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翼ある蛇
今邑 彩
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翼ある蛇
第一章
平成十年、七月十一日。
渋谷《しぶや》駅のハチ公前で、柴田繁之はイライラしながら腕時計ばかりを見ていた。待ち合わせの時刻を一時間以上過ぎても、ガールフレンドの良美は現れない。
何かあったのかと思って、良美の携帯に何度も電話を入れてみたが、呼び出し音が鳴るばかりでいっこうに出ないし、こちらの携帯にも何の連絡も入らない。自宅の番号にもかけてみたが、家族はみな出払っているらしく誰も出なかった。
繁之のいらだちはピークに達していた。
あと十分待って、良美が現れなければ帰っちまおうと腹立ち紛れに決心したときだった。まるで心の中で発した怒声を聞き付けたように、携帯の着信メロディとして入れている「ドラえもん」のテーマ曲が間の抜けた音色で鳴った。
出てみると、良美からだった。
「何やってんだよ! ずっと待ってんだぞ」
繁之はまず怒りをぶつけた。
良美は、ひどくうろたえたような声で「ごめんごめん」と謝り、出掛けようとしていた矢先に、同居している祖母が倒れて、今、病院からかけているのだと言った。
祖母の容体はかなり悪いらしく、今夜が峠だと医者は言っている、連絡を受けた親戚《しんせき》たちも続々と病院に集まりつつある、とてもデートの約束があるからと言って抜け出せる雰囲気ではないと良美は早口に語った。
「そんな……」
昨夜電話で、「会いたい」と言ってきたのはそっちじゃないか。だから、大学の友人と遊ぶ計画をたてていたのに、それをキャンセルして付き合ってやろうと思っていたのに。一時間以上も待たせたあげくに、今更行けないはないだろうと思わず抗議しそうになったが、その言葉をかろうじて呑《の》み込んだ。
祖母の容体を気遣ってか、良美の声は涙混じりになっていたからだ。
「……それなら、早く知らせればいいのに」
それだけ愚痴っぽく言うと、良美は、救急車に一緒に乗り込むとき、慌てていたので、うちに携帯を忘れてきてしまったのだと弁解した。そして、「また連絡する」と言うなり、病院の待合室からかけているという電話を一方的に切ってしまった。
「ったく!」
繁之は手の中の携帯を睨《にら》みつけ、怒りをぶつけるように呟《つぶや》いた。
まあ、しかし、ばあさんが倒れたというのでは仕方がないか。
少し怒りがおさまると、そう思い直した。
さて、これからどうしようか。
問題は、いきなり空白になってしまった時間の使い道である。このまま下宿先のアパートにすごすご帰る気にもなれない。ゲーセンででも遊ぶか。それとも、いっそ、ナンパでもしようか。そういえば、最近、あっちの方も「ご無沙汰《ぶさた》」してるし……。
土曜の昼下がりということもあってか、ハチ公前には、人待ち顔の若い女性の姿が多く目についた。中には、彼のように約束していた相手にドタキャンくらった子もいるかもしれない。同病相|憐《あわ》れむ。その子を誘えば……。
そんなことを思いながら、物色するように若い女性たちをそれとなく目で追っていた繁之は、向こうのベンチに腰掛けていた、一人の若い女性と目が合った。
年の頃は二十歳前後というところだろうか。白いTシャツにブルージーンズという格好だったが、顔には濃いめの化粧が念入りに施されている。それがラフな服装とややミスマッチで、ちょっと異様な印象があったが、顔立ちそのものは悪くない。いや、かなり良い。あんな濃い化粧をしなくても、素顔で十分勝負できそうな娘だった。
その娘は、両足の間に大きな紙袋を置き、じっと食い入るようなまなざしで繁之の方を見ていた。
そういえば、さきほどから、こちらに秋波《ながしめ》とも取れる熱い視線を幾度となく送ってきていた。なんとなく気になる存在ではあったのだが……。
ただ、へたに話しかけて、そのときに良美が現れたりしたら厄介だと思ったので、相手の視線をそれとなくはずして、あまり見ないようにしていたのだ。
今度は視線をはずさずに見返すと、ふいに、その娘はにこっと笑いかけてきた。澄ましているときれいな娘《こ》という印象だったが、笑うとかわいい感じになる。そんな笑顔だった。
脈あり。
繁之の方もとっておきの愛想笑いを満面に浮かべた。
よし。あの娘にしよう。
娘の笑顔に勇気づけられ、そう決心すると、繁之はベンチから立ち上がり、ぶらぶらといった感じの足取りで、その娘の方に近づいて行った。
「待ち合わせ?」
そう聞くと、娘は横にかぶりを振った。誰かと待ち合わせているわけではないらしい。
「何してるの?」とさらに聞くと、「べつに」と答える。笑顔のままである。
なんとなく、暇つぶしにここにいるというわけか。繁之は娘の返事をそう解釈した。
「よかったら、お茶しない?」
繁之の方も笑顔を絶やさず、軽く言ってみた。ナンパは重くやったら失敗する。しつこいのも駄目だ。明るく軽くさりげなくやれば成功率は高い。そして、断られたらすぐに引き下がる。深追いしてはいけない。
「いいわよ」
娘は即座にそう言った。あっけないほど簡単だった。
とりあえず、近くの喫茶店に行った。
「名前は?」と聞くと、「まなご」と答えた。
「まなご? どんな字書くの?」
変わった名前だなと思って聞き返すと、娘は、「真実の真に女に子って書くんだよ」と言った。
真女子か。
「本名?」と聞くと、娘は、ふっと人を小馬鹿にしたような微笑を口元に浮かべた。
「まさか。ハンドルよ」
「ハンドルって、インターネットとかやるんだ?」
そう聞くと、娘は、「まあね」と答えた。
繁之も最近インターネットにはまっていたので、つい、その話題で話が盛り上がった。やがて、話題は、インターネットからテレビゲームの話になった。繁之はゲームにも目がなかった。「真女子」と名乗る娘も、ゲーム好きのようだった。
「あれ、やったことある?」
繁之がある対戦がたの人気ゲームの名前をあげると、「真女子」は、「やったことない。一人でできるのしかやらないから」とそっけなく言った。
「でも、あれ、めちゃめちゃ面白いよ。やったら、絶対はまるぜ。ねえ、暇だったらさ……」
繁之は、ワンテンポ置いて軽く言った。
「うちに来てやらない?」
これは、ふと思いついたという顔で、さりげなく言わなければならない。あまり熱心に誘うと、こちらの下心がばればれになってしまう。ホテル代を浮かそうという下心が。
「うちって家族とかいるんでしょ? わたし、そういうの煩わしい……」
「真女子」はそんなことを言った。あまり社交的なタイプではないらしい。
「いないよ。俺《おれ》、一人暮らしだもん」
繁之は、慌てて、大学に通うために上京してからずっとアパートで一人暮らしをしていることを言った。
「だったら……」
「真女子」は少し考えていたようだが、すぐににこっと例の感じの良い笑顔を見せると言った。
「行ってもいいわ」
同日。
M*ホテルの手前でタクシーを降りた喜屋武蛍子《きやんけいこ》は、容赦なく照りつける夏の日差しを避けるように、足早に歩いて、都心でも一際目立つ高層シティホテルのエントランスをくぐった。
ガラス扉を押してはいると、ホテルの中は、外の暑さがまるで嘘《うそ》のような涼しさだった。広々としたロビーを見渡していると、ガラス越しに中庭が見える喫茶コーナーらしきところで、沢地逸子が、「ここよ」というように片手をあげていた。
蛍子は沢地に駆け寄るように近づいた。
「遅れて申し訳ありません」
約束の午後三時をとうに過ぎている。そのことを詫《わ》びると、
「あらいいのよ。こちらこそ、土曜だというのに呼び出したりしてごめんなさいね。彼氏とのデート、キャンセルさせてしまったんじゃない?」
と、沢地は笑いながら言った。
喜屋武蛍子は、泉書房という、神田|神保町《じんぼうちよう》にある、中堅どころの出版社の編集部に勤めている。
一方、沢地逸子は某私立大学文学部の助教授で、英米文学の翻訳家でもあった。以前に、イギリスの女流作家の小説の翻訳を沢地に依頼したことがあり、それ以来の縁だった。
昨夜、その沢地から自宅の方に突然電話がかかってきて、「相談したいことがあるので、今滞在しているM*ホテルまで来て貰《もら》えないか」と言われたのである。
沢地逸子は、四十三歳になるがまだ独身で、成城の自宅に老母と暮らしていたが、その自宅を改築中とかで、工事が終わるまで、ホテル住まいをしているらしかった。
「それで、ご相談というのは……?」
注文を聞きにきたボーイにアイスコーヒーを頼んだあと、しばらく世間話などをしてから、ようやく蛍子はそう訊《たず》ねた。
「実は、一年くらい前から、ゼミの子たちとホームページを開設して、そこにエッセイのようなものを書いていたんだけれど……」
そのホームページに載せたエッセイがある程度たまったら、一冊の単行本にしたいのだという。その本を泉書房から出して貰えないかというのである。
それを聞いて、蛍子は思わず身を乗り出した。それはまさに願ってもない話だった。沢地逸子といえば、今や、本業よりも、フェミニズムの活動家として知られており、数年前に、テレビの討論番組に顔を出すようになってから、歯に衣《きぬ》着せぬズバズバとした物言いが大衆(とりわけ女性)受けしたのか、妙な人気が出て、その名前と顔は急速に世間に知れ渡るようになっていた。
そのせいか、泉書房で出した翻訳小説の方は、原作者の知名度がイマイチということもあって、売れ行きはそこそこといったところだったが、その後に大手出版社から出したエッセイ集の方は、いずれもベストセラーになっている。
「……わたしのエッセイ以外にも、掲示板にアクセスしてきた人たちの意見や悩みごとなども一緒に収録したら面白いんじゃないかと思うのよ。つまり、ホームページ全体を本にしてしまうわけ。そうすれば、インターネットになじみのない人たちにも広く読んで貰えるし……」
沢地はそう続けた。
作家や著名人が自分のホームページを単行本化するという試みは既に行われており、別に珍しくもなかったが、蛍子が編集者としてそれを手掛けるのははじめてだった。沢地の話を聞いているうちに、やってみたいという好奇心がまず首をもたげた。
それに、これまでは、地味めの学術書や翻訳本などを多く手掛け、良心的な出版社として、その道の人たちには高い評価と信用を得てきた泉書房だったが、昨年、創設者でもあった前社長の泉光之輔が亡くなり、その長男が社長の座におさまってからは、経営方針にやや異変が生じていた。新社長の関心は「良書」よりも「売れる本」を出すことにあるようだった。
しかも、新社長の意向とは別に、昨今の活字離れ現象や、出版界をも襲った深刻な不況という逆風の中でなんとか生き残って行くためには、良書しか出さないという、これまでの信念を多少曲げてでも、一冊でも多く売れる本を出す必要に迫られていることは、編集サイドにいる蛍子も日々痛感していることではあった。
沢地逸子の知名度からすれば、たとえベストセラーとまでいかなくても、それに近い数字は出せるはずだった。
沢地が口にした企画は、まさに、泉書房の方から申し出たいような話だったのである。編集会議にかけるまでもなく、この企画はスンナリ通るだろう。蛍子はそう踏んだ。
「さっそく編集会議にかけてみます。わたしの一存ではすぐにはお返事できませんが、たぶん、大丈夫だと思います。それで、先生のホームページをまだ拝見してないんで、アドレスを教えて戴《いただ》きたいのですが」
この話はもう決まったようなものだとは思いながらも、とりあえずそう言うと、沢地逸子は、「ホームページのアドレスなら後でメールで送る」と答えた。
「それでしたら……」
蛍子は、ビジネスバッグから取り出しかけた手帳の代わりに、名刺を出すと、その裏にプライベートのメールアドレスを走り書きした。名刺にもメールアドレスが刷り込まれていたが、それは、会社用のものだった。
「こちらのアドレスにメールしていただけませんか。自宅用になっていますので」
そう言って、名刺を沢地に渡すと、彼女はそれをちらと見ていたが、「わかった」というように頷《うなず》いた。
「ところで……喜屋武さん」
蛍子が筆記具をビジネスバッグにしまっていると、ふいに、沢地逸子が言った。
「あなた、確か、沖縄の出身だったわよね?」
「え? はい」
上京して十三年になるが、初対面の人に名を名乗ると、必ずと言っていいほど、「沖縄の人?」と聞かれた。「喜屋武」という特殊な名字のためだった。
別に沖縄出身だと知られることが嫌なわけではなかった。それなりの郷土愛のようなものは胸に秘めている。ただ、時々、少し煩わしいなと思うことはあった。たとえば、「鈴木」とか「佐藤」と名乗っても、だれも名前だけでその出身地までは推測できないだろう。でも、「喜屋武」と名乗っただけで、殆《ほとん》ど反射的に「沖縄の人?」と聞かれるのだ。
「沖縄の人?」と訊ねる相手の目が、被害妄想と言われるかもしれないが、まるで、外国人でも見るような好奇の色を湛《たた》えているような気がすることもあった。そんなとき、沖縄はまだ日本ではないのだろうか、とふと思うことがあった。
もっとも、多少の煩わしさはあったものの、この名字のおかげで、全く初対面の人でも、「沖縄」という話題を得て、話が弾み、すぐに打ち解けあえたこともあるので、けっこう恩恵も受けてはいたのだが。
そういえば、沢地逸子もその一人だった。最初に名刺を渡したとき、やはり、「沖縄の人?」と聞かれ、そのあと、初対面だったにもかかわらず、「沖縄」の話で盛り上がった。彼女はとりわけ沖縄に興味をもっているようだった。
「玉城村《たまぐすくむら》だったわよね?」
沢地はなおも言った。
蛍子は頷いた。
玉城村は、沖縄南東部の、「ぐすくと水の里」とも呼ばれる古い村で、ハイビスカスとエメラルドグリーンの海が広がる、いかにも沖縄らしい観光地としても名高い。
「ぐすく」とは、沖縄の方言で、「城」のことを言う。その名の通り、「ミントングスク跡」とか、「玉城城跡」などの、古い城跡が多く、観光名所にもなっている。
蛍子はその村に生まれ、高校を卒業するまでそこで育った。
「あそこには、アマミク伝説があったんじゃなかったかしら?」
沢地は、単なる世間話というには、興味しんしんという顔つきで言った。
沢地の言う通りだった。
アマミクはアマミキヨとも言われ、琉球《りゆうきゆう》神話に出てくる女神で、この女神が、ニライカナイ(海のはるか向こうの意)から、稲作と火を琉球にもたらしたという伝説があり、いわば、琉球の祖と言われている。
玉城村には、このアマミク伝説にまつわる名所が数多くある。ヤハラヅカサの海岸は、アマミクが最初にニライカナイから「降臨」した場所と言われ、今もなお、石塔と香炉が浜辺に供えられている。
また、浜川御嶽《ハマガーウタキ》は、アマミクがヤハラヅカサの海岸に上陸したあと、仮住まいをした場所として聖地の一つになっているし、ミントングスクは、アマミクが、ここで男神シネリキヨと暮らし、三男二女をもうけた城であるとされている。このアマミクとシネリキヨの子供たちが、後に、琉球の国王や神女《のろ》の祖になったのだという。
さらに、受水走水《ウケンジユハインジユ》と呼ばれる古木の茂った森林の中にある泉に面した土地は、アマミクが伝えたという稲作の発祥地とされている。
つまり、玉城村の殆どの観光名所は、この女神アマミクの神話にまつわる場所なのである。沖縄におけるアマミクとは、ちょうど日本神話のイザナミノミコトとアマテラスを足して二で割ったような大女神とも言うべき存在だった。
邪馬台国《やまたいこく》は沖縄にあったという(珍)説を唱える古代史研究家の中には、このアマミクこそが、あの魏志倭人伝《ぎしわじんでん》に記されている、邪馬台国の女王、卑弥呼《ひみこ》だったのではないかという人もいるくらいである。
この程度のことは、沖縄を紹介した観光案内の本に載っていることかもしれないが、蛍子が話すと、沢地逸子は、よほど興味があるらしく、熱心に相槌《あいづち》を打ちながら聞いていたが、ふと思いついたというように、
「沖縄では、今でも神事は女性たちだけで行われているって話を聞いたんだけれど、それは本当なの?」
と言い出した。
「それは……」
そうともいえるし、そうではないとも言える、と蛍子は思った。一口に、「神事」や「祭り」といっても、地域によって、実に様々な種類がある。古くから伝わる祭りもあれば、比較的新しい祭りもある。むろん、それらの全部が女性たちによって行われているわけではない。男性が中心になって執り行われる祭りも少なくない。
ただ、アマミク伝説にもみられるように、琉球の祖神は女神とされており、そのためか、古くから女性が神事の中心になってきたことは事実だった。
これは、中世にいたって、琉球王朝が神女団という国家的組織を作って、神女たちに高い地位と権力を与えたことによって、「沖縄では神事はすべて女性が司る」という印象をさらに強めたともいえた。
「たとえば、イザイホーは? 今でもイザイホーという神事は行われているの?」
沢地はなおも聞いた。
イザイホーというのは、古くから霊場として名高い久高島《くだかじま》で、十二年に一度、午《うま》の日に行われる神事のことである。三十歳以上の神女たちだけが集まって、祭りは四日間続けられる。それは、初日の「夕神遊び」という、夕方に神女たちが七つ橋という橋を七回渡る儀式からはじまって、最後の日には、「アリクヤの綱引き」という綱引きをして終わる。
いわば、イザイホーは、神女が神女となるための洗礼の儀式なのである。
この祭りの中心的な祭祀場《さいしじよう》である、斎場御嶽《セーフアーウタキ》は、かつては男子禁制の霊場中の霊場で、琉球国王といえども、第一の石段までしか参詣《さんけい》することは許されなかったという。
しかし、そのイザイホーも、今では、自然消滅という形に向かっている。1990年は、結局、神女がたたず、行われなかったし、次は、2002年だが、これもおそらく難しいだろうと言われている。
もともと、神女は家系によって、久高系、外間系と決まっており、神女の役は、父がたの伯母《おば》(叔母《おば》)から姪《めい》へ、あるいは、母から娘へ、あるいは姑《しゆうとめ》から嫁へと、女系によって受け継がれている。その神女の数が年を経るごとに櫛《くし》の歯が欠けるように少なくなっていっているのだ。神女がいなければ、神女の洗礼儀式であるイザイホーも成り立たない。
沖縄は「日本のひな型」とも言われ、沖縄の文化には、古代の日本の姿がそのまま残っていると言う人もいるが、実際には、その古い文化も次第に風化しているというのが現実だった。
そのことを言うと、沢地逸子は、「そう。せっかく古くから伝わる貴重なものなのに、残念ねえ」とため息混じりに漏らした。
蛍子もその意見には一応頷いたが、地元の人たちは、本土の人間が思うほど、古い風習や神事がなくなることを残念だとは思ってはいないようだ。わりと淡々と受け止めている。むしろ、こうした古いものがなくなっていくことを嘆き、その風化を阻止しようとしているのは、沖縄文化に興味をもった本土の人たちの方だった。
実際、玉城村にも、そうした古い文化に興味をもつ作家や音楽家などの「文化人」が本土から続々と移り住んできているようだ。
どうやら、都会に暮らし、時代の先端を突っ走っている人ほど、常に新しいものを追い求めている反動なのか、あるいは、新しいものを求めれば求めるほど、結局は古いものに行き着くということなのか、そういう傾向があるようだった。
それはちょうど、日本古来の文化が失われていくのを嘆くのは、当の日本人よりもむしろ日本文化に興味をもつ欧米の文化人の方であるという現象にどこか似ている。
沖縄が「日本のひな型」というのは、確かにそうかもしれない。本土と沖縄の関係は、そのまま、欧米のいわゆる先進国と日本との関係に置き換えることができるのかもしれない。蛍子は沢地逸子と話しながら、ふとそんなことを思っていた。
シャワーを浴びて出てくると、「真女子」はテーブルの上にB5サイズのノートパソコンを置いて、それを覗《のぞ》き込んでいた。手持ちのPHSなどとつなげば、外でも気楽にインターネットができる、いわゆるモバイルタイプと言われている型である。
繁之もノートパソコンをもっていたが、繁之のものではない。「真女子」が持参したものらしかった。
タオルで濡《ぬ》れた髪を拭《ふ》きながら、「ネット?」と聞くと、「真女子」は、「うん。ちょっと、メールチェック」とだけ言って、すぐに用が済んだらしく、パソコンの蓋《ふた》をぱたんと閉じた。そして、そそくさとそれをPHSと一緒に大きな紙袋の中にしまいこんだ。
「きみもシャワー浴びてきたら?」
繁之は、そろそろという期待をこめて言った。
時刻は午後八時を少し過ぎていた。渋谷の喫茶店を出てから、中目黒にある繁之のアパートまで連れてきたあと、誘う口実にしたテレビゲームを二人で二時間ほどやって、腹ごしらえに、宅配ピザを食べ終えたばかりだった。
「真女子」はそれでも帰るそぶりを全く見せなかった。これでシャワーを浴びに行ったら、もう完全にこっちのものだと繁之は思っていた。
「そうね。汗かいちゃったし、シャワー借りようかな」
「真女子」は、殆ど無邪気といっても良いような声で言うと、立ち上がった。
小学生でもあるまいし、この後、どうなるのか、見当がつかないわけではあるまい。ということは、向こうもはなからそのつもりだったということか。たいしてやりたくもないテレビゲームを二時間も付き合ったり、わざと汗をかかせるために、エアコンの設定温度をいつもより高めに切り替えたりと、そんな小細工を弄《ろう》する必要もなかったかな。
小型冷蔵庫から取り出した缶ビールのプルトップを引き抜きながら、繁之は、彼女が消えたバスルームの方角にちらと視線を投げかけながら、小狡《こずる》そうな笑みを浮かべた。
だけど、ちょっと変わった子だな……。
ビールを飲みながら、女が使っているシャワーの誘惑的な音に耳をすませていた繁之はふと思った。
名前を聞けば、インターネットのハンドルなどと答えるし、年を聞けば、「十八歳以上二十五歳未満」なんて答え方をするし、東京出身ではないようなので、「田舎はどこ?」と聞けば、「南。ずっと南の方」などと答える。
ふざけているのかと思えば、答える顔はまじめそのものだった。
そもそも、若者の待ち合い場所として名高い渋谷のハチ公前で、誰を待つわけでもなく、おたく族がよく持っているようなダサイ紙袋をさげて、ぼうっとベンチに座っていること自体、変といえば変ではあった。
ひょっとしたら、これは逆ナンパだったのかも。
繁之は、ようやくそう思い当たった。彼女はあそこで男が声をかけてくるのを密かに待っていたのではないか。そういえば、あの瞬きもせずに、繁之をじっと見つめていた目は、まるで蛇が狙《ねら》った獲物を見つめるような目だったじゃないか……。
それにしても……。
繁之の目が、「真女子」が大事そうにさげてきた大きな紙袋を捕らえた。
こんなでかい紙袋……何が入ってるんだ?
ふと好奇心にかられて、中を覗いてみたくなった。袋の上にはふわりとタオルのようなものがかけてあった。繁之は、そのタオルを取り去って、中を覗いた。
奇妙なものばかり入っていた。
さきほど使っていたB5サイズのノートパソコンとPHS。他には、大型のサバイバルナイフが一丁。台所で使うような水色のゴム手袋。あとは、テニスボール大の黄色いゴムボールが一つ入っていた。
若い女が大事そうに持ち歩くには妙なものばかりだったが、繁之を一番驚かせたのは、これらの品に混じって、電動ノコギリが入っていたことだった。
ノコギリ?
ノコギリなんて、一体、何に使うんだ……?
繁之は不思議そうな目でその物体を見つめた。
風呂場《ふろば》のドアががたっと開く音がしたので、柴田繁之は慌てて、覗き込んでいた紙袋の上にタオルをかぶせると、それを元あった場所に戻した。
何食わぬ顔で待っていると、「真女子」が入ってきた。
その姿を一目見て、繁之はあぜんとしてしまった。「真女子」は何も身につけてはいなかった。バスタオルも巻き付けていない。まったくの素っ裸だった。
しかも、剥《む》き出しの胸や下腹部を手で隠そうともせず、堂々として素っ裸のまま立っている。
それはまるで、まだ羞恥心《しゆうちしん》というものが育っていない幼女が風呂からあがってきたような格好だった。
「バ、バスタオルなら……」
繁之の方がうろたえてしまって、新しいバスタオルなら風呂場の脱衣場に置いてきたはずだが、と思いながら言った。
しかし、よく見ると、「真女子」の身体《からだ》に水滴などはついていなかった。ということは、タオルで身体を拭いたということで、バスタオルの在りかが分からなかったわけではないらしい。
良美でさえ、この部屋でシャワーを使ったあと、これほど堂々と素っ裸で出てきたことはなかった。必ず、バスタオルを巻き付けるか、少なくとも下着くらいはつけていた。
それなのに、この女ときたら……。
相手がこれほど露骨に意思表示をしてくれたのだから、繁之としては、もっと喜ぶべきなのだろうが、まさかここまで挑発的というか、あっけらかんとした女だとは思ってもいなかったので、調子を狂わされて、戸惑うばかりだった。
しかも、やや異様に感じたのは、全身にシャワーを浴びた様子なのに、顔の化粧は落としていないことだった。白い仮面のようにも見える濃いめの化粧が施されたままだった。もっとも、さきほど覗いた紙袋の中には化粧品や化粧道具の類いはまるで見当たらなかったから、落としてしまうと帰るときに困るとでも思ったのかもしれないが……。
態度はまるで幼女のようだったが、その身体はけっして幼くはなかった。出るところは出て、くびれるべきところはくびれている。「十八歳以上二十五歳未満」と本人の自称通り、幼くもなく熟れすぎてもいない、まさに食べ頃の瑞々《みずみず》しい果実のようだった。
ただ、繁之の目を思わず釘付《くぎづ》けにしたのは、その白い裸身だけではなかった。「真女子」の形よく盛り上がった胸の片方に、大人の掌大《てのひらだい》の薄紫色の痣《あざ》のようなものがあったのである。
一瞬、「タトゥ?」と思った。刺青《いれずみ》かと思ったのだ。若い子の間で、太ももや胸などに、小さな薔薇《ばら》の花などの刺青を入れるのが、一種のファッションとしてはやっていると聞いたことがあった。それも、後ではがせるシールではなく、実際に墨を入れるのだという。以前、そんな女の子の一人と良美の目を盗んで浮気したことがあった。
しかし、刺青にしては、妙な柄だった。それはまるで、魚か爬虫類《はちゆうるい》の鱗《うろこ》のように見えたからだった……。
「そこに寝て」
女の胸の奇妙な「模様」に見とれていた繁之は、「真女子」にそう命令口調で言われて、「え?」という顔をした。
「真女子」は、にこりともしない顔でベッドを指さしていた。
「服を脱いで仰向けに寝て」
なおも言う。
な、なに。裸で仰向《あおむ》けに寝ろって、まさか、それって、女上位ってことか?
繁之はいよいようろたえながら思った。ガールフレンドの良美とは、いわゆる正常位でしか試したことがなかった。彼としては、もっといろいろな体位を「研究」してみたかったのだが、お嬢さん育ちの良美は、そういうのをすべて「変態」扱いして受け入れてはくれなかった。
この女、まじめそうな顔に似合わず……。
ちょっと変わっているな、という印象ははじめからもっていたが、それでも全体的な雰囲気は、いいとこのお嬢さん風であった。コギャル風ではまったくない。髪も黒いまま染めてはいないし、ピアス等もつけていない。化粧もやや濃いとはいえ、あのコギャル独特のヤマンバ化粧とは全く違う。
しかし、人は(とりわけ女は)見かけによらないもので、相当遊んでいるようだ。そうでなければ、はじめて来た男の部屋で、こんな風には振るまえないはずだ。
内心驚きながらも、嫌ではなかった。それどころか、久しぶりに、初体験のときのような、あの興奮と新鮮さを感じていた。
素っ裸のまま妙に落ち着き払って、冷ややかな目で自分を見下ろしている「真女子」とは正反対に、まるで自分の方が女になったような羞恥心のようなものさえ感じながら、そして、そのことに今まで味わったこともないような奇妙な倒錯した快感を感じながら、繁之は、着ていたものをそそくさと脱ぎ捨てると、ベッドの上に仰向けに横たわった……。
M*ホテルの二階にある中華レストランで沢地逸子と会食した後、蛍子が自宅に戻ってきたのは、午後九時を既に回った頃だった。自宅といっても、2LDKの賃貸マンションである。
リビングでは、十七歳になる甥《おい》の豪《ごう》がコントローラを手にテレビの前にあぐらをかいて座りこみ、格闘技系のゲームに夢中になっていた。
「ごはん、食べたの?」
と訊《き》くと、豪はゲーム画面から目を離さず、「カップメン、食った」と答えた。
「火呂《ひろ》は?」と重ねて訊ねると、豪は相変わらず上の空で、「さあ。バイトじゃない?」と言う。
火呂というのは、今年二十歳になる豪の姉のことである。三十一歳になるが独身である蛍子は、このマンションに、姉の忘れ形見である甥と姪と同居していた。
姉の康恵とは十二歳も年が離れていた。三年前、沖縄に住んでいた姉が癌《がん》で他界したとき、火呂はまだ高校生、豪は中学生だった。康恵の夫は照屋憲市《てるやけんいち》といって、沖縄の方言でいう海人《うみんちゆ》、つまり漁師だったが、八年前に漁船の転覆事故で亡くなっていた。
康恵は、母校でもある小学校の教師をしながら、子供たちを女手ひとつで育てていたのである。
康恵が亡くなる前から、東京の大学への進学を希望していた火呂を蛍子が預かることになっていた。ただ、まだ中学生だった弟の方を沖縄に一人で残しておくわけにもいかなかったし、東京に行きたいという豪自身の強い希望もあって、蛍子が二人まとめて引き受けたというわけだった。
姉弟といっても、火呂と豪は、いわゆる異父姉弟である。豪の父親は照屋憲市だったが、火呂の実父は、康恵が東京にいた頃に付き合っていた高津広武《たかつひろたけ》という高校教師だった。康恵は、大学の教育学部にいたときから、高津と付き合っており、将来は結婚するつもりでいたようだ。
一度、夏期休暇で帰省したとき、高津を伴ってきて、当時まだ健在だった両親に、「将来を約束した人」といって紹介したことがあった。そのとき、小学生だった蛍子は、姉の恋人を見て、「背の高いかっこいい人だな」と思ったことをおぼえている。そのときの姉はまぶしいほど美しく幸福そうに見えた。
しかし、康恵は高津とは結婚できなかった。あれは昭和五十三年の春のことだった。学生時代から山に親しんでいた高津は、奉職する高校の山岳部の顧問をしていた。春休みを利用して、山岳部の教え子たちと北アルプスに登り、そこで雪崩《なだれ》事故に巻き込まれたのである。帰ってきたときは冷たい遺体となっていた。
恋人の死を知らされたとき、康恵は既に高津の子供を身ごもっていた。父親のいない子を産んでも苦労するだけだという両親の反対を押し切って、康恵は高津の子を産んだ。生まれて来たのは小さな女の子だった。康恵は、その女の子に、恋人の愛称だった「ヒロ」という名前を与えた。
その後、体調を崩したこともあって、姉は赤ん坊の火呂を連れて、沖縄の実家に戻ってきた。幼なじみでもあった照屋憲市と結婚したのは、それから二年後のことだった。当時の姉の心の中には、死んだ恋人のことしかなかったようだが、結局、姉が初恋の人だったという照屋憲市の情熱に押し切られた風だった。
まだ幼かった火呂が足繁く通ってくる照屋になついてしまい、照屋の方も火呂をわが子のように可愛《かわい》がってくれたということが、姉に結婚を決意させた大きな要因だったのかもしれない。姉は夫を得るというよりも、火呂に父親を与えるつもりで、照屋憲市と一緒になったのかもしれなかった。
すぐに豪が生まれたが、子煩悩なところがあった照屋は、二人の子供をわけへだてなく可愛がった。照屋とは血のつながりがないことは、誰が言うともなく、自然に火呂に知れてしまったが、そのことで父娘関係が変わるということはなかったようだ。
火呂と豪の関係も、異父姉弟とはいっても、ふつうの姉弟と全く変わりなかった。いや、ふつう以上だった。喧嘩《けんか》するほど仲が良いとは言うが、この二人ほどよく喧嘩する姉弟を蛍子は他に見たことがない。
それもただの口喧嘩ではない。まるで男同士のような取っ組み合いの喧嘩をする。蛍子も姉同様、大学進学を機に上京したのだが、夏期休暇などで帰郷するたびに、よく姉の家に遊びに行った。行くたびに、二人は、窓ガラスを割り、襖《ふすま》を押し倒すような派手な喧嘩をしていた。
その後、火呂が高校に入ってからは、さすがに取っ組み合いの喧嘩はしなくなったようだが、口争い程度のことは相変わらず毎日のようにやっていたらしい。
しかし、派手に喧嘩する一方で、互いを思い合う姉弟愛も、並のきょうだいよりは遥《はる》かに深いようでもあった。
康恵が亡くなったとき、母親が卒業した東京の大学の教育学部を受け、将来は母親のような小学校の教師になると決めていた火呂が、突然、大学には行かないと言い出した。高校を出たら働いて、自分が豪を大学まで行かせるというのである。一方、弟は弟で、中学を出たら自分が働いて、「姉ちゃんを大学に行かせる」と言い出した。
結局、康恵が二人の子供に残した遺産が、生命保険金も含めてそれなりにあったので、二人が大学を出るまでの資金くらいは、その中から十分賄えるということを説得して、一件落着したのだが、そのとき、蛍子は、いざとなったときの二人の絆《きずな》の強さを見せつけられた思いがした。
とりわけ、火呂が弟に寄せる愛情の深さと濃《こま》やかさには、時折、驚かされた。今でも玉城村で殆《ほとん》ど伝説のようになっている話がある。それは、まだ八歳だった火呂が死にかけた弟の命を「呼び戻した」というものだった。
五歳のとき、豪は、浜辺で一人で遊んでいて波にさらわれたことがあった。助けられたときは意識不明で、生死の境をさまようような危険な状態が丸一日続いた。そのとき、火呂は、何を思ったのか、夜、一人で浜辺に行き、海に向かって歌を歌った。それは火呂が即興で作ったという不思議な歌だった。
その高く澄んだ歌声を聞いた人たちは、とてもこの世のものとは思えなかった、まるで神女が歌う神歌のようだったと口を揃《そろ》えて語った。弟の魂を返してくれるよう、海神様にお願いしてきたのだと火呂は後になって言った。その祈りの声が海神《わだつみ》に届いたのか、明け方近くになって、豪はぽっかりと目を開けた。
目が覚めると、五歳の幼児は、「まっすぐ続いている真っ白な道を行こうとしたら、豪、そっちへいっちゃだめだよ。こっちへもどっておいでって声がした。姉ちゃんの声だった。だからもどってきた」と、あどけない目をして語った。
沖縄には古くから「おなり信仰」という独特の風習がある。「おなり」とは女のきょうだいのことをいい、「おなり」は、男のきょうだいである「えけり」を守るために、高い霊力《セジ》が備わっているという信仰である。
「おなり」の霊力はその髪や手織りのハンカチに篭《こ》もると言われ、昔は、兄や弟が船出するときや戦に出掛けるとき、妹や姉の髪を守り袋に入れて持たせたり、手織りのハンカチを持たせたりしたのだという。
古い民謡の中には、「船出するえけりの船の舳先《へさき》に白鳥が一羽止まっている。その白鳥は、えけりを見守るおなりの魂だよ」という意味の歌もあった。
実際、あの水難事故のあと、豪は、火呂の髪の毛を入れた守り袋を持たされ、今も肌身離さずつけているようだ。
女性が中心となって神事を司るという沖縄独特の信仰形態の源は、この「おなり信仰」にあるのだという人もいる。その昔、琉球国王が自分の姉妹を巫女《みこ》として最高の神職につけ、神の託宣によって、政治を執り行ったのも、この「おなり信仰」ゆえだったというのである。
こうした古い風習は、イザイホーのような祭り同様、時の流れとともに廃れつつあるが、それでも、その信仰の「心」は親から子へ、またその子から孫へと語り継がれ、あるいは、遺伝子の中に組み込まれた記憶が一筋の強靱《きようじん》な血脈となって、風習そのものが滅んだあとも、子孫の魂の中に宿り続けて行くのかもしれなかった。
二度目のシャワーを浴びていた繁之のつま先で、薄赤い水が小さな渦をまいて、排水口に吸い込まれていった。
それは、繁之の身体《からだ》についていた「血」が洗い流されたものだった。血といっても怪我《けが》をしたわけではない。
行為中、終始自分の上にいた「真女子」がようやく離れたとき、女の内股《うちまた》にベッタリついていた赤いものを見て、繁之は驚き慌てた。
血?
少し身を起こして見ると、自分の「もの」にも血がついている。
ということは……。
この女、まさか、バージン?
一瞬、それは処女が破瓜《はか》のときに見せる血かと思ったからだ。
「きみ……はじめてだったの?」
生唾《なまつば》を飲み込んでから、そう聞くと、「真女子」は鼻先で笑うような表情を見せて、
「まさか。今、生理中なのよ」
とそっけなく言った。
なんだ。生理の血か……。
安心したようながっかりしたような複雑な気分で思った。
遊び慣れていると思った女が処女だったのかと思い、なぜか得したような気分になった後で、生理の血だと聞かされて、がっかりしながらも、少なくとも妊娠の心配だけはなさそうだなと思い返して安心したのである。
それにしても貴重な体験をしたものだな……。
シャワーを浴びながら、繁之はにやつきそうになりながら思った。
生理中の女とあんな体位でセックスすることができるなんて。良美とでは生涯|叶《かな》えられそうもない体験だった。凄《すご》い拾い物をしたと思う。このまま一度だけで別れてしまうのは勿体《もつたい》ない。最初はそのつもりでいたが、味わった刺激の意外なほどの大きさに、できればこの刺激をもっと定期的に味わい続けたいと思いはじめていた。
そうだ。あの女、PHS持っていたっけ。番号を聞いて、これからも連絡が取れるようにしておこう。良美と別れるつもりはないが、時々、つまみ食いするくらいならかまわないだろう。こんなことになったのも、もとはといえば良美が悪いんだ。あいつがドタキャンなんかくらわせるから……。
繁之はそんな虫のいいことをきわめて自己中心的に考えながら、シャワーを浴び終わると、下半身にだけバスタオルを巻きつけて風呂場《ふろば》を出た。
部屋に戻ると、「真女子」はまだ裸のままだった。座卓の上には、ビールのロング缶が置いてあり、二個のグラスが出ていた。グラスにはすでに琥珀色《こはくいろ》の液体が注がれて、いかにも旨《うま》そうな白い泡をたてている。
「勝手に冷蔵庫から出しちゃったけれど、いいよね」
「真女子」は、口ほどには悪びれた様子もなく言った。
「ああ、かまわないよ」
繁之はそう言って、口の方から迎えにいくような感じで、グラスを取るとビールを一気に喉《のど》に流し込んだ。
うまい。飲み干して、泡のついた口を手の甲で拭《ふ》きながら、ふと見ると、グラスの縁に白い粉のようなものが付着しているのに気が付いたが、さほど気にもとめなかった。
「ねえ、PHSの番号、教えてよ」
自分の携帯をもってくると、繁之はさっそく言った。相手の番号をそのまま登録してしまうつもりだった。
「番号知って、どうするの?」
女が訊いた。
「どうするって、連絡とるために決まってるだろ」
「何のために連絡とるの?」
女はそんなことをまじめな顔で言った。
「また会うために決まってるじゃん」
こいつ、おちょくってるのか、と内心ややむっとしながらも、繁之はかろうじて笑顔を保った。
「また会う気はないわ」
木で鼻をくくるような返事が即座に返ってきた。
「え……?」
繁之の顔からさすがに笑みが消えた。いきなりパンチをくらったような顔になって、「真女子」の顔を見つめた。
「というか、また会うことはないと思うわ」
「真女子」の方も、あの瞬きもしない蛇を思わせる目でじっと繁之の目を覗《のぞ》きこむように見つめながら、そんなことを言った。
なんだ、一度っきりってことかよ。
女の謎《なぞ》めいた言葉をそう解釈した繁之は、腹の中で舌打ちしながらも、すぐに気を取り直したように言った。
「だったら、俺《おれ》の携帯の番号教えるよ。もし、気が向いたら……」
そう言いかけて、繁之は目をこすった。変だ。変な気分になってきた。なんだか頭がぐらぐらする。強烈なめまいにも似た睡魔が突然襲いかかってきたのだ。
ビールに酔ったのかな。そんなはずはない。あの程度の量で酔うなんて……。
何度も目をこすり、かぶりを振って、容赦なく襲いかかってくる睡魔からなんとか逃れようとしたが、繁之の意識は抵抗の甲斐《かい》もなく、次第に薄れていく。
その薄れていく意識の中で、目の前の女の仮面をかぶったような白い顔が、少し笑ったように見えた……。
ざっとシャワーを浴びて、部屋に戻ってくると、蛍子は、デスクの上のノートパソコンのスイッチを入れた。さっそく沢地逸子のホームページにアクセスするためである。
この八畳ほどの洋室を、蛍子は火呂と共有していた。二人で共有するには少し手狭すぎたが、部屋は豪に与えた洋室とここの二つしかなかったし、蛍子の方は、昼は会社、火呂の方も、昼は大学、夜は飲食店でのバイトと飛び回っていたので、二人がかちあうことは少なく、それほど不自由な思いはしていなかった。
時刻は午後十時になろうとしていたが、まだ火呂は帰宅していなかった。バイトをはじめるようになってから、帰りが遅くなったようだ。時々、外泊することもある。どこに泊まったのかと後で聞くと、「バイトで遅くなったので、そのままサッチンのとこに泊まった」と火呂は答えた。
サッチンこと知名祥代《ちなさちよ》は、やはり玉城村出身で、火呂とは同い年である。家が近かったこともあって、幼稚園の頃から高校までずっと一緒で、友人というより姉妹のように育ってきた大親友だった。
大学は違ったが、上京してからも付き合いは続いているようだ。祥代は、ワンルームマンションを借りて一人暮らしをしていた。バイト先が、この親友のマンションに近いということもあって、火呂は、遅くなると、そのまま彼女のところに泊まることもあるらしかった。
リビングの方から、テレビゲームに飽きたらしい豪がギターのチューニングをするような音が聞こえてきた。
勉学にはさっぱり身が入らないらしく、豪が机に向かっている姿を見たことがなかった。机の上には触ったこともないのではないかと思えるような参考書の類いがうっすらと埃《ほこり》を被《かぶ》ったままになっている。
優等生の姉とは裏腹に、成績はびりから数えた方が早い少年は、自らの青春を専ら、部活のボクシングをはじめとする運動関係に捧《ささ》げていたようだが、最近は、同級生たちとバンドとやらを組んで、音楽活動にも没頭しはじめていた。
チューニングが済んだらしく、お世辞にも巧《うま》いとは言えないギターの音色がたどたどしく聞こえてきた。
蛍子はそのいかにも稚ない音色に苦笑した。豪はただの趣味でギターをはじめたわけではないらしく、高校を出たら、大学には行かず、ミュージシャンかボクサーになるなどと夢のようなことを言っている。
理由は、「ただのサラリーマンより金がもうかるから」だそうである。それは成功すればの話だと言うことを、このきわめて単細胞の少年には思い及ばないようだった。
ボクサーの方は、勉強はからきしだめでも、運動神経だけは人並み外れて良いらしいから、鍛練次第では、多少は脈があるのかもしれないが、ミュージシャンの方はあきらめた方がよさそうだと蛍子は思っていた。素人が聞いても、とてもプロになれるレベルではないことは明らかだったからだ。
かなり耳障りだったが、「うるさい」と一喝するのも可哀想《かわいそう》な気がしたので、いつものようにヘッドホンを耳栓がわりに頭につけて「雑音」を遮断すると、インターネットに接続し、まずメールが来ていないかチェックした。案の定、沢地逸子からメールが来ていた。それを開いて、署名のところに書かれていたURLをクリックすると、直接、彼女のホームページに飛んだ。
ホームページはすぐに開かれた。以前、デスクトップ型の古いパソコンを使っていたときは、画像の開きが遅くて閉口したが、最新のノートパソコンに替えてからは、画像の開きも段違いに早く、蛍子のインターネットライフはだいぶ快適になっていた。
沢地逸子のホームページのタイトルは、「太母神《たいぼしん》の神殿」というものだった。アクセスした人数を知らせるカウンターも、「太母神の神殿へようこそ。あなたは*人目の参拝者です」という、まさに「神殿」作りになっている。
そのカウンターの数字は、既に数万人を超えていた。去年開いたという個人ホームページとしては、良い数字の方だろう。彼女の知名度を反映しているようだった。
目次を見ると、コラム、日記、著作リスト、プロフィール、掲示板の五項目で成り立っており、それぞれ、五つの黄色いりんごのマークをクリックすれば読めるようになっている。コラムは、そのままオンラインで読むこともできるが、これまで書かれたものが圧縮ファイルになっていて、俗に言う「お持ち帰り」ができるようにもなっていた。解凍ソフトさえもっていれば、この方が回線を切ってからゆっくり読める。蛍子は、その圧縮ファイルを迷わずダウンロードした。
そうこうしているうちに、背景になっていた画像が次々と開いていく。中央の画像は、頭髪が全て蛇の姿をした女の彫像の写真のようで、どうやら、あのギリシャ神話に出てくるメドゥサらしかった。
その右手の画像は、赤く長い舌をべろりと出し、手には血まみれの包丁を持って、地に横たわる男を踏みつけている青黒い肌の女の不気味な絵姿で、さらに左手の画像は、沢山の乳房をつけた女神の像らしき写真で、おそらく、アルテミスの像だろう。
肝心のコラムは後で読むことにして、日記、著作リスト、プロフィール、掲示板の項目を次々とクリックしてみた。
日記といっても、プライベートなものではなく、沢地逸子のテレビ出演や、雑誌週刊誌等での対談、地方で行われた講演会の様子など、彼女の公的活動のあれこれが、デジタル写真付きで紹介されていた。
著作リストには、沢地がこれまで手掛けた数冊の翻訳小説とエッセイ集のタイトルがずらりと並んでいる。
プロフィールの項目には、沢地本人の略歴と、このホームページを作成するにあたって、手伝ってもらったという、「沢地ゼミ」の教え子らしき数人の女子学生たちの名前と略歴が、「プレアディスの乙女たち」と命名されて、簡単に紹介されていた。
「プレアディスの乙女たち」というのは、蛍子の記憶では、確か、ギリシャ神話の中で、女神ヘラが所有するという黄金のりんごの木を守っている乙女たちのことだった。
掲示板には、アクセスした人たちが気楽に、このホームページの感想や、自分が興味を持っているテーマについて書き込むことができるようになっていた。
ざっと読んでみると、二十三歳になる若い母親の投稿がきっかけとなって、「母親による幼児虐待」が最新の話題として盛り上がっているようだった。
その投稿というのは、「八カ月になる女の子の母親だが、自分が産んだ子供なのにちっとも愛情がわかない。可愛《かわい》くない。泣くと憎らしくなる。泣いている赤ん坊の首を手で絞めかけたことも何度かある。時々、自分の中には鬼が住んでいるのではないかと思うことがある」というものだった。
その投稿に対する、ネット用語で「レス」(レスポンスの意)といわれる返事の書き込みがその後に堰《せき》を切ったように続けられていた。
蛍子が少し驚いたのは、その反応の殆《ほとん》どが、「自分にも似たような経験がある」という共感の声であり、一人として、この若い母親を非難するような声はなかったことだった。
それどころか、「あたしは、一歳半になる男の子(実子)を毎日サンドバッグがわりに苛《いじ》めてます。子供が原因でためこんだストレスなら子供を叩《たた》いて発散させればいい」などと、本気で書いているのかと目を疑うような書き込みすらあった。さすがにこの書き込みに対しては非難するような意見が見られたが、それでも、その非難のトーンは意外なほど低い。
過去にさかのぼって読めば読むほど、まだ独身である蛍子の度肝を抜くような、若い母親たちの生々しい告白がそこにはあった。それは、これまで蛍子自身が漠然と抱いていた「母性」というものへの概念を容易にくつがえすほどの衝撃的な内容だった。
沢地逸子のホームページということもあってか、アクセスする人は、女性、それも比較的若い女性が多いようだった。掲示板に書き込むには、一応、名前、年齢、性別、メールアドレスをも書き込むようになっていたので、そこから判断できるのである。
そうした女ばかりの中に、時々、男性らしき意見がいかにも肩身が狭そうに混じっていた。たとえば、
「ネットサーフをしていて、うっかりこのサイトに足を踏みいれてしまいました。まさに女の魔窟《まくつ》って感じですね、ここは。どんなホラー系のサイトよりも怖いです。毒気にあてられないうちに退散します」という、三十五歳の男性の書き込みがあって、似たような感想を抱きつつあった蛍子の苦笑を誘った。
この男性の書き込みの後には、間髪をいれずという素早さで、「出て行け。ボケ!」とか「消えろ。二度とくるな」という女性たちの書き込みがあった。
女たちに石をぶつけられながら、尻《しり》に帆掛けて逃げ出す気の毒な男の姿が目に浮かぶようだった。
ただ、こうした書き込みの中に、一つだけポツンと孤立しているように見える奇妙な書き込みがあった。それは、漢字とカタカナ交じりの短い投稿で、タイトルの後に自動的に記された時刻によると、昨日の午後十一時十分十三秒にアップされたものだった。
「生理ガハジマリマシタ。ヨッテ、明日、母ナル神ニ生キ贄《ニエ》ヲ捧ゲル儀式ヲ行イマス。コンドハ人間デス」
投稿者の名前は、「真女子」となっていた。名前といっても、こうした投稿の場合、必ずしも本名を名乗る必要はなかった。通信世界では、「ハンドル」と呼ばれている、いわばペンネームを名乗ってもいいことになっている。
ちなみに、「ハンドル」とは、英語のhandleのことで、「敬称」あるいは「肩書」の意味がある。
「真女子」というのは、「まなご」と読むのだろうか。確か、上田秋成の「雨月物語」の中の「蛇性の婬《いん》」に登場する人物の名前と同じだった。「真女児」とも書く。豊雄という若い男を誘惑する美女として登場するのだが、実は蛇の化身であったという物語である。
この意味不明の奇妙な投稿には、名前の「真女子」以外には、性別も年齢もメールアドレスも書き込まれてはいなかった。
ふつう、こうした掲示板に書き込んでくる人たちは、他者とのコミュニケーションを目的にしているから、他人の発言への返事であったり、あるいは、他人に意見を求める問いかけであったりすることが多いのだが、時々、こうした、他人の書き込みを全く無視したような、独りよがりの意味不明のことを書き込む者がいた。そして、この手の投稿者は、全くの匿名か、せいぜいハンドルとおぼしき名前しか名乗らず、自分の正体を明かしたがらないのが特徴だった。
これが罵詈雑言《ばりぞうごん》の類いであったりすれば、それなりに他の投稿者の反応があるのだが、こうした意味不明の発言の場合は、「触らぬ神にたたりなし」とばかりに、他の投稿者も無視することが多い。実際、この書き込みだけがポツンと離れ小島のように、掲示板全体から浮き上がっているように見えた。
さらに過去にさかのぼって読んでいくと、「真女子」名の投稿が二つあった。一つは一カ月ほど前にアップされたもので、「母ナル神ニ生キ贄ヲ捧ゲタノデスガ、母ナル神ハ喜ンデハクレマセンデシタ。ヤッパリ犬デハ駄目カシラ」とあった。もう一つは、さらに二カ月ほどさかのぼって、「私ノ身体ニハ蛇ノウロコガアリマス。私ハ、オソラク、蛇ノ生マレ変ワリデショウ」とあった。
どちらも、前の人の投稿や話題を無視して、ポツンと書かれている。この文から察するところ、ハンドルの「真女子」は、やはり上田秋成の小説から取ったものであることは間違いないだろう。
それにしても、「私の身体《からだ》には蛇の鱗《うろこ》がある」とはどういう意味だろう。「蛇の鱗《うろこ》」という言葉から、蛍子の頭にふっとある連想がよぎったが、すぐにそれを否定した。そんなことがあるはずがない。まさか、これを投稿したのが……。
自分の頭を一瞬よぎった疑惑を笑って打ち消すと、蛍子は、掲示板を出て、次のページをクリックした。
一匹の大蛇を身体に巻き付けた女神らしきイラストの画像が現れた。片手に金色の宝珠のようなもの(りんごのようにも見えた)を持っている。その画像の下に、「生き贄」と書かれたボタンがあり、「太母神に生き贄を捧げたい人はこのボタンを押してください」と説明書きがついていた。
蛍子は、タッチパッドのポインタ(指マーク)をその「生き贄」のボタンに載せ、何げなくクリックしてみた。
すると……。
それまで、優しげにほほ笑んでいた女神の顔が一変した。豊かな頭髪は全て蛇に変わり、口が耳までくわっと裂けて開いたかと思うと、その口から溢《あふ》れ出た鮮血が見る間に女神の白い喉《のど》を伝わって全身を赤く染めていく……。
それは、ちょうど文楽人形の口がぱかっと開いて、清らかな娘から恐ろしい鬼女の面貌《めんぼう》に豹変《ひようへん》するような具合だった。
ちょっとした悪戯《いたずら》のつもりだろうが、その女神のイラストというのが、あのホラー漫画の巨匠、楳図《うめず》かずおの絵にも似て、妙にリアルで生々しく描かれているために、蛍子は、思わずぎょっとして軽くのけぞりそうになった。いささか悪趣味な趣向だった。
沢地逸子のホームページを見て回ってから、ブックマークに登録すると、ようやく接続を切った。
そして、ハードディスクに落としてきたコラムの圧縮ファイルを解凍してみた。コラムは、十一個の項目から成り立っている。蛍子は、それを読み始めた……。
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第二章
原始、女性は月だった
ギリシャ神話では、最古の月の女神エウリュノメが月の蛇(宇宙蛇)オピオンと交わって銀の卵を生み、この卵から、太陽や遊星、他の星たちが生まれたとある。
このように、まず月があって、そこから太陽が生まれたとする神話は、太陰暦の祖、古代バビロニアにも見られる。また、アメリカのインディアンたちの間に伝わる伝説にも、「昔、月が天界の首長だったが、月の家にこっそり忍び込んだキツネとカケスが、そこで火の道具と太陽を見つけ、それを盗み出して持ち帰った。こうして人々に太陽と火が与えられた」とか、南米の伝説では、「昔は、月はあったが、太陽はなく、世界は暗かった。人間は寒くてたまらず、月に訴えると、月は、犠牲を要求した。ナナワトルという人間が燃え盛る薪の山に投げ入れられると、月もその火の中に飛び込んだ。すると、東の空に太陽が現れた」とある。
また、アフリカのケニアに伝わる神話には、「神ははじめに月を作り、次に太陽を作った。はじめは月の方が太陽よりも大きく明るかった。太陽はこれをねたんで月を攻撃した。太陽は負けて月に許しを請うた。それから、二人はまた格闘して、今度は月が放り投げられ、泥がついて明るくなくなった。神が仲介して、それからは太陽の方が明るくなった」とある。
これらの神話は、古代人の信仰の変遷を如実に物語っているように見える。太古の人々は、最も身近にある天体として、まず月を信仰し、その次に太陽を信仰したようである。まだ火を使いこなすことを知らなかった人々にとって、夜の闇《やみ》に光明を与えてくれる月の存在は、昼間の太陽よりも有り難いものだったに違いない。
また、満ち欠けを繰り返して生き続ける月の姿を、不老不死の存在と崇めたのも当然だった。ちなみに、「月ではウサギが餅《もち》をついている」という言い伝えは、「月ではウサギが不死の薬をついている」という話が間違って伝えられたものだという。「望月」の「もち」を「餅」と勘違いしてしまったというのである。
しかも、月は、人々に多くのことを教えてくれた。日を数えることや潮の満ち引きやその時刻を。そして、この月を司ることができたのは女たちだけだった。というのは、女性の体から流れるあの不思議な血が、月の運行と深くかかわっていたからである。古代人(とくに男たち)にとって、赤い血とは死や病気や怪我《けが》といった災厄の信号だった。赤い血が体から流れるとき、そこには危険と苦しみが常につきまとったからである。
ところが、女たちだけが一定の期間だけ流すあの不思議な血には、死でも怪我でも病気でもなく、むしろ生命をもたらす働きがあった。そのことに気づいた人々は、女性の経血を「月によってもたらされた神聖な血」と認識するようになった。女性の経血には月を不老不死にしている超自然的な魔力が秘められていると考えたのである。
こうして、大地の豊饒《ほうじよう》を司る太母神への信仰とも重なって、月、女性、経血を崇める女神信仰が形づくられていった。そして、さらに、これに蛇への信仰がくわわった。脱皮を繰り返して生き続ける(ように見える)蛇の不老不死性が、月同様、古代の人々に畏怖《いふ》の念を与え神聖視されたのである。
ブラジルの神話では、「神は天に太陽を、地中に月を作り、半日ずつ地下と地上を巡回させた」とある。月は地中に作られたというのである。これは、月が大地と深くかかわり、地中に住む蛇と同一視されていたことを物語るものではないだろうか。
また、インドネシアの民話にはこんなものがある。「モルッカ諸島の王が血を流している竹を発見し、切ってみると、中から四匹の蛇が出てきた。この四匹の蛇が生んだ卵が後にバチャン島などの王族の祖になった」
これは、明らかに、あの「竹取物語」を連想させるではないか。竹から(しかも血を流した竹)から出てきたのは、「月から落ちてきた天女」ではなく、「蛇」だったというのである。やはり、ここにも、月、蛇、血のかかわりを暗示するものがある……。
かくして、蛇は、母なる女神の「最初の夫」の地位を得た。蛇は、母なる女神の聖なるペニスとなり至高のロゴスとなった。母なる女神は、蛇をその身にまとうことで、両性具有的な存在となったのである。
この段階では、人間の男たちは全く取るに足らぬ存在だった。大地も海も月も、おそらく太陽さえも、すべて女たちが司っており、男たちはこうした祭りごとからは一切締め出しをくっていた。
人々の生活に影響を与える主要な神はすべて女神であり、その女神を祀《まつ》るのも巫女《みこ》たちの役目だった。巫女の中で最も年取った者(こうした母権制の社会では、老婆は最高の地位に君臨していた。なぜなら、老婆とは、月の魔力を秘めたあの経血をもはや外に流すことなく体内に溜《た》め込んだ、最も賢く霊力の強い存在と思われていたからである)が巫女王となって、巫女たちを統率していた。
あの魏志倭人伝《ぎしわじんでん》に記されている、邪馬台国《やまたいこく》の女王、「鬼道」を使って衆を惑わし、大変な高齢であったともいう「卑弥呼《ひみこ》」も、こうした巫女王の一人だったに違いない。
老巫女への崇拝は世界の民話の中にも見ることができる。
たとえば、ニューギニアの民話では、「昔、老女が月を壺《つぼ》に入れ、海を木の葉でくるんで自分のものにしていた。ところが、好奇心の強い小僧たちが壺の蓋《ふた》を開けてしまった。月は外に飛んでいった」とか、「月には大きなガジュマルの木があり、その下には老女が座っている。これが月の影となっている」などとある。
これらの民話は、太古、「老女」が「月」や「海」を司っていたことを伝えている。
これが、アジアやアフリカだけではなく、ヨーロッパを含めた地球全土に広まっていた、もっとも古層の信仰の在り方だったのである。今となっては、朝鮮半島の一部地方や、日本の沖縄で、神事は女性だけによって執り行われるという風習が僅《わず》かに残っているだけだが……。
太古、空も海も大地も、女神たちのものであり、その女神を祀る巫女たちによってすべての神殿は守られていたのである。しかも、「月の血」を貴ぶゆえに、大事な祭事は、巫女たちの月経期間中に行われた。
今でこそ、キリスト教においても仏教においても日本の神道においても(父性原理を掲げるあらゆる宗教において)、一部の異端とされる教派を除いては、女性の経血は「穢《けが》れ」の最たるもの、「聖なるものを穢す」として、忌み嫌われているが、太古、この経血こそが「聖なるもの」だったのである。
ちなみに、神社の巫女などが、赤や濃紫の袴《はかま》を着用しているのは、赤はもちろん、紫という色も、「経血」を象徴する色だからであって、あれは、まだ女性が神事の主権を握っていた頃の古代信仰の名残なのである。「経血」を穢れとして恐れ、蔑《さげす》みながら、巫女の衣装に今もなお、「経血を表す」赤や紫を使っているとは、なんとも皮肉な話ではないか。
また、男も女も、戦いの際には、「月の血」を身体に塗りたくった。赤い血の色は我が身を守り、敵を脅えさせる魔の色だったからだ。これが後に、赤い土や塗料にかわり、さらには、魔よけとして顔に紅をつける「化粧」という習慣を生み出していったのである。
それゆえ、一部の隙《すき》もなく化粧した女性に出会ったときは、男性は気をつけなければならない。彼女の人工的な美しさにうっとりしている場合ではない。なぜなら、その女性の化粧が濃ければ濃いほど、その女性があなたに対して何らかの「闘志」を秘めて近づいてきたことは明らかであるのだから……。
あのインド神話の軍神ともいうべき、カーリー女神――軍神などというと、男神が多いと思われるかもしれないが、世界の神話をざっと眺めてみると、意外に女神が多いのである。彼女たちは男以上の残酷さで死者の腐肉や負傷者の血を求めて戦場を狂ったように駆け巡る。こういった神話ひとつ見ても、女という生き物が今までそう信じられてきたほど平和を好む生き物だとは思えないではないか――赤く長い舌をべろりと出しているのは、舌の「赤さ」を敵に見せつけて威嚇しているのである。と同時に、あれは、まだ生き贄《にえ》の血が飲み足らぬと訴える飢えと渇きを表現する仕草でもある。
むろん、言うまでもなく、首から骸骨《がいこつ》のネックレスをさげ、腰に蛇を巻きつけ、血に染まった肉切り包丁をふりかざす、恐ろしい形相のこの青黒い女神は、シヴァやヴィシュヌと言った男神に征服される前の、インド地方土着の蛇女神(太母神)だったのだろう。
しかし、やがて、時は移り、太陽を至高の父と崇める他民族の侵入によって、こうした、月と蛇と血を崇める母権制の社会は音をたてて崩壊してゆくのである。
いや、母権制社会の崩壊は、他民族の侵入以前に、その内部から、既に静かに虫食いはじめていたのかもしれない。まつりごとの一部を男にも許しはじめた頃から……。
母なる蛇女神を体現化した巫女王は、自分の身内である男(兄弟、もしくは息子。近親婚が平然と行われていた時代には、これらの兄弟や息子は同時に巫女王の夫でもあった)に、まず王として太陽を司ることを許した。この頃はまだ、あのケニアの神話にあるように、「太陽は月ほど明るくはなかった」、つまり、さほど人々の信仰を得ておらず、月に較べれば、二次的な存在だったに違いない。だから、男にも神事への参加が許されたのだろう。
しかも、男が神事に参加するには、男であってはならなかった。去勢され、女装して「女」とならなければならなかったのである。
その後、去勢の蛮習はなくなっても、「女装」や「女性化」の風習は長く続いたらしく、ギリシャ神話や日本神話にもその名残が英雄伝説などに残っている。
たとえば、リディアの女王オンパレのもとで、「女装」して糸車を回すことを強いられたヘラクレスも、叔母《おば》のヤマト姫から女の衣装をもらい、「女装」してクマソタケルを倒したというヤマトタケルの逸話も、男が神事にかかわるときは、「女装」しなければならなかったことを暗に物語っているのである。
また、日本書紀の「神武東征」の中にも、神武《じんむ》天皇が、道臣命《みちおみのみこと》を祭りの斎主にするにあたって、「厳《いつ》媛|《ひめ》」という女性の名前を名乗るように命じる話がある。
しかし、時代は移り、人々は火を使いこなすようになり、前ほど月の有り難みを感じなくなった。また、農耕などを知るようになり、月よりも太陽の方がその生活に直接影響を及ぼすようになった。
つまり、人々にとって、「太陽の方が月よりも明るくなって」しまったのである。当然、太陽を司っていた男王の格も自然に上がり、それまでは女たちに完全に牛耳られていた男たちの中で、「男としての誇り」や「女たちにとってかわりたい」という野望が鎌首をもたげてきたのも必然といえば必然だった。
男王たちがこんな野心を抱いたのも無理はなかった。かれらの野心には自らの命にかかわる切実なものがあったからだ。なぜなら、彼らが太陽を司るという「名誉職」につけたのは、自らの命と引き換えであったのだから。
あの過激な太陽信仰で名高いアステカやインカでなぜあれほど血腥《ちなまぐさ》い生き贄の儀式(戦士や奴隷、時には王の生皮を剥《は》ぎ、心臓を抉り取り、その血とともに太陽神に捧《ささ》げた)が日常茶飯事のように繰り返されたのかといえば、それは、ひとえに太陽がそうした生き贄を捧げ続けなければ、やがてはその輝きも衰えて死んでいくものと考えられていたからだった。
こうした生き贄を捧げ続ける限り、その血と心臓は太陽の糧となり、日々再生を繰り返して天空に輝き続け、人間たちにさまざまな恵みを与えてくれる。太古の人々はそう考えたのである。
これは、インカやアステカの人々だけが特別にそう考えたわけではなかっただろう。我が国でも、太陽の光が最も弱まる冬至の頃に、物部氏《もののべし》によって、太陽の力を蘇《よみがえ》らせる「タマフリ」なる儀式が行われ、それが今もなお「太陽神の子孫」とされている天皇家の重要な儀式のひとつになっているのである。
太陽を司る男王の期間ははじめから定められていた。おそらく原初は一年であっただろうと思われる。それは太陽が一度死んで再び蘇る周期であったから。男王たちは、この任期が終わると、衰えた太陽に再び命を与えるために、自らの命を差し出さなければならなかったのである。
そして、男王にこのような供犠を強いたのは、彼らの母であり妻でもあった月と大地の蛇女神だった。
神話の中で、「太陽と火の道具が月の家にあった」とあるのは、太古は、「月を司る者」が「太陽を司る者」を支配していたという意味なのである。
「天の岩戸」神話の真相
日本においても、太古、死にゆく太陽を蘇らせる儀式――太陽を司る王が死んで新しい王に代わることで、太陽を生き返らせる――言い換えれば、王を太陽神の生き贄とする儀式が実際に行われていたのではないだろうか。
あの日本神話のハイライトの一つともいうべき、「天の岩戸」神話は、そうした、我々祖先の遠く冥《くら》い太古の記憶を暗に物語っているものではないか。
弟神である須佐之男命《すさのおのみこと》の暴虐に怒った天照大神《あまてらすおおみかみ》が、天の岩戸に閉じこもってしまったために、この世は暗黒に閉ざされ、困った八百万《やおよろず》の神々の策略で、天照大神が再び岩戸から出てくるという逸話は、日食を神話化したものではないかという説が有力のようだが、あれは、太陽の力が弱まる冬至の頃に定期的に行われていた、太陽を司っていた男王の供犠的な死と新たな王の誕生を物語ったものなのではないか。
もっとも、日食のときも、死んだ太陽を蘇らせるために、こうした王の交替儀式は当然行われただろうから、あれが日食神話ではないとは言わないが。わたしが言いたいのは、あれは日食を物語っただけの話ではあるまいということである。
天の岩戸(洞窟《どうくつ》)とは、もちろん、太陽の母である太母神の子宮を表している。そして、この子宮とは、同時に、黄泉《よみ》の国、すなわち死の国をも表しているのである。
エジプト神話では、太陽の運行の様をこんな神話で説明している。
「太陽神ラーは、夕方には母なる神ヌトの口に入って、ヌトの胎内を巡り、翌朝、再びヌトの子宮から血に染まって現れる」と。
このエジプト神話におけるヌトという女神は、ネートとも呼ばれ、エジプトに王朝ができる前から、エジプト北部で信奉されていた太母神であった。
なお、聖書では、冥界《めいかい》の神オシリスの妻とされている女神イシスと同一視されているらしい。
ヘリオポリス神話では、ヌトは天空の神で、ラーの子供であると、親子関係が逆になっているが、これは明らかに、男性原理が優先されるようになってから、男神を女神よりも権威づけるために作られた話にすぎない。
ちなみに、太母神には三つの顔があるといわれている。若く美しい処女の顔。生命と豊饒《ほうじよう》を司る母の顔。そして、知恵と死を司る老婆の顔である。
つまり、冥界の女王とは、まさにこの太母神の老婆の相なのである。だから、男性原理の定着した後に作られた(あるいは作り直された)神話の中では、冥界を司るのは男神であるオシリスのように描かれているが、本来、冥界の王として君臨していたのは、女神イシスの方だったのだろう。
それは、夫であるオシリスが兄弟神のセトに惨殺された後のイシスの精力的な活躍(世界を飛び回ってバラバラにされた夫の死体を拾い集めた等)や、太陽神ラーの真の名前を(蛇を使って)知ることができたので大女神としての地位を獲得できたというイシスの逸話から見ても明らかである。
原初の太陽神とは、このように、母なる神を表す洞窟(子宮ないしは冥界を表す)と結び付いて表現され信仰されていた。いわば、初期の太陽神はまだ乳離れしていなかったのである。そのことが、日本神話を形作る上で、その制作者たちに、天照大神自身を女神と勘違いさせる元にもなったのかもしれない。
そう……。
日本神話における、太陽神が女神であるという記述は、あれは間違いなのである。いや、間違いというより、記紀制作者側の政治的な意図によって、あえて、「女神」にされてしまったのである。
その政治的な意図とは、時の天皇であった持統《じとう》天皇の神格化、つまり、女帝であった持統天皇を、女神である天照大神と同一化させることが目的だったわけである。
太陽神とは、強いてその性別を問うならば、陰陽思想を持ち出さなくても、男神である。
確かに、最古層の信仰においては、太陽も女性が司り、それゆえに、太陽神も女神とみなされていたこともあったに違いない。実際、そうした古い信仰の名残のような神話、つまり太陽神が女性であるという神話は、母性原理が根強く残っている地域、東南アジアなどにあることは事実である。
しかし、世界神話の中でそれは希少にすぎないだろうし、既に大陸から、男を陽、女を陰とする陰陽思想が入ってきていて、それが定着しはじめていた時期に、それまで「倭《わ》」と呼ばれていたちっぽけな国をお隣の中国にも負けないくらいの大国にしようと意気込んでいた当時の支配者たちとその命を受けた記紀制作者たちが、その精神的礎ともいうべき日本神話を形作る際に、わざわざマイナーな神話をモデルにしたとは思えない。
しかも、記紀(とりわけ日本書紀)を読めば分かるように、既に男尊女卑の思想に染められている。それなのに、創造神を除けば最高神ともいうべき太陽神をあえて女性にするとは、やはり何らかの政治的意図があったとしか思えないではないか。
もっとも、このような疑問は、既に江戸時代から様々な記紀研究家や学者たちの間から、(かなり不満そうな口ぶりで)提示されてきたことではあった。津田左右吉《つだそうきち》や折口信夫《おりくちしのぶ》もその一人であった。
これらの研究家(とりわけ折口説として)は、本来は男神であるべき天照大神が女神とされてしまった背景には、男神である太陽神を祀っていた神妻としての巫女の存在を神にまで高めたものではないかというのである。
というのは、須佐之男命が逆剥《さかは》ぎにした馬の死体を機織り小屋の天井から投げ入れたとき、天照大神はそこで「神衣《かむみそ》」を織っていたとあるが(古事記では、神衣を織っていたのは天照大神ではなく、機織り女の一人だったとされているが、日本書紀の一書では、天照大神自身だったとされている)、本来、神に着せるための衣を織るのは、神に仕える巫女の役目であって、最高神であるはずの天照大神がそれをするのはおかしい、ゆえに、あの天照大神は巫女が神格化されたものであるというのである。
ただ、この説には反論もある。天照大神を女神としたのは、中国の西王母《せいおうぼ》の神話が影響しているのではないかというものである。
西王母の神話とは、いわば、あの七夕伝説のルーツにもなった話である。
その神話の原初の話はこういうものである。
西王母は大地の中心である宇宙山(世界樹)の頂点で、一人で機《はた》を織っていた。彼女が織りなすのは、世界の秩序であった。
西王母という道教の大女仙が織っていたのは、夫神に着せるための神衣などではなく、この世の秩序だったというのである。なんともスケールの大きな話だが、この西王母の伝説には、世界の創造に最初に関与したのは女神であるという太母神信仰が背景にある。
西王母の伝説は、弥生時代あたりにはすでに日本にも知られていたらしいから、記紀制作者たちが、女神を最高神にしようと思いついたとき、この「世界の秩序を織りなす」女仙人の話をヒントにしたと考えられないこともない。
ちなみに、この西王母は、その後、陰陽思想が普及すると、その思想にのっとって、東王父《とうおうふ》なる男の仙人と夫婦ということにされてしまい、これが後に、織姫彦星となって、あの七夕伝説へと変化していくのである。
ただし、この西王母は、太陽の女神ではなく、月の女神なのである。むろん、「世界を織りなす」というくらいだから、初期の頃は、太陽すら支配していたのかもしれないが、陰陽思想が定着してからは、西王母は月を、東王父は太陽を司るというようになる。西王母の太母神的な性格からみれば、彼女が月の女神であることはむしろ当然であるのだが。
だが、そうすると、天照大神という太陽女神の創造に、この西王母をモデルにしたという説は少し苦しくなるかもしれない。西王母をモデルにしたならば、最高神は、太陽神ではなく、月神としなければならないはずだからである。
私は、日本神話における、「太陽神の女性化」は、ひょっとしたら、母権制社会から父権制社会に移る過渡期に見られた、太陽を司る男王の「女装」の習慣に関係したものであるように思えてならない。
前にも書いたように、最初の頃、太陽を司る男王たちは、去勢され、女装して、「女」として、まつりごとにたずさわっていたのである。
それが、母権制社会を覆して、父権制社会が形作られ、男性優位の思想が広まり定着するにつれて、去勢の蛮習が廃止され、男王たちは女装を解いて本来の男の姿に戻り、それどころか、まるで自分たちが虐げられてきたことのお返しだといわんばかりに、それまで神事の主権を握ってきた女たちを、「不浄」呼ばわりして、あらゆる神殿から締め出しはじめたのである。
つまり、あの日本神話に描かれた「女としての」天照大神は、「女装」した男王の姿を太陽の化身としてとどめたものではなかったか。
須佐之男命が高天《たかま》が原《はら》に来たとき、この乱暴な弟神が攻めてきたと勘違いした天照大神が、「髪をみずらに結い、武器を携え、雄々しく男装して須佐之男命を迎えた」というくだりが記紀には見られるが、あれは、「男装」したのではなく、それまで神事を司るために「女装」していた天照大神が、弟神との戦いを予感して、「女装を解いて男の姿に戻った」のではないだろうか。
また、たとえば、日本書紀において、須佐之男命が機織り小屋の天井から馬の死体を投げ入れたとき、その出来事に驚いて、機を織っていた天照大神が、機織りに使う梭《ひ》で陰部をついて怪我《けが》をしたとある。
いくら驚いたからといって、機織りに使う道具で性器を傷つけるという、やや唐突で不自然さのいなめないこの描写は、一体何を暗示しているのかと、長いこと、記紀研究家たちの頭を悩ませ、怪我をした場所が場所だけに、あらぬ妄想を導き出す一因となってきたようである。
たとえば、須佐之男命レイプ説、天照大神を神妻として見た場合の、太陽神との契りの儀式説……等々。
しかし、もし、神話の中の天照大神を「女装した男王」と見るならば、この「機織りに使う道具で性器を傷つける」という描写は、全く違った意味をもってくるのではないか。
それは「去勢」である。
あの「天の岩戸」事件は、先にも書いたように、冬を迎えて弱まった太陽の力を蘇らせるために、それまでの男王と新しい王とが交代するための儀式だったのである。
新しく王となる者は、「去勢」され、「女装」して、母なる神の子宮を表す「岩戸」にいったん篭《こ》もり、そこで古い王と交代して、再生した太陽の化身として岩戸から出てきたのである。
それでは、古い王はどうしたのか……?
