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暗黒祭
今邑 彩
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暗黒祭
第一章
平成十年、十月二十七日の午後。
出雲《いずも》空港で拾ったタクシーが堀川に架かる宇迦《うか》橋のたもとにさしかかったところで、宝生輝比古《ほうしようかがひこ》は、ふと思いたって、タクシーを停めさせた。
簸川《ひかわ》郡大社町にある藤本家の門前まで乗り付けるつもりだったが、橋の向こうにそびえたつ大鳥居をフロントガラス越しに見た途端、気が変わったのである。
ここでタクシーを降りて、藤本家までぶらぶらと歩きたくなったのだ。歩いても二十分足らずの距離だろう。
宇迦橋を渡りきった先に真っすぐ伸びている大通りをそのまま行けば、出雲大社の二の鳥居の前に出る。そのせいか、神門通りと呼ばれる大通りを行き交う人々の中には、観光客らしき姿も少なくなかった。
宝生は料金を払ってタクシーを降りると、そうした観光客の一人のような顔をして橋を渡りはじめた。
墓参りが目的ということで、東京の自宅を出るときから着てきた黒のフォーマルスーツに、片手には二日分の着替えだけを詰めた小ぶりの旅行バッグ。
プライベートな時はいつも着用している、洒落《しやれ》っ気のないメタルフレームの近眼鏡をかけて、ぶらぶらと散策するような足取りで歩いている、三十歳そこそこの地味な身なりの青年を見て、すれ違う人は、まさか、これが、「音楽界の若きカリスマ」だの「音の錬金術師」などとも呼ばれている、有名な音楽プロデューサーだとは夢にも思わないだろう。
実際、すれ違う人びとの中に、宝生の方を珍しげにじろじろと見る者など一人もいなかった。
出雲に帰郷したのは、祖母の葬儀以来だから、かれこれ五年ぶりだった。実母の生まれ故郷でもあり、宝生自身、ここで生まれ、八歳まで母方の祖父母と暮らした懐かしい土地でもある。
母の藤本響子は日本が誇るオペラ歌手だったが、宝生が八歳のとき、三十五歳という若さで病没した。
母が亡くなった直後、祖父母の元から引き離され、東京に住んでいた父のもとに引き取られたのだが、ホテルやレストランを手広く営んでいた実業家の父が、なぜ、妻子と同じ家に住まず、別々に暮らしていたのか、なぜ、八歳になるまで、年に数度しか実父と名乗る男と会うことができなかったのか、なぜ、母と自分の姓が「藤本」なのに、父の姓が「宝生」なのか、その理由を知らされたのはこの頃だった。
父と母は正式に結婚した間柄ではなかったのだ。地元の高校を卒業した後、声楽を学ぶために東京の音大に進んだ母が、熱心なオペラ愛好家だった父と出会ったとき、父には既に妻子がいたのである。
つまり、藤本響子は未婚の母だった。
もっとも、母といっても名ばかりで、生みっぱなしで乳ひとつ与えたわけではなく、赤ん坊を出雲の実家に預けたまま、東京のマンションを根城にして、世界中を飛び回るような生活を、母は亡くなる直前までしていたのだが……。
それが、母の死後、男子には恵まれなかった宝生家の養子となり、東京の実父のもとで暮らすはめになったというわけだった。
宝生家に引き取られたのは、行く末は父の事業の後継者になるためだったが、結局、その道は選ばなかった。
母がたの血を濃く受け継いだせいか、中学を卒業する頃には、将来は実業家ではなく音楽家になりたいと願うようになり、そのことをおそるおそる父に相談してみると、無類のクラシック好きだった父は意外にあっさりと許してくれた。母が卒業した音大の付属高校に入学することを進めてくれたのも父だった。どうやら、父にとって、後継者|云々《うんぬん》というのは、亡き愛人の子を引き取ることに難色を示していた正妻に対する口実のようなものらしかった。
そして、その音大付属時代に、型にはまったクラシックの基本を学ぶ毎日に飽き足らなくなり、同じ不満を抱えていた同級生数人と、ほんの遊び半分で組んだロックバンドがきっかけでメジャーデビューを果たした。
父が望んだようなクラシックの世界ではなかったが、ひょんなことから、音楽の世界で生きたいという少年の夢はたやすく叶《かな》ってしまったのである。
バンドを解散した後も、作曲やプロデュースを中心としたソロ活動を続け、現在の地位に昇りつめるまで、何かと多忙をきわめ、出雲に帰郷することもままならぬ日々を送っていたのだが……。
それでも、ようやく時間を見つけて、こうして帰ってきてみると、空港に降り立ったときから、帰るべきところに帰ってきたのだという、ほっとするような気分になった。
今では、東京の自宅以外にも、ニューヨークやロンドンにも仮の住まいをもっていて、亡母同様に世界中を飛び回るような生活をしていたが、幼年期をのんびりと過ごした鄙《ひな》びた出雲の地が、やはり、一番心やすらぐ場所であることを、古びた旅館や民家の立ち並ぶ神門通りを歩きながら、宝生は改めて感じていた。
どこからか漂ってくる蕎麦《そば》つゆらしき匂いを嗅《か》ぎながら歩いて行くと、やがて、出雲大社の二の鳥居が間近に見えてきた。
藤本家に行くには、手前の通りを左手に曲がればいいのだが、しばし立ち止まって思案したあげく、このまま、二の鳥居をくぐり、大社の境内をぐるりと散策してみようかと思いついた。
衣類しか入っていない旅行バッグはそれほど重くはないし、頭上に広がる澄み切った気持ちのよい秋空が、五年ぶりで訪れた懐かしい地をもう少し歩いてみたいという気にさせていた。
それに、藤本家から下駄ばきで行ける距離にある出雲大社の広い境内は、物心ついた頃から、祖母に連れられてよく散歩がてらに歩いた場所でもあった。
そう思いつくと、宝生は、参拝客に混じって、二の鳥居をくぐった。
鬱蒼《うつそう》とした松並木の長い参道を抜けると、左手に水舎、目前には、再び銅の鳥居が見えてきた。
その鳥居の向こうには、太いしめ縄を張った檜《ひのき》造りの拝殿がそびえている。
参拝を終えて拝殿を眺めながら、宝生は子供の頃のことを思い出していた。
あれは、四、五歳の頃だったか。もっと小さかったかもしれない。拝殿に張り巡らされた太いしめ縄をはじめて見たとき、まるで大蛇が巻き付いているようだと感じたことがある。傍らにいた祖母にそれを言うと、祖母のキエは、少し声をひそめるようにして、「ここに祭られている神様は、蛇の神様なんだよ」と教えてくれた。
後になって、近所の遊び友達にそのことを言うと、年かさの子供から、嘘をつくなと怒られた。あそこに祭られているのは、「大国主命《おおくにぬしのみこと》」という人間の神様で、蛇の神様なんかじゃない、というのである。
確かに、出雲神話を幼児向けの絵本仕立てにした本を読んでみても、出雲の神様は、困っているウサギを助けた気の優しい人間の神様であると書かれており、蛇などとはどこにも書いてなかった。
嘘を教えられたのかと悔しくて、夜、そのことを祖母に問いただすと、キエは微《かす》かに笑いながら、「でも、本当は、蛇の神様なんだよ。その証拠に、あそこの御神体は、とぐろを巻いたウミヘビだよ……」と教えてくれた。そして、そのとき、祖母はこんなことを言った。
そもそも、藤本家というのは、出雲大社と並ぶ古社でもある佐太神社の祝《ほうり》と呼ばれる下級神官の家柄で、この祝の家では、代々、出雲大社や佐太神社に納める御神体のウミヘビの剥製《はくせい》を作る仕事をしていたのだという。
しかも、この神聖なウミヘビの剥製を作るのは女性の仕事で、祝の家では、母から娘へと世襲で引き継がれたというのである。
祖母が問わずがたりに話してくれた話によれば、古くから、出雲では、海岸にあがったセグロウミヘビを「竜蛇《みい》さん」と呼び、竜宮城の使いとして崇《あが》める習慣があったらしい。
というのも、出雲地方では、古来、陰暦十月になると、季節風の走りがあり、西風や北西風が吹きまくって気候が急変する。これを俗に「お忌み荒れ」という。
その頃、沖合から寒冷水が張り出し、セグロウミヘビが海岸に上がってくる。大昔、船がなかった時代、漁師たちがセグロに接するのは、そのような年に一度の機会だった。
セグロウミヘビは、その名の通り、背が黒く、腹が黄色い。これは、天地玄黄《てんちげんこう》の相を表し、二色《にしき》蛇とも言われる。
年に一度しかお目にかかれないという希少性と、その派手で神秘的な外見ゆえに、「竜蛇」と呼ばれて、人々に崇められ、神社の御神体になっていったのである。
昔は、一年に一尾しか使わず、「竜蛇」を捕らえた漁師は、それを出雲大社か佐太神社に持っていくと、米一俵を貰《もら》えたという。
出雲大社では、旧暦十月の神在月《かみありづき》の祭りには、三重にとぐろを巻かせたセグロウミヘビの剥製を白木の三方《さんぽう》に載せて、行列の先頭に出して公開する。
「竜蛇」は水難火難よけとしても信仰され、出雲地方の旧家では、出雲大社、佐太神社、日御碕《ひのみさき》神社から、「竜蛇」を請けまつり、家の土蔵の神として祭ったともいう。
藤本家の土蔵にも、祖母が自ら皮をはぎ、内臓を抜いて作ったという、とぐろを巻くウミヘビの剥製が、「家の守り神」として恭しく祭られていた。
ウミヘビだけでなく、出雲では、毎年農村では、収穫が終わった晩秋から初冬にかけて、藁《わら》で大蛇を形作り、これを松や榎《えのき》などの大木に巻いて、豊作を祝う「荒神《こうじん》まつり」が行われた。
「……だから、蛇をむやみに恐れたり嫌ったりしてはいけないよ。蛇は家や国を守ってくれる大事な守り神なんだからね」
祖母は諭すようにそう言った。
そして、さらにこうも続けた。
そもそも、おまえの「輝比古」という名前も「蛇」に由来しているのだと。「かがひこ」の「かが」とは、本来、「蛇」を表す古語だというのである。つまり、「かがひこ」とは、「へびひこ」の意味であると……。
「そんな名前を付けたのは、おまえが生まれたとき、家の庭に一匹の白蛇が姿を現したからなんだよ。白蛇は幸運をもたらし縁起が良いといわれている。蛇はおまえの守り神でもあるんだよ……」
「てるひこ」と読まれがちなこの奇妙な名前にそんな由来があったとは、そのときまで知るよしもなかったから、縫い物をしながら、幼い子供にも理解できるように、噛《か》んで含めるように話をしてくれた祖母の顔をただただ見つめて聞き入っていた。
思えば、もの心ついた頃から、蛇という生き物にたいして、多くの人々が感じるような恐怖や嫌悪の感情を全く抱いたことがなかった。
それどころか、毛足の長い生き物に触れるときよりも、蛇や爬虫《はちゆう》類のあのひんやりとした冷たい膚《はだ》に触れている時の方が、なぜか心が落ち着くような気がするのも、出雲地方に古くから根付いていたというこの蛇信仰の話を祖母の口から折りに触れて聞いて育ったせいかもしれない。
今はたった一人で住んでいる東京の自宅には、どの部屋にも、蛇やトカゲを入れた水槽が所せましとおかれて、まさに水族館のようになっている。
たまに友人や仕事関係者を招くと、誰も二度とは訪ねてこないほど気味悪がられるこの家も、宝生にとっては、どこよりも心くつろげる空間だった。
思い返せば、祖父母の元から引き離されて、宝生家で暮らすようになったとき、生まれてはじめて飼ったペットが、犬猫の類《たぐ》いではなく、一匹の小さな蛇だった……。
宝生家での生活は悪くはなかった。
東京の一等地に広大な屋敷をもつ富裕な資産家だったから、物質的な面では何ひとつ不自由することはなかった。
明るく陽の差し込む広々とした洋間を与えられ、継母や年の離れた異母姉《あね》たちからも、愛人の子だからといって、苛《いじ》められたり邪険にされたりするようなことはなかった。
とはいえ、それは表立ってはということで、宝生家の女たちの内心には、外に愛人を作り、子供まで設けていた夫や父への怒りや不満がくすぶっており、それが、何かの拍子に、見えない波動となって、幼い少年に襲いかかるようなこともあった。
人一倍敏感なところがあった少年は、継母や異母姉たちの、うわべの優しさ上品さに隠された、真綿にくるんだ針のような刺々《とげとげ》しい感情にすぐに気づいてしまった。
そして、それから身を守るために、うちにいるときは、女たちとの接触をなるべく避けるために、何かと理由をつけて自分の部屋に閉じこもるようになった。
学校に行っても、田舎からの転校生ということで友達もできず、学校でも独り、家でも独りという孤独な日々が続いた。
もっとも、宝生自身は、こんな孤独な日々を送る自分をそれほど可哀想だとは思っていなかった。
というのも、元来、他人とわいわいやって賑《にぎ》やかにしているよりも、誰にも邪魔されない薄暗い部屋の片隅にひっそりと座り込んで、果てしもない空想にふけったり、自分で考えた独り遊びをするのが好きな、どこか孤独癖のある子供だったからだ。
ただ、家でも外でも孤立しているようにみえる息子の状態に密《ひそ》かに気づいた父が、不憫《ふびん》に思ったのか、九歳の誕生日が近づいたある日、ふいに、「誕生プレゼントに、何かペットを買ってやろう」と言い出したのである。
可愛い子犬か子猫でもそばにおいてやれば、幼い息子の孤独も少しはまぎれるのではないかと考えた父なりの親心だった。
しかし、そのとき、喜んだ少年が即座にねだったのは、父が考えていたようなありふれた犬猫ハムスターの類いではなかった。
なんと、蛇が欲しいと言ったのだ。
まさか、息子がそんなことを言い出すとは夢にも思っていなかった父は、その返事に面食らいながらも、さりとて前言を翻すこともできず、仕方なく、子供が飼っても害のないような、南米産の小さな縞蛇《しまへび》を買い与えてくれた。
その日から、その小さな蛇が少年の唯一の心の友となった。
しかも、蛇を飼うようになって、もうひとつ有り難いことがあった。
それは、それまで掃除を口実に無断でずかずかと部屋に入りこんできては、本棚や机の引き出しなどを隈無《くまな》くチェックしていた(らしい)詮索《せんさく》好きの老家政婦が、この蛇を怖がって、部屋に入ってこなくなったことだった。
そのおかげで、部屋の掃除は自分でするはめになってしまったが、継母の遠縁にあたるという老家政婦の無神経な過干渉に悩まされていた少年は、内心|快哉《かいさい》の声をあげた。
祖母が言っていた「蛇は守り神」という言葉の意味を、身にしみて感じたのもこのときだった。
小さな心の友は、部屋の隅でとぐろを巻いているというだけで、宝生家の女たちの目には見えない攻撃的な精神波動から、少年を守る、まさに「守り神」になってくれたのである。
やがて、中学高校へと進むにつれて、少年の部屋の「守り神」の数は一匹、また一匹と増えていった。コレクター心理も手伝って、より美しく、より珍しい種類をと求め続けているうちに、気が付くと、部屋は蛇の巣と化していた。
そして三年前。父が病死した後、財産分与を済ませると、宝生家の女たちは、こんな家で蛇と同居するのは真っ平ごめんとばかりに、別の所により広大な家を建て、さっさとそちらに引っ越して行った。
古い邸宅に残ったのは、宝生と蛇たちだけだった。
はた目には、愛人の子である彼が正妻と異母姉たちを追い出して、いわば庇《ひさし》を借りて母屋を乗っ取ったような格好に見えたかもしれないが、もちろん、彼が女たちを追い出したのではなく、女たちの方が古い家を捨てたのである。
父の死をきっかけに、もともと薄かった宝生家の女たちとの縁も完全に切れたといってもよかった。
父が手掛けた事業は、二人の異母姉とその連れ合いたちによって引き継がれ、古ぼけた邸宅以外の莫大《ばくだい》な遺産はすべて女たちのものになったも同然だったから、あちらからも文句の出ようはずがなかった。
こうして、父の遺《のこ》した邸宅で一人、誰の目をはばかることもなく、愛すべき蛇たちとの同居を楽しむことができるようになったわけだったが……。
ところが、父の死後、宝生は今まで感じたこともないような寒々とした孤独感に苛《さいな》まれるようになった。
今から思えば、これまでに自分が感じてきた孤独というものは本当の孤独ではなかったのかもしれない。
それは、いみじくもフランスのシャンソン歌手が訥々《とつとつ》と歌ったような、母親の胎内にいるような「暖かい孤独」にすぎなかった。
たとえ独りでいるときも、心のどこかで、いつも祖母や母や父と精神的に繋《つな》がっていられたからだ。
出雲にいたときは、どこか遠い空の下にいる母や父を想って寂しさをまぎらわせ、東京に来てからは、出雲の地にいる祖母を想うだけで心が癒《いや》された。
母、祖母、そして父。
この三人の存在がどれほど自分にとって大きなものだったか、三人を失ってはじめて思い知らされたのである。
ただ、存在が大きかったといっても、この三人が血肉を分けた肉親だからというわけではなかった。
肉親ということならば、祖父はまだ存命だったし、腹違いの姉たちも、半分は血が繋がっているのだから肉親ともいえるわけだが、彼らにたいしては、こんな気持ちを抱くことはなかった。
肉親だからというのではない。何かもっと血肉以外の強靭《きようじん》な精神的な絆《きずな》とでもいうものが、この三人との間には在ったような気がする。
そして、この「絆」は、世間的には不倫の関係といわれた父と母との間にも存在していたことを、父の死後に知った。
亡父の部屋を整理していたとき、納戸の奥から鍵《かぎ》の掛けられた大きな箱を見つけたのである。
何だろうと思い、開けてみると、中から、ぷんと立ちのぼる樟脳《しようのう》の匂いとともに、舞台衣装をはじめとする母の遺品と思われる品々が出てきた。髪どめや指環《ゆびわ》のような細々としたものまであった。
父は、母の死後、特に思い入れの深い形見の品をこの箱に収め、家の者に見られないように厳重に鍵をかけ、大切に保管していたのである。
そして、おそらく、時折、この箱を開けてその品を手に取り、母との思い出に耽《ふけ》っていたのだろう。
遺品の中には、二人が過去に交わした古い手紙の束も混じっていた。
その恋文の集大成ともいうべき分厚い手紙の束を一通ずつ丹念に読んでいくうちに、父と母がどのように知り合い、どのように互いを想い合い、世間的には決して認められない関係をどのように育《はぐく》んできたのかを知った。
しかも、母が父宛に出した手紙には、父への想いだけでなく、わが子に対する想いも記されていた。
なぜ、母がその気になれば、芽のうちに摘み取ることもできたであろう小さな命を胎内で育て続け、「未婚の母」になるというスキャンダラスで困難な道をあえて選んだのか、という長年の疑問の答えが明確に記されていたのである。
宝生はそれを読んで、はじめて母の心に触れたような気がした。
出雲にいたとき、母は暇ができると時折会いにきてくれたが、そのときでも、母らしく抱き締めてくれるわけでもなく、優しい言葉ひとつかけてくれることもなく、それどころか、一緒に居てもあまり楽しくないような不機嫌な顔をして、その態度は、よそよそしく冷たくさえ感じられた。
ひょっとしたら、自分は母に嫌われているのではないかと勘ぐったことさえある。
実際、母が祖母にむかって、「あの子はいつもわたしをよそのおばさんが来たような目で見る。うじうじして、かわいげのない子だ」と愚痴るように言っていたのを聞いた記憶もあった。
しかし、その手紙を読んで、あの不機嫌でよそよそしく見えた母の態度が、実は、久しぶりに会うわが子に対して、嬉《うれ》しいのだけれど、どのように接していいのか分からないといった、照れというか困惑から生じたものであったことが分かったのだ。
それは、まさに、彼自身が母と会うときにいつも感じていた心理そのままだった。
明日、母が帰ってくると祖母から聞かされた夜は、興奮して眠れないほど嬉しいのに、翌日、いざ、母と面と向かうと、素直に甘えることもできず、上目使いで、ただもじもじするだけだった。
本当は、その膝《ひざ》に真っすぐ飛びついていきたかったのに、自分を見下ろす母の顔つきが不機嫌そうに見えて、いきなり抱き着いたりしたら、邪険に突き飛ばされそうな気がして怖かった。
今にして思えば、母の方も、全く同じ気持ちだったのかもしれない。たまに帰ってきても、素直になついてくれないわが子に対して、どう扱っていいのか分からず途方に暮れていたのだろう。それが不機嫌そうな顔付きや態度になって現れてしまったのかもしれない。
しかも、その手紙を読むと、宝生家の養子にして子供を引き取るという話は、彼が母のお腹の中にいるときから、既に父が提案というか懇願していたことも分かった。しかし、それを母はきっぱりと断っている。
愛されていないわけではなかった。十分、愛されていた。
ただ、舞台の上では、どんな難しい役柄でも巧みに歌い演じ分けられた高名な歌姫も、ひとたび舞台を降りて日常に戻れば、母親の役も満足にできない不器用な一人の女にすぎなかったということだった。
宝生家の居間には一体の等身大の人形が飾られている。
母の面差しをもつマネキン人形である。亡父の部屋で形見の品々を見つけた後、知り合いの人形師に頼んで、母に似たマネキンを一体作ってもらい、それに、あの舞台衣装を着せて飾ったのである。
それは、自分のためというより、妻や娘たちの手前、これらの形見の品々を納戸の奥に隠すようにして保管せざるをえなかった父の心情を察して、いわば亡父の供養のためにしたことだった。
それに、この舞台衣装には、宝生自身見覚えがあった。確か、これは、六歳のとき、はじめて父に連れられて、母が主演するオペラを国際劇場に観に行ったとき、母が着ていた衣装だった。
父がこの衣装を殊更に大切にしていたのは、単に母の形見というだけでなく、親子三人の思い出にもつながる衣装だったからかもしれなかった。
だから、よけい、宝生家の女たちがいなくなった現在、家の中央部に、誰の目をはばかることもなく、堂々と飾りたかったのである。このことが、家に招いたことのある知人の口からでも漏れたのか、マネキンがいつの間にか、不気味な蝋《ろう》人形ということにされて、蛇や爬虫《はちゆう》類を飼っているという話と相俟《あいま》って、何やらサイコめいた怪しげな噂として広がってしまったようだが……。
不在がちな母親のことは、さびしいと思うことはあっても、それほど恨んだことがなかったのは、母の主演するオペラを観に行ったとき、父が言ったある言葉のせいかもしれなかった。
「お母さんがいつもそばにいなくてさびしいか」と父に聞かれ、素直に「うん」と頷《うなず》くと、父は言った。
「でも、おまえのお母さんはおまえだけのものじゃない。日本の、いや、世界の恋人なんだ。世界中にお母さんを待っている人たちがいるんだよ。身内だからといって独占できるような人じゃない。だから、少しくらいさびしくても我慢しなくちゃいけないよ」
満場の拍手|喝《かつ》采さいを受けて、舞台の中央にすっくときらびやかに立っている母を見ながら、父はそう言ったのだった。まるで自分自身に言い聞かせるように。
父の言う通りだった。げんにその劇場を埋め尽くした観客の一人一人が母が出てくるのを今か今かと待ち望んでいた。そんな熱気が劇場中に籠《こ》もっているのを全身で感じることができた。こういう人たちが世界中にいるのだ。子供心にそう納得した。
父の言葉は、ごく自然に、砂地に水が染み込むように、少年の胸に染み込んだのである。舞台の上の母は、ふだんの母よりも、堂々として大きく美しく見えた。誇らしかった。母を見て熱狂している観客の一人一人に向かって、「この女《ひと》は僕のお母さんなんだよ!」と大声で触れ回りたいほどに。
生みっぱなしで何一つ母らしいことはしてくれなかった母だが、あの瞬間、あの姿とあの声を聴かせてくれたことで、どんな賢母といわれる母親にもできないことをしてくれたのだ。
たとえ、父と母が出会ったとき、父がまだ独身で、正式に結婚できたとしても、その結果として自分が生まれてきたとしても、同じ屋根の下で朝晩の食卓を囲む普通の家族のような生活は望めなかったに違いない。
おそらく、父も母もそれぞれの仕事に夢中になって飛び回り、広い邸宅に、家政婦か何かとぽつんと残される生活が待っていただろうから。
そんな生活に比べれば、たとえ法で認められた家族とは言えなくても、出雲の祖母の家で育てられた方が確実に幸せだったような気がする。祖母は、母の分まで大切に育ててくれたからだ。
育ててくれたといっても、単に世話をしてくれたというだけではない。人の基本的な性格や嗜好《しこう》は五歳頃までに決定してしまうといわれている。人格形成に幼児期の環境が大きく影響するというのである。この説を信じるならば、彼の人格の基礎のようなものを作ってくれたのは、まぎれもなく、この祖母だった。ただの家政婦では、これほどの影響は与えられなかっただろう。
一緒に暮らしていても、必ずしも心までつながっているとは限らない。同居しているというだけで、気持ちはそっぽを向き合った夫婦や家族は世にいくらでもいる。
遠い空の下にいる父や母を想って、それだけで満足できたのは、父や母も、同じ想いを返してくれていたからかもしれない。そのことを少年は本能的に知っていた。だから、そんなにさびしくはなかったのだ。
たとえ独りでいても、こうした感情を共有できる相手がどこかで生きているうちは、本当の孤独ではなかった。どんなに離れて暮らしていても、心の奥底でつながっている人間がいたことで、その存在を常に感じ続けることで、真の孤独を味わってはいなかった。
それが……。
この三人を相次いで亡くし、はじめて、真の孤独というものと向き合うことになったのである。
学校時代の友人や仕事仲間は沢山いたが、どんなに気が合い親しくしても、彼らが友人知人の域を出ることはなかった。三人の代わりにはなり得ない。
恋人関係になった女たちも過去に何人かいたが、うちに連れてきたところで、どの女との関係も、たちどころに破綻《はたん》した。
原因はあの蛇たちだった。女たちは、例外なく、宝生家にうごめく お夥《びただ》しい数の蛇の存在にまず驚き怖がった。そして、この家の女主人の座を射止めるためには、これら蛇たちの同居と世話が大前提であることに気づくと、どんな野心家の猛女でさえも、その高すぎるハードルに後ずさりした。
継母や異母姉《あね》たちを結果的には追い出してしまった蛇たちは、外から入ってこようとする女たちをも、玄関先で易々《やすやす》と追い払ってしまったのである。
宝生家にとぐろを巻く無数の蛇たちは、富や名声に群がる女たちの毒牙《どくが》から、主《あるじ》を守る忠実な「守り神」であると同時に、自らを無意識のうちに守ろうとしている、主自身の強烈な「自己愛」の化身であるのかもしれなかった。
しかし、父の死後、何かの折りにふと感じるようになった、こうした寒々とした孤独の感情は、精神的な絆《きずな》で結ばれていた肉親を次々と失ったということだけが原因ではなかった。
今たずさわっている仕事に以前のような情熱ややり甲斐《がい》のようなものを感じられなくなったせいも多分にある。
音楽プロデューサーなどといえば聞こえはいいが、何をしてきたのかといえば、歌手というよりも、歌も歌えるという程度のルックスの良い若者たちを見つけてきては、ひたすら世に送り出していただけではないか。音楽史上に名を残すような真のアーチストなど一人として育ててはいない。飽きっぽく貪欲《どんよく》な大衆の口に放りこむために、甘い弄玉《あめだま》のような消耗品のアイドルを途切れることなく供給し続ける、まさにアイドル製造機に成り果てていた。
それによって、いくら富や名声を得たとしても、これまでしてきたことを振り返ったとき、胸の中を一陣の風が吹き抜けていくような虚しさに襲われるようになった。
自分は一体何をしてきたのだろう。
そこには何かを成し遂げたという誇りも喜びもなかった。
そして……。
一週間ほど前のことだった。
軽い運動を兼ねて散歩に出たとき、途中で立ち寄った大きな公園で、そこをねぐらにしているらしいホームレスに声をかけられた。
ベンチに座って、誰かがばらまいていったパンくずに群がる鳩をぼんやりと見ていると、ひしゃげたタバコを口の端にくわえた初老のホームレス風の男が、「火を貸してくれ」と言って近づいてきたのである。
「ライターもマッチも持っていない」と答えたにもかかわらず、その男は、立ち去ろうともせずに、そのまま隣に腰をおろしてしまい、「兄ちゃんも仕事にあぶれた口かい」と話しかけてきた。
平日の昼下がりに、ジーンズにサンダルばきというラフな格好で、ポツンとベンチに座って鳩の群れを眺めている、どこか世捨て人風の目をした青年を見て、どうやらお仲間と勘違いしたらしかった。
「火を貸せ」云々《うんぬん》が、話しかけるための口実だったらしいことは、その公園がオフィス街にも近いということで、白いワイシャツにネクタイをしたサラリーマン風の男たちも何人かベンチでくつろいでおり、その中には、新聞を読みながらタバコをふかしている者もいたのに、そちらには声をかけようとしなかったことでも想像がついた。
話しかけられたときは、異臭と共に近づいてきたその男を、少し鬱陶《うつとう》しいなと思い、早く追い払いたいという気持ちもあって、「ええ、まあ」と適当な答え方をしていると、男は、途端に同病相|憐《あわ》れむというような顔になって、「俺もそうなんだよ。ここずっと職安に通い続けてるんだけど、何もなくてなぁ……」とぼやき、聞きもしないのに、二十歳のときに、新潟の寒村から一旗あげようと出てきたが、何をやってもうまくいかず、建築現場の土方仕事をやって何とか食いつないできたものの、不況のせいか、こうした仕事もめっきりと減ってしまい、おまけに年も年なので、たまに仕事にありついても、身体がしんどくて続かないというような身の上話をポツポツと語りはじめた。
多少迷惑に思いながらも黙って聞いてやっていると、男は、一方的にしゃべるのにも飽きたのか、「兄ちゃんは家族はいるのか」と聞いてきた。
宝生はそう聞かれて、つい、「唯一の肉親だった父親を三年前に亡くした」と答えると、男は、ますます親近感を感じたような顔になり、自分も故郷に母親を残してきたのだが、その後音信不通になり、年齢から考えても、もうとっくに死んでいるだろう、若い頃は人並に女房をもらってアパート暮らしをしたこともあったが、その女房にも逃げられた、俺も天涯孤独の身の上さと、湿っぽい話のわりにはさばさばとした口調で語った。
最初は迷惑に思っていたのが、話しているうちに、妙に波長が合うものを感じてしまい、宝生の方も、出雲で生まれ、母がたの祖父母に育てられた生い立ちのことを話しはじめていた。
むろん、自分が海外の有名雑誌のグラビアに登場したこともある著名な音楽プロデューサーであるとか、亡母がこれまた世界的なオペラ歌手だったなどということには全く触れなかったが。
「……兄ちゃんはまだ若いんだからサ、腐らずにがんばれよ。俺らと違って、仕事だって、探せばこの先いくらでも見つかるからよ」
ひとしきり話し込むと、ようやく気が済んだのか、男はそんな慰めるようなことを言って、宝生の肩をポンと一つ叩《たた》くと、ベンチから立ち上がった。
そして、懐から潰《つぶ》れたタバコの箱を取り出し、大事なものでも扱うような恭しい手つきで、中の一本を取り出し、「友好の印」のつもりか、それを宝生の鼻先に差し出すと、「じゃあな」と言って、異臭と共に立ち去って行った。
ホームレスが立ち去ったあとも、手の中に残された湿気たタバコを見つめながら、しばらく放心したようにベンチに座り続けていた。落ちていたパンくずを啄《ついば》み終わった鳩の群れは、一斉にどこかに飛び立っていき、昼休みを終えたらしいサラリーマンたちも、ベンチに読み捨てた新聞を残して、いつしかいなくなっていた。
はたから見れば、自分とあのホームレスとは、しばしの間、同じベンチを共有していたというだけで、共通点は何もない。それどころか、殆《ほとん》ど対照的といってもいい。
宝生は何の優越感も抱くことなく、淡々とそう考えた。
あの男の財産はといえば、懐に大事そうにしまった潰れたタバコの箱と、公園のどこかに作った、強風が吹けば飛んでしまいそうなちっぽけな段ボールの家くらいのものだろう。一方、自分はといえば、東京の自宅だけでなく、借り部屋とはいえ、世界中に幾つも別宅をもっており、こうしてベンチにぼんやりと座っている間にも、銀行口座には、何の報酬なのかもよく分からないような大金が振り込まれ続けている。
そして、おそらく、あの男が一生かけても稼ぎきれないような金額を、自分はその年の税金分として払っているのだろう。
似ているところは微塵《みじん》もない。
あるのは落差ばかりである。
同じ人間として生まれて、人間とはここまで不平等なのかと愕然《がくぜん》とするほどに。
にもかかわらず、あの男とは、何か波長が合うものを感じてしまった。男の方も、同じ匂いを嗅《か》ぎ付けたからこそ、サラリーマン風の男ではなく、こちらに話しかけてきたのだろう。
あの男は、ベンチに座りこんでいた青年を同類と「勘違い」したのではない。むしろ、一目で本質を見抜いたのだ。外見ではない。精神の形が同類だと……。
あの初老の男は、裸でいる王様を見て、見たままに裸だと言い放った子供のようなものだった。
いや、同類というよりも……。
あの男の方がましだ。
なぜなら、あの男には他人に誇れるものがある。
話している最中に、男はふいに、或《あ》る有名な高層ホテルの名をあげて、「知っているか」と聞いた。むろん、知っていたから、「知っている」と答えると、「泊まったことあるかい」と重ねて聞いた。そのホテルで行われたイベントの類《たぐ》いには呼ばれて行ったことはあるが、泊まったことはなかったので、「ない」と答えると、男は得意げに鼻をうごめかして、「あれは俺が作ったんだぜ」と言った。
そして、男は誇らしげにこう続けた。
「俺も泊まったことは一度もないが、近くを通るたびに、いつも立ち止まっては見上げてるんだ。ずっと見てても飽きないね。なんかこう、出世したわが子を見るような気がしてなぁ。見てると嬉しくなるんだよ」
このとき、男が羨《うらや》ましいと心底思った。
もし、自分があの男の年くらいになったとき、こうしてベンチに座って、見知らぬ人間に向かって、「若いときにこれを作った。これをやった」と誇れるものが一つでもあるだろうか。
そう自問自答してみた。
答えはノーだ。
残念ながら、今の自分には、他人に誇れるものは何もない。大ヒットをした曲一つにしても、メジャーになったアイドル一人にしても、いずれも軽い気持ちで出してみたら、たまたま今の時代の感性のようなものにマッチしたのか、爆発的に売れたというだけで、これから三十年、四十年たっても、これらのものが残っているという自信というか手ごたえが全く得られなかった。
虚空《そら》に向かって、際限なく、生まれた先から消えていくしゃぼん玉ばかり吹いていたような空虚感しかない。
このときはじめて、あのホームレスのように、全てを失ったあとでも、「これを作った」と他人に誇れるものが欲しいと切実に思った。虚空に向けてしゃぼん玉を吹くのではなく、一つ一つ石を積み重ねて堅牢《けんろう》な建築物を作りあげるように、確かなもの、これから先、何十年、何百年たとうとゆるぎなく存在し続け、人々の記憶に残り語り継がれる「何か」を作りたい。残したい。
たった一つでいいから、そういうものを生み出したい。たとえば、どんなに時代が変わっても人々に口ずさまれ続ける曲。それを歌える本物の歌手《シンガー》。そんなものを生み出したい。
本物の歌手を育てたい。いっときの流行に左右されることなく存在し続ける本物の歌手。母のような……。
そう念じたとき、ふっと一人の少女の顔が頭に浮かんだ。
彼女の顔が頭に浮かんだとき、思わず、これだというように右手をきつく握り締めていた。ホームレスから貰《もら》った一本のタバコが、まるで天からの啓示ででもあったかのような確かな手ごたえをもって、手の中で粉々に潰れるのを感じた。
それは、数カ月前、或《あ》るアマチュアバンドのオーディションの審査員をやったときに、出会った一人の少女だった。
名前は、照屋火呂《てるやひろ》といった……。
あの娘《こ》なら……。
あの娘なら、育て方によっては、不世出の大歌手に育ちそうな気がする。
あの娘の第一声を聴いたとき、一瞬にして、全身の鳥肌が立った。子供の頃、はじめて、舞台に立った母の第一声を聴いたときのように……。
音感と声質に、非凡なものが感じられた。
もし、あれがアマチュアシンガーのコンテストか何かだったら、彼女は、間違いなく入賞、それどころか優勝すらしていたかもしれない。
ただ、あくまでもアマチュアバンドのオーディションということで、ボーカルだけを評価するものではなかったことから、バンドそのものの総合点の低さから、落とさざるをえなかったが……。
それでも、このまま落とすのは忍びなくて、他の審査員に働きかけて、審査員特別賞というのを急遽《きゆうきよ》もうけて与えた。あの賞は、バンドというより、あの少女一人に与えたものだった。
あの娘を、一シンガーとして世に出すことができたなら……。
今まで正規の訓練を受けたことがないためか、発声法も自己流というか粗削《あらけず》りで、プロの耳で聴けば欠点も多分にあったが、何よりも資質がある。たった一年、必要な訓練を受けるだけで、見違えるように成長するだろう。そう予感させるものがあった。
あの娘を育てたい。
歌えるアイドルとしてではなく、歌だけで勝負できるシンガーとして。
そう思いつくと、矢も楯《たて》もたまらなくなって、彼女の連絡先を調べ、宝生自身が受話器を取って電話をしていた。
電話をかけるまでは、当然、あの娘がこの話に乗ってくると信じて疑わなかった。一度オーディションに落ちているのだから、この申し出は、彼女にとって奇跡にも近い僥倖《ぎようこう》であるはずだと。電話の向こうで小躍りせんばかりに喜ぶはずだと。
そのときの彼の意識の中には「一度捨てたものを拾ってやる」という多少思い上がった気持ちがなかったといえば嘘になるだろう。
ところが、いざ、電話に出た本人と話してみると、相手のテンションは意外なほど低かった。「宝生」と名乗っても、「え?」と聞き返すほどで、どうやら、こちらの名前さえろくに覚えていない様子だった。しかも、驚いたことに、話を最後まで聞きもしないで、アッサリと断ってきたのである。「歌手になるつもりはない」と。
それを聞いて、少し慌てた。
アマチュアバンドのコンテストにボーカルとして出場したということは、将来は歌手になりたいと思ったからではないのか。
そう聞くと、火呂の答えは、歌をうたうのは子供の頃から好きだったが、それを職業にする気はない。大学を卒業したら、生まれ故郷の沖縄に帰って、小学校の教師になるつもりだ。コンテストに出たのは、ギター担当だった弟に、せっかく予選を通ったのに、本選間際になって、ボーカルの子に突然やめられて困っている、助けてくれと土下座せんばかりに頼まれたからだ。人助けのつもりで出ただけで、落ちたことをむしろ喜んでいる。二度と人前で歌うつもりはない。
取り付く島もないとはこのことかと思ったほど、それは、キッパリとした断り方で、とりあえず事務所の人もまじえて話だけでもしないかと食い下がってはみたものの、結局、最後まで、「その気はない」の一点張りだった。
断られた……。
予想外の展開に、電話を切ったあと、いささか茫然《ぼうぜん》とはしながらも、断られたことに対する怒りとか屈辱感のようなものは全く感じなかった。
むしろ、その迷いの感じられない潔い断りっぷりに清々《すがすが》しいものすら感じていた。
本人にその気がないなら仕方がないか。そのときはそう思い、この件は忘れようともしたのだが、なぜか、すぐにあきらめ切れないものがあった。
忘れようとすればするほど、照屋火呂という二十歳の娘と自分とがどこか似ているような気がして、それが気になり出したのだ。実は、宝生自身、今の業界に身をおく元になった、高校時代のロックバンドにしても、彼が率先して作ったものではなく、バンドのメンバーだったクラスメートに、キーボード役が足りないから入らないかと誘われて、仕方なく仲間になったという経緯があった。
もともと引っ込み思案なところがあって、人前に出ることは好きではなかったから、派手な格好をしてステージに立つロックバンドなどというものは、本来ならば一番苦手とするものだった。
それでも、クラスメートの誘いを受けたとき、考えた末に、やってみようかという気になったのは、ロックは嫌いではなかったし、何よりも、あまりにも内に籠《こ》もりがちな性格を変えたいという自己改革の気持ちも多少はあったからだった。
どんなジャンルであろうと、頂点にまで昇りつめる「スター」のタイプには大きく分けて二通りあるようだ。
一つは、最初からその座を明確な目標としてめざし、そこにたどりつくためなら手段を選ばず、なりふりかまわず、他人を蹴落《けお》とし、ひたすら貪欲《どんよく》に爪をたてるようにして階段を昇る攻撃的なタイプ。
そして、もう一つは、前者に比べると、遥《はる》かに無欲というか、本人にはその気が全くなかったのに、強運という追い風を受けて、気が付くと、いつの間にか頂点に立っていたという受動的なタイプ……。
宝生自身は、明らかに後者だった。
中学の頃から、将来は音楽関係の仕事につきたいと漠然《ばくぜん》と思い始めていたが、それはただ音楽が好きだから、できれば好きなことをして食べていける生活をしたいと単純に願っただけだった。
その道で成功して有名になりたいとか金持ちになりたいなどとは思わなかった。
もともと、子供の頃から物欲に乏しいというか、何かを是が非でも欲しいと思ったことがなかった。それが玩具《おもちや》であろうと食べ物であろうと。
たまにデパートなどに買い物に行くと、床に転がり手足をバタバタさせて大泣きに泣いている子供がいる。そばには子供を叱り付けながら、困ったような顔をした母親がいる。
そんな光景に出くわすと、不思議な見世物でも見つけたように、立ち止まって、思わず見つめてしまうことがあった。
一体、あの子供は何を欲しがっているのだろう。玩具かお菓子か。何をあんなに大泣きに泣いて母親を困らせるほど欲しがっているのだろう。
自分はあんな風に、何かを全身全霊で欲しがったことがあるか。ねだったことがあっただろうか。
そんな記憶は一度もない。何かを欲しいと強く願う前に、いつも、なんとなく与えられてしまったからだ。お菓子だって玩具だって、欲しいと思う前に、回りの大人が先回りして与えてくれる。その物に対する欲望や執着が自分の中で目覚める前に……。
現在の名声や富にしても、欲しいと思って手に入れたものではなかった。ほんの遊び半分からこの業界に入って、たまたまとんとん拍子にいっただけだ。汗をぬぐい、歯を食いしばり、必死の思いではい上がってきたわけではない。気が付くと、何で稼いだのかも分からないような莫大《ばくだい》な収入が週単位で懐に転がりこんでくるような身分になっていた。
むろん、母親の胎内にいたときから、いわば音楽漬けになっていたわけで、遺伝的なものも含めて、才能と資質には最初から恵まれていたのだが、それ以上に、強運に恵まれていたとしかいいようがなかった。
それはひょっとしたら、亡き祖母が言っていたように、彼が生まれたとき、藤本家の庭に突如として現れた「白蛇」が守護霊にでもなって、もたらしてくれた幸運だったのだろうか。
ただ、幸運すぎることは、必ずしも幸福ではない。不幸ともいえる。幸運すぎるゆえの不幸とでもいおうか。
例えれば、食欲がないのに、目の前に常に御馳走《ごちそう》が並べられているようなものなのだ。飢えている者には、目の眩《くら》むような御馳走でも、飢えを感じていない身には、さほど嬉《うれ》しい光景ではない。何を食べても、美味《おい》しいという感激がない。まずくはないという程度の感慨しかなかった。そもそも、これが本当に食べたいものなのかどうかさえ分からない……。
三十二歳になる今日まで、ずっとそんな状態でいたような気がする。
もっとも、こうした、いわゆる「飽食」の感覚ともいうべきものが、今の時代の何かを象徴しており、そうした感覚から生み出された音楽的産物が、同じような感覚を共有する若い世代の圧倒的な支持を受けることになったのかもしれなかったが……。
ところが、今、そんな彼の中にはじめて「飢え」の感情が生まれた。「欲」と言い換えてもいい。
ある「欲望」が、長いこと放置されていた埃《ほこり》まみれの古いランプの芯《しん》に微《かす》かな火が灯《とも》されたように、彼の中で突如として芽生えたのである。
永遠に生き続けるものを生み出したいと願う強い「欲望」。それは、どんな金銭欲、名誉欲、物欲よりも大それた欲望かもしれなかった。そして、その「欲望」を実現するためには、どうしても必要な人材、それが、あの照屋火呂という娘《こ》だった。だから、あの娘を是が非でも手に入れなくてはならない。
しいていえば、この「欲望」は、九歳の誕生日の直前、父に「ペットを買ってやろう。何がいい?」と聞かれたとき、一瞬考えて、「蛇」だ。「蛇」が欲しい。すぐさまそう思いついたときの、あの欲望に似ていた。
あのとき……。
「蛇が欲しい」と答えたあと、父は困ったような渋い表情をして黙りこんでしまった。犬や猫ならともかく、まだ幼い子供のペットに「蛇」というのは、と躊躇《ちゆうちよ》したのだろう。同居している妻や娘たちが嫌がることも考慮したのかもしれない。父は、しばらく考えたあと、「蛇ではなくて、亀ではどうだ?」と代案を出してきた。
蛇に少し似ていて、蛇よりも無害そうな生き物。亀なら子供用のペットとしても不自然ではない。そう考えて、そんなことを言ったのだろうが、彼は、決然として首を横に振った。欲しいのは「蛇」だ。犬でも猫でもネズミでも亀でもない。「蛇」なんだ。はっきりとそう感じた。妥協の余地はなかった。どうしても駄目だというなら、ペットなんかいらない、と思うほどに……。
あのときの「欲望」に似ている。でも、あのときは、父はまたもや少し考えて、息子の意志が意外に固いことを知って、渋々といった感じではあったが、「まあ、いいだろう」とすぐに許してくれたので、その「欲望」はアッサリと叶《かな》えられてしまったのだが。
もし、あのとき、父があれほど物分かりがよくなかったら、あんなにすぐに欲しいものが手に入らなかったとしたら、「蛇が欲しい」という突如自分の中に芽生えた欲望は、どんどん膨れ上がって、そのうち、何がなんでも欲しいと願うほどの強い「執着」にまでなっていたかもしれない。
そうだ。
自分は決して無欲な人間じゃない。それどころか、本当に欲しいと感じたものに対しては、限りなく執拗《しつよう》で貪欲な人間なのかもしれない。
自分の内部に突如目覚めた「欲望」に気づいたとき、同時に、彼自身の中に眠っていた本質的な部分にも気づかされていた。本当は、恬淡《てんたん》どころか、とてつもなく欲深な人間であるということを。
昔から、物欲の強い、いつも「欲」でギラギラしている人間が苦手だった。そういう人間は、顔立ちそのものはそんなに悪くなくても、一種独特の醜さを身にまとっているので、すぐに判別できる。回りにそんな人間がいると、つい遠ざけてしまった。しかし、苦手とは思っても、「嫌い」ではなかった。
苦手と嫌いは微妙に違う。
むしろ、羨《うらや》ましいと思う面もあった。自分が何を欲しがっているか、明確に分かっている人間、それに向かって、なりふりかまわず、「欲」を剥《む》き出しにして突進していける人間のストレートな情熱が羨ましいとも思ってきたのである。
もしかすると……。
そういうものとは無縁だと思ってきた自分の中にも、それはあるのかもしれない。ただ、今までは、自分の内部に潜んだ、そうした「欲望」を発動させるに値する対象物に出会わなかっただけだったのだ。
要するに、スイッチがなかなかオンにならなかっただけだ。
でも、今、そんな対象物に出会ってしまった。「欲望」を発動させる装置がオンになってしまった……。
こうでも考える以外に、恋人関係にあった女たちに一方的に別れを告げられたときでも、「去る者は追わず」の精神で、未練を断ち切れた(というか、断ち切るほどの未練をはじめから感じてもいなかったのだが)自分が、なぜ、恋人でもなんでもない、一度会っただけの小娘のことで、これほど思いわずらい、あきらめ切れないのか、理由が分からなかった。
もう一度……。
東京に戻ったら、もう一度、あの娘にコンタクトを取ってみよう。
いや、一度でなく、何度でも。
彼女が根負けして、首を縦に振るまで、何度でも……。
広大な出雲大社の境内を散策しながら、そんなことを考えていた宝生輝比古は、ようやく、決心がついたように、そう心の中で呟《つぶや》くと、元来た道を戻りはじめた。
明日が母の命日ということもあったが、出雲の地を五年振りに訪れようという気になったのも、思えば、この決心をするためだったのかもしれなかった。
ここに来れば、迷っていたことの答えが出る。
東京を出るときから、そんな気がしていた。
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第二章
十月二十八日。水曜日の昼過ぎだった。
神田|神保町《じんぼうちよう》にある出版社「泉書房」の雑然とした編集部内に、突如として、携帯電話の着信音が鳴り渡った。
部屋の片隅のコピー機の前で、原稿のコピーを取っていた喜屋武蛍子《きやんけいこ》は、はっとしたように振り返った。
あの着信音は蛍子の携帯のものである。
昼飯時ということもあって、編集長をはじめ他の部員たちは皆出払っていた。
コピー作業を中断すると、自分のデスクに慌てて戻り、着信音の鳴り続けている携帯を取った。
かけてきた人物に心当たりがあった。
「もしもし、喜屋武ですが」
そう言うと、
「近藤です。今、神保町駅に着いたんですけれども……」
若い女性の声がすぐに返ってきた。
案の定、その人物だった。
ディスプレイに表示された番号からすると、相手も携帯からかけているらしく、まだ駅ホーム内にいることを示すような雑音が電話の向こうから漏れ聞こえてきた。
「それなら……」
蛍子は、駅の近くにある喫茶店の名前を言い、十分くらいで行くから、そこで待っていて欲しいと告げた。
切れた携帯をビジネスバッグに放り込むように入れると、腕時計を見た。午後一時を少し過ぎたところだった。
椅子の背にかけておいた薄手のカーディガンを羽織り、ビジネスバッグを持つと、脱兎《だつと》のごとく、入り口に向かった。
近くの蕎麦《そば》屋で昼飯を済ませてきたのか、口の端に楊枝《ようじ》をくわえた編集長と入り口のところでぶつかりそうになりながら、廊下を小走りに走ってエレベーターに飛び込んだ。
社を出て古書街を速足で歩き、待ち合わせの喫茶店に着くと、軽く息を切らせながら、さほど広くはない店内を見渡した。
奥の方の席で、入ってきた蛍子を見て、「ここだ」というように片手を挙げている女性がいた。
「近藤道代さんですか」
手を挙げていた女性の席まで行くと、そう声をかけた。女性は頷《うなず》いた。年の頃は、二十代半ば、一見したところ、子持ちの主婦には見えないほど童顔の可愛らしい顔立ちで、写真で見た幼女の顔によく似ているな、と蛍子は思った。
「喜屋武です」
名刺入れから名刺を出して渡しながら、そう挨拶《あいさつ》すると、向かいの席に座った。
注文を聞きにきたウエイトレスに、ホットコーヒーと昼食代わりのシフォンケーキを頼んでから、
「わざわざ御足労いただきまして……」と言うと、
「いいえ、とんでもありません。こちらこそ、娘のことで、お仕事中をお呼びだてして申し訳ありません」
近藤道代は恐縮したようにそう答えた。
「あの……それで、さっそくですが、喜屋武さんが、うちの娘……さつきを見かけたのは、長野県の日の本村という村でだというお話でしたが、そこのところをもう少し詳しくお聞かせ願えないでしょうか」
道代は、目の前のコーヒーには手をつけず、身を乗り出すようにして訊《たず》ねてきた。
「それが……。電話でも申し上げましたように、あのとき見かけたお嬢さんがさつきちゃんであるかどうか確信はないんです。話をしたわけでもないし、ほんのちらと見かけただけですので」
蛍子は慌てて言った。
「でも、その女の子は、さつきに似ていたのでしょう? 右の頬に黒子《ほくろ》もあって……」
近藤道代は、藁《わら》でもいいからすがりたいというような顔つきで聞き返した。
「ええ。確かに、テレビで報道された写真の子によく似ていました。年の頃も三、四歳という感じで。オカッパ頭で、右頬に黒子もありました。それで、まさかと思って、連絡差し上げたのですが」
蛍子は言った。
喜屋武蛍子が、「消えた子供たち」というタイトルのテレビ番組をたまたま自宅で観たのが、二日前の夜のことだった。
二時間ものの特集番組で、ここ十数年の間に、親元から忽然《こつぜん》と姿を消し、いまだにその生死すらも分かっていない少年少女の行方不明事件のファイルばかりを集めて公開して、全国の視聴者に目撃情報等の提供を呼びかける趣旨の番組だった。
塾帰りに姿を消した少女。家の庭先で遊んでいて、親がほんの一瞬目を離した隙に、まるで神隠しにでもあったようにいなくなったという少年。なかには、二階の子供部屋のベッドで寝ていたはずの子供が、朝にはいなくなっていたというケースすらあった。
そんな番組を何げなく観ていた蛍子があっと思ったのが、今年の四月末、埼玉県内のショッピングセンターの駐車場で起きたという事件が紹介されたときだった。
母親が買い物を済ませる間、車の中に残しておいた三歳になる幼女が、母親が戻ってきたときには姿を消していたというもので、状況から見て、幼女は、一人で車から出たのではなく、何者かに誘拐されたのではないかと思われた。母親の話では、近くにサングラスをかけた若い男が運転する不審な車が停めてあり、買い物から戻ってきたとき、この男の車もなくなっていたという……。
事件の簡単な紹介が済んだあと、そのいなくなったという幼女の顔写真が画面一杯に映し出された。
それを見た蛍子は、思わず小さく叫んでいた。
「近藤さつき」という名前のその幼女の顔に見覚えがあったからだ。
肩まで届くくらいのオカッパ頭で、右頬にやや目立つ黒子のある愛らしい顔立ち。
それは、今から二週間あまり前、長野県の日の本村を訪れたとき、日の本神社という社の裏手の林の中で、偶然、見かけた、白衣に濃紫の袴《はかま》を着けた巫女《みこ》姿の幼女によく似ていた。
他人の空似かとも思ったが、番組の終わりの方で、「どんな些細《ささい》な情報でもいいので、何か情報をお持ちの方はこちらまでお知らせください」と言う旨のテロップが出たとき、「まさかとは思うが、念のため」くらいのつもりで、その連絡先にコンタクトを取ってみたところ、翌日になって、「コンドウミチヨ」と名乗る女性から電話があり、「娘のことで詳しい話を聞きたい。明日にでも会ってもらえないだろうか」と言ってきたのである。
そこで、昼どき、会社の近くでよければ会う時間が作れると答えると、相手の返事はそれでいいということだったので、こちらの携帯番号を教え、神保町駅に着いたら連絡してくれと告げておいたのである。
「……それで、さつきの写真を何枚か持ってきたんですが」
道代はそう言うと、傍らに持っていたハンドバッグを探って、何枚かのスナップ写真を取り出し、それを蛍子に見せた。
いずれも、例の幼女が写ったスナップ写真で、中には、正月にでも撮ったのか、着物姿のものもあった。
「どうでしょうか?」
写真を一枚ずつ見ている蛍子の手元を覗《のぞ》きこむようにして、道代は食い入るような目で訊ねた。
「似ているような気はしますが。でも、絶対にこの子だという確信はこれを見てもちょっと……」
蛍子としてはそう答えるしかなかった。
「さつきは……いえ、その女の子は、喜屋武さんがご覧になったとき、巫女のような格好をしていたということでしたね?」
道代はさらに訊ねてきた。
「ええ。白衣に濃紫の袴姿で……」
蛍子は、一通り見終わった写真を近藤道代に返しながら、日の本村で、さつきによく似た幼女を見かけたときのことを詳しく話した。日の本神社の神官である神郁馬《みわいくま》という青年を探しているうちに、うっかり、一般参詣者は立ち入り禁止になっている社の裏手の竹林に入り込んでしまい、そのとき、そこで、二十歳あまりの、やはり巫女姿の女性と毬《まり》遊びに興じる幼女の姿を垣間見たことを……。
そして、その村には、蛇体の太陽神に仕える日女《ひるめ》と呼ばれる、生まれながらの巫女たちがいて、社の奥にある一軒屋で、村人たちとは隔離された共同生活を営んでいるという話を聞いていたので、そのときは、その巫女姿の幼女も、幼い日女の一人であると思ったことなどを話した。
「……もし、その子がさつきだとしたら、どうしてそんなところに……」
蛍子の話を聞き終わると、道代は茫然《ぼうぜん》としたように呟《つぶや》いた。
「わたしもそれが分からないんです。その日女と呼ばれる巫女たちは、皆、日の本神社の神官をしている神家《みわけ》の血を引く女性ばかりのはずで、よその子供がそこにいるというのは考えられないんです。ですから、他人の空似にすぎなかったのか、あるいは……」
「あるいは?」
「それで、一つ伺いたいのですが」
今度は蛍子の方が聞く番だった。
「もしかして、近藤さんは長野のご出身ではありませんか」
そう聞くと、道代はすぐにかぶりを振った。
「いいえ、違います。わたしは生まれも育ちも埼玉です」
「ご主人は?」
「主人も同じです。主人とは幼なじみですし、子供の頃からよく知っています」
「それでは、道代さんかご主人のご両親が長野の生まれとか……そういうことはありませんか」
さらに訊ねると、
「父の方はやはり埼玉の出身だと聞いていますが、母は、確か、岡山生まれだと聞いたことがあります。主人の両親も、詳しいことは知りませんが、長野の出身ではなかったと思います」
道代は思い出すような表情でそう答えた。
「これまで、長野に旅行したり、日の本神社という社を訪ねたりしたことも……?」
「ありません。軽井沢あたりまでなら旅行で行ったことがありますが。でも、日の本神社なんて聞いたこともないし、もちろん、行ったこともありません」
近藤道代はきっぱりと言い切った。
「そうですか……」
蛍子は軽くためいきをついた。
「となると、わたしが見た女の子は、残念ながら、さつきちゃんではなかったのかもしれません。日の本神社と近藤さんのお宅に何らかの血縁関係でもあれば、もしやと思ったのですが。それに、あの女の子は、連れの女性にとてもなついているように見えました。もし、あの子がさつきちゃんだとしたら、あんな風に他人になつくものかどうか……」
「で、でも、さつきは、あまり人見知りをしない子でした。優しくしてくれる人になら、知らない人でもすぐになついてしまうようなところがありました。それに、ふだんから聞き分けのいい子で、どちらかといえば、扱い易い方だと思います。だから、それだけでは、その子がさつきではないとは言い切れません」
道代はそう言い張った。
「とにかく、わたしが見れば、娘かどうか一目で分かります。その子だって、もしさつきだったら、わたしを見れば何か反応するでしょう。まさか親の顔を忘れたなんてことはないでしょうから。明日にでも、日の本村という所へ行って、その子がさつきかどうか確かめて来ようと思います」
「でも、それは……」
難しいのではないか。
蛍子はそう言いかけて、口をつぐんだ。
日女たちの住居は、社の奥の、一般参詣者は立ち入り禁止の区域にある。村人ですら、日女に会えるのは、大神祭の時だけだというのだから、道代のようなよそ者がいきなり訪ねて行っても、そうおいそれとは、日女たちには会わせてもらえないのではないか。
まして、もし、あの幼女がさつきだとしたら、攫《さら》ってきた子供をその母親に会わせるはずがない。体よく追い払われるのは目に見えている。どちらにせよ、はるばる訪ねて行っても、無駄足になるのではないか。
そう思ったからである。
ただ、目の前の若い母親の必死の形相《ぎようそう》を見ていると、それは口には出せなかった。
それに、忽然《こつぜん》と姿を消した幼い娘の安否を気遣う母親の姿に、蛍子自身、元恋人の不可解な失踪《しつそう》に心を悩ます者として、うわべだけではない共感と同情を感じていた。
一筋の藁でもいいからすがりたい、無駄足でもいいから何かしたいという気持ちは痛いほど理解できる。
「それならば、お一人で行かずにどなたか、できれば警察の人と行かれた方が……」
と言うしかなかった。
近藤道代のような若い、それも童顔の女性が一人であの村に行っても、とてもあそこの連中には太刀打ちできないだろうと思ったからだ。
もっとも、この程度の情報で、警察が積極的に動いてくれるかどうか分からないし、また、たとえ動いたとしても、捜査令状も持たないような状態では、いかなる奇怪な宗教であろうと、信教の自由が憲法で守られているこの国では、あまり踏み込んだ捜査はできないのではないかとも思われたのだが……。
「警察の人にもお願いしてみるつもりですが、主人が明日なら休みが取れるので、主人と行くつもりです」
「とにかく、あそこには、お一人では行かない方がいいですよ」
蛍子はそう言ったあと、問われるままに、日の本村への行き方を道代に教えた。
長野駅前のバスターミナルから、「白玉温泉行き」というバスが出ているので、それに乗って終点で降りればいいと……。
その夜。
蛍子は、社を出ると、高校生の甥《おい》と同居している自宅マンションにはすぐに戻らず、馴染《なじ》みのバー「DAY AND NIGHT」に立ち寄った。
ジャズ好きの老マスターが一人で細々と経営しているこのバーには、八月に、元恋人の伊達浩一と五年ぶりにここで再会して以来、週に一、二度くらいの割合で、よく顔を出すようになっていた。
扉を開けると、珍しく先客がいた。
海底を思わせるマリンブルーの照明に照らされた、まさにウナギの寝床のような狭いバーなので、先客といっても一人である。
フリーカメラマンの鏑木浩一《かぶらぎこういち》だった。
日の本村がらみで、元週刊誌記者の達川正輝《たつかわまさてる》の変死事件を探っているうちに、ひょんなことから知り合った男である。
「やあ、どうも……」
蛍子の姿を認めると、鏑木は、ちょっと照れたように挨拶《あいさつ》した。
「あれから、達川さんの事件の方は……?」
隣の席に座るや否や、蛍子はそう訊《たず》ねた。
鏑木は、日に焼けた真っ黒な顔にやや浮かない表情を浮かべて、首を微《かす》かに横に振り、「所轄署の刑事に、あの事件をもう一度他殺の線で調べ直すように言ってはみたが、警察の反応は今ひとつ鈍い。あれが殺人だという何か確証めいたものでも出てこない限り、どうも本腰を入れて捜査をし直す気はなさそうだ」というようなことを言ってから、
「伊達さんの方も、相変わらず消息不明のままのようですね」
と言った。
「実は、今日……」
蛍子は、老マスターが作ってくれたカクテルに軽く口をつけてから、「消えた子供たち」というテレビ番組のこと、その件で、昼間、近藤道代という女性に会ったことを話した。
「その番組なら、俺も見ましたよ!」
鏑木は驚いたように言った。
「といっても、途中からですが。うちに帰って、テレビをつけたらやっていたんで、なんとなく」
「わたしもそうなんです。帰宅して何げなく見ていたら――」
「埼玉のショッピングセンターの駐車場から連れ去られた幼女の顔写真が、以前、日の本村で見かけた女の子に似ていた……と?」
「ええ」
「てことは、その近藤さつきという幼女を誘拐したらしいサングラスをかけた若い男というのは、日の本村の人間?」
「もしくは、日の本村の誰かに頼まれたか」
「しかし、何のために幼女誘拐なんか……?」
鏑木は信じられないという顔で呟《つぶや》くように言った。
「一つ考えられるのが、来月の頭にあの村で行われる大神祭に関係しているのではないかということです。今年は七年に一度の大祭にあたり、大祭のときは、祭りの最後の夜に――」
蛍子がそう言いかけると、
「一夜日女《ひとよひるめ》の神事か!」
鏑木がはっとしたように言った。
「まさか、その神事の主役にその子を据えるつもりで、誘拐……?」
蛍子は頷《うなず》いた。
「ひょっとしたら、二十年前と同じことが起きたのかもしれません。あの倉橋母娘に起きたことと同じことが。あの村に一夜日女になる幼い日女がいなかったために、急遽《きゆうきよ》、よそから攫ってでも連れて来る必要があったのでは……」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
鏑木が慌てたように口を挟んだ。
「確か、その『一夜日女』というのは、神家の血を引く女児でなければいけないんですよね? 誰でもいいってわけじゃないんでしょう? てことは、近藤さつきという子供は神家と何かかかわりがあったんですか。たとえば、倉橋日登美のときのように、母親があの村の出身だったとか」
「いいえ、それが、道代さんの話では、そうではなさそうなんです。彼女自身は埼玉生まれだそうですし、彼女の母親というのも、岡山の出身で、日の本村とは全く縁がないようなんです。ただ、倉橋日登美のときのように、道代さんの母親が実はあの村の出身であることを娘に隠していたという可能性はあるかもしれませんが」
「そして、それを日の本村の連中に嗅《か》ぎ付けられて、孫にあたるさつきが攫われた……?」
鏑木はただでさえギョロリとした大きな目を皿のようにして聞き返した。
「ええ。わたしもそう考えてみたんですが、ただ、誘拐された状況を考えると、それもちょっとおかしいような気もするんです」
蛍子は考えこみながら言った。
「おかしいって?」
「道代さんから聞いた話では、ショッピングセンターで買い物をするとき、最初から、さつきちゃんを車に残して行ったわけではないというんです……」
蛍子はそのときの状況を詳しく説明した。
最初の買い物では、道代はさつきを一緒に連れて行った。だが、買い物を終えて、車に戻ってきたところで、トイレットペーパーを買い忘れたことに気が付いた。そこで、もう一度、それを買いにセンターに戻ろうとした。そのとき、また娘を連れて行くのは面倒になって、シートベルトをつけたままの娘を助手席に残して車を出た。
「……このとき、うっかりして、車のドアロックを忘れてしまったというんです。トイレットペーパーを買い忘れたり、車のドアロックを忘れたりしたのは、道代さんのうっかりミスともいうべきもので、もし、こうした偶然が重ならなければ、あの状況で、道代さんがさつきちゃんを一人で車に残して行くことはなかった。つまり、さつきちゃんが誘拐されることはなかったと思われるんです。近くの車両にいたというサングラスをかけた若い男が犯人だとすると、それこそ、ほんの一瞬にできた隙を利用した、言い換えれば、かなり偶然に助けられた犯行ということになります」
「そうか……」
鏑木が唸《うな》るように言った。
「もし、犯人が日の本村の男で、最初からさつきちゃんを誘拐のターゲットにしていたとしたら、もっと計画的に犯行を行うのではないかというわけですね。倉橋日登美のときのように」
「ええ。そう考えると、近藤さつきの誘拐事件は、たまたま起こった突発的なもので、日の本村とは関係ないような気もしてくるんです。もっとも、身の代金の要求等はいっさいなかったというから、営利誘拐の線だけはなさそうなんですが」
「ただ、この件にも、『若い男』がからんでいるのが、なんか気になるな」
鏑木が言った。
「達川さんの事件のときも、三人組の怪しい若い男たちが、マンションの住人に目撃されていたんだし……。とはいえ、『若い男』だけでは漠然《ばくぜん》としすぎていて、共通項ともいえないかもしれませんが」
「若い男といえば」
そのとき、二人の会話に、老マスターが思わずというように口を挟んだ。
「先日、店に興信所と名乗る男がやってきて、喜屋武さんのことをあれこれ訊《き》いていったんですよ。それが、年の頃は二十代前半くらいの若い男だったんです」
「興信所?」
蛍子は驚いたようにマスターを見た。
「ええ、本人はそう言ってました。縁談の下調べだと」
「いつですか、それは」
「三日ほど前だったでしょうかね」
興信所。縁談がらみの調査。若い男……。
そういえば、甥《おい》の豪《ごう》が同じようなことを言っていたことを蛍子は思い出した。十日ほど前、自宅マンションの向かいの桜井というお宅に、興信所を名乗る若い男が訪れて、蛍子のことをあれこれ訊いていったと……。
同じ男だろうか。
「どんな男でした?」
蛍子はマスターに訊いた。
「薄いブラウン系のサングラスをかけた普通の若い男でしたよ。中肉中背で、これといって特徴はない。はじめは一見の客のような顔をして一人で飲んでいたんですがね」
「で、どんなことを訊いたんですか」
「縁談に関する調査ということで、喜屋武さんの交友関係というか、今、恋人らしき男性はいるのか、過去にそういう男性はいたのかというようなことを……」
「マスター。まさか、伊達さんのことを?」
蛍子はぎょっとしたように言った。
「いや。私は何も喋《しやべ》っていません。お客さんのプライバシーに関することは、誰に訊かれようと話すつもりはありませんから。何も知らないと答えました」
「そう……」
蛍子がほっとしたのもつかの間、
「ただ、間の悪いことに、そのとき」
マスターは渋い表情になって言った。
「星川さんが来ていたんですよ」
「星川さんって、あの常連の?」
星川というのは、五年前、蛍子が伊達と付き合っていた頃、この店で何度か顔を合わせたこともある、店の常連の一人だった。
気さくな男だったが、その気さくさゆえに、酔うと誰かれとなく話しかけ、饒舌《じようぜつ》になる傾向があった。
「ええ。この星川さんがね。私は目でよけいなことは喋るなと合図したんですが、気が付かなかったらしくて、あなたと伊達さんのことを、その男に喋ってしまったんですよ……」
「実は、十日ほど前にも……」
蛍子は、甥から聞いた話をした。自宅マンションの方にも、興信所の者と名乗る若い男が来て、近所の人に蛍子のことを訊いていったらしいということを。
「同じ男ですかね?」
鏑木が訊いた。
「それは分かりませんが、やはり、若い男だったようです」
「何かそういう見合い話のようなものは最近……?」
心配そうな表情で訊《たず》ねたのはマスターだった。
「いいえ。そんな話は今のところ何も」
蛍子がそう答えると、
「まさか」
鏑木が言った。
「縁談調査なんて真っ赤なウソで、その男は、日の本村の連中に頼まれた探偵か、もしくはその男自身があの村の……」
「そうかもしれません」
蛍子は両腕をさすりながら言った。
自分の周辺を探っていたのは、日の本村の連中だったのか。そう思い当たると、なんとなく身震いしたくなった。
「日の本寺に泊まったとき、宿帳のようなものに今の住所を書きましたし、村長に会ったときも、会社名を刷り込んだ名刺を渡しましたから、こちらの住所と勤め先は知られています。今から考えると、少々|迂闊《うかつ》でした」
蛍子は唇を噛《か》み締めた。
「しかし、現住所と勤め先を知られたとしても、どうして、この店の常連であることまで?」
マスターが腑《ふ》に落ちないという顔で言った。
「会社の誰かから聞き出したのか、ひょっとしたら」
蛍子ははっとしたように言った。
「まさか、会社からわたしを尾行していたなんてことは……」
この店には会社帰りに立ち寄る事が多かった。ずっと尾行していれば、蛍子がこの店の常連であることはすぐに察しがつくだろう。
「てことは、連中は、あなたのことを四六時中監視していたってことですか?」
と鏑木。
「そういえば、あの村から帰って来て以来、時折、誰かにじっと見られているような奇妙な感じがすることがあったんです。気のせいにすぎないと思っていたのですが」
蛍子がそう言うと、店の中はやや重苦しい空気に包まれた。
「もし、喜屋武さんのことを調べているのが、日の本村の連中だとしたら、やはり、伊達さんの失踪《しつそう》は、あの村とは無関係ではなかったということの証《あか》しになりますよね」
重い空気を払うように、口を開いたのは鏑木浩一だった。
「伊達さんの失踪が、あの村と何らかの関係があったからこそ、彼の消息を訪ねて来た喜屋武さんのことが気になり、どんな人物か知ろうとして情報を収集しているんじゃないのかな。もし、伊達さんの失踪が連中の言うようにあの村とは全く無関係だとしたら、喜屋武さんにそこまで興味をもつはずがありませんよ」
「そうですね……」
マスターも同意するように微《かす》かに頷《うなず》いた。
「それと……連中が喜屋武さんに興味をもったというか、監視しようとした理由はもう一つ考えられます」
鏑木はさらに言った。
「もう一つ?」
「喜屋武さんが偶然見てしまったという巫女《みこ》姿の幼女の存在です。その子が、やはり誘拐された近藤さつきだったとしたらどうです? 喜屋武さんは見てはいけないものを見てしまったことになるんです」
「……」
「もし、その子供が今度の大祭の一夜日女《ひとよひるめ》にするために誘拐してきた子だとしたら、そして、既に廃《すた》ったとされている生き贄《にえ》の儀式が今もなお密《ひそ》かに行われているとしたら? 大神祭の前に、喜屋武さんがその子の素性に気付いて騒ぎたてたらどうです? 連中としては非常に困ったことになります。そうならないように、喜屋武さんの身辺を探り、行動を監視する必要があった……」
「でも、そうすると、話を元に戻すようですが、どうして、神家と何の関係もなさそうな近藤さつきという幼女が一夜日女に選ばれたのか……という疑問が」
蛍子がそう言いかけると、
「そのことなんですが」
鏑木は目の前にあったビールを飲み干して喉《のど》を潤すと、勢いこんで言った。
「一つの仮説として考えられるのは、もはや、連中にとっては、『生き贄』にする子供の血筋なんかどうでもよくなっているんじゃないかってことです」
「え……」
「というのも、ある本にこんなことが書いてあったんです。古くは、神に捧《ささ》げる『生き贄』とか『人柱』というのは、祭祀《さいし》を司《つかさど》る神官や巫女自身がなっていたが、時代が下るにつれて、その神官や巫女の血を引く子供たちになり、さらに、時代が下ると、もはや神官巫女の血筋ではなく、奴隷とか敵の捕虜などを使うようになった。そして、やがては、人間ではなく動物を使うようになり、現代に至っては、『人形』や『絵馬』といった『物』で代用するようになった……てなことがね。
その本というのが、ほら、達川さんが図書館から借りっぱなしになっていたというあの本です。民俗学のえらい学者先生が日本の古い祭りの形態のことを書いた……。あの中に書いてあったんですよ」
鏑木の話を聞きながら、蛍子は、沢地逸子の「太母神の神殿」というホームページのコラムにも似たような記述があったことを思い出していた。
例えば、「諏訪《すわ》信仰」の項で、諏訪大社の御頭祭《おんとうさい》の主役ともいうべき「お公さま」と呼ばれる人柱の少年も、最初は、神官である神氏《みわし》の血を引く者がなっていたが、時代が下るにつれて、下級神官の子になり、やがては、乞食《こじき》の子を拾い上げて当てることもあった……と。
そのことを鏑木に話すと、
「そうです。それです。いうなれば、『生き贄』の質の低下というか一般化とでもいうべき現象ですよ。それが日の本村でも起きているんじゃないでしょうか。少なくとも二十年くらい前までは、まだ神家の血を引く子供を一夜日女にしていたのかもしれない。だからこそ、あの倉橋一家惨殺事件が起きた。でも、あれから時がたって、一夜日女には、もはや神家の血筋の子供ではなく、よそから攫《さら》ってきた子供を当てるようになったのではないか」
「……」
「要するに、『まだ初潮のなさそうな幼女』という条件さえ満たしていれば、誰でもよかったんです。そう考えれば、近藤さつきの誘拐が、あまり計画性のなさそうな行き当たりばったりのものであったとしてもおかしくはないんです。たまたま目についた可愛らしい女の子。しかも親がそばにいなくて、拉致《らち》しやすい状況にあった。だから攫った、とも考えられます」
蛍子は相槌《あいづち》をうつのも忘れて、鏑木の話を聞いていた。
「それに、以前、新宿の居酒屋で達川さんと呑《の》んでいたときに、達川さんが酔った勢いでこんなことを言っていたんですよ。日の本村の『日の本』という名前には、『日本』という意味が込められている。今は、日の本村の内部だけで密かに行われていることでも、いずれ、伝染病のように日本全土に広がるんじゃないかって。そのときは、酔っ払いのたわごとにもほどがあると思って聞き流していたんですが、今から思えば、達川さんの言葉は、ある意味で的を射ていたのかもしれません。もし、あの村の連中が、これまでは、いわば身内の中だけで供給していた大神祭の生き贄を、村の外にも求めるようになっていたのだとすれば……」
十月二十九日の午後。
一泊するつもりで宿を取った日の本寺に荷物を置くと、近藤道代は、夫の昌之と共に、日の本神社に行くべく、昼なお暗い杉の参道を歩いていた。
三差路の真ん中の参道を少し行くと、二の鳥居らしきものが見えてきた。
この鳥居にも、バス停近くにあった一の鳥居同様、普通の神社よりも遥《はる》かに太い、どことなく蛇を思わせる形状のしめ縄が張られていた。
道代はそれを薄気味悪そうに見上げながら、鳥居をくぐった。
境内は森閑と静まり返っていた。社を覆い囲むようにして密生している樹木から野鳥の鳴き声や羽ばたきが時折降ってくるだけである。観光名所の類《たぐ》いではないせいか、一般の参拝客らしき姿は全く見えなかった。
人気といえば、周囲に酒樽《さかだる》を積み上げた拝殿とおぼしき古びた木造の建物のそばで、白衣に浅葱《あさぎ》の袴《はかま》を着けた神官らしき男が竹箒《たけぼうき》であたりを掃除しているだけだった。
「あの……」
その神官に向かって、道代はおそるおそるという感じで声をかけた。
神官は竹箒を動かしていた手を止めて、こちらを見た。年の頃は、二十代前半くらいで、すらりとした身体つきの、女のように整った顔立ちをした色白の美青年だった。
「ちょっと伺いますが」
道代はそう言って、この村で若日女《わかひるめ》と呼ばれる巫女たちが暮らしているという家屋がこの社の奥にあると聞いてきたのだが、どう行けばいいのかと訊《たず》ねると、
「『物忌《ものい》み』のことでしたら、この拝殿の奥の道を入ったところにありますが」
神官はそう答えてから、
「でも、そこは一般の参詣者は立ち入り禁止になっていて、参拝はできません」と、厳しい表情で言った。
「いえ、参拝ではないんです。実は……」
道代は手にしたハンドバッグを慌てて開くと、中からさつきの写真を取り出し、「この娘《こ》を探している。四月の末に埼玉のショッピングセンターの駐車場から何者かに誘拐されたのだが、最近になって、この神社の奥の竹林で、娘によく似た女の子を見かけたという女性の話を聞いて、夫と共に訪ねてきた。その子が娘かどうか確認させて欲しい」というような説明をすると、道代が差し出した写真をちらと見ただけで、その話を冷淡にも見える無表情で聴いていた神官は、聴き終わるや否や、即座に、「それはできません」と突っぱねた。
「物忌みにおられる日女様には、この社の神官巫女以外は、村の者でも会うことはできない。とりわけ、今は、来月初頭に行う大神祭に控えて、祭りを司る日女様たちは皆、『潔斎《けつさい》』と呼ばれる身を清める期間に入っている。この『潔斎』の間中は、たとえ、それが死にかけた親であろうとも面会することはできない」というのである。
「そこを何とか……」
一目でいいから遠目でもいいから、娘かどうか確認させてくれと、道代は、その若い神官の白衣の袖《そで》にすがらんばかりにして頼んだが、神官の反応は冷たかった。
「どんなご事情があろうとも、それはできません。それに、物忌みにおられる若日女様たちは、この村の生まれの方ばかりで、よその子供がまぎれ込むわけがない。竹林で毬《まり》遊びをしていた日女様がお子さんに似ているというのは他人の空似か、見たという女性の見間違いでしょう」
そう言い張って、取り付く島がなかった。
それでも、道代の方も引かなかった。「なんとかお願いします」と何度も頭を下げ、傍らにいる夫にも、「あなたからもお願いして」と懇願した。夫の昌之も、「娘かどうか確認できないまま帰るわけにはいかない。なんとかお願いします」と深々と頭を下げたが、神官は、「できないものはできません」の一点張りで頑として聞き入れなかった。
これ以上頼んでも無駄かと道代があきらめかけたとき、拝殿の奥の方から、もう一人神官らしきいで立ちの男が現れた。まさに、この奥にあるという『物忌み』から帰ってきたという風だった。
あるいは、道代と若い神官との押し問答を聞き付けて、何事かと様子を見に来たのかもしれなかった。
「どうした……?」
その神官は、怪訝《けげん》そうな顔つきで、若い方に声をかけた。
年の頃は、三十……いや、四十代と思われる年代で、同じ白衣に浅葱の袴、顔立ちもどとこなく似通っていたが、若い神官に比べると、遥かに物腰が落ち着き払って風格のようなものが漂っている。
「あ、兄さん。実はこの方々が」
若い神官はそう言うと、道代がした話を繰り返した。
その年かさの神官はやや気難しげな表情で話を聴いていたが、聴き終わると、道代たちに向かって、ここの宮司だと名乗った。
宮司といえば、この社の主のようなもの。若い神官よりは話が分かるかもしれない。そう考えた道代は、もう一度、さつきの写真を見せ、「遠目でもいいから、その女の子に会わせて欲しい。娘ではないとわかればおとなしく帰ります」と、その足元にひれ伏さんばかりにして懇願すると、しばらく思案するように黙っていた宮司は、
「ご事情はよく分かりました。それはご心痛なことでしょう。それでは……」
そう言って、「本来ならば、何があろうと、外部の者が潔斎中の日女様と会うことはできないのですが、そのような事情であればしかたがない。今回だけ特別にお引き合わせしましょう」と言い出した。
「本当ですか!」
道代は思わず叫ぶように言っていた。
「兄さん、それは……」
若い神官は宮司の返答がよほど思いがけないものだったらしく、ひどく驚いたような顔をしていた。
「ただ、今すぐにというわけにはいきません」宮司は続けて言った。
「日女様は今大事なおつとめの最中ですから。それを中断することはできません。おつとめが終わったあと、夕方……そうですね、六時頃でしたら、ここにお連れすることができると思いますが。それでよろしいですか」
「六時ですね。はい、それでけっこうです。その頃にもう一度参ります。どうもありがとうございます」
道代は心の底から深々と頭を下げた。
若い神官と違って、さすがに年の功というか、人情に通じている宮司に何度も感謝のお辞儀をしてから、道代は夫と共に社を出ると、日の本寺に戻ってきた。
約束の時間が来るまで、若い夫婦は寺の一室でそわそわとして過ごし、ようやく、その時間が来ると、寺から懐中電灯を借りて外に出た。
夕方とはいっても、あたりはとっぷりと暮れ、完全に闇に包まれていた。しかも、十月の末ともなると、夜はかなり冷え込むようだ。頬や髪をなぶる夜風は身に染みるように冷たかった。
参道の灯籠《とうろう》に微《かす》かに灯《とも》る明かりと、足元を照らし出す懐中電灯の明かりを頼りに、再び社まで行くと、例の拝殿のそばに、昼間会った宮司が小さな女の子の手を引いて立っていた。
年の頃は三、四歳。白衣に濃紫の袴《はかま》。黒髪を耳の下で切り揃えたオカッパ頭に、色白の右頬には、大きな黒い黒子《ほくろ》。
「さつき……」
拝殿に灯された提灯《ちようちん》の微かな明かりを背景に、闇に溶け込むようにして佇《たたず》んでいるその幼女を見て、道代は、そう叫びそうになった。しかし、近づいて、その子の顔をよく見てみると、足元から崩れるような絶望感とともに呟《つぶや》いた。
違う。さつきじゃない。
年の頃も、髪形も、頬の黒子も似ている。でも、この子はさつきじゃない。
宮司に手を引かれた幼女の方も、道代と昌之を、まるで知らない人でも見るような無感動な表情で見上げていた。
「いかがですか。おそばにいた日女様の話では、二週間ほど前、竹林で毬《まり》遊びをしていた幼い日女様というのは、この方のようなのですが」
宮司が言った。
「違います。さつきじゃありません」
両|膝《ひざ》が震えて、もう自力では立っていられなかった。傍らの夫の腕に支えられながら、ようやく道代は声を絞り出すようにして答えた。
「おそらく、髪形とか頬の黒子などで、お子さんに似ているように思われたのでしょうね。この日女《ひるめ》様を見かけたという女性は……」
宮司は気の毒そうに言った。
十月三十日。日曜日。
午後八時を少し回った頃だった。
風呂から上がって、濡れた髪をタオルで拭きながら、リビングに戻ってくると、テーブルの上に投げ出してあった携帯が鳴っていた。蛍子は、タオルを首にかけたまま、携帯を取り上げた。
甥の豪は、友達のところにでも行っているのか、昼頃出かけたきり、まだ帰ってはいなかった。
出てみると、相手は近藤道代だった。
さきほど、日の本村から帰ってきたばかりだという。埼玉の自宅からかけているらしい。道代の話では、どうやら警察の付き添いは得られず夫と二人きりで出かけた様子だった。
「それで? 例の女の子には会えたのですか?」
そう訊《き》くと、
「ええ、会えました」と道代は答えた。
会えた……?
