお赤飯を炊いて祝うほどなのよ……」
「…………」
日登美はさすがに呆《あき》れて二の句がつげなかった。
聖二から耳に章魚《たこ》ができるほど、「この村では日女様は特別な存在」とは聞かされていたが、まさか、ここまで「特別」扱いされているとは思っていなかったからだ。
「日女が子供を生むことは、村の人たちにとっては非難すべきことではなくて、とても望ましいことなのよ。そうしなければ、日女の血統は絶えてしまうもの。日女の血統が絶えれば、大神を祀《まつ》る神妻がいなくなってしまう。そんなことになれば、祟《たた》り神としての大神の怒りが村人たちに降りかかる。昔から村の人たちはそう考えているのよ。特に年よりたちはね……。
ただ、生まれてきた子供を私生児にするわけにはいかないわ。だから、日女が出産すると、その子供は、若日女に選ばれた女児以外は、みな、日の本神社の宮司夫妻の子供として籍に入れられるのよ……」
さらに耀子が言うには、その籍に入れられた「日女の子」が、女の子ならば次代の日女に、男の子ならば、宮司をはじめとする神職につくことができるのだという。
「だから、養父が亡くなれば、次の宮司は兄ではなくて聖二が継ぐことに決まっているのよ」
「それじゃ、聖二さんが宮司を継ぐのは、お兄さんが神職を嫌ったからではないんですか……?」
日登美が思わずそう聞くと、耀子は不思議そうな顔をした。
「誰がそんなことを言ったの?」
「聖二さんが……」
「聖二がそんなことを言ったの?」
耀子はそう聞き返した。
「本当は田舎の神主になんかなりたくはなかったけれど仕方がなかったって……」
日登美が言うと、耀子はなぜか考えこむような顔になって庭の方を見ていた。そして、独り言のようにぽつんと呟《つぶや》いた。
「聖二はあなたに何も話してはないのね。肝心なことは何も……」
「え」
日登美が聞き返すと、耀子は物思いからはっと我にかえったような顔になり、
「いえ、何でもないわ」と、やや取り繕ったような笑顔を見せた。
「とにかく、この村では、それが男であれ女であれ、日女から生まれた者だけが神職につけるのよ。信江さんは、よそからお嫁に来た人で日女ではないわ。だから、日女ではない女から生まれた兄は、たとえ宮司の実の子供であっても、神職にはつけないのよ」
耀子はきっぱりとした口調で言った。その口調と毅然《きぜん》としたまなざしには、日女としての誇りのようなものが感じられた。
「ということは、聖二さんも日女の子供ということですよね……?」
日登美は尋ねた。耀子の話を聞きながら奇妙なことに気が付いていた。
「そうよ」
耀子は頷《うなず》いた。
「聖二さんも……夕希子さんの子供なんですか」
日登美はさらに探りをいれるように、おそるおそるそう尋ねた。
「……違うわ」
耀子はしばらく黙ったあとで、そう答えた。
「え? で、でも……」
日登美の頭は混乱していた。
「夕希子さんとわたしの母以外にも日女がいたのですか?」
さらに聞く。なぜか胸の動悸《どうき》が激しくなっていた。前に聖二から聞いた話では、この二人以外に日女はいなかったような口ぶりだったが……。
「いいえ……」
耀子はこれも否定した。
「そ、それじゃ……聖二さんは……」
日登美は喘《あえ》ぐように口を開いた。
「もうお分りでしょう?」
謎《なぞ》めいた微笑をうかべたまま、耀子は言った。
「緋佐子様が生んだもう一人の子供というのは聖二のことなのよ」
「せ……聖二さんはわたしの兄だったんですか」
日登美は唾《つば》を飲み込んでから、ようやくそう言った。
耀子は頷く。
聖二は従兄《いとこ》ではなく兄だったのか。
だから、あのとき……。
聖二にはじめて会ったときに感じた、あの血の共鳴ともいうべき奇妙な感覚は、あれは同じ母親から生まれた兄だったからこそ感じ得たものだったに違いない。
「でも、聖二さんはそんなことは一言も……。どうして兄なら兄と最初から打ち明けてくれなかったのでしょう?」
そう尋ねてみても、耀子は、
「さあ。それはわたしにも解らないわ」と首をかしげるだけだった。
「いきなりそんなことを打ち明けて、何も知らないあなたを混乱させたくなかったのかもしれないし、あるいは……」
耀子は何か言いかけたが、すぐに思い直したように、
「……とにかく思慮深い人だから、彼には彼の深い考えがあってのことでしょう」と呟くように言っただけだった。
「もしかしたら」
日登美はあることを思い出して言った。
「大日女《おおひるめ》様がおっしゃっていた、大神の印を受けた子というのは……?」
「聖二さんのことよ」
耀子は当然のごとくそう言った。
「そのお印ゆえに、彼は生まれたときから次代の宮司になるよう定められていたのよ。たとえ長兄が日女の子だったとしても、やはり宮司を継ぐのは聖二だったでしょうね」
「そのお印というのは一体……?」
日登美が聞くと、耀子は逆に聞き返した。
「大神が蛇神であるということはご存じ?」
「ええ……。そのことなら聖二さんから聞きました」
「そう。それならば、聖二に直接見せて貰《もら》えばいいわ。あなたになら見せてくれるでしょう。あれを見れば、なぜ、それが大神のお印なのか、すぐに解ると思うわ……」
耀子は相変わらず謎《なぞ》めいた微笑を浮かべていた。
「神家には、代々、聖二のようなお印をもった子が生まれるという言い伝えがあるのよ。大神がとりわけご寵愛《ちようあい》なさった日女には、その子に我が子としてのお印をお与えになるという……。やはり、百数年も前に、日の本神社の宮司になった人には、聖二と同じお印が右|脇腹《わきばら》にあったという話だわ。
この村では、日女が生んだ子供は、ふつうは男よりも女の方が尊重されるの。兄妹でも、妹の方が大事にされるということなのよ。ただ、一つだけ例外があるわ……」
耀子は言った。
その例外とは、日女から生まれた男児に、大神のお印があった場合である。その印をもって生まれてきた男児は、女児と同格の、いや、それ以上の扱いを受けるのだという。
「あなたもお気づきかと思うけれど、今、この家で一番力をもっているのは、父ではなくて聖二なのよ。彼が学業を終えて帰ってきたときから、実質的には、聖二がここの家長であり、日の本神社の宮司なのよ。そのことは、誰も口に出さなくても、みな暗黙のうちに了解していることだわ。郁馬のような幼い子供でさえ……」
そう言った耀子の顔がかすかに歪《ゆが》んだ。
「郁馬ちゃんといえば、昼間、春菜とおもちゃのことで喧嘩《けんか》になったんです。そのとき、聖二さんが……」
日登美がそう言いかけると、耀子は、そのことなら知っているというように頷き、
「ああいうことは珍しくないのよ、この家では。この前も、翔太郎たちが行ってはいけないといわれている蛇《じや》ノ口に遊びに行った事が知れたときも……。とにかく、子供たちは、父よりも聖二の方を怖がっているわ。といっても、ふだんは幼い子たちの面倒をよく見る優しい兄でもあるから、同時に慕われてもいるのだけれど……」
耀子はやや複雑な表情でそう付け加えた。
言われてみれば、あのときの、郁馬に対する聖二の態度は、兄というよりも父、いや、まさに家長のそれに近いものがあったことに日登美は今さらながらに気づいた。
「聖二を恐れているのは子供たちだけではないわ。ここでは誰も彼の言うことには逆らえないのよ。大日女様のお言葉に逆らえないように……」
耀子はため息をもらすように言った。
「その大日女様と対等の口をきけるのも聖二だけだわ。大日女様も聖二のことをとても信頼していらっしゃる。ふつうなら宮司である父に相談すべきことでも、最近では聖二に相談なさっているようだし……。それは、たんにお印があるからというだけではなく、彼には父以上の器量があると大日女様が見抜いていらっしゃるからでしょうけれど……」
「そういえば……」
日登美は、ふと、大日女の住まいに聖二と共に挨拶《あいさつ》に行ったときのことを耀子に話した。
「……真帆様が?」
日登美の話を聞いていた耀子の顔色が突然変わった。ただでさえ青白い顔色が一層青ざめたように見えた。
ひどくショックを受けたような顔だった。
日登美にはさっぱり意味が解らなかった、澄子という若日女と聖二の密談めいた会話の意味するところを、耀子はすぐに理解したようだった。
「それは……一夜日女《ひとよひるめ》のことだわ」
耀子は日登美に言うというより、殆《ほとん》ど独り言のように呟いた。
「一夜日女?」
聞き馴《な》れない言葉にとまどい、日登美が聞き返しても、耀子は、「あ、いえ、何でもないのよ……」
と言うだけだった。
しかし、そのただごとではない顔色からすると、何か重大なことが起きたらしいと日登美は察した。
そのとき、廊下の方から足音がしたかと思うと、襖《ふすま》ごしに、
「お夕飯の支度ができましたので、お座敷の方においでください」
と、告げる信江の声がした。
耀子と一緒に座敷へ行くと、そこには神家の人々が既に集まっていた。大日女のもとから帰ってきた聖二の姿もあった。
夕飯といっても、一つの食卓を囲むのではなく、それぞれに膳が与えられる宴会のような形式だった。
見ると、上座にあたる席に主のいない膳が二つ並んでいる。それが耀子と日登美の分らしかった。
日登美は、ここでも如実に日女の地位の高さを見せつけられる思いがした。
これがふつうの家ならば、上座の一等席に座るのは、家長である神琢磨のはずだが、実際にその席に当然のような顔で陣取っているのは、次男の聖二であり、それとほぼ同格のような扱いで、耀子と日登美の席が設けられていた。
その座り方を見ただけで、この家の一風変わった序列のようなものが一目|瞭然《りようぜん》に解るというものだった。
みなが膳につくと、聖二があらためて日登美と春菜のことを家族に紹介した。さらに、家族を一人ずつ紹介していく。
長男と四男だけが仕事の都合でまだ帰っていないということだった。
次女にあたる瑞帆《みずほ》という少女を紹介されたとき、日登美はあっと思った。白衣に紫の袴《はかま》姿の、その十二歳ほどの可憐《かれん》な美少女は、あの大日女の住まいで出会った少女にそっくりだったからだ。
年が違うようなので、双子ではあるまいが、まるで双子のようによく似た顔立ちから察するところ、あの真帆という少女とこの瑞帆と言う少女は姉妹であることに間違いない。
ということは、真帆という少女もまた耀子が生んだ子供だったということになる……。
だから、耀子は真帆の話を聞いて、あれほど顔色を変えたのだ。いくら赤ん坊のときに手放したとはいえ、娘であることに変わりはないのだから、もしその娘の身に何か起こったとしたら、母として無関心ではいられなかっただろう。
一応の紹介がすむと、神家の人々は、みな一様に無言で、自分の膳に箸《はし》をつけはじめた。
それにしても……。
日登美はそんな人々をそれとなく見回しながら思った。
よくもこれだけ美男美女があつまったものだ。
鄙《ひな》には稀《まれ》な、という言葉があるが、都会でもそう滅多にお目にかかれないような臈《ろう》たけた美形が、こんな山奥の家にこれだけ一堂に揃《そろ》うと圧巻である。
そこには、何やらおとぎ話めいた異様な雰囲気が漂っていた。
しかも、誰も無駄口ひとつきかない。幼い郁馬や翔太郎でさえ、きちんと正座して黙って食べている。さすがに二歳の末っ子は信江の膝で食べさせてもらっていたが、ふつうの家庭ではちょっと考えられないことだった。
春菜も、この奇妙な雰囲気に呑《の》まれたのか、あるいは、早くも郁馬や翔太郎に感化されたのか、ふだんはもっと日登美に甘えてぐずぐずしているのに、今日ばかりは、ぎこちない手つきながらも黙ってお行儀よく食べている。
とはいうものの、やはり子供は子供で、郁馬は時々物をこぼし、そのたびに、やや脅えたような目付きで、聖二の方に目をやっている。兄の目がよほど気になるらしい。
そんな姿が日登美には痛々しく見えた。
10
「聖二さん、ちょっとお話があるんですが……」
いささか息の詰まるような夕食を終えたあと、座敷から出て行こうとする聖二をつかまえて、日登美は言った。
聖二には聞きたいことが山ほどあった。
なぜ兄であることを隠していたのか。大神のお印とは何であるのか。もし、聖二が兄ならば、二人の父親は一体誰なのか……。
「ちょうどよかった。僕の方もあなたにご相談したいことがあるんです。それでは、後ほど、お部屋の方に伺います」
聖二はそう言った。
部屋で待っていると、三十分ほどして聖二がやってきた。
さいわいというか、春菜は夕食後も郁馬たちと遊びたいと言い出して、部屋には戻らず、郁馬たちと連れ立って、子供部屋の方に行ってしまっていた。
「……何ですか、お話というのは?」
聖二は日登美と向かい合って座ると、さっそく言った。
こうして二人きりで向かい合ってみると、日登美は照れ臭いような奇妙な気分になった。それまでは従兄《いとこ》としか思っていなかったので、ある程度気持ちの上で距離をおいていたのだが、兄と知ってからは、面と向かうとやはり平静ではいられない。
「あの……さきほど耀子さんから伺ったのですが」
日登美が耀子から聞いた話をしても、聖二は毛筋ほどの動揺も見せず、平然とした顔つきのままだった。
「これは本当のことなんですか。あなたがわたしの兄だということは……?」
そう念を押すと、聖二は、別にためらう風もなく、「本当です」と答えた。
「どうして今まで隠していたんですか」
ややなじるように聞くと、聖二は少し笑った。
「隠していたわけではありませんよ。いずれ話そうとは思っていたんです。ただ、会っていきなり兄だなんて打ち明けても、あなたが面食らうだけだと思ったのです。とりあえず、こちらに来ていただいて、こちらの生活に慣れた頃をみはからって、お話しようと思っていたんです」
やはり兄であることをすぐに言わなかった理由は、耀子が推察したとおりらしかった。
「それに、この村には古くから独特の風習のようなものがありますから、そういったものをいくら口で説明しても、外の世界で育ったあなたにはすぐには理解してもらえないのではないかとも思ったんです」
「わたしと……聖二さんの父親は同じ人なのですか」
さらにそう聞くと、聖二は、やや答えに時間を要したが、きっぱりとした口調で、「そうです」と答えた。
兄妹と言うことが知れても、聖二の日登美に対する物言いや態度は全く変わらなかった。
その、よそよそしいまでの礼儀正しさに、日登美はいらだちすらおぼえるくらいだった。兄と分かったからには、もう少し肉親らしい態度になってもいいのではないかと思いながら、
「誰なんですか、その人は? この村の人なんですか」
と、矢継ぎ早に質問した。できれば、この冷静すぎる男の胸倉をつかんで聞きたいような高ぶりを感じていた。
「日女《ひるめ》が未婚のまま子供を生んでも、誰も非難しないばかりか、むしろそれを喜ばしいことだとするのは……」
聖二は日登美の質問には答えず、突然そんなことを言い出した。
「耀子様のおっしゃるように、大神を祀《まつ》る神妻としての貴重な血統を絶やさないためだというのは、確かに理由の一つとしてあります」
「はぐらかさないで! わたしが聞いているのはそんなことじゃありません」
日登美はややかん高い声を張り上げた。聖二が冷静であればあるほど、日登美の方は冷静さを失っていった。
ただ、この感情の高ぶりが、兄と分かった男への甘えの裏返しであることを日登美は気づいてはいなかった。
「はぐらかしてなどいません。あなたの質問に答えているつもりですが」
聖二はそう言うと、先を続けた。
「でも、村人が日女の出産を喜び祝うのには、もう一つ理由があります。そもそもこの村では、日女が未婚のまま出産したからといって、赤ん坊の父親が誰かなんてことを詮索《せんさく》する者は一人もいません。詮索するまでもなく、その父親が誰なのか知っているからです」
「だ、誰なんですか……?」
日登美はあぜんとして言った。
「大神です」
聖二はにこりともしないでそう答えた。
「…………」
「日女が生んだ子供はすべて大神の子供なのです。それに、未婚といっても、それは人間界での話であって、日女には、生まれながらにして神の妻というれっきとした地位があるのです。その日女が妊娠し、出産したとすれば、その子供の父親は神に決まっているではないですか。
たとえ、その相手が人間の男だったとしても、それは、人間である日女と交わるために神が化身した姿にすぎないのです。言い換えれば、その人間の男にいっとき神の霊が降りているにすぎないのです。だからこそ、日女の生んだ子供は、神と人の混血として貴ばれ、神を祀る神職につくことができるのです。
本来、神を祀ることができるのは、神の子孫でなければならないからです。日女が子供を生むということは、その神の血を引く子孫を後々まで残すことでもあるのです。村人たちが祝い喜ぶのは、まさにそのことなのですよ……」
日登美には、聖二が本気でこんなことを考えているのか、それとも、自分たちの父親の正体を日登美に教えたくない理由でもあって、こんなことを言ってごまかそうとしているのか分からなかった。
しかし、目の前の男の顔は、大真面目《おおまじめ》そのもので、冗談を言っているわけではないらしいということだけは分かった。
「わたしが知りたいのはそういうことじゃありません。わたしたちの父親がどこの誰で、今も生きているのか。それを知りたいんです」
日登美がなおも言うと、聖二は苦笑するような顔になって聞いた。
「そんなことを知ってどうするのです?」
「どうするって……」
「俗に腹は借りものという言葉がありますね。随分女性を馬鹿にした表現だとは思いますが、いわば、これと同じことなのですよ。種は借り物にすぎないのです。借り物にすぎないもののことを知ったところで何の意味があるのですか? それに、そういう意味での父親というならば、僕も知りませんね」
「知らない?」
「知りません。けっして隠しているわけではないのですよ。本当に知らないんです。知りたいと思ったこともありません」
聖二は、まるで少年のように澄んだ目で、日登美をまっすぐ見ながら、そう言い切った。その目を見る限り、嘘《うそ》やごまかしを言っているようには見えなかった。
もっとも、それは、澄んだ目をした人間が嘘をつかないなどという何の科学的根拠もないたわごとを信じればの話だが。
「話というのはそれだけですか」
聖二は、もうその話題は切り上げたいという表情で言った。
「まだあります。大日女様がおっしゃっていた、母が生んだお印のある子というのはあなたのことなのでしょう?」
「そうです」
「そのお印というのは……?」
「見たいですか」
「え? ええ」
日登美はややうろたえながら頷《うなず》いた。
すると、聖二はいきなり、白衣の片袖《かたそで》を抜いて、上半身をさらけ出した。
いくら兄とはいえ、若い男性が自分の目の前で上半身裸になったので、日登美は目のやり場に困って、思わず視線をそらした。
聖二の方は恥ずかしがる様子も見せず、くるりと後ろを向くと背中を見せた。
おずおずと目をあげた日登美は、その背中にあるものを見て、あっと声をあげそうになった。
聖二の肌《はだ》は、まるで女のように白く肌理《きめ》も細かかったが、身体そのものは程よく筋肉がついて引き締まっていた。
その痩《や》せた背中の飛び出た肩甲骨の下あたりに、白い肌から浮き上がるようにして、薄紫の痣《あざ》があった。
それは、ちょうど大人の手のひらくらいの大きさだった。
その痣は、蛇の鱗《うろこ》のような形をしていた。
11
「……鱗」
日登美は思わずつぶやいた。
それは、小さなひし形がびっしりと集まって、まさに蛇の鱗のように見えた。
聖二はいっとき裸の背中をさらしたあと、片袖を脱いでいた白衣に手を通し、素早く身じまいすると、日登美の方に向き直った。
普通なら、こんな気味の悪い痣が身体にあれば、それを後ろめたく思い、なるべく隠そうとするだろうが、彼にはそんな臆《おく》した気配は全くなかった。
それどころか、むしろ誇らしげにさえ見える。
「日女《ひるめ》の生む男児には、ごく稀《まれ》に、こんな痣をもつ子が生まれてくるそうです。それは脇腹《わきばら》に出たり、胸に出たりすることもあったと聞いています。
不思議なことに、けっして女児には出ないのです。蛇の鱗のように見えることから、蛇神である大神が我が子としてお認めになった印と言われています。そして、この印をもった子を生んだ日女も、大神のご寵愛《ちようあい》が特に深い証拠として、他の日女以上に貴ばれるのです。
僕たちの母……緋佐子様は、日女の中でもさらに特別な存在だったのです。大神にもっともご寵愛された日女だったのです。それなのに、母は……」
聖二の顔がふいに歪《ゆが》んだ。
日登美は、その冷静な顔にはじめて感情の動きを見たような気がした。
「こともあろうに、若日女に決まっていたあなたを連れて逃げるという二重の罪を犯した。大日女様もおっしゃったように、二重の意味で大神に背いたのです。僕には母の気持ちが全く理解できない。お印のある子を生むほど大神に愛されていながら、なぜ、その神を捨て、人間にすぎない男のもとに走ったのか……。愚かとしか言いようがない」
聖二は最後の言葉を吐き捨てるような調子で言った。その顔にも言葉遣いにも、明らかに感情が露《あら》わになっていた。
日登美は、一瞬、兄の目に憎悪を見たような気がした。
この人は母を憎んでいる……。
ふとそう思った。
しかし、この憎悪は、神職につく者としてよりも、もっと個人的なことに端を発しているような気がした。
思えば、緋佐子がこの村を出たとき、聖二はまだ一歳か二歳だったはずだ。一番母親の恋しい年頃だろう。物心がつくようになって、実母が妹だけを連れて出て行ったことを知ったときから、母に捨てられた子としての感情が聖二の中で育っていったとしても不思議はなかった。
神などというものを持ち出して大上段に構えてはいるが、聖二の緋佐子への気持ちには、もっと形而下《けいじか》的というか原始的なものが根底にあるのだと言うことに、日登美はなんとなく気が付いていた。
それは、つまるところ、母に捨てられた子の寂しさだろう。それがいつしか自分を捨てた母への憎悪という形に変形していったのだ。
むろん、聖二自身がそんなことを認めようはずもなかっただろうが。
「あなたの話がそれだけなら、今度はこちらの話を聞いて戴《いただ》きたいのですが」
聖二が痺《しび》れを切らしたように言った。
「……なんでしょう?」
「今度の大神祭のことなのですが、大変困ったことが生じたのです……」
聖二は苦りきった表情でそう言い出した。
「大神祭というのは、十一月にはいって太陽の力が弱まった頃、これを呪術《じゆじゆつ》によって回復するために行う冬の祭りなのです。これは、古くから物部がタマフリと称してやってきたことで、宮廷の鎮魂祭の元にもなった由緒ある祭りなのですが……」
古事記や日本書紀に出てくる、あの天の岩戸のくだりは、まさにこの鎮魂祭の儀式を描いたものだと聖二は言った。
須佐之男命の乱暴に怒って、天の岩戸に閉じこもってしまった天照大神とは、初冬を迎えて弱まった太陽の光を擬人化しているのだという。
岩戸の前で神懸かりして踊り狂うアメノウズメノミコトは、その太陽の力を回復するために一心に祈る日女の姿を模したものだというのである。
「毎年行われる例祭では、このアメノウズメノミコトの役を大日女様がおやりになるのです。ただ、七年に一度の大祭では、この神事にくわえて、さらにもう一つ、一夜日女《ひとよひるめ》の神事という大事な儀式があるのです……」
12
一夜日女。
それは、耀子の口から出た言葉でもあった。
「……この一夜日女というのは、一夜だけ若い日女を大神に妻として捧《ささ》げるという意味なのです。大神の正妻にあたるお方はあくまでも大日女様お一人なのですが、大日女様はもはやお若くはない。それで、大神をお慰めするために、もっと若い日女を一夜だけ大神に捧げるのです。
俗なたとえをすれば、大奥などで、年老いた正妻が、自分の身代わりに若い側女を将軍に差し出すようなものです。
この一夜日女は、ふつうは若日女の中から一人選ばれます。今度の祭りでは、真帆様という若日女が一夜日女に決まっていたのですが……」
聖二は続けた。
「それが、今日になって、真帆様には一夜日女の資格がなくなってしまったのです……」
「資格がなくなった?」
日登美が聞き返すと、聖二は苦い表情のまま頷《うなず》いた。
「一夜日女というのは、まだ経事のない女児でなければならないのです」
「けいじのない……というのは?」
聞き馴《な》れない言葉にとまどい、聞き返すと、聖二はこう言い直した。
「つまり、まだ初潮を迎えていないという意味です。ところが、今日になって、真帆様に初潮があったことが分かったのです……」
ああ……。そういうことだったのか。
日登美は、ようやく、大日女の住まいでの聖二と澄子のひそひそ話の意味が分かったような気がした。
「既に初潮を迎えてしまった真帆様には、もはや一夜目女の資格はなくなってしまったのです。しかも、困ったことに、他の若日女はみな真帆様よりも年長で、この条件に当てはまる方がいないのです。
こんなときは、しかたなく、若日女以外の日女の中から、この条件に当てはまる方を当てるということも過去にはあったようなのですが、今回は、これすらもできないのです。一番若い日女である瑞帆様は既に初潮を迎えているからです。
このままでは、今年の祭りでは、一夜日女の神事ができないことになってしまうのです。これは七年に一度の大事な儀式なのです。とりやめるわけにはいきません。
それで、あなたにお願いがあるのですが……」
聖二はいったん口をつぐみ、食い入るような目で、日登美をじっと見つめた。
「春菜様を一夜日女として戴《いただ》けないでしょうか」
「春菜を……?」
日登美は愕然《がくぜん》としたように目を剥《む》いた。
「もはや、春菜様以外に一夜日女の資格をもった日女はいないのです」
聖二は必死の形相《ぎようそう》で言った。
「で、でも、春菜はまだ三歳なんですよ? そんな子供に大事な神事がつとまると思っているんですか」
「つとまります。一夜日女は、大祭でのいわば主役のような存在ですが、実際にすることは、輿《こし》に乗っているだけのことなのです。これなら三歳の幼児にもつとまります。げんに春菜様よりもっと幼い方が一夜日女《ひとよひるめ》になったことも過去には何度もありましたから……。それに僕の見た限りでは、春菜様は普通の三歳児よりも、賢いししっかりもしている。春菜様なら十分つとまると確信しています」
「で、でも……」
日登美はまたもや聖二の雄弁さに押し切られそうになりながら、口ごもった。
いくらしっかりしているといっても、日登美から見れば、春菜は、ようやくおむつが取れたばかりの幼児にすぎないのだ。
そんな幼児に、大事な神事の主役などつとまるはずがない。ただ輿に乗っているだけといっても、ただじっと乗っているだけのことができないのが、あの年頃の子供というものではないか……。
「それに」
日登美の迷いを断ち切るように、聖二の声が冷ややかに響いた。
「これは大日女様からのご命令でもあります。僕としては伏してお願いするしかないのですが、大日女様のご命令とあれば、日女である限り、けっして背くわけにはいかないのですよ」
口調はあくまでもソフトだったが、その声の裏には、有無を言わせぬ強引さがあった。
それはちょうど、はじめて日登美のもとを訪ねてきたとき、日登美に日女として村に帰ってきてほしいと頼んだときと全く同じだった。
口調は丁寧なのだが、それはうわべだけのことであって、聖二の本心は、口ほど日女に対してへりくだっているようには思えなかった。
耀子の話では、大神の印をもって生まれてきた男子は、日女と同格、いや日女以上とみなされるということらしいから、聖二には、当然、自分が日女以上の存在であるという強い自負があるに違いない。
「大丈夫ですよ。心配することなど何もありません」
聖二の口調がまた優しいものに戻った。
「一夜日女は日女たちの憧《あこが》れの的なのです。一夜日女に決まったその日から一夜様と呼ばれて、村人から今まで以上の尊敬を受けることができるのです。あの大日女様とほぼ同等の扱いを受けるのです。あのとき、真帆様が泣いていらしたのも、その憧れだった一夜日女になれないことが分かって悔しかったからなんですよ。
祭りまであと一カ月半ほどあります。今から僕が春菜様に必要なことはすべて教えて差し上げます。ただ輿に乗るだけといっても、それなりの作法というものもありますし、多少、覚えて戴きたいこともありますから。それで、祭りまでの間、僕が春菜様をお預かりして一切のお世話をさせて戴きます」
「預かるって……?」
「預かるといっても、どこかへ連れていくわけじゃありません。寝起きを共にして、なるべく春菜様と一緒にいられる時間を多くもちたいのです。あの年頃の子供にものを教えるには、まず、こちらに心を開いて貰《もら》わないとやりにくいので……。
それに、一夜様に決まった上は、春菜様は今まで以上に大切なお方なのです。もし、祭りまでの間に、ご病気になられたりお怪我《けが》などされたら大変なことになります。そんなことのないよう、お守りする必要があるのです。
本来ならば、若日女以外の日女が一夜様に決まった場合は、潔斎といって、祭りの前と後のそれぞれ一カ月を、身を清めるために、大日女様のお住まいで過ごす習わしになっているのですが、春菜様はここに来てまだ日が浅いということもあって、今回は特別に、大日女様のお許しをもらって、僕が春菜様をお預かりすることにしたのです……」
聖二はそこまで話すと、「このことは僕から春菜様に話しておきます」と言って、話を切り上げるようなそぶりを見せた。
日登美はただただ一方的に聖二の話を聞かされているだけだった。聖二は最初、「ご相談したいことがある」と言っていたのに、結局、相談など何もなく、既に決まったことを報告しに来たにすぎなかったということに日登美が気が付いたのは、聖二が立ち去ったあとだった。
聖二にまたもや押し切られた形になってしまったことを幾分口惜しく感じながらも、日登美は、やや意地悪く思っていた。
確かに、春菜は聖二になつきはじめている。子供はきれいでやさしいものが好きなのだ。女のように美しく優しい聖二を、春菜が子供心にも気に入っているらしいことは、行きの列車の中で、聖二と遊ぶ春菜の楽しそうな様子を見ても分かった。
しかし、多少気に入ったからといって、寝起きまで一緒にすると思ったら大間違いだ。今まで春菜は日登美としか一緒に寝たことがないし、また寝ようとはしなかった。
一度、徹三のそばで寝かせようとしたことがあったが、結局、夜中に目を覚まして泣きながら日登美のもとに戻ってきてしまった。大好きな祖父とでさえ一緒に寝ることを拒んだ子が、昨日今日会ったばかりの聖二のそばでおとなしく眠りにつくとは思えなかった。
「一切のお世話をする」などと口では言っても、そう簡単に「お世話」などできるものではないのだ。幼児のパワーというものを甘く見すぎている。母親の自分でさえ、時にはへとへとに疲れるほど大変なことを、多少子供慣れしているとはいえ、独身の男にすぎない聖二につとまるはずがない。
列車の中での感触から、たやすくなつくと思ったのだろうが、その考えは甘い。
今夜にでも、聖二はそのことを思い知らされるだろう……。
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第五章
翌朝、日登美は、襖越《ふすまご》しに「朝食の支度ができましたので」と告げる信江の声で目を覚ました。
その声にはっと跳び起きて、幾分|朦朧《もうろう》とした頭で、枕元《まくらもと》にはずしておいた腕時計を見ると、既に午前七時をすぎていた。
ふだんは午前六時前には必ず起きているのだが、昨夜は、春菜が夜中に泣きながら戻ってくるのではないかと思うとなかなか寝付かれず、結局寝入ったのは明け方近くになってからだった。
それで、つい寝過ごしてしまったのだ。
春菜は戻ってこなかった……。
日登美はその事実に愕然《がくぜん》としていた。ということは、春菜は聖二のそばでおとなしく眠りについたということなのだろうか。
そんなことはあるまい。
たぶん、夜中に目を覚まして、日登美のところに戻ってこようとしても、勝手の分からない他人の家で、それもできなかったのだろう……。
今頃、泣いて聖二を困らせているのかもしれない。
日登美はそう思い直した。
素早く洗面と身支度をすませ、座敷に行くと、神家の人々はほぼ全員集まっていた。
ところが、驚いたことに、春菜は上機嫌で聖二の隣に座っていた。とても泣いてぐずっているようには見えない。
聖二の顔もすっきりしたもので、寝不足ぎみのような様子はまるで見られなかった。
「……昨夜は大変だったでしょう? この子、寝付きがわるいうえに、ちょっとしたことですぐに目を覚ますから。夜中に起き出してわたしのところに帰るとだだをこねたんじゃありませんか」
聖二にそう言うと、聖二は、「いや、そんなことはありませんでしたよ。朝までぐっすりお休みになっていました。ねえ、春菜様」
そう言って、かたわらの春菜の方を蕩《とろ》けるような優しい表情で見た。
すると、春菜は嬉《うれ》しそうに大きく頷《うなず》き、「はるな、お兄ちゃま大好き。これからずっとお兄ちゃまのところで寝る」と言った。
日登美は信じられないという顔で、聖二と春菜の顔を見比べるだけだった。
座敷に家族全員の顔がそろったのを確認すると、聖二は、おもむろに、
「今度の大祭の一夜様は真帆様に障りが生じたので、春菜様が代わっておつとめになることになりました」
と告げた。
聖二がそれを告げたとたん、カタリと物音がした。見ると、耀子が箸《はし》を膳の上に落とした音だった。
耀子の顔は真っ青だった。
異様な反応を見せたのは、耀子だけではなかった。神家の人々は、一様に、強《こわ》ばった表情を浮かべていた。
聖二の一言で座敷が一瞬にして凍りついた。
そんな感じだった。
「そ……それはおめでとうございます、春菜様」
痰《たん》のからんだような声でそう言ったのは、神琢磨だった。顔には笑みが浮かんでいたが、無理に笑っているような不自然さがあった。
耀子はなにゆえか燃えるような目をして聖二を睨《にら》みつけていた。
そんな耀子の表情に気づかないのか、聖二は淡々とした声で、
「一夜様に決まった以上、春菜様はこれまで以上に大切なお方だ。間違ってもそそうのないように」
そう言いながら、幼い弟たちの方に、春菜を見るのとは別人のような厳しい一瞥《いちべつ》を与えた。
神家の子供たちは、兄の恐ろしい目に射竦《いすく》められたように、一斉に身を縮めた。
一人で部屋に戻ってくると、日登美は拍子抜けしたように、ぺたんと畳の上に座りこんだ。
朝食のあとも、春菜は聖二のそばを離れようとはせず、聖二に手を引かれてどこかへ行ってしまった。日登美の方を振り返りもしなかった。
一体、どんな魔法を使ったのだろう。
そうとしか思えない。たった一日であそこまでなつかせてしまうとは……。
しかし、考えてみれば、聖二は日登美の血をわけた兄であり、春菜にとっては伯父にあたるわけである。「お兄ちゃま」と呼んでいるところを見ると、春菜がそのことを聖二から聞かされたとは思えないが、本能的に、聖二が自分にとって他人ではないということを感じとっているのかもしれない。
だから、あれほどたやすく心を許したのだ……。
日登美はそんな風にも思ってみた。
急に親離れしてしまったようで、なんとなく寂しいような気もしたが、これはこれでよかったのかもしれないとも思い直した。
聖二は春菜に優しく接していたが、かといって、でれでれと甘やかしているわけではないようだった。
その証拠に、春菜のお行儀はたった一日で、母親の日登美が目を見張るほど良くなっていたからだ。
聖二には、小さな子供を意のままに操れる天性の素質でもあるのかもしれない。
ただ……。
ひとつ気にかかることがあった。
聖二が春菜が一夜日女《ひとよひるめ》に決まったと報告したときの、神家の人々の異様な反応だった。小さな子供たちはそうでもなかったが、大人たちは、一様に、困惑ともショックともつかぬ奇妙な表情を浮かべたような気がした。
とりわけ、ショックを受けたのは耀子のようだった。それに、彼女のあの聖二をにらみつけるような目……。
あれは一体……。
そんな物思いにぼんやり耽《ふけ》っていたとき、廊下にひたひたと微《かす》かな足音がしたかと思うと、襖越《ふすまご》しに、「日登美さん」という女性の声がした。
耀子の声のようだった。
「お話があります……」
襖のむこうから、妙に緊迫した耀子の声がした。
日登美は慌てて立ち上がり、襖を開けた。そこには、何やら思い詰めたような硬い表情の耀子がたっていた。
「……すぐにこの村を出て行きなさい」
耀子は部屋に入ってくるやいなや、小声で囁《ささや》くように言った。
「え?」
日登美は何のことやら分からず、ぽかんと従姉《いとこ》の顔を見た。
「今、すぐここを出るのです。春菜ちゃんを連れて。日に三本しか出ていないけれど、長野駅まで行けるバスがあります」
耀子は、幽鬼のような表情のままそう言った。
「そんな……どうして?」
日登美が聞いても、耀子は力無くかぶりを振り、
「理由はわたしの口からは言えないわ。でも、このままここにいたら、あなたは一生後悔します」
耀子はそれだけ言うと、くるりときびすを返して、逃げるように部屋を出て行った。
日登美は、心を許しはじめていた従姉に、いきなり「出て行け」と言われたことで、ショックを受けていた。
理由も言わずに出て行けとはあまりの言い草ではないか……。
耀子を追いかけて理由を聞こうと、廊下に出た日登美は、ちょうどやって来た聖二とぶつかりそうになった。
「どうしたんですか」
聖二はやや驚いたような顔で日登美を見た。
「耀子さんが……」
日登美はそう言いかけて黙った。
「耀子様がどうされたんです? 今、そこでお会いしましたが」
聖二は、後ろを振り返るようなしぐさをした。
「わたしにここを出て行けと……」
日登美が小さな声でそう言うと、聖二の顔つきがやや険しくなった。
「耀子様がそんなことを?」
「春菜を連れてすぐにここを出て行けと。そうしないと、わたしが一生後悔すると……」
「耀子様はどうしてそんなことを?」
「わかりません。それで、今、理由をきこうと思って……。もしかしたら、春菜が一夜日女に決まったことに関係があるのかもしれません。あなたがそのことを言ったとき、耀子さん、すごくショックを受けたように見えましたから」
日登美がそう言うと、聖二はやや難しい顔で考えこんでいたが、
「それは……たぶん」
と言いかけ、誰かに聞かれるのを恐れるように、日登美の腕を取って、部屋の中に入ると、襖を閉めてから、こう言った。
「嫉妬《しつと》です」
「しっと?」
日登美は聖二の意外な言葉に驚いて聞き返した。
「耀子様はあなたに嫉妬されているのかもしれません……」
聖二は言いにくそうに言った。
「どうして、あの方がわたしなんかに……」
「一夜日女《ひとよひるめ》というのは、日女《ひるめ》たちの憧《あこが》れの的であることは前にも言いましたね。それは、一夜様に選ばれた日女にとってもそうですが、同時に、ご自分の娘が一夜様に選ばれるということも、日女にとっては大変名誉なことなのです。
もう既にお気づきかと思いますが、真帆様は耀子様がお生みになられた方なんです。だから、耀子様も、真帆様同様、今回の祭りを楽しみにされていたんですよ。ところが、あのアクシデントで、それが春菜様にとってかわられてしまった。そのことが耀子様にはよほど口惜しかったのではないかと思いますね……」
「…………」
嫉妬……からだったのだろうか。耀子のあの目。幽鬼のように青ざめて強《こわ》ばったあの顔は。
日登美には、聖二の説明が今ひとつ納得がいかなかった。
「出て行け」と言ったあと、訴えるように、じっと日登美を見た耀子の目には、嫉妬というより、むしろ、憐憫《れんびん》に近い色が浮かんでいたような気がするのだが……。
「それに、耀子様はご病気のせいで、もはや日女の役をお務めになることができません。大神へのご奉仕ができないお体なのです。そのことに耀子様ご自身が苛立《いらだ》ち、引け目のようなものを感じていらっしゃるのかもしれません。日女としての地位をあなたに奪われてしまったように感じておられるのです」
憂い顔で聖二はなおもそう言った。
「でも、手術は成功したのでしょう?」
日登美は不審そうに聞き返した。
確かに、今の耀子は、見るからに病み上がりという感じだが、それは今後の養生次第でいくらでも健康を取り戻すことができるのではないか。
それなのに、聖二は、「もはや……お務めになることはできません」などと妙に断定的に言い切っている。
それが引っ掛かった。
「まさか、他に転移でも……」
日登美ははっとしてそう言いかけた。
「いや、医者の話ではそれはないと思います。ただ、たとえ健康を回復されても、耀子様には、今後、日女としてのお務めは無理なのです。だからといって、これからも日女としての地位に変わりはないのですが……」
どうも聖二のいわんとすることが日登美にはよく飲み込めなかった。健康を取り戻しても、なぜ、耀子がもはや日女としての「お務め」ができないのか……。
それに、聖二の話を聞きながら、日登美はあることに気が付いて、ぎょっとした。それは、もし、耀子がこのまま日女の役ができなければ、日登美がずっと耀子の代役をしなければならないということになるではないか。祭りは毎年あるのだろうから……。
聖二の最初の話では、今回は耀子の体調がすぐれないので、一時的に彼女の代わりをやってほしいというニュアンスではなかったか……。
そのことを確かめようと口を開きかけたが、聖二は、その隙《すき》を与えず、
「とにかく、そういった事情で、耀子様は何かにつけて苛立ちやすい気分になっておられます。あなたにも少々きついことをおっしゃるかもしれません。あるいは、あなたがこの村にいたくなくなるようなことをお耳にいれるかもしれません。でも、それはすべて、あの方の普通ではない神経がさせていることです。あまり気になさらなければいいのですよ」と言い、「これから、春菜を連れて大日女のところへ挨拶《あいさつ》に行ってくる」という旨の報告だけして、さっさと部屋を出て行ってしまった。
聖二の説明をすべて鵜呑《うの》みにしたわけではなかったが、聖二の言うようなことも多少はあるのかもしれないと日登美は思った。
確かに、耀子にとって、日登美の存在はいくぶん目障りなものかもしれないのだ。神家の人々に、日登美や春菜が何かにつけてちやほやされるのを見るのは、あまり面白いことではないだろう。
しかし、出て行けといわれても、はいそれではというわけにもいかない。日登美一人ならそれもできないことはないが、春菜がいる。あの様子では、春菜は聖二のそばを離れようとはしないだろうし、聖二の方も大事な神事の主役を手放しはしないだろう。
さらに、日登美にはこの村でやっておかなければならないことがあった。それは実の父親を探し出すことだった。そして、もしまだ生きているならば一目会いたかった。
その気持ちは、この村に来ていよいよ強くなっていた。
耀子のあの態度や言葉が抜けない刺《とげ》のように気にはなっていたが、聖二の言うように、あえて気にしないことにしようと日登美は心に決めた。
日登美はぶらぶらと散歩でもする足取りで日の本寺に向かっていた。
聖二の話では、あの寺の住職が蕎麦打《そばう》ちの名人だということだった。しかも、寺はこの村で旅館代わりにもなっているともいう。
ひょっとしたら、昔、徹三がこの村を訪れたとき立ち寄ったのではないかと思い、住職を訪ねてみようと思い立ったのである。
住職が年配の人ならば、昔のことを何かおぼえているかもしれない。母のことももっと知りたかった。もしかしたら、実の父のことも何か知っているかもしれない……。
そんな期待があった。
例の三つ叉になったあたりから、さらに十分ほど歩いて行くと、やがて、茅葺《かやぶ》き屋根の門が見えてきた。
それをくぐり、こぢんまりとした境内に足を踏み入れると、藍色《あいいろ》の作務衣《さむえ》姿の六十年配の僧侶《そうりよ》が竹箒《たけぼうき》で庭を掃き清めていた。
僧侶は、日登美の姿に気が付くと、軽く頭をさげ、じっとこちらを窺うように見ていたが、すぐにその顔に、あっという表情が浮かんだ。
「おはようございます」
日登美がそう声をかけると、
「……日登美様ですね?」
と、僧侶は問い返してきた。
その顔には、なつかしげなとでもいうような表情が浮かんでいた。
「お分かりになりますか」
日登美が言うと、僧侶は大きく何度も頷《うなず》き、「分かりますとも。一瞬、緋佐子様かと思いましたぞ。聖二様から話には聞いていましたが、本当に、緋佐子様によく似ていらっしゃる……」
そう言って、日登美の頭のてっぺんから足のつま先までしげしげと見渡した。
「住職さんにお会いしたいのですが」
僧侶の不躾《ぶしつけ》な視線に幾分|辟易《へきえき》しながら、そう言うと、
「これは申しおくれました。わたしが住職の神|一光《いつこう》でございます」
と名乗った。