原初においては、おそらく、供犠的死を遂げたと思われる。
供犠的死とは……。
これはきわめて恐ろしい想像なのだが、須佐之男命が機織り小屋の天井から、投げ落としたという、逆剥《さかは》ぎにした馬の死体とは、果たして「馬の」死体だったのだろうか……?
先にも少し触れたように、古代のインカやアステカでは、太陽への供え物として、勇敢な戦士や聖なる動物、そして時には太陽を祀る王自身の血と心臓が捧《ささ》げられたという。その際、生きたまま皮を剥がれ、心臓と血を抜き取られたあとの生き贄《にえ》の死体は、神殿の供犠用に高く作られた台座から、階段下に「投げ落とされた」というのだが……。
さらに言えば、投げ落とされたあとの死体の肉は細かく解体されて、人々に分け与えられ、人々はそれをトウモロコシと一緒に煮て食べたという。
それは遠い中南米の話であって、日本とは関係ないと思われるかもしれないが、実は、この遠いと思われていた南米のエクアドルのバルディビア遺跡から、日本の縄文土器に酷似した土器群が出土したことがエクアドルの考古学者によって報告されているのである。
これは、たまたま似たような文化が、太古、中南米と日本に存在したと考えるべきなのだろうか。それとも、日本列島から南米まで大暖流が貫流しているという事実から考えて、日本の縄文人が船に乗って南米にわたっていた(あるいはその逆)と考えるべきか?
当時の人々の航海に対する知識や造船技術は、我々が想像するよりも遥《はる》かに高かったのではないかと言われていることから考えても、中南米に存在したインカやアステカ、マヤなどの古代帝国と、古代日本との間には、遥かなる海原を越えて、何らかの交流、接点があったことは十分考えられるのではないだろうか。
また、わたしたちが正月になると神棚に飾り、正月が過ぎると、それを割って煮て食べる習慣のある、あの鏡もちだが、あれは、実は人間の心臓を模したものであるという説もある。つまり、生き贄の心臓を神に捧げていた太古の冥《くら》い記憶が、今もなおこのような形になって、脈々と続いているというのである。
すなわち……。
逆剥ぎにした馬の死体→それに驚いた天照大神の陰部(陰部という言葉は、陰陽思想が定着する前は男女の区別なく使われたらしい。隠し所の意味だろうか)の怪我→岩戸篭もり→天照大神の再登場、という一連の経過をもつ、あの「天の岩戸」神話の意味するものは、原初においての太陽信仰の在り方、つまり、それまで太陽を司っていた男王の供犠的死→新王になるための儀式としての去勢と岩戸篭もり→新王の誕生、を暗に物語ったものなのではないか。
ただし、これは、女性的なるものを男性的なるものよりも上に置く母権制社会での信仰の在り方であって、その後、母権制を覆して父権制が定着するにつれて、それまでは何の意味ももたない(原始において、生殖における男性性器の役割は、女性のそれよりも分かりにくいものであったはずだから)邪魔な突起物でしかなかった男性性器が、意味がないどころか、「すべての力の源」として認識されるようになると、それ自体が力のシンボルとして信仰されるようになり、あげくのはてには、あの悪しき「男根主義」へと結実していくのである。
そして、その悪しき「男根主義」と「太陽」とが結び付いた人類史上最悪の例が、あの鉤《かぎ》十字、ハーケンクロイツを高々と旗じるしに掲げたヒトラー率いるところのナチスドイツであった。
ついでに言えば、日本ではお寺のシンボルとして知られている卍《まんじ》は、太陽の運行を象徴するハーケンクロイツ(太陽まんじ)に対して、女性原理でもある月の運行を象徴しているため、「月まんじ」とも言われている。
蛇女メドゥサとペルセウス
ギリシャ神話における、七大英雄の一人であるペルセウスとメドゥサの話をしよう。
ペルセウスは、大神ゼウスとダナエとの間に出来た息子で、ミュケナイの最初の王でもあった。彼は、義父にあたるポリュデクテス王から、メドゥサなる怪物を退治して、その首を持ち帰るよう命令され、知恵の女神アテナと伝令の神ヘルメスの守護を得て、見事、メドゥサを退治し、その首を奪取する。
そして、その顔を見る者をすべて石にしてしまうというメドゥサの首を使って、悪王でもあった義父のポリュデクテスを石に変えてしまう。
最後に、メドゥサの首は、ペルセウスの守護神となってくれた女神アテナに恭しく捧げられ、(一説には、その首は海に捨てられたともいうが)、戦いの女神でもあるアテナは、その首を誇らしげに自分の神盾《アンギス》に飾ったとある。
ところで、このメドゥサとは一体何者か?
一般に知られたギリシャ神話では、ゴルゴンの三姉妹の末娘であったメドゥサは、もともとは非常に美しい乙女だったのだが、うっかり、自分の美しい髪を自慢したばかりに、嫉妬《しつと》深い女神アテナの怒りを買い、女神によって、その髪をことごとく醜い蛇に変えられ、その顔(あるいは目)を見た者はたちどころに石になってしまうと伝えられるほど恐ろしい怪物にされてしまったとある。
しかし、メドゥサとは、もとをただせば、その名の語源は、「女性の知恵」を意味する、古代リビアのアマゾン女人族に信奉されていた大蛇女神(太母神)だったのである。メドゥサの顔(ないしは目)をまともに見た者はみな石になってしまうという伝説は、月経中の女性の顔をまともに見ると石になるという古代の言い伝えから来ているともいう。
こういったことを踏まえて読み直すと、この英雄神話は、実に興味深い多くの事柄を暗示しているように思える。
まず、アテナ女神と蛇女メドゥサの関係だが、神話ではひどく憎み合って対立しているように見えるが、実は、アテナとメドゥサは、共に太母神の一相(知恵と死)を表しており、言い換えれば、二人は、同一の太母神のダブルイメージにすぎないのである。
さらに突っ込んでいえば、メドゥサとは、古い母権制の社会で信奉されていた太母神の、とりわけ「知恵」を表す女神であったのに対して、大神ゼウスの頭から生まれたというアテナは、母権制にとって代わった父権制の社会で信奉されるようになった新しい「知恵」の女神であったということである。
つまり、この神話は、「知恵」の女神の新旧交替劇とも読めるのである。
なお、ペルセウスがメドゥサの首を掻《か》き切るときに使った金の新月刀(三日月型の曲刀)という武器にも、非常に興味深いものがある。
この金の新月刀というのは、神話によれば、ヘルメスが、「メドゥサの首を切ることができる世界で唯一の刀」として、ペルセウスに与えたものとあるが……。
太古、大地の豊饒《ほうじよう》を祈る儀式などで、太母神たる蛇女神に捧げられた生け贄(聖王と呼ばれる若い男)は、老巫女《ろうみこ》が振るう三日月型の曲刀で去勢されてから殺されたという。
つまり、蛇女メドゥサと英雄ペルセウスの関係は、そのルーツをたどれば、蛇女神と生け贄たる聖王の関係だったのではないか。
遠い昔、曲刀で「蛇の頭」を切り落とされて殺されたのは、聖王たるペルセウスの方だったのである。それが、神話の中では、全く逆転して、ペルセウスが蛇女メドゥサの首を新月刀で切り落として殺したことになってしまったのである。
ついでに言えば、水浴びする女神の裸身を盗み見た罪で、月の女神アルテミスの怒りを買い、鹿に姿を変えられ、自らの飼い犬にずたずたに引き裂かれて殺されたという哀れな青年アクタイオンの神話も、月の女神に捧げられた生き贄の話とも読めよう。
また、アドニスやヒアキュントス、ナルキッソスなどの美少年と女神たちの愛の神話は、彼らが花の神として、太母神に捧げられた生き贄だったことを物語っている。この「花」には、「血」(経血)の意味がこめられているという。
ところで、ヒアキュントスは、太陽神アポロンの「同性の恋人」としてギリシャ神話には登場しているが、もともとは、アポロンではなく、月の女神アルテミスの「恋人」であったらしい。さらに言えば、本来は小アジアないしはアマゾンの太母神であったアルテミス(アナヒタとも言われている)はたいそう生き贄を好んだ女神で、とりわけ雄牛の血を好み、祭りのときは、夥《おびただ》しい数の雄牛が殺され、その血が女神の像に注がれたという。
そして、この月と大地の女神アルテミスが、後に、男性化されて、あのゾロアスター教の太陽神ミトラになったとも言われている。ミトラがしばしば少年の姿で表されたり、両性具有的に見えるのは、もともとは豊饒の女神が男性化したものだったからなのだろう。
また、巨大な猪の牙《きば》に股間《こかん》を突かれて死んだという美少年アドニスの逸話も、彼が去勢された後に殺されたことを暗に表しているようだ。「巨大な猪の牙」とは、まさに、聖王たちが去勢されるときに使われたという三日月型の曲刀を容易に連想させるではないか。三日月の刀を振るう老巫女の恐ろしいイメージが、後に大鎌を振るう死に神の姿になったのだという説もある。
そもそも、「英雄」を表す、ヒーロー「hero」という言葉は、「大女神ヘラに捧げられた男たち」という意味のギリシャ語であった。むろん、この「ヘラ」とは、ギリシャ神話の中では、大神ゼウスの姉であり正妻でもあった、あの「異様に嫉妬深い」ことで悪名高い女神ヘラである。ギリシャ神話の英雄中の英雄ともいうべきヘラクレスの名前も、「ヘラの栄光」という意味がある。
ところで、女神ヘラが、なぜ、あれほどまでに嫉妬深かったのか、つまり、なぜあれほどまでに、夫ゼウスが浮気してよそに作った子供(後の英雄たち)やその母たちをしつこく付け狙《ねら》い殺そうとしたのか。
その隠された真の動機について少し探ってみよう。
女神ヘラは、もともとは、ゼウスの姉でも妻でもなく、古代ヨーロッパの原初から存在する太母神だった。「ヘラ」という名前には、「女主人」ないしは「大地」の意味があるという。
ヘラの本当の「夫」は、ゼウスなどではなく、後に太陽神アポロンに退治された、彼女の子供でもある黒蛇ピュトンである。
それが、太陽信仰をもつ民族に征服された結果、その民族が信奉する男神の姉にして妻という地位に落とされてしまった。ヘラが英雄たちに示した敵意や数々の残酷な仕打ちは、姉さん女房のやきもちなどによるものではなく、母権制民族と父権制民族の闘争を神話的に表現したものという見方もできるのである。
同様のことは、太陽神アポロンと月の女神アルテミスにもいえよう。
よく知られたギリシャ神話では、二人は双子の兄妹(夫婦という説もある)ということになっているが、前にも触れたように、アルテミスという女神は、ギリシャの産ではなく、ペルシャないしはアマゾンで信奉されていた大地の豊饒を司る太母神だった。それがどういうわけか、ギリシャ神話に組み込まれる過程で、太陽神の妹にされてしまったのである。ちなみに、アポロンの方もギリシャの神ではなく、一説には、太母神アルテミスの子という説もある。
またインド神話における、破壊と創造の神シヴァの妻の一人、カーリー女神にしても、本来は、前にも書いたように、インド土着の太母神的性格をもつ蛇女神だった。
さらに、中国神話に出てくる、人類の祖になったというフツキとジョカという兄妹にして夫婦という半人半蛇の神にしても、最初に存在して、世界の創造に深く関与していたのは大蛇女神としてのジョカの方で、男神であるフツキの方は、陰陽思想が定着した後に付け加えられたものにすぎない。
つまるところ、神話に見られる夫婦あるいは兄妹神の多くは、最初からそうだったのではなく、すべてを司る太母神が存在していたところに、後から、半ば強引に男神をペアにして、しかも、男神の方に「至高の神」としての威厳と権力をもたせてしまった結果の産物なのである。
これは、陰陽思想の普及も一因にあるだろうが、父性原理を掲げた民族が母性原理を掲げた民族を征服していく過程で、土着の女神信仰を一掃することができずに、自らの信仰に取り込んでいかざるをえなかったことを示しているともいえよう。
龍蛇退治
ギリシャ神話には、英雄(ないしは神)が悪龍(あるいは蛇の属性をもつ怪物)と戦い、これを退治したという話が実に多く登場する。
たとえば、先に語った、蛇女メドゥサとペルセウスの神話もそうであるし、実は、ペルセウスは、メドゥサ以外にも、もう一匹、蛇を退治しているのである。それは、メドゥサの首を切ったあとで立ち寄ったエチオピアの海に住んでいた巨大海蛇である。話によっては、これは鯨の化け物ということになっているが、もともとは、海蛇であった。
この巨大海蛇の生け贄《にえ》にされそうになっていたエチオピアの王女アンドロメダを助けるために、ペルセウスは、切り取ったばかりのメドゥサの首を使って、巨大海蛇を退治するのである。
ところで、この海神ポセイドンが遣わしたという海蛇の名前だが、一説によると、ティアマトであるという。
ティアマトといえば、古代バビロニアの「怪物の母」とも呼ばれた「雌龍」である。原始の海水から生まれた最初の龍(海蛇)であり、孫神にあたるマルドゥクに殺され、その巨大な身体《からだ》を二つに裂かれて天と地にされたという逸話をもつ太母神でもある。
さらに、後に、この蛇女神ティアマトが男性化されて、「七つの頭を持つ魔獣王」とか「年とった赤いドラゴン」などと呼ばれて恐れられた、あの聖書の海に住む大怪物、リバイヤサンになったのだとも言われている。
そんなバビロニアの大蛇女神の名前が、エチオピアの海にすんでいた海蛇の名前と同じだったというのは、けっして偶然の一致ではない。ギリシャ神話では、海を司る男神ポセイドンの遣い蛇に落とされてしまったが、もともとは、このティアマトこそが原初の海から生まれた「海の女王」であったのだろう。
また、かのメドゥサも、ギリシヤ神話の中では、海神ポセイドンの妻ということになっている。さらに言えば、ペルセウスが助けたというアンドロメダにしても、エチオピアの王女などではなく、フェニキアの「海の女神」であったという説もある。
つまるところ、ペルセウス神話とは、それまで女たちが司っていた「海」の覇権を男たちが奪い我が物にしたことを寓話《ぐうわ》的に語った話であるといってよいのかもしれない。ちなみに、ペルセウス座は、メソポタミアでは、マルドゥクと呼ばれていたという。
また、英雄中の英雄ともいうべき、あのヘラクレスも多くの蛇怪獣と戦っている。そもそも、ヘラクレスは、まだ赤ん坊のときに、女神ヘラが遣わした二匹の巨大青蛇を絞め殺したというのだから、生まれながらにして蛇とのかかわりは深い。
ヘラクレスが、女神ヘラの策略で遂げねばならなくなった十二の偉業の中には、蛇怪物を退治する話が二つある。一つは、ヘラクレスの十二の偉業の中でも最も困難をきわめたという、切っても切っても生えてくる百の頭を持つ、レルネーの水蛇ヒュドラを退治する話である。
そして、もう一つは、女神ヘラが所有している黄金のりんごの木(永遠の生命の木)から、りんごを盗んでくる話だが、このとき、ヘラクレスは、このりんご園の番人ともいうべき、大蛇ラドンをまず退治しなければならなかったのである。
さらに、この十二の偉業の最後に、「地獄の番犬ケルベロスを連れてくる」というのがあった。これは退治ではないが、ケルベロスもまた、犬の身体に蛇の尾(一説には蛇の頭ももつという)という、蛇の属性をもった怪物であることを考えれば、ヘラクレスが相手にしなければならなかった蛇怪獣は三匹もいたことになる。
蛇怪獣と戦ったのは英雄たちだけではなかった。
大神ゼウスも、大地女神ガイアが遣わした山ほどの背丈に火を吹く百の蛇の首を持つという火炎龍テュポンと戦い、これを倒さなければならなかった。
このテュポンという火炎龍は、後に、蛇女エキドナ(メドゥサの孫)と結婚して、ケルベロスやキマイラやスフィンクスなど数々の蛇怪物の父になったという。ヘラクレスが戦った大蛇ラドンや水蛇ヒュドラもこのテュポンの子である。
また、その威力の凄《すさ》まじさからか、台風《タイフーン》の語源にもなっている。
太陽神アポロンも、母親レトを苦しめた、赤い毒の目を持つ黒蛇ピュトンと戦って、これを退治し、それまでピュトンが祀《まつ》られていたデルポイの神殿を我が物としたのである。黒蛇ピュトンは、女神ヘラが遣わしたもので、ヘラの子であり夫でもある聖蛇だった。そして、おそらくは、アポロンが太陽神として君臨する前の、古い「太陽神」でもあったに違いない。
実際、アポロンに退治されたあと、ピュトンはアポロンに吸収されて、アポロンの「冥界《めいかい》での相」となった。古く、太陽は、夜になると母なる大地の子宮に戻ると考えられていた。昼間、天空にいるときは、輝かしい美青年の姿をしているが、夜、母なる大地に篭もるときは、黒い蛇の姿になったというのである。
なお、ここでついでに書いてしまえば、日本の太陽神である天照大神もその本体は蛇である。その証拠に、伊勢神宮の真の御神体ともいうべき「心《しん》の御柱《みはしら》」(あの壮麗な社が建てられる前から、伊勢の地で人々から信仰されていた一本の柱)には、その昔、鶏の卵と血が捧《ささ》げられていたという。この奇怪な風習の由来を記紀の故事に求めた人たちは、「天照大神が岩戸に閉じこもったとき、鶏を鳴かせて朝が来たことを告げ、外に出そうとしたことから」などと解釈しているようだが、そうではあるまい。事実はもっと単純で、鶏の卵と血は蛇の好物であると考えられていたので、蛇神である太陽神にそれが供物として捧げられたのであろう。つまり、「心の御柱」とは蛇のトーテムなのである。やはり蛇神を祀《まつ》っている諏訪《すわ》大社の「四本の柱」がそうであるように……。
それはさておき、話を元に戻すと、ゼウスが退治したという百頭の大蛇テュポン(Typhon)と黒蛇ピュトン(Python)は、見ての通り、名前の綴《つづ》りを入れ替えただけのものである。
古くは、「神」の真の名前を口にすることは戒められていたというから、やはり、これらの大蛇は、単なる怪物ではなく、古き神々であったのだろう。
こうして列記してみると、既にお気づきかと思うが、英雄や男神たちが死に物狂いで戦ったのは、実は、「蛇」そのものではなかった。むしろ、その「蛇」の遣い手である、大地女神ガイアであり大女神ヘラ(ガイアの孫娘)であったのである。
あるいは……。
むしろ、こう言った方がいいかもしれない。
テュポンもピュトンも雄であったように伝えられてはいるが、その正体は、超自然的な「蛇」と交わることで両性具有となった太母神の化身した姿であったと……。
ギリシャ神話だけでなく、エジプト神話にも、こうした龍蛇退治の話がある。太陽神ラーの乗る船を飲み込もうと西の果てで待ち構えている巨大海蛇アポピスを、冥界の神オシリスの兄弟であるセトが退治したという話である。
このアポピスは、もとをただせば、ギリシャで「ピュトン」と呼ばれていた黒蛇と同一であるという説もある。
さらに、インド神話では、永遠の生命をもたらすという神の飲み物、アムリタを盗み飲もうとした、ラーフ(中国では羅こうと呼ばれた)という龍頭の怪物を、太陽神ヴィシュヌが退治したという話もある。このラーフは、エジプトのアポピス同様、日食や月食をおこす怪物と恐れられていた。
また軍神インドラが、水害を起こすヴリトラという巨大水龍を退治した話もある。
こうした神話の中に見られる、英雄(神)による龍蛇退治伝説とは、母性原理を代表する古代の太母神を、父性原理を代表する英雄たちが倒して、母権制社会が古くから所有していた土地や財産、神としての地位を掠《かす》め取っていった物語なのである。
あるいは……。
逆説的には、こんな言い方もできるかもしれない。
英雄神話とは、太古において、太母神に生き贄として捧げられてきた数知れぬ男たちの復讐《ふくしゆう》の物語であり、そして、同時に彼らへの鎮魂の書でもあると。
とにかく、凶暴で醜怪な大蛇や蛇の属性をもつ怪物は、すべて、その怪物自身の性別のいかんを問わず、古代の太母神や荒ぶる女性原理を象徴しているのである。
ただ……。
こうした龍蛇退治の話は、西洋ではよく見られるが、東洋ではあまり見られない。西洋では諸悪の根源のように忌み嫌われた蛇怪物も、中国に入ると、「聖なる生き物」として大変な尊敬を受け、「龍」としてのその絵姿も、西洋のドラゴンに較べると、遥《はる》かに風格と威厳のあるものになっている。
インドにおいても、ラーフやヴリトラのような退治話もあるが、同時に、蛇を聖なるものとして崇める蛇信仰を思わせるものもあるのである。
太陽神ヴィシュヌがいつもベッドのように横たわっているのは、九つのコブラの頭を天蓋《てんがい》のようにもたげ、とぐろを巻いている大蛇アナンタ(永遠の意)であり、この太母神を思わせる大蛇は、ヴィシュヌをその身に抱え守護しているかのようにも見える(もっとも、これは見ようによっては、ヴィシュヌが母なる大蛇を支配してその上に君臨している図のように見えないこともないが……)。
西洋では、龍蛇は邪悪さの象徴であり英雄によって退治されるべきものという概念が根底にあるが、東洋ではこのような概念は希薄のようだ。これは、龍や蛇に象徴される荒ぶる女性原理ともいうべきものが、西洋では一掃されるべきものと考えられているのに対して(こうした思想や感情を生んだ原因は、蛇を悪魔と見るキリスト教の普及と浸透にあった)、東洋では、その文化の根底には、大いなる女性原理を崇拝する習慣や思想が脈々と息づいていたからに他ならない。
では、日本においてはどうだろう。
龍蛇退治伝説といえば、真っ先に思い浮かぶのは、出雲《いずも》のヤマタノオロチ伝説だが、はたして、あれも、英雄神による大蛇退治の話なのだろうか?
ヤマタノオロチとは何か
ヤマタノオロチ伝説といえば、「天の岩戸」神話と並んで、日本神話の二大ハイライトともいうべき有名な話である。
その話をかいつまんで書けばこうである。
天照大神を岩戸に閉じこもらせてしまう原因を作ったとして、弟神の須佐之男命は罰を受けて、天界から追放されてしまう。
やがて、須佐之男命は西の果ての出雲の国に辿《たど》り着き、そこで、泣き暮らしている老夫婦に会う。泣いている訳を聞けば、「毎年やってくる化け物のような大蛇に娘が食べられてしまう。娘は八人いたのだが、七人が食べられてしまい、最後の一人ももうすぐ食べられてしまう」というのである。
そこで、須佐之男命は、その末娘クシナダ姫を自分の妻にすることを条件に、大蛇退治を引き受ける。
この化け物のような大蛇とは、古事記の描写によれば、「目は赤かがち《ほおずき》のようで、身ひとつに八つの頭八つの尾があり、その身には苔《こけ》や檜杉《ひのきすぎ》が生え、その丈は、谷八つ山八つを越える程で、その腹には、いつも血が滴り爛《ただ》れている」というものであった。
須佐之男命は、八塩折《やしおおり》の酒(八回も醸した強い酒)の入った八つの酒壺《さかつぼ》を用意させた。やがて、大蛇が来て、この酒を呑《の》んで寝入ったすきに、剣で大蛇の身体をずたずたに切り刻んで殺してしまう。そのとき、大蛇の尾の部分から、神剣が出てきた。それが、天叢雲《あめのむらくも》の剣、後の草薙《くさなぎ》の剣である。
須佐之男命はその神剣を姉神である天照大神に献上した後、助けたクシナダ姫と結婚して、「須賀」に宮をかまえて移り住む……。
とまあ、古事記に記されたヤマタノオロチ伝説とはざっとこのようなものである。日本書紀の方は細部において若干の違いは見られる(たとえば、一書によれば、クシナダ姫はまだ赤ん坊で、大蛇退治のあと、須佐之男命はこの赤ん坊を引き取り、自分で育てて妻にしたという気の長い話になっている)ものの、須佐之男命がヤマタノオロチに酒を呑ませてから切り殺し、大蛇の生き贄にされそうになっていた姫を助けて妻にしたという話においては、一貫して変わりないようである。
ざっと見たところ、この話は、ギリシャ神話のアンドロメダ伝説に似ているようにも見える。英雄ペルセウスがメドゥサの首を奪取したあと、たまたま通りかかったエチオピアで、巨大海蛇の生き贄にされかかっていた王女アンドロメダを助けて、それを妻にしたという話である。
ところで……。
このヤマタノオロチとは一体何者なのか?
古来より、あの「天の岩戸」同様、ヤマタノオロチについても、多くの研究家や学者の間から、その正体について、様々な説が論じられてきた。
有名なところでは、ヤマタノオロチ斐伊川《ひいかわ》説(ヤマタノオロチの暴虐は台風などによる川の氾濫《はんらん》を譬《たと》えたものであるという)、あるいは、他民族侵入説(オロチョンなる他民族の出雲侵入を譬えたもの)、さらに、ヤマタノオロチの身体の描写が山を思わせるところから、ヤマタノオロチは山の譬えであるという説、あるいは、ヤマタノオロチとは、活火山から噴出した溶岩流を譬えたものであるという説……。
他にも、奇説珍説をあげたら枚挙にいとまがないほどである。
しかし、ここで、私が先に書いたこの言葉を思い出して欲しい。
「……凶暴で醜怪な大蛇や蛇の属性をもつ怪物は、すべて、その怪物自身の性別のいかんを問わず、古代の太母神や荒ぶる女性原理を象徴しているのである」
ヤマタノオロチも決して例外ではなかった。
つまり、あのヤマタノオロチもまた、太母神の遣い蛇、ないしは、太母神自身の化身した姿だったということである。
少なくとも、記紀を読む限りにおいて、ヤマタノオロチという大蛇の性別は明らかではない。その連なる山にも譬えられるような巨体や、酒好きであること、乙女(ないしは赤ん坊)を取って食うような獰猛《どうもう》さ(これは食欲だけでなく好色さをも暗示しているように見える)から見て、当然「雄」であるかのように思われてきただけではないのか。
しかし、ヤマタノオロチは、ひょっとしたら、ティアマトやメドゥサがそうであったように、その本来の性は、「雌」であったのかもしれないのである。
太古において、獰猛さや荒々しさ、いわゆる荒ぶる力とは、むしろ女性の属性だったのであるから。
ギリシャ神話では、火炎龍テュポンの遣い手は大地女神ガイアだった。また黒蛇ピュトン、あるいは水蛇ヒュドラ、あるいは大蛇ラドンの遣い手は、大女神ヘラだった。
では、ヤマタノオロチの遣い手である、日本の太母神とは……?
ここで思い出して欲しいのは、あの国生み神話である。
記紀によれば、日本という国は、イザナギとイザナミという兄妹にして夫婦の二神によって創造されたとある。ところが、この国生みの途中で、火の神を生んだとき、イザナミは陰部を焼かれ、それが元で死んでしまう。しかし、妻を忘れられないイザナギは、亡妻を求めて、黄泉《よみ》の国まで行き、扉越しにイザナミに会って、戻ってくるように懇願する。イザナミは「自分は既に黄泉の食べ物を食べてしまったので戻れない」と突っぱねるが、それでも、イザナギはあきらめない。根負けしたイザナミは、「黄泉大神《よもつたいしん》に相談してみる。それまで、ここで待て。その間、決して私の姿を見てはいけない」と伝える。
しかし、その約束を破って、イザナギは妻の姿を見てしまう。そこには、既に腐り果て、身体の八カ所に「雷神」をわだかまらせて横たわる凄惨《せいさん》なイザナミの姿があった。
夫が約束を破ったことを知ったイザナミは激怒して、イザナギを追いかけてくるが、イザナギはかろうじて、黄泉の国と現世とを結ぶ坂、黄泉比良坂まで逃げ切ると、そこを大岩でふさぎ、岩ごしに、追いかけてきたイザナミに絶縁を言い渡す。そのとき、イザナミは自分を裏切った夫に呪詛《じゆそ》の言葉を浴びせかける。「おまえの国の人間を一日に千人殺してやる」と。すると、イザナギはこう言い返す。「それならば、吾《われ》は一日に千五百人の人間を産み出そう」と。
この後、完全に黄泉の国の住人となったイザナミは、自らが、黄泉大神すなわち、冥界《めいかい》の女王となって、死の国を司るようになるのである……。
ここで思い出してほしい。
神話における「冥界の女王」とは、太母神の「死と知恵」を司る老婆の相であることを。つまり、冥界を司る女神イザナミノミコトこそが日本の太母神だったのである。
神話の中では、イザナミはイザナギと兄妹にして夫婦ということになっているが、二人は兄妹でも夫婦でもなかったに違いない。ヘラやカーリーやアルテミスがそうであったように。
おそらく、日本列島に最初に住み着いたのは、南方から来た太母神信仰をもつ母権制の民族(縄文民族)だったのだろう。イザナミは、この日本の原民族ともいうべき民族が信奉する太母神(蛇女神)だったのである。
しかし、弥生《やよい》期になって、北方の大陸からきた太陽信仰をもつ民族に征服され、この日の民族が祀《まつ》る男神と兄妹にして夫婦ということにされてしまったのである。
ヤマタノオロチの遣い手とは、このイザナミノミコトだったのである。いや、ヤマタノオロチとは冥界から地上に姿を現したときの、大蛇と化したイザナミ自身の姿だったともいえよう。
ここで、イザナミとヤマタノオロチの相似点を見ていくと、まず、黄泉の国で、イザナギが見たイザナミの死体には、「八種《やくさ》の雷神」がわだかまっていたとある。この「雷神」とは「長虫すなわち蛇」を表している。イザナミの死体には、八匹の蛇がわだかまっていたというのである。ヤマタノオロチも八匹の蛇の頭をもっていた。この「八」と言う数字にはたいした意味はなく、一説によれば、「無数の」という意味くらいしかないともいうが、どちらにせよ、「無数の」蛇の頭をもつ大蛇と、「無数の」蛇を身体にわだかまらせた女神の死体とは、何らかの関連があると見てもよいのではないだろうか。
さらに言えば、ヤマタノオロチが現れた場所が、実は、イザナミが葬られた場所に近いということである。
イザナミが葬られたとされる場所は、記紀によれば二カ所ある。一つは出雲の地であり、今一つは、紀州の熊野である。黄泉の国というのは、古事記によれば、黄泉の国への入り口である黄泉比良坂があったのは出雲であるというから、どうやら、出雲の地の地下世界がそのまま死の国と考えられていたようである。
そう考えれば、出雲の地を荒らしに毎年現れたヤマタノオロチが、実は、その地下世界を司る黄泉大神であるイザナミの化身した姿であったとしても、さほど矛盾はないのではないか。
おそらく、ヤマタノオロチに毎年食われたという娘たちは、ヤマタノオロチ(太母神イザナミノミコト)を祀る巫女《みこ》たちであったのであろうし、この伝説の意味するところは、原初の頃には、「生き贄《にえ》」的な儀式もあったのではないかということである。
しかも、ヤマタノオロチの描写に一つ非常に気になるものがある。それは、「……その腹には、いつも血が滴り爛れている」とあることである。
ヤマタノオロチの腹にいつも滴っていたという「血」とは一体何の血であるのか?
単純に考えれば、オロチの犠牲になった生き贄たちの血とも考えられる。あるいは、足のないオロチが移動するときに、腹這《はらば》いのまま進むので、しょっちゅう怪我《けが》でもしていたということなのだろうか。
しかし、ヤマタノオロチを大母神イザナミの化身として見た場合、ふと思いつくのは、この腹にいつも流れていたという血は、女性特有の血、すなわち、「経血」ではないかということである。
此の際、爬虫類《はちゆうるい》である蛇が哺乳類《ほにゆうるい》の特徴である「経血」を流すかという愚かしい横槍《よこやり》は無用にしてもらいたい。これは、あくまでも、「象徴」としての表現なのだから。しかも、ヤマタノオロチはただの蛇ではない。太母神の化身なのである。いわば半人半蛇である。
はじめに書いたように、太母神信仰と経血には深い関係がある。繰り返し書くが、母権制の社会では、月の運行に伴って、女性が一定周期で流す月経の血は生命の源として大変神聖視されていた。
よって、太母神はこの経血を常に流し続ける者[#「常に流し続ける者」に傍点]として表現されることが多かった。太母神を表す像が、時には赤い土や塗料で塗りたくられ、「赤い女神」として表現されたのはこのためである。
また、経血は蛇とも関係が深く、太母神の最初の月経は超自然的な蛇と交わることで起こると考えられていた。
それゆえに、この太母神が男性化したという、聖書の海にすむ大怪物リバイヤサンは、「赤いドラゴン」であると言われているのである。
つまるところ……。
ヤマタノオロチ伝説も、出雲の太母神だったヤマタノオロチ(イザナミノミコト)を、父性原理を信奉する他民族の男神である須佐之男命が退治(侵略しその地位を奪った)したという話だったのだろうか。
ヤマタノオロチとは何か(2)
しかし、ヤマタノオロチ伝説の真に意味するところは、西洋の龍蛇伝説ほど単純ではないような気もする。この神話には、史実が何層にも塗り込められた複雑な意味合いがあるように思えてならない。
もし、ヤマタノオロチを太母神たるイザナミの化身と考えた場合、ふと疑問に思うのは、須佐之男命とヤマタノオロチの関係である。
古事記によれば、須佐之男命は、その父イザナギから、「海を司れ」と言われても、それをせずに、「亡母の国に行きたい」と泣いてばかりいたという逸話があるほど、「お母さんっ子」であった(ただ、ここで少々奇妙なのは、古事記においては、この須佐之男命は、イザナミが死んだあと、イザナギが禊《みそぎ》をしている最中に一人で生んだ子ということになっていることである。とすれば、須佐之男命がイザナミを母と慕うのはチトおかしいような気もするが、日本書紀の方では、イザナミとイザナギが共に作った子供の一人ということになっているので、どうやら、このくだりは、日本書紀のそれと混同されているようである)。
それはともかく、須佐之男命の出雲行きは、天界での悪行|三昧《ざんまい》の末の追放であるように書かれているが、「亡母のいる国に行きたい」と言っていた彼にとって、「亡母」の住む死の国への入り口がある出雲行きは、むしろ望むところでもあったはずである。
これほどまでに「亡母」イザナミを慕っていた須佐之男命が、その母の遣い蛇ないしは化身であるヤマタノオロチを殺すというのは、どうも釈然としない。
それに、ヤマタノオロチの退治の仕方にしても、ギリシャ神話などに較べると、今ひとつ手ぬるい気がする。
果たして、剣でずたずたに切り刻んだくらいで、不老不死と思われていた「蛇」(それも年とった妖気溢《ようきあふ》れる大蛇)が簡単に死ぬものだろうか。
たとえば、ギリシャ神話においては、百頭の水蛇ヒュドラを退治するとき、ヘラクレスは大変な苦労をしている。というのは、水蛇の首は、切っても切ってもなくなるどころか、かえって「増えて」しまったからである。そこで、ヘラクレスは、その首を切ったあと、切り口を火で焼き切り、さらに、首を土中に埋めて、蛇の再生力を止め、ようやく、ヒュドラを退治したとある。
どうやら、蛇という生き物は、切り刻んだくらいでは死ぬどころか、かえって、その再生力が促されて、前より元気になってしまう生き物だと考えられていたようだ。
もし、これが世界共通の認識だったとしたらどうだろう?
蛇に好物の酒を与え、そのあとでその身体をずたずたに切り刻んだという須佐之男命の行為は、実は、蛇を退治しているのではなく、逆に蛇の再生を促しているように見えるということなのである。
さらに、この須佐之男命だが、記紀では、天照大神と月読命《つくよみのみこと》と共に生まれた「三貴子」の一人で、生まれながらの天つ神ということになっているが、もともとは、出雲土着の国つ神(縄文民族)ではないかという説もある。
確かに、須佐之男命というのは、「長い髪に胸まで垂れる髭《ひげ》を生やし、胸毛まである」非常に毛深い神として描かれており、この「毛深さ」は、縄文民族の血を引くと言われる北海道のアイヌや、沖縄の人々と共通する特徴である。
もし、須佐之男命が天つ神ではなく、出雲土着の神だとしたら、須佐之男命とヤマタノオロチの関係は、記紀に書かれたものとは全く違ってくるのではないだろうか。
ヤマタノオロチとは、単なる人食いの化け物ではなく、出雲土着の神、つまり母なる大蛇神なのである。その証拠に、日本書紀の一書では、須佐之男命がヤマタノオロチに向かって、「汝《なんじ》は貴い神だから、おもてなしをしよう」と言っている。
そして、須佐之男命とは、もともとは、この出雲の太母神たるヤマタノオロチ(イザナミノミコト)に仕え、これを祀っていた男王ではなかったか。
記紀に書かれた須佐之男命の行為はすべて、ヤマタノオロチを神として祀るための儀式だったのである。それが、西洋の龍蛇退治伝説と混同されて、全く逆の意味に伝えられてしまったのかもしれない。
しかし……。
しかし、である。
右のように考えても、今ひとつ釈然としないのは、もし、須佐之男命が出雲土着の国つ神であったとしたら、なぜ、その彼が、記紀神話では、最高神たる天照大神の弟とされ、「三貴子」の一人とみなされるほど、「出世」したのかということである。
ここで少々嫌な憶測をすると、この「出世」には何らかの「取引」というか、血腥《ちなまぐさ》い「代償」が払われたのではないか……。
前にも書いたが、太母神信仰をもつ母権制社会が崩壊していった真の理由は、他民族の侵略以前に、その母権制社会の中で、いわば「内乱」ともいうべきものが起こって、既に内部からその土台が腐りはじめていたことにあるのではないかということである。
偉大な獅子《しし》を倒すのは、外から飛んできたハンターの銃弾などではなく、実は、獅子自身の中に潜んでいた「虫」なのである。
どれほど堅牢《けんろう》強固に見える体制も、滅びるときは、その内部から崩壊していくのである。白蟻が知らぬまに家の土台を食い尽くしていくように……。
つまり、結論から言ってしまえば、須佐之男命は、やはり、母なるヤマタノオロチを殺したのではないか、ということである。
ただし、それは、他民族の侵略を意味する「退治」としてではない。そこが西洋の龍蛇伝説とは根本的に違うところである。ヤマタノオロチ伝説とは、同民族間の内乱、あるいは、下克上的な争いを暗に物語った神話なのではないだろうか。
須佐之男命は、本来はヤマタノオロチ側、つまり母権制を掲げる先住民族に属しながら、父権制を掲げる他民族の思想ないしはその勢いに同調して、太母神たるヤマタノオロチを廃して、出雲での覇権を我が物にしようとしたのではないか。
だからこそ、彼は、その「裏切り」ゆえに、新しい支配者たちに「天つ神」として受けいれられたのではないだろうか。
須佐之男命が天照大神に数々の無礼を働いた罪で天界を追放された後、出雲に至って、その地を荒らしていたヤマタノオロチなる蛇怪物を退治し、やがては、(いつの間にか)イザナミに代わって冥界を司る黄泉大神になったという日本神話の筋書きは、あれはむしろ、逆に読むべきものなのである。
須佐之男命はもともと出雲の出で、そこの大いなる母神であったヤマタノオロチに仕える男王だったが、その母なる神を「裏切って」殺したからこそ、日本列島の新しい支配者たる日の民族に受けいれられ、やがては「天つ神」として天界に招かれる資格を得たのだと。
もっとも、天界に招かれはしたが、そこで須佐之男命を待っていたのは、日の民族が信奉する太陽女神の徳を引き立てるための「悪役」でしかなかったのだが……。
ここまで書いてきて、ふと思ったことがある。日本神話の創造過程で、本来男神であるべき太陽神があえて女神とされたいきさつには、ひょっとすると、この先住民族の太母神であったイザナミの存在が大きく影響していたのではないかということである。
ギリシャ神話において、太陽神アポロンが自らが退治した黒蛇ピュトンの神格を吸収して「冥界《めいかい》での相」としたように、あるいは、知恵の女神アテナが、古い知恵の女神であったメドゥサを(ペルセウスを使って)退治したあと、その蛇の威力を自らの中に取り入れたように、日本列島の新しい支配者たちは、それまで信奉していた太陽神に、自らが滅ぼした古い大地女神の神格を取り入れようとしたのではないだろうか。
ある民族が先住民族を征服したあと、その先住民族の信奉する神の特性を自らが信奉する神の中に取り入れ、より強力な神を創り出すというのは、世界的に見ても、しばしば見られる現象でもある。
つまり、天空に鎮座する太陽女神の光り輝く美貌《びぼう》の裏には、もう一つの相として、暗黒の冥界につき落とされた太母神たるイザナミの腐乱した黒い貌《かお》が隠されているのではないかということである。
そう考えると、あの天の岩戸事件に至る前の、高天が原における、姉神たる天照大神と弟神たる須佐之男命の確執の真相が見えてはこないだろうか。高天が原で行われたとされている、須佐之男命の天照大神への背信的行為はすべて、実は、出雲の地で、須佐之男命が母神たるイザナミに対して行った背信的行為をそのまま写し取ったものであるという真相が……。
ヤマタノオロチは水神か?
ヤマタノオロチが単なる怪物ではなく、出雲地方土着の古い神、とりわけ「水神」だったのではないかという説があり、それは、半ば定説化している気がするが、果たして、ヤマタノオロチは「水神」だったのだろうか?
確かに、中国では、古くから、「龍」は水を司る神として崇められてきたし、インドでも、蛇神《ナーガ》は、その形状からか川の神と考えられ、やはり水を司ると思われてきた。
さらに、須佐之男命に切り殺されたとき、その尾から天叢雲《あめのむらくも》の剣という神剣が出てきたという話も、オロチが水神であったことを示しているように見える。
天叢雲の剣とは、その名から推測すると、「雲を呼び雨をもたらす剣」の意があるように思えるからである。おそらく、剣といっても武器ではなく、「雨乞《あまご》い」の儀式などに用いる祭具だったのだろう。
しかし……。
ヤマタノオロチという大蛇には、全く別の特性を暗示しているような描写もあるのである。
それは「火」である。
たとえば、ヤマタノオロチの目を表現して「赤かがちのような目」と記紀には書かれており、これは一般には、「赤いほおずきのような目」と解釈されているが、実は、この「赤かがち」は、「赤々と燃える竈《かまど》」の意があるという説もある。連なる山脈を思わせるようなオロチの巨大さから考えると、その目は「ほおずき」よりも「竈」の方がふさわしいようにも思えてくる。もし、これを「竈」と考えるならば、当然、そこからは、「火」が連想されよう。
また、あらゆる宗教においてきわめて根源的な存在である「蛇」は、その基本的な属性である水と土(蛇とは水と土の中に住むものだから)だけではなく、火や空とも結び付きやすいのである。
火の信仰と結び付いた蛇は「火の蛇」として崇められ、天空信仰ないしは鳥信仰と結び付いた蛇は「翼や羽毛を持つ蛇」としての神格を得てきた。
たとえば、アステカの太陽神ケツァルコアトルや、マヤの風の神ククルカルは、ともに「羽毛を持つ蛇」と伝えられているし、中国神話の蛇女神ジョカは火炎龍であると言われている。
また、旧約聖書において、あのモーゼが毒蛇に悩まされている人々を助けるために、荒野に掲げた「青銅の蛇」は、ネフォシュタンと呼ばれる「火の蛇」であった。
そして、火と空のエレメントと結び付いた「空飛ぶ火の蛇」が、やがては、旧約聖書の熾天使《してんし》となっていったのである。ちなみに、神に反逆した罪で地獄に落とされたルシファー(後のサタン)はこの最も輝ける熾天使長であった。
しかし、火と結び付いた蛇といえば、すぐに思い起こさなければならないのは、ギリシャ神話の、あの山ほどの背丈に火を吹く百の蛇の頭を持つという火炎龍テュポンである。
大神ゼウスによって、エトナ山に封じこまれたという逸話をもつこの巨大蛇は、明らかに、活火山エトナを神格化した「火山神」であるといえよう。山のような巨体に、火を吹く百の蛇の頭とは、まさに、火口から噴出する真っ赤なマグマを連想させるではないか。
木々や苔《こけ》の生えた山脈を思わせる巨体に、八つの頭(無数の頭の意味あり)に八つの尾を持つという大蛇、ヤマタノオロチも、この火炎龍テュポン同様、火を噴く山を連想させないだろうか?
つまり、ヤマタノオロチとは、「水神」というより、むしろ「火神」いや、「火山神」だったのではないか。
実際、出雲地方には、太古から、大山《だいせん》という大火山が存在しているのだし、ヤマタノオロチという怪物は、実はこの火山から噴出した溶岩流を譬《たと》えたものではないかという、きわめてユニークで鋭い指摘は、ある著名な物理学者から既になされている。
確かに、「須佐之男命がオロチを切り殺したとき、斐伊川の水が(オロチの血で)血になって流れた」という描写が記紀には見られるが、これなども、真っ赤な溶岩が川のように流れる様を連想させるではないか。
ただ、ヤマタノオロチとは、「溶岩流」ではなく、むしろ、「噴火する火山」そのものを模したものではないだろうか。
さらに言えば、ヤマタノオロチの腹にいつも滴っていたという「血」にしても、先に私は、ヤマタノオロチが雌ではないかという推測から、「経血」を暗示しているという見方をしたが、あの「血」とは、「火口から噴出し、山肌に沿って流れた赤い溶岩の跡」であるといった方がより的確かもしれない。
しかし、これは後で述べるが、この「経血」と「火」とは、実は、太古において、非常に密接な関係をもっていたのである。
だから、ヤマタノオロチを活火山を模したものといい、その腹に流れる「血」を「溶岩」であるといっても、けっして、前述の「経血」説を自ら否定するものではない。
火を噴く山を大女神に譬えれば、その「火口」から噴出し、山肌を流れる「赤いマグマの塊」は、まさに、大女神が流す「血」のようにも見えたであろうから。
ただ……。
もし、ヤマタノオロチが「水神」ではなく「火山神」だったとすれば、須佐之男命がオロチを切り刻んだとき、その尾から出てきたという「雨を降らせる」神剣の意味をどう解釈したらよいのだろうか。
一つ想像できるのは、活火山の噴火が予想されたとき(こうした自然がもたらす災害を前以て感知することが巫女王の重要な仕事だったに違いない)、噴火の規模を少しでも小さくするために、急遽《きゆうきよ》、「大雨を降らせて火を消すべく」雨乞いの儀式が、山麓《さんろく》において行われたのではないかということである。
山麓とはすなわち、大蛇の「尾」にあたる。このときに使われた雨を呼ぶ祭具としての剣が、「大蛇の尾から出た剣」として伝わったのではないか。
あるいはこうも考えられる。
古事記には、オロチの尾から出てきたのは、「天叢雲の剣、後の草薙の剣」という描写が見られるのに対して、日本書紀の方には、どの書にも、「後の草薙の剣」としか記されておらず、「天叢雲の剣」の名前は見られないということである。それゆえか、「天叢雲の剣」と「草薙の剣」とは別物であるという説もある。
そして、この「草薙の剣」とは何であるかといえば……。
記紀によれば、ヤマトタケルが父王に東国の平定を命じられ、駿河《するが》の国(古事記では相模《さがみ》の国)に至ったとき、その国の賊に騙《だま》されて野原に誘い込まれ、野に火をつけられたことがあった。そのとき、ヤマトタケルは慌てず、叔母《おば》のヤマト姫から授かった神剣で手前の草をなぎ払い、やはり叔母から貰《もら》った火打ち石で火をつけて、迎え火をすることで、逆に敵を焼き殺して難を逃れたとある。
これを読む限りでは、ヤマトタケルは、敵が仕掛けた野火を、「水で消した」のではなく、むしろ「火をもって火を制する」ことで消し止めたようである。
ということは……。
「草薙の剣」の本来の性は、「水」ではなく、むしろ「火」だったのではないか。
だからこそ、須佐之男命がこの神剣を天照大神に献上したとき、天照大神はその剣を一目みて、「それは、私が以前にうっかり下界に落としてしまった剣である。それがおそらく、大蛇に呑《の》み込まれ、その腹におさまっていたのだろう」と答えて、その剣がもともとは自分のものであったと主張したのである。
太陽信仰が定着した後は、「火」とはまさに「太陽」に属するものと考えられてきたから、天照大神のこの発言も、草薙の剣が火を呼ぶ剣であったと考えれば納得できよう。
また、「火の起源の神話」の著者であるフレーザーによれば、メラネシアやニューギニア、あるいはオーストラリアには、「蛇の身体から火が生まれた」とか、「女がヤマイモの杖《つえ》で地中の蛇を打ったら、杖が折れて、中から火が飛び出した」とか、「老女が最初に火をもっていて、それを盗もうとした男たちが老女の家に忍び込んだとき、うっかりして、タコの木にいたガルブイエという蛇の尾に火がついた。男たちはこの蛇の尾の火を持ち帰ることで火を得た。ガルブイエは、ワガワガのガルボイ族のトーテムになっている」というような、蛇と火の関係を示した伝説が少なからず見られるそうである。
「蛇の尾についた火」とは、まさに、「オロチの尾から出てきた火の剣」を連想させはしないだろうか。
日本においても、「大物主」という大蛇神を祀ることで名高い奈良の古社、大神神社《おおみわじんじや》では、元日の未明には、繞道祭《じようどうさい》と呼ばれる行事――――神社が用意した大松明《だいたいまつ》から火縄を持った参詣者《さんけいしや》たちに火が移し与えられ、参詣者たちはそれを大切に家に持ち帰り、雑煮をたく火種にする―――が古くから行われているという。
この「大物主」という蛇の神様は、当地では酒造りの神様としても信仰され、つまりは、「水の神様」(良酒を造るには良水を得る必要があることから)として崇められているようだが、古くから伝わるというこの「火」の行事から見ても、この大蛇神が「水」だけではなく、「火」とも何らかのかかわりがあることは明らかであろう。
火盗み神話の真相
フレイザーの「火の起源の神話」の中には、さらに興味深い文章がある。
それは、要約すれば、「女が始から火を体内に持っており、男と性交することで、その性器から火を生み出したという伝説は、火を得るときの、板と棒をこすり合わせる方法が男女の性行為を連想させ、板(女)の中にたまっていた火を、棒(男)が引き出したと考えられたからではないか」というくだりである。
「女が体内に火を持っており、それが性行為によって生み出された」という箇所は、あの国生み神話で、イザナミノミコトが火の神ホノカグツチを生み落としたときに、陰部が焼けただれ、それが元で亡くなったという逸話を容易に思い起こさせてくれる。
この逸話は、イザナミノミコトが単なる大地女神ではなく、火山女神でもあったことを暗に物語っているのではないだろうか。
巨大な女神の陰部(ちなみに、女性性器を表すホトという言葉は、火口を表すときにも使うという)から、生まれた「火の神」とは、まさに、火口から噴出する炎を連想させるではないか。
太母神は、原則的には女性原理である水(特に海水)と結び付きやすく、その本性は水神であることが多い。蛇がそうであるように。
しかし、火山国では、ポリネシアの火山女神ペレやニュージーランドの火山女神マフーイカのように、火と結び付くこともある。日本列島は火山国でもあったから大地を司る太母神が、その大地の領域である火山をも司る神であっても一向に不思議はないように思える。
しかも、イザナミが火山女神だったと考えれば、夫神《とされた》イザナギが、なぜ、わが子でもあるはずの火の神ホノカグツチを、即座に切り捨てるほど憎んだかという真の理由も察しがつくのだが……。
神話では、イザナギがホノカグツチを切り捨てたのは、最愛の妻の命を奪った子だからという、もっともらしい理由付けがされているが、真相はそうではあるまい。
イザナギの「火の神」への憎悪の裏には恐怖が潜んでいたのである。それは、火山の脅威を知らずに大陸で暮らしていた日の民族が、日本列島に来てはじめて知った火山という「荒ぶる山」への恐怖である。
さらに言えば、その火を吹く荒ぶる山を自在に操る(ように見えた)先住民の信奉する巫女王への恐怖でもあっただろう。その恐怖が憎悪となって、イザナギが「火の神」を即座に切り殺すという神話を生み出したのではないだろうか。
こうした「日の民族」の、先住民が信奉する「火の神」への恐怖と憎悪は、ギリシャ神話の中にも見ることができる。
あのプロメテウスの「火盗み」神話である。
神話によれば、巨人族に属するプロメテウスは、ある日ふと下界を眺め、人間たちがまだ火を知らずに獣同然の暮らしをしているのを見て同情の念に駆られた。火を使えるようになれば、夜でも明かりと安全を確保できるし、寒さもしのげるし、煮炊きした食物を口にすることもできるからである。
そこで、このきわめて知的で心優しい巨人の神は、大神ゼウスに、人間にも火を与えるように直談判するのだが、ゼウスは、「人間に火を与えると傲慢《ごうまん》になって、我々神と同等になる恐れがある」といって許さなかった。
それでも、人間に対する同情心を捨てられなかったプロメテウスは、日の出の火をこっそり盗み、それを人間に与えるのである。火を得た人間たちは、それまでの獣のような生活から脱して、瞬く間に獣にはない知性を獲得すると、より高度な文明を築きあげていった。
しかし、プロメテウスの方は、大神ゼウスに反逆した罪で、ゼウスによって、万年雪の降る山の頂上に決して解けない鎖で縛りつけられ、二羽のハゲタカに生きながらにして内臓(肝)を食い荒らされる(プロメテウスは神だったので永遠に死ぬことはなかった)という残酷な罰を、ヘラクレスが彼の救い手として現れるまで何百年も受けなければならなかったのである。
大神ゼウスにこれほどまでに憎まれたプロメテウスとは何者か?
