[#表紙(表紙.jpg)]
双頭の蛇
今邑 彩
[#改ページ]
双頭の蛇
プロローグ
平成十年、四月二十五日。
土曜日の午後だった。
ショッピングセンターで買い物を済ませた近藤道代は、片手に買い物袋をさげ、片手に三歳になる娘の手を握って、センターの駐車場に停めておいた車のところまで来た。
後部トランクに買い物袋を収め、助手席に娘を座らせて、車を出そうとしたとき、道代は、「しまった」と小さく舌打ちした。トイレットペーパーを買い忘れたことに気が付いたのだ。
どうしようか……。
道代は隣の娘の方を見た。
娘のさつきは、来るときに読んでいた絵本をとりあげ、おとなしく見ている。
また連れて行くのも面倒だから、ここに置いて行こうか。
二階の雑貨コーナーでトイレットペーパーを買うだけだから、ほんの十分足らずのことだ。
道代は咄嗟《とつさ》にそう決心すると、シートベルトをはずしながら娘に言った。
「ママ、もう一度お買い物に行ってくるからここで待っててね」
「……うん」
さつきは、絵本から顔をあげ、母親の方を見ると、素直に頷《うなず》いた。オカッパ頭に黒目がちのぱっちりとした目、右|頬《ほお》にやや目立つ黒子《ほくろ》のある愛くるしい顔立ちだった。
「いい? 絶対に外に出ちゃだめよ。おとなしく待ってるのよ。ママ、すぐに戻ってくるからね」
そう念を押すと、さつきはもう一度こっくりと頷いた。
近くに駐車してあったグレーの車の運転席から若い男がこちらをじっと見ていたが、買い物をしている連れでも待っているのだろうと、道代は思った。
顔半分を隠すような黒いサングラスをかけているのが少し気にはなったが……。
娘を残した車から離れ、小走りにショッピングセンターの建物に向かいながら、途中で、車のドアに施錠してこなかったことに気が付き、道代は、一瞬立ち止まった。
ショッピングセンターは国道沿いに建っている。駐車場からほんの数分歩いただけで、国道に出てしまう。もし、さつきがふらふらと外に出てしまったら……。
そう考えると、心配になって戻りかけたが、まだ幼い娘が自分でシートベルトをはずしたり、車のドアの開け方を知っているとも思えなかった。
それに、ふだんから聞き分けの良い子だから、「待っていろ」と言ったら、素直に待っているだろうと、すぐに考え直し、そのままショッピングセンターに向かった。
道代が、トイレットペーパーをさげて、再び車に戻ってきたのは、それから二十分後のことだった。レジが混んでいて、思ったよりも時間を食ってしまった。
「ごめんねえ、遅くなって」
そう言いながら、運転席のドアを開けた道代は、我が目を疑った。
「さっちゃん……」
全身から血の気が引くのが自分でも分かった。
助手席には誰もいなかった。シートベルトがはずされ、座席には絵本がぽつんと残されているだけだった。
さつきの姿はどこにもなかった。
そして……。
近くに駐車してあったグレーの車もなくなっていた。
[#改ページ]
第一章
1
平成十年、十月八日。木曜日の夜九時すぎだった。
喜屋武蛍子《きやんけいこ》は、幾分ブルーな気分を奮いたたせるようにして、その雑居ビル内にある小さなバーの扉を引いた。
店の名前は、「DAY AND NIGHT」
看板の明かりは消えていたが、営業中であることは分かっていた。看板の明かりを消しているのは、あまり商売っ気のない、ここのマスターが飛び込み客の相手をする気のないときによくやる手口で、気心の知れた常連さんだけどうぞという「合図」でもあった。
海底を思わせるマリンブルーの照明が仄《ほの》かに灯《とも》る、カウンターしかない狭い店内には、案の定、客の姿はなかった。
白髪頭の老マスターが、カウンター内に設けた小さな椅子《いす》に腰掛け、時折ポツポツと針の飛ぶ音のする、古いアナログのレコードを聴きながら、独り、パイプをくゆらせているだけだった。
低音量でかかっているのは、映画『カサブランカ』のテーマ曲としても名高いバラッド「時のすぎゆくまま」である。
蛍子の姿を認めると、ぼんやりと物思いに耽《ふけ》っていたように見えたマスターは、口からパイプをはずし、はっとした顔で立ち上がった。
腰の高いスツールに座り、軽いカクテルを注文したあとで、ああ、そういえばと蛍子は思い出していた。五年ぶりでこの店に来たときも、この曲がかかっていたっけ。あれは八月の半ば頃だっただろうか……。
そのとき、ちょうど今蛍子が座っているスツールに、伊達浩一の背中があった。
伊達は蛍子の別れた恋人だった。ある人の身元調査を依頼するために、小さな探偵事務所を構えていた元恋人と五年ぶりで再会したのだった。
その伊達が忽然《こつぜん》と姿を消して、一カ月以上になる……。
「伊達さんから何か連絡ありました?」
慣れた手つきでシェーカーを振っているマスターに蛍子は尋ねた。
「いや、何も。そちらは……?」
マスターは浮かぬ顔で言った。蛍子も硬い表情で首を横に振った。
「一体……どこへ行ってしまったんでしょうねえ」
マスターは、淡いピンク色のカクテルをグラスに注ぎながら、肺腑《はいふ》から絞り出すようなため息とともに呟《つぶや》いた。
「私も心当たりのある所は全部当たってみたんですがね。駄目です。全く何の手掛かりもつかめません」
そう言って、ピンク色のカクテルをすっと蛍子の方に差し出した。
伊達から聞いた話では、彼の亡父の旧友であるここのマスターとは子供の頃からの付き合いだということだった。とすれば、老マスターにとっては、彼は単なる常連客というよりも、息子にも似た存在だったに違いない。
伊達の安否を気遣う老マスターの顔には、営業用とは思えない沈鬱《ちんうつ》な色があった。
「確か……奥さんの話では、九月四日の足取りまでは分かっているということでしたね?」
やや間があって、マスターが確認するように尋ねた。
「ええ、そうらしいんです……」
蛍子は頷いた。
伊達の妻、かほりの話では、伊達が、「仕事で信州に行ってくる」と言い残して家を出たのが、九月二日の朝だったという。そのとき、伊達は、「二、三日、滞在してくる」と言っていたというのだが、一週間が過ぎても帰って来なかった。連絡も入らない。業を煮やして夫の携帯にかけてみても、「電源が切られている云々《うんぬん》」のメッセージが流れるばかりで、一向につながらない。
心配になったかほりは、夫が経営する探偵社に連絡を取った。スタッフの話から、伊達が古い友人の依頼で何か一人で調べていた事が分かった。その友人というのが女で、どうやら元恋人らしいと気づいたかほりは、神田の出版社に勤める蛍子の元に夫の行方を問い合わせてきたのである。
伊達の行き先が「信州」であると聞いた蛍子は、すぐにそれが「日の本村」ではないかと直感した。前夜会ったとき、伊達が、長野県にあるその村を訪ねるつもりだと言っていたからだった。この店で伊達かほりと会い、そのことを告げると、かほりは幾分安心したような顔になり、「日の本村の旅館を調べて連絡してみる」と言い、その場は別れたのだが……。
それから一週間ほどして、蛍子の元に伊達かほりから連絡が入った。あのあと、警察に捜索願いを出したこと、そして、捜査の結果、確かに、九月二日の午後、「伊達浩一」と名乗る男性が日の本村を訪れていたことが確認できたのだという。ただし、伊達が泊まったのは、村に一軒しかないという旅館ではなく、宿泊施設も兼ねている「日の本寺」という寺であったらしい。
そして、関係者の話から、伊達が、九月四日の朝、寺を出たこと、しかも、途中、たまたま村長の車に出会って、同乗させてもらい、長野駅の手前で車を降りたということが分かった。
つまり、日の本村の住職や村長などの証言から、九月四日の午後までの足取りは確認できたということだった。ところが、長野駅の前で村長の車から降りたあとの伊達の行方がまるでぷつんと断ち切られたように途絶えていた。
「村長さんたちの話では、主人はこのまま東京に帰ると言っていたそうです。だから、車から降りたあとは、まっすぐ東京行きの新幹線に乗ったはずなんですが……」
伊達かほりは今にも泣き出しそうな声で電話口でそう言った。
今のところ、蛍子に分かっているのはこれだけだった。あれから伊達かほりからは何の連絡もない。何か分かったら連絡すると言っていたから、連絡がないということは何の進展もないということなのだろう。むろん、蛍子の携帯に伊達本人から連絡が入ることもなかった。
日の本村を出たあと、伊達は、自らの意志で失踪《しつそう》したのか、それとも、東京に帰る途中、何らかの事故か事件に巻き込まれたのか、それすらも分からないまま、時だけがむなしく過ぎようとしていた。
「日の本村を出たあと、彼に何があったのか……」
蛍子は呟くように言った。
「ただ、一つ言えることは、家庭や仕事のことで何かあったとしても、浩ちゃん―――いや、伊達さんが家族を捨てて、自分の意志で姿をくらますような人間ではないということです」
老マスターが自分自身に言い聞かせるようにきっぱりと言いきった。
「そうですね。わたしも彼はそんな無責任な男ではないと思います」
蛍子も同意した。
伊達かほりの話では、夫が家庭に不満をもっているようには見えなかったということだし、たとえ、妻が気づかなかっただけだとしても、聞くところによれば、伊達の二人の子供は上がようやく二歳になったばかりで、下はまだ一歳にもならない乳飲み子だという。そんな幼い子供を捨てて、自分の意志で失踪したとは思えなかった。
それに、もし、家庭に何か不満があって失踪したのだとしても、それならば、妻に連絡はしなくても、探偵社のスタッフには連絡を入れるだろう。伊達はいわば所長ともいうべき存在なのだから。それなのに、探偵社の方にもあれ以来何の連絡もなく、スタッフも困惑しているようだという。
「だから、考えられるのは、やっぱり、東京に帰る途中で何か予期せぬ出来事が彼の上にふりかかったとしか―――」
蛍子がそう言いかけたとき、店の扉が開くような音がした。蛍子を見ていたマスターの視線が扉の方に移った。
客かと思って振り向くと、開きかけた扉の陰から、おそるおそるというように顔を覗《のぞ》かせていたのは、噂《うわさ》をすれば影とでもいうべきか、伊達かほりだった。
2
「あの、今日はお休みですか……?」
臆病《おくびよう》な小動物が扉の陰から顔を覗かせるような様子で、伊達かほりはおずおずと言った。
「いや、どうぞ。やってますよ」
マスターがそう声をかけると、ほっとしたような顔になって中に入ってきた。
「表の看板の明かりが消えていたのでお休みかとも思ったんですけれど、中から音楽が聞こえてきたので……」
伊達かほりは、そう言って、蛍子の方に会釈すると、隣のスツールに腰掛けた。
「何になさいます?」
マスターが聞いた。
「あの……喜屋武さんと同じものを」
ちらと隣の蛍子のピンク色のカクテルの少し残ったグラスを見て、かほりは言った。
「今ちょうどマスターと伊達さんの話をしていたんです。あれから何か分かりました?」
蛍子が聞くと、かほりは疲労を滲《にじ》ませた顔で、
「実は、今朝、警察の方から電話があって―――」
と言いかけた。
「警察?」
蛍子はぎょっとしたように聞き返した。伊達のことで何か分かったのか。
「東京湾で男性の水死体が発見されたっていうんです」
「水死体……」
蛍子は愕然《がくぜん》としたような顔を隣の女に向けた。シェーカーを振りかけたマスターも、凍りついたように手を止めた。
「まさか、それが……?」
「発見された状況からみて、自殺らしいんですが、身元を表すようなものを何も身につけていなかったらしくて、年格好が主人に似ているようなので、遺体を確認して欲しいと……」
伊達かほりは、そこまで声を詰まらせながら言うと、ハンドバッグからハンカチを取り出して、吐き気がするとでもいうように、それで口を押さえた。
「それで? 伊達さんだったんですか」
蛍子は殆《ほとん》ど噛《か》み付くように聞いた。
しかし、伊達かほりは口元をハンカチで押さえたまま、激しく首を横に振った。
「違いました。主人ではありませんでした。人相は少し変わってましたけど……でも、分かりました。主人じゃありません」
くぐもった声で言った。
「そう……」
蛍子は、安堵《あんど》のあまり、身体から力が抜けるような思いがした。
水中にいた時間にもよるだろうが、溺死体《できしたい》というのは見るに耐えないものだと聞いたことがある。まして、それが自分の身内かもしれないと思えばなおさらのこと。吐き気をこらえるようにハンカチを口に強く押し当てているかほりの様子から見ても、それが直視に耐えられない遺体であったことは十分想像できた。
「いつまでこんな思いをしなければならないのか……」
伊達かほりは嗚咽《おえつ》をこらえるような声で言った。一見したところ、これまでたいして波乱もない平穏な人生を生きてきた、いかにもお嬢さん育ちといった風情の彼女には、それは、拷問にも等しい経験だったに違いない。
遺体が夫ではなかったと分かってほっとしたのもつかの間、夫に年格好が似た身元不明の男の死体が発見されるたびに、彼女は、これから先もこの拷問を繰り返し受けなければならないのだ。
「そう思ったら、なんだか、このままうちに帰りたくなくて、お酒でも飲みたくなって……でも、わたし、あまりお酒とか飲めるところ知らなくて、それで、ここのこと思い出したんです。ここだったら、女が一人でも安心して飲めそうな雰囲気だったし、主人が学生の頃から通ってたっていう店だし、ここに来たら、なんだか彼に会えそうな気がして……」
かほりはハンカチを握り締め、耐えかねたように泣きじゃくりはじめた。
蛍子も同じ気持ちだった。今日、会社帰りにこの店に足が向いてしまったのは、あの扉を開けたら、何事もなかったように、そこに伊達がいるのではないか。「やあ、元気」とかいつもの軽い調子で話しかけてくるのではないか。
ふとそんな気がしたからだった。
だから、伊達かほりの気持ちは痛いほど分かる。まして、元恋人というのにすぎない自分に対して、彼女は妻であり、まだ幼い二人の子供までいる。その不安、その焦燥は、今蛍子が感じているものの何十倍、いや、何千倍であるに違いない。
そう感じたからこそ、空々しい慰めの言葉などかえって口にできなかった。泣けばいい。涙が涸《か》れるまで泣けばいい。涙には癒《いや》しの効果があるという。ひたすら泣くことで、彼女が今までに溜《た》め込んだストレスや不安が少しでも薄れるならば、泣けばいい。そう思って、ただ、細い両肩を震わせて泣いている女の背中に軽く手を添えただけで黙っていた。
そして、女の身体の震えを手に感じながら、なぜ、伊達浩一がこの女を生涯の伴侶《はんりよ》に選んだのか、なんとなく分かったような気がした。見合いに近い出会いだったと彼は言っていたが、彼自身も気づかぬうちに、この女性にひかれていたのではないか。わたしとは何もかもが違うこの女性に。わたしなら、何があっても、こんな風に素直に人前で自分の感情を吐き出すことはできない。泣きじゃくることなんてできない。わたしなら、人前では、「大丈夫、大丈夫」と笑顔すら見せて、そして、誰もいないところで一人で泣く。でも、たぶん、この人のこんなところを、伊達は何よりも求めたのだろう……。
蛍子は苦い気持ちでそう思った。
老マスターも同じ思いらしく、慰めるでもなく、無言で、ピンク色のカクテルを作って、泣きじゃくっている女の前に差し出しただけだった。
「……ごめんなさい。わたしったら、つい取り乱してしまって」
ひとしきり泣きじゃくったあと、ようやく気が済んだのか、伊達かほりはそう言うと、鼻水をすすりあげながら恥ずかしそうに言った。
「ずっと泣くに泣けなくて。うちで泣くと、子供が不安がるんです。上の子はまだ二歳なのに、何か変だと思ってるみたいで。パパどうしたの。パパどうして帰ってこないのって、しきりにわたしに聞くんです。そのたびに、パパはお仕事が長引いているのよ。もうすぐ帰ってくるわよって言い聞かせているんですけど」
そう言いかけ、また新たな涙で言葉を詰まらせた。
「あの、今、お子さんは……?」
蛍子は思わず言った。うちには二人の幼児だけなのだろうかと気になったのだ。
「子供なら、今日は母が来て見てくれています」
そう答えて、目の前のカクテルにようやく気づいたように、かほりはそれに口をつけた。そして、一瞬、耳をすませるような表情になったかと思うと、何かを発見したように、「あ。この曲……」と言った。
「この曲がどうかしましたか?」
マスターが聞くと、伊達かほりはようやくかすかに笑顔を見せて、
「この曲、主人の好きな曲です。よくうちでも一人で聴いてましたから。なんて曲なんですか。わたし、ジャズのこととか、よくわからなくて……」
「AS TIME GOES BY。『時のすぎゆくまま』というんです」
マスターが言った。
「時のすぎゆくまま……いい曲ですね」
かほりは呟《つぶや》くように言うと、あとは黙ってカクテルを啜《すす》りながら、曲に聴き入っていたが、その曲が終わると、それを潮時とばかりに、「母が心配しているかもしれません。わたし、そろそろ」と腰を浮かしかけた。
「タクシー、呼びましょうか」
マスターがすかさず声をかけると、伊達かほりは首を振り、「いえ、そこで拾いますから」と言い、蛍子の方に向き直ると、「何か新しいことが分かったら知らせる」と約束して、来たときよりは少し元気そうになって、店を出て行った。
蛍子は二杯めのカクテルを前に、なんとなく口をきく気にもなれず、カウンターに頬杖《ほおづえ》をつき、ぼんやりとしていた。
曲はいつのまにか、またあの曲になっていた。
「伊達さん……あなたと別れたあと、ここへ来るたびにこれを聴いていたんですよ」
マスターが何を思ったのか、ふいにそんなことを言った。
「え……」
蛍子は夢からさめたような顔で、マスターの方を見た。
「こればっかり、繰り返し繰り返し何度もね。あの日も……あなたがたが五年ぶりに再会したあの日も。おぼえてますか、この曲がかかっていたことを」
「ええ」
「あの日、彼は一時間も前に来て、あなたが来るまで、繰り返し聴いていたんです。この曲ばかりをね……」
3
自宅マンションに辿《たど》りついたときは、既に零時をすぎていた。蛍子は足元をふらつかせながら、パンツスーツのポケットから鍵《かぎ》を取り出して、それでドアを開けた。
「ただいま……」
玄関で声をかけたが返事はない。高校生の甥《おい》と同居しているのだが、ガラスドア越しに見えるリビングの明かりが消えているところをみると、まだ帰ってきてはいないらしい。玄関の明かりをつけると、三和土《たたき》には、甥の豪がいつもはいているスニーカーがなかった。
そういえば、朝方、出掛ける前に、学校帰り、姉の火呂《ひろ》の新居に寄ると言っていたから、まだ姉のマンションにいるのかもしれないと蛍子は思った。
二十歳になる姉の火呂も、七月の半ば頃までここで同居していたのだが、幼なじみの親友と暮らすといって出て行った。しかし、あの事件が起きて(「翼ある蛇」参照)、関係者ということでマスコミの取材がうるさくなったことと、ルームメイトと折半にするはずだった2LDKのマンションの家賃を一人では払えないということで、借りたばかりのマンションを引き払って、ここに戻ってきていたのである。
しかし、やはり一人暮らしの夢が捨て切れなかったらしく、先日、ワンルームの手頃な物件が見つかったということで引っ越したばかりだった。
蛍子は、甥がいないことにむしろほっとした思いで、明かりもつけずにリビングのソファに倒れ込むように横になった。久しぶりに酒に酔ったようだった。いや、酒ではない。軽いカクテルを三、四杯飲んだくらいではこんな酔い方はしない。あの老マスターの言葉に酔ったというべきだった。
「あの日、彼は一時間も前に来て、あなたが来るまで、繰り返し聴いていたんです。この曲ばかりをね……」
マスターはそう言った。その言葉が、伊達浩一が繰り返し聴いていたというバラッドの曲調と共に頭にこびりついて離れなかった。マスターが呼んでくれたタクシーの中でも、あの曲が無限ループをするように、頭の中でずっと鳴り続けていた。
どうして、わたしたちは別れたのだろう……。
闇《やみ》の中に身を横たえ、蛍子は思った。
それは、五年前、伊達と別れたあと、時折、烈《はげ》しい後悔の念と共に、蛍子を苛《さいな》みつづけてきた疑問でもあった。
思えば、別れる理由など何もなかった。お互いが嫌いになったわけでも飽きたわけでもない。どちらかに他に好きな相手ができたわけでもなかった。
それなのに、別れてしまったのは、伊達と蛍子が似たもの同士だったせいかもしれない。どこか性格が似ている。だから、最初の出会いからひかれ合い、性別を越えて理解し合えたのだが、同時に、似た者同士のカップルというのは、あることに対して、同じような反応をしてしまうという最大の欠点がある。
たとえば、それは、下手なワルツのようなものだ。相手が足を一歩前に出したら、自分は一歩引かなければならない。相手が引いたら、すかさず前に出る。そうやってこそ、ワルツは続く。
でも、伊達と蛍子はそうではなかった。一方が足を前に出すと、もう一方も負けじと前に出す。引くということをしない。そのくせ、相手が引くと、今度は自分も同じように引く。意地の張り合いというかエゴのぶつけあいというか、全く同じ反応をしてしまうのである。しかも、自分が相手に合わせるのではなく、相手が自分に合わせることを求めている。これではワルツは続かない。互いに見つめ合ったまま立ち往生するしかない。ワルツを続けたければ、コンビを解消するしかないではないか。
だから、二人はコンビを解消し、伊達は、数年後、新しいパートナーを見つけてワルツを続け、蛍子の方は、いまだにその相手を探している……。
もし、あのとき、と蛍子は闇の中で思った。
自分が少々強引な伊達のプロポーズを受け入れていたら、二人の間でたどたどしいワルツは今も続いていただろうか。
続いていたかもしれないし、やはり駄目だったかもしれない。
もし、あのまま、伊達の要求通りに彼と結婚して、仕事をやめて家庭に入っていたとしたら。そして、すぐに子供でも出来ていたとしたら。家庭に引きこもって夫と子供の世話をするだけの日常に、自分はいつまで耐えられただろうか。
頭の中で自分が選ばなかったもう一つの人生をシミュレーションしてみた。夫と子供だけを見つめる生活に、自分は満足できただろうか。それを「女の幸福」などと思えただろうか。いや、わたしは満足できなかっただろう。きっと、選ばなかった方の人生をやはりこうして一人思い描いて、後悔の念に苛まれたような気がする。
どちらに転んでも、自分は後悔した。烈しく後悔したはずだ。なぜなら、食べてしまったお菓子はいっとき甘いだけであり、食べなかったお菓子は永遠に甘美であり続けるのだから……。
どちらに転んでも後悔するならば、それならばいっそ、もう後悔するのはやめようと蛍子は思った。
少なくとも、こちらの後悔は、自分の愚かさを嗤《わら》うだけで済むが、もし、伊達と共に生きることを選んで後悔したとしたら、そんな人生を選ばせた彼に、すべての責任を転嫁して、彼をも恨んでしまっていたかもしれない。実際、自分で選んだ人生にもかかわらず、他人に責任転嫁して愚痴や文句ばかり言っている人達は、蛍子の周りにも掃いて捨てるほどいる。そういうのは嫌だ。そうならなかっただけでも、こちらの方がまだましだった……と。
なんだか、イソップの話に出てくる哀れなキツネの「あのブドウはすっぱいんだ。だから、食べなかったんだよ」という負け惜しみにも近いような気もしたが……。
そのとき、玄関の方でガチャとドアの開くような音がした。豪が帰ってきたらしい。
蛍子は、目尻《めじり》を伝っていた涙を慌てて手の甲で拭《ぬぐ》うと、ソファから起き上がった。酔いはいつのまにか醒《さ》めていた。
わたしはこんなときでも、泣きじゃくることさえできない。あの店で、子供のように身も世もなく泣きじゃくっていた伊達の妻がつくづく羨《うらや》ましかった。
でも……。
その彼女も、きっとうちに帰れば、幼い子供たちの前では涙ひとつ見せない気丈な母の役を演じているのだろう。ちょうど今、自分が、甥にこんな姿を見せまいと慌てて起き上がったように。
「あれ。なんだ、帰ってたの」
リビングに入ってきて、戸口近くの照明スイッチを押した豪は、ソファに叔母《おば》の姿を発見すると、驚いたように言った。
「外から見たら明かりついてなかったからさ、まだ帰ってないかと思った」
「へへ。ちょっと酔っ払ってうたた寝してたのよ」
蛍子は赤くなった目の言い訳をするように、手でこすりながら言った。
「叔母さんもさあ、いいかげんに結婚したら? なんかさ、いい歳した独身女が一人で酔っ払ってソファで寝こけてる図って、あんまりみっともいいもんじゃないぜ」
豪は、冷蔵庫からペットボトルを取り出しながら、さっそく憎まれ口をたたいた。
「今ならまだイカズ後家ですむけど、あっと言う間にイケズ後家になっちまうぞ」
膝《ひざ》を使って冷蔵庫の扉を閉めながらさらに言う。
「大きなお世話よ」
蛍子はむかっとして言い返した。
「それより、あんた、脚で冷蔵庫の戸を閉めるの、何度言ったらやめるのよ? ペットボトルの水は口つけて飲むなって何度言ったら分かるのよ。あんたのばい菌だらけの唾《つば》のついた水をわたしにも飲めって言うの?」
「どうやら逆鱗《げきりん》に触れたようで」
豪は首をすくめてそう呟《つぶや》くと、そのまま口に運びかけていたペットボトルの水を渋々グラスに移して飲んだ。
「火呂のところに寄ってたの?」
そう聞くと、豪はうんざりしたような顔で頷《うなず》いた。
「行くんじゃなかった。待ってましたとばかりにこき使いやがって。あれ運べだの、これ動かせだの。ようやく運んだ糞《くそ》重いタンスの位置が気に入らないって言って、こっちに動かせっていうから、エッチラオッチラ移動させたら、やっぱり前の方がよかった、元に戻せってこうだぜ。俺《おれ》は奴隷か?」
「どうせ体力しか自慢できるものはないんだから、そういうときに役立たなくて、いつ役に立つのよ」
さっきのお返しとばかりに意地悪く言うと、
「叔母さんと姉ちゃんって、やっぱ、血つながってんじゃない? 姉ちゃんも全く同じことぬかしやがった。おまけにこき使われて汗かいたから、シャワー借りようとしたら、水道代と光熱費がもったいないから、とっとと帰ってうちの風呂《ふろ》に入れだと。人をこき使えるだけ使ったあとで、シャワーすら使わせてくれないんだからな。あんなの姉貴でも何でもないや。ただのドケチのサド女だ」
豪はぷんぷんしながら言った。
「ちょっと遅いけれど、お風呂でも沸かす?」
蛍子が時計を見ながら言うと、豪は首を振った。
「面倒くさいからいいや。俺、もう寝る。くたくただもん」
豪はそう言うと、心底疲れたという顔でリビングを出て行った。
4
シャワーだけ浴びて、パジャマに着替えてから、部屋に戻ってくると、蛍子はノートパソコンを取り出した。ここ数日メールチェックを怠っていたことを思い出したのである。
電源を入れ、回線をつないでからメールチェックしてみると、何通かのダイレクトメールに混じって、沢地逸子からメールが来ていた。某私立大学文学部の助教授で、英米文学の翻訳家である沢地とは、イギリスの女性作家の小説の翻訳を依頼して以来の縁で、この夏に、沢地が自分のホームページに連載しているコラムの単行本化の企画が決まり、蛍子がその担当をまかされていたのである。
しかし、そのコラムの載ったホームぺージは、掲示板への奇妙な投稿ではじまった、あの猟奇殺人事件がらみでしばらく閉鎖していた。
ただ、ホームページは閉鎖しても、「太母神」をテーマにしたコラムの方は暇を見て書き続けていると沢地からは聞いていた。そして、いずれ、事件のほとぼりがさめて、ホームページを再開するときがきたら、まとめてアップするつもりであると。
沢地逸子のメールを開いてみると、「ホームページを再開することにした。今度は荒らし対策もバッチリやったから大丈夫」という旨の内容が記されており、末尾に、新しいホームページのアドレスらしきものが貼《は》り付けられていた。
犯人の自殺で幕をおろしたあの事件から、ようやく一カ月がたとうとしていた。マスコミの関心もさっさと別の事件に移ったようで、テレビのワイドショーや週刊誌等でも殆《ほとん》ど取り扱われなくなっていた。それで、事件のほとぼりがさめたと判断して、ホームページの再開に踏み切ったものらしかった。
意外に早く復旧したなと思いながら、蛍子は、メールの末尾に貼り付けられていたアドレスをクリックした。メールチェックだけしたら寝るつもりだったが、新しくなった沢地のサイトをちょっと覗《のぞ》いておこうと思ったのだ。ひょっとしたら、コラムにも新しい項目が加えられているかもしれない。そうも思った。
アクセスしてみると、蛍子の勘は当たっていた。
「太母神の神殿」というタイトルも、コラム、日記、著作リスト、プロフィール、掲示板の五項目で成り立っている全体の構成も以前と変わってはいないようだったが、コラムのコーナーに、新しい項が増えたことを示す「new」というマークがついていた。
時計を見ると、もう午前一時をすぎていた。少し迷ったが、それほど長いようでもなかったので、蛍子はそれを読んでみることにした。
※
諏訪《すわ》信仰について
信濃国《しなののくに》の一宮《いちのみや》である諏訪大社《すわたいしや》といえば、日本全国に一万を超すという諏訪神社の総本山であり、古来より出雲《いずも》大社や伊勢《いせ》神宮と並ぶ大社である。
その社は、男神《おのかみ》タケミナカタノミコトを祀《まつ》る上社《かみしや》と、后神《きさきがみ》ヤサカトメノミコトを祀る下社《しもしや》に分かれ、さらに、上社は本宮と前宮、下社は春宮と秋宮とに分かれて、しめて、四つの社が諏訪湖をぐるりと囲むようにして鎮座している。
俗に「お諏訪さま」と呼ばれる諏訪神といえば、上社の祭神であるタケミナカタを指す。
この神は、古事記によれば、元は出雲の出身で、大国主《オオクニヌシ》の子であるという。それがなぜ、諏訪神として祀られるようになったかというと、古事記にこんなエピソードがある。
天照大神《アマテラスオオミカミ》の使いだというタケミカヅチが出雲にやってきて、オオクニヌシに国譲りを迫ったとき、オオクニヌシは、二人の息子に国譲りの件を相談した。すると、温和な性格の兄のコトシロヌシは、国譲りに賛成する旨の発言をするが、気性の荒い弟のタケミナカタは、国譲りに反対して、タケミカヅチに「力比べ」を挑む。しかし、力自慢だったにもかかわらず、タケミカヅチにあっさり敗北したタケミナカタは、出雲から逃げ出し、諏訪の地に辿りつく。このとき、追いかけてきたタケミカヅチに、「この地からは一歩も出ないから殺さないでくれ」と命乞《いのちご》いをして許してもらい、それからは、諏訪の神として暮らすようになったという、少々情けない逸話である。
もっとも、この話は、日本書紀や出雲国風土記等には記されていないことから、出雲地方土着の伝承というより、大和朝廷にとって都合の良いように、後で「捏造《ねつぞう》」された可能性が高いといわれている。
タケミナカタについては、もう一つ、逸話がある。それは伊勢国風土記に記されたエピソードで、ここでは、タケミナカタは出雲の出身ではなく、伊勢の出身ということになっている。しかも、当地では、名前も伊勢津彦と名乗っていた。が、やはり、神武東征の折り、彼《か》の地に侵入してきた神武の軍隊に敗北した伊勢津彦は、「東国に行く」と言い残し、大風をおこして、昼のごとく輝いたかと思うと、波に乗って東方に去ったという。この伊勢津彦も、別名を「櫛玉命《くしたまのみこと》」とか「出雲建《いずもたける》」などと言われ、オオクニヌシの子であるとされていることから、これが後に諏訪に至り、タケミナカタになったのだという説もある。
どちらにせよ、「敗北神」として故郷を追われたタケミナカタではあったが、諏訪の地に来てからは人が変わったように強かった。
彼の地の国津神《くにつかみ》であったモリヤ神と戦い、今度は大勝利をおさめるのである。このときの戦いの様子が、「諏訪大明神絵詞」などでは詳しく語られている。両者は、天竜川のそばで、「力くらべ」をして勝敗を決した。モリヤは鉄の輪を武器として使い、タケミナカタは藤の蔓《つる》を武器として使ったという。
結局、タケミナカタが勝利し、諏訪大神として君臨することになるのだが、タケミナカタは、敗者であるモリヤを追い払うようなことはせず、そのまま、その地に住むことを許しただけでなく、神を祀る「神《かん》の長《おさ》」という重要な神職まで与えたという。
それで、現在に至っても、諏訪信仰を支える神官の家系には、この諏訪大神タケミナカタの子孫とされる家系(神《みわ》氏のちの諏訪氏)と、モリヤ神の子孫とされる家系(守矢氏)とがあるらしい。
それはさておき、タケミナカタもヤサカトメも、共に蛇神であるという言い伝えがある。この夫婦《めおと》神が一つの社に「同居」せずに、別々の社に「別居」して暮らしているのは、互いの気性が荒すぎて(蛇神は荒神《こうじん》とも言われ、気性が荒いとされている)一緒にいると喧嘩《けんか》が絶えないからだと、地元ではまことしやかに語られている。
ちなみに、諏訪の七不思議と言われる自然現象の一つに、冬になると、諏訪湖の水面が凍り、その凍った水面の上に、一本の道のような氷の割れ目ができる現象があるが、それは「御神渡《おみわた》り」と呼ばれ、男神が別居中の女神に会いに行くための「恋の通い路」であると言われている。
古事記や伊勢国風土記には、タケミナカタが蛇神であるという記録は見られないが、かろうじて、タケミナカタが蛇神ではないかと推測される事柄としては、国津神モリヤと戦ったとき、タケミナカタは、武器として藤の蔓を使ったという話がある。「藤の蔓」とは、その形状から、しばしば蛇を暗示する植物なのである。
ところで、このタケミナカタ神話をフォークロア化したような有名な民話がある。あの甲賀三郎地下国巡りの話である。
甲賀三郎の地下国巡り
甲賀三郎の話といえば、神道集や御伽草子《おとぎぞうし》などをルーツとする異説が幾つもあるが、ここではその一つを簡単に紹介しよう。
昔、近江《おうみ》の国の甲賀郡に一人の地頭がいた。この地頭には三人の息子がいたが、末っ子の三郎に総領を譲った(昔は末子相続であったらしい)。
三郎は、その後、大和の地頭の娘、春日姫と結婚し、ある日、妻と二人の兄を伴って、伊吹山《いぶきやま》で狩りをしていたとき、春日姫が天狗《てんぐ》にさらわれてしまう。
妻を求めて、諸国の山々を訪ね歩いた結果、信州|蓼科《たてしな》の地下国で妻に巡りあうが、妻は秘蔵の鏡「面影」を天狗の住処《すみか》に忘れてきたと訴え、三郎は、二人の兄に姫を託して、その鏡を取りに戻る。ところが、美しい弟の妻に懸想していた二人の兄に裏切られて、地上に出られる綱を切られてしまった三郎は、一人、地下国に取り残されてしまう。
こうして、三郎の地上への出口を求めてさすらう長い旅がはじまる。73の人穴を通り、72の国を遍歴した結果|辿《たど》りついたユイマン国で、その国王の娘と結婚する。その国から、ようやく地上(信濃《しなの》の浅間山)に出られたのだが、長い地下生活のためか、三郎の身体は蛇になっていた。
しかし、石菖《せきしよう》を植えた池の水に入り、呪文《じゆもん》を唱えることで脱皮して、三郎は人間の姿に戻ることができた。やがて、故郷に帰った三郎は春日姫と再会し、妻と共に、中国の南方にある平城国《へいじようこく》に赴き、そこで神道の法を授かり、帰国してからは、妻と共に諏訪大社に祀られ、諏訪大明神となった。
とまあ、ざっとこんな話なのだが、三郎が地下国をさまようことになったきっかけは、ここでは狩りに同行していた妻が天狗にさらわれたのを取り戻すためとあるが、別のバージョンでは、二人の兄と山で狩りをしている最中に、山の神である大蛇に出会い、三郎はこれを殺してしまう。すると、蛇の祟《たた》りを恐れた二人の兄が、三郎をなきものにしようとして人穴に突き落としたとある。地下国をへめぐって、ユイマン国に辿りつき、そこから地上に出て、地上に出たときには蛇体になっていたという点は同様である。
その後、蛇の姿のまま、故郷に戻った三郎は、妻子が供養のために作った観音堂(あるいは釈迦堂《しやかどう》)の縁の下に籠《こ》もって、呪文を唱えると、人間の姿に戻ったという。
何やら、日本神話のオオクニヌシの話を連想させるようなところもあって、この甲賀三郎の話は実に興味深いが、それは、後でおいおい考察するとして、諏訪信仰のことに話を戻そう。
諏訪大社の祭り
諏訪大社には実に祭りや神事が多い。聞くところによると、上社では年間111度、下社では84度もの祭事が行われるという。その数多い祭事の中でも、とりわけ有名なのは、日本三大奇祭の一つとしても知られる御柱祭《おんばしらさい》だろう。
御柱祭とは、諏訪大社四宮のそれぞれ四隅に建てられた御柱16本を七年ごとに建て替える神事で、五丈五尺(約16メートル弱)の樅《もみ》の木16本を山から切り出してくる作業過程では、時には怪我人《けがにん》や死人まで出るという荒祭りとして、日本だけでなく海外にまで知れわたっているようだが、この16本の御柱の意味はいまだに謎《なぞ》に包まれている。
一説には神霊が寄り付く柱であると言い、一説には、神地境界を示すものであるともいう。
しかし、謎めいた荒祭りといえば、この御柱祭以上に謎めいた神事が諏訪にはある。それは、御頭祭《おんとうさい》と呼ばれる神事である。これは、上社前宮で年に一度、旧正月三日(現在では四月十五日)の酉《とり》の日に行われる、いわば春祭りである。
ちなみに、この上社前宮というのは、今でこそ四社のうちで一番規模が小さく、観光客もここまでは足を運ばないような地味な社であるが、諏訪大神第一の鎮座地といわれ、昔は本宮よりも栄えていたという。諏訪信仰を語る上で、けっしてないがしろには出来ない社である。
この神事が謎めいているのは、古来、神事の一切を取り仕切ってきた神長《かんなが》こと守矢氏が、神事にまつわる事を、「秘すべし、秘すべし」といって、文書にはせず、それを子孫に伝えるときも、一子口伝《いつしくでん》といって、北窓一つの昼なお暗い祈祷殿《きとうでん》に籠《こ》もって、親から子へ、一対一の口移しで伝授するという、徹底した秘密主義を貫いて外部に漏らさなかったためである。
それでも、鎌倉中期頃から、神長の日記などにより、ようやく文字として残るようになり、やがて、明治八年、子に恵まれなかった神長が大祖先以来の口伝を初めて記録した。これが「守矢系譜」なるものであるという。
それによると、この神事の中心をなすのは、「お公《こう》様」と呼ばれる大祝《おおほうり》で、大人ではなく幼童であったそうな。古くは、諏訪大神の子孫とされる神氏(後の諏訪氏)の血を引く十歳前後の男児が選ばれていたが(当初は六童子、中世においては二童子、近世では一童子になった)、後には、下級神官の子供や乞食《こじき》の子を拾い上げて、この役に据えることもあったという。
「お公様」に選ばれた男児は、上社前宮にあった神殿《ごうどの》と呼ばれる屋敷にこもり、30日間、潔斎したあと、生き贄《にえ》の鹿肉を食し、神長の手で、ミシャグチ神なる神霊をこの男児におろす作法が行われる。このとき、「お公様」は、神事に参加した人々の髪の毛を巻き付けた榊《さかき》を束にした「御杖《みづえ》」をもち、「佐奈伎《さなき》の鈴」と呼ばれる鉄の鈴を首にかけ、神長が祝詞《のりと》をあげて、八柏手《はちかしわで》うつという。
こうして、ミシャグチ神なる神霊と一体化して「現人神《あらひとがみ》」となった「お公様」は藤の蔓《つる》で身体を縛られ、馬に乗せられ、前宮の西南の庭を、興奮した参詣人《さんけいにん》らに打擲《ちようちやく》されながら引き回された。そして、祭りが終わったあと、馬の背には既に「お公様」の姿はなかったという……。
それはまさに、神事の名のもとに、大の大人がよってたかって、まだ幼い子供を虐待死させるような荒祭りであったようだ。神長たる守矢氏が、「秘すべし」といったのも当然のような気がする。やがて、この神事のことは、仏教政策を推し進めていた時の幕府の知るところとなり、厳しい取り締まりを受けるようになったようだが、その監視の目をかいくぐって、少なくとも天文年間頃まで極秘で続けられた旨が武田氏の残した記録にあるという。
このような、いわば「神殺し」ともいうべき奇怪で血腥《ちなまぐさ》い神事がどのような理由のもとに行われ続けたかは(研究者の中には、これを陰陽五行の思想で説明する人もいるが)明らかではなく、御柱の意味同様、いまだに神秘のベールに包まれているようだ。ただ、ここで、一つ気になるのは、「お公様」と呼ばれる幼童におろされるミシャグチなる神霊のことである。
一説によると、上社で行われる年に111度もの神事の殆《ほとん》どが、実は、このミシャグチ神を祀《まつ》る神事であり、この神こそが、タケミナカタが諏訪入りする以前、はるか縄文の大昔からこの地で信仰され続けてきた真の「諏訪神」であるともいう。また、諏訪大社四宮を囲むあの16本の御柱も、このミシャグチ神をおろすための柱であるとも言われている。
一体、ミシャグチ神とはいかなる神だろうか?
ミシャグチについて
一般には、ミシャグチ神とは、タケミナカタやヤサカトメのような人格神ではなく、人間に憑依《ひようい》して託宣などをする自然神あるいは山の神であると考えられてきたようだ。そして、その本性は、「蛇」しかも「赤蛇」であるという。
ミシャグチが蛇神であることは、「御室《みむろ》神事」という、この神を祀る神事の一つを見ても分かる。極寒中は、諏訪大社前宮に穴倉を作り、この「御室」にミシャグチ神を移し、翌春の御頭祭までの神事をこの御室の中で執り行ったという。これは、まさに冬の間は、地面に深く穴を掘って冬眠する蛇の習性を模した神事のように見える。
しかも、長い冬が終わり、春になって行われる「御頭祭」には、古くは75頭もの皮を剥《は》いだ鹿の生き贄が捧《ささ》げられたというのも、まるで冬眠から覚めた大蛇に、目覚めの獲物を与える儀式のようにも見える。
また、目覚めといえば、この大々的な贄儀式に先立って、正月元旦には、諏訪大社上社において、「蛙狩《かわずがり》神事」なるものが執り行われるという。これは、上社前の御手洗《みたらし》川の氷を割って、赤ヒキガエルを取り、これを小弓で射てから丸焼きにして、「生き贄はじめ」として神に供えるというものである。
こうした古くから伝わる神事を見ても、ミシャグチ神が蛇神であることは、ほぼ間違いないだろう。
また、ミシャグチの当て字には、御作神、御尺神、御蛇口、御杓子、御石神、御射軍神、御社宮司などがあるというのだが、どれが正しいというより、これらの当て字のひとつひとつがこの謎の神の複雑な神格を物語っているようにみえる。
たとえば、作神とは、年ごとに訪れてくる農耕の神のことで、これは、蛇神であるとも言われている。脱皮を繰り返して永遠に生きるように見える蛇の習性が、育っては刈られ、刈られては種を残してまた育つという穀物のそれと同一視されたからであり、また、蛇は、穀物を保存した倉をネズミなどの害から守ってくれると考えられていたためである。
実際、昔は、穀倉をネズミの害から守るために、倉のそばに瓶《へい》などに入れた蛇を配置しておくこともあったそうな。
ちなみに、神社などの社は、この穀倉が原型となってできたものだといわれている。神社に付き物のしめ縄や御幣が、実は蛇を模したもの(しめ縄は雌雄の蛇の交尾する様を、御幣は蛇の鱗《うろこ》を模したものとか)であるというのも、こうした穀倉を蛇に守らせていた習慣が後に形式化され神格化された結果であるのかもしれない。
しかし、ミシャグチ信仰の起源はさらに古く、諏訪の地に稲作が広まる前から既に定着していたようでもある。つまり、人々がまだ稲作を知らず、狩猟や漁労などをして暮らしていた頃から、この神は信仰されていた。となると、単なる作神ではないようである。
そこで気になるのが当て字の一つである「石神」と言う言葉。この「石神」とは、一説によれば、狩猟や漁労で得た動物や木の実を食物として加工するために使った石皿と石棒を神格化したものだという。さらに、こうした石棒と石皿をワンセットにして、男性器と女性器に見立て、これに豊饒《ほうじよう》や繁栄を祈る性神の意味もあったようだ。神社などによくある陰陽石のルーツでもあろうか。ミシャグチには、こうした狩猟時代の「石神」としての神格も古層にはあるようだ。
しかし、それ以上に気になるのは、「杓子《しやくし》」という当て字である。杓子とはヒシャクのことだろうが、「御《み》杓子様」とヒシャクを神格化しているのである。これは一体どういうことだろうか。
すぐに思いつくのは、この「杓子」とは、「酒」を汲《く》むための特別なヒシャクではなかったかということだ。現代でも祝い事のときなどはよく酒がふるまわれるが、古代においては、酒は日常的に飲むものではなく、非日常的な「晴れの日」にだけに神に捧げ、神と共に飲むものだった。こうしたことから、神酒《みき》を入れる瓶や、神酒を汲むときに使う柄杓《ひしやく》などの道具類も、神にまつわるものとして神聖視されたのである。
蛇は穀神であると同時に水神でもある。そして、水神は、おおかたが酒の神でもある。ゆえに、神酒を汲むヒシャクを神格化して、「ミシャクジ様」と呼ぶのは十分考えられるのだが……。
だが、「柄杓」と聞いて、もう一つ思い浮かぶことがある。それは、「柄杓」の形をした星のことである。つまり、七つ星がヒシャクのように並んだ北斗七星である。
古来、大陸の遊牧民の間では、方角や時間を測ることができる星として、北極星や北斗七星を崇《あが》める習慣があった。古代中国にも、北極星や北斗七星を神格化した北辰《ほくしん》信仰なるものが古くからある。
諏訪地方に最初に住み着いたのは、こうした北辰信仰をもつ大陸系の民族だったのではないだろうか? 実際、タケミナカタが諏訪入りする前から、彼《か》の地を支配していたとされるモリヤ氏の大祖先は、インドの東からコーカサスを越えてやってきたとも伝えられている。さらに、同じ信州の山である戸隠《とがくし》山の「戸隠」の語源は、「斗隠し」すなわち「斗が隠《やす》らぐ山」の意があるという。「斗」とは、むろん北斗七星のこと。
ミシャグチ神とは、すなわち、北斗七星をさしているのではないか。
また、ミシャグチを北斗星を神格化したものと考えた場合、ここでも、蛇とのかかわりが考えられる。北斗七星の姿は、柄杓に譬《たと》えられるが、蛇にも似ていないだろうか。北極星は古来、「子《ね》の星」と呼ばれてきた。「子」とは、鼠のことである。ちなみに、「子午線」とは、この「子の星」と「午《うま》の星」を結んだ線という意味である。その「鼠」である北極星の周りをまるで追いかけるように巡っている北斗七星の姿は、「鼠を追いかける蛇」のようにも見えなくもない。また、当て字の一つに「尺神」とあるのは、ミシャグチが、方角や時間を「測る」ことができる「計測」の星神としての神格を表すとともに、「尺」とは「長い」の意があることから、そこには、「長い虫」である「蛇」の意味もこめられているように思える。
つまるところ、ミシャグチを表す当て字のそれぞれが、縄文期から近代に至るまでの、この謎《なぞ》の神の神格の変遷を如実に物語っているのではないか。
狩猟や漁労を生活の中心にしていた縄文期には、尺神ないしは石神として、稲作を中心とした弥生《やよい》期には、作神として、そして、中世の戦乱期には、その荒々しい血を好む性格から軍神として。こうした長い時間をかけての神格の変化というか重層化が、この土着の神を謎めいた正体不明の神のように思わせてきたのかもしれない。
前に書いた甲賀三郎の伝説のバージョンの一つに、三郎が狩りのときに山の神である大蛇を殺したとあるが、実はこの大蛇こそがミシャグチ神だったともいわれている。
大蛇神を殺した祟《たた》りで、自らが蛇体化した三郎の話は、縄文系の古き蛇神であったミシャグチを倒して、その蛇の神格を取り入れ、新しき蛇神となったタケミナカタの神話ともうまく符合しているようでもある。
ところで、ミシャグチの本性が「蛇」だとすると、年の始めに、その蛇の霊をおろした男児を馬に乗せて打ち殺すという不可解な神事の謎も少しは解けるような気がするのだが……。
一年の始まりにおいて、「蛇を殺す」という儀式は、「古い蛇を殺すことで新しい蛇を蘇《よみがえ》らせる」、いわば「脱皮の儀式」であるように見えるからだ。
前にも書いたが、出雲神話のハイライトともいうべき、あのスサノオノミコトがヤマタノオロチなる大蛇を剣でずたずたに切り殺したという伝説も、もともとは、「悪蛇を退治する」というより、「蛇を一度殺すことで蛇を蘇らせる」儀式だったはずである。
「悪蛇を退治」という概念は、「蛇を悪とみる」キリスト教や仏教の教えが世界を支配するようになってから広まったもののように思われる。
それ以前の、蛇を作神ないしは穀神と見る信仰の背景には、「脱皮」によって不変に生き続けるように見える蛇の姿を、実っては刈られ、刈られても種を残してまた実るを繰り返す穀物の生態と同一視する思想があった。
穀物の新たな実りを得るためには、一度その穀物を刈る(殺す)必要があるように、新しい蛇を生み出すためには、古い蛇を一度殺さなければならないと考えられたのである。
ヤサカトメノミコトについて
男神タケミナカタに関しては、古事記などにもそのエピソードが残されているが、下社の祭神である后神ヤサカトメノミコトに関してはどうだろうか。
ヤサカトメノミコトとはどのような女神か。一説には、ヤサカトメも伊勢の出身(父親の名を八坂彦といい、伊勢の豪族だった)で、タケミナカタとは伊勢の地で結ばれ、諏訪には夫婦|揃《そろ》って乗り込んできたといわれている。
あるいは、ヤサカトメの方はもとから諏訪の地に祀《まつ》られていた土着の女神で、タケミナカタが諏訪入りしてから夫婦になったという説もある。
私としては、後者を信じたい。というのは、ヤサカトメのヤサカとは、漢字にすれば、「八坂」と書く。これは「八つの坂」という意味よりも、古代の「八」には、「多数」の意があることから、「坂の多い」という意味であるように取れる。
ちなみに、古代においては、信濃は、「科野《しなぬ》」と呼ばれていたそうだ。この国名の由来は、科坂《しなさか》が多い国という意味であるそうな。
こうした国名の由来から見ても、八坂という名をもつ女神には、伊勢の地よりも、坂の多い信濃の国の方がその出生地として似つかわしいような気がするのだが。
さらに、ヤサカトメノミコトという名にこだわってみると……。
現在では「八坂刀売命」と書く事が多いが、古くは、「八坂斗女命」とも書いたようである。「斗女」とは、すなわち「北斗の娘」ないしは「北斗の妻」という意味があるように思える。つまり、「八坂斗女命」という名前には、「坂の多い国の、北斗の娘(あるいは妻)」という意が込められているのではないか。
一説によると、このヤサカトメノミコトの父親の八坂彦は、天白神の末裔《まつえい》であるといわれている。天白神とは、天の白羽神などの別名をもつ北斗七星のことである。ヤサカトメは北斗七星たる天白神の子孫であるがゆえに、その祖先神を祭る巫女《みこ》であった可能性が高いということである。
つまり、ヤサカトメノミコトとは、男神タケミナカタの后神というよりは、北斗七星の神格をもつミシャグチ神の巫女であったのではないだろうか。
諏訪信仰の神髄に触れるには、ミシャグチ神を便宜上人格化したにすぎないように見える主祭神タケミナカタよりも、その后神といわれる、この女神の方を考察した方がよいのではないだろうか。
ところで、諏訪地方には、古くから、「別火」と呼ばれる独特の風習があったといわれている。
それは、生理期間中の女性は、家族と生活の火を別にして、「おたや」と呼ばれる離れ家に一人|籠《こ》もらなければならなかったというのである。また、その後、時代が下って、「おたや」に籠もることはなくなっても、生理中の女性は、家族よりも一段低い土間で生活させられる風習は、明治末頃まで続いたという。
このような、女性|蔑視《べつし》ともいえる奇妙な風習の背景には、中世以降、八ヶ岳一帯に広がり定着した山岳仏教の影響があるように思われる。仏教では、キリスト教同様、宗派によって違いはあるが、女性の経血や産褥《さんじよく》の血を「穢《けが》れ」として殊更に忌み嫌ったからである。
それにしても、生命の誕生と密接に結び付いているはずの「経血」や「産褥の血」を「穢れ」として忌み嫌うとは、思えば、奇怪な宗教が世界を支配しているものである……。
まあ、それはともかく、しかし、仏教の影響だけによるものだろうか。いくら女性の経血を穢れとして忌むとしても、まるで伝染病患者のように「隔離」するとは、あまりにもヒステリックで苛酷《かこく》すぎるような気がする。
それに、諏訪神は、前にも書いたように、荒々しい狩猟神の一面をもつ神で、「血を好む」神といわれている。それゆえに、普通の神事では忌むべき血の滴るような動物の生き贄《にえ》も、この神には平然と捧《ささ》げられるのである。言い換えれば、他の神々よりも、「血の穢れ」には寛大な、というか、むしろそれを喜ぶ神のはずである。その神のお膝下《ひざもと》で、このようなヒステリックなまでの「血の穢れを忌む」風習があったというのは、どうも、今ひとつ納得がいかない。
しかも、さらに奇妙なことに、この「別火」の風習は、生理中の女性に限ったことではなく、ある条件下にいる男性にも課せられたのである。それは、諏訪神を祀る神事に携わる男子である。神事奉仕にあたる男性は、家族と離れて、一定期間、御頭屋《おんとうや》と呼ばれる村里の道場に集まり、「別火」と呼ばれる籠もり生活をしなければならなかった。
ここでふと思うのは、生理中の女性に課せられたという「別火」の風習も、その元をただせば、神に仕える巫女に課せられた「籠もり」ではなかったのかということである。
諏訪信仰の神事がすべて男性の神官の手で執り行われるようになる前には、これらの神事、とりわけ、土着の神ミシャグチ神を祭る神事に携わっていたのは、女性だったのではないか。
父性原理を掲げるキリスト教や仏教が世界を席巻《せつけん》し定着する前の原始宗教では、神事を司《つかさど》るのは主に女性であり、しかも、生命を生み出す元となる「経血」を貴ぶゆえに、あえて巫女たちは生理期間中に神事を司ることが多かったというのは前にも書いた通りである。
つまり、「別火」の起源は、けっして仏教的な穢れ思想などから生まれたのではなく、それどころか、自然神に仕える巫女を神と同一視する、いわば太古の母神信仰ともいうべきものから生まれた風習ではなかったか。
また、この「別火」という言葉も、もともとは、単に「生活に使う火を別にする」という意味ではなく、巫女たちが一カ所に籠もって、「聖なる火」を守り祀る神事を行ったことから、こう呼ばれるようになったのではないだろうか。
古来、東西を問わず、「聖なる火」を守り祀るのは、巫女たちの役目だったからである。
日本神話において、最初に「火」を生み出したのは、太母神イザナミノミコトであった。また、あのコノハナサクヤヒメの「火中出産」の逸話も、実は、このヒメが、「炉の神」すなわち「火神」を祀る巫女だったのではないかという説もある。
この話を簡単に紹介するとこうである。
コノハナサクヤヒメは国津神の娘だったが、天降りしてきた天孫ニニギノミコト(天照大神の孫)と結ばれ、すぐに懐妊する。
ところが、一晩で懐妊するのはおかしいと夫神に疑われたヒメは、身の潔白をはらすために、「戸無しの八尋殿《やひろどの》」を作って泥で塗り固め、その中に入って火をつけ、「もし、おなかの子が天津神の子でなければ、わたしの身は無事ではすまないでしょう」と言い、火中で出産しようとする。
やがて、ヒメは、火照命《ほでりのみこと》、火須勢理命《ほすせりのみこと》、火遠理命《ほをりのみこと》という、三人の男子を無事に生み落として、我が身の潔白を証明するのである。
この逸話は、南方の島々や中国西南民族の間で見られる「産室で火をたく」風俗の反映であるとか、あるいは、産褥の血の穢れを祓《はら》うために、お産の後に産室を焼き払う習慣を描いたものだとかいう説が有力のようだが、コノハナサクヤヒメが入ったという泥で塗り込められた「戸無しの八尋殿」とは、その密室性から考えて、産室ではなく、金属精製業者や窯業者が使う「炉」のことではなかったかという説もある。
また、ヒメが産んだという「火」の名前のつく三人の子供も、ふいご(古くはたたらと呼ばれた)で風を送り火を煽《あお》る過程で、「火がつき、火が盛んに燃え、やがて火が小さくなって消える」という火勢の変化の様を擬人化したものではないかという。
そして、古代中国などでは、こうした「炉の神」に人身御供《ひとみごくう》が捧げられた伝承などもあることから、この「火中出産」の話は、「炉神」に投じられた生き贄の話ではないかというのである。
生き贄かどうかは分からないが、このヒメが「炉の火」を守る巫女であったということは十分考えられよう。ギリシャ神話においても、「竈《かまど》ないしは暖炉の神」とされているのは、ヘカティアという女神である。これなども、「火」を守ってきた巫女が神格化されたものと思われる。そして、巫女であるがゆえに、時には、「炉神」に我が身を投じることもあったかもしれない。
つまりは、太古の昔より、「火」とかかわり、「火」を祀ってきたのは女たちだったということである。
天皇家の皇子たちのことを「日継ぎの御子《みこ》」などと呼ぶが、これなども、もともとは、「火継ぎの巫女」から転化したものではないかと思われる。
それが、時代をへて、母系(権)制から父系(権)制へと社会構造が変わり、神事を司る役が女性から男性の手に移り、人々の意識や価値観も大きく変化していく中で、仏教の教えの影響なども受けて、あのような女性蔑視ともいえる風習へと堕落していったのではないか。
その証拠といってはなんだが、諏訪地方一帯の縄文期の遺跡から発掘された土偶は、圧倒的に女性と思われる姿のものが多く、また、国宝にも認定された、あの、頭に蛇模様の帽子とも冠ともつかぬものを被《かぶ》った「縄文のビーナス」と呼ばれる土偶もこの地方から出土したものである。あれは、蛇神であるミシャグチ神に仕える巫女王の姿を模したものではないだろうか。
そして、こうした蛇神を祀り、やがて蛇神と一体化した蛇女王のイメージが、諏訪大社下社の女神、ヤサカトメノミコトという形をもつに至ったのではないか。
ヤサカトメノミコトという女神もまた、ギリシャ神話のヘラやアルテミス、あるいは、インド神話のカーリー、あるいは、日本神話のイザナミノミコトのように、タケミナカタなどという男神の后神にされる前から諏訪の地に根付いていた古代の太母神であったのかもしれない。
ところで、ここに一つ面白い伝説がある。といっても、それは、諏訪の地のものではなく、静岡県浜北市にある岩水寺という寺に伝わる伝説であるが。
それによると、この寺には、ある一体の霊験あらたかな子安《こやす》地蔵尊が祀られているそうなのだが、その地蔵尊を作ったのが、あの平安初期に活躍した征夷《せいい》大将軍、坂上田村麻呂の子の俊光であるという。俊光は亡母を弔うために、その面影を刻んだ地蔵尊を作ったというが、実は、この亡母というのが人間ではなかった。蛇、それも巨大な赤蛇だったというのである。
この地に住み着いた赤蛇が美女に化けて、田村麻呂と接し、もうけた一子が俊光であったというわけで、その後、夫に自分の正体を知られた玉袖なる名の赤蛇は、岩水寺近くの赤池と呼ばれる池に姿を消したのだという。
この手の蛇嫁(あるいは蛇婿)譚《たん》の類《たぐ》いは全国に見られるので、これだけではどうということもないのだが、面白いのは、この赤蛇が消えた赤池なる池には洞穴があって、その洞穴は遠く諏訪湖までつながっていたという点である。しかも、赤蛇でもある子安地蔵尊は、この洞穴を通って、はるばる諏訪の地まで出張して行き、安産祈願をしてきた女性の願いを聞き届けたというエピソードまであるらしい。
真の諏訪神ともいうべき、ミシャグチ神の正体が「赤蛇」であるという話と一脈通じるものはないだろうか。
また、諏訪と遠州の池とが底でつながっているという話は、実は、諏訪の地でも伝えられている。それは、上社前宮の「お手倉送り」という神事にまつわる話なのだが、これは、前宮で使われた御幣を葛井《くずい》神社に送り、これを、真夜中、神社裏の底無し池に放り込むと、翌日、遠州の国の池に浮かび上がるというのである。
この「遠州の国の池」が、あの岩水寺の赤池のことかどうかは分からないが、どうやら、諏訪と遠州とは、池や湖を通してつながっていると考えられていたようである。もっとも、これは天竜川の水源が諏訪湖であるということからきているのかもしれないが。
岩水寺の子安地蔵尊の話は、坂上田村麻呂の伝説をふまえていることから、少なくとも平安期以降に作られた話だろうが、このような伝説が作られる背景には、赤蛇にまつわる母神信仰のようなものが古くから彼《か》の地に根付いていたからではないだろうか。
「赤蛇」の「赤」にも、太古の母神信仰のシンボルともいうべき「火」と「血」の「赤」を感じる。
あるいは、浜北市を含むこの地方一帯でも、縄文期と思われる遺跡が発見されていることから考えて、彼の地に根付くというよりも、ひょっとしたら、遥《はる》か昔、諏訪に住んでいた縄文人がこの地に移住してきたことを物語っているのかもしれない。
5
沢地の新しいコラムはここで終わっていた。
さほど分量はないと思って読み始めたのだが、読んでみると、結構長かった。蛍子は目をこすりながら、そのコラムの分だけをハードディスクに保存すると、回線を切った。ネットもいいが、長い間やっていると、ひどく目が疲れる。
「太母神」をテーマにしたコラムのはずなのに、なぜ「諏訪信仰」の話などが出てくるのだろうと、はじめの方は、不思議に思いながら読んでいたのだが、諏訪大社下社の女神であるヤサカトメの話に至って、ああそうかと、やっと沢地の意図が理解できた。
今回の話は、「天照大神は女装した男王」とか「ヤマタノオロチは雌」とか「かぐや姫は翼ある蛇」とかいう以前の内容と違って、トンデモ度も低く、わりとすんなり読むことができたのだが、読み終わったあと、蛍子は妙なことに気が付いた。
これを読んだら寝ようと思っていたのに、そのことが気になって、眠気がふっ飛んでしまった。
それは、「諏訪信仰」を支える神官の一派に、神《みわ》という姓が出てきたことである。コラムの中では、この神氏というのは、諏訪大社の主祭神タケミナカタの子孫にあたり、後の諏訪氏であると書かれているのだが……。
蛍子が気になったのは、火呂の双子の姉、葛原日美香《くずはらひみか》の養父になった日の本村の宮司も神姓だったということである。
これは偶然なのだろうか。
諏訪と長野と離れてはいるが、同じ長野県内でもあり、近いといえば近い。諏訪の神氏と日の本村の神氏との間には、なんらかのつながりがあるのかもしれない。たとえば、遠い昔、同じ氏族が分かれたとか……。
しかも共通点は他にもある。
「諏訪信仰」の主祭神であるタケミナカタも、また、「真の諏訪神」であるというミシャグチも、共に「蛇神」であるということだった。
あの鎌倉の高校教師が書いた『奇祭百景』という本によれば、確か、日の本村で祀《まつ》っているのも、「大神」と呼ばれる「蛇神」ではなかったか。
ここから考えても、この両氏が元は同族だったのではないかと推測できた。
そもそも、「神氏」のルーツは、古事記によれば、「三輪《みわ》の大物主の子孫にあたるオオタタネコが祖《おや》」であると書かれている。「三輪の大物主」も「蛇神」であることから考えると、大和にいた蛇神族が、何らかの事情で、信州に移り、さらに諏訪と日の本村に分かれたとも考えられる。
ただし……。
同じ「蛇神」を祀るにしても、その祭りの形態は全く違うようだったが。
日の本村の例祭である「大神祭」の方は、大《おお》日女《ひるめ》という老|巫女《みこ》によって、蛇神の霊が「三人衆」なる三人の若者たちにおろされ、この三人衆が「神」となって、村中の家々を訪問するという、秋田の奇祭「生はげ」にも似た神事のようだった。
とはいえ、共通するところもある。
諏訪の「御頭祭」においては、「蛇神」の霊をおろされるのは、神氏の血筋にあたる男児であるという。しかも、この男児は後に一人になったようだが、当初は、六人いたらしい。複数の「ヨリマシ」に神霊がおろされるという点はよく似ている。
もっとも、大きく違うのは、諏訪信仰では、蛇の霊をおろされた男児が、参詣人《さんけいにん》たちによって打ち殺される存在、古くは、「生き贄」だったらしいということである。
しかし、日の本村の「大神祭」の方には、そのような血腥《ちなまぐさ》い「生き贄」儀式などは……。
そこまで考え、蛍子は、頭をふとよぎった思いつきにぎょっとした。
日の本村の祭りにも、「子供」が神事の主宰になる祭りがあったことを思い出したのだ。確か、七年ごとに行われる大祭の最後を飾る、「一夜《ひとよ》日女《ひるめ》の神事」とかいう神事だった。まだ初潮を見ない十二歳以下の幼い日女(日の本村では、巫女のことをこう呼んでいた)が主役となる祭りだったはずだが……。
蛍子の記憶では、『奇祭百景』という本の日の本村に関する記述には、「一夜日女の神事というのは、七年に一度の大祭の最後に、天界に戻っていく大神に、一夜の妻を捧《ささ》げるという意味で、深夜、幼い日女を神輿《みこし》に乗せ、村の決まったルートを練り歩くというもので、祭りといっても、村人や観光客はその神事を見ることは許されず、神輿の担ぎ手も神官に限られ、日の本神社の関係者の手によって、それは、まるで葬礼のようにひっそりと行われた……」という旨のことが書いてあった。
思えば、この神事の奇怪な「秘密主義」は、諏訪信仰の「秘すべし、秘すべし」と言い伝えられ、その神事の様がけっして外部に漏らされなかったという話と一脈通じるものがある。
そして、なぜそれほどまでに「秘密」にされたのかといえば……。
もしかしたら、と蛍子は思った。
「一夜日女の神事」というのも、大昔は、「生き贄」を捧げる儀式だったのではないだろうか。男児と女児という違いこそあれ、これも「子供」を「生き贄」にする儀式だったのではないか。だからこそ、深夜、こっそりと神官たちの手だけで行われたのだ。葬礼のように、ではない、まさに、それは、まだ幼い子供を蛇神に捧げる「葬礼」そのものだったとしたら……。
むろん、たとえそんなことがあったとしても、諏訪大社の祭り同様、大昔の話だろうが……。
そう思いかけた蛍子の脳裏に、ふいに、伊達浩一から聞いた話が蘇《よみがえ》った。火呂の実母にあたる倉橋日登美の幼い娘、火呂と日美香には異父姉にもあたる春菜という幼女が、昭和五十二年、この「一夜日女」に選ばれたあと、すぐに「病死」したという話を。
伊達は、この幼女の死を「ほんとうに病死だったのか……」と疑っていた。そして、そのことは、日の本村に行ってみれば分かるとも言っていた。
そうだ。あれは、伊達が日の本村に出掛ける前の夜のことだった。
それに……。
伊達浩一が疑惑をもっていたのは、この春菜という幼女のことだけではない。昭和五十二年の夏に起きた、「くらはし」という蕎麦店《そばてん》経営者一家を襲った事件も、これまでそう思われてきたような、住み込み店員による解雇をめぐっての衝動的な犯行ではなく、日の本村の宮司や村長らが共同して企んだ計画殺人だったのではないかと疑っていた。
しかも、この犯罪には、日の本村の出身でもある現大蔵大臣の新庄貴明も一枚|咬《か》んでいたのではないかという。
蛍子としては、そんな話は荒唐無稽《こうとうむけい》すぎて、とても信じられるものではなかったのだが……。
しかし、もし、もしもである。
伊達の疑惑が単なる妄想ではないとしたら。あの日の本村には、何か外部に知られては困るような「秘密」があるとしたら。そして、その「秘密」を伊達が嗅《か》ぎ付けてしまったとしたら……。
伊達を最後に見たのは、日の本村の村長だったというが、村長は本当に伊達浩一を車に乗せて長野駅まで運んだのだろうか。それ以降の伊達の足取りがぷっつりと途絶えており、誰にもその姿を目撃されていないということは……。
伊達が「村を出た」というのは、日の本村の村長や寺の住職がそう言っているにすぎない。もし、彼らが口裏を合わせているのだとしたらどうだろう。
ひょっとしたら、伊達はあの村から出てはいないのではないか。伊達浩一を襲った「予期せぬ出来事」とは、日の本村を出たあとではなく、日の本村にいたときに生じたのではないか。
それに、気になることは他にもあった。
伊達の前にも、この日の本村に興味をもち、調べていた者がいたということだった。しかも、その週刊誌記者だという中年男は、数カ月前に「変死」していた。自宅マンションのベランダから転落死したというのだ。それも、事故なのか自殺なのか判然としないという。
日の本村のことを調べていた男がそろいもそろって、「変死」と「失踪《しつそう》」を遂げているとは……。
気になることはもう一つある。