日の本神社の神宮寺であったという、この寺の住職も神姓のようだった。
そういえば、この住職の顔にも、どことなく神家の人々との共通点が見てとれないこともなかった。
「もしお忙しくなければ、少しお話を聞かせて戴《いただ》けないでしょうか」
日登美がそう言うと、住職は、「いいですとも、ささ、こちらにどうぞ」と、本堂の裏手にある自宅らしき家屋に日登美を案内した。
客間のような広い和室に通され、しばらくすると、住職の家内という初老の女性がお茶を運んできた。
「……このお寺は旅館の代わりにもなっているそうですね」
日登美がそう切り出すと、
「まあ、こんな山奥の村に観光客など滅多に来ることもないのですが、それでも、まれに訪ねてみえる人もいますので、そんな方をお泊めして蕎麦などふるまっております」
住職は笑顔でそう言った。
「倉橋徹三という人を覚えておられませんか? 今から二十六年ほど前にこちらを訪ねてきたのではないかと思うのですが。わたしの父なんです。父といっても養父なんですけれど」
日登美がそう言うと、住職は、覚えているというように軽く頷いた。
「確か……倉橋さんは、わたしの打つ蕎麦のことをどこかで耳にしたとかで、お独りでふらりとみえて、ここがよほどお気に召したらしくて、かなり長い間、滞在されていったと記憶しております。そうそう、あれは、ちょうど今頃の季節でしたよ……」
「母もよくここには……?」
そう聞くと、住職の顔から笑みが消え、やや複雑な表情になった。
「ええ……。緋佐子様はたいそうな蕎麦好きでしてな、毎日、お昼には必ずみえていました。そういえば、倉橋さんとは、いつの間にか親しくなられたようで、よく、お二人で散歩などされてましたな……」
当時のことを思い出すような目で言った。
住職の話では、緋佐子が生まれたばかりの日登美を連れて村からいなくなったのは、徹三が村を出て一週間ほどした頃だったという。「当時はまさか、緋佐子様があの倉橋さんを追って行ったとはゆめにも思いませんでした。それが、聖二様からあなたの写真の載った雑誌のことを聞かされて、そのときはじめて、ああそういうことだったのか、と気が付いた次第でして……」
住職は、自分のうかつさを自嘲《じちよう》するように笑って、まるめた頭を片手でなで回していたが、例の事件のことを思い出したのか、急に鹿爪《しかつめ》らしい顔になると、
「しかし、倉橋さんもとんだことにおなりで……」
と言った。
「あの……わたしの……本当の父のことで何かご存じではありませんか?」
住職の口がすべらかになった頃を見計らって、日登美は思い切って聞いてみた。
「この村の人なのでしょうか……?」
「日登美様」
住職の顔がにわかにいかめしくなった。
「ここでは、日女《ひるめ》様のお生みになられたお子様はすべて大権現様のお子ということになっております」
「大権現様?」
「大神のことでございますよ。この寺では、天照大神のことを天照大権現とお呼びして祀《まつ》っておるのです……」
そう言って、住職は、日の本寺の由来を日登美に話してくれた。
この寺が創建されたのは、平安時代の中期頃で、当時、古来からあった神道に大陸から入ってきた仏教を習合させる、神仏習合というのが流行《はや》り、あちこちの神社の境内に寺が盛んに建てられたのだという。
当初は、神社が主で寺が従という関係だったのだが、やがて、僧侶たちの勢力が強まるにつれて、神社と寺の主従が逆転するような現象もみられるようになった。
そんななかで、日本古来の神々は、仏が衆生を救うために仮に神となって現れたものであるという本地垂迹説《ほんちすいじやくせつ》などというものが唱えられるようになったのだという。
例えば、須佐之男命を、釈迦《しやか》の住む祇園精舎《ぎおんしようじや》を守る牛頭天王という仏様と同一視し、あるいは、大国主命をインドの魔神|大黒天《だいこくてん》と同一視して祀るようになったのはこの頃からだというのである。
とはいうものの、この日の本村では、あくまでも神社が主で寺は従であるという原則は厳しく守られてきたらしい。
しかし、明治初年に、神仏分離令というものが出て、こうした神宮寺はことごとく取り壊されたり、神社と引き離されたりしたのだが、幸い、日の本寺は殆《ほとん》ど昔のままの姿を残しているのだという。
その手の蘊蓄《うんちく》がとうとうと続いた。
結局のところ、神一光も、聖二同様、日登美の実父は大神であると主張するばかりで、それ以外のことは、知ってか知らずか、何も話そうとはしなかった。
この人からも何も聞き出せない……。
そう判断した日登美が、そろそろ神輿《みこし》をあげようかと思っていると、住職は、ふと思いついたというように、
「そうじゃ。大権現様にお会いになりますか?」
と言い出した。
「え?」と聞き返すと、住職は、大神のお姿を青銅の像に刻んで、本堂の脇《わき》にあるお堂に安置してあるのだと言った。
本来は秘仏として、村人にもそのお姿は見せないのだが、神家の人々だけは例外で、いつでも望むときに参拝することができるのだという。
「……どうして秘仏にしてあるのですか」
住職のあとについて歩きながら、日登美はそう聞いてみた。
守り本尊といえば、普通は、本堂に安置されているはずである。
「実は……少々恐ろしいお姿をされているのでな……」
住職は、やや声をひそめて、そんな答え方をした。
「神家のお子たちの中で、あのお姿を見て泣き出さなかった子はいないくらいでして……」
中には、ひきつけをおこしたり、夜中に悪夢にうなされる子供もいたという。
「ただ、お二人だけ」
住職はそう言いかけ、慌てて、
「あ、いや、お一人だけ……聖二様だけが、他のお子とは違っておりましたがな」
そう言い直した。
「大神の恐ろしいお姿をはじめてご覧になったときも、泣き声ひとつたてず、じっと見上げておりましたな。それからもよく来られて、お堂の中に一時間でも二時間でもお一人で閉じこもっておられました。まだほんの五歳かそこらのお子なのに、やはりお印のあるお子は気丈なものだと感心いたしましたよ……」
住職はそんなことを言いながら、古びたお堂の前までくると、観音扉の大きな錠前をはずした。
そして、お堂の扉をギーと音をたてて開け、祭壇の灯明《とうみよう》に火を入れた。すると、真っ暗だったお堂の奥が二本のロウソクの赤い炎で照らし出された。
その照らし出された奥に安置された像を一目見たとき、日登美は思わず息をのんだ。
それは、大人でも見上げるような巨大な像だった。
上半身は猛々《たけだけ》しい武人の姿をしているが、腰から下はびっしりと鱗《うろこ》の生えた蛇体で、三重にとぐろを巻いていた。
しかも、その頭髪はすべて無数に蠢《うごめ》く小蛇であり、顔には、鏡のような形をした巨大な一眼しかついていなかった。
奇怪な人面蛇身の巨像は、その一つ目をかっと見開き、憤怒《ふんぬ》の形相《ぎようそう》で、日登美を見下ろしていた。
それは、子供どころか、大人でさえたじろがせるだけの迫力を持っていた。
これが天照大神……。
日登美は、まさに蛇に見入られた蛙かなにかのように、その像を見上げたまま、身動きできなくなっていた。
聖二から話には聞いていたとはいえ、日登美が今まで抱いていた、たおやかな女神としての天照大神のイメージとはあまりにも違うその姿に愕然《がくぜん》とした。
神一光の話では、像は、平安後期頃の作で、あいにく名は伝わっていないが、よほどの名工の手によるものなのだろうということだった。
「目が……ひとつしかないのは……?」
日登美は、唾《つば》を飲み込んでから、ようやく尋ねた。
「一眼は日神であることを表していると言われております」
住職はそう答えた。
ロウソクの炎のゆらめきが作る幻なのか、微動だにしないはずの像がわずかに動いたような錯覚を日登美はおぼえた。
「今にも動き出しそう……」
そう呟《つぶや》くと
「動くのです」
突然、住職が像を見上げたまま、ぽつりと言った。
「え?」
日登美はぎょっとしたように住職を見た。
「実は、当初は本堂に安置してあったそうなのですが、よなよな、大神がこのお姿で祭壇より滑り降り、あたりを徘徊《はいかい》するという噂《うわさ》がたちましてな……。
当時の住職やその家族が、夜中に、ずるずると重いものをひきずるような音を聞いたり、翌朝、境内の地面の上に、長いものが這《は》い回ったような跡がはっきりと残っているのを見たと……」
「…………」
「それで、女子供がこわがるので、新しくお堂を作って、こちらにお移し申し上げ、秘仏として封印したという次第で……。おそらく、大神は今もなお無くされた王剣を探して彷徨《さまよ》っておられるのです」
「王剣?」
「お像のお手をご覧ください。何かをお持ちになっていたように見えますでしょう?」
住職はそう言って、像の胸のあたりを指さした。そう言われてみれば、像は、両手の拳《こぶし》を胸のあたりで上下に組み合わせており、何かを捧《ささ》げ持っていたようにも見える。
「大神はお手に天叢雲《あめのむらくも》の剣を捧げ持っていたと言われているのです」
天叢雲の剣といえば、あの出雲神話の中で、須佐之男命が切り殺したヤマタノオロチの尾から取り出し、姉神の天照大神に捧げたといわれている剣で、後には草薙《くさなぎ》の剣とも呼ばれる神剣のことである。
「……あの剣はもともとは大神のものだったのです。なぜならば、出雲神話でヤマタノオロチと伝えられる大蛇こそ、大神の真のお姿なのでございますから。
大神のお顔がこのように凄《すさ》まじい憤怒の形相を浮かべておられるのは、覇王を示す王剣を奪っただけではなく、万物の上に君臨する輝かしい太陽神から神のころもをはぎとり、あのようなおぞましい魔物に貶《おとし》めて後々の世にまで伝えた者たちへの怒りが、今もなお鎮まることがないからなのです……」
住職は、いつか聖二が言っていたようなことを言った。
「大神は、その昔、まだ大和の三輪山にお住まいだった頃、武勇の誉れ高かった雄略《ゆうりやく》天皇でさえ震えあがらせたというほどのお方。本来ならば、こんなちっぽけな島国など、大神の威力で、いつでも暗黒にしてしまうこともできるのです。
しかしながら、千年以上もの間、この日の本の国が破壊と暗黒をかろうじて免れてきたのは、大神の子孫であるわたしどもが、こうしてこの村に大神の御霊を二重三重に封じこめ、日夜|祀《まつ》りあげ、お慰め申し上げてきたからなのでございますよ……」
そう言って、日の本神社の拝殿や鳥居のしめ縄を本末逆に張ることで、大神の御霊を神域内に封印し、さらにその上、村を取り囲むようにして東西南北に四本の石柱を立てて結界を作ることで、二重の封印を施してきたのだとも付け加えた。
そして、この石柱は、しめ縄同様、蛇を象徴するものでもあると……。
「……とはいえ、あの天叢雲の剣を、覇王の印である王剣をお手に取り戻さないかぎりは、大神の御霊が本当に鎮まることはありますまいが……」
神一光は、独り言のように呟いた。
「あれは……?」
堂内の暗さと、人面蛇身の像の異様さに目を奪われて、すぐには気づかなかったのだが、大神像の背後にもう一体の像がひっそりと安置してあることに日登美は気が付いた。
それは、大神の恐ろしげな姿とは全く対照的な、優美な女性の立ち姿だった。少し憂いを含んだ表情で、目を閉じ、両手を祈るように胸の前で合わせている。
よく目をこらして見ると、その顔や身体つきには、女性というよりも童女といった方がふさわしいような幼さがそこはかとなく漂っていた。
「あれは……一夜日女命《ひとよひるめのみこと》様の像でございます。俗に、一夜様とお呼びしております。大神の……神妻でございます」
そう言って、住職は、七年に一度の大祭に行われる神事について説明した。
「そのことなら聖二さんから聞きました。今年の一夜日女は春菜がやることになったので……」
日登美が何げなく言うと、住職は、えっというように目を剥《む》いて、日登美を見た。
その反応の仕方に日登美の方が驚いたくらいだった。
「今年の一夜様は真帆様だと伺っておりましたが……」
住職は自分の耳を疑うとでもいうような顔で言った。
「いえ、それが」
真帆に障りが生じて、急遽《きゆうきよ》、一夜日女の役は春菜に代わったことを告げると、
「それは……」
そう言ったきり、住職は、すぐに言葉が出てこないようだった。
春菜が一夜日女になると聞いたとたんに住職が示したこの反応は、朝食の席での、神家の人々のあの奇妙な反応とよく似ていた。
「おめでとうございます……」
住職はようやくそう言った。顔には笑みが戻っていたが、どこか無理をして笑っているようなぎこちなさがあった。
それは、神琢磨が示した反応と全く同じだった。
「この村では、一夜様に選ばれるというのは、末代にまで語り継がれるほどの名誉とされているのです。当の一夜様だけではなく、一夜様のお母上にとっても……」
名誉などどうでもいいが、と日登美は思いながら、なんとなく奇妙な違和感のようなものを感じはじめていた。
たかが祭りの主役になることが、それほどまでに大切なことなのか……。
都会育ちの日登美には全く理解できなかった。日登美にとって、祭りというのは、ふだんよりも少し晴れがましい日程度の意味しかもっていなかったからだ。
しかし、この村の人々にとって、祭りはただの気晴らしではないようだった。天照大神の御霊をこの地に封じ祀りあげているという、さきほどの住職の物々しい話からしても、それは窺《うかが》い知ることができる。
もっとも、こんな物々しいことを考えているのは、神家の人々だけなのかもしれないが……。
そのとき、鐘つき堂の方から、ごーんという鐘の音が聞こえてきた。
「おお、もう正午か」
住職は、空を仰いでそう呟き、
「どれ、お昼に蕎麦《そば》でも打ちましょう」と言った。
住職の打った蕎麦は、石臼《いしうす》で丹念に引いた蕎麦粉を使ったという本格的なもので、その腰の強さといい、香りといい、色艶《いろつや》といい、まさに玄人《くろうと》はだしの絶品だった。
二十六年前、ちょうど今の日登美くらいの年頃だった徹三も、ここでこの蕎麦を食べたのかと思うと、日登美は胸が熱くなった。
蕎麦に舌鼓を打ったあと、住職の妻から、「お子さまたちに差し上げてください」と手渡された手製の蕎麦団子の包みを持って、日登美は日の本寺を後にした。
神家の住居に戻り、団子を渡そうと郁馬たちの姿を探したがどこにも見えない。また耀子のところにでも集まっているのではないかと思い、部屋に行ってみることにした。
部屋の前まで来て、襖越《ふすまご》しに声をかけようとすると、中から、耀子の声が聞こえてきた。
「……あなたは、あの人にまだ何も話してないのでしょう? 肝心なことは何も……」
耀子の声は少し激したようにかん高くなっていた。
誰かいるようだ。耀子の口調からすると、子供たちではないらしい。
日登美は思わず足をとめた。
立ち聞きする気はなかったのだが、なんとなく声をかけそびれていると、再び、耀子の声がした。
「おかしいと思ったのです。あの人が何もかも承知の上で、この村に帰ってくるなんて……。外の世界で育った人が、この村のことを理解できるはずがない。あの人は何も知らないのね。ここの祭りがどういうものか。その祭りで、日女《ひるめ》が何をするのか。何も知らないで帰ってきたのね……」
耀子が一方的にしゃべっているだけで、相手の声は全く聞こえてこない。
日登美は、声をかけることも、その場から立ち去ることもできず、根が生えたように廊下に立ち尽くしているだけだった。
耀子の話している「あの人」というのが自分のことのように思えてきたのだ。
「……あなたはご自分が何をしているのか分かってらっしゃるの? あの人はあなたの妹なのよ? その妹にあなたはよくもこんなひどいことを……」
「耀子様」
冷ややかな男の声がした。聖二の声だった。「すべては大日女様のお言葉より出たことなのです。大日女様のお言葉は、そのまま大神のお心でもあります」
「大神というより……あなたの意志ではないの?」
「僕の意志? それはどういう意味です?」
聖二の声があざ笑うような響きをもった。
「日登美様のご家族があのような形で亡くなられたのも、あなたがご病気になられたのも、真帆様が一夜日女の資格を失ったことも、すべて、僕の意志だというのですか?」
「…………」
「あいにく、僕にはそんな力はありませんよ。もし、そんな力を持っているとしたら、それは大神だけです。すべては大神の意志なのです。お心なのです。大神が日登美様と春菜様を求めていらっしゃるのです。大神は緋佐子様をまだ許してはおられない。日登美様と春菜様が緋佐子様の犯した罪を償うことでしか、大神の怒りを鎮めることはできないのです」
「……あの方を許していないのは、大神ではなくて、あなたではないの?」
「…………」
「聖二さん。あなたは今もなお、ご自分を捨てた緋佐子様を憎んでいらっしゃる。だから、日登美様のことも……」
「馬鹿な」
聖二は吐き捨てるように言った。
「どうして僕が母を憎まなければならないのです? もし、僕が母にある感情を抱いているとすれば、それは軽蔑《けいべつ》という感情だけです。日女としての使命も誇りも捨てた女など軽蔑にも値しないくらいだ」
冷静だった聖二の声にやや激したものが混じった。
「それに、さきほど、あなたは妹にひどいことをするとおっしゃったが、ひどいこととはどういうことです? 大神へのご奉仕がひどいことなのですか? 日女であるあなたの口から出た言葉とも思われませんが」
「わたしなら……大神へのご奉仕を喜びにすることもできます。でも、それは、わたしがこの村で生まれ育ったからです。物心つく前からそう教えられてきたからです。でも、あの人は違う。全く違う世界で育ってきた人なのですよ。そんな人が、あんなことに耐えられると思っているの?」
「日登美なら……」
聖二はそう言いかけ、
「いや、日登美様なら耐えることができるはずです。そして、いつか、それを喜びに変えることができるはずです」
とすぐに言い直した。
「日登美様の中には明らかに日女の血が流れています。はじめてお会いしたとき、僕はそれを直感しました。今、まだその血は目覚めてはいないが、必ずその血が目覚めるときが来ます」
「もし、目覚めなかったら……?」
「耀子様」
聖二の声が苛立《いらだ》ったように鋭く響いた。
「あなたが僕のやり方をお気に召さないようなのは前々から知っていました。ですが、これ以外に方法がありますか? 何か手立てがあるのですか。あるならば教えていただきたい」
「…………」
耀子は窮したように黙ったままだった。
「今度の大祭がどれほど大切なものか、あなたにもよくお分かりになっているはずです。今までにも増して、大神の御加護が必要なときなのです。あなたも日女ならば、神家の女ならば、此の際、ささいな私情などにこだわるべきではない。目をつぶるべきです」
「わたしの言っていることがささいな私情だと言うの?」
「そうです。大事の前の小事。ささいな私情にすぎません。耀子様、これだけは言っておきます。もし、これ以上、邪魔だてするようなことがあれば……」
聖二の声がいったん途切れた。
「たとえあなたでも、僕はけっして許しませんよ。いや、大神がお許しにならないでしょう。それだけは覚えておいてください」
衣ずれの音がして、聖二が立ち上がったような気配がしたので、日登美は慌ててその場を離れた。
廊下を足早に歩きながら、胸の奥がざわざわと波打っていた。
あの人は何も知らないのね。ここの祭りがどういうものか。その祭りで、日女が何をするのか。何も知らないで帰ってきたのね……。
耀子はそう言っていた。
わたしが何を知らないというのだろう。
聖二から聞いたぶんでは、特別に変わった祭りのようにも思えなかったのだが……。
それとも、聖二は、耀子の言うように何か隠しているのだろうか。
それに、耀子はこうも言った。
妹にひどいことを……。
ひどいこと?
その一言が日登美を不安にさせていた。
部屋に戻ってきても落ち着かなかった。
ここの祭りがどういうものか。
その祭りで、日女が何をするのか。
そんな耀子の言葉が耳について離れない。
そういえば……。
今度の祭りでの自分の役割について、詳しい話は聖二からまだ何も聞いていなかったことに日登美は今更ながらに気が付いた。
前に聞いた話では、大日女の補佐役のようなことをするということだったのだが。
具体的には何をするのか……。
聖二に聞いてみようかとも思ったが、耀子の話が本当ならば、聖二が何もかも話してくれるとは限らない。
いっそ、耀子に聞いた方が早いかもしれない。聖二が隠しているということも、耀子ならばすべて話してくれるかもしれない。
そう思い立つと、日登美はいても立ってもいられなくなり、再び耀子の部屋に足を運んだ。
「日登美です。ちょっとよろしいでしょうか」
襖越しに声をかけると、「どうぞ」という耀子のものうげな声がした。
襖を開けてみると、すでに聖二の姿はなかった。
「あの……郁馬ちゃんたちは?」
日登美は尋ねた。
まさか、立ち聞きしたことは言えないので、日の本寺で貰《もら》った団子を話のきっかけにしようと思ったのである。
「さあ。お山で遊んでいるんじゃないかしら……」
耀子はそう答えた。声にも顔にも生気がなかった。心ここにあらずという表情でぼんやりとしている。
「これ、日の本寺でいただいてきたんです。お子さんたちにって」
日登美がそう言って、団子の包みを見せると、耀子は、「ああ、幸子さんの手作りのお団子ね。郁馬たちの大好物なのよ」と言って、ようやく笑顔を見せた。
幸子というのは住職の妻の名前らしい。
「どうもありがとう。あとで渡しておくわ」
耀子は日登美から団子の包みを受け取った。
「ひとつ伺いたいことがあるんですけれど……」
日登美はおそるおそる話を切り出した。
「今度の祭りのことなんですが……」
そう言うと、耀子の顔から笑みが消えた。
「わたしは日女《ひるめ》として何をするんでしょうか? 聖二さんからは大日女様のお手伝いをするだけだとしか聞いていないのですが……」
「大神祭というのは……」
耀子は、日登美の顔からすっと視線をそらすと、庭の方を見ながら言った。
「冬を迎えて弱まった太陽の力を蘇《よみがえ》らせるお祭りなのよ。古くはミタマフリと言って……」
耀子は聖二と同じことを言った。
古事記などに書かれている、天の岩戸に閉じこもってしまった天照大神をアメノウズメノミコトをはじめとする八百万《やおよろず》の神々が外に連れ出そうとするあの場面をそのまま神事として行うのだという。
「そして、大日女様によって蘇った大神の御霊は、三人衆の上に降りると言われているのよ……」
耀子はそんなことを言った。
「三人衆?」
これははじめて聞く言葉だった。
「三人衆というのは、毎年、村の十八歳以上三十歳未満の独身男性の中から選ばれて、大神の役をする若者たちのことなの……。わたしたち日女は……」
神社の神域内に作られた機織《はたお》り小屋という小屋の中でこの三人に「神の衣」である蓑《みの》と笠《かさ》、さらに一つ目の蛇面を渡すのが日女の役なのだと耀子は言った。
神に蓑笠を差し上げるという儀式は、日神に風雨を防ぐ防具をあげることで、風雨の平安を祈る、日祈《ひのみ》の意味があるのだという。
それは、ちょうど秋田の「なまはげ」にも似た神事で、大神の霊の宿ったとされる三人の若者は、頭《とう》、胴《どう》、尾《び》と呼ばれ、それぞれ日女から手渡された一つ目の蛇面と蓑笠をつけ、村中の家々を一軒ずつ回る。
神となった三人の若者を迎えた家々では、蛇神の好きな酒と卵を用意してもてなすのだという。
こうして、村中の家を回り終えた三人衆は、再び、機織り小屋に戻ってくる。このとき、日女は酒で三人をもてなす。日女のもてなしをうけた若者たちが蓑笠と面を脱ぐと同時に、大神の御霊はようやく若者たちの身体から離れ、天界に戻っていくとされている。
毎年行われる例祭では、祭りはここで終わるのだが、七年ごとの大祭では、最後に、これに一夜日女《ひとよひるめ》の神事が加わる。天界に戻ろうとする大神に、いわば土産代わりに一夜妻を差し上げようというのである。
日の本村の祭りは、例祭では、派手な神輿《みこし》などはいっさいくりださないのだが、大祭のときだけは、華麗な神輿がかつぎ出される。その神輿には、白衣に白袴姿の一夜日女が乗せられ、深夜、村中を練り歩くのだという。
ただ、この祭りの奇妙な点は、このとき、村人は誰もこの神輿を見てはいけないことになっているというのである。深夜ということもあるが、村人たちは家に閉じこもり、けっして外出は許されない。
神輿のかつぎ手も宮司をはじめとする神官たちに限られており、華麗な神輿は夜の闇《やみ》のなかを掛け声などもなく、しずしずと練り歩いたあと、明け方近く、社に戻ってくるのだという。
「……日女の役目とは、この三人衆のお世話をすることなのよ。三人の若者に神の衣である蓑と笠を着せて送り出し、最後は酒でもてなし労をねぎらう……。それだけのことなのよ。難しい事は何もないわ。蓑笠と面を渡す儀式はわたしがやります。あなたには、そのあとのお酒のおもてなしの方をしてもらうことになると思うわ。多少のお作法はあるけれど、それも一日もあれば覚えられる程度のものよ……」
耀子は、そう言って微笑した。が、その目は、なぜか日登美の視線を避けるように庭の方に向けられたままだった。
「それだけなんですか……?」
日登美はやや拍子抜けしたような気分で尋ねた。何やらもっと仰々しいことをするのではないかという不安があったが、聞いてみると、それほど大したことではないような気がした。
神輿をかつぐ男たちのために炊き出しや酒の用意をするくらいのことならば、以前にも、近所の祭りのときに何度かしたことがあった。
「そう。それだけよ……。ただ」
耀子は何か言いかけたが、思い直したように、「それだけのことなのよ。心配はいらないわ。あなたもすぐに慣れるわよ……」と言った。
耀子の話を聞きながら、日登美はほっとひと安心すると同時に、なんとなく腑《ふ》に落ちないものも感じていた。
これのどこが、「ひどいこと」なのか。
それとも、耀子が聖二に投げ付けたあの言葉はわたしの聞き違いか何かだったのか……。
「あの……どうして、あのとき、わたしに出て行けなんておっしゃったのですか」
日登美は思い切ってそう尋ねてみた。
こうして日登美の質問に丁寧に答えてくれる耀子が自分を嫌っているとはどうしても思えなかった。
「あのことは……」
耀子はややうろたえたように口ごもった。
「忘れてちょうだい。わたし、どうかしてたのよ。時々、とてもいらいらするの。それで、つい心にもないことを言ってしまうことがあるのよ。あのときも、一夜日女のことで……」
そう言いかけた耀子は、庭先に何か見つけたような表情になると、黙りこんでしまった。
耀子の視線の先を見ると、庭を散策する聖二の姿があった。聖二は一人ではなかった。春菜の手を引き、もう一人、二十前後の若い女性と肩を並べていた。
日登美の知らない顔だった。神家の女ではないようだった。
しかし、聖二と寄り添うようにして庭を歩いているその姿には、ただの客人とは見えないような親密さが感じられた。
「あの人は……?」
それとなく耀子に聞くと、耀子は硬い表情のまま言った。
「太田美奈代さん。村長の娘さんよ。来春、聖二と一緒になることになっているの……」
ああ、そういうことか……。
日登美は合点した。二人が親密そうなのも不思議はなかった。
聖二の婚約者というわけだった。
そういわれてみれば、美人というほどではないが、丸顔で素朴な感じのするその女性は、まさに恋する女という輝きを全身から発散しているようだった。
傍らの男に何か話しかけられるたびに、頬《ほお》を染め、嬉《うれ》しそうに反応している。聖二の方も、連れをいたわるようなそぶりを見せていた。
「かわいそうに……」
耀子がぽつんと呟いた。
日登美は思わず自分の耳を疑った。
かわいそう?
誰のことを言ったのだろう。
「かわいそうって……?」
日登美が聞くと、耀子は、憐《あわ》れみとも皮肉ともつかぬ奇妙な微笑をその形のよい唇に浮かべて言った。
「この家の男たちが大切にするのは日女《ひるめ》だけなのよ。日女ではない女のことなど歯牙《しが》にもかけないわ。あなたも信江さんを見てて、そのことには気が付いていたでしょう?」
「…………」
耀子の言うとおりだった。それは日登美も気が付いていた。
宮司の妻という立場のわりには、信江の地位がこの家ではあまりにも低いことを。食事のときの席も一番下座だったし、神琢磨は、信江のことを妻というよりも下女かなにかのように扱っていた。
神琢磨だけではない。息子たちも信江のことを母親という目では見てはいないような感じだった。
それは、春菜のような幼児でさえ、日女の血が流れているというだけで、女神のように崇《あが》められるのとは全く対照的で、同じ女なのにと、日登美の目には少々異様に映ったくらいだった。
「この村で日女が大切にされるのは、そうされるだけの理由があるからよ。女だからといって大事にされているわけではないの。それどころか、この村には、昔から男尊女卑の気風が根強く残っていて、日女以外の女性にとっては、むしろ住みにくい村かもしれないわ。
聖二さんも今はああして美奈代さんに優しく接しているけれど、ひとたびお嫁にもらってしまえば、父のようになるわ。いいえ、彼はすべての点で父以上だから、妻に対する態度も父以上にひどいものになるでしょうね……」
「まさか、聖二さんが……」
日登美はついそう言ってしまった。
仲むつまじそうに庭を散策する若い二人の様子を見る限り、そんなことは想像もできなかった。
「あなたは……」
耀子は日登美の方をやや険のある目付きで見ながら言った。
「聖二のことを知らなすぎるわ」
日登美が何も言えずに耀子の顔を物問いたげに見返すと、耀子は、再び視線をそらし、
「聖二は大神の申し子なのよ。彼の身体には蛇の血が流れている……」
そう呟《つぶや》いた
日が暮れると、神家の台所はいつにもまして戦場のようになっていた。
日登美が何げなく台所をのぞいてみると、信江と手伝いの女性、それに加えて、聖二の婚約者だという村長の娘までがエプロン姿で、忙しそうに動きまわっていた。
しかも、台所のテーブルには、郁馬たち幼い子供が集まって、早い夕食をとっているようだった。
聞くと、今夜、村の顔役だけを集めて日登美母子の歓迎会を開くのだという。その準備に今から追われているようだった。
「何か手伝いましょうか」
女たちの猫の手も借りたげな忙しさをみかねて、日登美がそう申し出ると、信江は、激しくかぶりを振って、
「とんでもございません。日女様が台所にたつなど……。主人に知れたらわたしがきつく叱《しか》られます。用意ができましたらお呼びしますので、お部屋でお休みになっていてください」
と言うだけだった。
しかたなく、日登美は部屋に戻ってきた。春菜は聖二のところに行ったきりになっている。
手持ち無沙汰《ぶさた》だった。
そこで、ふと、松山にいる伯母のタカ子に手紙を書くことを思いたった。聖二の訪問をうけたあと、伯母には何も告げずにこちらに来てしまった。日の本村に帰ってきたいきさつを、知らせておいた方がいいと思ったのである。
何度も書き直しをしながら、長い手紙を書き終わり、それに封をしたとき、廊下に慌ただしげな足音がしたかと思うと、「ご用意ができましたので、お座敷の方に……」という信江の声がした。
座敷に行ってみると、既に膳は奇麗に並べられ、客人たちの姿もそろっていた。村の顔役だという年配の男たちの中には、あの太田村長の赤ら顔や日の本寺の住職の顔もあった。
聖二はといえば、白衣に袴《はかま》姿で、そういった顔役連中を尻目《しりめ》に上座に陣取り、膝《ひざ》に春菜を大事そうに抱いていた。
春菜はいささか眠そうな顔つきで、それでも、おとなしく伯父の腕の中で、機嫌《きげん》のいいことをしめす指しゃぶりをしている。
年配の男たちに混じって、若者の顔も何人か見えた。雅彦と光彦の顔は既に知っていたが、もう一人、同じ年頃の青年の顔があった。雅彦たちによく似ているところを見ると、おそらく、これが長野市内の会社に勤めているという四男の武彦だろう。
さらにもう一人、太田村長の隣に、二十四、五歳の体格の良い若者が座っていた。
瑞帆の姿はあったが、郁馬たち幼い子供の姿はなく、耀子の姿も見えなかった。
「耀子さんは……?」
燗《かん》をつけたとっくりを運んできた信江に聞くと、
「耀子様は少しお加減が悪いそうで、お部屋でお休みになっています」
信江はそう答えた。
日登美が席につくと、聖二が口火をきった。まず、村の顔役たちをひとりずつ日登美に紹介していく。
村長の隣に座っていた大柄な青年は、太田久信といって、村長の長男ということだった。太田美奈代の兄というわけだった。
「倅《せがれ》は今年三人衆の一人に選ばれましてな。見てのとおりの無骨者ですが、日登美様、どうかひとつよろしくお願いいたします」
村長はそう言って深々と頭をさげた。
「こら。おまえも日登美様に見とれてないで、はよ、ご挨拶せんか」
村長が傍らの息子を叱りつけると、うすらぼうっとした顔つきで日登美の方を見ていた太田青年は、慌ててぺこんと頭をさげた。
「なんだ。日女様に対してそのいい加減な頭のさげ方は。頭を畳にこすりつけて拝むようにするんじゃ」
なおも父親に口うるさく言われて、太田久信は、大柄な身体を窮屈そうにおりまげると、ガマのように畳にはいつくばった。
見ている日登美の方が恥ずかしくなるような光景だった。
「三人衆というのは……」
聖二が簡単に説明した。それは、耀子から聞いた話のとおりだった。
あとの二人もいずれ紹介すると聖二は付け加えた。そして、座敷の面々の紹介をすませると、事務的ともいえるような淡々とした声で、一夜日女が真帆から春菜に代わったことを一同に告げた。
すると……。
奇妙な沈黙が座敷を包んだ。
誰も何も言わない。皆、一斉に動きをとめた。
それまで満面に笑みを絶やさなかった太田村長でさえ、一瞬、その赤ら顔から笑みが拭《ぬぐ》ったように消えた。
しかし、それはほんのつかの間だった。
「春菜様が一夜様に……。それはめでたい。いやあ、めでたい。これは二重にめでたい」
村長の胴間声が座敷の沈黙を破った。
すると、それまで電池の切れた人形のように動きをとめていた他の客人たちも、一斉に口元にややぎこちない笑みを浮かべ、「めでたい、めでたい」と言い始めた。
聖二の音頭で祝杯があげられ、小一時間もすると、酒がはいったことで、それまでかしこまっていた男たちの様子が変わってきた。
とりわけ、窮屈そうに正座をしていた太田青年など、あぐらをかき、酒の回った父親譲りの赤ら顔をにたつかせ、男たちにお酌して回っている妹の美奈代にむかって、
「おまえ、すっかり聖二様の若奥様気取りじゃねえか」などと囃《はや》したてている。
美奈代は兄の言葉に耳まで真っ赤になって、男たちの野卑な笑い声から逃げるように座敷を出て行った。しかし、その丸みを帯びた背中には隠しきれない喜びのようなものがみなぎっている。
「聖二様。来年だなんて悠長なこと言ってないで、はやくあいつをもらってやってくださいよ。あいつときたら、うちにいても聖二様聖二様ってうるさくてしょうがねえんだから」
太田久信は、今度は聖二に向かってそんなことを言った。どっと笑い声がおこる。
聖二の方はといえば、義兄になる男にそう囃したてられても、苦笑のような微笑をちらと見せただけで、まるで他人事を聞くような素知らぬ顔をしていた。
いくら盃《さかずき》を口にしても顔には出ない性《たち》らしく、その白面はいささかの朱色にも染まっておらず、態度にも乱れが見えなかった。
そのうち、眠くなったのか、春菜がぐずりだした。
「春菜様、おねむですか」
聖二がすぐに気づいてそう聞くと、春菜は目をこすりながら、こっくりと頷《うなず》いた。
ふだんなら、春菜はとっくに布団《ふとん》にはいっている時刻だった。
「それなら、わたしが……」
日登美は慌てて立ち上がりかけた。男たちの酔態にうんざりしかけていたので、座敷を抜ける口実ができたことを喜んでもいた。
「いや、僕がやりますから」
しかし、聖二は立ち上がりかけた日登美を軽く制すると、春菜を抱き上げ、あやしながら座敷を出て行った。
座敷を抜ける口実を奪われて、日登美は内心がっかりしながらも座り直した。
「日登美様、ささ、おひとつ」
既にゆでだこのように真っ赤な顔になった村長が銚子《ちようし》の首をつまんで、膝《ひざ》でにじりよってきた。
「いやあ、このたびは、ご家族が大変な目にあわれたそうで……」
酒の勢いも手伝ってか、村長はあたりかまわぬ大声でそんなことを言った。
日登美は古傷に触られたような嫌な気がした。
「しかし、日登美様」
村長は酒臭い息を吹きかけながら、日登美の方に顔を寄せて、今度は囁《ささや》くように言った。
「こんなことを申し上げては何ですが、何事も大神のなされたことですぞ。日登美様と春菜様がこの日の本村にお帰りあそばされるよう、大神のご意志が働いたことなのですぞ……」
そう繰り返す村長の目は、とろんと酔っているようにみえたが、その目の奥の方に、妙に真剣な色がぬめぬめと底光りのように光っていた。
すべては大神の意志……。
聖二も同じようなことを言っていた。
新庄貴明の紹介で、矢部稔という少年を雇いいれたことも、その矢部が突然あんなことをしでかしたのも、すべては大神の意志だったとでもいうのだろうか……。
そのとき、日登美はあることを思い出してぞっとした。
通夜の席で、新庄貴明が言っていたこと……。
「……魔に見入られるという言葉がありますが、あの夜の彼はまさにそんな状態だったのかもしれません。矢部自身、あの夜のことを、まるで自分ではない何かに操られているようだったと言っているそうです……」
自分ではない何かに操られているようだった……?
まさか、それは……。
「こら、久信。おまえもこっちさ来て、日登美様にお酌でもせんか」
日登美の物思いは村長のどなり声で中断された。
父親の声に、だらしなくあぐらをかいていた太田久信は、のっそりと立ち上がってこちらにやってきた。
「どうぞ……」
太田青年はそう言って、グローブのような手で銚子の首をつかんで、日登美の前にぬっと差し出した。
その大柄な身体が自分の前に壁のように立ちはだかったとき、日登美は、ふいに悪寒のようなものが背中を走るのを感じた。
自分の方を上目使いで見ているこの青年に、なぜか、あの矢部稔の顔が重なって見えた。
10
残暑の厳しさが次第に和らぎ、山間を吹き抜ける風にひんやりとした秋の気配を感じるようになった。そして、その秋も足早に過ぎようとしている。
日登美が日の本村に帰ってきてから、一カ月半が瞬く間に過ぎて、季節は十一月になっていた。
大神祭を二日後に控えたその日、白衣に濃紫の袴《はかま》という姿で、日登美の足は日の本寺に向かっていた。
日の本寺を訪ねて以来、昼時はあそこで住職の打つ蕎麦《そば》を御馳走《ごちそう》になるのが半ば日課のようになっていたのである。
例の三叉路にさしかかったとき、日登美は、ボストンバッグをさげた一人の中年男に声をかけられた。
年の頃は四十そこそこ、見たところ、旅行客のようだった。一の鳥居を出て少し行ったところに、バス停があるので、おそらくそこから来たのだろう。
「日の本寺に行きたいのですが……」
男は言った。
「日の本寺なら……」
わたしもこれから行くのでご一緒しましょうと日登美が言うと、男はほっとしたような顔になった。
「ご観光ですか」
寺までの道すがら、日登美が何げなくそう尋ねると、その男は、
「観光というか……大神祭を見にきたのですよ」と答えた。
男は真鍋と言い、神奈川県鎌倉市の高校で日本史を教えているのだという。十年ほど前から、日本の祭り、とりわけ、人にあまり知られていないような奇祭に興味をもつようになり、教師という職業のかたわら、暇を作っては、そうした奇祭の噂を聞くと、どんな山奥にでも訪ねて行くようになったのだと言った。
日の本村の大神祭のことも人づてに聞き、ぜひ一度見てみたいと思い、病気と偽って学校を休んでまで来たのだという。
観光案内所で日の本寺のことを聞き、二泊ほどさせて貰《もら》うつもりだとも言った。
日の本寺に着くと、日登美は、住職もまじえて、この真鍋という男と三時間近くも話しこんでしまった。
真鍋は、単に祭りを見物するだけではなく、地元の人や神社関係者から、その祭りに関する様々な話を聞き出し、それを大学ノートにまとめているのだと言った。その大学ノートも既に三冊めになるという。
「来年あたり、自費出版という形でもいいから、今まで書き溜《た》めたものを一冊の本にしたいと思っているんですよ……」
真鍋はそんなことを言った。
別れ際、真鍋は、巫女《みこ》姿の日登美の写真を一枚撮らせてくれと言い出した。
「本になったときにその写真を口絵にでも載せたい」というのである。
日登美は少し照れながら、カメラを構える真鍋の前に立った。
真鍋伊知郎は、シャッターを切る瞬間、白衣に濃紫の袴を着け、微《かす》かにほほ笑んで立っている女を、ああ美しい、と心の底から思った。
昭和五十二年の晩秋のことだった。
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日美香の部
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第一章
平成十年、四月。
葛原日美香がその喫茶店の扉を開けたとき、新田佑介は、読んでいた雑誌から顔をあげて日美香の方を見ると、やあというように軽く片手をあげた。しかし、その顔には、いつものような笑みはなく、心持ちこわばっているように見えた。
やっぱり変……。
日美香は本能的にそう感じた。
それは、昨夜、電話で佑介から、「話したいことがある」と妙に改まった口調で言われたときから感じていたことではあった。
別れ話……かな。
日美香はとっさにそう思った。
それ以外に考えられなかった。
昨年のクリスマスに彼の家に招待され、家族に紹介されたときから、いつかこんな日がくるのではないかという不安は、ずっと日美香の胸の奥にあった。
あまりにも育った環境が違いすぎる。
そんな思いが……。
今年にはいってから、佑介とは会う機会が目立って減っていた。彼は仕事が忙しくてとこぼしていたが、仕事を口実に、あえて、日美香との間に距離をおこうとしているのではないかという気がしていた。
もし、別れ話だったら……。
日美香は一晩考えてすでに答えを出していた。
笑って別れよう……と。
二人が付き合いはじめたのは、日美香が大学一年のときに入った天文学サークルというところに、四年生の佑介が先輩としていたことがきっかけだった。
翌年、佑介が卒業して、ある大手企業にエンジニアとして就職してからも交際は続き、今日に至ったというわけだった。
二年付き合ったといっても、それほど深い関係になっていたわけではなかった。肉体的なつながりも、軽いキスどまりで、それ以上はいっていなかった。
むろん、将来の約束など何もしていなかった。
今なら傷も浅くて済む……。
日美香は自分にそう言い聞かせた。
席につき、注文を取りに来たウエイトレスが去ったあとも、二人の間で会話は全く弾まなかった。
もともと、佑介は無口なほうで、女の子といるよりも単車でもいじっている方が性に合うと自分でも言うほど、話しべたなところがあった。
しかし、いくら無口といっても、今までに、これほどぎこちなく重苦しい雰囲気になったことはなかった。
日美香はそんな雰囲気を少しでも払おうと、話題を見つけて一人でしゃべった。そろそろ就職活動を本格的にはじめようと思っていること。今もなお所属している天文学サークルのことなど……。
佑介は相槌《あいづち》をうって聞いてはいたが、その顔には、心ここにあらずという表情がありありと窺い取れた。
「……それで、話ってなに?」
どうでもいいような近況報告をひとしきりしたあと、ついに話題が尽きて、一瞬の沈黙ののち、日美香は、ことさら明るい声でそう言った。
何げなく口元まで運ぼうとしていたティカップを持つ手が震えて、中のハーブティを少しこぼしてしまった。
佑介は、座席の脇《わき》においていたセカンドバッグの中をごそごそ探していたが、小さな箱のようなものを取り出すと、黙ったまま、それを日美香の方に差し出した。
シルバーグレイの小箱は、宝石などを入れる箱のように見えた。
日美香は、テーブルの上のその小さな箱と、怒ったような顔つきで自分の方を見ている佑介の顔を思わず見比べた。
おずおずとした手つきでその箱を引き寄せ、開けてみた。
中には、小粒だがダイヤと思われる輝く石をあしらった指輪が入っていた。
「これ……?」
てっきり別れ話を切り出されると思い込んでいた日美香は、恋人が差し出した意外なしろものを信じられないという目で見ながら言った。
日美香の誕生日は九月である。今は四月だ。まさか誕生日のプレゼントというのではあるまい。
それに、小さくてもダイヤの指輪というのは、ただのプレゼントにしては高価すぎる。
だとしたら……。
「……給料の三カ月分って本当だな」
佑介は、そんな独り言をもらした。その顔には、照れ笑いのような笑みがはじめて浮かんでいた。
エンゲージリング?