彼は、ゼウスが天界を支配する前に天界に住んでいた巨人族の神である。この巨人族というのは、大地女神ガイアから生まれた神々のことで、言うなれば、母権制社会を営んでいた先住民族に信仰されていた神々である。さらに言うならば、彼らは巨人であると同時に蛇族でもある。それは、ガイアの子の一人に、あのテュポンという火炎龍がいたことを思い出して貰えばいいだろう。あるいは、ガイアの直系の孫であるヘラが生んだ黒蛇ピュトンのことを。
また、やはりガイアの子である大洋神、オケアノスは巨大な海蛇であったし、妹であると同時に妻でもあった川の女神テテュスは、インドにおけるナーガ(蛇神)のような存在だった。さらに、巨人族の中で最強と恐れられたポルピュリオンも、テュポン同様、火山を神格化した火炎龍であった。
これら蛇怪獣と同じ血を引くプロメテウスの本性が「蛇」であったことは、彼が「ハゲタカ」によって内臓(肝)を食われるという、ゼウスによって与えられた異様な罰にも暗示されている。「鳥」とは「蛇」を「啄《ついば》む」ものであるという暗示に……。
プロメテウスもまた蛇の属性をもつ火神だったのである。
だからこそ、火山神である百頭の大蛇テュポンをやっとの思いで退治してエトナ山に閉じ込めた(ゼウスはテュポンとの最初の戦いでは、たやすく大蛇に負けて洞窟《どうくつ》に幽閉されてしまっている)ゼウスにとって、同じ蛇族の火の神は、それだけで憎悪と恐怖の対象だったというわけである。
プロメテウスもまた「火山神」なのである。ただ、噴火したときの「荒ぶる山」をテュポンやポルピュリオンが象徴しているとしたら、プロメテウスの方は、ふだんの穏やかな山の様相を象徴していたともいえよう。
太古の人々にとって、活火山の赤く荒れた山肌の様子が、そこに縛り付けられた巨人の食い破られた腹のように見えたのかもしれない。そして、その、ふだんは、静かなる山が、時折、不気味な地鳴りのような音をたてるのは、ハゲタカに内臓を食い荒らされている巨人が苦痛の呻《うめ》き声をあげているように聞こえたのかもしれない。
ところで……。
一説によれば、プロメテウスが最初の火を失敬したのは、「太陽」からではなく、地下世界にある巨大な「竈《かまど》」からであったという。地下にある巨大な竈とは、まさしく火山を意味している。
さきほどのフレーザーの研究によれば、人類が最初の火を得た神話は、大別すれば三つに分類できるという。
一つは、太陽や月などの天体から盗んできたという「天空」神話。おそらく、これは、落雷などによって、偶然起こった火災から、人が「火」の存在を知ったのだろうと、フレーザーは推理している。
さらに、もう一つ、意外に多いのが、最初の火を地下の竈から得たという「地下」神話である。これは、明らかに火山の爆発による火災から火を得たことを物語っている。
そして、最後の一つは、これは神話の数としては希少らしいが、「最初の火を海から得た」というものである。海底火山のことだろうか?
活火山の近くに住んでいた人々が、最初の火を火山から得たとすれば、あの火盗み神話も、プロメテウスは最初の火を地下の巨大竈から得たと考えた方が正しいように思えてくる。
ちなみに、地下の巨大竈の持ち主は、鍛冶《かじ》神のヘパイストスである。ローマ名はヴァルカノと言い、ずばり、火山の語源にもなっている。彼は、大女神ヘラが一人で生んだ子供で、一説には、この実母のヘラにその醜さゆえに憎まれて下界に突き落とされたともいうが、一説には、ヘラとゼウスが壮大な夫婦ゲンカをしたとき、母神ヘラの味方をしたことで、ゼウスの怒りを買い、天界から下界に突き落とされたとも言う。
どちらにせよ、血筋的には、大地女神ガイアの直系の血をひいていることから、彼もまた巨人族(先住民族)側の神と見ていいだろう。
それに、ヘパイストスが「生まれつき足が不自由で、歩くときはジグザグに進んだ」という描写から見ても、彼もまた、その本性は「蛇」であったことが窺《うかが》われる。その証拠に、彼の子供の一人、エリクトニオスは、生まれつき両足が「蛇の尾」であったという。
しかも、この地味で職人気質の神らしからぬ神は、華々しい天界よりも、むしろ下界、エトナ山の火口にある自分の仕事場の方を好み、人間に対してもきわめて友好的だった。そんな彼なら、「人間に火を与えたい」という同族のプロメテウスの願いを、ゼウスのようにむげに退けるようなことはしなかっただろう。
つまり、人間に与えられた最初の火は、ゼウスが統治する天上の太陽からの恵みではなく、太母神が統治する地下の巨大竈(火山)からの恵みだったということである。
この人類の友、人類の救済者であったプロメテウスの名誉のために声を大にして言いたい。
彼は「火盗み」などしてはいなかった! 「火山神」である彼は、祖母《ガイア》から譲り受けた財産の一部である、貴重な竈の火を、全くの好意から人類に分け与えてくれただけなのである。
プロメテウスの「火盗み」神話は、ゼウス(日の民族)がプロメテウス(火の民族)への憎悪を正当化するために作られたものにすぎなかったということである。
山の頂上に鎖で(おそらく十字架にかけられるような格好で)縛り付けられ、永遠に続くとも思われる拷問に苦しむプロメテウスこそ、人類にとっての真の救世主であったのである。
救世主といえば……。
これと全く同様の卑劣な「冤罪《えんざい》事件」は、あの聖書の中にも見られる。
エデンの園にまつわる神話である。
火と血と知と
東の果ての、神が作った楽園に、最初の人間であるアダムとイヴが住んでいた。二人は、父なる神から、「園にあるどの木からもその実を食べてもよいが、中央にある永遠の生命の木と善悪を知る知恵の木からは決して実を食べてはいけない」と命令されていた。
しかし、ある日、イヴは、蛇にそそのかされて、知恵の実を口にしてしまう。そして、その実をアダムにもすすめる。知恵の実を食べた二人は、急に目が開けたようになり、自分たちが獣のように裸でいることが恥ずかしくなる。そこで、イチジクの葉を使って裸を隠すようになった。それを知った神は激怒して、二人がさらに生命の木からも実を食べて、「神のように」なることを恐れ、慌てて楽園から追放してしまうのである。
そのとき、神は、イヴに知恵の実を食べるようにそそのかした蛇には、「獣の中でも一番|呪《のろ》われたものとして生きよ」、はじめに知恵の実を食べたイヴには、「その罪ゆえに、これから出産の際には苦しんで子供を生め。おまえは夫に従うが、夫はおまえを支配する」と、激烈な呪いの言葉を浴びせかけ、二人を楽園から追い出したあと、二度と人間が近づけないように、園の東門に炎の剣を持つ智天使を護衛として置くのである。
まるで、臆病《おくびよう》で貪欲《どんよく》な守銭奴が大事な金庫に特大の鍵《かぎ》をかけるように。
イヴに知恵の実を食べることを教えたのは蛇であった。それゆえ、蛇は、父なる神の怒りを買い、キリスト教世界では、最後の審判のその日まで、悪魔として呪われ続けることになる。
なんとプロメテウスの話と似ていることか。
似ているのも当然である。
最初に「火」を人間に与えた蛇族の神プロメテウスと、最初に「知」を人間に教えた蛇とは、同一の存在と見てもよいからである。
太古、「火」とは「知」でもあった。火を得ることで、人は闇《やみ》にうずくまる獣のような生活から抜け出し、知性ある生き物としての道を歩むことになったのだから。
原始キリスト教ともいわれ、キリスト教の異端の一つであるグノーシス派の教義では、人類にはじめて「知恵」を与えてくれた「楽園の蛇」こそ、メシアであるといい、真の救世主であるとしてキリストと同一視しているという。
ところで。
そもそも、一説によれば、あのエデンの園での一件は、全く誤解釈によるものだという。
エデンの園で、イヴがアダムに「知恵の実」を与えている図は、狡猾《こうかつ》な蛇にそそのかされた愚かな女が、夫たる男に罪の上塗りを迫っていると解釈されてしまったが、実は、これは、太母神(イヴ)が、自分の心臓である「知恵の実」を彼女の一時的夫(生き贄《にえ》)である男(アダム)に与えている図を、全く勘違いして伝えられたというのである。
エデンの園の中央にある「永遠の生命」と「知恵」をもたらす木とは、ギリシャ神話に出てきた、大女神ヘラが所有していた黄金のりんごの木のことなのである。ヘラクレスがここのりんごを盗もうとして、りんご園の番人でもあった、大蛇ラドンと戦ったという……。
これでお分かりだろう。神の作った楽園になぜ「蛇」がうろうろしていたのか。彼はたまたまそこに居合わせたのではない。彼こそが、炎の剣をもつ智天使にとって代わられるまでは、その楽園の正当な番人であったのだ。大蛇ラドンが黄金のりんご園の番人であったように。
そして園の持ち主は、太母神たるイヴだったのである。そのイヴが、彼女の一時的夫であり、生き贄としてやがて死の国に旅立つアダムのために、「永遠の生命」を約束するりんごを与えようとしている、というのが、あの楽園の図の真の解釈なのである。
木の陰からこっそり姿を見せて、赤い舌をのぞかせている蛇は、けっして、無垢《むく》な男女を堕落させることに成功してほくそえんでいるのではなく、単に楽園の番人(あるいはイヴの最初の夫)としてそこにいるにすぎないのである。
イヴの「原罪」などという馬鹿げたものははなから存在していないのである。「イヴの原罪」とは、まさしく、「イヴの冤罪」に他ならない。
こうした、りんごにまつわる大いなる勘違いは、ギリシャ神話の中にも見ることができる。あの「パリスの審判」である。
トロイヤの王子であるパリスは、ある日、ひょんなことから、アテナ、ヘラ、アフロディテの三大女神のうちで誰が一番美しいかといういわば最古の美人コンテストの審判役をゼウスに押し付けられてしまう。そして、彼が最も美しいと思う女神に、黄金のりんごを渡せと言われる。そこで、パリスは、「もし私にりんごをくれたら、世界で一番の美女を与えよう」と約束してくれたアフロディテにりんごを渡す。
よく知られたギリシャ神話では、パリスが三女神の一人にりんごを渡している図をこのような物語として説明しているが、これは全くの逆解釈である。実は、パリスはりんごを女神に渡しているのではなく、女神からりんごを受け取っているのである。
つまり、パリスもまたアダム同様、太母神たる三女神から聖王(生け贄)の印である黄金のりんごを与えられているというのが、この図の本来の解釈なのである。
パリスが「生き贄」であったことは、パリスの哀れな最期からも容易に推測できよう。「世界一の美女を与える」という女神の予言どおり、この「審判」の後、パリスは、スパルタの地で、ギリシャ一の美女と謳《うた》われたヘレネーと出会い、夫ある身の彼女と恋に落ち、彼女をこっそり本国であるトロイアに連れてきてしまう。
この「美女略奪」が、あのトロイア戦争を引き起こす。そして、一時は、ギリシャの名花を得て至福の時を過ごしたパリスも、参戦中に受けた矢傷が元で苦しみながら死んでゆく。
ちなみに、パリスが受けた矢傷とは、あのレルネーの水蛇ヒュドラの毒を鏃《やじり》に塗った弓から発せられたものであり、パリスはその毒矢を「腿《もも》の付け根」に受けたという。
ついでに言えば、水蛇ヒュドラの毒によって命を落とすという死に方は、あのヘラクレスの壮絶な最期と同じものである。
ヘラクレスの方は、ヒュドラの毒を含んだ血に浸された呪いの衣を、それを浮気封じの衣と信じた妻の手から着せてもらい、身につけたとたんに、蛇毒が身体中に回って「火で焼かれるような」苦しみを味わいながら死ぬのである。
「黄金のりんご」にかかわった男が二人とも、「蛇の毒」で死ぬという悲劇的な最期をたどっていることは、むろん、反復を好む神話的表現とか偶然の一致などではあるまい。
彼らが「黄金のりんご」にかかわったときから、彼らの「死」は決定づけられていたのである。女神から渡された「黄金のりんご」とは、まさに、供犠的死を経ることで、神としての復活(永遠の生命)を約束する契約の印であったのだから……。
ついでにいえば、この「死のりんご」の話が、めぐりめぐって、やがては、かの有名なドイツ民話「白雪姫」の、老婆に化けた魔女が姫に手渡す「毒りんご」の話に結実してゆくのである。もっとも、本来ならば、あの「毒りんご」を魔女から手渡されるのは、白雪姫ではなく、白雪姫を助けた王子の方であったはずなのだが。
だから……。
話を元に戻すと、「パリスの審判」とは、「パリスが女神によって生き贄に選ばれるための審判」であって、「パリスが美の女神を選ぶ審判」などではなかったのである。
ただ、これは単なる勘違いというより、父性原理を母性原理よりも上に置こうという意図から、故意に逆さまに解釈されたといった方がいいかもしれない。
父なる神がイヴに言った、「おまえは夫に従うが、夫はおまえを支配する」という言葉や、(しばしばフェミニストの神経を逆なでする、あの)美人コンテストなどという発想そのものが、まさに、それを滑稽《こつけい》な程あからさまに物語っていよう。
しかし、いかなる逆解釈を駆使しようとも、太古、知恵と永遠の生命を象徴するりんごの園を所有していたのは女の方だったのである。なぜなら、女とは、知恵と永遠の生命をもたらす魔法の血(経血)を所有する者だったからである。
さらに言えば、太古、「知」を表す「火」をも女が所有していた。それは、「火山」を司るのが大地女神であったということや、「竈《かまど》の火」を司るのもまた女神であったことを見れば、まさに、火を見るよりも明らかであろう。
ギリシャ神話では、竈の火を守るのはヘカティアという女神であり、これは一見いかにも女神らしく家庭を守る神のように見えるが(実際、この女神は、現在では、家庭の竈や暖炉を守る神として信仰されている)、しかし、太古、彼女と彼女の巫女《みこ》たちが守っていた「竈の火」とは、「家庭の竈」などではなく、もっと大きく神聖な意味をもつ「神の火」そのものだった。
ヘカティアはローマのヴェスタ女神と同一視されているが、この「竈の火」を司る女神ヴェスタは、主神であるユピテル(ゼウス)やジュノー(ヘラ)と並んで、長く、国家神的な信仰を受けてきたのである。
それが、父性原理が母性原理を征服していく過程で、「神の火」を守る女神や巫女たちは、その神聖な火と共に太母神を祭る神殿の祭壇からひきずりおろされ、家々の片隅にある煤《すす》けた台所に押し込められてしまった。
「おまえはここで竈の火だけを守っていればいい」という男たちの言葉と共に。
かぐや姫の正体
日本最古の物語と言われる、あの「竹取物語」のヒロイン、かぐや姫とは一体何者であろうか。
今回は、彼女の正体について考察してみたい。
日本人で、この有名な昔話を知らない人はまさかいないだろうが、あらためて、話の粗筋をかいつまんで紹介しておこう。
昔、「竹取の翁」と呼ばれる、竹細工を作って暮らしている男がいた。ある日、翁がいつものように竹を取りに竹林に行くと、根元が光り輝いている竹があった。不思議に思って、その竹を切ってみると、中から小さな赤ん坊が出てきた。
翁はその赤ん坊を家に連れ帰ると、老妻と共にその子を育てた。まもなく、翁は長者になった。子を得てから、翁の切る竹からは黄金が出るようになったからである。
やがて、子供はスクスク育って、三月もすると、光り輝くような美しい娘になった。名を「なよ竹のかぐやひめ」といった。
この姫の類い稀《まれ》なる美貌《びぼう》のうわさを聞き付けた男たちが群れをなして求婚にきたが、姫は家の奥深くに篭《こ》もって、誰とも会おうとはしなかった。そうした男たちの中でも、とりわけ執心が強かった五人の貴公子たちの求婚に、根負けした姫は一つの提案をする。それは、五人のうちで、姫が望むものを持ってきてくれた者と結婚するというのである。
姫は、「仏の御石の鉢」「蓬莱《ほうらい》の玉の枝」「火鼠の袋」「龍の首の玉」「燕《つばくらめ》の子安貝」という、世にも珍しい宝をそれぞれ五人の男たちに所望するが、結局、五人の男たちは誰ひとりとして姫のもとにそれを持ってくることはできなかった。
やがて、かぐや姫のうわさは帝《みかど》の耳にまで入り、帝もまたかぐや姫に求婚するが、姫は帝の求婚さえ退けてしまう。
こうして三年ほど過ぎた頃、かぐや姫は月を見ては物思いに沈むようになる。そして、満月に近いある夜、姫はとうとう泣きながら、自分が月の都に住む者(天女)で、この世の人間ではないことを養父母に打ち明ける。そして、満月の夜に、月の世界から迎えが来て、自分は本国に帰らなければならないという。
養父母はそれを聞き、驚き嘆いて、そうはさせじと、帝が差し向けた二千人の警護に家の周囲を見張らせ、姫を家の中の土蔵に閉じ込めて守ろうとするが、結局、満月の夜やってきた月からの使者の魔力の前になすすべもなかった。
かぐや姫はそれまで着ていた衣を形見にと翁に残し、月の使者が携えてきた箱の中にあった「天の羽衣」(この衣には下界でのことをすべて忘れさせてしまう不思議な力があった)を纏《まと》うと、血の涙を流して別れを惜しむ養父母を尻目《しりめ》に、晴れ晴れとした様子で、天人に連れられて昇天していった。
その後、かぐや姫から、「不死の薬」と別れの手紙をもらった帝も、「あふことも涙にうかぶ我が身には、死なぬ薬も何にかはせむ」と嘆き、家来に、「この薬と手紙を駿河《するが》の国にあるという山の頂で焼け」と申し付ける。
それ以来、その山のことを、「不死の山」と言うようになった。今もなお、富士の山の頂から煙が立ちのぼるのはそのためである。
ざっとこんな話ではあるが、それにしても、かぐや姫はなぜ「竹」の中から生まれたのであろうか。
実は、この「竹」とは、「蛇」を表しているのである。「竹」は、その細長い形状ゆえからか、あるいは生命力の強さからか、古来より、「蛇」を象徴する木の一つと考えられてきた。
たとえば、有名なところでは、あの鞍馬山《くらまやま》の竹伐りの会式《えしき》を思い出して貰《もら》いたい。初夏の頃、二本の竹を大蛇に見立てて、二組に分かれた僧侶《そうりよ》たちが刀で切り刻み、伐る早さを競うことで、その年の豊凶を占うという神事である。
この「二本の竹を競いあって伐ることで豊凶を占う」神事とは、やはり、大蛇に見立てた太綱を二組に分かれて引き合い、その勝敗によって五穀の豊凶を占う、あの「綱引き」の神事と一脈通じるところがある。
竹も綱も、古くから穀神であり水神でもあった蛇を象徴したものなのである。
また、竹と蛇の関係については、以前、インドネシアのこんな民話を紹介したことがあった。
「モルッカ諸島の王が血を流している竹を発見し、切ってみると、中から四匹の蛇が出てきた。この四匹の蛇が生んだ卵が後にバチャン島などの王族の祖になった」
この民話では、竹から生まれたのは蛇であったとはっきりと書かれている。おそらく、こちらの話が原型であろう。
ということは、つまり……。
時の帝の心さえ動かしたという、絶世の美女の正体は「蛇」だったのである。さらに言えば、かぐや姫とは、「羽をもった蛇」である。
天人とは、本来、天空信仰(鳥信仰)と大地信仰(蛇信仰)が結び付いて生まれた、「鳥」と「蛇」との両方の神格をもつ「羽ある蛇」のことなのである。
もっと言えば、「羽ある蛇」とは、天空信仰をもつ民族が大地信仰をもつ先住民族を侵略征服していく過程で、その地に根付いていた蛇信仰を自らの鳥信仰に吸収合併した結果、新しく生み出された「複合神」なのである。
「鳥」とはその習性からして、「蛇」を襲い食うものである。しかし、「蛇」もまた、鳥の雛《ひな》や卵を襲い食うものである。自然界において、「鳥」と「蛇」とは互いに天敵同士というわけだ。
だが、「鳥」には、蛇にはない翼ゆえに大空を自由に飛びかう力がある。一方、「蛇」には、鳥にはない「不老不死」の力と、毒蛇に見られるような「毒性(同時に薬効性)」がある。天敵同士ではあるが、この二匹の力が結びつけば、空と大地を支配する、より強力な神が生まれると考えられたのだろう。
「羽ある蛇」については、前にも語ったように、古代アステカの太陽神ケツァルコアトルやマヤのククルカル神、あるいは、聖書の「熾天使」の例などがある。
さらには、ギリシャ神話の、蛇のからまった杖《つえ》を持ち、翼のついたサンダルをはいた、あの伝令の神ヘルメスも、この「羽ある蛇」の代表といえよう。
また、あの蛇女神メドゥサや雌龍ティアマトも翼ある姿で表現されることが多い。
しかし、やがて、時とともに蛇信仰は衰え、排斥され、「蛇を悪魔と見る」キリスト教の普及などにも伴って、「蛇」の輝かしい神格は地に堕ちてしまった。あの大天使ルシファーが地獄に堕ちたように。
それと同時に、「天人」や「天女」からも、悪とみなされた「蛇」の神格が消えて、「鳥」の神格のみがかろうじて残されたのである。
それでも、「天人」の本性が「蛇」であることは、実はきわめて暗示的な書き方で、民話などにも残っている。
たとえば、あの「天の羽衣伝説」である。
みそぎとは何か?
「羽衣伝説」は日本全国(白鳥処女伝説を含めれば世界的に広まっているといってもよい)に点在しているが、細部はそれぞれ異なるにせよ、「天女が下界に降りて水浴びしていたとき、たまたま通りかかった男が、木の枝にかけられていた天女の羽衣を見つけて、これを隠してしまう。天に帰れなくなった天女はしかたなく男の妻になる。やがて二人の間に子供ができ、月日が流れ、ある日、天女は夫が隠していた羽衣を見つけると、それを纏って天に戻ってしまう」という話の大筋においては、全国共通のようである。
ところで、天女はなぜ水浴びをしていたのだろうか?
彼女(彼女たち)は、何も池や湖で無邪気に水遊びに興じていたわけではなかった。天女が天女であるための大事な儀式ともいうべき、「みそぎ」をしていたのである。
では、この「みそぎ」とは何か。
辞書などを引くと、「禊《みそぎ》とは、身に穢《けが》れがついたときや、大事な神事などの前に川や海で身を洗い清めること」などとある。
しかし、これは後世の解釈によるものであって、「みそぎ」の本来の意味とは、「身についた穢れを落とす」ことではない。「けがれ」とは、もともと、「気涸《けが》れ」すなわち「生命力の衰え」を意味しており、「けがれをはらう」とは、「穢れを洗い落とす」という意味ではなく、「衰えた生命力をよみがえらせる」ということなのである。
つまり、「みそぎ」の本来の意味とは、「若返り」なのである。
「みそぎ」の語源は、「みそそぎ」すなわち「身をそそぐ」にあるというのが今では定説のようだが、実は、「みそぎ」の語源は、「身を削ぐ」ことであるという説がある。
それは「蛇の脱皮」を意味しているというのである。太古、人々は、蛇が「不老不死」なのは、「脱皮」によって古い皮を脱ぎ捨て、常に「若返り」続けているからだと考えていた。
ゆえに、この蛇にならって、人間も、それまで身につけていた衣類や装飾品を取りさることで「脱皮」して、さらに、「若返りの水」をその身に浴びることで、蛇のような不老不死性を得ることができると信じられていたのである。
また、原初においては、衣類だけではなく、皮膚を剥《は》ぐということもあったのではないか。だからこそ、蛇信仰の盛んだったアステカなどでは、生き贄《にえ》の生皮が剥がされたのであろう。あれは、生き贄が神として生まれ変わるための「みそぎ」の儀式だったに違いない。
さらに言えば、この「生き贄の皮剥ぎ」は、アステカやインカなどの中南米に特有の風習ではなかったかもしれない。というのは、ギリシャ神話の中にも、注意深く読むと、太古、ギリシャ(というか地中海一帯)において、太陽神に捧《ささ》げる生き贄の皮を剥いでいたのではないかと憶測させる話があるのである。
それは、あのヘラクレス神話である。数々の偉業をなしとげたヘラクレスではあったが、その最期は、前にも触れたように、悲惨を極めたものであった。毒蛇の血に浸された呪《のろ》いの衣を身につけたために、全身を蛇毒に犯されたヘラクレスは、必死にこの衣を脱ごうとするのだが、このとき、衣と皮膚とがくっついて、衣を無理に剥がそうとすると、皮膚まで一緒に剥がれてしまったという描写がある。これなども、ヘラクレス(いわば太陽神に捧げられた生け贄の代名詞)が生皮を剥がされたあとで殺されたことを暗示しているようではないか……。
しかも、ヘラクレスはこの蛇毒の衣を、それを浮気封じの衣と信じ込んだ「妻」によって着せられたのである。言い換えれば、彼は「妻」の手で殺されたということになる。神話の中では「妻」となっているが、これは、むろん、ヘラクレスを生き贄に選んだ太母神を暗示しているのだろう。「生き贄」とは太母神の一時的夫でもあるのだから。
それはさておき。
古事記の中で、イザナミの住む黄泉《よみ》の国から帰ってきたイザナギは、「けがれた」と言い、「けがれをはらう」ために、それまで身につけていた衣類や装飾品を一つ一つ脱ぎ捨てて、川に入ってゆく。
イザナギのこの行為は、「死の国の穢れを落とすために身体《からだ》を洗い清めようと思い、そのために衣類を脱いで裸になった」というように解釈されているようだが、それは少し違う。
身につけたものを脱ぎ捨てるところから、既に「みそぎ」は始まっているのである。イザナギが衣類を脱いで川に入ったのは、「死の国に行って生命力が衰えたので、生命力を呼び戻すために、身につけていたものを取り去り、蛇のように脱皮して、川の水を浴びて若返ろうとした」というのが本来の解釈なのである。
もっとも、記紀が作られた頃には、既に太古の蛇信仰は廃り、その蛇信仰が母体となって生まれた「みそぎ」の真の意味も曖昧《あいまい》になっていたせいか、イザナギは、川に入って「身体を洗った」などと書かれていて、この描写が後の「禊」の意味を決定づけてしまったようだが、これは、もともとは、「水で洗う」ではなく、「水を浴びる」なのである。
何度も言うようだが、衣類を脱ぎ捨てることは、裸になって川に入るためではなく、それ自体が独立した一つの重要な儀式だったのである。というより、本来の「みそぎ」とは、身につけたものを(自らの皮膚をも含めて)すべて脱ぎ捨てるということに他ならなかった。まず古い皮を脱ぎ捨てることで、「気涸れ」の進行を止め、さらに、水を浴びることで、「若返る」と考えられていたからである。
そして、この「水」とは、本来は「海水」であった。というのは、太古より、「海水」は、月と関係のある水(月によって潮が満ち引きする)であったことから、月の不老不死性が「海水」にもあると信じられていたためである。
現代でも、私たちが何げなく使っている、あの「浄めの塩」とは、この「海水」の代用品に他ならない。
しかし、海洋民族でもあった縄文人が最初に暮らしていた海辺から、だんだん陸地の奥に進出するようになると、しだいに「海水」が手にはいりにくくなり、やがては、川や池や湖などに住む水蛇もいることから、川や池や湖などの「真水」でも、蛇のような「若返り」はできると信じられていったのだろう。
日本神話における、あの大国主命《おおくにぬしのみこと》と因幡《いなば》の素兎《しろうさぎ》の話―――向こうの島に渡ろうとしてワニを騙《だま》したために皮を剥ぎ取られてしまった兎が、最初は海水に浸って傷を癒《いや》そうとしたが失敗し、大国主命の助言によって、真水に浸ることで傷を癒した―――も、この「みそぎ」の海水から真水への変遷を物語ったものに違いない。
と同時に、この一見ほのぼのとした神話の背景には、実は、太古には、日本においても、「生き贄の皮剥ぎ」が行われていたのではないかと憶測できるものがある。大国主命に助けられた「兎」とは、明らかに月神に捧げられた「生き贄」を暗示しているからである。むろん、太古には、太陽だけでなく、月(ないしは大地と海)にも生き贄が捧げられていた。そして、「兎」の皮を剥いだ「ワニ」とは、もともとは海蛇のことであろう。
つまり、この神話の意味するところは、海蛇を遣い蛇とする太母神に、「兎」が生き贄として捧げられていたことを物語るものであり、「兎」とは原初においては人間であったとも考えられるのである……。
ちなみに、あの九州の古社、宇佐八幡宮の宮司《ぐうじ》である宇佐家は、伝承によると、祖神である月読命《つきよみのみこと》のシャーマンで、宇佐という名字も、「月に兎」の故事から取ったものであるという。宇佐八幡宮には、主神である「八幡神」と並んで、「比売大神《ヒメタイジン》」と呼ばれる女神―――一般には、タキツヒメノミコト、イチキシマヒメノミコト、タギリヒメノミコトの三女神であるといわれている――――が祀《まつ》られているが、おそらく、もともとの主神はこの女神の方であったのだろう。太母神はこのように三女神の姿でしばしば表されるからである。
ところで、こうした水浴びによる「若返り」の儀式は、ギリシャ神話の中にも幾つか見られる。
あの大女神ヘラが、過度の嫉妬《しつと》でゼウスを苦しめながらも、けっして彼の愛を失わなかったのは、定期的に水浴びすることで、常に若返り続けていたからだった。
また、先に触れた、月の女神アルテミスとアクタイオンの神話も、実は、アクタイオンがうっかり盗み見たという、水浴びしているアルテミスとは、まさに「みそぎ(若返り)」の最中の女神の姿だったのである。
しかも、アクタイオンは、「うっかり女神の裸身を盗み見た」わけではなかった。彼は大女神に捧げられる生き贄たちの一人として、女神の沐浴《もくよく》する場に立ち会っていたのである。生き贄たる聖王に自らの沐浴シーンを見せるのは、女神たちの若返りの儀式の重要なプロローグであったのだから。
では、生き贄たる男たちに、なぜ女神(女神を体現した女王)がわざわざ裸身を見せたかといえば、それは、当然、男である彼らをある状態にするためであろう。その状態の様子を見て、彼らの男としての能力を見極め、もっとも「能力」を示した者を女王の一時的夫にするためである。そして、子種を取るという用さえ済めば、彼は、巫女《みこ》たちによって八つ裂きにされたのである。
あの「羽衣伝説」も、そのルーツをたどれば、こうした太古の巫女王によって行われていた「みそぎ」と「一時的夫(生き贄)選び」といういくぶん血腥《ちなまぐさ》い儀式の記憶が、時を経て、「水浴び中に、通りかかった男に羽衣を盗まれた天女がその男の妻になる」というような、男性上位型のメルヘンに大きく変形していったものではなかったか。
ちょうど、ギリシャ神話の「パリスの審判」の話が、パリスは「生き贄」として女神たちに選ばれる側であったにもかかわらず、美神を選ぶ側にされてしまったように。
さらに詳しく言えば、「男が天女の羽衣を盗んだ」というくだりは、もともとは、「天女によって男に衣が与えられた」、すなわち「巫女王が生き贄に選んだ男に、その印として自らが脱ぎ捨てた古い衣を与えた」というのが本来の形であったと想像できる。
ところで、かのアステカやインカでは、生き贄から剥ぎ取った血まみれの皮を、神官たちが競うようにして身につけたといわれている。実際、彼の地からは、動物や人間の皮を被《かぶ》った神官らしき像が数多く出土しているという。
よく冷酷無情な人間のことを、「人の皮を被った人でなし」などと呼ぶが、その語源は存外こんなところにあるのかもしれない。
こうした風習は、おそらく、不老不死の霊力は、脱皮した古い皮にも宿っているという考えからきているのではあるまいか。それを身に纏《まと》うことで、その皮に篭《こ》もった霊力を自分の中に取り入れようとしたのであろう。
また、日本のある地方では、蛇の抜け殻を「お守り」として所有する風習が今も残っているそうである。
つまり、「羽衣」とは、「聖なる者が脱ぎ捨てた皮」なのである。こうした「聖なる者が脱ぎ捨てた皮」への信仰が、時を経て、太古の蛇信仰が廃ってしまった今もなお、近しい者が死んだとき、その人が生前身につけていた衣類などを「形見」として大切にするというような形で、現代の私たちの中でも今なお息づいているのである。
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第三章
沢地逸子のコラムはここで終わっていた。
一気に読み終わって、蛍子は思わず大きなため息をついた。それは、様々な感慨のこもった複雑なため息だった。
沢地の文がつまらなかったわけではない。面白かった。面白さということだけをいえば、実に面白い。それは一読した正直な感想だった。しかし、この面白すぎるというのが問題といえば問題だった。
フェミニストを自認しているだけに、何でもかんでも「太母神」に関連づけてしまっていることや、全体的に、逆説のための逆説というか、逆説をいたずらにもてあそんでいるようなところが目について気になったが、それでも、「ヤマタノオロチは雌で、しかも日本の太母神であったイザナミノミコトの化身した姿」などというくだりは、独創的かつ常識の意表をついていて面白い。
古代史や記紀解釈の類いは蛍子の専門分野ではないから、あまりその方面に関して深い知識はなかったが、それでも、一般向けに書かれた本で話題になったものは一応目を通していた。
すくなくともその中には、「ヤマタノオロチは雌である」といった説は一つもなかったような気がする。ヤマタノオロチ斐伊川説にしても、他民族説にしても、大山(あるいは、奈良の大蛇神オオモノヌシと同一視して、三輪山《みわやま》説を唱える人もいる)説にしても、はたまた、火山の溶岩流説にしても、すべて、当然のように、ヤマタノオロチは雄であることを大前提にしていたようだ。それらの説を唱えた人たちが皆男性だったからだろうか。
「エ? ヤマタノオロチが雌? そんな馬鹿な」などと思いながらも、読んでいくうちに、それなりに納得してしまう。
もっとも、これは、論理的に説得力があるというより、語る言葉に力があるので、読む者をなんとなく引き込むというか、屈服させてしまうという意味での「説得力」ではあったが。
つまり、それは、論証を重ねて結論を導き出す、学者的な「説得力」ではなくて、言葉の魔力で読む者を引き込んでしまう、作家的な「説得力」だということだった。
ただ、蛍子にため息をつかせた一つの要因は、泉書房のような、これまで学術書を中心に出してきた「堅い」出版社で、このようなものを単行本化してもよいのだろうか、ということだった。
これが、著者の身辺のあれこれを綴《つづ》った類いのエッセイなら何も問題はなかった。沢地逸子が今までに出したエッセイ集はそういったタイプのものだった。だから、蛍子も、これを読む前は、てっきりそういったものだとばかり思い込んでいたのである。
しかし、読んでみるとそうではなかった。いわば、「太母神」をテーマにした彼女の「説」を書いたものである。もっとも、「説」の体を成すには、参考にした出典を明らかにするとか、いきなり、なんの論証もなく、「……である」と当然のように決めつける書き方は極力避けるべきだろうが、沢地はそれを平然と行っている。
沢地逸子の文章は、「説」と「エッセイ」の中間に属するような、なんとも珍無類なものだった。ようするに、自分の思いつきを何の論証もなく、そのまま書きとばしたものにすぎない。依頼された原稿というわけではなく、半ば趣味として、自分のホームページに、気が向いたときに書き上げてアップしたものだろうから、このような形になってしまったのは仕方がないといえば仕方がないのかもしれないが、蛍子が思い悩んでしまうのは、つい先だっても、いわゆる「トンデモ本」のことが編集部で話題になったからでもあった。
仕事がら、学者先生との付き合いも多い。そういった人たちからも、昨今の「トンデモ本」ブーム(?)は笑い事ではなくなってきたと愚痴をこぼされたばかりでもあった。
通称トンデモ本というのは、一言でいえば「一般常識を覆すようなとんでもない説を大まじめに展開している」本とでも言えばいいのだろうか。
もとは、科学の分野で多く見られたものだった。科学を装った「疑似科学」とも呼ばれている。たとえば、学界では半ば定説化しているダーウィンの進化論を否定して、聖書に書かれている通りの「神による天地創造」が実際に行われたということを「科学的に」説明した「創造論」などというのはその代表的なものだろう。
さらに、これまた物理学界では既に「実証」済みのアインシュタインの相対性理論を否定するというのも、「トンデモ人」の間では流行《はや》っているらしい。
あるいは、最近、大ベストセラーとなり、「日本の知性」を代表するジャーナリストからも絶賛されたという、「アトランティスは南極にあった」という珍説を「科学的」に証明した或《あ》る本なども、まさに「トンデモ」の典型的な例だそうである。
実は、蛍子自身、この本を非常に面白く読み、後でそのことを知って愕然《がくぜん》としたのだが……。
「トンデモ」の特徴とは、作者の目的がはじめから、「世間をあっと言わせる」とか「一般常識を覆す」ということにあるといってもよいだろう。
だからこそ、彼らは、ダーウィンとかアインシュタインとかコペルニクスとか、子供でも名前くらいは知っているような有名な科学者を「権威」として攻撃目標にしているのである。攻撃目標の知名度が高ければ高いほど、「世間をあっと言わせる」ことができるからだろう。
しかし、アインシュタインにしてもダーウィンにしてもコペルニクスにしても、最初から「世間をあっと言わせてやろう」とか「世の常識を覆してやろう」などという山師的な目的で、研究し、自説を発表したわけではあるまい。実験や論証や思索を地道に重ねていったあげくの果てに、結果的に、当時の常識を覆すような大発見に至ったものであろう。
ここが、いわゆる真の科学者と疑似科学者との天と地ほどの違いといえる。「常識を覆す」のは結果であって、それが目的であってはならないのだ。トンデモ人たちはそこを大きくはき違えている。本末転倒しているのである。
こうした「トンデモ」は科学の世界だけでなく、史学、とりわけ古代史関係の領域にも見られ、その顕著たる例が、「邪馬台国」に関するものだった。
一般によく知られた「近畿説」や「北九州説」以外にも、「沖縄説」や「四国説」や「信州説」なども唱えられており、その中でも、史上最強にして最悪と言われるほどのトンデモぶりを発揮しているのが、「邪馬台国エジプト説」であった。
殆《ほとん》どお笑い芸人が思いつきそうな駄《だ》洒落《じやれ》のオンパレード(たとえば、美濃タウルスなど)で成り立っている、この超珍説は、そのへんのおじさんがほろ酔い気分で思いついたというわけではなく、バイロンなどの翻訳紹介でも知られる明治の大インテリでもあった人によって「大まじめ」に唱えられているのである。今も昔も、「知識人」と言われる人の中には、奇人変人が少なくないので、驚くほどのことはないと言えばそれまでだが。
いわゆる「トンデモ本」が、批判力をもった読者によって、娯楽として笑って読まれているうちは別に害はない。いかにもいかがわしい本をそのいかがわしさを楽しむつもりで読むなら、それもひとつの楽しみ方ではある。
あるいは、著者の方も、とんでもない自説をフィクション仕立てにして、「小説」として提示するのならいっこうにかまわない。それが「小説」であれば、せいぜい、その作家のファンしか読まないだろうから、「珍説の被害」も最小限にくい止めることができるし、読者の方も、「小説」ということで、はなから眉《まゆ》に唾《つば》をつけて読むだろうから、作者がいかに巧妙な詭弁《きべん》を弄《ろう》したところで、その「珍説」を教科書に載せるべきだなどと主張するトチ狂った読者が現れる心配もない。
もっとも、これでは賛否両論を巻き起こすことはなく、それゆえに話題性にも乏しく、著書の売り上げは確実に落ちるだろうが……。
ただ、問題なのは、こうした「トンデモ」が一見まともそうな装丁で、これまた、一見まともそうな「知識人」の推薦文などを帯に刷り込んで、「まともそうな学説」として堂々と世に送り出された場合である。
ふだんはこうした類いの怪しげな本には手を出さないような、「知的」を自認する人まで、その見てくれにだまされ、うっかり手に取ってしまい、そこに書かれた内容を頭から信じてしまうこともありうるのだ。
たとえて言えば、一本五百円程度のワインを、一本何十万もする高級ワインの瓶に詰め替えて売れば、それを買った八割、いや、九割がたの人が、中身も高級だと思い込んでしまいがちだということだった。
自分の舌と頭だけで「味見」ができる人は、残念ながら、そうではない人たちよりも圧倒的に少ないのが現実なのである。
しかし、別に一本五百円のワインが悪いというわけではない。世の中には、一本何十万もするワインより、一本五百円の水っぽいワインの方が口に合い、おいしいと感じる人も少なくないかもしれない。それに、安いワインと高級ワインとを用途によって使い分けて楽しんでいる人もいるだろう。一本五百円のワインにもそれなりの需要と存在価値があるのである。
ただ、五百円のワインを何十万のワインと偽って、あるいは、勘違いするように仕向けて売るのは違法行為であり、たとえ違法にはならなくても、インチキ商売と言われても仕方がないのではないか。
それと同じように、いかがわしい内容の本と知りながら、まともを装って売ったとしたら、犯罪行為とまでは言われなくても、その出版社の信用はがた落ちになるだろう。
天照大神は「女装した男王」をモデルにしたものであるとか、須佐之男命が「逆剥《さかは》ぎにした馬の死体」とは、実は人間の死体ではなかったかとか、かぐや姫は「羽ある蛇」であるとか、ヤマタノオロチの項で、「……珍説奇説をあげたら枚挙にいとまがない」などと揶揄《やゆ》するように書いている沢地のエッセイそのものが、まさに「珍説奇説」のオンパレードで、「トンデモ本」的な匂《にお》いがぷんぷんするのである。人は他人の体臭には敏感でも、自分の体臭にはなかなか気づかないものらしい。
もし、これをそのまま単行本化したら、泉書房がこれまで培ってきた信用と評価を落とすことになるのではないだろうか……。
蛍子はそんなことまで心配していた。
とはいうものの……。
沢地の「説」におおいに批判的になりながらも、彼女の「説」のすべてを荒唐|無稽《むけい》と退けたわけではなかった。実は、「もしや」と思うところも多々あったのである。理性では批判の方に傾きながらも、感性では、彼女の「説」に心ひかれるものがあった。
それは、蛍子が沖縄に生まれ沖縄に育ったせいかもしれなかった。
沢地の「説」への批判をとりあえず棚上げにして、もし、ヘラやアルテミスやカーリーや、そしてイザナミノミコトまでが「太母神」だったというのならば、琉球《りゆうきゆう》の祖と言われているアマミク女神もまた、この「太母神」だったのではないかと、ふと思ったのである。
おそらく、沢地逸子もそう感じていたのではないだろうか。だからこそ、昼間、ホテルのロビーで会ったとき、彼女は、蛍子が沖縄出身であることにさりげなく触れ、アマミクの話を聞きたがったのだろう。
彼女のエッセイを読んでみて、なぜ、あのあと、会食の最中も、沢地がしきりにアマミクの話題を続けたがったのか、ようやく合点がいくおもいがした。
さらに勘ぐれば、彼女がなぜ自分のホームページを単行本化するという企画を、これまでエッセイ集を出した大手出版社ではなく、泉書房のような「中堅」どころに持ち込んだのか。その理由もなんとなく分かったような気がした。それは、泉書房が学術書を中心に出していることで定評を得ている出版社だからであり、担当の編集者が沖縄出身であったからに違いない。
確かに、古代の琉球に、はじめて「稲と火」をもたらしたとされているアマミクは、大地の女神と火の女神との両方をあわせもつ「太母神」であるようにも見える。
また、沢地から聞いた話では、アマミクの額には二本の角が生えていたという伝説があるそうである。アマミクの「角」のことは、蛍子は寡聞にして知らなかったが、沢地は、エジプトの女神イシスも、しばしば二本の牛の角を生やした姿で表現されることがあると言っていた。これは、女神に雄牛の生き贄《にえ》が捧《ささ》げられたことを意味しているという。
また、イシスが手に「稲穂」をもった像として表現されていることからも、沢地はどうやら、このエジプトの太母神イシスがなんらかの形で、沖縄に伝わり、それがアマミクとして定着したのではないかと考えているようだった。つまり、アマミクもまたイシスがそうであったように、蛇女神ではないかというのである。
そう言われてみれば、沖縄では、古くから一種の蛇信仰とでもいうべきものが存在していた。もともと亜熱帯地方特有の、蛇の多い土地柄でもあり、毒蛇ハブといえば、半ば沖縄の代名詞にもなっているくらいである。しかも、海蛇イラブーは、食用にもされるが、古くから、「神の遣い」として神聖視されており、イラブーを捕まえることが許されているのは巫女だけだった。
イラブーとは、まさに、海の向こうであるニライカナイからやってきた「太母神」アマミクの遣い蛇であり、女神自身であったのかもしれない……。
蛍子はそんな思いにもとらわれていた。
沢地逸子のコラムを読み終わり、疲れた目をこすりながら、蛍子がパソコンの電源を切ったときには、既に零時を過ぎていた。
ヘッドホンを取ると、大きく伸びをした。豪のギターの音はやんでいた。近所迷惑になるので、零時をすぎたらギターは弾くなと言ってあった。豪はそれをちゃんと守っているようだった。そのかわり、リビングの電話が鳴っている音がした。
電話に出ようと、立ち上がりかけたとき、電話の音はぴたと鳴りやんだ。どうやら、リビングにはまだ豪がいて、電話に出たようだった。話し声がする。しばらくして、ドアが控えめにノックされた。「どうぞ」というと、豪がドアを開けた。
「今、姉ちゃんから電話があって、今日はサッチンのとこに泊まるって」
入り口に突っ立ったまま、ぶっきらぼうに伝えた。「そう」と答えても、それだけを伝えにきたわけではないらしく、他にも話したいことがあるような風情で、戸口に立ったままである。
ただ、「入れ」と言われない限り、部屋の中には入ってこない。ここは「男子禁制」になっているからである。その戒律を作ったのは、蛍子ではなく、火呂だった。「女が土俵にあがってはいけないように、男はこの部屋に入ってはいけない」などと、火呂はわけのわからない理屈を並べて、問答無用で弟を締め出していた。
「なにか用?」
そう聞くと、
「姉ちゃん……最近、外泊が多いね」
豪は、彼にしては珍しく思案げな表情で言った。
「そうね」
「いつもサッチンのとこに泊まったって言ってるけど、ほんとなのかな……」
疑わしそうに呟《つぶや》く。
「男のとこに泊まってたりして」
「それはないんじゃないかしら」
蛍子はすぐに言った。蛍子自身、火呂の外泊が増えた頃から、それをちらと疑ったこともあった。彼氏でもできたのではないだろうかと。
ただ、それにしては、火呂の外見には全く変化が見られなかった。彼氏ができれば、身なりや態度に自然とそのような雰囲気が滲《にじ》み出るものである。なんとなく髪形や着るものが「女らしく」なったりする。でも、火呂はあいかわらず化粧っけもなく、ショートカットにジーンズという少年のような格好を変えてはいない。
それに、知名祥代とは、沖縄にいた頃から、よく互いの家に泊まり合うような仲だった。相手の家で食事し、風呂《ふろ》まで入るという家族同然の付き合いをしてきたようだ。祥代の家からそのまま学校に行くということも珍しくなかった。東京に出てきても、そうした子供の頃からの習慣が抜けないだけなのだろう。蛍子はそう思っていた。
「でもさ」
豪が不満げに口をとがらせた。
「前に、姉ちゃんが若い男と一緒に歩いているの、磯辺が原宿で見かけたって言ってたぜ。ほら、バンド仲間の磯辺だよ。うちにも来たことがある……」
それは初耳だった。しかし、その相手が恋人とは限らないだろう。火呂が通っている大学は共学だから、男子学生と一緒に歩くくらいのことはあるかもしれない。そのことを豪に言うと、
「ただの友達って雰囲気じゃなかったって。あれは明らかにラブラブだって、磯辺は言ってた――――」
豪はむきになってそう言いかけたが、ふいに、にやりと白い八重歯を見せて笑い、
「磯辺の奴《やつ》、相当ショック受けたみたいだった。あいつ、ひそかに姉ちゃんのこと、狙《ねら》ってたみたいだから。姉ちゃんって、あんな男みたいなのに、俺《おれ》の友達の間ではなぜか評判いいんだ。みんな、きれいだきれいだって言ってる。卯月《うづき》マリナにちょっと似てるって。そうかなあ。もっと化粧とかすれば、少しはましになると思うんだけど」
と不思議そうに首をかしげた。卯月マリナというのは、今や、テレビドラマや映画、CMに大活躍の若手女優である。そう言われてみれば、火呂は、この若手女優に少し似ていた。
「火呂はきれいよ、お化粧なんかしなくても」
蛍子は笑いながら言った。お世辞ではない。化粧もおしゃれもしていなかったが、姪《めい》の身体からは、天性の麗質ともいうべきものが自然に輝き出していた。
姉の康恵も決して不美人ではなかったが、火呂はあまり姉には似ていなかった。たぶん実父である高津に似たのだろう。
沖縄の灼熱《しやくねつ》の太陽にさらされて日に焼けてはいたが、本来は色白で、その肌理《きめ》の細かい、透き通るような肌の美しさは、同性の蛍子でさえ、しばしば見とれるほどだった。
「そういえば……磯辺が見たって女、ばっちり化粧してたんだって」
豪が思い出したように言った。
「それに、髪が肩まであって、姉ちゃんよりも長かったし、ちょっと感じが違っていたから、ひょっとしたら他人の空似ってやつかもしれないって……」
「きっとそれよ」
「でも、化粧して、鬘《かつら》かぶって変装してたのかも」
豪が大まじめでそんな突拍子もないことを言い出しので、
「なんで恋人と会うのに変装しなくちゃならないのよ」
蛍子はさすがに吹き出した。
「姉ちゃん、ここ出て一人暮らししたがってるってほんと?」
豪はしばらく沈黙したあと、何やら悩ましげな表情で訊《き》いた。
「まあね。今すぐってわけじゃないみたいだけど」
実は、今年になって、火呂はこのマンションを出て、一人で暮らしたいと言い出したのだ。アルバイトをはじめたのも、その資金作りのためらしかった。
思えば、蛍子はさほど不自由に思っていなかったが、火呂の方は、この八畳間を叔母《おば》と共有することに不自由さや窮屈さを感じているのかもしれなかった。もっとのびのびと自由に学生生活を楽しみたいと思っているのかもしれない。親友の知名祥代が気ままな一人暮らしをしているということにも刺激されているようだった。
蛍子自身、あえて遠い東京の大学を選んだのも、親元を遠く離れてのびのびと一人暮らしがしてみたかったからでもあった。独身ということもあってか、蛍子の中にはまだ学生気分が色濃く残っていた。一回り程度しか年の違わない姪の気持ちが理解できないわけではない。だから、口うるさいことはいっさい言わなかったつもりだが、火呂からすれば、叔母と同居しているというだけで、常に監視を受けているような気がしていたのかもしれない。
それに、亡くなった姉との約束で、少なくとも、成人に達するまではそばについていてやってくれと言われていたが、その約束ももはや果たされたといってもよい。
蛍子の方は、少なくとも火呂が大学を出るまでは同居するつもりでいたが、火呂の方が今すぐにでも独立したいというのならば、それもよし、あえて止めようとは思っていなかった。
「ねえ、叔母さん……姉ちゃん、最近、変じゃない?」
豪はなおも言った。
「変? 変ってどこが?」
蛍子が聞き返すと、
「どこがってわけじゃないけど、なんとなく。なんとなく変なんだよ」
豪はそんな曖昧《あいまい》ないいかたをした。
「俺のこと避けてるみたいだし……」
「火呂に嫌われるようなこと、何かするか言うかしたんじゃないの? あのくらいの年頃の女の子って凄《すご》くデリケートなのよ。あんた、無神経だから」
蛍子がからかうように言うと、
「何もしてないよ!」
豪はすぐに言い返したが、そのあと、少し考えて、そう言い切れるだけの自信をなくしたような声で、「……と思うけど」と言い直した。
「それに、変になったというか、俺を避けるようになったのは、母さんが死んだ後からだし……」
豪は何かを思い出すような顔つきで言った。
そう言われてみれば、このマンションで暮らすようになってから、二人はあまり喧嘩《けんか》をしなくなった。弟の方が挑発しても、姉の方が適当にあしらって相手にしない。そんな風に見えた。
蛍子はそんな火呂の態度を、それだけ大人《おとな》になったのだと勝手に解釈していたのだが……。
「姉ちゃんから母さんの手紙のことで何か聞いてない?」
豪は唐突にそんなことを言い出した。
「母さんの手紙?」
蛍子は問い返した。「母さんの手紙」って何のことだろう。さっぱり意味がわからなかった。
「なんなの、母さんの手紙って?」
豪がおし黙っているので、少し焦れて問いただすように聞くと、少年は重い口を開くようにして、ぼそりと言った。
「遺言……母さんの遺言だと思うんだけど」
豪の話では、康恵が亡くなる直前、火呂と病室に見舞いに行ったとき、帰り際、康恵は火呂にだけ一通の封書を手渡したのだという。
後になって、康恵の葬儀を終えたあと、あの手紙のことが気になっていたので、何が書かれていたのか、火呂に聞いてみたら、「おまえには関係ない」とケンもほろろに突っ放されたというのである。
自分に対する火呂の態度にどことなく距離を置くようなよそよそしさを感じるようになったのは、その頃からだという。
「姉ちゃんがなんとなく変になったのは、あの手紙のせいじゃないかと思うんだ」
豪はそう言った。
「わたしは何も聞いてないけれど……そんなに気になるなら、それとなく火呂に聞いてみようか?」
蛍子がそう言うと、豪は、少し嬉《うれ》しそうな顔になって、「うん」と答えた。
これで話は終わったと思ったのだが、まだ何か言い足りないことでもあるのか、豪は、どことなく落ち着かない様子で戸口に立ったままだった。
「まだ何か用?」
そう聞くと、
「パ、パソコン、使ってないなら貸してくれる?」
妙に薄赤い顔をして、口ごもりながら言った。
「いいけど……」
なんとかという人気バンドがオフィシャルホームページを開いたので、それを見たいのだと、豪は、聞きもしないのに使い道を早口で説明した。蛍子のよりも一回り小さなノートパソコンを持っている火呂にも貸してくれと頼んだのだが、いやだとアッサリ断られたという。
「持ってけば?」と蛍子が言うと、豪は、ようやく、部屋の中に入ってきて、電源を切ったばかりのノートパソコンを素早く取り上げた。
「何、見てもいいけど、あの手のサイトによくある変なファイルは絶対に落としちゃだめよ。あれ、実行したらダイヤルQ2とかに接続されて、後で料金請求されるのこっちなんだから」
蛍子がやんわりと釘《くぎ》をさすように言うと、豪は、一瞬ぎょっとしたような顔になった。その顔には、人気バンドのオフィシャルホームページを見るという口実で、実はアダルトサイトを見るつもりでいたことが、なんで叔母に分かってしまったんだろうと内心驚いているような表情がありありと浮かんでいた。
思っていることが全部顔に出るという、実にわかりやすい少年だった。
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第四章
七月十二日。午後七時半。
安藤良美は、もう一度指に力をこめてインターホンを押した。
しかし、「SIGEYUKI SIBATA」という表札の出たドアからは何の反応もない。
ドアの横手の窓には明かりがついていなかった。
留守かな……。
良美はがっかりしながら思った。
一時は絶望的とまで言われた祖母の容体が明け方近くになって奇跡的に回復し、しばらく様子を見ていたのだが、だいぶ容体も安定してきたというので、後は完全看護の病院に任せて、良美が家族とともに自宅に帰ってきたのは夜になってからだった。
そのことを真っ先にボーイフレンドの繁之に知らせようと、彼の携帯に電話したのだが、何度かけても、呼び出し音は鳴るのに、繁之は出なかった。
もしかしたら、デートをドタキャンしたことをまだ怒っていて、わざと無視しているのかもしれない。
良美はそんな風に勘ぐった。そこで、電話をするのはあきらめ、直接、繁之に会って謝ろうと、彼のアパートまでやって来たのだが……。
三度インターホンを鳴らしたが、いっこうに反応がない。
留守かと思い、いったんはドアの前を離れ、外付けの階段をおりかけたが、ふと思い返し、戻ってくると、念のためというつもりで、ドアノブを回してみた。
すると、鍵《かぎ》がかかっているとばかり思ったドアが難なく開いたではないか。
あれ。留守じゃないの? それとも、鍵をかけ忘れて出掛けちゃったのかな……。
良美は不審に思いながらも、ドアを開けて中に入った。明かりはついていなかった。反射的に、玄関先の壁にある電灯のスイッチを手探りでひねった。天井にはめ込まれた蛍光灯が、二、三度瞬いて、ぱっと灯《とも》った。足元を見ると、見慣れたスニーカーが狭い玄関に脱ぎ捨てられている。繁之がよく履いているものだ。
やっぱり、いるんじゃない。
とっさにそう思ったが、部屋のなかは妙にシンと静まりかえって、人の気配がしない。
「シゲ。いるの?」
そう声をかけてから、良美はサンダルを脱いであがった。
玄関を入ると、すぐに三畳ほどの狭いキッチンになっている。いわゆる2DKというタイプだった。六畳と四畳半の洋室が二部屋ついていた。
繁之は、狭い方の部屋を半ば物置代わりに使っており、広い方の部屋にベッドを置いて、生活の拠点としていた。
広い方の部屋のドアが半開きになっていた。良美は、その明かりの消えた部屋に足を踏み入れた。
やはり入り口近くの壁に取り付けられた電灯のスイッチをひねると、天井の明かりがぱっと灯った。
繁之はそこにいた。仰向《あおむ》けに寝ている。奇妙なことに、彼はベッドではなく、床にじかに寝ていた。ベッドのそばには座卓があったはずだが、それは隅に片付けられている。
さらに奇妙なことに、繁之は、どういうつもりか、冬用の分厚い羽毛布団を身体《からだ》に掛けていた。良美はその掛け布団の柄に見覚えがあった。いつだったか、繁之が愚痴っていた布団だ。この部屋を借りたとき、一緒に上京して来て、家具や生活用品などの手配をしてくれた母親が、こんな女の子が使うような花模様の派手な布団を買ってきたと。結局、それは一度も使われず、押し入れにしまいこんだままになっていたはずだ。
そんな掛け布団をわざわざ引っ張り出してきて、この夏場に顔が半ば隠れるほどすっぽりと被《かぶ》っている……。
しかも、毛深い両脚が臑《すね》のあたりからニュッとはみ出しており、良美は、その妙にシュールな光景に、「シゲの脚ってこんなに長かったっけ?」と思った。
繁之の身長は百七十センチそこそこだと思うのだが、それにしては、横たわっている繁之はやけに長身に見えた。脚だけが異様に長く見える。さらに、その脚が妙な具合にねじれたような格好になっていた……。
鼻のあたりまで掛け布団に覆われた顔は目を閉じていたが、なぜか、ひどく青白い。青白いというより、真っ白で血の気が全くなかった。良美は、中学の頃、美術教室に飾ってあった石膏《せつこう》像を連想した。
顔だけではない。布団からはみ出している、両足も石膏色をしていた。
「シゲ……」
良美は派手な布団を被って寝ている男の顔を見下ろしたまま呟《つぶや》いた。
寝ているんじゃない……。
良美の本能がそう告げていた。ふいにドクンドクンと音を立てて鳴りはじめた心臓の音とともに。
この部屋で何かが起こった。起こってはいけないような何かが。でも、何が起こったのか分からない。それにこの臭い。部屋中にたちこめている、この饐《す》えたような生臭いような厭《いや》な臭いは何? 気分が悪い。吐きそう。ここから出たい。でも、その前に確かめなければ。
この部屋で何が起こったのか……。
それは、繁之の身体をすっぽりと覆っている、あの羽毛布団を取りのけてみれば分かるのではないか。良美はボンヤリとそう思っていた。
あの布団を……。
そのとき、ふいに、どこからか、間のびのしたのどかなメロディが聞こえてきた。人気アニメ「ドラえもん」のテーマ曲だ。繁之の携帯がどこかで鳴っているのだ。
こんなこといいな。
できたらいいな……。
子供の頃から聞き慣れた「ドラえもん」のメロディに励まされたように、それまで動かなかった良美の足がぎこちなく一歩踏み出した。自分の足ではないような妙な感覚だった。
そして、ボーイフレンドの身体を覆っている布団の端を手でつかむと、一気にそれを剥《は》ぎ取った。
布団の下から出てきたものは……。
外国のシュールリアリストの絵か何かでこれと似たようなものを見たことがある。
良美は悲鳴もあげずにそれを見ていた。
それはこの世に存在してはいけない光景だった。
「……手足が……ノコギリか何かで切断されていたんだって……」
喫茶店の窓際の席に着き、ウエイトレスが持ってきてくれたおしぼりで手を拭《ふ》いていると、声を潜めるようにして話す男の声が耳についた。
喜屋武蛍子は何げなくその声の方を見た。ランチタイムということもあって、数人の若い男女がかたまって、サンドイッチやスパゲティなどをぱくついている。
申し合わせたようにラフな服装であることや、教科書らしきものを持っているところから見て、おそらく大学生か予備校生だろう。この軽食喫茶の周囲には大学や予備校が密集していた。
「首も切断されてたんだってね。きもーい」
女の子のかん高い声が混じった。
どうやら、学生たちが話題にしているのは、土曜の夜に中目黒で起こった猟奇殺人のことらしかった。
二十一歳になる、柴田繁之という大学生が下宿先のアパートで、頭部、四肢を付け根からノコギリ状の凶器で切断された状態で発見されたのである。遺体を最初に発見したのは、被害者と交際していた若い女性だったという。
新聞やテレビなどの報道によると、遺体は五カ所に切断されていただけではなく、左胸部がナイフのようなもので深く抉《えぐ》られ、心臓が抜き取られていた。そして、抜き取った心臓の代わりに、なんのつもりか、テニスボール大の黄色いゴムボールが埋め込まれていたという。さらに、抉り取られていたのは、心臓だけではなかった。生殖器も根元から切断されていたらしい。
交際相手によって発見されたとき、このような凄《すさ》まじい凌辱《りようじよく》を加えられた遺体の上には、それを隠すように、冬用の羽毛布団がすっぽりと掛けられていたという。
抉り取られた心臓と生殖器は、被害者の部屋からは発見されず、犯人が持ち去ったものと思われていた。
「やめてよ、そんな気持ち悪い話。食欲なくすじゃない」
べつの女子学生らしい声が響いた。
「でも、なんで首とか手足とか切断したんだろうね。どこかに運ぼうとしてたわけじゃないみたいだし、わざわざ解体する意味ないと思うけどなあ」
「異常者だよ、犯人は。切り刻みたいから切断しただけだろ。それだけだよ。理由なんかないさ」
「ペニス切り取ったり、心臓抉り取って、黄色いゴムボールを代わりに押し込めたのも理由なき行為ってわけ?」
「サイコな奴らのやることにいちいちまともな動機とか意味とかないんだよ……」
学生たちの話を聞くともなく聞いていた蛍子の目が、扉を開けて現れた若い女性の姿に注がれた。
知名祥代だった。
今朝方、会社から、祥代の携帯に連絡をいれて、「お昼を一緒にしないか」と誘っておいたのである。祥代の通う医大はこの近くにあった。むろん、昼ごはんを食べるというのは口実で、火呂のことで祥代に聞きたいことがあったからだった。
昨日、夕方近くになって、火呂はひどく疲れたような顔でマンションに戻ってきた。豪の言っていた「母さんの手紙」のことが気になっていたので、それとなく火呂に聞いてみると、「手紙といっても、別にたいしたことが書いてあったわけじゃない」というのが返事だったのだが、蛍子は、そのときの火呂の様子になんとなく不審なものを感じとっていた。
何かある。何か隠している。そう直感したのである。が、あえて、それ以上の追及はしなかった。自分の決めたことは何がなんでもやり通すというような、良くも悪くも、強情なところのある娘なので、へたに追及すると、いよいよ貝になってしまいかねなかった。
それよりも……。
ふと思いついたことがあった。祥代だ。幼なじみで大親友の祥代になら、弟や叔母《おば》に話せないようなことでも打ち明けているかもしれない。だとしたら、本人から聞くよりも祥代から聞き出した方が早い。そう思ったのである。
「朝から実習があって、もうクタクタのおなかペコペコ」
祥代は、蛍子の向かいに座ると、すぐにそう言った。
「何でも注文して。わたしの奢《おご》りよ」
蛍子がそう言うと、祥代は嬉《うれ》しそうに笑って、
「ラッキー。最近、まともなもの食べてないんです。ここ、タラコスパゲティがけっこういけますよ」と言った。
「じゃ、わたし、それにするわ」
注文を聞きにきたウエイトレスに「タラコスパゲティ」を注文すると、祥代も同じものを注文した。
「土曜日はごめんなさいね」
蛍子が言うと、祥代はきょとんとした顔をした。
「土曜?」
「火呂がまたお邪魔したそうで」
そう付け加えると、
「……」
祥代は蛍子の顔をじっと見つめたまま黙っている。メタルフレームの眼鏡をかけ、火呂同様、化粧っ気のとぼしい顔には、困惑に近い表情が浮かんでいた。
「違うの? 火呂から電話があって、土曜の夜はあなたのマンションに泊まるって……」
そう説明すると、祥代はようやく話を理解したらしく、一瞬、「しまった」という表情になった。
「あ、そのことですか。それなら……」
取り繕うようにすぐにそう言ったが、その顔には、どぎまぎしたような色が浮かんでいた。
どうやら、土曜の夜、祥代のマンションに泊まったという火呂の話は嘘《うそ》だったようだ。蛍子は、祥代のうろたえる様から、そう確信した。
「あなたの所に泊まったというのは嘘だったのね?」
やや問い詰めるように聞き返すと、祥代は渋々という表情で頷《うなず》いた。
「いつも外泊するたびに、あなたの所に泊まったって言ってたけれど、それも嘘だったのかしら……?」
やんわりと追及すると、祥代は慌てたようにかぶりを振った。
「いいえ、それは本当です。でも……」
と口ごもり、「昨日は……泊まってません」と告白した。
祥代の話では、土曜の夜は沖縄の実家に帰っていたのだという。弟の容体が思わしくないという母からの電話をうけて、数日前に慌てて帰郷したということだった。
祥代には、一希《かずき》という名前の八歳になる弟がいたのだが、この弟は、生まれつき、片方の心室しか働かないという重い心臓病を患っており、生まれて八年間というもの、殆《ほとん》ど寝たきりのような生活をしていた。
祥代が一浪してまで医大に行くことにこだわったのは、この死と背中合わせに生まれてきた幼い弟のことが大きな動機であったらしい。
いつか日本でも子供の心臓移植が行われるようになったら、そのときは、現場に居てメスを握り、弟のような子供を一人でも多く助けたいのだと、いつか上京したばかりの頃、祥代は熱っぽく蛍子に語ったことがあった。
女の友情は壊れやすいなどとよく言われるが、火呂と祥代の間に、単なる幼なじみという関係以上の「友情」が生まれ、それが十数年にもわたって途切れることなく続いているのは、いまどきの女子大生には珍しいといってはなんだが、祥代のこの真摯《しんし》でひたむきな性格にあるといってもよかった。
「どこに泊まったか、心当たり、ない?」
そう聞いてみると、祥代は、「さあ」というように首をかしげた。
「今、誰か付き合っている人とかいるのかしら……?」
さらに探りを入れてみると、
「友達程度の人はいるかもしれないけれど、深いお付き合いをしている人はいないんじゃないかな。そういう人がいたら、絶対、わたしに話してくれるはずです」
祥代はきっぱりと言い切った。正面から蛍子の目をまっすぐ見据えている祥代の顔に嘘やごまかしの類いは感じられなかった。
「豪がね」
蛍子は話題を変えるように言った。
「姉さんが亡くなる直前に、病室で、火呂に手紙のようなものを渡したって言ってるのよ。祥代さん、あなた、そのことで火呂から何か聞いてない?」
「おばさんからの手紙……ですか?」
祥代は思い出すような目でしばらく記憶を手繰《たぐ》り寄せるように考えていたが、やがて、小首をかしげ、
「何も……何も聞いてないです」
と答えた。
「そのあと、火呂の様子がどことなくおかしくなったって、豪は言ってるんだけれど……」
蛍子は独り言のように呟《つぶや》いた。
「あ、でも」
祥代が何か思い出したようなはっとした顔つきで言った。
「わたしもそれ感じたことあります。おばさんが亡くなるちょっと前から、火呂の様子がなんか変だなって……」
「変ってどんな風に?」
「たとえば……話しかけても上の空って感じで、いつも何か一人で考えこんでいることが多くなったし、あまり笑わなくなったし。そのときは、おばさんの病気のことを心配してるのかなって思っていたんですけど。そういえば……」
祥代は何か思い出したように付け加えた。
「変っていえば、先月……ちょっと気になることがあったんです」
「気になること?」
「ええ。火呂と新宿の映画館に行ったときです。売店の所でパンフとか買っていたら、火呂に声かけてきた人がいたんです。ちょうどわたしたちくらいの年齢の若い女性でした。火呂のことを、友達か何かと間違えたらしくて、『クズハラさん』なんて呼んで……」
「クズハラ? 火呂のことをそう呼んだの?」
「そう聞こえました。『クズハラさん、髪、切ったの?』とか、そんなことを親しげに話しかけてきたんです」
髪を切った……?