それは、葛原、いや、神日美香の不可解な態度である。火呂の話では、二人が対面した日、日美香は、「わたしたちはもう会わない方がいい。日の本村のことも実母のことも忘れた方がいい」というようなことを別れ際に言ったというのだ。二十年ぶりで会った双子の妹に向かって言う言葉にしては冷たくよそよそしすぎる気がした。しかし、火呂はそんなことを言い出した姉の様子に「冷たいというより牽制《けんせい》している」ように感じたと言う。
日の本村には何かある。よそ者が近づいてはいけない「何か」が。神家の養女になった日美香はそれを知っているのではないか。だから、妹にはそれに近づかせないために、あえて冷たく突き放すような態度を取ったのではないだろうか。
すべては日の本村に行けば分かるかもしれない……。
ふっとそんな考えが蛍子の頭に浮かんだ。
たとえ、今考えたようなことが妄想にすぎないとしても、村長や寺の住職の証言が真実で、伊達の失踪があの村とは全く無関係だったとしても、あの村に行けば、何かが分かるのではないか。
警察が調べた限りでは、伊達は村を出たあと、まっすぐ東京に帰ると言っていたということだが、本当は、どこかに寄るつもりでいたのかもしれない。
新幹線を利用すれば、長野から東京まで一時間弱で移動できる。そして、その東京から、伊達の自宅まで大した時間はかからない。こんなルートで、本人の意志ででもない限り、大人の男が、どうやったら「失踪」できるというのか。伊達の失踪が東京へ戻るルート上で生じたとはとても思えなかった。
村を出たあと、どこかに立ち寄るつもりでいたことは、村長や住職には言わなくても、村の誰かに話していたかもしれない。誰かがそれを覚えていてくれるかもしれない。直接当たれば、誰かが教えてくれるかもしれない。
そんな藁《わら》をもつかむ思いもあった。
たとえ、それがむなしい結果に終わったとしても、何もしないで手をこまねいているよりはましだ。いつかかってくるかも分からない携帯の着信音をじっと待つよりも……。
それに、有給もだいぶたまっているし、夏から手掛けていた翻訳小説の方も一段落ついて、今なら二、三日休みを取っても会社に迷惑はかからない。行くとしたら今しかない。
日の本村に行こう。
蛍子はそう決心していた。
[#改ページ]
第二章
1
十月十日。土曜日。
喜屋武蛍子は長野駅前で拾ったタクシーを、「白玉温泉前」と表示されたバス停の近くで降りた。タクシー運転手の話では、ここからは日の本神社の参道になるので、車では行けないということだった。しかし、日の本寺までなら、歩いても十分足らずだという。
料金を払うと、蛍子はボストンバッグをさげ、深い藍《あい》色の山々に囲まれた田舎道をとぼとぼと歩き出した。
さすがに空気が違うなと感じた。それは長野駅に降り立ったときから感じていたことではあったが、その長野駅から車で二時間弱という、この辺りまでくると、空気はさらに玲瓏《れいろう》と澄みきっているような気がした。
一匹の赤トンボが、まるで道案内でもするように、すいすいと手前を横切りながら飛んでいた。午後三時を少し回った頃だというのに、日の傾き方が早いというか、あたりにはそこはかとなく夕暮れの気配が漂っていた。
少し行くと、半分朽ちかけたような、古びた両部鳥居が見えてきた。雨風に晒《さら》された筆文字で、「日の本神社」とかろうじて読み取れる額をいただいた鳥居の貫木《ぬきぎ》には、まさに大蛇を思わせるような太いしめ縄が張られていた。
その向こうは杉の参道になっている。
参道をしばらく行くと、三差路に分かれていた。タクシー運転手の話では、日の本寺に行くには右手に曲がればいいということだった。
右の道を少し行くと、すぐに寺の門が見えてきた。中に入り、玄関先で、植木鉢に水をやっていた老女に、「宿泊予約していた喜屋武ですが」と言うと、住職の妻らしき老女は、蛍子を四畳半ほどの和室に案内してくれた。
狭いが掃除の行き届いた気持ちの良《い》い部屋だった。赤い花の一輪挿しが竹の筒に入れられて卓上に飾られていた。
お茶をいれてくれたあとで、宿帳のようなものを差し出された。
「ご旅行ですか……?」
蛍子が宿帳に書き込んでいる間、老女は愛想よく尋ねた。
「実は、こちらにお世話になったある人のことで、ご住職にお尋ねしたいことがありまして」
蛍子はそう言いながら、サインし終わった宿帳の前のページをめくってみた。案の定、そこには、「伊達浩一」の名前があった。日付は九月二日となっている。
「この伊達浩一という人なのですが……」
宿帳のその欄を指さして言うと、それまで愛想笑いを浮かべていた老女の顔が心なしか強《こわ》ばったように見えた。
伊達浩一がこの村を出てから行方不明になっていることを告げると、老女はやや警戒するような顔つきになって、「お身内の方ですか」と尋ねた。
「いえ、友人です。でも、ご家族もとても心配しているんです。あれから何の連絡も手掛かりもないので。それで、もし、ご住職から何か伺えたらと思いまして」
蛍子が言うと、老女は、「さようでございますか。それはご心配でしょうねえ」と同情するように頷《うなず》きはしたものの、「そういえば、先日、その方のことで警察の人がみえましてね、そのとき、わたしどもが知っていることは全部お話ししましたから……」と、なんとなくこの話題にこれ以上触れることを嫌がるようなそぶりを見せた。
「ご迷惑かとは思いますが、もう一度だけ、お話をきかせていただけないでしょうか。あれから何か思い出されたことがあるかもしれませんし」
そう食い下がると、老女は、不承不承という態度ながらも、「主人を呼んでくる」と言い残して、部屋を出て行った。
住職を待つ間、蛍子は、暇つぶしを兼ねて宿帳をぺらぺらとめくってみた。観光地ではないからそれほど泊まり客はないだろうし、この分厚さから見て、何年か分の宿泊客の記録がありそうだった。
伊達浩一の名前のすぐ後に「大久保松太郎・浅子」という夫婦らしき名があった。日付は九月三日になっている。伊達が泊まっていたころ、他にも泊まり客がいたらしい。もしかしたら、この夫婦(?)から後で何か聞き出せるかもしれない。
蛍子はそう思いつき、バッグから手帳を取り出すと、そこに記された住所と電話番号を写し取った。住所は千葉県館山市となっていた。
ページを溯《さかのぼ》っていくうちに、「葛原日美香」の名前を見つけた。日付は「五月十五日」となっていた。どうやら、神家に養子に行く前に、この村を訪れたとき、ここに宿泊したようだった。
さらにページを繰っているうちに、蛍子の目は一人の男の名前に釘付《くぎづ》けになった。「達川正輝《たつかわまさてる》」
この村のことを調べていたという週刊誌記者に違いない。日付は、平成九年、十月二十日となっている。
やはり、達川という週刊誌記者はこの村に来て何か調べていたのだ。蛍子は再び手帳を開くと、達川の住所と電話番号もメモした。
この男があの達川だとすれば、既に亡くなっているわけだから、住所を知ったところで会えるわけではないのだが、いずれ何かの役にたつかもしれないと思い、反射的にしたことだった。
ちょうどメモし終わったとき、廊下の方から足音がした。蛍子は、素早く手帳をバッグにしまい、開いていた宿帳を閉じて元に戻した。
襖《ふすま》が開いて、入ってきたのは、袈裟懸《けさが》けの僧衣を纏《まと》った老住職だった。
2
「……伊達さんの行方はまだ分からないんですか。それはご家族としてもご心痛なことでしょうなあ」
神一光《みわいつこう》と名乗った八十年配の老住職は、蛍子の話を聞くと、長く垂れた真っ白な眉毛《まゆげ》に埋もれるような目をしょぼつかせながら、気の毒そうに言った。
仏事の最中だったのか、紫色の僧衣からは、微《かす》かに香の匂《にお》いが漂ってきた。
「伊達さんが自分の意志で失踪《しつそう》したとはとても思えないんです。この村を出たあと、どこかに立ち寄って、そこで何らかの事故か事件に巻き込まれたのではないかと思うのですが、そのことで、何かお心当たりはございませんか。たとえば、ここを出たらどこそこに行くつもりだと伊達さんが言っていたとか。どんなささいなことでもいいのですが」
蛍子がそう言うと、老住職は、はてと思案するような顔になり、
「そのことは警察の方にもきかれたのですが、てまえの記憶では、伊達さんはまっすぐ東京に帰るとおっしゃっていたような……」
もごもごと口の中で呟《つぶや》くように言った。
「九月四日の朝、村長さんの車に乗せて貰《もら》って、長野駅まで行ったと聞いたのですが……?」
蛍子がさらに尋ねると、
「あ、いや」
住職は遮るように言った。
「あれは太田村長の車ではなくて、郁馬《いくま》さんの車ですよ」
「イクマさん?」
神郁馬といって、日の本神社の宮司の弟で、自らも神官であるという。あの朝、車を運転していたのは、この青年であると住職は言った。
住職の話によるとこういうことだった。
九月四日の午前九時すぎ、寺を出た伊達浩一は、長野駅行きのバスに乗るべく、バス停に向かっていた。そのとき、ちょうど、そのバス停近くで、公用で長野市の役所に行こうとしていた村長を乗せた神郁馬の車が通りかかり、長野駅なら途中だからと、伊達を拾ったらしい。
「……郁馬さんは、伊達さんとは顔見知りになっていたようなので、気楽に車に乗せてあげたのでしょうな」
住職はそう言った。
九月二日の午後三時過ぎに寺に到着した伊達は、宿泊手続きを済ませると、すぐに神家に出向いたらしい。このとき、自宅にいた郁馬と知り合ったのだろうと住職は言った。
伊達を長野駅まで乗せた車の運転手で、しかも、伊達が滞在中に顔見知りになっていたという、この青年に会えば、何か新しいことが分かるかもしれない。蛍子はかすかな手ごたえのようなものを感じた。
「その方にお会いして、直接お話を伺いたいのですが、今どちらに……?」
思わず身を乗り出すようにして尋ねると、住職は、部屋の中にあった置き時計の方にちらと視線を走らせ、
「この時間なら、まだお社の方におられるかな」と呟いた。
「お社と言いますと?」
「日の本神社ですよ」
神郁馬は神官とはいっても、去年、東京の大学を卒業して戻ってきたばかりの、いわば見習いのようなもので、日の本神社周辺の掃除やら草むしりなどの雑用を主に受け持っているらしかった。
「お社」には、この寺に来るときには右手に曲がった三差路をまっすぐ行けばいいと住職は教えてくれた。
蛍子は住職に礼を言い、傍《かたわ》らのハンドバッグだけ手にすると、これからすぐに行ってみると告げた。
すると、住職は、片|膝《ひざ》に手を当て、「よっこらしょ」と掛け声と共に重い腰をあげながら、「夕食は午後七時と決まっておりますので、それまでにはお帰りを……」と言い残して、部屋を出て行った。
3
日の本寺を出て、あの三差路の所まで戻ると、蛍子は、社の方向に向かった。しばらく行くと、二の鳥居が見えてきた。
参道前にあった一の鳥居にくらべると、やや小ぶりで造りも新しい。しかし、同じように、大蛇を思わせる不気味な太いしめ縄が張られていた。
その二の鳥居をくぐり、さらに行くと、周囲に沢山の酒樽《さかだる》を積み重ねた舞殿と拝殿とおぼしき古びた木造の建物が見えてきた。
例の高校教師、真鍋伊知郎の書いた「奇祭百景」によれば、日の本神社には本殿はなく、拝殿の背後の鏡山という山が御神体であるらしかった。この「鏡山」の「かがみ」というのも、もともとは、蛇の古語である「蛇《かが》」の身という意味で、「蛇身」と書いていたのが、いつのまにか、「鏡」になったのだという。
どうやら、蛇神を祀《まつ》るこの神社では、背後の山をとぐろを巻いた巨大な蛇に見立て、それを御神体と仰いでいるようだった。
神社内はしんと静まり返っていた。神郁馬らしき神官の姿を探したが、夕暮れの気配が色濃く漂いはじめた境内には、人の姿はおろか、猫の子一匹いなかった。ただ、周囲の樹林に住む鳥の鳴き声が時折響くだけである。
蛍子は境内の中を郁馬の姿を求めて歩き回っていたが、ふと、拝殿の背後に、人ひとりがようやく通れるくらいの細道があるのに気づいた。その道の手前には、「関係者以外立ち入り禁止」という立て札がたっていたが、この奥に社務所か何かがあって、そこに神郁馬がいるかもしれないと思い、その立て札を無視して、蛍子はさらに進んだ。
やや曲がりくねった細道を歩いて行くと、ふいに、前方から、子供の甲高い笑い声と、「はい、もう一度」という優しげな女性の声が聞こえてきた。見ると、杉木立に囲まれた庭のようなところで、白衣に濃紫の袴《はかま》をつけた二十歳代半ばと見られる女性が、三、四歳の幼女を相手に毬《まり》遊びに興じていた。オカッパ頭の幼女の方も白衣に濃紫の袴姿だった。
どうやら、これが、この村では「日女《ひるめ》」と呼ばれている巫女《みこ》らしい。そういえば、と蛍子は思い出していた。真鍋の本に、「大日女」と呼ばれる老巫女と、「若日女」と呼ばれる巫女たちが、社の裏手にある家屋で、村人とは隔絶された共同生活を営んでいると記されていたことを。
毬遊びに興じる二人の向こうには、家屋らしき建物が見えた。
「あの、すみません……」
蛍子は声をかけた。
赤い毬を手にした女性の方がはっとしたようにこちらを見た。
「どなたですか。ここは一般の参詣者《さんけいしや》が来るところではありません。関係者以外は立ち入り禁止ですよ。立て札があったのをご覧にならなかったのですか」
白い女雛《めびな》を思わせる優しげな顔に似合わぬ、凜《りん》とした厳しい口調で、若い日女は蛍子を問い詰めた。
「ご、ごめんなさい。ちょっと人を探していたものですから。神郁馬さんという方なんですが……」
蛍子は慌ててそう言い訳したが、その日女は、問答無用という態度を崩さず、「お帰りください」とだけ言うと、そばにいた幼女の方に駆け寄り、まるで、蛍子の視線からその幼女をかばうような奇妙な仕草を見せた。
そして、突然毬遊びを中断されて少しぐずったような表情をしている幼女の手を引っ張るようにして、家屋の方向に足早に行ってしまった。
蛍子は、この若い日女の、ややヒステリックとも見える言動を唖然《あぜん》として見送っていたが、年上の日女に手を引かれながら、自分の方を不思議そうに振り返っていた愛くるしい幼女の顔に、なんとなく見覚えがあるような気がした。
あの子、どこかで見たような……。
オカッパ頭に、右|頬《ほお》に、やや目立つ黒子《ほくろ》。
どこかで見たと思いながらも、どこで見たのか思い出せないまま、蛍子は来た道をすごすごと戻った。
社に戻っても、やはり、人の気配はなかった。明朝にでも出直そうと、これ以上神郁馬を捜すことをあきらめ、二の鳥居の方に行きかけたときだった。
「ちょっと……」と自分を呼び止めるような男の声を背後に聞いて、蛍子は、思わず足を止めて振り返った。さきほどの社の裏手の細道の方から、竹箒《たけぼうき》を手にした男が息せききった様子で現れた。
白衣に浅葱《あさぎ》の袴《はかま》をつけた二十歳そこそこの若い男だった。
「僕を探しておられたというのはあなたですか」
若い男はそう言った。
「神郁馬さん……でしょうか?」
蛍子が尋ねると、その男は、そうだというように大きく頷《うなず》いた。走ってきたせいか、色白の頬が紅潮している。女のような顔立ちの美青年だった。
「物忌み」と呼ばれる、大日女たちの住居の周辺を掃除していたら、日女の一人に、自分を探している女性がいたと聞かされ、それで慌てて駆けつけてきたのだと、郁馬は言った。
「それで、僕に何か御用でも?」
蛍子は自分の名を名乗り、伊達浩一の友人であることを打ち明けた。
「伊達さん……」
伊達の名を聞くと、郁馬は、ややはっとした表情になった。
蛍子は伊達浩一がこの村を出たきり、いまだに行方不明であることを話した。
「……そうですか。伊達さんの行方はまだ分からないんですか」
蛍子の話を聞くと、神郁馬も、日の本寺の住職夫妻同様、気の毒そうな顔になった。
「ご住職の話では、九月四日の朝、伊達さんは、神さんの運転する車で長野駅まで送ってもらったということですね。それで、できれば、そのときのことなどを詳しく伺いたいのですが……」
蛍子がそう言うと、神郁馬は、「そのことなら警察の人が調べに来たときに、全部お話ししましたが……」と、やはり住職同様、少々迷惑そうな様子を見せていたが、「何でもいいんです。どんなささいなことでも」と蛍子が食い下がると、郁馬は、しばらく思案するようにしていたが、「それでは、ここで立ち話も何ですから、うちの方で……」と言い出した。
聞けば、宮司宅は社から数分の所にあるという。
「ちょっと待っててください」
郁馬はそう言い残すと、竹箒をもったまま、蛍子の前からいったん姿を消したが、すぐに、手ぶらで戻ってきた。
4
「あの朝……」
連れ立って二の鳥居をくぐり、三差路の方に向かって歩きながら、神郁馬は思い出すように口を開いた。
村長を乗せて、あのバス停近くを通りかかると、旅行カバンをさげた男が前方を歩いているのが目に入った。それが、一昨日《おととい》、話をした伊達浩一であることに気づいた郁馬は、クラクションを鳴らし、車の中から伊達に声をかけた。すると、伊達はこれからバスで長野駅まで行くところだと言ったという。
「それで、ちょうど僕たちもそちらに行こうとしていたので、伊達さんを拾ったんです」
「そのとき、伊達さんは助手席に……?」
蛍子は歩きながら、さりげない声で尋ねた。なるべく細かい所まで聞き出して、後で村長の話とも照らし合わせてみるつもりだった。もし、彼らが口裏を合わせて、ありもしないことをでっちあげているのだとしたら、必ず、細部の証言で食い違いが生じるはずである。
「……そうです」
やや間があって、郁馬は答えた。その間が蛍子には少し気になった。もっとも、間といっても、自分の思い過ごしかと思うほどの短いものだったが。
「車の中ではどんなことを話されたのですか」
蛍子はさらに尋ねた。
「どんなことって……」
郁馬は、幾分困惑したように、
「どうということのない、ふつうの世間話だったと思います。こちらは車の運転に集中していたし、適当に聞き流していたので、あまりよく覚えてないんですよ」
と、あたりさわりのない答え方をした。
「伊達さんは長野駅からまっすぐ東京に戻ると言っていたのですか。それとも、どこかに立ち寄るとは……?」
蛍子は、少しの嘘《うそ》も見逃すまいと郁馬の横顔をじっと見ながら聞いた。
「このまま東京へ戻るとおっしゃっていたような。少なくとも、どこかに寄るという話は聞いていませんね。長野駅の手前でおろしたあと、車の中からちらと見たら、伊達さんが駅の階段を昇って行かれるのが見えたので、てっきり、そのまま新幹線で東京に戻られたのだとばかり……」
「あの……伊達さんが私立探偵だということはご存じでしたか」
蛍子は話題を変えるように言った。
伊達は、探偵という自分の身分を明かして、日の本村の人々に接したのだろうか。それとも、ふらりと立ち寄った観光客でも装ったのだろうか。場合によっては、身分を偽って、調査にあたることもあると前に聞いたことがあった。
「ええ、それは知ってます。伊達さんがそうおっしゃっていましたから」
「日の本村に来た理由を話したんですか? 何かの調査とか?」
「なんでも……日登美様のことを調べていると……」
「日登美様?」
蛍子は思わず聞き返した。伊達は、倉橋日登美のことを調べていると素直に話したのか。そんなことをしたら、神家の人間に警戒されてしまうのではないだろうか。調査のプロにしては無防備というか、少々正攻法すぎるような気がした。
「ああ、日登美様というのは……」
蛍子の問い返しを別の意味に勘違いしたらしい郁馬は、日登美のことを簡単に説明した。自分にとっては従姉《いとこ》にあたる人で、「日女」の一人だということを。この村では、「大神」の巫女である日女は特別視されていて、たとえ家族であっても、「様」を付けて呼ばなければならないのだという。
そういうことは、真鍋伊知郎の本を読んで、蛍子は知っていたが、はじめて聞くような顔をして相槌《あいづち》を打っていると、元来、人懐っこい性格で話し好きらしい青年は、この「日登美様」が、ある事情があって、この村の生まれであるにもかかわらず、東京で育ち、幼い娘を連れて、村に帰ってくるまでのいきさつを蛍子に話してくれた。
もっとも、日登美母子が村に帰るきっかけとなった昭和五十二年の事件のことは、「ご不幸があって」などと巧《うま》くぼかしていたが。
「……それで、その日登美様の父かたの伯母《おば》という人が、この村に帰ったあと、日登美様から何の連絡もないことを心配して、日登美様と春菜様がまだ村にいるのか、元気で暮らしているのか、伊達さんに調べてくれと依頼したらしいんですよ……」
郁馬の話を聞きながら、ああそうか、と蛍子はようやく合点がいった。伊達は、日登美|母子《おやこ》のことを調べるために、松山で旅館業を営む、日登美の養父の姉、秋庭タカ子を「依頼主」に仕立てたのだ。
むろん、秋庭タカ子からそんな依頼を受けたわけではないが、こういう話にしておけば、神家の人々にさほど怪しまれることなく、日登美母子のことを探れると思ったのだろう。
郁馬の話では、日登美母子の消息を調べるために、九月二日、伊達は神家を訪れたのだという。そのとき、たまたまうちにいた郁馬と話をして、顔見知りになったのだということだった。
「……日登美様も春菜様も既にお亡くなりになったことを話したんです。二十年も昔のことです。僕は小さくてよくおぼえてはいないんですが、お二人とも病死だったと聞いています……」
話しながら歩いているうちに、いつのまにか、例の三差路に出た。その三差路を日の本寺のある方向とは反対の道を選んでさらに歩き続けると、前方に、古いどっしりとした構えの日本家屋が見えてきた。
宮司宅のようだった。
5
家に着くと、神郁馬は、蛍子を、客間らしき広い和室に通し、「ちょっと着替えてきます」と言って姿を消した。
しばらくして、薄手のセーターにジーンズというラフな格好に着替えた郁馬が、二つのコーヒーカップを載せた盆を携えて戻ってきた。
神官の衣装を脱いでしまうと、どこにでもいそうな普通の若者という感じだった。
「……しかし、日登美様の消息を探っていた伊達さんが今度は行方不明になってしまうなんて。まさにミイラ取りがミイラになったとでもいうか」
郁馬は、蛍子の方にコーヒーを差し出しながら、話の続きをするように言った。その表情を見る限りでは、この感じの良い青年が、伊達の失踪《しつそう》に何かかかわっているとはとても思えなかった。
「伊達さんとは」
蛍子は出されたコーヒーに軽く口をつけてから尋ねた。
「他にどんな話をされたのですか?」
「あとは……」
郁馬は思い出すように、宙に目を据えていたが、
「そうそう。大神祭のことを」
と思い出したように言った。
「大神祭?」
「この村で毎年十一月の初めに催される祭りのことです。なんでも、伊達さんはたまたま、大神祭のことを書いた本を読んで興味をもっていたそうで……」
「それは、もしかしたら、真鍋伊知郎という人が書いた『奇祭百景』という本ではありませんか」
蛍子は言った。
「そうです。ご存じでしたか? 聞くところによると、高校の先生が趣味で書いて自費出版した部数も僅《わず》かな本だそうですが」
そんな地味な本のことをなぜ知ってるんだとでもいうように、郁馬は一瞬、目を細めるようにして蛍子の方を見た。
「前に伊達さんからその本の話をちらっと聞かされたものですから。日本のあまり知られていない奇祭のことばかりを扱った本だと。確か、その本によると、日の本村というのは、古代の豪族だった物部《もののべ》氏が作った村だとか……?」
「ええ。家伝によれば、神家の祖先は、物部|守屋《もりや》の一子、弟君《おとぎみ》であるといわれています」
郁馬は言った。
「物部守屋というと、仏教をめぐって蘇我《そが》氏と争ったという……?」
「あの物部守屋です」
郁馬は深く頷《うなず》くと、大和の豪族だった物部守屋の遺児が信州に至って日の本村を作るまでのいきさつをこう語った。
六世紀、仏教をめぐっての蘇我氏との権力闘争に敗れ、大和を追われた物部氏の残党の中には、雄君と弟君という守屋の二人の遺児もいた。それぞれ忠実な家臣に守られ、兄の雄君の方は美濃《みの》に、弟の方は信州の諏訪に逃れたという。
「……諏訪に逃げ延びた弟君は、当時諏訪地方を支配していたモリヤ氏の保護を受けて成長し、後に神長武麻呂《かんながたけまろ》と名乗り、諏訪大社上社の代々の神官の祖となったと、諏訪では伝えられているようですが、実はこれは違うんです」
「違うとは?」
「替え玉だったんですよ」
「替え玉……」
「諏訪に残ったのは、本物の弟君ではなかったんです」
郁馬の話では、弟君は、しばらくはモリヤ氏の保護のもとに、諏訪で暮らしていたが、蘇我氏の探索の手が諏訪にまで延びてきたことを知った家臣の一人が一計を案じ、万が一のときのために、年格好の似た自分の子供を弟君の替え玉にしたてたのだという。
そして、これを「弟君」と偽って諏訪に残し、本物の弟君の方は、ほんの数人の家臣と共に、諏訪の地を出て、戸隠山をも越え、今の日の本村のあたりまで落ち延びたというのである。
「……本物の弟君が逃げ延びたこのあたりには、既に、やはり、その昔、大和から逃げ延びてきた少数の物部系の氏族が住み着いていたんです。それが神氏です。神氏は、諏訪大社上社の祭神タケミナカタの子孫といわれていることから、一般には出雲系と思われているようですが、もともとは、大和《やまと》の出身で、三輪山《みわやま》の大物主がイクタマヨリヒメという人間の女性と交わって生まれたオオタタネコという者の子孫なんです。
しかし、神武天皇が大和入りしたとき、神武にくみすることを拒否して大和を飛び出した物部系の氏族の中に神氏もいました。これらの外物部ともいわれる氏族の多くは東北や東海方面に逃れたのですが、一部は信州にも逃れていたんです。
弟君は、遥《はる》か昔に分かれた、この同族ともいうべき神氏と合流したのです。そして、蘇我の追っ手がこの地まで来た場合を考え、物部守屋ゆかりの者であることを隠すために姓も物部から神に変え、やがて成人すると神氏の娘を娶《めと》り、神氏と共に、この日の本村を作ったというわけなんです」
郁馬は、神家の家伝書に記されているという日の本村の由来について誇らしげに語った。
蛍子は、郁馬の話を神妙な面持ちで聞きながらも、内心では、とても頭から鵜呑《うの》みにできる話ではないなと思っていた。
旧家にありがちな、この手の家伝書とか家系図の類《たぐ》いには、由緒正しき名族であることを誇張するために、後から捏造《ねつぞう》されたものも少なくないと聞いていたからである。
物部守屋に「弟君」なる男児がいたのかさえも史実的には定かではないだろうし、わが子を主君の替え玉にしてまで幼い主君を守ろうとした忠臣の話などは、奈良時代の話というより、こうした「忠義」が美徳とされもてはやされた鎌倉時代以降の武士の価値観に則《のつと》っているようにも見える。
神家に伝わる家伝書というのも、古いとはいっても、鎌倉時代以降に作られたものではないかと内心では疑っていた。
むろん、そんなことは、家伝書に記されたことを信じて疑わないといった様子の郁馬の前ではおくびにも出さなかったが。
「……実は、日の本村の『日の本』という名前には、『日本』という意味が込《こ》められているんです」
蛍子が感心したように聞き入っていることに気をよくしたのか、神郁馬の舌はさらに滑らかになった。
「そもそも、この『日本』という国名は、物部伝承によれば、物部氏の祖神ニギハヤヒノミコトが、天磐船《あまのいわふね》に乗り、天降りしたとき、『虚空《そら》に浮かびて遥かに日の下を見るに、国あり。因りて、日本《ひのもと》と名づく』と言ったことから付けられたものだと言われています。
ニギハヤヒの末裔《まつえい》にあたる弟君が、大和を追われて、この地にはじめて足を踏み入れたとき、神祖のこの言葉を思い出したのでしょう。蘇我氏に追われて逃げてきた山奥の土地とはいえ、すべてはここから始まる新天地でもあるという意味を込めて、『日の本』と名付けたといわれています。
そして、この祖神を祀《まつ》るために、山の麓《ふもと》に社を建て、自らが神主となりました。これが日の本神社の始まりです。
もっとも、その前から、この地に住み着いていた神氏によって、山を御神体として、この神は祀られてはいたのですが。というのも、神武の大和入りの際に、大和を捨てた神氏が信州を新天地に選んだのも、信州が山国だったからなんです。引っ越し先として、祖神の御神体を移す山をまず探したのです。それも、ただの山ではなく、美しい円錐形《えんすいけい》のピラミッドのような山をです。ちょうど奈良の三輪山のような。
そして、ようやく、条件にかなった山の麓まで辿《たど》りつき、この山を当初は『蛇身山《かがみやま》』と名付け、祖神の遺骨を納める霊山と決めて、ようやく安住の地を得たというわけです」
「祖神の遺骨?」
蛍子は聞き返した。
「御神体といっても、名ばかりの実体のないものではありません。ニギハヤヒノミコトの御遺骨です」
郁馬は当然のように言った。
「もともとは、奈良の三輪山の頂上に納められていたのですが、神氏が大和を出るときに、こっそり、その遺骨を掘り出し、こちらに移したのです」
神の遺骨……。そんなものがこの世にあるのかと思いつつ、蛍子はそんなことを大まじめに語る若者の顔をやや困惑ぎみに見返していた。
「すると、ここで祀られている大神というのは、その……?」
「ニギハヤヒノミコトです。元は三輪山の神であり、日本の真の天照大神でもあります」
「天照大神……」
「そうです。それが、御神体が大神神社から伊勢神宮に移されたときに、蛇神であることを隠され、男神であったのに、女神であるとされてしまったのです。これは、物部氏が滅びたあと、蘇我氏を打ち破り大和の主権を握った中臣《なかとみ》氏こと後の藤原氏の陰謀によるものです。藤原氏としては、物部氏の祖神をそのまま日本の最高神にしたくはなかったのでしょう。
しかし、真の御神体ともいうべき天照大神の『遺骨』はこちらにあるのですから、伊勢神宮などは実体のないものを物々しく祀っているにすぎないのです。空っぽの金庫を中にお宝が入っていると信じこんで大切にしているようなものです。そんな伊勢神宮を有り難がって、今もなお、多くの人が参拝に足を運ぶというのは、考えてみれば滑稽《こつけい》な話ですね。
まさか、誰も、天照大神の『遺骨』がこんな山奥に隠されているとは夢にも思わないでしょう。でも、これでいいのです。本当に大切なものはこうした形でひっそりと人知れず守るべきなのです。真偽の区別もつかない愚衆などには、まがいものをあてがっておけばいいんですよ……」
郁馬はそう言って、やや傲慢《ごうまん》にも見える微笑をその整った口元に浮かべた。
周知のことでも語るように淡々と話す郁馬の冷静さに、逆に、何か「狂信的」ともいえるものを感じ取って、蛍子は、最初は人懐っこい好青年に見えたこの若者に、少しずつ薄気味悪いものを感じはじめていた。
「そうだ。もし、大神のお姿をご覧になりたければ」
郁馬はふと思いついたというように言った。
「日の本寺の住職に頼めば掛け軸を見せてくれますよ」
「掛け軸……ですか?」
郁馬の話によると、日の本寺というのは、本来は、日の本神社の神宮寺として建てられたものらしかった。
神宮寺というのは、平安期、日本古来の神々は仏の化身であるという神仏混淆《しんぶつこんこう》の思想から、神社に付属して造られた寺院のことで、明治初年の神仏分離令によって、多くは廃絶されたのだが、中には神社から独立したものもあり、日の本寺もそのような寺の一つだという。代々の住職も、神家の分家筋に当たる者が世襲で引き継いでいるのだということだった。
「実は、大神のお姿を刻んだ青銅の像があの寺には保存されているのですが、これは秘仏とされ、神家の血筋の者しか見ることはできないのです。でも、この像を模写した掛け軸がありまして、こちらの方なら外部の方にもお見せしていますから。そういえば、伊達さんにもこの話をしたような記憶があります」
郁馬は思い出したように言った。
6
蛍子が神家を出たときは、あたりはすっかり闇《やみ》にとざされていた。夕食の時間までには帰るようにと住職に言われていたことを思い出し、足早に、暗い参道を日の本寺に向かって歩いた。
寺に戻ると、山菜の天麩羅《てんぷら》を中心にした精進料理の膳《ぜん》が既に食堂のテーブルに並べられていた。肉類は一切使わず、見た目は、いかにも寺の料理らしい質素なものではあったが、箸《はし》をつけてみると、醤油《しようゆ》や味噌《みそ》からすべて自家製だという味の方は高級料亭のそれに負けないものがあった。
聞けば、料理はすべて住職夫妻の手によるもので、とりわけ、ここの住職は蕎麦《そば》打ちの名人でもあるという。
大した観光名所もないのに、細々ながらも客足が途絶えないのは、どうやら、住職の打つ蕎麦の噂《うわさ》が口コミで伝わっているかららしい。戸隠あたりまで来た観光客が、そこで日の本村の蕎麦の噂を聞き、少し足を延ばしてやって来ることも珍しくないということだった。
夕食を済ませた後、温泉を引いた内風呂《うちぶろ》で汗を流し、浴衣《ゆかた》に着替えて部屋に戻ってきたときには、時刻は午後九時近くになっていた。
むろん普通の旅館のようにテレビなど置いてないので、手持ち無沙汰《ぶさた》といえば手持ち無沙汰だったが、このような静かな夜の過ごし方もたまには良いなと思いながら、くつろいでいると、部屋の外に足音がして、襖《ふすま》ごしに住職の声がした。
「家内が手遊《てすさ》びにこんなものを作りましてな。都会の方のお口には合わないかもしれんが、お茶うけにでもと……」
住職はそんなことを言いながら、蕎麦団子の皿を手に入ってきた。蛍子は礼を言って、さっそく一口食べてみた。口の中に素朴な懐かしい味がじんわりと広がった。
「……で、いかがでしたかな。何か分かりましたかの?」
普段着らしい藍《あい》色の作務衣《さむえ》に着替えた住職はさっそく尋ねた。蕎麦団子というのは口実で、どうやらそのことが気になって訪れたようだった。
神郁馬に会って話はしたが、伊達のことではこれといって収穫はなかったと報告すると、
「お留守の間に、太田村長の方にも電話をしときましたから、明日にでもうちの方に訪ねてみたらよろしかろう。ただ、電話の話では、村長もあれから特に思い出したことはないちゅうとりましたから、こちらも大した収穫はないかもしれんがの」
住職はそう言った。
「あの、それで、郁馬さんから伺ったのですが」
蛍子は、例の大神の神像を模写したという掛け軸の話を切り出してみた。
「おお、それなら……」
住職は今思い出したというように、はたと片|膝《ひざ》を打った。
「確かに、伊達さんにもお見せしました。是非拝見したいとおっしゃるので……」
「わたしにも見せて戴《いただ》けないでしょうか」
そういうと、住職は機嫌よく頷《うなず》き、「今もってくる」と言い残して部屋を出て行ったが、しばらくして、紐《ひも》で結ばれた細長い桐の箱を恭しく両手で掲げるようにして戻ってきた。
そして、蛍子の前で、箱を結んだ紐を解き、蓋《ふた》を開けて、中から巻物風のものを取り出した。
大神の像が造られたのは、平安後期あたりだというが、この像は代々秘仏とされ、神家ゆかりの者しか見ることが許されなかったので、後に、「大神のお姿が一目見たい」という村人たちの要請を受けて、絵心があった当時の住職が自ら絵筆を執《と》り、神像を収めたお堂に何日も籠《こ》もって写し取ったのがこの掛け軸であるという。
そんなことを説明しながら、住職は巻いてあった掛け軸をそろそろと解いて、それを畳の上に広げた。
何げなく視線を落とした蛍子は息を呑《の》んだ。
全身がやや青みがかった異形の像がそこには描かれていた。鋭い牙《きば》の生えた口を噛《か》み締め、憤怒《ふんぬ》の形相を浮かべた顔には、皿のような目が一つしか描かれておらず、無数のロウソクの炎がゆらめきのぼるように見える頭髪は、よく見るとすべて小さな蛇だった。
両|拳《こぶし》を臍《へそ》のあたりで上下に組んだ上半身は逞《たくま》しい武人を思わせる人間の姿をしていたが、下半身は三重にとぐろを巻いた蛇の姿をしている。そして、そのとぐろには、青白く光る鱗《うろこ》が一枚一枚|執拗《しつよう》なまでに丹念に描きこまれていた。
これが大神……。
恐ろしい形相をして、蛇の下半身をもつ不気味な姿は神というより、邪悪な妖魔《ようま》か何かのように見える。
蛍子は魅入られたように、その姿を凝視した。気味悪く恐ろしいのだが、こわいものみたさとでもいうか、なぜか、目をそらすことができなかった。
住職の話では、全身が青みがかっているのは、青銅に刻まれた像だからで、造られた当初は全身に「火」を表す朱が塗られていたらしい。そう言われてみれば、ところどころ、剥《は》げ落ちたような朱色が残っていた。
また、目が一つしかないのは、「目一つの神」すなわち「日神」であることを表しているのだという。
ふと、この大神の姿が、昔どこかの寺で見た「不動明王」の絵姿にどことなく似ていることに気が付いて、そのことを言うと、住職は、ウンウンと頷いて、「天照大神は仏教では大日如来と同一視されることが多いのだが、このあたりは、中世の頃から山岳密教の栄えた土地柄ということもあって、密教の影響を受けている。密教では、最高仏である大日如来よりも、大日如来の使者ないしは化身といわれる不動明王の方が重要視されている。もともと、日神には火神の性格が内在されているわけだから、平安後期に造られたという大神の像に、火神である不動明王の姿の影響があっても不思議はない」というようなことを言い、やや沈黙があった後、「しかし、不動明王が憤怒の形相をしているのは、大日如来の化身として、仏法を守らぬ悪人どもを監視しこらしめるためだが、大神の像がこのような怒りの相をしておられるのは、遠い昔に、神剣を盗まれ、万物の上に君臨する最高神としての地位を奪われたからじゃ」などと言い出した。
蛍子は思わず住職の顔を見た。
畳の上に広げられた掛け軸をじっと見たまま、そう呟《つぶや》くように漏らした老人の声には、昔の伝説を語るというより、つい最近我が身に起こったことを話すような生々しい怒りの響きが感じられた。
「その……神剣を盗まれたというのは?」
蛍子はおずおずと尋ねた。
「最高神としての地位を奪われた」というのは、神郁馬の話などからなんとなく推測できたのだが、「神剣を盗まれた」という言葉の意味が理解できない。
「大神のお手をご覧なさい。何かを捧《ささ》げもっていたように見えませぬか?」
住職は絵の方を指さしながら言った。
そう言われて見れば、像の両手の拳は臍のあたりで上下に組まれ、何かを捧げもっていたようにも見える。
「そういえば……」
蛍子がそう言うと、住職は重々しい口調でこう答えた。
「大神は御手に神剣を捧げもっておられたのです。その昔、天叢雲《あめのむらくも》の剣《つるぎ》と呼ばれた神剣をな……」
7
「天叢雲の剣って、ヤマタノオロチの尾から出てきたという……?」
老住職が何を言い出すのかと、蛍子はびっくりしながら聞いた。
「さようです。あの天叢雲の剣。後には草薙の剣とも呼ばれた三種の神器の一つ……」
住職は大きく頷いた。
「で、でも、どうして、ヤマタノオロチの尾から出てきた剣が」
そう言いかけると、住職は、記紀では出雲の怪物のように描かれているあのヤマタノオロチこそが、古代の太陽神であり、この大神と同体の神であると答えた。そして、出雲大社の真の御祭神でもあると。
「……ということは、出雲大社の祭神といわれているオオクニヌシの正体は蛇で、実はヤマタノオロチだったということですか」
蛍子は思わず聞いた。
「そういう解釈もできますな。そもそもオオクニヌシという名前は固有名詞ではなく、『国の主』すなわち『国王』とでもいうような意味なのですが、このオオクニヌシには別名が幾つもあって、その中の一つは、オオモノヌシといって、三輪山の神の別名であるともいわれております。それに、もう一つの別名であるオオナムチというのも、本来は山の神である蛇の意味がありますのじゃ……」
太古、やはり物部系の部族が支配していた出雲の地でも、物部の神祖である蛇神が祀《まつ》られていたが、後に、物部氏が没落し藤原氏が政権を握ると、出雲大社の祭神が物部系の蛇神であることが隠されてしまった。
それどころか、この蛇神は、記紀の中では、ヤマタノオロチという醜い怪物に貶《おとし》められて、須佐之男命《スサノオノミコト》に退治されるという話まででっちあげられてしまった。
そもそも、大蛇をずたずたに剣で切り殺すという退治の仕方は、実は、古い蛇を殺すことで新しい蛇を蘇《よみがえ》らせる蛇神族の再生の儀式を歪《ゆが》めて伝えたものである。
出雲神話のハイライトというべき、あのヤマタノオロチ退治の話とオオクニヌシの国譲りの話は、もともとは、大和の地で起こった政争―――神武天皇が大和入りしたとき、先にその地を支配していた天孫族のニギハヤヒノミコトが神武に国譲りする話―――を二つの逸話に分裂させて写しとったものなのである。
神話の中では「国譲り」などとさも平和的に政権交代が行われたかのように描かれているが、むろん、そんなことはなく、そこには血で血を洗うような烈しい戦闘があったに違いない。
古事記では、このとき、ニギハヤヒは国譲りに反対した義兄のナガスネヒコを切り捨てたとあるが、一説によれば、殺されたのはニギハヤヒ自身であったともいわれている。
つまり、記紀の中で、ヤマタノオロチの尾から出てきたとされている剣とは、実は、このとき、神武がニギハヤヒから奪った「覇王の剣」のことなのである……。
住職は、垂れ下がった白い眉毛《まゆげ》をふしくれだった指でしきりに撫《な》でながら、そんなことを滔々《とうとう》と語った。
蛍子は、それを聞きながら、そういえば沢地逸子のコラムにも似たようなことが書かれていたなと思い出していた。
「……ですから、天叢雲の剣が大神の御手に戻るまでは、大神の御顔から憤怒の相が消えることはないといわれていますのじゃ」
そして、その怒りの深さゆえに、大神はしばしば祟《たた》りをなすという。
「祟り?」
「さよう。古くは疫病から、今までこの国を襲った大地震や台風、火山の噴火といった大災害はすべて、大神の祟りによるものなのです。最近でいえば、あの神戸の震災……。あれもむろん大神がなされたことじゃ。祀り方が不十分だと、大神はひどくお怒りになるのじゃ」
「…………」
「それでも、この国を壊滅させるだけの大きな災害はまだ起きてはいない。神戸を襲ったよりも遥《はる》かに大きな地震がいずれ関東それも日本列島の心臓部ともいうべき首都圏を襲うと言われ続けながら、なぜ、まだ起きないのか。そろそろ富士が噴火してもおかしくない時期にきているのに、なぜ、まだ噴火しないのか。なぜだと思われまする? なぜ、この程度で済んできたのか」
「さ、さあ……」
「起きなかったのではない。起きることを阻止してきたからじゃ。大神の子孫である我々が、千年以上にもわたって、この地に大神の御霊《みたま》を厳重に封印し、日々心をこめて祭りあげることで、お怒りをなんとか和らげてきたからじゃ。我々こそが、この日の本村こそが、千年の長きにわたって、この国を密《ひそ》かに守ってきたんじゃ。
ここで、もし、我々が大神を祭りあげることをやめれば、大神の御霊を閉じ込めた封印を解けば……どういうことになるかお分かりか。この国は大変なことになる。これまでかろうじてくい止めてきたありとあらゆる災害に一気に襲われるじゃろう。いや、この国どころではない。世界中が大災害に巻き込まれることにもなりかねない。地球の滅亡にもつながりかねないのじゃ。
だが、ここで、大神の御手に失われた剣を取り戻し、大神を日本の祖神、最高神と認め、国をあげて祀りあげるようになれば、大神のお怒りもようやく鎮まるじゃろう。そうなれば、この国はさらに繁栄し、末長く安泰なのじゃ。
滅亡か安泰か。我々は、今、それを選ばなければならない時期にさしかかっておる……」
最後の言葉は殆《ほとん》ど独り言に近かったが、蛍子は聞き逃さなかった。
そっと盗み見ると、掛け軸を凝視している老住職の深い皺《しわ》に埋もれたような目は、それまでの田舎の好々爺《こうこうや》めいた色は消えうせ、何かに憑《つ》かれたような狂信的な輝きを放っていた。
8
「あの……これは?」
老住職の豹変《ひようへん》ぶりに、蛍子はやや引き気味になりながらも、あることに気が付き、掛け軸を指さした。
半人半蛇の大神の像の背後に半ば隠れるようにして、ひっそりと佇《たたず》む女性、というよりも童女の姿が描かれていた。
やや憂いを含んだ表情で目を閉じ、両手を祈るように前で合わせている。蛇神の猛々《たけだけ》しさとは対照的に、まるで観音|菩薩《ぼさつ》を思わせるような清楚《せいそ》で静かな佇まいだった。
「……それは、一夜日女命《ひとよひるめのみこと》様です。俗に『一夜様』と申し上げ、大神の神妻ですのじゃ」
そう答えた住職の顔には、いっとき垣間見せた狂信的な色が消えて、元の好々爺めいた表情が戻っていた。
「ああ、これが一夜日女……」
思わず蛍子はそう呟くと、
「ご存じかの?」
住職は顔をあげて蛍子の方を見た。
「あ、いえ、さきほど、郁馬さんからちょっと伺ったものですから」
蛍子はややうろたえて、そう説明した。
「ほう。郁馬さんに……」
「なんでも、大神祭の最後の日に、一夜日女の神事というのがあるとか」
「いやいや、大神祭といっても、毎年行われる例祭ではこの神事はありません。七年に一度の大祭のときだけ行われますのじゃ。今年がちょうどその大祭の年に当たっているのですが……」
住職はそう言って、この神事の様を簡単に説明してくれた。
それは、真鍋伊知郎の本に書いてあった説明の域を出ないものだったが、蛍子ははじめて聞くような顔をして聞いたあとで、
「あの……もしかしたら、その一夜日女の神事というのは、古くは、人柱というか生き贄《にえ》の儀式だったのではないでしょうか……?」
と、おそるおそる尋ねてみた。
すると、「生き贄などとんでもない」と頭から否定するかと思った住職が、一瞬、鋭いまなざしで蛍子の方を見て、
「郁馬さんがそうおっしゃったのかの?」と聞いた。
「いいえ、そうではありませんが、ふとそんな気がしたもので」
蛍子は慌てて言った。
「実は、最近、たまたま諏訪の御頭祭のことを書いたものを読んだのですが、そこに、この祭は、昔は、『お公さま』と呼ばれる少年を人柱にする儀式だったというようなことが書かれていたので、土地柄的にも近いこの村の祭りもひょっとしたらと思いまして……」
そう説明すると、それをじっと吟味するような表情で聞いていた住職は、やや声を潜めるようにして、
「いかにも……昔はそんなことも行われていたような記録がこちらにも残されておりますな」と答えた。
「やっぱりそうだったんですか」
「むろん、遠い昔の話じゃがの。明治よりも遥か昔の……」
住職はそう念を押して、昔、大祭の最後の夜、一夜日女を乗せた神輿《みこし》は日の本神社を出て、村の決まったルートを練り歩いたあと、鏡山の麓《ふもと》にある「蛇《じや》ノ口《くち》」と呼ばれる底無し沼まで辿《たど》りつくと、神官らの手によって一夜日女はその沼に生きたまま沈められたという話をしてくれた。
現在では、その名残を留《とど》める儀式として、一夜日女に選ばれた童女の名前を記した藁《わら》人形に、童女の髪と爪《つめ》を切ったものを添えて、「蛇ノ口」に沈めるだけだが、今も、「蛇ノ口」のほとりには、村のために犠牲になった数知れぬ童女たちの霊を弔う小さな社がたっているのだという。
「……あのヤマタノオロチの伝説の中で、毎年きまった時期にヤマタノオロチが現れて、七人いたクシナダヒメの姉たちを一人ずつ食ってしまったという話も、実をいうと、古くから伝わるこの一夜日女の神事を物語り化したものですのじゃ。クシナダヒメもその姉たちも蛇神に仕える日女だったのです。しかも、クシナダヒメは、オロチ退治のあと、助けてくれた須佐之男命の妻になったということから、妙齢の女性のように思われていますが、もともとは、童女ないしは赤子であったともいわれております」
「そういえば」
蛍子は思い出したというように言った。
「郁馬さんの話では、伊達さんはこの村に倉橋日登美という女性の消息を調べにきたらしいのですが、この人のお嬢さんが一夜日女に選ばれたことがあったとか」
「……春菜様のことですかな」
住職はやや間をおいて呟《つぶや》くように言った。
「二十年も昔の話ですがな」
「春菜さんは今もこの村に?」
「いや……。春菜様はとうにお亡くなりになりました。一夜日女の大役を無事にお務めになったあと、潔斎の期間中に、ふとした風邪をこじらせて肺炎におなりになってな……」
[#改ページ]
第三章
1
十月十一日、日曜日。
蛍子は日の本寺で朝食を済ませると、寺から借りた自転車に乗って、村長宅に出向いた。
既に住職を通じて訪ねて行くことは電話で伝えてあったので、訪れると、エプロン姿の村長夫人がすぐに現れて、応接間に通してくれた。
村長宅も、見かけは神家に劣らぬような古い日本家屋だったが、応接間は、最近建て直したような現代的な洋風の造りになっていた。
その部屋に案内されて入って行くと、来客用のソファには、これからゴルフにでも行くような派手なポロシャツ姿の太田村長が既に腰掛けて待っていた。
年の頃は四十代半ば、酒焼けしたような赤ら顔の体格の良い男だった。
「まあまあ、どうぞ」
太田久信は、入ってきた蛍子の全身を頭から足のつま先までじろりと見渡してから、いかつい顔に愛想笑いを浮かべて、手前の椅子《いす》を勧めた。
蛍子は名刺を取り出して太田に渡した。「ほほう。東京の出版社にお勤めですか。それはそれは」
何がそれはそれはなのか分からないが、太田村長は名刺を一目見ると、感心したように言った。
「電話で住職から大体の話は聞きましたが……。それにしても、ご友人が一カ月以上も行方知らずとは、さぞかしご心配なことでしょうなあ」
太田村長はそう言って、蛍子の名刺をテーブルに置くと、タバコケースからタバコを一本取りあげ、手近にあったライターで火をつけようとした。
古ぼけたガスライターで、火がつきにくいらしく、舌うちしながら、何度かカチカチとやって、ようやく火をつけると、そのライターを放り出すようにテーブルに置いた。
「それで、ご迷惑かとは思ったのですが、何か手掛かりになるようなお話を伺えないかと……」
蛍子がそう言うと、
「いやいや、迷惑なんてことはありませんがね。ただ、お役にたちたいのは山々なんですが、何か手掛かりと言われてもねえ」
太田は大股《おおまた》を開いてソファにふんぞりかえると、タバコの煙を鼻から盛大に吐き出しながら困ったように頭を掻《か》いた。
「九月四日のことですが……」
神郁馬に聞いたようなことを太田にも尋ねてみた。すると、太田は時折天井を仰ぎ見ながら、思い出すように話してくれた。
あの朝、郁馬の運転する車で、バス停の近くまでくると、旅行カバンをさげた中年男が前を歩いていた。郁馬がクラクションを鳴らして、男の注意を引き、車の中から呼び止めた。その男がバスで長野駅まで行くところだというので、ちょうどそちらに向かうところだった自分たちの車に同乗させた。そのとき、男が乗りこんだのは助手席だった……。
そう語る村長の話は、神郁馬の話と何ら食い違うところはなかった。
しかし、車の中でどんな話をしたかということになると、やはり、郁馬同様、よくおぼえていないと村長は答えた。
「いやね……私の方はあまりその……えーと伊達さんでしたか? 伊達さんと口をきくことはなかったんですよ。挨拶《あいさつ》した程度でね。郁馬さんの方は面識があるみたいだったが、こちらは初対面だったし、至急に目を通しておかなければならない書類があったもんだから、そちらに気を取られていましてね。だから、何を話したと私に聞かれてもねえ……」
太田はそんなことを言いながら、タバコをふかし続けた。
二時間以上も同じ車に乗っていて、何を話したか全くおぼえていないというのは不自然と疑うこともできたが、あれから一カ月以上もたっていることでもあるし、よほど印象に残る事でもない限り、人間の記憶なんてこんなものかもしれないとも思えた。
村長からもなんら耳寄りの情報は得られなかったか、と内心がっかりしながらも、そのとき、蛍子の視線はあるものに釘付《くぎづ》けになった。
それは、さきほど太田がタバコに火をつけてテーブルの上に無造作に放り出したガスライターだった。
見たところ、所々金メッキが剥《は》げて錆《さび》が浮き出た、さほど高価でもない古いタイプのガスライターにすぎなかったが、太田村長がこのガスライターを手にしたときから、蛍子はなんとなく気になっていた。
思い過ごしかもしれないが……。
そう思いながらも、蛍子は思い切って聞いてみた。
「あの、そのライターは太田さんのものでしょうか」
「ライター?」
太田は吸い切ったタバコを灰皿の上でもみ消しながら、不意をつかれたような顔つきで、ちらとライターの方を見た。
「いや、これは……」
自分のものではないと太田は言った。
先日、タバコを吸おうとしたところ、手近のマッチが切れていたので、そばにいた妻にそのことを言うと、妻がエプロンのポケットからこれを出してきたのでそのまま使っていただけだと説明した。
「……家内は昼間子供たちがおもちゃにしていたのを取り上げたと言っていたが」
太田はそう言い、ライターを手にして、蛍子の方を見た。
「これが何か……?」
「伊達さんがいつも持っていたライターによく似ているんです。ちょっと見せてもらえませんか」
蛍子がそう言うと、村長の顔に一瞬奇妙な表情が浮かんだ。
「し、しかし、随分古いもののようですよ? まるで年寄りが持つような」
太田は身を乗り出してテーブル越しにライターを手渡しながら言った。
「亡くなったお父さんの形見だそうです。それで、何度も修理しながらずっと大事にしてきたのだと聞いたことがあります」
蛍子はそう言いながら、手渡されたライターを手の中でじっくりと観察した。似ている。これといって目印や特徴はないが、全体の感じが伊達が持っていたライターによく似ていた。
あの日、九月一日の夜、最後に会った夜も、伊達はこのライターを持っていた……。
「子供たちがおもちゃにしていたって……どういうことなんでしょうか」
ライターを手にしたまま尋ねると、村長は、「子供たちといっても同居している従弟《いとこ》の子なんですが、私も詳しくは―――」と言いかけたが、ちょうどそのとき、村長夫人がお茶を載せた盆を持って入ってきた。
太田が妻にライターのことを聞くと、夫人は、
「それなら、一週間ほど前、俊正ちゃんたちが庭でおもちゃにしていたんですよ。枯れ草に火をつけたりして。火事にでもなったら大変だと思って取り上げて、エプロンのポケットに入れておいたんですけど」
テーブルにお茶を置きながら、それがどうしたという顔で言った。
「子供たちはなんでライターなんか持っていたんだ?」
太田が聞くと、夫人は、「さあ」と首をかしげ、「どこかで拾ったとか言ってましたけれど……」と言った。
「どこで拾ったか分かりませんか?」
蛍子はすかさず村長夫人に尋ねた。
やはり、これは伊達のライターに間違いないと思った。伊達はこの村に滞在中にライターをどこかで落としたのだ。それをここの子供たちが拾った。そういうことではないだろうか。
「さあ、どことは……」
村長夫人は分からないというように首をかしげた。
「俊正ならその辺で遊んでただろ。ちょっと呼んできなさい」
太田は妻にそう命じた。
「ええ……」
夫人は空の盆を持ったまま応接間を出て行った。
しばらくして、兄弟らしき顔立ちの似たわんぱくそうな少年が二人、村長夫人に伴われて入ってきた。真っ黒に日焼けした年かさの方は七、八歳で、学校で着る体操服のような白い長袖《ながそで》シャツを着ていた。その胸には、「やべ としまさ」と書かれた布が縫い付けてある。
矢部……。
もしかしたら、この少年が、あの昭和五十二年の倉橋一家殺害事件の犯人である矢部稔の子供だろうか。
蛍子は咄嗟《とつさ》にそう思った。
そういえば、伊達の話では、刑期を勤め上げて出所したあと、矢部稔は日の本村に帰り、すぐに結婚して、今は母かたの伯父《おじ》にあたる村長宅に同居しているらしいということだったが……。
年下の少年の方は五、六歳に見えた。あの事件の被害者の中には、倉橋日登美の長男にあたる五歳の幼児もいたという古新聞のコピー記事を蛍子はふと思い出した。
二十年前、五歳の幼児をも無残に手にかけた男が今は同じ年頃の幼児の父親になっている……。
刑期をちゃんと勤め上げ、罪は償ったのだから、たとえ殺人犯といえども家庭をもち普通の生活をする権利があるといってしまえばそれまでだが、そこに何か理不尽なものを感じざるを得なかった。
太田が年かさの子供にどこでライターを拾ったのか聞くと、なぜか、少年の顔には脅《おび》えたような表情が走った。そして、すぐには答えず俯《うつむ》いて黙っている。
「ライターをどこで拾ったかって聞いてるんだよ。早く答えろ」
少年が押し黙っているのに苛《いら》ついたように、太田が頭ごなしにどなりつけると、少年は今にも泣きだしそうな顔になって、かろうじて聞き取れるような小さな声で答えた。
「じゃ……蛇ノ口です」
2
「蛇ノ口だと?」
太田久信のだみ声が一層大きくなった。
「おまえ、あそこへ行ったのか」
「……」
「あそこには行ったらいかんといつも言ってるじゃないか!」
「……ぼ、ぼ、ぼくはいやだって言ったんだけど、中村君たちがあそこには大きなカブトムシやクワガタがいるから行こう行こうって……」
直立不動の姿勢で立った少年は半べそをかきながら、ようやくそれだけ言った。
「それで、昆虫を探していて、このライターを見つけたの?」
蛍子は助け舟を出すように少年に尋ねた。
少年は蛍子の方をちらと上目遣いで見ながら頷《うなず》いた。
「蛇ノ口のどのあたり?」
「うーんと、お社のそば……」
少年は蚊のなくような声で答えた。
「お社って?」
そう聞き返すと、
「一夜日命様を祀《まつ》った小さな社があるんです。沼の近くに」
子供に代わって、村長夫人が教えてくれた。
そして、一通り話を聞いてしまうと、
「二度とあそこには行くんじゃないぞ。今度言うことをきかなかったら、ただじゃ済まないからな」
太田の脅すような声を背中に浴びながら子供たちはすごすごと村長夫人に連れられて部屋を出て行った。
「蛇ノ口というのは……?」
日の本寺の住職から、この沼の話はチラと聞いてはいたが、あらためて村長に尋ねると、
「底無し沼なんですよ。ここから少し行ったところにある……」
太田は苦虫をかみつぶしたような顔でそう答えた。
「鏡山の麓《ふもと》にあって、まるで大蛇が口を開いたような形をしているものだから、そう呼ばれているんですがね。底無し沼といっても、本当に底がないわけじゃないんですが、水深は二〇メートル以上はあると言われてましてね、底無しみたいなものです。落ちたらまず助かりません。だから、日ごろから子供たちには絶対にあそこには近づくなと言い聞かせているんですが、全く子供というやつは、行くなといえば行きたがる……」
本当は周囲に侵入禁止の柵《さく》でも張りめぐらした方がいいのだが、あそこは単なる沼ではなく、七年に一度の「一夜日女の神事」を行うご神域でもあるので、それもできない、と太田は半ば愚痴るように言った。
「……子供だけじゃなくて、観光客の中にも時々いるんですよ。立ち入り禁止の札を無視して、面白半分で入り込む輩《やから》が。前にも、数人の若い観光客があそこに入り込んだことがあって、中の一人が沼にはまりそうになったことがあったんです。幸い、一緒にいた仲間に引っ張り出されて助かったが……。あそこは地面と沼の境がはっきりしてないんで、知らない人だとついうっかり踏み込みすぎてズブズブってことになりかねないんです。大人でも危険なんですよ」
「伊達さんのライターがそこに落ちていたということは、彼もそこに行ったということですよね……」
蛍子は手の中のライターを見ながら呟《つぶや》いた。
「そういうことになりますかな」
村長はそっけなくそう言い、
「万が一、あそこで事故でもあったらこちらが困る。特に今年は七年に一度の大祭を控えていますからね。あなたもあそこには絶対に近づかないでください。お願いしますよ」
じろりと蛍子の方を見て、念を押すように言った。
3
村長宅の玄関を出てくると、村長夫人が竹箒《たけぼうき》をもって玄関前を掃いているのに出くわした。
「あの……」
一礼して通り過ぎようとした蛍子はふと思い立って、夫人に声をかけた。
「蛇ノ口に行くにはどう行けばいいんでしょうか」
すると、村長夫人は困ったような表情になり、
「あそこへ行かれるんですか。あそこはご神域だし危ないからやめておいた方が……」
と引き留めるように言った。
「近くをちょっと通りかかってみるだけですから」
蛍子はそう言って、沼のそばには絶対に近づかないと約束し、教え渋っていた村長夫人の口からなんとか蛇ノ口までの道順を聞き出した。自転車なら十五分ほどで行けるという。
「ご友人をお探しとか……?」
礼をいって停めておいた自転車の方に行こうとすると、今度は村長夫人の方からそう声をかけてきた。
伊達浩一という友人がこの村を出てからぷっつりと消息を断ち、一カ月以上もたつことを話し、家族もとても心配している。どんなことでもいいから手掛かりはないかと思い、藁《わら》にもすがる思いでここまで来たと言うと、村長夫人は、そのいかにも人の良さそうな丸ぽちゃの顔に心底同情するような色を浮かべて聞いていたが、
「それなら、白玉温泉館に行かれてみたらどうです?」と言った。
「白玉温泉館?」
聞き返すと、ここには、温泉を引いた外湯が幾つもあるが、その中でも、この白玉温泉館というのが一番大きく、施設が立派で、観光客や日帰りのドライブ客などもよく立ち寄るが、なによりも、村の年寄りたちが暇つぶしに集う社交場のような所になっていると村長夫人は話してくれた。
「今日は日曜だし、人も多いと思うから、誰か、その伊達さんという人のことを覚えているかも……」
村長夫人は言った。
聞けば、その白玉温泉館というのも、蛇ノ口の方角にあるという。
これは耳寄りなことを聞いたと蛍子は思った。村民の社交場のような所だったら、倉橋日登美のことを調べていた伊達が情報を仕入れるために訪れた可能性もある。そこに行けば、誰か伊達と接した人物に会えるかもしれない。
蛍子はそんな淡い期待を抱いた。
4
真っ青に晴れ渡った秋空の下、自転車のペダルをこぎながら、村長夫人に教えられた通りの道を行くと、車道を少しはずれたところに、朽ちかけた木の鳥居がやや傾いて立っていた。
村長夫人の話では、蛇ノ口の入り口には、傾いた鳥居が立っているということだったから、おそらく、ここがそうなのだろう。
周囲には、「関係者以外立ち入り禁止」とか「この先、底無し沼有り。危険。入るべからず」などと書かれた標識が立っていた。それらの標識は、雨風にさらされて文字が薄れていたのを、最近になって、上から書き直したような跡があった。
鳥居には、貫《ぬき》の部分に張り巡らされたしめ縄以外にも、通行禁止というように、両柱の下方を一本の荒縄で結んであった。
蛍子は自転車を降り、鳥居のそばに停めると、あたりを見回し、人の目がないことを確認してから、その鳥居の柱を結んだ荒縄をまたぎ越した。
鳥居を抜けると、あたりは、生い茂る巨木の枝で空を覆い隠され、よく晴れた日の午前中だというのに、夕暮れのような薄暗い気配が漂っていた。
周囲の古木から落ちた枯れ葉や枯れ枝が長い間に蓄積してできたような地面は、足を踏み入れると、ずぶずぶとめり込むような薄気味悪く湿った感触がある。
侵入者の気配に驚いたような野鳥の鳴き声と、枝から枝へ飛び移る羽ばたきの音だけが静寂さの中で耳についた。
野鳥の中には烏もいるらしく、ぎゃあぎゃあと喚《わめ》くように鳴く耳障りな声が、おそるおそるという物腰で沼に近づいていく蛍子の不安をいっそう駆り立てた。
しばらく行くと、鮮やかな朱色の小さな社が見えてきた。近づいて見ると、「一夜日女命」と書かれた札が貼《は》られており、花と一緒に、キャラメルやらお菓子の袋、動物のぬいぐるみが供えられていた。
菓子袋の一部は烏にでも狙《ねら》われたのか、地面に落ち、袋が破けて中身が飛び出していた。
どうやらここが話に聞いていた「一夜日女」を祀った社らしい、とあたりを見回しながら蛍子は思った。
手前には、赤褐色のほぼ円形の沼があった。沼の表面はどろりと澱《よど》んでいて、あちこちに、水中の腐った葉や葦《あし》などから出るメタンガスらしき気泡がふつふつと湧《わ》いている。
まさしく、大蛇の口のようだ。
ここに伊達のライターが落ちていたということは、伊達もここに立ってこの沼を見ていたということだろう……。
それにしても、妙だ……。
蛍子は手の中のライターを握り締めて思った。
伊達はここでライターを落としたことに気づかずに村を発《た》ってしまったのだろうか。
いや、それはありえない。
伊達がここを訪れたのが九月二日だったのか三日だったのかは分からないが、どちらにせよ、四日の朝までライターをなくしたことに気づかなかったとはとうてい考えられない。タバコを喫おうとすればライターがないことにすぐに気づいたはずだ。
前に会ったとき、子供ができてから一日に喫うタバコの本数もだいぶ減ったというようなことを言っていたが、それでも、一日に一箱喫いきってしまうというヘビースモーカーに属する彼が、ここを訪れたあと、四日に村を出るまで、一本もタバコを喫わなかったとはとても思えない。
伊達はライターをなくしたことに気づいていたはずだ。それなのに、探そうともせずに村を出てしまったのか。それとも、一応探してはみたものの、見つからなかったのであきらめたのか。
蛍子のおぼえている限りでは、伊達はこのライターをとても大切にしていた。聞いた話では、十年ほど前、脳卒中で亡くなったという父親が、最期に握り締めていたのが、タバコに火をつけようとして手にしたこのライターだということだった。これを見るたびに愛煙家だった亡父のことを思い出すとよく言っていた。そんな大事な形見の品をなくしたと分かれば、滞在を延ばしてでも探しまわるような気がした。
たとえ、滞在を延ばすことができず、探すのをあきらめたとしても、このまま黙って村を出てしまったというのはどうも腑《ふ》に落ちない。
もし、自分なら……。
蛍子は思った。
誰かに、たとえば、宿泊先の住職にでも、発つ前に一言伝えておくだろう。そうすれば、後で見つかったときに連絡してもらえるからだ。
でも、住職からはそんな話は聞いてはいない。伊達はライターをなくしたことを住職には話さなかったのだろうか。それとも、住職がうっかり忘れているだけなのだろうか。
寺に帰ったら、そのことを住職に問いただしてみよう……。
蛍子はそう思った。
5
蛇ノ口を出ると、蛍子は再び自転車に乗り、今度は白玉温泉館に向かった。
村長夫人に教えられた通りの道を行くと、やがて、それらしき建物が見えてきた。いわゆる健康ランドというほどではないが、ただの銭湯というには、かなり立派な建物だった。造りも比較的最近建てられたことを示すように新しい。
「白玉温泉館」という大きな看板の立てられた入り口近くに自転車を停めると、中に入ってみた。
玄関を入ると、すぐに広いロビー風の造りになっていて、いかにも湯上がりといった風情の老若男女が思い思いの格好でくつろいでいた。
備え付けのテレビを見る者、テーブルに菓子類を並べてお茶を飲む者、うちわを使いながら将棋に興じる者、マッサージ器にかかる者……。
殆《ほとん》どが地元の人らしく年配客が多かった。
番台というか受付のところで規定の料金を払い、観光客用に置いてあった洗面セットを買うと、それを持って、テーブルに集まってお茶を飲んでいた老人たちに近づき、それとなく話しかけた。
あたりさわりのない世間話など少しして、ややうちとけたところで、伊達浩一のことに話を向けてみたが、残念ながら、この中には、伊達と直接話した人はいないようだった。
収穫なしかとあきらめかけたとき、
「……あ、そういや、伝さんがよそ者に小銭借りたとか言ってなかったけか」
心地良さそうに目をつぶってマッサージ器にかかっていた五十年配の男が、ふいに思い出したというように、ぽっかりと目を開けて言った。
男の話では、その「伝さん」という老人が、九月の初め頃、ここで知り合った観光客らしき「よそ者」に、缶ビール代として小銭を借りたのだという。その「よそ者」は日の本寺に泊まっているということだったので、翌日の午後、寺まで小銭を返しに出向いたところ、その男は既に旅立っていたというのである。
借りたといっても数百円足らずの金額らしいのだが、「伝さん」というのは、かなり律義な性格の人らしく、見も知らない人間に小銭とはいえ借りっ放しになっていることを気にしていたという。
「そのよそ者があんたの言う伊達ちゅう人かどうかは知らんけどね」
「それで、伝さんという人は?」
蛍子は聞くと、
「伝さんなら今|風呂《ふろ》に浸《つ》かっとる。そのうち上がってくるじゃろ」と五十男は答えた。リウマチの持病をもつ「伝さん」は殆ど毎日のようにここに来ているらしい。