佑介の一言で、日美香はその指輪の意味をようやく理解した。
「でも、わたし、まだ学生よ?」
嬉《うれ》しいというよりも、ただただ驚いて、日美香は言った。
「だから……今すぐにってわけじゃない。もちろん、日美ちゃんが卒業してからの話だよ。ただ、俺《おれ》がそういう気持ちでいるってこと、知って貰《もら》いたくて……」
佑介は、あわてたようにそう答えると、こう続けた。
「実は、早ければ来年あたりから海外勤務になるかもしれないんだ。行けば、少なくとも三、四年は帰ってこれないかもしれない。それで、このへんでお互いの気持ちをはっきりさせておいた方がいいんじゃないかと思ったんだ。こういう話、今までまともにしたことなかっただろう?」
「わたし……電話貰ったとき、別れ話をされるのかと思ったわ」
日美香がそう言うと、佑介はえっというように目を剥《む》いた。
「まさか。どうしてそんな……」
「だって、今年にはいってから急に仕事が忙しいとかいって会ってくれなくなったから。冷却期間をおこうとしているのかなと思って……」
「仕事が忙しかったのは嘘《うそ》じゃないよ」
佑介はすぐにそう言ってから、
「ただ、冷却期間というか、気持ちを整理する時間を持とうと思ったのは事実だな。自分の気持ちがはっきりするまで会わない方がいいかと思ってさ……」
と言い直した。
「海外勤務って、どこなの?」
「アメリカあたりだろう。デトロイトに支社があるからそこかもしれない」
「もし、そうなったら、わたしも一緒に行かなければならないの?」
「それは……きみ次第だよ。気がすすまなければ、日本に残ってくれてもかまわないし」
「つけてみてもいい?」
日美香はそう言って、小箱の中から指輪を取り出し、それを左手の薬指にはめてみた。指輪はやや大きめだった。
「どう? サイズ、合わないかな」
佑介は不安そうな顔になった。
「ちょっとぶかぶか。指輪を買うときは、前|以《もつ》てサイズを相手に確かめないとだめよ」
「と、取り替えてくる」
佑介は、小箱を取り返そうと身を乗り出した。
「いいわよ、別に」
日美香は笑った。
「……OKと取ってもいいのかな?」
佑介は不安そうな顔のまま、おそるおそるという風に聞いた。
日美香は黙って頷《うなず》いたが、すぐに、
「……でも」
と、指輪に視線を落としたまま言った。
「でも、なに?」
「ご両親はこのことご存じなの?」
「もちろん話してある」
「反対されたんじゃない?」
「……少し早すぎるとは言われた。だけど、別に反対はされなかったよ」
「環境が……違いすぎると思うんだけど」
日美香は俯《うつむ》いたまま言った。
「環境が違う? なんだ、それ?」
佑介の顔に強《こわ》ばった笑いが浮かんだ。
「その……あなたとわたしでは育った環境が違いすぎるのよ。だから……」
佑介の家は、父も祖父も曾祖父《そうそふ》も大学の教授という学者一家である。母親は料理学校を経営し、テレビにもちょくちょく出ることがある著名な料理研究家だった。
高級住宅の立ち並ぶ白金台でも、ひときわ目を引く豪邸に住み、親戚《しんせき》にも、銀行の頭取だとか医者だとかが多いと聞いていた。
いわゆる何代にもわたるエリートの家庭なのだ。
そのことは話には聞いていたとはいえ、実際に、昨年のクリスマスに家に呼ばれたとき、日美香は痛いほど実感していた。
彼の家族は一人息子のガールフレンドを気さくに暖かく迎えてくれはした。しかし、日美香は、かれらと自分との間には、目には見えないが、はっきりと明確な境界線のようなものが引かれていると感じた。
だから、あのとき、ああだめだと思ったのだ。あまりにも違いすぎる。自分の育ってきた環境と、この人たちのそれとは。
この恋はこれ以上の実りを見ることはないだろう……と。
「わたしのこと、どの程度、ご家族には話してあるの?」
日美香は思い切って聞いてみた。
「どの程度って、きみから聞いたことは全部話したよ」
佑介は、ややとまどったような口ぶりで言った。
「本当に全部? わたしが父親の顔もしらない私生児だという事も? 母が昔ホステスをやっていた頃、妻子持ちの男と不倫して、そのあげくに認知もされない子供を生んだということも? おまけに、その母は、今でも郷里で酔客相手の小さなスナックをやっているということも? 本当に全部ご両親に話してあるの?」
日美香は妙に自虐的《じぎやくてき》な気分になって、そう畳みかけるように聞いた。
「葛原」
佑介は、むっとしたような顔になると、日美香を姓で呼んだ。ふだんは名前で呼んでいるが、何か気に障るようなことがあると、急によそよそしい声になって、学生のときのように姓で呼ぶことがあった。
「前から一度言おうと思っていたんだが、きみは自分が私生児だということにこだわりすぎているんじゃないのか?」
「…………」
日美香は何も言わず佑介の顔を見つめた。
「俺の両親はそんなつまらないことにこだわる俗物じゃない。そのことなら気にしなくていいよ。それどころか、おふくろなんて、話がそこまで煮詰まっているなら、一度きみのお母さんに会いたいと言っているんだ。それでどうだろう。できれば、ゴールデンウイークあたりに、もう一度、今度はお母さんも一緒に、うちに招待したいと言っているのだが。都合つかないだろうか?」
「一応……話してみるけれど」
日美香は少し憂鬱《ゆううつ》な気分になって、呟《つぶや》くような声で言った。
あの母が、あの家族に会うのか……。
その光景を想像しただけで気が重くなった。
日美香は、半ば無意識のように、ダイヤのついた指輪をくるくると指で回した。
わたしの指には少し大きすぎる指輪……。
それは、このあまりにも不釣り合いな結婚を象徴しているようにも思えた。
テーブルの上の電話機をちらと見てから、棚の上の置き時計を見る。そして、再び電話機を見て、日美香は深いため息をついた。これで何度めのため息だろう。
あのあと、行きつけの小さなフランス料理店で佑介と夕食を済ませ、ワンルームのマンションに帰ってきてから、日美香は、こんな一連の動作を繰り返し、そのたびにため息ばかりついていた。
母に電話をかけなければ。そして、今日、新田佑介からプロポーズされたことを話さなければ。
そう思い、電話に手がのびかかるのだが、どうしても、それ以上の行為に出ることができない。のびかけた手は宙で止まり、一瞬のためらいの後、また膝《ひざ》の上に戻ってしまうのだ。
母にこの話をすれば大喜びするのは目にみえている。以前、佑介と付き合っているということを打ち明けたときでさえ、まるで自分が恋人を見つけたように大はしゃぎした母だから……。
しかし、母の喜ぶ声を聞けば聞くほど、自分の気持ちが沈みこむだろうということも日美香は嫌というほど分かっていた。
だから、どうしてもためらってしまう。
明日にしようかな……。
そんな弱気な気分になりかけたとき、目の前の電話が鳴った。
日美香はすぐに受話器を取った。佑介だった。
「どうだった? お母さんの都合は? 来られるって?」
佑介は矢継ぎ早に聞いた。
「あ……これから電話するところ」
日美香がそう言うと、佑介は、「なんだ」と呟き、あとでまた電話すると言って切った。
どうやら、これで、明日というわけにはいかなくなったようだ……。
日美香は、肺腑《はいふ》から絞り出すように、また一つため息をつくと、ようやく決心したように、短縮に登録してある母の店の番号を押した。
時刻は午後十一時を少しすぎたところだった。この時間帯なら、母はまだ店の方にいるはずだった。
受話器を耳にあて、しばらく呼び出し音を聞いていると、むこうの受話器の外れる音がして、やや金属的な母の声がした。
「わたしだけど」
そう言うと、
「日美ちゃーん?」
母の声がいっそうかん高くなった。母の大好きな、そして、日美香の大嫌いな湿っぽい演歌が漏れ聞こえてくる。客がいるような、ざわついた気配も伝わってくる。母はすでに酔っ払っているようだった。
「どうしたの。珍しいじゃない。あんたが店に電話してくるなんて」
母の声が嬉しそうに弾んだ。客らしき男の声で、「誰?」と言っている。「娘、娘」と母の声。
「ちょっと話があるんだけれど……」
日美香は仕方なくそう言った。
「今?」
「そう、今」
できれば、店ではなく自宅の方でしたい話だったのだが、母が店を閉めて自宅に戻るのは明け方であることが多かった。
「静かにして。娘が話があるんだってさ」
客にそう命令している母の声が聞こえてきて、日美香は鼻白んだ。
演歌は相変わらず聞こえていたが、にわかに客たちの声が消えた。
「あのね……」
渋々、そう切り出すと、日美香が話し終わらないうちに、
「うそーっ。うそでしょ? エイプリルフールならもうすぎたよっ」
という、母の興奮した声が日美香の耳をつんざいた。日美香は顔をしかめて、受話器を耳から少し離した。
「うそじゃないわよ。それでね……」
むこうの両親が一度会いたいと言っているので、ゴールデンウイークあたり都合がつかないかと聞くと、日美香の声に覆いかぶさるように、
「行くわよ。行きますよ。ゴールデンウイークね? いつだっていいよ。いつだって空けておくから」
と母の声。そして、日美香の話をいちいち客たちに伝えているらしく、「結婚?」「学者一家?」「玉の輿《こし》かあ?」などという酔客のはやし声が聞こえてくる。
田舎町の小さなスナックバーは興奮のるつぼと化してしまったようだ。全く予想通りの反応だった。
母の声は、アルコールが入っているせいもあって、完全に舞い上がっている。もうとてもまともに話などできる状態ではないようだ。
日美香はまた明日にでも電話すると言って、慌てて切ってしまった。
やっぱり上京するつもりなのか……。
ひょっとしたら、既にゴールデンウイークの予定は埋まっていて、急に上京なんかできないとでも言ってくれたらという淡い期待もあったのだが……。
日美香はまたため息をついた。
そして、一度切った電話機を取り上げると、今度は佑介の携帯にかけた。母ならいつでも都合がつくということを告げると、佑介は、それじゃ、日取りはこちらで決めていいんだねと、彼にしては珍しく、はしゃいだような声を出した。
その夜は、ベッドにはいってもなかなか眠れなかった。昨夜も、佑介からの電話があったあと、てっきり別れ話だと思い込み、そのことで思い悩んで眠れない夜を過ごしたのだが、今日は全く逆の意味で眠れない夜を過ごすはめになってしまった。
ただ、嬉《うれ》しくて眠れないというのではなかった。
むろん、嬉しくないと言ったら嘘《うそ》になる。
別れを半ば覚悟していた相手からいきなりプロポーズされたのだから。しかも、新田佑介は、おくての日美香にとって、いわば初恋の人でもある。
郷里にいた頃の日美香は、ひっつめ髪に野暮ったいメガネをかけた、典型的ながり勉少女だった。
成績は小学校から高校を通じて常にトップクラスだったが、男の子と付き合った経験は全くない。ずっと共学校に通いながら、男子から告白されたことも交際を申し込まれたこともなかった。
日美香の方でも、回りにいる男子を異性として意識したことも関心を持ったこともなかった。同級生だけではない。クラスメートたちが熱をあげるアイドルや人気男優にも全く興味がなかった。
高校生のときには、多大なる皮肉をこめて「聖少女」などと陰で呼ばれるほど、異性には縁がなかった。また、そのことを寂しいとも変だとも思わなかった。
同年配の少女たちが、少しルックスが良いというだけのことで、どうしてあんな白痴《はくち》のような少年たちに夢中になれるのか、日美香にはそちらの方が不思議でしょうがなかったのだ。
日美香が少し変わったのは、名門といわれる今の大学の薬学部にストレートで合格して、東京に出てきてからだった。
さすがに、キャンパスを闊歩《かつぽ》する、おしゃれであか抜けた女子大生たちを見て、自分がいかに場違いな存在であるか気が付いた。
それでようやく、少しは自分の身なりなどを気にするようになったのである。
中学のときからかけていたメガネをコンタクトに替え、いつもひっつめにして後ろで無造作に結んでいた髪を、流行の髪形にしてみた。
たったそれだけで、日美香は別人のようになった。自分ではたいして変わったとは思わなかったのだが、大学一年のときに夏休みに郷里に帰ったとき、回りの人々の反応のすさまじさで、自分がかなりの変貌《へんぼう》をとげたことを知った。
しかも、それ以来、やたらと男性に声をかけられるようになった。新田佑介に交際を申し込まれたのもその頃だった。
佑介は、日美香がはじめて異性として意識した男だった。幼いときから上昇志向のきわめて強かった日美香が、異性に求めたものは、ルックスの良さなのではなく、自分が尊敬できるものを何か持っているかどうかということだった。
それは知識でも技術でも才能でも何でもいい。自分が一目も二目も置けるような何かを持っているような男でなければ、いくら格好ばかり良くても関心が持てなかった。
佑介にはそれがあった。日美香が知らないことを沢山知っており、まがいものでない知性を彼の全身から感じとることができた。
かなり恵まれた家庭環境で育った、いわば良家のおぼっちゃんでありながら、そういったおぼっちゃんにありがちなひ弱さはあまり感じられなかった。
最初は淡い憧《あこが》れが、付き合ううちに、好きという感情になり、そして、今では、はっきりと「愛している」という感情にまで高まっていた。
だから、「笑って別れよう」などと決心しながらも、それが頭で思うほど楽なことではないだろうということは分かっていた。
しかし、事態は思いもかけなかった方向に逆転してしまった。
佑介は、別れるどころか、日美香と結婚することを望んでおり、しかも、彼の話が本当ならば、彼の家族もそのことに反対はしていないという。
それだけではなかった。
あのあと、夕食を一緒にしながら、佑介は、日美香をびっくりさせるような提案を持ち出したのだ。
たとえ結婚しても、きみを専業主婦として家庭に縛りつける気はない。もし、きみが望むのならば、仕事をもってもいいし、あるいは、このまま大学院に進み研究者としての道を歩んでもいい。
佑介はそう言ったのである。
大学院に進み、薬学の研究をする。
これは、日美香が密《ひそ》かに望んでいたことだった。しかし、それは所詮《しよせん》、かなわぬ夢とあきらめていたことだった。
小さなスナックをなんとかやり繰りして、仕送りをしてくれている母にこれ以上の経済的な負担をかけるわけにはいかなかった。
それが……。
好きな男と結婚できるだけでも十分幸運なことなのに、その結婚によって、密かに望んでいた事までもかなうというのだ。
まさに夢のような話だった。
しかし、この夢のような話を、日美香は素直に喜べなかった。
降ってわいたような、そら恐ろしいまでの幸福に、嬉しいというよりも、胸を締め付けられるような不安を感じていた。
眠れないのは、この得たいの知れない不安が黒い不吉な生き物のように、日美香の胸の上にどっかりと乗って、息苦しくさせていたからだった。
幸福はけっして一人ではやって来ない。必ず、双子《ふたご》のきょうだいともいうべき不幸と共にやってくるのだ。
一足さきに訪れた幸福が人を有頂天にさせている間、もう一人の陰鬱《いんうつ》な顔をした訪問者は、扉のむこうで自分の出番がくるのをじっと辛抱強く待っている……。
日美香を眠れないほど不安にしていたのは、まさに、幸福のあとにやってくる、この不幸の前兆ともいうべきものを、敏感にも既に感じ取っていたせいかもしれなかった。
五月に入った。
新田家を訪問するのは、新田家の人々の都合で五月三日の夜ということになっていたが、母の八重が上京してきたのは、前日の五月二日の夜だった。
その夜、狭いワンルームマンションの一室で、日美香は母と十何年振りで一緒に寝ることになった。といっても、日美香がベッドに寝て、母がその下の床に予備の布団《ふとん》を敷いて寝ることにしたのではあるが。
電気を消しても、母は興奮してなかなか眠れないようだった。何度か寝返りをうっていたが、そのうち、
「……ねえ、あんたたちも、いつもこうして寝てるの?」
と、含み笑いを伴った囁《ささや》くような声で聞いてきた。
日美香は一瞬母の言っている意味が分からなかった。
「あんたたちって?」
そう聞き返すと、母は低く笑った。
「決まってるじゃない。あんたと佑介さんだよ。泊まりにきたことあるんでしょ?」
「…………」
日美香はようやく母の言わんとすることを理解して、闇《やみ》の中で顔をこわばらせた。
久しぶりに母の近くで寝ることで、子供の頃に戻ったような甘酸っぱい気持ちになっていた日美香の胸にさっと冷たい隙間風《すきまかぜ》のようなものが通り抜けた。
「いやだねえ……。こんな薄そうな壁じゃ、隣に筒抜けじゃない?」
母は、声を殺してなおもそう言う。少々|下卑《げび》た含み笑いを漏らしながら。
何が筒抜けなのか、さすがに日美香は聞かなかった。
「彼は……」
日美香は冷たい声で言った。
「泊まっていったことはないわ」
「え? ないの?」
八重はびっくりしたように聞き返した。
「ないわ。コーヒーだけ飲んで帰ったことなら何度もあるけれど」
「それじゃ、いつもどこでしてるの? 佑介さんは自宅から通ってるんでしょ?」
母は殆《ほとん》ど無邪気といってもいいような声で言った。
「するって何を?」
日美香は冷ややかに聞いた。
「何をって……まさか、あんた」
がばっと起き上がる気配がしたかと思うと、ぱっと天井の明かりがついた。
「ちょっと。まぶしいじゃない」
日美香は思わず手で目を覆った。
「まだ……ってわけじゃないでしょうね?」
八重は布団の上に正座していた。信じられないことを聞いたという顔でまじまじと日美香を見上げている。
「いくらなんでもそれはないわよね。二年も付き合ってて」
「まだ……よ」
日美香は渋々答えた。この手の会話を母親とすることにたまらない嫌悪をおぼえながら。しかし、母はこの手の会話が大好きだった。
「一度もないの? 二年も付き合ってて一度も?」
母はしつこく聞く。天然記念物でも見るような目で娘を見ていた。
「もう電気消してよ。眠いんだから」
日美香はいらだったような声をあげた。
「信じられない。二年も付き合ってて、おまけに結婚しようという男と一度もないなんて……」
母はぶつぶつとそう言っていたが、はっと何かに気づいたような顔になると、
「日美香。あんた、まさかあのことを気にして?」
と言った。
「なによ。あのことって?」
日美香が仏頂面で聞き返すと、母は、自分の右胸に手をあて、
「ほら、ここのこと……」
と意味ありげに言った。
「違うわ」
日美香は母の言っていることをすぐに理解して、突き放すような声で答えた。
「そう。それならいいけど。あれ、手術か何かで取れないものかねえ……」
八重は布団の上から伸び上がって電気を消すと、そうぶつぶついいながら、また横になった。
「わたしはね……」
日美香は闇の中で呟《つぶや》くように言った。
「母さんのようになりたくないだけよ」
もぞもぞと動いていた八重の動きが一瞬止まった。それっきり凍りついたように母は動かなくなった。自分の投げ付けた一言が母を深く傷つけたことを、日美香は痛いほど感じていた。
そして、いつもこのせりふを言ったあとにくる苦い自己嫌悪に陥った。
母さんのようになりたくない。
母ともめごとを起こすたびに、何度この言葉を口にしただろう。
そのたびに、この言葉は、無敵のジョーカーのように、母を傷つけ黙らせた。
しかし、この一言は、母を傷つける以上に、この言葉を投げ付けた日美香自身をも傷つけていたのだ。
しばらく気まずい沈黙があったが、「おやすみ……」という母のかぼそい声がした。
三十分もすると、ベッドの足元から軽いいびきが聞こえてきた。
日美香は、ほっとすると同時に、苦々しく思った。
母を心ない一言で傷つけた自分の方が後悔の念にさいなまれて眠れないというのに、当の母はいびきをかいて眠っている……。
いつもこうだった。
楽天的というか、ものごとにこだわらないというか。
もし、日美香が自分の娘に同じことを言われたとしたら、一晩眠れないどころか、一生そのことにこだわり続けるだろう。
でも、母は違う。
どんなことを言われようと、三十分もすれば、けろりと忘れたような顔をしているのだ。
人からもよく言われたことだが、これほど似ていない母娘も少ないだろう。まず外見が全然といっていいほど似ていない。八重は色黒で骨太だったが、日美香は色白で骨細だった。二人で並んで歩いても、母娘と思われたことはなかった。
もっとも、八重が言うには、日美香の父親というのが役者にしたいような美男だったそうで、日美香はその父親にそっくりだということだったが……。
違うのは見てくれだけではなかった。性格も正反対といってよかった。ただ、性格的なことは、もって生まれたものもあるだろうが、意識して、母に似ないように似ないようにとふるまってきたせいもある。
小学校の頃から勉強ばかりしてきたのは、自分を私生児という目で見る人々を見返してやるためだったし、華やかでちゃらちゃらしたものや性がらみのものを手厳しいまでに拒んできたのは、母がそういうものをあまりにも無造作に受け入れてしまう女だったからだ。
とりわけ、母の性的な面での放縦さは、ずっと日美香の悩みの種だった。
中学三年のとき、放課後、進路のことで担任と二人きりで面談していたとき、その若い男の担任が、ふと思い出したというように、母のことを口にしたことがあった。
それは、母のスナックで母とカラオケでデュエットをしたというただそれだけのことだったが、その話をしたあとで、担任はにやにや笑いながら、「娘の担任だからといって、いろいろサービスしてくれたよ……」と何げなく付け加えた。
日美香は、そのとき、全身に鳥肌《とりはだ》がたつような思いがした。
むろん、サービスというのは、頼んでもいないつまみを出してくれたとか、飲み代を安くしてくれたとか、その程度のことなのだろうが、そう言って笑いながら、日美香を見たときの担任の目が、いつもの優等生を見るような目ではなかった。
お高くとまっていても、おまえは、あの女の娘じゃないか……。
若い男の目はそうあざ笑っているように見えた。
日美香が育った紀伊半島のはずれの田舎町は、八重の生まれた町でもあった。八重はこの町でちょっとした有名人だったようだ。それもけっして良い意味ではなく……。
高校二年のときに、同級生の子供を孕《はら》み、そのことが周囲に知れて大騒動になったのだという。子供は堕《お》ろして一件落着したらしいが、片田舎の小さな町ではそれはちょっとした事件であり、郷里にいづらくなった八重は、高校を中退すると、逃げるように東京に出てきたのだという。
最初は美容師をめざして専門学校に通っていたらしいが、それも長続きせず、水商売の道にはいったのは、上京して一年足らずのことだった。
新宿を皮切りに店を転々として、日美香を身ごもったのは、八重が二十八歳のときだった。相手の男が妻子もちだったことから、はじめは生むつもりはなかったらしい。
しかし、堕胎の相談に行った産婦人科医から、「今度堕ろしたら、一生子供は生めなくなるかもしれない」と脅かされ、考え直したのだという。八重は、高校のときを含めて、それまでに四回も中絶していたのだ。
「……あんたを生んだとき、わたしは半分死にかけたんだから」
母は自慢でもするようによくそう言った。日美香は逆子で、しかも、臍《へそ》の緒が首に巻き付いた状態で生まれてきたのだという。
医者の手でようやく取り上げられた時、既に虫の息で、母体の方も何時間にも及ぶ難産と大量の出血で生死の境をさまよっていたらしい。幸い、医者の措置が迅速で適切だったことから、二人ともなんとか生き返ったのだということだった。
日美香を生んで二年ほどした頃、早くに両親をなくした八重の親代わりだった祖父母が相次いで亡くなり、小さな煙草屋と、ほんのわずかな不動産を八重は相続した。
それで、東京での暮らしに見切りをつけ、日美香を連れて生まれ故郷に戻ってくると、煙草屋をつぶして小さなスナックに建て替え、腰を落ち着けたというわけだった。
どうして、母は郷里になんか帰ってきたのだろう。あのまま東京にいればよかったのに……。
母からそういったいきさつを聞かされたとき、日美香は唇をかみしめながらそう思った。
郷里には、八重のことを子供の頃から知っている人が多すぎた。そのあまり芳しくない行状を知り尽くした人々が。そして、日美香の同級生や教師たちも、多くは、そんな人々の子供であったり孫であったりするのだ。
中学三年のときの担任の男性教師も、やはりその町の生まれだった。おそらく、八重の噂を小耳に挟んで育ったのだろう。あのあざ笑うような男の目は無言でそれを物語っていた。
どんなに努力して完璧《かんぺき》をめざしても、いつも自分には母という汚点がつきまとう。そして、この汚点は一生自分につきまとうのだ……。
郷里にいる間中、日美香はそんな焦燥感ともつかぬ思いに悩まされ続けてきた。
母のことが嫌いなわけではなかった。
母一人子一人でずっと肩を寄せ合うように生きてきたのだから、母にたいして愛情がないわけがない。
八重のおおらかさも子供のような無邪気さも、日美香はけっこう愛していた。時々、娘というより、母親のような庇護《ひご》的な愛情を八重に対して感じることがあるくらいだった。
しかし、どうしても、あの性的な面でのだらしのなさだけは受け入れるわけにはいかなかった。
処女特有の潔癖さに、生まれついての異様なまでの誇り高さも加わって、日美香は、自らを貶《おとし》めるようなことだけはするまいと心に誓っていた。
思春期を通じて、回りの異性に全く目をむけなかったのも、日美香の注意をひくだけの男が回りにいなかったということもあるが、この母の二の舞いをしたくないという気持ちがあまりにも強すぎたせいかもしれなかった。
その気持ちを鎧《よろい》のように着込んで、日美香は、異性だけでなく、周りの人間たちすべてを、無意識のうちに拒んでしまったのかもしれない。
佑介と出会ったあとも、肉体的な接触を殊更に拒み続けてきたというわけではないのだが、二人きりになっても、隙《すき》のようなものを全く見せなかったことは事実であり、何かの拍子に妙な雰囲気になりそうになると、それを敏感に察して、さりげなくその場を立ったりしたこともあった。
佑介の方も無理に求めるようなことはしなかった。
それにしても……。
日美香は眠れないまま、闇《やみ》の中で思った。
二年も付き合っていながら、恋人と一度も肌《はだ》を合わせないというのは、そんなに異常なことなのだろうか……。
そう言われてみれば、わたしは少し変かもしれない。
そんな風にも思えてきた。
生まれてはじめて佑介とキスした夜、日美香が部屋に戻って真っ先にしたことは、歯茎から出血するほど歯を磨くことだった。
それは、まるで小鳥のついばみのような軽いキスだったにもかかわらず、他人の唇の感触が自分の唇の上に残っているというのは、耐えられない不快感だったのだ。
恋人の、気持ちの上では、はっきり「愛している」と感じている最愛の男の唇でさえ不快な異物に感じてしまう自分にとまどい、怒りさえ感じた。
潔癖もここまで来たら病的だ、と自分でも思ったくらいだった。
軽いキスでさえこうなのだから、これ以上の接触など、考えるのも嫌だった。
わたしには何か女として欠けているものがあるのかもしれない。いや、女としてだけではなく、人間として……。
物心ついた頃から、多くの人達が感動して泣いたり笑ったりするようなことがらを、全く無感動に眺めている自分というものがいた。
そして、いつの間にか、全く心を動かされないことでも、動かされたような振りをする癖がついてしまった。
それは、まるで、自分が宇宙の果てから誤って地球にやってきた異生物か何かで、この世界に留まるために、人間の習性を観察して、巧みにそれを真似、人間の振りをしている。
そんな感じだった。
こういうときは泣くんだ。こういうときは笑うんだ。いちいち頭でそれを確認して、心に向かって命じているようなところがあった。
自分の身体の中にも、多くの人たちと同じように、暖かく脈打つ赤い血が流れているのだろうか。
そんなことを思ったこともある。
ひょっとしたら、わたしの血は、青く澄んだ冷たい血なのかもしれない。
まるで蛇のような……。
蛇?
日美香は闇の奥を見通すように目を見開いた。
蛇という言葉から、ふと、自分の右胸の上にある痣《あざ》のことが頭をよぎったのだ。
先程、母が口にしかけた……。
形は良いがやや小さめの右乳房の上の方に、生まれついての奇妙な痣があった。
それは大人の手のひら位の大きさで、奇麗な薄紫をしていた。小さなひし形がびっしりと集まった、魚の、いや、まるで蛇の鱗《うろこ》のような不気味な形状の痣だった。
八重が口にしたように、日美香はこの胸の痣のことをひどく気にしていた。今まで、他人にこの痣を見せたことはなかった。痣のことを知っているのは母だけだった。この胸の痣を隠すために、日美香は、これまで人知れぬ苦労を重ねてきた。
学校の体格検査のときなども、風邪《かぜ》と偽って休んだり、体育の時間に体操服に着替えるときも、一人だけわざわざトイレの個室に入って着替えたりした。
夏でもけっして胸のあいた服は着なかったし、大学に入って、ゼミの仲間たちと海に行ったときも、殆《ほとん》どの友人たちが、申し訳程度の布で胸を覆っているような大胆な水着を着ているのに、日美香だけが、スクール水着のような色気のない水着を着て、友人たちの失笑を買ったこともある。
母の言うように、手術でもして取ってしまおうかと思ったこともあった。しかし、気味の悪い痣ではあったが、なぜか、日美香には、この痣が美しく感じられることもあった。
時々、風呂《ふろ》からあがったときなど、鏡の前で痣に見入ってしまうことがあった。
ふだんは冷たい大理石のように白い肌が、湯あがりの桜色に染まり、その淡い桜色からぼうっと薄紫に浮かび上がるその痣を、日美香は美しいと思った。
人に見せれば気味悪がられるに決まっているそんな奇怪な痣を美しいと感じてしまう自分は、やはり、どこかおかしいのかもしれない……とも。
「……遅いね」
佑介は腕時計をちらと眺め、やや苛立《いらだ》ったような口調で言った。
新田家のソファに両膝《りようひざ》をそろえて座りながら、日美香はいたたまれない気持ちで身体を縮めていた。
五月三日。時刻は既に午後七時を回っていた。
夕食会は午後六時からの予定だった。もう一時間も過ぎている。しかし、母の八重はまだ姿を見せない。最初はにこやかだった新田家の人々の顔にも、苛立ちの兆しが見えはじめていた。
母さんったら、何してるの。
あれほど遅れるなって言ったのに。
こんなことなら一緒にくればよかった。
日美香は、心のなかで母を罵《ののし》った。
八重は朝起きると、どういう気まぐれか、二十年ぶりでホステス時代の仲間に会いたくなった。これから会いに行ってくる。白金台の方には、そちらから直接行くと言い出したのだ。
それで、仕方なく、新田家の住所と電話番号を書いたメモを渡し、「六時よ。絶対に遅れないでよ」と念を押して、母を送り出したのだったが……。
帰りはタクシーを拾うと言っていたから、道に迷っているとは考えられない。あの、何事にもルーズな母のことだ。おそらく、久しぶりにホステス時代の仲間に会い、昔話に花を咲かせているうちに、約束した時間のことなどけろりと忘れてしまったのではないか。
今頃、気が付いて、大慌てでこちらに向かっているのではないだろうか。
それならそれで、電話くらいしてくればいいのに。そのために、ここの電話番号もメモしておいたというのに……。
日美香は腹立たしい気持ちでそう思った。
腹立たしさは自分自身にも向けられていた。こんなことになるのだったら、母の昔なじみだという女性の連絡先を聞いておけばよかった。
それもせずに送り出してしまったわたしが馬鹿だった……。
母の性格をよく知っていながら、そこまで気が回らなかった自分を、日美香は責めていた。
だから、新田家の居間の電話が鳴ったとき、日美香はほっとした。
母だと直感的に思ったからだ。今そちらに向かっていると伝えるためにかけてきたに違いない。
相手がいつ来るか分からないような状態でやきもきして待つよりは、たとえ遅れても、いずれ来ると分かって待つ方が、新田家の人々の苛立ちも少なくて済むだろう……。
そう思ったのである。
電話に出たのは佑介だった。電話が鳴るなり、電話機に飛びつくようにして取ったところを見ると、彼も日美香と同じことを考えたようだった。
「新田ですが……」
そう言ったきり、佑介は黙って相手の話を聞いている。
母ではなかったのかな……。
日美香は佑介の方をじっと見ながら、ふと思った。
「……葛原八重さんなら知り合いですが……」
不審そうな声でそう言った佑介が、突然、何かよほど意外な事でも聞かされたように、「えっ」と言った。
母からではないようだった。しかし、母の名前が出たところを見ると、母に関する電話であることは間違いない。
日美香はなんとなく嫌な胸騒ぎをおぼえた。
「はい……はい」
相槌《あいづち》だけをうつ佑介の声がどこか緊迫した響きをもっている。
「……××病院ですね。はい、知ってます」
佑介の声がそう言った。
病院?
日美香の心臓が大きくどきんと鳴った。
「わかりました。これからすぐに伺います」
そう言って、佑介は電話を切った。
「どなたから?」
不安そうな面持ちで聞いたのは、佑介の母親だった。
「警察……」
振り向いて、そう言った佑介の顔色が変わっていた。
「警察?」
新田家の人々は互いの顔を見合わせた。
病院。警察。
この二つの単語を聞いただけで、何かただならぬことが起きたと分かった。しかも、母の名前が出たところをみると、母に関する何かただならぬことが……。
「お母さんがこちらに向かう途中、事故に遇《あ》われたそうだ」
佑介は日美香の方を見ながらそう言った。
「事故……」
日美香は、その瞬間、すっと血が頭から足元に落ちるような感覚を味わった。
「詳しいことは分からないが、車の事故らしい。今、病院に運ばれて手当を受けているそうだ。とにかく、すぐに行こう」
佑介はそう言うと、「車のキーを取ってくる」と言い残して居間を足早に出て行った。
それから先のことを日美香はよくおぼえていなかった。
佑介の愛車の助手席に半ば押し込まれるようにして乗せられ、母がかつぎ込まれたという、都内でも有名な大病院に着くまで、頭がぼうっとして、何も考えることができなかった。
「手当受けてるって警察の人は言っていたから……。そんなに心配することないよ、きっと」
佑介は励ますようにそう言ったが、そう言う彼の顔も心なしかこわばっていた。
病院に着いて、ようやく、警察の人から詳しい事情を聞くことができた。
その話によると、八重は、須田民雄という男の運転する車の助手席にいたらしい。須田が高速道路で前の車を追い越そうとして接触し、その弾みでガードレールに激突したということだった。事故の原因は、須田のスピードの出し過ぎと、無理な追い越しにあったようだった。
八重と須田は、ともに意識不明の重体のまま病院にかつぎ込まれ、今も集中治療室で治療を受けているという。
須田の免許証から、須田の家族に連絡が取られ、須田の妻から、彼が八重を送って白金台に向かう途中だったいきさつを聞いた警察は、八重のハンドバッグの中に入っていたメモから、新田家の電話番号を知ったというわけだった。
集中治療室の前のベンチには、四十がらみの痩《や》せた女性が、こちらもいても立ってもいられないという面持ちで座っていた。須田の妻だった。
どうやら、この女性が、八重が言っていた昔のホステス仲間であったらしい。
日美香は、この女性と佑介とともに、集中治療室の近くのベンチで、手術が無事に終わるのを祈るしかなかった。
絶対大丈夫。
母は死にはしない。
わたしを生んだときだって、半分死にかけていたのを生き返ったのだと、いつも自慢そうに話していたくらいだ。今度だって、きっと……。
手術中のランプが消えて、医師たちが疲労しきった表情で出てきたのは、それから二時間ほどしてからだった。
ベンチの前で待っていた日美香たちの方にやってくると、医師の一人が、「男性は大丈夫です」と言った。
須田の妻の顔にぱっと生気が蘇《よみがえ》った。
須田が一命をとりとめたということは、きっと母も……と日美香が希望をもちかけたとき、「しかし……女性の方は……」
医師はそこで言いよどみ、沈鬱《ちんうつ》な表情で、あとは黙って軽く頭をさげただけだった。
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第二章
葬儀会社の人から、「遺影に使う写真がほしい」と言われ、日美香は、母の寝室に行った。
アルバムは寝室に保管してあったはずだった。
寝室の戸を開けると、六畳の和室の中は、ついさきほどまで八重がそこにいたとでもいうように、部屋の主の体温を残したまま散らかっていた。
洋服ダンスの戸は開け放したままになっており、色とりどりのスーツやワンピースが畳の上にほうり出されている。
おそらく、母は家を出る直前まで、着ていくものに悩んでいたのだろう。
八重が上京する前の晩、電話で、「派手で下品な服はやめてよ。なるべく地味めのものにして」と何度も念を押したことを日美香は思い出し、あらためて胸をつかれるような思いがした。
分厚いアルバムは小テーブルの上に出しっ放しになっていた。まるで、前の晩、八重がそれを取り出して眺めていたとでもいうように……。
日美香はそのアルバムを手に取った。ぺらぺらとめくると、日美香が赤ん坊のときからの写真が、ずぼらな母にしては、きちんと整理されて収められていた。
ああ、これは七五三のときの写真……。これは小学校の入学式の写真……。古い写真の一枚一枚に記憶があった。
それを見ているうちに、ふいに視界が曇ったかと思うと、また涙が溢《あふ》れ出てきた。それが頬《ほお》を伝う。涙が涸《か》れるほど泣いたはずなのに、まだ流す涙が残っているのが不思議だった。
二十年生きてきて、今まで日美香が泣いたのは数えるほどしかなかった。それも殆《ほとん》どは悔し涙だった。誰かを想《おも》って泣くことなど一度もなかった。
一生、自分はそんな暖かい涙など流すことはないのではないか。
そう思ってきた。
しかし、そうではなかった。自分の体内に、これほどまでに熱く豊富な涙が隠されていたとは。母の突然の事故死によって、そのことを日美香は思い知らされていた。
「写真、みつかった?」
足音とともに、背後からそんな声がした。振り向くと、戸口のところに新田佑介が立っていた。
あのあとも、佑介は、和歌山の実家まで一緒に来てくれて、放心状態の日美香に代わって、葬儀の手配などしてくれたのである。
「今、探しているところ……」
日美香は、慌てて涙で濡《ぬ》れた頬を手でこすった。
「……向こうで待ってるから」
佑介は日美香が泣いていたことを察すると、それだけ言って、遠慮するように部屋を出て行った。
めそめそ泣いている場合じゃない。
日美香は心の中で自分を叱《しか》り付けると、アルバムをひっくりかえして、遺影に使えそうな母の写真を選んだ。
それは、母が好きだった黄色いワンピースを着て笑っている写真だった。
それをアルバムから剥《は》がして、立ちあがろうとしたとき、日美香の目が、テーブルの上にある一冊の本に何げなく注がれた。
その本がそこにあることは気が付いていたが、アルバムの方に気をとられていたので、ちらと視界の隅に入れただけだった。
「奇祭百景」というタイトルのハードカヴァー本だった。見たところ、小説本の類《たぐ》いではなさそうだ。
著者の名前は、「真鍋伊知郎」とあった。
聞いたことのない名前だった。
最近の本のようにはみえない。角が擦《す》り切れて、カヴァーもだいぶくたびれ、あちこち破れている。
それはこの本の持ち主が何度もそれを手にしたことを物語っているようにも見えた。
母の本だろうか……。
日美香は首をかしげた。
八重はあまり本など読む方ではなかった。
たまに買って読んだとしても、それは有名タレントの暴露本や、流行作家のベストセラー本の類いだった。
その母がこんな地味な本を持っているということが、日美香にはなんとなくいぶかしく感じられた。
こうして、アルバムと一緒にテーブルに載っているところを見ると、母にとって、この古い本は思い出の品か何かなのだろうか。
日美香は、たいした理由もなく、その本を手に取った。
本の間に写真のようなものが挟まれていた。それが僅《わず》かにはみ出ている。何げなく、それを引き抜いて見た。
それは、男女の幼児が顔を寄せ合って写っている写真だった。顔が似ているところを見ると兄妹のようだ。写真の裏を返すと、鉛筆の走り書きのような筆跡で、「歩、五歳。春菜、三歳」と書かれていた。
カラーではあるが、古い写真のようだった。
誰だろう……。
日美香はいぶかしく思った。
親戚《しんせき》の子供かなにかだろうか。
そう思いながら、その写真をテーブルの上に置き、本の表紙をめくると、いきなり、「倉橋日登美様、真鍋伊知郎」という青いペン字のサインが目に飛び込んできた。
どうやら、これは、著者が、「倉橋日登美」という女性に贈呈した本のようだった。
それをどうして母が……。
日美香はいよいよ不思議に思い、さらにページをめくった。
そして、口絵の写真を見た瞬間、はっと息を呑《の》んだ。
そこには、一人の若い女性が写っていた。長いストレートの黒髪をうしろで一つに結び、白衣に濃い紫の袴《はかま》という巫女《みこ》のようないでたちをした女性だった。
日美香をはっとさせたのは、その女性の顔だった。
わたしに似ている……。
一瞬、そう思った。
その写真の女性がどことなく自分に似ているような気がした。
口絵の写真の簡単な説明が裏のページにしてあった。
日の本神社の日女《ひるめ》の衣装。
普通、巫女の衣装というと、白衣に緋《ひ》の袴と決まっているが、日の本神社の日女すなわち巫女の衣装は、このように白衣に濃色《こきいろ》と呼ばれる濃紫の袴である。ちなみに、金毘羅《こんぴら》様で親しまれている愛媛《えひめ》県の金刀比羅宮《ことひらぐう》の巫女の衣装も同様であるという。
目次を見ると、幾つかの祭りと神社名を記した中に、大神祭(日の本神社)という項があった。
日美香はその項を開けてみた。
そこには、数ページに亙《わた》って、長野県の日の本村に古来から伝わる大神祭という奇祭についての詳細な記事がまとめられていた。
あとがきを読むと、どうやら、著者はプロの作家でも学者でもなく、高校教師をしながら、十年間にわたってこつこつと、日本中の奇祭の研究を独自に行ってきた、市井の研究家であることが分かった。
本も自費で出したものらしかった。出版されたのは、奥付によると、昭和五十三年の三月となっている。
それは、日美香が生まれた年だった。
奇《く》しくも自分が生まれた年に出版された本、しかも、著者自らが他の女性に捧《ささ》げたらしいその本を、読書家でもない母がなぜ持っていたのか……。
口絵の写真の女性が自分に似ているように感じるのは、他人の空似か、あるいは日美香の気のせいにすぎないのか……。
しかし、そうは思えなかった。というのは、大神祭のことを書いた箇所に、日美香を少なからず驚かせた箇所があったからだ。
それは、日の本神社の祭神は大蛇の神で、その末裔《まつえい》を名乗る日の本神社の宮司の身体には、しばしば蛇の鱗《うろこ》にも似た薄紫色の痣《あざ》が出るということを記した箇所だった。
日の本村の人々は、その痣を、「大神のお印」と呼んで貴んでいるというのだ。
蛇の鱗にも似た薄紫の痣……。
同じような痣は日美香の身体にもある。
これはどういうことだろう……。
日美香は、奇妙な胸騒ぎのようなものをおぼえながら、その本を手にしたまま、新田佑介の足音が再び近づいてくるまで、ぼんやりと座りこんでいた。
翌日、自宅で執り行われたささやかな葬儀の列席者の中に、あの須田民雄の妻、加代子の姿もあった。
聞くところによると、須田の容体はだいぶ安定してきて、あとは完全看護の病院に任せておけばいいということらしかった。
葬儀が終わった後、日美香は、帰ろうとする須田加代子を引き留めて、「見てもらいたいものがある」と言って、加代子を母の寝室に案内した。
二十年前に出版されたということから考えて、八重の昔なじみの須田加代子ならば、あの本について何か知っているのではないかと思ったのである。
「昨日、遺影に使う写真を探していたときに、こんな本を見つけたのですが……」
日美香は加代子に例の本を見せた。
その本を見たとたん、加代子の顔にはっとしたような色が浮かんだ。その表情からすると、やはり、彼女はこの本について何か知っているようだった。
「口絵の女性がなんとなくわたしに似ているような気がして……」
日美香は加代子の顔色をそれとなく窺いながら言った。
昨日、あのあと、新田佑介にも本を見せたところ、佑介も、口絵の写真の女性は日美香に似ていると言った。日美香一人の思い込みではなかったのだ。
そして、日の本村の大神祭の記述やあとがきにざっと目を通したあと、佑介は、「ひょっとしたら、この写真の女性が倉橋日登美という人かもしれない」とも言った。
それは、口絵の写真のモデルになってくれた日の本神社の巫女に、著者が、お礼を兼ねて本を贈呈したという可能性は十分考えられるし、その巫女が「倉橋日登美」という名前ではなかったかという推理は、その名前からも導き出されるというのである。
「日登美」と「日美香」には二文字も共通点がある。顔が似ていて、名前も似ているとすれば、これは偶然の一致とはとても考えられない……と。
日美香も佑介と全く同じ考えだった。しかも、佑介には言わなかったが、あの痣の問題もある。
この巫女姿の女性と自分には、何か深いつながりがあるのではないか。そう思えてならなかった。
「写真の女性をご存じではありませんか……?」
日美香はさらにそう訊《たず》ねた。
すると、じっと本の口絵を見ていた加代子は、ようやく目をあげて、日美香の顔をまともに見た。その目には、何かを決心したような色が浮かんでいた。
「知っているわ」
加代子はきっぱりとした口調で答えた。
「この人は、二十年前、わたしや八重ちゃんが働いていた新宿のバーで、短い間だったけれど、やはりホステスとして働いていた人よ。そのときの名前は、橋本弘美と名乗っていたけれど……」
ホステス? この巫女らしき人が新宿でホステスをしていたというのか?
「本名は倉橋日登美というのでは?」
日美香がおそるおそる聞くと、加代子は頷いて、「たぶん……」と言った。
「この人は今どこに?」
そう聞くと、加代子はかすかに首を振った。「なくなったわ、二十年前に。その本は彼女の形見なのよ。八重ちゃんは弘美ちゃんと半年ほど同じアパートで同居生活していたから……」
「なくなったというのは、病気か何かで?」
日美香がさらに聞くと、加代子はまた首を振った。
「病気ではないわ。お産がもとでね……」
「お産?」
日美香は思わず聞き返した。そのとき、ある疑惑が日美香の頭をさっとかすめた。いや、それは、この口絵の写真を見たときから、まさかという形で日美香の頭の隅にすでに芽生えていたものだった。
「何時間にもわたるひどい難産だったのよ。逆子の上に赤ちゃんの首に臍《へそ》の緒《お》がからみついていたとかで……。それでも、赤ちゃんの方はなんとか無事に生まれたのだけれど、母体の方はもたなかった……」
日美香はそう言う加代子の顔を呆然《ぼうぜん》と見ていた。それは……。それは、八重から聞いていた話と全く同じではないか。母体の方は助からなかったという、たった一つのことを除いては。
「日美香さん。その写真の女性とあなたが似ているのは当然のことなのよ」
加代子は言った。
「だって、その人があなたの本当のお母さんなんだから……」
わたしの……本当の母?