それを聞いた蛍子は意外に思った。てっきり、あの幼女には会えずに帰ってきたのではないかと思っていたからだ。
「すぐに会わせてもらえたのですか」
念を押すようにそう訊くと、
「いいえ、すぐというわけではなくて……」
道代はそう言って、あの幼女に会うまでのいきさつを話してくれた。最初は、社で掃き掃除をしていた二十歳くらいの若い神官に頼んだのだが、その神官から、「今は大神祭に備えての『潔斎』の期間にあたるので、どんな事情があろうとも、『物忌《ものい》み』におられる日女様に会うことはできない」と手厳しくはねつけられたということを。
「……そう言われて、あきらめかけていたとき、ちょうど、宮司さんが通りかかって、その方に事情を説明して、再度お願いしたところ、ようやく、こちらの気持ちを汲《く》んでいただけたようで、そういう事情なら、今回だけ特別に会わせてやろうとおっしゃって……」
道代の話をききながら、おそらく、最初に会った若い神官というのは、神郁馬のことではないかと蛍子は思った。
郁馬は神官見習いとして、社周辺の掃き掃除や草むしりなどを受け持っているという話だったし、蛍子があの社を訪ねたときも、掃除の最中だったらしく竹箒を手にしていた。
「ただ、今は日女様の大事なおつとめの最中なので、すぐには無理だと言われて、夕方、もう一度来てくれと言われて出直したのです」
道代は言った。
「それで、そのときに?」
「ええ。会いました。宮司さんがその女の子を連れてきてくださって。間近で見ることができました……」
「さつきちゃんではなかったのですか」
電話の向こうの、旅の疲れだけではなさそうな声の暗さから推して、蛍子はそう言った。その幼女が娘のさつきだったら、道代の声はこんなに沈んではいないだろう。
「はい。さつきではありませんでした。年格好も、髪形も、右頬に黒子があることも、確かに似てはいたのですが、でも、顔は全く違っていました」
「そうだったんですか。わたしがよけいなことを言ったばかりに、近藤さんには無駄足を運ばせてしまいましたね。テレビの写真で見たときはとても似ているように思えたのですが」
申し訳なくなってそう言うと、
「いいえ、そんな。喜屋武さんにはとても感謝してるんです。情報をいただいたことに。たとえ無駄足になってもいいんです。何も情報が入らず、うちで手をこまねいてあの娘《こ》の帰りをただ待っているだけよりは。僅《わず》かの期待でもいいから抱いて、こうして動いている方がよっぽど救われますから……」
道代はそう言うと、蛍子の方が恐縮するほど何度も礼を言って電話を切った。
蛍子は耳につけていた携帯を離して、テーブルに戻すと、ソファの背もたれに身体を預け、はぁと大きなため息をついた。
結局、近藤道代の力にはなれなかったという無力感もあったが、同時に、近藤さつきの誘拐事件が日の本村とは無関係だったらしいということが分かって、幾分|安堵《あんど》する気持ちもあった。
あの巫女《みこ》姿の幼女が近藤さつきではなかったということで、先日、鏑木浩一が言っていた「これまで日の本村で密《ひそ》かに行われていたことが、日本全土に広がる云々《うんぬん》」という推理も、ただの妄想にすぎないことが分かったからだ。
あの村に対して抱いた疑惑は少しも晴れたわけではないが、この件に関しては、自分の勘違いだった……。
そのことに、微かな安堵を感じていた。
そうだ。このことを鏑木にも知らせておこう。
蛍子はそう思いつくと、テーブルに投げ出した携帯を再び取り上げ、前に会ったときに聞いて登録しておいた彼の携帯の番号をプッシュした。
しばらく呼び出し音が鳴ったあと、すぐに男の声が答えた。鏑木だった。
自宅ではないような人の話し声や雑音が背後から聞こえてくる。
「喜屋武です」と名乗ると、「あ、これはどうも」と、少し驚いたような声が返ってきた。その声には、蛍子の自惚《うぬぼ》れかもしれないが、どことなく喜色のようなものが感じられた。
「今、ちょっとよろしいですか」
そう聞くと、
「はい、かまいません。どうぞ」
鏑木はすぐに言った。今、仕事でスタジオにいたのだが、ちょうど一段落ついたところだという。
「さきほど、近藤さんから電話がありまして」蛍子はそう言って、近藤道代から聞いた話をそのまま鏑木に伝えた。
「……そうですか。喜屋武さんが見たという幼女は近藤さつきじゃなかったんですか」
話を一通り聞き終わると、鏑木は、がっかりしたともほっとしたとも取れるような声音で言った。
「ですから、この件に関しては、あの村とは関係なかったということで」
蛍子がそう言いかけると、
「ちょっと待ってください」
鏑木が鋭く遮った。
「まだ、そうとは言い切れませんよ」
「え?」
「近藤夫妻が会ったという幼女ですが、本当に喜屋武さんが見た幼女と同じ子だったんですかね」
突然そんなことを言い出した。
「え。でも、近藤さんの話では、その女の子は、三、四歳くらいで、オカッパ頭、右頬に黒子があったということですから、たぶん……」
蛍子は意表をつかれて思わず言った。
こんな特徴を持つ幼女があの村に何人もいるとは思えない。
「髪形にしても黒子にしても、いくらでも似させることはできますよ。黒子なんて付け黒子でもいいし、マジックか何かで書くことだってできる。夕方会ったというなら、あたりも暗かっただろうし、薄暗いところだったら、間近で見ても偽黒子とは見破られないでしょう」
「ということは、近藤さんが会った女の子は、わたしが見た子とは違う替え玉だったとでもいうんですか」
「その可能性もないとはいえませんね。だって、よく考えてみると、おかしいじゃないですか。大神祭を控えての潔斎《けつさい》とかいう期間だというのに、宮司がそんなにたやすく外部の者に面会を許したというのは」
「それは、わたしも少し意外に思ったんですが。でも、近藤さんの言うように、宮司さんがお子さんを探しに来たご夫妻の心情を察して、特別に計らってくれたとも……」
「その宮司という男ですがね」
鏑木がやや声を潜め、何かを打ち明けるように言った。
「前に、達川さんからちょっと聞いたことがあるんですよ。名前は、神聖二《みわせいじ》といって、新庄貴明のすぐ下の弟だと。なんでも、数十年に一度しか現れないという、大神の『お印』とか呼ばれる特殊な蛇紋をもって生まれたとかで、あの村では、ただの宮司というより、『生き神様』のように崇拝されているという話でした。どうやら村を実質的に牛耳っているのは、村長なんかではなくて、この男らしいんです。倉橋日登美の事件も、陰ですべてを計画し仕切っていたのはこいつじゃないかと言ってました。見た目には、人当たりの柔らかい温厚そうな人物らしいんですがね。中身はそんな生やさしい御仁ではないらしい。なかなか一筋縄ではいかない相当の曲者《くせもの》のようだと達川さんは言ってました。喜屋武さんはこの人物には会ってないんですか」
「いいえ。神家で会ったのは、その宮司の弟にあたる郁馬という若い神官だけです。そういえば、伊達さんから聞いた話では、その神聖二という人は倉橋日登美の実兄だとか……」
「ひょっとしたら、近藤夫妻はこの宮司にまんまと一杯食わされたんじゃないでしょうか」
「……」
「もし、喜屋武さんが見たのが近藤さつきだったとしたら、宮司としては、むろん、その子を親である近藤夫妻に会わせるはずがない。しかし、たとえ潔斎を口実に追い払ったとしても、それでは、夫妻の気持ちの整理はつかないだろうし、疑惑は深まるばかりだということは容易に想像できる。下手をすると、そのうち、警察やマスコミまでこの件で動き出しかねない。そうなる前に、喜屋武さんが見た幼女は、似てはいるが別の子供だったという話にしてしまった方が、夫妻の気持ちの整理もつくし、これ以上の疑惑を封印することができる。
咄嗟《とつさ》の判断でそう考えた宮司は、夕方にまた来いといって時間をかせぎ、その間に、年格好の似た女の子をみつくろって、日女の衣装を着せ、オカッパ頭に、偽黒子をつけさせて、あのときの日女様だと偽って、近藤夫妻に会わせた……とは考えられないでしょうか?」
言われてみれば、鏑木の疑惑ももっともだった。一度は安心しかけた蛍子の胸にまた不穏なさざ波がたちはじめた。
「もしそうだとしたら、わたしも近藤さんと一緒にもう一度あの村に行って、あのときの幼女だったかどうか確かめた方がいいのかしら」
蛍子が迷いながらそう言うと、
「それは無理でしょう。俺の考えが正しければ、あの宮司がそんなことをすんなり許すはずがありません。一度は温情で許したが、二度はできない。そう言って拒否するに決まってますよ。喜屋武さんに立ち会われたら、替え玉を使ったことがばれてしまうんだから。それに、あなたはこれ以上あの村にかかわらない方がいい」
「……」
「あなたの周辺を洗っているのが、日の本村の連中だとしたら、あの村の連中に、あなたはマークされているわけですから。これ以上表だってかかわるのは危険です。いざとなると手段を選ばない荒っぽい連中みたいだから、下手をすると、達川さんの二の舞いになりかねません」
「それでは、あの幼女はどうなるんです? もし、あの子が近藤さつきだとしたら? 大神祭は来月の初めに行われるんです。後一週間もないんです。何もしないでいたら、あの子はこのまま……」
「俺が行きます」
鏑木は突然言った。
「えっ」
「俺が行ってきます、あの村に。今の仕事が片付けば、しばらく暇になりますから。地方の奇祭に興味をもって取材に来たカメラマンということにすれば、二、三日滞在しても誰にも怪しまれないと思います」
「でも……」
「いやね、口実だけじゃなくて、実際に、取材してみたくなったんですよ。あの村や、大神祭とやらを。達川さんやあなたの話を聞いていたら、あの村に興味が出てきたんです。一度、自分の目で見てみたくなった。それに、もともと、古い祭りとか風習とか嫌いじゃないんですよ、俺。
前に、仕事でインドに行ってたって言ったでしょう? あれも、実は、祭りがらみなんです。旅の雑誌の企画で、インドの民間に根付いた古い風習や祭りの様子を取材して撮影してくるっていうね。あの企画の半分もこちらから出したようなもんだったし。そうそう、そういえば、インドにも、あちこちに強烈な蛇信仰みたいなものがありましてね」
鏑木はそんな話を夢中で続けていたが、蛍子は、このとき、言い知れぬ胸騒ぎのようなものを感じていた。
また一人……。
また一人、あの村とあの村の奇祭に興味をもって近づこうとしている男がいる。
元週刊誌記者の達川正輝。私立探偵の伊達浩一……。
そして、この元恋人と同じ名前をもつ、自称フォトジャーナリストの鏑木浩一。
まさか……。
奇しくも、伊達と同じ名前をもつ男は、同じ名前ゆえに、同じような運命を辿《たど》るのでは。
そして、わたしは、そんな予感というか、危惧《きぐ》を抱きながらも、今度もそれを止めることができないのでは……。
蛍子はそんな言い知れぬ不安に襲われていた。
同日同夜。
神家の母屋から少し離れたところに建てられた茶室では、いつぞやのように、神聖二と郁馬が向かい合って密談していた。
「……やっぱり、あの喜屋武という女は危険ですよ、兄さん」
郁馬は、険悪な表情で次兄に詰め寄るようにして言った。
「一夜様《ひとよさま》のことを竹林で見たと近藤夫妻に話したのは、あの女に間違いありません。二週間ほど前といえば、ちょうどあの女がここに滞在していた頃ですから。もはや、のんびり監視なんかしてる場合じゃありません。あの女は今すぐにでも始末すべきです」
「そう慌てるな。一夜様の件については、ああしておけば、喜屋武という女も自分の勘違いだったと思い込むだろう。焦って、すぐにどうこうする必要はない」
聖二は冷静に言った。
「それでは手ぬるいです。一夜様の件は上手くおさめたとしても、この先、どんな騒ぎを引き起こす元になるか分かりませんよ、あの女は。それに、女の身辺を探らせていた者からの報告では、案の定、伊達浩一とは五年前まで恋人関係にあったそうです。思った通りでした。ただの友人じゃなかったんです。やはり、探偵を送りこんできた張本人はあの女だったんです。元恋人の探偵を使って、この村のことを探ろうとしていたんです」
「何を探ろうとしていたんだ? あの女が日登美やこの村に興味をもって探ろうとしている動機はなんだ。それは分かったのか」
「いえ、その点については、まだ……。おそらく、僕の思うところでは、達川と何らかの交友関係があって、達川からこの村のことを聞いていたのかもしれません。達川は大手出版社の元週刊誌記者で、あの女も神田の出版社に勤めているということですから、出版関係者つながりで、前から知り合いだったとも考えられます」
「おまえの推測なんか聞いてない。あの女がこの村に興味をもった動機を探れと言ってるんだ。それとも、達川の部屋から、喜屋武という女との交友関係を示すようなものでも見つかったのか」
「いや、それは何も……。アドレス帳の類《たぐ》いからも、喜屋武という名前は見つかりませんでした。でも、そんなことはどうでもいいじゃないですか。動機は何であれ、あの女がこの村に何らかの疑惑をもって探っているというのは確かです。それだけで十分じゃないですか。要は、我々にとっては、危険な存在だということです。今のうちに始末しておいた方が――」
「虫でも捻《ひね》りつぶすように言うな」
聖二は不快そうに吐き捨てた。
「しかし」
郁馬は白面に不満と苛立《いらだ》ちを露《あらわ》にして、さらに言い募った。
「危険な芽は芽のうちに摘め。そう教えてくれたのは兄さんですよ」
「……」
「あの女は、我々にとって、まさに危険な芽です。摘み取るとしたら今しかないです」
「勘違いするな、郁馬」
聖二は厳しい声で一喝《いつかつ》した。
「危険な芽を摘めというのは、手当たり次第に芽を引っこ抜けという意味じゃない。危険性を察知したら、何らかの手段を講じてその危険性を最小限に抑えろという意味だ。たとえ最悪の手段を使うにしても、それは、他に手立てがないと判断した場合の最終手段としてだ。おまえのやり方は性急すぎる。他の手立てを一切考えようとしない。一夜様の件にしろ、もし、あそこで私が通りかからなかったら、おまえはあれをどう処理していた?」
「あんな夫婦なんか問答無用で追い返していましたよ」
郁馬は当然のように言い放った。
「それだから、おまえは……」
聖二は嘆くように呟《つぶや》いた。
「僕のやり方のどこがいけないんです? ここでは、潔斎《けつさい》中の日女様には親ですら会えないという掟《おきて》があるのは事実なんだから。そう言い張って追っ払えばいいんですよ。何も、あんな手の込んだ真似をしなくても」
郁馬はふて腐れたように答えた。
「この村の人間にとっては鉄の掟も、よそ者には通用しないぞ。それに、そんな対処の仕方で、あの夫婦が納得すると思うのか」
「納得しようがしまいが……」
「納得しなければ、夫婦のこの村への疑惑はさらに深まり、子供可愛さのあまり、次はもっと強硬な手を使ってくるかもしれない。そうなってからでは厄介だ。そうなる前に、ここで見たという子供は人違いだったと納得させた方がいい。そうすれば、二度と妙な疑惑は抱かなくなる。喜屋武という女にして同じだ。あの夫婦から報告を受けて人違いだったと分かれば、この村に抱いている他の疑惑も、勘違いだったと思うようになるかもしれない。この手の心理というのは連鎖するんだ。一度あることに疑惑をもつと、あれも怪しいこれも怪しいと、いわゆる疑心暗鬼の状態に陥ってしまうが、同時に、あることが自分の妄想や勘違いに過ぎなかったと分かれば、他のこともそうだったのかもしれないと思いがちになる。そうすれば、自然に、あの女がこの村に抱いている疑惑も薄れていく。これが危険の芽を摘むということだ。おまえのやり方では、危険の芽を摘むどころか、新たに危険の種をばらまいているようなものだ」
「……」
「それに、万が一、最終手段を取るにしても、今度は、達川のときのように簡単にはいかないぞ。達川は、たまたま妻子と別れて一人暮らしだったから、あんな杜撰《ずさん》で荒っぽい手口でもなんとかなっただろうが、喜屋武という女はまだ独身らしいが、高校生の甥《おい》と同居しているという話じゃないか。となれば、同じ手は使えないだろうし……」
「方法はいくらでもありますよ」
郁馬は即座に言った。
「あの女の身辺を洗わせて、生活パターンのようなものは大かた把握しています。通勤には電車を利用しているようですが、自宅から最寄りの駅まで、いつも十五分ほどの距離を歩いて通っているようです。もし、この帰り道、視界の悪い曇りか雨の日に、運悪く暴走してきた車に轢《ひ》き逃げされたとしても、よくある交通事故くらいにしか思われないでしょうね……」
「とにかく」
聖二は幾分腹に据えかねたような声で言った。
「まだ早まったことはするな。おまえは私の指示に従ってさえいればいい。最終的な決断は私が下す。それまでは、女を監視するだけにしろ。達川のときのような勝手な真似は二度と許さないぞ」
「……はい」
郁馬は何かいいたげに口を開きかけたが、思い直したように、渋々|頷《うなず》いた。
「それと、もう一つ気になることがある。あの女は沖縄の玉城村《たまぐすくむら》の出身だということだったな……?」
聖二はふいにそう言った。
「はい。今のところ、分かっているのは、両親とは早くに死別して、年の離れた姉が一人いたようですが、これとも数年前に死別したようです。同居している甥というのは、どうやら、この姉の子供のようです。後、もう一人、姪《めい》もいるようですが、こちらとは住まいは別にしているようで……」
「玉城村というと、武《たける》を刺した女も、確かこの村の出身だったとか」
聖二は呟くように言った。
「偶然かもしれないが、どうも気になる……。もしかしたら、喜屋武という女と、あの事件の犯人との間には何かつながりがあるかもしれない。そのへんをもう少し探ってみろ」
「はい、分かりました」
郁馬はそう言うと、一礼して立ち上がりかけたが、
「あの、兄さん」とやや思い詰めたような表情で言った。
「なんだ」
「武……様に、宮司職を継げと言ったというのは本当ですか」
聖二は、何のことだという顔で、突っ立ったままの弟を見上げた。
「その、武……様がちらとそんなことをおっしゃっていたものですから。ここに来た日に、兄さんに社を継げと言われたと」
「ああ、そのことか」
聖二はようやく思い出したような顔になった。
「あれは冗談だよ。大日女《おおひるめ》様のところにご挨拶《あいさつ》に行くときに、神官の装束を着せてみたら意外に似合っていたから、いっそ、その格好で一生過ごすかって冗談で言っただけだ」
「冗談なんですか」
郁馬はじっと兄の顔を見下ろして、探るような目で聞いた。
「まあ、本人がその気になってくれたら、それでもいいとは思ったんだが。あいにく速攻で断られたよ。こんな山奥の古ぼけた社の神主なんて御免だとさ」
聖二はそう言って、そのときのことを思い出したように苦笑した。
「その山奥の古ぼけた社の神主になるために……」
郁馬が口元を意味ありげな微笑で歪《ゆが》め、押し殺したような声音で言った。
「大学院へ行くのもあきらめ、あなたに言われるままにここに帰ってきた僕は、武様から見ればどう見えるでしょうかね」
「郁馬……」
「武様がこんなものいらないと投げ捨てた残飯に喜んで食らいついてる犬みたいに見えるでしょうか」
「おまえ、どうしたんだ。最近、少しおかしいぞ」
聖二は眉《まゆ》を顰《ひそ》めて、弟の顔を見返した。
「いえ、別に。なんでもないんです……」
郁馬はそれだけ言うと、手荒な仕草で障子を開けて茶室を出て行った。
その怒りを押さえ込んでいるようにも見える後ろ姿を、聖二はじっと見送っていた。
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第三章
「武兄ちゃん……」
「よう、俊正」
「何、作ってるの?」
「竹トンボ」
「下手くそ。ぜんぜん竹トンボに見えねー」
「うるさい」
「ここもっと削った方がいいよ。それとここも。それじゃ、飛ばないよ」
「うるさいって」
「ねえ、ぼくにやらせて。ぼくの方がうまいってば」
「馬鹿。押すな。あー。この馬鹿野郎。おまえが押すから、変なとこ削ちゃったじゃないか」
「押さなくたって、変なとこばっか削ってるんじゃんか。兄ちゃん、今まで、小刀なんて使ったことあるの?」
「……」
「ねえねえ、あるの?」
「揺するな」
「鉛筆削るときとかさぁ」
「あのな。いいこと教えてやろうか」
「なに?」
「都会にはな、こんなド田舎のド僻地《へきち》と違って、鉛筆削りっていう有り難いものがあるのだよ、少年。つまるところ、よほどの物好きでない限り、鉛筆削るのに小刀なんてしゃらくせーもの使わねえんだよ」
「それって、生まれてはじめて、小刀握ったってこと?」
「そうとも言うな……」
「下手くそなはずだ」
「あ、また押した。押すなって言ってるだろうが!」
「押してないもん」
「……」
「……」
「おい、俊正」
「なあに」
「俺の背中にへばりついてるおまえの弟、なんとかしろ。さっきから顔こすりつけて、背中でハナ拭《ふ》いてるっぽい」
「良晴、離れろって」
「やーん。ここがいい。ぽかぽかしてあったかいもん」
「ぽかぽかして温かいからここがいいって」
「人の背中を湯たんぽがわりにするな。いいから力づくでひっぺがせ」
「良晴、こっち来い」
「やだぁ。武兄たんのそばがいい」
「武兄ちゃんのそばがいいって」
「いちいち通訳するな。あ、また拭いてる」
「良晴。兄ちゃんの背中でハナ拭くなって。こっち来いってば」
「わーん。やだー」
「良晴!」
「やだー。うぎゃー」
「うるさい!」
「兄ちゃん、こいつ、離れないよ」
「ったく、甲羅みたいにへばりつきやがって。俺は河童《かつぱ》じゃねえぞ。俊正、おまえ、ティッシュ持ってるか?」
「チリ紙なら持ってるけど」
「それでハナかんでやれ」
「良晴、これでハナかめ」
「ちーん」
「……」
「……」
「おまえの弟な」
「うん?」
「病気じゃないのか」
「なんで?」
「いつ見てもハナ垂らしてるじゃん。今時、都会じゃ、ハナ垂らしてるガキなんざどこ探してもいないぞ。しかも、黄色いハナなんて。どっか悪いんじゃないのか」
「今、ちょっと風邪ひいてるみたい。それとチクノウだって」
「チクノウか。やっぱな。医者に見せたのか」
「今度連れてくって。今はうちにあるカンポー薬飲ませてるみたいだけど」
「早く連れてった方がいいぞ。チクノウって恐ろしい病気だからな」
「ほんと……?」
「知らなかったのか」
「何が……?」
「ここだけの話だけどな、癌よりこわいんだぞ」
「……」
「あの黄色いハナに見えるやつな、本当をいうとな、ハナじゃなくて脳みそなんだぞ……」
「え」
「チクノウってのはな、脳みそがある日突然沸騰して液化して、耳や鼻や口からダーと垂れ流しになるこわい病気なんだぞ」
「……」
「そのうち、耳や口からもブワーと出てきて、あっという間に弟の頭から脳みそがスッカラカンになくなっちまうんだぞ」
「……」
「奇病中の奇病だから、今の科学じゃ治す方法も見つかってないらしい。見つけたらノーベル賞ものだと言われてるんだ。おまえの弟は下手をすると、一生、脳みそなしの中身くりぬいたハロウィンのかぼちゃみたいな頭で暮らさなきゃならないんだぞ。読み書きはもちろん、まともに喋《しやべ》ることもできないんだぞ。脳みそがないんだからな」
「……」
「……」
「う……」
「……」
「嘘だよね?」
「嘘だよ」
「嘘つき!」
「痛っ。いきなり体当たりするから、指、切っちゃったじゃねえか!」
「だって、兄ちゃん、嘘つきなんだもん。この前も、ゴキブリ潰《つぶ》したときに出る白い汁はゴキブリの脳みそだって嘘ついたじゃん。ゴキブリって、頭から尻尾《しつぽ》までビッシリ脳みそが詰まった地球最強の知的生物だって。学校で友達に話したら、おまえ馬鹿かって言われたよ」
「ここだけの話って言っただろうが」
「嘘つきは泥棒のはじまりだよ」
「田舎じゃそう言うのか。都会じゃな、嘘つきは政治家のはじまりっていうんだ」
「それも嘘くせえ。子供に嘘ばっか教えるなよ」
「って、当のガキがえらそうに言うな。あ。血が噴き出てきた」
「痛そう」
「呑気《のんき》に見てるなよ。やばい。血が止まらない。早く、絆創膏《ばんそうこう》持ってこい!」
「良晴、絆創膏だって」
「弟をパシリにするな。おまえが取ってこい」
「どこにあるか知らないもん」
「知らなかったら、うちの人に聞け!」
「絆創膏、どこにあるの?」
「なんで俺に聞くんだよ」
「兄ちゃんだって、うちの人じゃん」
「……」
十一月一日のよく晴れた午後だった。
部屋で縫い物をしていた神耀子《みわようこ》は、窓の外から漏れ聞こえてくる子供たちの話し声を聞くともなく聞いていたが、ついにぷっと吹き出した。
まるで掛け合い漫才のような会話をしていたのは、二週間ほど前から、怪我の療養と受験勉強を兼ねて神家に居候している、長兄の次男の武と、副村長の長男の矢部俊正だった。
外を見なくても、声で分かる。
武が竹トンボを作っている最中に指を怪我したようだが、大丈夫だろうかと、縫い物を傍らに置くと、耀子は立ち上がって、窓際に寄って外を見てみた。
中庭を挟んだ向かいの部屋の縁側に、素足に下駄ばきの武が腰かけ、裏の竹林で拾ってきたらしい竹を小刀で熱心に削っている。武の背中には俊正の五歳になる弟がおんぶするようにしがみついていた。
「絆創膏、絆創膏」と騒いでいた武は、どたばたと走り回って俊正が持ってきた絆創膏で応急処置を終えると静かになって、また竹トンボ作りに専念しはじめた。
その手元を覗《のぞ》きこむようにして隣に俊正が座りこんでいる。
耀子は窓際に立って、そんな光景を眺めていたが、ふいに脳裏に、過去にも似たような光景を見たという記憶が蘇《よみがえ》った。
それは三十年以上も昔の、耀子がまだ十代の頃だった。
あの子たちの父親も……。
武の父親の貴明が、ちょうど今の武くらいのとき、夏期休暇などで帰省してくると、やはり今の俊正くらいの年齢だった矢部稔が遊びに来ていて、ああして、縁側で二人で肩を寄せ合って、プラモデルか何かを熱心に作っていたことがあった。
それをこの部屋から見ていたことがある……。
あれから三十年以上がたったのか。
耀子はふいに足元を波にさらわれたような軽い目眩《めまい》を感じた。
音もなくさらさらと年月だけが流れていく……。
子供の頃から身体が弱く、病気がちで、長くは生きられないと思っていた。二十代後半で子宮癌を患ったときは死を覚悟したこともあったが、幸い、術後の経過は良く、その後転移も起こらず、最近は、年のせいか、更年期障害らしき症状に悩まされるようにはなったものの、それでも、わたしはこうして生きている……。
病気がちの人間の方が、日々身体をいたわり、病気との付き合い方を知っているせいか、健康すぎる人間よりもかえって長生きすることがあると聞いたことがある。
わたしもそうなのかもしれない。
もしかしたら……。
この先、あと十年、二十年、三十年と細々と生き永らえて、武や俊正が大人になって子供を作り、その子供たちが、祖父や父親たちがそうしていたように、あそこでああして一緒に遊んでいるさまを見ることができるのかもしれない。
耀子はふとそんな夢想をした。
できれば、その光景をこの目でしかと見届けたい。見届けてからあの世とやらに旅立ちたい……。
そんなことを考えながら、しばらく見ていると、俊正よりも少し遅れて学校から帰ってきた神家の年長の少年たちも、一人二人と自然に中庭に集まり出した。
ようやく竹トンボが完成したらしく、武は、意気揚々と縁側から立ち上がると、固唾《かたず》を飲んで見守っている周囲の少年たちに、「見てろよ。今飛ばしてやるから」と自信たっぷりに言って、宙に飛ばそうとしたが、その竹トンボもどきは、武の手から勢いよく離れると、そのまま、ボトンと地面に落下した。
「アラ」
「落ちた」
「飛ばねーじゃん」
「何、これ?」
「飛ぶわけねーよ。あんなの」
俊正が手を叩《たた》いて喜んでいる。
「変だなぁ。どこがおかしいんだ。力学的には飛ぶはずなんだが……」
竹トンボもどきを拾い上げて、首をひねる武に、俊正が横合いから、「どこがおかしいって、全部おかしいんだよ。つうか、飛ぶ方がおかしいや」とせせら笑って、「おまえ、時々、思いっ切りむかつくこと言うな」と武に頭を小突かれていた。
中庭の少年たちの騒ぎにつられたように、神家の女たちも、部屋や台所から出て、少し遠巻きにして庭の方を見ていた。
いつの間にか、武を中心に、ちょうど蛇《じや》の目《め》のような二重の人の輪ができはじめている。
こうした蛇の目現象は今日に限ったことではなかった。この二週間というもの、大声をあげて皆を呼び寄せたわけでもないのに、武が現れるところには、自然にこうした二重の人の輪が作られるようになっていた。
十八歳の少年の存在そのものが、何か不思議な強い輝きと引力をもって、神家の人間、いや、神家だけでなく近隣の人間をもひきつけているとしか思えなかった。
「姉さん」
背後で声がした。
振り向くと、弟の聖二が戸口に立っていた。一週間ほど前にも、体調が悪くて床についていたとき、中庭で少年たちが相撲をはじめ、そのときの騒ぎが、臥《ふ》せっている姉の身体に障るのではないかと心配した聖二が、こうして様子を見に来たことがあった。
「お身体の具合はいかがですか。また中庭が少し煩《うるさ》いようですが……」
弟は入ってくると、心配そうにそう聞いてきた。
「具合はとてもいいですよ。今も、子供たちの肌着の繕いをしていたところですから」
耀子は笑顔で答えた。弟を心配させまいとして言ったわけではなかった。実際、ここ一週間ほど、体調はすこぶる良い。
いつもは、この時間帯でも、敷かれたままになっていることが多い布団が奇麗に片付けられている部屋の中を見回して、聖二も安心したような顔になった。
「それならいいんですが。どうも武が来てから、中庭が子供の遊び場のようになってしまって。あいつは、図体ばかりでかくても、中身はまだ小学生並ですから」
窓の方を見ながら、聖二は、やれやれという顔で言った。
そう言ったきり、黙って窓の外を見ながら、この弟には珍しく、どことなく去りがたいという風情で立ち尽くしている。
「何か御用でも?」
耀子がそう水を向けると、聖二は、ようやく、
「いや、その、用というほどのことでもないんですが……」と言った。
何ごとも前以て綿密に計画をたて、てきぱきと無駄なくこなす弟にしては、いつになく歯切れの悪い言い方であり、煮え切らない態度だった。
「なんでしょう?」
「実は……」
聖二はそう言って、よほど話しにくいことなのか、まだ口ごもっていたが、
「もうすぐ……美奈代の誕生日なので、誕生祝いに何か買ってやろうと思うのですが、何を買ってやったらいいものやら。本人に直接聞くのもあれだし、姉さんなら良いアドバイスを貰《もら》えるのではないかと……」
と、思い切ったように言った。
「え……」
耀子は聞き違いかと思うほど驚いて、思わず弟の顔を見つめ返した。
「何をそんなに驚いてるんです?」
姉にまじまじと見つめ返されて、聖二の方も少し驚いたように言った。
「あ、いえ。あなたがそんなことを言うのをはじめて聞いたものですから、つい」
「……」
「それに、あなたが美奈代さんの誕生日を覚えていたなんて」
「そんなに驚くほどのことですか。夫が妻の誕生日を覚えていることが」
聖二はやや気を悪くしたような顔になった。
「あら、ごめんなさい。他の人ならともかく、あなたのような壮大な大志を抱いた人は、妻の誕生日などという『小事』には全く関心がないとばかり思っていたものですから」
耀子は皮肉ともとれることをサラリと言って、微《かす》かに笑った。
「誕生祝いというか……その、あれにはこれまで何かと苦労をかけてきたし、今まで祝い事らしきこともしてやったことがなかったから、それで、此《こ》の際、誕生祝いを兼ねて、これまでの感謝の印というか……」
聖二は、しどろもどろに説明にもならない説明をした。
この人でも照れるということがあるのだな、と耀子は、沈着冷静この上ない弟の隠された一面を初めて見る思いがした。
どういう風の吹き回しかは知らないが、この弟が、長年連れ添った妻に対して、感謝とか労《ねぎら》うなどという人並の気持ちを抱いてくれたことが、耀子には我がことのように嬉《うれ》しかった。
弟と義妹の関係は、結婚して二十年、耀子の目からみると、夫婦というより、殆《ほとん》ど、主人と家政婦の関係に近いように映っていたからだ。時代が逆行しているというか、まるで明治あたりで時が止まっているようなこの村ではこうした夫婦関係はそれほど珍しくはなかったのだが、弟夫婦の場合は、それが際立っていた。
耀子自身は、独身を義務づけられた日女《ひるめ》の宿命として、この年になるまで一度も嫁いだことはなかったが、こんな妻とは名ばかりの生活にひたすら耐えているように見える義妹に対して、同じ女として、密《ひそ》かに同情めいた気持ちを抱いていたのである。
聖二は、どういうわけか、姉である自分には何かと気を遣ってくれる。日女という身分であることや、子供の頃からあまり身体が丈夫ではなかったことを知っているせいか、鼻風邪を引いた程度のことでも、必ず、気にして様子を見に来てくれる。
それなのに、妻にたいしては、姉に示す思い遣《や》りの半分も見せることはなかった。
これまでにも、幾度となく、わたしはいいから美奈代にもう少し気を遣ってやれということを、遠回しながら弟に訴えてきたつもりだが、そのたびに聞く耳もたぬという態度をされ続けてきた。
そんな弟が、こんなことを言い出すとは……。
弟も四十代後半という年齢にさしかかって、ようやく、その人柄に少し人間味というか丸みが出てきたということなのだろうか。
それとも……。
耀子は思った。
聖二のこの心境の変化、妻に対する態度の軟化ともいうべき変化は、もしかしたら、甥《おい》の武の影響によるものではないか。
聞くところによると、これまでは美奈代の日課だった薪《まき》割りを、武が、「女には無理だから」と言って代わってやったそうで、武にしてみれば、叔母に優しくするというより、たんに薪割りそのものが珍しくてやりたかっただけなのかもしれないが、こうしたちょっとした気遣いが、美奈代にはよほど嬉しかったようだ。
そのせいか、これまでは年齢よりも老け込み、いつもどこか鬱《うつ》ぎみに見えた義妹が少し若返り明るくなったようにさえ見えた。
武が来てからの妻の変化に弟も気づいたはずで、それを見て、彼なりに何か思うところがあったのではないか。
二週間足らずの間に、武が此の家の人間、とりわけ耀子自身を含めた女子供に与えた影響は大きい。しかし、その影響力は、女子供だけでなく、聖二のような一家の主人、それも他人の影響など容易に受けつけそうにもない鉄壁か巌《いわお》のような男にさえも微妙に及んでいたようだ。
武の身体に突然変異のように「お印」に似た蛇紋が出て以来、「大神の意志を継ぐ日子《ひこ》になるための教育を施さなければ」と言っていた聖二自身が、知らぬ間に、武の感化を受け、自らが背負った子に教えられたとでもいうか。
何はともあれ、悪いことではない……。
もし、このことを美奈代が知れば、どれほど喜ぶことだろう。そう思うと、耀子の気持ちまで浮き浮きしてきた。
「そういうことでしたら、後々まで残って、なるべくいつも身につけていられるものがいいと思いますね。着物などよりも、アクセサリー、例えば指環《ゆびわ》なんかが良いんじゃないかしら。十一月の誕生石をあしらった指環なんてどうでしょうか」
そう言うと、
「誕生石をあしらった指環ですか」
弟は、その案を吟味するように呟《つぶや》いていたが、
「そうですね。それがいいかもしれない。今度、上京したときにでも何か見つくろってきます」
と納得したように言い、これで用は済んだのかと思ったが、聖二はまだそこに立ち止まったまま、
「姉さん。もう一つご相談したいことが……」と、今度はやや難しい表情になって言った。
「郁馬のことなんですが」
そう切り出すと、それまで穏やかだった姉の表情が僅《わず》かに曇ったように見えた。
「郁馬のこと?」
「ええ。最近、郁馬の様子が少しおかしいように思えるのですが、そのことで、何か気付かれたことはありませんか」
「……おかしいとは、例えばどのように?」
そう問い返した耀子の顔には、何かを察したような緊張した色が浮かんでいた。
やはり、姉は何か感づいているな……。
聖二は、姉の顔色の僅かな変化も見逃さずにそう思った。
今日こうして、姉の部屋を訪れたのは、妻の誕生祝いの件もあったが、むしろ、後から切り出したこちらの用件の方が聖二にとっては重要だった。
最近の郁馬の様子が気にかかっていた。これまでは完全に膝下《しつか》に抑え込んでいると思っていたこの弟が、ここ数週間ほど、妙に反抗的な態度を見せるようになったような気がしてならない。
何かにひどく苛立《いらだ》っているように見える。
うっかり手綱を緩めようものなら、突然、乗り手を振り落とし、暴走しかねない危うさを感じていた。
一見、優しげな女のような姿形にもかかわらず、気性の方はあまた居る弟たちの中で一番激しかった。その名の通り、悍馬《かんば》のようなところがある。
小さい頃から、とにかく言うことをきかず、手をあげた数も一番多い。ただ、手を焼かせられた分だけ可愛いというか、いつしか、弟たちの中で一番信頼し、目をかける存在になっていた。
郁馬の方も、暴れ馬ほど乗りこなした後は乗り手に柔順になるように、次第に、聖二を慕い尊敬し、自ら進んで服従するようになった。
二十五歳も年が離れていると、その関係は兄弟というよりも、父子に近い。
今では、手放すことのできない頼もしい片腕的存在となり、東京にいる他の兄弟や甥たちとのパイプ役でもあり、まさに聖二の手となり足となってくれていたのだが、それが最近になって、どうも様子がおかしい。
何かに苛立って、ややもすると、兄の手綱を振り切ろうとするような不遜《ふそん》な態度を見せるようになった。
一体、何にそんなに苛立っているのか。
耀子に聞けば、その答えが解るのではないか……。
戸籍の上では、長姉ということになっているが、耀子は、郁馬の実母である。これまでに日女として未婚のまま五人の子供を産んでおり、子供たちは皆、先代宮司の子として届けられ、法的には、耀子の「弟妹」ということになっている。郁馬はその四番目の子だった。
しかし、これは公然の秘密というか、うちの者なら誰でも知っていることであり、むろん、郁馬も、物心ついた頃から、実母が「姉」と呼んでいる人であることは知っていた。
しかも、今や、耀子は最年長の日女として、神家の「母」的存在になっている。
戸籍上の母親である、先代宮司の妻の信江は存命ではあったが、齢八十を超え、老人性の痴呆《ちほう》症らしき症状を患い、今では、嫁たちの世話を受けながら、奥の隠居部屋に引き籠《こ》もる毎日を送っていた。
風呂《ふろ》に入れたり食事を与えたりなどの、子供たちの実質的な世話や家事労働は、美奈代を筆頭に弟の妻たちがやっていたが、親に叱《しか》られた子供を慰めたり、悩み事や相談事を聞いてやったりなどの精神的な世話は、耀子が一身に引き受けていた。
特に役割分担を決めたわけでもないのに、神家の女たちは、「日女」と「非日女」とによって、その役割が自然に分けられていたのである。
いわば、耀子の存在は、子供たちの駆け込み寺であり、この家のオアシスといってもよかった。
耀子に聞けば、神家の子供たちの誰が今どんな悩みを抱えているか、どんなことに興味をもっているか、将来にどんな夢を抱いているかといったことまで、たちどころに、家長である聖二の耳にも入る仕組みになっていた。しかも、これは、小さな子供たちに限ったことではなく、二十歳を超えた者でさえ、何か悩み事や相談事があるときは、いまだに真っ先に耀子のもとへ行く。
当の聖二でさえ、誰かの精神的な支えやアドバイスが欲しいときは、つい、この姉の元に足を運んでしまう。母の信江や妻の美奈代をその相手として考えたことは一度もなかった。
もし、郁馬が胸のうちに兄には語れないような不満や苛立ちを抱え込んでいるとしても、実母でもあり、神家の「母」的存在である姉には何か打ち明けているのではないか。
そう思ったのである。
「何かにひどく苛立っているように見えるのです。それで、姉さんに伺えば、郁馬の苛立ちの原因がつかめるのではないかと」
聖二は姉の質問にそう答えた。
「そういえば、おとといの夜遅く……」
耀子は思い出したように言った。
「郁馬がわたしの部屋にふらりとやってきたんです」
おとといといえば、離れの茶室に郁馬を呼び付けて密談した日だった。あのあと、この姉の元を訪れたのか。
「そのとき、何か言ってましたか」
「いえ、これといって特に。あの子は他の子供と違って、何か悩み事があっても、はっきり口に出して言わないのです。子供の頃からそうでした。わたしのところに来ても、何も言わずに、そばで、絵を描き散らしたり、玩具《おもちや》で遊んだりしているだけで。でも、態度がどこか拗《す》ねている感じなので、何かあったなと察してやるしかないんです。おとといの夜も、いきなり肩を揉《も》んでやるといって、しばらく肩を揉んでくれただけで……」
耀子は憂い顔で言った。
「ただ、帰り際に、武さんの身体に出た蛇紋は本当にお印なのか、お印に似たただの痣《あざ》に過ぎないんじゃないかというようなことをチラリと言っていましたが」
「まだそんなことを? あれは、大日女様にもお見せして、お印に間違いないとされたことなのに」
「あんな風に突然、それも日女の子でもない武さんにお印が出たことがどうしても信じられないというか信じたくないという風でした」
「……」
「もしかしたら」
耀子は窓の外を見ながら言った。
中庭にいた子供たちは、おやつ代わりにと、美奈代が運んできた大皿に盛り上げた蒸し饅頭《まんじゆう》の山に群がっていた。
「郁馬の苛立ちの原因は……あの子かもしれません」
「あの子とは?」
聖二は聞き返した。
「武さんです」
「武が? 武が郁馬の苛立ちの原因だとおっしゃるのですか」
「ええ。なんだかそんな気がして……」
「しかし」
聖二は腑《ふ》に落ちないという顔つきで言った。
「東京にいた頃、あの二人は仲がよかったと聞いてます。年がそんなに離れていないせいか、叔父|甥《おい》というより、友達か兄弟のようにつるんでいたという話でした。武本人も言ってましたよ。実兄の信貴君よりも、郁馬の方が気が合って付き合いやすかったと」
「仲が良かったから尚更《なおさら》……」
耀子は呟くように言った。
「武さんにお印が出たことで、これまでは弟のように思っていた武さんと対等ではなくなってしまったことが、今の郁馬には少し面白くないのかもしれませんね。ああ見えて、あの子も負けん気が強い方ですから。それに、そのことで、あなたの関心が武さんに向いてしまわれたことも気に病んでいるのかも」
「……」
「郁馬はあなたのことを兄というより父親のように思っていますから。そのあなたが、武さんをわざわざ養子にしてまでお社を継がせたがっていると知って、少なからずショックを受けたのかもしれません。これまでは、あなたの跡を継ぐのは自分だと思い込んでいたようですから」
「その件に関しては……」
聖二は言い訳するように慌てて言った。
「武本人が全くその気がないようなので、私としては、今まで通り、郁馬に継がせるつもりでいますが」
「でも、今はその気がなくても、この先、武さんがその気にならないとも限らないでしょう? 大神祭が終わったあと、あの子も大きく変わっているかもしれませんよ。もし、そうなったとき、お印のある武さんの意向が何よりも優先されるのではありませんか?」
「それは、まあ……」
「郁馬はそうなることを恐れているのかもしれません。それに」
耀子はそう言いかけて、窓の方を指さし、
「ご覧なさい。武さんが来てから、子供たちの中心にいるのはいつも武さんです。今までは、ああして子供たちと遊んでいたのは郁馬でしたのに……」
窓の外では、神家だけでなく近隣からも集まってきた子供たちが、縁側で饅頭にかぶりついている武を取り囲むようにして、楽しそうに饅頭を食べていた。
その中には、それまでは遠巻きに見ていた神家の少女たちも加わっていた。
「この前の相撲のときも、郁馬はうちにいたはずなのに、結局、最後まであの騒ぎには加わりませんでしたし……」
ふと漏らした姉の言葉に聖二ははっとした。そう言われてみればそうだった。
先週の土曜日の午後。中庭で、武が中心になって相撲大会めいたことをしていたとき、やはり、こうしてこの部屋から見ていたことがあった。
あのとき……。
郁馬の姿はどこにもなかった。あの時間帯なら、社の雑用を済ませて、うちにいたはずなのに……。
これまでの郁馬だったら、あんなときは真っ先に飛び出してきて、子供たちと相撲を取っていただろう。神官の衣装を脱いでしまえば、二十三歳の、まだ学生気分の抜けない陽気な青年に過ぎなかった。
それなのに、庭の騒ぎをどこかで聞きながら、うちに籠もったきり出てこようともしなかった……。
そして、そのことに、今こうして姉に指摘されるまで、自分は気が付きもしなかった。
さすがに姉の目は鋭い。
女性ならではの細かい観察眼だった。いや、実母ならではと言い換えた方がいいかもしれない。常に頭の片隅でわが子のことを気にかけているから、他人なら見過ごしてしまうような些細《ささい》なことでも見過ごさずに、ちゃんと心に留めているのだろう。
一方、自分の方はといえば、と聖二は思った。
父代わりといいながら、武のことにばかり気を取られて、郁馬の存在をすっかり忘れていた……。
そのことが郁馬の不満や苛立《いらだ》ちの原因になっていたというのか。
「前に、武さんは、太陽のよう、それも、真夏のギラギラと照りつける太陽ではなくて、どこかほのぼのとした秋の木漏れ日のようだと言ったことがありましたね」
耀子は窓の外に視線を向けたまま言った。その透明感を帯びた鋭くも柔らかな眼差《まなざ》しは、人の集まった中庭を突き抜けて、こんなに天気が良いのに、なぜかカーテンが閉まったままになっている一つの窓にじっと注がれていた。
「人は光のある所に集まります。しかも、より強い輝きを放つ光源に集まりがちです。ランプの灯火のもとに集まっていた人も、蛍光灯の光を知れば、そちらに移ってしまうでしょう。そして、蛍光灯の光に集まった人も、太陽が雲間から顔を出せば、電灯の明かりを消して、太陽光の下に集まるでしょう。より明るい光の方へ、より強い光の方へと人は本能のように導かれていくのです。でも、人々に光の恵みを与えてくれる太陽も、時には、その光ゆえに闇を作ってしまうこともあるのですね」
「……」
「太陽の光をいっぱい浴びて喜んでいる人々の足元で、その人々から必要とされなくなってうち捨てられたランプは、闇の中で一体何を想っているのでしょう……」
その頃、神郁馬は、カーテンを締め切った薄暗い和室の畳の上に、両腕を頭の下に敷き、大の字に寝転がって、暗い目で天井を睨《にら》みつけていた。
六畳の和室は、高校の頃まで、末弟の智成《ともなり》と寝起きを共にしていた部屋だった。まだ大学生の弟は東京に下宿中で、今は、郁馬が一人で使っていた。
窓を閉めていても、中庭で遊んでいる子供たちのかん高い歓声はここまで漏れ聞こえてくる。
煩《うるさ》いな……。
昼寝もできないじゃないか。
忌ま忌ましそうに呟《つぶや》くと、郁馬は、窓に背中を向けるように寝返りをうった。
高校の頃、受験勉強をしている最中に、やはりこうして庭で遊んでいる子供たちの声が聞こえてきたことがあった。
あのときでさえ、これほど神経に障る騒音だとは感じなかったのに。
今は子供たちの声を聞くだけでやけに腹が立つ。あの声の中心に武がいると思うとよけいに……。
窓に背を向け、聞くまいと思っても、耳には中庭に集まった人々の楽しげな笑い声が嫌でも飛び込んでくる。
「あ、ヒミカさんだ。こっちこっち。お饅頭があるよ」
少女の声がした。
郁馬は薄闇の中でぴくりと肩を動かした。
日美香《ひみか》……?
彼女も騒ぎにつられて庭に出てきたのか。
子供の声に混じって、日美香の澄んだ声も聞こえてきた。
明るく楽しげな……。
郁馬はのろのろと身体を起こすと、窓辺に近寄り、締め切ってあったカーテンを少しだけめくって外を見た。
白ソックスにサンダル履きで中庭に出てきた日美香が、少女の一人から、蒸し饅頭を受け取っていた。饅頭を手に持ち、花が咲いたように笑っている。
郁馬は、カーテンの陰に身を潜めるようにして、そんな日美香の姿を、薄闇に白目だけ光らせて食い入るように見つめていた。
五月に初めて会ったとき……。
日にちも覚えている。
あれは五月十五日だった。
日美香がこの村に来た日、宿泊していた寺の住職から連絡を受けて、次兄の命令で、寺まで迎えに行ったこと……。
寺の玄関先で、ボストンバッグをさげて出てきた彼女を見たとき、心臓の奥がぎゅっと締め付けられるような奇妙な感覚があった。
その姿が、記憶の中におぼろげにあった或《あ》る女性の姿にあまりにも似ていたからだろうか……。
その女性が、幼い娘を連れて村に帰ってきたとき、郁馬はまだ三歳だった。自分と同じくらいの小さな女の子を連れて、突然うちにやってきた見知らぬ美しい女性が誰だろうと気になって、すぐ上の兄の翔太郎と一緒に、この女《ひと》の後を追いかけて、こっそり部屋までついて行った。そして、襖《ふすま》の陰からそっと覗き見していると、部屋の中にいた次兄に見つかって……。
郁馬は、三歳のときのその光景を、まるで何度も繰り返して観た映画のお気に入りのシーンのように鮮明に覚えていた。
あのとき……。
次兄に言われるままに、はにかみながら、その女性の前に出て、挨拶《あいさつ》したこと。そのあとで、女性が連れてきた小さな娘と一緒に遊んだこと。その「はるな」という名前の娘が、郁馬が大事にしていたブリキのロボットを壊してしまい、ついかっとして平手でその子の頬を殴ってしまったこと。その子の泣き声を聞き付けて、次兄がやってきて、日女《ひるめ》様に手をあげたと叱《しか》られ、その場で往復ビンタをくらったこと……。
「はるな」とはすぐに仲直りして仲良くなったが、ある日、次兄から、「はるな様は今年の一夜さまにお決まりになった方だから、もう気安く遊んではいけない」と厳しく言われ、せっかく仲良くなりかけたのにと子供心にもがっかりしたこと。それからというもの、いつも次兄と一緒にいる「はるな様」の姿を、憧《あこが》れのような気持ちを抱いて遠くから見つめていたこと……。
今から思えば、あれが自分にとって、初恋というにはあまりに淡く幼い恋だったのかもしれない。
そして、その年の大神祭が終わったあと、潔斎《けつさい》中の「はるな様」が急の病気で亡くなったことを聞かされ、まだ「死ぬこと」の意味すら分かっていなかったのに、その知らせが無性に悲しくて、母の膝《ひざ》に顔を埋めて泣いたこと……。
五月のあの夜、日の本寺の玄関先で、「葛原日美香」と名乗る若い女を見たとき、三歳のときに別れたきりの「はるな様」がどこかで生きていて、こんなに大きく美しくなって戻ってきたのではないか。一瞬、そんな幻想に捕らわれた。
二十年前の「はるな様」の突然の死が、急の病などではなかったことも、大神祭の「一夜様」に選ばれるということがどういうことなのかも、今では、全て解っていたにもかかわらず……。
そして、目の前にいる若い女性が、あのときの女性が産んだ娘で、「はるな様」の異父妹にあたるということも、すぐに知ったのだが、それでも、日美香を見るたびに、心のどこかに今なお宿っている「はるな様」の面影と重ね合わせてしまう自分がいる。
二十年前に次兄の手で断ち切られた幼い恋が、今、二十年の歳月を経て、こんな奇妙な形で再燃しようとは……。
寺で初めて会って以来、日美香の姿が瞼《まぶた》の裏に焼き付いて離れない。目覚めたときも起きている間も眠るときも。その姿が片時も頭から離れなかった。そして、時折、それは夢の中にまで現れた。
ただ、この恋がかなわぬ恋だということも嫌というほど分かっていた。日女だった倉橋日登美の娘ということは、日美香も生まれながらの日女ということであり、この村の掟《おきて》では、日女は「神妻」として生涯を独身で通さなければならなかったからだ。
どうあがいたところで、自分と日美香がどうにかなることはない……。
そうあきらめていた。だから、誰にも打ち明けなかったし、当の日美香にさえ、そんな素振りすら見せなかった。
ところが、そう思い込んで、早々とあきらめようとした矢先、意外なことを次兄の口から聞かされた。日美香は日女であっても、普通の日女ではないというのだ。今まで決して女児には出なかったお印を胸にもつ特殊な日女だと……。
こんな特殊な日女をどう扱っていいのか分からない。兄は困惑したようにそうも言った。それを聞いたとき、もしかしたら、特殊な日女なら、なんとかなるのではないか……と微かな期待を抱いてしまった。
しかし、この期待も抱いた直後に打ち砕かれた。それも、またもや、次兄の手で。次兄が日美香と養子縁組をして、養女として神家の籍にいれてしまったのだ。
戸籍上とはいえ、郁馬とは、叔父|姪《めい》の間柄になってしまったのである。これではもうどうしようもなかった。
やはり断ち切るしかない想いなのか。
この半年近く、郁馬の心境は、まさに嵐に翻弄《ほんろう》される小船のようだった。あきらめかけては淡い期待を抱き、その期待が砕かれても、まだあきらめきれない……。
いや、その心理は、波に翻弄される艀《はしけ》を堤防につなぎとめる綱のようなといった方がいいかもしれない。船が激しく波に揉《も》まれれば揉まれるほどに、綱がよじれる。しかし、よじれによじれた綱は、切れるどころか、より強靭《きようじん》になっていく……。
それでも、ようやく、気持ちの整理もつき、これからは叔父の一人として接しようと心に決めた頃、夢にも思っていなかったことが起こった。長兄の子である武に突然お印が出たというのである。信じられなかった。長兄の子とはいっても、母親が日女ではない武に何故……と自分の耳を疑った。
お印は日女の血筋を通してのみ伝えられるものではなかったのか。
しかも、次兄の話では、それは日美香のお印と「対」になっているらしいということ。それゆえに、今度の大神祭では、今まで「三人衆」と呼ばれる三人の若者に降ろしていた大神の御霊《みたま》を、今回に限って、武一人に降ろし、大神の霊の宿った武を「神妻としてもてなす」日女の役を日美香がやることになったと聞かされたときの衝撃……。
これがどういうことなのか、郁馬にはよくわかっていた。この「神迎えの神事」と呼ばれるものが、武と日美香の、いわば「婚約」の儀式になるのだということも……。
しかも、いずれ、日美香の婿として、武を正式に神家に迎え入れ、行く末は、お社を継がせる……。
これが次兄の腹づもりであるらしいことも薄々察知した。
酷《ひど》い。
こんな理不尽な話があるか。
大学三年のとき、大学院に進むことも考えていた。でも、その夏、帰郷したとき、そのことを次兄に相談すると、「行く行くは、この社はおまえに継いで貰《もら》いたいと思っている。だから、大学を卒業したら、すぐに帰って来い」と言われ、その言葉を聞いたとき、それまでの迷いが嘘のように消えた。命令というよりも、それは懇願に近かったが、そこまでこの兄に見込まれているならと、喜んで兄の願いを受け入れた。
それを、今頃になって……。
こんなことになると分かっていたら、あのとき、兄の懇願など無視して、大学院に進む方を選び、もっと気ままに都会生活を楽しんでいればよかった。本当はそうしたいと望む気持ちも少しはあった。密《ひそ》かに付き合っている女もいた。
いくら大切なものを守っているからといえ、二十三歳の血気盛んな青年にとって、こんな山奥に引きこもった隠者のような生活より、刺激に満ちた都会で暮らす生活の方が楽しいに決まっている。
それを、父とも慕い、誰よりも尊敬していた次兄のたっての頼みだからと、半|同棲《どうせい》状態だった女も捨て、すべてを振り捨てて帰ってきたというのに……。
この村に帰って来なければ、日美香のことでこんなに想い乱れることもなかったに違いない。
都会なら、魅力的な女も美しい女も掃いて捨てるほどいるし、他に気を紛らわせる楽しいことがいくらでもある。
何もない山奥だから、他に興味を引くものなど何もないから、こんな泥沼のような想いに捕らわれてしまったのだ。
苦しい。
胸をかきむしりたくなるほど苦しい。
手の届かない高嶺《たかね》の花なら、いっそ、誰の手にも手折られず、誰の手にも落ちず、孤高の花として咲き続け、そのまま朽ち果ててほしかった。
日美香に対して、残酷かもしれないが、そんな気持ちがあった。
それならば、自分もあきらめがつく。
誰の手にも落ちないならば。
それが、よりによって、弟分のように思っていた武に……?
冗談じゃない。
どうして、あいつなんだ。
武のことは決して嫌いではなかった。東京に下宿していた頃は、新庄家にもよく遊びに行き、武とは兄弟のように付き合っていた。生真面目すぎる実弟の智成よりも話が合うし、一緒にいて楽しかった。
もし、武が、この村に、怪我の療養と受験勉強のためだけに滞在しているのだとしたら、何の屈託もなく、喜んで迎え入れただろう。
でも、あいつにお印が出たことで、何もかもが変わってしまった……。
弟分として遊び友達としては格好の相手だったが、日美香のような女の夫にはどう考えても相応《ふさわ》しいとは思えない。
同じ男として認め尊敬できるような所が少しでもあれば、まだあきらめがついたのかもしれないが、今の武のどこをどう見ても、そんな所は微塵《みじん》もない。三流大学にすら滑った浪人中の、ああして小学生とじゃれあっているのがお似合いの、ただの情けないガキじゃないか。
日美香には不釣り合いだ。二歳という年齢差も、女の方が精神的に早く成熟するせいか、この二人の場合、もっと離れているように見える。どう贔屓《ひいき》目に見ても、せいぜい姉弟にしか見えない。
ただお印があるというだけで。
それも、本当にお印なのか……。
ひょっとしたら、お印に似たただの打ち身の痣《あざ》か何かで、時がたてば消えてしまうようなものじゃないのか。次兄も大日女《おおひるめ》もそれに騙《だま》されているんじゃないのか。
大体、お印のある者は、次兄のように、若い時から、威厳というか、人を容易に寄せ付けないような超然とした雰囲気を漂わせているものだ。
でも、武にはそんなところは全くない。言動に威厳のイの字も感じられない。母の耀子は、武は近隣の子供たちに慕われていると言っていたが、あれだって、慕われているというより、半分馬鹿にされて珍しい玩具のようにもてあそばれているだけじゃないか。あれが本当にお印だったら、もう少し、他人を圧するオーラのようなものが自然に身体から出てもいいのではないか。
女の日美香でさえ、二十歳という若さで、そうした雰囲気を身につけているというのに。いや、その日美香にしても……。
郁馬は苦々しく思った。
最近になって、態度が微妙に変わったように見える。これまでは、どこか凜《りん》とした冷たい雰囲気があり、気安く話しかけられないようなところがあったのに、最近は、妙に明るくなって、よく笑うようになり、人当たりも柔らかくなったように見える。
化粧も前より若干濃くなったのではないか。物腰もどこか女らしくなって、まるで無意識のうちに誰かに媚《こ》びでも売っているようだ……。
なんだか、毅然《きぜん》とした女神のような存在から、どこにでもいるような、安っぽい普通の女になってしまったような気さえする。
それも全部、あいつのせいか。
郁馬は、僅《わず》かにめくったカーテンの隙間から、相変わらず子供たちとじゃれあっている武の方を憎悪を込めた目で睨《にら》みつけると、乱暴にカーテンを引いた。
一時間ほど仮眠をと思っていたが、こんなに外が騒々しくては、それもできない。
うちにいると、見るもの聞くもの、何もかもが癇《かん》に触って苛々《いらいら》するばかりだ。少し外の空気を吸いに散歩でもしてくるか。
そう思いつくと、部屋を出て、やや足音も荒く、玄関に向かった。
広い三和土《たたき》におりて、その辺に転がっていたサンダルをつっかけ、玄関の引き戸を力まかせに開けたときだった。
外に一人の男が立っていた。
「あ……こちらの方ですか」
その男は、いきなり玄関の戸が開いたことに、驚いたような顔でぽかんとしていた。年の頃は、二十代後半。洗いざらしのブルージーンズの上下に、ぼさぼさ頭、眉《まゆ》の濃い色黒の男だった。肉厚のがっちりした肩から、黒革の大型のショルダーバッグを重そうに下げている。
その男の風体をじろりと見ながら、そうだと不機嫌な顔のまま答えると、男は、ジーンズの上着のポケットを探って名刺を取り出し、「こういう者です」と言って、それを郁馬の鼻先に突き出した。
仕方なく、受け取って見てみると、名刺には、「フォトジャーナリスト、鏑木浩一」と刷り込まれていた。
フォトジャーナリスト?
東京のカメラマンか。
郁馬は咄嗟《とつさ》にそう思った。
「……何か御用でも?」
そう訊《たず》ねると、鏑木と名乗る男は、「或《あ》る旅の雑誌の企画で、この村の大神祭の模様を取材しに来たのだが、宿泊している日の本寺で、こちらが祭りの一切を仕切る宮司さんのお宅と聞き、できれば、宮司さんにお会いして、色々お話を伺いたい」という旨のことを、身振り手振りを添えて説明した。
「雑誌の取材?」
郁馬は、男の名刺を手にしたまま、眉をひそめた。
雑誌の企画にしては、随分急な話だなと思ったのだ。こういう企画が持ち上がっているならば、もっと早くに何らかのコンタクトがあってもいいのではないか。それを、大神祭を二日後に控えた直前になって……。
「失礼ですが、何という雑誌ですか」
念のためにそう訊ねると、男は、ショルダーを開けてがさごそと探り、大判の雑誌を取り出すと、
「これです。この号は、インドの祭りを取材したときのやつですが。わりと読者に評判がよかったもので、今度は日本のあまり知られていない祭りを取り上げようということになりまして」
そう言って、その雑誌の中程を開いて、郁馬に見せた。
ぺらぺらとめくってみると、男が示したページには、なるほど、数ページに渡って、インドの民間の祭りらしきものを取材した項があり、記事の末尾には「鏑木浩一」という署名が、そして、写真の一枚には、現地の人と並んで映っている彼自身の姿が掲載されていた。確かに本人に間違いない。服装も、やはりブルージーンズの上下で、着たきり雀かと思うほど、全く同じものだった。
これを見る限り、鏑木と名乗る男が、自称通りのフォトジャーナリストとやらであることは間違いなさそうだった。
そのことに少し安心して、郁馬は雑誌を男に返すと、
「玄関先で立ち話もなんですから、中にお入りください」
と、言葉遣いも幾分改めて言った。
「それはどうも。では、お邪魔します」
鏑木は雑誌をショルダーに戻すと、嬉《うれ》しそうに礼を言って、郁馬の後について、うちの中に入ってきた。
「これは聞きしに勝る立派なお屋敷ですねぇ。百年くらいは軽くたっていそうですね」
「あちこち建てましてはいますがね」
「お寺の住職さんから伺ったんですが、こちらの神家というのは、古事記にもその名を残す名家とか。たいしたもんですねぇ。うちの先祖なんて名前もないような水呑み百姓ですよ」
年月で煤《すす》けた太い梁《はり》をめぐらせた高い天井や、磨き込まれた黒光りする長い廊下、大黒柱という死語にも近い言葉を思い起こさせるふしくれだった太い柱などを珍しそうに眺め回しながら、感心したように言った。
「ところで、この村のことや大神祭のことはどこでお知りになったんですか」
玄関近くの応接間に案内し、テーブルにつくと、郁馬は早速そう訊ねた。
「どこでと言われても……」
鏑木は一瞬返答に詰まったような顔をした。「こんなあまり知られていない山奥の古社の祭りなどに、何がきっかけで、わざわざ取材に来るほど興味をもたれたのかなと思いまして……」
探るような眼差《まなざ》しで聞くと、
「いやあ、そのあまり知られてないというところが最大の魅力なわけでして。信州といえば、神社や祭り関係では、戸隠《とがくし》とか諏訪とか有名なところは他にもありますが、津々浦々に知れ渡っていますからね。誰もが知っているところを取材しても面白くない。どこか、面白そうで、それでいて、あまり人に知られていない所はないかしらんと探していたら、たまたま図書館で見つけた或る本に、この村の奇習や奇祭のことが書いてあったんですよ。それを読んで非常に興味をもったというわけです」
鏑木は、真っ黒な顔に真っ白な歯を覗《のぞ》かせて、終始笑顔でそう答えた。
「その……たまたま図書館で見つけた本というのは?」
郁馬はさらに追及した。
「あ、それは、真鍋伊知郎という高校の先生が自費出版したという本です。タイトルは確か『奇祭百景』とかいいましたか。著者の名前は知らなかったんですが、『奇祭』というタイトルになんとなく引かれて読んでみたところ、これが意外に面白くて」
真鍋伊知郎の「奇祭百景」……。
またこの本がからんでいるのか。
郁馬の目が僅かに光った。
「その本の記述によれば、この日の本神社の祭神というのが蛇であるとか。実は、俺が取材した、あのインドの祭りというのも、全て蛇がらみなんですよ。インドにも古くから蛇を神様と崇《あが》める強烈な蛇信仰が根付いていたようで。それで、日本とインド、同じ蛇神つながりで取り上げたら面白いんじゃないかと思って、例の雑誌の編集部に企画を持ちかけたら、編集長からすぐにGOサインが出た、てなわけなんですが、それで、もしさしつかえなければ、こちらの宮司さんにお会いして、詳しいお話など伺わせてもらえたらと……」
鏑木はそう説明したあと、おそるおそるという風に訊ねた。
「あいにくですが、兄は、その祭りの準備に追われて多忙でして。申し訳ありませんが、お相手はできないと思います」
郁馬が冷ややかにそう言うと、鏑木はがっかりしたように、「そうですか」と肩を落とした。
「でも、僕でよろしければ、ご協力しますが? 一応、これでも神官のはしくれですから、大神祭に関することなら、おおかたのことは答えられると思います」
「おお、そうですか。それは有り難い。あの、それで、失礼ですが、あなたは……?」
「申し遅れましたが、神郁馬といいます。宮司の弟です」
「それでは早速……」
鏑木はそう言うと、肩から降ろして床に置いていたショルダーバッグの中から、小型のテレコを取り出すと、テーブルの上に置いた。
「あ、その前にちょっと」
郁馬が言った。
「先に申し上げておきますが、大神祭に関しては、見物はご自由ですが、写真撮影は一切お断りしております。それでもよろしいですか」
「えっ。撮影は駄目なんですか」
鏑木が驚いたように目を剥《む》いた。
「祭りの様子は一切撮影禁止です。そのことは、真鍋さんの著作物にも触れられていたと記憶していますが」
「あれ。そうだったかなぁ。読み落としていたのかな」
鏑木は頭を掻《か》いた。
「もし、勝手に撮られるようなことがあれば、フィルムは全て没収させて戴《いただ》きます」
「うわ。それはきついなぁ……。撮影は全く駄目なんですか。社の撮影とかも?」
鏑木は食い下がるように聞いた。
「お社の撮影については、祭りの最中はご遠慮いただきますが、前日に拝殿などを撮影されるのでしたら構いません」
「あ、そうですか。それと、こちらで日女と呼ばれている巫女《みこ》さんの姿が一枚欲しいんですが。なんでも、ここの巫女さんは、赤い袴《はかま》ではなくて紫の袴だということで、ぜひ一枚……」
「それは、ご本人の日女様の許可さえ取って戴いたら構わないと思いますが。隠し撮りみたいな真似さえしなければ」
「分かりました」
「それと、社の奥にある物忌《ものい》みと、鏡山の麓《ふもと》にある蛇ノ口という沼はご神域なので立ち入りも撮影も一切ご遠慮ください」
「その物忌みというのは……?」
「この村で大日女様と若日女様と呼ばれる真性の巫女たちが集まって暮らしている家屋です。社の拝殿の裏手から行けるのですが、お社関係者以外は立ち入り禁止になっています。その旨の標識が出ていますので、それ以上は絶対に立ち入らないでください」
「ずいぶんと……禁止事項が多いんですね。かなり秘密主義というか」
鏑木はややげんなりした表情で言った。
「観光用の祭りではありませんから」
郁馬はそっけなく答えた。
「それと、禁止事項といえば、もう一つ」
「え。まだあるんですか」
「大祭最後の夜に行われる『一夜日女の神事』については、撮影はもちろん、見物もしてはならないことになっています。もし、こうしたお約束を一つでも守って戴けなかったことが判明した場合は、村の若い者によって、少々手荒な歓迎を受けることがあるかもしれませんので……」
「袋だたきにあう、とか?」
鏑木はぎょっとしたように聞き返した。
「まあ、そのへんは何とも……」
郁馬は微笑してお茶を濁し、こう言い直した。
「祭りの期間中は、無礼講ということで、朝から酒も入りますし、若い連中はふだんより血の気が多くなっています。ちょっとした弾みで喧嘩沙汰《けんかざた》や刃傷《にんじよう》沙汰もおきやすいのですよ。そういったものによそから来た方も巻き込まれることがありますので、十分、お気をつけください、ということです」
「つまり、約束を守らなければ、血の気の多い若いもんの喧嘩に巻き込まれたような格好で袋だたきにするから気をつけろ。そうおっしゃりたいわけですね?」
「……」
「どうも妙だな……」
鏑木と名乗る男が帰ったあと、応接間に一人残った郁馬は、手の中の名刺をもてあそびながら、そう呟《つぶや》いた。
あの男が、肩書通りのフォトジャーナリストとやらであることは間違いないようだが、果たして、この村に来た理由は、男が説明しただけのことだろうか。
それが引っ掛かっていた。
真鍋伊知郎の「奇祭百景」という本を読んだことが、この村に興味をもったきっかけだと言っていたが、同じようなことを九月の初めにここを訪れた私立探偵の伊達という男も言っていた……。
しかも、そのあと、その伊達の消息を探りに来た喜屋武という女も、伊達からその本を見せて貰《もら》ったと言っていたが……。
これは偶然なのか。
鏑木は、伊達や喜屋武という人物のことには全く触れなかった。真鍋の本もたまたま図書館で見つけたと言っていた。
これが、何十万何百万部と刷られた著名な作家のベストセラー本とでもいうなら、まだ話は分かる。偶然、同じ本を読んで、その内容に興味をもつ人間が複数いても別に不思議ではないだろう。
しかし、こんな部数も何百か何千程度の無名の著者が書いた本に、「たまたま」二人の男が時期を同じくして興味をもつというのは、どうも話として出来過ぎているような気がする。
むしろ……。
鏑木という男が、伊達と知り合いで、この伊達を通して、真鍋の本の存在を知ったと考えた方が成り行きとしては自然だ。
でも、だとしたら、話をしていたときに、一言くらい伊達の名前が出てきてもよさそうなものなのに、全く出て来なかった。知り合いなら、「失踪《しつそう》中」の身の上を心配するのが普通ではないか。
しかも、鏑木も伊達も、ともに、「浩一」という名前であることも少し気にかかった。珍しい名前というわけではないから、こちらは偶然にすぎないのかもしれないが……。どちらにせよ、何か変だ。
鏑木という男の話はどうも信用できない。大神祭の取材というのは口実で、何か別の目的があって来たのかもしれない。
郁馬はそう思いつくと、応接間の片隅に設置された電話の前まで行き、受話器を取り上げ、ある番号を押した。
「……はい、神でございますが」
聞き慣れた老女の声がすぐに出た。
「郁馬ですが、ご住職はおられますか」
そう言うと、「少々お待ちください」と答える声がして、保留のメロディが流れた。
しばらくすると、日の本寺の老住職のだみ声が出た。
「そちらに、鏑木と名乗る東京のカメラマンが泊まっていると思うのですが、この男に不審なところがあるので、留守の間にでも、持ち物を探って、伊達浩一とのつながりを示すものが何かないか調べて欲しい」
という旨のことを伝えると、それだけで、住職には話が通じたらしく、「承知しました。夜、風呂《ふろ》にでも入っている間に当たってみましょう」と答えて、電話は切れた。
住職から折り返し電話がかかってきたのは、夜の九時を少し過ぎた頃だった。
住職の話では、さきほど問題の人物が湯殿に行ったので、その隙に部屋にあった荷物を全て探ってみたところ、「伊達浩一」につながる物は何も発見できなかったが、その代わり、ショルダーバッグに入っていたシステム手帳の間から一枚の名刺が出てきたのだという。
「名刺? 誰の名刺です?」
郁馬は勢い込んで訊ねた。
「喜屋武蛍子の名刺ですよ」
住職は声を潜めるようにしてそう答えた。
喜屋武か……。
そうか。伊達ではなくて、喜屋武蛍子とつながっていたのか。
喜屋武蛍子は、まだ伊達の失踪のことを疑っているに違いない。それで、今度は、手を変え、この鏑木という男を送り込んできたというわけか。
やはり、自分の勘に間違いはなかった。
郁馬はほくそ笑んだ。
「……それと、この手帳の内容を見てみたら、さらに気になる名前がアドレス欄にございました」
老住職の声が追い打ちをかけるように耳に飛び込んできた。
「気になる名前?」
郁馬は思わず聞き返した。
「誰です?」
「あの達川正輝でございますよ……」
住職は囁《ささや》くように言った。
「兄さん。ちょっとよろしいですか」
次兄の部屋の前で襖《ふすま》越しに声をかけると、
「郁馬か?」
と返事があった。
「はい。ぜひお耳に入れたいことが」
そう言うと、
「急ぐことなのか」
迷惑そうな兄の声が返ってきた。すぐに「入れ」と言わないところをみると、部屋に誰かいるのかもしれない、と郁馬は思った。襖を隔ててそんな気配も感じた。
「大事なことなので、できれば早い方が」
さらに言うと、少し沈黙があった後、「入れ」とようやく許しが出た。
襖を開けてみると、案の定、聖二は一人ではなかった。座卓を挟んで、日美香がいた。卓の上には、古文書らしき古びた書物が数冊広げられている。チラと見ただけで、それが代々の宮司によって書き留められた神家の家伝書であることに、郁馬はすぐに気が付いた。兄の部屋に日美香がいたことに、一瞬ドキリとしながらも、ああそうか、とすぐに合点した。
ここに来てからは毎夜こうして、夕食後は、この部屋で、門外不出の神家の家伝書を読む手ほどきを受けているという話を日美香自身の口から聞いていた。
郁馬も、子供の頃、ここで同じことをした記憶がある。
「今夜はこのくらいにしておきましょう」卓の上に広げられていた古文書を閉じて重ねながら、聖二がそう言うと、日美香は素直に頷《うなず》き、持参してきたらしいノートと筆記具を抱え、「おやすみなさい」と言って部屋を出て行った。
立ち去ったあとも、あたりには仄《ほの》かな残り香のようなものが漂っていた。
香水?
いつから香水なんかつけるようになったのだろう。
その、けっして強くはないが、艶《なまめか》しい香りに、つい心乱されそうになりながら、郁馬はふとそんなことを思った。
「何だ、大事な話というのは?」
聖二はやや不機嫌そうな顔つきで言った。
「実は……」
次兄の前ににじり寄ると、住職から得た情報のことを話した。
「僕の思った通りでした。大神祭の取材なんていうのは口実で、鏑木という男も、あの喜屋武蛍子が送り込んできたのに間違いありません」
「……」
話を聞いても、兄がさほど反応も見せず、興味がないように黙ったままなのに焦れたように、郁馬は身を乗り出して言った。
「あの女はまだ疑っているんですよ。だから、今度は別の男を送り込んできたんです。全くしつこい女です。やはりこの際、あの女は思い切って始末した方が――」
「まだそんなことを言ってるのか。しつこいのはおまえの方だ」
「……」
「喜屋武という女に関しては監視するだけでいい。そう言ったはずだ。何度も同じことを言わせるな」
「でも、兄さん。そんな変な仏心を出して、のんびり手をこまねいていたら、そのうち取り返しのつかないことになりますよ」
「仏心で言ってるんじゃない。あの女がこの村を探っている真の理由が分かるまでは早まったことはするなと言っているんだ。それとも、そちらの方は分かったのか?」
「いや、まだ、その件は智成に探らせているのですが……。でも、鏑木という男の手帳のアドレス欄に達川正輝の名前があったということは、やはり、達川経由であの女はこの村に疑惑を持ったとしか」
「だから、おまえの思考は短絡的だと言うんだ」
聖二は苛立《いらだ》ったように声を荒げた。
「……」
「鏑木という男の手帳に達川正輝の名前があったからといって、なぜ、それが喜屋武と達川の接点の証明になるんだ? そこから分かるのは、鏑木と達川が知り合いだったらしいということだけじゃないか」
「それはそうですが……でも」
郁馬は不満そうに口ごもった。
「とにかく、女にはまだ手を出すな。それと、その鏑木とかいう男にもだ」
「このまま、勝手にさせていいんですか。取材と称して何を嗅《か》ぎ回るかしれませんよ」
「一人で来たんだろう? どこをどう嗅ぎ回ったところで、どうせたいしたことはわかりゃしない。とりあえず、物忌みと蛇ノ口には近づけるな。特に物忌みには。立ち入り禁止の札だけでは不十分かもしれないな。あの女の差し金で来たとしたら、夜中にでも忍びこみかねない。大祭が終わるまで、あそこには終始見張りをつけて、絶対に社の奥には入りこめないようにしておけ」
「……はい」
「それと、郁馬」
立ち上がりかけた弟を制するように言った。
「はい?」
「おまえ……武の身体に出たお印のことをまだ疑っているのか」
「いえ、別に……」
「あれはお印に間違いない。大日女様にもお見せして、お印に間違いないというお墨付きも頂戴している。それをいまさら、あれはただの打ち身の痣《あざ》かもしれないなどとつまらないことを言い触らすんじゃないぞ」
「……」
郁馬は、唇を噛《か》み締め、不満そうな表情で兄を見返していたが、「はい、分かりました」と呟くように答えた。
そのとき、廊下の方で、誰かが走ってきたようなバタバタという足音がした。
「あなた、大変です」
その足音がぴたりと止まったかと思うと、慌てふためいた声が襖の向こうからした。兄嫁の美奈代の声だった。
「どうした?」
聖二が聞くと、
「武様が……」
襖を開けて、美奈代がおろおろしたような顔で言った。
「武がどうしたんだ?」
「お夕飯をいつもの半分しか食べてないようなので、具合でも悪いのかと気になって、今見てきましたら、ひどい熱で……」
「熱?」
聖二はぎょっとしたように聞き返した。
「ええ。四十度近い高熱を出して……」
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第四章
「武兄ちゃーん」
うとうとしかけていた新庄武は、窓の外から突如聞こえてきたかん高い子供の声にはっと目を覚ました。
あの脳天に突き刺さるようなボーイソプラノは俊正か。
武はのろのろと布団から手を出して、額に載っていた濡《ぬ》れタオルをはずすと、起きようとしたが、身体中の筋肉が弛緩《しかん》してしまったようにけだるく、起き上がる気力も湧かない。
仕方なく、上げかけた頭を水枕の上に戻すと、ぽちゃりと生ぬるい水が頭の下で動いた。それは、ゴム臭い匂いと共に、小さい頃はよく味わった感触だった。
「武兄ちゃーん」
「武兄たーん」
俊正のボーイソプラノとハモるように、舌ったらずな声も聞こえてきた。いつもコブのようにくっついて来る弟の良晴だ。
「こら、俊正。大声を張り上げるな」
どこからか別の声がした。郁馬の声だった。
「あ、郁馬さん。武兄ちゃんは?」
「風邪で寝てるよ。だから、大声を出すな」
「風邪?」
「ああ、昨日の夜、突然、四十度も熱出してな。夜中に医者呼んだりして大変だったんだ」
「馬鹿でも風邪ひくの?」
「……」
「ぼく、ばかじゃないから風邪ちいたー」
良晴の自慢するような声がした。
「あ、そっか。もしかしたら、良晴のがうつったのかも。こいつ、昨日まで風邪引いてたから」
「でも、なおったよー」
「こいつさ、昨日、武兄ちゃんの背中にへばりついて、ハナこすりつけてたから。そんとき、うつしちゃったのかも。おかげで、良晴の方は治っちゃったけどね」
そうか。
昨夜、夕食後に突然襲われた発熱の元凶は、あのチクノウのハナ垂れか。
なんで元凶があんなにピンピンしていて、うつされた俺が寝込むんだ。
外の声を聞きながら、武は、まだ熱に浮かされているような朦朧《もうろう》とした頭で考えていた。
「風邪かぁ。ふーん。馬鹿でも風邪引くのか。じゃ、しょうがないな。帰ろう、良晴」
「やだー。兄たんと遊ぶー」
「だめだよ。風邪で寝てるんだって。おまえが悪いんだぞ。ハナこすりつけて菌うつしたから」
「ぼく、なんにもちてないもん。兄たん、だいちゅき。兄たんと遊ぶー」
「兄ちゃんの風邪、なおったらまた遊ぼうな。じゃあね、郁馬さん」
といったん、ボーイソプラノは遠のきかけたが、
「俊正」
郁馬の呼び止める声がした。
「なあに?」
「おまえ、毎日のようにここに遊びに来てるようだが、副村長の息子だからって、あまり調子に乗るなよ」
「え。なんで? 来ちゃいけないの?」
「遊びに来るのはいいが、まるで自分のうちみたいに気楽にふるまうなって言ってるんだ」
「それのどこがいけないの? うちは神家には大きな貸しがあるから、あそこに行っても、ぺこぺこすることないって、いつもお父さんが言ってるよ」
俊正の声は挑戦的だった。
「とにかく」
郁馬が苛《いら》ついたように言った。
「あまり武様に馴《な》れ馴れしくするなってことだ。おまえらの遊び友達じゃないんだからな。お印の出た日子《ひこ》様だってことを忘れるなよ」
「……武兄ちゃんって、本当に日子様なの?」
「そうだよ。宮司様と大日女様がそうお認めになったんだ。だから、おまえももっと口のきき方とか気をつけろ。武兄ちゃんなんて気安く呼ぶな。武様と言え。子供だと思って今までは大目に見てきたが、これからはそうはいかないからな」
「ぷっ。今の郁馬さんの言い方、宮司様そっくり。よっ。この物まね鳥」
「俊正!」
「それに郁馬さんがそんなこと言うのおかしいや」
俊正の不服そうな声がした。
「なんでだよ」
「だって、前に郁馬さんだって言ってたじゃないか。あんなのお印じゃない。きっとどっかですっころんでできたただの痣《あざ》だって。あんな馬鹿が日子様のはずがないって」
「だ、黙れ。今日はもう帰れ!」
郁馬の慌てたような声。
「へん。言われなくたって帰るよーだ。武兄ちゃんがいなくちゃつまんないもん」
俊正の憎たらしげな声が少し遠のいたかと思うと、
「あ、そうだ。郁馬さーん!」
と遠くから怒鳴っているような大声がした。
「まだいたのか。早く帰れって」
「今年の風邪、お腹にもくるみたいだから気をつけた方がいいよ!」
「腹?」
「うん! もしさ、良晴のがうつったんなら、同じ症状になるはずでしょ! こいつ、昨日まで下痢ピーだったんだよ! それでね、クソもらすからって、ずっと紙おむつしてたんだよ! 武兄ちゃんもクソもらしてもいいように紙おむつした方がいいよ! 日子様がクソもらしたらかっこわるいじゃん! 紙おむつだよ! 忘れないでね!」
「……」
俊正め。地球の裏側にまで聞こえるような大声で、あんなことを……。
あれじゃ、俺が紙おむつして寝てるように思われちゃうじゃないか。
元気になったら、兄弟並べて、仲良くしばき倒してやるからな……。
武は布団の中でそう固く決心した。
言いたいことだけ言って、ようやく矢部兄弟は帰って行ったらしく、窓の外は静かになった。
郁馬もうちの中に入ってしまったのか、誰の声も聞こえてこない。
のどかな野鳥の囀《さえず》りが時折聞こえるだけだ。
郁馬さんが陰で俺のことを……?
「あんな馬鹿が日子様のはずがない」
俊正が言っていたことを思い出して、武はふと顔を曇らせた。
ここに来てから、郁馬の様子がどこかおかしい……。
お印とやらが出たことで、自分に対する言葉遣いや態度がやけに丁寧になったのだが、それも、慇懃《いんぎん》無礼というか、どこか悪意を込めたような馬鹿丁寧さで、武はなんとなく嫌だなと思っていたのだ。
今までみたいに呼び捨てでいいのに……。
東京に居た頃は、何でも話せる気さくな兄貴のような存在だった。それが、ここに来てからは、距離を感じるというか、妙によそよそしくなった気がする。変なわだかまりのようなものができてしまったようだ。
これまで何かとわだかまりがあった実兄の信貴とは、先日、一晩語り明かして、互いの腹のうちをさらけ出しあい、こじれていた仲を修復できたというのに。
今度は、逆に、今まで仲が良かった郁馬との関係がなんだかねじくれたものになってしまった……。
それというのも、こんな蛇の鱗《うろこ》みたいな奇妙な痣が背中に出たためだ。
本当に、この痣は日子とかいうものの印なのだろうか。いっそのこと、郁馬が言ったように、知らぬまについた打ち身の痣か何かで、時間がたてば消えてしまうようなものだったらいいのに。
そうしたら、とうとう明日に迫った大神祭で、「三人衆」とかいう面倒な大役もやらずに済むかもしれないのに……。
武は、小さくため息をついた。
叔父に頼まれてというか、殆《ほとん》ど命令されて、渋々引き受けた役だったが、本当はやりたくなかった。
子供の頃から、心のうちで嫌だなと思っているイベントなりセレモニーが近づいてくると、必ずといっていいほど、前日に原因不明の高熱に襲われる事があった。
あれは小学校五年のときだった。学芸会の主役に抜擢《ばつてき》されたことがあった。選ばれたときは悪い気はしなかったのだが、いざ、学芸会の日が近づいてくると、急に主役という座が重荷に感じられてきた。
地震か台風でもきて、会が中止にならないかなと内心で願うようになり、地震も台風も来なかったが、その代わり、前日の夜になって、原因不明の高熱に襲われて寝込んでしまい、結局、学芸会には出られなかった。
今回の突然の発熱にしても、良晴の風邪をうつされただけなのかもしれないが、何か心理的なものが原因かもしれないな、と武は思った。
いっそこのまま、明日まで熱が下がらず、祭りに出なくても済むようになればいいのだが……。
そんなことを鬱々《うつうつ》と考えながら寝ていると、廊下の方から足音がして、襖《ふすま》がガラリと開かれた。
入ってきたのは、叔父の聖二だった。
「どうだ、具合は?」
心配そうな顔付きで入ってくるなり、叔父はそう聞いた。
「凄《すご》くだるい。喉《のど》が痛い。食欲もないし、熱もまだあるみたい……」
一晩寝て、昨夜よりはだいぶ良くなったような気もしていたが、重症に見せかけるために、症状を少し大袈裟《おおげさ》に申告して、ついでに空咳《からぜき》を一つ二つしてみせると、叔父は、枕元にあった体温計を取り上げ、「計ってみろ」と差し出した。
武は言われた通りにした。すると、その体温計を見て、「三十八度五分か。まだあるな……」と呟《つぶや》いた。
「こんな体調じゃ、明日、無理じゃないかな。今から代役たてた方がいいんじゃない?」
叔父の顔を見上げ、多大の期待を込めてそう言ってみたが、
「医者の話では、ただの風邪だということだし、熱も昨日よりは下がっている。もう一日安静にしていれば、明日には平熱になっているだろう。今日はおとなしく寝てろ。後でお粥《かゆ》でも運ばせるから」
叔父は体温計をしまいながら、事もなげにそう言い、立ち上がりかけた。
「あ……叔父さん。ちょっと」
武は慌てて、叔父を呼び止めた。
「なんだ?」
「俺の背中の痣って、本当にお印とかいうやつなの?」
「……」
「もしかしたら、ただの打ち身の痣かもしれないよ。もう一度、よく見てよ。今なら、消えるか薄くなってるかもしれないから」
そう言って、最後の悪あがきとでもいうか、なんとか起き上がると、パジャマの上着のボタンをはずして、裸の背中を叔父の方に向けた。
「……」
「どう?」
不安と期待をこめて聞くと、
「消えてもいないし、薄くなってもいない」
叔父は無情に言い放った。
やっぱり、ただの痣じゃないのか。武はがっかりしながら、ごろりと横になった。この痣が背中に出てから、二十日あまりがたっていた。知らぬ間についた打ち身の痣なら、とっくに消えるか薄くなっているだろう。それが依然としてそのままということは、やはり「お印」とか呼ばれる奇怪な神紋でしかないのか……。
「いいか、武」
聖二は枕元に座り直すと、やや厳しい顔付きで諭すように言った。
「これはお印以外のなにものでもないんだ。大日女様も一目でそうお認めになったのだし、私も認めた。それで十分なんだ。あれこれ陰で言う奴はいるかもしれないが、そんな雑音は気にするな。もっと日子としての自覚と自信を持て」
「日子の自覚と自信って……?」
「たとえば、子供たちと遊ぶのはいいが、遊ばれるのはまずいな」
「……」
子供たちというのは、暗に矢部兄弟のことを言っているのだろうか。さきほどの俊正と郁馬の会話を叔父もどこかで聞いていたのか。武は咄嗟《とつさ》にそう思った。
「もう少し、日子としての威厳を周囲に示さないとな。その上で慕われるならいいが」
「叔父さんみたいに?」
武は皮肉っぽく言った。
この叔父には、始終怖い顔をしているわけでも、ところかまわず怒鳴り散らすというわけでもなく、見かけは、いかにも古社の神官といった物静かな風情《ふぜい》なのに、どことなく人を圧するようなオーラがその身から漂っている。
それは東京でたまに会うときから感じていたが、叔父のホームグランドともいうべきこの村に来てからは、まざまざと感じるようになった。
家の子供たちなど、どんなにわいわい騒いでいても、この叔父の姿をちらりと見かけただけで、怒鳴られたわけでもないのに、しーんと水を打ったように静かになってしまうくらいだった。
武自身、叔父と話すときは、気楽にタメ口をきいているように見えても、頭のどこかで、地雷を踏まないように、本気で怒らせないようにと気を配っているところがあった。
「すぐにと言っても無理だろうが、常に自覚をもっていれば、自然にそうなるよ」
叔父は表情を和らげて言った。
「そういえば、さっき、俊正が言ってたんだけどさ……神家って、あいつのうちに何か借りでもあるの?」
武は思いついたように聞いた。
「借り……?」
「俊正が言ってるのが聞こえたんだよ。『うちは神家に大きな貸しがあるから、この家に来てもぺこぺこしなくていいとお父さんが言ってた』とかさ」
「……昔、俊正の父親に、この村のために少し骨を折って貰《もら》ったことがあるんだよ。大神に仕える者として当然の奉仕をして貰ったまでのことで、貸しとか借りとかいうほどのものではないんだが、矢部はそんなことを子供に吹き込んでいたのか。どうも、最近、父子揃って少々図に乗っているようだな……」
聖二は不快そうに呟いた。
「あ、それとさ」
武はさらに思い出したように言った。
「日美香さんの母親は親父の従妹《いとこ》にあたる人だって、前に叔父さん、言ってたよね?」
「ああ」
「じゃ、父親は?」
「……」
一瞬、叔父の顔が強ばったように見えた。
「彼女の父親って誰なの? この村の人?」
「なぜ、そんなことを聞くんだ?」
「なぜって。おばさんが――」
「おばさん?」
「いや、何でもない。別に理由なんてないよ。ただ、誰かなって思っただけ。俺の知ってる人かなって」
「……おまえの知らない人だよ。だから、そんなことを気にしなくてもいい。今日は何もしなくていいから、ゆっくり休め」
聖二はそれだけ言うと、その話題にはこれ以上触れたくないとでもいうように、さっと腰をあげて、部屋を出て行った。
変だな……。
一人になると、武は、天井を見上げ、ぼんやりと思った。
あのとき、叔母の美奈代は、「日美香さんの父親のことでぜひ話しておきたいことがある」と言った……。
あれは三日前のことだった。
昼食後、日課になっていた薪《まき》割りを裏でやっていたら、勝手口から叔母が出てきて、何やら思い詰めたような怖い顔で、いきなりそう言ったのだ。
でも、叔母がその話を切り出そうとしたとき、台所の窓から叔母を呼ぶ声がして……。
結局、そのときは、「また後で」と言って叔母は慌ただしく台所の方に戻って行ってしまったのだが。
あれ以来、叔母と二人きりで話すチャンスがなかった。
一体、何の話だったんだろう?
