今村信雄編
古典落語(中)
目 次
小言幸兵衛《こごとこうべえ》
芝浜《しばはま》
こえ瓶《がめ》
三年目
狸《たぬき》の釜《かま》
たちきり 〔上方の題〕立切れ線香
もと犬
猫の忠信《ただのぶ》 〔または〕猫忠
幽女《ゆうじょ》買い
お化け長屋
いが栗
王子の狐 〔上方の題〕高倉ぎつね
樟脳玉《しょうのうだま》
猫退治
黄金餅《こがねもち》
へっついの幽霊
植木のお化け〔音曲落語〕
米|搗《つ》きの幽霊 〔または〕信濃者
反魂香《はんごんこう》 〔上方の題〕高尾
化けろ化けろ 〔または〕茶釜の喧嘩
おすわどん
朝友《あさとも》
幽霊稼ぎ 〔上方の題〕不動|防火焔《ぼうかえん》
化け物使い
わら人形
質屋の蔵《くら》
野ざらし
備前徳利《びぜんどっくり》
胴取り
伊勢|詣《まい》り 〔上方の題〕夢八
八百屋お七《しち》 〔または〕お七の十
死神《しにがみ》
金魚の芸者
茄子《なす》の子
権兵衛《ごんべえ》だぬき
あたま山
鬼娘《おにむすめ》
夏の医者
蕎麦の羽織 〔または〕蕎麦清《そばせい》
お血脈《けちみゃく》
応挙《おうきょ》の幽霊
仏馬《ほとけうま》 〔マクラ題〕後生《ごしょう》うなぎ
指仙人《ゆびせんにん》
首提灯《くびぢょうちん》
鉄拐《てっかい》
駱駝《らくだ》
居候講釈《いそうろうこうしゃく》
将棋の殿様
田能久《たのきゅう》
蚊いくさ
巌流島《がんりゅうじま》
湯屋番《ゆやばん》
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
小言幸兵衛《こごとこうべえ》
―――――――――――――――――――
むかし家主《やぬし》がたいそう巾を利かしたじぶん、こごとこうべえといって、家主の幸兵衛、肩書に小言という字がつきますくらい、朝から晩まで誰をつかまえても小言をいう。小言をいう当人は愉快かもしれませんが、いわれて愉快と思うものは決してございません。長くそんな長屋にいる人は、つまり慣れてしまって、べつに苦にもいたしませんが、一二軒|表長屋《おもてながや》があいているのは、たまに借り手があっても、あまり小言がはげしいので、驚いて逃げ出してしまう。掃除をしすぎるといっては、小言をいい、といって掃除をしなければなお小言をいう。これもいわゆる奇癖《きへき》というやつでございましょう。しかしさすがは大都会、空いたかと思うとじきにまた借人がまいります。
幸「ハイおいでなさい、家主の幸兵衛は私だがなんだえ」
○「おもてに貸し家がございますな、あれを借りるのでございますが、家賃はいくらでございます」
幸「誰が貸すといったい」
○「ヘエふさがったのでございますか」
幸「イヤ空いているのだけれども、借りるのでございますが、とおまえにいわれると、まことに困る、あのうちはひとの物だぜ」
○「ヘエ」
幸「借りようと思うのだろう」
○「そうでございます」
幸「じゃァ貸してくれるかくれないかと、聞かなくちゃァいけない。お貸し申すといったら、家賃はいくらでございますかと聞く、話は順にしなければいかねえよ」
○「さようでございますか。貸してくださいますか」
幸「貸すための貸家だから、貸し家というふだが貼ってあるのだ、けれども気に入らなければ貸せないというわけだ」
○「じゃァ貸しておくんなさい」
幸「私もどうかして貸してあげたい。気に入る入らないといったところで、おまえを養子にもらうわけじゃァない、けれどもおもてだなを借りるには、何か商売をするのだろう、無商売はいやだ。ただ近所にるいのない家業の人をおきたい。というのは、古く住まっている者に、同じ商売があって、それがために新規に来た人がはんじょうしなくてはいかず、また古いほうの家がさびれてもおもしろくない。お互いの不利益だからね、全体おまえさんなに商売だえ」
○「豆腐屋でございます」