日美香はその言葉をぼんやりと頭の中で繰り返した。
この写真の女性がわたしの本当の母……。
不思議に驚きはしなかった。やっぱりと言う気持ちの方が強かった。
加代子の話では、橋本弘美と名乗る若い女性が、加代子たちの働いていたバーに、ふらりと現れて、「雇ってほしい」と言ったのは、昭和五十三年の三月末のことだったという。
本人は二十六歳だと言っていたが、華奢《きやしや》で幾分小柄な身体つきのせいか、見た目には二十歳そこそこにしか見えなかった。しかも、今まで水商売などとは全く無縁の生活をしてきたのではないかと思われるほど、初々しい印象があったという。
着の身着のままで飛び込んできたという様子で、何やら訳ありげだったが、場末の三流店にはもったいないような美人だったことで、店のオーナーは二つ返事で雇い入れたらしい。
八重は、自分より一つ年下のこの謎《なぞ》めいた女性に、一緒に働くうちに、「放ってはおけない」という庇護《ひご》的な感情をもちはじめたらしく、一カ月もしないうちに、自分のアパートに弘美を呼んで同居するようになり、二人は姉妹のように暮らしていたという。
やがて、八重は、弘美が妊娠していることに気が付いた。どうやら、店に現れたとき、既に三、四カ月になっていたらしい。
その年の九月、弘美は女児を出産したが、そのときの難産がもとで亡くなった。
生前、弘美は自分の家族はすべて亡くなり、遠い親戚《しんせき》がいるだけの天涯孤独の身だと八重に話していた。
そこで、八重は、最初は、弘美の忘れ形見を施設に預けるか、あるいは、弘美の遠い親戚とやらを探し出して託すか、どちらかにしようと考えていたのだという。
そんな折り、弘美の遺品の中から、あの本を見つけた。二人の幼児の写った写真は、元から本の間に挟まっていたらしい。
口絵の写真と著者のサインから、八重も、橋本弘美と名乗っていた女性が、東京に来る前は長野県の日の本村で巫女《みこ》をしており、しかも、本名は倉橋日登美というのではないかと思い当たったのだという。
それを確かめるために、本の奥付に載っていた著者の連絡先を頼りに、真鍋伊知郎を直接訪ね、真鍋の口から自分の想像に間違いがなかったことを確認したのだという。
プロの作家が書いた著作物であれば、著者の住所などを奥付に載せるということはまずしないのだが、部数も僅《わず》かな自費出版本のせいか、真鍋の本の奥付には、著者の住所と電話番号が記されていたのである。
「……それで、八重ちゃんは、一度は、この日の本村というところへ行って、弘美ちゃんの親戚にあなたを預けることも考えたらしいのね……」
加代子は言った。
しかし、結局、八重はそれをしなかった。めんどうをみているうちに、赤ん坊に情が移ってしまい、手放したくなくなってしまったというのだ。
しかも、八重はそれまでに何度か中絶を経験しており、最後の中絶のとき、医者から、もう子供は望めないかもしれないと言われていたらしい。
そんなこともあってか、八重は、迷った末に、赤ん坊を自分で育てる決心をした。そして、実母の名前から二文字を取って、「日美香」と名付けると、自分の子として出生届を出したのだという。
その翌年、加代子は、板前をしていた今の夫と結婚して店をやめ、八重の方も、その数年後、相次いで祖父母が亡くなったということもあって、日美香を連れて郷里に帰り、それっきり、二人は会うことはなかった。
「……会ったのはあれ以来だけれど、電話は時々どちらからともなく掛け合っていたのよ。八重ちゃんの話題といったら、いつもあなたのことばかり。あなたのことが本当に自慢だったのね。日美香はわたしの勲章、わたしの宝物だと言っていたわ。あの日も、あなたが良家の息子さんにプロポーズされたと言って、それは喜んでいたわ。いつものように、あなたの赤ん坊の頃からの話になって、それでつい、時間を忘れてしまった……」
慌てて、タクシーを拾うという八重に、ちょうど体の空いていた加代子の夫が、自分の車で白金台まで送ってやろうという話になった。
須田民雄がスピードを出し過ぎていたというのも、無理な追い越しをしようとしたのも、ふだんは慎重すぎるくらい慎重な運転をする人だから、きっと八重にせかされてのことだったのだろうと加代子は言った。
「帰りぎわ、八重ちゃん、言ってたのよ。あの子に恥はかかせられない。今までずっと恥ばかりかかせてきたから、今度だけは絶対にそれはできないって……」
母を死においやったのはわたしだ……。
加代子が帰ったあとも、日美香は八重の寝室の畳に座り込んだまま、立ち上がることができなかった。
まるで鋭い刃物で内臓を引っ掻《か》き回されるような後悔の念にさいなまれていた。
涙すら出なかった。
日美香を泣くこともできないほど苦しめていたのは、なにも五月三日のことだけではなかった。この二十年間の記憶がすべて濁流のようになって日美香に襲いかかってきた。
母は自分が生んだわけでもない子供をずっと我が子として育ててきたのだ。
その母に対して、知らなかったとはいえ、自分はなんというひどいことばかりしてきたのだろう。
母さんのようにはなりたくない。
実母だと思い込んでいたからこそ、平然とこんな無情な言葉も口にできたのだ。このだらしのない女の血が自分の身体の中にも流れている。嫌悪とともに、そう思い込んでいたから。
しかし、勝ち誇ったように言う娘にたいして、八重は反論する気になればできたはずだった。たった一言言うだけでよかった。「おまえはわたしの娘ではない。それを今まで育ててやったのだ」と。
しかし、八重はそうはしなかった。ばつの悪そうな顔をしながら、娘の痛罵《つうば》をやりすごすだけだった。そして、そのあとはけろりと忘れたような顔をしていた。
加代子の話では、この二十年間に、八重には結婚話が二度ほどあったのだという。相手は、ともに自営業を営む男性で、二人ともかなり真剣に八重との結婚を望んでいたらしいのだが、八重はけんもほろろに断ったというのだ。理由は、相手の男がともに日美香の父親とするにはふさわしくないと思ったからだというのだった。
「わたし一人だったら、どちらかと一緒になっていたかもしれないけど……」
あの三日の夜、八重はそんなことをぽつりと加代子に漏らしたのだという。
さらに加代子はこうも言った。
日美香が新田佑介にプロポーズされたという話を、自慢げに八重がはじめたとき、加代子が、半ばひやかすように、「すごい。玉の輿《こし》じゃないの」と言うと、八重は突然|眉《まゆ》をつりあげて、
「玉の輿なんかじゃない。日美香はようやくあの子にふさわしい居場所を自分で見つけただけのことだ。学者一家がなんだ。よくは分からないけれど、日美香の血の中には、もっと高貴なものが流れているような気がする。日美香には何かわたしたちとは違うものがある。わたしには分かる。日美香の父親がどういう人なのか、わたしには知りようもないけれど、でも、その人はふつうの人ではなかったに違いない。日美香はもともとこんな境遇で育つような娘ではなかった。それが何かの手違いでこうなってしまったんだ。でも、これからは違う。新田家なら日美香にふさわしい。そのためにも、この縁談は何があっても壊してはならない……」
真剣な目をして、八重は、このようなことをとうとうとまくしたてたというのである。
そして、この悲愴《ひそう》な決意が、結果的には、あの事故へと八重を導いてしまったのだ……。
「日美ちゃん……」
頭上で声がした。
両手の爪《つめ》を畳に突き立てるようにして、つっぷしていた日美香ははっと顔をあげた。
「大丈夫か?」
心配そうな顔をした佑介がそこにたっていた。
「どうだった? 須田さんはあの本のこと何か……」
佑介が最後まで聞かないうちに、日美香の顔が歪《ゆが》んだかと思うと、突然、佑介の胸に身体を投げかけた。そして、日美香は子供のように声をあげて泣いた。
それまで堰《せき》とめられていた感情が、恋人の顔を見たとたん、爆発したとでもいうようだった。
困惑したような表情で、それでもしっかりと自分を受け止めてくれている佑介に、日美香は泣きじゃくりながら、須田加代子から聞いた話をすべてぶちまけた。
「そうか。そうだったのか……」
佑介は日美香のか細い身体を抱き締め、赤ん坊でもあやすように背中を撫《な》でさすりながら言った。
その声には驚いた様子はなかった。あの本の写真を見せられたときから、彼にも、もしやと思うものがあったようだ。
「……わたし、もうあなたとは結婚できない」
ひとしきり泣きじゃくったあと、日美香はぽつんとそう言った。
「どうして?」
佑介は今度は驚いたとでもいうような声で聞き返した。
「だって、わたし、誰の子か分からないのよ? 倉橋日登美という人のことは何もわからないし、本当の父親のことも何も知らない。そんなどこの誰とも分からない女とあなたは結婚できるの?」
そう訴えると、佑介は怒ったような顔で言った。
「何を馬鹿なことを言ってるんだ。たとえ、きみが木の股《また》から生まれようが、きみはきみだよ。葛原八重さんが本当の母親でなかったからといって、それがどうしたっていうんだ? 何も変わりはしないじゃないか」
「変わってしまうわ。何もかも……」
日美香は呟《つぶや》いた。両親のそろった恵まれた家庭に生まれ育った佑介には理解できないだろう。今のわたしの気持ちは……。
八重が実母ではなかったと知った瞬間、日美香を襲った後悔の念は、やがて、「それでは一体自分はどこの誰なんだ」という、自分の存在そのものをゆるがす不安、焦燥の念に変わっていた。
今までも、父のことは顔も名前も知らずに過ごしてきた。それは、子供ができたと分かると、あっさりと母を捨て、認知も拒んだ男など、こちらから父親と認めてやるものかという気持ちがあったからだ。
だから、あえて、母に父のことは聞かなかったし、今どこに住んで何をやっているのか、知りたいとも思わなかった。
ただ、知りたいと思わなかったというのは、いつでもその気になりさえすれば、母の口から聞くことができるという思いがあったからでもあった。
それに、父親のことは分からなくても、少なくとも、母親が葛原八重という女だということだけは分かっていた。
しかし、そのかすかな存在のよりどころすら、日美香は失ってしまったのだ。
それは、今まで紐《ひも》につながれて、かろうじて地上にとどまっていた風船が、突然、その紐を切られて、ふわふわとあてもなく宙をさまよい昇っていくような感じだった。
「どうしてもご両親のことが知りたければ」佑介がふいに言った。
「知る方法はいくらでもあるじゃないか。きみのお母さんが長野県の日の本村というところで巫女《みこ》をしていたというのは厳然たる事実なわけだろう? それなら、その日の本村に行けば何か分かるに違いない。おそらく、そこで、お父さんのことも……」
そこまで言って、佑介はやや難しい表情になった。
「ただ、それはあくまでもきみが知りたいと思えばの話だよ。俺《おれ》は、そんなこと、ちっとも気にならないし、きみが誰の子であろうとなかろうと、きみと結婚したいという気持ちは変わらないつもりだ。それに、八重さんが亡くなって天涯孤独になったからって、俺と一緒になればすぐに新しい家族ができるじゃないか。だから、俺自身はあまりそのことを勧めたくない……」
「なぜ?」
日美香が聞くと、佑介は、ふっと不安の影のようなものをその顔によぎらせて言った。
「それは……きみのお母さんが、きみを身ごもったまま、逃げるように東京に出てきたらしいという状況から考えると、郷里の村で何かあったとしか思えないからだ。それは、ひょっとしたら、きみが知らない方がいいことかもしれない。それを知ったことで、きみの運命、いや、俺たちの運命そのものが大きく変わってしまうのではないか。なんだか、そんな気がするんだよ……」
朝から澄み切った青空が広がる、まさに五月晴れの日だった。
日美香は一冊の本を持って鎌倉に向かっていた。佑介にはああ言われたが、やはり、このまま何も知らないで過ごすわけにはいかなかった。そこで、日の本村を訪ねる前に、あの本の著者である真鍋伊知郎に会ってみようと思い立ったのである。
本の奥付に記された電話番号に電話を入れてみると、二十年もたっているので、真鍋がまだその住所にいるかどうかは分からなかったが、幸い、真鍋はまだそこに住んでいるようだった。
最近亡くなった養母の遺品の中から真鍋の本を見つけたことを話し、一度会って、その本についての詳しい話を聞きたいと言うと、真鍋は快く承知してくれ、高校の方は既に定年退職して暇な身なので、いつでも訪ねてきなさいと言ってくれた。
それで、さっそく翌日、鎌倉の長谷寺《はせでら》近くにあるという真鍋の自宅を訪ねることにしたのである。
真鍋の家を捜し当て、妻らしき初老の女性に案内されて、応接間のような部屋で待っていると、和服姿の真鍋伊知郎がすぐに現れた。
べっ甲縁のメガネをかけた六十前後の小柄な男だった。
日美香はソファから立ち上がり挨拶《あいさつ》した。そんな日美香の顔を、真鍋はひどく驚いたような表情で見ていたが、その驚きを押し隠すようにして、立ったままでいる日美香に向かって、「まあ、お座りください」と言った。
そして、和服のたもとから煙草を取り出すと、一本くわえて火をつけた。
「あの、実は……」
日美香は持参した本をバッグから取り出してテーブルに置くと、電話で話したことをもう一度繰り返してから、こう尋ねた。
「この口絵の写真の人が、サインにある倉橋日登美さんなのでしょうか」
すると、真鍋は、つと手をのばして、テーブルの上の本を取り、なつかしそうな表情でそのページをめくっていたが、
「そうです。これは、取材のお礼にと、私が日の本寺の住職に送った二冊の本の一方です」
真鍋はそう言った。この本の他にももう一冊、こちらは、日の本村を訪れた際、宿泊させてくれた日の本寺の住職|宛《あ》てにサインをして送ったのだという。
「……葛原さんとおっしゃいましたね? あなたは倉橋さんのお身内の方ですか」
真鍋は煙草の煙りが目にしみるのか、メガネの奥の目を細めながら、それでもじっと目の前の日美香の顔を見ながら言った。
「倉橋日登美は……わたしの母です」
日美香がややためらったあと、そう言うと、真鍋は、「ほう」という顔をした。
「あの方のお嬢さんですか。どうりでよく似ていらっしゃるはずだ……」
最後の言葉は呟《つぶや》くように言う。
「さっき、あなたを見たとき、驚きましたよ。一瞬、あの倉橋さんかと思ってしまいました。そうですか。あの方のお嬢さんですか。ああ、そういえば」
真鍋はふと思い出したというように言った。「三歳になるお嬢さんがいるとおっしゃってましたっけ。あなたがその……」
真鍋はそう呟き、一人で何やら合点したように頷いていた。
「あの……三歳になる娘って……?」
日美香はうろたえて聞き返した。真鍋は何か勘違いしている。真鍋が日の本村を訪れたとき、日美香はまだこの世に生を受けてはいない。
それとも、倉橋日登美には他にも娘、つまり日美香には姉にあたる子供がいたということなのだろうか。
そのとき、真鍋の本の間に挟まっていた写真のことを思い出した。男女の幼児が写った古い写真。ひょっとしたら、あの二人の幼児は倉橋日登美の子供なのかもしれない。ふとそう思いあたった。
「それはわたしではありません」
日美香はそう言って、事の次第を真鍋に説明した。先日、養母の葛原八重が突然の事故死をとげるまで、自分は倉橋日登美という女性の存在すら知らなかったこと。この二十年間、養母を実母だと思い込んできたことなど……。
そして、二十年前にも、養母がこの本を持ってここに訪ねてきたはずだということを言うと、真鍋の顔に、「あ」という表情が浮かんだ。
「……ああ、確かに。確かにそんなことがありました。なるほど。なるほど。そういうことだったんですか……」
一冊の本が取り結んだこの奇妙な縁に感じいったように、真鍋は何度も頷いた。
「母には、当時、三歳になる子供がいたのですか」
日美香はあらためて尋ねてみた。
「ええ、そんなことを聞いた記憶があります。なんでも、そのお嬢さんが、あの年の一夜日女《ひとよひるめ》に選ばれたと……」
真鍋は遠い日を見つめるような目でそう言った。
一夜日女の神事については、真鍋の本にも詳しく書かれている。
「母にはもう一人男の子がいたのではありませんか。五歳になる男の子が」
そう聞いてみた。
しかし、真鍋は首をかしげ、
「いや、男のお子さんのことは何も……」と言った。
「それで、そのわたしの姉にあたる人は、今も日の本村にいるのでしょうか……?」
日美香は身を乗り出すようにして聞いた。
わたしには姉がいた。
日美香の胸は高鳴っていた。
もし、その姉が今も日の本村にいるのだとしたら……。
「いや、それが……」
真鍋の顔が曇った。吸い切った煙草を灰皿に押し付けながら言う。
「亡くなったらしいのです」
「亡くなった……いつですか?」
日美香はがっかりして肩を落とした。
「あの祭りのあと、すぐだそうです。病気になられたとか……」
真鍋はやや歯切れの悪い口ぶりで言った。
「病気って……」
「詳しいことは私も知らないのですよ。週刊誌の記者をしているという人から聞いたことですから……」
「週刊誌の記者?」
日美香が聞き返すと、
「ええ、実はですね、半年ほど前でしたか、週刊誌の記者と名乗る男性が私の下に訪ねてきましてね、やはり、この本のことで聞きたいことがあると言って。倉橋日登美さんのことも色々と聞いていきましたよ」
週刊誌の記者が母のことを調べていた?
それはどういうことだろう。
日美香の胸がざわついた。
「週刊誌の記者がどうして母のことを……?」
「それも詳しいことは分かりません。私もなぜ倉橋さんのことをそんなに知りたがっているのか不思議に思って聞いてみたのですが、適当にはぐらかされてしまいましてね……。そうだ。もし、詳しいことをお知りになりたければ……」
真鍋はそう言いながら、すっと立ち上がると、サイドボードの前に行き、そこの引き出しを開けて何か探していたが、
「……ああ、これだ」
と言い、一枚の名刺を持ってソファに戻ってきた。
「これがそのとき、その記者から貰《もら》った名刺ですよ」
日美香は真鍋から手渡された名刺に視線を落とした。
週刊「スクープ」記者 達川正輝《たつかわまさてる》
とあった。勤務先の出版社の住所と電話番号が印刷されている。
「直接、当人に会ってみたらいかがです? 倉橋さんのお嬢さんだとわかれば、何か教えてくれるかもしれませんよ」
真鍋はそう言うと、再び煙草に手をのばし、二本めに火をつけると、少しリラックスしたように、ソファの背もたれに背中を預け、しげしげと日美香の顔を見た。
「しかし……奇遇ですねえ。二十年たって、あの方のお嬢さんにこんな形でお会いできるとは……」
と、感慨深げに言う。
「色々な村や島にもいきましたが、日の本村のことが一番印象に残っているのです。まあ、この本を出版する前の年に訪れたということもあるかもしれませんが。もう一度訪ねてみたいとずっと思っていたのですよ。しかし、それもかなわぬままに年月ばかりがたってしまって……」
真鍋はそう言って、倉橋日登美と出会ったときのことをなつかしそうに話した。
「きれいな人だったなあ。まるで天女が舞い降りてきたのかと思いましたよ。まさか、あんな山奥であんな美しい女性に会えるとは夢にも思っていませんでしたからねえ……」
「……母には当時、夫のような人がいたのでしょうか」
真鍋の口がすべらかになったようなので、日美香は、肝心のことをようやく口にした。
真鍋の本には、日女は、「大神の妻」として、生涯独身を義務づけられる。しかし、それは表向きのことで、日女の血統を絶やさないために、真性の巫女である大日女と若日女以外の日女は、実際には、事実上の夫や恋人を持ち、子供も設けている、というような記述があった。
ということは、母にもそのような事実上の夫なり恋人のような存在がいたということになる。だからこそ、日美香がこの世に生を受けたわけなのだから……。
「いや、それがですね」
しかし、真鍋はそう言って、やや眉《まゆ》を寄せた。
「あのとき、私が倉橋さんから伺った話では、倉橋さんは日女とはいっても、あの村で育ったわけではないというのです……」
真鍋は、当時、倉橋日登美から聞いたという話を思い出すままに話した。
「それでは、母は東京で育ち、結婚もしていたというのですか?」
「そうらしいですね。ただ、何かの事故で、ご家族をいっぺんに亡くされたとかで、まだ幼いお嬢さんを連れて、母方の郷里である日の本村に帰ってきたばかりだったようです……」
母には、事実上どころか、れっきとした戸籍上の夫がいたというのだ。しかし、その夫は、事故か何かで亡くなったのだという。それは、母が日美香を受胎する以前の話だろうから、少なくとも、その夫が日美香の父親ということはありえない。
とすると、母は夫を失って半年もたたないうちに、すぐに恋人を作り、その男の子供を身ごもったということなのか……。
そう思いあたると、日美香はちょっと嫌な気分になった。
夫を失った女は一生未亡人として泣き暮らせばいいなどとはさすがに思わないが、半年足らずで、他の男の子供を身ごもるというのは、日美香の感覚からすると、少々早すぎるような気がした。
実母も、もしかしたら、養母の八重のように、性的に放縦な女だったのではないだろうか……。
ふとそんな考えが頭をよぎったのだ。
「日の本村の日女が独身でいなければならないのは表向きの話だということは、その本にも書きましたが」
真鍋が言った。
「だからといって、日女に自由恋愛が認められているわけではないようなのです」
「それはどういうことですか」
日美香が不思議そうに聞くと、
「本にはあえて書きませんでしたが、日女の相手となるべき男性は、村の掟《おきて》で厳しく制限されているらしいのですよ。誰でもいいというわけではないのです。その年の大神祭で三人衆に選ばれた男の中からしか、日女は相手を選ぶことができないというのです……」
この三人衆というのも、本の中で触れてあったことを日美香は思い出した。祭りのときに、大神の役をするために選ばれる三人の青年たちのことだった。
「本来、日女は神の女ですから、人間の男は指一本触れてはならないとされているのです。しかし、それでは、神を祀る日女の血統も絶えてしまう。それでは困る。かといって、日女に普通の女なみの恋愛や結婚を許してしまえば、大神の怒りに触れかねない。
そこで、この矛盾を解決するために考え出されたのが、その年の祭りで三人衆に選ばれた男たちだけが、日女と愛し合うことを許されるという掟なのです。大神の役を演じた男たちには、その一年、大神からの特別なお許しが出るとされているのです。
だから、日女《ひるめ》がこの三人の中から恋人を選ぶ限りにおいては、それは村でも承認され、かつ祝福されるのです。その結果、子供ができたとしても、それは大神の子として認められ、日の本神社の宮司の家で大切に育てられるのだそうです」
真鍋はそこまで話し、「ただ」と付け加えた。
「もし、日女がこの掟を破り、三人衆以外の男に肌《はだ》を許すようなことがあったら、そして、村の者にそれが発覚しようものなら、その男ともども、厳しい制裁を受けるというのですよ……」
「……昔は、掟を破った男の方は村中の男たちによってなぶり殺しにされたこともあったそうです。日女の方は、神の女ということで、殺されはしませんが、やはりそれなりの辱めと罰を受けたようです」
「そんな……」
日美香は思わず眉をしかめた。
「さすがに今はそんなことはしないようですが、それでも、村八分のような扱いを受けることはあるようです。
つまり、日女には、一時的な恋愛は許されても、一人の男性と末長く愛し合うことはけっして許されないということなのです。
いくら心を寄せる男がいたとしても、その男が三人衆に選ばれなければ結ばれることはできないし、また、たとえ選ばれたとしても、翌年も選ばれるとは限らないのです。というより、二年続けて選ばれることはまずないそうです。ですから、次に選ばれるまで待たなければならない。しかし、待つといっても限界がある。というのは、三人衆になるには、いくつかの条件があって、それをクリアしていなければならないからです。条件のひとつには年齢があります。十八歳以上三十歳未満でなければならないのです。だから、男の年齢が三十を越えてしまえば、三人衆に選ばれることはもはやないのですよ……」
真鍋はそう言い、「ちなみに、あとの条件とは、村に三代以上にわたって住み着いた者の子孫でなければならないこと。さらにもう一つ。母親が日女ではないこと、だそうです」と付け加えた。
「あの村では、たとえ自分の娘であろうが妹であろうが、敬語で呼ばなければならないほど、日女というのは高い地位を与えられているのですが、その高い地位の裏には、神の女としてのこんな哀《かな》しい宿命があるということですね。
もっとも、多くの日女は、幼い頃から、神の女としての自覚と誇りを植え付けられて育ちますから、そうした生き方を哀しいと思う人は少ないそうですが。
とはいえ、それでも、稀《まれ》に、一人の人間の女としての幸せを追い求めてしまう人もいたようです。たとえば……」
真鍋はそう言って、ややためらうように黙っていたが、
「これは日の本寺の住職から聞いた話なのですが、倉橋日登美さんのお母さんがそうだったようです。つまり、あなたのお祖母《ばあ》さんにあたる人ですね。倉橋さんがあの村ではなく、東京で育ったというのも、倉橋さんのお母さん、緋佐子さんという人が、村の男ではない男性と愛し合い、駆け落ちした結果だというのですよ……」
と言った。
「だから、倉橋さんのご家族が亡くなったのも、それは単なる事故ではなく、大神の怒りによるものだと村では考えられていたようです」
「その事故というのは……?」
日美香はふと気になって聞いてみた。母は夫を含めた家族をいっぺんに亡くしたということらしいが、一体何の事故だったのか……。それがなぜか気になった。
「いや、それが住職も倉橋さんもそのことにはあまり触れられたくなさそうだったので、私もそれ以上のことを聞くのは遠慮したのです……。ただ、あの達川という記者の話では、倉橋さんのご家族が亡くなったのは、事故というよりも事件だったというのですが……」
「事件?」
日美香は思わず聞き返した。
「詳しいことは知りませんが……。それも達川さんに直接会ってお聞きになった方がいいでしょう」
真鍋はあわてたようにそう言い、さらに話を元に戻すように続けた。
「そういった事情で、本来ならば、倉橋さんは日女として村に迎えられるような人ではなかったようなのですが、日女の数が年々減りつつあったことや、緋佐子さんが大神のお印のある子を生んでいたということで、大神の特別のお許しが出て、村に迎えられたのだということです」
「その大神のお印というのは」
日美香は遮るように言った。
「確か、蛇の鱗《うろこ》状の痣《あざ》のことですね? それがわたしの母にもあったということですか」
そう聞くと、真鍋はかぶりを振った。
「いやいや、そうではありませんよ。その痣があったのは、日登美さんのお兄さんにあたる人だそうです。緋佐子さんはもう一人男の子を生んでいたのです。その子に大神の印があったと……。この人は、聞くところによると、今は日の本神社の宮司になっているそうですが……」
そのとき、応接間のドアが遠慮がちにコンコンとノックされた。
「なんだ?」
と真鍋がドア越しに声をかえすと、ドアが開いて、真鍋の妻がドアの隙間《すきま》から顔を出し、「あなた、ちょっと」と夫を呼んだ。
真鍋伊知郎は立ち上がって、妻のもとに行くと、そこで何やらひそひそと話していたが、ソファに戻ってくると、笑顔で言った。
「知り合いから松坂牛のいいのを送ってきたそうなんです。今夜あたりすき焼きにしようというのですが、よろしかったら、あなたもご一緒に……」
日美香はもちろん辞退したが、真鍋はなかなか引きさがろうとはしなかった。
真鍋には娘が二人いたのだが、ともに嫁いでしまい、今は妻と二人暮らしなのだという。知り合いが送ってきたという肉は、ちょうど三人前ほどあり、とても妻と二人では食べ切れそうもない。それに、老妻とぼそぼそ食べるより、日美香のような若い娘が同席してくれた方が楽しいからといって聞かなかった。
これ以上断るのもかえって失礼のような気がして、日美香は仕方なく、真鍋夫妻のもてなしを受けることにした。
そのあと、食堂ですき焼き鍋《なべ》を囲み、若干アルコールも入った真鍋は上機嫌《じようきげん》で、いよいよ饒舌《じようぜつ》になった。
思い出すままに、日の本村での話をしてくれた。
「……ふつう、祭りといえば、地元民と観光客とが一体となって、ぱあっと派手に騒ぐのが一般的なのですが、日の本村の祭りはそうではないんですな。どこか秘密めいたところがある。
ま、もっとも、あの村は観光地でもないし、あそこの祭りにしても、知る人ぞ知る程度にしか知られていませんから、わざわざよそから見に行く人も少ないので、騒ぎようがないともいえますがね。
七年に一度という一夜日女の神事のとき以外は、派手な神輿《みこし》などもいっさい繰り出さず、ほとんどの神事が神社関係者の間だけで、密《ひそ》やかに行われるという風なのですよ。
大日女と呼ばれる老巫女が大神の御霊《みたま》を呼び寄せる御霊振りの神事にしても、日女から蓑笠《みのかさ》を受け取った三人衆が村中の家を訪問する神迎えの神事にしても、よそ者は、見物は許されるのですが、写真撮影などは一切禁止されているのです。
しかし、私はどうしても写真に撮りたくてねえ。とりわけ、真夜中に行われる一夜日女の神事の様子を何がなんでもカメラに収めたかったのですよ。
聞くところによると、この一夜日女の神事というのは、白衣に白袴《しらばかま》を着けたいたいけな少女を乗せた華麗な輿《こし》を、これまた雅《みやび》やかな狩衣《かりぎぬ》姿の神官たちがかついで村を練り歩くというのです。闇《やみ》の中を、掛け声もあげず、まるで葬列のように、しずしずと練り歩くというのですよ。
なんとも、神秘的かつ幻想的な光景ではありませんか。私はどうしてもそれが一目見たかったのです。
ところが、この神事は、よそ者はもちろん、村人でさえも、けっして見てはならない決まりになっているというのです。他の神事は見物だけは許されるのですが、これだけは見物すらもまかりならぬというわけです。
もし、この神事の様を神職につく者以外の者が目にすると、大神の祟《たた》りがあるというのですよ……」
真鍋はそう言って笑った。
「しかしね、神の祟りなんてものは私は頭から信じちゃいませんからねえ。神社とか祭りとかには、若い頃からなぜか興味があって調べたりしていましたが、だからといって、神なんてものを信じているわけじゃない。私はこれでも無神論者ですから。
だから、せっかく高校を休んでまで来たのに、一番見たかった神事を見のがさずにはおくものかと決心していたのですよ。ここで見逃せば、また七年も待たなければならないのですからね。絶対に見てやる。大神の祟りがあろうが知ったことか。絶対にカメラに収めてやる。そう心に決めたのです。
ただ、問題は、いつカメラに収めるかということです。一夜日女を輿に乗せて社を出るのは、真夜中すぎだと聞いていました。それで、村を一回りして、社に戻ってくるのが空が白みかけた明け方だということも。
それで、むろん望遠で撮るつもりだったのですが、あたりが暗いうちはフラッシュを焚《た》かなければならない。どんなに離れていても、そのフラッシュの光りで、輿をかついでいる神官たちに私の存在を気づかれてしまうかもしれない。そう思った私は、輿が村を一巡して、社に帰ってきたところをシャッターチャンスにしようと思ったのです。そのころならあたりも明るくなっていて、フラッシュをたかなくてもいいかもしれないと思ったからです……」
そして、真鍋は軽い仮眠をとると、明け方近く、そっと宿泊していた寺を抜け出し、神社まで行くと、境内の建物の陰に隠れて、少女を乗せた輿が帰ってくるのを今か今かと待っていたのだという。
「いやあ、もう大変でしたよ。我ながらよくやるわいと思いましたね。十一月はじめとはいえ、あのあたりは朝晩はけっこう冷え込みますからね、寒いやら、心細いやらで。深夜のひとけのない神社というのは何とも薄気味悪いものですよ。おまけに腹もすいて……」
それでも辛抱強く待っていると、やがて、華麗な輿をかついだ神官たちの姿が境内に現れたのだという。
「あの瞬間は、胸が高鳴り、カメラをかまえる手ががくがくと震えましたよ。目にも華やかな輿を、薄紫色の狩衣姿の神官たちがかついで、しずしずと現れたときにはね。想像していたよりも遥《はる》かに美しい光景でした。その神官というのが五人ほどいたのですが、そのうち四人は若くて、いずれも女かとみまがうほどの白面の美青年なのです。まるで夢でも見ているようでした。
私は、夢中でシャッターを切り、さらに、神官たちが神輿を降ろすのを待ったのです。そこから白衣に白袴姿の一夜日女がおりてくるだろうと思って。その姿を一枚撮ろうと……。
ところが……」
飲みかけのビールの入ったグラスを手にしたまま、そのときの光景がまざまざと瞼《まぶた》の裏に見えるとでもいうように、真鍋の目が宙を凝視した。
「神官たちは輿を降ろすこともなく、小さな小屋のようなところへ入って行くと、しばらくして、手ぶらで出てきたのです。そして、もう用は済んだとばかりに、その小屋の扉に錠をおろしたのです。
私はあれっと思いましたよ。一夜日女はどこへ行ったんだと思ってね。まさか、少女を乗せたままの輿を小屋に戻して錠をおろすはずがないし、それに、そういえば、輿をかついできた神官たちは、まるで空の輿でもかつぐように軽々とかついでいたようにも思えてきたのです。
どうやら、社に戻ってきたとき、既に輿には誰も乗っていなかったようなのです。きっと、一夜日女はどこか別のところでおろしたのでしょう。私はてっきり社まで戻ってきておろすと思いこんでいたのです。寺の住職にそう聞いていたのでね。たぶん、私の聞き違いだったのでしょう。そうとも知らず、寒い思いまでして、こんなところでずっと待っていたのかと思うと、自分の間抜けさ加減がつくづく情けなくなりましたっけ……」
真鍋はそう言って、はははと笑った。
日美香がワンルームの部屋に帰ってきたのは、午後十一時をとっくに過ぎた頃だった。
着替えをしていると、電話が鳴った。取ってみると、新田佑介だった。
佑介はまだ会社にいるようだった。
「これから行ってもいいかな……?」
幾分ためらいがちな声でそう言った。
佑介の勤め先から、日美香が借りているマンションまでは、車なら三十分足らずで来られるはずだった。
日美香は少し迷った。
今までこんな遅い時間に佑介を部屋に入れたことはなかったからだ。
しかし、二人はいわば婚約しているといってもいい間柄である。もう遅いからといって断るのもよそよそしすぎるような気がした。
それに、真鍋伊知郎から聞いた話を一刻も早く佑介にも聞いてもらいたかった。佑介も同じ思いのようだ。だから、遅いのを承知で電話をしてきたのだろう。
「……いいわよ」
そう答えると、佑介はほっとしたような声で、「これからすぐに行く」と言って電話を切った。
そして、三十分もしないうちに、玄関のインターホンが鳴った。
扉を開けると、ややばつの悪そうな顔つきで入ってきた佑介は、
「明日にしようかとも思ったんだけれど、真鍋さんのことが気になってさ……」
と、深夜の訪問の弁解をするように、すぐにそう言った。
「で、どうだった? 何かわかった?」
狭いキッチンにたって、コーヒーをいれようとしていた日美香に訊《たず》ねる。
日美香は真鍋から聞いた話を佑介に話した。
「……ということは、きみのお父さんは、もしかしたら、その三人衆とかいう男たちの中にいるってことなのかな」
佑介は話を聞き終わると、コーヒーを啜《すす》りながらそう言った。
「でも、そうすると、ちょっと変じゃないかしら」
日美香は言った。
「変って?」
「だって……。もしそうなら、どうして母はわたしを身ごもったまま村を出たのかしら。もし、わたしの父が三人衆の誰かだとしたら、村を出る必要はなかったんじゃない? 真鍋さんの話では、生まれて来た子供は、日の本神社の宮司の家で大切に育てられるというんだもの。なにも逃げるように村を出ることはないでしょう?」
「うーん。それもそうだな。ただ、お母さんが村を出たとき、きみがおなかにいることを知らなかったとも考えられるけれど……」
佑介は考えこむように言った。
「でも、たとえそうだとしても、それなら、妊娠していることに気づいた時点で村に帰ったんじゃないかしら? でも、母はそうはしなかった。ということは、母には村に帰りたくても帰れないような事情があったからじゃないかと思うの。たとえば……その」
日美香はいいにくそうに言った。
「母は三人衆以外の男性と……とも考えられるのよね。だから、村にいたたまれなくなって出てきたのではないか……」
「なるほどね。しかし……掟《おきて》を破った男はなぶり殺しにされるというのは凄《すご》いな」
佑介は苦笑しながら言った。
「てことは、俺《おれ》もなぶり殺しにされるってことなのかなあ……」
「え?」
日美香が怪訝《けげん》そうな顔をすると、
「だってそうじゃないか。きみだって日女《ひるめ》なんだから。真鍋さんの本によれば、日女を母親にもつ女はすべて生まれながらにして日女だというんだろう? 本人の意志とは全く関係なく……」
佑介はそう言った。
そのとき、日美香ははっと胸をつかれる思いがした。
彼の言うとおりだ。
今までなぜ気にもとめなかったんだろう。
わたしも日女だということに……。
「でも、それはあの村で暮らせばの話でしょ。わたしはあの村で暮らす気なんてこれっぽっちもないもの。それに、なぶり殺しといったって昔の話じゃない。昔はそういうこともあったって話よ……」
「そうであってほしいね。でなきゃ、俺はきみと結婚できなくなっちまう」
佑介は冗談めかした口調でそう言ったが、その目は笑ってはいなかった。
「……それで、やっぱり日の本村には行く気なのか?」
佑介はややあってから、日美香の方は見ないで、そう聞いた。
「ええ。真鍋さんの話だけでは分からないことが多すぎるし……。ただ、その前に、達川という人に会ってみるつもりだけれど」
「週刊誌の記者とかいう?」
佑介はちらと目をあげて日美香を見た。
「うん。その人が母のことを調べていたというのよね。何を調べていたのか気になって」
「……日美ちゃん」
佑介が改まった声で言った。
「もうやめないか」
「え……?」
日美香は驚いて佑介の顔を見た。
「そんな昔のことをほじくりかえしてどうするんだ? 事実はどうであれ、きみの戸籍上の母親は今も葛原八重さんなんだ。それでいいじゃないか。どうして、それ以上のことを知る必要があるんだ? そんな過去にこだわるより、これからのことを考えろよ。そんなに家族がほしいなら、俺がやるよ。きみが望むならば、俺は、今すぐ結婚してもかまわないんだ」
佑介は、血走ったような目でそういうと、いきなり、日美香の両腕をつかんだ。
そして、そのまま凄い力で自分のもとに引きずり寄せた。
日美香は一瞬身構えはしたが、抵抗はしなかった。強引に引きずられるままに佑介の胸に倒れ込んだ。
こうなることは半ば予測していた。
もしそうなったら、彼の求めるままに応じようとも思っていた。
「なんだか不安なんだよ。怖いんだ。きみが遠くへ行ってしまいそうで……」
佑介はそう呟《つぶや》くと、日美香の唇をむさぼるように求めてきた。それは、以前にしたような小鳥のついばみみたいなキスではなく、まるで、飢えた乳飲み子が母の乳房に吸い付くような激しい求め方だった。
これまでに、これほど我を忘れた様子の佑介に接するのははじめてだった。
ただ、それは、牡《おす》の欲望に突き動かされてというよりも、彼の内部から沸き上がる得体の知れない不安に責め立てられての行動のようにも見えた。
床に押し倒され、上にのしかかられたときは、さすがに日美香は、本能的な恐怖を感じ、思わず悲鳴をあげそうになった。
かろうじてそれをかみ殺すと、半ば反射的に両手を突っ張って、迫ってくる男の分厚い胸板を押し返そうとした。
しかし、いざとなると逆上した男の力にかなうはずもなく、たやすく組み伏せられてしまった。
佑介のわななく不器用な指先が、もどかしげにブラウスのボタンを一つずつはずしていくのを、日美香は目をつぶり、いっさいの抵抗をやめて受け入れようとしていた。
ブラウスの前ボタンがすべてはずされ、小さなリボンの付いた純白のブラジャーに包まれた、やや小さめの胸がさらけ出されたのを感じたとき、突然、佑介の動きが止まった。
そのままかたまったように動かない。
どうしたのかと思い、おそるおそる開いた日美香の目と、上から見下ろしている佑介の目が一瞬かちあった。
彼の目には奇妙な色が浮かんでいた。
何かおぞましいものを見てしまったとでもいうような、怯《ひる》んだ色が。
日美香は、とっさにすべてを理解した。
佑介がさらけ出された自分の右胸の痣《あざ》を見て、それにショックを受け、怖《お》じけづいたのだということを。
「……ごめん」
ややあって、佑介は口の中でそう言うと、のろのろと身体を起こした。日美香はじっと恋人の目を見つめたまま、床に仰向《あおむ》けになっていた。
彼が口にした「ごめん」という言葉が、突然襲いかかるような乱暴な行為をしたことを謝ったものなのか、それとも、その行為を途中でやめてしまったことを謝ったものなのか、頭の中で考えながら……。
佑介は痣のことは何も言わなかった。何も言わないというのが、彼が受けたショックの大きさを逆に物語っているようにも見えた。
彼は立ち上がると、自分の少し乱れた衣服を整え、床の上から横たわったままじっと自分を見上げている日美香の視線を避けるようにして、「俺……帰るよ」と言った。
車を運転しながら、佑介はまだ動揺していた。
煙草は一年も前にやめていたが、何か口にしないことには気が鎮まりそうもなかった。ダッシュボードを開けてみると、幸い、三分の一ほど中身の入ったマイルドセブンの古い箱が、半ば潰《つぶ》れたようになってそのままになっていた。