ひどく気になる。
日美香の父親の話をなぜ俺にしようとしたのだろう。
叔父の今の話では、日美香の父親は俺の知らない男らしいのに……。
ここに滞在している二週間あまりの間に、うちの人にそれとなく聞いて、日美香に関する情報は多少は得ていた。
その複雑な生い立ちについても。
叔父の養女になる前は、和歌山の片田舎で母一人子一人という環境で育ったこと、その唯一の肉親ともいうべき母親が今年の五月に事故死して、それがきっかけで、今まで母と信じていた人が、お産で亡くなった実母の代わりに育ててくれた養母に過ぎなかったことを知ったこと。
そして、実母という人がこの村の生まれで、武の父にとっては従妹にあたり、「日女《ひるめ》」と呼ばれる巫女《みこ》であったこと……。
ただ、その実母という人も、この村で育ったわけではなく、長いこと東京で暮らしており、何か事情があって、二十代半ばの頃に、この村に帰ってきたらしいということ……。
武が知り得たのは、まだその程度だったが、それでも、両親の揃った裕福な家庭で何不自由なく育った彼にしてみれば、日美香の生い立ちは、まるで小説のヒロインか何かみたいに数奇なものに思えた。
最初、叔父から、「むこうへ行ったら、女子大生の家庭教師をつける」と聞かされたときは、女子大生のおネーさんかよ、と小馬鹿にしていたのだが、本人に会って、すぐにそんななめ切ったような気分が吹っ飛んだ。
相手が想像以上の凜《りん》とした美人だったということもあるが、自分とは二歳しか違わないというのに、二十歳という年齢のわりには、大人びて近寄りがたい雰囲気があり、それに少なからず圧倒されてしまったのだ。
普通の家庭に育った二十歳の娘に比べて、彼女が大人びて見えるのも、そんな複雑な生い立ちのせいかもしれなかった。
それとも、生まれつき片胸の上にあったという、自分と同じ蛇紋のせいだろうか。叔父の言っていた「日子としての自覚と自信」というものを、彼女はもう既にもっているのだろうか。
ただ、気になるのは……。
日美香の実母のことは、ある程度わかったのだが、父親のことが全く分からない。情報として全然入ってこない。誰もそのことを話そうとしないし、その話になると、皆、それ以上の会話を避けるようなそぶりさえ見せた。中には、「日女様のお子様は皆大神の御子」などと訳知り顔に言って、話を打ち切ってしまう年寄りもいる。
叔父にしても、その話に触れようとしただけで、一瞬身構えるような顔になり、まるで逃げるように座を立ってしまった。
何か大っぴらに話せないような理由でもあるのかな……。
そんなことをとりとめもなく考えていると、廊下の方からまた足音がした。叔父のものではない。もっと軽やかだ。女か子供? と思った瞬間、襖がからりと開いて、入ってきたのは、今まさに思いをめぐらしていた神日美香その人だった。
「具合はどう?」
叔父と同じようなことを言って、日美香は中に入ってきた。両手に水を張った洗面器のようなものを持っている。
武は少しうろたえて、顔を半ば隠すように、掛け布団の端を両手でそろそろと引き上げた。枕元までやってくると、日美香は、そこに洗面器を置き、体温で温まっていた武の頭のタオルを取り上げ、洗面器の水に浸した。
それから、武の前髪を掻《か》き上げ、右手をその額にじかに置いて、熱を計るような仕草をした。
「熱、少し下がったみたいね?」
白い手を置いたまま、そう言った。
「さっき計ったら、三十八度五分だって……」
「そう? よかった。大したことなくて」
「……」
確かに熱は下がったが、こんなことをされると、また俄《にわか》に上がってしまうような気がする……。
日美香はようやく手をはずし、洗面器に浸しておいたタオルを堅く絞って、武の額に戻した。
ひんやりとして気持ちが良い。
そのまま立ち去るのかと思ったら、
「少し暗い方が眠りやすいんじゃない?」と呟いて、立ち上がり、開いたままになっていた窓のカーテンをシャーと半分ほど閉めたり、水枕や掛け布団の位置をあれこれずらして、寝やすいように調節したりと、甲斐甲斐《かいがい》しく動きはじめた。
カーテンが半分閉められて薄暗くなった部屋で、枕元を大きな蝶《ちよう》がヒラヒラと舞うように動かれたり、いきなり覆いかぶさるようにして布団を直されたりすると、ゆっくり眠るどころではなく、気もそぞろになった。
しかも、香水でもつけているのか、彼女が動くたびに、何やら悩ましげな芳香が鼻をつく……。
ただでさえ風邪の熱でのぼせた頭が、別の意味の熱で火照りはじめていた。
「俺の看病しろって叔父さんに頼まれたの? これもバイトのうち?」
そう聞くと、日美香は驚いたようにかぶりを振った。
「わたしが勝手にしていることだけど。迷惑?」
「迷惑ってわけじゃないけどさ、あんまウロウロされると気が散って眠れないよ」
「あら、ごめんなさい」
そう言って、ようやく立ち去るかと思ったら、そのまま枕元に座りこんでじっと動かなくなった。
え?
「あの……なんでそこにいるの?」
おそるおそる聞いてみた。
「誰かそばにいたほうが安心して眠れるんじゃないかと思って」
「……」
「ほら、子供の頃、風邪ひいたときなんか、お母さんがそばにいてくれると安心してぐっすり眠れるみたいなことなかった?」
「小さい時はね」
「わたしの母はお店をやっていたから、病気にでもならないとうちにいてくれなかったのよね。だから、たまに風邪なんかひくと、お店休んでそばにいてくれて、それがちょっと嬉《うれ》しかった……」
日美香は昔を懐かしむような声で言った。この「母」というのは、五月に事故死したという養母のことだろうか。
「俺んとこは、母親が専業主婦でいつもうちにいたからさ、あんま、そういうことは感じたことなかったな」
「いつもそばにあるものって、なかなか有り難みが分からないのよ。なくしてはじめて分かるの……」
「……」
「あなたのお母さんって、一度お会いしたことがあるけど、とても優しそうな方ね」
「時々うざいけど」
「贅沢《ぜいたく》なこと言って」
日美香はそう言って笑ったあとで、少し間をおいて、
「……お父さんはどんな人?」と聞いた。
声の調子が僅《わず》かに変わったような気がした。
「親父?」
「優しかった? テレビや週刊誌の報道なんかを見ると、あなたのお父さんって、頼もしくて優しい理想の父親って感じに見えるけれど」
「マスメディアの垂れ流すイメージではね」
武は吐き捨てるように言った。
「イメージだけ? うちでは違うの?」
「小さい時はともかく、中学に入る頃には――」
そう言いかけて、
「ああそういえば、この部屋、親父が使ってたんだって。押し入れの奥に古いアルバムとか教科書とかまだしまってあるみたいだよ」
そう言うと、日美香は興味をもったような顔で、
「見ていい?」と言って立ち上がり、押し入れを開けて、下の方をごそごそやっていたが、分厚い古びたアルバムを出してくると、表紙の埃《ほこり》を手で払いながら、また枕元に座った。
そして、いくら親戚《しんせき》とはいえ、他人の写真なんてそんなに面白いものかなと不思議に思うほど、熱心にそれを見はじめた。
「この人、誰か知ってる?」
アルバムを見ていた日美香がふいにそう言って、開いたままのページを武の方に寄せて見せた。
日美香が指さした所には一枚の写真が貼ってあった。白黒の古い写真だ。手前に積み木で遊んでいる男児の姿が写っていた。その背後に、同じ年頃の女児を傍らで遊ばせている若い女性の姿が写っていた。
此の家の座敷で写したものらしい。
日美香が指さしているのは、まさにその女性だった。
年の頃は、二十歳前後。とても奇麗な女だ。巫女《みこ》風の衣装を身につけ、長い髪が背中までありそうな……。
「……誰かな?」
武は首をかしげた。
手前の男児が父であることは、その写真の下に「貴明、三歳」というメモ書きが添えられていることでもわかった。
しかし、背後の若い女性ともう一人の幼児については、何も書き記されていない。
幼い子供たちを見守っている風にも見えるその様子に、最初は、父の実母、武には祖母にあたる信江かなと思ったが、すぐにそうじゃないなと思い直した。女は巫女の衣装を着ている。ということは、その女は日女だということだ。先代宮司の妻の信江は、日女ではないはずだった。
しかも、その女性は、日美香に驚くほどよく似ている。これが白黒の古い写真でなければ、そこに写っているのは、巫女装束をつけた日美香自身ではないかと思ってしまいそうなほど似ていた。
彼女もその写真の女が自分によく似ていることに驚いて、この写真に目を止めたのだろう。
「もしかしたら、この前信江さんが言っていたヒサコって人じゃないかしら……」
そう呟《つぶや》いたのは、日美香だった。
ヒサコ?
あ、と武は思った。
そういえば、先日……。
座敷で一同が揃って夕食をとっていたときだった。いつもは隠居部屋に引き籠《こ》もりがちな信江が、突然よろよろと、座敷に入ってきたことがあった。
そして、そこにいた日美香を一目見るなり、「ヒサコ様。ヒサコ様ではありませんか。いつ戻られたのですか。ご無事だったんですか。ヒトミ様を連れてどこへ行かれたのかとそれは心配していたのですよ……」などと訳のわからないことを言いはじめて、あぜんとしている日美香に、取りすがろうとしたことがあった。
それは、座敷にいた者が一斉に箸《はし》を止めるほどの、ちょっとした騒動だった。
叔父がすぐに「連れて行け」というように傍らの妻に目で合図すると、叔母の美奈代が慌てて立ち上がり、「お姑《かあ》さん、この方はヒサコ様じゃありません。ヒサコ様のお孫さんの日美香様ですよ」と子供をあやすように言いながら、老女を座敷の外に連れ出した。
どうやら、老人性|痴呆《ちほう》症が進行していた信江は、過去と現在の記憶が混乱して、日美香を祖母のヒサコという女性と間違えたようだった。
あとで、うちの者に聞いた話では、この「ヒサコ」という人は、先代宮司の妹で、日美香の母親がまだ赤ん坊の頃、それを連れて村から出奔したという「伝説の」女性だった。これほど似ているならば、いくら痴呆症とはいえ、信江が間違えたのも無理はなかった。
「これ、わたしにくれない?」
写真をじっと見ていた日美香が突然そう聞いた。その古い写真は、よほど彼女の琴線に触れるものがあったらしい。
「だめ?」
「俺に聞かれても困るけど、別にいいんじゃない? ここに残していったということは、親父にとってそんなに大事なものじゃないんだろうし」
武はそう答えた。
昔の玩具《おもちや》や教科書と一緒に生家に残していったということは、父にとっては、こんな古いアルバムはがらくた同然にすぎなかったのだろう。だとしたら、その中から一枚くらい写真がなくなっても、どうってことはないだろうと。
「ありがとう……」
日美香はそう言うと、アルバムからその写真だけを丁寧にはがして、それをそっとスカートのポケットにしのばせた。
それを見ているうちに、武の頭にふとひらめいたことがあった。
「ねえ、日美香さん」
日美香自身は、自分の父親のことを何か知っているのか、どう思っているのか……。
彼女の祖母の話が出たついでに、良い機会だから聞いてみよう。
そう思いついたのだ。
「日美香さんの本当の母親というのは、俺の親父の従妹なんだよね?」
慎重にそう切り出した。
「そうよ」
「お父さんは誰なの?」
「……」
「この村の人?」
「……」
日美香はすぐには答えなかった。ちらと目をあげてその顔を見ると、膝《ひざ》の上のアルバムに伏せられていた顔が、心なしか強ばっているように見えた。
さきほどの叔父の反応に似ている……。
「お父さんのことは何も知らないの?」
重ねて聞くと、
「いいえ。知ってるわ」
日美香はしばらく沈黙したのち、きっぱりとそう答えた。
「この村の人? 今もここに住んでるの?」
「……」
「俺の知ってる人……じゃないよね?」
「……知ってるはずよ」
「えっ。誰?」
武は驚いて聞き返した。思わず起き上がりかけて、濡《ぬ》れタオルが頭からずり落ちた。俺の知ってる人って、叔父の話と違うじゃないか。
「あなたもこの村に来て、その人にはもう会ったはずよ……」
日美香はアルバムから顔をあげ、謎めいた微笑を浮かべてそう言った。
「会った? 俺が? どこで?」
この家の人間以外で、これまでに会ったといえば、この前の宴会の席で、太田村長、矢部副村長、村議会の面々……。
武は必死で思い出そうとした。
「ほら、日の本寺で……」
日美香はヒントを出すようにそう言った。
「日の本寺? 日の本寺で会ったっていうの?」
「ええ」
「……」
日の本寺で会った男といえば、老住職だけだ。まさか、あの八十歳をとっくに超えたようなよぼよぼの爺《じい》ィがと思いかけたとき、日美香が言った。
「お印が出たということで……。あなたにも会うことが許されたはずよ」
会うことが許された……?
その言葉にあっと閃《ひらめ》くものがあった。
なんだ。そういう意味か。
日美香の謎めいた言葉の意味を素早く悟って、武は、拍子抜けしたように、また布団の上にどっと横になった。
「それって……大神とかいう像のこと?」
そう聞くと、日美香は深く頷《うなず》いた。
日の本寺の境内の隅に小さなお堂があって、そこには、この村で祭られている蛇神を象《かたど》った青銅の像が安置されている。
古くから秘仏とされたその像は、神家の血を引く限られた者しか拝観が許されていない。本来ならば、いくら父を通して神家の血をひいているとはいえ、新庄家の人間である武には、その像を見る資格はなかったのだが、お印が出たということで、寺に挨拶《あいさつ》に行った折りに、老住職からはじめて拝観を許されたのだ。
それは、上半身は逞《たくま》しい武人の姿、下半身はとぐろを巻いた蛇という、半人半蛇の、魔神のような異様な像だった。
「わたしの実母《はは》は、この村で日女《ひるめ》と呼ばれる巫女《みこ》だったのよ。色々事情があって、この村で育ったわけではなかったけれど、どこで生まれ育とうと、日女の血を引く女は日女なの。その日女である母が生んだ子供は、すべて大神の子……」
日美香はそう説明した。
「そうじゃなくってさ」
武は、焦《じ》れたように説明を遮った。
「俺が聞いてるのは、あなたの『生身の』父親は誰かってことなんだよ。大神だかなんだか知らないが、青銅の造り物に、女を孕《はら》ませることはできないだろ?」
当人を前にして、少々露骨すぎる言い方だったかと、口にしてから、「しまった」とすぐに後悔したが、日美香は、さほど不快そうな様子も見せずに淡々と言った。
「そういう意味での『父親』なら、わたしが生まれる前の年に、大神祭で『三人衆』に選ばれた村の青年の中にいるのでしょうね」
「え。ってことは……」
武は目を丸くした。
「この村では、日女は神妻として、人間の夫をもってはならないと決められているけれど、それは表向きの話で」
日美香はそう言って、日女と「三人衆」と呼ばれる村の青年たちの関係について、簡単に説明した。
「……つまり、その年の大神祭で、この役に選ばれた三人の若者だけが、翌年の祭りまでの一年間、日女の恋人になることが許されるわけ。そして、その結果、日女に子供ができても、その子供は大神の御子ということになって、現宮司の籍に入れられ、神家の子供として育てられるのよ」
「……」
そういうことだったのか。どうりでこの家に子供が多いはずだ、と武は改めて納得した。子供の全部が叔父の実子ではないらしいということは、それとなく聞いてはいたのだが、まさか、こんなシステムになっていたとは……。
「でも、あくまでも、『三人衆』というのは、大神の御霊《みたま》がこの世に現れるときの仮の姿、いわば器にすぎないのよ。だから、この村では、日女に子供が生まれても、誰も、その子供の父親が『三人衆』の誰かなんてことは気にもとめないし、時には、それが誰なのか分からないこともあるのよ」
時には、それが誰なのかも分からないこともある……?
日美香の話を聞きながら、おやと思った。村の人間には分からなくても、当の日女には分かるのではないか。たとえ一時的とはいえ、恋人に選んだ男なのだから……?
「だけどさ、村の連中は気にとめなくても、あなたはどうなの? 自分の父親が誰かってこと、全く気にならないの? 知りたいとも思わないわけ?」
そう聞くと、
「正直に言うと、最初は少し気になったわ。知りたいとも思った」
しばらく考えるように黙ったあと、日美香はそう答えた。
「そうだろ。もし、俺が同じ立場だったら、絶対、知りたいと思うぜ。で、調べたの?」
「ええまあ。お養父《とう》さんに頼んで、当時の記録から、わたしが生まれた前の年に務めた『三人衆』の名前を調べて貰《もら》ったのだけれど……」
「で、どうなったの? 分かったの?」
武は唾《つば》を飲み込んで先を促した。
「三人の名前は分かったわ」
「それで?」
「それだけ」
「それだけって?」
「三人の名前が分かったところで、それ以上調べるのをやめたのよ」
「なんでよ?」
「だって、それ以上調べてもしょうがないもの。この三人の中に実父《ちち》がいるとしても、その人は、今では家庭をもって、妻や子供もいるわけでしょう? そんなところに、いまさら、娘ですなんて訪ねて行っても、相手も困るだけでしょうし、ご家族の方たちだって決して良い気持ちはしないと思ったから……」
「うーん。まあ、それはあるかもね。もし、俺がその家族の立場だったら、やっぱ、ちょっと嫌かもな。ある日突然、親父の隠し子かなんかがうちにやってきて、おまえのきょうだいだとか言われたらさ」
「……」
「おふくろだって傷つくだろうし。あの親父なら、どっかにそういうのが一人や二人くらいいてもおかしくないんだけどね」
「……それで、いろいろ考えて、これ以上|詮索《せんさく》するのはやめたの。わたしの父は大神、そして、戸籍上の父は今の宮司様。そう思うことにしたのよ」
「ふーん、そうか。でもさ、下手に追及して、こいつかよって思うようなチンケな野郎が父親と分かるよりはいいかもね。神様が父親なら最強だもんな」
武としてはそう答えるしかなかった。
「そうね……」
日美香は苦笑しながらそう言ったが、
「それより、水枕、ぬるくなってない?」と話題を変えるように突然聞いた。
「そういえばちょっと……」
「水、替えてきてあげる」
日美香はそう言うと、アルバムを脇に置き、武の頭の下から水枕を取り出すと、それを胸に抱えるように持って部屋を出て行った。
やはり、武は何も知らないのか……。
水枕を抱えたまま、武の部屋を足早に出ると、日美香は、ほっとしたように、大きなため息をついた。
何か感づいていたら、あんな風に無邪気にふるまえないだろう。
それにしても、どうして、急にあんな話を……。
実父のことをいきなり聞かれたときは、内心ドキリとした。あの子は何も知らないはずだと思っても、平静を装うのに苦労した。
「親父の隠し子が突然目の前に現れたら、やっぱり嫌だ……」
何げなく言った言葉だろうが、この言葉が鋭いナイフとなって、どれほど、わたしの胸を抉《えぐ》ったか。彼は毛筋ほども気づかなかったに違いない。
本当のことを打ち明けたら、やはり嫌われてしまうのか。
それに、口では「うざい」とか邪険なことばかり言っているが、内心では、やはり、母親のことをとても大事に思っているようだ。その母親を苦しめ傷つけるような事実は、彼は決して受け入れないだろう。
そう思うと急に胸が苦しくなった。
それで、あれ以上、平静を装って話を続ける気にはなれなくて、水枕を口実にして、慌てて部屋を出てきてしまった……。
ああ見えて意外に敏感なところがあるから、わたしの態度から何か不審なものを感じとらなければよいのだが。
彼には絶対に知られてはならない。異母姉《あね》だということは絶対に……。
日美香は、改めて、そう堅く決心した。
長い廊下をとぼとぼと歩いて、台所に入って行くと、流し場で洗い物をしていた美奈代が、人の気配に振り向いて、驚いた顔で咎《とが》めるように言った。
「日美香様。日女様が台所になんかお入りになってはいけません」
この家では、台所仕事をはじめとする家事労働は、一切、日女ではない女の仕事になっており、「男子、厨房《ちゆうぼう》にはいらず」という古臭い家訓に加えて、「日女、厨房に入らず」という神家独特の家訓さえあるようで、日美香も、ここに来たときから、台所には入るなと言われていた。
「武君の水枕がぬるくなっていたから、中の水を替えにきただけよ」
そう言って、水枕の古い水を流しに捨て、新しい水を入れ替えようとすると、
「そんなことはわたしがいたします。日女様のなさることじゃありません」
そう言われて、美奈代に水枕を取り上げられてしまった。
「武様の看病ならわたしがします。主人からそう言い付けられていますから。今も、お粥《かゆ》を作っていたところなんですよ」
美奈代は、日美香の手から奪い取った水枕の口に、幾分乱暴な仕草で水を注ぎこみながら、怒ったような口調でそう言った。
それは、日女を敬ってというよりも、自分のテリトリーを侵されて腹を立てているようにも見えた。
ふと見ると、近くのガス台には、一人分の土鍋《どなべ》がかけられ、ふつふつと煮えている。武に食べさせるお粥のようだ。
「でも……」
あの子の看病はわたしが自分の手でしたい。そう言いかけて、日美香は口をつぐんだ。なぜ、こんな気持ちになるのか分からない。
昨夜、武が突然高熱を出して寝込んだと聞かされたときは、自分でも驚くほど気が動転した。すぐに医者が呼ばれて、診察の結果、ただの風邪だと分かっても、朝方まで心配でよく眠れなかった。
大祭をあさってに控えて、もし、武の体調が戻らず、「三人衆」の役をできないようなことがあれば……。
それも心配だったが、とにかく、武の身体のことが心配だった。小さい頃は身体が弱くて病気がちだったと聞いているし、ただの風邪といっても油断はできない。手当が遅れれば、こじれて肺炎に至ることもあるだろうし、症状は風邪に似ていても、何か別の深刻な病気の前触れであることもありうる。こんな山深い田舎の医者に、ちょっと診ただけで、そこまで見分けられるのだろうか。
そんなことまで考えると、いてもたってもいられなくなって、誰に頼まれたわけでもないのに、様子を見に部屋を訪れたのだが……。異母弟《おとうと》なのだから、赤の他人ではないのだから、病気と聞けば気遣うのは当然の感情だろうが、それにしても、こんな、まるで我が子を案ずる母親のような気持ちになるとは……。
日美香自身、自分の中にまさに熱病のごとく生じたこの熱い感情にひどくとまどっていた。
こんな気持ち、今まで一度も味わったことがなかった。自分がまるで別人になってしまったような奇妙な感覚がした。
ただ、こんな気持ちになったのも、先日、聖二に言われた或《あ》ることが火種になっていたのかもしれない、と思った。
あれは一週間ほど前の夜のことだった。
この家に来てから、夕食後は、聖二の部屋に行って、その手ほどきを受けながら、神家の家伝書を読むのが日課になっていたのだが、その折り、家伝の中の一節に、「日甕《ひみか》」という見慣れない言葉が出てきたのである。
「日女は甕の中に蛇神を入れて育てる。この甕を日甕と言う」というような内容が記されていた。
この「日甕」という文字がなんと読むのか解らなくて、聖二に聞くと、それは「ひみか」と読み、「甕《みか》」とは、「器、壺」の意味だと教えてくれた。
そして、大昔、日女たちは、この甕に小蛇を入れ、この中で蛇を育て、蛇の成長に併せて、甕の大きさを替えていったというのである。
「……それは、ちょうど植物を育てるときに、最初の苗は小さな鉢で育て、苗が成長するにつれて、より大きな鉢に植え替えるようなもので、日女たちは、蛇を入れた神聖な甕を管理しており、それが太陽|祭祀《さいし》ともかかわっていたことから、こうした甕を持つ巫女のことを『日甕』とも言うようになった。あの邪馬台国《やまたいこく》の女王『ヒミコ』の名前も、この『日甕』から転化したものであるとする説もある。各地から出土されている縄文系の土器に蛇の文様を象ったものが多いのは、それが蛇神を入れて育てる『日甕』であった証《あか》しである……云々《うんぬん》」
日美香は、そんな養父の説明を一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてて聞き入った。
字こそ違うが、奇しくも、自分の名前と同じ音をもつ、この「日甕」という呪文《じゆもん》めいた言葉に、まるで磁石に吸い付けられるように引き付けられたのだ。
「そういえば、あなたの名前はどなたがつけたんです?」
そのとき、聖二もそのことに気が付いたらしく、説明のさなかに、ふいに訊《たず》ねた。
詳しいことは知らないが、たぶん養母だと思うと日美香は答えた。ただ、あの養母が、「日甕」などという難しい言葉を知っていたとは到底思えないから、おそらく、実母の名前が「日登美」であったことから、単純に、「日」と「美」の二文字を取ってなんとなく付けたものにすぎないと思う。
そう答えると、
「名前を付けた葛原八重さんにはその気はなくても、何か人知を越えたところで、あなたの『日美香』という名前には、『日甕』の意味が込められているに違いない。つまり、あなたの本性は、その名の通り、蛇神を育てる神聖な器であるということだ。あなたがこの世に生まれてきた真の理由は、蛇神となるべき者を育てるためかもしれない……」
聖二は感慨深げにそんなことを言った。
蛇神となるべき者を育てる神聖な器。
それがわたしだというのだろうか。この幾分風変わりな名前にはそんな「宿命」が封じ込められていると……。
むろん、その蛇神となるべき者というのは、今度の大神祭で、その蛇神の御霊《みたま》をおろされる異母弟の武であることは間違いない。
しかも、聖二は続けてこうも言った。
「蛇の成長の度合いは、その甕の大きさによって決まる。小さい甕には小さな蛇しか育たないし、より大きな蛇になるためには、甕そのものが大きくなければ……」
そんな比喩《ひゆ》めいた言い方で、武を大きく育てるには、いずれはその妻となる日美香がまず成長しなければならない。武がどのくらい大きな男になれるかどうかは、その器たる日美香自身の器量にかかっている……と暗に教えているようにも聞こえた。
武をこれから育てるのはわたしだ。それがわたしがこの世に生まれてきた理由……。
養父のあの言葉を聞いた瞬間、まさにあの瞬間、日美香の身体の奥深くに眠っていた、まだ青い果実のような母性が、突如として目覚めた瞬間でもあった。
「……やっぱり、これはわたしが持っていくわ。あの子の看病はわたしがします」
あのときのことを思い出して、我にかえると、水を入れ替えた水枕の表面をタオルで丹念に拭《ぬぐ》っていた美奈代の手から、再び水枕を取り戻そうとした。
「いいえ、いけません!」
しかし、美奈代は意外に頑強だった。持った水枕を離そうとはしない。
「もし、看病なんかして、風邪をうつされたらどうされます? あなたは、今年の『神迎えの神事』の日女役に選ばれているのですよ? 七年に一度という大事な大祭を間近に控えて、あなたまで倒れるようなことがあったら大変です。そんなことになったら、このわたしが主人に叱《しか》られます」
「……」
「お願いですから、武様の看病はわたしに任せてください。わたしなら、何人も子供を育てて、こういうことには慣れていますから」
最後は哀願するように言われて、日美香は渋々、水枕に添えていた手を離した。
少し頭を冷やして冷静になってみると、美奈代の言う通りだった。矢部良晴からうつされたらしい風邪の菌が、今度は自分にうつらないとも限らない。それに、いくら感情的に気負ってみても、いざとなると、何をどうしてよいのかも分からない。
これだけの大所帯で、小さな子供を何人もつつがなく育ててきた美奈代なら、手際よく看病もできるだろう……。
武のためにも、ここは美奈代の意見をいれて引き下がるしかなかった。
「それから、武様のご病気が完全に治るまで、あの部屋にはお近づきにならない方がいいと思いますよ」
美奈代のそんな言葉を背中に受けながら、日美香はすごすごと台所を後にした。
台所を出た日美香の足は、いったんは自分の部屋に戻りかけたものの、途中で思い直して、耀子の部屋に向かっていた。
武の部屋から見つけてきたあの写真のことで、耀子に聞けば何かもっと分かることがあるかもしれないと思ったからである。
それに、年齢的に考えて、祖母の緋佐子の傍らに写っている女児は耀子ではないかと思いついた。それならば、この写真を撮られたときのことを何か覚えているかも……。
その話を聞きたい。
そんな期待もあった。
回廊のようになった長い廊下をぐるりと巡って、耀子の部屋まで行くと、外から声をかけた。すぐに返事があった。
襖を開けて中に入ってみると、耀子は、子供のものらしき浴衣《ゆかた》の繕いをしていた。台所仕事同様、こうした家事労働は、日女は一切しなくてもいいのだが、和裁が趣味だというこの女性は、自らの楽しみとして、よく子供たちの肌着や浴衣などを縫ったり繕ったりしていた。
こうして縫い物などしながら、時折、部屋を訪ねてくる子供たちの話し相手をして一日の大半をのんびりと過ごしている。
「耀子さん。これを見て戴《いただ》きたいんですが」
日美香は、耀子のそばに寄ると、スカートのポケットから例の写真を取り出して、それを差し出して見せた。
武の部屋の押し入れの奥にあった古いアルバムから見つけたと言い、「そこに写っている女性は、わたしの祖母でしょうか」と聞くと、耀子はその写真を手に取って、「まあ、こんな古いものを……」と懐かしそうに見ていたが、
「そうですよ。この人があなたの御祖母様《おばあさま》です」と答えた。
やはりそうか。
「祖母の傍らにいる女の子は耀子さんでしょうか」
さらに聞くと、耀子はかぶりを振り、
「いいえ。これはわたしではありません。この子は、たぶん、聖二さんですよ」と言った。
「え。これ、お養父《とう》さんなんですか。でも、髪を伸ばして女の子みたいに見えますけど」
日美香は少しびっくりしてそう聞いた。
これがあの養父?
髪をオカッパにして肩に散らし、顔立ちも繊細で愛らしいので、てっきり女児だと思い込んでいた。
「お印のある日子《ひこ》様は、幼児のうちは、男の子でも日女のように髪を伸ばす風習があるのですよ、ここでは。長い黒髪には神意が宿ると昔から言われていて。それで、聖二さんも子供の頃はこうして髪を伸ばしていたんです」耀子はそう説明したあとで、何かに気づいたような顔になり、
「こうして見ると、あなたは本当に緋佐子様に似ておられますね……」
感嘆するようにそう言って、手にした古い写真と目の前の日美香の顔をつくづくと見比べた。
「はじめてお会いしたときは、お母様によく似ておいでだと思ったのですが、むしろ、あなたは御祖母様に似ておられるんですね」
「お寺のご住職にも同じようなことを言われました。わたしは、母よりも、祖母の若い頃にそっくりだと。たとえば、顔だけでなく、体格なども。母は小柄な人だったようですけれど、祖母は当時の女性としては若干上背があって、そんなところもわたしに似ているそうです」
いつか宴会の席で、酔っ払った日の本寺の老住職が、日美香の全身を眺め回すようにして、そう漏らしたことを思い出した。
「今となっては、緋佐子様のことを覚えておられるのは、神家ではご住職と信江さんくらいのものでしょう。なにせ五十年近くも昔のことですから。わたしも、当時は小さくて、あの方のことはおぼろげにしか覚えていないのです」
耀子はしみじみとした声音でそう言った。
「あの……この写真を撮ったのは、先代の宮司さんではなかったでしょうか」
思い切って、そう聞いてみた。
なんとなく、写真を見たときに、ふっと頭にひらめいたことだった。理屈も何もない。まさに脳裏にひらめいたとしか言いようがない。
白衣に浅葱《あさぎ》の袴《はかま》をつけた男性がカメラを構えているイメージがふっと頭に浮かんだのだ。宮司ではないかもしれないが、撮ったのは神官の衣装をつけた男性だと……。
「おそらくそうでしょう。父は若い頃、カメラに凝った時期があって、うちの者を誰かれなく撮っていたことがありましたから。きっと、これもその一枚でしょう」
耀子はそう言ったあとで、
「でも、どうして、これが父が撮ったのではないかと……?」
と不思議そうに聞いた。
「なんとなく。なんとなくそんな気がしたんです。変なんです。この写真を見たとき、無性に懐かしく感じられて。まるで、遠い昔、こんな風景の中にいたことがあるような。小さな子を遊ばせていたら、誰かにこんな写真を撮られた記憶が微《かす》かにあるような。それが白衣に浅葱の袴をつけた男性だったような……」
日美香は半分熱に浮かされるように話した。自分でも何をしゃべっているのか分からない。
「まるで、まるで、ここに写っている女性がわたし自身みたいな……とても変な気分になったんです」
そんなことを口走る日美香の顔をじっと見つめていた耀子は、
「もしかしたら……」
とふいに真顔で言った。
「あなたは緋佐子様なのかもしれませんね」
「わたしが祖母……とはどういうことでしょうか?」
日美香は耀子の言葉にめんくらって聞き返した。
「五月にこの村を訪れたとき、はじめて訪れた場所なのに、どこか懐かしいという、そんな印象はありませんでしたか」
しかし、耀子は日美香の質問にはすぐに答えず、謎めいた深い目をして、何かを確かめるようにそう聞いてきた。
「ありました。バス停を降りて、一の鳥居の前まで来たとき、とても奇妙な気分になりました。はじめて来た所なのに、とても懐かしい。前にもこんな風景の中にいたことがある。そんな既視感のようなものに襲われたんです」日美香は勢いこんで言った。
それは村の入り口だけではない。この神家の敷地に一歩入ったときも、今は養父となっている男にはじめて会ったときも。同じような奇妙な感覚に襲われた。
懐かしい。自分は帰るべきところに帰ってきた。長い長い旅の末にようやく古巣にたどりついた。会いたい会いたいとずっと思っていた人にやっと巡り会えたとでもいうような……。
しかも、この既視感のようなものは、今もなお、毎日のように感じている。
あ。わたしはこれを知っている。これを前にも見たことがある……。
武の家庭教師としてここで暮らすようになってから、この家に昔から存在している古いものを見るたびに、そんな不思議な感情に捕らわれている……。
そのことを耀子に言うと、耀子の目がきらきらと興奮したように輝き出した。
「もはや疑いようがありません。あなたは緋佐子様です。話には聞いていましたが、日女《ひるめ》にも、転生《てんしよう》の能力があったのですね。あなたはそれを見事に果たされて、ついに戻って来られたのですね……」
耀子はそんな謎めいたことを口走ると、何のことやら理解できず、ただ茫然《ぼうぜん》としている日美香の両手を取って強く握り締めた。
「あ、あの、その転生の能力というのは……」
うろたえながら聞くと、
「我々|物部《もののべ》の者は、古くから、霊や魂魄《こんぱく》を操ることができる部族であると言われています。物部の物とは、本来は、霊《もの》を意味する言葉なんですよ」
耀子は、日美香の手を握り締めたまま、そう語り出した。
「古より、物部は呪術《じゆじゆつ》に長《た》けていました。大和に居た頃、強大な権力を誇っていたのも、この力ゆえでした。こうした魂魄を操る秘法の中でも、我々が一番得意とした術、物部神道の極意ともいうべきものは、死人反生《しびとはんじよう》と呼ばれる秘法なんです」
「しびとはんじょう?」
「ええ。死人反生とは、簡単にいえば、呪術によって死者を蘇《よみがえ》らせることです。それは、死反《まかるがえし》ともタマフリとも呼ばれ、病気や怪我などで死にかけている人や既に死んでしまった人の離れかけた魂魄をもう一度その人の肉体の中に戻してやることです。この能力があったために、物部は太古はこの国を支配し、時代が下って、他の部族に支配されるようになっても、支配者、つまり天皇のお側近くにつかえることができました。天皇家の身分の高い人が死にかけたときに、その離れかけた魂魄を肉体に戻して生き返らせたりすることができたからです。今風にいうならばお医者のような仕事ですね。こうして天皇家の絶大な信頼を得てきたのです。しかも、このタマフリは、人間に限らず、『神』に対しても通用する能力だと思われてきました……」
古来、晩秋から冬にかけて、太陽の光が弱まるのは、太陽神が死にかけている、つまり、その肉体から魂が離脱しかけているからだと考えられ、その離脱しかけた魂を太陽神の体内に戻すために、物部の神官や巫女《みこ》が中心になって、冬至などの太陽の力が一番弱まる季節に、タマフリの儀式が大々的に行われてきた。これが宮廷の鎮魂祭の元となった。
この村で毎年行われる大神祭も、まさにこの鎮魂祭である。祭りの初日に行われる「御霊降りの神事」とは、蛇神であると同時に太陽神でもあるこの村の「大神」の魂を呼び戻し、力を与えることである……。
耀子はそんな話をしてから、
「そして、物部にはもう一つ別の能力があると言われています。それが『転生』と呼ばれるものです。これは、物部の家系の者が、自分の肉体が病や怪我などの損傷などでもはや使い物にならないと悟ったときに、自らの意志で、肉体を脱ぎ捨て、その魂魄を空《くう》に飛ばす力のことです。
肉体を脱ぎ捨てる脱皮の力とでも申しましょうか。これをやると、はたから見れば、その人は死んだように見えます。ですから、その肉体は火葬され骨となります。でも、本当は死んではいないのです。滅びたのは肉体だけであって、その人の魂魄は生きていて、まだ空をさまよっているのですから。
そして、やがて、この魂魄は、受精したばかりの卵子を持つ母体を探し出し、その中に侵入します。この受精卵を自らの力で、母体の子宮内に着床させて胎芽《たいが》に、そして、胎児にと育て、これを新しい肉体の衣として生まれ変わるのです。
この力を転生と呼ぶのです。
つまり、死人反生が他者を蘇らせる能力なら、転生は自らを蘇らせる再生の能力ともいえます。
ただ、反生にしてもそうですが、この転生にしても、物部の血を引く者なら誰でもできるかというとそうではないのです。その中でも、血筋的に大神に最も近い者、例えば、お印をもって生まれた日子にしかこの能力はないとされています。
しかも、この能力をもっていても、この術を用いる際において、生への強い執着をもち、転生したいと強く念じる念の強さがなければ、やはり転生は難しいと言われています。
魂魄を肉体から解き放つときと、空に解き放った魂魄を母体となる女性の体内に侵入させるときに、すさまじい念の力が必要とされるからです。生半可な念の入れ方では失敗に終わると言われています。
また、たとえ、受精したばかりの母体を見つけても、魂魄が入り込めるのは、受精卵の間だけなのです。この受精卵が十日ほどして子宮内に着床すると、胎芽という状態になるのですが、この時期では既に遅いとされています。つまり、母体が受精してから十日以内に魂魄を侵入させなければならないのです。
ただし、かなり高い能力を持つ者ならば、この胎芽となった状態のときでも、稀《まれ》に侵入可能であるとは言われていますが。それでも、胎芽になってから二週間程度以内が限界といわれています。つまり、どちらにせよ、受精してから一カ月以内がぎりぎりの限界なのです。それ以上たってしまえば、最高の能力を持つ者でも、母体への侵入は不可能といわれています。
さらに、入り込めるのは、母体となる女性が前世の自分にとって血縁者にあたる場合が多いのだそうです。母や娘、姉妹などの、血縁の度合いが濃ければ濃いほど成功率は高いそうです……」
こうした転生者を見分ける一つの方法としては、転生者が前世の自分と生き写しというほど姿が似ていることがあげられる。
これは、受精卵の中に入りこんだ魂魄がその記憶を基にして、本来の受精卵がもっていた遺伝子情報を自らの情報に全て書き換えてしまい、その情報に基づいて、胎芽を形作り、胎児にまで育てるからだといわれている。
ただし、前世の記憶が明確にあるのは母親の胎内にいる間だけで、出生と同時にその記憶は失われる。
といっても、完全に失われるわけではなく、それは失われるというより封印されるといった方が正しく、生まれ変わった後も、転生者は前世の記憶をとぎれとぎれに覚えており、前世で見知ったものに出会ったときや、ひどく感情が高ぶったときには、既視感や、時には、はっきりとした前世の記憶|覚醒《かくせい》となって現れる……云々《うんぬん》。
「……この能力は日子《ひこ》にしか与えられていないと言いましたが、実は、日女の中にもこの能力をもつ者はいると言い伝えられてきました。ただ、それは文献などには明確に記されていないことなので、伝承の域を出なかったのですが……。
でも、緋佐子様にはこの能力があったのですね。日登美さんから伺った話では、緋佐子様は若くして病死されたそうです。まだ幼い日登美さんや、この村に残してきたもう一人のお子である聖二さんのことを思えば、安らかに死ねるような心境ではなかったのでしょう。だから、死の間際、あの方は、生への強い執着、二人の子供への強い愛着、そしてこの村にもう一度帰りたいという強い願いが、強力な念となって、転生の術を成功させたのだと思います。
そして、二十年も空をさ迷ったあげく、ようやく、実娘を母体として生まれ変わったのです。それがあなたなんですよ、日美香様。だから、あなたには、女児でありながら、生まれつきお印があったのですね。お印は日子《ひこ》の証《あか》しであると同時に、転生者の証しでもあると言われていますから……」
「お印が転生者の証し……ということは、まさか、お養父《とう》さんも?」
日美香ははっとしてそう聞き返した。
「そうです。聖二さんも転生者なんですよ。あの方にとっては曾祖父《そうそふ》にあたる人がやはりお印のある宮司だったのです。この宮司様の写真と肖像画が今も保管されていますが、聖二さんに生き写しです。つまり、この宮司様が死の間際に転生の術を成功させて、自らの曾孫《ひまご》として生まれ変わったということなのです」
「……」
「もっと詳しいことがお知りになりたければ、御本人にお聞きなさい。わたしが、転生について知っているのはこの程度です。聖二さんなら、文献による知識だけでなく、自らが転生者として、多くのことを知っているはずです。それに、あなたが緋佐子様の転生者だと知れば、きっと、誰よりも喜ばれますよ。なぜなら」
耀子はほほ笑みながら言った。
「あの方は口にこそ決して出しませんが、ずっと心の奥底で、お母様の帰りを待ち続けておられたようですから……」
彼女の実父は、当時、大神祭で「三人衆」の役をやった村の男たちの中にいるのか。
日美香が水枕と共に立ち去ったあと、武は、布団に仰臥《ぎようが》したまま、そんなことを考えていた。
「三人衆」の条件の一つは、十八歳以上三十歳未満の独身男子ということらしいが、たとえ、当時は独身でも、二十年もたてば、おおかたが妻帯して、子供もいるだろう。
日美香が言った通り、これ以上、無理に父親探しを続ければ、最悪の場合、その男の今の生活を乱し、家庭を壊しかねない……。
だから、この村では、日美香の場合に限らず、日女の生んだ子供の「父親」をあえて詮索《せんさく》しないようにしているのか。
村の人々が、この話には、皆、申し合わせたように口をつぐんでしまうのは、互いの生活を守るために自然に生み出された知恵ともいうべきものだったのか。
でも……。
武は思った。
まだ今一つ釈然としないことがある。
彼女の実父が、当時、「三人衆」をやった男たちの中にいたとしても、そのことが、自分とどう関係しているのか。
それが分からない。
なぜ、叔母の美奈代が、あんな思い詰めたような顔で、「日美香様の父親のことで、ぜひ話しておきたいことがある」などと言ったのか……。
まさか。
一瞬、武の頭に電光のように閃《ひらめ》くものがあった。
まさか……父が?
父が当時の「三人衆」の一人だったとか……。
そう思いついたものの、すぐに思いついた素早さで打ち消した。
それはありえない。
なぜなら、二十年前といえば、父は既に新庄家に婿入りしていたはずだ。兄も生まれていた。他の条件はかろうじてクリアできても、「三人衆」の第一条件である「独身男子」という条件に当てはまらない。だから、父が選ばれるはずがないじゃないか……。
我ながら、馬鹿なことを思いついたものだと、すぐに、その思いつきを否定した。
となると、あと考えられるのは……。
駄目だ。何も思いつかない。
やはり、このことは叔母に直接聞きただすしかないか。
それともう一つ……。
腑《ふ》に落ちないことがあった。
それは、毎年、村の青年の中から三人選んでいたらしい「三人衆」を今年に限って、なぜか、自分一人しか選ばれていないらしいこと。これも不思議だった。なぜ、あとの二人を選ばないのだろう。条件にあった若者がいなかったのだろうか。
それとも……。
叔父の話では、俺の身体にお印が出たことで、急遽《きゆうきよ》、このような事態になったということだったが。
それ以上のことは何も知らされていなかった。
この村の祭りのことなど、何も知らないまま、何やら訳の分からない大役を引き受けてしまったことに、今更ながら、後悔にも似た気持ちがくすぶっていた。
いくら叔父の頼みとはいえ、こんな話、最初から断っていればよかった……。
病気のせいもあって、少し気弱になりながら、武がそんなことを思いながら、浮かない顔で天井を見つめていたとき、廊下の方から足音がした。
どうやら、日美香が水枕を持って戻ってきたらしい。
一瞬、そう思ったのだが、襖《ふすま》を開けて入ってきたのは日美香ではなかった。叔母だった。割烹着《かつぽうぎ》の胸に水枕を抱えている。
ということは……。
「いかがですか」
叔母はそう言って枕元まで近づいてくると、赤子を抱えるように持っていた水枕を武の頭の下に素早く敷いた。
そして、日美香がやったように、右手を病人の額に置いて、熱を計るような仕草をした。同じことをやっても、どこかぎこちなかった日美香の動作とは違い、さすがに主婦歴二十年という叔母の仕草は流れるように自然で、てきぱきとしている。
額にじかに触られても、若い女の柔らかすぎる手の感触と違い、長年の家事労働で男のように節くれだち荒れた肉厚の手ならば、変な気分にもならないし、かえって、安心できる。
「……日美香さんは?」
そう聞くと、
「風邪がうつってはいけないので、お部屋に引き取ってもらいました。武様の看病はわたしがしますから」
美奈代は、心なしか、勝ち誇ったような表情で言った。
日美香が部屋に戻ったと聞いて、半分がっかりするような、半分ほっとするような気分だった。
そばにいてくれるのは嬉《うれ》しかったが、病気で弱っているところを間近で見られるのは、なんだか恥ずかしくて嫌だったし、とにかく、いるだけで刺激が強すぎて、おちおち寝てもいられない。これじゃ治るものも治らなくなる。
看病ということだけなら、年配の叔母の方が有り難かった。
「おなかはすいていませんか。お粥《かゆ》さんを炊いてみたんですけれど……」
美奈代は、掛け布団を直しながら聞いた。
「少しでも食べておいた方がよろしいですよ。早く体力が戻りますからね」
「ちょっとだけなら……」
食べられないこともないなと思い、そう答えると、
「そうですか。じゃ、今、持ってきますから」美奈代は嬉しそうに言って、枕元から立ち上がりかけた。
「叔母さん」
武は、思わず布団から手を出して、立ち上がりかけた叔母の割烹着の袖《そで》をつかんだ。
「……この前、日美香さんの父親のことで、俺に話しておきたいことがあるって言ってたよね。ほら、裏で薪《まき》割りしてたときさ。あれ、何の話だったの?」
袖をつかんだまま、そう聞くと、
「……」
叔母は、一瞬、あのときのような怖い顔になった。
「今、ここで話してよ」
「……誰にも」
美奈代はしばらく黙って、じっと自分を見上げている甥《おい》の顔を見おろしていたが、
「誰にも言いませんか。わたしから聞いたとは誰にも?」と聞いた。
「言わないよ」
武はきっぱりと答えた。
「もし、わたしが話したと主人に知られたら、この家から追い出されるだけでは済まなくなるかもしれません……」
美奈代は、悲愴《ひそう》ともいえる顔つきでそんなことを言った。
叔父さんに知られたらうちにいられなくなる……?
あの叔父をそこまで怒らせるようなことなのか。
なんだか聞くのが少しこわくなった。でも、ここまできて聞かずに済ますわけにはいかない。
「言わないよ。絶対に誰にも言わないと誓う。もちろん、叔父さんにも」
武はもう一度繰り返した。
「ちょっと離してください」
美奈代はそう言って、割烹着の袖をつかんでいた武の手をいったん離させると、すっと立ち上がって、部屋の戸口まで行き、襖を開けて、外を見ていたが、誰もいないことを確認して戻ってくると、再び枕元に座り、
「けっして誰にも言いませんね?」
と、さらに念を押すように聞いた。
武は頷いた。
「……実は、今から二十年前」
叔母は、それでも、人に聞かれるのを恐れるような小声で囁《ささや》くように話しはじめた。
「……あの年、昭和五十二年の大祭の年、『三人衆』に選ばれたのは、今は米穀店を営んでいる海部《かいふ》さんと、理髪店の船木さん。それと、わたしの兄の太田久信の三人だったんです……」
美奈代は、声を潜めたまま話し続けていた。海部、船木、太田……。
この中で、俺が知っているのは、現村長の太田だけだ。
武は、叔母の話を聞きながら、そう思った。あとの二人については、はじめて聞く名前だし、会ったこともない。
この三人が当時あの役を勤めたということは、三人の中に日美香の実父がいるということなのか。
でも、それが俺とどういう関係があるんだ。
「その三人の中に日美香さんの父親がいるってこと……?」
じっと叔母の顔を見上げたまま、確かめるように聞くと、叔母は、ゆっくりとかぶりを振った。
「違うの? でも……」
「当時の祭りの記録には、確かに、昭和五十二年の『三人衆』は、この三人の名前が記されています。村の人の殆《ほとん》どが、今でも、この三人だったと思い込んでいます。でも、本当は、この三人じゃなかったんです。あの年、『三人衆』をやったのは……」
「……」
「この中の一人が、祭りの直前になって、ある人物に頼まれて、役をこっそり入れ替わっていたんです」
「……」
「この役は、大日女様に大神の御霊《みたま》をおろされたあと、蛇面と呼ばれる一つ目の仮面を被り、神の証しである蓑《みの》と笠《かさ》を頭からすっぽり被ってしまうために、外見からは誰だか分からなくなるんです。だから、体格さえそんなに違わなければ、見破られることはありません……」
「……それで、その人物と入れ替わったというのは、三人のうちの誰?」
武はおそるおそる聞いた。なんとなく、頭の中で黒いもやもやとした疑惑が形づくられはじめていた。いったんは、思いついたものの、それはありえないとすぐに否定したどす黒い疑惑がふたたび……。
「わたしの兄の太田久信です。その人が兄を選んだのは、三人の中で、一番体格が自分に似ていたからだと思います。他の二人は幾分小柄でしたが、兄だけが、百八十センチ近い長身で体格も良く、外見だけはその人に似ていたからです……」
「……その男は、なんで太田村長と直前にすり替わるようなことをしたの? 村の人じゃなかったの?」
「いいえ。その人も村の生まれでしたし、年齢的な条件も日女の子ではないという条件も満たしていたのですけれど、一点だけ、『三人衆』の条件を満たすことができなかったんです。だから、その人が『三人衆』に選ばれるはずはなかった。でも、その人はその役がどうしてもやりたかった。それで、兄とこっそり入れ替わったんです」
「その……『三人衆』になれなかった理由って……?」
武はひりついた喉《のど》から声を絞り出すようにして訊《たず》ねた。
頭の中に新たに形づくられた黒い疑惑は、もはや否定しようのない確実な輪郭をもっていた。
「あの役の第一条件は、独身男子でなければならないということです。でも、その人には、その条件を満たすことができなかった。なぜなら、そのとき、その人は、既に結婚していて、子供ももうけていたからです」
ああ……。
武は思わず天を仰いだ。
叔母の声によって、今まさに、開けてはならないパンドラの匣《はこ》の蓋《ふた》がこじ開けられようとしていた。
ありとあらゆる災いを撒《ま》き散らすという禍々《まがまが》しい匣の底に、伝説通り、「希望」は隠されているのか……。
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第五章
その夜。
座敷で夕食を済ませた神郁馬が自分の部屋に戻ってくると、暗い和室の中には、人影があった。
その人物は、畳の中央にごろりと仰向けに寝ていた。窓から入る月明かりで、照明をつけなくても、その人物が、二つ折にした座布団を枕がわりにして、片腕で顔を覆うようにして寝ているのが分かった。傍らには、スポーツバッグのようなものが置いてある。
顔は見えなかったが、姿形から、それが誰であるのか、郁馬にはすぐに分かった。ここでこんな風に振る舞えるのは一人しかいない。子供の頃からこの部屋を共有していた、末弟の智成だった。
「……帰っていたのか」
戸口のところで声をかけると、旅の疲れからか、うたた寝しかけていた弟は、はっとしたように顔を覆っていた腕をはずし、目をこすりながら、起き上がった。
郁馬は戸口近くにある照明スイッチを押して、天井の明かりをつけた。
「ああ、兄さん。ただいま」
智成は、まぶしそうな顔であくびをしながら言った。
「遅かったじゃないか。昨日までには帰るって話だったのに」
まだ大学生ではあったが、やはり日女の子である智成も、毎年、大神祭のときは、神官として祭りを手伝うために、数日前には必ず帰省してきた。
「すみません、直前にやぼ用ができちゃって」智成は頭をかきながら言った。
「夕飯は?」
「途中で食べてきました」
「じゃ、風呂《ふろ》でも……」
浴びてきたらと言いかけて、郁馬は思い出したように言った。
「……例の件、どうなった? 何かわかったか?」
この弟には、喜屋武蛍子が沖縄にいたころの情報を仕入れさせていた。
「そうだ。その件なんですが、大変なことが分かったんですよ」
智成は、俄《にわか》に眠気のさめたような顔でそう言うと、傍らに置いたスポーツバッグを探って、中から、かさ張った大判の茶封筒を取り出した。
「大変なこと?」
郁馬は部屋に入ると、後ろ手で襖を閉めた。
「やっぱり喜屋武という女と、武を刺した女とは知り合いだったのか?」
そう聞くと、智成は、手にした茶封筒の中から探偵の報告書らしきものを出し、それを郁馬に渡した。
「いや、それが……。まあ、ちょっとこれを見てください。あの犯人の女は喜屋武蛍子の知り合いというよりも、喜屋武の姪《めい》っ子の知り合いだったようです」
「喜屋武の姪っ子って、姉の子供で、今は別居しているという?」
郁馬は、弟から手渡された報告書らしきものに素早く目を通しながら聞いた。
「そうです。名前は照屋火呂。二十歳。東京の某私立大学の教育学部に在学中です。この姪が、あの知名という女とは幼なじみで、玉城村では、家も近所ということで、まるで姉妹のように育ったらしいんですよ。しかも、あの事件が起きる直前まで、二人でマンションを借りてルームシェアのようなことをしていたと」
「……」
「ただ、武様が巻き込まれた事件に関しては、知名という女が一人でやったことで、この照屋火呂という娘は何もかかわっていなかったようですから、あれは偶然にすぎなかったみたいですが」
智成はそう言って、
「でも、驚いたのは、その照屋火呂という娘のことなんです。この娘、玉城村ではちょっとした有名人だったらしいんですよ」
「有名人?」
「子供の頃から凄《すご》く歌がうまくて、沖縄の民謡コンクールでは最年少で優勝したこともあったそうです。それともう一つ、その娘には、子供の頃から、妙な噂があったというんです……」
「妙な噂?」
「海蛇《イラブー》の生まれ変わり、だという噂です。なんでも、生まれつき、片方の胸の上に薄紫の蛇の鱗《うろこ》模様の痣《あざ》があったために、そんな噂がたったとか……」
「なんだって」
郁馬は思わず声をあげた。
「しかも、それだけじゃないんです。八歳くらいの頃、海で溺《おぼ》れて死にかけた弟を生き返らせたという伝説があるそうです。そのせいか、神女《のろ》からは、『神の子』とまで呼ばれていたと……」
「弟を生き返らせたって……まさか、その娘に死人反生《しびとはんじよう》の能力があるということか?」
「さあ、そこまでは。ただの噂にすぎないのかもしれませんが。でも、僕もその報告書を読んで、まさかと思ったもんだから、この火呂という娘のことをもう少し調べてみたんです。あの事件以後、犯人の女が自殺してしまったこともあって、いったんは、叔母のマンションに戻ってきていたようなんですが、また別にワンルームマンションを借りて、そちらに移ったと聞き、その新居を探り当てて張り込んでいたら、ようやくこんなのが撮れました」
智成は、さらにバッグを探って、数枚のスナップ写真を取り出すと、それを兄に見せた。そこには、隠し撮りされたらしい、若い娘が写っていた。
「これは……」
その写真を一目見るなり、郁馬は驚いたように目を見開いた。
これは……日美香?
その写真を見て、郁馬はついそう口走りそうになった。
それほど、そこに写っていた若い女の顔は日美香に似ていた。
いや、違う。
髪形が全然違う。日美香は背中に届くくらいのストレートの長髪だが、この娘は、少年を思わせるショートカットだった。
それに、目鼻立ちはそっくりだったが、肌の色も違う。日美香は透き通るような色白の肌をしているが、こちらの方は、こんがりと日に焼けて小麦色をしている。
しかも、こちらの娘には化粧っ気が全くない。
非常に似てはいるが、別人であることは明らかだった。
これはどういうことだ……。
郁馬は、その写真を食い入るように見ながら、目まぐるしく頭を働かせた。
少なくとも、これは他人の空似などというものじゃない。それだけは確かだ。日美香と顔がそっくりで、年が同じで、しかも、同じように、片胸に蛇紋めいた痣があるなんて……。
ここまで似た赤の他人が存在するわけがない。
唯一、考えられるのは、この娘は……。
双子だ。一卵性双生児の片割れだ。
次兄の話では、日美香も、武同様、生まれたときは双生児だったが、妹にあたる方はすぐに死んだということだった。少なくとも、養母である女からそう聞かされて育ったと……。
しかし、そうではなかった。
妹は死んではいない。生まれてすぐに死んだというのは、養母がついた嘘だ。こうして生きている。なにゆえか、沖縄で育ち、成長して、日美香と同じ年になっている……。
「日美香様にそっくりでしょう? 僕もはじめて見たときは、カメラ取り落とすほどびっくりしたんです」
智成が言った。
「これは……たぶん、死んだと思われていた日美香様の双子の妹だ。それ以外に考えられない」
郁馬は呻《うめ》くように言った。
「僕もそう思いました。胸のお印の噂の報告を受けていなければ、世の中には似た人間もいるもんだなくらいにしか思わなかったでしょうが」
「ただ……一体どういう経緯で、この娘が沖縄で育つはめになったんだ? 日登美様が東京で出産されたあとすぐに亡くなって、そのとき同居人だった葛原八重という女に日美香様の方が引き取られたというのは分かるんだが、この娘の方は一体……」
郁馬は独り言のように言った。
もし、この娘が日美香の双子の妹だとしたら、当然、実母は倉橋日登美のはずで、この娘を沖縄で育てた女、つまり、喜屋武蛍子の姉という女性も養母にすぎなかったことになる……。
「そのへんの詳しい事情までは分からなかったんですが、報告書を読めば何か分かると思いますよ。照屋という一家の家族構成についても詳しく調べ上げてあるようですから」
智成が立ち上がりながら言った。
「そうか。じゃ、ゆっくり読んでみるよ。ご苦労だったな」
郁馬は弟をそう労《ねぎら》った。
「あ、それと、この件に関しては、こちらから兄さんには報告しておくから」
そう言うと、智成は、重荷をおろしたような顔になり、「ひとっ風呂浴びてくるかな」と言って、タオルを肩にかけ、部屋を出て行った。
部屋に一人残った郁馬は、本格的に報告書を読み始めた。
それによると、照屋火呂の戸籍上の父親は、照屋|憲市《けんいち》といって、沖縄玉城村で漁師をしていたようだが、昭和六十三年、漁船の転覆事故で海難死している。
その後、残された妻の照屋|康恵《やすえ》は、小学校の教師をやりながら、火呂と豪という二人の子供を育てていたが、こちらも、平成七年に末期癌による病死をしていた。
両親に先立たれた姉弟は、姉の方の大学進学をきっかけに、共に上京して、叔母にあたる喜屋武蛍子の元に居候するはめになった……。
しかし、これによると、火呂の出生地は玉城村ではなく、康恵が東京にいた頃に、未婚のまま生んだ私生児ということになっている。まだ赤ん坊だった火呂を連れて故郷の沖縄に帰ってきたあとで、照屋憲市と結婚し、やがて豪が生まれたということらしい。
未婚のまま生んだ私生児……?