ふと蛍子の脳裏に、先日、豪から聞いた話が蘇《よみがえ》った。豪の友人が原宿で見かけたという火呂によく似た若い女性は髪が長かったという話を……。
「すぐに人違いだと相手も気づいたみたいなんですけど、そのクズハラという人に火呂がすごく似てたみたいなんです。でも、変なのは、そのあとの火呂の様子なんです。クズハラという人に間違われたことがよっぽどショックだったらしくて、急に無口になってしまって、映画も殆ど上の空だったみたい。後で、喫茶店に寄って話したとき、映画のストーリー、全然覚えてなかったみたいだもの。火呂の方が前から観たい観たいといって、誘った映画だったのに……」
祥代と昼食を共にした後、社に戻ってきて、上がってきたばかりの翻訳小説のゲラにチェックをいれはじめたが、蛍子の鉛筆を持つ手はつい止まりがちになった。
思いは、ややもすると、目の前に広げたゲラから離れて、先ほど祥代から聞いた話の方に漂ってしまい、なかなか仕事に集中できない。
土曜の夜、火呂は祥代のマンションには泊まっていなかった……。
祥代の口からそのことを聞かされて、蛍子は自分でも驚くほど動揺していた。嘘をつくような娘《こ》ではない。ずっとそう思い込んできた。その思い込みをあっさりと覆されてしまったのだ。姪《めい》によせていた信頼を裏切られたような口惜しさもあった。
しかし、もしあの夜、祥代の部屋に泊まったのではないとしたら、一体どこに泊まったのだろう……。
一番考えられる可能性は、やはり交際している男がいて、その男のところか、あるいはホテルの類いだろうが、祥代はそのことはきっぱりと否定した。そんな男がいるなら、必ず、自分に打ち明けているはずだというのだ。
蛍子も、いわゆる女の勘で、火呂にはまだそのような深い付き合いをする相手はいないのではないかと思っていた。
恋人という線でないとしたら、他に考えられるのは……。
蛍子の視線がふいに、目の前に広げたゲラのある文字を捕らえた。「売春」という二文字だった。
それは、アメリカの作家の最新作だったのだが、ちょうど今、蛍子がチェックをいれながら読んでいたくだりは、高校生になる自分の娘が売春をしているのではないかと疑う中年男の心理描写がえんえんと続いていた。
「売春」という言葉が何度か出てくる。おそらく、そのせいで、ただ目についただけなのだろうが……。
そう思いながらも、ふだんなら何げなく見過ごしてしまうその二文字に、今の自分の目がなぜか釘付《くぎづ》けになっていることに気が付いて、蛍子は少しうろたえた。
まさか……。
特定の相手ではなく、もし、それが「不特定多数」の相手だとしたら……。
そんな考えがふっと頭をよぎったのである。
だとしたら、火呂はそのことを口が裂けても友人の祥代には打ち明けないだろう。
馬鹿な。
私はなんという馬鹿なことを考えているのだろう。
蛍子は思わず自分の頭を拳で殴りたくなった。たまたま目の前の原稿に何度か使われていた単語が目に付いたとはいえ、その単語からこんなことを連想してしまうとは。
あの娘にかぎって、絶対にそんなことは……。
そう思いかけ、ふとその自信がゆらぐような不安をおぼえた。嘘をつくような娘じゃない。そう信じ込んでいて、ついさきほど、その信頼を見事に裏切られたばかりではないか。私はあの娘の何を知っているというのだろう。どうして、絶対などと言い切れる……?
それに、聞くところによると、俗に言う「売り」をしている女の子たちの多くは、いかにもという外見はしていないという。一見すると、まじめそうであったり、清純そうであって、とても外見からはそんなことをするようには見えないというのだ。
ああ、でも、やっぱり、それはありえない。火呂にかぎって、それだけは……。
疑っては打ち消し、打ち消してはまた疑う。
蛍子が鉛筆を片手にため息をついたり、急にかぶりを振ったり、いらついたように、片手で髪を掻《か》き毟《むし》ったりと、さきほどから無意識に繰り返しているパントマイムのような仕草は、はたから見たら、目の前のゲラと格闘しているようにも見えたかもしれなかった。
「蛍子ちゃん、電話」
蛍子のこんな一人芝居をやめさせたのは、副編集長の曾根の一声だった。
新卒で入ったこの出版社で、入社以来、ずっと「ちゃん」付けで呼ばれてきた。これなどは一種の「セクハラ」なのかもしれないが、蛍子自身はそう感じたことは一度もなかった。
それは、副編集長をはじめとする編集部員との間に、十年近くをかけて培った信頼関係のようなものが成立していたからだろう。三十路《みそじ》をすぎたからといって、急に、「さん」付けで呼ばれたりしたら、自分はもう「ちゃん」付けで呼ばれるほど若くはないんだなんて、かえってひがんでしまったかもしれない。
とはいえ、もし、同僚や上司とそれだけの信頼関係が築きあげられていないような職場で、いつまでたっても「ちゃん」付けで呼ばれていたら、「なめとんのか」と言いたくなるような不快感をおぼえていたかもしれないが……。
電話は沢地逸子からだった。
神田のなじみの古本屋に寄った帰り、今、泉書房の近くの喫茶店にいるのだという。もし、身体があいているようだったら、お茶でも飲まないかというのだ。少し話したいこともあるのだという。
蛍子はすぐに行くと伝えて受話器を置いた。
「わたしのホームページ見てくれた?」
喫茶店で向かいあうやいなや、沢地逸子はすぐにそう言った。
「はい、拝見しました。とても、その……面白かったです」
蛍子は、慎重に言葉を選びながら答えた。
「で、どうかしら、単行本化の件は? ちょっと気が早いかもしれないけれど、神田に用があって泉書房の近くまで来たものだから……」
沢地は蛍子を呼び出したことを弁解するように言った。
「そのことでしたら、今朝、さっそく編集会議にかけてみました――――」
その場の感触としては、「沢地逸子」の名前を出しただけで、スンナリ通りそうな様子ではあったが、年配の編集者の中には、インターネットになじみのない人もいたので、沢地のエッセイと掲示板のログファイルをプリントアウトしたものを渡して、明日までに目を通しておいて貰《もら》うことになっていた。
そして、明日、もう一度会議を開いて、この企画が本決まりになったところで、沢地にはメールか電話で知らせるつもりだったと、蛍子は話した。
「もう決まったも同然なのですが、一応……」
そう言うと、沢地はもっと喜ぶかと思ったら、なにやら浮かぬ顔で、「そう」と言っただけだった。蛍子のこの報告を素直に喜べないような、何か屈託したものを胸に抱えているようだった。
どうやら、神田に出てきたついでだと言って、蛍子を呼び出したのは、他にも何か話したいことがあるためらしかった。蛍子自身、昼間、火呂のことで、知名祥代を、「昼食を奢る」という口実で呼び出したばかりだったので、なんとなくピンとくるものがあった。
「あの、他に何か?」
蛍子は自分の方から水を向けてみた。
「これ、わたしの気のせいというか考え過ぎかもしれないんだけれど……」
沢地逸子はそう前置きをして、ようやく、やや重たげに口を開いた。
「中目黒で起こった猟奇殺人のこと、ご存じよね……?」
またその話題か、と蛍子は思った。知名祥代と昼食をともにした軽食喫茶でも、大学生らしき若い男女がその話で盛り上がっていたようだし、編集部でも、やはりその話が話題になっていた。
犯行の手口が残忍で異様、しかも謎《なぞ》が多いということもあって、マスコミもかなり騒いでいるようだった。
「あの犯人……わたしのホームページを見ているんじゃないかしら」
沢地逸子は突然そんなことを言い出した。
「え?」
「掲示板の中に、『真女子』というハンドルの書き込みがあったでしょう? 一人だけ他の人たちの話題を無視したような変な書き込みをする……」
蛍子ははっと思い出した。
「あの真女子というハンドルは、たぶん、上田秋成の……?」
と言いかけると、沢地は頷《うなず》いて、
「『蛇性の婬《いん》』に出てくる女の名前から取ったものでしょうね。前からちょっと気になっていたのよね、彼女のこと。といっても、本当に女かどうかは分からないけれど。もしかすると、ネットオカマかもしれないし……」
ネットオカマというのは、ネット上で、女性を装う男性ユーザーの俗称である。
「彼女――あの事件の起きる前日、妙なことを書いていたでしょう? 『明日、母なる神に生き贄《にえ》を捧《ささ》げる』とか。あれ、読んだときは、悪い冗談くらいにしか思わなかったんだけれど、あの事件が起きて……まさかって思ったのよ」
「あの書き込みをしたのが、犯人だと?」
蛍子は驚いたように聞き返した。
「そこまでは言えないけれど、偶然にしては……ね。それに、あの事件、普通の殺人、例えば、怨恨《えんこん》とかが動機の殺人にしては、奇妙なことが多すぎると言われているでしょう? 意味もなく頭部や四肢を切断したり、心臓を抉《えぐ》り取ったあとで、ゴムボールを押し込めたり……。被害者に強い憎悪を抱いている場合、殺しただけでは飽き足らなくて、遺体を傷つけたりすることがあるというのは、まま聞く話ではあるけれど、それにしても、心臓を抉り取った後で、ゴムボールなんかを代わりに埋めておくなんて、怨恨が動機にしても異常だわ。まともな人間のすることじゃない。だから、精神に異常をきたしている人間の仕業と、マスコミでは決めつけているようだけれど、はたしてそうかしら……」
沢地は考えこむように、ふと黙ったが、すぐに続けた。
「確かにあれだけのことをする犯人がまともとはとても思えないけれど、異常者だから、わけの分からないことをすると考えるのは短絡的すぎると思うのよ。遺体を切断したり、心臓を抉り取ったりしたのは、犯人なりに理由があってしたことじゃないかしら。あれは、犯人にとって、『殺人』というより『儀式』だったのよ」
「儀式……」
蛍子は思わず呟《つぶや》いた。
「そう。儀式よ。神に生き贄を捧げる儀式。あれを普通の殺人―――つまり、金目当てや怨恨が動機と言った日常レベルでの殺人だと思えば、犯人の意図は全くつかめないけれど、あれを『生き贄の儀式』として見ると、犯人のした行為はすべて納得がいくのよ。遺体を切り刻むのは、古くから、神に贄を捧げるときの半ば常套《じようとう》的な方法だったし、心臓を抉り取るのも同じ。それに、ネットの情報で知ったんだけれど、被害者の背中の皮の一部がナイフのようなもので剥《は》がされかけていたんですって」
「……」
「まあ、ネット上で乱れ飛ぶ怪情報だから、早いだけが取り柄で、その信憑性《しんぴようせい》については疑わしいけれど、今回の事件に関しては、この情報はかなり正確ではないかと思うのよ。生皮を剥がすというのも、こうした儀式の一つの方法だから……。
それに、あの心臓部に埋め込まれていた黄色いゴムボールも、もともと被害者の部屋にあったものを、犯人が目にとめて、気まぐれで押し込んだって思われているみたいだけれど、そうじゃないわ。あれは、犯人が最初からそのつもりで持参してきたものに違いない。あの黄色いゴムボールというのはね、おそらく、『黄金のりんご』の代用品なのよ」
「黄金のりんごって、ギリシャ神話の……?」
蛍子ははっとした顔で聞いた。
「あのりんごよ。永遠の生命を象徴するという黄金のりんご。エッセイにも書いたように、ギリシャ神話に出てくる黄金のりんごというのは、女神の心臓を象徴するものであると同時に、女神が生き贄に与える『契約の印』でもあるのよ。生き贄に選ばれた人間の現世での命を奪う代わりに、神としての永遠の生命を与えるという契約の……。
だから、被害者の心臓を抉って、代わりに、黄金のりんごに見立てた黄色いボールを埋め込むという犯人の行為は、狂気ゆえの気まぐれではなくて、まさに、儀式だったのよ。生き贄に選んだ被害者に永遠の生命を与えるという……」
「つまり、あの事件は、先生のホームページを見た犯人が、先生のエッセイに触発されて、犯した犯罪ではないかとおっしゃるんですか?」
蛍子がそう聞き返すと、沢地の顔はいよいよ曇った。
「まさかとは思うんだけれど、偶然というには、あまりにも符合が合いすぎるものだから……。それに、ホラービデオやホラー小説などの影響を受けて殺人を犯す人間が現実にいることを考えるとね。もちろん、人が人を殺す動機なんて、犯人自身にさえもよくは分からない部分もあると思うから、たとえ犯人が後になって、『〇〇という作品に影響を受けた』と自白したとしても、それだけが動機ということはありえないとは思うけれど。
でも、こうした危険や恐怖や刺激を売り物にした創作物が、『健全』な人間にはそれほど害を及ぼすことはない、というか、むしろ、ストレス解消やガス抜き的な効果さえあるとしても、まだ脳が未発達の子供や、たとえ大人でも、脳に何らかの欠陥があったり、もともと精神のバランスを大きく欠いていたりする人間には、直接的な悪影響を及ぼすこともないとは言えないと思うし」
「ただ……」
蛍子は慎重に言った。
「前にもありましたよね。猟奇的な殺人が起きたあとで、インターネット上で、犯行を予告するような書き込みがあったと騒がれたことが。それで、犯人はネットワーカーかと思われたんですが、結局、捕まえてみたら、そのネットの書き込みとは全く無関係だったということが分かったんでしたよね。現実には、こういう偶然もありますから……」
「そうね。偶然という線もないわけじゃない」
沢地は大きなため息をついた。
「それで、わたしも迷っているのよ。このことを警察に話した方がいいのか、どうか……。おそらく、警察では、昔ながらの捜査方法をとっていると思うのよ。被害者が自宅で殺されていることや、遺体の損傷がひどいことから、顔見知りによる怨恨が動機の犯行だとね。でも、そうではないかもしれない。犯人の動機が、もし『儀式』だとしたら、手口が残虐きわまるからといって、べつに被害者を恨んだり憎んだりしていたわけではない。それどころか、事件が起きる前日まで面識すらなかったとも考えられるのよ。今は、携帯電話やインターネットの普及で、昨日まで会ったこともなかったような人とも簡単に知り合うことができるからね。犯人は、最初から、『生き贄』を求めるつもりで、被害者に近づいたとも考えられるわ。だとしたら、被害者の交友関係や身辺をいくら血眼になって洗ったところで、犯人に辿《たど》りつくことはありえない。それに……」
沢地は声を潜めるようにして言った。
「もし、あれが個人的な恨みによる犯行ではなく、被害者を無差別に選んでいる『儀式』だったとしたら、また同じような事件が起こる可能性があるのよ」
「でも……警察に話すのは、もう少し様子を見てからの方がいいんじゃないでしょうか」
蛍子はなんと答えてよいのか分からず、ようやくそれだけ言った。沢地の話は、彼女の考えすぎのような気がした。
「様子を見るって、次の殺人が起きるまで待てということ?」
沢地が眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて聞き返した。
「いいえ、そういう意味じゃなくて」
蛍子はぎょっとしながら、慌てて言った。
「もし、あの『真女子』が犯人、というか、何らかの形で事件にかかわっているとしたら、事前に犯行の予告をしたくらいですから、犯行後も何か掲示板に書き込むかもしれません。あのあと、彼女の書き込みはあったんですか」
そう訊《たず》ねると、沢地は首を振った。
「今のところ、何も……」
「もし、彼女が何か事件のことを匂《にお》わすようなことを書き込めば、もはや偶然とは言えないと思うんです。警察には、そのときになって話しても遅くはないと思うのですが」
「ああ、そういうこと。そうね。あなたの言う通りかもしれないわね。彼女が犯人だとしたら、きっと何かまた書き込むはずね。この手の犯罪者は自己顕示欲が強いというから。それまで待てということね……」
沢地逸子は、ようやく納得したように頷いた。
喫茶店の前で沢地逸子と別れ、社に戻ってくると、蛍子は、再び、読みかけのゲラに目を通しはじめたが、頭の中はさまざまな思惑でぐちゃぐちゃに入り乱れ、とても目の前の仕事に集中できるような状態ではなかった。
何度読み返しても、視線だけが空しく原稿の上を素通りしていくばかりで、いっこうに内容が頭に入ってこない。
蛍子は、ついにゲラを読むことをあきらめ、それをビジネスバッグに押し込んだ。家に持ち帰って続きをやることにしたのである。
そして、代わりに、今朝がた、コピーして、他の編集者に配った、沢地のエッセイと掲示板のログファイルをプリントアウトしたものを取り出し、もう一度、それを読み返してみた。
例の猟奇殺人が、自分のホームページを見た者の仕業ではないかという沢地の話は、喫茶店で聞いているときは、彼女の杞憂《きゆう》というか、やや自意識過剰ではないかという気もしていたのだが、あらためて、プリントアウトしたものを読み返していると、蛍子の中で、「まさか……」という気持ちが次第に強くなってきた。
しかも、ふいに、或《あ》ることを思い出して、蛍子の背筋をぞくりと寒くさせた。
もう何カ月も前になるが、都内の或る公園で、青いゴミ袋に入れられた子犬の死体がゴミ箱の中から発見されたというニュースを聞いたことがあった。それを思い出したのである。確か、その子犬の死体は、頭部と四肢がノコギリ状のもので切断されていたのではなかったか。
殺されたのが野良犬だったということもあってか、ニュースとしての扱いも小さく、一部のマスコミが、最近とみに増えている「動物虐待」の実態の一例として軽くとりあげただけだったように記憶していた。
「真女子」は、二度目の投稿で、「母なる神に生き贄を捧げたが、喜んではくれなかった。犬ではだめかしら」などと書いていた。この投稿をアップしたのが、ログファイルに記録された日時からすると、ちょうどあの子犬殺しの事件と時期が一致しているような気がした。
まさか、あれは……。
この手の猟奇性の強い殺人事件などで、犯人が逮捕されたあと、その経歴を調べてみると、その犯人には、必ずといってよいほど、小動物を虐待したり殺害したりした経験があるという話を聞いたことがあった。
もし、あの子犬殺しが、「真女子」の仕業であるとしたら、中目黒の殺人も彼女の仕業である可能性は高いのではないだろうか……。
しかも、蛍子の背筋を寒くさせたのは、これだけではなかった。それは、「真女子」の最初の投稿の中にある、「わたしの身体には蛇のうろこがある」という奇怪な言葉だった。身体に「蛇のうろこ」があるとはどういう意味だろうと、これを読んだときから気になっていた。
いや、気になるだけではなく、あることを蛍子に連想させた。
それは痣《あざ》である。
「身体に蛇のうろこがある」というのは、「蛇のうろこのように見える痣がある」という意味ではないかと思ったのだ。そんなことをすぐに連想したのには理由があった。蛍子の身近に、実際に、蛇のうろこのようにも見える奇妙な痣を持っている人間がいたからである。
姪《めい》の火呂だった。
火呂の左胸の上には、生まれたときから、蛇のうろこを思わせる薄紫色の痣があった。
その夜、蛍子は、飲みに行こうという同僚の誘いを断って、いつもより早めに帰宅した。例の翻訳小説のチェックを今日中に済ませてしまいたかったからだ。
「ただいま……」
玄関のドアを開けて、声をかけるやいなや、奥の方からどなり合うような声が聞こえてきた。豪と火呂の声だった。何か言い争っているらしい。
「どうしたの?」
リビングに入ると、誰かが投げ付けたように、ソファのクッションが床に散らばっていた。そこにいた豪に聞くと、
「知らねえよ。急にヒステリー起こしてやがんの」
と、ふてくされたような顔で言う。
部屋に行ってみると、火呂が怒ったような顔つきでスーツケースに衣類などを詰め込んでいた。
「何があったの?」
そう聞いても、「あんな奴と一緒に暮らすのはもう嫌。わたし、出て行く」
興奮したような口調でそう言うだけだった。
「出て行くって、どこへ?」
重ねて聞くと、火呂は一瞬考えるように黙り、
「しばらくサッチンのとこに泊めてもらう」
それだけ言うと、Tシャツにジーンズという格好のまま、着替えだけを詰めたスーツケースをさげて出て行こうとした。
「火呂。ちょっと待って」
蛍子は思わず姪を呼び止めた。
「本当に祥代さんのとこに泊まるの?」
そう訊ねると、火呂はやや目尻《めじり》の上がった冴《さ》え冴《ざ》えとした大きな目で、にらみつけるように蛍子の顔を見つめた。
「それ、どういう意味?」
「土曜の夜、あなた、どこに泊まったの? 祥代さんのとこじゃないでしょ? 今日、彼女に会って聞いたら、土曜の夜は、沖縄に帰っていたと言ってたわよ。一希ちゃんの容体がまた悪くなって……」
「どうして」
火呂は怒りを抑えつけたような冷ややかな声で言った。
「サッチンに会ってそんなこと確かめるの? わたしの言うことが信じられないの?」
「あなたこそ、どうして嘘《うそ》なんかつくのよ。本当のことを言ってくれないから、こっちもつい心配になって……」
「わたしはもう未成年じゃない。いちいち、することなすこと、叔母《おば》さんに報告しなくちゃいけないの?」
「そうは言わないけれど、一緒に暮らすにはそれなりのルールというものがあるでしょ。外泊するならするで――――」
そう言いかけると、その言葉を遮るように、火呂は言った。
「わたしは、そんなルールになんか縛られずに自由に暮らしたい。だから、出て行くって言ってるのよ。叔母さんももうわたしのことにはかまわないでよ。母さんとの約束は果たしたんでしょ。だったら、ほっといてよ。関係ないんだから」
「関係ない?」
穏やかに話すつもりだったが、火呂の口から出た思いがけない言葉に、蛍子はついかっとなった。仕事も手につかないほど心配しているというのに、「関係ない」とはどういう意味だ。
「関係ないってどういうことよ?」
「……」
「あなたは、わたしの姪なのよ。血がつながっているのよ。赤の他人じゃないわ。それがどうして関係ないのよ?」
火呂は押し黙っていた。
一言でも、「ごめん。言い過ぎた」と謝ってくれたら、蛍子としても、姪の暴言を許すつもりでいたが、火呂は唇をかみしめてうつむいたまま、何も言わなかった。
「そう。分かったわ。だったら、好きにすればいい。出て行きなさい」
蛍子は、つい、売り言葉に買い言葉的な勢いで、そう言ってしまった。
火呂は、きっと口を引き結んだまま、黙って出て行った。やがて、ドアの閉まる音がした。
「一体、何があったのよ?」
叔母と姉のやり取りを、亀の子が首をすくめるようにして見ていた豪に、幾分八つ当たりぎみの口調で聞くと、豪は肩を竦《すく》め、見たいテレビ番組のことで互いに譲らず口喧嘩《くちげんか》になっただけだという。
「それだけのこと?」
蛍子は、喧嘩の理由の、あまりのたわいなさに拍子抜けした思いで聞き返した。
「そうだよ。たったそれだけのことなのに、姉ちゃん、急に怒り出して。あれ、きっと生理中かなんかだぜ。バイトの方も今日は気分が悪いとか言って休んだみたいだから。昔から、生理になると怒りっぽくなるんだ……」
豪はそう言ってにやりとした。
火呂が生理中……?
ふだんなら聞き流してしまうような言葉が、なぜか蛍子の胸をヒヤリとさせた。またもや、あの「真女子」の書き込みが頭をよぎったからだった。
蛍子は、すぐに、その疑惑をかぶりを振って打ち消した。
どうかしている。なぜ、「真女子」と火呂をすぐに結び付けて考えてしまうのだろう。
それは、おそらく、「私の身体には蛇のうろこがある」という、あの奇妙な一文にこだわっているためだ……。
火呂の左胸のうろこ模様の痣は生まれついてのものだった。火呂がまだ赤ん坊の頃、年老いた神女の一人が、火呂の痣を見て、「この子は海蛇の生まれ変わりだ。神の遣いだ」と言って拝んだという。それ以来、近所でも、「神の子」とか、「蛇の生まれ変わり」などという噂《うわさ》がたつようになった。
火呂が八歳のとき、浜辺で歌をうたって、死にかけていた豪の魂を呼び戻したという逸話も、もともと、火呂には、「神の子」という噂がつきまとっていたからで、その「神の子が奇跡をおこした」とばかりに、まことしやかに広がったのである。
火呂が「真女子」かもしれないという疑惑は、それだけではなかった。火呂はノートパソコンをもっている。A4サイズの蛍子の物よりもさらに小さく軽量の、携帯に便利な、B5サイズのものだった。大学にも持参して行っているようだ。当然、インターネットにも接続しているだろう……。
しかも、いつだったか、沢地逸子があるテレビの討論番組に出ていたとき、ちょうどそれを見ていた火呂が、沢地の意見に同調するようなことを言っていたことがあった。ファンというほどではないようだったが、彼女に対して、なんらかのシンパシーのようなものは抱いているようだった。
だとしたら、その沢地逸子が自分のホームページを持ったと知れば、すぐにアクセスしてみるのではないだろうか。
そうだ。パソコンだ。火呂のノートパソコンの中身を見れば、何か分かるかも……。
蛍子はそんなことを思いついた。
携帯用だから、ひょっとしたら、スーツケースの中に入れて持って行ったかもしれない、と思いながらも、部屋を探してみると、火呂も突然の「家出」で慌てていたらしく、ノートパソコンは持ち出してはいなかった。
蛍子は、少しためらったあと、思い切って、パソコンの電源スイッチを入れた。少しためらったのは、個人のパソコンの中身を無断で見るというのは、その人のデスクの引き出しの中を無断で開けて見ることに等しいからである。かすかな罪悪感のようなものを感じないわけにはいかなかった。
ちょうどデスクの引き出しに、手帳や日記や手紙の束をしまっておくように、電源が入るとすぐに現れるデスクトップと呼ばれる画面には、メールや日記ソフトなど、頻繁に使うソフトのショートカットと呼ばれるアイコンが貼《は》りついている。それを、マウスやパッドのポインタでクリックするだけで、そのソフトを開いて中身を読むことができる。
火呂のパソコンは、サイズこそ違うが、機種も基本ソフトも、蛍子が使っているものと同じだったので、使い勝手は殆《ほとん》ど変わらず、まごつくことなく操作ができた。
蛍子は、しばしためらったあとで、まず、「お気に入り」と書かれたフォルダを開いてみた。この「お気に入り」というのは、気に入ったホームページのアドレスを登録する機能で、また訪れたいと思ったとき、これに登録しておくと、次回からは、いちいちアドレスを打ち込まなくても、クリックひとつでそのホームページに飛ぶことができるのである。
つまり、この「お気に入り」というフォルダには、火呂がよくアクセスするホームページの名前が登録されているはずだった。
見てみると、悪い予感が的中したとでもいうか、やはり、いくつかのタイトルに混じって、沢地逸子の「太母神の神殿」が入っていた。
それは、少なくとも、火呂が、沢地のホームページの存在を知っており、頻繁にアクセスしていたということを物語っていた。そうでなければ、「お気に入り」に登録するはずがない。
疑惑の色は一層濃くはなったが、火呂が沢地のホームページにアクセスしていたことが分かったからといって、「真女子」としてアクセスしていたことにはならない。
決定的な証拠というわけではないのだ。決定的な証拠は、おそらく、ウインドウズ内のフォルダに残っている履歴ファイルを調べれば分かるのではないか。もし、沢地のホームページに投稿したことがあるならば、その記録がファイルとして残っているはずである。
そう思って、その手のフォルダを開いて調べてみたが、それらしきファイルは見つからなかった。もっとも、ファイルが見つからないからといって、投稿しなかったということにはならない。こうしたファイルは、ネットにつなぐたびに、どんどん溜《た》まってディスクを圧迫するので、自分で削除したり、あるいは溜まらないように設定することもできるからである。アクセス後に削除したとも考えられる。
後、調べるとしたら……。
蛍子の目が、デスクトップに貼りついていた、「だいありぃ」と日本語で書かれた日記ソフトらしき本の形のアイコンに止まった。
火呂は、日記もパソコン上でつけているようだった。この日記を読めば、なにもかも分かるのではないか。あの土曜の夜、一体どこに泊まったのか。何をしていたのか。なぜ親友のところに泊まったなどと嘘をついたのか……。
蛍子の心臓は苦しくなるほど高鳴っていた。パッドのポインタでアイコンをクリックするだけで、日記ソフトは開く。と同時に、開けてはならないパンドラの箱も開いてしまうかもしれない……。
それに、やはり、姪とはいえ他人の日記を盗み読むという恥ずべき行為をこれから自分がしようとしていることに、蛍子は殆ど肉体的な苦痛すら感じていた。
胸は痛いほどに高鳴り、口の中はからからに渇いていた。もし、開いた日記に、読むに耐えないようなことが書かれていたら……。そう思うと、パッドのポインタをそのアイコンの上まで持っていきながら、どうしても、クリックする勇気がわかなかった。
でも、同時に、そこには蛍子をほっと安心させるようなことが書かれているかもしれないのだ。どちらにせよ、それを開くことによって、こんな疑心暗鬼のような状態からは抜け出すことができる。そう思い直すと、ようやく、パンドラの箱を開ける勇気が出てきた。
蛍子は思い切って、日記のアイコンをクリックした。
が……。
蛍子の目に飛び込んできたのは、日記ソフトを開くためのパスワードを要求する画面だった。
え?
と思い、拍子抜けした。これまでの気負いが一気に崩れ去るような気がした。
火呂の日記は、パスワードを入力しなければ開かないようになっていた。いわば、鍵《かぎ》がかかっていたのである。
一人暮らしならともかく、叔母や弟と同居している若い娘が、自分のプライバシーを守るために、日記に鍵をつけることは、考えてみれば、当然すぎる行為だった。
そのことに最初に気づかなかった自分の浅はかさを蛍子は自嘲《じちよう》した。
むろん、蛍子は、火呂の日記を開くためのパスワードを知らなかった。この手のパスワードに設定しがちな電話番号や生年月日などを試しに入力してみるという手もあったが、そこまでして、姪の日記を盗み読む気はさすがになかった。机の引き出しを無断で開け、そこにあった日記を開くことまではなんとかできても、日記の鍵を壊してまで読むという行為に及ぶには、蛍子の倫理感はまともすぎた。
がっかりしたような、それでいて、同時になぜか、ほっとしたような気分で、やや放心していると、
「叔母さん」
と声をかけられた。どきっとして振り向くと、豪が情けなさそうな顔をして立っていた。
「俺、腹へって死にそうなんだけど……」
まだ夕食を食べてないという。
「ピザ取ってもいい?」
「あ……じゃ、今から何か作るわ」
蛍子は、むしろ豪のこの言葉に救われたような気持ちで、火呂のパソコンの電源スイッチを素早く切った。
久しぶりに料理でもしようと思い、近くのスーパーに寄って食材を買ってきたことをようやく思い出したのだ。
簡単な手料理を作り、それを甥《おい》と一緒に食べ、シャワーを浴びて、さて、気を取り直して、あの翻訳原稿に目を通してしまおうと思っていた矢先、リビングの電話が鳴った。
出てみると、知名祥代だった。
火呂が来ているという。しばらく、こちらで「預かる」と祥代は言った。火呂に聞かれないように、自販機でジュースを買ってくるという口実で外に出て、携帯を使ってかけているらしい。
「火呂のこと、心配しないでください。おりを見て、わたしからも聞いてみますから。そのうち、きっと何もかも話してくれると思います。火呂を信じてあげてください」
祥代はそんなことを言った。火呂とは同い年だったが、彼女の方がはるかに大人びていた。
いっそ、祥代に任せた方がいいかもしれない。蛍子はそう思った。同居するようになるまでは、夏期休暇や正月に帰郷したときくらいしか顔を合わせなかった自分よりも、子供の時から、ずっと近くにいて、家族同然の関係を保ってきた祥代の方が、火呂の性格や何かをすべて呑《の》み込んでいるようにも思えた。
しかも、祥代は、一浪したとはいえ、医大に受かるくらいだから、頭も素晴らしく良いし、しっかりしていて、頼りがいもある。
それに、とりあえず、今夜は本当に祥代のところに泊まると分かって、蛍子は一安心した。祥代に礼を言って、電話を切ると、ようやく、昼間できなかった仕事に集中できるような気がした。
翌日。
蛍子が帰宅したのは、午後十一時を既に回った頃だった。
部屋に入って、すぐに小さな異変に気が付いた。火呂の持ち物が幾つかなくなっている。あのノートパソコンもなくなっていた。おそらく、昼間、留守中に火呂が来て、必要なものを持って行ったのだろう。
そう考え、ふとテーブルを見ると、「蛍子|叔母《おば》さんへ」と書かれた封筒があった。朝出るときはなかったものだ。火呂が来たときに置いて行ったものらしい。
蛍子は着替えもそこそこに、その封筒を開けた。中には手書きの手紙が入っていた。ここで走り書きしたらしく、やや乱れた字体で書かれていた。
蛍子叔母さん、昨日はごめんなさい。
豪のことで頭に来ていたので、つい、叔母さんにまで、ひどいことを言ってしまいました。「関係ない」なんて言って悪かったです。叔母さんにはとても感謝してます。これは本当です。私だけでなく、豪まで引き取ってくれたことに……。
私たちと同居するはめになって、自由がなくなったのはむしろ叔母さんの方だったんですよね。叔母さんの優雅な独身生活を破壊してしまったのは私たちの方だったのに、自分の方が被害者みたいなことを言って。叔母さんが怒るのも当然です。本当に反省しています。
叔母さんの帰りを待って、ちゃんと謝りたかったのですが、顔を見ると、また心にもないことを言ってしまいそうで……。
それに、バイトにも行かなければならないので、手紙を書くことにしました。この方が自分の気持ちを正確に伝えられそうな気がするし。
土曜のことですが、サッチンの所に泊まったというのは嘘《うそ》です。本当は、和歌山に行っていました。夜は、そこのビジネスホテルに泊まりました。もちろん、一人で、です。和歌山に行ったのは、ある人の遺族に会うためでした。結局、会えませんでしたが……。
そのある人というのは、葛原《くずはら》八重さんという女性です。この名前に見覚えありませんか? といっても、二カ月近くも前、新聞の片隅に小さく載っていた死亡記事の中にあった名前だから、きっと、叔母さんは覚えていないでしょうね。
でも、私にとっては、一目見るなり、天と地がひっくりかえるほどのショックを与える名前だったんです。
新聞の片隅に小さく載っていたのは、五月の連休の最中に、都心の高速で起きた交通事故の記事でした。その事故の犠牲者が、葛原八重さんだったのです。そのとき、新聞には葛原さんの住所も書かれていました。私は、手帳にこの住所を書き留めておきました。いつか、この人の遺族に会いに行くことがあるかもしれないと思ったからです。
でも、すぐにはその決心がつかず、ようやく、決心がついたのは、先月、サッチンと新宿に映画を観に行って、そのとき或《あ》ることがあったからです。偶然がこうも重なると、私はこのことから逃げてはいけないのではないかと思うようになりました。葛原八重さんの遺族に会おうと決心しました。それで、あの日、思いたって、手帳に書き留めておいた住所を頼りに和歌山に行ったのです。日帰りで帰ってくるつもりでしたが、疲れていたこともあって、夜は、そのまま目についたビジネスホテルに泊まりました。
なぜ、私が、葛原八重さんの遺族に会いに行こうとしたのか、その理由については、今は詳しいことは書けません。サッチンの所に泊まったなんて嘘をついたのも、この理由を話したくなかったためです。
このことについては、私の中で、まだ整理がついていないからです。母さんの手紙を読んだとき、一度は、封印したはずの思いでしたが、やはり封印しきれなかったようです。
いつか、気持ちの整理がきちんとついたら、叔母さんにすべて打ち明けます。それまで、もう少し待ってください。
それと、叔母さんや豪と言い争って、衝動的にサッチンの所に来てしまったように見えるかもしれませんが、実は、前から、サッチンとは、一緒に暮らそうかという話が出ていたんです。でも、今のサッチンのマンションはワンルームで、二人で暮らすには狭すぎるので、もっと広い物件を見つけてからと先延ばしにしていたのですが、ちょうど手頃なのが見つかりそうなんです。お家賃も二人で折半すればなんとかなりそうです。具体的に話が決まったら、そのときは、もちろん報告します。
それと、我がままばかり言って本当に申し訳ないですが、豪のことはもうしばらく面倒みてやってください。まだ未成年だし、保護者が必要です。せめて、高校を出るまでは……。でも、私のことは大丈夫です。これ以上、私のことで心配しないでください。叔母さんに心配かけていると思うと心苦しいんです。嘘をついたことは悪かったですが、私は自分の心に恥じるようなことは何ひとつしていません。それは誓って言えます。それだけは信じてください。
PS 豪のこと、よろしくお願いします。
[#地付き]火呂
火呂の手紙を読み終わって、蛍子は、なんとなくほっとしている自分に気が付いた。その手紙の中には、蛍子がよく知っている姪《めい》の姿があった。勝ち気で喧嘩《けんか》早いところもあるが、根は率直で情深い。「火呂」とは、よくも付けたものだと感心するほど、この名前は姪の性格を表していた。その性格の中心部には、「火」があるのだ。
良くも悪くも、火呂の中には、燃え盛る火が存在している。その火は、接する人の心を温め、慰めてくれる。しかし、時には、それが火山の爆発のような激しい火になることもある……。
弟とあれほど罵《ののし》りあって別れたというのに、手紙では、その弟のことを心配するようなことを書いている。まさに、火呂の中に入り混じって存在している、激しい火と優しい火とをかいま見る思いがした。
蛍子は、半ば直感的に、火呂の手紙の内容は信じられると思った。たぶん、ここに嘘はひとつもない。
しかも、よく見ると、封筒の中には、数枚の便せんと一緒に、一枚の薄い紙が入っていた。ビジネスホテルの領収書だった。日付は、七月十一日、土曜日となっており、受け取り人の名前は「照屋火呂様」となっていた。それを見る限りにおいて、火呂があの夜、そのビジネスホテルに一人で泊まったことは間違いないようだった。
少なくとも、これで、土曜の夜どこにいたかということは明らかになったわけである。いくら疑心暗鬼になっていたからとはいえ、あの娘が売春をしているのではないかとか、もっと悪い想像までした自分を、蛍子は恥ずかしくさえ感じた。
とはいえ、火呂自身も手紙に書いているように、これで、彼女の言動の不可解さがすべてつまびらかになったわけではない。
火呂と葛原八重という女性がどういう関係にあるのか。なぜ、五月の連休時に、事故で死亡したという女性の遺族に、火呂が会いに行かなければならなかったのか。そして、そのことを嘘をついてまで、叔母である自分に隠さなければならなかったのか。
その理由はいまだに謎《なぞ》のままである。
葛原八重という名前にも全く心当たりがなかった。火呂の手紙には、この名前は新聞に載っていたとあるが、蛍子の記憶には残っていなかった。たとえ、その記事を目にしていたとしても、ありふれた交通事故死として読み流してしまったのかもしれない。
ただ、先日の祥代の話では、新宿の映画館で、火呂が、「クズハラ」という女性と間違えられたということだった。手紙の中にある、「或ることがあって」というのは、このことに違いない。だが、この「クズハラ」という女性が、葛原八重であるとは考えられない。考えられるのは、姓が同じであることから見て、火呂が間違えられた「クズハラ」という女性が、亡くなった葛原八重の遺族であったという可能性である。これならありうるかもしれない。ということは、火呂は、自分によく似ているという、この「クズハラ」という女性に会いに行ったということなのだろうか……。
しかし、ひとつはっきりしたことは、やはり、火呂の不可解な言動の発端は、康恵が亡くなる直前に、病室で手渡した手紙にあるらしいということだった。
おそらく、「葛原八重」という名前も、その康恵の手紙の中に書かれていたものに違いない。だからこそ、火呂は、ふつうなら読み過ごしてしまうような小さな新聞記事に目を止めたのだろう。
すべては康恵の手紙を読めば分かるような気がした。でも、今はまだその時期ではないらしい。火呂は、「気持ちの整理がついたら、すべてを打ち明ける」と言っている。それならば、それを信じて待とうと、蛍子は思った。
そう決心すると、さっそく、自分の気持ちを伝えるために、火呂に返事を書くことにした。ノートパソコンを持って行ったようだから、メールを出しておけば、そのうち読んでもらえるだろう。
蛍子は、ノートパソコンの電源を入れると、メールソフトを立ち上げ、返事を打ち始めた。
「手紙、読みました。すべて了解しました。火呂が何もかも話してもいいという気持ちになるまで、私はいつまでも待ちます。
なお、祥代さんとの同居の件は、私は賛成です。彼女ならしっかりしているし、ルームメイトとして申し分ないと思います。一人暮らしをされるよりも、私としては安心できます。豪のことは心配しなくてもいいです。私が責任をもって引き受けます。それと、ここの合鍵《あいかぎ》はそのまま持っていてください。いつでも帰ってこれるように……」
蛍子はそこまで書き、署名を入れかけて、ふとタイピングの手をとめ、しばらく考えてから、「追伸」としてこう付け加えた。
「PS 今まで口に出して言ったことはなかったけれど、此《こ》の際だから、これだけは言っておきます。私は、あなたたちと暮らすようになって、ただの一度も、自由をなくしたとか、優雅な独身生活を破壊されたとか思ったことはありません。会社から身も心もくたくたになって帰ってきたとき、部屋に明かりがついているのを見て、慰められたことは何度かあったとしても……。
[#地付き]蛍子」
それだけ書くと、蛍子は、迷わず送信ボタンをクリックした。自動的に回線が接続され、メールが送信されはじめた。その様を画面で見ながら、思っていた。
人は、案外、「追伸」という形で、一番言いたいことを書くものだな、と……。
[#改ページ]
第五章
携帯が鳴ったとき、広瀬典雄は、悪友たちとマージャンの真っ最中だった。
「もしもし……?」
くわえタバコで出ると、
「ノリさん?」
涼やかな若い女の声が耳に飛び込んできた。「ノリ」というのは家族や友人の間での典雄の愛称だったが、それにしては、相手の声に聞き覚えがなかった。
「そうだけど……?」
誰だろうと思いながら答えた典雄の頭に、一瞬、「もしや」という考えが閃《ひらめ》いた。
「……『ときめき広場』のメッセージ見たんですけど、今、お話ししてもいいですか」
女の声はそう言った。
やっぱりそうだ。
先日、ある出会い系の人気ホームページの掲示板に、女性のメールフレンドを求める投稿をしておいたのだ。「ノリ」というニックネームで、自分の簡単なプロフィールを載せ、連絡先として、メールアドレスと携帯の番号をアップしておいたのである。
しかし、一週間近くたっても、誰からもメールは来ず、携帯も鳴らなかったので、あきらめかけていたのだが……。
どうやら、ようやく「魚」が食いついてきたらしい。
典雄は、慌てて、口からタバコを離し、手近の灰皿でもみ消すと、「ちょっとタンマ」と言ってその場を抜け出し、携帯を持ったまま部屋の外に出た。
「あの……後でかけ直しましょうか」
典雄が電話の向こうでばたばたと慌てている様が聞こえたらしく、相手は遠慮がちな声でそう言った。
「いや、いいです。大丈夫です」
典雄は、部屋の中の仲間に聞こえないように、声をひそめて言った。
「……読書が趣味なんですか?」
相手がいきなりそう訊《き》いた。
「え?」
典雄は一瞬頭を空白にしたが、すぐに、相手の質問の意味に気が付いた。そういえば、プロフィールのところに、「趣味は読書と音楽鑑賞」と書いておいたことを思い出したのだ。
実をいうと、趣味は「読書」なんて書いたが、対象は漫画に限られていた。素直に「趣味は漫画を読むこと」と書けばよかったのだが、つい見栄を張って、「読書」と書いてしまったのである。
もっとも、最近の漫画の中には、文学的な味わいを持つものも少なくないし、実際、古典や人気小説を劇画化したものもよく目にするから、典雄自身はウソを書いたとは思っていなかった。「漫画を読む」ことだって、立派な「読書」だろう。
「わたしも読書が趣味なんです。それで、よかったら本の話とかしたいなって思って……」
「そうなんですか。ぜひ、お話ししたいですね」
「どんな作家がお好きなんですか?」
相手が訊いた。
「どんなって……」
典雄はうっと詰まった。頭に浮かぶのは、どれも好きな漫画家の名前ばかりで、「作家」の名前など全く思い浮かばない。そういえば、前に「夏目漱石」の「坊ちゃん」を読んだな。むろん、漫画でだが。でも、いくら何でも、好きな作家が「夏目漱石」というのは……。「紫式部」の「源氏物語」も漫画化されたものを漫画喫茶で読んだことがあるが、「紫式部」というのもちょっとね……。
無い知恵を絞ったあげくに、ようやく一人だけ思い浮かんだ名前があった。読んだことはないが、どこで聞いたのか、なんとなく耳に残っていた名前だった。なんか大きな賞か何か取った人ではなかったかな。
「……オオエケンザブローなんていいですね」
「大江健三郎? ホントに? わたしもファンなんです。彼のどの作品がお好きなんですか?」
「どの作品って……み、みんなですよ。みんな好きです、彼の作品は」
「わたしもなんです。全部いいですよね」
「なんか気が合いそうですね、ぼくたち。よかったら、会ってお話ししませんか」
典雄はさっそく言った。相手はしばらく黙っていた。この手の出会いは、ふつうは、まずメールフレンドからはじめるものだ。そして、少し打ち解けてきたところで、電話で話すようになり、やがて、十分打ち解けたところで、では一度お会いしましょうかというのが、普通の手順というものである。
それを一回めの電話でいきなり会おうでは少々気が早かったかなと、後悔しかけたとき、
「……いいですよ」
とやや遠慮がちな声がした。
「いいんですか?」
そう問い返す典雄の声は半分裏返っていた。
「ええ。わたし、電話で話すのってあまり得意じゃなくて……。それに、パソコンのキーボードもまだ慣れてなくて、メールも長いのは苦手なんです。直接お会いして話す方がいいです。それで、明日、空いてます?」
「あ、明日……?」
典雄はあまりに急な話で、瞬間、目を白黒させた。明日って日曜か。日曜は確か……。
「わたし、明日しか時間とれないんですけど……」
「あ、空いてます。明日なら一日中がら空きです」
典雄は殆《ほとん》ど反射的にそう答えていた。
「ノリさんのお住まいは、大泉学園でしたよね。だったら、池袋のパルコ前で午後三時でどうですか?」
「……ブクロのパルコ前。三時ね。わかりました。了解です。で、何かそちらの目印みたいなものは……?」
そう訊くと、女は自分の姿形の特徴や服装を言い、「……大きな紙袋持っていますから」と付け加えた。
典雄の方も自分の特徴を伝え、浮き浮きした気分で電話を切りそうになって、
「あ、そうだ。名前。名前まだ聞いてなかったよね?」
と言うと、
「名前は……マナゴっていいます」
と相手は答えた。
「マナゴ?」
聞き返す典雄の声が思わず高くなった。
「それ、本名? なんか魚の名前みたいだね……?」
ついそう言うと、電話の向こうで、くすくすと笑う女の声がした。箸《はし》が転んでもおかしがるという、若い女独特の、こちらの気分まで昂揚《こうよう》させるような楽しげな笑い声だった。
「これ、ハンドルよ。本名は、会ったとき、おしえてあげる……」
女の口調が急に馴《な》れ馴れしいものになった。囁《ささや》くような甘い余韻を典雄の耳にたっぷりと残して電話は切れた。
よっしゃ!