「伝さん」が出てくるまで、ここで暇をつぶそうと決め、何げなくあたりを見回した蛍子の目が、テーブルの上に投げ出されていた数冊の古い週刊誌の表紙の上で止まった。
一番上の週刊誌の表紙の顔に見覚えがあった。白い歯を見せて精悍《せいかん》に笑う男の顔。大蔵大臣の新庄貴明だった。
「そういえば、大蔵大臣の新庄さんがこの村の出身とか……」
蛍子はその週刊誌を手に取りながら、何げなく雑談でもするような口調で言った。見ると、そこに投げ出されていた数冊の週刊誌は、何カ月も前の古いものから最近発売の新しいものも含めて、すべて新庄貴明がらみの記事を大きく扱ったものばかりだった。
話が「地元出身の大臣」のことに及ぶと、たむろしていた老人たちは俄《にわか》に活気づき、その口もうるさいほど滑らかになった。
「地元」といっても、数年前に急逝した前大蔵大臣新庄信人の女婿としてその地盤を引きついだ新庄にとって、ここが選挙区というわけではないはずだが、それでも、ここの人たちにしてみれば、この村の出身で、来月半ばに予定されている総選挙で、下馬評通り、今の与党が圧勝して政権維持となれば、最も有力な新総理候補とも言われているこの男が自慢でならないのだろう。
神家の総領として生まれた彼が、スポーツ勉学すべての点で群を抜いており、「神童」とまで呼ばれていたという子供時代の話からはじまって、一月ほど前、奇《く》しくも彼の次男が被害者として巻き込まれたあの猟奇事件の話に至るまで、蛍子が水を向けなくても、老人たちの噂話《うわさばなし》は滔々《とうとう》と続いて途切れることがなかった。
「……あの人があそこまでご出世されたのも、みんな大神のお力じゃよ」
「んだんだ。あの人には大神の御霊《みたま》がとり憑《つ》いておられるんじゃ」
それは、「噂話」というより、殆ど「礼讃《らいさん》」に近かった。まるで、何かの宗教の信者たちが寄り集まって「教祖様」の話でもしているように見えた。
ただ、これは新庄の生まれ故郷であるこの村だけの現象ではないようにも思えた。最近読んだ雑誌の中で、この男のことに触れて、辛口で有名な或《あ》る政治ジャーナリストが、
「……こう不景気が長引き世相が暗くなると、人は本能的に強い輝きを発する者にすがりつきたくなるものらしい。彼の登場は、まさしく、天の岩戸を押しあけて、常夜《とこよ》ゆく世界に燦然《さんぜん》と現れた『太陽神』のようでもある。しかし、この『太陽神』が暗黒にとざされた世界に光をもたらしにきた救世主なのか、或るいは、より破壊的な暗黒をもたらすためにやって来た、救世主を装った悪魔なのか、その黄金の輝きに目が眩《くら》み、ひたすら頭《こうべ》をたれて額《ぬか》ずく信者と化した者には到底見分けがつかないだろう……」
こんな論調で、新庄の生家がその「太陽神」を祀《まつ》る古社であることを知ってか知らずか、この男の異常なまでの「人気」を、「政治家」というより、新興宗教の「教祖」のようだと揶揄《やゆ》するように書いていたのを蛍子は思い出していた。
「……確か、新庄さんは学生時代に今の夫人と知り合って、新庄家に養子に行かれたんですよね?」
老人たちの話が沈静化したころを見計らって、蛍子はそう聞いてみた。
「神家のご長男だったのに、日の本神社の宮司職を継がなくてもよかったんでしょうか」
「継がなくてもいいんじゃなくて、もともと継げなかったんですよ、あの人には。たとえ本人が望んだとしてもね」
そう言ったのは、少し離れたところで、浴衣《ゆかた》姿でうちわを使いながら将棋を指していた四十年配の男だった。
将棋に熱中しているように見えたが、背中で蛍子たちの話を聞いていたらしい。
「え、それは一体……?」
蛍子が聞き返すと、その男が言うには、日の本神社の宮司をはじめとする神職は、すべて日女が産んだ者にしか許されておらず、たとえ宮司の子でも、母親が日女ではなかった新庄貴明には、はなから神職につく資格はなかったのだという。
「でも、たとえなれたとしても、ならなかったんじゃないかな。田舎の神主とか坊主なんて辛気臭くて御免だって子供の頃からよく言ってたからね……」
聞けば、その男は新庄と同い年で、小学校のときは机を並べたこともある同級生ということだった。
今でこそ、テレビなどに映る彼の姿は、百八十をゆうに越える日本人離れした長身をブランド物のスーツで颯爽《さつそう》と包み、いかにも都会的でスマートな印象を与えるが、小学校時代は、そのへんの野山を自分たちと一緒に駆け回ることを日課にしていた山猿なみの腕白小僧だったらしく、当時から、同年配の子供たちのがき大将的存在だったという。
もっとも、同級生として親しくしていたのは小学校の頃までで、小学校を卒業すると同時に、それ以上の教育を東京で受けるために上京して下宿生活をはじめた新庄とは、次第に疎遠になってしまったということだったが、それでも、中学生くらいまでは、夏期休暇などで郷里に帰ってきた彼と会って遊ぶこともたまにあったという。
「帰ってくるたびにこう都会慣れしたというかあか抜けた感じになっていって、もう俺《おれ》たちなんか迂闊《うかつ》に声もかけられないような存在になっていたなぁ。それでも、時々、気がむいたときには向こうから声かけてくれることもあったんだよ。そういえば、もうあの頃から将来は政治家になるってことを口にしていたね」
男は将棋盤を見つめながら何げなくそう言った。
「え。中学の頃から? でも、週刊誌の記事によると……」
蛍子はやや意表をつかれて言った。前に読んだ女性週刊誌か何かで、新庄が政治家になった理由として、インタビューに答えて、「本当は弁護士になりたかったのだが、たまたま、大学時代に知り合った妻が大物政治家の一人娘だったことから、結婚の条件として、舅《しゆうと》から婿入りして跡を継ぐことを要求され、悩んだ末にしかたなく政治家の道を選んだ」というようなことを言っていた記事を思い出し、そのことを言うと、それまで動いていた男のうちわがぴたりと止まった。
「それじゃ、新庄さんが政治家を志したのは、奥さんとの出会いがきっかけというわけではなかったのですか。もっと前から……?」
そう聞くと、男は、「つい口が滑った」とでも言うように、うちわで自分の口を覆った。
「い、いや、それは……えーと……そうそう、あれは中学じゃなくて大学のときの話だったかな。ど、どうも記憶が混乱してしまって」
それまで滑らかだった男の舌が突然もつれたようにしどろもどろになった。救いをもとめるようにあたりをきょろきょろさまよっていた男の視線がある方向で止まって、いいものを見つけたという顔になると、
「あ、伝さんだ」
と、うちわを口から離して言った。
何げなく男の視線の方を見ると、男湯と書かれたのれんをはねのけて、六十年配の浴衣姿の男が出てくるところだった。
6
「あれが伝さんだよ。おーい、伝さん」
うちわの男は蛍子にそう言って、殊更に大声を張り上げた。
「伝さん」なる老人は名前を呼ばれると、湯上がりの色艶《いろつや》の良い顔をこちらに向け、にこにこしながら近づいてきた。
「こちらの人があんたに話があるんだとよ」
うちわの男がうちわで蛍子の方を指しながら言うと、伝さんは、「へえ?」という顔になった。
「俺に何か……?」
茶菓子の並べられたテーブルの前に腰をおろすと、そこにあった自分のものらしい封を切ったタバコを手にとり、一服つけながら、蛍子の方をやや眩《まぶ》しげに見た。
「ほら、先だって、よそ者にここで缶ビール代借りた話してただろ。そのよそ者がこの人の知り合いかもしれないんだって。それでちょっくら話を聞きたいんだとさ」
蛍子が話しかける前にそう言ったのは、さっきのマッサージ器の男だった。
「ああ、あれか……」
伝さんは思い出したように言った。
「いやあ、あの日、湯上がりにむしょうに缶ビールが飲みたくなってさ、そこの自販機で買おうとしたら」
伝さんは、ややしゃくれた顎《あご》で入り口近くにおいてある自動販売機の方を指し示した。
「手持ちが三〇〇円ほど足りなくてね。それで、たまたま近くにいたその人に借りたんだよ。聞けば、東京の人で日の本寺に泊まってるっていうから、あの寺ならうちからも近いし、昼時にはよく蕎麦《そば》食いに行ったりするから、そのついでに返せばいいやって思ってね……」
「その人というのは、三十代後半くらいの年頃で伊達と名乗っていませんでしたか」
蛍子がそう聞くと、
「うん。ダテとかタダとかそんな短い名前だったよ。そうだな。年の頃はそのくらいで、うん、そういや、目のここんとこに傷があったな」
伝さんは自分の片目の縁のあたりを指さして言った。伊達だ。間違いない。蛍子はそう思った。
「やっぱりそれは伊達さんです」
そう言ってから、伊達とここで会ったのは九月の何日か覚えているかと聞くと、伝さんは、「うーん」と思い出すように額に手をあててしばらく考えていたが、「確か……九月の初めの頃……三日か四日だったような……」とあいまいに呟《つぶや》いた。
四日ということはありえない。その日の朝に伊達はこの村を出たことになっているのだから。
「三日じゃありませんか」と念を押すと、伝さんは、ようやく思い出したように、
「うんそうだ。あれは三日だ。九月三日だよ」と言った。
「何時頃か覚えていますか」とさらに聞くと、
「けっこうすいてたから、昼過ぎ……一時か二時頃だったかなあ」
「借りたお金を返しに日の本寺に行ったのはいつだったんですか」
「次の日だよ。確か五日まで泊まってるって言ってたからな」
「五日?」
蛍子は思わず声を張り上げた。
「伊達さんは五日まで滞在するってそう言ってたんですか」
おかしい。住職の話では、伊達は二日と三日の二泊の予約だったはずだ。そして、その予約通り、四日の朝に出ていったと……。
「うん。そう言ってたよ。だったら、四日の昼頃寺まで返しに行くって言ったんだよ。そうしたら、その伊達とかいう人、三〇〇円くらいわざわざ返しに来なくてもいいとか言ってたんだけど、俺はそういうのは嫌いだからね。一円でも借りたものはきっちり返す主義だからさ。まして、見も知らない人に借りっ放しなんて気色悪くていけねえや。それに、あの寺なら近いし、昼時なら蕎麦食いに行くついでもあるしって言ったら、じゃそういうことでって」
しかし、約束通り、四日の昼時、寺を訪れてみたが、住職の妻の話では、その客なら朝方既に旅立ったということだった。
「で、そんときは、何か用でもできて、一日早く旅立ったのかなって思ってたんだけどね……」
「それで、伊達さんとはここでどんな話をされたか覚えていますか」
そう聞いてみると、伝さんは思い出すように、「うーん」と白目をむいていたが、
「ああ、そういや、大神祭の話になって、今年は大祭の年にあたるから、『一夜日女の神事』があるとか、そんなことを話していたら……蛇ノ口の話になったんだよな。蛇ノ口っつうのはここから少し行ったとこにある……」
伝さんがそう言って説明しようとしたので、それなら知っていると遮り、話の先を促すと、
「んで、その伊達ちゅう人は、蛇ノ口に興味をもったらしくて、これから行ってみるとか言い出してね……」
「これから行ってみる? ここを出たあと、蛇ノ口に行くと言っていたんですか」
「そうだよ。道順とか詳しく聞くからさ。俺は、あそこはご神域だし、底無し沼があって危険だから、よそ者は近づかない方がいいって口酸っぱくして言ったんだけど、行き方教えろってしつこくてさ。で、しょうがないから、教えたわけよ」
そして、伝さんがもうひとふろ浴びて出てきたときには、既に伊達の姿はなかったという。
どうやら、あの日、伊達浩一は、蛍子とは逆のコースを辿《たど》ったようだった。白玉温泉館で蛇ノ口のことを聞き、ここを出てから蛇ノ口に向かったに違いない。そして、あのライターを落とした……。
そう考えれば辻褄《つじつま》が合う。
ただ、奇妙なのは、伊達が伝さんには「五日まで滞在する」と言っていたことだった。この点をもう一度老人に確認してみた。
「確かに五日って言ったんだよ。だから、四日の午後に金返しに行ったんじゃねえか。四日の朝に帰るって聞いてたら、その日のうちに返しに行ったさ。俺は、今年で六十七だが、人の話を聞き違えるほど耄碌《もうろく》しちゃいねえよ。耳だってまだまだ達者なもんさ」
伝さんはちょっと気を悪くしたようにそう言った。
7
蛍子が日の本寺に戻った頃には、既に午後七時に近く、食堂には夕食の膳《ぜん》が並べられようとしていた。
今夜のメニューは田楽豆腐をメインにした豆腐尽くしの料理のようだった。
「なんだかお顔の色艶がよろしいですけど、どこかで温泉にでも……?」
膳を並べていた住職の妻が蛍子の顔をのぞき込むようにして見ながら、笑顔でそう話しかけてきた。
蛍子は、実は村長夫人から教えられて白玉温泉館という所に寄ってきたと答えた。
規定料金さえ払えば、何時間いてもいいと聞き、あのあと、何度か湯とロビーを出たり入ったりして時間を潰《つぶ》し、あそこに集う村民から少しでも多く情報を得ようとしたのである。
しかも、白玉温泉の湯というのが硫黄臭もなく、さらさらした癖のない湯だったことと、美肌効果が特に高いということで、ついここに来た目的も忘れて湯に浸《つ》かっているうちに、寺に帰ってきたときには、湯あたりにも近い症状すら出ていた。
その白玉温泉館で、あの日、伊達と会って小銭を借りたという老人の話をすると、それまでにこにこして蛍子の話を聞いていた住職の妻の顔から笑みが消えた。
「それで、その伝さんという人の話では、九月四日の昼ごろ、こちらに小銭を返しに来たということなんですが……?」
そう聞くと、住職の妻は、やや沈黙したのち、そう言われてみればそんなことがあったと、ようやく思い出したように言った。
「しかも、伝さんの話では、伊達さんは五日までこちらにいると言っていたそうなんです」
「それは変ですねえ。こちらには予約のときから二泊三日ということで入れておりましたし、滞在を一日延ばすという話は聞いてませんでしたよ。きっと、伝さんの聞き違いだとおもいますけどねえ。あの人ももうお年ですから……」
住職の妻はなぜか蛍子と目を合わせるのを避けるように微妙に視線をはずしながら言った。
「それと、実は、太田村長のお宅で……」
蛍子は、ハンドバッグに入れておいた例のライターを取り出して、それを住職の妻に見せながら、伊達が白玉温泉館を訪れたのち蛇ノ口に行き、そこでライターを落としたらしいという話をした。
すると、住職の妻の顔色が少し変わったように見えた。
「そのことで、伊達さん、何か言ってなかったでしょうか」
蛍子は聞いても、住職の妻は、「さあ」と言ったきり、膳を並べるのが忙しいような振りをしていた。見ると、皿を並べる手が微《かす》かに震えているようだった。齢七十は越しているように見えたから、この手の震えは、単に年のせいなのかもしれないが、内心の動揺が表れているようにも見えた。
蛍子はさらに、このライターが伊達の亡父の形見で、伊達がとても大切にしていたこと、どこかで無くしたことに気が付けば必ず探しにいくのではないか。すぐにあきらめて村を出てしまったというのはどうも納得がいかないというようなことを畳みかけて言うと、
「……あ、そうそう。そういわれてみれば」
住職の妻はやっと思い出したというように言った。
「あの日、九月三日のことですが、夕方頃、伊達さんから懐中電灯を貸してくれって言われたんですよ……」
「懐中電灯?」
「ええ。何に使うのかって聞いたら、昼間、蛇ノ口に行ったときに大事なものを落としたらしいと言うんですよ。お父様の形見のライターとか。これから探しに行くとおっしゃるので、とめたんでございますよ。あそこはご神域ですから、よその方は入っては行けないところですし、底無し沼があって危険だからと。ましてや、足元が暗くなってからではよけい危ないですからね。そんなに大切な品なら、後で誰かに探しに行かせますからって言ったら、伊達さんも分かってくださいましてね。翌朝、お発《た》ちになるときに、もし見つかったら宿帳に記しておいた住所に送ってほしいとおっしゃっていましたっけ。いやですねえ。わたしも伝さんのことを嗤《わら》えませんね。まだまだ物覚えはいい方だとうぬぼれていたんですけど、ヤッパリ、年ですかねえ。それを今の今まですっかり忘れておりました。でもまあ、そんな大事なもの、見つかってようございましたねえ……」
住職の妻はそう言って、口元に手をあてると、やや取ってつけたように、「ほほほ」と力なく笑った。
その夜、床にはいっても、蛍子はなかなか寝付かれなかった。予定では、明日の朝には発つことになっている。もし、何かあれば、滞在を延ばすことも考えていたが、今のところ、収穫といえるものはあのライターくらいしかなかった。
しかし、ライターの件にしても、伊達の失踪《しつそう》とは関係ないといえば関係ないようにも思える。九月三日の午後、蛇ノ口を訪れた伊達がそこでライターを落とした。そのことを住職の妻に告げたが、住職の妻はそれをうっかり忘れていた……。ようはそれだけのことだったのかもしれない。
でも……。
なんとなく住職の妻の態度に不自然なものを感じてもいた。本当に今まで忘れていたのだろうか。蛍子に追及されて、しかたなく思い出したような振りをしたようにも見える。しかも、あの話をしている間中、住職の妻は一度も蛍子の目をまともに見ようとはしなかった。まるで目を合わせることを恐れるように視線を外し続けていた……。
それに、あの伝さんという老人の話。伊達がこの村に五日までいるつもりだと言っていたという……。あれがどうも気になった。
住職の妻の言うように、伝さんの聞き違いにすぎなかったのかもしれないが、もしそうではなかったとしたら……。
伊達が五日まで滞在するつもりでいたとしたらどうだろう。それなのに、何らかの事情で、四日の朝にここを出た。なぜ? これが逆ならまだ分かる。四日まで滞在するつもりでいたのを一日延ばしたというのなら。むろん、それは、蛇ノ口でなくしたライターを探すためにだ。しかし、事実はそうではなく、伊達は出発を一日早めている……。
伊達はいつまでこの村にいるつもりだったのだろうか。白玉温泉館に集う村民にあたっても、伝さん以外には伊達と接触した者を見つけることはできなかった。まさか、村中の家々を一軒ずつ訪ねるわけにもいかない。これ以上、この村に留《とど》まっていてもしょうがないような気がする。
それよりも……。
宿帳に載っていた大久保という夫婦ものらしき泊まり客……。
九月三日にこの寺に泊まった彼らなら、伊達と接触していた可能性が高い。彼らから何か聞き出せるかもしれない。予定通り、明日このまま東京に戻り、大久保松太郎という人物に連絡を取ってみようか……。
布団の中で大きく寝返りをうちながら、蛍子はそう決心した。
ようやく瞼《まぶた》に重いものを感じながら、眠りに落ちる寸前、蛍子の脳裏に、ふいに、昼間見た蛇ノ口の禍々《まがまが》しい姿が浮かんだ。
近づき過ぎた者を容赦なく呑《の》み込んでしまう赤褐色の底無し沼。
少しずつ近づいているうちに、知らぬ間に越えてはならない境界を越えてしまい、気が付いたときには、足元からずぶずぶと深みにはまり、引き返すことはおろか、動くことすらできなくなっている……。
思えば、あの蛇ノ口という沼は、日の本村という村を象徴しているようだ。距離を置いて眺めているぶんには、それはどこにでもあるような、山奥ののどかな村にすぎないのだが、少しでも関心をもって近づいていくと……。
日の本村という村そのものがそんな得体の知れない底無し沼のような気がした。
もしかしたら、自分も、全く自覚のないままに、もはや踝《くるぶし》のあたりまでこの沼にはまり込んでいるのではないか……。
蛍子は眠りに落ちる直前、ふとそんなことすら思った。
8
喜屋武蛍子が日の本寺の一室でようやく眠りについた頃、神家の離れにある茶室では、二人の男が声を潜めて何やら密談していた。
「……太田はそんなライターを使っていたというのか。あの馬鹿が」
苛立《いらだ》ったような中年男の声。
「太田さんも知らなかったっていうんです。知っていたらとっくに捨てていたと。古ぼけた安物で、年寄りが使うようなものだったというから、まさか、あれがあの男の持ち物だったとは……」
答えたのは若い男の声だった。
「それで、その女は何か感づいたようなのか?」
「いえ……。あのライターの件は、住職の話では、後で奥さんがうまくいいくるめたようです。女も納得したみたいだと。問題はそのことよりも、あの女に一夜《ひとよ》様の顔を見られたことです……」
「見られた? どこで?」
「あの女が僕を探して勝手に物忌みの方に入ってきたんです。そこで、ちょうど静佳様と遊んでいた一夜様を……。でも、静佳様の話では、見られたといっても、ほんの一瞬だったらしいし、すぐに一喝して追い返したので、たぶん、何も気が付かなかっただろうと……」
「……」
「明日の朝にはここを発つそうですが、どうしますか。このままあの女を帰しますか?」
「……しかたなかろう。今ここで、友人だというその女まで行方不明になったら、さすがに怪しむ者が出てくる。そうなったら厄介だ……」
「そうですね。住まいと勤め先は分かっていますから、向こうにいる誰かにしばらく監視させます。あの達川という週刊誌記者のときのように」
「監視するのはいいが、くれぐれも早まったことはするなよ。あのときも、監視しろとは言ったが、あそこまでやれとは言わなかったぞ。それをおまえの勇み足で……」
「でも、兄さん。お言葉を返すようですが、あの男は危険だったんです。ネットを使って、我々に不利な情報を流そうともくろんでいたんですから。だから―――」
「まあ、その件についてはもういい。済んだことだ。それに、幸い、あの男の死を怪しむ者もいないようだし。だが、その喜屋武という女のことは、もう少し慎重にしろ」
「はい、分かりました。それで、もし、何か不穏な動きがあったら、そのときは……」
若い男の声はそこで途切れた。
[#改ページ]
第四章
1
十月十三日、火曜日。午後九時すぎ。
喜屋武蛍子が、「DAY AND NIGHT」の扉を開けると、カウンターには既に先客の姿があった。伊達かほりだった。
前日、日の本村から帰ってくると、今回のことを報告するために、伊達かほりに連絡を取ってみた。すると、彼女の方から、この店で会うことを提案してきたのである。子供たちは実家に預けてくるという。
「……主人のライターが見つかったとか?」
蛍子がスツールに座って、いつものカクテルを注文するや否や、伊達かほりは待ち切れないといった様子で尋ねてきた。
電話でライターのことだけは伝えてあった。
「ええ。これなんですけど」
蛍子はビジネスバッグに入れてきた例の古ぼけたライターを取り出し、それをかほりに見せた。
「間違いありません、これ、主人のものです」
かほりはそのライターを手に取って調べるように見つめていたが、すぐに顔をあげて、きっぱりと言った。
「これが、その蛇ノ口とかいう沼の近くで見つかったのですか」
かほりはライターを手にしたまま、蛍子の方を見て聞いた。
「ええ、そうらしいんです」
蛍子は、村長宅を訪ねたときに、たまたまそのライターを目にしたいきさつを話した。そして、自分が知り得た日の本村での伊達の足取りについても……。
「……それで、一つ確認したいことがあるんです。伊達さんは出掛ける前に何日に戻ってくると言っていたのでしょうか。四日ですか、それとも五日と?」
おおかたの報告を終えて、そう聞いてもみると、かほりは、
「それが……」と口ごもり、困惑したような顔になった。
「はっきりとは言わなかったんです。何日とは。二、三日泊まってくると言っただけで」
かほりはそう言いかけ、「でも変だわ……」と独り言のように呟《つぶや》いた。
「変って?」
蛍子が聞きとがめると、
「いえ、あの……もし、このライターをなくしたことに気づいたら、あの人のことだから、滞在を延ばしてでも探すんじゃないかと思ったものですから」
かほりは考えこむような顔でそう言った。
「というのは、実をいうと、前にも同じようなことがあったんです」
「同じようなこと?」
「三年前のことなんですが……」
伊達かほりはそう言って、新婚旅行のときの話をした。新婚旅行は、かほりの希望でハワイに行ったというのだが、日本に帰るという最後の日、それまで宿泊していたホテルをチェックアウトして、ホノルル空港に向かうタクシーの中で、伊達はライターをなくしたことに気づいたというのである。
「……たぶん、ホテルの部屋に置き忘れてきたんだって言って、タクシーの運転手さんにホテルまで戻ってくれって言い出したんです。でも、飛行機の時間が迫っていたし、ここでホテルに引き返していたら、予約しておいた便に間に合わなくなるかもしれないから、やめてってわたしは言ったんです。あんな古ぼけたライターなんかどうでもいいじゃないって。そうしたら……」
伊達は血相かえて怒り出し、「あれはただの古ぼけたライターじゃない。亡父の形見だ。飛行機なんか次の便でもいい」と言い、かほりが止めるのもきかず、半ば強引にホテルに戻ってしまったのだという。
「……幸い、ホテルの人に言ったら、すぐにライターを見つけてきてくれて、乗るはずだった便にもぎりぎりで間に合ったんですけれど……」
かほりは続けた。
「だから、今度の場合も、一日くらい滞在を延ばしても、自分で探しに行ったんじゃないかって気がするです。わたしには二、三日滞在してくるって言ってたくらいですから、四日に帰るつもりだったとしても、一日くらいなら延ばす余裕はあったはずです」
「それもそうですね……」
蛍子はそう呟き、二人の女をしばし沈黙が支配した。
「それで」
口を挟んだのは、それまで黙ってシェーカーを振っていた老マスターだった。このマスターが客同士の会話に口を挟むのは珍しいのだが、話題が息子のようにも思っていた伊達のことでは、マスターとしても他人《ひと》ごとと聞き流すわけにはいかないのだろう。
「九月三日に日の本寺に泊まっていた大久保という人とは連絡が取れたのですか」
マスターはそう言って蛍子の方を見た。
「あ、ええ、それは……」
蛍子ははっとしたように言った。
「こちらに戻ってきて、すぐに宿帳に記されていた番号に電話してみたんですが」
千葉県|館山《たてやま》市在住の大久保松太郎と浅子は、蛍子の予想した通り、夫の方が今年会社を定年退職して、隠居暮らしをはじめたばかりの初老の夫婦だった。
事情を説明して話を聞くと、善光寺参りと戸隠観光を終えたところで帰る予定でいたのだが、そのとき世話になったタクシーの運転手から、戸隠から少し行った所にある日の本村の寺の住職が蕎麦《そば》打ちの名人だという話を聞き、夫婦そろって大の蕎麦好きだったことから、予定を急遽《きゆうきよ》変更して、日の本村まで足を延ばしたのだということだった。
「……でも、大久保さんの話では、お二人が日の本村に着いたのは九月三日の夕方頃だったらしく、伊達さんとは話はおろか顔を合わせることさえなかったというんです」
「そうですか。では、何の収穫もなかったわけですね……」
マスターががっかりしたように言った。
「ただ、同じ寺に泊まりながら、全く顔を合わせなかったというのは、考えてみると、ちょっとおかしいんです」
蛍子はすぐに言った。
「おかしいというと?」
「あの寺は、旅館というよりも民宿風になっていて、食事は部屋に運んでくれるのではなくて、泊まり客が決まった時間に食堂に集まって一斉にとる形になっているようなんです。大久保夫妻が寺に着いたとき、ちょうど夕食がはじまる頃だったというのですが……」
住職の妻の話では、夕方外出先から帰ってきた伊達は、ライターを蛇ノ口まで取りに行こうとして止められ、そのまま寺に残って夕食をとったということだった。
「……それなのに、大久保さんの話では、食堂には自分たちしかいなかったというんです。ただ、もう一人分の膳《ぜん》だけは出ていたし、宿帳にも名前があったので、住職の奥さんに、他にも泊まり客がいるのかと聞いたら、昨日から男性が一人で泊まっているんだが、まだ出掛けたきりで帰って来ないと言ったというんです。結局、お二人が食事を終えて部屋に引き上げるまで、手付かずの膳がそのままになっていたそうです」
「手付かずの膳がそのまま……」
マスターは眉《まゆ》を寄せて考えこむような表情で呟いた。
「しかも、翌朝、午前八時の朝食のときも食堂には伊達さんの姿はなかったというんです。今度は膳も出ていなかったので、もう一人の泊まり客というのは、もう旅立ったのか、あるいは、朝食もとらずにまだ寝ているのかと思ったそうです。でも、住職の話では、伊達さんが寺を出たのは四日の午前九時頃だということでしたから、もう旅立ったということはありえないんです。ということは、朝食もとらずに寝ていたということになるのですが……」
「それは妙ですね。うっかり寝過ごしたとしても、膳は用意されるでしょうからね。膳がなかったということは、前日に伊達さんが朝食はいらないと言っておいたということになりますね。だから、膳は最初から用意されなかった……」
マスターが独り言のように言った。
「でもそんなこと考えられません」
そう言ったのは伊達かほりだった。
「主人は朝食はしっかりとる方です。たとえ寝過ごしても、トーストの一枚くらいは必ず食べてから出掛けていました。それに、わたしの知っている限りでは、一緒に旅行に行って、ホテルや旅館の朝食をとらなかったことなんて一度もありません」
「わたしもそのへんが腑《ふ》に落ちないので、大久保さんから話を聞いたあと、日の本寺にすぐに電話して、住職夫人にその点を問い合わせてみたんです。そうしたら、もう一カ月以上も前のことなのでよく覚えていない、伊達さんが九月三日の夜夕食をとったというのは自分の記憶違いだったかもしれないと迷惑そうに言われて、今忙しいからと一方的に切られてしまったんです。わたしのような素人ではこれ以上の追求は無理みたいです。警察がもっと本腰をいれて調べてくれたらと思うんですが……。あれから警察の方からは何も?」
蛍子は伊達かほりに聞いた。
かほりは力なく首を横に振った。
「警察では、事件というより、主人が自分の意志で姿をくらましたのではないかと考えているようです。夫婦仲のことや借金のこととかしつこく聞かれましたから……」
かほりはやや憤慨したような口調で言った。
「借金? 伊達さんには借金があったんですか」
蛍子が聞くと、
「ええ。事務所を開くときの資金や今のマンションを買うときの資金やら何やらで。でも、仕事の方は順調そうだったし、借金といっても、返済のめどはついていましたし、それに、いざとなったら、実家の父も援助してくれるはずです。だから、そんなことに悩んで失踪《しつそう》するわけがないんです。でも、警察の人は、家出人の中にはそういうケースもあるからと。まるで家出人扱いなんです」
かほりは悔しそうに言った。
遺体が発見されるとか血のついた遺留品が見つかるなどの明確な事件性が見られない限り、この手の失踪に対する警察の対応なんてこんなものだろうと、蛍子は思った。
実際、館山の大久保松太郎の所には警察からは何の問い合わせもないようだった。当時、同じ寺に宿泊していた大久保夫妻のことは宿帳から確認できたはずだから、調べる気さえあれば、とっくに問い合わせの電話くらいあってもいいはずだった。
それがいまだにないということは、ただの行方不明ということで、捜査の方法もかなりおざなりだったに違いない。
「でも、喜屋武さんから伺ったこと、明日にでも警察の人に話してみます。もしかしたら、警察でも不審に思って、もう一度調べ直してくれるかもしれません」
伊達かほりは、少し希望をもったような顔でそう言った。
2
「奥さんの前では言いにくかったんですが……」
伊達かほりが帰ったあと、かほりのグラスを無言で片付けていたマスターがようやく重い口を開いた。
「やはりどう考えても、あの村で伊達さんに何かあったとしか思えませんね。もしかしたら、事故のようなことが……」
「事故?」
蛍子は半分ほど残ったカクテルから目をあげた。
「これはあくまでも私の想像にすぎませんが」
マスターは沈んだ表情でそう前置きしてから、パイプに火をつけながら言った。
「あの日、九月三日の夕方、蛇ノ口でライターをなくしたことに気づいた伊達さんは、ライターを探しに行くために、住職の奥さんに懐中電灯を借りようとした。ここまでは実際にあったことだという気がします。だが、このあとが、住職夫人の話とは違うのではないか。おそらく、住職夫人は行くのを止めたのでしょうが、伊達さんはそれを振り切って、蛇ノ口に出かけて行ったのではないか……」
マスターにそう言われても、蛍子は驚かなかった。蛍子自身、それを疑っていた。付き合っていた頃から、伊達浩一には、自分がこうと決めたことは、他人の忠告など無視して突き進むようなところがあった。
げんに、白玉温泉館で、伝さんに「口を酸っぱくして」止められながらも、伊達は、その忠告を振り切って、蛇ノ口を訪れている。
「……そして、そこで、何かが起きた。たとえば、こんなことが考えられます。既に日が暮れて闇《やみ》に覆われた蛇ノ口で、懐中電灯の明かりだけを頼りに夢中でライターを探しているうちに、伊達さんは、つい沼に近づきすぎてしまったのではないか……」
「…………」
「つまり、あの夜、伊達さんは寺には戻ってこなかった。遅くなっても客が戻ってこなければ、当然、住職の奥さんは、蛇ノ口で何かあったのではないかと察する。そして、誰かを蛇ノ口まで見に行かせた。すると、伊達さんの姿はどこにもなく、沼の縁に人が落ちたような痕跡《こんせき》が残っていたとしたら……。そこで何が起きたかすぐに察したものの、住職をはじめとする日の本村の連中は、なぜか、そのことを公にしたくはなかった。それで、村長や日の本神社の神官まで巻き込んで、翌朝、伊達さんが彼らの車に同乗して村を出たかのように装った。伊達さんの失踪を村とは関係ないものに見せかけるために……」
「でも、ただの事故だったとしたら、なぜ、日の本村の人たちはそのことを隠そうとしたのでしょうか?」
蛍子はすぐにそう反論した。マスターの推理は、自分も考えなかったわけではないが、ここで詰まってしまう。なぜ、ただの事故にすぎなかったものを、村ぐるみで隠そうとしたのか。
それとも、ただの事故ではなかったのか……。
「日の本村が観光地か何かで、その観光名所で事故が起こったとでもいうなら、まだ分かります。事故の報道をされることで、客足が途絶えることを恐れたとも考えられます。でも、あそこは観光地ではないし、まして、蛇ノ口は観光名所ではありません。それどころか、七年に一度の神事を行うご神域として、外部の者にはあまり知られたくない場所だったようです。そこで事故が起きたからといって……」
蛍子がそう言いかけると、
「それですよ」
マスターは遮るように言った。
「それ……?」
「蛇ノ口というところが、単なる沼ではなく、ご神域だったということが、あの村の人々にとっては何よりも重要だったのかもしれません。そんな人に知られたくない神聖な場所で、観光客が過って事故にあった。もし、これを公にすれば、マスコミが大々的に報道するかもしれない。その報道によって、人々の注意が蛇ノ口に集まることを村の人々―――といっても、あの村を牛耳《ぎゆうじ》っている一部の連中かもしれませんが―――は恐れたのではないでしょうか。だから、そうなる前に、事故そのものをなかったことにしてしまおうとした……」
蛍子はマスターの話を暗澹《あんたん》とした思いで聞きながら、蛇ノ口を訪れたとき、周囲に立ち巡らされた「立ち入り禁止」の札の文字が、妙に新しかったことを思い出していた。
あれは、単に雨風で文字がかすれたために書き直したのではなかったのかもしれない。ごく最近、立て札を新しく書き直さざるを得ないようなことがあそこで密《ひそ》かに起きていたとしたら……。
そして、村長宅で、太田が最後に念を押すように言っていた言葉。
「万が一、あそこで事故でもあったらこちらが困る。特に今年は七年に一度の大祭を控えていますからね。あなたもあそこには絶対に近づかないでください。お願いしますよ」
太田は半ば脅すような口調でそう言った。
その大祭を来月に控えているのだ。
もし、あの沼で事故があったことが公になれば、神事そのものが中止になる恐れがある。あそこは底無し沼とはいえ、実際には底がないわけではなく、ひどく深いのでそう呼ばれているにすぎない。それを知れば、当然、被害者の家族は遺体の引き揚げを要求するだろう。
単に重要な神事が中止になるだけではなく、沼底を浚《さら》われると困るようなことがあったのではないか。たとえば……。
「いや、やはりこんなことは常識では考えられませんね」
マスターはそこまで話すと、突然、頭を振って、それまでの自分の推理を自分で否定した。
「いくらご神域といっても、人ひとりの命には代えられないはずです。もし、そこで事故があったとしたら、それを村ぐるみで隠すなんてことはどう考えても、普通ではありえません。私の妄想にすぎませんね……」
マスターはそう言って自嘲《じちよう》するように弱々しく笑った。
「いえ、妄想とは―――」
蛍子はそう言いかけ口をつぐんだ。
マスターの推理が妄想だとは思えなかった。確かに、常識では考えられないことかもしれないが、あの村ならば、大神と呼ばれる蛇体の太陽神を「真の天照大神」と崇《あが》め、千年以上にもわたって祀《まつ》ってきたというあの村ならば、しかも、その行為が日本という国を守ることなのだと本気で信じているような狂信的な人々がいるあの村ならば、その常識では考えられないことが起こっても不思議ではないような気がした。
蛍子も、あの村に行く前は、ここで伊達から聞いた話を荒唐無稽《こうとうむけい》と聞き流していたのだ。でも、実際にあの村に行き、自分の目で確かめてきてからは、もはや荒唐無稽と笑えないものがあった。
とはいうものの、自分の推理を自分で否定しようとするマスターの気持ちもよく分かった。この推理を認めるということは、同時に、伊達の死を認めることでもあるからだ。伊達浩一の遺体が今もあの暗い沼底に沈んでいると考えるのはやりきれない。
老いたマスターにとって、真実を知るということが重要なのではない。息子のようにも思っていた伊達浩一が今もどこかで生きている。そう思うことの方が重要なのだ。
それは蛍子も同じだった。できれば、怠慢な警察がそう思い込んでいるように、伊達の失踪《しつそう》が伊達自身の意志によるもので、どこかに身を潜めているだけだと思いたかった。
その可能性はほとんどないとは知りながらも……。
3
その夜。
シャワーを浴びてパジャマに着替えた蛍子は、ノートパソコンの電源を入れた。いつものようにメールチェックをしてから、沢地逸子のホームページを訪れてみると、コラムの項が新しく更新されていた。
今度は少し長いようだったが、さほど眠くもなかったので、そのまま読んでみることにした……。
※
ヤマトタケルとは
ヤマトタケルといえば、まさに日本神話の英雄中の英雄であり、その物語は、今もなお、芝居、小説、映画、漫画、アニメなどの素材として、繰り返し使われるほど人気の衰えぬ人物である。その人気の秘密は一体どこにあるのだろうか。
記紀によれば、景行天皇の双子の皇子《みこ》の片割れとして生まれ、成人してからは、父王の命を受けて、西は九州から東は東北と、短い生涯の大半を「大和朝廷にまつろわぬ者の討伐」に捧《ささ》げ、ようやく、その使命を果たして大和に帰る途中、伊勢の能褒野《のぼの》というところで病に倒れ、死んだ後はその魂が大きな白鳥となって飛び去ったといわれている。
また、神話中の人物といっても、スサノオやオオクニヌシなどと違って「神」ではなく、あくまでも「人間」であるという設定から、そのモデル説も様々である。
たとえば、幼名をワカタケルと言い、武勇の誉れ高かったという雄略天皇説、あるいは、記紀が作られた時代の立役者の一人ともいえる大海人皇子《おおあまのおうじ》こと天武天皇説。
あるいは、この天武の第三皇子であり、弱冠二十四歳の若さで刑死した悲劇の皇子、大津皇子説。
また、やはり天武の第一皇子で、壬申《じんしん》の乱の折りには、父王の片腕となり、よく働いたが、母の身分が低かったために、第一皇子に生まれながらも、天皇にはなれず、異母弟たちの臣下としての生涯を運命づけられた高市皇子《たけちのみこ》説などなど。
この中でも、大津皇子説が有力であるように思える。というのは、日本書紀や懐風藻によれば、大津皇子は、風貌《ふうぼう》が大きく逞《たくま》しく、文武両道にすぐれ、臣下の人望も篤《あつ》かったとあるし、なによりも、同母の姉が伊勢神宮初の斎王(巫女《みこ》)であり、残された歌などから見ても、姉弟《きようだい》仲は睦《むつ》まじかったようであるから、やはり伊勢神宮の斎宮であった叔母《おば》のヤマトヒメに何かと助けられるヤマトタケルの物語とも符合するからである。
しかも、周囲から次期天皇と嘱望されながらも、謀反の罪で若くして刑死させられたという悲劇的な最期も、結局天皇になれずに旅先で病死したヤマトタケルの最期と通じるものがある。
ヤマトタケルと景行天皇の父子関係は、日本書紀では、非常に良好であったように描かれているが、古事記においては少し違う。この父子の間に何らかの確執があったのではないかと思わせるような描写がある(こういう描写があるところが、古事記が日本書紀より物語としては優れているゆえんだろう)。
ヤマトタケルが父の命でクマソ討伐を終えて大和に帰って来たとき、父王は、今度は東に討伐に行って来いと命じるのである。ヤマトタケルは、そんな父王の態度に疑惑と不満をおぼえたらしく、「父上は私に死ねというのか。西の討伐から帰ってまもないというのに、休む暇《いとま》も与えず、兵もろくにくれずに今度は東へ討伐に行ってこいなどと……」と泣いて、叔母であるヤマトヒメに訴えている。
ヤマトタケルの父王に対して抱いたこの疑惑もあながち考えすぎとはいいきれないものがある。景行にしてみれば、この勇猛果敢な息子は、頼もしい片腕でもあるが、裏を返せば、いつ妙な野心に駆られて自分の寝首を掻《か》かないとも限らない「危険人物」でもある。いわば、諸刃《もろは》の剣的な存在なのである。
西へ東へと追いやって、いっそのこと戦闘中に死んででもくれたら、大和朝廷に刃向かう敵はいなくなるし、危険人物もいなくなるしで、まさに一石二鳥というわけである。皇子なら他にもいるのだから、後はもっとおとなしい安全な人物に継がせればいい。父のそんな黒い思惑を、息子は敏感に察したともいえる。
古事記の、このあたりの父子の描き方に、天武天皇と、その父天武に対して、「謀反」の心を抱いたといわれている大津皇子との関係が色濃く反映しているようにも見える。
ちなみに、大津皇子の「謀反」は、実は、自分の産んだ子である第二皇子の草壁皇子を天皇にと願った天武の皇后(後の持統天皇)一派の謀略であるとの説もある。
大津皇子もそれなりの野心家ではあったようだから、完全な濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》ではなかったかもしれないが、あえて「謀反」など起こさずとも、いずれ、時が来ればすんなり天皇になれるだけの資質と条件が備わっていた皇子の境遇から考えれば、「謀略説」はかなり信憑性《しんぴようせい》が高いようである。
また、大津が刑死したとき、狂乱して夫の遺骸《いがい》にすがりついた后《きさき》の一人が、すぐさま自分も夫の後を追って自殺したという話も、この皇子が臣下だけでなく、后たちにも深く慕われていたことを物語るとされ、それは、夫の病死を知って、地面を這《は》い回るようにして泣き叫んだというヤマトタケルの后たちとも共通しているように見える。
もっとも、これらの話は、単に「殉死」の風習や、天皇や皇子などの身分の高い者が死んだとき、葬儀の場で、その死を大袈裟《おおげさ》に嘆き悲しむ演技をする「泣き女」の風習などを物語にからめて記しただけなのかもしれないが……。
それはさておき、このように、大津皇子とヤマトタケルには共通点が幾つもあるように見える。が、だからといって、大津皇子がそのままヤマトタケルのモデルかというと、そうは思えない。おそらく、ヤマトタケルには特定のモデルなどいないのだろう。あるいは、大津皇子をはじめ、先にあげたような天皇や皇子たちすべてがモデルといえばモデルだったのかもしれない。
つまり、ヤマトタケルとは、神武以来の「日嗣《ひつぎ》の皇子《みこ》」と呼ばれた天皇家の皇子たちを総称し、類型化した人格にすぎないのではないだろうか。
ところで、記紀の中では、「大和の英雄」と讃《たた》えられたヤマトタケルであるが、それはあくまでも大和朝廷側から見た場合であって、天誅《てんちゆう》の大義名分をもって殺された各地の「まつろわぬ者」こと先住民の王たちにしてみれば、彼は「英雄」どころか、憎むべき「侵略者」であり「虐殺者」でもあったわけである。
たとえば、クマソ討伐の折り、その地の首長であったクマソタケル兄弟を殺すとき、ヤマトタケルは女装して女に化け、敵が油断しているすきに刺し殺したとある。
このような戦い方にしても、あのヤマタノオロチを倒したスサノオの話同様、記紀においては、英雄の「力」だけではなく「知恵」を示すものとして褒めたたえているが、クマソ側にたってみれば、堂々と戦わず、女に化けるとは卑劣この上ないという見方だってできるだろう。
それにしても、このクマソ討伐の話で、非常に不可解に思うのは、いくら顔立ちが秀麗だったとはいえ、双子の兄の手足を素手でもいで殺してしまうような人間離れした怪力の持ち主で、筋骨たくましい大男(身長が一丈、というのだから、三メートル近くあったことになる)だったらしいヤマトタケルが、女装したからといって、はたして、本当に女に見えたのだろうかということである。
ただ、この「女装」の件は、その女の衣装というのが、叔母のヤマトヒメから借りた「巫女装束」だったということから考えて、別の解釈もできるので、それは後で改めて触れるとして……。
でも、たとえ、ヤマトタケルを「体制の手先」としての「侵略者」という、否定的な視点で見たとしても、それで、その魅力が消えてしまうわけではない。このへんにヤマトタケルという人物の人気の根強さがあるように思える。おそらく、ヤマトタケルの魅力の根拠がその並外れた強さにあるのではなく、それだけの強さをもちながらも覇者にはなれず、悲劇的な最期を遂げたということにあるからだろう。
一つの体制をうちたてるための縁の下の力持ち的な苦労ばかりを押し付けられて、体制が整った後の権力の旨《うま》みを味わうこともなく、志半ばで倒れた青年戦士的なイメージが、この人物を否定的に見ようとする人たちの同情さえも誘うのである。
もし、これが、伊勢の能褒野で倒れず、あのまま大和に凱旋《がいせん》し、父景行の後を継いで天皇となり、腐るほど子供を作ったのちに老衰で死んだとでもいう話であったならば、ヤマトタケルの名ははたして後世に残っただろうか。とっくに民衆から忘れ去られているだろう。
ヤマトタケルの魅力はその早すぎる死によって生み出されたといってもよい。彼は死ぬことによって永遠の生命を得たのである。これこそが「英雄」の条件ではないだろうか。ただ偉業を成し遂げたとか、ある分野において並外れた能力を発揮した、というだけでは、「英雄」とは呼べない。
まだ「英雄」の絶対条件を満たしてはいない。その絶対条件とは、若いうちに悲劇的な死を遂げること、である。そうなって、はじめて「英雄」の名を永遠にできるのである。なぜなら、「英雄《ヒーロー》」の本質とは、貪欲《どんよく》な神に捧げられた「贄《にえ》」なのだから。
そして、この貪欲で美食家の神は、けっして老いて固くなった肉を好まないのである。
三人の巫女
ヤマトタケルの物語には、三人の重要な女性が登場する。一人は、景行天皇の妹でもあり、伊勢神宮の斎宮でもあった叔母《おば》のヤマトヒメである。
今一人は、后の一人で、東征の途中、走水の海(今の浦賀水道)で、海が荒れたとき、海を鎮めようとして入水《じゆすい》して果てたオトタチバナヒメ。
そして、最後が、やはり后の一人で、ヤマトタケルから託された神剣「草薙《くさなぎ》の剣」を生涯かけて守り通したミヤズヒメである。
ヤマトタケル物語の魅力の一つは、この三人の女性とのかかわり、とりわけ、二人の后《きさき》とのラブロマンスにあるといえるかもしれない。武勇伝だけでは男性ファンを楽しませても、女性ファンまでは勝ち取れないだろう。
いや、女性だけでなく、「夫を苦境から救うために自らの命を犠牲にした」オトタチバナヒメの「妻の鑑《かがみ》」ともいうべき「献身愛」や、亡夫の形見である剣を守るために、神社を建て、その後の生涯を独身で過ごしたというミヤズヒメの「一途《いちず》な純愛」は、男性読者すら喜ばせそうである。
実際、こうしたラブロマンスがあるからこそ、老若男女を問わず、この英雄物語が長く愛されてきたのだろう。
それゆえ、これから私が書くことは、こうしたヤマトタケルと后たちの「純愛」物語に水をさすようで、少々気が引けるのだが、まあ、あくまでも勝手気ままな空想の産物として読み流して戴《いただ》きたい。
二人の后の「考察」をする前に、まず、叔母であるヤマトヒメの話からはじめよう。
ヤマトタケルにとって、ヤマトヒメとはまさに母神的な存在である。その数々の偉業も自らの「武力」だけで成し遂げたわけではなく、伊勢神宮の最高|巫女《みこ》でもあった叔母の「霊力」の介添えによって遂げられたといっても過言ではない。
たとえば、相模《さがみ》の国(古事記では駿河《するが》となっているが)で、その国の賊に野原におびき出されて、焼き殺されそうになったとき、ヤマトヒメから預かってきた「草薙の剣」と「火打ち石」を使って、草を払って迎え火を放ち、逆に敵を焼き殺して難を逃れたとある。
まさに、「剣」と「石」に籠《こ》もったヤマトヒメの強い霊力が、ヤマトタケルを守ったわけである。
さらにいえば、前に書いた、クマソ討伐の折りの「女装」の件も、「女装」して敵をあざむいたのではなく、巫女の「霊力」の籠もった衣装を、「お守り」として身につけ、その「霊力」を借りて、強敵に打ち勝ったという話であったとも読める。
こうした、「武力」と「霊力」の結合による偉業の達成という話は、古代の「まつりごと」の仕組みを暗に象徴しているのではないだろうか。
古代において、「まつりごと」とは、政治を意味する「政《まつりごと》」と、宗教的な祭祀《さいし》を意味する「祭りごと」の両方を意味し、天皇が「政治」を、皇后(ないしは天皇の姉妹)が、巫女として「祭祀」の方を司《つかさど》ったと言われているからである。
もし、こうした読み方が許されるならば、走水の海での、オトタチバナヒメの入水の一件も、単なる「妻の献身愛」ではなかったとも考えられる。
オトタチバナもまた巫女だったのではないだろうか。単に妻の一人としてではなく、海神を祀《まつ》る巫女として同船していたのではないか。
走水の海が荒れて船が立ち往生してしまったとき(海が荒れたのは、日本書紀によると、航海に先立って、ヤマトタケルが、「走水の海など大したことはない」というような言挙げ、つまり、神をないがしろにする言葉をはいて、海神を怒らせたからだとある)オトタチバナは、「私が御子《みこ》に代わって海に入りましょう」と申し出たというが、そのとき、すぐにドボンと海中に飛び込んだわけではなく、「菅畳《すがたたみ》八重、皮畳八重、絹畳八重を波の上に敷いて、その上におりた」とある。
これは、人身御供《ひとみごくう》の作法というより、何やらこの上で海を鎮めるための呪術《じゆじゆつ》的な行為をしたように見える。しかし、それでも海が鎮まらなかったので、最終的に、巫女である我が身を海神に捧《ささ》げたのかもしれない。
つまり、走水の海でのオトタチバナの入水は、「夫の身を案ずる妻」の行為というよりも、巫女としての責任を果たしたといった方がいいのではないだろうか。
また、この入水事件の七日後に、オトタチバナの櫛《くし》が浜辺に打ち上げられ、ヤマトタケルは嘆きながらその櫛で墓を作ったとある。
古代における「櫛」とは、単に「髪を梳《す》く道具」ではなく、「奇《く》し」にも通じて、何か呪術的な意味をもつものであったようだ。
たとえば、ヤマタノオロチ神話においても、一説によれば、スサノオはヤマタノオロチと戦う前に、クシナダヒメを一本の「爪櫛《つまぐし》」に変え、それを髪に挿して戦ったとある。これなども、ヒメの巫女としての霊力の籠もった「櫛」を身につけることで、自らの「武力」を「霊力」によってパワーアップしたとも読める。
「櫛」を神聖視するのは、櫛の素材である「樹木」を神の依《よ》り代《しろ》として神聖視することに端を発しているように思えるが、あるいは、古来、「髪」は「神」にも通じ、霊力の宿るもの、とりわけ「女の髪」には霊力が宿るという信仰があったことから、その髪に挿す櫛も神聖視されるようになったのだろうか。
それにしても、ここでふと思うのは、ヤマトタケルがオトタチバナの形見ともいうべき櫛を拾ったとき、それで墓など作らず、「お守り」として身につけていたら、彼を襲った後の不運も免れていたかもしれないということである……。
それはともかく、ヤマトヒメだけではなく、オトタチバナも巫女だったのではないかと私は書いた。それでは、「第三の女」ともいうべき、ミヤズヒメはどうだったのだろうか。
結論から言ってしまえば、私は、ミヤズヒメも、というか、このヒメこそ巫女であったと思う。また、そういう説も既にある。その一つの根拠として、古事記では、このミヤズヒメのことを、「尾張国造《おわりくにのみやつこ》の祖《おや》」と書いていることを挙げたい。
ミヤズヒメとヤマトタケルは、夫婦の契りはかわしているが、二人の間に子供ができたという記録はない。また、ミヤズヒメが他の男との間に子供をもうけたという記録もないようだ。このヒメを祀る地元の神社でも、「ミヤズヒメはヤマトタケルに操をたてて生涯独身を通した」などというように、その「貞節」ぶりを紹介しているようである。
どうやら、少なくとも資料の上では、子供を産んだように見えないこのヒメが、なぜ「尾張国造の祖」になりうるのか。
もっとも、「尾張国造の祖はミヤズヒメ」と書いているのは古事記だけであって、日本書紀や『熱田大神宮縁起』等には、「尾張国造の祖」は、ミヤズヒメの兄であるタケイナダネノミコトであると記されているらしい。
古事記と日本書紀等ではなぜ記述の内容が違うのかという謎《なぞ》の答えとして、このような説がある。それは、兄が「政《まつりごと》」を、妹の方が「祭りごと」を受け持っていたのではないかというのである。
天皇と皇后(あるいは天皇の姉妹)が共同して「まつりごと」を司ったという話は先に書いたが、こうしたやり方は、地方の豪族なども同じだったようで、というより、古い豪族の統治の仕方が、新興豪族にすぎなかった天皇家にも伝わったというべきかもしれないが。
しかも、祭祀などに深くかかわった氏族などでは、「祭祀」担当である女性の方を尊重して、「氏族の祖」と呼ぶことがあったといわれている。より古い伝承ほどそのように伝えているらしい。つまり、古事記の方が、日本書紀等よりも、より古い伝承を元にしているのではないかということである。
たとえば、あの「卑弥呼《ひみこ》」もこうした祭祀に深くかかわった氏族の巫女王のようなものだったのかもしれない。
実際、「卑弥呼」には、夫はいなかったようだが、「弟」が一人いて、これが「政治」を担当していた旨の記述がある。
そして、近親婚がタブーではなかった時代には、この「弟」がそのまま実質的な「夫」も兼ねていたとも考えられよう。
ヤマトタケルが活躍した時代には、まだ父系制度は広く定着しておらず、母系制を掲げる「女王国」のようなものが各地(とりわけ、九州など)に割拠していたらしいことは、日本書紀にも記されている。
ひょっとしたら、「尾張国」もまた、こうした「女王国」の一つだったのではないだろうか。そして、そこの「巫女王」がこのミヤズヒメだったのではないか。
ミヤズヒメが、このような「巫女王」だったのではないかと推察するもう一つの根拠として、「月経」に関する記述があることを挙げたい。
また「生理」の話かとうんざりする向きもあろうが、少し我慢して貰《もら》いたい。
東の討伐をほぼ終えて尾張の館《やかた》に立ち寄ったヤマトタケルと再会したとき、ミヤズヒメが「生理期間中」であったことが、古事記にはわざわざ記されている。
それはこうである。
館で酒などのもてなしを受けていたとき、ミヤズヒメの裳裾《もすそ》に「月のもの」が付いていることを、目ざとく見つけたヤマトタケルが、「今夜、あなたと一晩過ごそうと思ったのだが、裾に月が出ているね……」という意味のことを歌に託して言うと、ミヤズヒメは、臆《おく》することもなく、「こんなに長く待たされたのですから、月も出るでしょうよ、日の御子様」と軽くいなすようにも見える返歌をしている。
ちなみに、「待たされた」というのは、実は、ヤマトタケルは東の討伐に出掛ける前に、一度この館に寄ってヒメと会っているのである。しかし、このときは夫婦の契りは結ばず、「婚約」のようなことだけをして、討伐に出掛けてしまったのである。
それにしても、なぜ、ここで「あえて」ミヤズヒメが「月経中」であったことを記しているのだろうか。
結局、ヒメがそういう状態であったにもかかわらず、二人は夫婦の契りを結んでしまうことから、この二人がいかに愛し合っていたかという情熱の表れとして書き留めたのだろうか。
それとも……。
一説によると、古くは、「月経の日に交わると子供ができる」という考えがあったそうで、ユダヤなどでも、「父親の白い精液と母親の赤い精液が混じり合って子供ができる」という考えがまことしやかに信じられていたらしく、このような「非科学的」迷信から、あえて生理期間中に交わったのではないかという人もいる。
また、「ヤマトタケルの後の不運は、このとき、月経中のミヤズヒメと交わったことで、その聖性が穢《けが》されたからだ」というようなことを言う人もいるが、それは、後世の仏教的ないしは神道的な視点に立ちすぎた見方のように思われる。この物語の背景となっている時代には、まだ「経血が聖なるものを穢す」という「血の穢れ」思想は定着していなかったように見えるからだ。もし、この仏教的な思想が既に定着していたら、さすがにヤマトタケルも、ヒメとの同衾《どうきん》は差し控えただろう。
むしろ、話は逆で、この頃にはまだ、月経中の女性と交わることは、「穢れ」どころか、「パワーアップ」につながるという、道教的な「経血崇拝」のようなものがあったのではないだろうか。
太古、女性の「経血」には、魔を退け、我が身を守る不思議な力が備わっていると考えられていたことから、戦いの際には、男も女も、この「月の血」を身体中に塗りたくったという。また、この「月の血」を貴ぶゆえに、大事な神事は、巫女《みこ》の月経期間中に行われたことは何度も書いた。
ヤマトタケルが、あえて月経中のミヤズヒメと床入りしたという話は、こうした「血の儀式」ともいうべき古代の神事を物語化したものだったのではないだろうか。
古い伝承などを元にして作り上げたせいか、記紀、とりわけ古事記には、古くから伝わる呪術や神事の様をストーリー化したと見られる話が少なくないそうである。
先のオトタチバナの入水《じゆすい》の際の描写なども、「ナントカ畳を何枚も重ねてその上に座り云々《うんぬん》」というのは、海神を祀るときの呪術ないしは神事の様子を物語化したもののようにも思える。
また、ヤマトタケルが相模の国で賊に襲われ、野原に火をつけられたという話にしても、あれは、焼畑農耕を指しているのではないかという見方もある。あるいは、そうした古い農耕法を模した神事の様を物語にして語ったとも考えられる。
さらにいえば、クマソ討伐の「女装」の件も、男が「女装」して行う何らかの神事の様を語ったものなのかもしれない。もともと、祭祀《さいし》は女性の担当分野であったことから、男性が神事にかかわるときは、「女性化」、つまり「女装」したり「女の名前」を名乗ったりすることがあったからである。
話を元に戻すと、ゆえに、月経中のミヤズヒメと交わるということは、単に夫婦としての契りというより、それは、巫女とかわす儀式《イニシエーシヨン》に近く、その儀式によって、「月の血」の霊力を身につけ、さらなる力を蓄えたということになるのではないか。
だからこそ、この後、伊吹山の神を退治してくれんと、勇んで、近江に出かけて行ったのである。
ところが……。
その結果は無残なものと終わった。伊吹山の神に害されて、山の神を討つどころか、おのれが心神喪失のような状態で帰ってくることになるのである。そして、このとき得た病が元で、大和に帰る途中、伊勢の能褒野で、終《つい》に力つきるのである。
ところで、記紀では、伊勢の能褒野で亡くなったと記されているが、藤原|不比等《ふひと》の子、藤原|武智麻呂《むちまろ》が著した『武智麻呂伝』によると、伊吹山の民間伝承では、ヤマトタケルが死んだのはまさに伊吹山においてであって、「山の中程まで登ったとき、山の神に害せられて、白鳥となって飛び去った」とあるという。この伝承は、記紀が編まれる前からあったものらしいから、ひょっとしたら、能褒野まで至る話は記紀制作者が何らかの意図(たとえば、地名の由来を説明するためなど)で後で付け加えたものなのかもしれない。
いずれにせよ、この伊吹山でのことが、ヤマトタケルの命取りになったことは間違いない。
「月の血」に守られて、パワーアップしたはずのヤマトタケルが、なぜ、伊吹山の神には勝てなかったのだろうか。
もし、ミヤズヒメが巫女だとしたら、ヤマトヒメやオトタチバナヒメは、その霊力をもって、ヤマトタケルを守りきったのに、なぜミヤズヒメだけが守りきれなかったのか。
しかも、伊吹山の祭祀をしていたのは尾張氏であったという。ということは、まさに、伊吹山はミヤズヒメの管轄内であり、このヒメならば、「伊吹山の神」を鎮めるだけの力をもっていたはずである。
それなのに、なぜ……?
ミヤズヒメと草薙の剣
疑問はまだある。
この物語を読む多くの人たちの頭に浮かぶであろう、最大の疑問、それは、ヤマトタケルはなぜ、伊吹山に赴くときに、それまでけっして手放すことのなかった、神剣「草薙の剣」をミヤズヒメの元に置いて行ったのかということである。
この剣は単なる武器ではなく、ヤマトヒメの霊力の籠もった強力な「お守り」であり、また、王権を象徴する王章《レガリア》でもあったはずである。
普通ならば手放すはずがない。伊吹山での敗因は、明らかに、この「草薙の剣」を手放したことにあるように思える。あのアーサー王伝説でもそうだが、「剣の英雄」にとって、分身ともいうべき大切な剣を手放すということは、そのまま「英雄の死」を意味しているのである。
ところで、愛知県、火上《ほのかみ》山の麓《ふもと》に熱田神宮の摂社でもあり、元宮ともいわれる氷上姉子《ひかみあねこ》神社という社がある。祭神はミヤズヒメである。
神社の由緒によると、この社は、元はミヤズヒメの兄、タケイナダネノミコトの館跡であり、父や兄亡き後、ヤマトタケルから預かった「草薙の剣」を収め守るために、ミヤズヒメがここに社を建てたのだという。
現在は熱田神宮にあるといわれている「草薙の剣」(一説には、この剣は壇ノ浦の戦いで安徳天皇と共に海の藻屑《もくず》と消えたとされているが)は、最初はこの社に保管されていたらしい。さらに、その由緒によれば、ヤマトタケルが伊吹山に赴く際、その剣をミヤズヒメに「床守りにせよ」と託して行ったというのだが……。
この「ご由緒」をそのまま信じるならば、ヤマトタケルは「草薙の剣」を「自分の意志で」ヒメの元に置いて行ったということになる。
確かに、ヤマトタケルは死ぬ間際、こんな歌を詠んでいる。
嬢子《おとめ》の床の辺に 我が置きし つるぎの太刀 その太刀はや
この歌の意味は定かではない。剣に託してミヤズヒメのことを思い出しているようにも取れるし、あるいは、戦士らしく、最期まで我が魂ともいうべき「剣」のことを気にしていたとも取れる。
私としては、なんとなく、この歌に、ため息まじりの「後悔」のようなものを感じてしまうのだが。「ああ、なんであのとき、あそこに太刀を置いてきてしまったのか……」とでもいうような。
つまり……。
ヤマトタケルは「草薙の剣」をうっかり置き忘れたのでもなく、あるいは、自分の意志で置いたのでもなく、三番目の理由で、「仕方なく」ミヤズヒメの元に置いて行ったのではないか。
その三番目の理由とは、当のミヤズヒメに「所望」されたというものである。
一晩を過ごした愛《いと》しい女性に強く「所望」されれば、男たるもの、「まずいな」と内心では思いつつも、つい相手の言う通りにしてしまうのではないか。
あるいは、筋肉バカといってはなんだが、あまり思慮深いとはいえず、すぐに大言壮語したがる癖のあるこの男のことだから、「あなたは、伊吹山の神くらい、素手で取れないのですか」とミヤズヒメに挑発されれば、「なーに、俺《おれ》様ならそんなことは朝飯前だ」くらい言いそうである。
「だったら、こんな剣はいらないでしょ」
「い、いや、それは」
「わたしの床守りにちょーだい」
「で、でも……」
「ねえ、あなただと思って大切にするから、わたしにちょーだい」
「…………」
まるでコギャルと援交中のサラリーマンのような会話になってしまって恐縮だが、こんなやりとりが(むろんもっと厳粛に)二人の間にあったのではないだろうか。それで、ヤマトタケルは一抹の不安を抱えながらも、丸腰で伊吹山に出向くはめになったのではないだろうか。
それでは、なぜ、ミヤズヒメはそれほどまでに「草薙の剣」を欲しがったのか。
ちなみに、このヒメが祀《まつ》られている神社だが、昔は、「火上姉子《ほのかみあねこ》神社」という名前だったという。また、このあたりの地名は、現在では、「大高氷上」と呼ばれているが、昔は「火高火上」と呼ばれていたらしい。「火上」から「氷上」に名がガラリとかわったのは、このあたりでよく火災がおき、社や民家が被害にあったことから、「火」という字を忌んで、「氷」に変えたということらしい。
また、「熱田」という地名の由来も、ミヤズヒメが「草薙の剣」を守る社を造ったとき、そこの楓《かえで》の木が自然に燃え出したため、「熱田」と付けたという。
この社がある山も「火上山」といい、妙に「火」が関係しているのである。ひょっとすると、古来「火」にまつわる聖地か何かで、ミヤズヒメというのは、その「火」を守り祀る巫女だったのではないだろうか?
一方、「草薙の剣」も「火」にまつわる剣なのである。古事記には、ヤマタノオロチの尾から出てきた剣で、またの名を「天叢雲《あめのむらくも》の剣《つるぎ》」というとあることから、雨乞《あまご》いの儀式などに使う呪術用《じゆじゆつよう》の剣、すなわち「水を呼ぶ剣」であるという見方が有力のようだが、一説には、「草薙の剣」と「天叢雲の剣」は別物であるとも言われている。この件に関しては前にも書いたので、そちらを参考にして戴きたい。
どちらにせよ、少なくとも、ヤマトタケルの物語においては、「草薙の剣」は、明らかに「火」との関係で語られている。
ある資料によると、この「草薙の剣」というのは、弥生後期あたりの銅剣であるらしい。熱田神宮に収められたその剣を見た人の話では、この剣は、奇妙な保存のされ方をしていたという。それは、赤土で剣を包んで箱に入れ、さらにそれを再び赤土で包んで箱にいれるという、赤土と箱によって二重に包まれていたというのである。
この奇妙な保存の仕方は、古代、剣を土中に埋める習慣があったことと何か関係があるのではないかと言われている。たとえば、出雲地方の荒神谷《こうじんだに》遺跡などには、銅剣を地中に埋め、その回りで烈しく火を焚《た》いたような跡が残されているのだという。これは、武器としての剣を鍛えるというより、剣を武器以外の目的で使った呪術的な行為、すなわち、火祭りをした跡ではないかと考えられている。
「火祭り」に使う剣と、「火」を祀る巫女。
そのような構図で捉《とら》えれば、ミヤズヒメがこの剣を「所望」した理由もおぼろげに見えてくるような気がするのだが……。
伊吹山について
ミヤズヒメと草薙の剣の関係について、さらなる考察を続ける前に、ここで、少し視点を転じて、伊吹山について触れておこう。
滋賀県と岐阜県との県境にある、標高一三七七メートルといわれる、この山は、古くから霊山として崇《あが》められてきたようである。
奈良時代、役行者《えんのぎようじや》によって開かれた山岳仏教の信仰地としても有名だろうが、霊山としての歴史はさらに古く、縄文の時代にまで溯《さかのぼ》ることができるらしい。というのも、伊吹山の山頂から、縄文期のものと思われる石のやじりが発見されているからである。
石のやじりといっても、それを作ったときに出た石屑《いしくず》のようなものも一緒に発見されていることから、縄文人が狩りをしていて落としていったという類《たぐ》いのものではなく、わざわざ山頂で、石のやじりを作っていたということになる。何らかの祭祀《さいし》に使ったのではないかと言われている。
山頂ということから考えて、月ないしは星(北斗星や北極星)等の天体(太陽信仰はもう少し後のような気がするが)にかかわる祭祀だったのではないだろうか。
ところで、ヤマトタケルを害したという「伊吹山の神」とはいかなるものだったのだろうか?