もし、火呂が倉橋日登美の娘だとしたら、照屋康恵が東京にいた頃に、何らかの形で、日登美と接点をもち、彼女が産み落とした双子の片割れを引き取ったということか。
そして、葛原八重同様に、その子を実子として育てた……。
そう考えれば辻褄《つじつま》は合う。
それがどのような接点であったかまでは分からないが、東京のどこかに、当時、倉橋日登美、照屋康恵、葛原八重の三人の女たちが一点で交わる「場所」があったに違いない。
郁馬はそう確信した。
やはり、照屋火呂は日美香の双子の妹だ。これはもう間違いない。
そして、おそらく、日美香が、葛原八重の突然の事故死がきっかけで、その遺品から、出生の秘密を知ったように、この火呂という娘も、照屋康恵の病死がきっかけで、自分の出生について疑惑をもったのではないか。
それは康恵の遺品から感づいたのかもしれないし、あるいは、末期癌による病死ということからすると、養母が遺書か何かを残していたとも考えられる。
それで、実母や実母の生まれ故郷である日の本村のことをもっと知ろうとして、叔母である蛍子に相談したとしたら。そして、その叔母には、たまたま探偵社を営む別れた恋人がいた……。
そうか。
これで話がつながった。
なぜ、喜屋武蛍子が、元恋人の探偵を使ってまで、倉橋日登美やこの村のことを執拗《しつよう》に調べようとしていたのか。
その動機がようやくつかめた。
姪の出生の詳細を調べるためだったに違いない。
共に出版関係者ということで、てっきり、達川正輝の線かと思っていたが、そうではなかった。全く別のルートからだったのだ。
これは……。
すぐに次兄に報告しなければ。
郁馬は、そう思い立つと、報告書と写真を手にしたまま、逸《はや》る気持ちを抑えながら、立ち上がった。
日美香の双子の妹が生きていたとは。しかも、その娘の胸にもお印があるとは……。
物に動じない兄も、この報告にはびっくり仰天するだろう。
しかも、同時に、喜屋武蛍子がこの村にかかわってきた動機もこれで明らかになったのだから。
郁馬は、足音も荒々しく次兄の部屋へと向かった。
「兄さん。郁馬です」
部屋の外で声をかけると、すぐに「どうぞ」という返事があった。兄の声ではなかった。若い女の声だ。
この声……日美香か。
また家伝書を読みに兄の部屋に来ているのか。
そう思いながら、襖《ふすま》を開けると、案の定、卓の上には古文書が数冊置かれ、日美香の前には開いたノートがあり、手には万年筆をもっていた。何か書き留めていたらしい。
ただ、卓の向こうの兄の座には主はなかった。
「あの……兄さんは?」
そう聞くと、
「明日の大祭のことで、大日女《おおひるめ》様とお話しすることがあるとおっしゃって、物忌《ものい》みの方に行かれました。一時間ほどで戻るそうです」
ノートから顔をあげて、日美香はそう答えた。
なんだ。兄は留守か……。
「そうですか。それでは、また改めて……」
出直してくると言って、郁馬は、襖をしめかけた手をはたと止めた。
そうだ。
この件は日美香にとっても重大な知らせのはずだ。養母から死んだと聞かされた双子の妹が生きていると分かったのだから。
まず兄に報告と思ったが、先に日美香に知らせてもいいのではないか。
死んだと思い込んでいた妹が生きていたと知れば、さぞ喜ぶだろう。
日美香の喜ぶ顔が見たい。
兄に先に報告してしまえば、兄の口から告げられることになり、直接喜ぶ顔が見られなくなる……。
そう思いついた郁馬は、
「日美香様。実は、大変なことが分かったんです。これを見てください」
そう言って、中にはいると、智成が隠し撮りしてきた写真を見せた。
日美香は、やや怪訝《けげん》そうな顔つきで写真を受け取ると、ちらと視線を落とし、そこに写っているものを見て、はっとした表情になった。
「これは……」
愕然《がくぜん》としたように呟《つぶや》く。
「弟が撮ってきたんです。そこに写っているのは、照屋火呂といって、喜屋武蛍子の姪だそうです」
「……」
日美香はまだ写真に目を落としたままだった。
「あなたにそっくりでしょう? しかも、似ているだけじゃない。その女性にも、生まれつき片方の胸に蛇紋らしき痣《あざ》があるというんです。その人は、おそらく、あなたの双子の妹さんに間違いありません。妹さんは死んでなんかいなかった。生きていたんですよ」
郁馬は夢中でしゃべった。
次兄に頼まれて、末弟に沖縄での喜屋武蛍子に関する情報を集めさせていたことを説明してから、例の報告書も渡し、
「これに、照屋火呂の経歴が調べ上げてあります。これを読めば、生まれてすぐに死んだとされていた妹さんが、照屋康恵という女に引き取られて、沖縄で育ったらしいことが分かります……」
勢いこんでそう言うと、日美香は黙ったまま、報告書も受け取り、それに目を通し始めた。
「……それで、このことをお養父さんに?」
ざっと報告書に目を通すと、冷静な表情ですぐにそう訊《たず》ねた。
「ええ」
郁馬は頷《うなず》き、ややいぶかしげに日美香を見た。
意外だったのは、死んだと聞かされていたはずの双子の妹が生きていたと知っても、日美香がそのことにさほど驚きもせず、嬉しそうな顔も見せないことだった。
多少驚いたように見えたのは、写真を見せられたときだけだった。
報告書にもざっと目を通しただけで、質問らしいことは一切口にしようとしない。
双子の妹がなぜ照屋康恵という女に引き取られるはめになったのか。なぜ、養母はそのことを隠して、妹は死んだと嘘をついていたのか。疑問に思うことは沢山あるはずなのに……。
どうしてこんなに無関心でいられるのか。
双子の片割れの存在に興味がないのか。まさか、そんなことはあるまい。
それとも……。
郁馬の頭にある疑惑が閃《ひらめ》いた。
ひょっとして。
既に知っていた、のか? 双子の妹が生きていることを……。
「あの、もしかして、もうご存じだったんですか」
郁馬は思い切って聞いてみた。
「え?」
「妹さんが生きていることを……」
そう言うと、日美香は思案するような顔でじっと郁馬の顔を見返していたが、やがて、黙ったまま深く頷いた。
やはりそうか。既に知っていたのか。だから、こんなに冷静でいられたのか。
「いつ……それを?」
「二カ月くらい前です。照屋火呂と名乗る若い女性から突然電話をもらって、喫茶店で会ったんです」
日美香はそう言った。
そのとき、電話の主が持参してきた照屋康恵の遺書を読んで、目の前の若い女が、生き別れになっていた双子の妹であることをはじめて知ったのだと……。
遺書か。
照屋火呂の方は、養母の遺書を読んで、自分の出生の秘密を知ったのか。
それにしても、知っているどころか、その妹と会っていたとは……。
「彼女の方も、三年前に癌で亡くなったという康恵さんの遺書を読むまでは、康恵さんの実の娘だと信じていたらしいんです。でも、その遺書には……」
日美香はそう言って、そのとき見せられたという遺書の内容を話してくれた。
郁馬の推測通り、二十年前、倉橋日登美、照屋康恵、葛原八重の三人の女たちは東京のある場所で一点で交わっていた。それは、新宿の或《あ》る小さな産院だった。
倉橋日登美が通っていた産院に、当時まだ喜屋武康恵と名乗っていた照屋康恵も通っていたのである。
喜屋武康恵は、その春、冬山で遭難死した恋人の子供を身ごもっており、その子供を未婚のまま生もうとしていたらしい。ところが、子供は死産してしまい、その代わりに、同じ頃、同じ産院で出産した倉橋日登美の双子の片割れを自分の子として引き取ることにしたのだという。
こうして、倉橋日登美が産み落とした双子の女児は、一人は、日登美の仕事仲間であり同居人でもあった葛原八重という女に引き取られて和歌山で育ち、もう一人は、たまたま産院で知り合った喜屋武康恵という女に引き取られ、沖縄で育ったというわけだった。そして、二十年後、相次いで起こった二人の養母の死が、互いの存在すらも知らずに離れ離れに育った双子の姉妹を引き合わせる巡り合わせとなった……。
なるほど。
こういうことだったのか。
これで二十年前の事情は大かた分かったが、それにしても、腑《ふ》に落ちないのは、日美香の態度だった。
妹が生きていることを知りながら、しかも、その妹に会ってさえいながら、なぜ、今までそのことを隠していたのか。
自分はともかく、養父である次兄にまで……。
それがなんとも腑に落ちなかった。
そのことを聞きただそうと口を開きかけたとき、
「郁馬さんにお願いがあります」
突然、日美香が思い詰めたような表情で言った。
「このことは、お養父《とう》さんには内緒にしておいて欲しいのです」
「え?」
郁馬は面食らって聞き返した。
「兄には報告するなと言うのですか」
「そうです」
「なぜ……?」
「もし、お養父さんが妹のことを知れば、このまま放っておくことはないでしょう。きっと、どんな手を使ってでも、妹をこの村に取り戻そうとするでしょう。妹もまた、わたしと同じお印のある日女なのですから……」
日美香は、じっとまばたきもせずに郁馬の目を見つめたまま言った。
むろん、それはそうだろう。次兄がこのことを知れば、すぐにでも行動に移すに違いない。ひょっとしたら、既に両親を失っているのを幸いとばかりに、照屋火呂をも養女にしようとするかもしれない。
「妹の……今の生活を守ってやりたいんです。この村とは一生無縁の生活を送らせてやりたいんです。前に喫茶店で会ったとき、妹は将来の夢を語ってくれました。大学を出たら、沖縄に帰って、そこで小学校の教師になりたいと。小学校教師だった養母の遺志を継ぎたいのだそうです。そのささやかな夢をかなえさせてやりたいんです。そして、いつか好きな人ができたら、その人と結婚して子供を生んで……平凡でも普通の女としてのささやかな人生を歩んでほしい。お印のある日女などとは全く無縁の……」
「……」
「でも、もし、妹の存在がお養父さんに知られてしまえば、妹も否応《いやおう》なくこの村の野望に巻き込まれてしまう。妹を巻き込みたくない。わたしはいいんです。わたし自身が納得して選んだ道だから。葛原八重の娘として平凡に生きるのではなくて、倉橋日登美の娘として、お印のある日女としてこの村と共に生きると決めたのだから。この先、どんなことが起きようとも受け入れる覚悟はできています。でも、妹はそうじゃない。妹は、倉橋日登美の娘ではなく照屋康恵の娘として生きたい。そうわたしにはっきりと言いました。だから、このまま、妹のことはそっとしておいてやってほしいんです……」
「でも――」
郁馬はためらうように言った。
無理だ。こんな重大なことを知り得たのに、それを家長である次兄に知らせないというのは。
しかも、兄は、喜屋武蛍子がこの村にかかわってきた動機を知りたがっている。先日も、その動機を早く探って来いと発破をかけられたばかりだった。
照屋火呂のことに触れなければ、この件に関しても報告することができない……。
「やはり、兄には知らせなければ」
郁馬は苦渋に満ちた表情でそう答えると、
「そこを何とか。お願いです。あなたさえ黙っていてくれればいいんです」
日美香はすがるような目になって必死に食い下がった。
「しかし……」
できれば、密《ひそ》かに想っている女の願いを叶《かな》えてやりたい。かといって、あの兄を裏切るような行為はできない……。
郁馬の心は、激しく揺れていた。
「お願い……郁馬さん」
哀願するようにじっと見つめる目には、触れなば落ちんといった媚《こ》びすら含んでいた。
「……」
それでも黙っていると、
「それならば、こうしましょう」
日美香の声が一変した。弱々しく哀願するような調子から、突然、上段から物申すような、高圧的ともいえる口調になった。
「この報告書と写真はわたしが預かります」
そう言い切った目には、一瞬前までの哀願も媚びも拭《ぬぐ》ったようになかった。むしろ、それは冷ややかに命令する目であり、声だった。
「いや、そう言われても……」
「そして、わたしからお養父さんに報告します。それならば、文句はないでしょう?」
「で、でも、その件については、僕が兄から調べて来いと言われたことで、やはり僕自身が直接報告しないと……」
郁馬はしどろもどろになりながら言った。
「わたしが一時預かると言ってるんです。それとも、お養父さんの命令はきけても、同じお印をもつわたしの命令は聞けないというのですか」
「……」
「何をそんなに迷っているんです? 迷う事など何もないのに。先程も言ったでしょう? わたしはこの村と共に生きることを選んだと。そのわたしが、この村のためにならないことをするわけがないじゃありませんか。妹のことにしても、できれば、この村とは無縁の人生を歩んでほしいとは思っていますが、それでも、もし、妹をこの村に取り戻す必要があると判断したときは、進んでそうしますよ。だから、あなたは安心して、この件をわたしに任せてくれればいいんです……」
高圧的な命令口調の後は、まるで聞き分けのない幼児に向かって諭すような優しい口調になった。
「……分かりました」
郁馬はついに折れて言った。
「その報告書と写真は日美香様にお預けします」
全く大した女だ……。
部屋を出た郁馬は、廊下を歩きながら、感嘆しつつも苦々しく思っていた。
あの若さで、もう弄《あめ》と鞭《むち》を使い分けることを知っていやがる……。
媚びを含んだ泣き落としがきかないと分かると、さっと手のひらを返したように、命令的になり、しかも、最後には、その命令口調の後味の悪さを拭うように、赤子を諭すような優しい口調でしめくくるとは。
とても、二十歳やそこらの並の娘ができる芸当ではない。これまで知り合ったどんな女を思い返してみても、あのようなことを、半ば本能のように咄嗟《とつさ》にやってのけられる女などいなかった。
あの年頃の若い女にできることは、せいぜい媚びを含んだ哀願くらいまでで、それが駄目だとわかれば、あとは、めそめそ泣くしか能がない。
それを、あの女ときたら……。
こちらの方が年上だというのに、まるで相手の手のひらの上で弄《もてあそ》ばれたような気分だった。
もっとも……。
こちらだって、ああいう心理的な駆け引きに全く疎《うと》いわけじゃない。いかにも迷っているように粘ってみせたが、本当は、あのとき、もう少し「お願い」口調が続いたら、渋々という風を装って折れるつもりだった。
こんな重大なことを次兄にすぐに知らせないということは、今までの自分だったら到底考えられないような背信行為だったが、武のお印の件があって以来、次兄への信頼も忠誠心も根底から揺らいでしまっている。
兄とは一心同体だと思っていた。単なる弟の一人ではなく、後継者として見込まれたのだと。だからこそ、その期待に少しでも応《こた》えようと努力もしてきた。兄の片腕に成り切ろうと思ってきた。
でも所詮《しよせん》……。
もっと兄の意に適《かな》った後継者が現れれば、自分など、用済みとばかりにあっさり見捨てられる程度の存在に過ぎなかったのだ。武の件で、そのことをまざまざと思い知らされた。そうと分かった以上、忠犬のように一途《いちず》に尽くすのは馬鹿らしい……。
それに、もし、今回の件が、いずれどこからか兄の耳に入り、なぜすぐに報告しなかったと叱責《しつせき》を受けたとしても、日美香に頼まれて仕方なくそうしたのだと言い訳すれば、それ以上の責めを負うこともないはずだ。
実の娘でもここまではと思うほど、兄は、日美香のことを愛し大切にしている。その愛娘がしたことなら、多少は大目に見ようとするだろう。ひどく叱責《しつせき》するようなこともあるまい。
まあ、この件は後でばれたところで、大したこともなく収まるに違いない。
それより、ここは、兄の命令を無視してでも、日美香の願いの方を受け入れ、二人だけの秘密をもった方が得策かもしれない。二人だけの秘密をもつということは、これまでつけ入る隙を全く見せなかった女の隙を見つけたということであり、弱みを握ったも同然なのだから……。
苦渋に満ちた表情で押し黙っていたときも、郁馬の耳元では、彼の中に棲《す》みついた狡猾《こうかつ》な悪魔がそう囁《ささや》き続けていた。そして、心の天秤《てんびん》は、実は、見かけよりも、たやすく女の方に傾いていた。
ただ……。
一つ引っ掛かっていることがあった。
日美香が双子の妹の存在を養父に知らせたくないと思ったのは、本当に口にしただけの理由からなのか。
妹をこの村の野望に巻き込みたくない。平凡でもささやかな人生を送らせてやりたい。
そう語った彼女の言葉が全部嘘だとは思わなかったが、同時に、理由はそれだけかと問い返したくなるほど胡散臭《うさんくさ》いものも感じていた。言っていることが奇麗事すぎる。
妹のことは養父には黙っていてほしい。
そう哀願したときの目の色には演技とは思えないほど必死な色があった。まるで命|乞《ご》いでもするような目だった。
たとえ、それが家族だろうが恋人だろうが、他人を守るためにあんな必死な目ができるだろうか。誰しも自分が一番可愛いはずだ。もし、できるとしたら、我が身と同様かそれ以上に愛している人間のためくらいのものだろう。それも絶対にないとは言えないが、滅多にあることじゃない。
いくら双子の片割れとはいえ、一度しか会ったことのない妹をそれほど愛しているとはとても思えなかった。妹の人生を守ってやろうと必死で願うほどに。
だとしたら……。
あんな必死な目をする別の理由があるはずだ。
大体、もし、照屋火呂のことが兄に知られたとしても、日美香が心配するほどの危険がそこにあるだろうか。もう一人お印のある娘が見つかったからといって、別に取って食おうというわけではない。
それどころか、あの兄のことだから、お印をもつ日女《ひるめ》として、日美香同様、この娘も全力で保護するような手を打つだろう。
危険どころか、守られるのだ。
両親をなくして、身内といったら何の頼りにもならない高校生の弟と独身の叔母だけという、後ろ盾などないにも等しい環境よりも、遥《はる》かに強力なシェルターで囲ってやろうというのだ。
それに、次兄と養子縁組を結べば、必然的に、財力だけでなく最高権力まで手に入れつつある長兄の庇護《ひご》さえも容易に受けることができるようになる。
むろん、そのためには、お印のある日女として、多少の不自由さと使命は受け入れなくてはならないだろうが、そのことを差し引いても、あまりある恩恵をこうむることができるのだ。
財力と権力を後ろ盾にすれば、将来の「夢」だってもっと限りなく広がるはずだ。小学校の教師などという、夢とも言えないようなちっぽけな夢ではなく、今までは頭に思い描くことすらあきらめていたような、もっと広大な夢だって見ることができる。
実際のところ、日美香が良い見本だ。養母が死ぬ前までは、大学の薬学部を出たら、将来は薬剤師になるというきわめて現実的でささやかな夢をもっていたはずだ。しかし、今の彼女の頭に、そんなちっぽけな夢など片鱗《へんりん》すら残っていないだろう。もっと壮大な可能性に立ち向かえるだけの後ろ盾を手にいれたのだから。
それなのに……。
日美香のしようとしていることは、妹を守るどころか、そうした強力な後ろ盾から妹を遠ざけることでしかないではないか。
まるで、妹にも等分に分かち与えられるべき恩恵と栄光を自分一人で独占していたいとでもいうように……。
そうか。
郁馬の口の端に引き攣《つ》ったような笑みが浮かんだ。
独占したいのか。
それが真の理由か。
彼女があのとき、なぜあんな真剣な目をしたのか分かった。
妹のためなんかじゃない。それはほかならぬ自分自身のため。自分の保身と貪欲《どんよく》さのためからだ。
ようするに、彼女は手にした甘美なお菓子を誰にも分け与えたくないのだ。自分一人で全部食べてしまいたいのだ。
なんだ……。
結局、そういうことか。
誰の手も届かないような高みで、気高く咲き誇っている純白の花に、おそるおそる近づいて、よくよく見たら、その疵《きず》一つなく真っ白に見えた花弁の裏に黒い虫食いの跡を見つけた……。
そんな気分だった。
でも、これでいい。
この方がむしろ良い。
清らかすぎる花ではさすがに気が引けて手が出せないが、我欲で少し汚れた花ならば、かえって手折りやすいというものだ……。
郁馬はほくそ笑んだ。
そうだ。
智成に口止めをしておかなければ。
弟の口から兄の耳に入ったらまずい。
郁馬はそう思いつくと、そのまま、自分の部屋に戻った。ひと風呂《ふろ》浴びに行った弟を部屋で待つつもりだった。
他の兄弟たちが知り得たことは、兄の片腕的存在である自分が聞いておいて、それをまとめて兄に知らせるというシステムがいつの間にかできあがっていたから、パイプ役である自分を差し置いて、末弟が次兄にじかに話をするという可能性はないにも等しかったが、それでも、念のため、釘《くぎ》をさしておこうと思ったのである。
それと、もう一つ、弟に密《ひそ》かに頼みたいことがあった。
部屋で待っていると、しばらくして智成が戻ってきた。
「ああ、良い風呂だった……」
血色の良い顔で満足そうに言いながら入ってきた弟に、
「例の件、兄さんに報告しておいたよ」
と、郁馬は何食わぬ顔で切り出した。
「そうですか。で、兄さんはなんて?」
弟は別に怪しむ風もなく、濡《ぬ》れたタオルを窓辺につるしたハンガーに掛けながら聞いた。
「……この件については、後でじっくり対策を考えるとおっしゃってたよ。それまではうちの者にも伏せておけと。今は大祭のことで頭が一杯なんだろう。だから、兄さんから何かお達しがあるまで、このことは、これだぞ。いいな?」
唇に人差し指を当てるジェスチャーをしてそう言うと、智成は、「分かった」というように大きく頷《うなず》いた。
「あ、それとな……」
郁馬はさらに何食わぬ顔で続けた。
「喜屋武蛍子のことだが……やはり、このままにはしておけないそうだ」
「……というと?」
智成の顔が俄《にわか》に引き締まった。
「今、日の本寺に鏑木という東京のカメラマンが雑誌の取材という名目で滞在しているんだが、どうも、これが怪しい。ご住職に探ってもらったところでは、喜屋武蛍子が送り込んできた男らしい」
「……」
「照屋火呂の件で、あの女がこの村にかかわってきた動機も判明したし、これ以上、あの女を泳がせておく必要もなくなった。このまま放っておくと、この村に関して、姪《めい》によからぬことを吹き込むかもしれない。そうなると、将来、照屋火呂をこちら側に引き込む際に何かと不都合になる。それで、大祭が終わったあとでいいから、何らかの方法を使って、あの女を始末しろと……」
「兄さんがそうおっしゃったんですか」
智成は少し驚いたように聞いた。
「そうだ」
そうではないが、もし、兄が照屋火呂の一件を知れば、同じことを考え実行するに決まっている。これは決して勇み足ではない。兄のふだんの思考パターンを読んで、少し早めに手を回しておくだけだ……。
郁馬は心の中でそう言い訳した。
「しかし、何らかの方法と言われても」
智成はとまどったように呟《つぶや》いた。
「達川のときのように、自殺か事故にでも見せ掛けろということだろう」
「でも、あの女を自殺を装って……というのはちょっと難しいかもしれませんよ。達川のときは、一人暮らしの上に、たまたま失職と離婚という自殺の動機になりそうな要因がありましたが、あの女には、いくら身辺を洗っても、そういう要素が全くないですからね。それに、高校生の甥っ子と二人暮らしだし……」
「今回は事故という線が無難だろうな。達川に続いてまた自殺では、怪しむ者が出てくるだろうし。誰にでも日常的に起こり得るありふれた事故。交通事故あたりがいいかもしれないな。例えば、勤め帰りの道すがら、運悪く暴走してきた車に轢《ひ》き逃げされるとかな」
「……」
「雨の日にでも狙ってやれば、悪天候ゆえの不運なアクシデントということで片付けられるだろう……」
ああ、危ないところだった……。
郁馬が立ち去ったあと、日美香は、例の報告書をもう一度読み返しながら胸をなでおろしていた。
聖二が留守のときでよかった。こんなものを先に見られていたら……。
喜屋武蛍子の身辺を探っていれば、いずれ姪である妹のことも知られてしまうのではないか。そういう不安は前々からあった。
でも、これで、しばらくは、妹の存在が聖二に知られる心配はなくなった。郁馬は聖二の片腕のような存在だから、郁馬さえ懐柔しておけば、たとえ他からこの件が耳に入りそうになっても、郁馬という壁で阻止できる。
とはいうものの、いつまでこの男の口を封じていられるか分からないが、「報告書と写真は日美香様にお預けする」と言ったときの郁馬の目つきには、どこか秘密の悪事に加担する共犯者めいたところがあった。彼は思ったよりも兄に忠実というわけではないようだ。それならばかえって都合が良い。なんとか、あの男をこちらに引き込んで、この件は隠し通そう……。
この報告書と写真は、誰かに見られる前に処分してしまわなければ。
そう思いつき、聖二が戻ってくる前に、それを自分の部屋に持っていこうと立ち上がりかけたとき、廊下の方から足音が聞こえてきた。
日美香は、咄嗟《とつさ》に、手にした報告書を二つに畳んで、卓の上にあったノートに挟むとそれを閉じた。
そして、報告書と写真を挟み込んだノートを素早くおろすと同時に、襖が開いて、聖二が入ってきた。
慌てて手近の古文書を引き寄せ、それを読んでいた振りをした。
「……何か解らないところはありましたか」
聖二は、部屋に入ってくると、自分の座に座り、すぐにそう聞いた。
日美香の幾分あわてふためいた行動に気づいた風はなかった。
「いえ、別に……それより、お養父《とう》さんにぜひうかがいたいことがあるんです」
少し息を整えてから、何食わぬ顔で言った。
「何です?」
「転生ということについてです」
「……」
「昼間、耀子さんから少し伺ったのですが……」
そう言って、この古くから伝わる物部の特殊能力について、耀子から知り得たことを話し、
「……お養父さんも、曾祖父《そうそふ》にあたる人の転生者だと聞きましたが、それは本当でしょうか」
そう聞くと、聖二は、なぜそんなことを急に知りたがるのかと探るような表情で、日美香の顔をじっと見つめ返していたが、少し間があって、「本当です」とだけ答えた。
「その曾祖父という方は……?」
さらに聞きかけると、
「あそこにいるよ」
と言って、聖二は、和洋折衷の書斎の壁に掛かっていた一枚の大きな油絵を指さした。
日美香は一瞬「え」という顔で、その指さす方を見た。
それは、三十歳半ばくらいに見える男の胸から上の肖像画だった。この部屋にはじめて入ったときから、その時代がかって煤《すす》けた油絵のことは目に入っていたのだが、てっきり、聖二自身の肖像画だと思い込んでいた。
それほど、油絵の男は聖二に似ていた。
ただ、唯一違うのは、絵の男には口髭《くちひげ》がたくわえられていたことだった。
「これが……?」
「曾祖父の神崇高《みわむねたか》だ。よく私と間違われるんだが」
「そっくりですね……」
「まるで双子かクローンのように似ているのが転生者の特徴なんだよ。この絵は、当時まだ油絵が珍しかった時代に、たまたま曾祖父の学生時代の知り合いに洋画家を志している男がいて、その人に描いてもらったそうだ」
そう言われて見れば、その絵はどこか、今風の油絵とは違っている。技法がひどく写実的で古めかしいというか……。
「この大御祖父様《おおおじいさま》の記憶のようなものがありますか。たとえば、ご自分が知らないはずのことを知っていたり、とても古いものを見たり使ったりした記憶があるとか」
「薄ぼんやりとだが、曾祖父だった頃の記憶はあるね。例えば、この絵を描いて貰《もら》ったときの記憶も微《かす》かにある。友人の画家をこの家に招んで……。油絵具は部屋が汚れるというので、板敷きの上に新聞紙をびっしりと敷きつめて描いたこととか、部屋中に充満した油絵具の臭いとか。そういう記憶が微かにあるものだから、なんとなく懐かしくて、私が生まれる前は応接間に飾ってあったものを、こうして自分の部屋に飾っているんだ」
聖二はそう言い、
「この絵についても、曾祖父は、地方の名士とか言われる連中がやるような自己顕示欲で描かせたわけではなくて、ちゃんと目的があったようだね。そのことは、家伝の中にも、曾祖父自らの手で記されている」
「絵を描かせる目的?」
「後の転生者に自らの存在を絵姿にして知らしめるためだ。転生者の記憶の大かたは、出生と同時に失われてしまうので、絵か写真で姿を残しておくしかないんだ。そうすれば、それらを見て、自分がその人物の転生者であるかどうか確信がもてるからね。私もこの絵を見て、自分が曾祖父の転生者であることを知ったんだよ。
曾祖父は、歴代の宮司の中でも、生まれついての学者というか、非常に知的探求心の旺盛《おうせい》な人だったらしく、転生というものを純粋に研究対象として考えていたようだ。しかも、その日記によれば、曾祖父自身が先代の日子の転生者である記憶を持っていたようで、よけい、転生の秘術には強い興味を抱いていたのだろう」
聖二はそう語り、曾祖父が、五十歳の誕生日を迎えた朝に突然死したことを話した。
「突然死?」
「今で言えば、心臓発作のようなものだね。朝、いつまでたっても起きてこないので、家人が起こしに行くと、布団の中で既に冷たい骸《むくろ》と化していたそうだ。見かけは自然死のように見えるが、これは明らかに自死だ」
「自死って……自殺ってことですか」
日美香は驚いて聞き返した。
「自殺といっても、首を吊《つ》るとか薬を大量に飲むとかの自殺とは全く意味が違うが。自らの意志で古い衣を脱ぎ捨てたということだ」
「古い衣……」
「肉体のことだよ。転生の能力をもつ者にとっては、死とは終わりではないんだ。古い肉体を捨てること。季節ごとの衣替えのようなもの、あるいは蛇の脱皮のようなもの。肉体というのは魂魄《こんぱく》を包んでいる皮にすぎない。それを次々と脱ぎ捨て新しくしていくことで、魂魄は半永久的に生き続けるんだよ。
我々|物部《もののべ》が古くから蛇を祀《まつ》り、蛇神族と言われてきたのも、この蛇の特性と同じ脱皮の能力を持つ者が長《おさ》として君臨してきた部族だったからだ。
いうなれば、最近何かと話題になっているクローン技術を、医者の力を借りずに、自らの呪力《じゆりよく》だけで成し遂げることを、物部の長は、遥《はる》か太古より行ってきたということだ。自分自身のクローンを次々と造り続けてきたわけだから。
むろん、これは物部の長なら誰でもできるという術ではなくて、日子の中でも、よほど高い能力と好条件に恵まれないと、成功しない難しい術と言われているので、衣替えのように何時でも気安くできるものではないのだが」
「つまり……日子のお印というのは、転生者の印でもあるということですか?」
「それはいちがいには言えないね。武のような例もあるし……。お印のある者が必ずしも転生者ではないだろうし、また、逆に、転生者が必ずお印をもって生まれるとは限らない。ただ、日子にはこの転生の能力が最も強く備わっている、とは言われているが。
たとえば、家伝をざっと読めば、お印のある宮司の寿命は、他の宮司に較べて短いことが分かる。一番長く生きた者で、五十歳が限界だ。例の曾祖父だよ。今のところ、五十歳以上まで生きた者はいない。
これには理由があるんだ。転生の術を行うには、気力だけでなく、気力を支える体力も当然必要になる。あまり高齢になりすぎてしまうと、この体力が急激に落ちて、術を成功するのに必要な最低限の気力を出すことができなくなる恐れがある。
もし、病に蝕《むしば》まれず健康体のまま永らえたとしても、五十歳までの体力が限界と考えられていたのだろう。昔は、敦盛《あつもり》の歌にもあるように、『人間五十年』などと言われていたからね。
だから、多くの日子は、天命を無視して、五十歳を寿命と自ら定めた。曾祖父もその一人だった。この曾祖父が遺書のような形で、五十歳の誕生日を迎えた日に、自らの意志で転生の秘術をついに試すという決意を書き残しているんだ。
家伝や他の文献などの資料だけからは確実なことは言えないが、もし、これまで、日子と呼ばれる者が全て、死の間際に転生に挑んで成功させていたと仮定したら、結局、この私を含めて『日子』と呼ばれてきた者は全て、最初の転生者のクローンに過ぎないともいえるね。つまり、同じ魂魄が肉体だけを変えてずっと生き続けてきたと……」
聖二はそんなことを、やや夢見るような目で語ったあと、すぐに現実に戻ったような顔つきになって、
「こうした転生や死人反生《しびとはんじよう》のことは、物部神道の核心でもあるので、いずれ詳しくお話ししようと思っていたのだが……」
と日美香の顔をじっと見ながら言った。
「どうして急に転生のことなど、知りたくなったのです?」
「それは……」
日美香はスカートのポケットを探って、武の部屋から見つけてきた例の白黒写真を取り出すと、それを聖二に見せた。
「こんなものを見つけたからです。それを見ていたら、とても懐かしいような気持ちになって、それで、その写真のことを耀子さんに伺ったのです。そこに写っている女の子が耀子さんではないかと思ったものですから。そうしたら、耀子さんが、転生ということを教えてくれたんです。そして、もっと知りたければ、あとはお養父《とう》さんに聞けばいいと」
「……」
写真を見ている聖二の顔には、驚いているというほどではなかったが、何らかの感情を動かされたような表情が浮かんでいた。
「そこに写っている女性は、わたしには祖母にあたる人で、お養父さんにとっては、実のお母様にあたる人ですよね……?」
そう聞くと、
「……そうです。母のそばにいるのは私だ」
写真に目を落としたまま、呟《つぶや》くように言った。
「わたしもどうやら……」
日美香は思い切って言った。
「そこに写っている女性の転生者のようなのです」
聖二は、弾《はじ》かれたように写真から顔をあげた。
しかし、その顔には驚愕《きようがく》の色はなかった。
むしろ、「やはり……」というような色があった。
「驚かれないのですね。それとも、信じられませんか」
「いや……」
穴のあくほど、日美香の顔を見つめていた聖二は、我にかえったように言った。
「驚かなかったのは、私もそのような疑いをもっていたからだ。あなたが日女なのにお印があると知ったときから、もしや……と。
さきほども言ったように、お印があること自体がそのまま転生者の証《あか》しとは思わないが、その可能性は高い。そして、もし、あなたが誰かの転生者だとしたら、それは、もしかしたら母ではないか、と思っていた。この写真を見ても分かるように、あなたは母に生き写しだ。それに……」
聖二はそう言って、ふと視線を、卓の上にあった或《あ》るものに移した。
「あなたはこの部屋に初めて来たとき、そこのお手玉を手に取って、『懐かしい』と言ったでしょう?」
日美香もつられて視線をその物に移した。そこには、メモ用の紙の束を押さえるように、一つの古いお手玉がポンと載せられていた。手垢《てあか》で黒ずんではいたが、作られた頃は鮮やかだったと思われる紅絹《もみ》のお手玉だった。
中年男の部屋に紅絹のお手玉という妙な組み合わせに、つい目を止めたのだが、それを見ていると、ふいに「懐かしい……」という感情がこみあげてきて、思わず手にとり、そう口に出してしまった。
日美香は思い出していた。
あのとき、聖二は、男の部屋に、そんな女子供が使うようなお手玉があることに少し照れたのか、「娘が遊んだものか、座敷に落ちていたので文鎮がわりに使っている。中に小豆が入っているので、重さがちょうどいい」などと弁解めいたことを言っていたのだが……。
「それは、母が作って、よく遊んでいたものだそうだ。あなたがそれを見て『懐かしい』と言ったとき、もしやと思った。でも、あのときは、今時あまりお目にかからなくなった古いものを見て懐かしがっただけかと思って、それ以上は聞かなかったのだが。そのお手玉に何か記憶がありますか……?」
そう言って、じっと息をつめて窺《うかが》うような表情で日美香を見た。
「あります。こうして触ったときの絹のすべらかな感触。こうして手で受け止めたときの中に入った小豆の重さ。覚えています。この感触を」
日美香は、熱に浮かされたようにそう言って、お手玉を手に取ると、それを宙に放り投げて受け止めた。
この感触に確かにおぼえがある。遠い昔、こうして繰り返し遊んだ記憶が……。
「小さい頃の記憶ではないと思います。人形遊びやままごとをした記憶ははっきりとありますが、お手玉をした記憶はありません。養母に買ってもらったおもちゃの中にお手玉はなかったし……。これは、ここに来て思い出した感触です」
そういうと、
「ちょっと待っててくれ」
この男にしては珍しく慌てたような口調でそういうと、いきなり座を立ち、書斎に隣接する和室の方に入って行った。奥で何かごそごそと探していたが、何やら手にして戻ってきた。
「これに見覚えはないか」
そう言って、差し出したのは、一体の古い人形だった。人形といっても、市販のものではなく、手作りらしかった。それもあまり器用な人が作ったものではないような、胴体に四本の手足、綿を詰めた顔らしき部分には、シャツか何かの黒いボタンが二つ、目のように縫い付けてあるだけの、恐ろしくシンプルな襤褸《ぼろ》人形だった。
布地が手垢で汚れ、ところどころ破けて中の綿がはみ出している。手にとって見てみると、ボタンの両目を止めている糸の色が左右で違う。おそらく、ボタンが取れるたびに繕い直したあとと思われた。その人形の汚れ具合と繕い具合から見て、それは、かなり長い年月、持ち主に愛されていたように思われた。
「……覚えています」
日美香は呻《うめ》くように言った。
その襤褸人形を見たとたん、何とも言えない、今までに味わったことのないような感情の炎に全身を包まれていた。
「これは……わたしが……わたしが作ったものです。あなたが二歳になったばかりのときに。お手玉のようにうまくは作れなくて、夜なべして、何度も何度も縫い直して」
日美香は、殆《ほとん》どうわ言のようにそう口走っていた。
口走りながら、わけもなく涙があふれてくる……。
まるで、それは、この一体の襤褸人形を見たとたん、今まで自分の中で眠っていた別の人格が突如目覚め、神日美香という人格を押しのけて出てきた。そんな感じだった。そして、その人格というのは、おそらく……。
泣いているのは自分なのか、その人なのか、それすらも分からないまま、ただ突然身内で吹き荒れる感情の嵐に弄《もてあそ》ばれながら、
「これをまだ持っていてくれたのですか。捨てもせず……。わたしはあなたを捨てるようにしてここを出て行ったというのに」
日美香、いや、日美香の中に突然目覚めた人格が叫ぶように言った。
「いいえ、捨てたんじゃない。決して捨てたんじゃない。あのときはああするしかなかったんです。若日女《わかひるめ》に選ばれた日登美を助けるためにはああするしか。本当はあなたも連れて行きたかった。でも、日子様であるあなたを、次代の宮司と定められていたあなたを連れて行くわけにはいかなかった。残して行くしかなかった。でも、あなたのことは片時も忘れたことはなかった。ずっと帰りたかった。この村にこの家に、あなたの所に……」
「僕だって」
こちらを凝視していた男の目からも一筋の涙が零《こぼ》れ落ちようとしていた。
「ずっと待っていたんだ。あなたがいつか帰ってくるのを。あの一の鳥居のところで、毎日毎日、暗くなるまで待っていたんだ……」
その目は、今まで養父と仰ぎ見てきた中年男の、時には冷酷に見えるほど世知|長《た》けて理性的な目ではなかった。
それはまるで……。
迷子になって途方に暮れていた子供が、ようやく迎えにきてくれた母親を見つけたような、そんな幼子の目をしていた。
一瞬、向き合った二人の間に奇妙な時間が流れた。
それまでの二人の立場が逆転してしまったかのような摩訶《まか》不思議な時間だった。
若干二十歳の娘が、二十八歳も年上の中年男を、まるで年端のいかない子供を見るような愛《いと》しげな目で見下ろしており、男の方は、そんな若い女を、まるで母でも見るように、無限の憧《あこが》れをこめて、仰ぎ見ていた。
「……間違いない。あなたは母の転生者だ」
そんな時間がしばし流れ、それでも、先に現実感覚を取り戻したのは、男の方だった。そう呟《つぶや》いた声にも目にも、もはや幼子のようなあどけない色はなかった。
「……わたし、今一体何を……」
いち早く現実に引き戻された相手につられたように、日美香も、はっと我にかえったように言った。
何をしゃべったのかは覚えていたが、それらの言葉を発したのが自分自身であるという実感が全くなかった。誰かがしゃべっているのを少し離れた所でボンヤリと聞いていた。そんな感覚しかない。
催眠術にでもかけられていて、それから覚めたような変な気分だった。
「今、自分が口にしたことを覚えていませんか……?」
聖二はやや不安そうに聞いた。
「いいえ。覚えてはいるのですが、なんだか、自分がしゃべったのではないような変な気持ちがして……」
日美香はうろたえながらそう答えるしかなかった。
「……日女にも転生の能力があったのか。おそらく、母は死病に罹《かか》り、いまわの際に、この村を捨てたことを心から後悔し、もう一度帰りたいと強く念じたのだろう。その強い念が、日子以外には難しいとされている転生の秘術を成功させたのです」
聖二はそう言い、
「そうか。これで、あなたがなぜ双子で生まれてきたのか分かった」
と何かひらめいたような顔で付け加えた。
「え……」
養父の口から双子の話が出たことに、日美香はぎょっとした。一瞬、まさか、郁馬が約束を破って、妹の事を話してしまったのではないかという疑いを抱いたのだ。
しかし、そのあと、聖二がどこか満足げな表情でこう続けたので、身構えるようにして聞いていた日美香は、ほっとして肩の力を抜いた。
「いまわの際に母の想いは真っ二つに引き裂かれたのかもしれない。このまま、倉橋徹三の元で幼い日登美の成長を見守りながら平凡に暮らしたいという想いと、故郷の村に帰り、再び日女としての使命を果たしたいという想いと。その二つに引き裂かれた念が、その後、日登美の体内に侵入したあとも続き、それが一つの受精卵を真っ二つに分裂させ、一卵性の双子という形態を形づくったのかもしれない。
そして、出生と同時に、あなたの方だけが生き残り、もう一方が死んでしまったということは、二つに引き裂かれた念のうち、この村に帰りたいという念の方がより強かったということに他ならない。
若日女に決まっていた赤ん坊を連れて逃げるなどという、日女にあるまじき大罪を犯した母でしたが、最期《さいご》には、やはり日女としての誇りと自覚を取り戻してくれたということでしょう」
違う。片割れの妹は死んではいない。生きている……。
日美香は心の中でそう呟いていた。
ということは、日女としてではなく、普通の平凡な女として生きたいと願った緋佐子の最期の想いは、決して弱かったわけではなく、今もなお生き続けているということだ。双子の妹の照屋火呂という女の形となって……。
やはり……。
わたしは日女としてこの村と共に生き、火呂はこの村とは全く無縁の生き方をする。
それがわたし自身、火呂自身、そして何よりも、一番祖母の心にもかなうことなのかもしれない。
そんなことを考えていると、
「そうだ。それともう一つ……」
聖二が言った。
「あなたが母の転生者だと分かったからには、あなたと武は異母姉弟《きようだい》ではなかったということになる。つまり、あなたの父親は兄ではない。この理屈がお解りですか?」
「え……」
耀子から聞いた転生の仕組みを思い出して、聖二の言わんとすることをなんとか理解しようと頭を働かせていると、
「なぜなら、あなたは母自身だからだ。母の再生した姿だからです。魂だけでなく肉体そのものも。母の魂魄《こんぱく》が日登美の体内の受精卵に侵入して転生を成功させた時点で、その受精卵が本来もっていた遺伝子情報は全て母の念によって書き換えられてしまったからです。書き換えられる前の受精卵の精子の主が誰かなどと詮索《せんさく》しても意味がない。それは兄であったかもしれないし、他の男だったかもしれない。理解できますか? 私の言わんとすることが?」
聖二はもどかしげに言った。
「……なんとなく」
「あなたの母親が、卵子の持ち主であり母体となった日登美であることは間違いないのだが、父親に関しては、誰かと探索すること自体が無意味なんだよ。どうしても詮索したければ、あなたの祖母の父親が誰であったかを探らなければならなくなる……」
「解ります」
「あなたがどことなく兄に似ているのは、兄の娘だからではなく、それは我々一族に共通して伝わる遺伝子のせいだったんだろう。血液型から矛盾がなかったのも単なる偶然にすぎなかったんだよ」
「それでは……わたしは武をもう異母弟《おとうと》と思わなくてもいいんですね」
「そうだ。異母弟じゃないんだから。しいていえば、彼は、あなたにとっては甥《おい》の息子ということになる。親戚《しんせき》であることに変わりはないが、異母弟というほど近いものではない。もう近親|相姦《そうかん》のタブーを犯すという心理的プレッシャーに悩む必要は全くないということです。それは、明日の夜の神事においても……」
聖二はそう言って、気のせいか、少し苦い表情をした。
「よく解りました……」
「ついでに言ってしまうと」
聖二は続けた。
「明治政府の『淫祠《いんし》』取り締まりの厳しい目を逃れ、こうした性儀式を伴う『神迎え神事』が廃《すた》れずに今日まで脈々と続けられてきたのは、実は、この転生の問題も大きくからんでいるのです。一年に一度必ず行われる儀式は、空をさ迷う先祖の魂魄に転生のチャンスを一度でも多く与えるためでもあるのだから。
いくら高度の能力をもっていても、受精したばかりの母体を提供されないことには、転生のしようがない。それが見つからない限りは、肉体を離れた魂魄は新たな住処《すみか》を見つけて何世代も空しくさ迷い続けるしかない。
それを避けるために、年に一度、決まった時期に決まった時間決まった場所で、日女に受精の機会を与えることで、空をさ迷う魂魄にも、定期的に転生の機会を与えてきたということなのです。
『神迎え神事』とは、何も知らないよそ者から見れば、何やら淫靡《いんび》で怪しげな儀式にしか見えないだろうが、この村にとっては、単なる風習ではなく、様々な意味できわめて理に適《かな》った、これからも絶やすことのできない重要な儀式なんだ……」
聖二はそうしめくくると、腕時計をちらと眺め、
「……さて。少し早いが今夜はこのへんにしておこうか。明日は早朝から何かと忙しいから。私も少し疲れた。あなたも今夜は早く休んだ方がいい」
そう言い、卓の上に散らばっていた数冊の古文書を集めはじめた。
「あの……あと一つだけうかがいたいことがあります」
傍らに置いておいた例のノートを胸に抱え、立ち上がりかけた日美香は思い出したように言った。
「この件については、祭りが終わった後にでも、またゆっくり。だから今夜はもう――」
「お養父《とう》さんも、ご自分の寿命を五十年と既に定めているのですか」
聖二の言葉を遮るようにして、日美香は真剣な表情で聞いた。
「……」
「さきほど、お印のある宮司は、自らの寿命を五十年と決めている。だから、五十歳以上生きた人がいないと……。お養父さんもそうなのですか。大御祖父様《おおおじいさま》のように、五十歳の誕生日を迎えた日に、まさか自死などという形で」
五十歳といったら、あと二年しか残されていないではないか。いくら転生に成功すれば来世に生きることができるとはいえ、現世での生はそこで確実に終わる。残された家族にとっては、その人の死以外のなにものでもない。
たとえ魂は生きていると言われても、肉体は荼毘《だび》に付され、骨しか残らない……。
「そんなの嫌です! やっとこうして会えたというのに。あと二年しか一緒にいられないなんて」
「そのことなら心配する必要はない。今のところ、私は、曾祖父のようなことは全く考えていないから」
聖二はそう言って笑った。
「でも……」
「五十年というのは、あくまでも曾祖父が生きていた時代の常識から割り出した数字なんだよ。あれから一世紀近くがたって、生活環境が当時とは全く違う。人間の寿命も大幅に伸びたし、もう『人間五十年』などという言葉が通用する時代ではない。
それに、私には、この現世で、やりたいことがまだまだある。兄が政権を取るのをこの目で確かめたいし、すべてを後二年足らずでやり遂げるのは不可能に近い。こんなにも現世に執着したまま、転生の術を試したとしても、おそらく失敗に終わるだろう。失敗すれば、ただの自殺と同じことになってしまう。そんな危険な賭《か》けをする気はないよ。
転生を成功させるには、一見矛盾するようだが、生への執着は強く持ちながら、現世への執着は捨てなければならない。母が転生に成功したのは、死病に罹り、たとえ現世に止まりたくても間近に死が迫っているという、いわば崖《がけ》っぷちの状態で、強く生を望んだからだろうし、曾祖父の場合は、生への執着はあっても、現世への執着はあまりなかったからだろう。やり残したと思うこともなく、後に残していく家族や友人への想いも薄かったに違いない。だからこそ、成功できたのだ。私は曾祖父とは違う。私が曾祖父のように髭《ひげ》をたくわえないのも、それを示すためだ。姿形は同じでも、たとえ記憶の一部がこの人の記憶で占められていようとも、私は私だ。曾祖父ではない。だから、曾祖父の生き方まで複写しようとは思わないよ」
聖二はそうきっぱり言い切った。
10
「……さん」
「郁馬……さん」
誰かが呼んでいる?
郁馬は暗闇の中ではっと目を覚ました。
智成か?
一瞬、同じ部屋で寝ている弟かと思ったが、そうではなかった。
うかがうと、弟は隣の布団で高いびきをかいている。
それに、弟なら「郁馬さん」などと名前では呼ばない。
夢……か。
と思いかけたとき、襖《ふすま》の戸が外から遠慮がちにトントンと叩《たた》かれ、「郁馬さん」と自分を呼ぶ声がはっきりと聞こえた。
夢じゃない。
誰かが部屋の外で呼んでいる。
眠気が完全に覚めた。
郁馬は半身を起こすと、手探りで枕元のスタンドをつけ、傍らにはずしておいた腕時計を見た。
午前三時を過ぎようとしていた。
誰だ、こんな時間に……。
「誰だ?」
眠っている弟を起こさないように、小声で言った。
「俺。武だよ……」
襖の向こうの声が応《こた》えた。
武?
こんな夜中に何の用だ?
郁馬は慌てて起き上がると、襖を開けた。
常夜灯が微《かす》かについた薄暗い廊下に、武がパジャマ姿のまま、うすら寒そうにして立っていた。
十一月の始めといえば、朝晩はかなり冷え込む。いつからそこにいたのか知らないが、火の気のない廊下に佇《たたず》んでいる武の顔は幽鬼のように青ざめていた。
「武……様?」
郁馬は深夜の突然の訪問者に驚いて言った。
「こんな時間にごめん。いろいろ考えていたら眠れなくなっちゃって。それで、郁馬さんに相談しようと思って……。ちょっといい?」
武は囁《ささや》くような声でそう言った。
「相談って、明日じゃ駄目なんですか」
郁馬も小声で聞いた。
こんな夜中に相談もないだろう。それに眠い。
「明日じゃ遅いんだよ」
遅い?
「でも、弟が帰ってきていて……」
郁馬は困惑したように言った。すると、武は、襖の陰から中をのぞき込むような仕草をした。
智成は熟睡しているらしく、相変わらずいびきをかいて起きる気配はない。
「だったら、俺の部屋に来てくれる? 二人きりで話したいんだ」
武はそう言った。
「それはいいですが……。起きて大丈夫なんですか」
廊下に出て、襖を後ろ手に閉めながら聞くと、
「うん。熱はもう下がったよ」
武はそう言って、やや寒そうに背中を丸めながら、廊下を先に立って歩いた。
郁馬は、寝ていたところを起こされた腹立たしさと、こんな夜中にしなくちゃならない相談って何だという好奇心の入り交じった複雑な表情で、武の後を無言でついていった。
「……明日の大祭って、中止できるようなものじゃないよね?」
武は自分の部屋に入るなり、声を潜めたまま、そう聞いた。
「それはもちろん……。七年に一度の大祭ですし、おまけに、兄の話では、今年の祭りは、例年になく重要なものだと……」
郁馬が、しかつめらしくそう答えると、
「だよなぁ。いまさら、あの役をおりるなんてことはできないんだよな」
武は布団の上にあぐらをかき、両手で髪を掻《か》き毟《むし》るような動作をした。
役をおりる?
役って、三人衆のことか。
何だ。
何があったんだ。
何かにひどく心乱されているらしい甥《おい》の姿を、郁馬はじっと見つめた。
「あんなこと聞いちゃって、俺、どうしていいか分からないんだ。このままあの役を続けていいのか。それとも、思い切って、役をおりると叔父さんに言った方がいいのか。でも、俺があの役をおりたら、そんな大事な祭りを中止することになってしまうだろうし……」
独り言のようにぶつぶつと言う。
「一体何があったんですか。もう少し分かるように話してくれないと、僕としても相談に乗りたくても乗りようがありませんよ」
苛《いら》つきながら、それでも口調だけは丁寧に言うと、
「ああ、そうだね。でも、どこから話していいのか……」
武は混乱したような顔で呟《つぶや》き、まさに思索する弥勒菩薩《みろくぼさつ》像のような格好で、しばらく黙りこくっていたが、ようやく意を決したように口を開いた。
「あのさ……」
しかし、そう言ったきり、まだためらうものがあるらしく、また黙りこんだ。
「何ですか」
郁馬は先を促した。
さっさと話せよ。
そう怒鳴りつけたい気分で一杯だった。
一日中ぐーたら寝ていたおまえと違って、こっちは祭りの準備やら何やらでこき使われて疲れているんだ。しかも明日は早いんだ。早く布団に戻りたいんだよ。
そう面と向かって言いたかった。
「その……『神迎え神事』ってのがあるだろう? 祭りの二日めの夜に……神妻役の日女《ひるめ》と……」
武は言いにくそうに口火を切った。
「それがどうかしたんですか」
「あれって……日女に酒を振るまってもらうだけじゃないの?」
「……」
「……違うの?」
「兄さんから何も聞いてないんですか」
郁馬は呆《あき》れたように聞いた。
なんだ。こいつ、何をこの期《ご》に及んで寝とぼけたようなことを。それだけのはずがないじゃないか。
「叔父さんから聞いたのは、家々を回った後、社に戻ると、そこで日女が待っていて、お役目ご苦労様というねぎらいの酒をついでくれるから、それを呑《の》めばいいってだけ。なんかその後作法みたいなことが少しあるらしいけど、それは日女の言う通りにすればいいから大したことないって。それでおまえの役割は終わりだからって」
「……」
郁馬はあぜんとしていた。
どうやら何も知らされてないらしい。
兄はあえて武には何も教えなかったのか。下手にすべて教えて、事前に降りられたら困るとでも思ったのだろうか。
大したことないって……。
おおいに大したことあるじゃないか。
もっとも、若い男なら決して嫌がるような役割ではないが。
「でも、さっきおば……いや、その、聞いた話だと、それだけじゃないって……本当なの?」
「一体、その話とやらをどなたから聞いたんですか」
次兄でないことは確かだなと思いながら、郁馬が聞くと、
「それは言えない。その人から聞いたとは誰にも言わないと約束したから……」
武はそう言って、その人物から聞いた話というのを、口ごもりながらも話しはじめた。
それを聞いているうちに、最初は仏頂面だった郁馬の表情がだんだんと変わってきた。
そして、武の話をすべて聞き終わる頃には、その目には、獲物を見つけた肉食獣のような暗い輝きが宿っていた。
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第六章
十一月三日の朝。
まさに秋晴れの晴天だった。
鏑木浩一は、朝食を済ませるとすぐに、寺を出て、日の本神社に向かった。
今日からはじまる大神祭の幕開けを飾る「御霊降《みたまふ》り神事」を見物するためである。
老住職から聞いた話では、この神事は、日の本神社の境内で執り行われるということだった。
二の鳥居のあたりまで行くと、既に見物人でごったがえしていた。殆《ほとん》どが村民のようだが、中には、首からカメラをぶらさげた観光客らしき姿もちらほらと混じっている。
そんな観光客らしき男の一人が、「撮影禁止」と大書された鳥居の横の立て札を見て、「なんだ。撮影禁止かよ」と腐ったように頭を掻いていた。
その男の横を、鏑木はうつむいて、笑いをかみ殺しながら通り過ぎると、境内に足を踏み入れた。
カメラの類《たぐ》いはもっていなかった。男もののセカンドバッグを小脇に抱えているだけだった。
ただし、このセカンドバッグには、盗撮などによく使われる超小型ビデオカメラが仕込んである。バッグの側面に小さな穴を開けて、そこからレンズが覗《のぞ》いているわけである。
ここの神事が一切撮影禁止であることは、この村に来る前から知っていた。喜屋武蛍子から借りて読んだ真鍋伊知郎の本にそう書いてあったからだ。だから、こんな仕掛けを前以て作っておいたのだ。
先日、神郁馬の前では、「神事の模様は一切撮影禁止」と聞かされて、さも驚いたような振りをして見せたが、本当は、そんなことは先刻承知だったのである。
そのバッグを小脇に抱え、見物客の群れを縫うようにして拝殿の前まで行くと、「押すなよ」と怒鳴られながら、強引に前の人をかき分けるようにして、なんとか群衆の最前列に出た。
せっかくこんな仕掛け付きのバッグを持参してきても、見物人の背中しか撮れないのでは意味がない。
最前列に出た鏑木の前には、見物人はここまでというように白いロープが張り巡らされており、そのロープの向こうには、白衣に浅葱《あさぎ》の袴《はかま》をつけた神官や、やはり白衣に濃紫の袴をつけた巫女《みこ》たちが数人集まって、これからはじまる神事の準備に追われていた。
「……ほら、あれが若日女《わかひるめ》様だよ。奇麗だねぇ。年に一度しかお目にかかれないんだからね。よぉく見ておくんだよ」
鏑木の背後にいた村民らしき中年女が、背中におぶった幼い女の子にそう言っているのが聞こえてきた。
若日女と呼ばれる真性の巫女たちが、この拝殿の奥手にある「物忌《ものい》み」と呼ばれる家屋で、大日女という老巫女を中心に女たちだけの共同生活をしており、村民でも、その姿を見ることができるのは、年に一度の祭りのときだけという噂はどうやら本当のようだった。
この「物忌み」には、ここに来てから、何度か侵入を試みようとしたのだが、大祭の前日ということもあってか、やけに警戒が厳しく、まるで監視でもするように、社には常に神官らしき姿があって、少しでも、拝殿の奥の道に近づこうものなら、厳しい声で呼び止められた。
結局、いまだに「物忌み」には足を踏みこめないでいた。あの向こうに、もしかしたら、近藤さつきという幼女が隠されているかもしれないのに、と思うとやきもきしたが、どうしようもない。
やがて、その「物忌み」のある方角から、一人の小柄な人物が若日女二人を付き従えて、鈴の音と共に、物々しく現れた。
白衣に白袴、両足の踵《かかと》に届くほど伸ばして結んだ長髪も漂白したように真っ白な、全身白ずくめの、どこか神々しい白猿を思わせる老女だった。
これが、「大日女」と呼ばれる老巫女か、と鏑木は思った。
年齢など超越したようなその姿形も異様だったが、いで立ちがまた異様としかいいようがない。
白衣の胸には、大きな古い銅鏡をペンダントのようにぶら下げ、青々とした榊《さかき》の枝を束ねた杖《つえ》に、鈴やら勾玉《まがたま》やら御幣やらを付けたものを恭しく捧《ささ》げ持っている。
この榊の杖は、前日、大日女たちが御神体である鏡山に入って、その山に安らう大神の御霊を降ろして寄り憑《つ》かせたものであるらしい。それを一晩、「物忌み」に安置してから、今度は、社の拝殿前に急遽《きゆうきよ》立てられた祭り用の柱にさらに御霊を寄り憑かせるのだという。大日女は榊の杖を手に持ち、それをじゃらじゃらと打ち鳴らしながら、拝殿の前まで来ると、やはり榊や御幣で飾られた背の低い一本の柱に向かって、一礼、柏手《かしわで》、一礼、柏手を何度か繰り返した後、時折、鳴り物のついた杖をじゃーんじゃーんと大仰に打ちふるいながら、幼女のようなかん高い声で、祝詞《のりと》とおぼしき言葉を長々と発し始めた。
やがて、大日女の祝詞がぴたと止んだかと思うと、しずしずと、両脇から、二人の若日女がそれぞれ瓶《かめ》のようなものを捧げ持って現れ、その瓶の中のものを、交互に、柱に注ぎかけはじめた。
柱は見る間に赤く染まった。
注ぎかけたのは、何やらどろりとした赤いペンキのようにも見えるものだった。
息を呑《の》んで見つめていた鏑木の鼻に、ぷんと明らかに動物の生血を思わせる生臭《なまぐさ》い匂いが風に乗って漂ってきた。
「母ちゃん。あの赤いものはなあに?」
背後から幼女らしき声がした。
「あれはね、今朝|潰《つぶ》して絞ったばかりの新鮮な鶏の血なんだよ。大神様は蛇の神様だから、鶏の生き血が大好きなんだ。だから、ああして、大神様の寄り憑いた柱に、大好物の生き血を注ぎかけて、大神様にお力を与えているのさ……」
「ふーん」
幼女の分かったような分からないような相槌《あいづち》が聞こえた。
二人の若日女が瓶に入れた鶏の血を注ぎきってしまうと、大日女は、再び杖を打ち鳴らしながら、今度は明らかに音調の違う祝詞をあげはじめた。
この一連の神事が、「御霊降《みたまふ》り神事」といって、山から社の柱に降ろした大神の御霊に、活力を与える儀式のようだった。
この季節の太陽神は力が弱まっているので、好物の鶏の血を与え、「御霊降り」をすることで、夏の頃のような強さを取り戻そうとしているのだという。
ぼうっと見ていると、柱に向かって榊の杖をふりまわして長々と話しかけたり、動物の生血を注ぎかけたりと、一見、常軌を逸しているように見える巫女たちのふるまいも、それなりの知識を前以て得てから見ると、この一連の神事には、ちゃんとしたストーリーというか、合理的な流れができているようだった。
やがて、柱に向かっていた大日女が祝詞をやめると、くるりとこちらを向いた。柱に背中を向けたわけである。
すると、それまで脇の方に控えていた一人の神官が大日女の前に進み出た。その両手には、一振りの古い銅剣がしっかりと握られている。
見物人には背中を見せているので、顔などは分からないが、数人並んでいた神官の中でも、一番若く長身の少年だった。
大日女は、今度はその少年に向かって、何やら祝詞をあげはじめた。そして、やはり、時折、手にした榊の杖を打ち鳴らす。少年は、大振りの銅剣を捧げ持ち、やや頭をたれるようにして、じっと老巫女の前にかしこまっていた。
「……ありゃ、『三人衆』は今年は一人なのか?」
「んだ」
「なして? あとの二人は?」
「急にそう決まったんだそうだ。あの方にお印が出たとかで」
「お印って……生まれついてのものじゃなかったんけ?」
「んまあ、こういうこともあるらしい」
「なんでも、貴明さんのご次男だそうだ」
「ほう」
「おらんとこの伜《せがれ》なんか、今年は『三人衆』の番が回ってくるって楽しみにしてただが、突然、やめちゅうことになって、死ぬほどがっかりしとるがな」
「東京の大学さ行ってるタクジのことか?」
「んだ。昨日、帰ってきたんだが、今ごろ、うちでふて寝しちょる」
「お印が出た上に、貴明さんのお子じゃ、勝ち目はねえ。しかたあるめえなぁ」
鏑木の背後で、数人の中年男たちのひそひそ声がした。
そうか。
あの大日女の前にいる神官姿の少年が、「三人衆」と呼ばれる依《よ》り代《しろ》か。
つまり、今やっているのは、山からおろして社の柱にいったん寄り憑かせた大神の御霊を、今度は、人間の依り代におろす儀式というわけである。
この依り代の「三人衆」というのは、文字通り、村の独身青年の中から、定められた条件に合った者を三人選ぶらしいのだが、今年に限って、一人の少年がやることになり、その少年というのが、新庄貴明の次男の武という、十八歳の浪人生であることは、老住職から既に聞き及んでいた。
住職の話では、祭りの直前になって、この少年に、「お印」と呼ばれる蛇紋が出たとかで、急遽、それまで決まっていた三人の若者に代えて、この少年が選ばれたのだという。
「……今年は、神迎えの日女様も、お印の出た方がされるとかや」
「宮司様のご養女の日美香様であろう?」
「んだ」
「『三人衆』を一人にしたのも、そのせいとかや。あのお方は、いずれは日美香様の婿殿になられるんだとか……」
「ははん。今年の祭りは一足早い婚礼ちゅうことか。そりゃしょうがねえべ。おまんとこの伜も間が悪かったなぁ」
「まあ、来年がまたあるべ。それさ、楽しみに待つべ」
「んだんだ」
「そういえば、おらんとこのじっつぁまが言っとたな」
「権爺《ごんじい》が? なんて?」
「神家に御山の獲物届けに行って、この日美香様ってのを見かけたことがあるが、あの緋佐子様に生き写しだったとよ」
「緋佐子様って誰じゃ?」
「おまえ、知らんが?」
「知らん」
「先代宮司様の妹御で、今の宮司様のお袋様よ。そんで、昔、若日女様に決まっていた赤さまを連れてトンヅラ――」
「しっ。めったなこと言うもんじゃね」
またもや、そんなひそひそ声が聞こえてきた。
神迎えの日女役が……神日美香?
日美香にも「お印」が出た?
鏑木は背後のひそひそ話に耳をすませた。
神迎えの日女とは、大神の御霊を降ろされた『三人衆』の神妻役をする日女のことである。
「御霊降り神事」が終われば、あの「三人衆」役の少年は、神妻役の日女の手から、「神」の印である、一つ目の蛇面と蓑笠《みのがさ》を渡され、それを身に着けて、「現人神《あらひとがみ》」となって、村の家々を回ることになっているようだ。
大日女の祝詞がようやく終わり、どうやら、これで「御霊降り神事」は無事終了したようだった。
大日女をはじめ、神事に参加した人々は、皆、うち揃って、社の方に行ってしまった。見物人も櫛《くし》の歯が欠けるように帰り始めた。
このあと、昼飯をとり、一休みしてから、「大神」役の少年は、面と蓑笠をつけて、村の家々を回ることになるのだろう。
住職から聞いた話では、村の家々を回るといっても、一軒一軒を隈無《くまな》く訪ねるわけではなく、村を牛耳っている主だった家、例えば、宮司宅、日の本寺、村長宅といったような家を何軒かセレクトして、そこに近隣の者が集まり、訪れた「大神」をもてなすという仕組みになっているようだ。
そして、このもてなしには、蛇の好物である酒と卵が必ず振る舞われるのだという。こうして、家々を回り終えた「大神」が、再び社に戻ってくると、機織《はたおり》小屋と呼ばれる小屋で待ち構えていた神妻役の日女から酒による最後のもてなしを受けて、身にまとっていた蛇面と蓑笠を脱ぎ捨てれば、一連の神事は終了したということになる。
これを「神迎え神事」と言い、初日の午後から明日の夜までの二日に渡って行われるらしい。
社から帰る人々の群れに混じって、寺に戻ってくると、寺の食堂では、既に昼食の準備が整っていた。
大神祭を見にきた観光客も少しはいるようだが、皆、村に一軒しかないという旅館の方に泊まっているのか、寺に宿泊しているのは鏑木一人だけだった。
一人分だけ膳《ぜん》の用意された食堂の席につくと、すぐに、熱々のかけ蕎麦《そば》が運ばれてきた。ここの住職は蕎麦打ちの名人という噂で、一口|啜《すす》ってみると、なるほど、その噂に掛け値はないなと納得した。
しかし、箸《はし》をつけているうちに、おやというように、丼の中身に目をこらした。具の中に、鴨《かも》とおぼしき鳥肉の細切れが混じっていたからだ。
神社に付随する神宮寺とはいえ、ここは寺である。寺の料理というのは、獣肉を一切使わない精進料理ではなかったか。少なくとも、これまでの献立は、すべて肉類を使わない精進料理ばかりだった。
それなのに……。
不思議に思いながらも、鴨肉が良い風味を出していて旨いことは旨いので、そのまま箸をつけていると、それまで厨房《ちゆうぼう》にいたらしい老住職自らが茶を持って食堂に入ってきた。
「鴨肉が入っているようですが?」
箸で肉片をつまみ上げて聞いてみると、住職は大らかに笑って、
「祭りの間は、この寺でも獣肉解禁ですのじゃ」と言った。
住職の話では、「御霊降り神事」が終わって、山からおりてきた大神の御霊が「三人衆」の身体に寄り憑いてこの村に留まっている間は、蛇神である大神をもてなす意味で、各家庭の食卓にも、酒、卵、鳥獣肉と、蛇神の好物を使った料理がこれでもかというように並ぶのだという。
日ごろは質素に暮らしている家も、この日ばかりは、鳥獣肉をふんだんに使った鍋《なべ》料理や刺し身などを作り、酒をたらふく飲むのが習わしだということだった。
それゆえ、ふだんは獣肉を禁じている寺でも、この期間だけは、般若湯《はんにやとう》や生ぐさ料理をあえてメニューとして出すのだという。
「今夜は、上等の猪肉《ししにく》が手にはいったので、猪鍋でもしようと思っとりますのじゃ」
住職はそう言うと、鏑木の向かいの席に腰をおろし、
「ところで、御霊降り神事はいかがでしたかの? 神事の模様が一切撮影禁止では、ろくに仕事にならなかったのではないかの。あのような立派な機材をかついではるばる来られたのにまっことお気の毒じゃが」
と同情するような顔で聞いてきた。
「いえいえ、そんなことはありませんよ」と鏑木は笑顔で答えた。
「前日にお社の様子や御神体の山の写真などは撮らせてもらいましたから、それを巧く使って、後は文章で補えば、なんとか体裁が保てるでしょう」
神事の様子は隠しカメラでばっちり撮ったし、そもそも雑誌の取材というのが口実にすぎない。
それでも、もっともらしい顔でそう言うと、住職は、「さようか。それならよかった」と、終始笑みを絶やさない人の良さそうな皺《しわ》だらけの顔をさらに綻《ほころ》ばせた。
「そうそう。そういえば、境内で村の人たちが話しているのを小耳に挟んだんですが、今年は、神迎えの日女役もお印が出た人だとか……?」
「いかにも。日美香様とおっしゃってな、今まで女児には決して出たことのないお印の持ち主なのじゃよ」
「宮司さんのご養女とか……?」
「さようじゃ。ご養女といっても、もともとは、宮司様の妹御のお子じゃから、宮司様にとっては姪御《めいご》に当たられる方じゃがの。ちと事情《わけ》があって、ずっと離れてお暮らしになっていたんじゃが、今年の五月に養子縁組をされてな、宮司様の籍に入られたんじゃ……とにもかくにも、今年の祭りは、何もかもが異例尽くしでのう」
住職はそう言ってから、はたと思いついたという顔になって、
「おう、そうじゃ。異例といえば、大祭の最後を飾る『一夜日女の神事』じゃがな……」
と言い出した。
なに?
鏑木は思わず箸を置いた。
「これも、先程、宮司様からの急のお達しで、日取りが変更になったのじゃよ」
「え。日取りが変わった? 前に聞いた話では、確か、五日の夜ということでしたが?」
「それが一日伸びることになりましたんじゃ」
「それはまたどうして?」
「詳しい事情は知りませんがの」
「ということは、六日の夜になったということですか?」
鏑木は慌てて言った。
蕎麦なんか呑気《のんき》に啜っている場合ではない。「御霊降り神事」だの「神迎え神事」だのはどうでもよかった。重要なのは、この大祭の最後に行われるという「一夜日女の神事」なのだ。
そもそも、この村に来た目的は、とっくに廃《すた》ったとされている生き贄《にえ》儀式が今もなお行われているかどうかを確かめるためなのだから。
そして、もし、その生き贄に、あの近藤さつきという幼女が使われるのだとしたら、なんとかして助け出さなければ……。
幼女がかくまわれているかもしれない「物忌《ものい》み」の警戒が思ったよりも厳重で侵入できないとなると、あとは、この神事の最中を狙うしかなかった。
「六日の夜というか、正確には、七日ですかの。日付が変わった零時ちょうどに、一夜様を乗せたお輿《こし》がお社を出るわけですから」住職はそう言い直した。
「それで、蛇ノ口という沼に辿《たど》りつくのが……」
鏑木は確認するように聞いた。
「早ければ午前一時頃からか、遅くとも二時頃には辿りつくでしょうな……」
少なくとも、午前一時には、蛇ノ口に先回りして潜んでいなければならないわけか。
鏑木は腹の中で反芻《はんすう》した。
「あ、そうじゃ。前にも申し上げたように、この神事は写真撮影はむろん、見物も禁止されておりますでの。こっそり見に行こうなどという不埒《ふらち》な了見は起こさぬように」
住職は、しかつめ顔でそう付け加えた。
「そ、それはもちろん」
「なに、ここだけの話じゃがの、この神事を急に一日延ばしたのは、ひょっとしたら、観光客対策かもしれんて」
住職は顔を寄せ、囁《ささや》くように言った。
「観光客対策?」
「うむ。観光客の中には時々おりますのじゃ。見物禁止じゃいうとるのに、夜中にこっそり見に行く不届き者がな。見るなといわれると見たくなる俗人の性《さが》じゃろうが。この神事は大昔より村人でも見てはいけないことになっておる。見た者は大神の祟《たた》りがくだって目がつぶれるとな。じゃから、村の者が掟《おきて》を破ることはないのじゃが、何も知らないよそ者はのう……」
住職は嘆かわしいというように、殆《ほとん》ど髪の毛の残っていない白髪頭を振った。
「まあ、それで、おおやけに発表した日にちより、あえて一日ずらしたのかも……あわわ。ちと口が滑ったかの。これはあくまでも、内々のお達しじゃった」
そう言って、住職はしまったというように片手で口を押さえた。
「大丈夫ですよ。俺はそんな不届き者の観光客じゃありませんから」
鏑木が真面目な顔になって言うと、住職も少しほっとしたように、
「いやいや。貴方を信用してつい打ち明けましたが、このような内密のお達しをよそ者にうっかり漏らしたと宮司様に知れれば、後で、この老いぼれがきつく叱《しか》られまする。しつこいようだが、お約束は守ってくだされよ。さもないと、御身にも大神の祟りが降りかかるやもしれませんぞ……」
白い眉毛《まゆげ》に埋もれた目を光らせて言った。
その夜。
神聖二は自分の部屋で一人で酒を呑《の》んでいた。
零時を過ぎたというのに、一向にやまない座敷のどんちゃん騒ぎぶりが、中庭を筒抜けて、窓を閉めていても、ここまで聞こえてくる。
「一気、一気」という大歓声と手拍子から察するところ、座敷では、帰郷した弟や甥《おい》たちがまだ居残っていて、学生がコンパでよくやるような「一気飲み」に興じているのだろう。
例年のことだが、初日からあの騒ぎでは、いくらこの日のために用意しておいたとはいえ、酒樽《さかだる》が幾つあっても足りないな……。聖二は苦笑まじりにそう思った。
とはいっても、祭りの間は、いわゆる無礼講で、酒の上でのどんな馬鹿騒ぎも喧嘩沙汰《けんかざた》も一切見て見ぬふりをせざるをえない。
さきほども、ガラスが割れるような派手な音がして、若い男同士で怒鳴りあっている声が聞こえてきた。ふだんなら何事かと様子を見に行くのだが、今宵ばかりは、腰もあげず聞き流していた。
誰かがすぐに仲裁にでも入ったのか、それ以上は聞こえてこなかったが、今度は「一気、一気」の大コーラスだ。
乱痴気騒ぎは明け方まで続きそうだ。
聖二自身も若いころは、帰郷してきた兄弟たちと夜が明けるまで大騒ぎをして過ごしたこともあったのだが、さすがにこの年になると、とても若者の馬鹿騒ぎにはついていけない。
それに、家長の自分がいつまでも座敷に居座っていては、いくら無礼講とはいえ、弟たちも羽目がはずしにくかろうと思って、早々と宴会の席を立ってきたのである。
しかも、今夜はなぜか気が沈んで、ぱっと派手に騒ぐ気になれない。一人で静かに呑《の》みたいような心境だった。
そんなことを思いながら、冷えたコップ酒を口に運んでいると、廊下の方からパタパタと軽やかな足音がして、コンコンとやや遠慮がちに戸が叩《たた》かれた。
女のようだった。
美奈代かなと思いつつ、「誰だ?」と言うと、「耀子です……」という意外な返事がかえってきた。
姉さん?
聖二は少し驚いて、片|膝《ひざ》をたて、やや自堕落な格好で寄りかかっていた座椅子の背から身を起こした。
何の用だ。
姉がこの部屋を訪れるなんて。
用があるときは、聖二の方が姉の部屋に足を運ぶのが通例になっていた。
耀子がこの部屋に来ることなど滅多にない。
「どうぞ」
いぶかしがりながらも、そう言うと、襖《ふすま》が開いて、耀子が入ってきた。
両手に盆を持ち、酒のつまみの皿のようなものを載せていた。
「ああやっぱり……何も召し上がらないでお酒だけ呑んでいらっしゃる。美奈代さんの言う通りだったわ」
耀子はそう言って、弟の悪戯《いたずら》を見つけた姉のような顔つきで入ってきた。
聖二の傍らには、美奈代に持ってこさせた一升瓶があり、卓の上には、中身が半分ほど入ったコップしかなかった。
「いけませんよ。冷や酒をそんな風に呷《あお》るように呑んでは。いくらあなたがお酒に強くても、身体に毒だといつも申し上げているではありませんか」
姉はたしなめるようにそう言うと、盆を置き、座卓の上に持ってきたつまみの皿と箸を並べた。それは、美奈代が作ったのであろうと思われる簡単な手料理だった。
「一人で静かに呑みたいときはこの方がいいんです。やれつまみだの、癇《かん》をつけるだの、人の出入りが頻繁にあると煩わしくて……」
弁解するように言うと、
「祭りの夜だというのに一人で呑みたい心境なのですか」
耀子は笑いを含んだ顔でそんなことを言った。いつもは青白い顔がほんのり桜色に染まっているところを見ると、今まで座敷にいたのだろうか。
「それなら、わたしがここに居座ってお相伴すると言ったらお邪魔かしら」
「……」
「お邪魔でも付き合ってもらいますよ。あなたが一人で呑みたい心境なら、こちらは、誰かとしみじみと昔話でもしながら呑み明かしたい心境なのだから。年寄りは年寄り同士で」
耀子はやんわりと、しかし有無をいわさぬ口調でそういうと、盆に載せてきた自分用のコップを両手で捧《ささ》げ持って、「注げ」というように、弟の前に差し出した。
「年寄りはひどいな。まだそんな年じゃないですよ」
思わず抗議すると、姉は笑って、
「あら、そうかしら。わたしはこの年で、既にひ孫までいますし、あなただって、戸籍の上では、孫までいる身ではありませんか。世間的に見たら、二人とも立派なお年寄りですよ」
「……」
「さあ、ついで」
「一体、どういう風の吹き回しですか……?」
聖二は、あぜんとした面持ちで姉を見ていたが、仕方ないなというように、一升瓶をとりあげると、差し出されたコップの上にそれを傾け、三分の一ほど中身を注いだ。
「もっと」
耀子は不満そうに言った。
「え?」
「もっと注ぎなさい」
「……」
半分ほどつぎ足すと、「もっと」と言う。
「もっと?」
「こぼれるほどなみなみとついでくださいな。そんな因業な飲み屋の店主みたいにケチらずに」
「……。こんなについで呑めるんですか」
「呑めます。わたしだって、蛇神の末裔《まつえい》の神家の人間ですからね。文字通りのうわばみです。お酒の強さではあなたに負けません」
耀子はそう言って澄ましている。
所望どおり、こぼれそうになるほどつぎたすと、驚いたことに、姉はそれを白い喉《のど》を鳴らして一息で呑みほした。
「だ、大丈夫ですか、そんな呑み方をして」
慌てて言うと、姉は、水でも飲んだあとのようにけろりとした顔で、空のコップを卓に置き、
「これを学生たちの間では一気呑みとかいうんですってね。智成が言ってました」
晴れやかに笑いながら言い放った。
末弟の智成も、戸籍上は弟ということになっているが、耀子の実子である。もう一人翔太郎というのがいて、ふだんは学業や仕事で東京で暮らしている息子たちが一斉に帰省してきていた。
いつになく姉の羽目をはずした陽気なふるまいも、祭りの夜だからというだけでなく、いつもは離れて暮らしている息子たちに会えた喜びから来ているのかもしれない。
「人に冷や酒呷るなって説教したあとで、ご自分がそんな乱暴な呑み方をして。そっちの方がよっぽど危険ですよ」
「祭りの夜くらいいいでしょう、多少羽目をはずしても。聖二さん。あなた、少し陰気すぎます」
「……座敷の方がまだ賑《にぎ》やかなようだが、武はどうしてます? まさか、また酔っ払って裸踊りなんかしてるんじゃないだろうな」
「武さんなら、もうとっくにお部屋に引き取られましたよ。あなたが座敷を出られたすぐ後に。慣れない大役をされたせいか、少しお疲れのご様子に見えました。今夜はあまり騒がず、料理にもさほど箸《はし》をおつけにならなかったみたいだし……」
「熱は下がったとはいえ、まだ身体の方が本調子ではないのかな。明日もあることだから、どんちゃん騒ぎをして夜を明かされるより、早く休んでくれた方がこちらとしては有り難いですがね」
「日美香さんもお部屋に引き取られて、今は、郁馬を中心に帰郷組が大騒ぎしてますよ」
「郁馬が……?」
「ええ。今夜は妙に機嫌が良いようです。武さんが来る前のあの子に戻ったみたいにはしゃいでいました。きっと、翔太郎や智成に会えて、日ごろの憂さが晴れたのかもしれません」
そう言ったあとで、
「でも……貴明さんは今年はお帰りにならないようですね」
と姉は少し憂い顔になった。
「選挙活動で、それどころじゃないんでしょう」
「選挙が間近に迫っているからこそ、大神の御力を借りに来られると思っていましたのに。二十年前のときのように……」
二十年前。
聖二はふと昔を思った。
二十年前のあの大祭の年。それまで舅《しゆうと》の秘書をしていた兄がはじめて政界に打って出た年……。
あれから二十年が過ぎたのか。
その兄は、今や、大臣の座を得て、今月半ばに行われる総選挙で与党が勝利し現政権維持となれば、史上最年少の総理大臣誕生かとも噂されている……。
時がたつのは早いものだ。
「今の兄さんにもはや神仏の御加護は必要ないでしょう。兄さんが今度の選挙で落選するなんてことは、天と地がひっくりかえる以上にあり得ませんからね。それに、今年は武がいるから、武を自分の名代くらいに思っているんじゃないですか」
聖二がそういうと、
「だったらいいのですけれど……」
耀子は少し不安を残した顔でそう呟《つぶや》いた。
「何かご心配なことでも?」
なんとなく姉の様子に気になるものを感じて問い返すと、
「いえ、ちょっとね。智成が妙なことを言っていましたものですから」
「妙なこと?」
「貴明さんの様子が最近おかしい。どこか元気がないというか、一緒にいても、以前のような強いオーラがあまり感じられなくなった……と。ほら、あの子は新庄家にはよく出入りしているようだから」
「……」
そういえば、似たようなことを武が言っていたなと聖二は思い出した。あれは、貴明の長男である信貴が弟の様子を見にこの村に来たときのことだった。
信貴が父についてそんなことを漏らしていたと後で武が……。
「智成に会ったとき、たまたまひどく疲れていたんじゃないですか、兄さんも。身も心も疲れていれば、そりゃ、オーラとやらも弱まるでしょう」
不安をふきとばすように言うと、
「それもそうですね」
耀子も愁眉《しゆうび》を開いて、前の明るい顔付きに戻り、
「そうだわ。智成といえば、あの子のもってきたビッグニュースって、何でしたの?」
と聞いた。
「ビッグニュース?」
聖二は何のことだという顔で、口元まで運びかけたコップ酒を途中で止めた。
「昨夜、智成がわたしの所に帰省の挨拶《あいさつ》に来たときに、そんなことを言ってましたよ。あっと驚くようなニュースを土産にもってきたと。てっきり、もうあなたのお耳に入っているものだと……」
「はて。何のことだろう。私は何も聞いていませんが」
聖二はけげんそうに言った。
「あら、そうなんですか。郁馬には話したようですから、そのうち、郁馬の方からお耳に入るのでは? きっと、祭りの準備に追われて、あなたに報告するのを忘れているのかもしれません。それとも、智成は少し大袈裟《おおげさ》なところがありますから、ビッグニュースとか言いながら、あなたのお耳に入れるほどのことではなかったのかしら」
「……」
なんとなく話が途切れた。
聖二は黙って酒瓶を取り上げ、姉の空になったコップにつぎたした。姉もそれを飲む。今度は一気ではなく、ちょっと口をつけるという穏やかな飲み方だった。
相変わらず、座敷の喧噪《けんそう》が聞こえてくる。
「そういえば」
しばらく沈黙したあと、耀子は話題を変えるように言った。
「日美香さんから転生の話を聞きました?」
「聞きました」
「どう思われます? わたしはあの方は緋佐子様の転生者ではないかと思うのですが……?」
「私もそう思います。間違いないでしょう。母に作ってもらった襤褸《ぼろ》人形を見せたら、ほんの一時でしたが、母であったときの記憶を取り戻してくれました」
「まあ、そうだったんですか」
耀子の顔が一瞬ぱっと輝いたかと思うと、
「こんな形で緋佐子様はここに戻ってきてくれたのですね」
としみじみとした口調で言った。
「ええ……」
「聖二さん。あなた、もしかしたら、最初から、あの方が緋佐子様ではないかと気づいていらしたのではないですか」
突然そんなことを言った。
「……もしやとは思っていました。女児には出たことのないお印があると知ったときから。でも、お印がそのまま転生者の証《あか》しとは限らないし、日美香の方も、ここでの記憶はあまり持っていないように見えたので、確信はもてなかったのですが……」
「やっぱりそうだったんですか」
耀子は何かを合点したように呟いた。
「やっぱり?」
「いえね。日美香さんと出会ってから、この半年くらいの間に、あなたのご様子が変わったような気がしていたものですから」
「変わったというのは……?」
「少し優しくなったというか」
「……」
「あなたも年を取られて幾分人間が丸くなられたのかと思っていたのですが、あのような形で緋佐子様が帰ってきてくれたことに気が付かれて、長いこと、お母様のことで、あなたの中に蟠《わだかま》っていた何かが癒《いや》されたというか鎮まったのかもしれませんね」
「……」
「でもよかった」
耀子は明るい声で言った。
「日美香さんが緋佐子様の転生者だと分かって、これでもう一つ気がかりがなくなりました」
「なんです、気がかりって?」
「武さんとのことです。わたし……もしかしたら、あの二人は異母姉弟《きようだい》ではないかと密《ひそ》かに疑っていたものですから」
聖二は姉の顔を凝視した。
「あなたはあの二人をいずれは一緒にするおつもりなのでしょう?」
「二人がそれを望めば……」
「だから、よけい気になっていたんですよ。もし、日美香さんの父親が貴明さんだったらと思うと」
「……」
「わたし、知っていたんですよ。二十年前の事。昭和五十二年の大祭のとき、貴明さんが太田さんと入れ替わっていたこと。あなたがそれを知っていて許したこと。それに、日美香さんがどことなく貴明さんに似ているような気もして。でも、これで、その心配はなくなりました」
「姉さんに隠し事はできませんね……」
「ええ、そうですとも。わたしは地獄耳の千里眼ですから。どんな小さなことでも聞き逃さず見逃さないのです」
耀子は自慢げにそう言ったあと、
「でも、なんだか不思議な気がしますね……」とふっと遠くを見るような視線になった。
「今年の大祭は、まるで二十年前の大祭の再現のようです。あの昭和五十二年の。あのときも、大祭直前になって、色々なアクシデントがありましたね。わたしが発病したせいで、この村の生まれではない日登美さんが急遽《きゆうきよ》『神迎えの日女《ひるめ》』役をやるはめになったり。そして二十年たって、あの年に、『大神』役をやった人と『日女』役をやった人の子供たちが、こんな思いもかけない形で、同じ役をやる巡り合わせになるとは。因果としかいいようのないものを感じてしまいます」
姉は感慨深げに言った。
「そうですね……」
それは聖二も同感だった。
「ところで」
耀子がふと言った。
「武さんはご自分の役割を全て分かって引き受けられたんですか?」
「いや。全部は話してないです。『神迎え神事』に関しては。でも、日美香の方は全て心得ていますから、まあ、なんとかなるだろうと……」
「そうでしたか。それもあのときと同じですね。いえ、同じというか、ちょうど二人の立場が二十年前とは逆転したような形になっているのですね。『日女』役の日美香さんは何もかも知っていて、『大神』役の武さんの方が何も知らないなんて」
「……」
姉の声になんとなく咎《とが》めるようなニュアンスを感じて、聖二は黙った。
そう言われてみればそうだ。
昭和五十二年の大祭を陰画《ネガ》とすれば、今年の大祭は、その陰画を焼き付けた陽画《ポジ》のようなものか。
状況は非常に似ているが、構図が裏返しになっている。
「どうして、武さんに前以て何もかも話しておかなかったんです?」
「あいつの性格が今一つ読めなかったからです。一見、単純に見えるが、右といえば左を向くような天《あま》の邪鬼《じやく》なところもあるから、下手に打ち明けたら、役を降りるとも言い出しかねない。そうなっては困ります。それで、いっそ詳しいことは知らせずに成り行きにまかせようと思ったのです。いざとなれば、若い牡の本能に従って成るように成るだろうと」
「そうですか……」
耀子は、深いため息をついた。
「あなたのそういう肝心なところを隠して事をおし進めようとするやり方が、武さんを傷つけて、二十年前の二の舞いにならなければいいのですがね……」
「武を傷つける?」
聖二は姉の言葉に少し気色ばんだ。
「このやり方のどこが武を傷つけるとおっしゃるのですか」
ふいに怒りを感じたのは、姉の言葉に何らかの真実を感じ取ったせいかもしれなかった。 痛いところを突かれたとでもいう……。
「肝心なことは何も知らせないで、成り行きにまかせるというあなたのやり方は、武さんの人格を無視しているというか、子供扱いしすぎているように見えます」
「……」
「わたしもあの子は見かけほど単純ではないと思っています。それと同時に見かけほど子供でもないと。マクベスの魔女風にいうならば、子供は大人、大人は子供……ですからね」
耀子はそんな謎めいた事を口にした。
子供は大人、大人は子供……?
子供に見えても大人で、大人に見えても子供ということか?
前者が武のことを暗に指しているのは分かるが、後者は一体誰のことを指しているんだ……?
どうもこの姉の言うことはいつも謎めいて曖昧《あいまい》で暗示的で……。
「それに、とても自尊心が強い子にも見えます。あの子がこれまで貴明さんと何かと衝突したのは、貴明さんがあの子の自尊心や人格を無視して、頭ごなしに上から押さえ付けようとしたからではないでしょうか。それに反して、叔父であるあなたの方に父親以上に心を開いたのは、あなたがあの子と同じ目線にたって、色々話を聞いてやったり相談に乗ってやったりしたからではないのですか……?」
「……」
「でも、今あなたがしようとしていることは、貴明さんのやり口と似ているような気がします。頭ごなしに押さえ付けるというのではないにしても、相手の人格を無視して、ご自分の望む方向に無理やり進ませようとしているように見えます。わたしには、あの子はそういうやり方を最も嫌うような気がしてならないのです。今度のことで、たとえ事が成就しても、あの子がこれまであなたに対して抱いていた信頼をなくし、心を閉ざすようなことにならなければいいのですけれどね……」
「武に明日の神事のことを全て打ち明けた方がいいとおっしゃるのですか」
「そうです。子供扱いせずに、同じお印をもつ日子として対等に接した方がいいのではないでしょうか。日美香さんに対しては、性別も年齢差も越えて、あなたはそうしているではありませんか。それなら、武さんにだって。あの役を本人が承知の上で納得して引き受けるのと、何も知らないままやらされるのとでは、後々の結果が大きく違ってくるような気がしますが……」
迷うところだが、姉の言うことにも一理ある。
時には耳に痛く、無性に向かっ腹がたつことも言われたが、この姉の助言が的外れだったことは今まで一度もない。
「まあ、もうこんな時間……」
耀子は棚の上の置き時計を見ると、驚いたように言った。
「さて、わたしもそろそろお部屋に引き上げるとしますか」
そう呟《つぶや》くと、盆を持って立ち上がりかけた。
「あれ。朝まで飲み明かすんじゃなかったんですか」
「そのつもりでしたけど、なんだか急に眠くなってきました。もう休みます」
「なんだ。久しぶりに姉さんと呑み比べでもしようと思っていたのに、残念だな」
「またそんな心にもないことを。口うるさいのがいなくなればせいせいすると思っているくせに」
耀子はそう言って笑った。
「いつもあなたのすることに異ばかり唱えて、さぞ小うるさい女だと思っているかもしれませんが、この際だからはっきりと申し上げておきます。わたしがあえて異を唱えるのも、あなたのことを誰よりも案じているからなんですよ」
耀子はいつになく真顔になって言った。
「この村には、あなたの逆鱗《げきりん》に触れるのを恐れてか、心のうちでは不満に思っていても、表立って意見する者も反対する者もいません。せめて、最年長のご住職がその任を引き受けてくれたらと思うのですが、ご住職ですら、何から何まであなたの言いなりですものね」
耀子は嘆くように首を振った。
「一人くらいはお手打ち覚悟で物申すような命知らずがおそばにいてもいいではありませんか」
「お手打ちとはまた古めかしいことを」
「あら。だって、あなたが本気で怒ったら、家宝の刀でも持ち出してきて、鞘《さや》払いかねませんもの。意見する方も命懸けなんですよ」
「……」
物部《もののべ》のシンボルの一つに剣がある。
そのせいか、神家の蔵には、古くは、祭り用に使う弥生《やよい》期の銅剣から江戸期に作られた名刀まで、あの中からお手打ち用を選ぶとすれば、どれにしようかと半日迷うくらい夥《おびただ》しい数の刀剣が保管されていた。
寺の方に預けてあるものも含めれば、ちょっとした博物館並の数だった。
聖二の寝室にも、床守りとして、曾祖父《そうそふ》がとりわけ愛したという一振りの日本刀が飾ってある。
その気になれば、いつでも手に取れる凶器に囲まれて暮らしているようなものだから、姉の言うことも決して大袈裟《おおげさ》ではなかった。しかも、もし、あの刀剣のどれかで家人の誰かを斬り捨てたとしても、それが犯罪として表沙汰《おもてざた》になることはまずあるまい。
「でも、わたしはそんなもの、これっぽっちも怖くありませんけどね。お印のある日子様だろうが生き神様であろうが、言いたいことは腹蔵なく言わせてもらいます。誰のためでもなく、あなた自身のために。わたしにとっては、あなたは、いつまでたっても、一つ下の弟でしかないんですから」
「姉さん……」
「緋佐子様の帰りを待って、日が暮れるまで一の鳥居のそばから離れなかった幼いあなたのあの後ろ姿が、わたしの記憶から完全に消えてしまわない限り、あなたはわたしにとって永遠に小さな弟でしかないんです……」
耀子は戸口の方に向かいながら、独り言のようにそう言った。
姉はそれさえも知っていたのか。
母が生まれたばかりの妹だけを連れて忽然《こつぜん》と姿を消した後、いつか帰ってくるのではないかと思い、それが今日か明日かと、一の鳥居のそばでじっと待っていたことを。
そんなたった一人きりの虚しい儀式を七、八歳のころまで、雨の日も風の日も雪の日も、毎日のように続けていたことを。
そういえば……。
あたりが暗くなるまで鳥居のそばにいると、心配して迎えに来たのはいつも姉だった。姉は何も聞かず、「さあ、帰ろう」というように手を差し出しただけだったが、幼い弟がなぜ、こんなことを毎日繰り返しているのか、その理由が子供心にもなんとなく分かっていたのだろう。
あのときの姉の手のぬくもりを覚えている限り、たとえ、この先、姉が何を言い何をしでかしたところで、そのことで自分が怒り心頭に発したとしても、この姉を手にかけるなんてことは絶対にありえない。
ほかの人間ならいざ知らず……。
「それと聖二さん」
襖《ふすま》を開けながら、振り返って耀子が言った。
「もう一度言いますが、そんなやけ酒でも呷るような呑み方はおやめなさい。本当に身体に毒ですよ」
「やけ酒?」
聖二は心外という顔をした。
冷や酒は呑んでいるが、やけ酒など呑んではいない。めでたい祭りの夜に、なんでやけ酒なんか。なにもかもが思惑通りに順調に進んでいる。密《ひそ》かに祝杯こそあげ、やけ酒など呷る理由がないではないか。
何もかも見透かしたような顔でおかしなことを言う人だ……。
聖二は戸口に立った姉をそう思いながら見返していた。
とはいえ、今夜は妙に気が沈み、祭り用に特別に造られた極上の酒が、いくら呑んでも酔わず、少しも美味《うま》く感じられないのは事実だったが……。
「お酒はもっと楽しく呑むものですよ。そんな哀しそうな顔でお酒を呑むのは、娘を嫁がせる前夜の父親くらいのものでしょうに」
姉はそんなこと言い残して、部屋を出て行った。
娘を嫁がせる前夜の父親……。
姉がさらりと言い捨てていった言葉に、思いの外、ドキリとするものがあった。
そうだ。
なにがこんなに気が滅入《めい》るかといえば……。
明日のことを考えると、なぜかひどく気が滅入ってくる。
妙だ……。
自らがお膳立《ぜんだ》てし、自らが若い二人の背中を押すようにして近づけておきながら、あの二人が互いを意識しあい好意をもちあい、ようやく事が成就しようという直前になって、自分のしたことに満足するどころか、まるで後悔でもしているように、こんなに胸の奥がきりきりと痛むとは……。
こんな気持ちは、愛娘を嫁がせる前夜の父親の心境に似ているかもしれない。それがどれほどの玉の輿《こし》だと分かっていても、どこか手放しでは喜べない複雑な心境に……。
ただ、これは果たして「父親」としての感傷なのだろうか。
ふとそんな思いが頭をよぎった。
何か別の感情が密かに交じっているような気もする……。
養父《ちち》としてではなく……。
いや、たぶん、これは一夜限りの感傷だ。二三日もすれば奇麗に忘れてしまうような……。
聖二は自分の脳裏を支配しかけたつまらぬ感傷を振り払うように、まだ少し中身の入ったコップを音をたてて卓の上に置くと、いきなり立ち上がった。
それよりも……。
姉に言われたことが気になっていた。
武に明日のことを包み隠さず打ち明けておいた方がいいという……。
耀子の考えの方が正しいかもしれない。
確かに、少し彼を子供扱いしすぎていたようだ。どうも庭で近所の小学生とじゃれあっている姿を見ていると、まだまだ子供だ、とても対等に話せる相手ではないと思ってしまったのだが、これは自分の心得違いだったかもしれない。
今朝の「御霊降《みたまふ》り神事」にしても、直前までやる気のなさそうな顔をしていたから、作法どおりにできるのかと内心はらはらしていたのだが、いざ神事がはじまると、その顔付きはがらりと変わって引き締まり、予想していたよりも遥《はる》かに立派にやってのけたではないか。
だとしたら、いまさら何を知ったところで、それで突然役をおりるなど幼稚な事は言い出さないのではないか。それくらいの責任感と自覚はもっていると考えてもよさそうだ。
それならば……。
今からでも遅くない。まだ起きているならば、全て打ち明けておこう。
そう思いついたのである。
部屋を出て、忍びやかに廊下を歩き、武の部屋の前までくると、聖二は襖《ふすま》をコンコンと叩《たた》き、名前を呼んだ。
返事がない。二度ほどノックしたあと、そうっと襖を開けて見ると、部屋の明かりは全て消され、中央の布団が人が寝ているように盛り上がっていた。
「武……」
もう一度呼んでみたが、横たわった人影は起きる兆しを見せなかった。
眠ってしまったのか。
眠っているのをあえて叩き起こすこともあるまい。
まあ、いいか……。
起きていたら話そうと思ってきたが、もう寝ているならば仕方がない。
そう思い直すと、聖二は、そっと襖を閉めた。そして、来たときと同じ忍び足で廊下を引き返した。
その遠ざかる叔父の足音を、武は、頭の半ばまですっぽり布団をかぶった姿勢で、闇の中で目だけ光らせて聴いていた。
明け方近く、聖二は、珍しく夢を見ていた。昏《くら》い夜の河原のようなところで、一心不乱に小石積みをしている夢だった。自分はまだ五歳くらいの子供で、回りには誰もいない。たった一人ぼっちで小さな石を拾っては積み上げている。
やがて、小石を積み上げ終わると、河原の向こうから誰かがやってきた。鬼だった。顔は暗くて見えないが、首から下は恐ろしい鬼のような姿をしている。
それが目の前までやってくると、いきなり、持っていた金棒で、苦労して積み上げた小石の山を奇麗に叩き壊してしまった。
聖二はなすすべもなく、目の前の鬼を口を開けて見上げていた。鬼は聖二を見下ろして笑っていた。間近でその顔がようやく見えた。恐ろしい姿とは似ても似つかぬ美しい優しい顔をしていた。
その顔は……聖二自身の顔だった。
鬼が行ってしまうと、また、何事もなかったように、はじめから小石を拾い積み始めた。そして、これを最後まで積み終えたとき、またどこからか、自分そっくりの顔をした鬼がやってきて、壊してしまうのだろう。
それを承知しながら石を積み始める……。
手指の皮は破れ、血がにじんでいる。
その指にはぁと息を吐きかけ、自分はずっと長いこと独りでここにいて、幼い子供の姿のまま、こんなことを数え切れないほど繰り返してきた。
そんなことを思いながら……。
十一月四日の朝。
朝食を済ませると、鏑木浩一は、寺から自転車を借りて、白玉温泉館に向かった。
村に数ある外湯の中でも一番大きなこの温泉館が村民の社交場のようになっていることは喜屋武蛍子から聞いていた。
それで、温泉に浸《つ》かりがてら、たむろしている湯治客から耳寄りな情報を得るのが目的だったが、目当てはもう一つあった。
この温泉館に設置されているはずの公衆電話を使って、東京にいる或《あ》る人物と連絡を取るためである。携帯電話はもっていたが、危惧《きぐ》していた通り、ここは圏外になってしまって使えなかった。
日の本寺にも、宿泊客用にか赤電話が一台設置されていたが、あそこでは住職や寺関係者に話を聞かれる恐れがある。
白玉温泉館についてみると、祭り期間のせいもあってか、湯治客の数もまばらで、広い休憩場には常連風の老人が三人ほどくつろいでいるだけだった。
鏑木は風呂《ふろ》に入る前に、休憩場の隅に設置されていたピンク電話のところまで行くと、小銭を数枚放りこんでから、受話器を取り上げ、その人物の携帯の番号をプッシュした。
幸い、ピンク電話の近くには人影はなかった。これなら、さほど声を潜めることもなく普通に話ができそうだ。
かけた先は、大学時代の後輩の高野という男の携帯だった。
高野は今は某テレビ局でアシスタントディレクターの仕事をしている。
「……もしもし」
呼び出し音が数回鳴って、ようやく眠そうな男の声が出た。高野だった。
「高野? 俺」
「ああ、先輩……」
「なんだ。まだ寝てたのか」
「昨日、飲み過ぎちゃって。頭いてえ……」
「例の件だけどな、人、集まったか」
「えーと、ガタイの良い若い男で、腕に覚えのある猛者《もさ》を数人集めろってことでしたよね?」
「そうだ」
「二人確保しました。一人は空手の有段者で、もう一人は相撲やってた奴です」
「相撲? ただのデブじゃないだろうな」
「むろんデブですけど、学生横綱にもなったことがあるとかで。ガタイが良いっていったら、やっぱ、相撲でしょ」
「ん……まあいいか」
「もっと集めますか」
「二人か。いいよ、それで。おまえも来れるんだよな?」
「ええまあ。えーと、明日の午後にはそちらに着いてればいいんでしたよね」
「それがな、ちと予定が狂ってな、一日延期になったみたいなんだ。ま、来るのは予定どおりでいいけど、一日、滞在が伸びることになるんだが……大丈夫か?」
「俺は大丈夫っすよ。バイトの方も、どうせ空手はまだ学生で、ドスコイも今はフリーターとかいってましたから、一日くらいずれこんでもなんとかなるっしょ」
「そうか。じゃ、頼む。寺には俺の方から予約いれとくから」
「あ、ちょっと、先輩。もう一度確認しときますが、往復のガソリン代とか宿泊費とか、かかった費用は全部先輩もちですよね?」
「ああ。ただし、三人で相部屋だぞ」
「げっ。野郎三人で? 勘弁してくださいよ。一人はドスコイですよ? あんな暑苦しいのと一緒なんて。せめて、二部屋とってください。ドスコイと空手はまとめて布団部屋に押し込んでもいいから、俺専用のを……」
「贅沢《ぜいたく》いうな。そのかわり、温泉には好きなだけ入れるし、寺の料理はなかなかだ。特に蕎麦《そば》がうまい」
「寺の料理なんて、おからとか菜っ葉とか、鶏の餌みたいなしょぼいもんばっかじゃないんですかぁ」
「喜べ。それが違うんだ。ふだんはそうなんだが、祭りの期間だけは、寺でも生臭解禁だとよ。酒も出るし。昨夜は猪鍋《ししなべ》だった。うまかった。鶏の餌どころか、鶏がまるごと出るかもな」
「へえ……でも、一体、何なんですか。温泉に浸かってうまいもの食いながらできる簡単なバイトって……?」
「だから、来れば分かるって。こっちに着いたら、ゆっくり説明してやるよ」
「うーん。なんか怪しいなぁ。やばいことじゃないでしょうね? 腕に覚えのある猛者揃えろなんていうところを見ると……。危険はないんですか」
「多少のリスクはあるかもな……」
「えーっ。暴力|沙汰《ざた》はごめんですよ。リスクってどの程度の?」
「心配するな。運が悪ければ、かすり傷くらいは負うかなー? って程度だよ。それも最悪の場合だ。まあ、相手は女みたいな生っ白いひょろひょろ神官ばかりだし」
「しんかん? しんかんって何です?」
「だから、来れば分かるって」
「ことによったら、凄《すご》いスクープ映像が撮れるかもしれないって、マジっすか?」
「おお。あんな凄い映像とれたら、おまえも一躍万年ADからディレクター様に昇進間違いなしってやつだぞ」
「だったら、多少のリスクはしょうがないか」
「そうだよ。口開けてるだけでぼたもちが転がり落ちてくるほど世の中甘くはないからな。何事もハイリスクハイリターンだ」
「……」
「しかも、場合によっては、警視総監賞ものの人命救助になるかもな。世のため人のためにもなる」
「世のため人のためって……。言っときますが、スクープ映像はほしいけど、自分の命かけてまで人命救助なんかする気ないっすからね、俺」
「大丈夫。万が一、乱闘になっても、空手とドスコイがいれば十分だ。ひょろひょろ神官なんか底無し沼にたたきこんでやればいい」
「ら、らんとう? そこなしぬまぁ?」
受話器の向こうから高野の悲鳴に近い声が聞こえてきたが、
「おっと、もう小銭がない。ここのボロ電話、カードが使えないんだ。詳しいことはこっちに来てから話す。じゃな、待ってるぞ」
鏑木はそう言うなり、そそくさと電話を切った。
あたりを見回してみたが、休憩場にいた老人たちは、それぞれテレビに見入ったり、マッサージ器にかかったりしていて、鏑木の方に注意を向ける者など一人もいなかった。
その夜。
神日美香は独りで機織り小屋にいた。
社の隅に建てられた小屋である。機織り小屋といっても、機織り機が置いてあるわけではない。大昔は置いてあったらしいが、今は影も形もない。
小屋の周囲には、御幣を付けたしめ縄が張り巡らされ、そこが神聖な場所であることを誇示してはいたが、一歩中にはいると、神官たちが休めるような、ちょっとした休憩所風の作りになっていた。
それでも「機織り小屋」と呼ぶのは、昔、山より降りてきた大神を、神妻たる日女《ひるめ》がここで「神御衣《かんみぞ》」を織りながら待ち受けていて、織り上がった新しい衣を神に着せたという伝承ゆえである。
巫女《みこ》が訪れてきた神に新しい衣を織って与えるのは、いわば「脱皮」の儀式である。神はそれまで身につけていた古い衣を脱ぎ、新しい衣を身につけることで新たな力を得ると考えられたのである。
この「神御衣」というのが、今では、蓑《みの》と笠《かさ》を代用している。秋田の奇祭「なまはげ」神事で、家々を回る鬼役の「なまはげ」が蓑笠を身につけているのは、単に寒冷地方の防寒具というだけではなく、「神」であることの印でもあるという。
所々|漆喰《しつくい》の剥《は》げかけた土壁には、二組の真新しい蓑笠が掛けられていた。今年は使われなかった「三人衆」用のものだった。この蓑笠も毎年新しく作り直されている。
もうすぐ、村の家々をすべて回り終えた武がここに戻ってくれば、三組めの蓑笠も揃うはずだった。
日美香は、酒の準備をして、それを今か今かと待っていた。
白衣に濃紫の袴《はかま》をつけ、一つに結んだ黒髪を背中にたらし、こうして小屋の中に独りでいても、不思議に心は落ち着いていた。はじめての体験だというのに、さほど不安も緊張感もなかった。
はじめてではない。前にもこのようなことをしたことがある。そんな記憶に助けられていたからだ。
おそらく、それは祖母の記憶なのだろう。
この村に来てから、日ごとに覚醒《かくせい》しつつある緋佐子の記憶は、自分が祖母の転生者であることを悟り、その存在を意識するようになってから、より鮮明になりつつあった。
今までは、ただぼんやりとした懐かしさとか既視感としてしか感じられなかったことが、明らかな記憶として感じられるようになっていた。
この小屋の記憶もあった。
ここでこうして、「大神」役の青年たちが戻ってくるのを待っていたことがあるという遥《はる》か昔の記憶が……。
それは、今の自分がまだ二十歳の処女《おとめ》であるにもかかわらず、まるで老女が若い頃のことを思い出すような、なんとも奇妙な感覚だった。
膝《ひざ》元には、神酒を満たしたばかりの古い瓶《かめ》がある。神酒は、古くは「みわ」と呼ばれ、神家の姓の由来にもなったものだが、祭りのときには、甕《みか》と呼ばれる瓶に入れられ、その瓶ごと地に掘り据えられ、年に一度訪れてくる神に捧《ささ》げられたという。
今では、地に掘り据えられることはないが、この古式を踏まえ、「大神」役の青年たちにふるまわれる酒も、今風のとっくりなどではなく、古い瓶に入れられているのである。
そして、昔は、この神酒を入れる神聖な甕に、小蛇を入れ、蛇神を育てる容器としても使われたのだという……。
目の前にある古い瓶をぼんやりと見つめながら、前に聖二から聞いた話を思い出していた。
小蛇を育てて蛇神にする。
つまり、神妻たる日女とは、蛇神の妻である前に母でもあるということなのか。ということは……。
ふと頭にひらめいたことがあった。
この瓶は、ひょっとしたら、巫女たちの「子宮」の象徴なのではないか。
母が自らの子宮の中で胎児を月満つるまで育てるように、この甕に小蛇を入れて蛇神となるまで育てるのだから……。
そして、この場合、「小蛇」というのは、精子を象徴しているのかもしれない。外から訪れてきた精子を子宮の中に迎え入れ、やがてそれが卵子と結合して受精卵となり、それを子宮に着床させて胎児となるまで育てる……。
この「蛇を甕に入れて育てる」という不可解な古代の習慣というか儀式は、一つの生命が誕生するまでの神秘を、身近なものを使って古代人なりにシンボリックに表現したものだったのではないだろうか。
それは暇つぶしの思いつきにすぎなかったが、目の前の酒を満たした瓶をじっと見ていると、まるで自分の子宮にも酒を満たされたような気がしてきて、何やら、お腹のあたりが、酩酊《めいてい》感を伴って、微《かす》かに熱くなってくるのを感じた。
そのとき、日美香は、はじめて自分がまぎれもなく女であって、子宮という「甕」を体内にもった生き物であることをはっきりと自覚した。
しかも、偶然とはいえ、その「甕」を名前の一部にももっている……。
それは、自分の中に眠っていた母性を自覚した瞬間でもあった。
東京で暮らしていた頃、特に養母が生きていた頃は、自分が女であると特に感じることは滅多になかった。何かそう感じることに生々しいいやらしさのようなものを覚えて、あえてそう思わないようにしてきたところもある。
でも、養母の死をきっかけに、この村の存在を知ることになり、ここに来てからは、それまであえて封印してきたこの母性的としかいいようのない感覚が日ごとに強くなっている気がする……。
最初は、こうした母性の目覚めは、二歳年下の異母弟《おとうと》の存在を知ったせいだと思っていたが、果たしてそうなのだろうか。
武が異母弟ではないと分かった今も、この感覚は消えない。それどころか、前よりも強くなっている。今では、この体内で実際に胎児を育て生んだことがあるような感じさえするようになった。妊娠どころか、それに至る行為すらしたこともないというのに。
これは……。
祖母の記憶によるものではないか。緋佐子は、日美香くらいのときにはもう二人の子供の母親になっていた。この小さなものを守り育てたいという母性的な感覚は、祖母の記憶によるものではないのか。
とすれば、自分が守り育てたいと思っている対象というのは、ひょっとしたら、異母弟だと思い込んでいた武ではなく……。
あることに気づきそうになっていたとき、表の方でガタと物音がした。
武が戻ってきたのだろうか。
さすがに全身に緊張感が走った。
やや身構えるようにして、音のした方をじっと見ていると、やがて、少し建て付けの悪い小屋の戸を開けて、一人の人物が入ってきた。
蛇面を被り、全身を蓑笠ですっぽりと覆っている。
その人物は無言のまま入ってくると、作法どおり、日美香の前に座った。仮面も蓑笠も身につけたままだ。この段階ではまだ脱がない。儀式がすべて終わったところで脱ぐことになっていた。仮面も蓑笠も「神」の証《あか》しであり、これを身につけている限り、大神の化身とみなされるからである。
しかも、儀式の間中、大神役の青年は一切口をきいてはならない。終始無言である。口がきけるのは、やはり仮面と蓑笠を脱いだあとであった。
日美香は、酒の準備をしながら、なんとなく奇妙な違和感のようなものを感じていた。
何かが変だ。
何がどう変なのかは分からないが……。
そんな妙な気分のまま、目の前の酒の瓶を、器を手にした青年の前に差し出した。それを傾け、器に酒を注ぐ。青年は、それを口元までもっていった。仮面の口元は、そこから飲み食いができるように穴が開いている。
青年は酒に口をつけるような仕草をすると、すぐにそれを元に戻した。酒を飲むといっても、がぶがぶと飲み干すわけではなく、僅《わず》かに口に含むだけである。
器を元に戻すとき、青年の右の手のひらがちらと見えた。
それを何げなく見た日美香ははっとした。
おかしい。
手のひらに傷痕《きずあと》がない。
武なら右の手のひらに傷があるはずだ。例の猟奇事件の犯人につけられたという刃物傷が……。
それがないということは……。
今、仮面と蓑笠《みのかさ》をつけて目の前にいる人物は武ではないのか?