典雄は一人でガッツポーズを決めた。
文学少女か……。
正直なところ、少し引く気持ちもないわけではなかったが、電話の声は、いかにも知的な美人を連想させる涼しげな良い声だった。自分の容姿の特徴を説明するときに、友人に「卯月マリナに少し似ている」と言われたことがあると言っていた。本人が言うことだからあまり当てにはならないが、この人気若手女優は、典雄のまさにタイプだったから、「少し」似ているだけでも御の字というものだ。
話し方も上品で、良家の令嬢風である。はすっぱな感じは全くしなかった。
あまりお堅いのは肩がこりそうで嫌だったが、かといって、いかにも遊んでいそうな崩れたタイプはもっと嫌だ。
清純で「適度に」知的。そういうタイプが典雄の好みだった。「適度に」というのは、自分がついていける程度にという意味である。自分が見たことも聞いたこともないような知識をべらべらとまくしたてるような女は論外だった。
電話の女はこの条件を満たしているように思えた。
ただ、問題は「オオエケンザブロー」である。マージャンなど呑気《のんき》にやっている場合ではない。すぐに近くの本屋に飛んでいって、「オオエケンザブロー」の本を買ってこなければ。なんとなく聞き覚えがあるということは、きっと有名な作家なんだろう。だとしたら、文庫で出ているかもしれない。たとえ一冊しか読んでなくても、「僕はこれが彼の代表作だと思う」と言い切って、えんえんとその話だけをすればいい……。
そのとき、典雄のバラ色に彩られた頭の中にあったのは、「どうか、オオエケンザブローが一晩では読み切れないような大長編作家ではありませんように」ということだけだった。
八月九日。日曜日の午後だった。
喜屋武蛍子は、近くの菓子屋で買ったモンブランの箱を片手に、「照屋・知名」という真新しいネームプレイトをおもてにかかげたドアの前に佇《たたず》んでいた。
一呼吸して、インターホンを鳴らすと、すぐに返事があった。
「……わたし、蛍子」
そう言うと、
「ドア開いてるから入って」
という火呂の声がした。
中に入ってみると、玄関口には、所狭しと段ボール箱が積み重ねられており、まさに引っ越してきたばかりという慌ただしさが漂っている。
火呂から電話が入り、ようやく新居が決まり、引っ越しした、日曜あたりに暇だったら、一度見に来てほしいと言われたのは、二日前のことだった。
火呂は、頭にタオルを巻き、膝《ひざ》の抜けたジーンズ姿で、十二畳ほどのリビングにいた。床の拭《ふ》き掃除をしている。中も玄関同様、段ボール箱が散乱していて、まだ片付いていないようだった。
「なかなかいい所じゃない?」
蛍子は、「お土産」と言って、モンブランの箱を姪《めい》に手渡したあと、部屋の中を見回しながら言った。
電話で聞いていた話では、新居は、2LDKの間取りで築五年ということらしかったが、そのわりには、リフォーム済みのせいか、壁も天井も奇麗で真新しく見えた。これなら新築といっても通るくらいだ。
ベランダに出てみると、七階ということもあって、見晴らしがいい。もっとも、見えるのは、人家の連なる屋根や他の高層の建物ばかりではあったが。
でも、この高さなら、防犯的には安心できそうだ。
「不動産屋さんがね、これだけの物件で、管理費こみで月十二万は掘り出し物だって」
リビングの床の上にしゃがみこんだまま、火呂が得意そうに言った。
「祥代さんは?」
祥代の姿が見えないので訊くと、火呂は、「朝からバイト」と答えた。
そういえば、前に軽食喫茶で聞いた話では、医学生というのは、他学部の学生に比べて授業がハードで忙しいらしく、その上、休みの日も、朝から家庭教師のバイトの掛け持ちをしているということだった。
そのとき、思わず、「大変ねえ」と言うと、「家庭教師のバイトは、子供に勉強だけさせて、自分は居眠りしていてもいいですから、楽なんです」と、当の祥代はスパゲティをほお張りながら、屈託なく笑っていた。
「サッチン、一希ちゃんのことがあるから、生活費くらいは自分で稼いで、うちからの仕送りを減らしたいんだって」
「ああ……」
そうか、というように蛍子は頷《うなず》いた。
祥代の弟の心臓病は、健康な心臓を移植するしか治る見込みはないらしく、いずれ海外で移植手術を受けることになっているらしい。だが、それには、渡航費を含めて莫大《ばくだい》な費用がかかる。祥代は、そのために、自分にかかる親の負担を少しでも少なくしようとしているのだろう。
しっかり者で弟思いの彼女らしい、と蛍子は改めて思った。
そういえば、二人で住もうと最初に言い出したのも祥代の方だったらしい。その方が月々の家賃の負担も少なくて済むというのが主な理由らしかった。
たしかに、東京の住宅事情は地方出身者にとっては厳しいものがある。蛍子も上京したばかりの頃は、賃貸物件の家賃の高さに目の玉が飛び出る思いをしたことがあった。
申し訳程度の台所がついたワンルームが月七、八万もするのだ。それならば、いっそ、月十二万の物件を二人で借りた方が、経済的な面だけでなく、生活レベルや防犯的なことから考えても、賢明な選択といえるかもしれなかった。
「何か手伝うことはない?」
と聞くと、「後は、段ボールの中の衣類や本を片付けるだけだからいい」と火呂は言い、「今、コーヒーでもいれるから、そこに座ってて」と、テーブルの方を顎《あご》で示した。
テーブルに座って待っていると、やがて、コーヒーの良い香りがしてきた。
「元気そうなんで安心した」
蛍子が持参したモンブランを向かい合って食べながら、そう言うと、火呂の顔から笑みが消え、真顔になった。
「本当いうと、今日、叔母《おば》さんに来てもらったのは、読んで貰《もら》いたいものがあったからなんだ」
「読んで貰いたいもの……?」
蛍子の心臓がドキリと鳴った。もしやという予感があった。
「ちょっと待ってて」
火呂はそう言うと、食べかけのケーキを残してテーブルを離れ、リビングを出て行ったが、すぐに戻ってきた。手には封筒のようなものを持っている。
「これ……」
手にした封筒を蛍子の方に差し出した。
それは、やや黄ばんだ古い封書で、封筒の表には、「火呂へ」とペン字で書かれていた。
「これって、もしかしたら……?」
蛍子はそれを受け取りながら、驚いたように姪の顔を見た。
「母さんの手紙」
火呂は言った。
「……読んでもいいの?」
念を押すように聞くと、火呂は、大きな目でまばたきもせずに叔母を見つめたまま、「読んで。今、ここで」と言った。
蛍子は、ややためらうように、手の中の封書を見つめていたが、意を決したように、中から畳まれた便せんを取り出した。
おそるおそる開いて見ると、見覚えのある姉の字が目に飛び込んできた……。
[#ここから1字下げ]
「火呂。
母さんはもう長くはないようです。
乳房にできた癌《がん》があちこちに転移していたと知ったときから、この日が来ることは半ば覚悟していました。心の準備はできています。死ぬのは怖くありません。ただ、後に残していく、あなたや豪のことが気がかりなだけです。特にあなたのことが……。
実は、母さんはあなたにずっと隠していたことがあります。いいえ、あなただけじゃなくて、うちの人たちにも……。この十数年間、母さんが一人で胸に秘めてきたことがあります。本当は、誰にも語らず、自分一人の胸に秘めたまま、あの世まで持って行くつもりでいました。
でも、こうして、いざ死期が近づいたことを感じると、固く決心したはずの私の心に大きな迷いが生じました。これでいいのだろうか。私一人の胸におさめ、あなたに何も伝えることなく、逝ってしまってよいものだろうか。そんな権利が私にあるのだろうか。あなたの人生はあなたのものであって、私のものではない。
あなたが自分の人生をこれから真っすぐ生きていくためにも、あなたは全てを知る必要がある。知る権利がある。そして、私にはあなたに真実を知らせる義務があるのではないかと思うようになりました。
それで、ここ数日、考えに考え、悩みに悩んだ末に、私はあなたに或《あ》る重大なことを打ち明ける決心をしました。それは、あなたの出生にかかわることです。すべてを打ち明けた上で、これからの人生を自分で選択してほしいのです。
照屋の父さんが本当の父さんではないことは、私が打ち明ける前から、あなたは知っていましたね。確か、中学に入った年でしたね? 本当のお父さんである高津広武という人のことをあなたに話したのは。
学生時代から高津さんと付き合っていて、この人と結婚するつもりでいたことも、その直前に、この人が山で遭難死したことも、そして、そのとき既に、私のおなかの中にはあなたがいたことも……。
父親のいない子を生んでも苦労するだけだという、周囲の反対を押し切って、私はあなたを生む決心をしました。迷いは全くありませんでした。私は心から愛した人の形見を何がなんでもこの世に残したかったのです。
そして、その子が男であろうと女であろうと、名前も最初から、ヒロと付けようと決めていました。ヒロというのは、高津さんの愛称でした。子供の名前を呼ぶたびに、そこにいつもヒロが共にいることを感じていられるように……。
産院に通院している間に、私は一人の女性と知り合いになりました。橋本弘美さんという人です。定期検診などで何度か顔を合わせているうちに、自然にどちらからともなく話をするようになり、この人とは幾つか共通点があることを知りました。予定日もほぼ同じで、しかも、弘美さんも、詳しい事情はよくは知りませんが、父親のいない子を生もうとしていたのです。私はなんとなく彼女に親しいものを感じるようになりました。
そして、予定日が来る前に、突然の陣痛がおきて、急遽《きゆうきよ》、入院した私は、ひどい難産の末にあなたを――――いいえ、小さな女の子を生みました。でも、その子は息をしていませんでした。先生たちが懸命になってあらゆる処置をしてくれたのですが、私がヒロと名付けた女の子は、ただの一度も産声をあげることなく、冷たい骸《むくろ》となってしまいました。
最愛の人を失った上に、これから生きる支えにしようと思っていた、その人の忘れ形見まで失って、私がどれほど悲嘆にくれたか、とても言葉に表すことはできません。食事も全く受け付けず、いっそこのまま死んでしまいたいとさえ思っていました。それでも、人間の体とは不思議で残酷なものです。お乳が張ってきて、自分で絞り出さないと痛いくらいなのです。そのお乳を与えるべき子供はいないというのに……。
でも、そんな悲嘆のどん底にいた私を唯一、救ってくれる存在がありました。それは、橋本弘美さんが生んだ赤ちゃんでした。彼女も、同じ頃に、女の子を生んでいたのです。しかも、私同様の難産で、出産と同時に彼女の命は尽きたことも、後で知らされました。彼女が生んだのは、一卵性の双生児でした。二人の女の赤ちゃんは、母親の命と引き換えにこの世に生まれてきたことも知らず、元気に、競うように、お乳をほしがって泣いていました。
子を失った母と、母を失った子供。両者が結び付くのに時間はかかりませんでした。私は当然のように、この子たちに自分のお乳を与えるようになったのです。
そして……。一時は衰弱しきっていた私の体も持ち直し、退院する直前になって、私は、橋本弘美さんが天涯孤独の身で、彼女の生んだ赤ちゃんたちには引き取り手がいないことを、橋本さんと同じ職場――――橋本さんは新宿のバーでホステスをしていたそうです―――で働いていた葛原八重さんという人から聞かされました。橋本さんはこの葛原さんと職場が同じだけではなく、同じアパートで同居していたのです。彼女の子供たちは、このままでは、どこかの施設に入れられる運命にあるというのです。そのとき、私の頭に天啓のようにひらめいたことがありました。
橋本弘美という人と知り合い、同じ産院で、私の子供は死んで生まれ、彼女は子供を生んで亡くなった。これもひとつの縁《えにし》ではないかと思ったのです。それに、毎日のように、彼女の生んだ赤ちゃんたちを抱いてあやしたり、お乳をあげているうちに、私には、その子たちがとても他人とは思えなくなっていました。このまま別れることなどできなくなっていたのです。
それで、施設に預けるくらいなら、いっそ、二人とも私が引き取って、自分の子供として育てようと思いたったのです。そのことを葛原さんに話すと、葛原さんも、私と同じことを考えていたというのです。彼女には過去に何度か中絶の経験があって、そのためにもう子供は望めないかもしれないからと……。
それで、私たちは話しあって、双子の赤ちゃんを一人ずつ引きとって育てることにしました。聞くところによると、双子は別々に離して育てた方が勝ち負けがつかずに健やかに育つという言い伝えもあるそうです。
私はそのとき葛原さんにある提案をしました。それは、子供たちを養子ではなく、私たちが自ら生んだ実子として育てようという提案でした。その方が後々子供たちのためになるからと、葛原さんには言いましたが、今から思えば、あれは私のエゴにすぎなかったのかもしれません。
私は、死んで生まれたヒロに代わる子供が欲しかったのです。そして、その女の子にもヒロという名前を与え、その子が、私と高津広武との間に生まれた子だと自分で自分に暗示をかけたかったのかもしれません。そうでもしなければ、恋人と、その恋人の形見である子供を同時に失った私は、この先、生きてはいけないような気がしていたからです。
このことを知っているのは、お世話になった産院の先生や看護婦さん、それに、葛原八重さんだけです。高津さんの両親は既に亡く、沖縄の実家には、子供を死産したことをまだ知らせてはいませんでした。実家では、当初、私が未婚のまま子供を生むことを反対していたので、そのことで多少の確執があって、誰も出産には立ち会っていなかったことがかえって幸いしていました。
私は無事女の子を出産したことだけを伝え、数週間後、赤ちゃんを連れて帰郷しました。最初は、東京で働きながら子供を育てるつもりでいたのですが、このようなことになって、二人の子供たちが将来ばったり出会うことのないように、なるべく遠く離れて育てた方がいいと思うようになったからです。
葛原さんもいずれ郷里である和歌山に帰るかもしれないが、しばらくは東京にいると言っていましたので、私の方が沖縄に帰ることにしたのです。一生沖縄で暮らせば、二人の子供が生涯互いの存在を知らずに過ごすことも可能かもしれないと思ったからです。
だから、葛原さんとはあえて連絡を取り合うのはやめようと約束しました。これ以上の接点をもたないことにしたのです。私が彼女から聞いたのは、その頃住んでいた新宿のアパートの住所と電話番号だけです。何年かたって、一度だけ、ここに電話をかけてみましたが、既に引っ越したらしく、電話は使えなくなっていました。
あと、もう一つだけ分かっているのは、あなたの本当のお母さんである橋本弘美さんのことですが、「橋本弘美」というのは、どうやら本名ではないらしく、「倉橋日登美」というのが本名らしいということ、そして、倉橋さんの故郷が長野であるらしいということ、くらいのものです。
あなたの本当のお父さんのことについては、私には全く分かりません。橋本さん、いえ、倉橋さんは、そのことについては何か触れられたくない事情があったらしく、同居していた葛原さんにも話してはいなかったようです。
でも、あなたには、まさに分身ともいうべき、双子のお姉さんがこの世に存在しているのです。名前も分かりませんが、その人の体には、ちょうどお乳の上あたりに、あなたと同じ薄紫色の痣《あざ》がありました。不思議なことに、まるで鏡に映したように、あなたとは左右逆で、右胸のあたりに……。
火呂。
私の告白にさぞ驚いているでしょうね。あなたのためなどと言いながら、最後まで自分のエゴを押し通しているような気もしています。あなたを私の子供として育てようと決心したのなら、それを最後まで貫き通すべきだったのかもしれません。でも、あなたは高校を卒業したら、私の母校でもある東京の大学に進学したいと言っていた。上京すれば、もしかしたら、どこかで、葛原さん母子とばったり出会わないとも限りません。そのときになって、大きなショックを受けるよりも、今のうちに私の口から真実を打ち明けておいた方がいいと思ったのです。
それに、最初に書いたように、あなたの人生はあなたのものです。私は亡くなった高津広武という人への断ち切れない想いのために、あなたを彼の子供に仕立てあげ、そう思い込むことで、なんとか生きてきました。でも、それは同時に、あなたの本当の人生を奪ってきたことになるのかもしれません。
これからのあなたの人生は自分で選び取っていってください。あなたは賢くて芯《しん》の強い子です。おそらく、自分にとって一番良い道を選択してくれるでしょう。
最後に……。
あなたの「火呂」という名前は、読みは、高津さんの愛称から取ったものですが、「火呂」という漢字を当てたのは、あなたがいつか誰かの「火」になることを願ったからです。「火」は人を温め浄めます。そして、人をよりよい道へと導く目印ともなるものです。沖縄には古くから「火」への信仰があります。その「火」を守るのは常に女の仕事でもありました。そのせいでしょうか。私は、あなたに「火」のような存在になってもらいたかったのです。
いいえ、あなたは生まれたときから既に「火」そのものでした。私の凍えきっていた体と魂を温めてくれたのですから。私はあなたに出会うことによって救われました。もし、あのとき、あなたという小さな「火」に出会わなければ、私の魂は、あのまま凍え死んでいたでしょう。
私を救ってくれたように、いつか、誰かの―――いえ、多くの凍える魂をもつ人たちを温める「火」になってください。物質的には豊かになって、飢える人はいなくなったけれど、代わりに、心の飢えた人、魂の凍りついた人たちは確実に増えているような気がします。そんな人たちの「火」になってあげてください。あなたにはそれができます。そんな不思議な力が生まれつきそなわっているようです。海で溺《おぼ》れかけた豪を死の淵《ふち》から引き上げたのも、あなたのその「力」です。あなたの左胸の痣は、その「力」の象徴のような気がします。
でも、「火」は、人を温め救うものであると同時に、使い方を間違えると、生けるものすべてを焼き尽くす、恐ろしい凶器ともなりうるものです。どうか、その「力」を間違ったことに使わないで。
母さんはあなたを信じ、あなたを見守り、あなたが常に正しい選択をすることを祈っています」
[#ここで字下げ終わり]
康恵の手紙の末尾には、当時、葛原八重が住んでいたというアパートの住所と電話番号、そして、産院の住所と電話番号が記されていた。
出だしは、几帳面《きちようめん》だった姉らしく、整った字体で書かれていたが、最後の方になると、病からくる激痛と戦いながら書いたような乱れた文字になっていた。
内容もさることながら、だんだん乱れていく字体の変化を見るだけで、姉がどのような思いでこの手紙を書き残したのか、その思いがじかに膚に伝わってくるようで、蛍子は胸を掻《か》き毟《むし》られるような気がした。
それにしても、衝撃的な内容だった。
火呂が姉の子ではなかった……。
こうして、康恵自身の手による告白の手紙が目の前にあっても、蛍子にはまだ信じられなかった。
ただ、今にして思えば、火呂はあまり姉には似ていなかった。しかし、それも、実父である高津に似たのだろうくらいにしか思っていなかったし、姉もことあるごとにそう言っていた。
蛍子は、茫然《ぼうぜん》としながらも、半ば機械的に手紙を畳んで封筒にしまうと、それをテーブルの上に置いた。何か言わなければと思いながらも、言葉が全く出てこなかった。
自分でさえ、これだけショックを受けたのだから、この手紙をはじめて読んだ火呂が、どれほど衝撃を受けたか、十分想像がついた。それだけに、よけい、かける言葉が出てこなかった。
火呂はそんな叔母をただ黙って見つめていた。
「信じられない……」
蛍子は、ようやくそれだけ言った。
「わたしも信じられなかった。その手紙を最初読んだときは」
火呂が言った。
「何度読み返しても信じられなくて。でも、あの母さんがデタラメを書くはずがない。ここに書いてあることが真実なんだって、そのうち思うようになって……」
火呂は、その当時の心境を堰《せき》を切ったように話しだした。
結局、幾晩も眠れぬ夜を重ねて考えた末に、火呂が出した結論は、すべてを封印してしまおうというものだったという。
康恵がこのことをずっと自分の胸ひとつにおさめてきたように、自分も誰にも話さず、自分の中に葬ってしまおう、と。
「照屋の父さんが本当の父さんじゃないって知らされたときも、こうやって、高津広武という人のことは自分の中に封印してしまった。だから、今度もそうできると思った……」
火呂はそう言った。
そして、これからも照屋火呂として生きる。照屋康恵の娘であり、豪の姉であり続ける。それ以外の自分などありえない。
ところが、一度はそう決心したものの、康恵が亡くなり、日がたつにつれ、ふと我にかえると、どこかにいるという双子の姉のことや、実母だという女性のことを考えている自分に気が付いた。封印しようとしても、封じこめきれないものが胸のうちでくすぶり続けていたのだという。
そして、ついに火呂の中の封印が解ける日がきた。それが今年の五月のことだった。何げなく読んでいた新聞の片隅に、都心で起きた交通事故の死亡者として、「葛原八重」の名前を見つけたとき、火呂は一瞬心臓が止まりそうになったと言った。
その記事に記されていた「葛原八重」の年齢や、住所が和歌山であることから考えて、康恵の手紙にあった「葛原八重」と同一人物だと直感したからだった。同姓同名の別人とはとても考えられなかった。
それでも、このときすぐに、「葛原八重」の遺族であるはずの「姉」に会いに行こうとまでは思わなかったという。それが、その後、再び起こったもう一つの偶然、新宿の映画館で、見知らぬ若い女性から、「クズハラさん」と呼びかけられたとき、火呂の中で、ずっと抑えつけていたある想いが爆発した。
姉に会いたい。自分と同じ顔、同じ血をもった分身に会いたい。
そんな恋情にも似た烈《はげ》しく熱い想いだった。今まで無理やり抑えつけていたことで、かえって、その想いは、くすぶり続ける燠火《おきび》のようなものから、一気に、燃え上がる炎のようなものになっていた。
これまでは、観念の上でしか存在していなかった「もう一人の自分」の存在が、はじめて確かな実体をもって感じられたのだという。
それに、新聞記事に載っていた「葛原八重」が、姉の養母だとしたら、姉も育ての親を不慮の事故で亡くしたばかりであり、きっと、自分と同じ悲しみを味わっているに違いない。そう思うと、矢もたてもたまらず、姉に会いたいと思ったのだという。
しかし、想いは募っても、すぐに行動には移せなかった。ひょっとしたら、姉は何も知らされてはいないかもしれない。自分に双子の妹がいるとは夢にも思っていないかもしれない。そう思いあたると、いきなり会いに行くことに、若干のためらいがあった。
それでも、ようやく決心して、あの土曜日、一人で和歌山に出向いた。しかし、新聞記事の住所を頼りに探し当てた「葛原八重」の家は、空き家になっていて誰も住んではいなかった。近所の人に聞いてみると、「葛原八重」の唯一の遺族である「娘」は、東京の私立大学の薬学部に入学して以来、ずっと東京で暮らしているということだった。
そこで、火呂が知り得たことは、姉の名前が「日美香」であるということ、近所の人たちが一様に驚き目を見張るほど、自分と姉が似ているらしいということだけだった。
「……それで、その日美香という人には会えたの?」
蛍子が聞くと、火呂は首を横に振った。
「ううん。会えなかった。東京の住所までは分からなかったし」
「でも、そんなのは調べればすぐに分かることじゃないの? 葛原日美香という名前で、大学もどこか分かっているんでしょう? だったら、その大学の学生課なりに問い合わせてもいいし……」
蛍子がそう言いかけると、火呂はかすかに笑いながら、なおもかぶりを振った。
「いいの、もう」
「いいのって、会わなくてもいいの? あなたのお姉さんに……」
「うん。なんかもう、和歌山まで行ったら気が済んだ。同じ東京に住んでいれば、いつか、どこかでバッタリ会うかもしれないし、向こうから会いに来るかもしれない。それまで待つことにした。とにかく、わたしの方からは会いに行かない」
「でも……」
「それに、今、わたしが会いにいけば、向こうに迷惑がかかるかもしれないから」
火呂はそんなことを言い出した。
「迷惑って? どうして?」
蛍子が聞くと、火呂は、「姉には結婚話が出ているらしい」と言った。
「結婚って……まだ学生なんでしょう?」
「もちろん卒業してからの話らしいんだけれど、近所の人が言うには、相手の家というのは学者一家とかで名門らしいんだ。葛原八重さんが事故にあったのも、五月の連休を利用して、この相手の家に挨拶《あいさつ》に行く途中だったんだって……」
もし、そんな話が進行しているのだったら、今、自分が姉の前に現れるのはまずいかもしれないと火呂は言うのだった。
確かに、火呂の言う通りかもしれない、と蛍子は思った。相手の家が名門であればあるほど、当然、息子の結婚相手の「素性」にはこだわるだろう。そんなときに、火呂が現れれば、同時に、日美香という人の出生の秘密が先方にも知れ渡ることになり、下手をすれば、破談という事態にもなりかねなかった。火呂はそうなることを心配したようだった。
「サッチンも今は会いに行かない方がいいって言うし……」
「祥代さんにこのこと話したの?」
蛍子は驚いたように訊《たず》ねた。
「うん。全部打ち明けて、その手紙も読んでもらった。実をいうと、叔母《おば》さんに話した方がいいって言ったのはサッチンなんだよ。変に隠していると心配するばかりだからって」
「そうだったの……」
蛍子はやや複雑な心境で呟《つぶや》いた。
やはり、火呂には、叔母である自分よりも、大親友である祥代の方が、悩み事を真っ先に打ち明けられるほど信頼できる存在なのかと、あらためて思い知らされたような気がしていた。
「それじゃ、もう気持ちの整理はついたということなのね?」
蛍子が念を押すように聞くと、火呂は大きく頷《うなず》いた。
「うん。もう大丈夫。サッチンに話して、叔母さんにも話したら、ほんとに気が楽になった。ずっと背負っていた重たい荷物をおろしたような気分。サッチンに怒られちゃった。どうして、こんな大事なこと、今まで隠してたんだ、一人で抱え込んでいたんだって。こういうときのために親友っているんじゃないのかって」
火呂はそう言って苦笑したが、ふと顔を曇らせて、「ただ」とやや言いにくそうに続けた。
「……問題は豪なんだよね。あいつにも打ち明けるべきかどうか迷ってる。あいつは、サッチンや叔母さんと違って、バカだし単細胞だし、そのくせ変なところでデリケートだから、このことを冷静に受けとめられないんじゃないかって気がして。でも、サッチンは豪にも話すべきだって言ってる……」
「そうね。わたしも祥代さんと同意見だわ」
蛍子は即座に言った。
「やっぱり話した方がいい?」
「ええ」
「だったら、叔母さんの口から豪に話してやってくれない?」
「わたしが?」
「うん。面とむかっては、どうしても言い出しにくくて。それに、顔見るとついむかついて喧嘩《けんか》になっちゃうし。叔母さんから話した方が、あいつも冷静に聞いてくれるかもしれない。その手紙、叔母さんに預けるから……」
蛍子はしばらく考えてから、「分かったわ」と答えた。
マンションに戻ってくると、豪はまだ帰ってはいなかった。アマチュアバンドのコンテストの予選が間近に迫っているとかで、ここ数週間、朝から晩までバンド仲間と練習に明け暮れているらしく、今日も朝早くからギターケースをさげてどこかに出掛けて行った。帰りも遅いのだろう。
蛍子は、シャワーを浴びてくつろげる格好に着替えると、火呂から預かってきた康恵の手紙を取り出し、再び読み返してみた。何度読んでも、信じられないという思いの方が強かったが、同時に、ほっと胸を撫《な》で下ろしてもいた。
この手紙を読んで、ようやく、姪《めい》の不可解だった言動の謎《なぞ》がすべて解けたからだった。
康恵の病死を境に、なぜ火呂が弟に対して距離を置くような態度を取るようになったのか。そして、先日、売り言葉に買い言葉的な弾みとはいえ、叔母である自分にむかって「関係ない」などという言葉を投げ付けたのか。
火呂が姉の生んだ子ではないということは、豪や蛍子とも血のつながりは全くないということであり、火呂はそのことをずっと気に病んでいたのだろう。
そういえば、子供の頃はもっとストレートに甘えてきたような記憶があったが、同居するようになってからは、どことなく遠慮がちだったことを、蛍子は思い出していた。
今となっては、そうした言動に出てしまった火呂の屈折した心理が痛いほど分かる。
それにしても、と蛍子は自嘲《じちよう》ぎみに思った。
いくら疑心暗鬼になっていたからとはいえ、よくもあんなことを思いついたものだ。火呂が、「真女子」というハンドルで沢地逸子のホームページの掲示板に妙な書き込みをしたり、中目黒で起きた猟奇殺人ともかかわっているのではないかなどと……。
例の事件の方は、発生してから一月近くがたっていたが、まだ犯人は捕まっていなかった。マスコミは連日のように騒ぎたてていたようだが、最近は、新たな「発見」もないのか、あるいは、より目新しい事件の方に興味が移ってしまったのか、報道合戦の方もやや下火になっているようだった。
沢地逸子のホームページにも、あれから何度もアクセスしてみたが、掲示板に「真女子」名の書き込みはなかった。おそらく、あの書き込みは事件とは無関係だったのだろう。
蛍子はそう思いはじめていた。沢地逸子も、あのあと、自分の考えすぎだったと思い直したらしく、ホームページのことは警察には話さなかったようだ……。
康恵の手紙を手にしたまま、蛍子がぼんやりとそんなことを考えていると、玄関の方でドアの開くような音がした。豪が帰ってきたらしい。思ったよりも早い帰宅だった。何かあったのか、ドアの閉め方がいつもより荒々しかった。
手紙を部屋に置いて、リビングに行ってみると、豪は、持っていたギターケースをソファにたたきつけるように放り出していた。
よく見ると、喧嘩でもしてきたのか、口のあたりを紫色に腫《は》らしている。
「どうしたの? その顔」
生傷を作って帰ってくるのは、半ば日常茶飯事だったから、さして驚きもせずに挨拶《あいさつ》代わりに聞くと、豪は、「ボーカルの沖野と喧嘩した」と答えた。なんでも、ボーカル担当の同級生が、「受験勉強に専念したいからバンドをやめる」と突然言い出し、それで喧嘩になったのだという。
「予選間近になって、急にやめるなんて言い出しやがって。今度のはただのコンテストじゃないんだ。あの宝生《ほうしよう》が審査員やってるんだぜ? たとえ優勝できなくても、やつの目に止まりさえすれば、プロデビューも夢じゃないっていうのに。沖野の野郎、プロになんかどうせなれっこないなんてぬかしやがって……」
豪はそんなことを言いながら、悔しそうに、かたわらのクッションを拳《こぶし》で殴った。
「あの宝生」というのは、音楽プロデューサーの宝生|輝比古《かがひこ》のことだろう。最近の音楽界のことはまるで疎い蛍子だったが、宝生輝比古が、今や、まだ三十そこそこという若さでありながら、「音楽界の若きカリスマ」だの「音の錬金術師」などの異名を取るほど、この世界では絶大な影響力を持つ存在であるらしいことは知っていた。
たしか、豪くらいの年齢の頃に、有名音大の付属に通いながら、同級生とバンドを組んでロック界に衝撃デビューを果たし、あっという間にスターダムにのしあがったかと思うと、人気絶頂のさなかに、あっさりとそのバンドを解散して、その後はソロ活動に転向したと聞いていた。
ソロに転向した後がまた華々しかった。主に作曲とプロデュースを中心に活動していたようだが、作る曲はことごとくオリコンのチャート上位を占め、手がけたアーチストは、殆《ほとん》ど例外なくメジャーになっているという。まさしく、「音」を「黄金」に変える魔の指をもつ「錬金術師」と言えた。
普通、プロデューサーなどというと、表舞台には出ない「陰の実力者」というイメージが強いのだが、彼の場合は、もともとがビジュアル系のバンド出身ということもあってか、表舞台でもアーチスト以上に目立っていた。
もっとも、豪に言わせると、この宝生に関しては、「ちょっとサイコな噂《うわさ》」が絶えないのだという。日本を代表するオペラ歌手だった亡母の蝋《ろう》人形を作らせて一緒に暮らしているだの、子供の頃から、無類の爬虫類《はちゆうるい》好きで、芝にある広大な屋敷の中は、蛇やらトカゲやらイグアナなどの爬虫類の水槽だらけで、まるで水族館のようだとか……。
しかも、身につけるのは、動物の革だけ、中でも爬虫類の革で作ったスーツを好み、一説によれば、新しいスーツの素材は、飼っているペットの中から調達しているとか……。
そう言われてみれば、いつか週刊誌のグラビアで見た宝生は、蛇だかトカゲだかの革をなめして作った紫色のスーツ姿だったせいか、どことなく彼自身が爬虫類であるような印象を受けたことがあった。
「……豪、ちょっと話があるんだけれど」
豪の興奮がおさまるのを待って、蛍子はようやく切り出した。
「話?」
「火呂のことなんだけれど……」
そう言うと、豪の顔に、既に何かを察したような表情が浮かんだ。あまり物事を深く考えたり分析したりして動くタイプではなかったが、けっして鈍感ではなかった。単細胞なりに動物的勘が人一倍発達しているというか、漠然とした危険や不安に対して半ば本能的に反応するようなところがあった。
叔母のいつになくあらたまった口調や態度から、何か自分にとって良くない話を聞かされるのではないかと、すぐに察知したようだった。一瞬、身構えるような表情になった。
「ちょっと待ってて」
そう言い残して、蛍子はリビングを離れ、例の手紙を持ってくると、それを豪の目の前に突き出した。
「火呂がこれを読んでって」
豪は、すぐには手を出さず、手榴弾《しゆりゆうだん》でも突き付けられたような目で、目の前の封書を見ていたが、「何、これ?」と聞いた。
「康恵姉さんの手紙。亡くなる直前に病室で火呂に渡したという……。ちょっとショッキングなことが書いてあるから、後で一人で読んでくれてもいいけれど」
蛍子がそう言うと、甥《おい》を気遣う言葉が、かえって、少年の負けん気を誘発してしまったらしく、
「いいよ、今、読む」
豪はそう言って、その手紙をひったくるようにつかみ取ると、無造作に中の便せんを取り出した。そして、蛍子の目の前でそれを読み出した。
時折、貧乏揺すりをしたり、唇のあたりをしきりに手でこすったりと、内心の動揺はそうした細かい仕草に如実に現れてはいたものの、蛍子が予想していたよりは、はるかに冷静というか、喜怒哀楽の激しい彼にしては珍しく、殆ど無表情のまま、最後まで読み終わると、便せんをやけに丁寧に畳み直して封筒に入れ、無言のまま、蛍子に返してよこした。
「……何か言うことないの?」
予想とは全く違ったその反応、というか、無反応ぶりに、蛍子は拍子抜けしながら聞いた。
「何かって?」
「だから……」
「ふーんとしか言いようがないね」
豪はそっけなく言った。
「ふーんて……それだけ?」
「ふーん、そうか。そうだったのか。それだけだよ、俺《おれ》の感想は。やっぱりって気持ちも少しあるな。前から思い当たるふしはあったし。だって、姉ちゃんと俺、ぜんぜん似てないじゃない。いくら親父《おやじ》が違うからって、母親は同じなんだから、もう少し似ててもいいはずなのに。友達にも言われたことあるよ。おまえたち、ほんとうに姉弟なのかって」
「……」
「これで何か変わるの?」
「変わるって……?」
甥の意外な冷静ぶりに、蛍子の方がうろたえてしまっていた。
「たとえば、血のつながりがないことが分かったから、明日から家族であることやめるって姉ちゃんが言ってるとか、さ」
「まさか。そんなことはないわよ。火呂は今までと何も変わらないって言ってるし。ただ……」
「だったら、別にいいじゃん。血がつながっていようといまいと、姉ちゃんは姉ちゃんだろ。そのことは永遠に変わりないわけだ。たとえ、いつか誰かと結婚して姓が照屋でなくなっても、姉ちゃんは姉ちゃんであり続けるわけだし。ま、それも、あんなじゃじゃ馬と結婚したがるような物好きがこの世にいればの話だけどさ」
豪はそう言って肩を竦《すく》めてみせた。
蛍子は、やはりこの話は自分から切り出してよかったと内心思った。もし、火呂がこの場にいたら、この余計な一言で、またぞろ大喧嘩になっていただろうと思ったからだ。
「それよりさ」
豪は急に話題をかえるように言った。
「新しい住所教えてよ」
「え?」
「姉ちゃんの。サッチンと暮らすために広いとこに移ったんだろ。俺にはなんにも教えてくれねえんだから……。姉ちゃんに頼みたいことがあるんだ」
「なに、頼みたいことって?」
蛍子が思わず聞くと、豪は、「うん、ちょっとね」と口ごもった。
「ボーカル……頼めないかなって」
「ボーカルって、バンドの?」
「沖野がやめてしまえば、ボーカルがいなくなっちまう。そしたら、コンテストにも出場できなくなっちゃうんだ。代わりを今から探すといっても時間がない。予選まであと十日足らずしかないんだから。たとえ、代わりが見つかったとしても、これじゃ何もできないよ。でも、絶対音感の持ち主で、曲を一度聞いただけで完璧《かんぺき》に覚えられる姉ちゃんならなんとかなるかもしれないんだ。それに、姉ちゃんなら、沖野が抜けることでバラバラになりかけている今のメンバーの気持ちをひとつにできるかもしれない。みんな、姉ちゃんのファンだからさ……」
「でも、火呂はもう歌は歌わないって決めたこと、あなたも知ってるでしょう?」
蛍子は思わず言った。
豪の言う通り、火呂には、生まれつきといってもよい音楽の才能が備わっていた。一種の天才といってもよかった。小学校のときに、担任でもあった音楽の教師から、「この子は絶対音感の持ち主だから、将来はぜひ音楽の道に進ませるべきだ」と熱心に勧められたくらいだった。
火呂自身、歌を歌うことは三度のご飯よりも好きだったらしく、実際、遊び半分で出場した民謡コンクールでは、最年少でありながら数々の優勝トロフィを独占していた時期もあった。あの頃の火呂の夢は「歌手」になることだった。
それが、ぴたと歌うことをやめたのは、八年前の漁師だった養父の海難事故がきっかけだった。火呂はこのときも、昔、海で溺《おぼ》れかけた弟の魂を呼び戻したように、海に消えた父親の魂を呼び戻そうと、何日も浜辺で歌い続けた。しかし、その歌声は海神《わだつみ》の耳には届かなかった。結局、養父は帰ってはこず、遺体すら発見されなかったのである。
もはや、火呂の歌声は海神の心には届かない。海神の心を揺り動かすだけの「力」を失ってしまった。それというのも、本来は神に捧《ささ》げる聖なる「歌」というものを、お金や人々の称賛を得るための道具にしたために、海神がお怒りになったのだ。人間の耳はだませても、海神はもはやそんな汚れた心で歌う「空歌」に耳を貸そうとはしない……。
神女の中にはそんな厳しいことを言う人もいて、それが火呂の耳にも入ったようだった。このときから、火呂は歌うのをやめた。「歌手」になるという夢をきっぱりと捨てた。「歌手」になるということは、「歌」を仕事にすること、すなわち、「歌」を使ってお金儲《かねもう》けをするということであり、それは海神がお許しにならないというのである。
「歌手」になるという夢を捨てた代わりに、母親と同じ教師になると、火呂が言い出したのはこの頃からだった。
そのことを、蛍子が言うと、豪は苛立《いらだ》たしげに言い返した。
「そりゃ、小学校の教師というのも立派な職業かもしれないけど、べつに姉ちゃんでなくてもできるじゃないか。だけど、あんな歌は姉ちゃんにしか歌えない。今のままじゃ宝の持ち腐れもいいとこだ。あれだけの音感と声をもっていながら勿体《もつたい》ないよ。母さんだってここに書いている。火呂には、生まれつき『力』があるって。人を温める『力』があるって。それが『歌』なんだよ。姉ちゃんの『力』って歌うことなんだよ!」
豪は、テーブルの上の康恵の手紙を平手でたたいて力説した。
蛍子もこの点では同感だった。たしかに火呂の歌には何かがあった。たんに音が正確で巧いとか、声が澄んでいて奇麗だとか言う以上のものがその歌声にはあった。
あの声を聴くと、どこで何をしていても、思わず手をとめて聴きいりたくなる。聴いていると、心にぽっと火が灯《とも》されたような気持ちになり、疲れていた心が、その「清浄な火」で温められ、隅々まで洗われていくような清々《すがすが》しい気持ちになる……。
あの声をもう一度聴きたいと何度も思ったことがあった。でも、「もう歌わない」と決めたのは火呂の意志であり、本人がそう決めたのならとあきらめてはいたのだが……。
「姉ちゃんはまた歌うべきだよ。大勢の人の前で。今度のコンテストは姉ちゃんにとってもチャンスかもしれないんだ。宝生なら、絶対に姉ちゃんの才能を見抜くよ。あの声を聴いたら放ってはおかないはずだ」
「ただ、あの子はあの通り、頑固だから……。並の説得では聞いてはくれないと思うけど」
蛍子がそう言うと、豪は、「そうなんだよな」と呟《つぶや》き、大きなため息をついた。
「……でも、ひとつだけ方法がないわけではないわ」
ふと思いついて、蛍子がそう言うと、豪は反射的に顔をあげた。
「方法って?」
「ひたすら窮状を訴えるのよ。今まで練習に練習を重ねてきたというのに、コンテスト間近になって、ボーカルだった子に突然やめられて困っている。どうか助けてくれって」
「……」
「間違っても、人気プロデューサーが審査員やってて、火呂にとってもチャンスだなんて言ってはだめ。そんなこと言ったら、たとえその気になりかけていたとしても、あの子のことだから、意地でもうんとは言わないと思うわ。でも、弟であるあなたが困っている、助けてくれといえば、嫌とは言わないはずよ……」
火呂の中には、誰から教えられたというわけでもないのに、「えけり」である弟を守ることを半ば自分の使命と考える「おなり」の魂のようなものが人一倍強く宿っている。ふだんはどんなにいがみ合っていても、いざ、弟が窮状に陥っていると知るや、自分の身を投げ出してでも救おうとするところが子供の頃からあった。
そのへんの心理を巧みにつけば、火呂の頑なな決心を翻せるのではないかと、蛍子は思いついたのだ。
「そうか。泣きの一手か。シンプルだけど、一番効く手かもしれねえな」
豪は目を輝かせて呟くと、感心したように付け加えた。
「さすが叔母さんだな。だてに年くってないね」
「……あなたねえ、ホント、いつも一言多いのよ」
蛍子は不満そうに言った。
部屋に戻ってくると、蛍子は、いつものように、ノートパソコンに電源を入れ、インターネットに接続した。
豪がどんな反応を示すかと、おそるおそる切り出した話だったが、姉と血のつながりが全くないということを、子供の頃からなんとなく察知するものがあったらしく、こちらが拍子抜けするほど、あっさりと冷静に受け止めてくれたことに、蛍子はとりあえずほっとしていた。
もっとも、今の豪の頭の中は、間近に迫ったコンテストのことで一杯の様子で、他のことには気が回らないといった感じではあったが。
そのうち、康恵の手紙の内容は、ボディブローをくらったようにじわじわと効いてくるだろう。
メールチェックをしてから、数日振りに沢地逸子のホームページにアクセスしてみた。例の猟奇事件が起きた直後は、「真女子」が掲示板に何か書き込むのではないかと思って、ほとんど毎日のようにアクセスしていたのだが、結局、書き込みはなく、沢地のコラムの方もあれから全く更新されていなかったので、次第にアクセス回数が減っていたのである。
目次を見ると、ようやく、コラムの項が更新されているようだった。「みそぎとは何か?」というタイトルのままだったところが、「かぐや姫の正体(2)」と変わっていた。更新されたことを示す「new!」というマークもついている。
日付を見ると、どうやら、昨日アップされたばかりのようだった。
さほど長いものではないようだったので、蛍子は回線をつないだまま、タイトルをクリックして全文を開くと、それを読み出した……。
かぐや姫の正体(2)
かぐや姫の話に戻すと、月の世界に帰るとき、かぐや姫もまた、この「みそぎ」をしているのである。
それまで着ていた衣を脱いで、翁に「形見に」と手渡したあと、姫は、さらに、月の使者が持ってきた箱の中にはいっていた「不死の薬」を少しなめている。
この「不死の薬」とは、日本(沖縄)では「変若水《おちみず》」と呼ばれ、インドでは、ソーマともアムリタとも呼ばれる「月の霊水」である。かぐや姫は古い衣を脱ぎ捨てることで「脱皮」して、さらに、「月の霊水」を口にすることで、「水浴び」の代用をしているのである。
こうして、「みそぎ」を済ませ、新しく生まれ変わったかぐや姫は、月の使者の差し出す「天の羽衣」を身につけて、下界での記憶をすべてなくすと、晴れ晴れとした様子で昇天して行く……。
ここまで読み解いてきて、ふと思うのは、かぐや姫とは、古代の巫女《みこ》王の面影を伝える物語ではないかということである。
多くの無理難題を男たちにふっかけるところなど、ギリシャ神話の蛇女神たちとよく似ているではないか。もっとも、この話に出てくる男たちには、ギリシャ神話の英雄たちほどの英雄性も悲劇性もなく、むしろ滑稽譚《こつけいたん》めいてはいるが、それでも、五人の貴公子のうち、一人は死に、もう一人は、「死んだ」ことをほのめかすような不吉な最期を遂げているのである。
やはり、遠い昔、蛇女神に捧《ささ》げられた生き贄《にえ》たる男たちの無残な面影をかろうじてそこに見ることができるような気がしてならない。
月を司っていた王は、死ぬと不死になって月で永遠に暮らすというアフリカの民話がある。しかも、月に関わる祭りは、多くが新月か満月の頃に行われたという。
つまり……。
満月の夜、月に帰るというかぐや姫の話は、太古の巫女王の供犠的な死を暗示しているのではないだろうか。
さらに、この巫女王が多くの太母神を体現する女王同様、大地と月と海と……そして火山をも司っていたのではないかということは、物語の最後に、昔は活火山であった「富士山」が出てくることでも推測できよう。
かぐや姫が「月」を司る女王であると同時に、「火」をも司っていたのではないかというのは、実は、「かぐや」という名前からも想像がつくのである。「かぐや」の「カグ」の語源は、火神を表す、Ak、Agから来ており、それがKagに転化したものと思われる。イザナミが生んだとされる火の神は、「ホノカグツチ」であったし、火の国、「鹿児島」の「カゴ」もこの「カグ」から転化したものであると思われるからである。
最後にそれこそ蛇足になるが……。
古代の巫女王の面影を伝える話といえば、あの紀州に伝わる「道成寺」の話もそうではないだろうか。
裏切られた恋の恨みから、大蛇(火炎龍)と化した清姫が、道成寺の釣り鐘の中に隠れた若い美僧安珍を鐘もろとも「焼き殺す」という話だが、あれも、話のルーツをたどっていけば、太古の蛇巫女王とその生き贄の話に行き着くかもしれない。
寺の釣り鐘とは、その元をただせば、中国の古楽器である「鐘《しよう》」からきているのだろう。そして、この「鐘」は、古代、祭具として用いられたあの青銅の銅鐸《どうたく》を連想させはしないだろうか?
つまり、寺の釣り鐘の中に隠れた若い僧が大蛇と化した姫に焼き殺されるという物語の背景には、鐘の形をした祭具を使う祭りにおいて、母なる蛇女神に若い男が生き贄に捧げられたという太古の記憶があるのではないか。
また、紀州には、他にもいくつか蛇伝説が伝えられているし、古くから信仰の地として名高い熊野の「熊野権現」は女神でもある(元はインドの王妃で五衰殿と呼ばれていたという。五衰殿は無実の罪で斬首《ざんしゆ》されたのだが、そのとき、身ごもっており、首のないまま王子を生んだという伝説がある)。
ちなみに、上田秋成の「雨月物語」の中に収められた、真女児(真女子)という蛇の化身である美女に若い男が取り憑《つ》かれる「蛇性の婬《いん》」という短編は、この紀州の「道成寺」伝説と、中国の「白蛇」伝説をモチーフにして作られた話と言われている。
さらに、記紀によれば、熊野には、あのイザナミノミコトが葬られたもう一つの墓所がある。花の窟《くつ》神社である。イザナミはここに彼女の死因を作ったとされている火の神ホノカグツチと共に祀《まつ》られている。さらに、巨岩を御神体として祀っていることで有名な、新宮市の神倉神社は、勇壮な火祭りでも名高い。
ということから考えても、太古、この地にも、威力ある蛇巫女王がいたのか、あるいはそんな太母神信仰を持つ縄文民族が、火山のある土地(出雲か九州か?)から移り住んできていたのではないだろうか……。
「かぐや姫の正体」に関するコラムは、どうやらこれで完結したようだ。
読み終わって、蛍子は思った。
ただ、読んでいて、少し気になったことがあった。それは、沢地逸子が、「道成寺」伝説にかこつけて、上田秋成の「蛇性の婬」にさりげなく触れていることだった。
前後の文章のつながりがやや不自然であることから考えて、この箇所だけが後で書き加えられたのではないかと蛍子は勘ぐった。これはひょっとしたら沢地の「挑発」ではないだろうか。あの「真女子」に対する……。
「真女子」はあれ以来、全く掲示板には現れない。沢地はおそらく、「真女子」があの猟奇事件に関して何か書き込むのを恐れると同時に期待していたのではないだろうか。しかし、一カ月が過ぎても何の書き込みもないことで、焦れたというか、自分の方から、あえて「真女子」の名前をコラムに出すことで「挑発」に出たのではないか。
書き込みはしなくても、「真女子」は、沢地のホームページを見ているような気がした。だとすれば、沢地のこの更新されたコラムを読んで、なんらかの反応を示すかもしれない。
もしかしたら……。
蛍子の中でふと閃《ひらめ》くものがあった。既に反応を示しているかもしれない。すぐに、「掲示板」の項目をクリックしてみた。ややあって、「最新の投稿」が掲示された。
蛍子の勘は的中していた。
そこには、「真女子」名の投稿があった。投稿日時は、前日の八月八日、午後十一時三十二分十五秒とある。
そこにはこう書かれていた。
「コノ前ノ生キ贄ハ、母ナル神ニ喜ンデ戴ケタヨウデス。母ナル神ハ、サラナル贄ヲ望ンデオラレマス。ヨッテ、明日、二人メノ生キ贄ヲ捧ゲル儀式ヲ行イマス」
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第六章
研究室のドアをノックすると、すぐに、軽やかな返事と共にドアが開いて、助手風の若い女性が現れた。
「泉書房の喜屋武蛍子と申しますが……」
そう言いかけると、若い女性は、沢地逸子から話を聞いていたらしく、「どうぞ、お入りください」と、蛍子を中に入れてくれた。
沢地から、「ぜひ会って話したいことがある」という電話が会社の方に入ったのは朝方だった。
どこかで昼食でもとりながらと沢地は言っていたが、ちょうど、沢地の奉職する大学の近くに、今手がけている翻訳小説の翻訳家の住まいがあり、この翻訳家に会うついでもあったので、蛍子の方から、沢地の大学まで出向くことにしたのである。
研究室の隅にあるソファに座って待っていると、
「……先生、授業が長引いているみたいで。しばらくお待ちいただけますか」
麦茶を運んできた助手風の女性が申し訳なさそうに言った。
蛍子は、「時間ならあるので気にしないでください」と告げてから、麦茶の入ったグラスに口をつけた。
それとなく部屋の中を見回す。
沢地逸子の研究室に入ったのははじめてだが、思ったよりも「女らしい」雰囲気のする部屋だった。
季節の花を生けた花瓶が机やテーブルをさわやかに飾り、今、蛍子が座っているソファには、キティちゃんのぬいぐるみがクッション代わりに置かれている。テーブルには、手作りと思われる白いレースのテーブル掛けがかけてあった。
部屋だけ見れば、とても、ここが、あの「女傑」沢地逸子の研究室とは思えないくらいだった。
もっとも、沢地と何度か会ったり会食したりしているうちに、蛍子は、ふだんの沢地逸子のイメージがテレビなどで見るのとはだいぶ違うことに気が付いていた。
教壇に立ったり、テレビの討論番組などに出ると、「人格が凶暴かつ攻撃的に豹変《ひようへん》する」と本人も笑いながら言っていたことがあった。
ふだんの彼女は、料理と手芸が趣味だそうで、「中学のときまでは、家庭科クラブに所属する無口でおとなしい女の子だった」というのは、今の彼女からは想像もつかないが、まんざら嘘《うそ》でも冗談でもないらしい。
結婚していれば、案外、良妻賢母になるタイプなのかもしれなかった。
そんなことを考えながら、あたりを見回していた蛍子の目が、テーブルの上の、読み捨てられた朝刊を捕らえた。蛍子が購読している新聞とは違う。沢地を待つ間の暇つぶしをするつもりで、蛍子は、それを何げなく手に取った。
広げて、社会面を見ると、案の定、こちらにも例の事件の続報がでかでかと載っていた。
例の事件とは、先週の日曜日、池袋のラブホテルで起きた猟奇殺人のことである。八月九日の午後六時頃、若い女とともにチェックインした男の客が、翌朝、頭部と四肢を切断された遺体となって、ホテル関係者によって部屋の中から発見されたのである。
被害者の名前は、広瀬典雄。十九歳のフリーターらしかった。
頭部と四肢がノコギリ状の凶器で切断されていただけではなく、心臓が鋭利な刃物で抉り取られ、代わりに、黄色いゴムボールが一つ埋め込まれていた。さらに、生殖器も切り取られていたという。
異様で残酷な手口が、先月のちょうど今ごろ、中目黒で起きた大学生殺しに酷似していた。被害者の胃の内容物から催眠導入剤らしき成分が発見されたことも、大学生の事件と共通する点だった。
大学生の事件と違うのは、発見されたとき、被害者の遺体には、布団等は被《かぶ》せられておらず、切断された四肢と胴体は、無造作に、床に散らばっており、頭部だけが、お茶セットなどを置く小テーブルの上に、まるで花瓶か何かを飾るように置かれていたことだった。
テーブルの上に置かれていた新聞の続報によれば、被害者は、どうやらインターネット上で犯人と知り合ったのではないかということだった。
事件の前日、被害者は友人たちとマージャンをしており、その仲間の証言から、被害者が、出会い系のホームページに「メルフレ募集」の投稿をしていて、それを見たという若い女性から携帯に連絡があって、日曜に会う約束をしたと嬉《うれ》しそうに話していたというのである……。
そのとき、廊下の方でバタバタと足音がしたかと思うと、研究室のドアが勢いよく開いた。
胸に教科書らしきものを抱えた沢地逸子が息を切らして足早に入ってくると、
「ごめんなさいね。講義の方は早めに切り上げたんだけれど、帰りぎわ、学生につかまっちゃって……」
と、いかにも人気助教授らしい謝り方をした。
蛍子は、慌てて、広げていた新聞を畳んだ。
「話というのは、ほかでもない、例の池袋の事件のことなんだけれど」
ソファに座るなり、沢地逸子の顔から笑顔が消えて、すぐにそう言った。やっぱりと蛍子は思った。
あの日曜の夜、数日振りでアクセスした沢地のホームページの掲示板で、「真女子」名の投稿がされているのを見た蛍子は、その異様な内容に、不吉な胸騒ぎをおぼえ、すぐに沢地の自宅に電話を入れてみたのである。
既に改築を終えた成城の自宅に帰っていた沢地は、自分もついさきほど掲示板を見たばかりで、蛍子同様、嫌な胸騒ぎを覚えたのだと打ち明けた。
何か起こらなければいいのだがと、沢地は不安そうに電話の向こうで呟《つぶや》いていたのだが、その不安は、早くも翌日、「池袋のラブホテル猟奇殺人」という形で、現実のものとなってしまったのである。
「昨日、警察に行ってきたのよ」
沢地は言った。
池袋の事件の報道を聞くやいなや、もはやこれは、放ってはおけないと思ったのだという。しかも、あの掲示板の常連投稿者たちからも何通かメールが来て、その内容は、みな一様に、「真女子」と例の猟奇殺人の関連を懸念するようなものだったらしい。
とりあえず、この事件の捜査を受け持つ池袋の所轄署に、ノートパソコン持参で出向き、事情を説明して、担当の刑事に、自分のホームページと掲示板の過去ログをその場で見てもらったのだという。
「警察でも、今回の事件はネットがらみではないかという見込みで捜査をはじめていたらしくて、わたしの話には凄《すご》く興味を示してくれたわ。なんでも、前の被害者の大学生もインターネットをやっていたらしくて、被害者同士には東京在住の若い男性ということ以外、何の接点もないみたいだから、二人とも、犯人とはネットを通じて知り合ったのではないかと……」
「やっぱり、あの『真女子』が事件にかかわっていたんでしょうか?」
「二度も偶然が重なるとは、ちょっとね……。二度とも事件の前日に書き込みされているところからしても、やはり、あれは偶然の一致とか第三者の悪戯《いたずら》ではなくて、犯人本人か、犯人の身近にいて、犯行を事前に知っていた者の犯行予告と見てもいいんじゃないかしら……」
「先生のおっしゃった通りだったんですね。それを、わたしがもう少し様子を見た方がいいなんて言ったばかりに。もっと早く警察に話していれば、今度の事件は未然に防げたかもしれなかったのに……」
蛍子はそう言って唇を噛《か》んだ。これは、池袋の事件のことをテレビのニュースで知ったときから、蛍子の中で苦い後悔の念となってわだかまっていた思いだった。
「そんなことないわよ。あなたのせいじゃないわ」
沢地はすぐにそう言った。
「あなたの判断は適切だったと思うわ。被害者の心臓部に埋め込まれていた黄色いゴムボールにしても、はたして、犯人が持ち込んだものなのか、被害者の家にもともとあったものなのかさえ、最初の事件では判別できなかったんだから。あのボールが犯人が持ち込んだものという確証でもあれば、わたしの推理ももっと濃いものになっていたのだけれど。あの段階では、わたしの考えすぎという可能性も十分あったわ。そう思ったから、わたしも警察に話すのはやめたのよ。それに、たとえ、警察に行っていたとしても、あの程度の疑惑では警察としても手のうちようがなかったかもしれない。『真女子』に事情を聴くために、彼女の身元を割り出そうとしても、あの段階でそれができたかどうかさえ怪しいし」
「あの……」
蛍子はおずおずと言った。
「前からちょっと疑問に思っていたんですけれど、メールアドレスも公開してないような匿名投稿からも、投稿者の身元というのは割り出せるものなんですか?」
インターネットを始めて二年近くになるが、理系ではない蛍子には、そのへんの仕組みが今ひとつよく分からなかった。
「それは簡単にできるらしいわよ」
沢地はあっさりと言った。
「まあ、わたしも根が文系だから、ネットの仕組みとかコンピュータ関連の知識はお粗末なもので、これも、ホームページを作るときに何かと世話になった理系の同僚から聞いた話なんだけれど……」
そう前置きして、沢地は言った。
プロバイダー(インターネット接続業者)に通信記録さえ残っていれば、その通信記録に記されたIPアドレスと接続時刻から解析して、投稿者の加入しているプロバイダーを割り出すのは容易であり、加入しているプロバイダーさえ分かれば、そこに保管されている記録から、投稿者の個人情報を割り出すことは可能だという。
さらに言えば、こうした掲示板に投稿しなくても、そのホームページにアクセスしただけで、この種の記録はちゃんと残るのだという。
「ただし」
と沢地は付け加えた。
「プロバイダーは、電機通信事業法という法律によって、会員の個人情報をみだりに漏洩《ろうえい》してはならないと義務づけられているから、一般人には、他の会員の個人情報の開示を要求することはできないわ。たとえば、ネット上のトラブルか何かで、相手の身元を知ろうと思って、それを相手のプロバイダーに求めても、答えは却下が相場。たとえ、その加害者側の会員の行為がネチケット(ネット上のエチケット)に違反する悪質行為と判断された場合でも、せいぜい、プロバイダー側から、その悪質会員に『警告』メールが行くくらいのものでしょう。ま、この辺は、プロバイダーによって、比較的厳しいところも甘いところもあるでしょうけれど。
プロバイダーに個人情報の開示を要求できるのは、警察が何らかの犯罪捜査のために礼状を持って行った場合だけなのよ」
だから、俗に、「インターネットは匿名性が高い」と言われているが、それは一種の幻想であって、あくまでも、犯罪がからまない限りにおいてはという条件付きでの話なのだという。
「でも、いくら警察でも、単なる疑惑程度では動けないんじゃないかしら。いわゆるハイテク犯罪、たとえば、ネット上で詐欺行為を働いたとか、わいせつビデオや薬物等の売買をしたとか、そういった犯罪行為も、こいつが犯人に違いないと確たる証拠がそろって、裁判所からの礼状もおりて、はじめて、警察としても、プロバイダーに個人情報の開示を要求できるんじゃないのかしらね」
「今回のような場合、もし、警察が、色々な状況証拠などから、『真女子』の容疑が濃いと判断すれば、その手順で、彼女の身元を割り出すことはできるのですね?」
蛍子が確認するように訊《たず》ねた。もし、そうであれば、「真女子」の逮捕も時間の問題であるような気がした。しかし、沢地はやや顔を曇らせて首をかしげた。
「うーん。それがねえ……。これもその同僚から聞いた話なんだけれど、ああいうハイテク犯罪で御用となるのは、御用になった犯罪者たちが衝動的だったりマヌケだったりして、アクセス段階で自分の足取りを残しているからだというのよね。
でも、蛇の道は蛇というか、ネットをはなから犯罪の舞台として使おうともくろんでいる悪質で頭の良いプロ犯罪者の中には、このへんも後で足がつかないように用意周到だというのよ。
たとえば、海外サーバーなどを経由してアクセスすると足がつきにくいとも言われているし、たとえ、さっき言った手順で、プロバイダーを特定できたとしても、プロバイダーの中には、ダイヤルQ2経由のものや、最初に料金を払い込むタイプのプロバイダーもあるらしいわ。これなら、会員登録をせずにネットに接続できるのよ。もし、犯人がこうしたプロバイダーを利用していたとしたら、たとえ、プロバイダーそのものが判明しても、犯人にまでは辿《たど》り着けないかもしれない。あと、インターネットカフェ等を利用するという方法もあるし……」
多くのプロバイダーの場合は、会員になるときに、本名、現住所、電話番号等の個人情報は提示させるし、そもそも、入会金や月々の会費の支払いは、おおかたがクレジットカード決済になっているので、この点からも、会員は身分を偽れないようになっている。
が、それとても、抜け道はいくらでもあると沢地は言った。たとえば、こうした場合でも、盗んだクレジットカードを使用すれば、他人になりすまして入会することはできるのである。そして、こうした偽クレジットカードもネット上で手に入れることが可能なのだという。
もっとも、さらに言えば、ここまでやっても、警察が本腰を入れて執念深く捜査をすれば、犯人が捕まることもあるので、このへんは、警察のやる気の度合いと、犯人側の「悪運」の度合いにかかっているという。
「ようは、『真女子』がどのレベルの犯罪者かということでしょうね。ネットに関する知識も乏しく衝動的なタイプならば、足取りも残しているだろうから、辿り着くのはさほど難しくないだろうけれど、もし、掲示板に書き込んだ当初から、今回のような犯罪を計画していたとしたら、そして、それなりにネットの知識をもっているような奴だったとしたら、話は厄介になるかもね。それこそ、ネットの闇《やみ》の海にするりと蛇のように消えてしまうことも考えられるわ……」
沢地はそんなことを憂い顔で呟き、ふと思いついたというように言った。
「蛇といえば、あれ、どういう意味なのかしらね?」
「あれ?」
蛍子が聞き返すと、
「彼女の最初の書き込みにあった、あれよ」
「ああ、あの、『わたしの体には蛇のうろこがある』という……?」
「そうそう。体に蛇のうろこがあるって、どういう意味なのかしらね。魚鱗《ぎよりん》病とかいう皮膚病のようなものがあるらしいけれど、そういったものなのか、それとも、最近の若い女の子の間では、ファッションとしてタトゥがはやっているというから、『蛇のうろこ』模様のタトゥでもしているってことなのかしら……」
「でも、このあと、『蛇の生まれ変わり』なんて言い方をしているところを見ると、皮膚病とか刺青《いれずみ》とか、後天的にできたものではなくて、生まれつきの……たとえば、痣《あざ》のようなものではないでしょうか?」
蛍子は慎重に言った。
「痣? ああ、そうか。そうね。そういうことかもね」
沢地が納得したように頷《うなず》いたとき、鳴っていた電話を取った助手が、受話器を片手に、「先生、お電話です。ジャパンテレビの井上さんから」と告げた。
「……ちょっと失礼」
沢地はそう言ってソファから立ち上がると、デスクの上の電話を取った。
「……沢地です……はい、はい……その件なら……」
電話に向かって話す沢地の声をぼんやりと聞き流しながら、蛍子は全く別のことを考えていた。
それは、沢地が何げなく口にした、「真女子」の体の「蛇のうろこ」のことだった。前の事件が起きた頃、姪《めい》の火呂にあらぬ疑いをかけたのも、この「蛇のうろこ」に関する書き込みを目にしたことがきっかけだったことを蛍子は思い出していた。
もちろん、火呂は事件とは全く関係ない。今となっては、それは断言できる。今回の事件にしても、火呂が無関係であることは、蛍子自身が証明できるのだ。新聞等の報道によれば、被害者の男性が犯人らしき若い女と池袋のラブホテルにチェックインしたのが、日曜の午後六時頃とある。
しかし、その頃なら、火呂は、新しいマンションで蛍子と一緒に、引っ越しそばを食べていたのである。つまり、蛍子自身が火呂のアリバイの証人というわけなのだ。
ただ……。
蛍子の脳裏に、ある疑惑が、突然、闇にぽつんと咲いた毒々しい花のような疑惑が生まれていた。それは、康恵の手紙を読むまでは、脳裏をよぎることさえなかったような思いつきだった。
もう一人いる……。
姉の手紙には、火呂の双子の「姉」の胸にも、「まるで鏡に映したような」薄紫色の痣があったと書いてあった。
生まれつき、「蛇のうろこ」のような奇妙な痣を持つ若い女はこの世にもう一人いる……。
その事実が、蛍子の脳裏に、新たな疑惑の卵を生みつけようとしていた。
八月十七日、午後十時を少し回った頃だった。
会社から帰宅した蛍子は、ざっとシャワーを浴びて汗を流してから、冷蔵庫から取り出した缶ビールを片手に、リビングに行くと、テレビの前に陣取り、予約録画しておいたビデオを再生した。
それは、毎週、ウィークデイの後二時から放映される、「ハローミセス」という、いわゆる「ワイドショー」番組だった。
会社勤めをしている蛍子は、この手の番組を見たことは殆《ほとん》どなかったが、今回は、例の連続猟奇殺人を集中的に取り上げ、沢地逸子もコメンテイターの一人として出演するという話を、沢地本人から前以て聞いていたので、朝方、予約録画のセットをして出掛けたのである。
先日、沢地の研究室を訪れたとき、話の途中でかかってきた電話は、どうやら、このワイドショーの出演に関する打ち合わせだったようだ。