古事記では、それは「白猪」であったといい、日本書紀では、「蛇」であったと記されている。
どちらが正しいともいえないが、「山の神=猪」に立った見解として、面白いものがある。それは、ヤマトタケルには「穀物神」としての性格があって、そのために、「猪」に殺されたのではないかという説である。つまり、「穀物」を食い荒らすのは、野山の猪というわけである。
「英雄神」が「猪」に殺されるというパターンの神話は、世界中において見られるという。有名な話では、あのギリシャ神話の「アドニス」の話である。フェニキアの王子であり、愛の女神アフロディテの恋人でもあった、美貌《びぼう》の狩人アドニスが、ある日、狩りの最中に、巨大な猪に出会い、「股間《こかん》」を牙《きば》で抉《えぐ》られて死ぬという話である。
また、日本神話においても、あのオオクニヌシの話の中に、やはり、「猪」が出てくる。オオクニヌシが兄弟神たちに騙《だま》されて、山の上から転がされた「赤く焼けた大石」を「赤猪」だと思いこみ、捕まえようと抱きとめて死ぬ話(母神の力ですぐに復活している)であるが、こうした、「英雄神」が「猪」に殺されるという話は、昔、山や大地の豊饒《ほうじよう》を祈る儀式などにおいて生き贄《にえ》が捧《ささ》げられていたことを物語るものといわれている。
なるほど、焼畑農耕を思わせる相模の国でのエピソードといい、また、東征の際、水軍を率いて副将軍として付き従ったのが、「稲種」という名前をもつ、ミヤズヒメの兄のタケイナダネノミコトだったことも、ヤマトタケルが「稲」なり「農耕」と深くかかわっていたことを思わせる。
ヤマトタケルの西や東への遠征は、「朝廷にまつろわぬ者を退治する」という軍事目的だけではなく、「稲作」を広めるという文化的な目的もあったのかもしれない。それこそが日本列島を「あまねく太陽の光で照らし出す」、いいかえれば「完全に支配し統治する」ための、「日の御子《みこ》」の最大の使命であったとも取れる。
そんな使命をもったヤマトタケルが、伊吹山の山中で、「穀物」の敵ともいえる「猪」に殺されるというのは、話の筋も通っていて、面白いのだが……。
しかし、伊吹山にまつわる伝承や民話の類いを当たってみると、「蛇」に関する話が少なくないことに気づくのである。
たとえば……。
その一つは、伊吹山を作った巨人と言われ、山頂付近の池の名前にもなっている「伊吹弥三郎」伝説である。
一説によると、この「伊吹弥三郎」とは、あの大江山の酒呑童子《しゆてんどうじ》の父とも言われている酒好きの巨人で、九州の大人弥五郎《おおひとやごろう》なる巨人とは兄弟だという。弥五郎の方は、九州討伐の際に、ヤマトタケルによって殺されたのだといわれている。
それなら「巨人」か「鬼」の話の類いで、「蛇」とは関係ないじゃないかと思われるかもしれないが、なんと、この「伊吹弥三郎」は、あの出雲のヤマタノオロチの末裔《まつえい》だというのである。いわば蛇の血を引く巨人というわけである。無類の「酒好き」も、ヤマタノオロチの血筋であるせいらしい。ということは、そうか、酒呑童子の酒好きはヤマタノオロチの血だったのか……などと合点してもしょうがないような、典型的な後付け譚《たん》にすぎない気もするが(この手の妖怪《ようかい》の多くが酒好きだというのは、彼らが古き神々の成れの果てであることの証拠である。古くはこうした神々に酒を捧げる習慣があったからである)、伊吹弥三郎なる巨人が伊吹山の「主《ぬし》」だったとすれば、この「山の神」がヤマトタケルを恨むのも当然だろう。
草薙の剣とは、元は出雲のヤマタノオロチの所有物であったのだから、それを奪った天孫《てんそん》族の直系の子孫であり、しかも、九州の兄弟を殺した張本人でもあるヤマトタケルには、まさに二重の恨みを抱いていたことになる。恨み骨髄とはこのことである。それこそ、弥三郎にしてみれば、「あいつがこの山に登ってきたら、即刻、取り殺してくれん」と、てぐすねひいて待っていたに違いない。そんなところに、丸腰同然でノコノコ入って行ったのだから、はなから勝負はついていたようなものである。
それはさておき。
伊吹町に伝わる民話には、さらに面白いものがある。いわゆる「蛇女房」譚である。これは、伊吹山というより、むしろ琵琶湖《びわこ》がらみの話であるかもしれないが、非常に興味深い話なので、紹介しておこう。
ある日、与助という鍛冶《かじ》職人が子供たちに苛《いじ》められていた蛇を助けた。すると、この蛇が美女に化けて訪ねてきて、恩返しにと、与助の女房になる。すぐに男の子が生まれるが、蛇女房は子供を残して琵琶湖に帰ってしまう。赤ん坊がひもじがって泣くと、与助は子供を抱いて琵琶湖に出掛け、蛇女房を呼び出した。すると、蛇は、金の弄玉《あめだま》をくれた。それを子供に与えると、子供は泣き止んだ。しばらくして、また子供が泣くので同じことをすると、やはり、蛇は金の弄玉をくれた。実は、その金の弄玉のように見えたものは、蛇の両眼だった。蛇は、子供|可愛《かわい》さから、自分の両目を抉り取って与えていたのである。
やがて、与助は殿様から三井寺《みいでら》の鐘を作るように命じられ、立派な鐘を作って、殿様に献上するが、この鐘は殿様がついてもカンとも鳴らなかった。怒った殿様に作り直しを命じられたとき、蛇女房の血を引く、与助の子がその鐘を無心につくと、鐘は高らかに鳴ったという。
まさに「鶴の恩返し」と「羽衣伝説」を合わせたような話であるが、こうした「蛇女房」の話は、諏訪信仰の項でも触れたが、太古の母神信仰が根底にあるように思える。
ちなみに、このような「女蛇」にまつわる伝説は、各地に見受けられるが、大きく分けて二タイプの話があるようだ。ひとつは、この民話のように、「女蛇が自分の子供ないしは見初めた男を窮地から救う」という「守り型」であり、今ひとつはこの逆で、あの道成寺《どうじようじ》伝説に見られるような、「見初めた男を襲って殺す」という「迫害型」である。
これは、こうした伝承が、古代の母神信仰における「豊饒と破壊」という相反する二つの側面をおぼろげに伝えているような気がしてならない。もっとも、母神信仰における「破壊」とは、「破壊」のための「破壊」ではなく、あくまでも「豊饒」を得るための一時的な「破壊」ではあるが。
ところで、道成寺伝説といえば、やはりあの話の中にも「鐘」が出てくる。「蛇」と「鐘」とは何か関係があるのだろうか。
さらにいうと、前に語った「伊吹弥三郎」伝説にも、「鐘」ではないが、鐘の素材である「鉄」がからんでくる。この巨人がたたら製鉄にかかわっていたように描かれているのである。
伊吹弥三郎が出雲のヤマタノオロチの末裔といわれるのも、実はこの「製鉄」にまつわる相似性ゆえとも考えられる。
ヤマタノオロチもまた、「水神」あるいは「穀神」という見方以外にも、製鉄などにかかわる氏族に祀《まつ》られていた「鍛冶神」ではないかという説がある。
「ヤマタノオロチ=斐伊《ひい》川」説によれば、ヤマタノオロチの「腹がいつも赤い血で爛《ただ》れていた」という描写は、この斐伊川流域でかつて行われていた「野だたら」のことを暗に示しているのではないかというのだ。そして、オロチの尾から出てきた「草薙の剣」とは、こうした斐伊川流域の「野だたら」で作られた剣が朝廷に献上されていたことを、あのような形で伝えられたのではないかというのである。
確かに、ヤマタノオロチには、「火」と「水」という相反する要素がつきまとう。蛇の本質らしく「水神」であるようにも見えるが、同時に、「火神」でもあるように見える。しかし、これも、「鍛冶」の神であるという視点でみれば、すんなりと説明がつく。「鍛冶」には、常に「火」と「水」が必要だからである。それゆえに、「鍛冶」にたずさわる人々は、「火」と「水」の両方の神格をもつ神を祀る必要があったと思われるからである。前に私は、ヤマタノオロチとはイザナミノミコトのことであり、「火山」にまつわる太母神信仰がこの神話の根底にあるのではないかと書いたが、ヤマタノオロチを「鍛冶神」と見る説にも大いに頷《うなず》けるものがある。
ヤマタノオロチを太古の「母神」と見る見方と、「鍛冶神」と見る見方は、「時間の経過」という概念を考慮に入れれば、けっして矛盾するものではない。
諏訪信仰のミシャグチ神のように、その時代に必要とされた様々な「神格」が、時間をかけて、一つの神に重なり合っていったと考えられるからである。
ヤマタノオロチの神格の最も古層には「母神」的なものがあったと思われる。それが、稲作や製鉄技術などが広まり定着するにつれて、「鍛冶神」としての神格をも持つようになったのではないだろうか。
そして、最終的には、ヤマタノオロチは「太陽神」としての神格をも持つに至ったのではないか。
なぜなら、鍛冶に必要なのは、「火」と「水」だけではない。「風」も必要である。おそらく、原初においては、「火」「水」「風」にそれぞれ固有の神がいて、それらを信仰していたに違いない。
しかし、やがて、こうした信仰が一本化されるようになったのではないか。この三つの要素を統合しえるのが、「日」あるいは「天空」信仰なのである。
「太陽」は、空で燃える「火」であり、時には、「水」を降らせ、そして、時には、「風」を起こす。すべての要素を持っているわけである。「太陽」を信仰することで、「火」も「水」も「風」も制御できると考えられるようになったのではないか。いわば「信仰の合理化」が行われたのである。
しかし、この「合理化」には犠牲者、つまり切り捨てられた者が存在した。それは、オールマイティの「太陽神」にとってかわられ、もはや用済みとなった古き神々である。火の神であり、水の神であり、風の神であり。そして、彼らの多くが、「太陽神」にたてついた「悪逆の妖怪」ということにされて、日の光のささない、じめついた暗闇《くらやみ》に追いやられることになる。
「闇」とは、いつも、こうした「強すぎる光」によって作り出されるものだ。「悪」という概念が、「善の強調」によって生み出されるように。
そういえば、ギリシャ神話においても、大地女神ガイアが生んだ神々は、みな山を思わせるような巨人であり、その本性は蛇であり、ヘパイストスのような鍛冶神もいた。
そして、彼らは、太古、火山や海を支配していたが、やがて、「天」を統治するゼウスや「太陽神」アポロンらによって「退治」されたのである。
それはあたかも、「火と水」を信奉する母系制の古き民族が、「日」を信奉する父系制の民族に侵略され、滅ぼされ、もしくは、その新しい体制の中に否応《いやおう》なく組み込まれていった様をほうふつとさせる。
あるいは、それは、他民族の侵略などではなく、同一民族の中で生じた必然的な「進化」だったのかもしれないが……。
尾張氏について
さて、ここでまたミヤズヒメの話に戻ろうと思うのだが、その前に、少し尾張氏について触れておこう。
記紀によれば、尾張氏の祖神《おやがみ》は、天火明命《あめのほあかりのみこと》といって、これは、天照大神の孫にあたり、皇祖神でもあるニニギノミコトの兄ということになっている。
一説には、ホアカリとは、「穂熟」とも記し、「稲穂の赤く実るさま」を言うことから、「稲作」にまつわる神であるようにも思われるが、播磨国《はりまのくに》風土記によれば、この神は、オオナムチ(オオクニヌシの別名ともいわれる)の子で、暴風雨などを起こす乱暴な性格の蛇神(海蛇)であるという記述がされている。
どちらともいえないが、尾張氏がもともとは海人《あま》族であることを考えると、「海蛇」説もまんざら見当違いとも思えない。陸に上がった海人族が稲作を行うようになったことから、このように祖神の神格が変わったのだとも解釈できよう。
また、尾張氏が鍛冶にたずさわる氏族であったということからみても、「火明」というのは、鍛冶に使う「火」を指しているようにも思える。
ここで少し余談になるが、「鍛冶と火」といえば、山岳仏教(密教)などで、最も重要な明王の一人とされ、大日如来の憤怒《ふんぬ》形ないしは化身とも言われる、あの「不動明王」とは、ひょっとしたら、「鍛冶」にかかわる「仏」ではないのだろうか。
不動明王の塑像や絵姿を見ると、両目をかっと見開いているものもあるが、なぜか、両目の大きさが違うものがある。左目をやや閉じるようにして、右目を大きく見開いているのである。背に大火炎を背負い、憤怒の形相で、片目をつぶり、片目を大きく開けて、歯を食いしばっている様は、「鍛冶」にたずさわる者が火を見つめている様を連想してしまう。鍛冶にたずさわる者は、一種の職業病として片目を害することが多かったともいわれているからである。
また、この不動明王は、元はといえば、インド神話の「創造と破壊の神」であるシヴァ大神が仏教に取り入れられ、「仏」化したものだといわれているが、そのシヴァ大神の元をただせば、この神の后《きさき》の一人とされている太母神カーリーが「男性化」したものなのである。そして、カーリー女神の本性は「蛇」である。
つまりは、蛇女神が男性化したシヴァを「仏」化した不動明王の本性も「蛇」だということになる。
しかも、不動明王は、右手に剣、左手にケンジャクと呼ばれる縄をもっていることが多い。この「剣」と「縄」は、一説によれば、仏の教えに従わない悪人どもを見つけだし懲らしめるための道具であるというのだが、もとをいえば、「剣」も「縄」も共に「蛇」を表すシンボルなのである……。
とまあ、余談はこのくらいにして、話を元に戻すと、この天火明命には、別名があり、それは「ニギハヤヒノミコト」であるという。
このニギハヤヒというのは、古代の大豪族、物部氏の祖神でもある。つまり、尾張氏と物部氏は同一の祖神から派生した氏族であるというのである。これには異論もあるが、とりあえず、同一神ということで話をすすめると……。
記紀によれば、この神は、天孫族の一人で、神武天皇に先立って大和に「天降り」していたのだが、神武が大和入りした際、「心よく」国譲りに応じたとある。そのとき、その土地の首長であり、ニギハヤヒの義兄(妻の兄)でもあったナガスネヒコが国譲りに反対したために、ニギハヤヒは、ナガスネヒコを即座に切り捨てたとある。
ただし、物部氏の伝承によると、ニギハヤヒはナガスネヒコを切り捨てたのではなく、大和から追放しただけということになっており、このナガスネヒコが東北に至り、外物部ともいうべき氏族の祖になったのだともいう。
この逸話から何か思い出さないだろうか。そう。あの出雲の国譲り神話である。天照大神の使いである神に対して、出雲の王であるオオクニヌシは心良く国譲りに応じたが、その息子であるタケミナカタは反対し、そのために諏訪に追放されたという、あの話である。
神話や伝承の類《たぐ》いにありがちなパターンの繰り返しにすぎないのかもしれないが、それにしても話が似すぎている。
それゆえ、あの出雲における国譲りの話は、実は、この大和における国譲りの話を模したものではないかという説もある。
それはともかく、神話の中では、「国譲り」などと穏やかな書き方をしているが、むろん、これは、神武側の「侵略」であり、おそらく、血で血を洗う戦闘は避けられなかったのではないか。
それでも、神話の中では、このニギハヤヒのことを、他の先住民の王のように「まつろわぬ者」扱いせずに、一応「天孫族」と認め、敗者に対して敬意をはらうような書き方をしているのは、この神を祀《まつ》っていた物部氏の一部が、いわば内物部として、大和朝廷の中に取り込まれたからだろう。
この後、物部系のヒメが天皇の后となることで、物部氏の血脈は女系を通して天皇家に伝わっていくのである。これでは、敗者といえども、あまり悪し様な書き方はできなかったに違いない。
また、それ以上に、大和朝廷が物部氏に対して「気を遣った」のは、物部氏が三輪山を根拠とする強力な呪術《じゆじゆつ》集団であったからかもしれない。物部氏というと、「武士《もののふ》」の語源にもなっていることから、軍事集団であったように思われることが多いが、それ以前に、祭祀《さいし》集団でもあったのである。
おそらく、三輪山の祭祀は、物部氏の力なくしては無理だったのだろう。それで、やむなく物部氏に「祭祀権」を明け渡したのではないか。
今もなお、この三輪山の麓《ふもと》には、大神神社という古社があり、そこの祭神は「大物主」という大蛇の神だという。
つまり、物部氏が祀っていたのは蛇であり、物部氏とは蛇神族でもあったのである。また、一説には、この「大物主」が、物部氏の祖神ニギハヤヒであるともいわれている。しかも、この神は蛇であるだけでなく、「鍛冶《かじ》神」でもあり、「太陽神」でもあったというのである。そして、このニギハヤヒという男神こそが真の「天照大神」であったともいう。
天照大神の本性が「蛇」で、しかも「男神」ではないかという、伊勢神宮内部からも聞こえてきたという噂《うわさ》の根拠は、どうやら、このあたりにあるようだ。
ただ、この「ヤマト[#「ト」に傍点]ノオロチ」ともいうべき、三輪山の「大物主」も、最も古層においては、「母神」的な存在だったのではないだろうか。それは、この神が、「日神」とされる前から、「水と火」の神とされていた痕跡《こんせき》があるからである(今でも、「酒造りの神」として信仰され、元旦には、火祭りともいえる行事が行われている)
それが「男神化」したのは、この神を祀る氏族が、母系制から父系制に移行したからにほかならない。それが他民族の侵略によるものだったか、あるいは、内部からの必然的な変化によるものだったかは分からないが。
この神を祀っていたという物部氏が父系制をとっていたことは、「物部古事記」ともいうべき『先代旧事本紀《せんだいくじほんぎ》』という資料(偽書説もあるが)を見ても明らかである。
しかし、ひょっとしたら、物部氏が大和入りする前に、母系制の蛇神族が既に住み着いていたのかもしれない。それがニギハヤヒが「婿入り」したというナガスネヒコ一族だったのではないだろうか。ちなみに、ナガスネヒコというのは、その名前からも推測できるように、「足の長い巨人」だったといわれている。
そして、おそらく、このナガスネヒコ一族(母系制の祭祀一族だとすれば、ニギハヤヒの妻になったというナガスネヒコの妹ミカヤヒメの方が一族の首長であったようにも思える)こそが、大和に最初に住み着き、三輪山の神たる「大蛇母神」を信仰していたのではないか。
それが、ニギハヤヒを首長とする父系制の物部氏によって「侵略」され、その体制の中に組み込まれた結果、三輪山の神たる「大物主」の神格も、「母なる大蛇」から「父なる太陽神」に変わっていったのではないだろうか。
日本神話における「太陽女神の創造」には、このような二重の転換ともいうべき複雑な背景があったのではないだろうか。まず、三輪山の「母なる大蛇」が「男性化」して「太陽神」となり、その「太陽神」が伊勢に移されてからは、再び「女性化」したというわけである。
この「女性化」の大きな要因は、記紀が編まれた頃の天皇が持統という女帝だったことにあると思うが、同時に、三輪山の神の本性がもともとは「母なる蛇」であることが、まだこの時代にはおぼろげながら伝承などによって残っていたからかもしれない。
もっとも、こうした「自然神」が男か女かという詮索《せんさく》は馬鹿げているといえば馬鹿げている。もともと、「太陽(自然)」そのものには性別などなかったものが、それを祀る者が死んで祀られるようになることで、祀る者の性が「太陽」と同一視されるようになったにすぎないからである。「太陽」を祀っていたのが巫女《みこ》ならば、次第に「太陽神」は「女神」の性格を帯び、男巫ならば、「男神」の性格を帯びるようになったともいえるわけだから。
尾張氏の話をするつもりが、いつのまにか物部氏の話になってしまったようである。ついでといってはなんだが、もう少し物部氏の話をすると、実は、あの諏訪信仰においても、この物部氏が関係しているのである。
諏訪信仰において最も重要な社である上社前宮の背後には、守屋山なる山があり、これが御神体でもあるのだが(古社であればあるほど、本殿はもたず、こうした山や大岩などを御神体としていることが多い)、実はこの「守屋山」の「守屋」という名前は、物部守屋から来ているというのだ。
物部守屋といえば、仏教をめぐって蘇我氏との政争に敗れ、物部氏滅亡のきっかけとなった人物だが、このとき、守屋の一子|弟君《おとぎみ》が、家臣に守られ諏訪の地まで逃げ延び、当時は「守矢山」と呼ばれていた山麓《さんろく》に隠れ住んだのだという。やがて、その地を支配していたモリヤ氏の保護を受けて弟君は成長し、これが後に「神長武麻呂《かんながたけまろ》」となったという。
もし、これがよくある落人《おちうど》伝説の類いではないとしたら、物部氏の血が、諏訪信仰を支える神官の系譜にも流れこんでいるということになる……。
蛇から鳥へ
世界の神話をざっと眺めても、「蛇」は「大地信仰」のシンボルであり、「太陽信仰」のシンボルは「鳥」である。
しかし、信仰の中心軸が、「大地信仰」から「太陽信仰」に移行する過程で、「蛇」が「太陽」のシンボルとなることもあった。
これは、蛇の「脱皮による再生力」が、昇っては沈み沈んでは昇る「太陽」の「再生力」と同一視されたからだともいえるが、大地信仰を制圧していく過程で、その信仰を支えていた蛇の神格を取り入れたと考えることもできよう。
たとえば、古代アステカの太陽神は、ケツァールコアトルという「羽毛ある蛇」であることは前にも書いたが、ケツァールとは「胸の赤い鳥」のことであり、コアトルとは太陽神の母でもある大地女神の名で、「蛇」の意味がある。つまり、「蛇」が「鳥」を生んだともいえるわけである。
それはあたかも、海から陸にはい上がってきた「蛇」が、やがて、その鱗《うろこ》が羽毛化して、翼が生え、「鳥」に進化していく様を見るようである。
「翼ある蛇」というのは、進化論的にいうならば、まさに、「地の蛇」と「天の鳥」との中間に存在する「始祖鳥」であるともいえよう。
三輪山の神である「大物主」も、これと同じような変化をとげているように見える。蛇の神格をもつ太陽神も、三輪山から伊勢に移されたときには、既に、そのシンボルは、「蛇」ではなく「ヤタガラス」という三本足の鳥になっていたのであるから。
ところで、ヤマトタケルの物語にも、この「太陽神」の「蛇から鳥へ」の変化の描写がシンボリックに語られているような気がしてならない。
ヤマトタケルが伊勢の能褒野で息絶えたとき、その魂が大きな白鳥となって大空を飛んで行ったという話は、記紀にもちゃんと記されており、この哀切で美しいイメージの最期があるからこそ、ヤマトタケル物語が不滅の人気を得るようになったのだと思うのだが、もしも、もしもである、ヤマトタケルが「鳥」になる前に「蛇」になっていたのだとしたらどうだろうか?
私の深読みにすぎないのかもしれないが、古事記の中にどうしても気になる描写がある。それは、伊吹山で「山の神」に害されたあと、ヤマトタケルが大和に帰る途中の描写である。
伊吹山で得た病が次第に重くなり、だんだん衰弱して行く様が、妙に「足」にこだわって描かれているのである。
たとえば……。
当芸《たぎ》という地に至ったときには、「今吾が足え歩かず、たぎたぎしくなりぬ」と言って、びっこをひきはじめる。「たぎたぎしい」とは、「高かったり低かったり」の意があり、びっこを引くときなどに使われたようである。
そして、進むにつれて、衰弱はさらに増し、今度は杖《つえ》をついて歩くようになる。やがて、三重に至ったときには、「吾が足、三重の勾《まが》りなして、いたく疲れたり」と嘆くのである。
「足が三重の勾りをなす」とは、一体どういう状態を言うのだろうか。グニャグニャに曲がってしまったということなのか。疲労が激しくて歩けなくなった様を言うにしても、奇妙な表現である。もはや歩けなくなったことを言うならば、「地面に膝《ひざ》をつく」つまり「二重の勾り」とでもいうならまだ理解できるのだが……。
ところで、この「三重の勾り」に似た表現が他にも古事記の中にはある。それは、かの三輪山の「大物主」に関するエピソードで、いわゆる蛇婿|譚《たん》である。
イクタマヨリヒメという美女が自分の元に夜な夜な通ってくる男の正体を知ろうと、ある日、その男の裳裾《もすそ》に麻糸を通した針を刺しておいたところ、翌朝、麻糸は「三勾《みわ》」だけ残して、あとは戸口の鍵穴《かぎあな》から消えており、その跡をたどっていったら、三輪山の社に行き着いたという話であるが、この「三勾」とは、「三重の輪」、ひいては、三輪山の神が蛇神であることから、「三重のとぐろ」を示している。
ということは、「三重の勾り」とは、足がグニャグニャになって「三重のとぐろ」を巻いたようになってしまったということではないのだろうか。これは、ヤマトタケルの「足」がだんだん「蛇」のようになっていく様、その「蛇体化」を暗に語っているのではないか。
世界の神話においても、「足」に特徴のある神がよく登場する。それは、「一本足の神」であったり、「両足の長さが違う神」であったり、「びっこを引く神」であったり、「足が悪く杖をついている神」であったり、「足が悪くジグザグに歩く神」であったりと表現は様々なのだが、その本性は「蛇」であることが多い。
たとえば、ギリシャ神話の鍛冶《かじ》神ヘパイストスもやはり、足が不自由でジグザグに歩くと言われる神であった。そして、この神の子供であるエレクトニクスの足は生まれつき「蛇の尾」であったと言われている。
もし、伊吹山の神が「蛇」だったとしたら、この蛇の祟《たた》りにあって、ヤマトタケルは自らが「蛇体化」したのではないか。ヤマトタケルが伊吹山で得た「病」とは、今風にいうならば、「蛇神憑《へびがみつ》き」とでもいうような症状だったのではないか。
ちょうど、あの甲賀三郎が山(一説によれば伊吹山といわれている)の神たる大蛇を殺した罰で自らが蛇体化したように。
しかも、后《きさき》たちが、ヤマトタケルの遺体を納めた柩《ひつぎ》をあけてみると、遺体は既になく、衣だけが残されていたとある。それで、夫の魂が白鳥となって飛び去ったことを知ったとあるのだが、これなども、蛇の「脱皮」を暗示しているのではないか。ヤマトタケルは、「白鳥」となって飛び去ったのではなく、その前に「蛇体化」し「脱皮」し、そして、「翼をもった蛇」として飛び去ったのでないだろうか。
もちろん、この伊吹山から能褒野に至るまでの話は、先にも語ったように、「当芸」とか「三重」とかの地名の由来を説明するための後付けにすぎず、ヤマトタケルの「足の変化」の描写も、地名にこじつけるために誇張して描かれたのかもしれないが……。
ミヤズヒメと山の神
だいぶ話がそれてしまったような気もするが、ここで、今度こそ本当にミヤズヒメの話に戻ろう。
もし、ヤマトタケルが自らの意志で「草薙の剣」をミヤズヒメの元に置いて行ったのではなく、ヒメに「所望」されて置いて行ったのだとすれば、なぜ、ミヤズヒメはそれほどまでにこの剣を欲しがったのか。
「火」を祀《まつ》る巫女が、「火」の祭祀《さいし》に使う祭具を欲しがったというだけではなさそうである。
ミヤズヒメは、王権を象徴するレガリアとしての「草薙の剣」を欲しがったのではないか。いや、欲しがったというよりも、「奪還」しようとしたのではないか。
なぜなら、「草薙の剣」とは、彼女の祖神《おやがみ》である天火明命《ニギハヤヒ》が、その昔、神武軍に攻め込まれたとき、「王権譲渡の印」として与えた剣であったのだろうから。
神話の中では、「草薙の剣」とは、出雲のヤマタノオロチから奪った剣ということになっているが、実際には、ヤマトノオロチこと「三輪山の神」から奪った剣であったのかもしれない。
この大蛇神の末裔《まつえい》でもあり、祖神を祀る巫女王《みこおう》でもあるミヤズヒメは、いうなれば、剣が象徴する「王権」を尾張氏の手に取り戻そうとしたのである。そのためには、その剣を所持するヤマトタケルを害することになろうともかまわなかったに違いない。かまわないどころか、彼女の祖神から大和の主権を奪った神武の子孫にあたるヤマトタケルは、彼女にとっては最初から「敵」でしかなかったのかもしれない。
ヤマトタケルを「守る」どころか、「害する」ことがヒメの目的だったともいえる。彼女が饗応《きようおう》の際、ヤマトタケルに向けて詠んだ「長いことお待ちしていました」という意味の歌も、恋に燃える乙女の言葉というよりは、祖先の復讐《ふくしゆう》に燃える女首長の不気味な宣戦布告のようでもある。
そして、実際、彼女の目的は達せられるのである。なぜなら、ヤマトタケルが亡くなったあと、景行の後を継ぎ天皇になったのは、尾張氏のヒメを母にもつ皇子であったのだから。
また、尾張氏が大和の主権を握るのは、単に物語の中だけではなく、あの大海人皇子こと天武天皇が実はこの尾張氏の出身であり、兄といわれる天智天皇とは兄弟ではなかったという説もあることからすれば、「草薙の剣」に象徴される「王権」が尾張氏の元に「奪還」されたのは史実ともいえるのである。
実際、日本書紀の中には、この「草薙の剣」にかかわる奇怪な記述があるという。「天智七年(668)草薙の剣が盗まれた」とあり、「後に天武天皇に祟った」とあるという。この記述の意味は不明らしいが、これなども、暗に、尾張氏である天武が、「王権奪還」に一役買ったことをほのめかしているともいえよう。
とまあ、こうした当時の政争がらみで、ヤマトタケル物語を解釈することは、既に多くの研究家がなしえていることなので、いまさら、この視点から、これ以上の追求をする気にもなれない。
私にとって、より興味深いのは、こうして見てくると、これまで、「亡夫の形見である神剣を生涯守り通した貞女」というイメージで語られてきたミヤズヒメに全く別の貌《かお》がほの見えてきたということである。
それは太古の太母神の貌である。
ミヤズヒメにも、太母神を暗示する重要なシンボル、すなわち、月、血、火、蛇がつきまとっている。あの「月経」に関する描写も、古代の「血の儀式」を暗示するとともに、「日の御子《みこ》」であるヤマトタケルに対して、ミヤズヒメが「月の巫女」であったことを強調しているようにも見える。
そう考えると、ミヤズヒメとヤマトタケルの物語は、英雄と地方妻の物語などというものではなく、太母神(あるいはそれを体現化した蛇巫女王)と生き贄《にえ》の話のようにも思えてくる。
たとえば、物語の中では、ヤマトタケルを「害した」のは、伊吹山の神となってはいるが、この神を「蛇」だとすれば、「山の神」とは、蛇神の末裔である「蛇巫女王」ミヤズヒメのことを指しているのではないだろうか。
まるでそのことをほのめかすような表現が古事記においてなされている。
それは、ヤマトタケルが東征に赴く際、一度ミヤズヒメの館《やかた》に寄ったときに、ヒメに向かって「また還《かえ》り上りなむときに婚せむ」と言う言葉は、伊吹山に赴いたとき、途中で出会った山の神に向かって、「今とらずとも、還らむ時にとりなむ」という言葉と妙に符合するのである。
これは、たいして意味のない定型表現にすぎないのかもしれないが、「ミヤズヒメ=伊吹山の神」という物語の構図を暗に物語っているとはいえないだろうか。
さらにいうと、この「帰りに寄る」パターンとでもいうべき物語の型は、やはり「女蛇」がらみで、後の今昔物語集の中にも見受けられる。
それは、あの道成寺伝説の原型ともいわれる話で、かいつまんで紹介すればこうである。
熊野|詣《もう》でに来た美僧を見初めた女が、この僧を口説き、「帰りに寄る」という僧の言葉を信じて待つが、女犯の罪を恐れた僧は、違う道を通ってスタコラ逃げてしまう。それを知った女は閨《ねや》に閉じこもり、そこで憤死をとげる。そして、死んだ後は大毒蛇となって、逃げた僧を追いかける……。
という、いわば、女ストーカーの元祖のような話である。しかも、その女は「蛇」だというのだから、文字通りのストーカー(這《は》い寄る者)である。
ところで、「女蛇」にまつわる伝承の類《たぐ》いには二通りあって、一つは「守り型」であり、もう一つは「迫害型」であることは前にも書いたが、この「迫害型」にもさらに二通りあって、それは、「川(あるいは海)渡り型」と「室籠《むろこ》もり型」である。
つまり、女が蛇に変身するときに、川や海などの「水」に浸かることで変身するタイプと、部屋などに籠もって変身するタイプとがあるということである。これなども、こうした伝承が、古代の巫女が「みそぎ」や「籠もり」によって蛇神と同一化するという儀式の様を伝えているように思える。
ところで、もし、「ミヤズヒメ=山の神」という視点でこの物語を考察し直してみると、「草薙の剣」の意味も全く違うものに見えてくる。
「草薙の剣」が、単なる武器ではなく、火祭りに使う呪術《じゆじゆつ》的な祭具であると同時に「王権」を象徴するレガリアでもあったということは前にも書いた。でも、ここで、もう一つ、この「剣」が象徴しているものがあるように思える。それは、「男根」、つまり、男性のセックスシンボルである。
剣とか矢とか鉾《ほこ》とか、こうした硬直した棒のイメージのある物は、しばしば、神話の中では、「男根」の象徴として使われることが多い。
たとえば、「矢」の例でいえば、あの三輪山の「大物主」がらみの逸話で、古事記にこんな話がある。セヤタタラヒメという美女がトイレ(古代のトイレは川の上に作られていた)で用を足していたときに、このヒメを見初めた大物主が「丹塗《にぬ》り矢」に化けて、このヒメの「ホト」を下から「突いた」という、そのものずばりの話である。
また、一般に、「山の神」とは女の神様で、「おこぜ」と「男根」が好物であるといわれている。
今でも、山で仕事をする男たちは、山の天候が急に荒れたり、狩りの収穫が乏しかったりしたときなどは、自分の下半身をさらして、「山の神」のご機嫌を取ることがあるのだという。
「古女房」のことを「山の神」などと言うのもここから来ているようだ。「山の神」のおこぜ好きがいかなる理由によるものなのかは分からないが、「男根」好きの理由はおぼろげに推察できる。
現在では、「山の神」のこの奇妙な嗜好《しこう》を、単なる「男好き」というように、ややユーモラスに解釈しているようだが、そのルーツはそんな微笑《ほほえ》ましいものではなく、おそらく、これは、太古、山の豊饒《ほうじよう》を祈《いの》る儀式などにおいて、生き贄《にえ》が捧《ささ》げられていたことの記憶によるものだろう。
そして、その儀式を司《つかさど》っていたのが巫女であったことが、いつのまにか祀る者が祀られるようになって、「山の神=女神」と信じられるようになったに違いない。
これは日本に限った話ではなく、あのギリシャ神話の中でも、先に語った「股間《こかん》を猪《いのしし》の牙《きば》で抉《えぐ》られて死んだ狩人《かりうど》アドニス」などは、まさに「山の神」に捧げられた生き贄の話である。
つまり……。
ヤマトタケルがミヤズヒメと一夜を過ごした後に、「それまでけっして手放すことのなかった神剣」をヒメの元に置いて行くという話は、蛇巫女王との「血の儀式」の後に「去勢」されたことをシンボリックに物語っているのではないだろうか。
「剣」を失う、すなわち「去勢」によって「男性性を喪失」したからこそ、伊吹山において、もはや以前のような「力」を発揮することはできなかったのである。
では、なぜ「去勢」されたのか。
それは、ヤマトタケルが皇子《みこ》であると同時に男巫だったからだろう。こうした神に捧げられる「生き贄」とは、古くは、祭事を司る神官(あるいは巫女)であった。祭政一致の時代には、こうした神官(巫女)がそのまま氏族の王であり女王でもあったから、王や女王が神の「生き贄」にされていたのである。
しかし、その王たちがだんだん自らの命を惜しみだして、我が子を身代わりに差し出すようになった。さらに時代が下ると、生き贄の「質」はもっと落ちて、奴隷だとか敵の捕虜だとかになるのだが。
古くは、長子相続ではなく、末子相続だったというのも、そのルーツはこの「生き贄」儀式にあったのではないだろうか。上の子から順々に神に捧げてしまうので、王の後を継ぐのは、一番下の子になってしまうのである。
神話をルーツとした民話や伝承の類いに、「末子が主人公」であったり、あるいはその「主人公が兄や姉たちに苛《いじ》められる」という「いじめられっ子」パターンが東西を問わず多く見受けられるのは、もしかしたら、こんなところに要因があるのではないか。
王族の「末子」とは、「生き贄」に捧げられた兄や姉たちの「怨念《おんねん》」を背負って、その血筋を後世に伝えていく「呪《のろ》われた存在」でもあったのだから……。
そういえば、ヤマトタケルの双子の兄オオウスが、物語の初期において、ヤマトタケル自身の手によって、「八つ裂き」という、まるで「処刑」のような殺され方をしているのも、こうした「生き贄」儀式の記憶が、物語の背景にあるからでないだろうか。
ヤマトタケルといえば、勇猛な戦士のイメージが強いが、その本質は、男巫、すなわちシャーマンであったのではないか。
ヤマトタケルの物語とは、英雄物語というよりも、一シャーマンの成長と死の記録ではなかったか。
そう考えると、あのクマソ討伐の折りの、奇妙な「女装」の件も合点がいく。やはり、あれは「巫女《みこ》」となって神事を行うためだったのである。そして、それは、おそらく、ヤマトタケルの身分が「日の御子」であるということから考えて、太陽|祭祀《さいし》であったのではないかと思われる。
しかも、このとき、ヤマトタケルはまだ「ヤマトタケル」とは名乗っていない。「ヤマトオグナ」と名乗っている。「オグナ」とは「童男」と書く。まだ成人前の「少年」である。中性的な「少年」であったからこそ、「女装」だけで「巫女」になりえたのだろう。
そして、この後、父王に東の討伐も命じられて、泣き言を言いに行ったヤマトヒメの元で、「草薙の剣」を授かるという話も、ここではじめて「剣を得る」、すなわち性的に「成人」したことを暗示しているのではないだろうか。しかも、「剣」と共に授けられたのが「袋に入った火打ち石(二個の石?)」であったということも……。
相模の野原でのエピソードも、焼畑農耕を模した神事とか、様々な解釈ができるだろうが、「剣と石」を「男性器」のシンボルと見た場合、何やら「大地」にからんだ「火」を使う「性的な儀式」だったようにも思えてくる。
しかし、男として「成人」しても、シャーマンとしてはまだ半人前だったに違いない。なぜなら、走水の海では、海神を鎮める呪術に失敗しているからである。あのオトタチバナの入水《じゆすい》の一件も、海神を鎮めることに失敗した見習いシャーマンに「かわって」、上級巫女ともいうべきオトタチバナが海神を鎮めることに成功した話とも読めよう。
そして、ついには、尾張の蛇巫女王によって「血の儀式」を受けたあと、「去勢」され、大地(この場合は山)の豊饒《ほうじよう》を得るための「聖なる生き贄」として殺されたのである。
ヤマトタケルの最期に見られる「白鳥化」は、このような贄を「神格化」することで、その魂を鎮魂しているようにも見えるのである。
しかも、この「白鳥化」は、伝承の原型においては、「蛇体化」だったのではないかと思われる。
甲賀三郎の話にもあるように、物語における主人公の「蛇体化」というのは、仏教説話などでは、それは「蛇の祟《たた》り」であったり、「仏罰」であったりとか、「忌まわしいことの結果」として語られることが多いが、これは、「蛇=悪」という後世の思想のもとに作られた(作り直された)話にすぎなく、こうした「善を強調するために悪を作り出そうとする濁った」思想に侵されていない太古の蛇信仰においては、「蛇体化」とは、「神への昇格」を意味していたのである。
ちょうど、あのギリシャ神話の英雄ヘラクレスが、「蛇毒」に侵されて死んだ後、神に昇格し、永遠の生命を得たように。
ヤマトタケルの並外れた大きさ強さ美しさ、そして、彼が成し遂げたという偉業も、すべて実際にあったことを物語にしたというよりも、ありもしないことを、言葉によって「造り出し」、大袈裟《おおげさ》に美化して讃《たた》えることで、生き贄となった一シャーマンの魂を慰めようとしたのではないか。
こうした見方は、ヤマトタケルだけでなく、同じ「英雄神」スサノオにも当てはまるのである。物語の中では、荒々しく雄々しく、きわめて男性的なイメージの強いスサノオであるが、やはり、その本質は、戦士というより、男巫ではなかったか。
「長い髭《ひげ》が胸元に伸びるまでなきわめいていた」とか、「神聖な機織り小屋の天井を破って逆はぎにした馬の死体を投げ込んだ」などという、一見常軌を逸したような荒々しい行動も、スサノオの呪術を司るシャーマンとしての一面を描いたものではないかとも言われている。
個人的には、あのヤマタノオロチ退治のエピソードも、しつこく言うようだが、蛇を殺すことで蛇の繁栄を祈る「豊饒」の儀式だったと思う。
スサノオの本質が「男巫」だったとすれば、ヤマタノオロチの尾から得た「草薙の剣」を自分のものにはせずに、姉神である天照大神に「献上」したという話も、やはり「神剣の喪失」、つまりは「去勢」を暗示しているのではないだろうか。
「英雄」ないしは「英雄神」が物語の中では、殊更に、雄々しく勇ましく男性的に描かれているのは、実は、彼らが、こうした「男性性」を喪失した、というか、喪失させられた者であったからではないか。だからこそ、彼らの死後、「言葉」の力によって、その失われた「男性性」を美化し強調して補う必要があったのである。
むろん、鎮魂のために……。
そもそも、「英雄神話」とは、「生き贄となったシャーマンへの鎮魂」のために生み出されたものだったのではないだろうか。
[#改ページ]
第五章
1
十月十四日。水曜日の午後。
その特別病室のドアを軽くノックした後に、何げなく開けた新庄美里《しんじようみさと》は、室内を見るなり、思わず仰天して、もう少しで手にさげていた紙袋を取り落としそうになった。
おとなしくベッドに横たわっていると思っていた息子の武《たける》が、ベッド脇《わき》の床に腹ばいになって、腕立て伏せのようなことをしていたからである。
「ちょ、ちょっと、あなた、何してるの!」
悲鳴に近い声をあげると、息子は床に腹ばいになったまま、戸口に立ちすくんだ母親の方を平然とした顔で見上げた。
「何って、見れば分かるだろ。運動してるんだよ」
「やめなさい。そんなことして傷口が開いたらどうするの!」
美里は、さらに続けようとする息子のそばに駆け寄ると、慌てて、その腕を取って立たせた。
「大丈夫だってば。傷ならもう完全にふさがってるし。ほら」
渋々立ち上がると、武は、パジャマの上着の裾《すそ》をめくって、傷口の上に貼《は》りつけられたガーゼをむしり取ると、母親に裸の脇腹を見せた。
一カ月に及ぶ入院生活でも日焼けの色の褪《さ》めない筋肉質の引き締まった腹部についた傷痕《きずあと》は、とてもそれが、ほんの一カ月ほど前に縫合手術を受けた痕とは思えないほどに完全に癒着していた。腸にまで達するほど深い刃物傷だったというのに……。
「こっちだって、ほら」
武はさらに言って、パジャマのズボンを少しずらして、太ももも見せた。右|大腿部《だいたいぶ》につけられた刃物傷の方も完全に治癒していた。それどころか、茶色く変色して、まるで一年も前の古い傷のようにさえ見える。
驚くべき回復力だった。
「十八歳という若さと、スポーツで身体を鍛えていたことを考慮に入れても、この回復力は驚異としか言いようがありません……」
担当の医師から、こんな言葉で息子の回復力の異常なまでの早さについては聞かされていたものの、こうして間近に、殆《ほとん》ど完治している傷口の状態を見せられて、美里も驚嘆せずにはいられなかった。
もっとも、これは今回に限ったことではなく、武には、小さい頃からこういう傾向があった。とにかく傷の治りが異常に早いのだ。普通なら完治に一、二週間はかかる切り傷や刺し傷が、武の場合は一日もあれば完全に治ってしまっていた。
細胞の再生力が異常に高いとでもいうのか、それはもって生まれた特異体質といってもよかった。
「ねえ、もう退院してもいいでしょ? 傷も治ったことだし。俺《おれ》、全然平気だよ。前より調子いいくらいだ。これ以上、こんなとこに閉じ込められていたら、退屈で気が変になっちゃうよ」
武は不満そうに言った。
「退院なんて……だめよ!」
美里はぎょっとして、即座に言い返した。
「なんでよ? 今朝、担当の先生に聞いたら、無理さえしなければ、退院してもかまわないんだがって言ってたよ」
「だめです。げんに、こうしてすぐに無理するじゃないの。腕立て伏せなんかして」
「…………」
武はベッドの端に腰をおろすと、恨めしげに母親を見返していた。
まだ退院させるわけにはいかない。外に出して、また何か問題を起こされてはかなわない。監視の目の行き届くこの病院に居て貰《もら》わなくては困る。だからこそ、この病院の院長が新庄家の遠縁にあたることに甘えて、こんなホテルの一室のような特別室を用意してもらったのだ。
この特別室は若い手負いの猛獣を閉じ込めておく格好の檻《おり》の役目も果たしていた。とにかく、今度の総選挙が無事に済むまではここに居て貰わなければ……。
美里は、口にこそ出さなかったが、胸のうちでそう呟《つぶや》いていた。
「それより、新しいパジャマと下着もってきたから、これに着替えてちょうだい。あと、洗うものがあったら出して」
美里は、これ以上退院の話題を避けるように素早く言うと、持参した紙袋から真新しい着替えを取り出した。
「あれ、買ってきてくれた?」
武は、母親を説得するのをあきらめたように、パジャマのボタンをはずしながら、ふいに聞いた。
「あれ?」
「週刊誌だよ。今週発売の。買って来てくれって頼んどいただろ」
「ああ……」
美里は、ようやく思い出したように、紙袋の底を漁《あさ》って、途中で買い求めてきた一冊の週刊誌を取り出した。
手に取るのも恥ずかしいような、けばけばしい表紙の、芸能人や有名人のゴシップばかりを扱うことで有名な女性週刊誌だった。十八歳の少年が好んで読むような代物とは思えない。
暇つぶしに漫画でも読みたいというならまだしも、よりにもよって、どうして女性週刊誌なんか、と頼まれたときは不思議に思っていた。
そういえば、前にも数冊の週刊誌を所望されて買ってきたのだが、それには、彼自身が巻き込まれた猟奇殺人事件に関する記事が大きく載っていたので、単なる暇つぶしというより、それに興味があったのだろうと思っていたのだが……。
あれから一カ月以上もたって、熱しやすく冷めやすいマスコミの興味は、既に犯人の自殺によって解決した事件などにはないようで、あの事件のことを記事にする週刊誌もめっきり少なくなっていた。
それなのになぜ……という疑問は、書店の店頭に並んでいたこの週刊誌の表紙を一目見たとき、美里の中で一気に解消した。
そこにはでかでかと夫の貴明のことに触れた記事の見出しが出ていたからだ。
おそらく、武は、この記事が読みたかったに違いない……。
即座にそう察した。
案の定、週刊誌を渡すと、武は、パジャマのボタンを途中まではずしかけたままの格好で、それをひったくるようにして手に取ると、お目当ての記事があったらしく、いきなりその箇所を開いて読み始めた。
美里は息子のそんな様子を苦々しい思いで見ていた。
「現場のマンションは愛の巣だった?!」というタイトルが気になって、店頭でざっと目を通していたので、その記事の内容がどんなものなのか、既に知っていた。
それは、一言でいえば、武が犯人に刺された現場となった高級賃貸マンションに関する疑惑を面白おかしく記事にしたものだった。
そのマンションというのが、数年前に夫の名義で借りられたものであったことから、表向きは、「浪人中の次男の受験勉強用に借りた」ということになっているが、実は、新庄貴明自身の「愛人との密会用の隠れ家」ではなかったかというような憶測がまことしやかに書きなぐられていた。
「……そんな根も葉もないデタラメな記事を真に受けるんじゃないわよ」
美里はたまりかねて、そう一言クギを刺した。
「母さん、これ、読んだの?」
記事を食い入るように見ていた武が、顔をあげて聞いた。口の端を歪《ゆが》めて、どこか面白がるような顔をしている。
「選挙中は反対陣営の差し金もあって、イメージダウンを狙《ねら》った、そういう中傷記事がよく出回るものなのよ。家族がそんなものにいちいち振り回されてどうするの。あなたもそのくらいのことは分かっているでしょう?」
「中傷? 根も葉もないデタラメ? そうかなぁ。この件に関しては、しっかり根も葉もあるんじゃないの。母さんだって、本当はそう思ってるんだろ?」
「……」
「あのマンションのこと、親父《おやじ》はなんて説明したの?」
「……」
「なんて説明したんだよ」
「……一人になれる空間が欲しかったそうよ。その……書斎代わりに借りたんだって」
美里は渋々そう答えた。
「書斎!」
武はおどけたように言い返した。
「書斎ならうちにばかでかいのがあるじゃないか。中から鍵《かぎ》かけていつでも好きなときに一人になれるやつが。なんでもう一つ『書斎』が必要なんだよ? しかも、夜景付きの、ダブルベッド付きの『書斎』なんて聞いたことねえよ。そんなふざけた言い訳、信じたんじゃないだろうね?」
「もうやめて、その話は。お父さんとの間でそれはもう了解済みのことなんだから。子供にとやかく言われる筋合いの話じゃないわ」
息子の指摘が図星だっただけに、美里はさすがに情けなさと腹立たしさで、つい、きつい声をあげた。
「母さんはいつもそうだ。親父のいいなりになって、自分ばかり我慢して。婿養子ってことで、逆に遠慮しすぎてるんじゃないの?
だから、なめられるんだよ。もっと言いたいこと言ったら? 浮気されてるなら、胸倉つかんで怒ったら? せっかく、俺が、そのチャンス与えてやったのに……」
武は苛立《いらだ》たしげにそう言ったあと、最後の言葉を呟くように漏らした。
「そのチャンス与えてやったって……あなた、まさか」
美里ははっとした目で息子を見返した。
「あのマンションの存在を公にするために、わざとあの女を……」
「そこまで計算してたわけじゃないよ。サテンで声かけてくるなんて、なんかうさん臭い女だなとは思ったけど、まさか、あの事件の犯人だなんて夢にも思わなかったし。あのときは、ただ、得体の知れない家出女、あそこに泊めて、あとで何かトラブルでも起これば面白いと思ってただけだよ。盗難とかさ。そうしたら、親父のやつ、さぞ慌てるだろうなって」
「……あなた、どうして、いつもそうなの?」
美里はため息まじりの声で聞いた。
「どうして、お父さんを困らせるようなことばかりするの? そんなにお父さんのことが嫌いなの?」
「むかつくんだよ。あの偽善者ぶりに」
武は吐き捨てるように言った。
「あの絵に描いたような良き夫、良き父親っていう糞《くそ》イメージに。何が良き夫だ。女房一筋みたいな顔して、陰で浮気しまくってるくせに。何が良き父親だ。息子が死にかけてるときに、真っ先に心配したのが息子の命じゃなくて、マスコミ対策だったくせに……」
「それは誤解よ。武。あなたはお父さんを誤解してるわ」
美里は慌てて言った。
「どこが誤解だよ。こんなにあいつを正しく理解してるのは日本中で俺くらいのもんだよ。誤解してるのは、あんなインチキ野郎を日本のリーダーになんて本気で考えてる馬鹿有権者どもじゃないか―――」
ぴしりと小気味の良《い》い音が、なおも言い募ろうとする武の片|頬《ほお》で炸裂《さくれつ》した。
「痛えなぁ……ほんとのこと言ってるのに殴ることないだろ」
武は打たれた頬を手で押さえて、顔をしかめた。
「何が本当のことよ。あなたは何も分かってない。分かったようなつもりでいるだけで何も分かってないのよ」
「何が分かってないんだよ」
武は仏頂面のまま聞いた。
「あのとき……。あなたが刺されたと聞かされたとき、お父さんがどれほどショックを受けられたか、どれほどあなたの身のことを心配したか、あなたは何も分かってないじゃないの」
「…………」
「マスコミ云々《うんぬん》のことを口にしたのは、手術が無事に終わって、あなたの命に別条はないとお医者様に言われて安心したからなのよ。それまでは……」
美里はそこまで言って、言葉を詰まらせた。
知らせを聞いて駆けつけてきた夫が、赤ランプの灯《とも》った手術室の前の長椅子《ながいす》で、手術が終わるまで、じっとものも言わず、両手で頭を抱えるようにして座っていた姿が脳裏に蘇《よみがえ》ったからだ。
あんなに打ちのめされた様子の夫を見るのははじめてだった。
ああ、この人はやっぱり武を愛してるんだ……。
その人目もかまわない姿に、美里はそう感じずにはいられなかった。
「それに……」
美里は迷いながらも続けた。
「これはお父さんに口止めされていたから、今まで言わなかったけれど、あのとき、あなたはお父さんの血を輸血されたのよ」
「輸血……?」
「そうよ。出血多量ですぐに輸血が必要だとお医者様に言われて、同じB型だからって、お父さんが自分から言い出して。ろくに寝る暇もないほど忙しくて、疲れていたというのに、いくらでも必要なだけ取ってくれって」
「……そんなの、あいつ一流のパフォーマンスだよ」
武が憎々しげに言い放った。しかし、その声には先程までの挑戦的な響きが消えていた。
「パフォーマンスって……」
「瀕死《ひんし》の息子に即座に輸血を申し出る父親か。いくらでも取ってくれ? 泣かせるねぇ。良き父親のイメージをアピールするには絶好のチャンスじゃないか。こんな美談がマスコミを通じて世間に知れわたれば、自分のイメージアップにつながるからな。選挙にも有利になる。そういうことまでちゃんと計算してるんだよ、あいつは」
「あなたって子は……」
美里はもう一発ひっぱたいてやろうかと思いつつも、それをなんとかこらえて、深いため息をついた。
親の愛情ですら疑ってかかるのか。いつからこんなひねくれた物の考え方をするようになってしまったのだろう。小さい頃はもっと素直な子だったのに……。
「あれがパフォーマンスだとしたら、どうして、そのことがいまだにマスコミに伝わってないのよ。どこの週刊誌がそのことについて書いていた? どこも書いてないでしょう? それはね、お父さんが、輸血のことを知ったらあなたが後でいやがるかもしれないと言って、先生方にも口止めしたからなのよ。だから外部にも漏れなかったんじゃないの。これのどこがパフォーマンスなのよ」
「……どうせ口止めしたって、おしゃべりな看護婦か何かの口から外に漏れることを計算に入れてたんだろ」
武はなおもそう食い下がった。
「まったく……あなたにはもう何を言っても無駄のようね」
美里は、ほとほと愛想《あいそ》がつきたというように、あきらめと腹立ちの入り交じった声で呟《つぶや》いた。
「いいから、早く着替えてしまいなさい」
そう付け加えると、額に手をあて、眩《まぶ》しそうに窓の方を見た。西日が入り始めている。ブラインドをおろそうと窓に近づいた。
武は、仏頂面のまま、のろのろとパジャマを脱いでいた。
ブラインドを半分ほどおろして、何げなく振り向き、背中を見せている息子の方を見たとき、美里は、おやというように目をこらした。
新しい下着に手を通そうとしている武の剥《む》き出しの右肩の下あたりに奇妙なものを見つけたからだった。
それは、大人の手のひらくらいの大きさの薄紫色の染みか痣《あざ》のように見えた。むろん、生まれついてのものではない。三日ほど前、濡《ぬ》れタオルで息子の身体を拭《ふ》いてやったときには、こんな痣はついてはいなかった。
「あなた……ここ、どうしたの?」
美里は思わず手を伸ばして、日焼けの色を残した息子の肩に触れた。
「え?」
「どこかにぶつけた? 痣みたいなものができてるけど……。痛くない?」
その部分を軽く指で押してみた。
「別に。なんともない」
武は痛がる様子もなくそうこたえた。
「そう。何かしら。魚の鱗《うろこ》みたいで、気味悪いわね……」
美里はそう呟いた。
「魚の鱗……?」
武は振り向いて背中を見ようとしたが、よく見えないらしく、ベッドから立ち上がって、鏡のはめ込まれた壁のところまで行くと、鏡に自分の背中を映して見た。
首をねじって見ると、母親の言う通り、右肩の下あたりに薄紫色の模様が浮かび上がっていた。
魚……というより、蛇か何かの爬虫類《はちゆうるい》の鱗を思わせる奇怪な模様が……。
2
「なんだろう……」
首をひねって、鏡の中のその痣に見入りながら、武は呟いた。
いつのまにこんなものが……。
痛くも痒《かゆ》くもないが、自分の身体に蛇の鱗でも生えてきたような気味悪さを感じた。
そういえば……。
こんな形の奇妙な痣をどこかで見た記憶がある。小さい頃に。あれはどこで見たのか……。
記憶の糸を手繰ろうとしていると、
「何かの薬の副作用かもしれないわね」という母の声に遮られた。
「薬って、痛み止めくらいしか打ってないだろ」
そう言い返すと、
「それとも、皮膚病の一種かしら。そのへんをうろつかなかった? 院内感染ということも考えられるし。ちょっと気になるから、先生に報告してくるわ」
美里はやや心配げにそう言ったかと思うと、そそくさと病室を出て行った。
武は、ベッドまで戻ってくると、そのままごろりと横になった。両腕を頭の下で組んで寝転んだまま、ぼんやりと白い天井を見つめていた。
父の血が輸血されていた……。
背中に突然現れた奇妙な痣のことよりも、そちらの方に気を奪われていた。輸血のことは誰からも知らされていなかったし、そんなことは夢にも思わなかった。
この身体に父の血が流れている。
実の息子なのだから、もともと半分は父かたの血が流れているわけだが、それとはまた違った意味で、父の血が自分の中に直に注ぎこまれたという事実に、不思議なくらい動揺していた。
動揺といっても、嫌悪とか不快感とかいうマイナスの感情ではない。それどころか、それとは全く逆の、胸のときめくような気持ち……。嬉《うれ》しい、とでもいう感じ。
そのことに気づいて、武はさらに動揺した。「嫌い」な人間の血など輸血されたと知ったら、ナイフを腕につきたててその血を絞り出してしまいたいと思うほど嫌悪に駆られるのが普通じゃないだろうか。
それなのに……。
「嫌い」なはずの人間の血を貰《もら》って、なぜ嬉しいと感じてしまうのか。
母に「そんなにお父さんのことが嫌いなのか」と聞かれて、あんな答え方をしてしまったが、あれはあれで本音ではあっても、ただ単純に「嫌い」というのではなかった。この「嫌い」という感情はもっと複雑で、ひょっとしたら、「好き」という感情の裏返しなのかもしれない。
小さい頃は父のことが好きだった。「尊敬する人は?」と聞かれれば、ためらうことなく、「お父さん」と即座に答えられるほど大好きだった。
父の方も、暇なときにはよく遊んでくれたし、可愛《かわい》がってもくれた。お互いにもっと素直に感情を出し合っていたような気がする。あの頃、小学校の頃までは……。
父との間に目に見えない溝のようなものができはじめたのは、中学へ入った頃からだった。
いや、その前から兆候はあった。
父の関心がいつも七歳年上の兄の方ばかりに向けられ、あまり自分に向けられなくなったことを感じはじめたときから……。
自分の中にかすかな欲求不満のようなモヤモヤしたものが次第に育ちはじめていった。
そして、それがハッキリとした形になったのは……。
そうだ。あのときだ。
武は思い出していた。
あれは、中学に入ってはじめての学期試験のときだった。数学のテストではじめて90点という高得点を取った。たいして勉強もしなかったのだが、事前にかけた山が当たったのだ。
嬉しくて、その夜、書斎で仕事をしていた父にわざわざ答案用紙を見せに行った。さぞ褒めてくれるだろうと期待に胸をふくらませてすっ飛んで行ったのに、意に反して、父の反応は冷たかった。
武がおずおずと差し出した答案用紙を面倒くさげにちらと見て、「90点満点なのか?」とだけ聞いた。「100点満点だけど……」と答えると、「後の10点はどうした?」と聞かれた。
答えられずに俯《うつむ》いていると、「この程度で満足してるのか。情けない奴《やつ》だな」と、父は軽蔑《けいべつ》したように呟き、「今度は満点取ったら見せに来い」と言い捨てて、くるりと背中を向けた。
もっと悪い点を取って叱《しか》られたときですら感じたことのなかった屈辱感に苛《さいな》まれながら、悔し涙がこぼれそうになる目で、壁のように立ちはだかる父の広い背中をただ睨《にら》みつけていた……。
そして、次の試験のとき、数学だけがむしゃらに勉強して、ついに満点を取った。でも、その答案用紙を素直に見せに行く気にはなれなかった。それに、今度行ったら、今度は、「ほかの教科はどうした?」くらい言われそうな気もした。満点だったのは数学だけで、あとは平均点にも満たない惨憺《さんたん》たるものだった。
それで、答案用紙をクシャクシャに丸めてボール状にすると、それを父の書斎の机の上に放り出しておいた。
いずれ目に止めて、何か言ってくるだろうと密《ひそ》かに期待して待っていた。怒られるか褒められるか。どきどきしながら待っていたのに、父はうんともすんとも言わなかった。
気づかないということは考えられなかった。無視されたとしか思えなかった。わざと丸めて放り出しておいた満点の答案用紙の塊は、まさに武のプライドの塊そのものだった。それを、父は、おそらくチラと見ただけで、何の興味も示さず、屑籠《くずかご》にでも捨ててしまったのかもしれない。そう思うと、また新たな屈辱感に苛まれた。
その答案のことが食卓で話題になったのは、それから一週間もしてからだった。しかも、父の口からではなく、母の口からだった。「今度の数学はよく頑張ったなって。お父さんが褒めてらしたわよ」と母は言って、父から預かったという、奇麗に広げられた皺《しわ》だらけの答案用紙を返してくれた。
ちゃんと見ていたのか。捨ててしまったわけじゃなかったのか。それが分かって、少し嬉しい気もしたが、手放しには喜べなかった。反発する気持ちの方が強かった。見ていたなら、なぜ、そのとき、すぐに何か言ってくれなかったのか。褒めてくれなくてもいい。たとえ叱責《しつせき》でも、父の口から何か言ってほしかった。たった一言でいい。「よくやった」と。父に認めて貰いたかったのだ。母ではなく……。
あんな反抗的な態度を取った自分も悪かったかもしれないが、それに対する父の反応も少し陰険だと思った。忙しくて忘れていただけだったのかもしれないが、一週間もたってから、しかも、自分の口では言わずに母を通して伝えるなんて。
今から思えば、あのとき、最初のボタンをかけ違えたのかもしれない……。
あの出来事がきっかけとなって、父に対して、小さいときのように素直に心を開いて接することができなくなってしまった。
そして、一度かけ違えたボタンは次々とかけ違えられていった。あのとき出来た小さな亀裂《きれつ》は、時がたつにつれて徐々に広がって、高校に入った頃には、もはや埋められようもないほどに大きく深い溝になっていった……。
ドアにノックの音がした。
武は物思いからはっとさめたように、寝転んだまま、ドアの方を見た。
母が戻ってきたのだろうか。
一瞬、そう思ったが、母ならノックなどせずに入ってくるだろう。
誰だろう。見舞い客だろうか。
「どうぞ」
そう言うと、ドアが開いて、一人の男が入ってきた。
武は思わず半身を起こして言った。
「叔父《おじ》さん……」
3
入ってきたのは、父のすぐ下の弟にあたる叔父の神聖二《みわせいじ》だった。
父の生まれ故郷でもある長野県の日の本村というところで、千年以上も続くという古社の宮司をしている男である。
「元気そうじゃないか。どこが怪我人《けがにん》かって顔してるぞ」
叔父は入ってくるなり、笑顔ですぐにそう言って、「半月ほど前に上京したついでに見舞いに来たのだが、そのときは眠っていたので、顔だけ見て帰った」と話してくれた。
「ぜんぜん元気だよ。傷も完全に治ったし。もう退院してもいいのに、母さんと医者がぐるになって退院させてくれないんだ」
武は少し甘えるように訴えた。
この叔父には子供の頃から妙になついていた。親戚《しんせき》中で、この叔父だけが、長男である兄ではなく、自分の方に関心をもって何かと目をかけてくれたせいかもしれない。
新庄家というのは、祖父の代から東京に住居を構えるようになったが、もとをただせば、東北あたりの武家の出だと聞いたことがある。そのせいか、封建的な武家の家風を現代にまでひきずっているようなところがあった。
たとえば、跡取りである長男を他のきょうだいたちとは別格に扱う、いわば長男信仰ともいうべき傾向が一族間に根強くあった。
うちに集まる親戚は、殆《ほとん》どが祖父の兄弟がらみの新庄家方の人間ばかりで、年寄りも多いので、自然に、家族を含めた親戚連中の関心は長男である兄に集中して、「冷や飯ぐい」の次男坊などに目を向ける者は殆どいなかった。
だから、小さい頃から、武は、こうした親戚連中が一堂に集まる新年会とか法事とかが大嫌いだった。その日が近づくと憂鬱《ゆううつ》になる。出来の良い兄ばかりが親戚連中に取り囲まれ、ちやほやされて話題にされる。自分はいつもそれを指をくわえて物陰から見ているだけだった。
ただ、そんな親戚連中の中で、この父方の叔父だけが、何かと自分に目をかけてくれ、話し相手になってくれた。
中学くらいの頃から、父に話せないことでも、この叔父には心を開いて話すことができた。武にとっては、叔父というより、「第二の父」ともいうべき存在だった。
といっても、長野に住んでいる叔父と会うのは、年にほんの数回にすぎなかったのだが。
「どこを刺されたんだ? 何カ所も派手に刺されたと聞いたが」
叔父は持ってきた見舞い用の菓子箱か何かの入った袋を傍《かたわ》らのテーブルに置くと、近づいてきてそう聞いた。
「一番ひどかったのはここ」
武は、自慢するように、腹部の傷を指さした。
「あと、太ももと胸と、手のひら……」
次々と勲章でも見せるように得意げに叔父に傷痕《きずあと》を見せた。左胸の切り傷は、それほど深くなかったこともあって、傷痕もうっすらと残っているだけだった。
右の手のひらにつけられた傷も、動脈を傷つけていたら大変なことになっていたかもしれないが、幸いそれはそれており、今は、ただの薄い傷の線となって、まるで生命線が少し延ばされたような具合で手のひらに残っていた。
「傷の治りが異常に早いって医者が驚いてたよ。俺《おれ》、昔からそうなんだよね。ちょっとした傷なんて一日で治っちゃう。特異体質らしい」
武はそう言って、ようやく思い出したように、ベッドの上に投げ出したままにしてあった下着の方に手を伸ばした。
「それは、神家《みわけ》の体質だよ」
甥《おい》の身体につけられた傷痕を興味深げに観察していた叔父が、さほど驚いた様子もない口調で言った。
「神家の体質……?」
「傷の治りが早いのは、再生力が強いということだ。おまえのお父さんも子供の頃からそうだったし、私もそうだよ。おまえはどうやら神家の血の方を濃く受けついだようだ」
叔父はそんなことを言った。
まあ、それはそうかもしれない、と武は思った。容姿にしても、父にそっくりで、新庄家の特徴はあまり出ていない。母親似の兄とは、そこも違う。兄が母方の親戚たちにちやほやされ、自分が父方の叔父に可愛《かわい》がられるというのは、そんな「血筋」にも原因があるのかもしれなかった。
「それで、武」
叔父は傍《かたわ》らの椅子《いす》を引き寄せて座ると、甥の顔を改まった様子で凝視した。
「おまえ、これからどうするつもりだ?」
「どうするって……?」
「将来のことだよ。大学に行く気はあるのか。受験勉強はちゃんとしてるのか?」
「……」
叔父の目を避けるように俯《うつむ》いて、武は押し黙った。
「その様子では、ろくにやってないみたいだな」
叔父はやれやれという顔つきで言った。
「予備校にも殆ど通ってないっていうじゃないか。このままだと二浪ってことになりかねないぞ。それでもいいのか」
「叔父さんも……」
武はちらと叔父の方を見ながら皮肉っぽく言った。
「とりあえず大学へ行っとけ派?」
「学歴を必要としない世界でやっていく自信があるなら、かえって時間のむだになるから、無理に行けとは言わないが。何か他にやりたいことがあるのか」
「別に……」
「そういえば、おまえ、高校に入って、ボクシングはじめたって聞いたが、そっちはどうだ? プロになるとか……」
「それは考えてないよ」
「ただのお遊びか」
「だって、たとえプロになれたとしても、ボクシングのようなハングリー精神を何よりも必要とする世界では、お坊ちゃん育ちではどうせ大成しない。親父《おやじ》にそう言ったのは叔父さんなんだろ? そう言われてみれば、俺もそんな気はしてたし。成功しないとわかりきっている世界に飛び込んでも……」
「それでもいいからやる、という気概がないなら、最初からやめておいた方が無難だな」
「……」
「一体、何がやりたいんだ? 大学にも行きたくない。見たところ、汗水流して働く気もなさそうだし。将来の夢とか、やりたい職業とか、何かないのか」
「何もない。金積まれてもやりたくない職業なら一つだけあるけど」
「なんだ?」
「政治家」
「……」
叔父は苦笑した。
「情けないなぁと言いたいところだが、いまどきの若者なんてこんなものだろうな」
叔父はため息まじりでそう呟《つぶや》き、「だったら、とりあえず」と言いかけた。
「大学へ行けってか?」
武は先回りして聞いた。
「受験勉強なんて面白くないかもしれないが、あんなものは点取りゲームの一種だと思えばいいじゃないか。ゲームなんだよ、ゲーム。パソコンゲームやテレビゲームにしても、高得点を取ってクリアすれば気持ちいいだろう? それと同じだよ。ルールおぼえて、高得点を取るためのテクニックをちょっとおぼえて、それを使って、取れるだけの点を取ればいい。それだけのことじゃないか。ゲームと割り切って、クリアしようという気にはならないか」
「まあね……」
武は肩をすくめた。時たま、気が向いて勉強するときは、まさにそういうゲーム感覚だった。
「とにかく、大学に行く気があるなら、少しは勉強しろよ。そんなしょうもない週刊誌や漫画ばかり読んでる暇があったら、参考書の一つでも開いたらどうだ」
叔父《おじ》は、ベッド脇《わき》のテーブルの上に積み重ねられた何冊かの週刊誌の方にちらと視線を走らせたあとで、諭すように言った。
「うん……」
武は素直に頷《うなず》いた。
同じようなことは、母や父からも耳に胼胝《たこ》ができるほど聞かされてきたが、殆ど馬の耳に念仏状態だった。それがなぜか、この叔父に言われると、素直に耳を傾ける気になるから不思議だった。
この叔父には、下手に逆らえないような威圧感のようなものがある。ただ、威圧感といっても、父が見せる威圧感とは全く異なっていた。父のは、無理やり剛腕で首根っこを押さえ付けるような、いわば「剛」の威圧感だったが、叔父の方は、気が付くと、知らぬまにトリモチにひっつかれたように、やんわりと相手の懐に取り込まれてしまっているといった、「柔」の威圧感ともいうべきものだった。
「剛」の力には、こちらも力で反発することができるが、この「柔」の力で押さえ込まれると、抵抗のしようがなかった。
この方がこわいといえばこわい。「剛」の方は、こちらに相手以上の力が備わっていれば、撥《は》ね返すことも可能だが、「柔」の方は、こちらの力すらも逆に利用されてしまうからだ。
それに、叔父に言われるまでもなく、武の中で、ここ数週間の間に心境の変化のようなものが生じていた。
自分でもこのままでいいとは思っていなかった。今までは、頭では分かっていて、内心ひそかに焦りつつも、どうしても、それを行動に移す気力のようなものが湧いてこなかった。何をやっても本気になれない。遊び半分というか、どこかで最初から投げていた。
それが、あの事件のあと、命にもかかわるような酷《ひど》い怪我《けが》を負ったというのに、傷が癒えるにつれて、自分の中に何か新しい力のようなものが宿ったような感じがしていた。
何かやりたい。何でもいいから何かやりたいという気持ちが身体の奥から、清新な泉のごとく湧き出てくるようだ。
それは、単に肉体的な活動だけではなく、精神的な活動、たとえば、これまで全くやる気が起きなかった受験勉強も、そろそろ本気で取りくんでみようかという気にもなっていた。
「……前はこんなことなかったのに。不思議なんだよ。まるで一度死んで、生まれ変わったみたいな気分なんだ」
武は自分の最近の体調の変化について、叔父にそう説明した。
それを黙ってじっと聞いていた叔父はふと奇妙なことを呟いた。
「蛇は切られることで再生するからな……」
「蛇?」
「あの事件はひょっとしたら」
叔父は何やら考えこみながら言った。
「おまえにとって不運ではなく、幸運なことだったのかもしれないな。ひとつ間違えれば命取りになっていたかもしれないが。切り刻まれたことで、おまえは脱皮したのかもしれない……」
脱皮? 蛇?