佑介はそれを取り出すと、一本くわえて火をつけた。
ぶざまなことをしたもんだ。
自分で自分を思いきり殴りつけたいような気分だった。
あんな痣くらいで怖じけづくなんて。
どうかしている。
しかし、あれを見た瞬間、まるで金縛りにでもあったように身体が動かなくなってしまったのだ。
そして、自分の中で高ぶっていたものが、文字通り、萎《な》えてしまった。
あれはまるで……。
佑介は小学生の頃のことを思い出していた。
母がたの実家のある田舎に遊びに行ったときだった。一人で田圃《たんぼ》のあぜ道を歩いていた佑介は、道の真ん中に紐《ひも》のようなものが落ちているのに気が付いた。
近づいて見ると、それは紐ではなく、一匹の蛇だった。それほど大きな蛇ではなく、小さな、しかも、鱗《うろこ》が青とも紫ともつかぬ不思議な色合いでぬめぬめと輝いている美しい蛇だった。
それが蛇だと分かった瞬間、佑介はその場から動けなくなった。
蛇の方も、とぐろを巻き、威嚇《いかく》するように鎌首《かまくび》をもたげて、じっと佑介の方を見ていた。
まさに蛇に見入られた蛙のようになって、佑介はかたまってしまった。
逃げることも声を出すこともできなかった。
どのくらいそうしてにらみあっていただろう。
ほんの数秒のことだったのかもしれないが、幼い佑介には一生続くのではないかと思われるくらい長く感じたものだ。
やがて、蛇はするすると道を横切り、藪《やぶ》の中に消えてしまった。
佑介の身体が動くようになったのは、蛇が消えたあとだった。
あのときの感覚に似ていた。
ブラウスの前を押し広げて、日美香の抜けるように白い胸に薄紫の鱗状の痣を見たときのあの感じは……。
醜いと思ったわけではなかった。
むしろ、痣は奇妙な美しさを持っていた。
あのときの蛇のように……。
しかし、あれを見たとたん、身体が言うことをきかなくなってしまった。おぞましさというより、畏怖《いふ》に近い念が背中を駆け抜けたのだ。
触れてはならない。
これ以上、この女に触れてはならない……。
佑介の頭の中でそんな声がどこからともなく響いてきた。
真鍋の本にあった「大神の印」という言葉もふっと頭に浮かんだ。さらに、その昔、掟を破って日女と愛し合った男が村人になぶり殺しにされたという話も……。
ほんの一瞬の間に、それらのことが次々と頭をよぎり、それまでの高ぶりが水でもかけられたようにさーと引いてしまった。
無理に行為を続けようとしても、もはやそれは精神的にも物理的にも不可能な状態になってしまったのである。
惨《みじ》めな敗北感にうちひしがれ、その場にいたたまれず、逃げるように彼女の部屋を出てくるしかなかった。
……日美香、大丈夫かな。
せわしなく二本めの煙草をふかしながら、ようやく恋人のことを思いやる余裕を取り戻した佑介は、ふとそう思った。
二年も付き合っていて、日美香が軽いキス以上のことを自分に許そうとしなかった理由もこれで分かったような気がした。
きっと、あの痣を見られたくなかったからだろう。
それほど気にしていたんだ。
そりゃそうだろう。
誰だって、あんな気味の悪い痣があったら。まして、日美香のような若い娘なら、人に知られたくないと思うのが当たり前だ。
それをあんな形でほうり出して……。
きっと彼女は傷ついたに違いない。
あの痣のために俺に嫌われたと思い込んだかもしれない……。
そうじゃないってことを明日にでも電話して話そう。
本当に大切に思っている女と肉体的に結ばれようとするとき、しばしば男は不能に陥ることがあるという話を聞いたことがある。
たぶん、自分にもそれに似たことが起きたのだろう。
痣のせいじゃない。だから気にするな。
そう言えば、彼女も納得してくれるだろう。
そして、次はきっとうまくいく……。
あんな痣。
と佑介は思った。
美容整形外科のクリニックを経営している叔父に頼めば、跡形もなく奇麗に取り去ってくれるだろう……。
10
ばたんと遠慮がちにドアの閉まる音を、日美香は床に転がったまま聞いていた。
やがて、ゆっくりと身体を起こすと、鏡台の前まで行った。そして、ボタンのはずれたままになっているブラウスを押し開くようにして、自分の胸を鏡に映してみた。
これはそんなに醜いものなのだろうか……。
日美香は、白絹をはったような自分の右胸に広がる薄紫の痣を見つめた。
日美香の目には、それは醜くもおぞましくも見えなかった。
しかし、佑介の目には、それは醜くおぞましいものに見えたに違いない。
受け入れてくれなかった……。
佑介はこの痣を受け入れてはくれなかったのだ。
今まで一度も肌を許さなかったのは、持ち前の潔癖さもさることながら、この痣を見られることへの恐怖があったからでもあった。もし、気味悪がられたら……。この痣のせいで嫌われてしまったら……。そう思うと、身構えざるをえなかった。
しかし、私生児であることも含めて、自分のすべてを受け入れようとしてくれた佑介なら、この痣も受け入れてくれるのではないかという期待が次第に頭をもたげてきた。
それに、いずれ結婚しようと約束しあった男にいつまでも隠しておけるようなことではなかった。
きっと、彼なら気味悪がらずに受け入れてくれる。そう信じたからこそ、一切の抵抗をやめて、彼のなすがままになっていたというのに……。
受け入れてはくれなかった。
まるで蛇に見入られた蛙のような怯《おび》えた目をして、そそくさと離れてしまった。
その程度の男だったのか……。
そのとき、日美香は、それまで憧《あこが》れ、尊敬の念すら抱いていた新田佑介という男にたいして、はじめて侮蔑《ぶべつ》に近い感情を持った。
そして、そんな感情を持った自分に驚いていた。
日美香の中で少しずつ何かが変わっていた。
ゆっくりと何かが壊れていき、その代わり、何かが生まれつつあった。
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第三章
五月十一日。
日美香は、小金井公園近くの、とある高層マンションの前に立っていた。
午前中の講義に出たあと、真鍋から貰《もら》った名刺を頼りに、達川正輝の勤め先である出版社を訪ねてみたところ、編集部の人の話では、あいにく、達川は、既に退職したのだという。
それも半年近くも前だというから、おそらく、達川は、真鍋を訪問した直後あたりに出版社をやめたらしい。
どうしても会いたい用事があるので、自宅の住所か電話番号を教えてほしいと頼み込むと、今もそこに住んでいるかどうかは分からないが、と言って編集部の人が教えてくれたのが、小金井市のマンションらしき住所だった。
さっそく電話をかけてみたが、留守《るす》なのか、呼び出し音が鳴り続けるだけで誰も出ない。平日の昼間ということもあって、うちにいる可能性の方が低いとは思ったが、とりあえず、訪ねてみることにした。
留守ならば、用件と自分の連絡先を書いた簡単なメモを残してくるつもりだった。
訪問者が倉橋日登美の娘だと知れば、達川の方から連絡してくれるだろうと思ったからである。
ロビーにずらりと並んだメールボックスで調べてみると、903号室に「達川」という名前があった。どうやら、達川はまだここに住んでいるようだった。
見たところ、分譲マンションのようだった。
さいわい、オートロック形式ではなかったので、日美香は、エレベーターを使って、達川の部屋まで行った。
インターホンを二、三度鳴らしてみたが、応答はない。人の出てくる気配もなかった。
やはり留守かと思い、その場で書いたメモをドアの隙間《すきま》に挟んで、帰ろうとしたとたん、いきなりドアが開いた。
「……なに?」
細く開けたドアの隙間から、不機嫌《ふきげん》そうな顔をのぞかせたのは、ぼさぼさの頭に不精髭《ぶしようひげ》を生やした、四十前後の中年男だった。
パジャマを着ている。
寝ているところをインターホンの音でたたき起こされたとでもいいたげな格好だった。
「達川正輝さん……ですよね?」
不在だとばかり思った当人がいきなり出てきたので、日美香は幾分うろたえながら尋ねた。
「ああ……」
達川は目をこすりながらそう言い、日美香の顔を見たが、そのとたん、突然目が覚めたと言う表情になった。
「あの……実は」
日美香は自分の名前を名乗り、訪問の理由を話した。
すると、最後まで話し終わらないうちに、
「ちょ、ちょっと待って」
達川は慌てたように言うと、中にひっこんでしまった。
しばらく外で待っていると、ようやく扉が開き、達川が出てきて、「どうぞ」と中に通すようなしぐさをした。
トレーナーの上下に着替えていた。
「お邪魔します……」
そう言って、玄関を一歩入った日美香は、中のあまりの汚さにのけぞりそうになった。間取りは、少なくとも2LDK以上はありそうな、いわゆるファミリータイプのようだったが、酷《ひど》く散らかっているうえに、何やら胸の悪くなるような異臭が漂っている。
異臭の源は、玄関スペースに幾つも重ねられた生ゴミ袋のようだった。おまけに、廊下には、空のビール瓶やら酒瓶やらが足の踏み場もないほど大量に転がっている。
この人、独身なのかしら……。
日美香はあぜんとしながら思った。
表札には、「達川」としか出ていなかったが、903号室のドアのすぐそばの通路に、三輪車が置いてあったので、てっきり、達川には三輪車に乗るような子供がいるのだと思いこんでいたのだが……。
このゴミの山のような凄《すさ》まじい部屋に、妻子が共に住んでいるとは思えない。
「生ゴミは朝出せってうるせえんだよ、ここは。夜出すと管理人がご丁寧に戻しにきやがる……」
達川は生ゴミをためた言い訳をするように、トレーニングズボンの尻《しり》を掻《か》きながら、そんなことを言った。
そう言われてみれば、生ゴミ袋の幾つかには、何やらメモのようなものが張り付いたままになっていた。
この玄関の有り様を見ただけで呆然《ぼうぜん》としてしまい、さらに奥に入る気力を日美香は無くしかけていたのだが、といって、ここで回れ右をして帰るわけにもいかないので、仕方なく、達川のあとについて行った。
廊下の奥の、ダイニングとリビングのつながった十二畳ほどのフローリングの部屋は、玄関に優るとも劣らぬような酷い有り様だった。
テーブルの上には、煙草の吸い殻がてんこもりになった灰皿、食べ散らかしたコンビニ弁当やカップヌードルの容器、どういうつもりか、小ピラミッドのように積みあげられた、空の缶ビールの山……。
ソファには毛布と枕《まくら》が転がっており、毛布は、今そこに人が寝ていましたというような形でそのままになっていた。
他に部屋があるだろうに、どういうわけか、達川は、ここのソファをベッド替わりにしているようだった。
「……この本をご存じですよね」
部屋の様子や異臭にようやく目も鼻も少し慣れた頃、日美香は、バッグの中から真鍋の本を取り出した。
達川は、テーブルとソファの周囲だけ、申し訳程度に片付けるような振りをすると、それまでベッドと化していたソファの片隅のスペースを日美香の椅子《いす》用に提供してくれた。
「その巫女《みこ》姿の女性は、わたしの母なんです……」
日美香がそう言うと、真鍋の本を手に取っていた達川は反射的に顔をあげた。しかし、その顔には、驚きというより、やはりという色があった。
「娘さんか……。どうりで似ているはずだ」
達川は独り言のように呟《つぶや》くと、
「で、倉橋さんは今どこに?」
と、勢いこんで聞いてきた。
「母は亡くなりました」
日美香は言った。
「亡くなった……?」
達川の顔に愕然《がくぜん》としたような表情が浮かんだ。
「いつ?」
「わたしを生んだときに……」
そのときの事情を話すと、食い入るような目で日美香を見ていた達川は、突然、両手で頭を抱え、「亡くなっていたのか……」と腹のそこから絞りだすような声を漏らした。
それは、何かに失望したというか絶望したような声だった。
「達川さんは母のことを調べていたそうですね? 一体何を調べていたのですか」
そう聞いても、達川は両手で頭を抱えこんだまま、すぐに答えようとはしなかった。
「真鍋さんから伺った話では、母の家族が亡くなったのは、事故ではなくて事件だったとあなたがおっしゃったというのですが、それはどういう……」
日美香がさらにそう言いかけると、達川は何を思ったのか、すくっと立ち上がり、リビングから出て行った。しばらくして、戻ってきたときには、手にはスクラップブックのようなものをもっていた。
「これがその事件だ」
そう言って、ぽんと無造作にスクラップブックを日美香の膝《ひざ》に投げてよこした。
日美香がおそるおそる、それを開けてみると、そこには、昭和五十二年の夏に起きた或《あ》る殺人事件に関する新聞記事や週刊誌記事のコピーの切り抜きが掲載月日順に整理されていた。
それは、新橋の駅前で古くから「くらはし」という蕎麦《そば》屋を営んでいた平凡な一家を襲った凄惨《せいさん》な事件だった。
その一連の記事を、日美香は心臓を高鳴らせながら読みすすんだ。
「でも……」
記事のコピーをひととおり読み終わると、日美香は腑《ふ》に落ちないという顔で達川に尋ねた。
「この事件は解決したのでしょう? 犯人の少年もすぐに逮捕され犯行を自供したとあるし……。それなのに、どうして今ごろになって、こんな古い事件を調べているのですか?」
そう聞くと、達川は首を振った。
「最初からその事件のことを調べていたわけじゃない。ある人物の周辺を嗅《か》ぎ回っていたら、その事件にぶち当たったのさ」
「ある人物?」
「こいつさ」
達川はそう言って、かたわらの、週刊誌や雑誌が雑然と積み重ねられた束から、一番上にあった週刊誌をひょいと取ると、それをテーブルの上に投げ出し、その表紙を飾っていた顔を指さした。
白い歯を見せて笑う精悍《せいかん》な男の顔がそこにあった。
その顔の下には、「政界のニューリーダーに聞く!」という見出しが走っている。
「今や、総理の椅子に最も近い男といわれている、まさに時の人だから、あんただって顔と名前くらいは知ってるだろう?」
達川はにやにやしながら言った。
むろん、日美香はその週刊誌の表紙を飾っている男のことを知っていた。
現大蔵大臣の新庄貴明だった。
二十九歳のとき、当時の大蔵大臣だった舅《しゆうと》の秘書を経て政界入りしてから、まだ五十前の若さで、既に厚相、通産相を経験し、今や、国内はもちろん、海外でも、最も注目される政治家の一人にあげられている人物である。
政治的な能力もさることながら、百八十をゆうに越える日本人離れした長身に俳優並の整ったマスク、さらに学生時代に単身渡米して培ったという達者な英語力。
そういった要素が何かと話題になり、今までになかったニュータイプの政治家として、ここ数年、各メディアが競うようにして取り上げている。
政界のことには暗く、またたいして関心もなかった日美香のような若い娘でも、この男について或る程度の知識があったのは、たまに美容院などで手にする女性週刊誌にまで、まるで有名タレントか何かのような扱い方で、この男の話題が頻繁に登場していたせいもあった。
「最初は、こいつの女性関係でも暴き出してやれと思っていたのさ……」
達川は口を歪《ゆが》めて言った。
「学生結婚で結ばれた夫人とは、政界きってのおしどり夫婦なんて言われているが、どうせそれも女性有権者の票を集めるための見せかけにすぎない。これだけの男だ。回りの女が放っておくはずがない。古女房一筋なんて誰が信じるか。たたけば、隠し女の一人や二人、必ず出てくる。そう思ってな……」
ところが、意外にも、いくら周辺を探っても、そういった浮いた話は全く出てこなかったのだという。
「こりゃ、本当に女房一筋という奇特なやつなのか、それともよっぽどガードが堅いのかと思いはじめた頃、その事件にぶち当たったというわけさ……」
「新庄貴明がこの殺人事件にかかわっていたというのですか」
日美香が驚いたように聞くと、達川は頷《うなず》いた。
「まあ、かかわったといっても、大したかかわりかたではないんだが……。犯人の少年を『くらはし』の店主に紹介したのが、当時、まだ舅の秘書をしていた新庄だったんだよ。新庄は犯人の母親と古い知り合いだったらしい。その母親から、高校を中退してぶらぶらしている息子の就職を世話してほしいと頼まれていたんだ。それで、行きつけの蕎麦屋にこれを紹介した。そして、その半年後にあの事件が起きた……」
「でも、紹介したくらいでは、事件にかかわっていたとは……」
日美香がそう言いかけると、
「ま、そりゃそうだ。新庄だって、まさか自分が紹介した少年があんなことをしでかすとは夢にも思っていなかっただろうしな。
あの新庄貴明が若い頃、殺人事件にかかわったことがあると聞いたときには、これは女性スキャンダルよりもおいしいネタだと一時は色めきたったんだが、調べてがっかりした。この程度のかかわりかたでは、スクープというほどではない。
でも、他にネタもないし、まあ、毒をくらわば皿までというから、この事件のことをもう少し調べてみようと思った。それで、とりあえず、事件の生き残りである倉橋日登美という女性に会って話を聞きたいと思った。ただ、この女性の行方《ゆくえ》が分からない。事件直後、残された幼い娘とともに、どこかに引っ越してしまったようだった。
ただ、彼女には、松山で旅館を経営している伯母がいることが分かったので、松山まで行って、この伯母という女に会ってみた。伯母なら姪《めい》の行方を知っているのではないかと思ったからだ……。
案の定、伯母は姪の行方を知っていた。事件のあとすぐ、娘を連れて母がたの実家のある長野県の日の本村というところに行ったと教えてくれた。そこから手紙を一通もらったともね。これを聞いて、俺はいささか驚いたね……」
「驚いた?」
日美香が聞くと、達川は頷いた。
「ああ。そのときまで、俺は新庄貴明と『くらはし』という蕎麦屋のつながりは、単に蕎麦好きの新庄がよく行くお気に入りの店というだけの関係かと思っていたからさ。ところがそうじゃなかったんだ」
「そうじゃなかったって……?」
「新庄と倉橋日登美は全くの他人じゃなかったんだよ。いわば親戚《しんせき》、正確には、従兄妹《いとこ》同士の間柄だったんだ」
「…………」
「つまり、倉橋日登美の母がたの実家である日の本村の宮司の家というのは、新庄貴明にとっても実家にあたるんだよ。新庄家に婿入りする前の旧姓は、神《みわ》といって、やつは、あそこの宮司夫妻の長男として生まれたんだから……」
「ただ、妙なのは、倉橋日登美がそのこと、つまり、新庄貴明が自分の従兄《いとこ》であるという事実をまるで知らなかったらしいということなんだ……」
達川は考えこむような顔で話し続けた。
「倉橋日登美が日の本村から出したという手紙も見せてもらったが、そこには、神聖二という男の訪問を受けて、村へ帰るまでのいきさつが事細かに書かれていた。しかも、このとき、何かと世話になった新庄に相談をもちかけたということも。
しかし、その文面からすると、彼女は、新庄が自分の従兄であることを全く知らないようだった。
伯母の方も、新庄貴明があの事件のあと、犯人の少年を紹介した責任を感じてか、残された姪母娘の面倒をよく見ていたらしいことは聞かされていたようだが、その新庄が日の本村の出身で、しかも倉橋日登美の従兄であることは全く知らなかったというんだ。
これは妙だ。どう考えてもおかしい。新庄の方も何も知らずに、『くらはし』に通っていたというのだろうか。たまたま贔屓《ひいき》になった店の若奥さんが実は従妹だったということだったのか。まさか!」
達川は吐き捨てるように言った。
「そんな偶然があるものか。いや、百歩譲ってこんな偶然があったとしても、倉橋日登美は神聖二という男の訪問を受けたあと、新庄に相談しているのだ。今まで気が付かなかったとしても、この段階で、少なくとも新庄の方は気が付いたはずなんだ。しかし、なぜか、新庄はそのことを彼女に打ち明けなかった。あえて隠したとしか思えない。
なぜだ? なぜ隠す必要がある?」
達川の目がぎらぎらと輝き出していた。
「これはどうしても腑に落ちなかった。納得がいかない。俺は、がぜん、この事件に興味をもった。ひょっとしたら、一人の少年が引き起こした単なる衝動殺人と思われてきたこの事件には、何か裏があったんじゃないかという気がしてきた。
そういえば、この犯人の矢部という少年にしても、犯行後の行動が今ひとつ引っ掛かる。幼児を含めた三人の人間を包丁で滅多刺しにして殺したというのだから、相当逆上していたはずだ。ところが、犯行後、ほんの二時間かそこらで、すぐに自分で警察に通報しておとなしく自首している。
しかし、三人もの人間を惨殺しておいて、そんなに短時間に興奮が冷めて冷静になれるものなのか。俺の知っている限りでは、衝動的に殺人を犯してしまった場合、犯人の多くはまず本能的に逃げることを考えるものだ。たとえ逃げ切れないと観念して自首するとしても、もう少し日にちがたってからのことが多い。
矢部は早すぎる。まるで……」
達川はそう言って、日美香の顔をじっと見つめた。
「まるで、最初からそうするつもりだったみたいに……」
「まさか」
日美香はようやく言った。喉《のど》が妙に渇いていた。
「この事件が計画的なものだったと……?」
達川は頷《うなず》いた。
「その可能性もあるのではないかという気がしてきた。犯人が未成年で、しかも、すぐに自首してきたということで、警察もこの事件に関して、あまり突っ込んだ捜査はしてないんじゃないかと思ったんだ。
それに、矢部の生まれ故郷も長野県の日の本村であるということがなんとなく引っ掛かった……」
「犯人も日の本村の出身だったのですか?」
「ああ。ただし、『くらはし』に住み込む前に母親と住んでいたのは、群馬の桐生ということになっていたが……」
達川はそう言った。
この古い事件に興味をもった達川は、まず、既に刑期を終えて郷里に帰ったとされていた矢部稔から詳しい話を聞くために、当時、矢部の母親が住んでいたという群馬県の桐生を訪ねたのだという。
「でも、そこには矢部も矢部の母親も既にいなかった。近隣の人に話を聞いてみたら、矢部の母親は、あの事件のあと、すぐに引っ越してしまったのだそうだ。犯人が少年ということで匿名《とくめい》報道だったんだが、矢部の母親の存在を嗅《か》ぎ付けたマスコミの取材や何かで、いたたまれなくなったんだろうな。聞くところによると、矢部の母親は長野県の日の本村の出身で、桐生に来たのも、あの事件が起きるほんの半年ほど前だったというんだ。それまでは日の本村に住んでいたらしい。
おそらく、出所した矢部稔も、母親が住む日の本村に帰ったものと思われた。それで、俺は日の本村に行ってみることにした。そこに行けば、倉橋日登美にも会えるかもしれないと思ったし。
しかし、結局、倉橋日登美にも矢部稔にも会うことはできなかった……」
達川は続けた。
「宿泊した日の本寺の住職の話では、倉橋日登美が村にいたのはほんの半年足らずの間だったそうだ。昭和五十三年の三月末頃、一人で村を出たということだった。あそこの住職は蕎麦《そば》打ちの名人だそうで、彼女は、昼になると、住職が打つ蕎麦を食べによくきていたらしい。その日も、いつもと同じように、彼女はやってきた。ちょうど、真鍋伊知郎から本が届いていたので渡したのだという。彼女はその本を持って、それっきり姿を消したというのだ。おそらく、寺を出たあと、身を寄せていた宮司の家には戻らず、そのままバスに乗って長野市まで出たのだろう。
全くの普段着で、しかも、小さなハンドバッグのようなものしか持っていなかったので、住職もまさか、あのまま村を出てしまうとは夢にも思わなかったというんだ……」
そういうことだったのか。
日美香は思った。
昭和五十三年の春、母は届いたばかりの真鍋の本だけを持って村を出たのだ。だから、母の遺品の中にはあの本しかなかった。そして、その本は、それから二十年もの間、葛原八重の手元に保管され、そして、あの突然の事故死によって、ようやく日美香の目に触れたというわけだった。
「母はどうして村を出たのでしょうか? しかも、そんな着のみ着のままの格好で」
日美香がそう尋ねると、達川はかぶりを振った。
「俺もそれを聞いてみたんだが、住職も分からないということだった。最初からその気はなく、ふと気まぐれで思い立ったことなのか、それとも、村を出る決意は宮司の家を出たときから持っていて、その計画を悟られないようにするために、あえて普段のままの格好で何も持たずに出たのか……。
それすらも分からないということだった。宮司をしている彼女の兄という人物にも会って聞いてみたが、こちらの返事も全く同じだった。
しかも、彼女は村を出たあと、全くなんの連絡もよこさず、今も生きているのか死んでいるのかさえ分からないという返事だった。
それで、俺は彼女に娘がいたことを思い出して聞いてみた。確か春菜といって、当時三歳だったはずだ。一人で村を出たということは、この幼い娘はどうしたんだろうと思った。残して行ったのかと思ったからだ。
ところが、宮司の返事は……」
達川の目に奇妙な表情が浮かんだ。
「その娘なら死んだというのだ。昭和五十二年の十一月、あの大神祭で一夜日女《ひとよひるめ》をつとめたあと、潔斎の期間に、風邪《かぜ》をこじらせて肺炎を引き起こしたということだった」
「潔斎……?」
「これは、ふつうの日女が一夜日女をつとめることになった場合、祭りまでの一カ月と、祭りが終わったあとの一カ月を、大日女という老|巫女《みこ》の住まいで過ごすことを言うのだそうだ。ただ、この春菜という幼女の場合、かなり特殊な事情で一夜日女に決まったということで、前の方の潔斎はしなかったらしいのだが、後の潔斎はしたというのだ。その期間中に病気で死んだという話だった。
宮司が言うには、妹が村を出た理由はさっぱり分からないが、もしかしたら、この幼い娘の病死がなんらかの影響を及ぼしたのかもしれないということだった。
倉橋日登美に関しては、これ以上のことは何も得られなかった。
まあ、あんたの話からすれば、彼女は村を出たあと、そのまま東京に出て、新宿のバーに勤めたってことになるな。そして、翌年、あんたを生み落として亡くなったわけだ。そうと分かってみれば、村を出たあと音信が途絶えてしまったというのも当然といえば当然の話だが……」
「それで、その犯人の矢部という人は……?」
日美香が聞くと、何やら考えこむような表情をしていた達川ははっと顔をあげた。
「……やつのことも宮司に聞いてみたが、どうも、このあたりから宮司の機嫌《きげん》が悪くなってしまってな、忙しいから帰れとけんもほろろに追い返しやがった。あの宮司もなかなかどうして一筋縄ではいかない男のようだ。新庄貴明のすぐ下の弟だという話だが……。
ただ、宮司の妻から、こっそり、矢部稔の情報をすこし得ることができた。矢部はやはりあの村に帰ってきているようだった。母親とともに、村長の家に身を寄せているというのだ」
「村長の家に?」
「ああ。なんでも、矢部の母親というのは、旧姓を太田といって、村長の実の妹だと言う話だった。つまり矢部稔は、あそこの村長の甥《おい》にあたるんだよ……」
「それで、俺は村長の家まで行ってみた。だが、村長は二年前に亡くなっており、今は息子が村長になっているということだった。その息子の久信というのが出てきて、矢部には会わせられないというのだ。確かに、矢部は昔、罪を犯したが、その罪はもう償った。今は更生して真面目《まじめ》に慎ましく働いている。今さらマスコミにつっつき回されることは何もない。とっとと帰れ。てな調子で門前払いさ。
しかも、このあと、それまで愛想がよかった寺の住職も急によそよそしくなった。もうこれ以上泊めることはできんなんて言い出しやがった。おそらく、俺が古い事件を調べていることを、あの宮司か村長にでも聞いたんだろう。それで追い出しにかかったというわけだ。まるで村ぐるみで矢部稔を守ろうとしているとでもいうような感じだった。
それで、村に一軒だけあるという旅館にくら替えしようとしたんだが、こちらも既にお達しが回っていたらしく宿泊を断られた。仕方なく、俺は村を出てきたんだが、その足で、鎌倉の真鍋伊知郎を訪ねることにした。日の本寺に宿泊していたときに、住職から真鍋の本を見せてもらっていたからだ。これと同じ本だよ」
達川はそう言って、不精髭《ぶしようひげ》だらけのあごをしゃくって、テーブルの上の本を指した。
「日の本村の項をざっと読んだだけだったが、俺は面白いと思った。大神祭という奇祭にも、あの村に伝わる奇習にも興味をもったんだ。それで、真鍋伊知郎に直接会って、もっと詳しい話を聞きたいと思った。
それに、倉橋日登美が村を出るとき、真鍋の本を持って出たと聞いていたから、ひょっとしたら、倉橋日登美は村を出たあと、真鍋に連絡を取ったかもしれないと思ったんだ。本の奥付には、著者の連絡先が載っていたからな。
だが、真鍋を訪ねてみると、倉橋日登美のことは何も知らないようだった。本を送ったあとも日の本寺の住職から礼状が届いただけで、倉橋日登美の方からは何の連絡もなかったそうだ。
結局、ここで倉橋日登美の行方は途切れてしまった。でも、俺の中でいったんわいた、あの古い事件に関する疑惑は、このあとも消えなかった。消えるどころか、ますます確信を強めていったんだ。
あの事件は、今までそう思われてきたような単純な衝動殺人なんかじゃない。あれは用意周到に計画され、冷酷に実行された計画殺人だったのではないか。
調べれば調べるほど、そんな気がしてきた。しかも、犯人とされた矢部稔は、単なる実行犯にすぎなく、真犯人はべつにいる。彼に殺人を命じた人物が。あの事件を仕組んだ黒幕が背後にいるという気がしてならなかった。
そして、その計画殺人の首謀者……かどうかは分からないが、少なくとも一役買っていたのが新庄貴明だったんだ。
やつが矢部を『くらはし』に紹介したときから、既にこの殺人計画ははじまっていたんだ。いや、矢部母子が日の本村を離れて群馬に引っ越したときから、計画ははじまっていたのかもしれない。
新庄は単なる客を装って、『くらはし』の常連になり、頃合いをみはからって、『くらはし』の店主に矢部を紹介する。雇われた矢部は、やがて、わざと仕事をさぼり、店主の神経を逆なでするようなことばかりやるようになる。そのうち、店主との間に摩擦が生じ、いずれは解雇ということになる。そのときがチャンス到来というわけだ。これで、衝動殺人にみせかける条件はすべて整ったというわけさ。
すべて最初から仕組まれていたんだよ。矢部はやつの背後にいる黒幕の命令どおりに動いていたにすぎなかったんだ。
だから、やつは犯行後、すぐに自首して、動機もぺらぺら喋《しやべ》った。警察にきわめて協力的だった。これは当然だ。そうした方が後々刑は軽くなるだろうし、警察によけいな捜査をさせないためでもあったんだ……」
憑《つ》かれたように喋る達川の目が暗い輝きを発していた。
日美香はただただ呆然《ぼうぜん》として、達川の話を聞いていた。
「しかし、問題は動機だった。矢部をマリオネットのように操った黒幕の動機だよ。この黒幕には、倉橋徹三と秀男を殺害する動機があった。歩という幼児に関しては、矢部の言うとおり、弾みにすぎなかったんだろう。
最初、俺は、黒幕は新庄貴明だと思った。新庄にはあの二人を殺さなければならない理由があったに違いない。そう思った。それで、同郷の矢部を送りこんで、解雇をめぐっての衝動殺人のように見せかけて、二人を殺したのだと……。
だが、いくら新庄の周辺を嗅《か》ぎ回っても、新庄があの二人を殺さなければならない動機のようなものは全く浮かびあがってこない。客と店主という以外の接点は過去にさかのぼっても出てこなかった。
そのうち、俺は、新庄の個人的な動機ではないのかもしれないということに気が付いた。というのは、倉橋日登美が新庄と同じ日の本村の出身だということが分かったからだ。しかも、新庄はそのことをなぜか隠していた。たぶん、矢部の方も、日の本村出身ということを隠して、『くらはし』に雇われたんだろう。矢部母子が日の本村から群馬に引っ越したのもそのためだったんだ。
隠すということは、これこそが殺人の真の動機ではないかと思い当たった。日の本村そのものが動機だったんだ。日の本村に何かある。俺はそう確信した。そして、あの村に数日滞在してみて、俺にはだんだん分かってきた。
あの村の閉鎖性。古くから伝わるという奇祭と奇習。大神と呼ばれる大蛇神への村をあげての狂的なまでの篤《あつ》い信仰。そして、その神妻である日女《ひるめ》という巫女《みこ》の特殊な存在。それらを知るうちに、俺は、ようやく、倉橋徹三と秀男がなぜ殺されなければならなかったのか、その理由をつかんだと思った。
それは、前代未聞ともいうべき、きわめて異様な動機だった。
倉橋日登美が日女だったからだ。日女の血を引く女だったからだ。そんな女の家族だったということこそが、倉橋徹三と秀男が殺されなければならなかった真の理由だったんだ……」
「日の本寺の住職の話では、神の女である日女には、その年の大神祭で三人衆に選ばれた男しか手が出せないという厳しい掟《おきて》が古くからあったということだった。
その掟を破った男には、村の男たちによる凄惨《せいさん》な私刑が行われたことも過去にはあったらしい。
住職はそれは昔の話だと笑っていたが、違う。昔の話なんかじゃない。掟をやぶった者への死に至る私刑は今もなお行われていたんだ。
倉橋徹三も秀男も、本来なら神の女として、限られた者しか接することを許されない特殊な女を、おそらくそうとも知らずに妻にしてしまっていた。
だから、村の男たちによって殺されなければならなかったんだ。掟を破り、大神の女を奪った者として。
動機はそれだけじゃない。
今、あの村では日女が減っている。日女の血を引く女がどうしても必要だったに違いない。倉橋日登美は日女だった。そして、彼女の生んだ娘もまた日女だ。日女の血を絶やさないために、二人を村に呼び戻さなければならなかった。
しかし、ささやかな蕎麦《そば》屋の若|女将《おかみ》として、毎日を平凡ながら幸せに生きている彼女が、そうおいそれと家族を捨てて村に帰ってくるはずがない。
彼女を村に取り戻すためには、彼女の家族を抹殺する必要があったんだ。蕎麦職人である徹三と秀男がいなくなれば、もはや彼女一人では店を続けることはできない。父と夫をいっぺんに失い、幼い子供を抱えて、路頭に迷っているような女ならば、村に帰るように説得するのはたやすいはずだ……。
そして、実際、彼女は、事件から一カ月ほどして訪ねてきた神聖二の口車にのって、翌々日には、移ったばかりのマンションを引き払い、日の本村に出向いている。
そう考えると、あの事件の黒幕は新庄貴明一人というよりも、新庄、日の本神社の宮司、村長たちがしめし合わせて実行した、いわば村ぐるみの犯罪だったといえるかもしれない。
村長の甥である矢部稔は彼らの手先にすぎなかったんだ。なぜ実行犯に矢部のような少年が選ばれたか。むろん、それは少しでも刑期を短くするためだ。未成年で、衝動的な殺人で、しかも、そのあとすぐに自首して深い後悔の念をあらわせば、どんな凶悪犯罪であっても、その罰は情状酌量されるだろう。
それに、たとえ前科者の烙印《らくいん》を押されても、余生をあの村で暮らす限りにおいては、何の痛痒《つうよう》もないはずだ。矢部はあそこでは前科者ではなく、むしろ村のためになることをした英雄みたいな扱いを受けるだろうからな。
ちょうどやくざの社会で、下っ端のチンピラが兄貴分の罪をきて、ムショ入りしたあと、箔《はく》をつけてのしあがっていくようなものだ。普通の社会では前科者という烙印が、あの村では名誉の勲章みたいなものだっただろう。
いや、やくざというより、あれはまさしく宗教団体だ。あの村全体が一種のカルト教団のような構造になっているんだ。大神を頂点にピラミッド型の階層社会が成り立っている。村人たちは大神への狂的な信仰で一つに結束されているんだよ。
そんな特殊な村だからこそ、起こり得た犯罪だったんだ……。
俺はこのことをさっそく記事にしようと思った。それで、編集長に特集を組ませてくれと頼んだが、編集長のやつ、今や時の人である大蔵大臣がからんでいるということもあって、臆病風《おくびようかぜ》にでも吹かれたのか、しりごみしやがった……」
達川はそのときのことを思い出したように舌打ちした。
「俺の推理が荒唐無稽《こうとうむけい》で現実性に乏しいとぬかしやがった。しかも、たいした根拠もなく、憶測だけでそんなことを書けば、新庄貴明から名誉棄損で訴えられるのは目に見えているともな。
俺の推理が荒唐無稽なんじゃない。事件そのものが荒唐無稽なんだ。大体、荒唐無稽といったって、宗教にかぶれたやつらのしでかすことは、いつだって荒唐無稽だったじゃないか。それは歴史が物語っているよ。やつらの前に常識なんて通用しない。神の名のもとには何だってやるんだよ、あいつらは。
そう主張したが、結局、俺のネタは没にされた。腹いせに俺は出版社はやめた。せめて、生き証人である倉橋日登美の証言でも取れていれば、もう一押しできたのかもしれないが。でも、彼女の行方《ゆくえ》は全く分からなかった。
しかし……」
達川はそう言って、自嘲《じちよう》めいた笑いを漏らした。
「今となっては、もはや死人に口なしというわけか……」
日美香はここまで聞いて、「母は亡くなった」と言ったとき、達川がなぜあんな絶望的な表情をしたのか、ようやく分かったような気がした。
達川の話は、日美香の耳にもにわかに信じがたいというか、かなり荒唐無稽に聞こえた。編集長がしりごみしたのも当然という気がする。
ただ、もし、達川の話がただの妄想や憶測ではなく、事実だとしたら、倉橋日登美が日美香を身ごもったまま村を出て、亡くなるまで誰とも連絡を取らず、村にも帰ろうとしなかった理由もおぼろげに分かるではないか。
彼女はすべて知ってしまったのかもしれない。事の真相をすべて……。
「なあ、あんた」
ふいに達川が言った。
「さっき、生まれたのは九月だって言ったよな」
「え? ええ、そうです」
そう答えると、達川は小首をかしげるような仕草を見せた。
「妙だな。神家の子供もなぜか九月生まれが多いんだよな……」
独り言のように呟く。
「神家の子供……?」
達川の話では、宮司の家をたずねたとき、幼児が数人ちょろちょろしていたので、それとなく宮司の妻に聞くと、皆、宮司夫妻の子供だという。
「そのとき小耳に挟んだんだよ。九月生まれの子が多いので、誕生日はまとめてやるのだという話をな。あとになって、宮司の子の殆《ほとん》どは、実際には宮司夫妻の実子ではなく、日女《ひるめ》が生んだ子供だということが分かったんだが。ということは、日女の子供には、なぜか九月生まれが多いということになるわけだ……」
達川は考え考え言った。
「これは単なる偶然なのかな……」
日美香はなんとなく嫌な胸騒ぎを感じながら、達川の顔を見ていた。この男は何を言いたいのだろう……。
「九月生まれということは、俗に妊娠期間は十月十日などというから、受胎したのは、前の年の十一月頃ということになる……。十一月といえば、大神祭のある月だ。大神祭のある月に、日女が身ごもる事が多いというのは……ただの偶然なのか」
達川は殆ど独り言のようにぶつぶつ呟いていたが、日美香の方を見ると言った。
「あんた。父親のことについては何も聞いてないのか」
日美香はかぶりを振った。
「でも、もし、母が日の本村の掟《おきて》に従っていたとしたら、わたしの父は、その年の大神祭で三人衆をやった人の中にいるということになると思うのですが……」
そう言うと、達川は、あごに片手をあて、何か思案するような顔をしていたが、
「その三人衆と日女の関係だが、どうも、まだ何かあるって感じだな……」
と唸《うな》るような声で言った。
「まだ何かあるって?」
日美香はぎょっとしたように聞き返した。
「あの村に関する俺の情報源の殆どは日の本寺の住職なんだが、あの狸爺《たぬきじじい》、まだ何か隠しているという感じだったな。よそ者には知られては困るような何かを……。俺や真鍋伊知郎に話してくれたのは、外部に知れてもかまわないようなあたりさわりのない部分だけだったんじゃないかな。あの村にはまだ何か秘密がある。外部に漏れては困るような後ろ暗い秘密がね……」
「実は出版社をやめたあと、暇をもてあましたということもあるが、大神祭のことがどうも気になったので、他にもあの祭りについて書いた本がないかと思って、図書館に通って調べてみたんだ……」
達川は言った。
「片っ端からそれらしき本を当たってみたが、残念ながらこれはというものには巡りあえなかった。ただ、一冊だけ、どこかの大学教授が書いた研究書のような本に、日の本村の名前がちらとだけ出てきたのがあった。昭和二十年代に出版された古い本で、『日本の祭りにおけるエロスとタナトス』とかいうタイトルだったと思うが、その中に、日の本村の大神祭における神迎えの神事というのは、一種の性儀式ではないかという記述があったんだよ。
神迎えの神事の一番最後で、大神の御霊の降りた三人衆に、日女が酒などをふるまう『もてなし』というのは、たんに酒をふるまうだけの饗応《きようおう》ではなく、性的な意味もふくまれているのではないかというのだ。
つまり、日女は大神の妻であるわけだから、年に一度訪れた神に対して、妻としての『もてなし』、すなわち性交渉をもつのではないかというのだよ。
古い祭りには、こうした性がらみの神事や儀式がけっこうあったらしい。たとえば、山の神の祭りなどでは、村をあげての乱交パーティのようなものが昔は行われたりしたこともあったというのだ。
ただ、こうしたセックスがらみの祭りは、『淫風《いんぷう》』『淫祠《いんし》』と見なされて、明治政府が厳しく取り締まったようで、明治以降は、影をひそめ、現在では殆どなくなったも同然だと著者は書いているのだが……。
果たしてなくなったのだろうか?
もし、日の本村で、今もなお密《ひそ》かに、こうした『淫風』が続けられているとしたら?