例の事件の犯人とおぼしき人物が、沢地逸子のホームページの掲示板に犯行予告とも取れる書き込みをしていたらしいということは、どこから漏れたのか、瞬く間にマスコミの知るところとなり、以前から、「ワイドショーの常連コメンテイターにならないか」と水を向けていたジャパンテレビが真っ先に出演交渉してきたということだった。
「わたしもやじ馬根性は人一倍強い方だから、ワイドショーそのものは時間があれば見るし、けっして嫌いじゃないのよ。ただ、コメンテイターとか言って、ああいうところに毎回しゃしゃり出て、高みの見物的な態度でもっともらしいことを言うのは性に合わないから、『常連』の話は断ったんだけれど、今度ばかりは、対岸の火事的な事件ではなくて、もし、犯人が本当にうちのホームページにアクセスしてきた人物だとしたら、やはり関係者として、知らぬ存ぜぬを通すわけにもいかず、きちんと話すべきことは話すことにした。それに、犯人が無差別に被害者を選んでいるとしたら、やはり、一言、電波を通じて警告しておいた方がいいと思ったから……」
沢地逸子は、テレビ出演の動機を電話で蛍子にそう語った。
缶ビールで渇いた喉《のど》を潤しながら、画面を見ていると、立て続けのCMの後、元アナウンサーという中年の司会者が挨拶《あいさつ》もそこそこに、二件の事件の概略とその共通点について、ボードを使って説明してから、「では、さっそく、コメンテイターの方々にお話をうかがってみましょう」と、いかにも前身がアナウンサーであることを思わせる簡潔で歯切れの良い口調で言った。
「まずは、犯罪心理学にお詳しい、川原崎先生から……」
と、司会者が話を振ると、沢地同様、某有名私立大学医学部助教授という肩書の、川原崎義隆が、えへんと咳払《せきばら》いをしてから、おもむろに口を開いた。
「うーん。僕はどうも今回の事件は腑《ふ》に落ちないというか、納得できないというか……」
川原崎は、後退しはじめた頭髪とは裏腹に豊かな頬髭《ほおひげ》を撫《な》でながら、そんなことを言った。
「腑に落ちないというのは、たとえば、どのようなところが?」
司会者がすかさず切り込む。
「たとえば? そうねえ……たとえば、犯人は若い女だと言われているようだけど、これがまず納得いかないんですねえ。遺体損壊を伴う、この手の残虐な犯罪は、欧米では珍しくないし、我が国でも最近やけに頻繁に起きるようになったような気がしてますが、おおかたが男なんですよ、犯人は。表むきの動機は何にせよ、こうした殺人を犯す衝動の根底にあるのは性的サディズムですからね。たとえ、女性が犯人だとしても、それは、主犯格の恋人とか亭主とかに脅されて、嫌々共犯にされていた場合が殆どなんですよね。だから、犯罪心理学的に言うと、女性が、しかも若い女が、主犯としてこのような犯罪に走るかということには大いに疑問が……」
「女は常に被害者であればいいと、そう、おっしゃりたいわけね」
沢地逸子が横合いから冷ややかに言い放った。
「ちょっと沢地さん。変なことを言わないでくださいよ。そんなこと一言も言ってないじゃないですか。この手の犯罪の過去の例から見て、男が犯人である可能性が高い、というか、今までは高かったと言っただけですよ、僕は」
川原崎は、やれやれという顔で、真ん中にいる司会者を挟んで、ちょうど自分と反対側の席にいる沢地の方をじろりと見た。
「直接、そうはおっしゃらなくても、あなたの口調からは、いかにも、そういいたげなニュアンスが感じられるんですよ」
「そんな。勝手に変なニュアンスを感じないでくださいよ。感度がよすぎるのも困ったもんだな……」
川原崎は聞こえよがしに、聞きようによっては、セクハラとも取れるぼやきを漏らした。
客席から笑い声が起きた。なぜか中年女性の笑い声が目立った。そういえば、いつだったか、沢地が、「わたしは男性以上に中高年の主婦層から反感をもたれているらしい」と苦笑しながら言っていたことを蛍子は思い出した。
「ま、しかし、沢地さん。見方を変えれば、あなたが日ごろから錦《にしき》の御旗のように掲げている女性の社会進出も、こんなところにまで及ぶようになったってことですかねえ。そういえば、女性銀行員によるオンライン犯罪にしても、昔だったら、付き合っている男に貢ぐためなんていう、まあ、かわいいと言ったら語弊があるが、まだ情状酌量の余地のある動機であることが多かったんだが、最近では、自分がブランド物買いあさったり、海外で豪遊するためだって言うんだから、いやはや、女性も強くなりましたよねえ。でもねえ、どうせなら、もっと良いことで男と対等になってもらいたいですがね、こちらとしては。こんな形の社会進出では、喜ぶべきか悲しむべきか、それが問題ってとこですかねえ……」
また笑い声。
「女が犯人というのが、川原崎センセイはだいぶご不満なようですが」
沢地は、川原崎のからかい口調をはねつけるように冷然と言った。
「わたしは犯人は間違いなく女性だと思います。しかも、おそらく、単独犯のような気がします。こんな形で、女性の社会進出が果たされたことには、川原崎センセイに言われなくても、本当に残念だと思っていますが」
「ちょっと待った」
川原崎が片手をあげながら言った。
司会者は、さきほどから進行を無視して、勝手に丁々発止とやりはじめた二人の「タレント助教授」を困ったような表情で見比べている。
もともと、この二人は、他局の討論番組で顔を合わせて以来、どういうわけか、相性が悪く、「ハブ氏とマングース女史」と呼ばれるほどの険悪な間柄だった。
「一体、何を根拠にそう言い切れるんです? 犯人が女性だと? そりゃ、確かに、一見、犯人は若い女であるような状況証拠は幾つか出ているようですがね。たとえば、現場となったラブホテルに、被害者が若い女とチェックインしたのを、ホテルのフロント係が証言したとかね。でもねえ、あの手のホテルというのは、清廉潔白な沢地さんならあまりご存じないかもしれませんが、あ、いや、僕もよくは知りませんが、聞くところによると、あまり客の顔をじろじろ見ないように躾《しつけ》られているそうですよ。だから、フロント係の人も、被害者と一緒にいたのは、『若い女のようだった』と言っているだけなんです。それも、ちらっと見ただけでね。
つまり、一見、若い女のように見えたにすぎないってことなんですよ。声を聞いたわけでもないらしい。あなた、試しに『二丁目』に行ってごらんなさい。女とみまがうほどの、いや、本物の女性以上に『女らしい』男はうようよいますよ。沢地さんと並んだら、あなたの方がよっぽど男らしく見えるくらいの『美女』がね」
また笑い声が起きた。
「川原崎センセイが風俗関係にも大変お詳しいのはよく分かりましたが」
沢地がにこりともしないで言った。
今度は客席の別サイドから支持するような笑い声が起こった。どうやら、客層も、沢地派と川原崎派に分かれているようだ。
「それでは、川原崎センセイは、この事件の犯人は、一見、若い女のように見えるオカマ……いえ、ニューハーフだと、こうおっしゃるわけですか?」
沢地が挑むように川原崎の方を見ながら聞いた。
「べつに断言したわけじゃないですけどね。その可能性も捨て切れないと申し上げてるんですよ。若い女のように見えたから、犯人は女だと決めつける思考は短絡的だとね。それに、犯人は、被害者のその……生殖器を切り取るなどという行為に及んでいるところからみても、何らかの強い性的コンプレックスをもっていることは間違いないと思うんですよ。この手の性的コンプレックスというのは男性に特有の……」
「でも、どれほど外見は女のようでも、ニューハーフには生理まではないでしょう?」
沢地が川原崎の発言を遮るように言い放った。
「は? セイリ?」
川原崎は一瞬ぽかんとした。
「わたしがこの犯人が女だと言ったのは、たんに目撃情報からそう思ったのではなくて、彼女が生理中に一連の犯罪を犯していると確信したからなんです」
「犯人が生理中って……あなた、なんでそんなことまで分かるんですか?」
川原崎は呆《あき》れたように言った。
「犯人とおぼしき人物がわたしのホームページの掲示板にそう書き込んだからです」
「実はですね。今回、沢地逸子先生にご出演いただいたのは……」
のっけから飛ばしている、二人のタレント助教授の迫力に圧倒されたのか、それまで化石のように黙っていた司会者がようやく自分の職務を思い出したように口を挟んだ。
いまだに紹介すらされない他のコメンテイターなどは、みな、マスコット人形のような顔をして、ただそこにいるだけだった。
「沢地先生のホームページの掲示板に、犯人とおぼしき人物からの投稿があり、そこには、今回の犯罪予告めいたことが書き込まれていたということで……え? CM? あ、それでは、ちょっとここで、CMを」
出だしから波乱を予想させる展開に、司会者もやや混乱ぎみなのか、そんなうろたえたような呟《つぶや》きが聞こえたかと思うと、画面がいきなり変わった。
リモコンを取り上げて、CMをスキップしようとしたとき、玄関のドアの開く音がした。
豪が帰ってきたようだった。
「ただいま」
豪の声は明るかった。
ということは……。
今日は確か、例のアマチュアバンドコンテストの予選日のはずだった。あのあと、蛍子の入れ知恵通りに、「泣きの一手」で渋る火呂を拝み倒し、今回だけという約束で、ボーカル役をなんとか引き受けさせたと豪からは聞いていた。
蛍子がテレビをつけたまま、振り向くと、ギターケースをさげた豪がリビングに入ってきた。
「どうだった?」
そう聞くと、豪は満面の笑顔で、OKサインを出してみせた。「予選通過」ということらしい。
「予選なんてラクショー、ラクショー。思ったよりレベル低いというか、たいした奴らいなかったよ」
ギターケースをソファに放り出し、冷蔵庫から天然水の小型ペットボトルを取り出しながら得意げに言う。
「そう、よかったじゃない。それで、本選はいつなの?」
そう聞くと、「二週間後」だと言う。
「絶対に入賞してみせるよ。あのレベルだったら、優勝だって夢じゃないさ」
ソファにふんぞりかえり、ペットボトルの水をラッパ飲みしながら、豪はうそぶいた。
「そういえば、電話で火呂から聞いたんだけど、入賞できなかったら、バンド活動はきっぱりあきらめて、受験勉強に専念するんだって?」
どうやら、「大学進学」を交換条件に、火呂は弟の頼み事を引き受けたらしかった。
「なに、これ? ワイドショーの録画?」
豪は、その話を避けるように、テレビの方を見ながら言った。
テレビ画面では、CMが終わり、再びスタジオに戻っていた。
「ああ、あの猟奇殺人のやつ……? 沢地逸子のホームページに犯人がアクセスしてきたとかいう?」
画面を見ていた豪が、ふいに興味を持ったような顔つきになって蛍子に訊《き》いた。
蛍子は、「そうだ」と答え、沢地逸子のホームページを単行本化する話が決まり、その際の担当になったことを言うと、豪は、「へえ」という顔になり、「俺《おれ》もその録画見たい。最初から再生して」と、ソファから身を乗り出して要求した。
蛍子はリモコンでテープを巻き戻した。
CMが入る前までを再生し、CM後のスタジオの場面になった。
その間、豪は身を乗り出したまま、じっと食い入るようにしてテレビを見ていた。
「……それでは、こちらのVTRをご覧ください」
という司会者の声とともに、また画面が変わった。あちこちにモザイク処理をした沢地逸子のホームページの掲示板らしきものが映し出され、例の「真女子」名の投稿の部分だけが、大きくクローズアップされた。
ただ、「真女子」の名前の部分は、まだ事件との関連性が明らかではないせいか、プライバシー保護のために、モザイク処理をして読めないようにしてあった。
「このような投稿が、前回の事件の前日も、やはり同じような時間帯にアップされていたというのです……」
司会者の説明で、画面には、さらに過去に遡《さかのぼ》った「真女子」の投稿内容がアップで映し出された。
「つまり、沢地先生がおっしゃるのは、この三度めの投稿のことですね? 『生理がはじまった』と書いてある……」
画面がまたスタジオに戻り、司会者が言った。
「そうです。犯人自身も書いているとおり、今回の事件は、特定の被害者への個人的な恨みなどによるものではなく、いわば無差別的に対象を選ぶ『儀式』として決行されたものだと言うことです。犯人は自らを、太母神に仕える巫女《みこ》だと思い込んでいる節があり、だからこそ、わざわざ生理日を選んで、犯行に及んでいるのです。では、なぜ、生理中に犯行を行っているかというと……。
詳しいことは、ホームページに連載しているわたしのコラムを読んで戴《いただ》ければ分かると思いますが、インターネットになじみのない人のために簡単に概略を説明すると……」
そう言って、沢地は、太古における太母神信仰について話しはじめた。
「……つまり、この二件の事件で不可解とされている事柄、たとえば、犯人はなぜ、被害者の遺体をわざわざ切断したり、生殖器を切り取ったりしたのか。なぜ、心臓を抉《えぐ》り取り、代わりに黄色いゴムボールなどを押し込んでおいたのか、なぜ、被害者の遺体の一部の皮膚を剥《は》ぎ取ったのか。なぜ、被害者が二人とも若い男性なのか。そういった諸々の謎《なぞ》はすべて、犯人が自らを巫女と思い込み、若い男性を太母神への『生き贄《にえ》』として殺しているのだと考えると、すべて奇麗に解けるんです……」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
川原崎がまたもや沢地の発言を遮った。
「沢地さん。あなたはさっきから黙って聞いていれば、この投稿者が犯人であると決めつけているようですが、そう決めつける根拠は何ですか? この四件の投稿内容だけでは、僕には、この投稿者を犯人と決めつけるのは、ちと早計に思えますがねえ。ここには、『生き贄を捧《ささ》げる』と書いてあるだけで、『若い男を殺す』と書いてあるわけではない。事件についても具体的なことは何ひとつ触れてないじゃないですか。それとも何ですか。他にも、何か、この投稿者が犯人だと思える証拠でもお持ちなんですか。たとえば、この投稿者が、メールか何かで、一連の事件について、犯人にしか知り得ないことを書いて送ってきたとか」
「いいえ、それはありません。まだ……。わたしが彼女が犯人だと思うのは、掲示板にアップされた投稿からだけです。だって、これだけで十分じゃないですか。これが偶然の一致だというんですか? 最初の事件では、わたしももしやと疑惑は持ちながらも、偶然かもしれないと思いました。でも、二度も同じことが重なると、もはや偶然とは言えません」
「しかしねえ……。そうは言っても、偶然は二度重ならないという法則があるわけじゃなし。それに、さきほど、あなたは、犯人は若い女だと断言するのは、『生理云々』と書かれた、この三度目の投稿を見たからだとおっしゃったが、それだけの根拠で、犯人を女性と断定するのは、やはり短絡的すぎるという気がしますがね。こうして、立派なホームページまで作っておられる人にこんなことを言うのは、釈迦《しやか》に説法かもしれないが、インターネットなどには、通称ネカマと呼ばれる輩《やから》も横行しているのですよ。ご存じですよね、ネットオカマ。つまり、女性の振りをする男のことですね。この投稿者も、『生理』のことなどを書いて、さも自分が女性であるかのように思わせているが、もしかしたら、男かもしれないじゃないですか」
「川原崎センセイはよほどオカマに興味がおありのようですが」
沢地がそう言うと、川原崎は露骨に嫌な顔をした。客席からはまたまばらに笑い声が起こった。
「この点については、わたしの勘としか言いようがありません。直感です。この投稿の内容に嘘《うそ》はない、投稿者が本当に女性だと思うのは……」
「勘! ほうほう。勘ですか? 参ったな。女の人は最後にはこれを出してきますからね。勘で全てを片付けようとする。涙と勘。女性が強くなったとはいえ、いつまでたっても、この二つが女性の最大の武器であることは変わりないようですなあ」
川原崎はやれやれというように首を振った。
「直感による思考方法が、論理的に思考するデジタル的思考に対して、アナログ的思考とも言われ、真実により早く到達する思考方法として決して侮れないものであることは、当然、一流大学医学部の名助教授でいらっしゃる川原崎センセイはご存じだと思いますので、それこそ、釈迦に説法とやらで、いちいち反論はいたしませんが、犯人が、最初の犯行と二度目の犯行との間に、およそ一カ月のインターバルを置いたのは、次の生理がはじまるのを待っていたからではないでしょうか。およそ一カ月前後というのは、健康な女性の平均的な生理周期ですから。あくまでも、これは、わたしの『勘!』にすぎませんが。
ただ、一応、この話を警察の方にも話して、もう一度現場検証、とりわけ現場に残された血痕《けつこん》を徹底的に調べ直してみることを素人判断ながらおすすめしておきました。被害者の血だと思われていたものが実は……ということもありますので」
話が何やら生々しい方向へいきそうなのを懸念したのか、司会者が、幾分あわてたように、「ここでCMを」と言って、沢地の声は遮られてしまった。
CMをスキップすると、画面には、ようやく出番が回ってきたらしい他のコメンテイターの顔がアップで映し出されていた。
「……二度めの投稿で、『母なる神に生き贄を捧げたが、母なる神は喜んではくれなかった。犬ではだめかしら』とありますが、これは、以前、犬でも試してみたということでしょうかね」
そう言ったのは、若者の心理や文化に詳しいという触れ込みの若手社会評論家の溝口和彦だった。
「そういえば、前に、都心の公園のゴミ箱から、バラバラに切断された子犬の死体が発見されたことがありましたよね……? あれが起きたのは、ちょうど、この投稿がされた頃じゃなかったっけ?」
「そうなんです」
沢地が即座に言った。
「わたしが、この投稿者が犯人ではないかと思った根拠の一つが、この犬の件です。ちょっと気になって過去のデータを調べてみたら、二度めの投稿は、この子犬事件が報道される前にアップされていたことが分かったんです。この犬の件も、彼女の仕業であるような気がします。この手の犯罪は、最初は小動物からはじまって、だんだんエスカレートしていくという話も聞きましたから……」
「しかしねえ」
と、不満そうな顔つきで口を挟んだのは、またもや川原崎だった。
「動物虐待なんてあちこちで起きてますよ? 犬に限らず、猫とか鳩とかも。たったこれだけの投稿内容から、この犬の件だけを、今回の犯人と結び付けるのはいかがなものか……」
「でも、『三度も』偶然が重なったようには思えませんがね」
そう反論したのは沢地ではなく、溝口だった。
「それと、もう一つ気になるのが、最初の投稿の意味不明の書き込みですね。『わたしの体には蛇のうろこがある』という……。これは一体どういう意味なんでしょうか。もし、この投稿者が犯人だとしたら、僕には、この言葉が犯人の特徴を示す大きな手掛かりになるように思えるのですが」
「同感です。この『蛇のうろこ』というのは、『蛇の生まれ変わり』という言葉が後に続いていることから見ても、後天的なものではなく、先天的なものであるように思えます。たとえば、身体のどこかに、生まれながらにして、蛇のうろこのようにも見える特殊な痣《あざ》か何かがあるとか……」
テレビの中で沢地逸子がそう発言したとき、蛍子の背後でふいに物音がした。はっと振り返ると、フローリングの床に、まだ中身の入ったペットボトルが落ちていた。一瞬、強ばった表情をした豪と目が合った。
「手、すべっちゃって……」
豪は言い訳のようにそう呟《つぶや》くと、慌てて、床に落ちたペットボトルを拾い上げ、テーブルの上にあったティッシュケースからティッシュを数枚つかみ取って、それで濡《ぬ》れた床を拭《ふ》きはじめた。
「……画面ではモザイク処理がしてあって読めませんが、この投稿者の名前、といっても、おそらく本名ではなくハンドルだと思いますが、これは、或《あ》る小説に登場する人物の名前から取ったものだと思われます。その人物というのは、見かけは絶世の美女なのですが、実は、その正体は年とった大蛇であるというもので……。こうしたハンドルから見ても、この投稿者が、なんらかの理由で自分を蛇の『生まれ変わり』と信じきっており、だからこそ、あのような異様な犯罪を犯したとも考えられるのです……」
沢地逸子の顔がアップになった。
「もし、犯人像がわたしの考えている通りだとすれば、そして、犯人がこのまま逮捕されなければ、このような犯罪は来月も同じ頃に起きるはずです。犯人が果たして、若い男性ばかりを『生き贄』としてターゲットにしているかどうかはまだ分かりませんが、その可能性は大いにあります。男性も、インターネットやテレクラなどを利用するときはくれぐれも気をつけてください。
とりわけ、ネット上で、自分の個人情報、たとえば携帯などの番号を気楽にアップするのは極力控えた方がよろしいかと思います。出会い系のホームページに登録するときも、なるべく、最初に会員登録をするようなタイプのものに入ることをお薦めします……」
「その手のホームページの会員名簿が闇《やみ》で売買されているという噂《うわさ》を聞いたことがありますけどねえ。よけい危なかったりして」
また川原崎の揶揄《やゆ》するような声。
川原崎の横槍《よこやり》を無視して、沢地はさらにこう続けた。
「とにかく、これはネットに限ったことではありませんが、自分の身は自分で守るしかないということです。インターネットや携帯電話などを通じて、自分の生活圏以外の人とも簡単に知り合えるようになったのは、人間同士のコミュニケーションの輪を広げるという観点から考えれば、大いに喜ぶべきことでしょうが、同時に、それは、全く未知の人間があなたの生活圏に侵入してくる危険性をも自らの手で作り出しているということでもあるのです。世の中には、常に善意をもって、あなたに接したいと思っている人ばかりではないのです。新しい出会いの裏に潜むこの危険性をもっと認識して欲しいのです。とりわけ、男性に、若い男性に言いたいです。
確かに、今までは、さきほど川原崎センセイもおっしゃったように、このような犯罪の犠牲者になるのは圧倒的に女性が多かったのは事実です。というか、今もそうであることは変わりません。でも、今回の事件は、男性でもこの手の犯罪の被害者になりうるのだということを教えてくれたのです。ようは、けっして他人事《ひとごと》ではないということです」
「復讐《ふくしゆう》……かもしれませんね」
溝口がそんなことを口走った。
「復讐?」
沢地がけげんそうな顔で溝口の方を見た。
「いや、ちょっと、沢地さんの話を聞いていたら、ふとそんな気がしたもんですから。復讐といっても、個人に対するものではなくて、いわば、社会全体……に対する漠然とした復讐です。『儀式』などという形を取りながら、犯人の心の中には、そんな強烈な復讐心のようなものが潜んでいるのではないか。十代の若者の凶悪犯罪などを調べていると、そう感じることがあるんですよ。一見ゲーム感覚であったり、快楽殺人のように見えても、彼らは、漠然として、そのくせ強烈な『怒り』を胸の内に抱え込んでいる。怒りの対象は、親なのか教師なのか学校なのか。それともそういったものを全て含めた社会システムそのものなのか。その怒りの真の対象が何であるのかさえ、当人にも理解できていないような怒りを……」
「あのねえ、一言いいかい? あんたがたのような甘ちゃんの『人権派』がそうやって、ことあるごとに、社会のせいだとかほざいて犯罪者を甘やかすから、つけあがったくそがきどもがやりたい放題のことをやるようになったんだよ」
横から苛立《いらだ》たしげにそう言ったのは、中年のアクション俳優、平尾裕二だった。
「もちろん、犯罪者の『怒り』など、手前勝手な逆恨みであると言ってしまえばそれまでなのですが……」
溝口はやや鼻白んだようにそう言ってから、「今回の事件にも、それと似たような匂《にお》いをなんとなく感じます。それと、被害者から加害者への転化、というのも感じますね。つまり、今まで、なんらかの形で常に『被害者』であり続けた者が、ある日突然、窮鼠《きゆうそ》猫を噛《か》むような形で、『加害者』に転化するんです。少年犯罪にはしばしばこれが見られます。長い間、学校でいじめの被害者だったり、親の暴力の被害者だった少年が、ある日を境に、自らが他人に暴力を加える『加害者』に転化するんです。そして、なぜか、その『復讐』の対象は、彼に危害を加えた者には直接向けられないで、何の関係もない赤の他人、それも自分よりも確実に弱い者に向けられるようになる……。
つまり、被害者はいつまでも被害者のままでいるわけではないということなんです。今回の事件の犯人も、長い間、何らかのストレスを与え続けられた『被害者』だったのではないかという気がします。沢地さんがおっしゃったように、今までは、この手の猟奇殺人の被害者は女性がほとんどでした。しかも、多くが若い女性です。でも、こうした犯罪を容易に成立させてしまう社会、いわば男社会の中で、今まで被害者であることを強いられてきた女性たちが、漠然とした『怒り』を抱え込んでいて、それが爆発しはじめたのではないかという気さえします。もし、そうだとしたら、この『爆発』は、ちょうど火山帯の爆発のように連鎖します。同じような潜在的な『怒り』を抱え込んだ者たちに。少年犯罪の多くがそうであるように……」
「俺《おれ》に言わせれば、この犯人が女だろうが男だろうが、もし、未成年のくそがきだったとしたら、少年法なんかで守ってやらないで、さっさと捕まえてしばき倒せと言いたいね。いっそのこと、こういうぶったるんだがきどもを調教するためにも、憲法改正して、徴兵制とか復活したらどうかね?」
またもや、平尾がここで口を挟まなければ、自分の出番は永遠に回ってこないとでもいうように乱暴な横槍を入れた。
それまで溝口和彦を映していたカメラが、ほおづえをついてつまらなそうにしている自分の顔をアップで映すやいなや、平尾ははっとしたようにほおづえをはずし、カメラ目線で凄《すご》んでみせた。
「こういうぶったるんだくそがきどもを生み育てた世代が、ちょうど平尾さんの世代であることもお忘れなく」
溝口が冷ややかに言った。
「なんだと……」
「わたしも溝口さんの意見に全く同感です」
溝口に向かって凄みかけた平尾を全く無視して、沢地が言った。
「犯人は『贄《にえ》』を求めています。でも、それは、犯人自身が『贄』であるということなのかもしれません。太古、『贄』を神に捧《ささ》げる祭主自身が最高の『贄』だったように。この平成の世に、『贄』などというと、時代錯誤のように聞こえるかもしれませんが、わたしは、今こそ、『贄』という言葉がふさわしい時代はないように思えます。ある種の犯罪は、その犯罪を生んだ社会の歪《ゆが》みを照らす鑑《かがみ》ともなります。犯人によって無差別に選ばれた被害者が『贄』なら、犯人もまた『贄』―――社会の歪みを照らすための鑑として『高く掲げられた者』なのかもしれません……」
録画が終わって、蛍子はリモコンでテレビの電源を切った。すると、リビングを奇妙な沈黙が支配した。
「蛇のうろこみたいな痣って、まさか」
沈黙の重苦しさに耐えかねたように、先に口を開いたのは、豪の方だった。
「火呂じゃないわよ」
蛍子は甥《おい》の言葉を遮るように言った。
「火呂なら、あの池袋の事件が起きたとき、わたしと一緒にいたんだから。それに、前の事件のときだって、和歌山のビジネスホテルに泊まっていたって言ってるし」
「誰も姉ちゃんのことなんか言ってないよ」
豪は、蛍子の見幕に驚いたような顔で言った。
「俺が言いたいのは、もう一人の[#「もう一人の」に傍点]……」
「……」
「母さんの手紙には、日美香って人にも、姉ちゃんと同じような痣があったって……」
豪もどうやら、蛍子と同じような疑惑を抱いたらしかった。
「でも、『蛇のうろこ』というだけで、痣かどうかはまだ分からないわ」
それに、沢地逸子はテレビであんな断定的な言い方をしていたが、「真女子」が犯人と決まったわけではない。蛍子は、甥にというよりも自分自身に言い聞かせるように言った。
「そうだけど……」
豪はそう言いかけ、ふと何かを思い出したように、
「そうか。あれは姉ちゃんじゃなかったんだ」
「あれって?」
「ほら、前に、バンド仲間の磯辺が原宿で若い男と一緒だった姉ちゃんを見かけたって話、しただろ? 似てたけど、ちょっと感じが違っていたっていうから、ひょっとしたら、あれは姉ちゃんじゃなくて……」
豪は考えこみながら、そう言った。
「火呂は、あれから日美香って人のことは何も言わない?」
蛍子は甥に聞いた。バンドの練習で豪は火呂と毎日のように顔を合わせているはずだった。
「何も。何も言わないよ」
「そう……」
相手の生活を乱さないために、自分の方からは会いに行かないという決意は、火呂の中で変わってはいないようだった。
蛍子としては、姪《めい》のそんな意志を尊重して、この件にはノータッチでいようと思っていたのだが……。
「ねえ、叔母《おば》さん」
豪がふいに言った。
「日美香って人のこと、詳しく調べられないかな。姉ちゃんには内緒で、探偵社とかに頼んで」
「探偵……?」
探偵と聞いたとき、蛍子の頭に一人の男の顔がすぐに浮かんだ。それは、心に負った小さな古傷の疼《うず》きと共に、いつも思い出される顔だった。
雑居ビル内にある、「NIGHT AND DAY」という、古いジャズナンバーから店名を取った、その小さなバーの看板の明かりは消えていた。
休み……?
蛍子は首をかしげた。今日は休みの日ではなかったはずだ。といっても、それは五年前までの話で、この五年間、蛍子は一度もこの店に足を向けてはいなかった。その間に、休みの日が変わったとも考えられるし、臨時休業ということもありえる。
そんなことを考えながら、思わず腕時計を見た。あと十分ほどで午後九時になろうとしている。
このまま店の前で待っていれば、伊達《だて》は現れるだろうか……。
そのとき、ふと、蛍子の耳が、店の扉の中から微かに響いてくる低い音を捉《とら》えた。
音楽が流れている……?
分厚い扉に耳をくっつけるようにして聴いてみると、確かに、古いジャズナンバーらしき曲が微かに聞こえてくる。
営業しているのだろうか。
そう思い、扉の取っ手に手をかけると、試しに扉をひいてみた。すると、施錠されているとばかり思った扉はするりと開いた。
やや抑えた音量で流れていたのは、映画「カサブランカ」のテーマ曲としても名高い名バラッド、「時のすぎゆくまま」だった。
おそるおそる覗《のぞ》きこんでみると、カウンターしかない狭い店内には、五年前と同じ、海底を思わせるようなマリンブルー系の照明が灯《とも》り、カウンターの中には、年老いたマスターが一人でグラスを磨いていた。
マスターの前には、客らしき男の背中が見える。その幾分猫背気味の背中に見覚えがあった。
伊達|浩一《こういち》だった。
蛍子の姿を認めると、マスターは、客の肩越しに軽く会釈した。それは、この店に通っていた頃と全く変わらぬ仕草だった。蛍子は一瞬頭がくらっとした。まるでタイムトラベルでもして、五年前に戻ってしまったのではないかと思ったからだ。それほど、店の様子も、マスターの仕草も記憶の中のそれと変わらなかった。
そして、伊達の背中も……。
もっとも、この店でよく待ち合わせをした頃、こうして彼の背中を見ることは稀《まれ》だった。伊達は遅刻の常習犯で、蛍子より先に来ていることなど滅多になかったからだ。
最後に彼の背中を見たのは、「もう少し飲んでいく」と言う彼を残してこの店を出ようとしたときで、扉の前で、なんとなく後ろ髪を引かれる思いで振り返ると、そこに彼の背中があった。あれ以来、この店には来ていない。
「おひさしぶりです」
蛍子はマスターにそう挨拶《あいさつ》してから、表の看板の明かりが消えていることを伝えた。看板の明かりをつけ忘れたのかと思ったのである。
「今日は貸し切りですから……」
白髪《しらが》の老バーテンは、グラスを拭《ふ》く手を休めず、穏やかに微笑しながら言った。
貸し切り……。
ああ、そうか。そういうことだったのか。
そういえば、伊達の父親とここのマスターが戦友とかで、マスターとは子供の頃からの知り合いだと聞かされたことがあった。だから、こんな我がままも聞いてもらえるのだろう。
もしかしたら、あの夜も……。
蛍子は、最後にこの店を訪れた夜のことを思い出した。ちょうどこのくらいの時間帯で、待ち時間も含めて三時間近くいたが、他の客は一人も入っては来なかった。ひょっとしたら、あのときも、マスターが気を利かして、看板の明かりを消していてくれたのかもしれない……。
蛍子が来たことは既に気配で分かっているはずなのに、伊達は振り向かず、横に座ってはじめて気が付いたとでもいうように、挨拶がわりに、飲みかけのウイスキーグラスを少し浮かせてみせた。
その横顔を見たとき、蛍子は、少し老けたなと感じた。五年前にはなかった白髪がまばらに見えた。蛍子より確か六歳上だったから、まだ四十にはなっていないはずだった。
もう一つ、気づいたことがあった。蛍子の方に見せている左目の縁に、10センチほどの縫ったような傷がついていたことだった。
手当をしたのがあまり腕の良い医者ではなかったらしく、醜い引《ひ》き攣《つ》れになっていたが、蛍子は、なぜか、その傷からすぐに目が離せなかった。
女が顔に傷を負えば、悲惨としかいいようがないが、男の顔の傷は、ある種の魅力を醸し出すことさえあるから不思議だった。
「おひさしぶりです」
蛍子はあえて他人行儀な挨拶をした。五年前に別れ、それ以来一度も会ってはいなかったのだから、今となっては他人も同然だったが、理由はそれだけではなかった。
伊達の妹で、蛍子と兄との仲を取り持ってくれたキューピッド役でもあった、大学時代の友人である美佐江から、伊達のことはそれとなく耳にしていた。三年ほど前に結婚して、今では二人の子供の父親になっていることも……。
いくら昔の恋人とはいえ、既に家庭を持っている男に、あまり馴《な》れ馴れしい態度は取れなかった。
「俺、老けた?」
伊達が、ふいに言った。その口調は、五年前と少しも変わらなかった。
「うん、ちょっとね。白髪?」
蛍子は自分のこめかみのあたりを指さして聞いた。伊達の気楽な口調につられて、つい昔の口調になってしまった。
「若白髪だよ。最近、抜いても抜いても生えてきやがる。このせいかなあ。久しぶりに知り合いに会うと申し合わせたように言われるんだ。『おまえ、老けたな』って」
「老けたというか……」
渋くなった、と言いかけて、蛍子はその言葉をかろうじて呑《の》み込んだ。
「目の縁、どうしたの?」
「え?」
「傷」
「ああ、これ?」
伊達は片手で顔の傷を撫《な》でた。
「刃物持ったチンピラと素手でやりあったときに……」
「やられたの? かっこいい」
「……と言いたいところだが、本当は、泥酔してバーの階段から転げ落ちたときに、階段の角にぶつけて切った」
「なんだ、かっこわるい」
「顔面血だらけでさ……。十二針も縫ったんだぜ」
「でも、あなたが泥酔するほど飲むなんて珍しいわね」
「あのときばかりはね。朝まで飲んでてさ、出るときは意識|朦朧《もうろう》としてたからな……」
「あのとき……?」
「きみに振られた夜。そこの階段から落ちたんだよ」
伊達はそう言って苦笑しながら、親指をたてて扉の方を示した。
「……」
蛍子はあの夜のことを思い出していた。いつものようにここで待ち合わせをして、いつものように、彼は三十分ほど遅れてやってきた。そして、求婚された。蛍子はその申し出を断った。愛していなかったわけではない。求婚された事自体は嬉《うれ》しかった。ただ、伊達は、蛍子に家庭に入ることを要求した。仕事をやめろと言ったのだ。まだ若かった。やりたいことが一杯あった。ちょうど編集の仕事が面白くなりはじめていた頃でもあった。仕事はやめたくなかった。いくら好きな男でも、その男を朝から晩までただ待つだけの生活はしたくなかった。だから……。
あの夜のことは昨日のことのように覚えている。伊達は最後まで冷静だった。目の前のグラスにも殆《ほとん》ど手をつけなかった。蛍子といる間、ずっと素面《しらふ》同然だった。穏やかに話し合い、相手の言い分に耳を傾け、互いに譲歩する気のないことを何度も確認し合い、最後は納得して別れることにした。
そして、「もう少し飲んで行く」と言う伊達を残して、蛍子は一足先に店を出てきたのだが……。
「今から思えば、振られて当然だったな」
伊達が昔を懐かしむように言った。
「振ったわけではないわ。わたしは……」
蛍子はそう言いかけて黙った。悩んだ末の結論にしろ、伊達のプロポーズを断ったことに変わりはなかった。
「俺、ずいぶん勝手なことばかり、きみに要求していたからなあ。仕事やめて家庭に入れとかさ。失業中の男が言う台詞《せりふ》じゃないよな。まともな女だったら断るのが当然だよ」
「失業中といっても……」
あの頃、伊達は、それまで勤めていた大手の興信所をやめて、そこで一緒だった何人かのスタッフと新しい探偵社を作ろうとしていた。その探偵社も、今では軌道に乗って、スタッフの数も倍に増えたようだと美佐江から聞いている。
しかし、蛍子が伊達のプロポーズを断ったのは、一時的にせよ、相手が失業中だったからではない。経済的な面での不安が全くなかったといえば嘘《うそ》になるが、そのことは決定的な要因ではなかった。
ようは、男への愛と自分の自由を天秤《てんびん》にかけてみたら、あの頃は、僅《わず》かに「自由」の方に天秤が傾いたということにすぎなかった。
今なら、天秤はどちらに傾くだろう……。
「意地になってたんだよ。自分も仕事続けるから経済的なことは心配しなくていいなんて、きみに言われてさ。野心はあったけれど、自信がなかった。その自信の無さが逆に変なプライドになっていたのかな。今なら、相手にあんな要求は絶対にしないだろうね……」
伊達は独り言のように言った。
今なら……。
蛍子はふと思った。
わたしも……。
「それにしても」
しばしの沈黙のあと、伊達は、ちらと蛍子の方を見て、まんざらお世辞でもないような口調で言った。
「きみは全然変わらないね」
「そんなことないわよ。ここに皺《しわ》、また一本増えたし」
蛍子はそう言って、目尻《めじり》を指さした。
「笑い皺だろ。変わってないよ。今でもあの出版社に勤めてるんだって? 美佐江から聞いたんだけど……」
「ついでにまだいかず後家だってことも聞いてるんでしょ」
そう言うと、伊達は声に出して笑った。
「なるほどね。外見は変わらないように見えても、そういう自虐的なことを言って楽しむ年にはなったってことか」
「……」
「電話もらったときは驚いたよ。まさか、きみからだとは……」
「どうして? 別に憎み合って別れたわけではないでしょう、わたしたち。電話くらい用があればするわよ」
「用があれば、か」
伊達が意味ありげに呟《つぶや》いた。
「そういえば、きみはあの頃から用がなければ電話しないくちだったよな」
「だって……迷惑でしょ? 用もないのに電話したら。たとえば仕事中とかに」
「うちの女房なんか、用もないのに日に最低三度は携帯にかけてくるよ。こっちの都合なんておかまいなしに」
「奥さん、専業主婦?」
「まあね」
「主婦に多いのよね。自分が暇だと相手も暇だと思うらしくて、仕事中だろうとおかまいなしに……」
「付き合っている頃からそうだったよ。付き合うっていっても、半分見合いみたいなもんだったから、半年足らずのことだけど。女にも二種類あるのかな……」
「というか、わたしのようなタイプの方が珍しいのかも。きっと、あなたの奥さんのようなタイプが普通なのよ。たいして用もないのに、自分の都合と気まぐれだけで電話かけまくる女って、世の中にはたくさんいるから……」
自分の刺のある口調に気づいて、蛍子は、はっと口をつぐんだ。
嫉妬《しつと》?
今、わたしは、昔の恋人の妻になった女に嫉妬している。顔も名前も知らない女に……。
そう気が付いて、自己嫌悪に陥りそうになった。
「……で、その用というのは何ですか」
伊達がやや口調を改めるようにして言った。
「え……?」
「だから、用があったから、五年ぶりで電話くれたんでしょう? まさか、こんな昔話するために呼び出したわけじゃあるまい。さて、その用件とは?」
蛍子はうろたえていた。その肝心の用件のことをすっかり忘れていたことに気がついたからだった。この店に一歩足を踏み入れたときから、時間の感覚がなくなっていた。昔と全く変わらない店の様子や、マスターの態度、それに、五年間のブランクをまるで感じさせない、伊達の自然な態度に幻惑されていた。
いつの間にか、昔のように、ここで待ち合わせてデートでもしているような気分になっていたのだ。「用件は何だ」と聞く男のやや醒《さ》めた口調に、突然現実に引き戻されたような気がした。
「実は……」
ようやく冷静さを取り戻して、蛍子は言った。
「ある女性の身元調査をお願いできないかと思って」
「ある女性って?」
伊達は蛍子の方を見ながら聞いた。その目は既に仕事の話をする目になっていた。
蛍子は少しためらったが、姪《めい》の火呂の出生のことを洗いざらい打ち明けた。あまり他人には話したくないことだったが、伊達にしろ、ここのマスターにしろ、こうした話を不用意に他人に漏らすタイプではないことはよく知っていた。
「ふーん。そんな小説みたいな話が実際にあるのか」
伊達は、蛍子の話を聞き終わると、妙なことに感心するようにそう言い、
「それで、その葛原日美香という女子大生のことを調べればいいわけ?」
「あと、それと、できれば、二人を生んだという女性のことも……。分かっているのは、『倉橋日登美』という名前と、信州の出身らしいということだけなんだけれど」
知りたいのは、葛原日美香のことだけだったが、姉の手紙に書かれていた、「倉橋日登美」という女性のこともなぜか気にかかっていた。一体、この女性は、どういった経緯で、火呂や日美香を生んだのか……。
「引き受けて貰《もら》えます?」
姉の手紙に記されていた産院の住所や葛原八重の和歌山の住所などを記したメモを渡し、自分の知る限りの情報を伊達にすべて伝えてから、蛍子は聞いた。
ただ、火呂の痣《あざ》のことや猟奇事件との関連についてはおくびにも出さなかった。
「女子大生の方はこれだけ分かっていれば、探し出すのは難しくはないと思うが、母親の方はどうかなあ。これだけの情報では……」
伊達は顎《あご》に手をあて、やや難色を示すような表情になった。
「とりあえずは、葛原日美香の方だけでいいんだけれど」
そう言うと、しばらく考えるように、じっとグラスを見つめていた伊達は、
「ほかならぬ……昔なじみの依頼じゃ断るわけにもいかないね。分かりました。やってみましょう」と言ってくれた。
「もちろん、報酬は払います」
「そりゃ当然でしょう。引き受けるからには、こちらもビジネスだからね」
伊達はシビアな口調でそう言った。
「……用件はこれだけ?」
やや間があって、蛍子の方を見ないで聞いた。
「ええ……」
「そうか。じゃ……」
伊達はそう言うと、カウンターの上に投げ出していたライターと煙草をスーツの懐にそそくさとしまいはじめた。
蛍子はその何げない仕草を横目で見て、どきりとした。
あの頃、飲みながらひとしきりしゃべったあと、伊達がライターと煙草を懐にしまいはじめるのは、そろそろ、ここを出て、別のところに行こうという暗黙の合図だったからだ。
まさか……。
蛍子は一瞬、期待とも恐れともつかぬ感情に支配されて、思わず身を硬くした。
「俺は失礼するよ。ゆっくり昔話でもしたいところだが、あいにく、今日は、上の坊主の誕生日でさ、女房から早く帰ってこいってうるさく言われてるから……」
伊達は苦笑混じりにそう言うと、「結果が出たら連絡する」と言い残し、勘定を済ませると、さっさと出て行った。
馬鹿……。
一瞬あらぬ妄想にとらわれ、思わず身構えてしまった自分を蛍子は心の中で思いきり罵倒《ばとう》した。
「上の坊ちゃんの誕生日なら」
それまで蛍子たちの会話を聞かぬ顔をして終始無言だった老マスターが、カウンターに一人残された蛍子にというよりも、手の中の曇りひとつないグラスに囁《ささや》きかけるように呟いた。
「先月済ませたはずですがね……」
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第七章
八月二十日。
午後十一時を少し過ぎた頃だった。テレホタイムを待つようにして、蛍子は、インターネットに接続すると、真っ先に、沢地逸子のホームページにアクセスした。
ところが、ブックマークに入れたタイトルをクリックしても、沢地のホームページにはつながらなかった。代わりに、パソコンの画面には、「ページが見つかりません。検索中のページは、削除されたか、名前が変更されたか、又は現在利用できない可能性があります」という旨のエラー表示が出た。
え? 削除?
そんな馬鹿なと思いながら、少し間をおいて、もう一度アクセスしてみた。多くのネットワーカーたちは、電話料金の安くなる時間帯、つまり午後十一時から翌朝の午前八時の間の、俗にいう「テレホタイム」にネットに接続することが多い。そのせいで、この時間帯、とりわけ、午後十一時から午前一時あたりまでは回線が混雑して、人気のあるホームページなどはすぐにアクセスできないことがある。最初はその類いかと思い、何度か間を置いてアクセスしてみたが、結果は同じだった。
悪い予感がした。
そういえば、以前、やはり猟奇殺人が起こったあとで、犯人がネットワーカーではないかという報道がテレビのニュース番組でなされた途端、犯人らしき人物が投稿をしたという掲示板にやじ馬が殺到して、サーバー(プロバイダーのコンピュータ)がダウンしてしまい、そのホームページは間もなく閉鎖に追い込まれたという話を聞いたことがあった。
まさか、同じことが……。
そう思いついたのである。
沢地逸子が例のワイドショー番組に出演して数日が過ぎていた。その間に、他局のニュース番組でも、「真女子」に関する報道がなされていた。テレビの報道を見て、あるいは、テレビ報道を見た者のネット上の口コミ情報から、彼女のホームページの存在を知ったユーザーたちが面白半分にどっと押しかけたという可能性は大いにある。
ホームページのアドレスまでテレビで公開したわけではなかったが、タイトルや沢地逸子という名前をキーワードにして検索をかければ、ホームページのアドレスなど簡単に分かる。
蛍子は、そそくさとインターネットの接続を切ると、手近にあった携帯電話を取り上げ、そこに登録された沢地の自宅に電話を入れてみた。ややあって、沢地逸子本人らしき声が出た。
「夜分すみません。泉書房の喜屋武です……」
そう言って、今、ホームページにアクセスしようとしたら、アクセス不可の表示が出たことを伝えると、
「ああ、あれ。しばらく閉鎖することにしたのよ」
と沢地は幾分疲れたような声で言った。
詳しく理由を聞くと、案の定、ここ数日、テレビの報道を見たやじ馬ユーザーが殺到したらしく、サーバーがダウンしてしまったのだという。
それだけではなかった。あのワイドショー番組が放映された直後から、俗に言う「荒らし」が掲示板に来るようになったのだと沢地は憤りを隠せない震え声で言った。
「荒らし」というのは、「掲示板荒らし」のことで、掲示板などに、他人の誹謗《ひぼう》中傷や悪口雑言、あるいは意味不明の奇声めいた発言を書き連ねたり、卑猥《ひわい》な画像や死体画像などを貼《は》り付けるなどして、さまざまな嫌がらせを繰り返し、時にはその掲示板を使えないものにしてしまうような悪質ユーザーのことである。
以前にも、その手の悪戯《いたずら》は時々あったのだが、そう頻繁というわけではなく、その都度、削除してしまえば済む程度のものだったのだという。ところが、テレビ出演した途端、その手の悪質ユーザーがまるで申し合わせたようにどっとやってきて、やりたい放題のことをしはじめたらしい。
中には、「真女子」名の投稿もあり、おそらく第三者が装っているにすぎないようだが、「沢地! 次のターゲットはおまえだ」などと物騒なことを書き込んだりする者もいたという。
さらに、掲示板だけではなく、ホームページの末尾に掲げておいたメールアドレスには、「真女子」を名乗る者からのメールが殺到しているらしい。
それらの殆《ほとん》どが、発信元の情報を書き込んだヘッダと呼ばれる部分を改竄《かいざん》して自分の発信元を隠した、いわゆる匿名メールと呼ばれるものばかりで、内容はといえば、「私は犯人でない。冤罪《えんざい》だ。テレビで謝罪しろ」というものから、「私が犯人だ」と告白をしたあと、「これが私の顔写真です」などと書かれた添付ファイルまで貼り付けてあるものがあり、ウイルスが仕込んである危険性もあるので、開きはしなかったが、おおかた、開けば出てくるのは、掲示板に貼り付けられたような卑猥画像か死体画像だろうと沢地は言った。
「こうした事態はある程度予測はしていたんだけれど、まさか、これほど凄《すさ》まじいとはね……。まさに黒い祭りがはじまったって感じね」
電話の向こうで沢地逸子はため息混じりにそんなことを言った。
「黒い祭り?」
「そう。今や、犯罪はお祭りなのよ。相も変わらぬ日常の繰り返しに退屈しきっている多くの大衆にとっては。特にこういう猟奇性が強くて劇場型の犯罪は、加害者でもなく被害者でもない多くの一般大衆にとっては、格好の娯楽であり鬱憤《うつぷん》ばらしなのよ。実際に起こっていることなのだから、映画やテレビドラマを見るよりも刺激があるしね……」
そう言われてみればそうかもしれないと蛍子は思った。沢地は、例のワイドショー番組で、「犯罪の被害者が『贄《にえ》』ならば、犯人もまた『贄』だ」という言い方をしていたが、一体何に捧《ささ》げられた「贄」なのかと言えば、それは、まさに、「多くの退屈しきった大衆の黒い欲望」に捧げられた「贄」に他ならない。あるいは、「平和で秩序だった社会」そのものに捧げられた「贄」といってもいい。
誰もが自分が安全で平和な環境の中で生きることを望んでいる。しかし、同時に、その「安全と平和」に飽き飽きし退屈してもいる。安全であるがゆえにその安全性を憎んでいる。何か「危険」なものが見たい。触れたい。血が見たい。そんな欲求は、おそらく、ごく「普通」と言われている人々の中に、殆ど本能のように巣くっているものに違いない。蛍子自身、かすかにではあるが、そうした欲求が自分の中にあることを自覚していた。
こうした犯罪は、まさに、そうした「大衆の黒い欲望」に捧げられた「贄」なのだ。ある凶悪な犯罪が起こる。まず、「被害者」という名の「贄」が神輿《みこし》に乗せられて高くさらされる。
最初はマスクで顔を隠した「犯人」という名の最高神官の手によって。そして、次は、「祭り」の下級神官ともいうべきマスコミの手によって。
被害者という名の「贄」は丸裸にされて高く掲げられ、そのありとあらゆる個人情報が、ここまで報道する必要があるのかと首をかしげたくなるほど、これでもかこれでもかと活字や映像を駆使して、「神」である「大衆」のもとに届けられる。そして、「神」がその「贄」を堪能ししゃぶり尽くした頃、ようやく、「犯人」という名の最高神官のマスクが剥《は》ぎ取られ、最後の「生き贄」として「神」の前に引き出される。
「神」はその「生き贄」に飛びつき、ばらばらに引き裂き、一滴の血も残らないほど食らい尽くした後で、ようやく「祭り」は終わりを告げるのだ。
満足した「神」は、「贄」の血で汚れた口を拭《ぬぐ》い、また退屈で平和な日常―――職場や家庭や学校へと何食わぬ顔をして戻っていく。そして、日々の労働や勉学に勤《いそ》しむのである。次の「祭り」がはじまるまで……。
ただし、この「神」は絶対ではない。ついさきほどまで他人が犠牲になった犯罪の報道を自宅のテレビで「楽しんで」いた者が、一歩、外に出たとたん、見も知らぬ人間にさしたる理由もなくナイフでめったざしに刺され、翌日のテレビには、自分が「罪もない被害者」として顔写真入りで報道されるということも、もはやありえないことではない。いつ「神」の座から転落して、自らが「贄」になるのかは誰にも分からない……。
「……それで、あれから警察の捜査は進んでいるんですか。『真女子』の身元は分かったんでしょうか?」
そう聞くと、沢地は暗い声で言った。
「それがねえ、いくら聞いても警察は、『もっか捜査中』というだけで何も教えてくれないのよ。まあ、下手に教えると、またわたしがマスコミの前で何かしゃべると警戒しているのかもしれないけれど、今のところ有力な情報は何もつかんでないというところが本音かもしれないわ。理系の同僚に掲示板に残ったアクセスログを解析してもらったら、案の定、海外のサーバー経由だったみたいだし。となると、たとえ警察が相手のプロバイダーに問い合わせたとしても、『真女子』にたどりつくのは難しいかもね。それにメールにしても」
と沢地は続けた。殆どというか全部が悪戯にすぎないと思うが、たとえ、その中に本物の「真女子」からのものがあったとしても、匿名メールの山からそれを判別するのは不可能に近いと……。
「とりあえず、ホームページの方はしばらく閉鎖するわ。まあ、人の噂《うわさ》もナントヤラと言うから、そのうち、ほとぼりがさめたら、またアドレスでも変えて再開するつもりよ」
電話を切る直前、沢地逸子は少し明るい声になってそう言った。
八月二十六日。
蛍子は、「NIGHT AND DAY」のカウンターにいた。一杯目のカクテルを飲み干した頃、ようやく伊達浩一が現れた。
前日の夜、伊達から電話があって、「葛原日美香」の身元調査がほぼ完了したとの連絡を受け、その調査結果を聞くために、例のバーに立ち寄ったのである。
「……一応、彼女に関するデータは、この書類にまとめておいた」
伊達はカウンターに座るやいなや、挨拶《あいさつ》も抜きで、持っていた茶封筒から、クリップで綴《と》じた数枚の書類を出して、蛍子の前に置いた。
「ずいぶん早かったのね。この手の調査って、もっと時間がかかるのかと思っていたわ」
そういうと、伊達は、にやりと笑って、
「昔なじみの依頼ということで優先的にやったからね……」と言いかけ、
「あ、そうだ。先に言っておくけれど、葛原日美香は改名していたよ。今の名前は神日美香《みわひみか》になっている」
「改名って……結婚したってこと?」
書類を手に取りながら、蛍子は驚いたように隣の男を見た。
火呂の話では、日美香にはもっか結婚話が出ているということだったが、早くもその話がまとまったのだろうか。一瞬そう思ったのである。
「いや、そうじゃない。養子に行ったんだよ」
「養子……?」
「ああ。そこにも書いておいたが、その神家というのは、葛原日美香の母がたの実家にあたるようだ。養父になった神聖二という男は、日美香の母親の実兄らしい」
「つまり、葛原八重がなくなったので、その兄である伯父《おじ》の養女になったってこと?」
念を押すように訊《たず》ねると、しかし、伊達はかぶりを振った。
「葛原八重じゃない」
「え。葛原八重じゃないって……」
「倉橋日登美の方だよ」
伊達はそう言って、奇妙に輝く目を蛍子の方に向けた。
「倉橋日登美のことが分かったの?」
蛍子は驚いたように訊ねた。とても、あれだけの情報では、倉橋日登美の身元の方は無理かなと半ばあきらめていたのだ。
「きみから話を聞いたときは、これだけではという気がしていたんだが、ひょんなことからこの女性の身元はすぐに割れたんだよ」
伊達は興奮を隠せない表情で言った。
「どういうこと?」
「実は、うちのスタッフの中に、『倉橋日登美』という名前に聞き覚えがあるという人がいてね。昔、新聞記者をやっていた人で定年後うちに来てもらったんだが、この御仁が、『倉橋日登美』という名前を何かの事件がらみでおぼえていたんだよ。それで、古い新聞データを徹底的に調べてみたら……」
伊達はそう言って、茶封筒から、さらに新聞記事をコピーしたような紙を出し、それを蛍子に見せた。
「こんなものが出てきた」
ざっと読んでみると、それは、昭和五十二年の夏に起きた悲惨な殺人事件の記事だった。新橋の駅前で「くらはし」という蕎麦《そば》店を営んでいた店主一家が、解雇をめぐってのトラブルから、深夜、住み込み店員だった十八歳の少年に刺殺されたという事件である。当時二十六歳だった倉橋日登美は、この事件で、父親と夫、そして五歳になる長男を失った被害者だというのである。
「これは……」
その古い新聞記事のコピーから、蛍子は愕然《がくぜん》としたような顔をあげた。
「もちろん、これだけでは、まだ、葛原日美香の実母だという倉橋日登美と、その新聞記事の倉橋日登美とが同一人物かどうかは分からなかったんだが、調べていくうちに、どうやら、同一人物らしいということが分かってきたんだ……」
伊達は言った。
「で、でも、これはどういうことなの?」
蛍子はやや混乱しながら言った。
「事件が起きたのは昭和五十二年の七月とあるけれど、もし、この倉橋日登美が、火呂と日美香の実母だとしたら、彼女は、翌年の九月に二人を生んだことになるのよ? でも、夫だった人はこの事件で亡くなったはずだし……」
「そこがどうも妙なんだ。葛原日美香の件を先に片付けてからと思ったから、まだ、そちらの方は突っ込んだ調査はしてないんだが、どうやら、倉橋日登美は、事件のあと、家も店も売り払い、もう一人生き残った三歳の娘を連れて、信州にある母がたの実家に身を寄せたらしい」
「その実家というのが……」
「葛原日美香が養子に行ったという神家だったんだよ。この神家というのは、聞くところによると、代々、日の本神社という古社の神官を勤める家柄で、古事記にもその名を残しているという、いわば、地方の名家ってやつだな。日美香の養父になった神聖二という男は、今の宮司《ぐうじ》らしい。事件のあと、倉橋日登美はこの実兄を頼って行ったんだろう。ところが、翌年、なぜか、彼女は、この神家を出て、新宿のバーに勤め、誰にも知らせず双生児の赤ん坊を産み落としたということになる……」
「その三歳の娘というのは? 連れて出たのではないの?」
「そこまでは分からない。一緒に出たのではないとしたら、この娘は今でも実家の方で暮らしているんだろうな。詳しいことは、その神という家を直接当たれば分かるだろう。倉橋日登美がこの神家にいる間に、一体、何が彼女の身に起こったのか……」
伊達は何やら考えこみながら言った。
「それに……この神家というのがどうも引っ掛かる」
「引っ掛かるって?」
「まだ裏を取ってないから、確かなことは言えないが、どうやら、この神家というのは、新庄貴明の生家でもあるらしい……」
「新庄って、まさか、大蔵大臣の?」
新庄貴明といえば、保守派の最大派閥を率いる新庄信人の女婿で、数年前に信人が急死してからは、舅《しゆうと》の地盤と人脈を引き継ぎ、その政治家としての能力は舅以上とも言われ、まだ五十前の若さであるにもかかわらず、次期総理との呼び声も高い人物である。
さすがに「えっ」と目をむくと、伊達は頷《うなず》いた。
「今の宮司は新庄の弟らしいんだよ」
「ということは、倉橋日登美は新庄貴明の妹だったってこと?」
「いや、それがそうではないらしい……」
「でも、そういうことになるんじゃないの? 神聖二という人が倉橋日登美の実兄で、その神聖二が新庄貴明の弟だとしたら……」
「それが、戸籍の上ではそうではないらしい。神家というのは、神に仕える家柄というせいか、かなり複雑な家族構成になっているようなんだ。新庄とこの弟というのも、戸籍の上では兄弟になっているが、実は兄弟ではないという噂もあるし……。まあ、そのへんは現地に行ってみればはっきりするだろう」
「現地へ行くって……まだ調べるつもりなの? 倉橋日登美のことだったらこれだけ分かれば、わたしの方は別に」
蛍子がそう言いかけると、
「きみの依頼とは関係ない。俺《おれ》が個人的に興味をもったんだ。どうも、何か引っ掛かる。探偵としてのアンテナにビンビン引っ掛かってくるものがある。ただの偶然かもしれないが、新庄がこの件にからんでいるというのも気になる。古い記事によれば、倉橋日登美の一家を惨殺した犯人の店員を紹介したのが、当時まだ舅の秘書をしていた新庄だったということらしいが……」
「養母の死後、実母の兄にあたる人と養子縁組をしたということは、葛原日美香、いえ神日美香は既に自分の出生のことを知っていたということなのね? 葛原八重から聞かされていたのかしら。としたら、火呂のことも……」
蛍子は言った。
もし、日美香が既に自分に双子の妹がいることを知っていたとしたら、火呂が彼女に会いに行ったとしても何の差し支えもないのではないか。
これは火呂にとっては朗報ではないか。
「いや、それがそうではないらしい。新田佑介の話では、日美香が葛原八重の実子ではなかったことを知ったのは、八重の死後だったようだ」
伊達は言った。
「新田佑介って?」
「日美香の縁談相手だ。彼女の大学時代の先輩で、今はある大手自動車メーカーのエンジニアをしている男だが、実をいうと、日美香が伯父にあたる人物と養子縁組をしたという話は、この新田から仕入れたんだよ」
「縁談相手に会ったの?」
蛍子はやや声を張り上げた。
「まさか、探偵だなんて言わなかったでしょうね。もし、相手に不審がられて破談にでもなったら」
それを心配したからこそ、伊達のような調査のプロにこの件を依頼したのにと、咎《とが》めるように言うと、伊達は笑って、
「其《そ》の件なら心配しなくていい。俺が首突っ込む前に、そっちの話はとっくに流れていたよ」と言った。
「え……」
「確かに、この新田という男と神日美香は婚約寸前までいっていたようだ。葛原八重が事故死したのも、新田の両親に挨拶に行く途中だったというのも事実だった。ただ、結局、この縁談はお流れになった。そんな話を日美香の周辺から聞き込んだから、新田に会いに行ったんだよ」
「なぜ破談になってしまったの?」
「さあね。新田もその件に関しては今だに釈然としていないという顔だったな。なぜ、一度は婚約指輪を快く受け取ってくれた日美香がそれを突っ返してきたのか……」
「彼女の方から断ったってこと?」
「らしいね。少なくとも新田側からストップがかかったわけではないらしい。それどころか、新田としては、日美香が伯父夫婦の養女になると聞かされて、それまで縁談の唯一の障害になっていた彼女の私生児問題がこれで解消されると、かえって喜んでいたというのだ。養子先が地方の名家ということもあって、これなら代々学者を輩出している名門新田家とも釣り合いが取れるってね。それまで、二人の結婚に難色をしめしていた親戚《しんせき》筋からも、『それならば』とようやくGOサインが出たというのだよ。
ところが、どういうわけか、土壇場にきて、肝心の日美香本人が心がわりしたということらしい。理由を聞いても『結婚できない事情ができてしまった』の一点張で、そう言われて新田の方も引くには引いたが、あの顔は、まだ未練たらたらって感じだったな……」
伊達はそう言って、新田佑介の顔でも思い出したのか、意味ありげな含み笑いをすると、
「奴を見てたら、昔の自分を思い出してしまったよ」
「……」
「……日美香が実母である倉橋日登美のことを知ったのは、全くの偶然で、葛原八重の遺品の中にあった一冊の本がきっかけだったというのだ。それまでは八重が実母だと信じきっていたらしい。つまり、葛原八重は死ぬまで娘の出生のことは打ち明けていなかったということだ。だから、実母のことまでは分かっても、双子の妹がいることまでは知らないかもしれない。少なくとも、新田からはそんな話は聞けなかった」
「その本というのは……?」
「なんでも、どこかの高校教師が自費出版した『奇祭』に関する本らしい」
「きさい?」
「祭りだよ。その本の口絵に、倉橋日登美らしき女性が巫女《みこ》の衣装を着て写っていたというのだ。その顔があまり自分に似ていたので、不審に思った日美香が、この本の著者に会って話を聞いたりしているうちに、どうやらこの女性が実母だと知ったということらしいね」
「巫女の衣装ということは、倉橋日登美は、神家に身を寄せている間に、巫女のようなことをしていたってことかしら?」
「そういうことになるな。実をいうと、この本の著者である真鍋《まなべ》伊知郎という男に、明日、会うことになっているんだ」
「明日?」
「ああ。本の巻末に著者の住所が載っていたらしくて、新田がそれを覚えていてくれたんだよ。鎌倉在住らしい。それで、電話帳を当たったら、すぐに真鍋の電話番号が分かった。連絡を取ってみると、高校の方は定年退職して隠居生活をしているというので、さっそく、明日会う約束をした。真鍋に聞けば、長野にいた頃の倉橋日登美のことが何か分かるかもしれない……」
八月二十七日。
伊達浩一は、「真鍋」と表札の出た門扉に付いたインターホンを鳴らした。年配の女性の声で応答があり、「先日電話をした伊達という者ですが」と名乗ると、「どうぞお入りください」という返事があった。
門をくぐり、ささやかだが手入れの行き届いた庭を通り、玄関に行くと、真鍋の妻らしき上品そうな老婦人が出迎えてくれた。
応接間らしき部屋に通され、しばらくすると、べっ甲縁の眼鏡をかけた六十年配の小柄な男が入ってきた。
「私が真鍋ですが」
男はそう言ってソファに座った。
「突然お邪魔しまして……」
伊達はさっそく名刺を出して渡すと、「実は」と用件を手短に伝えた。
「つまり……倉橋日登美さんのことをお調べになっているというのですな?」
腕組みしたまま伊達の話を聞いていた真鍋が言った。
「ええ。それで、さしつかえなければ、その『奇祭百景』という本を見せて戴《いただ》けないかと……」
そう言うと、真鍋は鷹揚《おうよう》に頷いて、「べつにかまいませんが」と答えた。
そのとき、さきほどの老婦人が茶菓を載せた盆を持って入ってきた。
「おい。アノ本を持ってきてくれないか」
真鍋は妻に言った。それだけで通じたらしく、老妻は頷いただけで出て行った。
「しかし、奇妙なものですな……」
真鍋は妻が運んできた茶を口元に運びながら、伊達にというより、殆《ほとん》ど独り言のように呟《つぶや》いた。
「あの本がらみで訪ねてきたのは、あなたを入れて、これで四人になりますよ」
「日美香さん以外にもどなたか……?」
伊達が身を乗り出すようにして聞くと、
「最初は、もう二十年も昔になりますが、葛原八重さんという女性がね。聞くところによると、その日美香さんという娘さんの養母にあたられる人だとか。そのあとは、あれは、去年の十一月頃でしたかね、週刊誌の記者だという人がやっぱりこの本のことで訪ねてみえて……」
「週刊誌の記者?」
伊達は聞き返した。週刊誌の記者が一体何のために……?
「ええ。確か、週刊『スクープ』の達川《たつかわ》……そうそう、達川|正輝《まさてる》という記者でしたよ」
「何を聞きに来たんです?」
「それが、今一つ、相手の目的がよく分からなかったんですが、とにかく、倉橋日登美さんのことで聞きたいことがあると……ああ、そういえば、この達川という記者さん、亡くなったようですな」
真鍋は、思い出したように言った。
「亡くなった?」
「二カ月くらい前でしたかな。自宅のマンションから転落死したとか。まあ、ひょっとしたら、同姓同名の別人かもしれませんが、新聞やテレビで報道された顔写真は私が会った達川さんによく似ていたから、おそらく、あの達川さんだと思いますがね」
倉橋日登美の件を週刊誌の記者が調べていて、しかも、その記者が、二カ月ほど前に自宅マンションから転落死……?