叔父は何かの比喩《ひゆ》として言っているのかもしれないが、なんとなくその単語が武を刺激した。
蛇といえば……。
その瞬間、あっと思った。思い出したのだ。
背中に突然できた、あの奇妙な薄気味悪い痣《あざ》……。まるで蛇の鱗《うろこ》を思わせるような形状の痣をどこで見たのか。
今まさに目の前にいる、この叔父の背中だ。叔父の背中に、自分の背中に浮かび上がったのと全く同じ模様の奇怪な痣があったことを武は思い出していた。
あれは、まだ小学校にあがったばかりの、六、七歳の頃だっただろうか。夏休みを利用して、父の生家である長野の日の本村に家族で遊びに行ったことがあった。
一週間ほど滞在したのだが、その間に、この叔父と一緒にお風呂《ふろ》に入ったことがあった。そのとき、女のように白い滑らかな叔父の背中に、奇妙な薄紫色の痣を見たのだ。
そのとき聞いた話では、叔父の背中の痣は生まれつきのもので、この村で古くから祭られている「蛇神」の末裔《まつえい》であることの証《あか》しだということだった。この蛇紋を持って生まれた男子は生まれながらにして、その「蛇神」を祀る古社の宮司になるように定められているのだともいう。
そんな話を湯船の中で叔父から聞かされたことを薄ボンヤリと覚えていた。
「そうだ。叔父さん。これ見てよ」
武は、身体をひねって、裸の背中を叔父の方に向けた。
「入院してから、背中に変な痣みたいのが出てきたんだ。さっき、母さんに言われてはじめて気が付いたんだけど……」
背中を見せてそう言いながら、叔父の反応を待ったが、何も反応がなかった。
「母さんは、薬の副作用か皮膚病の一種じゃないかっていうんだけど、叔父さんの背中にもこんな形の痣があったよね。あれに似てない……?」
叔父の反応はまだない。
聞いてるのかよ、と思いながら、武は叔父の方に振り向いた。
叔父の顔色が明らかに変わっていた。
4
これは……。
神聖二は信じられないものを見るような思いで、甥《おい》の褐色の背中に浮かんだ薄紫色の痣を凝視していた。
それはまさしく、自分の背中にある「お印」と同じ模様、同じ形をしていた。
しかし、どうして、これが武の身体に……。
以前、女児には絶対に出ないとされていた「お印」を日美香の胸に見たときと同じ、いや、それ以上の衝撃を聖二は受けていた。
武の身体に「お印」が出るはずがない。これは何かの間違いではないか。この「お印」が出るのは、日女《ひるめ》が生んだ男子だけだ。
武は兄の貴明を通して神家の血を引いてはいるが、日女の血を引いているわけではない。その武にこの神紋が出るなどということはありえない。
しかも、神紋の出方は生まれついてのもので、こんな風に後天的に突然現れたなどという話は聞いたことがない。家伝書のどこにもそんな記録は記されていなかった。
これは、武が言ったように、怪我の治療に使った薬の副作用か何かで、たまたま「お印」に似た痣が、アレルギー反応のように出たのにすぎないのか。
しかし、武は怪我をしてから、なぜか体調が前よりも良いという。生まれ変わったようだとも言っていた。この「脱皮」ともいえる現象と神紋の突然の出現との間に何か因果関係があるとしたら……。
もし、この痣が、単なる偶然の産物ではなく、まぎれもない「日子《ひこ》」の証しとして現れたのだとしたら、武こそが、「大神」の後継者として「選ばれた者」ということになる。
またもや、千年以上にもわたって守られてきた不文律が破られたのか。
女である日美香の身体に、そして、日女の子ではない武の身体に、本来出るはずのない「お印」が出たということは……。
しかも、こんなに短い期間に立て続けに。
それは、これまでの調和的な世界に何か大きな乱れが生じはじめていることの表れなのか。この世の仕組みのバランスが狂い、大きく動き、覆るということの前兆なのか……。
「叔父さん? 聞いてるの?」
武の不審そうな声で、聖二は我にかえった。
「あ……」
「ねえ、どう思う?」
「確かに……似てはいるが、なんともいえないな。『お印』は生まれついてのものだから、こんな風に突然出るというのは考えられないし、一時的なものにすぎないかもしれない。せっかく病院にいるのだから、医者によく調べて貰《もら》えよ」
ようやく冷静さを取り戻して、そう答えると、武は納得したような顔になり、下着をつけパジャマに手を通した。
そんな甥の姿を、うわべの冷静さとは裏腹に、やや放心状態で見ながら、聖二は思っていた。
昔から、なぜか、この甥が自分の子よりも気になり可愛《かわい》かった。
自分の子といっても、聖二自身の血を引く子供は持てなかったのだが。村に古くから伝わる因習に従って、日女が産んだ私生児を自分の籍に入れ、我が子として育ててきたにすぎない。妻の美奈代との間には、どういうわけか子供はできなかった。
そのせいかどうかは分からないが、戸籍上の子供たちよりも、神家の血を引く、兄によく似たこの甥に、甥という以上の父性愛のようなものを感じていた。
もし、武の身体に出たのが「お印」だとしたら、あの頃から目には見えない絆《きずな》のようなものが自分とこの少年との間には存在していたのだろうか。
その目には見えない絆が、今、火に炙《あぶ》られた紙に潜在していた模様が浮かび上がるように、はっきりと目に見えて現れたということなのか。
そして、もし、これが「お印」であり、武が「大神の意志を継ぐ者」として選ばれた者ならば、これからは、武に対する扱いも大きく変えなければならない。
今までは、神家の血を濃く引いているとはいっても、あくまでも新庄家の人間の一人にすぎなかった。また、兄にとっては少々危険な存在になりつつある。だからこそ、今日、こうして見舞いを装って、武の様子をそれとなく見に来たのだが……。
この病院に足を踏み入れる前、タクシーの中で、聖二の中では、ある暗い思惑が固まりつつあった。
直接会って話をしてみて、もし、武がもはや矯正の余地もないほどに性根が腐っているようだと判断したら、この甥に対して、なんらかの手段を講じなくてはならないと思っていたのだ。
水をやり忘れて枯らしてしまった植物には、後で水をたっぷり与えることで蘇生《そせい》させることが可能だが、水をやり過ぎて根を腐らせてしまった植物はもはや手の施しようがない。蘇生は不可能である。
人間もしかりだ。その場合は、可哀想《かわいそう》だが切り捨てるしかない……。
武は、小さい頃は、三日に一度は高熱を出して寝込むような虚弱体質で、おまけに、女の子のような愛くるしい容姿をしていたせいか、兄夫婦―――とりわけ母親が溺愛《できあい》して、温室の花でも育てるように、めいっぱい甘やかして育ててしまった。
兄夫婦が幼い武を溺愛したのは、実は、武の中にもう一人の子供の命を重ね合わせていたせいもある。
そのもう一人の子供というのは、武とほぼ同時に生まれてきて、たった半日しか生きることができなかった一卵性双生児の片割れだった。
名前だけは生まれる前から既に付けられていた。男の双子であることが検査で分かってから、義姉《あね》のたっての希望で、日本神話の英雄、「日本武尊《やまとたけるのみこと》」から二字を取って、「武《たける》」と「尊《みこと》」と決まっていた。
しかし、最初の生存競争で生き残る事ができたのは、「武」の方だけだった。「尊」の方は生まれてすぐに死んだ。まるで、双子の「弟」に命を吸い取られたような格好で……。
ただ、この出生にまつわる事実は武には伏せられていた。おそらく、武は自分が双子の片割れであったことすらいまだに知らないだろう。
というのも、「武」の名前の由来になった「日本武尊」の神話の中では、このヤマトタケルが、双子の兄を惨殺するというエピソードがあり、そのことが、奇しくも、双子の「兄」の命を奪い取るような形で生まれてきた武に、変な負い目を感じさせないようにとの義姉の配慮から、双子の「兄」のことは武には秘密にされたのである。
兄夫婦、特に義姉の中には、武を愛することで、この世にたった半日しか生かしてやれなかった「尊」の分まで愛そうという気持ちが強くあり、それが溺愛という形になってしまったようだった。
義姉が武をあまりにも過保護に育てているのを遠目で見ながら、このままでは、身も心も脆弱《ぜいじやく》な子に育っていくのではないかと懸念した聖二は、義姉にそれとなく示唆して、水泳や武道を武に習わせて身体を鍛えさせた。
身体を鍛えるといっても、別に、「健全な肉体には健全な精神が宿る」などという単純なギリシャ哲学を信じていたわけではない。健全な肉体に不健全な精神を宿した人間はいくらでもいるし、不健全な肉体に健全な精神を宿した人間もいる。
ただ、ある程度人並みの肉体に改造してやることで、母親とのこれ以上の密着を避けることができるかもしれないと思っただけだった。
「病弱だから、わたしがついていなければ」というのが、義姉が次男に過保護という形で「依存」をするための大義名分になっていたからである。
武の肉体を鍛えて「病弱」の状態から解放させてやることで、義姉が無意識にしがみついているこの大義名分を粉砕してやろうという少々意地の悪い思惑もあった。
そして、聖二の思惑はほぼ成功した。
中学に入る頃には、半ば強制的にやらせていた様々なスポーツの効果が出たのか、ひ弱だった肉体の方は見違えるように逞《たくま》しくなり、それと同時に、それまで命綱のように握りしめていた母親のスカートの裾《すそ》をようやく手放したように見えた。
ところが、いいことばかりではなかった。
なまじ体力がついたことが災いして、同級生との喧嘩《けんか》をはじめとする問題行動を頻繁に起こすようになったのである。
たわいのない喧嘩程度で済んでいるうちはいいが、こうした荒っぽい言動がどんどんエスカレートしていって、そのうち取り返しのつかない犯罪行為に手を染めないとも限らない。
そして、案の定、今回のような凶悪事件に巻き込まれてしまった。不幸中の幸いというか、凶悪事件にかかわったといっても、あくまでも被害者としてだったから、軽いスキャンダル程度で済んだが、もし、これが重大犯罪の加害者などになって、それが世間に公にされたら、自分と兄がこれまで苦労して築きあげてきたものが一瞬にして崩壊しかねない。
もっとも、聖二が危険だと考えたのは、この社会で犯罪と言われている行為を犯しがちな性格そのものではなく、自分の犯した犯罪を社会に対して隠そうともしない無防備さの方だったのだが……。
武自身が変わらなければ、その危険性はこれからも大いにある。そんな危険をはらんだ芽をこのまま放置しておくわけにはいかなかった。危険な芽は育つ前に摘む。この信念の前には、可愛い甥でも例外たりえなかった。場合によっては、この甥に対して、断腸の思いで最悪の決断をしなくてはならなくなるかもしれない。
聖二はそのことを覚悟していた。
しかし、直接会って話してみた感触では、性根の腐った不良というわけではなく、十分矯正の余地があることが確認できたので、最悪の決断だけはしないで済みそうなことに安堵《あんど》していたのだが。
それどころか……。
武の身体に突然浮かび上がった模様を見て、もし、これが「日子」を示す神紋だとしたら、意識変革の必要があるのは、自分の方かもしれないと聖二は思いはじめていた。
武は、物部一族にとって、切り捨てるべき危険な不良品どころか、これからは一族の要《かなめ》ともなるべき、きわめて重要な存在になったのかもしれない。
だとしたら、これからはそのような存在として扱わなければならない。そして、それなりの「教育」も施さなければ……。
「なあ、武」
聖二は椅子《いす》から立ち上がりながら、さりげない口調で言った。
「退院したら、一度、長野に来ないか」
「長野って、日の本村?」
「どうせ予備校に行ってないなら、静養がてらしばらくあちらで暮らしてみたらどうだ。傷によく効くという温泉もあるし、静かに受験勉強ができる環境としては、むしろ東京よりいいと思うんだが」
「俺《おれ》は別にいいけど、母さんがなんていうか……」
「おまえさえ承知なら、義姉《ねえ》さんには私の方から話してみる」
「ほんと? 頼むよ、叔父《おじ》さん。こんな消毒臭い檻《おり》の中から出してもらえるなら、長野の山奥だろうが地獄の底だろうが喜んで行くからさ」
武は目を輝かせてそう答えた。
「義姉さん、今日も来てるんだろう?」
テーブルの上に置かれた義姉のものらしき女物のバッグを見て、聖二は聞いた。
「うん。この変な痣《あざ》のことで、担当の先生に報告してくるって、さっき出て行った。もうすぐ戻ってくると思うけど」
「戻ってきたら、下のロビーの喫茶室で待っているからと伝えてくれ」
「わかった。もう帰るの?」
武のやや名残惜しそうな視線に見送られて、聖二は病室を後にした。
5
三階にある甥の病室を出ると、聖二は、エレベーターで一階のロビーまで行き、広々としたロビーの片隅に付属している喫茶室の扉を開けた。
コスモスが植えられただけの殺風景な中庭の見える窓際に席を取り、注文を聞きにきたウエイトレスにコーヒーを頼むと、ソファの背もたれに身体を預けて、しばらく、ぼんやりと物思いに耽《ふけ》った。
まさか、武の身体に「お印」を見ることになろうとは……。
今日、武の見舞いに来たのは、自分の意志もあったが、三日ほど前に兄の貴明から電話を貰い、「近いうちに暇を作って武と会ってほしい」と頼まれていたからでもある。
その電話で、兄は、珍しく弱音を吐くような暗く力ない声で、「あれは俺の手にはもう負えない。小さい頃からおまえにはなついていたみたいだから、あれが何を考えているのか、おまえから聞き出してほしい。それで、もし……」
と、貴明はいったん言葉に詰まったように黙ってから、意を決したように続けた。
「おまえの目から見ても、武がもはや手に負えないと思ったら、あれの処置はすべて任せる……」
むろん、この「処置」の意味は聖二にはよく分かっていた。
昔から、自分を慕ってきたり、素直に従う人間には優しく頼りがいのある一面を見せながら、その一方で、自分に逆らう人間には、別人のような容赦のない冷酷さを示す兄の性格を熟知していたから、武がこのまま兄に反抗的な態度をとり続けるようならば、そして、それがこのさき、反抗期などという許容された範囲を越えて、兄の立場を危うくするほどエスカレートしていくならば、たとえ相手が血を分けた息子だろうと、いずれ、兄がこういう決断を下すだろうということは、聖二には十分予測がついていたことではあった。
そして、そのときは、兄が直接手を下すのではなく、自分が下駄を預けられる形になるだろうということも。
「……一体、誰に似たんだろうな」
電話の最後の方で、貴明はふとそんなことを漏らした。
「誰って、それはあなたでしょう」
聖二は少し呆《あき》れて言い返した。
「外見はそうかもしれんが、性格は俺じゃないよ。といって、美里でもないし……」
「いや、性格もあなたですよ」
「そうかなぁ……。俺はあんな馬鹿じゃなかったと思うが」
「馬鹿というより、武には自分が進むべき方向が何も見えてないんです。闇《やみ》の中で敵味方の区別もつかずに目茶苦茶に剣を振り回しているような状態なんです。あなたには自分の進むべき道が早くから見えていた。だから、無闇に剣を振り回さなかった。それだけの違いですよ」
「……」
貴明はしばらく思案するように黙っていたが、最後は、絞り出すような声で言った。
「もし、その進むべき道というのを武に示すことができれば、あれは変わると思うか」
「かもしれませんね」
「そこまで見込んでいるなら、おまえがあれを変えてくれ」
聖二はその哀願にも近い声を聞きながら思っていた。
やはりまだ気づいていないのか。
武は兄に似ている。姿形だけでなく、その根本の性格もそっくりだった。ただ、そのことに気づいているのは、どうやら自分一人だけのようだった。
新庄家の人間たちも、義姉《あね》をはじめ、みな、この父子《おやこ》を比べて、「顔はそっくりなんだが、性格は全く違う」というようなことを口を揃《そろ》えて言う。性格の方は、子供の頃から万事にそつなく優秀だった、長男の信貴《のぶたか》の方に引き継がれたと……。
聖二はそうは見ていなかった。貴明が磨かれた宝石だとしたら、武は、いわば磨かれていない原石のようなものだ。元は同じである。磨かれれば燦然《さんぜん》たる光を放つし、磨かれずに放置されていれば、それはただの薄汚い石ころにしか見えない。
そして、信貴はといえば……聖二の目には、イミテーションの宝石の弱々しい光しか感じなかった。
それでも、光を放っている方が、薄汚い石ころよりは、宝石として認定され重宝がられるのが世の常だ。目利きがいくら、これは宝石の原石だと主張したところで、磨いて、誰の目にも明らかな光を出さないことには、意味がない。
とはいえ、武を宝石だと認定する自分の目に狂いはないと言い切れるだけの絶対的な自信はなかった。自分は感情的に武が可愛《かわい》い。だから、その感情の分だけ冷徹に物が見られなくなっている恐れもある。単なるアバタをえくぼに見たがっているだけなのかもしれない。磨いてみたら、やはりただの石ころだったとがっかりする可能性も捨て切れなかった。
だから、今日、こうして見舞いに来るまでは、聖二の気持ちは振り子のように大きく揺れていた。
もし、武に危険性以外の何も見いだせないようだったら、そのときは、兄の言う「処置」の方法をすみやかに取る。ただ、そのときは、誰かに任せるのではなく、自分の手を汚そうと決めていた。それが、せめても、我が子同然に可愛がってきた甥《おい》への最後の愛情の示し方だとも思っていた。
しかし……。
事態は全く予想もしなかった方向へと大きく展開してしまった。
もし、武の身体に出たのが「お印」だとしたら、彼は、「大神の意志を継ぐ子」として、自分たちが自らの命にかえてでも守りきらなければならないような「聖なる存在」になったことになる。
もはや、兄であろうと自分であろうと、軽々しく手だしのできない存在になったのだ。絶対的なものがあるとしたら、それは、「大神の意志」だけなのだから。
それにしても……。
なぜこう立て続けに、神紋をもった子が二人も現れたのか。しかも、今までに全く前例がないような異常な形で。
やはり、これは、何か、とんでもないことが起こりつつあることの前兆なのか。
そういえば、と聖二は思い出していた。
家伝書の序文に、奇妙なくだりがあった。
「二匹の双頭の蛇が現れ、かつ交わるとき、大いなる螺旋《らせん》の力が起こり、混沌《こんとん》の気が動く……」
そんな意味の文章だった。
そして、この「二匹の双頭の蛇」とは、「一匹は天を支配する陽の蛇」であり、「もう一匹は地を支配する陰の蛇」であると書かれていた。
読んだときには、どう解釈してよいのか解らなかったのだが……。
蛇は混沌の象徴であり、「螺旋」の概念を最も原始的に表現した姿でもある。蛇がしばしば秩序を破壊する「悪魔」として語られるのはそのためでもある。
古くから、東西を問わず、「とぐろを巻く蛇の姿」が、神として、あるいは神の使いとして崇拝されてきたのは、まさに、蛇の姿を通して、この世を動かす螺旋の力の偉大さを古代人なりに理解していたということにほかならない。
螺旋の力が動くということは、この世界がこれまで保ってきたような一時的な調和を失って、大いなる混沌の渦の中にもう一度投げ込まれるということでもある。
しかし、混沌が訪れるといっても、それはこの世の終焉《しゆうえん》を意味してはいない。新たな調和がその後に待っている。そして、その調和もいずれ終焉し、また混沌の渦に……。
それは、いわば、永遠に上昇する螺旋階段の一階部分を昇り終わり、二階部分にさしかかるということでしかない。そして、二階部分を昇って行けば、次にはさらなる階が待っている。終わるのは部分的な階層だけであり、螺旋階段そのものではない。
それにしても、この「双頭の蛇」とは、何を指すのか……。
そうか。
聖二の脳裏にひらめくものがあった。
双頭とは、双子のことか。
双子といえば、武がそうだ。その片割れは生まれてすぐに死んでしまったが、双子として生まれたことにはかわりない。
つまり……。
「双頭の蛇」とは「蛇紋をもった双子」という意味かもしれない。
そして、「陰陽」とは「男女」の意味にもとれることから、「天を支配する陽である双頭の蛇」とは、「蛇紋をもった男の双子」という意味になるのか。
そして、これと交わるという「地を支配する陰の双頭の蛇」とは、「蛇紋をもった女の双子」という意味になる……。
蛇紋をもった女といえば一人しかいない。
日美香のことか?
しかし、日美香は双子ではない。
それとも……?
6
エレベーターを一階で降りた新庄美里は、病院の広々としたロビーを横切って、ロビーに付属している喫茶室の方に、踵《かかと》に鉛の入った靴でもはいているような重たげな足取りで向かっていた。
喫茶室では、義弟の神聖二が待っているはずだった。十五分ほど前、担当の医師を連れて病室に戻ってみると、ついさきほどまで義弟が見舞いに来ており、しかも、ロビーの喫茶室で自分を待っていると武から聞かされたのである。
それを知って、美里は少し憂鬱《ゆううつ》な気分になった。どうも、この義弟が昔から苦手だったからだ。会うたびに、得体の知れない劣等感というか圧迫感に悩まされる。
それは、夫と付き合いはじめた頃、「すぐ下の弟だ」といって紹介されたときから、美里の中でずっとくすぶり続けてきた感情だった。
はじめて会ったとき、一目見て、その女にも珍しいような美貌《びぼう》にまず驚かされた。自分の容姿に自信がなかっただけに、美里は、そのとき、この義弟に対して奇妙な敗北感のようなものを感じてしまった。
それだけではなかった。
少し話をするうちに、この義弟が、美貌だけでなく、並々ならぬ才知の持ち主であることにも気づかされ、新たに打ちのめされた。
容姿の方こそあまりぱっとはしなかったが、新庄信人の一人娘として、物心ついた頃から、お花だピアノだ書道だと、女の子としての、およそ考えられ得る限りの教養を身につけさせられてきた。しかも、それはただの「お嬢さん芸」の域を遥かにこえていた。
幼い頃から英国人の家庭教師について英語を習っていたから、ある程度の会話くらいなら流暢《りゆうちよう》な正統派の英語で出来るし、読み書きもできる。また、古典の素養のあった父の手ほどきで、難しい漢書や古文なども、殆《ほとん》ど現代語訳の世話になることなく、すらすらと読み解くこともできた。
「才媛《さいえん》」という名称がけっしてそらぞらしくない程度の才知も教養も自分には備わっていると、密《ひそ》かに自負してもいた。
ところが、そんな自分でさえ、思わずたじろぐほどの才知と教養を、夫の弟は備えていたのである。
二重の意味で敗北感にうちひしがれた。弟だと紹介されたときには、既に結婚を意識しはじめていた頃だったので、「この人がわたしの義弟《おとうと》になるのか」と思うと、よけい憂鬱になった。
それになぜだか分からないが、相手が男であるにもかかわらず、目の前にいるのが「女」であるような錯覚に一瞬|捉《とら》われた。
といって、聖二の言葉遣いや態度が女性的だったというのではなかった。物静かではあったが、見かけは若い男以外の何者でもなかった。
おそらく、男にしておくのが勿体《もつたい》ないようなその容姿に、「女」を連想しただけだったのかもしれなかったが……。
とにかく、義弟というより、まるで才色兼備の手ごわい小姑《こじゆうとめ》の存在を知らされたような気分だった。
出会いのときに感じたそんな苦手意識はいまだに薄れることがない。
美里は少々重い気分で、喫茶室の扉を開けた。
義弟は窓際の席にいた。窓越しに庭の方を眺め、ソファに寄りかかって、物思いに耽《ふけ》っているような顔をしていた。
相変わらず、若い……。
美里は苦々しく思った。
年齢は自分とは一つしか違わないから、既に五十近いはずだが、どう見ても三十半ばくらいにしか見えない。黒のタートルネックのセーターにグレーの背広という、幾分地味めの、特に若作りでもない格好にもかかわらず、贅肉《ぜいにく》の感じられない体型のせいか、中年男というより、いまだに青年のような雰囲気を漂わせている。
自分の「老い」を日ごとにひしひしと感じはじめている美里にとって、義弟のこの異様なまでの若さもまた、少々|羨《うらや》ましいというか妬《ねた》ましさの原因になっていた。
美里が入ってきたことにようやく気づいたように、聖二は、ソファにもたれていた身体を起こして、目礼するような仕草をした。
「……武の背中に変な痣《あざ》のようなものが出たそうですが」
挨拶《あいさつ》もそこそこに、すぐにそう尋ねてきた。
「ええ。今、そのことで、担当の先生に診てもらったんですけれど」
美里がそう言うと、
「で、医師はなんと?」
聖二は興味津々という表情で先を促した。
「先生の診たところでは、治療薬の副作用などが原因とは考えられないそうです。もし、それだとしたら、もっと早くに反応が出ているはずだと……。といって、皮膚病の一種にも見えない。どこかにぶつけてできた一時的な痣ではないとしたら、なぜこんなものができたのか不思議だとおっしゃって」
「やっぱり……」
聖二は独り言のように呟《つぶや》いた。
やっぱり?
その一言が気になったが、美里は先を続けた。
「ただ、自分は皮膚科の専門ではないので、明日にでも、皮膚科の専門医に詳しく調べてもらった方がいいとおっしゃって、そのように手続きをしてくれるそうです。それと、内臓になんらかの疾患がある場合、皮膚に異常が現れることもあるので、そちらの方も念のために検査した方がいいかもしれないと」
「それでは、確かなことは、その検査待ちということになりますね」
「ええ。何か変な病気の前触れでなければいいのですけれど」
美里は憂い顔で言った。それだけが心配だった。とはいうものの、今度はその病気の治療が、武の退院をさらに引き延ばす口実にもなるので、命にかかわるような奇病や難病でさえなければ、必ずしも悪いことではないとも思っていた。
「まあ、それほど心配することはないと思いますがね……」
聖二は義姉《あね》を慰めるように言ったあとで、
「怪我《けが》の方は殆ど完治しているように見えましたが、退院はまだ無理ですか?」と聞いた。
「それが……」
美里は口を濁した。
「先生はもう退院してもかまわないとおっしゃってるんですけれど、せめて今度の選挙が無事に終わるまでは、あの子はここに居た方がいいような気がして……。それで、院長先生にお願いして退院を延ばしてもらっているんです」
「軟禁ってわけですか。でも、それは逆効果かもしれないな」
「逆効果……?」
「傷が治ったのに、無理やり閉じ込めておくのはね。独房にいれたわけではないのだから、抜け出そうと思えば抜け出せますし」
「抜け出すだなんて……」
美里はぎょっとした。
「あいつならやりかねませんよ。さきほど会った感じでは、入院前よりも元気になったみたいで、まるで、ゴリラが檻《おり》から出たがって、鉄柵《てつさく》を力いっぱい揺すっているような状態に見えました。このまま閉じ込めておいたら、鉄柵をひん曲げて逃亡しかねない」
聖二は脅すように言った。
「そんな……」
人の息子をゴリラ扱いにして、と内心少し腹をたてながらも、義弟の言い分にも一理あると渋々認めざるをえなかった。
今の武の様子は聖二の言った通りだった。美里もそのことではらはらしていたのだ。傷が痛むうちは、おとなしくベッドに横になっていてくれたのだが……。
「それで、考えたのですが」
聖二は、ようやく話の本筋に入るように言った。
「ここはすんなり退院させて、そのかわり、長野に寄越《よこ》してくれませんか」
「え……」
「私がしばらく武を預かります。あそこなら、傷に効く温泉もあるし、静養にはもってこいです。あの事件のことをいまだに探っているマスコミ連中も長野の山奥までは追いかけてこない
でしょう」
そうだ。それもある、と美里は思った。
武をこの病院に閉じ込めておきたいと思う理由の一つにこのマスコミ対策もあった。一カ月以上たって、あの事件のほとぼりは冷めたとはいえ、まだしつこく被害者の「お気持ち」とやらを取材したがっているマスコミも存在していた。
武を今ここで野放しにしたら、彼らにつかまって、何をしゃべらされるか知れたものではない。
「それに、受験勉強に専念するには、都会と違って、若者を誘惑するような娯楽施設もないので、これ以上の環境はないでしょう」
聖二はそう続けた。
「でも、その受験勉強にさっぱり身が入らなくて。大学に行く気があるのかないのかさえ……」
美里が困ったようにそう言いかけると、
「それがようやくやる気が出てきたようです。入院中に心境の変化があったみたいで」
「そうなんですか。わたしにはそんなことは何も……」
美里は疑わしそうに聞いた。
「本人がそう言っているのだから間違いないと思います。将来のことまでは何も考えてないようですが、とりあえず、大学に行くことだけは承知しました。受験勉強にも本腰を入れて取り組む気になったようです。彼は知能も高いし、怪我が治れば体力もあるので、その気になって集中さえすれば、今からでも遅くはないと思いますが」
「……でも」
美里は複雑な表情で口ごもった。
武がそんな心境になってくれたことは嬉《うれ》しかったが、毎日のように病院を訪れて世話を焼いている母親の自分ではなく、久しぶりに会った叔父《おじ》に自分の気持ちを打ち明けたらしいことが、なんとなく面白くなかった。
「主人が何というか。相談してみないと……」
そう言いかけると、遮るように義弟は即座に言った。
「兄なら相談の必要はありません。この忙しい時期に武のことでこれ以上煩わせることはありませんよ」
「そうは言っても……」
「実は、今日、見舞いに来たのは、私の考えだけじゃないんです。先日、兄から電話を貰《もら》って、武のことは私にすべて任せると言われました。だから、兄の承認は既に得ているようなものです。事後報告だけで十分です。長野行きのことは武本人も承知していますし、後は、義姉《ねえ》さんが承知してくれればいいだけなんですよ」
畳みこむように言われて、美里は黙りこんでしまった。
義弟の提案は決して悪い話ではない。田舎で静養させるのは、このまま病院に無理やり閉じ込めておくよりは遥《はる》かに良いことかもしれない。反対する理由はなかった。
ただ、美里がすぐに返事ができなかったのは、これほど武のことを心配している自分を蚊帳《かや》の外において、夫と義弟の間だけで話がさっさと決められてしまったことに、ないがしろにされたような憤りを覚えていたからだった。
それに、この病院なら、ちょっと車を飛ばせば、毎日のように息子の顔を見に来ることができるが、長野の山奥となれば、そうそう顔を見に行くこともできない。
それが少し寂しい。
「どうでしょうか。私が預かることで何か不都合でもありますか」
黙りこくっている義姉の様子に少々|焦《じ》れたように、聖二は聞いた。
「あ、いえ、不都合なんて何も」
「それでは承知してくれますね?」
「え、ええ……。わたしは別に……」
「それでしたら、あの痣《あざ》の検査結果に特に問題がないようでしたら、すぐに退院の手続きをしてください。後は私が引き受けますから」
「は……はい。あの子のこと、よろしくお願いします」
美里はついに白旗を掲げて、渋々頭をさげた。
いつもこうだ。最後には、この義弟の思う方向にやんわりと押し切られてしまう。
にこやかだが凄腕《すごうで》のセールスマンに全く買う気のなかった商品を買わされてしまった後のような、情けないような割り切れないような思いを感じながら、美里は昔のことを思い出していた。
あのときもそうだった。
あれは確か、まだ武が幼稚園に通っていた頃で、夏のことだった。
何か用があって上京してきたという義弟が、ふらりと家を訪ねてきて、武の虚弱体質を改善するために水泳でも習わせてみたらどうだと言い出した。
義弟の提案に、「できればそうしたいのだが、あの子はどういうわけか水をこわがり、家のプールにも入ろうとしない。少しずつ水に慣れることから教えないと……」というと、それを黙って聞いていた義弟は何を思ったのか、ちょうどその場で遊んでいた武をつかまえて、衣類を剥《は》いで素っ裸にすると、泣き叫ぶ子を抱いて裏手のプールにまで行き、こともあろうに、母親の目の前で、いきなり、プールに放り込んだのである。
あのときは、一瞬、義弟が気でも違ったのかと腰を抜かすほど仰天したものだが、さらに驚いたのは、あれほど水をこわがってプールに近寄りもしなかった武が、プールに投げ込まれた途端、最初こそ慌てふためいてもがいていたものの、すぐに水に慣れて、犬掻《いぬか》きのような仕草で泳ぎ出したことだった。
それを平然と見ていた義弟は、駆けつけてきた美里の方を振り返って、「もう水に慣れたようですよ」と笑いながら言った。
荒療治は成功したわけだが、それは結果論であって、もしあのとき、武が溺《おぼ》れてでもいたらと思うと、美里は、義弟の優しげな顔に似合わない、この荒っぽいやり口に抗議せずにはいられなかった。
ただ、そのときの聖二の答えは、「あの場合、水への恐怖心に負けて溺れる可能性もないわけではなかったが、武の性格から見て、瞬時にして恐怖を克服して泳ぎ出す可能性の方が高いと見た。少々荒っぽかったかもしれないが、ああいう気性の激しい子供にはあのくらいでちょうどいい。腫《は》れ物に触るようなびくびくしたやり方では目覚ましい成果は得られない。多少リスクを伴ったやり方を思い切って取った方が大きく成長する」というようなものだった。
今から思えば、義弟はあの頃から、既に、一見ひ弱に見える幼い甥《おい》の中に潜んでいた「激しい気性」を見抜いていたようだった。
実際、この荒療治以来、武の水恐怖はウソのようになくなり、スイミングスクールに入れて、本格的に水泳を習わせてみると、あれよあれよという間に上達していった。
そして、その後に習わせた空手や剣道などの効果もあって、武の肉体は、急速に少年らしいものになっていき、それに伴って、それまではあまり目立たなかった性格の「激しさ」も表に出てきたというわけだった。
この人には、親でさえ見抜けなかったものが早くから見えていたらしい……。
そういえば、いつだったか、夫が、「聖二にはどんな子供でもなつかせてしまう不思議な力がある。あれがもし教師になったら、超一流の教師になるかもしれない」と何かの拍子に口にしていたことを思い出した。
事実、あのあと、いきなりプールに投げ込まれるという怖い体験をさせられたにもかかわらず、そのことで武が叔父を嫌ったり怖がったりするようなことはなく、むしろ、前よりもなついたくらいだった。それも今から考えれば、不思議といえば不思議だった。
この人に任せておけば、あのとき、武を変えてくれたように、また大きく変えてくれるかもしれない。
美里は、子育てというジャンルでも、この義弟には敵《かな》わなかったのかと敗北感にも似た苦い思いを噛《か》み締めながらも、そんな微《かす》かな期待も同時に持ちはじめていた。
「それともう一つ……」
義弟がふいに言った。
「義姉さんに承知しておいてほしいことがあるのですが」
「なんでしょうか……?」
「此の際、武に家庭教師を一人つけようと思うのです」
聖二はそんなことを言い出した。
7
「……家庭教師ですか?」
やや間をおいて、そう答えた新庄美里の表情はなんとなく浮かなかった。
聖二はその顔を見つめ返しながら、この義姉とはじめて会ったときのことを思い出していた。
第一印象は、これといって特徴のないパッとしない女だな、という冷ややかなものだった。
大物政治家の一人娘ということから、我《わ》が儘《まま》一杯に育てられた派手で驕慢《きようまん》な「お嬢様」のイメージを勝手に思い描いていたので、待ち合わせの場所に、兄と一緒に現れた彼女を見て、「え、この女か?」と一瞬目を疑ったくらいだった。
長身の兄と並ぶと、一メートル五十センチそこそこの彼女はまるで大人に連れられた子供のように頼りなく見えた。顔立ちも醜くはないが、作りがちまちまとしていて、華やかさに欠ける。印象に残りにくい顔だった。
仕立ては良いが、色合いもデザインもおとなしめのワンピースを着た彼女は、新庄信人の娘という好条件がなかったら、とても若い男の興味を引くタイプには見えなかった。
兄の妻になる女が自分の予想とは全く違った女だったことに、聖二は、幾分拍子抜けしながらも、どこかで安堵《あんど》していた。
ただ、新庄美里にたいしての第一印象は、そのあと、三人で食事をしながら話をしているうちに、聖二の中で、若干の修正が施されたが……。
さりげない会話の端々から、彼女が、見かけこそあまりパッとしないが、内面には、半端ではない教養を蓄えており、しかも、それをやたらとひけらかさず、控えめに小出しにするような聡明《そうめい》さにも恵まれた女であることが、なんとなく感じ取れたからだった。
この女は悪くないかもしれない……。
聖二は漠然とそう思った。
ごく稀《まれ》にだが、歳をとるごとに、若い頃よりも美しくなるというか、魅力を増す女がいる。
多くの女は若さが失われるにつれて、それに助けられていた表面の美も魅力も、古くなったタイルのようにボロボロとはがれ落ちていき、後には無残な漆喰《しつくい》しか残らないものだが、此の手の女は、歳をとるごとに、内面に蓄えておいた教養なり才能なりが次第に露呈してきて、それが若さというタイルを失った漆喰の壁を装う新たな輝きとなって、若い頃よりも人の目を引き付けるようになるのだ。
ひょっとしたら、新庄美里はこうしたタイプかもしれない。
最初の出会いでそう感じた聖二のこの直感は狂ってはいなかった。
その後、この義姉に会うたびに、彼女が美しくなっているのを感じた。年をとるごとに、その女っぷりを確実にあげていた。
それを一番感じたのは、長男を出産した直後だった。知らせを聞いて、お祝いに駆けつけた聖二の目に、出産直後でろくに化粧もせず、髪もひどい状態だったにもかかわらず、赤ん坊を抱いた義姉の姿はこれまでに見たことがないほど美しく誇らしげに見えた。
子供を生んだ直後の女は美しいといわれるが、必ずしもそうではない。これは、「強い牡《おす》の」子供を生んだ直後の女は美しいと言い直すべきである。
それは、子供を生むのが動物の牝《めす》の本能であるというより、「強い」牡の子供を生むというのが牝の本能だからだ。生存競争に生き残れる強い牡の種を残せた女のみが、牝としての役割を果たせたことで、その本能を完全に満たされて美しく輝けるのである。
新庄美里が結婚したあと、急速に美しくなっていった本当の理由は、彼女が、半端でない教養を内面に備えた女だったからという事以上に、むしろ、その人間としての教養をかなぐり捨てたところにある動物の牝としての本能を夫によって満たされたためだったからといった方がいいかもしれない。
政界では、兄夫婦は、「学生時代に大恋愛の末に結ばれ、今もなお仲|睦《むつ》まじいおしどり夫婦」というイメージで通っているが、実は、これは事実とは違う。
兄が新庄美里を恋愛対象に選んだのは、女性の外見よりも中身を重視するなどという奇特な趣味をもっていたわけではなく(その証拠に兄が今まで付き合った女たちは頭と外見が見事なまでに反比例した白痴美女タイプばかりだった)、彼女が新庄信人の一人娘だったからであり、それ以外の理由などなかった。「新庄信人の娘でさえあれば、どんな女だろうとかまわない」と言っていた兄にとって、美里との恋愛は、いわば「将を射るための」手段にすぎなかったのである。将を射るために射る馬が名馬だろうが駄馬だろうが、兄にとってはどうでもよかったのだ。
ただ、そんな兄にとって、幸運だったのは、その「馬」が一見駄馬にも見える名馬だったことである。兄が新庄美里という女に対して恋愛感情めいたものを多少とも抱いたとしたら、それは、結婚前ではなく、結婚してからだったに違いない。
結婚後数年たって、ようやく、自分が妻にした女の美点に気づいたのである。
言い換えれば、この二人は相性が良かったのだともいえる。体格も性格も正反対だったことが、かえって、鍵《かぎ》と鍵穴がぴたりと合うように噛み合ったというわけだった。
どんな大恋愛で結ばれようと、この相性が悪ければ長続きはしないし、出会いはどうであれ、相性さえ良ければ、結婚生活というのは上手《うま》くいくのである。
だから、女性誌をはじめとする一部のマスコミが作り上げた「政界きってのおしどり夫婦」というイメージも、今となっては、まんざら虚像というわけでもなかった。
「家庭教師はちょっと……」
新庄美里はそう言ったきり、頬《ほお》に片手をあて、思案するような顔で黙ってしまった。
「短期間に効果をあげるためには、なるべくそばについて、アドバイスなり刺激なりを彼に与え続ける存在があった方がいいと思ったのです。武を預かるといっても、私にはそこまでは面倒見切れないので」
聖二がそう言うと、
「ええ、それは分かりますけれど……。ただ、家庭教師なら今までに何人もつけたことがあるんです。どの人も長続きしなくて。中には、ベテランの現役教師や予備校の名物講師とかいう人たちにも、高いお金を払って来てもらったことがあるのですが、一番続いた人で、一カ月がせいぜいでした。だから……」
美里は歯切れの悪い口調で答えた。
「それは、彼が全くやる気がなかったときの話でしょう? 今は、本人の意識そのものがだいぶ変わってきています。相手次第では、頭から拒否することはないと思いますがね」
聖二は義姉の煮え切らない態度に幾分いらだちを覚えながら言った。
聡明な女だったが、どういうわけか、次男のことになると、その強すぎる愛情というか執着が理性を曇らせてしまうのか、そのへんの盲目的な馬鹿母と全く変わらなかった。
「それもそうですね……。あの、どなたかお心あたりでも?」
美里はようやく納得したような顔で聞いた。
「今のところ一人います。でも、彼女の都合も聞いてみないと、引き受けてもらえるかどうかは分かりませんが」
「彼女って……その方、女性なんですか」
美里が思わずというように声を張り上げた。よほど驚いたらしい。
「そうです。二十歳になる現役の女子大生です」
「女子大生!」
美里は今度は悲鳴に近い声をあげた。
「薬学部に通う優秀な学生で、知力の点では全く問題ないと思いますが……?」
「無理です。絶対に無理です。中年の経験豊富な男の先生でさえ音をあげたのに、そんな女子大生だなんて……。ライオンの檻《おり》にウサギを放りこむようなものです。何か事が起きたら大変です。それこそまたスキャンダルになりかねません」
「奴《やつ》には高二のときに『前科』がありますからね、義姉《ねえ》さんの心配もごもっともだとは思いますが」
聖二が薄く笑いながら言うと、美里は笑い事ではないという真顔で、
「あのときは、相手の方がずっと年上で、しかも担任教師という立場上、すべての責任を一人で背負ってくれたおかげで、たいしたスキャンダルにならずに済んだんです。でも、そんな将来のある若い女性にもし何か間違いがあったら、相手の親御さんだって黙ってはいないでしょうし……」
「その心配はないと思いますよ」
「え……」
「もし、万が一、義姉さんが心配されているようなことが起きたとしても、そのことで、相手の親が騒ぎたててスキャンダルになるということだけはないでしょう」
「どうして……どうして、そんなことを言い切れるんです?」
「言い切れますよ。親というのが私なんだから」
「……」
美里は呆然《ぼうぜん》とした顔で聖二を見つめていた。
「その女子大生というのは、私の養女《むすめ》なんです」
8
「む……むすめって……?」
美里は戸惑いながら聞き返した。
この義弟には、青年のような外見からは想像もつかないほど沢山の子供がいることは知っていたが、その中に、今年二十歳になるような大きな娘がいただろうか、と一瞬思った。
ただ、子沢山といっても、夫の話では、全部が実子というわけではなく、戸籍の上だけの親ということで、その背景には、神に仕える特殊な家系ゆえの複雑怪奇なお家事情があるらしいのだが、詳しいことは聞かされていなかった。
なぜか、夫は、若い頃から、自分の生家である神家のことを話すのをあまり好まないように見えたので、美里も無理に聞き出そうとしたことはなかった。
「娘といっても、最近養子縁組をしたばかりの養女なんですが」
聖二はすぐにそう答えた。
あ、そういえば……。
美里はようやく思い出した。しばらく前になるが、「従妹《いとこ》の忘れ形見にあたる若い女を聖二が養女にしたらしい」と夫が言っていたことを。
夫の方は、義弟に紹介されて、その女性と外で会ったことがあるようだったが、美里はまだ顔も知らなかった。
名前は確か……日美香とか聞いていたが。
神家のお家事情にすぎないことなので、新庄家の人間である美里には関係ないといえば関係ない話だったし、その話を夫から聞いたときは、親戚《しんせき》が一人増えた程度の認識しかなく、殆《ほとん》ど忘れていたくらいだった。
「でも……確か、その方、東京の大学に通っているのでは……?」
美里は夫から聞いた事を思い出しながら聞いた。
「ええ。育ったのは和歌山ですが、今は、東京でマンションを借りて一人暮らしをしています」
「だとしたら、その方に武の家庭教師は無理ではないでしょうか。長野に住んでいるというならともかく、いくら新幹線で一時間足らずとはいっても、東京から長野まで毎日通うのではちょっと……」
「それならご心配なく。話が決まったら、彼女にもしばらくあちらに滞在してもらいますから」
「え。しばらくあちらにって、それでは大学の方は……?」
長い夏期休暇を利用してとでもいうならまだ話が分かるが、今は十月である。日美香の通っている大学というのは、そんなに暇なのだろうか。文学部ならまだしも、理系の学部はけっこう忙しいと聞いていたが……。
「実をいうと、大学の方は半月ほど前から休学しているんです。将来は薬剤師になるつもりだったらしいのですが、今年の五月に母親代わりだった人が事故で急死して以来、何かと心境の変化があったようで、それまで決めていた進路にも迷いが出てきたそうで……」
このまま大学に通って、漫然と講義や実習を受けていても身が入らなくなってしまったので、思い切って、一年ほど休学して、その間に自分の進路についてもう一度考え直してみる。ただ、休学してぶらぶらしているわけにもいかないので、このモラトリアム期間を有効に利用するために、渡米してホームステイでもしながら語学力をつけ、見聞を広げたい。今後どんな進路を選ぶにせよ、この経験は何らかの形でこれからの自分にとってプラスになると思う。
聖二の話では、日美香が休学した理由はそんなことだったらしい。
「……休学の目的も渡米の理由もそれなりに納得の行くものだったので、私も許したんです」
「それで、今は……?」
「渡米費用を自分で調達するためにアルバイトに明け暮れているようです。そのくらいの費用なら私の方で出すと言ったのですが、自分のことは自分でやりたいと言って……。まあ、私の口から言うのもなんですが、今時の女子大生としてはかなりしっかりしているし、性格も真面目《まじめ》この上ないです。武の家庭教師としては申し分ないと思いますが」
「そうですか……」
美里はため息まじりに言った。またしても、義弟の口車に乗るというか、説得されてしまうことを予感しながら……。
「ただ、こういう事情なので、いくら親戚だからといって、彼女にただ働きをさせるわけにはいかないのですよ。もし、この話を承知してくれるなら、それ相応のバイト料を支払ってやって欲しいのですが」
聖二は言いにくそうにそう切り出した。
「それはもちろん……。いくらでもお望みなだけお支払いしますけれど」
思わずそう答えてしまってから、美里は内心しまったと思った。つい話の流れでうっかり口にしてしまったが、これでは、自分がこの件を承諾したと言ったも同然ではないか。
「それ相応の報酬さえ貰《もら》えれば、彼女の方もこの話を断ることはないと思います。明日にでも、一席もうけますから、一度本人に会ってください」
「え、あ、明日……ですか?」
美里はうろたえながら聞き返した。
「ええ。なるべく早い方がいいと思うのです。例の痣《あざ》の検査結果にもよりますが、あまりのんびりもしていられない状況なので」
「は、はい。それはもう。わかりました。其《そ》の件もよろしくお願いします……」
またもや、美里はこの義弟にしてやられたという思いを苦々しく噛《か》み締めながら、もう一度頭をさげた。
長野行きの話同様、よく考えてみれば、そんなに悪い話ではない。相手が息子と大して年の変わらない若い女性ということだけが、美里にとっては心配の種だったが、義弟の養女ということであれば、万が一、トラブルが起きても、内々で済ませることができるだろう。
反対する理由はない。ただ……。
それでも、なんとなく、すっきりとしないというか、胸のうちに蟠《わだかま》るものがあるのはなぜだろう。黒くもやもやとした不安のようなものを感じる。この日美香という娘を、自分の生活圏に侵入させることに、漠然とした不安を……。
9
「……ライオンの檻《おり》に放り込まれたウサギって、わたしが?」
神日美香《みわひみか》は、血の滲《にじ》んだ霜降り牛のかけらを刺したフォークを口元に運びながら、少々心外という顔つきで、そう聞き返した。
「あなたに会えば、義姉《あね》もただのウサギじゃないことは一目で分かるでしょうが、二十歳の女子大生と聞けば、頭に浮かぶイメージはそんなものでしょう」
「たとえウサギだとしても」
日美香は言った。
「ろくにたてがみも揃《そろ》っていないライオンの子に取って食われるほどやわなウサギじゃありません」
「へたをすれば、ウサギの方がライオンの子を取って食いかねない……」
聖二が赤ワインを目の前の日美香の空のグラスに注《つ》ぎ足しながら言うと、
「ひどい」
日美香は笑いながら抗議した。
病院を出たあと、神聖二は、上京した際の定宿にしている新宿のホテルにいったん帰り、そこから、日美香の携帯に電話をかけて、「食事でもしながら話したいことがる」と言って、ホテルの一階にあるレストランに呼び出したのである。
日美香と養子縁組をして以来、上京した折りには、こうして一緒に食事をとることが半ば習慣のようになっていたのだが、いつの間にか、聖二はこの時間を何よりも楽しみにするようになっていた。
五十近い中年男にとって、若く溌剌《はつらつ》とした美しい娘は、見ているだけで気持ちが華やぐものだが、彼女はそれだけの存在ではなかった。
もし、日美香が自分の血を分けた実の娘だったとしても、これほどの親近感は感じなかったに違いない。年齢差や性別を越えて、自分とこの娘との間には、「お印」を持って生まれた者同士の強い連帯感のようなものが存在している。そう感じていた。
それは、口に出して言わなくても、まるでテレパシーで感じあうように、互いに感じあっていた。
彼女といると、自分だけのために特別に作られた椅子《いす》にゆったりと身をゆだねているような心地よさを感じた。
それは日美香の方も同じようで、自分といるときは本当にくつろいで楽しそうに見える。嫌々ながら義務で付き合っている風には見えない。
それが聖二の自惚《うぬぼ》れではない証拠に、急な用で上京したときなど、突然電話で誘い出しても、都合がつかないと断られたことは一度もなかった。
たとえ他に用があるときでも、そちらの方をキャンセルして、必ずなんとかやり繰りして出てきた。養父というより、まるで年上の恋人にでも会うような浮き浮きした顔で……。
「で、どうですか、この話は?」
聖二がそういうと、日美香は、考えるような顔をしていたが、
「その……武って子、どの程度の劣等生なんですか。中学レベルの基礎学力もなくて、まさか、足し算掛け算のやり方から教えなくてはならないとか……?」
「いや、そこまでひどくはない。基礎的なものはできているはずだし、頭も悪いわけじゃない。むしろ、知能は標準よりもかなり高い。それが学業に全く反映しないのが不思議なくらいに。だから、家庭教師といっても、四六時中ひっついて、手取り足取り教える必要はないんだよ。要は、競走馬の鼻先につけたニンジン役とでもいうか、彼の発奮材料になってくれればいいんです」
「ウサギから今度はニンジンですか」
日美香は苦笑しながら言った。
「まあ、言葉は悪いかもしれないが、若い男なんて、美人がそばにいるだけで、いいところを見せようと勝手に頑張るからね。そういう意味だよ。それに、新庄家といえば、閣僚の資産公開でも、常にベストファイブに入っているような金持ちだから、報酬にしても、ふっかければ、いくらでも出すだろうし、並のバイトよりも効率はいいんじゃないのかな」
「そうですね……。引き受けてもいいんですけれど、ただ、一つ気になるのは」
日美香はそう言って、言葉を探すように黙っていたが、
「彼はわたしのことをどのくらい知ってるんですか」
と思い切ったように口にした。
「何も知らないだろうね。名前くらいは聞いているかもしれないが、殆《ほとん》ど何も知らないと言っていいだろう」
「それで……いいんですか?」
「いいって?」
「わたしと彼が接近しても……。相手がまだ小さな子供とかいうならともかく、十八歳といったら、二つしか違わないし。わたしはあまり彼に接近しない方がいいんじゃないかしら」
「私も昨日まではそう思っていたよ。あなたのことを兄にだけ紹介して、新庄家の連中に紹介しなかったのもそのためだ。でも、その考えは、今日、武の身体に出たものを見て、百八十度変わった……」
「身体に出たものって?」
「お印が出た。背中の右肩の下あたりに」
「で、でも、あれは生まれついてのものだって」
「そういうことになっていたのだが、あれはどう見ても『お印』だ。念のために、明日、検査を受けることになっているが。しかし、ただの偶然とは思えない。あなたのことがなければ、私もあれが『お印』だとは絶対に認めなかったと思う。でも、女であるあなたの身体に出たものが、日女《ひるめ》の子ではない武の身体に、こんな風に突然出たとしても、もはや不思議がることではないのかもしれない。『お印』が日女が産んだ男児のみに出るというのは、これまでの調和が保たれてきた世界での決まり事であって、その調和が壊れはじめている世界ではもはや意味がないともいえる。何かが起こりつつある。この異変はその何かの前触れだという気もする……」
「……」
「だから、家庭教師|云々《うんぬん》というのは、口実にすぎないんだよ。義姉《あね》を含めて新庄家の連中にはそう思わせておけばいい。今のところは、武本人にもね。家庭教師だとか受験勉強だとかいうレベルのことは私にはどうでもいいんだ。ただ、武とあなたを会わせる良い口実にはなる。それに、此《こ》の際、武にもあなたにも神家のことをもっと知ってもらいたい。神家には、代々の宮司が書き残した家伝書というものがある。門外不出で神家の人間しか読むことができないものだが、これを、あなたがたにも読んでおいてほしい。ただ、何巻もある長いものだし、全部読むとなると、少なくとも一カ月はかかるだろう。どうしても、ある程度の滞在期間が必要になってくるんだよ。今回はそれができるいい機会だということだ。武にとってもあなたにとっても。腹を割って、本音をいえば、そういうことなんだ。解ってくれますね?」
「……解りました。そういうことでしたら、この話は、喜んでお引き受けします」
日美香は強い目をしてきっぱりと言った。
「そうか」
聖二は満足したように頷《うなず》いた。
日美香といて、何が楽しいかというと、まさにこういう瞬間だった。ぐだぐだと説明する必要がない。要所だけをかいつまんで口にしただけで、ほぼ完璧《かんぺき》に理解する。それも、理解した振りをするのではなく、本当に解っている。
言葉というより、殆ど一種の精神感応で会話をしているようなものだ。こういう相手は得難い。今までは、これができるのは、兄の貴明だけだった。その兄にさえ、言えないことはあったし、必ずしも胸襟を開き切っていたわけではない。
しかし、この娘に対しては、それができる……。
「あと、報酬などの詳しい話は、明日、義姉と会ったときに直接すればいい」
「はい。結局、こういう形で渡米費用は、父……いえ新庄さんから出してもらうことになるわけですね」
日美香は独り言のように呟《つぶや》いた。
「それはどういう意味?」
「実は……しばらく休学して渡米する話、わたしが自分で思いついたというより、この前お会いしたときに、新庄さんからもちかけられたんです。渡航費やあちらでの滞在に必要な費用はすべて自分が出すからと……」
「兄がそんなことを?」
「ええ。ご自分も若い頃、そうしたからと。学生の間にそういう経験はしておいた方がいいとおっしゃって。それに、本場の英語に触れて、日常会話くらいできるようになっておけば、どんな職業につくにしても、それが何かの役にたつと。それで、新庄さんが昔お世話になったという家庭と今も交流があるとかで、信頼のおける一家なので、ホームステイ先もそこを紹介してやると……。そのとき、費用の方は自分でなんとかすると言ってお断りしたんですが、ほかのことはお言葉に甘えさせてもらおうかなと」
「……兄とはよく会うの?」
「いえ、これで二度めです。一月ほど前に、ちょっと身体があいたので、食事でもしようと突然電話をもらったんです。ちょうど今日みたいに……。あの、まずかったでしょうか。二人きりでは会わない方がいいとは思ったんですけれど」
「そうだね。あまり頻繁に外で会っていると、義姉が不審がるかもしれない。それに、マスコミの目とかもあるしね。といっても、実の父娘《おやこ》なんだから、たまに会いたいと思うのは人情だろうが……。でも、今、あなたと兄の関係が義姉に知られるのはまずいな。単なる夫婦|喧嘩《げんか》程度では済まない恐れがある。おとなしそうに見えるが、あれでも、新庄信人の娘として、後援会の連中には一目置かれている人だからね。彼女にへそを曲げられると何かとやりにくくなる。これからは、兄に会いたいと思ったら、必ず私を通してください。私がなんとかするから。それと、兄から連絡があったときも、すぐに行動せずに、一応、こちらに知らせてほしい」
「はい、わかりました……」
日美香は素直に頷いた。
貴明がこっそり日美香に連絡をとり、二人きりで会っていたと聞かされて、聖二は不快感にも近いものを感じていた。
それと同時に、そこに微《かす》かな危険の匂《にお》いをも嗅《か》ぎ取っていた。
兄は、どういうつもりで日美香を呼び出して会ったのだろう。単に「父親」として「娘」に会いたかっただけなのだろうか。
しかし、兄には、果たして「父親」という自覚があるのだろうか。
自分の手元で生まれたときから育てていたならともかく、二十歳になるまで、その存在さえも知らなかった「娘」を、しかも、どんな男の関心さえも容易に集めそうなほど美しく成長した「娘」を、はたして、どの程度まで「娘」と認識しているのだろうか。
そもそも、親子だとかきょうだいとかの「家族意識」というものは、長年、同じ場所で生活を共にすることから自然に生まれてくるものだ。いくら血がつながっていても、生活を共にしたことがなければ、この意識は生じにくい。
兄の目には、日美香は「娘」というよりも、「若くて魅力的な異性」として映っているのではないか……。
同じことは、日美香の方にもいえる。
地位も名誉も金もあり、ルックスも並以上で、「親父臭くない」中年男は、彼女のような若い娘には、時には、同世代の男よりも遥《はる》かに頼もしく魅力的に見えるものだ。
同じ男を父親にもつ武と日美香の接近よりも、頭でしか「父娘」ということが解っていない兄と日美香の接近の方がより危険をはらんでいそうな予感がした。
これは、妙なことにならないうちに、兄の方にも一言|釘《くぎ》をさしておかなければ……。
聖二はそう腹の内で思いながら、自分が感じたこの不快感が、実は、嫉妬《しつと》という感情であることまでは自覚できていなかった。
そして、それが、どちらに対して感じた嫉妬であるのかも……。
10
日美香と食事を済ませて別れたあと、聖二がホテルの部屋に戻ってきたのは、既に午後十時をすぎた頃だった。
ざっとシャワーを浴びて、備え付けのタオル地のガウンを羽織っていると、テーブルの上に投げ出してあった携帯が鳴った。
出てみると、兄だった。
「今日はご苦労だったな……」
「いえ。今こちらからかけようと思っていたんですよ」
「美里から大体の話は聞いた。長野行きのことも」
「そうですか。この前の話では、武のことは私に一任するってことだったので、勝手に話を決めさせてもらいました。承知してもらえますね?」
「もちろんかまわないよ。それどころか、もっと早くにそうすればよかったとさえ思っている。武《あれ》は俺《おれ》よりおまえになついていたからな。でも、正直なところ、ほっとしているよ、最悪なことにならなくて……」
「それは私も同じですよ。これがペットの犬か何かなら、育て方を間違えても、保健所送りにでもすれば事は済みますが、人間の子供となると、そう簡単にはいきませんからね」
多少皮肉をこめてそう言うと、兄はしばらく黙っていた。
「大丈夫です。武は変わりますよ。長野から帰ってきたときは別人のようになっているかもしれない。今ももう、かなり意識が変わってきていますからね。あの事件は、武にとっては、むしろ良かったのかもしれません。あの子は、もともと、生死を分けるような危険な目にあうことで大きく成長する星の下に生まれついたようなところがありますから」
「……そうだな。とにかく、後はおまえに任せるよ。好きなようにやってくれていい」
貴明はそう言いかけ、
「そういえば、美里が妙なことを言っていたんだが」と何かを思い出したように言った。
「妙なこと?」
「武の背中に変な痣《あざ》が出てきたとか……。蛇の鱗《うろこ》みたいな気味の悪い痣だったというのだが、まさか……」
「そのまさかだと思います」
「お印か?」
貴明は誰かに聞かれるのをはばかるように、声を潜めて聞き返した。といっても、おそらく近くには誰もいないだろうが、と聖二は思った。
家族に聞かれたくない密談めいた話をするときは、鍵をかけて書斎にこもり、そこから電話をすることが多かったからだ。
今もおそらく書斎からかけているのだろう。
「見たのか」
「見ました。お印に間違いないと思います」
「し、しかし、なぜ、日女《ひるめ》の子でもない武にお印が出たんだ? しかも、こんな突然に……」
「解りません。あの事件と何か関係があるのかもしれません。犯人の女に切り刻まれたことで、武の中で何かが大きく変わったとしか思えません。あるいは、あの事件の刺激によって、生まれつき彼の身体に潜んでいたものが顕在化したのかも……」
「たまたまお印によく似た痣が出たにすぎないということはないのか」
貴明は食い下がるような口調で言った。その口調から、なぜか、兄は武の身体に出たのが神紋であることを認めたくないらしいと、聖二はふと感じた。
「その可能性も否定はできませんが、私の目にはお印にしか見えませんでした。その点については、明日、皮膚科や内科の検査を受けるそうですから、その検査待ちってことになりますね。もし、検査結果から、何らかの病気の前触れではないことがはっきりしたら、あれはお印と考えて間違いないでしょう」
「そうか……」
「それで、そのことで兄さんに言っておきたいことがあるんです」
「……なんだ?」
「武の身体にお印が出た以上、武は、大神の意志を継ぐ子になったということです。今までは、新庄家の人間ということで、こちらも干渉は控えてきましたが、これからは、神家の人間として扱うつもりです」
「それはかまわないよ。どうせ、跡取りは長男の信貴とはなから決まっているのだし、武をどうしようと、親戚《しんせき》連中からも文句は出ないだろう」
「私が言いたいのは、そういうことではなくて」
聖二はやや苛《いら》ついたように言った。
「武はあなたの子であって、もはやあなたの子ではなくなったということです。たとえ、父親のあなたでも、軽々しく武の身体に指一本触れることはできなくなったということです。彼の将来に関しても、あなたに口出しする権利は一切なくなったということなんですよ。このことは、それとなく義姉《ねえ》さんにも伝えておいてほしい。今後、武の将来を含めたすべてのことは、この私が決めます。私が彼の実質的な保護者になります。よろしいですね?」
「……せいぜい肝に銘じさせてもらうよ。いっそ、これからは、あれのことを武様とでも呼ぼうか。昔、親父《おやじ》の前では、弟のおまえをそう呼んでいたみたいに」
貴明は、機嫌を損ねたような陰険な声音で言った。
「そこまでやる必要はないでしょうが、ただ、気持ちの上では、そのくらいのつもりでいてほしいですね。それと、これはまだ決定したことではありませんが、今度の大神祭で、武に大神の御霊《みたま》をおろそうと思っています。あの痣がお印であることがはっきりした段階で大日女を通じて公表するつもりでいますが」
「大神の御霊をおろすって、三人衆にするということか」
「そうです。考えてみると、武には三人衆になれるだけの条件が備わっているんですよ。十八歳から三十歳までの独身男子であること。日女の子ではないこと。この条件は文句なく満たしています。ただ、生まれ育ったのがあの村ではないことがネックといえばネックですが、それも、お印が出たということで問題にはならないでしょう」
「…………」
「さらにもう一つ。日美香のことですが」
聖二は、不機嫌そうに黙った兄を無視するように淡々と続けた。
「彼女と二人きりで会ったそうですね?」
「…………」
「まずいですよ。若い娘と二人きりで食事なんかしているところをマスコミの連中に嗅《か》ぎつかれたら……。少々軽率でしたね」
「別にかまわんだろう? 誰だと聞かれたら、姪《めい》だと答えれば済むことじゃないか。弟の養女《むすめ》だと。親戚の娘とたまに食事をすることのどこが悪いんだ」
「二人きりというのは避けた方がいいと言っているんです。あんな人目を引くタイプでなければ、私も心配はしないんですが。マスコミが彼女に興味をもって、身辺や過去を探りはじめたら厄介なことになりますよ」
「まさか、あれの出生のことまでは分からないさ」
「楽観はできません。あの達川という週刊誌記者の例もあります。とにかく、スキャンダルの種は作らないに限る。今後、彼女に会いたいときは私に言ってください。誰に見られても不自然ではない場を作りますから。それと……日美香がご自分の娘だということをくれぐれもお忘れにならないように」
「当たり前じゃないか。あの娘《こ》と会ったのも、父親として何か力になれることはないかと思ったからだよ。知らなかったとはいえ、ずっとほったらかしてきたわけだからな。聞けば、母子家庭で育って苦労してきたそうじゃないか。これまでの償いとして、俺にできることなら何でもしてやりたい。むろん、『父親』として……」
「それは私も同じですよ。だから、養子縁組という形を取ったのです。あなたが直接動かなくても、私に言ってくれれば、私が何でもしてやりますから」
「わかった、わかった。これからは気をつけるよ」
貴明は、その話題はもういいというように遮ったあとで、
「それより、まずいといえば、日美香を武の家庭教師にする方がずっとまずいんじゃないのか。あの二人をわざわざ接近させるようなことをして、おまえこそ軽率じゃないのか? 日美香の方はともかく、武は何も知らないんだぞ。万が一、あの二人が……」
「そのときはそのときです。いざとなったら、二人を結婚させてしまえばいいだけです」
「おいおい、心臓に悪い冗談をいうなよ」
「冗談ではありません。真面目《まじめ》に言ってるんです。成り行きとしては、それもありえます。表向きは従姉弟《いとこ》ということで、法的には何ら問題はないし、当人同士が望むなら、私は許すつもりでいます。なんでしたら、武を日美香の婿として神家に迎えるという形にしてもいい。そうすれば、彼は名実ともに神家の人間になれる……」
「ちょっと待てよ。法的に問題はなくても、倫理的に問題があるだろう!」
貴明は興奮のあまりつい声が大きくなりそうになるのを必死に抑えるような声音で言った。
「異母|姉弟《きようだい》だということがそんなに問題ですか」
聖二は涼しい声で言い返した。
「大問題だよ。倫理的に見て……」
「あなたの口から倫理という言葉が聞けるとは思っていませんでした」
「…………」
「今でこそ近親婚はタブーということになっていますが、少し過去に溯《さかのぼ》れば、異母きょうだいが堂々と結婚できた時代もあったんですよ。倫理なんてものは国や時代によっていくらでも変わりうるものです。絶対的なものではない。げんに国によっては、日本では許されているいとこ同士の結婚がタブーになっているところもある。それに、近親婚が危険だというのも、近親による交配が何代も続けばの話ですしね」
「しかし……」
「もし、武の身体にお印が出たのでなければ、私も、あえてタブーを犯してまで、二人を結びつけようとは思わなかったでしょうが、武の身体にもお印が出た以上、これは大神の意志だということです」
「大神の意志……?」
「そうです。大神の意志なんですよ。神紋をもつ二人を結び合わせよ、という。家伝書の序《はじめ》にあった『陰陽の蛇が交わるとき……』とは、まさに、『陰の蛇』たる日美香と、『陽の蛇』たる武を結び合わせよという意味だと解釈できるんです。それが大神の意志なんです。この世に絶対的なものがあるとしたら、それは、大神の意志だけです。これだけはすべてを超越する唯一無二のものです。この意志の前には、たかが一国の、一時代にしか通用しない倫理だとか法律なんてものは塵芥《じんかい》にも等しい……」
11
「……まあ、おまえの好きなようにやるがいいさ。今までもそうしてきたんだからな」
そんな捨て台詞《ぜりふ》にも近い言葉を吐いて、新庄貴明は、書斎のデスク上の電話機のフックを平手で叩《たた》き押して、やや一方的に通話を打ち切った。
弟が「大神の意志」という言葉を持ち出したときは、物言わぬ岩壁を相手にするようなもので、もはやまともな会話は成立しなくなることを今までの経験からいやというほど知っていたからだ。
手にしていた受話器を放り出すようにデスクに戻すと、貴明は、両|肘《ひじ》をつき、打ちのめされたように両手で頭を抱えた。
やっぱり、お印だったのか……。
妻から武の背中に突然現れた奇妙な痣《あざ》のことを聞いたときは、「まさか」と思い、それでも、「日女の子でもないのに、お印が出るわけがない」と胸のうちで否定し続けていたのだが……。
同じ神紋をもつ聖二があそこまで断言するのなら、ほぼ間違いないのだろう。
それにしても、分からない。
なぜ、日女の産んだ子にしか出ないはずの神紋が武に出たのか。それも、今頃になって……。
もし、大神の意志を継ぐのが日女の子でなくてもいいなら、なぜ、この自分にお印が現れなかったのか。
それがどうしても分からない。
どうして、俺《おれ》ではなくて、息子の武に……。
「武はあなたの子であって、もはやあなたの子ではなくなったということです」
弟の非情な声が混乱した頭の中で響いていた。
その声は、今から四十年以上も昔、貴明がまだほんの子供だった頃、父の琢磨《たくま》から激しい打擲《ちようちやく》と共に聞かされた言葉をいやでも思い出させた。
あれは……。
六、七歳の頃だっただろうか。
一歳下の聖二と家の庭でふざけていて、弾みで地面に押し倒して、ケガをさせてしまったことがあった。
ケガといっても、ひざ小僧を擦りむく程度の軽いものだったのだが、弟の泣き声を聞いて駆けつけてきた父は、二人を見て血相をかえた。
白衣に浅葱《あさぎ》の袴《はかま》という宮司姿だった父は、白足袋《しろたび》のまま縁側から庭に飛び降りてくると、ものも言わず、呆然《ぼうぜん》と父親を見上げていた貴明をその場で殴り倒した。
そして、鼻血で顔面を染めた幼い長男に向かって厳然と言い放った。
「大神のお印をもって生まれたお子に怪我《けが》をさせるとは何事か。聖二はおまえの弟であって弟ではない。おのれを兄と思うな。家来だと思え。これからは聖二様とお呼びし、家来のようにおつかえしろ」
父は仁王立ちになって、そう言った。
鼻血が出るほど殴られた痛さよりも、「弟に家来のようにつかえろ」と言われた屈辱感に、貴明は身を震わせて泣きじゃくった。
古くから伝わる因習とはいえ、なぜ、神家の長男に生まれながら、日女の子である弟妹《きようだい》たちよりも、自分が格下に扱われなければならないのか。神紋をもって生まれたというだけで、なぜ、一歳年下の弟に家来か何ぞのようにつかえなければならないのか。
どうしても納得がいかなかった。
それでも、幼い貴明には、父の命令は絶対であり、内心では弟に対してかすかな憎悪のような感情すら抱きながら、それを必死に押し隠し、父の前では、言われた通りにするしかなかった。
小学校時代まで、聖二との関係は、「兄弟」というより「主従」のそれに近かった。それも、兄である自分が「従」で、弟である聖二が「主」という変則的な……。
この関係が微妙に変わったのは、神家に生まれた男子は中学以降の教育は東京に出て受けるという家風に従って、上京してからだった。
東京のアパートで二人で暮らすようになって、次第に、故郷での「主従関係」が逆転しはじめたのだ。
中学に入った頃から、まるで女の子のような弱々しい外見をした弟は、すぐに同級生たちの格好の苛《いじ》めの対象になった。
「お印をもった子」ということで、両親からもかしずかれて育った弟にしてみれば、東京での生活は温室から荒野、いや、天国から地獄に落ちたようなものだったに違いない。
父からは「聖二様をお守りしろ」と厳しく言い付けられていたが、父の目の届かない所で、そんな命令を守る気はなかった。弟が毎日のように学校で同級生に苛められているらしいことに薄々気づきながらも、貴明はそ知らぬ顔をしていた。
それどころか、弟の青アザのできた悲しげな顔を見るのは、密《ひそ》かな楽しみにさえなっていた。
こんな生活が続いたある日、聖二が突然たまりかねたように言った。
「兄なのに弟に敬語を使って話すなんておかしいよ。ここでは誰もそんなことはしてない。こちらにいるときは普通の兄弟のようにしようよ」
東京での生活に慣れるにつれて、自分たちの育った環境がきわめて特殊で、一般のそれとは大きく違っていることにようやく気づいたようだった。
それに、父の命があったにもかかわらず、兄が自分を守るそぶりを全く見せないことで、兄が自分に対して抱いていた鬱屈《うつくつ》した感情を察したらしい。
昔からそうだった。聖二には人の気持ちを容易に見抜く不思議な能力があった。こちらの心の隙間《すきま》にするりと小蛇のように入り込んできて、いつのまにか、隠したがっていた思惑や感情をすべて読み取ってしまう……。
今から思えば、聖二があんなことを突然言い出して、自分に対して「下手《したて》」に出るようになったのも、兄の自尊心を満足させることで兄を味方につけ、故郷のようにはいかない都会での生活の中で、自分の身の安全を図ろうとしたのかもしれない。
打算というよりも、本能的に……。
それは、いわば、猫が「一時的に」飼い主に擦り寄って甘え、安全と餌《えさ》を確保しようとする防衛本能にも似ていた。
聖二がはからずも取ったこの方法はすぐに成功した。「兄さん兄さん」と下手に出られて甘えられているうちに、だんだん、貴明の中で、それまでわだかまっていた暗い感情が氷解して、代わりに、この弟を「可愛《かわい》い」と思う感情が自然に生まれてきたからだ。
そう思って見ると、そのへんの女の子よりも遥《はる》かに整った容姿をもった弟は、見た目にも「可愛い」かった。
しかも、弟よりは都会の生活にいち早く順応していた貴明にとっても、親元を離れた生活は、半ばせいせいしながらも、やはり寂しさや孤独を感じることもあった。
そんなときに、同じ環境で育った弟の存在は、冷えた身体を温めてくれる優しい火のように思えることもあった。
そんな「火」を絶やすまいとするのは、当然の心理というもので、貴明の中で、それまでは、父から命令されただけの胸糞《むなくそ》の悪い「義務」にすぎなかった、「弟を守る」ということが、「弟を守りたい」という、自分自身の意志に変化していったのである。
兄弟というのは奇妙なもので、家にいるときは、親の愛や関心を奪い合う最初の「敵」でもあるのだが、いったん、家を出て、外に新たな敵がいることを知ると、その敵に対しては、心を一つにして戦う最良の「同志」にもなりうる。
故郷にいたときは、「こづら憎い」存在でしかなかった弟が、故郷を離れて身を寄せ合って暮らしているうちに、次第に、兄弟という以上の絆《きずな》で結ばれたかけがえのない存在になっていったのである。
そして、このとき築きあげた「関係」は、互いに五十近い歳になっても、揺るぐ事なく継続している。今でも、弟は自分にとって手放せない「知恵袋」であり、腹を割って何でも相談できる唯一の相手だった。
聖二の方もあれ以来、人前ではもちろん、二人きりのときでも、自分には殊更に敬語を使い、あくまでも「弟」としての立場を崩さない態度を保ち続けている。
とはいえ……。
それは、彼が「大神の意志」という言葉をもち出すような状況にならない限りにおいてはという限定付きではあったが。
12
ただ、いくらその後、聖二との関係が改善されたからといって、あの日、父から言われた「弟であって弟ではない。家来のようにつかえろ」という言葉の衝撃は、貴明の中で消え去ることはなかった。
あの時感じた身を切り刻まれるような屈辱感は、四十年以上もたった今でも忘れることができない。
そして、今、あれと全く同じ意味をもつ言葉を、よりにもよって、一族の司令塔的存在になった、その弟の口から聞くことになろうとは……。
神紋が出たことで、武は我が子であって我が子ではなくなった。
聖二は口に出してこそ言わなかったが、これからは、武には「父親」ではなく「家来」としてつかえろと宣言したも同然だった。
それは、その昔父に言われたときよりも、さらに大きな屈辱感をもたらす言葉だった。
でも、こうなることは、心のどこかで予感していたような気がする。
あの奇妙な悪夢を見るようになったときから……。
最初にあの夢を見たのはいつだったか。
確か、武が生まれた直後くらいからだった。今までにも何度か同じ夢を見ている。身も心も疲れて倒れこむように床にはいった夜などは、しばしばこの悪夢に悩まされた。
それは、鏡に映った自分の顔がどんどん若返っていき、十代半ばくらいまで若返ったところで、その少年の顔をした自分が鏡の中からぬっと出てきて、万力のような力で自分の首を絞めようとする……。
そんなシュールな悪夢だった。
鏡の中の自分、それも少年の姿をした自分に殺されそうになるという夢。なぜ、こんな夢を繰り返し見るのか。これがいかなる深層心理を物語っているのか……。
薄気味悪い夢ではあったが、夢の意味が全く読み解けなかった間は、それほど気にはしていなかった。
この夢のもつ恐ろしい意味に気づいたのは、あれは、武が中学に入った頃だった……。
それは全くなにげない日常の風景の中で突然やってきた。
朝、いつものように洗面所の鏡の前に立って髭《ひげ》をあたっていると、トイレから出てきた次男が手を洗うために、鏡の前に並び立ったことがあった。
幼い頃はひ弱だった子が、いつのまにか、見違えるように逞《たくま》しくなっていた。女の子のようだった骨格もしっかりしてきて、肩幅も広くなり、背丈も急速に伸びて、並んで立つと、自分より僅《わず》かに低いだけだった。
子供の成長は早い。そのうち背丈も抜かれるかもしれない……。
そんなことを思いながら鏡を見ていた貴明は、ふいにあることに気が付いて、衝撃のあまり手にしたシェーバーを取り落としそうになった。
鏡には、髭を剃《そ》る自分と手を洗う武の顔が並んで映っていた。
四十代半ばの男の顔と、それと全く同じパーツをもつ少年の顔。「老い」の気配が漂いはじめた中年男の顔と、瑞々《みずみず》しい細胞がきらめき弾けているような若者の顔。
パーツが似ているだけに、その「老い」と「若さ」のコントラストが残酷なまでに映し出された二つの顔……。
貴明は、愕然《がくぜん》として鏡の中の自分を凝視した。そのとき、はじめて、自分の「老い」を意識した。それまでは、実年齢よりも若く見えるということもあって、「老い」を実感したことはあまりなかった。体力も気力もそんなに落ちてはいないと思っていた。
それが、こうして息子と並び立ってみると、自分にも老いが確実に忍び寄っていたことに嫌でも気づかされたのだ。
しかも、衝撃はそれだけではなかった。
それまでは、あまり自分に似ているとは思っていなかった―――幼顔はむしろ弟の聖二に似ていると密《ひそ》かに思っていた次男が、驚くほど自分に似てきたことに気づいたのである。
そう思ったとたん、貴明の中で、何かが閃光《せんこう》を放って炸裂《さくれつ》した。
この顔だ。
鏡の中に現れたあの「顔」。
自分を悩まし続けてきた悪夢の中に繰り返し現れる……。
鏡に映った武の顔は、まさに、あの悪夢の中に出てくる「少年の顔」をしていた。
もしかしたら……。
あれは予知夢のようなもので、自分はいつか、この自分そっくりになった次男に殺されるということを暗示していたのではないか。
我が子に殺されるという神託を受け、その通りの運命をたどったテーバイの王ライオスのように……。
それがあまりにも馬鹿げたオカルトじみた被害妄想だと分かっていても、一度そう思いついてしまうと、それは強迫観念のようになって、貴明の心の深いところに住み着いてしまった。
そして、この「強迫観念」ゆえに、それまでは長男以上に可愛がっていた次男との接触をそれとなく避けるようになった。
武がそばにきただけで、夢の中の、あの万力で喉《のど》を絞めつけられるような感触がふいに蘇《よみがえ》ってきて、息苦しさすら感じるようになったのだ。
ある一定の距離を越えて武が近づいてくると、この奇妙な発作のような症状が出てくるので、次第に、息子と同じスペースを共有することを無意識のうちに拒むようになり、そばにあまり近寄らせないために、透明なバリアを周囲に張り巡らせるようになった。
武の方も、父親に近づこうとすると、自分を弾き飛ばすこの目には見えないバリアの存在に気づいたらしく、小さい頃のように無邪気に近寄ってはこなくなった。
振られた女のような恨みがましい目をして、遠くからこちらを見ているだけになった。
父親が自分に対して急に冷淡になった真の理由も分からず、父が自分に関心を見せなくなったのは、自分の学業成績が兄のように良くないことで、父が失望し期待することをやめたのだと勝手に思い込んだようだった。
ただ、貴明の中に巣くったこの「強迫観念」というのは、我が子に「物理的」に殺される恐怖というよりも、「精神的」に殺される恐怖と言った方がいいかもしれなかった。
精神的に殺される。つまり、それは、「取ってかわられる」恐怖といってもよい。
あのとき……。
武は、手を洗おうとして、洗面所の前に陣取っていた父親を肘《ひじ》で軽くおしのけるような仕草をした。
それは、半ば無意識でしたような、ごく軽い仕草だったにもかかわらず、貴明は、一瞬、息子につきとばされたような心理的衝撃を受けた。
いつか、自分は、こんな風に、今自分が確保しようとしている「座」を、この自分と同じ顔した、そして、自分よりも確実に若い息子に奪われるのではないか。
一瞬、そんなことを考えた。
人には、その人間だけが座るべき「椅子《いす》」のようなものがある。人生というのは、その自分
だけの「椅子」を探す旅かもしれない。その「椅子」は一つしかなく、時には、その「椅子」に座りたがっている別の人間と、その一つしかない「椅子」を争うはめになることもある。
そして、そのライバルが、血を分けた実の息子ということもある……。
納得して譲るのならいい。これまで築きあげたものはすべて、いずれは、二人の息子に譲るつもりでいる。ただ、それはあくまでも、自分の体力と気力に限界を感じ、自らの意志で、この世の晴れ舞台から退いてもいいと思ったときだ。
しかし、そうなる前に、自分がようやく見つけた「椅子」を誰かに奪われるのは御免だ。たとえ、それが最愛の息子だろうと。まだ譲るわけにはいかない。絶対に。
だから、あの事件が起きたとき……。
武が刺されたと聞かされ、慌てて、収容された病院に駆けつけ、手術室の前の長椅子で、手術が終わるのを待っていたとき、貴明の心の中は激しく揺れていた。
出血多量のためにすぐに輸血が必要だと医師に言われ、ためらうことなく自分の血を与えた。そのときは、嘘《うそ》偽りのない気持ちで、息子の命が助かることだけを考え念じていた。
しかし……。
長椅子に座って、刻々と時間がたつうちに、「なんとか助かってほしい」とだけ念じていた気持ちに、少しずつ……そう、少しずつ、白いクリームスープの皿に一滴の墨汁を流しこんだように、少しずつ、全く別の黒い祈りが混じりこんでいった。
いっそ、助からないでほしい。このまま死んでくれたらという切実な祈りが……。
[#改ページ]
第六章
1
十月十七日。土曜日。
神聖二はノックすることもなくその特別病室のドアを開けた。
部屋の中はがらんと片付いていて、ベッドの端には、白のTシャツの上に革ジャンを羽織った武《たける》が人待ち顔で腰掛けていた。足元には、身の回り品だけを詰めたようなボストンバッグが置いてある。
皮膚科や内科の検査を受けた結果、身体の方には何の異常も見られないことがわかり、急遽《きゆうきよ》、退院ということになったのである。
退院といっても自宅には帰らず、このまま、新宿のホテルを引き払った聖二と一緒に長野に行く手筈《てはず》になっていた。
「準備できたか。下にタクシー待たせてあるから」
聖二がせかすように言うと、武は頷《うなず》いて、ベッドから立ち上がりかけた。
「義姉《ねえ》さんは?」
重ねて聞くと、
「先生たちに挨拶《あいさつ》してくるって、下に……」
と武は言った。
「じゃ、行こうか」
聖二はそう言うと、先に部屋を出て行きかけたが、
「叔父《おじ》さん……」と武に呼び止められた。
「母さんから聞いたんだけど、向こうで家庭教師つけるって本当?」
「家庭教師というか……」
「女子大生だって?」
武はあざ笑うような表情で聞いた。
「女子大生のお姉さんに俺《おれ》の家庭教師がつとまるかなぁ」
「自分で言うなよ」
「叔父さんの養女ってことは、俺とはどういう関係になるの?」
「法的には従姉弟《いとこ》ということになるのかな」
「でも、養女ってことは、血はつながってないんだよね」
「いや、そうでもない。彼女の実母はおまえのお父さんの従妹《いとこ》にあたる人だから、血筋の上では、おまえと彼女は再従姉弟《はとこ》ということになる。赤の他人ってわけじゃないよ」
「ハトコか。なんかややこしいね。ようするに遠い親戚《しんせき》ってとこか。で、美人なの?」
「それは自分の目で確かめてみるんだな。今、ロビーで待ってるよ」
「え」
武は驚いたように目を丸くした。
聖二の話では、日美香も同じ新幹線で長野に行くことになっており、朝方、聖二が宿泊していた新宿のホテルで落ち合って、そこのレストランで朝食を一緒にとり、タクシーを拾って、ここまで来たということだった。今もロビーで待っているという。
「さあ、早くしろ」
聖二が促すように言うと、武は、足元にあったボストンバッグを取り上げた。
病室を出て、エレベーターで下のロビーまで降りると、正面玄関の近くに、母と担当医師、世話になった数人の看護婦たちの姿があった。その中に混じって談笑していた若い女が、エレベーターから降りてきた二人にすぐに気づくと、近づいてきた。
淡いパープル系のスーツをすらりと着こなし、肩まである黒髪をスーツと同色のリボンできりりと後ろで結んでいる。清楚《せいそ》で知的な印象の強い女だった。
「武君?」
若い女は笑顔で話しかけてきた。
やや高めのヒールを履いているせいか、女の背丈は、武よりも少し低いだけだった。
叔父の隣で、片手を革ジャンのポケットにつっこみ、片手でボストンバッグをさげていた武は、どぎまぎしたような表情で、頷いた。
「神日美香です。よろしく」
日美香はそう言って、握手でも求めるように右手を差し出してきた。
武は目の前に突然差し出された女の手を無視して、片手を上着のポケットに突っ込んだまま、怒ったような顔で、ぺこんと頭をさげただけだった。
「なに照れてるんだよ。握手くらいしろよ」
聖二がそう言って、甥《おい》の腕を肘でこづいた。武は、渋々、上着のポケットから右手を出し、女の手の先っぽをお義理のように軽く握ると、素早く引っ込めた。
「なんだ。その犬がお手するみたいな握手の仕方は」
聖二は珍しく声をあげて笑った。日美香も苦笑に近い笑みを口元に浮かべていた。
でも、武は笑えなかった。
手を素早く引っ込めたのは、裸の電線に素手で触れたような精神的ショックを受けたせいだった。神日美香の白くしなやかな指先に触れた瞬間……。
2
玄関まで見送ってくれるという担当医師と数人の看護婦と共にロビーにいた新庄美里は、医師の軽口に笑いながら応じつつ、目だけは、義弟と息子の方に近づいて行った日美香の姿を追っていた。
似ている……。
自分たちと少し離れたところに立っている三人の方をそれとなく見やりながら、胸をつかれるような思いでそう思った。
日美香と聖二がよく似ていることは、先日、はじめて日美香に会ったときから思っていたことではあったが、日美香と武がこんなに似ているとは……。
美里は、二日前、日美香と会ったときのことを思い出していた。
なじみの料亭の離れで会うことにしたのだが、聖二と並んで座っている日美香を一目見た瞬間、この義理の父娘《おやこ》が非常に似ていることに驚いた。
事情を知らない者が見たら、本当の父娘だと思い込むだろう。というより、義弟が実年齢よりも遥《はる》かに若く見えることから、年の離れた兄妹《きようだい》だと思うかもしれない。
単に顔立ちだけでなく、全身に漂う、冷ややかで凜《りん》とした雰囲気のようなものにもどことなく共通点があった。
ただ、美里をさらに驚かせたのは、会食しなが
ら話すうちに、目の前の若い女のちょっとした表情や目つき、横を向いたときに見せる横顔の輪郭などが、はっとするほどある人物に似ていることに気が付いたときだった。
それは夫の貴明だった。
顔立ちそのものは義弟に似ているのだが、時折見せる表情などの「何か」が夫にとてもよく似ている……。
それはまるで、聖二という器に貴明という中身を入れ、それを若返らせて「女」にした。一言でいえば、神日美香の印象はそんな感じだった。
夫から聞いていた話では、日美香の実母という人は、夫たちの従妹にあたるということで、もともと血の繋《つな》がりはあるのだから、多少似ていても不思議はないのだが……。
それに、神家の人間そのものが互いに非常によく似かよっている。家にも時折出入りしている、夫の他の弟たちを見ても、それは日々痛感していることではあった。
ただ、日美香の実母の話は聞かされていたが、実父の話については全く聞かされていなかったことに、このとき、美里は漠然とした不安というか疑念をもった。
おそらく日の本村に住む人なのだろうが……。
夫にそれとなく聞いてみても、適当にはぐらかされてしまうので、指に刺さった小さな刺《とげ》のように気にはなりながらも、それ以上は追求できないでいた。
会食の席でも、さりげなく、日美香の父親のことに話をもっていこうとしても、義弟からも、やんわりと話題をそらされてしまった。
それにしても……。
やはり、あのとき、日美香が夫に似ていると感じた自分の感覚は気のせいではなかった。 美里は、並んで立っている日美香と武の方を見ながら、あらためてそう思った。
はたから見ると、この二人は、再従姉弟というより、もっと近い間柄……たとえば、実の姉弟のようにさえ見える……。
ぼんやりとそんなことを思っていると、三人がこちらに近づいてきた。
「義姉さん、私たちはそろそろ行きますので」
聖二が言った。
「それじゃ、武はわたしの車で駅まで送りますから 今、車を―――」
美里が慌ててそう言いかけると、
「その必要はないですよ。彼も一緒に私たちとタクシーで行きます。そのつもりで、わざわざ寄ったんですから」
聖二は遮るように答えた。
「え、でも、わたしも東京駅まで……」
見送ると言いかけて、美里は口ごもった。
「義姉さんも選挙活動の手伝いや何かでお忙しい身体でしょうから、見送りならここでけっこうですよ」
聖二はにこやかに微笑《ほほえ》みつつ、一見、義姉を気遣うようなことを言いながら、美里を見据えているその目の底には、どこか突き放すような冷ややかな光が湛《たた》えられていた。
一秒でも長く息子と一緒にいたい。
そんな思いを義弟に見透かされたような気がして、美里は何も言い返せず、ただ立ち尽くしていた。
その胸に、昨夜、夫に言われた言葉がふと蘇《よみがえ》った。
「武の背中に出た奇妙な痣《あざ》は、日の本村で古くから、神家の血筋の男児だけに出る『お印』と呼ばれるものに似ている。皮膚や内科の病気でないことが分かった以上、あれはやはり、『お印』に間違いない。この『お印』が出た以上、武は新庄家の人間というよりも、神家の人間になったと思ってほしい。これからは、武のことは、弟の聖二にすべて任せる。弟のすることに一切反対も口出しもしてはならない……」
夫は、そんなことを、妻にというよりも、自分自身に言い聞かせるように、苦々しげな口ぶりで言った。
そして、そう言ったあと、半ば独り言のように、こう呟《つぶや》いた。
「どうやら、聖二は、いずれは武を日美香の婿にして、完全に神家の人間にする腹づもりのようだ。二人を日の本村にしばらく滞在させるのもそのためだろう……」
それを聞いて、美里はあっと思った。
武と日美香を……。
そうか。そういうことだったのか。
なぜ、義弟が突然、武を長野に引き取りたいと言い出したのか、よりにもよって、養女の日美香を家庭教師としてつけるなどと言い出したのか。
それは、単なる思いつきではなく、すべて、計算した上でのことだったのだ。
美里は、ようやく義弟の真意が分かったような気がして、たまらなく不愉快になった。
義弟のどこが好きになれないかといえば、まさにこういうところだった。
人をまるで将棋かチェスの駒《こま》のように操ろうとする……。
それもけっして強引なやり方ではなく、表向きはごく自然に、操られている当人にさえ、自分が単なる駒であることを全く気づかせないよう巧妙なやり方で。
おそらく、さほど年の違わない若い男女を、一つ屋根の下に住まわせて、寝起きを共にさせれば、そのうち、二人の間に自然に恋愛感情めいたものが育つとでも思っているのだろう。
しかし、手にしているのは冷たいチェスの駒ではない。血の通った人間である。自分の意志や感情をもっている。駒を自在に操るように人間が操れるものか。そう簡単に、義弟の思いどおりに事が進むだろうか。
通用門の手前で待機していたタクシーに乗り込もうとしている三人に、見送りの医師や看護婦に混じって、手を振りながら、美里はやや皮肉に思っていた。
そもそも、武は田舎があまり好きではない。都会生まれの都会育ちで、都会のテンポ、都会のあらゆる刺激に慣れ切っている。周囲から隔絶されたような山奥の村の刺激の少ない単調な生活にもすぐに飽きてしまうだろう。
今までにも、夏休みなどの長期休暇は、田舎にある別荘で過ごすことが多かったが、どこに行っても、一週間もすれば、変化に乏しい暮らしに飽きて、早く東京に帰ろうとぐずり出すのは、決まって武だった。
たぶん、今度の長野行きも、聖二の方は、少なくとも一カ月くらいは滞在させるつもりでいるらしいが、とてもそんなにもたないのではないか。いつものように、一週間もたてば、田舎生活に飽き飽きして、さっさと一人で帰ってくるのではないか……。
美里はそうなることを密《ひそ》かに期待しつつ、三人を乗せたタクシーが走り去るのを見送っていた。
3
「……あれ、なんか変わっちゃったなぁ」
午後一時半。
長野駅の改札口を出るなり、新庄武は周囲をきょろきょろ見回しながら、思わずというように呟いた。
「そりゃ十年以上もたてばな」
聖二が言った。
駅構内の様子が子供の頃の記憶とは全く違っていた。新幹線が開通したせいか、当時に比べれば、ずいぶんと現代的な造りになっている。
それに、何よりも早い。東京駅を出て一時間半足らずで着いてしまった。昔は、特急列車でも長々と三時間近くもかかって、まだ小学生だったということもあるが、おとなしく座席に座っているのも苦痛だった。
これまで、長期休暇といえば、新庄家が地方に幾つかもっている別荘やハワイの別荘で過ごすことが殆《ほとん》どで、後にも先にも、長野に来たのは、あの小学校一年の夏が最初で最後だった。
父の故郷なのに、なぜ、あれ以来、一度もここに来なかったのだろう。
武はそのことを不思議に思い、叔父《おじ》に聞くと、
「義姉《ねえ》さんがね……」
と、聖二は、やや言い渋るような口調で言った。
母がここに来るのを好まなかったということだろうか……?