あの村はひどく閉鎖的で、よそ者もめったに訪れないし、まるで時がどんよりと澱《よど》んでとまったようなところだ。古い祭りの形態がそのまま残っていたとしても不思議はない。
そう考えると、なぜ、日女の子供に九月生まれが多いのか、というか、なぜ、日女の受胎日が大神祭のある十一月に集中しているのか、という謎《なぞ》は解ける。
また、日女の生んだ子供が、すべて大神の子とみなされるということも、こう考えると納得がいくじゃないか。
あの村では、日女の生んだ子供の父親を誰も詮索《せんさく》しないという話を聞いたが、詮索しないのではなくて、詮索したくてもできないようになっているのだ。
子供の父親は、三人衆のうちの誰なのか、三人の男たちにも日女本人にも分からないような仕組みになっているのだとしたら……」
「それでは……母は、その祭りで……わたしを?」
日美香はあえぐように言った。達川の推理にひどくショックを受けていた。
達川は確信ありげに頷《うなず》いた。
「考えてみればおかしいじゃないか。あんたのお母さんは、昭和五十二年の夏に、あんな形で夫を亡くしているんだぜ。そんな女が、半年もたたないうちに、他の男と恋愛をして子供を身ごもるというのは……。倉橋日登美は自由恋愛の末に身ごもったんじゃない。祭りの時に身ごもったんだ。しかも、ひょっとしたら、それは彼女の意志に反して、のことだったのかもしれない」
「意志に反して……?」
「彼女はあの村で生まれたとはいっても育ったわけじゃない。もし、あの村で生まれ育った日女であれば、大神祭がどんな祭りであるのか、その祭りで日女がどんな役目をするのか、当然知っていただろう。しかし、彼女はそうじゃない。あの村のことも祭りのことも何も知らなかったはずだ。もしかしたら、祭りの当日まで何も知らされていなかったとも考えられる。あの村の人々がよそ者に話す程度のことしか聞かされていなかったのかもしれない。だからこそ、翌年、妊娠していることに気が付いて、こっそり村を出たのではないか。もし、何もかも承知の上で日女の役を引き受けたのだとしたら、村を出ることはなかっただろう。村に残って、『大神の子』を生んでいたはずだ……」
日美香は、これ以上達川の話を聞いているのが苦痛になってきた。
神事の名のもとに行われた、何やら忌まわしい事の結果として、自分がこの世に生を受けたのではないかという想像は、日美香の背筋を寒くした。
しかし、達川は暗い目をして、なおも憑《つ》かれたように話し続けた。
「これだけじゃない。あの村にはもっと恐ろしい秘密がある。もし、俺の推理が正しければ、あそこでは、今もなおそれが続けられているはずだ……」
達川はそんなことを言い出した。
「それ……って?」
日美香はもう聞きたくないという気持ちとは裏腹についそう聞き返してしまった。
「贄《にえ》の儀式だよ」
達川は言った。
贄の儀式……。
日美香は自分の耳を疑った。
「その本には、こうも書いてあった。古くは、祭りで生贄《いけにえ》の儀式が実際に行われたこともあったと。神官や巫女《みこ》が祭りの最後の日に神への生贄として虐殺《ぎやくさつ》されることがあったというのだ。
例えば、信州の諏訪大社だ。あそこの神主は大祝《おおほうり》と呼ばれて、幼童がつとめることになっているそうなのだが、この大祝が祭りの最後の日に殺されたというのだよ。
そして、これと同じことが、同じ信州の日の本神社の祭りでも行われていたのではないかと著者は書いている。
それが、七年に一度の大祭の最後を飾る「一夜日女《ひとよひるめ》の神事」ではないかというんだ。
この神事が、深夜、人目を避けるようにして密かに行われ、その神事の様を、神職につく者以外は絶対に見てはならないとされているのは、それがまさに、死の儀式に他ならないからだったというんだ。
むろん、著者は、こういったことはすべて昔の話にすぎないと断ってはいるが……。
しかし、本当に昔の話なのか。諏訪大社に関しては、確かに昔の話だろう。あそこは文字通りの大社だし、奇祭の御柱《おんばしら》祭りも有名だから、観光客も多い。人目に触れては困るようなことが神事として行われていたとしても、それは、まだ交通の便も悪く、かの地を訪れる人が少なかった昔の話にすぎないだろう。
でも、日の本村は違う。今なお、あそこの交通の便はいいとは言えないし、その存在さえあまり知られてはいないんだ。さっきも言ったように、古い祭りの形態を保ち続けるのは、あそこの環境なら可能なんだよ。
倉橋日登美の娘は、一夜日女をつとめた直後、病死したということだった。本当に病死だったのだろうか……?」
日美香ははっとした。
真鍋伊知郎から聞いた話を思い出したからだ。一夜日女の神事の様をどうしても写真に撮りたいと思った真鍋が、明け方近く、日の本神社で一夜日女を乗せた輿《こし》が戻ってくるのを待っていたときのことを……。
輿が空っぽのように見えたというのは……。
「この平成の世に、まさか生贄などと思うかもしれないが、そういう常識では考えられないことをやってのけるのがカルト教団というものなんだよ。何度も言うようだが、あそこは村全体がカルト教団なんだ。いわば大神教という邪教の信徒の集まりだ。医者も信者なら、偽の死亡届や診断書を書くくらい朝飯前さ。
それに、こう考えれば、なぜ、あの村で、日女《ひるめ》の地位があれほど高いのか、女神か何ぞのように村人から崇拝されているのか、分かるじゃないか。それは単に、日女が神を祀《まつ》る巫女だからというのではない。それだけの理由では、あれほどまでに崇拝はされないだろう。
日女が贄《にえ》だからだ。だからこそ、村人たちはあそこまで日女を敬い大切にするんだ。
もともと、神への贄というのは、それが動物であれ人間であれ、その部族にとって、より貴重なもの、より大切なものが選ばれるのだそうだ。
たとえば、動物でいえば、馬の例がある。今でも多くの神社で、神馬と呼ばれて馬の像なんかが境内に置いてあるところが多いだろう? 絵馬なんかもそうだ。あれも聞くところによると、昔の贄の儀式の名残りだそうだ。
昔は、雨乞いなどをするときに神への贄として、馬が殺されて捧《ささ》げられたらしい。古事記の中にも、須佐之男命が馬を逆はぎにして、天照大神のいる機織《はたお》り小屋に投げ入れたなどという話が出てくる。
それが、時代を経るうちに、動物を贄として殺すのは野蛮だということになって、生きた動物の代わりに像や絵を神社に納めるだけになったというのだ。
では、なぜ馬が贄になったのかというと、騎馬民族にとって、馬という動物は最も貴重で大切な存在だったからだというのだよ。そんな大切なものを殺して、あえて神に捧げるからこそ、時には神の怒りを和らげ、時には神の御加護を得ることができると考えられたというのだ。
人間の場合も同じだ。神官や巫女が贄として選ばれたのは、かれらがきわめて貴重な存在だからだ。祭政一致の時代には、神に仕える者がそのまま部族の王であり女王でもあったわけだからな。
貴重でないものは贄としての役目を果たさない。
日の本村で日女が大切にされるのは、まさにこの贄の論理に則《のつと》っているんだ。日ごろから日女を敬い大切にするのは、それほど大切なものを神に捧げるのだという村人の神への狡猾《こうかつ》なアピールもあるだろう。
さらに、こうした日女の犠牲があったればこそ、神の御加護が得られ、村の存続と平和が保たれているのだという、日女への感謝の念が、よりいっそう日女を敬い崇拝する結果にもなるというわけだ。
しかも、こう考えると、なぜ、未婚であるべき日女の妊娠や出産が、村人たちにとって祝い事になるほど喜ばしいことなのか、という理由も分かってくる。
それは、大神の妻たる日女の血統を絶やさないためというよりは、大神に捧げる贄の血統を絶やさないためだということが……。
あの村では、日女というのは、美しい家畜のような存在なんだ。囲いの中で大切に育てられ、繁殖させられ、そして、七年ごとに、その中から確実に神への供物として間引かれていく美しい家畜……」
「やめて!」
日美香は両耳に手をあて悲鳴のような声をあげた。
もう聞いていられなかった。
憑《つ》かれたようにしゃべっていた達川ははっと我にかえったような顔になった。
「……悪かった。言い過ぎたよ。あんたにも日女の血が流れているんだったな。つい忘れちまった」
「すべて……すべて、あなたの妄想にすぎないわ」
日美香は睨《にら》みつけるような目で達川を見ながら言い放った。
「編集長もそう言ったよ。ま、もっとも、やつにはここまでは話さなかったがね。馬鹿馬鹿しいが、なかなか面白い話だから、記事にするのは無理だが、いっそ、小説にでも仕立てたらどうだ、フィクションならどんな荒唐無稽《こうとうむけい》な絵空事でも書けるぞとぬかしやがった。げらげら笑いながらさ……」
「でも、残念ながら、これは俺《おれ》の妄想なんかじゃない。どんなに荒唐無稽に聞こえようとも、これは現実に起きたこと、いや、今もなお起きていることなんだ。そのことは、一度でもあの村に行ってみれば分かる。あの村を取りまく一種異様な雰囲気に実際に触れてみれば……。
だが、俺が恐れるのは……」
達川はそこまで言って、ふっと口をつぐんだ。凍りついたように宙を見つめる。その目に脅えのようなものが走った。
「これがもはや山奥の小さな村の中だけの話ではないということだ……」
「それはどういうこと……?」
日美香はぎょっとしたように達川の顔を見た。
「いや、たとえ山奥の小さな村の中の出来事にせよ、幼い少女たちが神事の名のもとに虐殺《ぎやくさつ》され続けてきたのだ。これだけでも立派な犯罪だ。かかわった者はすべて法で裁かれるべき第一級の凶悪殺人だよ。しかし、それでも、今までは、それは日の本村という小さな村の中でのみ行われてきたことにすぎなかった。でも、これからは……」
「これからは……何だっていうんです?」
「早ければ、この秋にでも、現内閣は総辞職して、総選挙が行われるかもしれない。そうなったら、次の総理は新庄だという声がある。次期総理との呼び声も高い現大蔵大臣が、あの村の出身で、しかも、あの村を牛耳っている神家の一員なんだ。これは何を意味していると思う?」
「…………」
「今までは、その存在さえも殆《ほとん》ど知られていなかった小さな村でひそかに行われていたことがいつか国政レベルで行われることになるかもしれないってことなんだ」
「まさか……」
日美香は思わず笑い出しそうになった。達川の考えはあまりにも飛躍しすぎている。
しかし、口元に浮かびかけた笑いは、達川の食い入るような真剣な目の前で、こわばり消えてしまった。
「これは笑い事じゃない。そもそも、日の本村の『日の本』という名前には、日本という意味が込められているんだそうだ。聞くところによると、あの村を最初に作ったのは、蘇我氏に滅ぼされた物部氏の残党だという。物部氏といえば、その昔、軍事と祭事の両面でこの国を支配していた部族だ。あの村の連中は、その物部氏の子孫なんだ。そして、村の連中はそのことを異様なほど誇りにしている。特に、物部の直系である神家の連中は……。
新庄貴明はその神家の長男なんだ。やつの、あの颯爽《さつそう》としたイメージの裏には全く違ったもう一つの顔がある。ぎらつくような野心家の顔だ。ただ、その野心というのは、単に一人の男が立身出世を願うような個人的レベルのものではない。何か、個人的利益や欲望を越えた、遠大な目的をあの男はもっているように見える。
それは、たぶん……」
「待って。あなたの言っていることはおかしいわ」
日美香が鋭く言った。
「おかしい? 何が?」
達川は憮然《ぶぜん》とした表情で見返した。
「新庄貴明が政界入りしたのは今の夫人と結婚するためだったのよ。大学時代に知り合った今の夫人が大物政治家の一人娘だったために、仕方なく……」
日美香は、いつだったか、美容院で読んだ週刊誌に載っていたインタビュー記事のことを思い出して、そう言った。
そこで、新庄は、インタビュアーである有名女性キャスターに、「政治家を志したきっかけは?」と聞かれ、「自分は政治家になる気は毛頭なかった。たまたま大学時代に知り合った今の妻が時の大蔵大臣、新庄信人の一人娘だったせいで、卒業後は政界入りすることを結婚の条件として舅《しゆうと》から突き付けられ、それで仕方なくこの世界に入った」と語っていたのである。
そのとき、保守派の政治家にしては、さわやかな若々しいイメージのある新庄貴明らしい、ほほえましいエピソードだなと、好感をもって読んだものだった。
「現夫人との愛を貫くために仕方なく政界入りしたってか。は! いかにも女性読者が喜びそうな話だが、あんなのは大嘘《おおうそ》もいいところだ」
達川は吐き捨てるように言った。
「え……」
「俺は、やつの身辺を洗っていたときに、やつの高校の同級生だったという男に会って話を聞いたことがあるんだ。やつは高校のときから既に政治家になると公言していたそうだよ。しかも、現夫人との出会いもおそらく偶然じゃない。新庄信人には一人娘しかいないことを前|以《もつ》て調べていたんだ。なぜなら、その同級生の話によれば、新庄は最初東大をめざしていたというんだ。それが、どういうわけか、入試の直前になってとりやめ、何を思ったのか、単身渡米してしまったのだという。帰ってきたのは二年後だった。そして、大学を受け直した。東大じゃない。慶大だった。その年の慶大の入学者の中には、新庄美里がいた。そして、やつは、彼女と同じテニス同好会に入った。
これが偶然か? 冗談じゃない。すべて前以て調べてあったのさ。新庄信人の一人娘が慶応の幼稚部からエスカレーター式に大学まで進むことも、自分より二歳年下であることも。
やつがこんなことまでして、新庄美里に近づいたのは、むろん恋愛感情からなんかじゃない。彼女が保守派の最大派閥を率いる大物政治家の一人娘だったからだ。
そもそも、俺が新庄の女性関係を洗ってみようと思いついたのも、この話を聞いたからさ。これが本当なら、熱愛の末に学生結婚で結ばれた政界きってのおしどり夫婦なんて評判も怪しいものだと思ったからだ。もっとも、そっちの方面は、俺の調べた限りでは、まったくクリーンといってもよかったんだが……。
そのかわり、とんでもないものを引き当ててしまった。ありふれた女性スキャンダルなんてふっとんでしまうほどとんでもないものを……」
達川は右手の親指の爪《つめ》を噛《か》みながら、呟くように言った。
「もちろん、たとえ、このまま新庄が総理大臣になったとしても、彼一人ではたいしたことはできないだろう。すぐに何かが変わるというわけでもあるまい。総理大臣なんていっても、たいした権力をもてるわけじゃない。天皇同様、国の顔ってだけにすぎないからな。だが、何かが大きく変わるきっかけのようなものを造りだすことはできる。
やつには、カリスマがある。とりわけ、若者層への影響力には、そら恐ろしいほどのものがある。次期総理大臣には誰になってほしいか、というアンケートを街頭でしたら、若者層の殆《ほとん》どが新庄の名前を出したという。これはある意味で当然だろう。若者に限らず、日本国民の殆どが、片足を半分|棺桶《かんおけ》に突っ込んだような爺《じじい》政治家や、自分の選挙区の利益しか頭にないような田舎議員どもには心底うんざりしていたはずだからな。
そんな掃きだめみたいな政界に、まさに一羽の鶴、いや、俺《おれ》に言わせれば、一羽の鷹のように舞い降りてきたのが、あの男だったんだから。
今まで政治離れの激しかった若年層に、多少とも政治の世界に興味をもたせたのは、やつの大きな功績といってもいい。
しかし、逆をいえば、これから育って行く世代に多大な影響力があるというのは、非常に恐ろしいことだ。それも、政治家というより、まるで新興宗教の教祖のような魅力と影響力をもつということは……。
それに、奴自身も、若者層にはえらく興味と期待をもっているようで、何年も前から、『新庄塾』なる塾を自宅に作って、将来政治家を志す優秀な学生ばかりを集めて面倒を見ているという話だ。それが今ではかなり大きな組織になっていて、今や、塾長をつとめているのは、聞くところによると、武彦とかいう、やつの弟らしい。
その集まりで、やつは、軍事と宗教に関して、かなり異様で過激な思想を塾生たちの未熟な頭に吹き込んでいるらしいという話もちらと聞いたことがある。
今の若者は理屈だけは一人前だが、権威に対する免疫力がなく、そのせいで批判力もない。強い発言をする人間や強い個性をもった人間に、たやすくなびき心酔しやすい。これはどんな一流大学に通う優秀といわれる学生でも例外じゃないんだ。いや、むしろ、優秀といわれる学生の方がこういう傾向は強いかもしれない。彼らは大人をなめきって育ってきた。でも、なめきっているわりには、自分たちの精神構造の土台はきわめて脆《もろ》い。だから、少しでも尊敬できるような大人に出会うと、それがたやすく崇拝の域にまで達してしまう。
あの男は危険だ。魅力がありすぎる。日本国民が潜在的に一国のリーダーとして望んでいるすべての条件を完璧《かんぺき》に備えている。だからこそ危険なんだよ。できたてのピザどころか、毒の入ったうまそうな御馳走《ごちそう》みたいなもんだ。
最初、俺は、単に今をときめく時の人ということだけで、新庄のことを調べはじめたんだ。時の人の女性スキャンダルの一つでもたたき出せば、それだけで読者は飛びつくからな。最初はその程度の理由だった。でも、今は違う。
あいつを総理にしてはならない。あの男にこの国を預けたら、そのうち、とんでもないことになる。そんな気がしてきた。
あの男が胸にどんな恐ろしい野望を秘めているかは知らないが、今ならその芽を摘むことができる。それには、二十年前の一|蕎麦《そば》屋で起きた殺人事件の真相と、あいつの故郷である日の本村で神事の名のもとに行われている少女虐殺の実態を世間に公表する必要がある。俺が今まで調べたことは、是が非でも、活字にして人の目に触れさせなければならないんだ。
でも、確かにこのままでは確たる証拠が少なすぎる。どれも、いわば状況証拠ばかりだ。ただ、これ以上のことは俺には調べられそうもない。できれば、もう一度日の本村に行って調べたいことがあるのだが……」
達川は大きなため息をついた。
「しかし、それも無理だ。俺はあそこの連中にはすっかり警戒されてしまったようだから、誰も何も話してくれないだろう。おまけに、唯一の頼みの綱だった倉橋日登美が既にこの世の人間ではないとなれば、もはやお手上げというわけさ。
あと、俺にできることといえば、インターネットで新庄に関する怪文書をばらまくことくらいかな。もっとも、いざとなったら、それもやるつもりだ。何もしないよりはましだからな……」
達川はそう言って、にやりと不気味な笑いを口元に浮かべた。
10
その夜、シャワーを浴びていると、玄関のインターホンが鳴った。時刻は午後九時を少し回ったところだった。
日美香は、バスタオルを身体に巻き付けた格好で、すぐに浴室を出ると、インターホンの受話器を取った。
訪問者は新田佑介だった。
インターホン越しに、「ちょっと渡したいものがあって……」と、佑介は、ややためらいがちに言ったあと、日美香が黙っていると、「あ、これ、渡したら、すぐに帰るよ」と、いくぶん慌てたように付け加えた。
この前のことをまだ気にしているような声だった。
「ちょっと待って」
日美香はそう言って受話器を置くと、素早く着替えてから、佑介を中に入れた。
佑介はなんとなく気まずそうな顔つきで入ってきた。
「渡したいものって?」
そう聞くと、彼は、背広の内ポケットから一枚の名刺を取り出した。
「一度訪ねてみたらいいと思ってさ……」
日美香は手渡された名刺に視線を落としてから、不思議そうな顔で佑介を見た。
「なに、これ?」
「叔父なんだ。品川で美容整形クリニックを経営している」
佑介は言った。
「きみのこと話したら、一度訪ねて来いって。患部を見てみないとはっきりしたことは言えないが、大人の手のひらくらいの大きさなら、奇麗に跡形もなく取ることは不可能じゃないと言ってた」
「……なんの話?」
日美香の顔が強《こわ》ばり、声も冷ややかになった。
「なんの話って……あの、痣《あざ》のことだよ」
佑介はいいにくそうに言った。
「ずっと気にしてたんだろう? だから、今まで……」
佑介はそう言いかけて黙った。
「心配しなくても大丈夫だよ。叔父はかなり腕の良い美容整形外科医なんだ。もっと酷《ひど》い火傷《やけど》の跡とかを奇麗に治したこともあるそうだ。麻酔かけるから痛みもまるでないというし……」
「あの痣を手術で取れというの?」
日美香は押し殺したような低い声で聞いた。「いや、そうじゃない。別に取れと言ってるわけじゃないよ」
佑介は慌てたように言った。
「ただ、その、きみが気にしてるようだから……。あ、俺は別に気にしてないよ。俺はね。でも……ほら、そういえば、夏でもきみはあまり襟《えり》ぐりの開いた服とか着たことなかったなあと思ってさ」
しどろもどろに、そう言う佑介の顔を、日美香はじっと見つめていた。
「それから、費用のことなら心配しなくてもいい。俺の婚約者だと話したら、そういうことなら、少し早い結婚祝いにさせてもらうって、叔父貴が言ってくれたし」
「ありがとう。考えておくわ……」
日美香が佑介の顔から目をそむけるようにして、そう言うと、佑介は幾分ほっとしたような顔になって、話題を変えた。
「で、どうだった? 達川とかいう記者には会えたのか」
「ええ……」
日美香は短く答えた。
「なんで倉橋日登美さんのことを調べていたんだって?」
「それは……」
日美香は少し迷ったあとで、昭和五十二年の夏に起きた殺人事件の話を佑介にした。
「殺人って……。本当なのか?」
佑介はさすがに驚いたような表情になった。「ええ。当時の新聞記事のコピーも見せて貰《もら》ったから……」
「ふーん。でも、その事件はとっくに解決したんだろう? それをどうして今頃になって調べてるんだ?」
佑介は腑《ふ》に落ちないという顔で言った。
「さあ。それ以上のことは話してくれなかったわ……」
日美香はそうお茶を濁した。新庄貴明のことも、日の本村に関する達川の疑惑についても、なぜか、佑介に話す気にはなれなかった。
達川の話があまりにも現実離れしているせいもあったが、それでも、今までだったら、達川から聞いたことを洗いざらい佑介に話していたかもしれない。
しかし、あの痣を見られてから、日美香の中で、佑介に対する気持ちが微妙に変化していた。何かが冷めてしまっていた。
「それに、達川という人、今は出版社もやめてフリーになっているみたいだから……」
フリーというと聞こえはいいが、今の達川の状態は、失業者のそれと言った方が近いようだった。
そのせいかどうかは知らないが、あのあと、ふと彼が漏らした話によれば、彼には妻と五歳になる子供がいたらしいのだが、二カ月前に離婚して、妻は子供を連れて実家に戻ってしまったということだった。
「どちらにしても、詳しいことは、日の本村に行かなければ分からないみたい」
そう言うと、佑介はため息混じりの声で、「やっぱり行くつもりなのか」と聞いた。
「できれば、今週末にでも……」
日美香がそう答えると、佑介は憂鬱《ゆううつ》そうな顔で黙ってしまった。
二人の間で会話が途切れ、気まずい雰囲気が続いた。
いつもなら、こんな雰囲気になると、日美香の方が多少無理をしてでも、話題を見つけてしゃべるのだが、今日はそんな気にもならなかった。
黙り続けていると、佑介はいたたまれなくなったのか、「じゃ、俺、これで……」と言って、立ち上がった。
日美香はなんとなくほっとした。
恋人が帰ろうとしているのに、がっかりするどころか、ほっとしている自分にうしろめたいようなものを感じながら。
「日美ちゃん……」
玄関で靴をはいていた佑介が突然振り向いた。
「何か分かったら、全部、俺に話してくれよ。何聞いても驚かないから。何があったとしても、俺の気持ちは絶対に変わらないから」
佑介はそう言うと、日美香の身体を引き寄せ、唇を重ねようとした。
日美香は抵抗はしなかったが、とっさに顔をそむけて、佑介の唇が自分の唇に重なるのを避けた。それは半ば無意識にしたことだった。佑介の唇は的をはずれて、日美香の頬《ほお》に軽く触れただけだった。
佑介が帰ったあと、日美香は、テーブルの上に置かれていた名刺を手に取った。しばらく、それを見つめていたが、いきなりそれを二つに引き裂いた。さらに四つに引き裂き、粉々に引き裂いた。
そうしなければ、今の自分の感情、ふつふつと煮えたぎるような、この得体の知れない怒りが鎮まらないような気がしたからだった。
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第四章
五月十五日、金曜日。
長野駅の改札を出た日美香は、駅近くのバスターミナルに向かうべく、長い階段を足早に駆け降りていた。
長野に来たのはこれで二度めだった。
一度めは、高校二年の夏休みに、友人数人と軽井沢に泊まりがけで遊びに行ったときだった。帰りに、少し足を伸ばして長野にもたち寄り、善光寺《ぜんこうじ》参りをしたことがあった。
その当時はまだ長野新幹線は開通しておらず、長野駅も仏殿のような屋根をしたもっと鄙《ひな》びた感じの駅だった。
しかし、今では、新幹線の開通に伴ってか、ずいぶん現代的で華やかな駅に造り変えられていた。
達川正輝から聞いた話では、日の本村に行くには、駅近くのバスターミナルから、「白玉温泉行き」というバスに乗って、終点で降りればいいということだった。
このバスは本数が少なく、日美香が乗ろうとしていたのは、午後三時ジャストに出発する最終便だった。これを逃せば、タクシーを拾うか、市内に一泊するしかなくなってしまう。
バスターミナルに着いたとき、「白玉温泉行き」バスは、既にそこに停まっており、乗客も数人座っていた。いずれも地元の人のようだった。
日美香が窓際の席に座ると、それを確認するようにして、運転手はバスを出した。
一時間も走ると、窓から見える景色は藍色《あいいろ》の山ばかりになった。数人乗っていた乗客も、停留所ごとに櫛《くし》の歯が抜けるように降りて行き、今では、四十がらみの女性しか残っていなかった。
日美香と通路を挟んで隣合うように座っていたこの中年女性は、地元の人間しか利用しないようなバスに、いかにも観光客といった身なりの若い女が一人で乗っていることが珍しいのか、しきりに日美香のことを気にして、ちらちらとこちらを見ていた。
日美香は、そんな中年女の無遠慮な視線を全身で感じながらも、それを無視して、外の景色を眺める振りをしながら、頭の中では、先日の達川の話を思い出していた。
達川の話を全て鵜呑《うの》みにしたわけではなかった。達川自身も言っていたように、この平成の世に、いくら信州の山奥の村とはいえ、生贄《いけにえ》の儀式が密《ひそ》かに行われているとか、昭和五十二年の夏に実母一家を襲った事件が、実母が日の本村の出身であったことに端を発した計画殺人であったとか、さらに、その犯罪に、現大蔵大臣がかかわっていたなど、信じろという方が土台無理な話である。
ただ、だからといって、達川の推理を荒唐無稽《こうとうむけい》と一笑に付してしまうこともできなかった。真鍋伊知郎の話と照らしあわせても、確かに、奇妙な点はいくつかある。あの村には何かある。達川の推理ほどではないにしても、何か秘密のようなものが……。そんな気がしてならなかった。
しかし、日美香が一番知りたかったのは、村の秘密というより、自分の父が誰であるのか、そして、なぜ倉橋日登美がたった半年足らずの滞在で、逃げるように村を出てしまったのか、その理由だった。
達川と別れるとき、近いうちに日の本村に行くつもりだというと、達川は、「気をつけろ」と言った。
「たとえ、倉橋日登美の娘だということを隠していても、あんたの顔を見れば、倉橋日登美を知っている人ならすぐにピンとくる。あんたもあの村の連中から見れば、日女《ひるめ》なんだ。日女の娘なんだからな。それを忘れるな。あんたの存在を知れば、倉橋日登美のときと同じように、あんたを村に取り戻そうとするだろう。そうなれば、二十年前と同じ悲劇が起こりかねない……」
達川はそう忠告したのである。
しかし、今の日美香は、養母を失って天涯孤独の身になってしまっている。倉橋日登美のように家族がいるわけではない。そのことを言うと、達川は、「あんた、恋人はいないのか?」と聞いた。
日美香が、「婚約した人がいる」と答えると、
「その男のことは村の連中には決して話すな。もし話せば……分かっているだろう?」
達川は真剣な目でそう言った。
ようやくバスが終点の停留所に着いた頃には、あたりには既に夕暮れの気配が迫っていた。
バスは、日美香ともう一人の中年女性を降ろすと、元来た道を砂煙をたてて戻って行った。
「……日の本寺に行くにはこの道でいいんでしょうか」
日美香は、先に降りた中年女に声をかけた。
達川の話では、バス停から続く一本道をまっすぐ行けば、そのうち鳥居が見えてくる、その鳥居をくぐり、参道をしばらく行って、三叉路で右手に曲がれば日の本寺だと教えられていたが、一応、念のために地元の人に聞いておこうと思ったのである。
それに、この中年女がバスを降りたあとも、日美香の存在がよほど気になるらしく、相変わらずちらちらと視線を投げかけてくるので、どうも落ち着かず、いっそ話しかけてしまえと思ったのだ。
「お寺さんなら……」
女は、身振りをまじえて寺への道を説明してくれた。その間も、日美香の顔をじっと食い入るように見ていた。
日美香は礼を言うと、女よりも先にたって足早に歩き出した。背中に女の視線をなんとなく感じながら。
両脇《りようわき》に背の高い草の生い茂った田舎道をしばらく歩いて行くと、やがて、古びた両部鳥居が見えてきた。
その向こうには、見上げるような杉の参道が続いている。
鳥居の前に立つと、奇妙な感覚に襲われた。
既視感、とでもいうのだろうか。これと同じ風景の中に自分は前にもいたことがある。
そんなめまいにも似た感覚だった。
初めて見る風景のはずなのに、妙に懐かしかった。
まるで大蛇が巻き付いているように見える異様な形の大しめ縄を張った、半ば朽ちかけた鳥居をくぐり、杉の参道を歩いて行くと、三つ叉《また》の道に出た。
そこを右に曲がると、日の本寺に行き着くらしい。
日の本寺には前日に、電話を入れて、宿泊の予約はしてあった。電話番号も達川から聞いておいたのである。むろん、「葛原日美香」と名乗っただけで、倉橋日登美の娘であることは打ち明けなかった。
ようやく寺の門らしきものが見えてきた。それをくぐり、境内に入ると、藍色《あいいろ》の作務衣《さむえ》を着た、八十年配の老|僧侶《そうりよ》が庭木の手入れをしていた。
日美香に気が付くと、庭バサミをもつ手を止め、老人は、何度も目をしばたたかせ、自分の目を疑うような顔をした。
「ご住職さんですか」
日美香がにこやかに笑みをたたえて、そう問いかけると、老人はあっけに取られたような表情のまま、頷《うなず》いた。
日美香が名乗ると、老人は、「ああ、あなたが……」と口の中でもごもご言った。
むろん、住職が何に驚いているのか、日美香には、十分すぎるほど分かっていた。
住職はややうろたえたような様子を見せながらも、今夜の宿泊場所である寺の空き室に日美香を案内した。
それは、四畳半ほどの狭い和室だった。
ボストンバッグをおろして、窓から見える庭をぼんやりと見ていると、老女が茶菓の盆を持って入ってきた。
住職の妻と名乗る老女もまた、日美香を見ると、驚いたような表情を見せた。しかし、観光客相手の世間話めいたことしか口にはせず、宿帳のようなものに、住所と名前を書くことを求められた。
やがて、この老女が出て行くと、すれ違いに、さきほどの住職がまた入ってきた。
あらためて挨拶してから、日美香は、ボストンバッグの中から、持参してきた真鍋伊知郎の本を取り出して、住職の前に置いた。
「この本をご存じですよね」
本を手に取り、中を開いていた住職は、弾かれたように顔をあげた。その深い皺《しわ》に刻まれた顔には、ひどくびっくりしたような表情が張り付いていた。
「ど、どうして、これを……」
「実は……」
日美香は、その本が自分の手に渡るまでのいきさつをかいつまんで話した。
「…………」
話を聞き終わったあとも、住職はしばらく声が出ないという顔つきで、日美香の顔を穴があくほど見つめていた。
「……それでは、あなたが日登美様の……?」
ようやくそれだけ言った。
「娘です」
日美香は、住職の目をまっすぐ見つめて言った。
倉橋日登美とのつながりを隠すつもりはなかった。たとえ隠したところで、これほど似ていれば、隠し通せるはずもないだろう。それに、全くの観光客として接するよりも、倉橋日登美の娘として接した方が、村の人々が心を開いて話してくれるようにも思えたからだ。
「……そうだったんですか。日登美様はここを出たあと……」
住職は、一冊の自費出版本が取り持つ奇縁ともいうべきものに感じ入ったのか、手の中にある古びた本を愛《いと》しそうに撫《な》でさすりながら、意味不明の独り言をつぶやいていた。
「母が村を出る直前にこのお寺に訪ねてきたということですが……」
日美香がそう言うと、住職は大きく頷いた。
「そうでした。二十年もたったのに、あの日のことは昨日のことのように覚えていますよ。日登美様は私の打つ蕎麦《そば》をたいそうお気に召してくれて、昼時にはよくみえました。あの日もいつもと同じように……」
蕎麦を食べにきた倉橋日登美に、ちょうど真鍋から届いたばかりだった本を渡したのだという。
そのときの日登美の様子はふだんと全く変わりなく、帰りぎわも、「また明日」と言い残して出て行ったというのである。
しかし、その明日は来なかった。その夜、宮司宅から日登美がまだ帰ってこないという連絡を受けて、はじめて、住職は彼女があのまま失踪《しつそう》したことを知ったのだという。
「……さきほど、あなたが境内に入ってこられたときは、一瞬、我が目を疑いましたよ。まるで、二十年の歳月を飛び越えて、日登美様が若い頃のままのお姿で戻ってこられたのではないかと……。思えば、不思議なご縁でございます。日登美様がはじめてこの寺にみえたときも、わたしはこれと全く同じ経験をしたのですからなあ……」
住職はしみじみとした声で言った。
「同じ経験といいますと……?」
「あの方のお母様と間違えそうになったのですよ。緋佐子様とおっしゃって……」
住職は、日登美の母にあたる緋佐子もまた、若い頃に失踪するような形で村を出た話をしてくれた。
緋佐子もまた蕎麦好きで、昼にはきまって日の本寺を訪れていたという。そして、失踪する直前に、やはりこの寺を訪れていたらしい。奇しくも、倉橋日登美は、まるで実母の運命をなぞるように同じことをしたということだった。
「……母が村を出た理由をご存じありませんか。まさか、祖母のときのように、誰か男性と……?」
日美香はそう聞いてみた。
「いやいや、日登美様に限ってはそんなことはありません。緋佐子様のときと違って、日登美様が村を出た理由はわたしにもさっぱり分からないのです……」
住職はそう答えたが、口調には、なんとなく奥歯にものがはさまったような歯切れの悪さがあった。
「母には、春菜という名前の幼い娘がいたと聞きましたが……?」
日登美が聞くと、住職の顔ににわかに動揺の色が見えた。
「春菜様なら……亡くなりました」
ややためらったあと、住職はそう答えた。これも真鍋や達川から聞いた話と同じだった。二十年前、一夜日女《ひとよひるめ》をつとめたあと、潔斎の期間に、ふとした風邪《かぜ》をこじらせて、あっけなく他界したのだという。
「もしかしたら、日登美様が村を出られた理由は、春菜様を亡くされたことにあったのかもしれませんな。しばらくは、お食事も喉《のど》に通らないほど沈んでおられたようですから……」
住職は沈鬱《ちんうつ》な面持ちでそう付け加えた。
「でも、村を出たとき、母のおなかの中には既にわたしがいたはずです。母もそのことに気づいていたはずです。それなのにどうして、親戚《しんせき》のいるこの村ではなく、頼る者もいない東京に出て、わたしを生もうとしたのでしょうか?」
日美香は詰め寄るような口調で言った。目の前の老住職が必死で何かを隠しているような気がしてならなかった。
「いや、それは、なんとも……」
住職は返答に窮したように黙ってしまった。
「ひょっとして、母が村を出たのは、わたしの父に何か関係があるのではありませんか」
日美香はさらに聞いた。
「あなたのお父上……?」
住職の皺に埋まった目に奇妙な光りが宿った。
「聞くところによると、この村では、日女は、その年の大神祭で三人衆をつとめた青年の中からしか、恋愛相手を選ぶことができないそうですね? もしかして、母はその三人衆以外の男性と……」
そう言いかけると、住職は、まるめた頭を横に振り、きっぱりと言った。
「いいえ、それはございません」
「それなら、わたしの父は、その三人衆の中にいるということですね」
日美香が畳み込むように言うと、住職は、しばらく返事をせず、何か思案するように、膝《ひざ》の上に置いた自分の手をじっと見ていたが、やがて顔をあげ、
「お父上のことがそんなにお知りになりたいのですか」と聞いた。
日美香は、一瞬、え? と思った。
何か教えてくれるというのだろうか。
「ええ、知りたいです。そのためにこの村に来たのですから」
そう答えると、住職はおもむろに立ち上がった。
「それでは、こちらに……」
ついてこいという身振りをして、先に立って部屋を出て行った。
日美香も慌てて立ち上がると、住職の後を追った。
住職は履物をはいて、いったん外に出ると、境内を横切り、本堂の脇《わき》にある古びたお堂まで日美香を案内した。
そして、お堂の観音扉の錠前をはずすと、その扉を音をたてて左右に開いた。
日美香は、住職が何をするつもりなのかと、息を詰めるようにして、住職の背後に立っていた。
住職は、お堂の中に入ると、祭壇の灯明《とうみよう》に火を入れた。
そして、日美香の方を振り向くと、蝋燭《ろうそく》の明かりに照らし出されたお堂の奥の方を片手で示しながら、恭しく、こう言った。
「あなたのお父上はここにおられます……」
日美香は声もなく、それを見上げた。
それは、上半身は単眼の武人、下半身は三重にとぐろを巻く大蛇の形をした人面蛇身の像だった。
これが、この村で祀《まつ》られているという大蛇神……。
真鍋の本を読んで、この大蛇神についての知識はそれなりに持っていたが、青銅の像にすぎないとはいえ、こうして目の当たりにしてみると、さすがにその猛々《たけだけ》しく異様な姿に息を呑《の》まずにはいられなかった。
「日女様のお生みになられたお子は、すべて、この大神のお子なのです……」
住職は重々しい声でそう言った。
そういうことか……。
日美香は、心の中で苦々しく思った。
さきほど、住職が突然、「父のことがそんなに知りたいか」と言い出したときには、何か教えてくれるのかとつい期待してしまったが、どうやら、住職にはその気はないようだった。
大神の像を見せることで、日美香に向かって、暗に、「これ以上の詮索《せんさく》をするな」と警告しているようにも見えた。
住職はこの像に纏《まつ》わる話をしてくれた。
古くから秘仏とされ、神家の血筋の者しか、参拝は許されないのだという。
そして、なぜ秘仏となったのか、その理由も……。
おそらく、真鍋や達川が寺を訪れたときには、この像は見せてもらえなかったのだろう。真鍋の本には、この像のことは全く触れられていなかった。
日美香には見せてくれたところをみると、少なくとも、住職は、日美香を神家の血筋と認めたことになる。
「あの像は……?」
お堂の暗さに幾分目が慣れた頃、日美香は大神像の背後にひっそりと佇《たたず》む女性像に気が付いた。
女性というよりも、まだ幼い少女の像のようだった。
住職は、あれは一夜日女の像だと言った。
「そういえば……一夜日女の神事というのは、一夜日女に選ばれた少女を乗せた輿《こし》を神官がかついで、深夜、村中を練り歩くのだと、真鍋さんの本には書いてありましたが、輿に乗せた一夜日女はどこで降ろすのですか」
日美香は、気になっていたことを尋ねてみた。
「お社でございますよ。輿はお社から出発して、お社に戻ってくるのです」
住職はそう答えた。
「それでは、一夜日女はお社に戻って輿から降ろされるのですね?」
日美香が確認するように言うと、住職は、一瞬黙り、しばしの沈黙のあと、「……さようでございます」とだけ答えた。
妙だ。
日美香は、住職の顔から目を離さずに思った。やはり、真鍋伊知郎の聞き違いでも勘違いでもなかったのだ。輿は社に戻ってから一夜日女を降ろすのだという。
それならば、なぜ……。
あの日、社で待っていた真鍋の目に、神官たちがかついでいた輿が空っぽに見えたのだろう……。
それとも、あの日に限って、一夜日女はどこか別のところで降ろされたのだろうか……。
そのことを住職に聞きただしたいと思ったが、それには、あの日、真鍋が見てはならないという神事の様をこっそり写真に撮ろうとしていたことも話さなければならない。
それでは、真鍋に迷惑がかかるかもしれない。それに、このいかにも老獪《ろうかい》そうな住職が、そうおいそれと口を割るようにも思えなかった。
のらりくらりとかわされるのがおちだろう。
日美香は、この件に関しては、これ以上の追及を今ここで住職相手にしても無駄だと咄嗟《とつさ》に判断した。
その夜、寺で出された精進料理の夕食を済ませ、宿泊用の部屋に戻ってくると、まもなくして、住職が足早にやってきた。
「実は……」
住職は、今、宮司宅に電話をして日美香のことを話したら、「そういうことなら、ぜひこちらにお泊まり戴《いただ》きたい」と宮司が言っているというのである。しかも、すぐに、迎えの者をよこすという。
この申し出は、日美香にとっては願ってもないことだった。現在の宮司は、日美香にとっては伯父にあたる人だと聞いていたし、宮司宅には明日にでも訪ねてみようと思っていたのである。
二十分ほどすると、白衣に浅葱《あさぎ》の袴《はかま》姿の青年が迎えにきた。年の頃は、二十歳を少し出たくらいで、目を見張るような美青年だった。
青年は、神郁馬と名乗った。
宮司の弟だという。
老住職夫妻に玄関まで見送られ、日美香は寺をあとにした。
参道には石の灯籠《とうろう》が等間隔に並んでいたが、火は灯《とも》されておらず、あたりは墨汁を隈無《くまな》く流したような夜の闇《やみ》にとざされている。
神郁馬は、片手に日美香のボストンバッグを提げ、もう一方の手には懐中電灯を持って、それで足元を照らしながら歩いた。
ひとなつっこい性格らしく、その上、日美香と歳《とし》が近いという気安さもあってか、郁馬はすぐに親しげに話しかけてきた。
倉橋日登美が村に帰ってきたときは、彼はまだ三つかそこらの幼児だったのだが、日登美のことはおぼろげに覚えているという。
姉のように優しくしてもらったから、翌年の春、日登美が突然村からいなくなったときには、子供心にも悲しい思いがしたとなつかしそうに語った。
日美香は春菜のことを聞いてみた。
春菜も当時三歳だったはずで、郁馬とは同い年である。一緒に遊んだことがあったかもしれないと思ったからだ。
しかし、春菜の名前を出すと、それまでよく喋っていた郁馬がふいに黙りこんでしまった。
ちらとその顔を見ると、うつむいて足元を見ている、郁馬の白く整った横顔には、何か考え込むような表情が浮かんでいた。
「春菜様とは……」
郁馬は重い口を無理に開くように言った。
同い年ということもあって、すぐに仲良くなったが、一緒に遊んだりしたのはほんの短い間で、春菜が一夜日女に決まったあとは、今の宮司である次兄から、気軽に接することも口をきくことも禁じられてしまったのだという。
それゆえ、同じ屋根の下に住みながら、遠くから眺めるような存在になってしまったのだと郁馬は言った。
そして、祭りのあとは、潔斎という風習にしたがって、春菜は大日女のもとに預けられ、その期間が終わらぬうちに病死してしまったということだった。
しかも、潔斎の期間中に亡くなったということで、春菜の亡骸《なきがら》は神家に戻ってくることもなく、大日女たちの手で荼毘《だび》にふされたのだという。
「それでは……母は姉の死に目には会えなかったということですか」
日美香は驚いて聞き返した。
幼い娘が死んだというのに、母親がその亡骸に会うことができなかったというのだろうか……。
「僕は小さかったので、当時のことはよく覚えてはいないのですが、たぶん、面会は許されなかったでしょう。潔斎の期間中は、たとえ肉親であっても会ってはならないことになっているからです。何があろうと……」
郁馬はやや沈んだ声でそう答えた。
おかしい。
日美香はふと疑問に思った。
それは本当に風習にすぎないのだろうか。
それとも、幼女の遺体をその母親に見せられないような理由でもあったのではないだろうか……。
「姉が村に来てまもないのに、一夜日女《ひとよひるめ》に決まったのは、何か特別な事情があったと聞いてますが……?」
日美香がそう言うと、郁馬は、この話題はあまり気が進まないという顔つきで、
「それは、僕もあとから聞かされた話ですが……」
と前置きして、当時の事情を話してくれた。
一夜日女に決まっていた若日女に俄《にわか》の障りが生じて、急遽《きゆうきよ》、春菜に白羽の矢がたったということだった。
「俄の障りというのは……?」
そう聞くと、郁馬は、
「一夜日女は、まだ経事のない女児、つまりまだ初潮を迎えていない女児でなければならないという決まりがあるのです。それが……」
祭りの直前になって、その年の一夜日女に決まっていた若日女が初潮を迎えてしまったのだという。
「あの年は、色々な意味で村にとっては大変な年だったようです。いくら日女の血が流れているといっても、この村で育ったわけではない日登美様や春菜様が、神迎えの神事や一夜日女の神事をいきなりつとめるということは、ふつうならば考えられないことなのですが、あの年は、たまたま幾つかの障害が重なってしまって……」
「障害が重なったって、他にも何かあったんですか」
日美香が聞くと、
「神迎えの神事は、本当は、僕の一番上の姉がつとめることになっていたのです。でも、この姉が……」
郁馬は、そのときの話をしてくれた。
「それで、一時は祭りをとりやめる話も出ていたそうです。しかし、七年に一度の大祭ということもあって、それもできず……。そんなときに、偶然にも、東京に出ていた一番上の兄が、雑誌で日登美様のことを知ったんです。雑誌の名店紹介というコーナーに、日登美様の写真が載っていて……」
郁馬はそう説明した。
「一番上の兄って、新庄貴明さんですね、大蔵大臣の」
日美香がそう言うと、郁馬は弾かれたように連れの方を見た。
「ご存じだったんですか」
「ええ、まあ……」
一瞬、郁馬の顔に、しまったというような表情が浮かんだように見えた。
やがて、参道の向こうに、窓に明かりのついた、重厚な構えの日本家屋が見えてきた。暗くてよくは分からないが、かなり古い造りのようだった。
郁馬が玄関の戸を開けて、奥に声をかけると、すぐに、四十がらみの割烹着《かつぽうぎ》姿の女性が出てきた。
その女性を見て、日美香はあっと思った。
昼間、同じバスに乗っていた、あの中年女であることに気が付いたからだった。
女は、宮司の妻の神美奈代と名乗った。
宮司の妻?
ああ、それで……。
日美香は、なぜ、この女性が自分のことを妙に気にして、しきりに視線を向けていたのか、ようやく理解したような気がした。
たんに若い女の観光客が珍しかったわけではなかったのだ。
彼女もまた、日美香の顔が倉橋日登美に似ていることに驚いていたのだろう。
宮司の妻は、日美香のボストンバッグを郁馬から受け取ると、長い廊下を歩いて、八畳ほどの和室に案内してくれた。
ここは昔、倉橋日登美が使っていた部屋だという。
「今すぐに主人が参りますので……」
宮司の妻はそれだけ言うと、足早に部屋を出て行った。
日美香は、一人になると、部屋の中を見回した。
調度類はいずれも古びているが、部屋そのものは掃除が行き届いていて、塵《ちり》や汚《よご》れひとつない。
二十年前、母はこの部屋で寝起きしていたのか……。
そう思うと、不思議ななつかしさのようなものを感じた。
戸が僅《わず》かに開いていた押し入れを何げなく開けてみると、下の方に空色のスーツケースが押し込まれていた。
もしや、着の身着のままで村を出たという母が残していった物ではないかと思い、日美香はそれを引っ張り出してみた。
開けてみると、衣類に混じって、分厚いアルバムが出てきた。ページをめくってみると、倉橋日登美とおぼしき女性の子供の頃からの写真が貼《は》ってあった。
どの写真も、日登美の顔は幸せそうに笑っている。
後ろの方のページには、一枚分、写真をはがしたような跡があった。
真鍋の本の隙間《すきま》から見つかった写真は、もともとはこのアルバムに貼ってあったものだろう。
倉橋日登美の失踪《しつそう》は、けっして気まぐれによるものではなく、この家を出るときに既に決意されたものであったことが、この残されたアルバムからも見てとれた。
分厚いアルバムを持って出ることもできないので、二人の愛児の写った写真だけを剥《は》がして持って行ったに違いない。
アルバムをざっと繰ってみる限りでは、小さな蕎麦《そば》屋の一人娘として育てられた倉橋日登美の短い人生は、平凡ながらも幸福なものであったらしいことが感じられた。
昭和五十二年のあの事件が起きるまでは……。
廊下の方から足音がした。
日美香ははっとして、アルバムを素早く閉じると、スーツケースに戻した。
入ってきたのは、郁馬と同じような白衣に浅葱の袴姿の、四十代後半と思われる中年男性だった。
小鬢《こびん》に僅かに白いものが混じってはいるが、その顔は、若い頃は郁馬以上の美青年だっただろうと思わせるものがあった。
この年代の男性にしては、中年太りの傾向は全く見られず、青年のようにすらりとして、いかにも神官らしいストイックな雰囲気を漂わせている。
男は、袴の膝《ひざ》を折って、日美香の前に端然とした物腰で座ると、宮司の神聖二だと名乗った。
「住職から電話でこれまでのいきさつはざっと伺いましたが……」
神聖二は、日美香の顔をじっと見ながら、そう口火を切った。
さしつかえなければ、日美香の生い立ちを含めて、もう一度詳しく聞かせて欲しいと丁寧な口調で言った。
日美香は、自分が和歌山の片田舎で私生児として育ったこと。つい最近、唯一の肉親だと思い込んでいた養母が交通事故死して、その遺品として、一冊の本を発見したこと。そして、その一冊の本を頼りに自分が知り得たことを全て話した。
神聖二は黙って聞いていたが、その目は片時も日美香の顔から離れることはなかった。顔は殆《ほとん》ど無表情に近く、二十年前に謎《なぞ》の失踪を遂げた実妹の遺児が突然目の前に現れたというのに、たいして驚いているようにも見えなかった。
「これが、その本です」
日美香は一通り話し終わると、ボストンバッグを開けて、一番上に入れておいた真鍋の本を取り出し、宮司に手渡した。
宮司はそれを手にして、中をぺらぺらと繰って見ていたが、ページの間から例の子供の写真を見つけると、しばらく、それをじっと見ていた。
その顔には、僅かに感情のうねりが走ったように見えた。
「なるほど……。よく解りました」
やがて、本を返してよこすと、宮司は口元に微《かす》かな微笑を浮かべて言った。
「あなたもご苦労されたのですね」
その口からようやく身内らしい優しい言葉がぽろりとこぼれた。さらに、独り言のようにこう付け加えた。
「妹があのまま村に残っていれば、あなたが私生児として育つこともなかったのに……」
その独り言を耳にした日美香は思わず宮司を見た。
そういえば、この村では、日女《ひるめ》の生んだ子供はすべて宮司夫妻の子として籍に入れられるという話だった。
もし、母がこの村でわたしを生んでいれば、わたしはこの家で育っていた……。
そう思いあたると、日美香は不思議な感情に支配された。それは、本来自分が所属するべき世界に帰ってきた。そんななつかしさにも似た奇妙な心地よさだった。
それは、この村の停留所に降り立ったときから、ずっと感じていたものではあった。
神家の古い家も、はじめて訪れたというのに、長い旅の末にようやくたどりついた古巣であるかのように感じてしまう。
そして、この親和の感情ともいうべきものは、土地や家だけではなく、目の前の男に対しても感じはじめていた。
この人とは他人ではない……。
こうして向き合っていると、理屈を越えて、そう強く感じざるをえなかった。
伯父と姪《めい》という血縁関係以上の深い絆《きずな》がこの男との間に存在しているような気がした。
それはこの男の身に纏《まと》っている冷然とした独特の雰囲気が、日美香自身もまた、子供の頃から着慣れた衣服のように身に纏っていたものだったからかもしれない。
さらに、真鍋の本によれば、今の宮司にも、「大神のお印」と呼ばれる蛇の鱗《うろこ》状の痣《あざ》があるという。
この男の身体のどこかに自分と同じ痣があるのだ、という思いもあった。
「母は……どうして村を出たのですか」
日美香は、自分を支配しつつある、そういった諸々の感情を押し殺して、つとめて冷静に尋ねた。
「それは、私にも分かりません」
宮司はそっけなく答えた。
「でも、何か理由があったはずです。住職さんの話では、春菜という幼い娘の突然の病死が原因ではないかと……」
日美香は食い下がった。
「そうかもしれませんね」
宮司はそう言っただけだった。
「春菜という幼女……いえ、姉は……本当に病気で死んだのですか」
日美香は思い切って聞いてみた。
宮司の目が一瞬底光りしたように見えた。
「それはどういう意味です?」
慎重な口ぶりで逆に聞き返してきた。
「郁馬さんから聞いたのですが、姉が亡くなったとき、母は姉の遺体とは面会できなかったそうですね。なぜですか。幼い娘が突然病死したというのに、母親がその亡骸《なきがら》に会うこともできないなんて……」
「潔斎の期間中だったからです。潔斎というのは……」
宮司は説明しかけたが、日美香は、「そのことなら知っている」と遮った。
「潔斎の期間中は、日女は外部の者とは誰とも面会できないのです。たとえ母親であろうとも」
「でも……」
日美香がそう言いかけたとき、襖《ふすま》の向こうから、「お茶をおもちしました」という宮司の妻の声がした。
日美香は仕方なく口をつぐんだ。
茶菓を載せた盆をささげて入ってきた神美奈代は、それをテーブルの上に置くと、すぐさま部屋を出ようとした。
すると、神聖二はそんな妻を呼び止め、
「話が済むまで誰もここには寄せ付けるな」と厳しい口調で命じた。さらに、「郁馬に話があるから、あとで私の部屋に来るように伝えておけ」とも言った。
それは妻というより下女にでも命令するような口調だった。
美奈代の方も、「はい」とかしこまったように一礼すると、逃げるように部屋を出て行った。
その妙におどおどした様子から、彼女が日ごろから夫のことをひどく恐れているのではないかと日美香はふと思った。
「一つお願いがあるのですが」
宮司の妻が去ったあと、日美香は話題を変えるように言った。
これ以上、春菜のことを追及しても、日の本寺の住職以上に手ごわそうなこの宮司が相手では、真相を引き出すのは容易ではないような気がしたのである。それよりも聞きたいことがあった。
「昭和五十二年の大神祭で、三人衆をつとめた人たちのことが知りたいのです。名前を教えて戴《いただ》けませんか」
「昭和五十二年……」
宮司は呟《つぶや》くように言った。
「母がこの村に来た年です」
「そんなことを知ってどうするのですか」
宮司の顔に怪訝《けげん》そうな表情が浮かんだ。
「ただ……知りたいだけです」
日美香はそう言った。
たとえ、実父のことを切りだしても、あの住職同様、「日女の生んだ子はすべて大神の子」などとはぐらかされるのがおちだと思ったからである。
それよりも、あの年の三人衆をつとめた男たちの名前を聞き出し、直接、当人たちに当たった方が真実を知る上での近道のように思えた。
「昔のことなので、すぐには思い出せませんね……」
宮司は幾分探るような視線を日美香の顔に当てながら、慎重な口ぶりでそう答えた。
本当に思い出せないのか、あるいは、思い出せない振りをしているのか、見た目からは判断がつきかねた。
「何か当時の記録のようなものは残っていませんか」
日美香は引き下がらなかった。
「あることはありますが……」
宮司は渋々といった口調で言った。
「それを調べて戴けませんか。お願いします」
頭を下げて頼むと、宮司は、
「分かりました。明日までに調べておきましょう」
あまり気が進まないといった様子ながらも承諾してくれた。
「それから」
日美香は畳みかけるように言った。
「もう一つ伺いたいことがあります」
「何ですか?」
「大神のお印と呼ばれる痣のことです」
「……それが何か?」
「真鍋さんの本によれば、日の本神社の宮司の身体には、蛇の鱗状の薄紫色の痣が出ることがあるとありましたが、それは本当ですか」
「本当です。ただ、それは、宮司の身体にお印が出るというよりも、お印をもって生まれた男児が、将来、日の本神社の宮司になるよう定められていると言った方がより正確かと思いますが」
「神さんにも、そのお印があると聞きましたけれど……?」
「……あります」
「そのお印が女性に出たことはありますか」
「それはありません。お印は、大神がとりわけ寵愛《ちようあい》された日女が生んだ男児にのみ、わが子の証しとしてお与えになるものです。神家の家伝にはそう記してあります。お印が女児に出たということはかつて一度もありません」
神聖二は微笑を浮かべてそう言い切った。
「でも……わたしにはあるんです」
日美香は思い切って打ち明けた。
「え?」
宮司は意味が分からないという顔をした。
「わたしにもお印があるんです。生まれたときから、ここに……」
日美香は、白いブラウスに包まれて、ひっそりと形良く盛り上がっている自分の右胸のあたりを片手で押さえた。
「それは……何かの間違いでしょう」
宮司は一瞬笑うような表情を見せた。
「間違いかどうか、その目で確かめてください」
日美香はそう言うと、ブラウスのボタンを上から順にはずしはじめた。
血のつながった伯父とはいえ、今日会ったばかりの男の前で、恋人にすら自分からは決して見せようとはしなかった肌《はだ》を見せようとしているのに、日美香は、なんの戸惑いも恥ずかしさも感じていなかった。
そんな自分にすこし驚いていた。
今までは、診察のために医者の前で衣服を脱ぐことにさえ、ためらいや恥ずかしさを感じていたというのに……。
一方、神聖二の方は、自分の目の前でいきなり上着を脱ごうとしているらしい若い女を、さすがにあっけにとられたような目で見ていた。
日美香は、ブラウスのボタンを全部はずしてしまうと、それを両手で押し開いた。
清楚な白いブラジャーに覆われた胸をさらけ出すと、それを見た神聖二の顔に、はじめて驚愕《きようがく》に近い色があからさまに浮かんだ。
「それは……」
そう一声発したきり、あとの言葉が出てこない。それほど驚いたようだった。
「これはお印ではありませんか」
日美香は冷静な声で尋ねた。
肌を見せていることに何の羞恥《しゆうち》も感じないばかりか、ようやく感情をあらわにした年上の男に対して優越感のようなものすら感じていた。
何かが自分の中で変わりつつある。
日美香はそう感じていた。
古い自分が少しずつ脱ぎ捨てられ、新しい自分が生まれつつある。
まるで蛇が脱皮をするように……。
神聖二はひどく混乱していた。
自分の部屋に戻って一人になっても、なかなか興奮がおさまらなかった。
この二十年間、失踪《しつそう》した妹の行方《ゆくえ》をずっと探していた。松山にいるという伯母のもとにもそれとなく探りを入れたり、もしや東京に戻ったのではないかとも思い、以前世話になった探偵社に再び調査を依頼してみたりした。
しかし、結局、日登美の行方はようとして知れなかった。
忘れたわけではなかったが、いつしか聖二の中では、日登美のことは半ばあきらめたような形になっていた。
日登美は最後まで自分の中に眠る日女《ひるめ》の血にめざめなかったのだ。そして、結局は、母の緋佐子同様、日女としての道を捨て、一人の平凡な女としての道を選んだのだ。
そんな失望感を伴った苦い認識とともに……。
それが今ごろになって、突然、日登美の遺児と名乗る女が向こうからやってきたのである。
日美香の前では端然と取り繕ってはいたが、日の本寺の住職から、日登美にそっくりな若い女がやってきたと電話で聞かされたときから、聖二の混乱ははじまっていた。
ただ、その混乱というか、感情の乱れは、まだ自分の中で押し殺すことができる程度のものだった。それは、葛原日美香と名乗る娘に会って、彼女の顔に明らかに日登美との共通点を認めたあとも同様だった。
しかし、日美香の右胸にあの痣を見たときには、さすがに、もはや驚愕は隠しきれなくなっていた。
あの娘の右胸にあったのは、まぎれもなくお印だった。聖二自身の背中にあるのと全く同じ形状の……。
信じられなかった。
これは一体どういうことだ。
お印が女児に出ることなど、かつてなかったことだ。
日美香にも話したように、神家に千年以上にもわたって伝わる家伝書にもそんな記録はないし、そんな話は聞いたこともない。
本来、お印は、大神が特別にわが意志を継ぐ子と認めた男児、すなわち、日子《ひこ》の証しなのだ。日子というのは、その昔は、神主であると同時に王でもあった者のことである。
そう長く語り継がれてきたし、聖二もその言い伝えを信じきってきた。
日美香が日登美の娘であるということは、彼女もまた日女であることは間違いない。しかし、あのお印があるということは、彼女は同時に大神の意志を継ぐ日子でもあるということになる……。
馬鹿な。
聖二は声に出して打ち消そうとした。
日女であると同時に日子でもあるなど……。
そんなことがあるはずがない。
この村では、神の正妻たる大日女が最高の存在とみなされている。そして、お印をもって生まれた日子が、その大日女とほぼ同格の存在と認められていた。
もっとも、聖二自身は、大日女と自分とを同格とは見ていなかった。口には決して出さなかったが、自分の方が上だと密《ひそ》かに思っていた。
なぜなら、次代の大日女は、託宣とは名ばかりの人為的な方法で選ばれるにすぎないが、日子の方は神の意志としかいいようのない状態で選ばれるからである。
生まれてくる赤ん坊の身体にあのような痣をつくることなど人為的にできるものではないのだから……。
それはまさに神意によるものだ。
より神の意志を反映している存在として、大日女よりも日子である自分の方が上だと思うのは当然のことだった。
そして、そのことは、大日女自身も納得しているように見えた。
その証拠に、先代の宮司である父が五年前に他界し、聖二が宮司職を継いでからは、いや、父が宮司であった頃からすでに、神社のことに限らず、村の運営にかかわる重要なことは、すべて彼が自分の意志で決めてきた。
大日女など、実際には、彼が一人で決めたことを報告する相手にすぎなかったのだ。
ただ、そのことは大日女と聖二だけの秘密だった。
村人たちの前では、ことさらに、彼自らが率先して、大日女を至高の存在として祭りあげ、自分は、その大日女のお言葉を村人たちに伝えるだけの仲介役のような地位に止まっていた。
その方が何かと事を運ぶのに都合が良かったからである。
だが、それは見せかけにすぎず、内心では、大日女という老|巫女《みこ》にたいして、さほど崇拝の念も抱いてはいなかった。
しかし……。
あの日美香という娘は……。
日女であると同時に日子でもあるということは、大神の妻にすぎない大日女よりも、また大神の子にすぎない自分よりもさらに上の存在ということになるではないか。
つまりそれは……。
いまだかつて存在しえなかった、まさに正真正銘の至高の存在ということになるのだ。
あの小娘が?