日美香は目の前の人物を凝視した。
この男が入ってきたときに感じた違和感の正体が分かった。
背の高さが違うのだ。
武よりも少し低い。
身体つきそのものはそんなに違ってはいないが、背丈が若干低いのだ。
そういえば……。
戸口の敷居をまたぎこすとき、この男は、首をかしげなかった。最初にこの小屋に来たとき、武は、鴨居に頭をぶつけないように少し首をかしげるようにして出て行ったのに。それが帰ってきたときはそうしなかった。すっとそのまま入ってきた。
それを見て、違和感をおぼえたに違いなかった。
「……あなた、誰?」
日美香は囁《ささや》くように聞いた。
神迎えの日女《ひるめ》役も儀式中は口をきいてはならない決まりがあるのだが、そんなことはどうでもよかった。
目の前の男は黙っている。
しかし、誰何《すいか》されて、明らかに動揺したような様子を見せていた。
「あなた、武じゃないでしょう? 誰なの?」
そう聞いても、相手はまだ押し黙っていた。「武ならここに傷があるはずだわ」
日美香はいきなり相手の右手首をつかむと、その手のひらを上に向けた。
相手は動揺しながらも、されるがままになっていた。
「蛇面を取りなさい」
そう命じても、まだ無言のままかたまっている。
日美香はすっと立ち上がると、両手で無理やり男の顔を覆っていた蛇面を剥《は》ぎ取った。
男は最初こそ少し抵抗するようなそぶりを見せたが、あとはあきらめたようになすがままだった。
蛇面の下から現れた顔を見て、日美香は驚いたように言った。
「郁馬……さん」
目の前に、ややふてくされたような表情で座っていたのは、神郁馬だった。
「どうして……あなたがここに? 武はどうしたの」
混乱しながらもそう聞くと、
「武様に頼まれたんです。体調があまり良くないから、後は代わってくれって」
郁馬はようやく口をきいた。どこか開き直ったようなふてぶてしい態度だった。
「体調が良くないって……途中で気分でも悪くなったの?」
郁馬の言い訳にあまり真実味を感じなかったが、武が病み上がりであることは事実だから、つい心配になって聞くと、
「そのようです。あまり顔色が良くなかったところをみると、また熱でも出たのかもしれません。これ以上続けるのはしんどい、どこかで休みたいとおっしゃって……」
郁馬はそう言った。顔付きは神妙だが、その口調はどこか口先だけのような空々しい感じがする。
「だからといって、簡単に交替できるような役でないことくらい、神官であるあなたなら誰よりもご存じのはずでしょう?」
「……僕も武様にそう言って一度はお断りしたんですが、どうしてもときかないんですよ。大役を最後までやり通したように見せたい、途中で放棄したように思われたくないからと言い張られて……」
日美香はそう嘯《うそぶ》く郁馬の顔をじっと見ていた。本当に武がそんなことを言ったのか。疑問だった。儀式が終わってしまえば、大神役の青年は仮面を取る。そうすれば、それが誰であるかすぐに分かってしまうではないか。
「どういう事情であれ、この役は武以外の人間には出来ません。儀式は中止です。あなたも蓑笠を脱いで、すぐにここを出て行きなさい」
立ち尽くしたまま、そう命じた。
すべてが完了するまで脱いではならないとされている「三人衆」の蛇面を自ら剥ぎ取ってしまい、儀式中は終始無言という決まりも破ってしまった今となっては、この神事はこの段階で完全に失敗に終わった。それだけは間違いない。
これ以上、ここで郁馬と押し問答をしても仕方がなかった。だから、「出て行け」と命じたのだが、郁馬は俯《うつむ》いたまま、一向に動く気配を見せなかった。
「聞こえないの。出て行けと言っているのよ」
怒りにまかせて、少し声を荒げてそう言うと、郁馬はふいに顔を上げた。その端正な口元には薄笑いが浮かんでいた。
「べつにいいじゃないですか。何も儀式を中止しなくても。このまま続ければ……」
「このまま続ける? 何を馬鹿なことを言ってるの? そんなことができるわけがないじゃないの!」
日美香は怒りよりも驚いて、郁馬の顔をまじまじと見返した。正気で言っているのか。郁馬の方も、もはや腹を決めたという顔で、昂然《こうぜん》とこちらを見返している。
いつもの郁馬とどこかが違っていた。日美香が知っている快活で人好きのする好青年の郁馬とは……。
まるで顔だけ同じ別人のようだ。
「武様とは人目のないところでこっそり入れ替わりましたから、僕たちさえ黙っていれば、誰にも気づかれませんよ。儀式が終わるまでは、武様も誰にも見つからないようにどこかに隠れているでしょうし。二十年前のときのようにね……」
薄笑いを浮かべたまま、そんなことを言い出した。
二十年前って……。
「二十年前の大祭にも、同じことがあったそうですね。この役に選ばれていた今の村長がある人物に直前に頼まれて、こっそり役をすり替わったことが。その人物はこの役をやる資格がなかったというのに。あのときは、聖二兄さんも前以て知っていたらしいが」
「あなた、それを誰から……?」
どうして郁馬があのことを知っているのだ。聖二に聞いたのか。それとも……。
「誰からでもいいじゃないですか。僕も二十年前にそんなことがあったとは全く知らなかったから、聞かされたときは驚きました。でも、これで、一つだけ分かったことがあります。この神事については、幾つか守らなければならない掟《おきて》があるけれど、そんなものは破ったところで、大神の怒りに触れるわけでも祟《たた》りにあうわけでもないってことですよ。だって、もし、そうならば、二十年前に掟を破ったその人物は今ごろ、大神の怒りにふれてどうにかなっているはずでしょう? 惨死するとかさ。それがどうです? 惨死どころか、その年の選挙には初出馬で見事当選、その後も順風満帆、今では、次期総理などと噂されて大出世もいいとこだ。祟りのたの字も被っていないじゃないか。掟なんて関係ないんですよ。守ろうが破ろうが。だから、日女の子である僕でも、この役をやったところで、大神の怒りに触れるなんてことはありえないんです」
「……もう一度言います。すぐにここを出て行きなさい。今、素直に出ていけば、あなたがここでしたことしゃべったことは、お養父《とう》さんには一切報告しません。わたしの胸に収めてあげます。だから、出て行きなさい」
日美香は、静かに、しかし、厳しく言い放った。
それでも、郁馬はひるむ様子がない。相変わらず口元に薄笑いを浮かべたまま、どこか人を小馬鹿にしたような顔つきで、日美香の顔を見上げている。
「どうやら急に耳が不自由になったようね。もう一度だけ言うわ。これが最後よ。出て行きなさい。そうしないと大声で人を呼びます。社務所にはまだ人が残っているはずです。わたしが大声を出せば、誰か駆けつけてきます。そうなってからでは遅いわよ」
「仕方ないですね」
郁馬はわざとらしいため息をもらすと、ようやく立ち上がるそぶりを見せた。
「そんな堅苦しい事言わずに、あなたも適当に楽しめばいいのに……」
そう呟《つぶや》きながら。
「神事だとか儀式だとか物々しいこと言っているけど、こんなのはただのレクリエーションじゃないですか。ほかに楽しみなんて何もない山奥に住む男たちに、年に一度だけ与えてやる娯楽みたいなもんですよ。神家はこうやって、長い間、弄《あめ》と鞭《むち》を使い分けて、この村を牛耳ってきたんだ。日女なんて、日ごろは女神のように敬われ大切にされているけれど、要は、年に一度、祭り用の接待に使われる娼妓《しようぎ》みたいなもんじゃないか。家事労働を一切させずに大事にしているのだって、変に糠味噌《ぬかみそ》臭くなったり、手にアカギレなんか作られたら、男の方がシラケるからだよ。神妻でございなんてお高くとまっているが、その実態は、特定の夫をもつことも許されず、複数の男の相手をするのが商売みたいな、生まれついての売春婦――」
郁馬の片頬に日美香の平手打ちが炸裂《さくれつ》した。
「そりゃ、あなたはお印があるということで、ほかの日女とは違うかもしれないけれど……」
郁馬は打たれた頬を撫《な》でながら、なおも口を歪《ゆが》め、独り言のように続けた。
「でも、武もちょっと変わってるよな。こんなおいしい役を自分からおりるなんてさ。未経験の純情坊やってわけでもあるまいに、もっと気楽に楽しみゃいいものを。もっとも、相手が腹違いの姉だと知ったら、そんな気にもならないか」
武が……。
わたしを異母姉《あね》だと知っている?
日美香の全身を衝撃が襲った。
一体、誰がそのことを武に……。
「僕はあなたのお相手としてそんなに不満ですかね? これでも、学生の頃は女の子にはもてた方なんだけどな。武のような青臭いガキよりよっぽどましだと思うんだが」
「早く出て行って。本当に人を呼ぶわよ」
「人を呼ばれて騒ぎになるのはみっともないし、こっちにもプライドはあるから、仰せの通り出て行きますが」
郁馬は薄笑いを消した真顔で、身につけていた蓑笠《みのかさ》を脱ぎ捨てると、床に叩《たた》きつけながら言った。
「これで、あなたとのお約束も果たせなくなりそうで残念です」
「……約束?」
日美香はぎょっとしたように聞き返した。
「どうしても出て行けとおっしゃるなら出て行きます。そして、ここを出た足で、兄のところに行って、武に頼まれて馬鹿なことをしてしまったと涙ながらに懴悔《ざんげ》したあと、実は、あなたにも頼まれて、今まで隠していたことがあると打ち明けます」
「……」
「あなたの妹さんのことですよ。照屋火呂のことです。全部、兄に打ち明けます。それでもいいんですよね……?」
「僕があなたに預けた例の報告書と写真、まだ聖二兄さんには見せてないんでしょう?」
郁馬はせせら笑いながら言った。
「……」
「というか、見せるつもりなんかはじめからなかったのかな。まあ、安心してください。あなたの双子の妹のことは、今のところ、兄さんの耳には入っていません。あの情報をもってきた弟の口も封じておきましたから、奴から漏れることもない。僕さえ黙っていればね。でも、このままだと、それも今夜限りってことになりそうだな」
「……脅しているつもり?」
日美香は目の前の男を睨《にら》みつけた。
「そんな怖い顔しないでくださいよ。せっかくの美人が台なしだ。いや、怒った顔も悪くないけどな。でも、脅すというのは人聞きが悪いなぁ。どうせなら、取引と言って欲しいですね」
「……取引?」
「そうです。妹さんのことを兄には知られたくないんでしょう? もし、僕の言うことを聞いてくれたら、こちらもあなたの言うことは何でも聞きますよ。妹さんのことを兄にしゃべるなというならその通りにします。永遠に誰にもしゃべりません。他からも漏れないように僕の所で必ずガードします」
「……」
「あなたが――」
日美香が無言のまま睨みつけていると、郁馬はなおも言った。
「なぜ、照屋火呂のことを兄に隠したがっているのか、僕には分かってますよ。本当の理由がね」
「……」
「妹の平凡でささやかな人生を守ってやりたいなんて、ウソ臭い奇麗事ではない本当の理由。要するに、あなたは妹の人生を守りたいんじゃなくて、自分の人生を守りたいだけなんだろ? もし、彼女のことが知れれば、あの兄が手をこまねいているはずがない。養女か何かにして、この村に連れてくるに決まっている。そうなれば、今まであなたがここで独り占めしていた地位も兄の愛情も何もかも、半分は妹のものになっちまう。そうなるのが嫌なんだろ? 怖いんだろ? 全部、自分のものにしておきたいんだろ?」
郁馬の口調が急に下卑《げび》たものに変わった。
「正直にそう言えよ。妹の幸せなんて、そんな奇麗事並べずにさ。誰だって自分が可愛いんだ。自分が一番なのさ。僕だってそうだよ。あなたの気持ちは痛いほど分かる。だから、条件次第では協力するって言ってるのさ。それに、あなたの心配は当たってるよ。けっして取り越し苦労じゃない。もし、照屋火呂のことが兄に知れれば、おそらく、兄の関心と愛情はたちまちあっちの方に移ってしまうだろうな。半分どころか、ひょっとしたら丸ごと全部。そうなったら、あなたには何も残らないよ」
「どういうこと?」
「ねえ、もしかして、あなたは兄に愛されていると思ってる? 一人の人間として尊重され愛されていると?」
「……思っているわ」
「それが大いなる勘違いなんだよ」
郁馬はあざ笑うように言った。
「確かに、『今』、兄はあなたを愛している。この家で一番、いや、世界中で一番かもしれない。実の娘以上に愛し大切にしている。兄自身、そのことを隠そうともしないし、それはまぎれもない事実だろうさ。だけど、違うんだよ。違うんだ。一人の人間として愛してるわけじゃないんだ。兄が愛してるのは、あくまでも人形としてなんだよ」
「……人形?」
「そう。人形だよ。奇麗でめったに手に入らない珍しい人形。兄にとって、あなたはまさにそういう人形、おもちゃのような存在なんだよ。だから、こんなに大切にされてるんだ。あなただけじゃない。兄にとっては、目に見えるものすべてが人形、おもちゃなんだ。いつだったか、母――耀子姉さんのことだよ――が言っていた。聖二さんは小さい頃、人形とかおもちゃとか使って一人遊びをするのが好きだったって。たとえば、兵隊のミニチュアを使って戦争ごっことかさ。大人になっても、それをやめない、まだ続けているって。ただ、大人になってからは、人形の代わりに、生身の人間を使って遊ぶようになっただけだって」
「……」
「あの人はそういう人なんだ。回りの人間を自分と同等だなんてはなから見ていない。退屈しのぎにもてあそぶ人形くらいにしか見てないんだよ。貴明兄さんだって、あの人にとっては、人形の一つなんだ。政権取りという今夢中になっているゲームに必要な……。
でも、どんなに大切にされても、所詮《しよせん》人形は人形なんだ。飽きればアッサリ捨てられるし、汚れれば新しいものと代えられてしまう。世界にたった一つしかないような珍しい人形でも、もし、同じものが見つかれば、新しい方へ気が向いてしまう。古い方の人形はそのまま打ち捨てられてしまうんだ……」
違う。
日美香は思わずそう言いそうになった。
勘違いをしているのは郁馬の方だ。何か大きく誤解している。被害妄想もいいところだ。 聖二は、緋佐子が作ったという襤褸《ぼろ》人形を今も捨てずにもっている。手垢《てあか》で真っ黒に汚れ、布が破れ、中の綿がはみ出しているような汚い古い人形を、ほかの人ならとっくに捨ててしまっているような、母が作ってくれたという以外に何の価値もない襤褸人形を今も大事に持ち続けている……。
「……僕だってそういう人形の一つだ。今まで弟たちの中では、一番可愛がられて目をかけられてきた。弟というより息子のように信頼されて、跡継ぎはおまえだって言われてもきた。こっちもすっかりその気になっていた。だけど、どうだ。武にお印が出たと分かったとたん、兄の関心は全部武に移ってしまった。今では、武を養子にして、自分の後継者にしたいと思っているんだ。僕のことなんか完全に忘れてるんだよ。そういう人なんだ。そういう冷たい人なんだよ、あの人は。普通の人間の気持ちなんて理解できないんだ。でも、それはしょうがない。だって、あの人は人間じゃないんだからな……」
「人間じゃない……?」
「そうだよ。あの人は人間じゃない。人間の姿をしているけれど、本当は人間じゃない。蛇なんだ」
郁馬はそう言って、突然、日美香にむかって、
「あなたは転生という言葉を知っている?」と聞いた。
日美香がどう答えようかと迷っていると、郁馬は答えを待たずに言った。
「家伝書を読めば、いずれ出てくる言葉だけど……。兄はこの転生者なんだよ」
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「転生者のことなら知っているわ」
そう答えると、
「そうか。だったら、話が早い。じゃ、兄が転生者だってことももう知ってるんだね。曾祖父《そうそふ》の生まれ変わりだってことも?」
「……ええ」
「この曾祖父って人もやはり転生者だったらしい。つまり、転生はずっと前の時代から連綿と続いている、もしかしたら、歴代の日子《ひこ》はすべて一人の転生者が時代を越えて生き続けている姿かもしれないんだ。それは、ひょっとしたら、六世紀頃、蘇我《そが》氏との政争に敗れて大和から落ちのび、この村を創建したという物部守屋《もののべのもりや》の遺児、弟君にまで溯《さかのぼ》ることができるのかもしれない。彼が最初の転生者だったのかもしれないんだ。
もしそうだとしたら、兄は千数百年以上も生き続けていることになる。とてつもなく長生きだろう? これは人間にできることじゃない。蛇だ。人間の姿をした蛇なんだ。蛇が脱皮して生き続けるように、次々と肉体の衣を脱ぎ捨てて生き続けているんだ。
そして、これからも生き続けるだろう。転生は一度成功すると、次は最初よりも少し楽になるらしいからね。棒高跳びとかのスポーツと同じ要領さ。一度飛ぶこつをつかめば、次はもっと成功する率が高くなる。だから、何度も転生している者はそれだけ次の転生を成功させやすい。
しかも、転生するたびに、その時代時代のさまざまな経験や知識を脳に蓄えていく。転生者の前世の記憶は出生と同時に失われると言われているけれど、無くなってしまうわけじゃない。一時的に封印されているだけなんだ。本当は脳に全ての記憶が保存されているんだよ。ただ、その量が膨大なものだから、ふだんは封印されていて、何か事があったときとか、死の間際だけ覚醒《かくせい》するといわれているんだ……」
郁馬は憑《つ》かれたように話し続けた。
「よく人生はゲームじゃないとか言うよね。まあ、こんなのは、実はゲームなんてあまりやったことのない連中が分かったような顔で口にする言葉だが、確かに、普通の人間にとって人生はゲームじゃない。少なくとも『ゲームオーバー』なんてすぐに出るような初期タイプのゲームではない。人生は一度限りでリセットできない。失敗したらそれまでだ。
でも、兄のような怪物にとっては、人生なんていつでもリセットできるゲームなんだよ。今やっているゲームに飽きたら、あるいはちょっと失敗したなと思ったら、転生という手を使ってリセットすればいい。そうすれば、また同じゲームを最初から遊べるんだ。しかも、前にやったゲームのデータは少し呼び出しにくい仕組みにはなっているけれど、失われたわけではなくて、ちゃんと脳というディスクの中に保存されたままなんだから、完全にリセットされたわけでもない……。
こんなことができる人間に、寿命の限られた並の人間と同じ感情や感覚を持てという方が無理だよ。並の人間にとっては、大切に思われる事でも、兄のような転生者には、それほど大切じゃないんだから。そういう感覚が持てないんだ。だって、もう何度も経験している事なんだもの。どんなに面白い刺激的なゲームでも、何度もやっていれば、いくらやるたびに違うとしても、いい加減飽きてくるよ。最初にやった新鮮な喜びはもうどこにもない。
どんな御馳走《ごちそう》だって、一度だけなら有り難がって食べるけど、何度も出されたら、だんだん食指が動かなくなる。それと同じことさ。同じことを繰り返していると、感覚や感情が麻痺《まひ》してくるんだ。兄にとっては、たとえそれが愛する家族だろうが、自分と同等には見ていない。というか、見えないんだ。人形のようにしか見えないんだよ。だから、あなたのことだって、人形を愛するようにしか愛してないんだ」
「それは違うわ」
日美香はきっぱりと言った。
「何が違うんだ?」
「あなたは転生ということを理解していない。転生者を誤解している。あなたの言うようなことも全くないわけじゃないかもしれないけれど、転生者が人生をゲームとしかとらえていないとか、出会った人間を人形かおもちゃのようにしか見ていないというのは、あなたの勝手な想像にすぎないわ」
「そりゃ、想像にすぎないよ。だって、僕は転生者ではないし、たぶんその能力もない普通の人間だからさ。物部の血筋といっても、この能力があるのは日子クラスだけだもの。でも、それを言うなら、あなただって同じじゃないか。あなたが転生の何を理解してるっていうんだ。たかが家伝書を少しかじったくらいで」
郁馬はふんという顔で言った。
「わたしには解る。お養父《とう》さんほどではないにしても、あなたよりは転生のことを解っているつもりよ。文献による知識としてではなく経験として」
「経験?」
「そうよ。だって、わたしも転生者だから……」
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「あなたが?」
人を小馬鹿にしたような表情をしていた郁馬の顔が一変した。
「わたしも転生者なのよ。それがつい最近分かったの。祖母の転生者だってことが」
「祖母って……まさか緋佐子様の?」
郁馬は驚いたように言った。
「ええ」
日美香は、武の部屋で見つけた緋佐子の写真がきっかけで、耀子から「転生」の話を聞き、その後、聖二の部屋であったことをかいつまんで話した。
「……お養父さんがもっていた古い襤褸人形を見たとき、わたしは思い出したのよ。はっきりと。その人形をこの手で作ったことを」
「……」
郁馬は茫然《ぼうぜん》として目の前の女を見つめていた。
そうだったのか。
日美香も転生者だったのか。
だから……。
驚いてはいたが、心のどこかで、そのことを直感的に感じ取っていたような気もした。
次兄の実母にあたる緋佐子のことは話にしか聞いたことはなかった。写真も見たことがない。でも、日美香がこの村に来てから、彼女が緋佐子に生き写しだという噂は耳にしていたし、何よりも、日美香が転生者だとすると、彼女のもっている二十歳の小娘とはとても思えないような、一種独特の大人びた雰囲気の理由も納得がいく。
見た目は実年齢そのものだが、精神年齢が実際よりも高く見える。いわば老成して見えるのである。これはまさに「転生者」の特徴である。
肉体的にはいくら若くても、転生を繰り返している者ほど、その精神年齢は、経験豊かな老人のそれに匹敵するものがあるからだ。肉体の衣こそ替えるが、それを纏《まと》っている魂魄《こんぱく》の方は着実に年輪を重ねているからである。そして、それは、転生者の「眼」に、最も如実に現れるといわれている。もともと人間の「眼」には、じっと見ていると、その人物の精神レベルが隠しようもないほど、まざまざと現れてしまうものだが、転生者の場合、それがはっきりと現れる。
もともと神家の人間は、一族特有の遺伝子ゆえか、老化しにくい体質の者が多い。その皮膚にしろ、臓器の機能にしろ、普通の人間よりも老化の速度が遅いのである。若いうちはそれほど目立たないが、三十歳を過ぎた頃から、この特徴は際立ってくる。特に若作りをしなくても、実年齢よりも十歳ほどは確実に若く見えるという形で。
兄にしても、今年で四十八歳だが、見た目はもっと若く見える。三十代半ばか後半くらいにしか見えない。ところが、この神家の人間の特徴にくわえて、転生者である場合は、さらに、精神年齢の方は実年齢よりも高いという特徴がくわわるのだ。
すると、外見は若々しいのに、なぜか中身は年取った者であるかのように感じるという、一見矛盾した奇妙な雰囲気を醸し出すことになる。それが、どこか得体の知れない人間離れした神秘的なオーラを発しているように見えるのである。
同じ感じが日美香にもあった。接していると、自分よりも年下なのに、時々、ずっと年上の女と向かい合っているような錯覚に陥ることがあった。あれは錯覚ではなかった。実際、自分が接していたのは、外見こそ二十歳の娘であっても、中身はもっと年老いた女だったからだ。
しかも……。
もし、神緋佐子が最初の転生者ではなく、彼女も誰かの転生者だとしたら、日美香も、兄のように、途方もない年月を転生によって生き続けてきた「女蛇」だということになる。これでは無理だ。
とても太刀打ちできない……。
日美香が転生者だと知った瞬間、郁馬の中でこれまで気負っていた何かがガラガラと音をたてて崩れ落ちた。
相手にしているのは人間の女ではない。
女の姿をした「蛇」だったんだ。
「……さっき、あなたは、お養父さんは古い人形なんか飽きたら、すぐに捨ててしまうと言ったけれど、そんなことはないわ。げんに、わたし……祖母が作ってくれた人形はどんなに汚れて古くなっても捨てずに持っていらしたのよ。母親が作ってくれたという以外に何の価値もない襤褸《ぼろ》人形を。これでも家族を愛していないといえるの? 人形かおもちゃのようにしか見てないなんていえるの?」
茫然自失としていた郁馬の耳に、突き刺さるように、そんな日美香の声が届いた。
「さっき僕が言った事は撤回します。まさかあなたまで転生者だとは知らなかったから……。それも、前世が兄の実母だったなんて。だとしたら、兄の、あなたに対する愛情だけは本物なのかもしれない。あなたを、唯一、自分と同じ生き物と認めているとしたら……」
郁馬は呟《つぶや》くように言った。
その声には、さきほどまでのふてぶてしい響きは消えうせ、その首も心なしかうなだれていた。
「それともう一つ……」
なおも、日美香は言った。
「わたしが妹のことをお養父さんには隠しておいてといった理由だけれど、あなたが見抜いた通り、妹のささやかな幸せを守るためなんていうのは口実よ。正直いうと、そんなことはどうでもいいわ。最初、あなたに口止めしたとき、この村での自分の地位やお養父さんの愛情を独占したいという気持ちがあったことは認めるわ。その通りよ」
「……」
「わたしには生まれたときから父がいなかった。母しかいなかった。まわりの友達には当然のようにあるものがわたしにはない。いつもそういう欠落感のようなものを抱いて生きてきたわ。口には出さなかったけれど、心の奥底ではずっと父というものを探し求めていた。
そして、ようやく、養女という形ではあるけれど、お養父さんのような人と巡りあえた。こんな人が父だったらいいなと、長い間、密《ひそ》かに思い描いていたまさに理想通りの人を父親にできたのよ。だから、その人の関心も愛情も失いたくなかった。独占しておきたかった。あなたの想像した通りよ。妹の存在が知られれば、わたしの今の幸せが半分になってしまう。そう思ったのも事実……。
でも、今は少し違う。わたしが祖母の転生者だと分かってから、少し考えが変わったの。今は、全く別の理由で、妹のことはお養父さんには知らせたくないの。それは……」
日美香はそう言って、なぜ自分と火呂が一卵性双生児という状態で生まれてきたか、それは、死の間際の緋佐子の想いが真っ二つに分裂しており、その二つの念の強さが一つの受精卵を分裂させたためではないかという話を郁馬にした。
「……だから、妹をこの村とは無縁にそっとしておくというのは、わたしのというより、祖母の最期《さいご》の想いでもあるのよ。この村に帰りたいと願ったのと同じくらいの強さで、この村とは無縁に平凡に生きたいと願った祖母のもう半分の心。それが照屋火呂という形になって今も生きているわけだから。妹のためでもなく、わたし自身のためでもなく、祖母のために、妹のことはそっとしておきたいのよ」
12
「帰ります……」
郁馬は肩を落とし、うなだれたままそう言うと、戸口の方に行きかけた。
「ちょっと待って」
そんな郁馬を日美香が呼び止めた。
「取引とかいう話はどうなったの?」
少々意地悪くそう聞くと、
「ああ……。そのことなら忘れてください。あなたの話を聞いていたら、そんな気は奇麗サッパリ消えうせましたよ。それに、たとえ妹さんのことを知ったとしても、それで、あなたに対する兄の態度が変わるとは思えなくなってきた。だったら、取引なんて意味ないでしょ」
郁馬は自嘲《じちよう》ぎみに口を歪《ゆが》めて半泣き半笑いの顔で言った。
「でも、安心してください。取引なんかしなくても、お約束は必ず守ります。あなたがそう望むなら妹さんのことは隠し通します。誰かの口から兄の耳に入りそうになったら、僕ができる限りガードします。だから……」
そう言って、ちらと悪戯《いたずら》っ子のような表情をすると、
「できれば、今夜のことも兄には内緒にしてもらえませんか。いくら武に頼まれたからといって、こんな形で神事をぶちこわしたと知れたら、後で何をされるか。口で叱られるだけでは済まないような気がするんです。兄は切れたら怖い人だから……」
日美香の顔色を伺うようにして、おそるおそるそう言い出した郁馬の様子には、これまで見せていたふてぶてしさはすっかり影を潜め、悪戯が見つかって頭を掻《か》いているような、いつもの快活な青年のそれに戻っていた。
どちらが、郁馬の本性なのか分からないが、たぶん、どちらも彼の本性なのだろうと日美香は思った。
快活な普通の青年の顔の奥に、あのような狡猾《こうかつ》なふてぶてしさも隠し持っているのだろう。でも、だからといって、快活で人懐っこいいつもの姿がすべて演技か偽善かというと、そんなことはあるまい。
多くの人間がそうであるように、彼もまた、自分の中に光と影を合わせもっている。そして、今夜はその「影」の方が彼を支配してしまった。それだけのことに過ぎないような気がした。
そう思い当たると、これまでの怒りが嘘のようにすーと鎮まるのが自分でも分かった。
「……いいわ。わたしも今夜のことはお養父《とう》さんには何も言いません」
そういうと、郁馬は明らかにほっとしたような表情になり、「すみません」と謝った。
「ただ、この神事が失敗に終わったことだけは報告しなければならないわ。どうせ明日になれば聞かれるでしょうし」
日美香は思案するように言った。
「ああ、そうか。そうですよね……」
いったん安堵《あんど》しかけた郁馬の表情が曇った。
「問題はどう報告するかなのよね。今、武はどこにいるの?」
「うちの物置に隠れていると思います。蛇面も蓑笠《みのかさ》もそこで落ち合って受け取ったんです。僕が行くまでそこに隠れているはずです」
「あの子の具合が悪くなって、この役を交替したわけではないのね?」
日美香は確認するように聞いた。
「違います。あれは嘘です。体調の方は大丈夫のようです。ただ……」
郁馬はそう言って、昨夜、明け方近くになって、武が部屋を訪れてきたことを包み隠さずに話した。
日美香はそれを黙って聞いていた。
誰かが武に教えてしまったのだ。この神事の具体的なことも、自分が異母姉《あね》であることも……。
それで、混乱した武は、深夜だというのに、郁馬の元を訪れ、相談した……。
ようやく事の次第が日美香にも飲み込めてきた。
「誰なの。武によけいなことを吹き込んだ人物というのは?」
郁馬の話を聞き終わると、日美香はそうたずねた。
それまで、こんな交替劇を仕組んだ郁馬や武に感じていた怒りが、今度は、そのきっかけを作ったという人物に対してふつふつと沸いてきた。
「分かりません。武様はどうやら、その人物に堅く口止めされたようで。でも、ここ数日、風邪で寝込んでいたという状況を考えれば、外部の者とは思えません。うちの者だとは思いますが……」
郁馬も首をかしげてそう言った。
日美香が武の異母姉であることを知っており、しかも、そのことを武に告げ口できるほど身近にいた者といえば……。
日美香の脳裏にふっと一人の女の顔が浮かんだ。
彼女だ。
彼女に違いない。
武の看病をするといって、ずっとつきっきりだった。彼女なら、いつでも好きなときに、武に話をできたはずだ。
「それじゃ……こうしましょう」
ふと名案を思いついて、日美香は言った。
「あなたと武がしたことは、お養父さんには伏せておきます。その代わり、こう報告します。武はここまで戻ってきたけれど、ひどく気分が悪そうだったので、儀式は中止して、わたしが看病していたと」
「……」
「武が病み上がりなのはお養父さんもご存じだから、こういうことにしておけば、誰も叱られないし傷つかないわ。物置に隠れているという武にも伝えておいて。お養父さんに聞かれたら、そう口裏を合わせるようにと」
「……分かりました」
郁馬は素直に頷《うなず》くと、
「武様にはそう伝えます」
と言い残し、小屋を出て行こうとした。
「郁馬さん」
戸口に手をかけたとき、また日美香が呼び止めた。
「郁馬さん、あなた……」
振り返った郁馬に、日美香は聞いた。
「どうして、こんなことを引き受けたの」
「え……?」
「武に頼まれたからって、こんな危ないことして。最後までばれないとでも思っていたの? 儀式が済めば蛇面を取るのだから、そのときに――」
「最後までばれないで済むとは思っていませんでした。もっとも、こんなに早くばれるとは思っていませんでしたが」
郁馬は肩をすくめるような仕草をした。
「背丈の違いはなんとかごまかせると思ったけど、武様の手のひらの傷のことはうっかりしてました。自分の間抜けさ加減に自分で呆《あき》れてます……」
「ばれたら、どうするつもりだったの? あなたと武がしたこと、もし、わたしがお養父さんに報告すると言ったらどうするつもりだったの?」
「そのときは例の……」
「取引を持ち出すつもりだった? 火呂のことを黙っていて欲しければ、今夜のことも黙っていろと」
「……」
「そんなことをして、わたしがその取引に必ず応じると思っていたの? もし、わたしが応じなかったらどうするつもりだったの? こんなことが後でお養父さんに知れたら、ただでは済まないことくらい、あなただって十分分かっていたでしょうに。そんな危険をおかしてまで、日女《ひるめ》の子には許されていない、年に一度の『レクリエーション』とやらをやってみたかったの?」
「違います」
郁馬はむっとしたように言った。
「単なる『娯楽』だったら、こんなリスクの伴うことしなくても、もっと楽な方法はいくらでもあります。ちょっと用を作って上京して、新宿あたりの歓楽街にでも繰り出して遊んでくればいいことです。ただの『娯楽』のためにこんなことはしませんよ。自分が思ってたよりも利口じゃないことは今日思い知らされましたが、そこまで馬鹿じゃないつもりです」
「だったら、どうして……?」
「あなたが日女役だったから」
郁馬は怒ったような顔のまま言い放った。
「……」
「もし、他の日女がこの役をやるんだったら、たとえ、武に土下座されて頼まれても、引き受けませんでした。でも、あなただったから。これが最初で最後の一度限りのチャンスかもしれないと思ったから。相手があなたなら、多少のリスクはおかしてもかまわないと思ったんだ」
「……」
「僕はずっとあなたのこと……。五月にはじめて、あなたがこの村に来たときから、兄に命じられて日の本寺にあなたを迎えに行ったあの夜からずっと……。今まで何度もあきらめようと思ってきたんだけど、どうしてもあきらめきれなかった。あなたがいずれ武を婿養子に迎えると聞いてからはよけい……。だから、武からあんなことを相談されて、たった一度だけならって思ったんだ。一度だけでいい。どんな卑劣な手を使ってでも、この想いを遂げることができれば。それでふっ切れると。でも、あなたも兄と同じ転生者だったと知って、今度こそ、きっぱりと思い切れそうです……」
郁馬はそう告白すると、子羊のようにうなだれたまま、小屋の戸を開け出て行こうとした。
「待って」
その姿を無言で見送っていた日美香は何を思ったのか、鋭く一声かけると、郁馬の元に走り寄った。
「待って、郁馬さん」
「……」
「今、言ったことは本当?」
振り向いた青年の腕をつかんで聞いた。
「本当です」
郁馬は相手の目を真っすぐ見返して答えた。
「そう……」
日美香はその顔をじっと思案するように見ていたが、ふいに言った。
「いいわ。儀式はこのまま続けましょう」
「え、続けるって」
郁馬は心底驚いたような顔で言った。
「だから、儀式は続けるのよ、最後まで。それがあなたの望みだったんでしょう?」
「で、でも――」
「取引は成立したってことよ……」
日美香はそう囁《ささや》くと、郁馬の片腕をつかんでいた手に力をこめて、青年の身体を中に引き戻した。その瞳《ひとみ》には、今まで見たこともないような妖《あや》しい揺らめきが宿っていた。
13
その頃、新庄武は、神家の広大な敷地の北端を占める物置小屋の中に潜んでいた。
自分が割った薪《まき》の山に囲まれ、積み上げられた藁《わら》の上に仰向きで寝そべり、太い梁《はり》をめぐらせた高い天井を見上げているその両目からは、拭《ぬぐ》っても拭っても、いっこうに止まらない涙がこぼれ落ちていた。
なんでこんなに後から後から、涙が滝のようにあふれ出てくるのか分からない。
信頼していた叔父に裏切られたという悔しさからなのか、好きになりかけていた女が異母姉《あね》だと知ってしまった悲しさからなのか、それとも、最後までやり通そうと思っていた大役を途中で放棄して、宿なしの野良猫みたいに人目を避けてこんな所に隠れている自分が情けないのか……。
理由も分からないままに、小さな子供のように声を殺して泣きじゃくり続けていた。
それでも、やがて、身体中の水分が全て涙となって流れ尽くしてしまったのではないかと思われるほどの時が過ぎた頃、武はようやく泣き止んだ。
時計がないので、どのくらいの時間がたったのかはさっぱり分からなかった。
ここで落ち合って、身に着けていた蛇面と蓑笠を渡したあと、郁馬は、事が終わったら、もう一度ここに戻ってくると言った。
あれから少なくとも一時間以上は軽く過ぎているような気がした。
ということは……。
日美香には、二人がこっそり交替したことがばれなかったということか。
もし、交替がばれてしまったら、機織り小屋を叩《たた》き出されて、郁馬はもっと早くここに戻ってくるだろう。
それがまだ戻ってこないということは、何も露見せずに、順調に事が進んでいるということの証《あか》しなのか。
それを喜ぶべきか悲しむべきか。
複雑な心境だった。
心のどこかで、自分たちの企みがすぐにばれて、郁馬が何もせずに叩き出されてくればいいと願う気持ちもあった。
でも、郁馬は戻らず、刻一刻と時だけが無情に過ぎていく。それを、ここでじっと隠れて待っているのは、見えない時計の秒針で身体を切り刻まれるような痛みを伴っていた。
こんな思いをするくらいなら、あんなことを郁馬に頼むんじゃなかった。家々を回ったあと、機織り小屋には戻らず、役を放棄することもできたはずだ。
郁馬にあんなことを頼んだのは、叔父とぐるになって自分には何も知らせずに事を進めようとした日美香への軽い復讐《ふくしゆう》心からだった。人を子供扱いして手玉に取ったつもりかもしれないが、そう簡単には操られないぞ。神事の相手が蛇面を脱いだとき、俺じゃなかったことを知って驚くなよ……とでもいうような。
でも、そんな復讐心から出た企みも、結局、それは鏡に反射するようにすべて我が身にはねかえってきて、自分自身が苦しむものでしかなかった。
明日……。
もはや涙も涸《か》れ果てた乾いた虚《うつ》ろな目で天井を見上げながら、次第に身体の奥底からこみあげてきた怒りの感情に身をまかせながら、武は心に誓った。
この村を出よう。
朝一番のバスで。
叔父が止めようが誰が止めようが、それを振り切って。
東京の家に比べるとずっと居心地が良かった。ようやく自分の居場所を見つけたと思っていた。祭りが終わったあとも、ここに居るつもりだった。少なくとも、来年の正月が過ぎるまで。
でも、もうそんな気はなくなった。
それに……。
この村はなんだかおかしい。何かが狂っている。居心地は良いが、その居心地の良さには、何か恐ろしいものが潜んでいる。
そんな気がしてならない。
叔父にしても……。
東京にいる頃は叔父が好きだった。たまにしか会えなかったが、会うのをいつも楽しみにしていた。でも、ここに来て、今まで知らなかった叔父の素顔というか裏の顔を見てしまったような気がする。
あの顔はなんだか好きになれない……。
ここは出た方がいい。
よくわからないが、とにかく早く出た方がいい。
武の中でそんな警戒警報のようなものが鳴りはじめていた。
明日、東京に帰ろう。
そして、もう二度とここには来ない。
そう決心すると、ようやく、藁床から起き上がる気力が沸いてきた。
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第七章
十一月五日の朝だった。
日美香が身支度を整えて、神家の座敷に入っていくと、そこには既に朝食の膳《ぜん》が並べられていた。
いつもの顔触れはほぼ揃っていたが、二膳分だけ主の姿が見えない。
武と郁馬だった。
朝食がはじまっても、いっこうに、この二人が座敷に入ってくる気配はなかった。
「武と郁馬はどうした?」
お櫃《ひつ》のお代わりを運んできた妻の美奈代に、聖二がけげんそうな顔でたずねた。
「郁馬兄さんなら、今朝は食べたくないそうです」
すぐにそう答えたのは、郁馬と部屋を共有している末弟の智成だった。
「具合でも悪いのか」
聖二はやや心配そうに聞いた。
「具合が悪いというか」
智成はごはんをかきこみながら言った。
「昨日の夜からえらくふさぎこんでいるんです。話しかけてもぜんぜん口きいてくれないし。おとといの夜の宴会では大はしゃぎだったのに。何かあったのかなぁ。今朝も食欲ないからって部屋に閉じこもっています」
「郁馬は最近、どうも情緒不安定というか……」
耀子も心配そうに呟《つぶや》く。
「武は?」
聖二は妻の方を見ながら聞いた。
「さあ。まだお休みになっているのかも……。起こしてまいりましょうか」
美奈代はそう言うと、もっていたお櫃を義妹の一人に託し、そそくさと座敷を出て行った。
しばらくして、廊下を小走りに走る音が聞こえたかと思うと、慌てふためいた様子で美奈代が戻ってきて、
「あ、あなた。大変です。武さんが突然帰ると言い出して、今、玄関の方へ――」
と告げた。
「帰る? 帰るってどこへ?」
聖二は箸《はし》を置くと、びっくりしたように聞き返した。
「東京へだそうです。いらした時の服装に着替えて、ボストンバッグも持って。お止めしたんですが、全く耳を貸してくれません」
「何を馬鹿な……」
聖二は血相を変えてそう呟くと、目の前の膳を蹴倒《けたお》すような勢いで立ち上がり、座敷を出て行った。
日美香もすぐに箸を置くと、聖二の後を追った。
玄関まで行くと、そこには武がいた。
美奈代が言った通り、来たときに着ていた革ジャンにジーンズという格好で、上がり框《がまち》のところに腰をおろし、スニーカーの紐《ひも》を結んでいた。傍らには、来るときに持っていたボストンバッグが置いてある。
「武。何やってるんだ」
聖二が一喝《いつかつ》した。
「見りゃわかるだろ。帰るんだよ」
武は振り返りもせずに言い返した。
「まだ祭りの最中だぞ」
聖二がそう言っても、
「知ったことじゃないね。それに、俺の役は昨日で終わったんでしょ。だったら、もう用無しのはずだ。帰ってもいいじゃないか」
靴の紐を結び終わると、立ち上がりながら、くるりとこちらを向いた両目には、今まで叔父にはあまり見せたことがなかった反抗的な色が宿っていた。
「急にどうした? 来年の正月すぎまではここにいるんじゃなかったのか」
聖二はとまどったように聞いた。
「そのつもりだったけど、やめた。俺、やっぱ、田舎って性に合わねえ。もうこんな生活飽き飽きした」
「だが、今、帰ることは許さん。おまえの役は終わっても、祭りは終わっていない。今年は大祭だ。まだ『一夜日女《ひとよひるめ》の神事』が残っている。それが恙無《つつがな》く終了するまでは、おまえをこの村から出すわけにはいかん」
聖二は厳然と言い放った。
「なんでよ? 俺には関係ないじゃん。そのヒトヨなんとかって」
「関係は大いにある。今、おまえの身体には大神の御霊《みたま》が宿ったままだ。まだ御霊が取り憑《つ》いている。最後まできちんと祭り上げて、おまえの身体におりた御霊を御山に戻さなければならない。それをせずに、村から一歩でも出れば、おまえに取り憑いた大神の御霊をも解放してしまうことになる。そんなことをしたら、外界は大変なことになる」
「なんだよ、大変なことって……」
「前にも話しただろう? ここの大神は強大な力をもつ祟《たた》り神だと。その昔、大いなる恨みを呑《の》んで死んだ物部《もののべ》の神だと」
「ああ。ニギなんとかといって、古事記とかでは、大和の最初の支配者で、後からきた神武《じんむ》天皇に快く国譲りしたように書かれているけど、本当は、神武に攻め殺されたとかいう……?」
武は気のない顔で思い出すように言った。
「そうだ。それゆえに、この神は今でも外界に計り知れない深い恨みを抱いている。しかも、この物部の祖神だけじゃない。恨みを呑んで死んだ祖先の御霊は他にもある。この村を創り、日の本神社を創建した、物部守屋の遺児、弟君だ。ニギハヤヒの末裔《まつえい》にあたる弟君の御霊もここに合祀《ごうし》されている。大和での蘇我氏との権力闘争に破れ、憤死した物部守屋の遺児の……。
ここに祀《まつ》られた大神は二重の意味で外の世界に深い恨みを抱いているんだ。外の世界、とりわけ、政治の中枢である首都部には。その恨みゆえにしばしば祟りをなす。それを我々直系の子孫が、二重三重に結界を張って、大神の御霊を御山に封じ込めてきたのだ。そして、その御霊を解放するのは、年に一度の祭りのときだけだ。解放するといっても、御山からおろした御霊を村の中だけに封じ込めて、決して外には出さない。もし、御霊を外界に出したら、この神が暴れて、地震、台風、水害、火山の噴火という、あらゆる災害が一挙にして起こりかねないからだ」
「つまり、こういうこと?」
武はどこか面白がるような顔で言った。
「神とはいっても、ここの大神って、凶悪な囚人みたいなもんなんだね。たとえば、終身刑を言い渡されたような」
「……」
「で、いつもは物凄《ものすご》く警備の厳重な独房に閉じ込められているんだけど、年に一度だけ、独房から解放されるわけだ。といっても、自由に出歩けるのは塀の中だけで、塀の外には一歩も出られない。だって、凶悪この上ない囚人だから、塀の外になんか出したら、どんな暴れ方をするか分からないもんな。つまり、この村は網走《あばしり》刑務所みたいなもんか」
「……あまり感心しない譬《たと》えだが、まあ、そういうことだ」
聖二は渋々そう答えた。
「面白れーじゃん」
武は嘲《あざけ》るように笑った。
「面白い?」
「超面白れー。一度出してみようよ。この凶悪な囚人を、塀の外にさ」
「武……」
「どんな風に暴れてくれるのか見てみたいね。ゴジラ並に国会議事堂とかぶっとばして暴れまくるのかな」
「ふざけるな」
「ふざけてないよ」
武は笑いをおさめ真顔になると、自分を睨《にら》みつけている叔父の顔を真っ向から睨み返した。
「まじで、一度試してみたらいいじゃん。大神の御霊とやらが、この村を出たら、本当に暴れまくるのかどうか。この平成の世に、祟り神なんてものが本当に存在するのかどうかさ」
「……」
「どうせ、今まで、大神役をやった奴の中で、そんなことを試すほど勇気のある奴なんていなかったんだろ。だから、こんな馬鹿げた時代錯誤の迷信が千年以上もこの村の連中に信じられてきたんだよね」
「武、いいかげんにしろ……」
「ねえねえ、もしかして、これって、カルトとか言うんじゃないの。無知|蒙昧《もうまい》で閉鎖的な村民を洗脳して信じ込ませて。神家って、そんなインチキをして千年以上もこの村に君臨してきたの? そこにいる連中も信じてるのか、叔父さんが今言ったようなことを。こんな非科学的な与太話を?」
武は、玄関の広い三和土《たたき》に仁王立ちになって、聖二の背後に、騒ぎを聞き付けて集まってきた神家の者たちをねめまわしながら大声で言い放った。
家人たちは皆一様に、武の勢いに呑まれたように声もなく立ちすくみ、小さな子供たちはかたまって、不安そうな顔で一様に首をすくめている。
武の口調はふざけていたが、その目は挑戦的にらんらんと輝き、その顔は真剣そのものだった。
「いいか、よく聞け。これから俺が身体を張ってそれを試してやる。大神の御霊とやらをしょいこんだまま、この村を出てやる。もし、俺がこのままここを出たら、外の世界は大変なことになるらしい。一体何が起こるのかな。大神引き連れて東京まで戻ったら、大地震か何かがたちまち起きて首都壊滅かな? それとも、もっと大掛かりにみんなまとめて日本沈没、てか?」
「いいかげんにしなさい」
日美香もたまりかねたように怒鳴りつけた。
「いいかげんにしろ? 嫌だね。いいかげんになんかできないね。今まで、いいかげんに放置してきたから、千年以上もこんな迷信を信じこまされてきたんだろ、ここの純朴なる村民は。だったら、ここで白黒つけてやる。これから、大神の祟りとやらが存在するかどうか徹底的に検証してやろうじゃないか」
聖二をぐっと見返していた目を日美香の方に移して、武はそんなことを言うと、上がり框に置いたボストンバッグを取り上げた。
「俺がここを出ても、何も起きないことを祈るんだな。もっとも、何も起きないとなると、それはそれで、神家としては困るだろうけどな。何も起きなければ、大神の祟りなんてもんはこの世に存在しないことがばれちゃって、いもしない祟り神とやらを祭るために千年以上も間抜けな祭りを物々しく続けてきた神家の存在意義も権威もがた落ちだろうからな……」
武はそう言って笑うと、ボストンバッグをさげ、勢いよく玄関の戸を開けた。
「待て。武!」
玄関を出て行った甥《おい》の後を追いかけるように、聖二は、白足袋のまま三和土に飛び降りようとした。
しかし、それを横合いから押しのけるようにして、いち早く三和土にヒラリと身軽に飛びおりたのは日美香だった。
「わたしが連れ戻してきます」
あぜんとしている人々を尻目《しりめ》に、そう一声残して、三和土にあったサンダルをつっかけると、日美香は武の後を追った。
サンダルを履くのに少し手間取ったせいか、外に出てみると、武は既に門を出ようとしていた。
「待ちなさい」
そう声をかけても、武は振り返ることもなく、大股《おおまた》でどんどん行ってしまう。
小走りに走って追っても、やはり男の足と女の足では差がついてしまった。
しかも、神家の門を出たところで、ちょうど中に入ってこようとした猟師姿の老人とぶつかりそうになった。
老人は肩に猟銃を引っかけ、山で仕留めたばかりらしい血だらけの二羽の野ウサギの耳をつかんでぶらさげていた。
「おぅ。これは、お嬢様、おはようございます。朝一番に御山で捕らえた獲物をお届けに参りました」
神家に出入りしている老猟師は、獲物を持ち上げて見せながら笑顔で言った。
「おじいさん。その猟銃、貸して」
しかし、日美香はウサギなどには目もくれず、猟師が肩からさげていた猟銃の方を見ながら、いきなり言った。
「えっ」
猟師はたまげたようにのけぞった。
「銃よ。早く貸して!」
日美香はもどかしそうに、猟銃に手をかけると、それを無理やり奪い取った。
「お、お嬢様……。あ、危ない。た、弾がまだ入っておりますだ」
「後で返すから」
そう言い残すと、日美香は猟銃を手にしたまま、武の後を追った。
老猟師は半分腰を抜かしたような有り様でそれをぼうぜんと見送っていた。
猟師とやり合っている間にも、武はだいぶ先を行ってしまったようだ。三差路に出る道筋には、もうその姿はなかった。
走って三差路まで行くと、ようやく、一の鳥居の方に向かう参道の中程に武の後ろ姿を見つけた。
「武。待ちなさい」
もう一度声をかけた。
それでも、少年は振り返りもせず、速足をゆるめようともしなかった。
このままでは、一の鳥居をくぐり抜けて、村を出てしまう……。
あの鳥居がこの村を封印する一つの結界の役目を果たしているはずだ。
もし、あそこから一歩でも外に出たら……。日美香は焦った。
「止まりなさい。止まらないと、撃つわよ」
大声でそう言って、猟銃をかまえると、威嚇《いかく》射撃をするように、銃口を空に向けて引き金を引いた。
ダーンと銃声が響き渡った。
驚いた野鳥が一斉に木々から飛びたったような慌ただしい羽ばたきの音。
その音と気配にさすがに驚いたように、少年の足が止まり、後ろを振り返った。
長い髪を振り乱した日美香がサンダルばきで猟銃をかまえ、硝煙の立ちのぼる銃口をこちらに真っすぐ向けて立っていた。
「鳥居を一歩でも出たら撃つわよ」
銃口を向けたまま叫んだ。
「……」
武は立ち止まったまま、振り返って、銃をかまえている女を見ていた。
「脅しじゃないわよ。こっちに戻ってきなさい」
日美香はなおも言った。
「撃てるものなら撃ってみろ」
武は、口元を歪《ゆが》めてそう吐き捨てると、またすたすたと鳥居に向かって歩きだした。
「本当に撃つわよ!」
日美香の叫ぶような声が聞こえた。
それでもかまわず歩き続けると、目の前に一の鳥居が見えてきた。
あともう一歩踏み出せば、一の鳥居を越えるというところまで来て、
「止まれ。イワレヒコ!」
突然、日美香の声が響いた。
今までとは声音が違っていた。
これまでの声が単なる脅しにすぎないとしたら、今背後から響いてきた声には、背筋を悪寒が這《は》い上るような殺気が籠《こ》もっていた。
日美香の声であって、日美香の声ではないような。
それに、「武」ではなくて「イワレヒコ」と呼んだ。
イワレヒコ……?
誰だ、イワレヒコって。
武の足が一の鳥居の真下でぴたりと止まった。
まるで、この「イワレヒコ」という謎の言葉が制止の呪文《じゆもん》ででもあったかのように、足は止まり、根が生えたように動かなくなった。振り返らずに立ち尽くしていると、背後に足音が近づいてきた。
ようやく振り返って見ると、猟銃を持った日美香が間近に迫っていた。
「……誰だよ、イワレヒコって」
さげていたボストンバッグをすとんと足元に落とし、武は聞いた。
「え……」
「あんた、今、俺のこと、イワレヒコって呼んだだろう?」
「……」
そういえば、咄嗟《とつさ》にそんな言葉が電光のように頭をよぎり、思わず口をついて出てしまった。
日美香は肩で息をしながら思った。
叫んだのは覚えていたが、それを叫んだのが果たして自分自身なのか、はっきりとしなかった。
それはちょうど、聖二の部屋で古い襤褸《ぼろ》人形を見せられたときのように、突然、自分の中で何かが炸裂《さくれつ》したように目覚めた感覚に似ていた。
前にもこんなことがあった。
遠い遠い……遠い遥《はる》か昔に同じようなことが……。
誰かの前に立ちはだかり、必死の思いで制止したことがあるような記憶が……。
わたしの記憶ではない。
これも祖母の記憶なのだろうか……。
「あんたも信じてるのか」
そんなことをぼんやりと考えていると、武が鋭く言った。
「え……」
「祟《たた》り神なんてものを。俺がこのまま村を出て東京に戻ったら、俺に憑《つ》いた祟り神が暴れだすと……?」
「……」
「田舎の無知|蒙昧《もうまい》な年寄りか子供ならともかく、一流大学薬学部に在学中の才女様までこんな迷信信じているのかよ」
「……信じてないわ」
日美香は低い声でそう答えた。
「祟り神なんて信じてないんだな?」
「ええ」
「だったら、なぜ、止めるんだ? このまま俺が帰ったところで何も起きるはずがない。そんな物騒なものちらつかせて止めるほどのことじゃないだろ」
「……わたしが恐れているのは」
日美香は武を見つめながら言った。
「あなたをこのまま帰して、外の世界で何かが起こることじゃないわ」
「……」
「恐れているのは」
日美香は静かに続けた。
「何も起こらないことよ」
「おそらく……」
銃をかまえたまま日美香は言った。
「あなたがこのまま村を出ても、何も起こりはしないでしょうね。運がよければ、どこかで小さな地震か台風が起きるくらい。大神の祟りだとこじつけられる程度のささやかな災害がね。でも、それすらも起きないかもしれない。そうなることを恐れているのよ。だから、あなたを外に出すわけにはいかない。この銃で撃ってでも止めるつもりよ」
「なぜだ……?」
武は、わけが分からないという顔をした。
「なぜ、何も起きないことを恐れるんだよ……?」
「それは、さっき、あなたが自分で言ったじゃない」
「俺が……?」
「おぼえてないの? 玄関を出るときに。もし、あなたがこのまま外に出ても、何も起きなければ、祟り神なんて存在しないことが明らかになって、神家の存在意義も権威もがた落ちになるって……」
「……」
「その通りよ。千年以上にもわたって、あの家が村を牛耳ってこれたのも、村民の篤《あつ》い信仰を得てきたのも、すべて、神家が、祟り神たる大神の直系の子孫で、恐ろしい威力をもつ神を鎮める力をもっていると信じられてきたからよ。あなたの言うところの無知蒙昧な人々に……。
でも、もし、ここで、あなたが外に出て、祟り神なんていないということを証明してしまえば、神家が千年以上もこの村にかけてきた呪縛《じゆばく》が解けてしまう。大神の直系の子孫としての権威を失い、大神をこの村に封印して日々祭り上げることが日本という国を救う行為だと信じてきた人々の信頼を失い、村民を一つに結び付けていた共通の使命感、共同幻想が消えてしまう……。
そうなれば、今まで大神の威力と存在を信じて、何世代にもわたり、この村に留まり続けてきた人々も、ここを捨て、もっと住みやすい町中に移ってしまうでしょう。やがて、ここはただの山奥の過疎の村に成り下がるのよ。時代に忘れられ、人々に捨てられ、半ば朽ち果てたような村に……。
そんな事態になることだけはどうしても避けたかった。神家の存在意義を無にすることはできない。その権威を失墜させることはできない。いいえ、神家というより、その神家の中心にいる人の当主としての地位と権威を失墜させることはできないのよ。それだけは絶対に守らなければ……」
「そうか。あなたが守りたいのは」
武は何かに気づいたように呟《つぶや》いた。
「この村でもあの家でもなく、叔父さんなのか」
「とにかく、今日のところはお願いだから戻ってちょうだい」
日美香は厳しい口調を急に改め哀願するように言った。
「田舎生活に飽きたなんて嘘でしょう? 本当は昨夜の神事のことで腹をたててるんでしょう?」
「……」
「あなたが怒る気持ちも分からないわけじゃないし、あとでそのことはちゃんと説明するから、今ここで、これ以上駄々っ子みたいなことはしないで」
「……」
「そんなに帰りたければ、祭りが終わってから堂々と帰ればいいじゃないの。だったら、誰も止めやしないわ。あと少しの辛抱よ。そんな我慢さえもできないの? あなたはそんなに子供なの?」
「……」
「ここまで言ってもまだ帰るというなら」
日美香は銃をかまえ直して言った。
「わたしは本当に引き金を引くわよ。ためらわずに撃つわ。一応、足をねらうけど、銃なんて撃ったことがないから、手元が狂って、心臓に命中しないとも限らない」
「……」
武はしばらく思案するように、首をめぐらして、鳥居の向こうの、さんさんと朝日のあたるのどかな外の世界をしばし眺め、そして、自分に銃口を向けている女の方に視線を戻してから、ふっと苦笑いのように笑った。
「わかった。わかりました。戻るよ。戻ればいいんだろ。鳥居を出たら、まじで撃たれそうだ」
足元におろしていたボストンバッグを取り上げながら、
「あんた、あのときの女と同じ目してるもんな……」と言った。
「あのときの女?」
「俺を刺した女だよ」
ああ、あの猟奇殺人の犯人……と日美香は思い出した。
「あんときも親父のマンションから帰ろうとしたら、待てと言ってナイフでいきなり腹刺しやがった。今度は猟銃で土手っ腹に風穴かよ。俺って、怖い女に襲われる星の下にでも生まれついたのかな……」
そんなことをぼやくように呟いたあと、「神家の権威を守るとかいう言い草がチョーむかつくけど、まあ、いいや。叔父さんには何かと世話になったし、今日のところはあんたのその気迫に免じてひとまず折れるよ」
そう言い捨て、元来た参道をのろのろとした足取りで引き返しはじめた。
その片腕に日美香は素早く自分の片腕を回してからませた。それは、恋人同士が仲むつまじく腕を組むというより、女看守が脱走犯をがっちり捕まえたとでもいうような格好だった。
そんな格好のまま、三差路のあたりまで来ると、神家の方角から、聖二と老猟師、さらに数人の神家の男たちがあたふたとやってくるのが見えた。
「……無事だったか」
腕を組むようにして戻ってきた二人を見るなり、聖二は心底ほっとしたように言った。
門前で、神家に御山の獲物をよく届けてくれる権爺《ごんじい》と呼ばれる老猟師から、持っていた猟銃を日美香に奪われたと聞かされた直後、あたりに響き渡った不穏な銃声の音に、ついに流血騒ぎかと最悪なことを考えながら駆けつけて来たのだが……。
見たところ、武にも日美香にも怪我はないようだった。
銃声は威嚇《いかく》射撃にすぎなかったらしい。
「お騒がせしました。玄関ではあんなこと言ったけど、もう少し、ここにいることにしたよ。祭りが終わるまでだけど」
叔父を見ると、武は少しばつが悪そうな顔でそう言った。
「全く朝っぱらから騒動おこしやがって。一暴れして腹がへっただろう?」
「うん、へった」
武は悪びれもせずに答えた。
「早く朝飯食べて来い」
聖二は、甥《おい》の肩を拳《こぶし》で一つ叩《たた》くと、家の方角に押しやった。
「……日美香ですけれど」
部屋の前で声をかけると、「どうぞ」という聖二の声がした。
騒動が一段落つくと、一同は座敷に戻り、ようやく朝食を済ませた。郁馬の膳《ぜん》は最後まで手付かずだったが、武の方は自分が引き起こした騒ぎの事など忘れ果てたような顔で、山盛りごはんを三杯もお代わりするという旺盛《おうせい》な食欲を見せて、家人を唖然《あぜん》とさせていた。朝食を終えて座敷を出ようとしたとき、聖二から「ちょっと話があるので部屋に来てほしい」と言われたのである。
「ほかでもない。話というのは、昨夜のことだが」
部屋に入って、いつものように、座卓を挟んで部屋の主と向かいあうように座ると、聖二はややためらうような表情で言った。
「その……昨夜の神事は全て無事に終わったのですか」
「いえ、それが……」
家々を回り終えた武が機織り小屋に戻ってきたあと、まだ風邪が治りきっていなかったのか、ひどく気分が悪そうに見えたので、それ以上の儀式は自分の独断で中止して、武を休ませ、看病していた。
日美香は昨夜の出来事をそう告げた。
「……ですから、あの神事は途中までしかできなかったんです。すみません」
「そうか。いや、あなたが謝ることはない。彼は病み上がりでもあるし……。具合が悪かったならば仕方がない」
聖二はそう言ったあと、考えこむような顔をして黙った。
その表情は、大事な神事が最後まで至らず失敗に終わったと知らされても、さほど失望したり怒っているようには見えなかった。それどころか、なぜか、ほっと安堵《あんど》しているようにも見えた。
「……ということは、武はまだあの神事の詳しい内容については知らないということですか」
聖二はふと顔をあげて聞いた。
「……ええ」
「だとしたら、今朝の騒動は単なる気まぐれだったのか」
独り言のように呟く。
「田舎生活にもう飽きたから帰るといっていたが、それは口実で、本当は、昨夜のことで何か腹をたてていたんじゃないかと思っていたんだが。彼には神事の詳しい内容を前以て知らせてなかったから。それで、へそを曲げて、腹いせにあんなことをしでかしたのではないかと。でも、儀式を途中で中断したのなら、そんなこともないわけか」
「……」
実は聖二の憶測通りだったのだが、むろん、そのことは黙っていた。
「それにしても」
聖二は思い出すように言った。
「今朝は少々意表をつかれたよ。まさか、あんな行動に出るとは……。大神祭の長い歴史の中でも、大神役をやった者が祭りの途中で村を出るなんて不祥事はただの一度もなかったし、そもそも、そんなことを思いつく者もいなかった。この村で生まれ育った人間にはとても思いつかない発想だ。よそ者ならではというか」
聖二の口調には、甥の仕出かしたことを怒るというよりも、まるで感心でもしているようなニュアンスが感じられた。
顔にもどこか面白がっているような半笑いが浮かんでいる。
「でも、もし、あのまま武が村を出てしまったら大変なことになっていましたよ。笑い事ではないと思いますが?」
日美香は少しむっとして言い返した。今朝の騒動に関して、養父が意外に寛大なことに苛立《いらだ》ちのようなものを覚えながら。ぎりぎりのところで引き留めたからよかったものの、もし、あのまま、武を外に出していたら、祟り神と呼ばれるものを寄り憑《つ》かせたまま東京に戻り、そこで何も起こらなかったとしたら……。
その場合、神家の当主としての聖二の立場がどれほど悪くなるか。容易に想像がつくことなのに、当の本人が、他人事のような顔をして、呑気《のんき》に笑っているなんて……。
そんな腹立たしさすらおぼえていた。
「むろん笑い事ではないです」
聖二は真顔になって言った。
「もし、あれをやったのが武でなく、村の若い者だったら、それなりの厳しい処分を考えたとは思うが……」
そう言って、
「ただ、今回の件で、一つ満足したこともあるんです」
「満足?」
「正直言うと、玄関で見せたあいつの言動には、私は少々たじろいだ。まさかあんな行動に出るとは思っていなかったので意表をつかれたということもあるが、一瞬だが、彼の『気』に呑《の》まれたんだよ。
口調こそふざけていたが、彼の全身からは周囲の者を圧倒するような強い『気』のようなものが発散していた。私だけでなく、あそこにいた者全員が、彼の『気』に呑まれたようだった。ちょうど蛇に一|睨《にら》みされて蛙や鼠が動けなくなるように。
あれこそ、まさしく日子《ひこ》の呪縛力であり威厳だ。お印が出たとはいっても、今までのあいつの言動はどこか軽々しくて、日子らしい威厳が微塵《みじん》も感じられなかった。女子供に好かれるのはいいが、それだけでは困る。何よりも、周囲の者が自然にひれ伏すような威厳が備わらなければ、頂点に立つ者としての資格がない。しかし、今朝、はじめて、その片鱗《へんりん》を見た思いがする」
「でも、それは、よりにもよって、あなたに真っ向から反抗するという形ではありませんか」
日美香は不満そうに言った。
「まあ、そのへんが皮肉といえば皮肉なんだが。ただ、対等である限り、時には対立することもあるだろう。こちらの命令通りにしか動かない者など対等とは言えない。真っ向から対立することができる人間だからこそ、味方にしたときは、心強いし頼りにもなる。
とにかく、これで、私もようやく確信がもてた。彼は日子に間違いない。大神の意志を継ぐ者とはまさに彼にほかならない。今度の祭りで、確実に、大神の御霊が彼の身体に宿ったと……」
「でも、それはまだ半分の力にすぎないのではありませんか」
日美香が言った。
「例の神事は中途半端に終わってしまったから、彼には、まだ大神の持つ『天』の力しか宿っていないことになります。あの神事を通して、わたしが授けることになっていたもう半分の『地』の力の方はまだ……」
「そうですね。それが残念なんだが」
聖二の眉《まゆ》が僅《わず》かに曇ったが、すぐに気を取り直したように明るい表情になり、
「しかし、今回、あの神事が失敗したからといって、全てが無に帰した、祭りそのものが失敗だったというわけではない。あの神事が武の体調不良で完遂できなかったというのも、見方を変えれば、失敗というより、それはそれで一つの必然だったとも考えられる」
と言い出した。
「……必然?」
「言い換えれば、まだ機が熟していなかったということだ。どんなに前以て綿密に考え、用意周到にお膳立てをしても、なぜか、事が成就しないことがある。これは、その事が成る『機』のようなものがまだ熟していないからだ。『人事を尽くして天命を待つ』ということわざもあるでしょう? 物事が成るには、人間の知恵や努力だけではどうしようもない部分もあるんだよ。『天命』とか『好機』と呼ばれる人知を越えた何かが揃わなければ。だから、今回のことも、失敗ととらえるよりも、少し時期が早すぎた、チャンスはまだある。機が熟すのを待てという意味に解釈した方がいいかもしれない」
「……」
「それに、『天と地を支配する双頭の蛇が交わる』という家伝書のくだりを、私は、文字通りの『交合』という意味に解釈してしまったが、これは、もっと曖昧《あいまい》な『結婚』くらいの意味なのかもしれない。
今回の祭りで大神の御霊《みたま》を宿した武と、あなたがいずれ『結婚』という形を取ることで、武に欠けていたもう半分の『地の力』が宿る。そう解釈することも可能なんだよ。そう考えれば、今回の神事の失敗など大したことではない。ようは、この失敗を取り戻すためには、近い将来、武とあなたが結婚すればいいだけの話だ」
「それは、武を神家に婿入りさせるということですか?」
日美香は不安そうな表情で聞いた。
「もちろんそうです。武を神家に入れるのでなくては意味がないし、あなたを外に出す気など毛頭ない。お社の宮司職の方は郁馬に継がせるとしても、私の実質的な後継者は武だ。そして、その武の配偶者はあなた以外には考えられない」
聖二はそう言って、日美香の方を愛情と敬意の入り混じった表情で見た。
「今朝の騒動では、武の言動に腹をたてるというより、半ば感服したが、それ以上に、つくづく感服したのは、あのとき、あなたが咄嗟《とつさ》に取った行動の方です」
「わたし……?」
「玄関で私を含めて家の者が皆武に呪縛されたようになっていたとき、いち早くその呪縛を自ら解き、あなたは武を追おうとした。しかも、途中で出会った権爺から猟銃を奪うなどということまでして」
「あれは……無我夢中でしたことです。武を村から出してはいけない。そんな思いに駆られて。なんとかあの子の足を止めたくて。女の足ではただ追いかけても追いつけないと思ったから。おじいさんの銃を見たとき、咄嗟に思ったんです。飛び道具があれば、制止力になるかもしれないと思って。でも、武を傷つけたりする気はなかった……」
「そんなことは分かっています。それにしても、あの突発的な状況の中で、あれだけ迅速な行動力と的確な判断力をもてるというのは大したものだ。私ですら、あそこまで出来たか自信がない。しかも、結局、あなたは武を傷つけることなく無事に連れ戻すことができた。あなたと武は全く互角の勝負をした。いや、気力において、あなたの方が勝っていたともいえる。
武の伴侶《はんりよ》になるのは彼と互角に戦えるくらいの気力の持ち主でないと駄目だ。これからも、成長していく過程で、今日のような暴走に近いことはあるだろう。そのとき、単に支えるだけでなく、時には制止したり諌《いさ》めたりするだけの胆力をもった女でなければ勤まらない。ただ夫に甘えきってすがりついているだけのひ弱な女では、彼のような男には足手まといにしかならない」
「……」
褒められても、日美香はどこか浮かない顔をしていた。
「ただ、結婚といっても、今すぐというわけにはいかないだろうし、少なくとも、武が成人に達するまでは待つ必要がある。でも、今のうちに婚約という形くらいは取っておいた方がいいかもしれないね。祭りが終わったら、新庄家とも話しあって、年内に、この儀式だけは執り行っておこうか」
「あの、お養父《とう》さん……」
聖二のいつになく機嫌の良い饒舌《じようぜつ》を遮るように、日美香は口を挟んだ。
「前にも言ったように、わたしは武が嫌いではありません。異母弟《おとうと》ではないと分かった今も、弟に対するような愛情はもっています。だから、もし、そうすることがこの村や神家にとって必要なことなら、喜んで、彼と結婚します。でも……」
「でも?」
「……一つ、ひどく不安なことがあるんです。武と結婚する……というか、武をこの神家に婿入りさせることについて……」
日美香は考え考え、言葉を選びながらそう言った。
「不安……どんな不安なんです? 私の目から見て、武の方もあなたに好意以上の感情を抱いているように見えるし、彼は次男だから、この家に入ることは新庄家にとっても別に問題はないはず。そのことは兄にも打診して既に了解を得ている。この縁談に不安な材料など何もないはずだが」
「名前なんです」
日美香は思い切ったように言った。
「名前?」
「ええ。わたしが不安でしょうがないのは、あの子の名前なんです。あの子の名前が、いつか、わたしたちに大きな災いをもたらすような気がして……」
「武という名前が?」
聖二は意味が分からないと言う顔で聞き返した。
「今はまだいいんです。でも、わたしと結婚すれば、この家に婿養子として来れば、あの子の名前が変わってしまいます」
「……」
「新庄武から神武《みわたける》へと」
「……」
「神武《じんむ》になってしまうんです。物部《もののべ》の神ニギハヤヒを攻め殺して、その地位と財宝を奪った男と同じ名前に……」
「武が神武《じんむ》……」
聖二ははっとしたような顔で呟《つぶや》いた。
「そういわれてみると……。これは迂闊《うかつ》だったな。今まで気づかなかった」
「偶然とはいえ、よりにもよって、武はこの家に婿入りすることで、祖神の敵と同じ名前になってしまうんです。わたしには、これが何かとても悪いことを暗示しているようで不安でしょうがないのです。この先、彼が『神武』を名乗るようになったら、彼の運命がその名前に支配されて大きく変わってしまうのではないか。昔、この名前の男がわたしたちの祖神を滅ぼしたように、いずれ彼が、わたしたち……いえ、あなたを滅ぼそうとするのでないか……」
「……」
「あなたは後継者ではなく、最大の敵を育てているのかもしれないんです」
「それは考え過ぎというものだ。たかが名前のことに過ぎない。偶然といってしまえばそれまでだろう……」
聖二は苦笑しながら言った。
「そうでしょうか。名前には言霊《ことだま》が宿っています。そう教えてくれたのは、お養父さん、ほかならぬあなたです。わたしの『日美香』という名前には、人知を越えたところで、『日甕《ひみか》』の宿命が隠されているという話をされたときに」
「……」
「わたしも名前に宿る言霊というものを信じるようになりました。げんに、わたし自身、改名したことで、わたしの運命が大きく変わったからです。あなたの養女になって『神日美香』となってからは、以前の『葛原日美香』であったときとは別人のような変わりようだと自分でも思っています。『葛原日美香』だったら絶対に考えなかったようなことを『神日美香』は考え、『葛原日美香』だったら絶対にしなかったようなことを『神日美香』ならいともたやすくできるようになりました。
武にも同じようなことが起こらないとは限りません。それに、もともと、あの子の『武』という名前も、日本神話の英雄、日本武尊《やまとたけるのみこと》から取ったのでしたよね? そして、ヤマトタケルが双子の兄を殺したように、武も、双子の兄の命を奪うような形で生まれてきた……。出生時に既に名前のもつ言霊の影響を受けているんです」
「しかし……」
聖二は思いがけない難題をつきつけられたという顔で言った。
「だからといって、あなたの方を嫁に出すわけにはいかないし、正式に結婚となれば、彼を神家の籍に入れないわけにはいかない」
「それに、あのとき、わたし……」
日美香は聖二の呟きを無視するように続けた。
「権爺から銃を奪ったあと、武を傷つけるつもりはなかったといいましたが、あれは真実ではありません。最初はそのつもりでしたが、ほんの一瞬だけ、彼に殺意を感じたんです。このまま撃ち殺してもかまわないというくらいの殺意を」
「……」
「武がわたしの威嚇《いかく》を無視して、一の鳥居の方に歩いて行き、そのまま鳥居を越えそうになったときです。その瞬間、わたしの中で何かが覚醒《かくせい》しました。前に、お養父さんから、ここで古い襤褸《ぼろ》人形を見せられたときのような感じでした。わたしの中に眠っていた誰かの意識が突然目覚めたのです。ほんの一瞬のことでしたが。その目覚めた意識が、武のことを『イワレヒコ』と呼んだのです」
「イワレヒコ……まさか……カムヤマトイワレヒコ……神武天皇の和名……?」
「そうです。叫んだときには気づかなかったのですが、あとで気が付きました。『イワレヒコ』というのは神武のことであると。武が一の鳥居の真下にたっていたとき、わたしは……いえ、わたしの中の何かが、彼を『イワレヒコ』と認識し、叫んだのです。その瞬間、わたしは、自分の中にはっきりと殺意を感じました。たとえこの銃で相手の心臓を撃ち抜いてでも、目の前の男の足を止めなければならない。そう思ったのです。それは、わたしというより、わたしの中に目覚めた意識がそう命じたのです」
「でも、あなたは撃たなかった……」
「それは武が足を止めたからです。わたしの殺気を感じ取ったのでしょう。もし、あのまま鳥居を越えていたら、わたしはためらわず引き金をひいていたと思います。足ではなく、心臓めがけて」
「……どうも妙だな。あなたの話を聞いていると、まるで、あなたが……」
聖二は何かじっと考え込みながら言った。
「イワレヒコがいた遥《はる》か遠い昔にあなたも生きていて、イワレヒコと面識があったように思えてくる……」
「わたしもそんな感じなのです。もしかしたら……わたしも祖母が最初の転生者ではなかったのかもしれません。わたしの祖母も誰かの転生者で、さらにその誰かも……」
「それがイワレヒコが生きていた神代《かみよ》にまで溯《さかのぼ》ると……?」
聖二は独り言のように呟いた。それきり沈思黙考とでもいうか、黙り込んで自分の世界に入り込んでしまった。
「……あの、それと、もう一つお話ししたいことがあります」
日美香がようやく口を開いた。
「家伝書の冒頭の『双頭の蛇』のくだりのことなのですが」
「え……」
聖二は夢想から覚めたように顔をあげた。
「今まで学習した部分を部屋で独りで読み返しているうちに、わたしなりにお養父さんとは全く違う解釈をするようになったのですが……」
「ほう。別の解釈? どのような……?」
聖二は興味をもったような顔つきで先を促した。
「冒頭に書かれた『天と地を司《つかさど》る二匹の双頭の蛇』というのは、共に双子の片割れで共に蛇紋を持つ、わたしと武のことだと思うのです。今のところ、それ以外に解釈のしようがありませんし。でも、お養父さんと違うのは、その後の解釈なんです」
「その後というと?」
「『二匹の双頭の蛇が現れ、これが交わるとき、大いなる螺旋《らせん》の力が起こり、混沌《こんとん》の気が動く……』というくだりの部分です。お養父さんは、あそこを、『地を支配する陰の蛇』たるわたしと、『天を支配する陽の蛇』たる武が、交わる、つまり結婚すれば、それによって、武の中に太古の大神が復活するというように解釈したのですよね」
「そうだ」
「でも、わたしは少し違う解釈をしています。大神が復活するのは武の身体ではなくて、武の子供の方ではないかと思うのです」
「武の子?」
「ええ。つまり、わたしがこれから産むかもしれない子供のことです」
日美香は少し恥ずかしそうに言った。
「なぜ、そう思うのです?」
「家伝の半ばほどに、やはり『二匹の蛇』に関する記述があったことを覚えておられますか」
「いや……」
聖二は曖昧《あいまい》な顔で首を振った。覚えていないようだった。
「そこにはごく短い記述なのですが、『一の蛇は剣を落とす。二の蛇は玉を落とす。この剣と玉が聖なる甕《みか》に共に入るとき、ここに大いなる御霊《みたま》が宿る』というような表現があるのです」
「ああ、そういえば……」
聖二はようやく微《かす》かに思い出したというような表情をした。
「ここに出てくる『一の蛇と二の蛇』というのが、冒頭に出てくる『双頭の蛇』かどうかは分かりません。『蛇』とあるだけで、『双頭』とも『天地』とも書かれていませんから。でも、二匹の蛇がそれぞれ剣と玉を持っているということから、これが雌雄の蛇ではないかと思われます。神話などでは、しばしば、『剣』は『男』を、『玉』は『女』を暗示することが多いですから。
この『一の蛇が剣を落とし、二の蛇が玉を落とし、それが聖なる甕に共に入る』というのは、男女が交わって受精する様を象徴的に表現しているように思われます。つまり、一の蛇の剣とは男性の精子を表し、二の蛇の玉とは女性の卵子を表すのです。聖なる甕とは、母体の子宮のことでしょう。精子と卵子が出会って受精卵となり、それが子宮内に着床して胎芽から胎児となる。その胎児に大いなる御霊が宿る。そう言っているのではないでしょうか」
「……」
「この記述と、冒頭の記述を一つに結びあわせてはじめて、ようやく、予言の全貌《ぜんぼう》が明白になるのではないかと思います。もしかしたら、もともとは丸ごと冒頭にあった文章の一部が分断されて、家伝の半ば程にまぎれこんでしまっていたのかもしれません。
だから、あの予言の部分は、本当は、『天地を支配する二匹の双頭の蛇が現れ、これが交じりあい、一の蛇は剣を落とし、二の蛇は玉を落とし、聖なる甕に共に入るとき、ここに大いなる御霊が宿る。この御霊の宿った胎児がやがて螺旋の力を引き起こし、混沌の気が動く……』というように解釈しなければいけないのでは……?」
「なるほど……」
聖二は驚きつつも納得したような顔で頷《うなず》いた。
「そう考えると、神家にとって必要なのは武ではなくて、武の子供の方だということになります。大神が復活するのは武ではなくて武の子供なのですから。だから、必ずしも、わたしと武が結婚する必要はないんです。ようは、わたしが武の子供を宿しさえすればいいのですから。そして、その子が無事に産まれたら、他の日女《ひるめ》の私生児のように、神家の子として籍に入れて育てればいいのです」
「それでは……あなたは未婚のまま子を産むというのか。武とは正式に結婚しないまま……?」
聖二は困惑した表情で聞いた。
「はい、そうです」
日美香は迷いのない目ではっきりと頷いた。
「そんなことになっていいのか」
「かまいません。未婚のまま子供を産むのは日女の宿命です。その宿命に日女であるわたしも従おうとしているだけのことです」
「でも、あなたは普通の日女ではない。それに、それでは、あなたが不幸になる……」
「どうして、わたしが不幸になるのですか。自分の意志で決めたことに従うだけなのに」
日美香はそう言って笑った。
「これがわたしの意志ではなく、誰かに無理やり押し付けられた生き方だとしたら、たとえそれがお養父さん、あなたであったとしても、わたしにとっては不満であり不幸かもしれません。でも、そうではないんです。わたしは誰でもない、わたし自身の意志で、沢山ある選択肢の中からこの生き方をあえて選ぶのですから。
正式に結婚した夫がいて、その夫の間に子供を作り、家庭を守る。それが女の幸せだというのは、他人の目を意識した『幸福』にすぎません。他人に幸福そうに見られることを自分の幸福と考える人には、それで十分でしょうが、わたしはそういう人間ではありません。自分がどういう状態にいることが、わたしにとっての真の幸福なのか分かっているつもりです。それが、他人の目から見て、どう見えようとも……。
もし、不幸というならば、武の名前が暗示している将来への不安を抱えながら、このまま武と結婚する方が、わたしにとっては不幸です。いくら人目には幸福そうに見えたとしても、この不安が有る限り、心やすまることはありません。武を夫としてこの家に迎え入れたばかりに、いつか、武とあなたとの間に深刻な対立が生じて、それがこの家や村の滅亡にもつながることになるかもしれないなどと心配しながら日々を暮らす方が、わたしには遥かに不幸なんです。
それに、わたしの幸福ということを少しでも考えていてくれるならば……」
日美香はそう言って、じっと聖二の目を見つめた。
「わたしの幸福は、誰と結婚することでもありません。この家でいつまでもあなたと暮らすことです。戸籍上の父娘という形であろうと、どんな形でもいいんです。ずっとあなたのそばにいることがわたしの最高の幸福なんです」
「……」
「そのためにわたしはここに戻ってきたのですから」
それを言っているのが自分なのか、それとも、祖母なのか、よく分からないまま、日美香はそう口ばしっていた。
最初は多少違和感を感じていた祖母の記憶というか意識が、今では日美香自身の意識と完全に同化しつつあった。
「だから……」
日美香はなおも続けた。
「たとえ、祭りが終わって、武が東京に帰ることになっても、わたしは帰りません。ここに残ります。そして、もし、武の子供を得ることができたら、ここでその子を産み、この手で育てます。その子が成人に達して、母親を必要としなくなるまで、わたしはここでその子の母としてのみ生きるつもりです」
「それで本当にいいのか。後悔しないのか。その若さで、もっと他にいくらでもやりたいことがあるだろうに……」
「やりたいことはありました。海外留学もその一つでしたし、大学院まで行って薬学の研究をしたいと思ったこともありました。大学を出たらやりがいのある職業について、男性並にバリバリ仕事をする。そう考えたこともあります。でも、それは全て、『葛原日美香』であったときの夢です。もうそんなことはどうでもよくなってしまいました。今のわたしが願うことはただ一つ、大神の真の依《よ》り代《しろ》となる子を宿し、その子を無事に育てることです。それが、『神日美香』としてのわたしの宿命だと思うからです。『神を育てる日甕《ひみか》』。これがこの名前が暗示している現世でのわたしの生き方のような気がします。それに、違う生き方をしたければ、来世で違う選択をすればいいだけのことですから」
「そこまで考えて、既に決心しているなら、私がとやかく言うことではないが……」