伊達の胸が妙な具合に騒いだ。これは単なる偶然だろうか。そういえば、そんな記事を読んだような記憶があった。確か、自殺とも事故ともつかぬ事件ではなかっただろうか……。
応接間のドアが再び開いて、真鍋の妻が例の本を持って現れた。
「これですよ」
真鍋は妻から手渡された本をテーブル越しに伊達の方に差し出した。
礼を言って、その本を受け取ると、さっそく中を開いてみた。
なるほど、口絵の部分に、白衣に濃い紫色の袴《はかま》を着けた女性がほほ笑みながら写っていた。長い黒髪を後ろでひとつに結び、年の頃は二十歳そこそこに見える。かなりの美形だった。
「この方が倉橋日登美さんですか……?」
そう聞くと、真鍋は大きく頷《うなず》いた。
「その頃、私は、日本の祭り、とくに『奇祭』と呼ばれる変わった祭りに大いに興味がありましてな、暇を作っては、日本中のそうした祭りを見て回っていたんですよ……」
真鍋の話はこうだった。昭和五十二年の晩秋、真鍋は、かねてより「奇祭」という評判を聞いていた日の本神社の「大神祭」という祭りを見るために、長野県の日の本村を訪れた。長野駅から乗ったバスを降り、三日ほど泊めてもらうことになっていた日の本寺という寺に向かう途中、たまたま、巫女姿の若い女性と出会い、寺への道を聞いたところ、それが倉橋日登美だったのだという。
「……倉橋さんも寺へ行くところだったので、同行して、そこで、日の本寺の住職も交えて、『大神祭』について色々と話を聞きましてな、口絵の写真は、そのとき、寺の境内で撮ったものなんですよ。見ての通り、奇麗な人だったし、巫女さんの衣装といえば、赤い袴が相場なんですが、紫色の袴姿というのも珍しいような気がしたもので、是非、記念に撮っておこうと思いまして。何でも、紫色の袴の方が古式にのっとっているそうですな。日の本神社というのは、聞くところによれば、千年以上も続く古社だそうですから……」
真鍋は言った。
「そのとき、倉橋さんはご自分の身の上のことなど、何か話されましたか?」
「ええ少し。てっきり地元の人かと思ったら、そうではなくて、生まれはこの村だが、育ったのは東京だそうで、村に戻ってきたのも、ほんの数カ月前のことだとおっしゃってましたな……」
真鍋は思い出すように言った。
「ご家族のことは何か……、たとえば、倉橋さんには、当時、三歳になるお嬢さんがいたはずですが?」
「ああ、確か、その年の一夜日女《ひとよひるめ》に決まったお嬢さんですな……」
「ひとよひるめ?」
「一夜日女のことなら、その本に詳しく書いてありますよ。いわば、『大神祭』の主役ともいうべき存在です。日の本村では、巫女さんのことを『日女《ひるめ》』と呼ぶ習わしがあって、これは、代々、神家に生まれた女性が世襲で引き継ぐものらしいのです。母から娘へと。ずっと東京で暮らしていた倉橋さんが生まれ故郷である日の本村に帰ってきたのも、なんでも、事故だか事件で娘さん以外のご家族をいっぺんになくされたせいらしいのですが、それだけではなくて、その年の『大神祭』の『日女』になるために、神家から是非にと請われて戻ってらしたとか……。
まあ、最近のお手軽神社などでは、巫女さんといっても、女子大生のアルバイトだったりするのが殆どなんですが、さすがに千年以上も続く古社ともなると違いますな」
「それでは、当時三歳だったお嬢さんが、今では、その『日女』というのになっているということですか?」
「いや、それが……。達川という記者の話では、そのお嬢さんは亡くなったそうです。その年の『大神祭』で一夜日女を勤めた直後、病気か何かで」
「亡くなった……」
伊達は呟くように言った。そうか。だから、倉橋日登美は、翌年、一人で村を出たのか……。
「あの、できれば、この本をしばらく拝借できませんか?」
伊達は手の中にある本を真鍋に見せるようにして言った。
「ああ、それなら差し上げますよ。そんな素人の書いたものに興味がおありなら……」
真鍋は笑いながら言った。
「……これがその本?」
蛍子は伊達から渡された本を手に取って眺めた。タイトルは、「奇祭百景」とある。
またもや伊達に呼び出されて、例のバーにいた。
「口絵を見てごらん。そこに写っているのが倉橋日登美だそうだ」
伊達は言った。
蛍子は、何げなく本の表紙を開き、口絵の写真を見て、はっと息を呑《の》んだ。そこに写っている巫女姿の女性の顔が、姪《めい》の火呂にあまりにも似ていたからだった。これが倉橋日登美だとしたら、彼女が火呂の実母であることは、この写真を見ても、もはや疑いようがなかった。
「……真鍋さんの話では、昭和五十三年の三月、その本が刷り上がってきたときに、取材や宿泊等で世話になった日の本寺の住職|宛《あ》てに、倉橋日登美の分も含めて二冊、サインをして送ったというのだよ。その一冊を日美香が持っていたということは、新田佑介の話と合わせると、おそらく、住職からその本を受け取った直後、倉橋日登美は一人で村を出て上京し、彼女の死後、同居人だった葛原八重にその本が渡り、それが二十年後、事故死した養母の遺品として、日美香の目に留まったということだろうな。奇しくも、一冊の本が一人の若い女性の出生の秘密を暴露したというわけだ」
「倉橋日登美は、やはり、一人で村を出たの? 三歳の娘を残して……?」
ふと気になって聞くと、
「その娘なら亡くなったようだ。その年の十一月に行われた『大神祭』で一夜日女を勤めた直後に病気か何かで……」
「一夜日女って?」
蛍子が聞き返した。
「一夜日女のことなら、その本の『大神祭』の項に詳しく書かれているよ。日の本神社では、巫女を『日女《ひるめ》』と呼ぶ習わしがあったようで、それというのも、日の本神社の祭神というのが天照大神だからだ。『日の神』に仕える『妻』という意味で、巫女を『日女』と呼ぶのだと本には書いてある……」
「ちょっと待って」
蛍子は慌てて言った
「天照大神って女神でしょ? それなのに、『日の神』に仕える『妻』ってどういうことよ? それじゃ、まるで、天照大神が女神ではなくて」
「アマテラスはアマテラスでも、日の本神社のアマテラスは、どうやら日本神話に出てくるアマテラスとは違うらしい。男神で、しかも蛇だというのだ……」
「蛇?」
蛍子は思わず声を高くした。
「日の本神社の由来を読むと、村を作ったのは物部氏の末裔《まつえい》ということになっている。六世紀頃、大陸から伝来した仏教をめぐって、崇仏派の蘇我氏《そがし》と対立し、蘇我氏との戦いに敗れた物部氏の残党が、大和を追われ、信州の山奥まで逃げ延びて作った村だというのだが……まあ、詳しいことはそれを読めば分かる」
「それで、火呂たちの父親のことは? 何か分かった?」
「いや、それがね……ちょっと妙なんだよ」
伊達は首をかしげるような風をした。
「妙って?」
「その本にも書いてあるが、『日女』は『神の妻』として、生涯独身を義務づけられるというのだ。だから、彼女が、もし『日女』として村に帰ったのだとしたら、その後、再婚したとは考えられない。ただ、真鍋さんの話では、『日女』が独身を義務づけられるといっても、それは、表向きの話であって、実際には、結婚という形こそ取れないが、世襲である『日女』の血を絶やさないためにも、事実上の夫を持つことは許されているというのだ。そして、その男との間に子供ができれば、それは『大神の子』として認知され、神家の籍に入れられ、宮司《ぐうじ》の子として大切に育てられるのだという。
そういえば、この神家の出身である新庄貴明と、今の宮司の神聖二という男が、戸籍上は兄弟ということになっているが、本当は違うらしいという噂《うわさ》は、どうやらこのあたりの複雑なお家事情から出た話かもしれないな。
もっとも、事実上の夫といっても、誰でもいいというわけではなくて、その年の三人衆の中から選ばなければならないという古くからの村のしきたりがあるというのだが……」
「三人衆って?」
「『大神祭』で大神の役をする三人の若者のことだよ。この三人衆には、大神の霊が降りたとされ、三人衆に選ばれた者だけが、次の祭りまでの一年間だけ、『日女』の事実上の夫になる権利があるというのだ。だから、そう考えると、『日女』であった倉橋日登美は、この年の三人衆の中の誰かと恋愛関係になり、その男の子供を身ごもったということになるのだが……」
「でも変だわ。だとしたら、なぜ、彼女は、子供を村で生まなかったのかしら。生まれてきた子供は神家の籍に入れられて大切に育てられるのでしょう? だとしたら、なぜ、村を出て……」
「うむ。そこが謎《なぞ》なんだが、ひょっとすると、子供の父親は、その三人衆というのではなかったのかもしれない。それで、村の掟《おきて》を破ったということで、村に居づらくなったとも考えられるが……まあ、そのへんは、どうもまだ裏に何かあるって感じだな。何かあるといえば」
伊達はようやく本題にはいるという口調で言った。
「もう一つ、気になることを聞き込んだ」
「なに?」
「週刊『スクープ』の記者がこの件について調べていたというんだ」
「この件って、倉橋日登美のこと?」
「ああ、しかも、この記者、達川という男だが、二カ月ほど前に、自宅マンションのベランダから転落死している……」
「転落死って自殺? それとも」
「遺書の類いはなかったらしいが、自殺の動機らしきものはあったようだ。真鍋の家を訪ねた直後、週刊『スクープ』の方は退職したようなんだよ。編集部の元同僚の話では、編集長とやりあって、達川の方から辞表をたたきつけたということらしいが。しかも、それが原因かどうか知らないが、そのあと離婚している。女房は五歳の子供を連れて実家に帰っちまったらしい。
記者をやめた後は、定職にもつかず、かなり荒れた生活をしていたみたいだ。そんな生活状態だったことや、遺体からかなりの量のアルコールが検出されたということから見て、酒に酔った上での衝動的な自殺、あるいは事故という見方が強いらしいが……」
伊達は考えこみながら言った。
「他殺の疑いもあるらしい」
「他殺?」
「転落直後に、達川の部屋から数人の若い男たちが出てくるのをマンションの住人が見たというのだよ……」
「……」
「倉橋日登美のことを調べていた週刊誌の記者が変死した。単なる偶然かもしれないが、どうも気になる……」
「でも、その達川という記者は、どうして倉橋日登美のことを調べていたの? やっぱり二十年前の事件がらみ?」
「いや、それが、元同僚の話では、最初から倉橋日登美のことを調べていたわけではないらしい。最初は新庄貴明のことを調べていたというのだ。まあ、新庄といえば、次期総理の呼び声も高い時の人だから、いわば旬のネタということで狙《ねら》っていたんだろう。おそらく、新庄の若い頃のことを調べているうちに、彼が少なからず関係していた、あの二十年前の蕎麦《そば》店一家惨殺事件に辿《たど》りついたということだろうね。
それに、達川が編集長とやりあったというのも、倉橋日登美というよりも、この新庄ネタがらみだったらしいんだよ。ただ、元同僚が知っているのはここまでで、後は、達川とやりあったという編集長に直接あたるしかないのだが、この編集長というのが、あいにく、今年の三月、定年退職して、今は栃木の方に引っ込んでいるというんだ。一応、連絡先は聞いてきたから、明日にでもアポを取ってみようとは思っているが」
「なんだか、妙な展開になってきたわね……」
蛍子は呟《つぶや》くように言った。
その夜、いつものように冷たいシャワーを浴び、部屋に戻ってくると、蛍子は、さっそく、伊達から預かってきた真鍋の本を取り出した。
「大神祭」(日の本神社)という項を開くと、そこには、日の本村の由来と、「大神祭」という祭りについての詳細な記述があった。
日の本村というのは、伊達の話にもあったように、六世紀頃、蘇我氏との権力闘争に敗れ、中央を追われた物部氏の残党が作った村で、「日の本」という村の名前も、太古、九州から大和一帯を実質的に支配していた物部王国の名前をそのまま村名にしたとある。
物部伝承によると、そもそも、「日本」という国号の由来は、この物部氏の神祖ニギハヤヒノミコトが、天磐船《あめのいわふね》にうち乗り、天降りしたときに、「虚空《そら》に浮かびてはるか日の下を見るに、国有り。因りて日の本と名付く」と言ったことから名付けられたのだという。
新興勢力でもあった蘇我氏との闘争に敗れ、当時は、科野《しなの》と呼ばれていた信州の山奥に逃げ延びたあとも、太古、日本という国を支配していた物部氏の子孫であるという、いわば民族的な誇りのようなものが、この村名には反映されているようだと著者である真鍋は書いていた。
ただ、この記述はあくまでも、「物部氏の子孫」だと名乗る村人から取材して得た情報だけで成り立っているらしく、ここに書かれていることが果たして真実かどうかは怪しいものだと、蛍子は読みながら思った。
元来、日本人には、「判官びいき」という言葉まであるように、権力闘争に敗れた歴史的敗者に、心情的に肩入れするようなところがある。それの最も顕著な例が、あの平家伝説であり、「判官びいき」という言葉の元にもなった義経伝説だろう。
物部氏というのが、この本に書かれているように、太古、日本を実質的に支配していた部族かどうかは知らないが、仏教をめぐって、蘇我氏との権力闘争に敗れた歴史的敗者であることは間違いない。そういった意味では、源氏に敗れて哀れな最期をとげた平家や、兄、源頼朝に迫害され追われたという義経と一脈通じるものがある。
これといった資源を持たない山奥の村などでは、明らかに観光狙いでこうした落人《おちうど》伝説を捏造《ねつぞう》するところもあるようだ。
そもそも、物部氏というのは、蛍子の知っている限りでは、南方系とも北方系とも言われ、学者の間でも見解が一致しないほど謎に満ちた部族であり、歴史作家の中には、神祖ニギハヤヒノミコトが、「空飛ぶ船」に乗って天降りしたという物部伝承からの発想か、「物部氏宇宙人説」を唱える人までいるほどである。
だから、ここに書かれた村の由来がどの程度真実に即したものかは大いに疑問だったが、日の本村がいわゆる観光地ではないことから考えると、少なくとも、観光狙いで、「物部伝説」をかつぎ出してきたわけではないようだった。
村の由来を読み流し、さらに読み続けて行くと、「大神祭」についての記述があった。それはこのようにまとめてある。
「……『大神祭』いうのは、一言で言えば、冬至の頃、弱まった太陽の力を呪術《じゆじゆつ》で復活させる冬の祭りである。これは、物部氏が古くから「タマフリ」と称して行ってきたもので、宮廷の鎮魂祭の元ともなった由緒ある祭りである。
『大神』とは、日の本神社の御祭神でもある『天照大神』のことである。しかし、この『天照大神』とは、記紀に描かれているような女神ではなく、男神であり、しかも蛇体の神であると言われている。一説には、物部氏の神祖ニギハヤヒノミコトであるとも言う。
初冬の頃、この蛇体の太陽神の力をよみがえらせる為に、『日女』と呼ばれる巫女《みこ》たちが中心になって祭りが行われる。祭りには、毎年行われる例祭と、七年に一度の大祭とがある。
例祭では、まず、『大日女《おおひるめ》』という最高位の老巫女によって、『大神』の御霊が呼び出され、『三人衆』と呼ばれる三人の若者に降ろされる。これを『御霊降《みたまふ》りの神事』という。
『大神』の御霊が宿ったとされる『三人衆』は、神の象徴である蓑《みの》と笠、さらに蛇面と呼ばれる一つ目の仮面を被《かぶ》って、村中の家々を回り、蛇神の好物である酒と卵のもてなしを受ける。これを『神迎えの神事』という。
そして、すべての家を回り終わったあと、神社に戻り、最後に、『日女』によって酒のもてなしを受ける。満足した『大神』の御霊は『三人衆』の身体《からだ》を離れ、再び天へと戻っていき、祭りは終わる。
祭りというと、華やかな神輿《みこし》をすぐに連想しがちだが、この『大神祭』では、神輿の類いはいっさい繰り出さない。
しかし、七年に一度の『大祭』では、『御霊降りの神事』と『神迎えの神事』に加えて、『一夜日女の神事』という神事が行われる。このときは、ささやかな神輿が繰り出される。『一夜日女』とは、『大神』に捧《ささ》げられる『一夜妻』の意味で、まだ初潮を見ない十二歳以下の幼い日女が勤めると言われている。神輿はこの『一夜日女』を乗せるためのものである。
ただ、神輿といっても、担ぎ手は、日の本神社の宮司をはじめとする神官に限られている。しかも、この神事は深夜密かに行われ、神職につく者以外は、この神事の様をけっして見てはならないとされている。村人たちは、この日は、日の入りと共に早々と雨戸を閉め、家に篭《こ》もってしまう。夕方以降の外出も禁じられているからである……」
ここまで読んできて、蛍子はふと沢地逸子のコラムのことを思い出した。そういえば、沢地のコラムにも、ギリシャ神話の太陽神アポロンに触れた項で、「日本の太陽神である天照大神も実は蛇神であった」と書かれていたことを思い出していた。
そんなことを思いながら、なおも読み続けていた蛍子の目がある文章に釘付《くぎづ》けになった。それはこんな文章だった。
「……この大蛇神の子孫であるという日の本神社の宮司の身体には、しばしば蛇の鱗《うろこ》にも似た薄紫色の痣《あざ》が出ると言われている。日の本村の人々は、その痣を『大神のお印』と呼んで貴んでいる……」
蛇の鱗模様の痣……。
それが、「大神のお印」?
それでは、「日女」であったという倉橋日登美の血を引く火呂の身体にあるあの痣は、この「大神」と呼ばれる蛇神の末裔《まつえい》の証《あか》しということなのだろうか……。
八月三十日。
伊達浩一は、炎天下、ハンカチで首筋を伝う汗を拭《ふ》きながら、「小池昭平・のぶ子」と書かれた表札を掲げる農家風の一軒家の前に佇《たたず》んでいた。
週刊「スクープ」の編集部で聞いた話では、元編集長の小池は、定年退職後、栃木の古い農家を畑付きで買い取り、そこに妻と二人で引きこもって、今は自給自足の田舎生活を満喫しているということだった。
訪ねてみると、あいにく、小池は近くの畑に行っていて留守だと妻は言った。しかし、昼時ということもあって、そのうち、昼飯を食べに戻ってくるだろうと言うので、縁側でしばらく待たせてもらうことにした。
小池を待つ間、妻から聞いた話によれば、小池は東京生まれの東京育ちだったが、五十を過ぎた頃から、しきりに、老後は、田舎に引っ込んで、のんびり畑でも耕しながら暮らしたいと言うようになり、その念願かなって、廃屋同然になっていたこの農家を買い取り、晴耕雨読の毎日を過ごしているのだという。
三十分ほどそんな世間話をしていると、ようやく、野良着に手ぬぐいを首に巻き付けた小池が戻ってきた。
「ほう、探偵社の方ですか……」
伊達が渡した名刺を一目見るなり、首に巻いた手ぬぐいで真っ黒に日焼けした顔を丹念に拭《ぬぐ》いながら、小池は言った。
その姿は、どこから見ても、農夫然としていて、とても数カ月前までは、マスコミ関係の仕事についていた人物には見えなかった。
「……で、私に何か?」
「実は、以前、週刊『スクープ』の編集部にいた達川正輝さんのことで伺いたいことがありまして」
そう言うと、小池の赤銅色の額にやや不機嫌そうな皺《しわ》が刻まれた。
「ああ、達川……」
口の中で呟くように言う。
「達川さんが亡くなったのはご存じですか」
重ねて聞くと、小池は渋い表情のまま頷《うなず》いた。
「テレビのニュースで知りました」
「編集部で聞いた話では、達川さんが退職する前、彼が持ち込んだネタのことで小池さんと対立したことがあったとか。できれば、そのへんの話を詳しくお聞かせ願えないかと……」
「達川君は、やはり、自殺だったんですかね?」
小池は、縁側に座り、妻が運んできたスイカの一切れを手に取りながら、逆に聞き返した。
「ニュースでは、自殺らしいとか言っていたが……」
独り言のように言う。
「そのへんはまだなんとも……。聞くところによると、達川さんが持ち込んだネタというのは、大蔵大臣の新庄貴明氏に関わるものだったとか?」
伊達は小池の質問をさりげなくかわして、話を続けた。
「そのネタというのは、女性がらみですか。それとも汚職がらみ?」
そうではないことは知っていたが、あえてそう言ってみると、小池はかぶりを振って、
「いや、殺人事件ですよ。それも二十年も昔の……」と言った。
「殺人?」
伊達は驚く振りをした。
「あの新庄氏が殺人事件に関わっていたと?」
「関わるといっても、犯人の少年を被害者に紹介したというだけの話なんですが」
そう言って、小池は、ようやく重たい口を開いて、昭和五十二年の夏に起きた蕎麦屋一家惨殺事件について話してくれた。
当時、時の大蔵大臣でもあり舅《しゆうと》でもあった新庄信人の秘書をしていた新庄貴明は、『隠れた名店』という評判を得ていた、その『くらはし』という蕎麦屋の常連であったのだという。
「……ちょうど古い知り合いから、高校を中退してぶらぶらしている息子の就職口を頼まれていたこともあって、新庄氏は、この少年――矢部稔を『くらはし』に紹介したんですな。
矢部は雇われて半年くらいは、蕎麦職人になるための修行におとなしく甘んじていたんですが、そのうち、だんだん、仕事を怠けるようになり、店主に対する態度も反抗的になっていった。そして、ある夜、ついに未成年のくせに酒を飲んで来たということから店主の倉橋秀雄と口論になり、その場で解雇を言い渡されてしまった。悲劇はこの夜、起こったんです……」
その夜、一家が寝静まった後、台所から包丁を持ち出した矢部は、まず、二階に寝ていた倉橋秀雄をめった刺しにして殺し、さらに、一階で寝ていた秀雄の舅にあたる徹三と五歳になる秀雄の長男も同様にして殺害した。
凶行当時、たまたま風呂《ふろ》に入っていた秀雄の妻の日登美と、二階で寝ていた三歳の春菜という娘だけが凶刃を免れたのだという。
「……五歳の幼児をも惨殺するという凶悪事件であったことから、犯人の矢部は、未成年であったにもかかわらず、懲役刑を言い渡されたんです。ただ、この刑期にしても、事件後、矢部がすぐに自首して素直に捜査に協力し、当初から深い反省の意を表していたということや、酒に酔っての衝動的犯行だったということで、かなり情状酌量されたものだったようです。服役中も模範囚だったということで、定められた刑期よりも早く出所したらしいのですが……」
「新庄氏がその事件に関わったというのは、たんに犯人の少年を紹介したというだけですか……?」
それだけでは、「スクープ」というほどのネタではないような気がするが、と思いながら、伊達がそう聞くと、小池は猪首《いくび》を振って、
「達川はそうではないと思っていたようです」
「そうではないとは?」
「一見、解雇をめぐっての衝動殺人であったかのように片付けられてしまったが、あの事件には裏がある。すべては最初から仕組まれた計画殺人だったのではないかと言うんですよ」
「計画殺人?」
驚いたように伊達は聞き返した。
「矢部稔が、衝動殺人を装って、計画的に店主一家を殺害したということですか?」
「いや、矢部が……というより、矢部の背後にいた人物が、ですな」
「どういうことです? 矢部が主犯ではなかったとでも?」
「そうです。矢部稔は、いわゆる『鉄砲玉』にすぎなかった。あの事件には、もっと隠された動機があり、矢部の背後には、真犯人ともいうべき黒幕がいたのだと」
「まさか、その黒幕というのが……新庄貴明だとでも?」
まるで古いタイプの社会派ミステリーにでも出てきそうな話だなと思いながら、伊達は言った。
しかし、小池の返事は予想とは違ったものだった。
「達川の話では、新庄貴明もその一人だというのですよ」
「その一人? その一人とはどういうことです?」
「つまり……その」
小池は言いにくそうに口ごもりながら言った。
「あの事件は、村ぐるみの犯罪だというのです」
「村ぐるみ?」
「新庄の生まれ故郷である長野県の日の本村の……村長や神社の宮司《ぐうじ》を含めた村ぐるみの犯罪だったというのですよ」
「村ぐるみって……」
そりゃ、どういう意味だ。
しばし呆然《ぼうぜん》としていた伊達は、ようやく気を取り直したように言った。
「もしそうだとしたら、動機は何です? なぜ、日の本村の連中がぐるになって、東京の一|蕎麦《そば》屋の店主一家を惨殺しなければならなかったんです?」
「私も真っ先にそう聞きましたよ。動機は何だと」
小池は苦笑しながら言った。
「そのときの達川の答えというのが、こちらの想像を絶するものでしてねえ……。なんと、倉橋秀雄の妻だった倉橋日登美を日の本村に連れ戻すためだというんですよ」
「……」
「それというのも、倉橋日登美が、『日女』とかいう巫女《みこ》の血を引く特殊な女性だったからだというのです……」
小池は言った。
「倉橋日登美の母親は、日登美を生んですぐに亡くなったそうなのですが、もとは、日の本村の出身で、日の本神社という古社の宮司の妹だったそうです。この日の本神社というのは、千年以上も続く由緒ある古社だそうで、代々、宮司を勤める神家に生まれた女性が、世襲で『日女』と呼ばれる巫女を勤めているそうなのですが、日登美の母親も、倉橋徹三に出会うまでは、日の本村で巫女をしていたようです。それが、たまたまあの村を訪れた倉橋徹三と知り合って、恋に落ちた。だが、生まれながらにして、『神の妻』と定められた日女には生涯結婚は許されない。それで、思い余った二人は、半ば駆け落ちのような形で村を出て一緒になったらしいのですな……」
小池は話を続けた。
「……ところが、その後、日の本村では、日女が年々減り続け、とうとう、あの昭和五十二年には、秋に行われるはずの『大神祭』を司る日女がいなくなってしまったらしいのです。この『大神祭』というのは、毎年、日女が中心になって行われるらしいのです。しかも、その年の『大神祭』は、七年に一度の大祭にもあたり、中止するわけにはいかない。そんな折、それまで行方《ゆくえ》が分からなかった宮司の妹の行方が分かり、しかも、彼女には日登美という娘と春菜という孫までいたことが村の連中の知るところになった。それで、この日女の血を引く二人を村に取り戻すために、村長や日の本村の宮司をはじめとする村の顔役たちがぐるになって、あの殺人を企てたというのです……。
しかも、動機はこれだけではないと達川は言うのですよ。倉橋秀雄と倉橋徹三が殺されたのは、私刑の意味もあったのではないかと」
「私刑?」
「そうです。昔から、あの村では、『神妻』である日女には、その年の『大神祭』で『三人衆』というのに選ばれた者しか手が出せないことになっているというのです。その掟《おきて》を破った者には、凄惨《せいさん》な私刑が村の男たちによって加えられたそうです。つまり、あの殺人は、『神の女』である日女を妻にしてしまった倉橋秀雄と倉橋徹三への制裁の意味もあったというのですよ……。
すべて、最初から巧妙に仕組まれていたことだというのです。鉄砲玉には、村長の甥《おい》にあたる矢部稔が選ばれた。十八歳の少年が選ばれたのは、むろん、未成年ということで少年法が適用されるだろうから、どんな凶悪犯罪を犯しても極刑になることは稀《まれ》です。しかも、衝動的な犯行のように見せかけ、すぐに自首して深く反省している振りをして見せれば、情状酌量されて、まあ、最悪のことを考えても数年の刑で出てこれますからね。それに、たとえ前科者という烙印《らくいん》を押されたとしても、余生をあの村で送る限り、なんら支障はない。実際、出所後、矢部稔は日の本村に帰り、今では、副村長のような立場にまでなっている……
というのが達川の話だったのですが、こんな話が信じられると思いますか?」
「いや……」
伊達は思わず言った。確かに、俄《にわか》には信じがたい話だった。
「でしょう? 荒唐|無稽《むけい》の一言につきますよ。私がそう言うと、達川は、荒唐無稽なのは自分の推理ではなく、宗教にかぶれた奴らのすることで、あの日の本村というのは、村全体が一種のカルト教団のようになっているというのです。『大神』と呼ばれる蛇体の太陽神を祭る邪教徒の集まりだとね。神の名のもとには、どんな荒唐無稽なことでもやって憚《はばか》らない連中の集まりなのだと……」
「達川さんは」
伊達が口をはさんだ。
「そもそも、何を根拠にそんなことを言い出したんです? すべては彼の妄想にすぎないにしても、何かそう思い込む根拠のようなものがあったと思いますが」
「根拠というか、達川が、あの事件の真相に疑問をもったきっかけは手紙だったようです」
「手紙?」
「倉橋日登美が伯母《おば》に出した手紙です。この伯母というのは、倉橋徹三の姉にあたる女性で、今は、四国の松山で旅館業を営んでいるそうですが、倉橋日登美は、あの事件の後、日の本村からこの伯母|宛《あ》てに一通の手紙を出していたらしいんです。達川は、倉橋日登美の行方を知るために、この伯母を訪ねて松山まで行き、そこで、その手紙の存在を知ったというのですが、その手紙の内容がどうも妙だというのですよ……」
「妙とは?」
「手紙には、日登美の従兄《いとこ》だと名乗る神聖二という男の訪問を受けてから、日の本村に帰るまでのいきさつが細かく記されていたようなのですが、それを読む限りでは、倉橋日登美は新庄貴明が自分の従兄であることを全く知らなかったようだと……」
「……」
「新庄は日の本神社の宮司の長男であり、倉橋日登美はその宮司の妹の娘ですから、二人はいわば従兄妹《いとこ》同士にあたるわけです。ところが、倉橋日登美はそのことを知らなかった。その伯母という女性も知らなかった。日登美からそんな話は聞いてないという。これはおかしいと達川は言うのです。その手紙によると、日登美は神聖二の訪問を受けたあと、何かと自分と娘の面倒を見てくれていた新庄に相談を持ちかけたようなのです。日の本村に帰るべきかどうかということを。
だから、もし、新庄と倉橋日登美が、このときまで、従兄妹同士であるということを互いに知らずにいたとしても、この段階で、新庄の方は気付いたはずだというのですよ。気づけば、当然、そのことを日登美に話したはずだというのです。ところが、手紙には、そのようなことは一切書かれていない。ということは、新庄が、すべてを知りながら、あえて隠していたということになる。これはおかしいというわけですな。隠すということは、そこに何か裏がある。
それに、たまたま評判を聞いて通うようになった蕎麦屋の若|女将《おかみ》が、実は、二十数年前に生き別れた従妹だったというのも、ご都合主義の三文小説じゃあるまいし、偶然にしてはできすぎだと達川は言うのです。これは偶然なんかじゃない。新庄は、はじめから倉橋日登美が自分の従妹であることを知りながら、それを押し隠し、ただの客を装って彼女に近づいたと考えた方が自然だというのです。
それともう一つ、『くらはし』に雇われたときの矢部稔の本籍地が、日の本村ではなく、群馬の桐生《きりゆう》市になっていたのも妙だと達川は言うのです。矢部は、母親と共に村を出て桐生市に移り住んだあと、本籍を移していたようなのです。これは、おそらく、矢部が日の本村の出身であることが分かれば、何も知らない日登美や秀雄はともかく、倉橋徹三に疑念を抱かれるのではないかと思い、『くらはし』に雇われるために、群馬の生まれであるかのように装ったのだと達川は言うのです。
新庄にしても、矢部にしても、なぜか、『日の本村』という村の存在を隠そうとしている。これは、この殺人の真の動機が、実はこの『日の本村』にあるからではないか。そう達川は考えたようです……」
「なるほど」
「しかしねえ、それだけでは証拠不十分というか、根拠が薄弱すぎますよ。倉橋日登美の手紙にしても、私はその手紙をじかに読んだわけではないので明言はできませんが、新庄が自分の従兄であることが書いてなかったからといって、必ずしも、そのことを知らなかったという証拠にはなりえませんからね。知っていて書かなかったということも考えられますし、矢部稔の件にしても、本籍を現住所に移す人はいくらでもいるし、何も出生地を隠すために移したとは限らない。
せめて、あの事件の生き証人ともいうべき倉橋日登美本人の口から何か聞き出せれば、話は別ですが、聞くところによると、倉橋日登美は、昭和五十三年の春に忽然《こつぜん》と村から姿を消したきり、行方はようとして分からないというじゃありませんか。これでは、裏の取りようがない。そんなわけで達川が持ち込んだネタは没にせざるを得なかったんですがね。その後、奥さんとも別れて、職にもつかず、かなり荒《すさ》んだ生活をしているらしいと聞いて、気にはなっていたんですがね。まさか、あんなことになるとは……」
小池はそこまで話して、大きなため息をついた。
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第八章
八月三十一日。
松山空港を出た伊達浩一は、ちょうど発車寸前だった道後《どうご》温泉行きのバスに飛び乗った。
週刊「スクープ」の元編集長を訪ねたあと、新橋の駅前に古くから住む住人を当たって、倉橋日登美の伯母、秋庭タカ子が、松山の道後温泉近くで「白鷺《しらさぎ》荘」という旅館をやっているという情報を得たのである。
バスは四十分ほどで道後温泉に到着した。
四国最大の歓楽温泉街として知られるだけあって、古風な明治風の建物である道後温泉本館を中心に、周囲には、ホテルや旅館、土産物店などがひしめきあい、ゆかた姿で散策する人々の姿があちこちで見かけられた。
「白鷺荘」は、純和風の典型的な老舗《しにせ》旅館だった。フロントに行って、係の者に大女将に会いたい旨を伝えてから、ロビーのソファで待っていると、しばらくして、七十年配の貫禄《かんろく》のある和服姿の女性が現れた。
秋庭タカ子だった。
「姪御《めいご》さんの倉橋日登美さんのことで伺いたいことがありまして」
名刺を渡して、そう言うと、秋庭タカ子は、名刺を見ながら、「姪とは二十年以上も会っていないので、わたしに何か聞かれても……」と、やや迷惑そうな表情をした。
「日登美さんが亡くなったのはご存じないんですか?」
そう聞くと、タカ子は、名刺から顔をあげて、「えっ」というように目を剥《む》いた。
「亡くなったって……いつ?」
「昭和五十三年の九月に……」
と答えると、
「昭和五十三年……。それじゃ、あの翌年に?」
タカ子は、呆然《ぼうぜん》と呟《つぶや》くように言った。
「病気ですか? それとも事故か何かで?」
「お産が原因だそうです。ひどい難産だったそうで」
「お産?」
タカ子は一瞬|怪訝《けげん》そうな顔をしたが、すぐに、「それで、その子供の方は……?」と聞いた。
子供の方は無事に生まれ、その後、養子に出されて、今は立派に成人しているとだけ伝えると、タカ子はそれ以上のことは関心がないのか、聞こうともせず、「そうですか」と幾分安心したような顔をした。
「実は、このお嬢さんが実母である日登美さんのことを詳しく知りたいと私どもに依頼されてきた次第でして……」
調査の目的をそうほのめかすと、タカ子の顔にようやく納得したような色が浮かんだ。
「それで……春菜は? 日登美にはもう一人娘がいたはずですが」
ややあって、思い出したように言った。
春菜の方も、昭和五十二年の秋に病死したらしいことを告げると、タカ子は、言葉が出ないという顔でしばらく黙っていたが、
「そうだったんですか。日登美も春菜もそんな昔に亡くなっていたんですか。ちっとも知りませんでした……」
ため息混じりの声で言った。
「……あの事件のあと、日登美さんは母がたの実家である長野県の日の本村に帰られたのですね? その後、日登美さんから何も連絡はなかったのですか?」
そう聞くと、タカ子は、「一度だけ手紙を貰《もら》った」と答えた。
「日の本村に着いてすぐにくれたんですが、それには元気でやっていると書かれていたので安心していたんです。それっきり、連絡は途絶えてしまい、年賀状を出しても返事が来ないので気にはかけていたのですが、こちらもつい忙しさにかまけて……。まあ、便りがないのは良い便りとも言いますから、てっきり、今もあちらで元気に暮らしているのだとばかり思っていました」
「その手紙というのは保存してありますか」
そう聞くと、タカ子は頷《うなず》いた。「ちょっと見せて貰えないか」と頼むと、「今、持ってくる」と言って中座し、すぐに手紙を手に戻ってきた。
「そういえば、昨年の秋頃だったと思いますが、やはり日登美のことで、週刊誌の記者という人が訪ねてきましてね。日登美が今どこに住んでいるのか知りたいと言って……」
タカ子は封書を伊達に渡しながら言った。
伊達は封書を受け取ると、「拝見します」と断って、中から便せんを取り出した。それを開いて、ざっと目を通してみると、そこには、流麗なペン字で、葬儀のときには何かと世話になったと伯母への礼からはじまって、日の本神社の禰宜《ねぎ》だと名乗る神聖二という男の突然の訪問を受けてから、この男と共に、日の本村に帰るまでのいきさつが事細かに記されていた。
さらに、新庄貴明のことに触れたくだりでは、「……それで、その神という人が訪ねてみえたあと、新庄さんから電話がありましたので、新庄さんに、このことを打ち明けて相談してみましたところ、そういうことなら一度村へ帰ってみたらどうだとおっしゃるので、ようやく決心がつきました」としか書かれていなかった。
「この新庄さんというのは……?」
便せんから顔をあげて、かまをかけるように聞いてみると、
「新庄貴明さんですよ、大蔵大臣の」
秋庭タカ子はすぐにそう言った。
「お知り合いだったんですか」
驚いたような振りをして、重ねて聞くと、タカ子は大きく頷いた。
「わたしも徹三の葬儀のときに一度お会いしただけで、詳しいことは知らないんですけど、『くらはし』をいつも贔屓《ひいき》にしていてくれたそうです。あの事件のあとも、なんでも、『くらはし』に犯人の少年を紹介したのが新庄さんだったそうで、その責任を感じてか、日登美母娘にはそれはよくしてくださったそうで……」
「新庄氏も日の本村の出身だったということはご存じでしたか?」
そう聞くと、タカ子ははっとしたような顔になった。
「そうそう。そういえば、そんな話を、あの記者さんから伺って、びっくり仰天したんでございますよ。新庄さんが日の本村の出身で、日登美とは従兄妹《いとこ》同士の間柄だったなんて……」
「日登美さんからは、そのことは何も?」
「聞いてません」
「しかし、だとすると妙ですね。この手紙では、神聖二という男の訪問を受けたあと、日登美さんは、新庄氏に電話で相談したと書いてあります。たとえ、それまで知らなくても、このときに、互いに従兄妹同士であることは分かったはずですが。少なくとも新庄氏の方には」
そういうと、タカ子も首をかしげた。
「そうですねえ。あの記者さんも同じようなことを言ってましたけれど……」
「あと……これはどういう意味でしょうか」
伊達はそう言って、日登美の手紙の末尾の方に書かれていた文面を読み上げた。ざっと読んだときに、なんとなく引っ掛かった箇所だった。
「『父のことはまだ何も分かりません。この村では、日女の産んだ子供は、みな『大神の子』とされているそうです……』とありますが、この父というのは、倉橋徹三さんのことでしょうか?」
そう聞くと、秋庭タカ子はかぶりを振った。
「いいえ、それは、日登美の実の父親のことです」
「実の父親って……日登美さんの父親は徹三さんではなかったんですか」
「違います。徹三が緋佐子さん―――日登美の母親ですが―――と知り合ったのは、わたしがこちらに嫁いだ後のことなので、詳しいことはわたしも知らないのですが、聞いた話では……」
そう言って、タカ子は、倉橋徹三と神緋佐子のなれそめを話してくれた。当時、蕎麦《そば》職人として修行中だった徹三が、より良い蕎麦粉を求めてあちこちを旅していた頃、長野の日の本村が蕎麦所であることを聞き付け、訪ねて行ったときに、そこで巫女《みこ》をしていた緋佐子と知り合ったのだという。
「……徹三と緋佐子さんが一緒になったとき―――といっても、正式に結婚したわけではなかったんですが―――緋佐子さんは既に生まれたばかりの日登美を連れていたそうです。その後、緋佐子さんがすぐに病死したとかで、徹三が日登美を自分の籍に入れて、自分の子として育てたんですよ。日登美はこのことをあの事件が起きるまで全く知らなかったようです。わたしが話すまでは……」
「……信じられないわ、そんな話」
例のバーのカウンターで、伊達から、週刊「スクープ」の元記者だった達川正輝が倉橋日登美のことを調べていた理由を聞かされた蛍子は、すぐにそう言った。
昭和五十二年のあの殺人事件が、新庄貴明を含めた日の本村の連中が仕組んだ計画犯罪だった……?
「確かに、俄《にわか》には信じがたい話なんだが……」
伊達はそう言いながら、背広の懐から封書のようなものを取り出すと、蛍子の前に置いた。
「これを読むと、達川の推理にも一理あるという気がしてきた」
見ると、かなり古い手紙のようで、宛名《あてな》は、「秋庭タカ子様」となっていた。手に取って、裏を返すと、差出人は、「倉橋日登美」となっており、住所は長野県日の本村と書かれていた。
「これは……?」
「倉橋日登美が日の本村に帰ってすぐに伯母宛てに出した手紙だ。村に帰ったいきさつが細かに記されている。秋庭タカ子にその手紙をコピーさせてくれと言ったら、持って行っていいと言ってくれた。自分が持っているより、日登美の遺児が『実母の形見』として持っている方がいいだろうと言って……」
蛍子は、封筒から便せんを取り出すと、それを読み始めた。
伊達は蛍子が手紙を読み終わるまで、二本めの煙草に火をつけて、黙ってふかしていた。
「……ほんと、変だわ」
やがて手紙を読み終わった蛍子は呟いた。
伊達の言う通りだ。確かに変だ。この文面からすると、倉橋日登美は、新庄貴明が自分の従兄であることを全く知らなかったように見える。
「どうして、新庄貴明は倉橋日登美から電話で相談を受けたとき、自分も日の本村の出身だということを打ち明けなかったのかしら……」
「新庄だけじゃない。その神聖二という男にしても、神家の連中にしても、なぜ、神家の長男である新庄のことを日登美に話さなかったんだろうか。それも妙だと思わないか?」
「そうね。手紙には、最初は従兄だと名乗っていた神聖二が、こちらに来て、本当は、母を同じにする兄であることが分かったと書いてあるわ。そこまで分かったなら、当然、新庄のことも自然に分かるはずよね……」
「神家の連中が口裏を合わせて新庄のことはあえて隠した……としか思えないな」
伊達は、喫いきった煙草を灰皿に押し付けながら言った。
「それに、それを読むと、神聖二の訪問を受けた直後に、新庄から電話がかかってきたように書かれている。しかも、新庄は日登美が村へ帰ることを強く勧めたようだ。勘ぐれば、新庄は、弟が日登美を訪ねることを前以て知っており、タイミングを図って電話をしたとも考えられる……つまり、最初から何もかもが計画的だったということだ」
「ねえ、これ、どういうこと?」
ふと妙なことに気づいて、蛍子は言った。
「この最後の方に、『父のことはまだ何も分かりません』云々って書いてあるけれど、日登美は倉橋徹三のことで何か調べていたのかしら?」
「いや、その『父』というのは、倉橋徹三のことではなくて、日登美の実父のことらしい」
「実父って、倉橋徹三は日登美の父親ではなかったの?」
「らしいね。秋庭タカ子の話では……」
伊達はそう言って、タカ子から聞いた話を蛍子に話した。
「週刊『スクープ』の元編集長は、倉橋徹三と神|緋佐子《ひさこ》はしめし併せて駆け落ちしたように言っていたが、事実は少し違うようだ。むしろ、緋佐子の方が徹三を追いかけて村を出たようだ。それに、徹三が日の本村を訪れたとき、既に日登美は生まれていたようだし……。日登美の母親である神緋佐子は日女だった。真鍋さんの話では、日女の生んだ子供はすべて『大神の子』とされるというが、おそらく、父親は、その年の『大神祭』で三人衆を勤めた誰かということになるんだろうね」
「だとしても……」
蛍子は考えながら言った。
「なんだか妙な話ね。神緋佐子は、どうして生まれたばかりの日登美だけを連れて倉橋徹三の元に行ったのかしら。この神聖二という人も緋佐子の子供だったわけでしょう?」
「幼い子供を二人も抱えて行くわけにはいかなかったんだろう。それで、まだ手のかかる乳飲み子の方だけ連れて行ったのかもしれないが……」
「でも、日女の生んだ子供は、日の本神社の宮司《ぐうじ》夫妻の籍に入れられて、大切に育てられるという話なんでしょう? それなのに、なぜ……。日登美が倉橋徹三の子だとでも言うなら一緒に連れて行った理由も分かるのだけれど。そうではないとすると、わざわざ手のかかる乳飲み子を連れて行った理由がわからないわ。生まれたばかりの赤ん坊を手放したくないという母性本能かしら……」
「ひょっとすると」
伊達が何かを思いついたような顔で言った。
「神緋佐子が赤ん坊だった日登美を連れて村から逃げた理由と、日登美が身ごもったまま村から逃げた理由は同じかもしれない……」
「どういうこと?」
「いや、俺《おれ》にもよくは分からない。ふとそんな気がしたんだ。奇しくも、倉橋日登美は母親と同じような運命を辿《たど》ったことになる。これは単なる偶然だったんだろうか。それとも……」
「それとも?」
「この二人の女に同じような行動を取らせた何かが、あの日の本村という村にあったのか。それに、春菜という娘のことも気になる。真鍋さんの話では、この娘は、昭和五十二年の『大神祭』の直後に病死したらしいというが、真鍋さん自身、その話は例の達川という記者から聞いた話にすぎないと言っていた。本当に春菜という幼女は病死したのか。まあ、あとは、あの村に直接行ってみるしかないようだな……」
「日の本村へ行くつもり?」
蛍子が聞くと、伊達は頷いた。
なんとなく嫌な胸騒ぎがした。伊達はこの件に深入りしすぎているのではないか。いや、深入りしようとしているのではないか。達川という記者にしても、この件に深入りしすぎたせいで、命を落とす羽目になったのではないか。
「もうかかわらない方がいいんじゃない?」
そんな言葉が思わず蛍子の口から出かかった。だが、それを口にはしなかった。なぜ、口まで出かかった言葉を呑《の》み込んでしまったのか。
伊達の性格をよく知っていたからだ。伊達はこの件に、仕事を離れた個人的な興味をもってしまったようだ。それは、彼の目の輝きで分かる。ここで、「もうやめろ」と止めたところで、他人の忠告に素直に従うような男ではなかった。自分が納得するまで、とことん、この件に食らいついていくだろう。それに……。
この件にかかわっている限り、こうして、彼と会う口実ができる。既に家庭をもっている昔の恋人と、誰はばかることもなく堂々と会う口実が……。
蛍子の中には、そんな狡《ずる》い思惑もあった。
玄関のドアを開けると、奥の方から賑《にぎ》やかな話し声がした。
三和土《たたき》には、若い人が履くようなスニーカーやらサンダルやらが所せましと脱ぎ捨ててある。どうやら、豪の友達が遊びに来ているらしい。
「ただいま……」
リビングに通じるガラス戸を何げなく開けた蛍子は、中の光景を見て、唖然《あぜん》として立ちすくんだ。
いずれも十代と思われる四、五人の若者が、缶ビールを片手にたむろしていた。中には煙草をふかしている者もいる。その顔に見覚えがあった。以前、豪が、「バンド仲間」と称して連れてきた連中だった。いずれも、皆、高校生のはずだった。
紅一点、火呂の顔もあった。
「ちょっと、何してるの、あなたたち……」
戸口の所で立ち尽くしたまま、叱《しか》り付けるように言うと、ようやく蛍子が帰ってきたことに気が付いた若者たちは、一瞬ばつの悪そうな顔をした。慌てて、喫いかけの煙草をもみ消す者もいた。
「あれ。叔母《おば》さん、今日は早いじゃん」
豪が言った。
「早いじゃんじゃないわよ。あなたたち、まだ高校生でしょう?」
蛍子はつかつかとリビングに入って行くと、豪の手にあった飲みかけの缶ビールを取り上げた。
「高校生が煙草ふかして酒盛りなんかしてるんじゃないわよ!」
「まあまあ、叔母さん。今日だけは大目に見てやってよ。残念会なんだから……」
笑いながらそう言ったのは火呂だった。
「残念会?」
聞けば、例のアマチュアバンドのコンテストの本選があり、残念ながら、豪たちのグループは優勝はおろか入賞すらできなかったのだという。
「でも、審査員特別賞ってのを貰《もら》ったんですよ。火呂さんのおかげっすよ。それで、残念会プラスささやかなお祝いってことで……」
バンド仲間の一人が言った。
「だからといって、まだ未成年なんだから、お酒も煙草もだめ」
蛍子は厳然と言った。テーブルに転がっているビールやチューハイの空き缶の数からすれば、彼らが一時間以上も前からここにいたことは明らかであり、十分「残念会」とやらを堪能しただろう。ここは、あくまでも大人としての威厳を示さなければならなかった。
「さっさと片付けなさい」
「何だよ。十一時過ぎないと帰ってこないって言うから……」
仲間の一人が恨めしげに豪を見た。
ぶつくさ言いながらも、空き缶や煙草の吸い殻を片付け終わると、幾分シラケたような顔つきで、バンド仲間たちはすごすご帰って行った。
やれやれと思いながら、部屋に入って、着替えをしていると、今度は、火呂と豪の言い争うような声が聞こえてきた。
「……約束が違うじゃない!」
「だから、ミュージシャンはあきらめるって言っただけだろ。大学へ行くなんて俺は一言も言ってない」
「いいえ、ちゃんと言いました。このウソつき野郎!」
「ウソつき野郎とは何だよ。このヒステリー女!」
ようやく静かになったかと思ったら、今度は姉弟|喧嘩《げんか》をはじめたらしい。
まったく、もう……。
思わず天を仰ぐと、着替えもそこそこに、蛍子は、リビングへ行った。
「何、大声出してるのよ。近所迷惑だからやめなさい!」
蛍子の方も、十分近所迷惑な大声でそうどなると、
「だって、こいつ、ウソつきなんだもの。今度のオーディションで入賞できなかったら、バンドやめて、受験勉強に専念するって約束したくせに、今頃になって大学行かないなんて言い出すんだもの」
火呂が蛍子に訴えるように言った。
「大学大学って、沖野んとこの教育ババアみたいなこと言うな! 大学行って何するんだよ。俺は大学行ってやりたいことなんか何もないんだよ」
「じゃ、大学行かないで何するのよ?」
「ボクサーになるんだよ。これでようやく決心がついた。俺はボクシングやる」
「は! ミュージシャンがだめなら、今度はボクシングですか? 世界チャンピオンでもめざす? いつまで夢みたいなこと言ってるのよ。少しは足元を見なさいよ」
「黙れ! うるさい!」
今にもつかみ合いになりそうな様子だったので、蛍子は慌てて仲裁にはいった。
「いい加減にしなさい。今、何時だと思ってるの?」
「わたし、帰る!」
憤然として火呂は立ち上がった。
「こんな馬鹿とこれ以上話しても無駄だわ。馬鹿が伝染《うつ》る」
そう吐き捨てて、リビングから出て行こうとする姪《めい》を蛍子は呼び止めた。
「火呂、ちょっと待って。ちょうどよかった。あなたに話があるのよ」
「……話?」
火呂はドアに手をかけたまま振り向いた。
「こっちに来て。見せたいものがあるの」
蛍子はそう言って、火呂の腕を取ると、部屋に連れて行った。
「そこに座って」
仏頂面で突っ立ったままの姪にそう言うと、火呂は、渋々というように、テーブルのそばに腰をおろした。
「よけいなお世話だったかもしれないけれど……」
蛍子はそう言いながら、神日美香に関するデータをまとめた書類をデスクの引き出しから取り出すと、それを火呂の目の前に差し出した。
「知り合いに探偵社をやっている人がいたんで、ちょっと調べて貰ったの」
「何……?」
「あなたのお姉さんのこと」
「……」
火呂は黙ったまま、蛍子の差し出した書類を受け取った。そして、やや強ばった表情で、その書類に目を通しはじめた。
「そこにも書いてあるけれど」
蛍子はそう前置きして、葛原日美香が、伯父《おじ》にあたる人物と養子縁組をして、「神」姓に改名したこと、火呂が聞いたという縁談話は既に破談になっていたこと、日美香もまた自分の出生についてある程度は知っているらしいことを話した。
「……あなたという妹がいることまで知っているかどうか分からないけれど、今なら、たとえ会いに行っても、相手の迷惑になるということはないんじゃないかしら」
そう言うと、火呂はしばらく、書類に視線を落としたまま、考え込むように黙っていたが、やがて、顔をあげると、
「考えてみる……。ありがとう、叔母さん」
と少し照れながら言った。
「それとね……」
蛍子はさらに、例の真鍋伊知郎の本と、伊達から渡されたばかりの倉橋日登美の手紙を取り出すと、それも火呂に見せて、昭和五十二年の倉橋日登美一家を襲った事件のことなどを全て話した。
もっとも、大蔵大臣の新庄貴明が倉橋日登美の従兄にあたり、この事件が彼をはじめとする日の本村の連中によって仕組まれた犯罪であるかもしれないなどということまでは、蛍子自身がとても信じられなかったので、話しはしなかったが……。
さすがに、自分の実母が悲惨な殺人事件の被害者であったことを知ると、火呂の顔に驚愕《きようがく》の色が浮かんだ。
「この人がわたしのお母さん……」
火呂はそう呟《つぶや》くと、真鍋の本の口絵にある写真を、まるで愛《いと》しむようにそっと指で撫《な》でた。
喫茶店の扉が開く気配がした。
火呂は、読んでいた文庫本から反射的に顔をあげて、扉の方を見た。が、入ってきたのは、若いカップルだった。
さきほどから、扉の開く気配がするたびに同じことを繰り返していた。暇つぶし用に持ってきた文庫本を読もうとしても全く内容が頭に入ってこない。同じ文章をさきほどから何十編も繰り返し読んでいた。
腕時計を見ると、約束の時間までまだ五分ほどあった。まるで最愛の恋人でも待っているような落ち着かない気分だった。
しばらくして、また扉の開く音がした。どうせ、また違うだろう。そう思って、今度は半ば意地になって顔をあげなかった。すると、コツコツというヒールの音と共に、人が近づいてくるような気配がして、
「照屋……火呂さん?」
と呼びかける涼しげな女の声がした。
今、気が付いたというように顔をあげると、目の前に、すらりとした純白のスーツ姿の二十歳くらいの女性が立っていた。
神日美香だと名乗った。
火呂は、声もなく、しばらく相手の顔を見つめていた。やや長めの髪をアップにし、きっちりしたスーツ姿のせいか、同い年には見えないほど大人びて見えた。髪形も服装も全く違っていたが、それでも、こうして向き合ってみると、同じ遺伝子を分かち合った双子であることは誰の目にも明らかだった。
まるで見えない鏡でも突き付けられたような奇妙な感覚だった。それは、日美香の方も同じだっただろう。火呂の顔を見下ろしている日美香の顔にも明らかに驚いたような表情が浮かんでいた。
昨日かけた電話では、「照屋火呂」と名乗り、「倉橋日登美」のことで会って話したいことがあると伝えただけで、双子の妹であることまでは言わなかった。
電話口で名前を名乗っても、これといって日美香の反応はなかった。もし、自分に双子の妹がいることを既に知っていたとすれば、「照屋火呂」という名前に何らかの反応を示したはずである。何も反応しないということは、自分の出生についてある程度は知っているとはいえ、双子の妹の存在までは知らないのではないかという気がした。日美香のひどく驚いたような顔を見て、火呂は、自分の推測が正しかったことを確信した。
「あなたは……」
日美香は驚きのあまり言葉も出ないという風だった。
「これを読んでください」
火呂はそう言って、バッグの中から、康恵の手紙を取り出した。口であれこれ説明するよりも、養母《はは》の手紙を見せた方が話が早いと思ったからである。
日美香は、食い入るような目で火呂を見ていたが、椅子《いす》に座り、テーブル越しに渡された手紙を手にとると、それを読み出した。やがて、手紙を読み終えて、茫然《ぼうぜん》としたような顔を便せんからあげると、
「……わたしの妹?」
と聞いた。火呂は深く頷《うなず》いた。
そして、その手紙を養母から受け取ってから、こうして会うことを決心するまでのいきさつを話した。
三年前、末期の癌《がん》に冒された養母からその手紙を渡されたこと。その手紙を読むまでは、自分が照屋康恵の娘だと信じきっていたこと。そして、思い悩んだ末に、全てを自分の胸に秘めて封印してしまうつもりでいたが、今年の五月に、偶然にも、葛原八重の交通事故死の記事を新聞で読んだこと……。
日美香は黙って聞いていたが、最初は驚き混乱しているように見えたその表情が、事の成り行きを理解するうちに、次第に落ち着きを取り戻していくように見えた。
そして、火呂の話を聞き終わると、自分のことを話しだした。
その話によると、日美香の方も、今年の五月に養母が事故死するまで、葛原八重の実子だと信じきっていたのだという。それが、葬儀の準備をしていたときに、たまたま、養母の遺品の中から、真鍋伊知郎の本を見つけ、その本の口絵にあった巫女《みこ》姿の女性が自分に似ていることに疑問を持ち、葬儀に列席していた須田加代子という、八重の昔なじみの女性に聞いてみたところ、その巫女姿の女性こそが実母であることを打ち明けられたのだという。
ただ、そのとき、倉橋日登美の産んだ子供が双子で、自分には妹がいることまでは聞かされなかったと日美香は言った。
「たぶん、この手紙からすると、須田さんもそこまでは知らなかったのね……」
そして、実母である倉橋日登美のことをもっと知るために、鎌倉に住む真鍋伊知郎を訪ねたりしているうちに、昭和五十二年の夏に実母一家を襲った殺人事件のことを知ったのだという。
「倉橋日登美――母には、この事件で亡くなった男の子と、もう一人、女の子がいたというのだけれど、この女の子は……?」
火呂がそう言いかけると、日美香の顔が心なしか曇ったように見えた。
「その女の子なら、亡くなったわ」
「亡くなった?」
「昭和五十二年の秋頃、『大神祭』という祭りのあと、風邪《かぜ》をこじらせて肺炎を引き起こしたとかで……」
日美香はそう言った。二人には「姉」にあたる春菜という幼女のことを話すとき、それまで、火呂の顔をまばたきもせずに見つめていた日美香の視線がふっと窓の方にはずされた。
その後、倉橋日登美の生家にあたる日の本村の神家を訪ね、実母の兄にあたる神聖二という男と会い、その伯父からの申し出を受けて養子縁組を結び、神家の籍に入ったことを、日美香は窓の外を見たまま語った。
「それで、わたしたちの父親は……?」
火呂がさらに聞くと、日美香は、しばらく沈黙していたが、やがて、こう言った。
「父親のことは分からなかったわ」
「分からないって……」
「神家の女は生まれながらにして日女と呼ばれる巫女なのよ」
日美香はそう言って、倉橋日登美もその日女の血を引く巫女であったことを話した。日女のことは、火呂も、蛍子から渡された真鍋の本を読んで、ある程度は知っていた。
「……あの村では、日女の子供はすべて『大神の子』とされて、本当の父親のことは一切秘密にされているらしいの。だから、伯父をはじめ、誰に聞いても、『大神の子』という返事が戻ってくるだけで……」
日美香はそれだけ言うと、あまり触れたくない話題なのか、黙りこくってしまった。
テーブルを挟んで向かい合う二人の間にやや重苦しい沈黙が続いた。
「それで……あなたはどうするつもり?」
突然、沈黙を破って、そう言ったのは日美香の方だった。
「え?」
「どちらを選ぶの?」
「選ぶ……?」
「この手紙にはこう書いてあるわ。『これからのあなたの人生は自分で選び取っていってください』って。あなたはどちらを選ぶつもり? これからも照屋康恵の娘として生きるのか。それとも、倉橋日登美の娘として生まれ変わるのか。どちらを選ぶかで、これからのあなたの人生は大きく違ってくると思うわ」
「それなら……」
選ぶも何もないと火呂は即座に答えた。自分はこれからも「照屋火呂」として生きる。それ以外の人生などありえない。将来の設計もおぼろげではあるが既に立ててある。今在学している大学の教育学部を卒業したら、沖縄に帰り、養母のように小学校の教師になるつもりだ、と。
「そこまで決心しているなら」
日美香が咎《とが》めるように言った。
「どうしてわたしに会おうと思ったの? わざわざ興信所を使ってわたしのことを調べて会いに来たのは何のため?」
「何のためって……」
火呂は口ごもった。
興信所を使って調べたのは自分じゃない。叔母《おば》の蛍子が心配して勝手にやったことだ。それに、会おうと思ったのも、別に何か目的があったわけではない。理由などない。ただ、一度会いたかっただけだ。自分の分身ともいうべき存在に……。
そう言いたかったが、なぜか言葉にならなかった。
「今、一人で暮らしているの?」
黙っていると、日美香が聞いた。
「いえ……」
上京してからは、弟の豪と共に、母がたの叔母のマンションに世話になっていたが、今はそこを出て、幼なじみと部屋を借りて一緒に住んでいると火呂は答えた。
「恋人はいるの?」
日美香はさらに訊《たず》ねた。
火呂がいないというようにかぶりを振ると、
「でも、いつかできる……」
日美香は独り言のように呟《つぶや》いた。その顔に暗い影がさしたように見えた。そういえば、蛍子から聞いた話では、日美香は大学の先輩にあたる男と付き合っており、その男とは婚約寸前までいっていたそうだが、なぜか、その話は日美香の方から断ったということらしかった。
まさか、それは……。
火呂は、真鍋の本に書いてあった、「日女は生まれながらの神妻として生涯独身でいなければならない」という言葉を思い出していた。
養母の姓を捨てて、神家の籍に入ったということは、日美香自身は、「倉橋日登美の娘」としての道を選んだということだろうか。ということは、大学を卒業したら、日の本村に帰り、彼女も実母のような巫女になるつもりなのだろうか。
ふとそんな考えが頭に浮かんで聞いてみると、日美香は首を振り、
「いいえ。わたしは日女にはならないわ」
ときっぱり言った。
「ただの日女にはね……」
神姓になったからといって、今後、日の本村に帰る気もないし、巫女として生きるつもりもない。伯父《おじ》をはじめとする村の人々も自分にそれを望んではいない。
「だって、わたしには『お印』があるから……」
日美香はやや誇らしげにそう言った。
「お印?」
「この手紙によれば、それはあなたにもあるはずよ」
日美香はじっと双子の妹の目を覗《のぞ》き込むように見た。
「胸のところに、蛇の鱗《うろこ》状の薄紫の痣《あざ》が」
火呂ははっとして、思わず、片手を胸のあたりに持っていきそうになった。やはり、日美香の胸にも、自分と同じような奇妙な痣があったのか……。
「この痣は、『大神の意志を継ぐ子』であるという証《あか》しなのよ。伯父の話では、千年以上も続く神家の歴史の中でも、このお印が女児の身体《からだ》に出たことはかつてなかったらしいわ。わたし……いえ、わたしたちがはじめてなのよ」
子供の頃から、この気味の悪い痣には悩まされてきた。なるべく人の目に触れないように気をくばってきたが、痣の意味を知ってからは、このような痣を持って生まれたことがとても誇らしいことだと思えるようになった。
日美香はそう語った。
「だから、あなたもこの痣のことで悩む必要はないわ。間違っても、手術で取ろうなんて思わないで……」
胸の痣を手術で取ろうなんて思ったことは一度もないし、これからもないと火呂は答えた。
日美香と違って、子供の頃から、この痣のことで悩んだことなどなかった。ごく自然に自分の身体の一部として受け入れてきた。友達と海で泳ぐときも、何のためらいもなく、陽の光の中に肌をさらけ出していた。赤ん坊の頃から、痣のことは近隣に知れ渡っており、「海蛇《イラブー》の生まれ変わり」などと言われもした。誰からも気味悪がられることはなかった。
それというのも、火呂が生まれ育った村には、古くから海蛇への篤い信仰があり、海蛇を海神《わだつみ》の聖なる遣いとして崇拝する風習が根付いていたからかもしれない。
そう話すと、
「あなたは幸せな環境で育ったのね。この手紙を読んでも、あなたのお養母《かあ》さんという人が尊敬できる女性だったという事がなんとなく感じ取れるし……」
日美香は呟くように言った。
火呂はその言葉に調子づいて、夢中で家族のことを話した。養母のことは、母親という以上に一人の女性として本当に尊敬していたし、小学校の教師になろうと決めたのも、養母のようになりたかったからだ。海難事故で亡くなった養父も我が子以上に可愛《かわい》がってくれた。三歳年下の異父弟も、今回のことで血のつながりが全くないことが分かっても、今までどおりの接し方をしてくれる。上京してから何かと世話になった叔母の蛍子にしても――――
「ねえ、火……照屋さん」
それまで黙って聞いていた日美香が突然遮るように言った。その声にはどこか思い詰めたような響きが感じられた。
「わたしたち、会うのはこれが最初で最後ということにしない?」
「え?」
「もう二度と会わないということ」
「……」
「あなたはわたしのことを忘れた方がいいわ。わたしもあなたという存在のことを忘れるから。これからも『照屋火呂』として生きるつもりならば、その方がいいわ。わたしのことだけでなく、母に関することはすべて忘れた方がいい。日の本村にも行かない方がいい。神家ともかかわらない方がいい。今までどおり、弟さんや叔母さんとの生活だけを大切にして、そして、いつか好きな人ができたら、その人と結婚して子供を産んで、あなたが育ったような家庭を作るのよ。あなたは、そんな平凡でささやかな人生を送るべきだわ……」
火呂はそんなことを言い出した姉の顔を声もなく見つめていた。
「……それじゃ、もう二度と会わないつもり?」
火呂の話を聞いた蛍子は、唖然《あぜん》とした表情で聞き返した。
「うん……」
火呂は泣き笑いのような表情で頷《うなず》いた。
「だって、向こうがそうしたいって言うんだもの」
九月六日。
蛍子は火呂のマンションに来ていた。前に来たときよりは、部屋の中はだいぶ片付けられていた。
「別れるとき、ここの住所と電話番号を書いたメモだけでも渡そうと思ったんだけれど、それも受け取ってくれなかった。自分の方から連絡することはないだろうからって」
火呂はそう言って肩を竦《すく》めた。
「……迷惑だったのかしら。だとしたら、わたし、よけいなことしてしまったみたいね」
蛍子も複雑な表情になって言った。
「迷惑というか、かなりショックだったみたい。やっぱり、わたしのことは全く知らなかったようだから……」
「そりゃ、いきなり、双子の妹が目の前に現れたんだから、ショックを受けるのも当然だとは思うけれど」
不満そうな口調でそう言ったのは、三人分のアイスコーヒーをキッチンから運んできた知名祥代だった。今日は珍しく祥代も在宅していた。
「それにしても、ちょっと冷たくない? 抱きついて泣けとまでは言わないけれど、二十年ぶりに生き別れになっていた実の妹に会えたんだから、もう少し……」
「ただね」
火呂は考えこみながら言った。
「冷たいというより、わたしの気のせいかもしれないけれど、なんかこう牽制《けんせい》しているような感じがしたんだよね……」
「牽制?」
「うん。これ以上、母のことや母の実家である日の本村のことを詮索《せんさく》するのはやめろ。あの村とはかかわらない方がいいって」
「どういうこと、それ?」
祥代が不思議そうに聞いた。
「よく分からないけれど、日の本村というところには何かあるみたい……」
火呂と祥代の会話を何げなく聞きながら、蛍子は、伊達浩一の話を思い出していた。火呂には話してなかったが、昭和五十二年の事件に日の本村という村そのものが深くかかわっていたかもしれないという話を……。
真鍋の本にも、あの村が、奇祭と奇習を古くから守る特殊な村であるかのように書かれていた。やはり、日の本村というところには何か秘密があるのではないか。ひょっとすると、神家の養女になったという日美香はそのことを知っているのではないか。だから、双子の妹である火呂にあえて冷たく接することで、火呂をあの村に近づけないようにしたのではないか……。
あの村に何があるにせよ、そのうち、伊達が調べあげてくるだろう。あれ以来、彼からは何の連絡もなかったが、何かつかめば、きっと連絡してくれるに違いない……。
「でも、これで今度こそ本当にすっきりしたよ」
火呂はさばさばしたような声で言った。
「彼女に言われるまでもなく、彼女のことも母のことも日の本村のことも、もう奇麗さっぱり忘れることにした。わたしは、これからも『照屋火呂』として生きるって決めたんだもの。もう関係ない。たぶん、これが、母さんの言う、『正しい選択』のような気もするし」
「そうね。それがいいかもしれないわね」
蛍子も思わず言った。
「両親が亡くなったといっても、火呂には、豪やわたしもいるし、それに、祥代さんのような良い友達もいるのだから……」
「わたしも本当のこと言うと、こうなって、少しほっとしてる」
祥代が照れ臭そうに言った。
「ほっとしてるって?」
火呂が聞いた。
「だって、今まで火呂とは友達というより姉妹みたいにして育ってきたでしょう? 火呂のことなら、わたしが誰よりも知っている、理解しているって思ってた。それがここにきて、本当のお姉さんがいるってわかって、しかも、一卵性の双子だって言うじゃない。一卵性の双子って言ったら、もともとは、一人の人間になるべき卵子が二つに分割したわけだから、ただの姉妹以上に結び付きが強いわけよね。一卵性の双子の間には、テレパシーのようなものも存在するって言う話だし。今まではわたしが一番の親友って思ってたのに、そんな人が現れたら、火呂を取られちゃうんじゃないかって……」
「そんなことない。絶対にない」
火呂は笑った。
「誰が現れようと、サッチンはサッチン。わたしの中でサッチンの居場所は永遠に変わらないよ」
「その台詞《せりふ》、恋人ができたときも言ってよね。いざ男ができると、たやすく壊れるのが女の友情というやつだそうだから」
祥代は茶化すように言った。
「その言葉、そっくりお返しします。そんなこと言ってて、サッチンの方が早く男つくって、さっさと結婚しちゃったりして」
火呂が笑いながら言い返すと、それまでにこやかだった祥代の顔が急に強ばった。
「わたしは……」
祥代は呟くように言った。
「一生誰とも結婚しないよ」
「あ、そっか。サッチンは一生を医学に捧《ささ》げるんだものね」
火呂はそう言ったあと、突然、話題を変えるように言った。
「ねえ、叔母さん。豪から聞いたんだけれど、沢地逸子の担当になったって本当? 彼女のホームページを単行本化する話があるんだって?」
「え? ええ」
「でも、今、彼女のホームページ、大変なことになっているでしょ? この前、アクセスしようとしたら、アクセスできなかったよ。どうなってるの?」
「あのホームページ、見てたの?」
蛍子は、今気がついたというように聞いた。
「うん、時々ね。サッチンが彼女の大ファンなんだよね。それで、こんなホームページあるって教えてくれたもんだから」
「ひょっとしたら、あの事件のせいで、サイト、閉じちゃったんですか? 犯人らしき人物が掲示板に犯行予告めいたメッセージを残したとか何とかでマスコミが騒いでいるらしいけれど」
祥代も言った。
「その件なら……」
蛍子は、いつか沢地逸子が話していたことをそのまま伝えた。事件のほとぼりが冷めたら、またアドレスでも変えて再開するつもりだということを。
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第九章
九月十二日。土曜日。
喫茶店の片隅で一人で軽い昼食を摂っていた彼女の目が、ふと、吸い寄せられるように、窓際の席の一組のカップルを捕らえた。
男の方は若い。まだ十代に見えた。女の方は、男よりも遥《はる》かに年上に見える。三十……もしくは四十代かもしれない。恋人同士というには年齢が釣り合わない。しかし、親子には見えないし、年の離れた姉弟という感じでもない。
さきほどから何か言い争っている。といっても、一方的に喋《しやべ》っているのは女の方で、男の方は、ややふてくされたような態度で、退屈そうに窓の外を見たり、時折、あくびをかみ殺すような顔をしていた。
どういう関係だろうと、なんとなく興味を引かれて、じっと観察していると、それまで喋っていた女の方が椅子《いす》を蹴倒《けたお》すような勢いで、やおら立ち上がった。かと思うと、いきなり、テーブルの上の水の入ったグラスをつかみ、それを目の前の少年の顔に浴びせかけた。
一瞬の間の出来事だった。彼女は、口元まで運びかけたスパゲティをからませたフォークをとめて、小さくあっと叫んだ。
周りの人々も、あっという表情で二人の方を見ていた。
水を浴びせかけられた少年は何が起きたか分からないという顔で茫然《ぼうぜん》としていた。女の方は憤然とした様子で、バッグをつかむと、つかつかとレジの方に歩いて行った。レジ係もびっくりしたような顔をしている。
女が勘定を済ませて喫茶店を出ていったあとも、残された少年の方は、身じろぎ一つしなかったが、ようやく気を取り直したように、のろのろとした仕草でテーブルの上のおしぼりを取り上げると、それで濡《ぬ》れた髪や顔を拭《ふ》きはじめた。
おざなりに拭き終わると、おしぼりを丸めてテーブルの上に放り出し、席をたつかと思いきや、何事もなかったような平然とした顔で、手近にあった漫画本を取り上げて読み出した。
彼女は、そんな少年をまばたきもせずにじっと見つめていたが、食べかけのスパゲティをそのままにして、立ち上がると、大きな紙袋をさげて、少年の席まで近づいていた。
ここで昼食を済ませたら、渋谷か新宿に出て、「獲物」を探すつもりだったが、今、目にした出来事で気が変わっていた。
獲物は目の前にいる。
とびきり極上の獲物が。
「……災難だったわね」
ハンカチを突き出してそう言うと、少年は漫画本から顔をあげた。この顔で渋谷あたりを歩いていたら、モデルかタレント事務所のスカウトに必ず声をかけられるのではないか思うほど整った顔をしていた。
その顔を間近で見たとき、ふと誰かに似ていると思った。誰かに似ている。誰なのかは思い出せないが……。
少年は仏頂面のまま、「どうも」というように軽く頭をさげると、ハンカチを受け取り、それで、顔を拭いた。
「ここ、座っていい?」
少年はかすかに頷いた。
「今の女《ひと》、恋人?」
そう聞くと、少年は、唇を歪《ゆが》めて笑い、
「担任だよ。高校んときの」
と、吐き捨てるように言った。
「担任? 学校の先生なの、あの女? まるで痴話|喧嘩《げんか》でもしているように見えたけれど……」
「教育的指導を受けてたんだよ」
「いまどきの教師って、生徒を叱《しか》るときに、喫茶店に呼び出して頭から水かけるの?」
「正確には元教師。いまだに、会うと教師面したがるんだ」
少年はそう言って肩を竦めた。
「大学生?」
「いや。ただ今浪人中」
「今、暇? これから何か予定ある?」
「別に。涼んでるだけだよ」
「ちょっと付き合わない?」
「おたく、なに? インチキ宗教勧誘? それとも英会話教材のキャッチとか? だったら、もっと田舎者引っかけた方がてっとりばやいぜ」
「そんなんじゃないわよ。嫌ならいいけど……」
怒ったような振りをして、席を立ちかけると、
「待てよ。嫌だなんて言ってないよ」
少年はそう言って、漫画本をぱたんと閉じた。
「名前はなんていうの?」
彼女は座り直して聞いた。
「タケル。あんたは?」
「わたしは……」
真名子の名はもう使えない。もっとも、ここでこの名前を使ったところで、悪い冗談くらいにしか思われないだろうが。
「ヒロ」
彼女はそう答えた。
「蛍子ちゃん、電話」
かかってきた電話に出た同僚の声に、デスクでパソコンをいじっていた喜屋武蛍子は、画面から顔をあげた。
「誰?」
「ダテっていう人」
その名前を聞いて、蛍子の心臓がかすかに鳴った。例の店で別れて以来、伊達浩一からは全く連絡がなかった。携帯の番号は聞いていたから、こちらからかけてもよかったのだが、なんとなくためらうものがあった。
神日美香の身上調査の報告を受けた時点で、既に「探偵と依頼人」という関係は消滅している。蛍子の方から伊達に電話をかける「口実」がなかった。
最後に会ったとき、伊達は、近いうちに、長野県の日の本村へ行ってみるつもりだと言っていた。向こうで何かつかめば、伊達の方から連絡してくれると思っていた。携帯の着信音が鳴るたびに、彼からではないかと期待した。しかし、あれから十日以上がたつのに、何の連絡もない。
もしかしたら、あのあと、他の仕事が忙しくなって、調べたところで一文の得にもならないことなど後回しになってしまったのかもしれないな、と蛍子は思っていた。
でも……。
どうして携帯にかけてこないのだろう。
目の前の受話器を取りながら、蛍子はやや不審に思った。今までは必ず携帯の方にかけてきたのに……。
「お待たせしました」
受話器を耳にあて、そう言いかけると、
「喜屋武さん? 喜屋武蛍子さんですね」
すかさず聞き返す声がした。伊達の声ではなかった。女性の声である。
「はい、そうですが……?」
ダテと名乗る女性の声。蛍子の頭に、一瞬、「もしや」という思いが閃《ひらめ》いた。
「お仕事中すみません。わたし、伊達かほりと申します。伊達浩一の家内です」
予感は的中した。蛍子はすぐに言葉が出なかった。
「あの……」
伊達の妻? 伊達の妻が一体何の用だろう。しかも、会社に電話してくるなんて。それより、どうして私のことを知っているのだろうか。伊達から聞いていたのか。蛍子の頭は様々な思惑で混乱していた。
うろたえることは何もないじゃない。
蛍子は妙に動揺している自分を心の中で叱りつけた。ここ数回、立て続けにあの店で伊達と会っていたといっても、やましいことは一切していない。いわゆる「焼けぼっくいに火がついた」という関係ではないのだから。少なくとも、表面上は……。
「あの、今、ちょっとよろしいでしょうか」
伊達かほりは遠慮がちの声で言った。
「ええ……」
「主人のことなんですが……どこにいるかご存じありませんか?」
ややためらったあとで、伊達の妻は思い詰めたような声でそんなことを言い出した。
「は?」
と、蛍子は思わず聞き返した。
「どういうことでしょうか?」
「主人、帰ってこないんです。二日の朝、仕事で信州に行くと言って家を出たきり……。あれから何の連絡もないし、主人の携帯にかけても、全然通じないんです。電源が切れているか圏外とか言われて……」
九月二日といえば、あの店で伊達と別れた日の翌日だった。ということは、伊達は、やはり日の本村に出掛けたのだろうか。
それっきり、帰ってこない……?