ようやく成人に達したばかりの、まだ頬《ほお》のあたりに幼ささえ残しているあの娘が?
この事実にこそ、聖二は大きなショックを受けていた。
それは、まるで、あの若い女の白い素足で、いきなり自分の頭を踏み付けられでもしたかのようなショックだった。
ショックというより……。
恐れと言った方がいいかもしれない。
このきわめて誇り高い傲岸不遜《ごうがんふそん》な男が、自分の娘ほどのうら若い乙女に、はじめて恐れに近い感情を抱いたのだった。
しかも……。
あの娘は、何か感づいているようだ。昭和五十二年の事件のことも、この村でひそかに行われていることも……。
すべてではないにしても、何か感づいている。
聖二はそう見抜いていた。
大神祭の三人衆のことをしきりに聞きたがったのも、おそらく、あの三人の中に自分の実父がいると知っているからに違いない。
ただ、不思議なのは、彼女がなぜそこまで知ることができたのかということだった。
真鍋伊知郎の本は、以前に日の本寺の住職から借りて、ざっと目を通してはいた。だが、あの本には、日女と三人衆の関係について、それほど詳しくは書かれてはいなかったはずだ。
日美香が何か知っていたとしても、それは、少なくとも、あの本から得た情報ではあるまい。
おそらく……。
聖二は、ふいに一人の男のことを苦々しく思い出していた。
半年ほど前、兄のことで取材に来た三流週刊誌の記者。確か、達川とかいう男だった。
日美香は、あの男にも会って話を聞いたと言っていた。たぶん、情報源はあの男に違いない。
聖二はそう確信した。
最初、達川は、兄の子供の頃の話を聞きたいと言って取材を申し込んできた。聖二は心よく引き受けた。ここ数年、兄はまさに時の人であり、兄の出身地がこの村であることを知ったマスコミ関係者たちがどっと押しかけてくるようになっていたので、その類《たぐ》いかと思ったのである。
ところが、いざ取材を受けてみると、達川の質問は、兄の子供時代のことなどではなく、昭和五十二年のあの事件の事柄に専ら集中しており、しまいには、あの事件の犯人である矢部稔がここの出身であることまで調べてきたらしく、矢部に会わせろと言い出した。
どうやら、兄の子供の頃のエピソード云々というのは口実に過ぎなく、達川が調べたがっていたのは、あの事件の真相なのだとようやく気づいた聖二は慌てて記者を追い払ったのだが……。
あの男……。
まだ兄の過去を嗅《か》ぎ回っているのだろうか。
あのあと、なんとなく不安に思って、達川が置いて行った名刺に刷り込まれていた週刊誌をしばらく購読してみたが、幸い、兄とあの事件を結び付けたような不穏な記事は掲載されなかった。
それで、ほっとして、あの男のことも忘れかけていたのだが……。
もし、あの男がまだ兄の身辺を嗅ぎ回っているとしたら。日美香があの男から何か吹き込まれていたとしたら……。
兄の貴明にとって、今が一番大事な時だ。女性スキャンダルひとつでも場合によっては命取りになりかねないのだ。
まして、あんなことが今世間に知れ渡ったら、今までの苦労はすべて水の泡となりかねない。
危ない芽は今から摘んでおいた方がいいかもしれない……。
聖二の中に暗い決意がかたまりかけていた。
それはちょうど、二十年前、倉橋日登美の存在をはじめて知り、彼女を日女《ひるめ》として村に連れ戻す手段を模索していたときに、たどり着いたような暗い決意が……。
そのとき、廊下に足音がして、襖《ふすま》の向こうから、「郁馬です」という声がした。
「なんだ?」
そう聞き返すと、
「あれ。お呼びじゃなかったんですか。さっき、義姉《ねえ》さんから……」
郁馬の戸惑ったような声がした。
あ……。
聖二はようやく思い出した。
妻の美奈代が茶をもって入ってきたとき、郁馬にあとから自分の部屋に来るように伝えておけと言ったことを……。
あのときは、日美香の話から、どうやら郁馬がいらぬことをぺらぺらとしゃべったらしいと気が付いて、一言|釘《くぎ》をさしておこうと思ったのだ。
ところが、そのあとで、日美香の胸の痣を見せられて、ショックのあまり、妻に命じたことなどすっかり忘れてしまっていた。
「お呼びでないなら、僕は……」
郁馬がそう言って立ち去るような気配を見せたので、聖二は慌てて引き留めた。
ちょうどいい。
ふとひらめいたことがあった。
郁馬を部屋にいれると、棚の引き出しから、以前達川から貰《もら》って保管してあった名刺を出してきて、それを郁馬に渡した。
「これは……?」
怪訝《けげん》そうに名刺を見る弟に、聖二は囁《ささや》くような声で言った。
「この男のことを何でもいいから調べて来い……」
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第五章
翌朝。
「朝食の支度ができましたので……」
襖越しに聞こえてきた女の声に日美香は目を覚ました。
神美奈代の声のようだった。
はっとして、枕元《まくらもと》にはずしておいた腕時計を見ると、午前七時を少しすぎたところだった。
就寝したのは昨夜の十一時頃である。夢も見ないで眠っていたようだった。
枕が変わるとよく眠れない方だった。今までに、旅館や他人の家に泊まって、熟睡できた記憶は全くといってよいほどなかった。
それなのに、まるでわが家に帰ってきたように、なんの違和感もなく、ぐっすり眠ることができたのは不思議な気がした。
浴衣《ゆかた》姿のまま襖を開けると、そこに膝《ひざ》をついて控えていたのは、やはり神美奈代だった。
座敷に既に神家の人々が集まっているので、すぐにお越しを……と言い残すと、宮司の妻は去っていた。
日美香は急いで着替えと洗面を済ませて、座敷に行った。
広い和室には、まるで宴会のように膳がずらりと並べられており、その膳は上座のひとつを除いてはすべて人で埋まっていた。
どうやら、掛け軸を背にした、その一番上座が自分の席らしいと気づくと、日美香はどぎまぎした。
客人ということで、このような大層なもてなしを受けるのか、それとも、何か他に理由でもあるのか……。
いささか不審に思いながらも、聖二に促されるままに、膳についた。
聖二は、日美香を家族に紹介したあとで、家族たちを独りずつ紹介してくれた。
そのとき、聖二が、自分のことを「日美香様」と敬語で呼ぶのを聞いて、日美香は困惑しながらも、あらためて自分はこの人たちの目から見れば日女なのだということを認識した。
聖二がまず紹介してくれたのは、やはり上座にあたる席にいた二人の妹たちだった。
一人は、三十歳を少し越えたくらいの年齢で瑞帆と言い、もう一人は、十八歳くらいで、一葉《かずは》という名前だった。ともに、白衣に紫の袴《はかま》を着けて、座れば畳につきそうな長い黒髪を一つに束ねている。
こうして上座に座り、聖二が自分の妹たちでありながら、敬語を使っているのは、おそらく日女であるからだろう。
ただ……。
ふたりとも、華奢《きやしや》な身体つきのわりには、妙に袴の腹部のあたりが迫り出しているように見えるのは気のせいだろうか……と日美香はふと思った。
さらに、聖二はもう一人、四十代後半と思われる女性を姉の耀子だといって紹介した。
瑞帆や一葉と同じようないでたちで、長い黒髪には既に白い筋が混じってはいたが、その顔立ちには、若い頃の美貌《びぼう》がしのばれた。
そういえば、昨夜、この家に来る途中、郁馬が話してくれたことを思い出した。この耀子という女性が若い頃に子宮ガンを患ったという話を……。
そんな話を聞かされたせいか、子供のような頼りなげな身体つきをした、この中年女性のたたずまいに、そこはかとない哀しさのようなものを日美香は感じとった。
ただ、日美香が気になったのは、この耀子という女性が、日美香が座敷に入ってきたときから、じっと自分のことを見つめ続けていることだった。
それも、何かしきりに訴えるような深い目で……。
さらに、聖二は、十三歳を頭に三人の少女たちを娘だといって紹介してくれた。やはり三人とも巫女《みこ》の衣装を身にまとっている。
その次に、神官の身なりをした三人の男性を弟たちといって紹介した。
そのうち、二人は四十がらみで、雅彦、光彦といい、あとの一人は、まだ二十歳をすこし過ぎたばかりの若者で、智成《ともなり》という名前だった。
末弟の智成は郁馬と双子のように似ていた。
そういえば、郁馬の姿が見えなかった。膳も出ていないところを見ると、どこかに出掛けたのだろうか。
そう思って、聖二に聞いてみた。すると、聖二は、「郁馬なら、今朝早く、急に用を思い出したとかで、車で東京に出掛けた」とだけ答えた。
神官の衣装をつけた人々をざっと紹介してしまうと、聖二は、幼い二人の男児を息子だといって紹介し、最後に半ば付け加えるように、妻の美奈代と母の信江、さらに雅彦と光彦の妻という二人の中年女性を紹介した。
神信江は、真っ白な髪をした八十歳近い老女だった。彼女の連れ合いであった先代の宮司は五年ほど前に亡くなったのだという。
この四人の女たちは、家族の一員というより、まるで神官や巫女に仕える使用人のように下座でかしこまっていた。
朝食を済ませると、日美香はさっそく聖二に、例の三人衆のことを聞いてみた。
すると、聖二は、早速、古い記録を調べてみたところ、昭和五十二年の三人衆は、太田久信、船木松雄、海部重徳《かいふしげのり》、の三人だということが分かったと告げた。
当時二十五歳だった太田久信は、今は村長になっており、二十六歳だった船木松雄は、父親の理髪店を継ぎ、二十三歳だった海部重徳も家業を継いで米穀店の主人におさまっているということだった。
日美香はすぐにでもこの三人を訪ねてみるつもりだった。この中に自分の父親がいるという確信があった。もっとも、会ったところで、男たちの口から父親だと素直に打ち明けて貰《もら》える可能性は低いだろうとは思っていたが。
しかし、血のつながりというものは、隠してもなんとなく分かるものである。どこかに似通ったところが見つけられるものだ。直接会ってみれば、誰が父親なのか分かるような気がした。
それに、もう一つ方法があった。それは血液型である。三人の血液型さえ判れば、少なくとも実父ではありえない男を消去することができるのだ。
日美香の血液型はAB型だった。ということは、母親がどんな型であろうとも、父親はO型ではありえない。
片親がO型の場合、AB型の子供はけっして生まれてこないからである。
だから、もし、この三人の中でO型の男がいたら、少なくとも、その男は父親ではありえないということになる……。
美奈代に頼んで村の地図を手に入れると、いったん部屋に戻って、外出の支度をした。
そして、部屋を出ようとすると、廊下のところで一人の女性とぶつかった。
耀子だった。
耀子は、「少し話がしたい」と遠慮がちに言った。
日美香は一瞬ためらったが、外出は延期して、耀子を部屋に入れた。
「驚いたでしょう? 大家族で」
耀子は口元に穏やかな微笑《ほほえ》みを浮かべながら、親しげにそう語りかけてきた
真鍋の本や話で、日の本神社の宮司の家が代々大家族を形成していることは聞いていたし、なぜ大家族になるのかという理由も知っていたので、そのこと自体はさほど驚いてはいなかった。
宮司の娘や息子だと紹介された子供たちも、実際には、妹だと紹介された日女が生んだ私生児であろうということも察しがついていた。
「でもあれで全部ではないのよ。他にもまだ……」
三人の弟たちとまだ学生である甥《おい》たちが東京で暮らしているのだという。
そう言ってから、耀子は目を細め、日美香の全身を見渡した。
「本当に日登美さんによく似てらっしゃる……」
そこには、成人した娘を見る母親のまなざしのような温《あたた》かみと柔らかさがあった。
「でも、日登美さんより、少し背が高いのね……」
耀子は、自分よりも頭一つ分ほど背丈のある娘を見上げるようにして見た。
日美香の身長は、百六十二センチで、今時の若い女性の平均から比べると、さほど大きいというほどでもないのだが、小柄な耀子から見れば、長身に見えるのかもしれなかった。
「聖二さんから聞いた話では、日登美さんはあなたを出産した直後に亡くなったということだけれど……?」
耀子は尋ねた。
日美香がそうだと答えると、耀子は深いため息をついた。
「そう……。たった二十七歳で。日女には短命の人が多いのだけれど、あの人も……」
吐息のような声でそう呟《つぶや》き、
「わたしの方はこの歳《とし》まで生きてひ孫までいるというのに……」
と自嘲《じちよう》するような寂しい笑みを見せた。
「ひ孫?」
日美香は一瞬聞き違いかと思った。
どう見ても五十前にしか見えないこの女性にひ孫がいるというのだろうか。
すると、耀子は、朝食の席で、妹だと紹介された瑞帆と一葉は、実は自分の娘と孫なのだと打ち明けてくれた。そして、今一歳になる一番末の甥は、本当はひ孫にあたるのだとも……。
日美香はこの告白には心底驚かされた。
巫女《みこ》の衣装を纏《まと》った三人の女性が並んで座っているところは、まさに少し年の離れた姉妹にしか見えなかったからだ。
それにしても、耀子と瑞帆が母娘《おやこ》だということはかろうじて納得がいくにしても、一葉が耀子の孫だというのは……。
一葉の母である瑞帆は一体いくつのときに彼女を生んだというのだろう。
不思議に思ってそのことを聞くと、耀子は、瑞帆が一葉を生んだのは、彼女が十四歳のときだとこともなげに答えた。
「十四歳……」
まだ中学生ではないか。
日美香があぜんとしたように呟くと、耀子は苦笑した。
「日女の場合、こういうことはさほど珍しくはないのよ」
多くの日女は、最初の子供を十六、七歳のときに生んでいるし、耀子自身、最初の子供を出産したのは、十六歳のときだったという。
「昔から日女のつとめは、大神の子を宿すこととされてきたのよ。大神の血筋を後々まで伝え、けっして絶やさないことこそが神妻たる日女の最大の使命であると……。だから、どんなに年若くして子供を生んでも、また何人子供を生もうとも、ここではそのことを祝福こそされ、非難されたり軽蔑《けいべつ》されたりすることはけっしてないのよ」
耀子は誇らしげに言った。
「でも、それは大神の子と認められた場合のことですよね……? つまり、子供の父親がその年の大神祭で三人衆をつとめた者であった場合だけ……」
日美香がそう言うと、耀子の形の良い眉《まゆ》がわずかに寄せられた。一瞬、その目に、そこまで知っているのかというような表情が浮かんだように見えた。
「母がこの村を出たとき、既におなかの中にはわたしがいたそうなんです。ということは、わたしの父はその年の三人衆の中にいるということになるのではないでしょうか」
日美香は思い切ってそう聞いてみた。
「そうね……」
耀子は曖昧《あいまい》な口調で答えた。
「でも、だとしたら、母はなぜ村を出たのでしょうか。わたしが大神の子なら、どうして、村に残って生もうとしなかったのでしょうか」
日の本寺の住職からも神聖二からも、この質問の明快な答えは得られなかった。
しかし、母と年齢的にも近いこの女性なら、何かもっと手ごたえのある答えを得られるのではないかと期待するものがあった。
「さあ。確かなことはわたしにもわからないわ……」
耀子はそう答えたが、
「でも、日登美さんが村を出た理由は、あの人のお母様が村を出た理由と同じかもしれない……」
そんなことを独り言のように言った。
「祖母と……?」
日美香はいぶかしげに聞き返した。
祖母の緋佐子が村を出た理由は、日の本寺で親しくなった男性が原因だと聞いていた。
しかし、住職の話では、母の日登美にはそんな男性はいなかったというし、実際、ここを出たあとの母の足取りからしても、そんな男の影は全く見えなかった。
そのことを耀子に言うと、耀子はゆっくりとかぶりを振った。
「緋佐子様が村を出た本当の理由は男性ではないわ。それも多少はあったかもしれないけれど、本当の理由は、生まれたばかりの赤ちゃんを助けたかったからよ……」
「赤ちゃんを助けたかったって、それはどういう意味ですか」
日美香は、耀子の目を見据えて尋ねた。
何か聞き捨てならないことを聞いた。そんな気がしていた。
「それは……」
耀子は話そうか話すまいか、幾分迷っているように見えたが、
「あのとき、赤ちゃん、いえ日登美さんは、生まれ落ちるとすぐに、大日女様の託宣で、若日女になることが決まっていたのよ。でも、緋佐子様は生まれたばかりの赤ちゃんを若日女にはしたくなかった。なぜなら、もし、若日女になれば、やがて、一夜日女《ひとよひるめ》に選ばれる可能性があったから……」
「でも、一夜日女に選ばれることは名誉なことではないのですか。選ばれた日女にとっても、その日女を生んだ母親にとっても」
日美香は言った。真鍋の本にはそのように書いてあったからだ。
「そう……。とても名誉なこととされているわ。わたしも最初に生んだ女の子が一夜日女に選ばれたことがあるのよ。だから、そのことがどれほど名誉なことかよく知っているつもり。わたしが日女としてのおつとめができなくなってからも、日女としての地位を失わないで来れたのは、一夜日女の母だったからということもあるでしょうね……」
耀子はそう言ってから、こう付け加えた。
「でも、名誉に思うということと、母としてそれを願うということは全く違うわ……」
「え?」
日美香には耀子が言わんとしていることがよく理解できなかった。
名誉には思うが、それを願ってはいない……?
「たとえば」
耀子は言った。
「これはあくまでもたとえばの話よ」
耀子はそう念を押してから続けた。
「戦時中に、戦地に息子を送り出した母親は、もし息子の戦死を知らされれば、それを名誉に思うと口では言うでしょう。また回りからもそう言われるでしょう。お国のために大切な若い命を捧《ささ》げたのだから。でも、心の中ではきっと泣いているわ。だって、どんな大義名分をもってしても、息子の死を願う母親などこの世にいないでしょうから……」
口元に微笑すら浮かべてそう言う耀子の顔を、日美香は言葉もなく見つめた。
この人は……。
例え話を使って、何かを自分に伝えようとしている。
日美香はそう感じた。
耀子の立場でははっきりと口には出して言えないような重大な何かを……。
「日登美さんの場合は、まだおなかの子が男か女かも分からなかったと思うけれど、もし、女の子だったら……と思うものがあったのでしょう。だから、村を出たのよ。もし、女の子だとしても、その子が日女《ひるめ》の宿命を背負わなくてもいいように……」
耀子は遠いところを見つめるような目でそう言った。
「耀子さん」
日美香は耀子の顔を真正面から突き刺すように見つめたまま尋ねた。
「一夜日女の神事というのは、本当に、幼い日女を輿《こし》に乗せて村中を練り歩くだけの儀式なのですか?」
「…………」
耀子は何も答えなかった。
「輿に乗せられて社を出た一夜日女は本当に社に帰ってくるのですか」
そう畳み掛けても、耀子は曖昧な微笑を口元に浮かべたまま、「質問の意味が……よく分からないわ」と言うだけだった。
「日本の祭りのことを研究したある本にこんなことが書いてあったそうです。この村では、昔、生贄の儀式が行われていたらしいと……」
生贄などという不穏な言葉を使っても、耀子の顔は無表情に近かった。
「確かに……」
耀子はしばらく沈黙したのちに口を開いた。「そういうことが昔、今から百年以上も前までは、密《ひそ》かに行われていたらしいという話はわたしも聞いたことがあるわ。この村で祀《まつ》られている大神は祟《たた》り神なのよ。祟り神は、祀り方が不十分だと大きな災いをもたらすと言われている恐ろしい神。しかも、ここの大神は、たんなる山奥の小さな村の守り神というだけの存在ではなく、古くは、この日本の国そのものを守っていた神だったのだから、この神をおろそかにすることは、日本の国そのものを滅ぼすことになると、村の人びとは今でも本気で信じている……」
耀子はそう言って、日の本神社の背後に聳《そび》える鏡山の麓《ふもと》にあるという、蛇《じや》ノ口と呼ばれる底無し沼の話をしてくれた。
その昔、一夜日女を乗せた輿は、社を出て村を一巡すると、この蛇ノ口までやってきて、そこで輿をおろし、輿をかついでいた神官たちの手によって、一夜日女が生きたまま沼に投げこまれたという話を……。
今でも、沼のほとりには、生きながらにして沼に沈められていった数え切れないほどの幼い日女たちの霊を祀る小さな社が佇《たたず》んでいるのだという。
「もちろん、これは昔の話よ。明治よりもずっと昔の……」
耀子はすぐにそう言った。
「今では、その代わりに、その年の一夜日女の名前を書いた形代、つまり藁《わら》で作った人形を沼に沈めるだけなのよ。
それでも、今なお、一夜日女に選ばれることが名誉とされるのは、こうした過去の悲しい記憶があるからでしょうね。幼い日女たちの犠牲のもとに、この村、いえ、この国が、幾度もの大きな戦争や災害に遇《あ》っても滅びることなく復活し、繁栄し続けてきたのだという思いが村人の中に今も根強くあるから……」
しかし、そう言う耀子の目は全く別のことを無言で訴えかけていた。口とは裏腹の全く別のことを……。
日美香の背筋に戦慄《せんりつ》のようなものが走った。
蛇ノ口という底無し沼に、まだ幼い少女が生きながらにして投げこまれる……。
そんな身の毛もよだつような事が神事の名のもとに、千年以上もの間、この村では許されてきたというのか。
しかも、それは昔の話だというが、本当に昔の話なのだろうか……。
真鍋が見たという空っぽの輿は、まさに、この恐ろしい神事が今もなお、いや、少なくとも昭和五十二年まで続いていたことを物語っているのではないだろうか。
そう考えれば、日登美が潔斎中に病死したという娘の遺体に面会できなかったのも当然だった。幼い娘の遺体は、底無しともいわれる沼の果てしない奥底に沈んでしまっていたのだとしたら……。
「……その本には」
日美香はひりつくような喉《のど》の渇きをおぼえながら、さらに言った。
「こうも書いてあったそうです。神迎えの神事で、大神の霊の降りた三人衆を日女が社でもてなすとき、そのもてなしというのは、たんに酒でもてなすだけではなくて……」
耀子の目を探るように見ながら、そこまで言うと、
「それも昔のことだわ」
耀子は先回りして言った。
「贄《にえ》の儀式などが密かに行われていたような暗い時代なら、そういったことも神事として行われていたかもしれない。
でも、それは、明治の頃に、神事にかこつけた淫風《いんぷう》とみなされて、時の政府によって厳しく取り締まられたと聞いています。だから、今ではもちろんそんなことは行われてはいないわ。ただ、日女がその年の三人衆の中からしか恋愛相手を選べないというのは、そういった昔の風習の名残りともいえるかもしれないけれど……」
「本当に昔のことなんですか」
日美香は問い詰めた。
「え?」
「本当は……今でも密かに行われているのではないのですか」
「まさか」
耀子はふっと笑った。しかし、その目は笑ってはいなかった。
「神家の子供は……なぜか九月生まれが多いそうですね?」
日美香がいきなりそう聞くと、耀子の顔にはっとしたような色が浮かんだ。
「実はわたしも九月生まれなんです。どうして、日女の生んだ子は九月生まれが多いのでしょうか」
「それは……ただの偶然ではないかしら」
耀子はかぼそい声で言った。
「偶然? 本当に偶然なのでしょうか。九月生まれということは、受胎したのは、前の年の十一月頃である可能性が高いわけですよね。十一月といえば、ちょうど大神祭のある月です。これはただの偶然なのですか?」
耀子は黙ったままで答えなかった。
「それに……」
日美香はさらに言った。
「さきほど気が付いたんですが、瑞帆さんも一葉さんも妊娠されているようですね」
耀子は否定しなかった。
「見たところ、お二人とも五、六カ月という感じに見えましたけれど。ということは……」
「とにかく、わたしに言えるのは、あなたがおっしゃったようなことは昔は行われていたかもしれないけれど、今はそんなことはないということだけよ……」
耀子は話を打ち切るような口調でそう言った。
日美香は反論するように口を開きかけたが、何も言わなかった。これ以上追及しても、耀子の口から真実を引き出すのは難しいような気がしたからだ。
日女としての彼女の立場を考えれば、それも無理からぬことのようにも思える。
ただ、この人は口にこそはっきり出さないが、わたしに何かを伝えたがっている。
日美香はそう強く感じていた。
しかし、それと同時に、どれほど問い詰めても、この人はけっして真実を自分の口から語ろうとはしないだろうとも。
スフィンクスのような謎《なぞ》めいた言葉とまなざしでただ暗示するだけなのだ……。
「日美香さん」
耀子が言った。
「日女《ひるめ》と一口にいっても、色々なタイプがいるのよ。日女としての地位に満足し、生まれながらにして背負ったその宿命を何の疑いもなく当然のように受け入れる人もいれば、あなたのお母様やおばあ様のように、その宿命から必死で逃れようとする人も稀《まれ》にはいるわ……。
そして、その宿命を受け入れるわけでもなく、さりとて、それから逃げ出すわけでもなく、ただ、そこにあるものとして見つめているだけの女もいるのよ。わたしのようにね……」
船木理髪店は宮司宅から歩いて二十分くらいの商店街の中にあった。
窓から中を窺《うかが》ってみると、客は一人しかいないようだった。その客の顔をあたっているのは五十がらみの太った女性で、白い仕事着を着た店主らしき中年男は、古ぼけたソファにのんびりと座って、くわえ煙草で新聞を読んでいた。
日美香がドアを開けて中にはいっていくと、新聞を読んでいた男は何げなく顔をあげた。日美香の顔を見るなり、ひどく驚いたような表情になり、火がついたままの煙草を口から取り落としそうになった。
鏡の前で客の顔をあたっていた店主の妻らしき女は、鏡ごしに訪問者の姿を確認しながら、こんな都会風の身なりをした若い娘が田舎の理髪店に何の用かとでもいいたげな顔をした。
「船木松雄さんにお会いしたいのですが」
日美香がソファに座っていた男にそう話しかけると、男は、慌てて煙草を灰皿でもみ消しながら立ち上がり、「私がそうですが」と言った。
痩《や》せて小柄な男だった。
まだ五十前だというのに、頭にはかなり白いものが混じっている。
「何か……?」
今にも飛び出しそうな目で日美香の顔を凝視しながら、船木は言った。
日美香は自分の名前を名乗ってから、
「つかぬことを伺いますが、船木さんは昭和五十二年の大神祭で三人衆をつとめたことがありましたね?」
そう尋ねると、船木の顔色が目に見えて変わった。
飛び出した喉仏《のどぼとけ》をごくりと動かして唾《つば》を飲み込んでから、かすかに頷《うなず》いた。
そのことで少し話を聞きたいのだがと言うと、船木はひどくうろたえたような顔をしていたが、「そ、それじゃ、奥の方で……」と口の中でもごもご言い、ちらと妻の方に視線を投げかけてから、日美香を店の奥に続く住居の方に案内した。
鏡の前の妻は、剃刀《かみそり》を持ったまま後ろを振り返って、不審そうな顔つきで夫を見ていた。
「倉橋日登美という女性のことをおぼえていますか? その年、神迎えの神事で日女をつとめた……」
居間らしき和室に通されて、向き合って座るなり、日美香はそう切り出した。
船木はやや間を置いてから、覚えていると答えた。
「わたしは倉橋日登美の娘です」
そう言うと、船木は、えっというように目を剥《む》いた。
しかし、驚きながらも、その顔には、「やっぱり」というような表情も浮かんでいた。
日美香の顔を見た瞬間から、船木松雄には、倉橋日登美のことが脳裏によみがえっていたに違いなかった。
「実は……」
日美香はこれまでのいきさつを簡単に説明した。
「そ、それでは、父親を探しにこの村に……?」
日美香の話を聞き終わると、船木は動揺もあらわにして聞き返した。
「そうです。聞くところによると、日女は、その年の三人衆の中からしか恋愛相手を選べないそうですね。それで……」
日美香がそう答えると、船木は泣き笑いともいうべき奇妙な表情を浮かべながら、慌てて言った。
「わ、私じゃありませんよ……」
日美香は船木の血液型を聞いてみた。
船木はその質問の意味にすぐに気づいたらしく、しばらく逡巡《しゆんじゆん》したあと、絞り出すような声でO型だと答えた。
この男ではない……。
日美香は心の中でそう呟いた。
ほっとしていた。
この貧相な中年男が自分の実の父親だと思うことにはかなりの抵抗があったからだ。
それに、血液型を聞く前から、この男ではないという感じは強くもっていた。この男のどこにも、自分と似通ったものは見いだせなかったし、こうして向き合っても、血のつながりのようなものは全く感じ取れなかった。
ただ、それなら、なぜ、二十年前のことを切り出した途端、この男はこれほどうろたえたのだろう。
それが気になった。
「その神迎えの神事というのは、具体的にはどのようなことをするのですか」
日美香は聞いてみた。
この神事については、真鍋の本にも触れてはあったが、それはあくまでも人から聞いた話をまとめたものにすぎない。神事にかかわった当事者から話が聞きたかった。
「それは……」
船木は、ややしどろもどろの口調で説明した。
三人衆に選ばれた若者たちは、祭りの日の夕方、日の本神社にある機織《はたお》り小屋と呼ばれるところに集まり、そこで、日女から一つ目の蛇面と蓑笠《みのかさ》を受け取り、それを身につけると、それぞれ手分けして、村中の家々を訪問するのだという。
やがて、村中の家を訪ね終わると、また機織り小屋に戻ってくる。そして、そこで、待ち受けていた日女から最後に酒によるもてなしを受けるのだということだった。
当時、この神迎えの神事は二人の日女によって行われたのだという。蓑笠を渡す儀式は、神耀子という日女によって、そして、最後の酒でもてなす儀式は倉橋日登美によって……。
「そのもてなしというのは、お酒だけなのですか……?」
日美香が鋭い視線を船木の顔に当てたまま、そう聞くと、船木の顔に一層の動揺が現れた。
「お、お酒だけとは……?」
「ある本に書いてあったのですが……」
神迎えの神事というのは、古くは、性的な儀式を伴っていたのではないかということをほのめかすと、船木の顔がさっと強《こわ》ばった。
「ま、まさか!」
即座にそう打ち消したが、すぐに思い直したように、
「あ、いや、確かに、昔はそういうこともあったと聞いておりますが……。今はそんなことは……」
しどろもどろながら、耀子と同じことを言った。
しかし、日美香は、船木松雄の妙におどおどした様子から、彼が真実を話してはいないのではないかと感じた。
やはり、何か隠している……。
そう感じざるを得なかった。
日美香が耀子から聞いた蛇ノ口という沼地まで来たときには既に陽《ひ》は傾き、西の空には血を流したような禍々《まがまが》しい色の夕焼けが広がっていた。
船木理髪店を出たあと、同じ商店街にある、海部米穀店を訪ねてみたが、結果は船木の場合と全く同じだった。日美香の顔を見るなり、海部重徳も船木と同じような反応を見せた。そして、奇《く》しくも、海部の血液型もO型であることが分かった。
船木も海部も日美香の父親ではありえない。
となると、あと残るのは、今は村長をしているという太田久信だけだった。
しかし、村長宅を訪ねてみると、あいにく太田は留守で、乳飲み子を抱いて出てきた妻の話では、公用で長野市に出掛けており、夜にならないと戻らないという話だった。
それで、ふと思いついて、村長の妻に蛇ノ口のことを聞いてみた。すると、それは、村長宅からさほど遠くない距離にあり、沼の入り口には鳥居がたっているので行けばすぐに分かるという。
ただ、そこは昔から神域とされており、しかも、蛇ノ口というのは、実際には底無しではないらしいが、水深二十メートル以上はゆうにあるといわれている深い沼だそうで、落ちたらまず助からない。むやみに近寄らない方がいいと村長の妻は言った。
なるほど、来てみると、村長の妻が言った通り、半ば朽ちかけたような木の鳥居がやや傾いて立っていた。
貫の部分に張り巡らされたしめ縄以外に、通行禁止とでもいうように、両柱の下方を一本の荒縄で結んであった。
実際、鳥居の近くには、「関係者以外立ち入り禁止」とか、「この先、底無し沼あり。危険。入るべからず」などと書かれた物々しい標識が立っている。
日美香はあたりを見回した。
猫の子一匹いなかった。
車道を少しはずれた獣道のような道から入ったところにあるので、あたりは、鏡山の麓《ふもと》の鬱蒼《うつそう》とした森が広がるばかりで、人影など全くなかった。
恐ろしいまでの静寂さが周囲を支配している。野鳥のさえずりや、枝から枝へ飛び立つような羽ばたきの音が聞こえるだけである。
鳥居の柱を結んだ縄をまたぎ越すのは造作もなかった。
日美香は鳥居を抜けると、生い茂る巨木の枝で空を覆い隠され、夕暮れでなくても薄暗いような森の中を慎重な足取りで歩み進んだ。
周囲の巨木から落ちた枯れ葉が長い間に蓄積されて出来たような地面は、足を踏み入れると、ずぶずぶとめり込むような湿った気味の悪い感触があった。
しかも、あたりには、腐った植物が出すメタンガスのような匂《にお》いがたちこめている。
しばらく行くと、赤褐色の、ほぼ円形の小さな沼が見えてきた。そのそばには、これまた小さな社が建っている。
その社に近づいて見ると、そこには、「一夜日女命《ひとよひるめのみこと》」と書かれた札が貼《は》られていた。キャラメルやらガムやら駄菓子の入った袋、さらに動物のぬいぐるみまで供えられていた。
それらの供物を見ても、この小さな社に祀《まつ》られているのが、幼い子供の祭神であることが窺い知れた。
社は意外に新しかった。塗られた朱が色あせていなかった。まるで、ここ数年の間に建て直されたようだ。しかも、供物を手に取って調べてみると、それが最近製造されたものであることが分かった。
耀子の話では、神事の名のもとに、一夜日女がこの沼に沈められたのは、百年以上も昔のことだということだった。
だが、それにしては、社といい供物といい、妙に新しい。むろん、信心深い村人が、村の犠牲になった幼い少女たちの死を悼《いた》んで、今もなお、その霊を手厚く祀り、供物を捧《ささ》げ続けているのだとも考えられたが……。
日美香は、これ以上近づくと危険というところまで、沼に近づいてみた。靴のつま先が、ずぶりと湿った沼地にめりこんだ。一瞬、そのままずるずると沼に引き込まれそうな恐怖を感じ、あわてて一歩後退した。
沼の縁《ふち》と地面との区別がはっきりついていないので、うっかりもう一歩踏み込めば、足元からずぶずぶと呑《の》み込まれていたかもしれない。
沼の表面は赤褐色にどろりと澱《よど》んでおり、あちこちに、水中の腐った葉や葦《あし》などから出るメタンガスらしき気泡がふつふつと湧《わ》いている。
沼の中央には、誰かが投げ込んだ白い花束が半分泥に埋まるようにして浮いていた。
蛇ノ口とはよくいったものだ。
まさに、それは、毒気を吐く巨大な蛇の開いた赤い口を思わせた。
こんな所に幼い少女たちが……。
その様を想像しただけで肌が粟立《あわだ》つ思いがした。
そのとき、背後でがさりと物音がした。野鳥のはばたきなどとは違う、もっと大きな物音だった。
日美香はどきりとして振り返った。
いつの間にか人影が立っていた。
女だった。
「やっぱり、ここにいらしてたんですね……」
神美奈代はかすかに笑いながら近づいてきた。
その口ぶりは、まるで日美香がここにいることを知っていたようだった。
「どうして……?」
自分がここにいることを知っているのかという意味でそう聞くと、美奈代は、義姉《あね》から聞いたのだと答えた。
「あね?」
「太田はわたしの実家なんです。今の村長は兄にあたるんですよ。さきほど、ちょっと用があって実家に寄ったら、義姉があなたのことを……」
美奈代はそう説明した。
「義姉はあなたが蛇ノ口に行ったのではないかと心配していたものですから、見に来たんです。時々、観光客が立ち入り禁止の標識を無視して入り込むことがあるものですから……」
前にも、数人の若い観光客が好奇心でここにやってきて、中の一人が沼に近づきすぎて、はまりそうになったことがあったのだと美奈代は言った。
仲間たちに引っ張り出されて、辛うじて助かったのだという。
「その人は下半身泥だらけで旅館に戻ってきたそうです。一人だったら、そのまま飲み込まれていたかもしれませんね……」
美奈代はそう言って、何がおかしいのか、くっくと声を殺して笑った。
日美香はこの陰気な中年女になんとなく薄気味悪いものを感じた。
年の頃は四十そこそこだと思うのだが、中年というより老婆のような印象があった。両頬《りようほお》はげっそりと肉が落ち、肌《はだ》にも生気のようなものが全く見られない。目にも光りがなく、ひどく疲れ果てているような様子だった。
まだ青年のように見える宮司の夫とは対照的だった。
「昔、ここで、祭りの最後の夜に、一夜日女が殺されたそうです……」
美奈代は暗い目で沼を見つめながら、ぽつんと言った。
「真夜中、神官たちによって、生きたまま沼に投げこまれたんですよ。そのときの一夜様の悲鳴が、近くの人家にまで聞こえてきたそうです……。今でも、このあたりの人は、大祭の夜になると、早々と雨戸を閉めて、眠るときは耳に綿でしっかりと栓をして寝るのだといわれています。そうしないと、どこからか一夜様の悲鳴が聞こえてくるようで、眠れなくなるからだと……。
底無しといわれていますが、底はあるみたいなんです。ただ、ひどく深いので、底はないようなものだと言われているんです。もし、この沼の底を浚《さら》ったら……すごいでしょうね。百体以上もの人骨が見つかるでしょう。この沼に沈められた一夜様の骨が……」
美奈代はそう言って、日美香の方を見て笑いかけた。日美香は、美奈代の話よりも、その笑顔にぞっとした。
「でも、底を浚うなんてことは実際には不可能でしょうけれど……」
美奈代はそうつぶやくと、ふいに、日美香の顔を見ずに言った。
「何の用だったんですか」
「え?」
「兄にです。兄に用があって訪ねたんでしょう?」
「それは……三人衆のことで話を聞きたかったんです。昭和五十二年の三人衆の一人が太田さんだと聞いたものですから」
「船木さんや海部さんのお宅も訪ねたそうですね……」
美奈代は薄笑いを浮かべて言った。
「どうしてそれを……」
日美香は驚いて聞き返した。
「海部さんから電話があったと義姉が言ってました。あなたがあの年の三人衆の中に父親がいると思っているらしくて、船木さんや海部さんの血液型を聞いていったと……」
「…………」
「兄の血液型も知りたいですか」
美奈代の目にはどこか勝ち誇ったような色があった。神家にいるときの、夫の目に脅え、使用人のようにかしこまっていた彼女とは別人のようだった。
日美香は黙って頷《うなず》いた。
「兄は……A型です」
A型……。
ということは、やはり、わたしの父親は太田久信だったのか。いや、少なくとも、太田久信が父親だという可能性はある……。
日美香がそう思いかけたとき、美奈代が、日美香の心の中を読んだように言った。
「でも、兄ではないですよ」
「え……?」
「兄があなたの父親ではありえないと言ったんです」
「……なぜ?」
「兄夫婦には結婚して十七年になるのに子供がいません。長野市の病院で調べてもらったら、原因は兄の方にあることが分かったそうです。無精子症とかいって、いわゆる子種がないんです。どうやら、子供の頃にかかった病気が元でそうなったらしいんですが……」
「でも、さきほどお会いしたとき、奥さんは赤ちゃんを……」
日美香はすぐにそう言った。村長宅を訪ねたとき、村長の妻はまだ一歳にもならないような乳飲み子を抱いていたのだ。
「あれは兄の子じゃありません。同居している従弟の子供です。稔さんの奥さんも役場で働いているので、昼間は義姉が面倒を見ているんです」
「稔さんて、まさか……矢部稔……?」
日美香ははっとした。
確か、達川の話では、倉橋一家を襲った犯人の矢部稔は、日の本村の村長の親戚筋《しんせきすじ》にあたり、今は村長宅に同居しているらしいということだった。
「そうです。あの矢部稔です」
美奈代は薄笑いを浮かべたまま、「あの」という言葉に力を入れて言った。
「二十年前にあの人が起こした事件のことは村中の人が知っています。だけど、誰もあんな事件のことなんか気にしてません。それどころか、ここでは、稔さんは村の功労者と思われているくらいです。あの人が刑期を終えてこの村に帰ってきたときなど、村をあげての歓迎会が催されましたし、今では村会議員をつとめ、いわば副村長のような立場にいますよ。兄の片腕のような存在になっています」
「功労者……」
日美香はあぜんとした。
幼児を含めた三人もの人間を惨殺した男が、いくら罪を償ったからとはいえ、その故郷では功労者として迎えられ、村議までつとめているとは……。
「もちろん人殺しはけっしてほめられたことじゃありませんが、あの人のおかげで、一度は中止になりかけた大神祭をやることができたんです。だって、あの事件のせいで、日女《ひるめ》の血を引く日登美様と春菜様がこの村に戻ってきてくれたんですからね。だから、村の人たちにとっては、あの人は前科者ではなくて功労者なんですよ。それに、そもそも、この村の人たちは、稔さんのしたことを殺人という風には思っていません。あれは当然の制裁だったと思っているんです。この村に生まれ育った男なら、掟《おきて》を破った者に対して当然なすべき制裁だったと……」
「制裁……」
「そうです。制裁なんです。日女様を妻にすることなど、人間の男がしてはならないことだからです。それがほんの一時許されるのは、大神からお許しを得た三人衆だけと昔から厳しく定められているんです。だから、その掟を破った者は、たとえ外の世界の人だったとしても、村の男たちによって制裁を受けなければならないのです。死に至る制裁を……」
「……母が村を出た理由も、その掟というのを破ったからですか」
日美香は美奈代に尋ねた。
「三人衆以外の男性の子供を身ごもったから、それで……」
そう言いかけると、美奈代は笑いながら言った。
「わたしは、兄はあなたの父親ではありえないと言っただけですよ。何も、あの年の三人衆の中にあなたの父親がいないとは言ってません。もしかしたら、あなたの父親は船木さんかもしれないし、海部さんかもしれない。ただ、まともに聞いてもどちらも本当のことは言わないでしょう。たとえ身におぼえのあることでもね……」
「あの二人はわたしの父親ではありえません」
日美香は思わずそう言ってしまった。
美奈代は怪訝《けげん》そうな顔をした。
日美香は、自分の血液型のことを彼女に話した。
「……だから、O型の男性はわたしの父親ではありえないんです。船木さんも海部さんもO型でした」
「それじゃ……」
そう言いかけてやめた美奈代の顔になんともいえない奇妙な表情が浮かんでいた。
「美奈代さん。母から何か聞いてはいませんか。わたしの父親のことで……」
藁《わら》にもすがる思いで、そう尋ねてみたが、美奈代はかぶりを振るだけだった。
聖二と婚約していた頃から、神家にはちょくちょく出入りしており、倉橋日登美とも顔を合わせることは何度もあったが、打ち解けて話し込むようなことはなかったと美奈代は言った。
しかも、彼女が神家に正式に嫁いだのは、昭和五十三年の四月のことで、そのとき、日登美は既に村を出たあとだったのだという。
「わたしは日登美様からは何も聞いていません……」
美奈代はそう言ったが、幾分ためらいがちに、「ただ……」と続けた。
「兄からあることを打ち明けられたことはあります……」
「太田さんから?」