聖二は、困惑しつつも、隠しきれない内心の嬉《うれ》しさを滲《にじ》ませたような表情で言った。
「それで」
日美香はさらに言った。
「昨夜失敗に終わったあの儀式をもう一度やろうと思うのです」
「……」
「祭りが終わってしまえば、武は東京に帰ると言っています。そうなってからでは遅い。武の身体に大神の御霊が寄り憑《つ》いているうちに、彼がこの家にいる間に、今度は武にも包み隠さず何もかも打ち明けて、彼の承諾を得た上で、できれば今夜にでも……」
聖二の部屋を出た足で、日美香は、今度は武の部屋に向かった。
戸口を軽くノックしてから中に入ってみると、武は、机を兼ねた座卓の前にあぐらをかき、参考書と問題集を広げて、受験勉強らしきことをしていた。
「勉強してたの?」
日美香はちょっと驚いたように言った。
脱走に失敗したあと、やけ食いでもするように朝食をたらふくとって部屋に引き上げたので、おおかた、食後のふて寝でもしているのだろうと思っていたのだ。
「勉強してたのって……」
武は筆記具をもったまま、ひょいと顔を上げて言った。
「びっくりしたように聞くなよ。そもそも俺がこの村に来たのは、静かな環境で受験勉強するためだぜ。そのことをお忘れですか?」
「……」
「忘れてるなら思い出してくれよ。ついでに、あなたがうちの親に高給で雇われた俺の家庭教師だってことも」
「忘れてはいないわよ。でも、祭りの間は、そのことは……」
座卓の前に座りながら言うと、
「俺にとって祭りはもう終わった。だから、一足早くいつもの日常に戻っただけさ。どうせ、ほかにすることもないし」
「ちょっと話してもいい?」
そう聞くと、
「なんだよ」
武はもっていた筆記具を放り出すように卓に置いた。
「昨日のこと」
「……」
「あなたに何も知らせずに事を勝手に進めようとしたことは悪かったと思ってるわ。そのことは謝ります」
「いいよ、もう。済んだことだし」
武はふてくされたように言った。
「一つ聞いていい?」
「なんだよ」
「わたしが異母姉《あね》だということや、あの神事の詳しい内容のこと、一体誰から聞いたの?」
「……」
「この家の人なんでしょう?」
「ノーコメント。その人から聞いたとは絶対に言わないって約束したから」
「もしかして、美奈代さん?」
「……」
武は答えなかった。が、微妙な表情の変化で、自分の憶測が図星だったことを日美香は確信した。
「やっぱり美奈代さんなのね。彼女の話してくれたことを全部信じたの?」
「……」
「あれ、違うのよ」
「違うって?」
「わたしがあなたの異母姉だってこと」
「二十年前の大祭で、俺の親父が本当はやってはいけない大神役をこっそりやっていたことも、あのときの三人衆の中で、血液型から考えて、あんたの父親の可能性があるのは親父だけだってことも本当なんだろ? だったら……」
「ええ、本当よ。つい最近まで、わたしもそう思い込んでいた……。でも、違うの。あることを知って、そうじゃないってことが分かったのよ」
「なんだよ、あることって……?」
「わたしは転生者なのよ」
日美香はいきなり言った。
「は?」
「転生者。過去に生きていたある人物の生まれ変わり。あるいはその人物の一種のクローンと言ってもいいわ」
「……」
武のキツネにつままれたような顔つきを見て、彼がこの能力についてはまだ何も知らないらしいことを察した日美香は、物部のもつこの特殊能力について、知り得たことを詳しく説明した。
「……つまり、わたしは、祖母の転生者だと分かったの。ほら、この部屋にあった古いアルバムの写真のことをおぼえている?」
「……」
武はこれまでの話を理解したのかしないのか、腕組みしたまま、いまだにキツネにつままれたような顔で黙っていた。
「あなたのお父さんの子供の頃の古い写真。あそこに、わたしによく似た巫女《みこ》姿の若い女性が写っていたでしょう? あの人なのよ。あの人の生まれ変わった姿がわたしなのよ。さっき説明したように、転生者というのは、いわばクローンなの。前世の自分とすべて同じ遺伝子をもっているの。だから、解るでしょう? わたしの父親はあなたのお父さんではないという理屈が。あなたのお父さんは、わたしにとっては甥《おい》にあたり、あなたは、わたしにとっては甥の息子に過ぎないのよ」
「……」
「わたしの言うこと解らない? 理解できない?」
日美香が不安そうに聞くと、
「転生とやらの仕組みについては理解したよ。ただ、理解したことをそのまま信じるかと聞かれたらノーとしか答えようがないな」
武は憮然《ぶぜん》とした表情でそう答えた。
「あなたがすぐに信じられないというのは無理もないわ。わたしだって、話を聞かされただけなら、まず信じないでしょうからね。でも、これは本当のことなの。冗談でもフィクションでもない。わたしには、現実に、祖母の記憶があるのよ。いいえ、祖母だけじゃない。もっと古いもっと遠い時代に生きていた人の記憶も微《かす》かに……」
「待てよ。てことは、叔父さんもその転生者とやらなのか? あなたの話だと……」
武は思いついたように言った。
「そうよ。お養父さんも曾祖父《そうそふ》にあたる人の転生者なの。あなたも見たでしょう。お養父さんの部屋に飾ってあった古い油絵。あの絵に描かれた口髭《くちひげ》の男。あれがお養父さんの曾祖父に当たる人」
「あれ、叔父さんの肖像じゃなかったのか」
武は愕然《がくぜん》としたように呟《つぶや》いた。
「違うわ。というか、前世でのお養父さんの姿と言うべきかしらね」
「髭なんかあったから変だとは思っていたんだけど……」
武は呟いて、しばし頭を整理するように考えこんでいたが、
「俺からも一つ聞いていい?」
そう言った。
「なに?」
「叔父さんはあなたと俺を結婚させる……というか、俺を婿養子として迎えるつもりだというのは本当? 色々なとこからそんな噂が耳に入ってくるんだけど。これって、ただの噂にすぎないのかな? それとも……」
「お養父さんはそのおつもりよ。いずれ、折りをみて、正式にその話があるかもしれないけれど」
「だったら、今この場で、ハッキリ返事させて貰《もら》うワ」
武は日美香の顔をまっすぐ見て言った。
「俺、その気、ないよ」
「……」
「この家に婿養子に来る気なんて金輪際ない。たとえ、それが今すぐって話じゃなくて、近い将来って話だったとしても、俺の返事は変わらない」
「そう……」
「でも、誤解しないでよ。あなたのことが嫌いだって言ってるんじゃないんだ。この家に婿養子に来るという形態が嫌なんだ」
「そんなにこの家が嫌いだったの? わたしはてっきり、あなたはこの村もこの家も好きになってくれたとばかり思っていたわ。だって、ここに来てから、とても居心地が良さそうに見えたもの」
「居心地は良かったよ。東京の家よりずっと居心地は良かった。新庄家にいるときは、俺なんか、親父や兄貴のオマケみたいな扱いだったし、親戚《しんせき》の爺婆《じいばあ》どもからは名家の面汚しみたいに言われてたからね。それがここに来てからは、大逆転もいいとこでさ、お印が出た日子《ひこ》様だとか言われて、こっちがびびるくらいに様付けで大切にされて……。正直、悪い気はしなかったさ。自分がえらくなったような気がして居心地は良かったさ。一生ここにいる気はないけど、まあ、根城の一つとして確保しておいてもいいかなって思うくらいに、ここが気に入った。でも……」
武はそう言って顔を曇らせた。
「最近、この居心地の良さがなんだか急に怖くなってきたんだ……」
「怖い? 飽きたのではなくて?」
「うん。飽きたんじゃない。今朝は、こんな田舎生活に飽き飽きしたなんて言ったけど、本当はそうじゃない。飽きたんじゃなくて、怖くなってきたんだ。この居心地の良すぎる家と村が……。
なんかこう母親の胎内に入って丸まっているようなキモチ良さがここにはあるんだ。何かに強く守られて、何にも傷つけられずに生きていられる。だけど、ここにいることがこんなに心地良いってことは、裏をかえすと、ここを出たら、すごく生きにくいってことでもあるんだよな……?」
「……」
「つまりさ。これってもろカルトじゃん。ここにいたら凄《すご》く心地良くて自分らしくしていられるような気がするけど、一歩でも外に出たら、自分を傷つけ否定するようなありとあらゆる不快で危険な事が待ち受けている。ここの生活に慣れてしまったら、そんな外の世界ではもう生きていけなくなる。安全で心地良い場所にずっと居たくなる。
赤ん坊が生まれるときにオンギャーって凄《すさ》まじい声で泣くのってさ、なんかで読んだけど、生まれることを拒否する叫びなんだってね。なんでこんな気持ちの良い場所から俺を外に引きずり出すんだ。嫌だーっていう拒否の叫び。けっして、きゃー、お母さん、俺を生んでくれてありがとーなんて歓喜の叫びじゃないんだって。
なんかさぁ、ここに長く留まっていればいるほど、自分が、そんな胎児みたいになるようで怖くなってきたんだ。そのうち、ここ以外のどこにも行けなくなってしまいそうで……。
あなたはそんな風に感じたことはない?」
「わたしは……別に」
日美香は曖昧《あいまい》に首を振った。
「この村に来てから、この居心地の良さをおかしいと感じたことは一度もないのか?」
武は探るような目付きで日美香を見ながら言った。
「ないわ。五月にはじめてこの村を訪れたときから、とても懐かしい所に帰ってきたという感じしかなかった。どうしてはじめて来たところがこんなに懐かしいのか不思議な気がしたけれど、今から思えば、それは、わたしが祖母の転生者だったからなのね……」
「懐かしさだけ? たとえば、この村の奇怪で時代錯誤な風習とか掟《おきて》とか祟《たた》り神信仰とか、どこか変だとか奇妙だとか感じたことはないの? 最初からすんなり受け入れられたの?」
「確かに、最初は多少違和感みたいなものもあったけれど、そのうち、別に気にならなくなってきたわ……」
「あんた、大学は理系なんだろ? それなのに、自らを呪力《じゆりよく》で蘇《よみがえ》らせる転生だとか、そんなの本気で信じてしまうわけ? 非科学的だとは思わないのかよ」
「転生に関しては、はっきりと祖母の記憶が有るのだから、信じるも何も、事実としか思えないわ」
日美香は冷たく言い放った。
「だめだ、こりゃ」
武は肩をすくめるような仕草をした。
「完全に洗脳されちまってる」
「洗脳? わたしが誰に洗脳されたというの?」
日美香は気色ばんだ。
「決まってんだろ。叔父さんだよ」
武は言った。
「俺さ、ここに来てようやく分かったんだよ。叔父さんは、ただのオンボロ神社の神主なんかじゃない。この村の教祖みたいな存在だってことがさ。それも誇大妄想狂のチョット危ない教祖様だ。あんたは、五月にこの村に来て以来、少しずつ食い物に砒素《ひそ》を盛られるように、あの叔父さんに洗脳され続けてきたんだよ」
「お養父《とう》さんに洗脳? 馬鹿なこと言わないで。わたしは誰にも洗脳なんかされていないわよ。この村に来たのも、この村に止まっているのも、すべて自分の自由意志でしていることよ。だから、もちろん、わたしさえ望めば、自由にこの村を出て行くこともできるわ。お養父さんは、わたしが日女と分かっても、けっしてこの村に縛り付けようとはしなかった。何も強制しなかった。大学はそのまま続けていいって言ってくれたし、海外留学したければその費用も出すと言ってくれたわ。何でもわたしの望むように好きなようにしていいって言ってくれた。これのどこが洗脳なのよ?」
「狂人は自分のことを狂人だとは思わないように、洗脳されている最中は自分が洗脳されているとは気づかないんだよ。それに、何と言っても、叔父さんは、マジシャンとしては超一流だもんな」
「マジシャン……?」
「そう。こんなのマジックの使い古された手口さ。トランプをずらっと何枚も並べて、客にその中の一枚を選ばせるってやつ。一見、客は何枚もあるトランプの中から自分の意志で一枚を選んだかのように見える。本人もそう思い込む。でも、本当は、そう見せかけて、マジシャンがその一枚を選ぶように仕向けてるって手口だよ。あなたは自分の好みとか自分の意志で何かを選んだように思いこんでいるかもしれないが、本当はそうじゃない。叔父さんが一番望むカードを引かせられたにすぎないのさ……」
「このままここにいたら、俺まで洗脳されちまいそうで、それが怖いんだよ。だから、祭りが終わったら、俺はこの村を出る。あなたはどうするの?」
武は続けた。
「わたしは……」
「表向きは俺の家庭教師ってことでここに来たんだろ。だったら、俺が東京に帰ってしまえば、お役御免ってことだよな。まさか、東京とここを毎日往復するわけにもいかないだろうし。どうするんだよ?」
「わたしはここに残るつもりよ」
「残って、何するんだよ?」
「家伝書の残りを読むわ。あれは、門外不出で、この家の外には出せないから」
「あんな糞《くそ》面白くもない古文書読むだけのためにここに留まるの?」
武は疑わしそうな表情で聞いた。
「ええ。それと……」
日美香は何か言いかけたが、武は矢継ぎ早に言った。
「家伝を読んでしまったら? その後は?」
「その後は……」
「アメリカに単身留学するとかいう話はどうなったんだよ。大学休学したのも、俺のカテキョのバイトしたのも、元はといえば、そのためだったんだろ?」
「あれはやめたわ」
「やめた?」
「ええ。ここに来て、色々考えているうちに、どうでもよくなってしまって……」
「じゃ、今の大学に復学するつもり?」
武は執拗《しつよう》にたずねた。
「いえ、それも……。今のところは考えてないわ」
「アメリカ行きもやめた。大学にも戻る気なしって……まさか、ここにずっといるつもりじゃないだろうな? こんな何もない山奥に? 何のために?」
「……」
「おかしいよ!」
武は座卓をこぶしで叩《たた》いた。
「あなたみたいに若くて、知性も才能もありそうな女が、こんな山奥の村で、何もせずにただうすぼんやりとして暮らすなんて。叔父さんにそうしろって言われたのか」
「違うわ。わたしが自分で決めた事よ。お養父さんはむしろ、海外に行くことを進めてくれたわ」
「だったら……なぜ!」
武はじれったそうに言った。
「こんな山奥で何を好き好んで、女隠者みたいな生活を選ぶんだよ? 俺には全く理解できねえ」
「こんな山奥こんな山奥って言わないでよ。ここには都会にない雄大な自然があるじゃないの。水も食べ物も美味《おい》しいし。のんびりと暮らすには最高のところよ」
「そりゃ老い先短い年寄りどもが集まって日がなマッタリ暮らすには最高だろうけど、あんたや俺みたいな若者が暮らすとこじゃないだろ。肥溜《こえだ》め臭い自然とやらの他に何もないじゃんか。若い奴だったら、オラ、コンナ村ヤダって、おん出て行くのが普通だよ」
「だったら、あなたは出て行けばいいじゃないの。東京へでもどこへでも。祭りさえ終われば、誰も止めないわよ」
「一緒に帰ろう」
「……」
「俺と一緒に帰ろう。一緒に出るんだよ、こんなとこ。あんたは洗脳されかかってる。一度ここを出た方がいいよ。このまま居続けると、マジでおかしくなっちゃうぞ」
「東京に帰るといっても、すぐには無理よ」
「なんで?」
「ここでの滞在が長くなると思ったから、今まで借りていたマンションは解約してしまったから……」
「なんだ、そんなことか。だったらさ」
武は俄《にわか》に目を輝かせた。
「うちへ来いよ」
「うち?」
「うちだよ、俺のうち。それでさ、うちに住み込んで、カテキョのバイト続ければいいじゃん」
「……」
「そうだ。それがいい。うちもけっこう広いから、あなたの部屋くらいすぐに用意できるしさ。むろん家賃なんかいらない。親戚《しんせき》だもんな。そうすれば、ぼろいマンション借りるより快適だし、生活費も浮くぜ。おまけに、バイト料は入ってくる。いいことずくめのウハウハじゃん。おふくろなんて、三人めは娘がほしかったなんて前からよく言ってたし、おまけに住み込みでカテキョやってくれるなら大歓迎間違いなしだよ」
「……」
「な。そうしろよ。そうなったら、俺、死ぬ気で頑張るからさ。絶対、来年、第一志望に受かるから。そうしたら、バイト料に加えて、成功報酬としてボーナスが出るんだろ。それだけあれば、アメリカでもどこでも行けるじゃないか」
武は一人でまくしたてた。
「そうだ。アメリカ行くなら、俺も行ってやるよ。むこうは治安が悪いから、女の一人旅なんて危険だ。ひったくりとかレイプとか日常茶飯事みたいに起きてるんだから。あんたみたいな若い女は、絶対屈強な男の連れが必要だ。俺がボランティアでボディガードになってやる」
「入ったばかりの大学はどうするの?」
日美香は呆《あき》れたように聞いた。
「そんなのやめちまえばいい。どうせ、日本の大学なんて入ることに意味があるんだ。門入って一日でも通っておけば、翌日、退学したとしても、高卒から『ナントカ大学中退』って立派な学歴になるんだから」
「……」
「それでさ、アメリカ行って、しばらく暮らして飽きてきたら、またどこかへ行くんだよ。オーストラリアとか中国とか。なるべく国土のだだっ広いとこがいいな。ヨーロッパでもいいけど。ていうか、此《こ》の際、全部まとめて回っちゃおう。世界中を片っ端からぐるりと。で、世界中回り終えたら、次は宇宙に目を向けて、とりあえず近場の月あたりに……」
「ねえ、武君」
日美香は冷ややかな声で遮った。
「何よ?」
「あなた、さっき、お養父さんのことを誇大妄想狂って言ったけれど、黙って聞いてれば、あなたも十分妄想狂の素質があるんじゃない? 血は争えないわね」
「……俺のは妄想は妄想でも、実現可能の妄想だよ。世界旅行だって宇宙旅行だって、別に夢物語じゃない。妄想というより、大ざっぱな将来設計といってほしいね」
武は不満そうに言った。
「ようするにだ。俺が言いたいのは、一度この国を出て、どこでもいいから、もっと広い大きな世界から、日本という国を見てみろってことなんだ。こんなちっぽけな国の、その中の地図にも載ってない『日の本村』なんて、蚤《のみ》の鼻糞《はなくそ》よりちっちぇーてことに嫌でも気づくから。何千年続いた祭りだか風習だか知らないが、ここにいると、何やらご大層に思えるものも、もっと広い世界から見たら、しょぼすぎて泣けてくるほどちっぽけだってことが分かる。そうすれば、叔父さんにかけられた洗脳からも自然に覚めるさ。祟《たた》り神だとか転生だとか、そんな寝とぼけた大妄想からな。その第一歩として、ここを出て、東京の俺のうちへ行こうって言ってるんだ。俺、本気で言ってんだよ。冗談でも何でもないんだ」
武は真顔になって言った。
「あなたの気持ちは嬉《うれ》しいけど……」
日美香はそう言って、はっきりと首を横に振った。
「駄目なの?」
武の目から輝きが一瞬にして消えうせた。
「これほど言っても駄目なのか。そんなにこの村がいいの?」
「もうわたしはここに残ると決めたのだから。この決心は変わらないわ」
しばらく互いに無言で睨《にら》み合うように見つめ合っていたが、
「だったら……」
武はさきほどまでとは別人のような冷めたい声で言った。
「この話はこれ以上しても無駄ってことか」
「そうね」
「交渉決裂……てか。分かったよ。二度としねーよ」
投げやりな口調でそう言うと、武は、これで会話はおしまいとでもいうように、卓に投げ出してあった筆記具を取り上げた。
そして、広げたままの問題集の方に視線を落として、用がないならさっさと出て行けとでもいうような態度を示した。
「話はまだあるのよ」
しかし、日美香はその場に居座ったまま言った。
「なに、話って?」
武は問題集から目をあげず、面倒くさげに聞いた。
「さっき……」
日美香は言いにくそうに切り出した。
「この村に残って何をするんだって聞いたわよね」
「有り難い家伝書、読むんでしょ」
「その後のことよ」
「……」
「実をいうと、わたし、ここでやりたいことがあるの。この村はそれをするのにとても適した環境なのよ」
「何、やりたいことって?」
「子供を生みたいのよ」
「子供……?」
武はびっくり仰天したような顔で、日美香の方を見た。
「あんた、妊娠してたのか……?」
そう言って、思わずというように、不躾《ぶしつけ》な視線で日美香の腹部のあたりを見た。しかし、見たところ、お腹は平らで妊娠らしき膨らみは全く見られない。
「ひょっとしたら、前に付き合っていた大学の先輩とかいう男の……?」
おそるおそるそう聞くと、
「違うわ。妊娠なんかしてないわよ」
日美香は苦笑しながら言った。
「じゃ、一体、誰の子供生むつもりなんだよ?」
武は話が見えないという顔で聞いた。
「あなたの子供よ」
「……」
「あなたの子供を生みたいのよ」
「……」
武は聞いたこともない外国語で話しかけられた人のようなポカンとした表情で日美香の顔を穴があくほど見つめていた。
「あのさ」
ごくんと唾《つば》を飲み込んでから言った。
「俺、身におぼえないんだけど……」
「だから、妊娠はまだしてないって言ったでしょ」
「まだ……?」
「これからするのよ。その協力をしてほしいのよ」
「き、きょうりょくって……」
「できれば今夜にでも」
「……もう一度言うけど、俺はこの家に婿養子に来る気はないって。できちゃった婚なんか狙ったって無駄だって」
「それは分かってます。わたしの方もあなたと結婚する気はないわ」
「……」
「結婚しないで、あなたの子供だけほしいのよ。その子をここで生んで育てたいの。わたしがこの村に残る目的は、家伝書を完読するというのもあるけれど、本当をいうと、ここであなたの子を生んで育てるためなのよ。この村は、子育てには最高の環境だもの」
「……」
武は口をきく気力もなくしたように黙っていた。
「もちろん、子供ができたからといって、あなたには何の迷惑も負担もかけないわ。生まれたらお養父さんの籍に入れて、神家の子供として大切に育てるつもりだから。その子の父親があなただということは誰にも言わないし、この村にいる限り、そんなことを気にする人もいないわ。ここを出たら、あなたはここであったことなど奇麗に忘れてくれていいわ。自分の望む人生を真っすぐそのまま歩いていけばいいのよ。そして、いつか、好きな女性ができたら、その人と結婚して、あなたの家庭を作ればいいわ。間違っても、そのときになって、わたしが子供を連れて、あなたの前に現れるなんてことは絶対にないから心配しないで」
「なんでそんなに俺の子がほしいんだよ? まさか、結婚できなくても、せめてあなたの子供がほしいなんて、糞ドラマによくあるような女心とかいう奴じゃねえよな?」
「そんなんじゃないわ。わたしは、あなたのことを弟のようには思っているけれど、それ以上の気持ちはもっていないし」
「だったら、なんなんだよ? なんで大して好きでもない男の子供をそんなにほしがるんだよ?」
「それがわたしの使命だからよ」
「使命?」
「家伝書の冒頭に……」
日美香はそう言って、あの「双頭の蛇」に関するくだりの話をした。自分が宿すことになる武の子供に大神の御霊が復活するという自分なりの解釈を。
「つまり、こういうことか」
黙って聞いていた武は、眉《まゆ》を寄せ険しい表情になって言った。
「俺は聖なる種馬に選ばれたと。背中に出た蛇紋は、優良種馬の尻《しり》に押された刻印のようなものだと」
「そんな言い方しないで……」
「じゃ、どんな言い方すればいいんだよ。あんたの話を要約すれば、そういうことじゃんかよ。おまえはいらないから、おまえの子種だけよこせ。そう言ってるのと同じじゃないか。どこが違うんだよ? そういうのを巷《ちまた》では種馬っていうんじゃないんですか? 人、馬鹿にしやがって」
「そんなに怒らないでよ。わたしはもっと冷静に穏やかにこの話をしたいんだから……」
「真っ昼間から冷静に穏やかにする話かよ。俺は種馬の役なんて真っ平御免だね。そんなに若い種馬が必要なら郁馬さんにでも頼めば? 名前からして種馬むきじゃねえか。ヒヒーンって喜び嘶《いなな》いて引き受けてくれるかもよ。それに、あの人、あんたに気があるみたいだし。っていうか、もう貰《もら》ってたりしてな」
「貰うって何を?」
「あんたがその儀式とやらでほしがっているものだよ。郁馬さんのでいいじゃん。子供さえできればいいんだろ。それに、昨日の儀式、郁馬さんを俺だと思い込んで最後までやったんじゃないの?」
武は意地の悪い口調で聞いた。
「郁馬さんとは何もしてないわ。儀式をする前にあなたではないと分かって途中で取りやめてしまったから」
日美香は憤然と言った。
「取りやめた? 物置に戻ってきたとき、郁馬さんは、そんなこと一言も言ってなかったぞ。それに、取りやめたなら、なんであんなに時間がかかったんだよ……?」
「それは……」
日美香はやや口ごもりながら、昨夜あったことを話しはじめた。
神事を始める前に、手のひらの傷がないことから、蛇面を着けた青年が武ではなく、郁馬であることにすぐに気づいてしまったこと。それで、しばらく郁馬と話をしていたこと。郁馬は話だけすると、そのまま帰ろうとしたが、ふと思いついたことがあって、それを引き留めたこと。
「引き留めたって……なぜ?」
「郁馬さんのうなだれた姿を見ていたらなんだか可哀想になってしまって、一度くらいなら願いをかなえてあげてもいいと思い直したのよ。ただの遊びや面白半分であんなことをしたのなら叩《たた》き出していたけれど。あのときの彼の告白は嘘ではないと思ったから」
「情にほだされたってこと?」
「そんなところね。それに、それ以上にわたしには試してみたいことがあったのよ」
「試す? 何を?」
「前にお養父《とう》さんに言われたことがあるのよ。わたしはこの胸の蛇紋によって、大神の御霊に守られている。でも、守られているということは、同時に縛られているということでもあって、それはいわば見えない鎧《よろい》を着せられているようなもの。大神の真の依《よ》り代《しろ》となる特定の男以外には、その鎧は決して脱がせられない……て。この意味、分かる?」
「鎧を貞操帯とでも言い換えた方がより正確な譬《たと》えだと思うが」
「そういうことね。つまり、わたしはどうやら、同じお印のあるあなた以外の男を受け入れることができないみたいなのよ――」
「待てよ。それはおかしい。だって、あんたは半年くらい前まで大学の先輩とかいう男と付き合っていたんだろ。婚約寸前までいっていたって話、誰かから聞いたぜ。それって、ガセネタ?」
「いいえ、本当。新田裕介といって、今は大手自動車メーカーのエンジニアをしているけど、大学のサークルの先輩だった人。その人とは二年くらい付き合って、今年の四月にプロポーズされたわ」
「二年も付き合っていたなら、当然、その間に――」
武はそう言いかけると、
「それが何もなかったのよ」
日美香がすぐに言った。
「何も? 恋人同士だったんだろ? それなのに二年間も付き合いながら一度も?」
武は信じられないという顔で聞いた。日美香は真顔で頷《うなず》いた。
「肉体的な接触はキス止まりで、それ以上は何もなかった。ただ、プロポーズされてから、一度だけそういう関係になりそうになったことがあったのよ。でも、結局、その人は、わたしの胸の蛇紋を見た瞬間、まるで蛇に睨《にら》まれたカエルのようになってしまって……。それ以上何もできなくなってしまったのよ」
「……」
「でも、新田さんの場合はたまたまとも考えられる。たまたま、そのとき、体調が悪かっただけだとも……。それで、もう一度、郁馬さんで試してみようと思ったのよ。郁馬さんなら、新田先輩とは違って、神家の人間だし、蛇紋を見ても恐れるなんてことはないかもしれない……と思って」
「……」
「だけど、結局、郁馬さんも同じだった。新田さんのときと全く同じ状態になってしまったのよ」
「……駄目ガエル?」
「やっぱり、お養父さんのおっしゃったことは本当だったのよ。二人とも同じ反応を示すなんて」
「女には分からないかもしれんが、それはかなり悲惨な状況だ……」
武は郁馬に同情するように呟《つぶや》いた。
「そういえば、物置小屋に戻ってきたとき、ひどく憔悴《しようすい》したような顔してたっけ。何も言わなかったから、俺は別の意味に解釈してたんだけど……。ひどいな。あなたのしたことは、優しいというより、残酷だよ」
「そうね。郁馬さんにはよけい気の毒なことをしてしまったと思ってるわ……」
日美香は少ししょげてそう言ったが、
「でも、元はといえば、あなたと郁馬さんが悪いのよ。あんな交替劇を思いついたから。自業自得ともいえるんじゃないの?」
「……」
武はばつが悪そうに黙っていたが、
「叔父さんで試してみた?」
と唐突に聞いた。
「え?」
日美香は一瞬意味がわからないという顔で聞き返した。
「新田という男も郁馬さんも、あんたの蛇紋を見て駄目ガエルになってしまったんだとしたら、同じ蛇紋をもつ叔父さんなら大丈夫かもよ。蛇同士ってことで……」
「馬鹿なこと言わないで!」
日美香はようやく武の言わんとすることの意味が分かったというように、ひどくうろたえた顔で一喝《いつかつ》した。
「馬鹿なこと? そうかなぁ。一度お願いして試してみればいいじゃん。叔父さんも若いとはいえないけど、まだ現役引退って歳でもないし」
「ふざけたこと言わないで。かりにも父娘なのよ。そんなことできるわけないじゃないの!」
「どうしてさ? 異母姉弟《きようだい》でできることなら、父娘でもできるんじゃないの? ましてや、実の父娘ってわけじゃないんだから」
「実の父娘じゃなくても、血はつながってるのよ。母の実兄なんだから。伯父|姪《めい》なのよ。しかも前世では、実の母子でもあったのだから」
「……」
「それに、何度言ったら分かるのよ。わたしたちは異母姉弟じゃないって。わたしは祖母の転生者で――」
「もういい、その話は。先に言っただろ。俺は呪力《じゆりよく》によって自分のクローンを生み出す転生なんて与太話は信じないって」
武はうんざりしたような顔で遮った。
「とにかく、これで」
日美香は決然と言った。
「何もかも包み隠さず率直に話したわ。わたしの気持ちも、あまり人前では言いたくないことまで全部洗いざらい……。後は、あなたの決心次第よ」
「決心も糞《くそ》もない。クサレ家伝がどんな予言をしようと、俺は、種馬役なんか絶対に御免だ」
武は怒ったような顔つきで言い切った。
「どうしても嫌だというなら仕方がないけれど……」
日美香はため息混じりにそう言ってから、
「もう一度だけよく考えてみて。それで、もし、気が変わったら、今夜零時までにわたしの部屋に来て」
「……」
「部屋でずっと待っているから……」
10
「……お連れ様がおみえですよ」
同日の午後。
日の本寺の一室で、せっせと愛用のカメラの手入れをしていた鏑木浩一は、部屋を訪ねてきた住職夫人にそう告げられた。
「あ、そうですか」
鏑木は待ってましたとばかりに、愛機を置くと立ち上がった。
「あのぅ……三名様とは伺っておりましたが、随分体格のよろしい方がお一人混じっておられるようで……。一番安い部屋をということでお取りしましたお部屋は、あの方がたには少々狭苦しいのでは……」
住職夫人は控えめな口調で言った。
「なんでしたら、もう少し広いお部屋をご用意いたしましょうか?」
「いやあ、その必要はありませんよ」
鏑木は慌てて手を振った。
「どうせ都会の狭苦しいワンルームか何かで暮らしている連中ばかりですから、狭いとこには慣れてるはずです。あまり広い空間をあてがったら、かえって、落ち着かないと思いますよ」
「さようですか。それでは、『牡丹《ぼたん》の間』の方にお通ししておきましたから……」
住職夫人はそう言い残すと去っていた。
鏑木はさっそく部屋を出て、高野たちが通されたという「牡丹の間」を訪ねた。
「おう。よく来たな」
中に入ると、書院作りの申し分なく狭い和室に、まるで寒風に晒《さら》された三匹の野猿が互いにくっつき合うような格好で、三人の男たちが身を縮ませて寄り添っていた。
中の一人は、なるほど小山のような巨体の持ち主で、この男一人で部屋半分のスペースを完全に使い切っている。
後の二人は座るというより、大男に殆《ほとん》どしがみつくようにしていた。三人が持ってきた荷物をいれると、それこそ、鏑木の座る隙もないくらいだった。
「先輩。ここ、狭いっすよ……」
高野洋平が開口一番うらめしそうに言った。
「ここで三人一緒に寝ろっていうんですかぁ」
「我慢しろ。ここしか空いてないんだから」
「えー。でも、泊まり客って、俺たちだけみたいですよ?」
「つべこべ言うな。寝るときは、誰か一人、廊下で寝ればいい」
「そんな殺生な」
「布団部屋にしなかっただけでも有り難く思え」
「……」
高野は不満そうな顔をしていたが、すぐに気を取り直したように言った。
「一応、紹介します。こっちのでかいのが丸山で、小さい方が中西です」
「ドスコイの丸山君に空手の中西君か」
鏑木がそう確認すると、二人は、東京からここまで高野の運転するワゴンで来たらしく、ドライブ疲れからか、「はぁ」と恐ろしく覇気のない声で答えた。
「丸山君は実にみごとな体格してるな。典型的なアンコ型だね。学生横綱だったんだって?」
鏑木は、品評会の豚でも見るような目付きで、丸山のたっぷりと脂肪のついた二の腕のあたりをぴしゃぴしゃと平手で叩きながら聞いた。
「はぁ。まあ、横綱っつうか、チャンピオンになったことはあります。中学んときのことですが」
丸山が満月のような顔を綻《ほころ》ばせて答えた。
「チャンピオン? 中学のとき?」
鏑木はけげんそうに聞き返した。
「大学で相撲やってたんじゃないのか?」
「いいえ。大学は茶道部に入ってまして。実家が静岡でお茶作って売ってるもんで」
「さどうぶ……?」
「それとですね。相撲といっても、あの相撲のことじゃなくて、指相撲のことなんですが」
「ゆびずもう……」
「中学のときに、町内で指相撲大会というのがありまして、それでチャンピオンになったことがあるんです」
「……普通の相撲はやったことないの? はっけよいの方は?」
「ないです」
丸山は二重あごをぷるぷる震わせてにこにこしながら答えた。
「ぜんぜん?」
「ぜんぜん」
「全く?」
「全く」
「しこ踏んだこともない?」
「ないです」
「……」
「ぼく、あんまり身体使うの得意じゃなくて。動き鈍いし。スポーツ系はちょっと……。だから、悪循環でこんなにぶくぶく太っちゃって。でも、自慢じゃないですけど、手の指とかは意外に素早く動いて器用なんです。指相撲だけじゃなくて、編み物とか綾《あや》とりとか折り紙とかも得意なんです」
「……高野。ちょっと来いや」
険悪な表情になった鏑木は、後輩の高野の胸倉をつかむと、そのまま、外に引きずり出した。
「な、何するんですか」
「話が違うじゃないか。誰が綾とりできるデブ連れて来いって言った? 腕っ節の強い猛者《もさ》連れて来いって言ったはずだぞ。あれのどこが猛者なんだ」
胸倉をつかんだままそう言うと、
「お、俺も知らなかったんですゥ。まさか、指相撲のことだったなんて。なんかスポーツやったことあるかって聞いたら、『××相撲を少々』って言うから。あの体格で、『相撲』って聞けば、普通、あの相撲の方だと思うでしょ? そのあと、『学生のときにチャンピオン』ってくれば、当然、『ああ、学生横綱だったのか』って連想するでしょうが?」
高野も口をとがらせて言い訳した。
「それにあいつ、ちょっと口の中で籠《こ》もったような喋《しやべ》り方するでしょ。モゴモゴって。だから、『指相撲』の『指』の部分がよく聞き取れなかったんですよゥ」
「指相撲のどこがスポーツなんだよ?」
「俺に言われても。あいつが勝手にスポーツと考えてるんだから。しかし、あれですね、町ぐるみで指相撲大会なんてする所があるんですねえ、静岡には」
「何、感心してるんだよ」
「感心してるわけじゃないですが。へー、そんな町があるんだなぁと思って。町長が指相撲マニアなんですかね」
「空手の方は大丈夫だろうな?」
「あっちは大丈夫ですよ。あいつが瓦《かわら》何枚か重ねて叩《たた》き割るの、じかに見たことありますから」
「本物の瓦なのか……?」
鏑木は疑わしそうに聞いた。
「だと思うけど」
「だと思うけど……? 瓦せんべいとかいうんじゃないだろうな」
「瓦ですよ、普通の」
「空手の方は使えるか」
「ねえ、一体、あいつら何に使うつもりなんですか。なんか、電話では、『シンカン』とか『ラントウ』とか聞こえてきたけど……」
高野は胸倉つかまれたまま、不安そうに聞いた。
「よし。じゃ、今から、おまえらのやること話してやる。俺の部屋に来い」
鏑木はそう言って、高野の胸倉をつかんだまま、廊下を歩き出した。
「ちょ、ちょっと放してくださいよゥ。あいつらも呼ばなくていいんですか」
「あいつらには後でおまえから適当に話してやれよ」
「て、適当に?」
「直接話すと逃げられるおそれがあるからな……」
11
「……生き贄《にえ》の儀式ィ?」
鏑木浩一の話を聞き終わったあと、高野は信じられないという顔で聞き返した。
「この平成の世に? まじっすか? しかも、その生き贄になるのが、今年四月に埼玉で誘拐された近藤さつきとかいう幼女かもしれないなんて……」
「それを確かめるために、おまえらの力が必要なんだよ」
「確かめるって、まさか、その蛇ノ口とかいう沼の近くに潜んで……?」
高野はおそるおそる聞いた。
「そうだ。待ち伏せするんだよ。いいか。俺の考えた計画を詳しく話すとこうだ」
鏑木は声を一層低めて続けた。
「聞くところによると、神官どもが社を出て蛇ノ口に来るのは、七日の午前一時頃らしい。本来は六日の予定だったが、一日ずれこんだんだ。宮司から内々のお達しが回ってきたのを、ここの住職がうっかり俺に漏らしてくれたんだよ。そこで、事前におまえのワゴンを使って、そこまで行き、ワゴンを人目につかない所に停めておく。それで、俺たちは蛇ノ口のどこかに身を潜めて、奴らが来るのをじっと待つ。ここまではいいか?」
「はい」
「役割分担を言うと、まず、ビデオ係が一人。事の一部始終を映して物的証拠とするためだ。口で話しただけじゃ、誰もこんな話まともに信じる奴はいないからな」
「それ、俺ですね」
「いや、俺がやる」
「え。でも……」
「安心しろ。撮ったビデオのテープは後でおまえに渡すから。場合によっては大スクープだ」
「じゃ、俺は……?」
「おまえの役目は、後の二人同様、生き贄救出係だ」
「生き贄救出係……」
「神官どもが生き贄の幼女を沼に沈めようとしたまさにその瞬間に、飛び出して行って、奴らの手から幼女を救い出す。そして、救い出したら、すぐに停めておいたワゴンに飛び乗って、そのまま逃走する。救い出した幼女が埼玉で誘拐された近藤さつきだったら、俺たちは一躍にして警視総監賞ものの国民的ヒーロー、近藤さつきではなくて、村の子供だったとしても、いたいけな幼女の貴い命を一つ救ったことになる」
「……乱闘って、もしかしたら、そのときに……?」
「当然、それは予測されるだろう。大事な神事の主役を奴らがハイドーゾと素直に渡すわけがない。敵も必死で守ろうとするはずだ。そこで乱闘になる恐れがある。ここは腕力に物言わせて奪取しなければならない」
「あ、そうか。だから、腕っ節の強い猛者……。だとすると、あの丸山は使い物になりませんね。動き鈍そうだから逃げ遅れて、足手まといになる恐れがあります」
「まあ、しかたがない。攻撃力には使えないが、この際、あのデブは防御力として使おう」
「防御力?」
「うむ。あの巨体をひたすら盾に使う。おまえと中西は、神官どもと戦って、危なくなったら、あのデブの背後にさっと隠れろ。それで、敵がデブを攻撃している間に鋭気を養って、再度戦う」
「……」
「あるいは、敵が強すぎて、これ以上戦うのは無理だと判断した場合は、デブをその場に放置してさっさと逃げる。デブの動きの鈍さを逆に利用するんだよ」
「……」
「もたもたしているデブの巨体につっかえて、敵の出足が遅れる。その隙に、俺たちはワゴンに飛び乗り、まんまと逃走てなわけだ」
「でも、そうなったら、置き去りにされたデブ……じゃなかった丸山はどうなるんです? 下手すると敵に捕まって」
「どうなるかは神のみぞ知るだ」
「……」
「まさか、奪取された幼女の替わりに、底無し沼にドボンなんてことは……」
「俺が神官だったら、それはしないね」
「なぜです?」
「考えてもみろ。愛くるしい幼女ならともかく、あんなむさくるしいデブを生き贄にされて、ここの蛇神が喜ぶと思うか?」
「……」
「幼女とデブじゃ、ぼたもちと馬糞《ばふん》くらいに違うぞ。おまえならどうするよ?」
「ペッて吐き出します。そのあと、神官どもにバチあててやります」
「だろ? 神官どもだって、そのくらいの知恵はあるさ。祟《たた》り神喜ばせるための生き贄儀式で怒らせてどうするんだよ。まあ、何事も前向き、ポジティブに考えよう。人間、死に物狂いになれば、火事場の馬鹿力というやつが出るらしい。丸山君も運がよければ、自力で助かるだろうさ」
「そうですね」
「ただ、戦略の細かいことまで、丸山には話すなよ。怖じけづいて行くの嫌がるかもしれないからな。おまえの役目は安全なビデオ係だとか適当に言っておけよ」
「あ、適当ってそういうことか。わかりました。で、その相手の神官って、何人くらいいるんですか」
「詳しくは分からないが、神輿《みこし》かついで来るのは四、五人ってとこかな。行列作ってぞろぞろということはないと思うが」
「四、五人ですかァ。うーん。人数的には微妙ですね。まあ、でも、先輩の話では、いずれも女みたいなひょろひょろした生っ白い奴ばかりってことでしたからね。そんなのばかりだったら倍いてもどうってことないですよね」
「……うん、それがな」
鏑木の顔が俄《にわか》に曇った。
「そうでもないらしい……」
「そうでもないって?」
「それがな……けっこう強いらしい」
「え……強いって」
「いや、その相手の神官どもが」
「で、でも、電話では、先輩、女みたいなひょろひょろだって……」
「うむ。一見そう見えるんだよ。俺が見た限りでは、ここの神官ってのは、そろいもそろって色白の優男というか、そんなのばかりで。でも、おまえに電話したあとで、情報が入ってきてな……」
鏑木はいいにくそうに続けた。
「あそこの神官たちは、見かけほど弱くはないらしいんだ。皆、剣道をはじめ武道の心得があるとかで、日ごろからけっこう鍛えているらしいんだよ」
「え、そんなァ」
「でも、まあ、心配するな。敵もまさか、俺たちが潜んでいるとは夢にも思ってないだろうから、神事をやるのに鎧《よろい》カブトで武装してくるわけないしな。せいぜい、もっていたとしても、他の神事で使ったような榊の杖《つえ》くらいのものだろう。素手で戦うのに不安があるなら、こっちからはバールとか角材とかトンカチとか武器になりそうなものを持参していけばいいじゃないか」
「……」
「ようするに、弱そうに見えるからって、あまり油断するなってことだよ」
「はぁ」
「なんか質問あるか」
「別に……」
「そうか。じゃ、決行の時まで鋭気を養うためにも、のんびり温泉にでもつかって旨いものでも食っておけよ」
「はぁ」
「特に丸山には旨いもんたらふく食わせてやろう。あいつにとっては最後の晩餐《ばんさん》になるかもしれないからな」
「……」
12
どこかで柱時計が鳴りはじめた。
日美香は部屋でそれを聴いていた。
ボーン、ボーンと、時計の音は夜のしじまを震わせるように鳴り響いて、十二回鳴って、ぴたりと止まった。
零時……。
日美香は反射的に自分の腕時計を見た。
零時五分前を指している。
あの柱時計は五分ほど進んでいるようだ。
それとも、わたしの腕時計が五分遅れているのだろうか。
腕時計の方が正しければいいのだが……。
そんなことを思った。
たった五分だったが、それでも、この五分間に僅《わず》かな希望を託せる。
武が来ないことは分かっていた。
昼間、話をしたときの、あのあからさまな拒否の感触からして……。
夕食の席でも、その態度は目に見えてよそよそしかった。隣りあっても一言も口をきこうともせず、目を合わせようとしない。無言の怒りをあえて隠そうともしなかった。食欲も朝ほどの旺盛《おうせい》さは見せずに、膳《ぜん》に出ていたものを奇麗に平らげただけで、済ませると、さっさと座敷を出て行ってしまった。
でも、あれから部屋に戻って一人で考えて、もしや、考えを変えたのではと一抹の期待を抱いていたのだが。
やはり、無理だったのか……。
日美香は立ち上がると、窓辺に寄り、カーテンを少しめくって、外を見た。
中庭を挟んで武の部屋の窓が見える。
窓の明かりは消えていた。
少し前に見たときは、枕元の電気スタンドだけをつけているような、薄ぼんやりとした明かりがカーテン越しに灯《とも》っていたのに。
それが完全に消えている。
もう寝てしまったのか……。
日美香は深いため息をついた。
一時間ほど前に見たときには、窓の明かりは、部屋の主がまだ起きていることを示すように煌々《こうこう》と灯っていた。それが、しばらくして見ると、布団に入って、枕元のスタンドをつけただけのような薄ぼんやりとした明かりに変わり、今は、その明かりさえもない。
窓は黒々と闇に包まれていた。
その窓の明かりの変化は、カーテンをめくって、それを何度か確認していた日美香の心の明るさと連動していた。
窓に煌々と明かりが灯っていたときは、まだ可能性はあると希望をもっていた。それが、小さな明かりに変わったときは、彼女自身の希望の明かりも少し小さくなったが、それでも、まだ明かりは灯っている。寝床に入って、本を読むか考えごとでもしているか……。いずれにせよ、まだ眠ってしまったわけではない。考え事をしているのだとしたら、昼間の決心をぎりぎりになって翻す可能性もゼロではない。
窓を彩る薄ぼんやりとした明かりのように、日美香の心のうちにも、同じようなぼんやりとした明かりが灯っていた。
しかし、今……。
明かりは消えた。
部屋の主が就寝してしまったことを示すように窓の明かりは消えていた。
それは、日美香の胸の内に僅かに灯り続けていた希望の光も完全に消えたことを意味していた。
日美香はもう一度深いため息をつくと、窓辺を離れた。
まだ落としていなかった、というより、武を待つ間に、何度も塗り直した寝化粧を落とそうと鏡台の前に座った。クレンジングクリームを手に取って、顔の色彩を丹念にこそげ落としていく。
やがて、ほの暗い鏡の中に浮かびあがる、全く色彩のなくなった自分の白い顔を見て、哀れむように微《かす》かに笑った。
鏡に映るその肌は、化粧などまだ必要としないほどにきめ細かく瑞々《みずみず》しかったが、こちらを見つめ返している双の目だけが、年増女のような疲れた色を湛《たた》えている……。
それは、恋人を待ち侘《わ》びる乙女の目というよりも、まるで客を待ち続ける年とった娼婦《しようふ》のような目だ、とふと思った。
そういえば……。
転生者の特徴は目に現れると誰かが言っていた。
どんなに若々しく瑞々しい外見をしていても、その目だけが年輪を重ね年とっているものだと……。
一体、この目はどのくらいの時を生きてきたのだろう。
今まで、何度となく鏡をのぞき込んだことがあったが、髪形や顔かたちを見ることはあっても、こんなにまじまじと自分の目の奥まで見たことがなかった。
肉体だけは赤子から乙女へと常に新しく蘇《よみがえ》っても、この目だけは変わらない。百年、千年、あるいはそれ以上の歳月を、時を越えて、生き続けてきた者しか持ち得ない深い色と澱《よどみ》を湛えている……。
年とった大蛇の目……。
それはまさしく年老いた女蛇の目だ。
わたしはこんな目をして、この先も、肉体の衣だけを脱ぎ変えて、また百年、千年と生き続けていくのだろうか。
そんなことをぼんやりと思いながら、鏡の前にいたとき――。
ふと、物音を聞いたような気がした。
空耳?
日美香は耳をすませた。全身を聴覚にして、その音の正体を聞き分けようとした。
空耳ではない。
廊下の方から、微かな物音がする。みしっ、みしっと廊下の軋《きし》むような音に混じって、ひたっ、ひたっと誰かが足音を忍ばせて歩いてくるような微かな物音が……。
日美香は鏡の前で、自分の顔を見つめたまま、石のようになっていた。自らの姿を見て石になってしまったという女怪メドゥサのように……。
足音?
誰かが廊下をスリッパもはかずに、素足のまま、足音を殺すようにして歩いてくる。
その音が次第に大きくなってくる。
ひたひた、ひたひた……。
まさか。
いや、そんなはずはない。
彼のはずがない。
きっと、家人の誰かがトイレにでも起きたのだろう。
そのうち、足音は、この部屋の前をそのまま素通りしていく……。
しかし、その密《ひそ》やかな足音は部屋の前までくるとぴたりと止まった。
日美香の心臓が早鐘を打ったように鳴り始めていた。
止まった?
しばらく、一切の音が止んだ。
やがて……。
遠慮がちな感じで、襖《ふすま》の戸をコンコンと叩《たた》く音がした。
鏡台の前から反射的に飛び離れ、戸口まで行き、襖を開けると……。
そこに、強ばった表情をした武が立っていた。
13
「……来ませんねぇ」
腕時計を見ながら、高野洋平が痺《しび》れを切らしたように言った。
片手には村の廃材置き場から拾ってきた角材が握り締められている。
「もう午前二時半ですよ? 先輩が聞いた話では、ここで神事がはじまるのは午前一時頃だってことでしょ。もう一時間半も過ぎてますよ? 本当に来るんですか」
「何かの事情で遅れてるのかもしれん。もう少し待ってみよう」
藪《やぶ》にしゃがみこみ、もっていたビデオカメラを下に置いて、寒そうに両手で両腕を抱くようにしてさすっていた鏑木が弱々しい声でそう答え、その直後に、「へーくしょんっ」と大きなくしゃみをして、ぶるっと身を震わせた。
日付が六日から七日に変わった零時ちょうどに、荷物をもって日の本寺をこっそり抜け出した鏑木たち四人は、高野の運転するワゴンで蛇ノ口まで来ると、ワゴンを近くに停め、底無し沼の見える藪の中にずっと身を潜めていたのである。
ところが、予定の午前一時を過ぎても、神輿《みこし》をかついだ神官らしき姿は一向に現れなかった。
十一月初頭ともなると、このあたりは朝晩はかなり冷え込みがきつくなる。待っている間、暖を取るために携帯カイロをもってきたのだが、それさえもあまり役には立たないような寒さだった。
「ぼく、もう帰りたいです……」
巨体を寒さでがたがた震わせながら丸山が情けない声で言った。
「もうちょっとの辛抱だ。頑張れ」
鏑木が叱咤《しつた》激励した。
「……」
「……」
「……あの、おしっこしてきていいですか」
数分後、また丸山が情けない声で言った。
「おしっこ?」
「寒さで催してきたみたいで……」
どうやら震えているのは、寒さのせいだけではないらしい。股間《こかん》のあたりを、紅葉まんじゅうのような両手で押さえて、満月のような顔を苦しげに歪《ゆが》めている。
「我慢しろ。おまえが出て行って、やってきた神官たちと鉢合わせになったら、これまでの苦労が水の泡じゃないか」
鏑木が困ったように言った。
「で、でも、もう我慢の限界です。も、漏れちゃいそう。ここでしちゃっていいですか」
丸山は悲鳴のような声をあげると、特大ズボンのファスナーをおろしかけた。
「ば、馬鹿。こんなとこでするな。一応ご神域だぞ、バチがあたるぞ」
高野が慌てたように言った。
「するなって言っても出ちゃう」
「ちぇっ。しょうがねえな。こんなとこでジョロジョロやられたらたまらん。早く行って来い」
鏑木が舌打ちして許可すると、丸山は股間を両手で押さえたまま、山が動いたようにすっくと立ち上がり、藪の中から脱兎《だつと》のごとく外に走り出て行った。
「あいつ、いざとなると素早く動けるみたいだな」
丸山の姿を見ながら、鏑木が呟《つぶや》いた。
二十分ほどが経過した。
「……丸山、遅くないか」
鏑木がふいに言った。
「出すもん出したら、ほっとしてまた動きが鈍くなったのかも」
高野が答えた。
「……」
さらに十分ほどが経過した。
丸山はまだ戻って来ない。
「おい。遅すぎるぞ……」
鏑木がまた言った。
「よっぽど溜《た》まっていたのかな」
「まさか、途中で沼にはまったとか……?」
「そんなことねえだろう。沼ならそこに見える」
「他にも沼があったりして」
「沼にはまったなら、悲鳴くらい聞こえてくるだろうが」
「それもそうですね。じゃ、ついでに大の方も催したんで、のんびり野糞《のぐそ》楽しんでるとか」
「……逃げたんじゃないだろうな」
「え」
「あいつ、車の運転できるのか?」
鏑木がはっとしたように高野に聞いた。
「ああ見えてできます。免許もってるし、ここに来るとき、運転代わって貰《もら》った事も……まさか?」
高野もぎょっとしたように声をあげた。
「あいつだけワゴンに飛び乗ってそのまま豚走、いや遁走《とんそう》――」
「もう帰りたい帰りたいってしきりに口走ってましたからね。おしっこだなんてのは実は口実で」
中西も不安そうに言った。
「冗談じゃねえぞ。あいつに逃げられたら、いざというときの置き去り作戦はどうなるんだよ?」
と鏑木。
「置き去り作戦? なんです、それ?」
中西が不思議そうに聞く。
「なんでもない」
そう言ってから、鏑木は独り言のように続けた。
「牛でも馬でも、ほら、食肉になる前には、なんとなく身の危険を察知して、いつもと様子が違うっていうじゃないか。時には逃げ出すこともあるって。だから、丸山も、漠然《ばくぜん》と我が身の危険を察知したのかも。もしや前日に御馳走《ごちそう》たらふく食わせたことで感づかれたか」
「それより何より、ワゴンなくなったら、俺たち、ここからどうやって帰るんですか」
高野も愕然《がくぜん》としたような顔になった。
「しっ」
そのとき、中西が鋭く言った。
「誰か来ます」
鏑木と高野は思わず顔を見合わせた。
確かに、今までリーンリーンと虫の声しか聞こえてこなかった沼気たちこめる闇の中で、がさがさと人が近づいてきたような物音と気配がする。
遅れていた神官たちが現れたのかと一瞬緊張したのもつかの間、のっそりと目の前に現れたのは巨体の丸山だった。
さきほどまでの苦痛に歪んだ顔とは別人のようなリラックスした顔になっていた。
「……なんだ、おまえか」
鏑木がほっとしたように言った。
「何してたんだよ。あんまり遅いから、一人で逃げたのかと思ったぞ」
「逃げたりしませんよ。用を足したあと、ちょっと通りの方に出てみたんです。ほら、神官たちが神輿かついできたら、遠くからでも、提灯《ちようちん》の明かりとか見えるはずでしょ。それが見えないかなーって思って」
丸山はそう言った。
「見えたのか?」
「いいえ。ぜんぜん。明かりなんかどっこにも見えませんよ。ねえ、本当に、ここで神事なんて行われるんですか?」
丸山は疑わしいという顔つきで聞いた。
「もう午前三時過ぎてますよ? ひょっとしたら、急遽《きゆうきよ》、取りやめってことになったんじゃ……」
「そんなことない。七年に一度の大事な神事だ。そんな簡単に取りやめになるはずがない」
「でも、急遽延期にするくらいなら、急遽取りやめになることだってあるんじゃないですか」
「……」
「ねえ、先輩」
高野が言った。
「そもそも、この神事、一日延期になったって話、本当なんでしょうか」
「……どういう意味だよ?」
「先輩、その話、あの寺の住職から聞いたんでしょ?」
「……」
「老獪《ろうかい》な住職に一杯食わされたなんてことはないでしょうね……?」
「……」
鏑木は答える代わりに、もう一度、「へーくしょんっ」と大きなくしゃみをした。
その頃。
日の本寺の鏑木浩一が泊まっていた部屋の襖戸をそうっと開けて、中を覗《のぞ》きこんでいる人物がいた。
住職の神一光《みわいつこう》だった。
明かりを点《つ》けなくても、廊下の常夜灯の明かりだけで、部屋の中がもぬけの殻であることは一目で見て取れた。
布団は敷かれていたが、そこに人が寝ている気配はない。
他の三人の連れが泊まっていた部屋も同様だった。荷物もなくなっている。
泊まり客用の下駄箱からも、四人の履物は奇麗になくなっていた。
「……たわけ者が」
それを確認すると、住職は薄く笑い、吐き捨てるように呟いた。
「まんまと引っ掛かりおって。来もしない神輿を待って、せいぜい風邪でもひくがいい。その頃気づいても、これが本当の後の祭りじゃて……」
14
十一月七日の朝。
朝食をすませた神家の人々はほぼ全員、玄関の前に集まっていた。今朝一番のバスで帰るという武を見送るためだった。
「どうしても帰るのか」
ボストンバッグをさげている甥《おい》に向かって、聖二は念を押すように聞いた。
「どうもお世話になりました」
武は叔父の質問には答えず、それだけ言って頭をさげた。
「明日ならば、私も上京する用があるから郁馬の車で長野駅まで行って……」
一緒に新幹線で帰らないかと聖二は提案したが、武は即座にかぶりを振った。
「今日帰ります」
「……そうか」
聖二はそれ以上の説得はあきらめたような顔でそう言い、
「まあ、また遊びに来いよ。正月にでも」
と明るい口調で言った。
武はその言葉が聞こえなかったのか、何も答えなかった。
もう一礼すると、「じゃ」と言って、名残惜しそうにしている見送りの人々に片手をあげ、門の方に歩き出した。
「一の鳥居のところまで見送るわ」
そう言ったのは日美香だった。
そして、武と並んで門を出た。
神家の門を出て、三差路まで歩き、その三差路をさらに一の鳥居に続く杉木立の参道を肩を並べて歩きながら、二人は一言も口をきかなかった。
やがて、目の前に一の鳥居が見えてきた。
その少し手前で立ち止まると、武はようやく口を開いた。
「ここまででいいよ。バスの時間まで、まだだいぶあるから」
腕時計を見ながら、そっけない口調でそう言った。
「ええ……」
日美香もそこで立ち止まると、
「もう二度と来ないつもり?」
声を押し殺してそうたずねた。
武は頷《うなず》いただけだった。
そして、少し沈黙したあと、
「あなたも、気持ちは変わらないんだよね?」と、日美香の顔を見ないで聞いた。
「変わらないわ」
日美香はきっぱりと言った。
「じゃ……」
武はそう呟《つぶや》くと一の鳥居に向かって歩き始めた。
日美香はその場に立ち止まっていた。
武の心持ち肩を落とした長身が一の鳥居をくぐり抜けた。
日美香はじっと目をそらさずにその背中を見つめていた。
彼はおそらくこのまま振り返りもせず、バス停まで続く一本道を歩いて行くのだろう……。
そう思いながら。
その後ろ姿が視界から消えるまで、ここでこうして、手も振らず、ずっと見送るつもりだった。
ところが……。
一の鳥居を抜けて、少し行ったところで、武は何を思ったのかふいに立ち止まり、まるで見えない手でぐいと後ろ髪を引かれたように振り返った。
振り返ったその顔が、何か言いたげに歪《ゆが》んだ。
しかし、口を開きかけたその瞬間、日美香の方を見ていた目が何かを捕らえたように見開かれた。
日美香を見ていたのではなかった。
日美香も思わず後ろを振り返った。
武が自分の背後にあるものを凝視しているような気がしたからだ。
杉木立に囲まれた参道をむこうから一人の男が近づいてくるのが見えた。
聖二だった。
彼も甥を鳥居まで見送るつもりで少し遅れてやって来たようだった。
武はその叔父の姿をじっと見ていたのだ。
睨《にら》みつけるという目ではなかった。
いつかのように反抗的な色はその目にはなかった。
しかし、この村に来る前に見せていたような、甘えるような慕うような色もそこにはなかった。
ただ、見返している。
見下ろすのでも見上げるのでもない。
真っすぐ見返していた。
その目には、愛情も憎悪もなかった。
甘えも敵意もない。
子供が大人を見る目ではなかった。
それは強いて言えば……。
一人の男が一人の男を全く対等の立場で静かに見返している。
そんな目だった。
武は、立ち止まったまま、じっと叔父の姿を凝視していたが、それもほんの数秒のことで、やがて、ふっきれたように視線をはずすと、くるりと前を向き、歩き始めた。
今度は振り向かなかった。
すたすたと大股《おおまた》で真っすぐバス停に続く道を歩いて行く。
その姿はどんどん小さくなっていき、そのうち、道の両脇に生えた人の背丈ほどもある雑草の群れに飲み込まれるように、日美香の視界から消えた。
武の姿が消えると、ようやく呪縛《じゆばく》が解けたように、日美香はもう一度後ろを振り返った。聖二はすぐ背後まで来ていて、そこに立ち止まっていた。
そして、黙って、日美香の方を見ていた。
その目には……。
いなくなった母親を探しにきた子供が、その母親がどこにも行かずにそこにいたことを発見してほっと安堵《あんど》しているような、そんな色が浮かんでいた。
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第八章
十一月十日。火曜日の夜。
会社帰りの喜屋武蛍子が、行きつけのバー「DAY AND NIGHT」の扉を開けると、カウンターに背中を丸めるようにして座っている鏑木浩一の姿を発見した。
「鏑木さん……」
蛍子はその姿を一目見るなり、思わず言った。
無事に帰ってきたのか。
そんな思いだった。
「あ、どうも」
鏑木は蛍子の方を見ると、軽く頭をさげるような仕草をした。
鏑木の前には、いつものようにビールではなく、湯気のたつ黄色い飲み物の入ったグラスが置かれていた。
鏑木はその飲み物を両手で包むように持ち、時折、ずずっとハナをすすり上げながら飲んでいた。
「日の本村からはいつ……?」
隣に座って、いつものカクテルを注文してから聞くと、
「七日の朝です」
鏑木はそう答えた。声ががらがらに嗄《か》れている。
「携帯に何度か連絡いれたんですが、すぐに留守番サービスになってしまうので、何かあったのではないかと心配してたんですよ」
蛍子がそういうと、
「ご心配かけてすみません。あそこから帰った直後、風邪でダウンしちゃって」
鏑木は苦笑いしながら頭を掻《か》いた。
「ようやく熱が下がったんで、出歩けるようになったんです。まだ咳《せき》が出て、頭がふらふらするんですけど。で、マスターにこれ作ってもらって。ホットレモン。風邪にはビタミンCを多く取ればいいとかで」
「でもよかった……」
蛍子はほっと胸をなでおろすように言った。
「携帯がつながらないから、まさか、あなたも伊達さんのように……なんて悪いことばかり考えてしまって」
「一言帰ってきたって連絡だけでも入れればよかったですね。でも、うちに着いたとたん、そのまま意識失うようにバタンキューだったもんですから……。こういう時、彼女もいないチョンガーはつらいです」
鏑木は、「彼女もいない」を心なしか強調しながら侘《わび》しそうに言った。
「それで、どうだったんですか、あちらでは」
蛍子はさっそく聞いた。
「それが……」
鏑木は、時折咳き込んだり、ハナをすすったりしながら、日の本村であったことの一部始終を蛍子に話した。
「……それでは、今年の一夜日女《ひとよひるめ》があの埼玉で誘拐された幼女かどうかということは……」
話を聞き終わると、蛍子は眉《まゆ》を顰《ひそ》めて言った。
「結局分からずじまいでした。いやあ、面目ないです」
鏑木はしょぼんとして、誰にともなく頭を下げたあと、こみあげてきた怒りを押さえるような声で、
「どうやら、日の本寺の狸|爺《じじ》ィにまんまと一杯食わされたようです」と付け加えた。
「最後の神事を一日延期するというのは、住職のついた嘘だったってことですか」
蛍子がそう聞くと、鏑木は頷《うなず》いて、
「どうもそのようでした……」
結局、空が白みかけるまで、蛇ノ口に潜んで待っていたのだが、神輿《みこし》をかついだ神官はおろか、猫の子一匹現れず、鏑木たちはすごすごワゴンに乗って、いったん日の本寺に舞い戻ったのだという。
「生き贄《にえ》の幼女を助けたら、そのままワゴンで東京まで帰るつもりだったんですが……。こんな結果になってしまったんで、寺に戻ったんですよ。それで、翌朝、朝食のときに、住職にそれとなく、『一夜日女の神事』は無事に終わったのかと聞くと、あの狸爺ィめ、なんてぬかしたと思います?」
鏑木は今思い出しても腹がたつという顔つきで、まるでそれが住職の皺首《しわくび》ででもあるかのように、手近にあったおしぼりを両手でねじり上げた。
「今年は神事の模様をこっそり盗み見にくるような不埒《ふらち》な観光客もなく、万事滞りなく終了して、大神の御霊《みたま》を無事御山に返すことができたと満面に笑みを湛《たた》えてぬかしやがったんですよ。その顔を見たときに、ああこれはやられたと悟りました。一杯くわされたと。神事は、予定通りに行われてしまったんです。前日の夜に……」
「……」
「ただ、俺が思うに、あれは住職の悪知恵というより、あの宮司の差し金じゃないかって気がするんです。つまり、宮司のお達しというのは、最後の神事が一日延期になったってことじゃなくて、うっかり口が滑ったふりをして俺にそう伝えろってことだったんですよ、きっと。近藤さつきの替え玉作戦を咄嗟《とつさ》に思いつくような悪賢い奴なら、いかにも考えそうなことです」
「その宮司という人には会ったのですか?」
「いや、直接は会えませんでした。雑誌の取材という形で面会を申し込んだんですが、祭りの準備で忙しいからと断られて。会って話ができたのは、神郁馬という若い神官だけです」
「しかし、寺の住職がそんな嘘をわざわざついたのは、鏑木さんのことを単なる取材で来たのではないと疑っていたということでしょうか?」
それまで黙っていた老マスターが口を挟んだ。
「かもしれませんね。俺は、喜屋武さんのことも伊達さんのことも一切触れずに、あくまでもフリーのフォトジャーナリストとして取材に来たというスタンスで押し切ったつもりだったんですが、喜屋武さんたちとのつながりを疑われてしまったのかもしれません。今から思えば、あの若い神官と話していたとき、なぜ、こんな人に知られていない村の祭りに興味を持ったのだということをしきりに気にして聞いてきましたからね。あのあたりで既に怪しいと思われていたのかも……」
鏑木はそう言って、カウンターに両|肘《ひじ》をつくと、両手でボサボサ頭を掻き毟《むし》りながら、
「ああ、俺の馬鹿、間抜け、どじ、阿呆《あほう》。どうして、あんな狸爺ィの話をアッサリ信じちまったのかなぁ。爺ィの話を真に受けず、予定通りの日に蛇ノ口に潜んでいたら、近藤さつきを助けることができたかもしれなかったのに。あんな小さな子が生きたまま底無し沼になんて思うと、悔やんでも悔やみ切れないですよ」
そう嘆いた。
「そんなに自分を責めないで」
蛍子は鏑木の肩に手をおいて、慰めるように言った。
「一夜日女が近藤さつきだったかどうかは確かめられなかったわけでしょう?」
「何度か、『物忌《ものい》み』という家屋に侵入しようとしたんですが、祭り期間ということもあってか、警戒がやたらと厳重で」
「だとしたら、あの子ではなかったのかも……」
蛍子は言った。
「あれから考えたんですけど、わたしがあそこの竹林で見たのは近藤さつきではなかったのかもしれません。テレビであの子の写真を見て、年格好や髪形や頬の黒子《ほくろ》から似ているように思ってしまったけれど、あのとき見た女の子が近藤さつきだったと言い切れるだけの自信はどこにもないんです。近藤夫妻が見たという女の子がやっぱり、わたしが見た子だったのかもしれない」
「……」
「そもそも、真鍋さんの本にも書いてあったように、生き贄《にえ》の儀式なんてとっくに廃《すた》っていて、神事といっても、その年の一夜日女の名前を書いた藁《わら》人形を沼に沈めるだけの形式的なものだったのかもしれないし……」
「でも、それなら、その神事が一日延期になったなんて嘘つく必要はないじゃないですか?」
鏑木はすぐにそう反駁《はんばく》した。
「生き贄儀式をよそ者に見られたくないからこそ、あんなフェイントかけてきたんだろうから。藁人形沈めるだけの形式的神事なら、別に見られてもいいじゃないですか」
「そうとは限らないわ。たとえ藁人形を沼に沈めるだけの儀式でも、見てはならないという昔からある掟《おきて》を守ろうとしただけかもしれないでしょ。ただの観光客相手ならそこまでしなくても、あなたが雑誌の取材で来たマスコミ関係者と聞いて、村の連中も少し神経質になって警戒したのかもしれない。それで、あんな嘘をついて牽制《けんせい》したのかも」
「いっそ、そういう風に思えたら、俺も少し気が楽になるんですが……」
「きっとそうですよ。生き贄の件だけじゃなくて、他のことも、あの日の本村に関することはすべて、考えれば考えるほど、わたしたちの妄想というか考え過ぎだったような気がしてきたんです、わたし」
「……」
「伊達さんの件もそうです。もしかしたら、彼の失踪《しつそう》はあの村とは何の関係もないのかもしれない。警察が考えているように、何らかの事情で伊達さん自身が自分の意志で姿をくらましているだけなのかも……」
「……」
「達川さんの事件も、やはり、失業や離婚を苦にした衝動的な自殺にすぎなかったのかもしれないし。思えば、あの村にかかわる一連の疑惑の源は、この達川さんの妄想じみた疑惑からはじまったんです。次期総理とも呼び声の高い人気政治家の大スクープ記事をものにしようと功を焦った一週刊誌記者の」
「……」
「そして、その彼が自殺とも他殺ともつかぬ変死をした。それで、今度はその妄想が伊達さんに感染して、その伊達さんの失踪によって、わたしまでもが感染して……と、功名心に取り付かれた一人の週刊誌記者の妄想が次々と妄想を生み出す、いうなれば妄想の連鎖のようなものに巻き込まれてしまったのではないか。冷静になってよく見れば枯尾花にすぎないものを、最初の一人が幽霊だと騒ぎたてたばかりに、回りにいた人たちもそれにつられて幽霊だ幽霊だと騒いでいただけのような……。
それに、そういう妄想の連鎖にくわえて、あの日の本村というところが、そこだけ時間が止まってしまったような、ひどく排他的で閉鎖的な村だったことがよけい、あの村で何か暗い犯罪めいたことが行われてきたみたいな印象を強めてしまった。なんだかそんな気がしてきたんです」
「そう言われてみれば、俺もちょっと自信なくなってきたな。新宿の居酒屋で、達川さんからこの話を聞いたときは、最初は、酔っ払いのたわごとって感じで聞き流してましたからね。それが、その後で、達川さんが自殺めいた変死をしたと聞いて、待てよと考え直したんです。やっぱり、あれは酔っ払いのたわごとにすぎなかったのかな。それに俺たちが踊らされていたにすぎなかったのか……」
鏑木も複雑な表情で言った。
喜屋武蛍子が自宅マンションのある駅で降り、駅の改札を抜けた頃、時刻は既に午後十一時になろうとしていた。
駅舎を出ようとして、蛍子は、「あちゃー」と小さく声をあげた。
「DAY AND NIGHT」を出たときはまだ降っていなかった雨が、かなり本降りになっていたからだ。
朝から幾分曇り気味ではあったが、出がけに見た天気予報では「一日曇り」ということだったので、傘は持参してこなかった。
駅からマンションまでは歩いて十五分ほどである。ぱらつく程度の小雨ならば、このまま歩いて行ってしまうのだが、音をたてるほどの土砂降りとなるとそうもいかない。
しょうがない。タクシーにするかと、行列のできているタクシー乗り場の方に行きかけたとき、「叔母さん」と背後から声をかけられた。
振り返って見ると、甥《おい》の豪が改札を抜けてこちらにやってくるところだった。
学校帰りらしく制服のままでカバンをさげ、手には明らかに女物と思われる派手なピンク地の花模様の傘を持っていた。
「今、帰り? 遅いじゃない」
そう言うと、
「姉ちゃんとこに寄ってきた」
と豪は答えた。
「その傘、火呂の?」
そう聞くと、豪は頷いた。
火呂のマンションを出るとき、雨がかなり激しくなっていたので、借りてきたのだという。
「叔母さん、傘は?」
蛍子の方を見て豪が聞いた。
「持って来なかったのよ。ちょうどよかった。タクシー乗り場、混んでるみたいだから」
「俺もよかったー」
豪はほっとしたような顔で言った。
「こんなド派手な女物の傘さして一人で歩くのこっ恥ずかしいもん。電車の中で、これ持ってたら、どっかでかっぱらってきたんじゃねえかって目つきでじろじろ見やがるババアがいてさ。めちゃ気分悪かった」
豪はそう言って、ピンクの傘を蛍子の手に押し付けると、
「これを叔母さんがさして、叔母さんの傘に俺が入れてもらったって形にすると格好がつく」
「あんたって、案外、人目気にするのね」
蛍子は笑いながら、押し付けられた女物の傘をさした。
「相合い傘の相手が叔母さん……つうのがチョットあれだけどな。ま、この際、贅沢《ぜいたく》は言えないか」
ぶつくさ言いながら、豪は傘の中に入ってきた。
「何いってるのよ。だったら、早く相合い傘のできる彼女でも作りなさいって」
「……」
「ひとのこと、やれ彼氏はできたか、結婚はまだかってすぐに言うくせに、あんた、自分はどうなのよ。今まで彼女っていたことあるの?」
「……」
「そういえば、わたしのとこに同居するようになって、女の子が訪ねてきたり電話かかってきたことってただの一度もないわよねぇ。誰かと付き合ってるって話、ちらとも聞いたことないわよねぇ」
「……」
「もちろん紹介されたこともないし。うちに遊びに来るのはむさい男ばっかりだし。まさか……豪、あんた、彼女いない歴十七年とかいうんじゃないでしょうね」
「……悪いかよ?」
「え。そうなの? 沖縄にいたときから?」
「女って馬鹿なんだよな」
駅舎を出たあと、相合い傘で歩きながら、豪は断定的に言った。
「なんていうかなぁ、こう、男を外見でしか判断しないつうかできないつうか。中身で判断できないというか。やっぱ、男より脳みそが少し足りないせいかな」
「ちょっと。女が男より脳みそが足りないって、どこのどいつが唱えた説なのよ?」
「定説じゃないの?」
「脳みその比重に関係なく、外見でしか判断できないのはお互いさまでしょ」
「……。ま、ようするに、俺の内面的な良さが分かるような女にはなかなか巡りあえないというかな」
「一生言ってなさい」
「そんなこと、三十過ぎても行き遅れてる叔母さんに言われたくないよ」
「十七年も彼女いないあんたになんかにもっと言われたくないわよ」
「……」
「……」
やや気まずい沈黙が続いた。
相合い傘のまま互いに無言で歩き続ける。
車一台がようやくすれ違えるくらいの車道沿いの道を歩いていたのだが、どしゃぶりの雨の中、車がそばを走り抜けるたびに、車道側を歩いていた蛍子のスカートや足元にも、泥水が容赦なく跳ね飛んでくる。
「叔母さん、こっち」
何を思ったのか、豪は突然立ち止まり、蛍子の袖《そで》を引っ張って言った。
「何?」
「そっち車道だから……」
位置を替われということらしい。
二人は無言のまま互いの位置を入れ替わった。
よく憎まれ口をきく甥ではあるが、どこか憎めないのは、こういうところがあるせいだろうか。
無神経なのか意外に繊細なのか、時々分からなくなるような言動を示すことがあった。
「火呂、元気だった?」
やや気まずい沈黙が続いたあと、蛍子は話題を変えるように聞いた。
「うん」
「今度の休みに、わたしも遊びに行ってこようかな」
そう言うと、
「だったらさ、そのとき、叔母さんからも説得してよ」
豪は思い出したように勢いづいて言った。
「説得って、何を?」
「姉ちゃんに迷わず歌手になれって」
「まだそんなこと言ってるの? あの話はもう」
そう言いかけると、
「あの後、宝生からまた連絡があったんだって。かなりしつこく何度もアプローチあったらしいぜ。あの超有名プロデューサーがそこまで執着するってただごとじゃないよ。やっぱ、姉ちゃんには類《たぐ》い稀《まれ》なる才能があるってことなんだ。さすが宝生。それを見抜いたんだ」
「でもねえ……」
「姉ちゃんの方もさ、最初は全く聞く耳もたぬって感じだったけど、最近、ちょっと迷ってるみたいなんだよ。あそこまでアプローチされると。俺の感触では、誰かに背中をもう一押しされたら、決心がつくんじゃないかと」
「それがわたし?」
「うん。叔母さんなら、姉ちゃんも素直に言うこときくんじゃないかって思ってさ。俺がこれ以上言っても、喧嘩《けんか》になるだけだしさ。今日だって、またこの話になって、怒った姉ちゃんにたたき出されてきたんだぜ。この傘だってさ、男がもってもおかしくないような地味なの持ってるくせに、俺に恥かかせようとして、わざと一番ド派手なの貸しやがって」
「……豪。あんた、そんなに火呂を歌手にしたいの? 芸能人の身内がほしいの?」
蛍子がそう聞くと、豪が怒ったような声ですぐに言い返した。
「違うよ! 俺はべつに芸能人の姉貴がほしいとかで言ってるんじゃないんだ。そりゃ、いたら友達に自慢できるけど……。そうじゃなくて、まじで姉ちゃんの声というか歌には何かあると思うんだよ。たんに上手いとか声質が奇麗だとかいう以上の何かが。叔母さんだって、前にそう言ってたことあるじゃん」
「まあね。わたしもそう感じたことはあるけれど……。今風に言うなら、癒《いや》しの力とでもいうのかしら。あの子の声を聴くと、どんなに疲れていても、すっと疲れが取れるというか、身体の隅々まで洗い清められるような気がするというか……」
「そうだよ。俺が言いたいのはそれなんだ。俺が海で溺《おぼ》れて死にかけたときのことおぼえてる?」
豪はふいにそう言った。
「ええ。五歳のときでしょ。あんた、浜辺で一人で遊んでいて波にさらわれて……」
助け出されたときには、豪の意識はなく、丸一日、病院のベッドの上で生死の境をさまよっていたことがある。
そのとき、火呂が何を思ったのか、夜、一人で浜辺に行くと、海に向かって即興の歌をうたった。それは、弟の魂を返してくれと海神《わだつみ》に祈る歌だったという。
その歌のせいかどうかは分からないが、明け方近くになって、豪は意識を取り戻したのである。
「……あのとき、今でもおぼえてるんだけど、俺、本当に夢の中で姉ちゃんの声を聴いたんだよ。真っすぐ続いている白い道を行こうとしたら、どこからか、そっちへ行っちゃだめだよ、こっちへ戻っておいでって。あ、姉ちゃんの声だと思ってその通りにしたら、助かったんだ。あれはただの夢じゃない。姉ちゃんの歌声には何かあるんだよ。母さんだって、それに気が付いていた。遺書の中でも書いてたじゃないか。火呂には不思議な力があるって。胸の変な痣《あざ》はその力の象徴だって」
豪は唾《つば》をとばすようにして熱弁を振るった。
「それに、いつだったか、俺、一人で母さん見舞ったとき、母さんが言ってたんだよ。モルヒネ切れて凄《すご》く苦しいときでも、火呂の声を吹き込んだテープを聴いていると、まるで麻酔でもかけられたように、苦痛がすっと和らぐような気がするって。見えない手で全身を優しく撫《な》でられてるような気がするって。あの子の声には何かある。本当に不思議だって。あれだけ全身に癌が回って苦しみ悶《もだ》えて死んだのに、母さんの死に顔がわりと安らかだったのも、姉ちゃんの声の入ったテープを意識を失う直前まで聴いていたせいだと思うんだ。医者だって言ってたよ。ここまで来たら、普通だったら、もうとっくに死んでるって。それがあれだけ生きながらえたのは奇跡に近いって。俺のときみたいに助けることはできなかったけれど、でも、姉ちゃんの歌声は、確実に母さんの病気の苦痛を和らげ、少し命を永らえさせていたんだよ」
「……」
「母さんだって、もし、生きていたら、この話、絶対に反対しないと思う。きっと、やれって言うと思う。率先して応援するよ。だって、誰よりも、母さんが姉ちゃんの声、好きだったじゃねえか」
「そうね……」
甥の熱弁に動かされたように、蛍子は言った。
「叔母さんからも言ってやってよ。姉ちゃんも、心の中では、小学校の教師なんかよりも歌手になりたがってるんじゃないかと思うんだ。でも、母さんに義理立てしてるんだよ。我が子同然に育ててくれたことにさ。だから、自分が本当にやりたいことを我慢してまでも、小学校教師だった母さんの遺志を継ごうとしてるんだ。でも、そんなこと、母さんが一番望まないことだと思うよ。遺書の中にも書いてあったじゃないか。火呂の人生なんだから生きたいように生きろって」
「わたしもあの子の歌をもう一度聴きたいと思っていたし……。確かに、康恵姉さんが生きていたら、応援するかもね。わかった。今度の日曜にでも訪ねてみる。それで、その話、わたしからも勧めてみる」
蛍子はついにそう言った。
「え。まじ? やったー」
豪は小躍りして大喜びした。
「やったーって、気が早いわねぇ。まだ何もやってないじゃない。勧めてみるって言っただけで、まだあの子が承知したわけじゃないのよ」
「叔母さんが後押しすれば百人力。もう説得したも同然さ。わーい。これで学校で自慢できるぞ。あの宝生がプロデュースする新人歌手の弟となれば、俺も一躍有名人の仲間入りだ。そうなれば、女なんか向こうから群れをなして寄ってくるぞ!」
「……ちょっと、あんた、珍しくまともなこと言うなって思ってたら、やっぱり、そんな下心があったのね。動機が不純なのよ」
蛍子は苦笑しながら言った。
「叔母さんだって、有名芸能人の叔母ということになれば、今までまーったく来なかった縁談が降るように来るかもよ。急に男にもて出すかもよ?」
「またその話。あんたはいっつもそこに話を持っていくんだから!」
蛍子は、軽く片手で甥の肩をつきとばすような仕草をした。
「おーっとと。あぶねー」
豪は大袈裟《おおげさ》によろけた振りをして車道の方に少しはみ出した。
その瞬間だった。
それまで二人の背後を駅舎からずっと尾行するようにのろのろとついてきた黒塗りの国産車が、突然、土砂降りの雨の中を、二人めがけて突っ込むように突進してきたのは。何が起きたのかは分からなかった。
どーんという異様な音と凄まじい衝撃を感じた瞬間、蛍子は地面に叩《たた》きつけられて、そのまま気を失った。
柄の折れ曲がったピンクの傘が宙に舞った。蛍子が最後に豪を見たとき、豪は真昼のようなヘッドライトに照らし出されて、おどけたように笑っていた。
十一月十四日。土曜日の午後だった。
地下鉄の切符売り場で切符を買っていた新庄武は、肩をポンと叩《たた》かれて後ろを振り向いた。
目の前には白い花束を抱えた三十前後のがっちりした体格の男が立っていた。
「……芝浦先生?」
その髭《ひげ》の剃《そ》り跡の濃い顔を見るなり、武は懐かしそうに言った。
目の前にいたのは、武が高校二年のときまで、ボクシング部の顧問をしていた芝浦という体育教師だった。高三のときに、芝浦は都内の別の高校に転勤になり、それきり会っていなかった。
「やっぱ、おまえだったか、武」
その男もとたんに笑顔になった。
「おまえ、今、そこの図書館から出てきただろう? 武に似てるけど、なんとなく感じが違うし、俺の知っている武なら図書館なんて行くはずないしと思って、声かけようかどうしようか迷いながら……」
「ここまで尾《つ》けてきたの? モーホーストーカーみたいに」
「馬鹿者。かりにも恩師をつかまえて、ホモストーカーとは何をいうか。たまたま行き先が同じだっただけだ。おまえ、図書館で何してたんだ?」
「何してたって……図書館って、普通、本読んだり勉強したりするところでしょ」
「普通はそうだろうが、おまえは何してたんだ。司書のお姉さんをナンパしてたとかじゃないだろうな」
「……勉強してたんですよ」
武は憮然《ぶぜん》とした顔で答えた。
「勉強?」
「受験勉強」
「おまえの辞書に受験勉強という四文字があったのか」
「ありますよ。図書館という三文字も」
「いやあ、これはたまげたこまげたひよりげた」
「先生、早く切符買ったら?」
武は冷ややかに言った。
「そういえば、おまえ、今浪人してるんだってな。風の噂で聞いたが」
「だから、来年、雪辱をはらそうと頑張ってるわけで」
「これからどこへ行くんだ」
「うちへ帰るんですよ。先生こそ柄にもなく花束なんかもって、まさか、これからもの好きな女とデートとか?」
武は茶化すように言った。
「そんな楽しい話ならいいんだけどな」
芝浦の顔が曇った。
「だって、花束なんかもってるじゃん。一人暮らしの侘《わび》しい部屋に飾るんだなんてキショイこと言わないでよ?」
「見舞いだ。病院に行くんだよ、これから」
芝浦は真顔で言った。
「見舞い?」
「ああ。教え子が事故ってな……」
芝浦の話では、四日ほど前に、転任先の高校の男子生徒が学校帰りに車に撥《は》ねられるという事故に遇ったのだという。
「……教え子っていっても、おまえ同様、ボクシング部の顧問と部員って関係だけどな」
芝浦は転任先の高校でもボクシング部の顧問になっていたらしい。
「そいつもボクシングやってたの?」
「照屋豪っていうんだが……」
「それで、そのテルヤとかいう奴の容体はどうなの?」
冗談好きだった芝浦の顔がこれほど深刻になったところを見ると、その男子生徒の容体はあまり良くないのかなと武は思いながら聞いた。
「うむ。それがかなり危険な状態らしい……」
「危険って……?」
「電話で聞いた話では、車に撥ね飛ばされたとき、路上にしたたか頭をぶつけたらしくて、脳をやられて、ずっと意識不明の危篤状態が続いているというんだ」
「ふーん……」
「危篤といえば」
芝浦ははっと思い出したような顔になって、武の全身を上から下までじろりと見渡すと、