蛍子は受話器を握り締めたまま、なんともいえない嫌な胸騒ぎを覚えた。
「凄《すご》い……」
薄手のカーテンをさっと左右に開けると、宝石箱をひっくりかえしたような都心の夜景が眼下に広がっていた。
十九階という高層ならではの眺めだ。
彼女は思わず感嘆の声をあげた。
「凄いだろ。それが売りなんだよ、ここの」
タケルと名乗った少年は、冷蔵庫から冷えた缶ビールを二個取り出してくると、それを広々としたリビングのテーブルに置きながら、やや得意げに言った。
「バブル弾けてからは、この手のマンションには人が入らなくなっちゃったみたいだけどね。ここもがら空き状態。朝から墓場みたいに静かだよ」
「こんなところに一人で住んでるの? きみって何者? お金持ちのおぼっちゃまくん?」
振り返って、そう聞くと、
「ここに住んでるわけじゃないよ。家は別にある。ここはいわば親父《おやじ》の隠れ家さ」
タケルは缶ビールのプルトップを引き抜きながら言った。
「親父の隠れ家……?」
新宿に出て、ゲームセンターで少し遊び、映画を観たあと、「親と喧嘩して家出してきた。今夜は泊まるところがない」と嘘《うそ》をついて、それとなくホテルに誘った。二番目の「生き贄《にえ》」を誘うときに使った手だ。すると、「ラブホよりいいところがある」と言われて、連れて来られたのがこの超高級マンションだった。
そういえば、玄関には表札のようなものは一切出ていなかった。生活臭もなく、どこか秘密めいた匂《にお》いがする部屋だった。
「女との密会用に借りたんじゃないかな。でも、最近は、マスコミの目を気にして、使ってなかったみたい」
「マスコミの目って、お父さんは有名人?」
「まあね。ひょんなことからここのこと知ってさ、親父にほのめかしたら、おふくろへの口止め料代わりだと言ってここの合鍵《あいかぎ》くれた。おまえも適当に使えって」
「ずいぶん……」
彼女は呆《あき》れたように言った。
「物分かりの良いお父さんね」
「物分かりがいいというか」
タケルは皮肉めいた笑みを口元に浮かべた。
「マスコミに何か嗅《か》ぎ付けられたとき、スケープゴートにするつもりなんだろ、俺《おれ》のこと」
「スケープゴート?」
「身代わりってこと。あのマンションで女と密会していたのは、私ではなくて、浪人中の私の馬鹿息子です。そう弁解するためにさ」
「実の父親?」
「だと思うよ。顔似てるってよく言われるし」
「実の親がそんなことする?」
「あの親父ならするね。こんなこと、あいつにとっては朝飯前。利用できるものは何でも利用するやつさ。家族だろうが何だろうが。もっとも、政治家なんてあれくらいでなければ務まらない職業なんだろうけどさ」
「お父さんって政治家なの?」
「そ。国会議員。一応、大臣とかやってるんだぜ」
「大臣……」
「もうやめよう。くそ親父の話なんか」
タケルは辟易《へきえき》したように言うと、ソファから立ち上がった。
「シャワー浴びてくる」
そう言って、汗ばんだTシャツを素早く脱ぎ捨てた。上半身裸になったその身体《からだ》は、端正な顔からは想像もつかないほど引き締まって筋肉がついている。明らかに何らかのスポーツで鍛え上げられた身体だった。
「良い身体してるね。何かスポーツしてる?」
「まあ、いろいろ。今は、ボクシングをちょっと……」
「ボクシング? 偶然」
「偶然って?」
けげんそうに彼女の方を見た。
「わたしの……弟もボクシングやってるもんだから。将来は世界チャンピオンめざすなんて夢みたいなこと言ってるわ。ついこのあいだまではミュージシャンになるって言ってたんだけど……。なんで、ボクシングはじめたの?」
「なんでって、なんとなく。しいて言うなら、合法的に人殴れるからかな」
「でも、殴られることもあるでしょ?」
「殴らせないよ。顔は絶対に。モデルのバイトはじめたから、顔に傷つけたらやばいしね」
タケルはそう言って、両手の拳《こぶし》で顔をガードするような仕草をした。
「そんなことできるの? よっぽど強い?」
「今んところ、ガキのお遊びだもの。周りはよわっちい奴ばかし。プロになったら、こうはいかないと思うけどさ。いいんだ。プロになんかなる気はないし」
「将来は何になりたいの? お父さんの跡を継いで政治家とか?」
「まさか!」
タケルはツバでも吐きかねない見幕で言い捨てた。
「それだけはない。あんな糞《くそ》みたいなものになるくらいなら、その窓から下にダイビングして、脳漿撒《のうしようま》き散らしてくたばった方がましだね。それに、親父の跡は兄貴が継ぐともう決まってるし……」
「お兄さんがいるの?」
「こいつが絵に描いたようなエリートでさ。親父と同じ大学出て、今、親父の秘書やってる。親父も兄貴くらいの頃から、死んだ爺《じい》さんの秘書やってたっていうから、蛙の子は蛙ってことか。親父のかわいいコピーちゃんだよ」
「仲悪いの?」
「誰と?」
「お兄さんと」
タケルは天井を向いて大笑いした。
「仲は悪くないよ。喧嘩《けんか》ひとつしたことないし。というか、喧嘩するには、最低限、口きく必要があるだろ。兄貴とは、中学ん頃から口きいたことない。同じ屋根の下にいても、互いに互いを無視してるって感じ。すれちがっても目も合わせない。仲いいだろ?」
「男の兄弟なんてそんなもの? わたしは弟が可愛いくて可愛いくてたまらない。弟のためなら何でもできるような気がする。いざとなったら、自分の命だって差し出せる……」
「へえ? そんなもん? 兄貴だったら、弟のために命どころか舌出すのも御免だって言うだろうな。男と女じゃ違うのかな」
「うちが特別なのかもね。わたしが生まれ育った地方には昔から、おなり信仰と言って、女が自分の兄弟を霊力で守るという風習があるから。これ見て」
彼女はふと思い出したというように、ジーンズのポケットに手を突っ込むと、何か取り出した。真新しい守り袋だった。
「この中にわたしの髪の毛が入ってるの。女の力は髪に篭もると言われてて、髪の毛をお守りに入れて、兄弟に持たせる習慣があるの。前に渡したお守りが古くなったから、今度弟に会ったとき、渡してあげようと思って……」
「優しいんだな」
タケルはそう呟《つぶや》き、じっと彼女の方を見ていたが、
「あーあ。どうせなら、俺《おれ》も姉貴が欲しかったな。とびきり奇麗な、とびきり優しい姉貴が。きっと仲良くしたと思うよ」と残念そうに言った。
「……タケルって、どんな字書くの?」
「武士の武と書いてタケル。名前の付け方からして、どうでもいいって感じしない? 兄貴の方は、爺さんと親父の名前を一字ずつ貰《もら》って、信貴《のぶたか》ってご大層な名前なのにさ。まさに、新庄家のご長男として、一族の栄光と期待を一身に背負ってるって名前だわな」
「シンジョウケって……まさか」
彼女ははっとしたように言った。この少年の顔、誰かに似ている。どこかで見たような気がしていた。週刊誌、テレビ……。
「あなたのお父さんって」
そう言いかけると、少年の方が先回りして言った。
「新庄貴明。大蔵大臣の」
「でも、自分的には、この名前、けっこう気に入っているけどね」
新庄|武《たける》はそう続けた。
「おふくろが一番つけたかった名前なんだって。なんでも、神話の英雄、日本武尊《やまとたけるのみこと》から取ったらしい」
「……ねえ、知ってる?」
彼女がふいに言った。
「ヤマトタケルって、自分の兄を殺したんだよ」
「うそ? 知らねえよ、そんな話。死んで白鳥とかになったって話なら聞いたことあるけど……」
武はぎょっとしたような顔で言った。
「うそじゃないわ。古事記にちゃんと書いてあるもの。ヤマトタケルには、大碓命《おおうすのみこと》という双子の兄がいたんだけれど、ある日、トイレで待ち伏せして、この兄の手足を引き裂いて殺したって」
「なんで……殺したんだよ?」
「さあ。動機までは書いてないけれど、一説には、父の景行《けいこう》天皇が兄の方ばかりに目をかけるので嫉妬《しつと》して……とも言われているわ。聖書の中でカインが弟のアベルを殺したようにね」
「……」
「だからこそ、ヤマトタケルはこのあと、父王の命令で、西に東に休む暇も与えられずに、朝廷にまつろわぬ者たちの討伐に行かせられたのよ。つまり、ヤマトタケルの蛮族討伐は兄殺しの罰でもあったってことね」
「でも……ヤマトタケルって英雄なんだろ?」
「結果的に英雄になっただけ。僻地《へきち》に流されて、自分が生きていくためには、その地を支配していた蛮族をやっつけるしかなかったのよ。所詮《しよせん》、英雄なんて、特殊な殺人者に与えられた別名みたいなもの。一人殺せば殺人者だけれど、千人殺せば英雄とも言うでしょ。たとえば、スサノオだって、高天が原にいたときは、殺人をはじめ、さんざん悪いことして、そのせいで天界を追放されて出雲に流されたくらいなんだから。でも、その結果、ヤマタノオロチという怪物を倒して英雄になれた。それに、ヒーローという言葉そのものが、もともとは、大女神ヘラに捧《ささ》げられた男たちという意味のギリシャ語が語源で、母なる神に捧げられた生き贄《にえ》のことを言ったのよ」
「生き贄……?」
「そう。殺人者にして生き贄。これが英雄と言われている者の真の姿」
「ふーん……」
武は、幾分引いたような表情で彼女の方を見ていたが、
「ま、そんなのは神話の中の話だから」と気を取り直したように呟いた。
「さあ、それはどうかしら。名前というのは個人を識別する単なる記号じゃない。名前に篭《こ》められた言霊《ことだま》がその人の運命を操るということもあるかもよ……。たとえば、あなたも、その名前ゆえにヤマトタケルのような運命を知らず知らず歩くことになるかも……」
「俺が兄貴を殺すとでも?」
「そして、お父さんの跡を継ぐのは、お兄さんではなくて、あなたってことになるかも……」
「ははは。笑っちゃうね。神代の時代なら、兄貴殺しても、せいぜい僻地に流されるくらいで済むかもしれないけど、平成の世に、人殺したら、刑務所行きだよ? 十八歳の誕生日迎えちゃったから、下手すりゃ死刑もありうるし」
「捕まればの話でしょ、それは」
「……でも、どちらにせよ、俺が親父の跡を継ぐということはなさそうだな」
武は自分の右の掌《てのひら》を見ながら言った。
「なぜ、そう言い切れるの? たとえ、あなたが望まなくても、お兄さんが病気とか事故で亡くなる可能性だってありうるじゃない? そうすれば……」
「俺自身が長生きできないからさ。生命線が途中でぶった切れてるんだよ。ほら」
武はそう言って、片手を差し出した。なるほど、右手の生命線は太いが異様に短い。断ち切られたような短さだった。
「手相見に言われたことがあるんだ。寿命短いって。ひょっとしたら、二十歳まで生きられないかもしれないって。よぼよぼの爺《じじ》いになるまで長生きしたいとも思わないから、それは別にいいんだけれどさ……何がおかしいんだよ?」
武は薄気味わるそうに、突然笑い出した女の方を見た。
「なに、笑ってるんだ……?」
「ううん、別に。手相ってけっこう当たるんだなって思って」
「……?」
「そうね。あなたは長くは生きられないかもしれないわね……」
彼女は蛇のようにじっと少年を見つめながらそう言った。
喜屋武蛍子は、「NIGHT AND DAY」のドアノブに手をかけ、一瞬、ためらうように手を添えていたが、ためらうことは何もないと思い直すと、思い切ってドアを開けた。
「いらっしゃい」
老マスターの声がいつものように迎えてくれた。
店内には既に先客がいた。二十代後半と思われる赤いスーツを着た女性だった。独りでカクテルのようなものを飲んでいる。伊達かほりだった。
蛍子が入って行くと、すぐに振り向き、やや強ばった笑顔を見せた。
あのあと、電話では話しづらいこともあるので、一度会えないかと伊達の妻に言われて、退社後、会うことを約束したのである。この店の名前を先に出したのは、伊達の妻の方だった。
「主人とは以前お付き合いがあったそうですね……?」
隣に座ると、伊達かほりは、やや不自然な微笑をたたえたままの顔で言った。
「わたしのことは伊達さんから?」
そう聞き返すと、伊達の妻はかぶりを振った。彼からは何も聞いてない、興信所の報告書で知ったのだという。
「興信所?」
蛍子はぎょっとしたように聞いた。
「といっても、結婚前の話なんです。知人を通して、縁談の話が出たときに、父が勝手に彼の身上調査を興信所に依頼して、そのときの報告書にあなたのことが……。このこと、伊達には内緒にしてあるんです。同業者にこっそり調べられていたなんて知ったら、きっといい気持ちはしませんもの」
「でも、わたしたちは、今は……」
興信所に調べられたのが結婚前のことと知って、蛍子は幾分ほっとしながらも、慌てて言いかけた。
「ええ、分かってます。その報告書にも、お付き合いはしていたようだが、ちゃんと別れたというように書いてありましたから。ただ……」
九月二日以降、伊達と連絡が取れなくなったことを不安に思い、伊達の経営する探偵社に行って、伊達が最近どんな仕事をしていたのかスタッフに尋ねたら、昔の知り合いからの依頼で、何か独りで調べていたと教えてくれたのだという。
「スタッフの人も依頼の内容までは分からないって言うんです。主人は誰にも手伝わせずに独りでやっていたらしくて。でも、その昔の知り合いというのが女性らしいと聞いて、女の勘とでもいうのか、ふっと、あなたのことじゃないかって思ったんです。それで、あなたならもっと詳しいことをご存じではないかと思って……」
この店のことは、前にクリーニングに出そうとした夫のズボンのポケットから店のマッチが出てきたことがあったので、行きつけの店なのだろうと思っていたと、伊達の妻は語った。
「確かに、伊達さんには、ある人の身上調査を依頼してました……」
蛍子は、伊達とは何度かこの店で会ったことは事実だが、それはあくまでも、「探偵と依頼人」としての関係だということを必要以上に強調しながら、伊達がかかわっていた件に関して、あたりさわりのない部分だけを話した。
「それでは、主人は、その日の本村という所へ行ったのではないかと?」
蛍子の話を聞き終わった伊達かほりは言った。
「ええ。たぶん。なんでも長野の山奥だそうですから、もしかしたら、携帯も使えないのかもしれませんね……」
「あの日、朝、出掛けるとき、二、三日滞在してくるというようなことを言っていたんです。もし、何らかの事情で滞在が延びたとしても、そのことを知らせてくるはずです。たとえ携帯が使えなくても、滞在している旅館とかに電話くらいあるはずですよね? それなのに、どうして何も……」
伊達かほりの疑問はもっともだった。いくら、山奥の村だといっても、電話も引かれていないとは思えない。それなのに、何の連絡もしてこないのは、伊達の意志としか考えられなかった。あるいは、何か、連絡したくても、できないような状況にいるのか……。
伊達の妻の話を聞いているうちに、蛍子の胸には何やら黒い雲のような不安が湧《わ》き上がってきた。
「伊達さんが泊まった旅館に連絡してみれば、何か分かるのではありませんか?」
蛍子はそう言ってみた。
「そうですね。村というなら、旅館の類いもそんなに沢山はないでしょうし、観光案内で調べればすぐに分かると思います」
伊達かほりは、気を取り直したような口調で言い、
「あの……本当のことを言うと、わたし」
と、口ごもりながら続けた。
「ひょっとしたら、主人、あなたと一緒なんじゃないかと疑ったりして……」
「え?」
蛍子はびっくりして思わず隣の女を見た。
「小さい子供が二人もいるのに、まさかとは思ったんですけれど、最近、そういえば、ちょっと様子がおかしかったので、もしかしたらって……」
しばし唖然《あぜん》としていたが、伊達かほりの言わんとすることがようやく呑《の》み込めると、蛍子は、「そんなことはありえない」ときっぱりと否定した。
「ええ……失礼なこと言ってごめんなさい。あなたとお会いしてみて、わたしの勘違いだったということがよく分かりました。すぐに日の本村の旅館のことを調べてみます」
伊達かほりは、幾分ほっとしたような表情で言った。
「鍵《かぎ》、ここに置いとくよ」
シャワー室から出てくると、一足先に汗を流し、真新しいTシャツに着替えていた武が、テーブルの上に鍵らしきものを置くと、そう言い残して、リビングを出て行こうとした。
「ちょっと待って。どこ、行くのよ?」
彼女は慌てたように言った。
「どこって、うちに帰るんだよ。さっき言っただろ。ここに住んでるわけじゃないって」
廊下に通じるドアの手前で立ち止まると、少年は当然のように言った。
「帰るって……まだ何もしてないじゃない」
「そういうつもりで連れてきたわけじゃないよ」
武は苦笑しながら言った。
「家出して今夜泊まる所ないって言うから。ホテルとかに泊まる金もないんだろ? だったら、ここに泊まればいい。二、三日分の食料なら冷蔵庫に入ってるし。好きなだけいたらいいよ」
「誰か来たらどうするのよ……?」
彼女は少年の鷹揚《おうよう》さに半ば呆《あき》れながら言った。
「誰も来ねえよ。ここのことは俺《おれ》と親父《おやじ》しか知らないし。親父も今度の総選挙が終わるまでは寄り付かないはずだよ。マスコミの目とかあるからね。もし、来たとしても、俺の友達だって言えばいい。それで万事OKさ」
「そんなにたやすく信用していいの? さっき会ったばかりなのに。この部屋にあるものを盗んで逃げるかもしれないわよ」
「別に信用してるわけじゃないさ。ここで何があっても俺の知ったことじゃないってだけ。それに、盗むったって、あいにく、この部屋には現金も貴重品の類いもいっさい置いてないからね。言っとくけど、そこのシャガールの絵にしても複製だし、この花瓶にしても……」
武は、ドアの傍らの三角コーナーの上のロココ調の派手な花瓶を手にとると、わざとそれを床に落として割った。
「うっかり手が滑って割っちゃったとしても、二束三文のガラクタだから、どうってことないし。こんなもんばっかだよ、ここにあるのは。贅沢《ぜいたく》そうなのは見かけだけ。こんなんでよければ、いくらでもどうぞ。この部屋で何がなくなったって、親父が盗難届けを出すことはまずないしな。鍵はロビーの郵便受けにでも放りこんでおいてくれればいいよ。じゃあね」
そう言うと、バイバイというように左手を振り、右手をドアノブにかけた。
「待ちなさい」
押し殺したような低い声がした。
「なんだよ、さっきから待て待てって。俺、もう面倒臭いの嫌なんだよ。あの先生でこりごりだ」
武はうんざりしたように言うと、振り返りもせず、ドアを開けようとした。
「待てと言ってるのよ。さもないと……」
さきほどよりも間近で声がした。
「うるせえな……」
そう言いながら、振り向いたときだった。一瞬、視界が黒い影で遮られたかと思うと、右|脇腹《わきばら》に、焼け火箸《ひばし》を押し当てられたような衝撃が走った。痛いというよりも熱いという感触だった。
「……なに……したんだ?」
武は、右脇腹を手で押さえて、顔を歪《ゆが》めた。
目の前に、あの女が両手にサバイバルナイフを握って立っていた。ナイフの刃は赤く濡《ぬ》れており、女の白いTシャツにも赤い飛沫《しぶき》が飛び散っている。
脇腹から離した手のひらにもべっとりと赤いものがついてきた。
「刺したのかよ……?」
武は、真っ赤に染まった自分の手を信じられないように見ながら、泣き笑いのような表情を浮かべた。急に脚から力が抜けて、ドアにもたれるようにして、ずるずると身体《からだ》が沈んでゆく。
「待てと言ったのに待たないからよ」
女はナイフを握り締めたまま、冷ややかに言い放った。
「だからって……刺すことないだろう?」
「まだ儀式が済んでないわ」
「儀式……?」
武は、ドアを背に半ばしゃがむような姿勢で、右脇腹を手で押さえながら、愕然《がくぜん》とした顔で目の前の女を見上げた。
指の隙間《すきま》から鮮血が後から後から噴き出るように溢《あふ》れている。身体中の血が一気に抜け落ちていくような脱力感に襲われていた。立ち上がろうとしても、脚に全く力がはいらない。
「あなたは儀式に必要な生き贄《にえ》。だから、帰すわけにはいかないわ」
女は笑いながら言った。
鋼鉄のドア越しに、電話が鳴っているような音がかすかに聞こえてきた。
照屋火呂は、素早く玄関ドアの施錠を解くと、マンションの中に入った。中は暗い。ルームメイトの祥代はまだ帰っていないようだった。
やはり、リビングの電話が鳴っていた。
履いていたサンダルを蹴《け》りとばすようにして脱ぐと、走ってリビングに行き、受話器を取った。
「……もしもし」
「祥代?」
耳に飛び込んできたのは、年配の女性の声だった。
「いえ、火呂ですけど。おばさん?」
電話の声に聞き覚えがあった。祥代の母、知名淑子だった。
「ああ、火呂ちゃん。祥代はいる?」
「まだ帰ってないみたいです。わたしも今帰ってきたばかりで……」
火呂はそう言いながら、電話機の近くにある、リビングの照明のスイッチをつけた。
「そう……。だったら、祥代が帰ってきたら、伝えてくれる?」
祥代の母は言った。暗い疲れ切ったような声だった。その声の調子から、何か悪い知らせではないかという予感がした。
「あ、はい……」
火呂は受話器を肩に挟み、電話台に備え付けたメモ用紙とボールペンを取ろうとした。
「一希が……」
祥代の母は言った。
「たった今、息を引き取ったって……」
「え?」
メモ用紙に伸ばしかけた火呂の手が凍りついたように止まった。
祥代の母は、昨日から一希の容体が悪化して、急遽《きゆうきよ》入院していたのだが、その後、容体が少し安定したので、祥代にはあえて知らせなかったのだと言った。
「何度もこういうことがあったし、そのたびに、祥代は何を置いても駆けつけてくるから……。飛行機代だけでも大変だろうと思って」
ところが、ほんの数時間前に、持ち直したかのように見えた一希の容体が急変し、医師たちの必死の手当もむなしく、ついさきほど、息を引き取ったのだという。
「最期まで、姉ちゃん姉ちゃんって呼びながら……。こんなことになると分かっていたら、祥代に知らせておけばよかった」
祥代の母はそう言って、涙で声を詰まらせた。
一希ちゃんが死んだ……。
火呂は、突然飛び込んできた訃報《ふほう》に茫然《ぼうぜん》としながら、祥代には必ず伝えるとだけ言って、受話器を置いた。
時計を見ると、午後九時を少し過ぎたところだった。土曜といえば、祥代は、夜は家庭教師のバイトをしているはずだった。帰りは早くても十時すぎになるだろう。
帰るまで待つか、それとも……。
火呂はバッグの中から携帯電話を取り出した。祥代はPHSを持っている。当然、バイト先にも持参しているだろう。最愛の弟の突然の訃報という、できれば知らせたくない伝言ではあったが、一刻も早く知らせた方がいいような気がした。
火呂は、重い気分を振り払うように、手の中の携帯に祥代のPHSの番号を打ち込んだ。
「……あんたか?」
ドアにぐったりと寄りかかり、両足を投げ出したような格好で、右脇腹を押さえたまま、武は、喘《あえ》ぐような声で言った。口をきくのもしんどくなっていた。
右脇腹を押さえた手は、まるで赤い手袋でもしているように、手首まで血に染まっており、Tシャツの腹部からジーンズの膝《ひざ》あたりまで鮮血でぐっしょりと濡れていた。しかも、その血の染みは刻々と広がっている。たちこめる自分の血の匂《にお》いに吐きそうになっていた。
「中目黒の大学生や池袋のフリーター殺した犯人って……」
「そうよ」
女はナイフをかまえたまま、誇らしげに答えた。
「わたしの本当の名前はヒロじゃない。真名子っていうのよ」
「ハンドルだろ、それ……?」
「ただのハンドルじゃないわ。母なる神から戴《いただ》いた名前。巫女《みこ》としての聖名よ」
「なんで……あんなことしたんだ? 殺してバラバラにして心臓えぐって……」
「弟のためよ」
真名子は言った。
「弟?」
「そうよ。すべては弟のため。さっき言ったでしょ。弟のためなら何でもできるって」
「なんで……人殺しが……弟のためになるんだよ……?」
「人殺しじゃないわ。これは儀式よ。母なる神に生き贄を捧《ささ》げる儀式よ。アマミクはわたしに約束してくれた。アマミクが望むものを毎月供え続けたら、わたしの願いを叶《かな》えてくれるって。弟を救《たす》けてくれるって。弟の身体を健康にしてくれるって。他の子供のように、外で飛んだり跳ねたりできるようにしてくれるって……」
「弟って……病気なのか? さっき、ボクシングやってるって……」
「ボクシングをやっているのはヒロの弟よ」
「ヒロって……あんたじゃないのか」
「ヒロはわたしの友達」
友達の名前を騙《かた》っていたということなのか。女の言っていることはどこか錯乱していた。
「わたしの弟は生まれつき心臓が悪いの。片方の心室しか動かないのよ。だから、心臓が必要なのよ。健康で新鮮な心臓が。健康な心臓さえ移植すれば、弟は助かる。普通の子供のように外で遊んだり学校に通うこともできる。でも、誰も心臓をくれない。日本では子供の心臓移植は認められていないから。だから、心臓をちょうだい。生きたままの心臓をちょうだい。あなたの心臓をちょうだい……」
真名子はうわごとのようにそう呟《つぶや》きながら、武のそばにしゃがみこむと、ナイフの刃をTシャツの襟首《えりくび》に突っ込んで、一気に切り裂いた。
武はされるがままになっていた。女をつきとばして逃げたくても、金縛りにあったように身体が動かない。手足の先が冷たく何も感じなくなっていた。
「こわがることはないわ。あなたは死ぬわけじゃないのよ……。永遠に生きるのよ」
真名子は耳元で囁《ささや》くように言った。それは不思議な優しさに満ちた声だった。まるでこれから外科手術を受けようとしている患者を励ます看護婦のようだった。
気のせいか、真名子の身体からは、血の匂いに混じってクレゾールのような匂いがかすかに漂ってきた。
「心臓……取られて……どうやって生きろっていうんだ……?」
「代わりにもっと良いものをあげる。母なる神の黄金の心臓を」
真名子は素早いしぐさで、床の上に投げ出されていた紙袋を取り上げると、逆さに振って中身をばらまいた。紙袋の中からは、B5判のノートパソコン、PHS、電動ノコギリに混じって、テニスボール大の黄色いゴムボールが転がり出た。
それをつかむと、肩で呼吸している少年の目の前に突き出した。
「これを心臓を取ったあとに入れてあげる。そうすれば、永遠に生きられるわ。老いることもなく、病気になることもなく、このままの若く美しい姿で……あなた自身が神になるのよ」
真名子はそんなことを歌うような口調で囁き続けながら、武の上半身を覆っていたTシャツをナイフでずたずたに切り裂いて取り去ると、その眩《まぶ》しいほどに健康的な日に焼けた上半身をさらけ出し、左胸の、ちょうど心臓のあたりに見当をつけて、ナイフの切っ先を突き付けた。
少しだけ皮膚を傷つけると、赤い血玉が浮かび上がった。あれだけ血を流しても、まだ身体の中に血が残っているのが不思議なくらいだった。
「……麻酔なしかよ?」
「前の二人にはビールに混ぜてハルシオンを飲ませたんだけれど。あなた、その前に帰ろうとしたから」
「俺《おれ》にもくれよ……。このまま、切り刻まれたくねえよ」
「……」
真名子はじっと探るような目で、目の前の少年を見つめていたが、
「ちょっと待ってて」
そう言うと、血に濡れたナイフをもったまま、テーブルの方に歩いて行った。
そのとき、床に転がっていたPHSの着信音が鳴った。
呼び出し音は鳴り続けている。
祥代はなかなか出なかった。
火呂はじっと携帯を耳にあてて、祥代が出るのを辛抱強く待っていたが、小さくため息をつき、いったん切って、少し間を置いてかけ直そうとしたとき、
「……はい?」
と女の声がようやく答えた。祥代の声だった。
「サッチン? わたし」
そう言うと、やや沈黙があった。
「……ヒロ?」
「うん。今、バイト中?」
「……まあね」
「話があるんだけれど、いい?」
「……動かないで!」
祥代の鋭い声がした。
「え?」
「ううん、こっちの話。今、勉強見てる子、目を離すと、すぐ逃げようとするもんだから」
祥代は笑いながらそう言った。
その声に混じって、電話の向こうで、「助けてくれ」だとか、「殺される」とか誰かがわめいているような声がした。
「静かにしなさい。悪ふざけもいい加減にしてよ。黙らないと……」
祥代の叱《しか》り付けるような声がしたかと思うと、何やら、物音がして、呻《うめ》き声とも悲鳴ともつかぬ声が聞こえてきた。
「……どうしたの?」
何やってるんだろう。
「ううん、なんでもない。ギャーギャーうるさいから静かにさせただけ。もう腕白な子で手焼いてるのよ。で、話ってなに?」
祥代の平然とした声がした。何をしたのか知らないが、教え子の子供らしき声はもう聞こえてこなかった。子供というほど幼い声ではなかったような気もするが……。
「さっき、沖縄のおばさんから電話があってね……」
気を取り直して、そこまで言ったものの、この先をどう祥代に伝えていいのか分からず、火呂は黙ってしまった。
「母さんから? なに? 早く言って」
祥代の声が何かを察したように鋭くなった。
「一希ちゃんが……」
「一希がどうしたの? また容体が悪くなったの?」
耳元でかみつくように祥代は聞いた。
「そうじゃなくて……あの、気を落ち着けて聞いてね」
そう言ってから、ようやく喉元《のどもと》から絞り出すようにして、一希の訃報を告げた。
沈黙があった。
「サッチン? 聞こえてる?」
火呂は、祥代があまり長いこと黙っているので、電波障害かと不安に思いながら声をかけた。
「……一希が死んだの?」
祥代の声がした。意外に、取り乱したところのない冷静な声だった。
「うん」
「本当に死んだの?」
「昨日から容体が悪くなってたんだって。それで……」
祥代に知らせなかったのは、祥代にまた負担をかけるのが心苦しかったからだという祥代の母の言葉をそのまま伝え、
「一希ちゃん、最期までサッチンの名前呼んでたって。姉ちゃん姉ちゃんって……」
そう言うと、また沈黙があった。
「そう。わかった。すぐに……すぐに帰るから」
それだけ言って、祥代は一方的に電話を切った。
10
新庄武は、両目を半開きにしたまま、寝そべるようにしてドアによりかかっていた。血に染まった腹部がかすかに上下していることから、かろうじて生きていることが分かる。もはや声を出す気力もない。鮮血は右|脇腹《わきばら》だけでなく、右|大腿部《だいたいぶ》からも噴き出していた。
電話の相手に聞こえるように、気力を振り絞ってわめいていたら、いきなり、「黙れ」と言われて、右脚の太ももにナイフを突き立てられたのだ。
それにしても、真名子の様子がどことなくおかしかった。電話を切ったあとも、右手にナイフ、左手にPHSを持ったまま、両手をだらりと脇にたらして、身じろぎもせず立ち尽くしている。
雷にでも打たれたような顔をして。
「……カズキって誰よ……?」
武は殆《ほとん》ど虫の息で聞いた。
真名子は答えなかった。
「もしかして……心臓病とかいう弟?」
「……」
「死んだの?」
「……なぜ?」
真名子が呟くように言った。武の質問に答えると言うより、独り言のようだった。
「なぜ、一希が死んだのよ? 約束したのに。他の男の子の心臓捧げたら、一希は救けてくれるって約束したのに……。もう、こんなことしても意味ないじゃない!」
真名子はそう叫ぶと、ナイフとPHSを床に放り出して、両手で髪を掻《か》き毟《むし》った。
両手の血がベットリと髪にもついた。
武は寝そべったまま、狂乱したように髪を掻き毟る女の姿を、半ば閉じかけた瞼《まぶた》の裏からじっと見ていた。
「……行かなくちゃ」
掻き毟っていた髪から両手を離すと、真名子ははっと顔をあげた。目に異様な光りが宿っていた。
「一希のところにすぐに行かなくちゃ。わたしを呼んでる。姉ちゃん姉ちゃんって。一人でさびしがっている。一希、待ってて。今、すぐに行くから……」
そう呟くと、何を思ったのか、床に落ちていたナイフを拾い上げ、それをひっさげて、武のそばにやってきた。
今度こそ殺される……。
武は思わず目を閉じた。
この部屋を出る前に、一思いに息の根を止めるつもりだ……。
しかし、真名子は、息がかかるくらいに間近までくると、掠《かす》れた声で囁くように言った。
「わたし、行かなくちゃならなくなった。時間がないの。もうすぐ船が出るから……」
船?
「一希が乗った船が出るの。わたしもそれに乗らなければいけない。兄弟が船出するとき、女の魂は白い鳥になって、どこまでもついていくの。だから、悪いけれど、儀式は中止よ。あなたに永遠の命を授けることはできなくなった。でも、その代わり、この世の命を授けてあげる」
そんな意味不明のことを言うと、武の右手をつかみ、掌を無理やり上に向けて開かせると、ナイフの切っ先で手首近くまで一直線に深い傷をつけた。
いまさら、この程度の傷をつけられても、痛くも痒《かゆ》くもなかった。たとえ、指を一本ずつ切り落とされたとしても、泣き叫ぶ力さえなかっただろう。
「ほら、これであなたの運命が変わった。生命線が少し伸びたわ。わたしの分まで……」
真名子はそう言うと、にっこりと笑った。そして、その血まみれの掌に、弟のために作ったという守袋を握らせると、「これもあげる」と言った。
こんなお守りをくれるくらいなら、そこに転がっているPHSで救急車でも呼んでくれないか……。
そう言いたかったが、声にはならなかった。
真名子の顔がすっと迫ってきたかと思うと、唇に生暖かい感触がした。かすかに血の味がする……。
「さようなら」
そう囁いて、真名子はすくっと立ち上がり、ナイフを投げ捨てると、まるで見えない糸に引っ張られるような奇妙な足取りで、ベランダに出られるガラス戸の方に歩いて行った。
どこへ行くんだ……?
武は、半ば意識を失いそうになりながら、必死に女の姿を目で追った。
真名子は、ガラス戸を開けると、ベランダに出た。
ためらう様子も見せずに、コンクリートの囲いに両手をついてよじ登った。
そして……。
まるで体操選手が平均台に立つようにバランスを取りながら、囲いの上に立つと、両手を左右に大きく広げた。
鳥が羽ばたくような仕草を見せたかと思うと、次の瞬間、その姿は消えていた。
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終 章
目が覚めると、自分を見下ろしている顔があった。
父だった。
新庄武は、生まれたばかりの赤ん坊のように、父の顔をまじまじと見つめた。
「満身|創痍《そうい》とはこのことだな」
包帯だらけでミイラのようになってベッドに横たわっている息子を見下ろしながら、父は聞き取れないくらいの低い声で呟《つぶや》いた。
「……母さんは?」
武は母の姿を探すように目を動かした。さきほどまで病室にいて、世話を焼いてくれていた母の姿がない。いつの間にか眠ってしまい、目が覚めたら、父がいた。
父のそばにいつも忠犬のようにへばりついている兄の姿もない。父は独りだった。
「花瓶の水を変えると言って出て行った」
父はそう言ってから、
「どうだ。なますのように切り刻まれた感想は? 少しは懲りたか?」
薄く笑いながら、片手を伸ばして、寝ている息子の頬《ほお》に触れた。生きていることを確かめるような仕草だった。
そして、頬に触れた手をさらに伸ばして、髪に触れた。小さな子供の頭を撫《な》でるように、優しく髪を撫であげた。
「あまり心配させるなよ……」
武は息を詰めるようにして、父の温かい手の感触を全身で感じ取ろうとした。こんな風に頭を撫でられたのは、何年ぶりだろう。思い出そうとしても思い出せないほど遠い昔のことのような気がした。
意識を取り戻したあと、母から聞いた話では、救急隊員によってこの病院に運び込まれてきたときは、もはや、出血多量で生死の境をさ迷っており、連絡を受けて真っ先に駆けつけた母に、医師は、助かる確率は五分五分だというようなことを伝えたらしかった。
しかし、まだ若く体力にも人一倍恵まれていたことが幸いして、武は、爪《つめ》をたてるようにして死の淵《ふち》から這《は》い上がった。
ふだんは冷淡な父も、さすがに死にかけたとなれば、少しは優しい気持ちになるものらしい。
武は、そんなことを考えながら、幼い頃に戻って父に甘えたいような妙に甘酸っぱい気分を味わっていた。
「警察が事情を聴きたいと言っているが、話せるか?」
「うん。大丈夫……」
武は素直に答えた。こんなに素直な気持ちで受け答えしたのも久しぶりだった。
「判っていると思うが」
父は息子の髪を撫でつけながら、世間話でもするような口調で続けた。
「訊《き》かれたことだけ答えればいいからな。よけいなことは何も言うな。そのうち、マスコミの連中も取材に押し寄せて来るかもしれないが、あのマンションは、受験勉強に専念できるように、俺《おれ》がおまえに借りてやったものだということにしてある。いいな?」
「……なんだ」
武は、いっときの感傷からさめたような冷ややかな声で言った。
「心配させるなって、そういうことか」
「そういうことも含めてだ。おまえももう子供じゃないんだから、俺の立場というものも少しは考えろよ」
武は黙ったまま、父の手から逃れるように頭を動かした。
「信貴のようになれとは言わん。大学もおまえの入れるレベルに落としていい。ボクシングを続けたいならやってもかまわん。ただ……」
諭すように静かだった父の声の調子ががらりと変わった。
「俺の邪魔だけはするな」
そう言いながら、髪に触れていた父の手がすっと動いて、武の喉元《のどもと》に添えられた。
「判ったか?」
驚いたように目を見開いている息子の目の奥を覗《のぞ》きこみながら、喉元に添えた手の親指で、少年の喉仏を探りあてると、少しずつ指に力を加えていった。
見開かれた少年の目に恐怖が宿った。
「判ったかと聞いてるんだ?」
父の大きな片手はじわじわと真綿で締めるように武の首を締め付けていった。
「……本当は」
武は憎悪を目にこめて言った。
「死ねばよかったって思ってるんだろ?」
喉仏を指で押さえ付けられているので、しゃがれたような声しか出なかった。
「そうすれば、死人に口なしだもんな……。やっかい払いもできるし」
「そこまでは思ってないよ。今はな。おまえには何の期待もしていないが、血を分けた息子であることは変わりない。だが、これ以上、スキャンダルの種になるようなことをしでかしたら、たとえ息子だろうと……」
病室のドアがカチリと鳴った。誰かが中に入ってくるような気配がした。
「とにかく、おとなしくしていろ。俺が言いたいのはそれだけだ」
父はそう言うと、ようやく手を離した。
病室のドアが開いて、花瓶を手にした母が入ってきた。
病室に入ると同時に、夫の貴明は、「また来る」と言って、そそくさと部屋を出て行った。
新庄美里は、水を替えたばかりの花瓶を両手に抱えたまま、夫を見送ると、ベッドの上の息子の方に視線を移した。
どういうわけか、武はひどく咳《せ》き込んでいた。
「どうしたの?」
花瓶をかたわらのテーブルに置いて、息子のそばに駆け寄ると、心配そうに聞いた。
「……なんでもない。水……のもうとしたら変なとこに入っちゃって」
武は咳き込みながらもそう言った。サイドテーブルには水差しが置いてある。どうやら不自然な姿勢でそれを飲もうとして、水が気管にでも入ったらしい。
しかも、咳をするたびに、縫合したばかりの傷口が痛むらしく、よほど痛いのか、目には涙さえ浮かべていた。
「お父さん、何か言ってた?」
ようやく咳の発作がおさまって、ぐったりと仰向《あおむ》けになっている息子に、美里は聞いた。
病室に入ったとき、夫と息子の間に、何やらピンと張り詰めた氷のような冷めたい空気が漂っているのを感じた。それは、昨日今日にはじまったことではないが……。
「可愛《かわい》い息子が生き返ってくれて嬉《うれ》しい」
武は唇を歪《ゆが》めて言った。
「……てなことをあいつが言うわけないか。番犬どもを引き連れずに、珍しく独りで来たかと思ったら、開口一番、警察やマスコミによけいなことは喋《しやべ》るな……だもんな。息子の命より、まずマスコミ対策ってか」
武は憎々しげに言い捨てた。
「それは誤解よ。お父さんだってあなたのことが心配で……」
「あいつが心配しているのは、俺が何かしでかして、自分の首が危なくなることだけさ」
「武……」
いつからこうなってしまったのだろう。
美里は暗澹《あんたん》とした思いで、息子の顔を見ながら思った。
小さい頃は、身体《からだ》が弱く病気がちだったこともあって、それを不憫《ふびん》がってか、夫は、長男以上にこの次男を可愛がっていた。武の方も父親によくなついていた。父親を誰よりも尊敬しているようだった。
そんな二人の関係が目に見えておかしくなってきたのは、武が中学に入った頃からだった。虚弱な体質を少しでも改善しようと、空手や剣道をはじめ様々なスポーツを半ば強制的にやらせたことが功を奏して、この頃には、幼い頃のひ弱さがまるで嘘《うそ》のように逞《たくま》しくなっていた。ただ、健康体になったのはよかったのだが、少し元気になりすぎた。身体を鍛えたことが裏目に出てしまった。
「健全」なスポーツだけでは、体内にたまった途方もないエネルギーを発散できないとばかりに、同級生や他校の生徒と喧嘩《けんか》に明け暮れるようになり、なまじ武道の心得があったばかりに、相手の生徒を半死半生の目に遭《あ》わせて、傷害事件として告訴されかけたのを、夫が陰でもみ消したことも一度や二度ではなかった。
学業の方も、知能指数は並以上のはずなのに、さっぱり振るわない。
しかも、右を向けといえば素直に右を向くような長男と違って、父親の言うことやることに、ことごとく反発するようになった。最初のうちは、「反抗期か」と笑う余裕を見せていた夫も、そんな次男に対して次第に距離を置くような冷淡な態度を示すようになった。
それでも、高校に入って、知人の勧めでボクシングを始めるようになってからは、前ほど喧嘩|沙汰《ざた》も起こさなくなり、少し落ち着いたように見えた。
ところが、美里がほっとしたのもつかの間、今度は別の問題を起こした。高二のときの担任だった女性教師と一線を越えた関係になってしまったのだ。この件も、スキャンダルとして広まる前に、夫が素早く手を回してもみ消したのだが、この頃には、夫と息子の関係は修復できないほど悪化していた。
そして、今年になって、長男が現役で難無く合格した大学の受験に失敗してからは、夫は次男を完全に見限ってしまったように見えた。
いまや、武は、新庄家の面汚しといってもよかった。家族だけでなく、親戚《しんせき》筋からもそのような目で見られている。
長男がいつか言っていた言葉を借りれば、「武は親父の脳に出来た小さな腫瘍《しゆよう》のようなものさ。下手をすると命取りになりかねない。でも、取り除きたくても、微妙なところにあるので切り取ることもできない。これ以上大きくならないことを祈るしかない存在」だった。
それでも、「馬鹿な子ほど可愛い」とでもいうのか、美里は、この次男が可愛くてしょうがなかった。夫からは「甘やかしすぎる」と再三言われ、自分でもそう自覚しながらも、いざとなると、つい手を広げて、親鳥が雛《ひな》をかばうようにかばいたくなってしまう。
ただ、それは、実の母親だからというだけではなさそうだった。
「見ているうちに、放っておけなくなって……」
これは、教え子との関係が学校側に知れて、二十年近く続けた教師という職業と同時に家庭をも失った中年の女教師が、いつか、美里に向かって漏らした言葉でもあった。
あのときは、どうしてもっと大人《おとな》の理性と分別をもって息子に接してくれなかったのかと、自分とさほど年の変わらぬ女教師に怒りをおぼえ、口に出して詰《なじ》りもしたが、今から思えば、なんとなく、あの女の言わんとすることも分からないわけではなかった……。
武には何かある。
どんな女の中にも眠っている「母性」のようなものを苦もなく引き出す不思議な力が生まれつき備わっているような気がしてならなかった。
自分を守らせるために。
「母さん……」
そんなことをボンヤリと考えながら、水を替えたばかりの花瓶に見舞い用の花を生けていた美里に、武がふいに声をかけた。
「あれ、どうした?」
「あれって?」
美里は振り返って聞いた。
「俺、お守り、もってなかった?」
「ああ、それなら……」
そういえば、手術が終わったあと、看護婦の一人から、「患者さんが、ずっと握っていた」と手渡されたものがあった。それは、どこの神社でも売っているようなありふれた守袋だった。血で汚れていたので、捨ててしまおうかとも思ったのだが、武が九死に一生を得たのも、この守袋のおかげかもしれないと思うと捨てることもできず、そのまま、持っていたバッグに入れた記憶があった。
「これのこと?」
バックの中からそれを取り出し、息子に見せると、
「その中に髪の毛、入ってない?」
と武は言った。
「……髪の毛?」
美里は怪訝《けげん》そうな顔をしながらも、守袋の口を開いて中を改めてみた。すると、確かに、中から一つまみほどの人間のものらしき髪の毛が出てきた。
「どうしたの、これ……?」
美里は気味悪そうに、指でつまみあげたそれを見た。
「犯人の女の髪だよ」
武はそう言った。
「……え?」
「あの女が弟のために作ったんだって……」
武は、女の髪の毛の入った守袋をなぜ自分が握り締めたまま病院にかつぎ込まれてきたのか、その経緯を母親に話した。
武の話では、最初は「ヒロ」と名乗っていたその女には重い心臓病の弟がいて、その弟のことが今回の一連の事件の要因になっていたらしい。
しかも、ナイフをよけようとしてついた防衛痕《ぼうえいこん》だとばかり思っていた掌の切り傷も、全く違った意味をもつ傷だったことを知って、美里は、犯人の女に対して複雑な思いを抱かざるを得なかった。
感謝……にも似た感情だった。
息子をこんな目に遭わせた当の犯人に「感謝」するというのも変な話だが、不思議なことに、憎しみのようなものは湧いてこなかった。
しかも、犯人は既に自殺していた。十九階のマンションのベランダから飛び降りて、ほぼ即死だったという。
憎みたくても、その対象が亡くなっているのだから憎みようもなかった。それに、最後には、一思いに殺すこともできたのに、それをしなかったのだから、矛盾するとは分かっていながらも、感謝としかいいようのない気持ちを犯人に抱かざるを得なかった。
しかし……。
「感謝」するとしたら、犯人よりも、むしろ、「ヒロ」という女性の方かもしれないと美里はすぐに思い直した。
武の話では、犯人の友人らしき「ヒロ」という女性がたまたまかけてきた電話が、犯人の凶行を結果的にくい止めることになったというのだから。
もし、あのとき、この女性が電話をかけてこなければ……。そう想像しただけで、美里は全身が震えそうになった。
武は、おそらく、前の二人の被害者のように、無残この上ない遺体となって発見されていただろう。それも、おそらく、久しぶりにあの部屋を訪ねた父親によって……。
その可能性も十分にあったことを考えると、この「ヒロ」という女性こそが息子の命を救ってくれた恩人であり、感謝してもしたりない存在であるように思えてならなかった。
むろん、当の女性の方は、そんなこととは夢にも知らずに、あの電話をかけてきたのだろうが。
もし、いつか、機会があったら……。
美里は思った。
この「ヒロ」という女性に会って、たとえ偶然の結果にせよ、息子の命を救ってくれたことのお礼を言いたい……と。
雲一つない紺碧《こんぺき》の空の下に、深いエメラルド色の海が広がっていた。
アマミク神にまつわる霊地の一つであり、旧暦正月と八月には、「浜川拝み」と称する参拝客で賑わうヤハラヅカサの海岸も、今は人影はまばらだった。そんな海岸に照屋火呂は一人で佇《たたず》んで海を見ていた。
「……やっぱり、ここだった」
蛍子は、姪《めい》に近づいて声をかけた。
「あ……叔母《おば》さん」
火呂は振り向いて、かすかに笑顔を見せた。
「小さい頃、ここでよくサッチンと遊んだなあって思って……」
火呂は眩《まぶ》しそうな目で海を見ながら言った。
蛍子も姪と並んで、片手を額にあてて庇《ひさし》のようにしながら、海を見つめた。
無邪気に歓声をあげて、海岸を駆け回る二人の幼い少女の姿が、まるで蜃気楼《しんきろう》のように、蛍子の記憶の中からたちのぼって、すぐに消えた。
その一人はもうどこにもいない。
「これから豪と一緒に東京に帰るけれど……あなたは?」
しばらく黙って海を見つめていたが、ふと我にかえったように、蛍子は言った。
「わたしはもう少しこっちにいる。もうちょっとおばさんのそばについていてあげたいし、今、帰っても、マスコミとかがまだ張り込んでいそうだから」
火呂はそう答えた。
「そうね。そのほうがいいかもね……」
昨日、ようやく、一希と祥代の合同葬儀が行われ、その席でかいま見た、知名淑子のうなだれ憔悴《しようすい》しきった顔を蛍子は思い出しながら言った。
二人の子供をほぼ同時になくし、しかも、姉の方は、こともあろうに、世間を震撼《しんかん》させていた猟奇殺人の犯人だったと知った母の……。
小さい頃から娘同然に可愛いがっていた火呂がそばにいれば、祥代の母も少しは慰められるだろう。
「……わたし、一体何をしていたのかな」
海を見つめたまま、火呂はぽつんと言った。
「……え?」
「サッチンのこと。無二の親友だなんていって、一体、どこが親友だったんだろうね」
自嘲《じちよう》するように火呂は笑った。
「サッチンだって、わたしに話したいことや相談したいことが一杯あったはずなのに……。いつも、自分のことばかり。こっちの悩みばかり一方的に話して、聞き役ばかりさせて。サッチンのことは何も聞いてあげなかった。大学をとっくにやめていたことも知らなかった……」
蛍子は何も言えなかった。身近にいながら、祥代のことを何も知らなかったという点については、自分も全く同罪だと思った。
頭が良くてしっかりした娘。いまどきの若い女性には珍しく、理想と目標をもって、着実にそれに向かって歩いている娘。
そんな目でしか祥代を見ていなかった。
あのような凶悪犯罪がまともな精神で行われたとはとうてい思えない。祥代の精神はどこか目には見えないところで病んでいたのだろうか。少なくとも、一緒に食事をしたり、話したりしたときには、そんな「異常」の匂《にお》いを彼女から嗅《か》ぎ取ることはできなかった。ただ、いつも、少し疲れているように見えただけだった。それも、学業とアルバイトの両立で忙しい毎日を送っているせいだとばかり思っていた……。
祥代が生きていれば、精神鑑定でもして、彼女の心の中で何が起きていたのか探ることもできただろうが、あのような形で、自らを消滅させてしまった今となっては、真相は闇《やみ》の中に葬られてしまった。
動機については、重傷を負いながらも奇跡的に回復したという被害者の少年の話と、祥代の部屋から出てきた、大学ノートに書かれた日記のようなものから、憶測するしかなかった。
その内容からすると、一年浪人してまで入った医大を、祥代はどういう理由からか、誰にも告げずに、半年足らずで自主退学していた。祥代の両親もその事実を全く知らなかったという。
退学の理由ははっきりとは書かれておらず、日記には、「今日退学届け出す」としか書かれていなかった。大学をやめたあとは、すぐに風俗店で働きはじめたらしく、「一千万たまった。あと五千万。フーゾクだけでは無理かも。ウリもしようか」などと書かれていたことから推察して、おそらく、いずれ海外で心臓移植を受ける予定になっていた弟のために、その費用を全額自分で調達するつもりだったのではないかと思われた。実際、祥代の預金通帳には、一千万以上もの大金が手付かずで眠っていたという。
しかし、この風俗店でのアルバイトは、お金にはなっても、その代償として、彼女のプライドや夢や理想をずたずたに切り裂いていったことが、日記には、叫ぶように吐露されていた。
『今日、客の一人に説教された。キミ、こんなことしてたら、将来、幸せな結婚はできないよ、だって。幸せな結婚って何? あんたはしてるの? しててもこういうところに来るの? それとも、男は別なの? 教えてよ、クソバカ』
『聖母マリアも売春婦だった。だから、キリストには父親がいない。知ってた? バカ男ども。さあ、祈りなさい。マリアサマに祈りなさい。売春婦に祈りなさい』
『お医者さんごっこの最中に、わたし、ほんとうは女医の卵よって言ったら、客が死ぬほど笑った』
『太った主婦になるよりも、痩《や》せた売春婦になりたい。HAHAHA』
『崇高な目的のためならば、何でも許される』
『慈悲と破壊は対立しない。過剰な慈悲が破壊を生むだけ……』
『カラダを売って何が悪い? 目玉だって肝臓だって、お金のためなら売れるものは何でも売ればいい。あらゆるものに値段がついている。魂にだって……』
日記には、さらにこんなことも書かれていた。
『今日、とうとう、左胸の上に刺青《いれずみ》を入れた。火呂の胸にあるのと同じ、蛇のうろこ模様。わたしも聖なる蛇になった。アマミクの僕《しもべ》として永遠の忠誠を誓うために』
火呂の話では、子供の頃から、祥代は火呂の胸の痣《あざ》に異様なほど関心をもっていたという。祥代の家で一緒にお風呂《ふろ》に入ったときなど、飽きずにしげしげと眺めたり、指でそっと触れたりして、「わたしもこんな痣が欲しいなあ」などと口走ることもあったらしい。
日記の日付から見て、おそらく、祥代は、最初の事件を起こす四カ月ほど前に、彫師のもとを訪れて、あのような刺青を入れたようだった。
祥代の日記には、さらに、こんなことが書いてあった。
『火呂が羨《うらや》ましい。火呂はきっとまだバージンだ。いまだに純白のままの火呂が羨ましい。子供の頃のままの穢《けが》れを知らない火呂が羨ましい。わたしだけが穢れていく。身も心も、どす黒い闇の中に堕ちていく。だから、こっそり、火呂のことを憎んでいる。ウリをするとき、火呂の名前を使って、火呂の振りをするのはそのためだ。真っ白なままの火呂をそっと穢して、わたしのいるところまで堕とすため……』
「じゃ、わたし、そろそろ行くから……」
蛍子はそう言うと、まだ海を見つめている姪を海岸に残して歩きはじめた。
ふいに歌声が聞こえてきた。
振り返ると、火呂が歌っていた。
それは、船出する兄弟の船の舳先《へさき》に、おなりの魂が白鳥の姿になって止まっているという、沖縄に古くから伝わる民謡だった。
祥代が被害者の心臓を捧《ささ》げたという紺碧の海に、女神アマミクが最初に降臨したというヤハラヅカサの海岸に、火呂の澄み切った伸びやかな歌声が吸い込まれていく……。
蛍子は思わず足をとめ、姪の声に聴きいった。
久しぶりに聴く声だった。
火呂の声が清浄な火となって、あらゆる穢れを焼き祓《はら》っていく。
祥代の穢れも、蛍子自身の中に密かに潜む穢れも……。
ふと、虚空《こくう》に幻の船を見た気がした。
知名一希の幼い魂を乗せた船が、その舳先に一羽の白鳥を従えて、真っ青な空の果てをどこまでも漂っていく幻を……。
今こそ、祥代は、聖なる蛇になったのかもしれない、と蛍子は思った。
純白に輝く翼ある蛇に。
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蛇 足
この作品は、一応、前作「蛇神」の続編であります。ただ、続編といっても、メインストーリーそのものは一話完結風に仕立ててあるので、前作をご存じない方でも、十分楽しんで戴《いただ》けると思います。
ただ、前作を知っている人には別の楽しみ方があるとは思いますが……。
「蛇神」を書きあげたときには、続きを書く気はさらさらなかったのですが、読者の方から、「まだ続きそうな終わり方ですね」というような感想を戴き、「そう言われてみれば、今ひとつスッキリしない終わり方だなぁ」と気になっていたところに、角川さんの方から、「次作を」という有り難いお話があったので、それでは、いっそこの続編をと飛びついた次第です。
書き始めた当初は、今度こそ、キッチリ完結させるつもりでいたのですが、どうも、のっけから大風呂敷を広げ過ぎたようで、結局、今回も畳み切れなくなってしまいました。畳もうとすればするほど、なぜか、風呂敷はいよいよ途方もなく、広がっていくような気さえしてきました。
作者の力量をはるかに越えて……。
平成十二年八月八日
[#地付き]今 邑  彩
参考文献
○「沖縄の祖神アマミク」 外間守善著 築地書館
○「火の起源の神話」 J・G・フレイザー著 角川文庫
○「ギリシャ神話小事典」 バーナード・エヴスリン著 教養文庫
○「琉球王朝史」 新里金福著 朝文社
○「沖縄の歴史と文化」 松本雅明著 近藤出版社
※なお、これ以外にも、今回は、ネット上の情報も大いに参考にさせて戴きました。
「神話」関係を扱ったホームページには検索できうる限り、訪れたのですが、日本のサイトだけでも、こちらの予想をはるかに越えた充実ぶりで、大変助かりました。
角川ホラー文庫『翼ある蛇』平成12年9月10日初版発行