幸「けっこうだ。ちょうどこの界隈に豆腐屋がない。マァこっちへおはいり。で、何人暮らしだえ」
○「エー私に女房が一人でございます」
幸「ナニ、おまえはかみさんをいくたり持つのだ」
○「一人なんで」
幸「今は一人だろうが、モウ五六人も欲しいというので、桂庵《けいあん》〔口入れ屋〕へでもたのんであるのか」
○「女房を桂庵にたのむやつはねえじゃァございませんか。一人でさえもちあつかってるので、五六人もらったところでしようがない。マア女房は一人にきまってるじゃァありませんか」
幸「きまってるなら、わざわざ一人とつけるのはどうも俺にはわからない。私に女房といえばそれでいい。一人というだけ余計だ」
○「どうも驚いたな、では私に女房……」
幸「子供はないかえ」
○「ヘエ、食い物商売に子供があっちゃァ往生でございますが、いいあんばいに子供ができません、女房をもらってからかれこれ七八年になりますが、マアありがたいことにしあわせと子供ができません」
幸「馬鹿野郎、その一言でとても貸せねえ」
○「ヘエ」
幸「世の中に、しあわせと子供ができませんというやつがあるか。七八年夫婦になっていて子供がなければ、モウだめじゃねえか。三年そって子なきは去るべしということを知らねえか、馬鹿野郎、ぜには山のごとく積んであっても、それは宝といわねえ、子を宝という。馬鹿なやつがあるものだ、そんな心がけのやつには、とても相談はできねえ」
○「それでもどこの家主さんへ借りに行っても、おまえのところには子供はあるかえ、ございません。それじゃァご相談しましょうといいます。子供があると、どうしても家が汚なくなり、壁に穴をあけるとか板の間へきずを付けるとか、それがためにどこへ行っても、子供がないといえば喜んで貸す。これは当然じゃァございませんか」
幸「なにが当然だ。そういうまちがった人間はまちがった所へ行って借りろ、俺の所じゃァ貸せねえ。家はこっちの物だ、帰んな」
○「そうでございますか。おおきにどうもおやかましゅうございました」
幸「ぶあいそのやつがあるものだ、あとをチャンと閉めてゆけ。三寸ばかりまだ開いてらァ。ばあさんやあきれたな、心得ちがいのやつが来やァがって、しあわせと子供がない、ありがたいなんといやァがって。……エーまた来た、ハイおいでなさい、家主の幸兵衛は私だよ」
△「おもての貸し家を拝借したいのですが、いかがでございましょう」
幸「アァお貸し申したいのだがこっちも。……なにご商売だね」
△「米屋でございます」
幸「ハア米屋さんにもいろいろあるが、つきごめやさんかえ」
△「ヘエ、このご近所に幸い米屋がございませんようで、ちょうどよかろうと存じまして」
幸「つきごめやさんだな、オイふとんを持ってきなマアおあがり」
△「ヘェ、ただいま得意まわりに出てまいりましたのでございますが、いかがで……」
幸「貸す貸さないはあとでいうが、米屋さんなら少し話がある。マアこれへおあがり、遠慮をしないで……。オイお茶を持ってきな」
△「デハごめんくださいまし、いかがでございましょう拝借は……」
幸「米屋さんだな」
△「さようでございます」
幸「ちょうどよいかも知れねえ」
△「ヘエ」
幸「じつは三年というもの、あすこが空き家になっている。どうも気に入った人がないので、それぎりまだ貸さねえのだ」
△「なるほど」
幸「ついては十五年ばかり前からのことを話をしなければわからねえかな」
△「ヘエ」
幸「私はわけあって三十四五までというもの独身《ひとり》でいたのだ」
△「ヘエ」
幸「いくじがなくって、たいしたこともできず、アノ隣の、いまタバコ屋になってる、あすこにその頃住まっていて、ホンのわずかなことをして、どうにかこうにかやってたが、マア堅くしているうちに、人も信用してくれた」
△「ヘエ」
幸「さる人の世話で、女房をもらったのが十五年ばかりまえだ」
△「なるほど」