そんなことを考えていた武の目が、満面の笑顔で手を振りながら自分たちの方に近づいてくる青年の姿をとらえた。
神郁馬だった。
叔父の話では、長野駅に着いたら、郁馬が車で迎えに来る手筈になっているということだった。
「郁馬さん」
武も笑顔になって手を振った。
五歳しか年が違わないせいか、子供の頃から、叔父の一人というより、年上の友人のように接してきた。
郁馬が東京の大学に在学中は、時々、家の方にも遊びにきたり、外で落ち合って遊びに行ったりすることもよくあり、妙に馬が合い、実兄の信貴よりも、兄のように慕っていた相手でもある。
「よう、武。久しぶりだな。おまえ、また背が伸びたん―――」
「郁馬」
郁馬は甥《おい》を見ると、気さくに話しかけてきたが、横合いから聖二に一喝されて、はっとしたように口をつぐんだ。
「あ、すみません。もうこんな口きいてはいけなかったんですね。武様は、『お印』が出た『日子《ひこ》様』なのだから……。これからは口のきき方には気をつけます」
郁馬はそう言って頭を掻《か》いた。
「やめてよ、郁馬さん。俺《おれ》、そんなのやだよ。今までどおりでいいよ」
武は慌てて言った。
日の本村では、奇怪な階級意識のようなものがあって、大神と呼ばれる蛇神を祀《まつ》る巫女《みこ》である日女《ひるめ》や、お印の出た神官である日子が殊更に敬われ、たとえそれが年下の家族であっても、名前を呼ぶときは「様」をつけて、まるで主人につかえるようにしなければならない奇習があるということは、子供の頃にも聞かされたおぼえがあった。
「武もああ言っていることだし、二人きりのときは今までどおりでいいだろう。でも、人前ではな……」
聖二が少し表情を和らげて郁馬に諭すように言った。
「はい」
郁馬は神妙な顔で頷《うなず》いた。
自分にはいつも兄貴風を吹かせていた郁馬が、次兄にあたる聖二の前では、弟というよりも忠臣のように畏《かしこ》まっているのが、武にはなんだかおかしかった。
「じゃ、行きましょうか」
郁馬が先頭にたって言った。
「ちょっと待って。その前に、俺、トイレ行ってくる」
武はさげていたボストンバッグをその場に投げ出すように置くと、構内に設けられた手洗い所の方にそそくさと向かった。
「……わたし、どうやら、武君の興味引かなかったみたいですね」
そんな武の後ろ姿を見ていた日美香がぽつんと言った。
「どうしてそう思うの?」
聖二が聞いた。
「だって、新幹線の中でもわたしには一言も口きいてくれなかったし、こちらを見ようともしない。握手したときもいやいやって感じだったし。第一印象で嫌われたのかも。この先、打ち解けてくれるかしら……」
「それは逆ですよ」
聖二が笑いながら言った。
「え?」
「嫌ってるんじゃなくて、あなたのことを必要以上に意識して照れてるんです。それに、少しあまのじゃくな所がありますからね。あまりストレートに自分の感情を表現するタイプではない。一見、言いたいこと言っているように見えるんだけどね。内面はけっこうひねくれてる。だから、見た目の印象だけで判断したらだめですよ」
「そうでしょうか……」
日美香は半信半疑という顔つきで言った。
「お印のある者同士は自然に互いを認め合うものだし、しかも、あなたと彼は……。なあに、そのうち、照れもなくなって、すぐになついてきますよ」
聖二はきっぱりとそう言い切った。
やがて、すっきりした表情で武が戻ってくると、一行は駅を出て、近くの駐車場に停めてあった郁馬の車に乗りこみ、市街を後にした。
4
窓から見える景色はいつの間にか山また山になっていた。
武は車の後部座席の窓からぼんやりと外を見ていた。
長野駅の周辺は変わってしまったようだが、町中を離れて、山間《やまあい》の道にさしかかるこのあたりの風景は昔とあまり変わっていないような気がした。
もっとも、子供の頃には、最初こそ山だらけの景色が珍しくて、タクシーの窓に鼻を押し当てるようにして外を見ていたが、そのうち、だらだらと同じ風景が続くのに飽きて、すぐに見るのをやめてしまったから、あまりよく覚えてもいないのだが。
「……兄さんから武―――の身体にお印と思われる痣《あざ》が出たと電話で聞かされたときは驚きましたよ」
車を運転しながら郁馬が言った。
「お印は日女の生んだ男児にしか出ないと思われてきたし、それも生まれついてのものだということでしたからね。でも、それは日美香さんのときも同じでしたけどね。男児にしか出ないとされていたお印がはじめて女性にも出たって聞かされたときは……」
「それ、どういうこと?」
それまで窓の方を見ていた武が鋭く聞きとがめた。
「それって?」
郁馬がバックミラー越しに後ろの武の方を見た。
「男にしか出ないとされていたお印がはじめて女にも出たって、どういう意味よ?」
武が焦《じ》れたように聞いた。
「あれ。まだ聞いてなかったんですか」
郁馬は驚いたように言った。
「そのことは武にはまだ話してないよ。おいおい話していこうと思ってね」
聖二が口をはさんだ。
「そのことって何?」
武がいよいよ興味をもったように身を乗り出してきた。
「わたしにもあなたと同じような痣があるのよ」
そう言ったのは日美香だった。
「ホントに?」
武は思わずというように、隣に座っていた日美香の方を見て言った。
「やっと口きいてくれたわね」
「……」
「あなたは背中でしょ? わたしは胸のこのあたりに」
日美香はそう言って、自分の右胸のあたりを軽く手で押さえた。
「生まれつき? それとも、俺みたいに途中で出たの?」
武はすぐに聞き返した。一言しゃべるまでの敷居がなんとなく高かったのだが、いったん口をきいてしまえば、聞きたいことが山ほどあった。
口がきけないといっても、別に、若い女性とまともに口もきけないほど純情だったわけではない。悪友たちと渋谷や新宿の繁華街に繰り出しては、通りがかりの女の子たちを片っ端からナンパして遊んだこともある。
中には、モデル並みに奇麗な子もいたし、年上のお姉さん風の女もいた。それでも、平気で声がかけられたし、彼女たちと冗談まじりに話したり、時にはそれ以上の行為に及ぶこともあったが、そんなときも、初対面の女たちに対して緊張してしゃべれなくなるなどということは一度もなかった。
それどころか、ちょっと声をかけただけで、ゴキブリ取りにかかったゴキブリみたいに手軽に引っ掛かってくる女たちには、軽い侮蔑《ぶべつ》感すら抱いていた。
それなのに、なぜか、この今横にいる女だけは、今まで知り合った女たちとは全く勝手が違う。
初対面のときから、目が合っただけで、全身が金縛りにあったような奇妙な緊張感を感じた。気楽に冗談の一つでも言おうと思っても、舌が強《こわ》ばって何も話せない。しかも、ただ緊張するというだけでなく、そのなかに、何か強烈な親和感とでもいうような全く別の感情もある……。
やはり、再従姉弟という微《かす》かだが血の繋《つな》がりのある相手だからだろうか。
しかし、今、日美香にも「お印」があると聞かされて、この「親和感」の正体が分かったような気がした。
自分と同じ神紋をもつ女だったからか……。
「わたしの方は生まれつきよ」
日美香はそう答えた。
彼女ともっと話を続けるために、素早く頭を働かせて、次の話題を見つけようとしていると、
「……でも、お印が出たのが武でよかったですよ。もし、あれが、長男の信貴さんの方に出ていたら、厄介なことになってましたね。それこそ、新庄家と神家とで後継者争奪戦にでもなりかねなかったですから」
という郁馬の声でそれも遮られてしまった。
「もともと神家は『弟』の系統だからね。長男ではなく次男である武にお印が出たというのも、単なる偶然ではないよ」
そう言ったのは聖二だった。
「弟の系統って?」
武は気になって聞き返した。
そういえば、父は神家の長男でありながら、宮司職は継がず、新庄家に婿入りし、家は次男である叔父が継いでいる。
長男信仰の強い新庄家に生まれ育ったせいか、どうして長男でありながら生家を継がなかったのか、前からなんとなく疑問に思っていたことだった。
以前、目にした女性週刊誌などには、新庄家の一人娘だった母と、神家の長男だった父が、跡取り問題という旧家にありがちな高い障壁を乗り越えて結ばれたことを、「ロミオとジュリエット」並みの「愛の力」によるものだと大袈裟《おおげさ》に書き立てられていたが……。
そのことを聖二に聞いてみると、聖二の話では、神家の先祖というのは、六世紀頃、蘇我氏と権力争いをして敗れた豪族、物部守屋の遺児であるということだった。
「モノノベモリヤ……。聞いたことないな」
武がそう呟《つぶや》くと、
「聞いたことないとは情けないな。歴史の教科書にも登場してくる名前だぞ」
聖二が呆《あき》れたように言った。
「日本史の時間はいつも睡眠タイムだったから……」
「夢うつつでもいいから、せめてご先祖様の名前くらいおぼえておけよ」
この物部守屋には二人の男児がいて、「弟君《おとぎみ》」と呼ばれる弟の方が、大和から信州に逃げ落ちて、日の本村の祖になったのだという。
「さっき言った神家の男児にしか出ないというお印も、奇妙なことに、長男には一度も出たことがないんだよ。次男以下の『弟』にしか出ない。たとえ長男でなくても、お印の出た子は生まれながらに後継者という掟《おきて》があるから―――」
「あ、そうか。わかった。それじゃ、親父《おやじ》は神家を継がなかったんじゃなくて、継げなかったってことか。お印のある叔父《おじ》さんがいたんだからさ」
「まあ、そういうことだ」
「なんだ。てことはさ、母さんと結婚するとき、両家の板挟みになって凄《すご》い葛藤《かつとう》があったみたいに週刊誌なんかじゃ書かれているけど、実際には、あっさり婿入りできたってことじゃねえかよ。それを何がロミオとジュリエットだよ。何が『愛の力』だ」
武は鼻でせせら笑った。
「今でこそ、家を継ぐのは長男というか長子が当たり前という風潮になっているが、大昔は、跡継ぎは弟や妹の方だったんだよ。末子相続というやつだね」
「へえ、そうなの?」
「ついでに教えてやると、実は、おまえは次男ということになってるが、本当は三男なんだよ。三人兄弟の末っ子にあたるんだ」
聖二は続けて言った。
「え。ウソ? ホントに? 兄貴と俺《おれ》の他にもう一人いたの? そいつ、どうなったの?」
武は驚いたように聞いた。
「死んだよ。生まれてすぐに。尊《みこと》という名前もつけられていた。おまえとは一卵性の双子だったんだよ。二人合わせて、武尊《タケルノミコト》。つまり、ヤマトタケルと言う意味になるはずだった」
「双子……」
武ははじめて明かされた自分の出生の秘密に愕然《がくぜん》としたような顔で言った。
俺は双子の片割れだったのか……。
「双子って、武君も?」
そのとき、これも驚いたような顔で口をはさんだのは日美香だった。
「も?」
武は鋭く聞きとがめた。
「武君もって、どういう意味?」
「あ、いえ。別に……」
日美香はうろたえたように言葉を濁した。
武君も……?
まるで、他にも双子がいるみたいな言い方じゃないか。
「でも、そんな話、うちの誰からも聞いたことないよ」
日美香の失言めいた言い草が気にはなっていたが、それよりも、なぜ、自分が双子の片割れであったことが今まで隠されていたのか、その理由の方がもっと気になる。
「難産だったんだよ。おまえが生まれるとき、なかなか出てこないで、産道をふさぐような形になってしまったらしい。それで、結局、もう一人の方は酸欠状態になってしまって、なんとか生まれてはきたものの、半日足らずの命だった。おまえのせいではないにしても、結果的には、おまえがもう一人の片割れを殺したような形になってしまった。義姉《ねえ》さんがこのことを気にしてね。というのも」
そう言って、聖二は、ヤマトタケルという神話の英雄が、少年期にオオウスという双子の兄を惨殺するエピソードがあることを話してくれた。
「その話、知ってる。あの女が話してくれた」
武が突然思い出したように言った。
「あの女?」
「俺を刺した女だよ。真名子とかいう……」
武は思い出していた。あのとき、あの女は、武の名前がヤマトタケルからきていることを知ると、「ヤマトタケルは兄を殺した。いつか、あなたも、その名前ゆえに、ヤマトタケルと同じ運命を辿《たど》るかも」などと不吉なことを言ったのだ。
そんな馬鹿なことがあるかと思いつつも、まるで巫女《みこ》の予言のような確信ありげな女の言葉がずっと気になっていた。
ひょっとしたら、いつか、俺は兄貴を殺すようなはめになるのではないか……と。
ただ、その兄貴とは、てっきり七歳上の信貴のことだと思っていた。もう一人兄がいたなんて知らなかったからだ。
でも、違った。ある意味で、真名子の「予言」は当たったともいえる。ただし、それは未来のことではなく、過去の出来事として。この世に生まれ出ようとするまさにそのときに、自分は双子の兄を殺していたのだ。その片割れの生命を吸い取るようにして、この世に産声をあげた……。
「双子の兄を殺したなんて言うと聞こえは悪いが、それは言い換えれば、最初の生存競争でおまえは勝ったってことなんだよ」
聖二が言った。
「それだけ強い生命力と運をもって生まれてきたということだ。今まで新庄家のタブーになっていたおまえの出生のことを今ここで打ち明けたのも、おまえはそういう強く輝く星の下に生まれた特殊な人間だということを自覚して貰《もら》いたいからだ。
例の事件のときだって、あれだけ刺されれば、普通の人間だったらまず助からなかっただろう。でも、おまえは死ななかった。それもそういう強い星の下に生まれついたからだ。
そして、なぜ、そんな星の下に生まれたかといえば、それは、おまえには、この世でなすべき重大な使命があるからだ。それを果たすまでは、たとえ、おまえ自身が死を望んだとしても、大いなる意志が絶対にそれを許さないだろう……」
5
武たちを乗せた車が神家に着いたのは、午後三時半を回った頃だった。
庭の見える日当たりの良い八畳間を与えられ、ボストンバッグに入れてきた着替えを箪笥《たんす》に移していると、すぐに聖二が入ってきて、「これから大《おお》日女《ひるめ》様のもとにご挨拶《あいさつ》に行くから、風呂《ふろ》に入って一汗流し、これに着替えろ」と言って、持ってきた装束のようなものを畳に置いた。
見ると、白衣と浅葱《あさぎ》の袴《はかま》一式の神官装束のようだった。
「こんなの着るの?」
武は目を丸くした。
「大日女様のところに行くのに、そんな薄汚い革ジャンにジーンズという格好ではまずい。帰ってきたら脱いでいいから」
聖二は宥《なだ》めるように言った。
「でも……俺、袴なんて着たことないよ。七五三のときだって洋服だったし。どうやって着るんだ……」
武は戸惑ったように呟いた。
「風呂からあがったら美奈代を寄越《よこ》すから手伝ってもらいなさい」
聖二はそう言って、その場を立ち去りかけたが、からかうような表情で、
「なんなら日美香に手伝ってもらうか」と聞いた。
「いやだ! 叔母《おば》さんでいい」
武は少し赤くなって言い返した。
聖二が出て行ったあと、子供の頃の記憶を頼りに風呂場に行った。
やや広めに作られた風呂場は、所々、修繕したような跡は残っていたが、子供の頃と全く変わっていなかった。
いまだに釜焚《かまた》きの古風な檜造《ひのきづく》りで、シャワーもついていない。楕円形《だえんけい》の風呂|桶《おけ》には、温泉を引いたと思われるまっさらな湯が並々と湛《たた》えられていた。
そこで烏の行水よろしく、ざっと汗だけ流すと、武は、すぐに部屋に戻ってきた。部屋の中には、叔母の美奈代が待っていた。
「まあ、武さん……いえ、武様。ずいぶん逞《たくま》しくなられて」
美奈代は、入ってきた武を見るや、心底仰天したような顔で、白いTシャツ姿の甥《おい》を見上げた。
「前に来られたときは、こんなにお小さくて、女の子みたいだったのに……。まるで別人のよう」
叔母はまだ信じられないという目で、武の頭のてっぺんから足のつま先までじろじろと見回した。
武の方は、叔母を一目みて、えらく老けたなと思っていた。まだ四十そこそこのはずだが、この十年でぐっと老け込んだように見える。髪にも既に白髪がちらほら見える。どう見ても五十歳以上に見えた。とても、あの若々しい叔父の妻には見えない。二人が並んだら、叔母の方が年上に見えるだろう。
その叔母に手伝ってもらって、なんとか神官の衣装に着替えた。
日に焼けた小麦色の肌に純白の上衣と浅葱の袴が清々《すがすが》しく映えている。装束はまさに誂《あつら》えたようにぴったりと身についていた。
「まあ、凜々《りり》しい。よくお似合いですよ。よかったわ。背丈がかなり伸びたと聞いていたんで、袴の裾《すそ》を直しておいて……」
叔母はそう言って、袴姿の甥を惚《ほ》れ惚《ぼ》れとした表情で、また見回した。
「似合うじゃないか」
そのとき、部屋に入ってきた聖二も感嘆したように言った。こちらも同じ装束に着替えていた。
「……そう?」
武は照れたような顔で言った。
大きな鏡が手近にないので、自分の姿を見ることができなかったが、叔父夫婦が揃《そろ》ってお世辞を言っているようにも見えなかった。
「あんなロックスター崩れの格好よりずっといい。いっそ、その格好で一生暮らすか」
叔父は真顔でそんなことを言い出した。
「え?」
「お印が出たからには、日女《ひるめ》の子でなくても、日の本神社の宮司職を継ぐ資格ができたわけだから……」
「叔父《おじ》さんの後を継いでここの神主になれってこと?」
武はぎょっとしたように聞いた。
「おまえが望むならそれもできるよ。日美香みたいにうちに養子にくれば……」
「悪いけど」
武は即座に言い返した。
「その気は全くないよ。政治家も嫌だけど、田舎の神主なんてもっと嫌だ」
「はっきり言うなぁ」
聖二は苦笑した。
「だって、こんな山奥の村のちっぽけな神社の神主なんて面白い? 退屈じゃない? いくら世襲で仕方なく継いだとはいえ、叔父さんもよく我慢してるね」
武は前々から思っていたことをつい口にした。
聞くところによると、叔父は、中学から大学までの青春期を東京で過ごしたらしい。大学を卒業したあと、ここに戻って、前の宮司だった父親が亡くなったあと、その跡を継ぎ、それ以来、たまに用があって上京することはあっても、ほとんどは田舎に引っ込んで暮らしているようだ。
都会暮らしがなつかしくならないのだろうか。
その人となりを見ても、とても、こんな山奥の村の一神主で終わる人には見えないのだが……。
「別に我慢してるわけじゃないよ。自分の意志でここにいるんだ。ここには守るべき大切なものがあるからね」
聖二はそんな答え方をした。
「守るべき大切なもの?」
「見た目は山奥の古ぼけた小社にすぎないかもしれないが、ここが、あの伊勢神宮や諏訪大社などという世界的にも名の通った大社よりも遥《はる》かに重要な社であることが、そのうち、おまえにも分かってくるよ」
「……」
「まあ、そんな顔するな。後を継げといったのは冗談だ。それに、私の跡は郁馬に継がせるとほぼ決まってるから、安心しろ」
「なんだ。冗談かよ。ああびっくりした」
武はほっとしたように言った。
「半分は本気だけどね」
「……」
どうもこの叔父は、冗談を言うときも全く表情が変わらないので、時々、本気なのか冗談なのか区別がつかないことがあった。
「さあ、行くぞ。大日女様がお待ちかねだ」
聖二はそう言って、甥《おい》を促すと、部屋を出た。
6
社に参拝してから、聖二の後について、社の右手にある小道を歩いて行くと、やがて杉木立の中に家屋が見えてきた。
ここに、日の本神社の最高|巫女《みこ》といわれる大日女と、この大日女の後継者である若日女という若い巫女たちが、女ばかりで共同生活を営んでいるという話だった。
十年前に遊びにきたときは、父に連れられて社の参拝だけはした記憶があったが、神職につく者以外は立ち入り禁止という、この神域には立ち入ることはできなかった。父ですら、生まれてから一度もこの先には行ったことがないと言っていた。
そう言われると、よけい、この「立ち入り禁止」の先にあるものが見たくてたまらなかった。
昔、後ろ髪を引かれる思いで振り返りながら立ち去った、その神域に、今まさに、足を踏み入れようとしている……。
武はなんとなくわくわくしていた。
ひんやりとした薄暗い家屋の玄関に入って、履物を脱ぎ、すたすたと奥に進む叔父の後をついて行くと、廊下の突き当たりに部屋があった。
人は皆出払っているかのように、話し声はおろか、咳払《せきばら》いひとつしない。家屋中が妙にしんと静まり返っていた。
聖二が外で一言声をかけてから、襖戸《ふすまど》をカラリと開けると、床の間のような一段高くなった場所に、一人の小柄な女性が端然と座っていた。
白衣に白袴《しろばかま》。白ずくめの装束に、床を這《は》うほど長い髪も漂白したように真っ白だった。
その白一色に包まれた小さな女性の顔を見たとたん、武はなんともいえない奇妙な気分になった。
これが人間の顔だろうか。
かろうじて女であることは判るのだが、年のほどなど見当もつかないほどに高齢であるように見えた。しかも、もともと小柄な身体が加齢とともに縮んだのか、老女というよりも、神々しい老猿がうずくまっているようにも見える。
「……お印が出たというのはこの子か」
大日女の前に座り、はいつくばるようにして深く頭をさげていた聖二の頭上で声がした。
幼女のような、やや甲高い声だった。
「はい」
聖二が頭を畳に伏せたまま答えた。
武は自分も同じような姿勢を取りながら、横目で叔父の方をちらちらと見ていた。
「お印というのはまことか」
「おそらく間違いないと思います」
「見せよ」
大日女の声が響いた。
武は一瞬、「へ?」というように顔をあげた。
「大日女様に、お印をお見せしなさい」
聖二も顔をあげて、厳粛な表情で言った。
「み、見せろって、ここで? 脱ぐの?」
武はさすがにうろたえたように聞いた。
相手がこんな白猿みたいな老婆とはいえ、やはり、人前で裸になるというのは少し抵抗があった。
「早くせい」
大日女が無情にもせかせた。
武はうろたえながらも、しかたなく、袴の紐《ひも》に手をかけて、それをほどこうとしていると、
「何、やってるんだ」
聖二の幾分慌てたような小声の叱責《しつせき》が飛んできた。
「だって、脱げっていうから」
「馬鹿。全部脱ぐつもりか。片|袖《そで》だけ脱いで、背中のお印をお見せしろっていってるんだ」
「片袖脱ぐって……?」
「こうやって」
聖二が手本を見せるように仕草をしてみせた。
「ああ。遠山の金さんか」
武はようやく納得したように、もたつきながらも、なんとか片袖だけ脱ぐと、身体をひねって大日女の方に背中を向けた。
日に焼けた背中に浮き出た蛇紋をじっと見つめていた大日女は、
「お印じゃ……」と呻《うめ》くように言った。
大日女との会見はこれだけだった。
部屋の外に出てほっとしていると、
「まったく、世話の焼けるやつだな」
聖二は苦笑いしながら、甥の乱れたままの衿元を直してやった。
「いきなり袴まで脱ごうとするから、こっちの方が慌てたぞ。大日女様の前で、ストリップでもやるつもりだったのか」
「だって」
武は口をとがらせた。
「急にあんなこと言うんだもん。こんな格好したことないし、片袖脱ぐなんて器用な真似、思いつかなかったんだよ」
「おまえのおかげで冷や汗かいた」
「それより、あの婆さん、幾つよ?」
「婆さん……」
「ひょっとして、生きてるのが信じられないような歳じゃないの? 俺《おれ》、最初、猿がうずくまってるのかと思ったぜ」
「しっ」
聖二は思わず人差し指を口にあてた。
「頼むから、ここでそういうタメ口をきかないでくれ」
「どうせ聞こえねえよ。とっくに耳遠くなってるんじゃない?」
「おまえな……」
聖二は何か言いかけて、本気で怒る気力もなくしたように口をつぐむと、
「私はこれから大日女様とお話があるから、おまえは一人で帰れ」とだけ言った。
「え。もう帰っていいの? これだけ? 若日女とかには紹介してくれないの?」
武は残念そうに聞いた。
「どうせならあんな婆さんより、若くてかわいい巫女さんに会いたいな」
「今はその必要なし。さっさと帰れ。そのへんをキョロキョロうろつくんじゃないぞ」
聖二は釘《くぎ》をさすように言った。
「わかったよ……。じゃ」
武はそういうと素直に来た廊下を戻りかけたが、数歩も行かないうちに、「武」と、聖二に呼び止められた。
振り向くと、
「うちに帰る前に、日の本寺に寄って、住職にも挨拶《あいさつ》してきなさい」
聖二はそう言った。
7
「おお……。これはご立派になられて。若い頃の貴明さんに生き写しじゃ」
大日女の住まいを出たあと、一人で日の本寺に挨拶に寄ると、武を見るなり、老住職はしょぼついた目にうっすらと涙さえ浮かべて言った。
広い座敷に通されてから、
「お印が出たと伺いましたが……?」
半信半疑という表情で住職は訊《たず》ねた。
今、大日女の所で背中の痣《あざ》を見せて、「お印」であることを確認してきたと答えると、住職は、それだけで納得したのか、「さようでございますか」と大きく頷《うなず》いた。
「これで武様も晴れて神家の人間、大神のご意志をお継ぎになる日子《ひこ》様になられたわけですな。それならば……」
ちょうど良い機会なので、日の本村がいかにしてできたか、神家の先祖とはいかなる人物なのか、そして、この先祖が最初の神主となって祀《まつ》った「大神」と呼ばれる蛇神がいかなる神なのか、その歴史について、語ってしんぜようと住職は言い出して、頼みもしないのに、滔々《とうとう》と語りはじめた。
住職の前で正座させられて、黴《かび》がはえたような古い話を聞かされるのは、武にとってはありがた迷惑以外の何物でもなかったのだが、それでも、我慢して聞いているうちに、住職の語りが巧みでもあり、その内容が自分のルーツにもかかわる話でもあるせいか、いつの間にか、自然に話に引き込まれてしまった。
とりわけ、「大神」と呼ばれる蛇神の話になったとき、武はふと思い出したことがあった。
前に来たとき、この寺には、平安時代に造られた「大神」の神像なるものが安置されていると聞いたことがあった。それを小さい頃に見たという郁馬が、「一目見るなり、全身の鳥肌がたつような恐ろしい姿だった」と、その単眼にして下半身が蛇だという異形の姿について、身振り手振りをまじえて熱っぽく話してくれた。
その話に想像力を刺激された武は、怖いもの見たさも手伝って、自分もその像を見たいと叔父にせがんだのだが、「あの像は秘仏となっており、拝観できるのは神家の人間だけ。たとえ、兄の子供でも、他家の人間には見せられない」と言われて見せて貰《もら》えなかったのだ。
しかし、見られないとなると、よけい見たくなるのが子供の心理である。直接見ることができないと分かると、郁馬から聞いた話が想像の中でどんどんと膨れ上がってしまった。
東京に帰ってきたあとも、しばらくは、自分の頭の中で勝手に作り上げてしまった蛇神のイメージがなかなか消えなかった。
それでも、成長するうちに自然に忘れていったのだが……。
今ならどうだろう。お印と呼ばれる神紋が出たということで、あの頃とは立場が違うのではないか。
そう思いつき、おそるおそる切り出してみると、
「もちろんお会いになれますとも」
と、打てば響くような力強い即答がかえってきた。
「今からお会いになりますか」
住職はすぐにそう訊《たず》ねた。
「はい」
「それでは、こちらに」
住職はそう言って、膝《ひざ》に手をあて立ち上がった。
武も続いて勢いよく立ち上がろうとしたが、足がもつれて、ずでんと無様にひっくりかえってしまった。
「どうされました?」
住職が心配そうに覗《のぞ》き込んだ。
「あ、足が痺《しび》れて……」
長時間正座していたために完全に痺れて感覚のなくなっていた両足を投げ出し、臑《すね》をさすりながら言った。
すぐには歩けそうもない。
「それなら、お堂の鍵《かぎ》を取りに行ってきますので、そこでしばらくお休みくだされ」
住職はカラカラ笑いながらそういうと、座敷を出て行った。
住職が戻ってくる頃には、足の痺れはまだあるものの、なんとか歩けるようにはなっていた。
老住職の後を、ひょこひょこついて行くと、本堂の陰に建てられた、小さなお堂の前まで来た。
住職は、そのお堂の観音開きの扉にかかっていた錠をはずすと、恭しく、扉を左右に開いた。
堂の中は暗くてよく見えない。
住職が手前の灯明に明かりをともすと、ようやく、二本のロウソクの明かりで、お堂の中が仄《ほの》かに照らし出された。
その照らし出された像を一目見て、武ははっと息を呑《の》んだ。
三重にとぐろを巻く蛇の下半身をもつ青銅の大神像は、鋭い牙《きば》を覗かせた口を噛《か》み締め、その昔、倉橋日登美を、そして、その娘である葛原日美香を見下ろしたこともある、その鏡のような一つ目をかっと見開いて、今また、新庄武を見下ろしていた。
8
その夜。
神家の離れにある茶室で、二人の男女が向かい合っていた。
聖二と日美香だった。
聖二はいつぞやのように、「話がある」といって、ここに呼び出したきり、黙々と茶をたてるだけで、すぐにその話とやらを切り出そうとはしなかった。
ただ、日美香の方も、一種の心理作戦ともいえる養父のこうしたやり方に多少慣れたところもあって、別に苛立《いらだ》つこともなく、こちらも出されたお茶を作法にのっとって黙って啜《すす》っていた。
「昼間……」
聖二はそう言って、ようやく話を切り出した。
「ここに向かう車の中で、あなたは妙なことを口走っていましたね?」
「妙なこと?」
日美香は手にした茶碗《ちやわん》に落としていた視線をあげた。
「武が実は双子の片割れだったと話したとき、あなたは―――」
聖二がそこまで言ったとき、日美香はすぐに何を聞かれようとしているのか察して、内心ひやりとしていた。
やはり、あのときの「失言」をこの人は聞き逃してはいなかったのだ。神家に着いたあとも、あのことには全く触れられなかったので、聞き流されたのだと思ってほっとしていたのだが……。
「『武君も?』と言いましたね」
「はい……」
「あれはどういう意味なんですか」
「……」
「あれは」
日美香はそう言ったきり、言葉を失って黙った。あのとき、武をごまかしたようには、目の前の男をごまかすことはできない。それは分かっていた。
やはり、あのことを打ち明けなければならないのか。
双子の妹の存在のことは聖二にはまだ話してなかった。できれば、ずっと話したくない。火呂のことはそっとしておいてやりたい。日の本村やこの村の人々の野望とは全く無縁のまま、ささやかな一生を送らせてやりたい。
もし、もう一人お印をもつ娘がいることを知れば、養父はこのまま放ってはおかないだろう。火呂と会おうとするだろう。もしかしたら、火呂も自分の養女にしようとするかもしれない。そうなれば、妹は、いやがおうでも、日の本村の野望に巻き込まれていく。
そうはさせたくない。彼女のささやかな幸せを守るために……。
彼女のため?
ほんとうに彼女のためだろうか。
日美香はそのとき一瞬、自分の心の奥底の薄暗い場所に、そっと隠しておいたものを見てしまった気がした。
違う。
妹のためなんかじゃない。
本当は……。
わたし自身のためだ。
わたしはようやく、自分の場所を見つけた。子供の頃から、ずっと探し求めていた場所を。わたしだけの場所。わたしだけの存在しか許さない場所……。
でも、わたしと全く同じ遺伝子を分かち合った妹なら、彼女もまた、この場所を欲しがるのではないか……。
それが怖かったのだ。
たった一つしかないわたしだけの場所を、分身ともいうべき妹に分け与えたくはない。誰にもこの場所を侵されたくない。このまま一人で独占していたい。
そして、今、目の前にいるこの男の愛情も関心もすべて独占していたい。父親の顔を知らずに育ったわたしにとって、子供の頃から夢に描いた通りの理想的な父親である男の愛情と関心を……。
だから、火呂のことは養父に教えたくはない……。
「もしかしたら、あなたも双子だったのではないですか」
日美香があまり長いこと押し黙っているので、ついに痺れを切らしたように、聖二が言った。
「あなたも武と同じように、本当は一卵性双生児としてこの世に生を受けたのではありませんか。ところが―――」
聖二はそう続けた。
一瞬、日美香の頭に閃光《せんこう》のようにある考えが浮かんだ。
そうだ。うまく言い逃れる手がある。
それは、聖二が、「……双子だったのでは」と過去形でものを言ったときに、ふとひらめいたことだった。
「はい、そうなんです」
日美香はやや伏し目になって神妙な面持ちで言った。
伏し目になったのは、さすがに堂々と相手の目を見て嘘《うそ》はつけなかったからだ。
「わたしも生まれたときは双子だったらしいんです。でも、もう一人の妹にあたる子は、生まれてすぐに亡くなったそうなんです。そんな話を養母から聞いたことがあります。今まで忘れていたんですけれど、あの話を聞いたとき、ついそれを思い出して……」
「そうだったんですか」
聖二は呟《つぶや》くように言った。
日美香はちらと視線をあげて、養父を見た。その顔には、日美香の話を疑うそぶりは全く見られなかった。
よかった……。
心の中で、こっそり安堵《あんど》のため息を漏《も》らした。
9
日美香も双子の片割れだったのか。
日美香が茶室を出て行ったあと、一人になった聖二は思った。
やはり、自分の思った通りだった。
家伝書の序にある、あの謎《なぞ》めいた予言のような一文。あの中の、「二匹の双頭の蛇」とは、武と日美香のことにもはや間違いない。
共に、一卵性双生児としてこの世に生まれながら、最初のライバルである片割れの命を奪い取って自分の生命にしてしまうほどの生命力の強さをもつ双頭の蛇とは……。
「兄さん」
そのとき、部屋の襖《ふすま》の外から声がした。郁馬の声だった。
「ちょっとお耳に入れたいことがあります」
郁馬は押し殺した声で言った。
「入れ」と言うと、弟は中に入ってきた。
「例の喜屋武という女のことですが」
郁馬は、次兄の前に座ると、押し殺したままの声で切り出した。
「調べさせたところ、どうやら、まだ独身で高校生になる甥《おい》と二人暮らしのようです。ほんの少し前まで、この甥の姉にあたる二十歳の姪《めい》も同居していたらしいのですが、これは、最近、別にマンションを借りて独立したそうです……」
「で、何か不穏な動きはあったのか」
「いえ、今のところはこれといって別に。ただ、一つ、妙なことが分かりました」
「なんだ」
「あの伊達という探偵のことですが、松山にいる日登美様の伯母《おば》という女から依頼を受けて調査に来たと言っていましたが、どうもあれは嘘だったようです」
「嘘……?」
「ええ。松山にいる人間が、わざわざ東京の探偵にそんな調査を依頼するのも変だなと思ったものですから、念のために、この伯母なる女に問い合わせてみたんです。松山で大きな旅館を経営しているということでしたから、調べたらすぐに判りました。すると、伊達という探偵にそんな依頼をしたおぼえはないという返事でした。それどころか、事実は逆だというんです」
「どういうことだ?」
「伊達という探偵の方が松山まで訪ねてきて、あれこれ日登美様のことを聞いていったというんです。しかも、そのとき、その調査の依頼主は、日登美様の娘だと言っていたとか……」
「娘?」
聖二は眉《まゆ》を寄せて聞き返した。
「日美香のことか?」
「名前までは聞かなかったそうですが、たぶん……。日登美様が昭和五十三年に女の子を産み落としたあと亡くなられて、その娘というのが成人してから実母のことを知りたがり、伊達という探偵に調査を依頼したという話だったようです」
「妙だな。日美香からそんな話は聞いていないが……」
聖二は顎《あご》に手をあて、考えるような顔になった。
「それはいつのことだ? 伊達が松山を訪れたのは」
「八月の末頃だったそうです」
「だとすれば依頼主が日美香のはずがない。その頃なら、彼女はもう何もかも知っていたはずだ。探偵を雇って日登美のことを調べさせる必要はない」
「そうですね。おそらく、これも、伊達という探偵のはったりでしょう。相手に不審がられずに必要な情報を得るために、僕たちに架空の依頼主をでっちあげたように、伯母という女にも同じことをしたんですよ、きっと」
「ただ、そうだとしても、伊達は日美香のことをどこで知ったんだ……」
「そのことなんですが、どうも、伊達にここの調査を依頼した本当の依頼主というのは、あの喜屋武という女ではないかと思われるんです」
「あの女が?」
「ええ。探偵社に探りを入れてみたら、なんでも古い友人の頼みで、伊達はこの件を一人でやっていたらしくて。それも、スタッフの話では、ちゃんとした依頼というより、かなりプライベートな性格のものだったようです。それに、あの女は伊達の友人だと言っていましたが、ただの友人がわざわざ消息を求めてここまで足を運ぶものでしょうか。僕の勘では、喜屋武という女と伊達は単なる友人ではなく、もっと親密な間柄、たとえば、昔の恋人とかいうものではなかったかと思うんです。昔の恋人でもあり、真の依頼主でもあったあの女が、伊達が行方不明になったと聞いて、今度は自分が乗り出してきたと考えた方が筋は通るように思えるのですが……」
「しかし、そうなると、なぜ、その女がこの村や日登美のことを探偵を使ってまで調べさせようとしたのかという、その動機が問題だな……」
「それがまだ判らないんです」
「名字からすると沖縄あたりの出身か」
聖二は独り言のように言った。
「沖縄に誰かをやって調べさせましょうか」
「そうだな。もう少しこの女のことを調べてみろ……」
「分かりました。監視もこのまま続けます」
[#改ページ]
第七章
1
十月十八日、日曜日の午後。
喜屋武蛍子は、小金井《こがねい》公園のそばに建つ、十二階ほどありそうな濃いベージュ色の高層マンションを見上げていた。
それは、元「週刊スクープ」の記者、達川正輝《たつかわまさてる》が住んでいたマンションだった。
達川の死について、もう少し詳しいことが知りたいと思い、日の本寺の宿帳に書かれていた住所を頼りに訪ねてきたのである。
エントランスのガラス扉を押して入ってみると、幸い、オートロック式ではなかった。ロビーは薄暗く、管理人室の小窓も閉まっていて人の気配が感じられない。
ずらりと並んだ郵便受けを当たってみると、達川が住んでいたらしい903号室にはネームプレイトがなく、明らかに空き室であることを示していた。
前に伊達浩一から聞いた話では、達川には妻子がいたが、転落事件が起きる前に離婚したということだった。ということは、達川は、ここで一人暮らしだったはずであり、その後の始末などは一体誰がしたのだろうと気になった。
とりあえず、管理人に聞いてみようと思ったのだが、あいにく管理人は留守のようだった。
見たところ、分譲マンションのようだから、近所同士の付き合いも多少はあったに違いない。九階の住人に当たれば何か分かるかもしれないと思い、エレベーターで九階まで行った。
九階のフロアで降り、903号室の前まで行ってみると、やはり、ドアに表札は出ておらず、空き室のようだった。
隣の902号室の住人に聞いてみようと思い、インターホンを押してみた。
すぐに女性の声で応答があった。隣の達川さんのことで聞きたいことがあると言うと、しばらくして、チェーン錠をかけたままドアが開いた。
出てきたのは、口元に大きな黒子《ほくろ》のある、三十年配の主婦らしき女性だった。
口元に黒子がある人は俗におしゃべりだと言われている。この俗説が当たっていればいいがと思いながら、蛍子は、自分は903号室に住んでいた達川さんの古い友人で、久しぶりに訪ねてきたのだが、引っ越したようで困っている。どこに行ったか知らないかと聞くと、主婦は眉をひそめ、小声でささやくように、
「あら、ご存じなかったんですか。達川さん、お亡くなりになったんですよ」と言った。
口をアヒルのように突き出して、しゃべりたくてうずうずしているような顔付きから見て、黒子に関する俗説はけっこう当たっているかもと思いながら、
「え。それはいつのことですか」とさも驚いたように聞くと、
「六月頃……それも、あなた、自殺だったんですよ……。夜、ベランダから下に飛び降りて」と相手は答えた。
「自殺……」
達川の変死は結局、「自殺」ということで片付けられたのだろうか。伊達の話では、あくまでも変死ということで、事故とも他殺とも断定はできない状況だったようだということだったが……。
そういうつもりで思わず呟いたのだが、主婦は何か勘違いしたらしく、達川がそれまで勤めていた出版社をやめたあと、再就職もせずに、ぶらぶらしていたらしいこと。それが原因で離婚。妻は五歳になる男の子を連れて実家に戻ってしまったことなどを話してくれた。
「……その後も、仕事もせずに、朝から酒びたりみたいな荒れた生活してたみたいで、どうも、それが原因らしくて……」
遺書などはなかったのだが、居間のテーブルにはウイスキーボトルが一本飲み干されたような状態で転がっていたことや遺体からかなりの量のアルコールが検出されたことなどから、泥酔したあげくの衝動的なものだったのではないかと主婦は言った。
「……達川さんは一人暮らしだったようですが、ここの後始末などは、一体どなたがされたんですか?」
そう聞くと、主婦は、それは別れた妻だと答えた。
北海道出身だという達川には、既に両親も兄弟もなく、遠い親戚《しんせき》にあたる人物が小樽《おたる》にいるだけだったそうで、遺体の引き取りなども、そのことで少し揉《も》めたのだという。
その遠縁にあたる人物が遺体の引き取りを拒否したために、あやうく無縁仏になりそうになったところを、見るに見かねた別れた妻が引き取ったということらしかった。
遺品の整理やマンションの片付け等も、すべてその元妻がやったのだという。
「正式に離婚していたんだから、三恵子さんにはそんな義務はなかったんですけどね、別れたといっても、子供にとってはお父さんにあたる人だし、知らんぷりもできなかったんでしょうねえ……」
主婦はそう言った。「三恵子」というのが達川の元妻の名前であるらしい。
「こんなこといったらなんですけど、正直いって、うちも迷惑しているんですよ。自殺するならするで、どっかよそに行ってやってちょうだいって感じだわ。富士の樹海とか東尋坊とか、手頃なところはいくらでもあるでしょうに。下通るたびに気持ち悪くてしょうがないんですよ。いまだに花とか置いてあるし。ほんとは、引っ越したいくらいなんだけれど、ローンもまだあるし、こんな自殺者を出したマンションなんて、売りに出しても売れるわけないしね。ほんとにはた迷惑もいいとこですよ。死んだ人を悪くはいいたくないけれど、生きてたときからそうだったですよ、達川さんて。ゴミは決められた日に出さないし、夜中でも大きな音でステレオ鳴らすし……」
主婦の口をついて、まさに死者を鞭《むち》うつような言葉が滔々《とうとう》と続いた。
「あの、それで、別れた奥さんは今どちらにお住まいかご存じありませんか?」
蛍子は主婦の愚痴を遮るようにして尋ねた。
「あ。それなら、確か、実家が横須賀にあって和菓子屋をやっているとか……」
主婦はそう言ったかと思うと、いったん、中にひっこんで、すぐに出てきた。
手に葉書のようなものをもっていた。
「実家の方に帰られたあとに、便りをもらったことがあったんですよ。うちの下の子とあそこの坊やが同い年で、幼稚園なんかも一緒だったもんで……」
主婦は葉書の裏を見ながら言った。蛍子はその葉書を主婦から借りると、差出人の住所を手帳に写し取った。
差出人の名前は、平岡三恵子となっていた。
2
小金井のマンションを出た足でそのまま横須賀まで行き、隣の主婦から聞き出した住所を頼りに訪ねてみると、こぢんまりとした老舗《しにせ》風の和菓子屋の店舗には、六十年配の老女が一人で店番をしていた。
蛍子は、店番の老女に、「平岡三恵子さんに会いたいのだが」と告げると、その老女は三恵子の母親だったらしく、奥にいた娘を呼んできてくれた。
平岡三恵子は三十代半ばほどの小柄な女だった。
三恵子に自分の名刺を渡して、「亡くなった達川さんのことで、少しお伺いしたいことがある」と切り出すと、三恵子はやや不審そうな顔をしたものの、名刺に刷り込まれた肩書と、蛍子の風体から怪しい人物ではないと判断したのか、すぐに奥に通してくれた。
「実は……」
居間風の和室に通され、お茶を運んできた三恵子に、今日の突然の訪問の理由をかいつまんで説明した。
一カ月ほど前に長野県の日の本村という所を訪ねた探偵社を経営する友人が、この村を出た直後に行方不明になってしまったこと。友人の失踪《しつそう》の手掛かりを求めて、日の本村を訪れたとき、宿泊した寺の宿帳に達川の名前を見たこと。この友人から、以前に、達川も日の本村に興味をもって調べていたらしいと聞かされていたこと。達川がなぜ日の本村に興味をもって調べていたのか知りたくて、宿帳に記された住所を訪ねてみたところ、マンションの住人から達川の死を知らされたこと……。
「隣の人の話では、達川さんは自殺だったらしいというのですが、それは確かでしょうか?」
訪問の理由をかいつまんで話したあと、そう尋ねると、
「それが……」
平岡三恵子は曖昧《あいまい》な表情で口を開いた。
「遺書などは何も残されていなかったので、自殺と断定されたわけではないんです。ただ、現場の様子から見て、事故とも思えないので、泥酔した上での発作的な自殺だったのではないかと……」
三恵子はそう言って、達川の転落死に関する詳しい状況を話してくれた。
事件が起きたのは、六月二十七日、土曜日の夜十時頃のことだった。ドスンという物音に驚いたマンションの一階の住人が外を見てみると、駐車場に人が倒れているのが見えたのだという。状況から見て、九階に住む住人がベランダの手摺《てす》りを乗り越え、下に転落したものと思われた。
すぐに警察に通報され、駆けつけてきた警察の調べでは、達川の死は、転落による内臓破裂でほぼ即死状態だった。さらに、遺体からはかなりの量のアルコールが検出され、部屋の中にも、すっかり空になったウイスキーボトルが転がっていたという。
誰も人の争う声や悲鳴のようなものは聞いていないこと。部屋の中もベランダのスペースにも他人に荒らされたような痕跡《こんせき》が見当たらなかったこと。ベランダには、自殺者がよくやるように、サンダルが揃《そろ》えて脱ぎ捨ててあったこと。ベランダの手摺り等は頑丈で、誤って転落した可能性がほとんど考えられなかったこと。
さらに、被害者が失業中で、しかも妻子と別れてかなり荒《すさ》んだ暮らしをしていたらしいということ。
そういった状況を総合して、警察では、「自殺」と判断したようだという。
「……それと、遺書などは残されていなかったんですが、パソコンのハードディスクが初期化されていたことで、発作的に自殺を決意した達川が、身辺整理のつもりで、パソコンに入れてあったデータを全部消去したのではないかと……」
三恵子はそんなことを言った。
「パソコンの初期化?」
蛍子はなんとなく気になって聞き返した。
「ええ。デスクトップ型のパソコンを一台もっていたんですが、これが初期化されていたそうなんです。それで、ディスクに保存してあったはずのメールとか日記とかのデータも全部消えてしまっていて……」
「それは、達川さん本人がしたことに間違いないんでしょうか。まさか、第三者が、ということは? 達川さんを殺害する動機をもった何者かが、証拠隠滅の目的で、パソコン内のデータを消したとは考えられないでしょうか」
「その可能性もないことはなかったみたいなんですが、パソコンのキーボードやマウスには、達川の指紋以外は発見されなかったそうです。だから……」
「でも、その第三者が指紋がつかないように手袋でもして操作すれば……?」
「ええ。実をいうと、そのこと以外にも、事件当夜に不審な三人組の姿を目撃したというマンション住人の通報があったとかで、警察でも最初は、他殺という可能性も考慮にいれて捜査してたみたいなんです」
「不審な三人組……?」
「そうです。転落のあった直後、最上階に住むサラリーマンが帰宅しようとしてエレベーターに乗っていたとき、エレベーターが九階で止まって、二十代から三十代と思われる体格の良い三人の男たちが乗り込もうとしてきたというのです。
ところが、エレベーターに人が乗っていたことを知ると、その三人は結局乗らずにやりすごしたとか。三人ともマンションの住人ではなさそうで、しかも、どこか慌てていたように見えたことや、転落があった直後、903号室のドアが中から施錠されていなかったことなどから見て、この三人の男たちが転落にかかわっているのではないかと……」
もし、あれが他殺だとしたら、犯人は複数いたことになる……。
体格の良い男が三人がかりでやれば、達川にウイスキーを無理やり飲ませて泥酔状態にした後、パソコンなどに残ったデータの隠滅処分をしてから、正体のなくなった被害者の身体をベランダから下に投げ落とすことは、不可能ではないだろう。
半ば意識を失っているような状態にしておけば、被害者に悲鳴をあげられる心配もないだろうし……。
「それで、その三人の男の身元は分かったんですか?」
「いいえ……。それに、後になって、この三人の男に関する目撃情報そのものがあまり信用できるものではないことが分かって、警察でも、この件に関しては積極的に捜査する気をなくしたみたいで」
「目撃情報が信用できないというのは?」
「エレベーターに乗っていたというサラリーマンなんですが、外で一杯やってきたらしくて、こちらもだいぶ酔っていたらしいんです。それで、最初は、エレベーターが止まったのは九階だと言っていたんですが、このときの記憶が確かなものではなかったらしくて、そのうち、もしかしたら、三人の男たちが乗り込もうとしたのは、九階ではなくて、八階だったかもしれないし、十階だったかもしれないなんて言い出したらしくて。
それに、三人の男たちが止めたエレベーターに乗り込もうとしなかったのも、住人に顔を見られるのを恐れたというよりも、単に、下に行くつもりだったのが、エレベーターが上に行くのが分かって乗らなかったとも考えられるんです。結局、このサラリーマンの証言があやふやになったことで、三人の男たちが事件に関係しているかどうかさえ疑わしくなってきたという次第で……」
「ということは、いまだに達川さんの死は、自殺か他殺か確定はしていないということですか?」
そう尋ねると、三恵子は頷《うなず》いた。
「そうなんです。誤って転落という事故の線だけはないと思うのですが。ただ、警察としては、面倒臭くなったのか、自殺ということで片付けたがっているように見えます。もうろくに捜査もしてないようですし、あれ以来、こちらには何の連絡もありませんから……」
三恵子は少し悔しそうな表情を見せてそう言った。その表情から、離婚したあとも、死んだ男のことを、まだ完全に赤の他人と割り切れないでいる妻だった女の心情をちらりとかいま見たような気がした。
「あの、それで、達川さんが日の本村に興味をもって調べていた理由を何かお聞きになったことはありませんか」
話題をかえて、そう聞いてみたが、三恵子は、「さあ」というように首をかしげ、
「もともと、仕事の話はうちではあまりしない人でしたし、別れたあとのことは……。あ、でも……何かお祭りのことに興味をもっていたのではないかと思います。その日の本村という所と直接関係あるかどうかは分かりませんが」
と何かを思い出したような顔で言った。
「祭り?」
蛍子ははっとして聞き返した。
大神祭のことだろうか。
「というのも、遺品を整理していたら、本が一冊出てきたんです。達川が買った本ではなくて、図書館から借りたような本が。確か、タイトルは、『日本の祭りにおけるエロスとタナトス』とかいう、民俗学か何かの専門家が書いた研究書のような本です。だいぶ前に借りたものらしくて、遺品の中には、図書館からの返却催促状も混じっていたので、わたしが後で返しに行こうと思っていたのですが、つい忘れてしまって……」
「その本、まだお持ちでしたら、ちょっと見せてもらえないでしょうか」
蛍子は身を乗り出すようにして言った。
「いえ、それが、今は、手元にはないんです。ある人に貸してしまって」
「貸した……?」
「実は、七月の末くらいでしたでしょうか、達川と親交があったという方が線香を上げさせてもらいたいと突然うちに見えて……。鏑木《かぶらぎ》さんというフリーカメラマンをしている人です。達川が『週刊スクープ』の記者をしていた頃に、仕事がらみで知り合ったとかで……」
三恵子の話では、この鏑木というフリーカメラマンが、やはり達川の死に疑問をもっているように見えたという。
「このとき、日の本村というところの話になって、わたしがその本のことを思い出して口にしたら、それを貸してほしいとおっしゃったんです。図書館には鏑木さんの方から返しておくというので、お貸ししたんです」
達川と仕事がらみで親交があり、しかも、達川の死に疑問をもっていた男がいた……。
この男に会えば、何かもっと詳しい情報を得られるのではないか。
ふとそんな気がした。
「鏑木という人の連絡先は分かりませんか」
「それなら、名刺をもらいましたから……ちょっとお待ちください」
三恵子はそう言って、居間を出ていったが、しばらくして、一枚の名刺を持って戻ってきた。
「これです」
渡された名刺には、「フォトジャーナリスト 鏑木浩一」と刷られていた。名前の下にはマンション風の住所と電話番号が刷られている。
浩一……。
蛍子はふいに胸を突かれる思いがした。
奇しくも、伊達浩一と同じ名前を持つ男に、蛍子はそのとき、運命的とでもいうか、何か避けがたい因縁のようなものを感じた。
3
「……すると、達川という記者の死もいまだに自殺とも他殺ともつかぬまま曖昧《あいまい》にされているというわけですか」
蛍子の話を聞き終わったあと、老マスターはそう言った。
翌日の夜だった。
蛍子は、「DAY AND NIGHT」のカウンターにいた。
「ええ。でも、平岡さんの話では、警察では自殺という線で片付けたようだとか。事件の性格こそ違いますけれど、なんとなく、伊達さんのときと状況が似ているような気がしてならないんです。この二つの事件はどこかでつながっているような気がします。日の本村というキーワードで」
「それで、その鏑木とかいうカメラマンには会えたんですか」
マスターが聞いた。
「それがようやく連絡が取れて、これから会うことになっているんです。ここで」
「ここで?」
「ええ。電話で少し話した感じでは、独身の若い男性で一人暮らしのようなんです。だから、名刺にあった自宅に直接訪ねて行くのもどうかなと思って。それに、マスターにも話を聞いてもらったほうがいいような気がして、ここで会うことにしたんです。もうそろそろ来る頃だと思いますけど……」
蛍子は腕時計を見ながら言った。
時刻は午後九時を少し回ったところだった。
そのとき、噂《うわさ》をすればのたとえ通り、扉が勢いよく開いて、二十代後半の、洗いざらしのブルージーンズの上下を着た中背《ちゆうぜい》の男が入ってきた。
肌の浅黒い、そろそろ床屋の世話になった方がよさそうなぼさぼさ頭に濃い眉《まゆ》をした精悍《せいかん》な顔立ちの男だった。
「喜屋武さん……ですか」
その男はカウンターにいた蛍子を見ると、やや眩《まぶ》しげな顔つきでそう話しかけてきた。
蛍子は頷き、バッグから自分の名刺を出すと、男に渡した。
「鏑木です」
男は渡された名刺をちらと見ると、そう言って軽く頭をさげた。
「突然お呼びたてして」
蛍子が言うと、鏑木浩一は、「いえ」というように片手をあげ、蛍子の隣に座ると、ビールを注文した。
そして、出されたおしぼりで手を拭《ふ》きながら、あたりをきょろきょろ見回し、
「いい店ですね。俺《おれ》、ジャズ好きなんですよ」
と言った。
「やっぱり……」
蛍子は思わず呟《つぶや》いた。
「あれ、分かります?」
「あ、いえ、電話をしたときに、スイング風の曲が聞こえていたから、もしかしたらと思って」
蛍子は慌てて言った。
この店を会う場所に指定したのは、マスターに話したような理由もあったが、この鏑木という男も、伊達浩一同様、ジャズが好きなのではないかとふと思ったからだ。
外見こそ伊達とは似ても似つかなかったが―――外見は、いわゆる縄文人顔とでもいうか、二重瞼《ふたえまぶた》のぎょろとした大きな目といい、地肌が黒いせいか、殊更に白さが目立つ丈夫そうな歯といい、どことなく甥《おい》の豪に似ているようにも思えた―――元恋人と同じ名前をもち、同じ好みをもつその男に、初対面にもかかわらず、前にも会ったことがあるような懐かしさのようなものを感じていた。
「……さっそくですが、平岡さんの話では、鏑木さんは達川さんの死に疑問をもっておられたとか。それは一体どうして?」
蛍子は、突然自分を支配した感傷にも近い感情を振り払うように、殊更に事務的な声で話を切り出した。
「それは……」
鏑木は出されたビールを一口飲むと、口についた泡を手の甲で拭《ぬぐ》いながら言った。
「達川さんから妙な話を聞いていたんですよ。彼がああなる前に」
「妙な話というのは?」
「大蔵大臣の新庄貴明に関するネタです。彼が若い頃、かかわったという或《あ》る殺人事件についての……」
「それは、昭和五十二年に新橋で起きた、『くらはし』という蕎麦《そば》店主一家が住み込みの店員の少年に殺されたという事件のことですか。確か、その犯人の少年を紹介したのが、当時、『くらはし』の常連だった新庄貴明だったという……」
蛍子がそう言うと、鏑木は大きく頷《うなず》いた。
「そうです。それです。解雇をめぐっての衝動殺人として片付けられた事件が、実は、新庄も一枚からんだ計画殺人だったのではないかと達川さんは疑っていたんです。それを行きつけの飲み屋の席で聞かされて……」
鏑木の話では、彼が達川と知り合ったのは、フリーとして引き受けた「週刊スクープ」の仕事を通じてだったが、そのときに、ひょんなことから、そこの記者だった達川正輝と同郷であることが分かり、その親近感から、その後も、共に飲みに行ったりするような付き合いが続いていたのだという。
「小樽の出身なんですよ。俺も達川さんも。それで、同郷のよしみで気が合ったというか、新宿に小樽出身の人がやってる居酒屋があるとかで、達川さんに連れて行ってもらったことがあるんです。それ以来、時々、その店で会って一緒に飲むことがあったんですが……」
そんな折り、かなり酔いのまわった達川がロレツのまわらぬ舌で、新庄貴明に関する話をはじめたのだということだった。
「達川さんはもう出版社の方はやめていて、そのせいで荒れていたのか、飲み方もふつうじゃなかったし、かなり酔っていた上に、そのろくに回らない舌で聞かされた話というのが、とても常識では考えられないようなファンタスティックな話だったんで、そのときは、こっちも酔っ払いのたわごとに付き合うつもりで、適当に聞き流していたんですが……」
「そのファンタスティックな話というのは?」
蛍子には大体の察しはついていたが、確かめるつもりで聞いてみると、
「長野県の日の本村という村に関する話なんですよ。新庄の生まれ故郷でもあるという。『くらはし』という蕎麦屋一家の事件も、実は、この日の本村に古くから伝わる奇習と奇祭に端を発していると達川さんは言うんです。なんでも、『くらはし』の若《わか》女将《おかみ》だった女性がこの村の生まれで、日女とかいう巫女《みこ》の血を引く人だそうで……」
鏑木はそう言って、そのとき、達川から聞いた話というのをした。
「……あの蕎麦屋一家の事件が現大蔵大臣もからんだ計画殺人だったというだけでも、十分|荒唐無稽《こうとうむけい》なのに、その動機というのが、長野の山奥の村に千年以上も伝わる奇祭にあるっていうんですからね。おいおい、伝奇小説の粗筋かよって感じで、そんな話を信じろという方が無理ですよ……あ、そういえば、電話でもちょっと話した例の図書館の本のことですが」
鏑木は思い出したように言った。
「平岡さんから借りたという?」
「そうです。あの本。あの中にこの日の本村の奇祭のことが書かれていたんですよ」
電話では、平岡三恵子から借りた本は既に図書館に返してしまったという話だったのだが……。
「どういう内容の本だったんですか」
「かなり古い本です。まあ、一言でいえば、なんたらいう民俗学の権威が書いた、日本の祭りの古い形態についての研究書みたいですね。あ、でも、適当に読み飛ばしたんで、詳しい内容、聞かれても困ります。だって、昼寝用の枕《まくら》にしたくなるほど分厚い本だったんですから」
鏑木はしかめっ面で、親指と人差し指で本の厚さを示しながら言った。
「おまけに表現が学者特有のもってまわったような小難しさで、読みづらいの何のって。あれを全部読めというのは拷問ですよ」
「それに日の本村のことが書かれていたんですか」
「といっても、同じ信州の諏訪大社の歴史を書くついでに、ちょこっと触れたという程度の扱いで、ほんの数行に過ぎないんですがね。苦労して読み進んできて、たったこれだけかよってガックリくるくらいの……」
鏑木の話では、それは、日の本村の大神祭に触れたもので、祭りの最後を飾る「神迎えの神事」という神事が、今でこそ、巫女が大神の霊がおりた三人の若者を酒でもてなすだけの儀式になっているが、古くは、これは性交渉を伴う秘儀のようなものだったのではないかという筆者の推察が書かれていたという。
「……つまり、この祭りで、日女と呼ばれる巫女は、大神と呼ばれる蛇神の神妻だというんで、その蛇神の霊のおりた三人の若者と、いわば……その、『夫婦の契り』をするというわけですね。そういうことが神事として昔は堂々と行われていたらしいと。
もっとも、こういう性がらみの祭りは、明治以降、近代化を推し進める新政府の政策にのっとって、『淫祠《いんし》』扱いされて、厳しく取り締まられたそうなんですが、それ以前は、各地で行われていた痕跡《こんせき》があるらしいんです。山の神の祭りなんて、殆《ほとん》ど乱行パーティのようだったとか……。
ただ、そういうことがあったとしても、それは過去の話だということは、その本の著者である学者さんも書いているんですが、達川さんの話では、日の本村という村では、けっして明治以前の話ではなく、少なくとも二十年くらい前までそうした秘儀が人知れず続けられていたんじゃないかというんです。そして、この秘儀を続行するために、あの蕎麦屋一家の殺人事件が起きたのだと……」
4
「……そのとき、俺は、達川さんの話を、百歩というか万歩譲って、信じるとしても、二十年も昔の事件の真相を今更あばいてもしょうがないんじゃないかって言ったんです。既に裁判にもかけられて、犯人といわれた少年も刑期を全うして、表向きは完全に終わった事件だろうから、今更蒸し返すわけにもいかないだろうって。
そうしたら、達川さんは、確かに法的にはもう手も足も出ない事件だが、あの事件の真犯人というか、日の本村の関係者たちに社会的な制裁をくわえることはまだできるって言うんです。
とくに、その関係者の一人は、今や次期総理とも呼び声の高い与党の大物政治家になっているのだから、これがスキャンダルとして広まれば、政治家生命を絶たれるほどの致命傷になるはずで、これなら十分社会的制裁の役割を果たすと、ね。
で、その手段の一つとして、達川さんは、インターネットを使うことを考えていたみたいです。つまり、自分のWEBページ、日本でいうところのホームページですね、これを作って、告発サイトのようなものを立ち上げようかと思っていると……」
「告発サイト?」
「そうです。最近よくあるでしょう? 企業とか行政とか大病院とかを相手取って、その内部事情を暴露する風の……。これなら、パソコン一台あれば、たいした費用もかからず、何の権力も組織力も持たない個人でもできますからね。要はインターネットを使って、新庄貴明と彼の生まれ故郷でもある日の本村に関するスキャンダルを広めようとしたわけです。
ただ、スキャンダルを広めるといっても、自分の推理を書いて発信しただけでは、ネタがネタだけに、妄想の一言で片付けられてしまうのがオチです。ま、実際、この手の告発サイトの中には、読み通すのも阿呆《あほ》らしいような妄想系も少なくないですからね。
推理に信憑性《しんぴようせい》を与えるためにも、あの事件の被害者である『くらはし』の若女将、倉橋日登美という女性を捜し出して、なんとか当時の詳しい話を聞き出そうとしていたようです。
ところが、後になって聞いた話では、この倉橋日登美という女性は、既に亡くなっていて、その代わりに、この女性の娘だと名乗る、二十歳くらいの若い女性が達川さんの元を訪ねてきたというんです……」
「葛原日美香が?」
蛍子は思わずそう聞き返した。
日美香が達川の元を訪ねていた……?