「おまえはもう大丈夫なのか」
「え?」
「あの事件だよ。ほら、おまえが連続殺人犯に襲われたっていう。ニュースで聞いたときは飲んでたお茶を吹き出すほど驚いたんだぞ。超高級玉露だったのに。全身めった刺しにされて重体だって聞いていたんだが」
「今はこの通り」
「ピンピンしてるじゃないか。おまえ、本当に襲われたのか?」
「こう見えても俺も生死さまよったんだよ、一時は。今はなんともないけど」
「そうか。まあ、何はともあれよかった」
芝浦はいささかピントのはずれた喜び方をしたあとで、
「そうだ。おまえもこれから付き合え」
突然ひらめいたように言った。
「付き合えってどこへ?」
「照屋がかつぎ込まれた病院だよ」
「病院へ? 俺も?」
武は露骨に迷惑そうな顔をした。
「そんなヤな顔するなよ。相変わらずつれない奴だな。一度くらい付き合えよ。武チャン」
「そういう言い方するからモーホーと間違われるんだよ、先生。ボクシング部の連中が陰で先生のことなんて言ってたか知ってる?」
「知りたくもねえよ。どうせうちへ帰るだけなんだろ? 暇なんだろ? それともなんか用でもあるのか」
「別にこれといって用は……」
「だったら一緒に行こうや。ここでばったり遇ったのも何かの縁だ。見舞いと言っても、たぶん本人の意識はまだ戻ってないと思うから直接面会はできないだろうし、付き添いのご家族の人に挨拶《あいさつ》して、花渡してくるだけだからよ。ほんの十分程度で済むよ。おまえは下のロビーで待ってろよ。そのあと、どこかで飯でも食いながら、積もる話をしようや」
「うーん。先生と積もる話するのは別にいいんだけどさ、俺、病院って苦手なんだよね。あの消毒臭さとかさ。それに、テルヤとかいう奴とも面識ないしさ。知り合いならともかく、ぜんぜん知らない奴の見舞いなんか……」
武はあまり気の進まない顔で後込《しりご》みするように言うと、
「それがな」
芝浦がさらに何か思い出したような顔で言った。
「その照屋って奴、おまえとまんざら無関係でもないんだよ」
「俺と無関係じゃない?」
武は怪訝《けげん》そうに聞き返した。
「でも、俺、そいつのこと知らないよ。向こうがこっちを知ってるとか?」
「いや、照屋の方もおまえのことは知らんだろう」
「だったら……」
「照屋には三歳年上の女子大生の姉貴がいるんだが、この姉貴が」
「俺のこと知ってるとか?」
「いや、そうでもない。その姉貴には幼なじみの親友というのがいて」
「その友達のまた友達の友達の友達のまた従兄弟《いとこ》の隣に住んでる奴が俺の知り合いだとか?」
「その親友というのが、おまえを刺したあの女なんだよ」
「え……」
武の顔から茶化すような表情が消えた。
「確か、おまえを刺した犯人の女、知名とかいう沖縄出身の女子大生だったよな。事件当時は大学の方は退学してたみたいだが」
「……」
「照屋も沖縄の出身なんだよ。中学のときに両親なくして、姉貴と二人で、東京に出ていた叔母を頼って上京してきたんだ。で、この姉貴というのが、最初は叔母のマンションで一緒に暮らしていたんだが、あの事件の前に、幼なじみでもあり親友でもあった知名という女と少し広いマンションを借りて、ルームシェアみたいなことをしていたというんだ――」
「その姉貴って名前なんていうの?」
武が芝浦の話を遮るようにして聞いた。
「照屋火呂。火の用心の火と書いて、口二つの呂で、火呂っていうんだ」
「ヒロ……」
武は茫然《ぼうぜん》としたように口の中で呟《つぶや》いた。
「といっても、照屋の姉貴はあの事件とは全く関係なかったんだけどな。ルームメイトの女が自殺するまで何も知らなかったらしいし。豪からこの話を聞いたときは、飲んでた玉露を吹くというか、いやあ、世間は広いようで狭いとつくづく思ったよ……」
話し続ける芝浦の声を遠いものに感じながら、武は思い出していた。
四カ月ほど前のことなのに、なんだか酷《ひど》く遠い昔のことを思い出すような感じだった。
あの夏の日……。
ちょっと訳ありの元女教師に呼び出された喫茶店で、一人になったあと漫画を読みながら涼んでいると、馴れ馴れしく話しかけてきた見知らぬ若い女がいた。
大きな紙袋をさげて、Tシャツにジーンズというラフな格好のわりには、顔には仮面を思わせる濃い化粧を施した、キャッチか何かにしては、最初からどこか異様な印象のあったあの女。名前を聞いたら、「ヒロ」と名乗ったあの女……。
あの「ヒロ」という名前は咄嗟《とつさ》に思いついた嘘ではなくて、親友でもありルームメイトでもあった女の名前を騙《かた》ったものだったのか。
騙ったのは名前だけじゃなかった。
弟が一人いてボクシングをやっていると言っていた。最初はそう言っていたのに、途中から、弟は生まれつき重い心臓病で寝たきりだとか矛盾することを言い始めて……。
あれは、ヒロという親友の身の上を騙って話していたのが、途中から自分自身のことを話しはじめて、それが混同して、弟は生まれつき歩くこともできないような重い心臓病なのに、ボクシングのような激しいスポーツをやっているなんて支離滅裂な話になって……。あのとき、あわやというところで、あの女が持っていたPHSが突然鳴った。
それに出た女は、「ヒロ?」とか言っていた。そうだ。あれは名前を騙っていた当の相手がかけてきたんだ。心臓病だった弟が死んだという知らせみたいだった。
あの突然かかってきた電話のおかげで俺は助かったんだ。女は、あの電話を受けたあと、態度がガラリと変わった。そして、あの女がやろうとしていた「儀式」を中断して、「弟の乗る船に乗らなければ」なんて訳の分からないことを口走ったかと思うと、いきなり、俺の見ている前で、十九階のマンションの窓から身を投げたんだ……。
あのあと……。
床に転がったままだった女のPHSまで何とか這《は》って行き、それを使って救急車を呼んだ。電話に出た相手にマンションの住所を伝えたところで、力尽きて、意識を失った。気が付いたら、病院のベッドの上だった。
あのとき、もしあの電話がかかってこなければ、あの女は「儀式」と称して俺を殺していたに違いない。そして、他の被害者のように、持っていた電ノコで手足をバラバラにして、心臓をえぐり取って……。
でも、あの電話がかかってきたことで、俺は助かった。もし、あの電話をかけてきたのが照屋火呂という女だとしたら……。
「先生、俺も行くよ」
武はそう口走っていた。
「……え。そ、そうか。まあ、しかし、考えてみれば、あの事件は、おまえにとっては思い出したくもないような嫌な体験だっただろうから、今更、犯人の知り合いになんか会いたくもないって気持ちも分かるしなぁ。だから無理にとは言わないが……」
それまで迷惑そうな顔をしていた武が急にうってかわって積極的になったので、芝浦は幾分面食らったように言った。
「俺、行くよ。行って、照屋豪の姉貴という人に会う。だって、その人は」
そう言いかけたとき、ホーム内を揺るがせるようにして電車が入ってきた。
照屋豪がかつぎ込まれたという救急病院に到着すると、「おまえはここで待ってろ」と芝浦は武を一階の広い待合室に残し、エレベーターで上に上がって行った。
待合室の椅子に座って、武が待っていると、二十分ほどたって、芝浦が一人の若い女性を伴って下に降りてきた。
自分の方に近づいてくるその若い女性を一目見るなり、武は、声をあげそうになって、片手で思わず口のあたりを押さえた。
モヘアのセーターに白いスラックス姿のすらりとした細身のその女の顔が神日美香にうり二つだったからである。
髪形も肌の焼け具合も違っているから別人だということはすぐに分かっても、顔立ちは双子といっても通るほどに似ていた。
芝浦と一緒に下に降りてきたということは、まさか、この女が……。
そう思って、その女の方を凝視していると、「おまえ、なんて顔してるんだ」
目の前に来た芝浦が呆《あき》れたように小声で言った。
「いくら相手が美人だからって、そんな今にも食いつきそうな目で見るなよ。正直な奴だなァ」
「あ、いや、そうじゃなくて」
内心の動揺を隠しようもなく慌てて立ち上がると、
「親戚《しんせき》の人にそっくりだったもんだから、つい……」
と言い訳した。
「この人が照屋豪君の姉さんで、火呂さんだ」
芝浦は連れの女性をそう紹介した。
やっぱり、この女が……。
照屋火呂は武に向かって軽く頭をさげた。
「これが今話した、元教え子の新庄武。たまたまここに来る途中、地下鉄の駅でばったり会ったんですよ」
芝浦が言った。
武もぺこんと頭をさげた。
「新庄……って、もしかしたら」
今度は照屋火呂の方がやや驚いたような顔で、武の方をまじまじと見た。
「そうなんです。あの事件の三人めの被害者だった奴ですよ。いやあ、奇遇というか何というか。あなたのことを話したら、その件で、ぜひお礼を言いたいから一緒に連れてってくれと、こいつにせがまれまして」
芝浦がそう言うと、
「お礼? わたしに?」
火呂は怪訝《けげん》そうな顔をした。
「あの電話かけてきたのあなたですよね?」
武はいきなり聞いた。
「あの電話って?」
「犯人のPHSに。彼女の弟が死んだとかいう内容の」
「ああ……」
火呂はすぐに思い出したように頷《うなず》いた。
「わたしです。あのとき、沖縄のサッチンの実家からマンションの方に電話がかかってきたんです。ずっと重い心臓病で寝たきりだった弟の一希ちゃんが亡くなったという……。それで、すぐにサッチンに知らせなければと思って、彼女のPHSにかけたんです」
「あの電話のおかげで、俺、助かったんですよ」
そう言って、武はそのときの模様を詳しく語った。
「そうだったんですか……」
火呂は話を聞き終わると、感慨深げな表情で言った。
「だから、あなたは俺の命の恩人なんです。それで、一言お礼言いたくて」
「……そんな。命の恩人だなんて」
照屋火呂は困ったように言った。
「わたしはただ電話をかけただけなのに。サッチンに一刻も早く一希ちゃんのことを知らせようと思って。サッチンは凄《すご》く弟思いだったから。あの事件もそのことが原因で。でも、わたしがしたことで、あなたの命が助かったならよかった……」
火呂の沈んでいた表情に、ほんの一瞬だが、明るさが戻った。
「それで、弟さんの容体はどうなんですか。まだ意識は戻らないんですか」
武は心配そうに聞いた。
「ええ。それが……」
倒れたときに路面に後頭部を強く打ち付けて、そのときに脳の深い部分がダメージを受けたらしく、たとえ意識を取り戻したとしても、手足のマヒなどの身体的な後遺症が残る可能性がある。さらにごく稀《まれ》なことではあるが、このまま意識不明の昏睡《こんすい》状態が何カ月も続くこともありうる……。
医者にそういうケースもあるので覚悟しておくようにと言われたと火呂は語った。
「で、犯人というか車を運転してた奴は捕まったの?」
武はさらに聞いた。
火呂は怒りを含んだ表情で首を激しく横に振った。
「……轢《ひ》き逃げ?」
「事故のあった夜は雨が激しく降っていたのよ。そのせいで視界が悪かったのか、雨でスリップでもして運転を誤ったんじゃないかって警察の人は言ってたわ。それで、二人も人を轢いてしまったことで気が動転して、慌ててその場を逃げ出してしまったんだろうって。こうした轢き逃げ事故にはよくあるケースなんですって。でも、こういう場合、後で後悔して自首してくることもあるからって……」
「二人も人を轢いた……って、事故にあったのは豪君だけじゃなかったんですか」
「叔母も一緒だったのよ」
火呂はそう言って、事件当夜の模様を話してくれた。
「ただ、叔母の方は幸い軽い打撲傷と足首の捻挫《ねんざ》だけで済んだのだけれど。でも、豪があんなことになったのは自分のせいだと言って、精神的にかなり参っているみたいなの……」
「自分のせいって……運転ミスって歩道に突っ込んできた車の方が悪かったんでしょ?」
「でも、事故が起こる直前、叔母は弟と相合い傘で歩いていて、ふざけて、弟の肩を突き飛ばすような仕草をしたらしいの。突き飛ばすといっても、もちろん本気でしたんじゃなくて、軽く小突く程度だったらしいんだけれど、弟がふざけて大袈裟《おおげさ》に車道側によろめいたらしいんです。そのとき、運悪く、車が突っ込んできて」
「……」
「だから、もし、ふざけてあんな真似をしなければ、たとえ車が突っ込んできたとしても、まともに撥《は》ね飛ばされることはなかったんじゃないかって。叔母はずっと自分を責めているんです。もし、このまま豪が意識が戻らず死んでしまうようなことになったら、叔母はそのことで一生自分を責め続けるかもしれない」
「だけど、意識を取り戻す可能性もあるんでしょ?」
武が言った。
「ええ。運が良ければ、意識を取り戻して、たとえ多少の後遺症が残ったとしても、その後のリハビリで治る程度の軽いもので済む場合もあるって……」
「じゃ、そうなるよ。俺もあの事件のあと、出血多量で一時は生死さ迷ったんだけど、結局、生き返って、今はこんなにピンピンしてるんだもん。前より元気なくらいだ。弟さんも絶対助かるよ」
武はそう言い、「あ、そうだ」と何かを思い出したような顔になると、着ていたシャツの首に両手を突っ込み、何かを手繰り寄せるように取り出した。
武の手に握られていたのは、紐《ひも》のついたお守り袋だった。
「これ、やるよ」
そう言って、その紐つきのお守りを火呂の手に押し付けた。
普通の布製の守り袋だったが、赤黒い染みのようなものがついていた。
「それ、あの女にもらったんだよ」
武が言った。
「あの女って……サッチン?」
火呂ははっとしたように武を見た。
「うん。あなたから電話があって、窓から飛び降りる前に、あの女、俺の手にそれを握らせたんだ。本当はカズキとかいう弟のために作ったんだけど、もう必要なくなったから、やるって言って。そこに付いてるの、俺の血だよ」
「……」
「おかしいだろ? 自分でめった刺しにしておいて、長生きしろよって守り袋くれる方も相当いかれてると思うけど、それを捨てもせずに後生大事にもっている俺も人のこと言えないよな」
武はそう言って自嘲《じちよう》するように笑った。
「でも、なんか捨てられなくってさ。生き伸びたのは、その守り袋のおかげかもしれないって気がして。後でおふくろから聞いたんだけど、病院にかつぎこまれて手術受けてる間中、俺、意識ないのに、その守り袋握り締めていたんだって。あの女が言ってたんだけど、沖縄には、古くから、『おなり信仰』とかいうのがあって、女が自分の兄弟を守るために、守り袋の中に自分の髪の毛を入れて、兄弟に持たせることがあるんだってね。確かめてみたら、その中に、本当に、髪の毛が入っていた。あの女のだと思う。ちょっと気色悪かったけど、その分、普通のお守りより効力があるかと思ってさ。ずっともってたんだ。それを弟さんに持たせてやれよ。効くかもしれない」
「わたしも同じものを弟に持たせていたんだけど……」
火呂は手の中の守り袋を複雑な表情でじっと見つめた。
「守り袋二つあれば効力倍増。霊験あらたか。きっと弟は生き返るよ」
「あなたはいいの……?」
「俺はいい。もうぜんぜん元気だし。だけど、もし、弟さんが意識取り戻したら、そのときは返してもらうよ」
武はそう言ってから、肩にかけていたナップザック型のバッグをおろすと、その中を探って、ノートを取り出した。頁の上の方を乱暴に引きちぎり、ボールペンで何か走り書きすると、その紙切れを火呂に渡した。
「これ俺の連絡先。何かあったらいつでもいいから連絡して」
「……ええ」
火呂は一つ頷《うなず》いて、武から渡された守り袋と紙切れをスラックスのポケットにしまった。
「じゃ、これで……。行こう、先生」
それまで二人のやり取りを傍らで黙って見ていた芝浦の方を促すように、武は言った。
「ちょっと待って」
火呂が呼び止めた。
「さっき、あなた……」
そう言いかけ、やや戸惑うように黙ったあとで、
「わたしを見て凄く驚いたような顔してたでしょ? 親戚《しんせき》の人にそっくりだとかで……」
思い切ったように聞いた。
「うん。びっくりした。俺の再従姉《はとこ》というか従姉というか……。あなた、その人にそっくりだったから」
「名前なんて言うの、その人?」
「日美香。神日美香っていうんだ」
「……」
「まさか、知り合い……じゃないよね?」
「いいえ」
しばらく沈黙したあと、火呂ははっきりと首を振った。
「知らないわ」
「あのさ……変なこと聞くけど……生まれつき、胸に痣《あざ》とかないよね? 蛇の鱗《うろこ》みたいな奇妙な痣とか……?」
「……ないわ」
「じゃ、いいんだ。やっぱ、他人の空似だ」
武はすぐに言った。
「でも、本当に、びっくりするほど似てるんだ。まるで双子みたいにさ」
武がそう言うと、照屋火呂は不思議な目をしてこう答えた。
「世界には自分にそっくりな人間が三人はいるんですって。わたしとその日美香という人もそんな三人のうちの二人なのかもね……」
十一月十六日。月曜日の夜。
神家の座敷では、日の本寺の住職や村長たちが集まり、夕方からささやかな宴会が催されていた。前日に行われた衆参議院の同時選挙で、貴明が下馬評通り、二位以下を大きく引き離してトップ再選を果たしたことを祝うための宴だった。
宴もたけなわになった頃、燗《かん》をつけたばかりのお銚子を数本盆に載せて、台所から座敷に続く長い廊下を急ぎ足で歩いていた神美奈代は、ちょうど座敷を出てきた聖二に呼び止められた。
「話があるから、手がすいたら部屋に来るように」
夫はそれだけ言うと、自分の部屋の方へすたすたと行ってしまった。
美奈代はなんとなくドキリとした。
話って……。
何だろう。
夫の顔付きはそんなに厳しいものではなかった。宴会の席でも、終始、上機嫌に見えた。
それでも、なんとなく嫌な予感をおぼえながら、美奈代は、銚子を載せた盆を座敷に運んで義弟の嫁の一人にそれを託すと、すぐに踵《きびす》を返して、聖二の部屋に向かった。胸を不安に波打たせながら……。
「あの、お話って……?」
夫の部屋に入って、おそるおそるそう訊《たず》ねると、聖二はすぐには答えず、珍しく酒にでも酔ったのか、いつも文鎮代わりにしている古いお手玉を片手でもてあそびながら、しばらく放心したように座椅子によりかかっていたが、
「……武に、日美香の父親のことを話したのはおまえか」
と、美奈代の方を見ないで静かな声で聞いた。
決して怒声ではなく、声自体はまるで独り言でも呟《つぶや》くような、聞き取りにくいほど低く穏やかなものだったにもかかわらず、美奈代は、一瞬、頭から冷水を浴びせられたような気がした。
ばれた。
咄嗟《とつさ》にそう思った。
「おまえなのか。日美香が兄の子だと武に教えたのは?」
聖二はもう一度聞いた。
やはり前と同じ静かな声だった。
「……」
美奈代は唇を噛《か》み締めて、ただ頭をたれて黙っていた。
武が話してしまったのだろうか。あれほど、誰にも言わないと約束したのに……。
もし、ここで、そうだと認めたなら、夫はどんな態度に出るつもりだろう。それを考えると恐ろしかった。
半年ほど前、日美香の実父のことを誰かに漏らしたら、家から叩《たた》き出されるだけでは済まないと思えと、この部屋で言い渡されたことを思い出した。
美奈代は思わず身震いした。
そう言い渡したあと、じっと自分を見つめていた夫の恐ろしい目を思い出して……。あれは獲物を射竦《いすく》める蛇の目だった。
「どうして何も言わないんだ。沈黙ということは認めたと受け取っていいのか」
聖二はさらに聞いた。
「……武さんから何かお聞きになったんですか」
何度も唾《つば》を飲み込みながら、美奈代は恐怖のあまりカラカラに乾いた喉《のど》から言葉を絞り出すようにして、ようやくそれだけ言った。
「武からは何も聞いてないよ。郁馬から聞いたんだ」
「郁馬さん?」
美奈代はうつむいていた面を思わずあげて夫を見た。
夫の顔つきは意外に穏やかで、少なくとも表面からは、さほど怒りの色は窺《うかが》えなかった。相変わらず、半分無意識のように、手の中でお手玉をもてあそび続けている。
「祭りの前日に誰かが武によけいなことを吹き込んだようだ。武と日美香が実は異母姉弟《きようだい》だとかいう。それで、混乱した武は郁馬に相談をもちかけたらしい。郁馬の話では、武は最後まで、告げ口の主のことは打ち明けなかったそうだが、日美香の父親のことを知っている者といえば、この村でも限られているし、日美香が自分で話すわけがない。あの状況で、それを武に告げることができたのはおまえしかいない。そう思ったんだが違うのか。違うなら違うと言えよ」
「……ち、違います。わたしじゃありません。わたしは武様に何も話していません」
美奈代は反射的にそう答えていた。
こんな見えすいた嘘がこの夫に通るわけもなかったが、武が直接自分の名前を出したのでなければ、なんとか言い逃れることができるかもしれないと思ったからだ。
「違うのか」
聖二は確認するようにもう一度聞いた。
「違います」
美奈代は頭をたれたまま答えた。
「も、もしかしたら、よ、耀子様では……? 耀子様もあのことには気が付いておられたみたいですから」
苦し紛れにそんなことまで口走ってしまった。口にしてしまってから、こんな人に罪をなすりつけるようなことをとすぐに後悔したが、夫はそのことに関しては何も言わなかった。
その沈黙の時間が美奈代にはひどく長く感じられた。
やがて、聖二は、それまで手でもてあそんでいたお手玉をポンと放り出すように卓の上に戻すと、いきなり、すっと立ち上がった。
そして、何も言わず、座を立つと、書斎の奥にある部屋に入って行った。
そこは夫の寝室だった。
何年も前から夫とは寝室を別にしていた。
美奈代は、何も言わずに寝室に入って行った夫の静かすぎる気配に、逆にどこか殺気だったものを感じていた。
もしや……。
寝室の床の間には、先々代の宮司が求めたという一振りの日本刀が守り刀として飾られている。
夫はあれを取りに行ったのではないか。
そんな予感が突如として頭に閃《ひらめ》いたのだ。
あんな嘘を夫が信じるわけがない。
素直に認めていればまだ許して貰《もら》えたかもしれなかったのに、なまじすぐにばれるような嘘をつき、おまけに他人に罪をなすりつけるような悪あがきをしたために、本当に夫の怒りを買ってしまったのかもしれない。
あれでわたしは斬られる……。
美奈代は固く目を閉じた。
たとえ、ここで聖二に「お手打ち」になったとしても、そのことは決して外部には漏れないだろう。事故か病死ということで内々で片付けられてしまうに違いない。それとも、遺体は隠され、失踪《しつそう》したとでも取り繕われてしまうのだろうか。
この村はそういう所だ。ここでは、誰もが、美奈代一人の命などよりも、村の「生き神」的存在である聖二の方を守るに決まっているからだ。
わたしは斬られる。
でも、今ならまだ逃げられる。美奈代は目を開けて、泳ぐような視線で戸口の方を見た。幸い、今夜は宴会をやっている。外に出て悲鳴をあげれば誰かが来てくれる。座敷にはまだ村長である兄がいるはずだ。兄に助けを求めれば、実の妹が目の前で殺されるのを黙って見てはいないだろう。夫を宥《なだ》めるか止めてくれるかもしれない。兄が助けてくれるかもしれない……。
逃げなければ。
美奈代は立ち上がって部屋から出ようとした。しかし、恐怖のあまり、腰が抜けたようになって動けなかった。まるで金縛りにあったようだった。這《は》ってでも外に出なければと、気ばかり焦っているうちに、聖二が戻ってくる気配がした。
それは時間にすればほんの数分、いや数十秒に過ぎなかったのかもしれないが、美奈代にとっては、まるで何時間かが過ぎたような重苦しい感覚があった。
ああ、もう駄目だ。
聖二の戻ってきた気配に、美奈代は観念した。
きっと夫の手には鞘《さや》を払ったあの日本刀が握られている……。
そう思い込んで、顔をあげた美奈代が見たのは、しかし、青光りする抜き身をさげた夫の鬼気迫る姿ではなかった。
聖二は確かに何かを持って戻ってきたが、それは日本刀ではなかった。片手にすっぽり入るくらいの小さな箱のようなものだった。
それを持って戻ってくると、手にしたものを卓の上に置いて、美奈代の方に滑らせるように押しやった。
美奈代はそれを口を開けて茫然《ぼうぜん》と見ていた。それは青いビロード地の宝石箱を思わせる小さなケースだった。
「……一日早いが」
聖二はそれだけ言った。
一日早い?
まさか、この宝石箱のようなものは……?
「これをわたしに?」
信じられない思いで夫に聞くと、夫は頷《うなず》いて、
「サイズは結婚|指環《ゆびわ》と同じものにしたんだが、今も合うかどうか……」
とやや照れたように言った。
サイズ?
結婚指環?
美奈代はあまりにも予想外の展開に、ひどく混乱しながらも、わななく指でその小さな箱を手に取り、蓋《ふた》を開けてみた。
その口から声にならない声が漏れた。
箱の中には、白絹に包まれて、黄金色に燦然《さんぜん》と輝く大粒のカラーストーンの指環が入っていた。
それは粒の大きさといい、オレンジがかった金色のシェリー酒を思わせる深い色合いといい、素人目にも最高級と分かるトパーズをあしらった豪奢《ごうしや》な指環だった。
小さいがダイヤモンドも数個周囲にちりばめてある。
トパーズといえば、十一月の誕生石である。それに、明日、十一月十七日は、美奈代の四十一回めの誕生日でもあった。
ということは、この指環は……。
夫からの誕生プレゼント?
そういえば……。
美奈代はあることを思い出していた。
先日、耀子の部屋に洗濯物を取りに行ったとき、耀子が何げない風で、「もうすぐ美奈代さんのお誕生日ね」と話しかけてきて、そのあとで、「今年の誕生日は何かとても良いことがあるかもよ……」とあのいつもの謎めいた眼差《まなざ》しで言ったことを。
耀子の「何か良いこと」というのは、このことだったのだろうか。
もしかして、耀子が夫に口添えして……?
ようやくそう思い至って、美奈代は弾《はじ》かれたように顔をあげた。
礼を言うのも忘れて、夫の顔をただ見続けていた。
「何をぼうっとしているんだ。ちょっと嵌《は》めてみなさい。サイズが合わないようなら作り直させるから」
聖二は少し笑っているような顔でそう言った。
「は、はい……」
美奈代は、まだ震えの止まらない指で、ケースから指環を出すと、それを自分の薬指に嵌めようとした。
二十年前だったら、すっと難無く入ったはずの指環がなかなか入らない。二十年間の家事労働で、すっかり荒れて節くれだった男のような指には、その指環は少しきつすぎた。
「小さいか……?」
聖二は心配そうに聞いた。
「い、いえ、大丈夫です」
慌ててそう言い、無理やり力を入れて嵌めこむと、指環はようやく指に収まった。
自分の太い指を彩るその黄金色の輝きに、しばし、うっとりと目を奪われていると、
「……日美香のことだが」
聖二がふいに言った。
「あれは兄の娘ではないよ」
「えっ」
美奈代は思わず顔をあげた。
「あることが分かってな……。それで、兄の子ではないことが分かった」
聖二はそんな曖昧《あいまい》な言い方をした。
「あることというのは……?」
「それはおまえが知る必要のないことだ。神家の家伝に関わることだから」
「……」
この家の家伝書を読むことができるのは、神職につく者だけで、宮司の妻とはいっても、日女《ひるめ》ではない美奈代には、家伝を読むことは許されておらず、その内容さえも知らされていなかった。
「とにかく日美香の父親は兄ではなかったということだ」
「……ということは、日美香様と武様は異母姉弟ではなかったということですか?」
美奈代は確かめるように聞いた。
「そういうことだ。だから、おまえも太田から何を吹き込まれたか知らないが、この件に関してはすべて忘れろ。いいな?」
「あの……それじゃ、やはり、武様を日美香様のお婿さんになさるおつもりで……?」
美奈代はおそるおそる訊《たず》ねた。
「その件もなくなった」
聖二はにべもなく言い放った。
「なくなった……?」
「当人同士が望みさえすれば、私はそれでもいいと思っていたんだが、武に打診してみたら、この家に婿養子に来る気はないときっぱりと断られた。日美香の方も武を婿にする気はないそうだ。当の二人が望まないものをこれ以上進めようがない。だからこの縁談《はなし》は白紙に戻す」
当の二人が望まない……?
美奈代はいぶかしく思った。
美奈代の目には、武も日美香も互いに好意以上の感情を持ち合っているように見えたからだ……。
あの日、台所の窓から見た光景……。
物置小屋の前で日課の薪《まき》割りをしていた武に、日美香がタオルを渡していたときの二人の仲むつまじげな様子。あれはどう見ても相思相愛の若い恋人同士のようだった。
もっとも、武に日美香が異母姉《あね》であることを告げてしまったのは美奈代自身であり、そのことが、二つ年上の美しい従姉《いとこ》に恋愛感情めいたものを抱きかけていた武の心にブレーキをかけてしまったのかもしれないが……。
それにしても、今ひとつ釈然としないのは日美香の方だ。風邪で寝込んだ武の看病を自分がすると言い出したりして、てっきり武に対して恋愛感情めいたものをもっているのかと思っていたが……。
結局、それは、姉が弟に抱くような家族的な愛情にすぎなかったのだろうか。
「それともう一つ言っておくことがある」
聖二はさらに言った。
「場合によっては、正月が過ぎても、日美香はこのままここに滞在することになるかもしれない。そうなれば、おまえにも何かと世話をかけることになるかもしれないが、そのときは、よろしく頼む」
美奈代には聖二の言葉の意味が今一つ理解できなかった。
武が帰ったあとも、日美香がこの村に残っているのは、門外不出の家伝書を完読するためだと聞かされていた。
それなのに、家伝書を読み終えても、まだここに滞在し続けるということなのだろうか。なんのために……?
「あの……場合によっては、とはどういうことでしょうか……?」
そう聞くと、
「だから場合によってはだよ。年内にははっきりするだろう。このままここでずっと暮らすか、あるいは、別の生き方をするか」
聖二はそんな言い方をした。
場合によっては……。
年内にははっきりする……。
どうも夫の言わんとすることがよく分からない。
大学を休学しているらしい日美香が、年内には自分の身の振り方をはっきりと決めるということなのか、それとも、この先何かが起こって、それによって、彼女の運命が決定するとでもいう意味なのだろうか。
「……わかりました」
よく分からないながらも、これ以上あれこれ質問して、夫の機嫌を損ねるのもこわいので、美奈代は仕方なくそう答えた。
「話というのはそれだけだ」
聖二はそう言うと、腕時計をちらりと眺め、もう行ってもいいという仕草を見せた。
「あの、あなた……こちらにお酒の用意を致しましょうか」
美奈代は立ち上がりかけて、ふと思いつき、そう訊ねてみた。
祭りの夜のように、座敷での酔っ払いたちの乱痴気騒ぎに辟易《へきえき》して、一人で部屋で静かに飲みたいのではないか。
そう思ったのである。
「酒はいいから、二人分のお茶の支度だけしてくれ。何か甘い菓子でも添えて」
しかし、聖二はそれだけ言った。
「……はい」
二人分……?
甘い菓子?
一瞬そう思いながらも、美奈代は素直に頷《うなず》くと、指環ケースを大事そうに胸に抱え、部屋を出た。
ちょうどそのとき、廊下の向こうから、一冊のノートをたずさえた日美香がこちらにやって来るのにでくわした。
すれ違ったあと、振り返って見てみると、日美香はそのまま聖二の部屋に入って行った。
美奈代が茶菓の盆を置いて出て行くと、日美香は手慣れた様子で、二人分のお茶をいれはじめた。
「郁馬から全て聞いたよ」
それをじっと見ていた聖二が言った。
日美香は急須をもった手を止めて、「え?」というように目の前の男の顔を見た。
「武に頼まれて大神役を途中ですり替わったことも、その後で何があったのかも」
「……」
平然を装っていたが、急須をもつ日美香の手が僅《わず》かに震えて、お茶を卓の上に少しこぼしてしまった。
「祭りのあと、妙にふさぎこんでいるから、どうも気になってね。先日、部屋に呼んで問いただしたら何もかも白状した。あなたと約束したからと言い張って、なかなか口を割らなかったんだが」
聖二はそう続けた。
やはり郁馬は約束を守りきることはできなかったのか。
日美香は唇を噛《か》み締めた。
それほど意志の固い男にも思えなかったから、こうなることは、ある程度予想というか覚悟していたことではあったが……。
それにしてもたった十日足らずで陥落とは。不甲斐《ふがい》ない。
「……それでは、妹のことも?」
知られてしまったら仕方がない。
腹を決めてそう聞くと、聖二は頷いて、
「ああ、照屋火呂のことも聞いた。双子の妹が生きていたとはね。しかも、それが喜屋武蛍子の姪《めい》だったとは。それを聞いたときはさすがに驚いたよ。ただ、これで、なぜ、あの喜屋武という女がこの村に興味をもって調べていたのか、ようやく合点がいったが」
「……それで、どうされるおつもりなんですか」
日美香は低い声で聞いた。
「どうするって?」
「妹のことです。照屋火呂のことです。あの子と早速コンタクトを取って、わたしのときのように養子にでもなさるつもりですか」
「さあ、どうしようかな」
聖二ははぐらかすように言った。
「郁馬の話では、あなたが妹のことを私に隠していたのは、妹の今の生活を守るためだったということらしいが……?」
「理由はそれだけではありませんが、それもあります。九月の初めに、照屋火呂と会ったとき、彼女は、倉橋日登美の娘としてではなく、照屋康恵の娘として生きたいとはっきりわたしに言いました。倉橋日登美の娘としての道を選んだわたしとは反対の道を選ぶつもりだと。だから、あの子のことはそっとしておいてやりたいと思ったんです」
「それ以来、照屋火呂には会ってないのか」
「会ってません。会うつもりもありません。お互い、今まで双子であることは知らずに生きてきたんです。それならばこの先もそうしよう、赤の他人として生きようと彼女に提案しました。彼女もそれを受け入れてくれました。だから、これからも、わたしの方からあの子に会う気はありません。あれから何の連絡もよこさないところをみると、あの子の方もそのつもりだと思います」
「そうか。それならば、私もこの話は聞かなかったことにしよう……」
聖二はそんなことを言い出した。
「聞かなかったことって……?」
日美香は驚いたように聞き返した。
「あなたには双子の妹がいた。でも、その子は生まれてすぐに死んだ。それでいいということだ」
「火呂のことを知ってもコンタクトは取らないということですか。このまま放っておくと……?」
「もし、むこうから何か言ってきたら、そのときは会わないでもないが、こちらからあえて連絡を取るつもりはない。まして、養子になどする気もない。大体、この家にはそれでなくても子供が多すぎる。これからも増えるだろうし。もう一人食いぶちを増やす余裕などないよ」
聖二は最後の方は半ば冗談のように付け足した。
「それに、あなたが母の転生者だと分かる前だったら、私の考えも違っていたかもしれないが、あなたと照屋火呂がなぜ一卵性双生児という形態で生まれてきたのか、その成り行きを思えば、照屋火呂という娘は、この村とは無縁に生きたいと願った母のもう一つの魂が肉体化したものだともいえる。となれば、たとえ彼女に会って、養子|云々《うんぬん》の話を申し出たところで、あなたのときのようにすんなりとは承知しないだろう。このままそっとしておくのが、母の今際《いまわ》の心に適《かな》うことでもあるだろうし……」
「わたしもそう思います」
「ただ」
と聖二は、やや間を置いてからこう続けた。
「郁馬の話だと、照屋火呂の胸にも生まれつきお印があるらしい。彼女も何らかの使命をもって生まれたということだ。とすれば、たとえこの村と無縁に生きようとしても、本人が願うような平凡な人生は望めないかもしれないな……」
「そういえば」
日美香が思い出したように言った。
「火呂が育った沖縄の村には、あの子が小さい頃から歌が凄《すご》くうまくて、八歳の頃に、海で死にかけた弟を歌声で生き返らせたという噂があったそうです。郁馬さんから預かった報告書にはそう書いてありました。この力はもしかしたら……」
「その話なら郁馬から聞いた。おそらく、それは死人反生《しびとはんじよう》の能力だろう。照屋火呂には、生まれつき反生の能力が強く備わっているのかもしれない。彼女の胸のお印が示す使命とは、その能力と何か関係があるのかもしれないな。この先、その能力を生かすことができる職業なり立場になるということか。人の命を救い永らえさせる職種といえば、たとえば医者とか、あるいは何かそれに準じたもの……。それが何であれ、小学校の教師などではあるまい。
要するに、ここで我々が介入しなくとも、いずれ、彼女は、その力を必要とする道を辿《たど》らざるを得なくなるということだ。本人が望もうと望むまいと。そして、それがどんな道であろうと、誰もが通るような平凡な道でないことは確かだろう……」
「あの……郁馬さんのことですが」
日美香は、ためらいながら言った。
「何か処分のようなことを考えているのですか? 武と大神役を勝手に交替したことで……?」
もし、郁馬がなんらかのお咎《とが》めを受けるなら、それが少しでも軽いものになるように頼み込むつもりで、そう聞いてみたのだが、
「本来ならば、祭りを司《つかさど》る神官でありながら、大事な神事をぶちこわしたわけだから、問答無用で刀の錆《さび》にしてやるところだが……」
聖二は言葉のわりには和やかな表情で言った。
「本人もかなり思い詰めて反省しているようだし、先に話を持ちかけたのは武の方だというから、あっちはお咎めなしでは片手落ちになる。それで、今回に限り、一カ月の便所掃除ということで大目に見るつもりだよ」
「トイレ掃除……」
「便所掃除といっても、うちはいまだに水洗ではないから体力的にけっこうきついし、何よりも、神職につく者が便所掃除というのは、心理的にかなり屈辱的な罰なんだ。一カ月間タップリ、朝晩、汚れた便器を己の不埒《ふらち》な心根に見立てて、隅々まで嘗《な》めるように奇麗に磨きあげろと言っておいた。うちの便器という便器が新品のようにピカピカになる頃には、あいつの腐りかけた性根も少しはまともになっているだろう。毎日点検して、少しでも汚れが残っていたら、この罰は、もう一カ月延長だ」
聖二はそう言って笑った。
「……」
この甘いのか厳しいのかよく分からない奇怪な罰にとまどいながらも、郁馬の命にかかわるような深刻な罰ではなかったことにほっとして、日美香もつられて少し笑った。
「郁馬にせよ美奈代にせよ、あんな言動に出たのは、こちらにも多少の責任があるような気もするしね……」
「美奈代さん?」
聖二の独り言のような呟《つぶや》きを聞きとがめて、日美香は問い返した。
郁馬のことは分かるが、美奈代とは……?
「今回の一連の不祥事の元を作ったのは美奈代だ。祭りの前日、病床の武につまらぬことを吹き込んだのは」
聖二は断定的な口調で言い切った。
「美奈代さんがそう白状したんですか?」
この部屋に来るとき、廊下で美奈代とすれ違ったことを思い出しながら言った。聖二の部屋から出てきたようだが、単に茶菓の支度を言い付けられたにしては、顔色が普通ではなかった。
まさか……。
「いや、白状はしなかった。でも、あれ以外に誰がいる? 問いただしたときの顔色から見ても、武に告げ口したのは美奈代に違いない。一見、柔順そうに見えるが、あれは郁馬なんかよりよっぽどしぶとい。知らぬ存ぜぬで最後まで白を切りとおしたよ。あげくの果てには、姉の耀子ではないかとまで言い出して」
聖二は苦々しげに言った。
「あの件については、姉も薄々感づいてはいたようだが、だからといって、軽々しくそれを口外するような人ではない。そんなことはこの私が誰よりも知っている。それを言うにことかいて、姉ではないかなどと。さすがにあれを聞いたときは、かっとして、いっそこの場で斬り捨ててやろうかと思ったが――」
「なぜ、そうなさらなかったんです? わたしなら迷わず斬ってます」
日美香の口調の烈《はげ》しさに、聖二は驚いたように、ちらと目をあげて養女の顔を見た。
「なぜかな。あんな苦し紛れの嘘をついてまで、自分のしたことを隠そうとしたからかな。郁馬の方は最初は渋りながらも、結局何もかも打ち明けた。だからその素直さに免じて許した。逆に美奈代の方は最後まで嘘を突き通した。だから許そうと思ったのかな……」
「嘘をついたのに許す?」
日美香は信じられないという顔をした。
「私はワシントンの父親じゃないからな。嘘も方便ってことさ。以前、美奈代に、あなたと兄の関係を他言したらこの家から叩《たた》き出すだけでは済まないと思えと言ったことがある。もし、あそこで美奈代が自分がやったとあっさり認めていたら、そう言った手前、こちらとしても何らかの制裁を加えざるを得なくなる。でも、あれが嘘をつき通してくれたおかげで、その嘘を信じる振りをしてそうせずに済んだ――」
「美奈代さんに制裁を加えたくないと思ったのは、それほどあの人が妻として大切だからですか。愛しているからですか」
やや沈黙のあと、日美香は挑むような目で聖二を見ながら聞いた。
「愛とかいう個人的な感情からじゃない。妻として大切というより妻として必要なんだ。この家に宮司の妻という存在は不可欠だ。対外的にも対内的にも。だから、多少の不祥事をしたからといって、すぐに叩き出すというわけにはいかない。そんなことをしたら、後釜《あとがま》を見つけなければならない。この歳になると、そう簡単に次が見つかるとも思えないしね」
「あなたならすぐに見つかると思いますが」
「……。この二十年、あれには何かと苦労させてきたし、妻としては申し分ない女だと思う。美奈代の方も、あそこまで白々しく嘘をつき通したということは、まだこの家に居座っていたいという気持ちの現れなんだろう。それなら、あえて叩き出すことはない。それに、兄のトップ再選を祝うめでたい夜に、しかも、座敷にはあれの実兄がまだ残っているというのに、まさか刃傷沙汰《にんじようざた》は起こせないじゃないか」
聖二は愚痴をこぼすような口調でそう言った。
「それでは、美奈代さんにはお咎めなしですか。それとも郁馬さんのようにトイレ掃除とか……」
日美香は不満そうな顔つきで聞いた。
「美奈代に便所掃除を命じても意味ないよ。毎日嫌というほどやり慣れていることだ。それでは罰にならない」
聖二はそう言って苦笑した。
「その代わりというか、逆に、今回は鞭《むち》ではなくて弄《あめ》を与えておいた……」
「弄?」
「鞭ばかり与えていたのでは、人も犬もなつかないさ。明日渡すつもりだった誕生祝いの指環《ゆびわ》をあえて今日渡した」
「あ、あのケース……」
日美香は思い出したように呟いた。
廊下ですれ違ったとき、美奈代が青いビロードの宝石箱らしきケースを大事そうに持っていたことを。
「一人になってあれを見るたびに、美奈代も少しは自分のしたことを反省する気になるだろう……」
10
その夜。
宴会後の座敷を片付け、家の仕事をすべて済ませてから、美奈代が自分の部屋に戻ってきたのは午前零時を過ぎた頃だった。
布団を敷き、寝間着に着替えてから、美奈代はつくづくと自分の指を見つめた。その指にはまだあのトパーズの指環が食い込むように嵌《は》められていた。
こんな大きな石を付けた指環などしていたら、家事をするには邪魔なので、台所に戻る前に、いったんはずしてケースにしまおうと思ったのだが、夫を失望させまいとして無理やり嵌め込んだせいか、抜けなくなってしまったのである。
仕方なく、そのまま付けて台所に戻ると、燦然《さんぜん》たる黄金色の光を放つ指環は、台所にいた義弟の嫁たちや、手伝いに来てくれた村長夫人をはじめとする近隣の女衆の注目をすぐに集めて、そんな指環をどうしたのだと口々に聞かれた。「主人から誕生祝いにもらった」と答えると、女たちの口からは一斉に羨望《せんぼう》と感嘆のため息が漏れた。
結婚前は長野市内の宝飾店に勤めていたこともある村長夫人などは、美奈代の指に嵌まっていた石を一目見るなり、「それはインペリアルトパーズと言って、トパーズの中でも最高級の石ですよ」と心底|羨《うらや》ましそうな顔で教えてくれた。
皇帝《インペリアル》のトパーズ……。
素人目にも高級品に見えたが、それほど良いものだったとは。
誇らしかった。
美奈代は、聖二と婚約したばかりの頃のことを思い出していた。そのときも、大粒のダイヤをあしらった婚約指環をもらい、それを指に嵌めて、こうして近所の女たちに見せて羨ましがられたことを。そのときの天にも昇るような嬉《うれ》しさ誇らしさのことを……。
あのときのような無邪気さは今はもうないが、それでも、この家に嫁いで以来、久々に味わう陶酔感覚だった。
結婚して二十年というもの、夫に誕生祝いなど一度も貰《もら》ったことはなかった。そもそも、あの夫が妻の誕生日を覚えていたということが驚きだった。とっくに忘れ果てていると思っていた。
それが突然……。
それにしても、一体、どういう心境の変化だろう。
この誕生祝いにしても、耀子が前以て知っていたらしいことを考えれば、耀子の口添えで渋々その気になっただけなのかもしれないが、それにしても、最近の夫はどこか様子がおかしい。
おかしいといっても、決して悪い方向にではない。むしろ良い方向にだ。美奈代だけでなく、家の者を含めた周囲の人間全般に対して、以前より寛大になり優しくなったように見える。
いや、最近といっても、夫の態度の変化の片鱗《へんりん》は、半年くらい前から少しずつ見えはじめていたような気がした。
半年前といえば……。
ちょうど日美香がこの村に初めて来た頃からだ……。
夫の態度が少しずつ変わってきたのはあの娘に原因があるのではないか。ふとそう思い当たった。
美奈代の思念がこの養女のことに至ったとき、それまで心を占めていた誇らしさ嬉しさが、風船を針で一突きしたように急速に萎《しぼ》んでいき、かわりに、何か得体の知れない黒い不安が徐徐に胸の内に広がりはじめた。
あの娘のことを考えると気が滅入《めい》る。
これまでは、神家の籍に入ったとはいっても、彼女の生活の場は東京であって、この村には週末くらいしか帰ってはこなかった。武の家庭教師という名目でしばらく滞在することになったと聞かされたときも、役目が終われば、また東京に戻って行くのだとばかり思っていた。内心では早くそうなればいいと願っていた。早くこの家からいなくなればいいと。
それが……。
正月までいるはずだった武が早々と帰ってしまった後も、あの娘の方はまだ居残っている。しかも、夫の話では、「場合によっては」正月が明けても、このままこの村で暮らすことになるかもしれないという。
全く理解できなかった。
同じ女なのに、あの娘のことは全く理解できない。何を考えているのか……。
こんな山奥の何もない村に、最新のファッション雑誌一冊手に入れるにしても、二時間近くも車に乗って市内に出なければならないような不便な村に、日美香のような頭脳も明晰《めいせき》で容姿にも恵まれた若い女が何を好き好んであえて住み着こうというのだろう?
引き付ける何がここにあるというのか?
家伝書……?
あんな黴臭《かびくさ》いだけの古文書を読むことが、刺激に満ちた大都会の生活を捨てさせるほど楽しいものなのか。
それとも……。
この村のこの家にある何かが彼女の心をとらえて離さないとでもいうのか……?
美奈代は、ふいに言い難い不安に駆られ、つと立ち上がると、窓辺に寄り、カーテンをめくって外を見てみた。中庭を挟んで、夫の部屋の明かりが背の低い庭木の陰から僅《わず》かに見える。
聖二はまだ起きているようだった。
まさか、あの部屋にまだ日美香が……?
そう考えると、理由もなく胸の奥がざわついた。
夫の部屋を出たとたん、廊下でノートをたずさえた日美香とすれ違ったことを思い出した。あのあと、二人分のお茶の支度をして再び夫の部屋を訪れたとき、二人は卓を挟んで向かい合い、卓の上には所せましと古文書が広げられていた。
今夜も彼女はあの家伝書を読むために、夫の部屋を訪れたのだろう。
何巻にも及ぶという家伝書はふだんは蔵の奥深くに厳重に保管されているのだが、神職につく者がそれを読むときだけ、歴代の宮司が自分の部屋に持ち込むことが許されている。そして、その部屋からは、たとえ家の中であっても、決して外に出してはならないという掟《おきて》が古くからある。それを読む者は、皆、宮司の部屋を訪れ、そこでしか読むことが許されないのである。
だから、毎日のように、夕食後に日美香が聖二の部屋を訪れ、そこに二人きりで何時間も閉じこもっているのは、別に怪しむことでもなんでもないのだが……。
それでも、時には、午前一時二時の深夜に至るまで、夫と日美香が一つ部屋に閉じこもっているという事実が、なぜか美奈代をひどく苛立《いらだ》たせ、不安にさせた。
しかも……。
夫の言い付け通り、二人分の茶菓の用意をして、部屋に持って行ったとき、盆から急須や湯呑《ゆの》みを卓に移そうとすると、「あとはわたしがしますから」と言って、日美香は美奈代の手から盆を取り上げ、邪魔だと言わんばかりの目付きで美奈代を見た。
そして、養女《むすめ》というよりは、まるで年若い妻を思わせるような、どこか甲斐甲斐《かいがい》しい手つきで、聖二と自分の分のお茶をいれはじめた……。
それを横目で見ながら、すごすごと二人の前から引き下がってきた自分。
思い出すと、美奈代の胸に、今まで感じたこともない怒りがふつふつとこみあげてきた。わたしは下女ではない。奴婢《ぬひ》でもない。
この家の宮司の正妻であり、れっきとした女主人だ。この家に嫁いで二十年。美奈代自身、ややもすると忘れそうになっていたことを突如として思い出した。
家の外に出れば、宮司夫人として、村人からはそれなりの尊敬と扱いを受けてきたが、ひとたび家の中に入ってしまえば、夫や子供たちの世話をしたり家事労働に追われるだけの使用人のような存在になりさがっていた。
そのことに密《ひそ》かな不満をおぼえながらも、長い年月のうちに、そんな生活に自然に慣らされてしまっていた。
でも、わたしは下女ではない。法的に認められた立派な妻だ。
今、ふいにそんな誇りのようなものがぐいと鎌首をもたげるように美奈代の胸を突き上げた。
指に嵌められた黄金色の光をじっと見つめているうちに、まるで暗示にでもかかったようにそんな猛々しい気分になってきた。
夫から貰《もら》ったその指環が、指に食い込むような強さで、美奈代の心にも食い込んでいた。皇帝のトパーズと呼ばれる高価な石が、その燦然たる黄金の支配者の色で、美奈代に声なき声で囁《ささや》きかけていた。
おまえはあの男の妻だ。宮司夫人だ。それを忘れるな。そんなにおどおどすることはない。びくびくすることもない。ひれ伏すこともない。おまえが夫に奴婢のように扱われるのは、おまえの心が奴婢のようだからだ。もっと胸を張れ。堂々としていろ。この宝石を身につけるにふさわしいだけの誇りと自信を持て。おまえの夫も、それをおまえに密かに望んだからこそ、この石をおまえに与えたのだ。そして……。
もし、その妻の座を奪おうとする者が現れたときは、誰であろうとも、その座を許すな。けっして明け渡すな。命を賭《か》けて闘え。
たとえ、それがおまえより遥《はる》かに若く美しい女であったとしても……。
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第九章
十一月二十五日。水曜日の夜。
午後七時を少し過ぎたところだった。
「喜屋武・照屋」と連名で表札の出たマンションのドアの前までくると、新庄武はややためらうようにインターホンを鳴らした。
すぐに若い女の声で返事があった。
インターホン越しに名前を名乗ると、「ちょっと待って」と幾分慌てた感じの声がした後で、しばらくして、ドアが開いた。
顔を出したのは照屋火呂だった。
芝浦の話では、火呂は他にワンルームを借りて一人暮らしをしているようだが、弟の事故以来、以前住んでいた叔母のマンションに戻ってきているということだった。
「あ。突然どうも……」
武はそう言ってから、
「あの、豪君の容体はどうですか。あれから連絡ないんで、どうなったのかと思って。病院に寄ってみたんだけれど、付き添いの人はもう帰ったと言われて。それで、ここの住所は芝浦先生から聞いてたんで……」
と、訪問の理由を早口に説明した。
「それが……まだあのままの状態が続いているの」
火呂はそう言った。
「え。まだ?」
豪が意識不明になってから二週間以上がたとうとしていたが、いまだに昏睡《こんすい》状態が続いているのだという。
とはいえ、容体そのものは、脈拍も血圧も比較的安定しており、病院にかつぎこまれた当時に比べると、それほど危険という状況ではないようだ。
口や鼻からチューブを出してベッドに横たわったままの弟の姿は、痛々しくはあったが、その顔は意外なほど穏やかで、まるで呑気《のんき》に眠っているように見える。
火呂はそう話した。
「お医者さんの話では、これは長期戦になるかもしれないって」
「長期戦……?」
「ええ。脳にダメージを受けた場合、ごく稀《まれ》にこうした昏睡状態が長く続くことがあるんですって。何カ月も時には何年も。豪の場合、即死でもおかしくないほど脳へのダメージがひどかったらしいから、二週間以上もこうして持ちこたえていることそのものが奇跡に近いって……」
火呂はそう言うと、
「ここで立ち話もなんだから、中に入って」
客人を誘《いざな》うようにドアを大きく開けた。
「あ、いや、実は、おふくろから預かってきたものがあって。それ渡したらすぐに帰るから」
武は、慌てて肩にかけたナップザックをおろそうとしたが、
「いいから入って。せっかく来てくれたんだからお茶くらい御馳走《ごちそう》するわ」
「……。じゃ、ちょっとだけ」
武はそう言うと、やや引けた物腰で、中に入ってきた。
「……叔母さんは?」
リビングに通されると、武はすぐに聞いた。
2LDKほどの広さだったが、火呂のほかには人のいる気配がなかった。
「まだ会社から戻ってないわ。いつも帰るのはもっと遅いから。コーヒーでいい?」
火呂はそう言って、リビングに続くダイニングルームの方に入って行った。
武はリビングのソファに腰をおろし、しばらく物珍しそうにあたりをきょろきょろ眺めていたが、思い出したように傍らに置いたナップザックを開け、中から四角い菓子折りのような箱を取り出した。
「これ、おふくろから……」
香ばしい香りと共に二つのコーヒーカップを盆に載せてリビングに戻ってきた火呂に、そう言って菓子折りを差し出した。
「お母様から……?」
火呂は怪訝《けげん》そうな顔をした。
「ほら、前に言ったでしょ。あなたは命の恩人だって。で、あなたのこと、おふくろに話したら、ぜひ一度会ってお礼がしたいとか言い出しちゃって。ただ、今、うちのおふくろ、親父のことで超多忙なんだよね。それで、落ち着いたら一度ちゃんとお礼に来るから、とりあえず、これをって。手作りのアップルパイだと思うけど」
「そんなことしてくれなくていいのに。命の恩人なんて大袈裟《おおげさ》すぎる。別にわたしはあなたを助けようとして、あのとき、サッチンに電話したわけじゃないんだから」
火呂は困ったように言った。
「くれるってもんは黙って貰っておけば? おふくろのアップルパイは下手な店のより美味《うま》いから。それに、こんなかさ張るもん、また持ち帰るの荷物になってやだよ」
武はそう言って、押し付けるように菓子折りを火呂に渡した。
「そう? じゃ、貰っておく。どうもありがとう」
火呂はようやく笑顔になってそれを受け取ると、
「本当いうとね、アップルパイ好きなの、わたし」と言った。
「俺も好き」
武もつられたようにそう言って、
「……アップルパイが」とすぐに付け加えた。
「そういえば、あなたのお父さんって」
火呂が言った。
「今度の新内閣で、総理大臣……?」
「え? ああ、まあ。ついにというか早々というか」
武は仏頂面でぼそっと答えた。この話題にはうんざりしている。そんな表情だった。
「史上最年少の総理大臣の息子か。凄《すご》いじゃない。おめでとう」
「おめでとうって俺に言われてもね。俺が何かしたわけじゃないし。ま、親父が総理になろうが草履になろうが関係ないけど」
武は冷淡な口調で言った。
「関係ないことないでしょ? 確か、家族も一緒に官邸とかに住むんじゃなかった?」
「おふくろと兄貴はあっちに移るみたいだけど。それで、今バタバタ忙しくしてるんだ。でも、俺は行かない。今の家に一人で残るつもり」
「どうして?」
火呂は目を丸くした。
「どうしてって、官邸なんて、字面からして堅苦しそうで嫌だ。どうせ来年大学に入ったら、どこかに部屋でも借りて独立するつもりだったし。それが少し早まっただけのことさ。お手伝いが一人残るみたいだから不便はないし。一家そろって官邸でもどこでもとっとと行きやがれって。ついでに口うるさい親戚《しんせき》のジジババどもも引き連れて行ってくれたらせいせいすらぁ」
武はさばさばした口調で言い放った。
「……なんだか変な感じ」
くすっと笑って火呂が言った。
「なに、変な感じって?」
「あなたと話してると、弟と話してるような気分になってくる……」
「豪と?」
「うん。どこか似てるのよ、あなたたち。外見とかは全然違うんだけど。ほっぺたつねりたくなるような憎まれ口をすぐにたたくとことか」
「……」
「もし、豪とあなたが出会ったら、五分で口|喧嘩《げんか》がはじまって、十分で殴り合いになって、でも結局、最後は仲直りして、無二の親友になる。そんな感じね」
「レトロな青春ドラマみたいに? ラストは夕日に向かって肩組んで調子っぱずれの歌うたうとか」
「そう」
「……豪ってどんな奴?」
武は興味をもったような顔で聞いた。
「どんな奴って言われても一口でこんな奴とは言えないわよ」
「ルックスはどう? 俺と比べて」
「うーん。客観的に見て、あなたの方が若干良いかもね」
「若干かよ」
「弟は典型的な縄文系ゴリラ顔だから。沖縄に多いのよ、あの手の顔」
「俺はどっちかいうと、弥生《やよい》系スッキリ美男顔だからな。顔は勝ったな」
武は得意そうに言った。
「身長は?」
「自称百七十センチ。でも、多分、七十はないと思う。あとせめて五センチ欲しいって、いつも牛乳がぶ飲みしてたから」
「俺は、自称百八十。多分この先もっと伸びる。背も余裕で勝ったな。勉強は? できた方?」
「それもビリから数えた方が早い」
「……その点についてはコメントは差し控えよう。まあ、ドッコイドッコイてとこか。しかし、あなたの弟って、聞いてると全然取り柄がないみたいなんだが」
「そんなに弟のことが気になるなら、部屋、見てみる?」
火呂はふと思いついたように言った。
「ここが弟の部屋」
火呂は玄関を入ってすぐ右手にある洋室のドアを開けると、部屋の照明を点《つ》けた。
「うわ……。きったねー」
その狭い洋室を火呂の肩越しに覗《のぞ》き込むように一目見るなり、武は大声で言って顔をしかめた。
ベッドと勉強机と衣装ケースしかないその部屋は、まさに足の踏み場もないほど散らかっていた。
毛布は丸まり、寝乱れたままのベッドの上には、ジーンズやらデニムのシャツやらが脱ぎっぱなしで何着も放り出してあり、机の上には、分厚い埃《ほこり》を被ったままの教科書と漫画本が一緒くたになって積み重ねてある。
部屋の隅の安物の衣装ケースのファスナーは下までだらしなく下げられたままで、グレイの絨毯《じゆうたん》を敷いた床も、絨毯の色が見えないほどに雑誌やら衣類やらゲームソフトやらが投げ出されていた。
窓が一つしかない部屋には、何やら酸っぱいような異臭すら籠《こ》もっている。
「俺の部屋といい勝負だな。ここよりか少し広いが……。乱雑具合は甲乙つけがたしってとこだ」
武は、その見事なくらいに散らかった部屋をほれぼれした眼差《まなざ》しで見回した。
ホルスタインのような胸をしたアイドルが白い歯を見せてにっこり笑っている特大ポスターを貼った壁には、だいぶ使い込まれて黒ずんだボクシングのグローブが吊《つ》るされていた。
「事故以来一度も掃除してないのよ。あの朝、豪が出て行ったときのまま……」
火呂はそう言いながら、くんくんと鼻をうごめかすと眉《まゆ》をしかめ、急いで窓を開けに行った。
「なまじ掃除なんかしたら、豪が帰って来なくなるような気がするって叔母さんが言ってね……」
深呼吸するように窓の外を見ながら言った。武は何を思ったのか、ベッドのそばにかがみこみ、片腕をぐいと延ばしてベッドの下を探っていたが、何やら手ごたえがあったような顔になると、奥の方から埃まみれの数冊の大型本やらビデオソフトやらを掻《か》き出してきた。
そして、そのタイトルを薄笑いを浮かべながらいちいち見ていたが、火呂がこちらを振り向く前に、素早くそれらをまとめてベッドの下に押し戻した。
「掃除なんかしない方がいいよ。あまり奇麗に片付けたら、帰ってきたとき本人がかなり慌てることになると思うから」
埃で真っ黒に汚れた指先をそのへんに投げ出してあった男もののシャツで拭《ぬぐ》いながら言った。
「時々換気だけはした方がいいと思うけどね……」
そう呟《つぶや》いた武の目が、部屋の隅に立て掛けてあったギターに止まった。興味を引かれたように、それに近づくと、何げなく手に取った。
ベッドの上に腰掛け、ギターを抱えると、それを手遊びのようにかき鳴らしはじめた。
「……音狂ってやがる」
しばらくかき鳴らしていたが、舌打ちしてそう呟くと、チューニングをはじめた。
チューニングを終え、また音を確かめるように二度三度かき鳴らしていたが、一瞬手を止めた。そして、何かを思い出すような目で一点を見つめていたが、ふいに或《あ》る曲を流れるように奏ではじめた。
『禁じられた遊び』だった。
「……巧《うま》いじゃない」
窓辺から振り向いて、火呂が感心したように言った。
「中学のとき、一時はまったことがあるんだ。高校に入ってボクシングはじめてからはそっちに夢中になって遠ざかっちゃったんだけど。あれ以来たまにしか弾いてなかったのに、おぼえてるもんだな。指が勝手に動く」
自分で自分の腕前に感心したように言いながら、流れるような指さばきで弾き続けた。
「弟もその曲、馬鹿の一つ覚えのようによく弾いてたけど、いっつも同じとこで間違ってた」
火呂は懐かしそうに言った。
「豪もギター好きだった?」
武は、『禁じられた遊び』を楽々と弾きこなすと、すぐに別の曲をつま弾きはじめた。今度は、『アルハンブラの思い出』だった。
「うん。下手の横好きというか。将来の夢の一つはプロボクサーで、もう一つはミュージシャンですって」
「あんな初歩的な曲をいつも間違えてるようじゃプロなんて夢のまた夢だな。ていうかさ、音狂ったままのギターを平気で使ってる段階で、俺に言わせりゃ論外だね」
武はあざ笑うように言った。
「同感。豪が弾いてるの聴いてると拷問受けてるみたいな気がしたけれど、あなたのはそんなに苦にならないわ」
「褒めてるつもりかよ?」
「褒めてるつもりよ。だって、わたし、こう見えてもかなり耳良いのよ。絶対音感に近いものがあるって、昔、音楽の先生に言われたことあるし」
「へえ?」
「あなただったら、本格的に取り組んだら物になるかも。ギタリストになるのも夢じゃないかもよ」
火呂は真顔で言った。
「ギターか。またやってみようかな……」
武もいつになく真剣な顔つきになって呟いた。
「そういえば、豪の夢は、わたしの歌の伴奏をギターですることだって、いつか言っていたことがある」
火呂が思い出したように言った。
「ふーん」
「ほら、カーペンターズっているでしょ。妹が歌って、兄が作曲と伴奏を受け持って、きょうだいで音楽活動する。ああいうのが弟の究極の夢だったみたい。でも、豪の腕前じゃ、それこそ見果てぬ夢だったんだけどね。あいつが後ろで音はずすたびに、わたしがずっこけてたら、コントにしかならないじゃない」
そう言って笑うと、火呂は少し黙り、やがて、思い切ったように言った。
「実をいうと、わたしね、シンガーになるかもしれない」
「は?」
武は手を止めて、ポカンとした顔で火呂を見た。
「シンガー。歌手よ」
「シンガーが歌手って事くらい、英語が苦手な俺でも知ってるよ。アイドル歌手ってこと? まあ、ルックス的にはなんとかクリアって感じだけど、年齢的にチトきついんじゃない? いまどきのアイドルって、中学生くらいでデビューするのが常識でしょ。あんた、もう二十歳だろ。アイドルの世界じゃ姥桜《うばざくら》もいいとこだぜ?」
「失礼ね。アイドルじゃなくて、歌手だって言ってるでしょ。歌だけで勝負する本格的な歌手よ。年なんて関係ないわ。宝生輝比古って知ってる?」
「あの音楽プロデューサーの?」
「あの人のプロデュースで、ソロシンガーとしてね。今、その話を音楽事務所の人もまじえて話しあっている最中」
「宝生と組むの? マジで?」
武は驚いたように聞いた。
「嘘でも妄想でもないわよ。本当の話。前から何度かアプローチ受けてたのよ。でも、わたしは歌でお金|儲《もう》けなんかする気は全然なかったから、ずっと断ってきたんだけど……」
火呂はそう言って、以前、豪に頼まれてアマチュアバンドのコンテストにボーカルとして飛び入りで出たときの話をした。
「……それ以来、宝生さんに見込まれてしまったみたいで」
「凄いじゃん。俺の価値観からすると、親父が総理大臣なんかになるより凄いことだよ、それは」
武は心底感嘆したように言った。
「大体、どの世界でもカリスマとか言われてる奴にろくなのいないけど、宝生のことは、俺、ちょっと認めてたんだよな。だけど、奴も、最近はアイドル製造機みたいなのになりさがって、こいつもこれでオシマイかなとか思ってたんだけど」
「ここまで見込んでくれたならやってみようかなって気になったのよ。それに、豪が……」
そう言いかけて、火呂は少し言葉を詰まらせた。
「わたしが歌手になることを誰よりも望んでいたから。事故に遇った日も、弟はわたしのマンションに来てたのよ。学校の帰り、その話をしに。あの夜、雨がだんだんひどくなってきて、弟はあまり帰りたそうではなかった。泊めてあげてもよかったんだけど、またあの話をぶり返されるのがうざくて、傘だけ貸して追い出すように帰してしまった」
「……」
「もし、あのとき、弟を帰さなかったら、部屋に泊めていたら。あんな事故に遇わなかったかもしれない。そう考えるとね……。それに、叔母さんから聞いたんだけど、事故に遇う直前まで二人で歩きながらその話してたんだって。そのとき、叔母さんもわたしを説得する側に回るって言ったら、豪は凄《すご》く喜んでいたんだって。それ聞いたら、ようやく決心がついた。もし、弟が意識を取り戻したとき、それがいつになるか分からないけど、わたしが歌手になったって知ったら、喜ぶんじゃないかって思って……」
火呂はそう言ってから、少し恥ずかしそうに付け加えた。
「それに、現実問題としてお金が必要なのよ。もしこの先、弟がずっとあのままだとしたら、入院費用とかかかるわけだし。たとえ意識が戻っても、身体に後遺症が残る可能性もあるしね。下半身不随で一生車椅子ってことも考えられるし。そのためにも、少しでもお金を貯めておかなければ。そう思って……。心臓の悪かった弟のために、あそこまでやったサッチンの気持ちが今になって分かったような気がする。被害者の一人だったあなたの前でこんな事言って悪いけど。幼友達だったからって、彼女のやったことを美化したりかばうつもりはないのよ。でも……」
「別にかまわないよ。俺の方も、あんな目に遇ったのに、なぜかあの女のこと恨んでないんだよな。逆に感謝してたりして。あの事件に遇ったことで、あの女に命をもらったんじゃないかって気がしてるし」
「命をもらった?」
「うん。これ見て」
武はそう言って、右手を開いて見せた。手のひらには、だいぶ薄くはなっているが刃物傷が縦についていた。
「この傷、あの女がつけたんだよ。寿命をくれてやるとかいってさ、ナイフで。荒っぽいやり方で生命線を伸ばしてくれたんだ。俺の右手の生命線、途中でぶったぎれたようになっていたから。もしあの事件に遭遇しなかったら、俺の寿命は二十歳くらいで終わっていたかもしれない。でも、あんな事件に遇って死にかけたことで、逆に寿命は伸びた。そんな気がするんだ。このままいくと、入れ歯ふがふがいわせながら百までヨロヨロ生き続けて、あのジジイまだくたばらねえのかって言われるほど長生きしそうだ」
「憎まれっ子世になんとかとも言うしね」
「あんたもわりと言う方だね」
「自慢じゃないけど、弟とはいつも口バトルだったもの。そのうち、あなたともそうなりそうな悪い予感……。さっきも『姥桜』って言ったあたりで弟だったら絶対手が出てたと思うね。あなたは弟じゃないから、一応遠慮したけど」
「いっそ弟の代役してやろうか」
武が何か思いついたような顔で突然言った。
「代役?」
「そう。豪の代わりというか。叔父さんの代役は絶対御免だと思ったけど、会ったこともないあんたの弟役ならいいかなって」
「叔父さんの代役って?」
「いや、何でもない。こっちのこと」
武は慌ててそう言い、
「豪が意識取り戻すまで、俺のこと、豪だと思えばいいよ。他人だからって遠慮しなくてもいい。しゃべっててむかついたら、弟だと思って殴れば? 俺さ、最近ハタと気が付いたんだけど、ちょっとMの気があるみたいなんだよな」
「……」
「女に殴られるの嫌いじゃないみたい。といっても、相手は美人に限るけど。微妙に快感があるような。小さい頃からおふくろにはよくひっぱたかれたし、学校でもなぜか女の先生ばかりによく叩《たた》かれたり、頭から水ぶっかけられたり。あげくに、あんたの友達には殺されかかるし、この前も、ある女に猟銃で撃たれそうになるわで」
「猟銃で撃たれそうになったの?」
火呂は驚いたように聞き返した。
「人間生きてると、いろいろなことにでくわすわけで」
「普通、でくわさないわよ」
「俺はでくわすの。一度あることは二度ある。二度あることは三度あるっていうから、もう一度くらい……。なんかこう、宿命的に、サド女のサド心を刺激する何かがあるのかな、俺の中には。生まれついての生き贄《にえ》というかね……」
十一月二十六日、木曜日の深夜。
明かりの消えた神家の黒々とした屋根の上に、禍々《まがまが》しい赤い月がかかっていた。
それはまるで闇に紛れて姿の見えない巨大な獣が、その血まみれの尖《とが》った爪を家屋にかけようとしている。
そんな風にも見えた。
唯一明かりが灯っていたのは当主の部屋だけだった。
どこかの柱時計がボーンと一つ鳴るのが微《かす》かに聞こえてきた。
聖二は時計を見た。
午前一時になろうとしている。
卓を挟んで座っていた日美香が、口に手にあて、小さくあくびをした。
「……このへんにしておこうか」
これが潮時とばかりにそう言うと、聖二は卓の上に広げてあった古文書を片付けはじめた。
「はい」
日美香は素直に頷《うなず》き、卓の前に広げていたノートを閉じると、それに筆記具を重ね、両手で胸に抱えるようにして立ち上がりかけた。そのときだった。
カタカタカタカタという奇妙な音がした。見ると、棚の上の置物が小刻みに揺れている。棚の置物だけではない。天井から吊《つ》るされた照明器具の白い笠《かさ》も、連動するように、カタカタと小刻みに揺れている。
部屋全体、いや、家全体が微かに震えるように揺れている。
日美香はノートを胸に抱いたまま、一瞬、身構えるように立ち尽くした。
聖二も、立ち上がりかけてやめたような中腰になって、じっとあたりを伺うような姿勢をしていた。
何か来る。
そう感じた瞬間だった。
ぐらっと家ごと傾くような衝撃があった。
棚に載せた置物や本がどさどさと音をたてて床に落ちた。
廊下の方から、何かガラス物でも落ちたようなガシャーンという大きな音がした。
「地震だ」
聖二が言った。
「怖い」
日美香は手にしたノートを放り出すと、無我夢中で、目の前にいた男にしがみついた。
聖二の方も胸に飛び込んできた娘を全身でかばうように抱き締めた。
もっと大きな揺れが来るかもしれない。ここは下手に動かない方がいい。
一瞬そう判断して、じっとしていた。
しばらく、二人は互いをかばい合うように抱き合っていたが、その後、最初よりは衝撃度の低い揺れが二度ほどあっただけで、さらに大きな衝撃が来る気配はなかった。
緊張していた聖二の腕から少し力が抜けた。
「……もうおさまったようだ」
そう言って、自分の胸に顔を埋めるようにして抱きついている娘の背中を安心させるように軽く叩いた。
もう離れろという合図のつもりだったのだが、日美香はひしっと抱きついたままだった。
「たぶんもう揺れはない。怖がることはないよ。ちょっと手を離してくれ。外を見て来なければ」
聖二は諭すように言って、ぴったりと寄り添っている娘の両肩をつかんで身体を引き剥《は》がそうとした。
こんな場合は、すぐに家中を見回って、被害の具合や家族の安否を確認するのは家長としての務めでもある。
廊下の方からは、寝ていた家人が驚いて起き出してきたような声や物音が聞こえてきた。その中には脅《おび》えたように泣く子供の声も交じっている。
一刻も早く外に出ていって、脅えている家人を安心させなければ。
そんな義務感に駆られて、部屋から出ようとしたのだが、日美香は嫌々をするようにかぶりを振って、離れようとはしない。それどころか、いよいよきつく抱きついてくる。
「離しなさい」
ついに業を煮やして、娘の身体を半ば突き飛ばすようにして引き離した。
「駄目だ。今、外に出てはいけない!」
突き飛ばされた娘が叫んだ。
そして、またひしっと抱きついてくる。
その仕草は、地震に怖がって抱きつくというより、男が外に出るのを身体ごと防ごうとしているようにも見えた。
長い黒髪が真っ青な顔に振りかかり、目尻《めじり》が吊り上がり、その目はらんらんと異様な輝きを放っている。
聖二は不審なものを感じた。
いつもの日美香とはどこか違う。
深夜の地震に驚き脅えているだけの表情には見えなかった。
「そうはいかない。家の様子を見て来ないと。ガラスの割れるような音がした。誰か怪我をしたかもしれない」
聖二はそういって、またしがみついてきた娘の身体を引き離そうとすると、
「外はイワレヒコの軍隊で包囲されている。今、外に出ては行けない。外に出たら殺されるぞ」
日美香はそんな奇妙なことを口走った。
イワレヒコの軍隊?
何を言っているんだ。
それにこの男のような乱暴な口調……。
いつもの日美香ではない。
聖二はぼうぜんとしたように日美香の顔を見つめた。
「もうすぐイワレヒコの軍が中になだれこんでくる。わたしがなんとかくい止めるから、あなたは裏から逃げろ」
「日美香……?」
「わたしはヒミカではない」
「誰だ……?」
「ミカヤだ。わたしはミカヤだ」
ミカヤ……?
聖二の中で遠い記憶が蠢《うごめ》いた。ミカヤ。どこかで聞いたことがあるような名前だ。遠い遠い昔……遥《はる》か太古の……。そんな名前の女を知っていたような……。ミカヤ……ミカヤ……。だめだ。思い出せない……。
「わたしだ。ミカヤだ。あなたの後を追って、わたしもここまで来たんだ。わたしを思い出すんだ。ミカヤを思い出せ!」
日美香はそう言うと、両手で目の前の男の胸倉をつかむようにして烈しく揺さぶった。
「……あなた? 大丈夫ですか」
外から美奈代の声がして、襖《ふすま》がガラリと開かれたとき、聖二は日美香に抱きつかれたまま、放心したように立ち尽くしていた。
戸口で凍りついたような表情で立っている寝間着姿の妻を見るや、聖二はようやく我にかえった。
「……あなた」
美奈代の目が鋭く責めるように自分たちを見ているのに気づくと、慌てて、日美香の身体から離れた。
日美香の方も今度は抵抗せずにすぐに離れた。
「ひ、被害の具合はどうだ? 誰か怪我をした者はいないか。子供の泣き声がしたが」
聖二は幾分うろたえながらも妻に聞いた。
「いえ……誰も……」
美奈代は刺すような視線を夫と養女の方に交互に投げかけながら答えた。
聖二はすぐに部屋の外に出た。
廊下の向こうには、弟やその家族たちが固まっていた。皆、寝入りばなを起こされたらしく、薄ら寒そうな寝間着姿のままだった。
郁馬の姿もあった。
「何か被害はあったか。怪我をした者はいないか」
郁馬に向かってもう一度そう聞くと、郁馬は首を振り、
「いえ。僕の見た限りでは大したことはありません。怪我をした者もいないようです」
「ガラスの割れるような音がしたが?」
そう聞くと、
「ああ。あれは客室の棚の上のガラス瓶が落ちて壊れただけです」
郁馬はこともなげに答えた。
子供の泣き声も、単に突然の衝撃に脅えただけだと分かった。誰かが宥《なだ》めたらしく、その泣き声も今では止んでいた。
「どうやら震度は4くらいのようですね、このへんは」
すぐ下の弟にあたる雅彦が言った。手に小型の携帯用ラジオをもっていた。そこからの情報らしい。
「そんなものか? もっと揺れたように感じたが」
聖二は言うと、
「棚とかは倒れてませんから、そんなものですよ。寝入りばなだったんで衝撃が強く感じられただけでしょう。この様子だと、揺り返しもないと思いますけどね」
雅彦は冷静な口調で答えた。
「そうか……」
聖二は弟の報告に幾分ほっとしながら、それでも、念のため、家の中を隈無《くまな》く見て回った。弟の言う通りだった。
家屋の被害といっても、棚に載せておいたものが落ちて壊れた程度で、これといって大した被害はなかった。怪我をした者もいない。台所も見回って、火の不始末等がないことをすべて確認した。廊下に出ていた家人もそれぞれ部屋に引き取ったようで、家の中は、すぐに地震が来る前の静寂さを取り戻していた。
すべてを点検し終えて、聖二が部屋に戻ってきたときには、時刻は午前二時をとうに回っていた。
部屋にはまだ日美香が残っていた。不安そうな表情はしていたが、先程|垣間見《かいまみ》せた、あの異様な形相《ぎようそう》は既に消えていた。
「もう大丈夫だよ。大した事はなかった。あなたも早く部屋に戻って休みなさい」
そう声をかけても、日美香はすぐにそこを動こうとはしなかった。
「……今夜はここで休んではいけませんか」
少しためらった後、おずおずとした口調でそう言った。
「ここで?」
「怖いんです、一人で寝るのが。また地震が来たらと思うと……。だから、ここに客間のお布団を運んできて、お養父《とう》さんのそばで眠りたいんです」
身を竦《すく》めて答える。
「布団ならもう一組あるから、運んでくる必要はないが」
聖二はそう答えた後で、
「ここで一緒というのはちょっとね。あなたが小さな子供ならともかく……」
困惑したような顔で付け加えた。
揺り返しが絶対来ないとは言い切れないが、これまでの経験と勘からすれば、今回の地震はこの程度のものだろう。そんな気がした。
それに、いくら養女《むすめ》とはいえ、成人に達した若い女と同じ部屋で休むというのは、家人の手前、やはりためらうものがある。実の娘ならまだしも……。
とりわけ美奈代の目が少し気になった。襖を開けて、抱き合っている自分たちの姿を見たときの妻の凍りついたような眼差しがまだ脳裏に残っていた。
美奈代が妙な勘違いをしなければいいのだが……。
そう危惧《きぐ》する気持ちもあった。
いや、家人への思惑よりも……。
実は、自分自身の心が怖い。
地震の衝撃からかばうために夢中で取った行動ではあったが、日美香の身体を抱き締めたとき、その撓《しな》うような柔らさや、鼻腔《びこう》をくすぐる黒髪の甘酸っぱい匂いに、一瞬女を感じてしまった。
それまでは日美香に「女」を意識したことはなかった。実妹の忘れ形見として出会ったときから養子縁組をした後も、姪《めい》として養女としては誰よりも愛してきたが……。
そして、母の転生者だと分かってからは、母の面影を持つ女としても。
しかし、先程感じたのは、そうした家族的な感情ではなかった。
姪でも養女でも、むろん母でもなく、ハッキリと異性としての女を感じた。
欲望を感じた。
そんな自分の心が怖い。
それに……。
あのとき、日美香が口走った妙な言葉。
ミカヤという名前。
あれも気になる……。
思い出せそうで思い出せない名前。
遠い遠い記憶の中で蠢《うごめ》く女の名前。
一体誰なんだ……。
まさか。
あれは母以前の転生者……?
そう思いかけたとき、
「小学生の時……」
日美香がふいに言った。
「八歳頃のことです。やっぱり真夜中にこんな地震が来たことがあったんです。そのとき、わたしは一人だった。母はまだお店の方にいて。わたしは家に一人で寝てたんです。すごく怖かった。家中ががたがた揺れて、棚のものが次々と落ちてきて、そのうち、棚ごと倒れてくるんじゃないかと思って。悲鳴をあげそうになったけど、誰も助けてくれる人はいなくて、おさまった後も一人で布団の中で震えていた……」
「……」
「翌日、学校へ行ったら、友達がその話をしていたんです。みんな怖かったって……。でも、みんな、お父さんが守ってくれたって言ってた。中には、地震がおさまった後も怖くて、お父さんの布団に入って一緒に寝たって子もいました。それを聞いたとき、すごく羨《うらや》ましかった。お父さんのいる友達が。こんなときに守ってくれる強いお父さんがいる友達が。どうして、わたしには、そんなお父さんがいないんだろうってはじめて思った……」
日美香がふいにはじめた回想を、聖二は喉元《のどもと》に刃を突き付けられたような思いで聞いていた。
この娘に生まれながらにして父親を与えてやれなかったのは自分のせいだ。子供の頃からこんな寂しい思いや怖い思いをさせ続けてきたのは、ほかならぬ自分だ……。
そう心の中で自分を責めながら。
「同じ部屋に一緒というのが駄目なら、わたしはこちらで寝ます。それでもいけませんか……?」
日美香は八歳に戻った子供のような目をして哀願するように聞いた。
寝室ではなく、今いる書斎の方に寝るというのだ。
それならば……。
聖二の気持ちが動いた。
ここまで言われて尚《なお》もはねつけるのは、かえって不自然ではないか。
そうも思えてくる。
真夜中の地震の衝撃で子供の頃の恐怖を思い出してしまったのだろう。それで、当時欠落していた父親の感触を今求めようとしているのかもしれない。一種の追体験とでもいうか。
日美香が求めているのは、父親の温《ぬく》もりだ。子供の頃からずっと心の奥で求め続けてきた……。
養父でありながら、家人の目などを気にして、それさえも与えてやれないのか。なんのためにこの娘を養女にしたんだ。
聖二は心の中で自分を詰《なじ》った。
それに……。
あまり頑《かたく》なに拒むと、逆に、自分の中に芽生えた養父にあるまじき欲望を見透かされてしまう恐れもある……。
「今夜だけなら」
そんな千々に乱れた思いが、ためらった末に、聖二についそう口走らせていた。
それを聞くと、日美香は目を輝かせ、嬉《うれ》しそうに言った。
「すぐにパジャマに着替えてきます」
地震の騒動がおさまって、部屋に戻ってきた美奈代は、まだ温もりの残っていた布団にもぐりこんだものの、中々、寝付けなかった。あれから三十分以上も輾転反側《てんてんはんそく》を繰り返している。
余震が来るのではという恐怖よりも、夫の部屋で見た光景が強い刺激となって、美奈代の眠りを妨げていた。
あれは、地震のせいだ。突然の衝撃に、夫がこわがる日美香を守ろうとして抱き締めていただけだ。
そう思い込もうとした。
別におかしな行動ではない。父が咄嗟《とつさ》に娘を守ろうとした。それだけのことだ。
いくら頭の中でそう自分に言い聞かせようとしても、美奈代の中に、「否」と叫ぶもう一人の自分がいた。
それならば、なぜ、あのとき、夫はあんなにうろたえたのだろう。娘を災害から守るために取った行動なら、誰に見られようと慌てることはないはずだ。でも、夫はそうではなかった。わたしが襖《ふすま》をいきなり開けたとき、明らかに動揺していた。そして、突き飛ばすようにしてあの娘から離れた。あの夫があんな風にあからさまに動揺するのをはじめて見た……。
あんなにうろたえたのは、何かやましいことがあるからではないのか……。
美奈代は眠るのをあきらめ、布団から起き上がった。何か言いようのない胸騒ぎをおぼえていた。少し冷えたのか尿意も催している。枕元のスタンドを点《つ》けると、目覚ましを見た。時刻は午前二時半になろうとしていた。
スタンドの明かりを受けて、美奈代の手にあった黄色い石がギラリと光った。指には抜けなくなったあのトパーズの指環《ゆびわ》が嵌《は》まったままだった。
寝間着の上に毛糸の上着を羽織ると、トイレに行くために部屋を出た。
忍び足で冷えた暗い廊下を歩き、トイレに行って用を足し、部屋に戻りかけたときだった。
廊下をひたひたと歩く別の足音を聞いたような気がした。
家人の誰かが、自分のようにトイレに起きたのだろうかと思いつつ、ふと見ると、彼方の廊下をすっと横切った人影があった。
日美香だった。
パジャマ姿で上にカーディガンを袖《そで》を通さずにふわりと羽織っている。
トイレに起きたようではないようだ。方角が違う。
こんな時間にパジャマ姿でどこに行くのだろうと美奈代は不審に思った。
それで、それとなく跡をつけて行くと、驚いたことに、彼女の姿はそのまま夫の部屋に消えた。
え……?