「ええ……。あの年の三人衆のことで」
美奈代の口が急に重くなったようだった。言おうか言うまいか迷っているように見えた。
日美香は、ふと、この女の本来の性格はどちらかといえば陽気でおしゃべり好きなのではないかと思った。
神家での生活が彼女を変えてしまったのかもしれない。
そんな気がした。
「何を打ち明けられたというのですか」
日美香は焦《じ》れて詰問するように言った。
「あの年……」
美奈代はようやく決心がついたように口を開いた。
「確かに兄は三人衆に選ばれました。でも、兄は三人衆をつとめてはいないんです……」
「それはどういうこと……?」
「祭りの直前になって、聖二様……いえ、主人から、三人衆の役をある人に代わって欲しいと内々に頼まれたと言うんです。でも、三人衆のメンバーが変更になったことは、村の人たちには一切知らされませんでした。兄も主人から口止めされていたらしく、そのことを誰にも話さなかったようです。このことを知っているのは、主人と兄と、あの神事にかかわったごく限られた人たちだけだと思います。
三人衆が家々をまわるときは、蛇面というお面を付け、蓑笠《みのかさ》をすっぽり着てしまいますから、外見からは誰なのか村の人には分からないのです。
だから、村の人には、あの年の三人衆の一人は兄がつとめたと思われていますし、古い記録にも兄の名前しか残っていません。でも、本当は、あの年、兄がやるはずだった役は別の人がつとめていたんです……」
「その別の人というのは……?」
日美香は勢いこんで尋ねた。
「それが誰だったのかはわたしには分かりません。兄はそこまでは話してはくれませんでした。ただ、三人衆の交替が村人には知らされずにこっそりと行われたところを見ると、その人は、ふつうならば三人衆には選ばれる資格のない人だったのではないかと思います。三人衆に選ばれるには、幾つかの条件があるんです。まず、十八歳以上三十歳未満の独身男性でなければならないこと。祖父の代からこの村に住んでいる者でなければならないこと。母親が日女ではない者。この三つの条件を満たしていなければ三人衆に選ばれることはないんです。でも、たぶん、その人はこの三つの条件を満たしてはいなかったんです。だから……」
美奈代はそう言ってから、すぐにこう付け加えた。
「でも、この人が誰だったのか、兄に聞いても無駄だと思いますよ。兄は口が裂けても言わないでしょう。わたしに打ち明けたのだって、ひどくお酒に酔っ払っていたときで、つい口が滑ったにすぎないんです。それは他の人たちも同じだと思います。耀子様にしても船木さんたちにしても、たとえ何か知っていたとしても何も言わないでしょう。主人に口止めされている限りは……」
美奈代の目が暗く陰った。
「この村では、日の本神社の宮司の力は絶大なのです。今では、大日女様より力をもっています。村長など、主人の前では忠実な番犬みたいなものです。とはいっても……」
そう言って、美奈代はふっと自嘲《じちよう》のような歪《ゆが》んだ笑いを口元に浮かべた。
「力があるのは宮司だけですけれどね。宮司の妻なんて、自分が生んだわけでもない子供たちの世話に明け暮れて年を取っていくだけの子守女みたいなものですから……」
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第六章
その夜。
夕食が済んだあと、日美香は神聖二に呼びとめられ、「大事な話があるので、あとで茶室の方に来て欲しい」と言われた。
神家の母屋から独立するような形で、庭の中にぽつんと、小さな茶室が建てられている。そこへ行くと、聖二は既に来ていて、手慣れた手つきで茶をたててくれた。
話があると言っておきながら、黙って茶をたてるだけで、なかなかその話というのを切り出さない伯父に、日美香はやや苛立《いらだ》ちを覚えながら言った。
「あの、お話というのは……?」
「あなたは……」
聖二は茶器をかたわらに置くと、ようやく日美香の方を見て、おもむろに口を開いた。
「これからどうされるつもりですか」
「どうって……?」
「将来のことですよ。確か、大学に在学中ということでしたね」
「そうです」
「大学は続けるつもりですか」
「もちろん……」
「不躾《ぶしつけ》なことを伺うようですが、経済的にはどうなのですか。学費のこととか……」
「そのことなら」
大丈夫だと日美香は答えた。
「養母がわたしを受取人にして何口かの生命保険に入っていてくれましたので……」
それが総額にして数千万にも及び、大学を卒業するまでの学費や生活費くらいならなんとかなりそうだった。
「それで、大学を卒業されたあとは?」
聖二はなおも言った。
「就職するつもりでいますが……」
そう言いかけた日美香の脳裏に、新田佑介のことがさっとよぎった。
しかし、神聖二の前で、佑介のことをあえて口にする気はなかった。
達川の忠告のこともあったが、日美香の中で、佑介との結婚話をもう一度考え直したいという気持ちが日増しに強くなっていたからでもあった。
「就職するとしたら、今のままでは何かと不都合なのではありませんか」
ややあって、聖二はそんな意味ありげな言い方をした。
「不都合……?」
「名の通った大企業であればあるほど、両親の揃《そろ》った身元のしっかりした人を採用するということです」
「…………」
それは聖二の言う通りだった。日美香もそのことを考えたことがないわけではなかった。
だから、養母が生きていたときから、いわゆる大企業は就職先としては半ばあきらめていたのである。私生児というだけで、書類審査の段階ではねられることは目に見えていたからだ。
「それで考えたのですが……」
聖二は日美香の目を見ながら言った。
「此の際、あなたには神家の籍に入って戴《いただ》いた方がいいと思うのです」
「神家の籍に入る……とは?」
日美香は驚いて聖二の顔を見つめた。
「養子縁組をして、私の養女になって戴きたいということです。そもそも、あなたがこの村で生まれていれば、神家の籍に入っていたはずなのです。先代の宮司である父の籍に……。
それに、私生児というレッテルを貼《は》られたままでいるよりは、あなたの将来にとっても、その方が良いような気がするのです。たとえば、就職もそうですが、いずれ結婚ということになっても……」
「日女《ひるめ》には結婚は許されていないのではないですか」
日美香がすかさずそう言うと、聖二の口元に苦笑のような皺《しわ》が寄った。
「それはこの村でのことです。この村で暮らすのであれば、たとえ、表向きだけであっても、日女に結婚は許されませんが……。それとも、あなたには、日女として村に戻る気がおありですか」
「ありません」
日美香はきっぱりと答えた。
「私としても、あなたに日女としてここに戻って来て欲しいとは思っていません。あなたがふつうの日女であれば、そう願ったかもしれませんが……」
「母のときのように?」
「…………」
「そのためには手段は選ばない。そういうことだったのでしょう?」
「それはどういう意味ですか」
聖二は静かな声で聞き返した。
「昭和五十二年の夏に母の一家を襲った事件。あれは、最初から仕組まれた計画殺人だったということです。日女の血を引く母と姉を村に取り戻すために、矢部稔はあなたがたの手先として倉橋家に送り込まれたのです。最初から倉橋徹三と秀雄を殺害する目的で……」
日美香は挑むように伯父の目を見た。
もはや、達川正輝から聞いた話を荒唐無稽《こうとうむけい》とも妄想とも思っていなかった。達川はあの村に行けば分かると言っていたが、そのとおりだった。
「矢部稔は今では村会議員までつとめているそうですね。村長の片腕のような存在になっていると聞きました。彼が刑期を終えてこの村に戻ってきたときも、まるで村の功労者を迎えるように歓迎されたとも……」
神聖二は何も答えなかった。否定も肯定もせず、ただ黙って、日美香の顔を見ているだけだった。
「神家の籍に入れとおっしゃるならば、その前に、すべてを話してください。何も知らないで、このまま、あなたの養女になることはできません。この村で密《ひそ》かに何が行われてきたのか。二十年前、母の身に何が起きたのか。そして、わたしの父親は誰なのか……。
昭和五十二年の大神祭で、太田久信の代わりに三人衆をつとめたのは一体誰だったんですか?」
能面のようだった聖二の顔に僅《わず》かに表情が動いた。そこまで知ってしまったのかというような……。
「わたしの血液型はAB型です。ご存じかと思いますが、O型の親からAB型の子供は生まれてこないんです。でも、三人衆のうち、船木さんと海部さんはO型でした。残る太田さんは三人衆をつとめてはいなかった。そう考えると、わたしの父親として考えられるのは、太田さんの代わりに三人衆をつとめた人だけなんです。それは誰だったんですか。あなたならご存じのはずです」
狭い茶室で向かい合って座っている二人に重く長い沈黙があった。
「何を聞いても……」
聖二はようやく口を開いた。その顔にはある決心のようなものが現れていた。
「後悔しませんか」
「しません」
日美香はきっぱりと答えた。
「私から聞いたことを絶対に他言しないと約束できますか」
「……できます」
「それならば、すべてお話しましょう。あの年、太田さんの代わりに三人衆をつとめたのは……」
聖二は静かな声で言った。
「私の兄です」
日美香の僅かに目尻《めじり》のあがった大きな目がさらに大きく見開かれていた。
愕然《がくぜん》としたような表情をしていた。
どうやら自分の父親の正体までは想像していなかったらしいな……。
聖二は腹の中で思った。
日美香の父親が兄の貴明ではないかという疑惑は、日美香に会った直後から彼の脳裏に既によぎっていたことではあった。
日美香は確かに日登美によく似ていた。日登美に比べると、少し上背があるということ以外は、瓜《うり》二つといってもいい。
しかし、日登美とは何かが違っていた。顔の造作などはまるでクローンか何かのように似ていたが、その内側にあるものが全く違っている。
それは、ちょうど、同じ形状でありながら、中に灯《とも》されている灯の強さがまったく違う二個の灯籠《とうろう》のようだった。
日登美には弱い灯火しか感じなかったが、日美香の方には、内部で燃え盛っている力強い生命の灯のようなものを感じることができた。
生命力の強さが全く違う……。
そんな感じだった。
そして、この強い生命力は、彼にある人物をすぐに思い出させた。
しかも……。
日美香の様子をそれとなく観察しているうちに、彼女のちょっとした表情、仕草、ある角度から見た顔形、そして、何よりも、その目の奥から迸《ほとばし》り出るような強い意志の輝きに、聖二はしばしば胸をつかれるような思いがした。
兄の若い頃を思い出させたからだ。
日美香の中に貴明の血を感じた。
日美香という灯籠の中で燃え盛っている強い生命の灯は、まさにあの兄から受けついだものではないか……。
これは理屈を越えた直感のようなものだった。
しかし、この直感は、日美香の話を聞いているうちに半ば確信にまで高まっていた。
兄の血液型はB型だった。海部や船木がO型だとすれば、日美香の父親は兄以外には考えられなかった。
日美香を茶室に呼んだときは、養子縁組の話だけをするつもりだった。しかし、心のどこかで、それだけでは済みそうもないことを予感してもいた。
茶室を選んだのも、母屋から独立した建物だから、家人に聞かれてはまずい話でもここなら心おきなくできるという計算もあった。
もし、この娘の前で、これまでのいきさつをすべて詳《つまび》らかにしなければならなくなったとしたら、そのときはすべて打ち明けてしまおうとも覚悟を決めていた。
それに、日登美のときは最後まで話せなかったことも、この娘になら包み隠さず話せるような気がしていた。
この娘なら、すべてを受け入れるはずだ。
彼女はただの日女《ひるめ》ではない。
かつて一度も女児には現れなかったという大神のお印を持って生まれた特別な日女なのだから……。
日美香がどのような宿命と使命をもって生まれてきたのかは、聖二には全く見当もつかなかった。
しかし、お印をもって生まれたということは、彼女が、聖二同様、大神の意志を継ぐ者としてこの世に生み出された存在であることは間違いない。
だから、何を話し、どんなことを打ち明けようとも、彼女がそれを知ったことで、大神を裏切るような行動を起こすことだけはあるまいという強い確信めいたものが聖二の中であった。そんな思いが彼の最後の迷いを払ったのである。
思えば、すべては、二十年前、兄の貴明が何げなく買い求めた一冊の雑誌で、「くらはし」という小さな蕎麦《そば》屋の記事を目にとめた瞬間からはじまったのだ……。
あれは、昭和五十二年の正月が明けたばかりのことだった。
新庄家に婿入りしてからは、盆や正月でも、めったに実家には姿を見せなくなっていた貴明が、何の連絡もなく突然帰ってきた。一冊の雑誌をたずさえて。
たまたま目にした雑誌に、二十六年前に失踪《しつそう》した緋佐子によく似た若い女の写真が載っていたというのだ。
名前と年齢から考えて、赤ん坊のころ、母親と共に姿を消した緋佐子の娘の日登美ではないかと貴明は言った。
父の琢磨と相談し、聖二はすぐに上京すると、新宿の探偵社に出向いて、「くらはし」という蕎麦屋のことを調べさせた。
その調査報告から、緋佐子が既に亡くなっていたことを知った。さらに、日登美が結婚していて、二人の子供の母親になっていることも、そのうち一人が女の子であることも……。
聖二は一見《いちげん》の客を装って、「くらはし」に行ってみた。そこには、若|女将《おかみ》として生き生きと立ち働く日登美の姿があった。
そんな妹の姿を目のあたりにしたとき、聖二は、ふいにある感情に支配された。それは、赤ん坊の頃に生き別れた実妹に会えた嬉《うれ》しさ懐かしさなどというものとは全く異質の感情だった。自分でも理由の分からない怒りの感情に襲われたのだ。
若日女として一生を大神に捧《ささ》げるはずだった女が、蕎麦職人|風情《ふぜい》の妻になって、二人の子供までもうけ、こんなちっぽけで平凡な生活に満足して生きている。
そう思った瞬間、聖二は身体が震えるほどの怒りに襲われたのである。
この女を日女として村に取り戻そう。
そのためなら何をしてもかまわない……。
聖二はこのときそう決心して店を出た。
姉の耀子が子宮ガンにおかされていることがわかり、たとえ、手術をして助かったとしても、もはや日女としての役目はできなくなる恐れがあるという話を父から聞かされたばかりでもあった。
妹の瑞帆はまだ日女としては幼すぎる。もう二、三年は待たなければならない。
その年の大神祭で耀子に代わって神迎えの神事をつとめる新しい日女が必要だった。
そんなときに、これまで行方《ゆくえ》が知れなかった妹の消息がわかったというのも、大神の導きによるものだと聖二は思った。
だから、たとえ犯罪とよばれる手段を使ってでも、日登美とその娘を村に取り戻そうと決心したのだ。
しかし、そんな暗い決意をかためさせた心理の奥底には、妹がしがみついているちっぽけな人間の幸せとやらを完膚《かんぷ》無きまでにぶち壊してやりたいという、得体の知れない残酷な衝動があったことを、聖二自身は気が付いてはいなかったが……。
そして、その怒りの感情が、昔、妹だけを連れて村から逃げた母への彼の歪《ゆが》んだ思慕が起因となっていたということも……。
むろん、日登美に村の窮状を訴えたところで、彼女が家族を捨てておいそれと村に戻ってくるとは到底思えなかった。
それに、たとえ知らなかったにせよ、神の女、日女を妻にした男たちには死の制裁を与えなければならなかった。
それが古くから絶えることなく続いてきた村の掟《おきて》だったからだ。
そう……。
日美香の言う通り、あの二十年前の事件は、衝動殺人にみせかけた計画殺人だった。
聖二のたてた計画に直接かかわっていたのは、当時の宮司だった父琢磨と、兄の貴明、さらに太田村長の三人だった。
日の本寺の住職は、直接かかわりはしなかったが、この計画のことを前|以《もつ》て知っていた一人ではある。
いわゆる「鉄砲玉」に、十八歳になったばかりの矢部稔を使おうと言い出したのは、矢部の伯父である太田村長だった。
その見返りというか交換条件に、太田は、聖二と娘の美奈代との縁談をほのめかしてきた。
聖二はその条件をのんだ。
太田美奈代には恋愛感情はもちろん、何の関心ももっていなかったが、後ろ暗い犯罪計画の共犯者である村長一家と姻戚《いんせき》関係になっておくことは、外部に対してより強い結束をかためるために必要なことだと判断したからである。
計画は順調に進んだ。まず、貴明が「くらはし」の常連になり、頃合いを見計らって、矢部を雇い入れるように倉橋秀男にすすめた。この頃には、既に矢部とその母親は日の本村を出て群馬に移り住み、戸籍も移しておいた。
むろん、こうしたのは、矢部を雇い入れるとき、その出身地が長野県の日の本村であることが分かれば、何も知らない秀男と日登美はともかく、倉橋徹三に疑念を抱かれる恐れがあったからである。
それに、事件の背景に日の本村があることを隠蔽《いんぺい》する目的もあった。
すべては聖二の計画通りに進んだが、ひとつだけ誤算があったとしたら、それは、日登美の幼い長男の命まで奪ってしまったことだった。これは最初の計画にはなかったものだ。矢部に命じておいたのは、倉橋徹三と秀雄の殺害だけだった。
そのために、矢部に科せられた刑期が、若干見積もっておいたものよりは延長されてしまったが、それも大きな計画の狂いというほどではなかった。
結局、矢部は、模範囚ということで、定められた刑期よりは二年ほど早く出所できたのだから、結果的には、ほぼ計画通りといってもよかった。
そして、事件のほとぼりが冷めかけた頃、聖二は日登美の前に姿を現した。案の定、日登美は春菜を連れて生まれ故郷の村に帰ってくることを承知した。
何も知らないままに……。
すべては順調に進んだ。
あとは、日登美に少しずつ日女としての誇りと使命を果たす自覚を植え付けていけばよかった。
そして、いつか、あの事件の真相を知ることがあっても、その頃には、日登美自身がこれでよかったのだと思える日が来るだろうと信じていた。
日登美の中に眠っている日女の血さえ目覚めれば……。
しかし、そうなる前に一つのアクシデントが生じてしまった。
大神祭の一夜日女に決まっていた真帆がそのつとめができなくなってしまったために、急遽《きゆうきよ》、春菜を代役にたてなければならなくなったことだった。
日登美はまだ日女として目覚めてはいない。あんな形で家族を失った直後に、さらに残された幼い娘を失うことは耐えられないだろう。
しかし、だからといって、一夜日女の神事を取りやめることは、神迎えの神事を取りやめること以上にできない相談だった。
しかも、あの年の大祭は特別な意味をもっていた。
貴明が翌年の衆議院選に出馬することが決まっていたからである。兄を当選させなければならない。それには、いつにもまして、大神の御加護が必要だった。
そのためにも、大祭を取りやめることは絶対にできなかった。
だが、聖二にとって、思いもかけないアクシデントはこれだけではなかった。大祭の数日前になって、貴明が突然、自分を三人衆の一人にしろと要求してきたのである。
その年の三人衆を選ぶのは、表向きは、大日女の役とされていたが、実際には、聖二の胸先三寸で決められていることを兄は知っていた。
しかし、貴明を三人衆にすることはできなかった。既に三人衆のメンバーは決まっていたし、たとえ変更するとしても、三人衆になれるのは、十八歳以上三十歳未満の独身男性と定められているから、新庄美里と結婚して子供までもうけていた兄にはその資格がなかった。いくら聖二といえども、村の掟《おきて》を破るわけにはいかなかった。
そう言って一度は拒んだものの、貴明はなぜか執拗《しつよう》だった。三人衆のメンバーは変更せずに、その中の一人とこっそり入れ替わればいいではないかと言い出したのだ。太田久信なら自分とさほど体格が変わらないので、蛇面と蓑笠《みのかさ》をつけてしまえば、外見からは見分けがつかないだろうと……。
村の掟を破ってまで三人衆になりたがる理由を聞いても、兄は、「来年の衆議院選に勝つために大神の霊の力を自分の中に取り込みたいのだ」などともっともらしいことを言っていたが、それが本当の理由ではないことを聖二は薄々感づいていた。
おそらく、貴明は半年近く「くらはし」に通い、事件のあとも日登美母娘の元に足繁く通って面倒を見ているうちに、日登美に何らかの関心をもったのだろうと推測していた。
兄のことは、自分が一番よく知っていると聖二は思っていた。東京の中学に入学してから高校を卒業するまでの五年間、聖二は貴明と二人きりでアパート暮らしをしていた時期があった。
今、兄の身辺をあさっているマスコミ連中が、あの頃の兄の行状を知ったら、その早熟ぶりに度肝を抜かされるに違いない。
中学に入った頃から、既に身長が百七十を越え、体格においても頭脳においても、同年配の少年の平均をはるかに上回っていた兄は、制服を脱いで私服に着替えてしまえば、とても中学生には見えなかった。
実際、兄は大学生と偽って、夜になると盛り場をうろつき、大人顔負けの女遊びに勤《いそ》しんでいたようだった。
もっとも、こうした兄の素顔を知っていたのは聖二だけだった。
学校にいるときの兄は礼儀正しい優等生以外の何者にも見えなかったし、彼の中に潜んでいたもう一つの顔を教師にも学友たちにもけっして見せることはなかった。
高校を卒業して単身渡米したあとも、日本に帰ってくるまでの二年間、何をしていたか知れたものではなかった。
レストランの皿洗いなどのアルバイトをしながら食べていると本人は言っていたが、実際には、むこうで知り合った年上の金髪女たちとよろしくやって、食べさせてもらっていたのではないかと聖二は踏んでいた。
だから、週刊誌などで、貴明が現夫人との熱愛を貫くために政界に入っただの、政界きってのおしどり夫婦だのとまことしやかに書かれているのを見ると、腹を抱えて笑いたくなった。
そもそも、兄が政界入りを本気で考えるようになったのは中学の頃からだということを聖二は知っていた。
さらに言えば、兄の頭にその考えが最初に浮かんだのは、おそらく、あのときだったに違いないと思うことがあった。
あのときというのは、聖二が五歳、貴明が六歳の春だった。神家の子供として、日の本寺に秘仏として安置されている大神の像をはじめて見せられたときだった。
そのとき、日の本寺の住職から、覇王の印である天叢雲《あめのむらくも》の剣の話を聞いた。それが、遠い昔、大神の手から奪われ、大神の御霊は今もなお、失われた剣を求めて彷徨《さまよ》い続けているのだという話を……。
住職の話をいつになく真剣な顔つきで聞いていた貴明がそのとき、何を思ったのか、ぽつんとつぶやいたのだ。
「いつか僕が剣を取り戻してやるよ」と。
そんな兄が新庄美里と結婚した理由は一つしかなかった。彼女が大物政治家の一人娘だったからだ。中学の頃から、「この世で最も無意味で不毛な情熱は、恋愛の情熱だ」などと豪語していた兄に、それ以外の理由などあるはずもなかった。
ただ、新庄家に婿入りしたあとの兄の行状は、それまでの彼をよく知っている聖二から見ると、まるで別人かと思うほど「クリーン」になっていたのは事実だった。
新庄美里との交際がはじまった段階で、貴明はそれまで付き合いのあった女たちとは奇麗さっぱりと手を切り、完全に自分の過去を拭《ぬぐ》い去ってしまった。それは傍で見ていても感嘆に値するほどの手際の良さだった。もっとも、貴明にそうするように頼んだのは聖二自身だったのだが……。
つまらぬ女性スキャンダルなどのために、せっかくつかみかけた政界入りのチャンスを失ってほしくはなかったからだ。貴明もそのことは十分承知していたようだった。
しかし、その奔放な一面を知り尽くしていただけに、新庄家に入ってからはさぞ窮屈な思いをしているだろうと、聖二は兄の立場に密《ひそ》かに同情してもいた。
自らが村の掟《おきて》を破ることに若干のためらいを感じながらも、結局、貴明の要求を呑《の》んでしまったのは、こうした同情的な気分が尾を引いていたからかもしれなかった。
それに……。
聖二が兄の要求を呑んだ理由はもう一つあった。
それは、ある日、兄がふとつぶやいた一言だった。
「やっぱり妹だな。よく似ている……」
そうつぶやいたときの兄の目に浮かんでいた奇妙な表情が、聖二に中学の頃をふいに思い出させた。
この一つ年上の兄と故郷を離れて二人きりで暮らしていたあの頃のことを……。
聖二は中学の頃まで、自分が男なのか女なのかよく分からなかった。
生物学的には完全に男なのに、自分の中に、男だという自覚がまるで育っていなかった。
大神のお印をもって生まれた男児は、日女と同じように育てるという奇習が古くからあったせいで、女児のように育てられたせいかもしれない。
物心ついたときから、日女のように髪を伸ばし、小学校を卒業するときには、その長さは腰までに達していた。
東京の中学に入学が決まったときに、校風に従って髪は切ったものの、骨細の華奢《きやしや》な身体に制服を重たげに着た聖二は、どう見ても男装した美少女にしか見えなかった。
中学に入ると、すぐにクラスの悪がき連中の格好のいじめの対象にされた。少女のような外見が、同じ年頃の少年たちの歪《ゆが》んだ性的好奇心を呼び覚ましたらしかった。
慣れない都会生活の上に、毎日のように繰り返される級友たちの執拗《しつよう》なからかいや苛《いじ》め。
大神の申し子ということで、宮司夫妻にかしずかれ、まさに乳母日傘《おんばひがさ》で育った聖二にとって、それは天国から地獄に突き落とされたような日々だった。
そんななかで、聖二の唯一の心のよりどころは、一足先に上京して、一人でアパート暮らしをしていた兄、貴明だけだった。
しかし、貴明は、最初から聖二の味方ではなかった。同居をはじめた頃は、学校での弟の窮状を知りながら、なんら手助けすることもなく冷淡に傍観していた。
それどころか、貴明自身が、「相撲《すもう》だ、プロレスだ」などと何かと口実をもうけては、聖二を膝《ひざ》の下に組み敷き、気を失う寸前まで首を締め続けたり、後で青|痣《あざ》ができるほど殴ったりすることさえあった。
ただ、なぜ、兄が自分にこんな仕打ちをするのか、その理由には薄々気が付いていた。
親の目の届かないところで、胸のうちにたまっていた鬱憤《うつぷん》を密《ひそ》かに晴らそうとしているのだろうということは。
神家の長男として生まれ、しかも宮司夫妻の実子でありながら、村に伝わる因習のために、日女の子である弟や妹たちよりも下の存在として扱われてきたことは、プライドの高い兄には我慢のならないことだったに違いない。
とりわけ、一つ年下の弟と自分とのあまりの待遇の違いに、父の前ではけぶりにも見せなかったが、内心では不満と反感を募らせていたようだった。
子供心にも、聖二は兄のそんな心情を察していた。
そのせいかどうかは分からなかったが、級友にされれば憎悪と嫌悪しか感じないことでも、相手が兄だと、さほどの不快感も屈辱感もおぼえなかった。
だから、夏期休暇などで村へ帰ったときも、東京での兄の行状などについて、その奔放な女性関係をも含めて、父には一切告げ口めいたことはしなかった。
そうしたことが、やがて、兄の信頼を勝ち取ったのか、貴明の態度は次第に変化を見せていった。学校でも、弟を守るような姿勢を見せ始めたのだ。級友たちの執拗な苛めもある日を境にふっつりとなくなった。どうやら、貴明が陰で何かしたようだった。いじめっ子たちは聖二を見ると、脅えたような目をしてこそこそと逃げ出すようになった。
兄との間に単なる兄弟以上の強い絆《きずな》のようなものが生まれたのは、まさにあの頃からだった。
東京での生活が丸一年を過ぎる頃には、聖二は自分が生まれ育った村がいかに閉塞《へいそく》的で特殊なものであるか思い知らされていた。村での常識が外の世界では非常識とされていることも、村で今もなお祭りのときに行われていることを、うっかり外の人間に話そうものなら、とんでもない反応を呼び起こすだろうということも……。
うかつに級友と軽口もたたけなかった。おまけに持って生まれた性格もてつだって、外の世界にうまく順応できず、当然、友人は一人もできなかった。学校ではひたすら仮面を被《かぶ》り続けていた。胸襟《きようきん》を開いて話ができるのは、同じ環境で育った兄だけだった。
これは貴明の方も同じだった。弟よりは外の環境に順応する能力が高かった貴明は、それなりに都会での生活になじんでいるように見えたが、その心の奥底には、やはり外の世界に対する根強い違和感、その違和感が生み出す孤独感のようなものが潜んでいたようだった。
こんな二人が次第に身も心も寄せ合うようになったのはごく自然なことかもしれなかった。
二人が互いの将来のことを真剣に語り合うようになったのもこの頃だった。そして、二人で力を合わせて、いつか、遠い昔に失われた覇王の印である剣を大神の手に取り戻そうと誓いあったのも。
聖二にとって、貴明は、兄である以上にかけがえのない友人であり、同じ物部の血を引く頼もしい同志でもあった。そして、同時に……。
この頃、聖二は兄に対して恋にも似た奇妙な感情を密かに抱いていた。
普通なら異性に抱くべき感情を、クラスメートを含めた身近かな女性には全く感じることができず、こともあろうに、同性の兄に密かに抱いてしまった自分に、戸惑い悩んでもいた。
ただ、これは聖二の「片思い」ではなかった。むしろ、それはひょっとしたら、早熟な貴明の方が先に感じ、その思いがやがて聖二にも伝染したものだったのかもしれなかった。
それに気づいたのは、中学二年の冬だった。真夜中、隣に寝ていた兄が「寒くて眠れない」と言って起き出し、突然、聖二の布団《ふとん》の中にもぐりこんできたことがあった。
ストーブをつけるのはもったいないし危ないから、朝までこうして一緒に寝ようなどと言い出して、抱きすくめられたときにはさすがに驚き、困惑した。
それまでも、貴明は、「苛《いじ》められないために柔道の技を教えてやる」などと言っては、すぐに寝技にもちこんで、長いこと自分の身体の下に押さえこんだりすることはたびたびあった。
この頃、貴明は既に女性を知っており、同性愛的な傾向は全くなかったにもかかわらず、なぜか、弟の身体にもっともらしい口実をつけては触りたがった。
しかし、それらの行為はどれも子犬同士がじゃれあうような域を出なかったのに、この夜ばかりは、貴明の態度に何かひどく緊迫したものを感じて、聖二はかすかな恐怖感すらおぼえた。
結局、貴明はそれ以上の行為に出ることもなかったが、夜が明けるまでの長い時間を、聖二は緊張のあまり一睡もせずに過ごさなければならなかった。
ただ、その体験は聖二にとってけっして不愉快なものではなかった。それどころか、まるで自分が女になったような倒錯した喜びすら感じていた。
もっとも、兄に対するこうした感情は、高校に入り、それまでやや遅れていた第二次性徴期というべきものが聖二の身体に訪れ、身も心も男のそれに急速に変わっていく中で、自然に薄れていったところをみると、あれは、長い人生の間に、ほんのつかの間、蜃気楼《しんきろう》のように現れては瞬時にして消えてしまう、青春のゆらめきのようなものにすぎなかったのかもしれない。
しかし、薄れはしたものの、完全に消えてしまったわけではなかった。
そして、それは貴明の方も同じようだった。
兄が異様なほど日登美に執着したのは、ひょっとすると、日登美が自分の妹だったからではないかと、聖二は気が付いていた。
だから……。
今目の前にいる、この娘は、日登美という女の肉体を媒介にして、兄と自分とが精神的に交わってこの世に生み出した子といってもよいのだ。
いつか、物部の力が現代に蘇《よみがえ》るために必要な戦力として……。
……気が付くと、いつのまにか、あの蛇ノ口のほとりに立っていた。
あたりは夕暮れか夜明け前のように仄暗《ほのぐら》い。赤褐色の沼は、錆《さ》びた巨《おお》きな鏡のように、不気味な静けさを湛《たた》えて、日美香の前に横たわっている。
この沼は、千年以上にもわたって、数え切れないほどの幼い日女たちの身体を呑《の》み込んできたのだ……。
そう思ったときだった。
どこからともなく笑い声が響いた。
子供のような声だった。
それは最初はくすくすと忍び笑いだったのだが、だんだん、あはははという高笑いに変わっていった。
子供の笑い声は沼の周囲を覆う木立ちから降ってくるようにも、あるいは、沼の奥底から響いてくるようにも思われた。
そのとき……。
あたりを見回していた日美香の目がとらえたのは、沼の中央に忽然《こつぜん》と浮かび上がった幼女の顔だった。
オカッパ頭の白い首が沼の真ん中にぽっかりと浮かんでこちらを見つめている。
その顔に見覚えがあった。
春菜……姉さん?
それは、写真で見た春菜にそっくりだった。
幼女の首は笑いながら、ちょうど白い毬《まり》が水面を滑るように、沼の表面を滑って日美香の足元まで近づいてきた。
そして、そのきらきらと輝く澄んだ目で日美香を見上げた。
赤い唇が動き何か言おうとしている。
お……い……で……
おいで?
日美香は両足首に異変を感じた。
見ると、沼の縁から突き出た白く細い葦《あし》のようなものが両足首にからみついていた。
幼女の手だった。
沼の縁からぬっと突き出た両腕が、獲物を求める白蛇のように伸びてきて、その小さな手が日美香の両足首をつかんだのだ。
とその瞬間、もの凄《すご》い力で沼底にひきずりこまれた。
悲鳴をあげる間もなかった。
日美香の身体はずぶずぶと沼にひきずりこまれていった。
異臭を放つ泥が鼻や口の中にはいってきた。
息ができない。
苦しい……。
恐怖と苦しさで日美香は意識を失った……。
目を開けると……。
目の前に、異様な人物が座っていた。
単眼の憤怒《ふんぬ》の形相《ぎようそう》。
武人のような逞《たくま》しい上半身に、とぐろを巻いた大蛇の下半身……。
それは、日の本寺で見た大神の姿だった。
蛇神の周囲には、夥《おびただ》しい数の、白袴《しらばかま》姿の幼い少女たちが楽しそうに笑いながらまとわりついている。
一夜日女《ひとよひるめ》たちだった。
その中には、日美香を沼にひきずりこんだ春菜の顔もあった。
少女たちの白ずくめの身体は宙に浮いており、長い黒髪が海草のように上方にゆらめいている。
ここは沼底……?
ふと、日美香は自分が手に何か持っていることに気が付いた。
それは、装飾のついた一振りの古びた大剣だった。
それが最初は羽毛のように軽かったのに、少しずつ手の中で重くなっていき、やがて持っているのが苦痛に感じるほど重くなった。
日美香はその大剣を蛇神の前に差し出した。
すると……。
胸のあたりで組み合わされていた蛇神の両腕がするすると伸びてきて、その剣をつかんだかと思うと、蛇神の両手は大剣を捧《ささ》げもつような格好で、再び胸のあたりで組み合わされた。
そして、戻された剣を捧げもつ蛇神の顔に変化が現れた。
憤怒の形相が次第に消えていく……。
日美香は沼底にひきずりこまれたときの恐怖も苦痛も忘れて、蛇神の口元に満足そうな微笑が浮かぶのを見ていた。
やがて……。
蛇神を見つめる日美香の口元にもかすかな笑みが浮かんだ。
……目を覚ましたとき、日美香は布団の中にいた。
夢?
どうやら、夢を見ていたらしい。
うっすらと汗をかいていた。
窓は夜が明けはじめていることを示すような仄白《ほのじろ》さで染まっている。
昨夜、神聖二の話を聞いたあと、なかなか眠れず、布団の中で何時間も輾転反側《てんてんはんそく》していたことまでは覚えていた。
聖二の話の大部分は、達川正輝の推理を裏付けるものでしかなかったが、ひとつだけ、日美香に大きな衝撃を与えたことがあった。
自分の父親が新庄貴明だったということである。こればかりは想像すらしていなかった。
あの人が……。
日美香は週刊誌のグラビアやテレビの中でしか見たことのない男の顔を思い浮かべた。今までの彼女にとっては雲の上の存在だった男の顔を。
あの人がわたしの父親……。
不思議な気持ちがした。
それに、今見た夢……。
奇怪な夢だった。
まるで何かを暗示するような……。
日美香は布団の中で仰向《あおむ》けになって、じっと天井を見つめた。
養母の遺品の中から真鍋の本を見つけてからというもの、自分の中で少しずつ起こっていた変化が、今や、完全にこれまでの自分をくつがえしてしまったのを感じていた。
わたしはもう……。
今までのわたしじゃない。
わたしにはやるべきことがある。
それは……。
あの夢が教えてくれた……。
日美香はあることを決心していた。
やがて、どこかで夜明けを告げる鶏のかん高い鳴き声がした。
その喫茶店の扉を開けると、日美香は素早く店内を見渡した。
休日ともなると、さほど広くもない店内は客でいっぱいだった。しかし、新田佑介の姿はなかった。まだ来ていないようだ。
日美香は一つだけ空いていた窓際のテーブルについた。テーブルの上には、前の客が残していった空のコーヒーカップがそのままになっている。
この喫茶店に来たのは二カ月ぶりだった。前に来たときは四月の末頃で、店内にはまだ暖房が効いていた。それが今は冷房に切り替わり、店内の飾り付けも初夏らしいものに変わっていた。
しかし……。
この二カ月で一番変わってしまったのは、日美香自身だっただろう。
たった二カ月前のことが、遠い昔のように思えた。
テーブルを片付けにきたウエイトレスが注文を聞いて立ち去ると、日美香はバッグからシルバーグレイの小箱を取り出した。それをテーブルの上に載せた。そっと蓋《ふた》を開けてみる。
前にはあれほど輝いてみえた小粒のダイヤは少し輝きを失ったように見えた。まるで、ガラスのまがい物にすりかわってしまったように……。
今日ここに来たのは、新田佑介にこれを返すためだった。日の本村に三日ほど滞在して東京に帰ってきたとき、既にその決心がついていた。
それで、すぐに連絡を取ろうとしたのだが、あいにく、佑介は会社から命じられてデトロイトにある支社に一カ月ほどの予定で出張したと佑介の母親から知らされた。
その間、佑介からマンションの方に二度ほど電話がはいったが、国際電話ということで、あまり長くは話せなかったし、まして、電話で済ますような話でもなかったので、彼が帰国するまで待つことにしたのである。
日の本村であったことを佑介は知りたがったが、日美香は何も話さなかった。実父のことも、結局、調べてみたが分からずじまいだったとしか報告していなかった。
佑介はほっとしたようだった。
ただ、伯父にあたる日の本神社の宮司から養女にしたいという話があり、それを受けることにしたということだけは伝えておいた。
すると、佑介は意外にもそのことを喜んでくれた。実は、親戚《しんせき》の中には、日美香が私生児であることを知ってとやかく言う者も少なくなかったというのである。
戸籍の上だけでも両親がそろっていることになれば、かれらももはや反対はしないだろうと晴れ晴れとした声で言った。
どうやら、これで自分たちの結婚を妨げていた唯一の障害が取り除かれたと佑介は思い込んだらしかった。
昨夜の電話でも、「話したいことがあるから会いたい」としか言わなかったから、まさか、エンゲージリングを返すために呼び出されたとは夢にも思っていないだろう。
電話を切るときの彼の声は明るく弾んでいた。
考えてみれば、この一粒のささやかなダイヤがすべてを変えてしまったのだ。
もし、二カ月前のあの日、ここで佑介からこれを渡されなければ、八重が新田家を訪れることもなかった。そうすれば、八重があのような形で急死することもなかっただろう。そして、その結果、日美香が養母の遺品から実母の形見を見つけてしまうこともなかったに違いない……。
こうなることは、もうあのときに定まっていたのかもしれない。
日美香はふとそう思った。
それにしても、なんという皮肉な成り行きだろう。
前にここを訪れたとき、別れ話を切り出されるのではないかと内心脅えていた。それが今は、自分の方から別れ話をするために同じ男を待っているとは……。
新田佑介を嫌いになったわけではなかった。二カ月前に比べると少し気持ちは冷めていたが、けっして嫌いになったわけではなかった。むしろ、今ここで別れることは、日美香の中にわずかに残っていた彼への愛情の証しでもあるのだ。
日美香はあの不思議な夢を見てから、日女《ひるめ》として生きることを決心していた。ただ、日女として生きるといっても、母や祖母のような生き方をするというのではなかった。
大神のお印をもった日子でもある日美香には、ただの日女でしかなかった母たちとは全く違った宿命が待ちうけているはずだった。
それがどんなものなのか、具体的にはまだ見当もつかなかったが、一つだけはっきりしていることがある。
その道はけっして新田佑介と共に歩む道ではないということだった。
もし、佑介があの村で今もなお密《ひそ》かに行われていることを知れば、おそらく黙ってはいないだろう。あの元週刊誌記者のように……。
そこまで考え、日美香の形の良い眉《まゆ》が僅《わず》かに曇った。
三日前の新聞に載っていたある小さな記事を思い出したからだった。
それは自宅マンションのベランダから墜落死したという中年男の記事だった。男の名前は達川正輝。四十一歳。
事件のあった夜、達川の部屋から数人の若い男たちが出てくるのを目撃したという隣人の証言があったことから、他殺の線も考慮にいれて、もっか捜査中であると書かれていた。
日美香は、達川の墜落死の真相に薄々気が付いていた。おそらく、この件にも日の本村の男たちがかかわっているのではないか、と。
なぜなら、達川が日の本村の秘密に感づいており、何らかの形で、新庄貴明が総理になることを阻止しようとしているということを、神聖二に教えたのは日美香自身だったのだから……。
日の本村で神聖二から事の真相をすべて聞かされたとき、日美香の前には選択すべき二つの道が提示されていた。
それは全く正反対の道だった。
一方は、神聖二を含む日の本村の男たちを犯罪者として告発する道であり、もう一つは、物部の末裔《まつえい》として、彼らと同じ夢を実現するために共に歩むという道だった。
結局、日美香は後者を選んだ。
彼女の中で目覚めた物部の血がそうさせたのだ。
それは、葛原日美香という古い殻を完全に脱ぎ捨て、神日美香という新しい女に生まれ変わった瞬間でもあった。
もし、このまま新田佑介との付き合いを続けていれば、今度は佑介が達川の二の舞いになることは目に見えていた。
そうならないためには、佑介は何も知らない方がいいのだ。何も知らないまま、ここで自分と別れた方が彼のためなのだ。
いずれ、彼は彼にふさわしい伴侶《はんりよ》を見つけ、彼の人生を歩んでいくだろう。
日美香はそう思っていた。
こうすることが、一度は愛した男への、自分なりの最後の愛情の示し方なのだと……。
そのとき……。
喫茶店の扉につけられた鈴がちゃらんと鳴った。
誰かが入ってきたようだ。
日美香は入り口の方を見た。
新田佑介だった。
佑介はきょろきょろと店内を見回し、窓際の席に日美香の姿を見つけると、片手をあげ、子供のような笑顔を見せた。
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参考文献
「古事記」 角川文庫
「日本書紀」 講談社文庫
「白鳥伝説」 集英社 谷川健一著
「アマテラスの誕生」 秀英出版 筑紫申真著
「蛇――日本の蛇信仰」法政大学出版局 吉野裕子著
角川ホラー文庫『蛇神』平成11年8月10日初版発行