「そうです。確か、そんな名前でした。この若い女性の話では、倉橋日登美は彼女を産んですぐに亡くなったそうです。それで、この人は、実母の友人だった女性に育てられたそうなんですが、その養母が五月の連休中に交通事故で急死して、それがきっかけで、自分の出生に疑問をもったらしいんです。で、色々調べているうちに、達川さんの所に辿《たど》りついたというわけで……」
「それじゃ、達川さんは、日の本村に関する疑惑を、葛原日美香にも話したということですか」
「らしいですね。このあと、すぐ、この女性は日の本村に出向いたそうですから。なんでも、実の父親を捜すためとか」
「実の父親……」
「どうも、この日美香という女性の出生には、例の大神祭という祭りの怪しげな神事がからんでいるみたいだと達川さんは言ってましたよ。それで、彼女とは、日の本村から帰ってきたら、また会う約束をしていたらしいんですが、それがおかしなことに……」
鏑木がそこまで言って、喉《のど》が渇いたのか、ぐいとビールを一飲みした。
「おかしなことって?」
蛍子が先を促すように言うと、
「連絡が取れなくなってしまったというんですよ。最後に彼女に会ったときは、日の本村から帰ってきたら向こうから連絡くれるということだったので、連絡がくるのを待っていたらしいんですが、いつまでたっても連絡がない。それで、業をにやして、相手の携帯の番号を聞いていたんで、それにかけてみたら、通じないというんです。どうも番号を変えられてしまったとかで。まさか、このまま音信不通になるとは思っていなかったので、携帯の番号を聞いただけで、住所とかは聞いてなかったというんです。で、それきり、彼女とは会うことはおろか、連絡が取れなくなってしまったと」
「それはいつの話ですか」
「達川さんから、その話を聞いたのは、五月の末ころだったかな。例の新宿の居酒屋で」
鏑木は思い出すように言った。
「そのとき、達川さんも不思議がっていたんですよ。彼女に避けられているようだと……。日の本村で何かあったんじゃないかって言ってました」
伊達の報告書によれば、葛原日美香はこのあと、すぐに神家と養子縁組を結んで、神姓に改名している……。
そのことを鏑木に話すと、
「え。神家の養女になった? てことは、達川さんの推理は間違ってたってことなのかな……」
と呟いた。
「だって、そういうことになりますよね。もし、達川さんの推理をある程度信じていたとしたら、実母の家族を殺害し、その生活をめちゃめちゃにした神家の養女になんかならないでしょう? それでは、『敵』側につくようなもんじゃないですか」
「そうですね……」
蛍子は考えこみながら相槌《あいづち》をうった。
むろん、日の本村に実際に出向いてみて、達川が言っていたようなことが、彼の妄想にすぎなく、事実無根であることを知ったとも考えられるが……。
しかし、妙なのは、だとしたら、なぜ、村から帰ったあと、そのことを達川に報告しなかったのかということだった。
そのまま、いきなり連絡を絶ってしまうというのは、まるで……。
「達川さんとはその後もお会いになったんですか」
そう聞いてみると、鏑木はかぶりを振った。
「五月の末に会ったのが最後でした。その直後、雑誌の仕事がはいって、俺《おれ》、インドに行くことになっちゃって。日本離れてましたから。帰ってきたのが、七月の半ば頃だったんです。で、久しぶりに、例の居酒屋に顔だしたら、店主から、達川さんが亡くなったことを聞かされたんです……」
5
インド帰りか。
どうりで、と鏑木浩一の、まさにインド人並みの肌の黒さを見ながら思った。
もともと地が黒いのかもしれないが、その半端ではない日の焼け具合から、日本で焼いたのではないのではと密《ひそ》かに思っていたからだ。
「……居酒屋のオーナーの話では、自宅のマンションから転落死したということで、自殺か事故かもよく判らないということだったんです。ただ、状況から見て、衝動的な自殺だった可能性が高いと。でも、その話を聞いたとき、あの日の本村の話を思い出して、なんとなく気になって……。それで、遺体は別れた奥さんが引き取ったということを聞いたんで、線香の一本もあげるつもりで、奥さんの実家まで行ったんです。
そのとき、奥さんから、達川さんのパソコンが初期化されてデータが全部消されていたってことを聞かされたんですよ。警察では、パソコンや周辺機器からは達川さんの指紋しか検出されなかったということで、自殺を決意した達川さんが身辺整理のつもりで、たとえば、ディスクに保存しておいた日記とかメールとかのデータを消したんじゃないかと判断したようですが、どうもそれが釈然としなくて……。
それに、事件当夜、不審な三人の男が目撃されていたことから、他殺の線もありうると聞いて、もしやと思ったんです。もし、その三人の不審な男たちというのが、日の本村に関係した連中だったとしたら。達川さんが自分たちに不利なことをやろうとしているのを嗅《か》ぎ付けて、自殺に見せかけて、口封じをしたのではないかと……」
「達川さんは、その告発サイトというのを既に立ち上げていたんですか」
「いや、まだそこまではやってなかったようです。五月末に飲み屋で会ったときには、これからコンピュータの勉強を少ししなくちゃって言ってましたから、まだ準備中だったのかもしれません。でも、サイト立ち上げて発信はしてなくても、WEBページに載せる告発文書のようなものは既に作成して、フロッピーかハードディスクに保存していたかもしれません。奥さんの話では、残されていたフロッピーなども全部初期化されてデータが消されていたという話ですから、もし、あれが他殺だとしたら、犯人たちが、すべてのデータを消して証拠隠滅を図ったとも考えられます」
「そのことを警察に話したんですか」
「いや……。そのときは俺自身、達川さんの話が信じられなかったし、そのあとで、奥さんに電話したら、不審な三人組を見たというマンションの住人の目撃証言そのものがあまり信憑性のあるものじゃなかったとかで、他殺という線は見込み薄になったらしいと聞かされたんです。それで、やっぱり、衝動的な自殺にすぎなかったのかと思い直して、このことは誰にも話さなかったんですが……。
でも、喜屋武さんの話では、その伊達という人も、日の本村に行ったきり行方不明になったということでしたよね?」
「ええ……」
電話で、探偵社に勤める友人が日の本村にあることを調べに行ったきり、忽然《こつぜん》と姿を消してしまったことは話してあった。
「実は……」
蛍子はそう言って、電話では話せなかったことまで詳しく話した。
伊達の失踪《しつそう》の手掛かりをつかむために、つい最近、日の本村を訪れたこと。そこで見聞きしたこと。
「……すると、伊達さんは、その蛇ノ口とかいう底無し沼に形見のライターを拾いに行って、誤って落ちたのではないかと……?」
鏑木は話を聞き終わると、濃い眉《まゆ》を寄せてそう訊《たず》ねた。
「ええ。そんな気がしてならないんです。でも、その落ちた沼というのが、村にとってはご神域でもあったために、事故のことが村ぐるみ―――というか、あの村を牛耳《ぎゆうじ》っている人たちによって隠蔽《いんぺい》されてしまったのではないかと思うんです」
「うーん。なるほど。でも、そう考えると、確かに変ですね。日の本村のことを調べていた男が、一人は自殺、一人は行方不明……。ただの偶然とは思えないなぁ」
鏑木はそう言って腕組みすると考えるような顔になっていたが、何かを思い出したような表情になって、
「そうだ。そういえば、その蛇ノ口とかいう沼のこと、達川さんも言ってましたよ。七年に一度の大祭の最後を飾る神事で、昔は、その沼に生き贄《にえ》が捧《ささ》げられていたとか……」
「一夜《ひとよ》日女《ひるめ》と呼ばれる幼い巫女《みこ》が犠牲になったようです。表向きはそんな贄の儀式はとっくに取りやめられ、今では、その神事も、藁《わら》人形を使った形式的なものになっているということですが、ひょっとしたら、この贄の儀式はいまだに密《ひそ》かに……少なくとも、昭和五十二年までは続いていたのではないかと思われるんです」
蛍子はそう言って、倉橋日登美の幼い娘が、この一夜日女に選ばれた直後、「病死」したらしいことを話した。
「まさか、その春菜という幼女がその沼に……?」
鏑木はさすがに愕然《がくぜん》としたように言った。
「もし、その贄の儀式が今も続いているのだとしたら……。沼底には儀式の証拠である少女たちの遺体や骨が今も残っているはずです」
「…………」
「村の人々にとっては古くから伝わる神事かもしれませんが、これはれっきとした犯罪です」
「もちろんですよ! そんなことが今も行われているとしたら」
鏑木は憤然と言った。
「底なし沼とはいっても、実際には、底がないわけではないそうですから、もし、何らかの事件か事故がそこで起こったとなったら、当然、沼底を浚《さら》うような事態になるでしょう。日の本村の人たちはそれを恐れたのかもしれません」
「それで、伊達さんの事故死を隠蔽してしまったというわけか。なるほど。話のつじつまは合いますね……」
「ただ、伊達さんの件は、これ以上、手も足もでないんです。疑惑をはらすためには、蛇ノ口の底を浚うのが一番だと思うんですが、よそ者が神域である沼底を浚うなどということをあの村の人たちが許すはずもありません。警察が強制的にやるしかないと思います。でも、その警察を動かすには、あの村が何か犯罪めいたことに加担しているという確かな証拠をつかまなければ……。単なる推理や疑惑だけでは、警察もそうおいそれとは動いてはくれないでしょう」
「ましてや、その村が次期総理ともいわれている大物政治家の郷里となるとね。下手をすれば上から圧力がかかりかねない」
「ええ。それで、他殺の線が完全に否定されたわけではない達川さんの事件の方を再捜査してもらうことで、そこから、何か突破口が開けないかと思って……」
「そうか。そういうことですか。達川さんの事件が他殺、しかも、日の本村がからんだ殺人であることがはっきりすれば、芋ヅル式に、そちらの捜査もされるでしょうからね。俺も達川さんのことはずっと気にはなっていたんです。時々、本当に自殺だったのかなって思ったりして。わかりました。協力しますよ。とりあえず、あの件を担当した所轄署をあたって、もう一度他殺の線で徹底的に捜査し直してもらうよう話してみます」
鏑木は強い目でそう言った。
[#改ページ]
第八章
1
十月二十四日、土曜日の午後だった。
床の中でうつらうつらとしていた神耀子《みわようこ》は、ふと目を覚ました。
何やら外が騒がしい。
子供たちの甲高い歓声や笑い声。
中庭で人が集まって何かしているらしい……。
耀子はゆっくりと起き上がってみた。今日はわりと気分がいい。起きるとき、いつも悩まされる目眩《めまい》のような嫌な気分や、身体のだるさがない。
夏あたりからずっと体調が思わしくなかった。病気というのではないが、夏ばても手伝って、とにかく身体がしんどくて、この三カ月間というもの、寝たり起きたりの日々が続いていた。
床から出て、寝間着の上にカーディガンを羽織っただけの姿で、中庭の見える縁側まで行って外を見てみると、庭では、子供たちが集まって相撲をしていた。
神家の子供だけではない。近所の子供たちの顔も見える。
地面に円を描いて作っただけのシンプルな土俵の上では、高校生くらいの長身の少年と、小学一年生くらいの少年が四つに組み合っていた。
小学生の方には見覚えがあった。
副村長の長男の矢部俊正だった。
もう一人の方の少年は……。
あれは、確か、貴明さんの次男の武《たける》……。
療養と受験勉強を兼ねて、しばらくこちらで預かることにしたと、弟の聖二からは聞かされていた。
十年ほど前に、一度、家族連れで来たことがある。そのときは、ちょうど今の俊正くらいの年齢だった。当時は男の子というより、はにかみやの少女のような印象を受けたものだが、その幼顔はかすかに残っているとはいえ、外見だけは、見違えるように逞《たくま》しくなっていた。
年上の少年相手に踏ん張っていた俊正があっけなく土俵の外に投げ出されると、土俵を取り囲んでいたギャラリーからまた歓声が起こった。
ギャラリーの中には、子供にまじって大人の顔もあった。
その中に日美香の顔もあった。
倉橋日登美によく似た顔が……。
しかし、耀子を少なからず驚かせたのは、その日美香のそばに義妹《いもうと》の美奈代の顔を見つけたときだった。
美奈代は笑っていた。
大きな口をあけて楽しげに。
信じられないものでも見たような気がした。
あの美奈代があんな風に屈託なく笑う顔を何十年ぶりで見たことだろうか。
耀子は、やはりこうして縁側越しに見た二十年近くも昔のある光景を突然思い出していた。
中庭をふと見ると、聖二と美奈代が肩を並べて散策していた。あれはまだ美奈代がこの家に嫁いでくる前だった。
あのとき、まだ二十歳そこそこだった美奈代は、婚約したばかりの弟と並んで、ああして弾けるように笑っていた。
若い頃は明るくてよく笑う娘だった。
でも、翌年、この家に嫁いできて、やがて、よく笑う娘の顔から次第に笑顔が拭《ぬぐ》ったように消えていった。
いつしか、美奈代は笑わない女になっていた。
それが、まるで少女の頃に戻ったように、屈託なく笑っている……。
彼女をたとえ一時にせよ、昔の彼女に戻したのは一体何だったのだろうか。
この久しぶりにからりと晴れた秋空らしい天気のせいだろうか。
いや、美奈代だけではない。
あの娘……。
日美香も少し変わったように見える。
聖二と養子縁組をしたあとも、週末などを利用して、ここにはたまに訪れてくるだけだったが、会ったときの印象は、いつも、どこか心を閉ざしたような冷ややかな感じだった。
それが、今、義妹同様、楽しげに白い歯を見せて笑っている。
武の家庭教師を兼ねて、ここにしばらく滞在するという話だが、彼女も心なしかよく笑うようになった気がする。
笑わない女たちをこんなに明るくしたのは一体何の力なのだろう。
日美香や美奈代だけではない。
このわたしにしても……。
今日もそうだが、ここ数日、妙に気分がいい。晴れた日によく感じるような、何か特別にいいことがあったわけでもないのに、なんとなく浮き浮きする。そんな気分だ。
この家では何かが少しずつ変わりつつある。
あの少年が来てから……。
そうだ。この変化の要因は、あの少年にある。今、「暑い、暑い」と言って、上に着ていたトレーナーを無造作に脱ぎ捨て、半袖《はんそで》のTシャツ一つになって、かたわらにあったヤカンの水をがぶ飲みしているあの少年。
新庄武がこの家に来てから、何かが変わった。
それは、まるで、今まで雲に隠れていた太陽がようやく顔を出し、その光を全身に浴びて、みんな、それを喜んでいる……。
そんな風にも見えた。
「姉さん……」
つい食い入るように中庭の光景を見つめていると、背後から声がした。振り返ると、聖二が入ってきた。
2
「起きてらしたんですか」
聖二がそう声をかけると、姉の耀子は、寝間着の胸元を痩《や》せ細った手でかき寄せ、少しはにかんだように笑った。
「ええ。うつらうつらしてたんですけど、外の騒ぎで目が覚めてしまって……」
そう言っている間にも、庭の方からはどっと笑い声が起こった。
見ると、相撲の方は一段落して、武が土俵の中央で、怪しげな腰つきでダンスのようなものを踊っており、それを見ていたギャラリーが沸いたという風だった。
「確かにちょっとうるさいですね。そうではないかと心配して来てみたんですが……。今、やめさせますから」
聖二はそう言ったかと思うと、踵《きびす》を返して部屋を出て行こうとした。
「あ、待って。いいんです。うるさいわけじゃありませんから」
耀子は慌てて言った。
「むしろ、気分がいいんです。あの子たちの楽しそうな笑い声を聞いているのは。だから、やめさせないで」
「そうですか? 姉さんがそうおっしゃるなら……」
聖二は思い止《とど》まったように、また引き返してきた。
「あの子……あんなに明るい子だったんですね」
耀子は庭の方を見やりながら言った。
「武ですか」
聖二もつられたように中庭の方に視線をうつした。
「ええ。前に会ったときはもっとおとなしい子かと思っていたんですけど……。あんなに明るくて剽軽《ひようきん》な子だったとは。あの子が来てから、この家全体が明るくなったみたいだわ。美奈代さんがあんな風に笑うの、わたし、久しぶりに見たような気がします」
耀子にそう言われて、聖二は、武を取り巻いているギャラリーの中にいる妻の方を少々苦い表情で見た。
姉の言うとおりだった。武が来て、妻は微妙に変わった。少し若返ったようにも見える……。
この二十年の間に、自分が少しずつ妻から奪っていったものを、たった一週間で、武は妻に取り戻してやったというのだろうか。
そう思うと、何やら苦いものがこみあげてくる。
「この家の人間も変わったかもしれませんが、武自身も大きく変わりましたよ。新庄家にいるときはあんな風ではなかった……」
土俵の中央で相変わらず怪しげなダンスを続けている甥《おい》の方をじっと見ながら、聖二は言った。
「そうなの? わたしは新庄の家には行ったことがないから……」
「あんなに明るくはなかったですよ、あの家にいたときは。もっと屈折している感じでした。あんな風に笑うことも滅多になかっ―――」
そう言いかけて聖二は、一瞬目を剥《む》いた。
「あいつ、さっきから、何をやっているんだ」
腰をくねらせながら妙なダンスをしていた武が、何を思ったか、いきなり、Tシャツをゆっくり脱ぎ出したのである。
ギャラリーからは喝采《かつさい》と拍手が起こった。
少女たちの中には、「きゃー」と嬌声《きようせい》をあげて両手で目を覆う子もいる。
「あの馬鹿……また、あんな真似を」
聖二は舌打ちした。
「な、何やってるんですか、あの子は」
耀子も思わず年甲斐《としがい》もなく頬《ほお》を赤らめながら聞いた。
まるで武の動きは、ストリップでもしているように見えた。妙な腰つきといい、身体のくねらせ方といい、まさにストリップダンサーのそれだった。
「アメノウズメノミコトの真似やってるんですよ。昨日、村長たちが集まった宴席で、あいつ、酔っ払って、あれを突然やりだして……。途中で止めさせるのに苦労しました」
聖二は思い出し笑いをしながら言った。
「アメノウズメノミコトの真似って……?」
武はTシャツを脱ぎ捨て、上半身裸になってしまうと、今度はジーンズのベルトに手をかけ、踊りながら、それをはずそうとしていた。
「大日女様のところでも危うくストリップしかけたんです。大日女様にお印を見せろといわれて……」
聖二はそのときの話を耀子にした。
「それで、うちへ帰ってきてから、そのことを皮肉って、おまえはアメノウズメノミコトかって言ったら、彼は知らなかったらしくて、アメノウズメノミコトって何だって聞くから教えてやったんです。この女神が岩戸に籠《こ》もった天照大神を外に出すために、岩戸の前でストリップめいた踊りを踊って、太陽神の気を引いた逸話を。その故事が、大神祭の『御霊降《みたまふ》りの神事』の原型になっていることを。そのときは、神妙な顔つきで聞いていたんですが、一体何を学習したのやら、昨夜になって、宴会の席で、酔っ払ったあげくに、いきなり『アメノウズメノミコトのマイケル・ジャクソン風やります』と言い出して、着ているものを脱ぎながら踊りだしたときにはこちらの肝がつぶれましたよ。男のストリップなど見たこともないご住職など腰抜かしそうになっていました」
「まあ」
耀子の顔に笑みがこぼれた。
「そういえば、昨夜、座敷の方が凄《すご》く騒がしかったのはそのせいだったんですね」
「まさか、まっ昼間から、またあれをやろうというんじゃないだろうな。ちょっと目を離すと、何をしでかすやら……」
聖二はそう呟《つぶや》いて、はらはらした表情で甥の方を見ていたが、武は、ジーンズのベルトをはずして空に放りあげ、ジーンズのジッパーを半分ほど下にさげかけたところで、「おしまい」というように踊りをやめた。
ギャラリーからは、失望半分|安堵《あんど》半分というような軽いどよめきが起こった。
そのあとは、向かいの部屋の縁側に座って、背中の蛇紋に興味を示す子供たちに、得意げにそれを見せびらかしていた。
「本当に貴明さんに似てきましたね」
耀子は庭の光景をなおも見つめながら言った。
「顔だけでなく、負けず嫌いでプライドの高いところなど、性格も兄そっくりです」
「でも、貴明さんとはどこかが大きく違うような気もしますが……」
耀子はふとそんなことを言った。
聖二は思わず姉の顔を見た。
それは、聖二も最近になって感じていたことだった。たまに新庄家を訪れたときは、兄と武の似たところばかりが目についたが、ここでは、なぜか、この二人の異なる点が目につくようになった。
似て非なるもの……。
この父子《おやこ》に関しては、最近ではそう思うようになっていた。
「どこがどうとは、うまく言えないんですけれど、二人を太陽にたとえると、貴明さんの方は容赦なく照りつける真夏の強い日差しみたいなところがあるのにたいして、武は、どこかほのぼのとした秋の木漏れ日のようなところがあります。貴明さんなら無視してしまうような片隅に咲く小さな花も見落とさずに光を注いでくれるような、そんな優しさがあの子の中にはあるような……」
耀子は、考え考え、そう言った。
優しさ……?
姉の言わんとすることが聖二にもなんとなく分かるような気がした。
確かに、武にはそういうところが小さい頃からあった。
たとえば、部屋の中に虫が迷い込んできたとすると、兄なら、みつけざますぐに叩《たた》きつぶしてしまうだろうが、武なら、殺さずに、その虫をつかまえ、そっと外に逃がしてやるだろう。
激しい気性の中にもそんな弱いものに対する思い遣りのようなものがある。
実際、義姉《あね》から聞いた話では、中学に入る頃から、よく同級生や部活の先輩などと喧嘩《けんか》騒ぎを起こすようになったらしいが、いずれも自分と同等か目上の者に刃向かう場合がほとんどで、弱い者いじめ的な喧嘩は一度もなかったということだった。
ただ、姉が「優しさ」と感じたことは、自分には、「ひ弱さ」あるいは「甘さ」と感じていたのだが……。
そして、それは矯正すべき武の弱点だと思っていた。しかし、ひょっとしたら、姉の見方の方が正しいのかもしれない。
自分が「ひ弱さ」と感じたあの性格は、武の美点とも言える部分なのか……。
この姉とは、昔から何かと意見が異なり、対立することも多かった。二十年前のことにしてもそうだ。日登美のことで、姉とは意見が真っ向から対立した。
ただ、姉のことは一目おいていた。一見おとなしやかだが、その眼力の鋭さには侮れないものがある。何かと意見が対立したというのも、実は、この姉に一目おく気持ちがあったからで、もし、精神的に見下しているような相手だったら、最初から対立しないようにうまく言いくるめていただろう。
「実は……」
聖二は言った。
「今度の大神祭で、武に大神の御霊をおろそうと思っています」
「あの子を三人衆にするということですか」
耀子はさほど驚いた様子もなく聞き返した。
「そうです。彼はこの村で生まれ育ったわけではないので、その点がネックだったんですが、先日、大日女様とも話しあって、それは大した問題ではないということになりました。お印が出たということこそ最優先されるということで。それで、このことは、昨夜の宴席で、村長やご住職にも伝えておきました」
「そうですか。あなたが大神祭が近づいたこの時期に、あえて、あの子をここに連れてきたことからして、もしかしたらそのつもりではと思っていました。療養とか受験勉強とかは口実にすぎないだろうと……」
耀子は静かにそう言った。
やはり、姉には見抜かれていたか。
「それと……もう一つ、ご報告することがあります。今度の大神祭では、三人衆は武一人にさせます」
「他の二人は選ばないということですか」
耀子もここまでは予想していなかったようで、少し驚いたように言った。
「ええ。彼一人に大神の御霊をおろします。日女の子ではない男児に、しかもこんな前例の全くない形でお印が出たことで、私も大日女様も、この件をどう扱ったらよいのか思案にくれたのですが、これは、武一人を依《よ》り代《しろ》にせよという、大神のメッセージと受け取ることにしました」
「そう……」
「とにかく、今年の大神祭は異例のものになるでしょう。もしかしたら、今年の祭りこそが本物かもしれません」
「本物?」
「そうです。大神の御霊が本当に武におりるかもしれないということです。今までの祭りは、社を守る日女や神官の血統を絶やさないためのかりそめのものにすぎませんでした。でも、今度の祭りで、大神は武の中に本当に復活するような気がします。そして……」
聖二はそう言いかけ、思い止まったように口をつぐむと、
「姉さんはどう思われます? 武に大神の御霊をおろすことについて、私のやり方が間違っていると思われますか」
と耀子に向かって訊《たず》ねた。
「……いいえ」
耀子はしばらく沈黙したあと、はっきりとかぶりを振った。
「間違っているとは思いません。反対ではありませんよ。たとえ、わたしごときが反対したところで、いつぞやのように、あなたは大神のご意志の名の下に、ご自分の意志を通してしまわれるでしょうが……」
「……」
「でも、今回の決定はわたしも賛成です」
耀子は晴れやかに微笑《ほほえ》んだ。
「もし、大神が誰かの肉体を借りて、再び、この世にたち現れるのだとしたら」
耀子は庭の方を見ながら呟くように言った。
「その依り代となる人は、貴明さんのような人ではなく、あの子のような人であってほしいとわたしは願っていましたから……」
3
「さあ、もう一勝負しようぜ。誰か相手はいないか」
新庄武は、しばらく休んでいた縁側から勢いよく立ち上がると、また土俵の真ん中に進み出て、ギャラリーを見渡した。
「もう誰もいないよ。武兄ちゃん、強すぎるんだもん。みんな、負けちゃったよ」
最後の対戦相手だった矢部俊正が、投げ飛ばされたときに擦りむいた右|肘《ひじ》をさすりながら、くやしそうに口をとがらせた。
「なんだよ。もうおしまいか。もっと手ごたえのあるやつはいないのか。敗者復活戦でもいいぞ」
武は挑発するように言った。
負けた少年たちはみな恨めしそうに互いの顔を見合わせている。
「誰でもいいからかかってこい。また投げ飛ばされるのがこわいのか。弱虫だなぁ、おまえらは」
武はからからと笑った。
「おこちゃま相手に何いきがってるんだよ」
そのとき、背後でそんなあざ笑うような声がした。
振り返ると、玄関に通じる植え込みの陰から、小型のボストンバッグをさげた背広姿の人物が現れた。
「兄貴……」
武は、突然現れた人物の方を信じられないように見た。
兄の信貴《のぶたか》だった。
「信貴さん」
美奈代も驚いたように、もう一人の甥《おい》の出現に目をまるくしていた。
「玄関で何度か声かけたんですが」
声をかけても誰も出てこないし、庭の方が何やら騒がしいので来て見たのだと信貴は言った。
「兄貴、どうしたんだよ」
「俺《おれ》が相手になってやる」
信貴は訪問の理由も告げず、そう言うと、手にさげていたボストンバッグをその場に置き、背広を脱いでワイシャツ姿になり、ネクタイを緩め、銀縁のメガネまではずした。
「相手って……」
入院中も一度しか見舞いに来ず、しかも、十分ほどいただけでさっさと帰ってしまった兄が、こんな山奥まで突然訪ねてきただけでも十分|驚愕《きようがく》ものなのに、今ここで、自分と相撲を取ろうとしているらしいことに、武は心底びっくりしていた。
どうしたんだ、一体……。
「何突っ立ってるんだ。早くしろよ。それとも投げ飛ばされるのがこわいのか」
信貴は、ワイシャツの袖《そで》をまくりあげて、腰を落とし、かりそめの土俵に両|拳《こぶし》をつき、弟を見上げてからかうように言った。
「すごい。世紀の兄弟対決だ」
「ワカタカだ」
口々に囃《はや》す声がした。
武は、どうも状況が呑み込めず唖然《あぜん》としながらも、しかたなく、自分も兄と向かい合って土俵に両拳をついた。
「はっけよい」
の掛け声で兄とがっぷり四つに組むと、
「手加減しろよ……」
耳元でこそっと信貴の囁《ささや》く声がした。
その一言でつい力を抜いてしまったところを、いきなり足を払われて、ずでんと土俵に尻餅《しりもち》をついてしまった。
「わーい。ノブタカニイチャンの勝ちー」
負け組の少年たちから割れんばかりの拍手と歓声があがった。
「武兄ちゃん、弱ちぃー」
「あっけねー」
「尻餅、かっこわりぃー」
「餅は正月につけー」
「おこちゃまにしか勝てねーのか」
ここぞとばかりに罪のない罵声《ばせい》があちこちから飛ぶ。ギャラリーがまたどっと沸いた。
「ちぇ」
武は苦笑いしながら立ち上がった。
信貴は、作戦勝ちとでもいいたげに、自分の額を指さして愉快そうに笑っていた。
4
「兄貴、ずるいや……」
信貴と一緒に部屋に戻ってくるなり、武は膨れっ面で言った。
窓から見える庭には、集まっていた人々もみな立ち去って、数人の子供たちがまだ遊びたりないような顔で残っているだけだった。
「あんなこと言うから本気じゃないのかと思って力抜いたら―――」
「体育しか5が取れなかったおまえと、体育だけは5が取れなかった俺がまともに勝負したって、こっちが負けるに決まってるじゃないか」
信貴は捲《まく》りあげていたワイシャツの袖をおろしながら当然のように言った。
「だけど驚いたよ。何も言わずにいきなり来るんだもん。何しに来たんだよ?」
「何しに来たとはご挨拶《あいさつ》だな。こんな信州の山奥まで可愛《かわい》い弟の様子を見に来てやったのに」
そう言いながら、信貴は、さげてきたボストンバッグを開けると、一番上にあった四角い菓子箱のようなものを取り出した。
「というか、母さんにこれ頼まれたんだよ。ついでにおまえの様子見て来いって……」
「なに、それ?」
「おふくろ印のアップルパイ。おまえの好物だろうが?」
「ああ……」
武は兄の差し出した平たい箱を見て目を輝かせた。母の焼いたアップルパイは小さい頃から大好物だった。触ってみると、焼き立てらしく、まだ仄《ほの》かに温かかった。
「まあ、信貴さん。一言連絡してくれたら、お迎えにあがりましたのに」
茶菓を載せた盆をたずさえて美奈代が入ってきた。
「突然押しかけてすみません。一晩だけご厄介になります」
信貴はそう挨拶した。
「一晩とおっしゃらず何日でも。今、お部屋の用意しますから」
そう言って、テーブルに盆だけ置くと、そそくさと美奈代は立ち去ろうとした。
「叔母《おば》さん」
その叔母を呼び止めて、武は、兄から渡されたばかりの菓子箱を差し出した。
「これ、チビたちにやって」
「え……」
「アップルパイだって」
「あら、いいんですか?」
美奈代は一瞬とまどったように菓子箱を見た。
「おい、それは……」
信貴がそう言いかけたが、
「いいよ。俺はいらないから。このへんのガキどもはこんなコジャレタもん食ったことないから、きっと喜ぶよ」
「それじゃ、遠慮なく」
美奈代は菓子箱を受け取ると部屋を出て行った。
「あれはおまえに食べさせようとして母さんが焼いたものだぞ。それを……。好物じゃなかったのか」
信貴はやや咎《とが》めるように弟を見た。
「好物だったけど……。今はこっちの方がいいや」
武はそう言うと、美奈代が置いて行った盆の皿から信州名産のお焼きを一つとりあげると、中を割り、「お。野沢菜だ」と呟《つぶや》いた。
「おまえ……ホントに変わったな」
そんな弟の様子をじっと見ていた信貴はポツンと言った。
「そう?」
武は野沢菜入りのお焼きをほお張りながら兄の方を見た。
「それにしても元気そうじゃないか」
「まあね」
「傷の方はもういいのか」
「とっくに治ってるよ」
「受験勉強は? ちゃんとやってるのか」
「やってるよ」
「まさか、一日中勉強してるわけじゃないだろ?」
「勉強は午前中だけ」
「あとは何やってるんだ。こんな田舎じゃ暇のつぶしようがないだろうし……」
「そうでもないよ。けっこうやることはある。薪割《まきわ》りとか」
「薪割りって、おまえ、そんなことやってるの?」
信貴は驚いたように聞き返した。
「だって、ここ、いまだに薪くべてわかす風呂《ふろ》使ってんだぜ。これから冬になると、雪とか降るから、その前に使う分だけ蓄えておかないとね。毎日薪割りよ」
「だからって、そんなこと、おまえがやることないだろう?」
「お印の出た子にそんな下男みたいな真似はさせられないって、最初は叔母さんもやらせてくれなかったんだけどさ。でも、何もしないでお勉強ばかりしてても身体なまるだけだし。東京にいたときは、ジム通ってたけど、ここじゃ何もないからね。薪割りって、やってみるとなかなか難しいんだ。力の配分とかバランスとかね。でも、全身の筋肉使うから、あれを毎日やるだけでも、良《い》い運動になるんだよ。それに、いくら親戚《しんせき》とはいえ、ただ飯食いの居候だもん。家の手伝いくらいしなくちゃね」
「……ようするに、おまえは田舎生活を満喫していると考えていいのか」
「うん。けっこう楽しんでる」
「田舎嫌いじゃなかったのか」
「うーん……。なぜか、ここは性に合うみたいなんだ」
「それを聞いたら、母さん、がっかりするだろうな」
「がっかりする? なぜ」
「本当いうと、俺が今日来たのも、そろそろ一週間になるから、おまえが田舎暮らしに退屈しはじめてるんじゃないかって、おふくろが……。それで、もし、帰りたがっているようだったら一緒に連れて来いって」
「幼稚園のガキじゃあるまいし。帰りたくなりゃ、一人で帰るよ」
武はそう吐き捨てたあとで、
「今んところ、帰る気なんか全然ないけどね」
と付け加えた。
「それじゃ、好物届けさせて、里心をつけようとしたおふくろの作戦は見事失敗に終わったってことかな……」
信貴は独り言のように言った。
「それに……」
武が言った。
「今、帰るわけにはいかないんだよ」
「なぜだ?」
「俺、今度の大神祭で、三人衆やることになっちゃったから」
「三人衆って……」
「蓑《みの》とか笠《かさ》とか面とかつけて、大神の役やるやつ。ほら、昔、ここに来たとき、兄貴も聞いたことあるだろ。あれを俺《おれ》にやれってさ。ふつうだったら、この村に生まれ育った人間しかできないらしいんだけど、お印が出たから特別なんだって」
「へえ……」
「だから、少なくとも、大神祭が終わるまではここにいないとね」
「まさか、おまえ……。一生、ここにいるつもりじゃないだろうな」
信貴はおどけたように聞いた。
「え?」
「そういえば、おふくろがさ」
信貴はそう言いかけ、少しためらったあとで、「いや、何でもない」と言った。
そのとき、美奈代が入ってきて、「あちらにお部屋用意しましたから」と信貴に告げた。
5
その夜。
風呂からあがって、叔母が用意してくれた部屋に浴衣《ゆかた》姿で戻ってきた新庄信貴は、何げなく襖《ふすま》を開けて、あっという顔をした。
客室らしき広い和室には、布団が二つ並べて敷いてあり、その一つに武がパジャマ姿で寝転がって、携帯ゲームのようなものをやっていたからだった。
風呂に行く前は、叔母が敷いてくれた布団は一つだけだった。
「おまえ、なんで、ここに……」
「今夜はここで寝ることにしたよ」
武は寝転がったまま、「へへ」と照れくさそうに笑った。
「寝るって、おまえには自分の部屋があるだろうが」
「だって、明日の朝、帰っちゃうんだろ。なんか久しぶりに兄貴と話して、もっと話したくなってさ。こんなふうにまともに口きくの何年ぶりって感じじゃん」
「……」
「だめ?」
「だめってことはないが……」
「前に来たときも、一緒に寝たよな。この部屋だったかどうかは覚えてないけど」
「ここじゃない」
「それに、考えてみるとさ、兄貴が中学入るまで、こうして二人でいつも寝てたんだよな、子供部屋で。あの頃は二段ベッドだったけど」
「……」
「ずっと忘れてたよ、そのこと。今、思い出してたんだけど、俺たち、小さい頃はそんなに仲悪くなかったんだよなって。小学校の頃は、兄貴と一緒によく遊んだ記憶もあるし……」
「一緒に遊んだんじゃなくて、おまえがいつも金魚のなんとかみたいに、俺の後を勝手にくっついてきたんだよ」
「そうだった?」
「そうだよ。勝手にくっついてきて、勝手にはぐれて迷子になって、そのたびに死ぬほど心配させられたんだ」
「心配したの?」
「したよ! 当然だろ。弟なんだから」
「……」
「それに、七歳も年が離れていれば、もし、おまえに何かあったら、俺のせいにされるからな。必死で捜し回ったさ。すると、おまえときたら蝶々《ちようちよう》かなんかどこまでも追いかけて行って、とんでもない所で泣きべそかいてたりして……」
信貴も思い出したように、少し懐かしそうに言うと、
「ちょっと待ってて」
武は何を思ったのか、突然、携帯ゲームを放り出して立ち上がると、部屋を出て行った。
しばらくして、一升瓶と二つのグラスを持って戻ってきた。
「飲みながら語ろうぜ」
そう言って、布団の上にあぐらをかくと、一升瓶を豪快に傾けて、二つのグラスに中身を注ぎ分けた。
ぷんと芳香がたった。
「飲みながらって。おい、これ、酒じゃないか」
信貴は呆《あき》れたように弟を見た。
「ここで造ってる地酒だって。辛口で、けっこういけるよ。ねえ、知ってた? 神家のミワという名字には、蛇のとぐろを表す『三輪』の意味と、『神酒《さけ》』の意味があるんだって。ここで祭ってる蛇神の好物が酒ってことで、昔は酒造りとかもしてたんだってよ」
「おまえ……一応、未成年なんだからな、酒はまずいんじゃないのか」
「ここではいいんだよ」
武はけろりとした顔で言った。
「え?」
「ここでは十八歳が成人とみなされてるから。十八歳になればおおっぴらに酒も飲めるんだ。誰も文句いわないよ」
「ここではそうかもしれないが、日本の法律では―――」
「郷に入れば郷に従えとかいうじゃない。それに、これは俺にとっては必要な訓練でもあるわけだし」
「訓練? 飲酒が?」
「大神祭にむけてのね。三人衆ってのは、酒飲めないとつとまらないらしいんだよ。大神の霊をおろされたあと、村中の家々を回って、そこで出されたコップ酒飲まなきゃならないから。飲むといっても、三々九度風にちょっと口をつけるだけでいいみたいだけど、それでも数こなすと、けっこう利いてくるらしい。弱いやつだと途中でぶったおれて、救急車の世話になりかねない。それで、この役に選ばれたら、前々から訓練して酒に慣れておく必要があるってわけ」
「ふーん。……まあ、そういうことならしかたないか」
信貴は今ひとつ納得できないような複雑な顔つきで、並々と酒の注がれたグラスを口に運んだ。
「あのさ。昼間の話だけど……」
武がふいに言った。
「なんだ。昼間の話って?」
「昼間……兄貴何か言いかけてただろ。おふくろがどうとか……。叔母《おば》さんが入ってきて中断しちゃったけど」
「ああ、あれか」
「何言おうとしてたの?」
「大したことじゃないよ」
「話してよ。途中でやめられるとかえって気になる」
「なんだ、気にしてたのか。今朝でがけに、おふくろが言ってたんだよ。聖二さんは、武を神家の婿養子にするつもりじゃないかって……」
「婿養子?」
武は眉《まゆ》をひそめた。
「養子の話なら冗談半分でしてたけど。婿養子ってことはないだろ。だって、神家の娘は、全部生まれついての日女とかいう巫女《みこ》で、一生独身でいなけりゃならないという可哀想《かわいそう》な決まりがここにはあるらしいから。婿なんか必要ないんだよ」
「一人だけいるじゃないが。日女じゃない娘が。といっても、養女だが」
「……日美香さんのこと?」
武がはっとしたように聞くと、信貴は頷《うなず》いた。
「おふくろが言うには、今回、叔父《おじ》さんが彼女をおまえの家庭教師としてここに滞在させたのも、将来、おまえたちを一緒にさせるつもりがあるからじゃないかって」
「まさか。あっちの方が年上じゃないか」
「年上ったって、たった二歳だろ? 俺だったら、相手があんな美人なら、年上だろうが婿養子だろうが、喜んで話に乗るけどなぁ」
「それにあの女《ひと》も日女だよ」
「そうなのか。でも、養女なんだろう?」
「養女といっても、神家とはもともと血の繋《つな》がりがあるんだ。彼女のお母さんというのが日女だったらしい。ここでは日女の血を引く女はみんな日女ってことになるから」
「てことは、彼女も一生結婚できないのか? そりゃ、もったいない話だな」
「だから、俺《おれ》が婿養子にってことはありえないよ」
「じゃ、あれは、おふくろの早とちりにすぎなかったのかな。昔から、叔父さんはおまえを息子みたいに可愛がってたし、おまえの方もなついていたから、おふくろも変に気を回したのかもな」
「ただ……」
武は言った。
「彼女は日女は日女でも、特殊な日女みたいなんだけどね」
「特殊な日女?」
「俺と同じ神紋があるんだって。神家の家伝によれば、今まで一度も女の身体には出なかったという神紋が。だから、もしかしたら、ふつうの日女とは違うのかもしれない。それと」
武は何かを思い出したように言った。
「兄貴は俺が双子だったってこと、知ってた? もう一人の方は生まれてすぐに死んだってこと」
「……叔父さんから聞いたのか」
武は頷いた。
「本当なの?」
「まあな。でも、それはおまえの耳には入れるなって、うちじゃタブーになっていたんだよ」
「彼女もそうなんだって。昨日、叔父さんから聞かされた」
「彼女もそうって?」
「双子だったんだって。俺と同じように、生まれてすぐに妹にあたる方は死んだらしいけど」
「本当かよ。すごい偶然だな、おい」
信貴ははずしたメガネを浴衣《ゆかた》の袖《そで》で拭《ふ》きながら言った。
「俺もそれ聞いたときは驚いたよ。同じ神紋があって、しかも、どっちも双子の片割れだったなんて。そんな偶然があるのかって。でも、叔父さんの話では、これは単なる偶然じゃないんだってさ」
「へえ?」
「叔父さんが言うには、この世は、目には見えない無数の縦糸と横糸で作られている壮大な織物のようなもので、この織物の上で、同じようなパターンが現れたとしても、それは偶然でもなんでもなくて、元からある設計図に基づいて、無数の糸が必然的に織り成した結果にすぎないとか……」
「はぁ?」
信貴は理解しかねるという顔をしていた。
「俺もよく解らないんだけど、昨日の講義ではそんなこと言ってたんだよ」
「講義って?」
「実をいうとさ、俺、ここに来てから、夜もお勉強させられてるんだよね。さっきまでそれやってたんだよ」
「勉強は午前中だけって言ってたじゃないか」
「受験勉強はね。夜、やらされてるのは別のお勉強。神家の家伝書を読むという……」
「家伝書?」
「千年以上も前からこの家に伝わる歴史書みたいなものらしい。代々の宮司とかが書いた。神家の神職につく者はあれを子供の頃から読まなければならないんだって。特に、お印の出た子はね。それで、毎晩、叔父さんの部屋に呼ばれて、日美香さんと一緒に勉強させられてるんだ」
「でも、古文書なんだろ。おまえ、そんなもの読めるのか」
「読めねえ。見せてもらったけど、暗号みたいでチンプンカンプン。本当だったら、叔父さんの手ほどきで古文書の読み方を習って、自力で読まなければならないんだ。日美香さんはこれをやっている。毎晩、遅くまで叔父さんの部屋に残ってるみたいだし。今もまだいるよ。彼女はすごい。ただの優等生じゃない。超優等生って感じだ。
でも、俺は受験勉強もあるし、こっちの勉強までやったら大変だろうってんで免除されてるんだ。その代わりに、叔父さんの口から家伝書を要約したダイジェスト版みたいなのを講義されてるんだけど……。
この家伝の序文に、『二匹の双頭の蛇』にまつわる予言めいたくだりがあるらしいんだよ。叔父さんが言うには、この二匹の双頭の蛇というのが、蛇紋をもって生まれた双子の片割れ、つまり、俺と彼女のことではないかと……」
武はそこまで話しかけ、はっとしたように言った。
「あ、ごめん。これ以上話せないや。家伝の内容は、神家以外の人間には口外するなって叔父さんから言われてたんだ」
「まあ、いいけどな。そんなものを俺が知ったところでしょうがないし」
信貴はやや鼻白んだようにそう言い、
「てことは、おまえと日美香さんの出会いは、そんな大昔に書かれた家伝とやらで既に予言されていたということなのか」
「そうらしい……といっても、はっきりと書いてあるわけじゃなくて、叔父さんの解釈ではってことらしいけどね」
「ノストラダムスの予言書みたいなものか。読む人間によって、どうとでも解釈できるという」
「そうかもね」
「でも、そういわれてみると、おまえら、どことなく似てるよな。今日、夕食の席で気が付いたんだが。おまえと日美香さん、並んで座ってただろ。まるで姉弟《きようだい》みたいに見えたぞ。顔形がどうってだけじゃなくて、なんか、似てるんだよ、おまえたち。まさに同じパターンって感じだ……」
信貴がそう言いかけたとき、襖《ふすま》の外でがたっと物音がした。外に誰かいるようだ。
さきほどから、なんとなく気配のようなものは感じていた。
武は素早く立ち上がると、ものも言わず、がらっと襖を開けた。
外に立っていたのは美奈代だった。
「叔母《おば》さん……」
「あ、あの、何かおつまみでもと思って、こんなものを作ってきたんですけれど」
美奈代は、しどろもどろにそう言いながら、心なしか強《こわ》ばった顔に無理やり笑みのようなものを浮かべた。
そういえば、台所に酒とグラスを取りに行ったとき、叔母が流しで洗い物をしていたのを武は思い出した。
手にした盆には、三品ほどの簡単なつまみの皿が載っている。
「どうも……」
そう言って盆を受け取ると、美奈代は逃げるように立ち去った。
ひょっとしたら……。
叔母はかなり前から外にいて、自分たちの話を聞いていたのではないか。
武はふとそう思った。
6
「……まあ、なんにせよ、おまえがうちを出て、ここに来たのは正解だったみたいだな」
つまみを載せた盆を持って戻ってくると、信貴が話の続きをするように言った。
「兄貴もそう思う?」
「ああ。入院中からおまえが少し変わったとは話に聞いていたけどな」
「俺、そんなに変わった?」
「うちにいたときよりも明るくなったし、少し成長したようにも見える」
「そうかな。うちよりもこっちの方が居心地良いことは確かだけどね。ここには確固たる自分の居場所があるって気がする。ただ、様付けで呼ばれるのだけは勘弁してくれって感じだけど」
武は、盆に添えられていた割《わ》り箸《ばし》を手に取りながら苦笑した。
「俺は逆にここは居心地悪い。前に来たときもそうだったけど、ここの人たちの中にいると、自分がよそ者って感じが強くする。夕食の席でもそうだった。でも、おまえは、一週間足らずで、完全にこの家に溶け込んだようだし、それどころか、おまえを中心にこの家全体が動いているようにさえ見える……」
「新庄の家では、俺なんかいつもオマケ扱いだったからね」
武はやや自嘲《じちよう》めいた口ぶりで言った。
「何かにつけて、『新庄信人のお孫さん』とか『新庄貴明の息子さん』とか『新庄信貴の弟さん』って風にいつも誰かを引き合いに出されて、もれなくついてくる、そいつのオマケって感じ」
「それはこっちも同じだったさ。いつも、祖父や親父《おやじ》と比べられて……」
「誰も俺《おれ》そのものを見ようともしない。いいかげん、そういうの、うんざりしてたんだよ。でも、ここではそんなことない。新庄武本人をみんな見てくれるし、必要としてくれる。必要とされてると思うと、こっちもその期待に応《こた》えなきゃって気にもなってくるし」
「まあ、あの家では、おまえを必要とするというか、おまえの成長を本気で望んでいる人間はいなかったからな……」
信貴はそんなことをぼそっと吐き捨てるように言った。
「え?」
「おふくろの本心は、おまえを手のかかる大きな赤ん坊のままにしておきたいってとこだったろうし。そうすれば、いつまでも自分の手元に置いておけるから。母性愛ってやつもこわいね。こうやって、愛の名のもとに、無意識のうちに子供をスポイルしていくんだから。ある意味では、殴る蹴《け》るの虐待よりも始末におえない」
「確かに、母さんにはそういうところ、多少はあったけれど」
武も渋々それを認めた。
母のことは好きだったが、時々、その過剰な保護がひどく煩わしく感じることがあった。転んでも自力で立とうとしているのに、母がどこかで見ていて、さっと駆け寄って来ては、助け起こしてしまう。
自分で立ちたかったのに……。
立たせてもらったあとで、いつもそんな不満を幼心にも感じていた。
「でも親父は―――」
父は自分の成長を望んでいたのではないかと言いかけると、兄はかすかに首を振った。
「いや、あの人も……。内心はおまえの成長を望んではいなかったかもしれない」
「そう……?」
武は意外そうに聞き返した。
父が自分の成長を望んでいない?
父こそが息子の成長と変化を一番望んでいると思っていたのに。そして、そのことをことあるごとに言われもした。
「もっと大人になれ」とか「成長しろ」とか。言われるたびに耳が痛くて、つい反抗的な態度をとってしまったが、内心では、できれば、そんな父の期待に応えたい、父に満足してもらいたいと思っていた。
だから、これを機に、気持ちをいれかえて、頑張ってみよう。父や兄が難無く入り卒業できた大学に再度挑戦することで、まずその第一歩を歩きだそうと思っていたのに……。
「もっと成長しろとか、口ではよく言ってるんだけどね」
信貴はさらに続けた。
「それが本音かどうか。本当におまえの成長を望んでいたのかな……。それに、気のせいかもしれんが、最近、あの人もちょっと変わったような気がする」
「変わった? どういう風に?」
武は思わず身を乗り出した。なぜか、父の話題には無関心ではいられなかった。
兄がいつ頃からか、父のことを話題にするときに、「あの人」と、敬意をこめるというよりも、冷ややかに距離をおくような他人行儀な呼び方をするようになったことに武は気づいていたが、今はそのことよりも、父が最近少し変わったという言葉の方が気になった。
「……今まで全身から発していたあの強烈なオーラみたいなものが薄れたというかな。前は、近寄りがたいほどギラギラとした自信に満ちたオーラを発していたのに、最近はそれがあまり感じられないんだ。今まであの人に憑《つ》いていた憑き物が落ちたとでもいうか。前ほどカリスマめいたものが感じられないんだよ。背中見てると、年とったなと思うことさえある……」
兄は、父の私設秘書として、公私において行動を共にすることが多い。いつも父のそばにいる兄が言うのだから、この「発見」は単なる気のせいではないような気がした。
「それって、いつから?」
「おまえがあの事件に巻き込まれて入院してから……というか、おまえにそのお印とやらが出てからだよ、あんな風になったのは」
「……」
「そういえば、俺、聞いちゃったんだよな」
「聞いたって何を?」
「おふくろが、おまえの背中に蛇の鱗《うろこ》みたいな変な痣《あざ》が出たって報告した夜……。親父がそれを聞いて、凄《すご》くショックを受けたみたいに呟《つぶや》いたのを」
「なんて言ったの?」
「どうして武なんだ。どうして俺じゃないんだ……てさ」
「どうして俺じゃないんだ……?」
武はついオウム返しに繰り返した。
父がそんなことを?
それではまるで……。
「それ以前にも、親父がおまえのことを内心ではこわがってるんじゃないかって、時々感じたことがある……」
「こわがる? 親父が俺を?」
武は思わず吹き出した。
「それはこっちの台詞《せりふ》だよ。あ、そうか。こわがるって、なんかやばい事件でも起こされてスキャンダルになるのをって意味か」
「そうじゃない。それも多少はあるが、あの人が恐れていたのは、おまえが引き起こすかもしれないスキャンダルよりも、おまえの成長そのものだ」
「……」
「こんなことを思うのも、俺自身がおまえをこわがっていたからかな。誰かの心理が手に取るように分かるというのは、実は、自分の中にも同じものがあるからなのさ。人は自分にないものは他人に見ることはできないからね」
信貴は、少し酔ったのか、薄赤く染まった顔でそんなことを言い出した。
「こわがってたなんて……ウソだろ?」
武は驚いたように言った。
「ウソじゃない」
「兄貴が俺のことを軽蔑《けいべつ》していたのは知ってたよ。だから、まともに口きいてくれないのかと思ってた……」
「軽蔑してたさ。おまえの、何ひとつ本気で取り組もうとしない、その甘ったれぶりを。でも、軽蔑……というより、本当は少し羨《うらや》ましかったのかもな」
「羨ましい?」
「ああ。次男坊は気楽でいいなって。おまえには選択の自由がある。職業ひとつにしても、自分の好きなものが選べるだろ。俺にはその自由が最初からなかった。新庄家の長男としておぎゃーと生まれた時点で、もう目の前には歩くべき道が麗々しく敷かれていたんだから。祖父が開拓して、親父が舗装した立派な大通りがね。その通りの両|脇《わき》には、親戚《しんせき》連中や後援会の連中がずらりと並んで、ちぎれんばかりに旗ふってやがるんだ。俺に許されたことは、その道をわき目もふらず道草もくわずに真っすぐ歩き通すことでしかない……」
「そんないい方すると、いやいや、親父の後を継ごうとしているように聞こえるぜ」
「好きでやってるとでも思っていたのか」
「……。だって、兄貴、小学校の頃に、作文に書いたんだろ。『大きくなったら、おじいさんやおとうさんのような、りっぱな政治家になりたいです』って。いまだに親戚連中が集まると、その話するじゃないか。センダンは何とか言ってさ」
「あんなもの……」
信貴は鼻で笑った。
「こう書けば、教師や親に褒められると知ってたから書いただけだよ。小学生はみんな無邪気で、本音しか言ったり書いたりしないと信じ切っている馬鹿な大人が喜びそうなことをな」
「じゃ、本当は何になりたかったんだよ?」
「……バスの運転手」
兄の口から飛び出した思いがけない言葉に、武は思わず聞き返した。
「バスの運転手?」
「幼稚園のときからなぜかあこがれていたんだ。路線バスの運転手とかに」
「知らなかった……。子供んころから政治家志望だと思っていたよ」
「そういえば回りが喜ぶからさ。しかし、思えば、自分の本心をうまく隠して周囲の喜びそうなことばかりを言う点においては、あの頃から、立派な政治家としての一歩を歩み出していたことになるな」
信貴はそう言って、やや皮肉めいた笑い方をした。
「だから、おまえの気持ちも分からないわけじゃないんだよ。いつも祖父や親父と比べられて嫌だって気持ちはな。俺だってそうだった。でも、それはしょうがない。三世に生まれついたものの宿命だと思うようになっていったし、何やっても親の七光りだと陰口たたかれるなら、いっそ、その七光りを利用してのしあがってやろうって気にもなった。でも……」
信貴はそう言って、やや底光りのする目で武を見た。
「祖父や親父《おやじ》と比べられて、劣っているとか言われるのはまだ我慢ができるんだ。相手が年上だからな。でも、もし、年下の弟と比べられて、弟の方が優れているなんて言われたりしたら、それは我慢ができないと思った。弟に追い抜かれるというのは、どんなライバルに蹴落《けお》とされるよりこたえるんだよ。兄としては……」
「そんな。兄貴の考えすぎだよ。スポーツでならともかく、勉強で兄貴を追い抜くなんて俺《おれ》には無理だった。小学校のときからずっとトップクラスの座を維持してきた兄貴をどうやって追い抜けっていうんだ?」
「おまえ、自分の知能指数、知ってる?」
「詳しくは知らない。わりと高いとは聞いたことあるけど……」
「百八十近くあったそうだ」
「へえ……」
「俺は百十程度。まあ、並だな。おまえの知能指数が天才クラスだって聞いたときは、正直いって、ショックだった。学校の勉強なんて、こつこつやった者勝ちなんだよ。特別な才能なんて必要ない。どんな馬鹿でも、毎日、机にむかってこつこつやってりゃ、東大に入るのだって不可能じゃない。だから、おまえが、スポーツに入れ込むくらいに学業にも興味をもっていたら……と考えるとこわかった。俺が寝る暇も惜しんでこつこつと築きあげてきたものを、おまえは最低限の努力をするだけで、あっさり手にいれそうで。後ろから来てさーと追い抜いていきそうで」
「……」
「だから、口ではもっと頑張れなんて言いながら、内心では、頑張るな、頼むから劣等生のままでいてくれって、必死で祈っていたんだ……」
信貴の口元は冗談でも言うように笑っていたが、メガネの奥で光る目はけっして笑ってはいなかった。
「今も……そう思ってる?」
武はおずおずと聞いた。
すると、信貴は一瞬考えるように、畳に視線をおとしていたが、目をあげて、きっぱりと言った。
「いや。思ってたら、たとえ酔っ払ったとしても口には出さないね。そういう意味では、俺も少し変わったかな……それに、最近になって、おまえという人間は俺程度がライバル視するような器じゃないようにも思えてきた。モーツアルトにサリエリが対抗するむなしさというかさ。器が違いすぎる。そういう気がしてきたんだよ。今日、ここに来てそれが一層確信できた。だったらいっそ、身内ってことで、応援団に回ってしまった方が気が楽かなってね……」
「それって買いかぶりすぎねえ? 叔父《おじ》さんも時々そういうこと言うけど、自分ではさすがにそこまでは―――」
武は困惑したように言った。
「やっぱり叔父さんもそう思っていたのか。だとしたら、よけい買いかぶりじゃないな。感じるんだよ」
信貴はそう呟いて、弱々しく笑った。
「感じるって何を?」
「今まで親父に感じてきた輝きというかカリスマのようなものを、今、おまえに。まだそんなに強くはないが……」
「ええ?」
「ここへ来て、おまえが明るくなったって言っただろう? あれは環境が変わったことで気持ちが開放的になって明るくなったって意味だけじゃない。文字通り、おまえの身体から、オーラのような光が見えるんだよ」
「……」
「昼間、庭の植え込みの陰から、おまえがこの家の人達に囲まれてるのを見たとき、俺の頭に、一瞬、変なイメージが浮かんだんだ」
「変なイメージ?」
武は怪訝《けげん》そうな顔をした。
「いつかおまえが……あんな風に大勢の人たちに囲まれて、一段高いところにいるイメージがね。ふっと頭に浮かんだんだよ。それも半端な数じゃない。世界中の人達が一堂に集まってきたんじゃないかと思われるような物凄い数の群衆、しかも熱狂的な群衆の中心におまえがいるんだ」
「何それ? まさか、なんか極悪なことして集団リンチにあってる図とか?」
「そうじゃない。群衆はおまえを囲んで仰ぎ見ている。まるで、ようやく現れた太陽か何かを仰ぎ見るように……」
「へえ?」
「俺にもよく分からないが、これは一種の予知能力かなとも思った。もしかしたら、いつか、おまえがそんなとてつもない存在になるという……。おまえほどではないが、俺にだって神家の血は流れているんだよ。千年以上にもわたって巫女《みこ》や神官を生み出してきた神がかりの血がな。軽い予知能力くらいならあっても不思議はないじゃないか」
「信じられねえよ、そんな話」
「それと……」
信貴は思い出したように言った。
「そのときのイメージでは、群衆が仰ぎ見ているのは、実は、おまえだけじゃなかった。おまえの隣にもう一人いた」
「もう一人……?」
「女がな」
「女……」
「それが―――」
信貴はじっと弟の顔を見ながら言った。
「日美香さんに似ていたんだよ……」
7
「今日はこのくらいにしておきましょうか」
聖二は時計をちらと見ながら言った。時刻は零時を少しすぎたところだった。
「はい」
日美香は頷《うなず》くと、広げていた古い書物を閉じた。そして、うんと大きく伸びをした。
「……受験勉強の方はどうです? はかどってますか」
聖二は世間話でもするような気楽な口調で訊《たず》ねた。
「ええ、すごく」
日美香は手近にあったポットのお湯を急須に移しながら言った。
「おっしゃるとおりでした。あの子、一見、馬鹿っぽいけれど、知能はかなり高いですね。とても呑《の》み込みが早いし、集中力もあります。本当いうと、今から始めても間に合うかなって心配してたんですが、たった一週間でこれだけ成果があがるなら、来年の春までには、なんとかなりそうな気がしてきました」
「それに、最近なついてきたでしょう?」
聖二は薄く笑いながら言った。
「ええ、まあ」
出会ったときは、武の態度がどことなくそっけない感じがして、第一印象で嫌われたのかとも思っていたが、あれは、養父が言ったとおり、単に照れていただけだったようで、最近では、少しは慣れてきたのか、むこうから話しかけてくるし、冗談めいたことも口にするようになった。
最初に見せたそっけなさやぎこちなさはすっかり影をひそめていた。
好かれているかどうかは分からないが、少なくとも嫌われてはいないようだ。そんな感触はあった。
そのことを言うと、
「あなたの方はどうです?」
聖二は真顔になって、突然聞いた。
「どうって?」
「彼のことをどう思いますか?」
「どう思うっていわれても……。今いったように、生徒としては予想していたよりも優秀だとは思いますけど……」
日美香は、養父の質問の意味を消化しきれず、そう答えた。
「一人の男としては?」
「男……?」
日美香は養父の顔を見つめた。
どうして、急にこんなことを聞くのだろう。
「そんなこと聞かれても困ります。はじめから彼を『男』としてなんか見てないですから。だって、あの子はわたしの……」
異母弟《おとうと》ではないか。
いや、たとえ、異母弟と知らずに出会ったとしても、彼を「男」として見ることなどなかっただろう。
武の外見は悪くない。並の感覚でいえば、かなり良い方かもしれない。でも、ルックスの良し悪しは日美香にとってはどうでもよかった。
問題なのはその精神面だ。
知能は思ったよりは高そうだったが、その精神レベルはまだまだ低いというか幼い。日美香の目には、武は、「男」というよりも、まだ「子供」にしか見えなかった。
そんな未熟な相手に恋愛めいた感情などもてるはずもない。
今の彼のどこにも、こちらが仰ぎ見るべきものは何もなかった。あったとしたら、それは、背丈くらいのものだ。
もし、近親に恋してもいいというのなら、その相手は、あんな幼稚な少年よりも、むしろ、今目の前にいる叔父であり養父でもある男、底知れぬ精神性を備え、家伝書を読み解く上での師匠でもあり、それ以外にも様々な知識をもたらしてくれるこの男の方をためらうことなく選ぶだろう……。
「一週間やそこらで、こんなことを言うのは性急すぎるというのは、私とて、百も承知なのですが、しかし、もう時間がない。せめて、もう一カ月早く武の身体にお印が出ていたら、もっと時間をかけられたのに……」
聖二はそんなことを呟いた。
時間がない?