一瞬、全身の毛が逆立つ思いがした。
地震の直後、夫の部屋の襖を開けて見たときの光景よりも衝撃的なものを見てしまったような気がした。
なぜ?
こんな真夜中……。
しかも、パジャマ姿で……。
まさかあんな格好で、今頃、家伝書の勉強をしに行ったのではあるまい。
美奈代の頭は一瞬錯乱した。
慌てて自分の部屋に戻ると、窓辺のカーテンを僅《わず》かに開けて、外を見た。
真っ暗闇の中に、屋根にかかる赤い月と、その下の窓明かりが見えた。
夫の部屋の明かりがまだ点いていた。
ところが……。
その煌々《こうこう》と灯《とも》っていた明かりが次の瞬間、ふっと吹き消すように消えた。
家は完全に闇に呑《の》み込まれた。
猛悪な獣の赤い爪のような月だけが見える。
明かりが消えた?
日美香をあの部屋に呑み込んだまま……?
窓ガラスに両手の爪をたてて、外を食い入るように見ていた美奈代の頭の中も、一瞬すべての希望が消えたように真っ暗になった。
いつから……。
いつから、ああして日美香は夫の部屋に忍んで行くようになったのか……。
パジャマ姿の日美香が聖二の部屋に消えた後で、すぐにそれまで点いていた部屋の明かりがすべて消えた。
これはもう疑う余地がなかった。
地震の直後、二人が抱き合っていたのは、まだ別の解釈の成り立つ余地があった。でも、今見た一連の光景にどんな別の解釈が成り立つというのだろう。
解釈は一つしかない。
あの二人はいつの間にか養父娘という一線を越える関係になっていたということだ。家伝書を読むなどというのも、忌まわしい秘密の関係をカムフラージュする言い訳にすぎなかったということだ。
そう考えれば、なぜ、こんな何もない山奥の村に、日美香のような若く美しい女が、学業や都会での一切の楽しみをなげうってまで住み着こうとするのか。
最近になって、なぜ、妻に対する夫の態度が妙に優しく寛大になったのか。
その不可解な謎がすべて解けるではないか。この指環にしても……。
美奈代の視線が窓の外から指に光る石につと移った。
若い女にうつつを抜かすようになった夫の妻への無意識的な贖罪《しよくざい》の現れだったのかもしれない。
一体いつから二人は……。
毎夜ああして……?
たまたま地震の騒動で寝付けなくなってしまったが、午前二時過ぎといえば、いつもはとっくに夢の中にいる頃だった。
養女にした女に夫を寝取られているとも知らず、妻である自分はこうして独り寝の夢の中にいた頃……。
美奈代は暗い窓ガラスに映った顔を見た。慄然《りつぜん》とした。
そこに映っていたのは鏡で見慣れた自分の顔ではなかった。
夜叉《やしや》のような形相《ぎようそう》をした見知らぬ女の顔だった。
でも……。
一つだけ言えることがある。
いつからあの二人が秘密の関係を結ぶようになったか知らないが、そのきっかけを作ったのは、夫の方ではないということだ。それは断言できる。あの夫に限ってそれだけはない。養父という立場を利用して、若い娘を自分の自由にするということはありえない。聖二の妻になって、二十年というもの、何かと口には言えない苦労をしてきたが、それでも、一つだけ幸運なことがあった。それは、夫の女性問題で悩んだことが一度もないということだった。
東京での学生時代のことは全く知らない。また、山奥に引っ込んだといっても、月に一、二度の割合で、定期的に上京しており、たいていは二、三日、長いときでも一週間ほど滞在して帰ってくることがあったが、その間、向こうで何をしているのかはさっぱり分からない。
だから、夫の行動のすべてを知っているわけではなかったが、少なくとも、この村では女の影など微塵《みじん》もなかった。
それに、夫は若い頃から、あれだけの容姿に恵まれながら、女嫌いかと思うほど禁欲的なところがあった。生まれついての神官と言ってもよい。そのへんの格好だけの生臭坊主、生臭神主とはわけが違う。
そんな夫が、いくら若く美しいからといって、養女である娘に自分から手を出したとはとても考えられない。
日美香に誘惑されたのだ。
そうに決まっている。
いかにも清らかそうな顔をして、あれはそういう女だ。わたしには分かっていた。五月の半ば、長野駅からあの女と同じバスに乗り合わせたときから……。
あれは魔性だ。魔女だ。聖女のような気高く清らかな仮面の下に淫《みだ》らで忌まわしい魔女の素顔を隠し持っている。
最近、郁馬の様子が目に見えておかしくなったのもあの女のせいだ。耀子がふと漏らしていた。郁馬が日美香に恋患いのようなものをしているようだと。それだって、きっと、あの女の方が誘惑したのだ。
来年の正月までいる予定だった武がまるで何かから逃げるように突然村を去ったのも、あの女が原因ではないか。武は、あの女が魔性であることに感づいたのかもしれない。だから逃げ出したのだ。
郁馬も武もあの女にちょっかいを出され惑わされた。相手が独身の若い男ならまだいい。しかし、よりにもよって、この家の当主であり、血の繋《つな》がった伯父であり養父でもある夫にまで毒手を延ばすとは……。
許せない。
もう許せない。
美奈代はぎりぎりと音をたてるほど歯軋《はぎし》りした。鋭い犬歯で噛《か》み締めた唇が切れて口の中に血の味が広がるまで……。
そして、窓ガラスにぺたとついた両手の片方の指に光るトパーズをじっと見た。
黄金のトパーズが声なき声で命じていた。
あれは人間の女ではない。
魔性の蛇だ。
蛇は無垢《むく》なものを誘惑し滅ぼす邪悪な生き物だ。
聖書にもそう書いてある。
あれは魔女だ。悪い魔女は殺せ。魔女を殺して、踏みにじられた妻の誇りを取り戻せ。
夫を取り戻せ。
火だ。
火をつかえ。
魔女は焼き殺してしまえ。切ったり突いたりしたくらいでは生き返ってくる。生きたまま焼き殺してしまえ。灰も残らぬほどに焼き尽くしてしまえ。昔、西洋では魔女と見なされた性悪女はそうやって皆殺しにされたのだ。
火……?
そうだ。
この手で焼き殺してしまおう。
魔女にふさわしく、生きたまま……。
今までの自分だったら、たとえ夫と養女の秘密の関係を知ったとしても、あの夫に逆らうのが恐ろしくて、日美香のような若く美しい女に太刀打ちできるはずもないとすぐにあきらめてしまって、二人の関係を知りながら見て見ぬ振りをしてしまっただろう。
そして、人知れず悶々《もんもん》と悩み続けただけだろう。
でも今は違う。
わたしはこの石を得た。皇帝《インペリアル》のトパーズと呼ばれる黄金の石を。この石を身につけるにふさわしい女にならなければ。この石が今わたしに命じている。
魔性の蛇を焼き殺せ、と。
美奈代は走るような足取りで部屋を出た。もはや足音をたてるのもかまわず、廊下をどしどしと荒々しく歩いて、台所まで行くと、迷わず、台所の片隅に置いてあったストーブ用の灯油を入れた赤いポリタンクを手にした。前日、それは美奈代自らの手で満タンに補給したものだった。
そして、古いガスコンロの傍らに置いてあったマッチを上着のポケットに入れ、灯油を詰めたポリタンクを片手にさげると、台所を出た。
廊下にぽたぽたと灯油の滴をたらしながら、美奈代は目を光らせ、口元にはうっすらと笑いを浮かべ、うわ言のように何か呟《つぶや》きながら、夫の部屋に向かった。
魔女は殺せ。魔女は殺せ。魔女は生きたまま焼き殺せ……。
日美香がパジャマに着替えて戻ってきたとき、聖二も既に着替えを済ませ、最初は書斎の方に運びかけたもう一組の布団を、少し迷った末に、寝室の自分の布団の隣に並べて敷き終えたところだった。
寝室には二組の布団を敷く余裕が十分あるというのに、書斎の方にわざわざ離して敷くというのもかえって不自然だ。
そう思い直したからだった。
それに、この部屋に一緒に寝ると決めてから、日美香を二十歳の娘ではなく、八歳の子供だと思うことにした。
日美香自身、夜中の地震への恐怖から子供返りしているように見えたからだ。相手を八歳の子供だと思い、そのように接すれば、自分の心の中に芽生えかけた不埒《ふらち》な邪心を抑えることもできるだろう。
「お休みなさい」
そう言って隣に敷かれた布団に、嬉《うれ》しそうにもぐりこんだときの日美香の様子は、まさに小学生のような無邪気さだった。
新しい布団に慣れないのか何度か寝返りをうっていたが、聖二が部屋の照明をすべて消し、自分の布団に入ると、日美香のもぞもぞとした動きもぴたりと止まった。
部屋はしばし闇と静寂に包まれた。
まさか、このとき、妻の美奈代が、中庭の向こうから、窓越しに鬼女のような形相でこちらをじっと窺《うかが》っていたことなど知るよしもなかった。
明かりを消したからといって、すぐに寝付けるはずもなかったが、目を閉じ、隣の布団に背中を向けるようにして横たわっていた。
十分ほどがたった。
闇の中で何かの気配がした。
聖二はそれを背中で感じとった。
隣の布団から日美香がむっくりと起き上がったのだ。
首を巡らして見たわけではないが、起き上がったことはきぬ擦れの音や気配でなんとなく分かった。
トイレにでもたつのかと思っていた。
ところが……。
起き上がった人影は、寝室の戸口には向かわず、枕元をそそと横切ったかと思うと、いきなり聖二の布団の中に入ってきたのである。
「寒い……」
日美香の猫のように柔らかな身体が背中にぴたりとへばりつき、耳元でそう囁《ささや》かれたとき、聖二は心臓が止まりそうになるほど驚いた。
寒い……?
そんなはずはない。
直前まで書斎の方のストーブをつけていた。その余熱でこちらの部屋もそれなりに暖まっている。
聖二はふいに三十年以上も昔のことを思い出した。まだ中学生だった。東京で兄の貴明と同じアパートで暮らしていたときのことだった。ある冬の夜、隣に寝ていた兄がむっくりと起き出し、「寒い」と言って、何を思ったのか弟の布団にもぐりこんできたときのことを……。
あのときの驚愕《きようがく》、動揺、困惑、そして微《かす》かな倒錯した喜び……。
あのときのように内心では動揺しながらも、どう対処していいのかすぐには思いつかず、そのまま寝た振りをしていた。
日美香の魂胆が読めなかった。
本当に寒いと感じて、子供がやるように無邪気に親の布団にもぐりこんできただけなのか。それならば、無下に出て行けとも言えない。
それとも、無邪気さはうわべだけのもので……。
そんな疑惑もわいた。
どちらかは分からないが、とにかく、ここはもう眠ってしまったような振りをして、背中を向けたままやり過ごそうと思った。
八歳の子供が布団にもぐりこんできただけだ。そう思い込んで。
しかし……。
いくらそう思い込もうとしても、背中にぴたりと押し付けられた双のふくらみの柔らかな感触といい、闇の中で一層匂いたつような黒髪の甘やかな匂いといい、耳朶《みみたぶ》にふきかかる熱い吐息のような息遣いといい、どう考えても、それは八歳の子供のものではない。
若い女以外の何者でもなかった。
眠ったふりをしていても、思わず身体が反応してしまいそうで、困ったなと思っていると、
「……こちらを向いて。あなた……」
耳元で囁きかけるような女の声がした。
一瞬、聖二の頭が真っ白になった。
あなた?
養父である男に呼びかける声ではない。
それはまるで新妻が夫に甘く囁きかけるような声だった。
「……わたしを抱いて」
背後の女ははっきりと口に出してそう言った。
それは子供が父親に抱擁をねだる声ではなかった。
「……日美香。やめなさい。自分の布団に戻るんだ」
聖二はついに寝たふりをやめて、背中を向けたまま突き放すように言った。
「わたしはヒミカではない。ミカヤだ」
しかし、背中越しに聞こえてきたのは、怒りを含んだそんな声だった。
「ミカヤ……?」
「ミカヤだ。わたしはミカヤだ」
背後の声が切なそうに訴え続けた。
「あなたの妻だ」
妻だと?
聖二は驚きのあまり、半身を起こすと、首を巡らして女の顔を見ようとした。
すると、ミカヤと名乗った女は、それを待ち受けていたように、首に両腕を回して引き寄せ、自分の唇を男の口に猛然と押し付けてきた。
「……や、やめろ!」
野獣が噛《か》み付くような口づけをしてくる女の顔を両手で挟んでなんとか引きはがすと、聖二は信じられないものでも見るように、目の前の女の顔を凝視した。
カーテンの僅《わず》かに開いた窓から差し込む月明かりを受けて、女の顔が闇の中から朧《おぼろ》げに浮かび上がっていた。
日美香の顔をした日美香ではない女。
そんな女がそこにいた。
それは母の緋佐子でもなかった。
全く別の女だった。
布団の上に美しい野獣のように四つん這《ば》いになり、長い髪を振り乱し、目尻《めじり》のあがった双の目を歓喜とも怒りともつかぬ光でらんらんと燃え上がらせている牝豹《めひよう》のような女。日美香より遥《はる》かに野性的で生命力に溢《あふ》れ、奔放な表情をした若い女がそこにいた。
「なぜわたしを拒む? 夜毎|睦《むつ》み合った仲なのに、子までなした仲なのに」
ミカヤと名乗る女は叫ぶように言うと、愕然《がくぜん》として声も出ない有り様の男の胸を両手でどんとついて仰向けに押し倒すと、その上に馬乗りになって、また力いっぱい手足を使って抱きついてきた。
白い大蛇が絡み付くように。
「ああ、嬉しい。やっとあなたと会えた。この長い長い年月、あなたの母となり姉となり妹となり、こうしてずっとおそばについてきたのに、一度も妻としては巡り会えなかった。それが今、ようやくこうして」
そう口走って、頬擦りと口づけを狂ったように繰り返す。
「……お、おまえも転生者なのか?」
女というより、まるで野獣にのしかかられているようだった。その野獣の抱擁をなんとか逃れようともがきながら、聖二は聞いた。
しかし、食らいつくような口づけを繰り返す女の熱く甘いフイゴのような息に触れているうちに、現代人ではとても考えられないような荒々しいその愛撫《あいぶ》に身をまかせているうちに、自分の中から抵抗する力がだんだん弱まってくるのを感じた。
それどころか……。
女の抱擁に反応するように、久しく忘れていた猛々しい牡の本能にも似た熱い疼《うず》きが身体の奥から徐々に蘇《よみがえ》ってくるのを感じた。
あと五分、こんなことが続いたら、自分も一匹の野獣と化してしまいそうだ……。
それを喋《しやべ》ることでなんとか踏み堪えようとしていた。
「そうだ。御山の頂上で、光る蛇を見てから、あの光る蛇のまばゆい青紫の光を全身に浴びたときから、死なない身体になった。いや、死なない身体ではない。死なないのは魂だ」
女は言った。
「光る蛇……?」
「わたしたち部族が古くから崇《あが》めてきた巨大な蛇……蛇に似たものだ。何重にもとぐろを巻いて天にも届くほど巨大な螺旋《らせん》の姿をした……」
「御山というのは鏡山のことか?」
「違う。大和の御山のことだ」
「……三輪山《みわやま》のことか?」
「そう。今はそう呼ばれている。光る巨大な蛇が降り立ったあの御山だ。あの日、あなたとわたしは御山の頂上まで狩りに出かけて、あの青紫に光る巨大な蛇に出くわした。二人でその光を浴びた。あれが御山に人間が住み着く遥か昔から住み続けていたものなのか、それとも、どこか遠い空の彼方《かなた》から来たものなのかは知らない。兄のナガスネヒコたちが少し遅れて頂上に辿《たど》りついたときにはあれはもうそこにはいなかった。跡形もなかった」
兄のナガスネヒコ……。
さきほど、地震が起きたとき、このミカヤと名乗った女は、「イワレヒコの軍」とか口走った。
ということは……。
聖二ははっとしたように目を見開いた。
思い出したのだ。
といっても、転生者の記憶として思い出したのではない。どこかでミカヤという名前を見た記憶があった。それを思い出した。どこで見たのか。
家伝書の冒頭の方だ。
神祖ニギハヤヒのことを記述した箇所に、確か、その神妻の名がミカヤヒメと……。
この女がミカヤヒメだとしたら、自分は……。
まさか。
私は……。
そのとき、カラリと襖《ふすま》の開くような音がした。書斎の方から物音がする。
誰かが入ってきたのだ。
誰だ。
声もかけずに当主の部屋にいきなり入って来るとは……。
そう思って唖然《あぜん》と見ていると、寝室の襖が外から開いて、戸口に人影が立ちはだかった。書斎の明かりを背景に立っていたのは美奈代だった。
「美奈代……」
聖二は布団の上に仰向けになって、ミカヤと名乗る女にのしかかられたまま、妻の顔を仰ぎ見た。
こちらの顔つきも尋常ではなかった。ふだんとは形相《ぎようそう》がガラリと変わっている。それはまさしく額に角がないだけの鬼女の形相だった。
しかも、何をするつもりなのか、片手に赤い灯油用のポリタンクを重そうにぶらさげて仁王立ちに立っていた。
「やっぱり……おまえたちは」
一つの布団の上に折り重なるようにしてもつれ合っていた半裸の夫と養女の方を、美奈代はどこか鮫《さめ》を思わせる表情の死んだ目で見下ろしながら、唸《うな》るように呟《つぶや》いた。
「違う。美奈代、誤解だ」
聖二は自分の上にのしかかっていた女の身体を突き飛ばして脇にどかせると、慌てて身体を起こした。
もっとも、この状況では、いくら誤解だと叫んでも何の説得力もないだろうことは百も承知だったが。
「この魔女が売女《ばいた》が。淫乱《いんらん》な牝犬《めすいぬ》が。よくも人の夫を寝取りやがって」
美奈代の口から、聖二が今まで聞いたこともないような口汚い言葉が呪詛《じゆそ》のように次から次へと迸《ほとばし》り出たかと思うと、
「魔女め。焼き殺してやる」
美奈代はそう叫んで、持っていたポリタンクの蓋《ふた》を取って投げ捨てると、タンクを両手で持ち上げ、日美香めがけて、中の灯油をざばっとぶちまけた。
灯油の臭いが部屋中に立ちのぼった。
髪からパジャマから全身灯油まみれになって、日美香は茫然《ぼうぜん》としていた。そばにいた聖二の乱れた寝間着にも灯油は撥《は》ねかかった。
「おまえなんか生きたまま焼き殺してやる……」
美奈代は、薄ら笑いを浮かべると、上着のポケットに手を入れ、中からマッチを取り出した。
「やめろ……」
聖二は妻が何をするつもりなのか察すると、素早く跳ね起きた。無我夢中で、床の間に飾ってあった守り刀を掴《つか》むと、鞘《さや》を払った。
美奈代が手にしたマッチからマッチ棒を一本取り出し、それを擦ろうとしたのと、聖二が鞘払い捨てた日本刀を両手に握って振りかざし、妻めがめて一気に振り下ろしたのがほぼ同時だった。
血しぶきがあがった。
美奈代は、肩から腹まで袈裟《けさ》がけに斬られて、どうっとその場に崩れ落ちた。
なぜか悲鳴はあげなかった。
左手にはマッチ、右手にはマッチ棒を握ったまま、うつ伏せに倒れた妻の身体の下から鮮血が溢れるように流れ出し、畳を真っ赤に染めた。
妻の返り血をまともに浴びた聖二の方も全身灯油と鮮血にまみれている。
そして、血の滴る抜き身を片手にぶらさげて、しばらく放心したように妻の遺体を見下ろしていたが、すぐに我にかえったように背後を振り返った。
そこには、全身を灯油まみれにされてガタガタと震えている日美香がいた。
その顔からは、もはやミカヤと名乗った女の野性的な奔放さは消えていた。
「早く部屋に戻れ」
聖二は震えている日美香に鋭く命じた。
「で、でも、美奈代さんが……」
「心配しなくていい。美奈代のことは私が片付ける。おまえは部屋に戻れ。騒ぎを聞き付けて誰か起き出してきたら厄介だから」
聖二はそういうと、右手に日本刀を握ったまま、左手で、日美香の身体を寝室から押し出すような仕草をした。
「部屋に戻ってすぐに着替えるんだ。何があっても部屋から出てくるな。明日、誰に聞かれても、眠っていて何も知らなかった。そう言うんだ。いいな?」
日美香は暗示にかかったようにこくんと頷《うなず》いた。
「さあ、早く!」
聖二に促されて、その地獄絵のような寝室を出た。
あとは夢中で廊下を小走りに走り、自分の部屋に逃げ帰った。
10
さて、どうしたものか……。
日美香を部屋から追い出して、倒れた妻と寝室に二人きりになってしまうと、聖二は少し冷静になり、はたと考えこんだ。
この混乱しきった状況をどう処理したらいいものか。
さすがに途方に暮れる思いがした。
美奈代の死については、家の者も村の者も巧《うま》く言いくるめて、犯罪にせずにおさめることはできる。妻に少々不手際があったので斬り捨てたということにすればいい。ここではそれで通ってしまう。だが、先立つ問題は、この灯油と生血をぶちまけたような酷《ひど》い部屋の有り様をどうするかだ。
何から手をつけたらいいのか。
とりあえず……。
聖二はそれまで握っていた日本刀を放り出すと、妻の遺体にかがみこみ、その首筋に手を当ててみた。
死んだと思った妻の首には微《かす》かに脈があった。
まだ生きているのか……。
何の感情もなくそう思った。
今、人を呼べば助かるかもしれない。しかし、美奈代が助かると、何かと後々の処理が面倒になる。なぜ、このような凄惨《せいさん》な修羅場を招いたのか。それを家人や村の者にも知られてしまう恐れがある……。
それに、まだ脈があるとはいっても、この弱々しさでは、病院に着くまでとても持つまい。どちらにせよ、この女は助からない。
それならばこのまま……。
そう思ったとき、郁馬の顔が脳裏に浮かんだ。この状況を一人で片付けるのは無理だ。
郁馬だ。
こんなとき、郁馬なら自分の手となり足となり動いてくれるだろう。
今のところ、家人の起き出してくる物音や気配は感じられなかった。
聖二の部屋が広大な屋敷の南東の一翼を占めており、隣は無人の客室で、ほかの家人の部屋と離れているせいか、この騒動は誰にも聞かれなかったのかもしれない。
郁馬だけ起こして、事情を話し、ここの始末を手伝わせるか。
そう思いつくと、聖二は、妻の身体をまたぎ越すようにして、寝室を後にした。
そのとき……。
うつ伏せに倒れていた妻の両手がそろそろと動いて、まだ握ったままだったマッチとマッチ棒を、渾身《こんしん》の力をこめて擦り合わせようとしていることには全く気が付かなかった。
明かりがついたままの書斎を出て、しんと静まりかえった暗い廊下に出たときだった。
後にしてきた部屋の方から、ボッと何かが爆発したような音がしたかと思うと、部屋の方がぱっと明るくなった。きな臭い匂いがして、突然、火の手があがったような異様な赤さに照らし出された。
もしや……。
聖二は慌てて部屋に駆け戻った。
火の手は寝室の方からあがっていた。
煙も出ている。
美奈代が最後の力を振り絞って、手にしたマッチを擦り合わせ、火のついたマッチ棒を投げ捨てたのだ。それが灯油まみれになっていた寝室中に瞬く間に引火したに違いない。
しまった。
家伝書が……。
聖二は書斎の書棚に収めておいた数巻の家伝書の方を素早く見やった。
これを焼いてしまうわけにはいかない。
先祖代々、千年以上の長きにわたって子々孫々に伝えてきた大切なものだ。
この家の家宝だ。
これを自分の代で灰にしてしまうわけにはいかない。
火の手が書斎まで移る間に、なんとか外に出さなければ。
咄嗟《とつさ》にそう決心すると、書斎の窓を開け放ち、書棚の古文書を腕一杯にかき集めて抱えると、それを中庭めがめて、思いきり遠くに投げ捨てた。
そして、その窓から大声で「火事だ!」と叫んだ。
そのとき、背中を火で炙《あぶ》られるような熱さを感じ、振り向くと、そこに信じられない光景を見た。
全身を炎に包まれた人影が、よろよろとよろめきながら自分の方に突進してくる。
それが自らが放った火に生きながら焼かれようとしている妻の姿であることに気づくまで、聖二はそこに足に根が生えたように立ち尽くしていた。
「……渡さない。あんな小娘には渡さない。あなたはわたしだけのもの……」
髪の殆《ほとん》どが焼け落ち、全身が黒く焼け崩れた、もはや人間の姿をとどめていない妻は、そんな呟きを漏らしながら、抱擁でも求めるように両腕を前に突き出したまま、聖二の方に向かってきた。
こんな姿になってまで何故歩けるのか。
気力だけで動いているようだった。
髪や肉の焼け焦げる厭《いや》な臭いがあたり一面にたちこめた。
それに混ざる生血の臭い。
部屋を嘗《な》め尽くす紅《ぐ》蓮れんの炎の舌。
窓の外では暗かった窓に次々と明かりが灯《とも》り始めた。
廊下の方からは、起き出してきた家人の叫び声と慌ただしい足音が聞こえてくる。
それらを窓辺で立ち尽くしながら、見、聞き、嗅《か》ぎ、感じていた聖二の脳裏に爆発したような白い閃光《せんこう》が突如ひらめき、瞬時にして、過去の記憶が奔流のように蘇《よみがえ》った。
イワレヒコだ。
イワレヒコの軍がなだれこんできた。
館に火を放たれ、家人を殺され、火と血と煙に渦巻く阿鼻叫喚《あびきようかん》の地獄図。
ミカヤはどこだ?
義兄のナガスネヒコは?
聖二は思い出していた。
これまで封印されていた無数の記憶の扉が次々と開いていくように。
あるいは、所々かけ落ちていたジグソーパズルの断片が猛スピードで次々と埋まって行き、それまで漠然《ばくぜん》としていた巨大な絵柄が立ち現れてくるように。
思い出していた。
その昔、まだ神代と言われていた遥《はる》か遠い昔に、自分がニギハヤヒと呼ばれた物部の若き長《おさ》であったことを。
もともとは遥か西南の果ての土地に住んでいたのだが、当時、日本列島を襲った火山の噴火や大洪水などの大災害ゆえに、それまでの土地を捨て、幾人かの供を引き連れ、船で東に向かって逃げ伸びてきたことを。
河内を抜け、いつしか、大和の三輪山の麓《ふもと》に辿《たど》りついた。そこには、山の頂上に住むと言われている巨大な蛇を崇《あが》める母系の一族が既に住み着いていた。
首長はまだ年若い女だった。ミカヤと言う名の美しい男勝りの巫女《みこ》王だった。ナガスネヒコという兄がいて妹を助けていた。このミカヤと深く愛し合うようになり、婿のような形でこの一族の者になった。
そしてあの日……。
ミカヤとナガスネヒコと供の者数人を連れて、三輪山に狩りに出た。そこの頂上で、あの伝説の光る巨大な蛇を見た。いや、あれは蛇ではない。螺旋《らせん》の構造をもつ巨大な光る生命体だ。
その螺旋状の生命体の発する青紫色のまばゆい光を全身に浴びて、自分もミカヤも気を失った。
気が付いたとき、それはもうそこにはいなかった。少し遅れて追いついてきたナガスネヒコたちに介抱されて、意識を取り戻し、なんとか山をおりた。
やがて月日がたち……。
やはり西の方からやってきたイワレヒコの軍に侵略され……。
自分は炎上した館の中で落命した……。そうではない。死にはしなかった。肉体は敵の剣に貫かれて滅びたが、魂魄《こんぱく》は滅びなかった。
死を意識した瞬間、魂魄が空に飛んでいた。そして暁暗《ぎようあん》のような虚空を抜け、その空《くう》の果てに、光り輝く真珠のような一粒の珠を見た。その青く光る珠めがけて突進した。そこは、敵の手を逃れかろうじて生きのびた妻ミカヤの体内だった。闇の中で唯一の目印のように光っていた真珠のような珠とは、生まれてまもない受精卵だった。
イワレヒコに攻め込まれる何日も前に妻と睦み合い、妻の体内に形見のように残しておいた一粒の受精卵。その中に真っすぐ入り込んだのだ。卵はやがて芽となり児となった。母体の子宮に守られ、やがて、自らの妻を母に、自らを父として生まれ変わった。
そして、長じた後は、母から渡された自らの遺骨を亡父の遺骨として守り崇めるようになった。
大和に新しい体制を作り、そこの王となったイワレヒコの膝元《ひざもと》で、祭祀《さいし》と呪術《じゆじゆつ》の特殊能力を買われて、重臣としてつかえた。
いつのまにか、ニギハヤヒは部族の神祖と呼ばれて、あの三輪山の頂上に出現した光る蛇と同一視されるようになり、生き残った物部の中で「蛇神」として恐れられ、祀《まつ》られるようになっていた。
その祀りの中心にいたのがいつも神主たる自分だった。
私は……。
もはや数えることも不可能な、気の遠くなるような長い年月を、幾度となく肉体の衣を脱ぎ捨てることで生き続け、自らの魂と遺骨を守り祀ってきたのだ。
今、ようやく己の正体が分かった。
蛇神と呼ばれた者こそ、自分自身であったことを。
聖二は全てを思い出していた。
時がすぎて、蘇我氏との政争がきっかけで大和の物部は滅亡した。しかし、その最後の血を引く物部守屋の子として生まれ変わっていた自分は、数人の家臣とともに、大和を捨て諏訪をも抜け、この日の本村まで辿《たど》りついた。
その昔、住み慣れた西南の土地を捨て、船で大和に辿りついたときのように……。
そして、「お印」をもつ日子《ひこ》として何代にもわたって転生し続け、新しい山に葬った遺骨を守り続けてきた。
そんな自分を、ミカヤも同じように転生を繰り返しながら、ここまで追ってきたのだ。時には同時代に親子やきょうだいとして巡りあうこともあったが、互いの転生のタイミングがあわずに、幾時代も会うことができないこともあった。
まさに自分とミカヤは、悠久の年月を、互いに求め合い、交じり合い、時には遠く離れ、また求め合うということを繰り返してきた一対の絡み合う雄蛇と雌蛇だった。
始めも終わりもない虚空に、長大なしめ縄を縒《よ》り合わせるように、遥《はる》かなる太古から果てしない未来に向かって、これからもえんえんと途切れることなく続くであろう絡み合う二匹の神蛇……。
そんな長い回想を瞬く間の一瞬でなしおえたとき、聖二の目の前に、業火そのものと化した妻、いや妻だった者が迫っていた。
炎に包まれ黒く焼け崩れた者が差し出す両手の片方の指にギラギラと光る石を見た。
トパーズ。
皇帝《インペリアル》のトパーズ。
自分が与えた石だ。
二十年間の奉仕への感謝をこめて。
妻に贈った最高の誕生石。
待てよ。
聖二ははっとした。
確か、この石の意味は……。
火だ。
トパーズとは……。
サンスクリット語で「火」を意味しているのだ。
この石の力か。
古代インドの言葉で「火」を表す石が、太古の炎の魔力を秘めたこの石が、あれほど柔順だった妻をこんな狂ったような行動に駆り立てたのか。
今、最期《さいご》の抱擁を求めるように、執拗《しつよう》に迫ってくる人間|蝋燭《ろうそく》と化した女をここまで追い立てたのは、この石の力なのか?
そして、その石を与えたのがほかならぬ自分であるということは……。
そう思い至ったとき、聖二の脳裏で、ほぼ揃ったジグソーパズルの絵柄の中で、唯一欠けていた真ん中の小さな小さな一片がどこからか現れ、きっちりと嵌《は》まった。
絵が完成した。
はっきりとその絵柄が見えた。
聖二の顔に会心の笑みが浮かんだ。
こういうことだったのか。
あの家伝書の意味は……。
とすれば……。
全ては必然だ。
こうなることは既に定められていた。
もう逃げることはできない。
恐れることはない。
この宿命を受け入れなければ。
目前に迫った炎の抱擁を受け止めなければ。この祭りの……。
最後の贄《にえ》は自分だ。
そう悟った瞬間、
燃え盛る美奈代の身体はしっかりと夫を抱き締めた。
「つかまえた……」
そんな歓喜の声が焼けただれた女の唇から漏れたとき……。
二人はしっかりと抱き合ったまま、一本の太い火柱となって烈しく燃え上がった。
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最終章
平成十一年、七月末の午後。
近隣の樹木から降り注ぐ蝉の声は姦《やかま》しく、どこかの軒下に吊《つ》るされた南部風鈴が時折ちりんちりんと涼しげな音色をたてている。
「……様」
誰かの呼ぶ声がした。
と同時に、肩に手を置かれ軽く揺さぶられるような感触。
日美香はうっすらと目を開けた。
目の前に、白い半袖シャツにスラックス姿の郁馬の姿があった。
「あ……。お帰りなさい」
日美香はあくびをして伸びをすると、長椅子から大儀そうに身を起こした。
廊下に長椅子を出し、それに寝そべって、ラジオの軽音楽を聴いているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
ほんの一時間ほどのうたた寝だったが、短い夢を見ていた。
その夢の余韻に身を浸しながら、
「……美里さんは?」
そう聞くと、
「居間の方にお通ししておきました」
郁馬は答えた。
昨夜、突然、新庄美里からこの村を訪ねたいという電話連絡が入ったのである。是非日美香と直接会って話したいことがあるのだという。それで、美里の予定を聞いて、郁馬に長野駅まで車で迎えに行かせたというわけだった。
「それと、これ、買ってきました」
郁馬は小脇に抱えていた四角い茶色の包みを開き、中から真新しい単行本を取り出すと、それを日美香に手渡した。
ついでに、市内の書店に寄って買ってきてくれと頼んでおいた新刊本だった。
「どうもありがとう」
日美香はそれを受け取ると、表紙を見た。タイトルは「太母神の神殿」。
沢地逸子著とある。
「ベストセラー本のコーナーに山積みされてましたよ、この本。前には、あそこにはノストラダムス関係の本が溢《あふ》れんばかりに並んでいたんですけどね。今じゃ影も形もありません」
郁馬はそう言って苦笑した。
「でも、あなたが沢地逸子のファンだとは知らなかったな。この人、フェミニズム活動で有名な怖い女学者でしょ? テレビとかで男の共演者によく噛《か》み付いてる」
郁馬が幾分おどけるように言った。
「別にわたしは沢地逸子のファンでもなんでもないわ。フェミニズムとかにも大して興味はないし」
「あれ。だったら、どうして、この本をついでに買ってきてくれなんて僕に頼んだんですか?」
郁馬は不思議そうな顔をした。
「新聞の広告欄で見て、なんとなく興味が引かれたのよ。なんでも、この著者が自分のサイトのコラムと掲示板の内容を一冊の本にまとめたものだとか。どういうものかなって思って。それと、『太母神』というタイトルがね……」
「タイトル?」
「ええ。自分が母親になったせいか、『母』という言葉に最近妙に反応してしまうのよ、わたし」
日美香は、臨月を迎えた大きな腹を片手でさすりながら微《かす》かに笑った。
それにもう一つ。
この本の版元が泉書房という出版社であったことも、日美香の注意を引いた要因の一つだった。
確か、この中堅どころの出版社は、あの喜屋武蛍子が編集者として勤めていた会社のはずだった。
この本の編集を彼女が受け持ったかどうかまでは分からなかったが、本の出版に火呂の叔母がかかわっていたかもしれないと思うと、何か縁のようなものを感じずにはいられなかった。
「……さっきね、うたた寝している間に夢を見たのよ」
沢地の本を小テーブルの上に置きながら、日美香はふと言った。
「どんな夢です?」
「とても良い夢」
「どんな?」
「この子が無事に産まれる夢。すっごく大きな産声をあげて。この日を待ちかねていたとでもいうように」
「へえ」
「あれはきっと正夢だと思うわ……」
日美香はほほ笑みながらそう言うと、郁馬の腕につかまりながら、ゆっくりと長椅子から立ち上がった。
冷たい煎茶《せんちや》を運んできてくれた女性が出て行ってから、居間に一人残された新庄美里は、開け放された窓辺に立って、扇子を使いながら、外の景色を眺めていた。
庭を挟んで、屋敷の南東の一翼が見える。全体に黒ずんだ古い家屋の中で、その一翼だけが最近新築されたように真新しかった。
そこだけ建物の木の色や屋根|瓦《がわら》の色が全く違う。
あそこが聖二さんの部屋だったのか……。
美里はある種の感慨を抱きながら、先代宮司の部屋だった建物を見つめた。
月日のたつのは早いものだ。
あれからもうすぐ八カ月が過ぎようとしている。
昨年の十一月二十七日の未明。
あの部屋から突然火の手があがって、寝ていた宮司夫妻が逃げ遅れて焼死したのだ。
未明の火災の原因は、灯油用のポリタンクが空のまま部屋に残されていたことから、書斎に置かれたストーブの火の不始末ではないかと思われた。その日は、火災が起こる直前に地震があったそうで、その地震が火災発生の引き金になったとも考えられた。
不幸中の幸いというか、未明の火事だったにもかかわらず、消火活動が迅速だったせいか、焼失したのは、南東の一翼を占める聖二の部屋と隣の客室の一部だけだった。
犠牲者も宮司夫妻だけで、ほかの家人は怪我一つ火傷一つ負わなかったという。
とまあ、表向きはこういうことになっているのだが、美里が夫の貴明から内々に聞かされた情報によれば、これは不慮の火災事故ではなく、どうやら義弟夫妻の無理心中ではないかということだった。
一人の遺体かと思われるほど固く抱き合って黒焦げになっていた夫妻の最期の様子から見ても、また、寝室の方に鞘《さや》を払った血塗られた日本刀が転がっていたということから考えても、どちらかが一方を殺して自害したのではないか。夫は苦い表情でそう打ち明けてくれた。
「……弟の性格や立場から考えて、奴が妻を殺して自害したとは考えにくい。おそらく美奈代の方から仕掛けたのではないか」
夫はそうも言っていた。
しかし、むろん、そんな事が表沙汰《おもてざた》になることはなく、身内のスキャンダルを恐れた夫自らが素早く手を回して、宮司夫妻の突然の死は、不慮の火災事故として片付けられてしまったようだが……。
その後、葬儀のときに耳にした話では、宮司職は、聖二のすぐ下の弟の雅彦が暫定的に引き継ぐことになったらしい。
聖二の遺志では、自分の後継者は下の弟の郁馬にということだったようだが、郁馬はまだ二十三歳と若く、その上、宮司は妻帯者でなければならないらしく、郁馬がいずれ妻帯して、もう少し年輪を重ねるまでの間は、この三男が宮司職を務めることになったという。南東の一翼の新築の部屋に既に人が住んでいるような気配があるところを見ると、もうあそこには新しい宮司夫妻が住んでいるのかもしれない。
そんなことを思いながら、窓の外を見ていると、廊下の方から足音がした。
振り返ると、日美香が入ってきた。
久しぶりに日美香を一目見て、美里は声にならない感嘆の声をあげた。
美しい。
純白の袖無《そでな》しのマタニティドレスをゆったりと纏《まと》い、長い黒髪をまとめずに無造作に肩や背中にたらしている若い女の姿は、女の目から見ても、惚《ほ》れ惚《ぼ》れとつい見とれてしまうほどに美しかった。
来月半ばが予定日という腹部ははち切れんばかりに膨らんでいたが、ほっそりとした手足や上半身と、迫《せ》り出した腹部の膨らみとが妙にアンバランスで、それが不思議なエロティシズムを漂わせていた。
エロティシズムといっても、決して下品な色気ではなく、どこか高貴な香りのする色気だった。
美里は、昔どこかの美術館で見た、「受胎告知」という題のルネッサンス期の絵画をふと連想していた。
今、目の前にいる女は、まさにあの大天使から「受胎告知」を受ける若きマリアのように神々《こうごう》しく、かつ、どこか禍々《まがまが》しいほどの色香を湛《たた》えて、目の前にいた。
涼しげな純白のマタニティを着ているせいか、その身体から後光のようなものがあたり一面に射しているようにさえ感じられる。
「お待たせしました」
日美香はそう言って、身重の身体をいたわるように、ゆっくりと落ち着きはらった物腰で入ってくると、席についた。
美里も慌てて窓辺を離れ、さきほどまで座っていた座についた。
「お身体の具合はいかがですか」
挨拶《あいさつ》もそこそこに、そうたずねると、
「先日も長野の病院で診てもらってきたんですが、順調に育っているそうです」
日美香はにっこりと笑って言った。
「男の子だそうですね?」
さらにそう聞くと、
「ええ」
日美香は深く頷《うなず》いた。
「順調だと聞いて安心しました」
美里もほっとしたように顔を綻《ほころ》ばせた。
「ただ……」
笑顔を絶やさないまま、日美香が世間話でもするような軽い口調で言った。
「順調に育ってはいるのですが、お医者さんの話では、少しだけ問題があるのだそうです」
「問題?」
美里の顔からたちまち笑みが消えた。
「検査で分かったのですが、子供の足に少し障害が見られるんです」
「障害って……どのような?」
美里はハンカチを口元にもっていきながら、おそるおそる聞いた。
「指がないんです」
日美香は笑顔のまま言った。
「……」
真夏だというのに、美里の背中をふいに悪寒が走り抜けた。
「指がない……?」
「ええ。両足の指が一本も……。手の指はちゃんと五本ずつ揃っているのですが、足の方の指らしき分岐が全く見られないんです。両足とも、膝《ひざ》から下が一本の先細りの棒のようになっていて、まるで、その……蛇の尻尾《しつぽ》のようだと」
「……そ、それで歩けるんですか」
「さあ。お医者さんの話では、このままでは普通の歩行は難しいというか不可能ではないかと……」
日美香は笑顔のままそう答えた。
「た、たとえば、手術か何かで足を治すということは?」
「さあ。それも産まれてみないと詳しいことは分かりませんが、難しいようですね。普通に歩くためには、いっそ膝から下を切断して、義足をつけるとかしなければならないかもしれません」
「……」
生まれついて、下半身にそんな重大な障害があるのか。
それが「少しの」問題なのか。
美里は愕然《がくぜん》としていた。
何よりも、こんな話を、笑顔のまま淡々と話す目の前の女に驚愕《きようがく》を通り越して恐怖にも近い感情を抱いた。
蛇のような足をもつ胎児……。
それは一種の奇形ではないのか。
口には出せなかったが、美里の脳裏にそんな言葉がひらめいた。
それをこの娘は別にたいしたことはないという顔で話している。内心ではそんな障害をもつ子供を産むのが不安でたまらないのだが、ただ強がっているだけなのだろうか。
「たとえ歩けなくても、這《は》って移動することはできると思いますから」
日美香はなおも言った。
「そ、それは、産まれたばかりの赤ちゃんは皆、這い這いからはじめるものですけど……」
美里は、自分でも何を言っているのか分からないほど、しどろもどろになっていた。
「この子の場合はそれが一生続くというだけのことです。でも、それならそれでいいと思うのです。普通の人のように歩くべき足が生まれつき備わっていないということは、この子は、普通の人のように歩く必要のない宿命を背負っているからとも考えられるからです」
「……歩く必要のない宿命……?」
「ええ。水の中で泳いで暮らす必要のない生物には水掻《みずか》きが不要なように、空を飛んで暮らす必要のない生物には翼が不要なように。生物はこうして自分の今いる環境に最も適した身体に自らを作り変える能力をもっていますから。この子に生まれつき足がないということは、この子には、そうした機能を使って地面を歩く必要などないということかもしれません。だから、足が退化したのだとも考えられます。そして、退化した足の代わりに、何か別の、これからの地球環境で暮らすために必ず必要になってくる新しい身体的特徴をもっているのかもしれません」
「……」
「わたしはこの子の足が生まれつき普通の人と違うのは、障害とか奇形とかいうのではなく、お印だと思っています」
「お印?」
「そうです。お印です。普通の人とは違う新しい生物であるというお印です」
日美香はそう言って婉然《えんぜん》とほほ笑んだ。
「あの、実は、今日突然伺ったのは……」
ややあって、美里は話題を替えるように言い出した。
日美香の子の足の「障害」については、東京に帰り次第、早々に夫と相談しようと思いながら。
産まれる前から、ここでああだこうだと言ってみてもはじまらない。
それよりも……。
総理夫人という立場上、何かと多忙な身に鞭打《むちう》つようにして、こんな山奥までやって来たのは、そうせざるを得ない切実な理由があったからだ。
その話を早く切り出さなければ。
「お腹の子の父親のことなのですが……」
そう続けようとすると、
「その件なら、前にも電話で申し上げたように、わたしは一切お話しする気はありません」
日美香は俄《にわか》に厳しい表情になって、鼻面で戸を閉ざすような素っ気なさで言った。
「で、でも……」
「前にも申し上げたように、わたしは日女《ひるめ》です。この村では、日女の子はすべて大神と呼ばれる蛇神の子とみなされます。人間の父親が誰かなどということは一切|詮索《せんさく》しないのです。それはどうでもいいことなんです。ですから、その話はもう……」
「でも、武が――」
美里はそう言いかけて口ごもった。
「武? 武君がどうかしたんですか」
日美香はやや心配そうに聞き返した。
「武があなたの妊娠のことを知って、もしかしたら自分の子かもしれないと言い出して。そのことで、先日、ニューヨークから電話してきたんです」
「……」
武がこの四月に入学したばかりの大学を十日ほど通っただけで退学した後、突然、ギタリストになると言い残して日本を立ち、ニューヨークにいる友人のアパートに転がりこんで、その友人と共に音楽活動のようなことをしているらしいという噂は、日美香の耳にも届いていた。
その友人というのが……。
「予定日が八月なら身におぼえがあると言うんです。それをあなたに確かめてくれと。それで、もし、自分の子なら、すぐ日本に帰ってそれなりの責任を取りたいからと」
「責任を取るとは……?」
日美香は冷静な顔で聞き返した。
「詳しいことは電話では言いませんでしたが、当然、あなたと結婚するか、それが無理なら、子供だけ認知するとか、そういうことだと思いますけれど」
「そんな必要はありません。そう武君に伝えてください。こんなことで日本に慌てて帰ってくることはないと」
「あの……それは、武がお腹の子の父親ではないという意味ですか。それとも」
美里はこわごわという顔つきで聞いた。
「この件に関して武君は全く無関係です。そうとしかわたしには言えません。とにかく、武君と結婚する気はありませんし、子供の認知も必要ないです。責任とかそんなことは一切考えなくていい。そう伝えてください」
「あなたはそれでよくても、武の親であるわたしたちはそれでは済まないのですよ」
美里は不服そうに言った。
「息子の不始末を見て見ぬ振りをするわけにはいきませんし、もし、これがマスコミに嗅《か》ぎ付けられたら、また格好のスキャンダルとばかりに……」
「息子の不始末?」
日美香は眉《まゆ》を寄せた。
「主人はそう申しておりました。わたしも……。実をいうと、あなたを武の家庭教師にすると聖二さんから伺ったときから、いつかこんな問題が起こるのではないかと心配していたんです。でも、あのとき、聖二さんは、そうなったら、武をあなたの婿にして神家に迎えれば一件落着だとおっしゃって。でも、その聖二さんがあんなことになってしまって、今となっては、武の尻拭《しりぬぐ》いができるのは、わたしども親だけになってしまったわけですから――」
美里がさらにくどくどと言い募ろうとすると、日美香は遮るように言った。
「武君は何も不始末などしていません。だから、あなたがたが責任とか尻拭いとかいうのは全くお門違いです」
「……」
「武君が身におぼえがあると言ったのは、おそらく、ある神事にまつわることだと思います。よその方には詳しくは話せないのですが、この村には、毎年の大神祭で、ある特殊な神事を行うのです。去年は、武君にもその神事に協力して貰《もら》いました。本人はあまり気の進まない様子だったのを頼み込むようにして無理やり。この件で、誰か被害者がいるとしたら、それはむしろ武君です。だから、彼はこの件に関して、何の責任も負う必要はないと言ってるんです」
「……つまり、あなたのお腹の子は別の男性の子で、武とは全く関係がない。武にはそう伝えてよいということでしょうか」
美里は業を煮やしたように言った。
どうも日美香の言わんとすることが今いち理解できない。自分が知りたいのは、腹の子の父親が武なのかそうではないのかということだけだ。武もそれを知りたがっている。もし、違うなら、これ以上、この件に深入りするつもりもない。
母親の情としては、できれば、成人前の息子に父親などという大役を押し付けたくはない。武の子でないなら、こんな有り難いことはない。
それなのに、日美香はそのことはなぜか明確にせず、「無関係」とか「不始末ではない」とか、どこか奥歯にものがはさまったような言い方で答えようとする。
それが美里の神経を苛立《いらだ》たせていた。
「はい。そう伝えてくれてかまいません。そのとき、こうも伝えてくれませんか。こう言えば、武君にはすべてが分かると思うので」
短い沈黙の後、日美香は何かを思いついたような顔で言った。
「わたしはこの子をお養父《とう》さんの生まれ変わりだと信じている。だから、生まれてくる子は、お養父さんだと思って育てるつもりだと」
「聖二さんの?」
美里は怪訝《けげん》そうに聞き返した。
「そうです。お養父さんがあんな不慮の……事故で亡くなって、その後に、この子が授かった。これは偶然とは思えません。なんだか、わたしには、この子がお養父さんの生まれ変わりのような気がするのです」
「……」
美奈代はやや意外そうに日美香を見ていた。生まれ変わり云々《うんぬん》というのは、まさか本気で信じているわけではなく、言葉の綾《あや》にすぎないのだろうが、この娘がこんなことを口にするほど、養父である聖二を慕っていたとは知らなかった。
葬儀の際も、列席者が号泣している中で、この娘一人が、涙ひとつ見せず、まるで赤の他人の葬儀にでも参列しているような恬淡《てんたん》とした態度だったのがかえって印象に残っていた。
しかし、冷淡そうに見えたのは見かけだけで、内心では養父をそれほどまでに慕っていたのか……。
そう見直す気持ちだった。
「分かりました。武にはそのように伝えます」
釈然としないまま、それでも幾分ほっとしながら美里は言った。
初めて会ったときから義弟の聖二が苦手だったように、この娘がどうも苦手だった。こうして面と向かっていても、何か落ち着かない気分にさせられる。
できれば、息子の嫁として付き合いたい相手ではない。それが美里の本音だった。
「武君はむこうで元気にやっているようですか? 郁馬さんから時々噂は聞いているのですが」
日美香が表情を和らげて聞いた。
「ええ。元気すぎるくらいで。去年の暮れあたりに何を思ったのか、急に古いギターを引っ張り出してきて、勉強の合間に熱心に弄《いじく》っていたかと思ったら、今年になって、突然ギタリストになるなんて言い出して。ようやく第一志望の大学に合格してくれてやれやれと思っていた矢先だったのに。今にはじまったことではないけれど、あの子の気まぐれには、いつも振り回されっぱなしで」
美里はそう言って苦笑したあと、思い出したように、
「そういえば、あなたも大学の方は?」
と聞いた。
「退学しました」
日美香は当然のように答えた。
「ということは、出産されたあとは復学する意志はないということですか。このまま、ここで?」
「はい。子育てに専念しようと思っています」
「あの、そのことなんですが……」
美里は心もち前のめりになって切り出した。
「考え直しては貰《もら》えませんか」
「考え直す……?」
「出産して落ち着いたら、もう一度上京して、復学して戴《いただ》きたいのです。赤ちゃんは新しい宮司さん夫妻の子として籍に入れられるのでしょう? それならば、そのまま子育てもそちらにおまかせして、あなたは自由になられては?」
「……」
「いえ、これはわたしの考えでなくて、主人の考えというかお願いなんですが」
「新庄さんの?」
日美香は眉《まゆ》を顰《ひそ》めて聞き返した。
「ええ。主人が申しますのには、あなたがその若さでこんな山奥に引きこもってしまうのは勿体《もつたい》ないというのです。それで、もし、あなたが政治の世界に多少とも興味がおありでしたら、大学にもう一度入り直して政治学の勉強を一からしてもらいたいと。そして、行く行くは、信貴のように秘書を経て政界に入り、主人のブレーンの一人になって欲しいと……」
「わたしに女性大臣の道でもめざせと?」
日美香はやや皮肉っぽい口調で聞いた。
「最終的には……。女性もどしどし社会に進出して行く時代ですから。しかも、あなたにはそれだけの能力が十分備わっていらっしゃる。それをみすみす、こんな田舎に引っ込んで子供のためだけに費やすのは勿体ない、それでは時代に逆行する古臭い生き方ではないか、そのためならどんなバックアップでもするからと、主人が……」
「そこまで見込んでくれるお気持ちは嬉《うれ》しいのですが、わたしにはその気は全くありません」
日美香は何の迷いもない顔できっぱりと言った。
「で、でも……」
「申し訳ないですが、わたしはあまり政治には興味がないんです。それに、わたしが現世でしなければならないことは、政治家になることではなくて、母になることなんです。今この胎内に宿っているこの子を産んで育てることです。この子が母親を必要としなくなる年齢に達するまで。それが時代に逆行する古臭い生き方だろうが、わたしが現世でやらなければならないことなんです」
「……」
ゲンセイって何だろうと思いながら、美里は黙って聞いていた。
「それに、前世では、わたしはやむをえない事情があって、この子を一度捨てました。でも、二度と捨てるわけにはいかないんです。今度こそ何があっても、そばにいてやらなければ……」
「あの、そのゲンセイとかゼンセイとか言うのは……?」
美里は理解不能という表情で聞いた。
しかも、「この子を一度捨てた」って、まだ産まれてもいない子供をどうやって捨てるのだろう……?
「いえ、何でもないんです。独り言です」
「あ、独り言ですか……」
美里は、憮然《ぶぜん》とした表情で言った。
この超然として不可解な娘の姑《しゆうとめ》にだけは、なりたくないと改めて思いながら。
「今夜のおかずは何にしよう」と話している最中に「ゼンセイでは……」などと言われたら、どんな顔をしていいのか分からない。こんな噛《か》み合わない会話が毎日続いたらノイローゼになってしまいそうだ。
息子の嫁は、多少とろくてもいいから、普通の会話ができる平凡な娘がいい……。
「要するに、わたしの気持ちは全く変わらないということです」
日美香はもう一度言った。
「承知しました。主人にもそう伝えます」
「ただ、この子がもっと大きくなって、いつか、新庄さんのお力というかお立場を必要とする時が来るかもしれません。そのときはお力を借りにいくことがあるかもしれませんが……」
「それはもちろん、わたしどもにできることなら、どんなことでもするつもりですよ。今度はわたしたちを父母だと思って、いつでも頼ってきてください」
美里は少し気を良くしたような表情で答えた。
「……それで、武君のことなんですが」
日美香は話を元に戻すように言った。
「ニューヨークで一緒に暮らしているという友人というのは……?」
「その方なら照屋火呂さんといって、宝生なんとかという有名な音楽プロデューサーの元で歌の勉強をしている若い女性なんです」
美里はそう言いかけ、
「そうそう。その人がびっくりするほどあなたに似ているんですよ」
「わたしに?」
日美香は驚いた振りをした。
武がひょんなことから火呂と知り合い、今、ニューヨークで同棲《どうせい》しているらしいという話は既に郁馬から聞かされていた。
「わたしも一度お会いしたことがあるんですが、そのときは本当にびっくりしました。あなたにそっくりなんです。双子かと思うほどに。沖縄の方だそうで、武とは弟さんの交通事故がきっかけで偶然知り合ったという話なんですが……」
美里はそう言って、武と火呂が知り合った顛末《てんまつ》を詳しく話してくれた。
「同棲しているということは、もう二人は……?」
恋人同士なのかと言う意味で聞くと、美里はかぶりを振り、
「それが武の話ではそうではないというんです。むこうで一緒に住んでいる相手が若い女性だと聞いて、わたしも主人もてっきりそう思い込んでいたんですが。でも、武が言うには、同棲ではなくてルームシェアだというのです。照屋さんとは友人の域を出ていない。音楽活動の仲間であり、プライベートでは、彼女の弟の代わりをしているだけだと」
「弟の代わり?」
「照屋さんの弟さんは事故以来、いまだに昏睡《こんすい》状態が続いているそうで、その弟さんの意識が戻るまで、弟役をすることに決めたのだというんです。照屋さんと一緒に住んでいるのは、あちらは治安が悪くて何かと物騒なので、若い女性の独り住まいは危険、それで自分がボディガード役を兼ねてそばにいるのだと。とまあ、こんなことを電話で一方的にまくしたてて」
美里はそう言って、はぁとため息をついた。
「もっとも、こんな話、主人は頭から信じていないようですけど。武が若い女のボディガードをするなんて、狼に羊の番をさせるようなものだ。ボディガードが一番危険じゃないか。今、二人でCD製作に勤《いそ》しんでいるようだが、CDを作る前に、また子供でも作るんじゃないかと心配しています」
「CD製作? もうそんなことまで……?」
「ええ。タイトルも決まっていて、『覚醒《めざめ》』というんだそうです。照屋さんが弟さんを長い昏睡状態から一日も早く覚醒《かくせい》させたいという祈りをこめて作った歌とかで、それにプロデューサーである宝生さんが編曲をして、武のギター伴奏を入れるという企画だそうで……」
「それは凄《すご》いですね」
日美香は目を輝かせて言った。
「宝生輝比古といえば、『音の錬金術師』なんて異名を取るほどの敏腕プロデューサーでヒットメーカーだそうですから、ひょっとしたら、そのCDは大ヒットするかもしれませんよ。そして、それがきっかけで武君はスターになるかもしれません」
「まさか……。そんな夢みたいなこと。どうせそんなCDが世に出たところで、親戚《しんせき》や友人に配っておしまいってとこじゃないかしら。青春の記念にはなったという程度の」
と美里は、一笑に付すように笑っていたが、ふっと笑いをおさめた顔になり、「でも、そういえば」と言った。
「信貴が同じようなことを言っていたんです」
「信貴さんが?」
「武はもしかしたら、これがきっかけで、世界的に有名なギタリストというかアーチストになるかもしれないって」
「……」
「冗談ではなく真面目な顔で。あの子は武とは違って、地に足がついているというか、浮ついたことは一切やらないし口にしない子なんですが、その信貴が、珍しく、そんな夢みたいなことを。前に不思議なイメージのようなものを見たことがあるっていうんです」
「イメージ?」
「武がこちらに滞在してまもない頃に、一度信貴がお邪魔したことがありましたよね?」
「ええ」
「あのときだそうです。玄関で声をかけても誰も出てこないので、庭の方に回ったら、そこで相撲大会のようなことをやっていたというんです。そのとき、武が神家の人々に囲まれて、土俵にいるのを物陰から見ていたときに、妙なイメージがふっと頭に浮かんだというのです。
それは、いつか、武が、こんな風に物凄《ものすご》い数の群衆に囲まれて一段高い所にいるイメージだったそうです。まるで世界中から集まってきたような大群衆が、高い所にいる武を太陽でも仰ぐように見ている。しかも、そのとき、武は独りでなくて、隣には若い女性がいた。それがあなたによく似た人だったと」
「……」
「今から思えば、あのイメージというのは、武がどこか広い野外に作られたコンサート用のステージか何かに立っていて、聴衆に囲まれていたのではないか。信貴はそういうんです。そして、武のそばにいた女性というのは、あなたではなくて、あなたによく似た、この照屋火呂さんだったのではないか。
あれは、もしかしたら、いつか、武と照屋火呂さんが、あれだけの大聴衆を集めてコンサートをするようになる、それほど有名なアーチストになるという未来の姿なのではないか。あの生真面目な子がそんな夢みたいなことを真顔で言うんですよ……」
夕刻、少し涼しい風が吹き始める頃になると、聖二と美奈代の墓に線香をあげてくると言って、美里は日の本寺の方に出かけて行った。
予定では、一泊だけして、明日の朝には東京に帰るということだった。
日美香は居間を出ると、さきほどまで寝そべっていた長椅子の所に戻った。
そこにまた座ると、小テーブルに載せてあった沢地逸子の本を取り上げた。
それをペラペラとめくってみた。
著者のあとがきが付いている。
それを先に読んでみると、「編集を担当してくれた鏑木蛍子さんへ……」という謝辞のような文章が目についた。
鏑木蛍子?
名前が同じなので、喜屋武蛍子を思わず連想してしまったが、名字が違うところを見ると別人なのだろうか。
それとも……。
そんなことを思いながら、あとがきにざっと目を通してから、冒頭に戻り、「原始、女性は月だった」という、何やら平塚らいてうのパロディめいたタイトルからはじまるコラムの方を読み始めた。
「……ギリシャ神話では、最古の月の女神エウリュノメが月の蛇(宇宙蛇)オピオンと交わって銀の卵を生み、この卵から、太陽や遊星、他の星たちが生まれたとある……」
そんな書き出しで始まる文章を読みはじめたが、そのうち、日美香の思考は、目の前の本から離れて、宙をさまよっていた。
武と火呂が……。
郁馬から二人のことを初めて聞かされたときは少なからず驚いたが、今はむしろ、しみじみとした感慨に近いものが胸に迫ってきた。この世のことは成るように成る。
成るようにしか成らない。
縁のある者同士は、どれほどの障害があろうと、多くの偶然の重なりによって、必ず巡り遇うものであるし、無縁の者とは、どれほどお膳立《ぜんだ》てをして人事を尽くしても、遇うことはできないのかもしれない。
武と火呂の出会いが全く偶然の重なった結果だったとしても、その偶然も重なれば必然になるのだろう。
二人は遇うべくして遇ったのだ。
ふとそんな思いにとらわれた。
いや……。
二人ではない。
三人というべきかもしれない。
宝生輝比古もまた、この二人と遇うべくして遇ったという気がした。
というのも、いつだったか、この音楽プロデューサーが雑誌のインタビューに応《こた》えて、自分の生い立ちについて語っているのを読んだ記憶があった。
それによれば、宝生は、子供の頃、母方の実家のある出雲で育ったそうで、その実家というのが、佐太神社の神官の家柄で、この地方に古くから根付いた蛇信仰の影響を祖母から強く受けて育ったとあった。
彼もまた、生まれながらにして「蛇」と深くかかわる者だったのだ。
この三人は、いわば三匹の神蛇、互いが互いを呼び合うようにして、遇うべくして遇ったのだろう。
そして、この三匹の神蛇が絡み合うようにして産み落とした卵が、今製作中の「覚醒《めざめ》」というタイトルのCDだとしたら、神の啓示のようなこの音楽が世に埋もれてしまうはずがない。
発売と同時に、空前絶後と言ってもよいほどの大反響を呼ぶのではないか。
日美香にはそんな予感がした。
それにしても……。
なんだかおかしかった。
自然に笑いがこみあげてくる。
武が火呂のボディガードとは。
いつか、わたしに向かって言ったことを、彼は着実に実現しているのか。
相手を妹に変えて……。
まず大学に受かったら、すぐに退学して渡米し、アメリカでの生活に飽きたら世界中を回る。そして、世界中を回り終えたら、今度は宇宙へ……。
あのときは、調子づいた妄想狂の戯言《たわごと》にしか聞こえなかったが、彼は、あの言葉通りのことを、長い階段を一歩一歩昇るように、着実に実現させていくのかもしれない。
そして、いつか、こんな「しょぼすぎて泣けてくるほどちっぽけな」村のことなど奇麗に忘れてしまうのだろう。
それでいい。
武は火呂とともに、世界を股《また》にかけるような空間的な生き方をすればいい。
火呂とは、友人の域を出ていないということらしいが、たとえ彼の両親が信じなくても、わたしはその言葉を信じる。
たぶん、火呂とは、「まだ」友人であり仲間であり疑似姉弟でしかないのだろう。
でも、いつか、火呂の弟の意識が戻ったとき、武はやっと弟役を返上して、火呂にとって別の大切な存在になるのだろう。
そうなった二人を頭に思い描いてみても、日美香の中には何の嫉妬《しつと》めいた感情も起こらなかった。
それどころか、早くその日がくればいい。火呂の弟が一日も早く目を覚まして、二人が疑似姉弟でなくなる日が来ればいいと、心の底から願った。
この双子の妹には、武のことで張り合う気持ちを強く持ち、「最大の敵」と感じたこともあったが、今はそんな感情を抱いた自分がひどく遠いものに感じていた。
思えば、あれは勘違いだったのだ。大いなる錯覚だった。
今、そのことがはっきりと解った。
武に恋情のようなものを抱いたと思ったのは、別の男への想いを武に対するものだと勘違いしていたにすぎなかった。
あの少年の肩越しにずっと違う男を見ていた。最初からその男しか見ていなかった。わたしはそのことに自分で気づいていなかっただけだ。
ああ、もしかしたら。
日美香は思った。
武は感づいていたのかもしれない。
だから、この村から、わたしのもとから去っていったのか。
わたしの視線の先にあるものが自分ではないことに気づいて……。
武に感じた母性的な愛情は、あれはその男の母親だった女の記憶が自分の中で次第に覚醒《かくせい》していたに過ぎなかった。それを、年下の異母弟《おとうと》への想いと勘違いしてしまっただけだった。
昨年の五月にはじめて会ったときから、わたしの想いはずっとただ一人の男の上にしかなかった。
聖二と自分の、その長く長く深い深い縁を思えば、それは当然のことだった。わたしの転生者としての記憶はまだほんの一部しか覚醒していない。わたしの中のジグソーパズルの絵柄はまだ半分も明らかになっていない。
祖母である緋佐子の記憶の一部。そして、あのミカヤと名乗り、過去に聖二の妻だったと叫んで、封印された記憶の扉を中から蹴破《けやぶ》るようにして突然現れた女の記憶。現代人がとうに失ってしまった本能と野生に充ちた太古の女の記憶。
それもごく断片的でしかない。
でもこの二人の女の記憶の一部的な覚醒で、一つだけ解ったことがある。
わたしはこの先も、たった一人の男の存在、その魂魄《こんぱく》だけを追い続け、愛し続けていくだろうということ。
過去においてそうだったように、未来においても……。
あの夜。
聖二はわたしを守ろうとして死んだ。
もし、あのとき、深夜の地震に脅《おび》えて、あの部屋で一緒に寝たいなどと言い出さなければ……。
嫉妬に狂った美奈代があんな行動に出ることはなかっただろう。その結果、聖二がわたしをかばって命を落とすようなこともなかった。
あの後……。
まるで一つに溶け合うように固く抱き合った二人の黒焦げの遺体を目の当たりにしたとき、心底、美奈代が憎かった。そして妬《ねた》ましかった。
わたしも、あんな風に一つになりたかった。それを邪魔したのは美奈代だ。
でも、時間がたち、黒焦げの遺体を見たショックと悲しみが少し鎮まったあと、わたしはすぐに気が付いた。
美奈代が抱きついて、地獄まで引きずり込んで行ったのは聖二ではない。聖二の抜け殻にすぎないと。その魂魄は、肉体が燃え上がる瞬間、生きながら燃え尽きていく肉の衣を捨てて宙に飛んだはずだと。
美奈代が最期《さいご》につかんだのは、脱ぎ捨てられた古衣にすぎなかったのだと……。
高い能力をもつ日子《ひこ》である彼が、最期を迎えた瞬間、転生の術を使わなかったはずはない。そして、それは必ず成功しただろうと。そう確信した。
だから、葬儀の席では涙一つこぼさなかった。生き神とも呼ばれた宮司の突然の惨死に、驚きうろたえ悲しみうちひしがれて号泣する村人や家人の中、ただ一人、わたしだけが涙も見せずに淡々としていた。
こんな形だけの葬儀など無意味だと思っていたから。肉の衣を葬るだけの儀式など……。葬儀の後で、わたしと同じ思いを抱いていた人が少なくとも二人はいたはずだ。耀子と郁馬だった。二人とも葬儀の席では、人並に涙を拭《ぬぐ》い、悲しみにくれているように見えたが、それは兄弟の死を悼《いた》むというより、これまで身近にいて毎日のように接していた者が突然いなくなったことへの悲しさ寂しさを表すものでしかなかったに違いない。
聖二が転生者であることを知っていた二人にとって、彼のこの死は一時的なものにすぎないことが分かっていたはずだから。
あの場で身も世もなく号泣していたのは、聖二と身近で接したこともなく、彼のことを何も知らない人ばかりだった。
実際、葬儀の帰り道、耀子はもう涙の乾いたさばさばした顔つきでこう言った。
「聖二は必ず転生します。早ければ、わたしたちが生きているうちに。あの子が新たに誕生するのをこの目で見ることができるでしょう。あなたはまだ若いからいいけれど、わたしはもう若くはないから、そのときまでせいぜい長生きするようつとめなければ……」と。笑みすら浮かべた顔でそんなことを言ったのだ。
わたしもそう思った。
いつか、そんなに遠くない将来、また遇うことができるのだと。そう信じた。
でも、まさか、こんなに早くその「とき」が来るだろうとは思っていなかった。
葬儀を終えて二カ月くらいたった頃、それはふいにやってきた。
身体の変調を感じたのだ。来るべき月のものも来ない。もしやと思い、すぐに病院に行き調べてもらったら……。
受胎していることを知った。武の子だった。あの祭りの夜、受精に成功していたのだ。その報告を受けたとき、わたしの脳裏に一筋の光が射した。
聖二が惨死した夜、わたしの子宮内には、既に武との間で作り上げた受精卵が生まれていたということになる。
ということは……。
死の間際、宙に飛んだはずの聖二の魂魄は、まっすぐ、この受精卵、あるいは既に着床していた胎芽の中に入り込むことができたのではないか。
もし、それが成功していたとすれば、今、わたしの中で育ちつつあるこの胎児は……。そう思い至ると狂喜した。
いつか転生、どころか、それはもう既になされていたのだと知って。
しかも、このとき、わたしはあることに気が付いていた。
それは、あの惨劇の夜、ミカヤと名乗って現れた女の正体。
それを知ったのだ。
あの後、聖二の咄嗟《とつさ》の機転で焼失をまぬがれた家伝書を独りで読み進んでいたときに、家伝の冒頭に、このミカヤの名前が出てきたことを思い出した。
「神祖ニギハヤヒの神妻」として。
ということは……。
わたしは物部の神と呼ばれたニギハヤヒの妻の転生者であり、聖二はその夫、つまり……。
聖二こそが大神、蛇神と呼ばれたニギハヤヒ自身の転生者であったことを。
それが解った瞬間、固く閉じられていた巻物が紐解《ひもと》かれ、するするとひとりでに広がるように、何もかもが一気に解った。
家伝書の冒頭の予言めいた言葉の意味も。
二匹の双頭の蛇とは、やはりわたしと武のことだった。
一の蛇たる武の落とした剣、すなわち精子と、二の蛇たるわたしの落とした玉、すなわち卵子とが、聖なる甕《みか》たるわたしの子宮内で出会い、一つの受精卵と成ったとき、ここに「大いなる御霊《みたま》が宿る」とは、この受精卵に、大神たる聖二の魂魄《こんぱく》が宿る、という意味であったことを。
そして、これこそが太古の蛇神の復活を意味するものであることを。
ここに至って、真の祭りは成就したのだ。
それは三日間の祭りの期間においてではなく、わたしが聖二の魂魄を受胎したこの瞬間において。
真の祭りは、わたしと武が交わるだけでは不十分だった。最後に、聖二の現世での死と転生という要素が加わらなければならなかったのだ。
聖二も死の間際にそれを悟ったのではないか。神主である自らの肉体を、最後の生き贄《にえ》として捧《ささ》げなければ、この祭りが成就しないということを。
だから、あのとき、逃れようと思えば逃れることができたはずの妻の炎の抱擁を自ら進んで受け入れたのだ。
あのヘラクレスのように。
太陽神の申し子らしく、生きながら炎に焼かれるという身の捧げ方で……。
あの夜に起こったことは全て、真夜中の地震も、子供の頃の地震の記憶に脅えたわたしの子供じみた言動も、地震のもたらした刺激で蘇《よみがえ》ってしまった太古の神妻ミカヤの出現も、美奈代の嫉妬《しつと》に狂ったような異常な行動も、何もかもが、この最後の祭りを仕上げるための、必然の過程にすぎなかったのだ。
それが解ったとき、歓喜と共に、わたしは、どこか天使のような顔をした若い医師の「受胎告知」を受け入れた。
でも、一時の歓喜が去って、だんだん不安になってきた。
果たして、聖二は死の間際、転生に成功したのだろうか。その可能性は高いとはいえ、絶対とはいえない。
前に聞いた話では、転生は受精卵の間しか成功できないということだった。ただ、とりわけ高い能力をもつ者だけが、受精卵が着床した後の胎芽の状態になっていても成功しうると。
だから、聖二が転生に成功した確率は高いとはいっても、決して百パーセントではない。失敗の可能性が残っている。
お腹の胎児は武の遺伝子を受け継いだ武の子に過ぎないのかもしれない。聖二は転生に失敗したのかもしれない。そんな一抹の不安は拭《ぬぐ》えなかった。
しかし、そんな一抹の不安も、最近受けた病院の検査で完全に一掃された。
胎児の成長を調べるその検査で、やや沈んだ表情で、担当の医師から、「胎児の足に異常が見られる」と報告されたときだった。その「異常」というのをわたしもこの目で見た。両足の先にあるべき一本の指もなく、先細りの棒のような、蛇の尾のような未発達の足を見たとき、わたしは驚愕《きようがく》よりも再び狂喜した。
胎児はその足先を身体に引き付け眠っていた。まるでとぐろでも巻くような格好で。
もう間違いない。
この子は聖二だと。
一点の曇りもなくそう確信した。
足が蛇のような形をしているのは、蛇の鱗《うろこ》模様と同じ、蛇神であることの証《あか》しであると確信したからだ。
子供の生まれながらの奇形を報告されながらも、落ち込んだり嘆くどころか、満面に笑みを浮かべて喜ぶ奇怪な若い母の姿を、担当の医師は、ショックのあまりどうかしてしまったのではないかとでもいいたげに、少し薄気味悪そうな目付きで見ていた……。
涼しい微風が吹いてきた。
あたりはもはや夕暮れの気配が色濃く漂っている。
日美香は、沢地逸子の本を開いたまま傍らに置き、ぼんやりと回想に浸っていた。
とても気分が良かった。
かつてこれほどの幸福感に包まれたことがあっただろうか。
そう思うほどに。
ゆったりと穏やかに充《み》たされて……。
自分の中の「甕」が聖なる神酒でこぼれるほどに並々と充たされている。
そんなほろ酔い気分にも似た陶酔感だった。長椅子に足のつま先まで伸ばして寝そべり、その陶酔感を心ゆくまで味わっていた。
あまりの気持ちの良さに、またうとうとしかけていると、
「美里さんは? どこかにおでかけ?」
と背後から声がした。
閉じかけていた目を開けて見ると、声の主は耀子だった。
「さきほど、お養父さんのお墓にお参りに行くとおっしゃって、お寺の方に。そろそろ戻られると思いますけど」
寝そべったまま言うと、
「急のお話って何でしたの? お腹の赤ちゃんのことだったんでしょう?」
耀子は気遣うような表情で聞いた。
「その話なら済みました。たいしたことじゃなかったんです」
日美香は大儀そうにそう答え、
「そんなことより、さっき、うたた寝をしていて夢を見たんです」
と楽しげに言った。
「夢? どんな?」
耀子も楽しげな顔つきで聞き返した。
「この子が産まれる瞬間の夢です。それはびっくりするような大きな声をあげて泣きながら産まれてくるときの……」
「まあ」
耀子の目が嬉《うれ》しそうに輝いた。
「夢の中でわたしはハッキリこの子の姿を見ました。それは奇麗な子でした。産まれたばかりの赤ん坊とは思えないほど肌の白い奇麗な子なんです。顔立ちもすっかり整っていて。猿になんか全然似ていなくて。光に充ちて神々しいくらいの……」
日美香はうっとりとした表情で言った。
「聖二も産まれたときはそうだったという話を聞いたことがありますよ。あんまり奇麗なので最初は女児かと思ったって」
耀子もにこにこしながら言った。
耀子にはすべてを打ち明けてあった。今では、この人が自分の母代わり、唯一、心を開いて話せる人だと思っていた。それに、この世で、自分の次に聖二の再生を心待ちにしている人でもある。
「……でも、とても奇麗なのは上半身だけだったんです」
日美香は、幸福そうな笑みを浮かべたままそう続けた。
「下半身は……蛇そのものでした。二本の足は膝《ひざ》から下が先細りになっていて……。しかも、お臍《へそ》から下には、足の先まで青紫の蛇の鱗模様が。まるでタイツでも履いているようにビッシリと」
「それじゃ……お印は背中ではなくて?」
耀子は目を丸くして聞いた。
「ええ。下半身全体に……。まるで、神の上半身と悪魔の下半身を併せもつような、そんな姿だったんです」
「……それはきっと正夢ね」
耀子は何を聞いてもいっこうに動じない顔つきで言った。
「わたしもそう思います。そうそう、この子が生まれたとき、最初に抱き上げたのは、耀子さん、あなただったんですよ。そうしたら、生まれたばかりの赤ちゃんが、一瞬、烈しく泣くのをやめて、あなたを見つめ、にこって笑ったんです。まるであなたのことが分かったように」
そう言うと、
「それは本当?」
耀子は手を打ち鳴らして、心底嬉しそうな声をあげた。少女に戻ったような無邪気なはしゃぎようだった。
「いつか会えるとは思っていたけれど、こんなに早く会えるなんて。しかも、この手に抱けるなんて……」
長椅子に寝そべった日美香の膨らんだ腹にそっと片手をあて、耀子は、中で息づく胎児に話しかけるように言った。そして、笑いながら、こう付け加えた。
「わたしも頑張って、少なくとも後十八年は長生きしないとね。今度こそ負けませんよ」
「十八年? 今度こそ負けないって……?」
日美香は不思議そうに聞いた。
「飲み比べです」
耀子は笑顔のまま答えた。
「飲み比べ?」
「去年の祭りの夜、聖二さんとお酒の飲み比べをしたんですよ。でも、わたしの方が途中で眠くなってしまって、勝負がつかなかったのです。だから、もう一度。今度こそどちらかが酔い潰《つぶ》れるまで。ここでは十八歳が成人とみなされてお酒が飲めるようになるでしょう? だから、後十八年。老後の楽しみになりそうだわ……」
耀子はそう言って、ほほほと愉快そうに笑いながら、立ち去って行った。
十八年後……。
日美香は寝そべったまま思った。
今が西暦1999年。
ということは、西暦2017年か……。
この子がその年齢に達したとき、世界はどのようになっているのだろうか。
果たして世界はこのままの状態を保っているのだろうか……。
目だけ巡らせて、庭の方を見た。
いつものように、静かで穏やかな夕暮れが訪れようとしていた。あれほど姦《やかま》しかった蝉の声も今では聞こえなくなっていた。
不気味なほどの静寂があたりを支配している。
つけっ放しのラジオから軽音楽だけが微《かす》かに流れ続けていた。
この子が生まれるのは嬉しい。
無事に生まれてくるだろうということは、あの正夢で確信した。
でも……。
幸福感に充ちた日美香の顔に僅《わず》かな影ができた。
少し怖いのは、この子が誕生した後のことだ……。
あの家伝書の冒頭の予言。
「……二匹の双頭の蛇が現れ、これが交わるとき、大いなる螺旋《らせん》の力が起こり、混沌《こんとん》の気が動く……」
あのくだり。
混沌の気が動く、という記述に、何かひどく禍々《まがまが》しいものを感じる。混沌とは、平和とか平穏とか秩序とかいう言葉とは対極にある言葉だろう。
何か世界的に大きな混乱、災害が起こるということだろうか……。
そういえば……。
先日、ようやく完読した家伝書の記述の中に、
「……この祭りの事、村人にもかたく秘すべし」という奇妙な一文を見つけた。
これは、聖二の曾祖父《そうそふ》に当たる宮司が書き残した一文だった。聖二の前世の姿であり、今は焼失してしまってないが、以前、聖二の書斎に飾られていた油絵のモデルでもある。
この宮司が、そんな謎の一文を書き残していたのだ。
なぜ、この祭りのことを、外部の者だけでなく、身内ともいえる村人にまで「秘すべし」なのか、何を、「秘すべし」なのかは分からない。
ただ、「かたく秘すべし」と。
でも、何かこの言葉に不吉なものを感じる。しかも……。
焼け残った書斎の机の引き出しから、聖二の日記と思われるものが発見された。
残念ながら、殆《ほとん》ど焼け焦げて、判読できるのはごく一部だけだった。
その中にこんな記述があった。
「……逆なのだ。火山の噴火、大地震、こうしたあらゆる災害は、実は祭りをやめたときではなく、真の祭りが成就したときにこそ起こるのではないか。
つまり、大神祭とは、こうした天変地異を防ぐ祭りではなく、こうした天変地異を呼び起こすための暗黒祭だということだ……」
暗黒祭。
あの祭りは、天変地異を防ぐのではなく、天変地異を呼び起こす暗黒祭だというのか……?
ということは、真の祭りの成就の証しとして生を受けたこの子の誕生が、この先、世界的な大災害を呼び起こす引き金になるのだろうか。
それを思うと少し不安になる。
それは聖二と共に家伝書を読んでいたときから、時折、頭をかすめていたことではあるけれど……。
あのときはまだ、未来の出来事としてどこか遠いことのように感じていた。
しかし、それはもはや遠い未来ではない。間近に迫っている。
この胎内に既に息づいている……。
わたしはこの世を滅ぼす悪魔を生み出そうとしているのだろうか。
ふっとそんな考えも頭をよぎった。
しかし……。
聖二の日記には、こんな不安を煽|篝《あお》る記述に続けて、焼け焦げがひどくて、まともな文章としては判読できないのだが、「剪定《せんてい》」とか「カンフル剤」という、辛うじて読める単語の後に、
「……このカンフル剤によって……新世界をうちたてる……新しい生命と種の誕生を促す……」
このような文章が続いていた。
この文章からすると、祭りの成就によって天変地異が世界を襲うことになるかもしれないが、それは地球の滅亡を意味するものではなく、それが「剪定」ないしは「カンフル剤」の役目を果たして、その後に、新世界が訪れる。
つまり、一時的な破壊を経て、より新しい地球に生まれ変わる。
そのような意味にもとれる文章だった。
暗黒の訪れの後に必ず光明が訪れると……。
ああ……。
だから、この子は、半分は神、半分は悪魔のような姿で生まれてくるのか。
破壊と創造、暗黒と光明を同時にこの世にもたらす者として。
神でもなく悪魔でもなく、神であり悪魔でもある者として……。
まあ、どちらにしても……。
日美香はあくびをしながら思った。
わたしがこの子を生むことに変わりはない。たとえ、この子を生んだ直後に世界が崩壊しようとも、わたしがこの子を生むことに変わりはない。
何が起きようと、何が起きまいと、わたしはこの子を産む。
そして、この手に抱く。
ただそれだけ……。
そう思うと、再び、あの幸福感が全身を浸した。
ああ、幸せだ。
今、わたしはとても幸せだ。
指の先まで満ち足りている。
そう感じながら、目を閉じた。
つけっ放しのラジオからは、いつしか軽音楽アワーが終わり、ニュースの時間になったらしく、アナウンサーらしき男の単調な声がボソボソと聞こえてきた。
「……地球温暖化に伴って世界の各地で影響が……の氷が解け始め……」
その単調な声に耳を傾けることもなく、日美香はもう一つあくびをすると、またうとうとと微睡《まどろ》みかけた。
廊下の片隅には、近くの樹木から飛んできたらしい蝉が一匹、仰向けに転がっていた。
その蝉は、たったひと夏の命を振り絞るようにジーッと一声高く鳴いたかと思うと、それきり動かなくなった。
[#地付き]〈完〉
[#改ページ]
あとがき
『蛇神』『翼ある蛇』『双頭の蛇』に続く完結作、ようやく完成しました。やれやれって感じです。
調子に乗って話を広げ過ぎて、どうやって終わらせようかと頭を抱えたこともありましたが、なんとかかんとか大風呂敷《おおぶろしき》を畳めたかなと思っています。
思えば、一作めの『蛇神』に取り掛かったのが平成十一年の春頃でしたから、四年近くもこの物語にかかわってきたことになります。いくら「蛇」がテーマとはいえ、まあズルズルと……と我ながら呆《あき》れてしまいます。
『蛇神』を書き上げたときは、あれはあれだけの話のつもりでしたので、まさか、こんな長大な物語に発展しようとは、あの時点では夢にも思っていませんでした。
手頃な家を一軒建ててみたら、わりと住み心地が良かったので、あそこを建て増して、この部屋を広げてとやっていたら、何やら奇妙な形の大邸宅(?)になってしまったとでもいうような……。
四年近くもこれだけにかかわってきたせいか、物語世界にも登場人物にもミョーな愛着が出てきてしまい、終わるのがちと寂しいような気もしています。やっと完結したという安堵《あんど》感と共に、これでこの話ともお別れかという、まさに祭りの後のような寂寥《せきりよう》感も感じています。
もしかしたら、日の本村という架空の村にある底無し沼にはまってしまったのは、ほかならぬ作者自身だったのかもしれません。
何はともあれ、こんなにのんびりと書いてきたものを、途中で見限りもせず、最後までお付き合いしてくれた読者の方々には感謝の言葉もありません。そんな気の長い読者が一人でも残っていてくれることを願いつつ、筆を擱《お》くことにします。
最後に……。
この話の後半部を書いていたときに、鮎川哲也先生の訃報《ふほう》を知りました。
個人としての寿命は尽きようとも、その作品がこれからも読み継がれ読み返される限り、作家としての死はないと思っています。
鮎川作品がそうなることは疑いようもありません。
とはいっても、星新一、山田風太郎、半村良といった希代のエンターティナーに続いて、またもや大きな灯が一つ消えたのかというやり切れない思いは拭《ぬぐ》えませんが……。
しかも、鮎川先生といえば、プロフィールにもあるように、私にとっては「生みの親」ともいうべき人でした。もし、「鮎川哲也」という作家の存在がなければ、今、こうして、細々ながら作品を書いて発表するということは叶《かな》わなかったかたでしょう。
せっかく世に出してもらいながら、あまりご期待に応《こた》えられなかったようなのが残念でなりませんが、これまでの感謝と追悼の意をこめて、ようやく完成したこの作品を鮎川先生に捧《ささ》げたいと思います。
生涯「本格推理」を愛し、「本格」一筋に歩まれた先生が、このような本格とは似ても似つかない代物を楽しんでくださるかどうかは心もとないですが、少しでも楽しんでくださることを祈りながら……。
平成十四年十一月
[#地付き]今 邑 彩
角川文庫『暗黒祭』平成15年1月10日初版発行