何の時間がないというのだ。
「恋愛感情のようなものはまだ持てなくても、彼を嫌ってはいませんね? なんらかの愛情のようなものは感じるでしょう? 同じお印をもった相手として」
聖二はさらにそう聞いた。
「はい、それは……」
日美香は少し考えてから、そう答えた。
はじめて会ったときから、母性愛にも似た奇妙な感情、尊敬や崇拝を含んだ恋愛感情とは全く違うが、どこかまだ完成していない大事なものを守ってやりたいという庇護《ひご》的な愛情のようなものは、武に対して自然に感じていた。
「姉」の愛情とでもいおうか。
そして、その感情は、日ごとに強くなっている。武と一緒に過ごす時間が増えれば増えるほど……。
それがどういう類《たぐ》いの愛情であれ、彼に対して愛情があるかと問われれば、その答えはイエスだった。それは、まだ芽をふいたばかりの淡いものにすぎなかったが。
でも、この芽が瞬くまに成長して、いつか、自分の心の中では収まりきれないような大木になるのではないかという、予感というか恐れは、既にこのとき、日美香の中に漠然とだが生じていた。
「それならば、やはり……」
養父の顔に何か決心したような色が浮かんだかと思うと、きっぱりとこう言った。
「今度の大神祭での神迎えの神事の日女役はあなたに引き受けて戴《いただ》きたい」
8
「え……」
日美香は呆然《ぼうぜん》としたように養父の顔を見つめた。
「神迎えの神事」の日女の役とは、大神の霊をおろされた三人衆を神社内の機織り小屋と呼ばれる小屋で待ち受けて、ここで「神の衣」を表す蓑《みの》と笠《かさ》、さらに一つ目の蛇面を渡し、村の各家を回り終えた若者たちを再び小屋に招いて酒でもてなすという、いわば、三人衆の世話係のようなものである。
ただ、それは表向きの話であって、実際に日女がやることは……。
そのことを日美香は既に知っていた。二十年前、実母がこの神事の日女役を「何も知らずに」引き受けたからこそ、自分が今こうして生きているのだということも。
「……最初からそれが目的で、わたしをここに?」
日美香はようやくそれだけ聞いた。
受験勉強とか家庭教師とかは口実にすぎないと、ここに来る前から、聖二自身の口から聞いていたから、それは解っていたつもりだったが、まさか、養父の真意がこんなところにあったとは……。
「隠していたわけではないのですが……」
聖二は言った。
「率直にいうと、武にお印と思われる痣《あざ》が出たと知ったときから、このことは考えていました。ただ、上京している間は、私も、今ひとつ決断がつかなかったのです。家伝にある『二匹の双頭の蛇』というのが、武とあなたのことではないかと思いながらも確信がもてなかった。『双頭』が『双子』を意味するならば、武の方にはこの要素があっても、あなたの方には、それが欠けていたからです。それに、あなたはあの神事の隠された部分についても既に知っていたから、日女役をいきなりお願いしても、拒否されるだけだろうとも思いましたし」
「……」
「でも、こちらに戻ってきて、あなたも双子の片割れであったことを知ったときに、私の決心はかたまりました。やはり、『二匹の双頭の蛇』とは、あなたと武のことだと確信できたからです。
家伝書の序文にある、『二匹の双頭の蛇が現れ、これが交わるとき、大いなる螺旋《らせん》の力が起こり、混沌《こんとん》の気が動く……』というくだりは、まさに、同じ神紋をもつ双子の片割れの男女が生まれ、この二人が交わったとき、大いなる螺旋の力が生じ、この世が大きく動く。すなわち、大神がこの世に再び出現すると私は解釈したのです……」
聖二は話し続けた。
「この村では、大神とは、物部氏の祖神《おやがみ》であり、半人半蛇の姿をした蛇神だと伝えられていますが、実をいうと、私個人は、大神の真の姿をそのようにとらえてはいません。大神の真の姿とは、おそらく、巨大なエネルギーをもつ一種の生命体ではないかと考えています。螺旋の形状をもつ生命体です。この世のありとあらゆる生命や運動を司《つかさど》る螺旋の……。
ただ、これはきわめて抽象的な概念なので、この生命体の存在に気づいたごく僅《わず》かな人たちは、これを大衆レベルでも理解できるように、ある『見立て』を使って、後世に伝えようとしたのではないかと思われるのです。それに使われたのが、『蛇』という生き物です。原始から我々人類の身近にいて、よく目にする生き物。とぐろを巻く特徴的な姿が、この螺旋状の生命体の概念を視覚的に伝えるには格好のものだったのではないか。
だからこそ、文明が起こる当初から、世界中の各地で、『蛇』とりわけ、『とぐろを巻く蛇』の姿が神と崇《あが》められてきたのではないかと思うのです。
大神祭において、大神の御霊《みたま》をおろすということは、単に物部の祖神の霊をおろすという意味ではないのです。もっとも、日の本寺の住職や村長、村の人々の多くはそう考えているようですが。私にとっては少し違う。この大いなる螺旋生命体が依《よ》り代《しろ》に選ばれた人間に憑依《ひようい》して、その人間に超人的な力を与えるということなのです。
物部氏の祖神といわれるニギハヤヒノミコトという神も、昔は、単なる一部族の首長にすぎなかったのが、この螺旋生命体に憑依されたために、その精神も肉体も並の人間を遥《はる》かに越えた超人となり、その超人性ゆえに死後も神として祀《まつ》られたのです。あの半人半蛇の大神の姿とは、まさにこの螺旋生命体と合体した人間の姿を象徴的に表したものなのです。
家伝書を注意深く隅から隅まで読めば、このことがきわめて暗示的に記されているのですよ。あなたももう少し学習を続ければ、そのうち、それが解ってくるでしょう……」
「今度の大神祭で、武に大神の霊をおろすということは、その、ら……螺旋生命体が武に憑依して、彼が超人のようになるということなのですか」
日美香は信じられないという顔で聞いた。
もし、これが目の前の養父の口から出たものでなければ、誇大妄想狂のたわごとだと思ったかもしれない。
「おそらくそうなります。私の解釈が正しければ。それを実現する今年の祭りこそが、我々が大神と呼んでいるモノをこの世に復活させる真の祭りとなるはずです。
これまでの祭りは、この真の祭りを成就するための長い準備段階であり予行練習のようなものだったのです。とはいえ、このことを知っている者は、この村にさえも多くはいませんが……。
しかし、大神の御霊を武におろしただけでは、家伝書に予言された螺旋の力は起こらない。それだけではまだ不十分なのです。『天を支配する陽の蛇』と『地を支配する陰の蛇』とが交わることで、天地陰陽の結合がなされてこそ、森羅万象に自在に存在できる絶対神たる大神を復活させる祭りが完結するのです。
それには、どうしてもあなたの力が必要なのです。『地を支配する陰の蛇』たるあなたの存在と力が。この祭りで、あなたが武と交わらなければ、大神の復活儀式は不完全なもので終わってしまうでしょう。彼にはまだ『天を支配する陽』の力、いわば半分の力しか備わっていないことになるからです……」
「で、でも、わたしと武は―――」
日美香はつい声を張り上げた。
「父親を同じくする異母|姉弟《きようだい》だというんですか」
「そうです。だから、いくら儀式とはいえ、そんな交わるなんてことは……許されるはずがありません」
「何が許さないのです?」
「何がって……」
日美香は返答につまった。
「世間の常識ですか。それとも、法律? モラル? 何が許さないと言うのですか」
「……そのすべてです」
日美香は渋々そう答えた。
「いわゆる常識も法律もモラルも、それなりに必要だとは思っています。多くの人間が集まって互いに快適な社会生活を営むためにはね。規範を作る必要がある。こうして必要があって作られたものを、意味もなくいたずらに破ったり破壊したりする愚か者を私は軽蔑《けいべつ》しています。
しかし、だからといって、しょせんは人間が作ったものだ。こうした法律やモラルの中には、ある時代、ある社会構造にしか有効でないものもある。時代が変わり社会構造が変化して、とっくに形骸化《けいがいか》しているのに、愚かしくも、いまだに守ることを義務づけられているものもある。どんな場合にも、何がなんでも厳守しなければならないというほど価値のあるものではない。あなたは、こんなものを気にすることはないし、縛られる必要もないんですよ」
「……」
「ただ、法律やモラルがどうこうというのではなくて、あなた自身が生理的にどうしても武を受け入れることができないというのであれば、これは、しかたがありません。私としても、これ以上の無理強いはできません。あくまでも、あなたの意志を尊重したいからです。日登美の二の舞いは二度としたくない……」
聖二はやや悲しげな表情になって言った。
「あのときは、ああするのが、妹[#「妹」に傍点]にとって一番良いことだと思ったのですが、結局、妹[#「妹」に傍点]をあんな形で死なせる羽目になってしまった。若い頃はそうでもなかったのですが、今となっては、妹の意志や感情を無視して事をなしとげようとした私のやり方が強引すぎたのではないかと、あのときのことは後悔しているのです。だから、あなたには日登美と同じ道は歩かせたくはない……」
「少し時間をください。考える時間を」
日美香はそれだけ言った。
「そうですね。すぐに返答しろという方が無理なことは十分承知しています。でも、その時間があまりないのです。大神祭まで、後一週間足らずしかありません。遅くとも、明日あさってくらいまでには、神迎えの神事の日女役も決めないといけない。もし、あなたがどうしてもいやだというのであれば、誰か他の日女をたてるしかない」
「それでは、せめて今夜一晩だけ考えさせてください。明日にはお返事します」
日美香はそう答えた。
聖二が「解った」というように大きく頷《うなず》いたので、日美香は立ち上がり、部屋を出ようとした。
そのとき、聖二に呼び止められた。
「あ……あともう一つ。確かめておきたいことがあります」
聖二は言った。
「なんでしょうか?」
「少々|不躾《ぶしつけ》なことを聞くようですが」
聖二はやや言いにくそうに言った。
「あなたは……以前、新田裕介という男性と付き合っていたと言ってましたね」
「はい」
「そのとき……その男性と一度でも肉体関係はありましたか?」
9
明かりをすべて消した闇《やみ》の中で、どこかの部屋の柱時計らしき音が微《かす》かに鳴るのを、日美香は真|冴《さ》えた頭で聴いていた。
ボーン、ボーン、ボーン。
三つ鳴った。
今、午前三時……。
布団に入って、一時間以上にもなるというのに、まんじりともできなかった。
頭の中では、養父に言われた言葉の数々が何度も蘇《よみがえ》ってくる。
ちょうど、五月の半ば、この村にはじめて来て、同じ男の口から自分の出生にまつわる秘密を明かされた夜のように……。
日美香はとうとう眠るのをあきらめ、起き上がると、部屋の明かりを点《つ》けた。
そして、部屋の片隅にある鏡台の前まで行くと、パジャマのボタンをはずし、前を開いて、右胸の上にある蛇紋を映して見た。
蛇紋は、抜けるように白い膚《はだ》に、妖《あや》しく薄紫色に浮かび上がっていた。
この蛇紋がわたしを守っている……?
養父の部屋を出ようとしたとき、呼び止められ、唐突に、「以前の恋人と肉体関係があったか」と聞かれた。
新田裕介のことは、別れたあとに、聖二には打ち明けておいた。
大学の先輩にあたり、学部は違うがサークルを通して知り合い、二年以上も付き合っていたこと。そして、この四月に、プロポーズされ婚約寸前までいっていたことも……。
ただ、この男とは二年以上も付き合っていながら、なぜか、一度も肉体関係をもったことはなかった。
養父にそのことを聞かれて、日美香は素直に打ち明けた。
すると、養父はべつに驚いた風も見せず、「やはりそうでしたか……」と呟《つぶや》いただけだった。
このことを、以前、養母だった葛原八重に知られたときは、天然記念物でも見るような目で見られ、ひどく驚かれたものだったが……。
「自分でおかしいと思ったことはありませんか。二年以上も付き合っていながら、一度も、恋人とそうならなかったことを」
聖二はそう聞いた。
「それは少しは……」
日美香はとまどいながらもそう答えた。
日美香自身は別に我慢していたわけでもないので、さほど異常とも思わなかったが、回りの若い女性たちの生態を見たり聞いたりしていると、彼女たちと自分が同じ生物とは思えないほどにかけ離れているように感じたことはあった。
そのときは、自分の方が女として人間として何か大切なものが欠けているのではないかと悩み、それが密《ひそ》かなコンプレックスにさえなっていたのだが……。
ただ、新田裕介と肉体的に結ばれなかったのは、必ずしも日美香だけの責任ではなかった。一度、そうなる寸前までいきながら、胸の蛇紋を見られた瞬間、それまで積極的だった男が、突然、脅《おび》えたように引いてしまったことがあった。
そのときのことを話すと、それを聴いていた養父の端正な口元に微笑のようなものが浮かんだ。
安堵《あんど》と哀れみの混じったような奇妙な微笑が……。
「それは……たぶん、あなたがお印によって守られているということです。その蛇紋は、大神がこの世に再び立ち現れたときに、花嫁にすると決めた女を選別するための目印でもあるからです。だから、大神以外の……いや、大神の御霊《みたま》が宿った男以外の男があなたに触れようとしても、何らかの力が働いて、それは阻まれるのです。
しかし、お印によって守られているということは、裏をかえせば、お印によって縛られているということでもあります。
言うなれば、あなたは生まれつき、自分では脱ぐことができない見えない鎧《よろい》を着せられているようなものです。普通の男ではこの呪《のろ》われた鎧を脱がすことはできない。
この村に住む日女の掟《おきて》からは、あなたは自由かもしれません。でも、結局、この村の日女を縛っている掟と同じ、いやそれ以上の厳しい掟が、あなたを生涯縛ることになるでしょう。
この先、あなたがどこに行き、どこに住もうと、誰と出会って恋に落ち、どんなに互いを求め合っても、その男と肉体的に結ばれることはできないでしょう。新田という男に起こったことがその男にも起こるはずだからです。そのお印が有る限りは……。
そして、たとえ、それを、若気の至りでいれてしまった刺青《いれずみ》でも消すように取り去ろうと思っても、消すことはできないはずです。どんな手段で胸の紋を消し去ったとしても、たぶん、どこか別の場所にまた現れるだけのことです。
今度は背中か脇腹《わきばら》か足か手か。最悪の場合は顔に出るかもしれない。身体中の皮膚がボロボロになるまで除去手術を繰り返したとしても、蛇紋を消し去ることはできない。なぜなら、それは、肉体というより、あなたの魂そのものに刻みこまれた刻印なのですから。
でも、それを不幸だと嘆く必要はない。あなたが生まれながらにして着せられた鎧を脱がせることができる男が一人もいないわけではないのだから。たった一人だけだがその男は存在している。同じ神紋をもち、大神の御霊を宿すはずの男が。この男だけが、その呪われた鎧を脱がすことができるのです。
あるいは、こういうたとえもできる。
あなたはいわば、この世の最も重要なものを中に秘めた小箱の錠前のような存在なのです。きわめて特殊でこの世に一つしか存在しない。むろん、ありふれた普通の鍵《かぎ》ではそれは開けられない。その特殊な錠前をはずすことができる唯一の特殊な鍵。それが、おそらく武だということです……」
聖二はそう言ったあとで、駄目押しのようにこう付け加えた。
「けっして脅すつもりでこんなことを言うのではありませんが、今、あなたの目の前に置かれている、手を伸ばせば容易につかみとることができる、この鍵をためらって取らなければ、あなたは一生、後悔するはめになるかもしれません。この先、これに代わる鍵など世界中を隈無《くまな》く探したとしても、おそらく見つからないでしょうから……」
自分という特殊な錠前に合う唯一無二の特殊な鍵。
それがあの少年だというのだろうか……。
日美香は鏡台の前から離れると、南向きの窓辺に近づいた。
しまっていたカーテンを僅《わず》かに開いて外を見てみると、夜明け前のいっそう深く濃い闇に包まれ、眠る獣のようにうずくまる屋敷の中で、一つだけまだ煌々《こうこう》と明かりが灯《とも》っている窓があった。
あれは確か……。
今日の午後、突然訪ねてきた武の兄、信貴に与えられた部屋の窓ではないだろうか。
そういえば、養父の部屋から一足先に出て行くとき、武が、「今夜は兄貴の部屋に布団を運んで、そこで一緒に寝る」と、修学旅行に来た中学生のような嬉《うれ》しそうな顔で言っていたのを思い出した。
今も窓に明かりがついているということは、こんな時間まで、兄弟で話しこんでいるのだろうか。
あの明かりの灯った窓の向こうに武がいる……。
そう思うと、なぜか、日美香の胸の奥にも、ぽっと仄《ほの》かな明かりが灯ったような思いがした。いや、明かりというよりも、それは小さな炎だった。
その思いは、これまでの異母弟に対する感情とは微妙に違うような気がした。何か、こう身体の芯《しん》が、その小さな炎に炙《あぶ》られ、熱く疼《うず》くような、日美香にとって生まれてはじめて味わう奇妙な感覚だった……。
以前の恋人、新田裕介のことを想《おも》うときでも、こんな感覚は味わったことがなかった。
ただ、その炎をゆらがせるように、突然、ある不吉な思惑が脳裏を横切った。
それは……。
自分にとっては、武は唯一無二の鍵かもしれないが、武にとっては、自分が唯一無二の錠前ではないということだった。
もう一人いる。
わたしと同じ神紋をもち、わたしと全く同じ顔をもつ女が。
養父には、生まれてすぐに死んだと嘘《うそ》をつき、その存在を隠し続けている妹が……。
妹とは同じ遺伝子を分かち合っただけではなく、同じ宿命をも分かち合っているのではないか。
突然、そんな考えがひらめいた。
ただ、不思議なのは、なぜ、武の双子の兄は生まれてすぐに死んだのに、自分たちの方は共に生き延びたのかということだった。
もし、武の兄も生きていたら、あるいは、わたしと火呂のどちらかが生まれてすぐに死んでいたら、天と地を支配する「双頭の蛇」たる両者のバランスは巧《うま》く保たれただろうに……。
養父は、この世は壮大な織物のようなもので、わたしと武はその織物上に離れて現れた同一のパターンのような存在であると言った。
でも、彼も知らない。
本当は同一ではないことを。
微妙にそのバランスが崩れていることを……。
そうか。
バランスが崩れたのだ。
一新生児の死によって、これまで均衡が保たれていたこの世のバランスが僅かに崩れたのではないか……。
だからこそ、そこに「動き」が生じたのかもしれない。
完全につりあっている天秤《てんびん》はぴくりとも動かない。死にも似た永遠の静寂を保ち続ける。しかし、どちらかの秤《はかり》に僅かでも重みが加わっとき、両者のバランスが微妙に崩れたとき、そこに「動き」が起こる。
螺旋《らせん》の力とはまさに、この、それまで保たれてきた調和やバランスが僅かに崩れたときに生じるものであると、養父は言った。
運動とはそうして起こるものだと……。
武の兄が生まれてすぐに死んだということが、あるいは、わたしと火呂のどちらかが死ぬ定めにあったのに共に生き延びたということが、この世のバランスを狂わせ、大いなる螺旋の力を呼び起こす原因になったのではないか。
一つしかない鍵に二つの同じ形をした錠前。
わたしがこの胸のお印によって護られ縛られているとしたら、妹もまたそうではないのか……。
妹もわたし同様、一人の女としてのささやかな人生など最初から許されていないのだとしたら……。
もし、彼女がそのことに気づいて、自分という特殊な錠前を開ける鍵を探しはじめたとしたら……。
そして―――
もし、どちらかにしか、この鍵が手にはいらないのだとしたら……。
鍵を手に入れられなかった方の錠前は封印されたまま錆《さ》びて朽ち果てる運命にあるのだとしたら……。
それならば……。
わたしがこの鍵を手にいれる。
妹よりも先に。
今、目の前にあるのだから。
手を伸ばせば取れるのだから。
妹には渡さない。
絶対に渡さない。
日美香の中でようやく決心がかたまった。
それは同時に、それまでは、たとえ離れて暮らしても、分身としての愛情を感じていた双子の妹を、自分の存在を根本から脅かす最大の「敵」であるとはっきり認識した瞬間でもあった。
明日の朝一番に、養父にこの決意を伝えよう。
神迎えの神事の日女役を引き受けるということを……。
すると、まるで、その決意を見届けたかのように、それまで灯っていた窓の明かりがふっと消えた。
あとは濃い闇《やみ》ばかりだった。
[#改ページ]
最終章
1
十月二十六日、水曜日。午後十時すぎ。
会社から帰宅した喜屋武蛍子は、マンションの玄関でパンプスを脱ぎながら、「ただいま……」と奥に声をかけた。
ガラス戸越しに明かりが漏れているし、狭い三和土《たたき》には甥《おい》の汚れたスニーカーが脱ぎ捨ててある。豪は帰っているようだった。
「……断った?!」
ガラス戸の少し開いたリビングの方からそんな声が聞こえてきた。
豪の声だった。
一瞬、友達でも来ているのかと思ったが、玄関には、それらしき靴はない。
電話で誰かと話してるのだろう。
蛍子はそう思いながら、リビングに入っていった。案の定、豪は電話機の前にいた。前かがみになって、受話器を握りしめている。
「断ったって、どういうことだよ!」
ちらと蛍子の方を見ただけで、受話器に向かってどなるように言った。誰と話しているのかは分からないが、やや興奮しているように見えた。
テレビがつけっ放しになっていた。
報道番組らしきものをやっている。
「……断ったって……うそだろ。話もきかずに断ったのかよ。もしもし? 姉ちゃん? もしもし!」
受話器に向かってどなっていたが、「畜生、勝手に切りやがって」といまいましげに呟《つぶや》くと、豪は叩《たた》きつけるように受話器を置いた。
どうやら、電話の相手は姉の火呂のようだった。
「……話もきかずに断るって、どういうことだよ……」
豪はまだ興奮がさめないという顔でぶつぶつ言っている。
「火呂から?」
そう聞くと、ようやく叔母《おば》の存在に気づいたように頷《うなず》いて、
「ビッグチャンスの話、断ったんだってよ。信じられる? これって、宝の山目の前にして何も取らずに引き返すようなものだぜ」
といきなり言った。
「ビッグチャンス? 何の話?」
蛍子がめんくらったように聞き返すと、
「歌手にならないかって話。あの宝生《ほうしよう》から、昨日、電話があったんだって。姉ちゃんをソロ歌手としてプロデュースしたいって。それで、事務所の人も交えて、一度ゆっくり話がしたいと言ってきたのを、自分は将来は沖縄に帰って小学校の教師になるつもりだから、歌手になる気は全くないって、その場で断ったんだと」
豪はまるで自分が断られたような憤懣《ふんまん》やる方ないという顔で言った。
「ホウショウ……」
蛍子は思わず呟いた。
ああ、宝生|輝比古《かがひこ》とかいう、若手の人気音楽プロデューサーかと思い出した。
何カ月か前に、豪が高校のバンド仲間と、プロへの登竜門といわれるオーディションのようなものに参加したことがあった。
予選はかろうじて通ったものの、本選を目前にしてボーカルをやっていた仲間が受験勉強を理由に脱落してしまい、そのピンチヒッターとして姉の火呂をボーカル役にかつぎ出したのだ。
結局、優勝はおろか入賞すらできなかったようだが、そのとき審査員の一人だった宝生は火呂の歌唱力を高く買っていたようで、彼の口利きで、審査員特別賞というのをもらったと聞いていた。
「やっぱり俺《おれ》の思った通りだった。宝生はあのとき姉ちゃんの才能を見ぬいてたんだ。さすがだよ。やっぱ、あいつには見る目がある。他の審査委員なんて肩書ばっかで屑《くず》同然だったけど、あいつだけは違うと思ってた。それをアッサリ断るなんて。どうかしてるぞ……」
豪はそう呟いたかと思うと、
「俺、ちょっと行ってくる」
ソファに脱ぎ捨ててあったブルゾンをつかみ、リビングを出ていこうとした。
「待ちなさい。どこへ行くのよ」
蛍子は思わず甥の腕をつかんで聞いた。
「姉ちゃんとこだよ。電話じゃ話にならない。どうせまたかけたって切られちまうだろうし。これから行って直談判《じかだんぱん》してやる。たとえこの話断るにしても、一度会って話聞いてからにしろって言ってやる」
「やめなさい」
蛍子は、やや逆上ぎみの甥の頭を覚ますように一喝した。
「なんで止めるんだよ?」
「今何時だと思ってるの。十時すぎよ。火呂のマンションに着く頃には十一時すぎてるわ。いくら姉弟《きようだい》でも、一人暮らしの女の子の部屋訪ねる時間じゃないでしょ」
そう諭すと、豪は、返答に困ったような顔でおし黙った。姉弟といっても、血がつながっていないことをあらためて思い出したようでもあった。
「それに、たとえ直談判しても無駄よ。あの子の頑固な性格はあんたが一番よく知ってるんじゃない。一度決めたことをすぐにひるがえすような子じゃないことは」
「……」
つかんでいた甥の腕から力が抜けたような感触があった。
「しかも、あの子が沖縄に帰って小学校の教師をやりたいというのも、あの子の夢というより、我が子同然に育ててくれた亡くなった姉さんの遺志を継ぎたいからなのよ。だから、ちょっとやそっとの説得で、火呂が心がわりするとは思えないわ」
「……」
「あの子の好きなようにさせてあげなさい」
「……わかったよ」
豪はふてくされたように言うと、蛍子の手を振り払い、ソファに戻ってきた。
「だけど、悔しいんだよ! せっかくこんな美味《おい》しい話が向こうから舞い込んできたというのに、何もしないで、みすみすチャンス逃すなんて」
手にしていたブルゾンを投げつけ、ソファにドカリと座り込むと、まだあきらめきれないというように言った。
「あんたが悔しがってどうするのよ。それに、美味しい話かどうかなんて分からないわよ。たとえ歌手としてデビューできたとしても、その先、成功する保証なんてどこにもないんだから」
「保証はある。宝生がプロデュースするってことは、もうそれだけでメジャーになれるってことなんだよ。あいつが育てたアーチストで今までメジャーになって成功してないやつなんていないんだから」
「今まではそうだったとしても、これからもそうとは限らないでしょ。それに、火呂は成功そのものを望んでないかもしれないわ。歌とお金を結び付けることを誰よりもいやがっていたから。火呂の将来を思えば、あの子の選択の方が堅実だと思うけどね、わたしは」
「女ってすぐそうなんだ。石橋をこわすほどぶっ叩《たた》いておいて、ほら、やっぱり渡れないとかぬかしやがる。何でも無難な方へ現実的な方へ、二言目には自分の足元を見ろって。足元ばかり見てたって前には進めないじゃないか。チャンスったって、せいぜい、落ちてる小銭を拾うくらいのもんだろ」
「あんたみたいにポカンと口あけて空ばかり見て歩いていたら、そのうち、蓋《ふた》の取れたマンホールに落ち込むのが関の山だわ。宝の山にぶつかる前に」
蛍子はそう言い捨てて、まだぶつくさ独り言をいっている甥を残してリビングを出ると、自分の部屋に行った。
スーツを脱ぎ、くつろげる部屋着に着替えてリビングに戻ってきた頃には、豪も少しは落ち着いたようだった。ソファの上にあぐらをかき、リモコン片手に、世にもつまらなそうな顔でテレビを見ていたが、ふいに何か思い出したような顔つきで、
「……あ、そうだ。叔母さん、最近、見合い話とかない?」
テーブルの上にあった夕刊を手に取って眺めていた蛍子に聞いた。
「見合い話? ないわよ、そんなもの」
「ないの? ほんとに? ぜんぜん?」
「ぜんぜん」
「叔母さんって……それほど不細工でもないのに、なんでそんなに縁遠いのかなぁ。今付き合ってる男とかもいないんだろ? 男を寄せ付けない負のオーラでも出しまくってるんじゃないのか」
豪は不思議そうに聞いた。嫌みならともかく、全く悪気のない口調なのが、よけい蛍子の癇《かん》に障った。女も独身のまま三十路《みそじ》を過ぎると、この手の話題にはやや過剰に反応するようになる。
「きっとわたしは防虫剤を香水と間違えてつけてるのかもね」
むかつきながらそう言い返すと、豪はひっくりかえって笑った。
「ぎゃはは。それ、いい。自分で言ってりゃ世話ないけど」
「……」
この糞《くそ》ガキと思いながら、横目でにらみつけていると、
「でもさ、そのうち、きっと春が来るぜ、叔母さんにも。待てば海路のぼたもちとか言うだろ」
「……」
「今ごろ、どこかの金持ちの御曹司《おんぞうし》か何かに密《ひそ》かに目をつけられてたりしてサ。だから、こっそり興信所雇って、叔母さんの身辺洗ってるんだよ、きっと」
豪は笑いながらそんなことを言い出した。
「興信所?」
蛍子は広げた夕刊に戻しかけた目をあげて聞き返した。
「うん。叔母さんのこと、興信所のやつが調べてたんだって」
「誰がそんなこと……」
「向かいの桜井さんちのおばさん。今日、学校から帰ってきたとき、廊下でばったり会ってさ。そんなこと言ってたよ。興信所と名乗る若い男が叔母さんのこと、あれこれ聞いていったって。あのババァ、つかまったら最後、しゃべり疲れるまで離してくれないスッポンだから」
「いつのこと?」
「だから今日」
「そうじゃなくて、その興信所とかがわたしのことを調べていたって、いつのことなの?」
「十日くらい前とか……縁談がらみの調査だって言ってたらしいよ」
興信所を名乗る若い男……。
縁談がらみ?
「今頃、もしかしたら、依頼主の御曹司の家では家族会議の真っ最中かもしれないぜ。興信所の調査書をめぐって、この女じゃだめだと親が反対したら、当の御曹司は、僕はこの人じゃなきゃいやだ、一緒にさせてくれなきゃ死ぬーとか反抗してたりしてさ」
「テレビドラマの見過ぎよ」
蛍子は苦笑しながらも、なぜか胸の奥がざわめくのを感じた。
本当に縁談がらみの調査なのだろうか。
たとえ、そうだったとしても、陰でこそこそ自分のことを調べられるというのは、あまり気持ちの良いものではない……。
「お、いけね。テレビドラマといえば、卯月マリナ主演のドラマ、今日だっけ」
豪はそう呟《つぶや》くと、手にしたリモコンで、テレビのチャンネルを変えようとした。
「ちょっと待って!」
蛍子は思わず叫ぶように言った。
何げなく見ていたテレビ画面に、三、四歳くらいの幼女の顔写真が大写しになっていた。
オカッパ頭で、右の頬《ほお》にかなり目立つ黒子《ほくろ》がある愛くるしい顔……。
興信所を名乗る若い男が自分のことを調べていたという気になる出来事も、その顔写真を見たとたん、蛍子の頭から吹っ飛んでしまった。
この子、似ている。
テレビ画面一杯に映っている笑顔の幼女の顔は、あの日の本村でかいま見た幼女の顔によく似ていた。
神郁馬を探して迷いこんでしまった神社の裏手にある林で、日女らしき若い女と毬《まり》遊びをしていたあの幼女に……。
あのときは、白衣に紫の袴《はかま》という格好から幼い日女なのかと思っていたが。
まさか……。
顔写真の下には、近藤さつきちゃん(当時三歳)とある。
「これ何?」
蛍子は画面を凝視したまま言った。
「え。何って」
「この番組よ」
「知らんよ。さっき、たまたまテレビつけたらやってたんだもん。『消えた子供たち』とかいうタイトルの特集番組みたいだよ。見始めたら、姉ちゃんから電話かかってきて―――」
蛍子は手元にあった夕刊を見た。
テレビ番組欄を見ると、豪の言う通り、二時間ものの報道特集番組のようで、ここ十数年の間に忽然《こつぜん》と姿を消し、いまだにその行方が分からない少年少女たちの事件ファイルばかりを集めて公開し、視聴者に目撃情報等の提供を呼びかける趣旨の、いわゆる「公開捜査」番組のようだった。
あの黒子の幼女も、そんな「消えた子供たち」の一人だった。
「……近藤さつきちゃん、当時三歳は、今年の四月二十五日、埼玉県K市のショッピングセンターに一緒に買い物に来ていたお母さんがちょっと目を離したすきに、センターの駐車場に停めておいた車の中からいなくなったもので、さつきちゃんがシートベルトを自分でははずせなかったという状況から考えて、何者かに連れ去られた可能性があり、近くにサングラスをかけた若い男が乗った不審な車両があったことから……」
蛍子は、今年の四月に起きたという幼女|失踪《しつそう》の概要を説明する中年のベテランキャスターの声を茫然《ぼうぜん》と聞いていた。
2
窓の向こうから、パキッパキッとリズミカルな音が聞こえてくる。
台所の流しで洗い物をしていた神美奈代は、つと顔をあげると、その音が聞こえてくる方向に目をやった。
北向きの、開け放した台所の窓から、物置小屋の前で、斧《おの》を手に薪割《まきわ》りをしている武の姿が見える。
彼がこの家に来て二週間近くがたとうとしていた。
いつのまにか、昼食後は、こうして薪割りに時間を費やすのが日課になってしまったようだ。
十月も末になり、肌をさす風の冷たさに冬の到来を早くも感じる頃になると、雪の降り積もる時季に備えて、割る薪の量もぐっと増える。
いつもなら、その日の風呂焚《ふろた》きの分くらいは美奈代がやり、手が足りなくなると、村の若い衆に頼んで手伝ってもらうのだが、武が来てからは、彼一人でこなしている。
最初は、お印が出た子にそんなことはさせられないと断ったのだが、都会育ちで薪割りなどやったことがなく、よほど珍しかったのか、「運動がてらにやらせてくれ」と食い下がられ、仕方なく夫に相談すると、「どうせすぐに飽きるだろうから、好きにさせろ」と言う返事だったので、まかせたところ、それから毎日、昼食が済むと、小屋の前に現れては、一時間でも二時間でも気の済むまで、黙々と続けている。
食器を洗うかたわら、窓からそれとなく見ていると、最初は、斧を振り下ろすタイミングがつかめず、力あまって、薪を弾きとばしたりして苦労していたようだが、東京ではボクシングの真似事もしていたようで、もともと運動神経は良いせいか、すぐにコツを覚えて、今ではしっかりと腰の入った格好でやっている。
上は真夏に着るような半袖《はんそで》のTシャツ一枚だった。それでも、若さゆえか寒くはないらしく、半時間も薪割りに専念していると、額に浮かんだ汗を手の甲で拭《ぬぐ》うような仕草を見せ始めた。
そんな甥《おい》の姿を台所の窓越しに眺めるのが、美奈代にとっては、密かな楽しみにさえなっていた。雨の日など、洗い物をしていて、窓の外に武の姿が見えないと、がっかりすることもあった。
あの少年を見ていると、なぜか、胸の奥にたまりにたまったモヤモヤとした黒いものがすーと晴れるような良い気分になる。先日もあまり気分がいいので、つい鼻歌を口ずさんでいたら、一緒に台所仕事をしていた義弟《おとうと》の嫁に、「お義姉《ねえ》さんでも歌なんて歌うことあるんですね」と驚かれたくらいだった。
わたしだって歌くらい歌う。数年前に嫁いできた義妹《いもうと》には、さぞかし陰気な兄嫁だと思われているのだろうと、美奈代は内心で苦笑した。
若い頃は、毎日のように大声で当時の流行歌などを歌っていた。今は村長をしている兄に「うるさい」とどなられるほどに……。
それがいつのまにか歌わなくなった。この家に嫁いで来てから、知らず知らずのうちに、腹の底から笑ったり歌ったりする喜びを忘れてしまった……。
でも、あの少年がこの家に来て、なぜかは分からないが、歌うことも笑うことも忘れてしまったわたしに、またその喜びを思い出させてくれた。
まるで歌を忘れたカナリヤに歌を思い出させるように。
そう思ったとたん、美奈代の口から、自然に、子供の頃におぼえた懐かしい童謡のメロディがついて出た。
歌を忘れたカナリヤは柳の鞭《むち》でぶちましょうか
いえいえ、それはかわいそう
歌を忘れたカナリヤは
象牙《ぞうげ》の船に銀の櫂《かい》
月夜の海に浮かべれば……。
しかし、そのとき、機嫌よく鼻歌をうたっていた美奈代の口からぴたと歌が止まった。
手だけ動かしながら、目は窓の外の少年の姿を追っていたのだが、その少年に近づいてきた一人の女の姿が目に入ったからだった。
それを見た美奈代の眉間《みけん》に、いつものように不機嫌そうな縦じわが一本寄った。
武に近づいて来たのは日美香だった。手にタオルをもっている。武は斧を振り上げようとした手をとめ、彼女が差し出したタオルを受け取ると、何やら話しながら、それで顔や首筋の汗を拭った。
二人が何を話しているのかは聞こえないが、武が何か言うたびに、日美香は空を向いて弾けるように笑っている。
もともと奇麗な娘ではあったが、しっかりしすぎて、やや冷たく見えるのが玉に瑕《きず》という印象があった。それが、最近になって、その冷たさが和らぎ、明るくなったぶん、いっそう奇麗になったように見える。同性の美奈代の目から見ても眩《まぶ》しいほどだ。
あの娘は恋している。
恋しはじめている……。
ふっとそんな気がした。
相手は……たぶん、あの少年だ。
日美香の、ここ数日の微妙な変わりよう、まるで薄皮を一枚脱いで脱皮でもしたような、全身の細胞という細胞が一斉に花開いたとでもいうような、この突然の輝きの原因は、恋以外には考えられなかった。
美奈代自身、遥《はる》か昔、ちょうど今の日美香くらいの頃、自分がそんな変貌《へんぼう》を遂げて、兄の久信を驚かせたことがあった。
「おまえ、最近、奇麗になったな……」
兄は美奈代の顔をつくづくと眺めて、まんざらお世辞でもないように言った。
聖二との縁談がほぼ決まりかけた頃のことだった。
あの頃がわたしの人生で一番輝いていたときだった……。
美奈代は、目だけは執拗《しつよう》に窓の外の若い二人を追いながら、手元を休めて、過去を振り返った。
夫となった神聖二は、美奈代にとっては、いわば初恋の人でもあった。幼いときから、その姿をどこかでちらと見かけただけで、興奮して夜も眠れないほど、密《ひそ》かに恋焦がれていた相手でもあった。
でも、この恋は叶《かな》わぬ恋だとあきらめてもいた。村長の娘ということを除けば、自分にはなんの取り柄もない。美人でもないし可愛《かわい》いわけでもない。器量はせいぜい十人並み。どこにでもいる田舎娘の一人にすぎない。そのことはちゃんと自覚していた。
この村では特別な家柄として仰ぎ見られている神家の次男で、しかも、お印のある子として生まれつき、周囲からは「様」付けで呼ばれている聖二と自分とが釣り合うわけがない。
あの人も、きっと長男の貴明さんのように、東京であか抜けた美しい女性と出会い、その人を村に連れ帰って、お嫁さんにするのだろう。
そう思い込んでいた。
一方通行の片思いに身を焦がしたとしても、それはブラウン管の中のアイドル歌手や俳優に恋焦がれることと同じこと。
片思いは死ぬまで片思い。
そう思って、その想《おも》いを胸の奥深くにしまい込み、はじめからあきらめていたのに……。
地元の短大を卒業する間際になって、思いもかけなかったことを当時村長をしていた父の口から聞かされた。あの聖二が自分を嫁にほしがっていると。
そんな話を聞かされたときは夢でも見ているのではないかと思った。
それまで聖二とはろくに口をきいたこともなかった。むろん、美奈代が聖二に恋していたように、相手も……などと自惚《うぬぼ》れるほど能天気でもなかった。
だから、最初は、なぜあの人がわたしなんかをと不思議でしょうがなかったのだが、父の話を聞いて合点がいった。
聖二と直接話したりしたことはなかったが、神家で村の顔役が集まる宴会などが開かれるたびに、母と一緒に台所仕事の手伝いに駆けつけることがよくあった。
そのときに、美奈代の明るい性格のことや、骨惜しみせずによく働き、料理上手であることなどが、神家の女たちを通じて、聖二の耳にも入っていたらしいということだった。それであの娘ならと見初められたのだと……。
美奈代は素直に父の言葉を信じた。恋愛とはとても呼べないかもしれないが、それでも、密かに恋焦がれていた相手に、自分を認めてもらえたという喜びで、天にも昇る心地がした。
この縁談が本決まりになり、半年間ほどの婚約期間は、美奈代の四十年に及ぶ半生の中で最も幸福で輝いていた時期だった。
婚約時代、夫は優しかった。美奈代のたあいもないおしゃべりにいやな顔ひとつせずに耳を傾けてくれ、会うたびに気遣いのようなものを見せてくれた。
父や兄のような、女にも平気で手をあげるような粗暴で野卑な男たちばかりを見て育った美奈代にとって、その姿も言動も、同じ男かと思うほど違っていた。
夫の自分に対するそんな態度は結婚したあともずっと続くものだと信じていた……。
しかし、美奈代のこの甘い夢想は、神家に嫁いで二カ月足らずであっさりと破られた。夫の態度が手のひらを返したように豹変《ひようへん》したのだ。
父たちのように手こそあげないものの、用がないときは口をきくのもいやだという態度をあからさまに見せるようになり、美奈代を見る目つきも、新妻というより、新しく雇い入れた女中でも見るような冷淡で見下したものになった。
それでも、最初の一、二年は、夫が婚約時代とは人が変わったように冷たくよそよそしくなったのは、この人も、他の男たちのように、釣った魚に餌《えさ》は必要ないと考えているからだろうくらいに思っていた。
結局、一緒になってみれば、その実態は村の男たちと大して変わらなかったという苦い発見は美奈代を失望させはしたものの、こんな結婚をした自分が不幸だとはまだ思っていなかった。
この村の男と結婚した女たちは、多かれ少なかれ、自分と同じような思いを味わっていると思っていたし、母や義姉《あね》もそうだった。そんな中で、神家に嫁げただけでも、このあたりでは玉《たま》の輿《こし》と呼ばれ、同級生からは羨《うらや》ましがられていたし、その相手も自分が幼いときから憧《あこが》れていた人だった。
これがおとぎ噺《ばなし》なら、憧れの王子様と結婚してめでたしめでたしで終わるのだが、そこから始まる現実はそれほどめでたくはないということを身をもって知っただけのことだった。
だから、夢見ていたことと現実が食い違い、多少の失望はあったとしても、自分はまだまだ幸運な方だと思っていた。
神家に嫁いで数年後に父が病で亡くなり、その葬儀の夜、酔っ払った兄の口からあのことを聞くまでは……。
3
あの夜……。
親戚《しんせき》縁者がみな帰った夜、兄と二人きりで座敷に残っていたとき、酔った兄の口から、はじめて、聖二と自分との結婚が取り決められたいきさつを聞かされた。
聞かされたといっても、亡父にまつわる思い出話をポツリポツリとしているうちに、つい兄が口を滑らせたといったものだったが。
それは、二人の結婚は、神家と太田家が結束するためのいわば政略結婚だったということだった。
当時東京で起こった倉橋日登美一家殺害事件に裏で加担していた両家が、その犯罪行為を隠すために結束する必要があり、そのために、美奈代を聖二に嫁がせて姻戚関係を作りあげることで、その結束をかためようとしたのだという。
久信はそんなことをはっきりとは言わなかったが、それとなくほのめかした。美奈代はそれを聞いて愕然《がくぜん》とした。
ようするに、自分は男たちの勝手な思惑の道具にされたということなのか。
それまでは、夫が自分を妻に選んでくれたのは、恋愛とは言えないにしろ、それなりに自分のことを見ていてくれ、妻にふさわしい女と認めてくれたからだと思っていた。
でも、そうではなかった。聖二は、最初から美奈代個人のことなど見てはいなかった。毛筋ほどの関心ももっていなかったに違いない。ただ、村長の年頃の娘ということで、太田家との結束をかためるために必要な道具くらいにしか見ていなかったのだ。
そのことが分かったとたんに、美奈代の中で何かが弾け飛んだ。それまで、我慢に我慢を重ねていた心の張りのようなものがプツンと音を立てて切れてしまった。
まだ僅《わず》かに残っていた夫への思慕の念が完全に消え果てた瞬間でもあった。
もし、あのとき、子供でもできていたら……。
美奈代は遠い目をして思った。
夫との間に子供でもできていたら、また話は違っていたかもしれない。夫には絶望しても、我が子を生きる糧にすることはできただろう。
しかし、嫁いで二年目に一度妊娠したものの、三カ月にも満たずに流産してしまい、そのせいか、それからは身ごもりにくい身体になってしまった。
結局、この年になるまで、自分の腹を痛めた子供をもつことはかなわなかった。村の因習にしたがって、日女が生んだ私生児の養母となって、その世話をするだけの毎日だった。来る日も来る日も、台所仕事と自分の腹を痛めたわけでもない子供たちの世話に明け暮れるだけの……。
一体、わたしの人生はなんだったのだろう。
若い頃はふっくらとしていた頬《ほお》もげっそりとこけ、年齢の割りにはひどく老けこんでしまった顔を鏡で見るたびに、美奈代は、そう自問自答するようになっていた。
いつも楽しげに囀《さえず》っていたカナリヤは、神家という籠《かご》の中に閉じ込められて、いつしか歌うことを忘れてしまった。自分の囀りなどに耳を傾けてくれる人はどこにもいないと知ったときから……。
そして今、目の前に……。
武と談笑している日美香をじっと見つめている美奈代の目に獰猛《どうもう》な黒い炎が宿った。
わたしが失ったものをすべてこれから手に入れようとしている若い女がいる。
今年の五月にはじめて会ったときから、あの娘が好きではなかった。あのとき……。久しぶりに買い物をしに長野市まで出たときに乗った帰りのバスでたまたま乗り合わせた彼女を一目見たときから……。
あのあと、養子縁組をして、表向きは養母《はは》ということになったのだが、あの娘は、夫のことは「お養父《とう》さん」と呼ぶくせに、わたしのことは、けっして「お養母《かあ》さん」とは呼ばない。呼ぶ必要があるときは、「おばさん」と言う。
そして、わたしを見るときの目も、戸籍上とはいえ母親になった女を見るような目ではない。明らかに、自分よりも劣る使用人か何かでも見るような目をしている……。
あの娘は本当に夫によく似ている。実の父娘《おやこ》でもここまでは似ないだろうと思うほどに何もかも。
だから、よけい、あの娘が憎い……。
しばらく立ち話をしていたが、やがて日美香はその場を立ち去り、武はタオルを首にかけたまま、また薪割《まきわ》りに専念しはじめた。
斧《おの》を振り上げ降ろす動作は、前よりもきびきびとして、内心の弾む気持ちを抑え切れないとでもいうように見えた。
たぶん、武の方も……。
美奈代は苦々しく思った。
日美香を異性として意識しはじめているに違いない。本人は隠しているつもりだろうが、はたから見ていると、そんな気配がありありと見てとれる。
先日も、台所に水を飲みにきたとき、ふと思いついたという表情で、「日美香さんも日女だから誰とも結婚できないんだよね」と確認するように、その場にいた美奈代に聞いたことがあった。
そんなことはない、日女とはいっても、彼女はお印の出た日女ということで特別だから、村の掟《おきて》からは自由なはずだと答えると、「ふーん」と一見気のなさそうな顔で聞いていたが、その目が一瞬、嬉《うれ》しそうに輝いたのを美奈代は見逃さなかった。
日美香の恋は、自分のときのように一方通行ではない……。
しかも、あの夫が、なにゆえか、この二人の接近を後押ししているようにも思える。将来は二人を一緒にさせようという腹づもりなのではないか。そんな気さえした。
でも、この二人はもしかしたら……。
美奈代の中に黒い疑念が沸き起こった。
それは、明確な形ではないが、この数カ月、美奈代の脳裏の片隅をずっと占めていた疑惑でもあった。
日美香がこの村に来たときからずっと……。
あの夜。
父の葬儀の夜、酔った兄の口から明かされたことは、もうひとつあった。
昭和五十二年の大祭で兄は三人衆の一人をつとめることになっていた。しかし、祭りの直前になって、兄はこの役をある人物に譲ったというのだ。聖二から頼まれて、村民には内緒で、別の人物にこっそり入れ替わったのだと……。
その人物の名前までは兄は明かさなかったが、美奈代にはそれが誰であるか薄々察しがついた。
兄や夫に村の掟を破らせるほどの影響力のある人物などここには存在しない。いるとすれば、ただ一人だけ……。
しかも、あの祭りの前日、美奈代は、その人物が久しぶりに「里帰り」をしてきた姿をその目で見ていた。
武はそのことを知っているのだろうか。
自分の父親が日美香の父親でもある可能性があるということを……。
4
あの様子を見ていると、とても、そのことを知っているようには思えない。
でも、日美香の方は知っているはずだ。
そもそも、彼女が五月の半ば、この村に来たのは、実父を捜すためだったのだから。
どうやって知り得たのかは知らないが、彼女は、自分の父親が、昭和五十二年の大神祭で三人衆をつとめた男たちの中にいるということまでは知っていた。
そして、そのうちの二人までは血液型などから父親ではありえないということは探り当てており、残る一人がと疑っていた。
それが兄の久信ではないことは、そのときに教えてやったが、兄に代わって三人衆をつとめた「人物」の名前までは打ち明けられなかった。
それでも、養子縁組をしたあと、やはり、このことは日美香に教えてやろうと思い直し、七月のある日、週末を利用して訪ねてきた彼女を人気のない場所に連れ出して、「あなたの父親のことを知っている―――」と切り出しかけたところで、美奈代の言葉を遮るように意外な返事が戻ってきた。
「そのことならもういい。お養父さんに何もかも聞いた。わたしの中では解決していることなので、おばさんも忘れてほしい」
年上の美奈代を思わずひるませるような、二十歳の小娘とはとても思えないようなおとなびた目をしてそう言ったのだ。
しかも、その夜、夫の部屋に呼び付けられて、「日美香の父親のことは決して公言するな。もし、人にしゃべるようなことがあれば、この家から叩《たた》き出されるだけでは済まないと思え」と厳しく叱責《しつせき》された。
そのとき、美奈代の中で、それまでは疑惑でしかなかったものが確信に変わった。
やはりそうだったんだ……。
だから、日美香も知っているはずだ。
武が異母弟《おとうと》であることを。
知っていながら……。
なんという恐ろしい娘だ。
武が異母弟であることを知りながら、今度の大祭の神迎えの神事の日女役を引き受けるなんて。
聖二から何もかも聞いているのなら、あの神事の隠された儀式のことも知らないはずはないだろうに。
それなのに……。
この世の穢《けが》れとは全く無縁のような楚々《そそ》とした顔と姿をして、もっとも穢れたことを平然としようとしている。
あれは化け物のような娘だ。
美しい顔をした化け物だ。
それは夫も同じだ。
武と日美香の関係を誰よりも知っていながら、止めるどころか、何食わぬ顔をして、二人を結びつけようとさえしている。
きょうだいが結婚するなど人間のすることではない。人の道に背くことだ。夫のしようとしていることは人のすることではない。やはり、あれは、人間の心などもってはいない蛇の化け物だ。
この村では、大神は蛇神といわれて、蛇を敬い祀《まつ》る風習があるから、公然とは口にできなかったが、美奈代は小さいときから蛇が大嫌いだった。
あんな薄気味の悪い生き物……。
いくらこの村の神様だからと言われても、好きになれないものは、どう努力しても好きにはなれなかった。
聖二も日美香もまさにあの蛇の化身のようだ。
子供の頃に読んだ、日本中の伝説を集めた本の中に、蛇が美しい男や女に化けて人間をたぶらかしに来るというお話が幾つかあった。あれと同じだ。
みんな、あのたおやかな美しい外見にだまされてしまう……。
わたしも最初はそうだった。
あの美しい姿の内側に隠された冷酷な蛇の心までは見えはしない。
あの少年も……。
武がかわいそうだ。
何も知らずに、このままでは、夫や日美香の餌食《えじき》にされてしまう……。
同じお印をもつといっても、あの子は彼らとは違う。あの子は良い子だ。まだ純真|無垢《むく》で、蛇の毒に冒されてはいない。
東京では何かと問題を引き起こす不良のように言われていたらしいが、ここに来てからは、そんな風にはちっとも見えない。わたしの目には、素直で心根の優しい子のように見える。
そもそも、あの薪割りをはじめたことだって、あの子の優しさからだ。わたしが風呂焚《ふろた》きに使う薪をあそこで割っていたとき、武が通りかかり、「ここでは女が薪割りするのか」と驚いたように聞いたことがきっかけだった。
男手がないわけではないが、神家の男の殆《ほとん》どが日の本神社に仕える神官だから、こんな力仕事や汚れ仕事は一切しない。こうした仕事はすべて、神官の嫁などの、日女ではない女たちがやっている、と答えると、武は、「女には無理だよ。俺がやってやる」と、美奈代の手から斧を奪い取るようにして、慣れない手つきで薪割りをはじめたのだ。
そんなことやめてください、お印の出た人にそんなことはさせられません、と慌ててやめさせようとしながらも、本当は嬉《うれ》しかった。
こんな風に気遣ってくれる男などこの家には、誰一人としていなかったからだ。若い頃は白魚のようだった手が男のように節くれだち、どんなクリームを塗ってもひび割れの治らない荒れた手になっていることなど、夫はもちろん、誰も気にもとめてくれなかった……。
あの子だけが気遣ってくれた。
あの子は昔のわたしだ。
何も知らないまま、恋に恋して、夢と希望だけをもってこの家に嫁いできて、そして、その夢も希望も粉々に打ち砕かれ、蛇の餌食となったわたしの……。
このままでは、あの子も、わたしのようになってしまうかもしれない。聖二や日美香の真の姿を知った頃にはもう遅いのだ。取り返しがつかなくなっている。
そうだ。
今、ここで教えてあげよう。
武はここに来てまだ日が浅い。お印が出たということで、神家の人間とみなされるようになったが、これまでは村とは殆ど無縁に暮らしてきた、よそ者同然だ。この村のことは何も知らないに違いない。
わたしもこの村に生まれ育った者である以上、この村の秘密を全部話すわけにはいかないが、せめて、日美香の父親が誰なのか教えてあげなければ。彼女が武にとって本当はどういう存在なのか教えてあげなければ。
そうしなければ、何も知らないあの子に大きな罪を犯させることになる……。
たとえ、わたしのしようとしていることが、いずれ夫の耳に入って、夫を怒らせ、この家を追い出されるはめになろうと、あるいは、それ以上の制裁を受けることになろうとも……。
今、ここであの子の魂を救うことができるならば、わたしはどうなってもかまわない。
武を見つめる美奈代の中にそんな悲愴《ひそう》な使命感にも似た思いが抑え切れないほどに膨れ上がっていた。
それに……。
美奈代の口もとに薄笑いが浮かんだ。
これは夫への強烈な復讐《ふくしゆう》にもなる。
何もかも自分の思いどおりに事が運ぶと思い込んでいる傲慢《ごうまん》な男への、この二十年間、妻を虫けらのようにあしらい続けてきた男へのささやかな復讐。
巨大な獅子《しし》の身中に潜んだたった一匹の小さな虫が、時には、その獅子を倒すこともあるのだということを思い知らせてやる……。
美奈代はそう決心すると、何かに憑《つ》かれたように、洗い物を途中で放り出し、台所の裏口からサンダルをつっかけて外に出た。
そして、薪割りを続けている少年の方に足早に近づいて行った。
5
「……日美香さん?」
日美香の部屋の前でそう一声かけたが、戸口の向こうからは何の返事もなかった。
この時間帯ならいつもは部屋にいるはずだがと聖二はいぶかしく思いながら、襖戸《ふすまど》を開けてみた。
すると、目に飛び込んできたのは、八畳ほどの和室のほぼ中央で、仰向けのやや不自然な格好で倒れている日美香の姿だった。
「日美香!」
聖二は我を忘れて駆け寄った。その不自然な寝姿から、気分でも悪くなって昏倒《こんとう》しているととっさに思ったからだった。
しかし、近寄って、顔を覗《のぞ》きこんでみると、そうではなかった。日美香はすやすやと軽い寝息をたてて眠っていた。
顔色も悪くはない。
畳に投げ出された手元には、文庫本が転がっている。どうやら、部屋でこれを読んでいるうちに眠気を催し、ごろりと横になったまま寝入ってしまったらしい。
気分が悪くなって倒れているのではなく、単にうたた寝をしているだけだと気づいて、聖二はほっとしたようにその場に座りこんだ。
こんな格好で風邪でもひいたら……。
そう思い、揺り起こそうとしたが、その手を宙でとめた。
よほど疲れていたらしく、自分が入ってきたことにも気づかず熟睡している娘の顔を見ているうちに、起こすのが少し可哀想《かわいそう》な気もしてきた。
午前中は武の家庭教師を務め、夕食後は、聖二の部屋に籠《こ》もって、家伝書の読み解きに時間を費やすというのが、彼女がこの家に来てからの日課になっていた。
それも興が乗ると、深夜にまで及ぶこともある。昨夜も、日美香自身の頼みで、午前二時すぎまで家伝書と首っぴきになっていた。
おまけに、神迎えの神事の日女役に決まってからは、それまで気ままにすごしていた午後のこの時間帯も、日女役の作法の練習などで忙しくなった。
ここ数日、ろくに睡眠もとっていなかったのだろう……。
そう考えると、このまましばらく眠らせてやりたくなった。
聖二は足音をしのばせて押し入れまで行き、中から毛布を出してきて、それをそっと身体にかけてやった。
それでもまだ気づかず眠っている。
そのまま部屋を出ようと思ったが、うっすらと口を開けて寝息をたてている童女のようなあどけない顔を見ているうちに、ついその場を離れがたくなった。
この娘《こ》がこんな無防備な格好で、こんな無邪気な表情をしているのをはじめて見たような気がした。
五月に会って以来、だいぶ心を開いてきたとはいえ、いつもどこか、他者を警戒し身構えているようなところのある娘だった。自分の弱みや隙《すき》を絶対に他人には見せまいと常に気を張り詰めている様子が、時々痛々しく見えることもある。
こんな性格になったのも、片田舎の、父親のいない家庭で、周囲の目には見えない圧力と戦いながら育ってきたことに一因があるのかもしれない。
二十歳という年齢のわりには大人びて見え、起きて意識のあるときは、しっかりした優等生という印象の強い娘だったが、こうして、全く無警戒に眠っている顔を見ると、その素顔はまだ三、四歳の子供のように幼くも思えた。
どんな大人でも、寝顔は無防備で幼くなるものだが、今こうして見ていると、この顔こそが彼女の素顔であるようにも見える。
守ってくれるのは女親だけという家庭環境の中で、早いうちに大人になることを強いられたものの、本当に成長したわけではなく、こんな幼い素顔を大人びた仮面の下にずっと隠し持っていたのではないか。
その仮面を脱いで素顔を見せるのは、こうして一人で眠るときだけなのではないか。
もし、二十年前、自分がもう少し妹の身になって考え、慎重に事を運んでいたら、この娘ももっと違った環境で生まれ育つことができただろうに……。
そう考えると、不憫《ふびん》さに胸が熱くなった。
それに、こうして幼女のような表情を見せて眠る娘の顔は、聖二の脳裏に焼き付いて離れないもう一人の幼女の顔を容易に思い出させた。
やはり血は争えない……。
今の日美香の顔は、異父姉にあたる春菜の顔に少し似ていた。
二十年前、自分がこの手に抱いてあやし、毎晩添い寝してやり、そして、あの大祭の夜、この手で蛇ノ口に生きたまま沈めた幼女の顔に。
あのとき、春菜は最期まで眠っていた。
眠ったまま、我が身に何が起きたのかも知らないまま、底無し沼に呑《の》み込まれていった。
そして……。
日美香の寝顔は、聖二の心の奥底に今なお棲《す》み続けているもう一人の女の顔をも呼び覚ました。
それは母の顔だった。
聖二が二歳のときに別れた実母、緋佐子の……。
たった二歳だったが、最後に見た母の顔ははっきりと記憶に残っている。昼寝をしていて、ふと目をさましたとき、そばには母の顔があった。添い寝をしているうちに寝入ってしまったらしく、母は、蠅よけのウチワを手にしたまま、少女のような顔をして眠っていた。
母の少しはだけた胸元から仄《ほの》かに零《こぼ》れる甘い乳の香りと、枕《まくら》いっぱいに広がった黒髪の甘酸っぱい香りに包まれて、聖二は身を起こして、眠る母の顔をいつまでも見つめていた。
でも、その母は翌日|忽然《こつぜん》と姿を消した。聖二はいなくなった母の姿を求めて、一日中、広い家の中を泣きながら捜し回った。
母が生まれたばかりの妹だけを連れて村を出たと聞かされたのは、もっと物心がついてからだった……。
いつだったか、妻に、「あなたには人間らしい感情というものがない」と言われたことがある。そうではない。感情なら自分にもある。たぶん、人一倍ある。しかし、あまりにもその感情が激しすぎるために、その発動を本能的に制御せざるをえないのだ。
もし、自分の奥底に眠っているマグマのような感情を一度でも爆発させたら、それは、自分自身だけでなく、周囲の人間をも破壊しかねないことを知っていたから……。
それは、いわば、表面が氷で覆われた活火山のようなものだ。一見氷山のようにも見えるが、実は、その内部に、どろどろとした灼熱《しやくねつ》のマグマを抱えこんでいる。そのマグマがあまりにも熱く危険であるために、表面を氷で覆って、その温度を常に冷まし、内部に閉じ込めておかなければならないほどに……
日美香という娘にも同じものを感じる。
一見強く見えるが、その内面には硝子《ガラス》のように弱く脆《もろ》いものを抱え込んでおり、一見冷ややかに見えるが、その内面には灼熱のマグマのような熱い感情を抱え込んでいる……。
弱いものを抱え込んでいなければ強く見せかける必要はないし、熱いものを抱え込んでいなければ冷たく見せかける必要もない。
この娘が誰よりも愛《いとお》しく思えるのは、そのことを自分だけが感じ取り、知っているからかもしれなかった。
しかも、胸のお印ゆえに、日美香には、これだけの容姿に恵まれた並の女ならば容易につかみ取れるはずのささやかな幸福というものは約束されていない。
彼女の前にあるのは、全てか無か。大神の神妻となって、この世の全てをつかむか、それとも何もつかめないか……。その二つに一つの選択しかない。
それが解っているだけに、なんとしてでも、この娘を守ってやりたい。最高の幸福を与えてやりたいと思っていた。
この娘の母と姉から、それを奪ってしまった代償として……。
そして、それはもうすぐ叶《かな》う。目前まで来ている。
今度の大神祭の成就と、日美香の幸福とは完全に一致している。祭りが成就すれば、必ず、大神は武の身体の中に復活し、日美香はその神妻となる。
妹のときのように、祭りを成就するために、彼女の意志と感情を無視して行うわけではない。日美香自身の意志と感情に沿うことでもある。
聖二自身があえて背中を押したこともあって、最近、日美香は武を男として意識しはじめてきたようだ。それとなく態度にそれが表れるようになった。二人は確実にひかれあっている。それは、まだ青い実だが、日を追うごとに熟しつつある。もし、時間に猶予があれば、その実が赤く熟して自然に大地に落ちるまで、待ってやりたかったのだが……。
二人の恋を成就させることが、すなわち、真の大神祭を成就させることにもなる。日美香の幸福とこの世の摂理が一致する。そして、日美香を誰よりも幸せにしてやることが、この祭りのために犠牲にしてしまった日登美や春菜への何よりの鎮魂にもなろう。
ただ……。
一つだけ不安なことがあるとしたら、それは、大神祭の成就の結果として生じるであろう「あること」についてだった。
今度の大祭がつつがなく終わったときに、その後に何が起こるか、それを予知できているのは、おそらく自分だけかもしれない。
日の本寺の住職や村長も含めて、この村を牛耳《ぎゆうじ》る人間でさえ、大神祭の真の意味を知っている者は殆《ほとん》どいないのだから。
大神祭とは、祟《たた》り神《がみ》たる蛇神を祀りあげることで、その怒りを和らげ、祟りによるあらゆる天変地異から日本を守るための祭りだと、誰もが信じ込んでいる。
この祭りをやめたときに、大神の怒りによって、あらゆる災害、天変地異の類《たぐ》いが起こるのだと。それゆえ、祭りを続ける必要があり、祭りを続けている限り、この日本を、いや世界そのものを滅ぼしかねない大災害をくい止めることができるのだと……。
聖二も若い頃はそう単純に信じ込んでいた。
しかし……。
子供の頃から慣れ親しんできた家伝書を折りに触れて丹念に読み返しているうちに、ふとあることに気づいて慄然《りつぜん》とした。それは、あの「双頭の蛇」に触れた謎《なぞ》めいた序文の意味だった。
天と地を支配する二匹の双頭の蛇が現れ、これが交わるとき、大いなる螺旋《らせん》の力が起こり、混沌《こんとん》の気が動く……。
この序文の中の「大いなる螺旋の力が起こり、混沌の気が動く」とは、何か大きな「混乱」が起こるということではないのか。
天災、たとえば、火山の噴火、大地震、大水害、そういったものが立て続けに起こるということではないのか。
そう思い当たったときだった。
大神祭の真の意味を理解したのは。
逆なのだ。
火山の噴火、大地震、こうした、ありとあらゆる災害は、実は、祭りをやめたときではなく、真の祭りが成就したときにこそ起こるということなのではないか。
天変地異は、大神祭をやめたときに起こるのではない。二匹の双頭の蛇が交わり、天地陰陽が統一されて、真の祭りが成就し、大神と呼ばれる螺旋生命体がこの世に再び出現するときに、それに伴って生じるものなのだ。
つまり、大神祭とは、こうした天変地異を防ぐ祭りではなく、こうした天変地異を呼び起こすための暗黒祭だということだ。
しかし、このことは千年以上にもわたって秘密にされてきた。神家の人間でも、この家伝書を隅から隅まで読み込んだ人間は少ない。自分のようにお印の出た宮司だけが、これを読み解き、大神祭の真の目的を理解していただけだ。
実際、そんな宮司の一人によって書き残された言葉の中に、「この祭りの事、村人にもかたく秘すべし」といった謎めいた記述がある。これは、大神祭のことは外部の人間だけでなく、身内ともいえる日の本村の人間にさえも「秘すべし」と言っているのだ。
何を「秘すべし」なのか。
詳しくは書かれてはいなかったので、昔、読んだときは、大神祭が生き贄《にえ》を要求する祭りであることや、性がらみの儀式があることを「秘すべし」と言っているのかと解釈していたのだが、そうではない。
それならば、そんなことはとっくに知っており、暗黙の了解となっている村民にまで隠す必要はない。この「秘すべし」という呪文《じゆもん》のごとき言葉には、もっと恐ろしい意味が込められていたのだ。
大神祭が天変地異を引き起こすための暗黒祭であることを村人にも隠せと……。
この祭りによって、ありとあらゆる大災害が各地で引き起こされようとも、大神の子孫によって作られたこの村が被害を被ることはないはずだ。
この村はいわばノアの箱舟のようなものなのだから。物部伝承にも記された、神祖ニギハヤヒが供を引き連れて乗ってきた「空飛ぶ天の岩船」というのも、おそらく、当時も起こった大災害から生き延びた「箱舟」のことを暗に示しているのに違いない。
それでも、村民の中には、その災害に自分たちや他所《よそ》で暮らしている家族や親戚《しんせき》縁者も巻き込まれるのではないかと恐れる者も出てくるかもしれない。
そうした不安や憶測からパニックになる恐れがある。中には、祭りの続行を拒否する者も出てくるだろう。そうならないために、この祭りの真の目的は、村人にさえも「秘すべし」と宮司は書き残したのだ。
それどころか、この祭りがあらゆる天変地異からこの国を守る祭りであると逆に信じ込ませることによって、村民たちに祭りを続行するための大義名分と使命感を与えようとしたに違いない。
聖二にとっては、曾祖父《そうそふ》にもあたる、この宮司の心境が今となっては、痛いほどに解る。
この祭りが引き起こそうとしている「螺旋の力」とは、それ自体は善でもなければ悪でもない。そんな善悪の観念などからは完全に超越した生命の躍動そのものであり、運動である。
それは、巨大な棒でもって、今まで静止していた器の中の水を激しく攪拌《かくはん》するようなものだ。
ただ、その力の発動で起きた大災害が日本だけでなく、おそらく地球規模で世界中を襲うことになるだろう。地球そのものの滅亡にはけっしてならないが、それによって、世界の人口の何割かが確実に失われる。
滅ぼされる側の視点から見れば、この力は、確かに「悪」である。彼らにとっては、この力の発動そのものが、「この世の終わり」を意味するのだから。
だからこそ、この力を視覚的に象徴する「蛇」が、世界神話の根源から「神」であると同時に「世界を滅ぼす悪」であると言い伝えられてきたのかもしれない。
しかし、これは、巨大な螺旋階段のより高次の階層に進むために必要な「悪」であり、「間引き」であり「剪定《せんてい》」なのだ。すべての生きとし生けるものを引き連れてはいけない次の階層に進むためにどうしても必要な……。
このまま世界の人口が増え続けることがあれば、やはり、その果てに待っているのは、地球そのものの「死」にすぎないのだから。
この青い宝石のような惑星を「老衰死」から守るためには、ある一定の期間をおいて、若返りのためのカンフル剤ともいうべき「混沌」の力の発動が必要なのだ。
このカンフル剤によって、古い生命や種を切り捨て、この地球上に、新世界をうちたてるべく新しい生命と種の誕生を促すことが……。
その「混沌」の力をもたらすのが、大神と呼ばれるものの正体だった。
しかし、いかなる大災害が世界中を襲おうとも、この日の本村は無傷のまま生き残るだろう。ましてや、新たな次元に進むためのリーダー的存在となるべき人物の伴侶《はんりよ》と定められたこの娘には、たとえ、目の前で地が二つに裂け、炎の雨が降り、世界が漆黒の闇《やみ》にとざされたとしても、髪の毛一筋もの危害が及ぶことはないはずだ。
だから、祭りのあと、何が起きても恐れることはない。あなたは絶対的なものに守られているのだから……。
すやすやと赤子のように眠る娘の顔を見つめながら、聖二はそう声には出さずに語りかけた。
平成十年……。
西暦でいえば、一九九八年、十月三十一日。
それは、大神祭を三日後にひかえた、秋晴れの午後のことだった。
〈参考文献〉
神々の里(古代諏訪物語)今井野菊著 国書刊行社
角川ホラー文庫『双頭の蛇』平成14年1月10日初版発行