幸「その女房というのが、私の口から言うとおかしいが、器量も十人並、マァすぐれているというほどのこともねえがちょっといい女だ、裁縫その他|糸道《いとみち》もあいているし、手も少しは書くし、ひと通りのことはやる、第一亭主孝行、しょたいのためにすべて倹約をしてくれる」
△「ヘエ」
幸「たとえにも一人ぐちは過ごせないが、二人ぐちは過ごせるとやら、今まで人にたのんでほころびを縫ってもらったやつが家で縫えるし、それに着物がよごれると洗濯もする、それまでというもの、すべてに損があったが女房が来てからその無駄がなく、一生懸命に働いて、ホンのこあきないだが、マアこんにち困らなくなってきた。商いは繁昌してくるし無駄のぜにはつかわなくなる」
△「なるほど」
幸「五年ばかり経つうちに、だんだんマア繁昌していくらかずつでも残るようになった」
△「ヘエ」
幸「ところが、みつればかくるということがあるが、そのうち女房がわずらいついた、それも長わずらいで、三年というものドッと寝たぎりだ」
△「それはご心配のことで、ヘエー、つきましてアノお長屋のほうは」
幸「マアお待ちよ、おまえがつきごめやだというから話すことがあるんだ、モウ医者が見放した、いけないものときまったら、せいぜい優しくして、せめて足腰でもさすってやろうと、まくらもとへ行ってみると、俺の顔をジッと見つめて、モウとてもわたしはいけませんというから、馬鹿をいえ、気を落としてはいけねえ、一生懸命に俺も看病をするが一に看病、二に薬とやら、薬をよく飲んで、早く治ってくれなければいけねえというと、イイエわたしはもう覚悟をしております、ついてはまだ老い朽ちたお年でもなし、ごさいをお持ちなさるだろうという、いま死ぬというような病人でも、やきもちはあるもの、イヤ俺はモウ決して女房は持たない、そんなことを思いなさんなというと、イエそうはまいりません、お持ちなさるだろうが、それについてお話があります。臨終の際にわたしの一つの願いだがどうぞ妹を後妻に持ってくれろというから、とんでもないこと、妹はなかなかの美人でもあり、それにおまえと私とでさえ年がだいぶ違っている、妹であればグッと年が違う。釣り合わぬは不縁のもと、第一妹はあれだけの器量なのだから、決して不自由をする心配はないというと、イエせんだって見舞いに来てひとばん看病してくれまして、いろいろ話のついでに、どうしてもわたしはいけないから、わたしになりかわっておまえが旦那を大事にしてくれろと頼みましたところが最初は辞退をしましたが、どうせわたしもご亭主を持つもの、気心の知れぬとこにかたづくより、ねえさんがそういうなら、そのお言葉に従いましょうと言ったから、どうぞ持ってくれというのだ、そんなに心配をするなら、マア決してそんなことはないけれども、まちがって万々一にもそんなことがあれば、おまえの頼みといい、本人が得心なれば、じゃァそういうことにしようというと、大変に喜んでにっこり笑って、安心のためだから当人をここへ呼んで、あなたから、わたしの亡いのちは夫婦になってやるからと、一言枕もとでいってくれろというんだ、モウ医者も見放した者、思い通りにしてやろうと、すぐに使いをやって呼んだのが妹、枕もとで違背《いはい》はせぬ、万々一の事があったら、おまえと夫婦になろうという約束をしたのだ」
△「なるほど」
幸「それで私もまことに嬉しい、安心をしましたと言ったが、その翌日の明け方にとうとう往生……」
△「ヘェーお気の毒さまでございましたな」
幸「それから葬式はもちろんのこと、三十五日四十九日と済ましたが、まさか百ヶ日が済んですぐというのも心持ちが悪い、親類その他の者は少しも早く式をしたほうがよかろうといったが、私のことだからとにかく一周忌の済むまでと延ばして、一年たって仲人を入れて、めでたく後妻を迎えた」
△「ヘエ」
幸「すると一二年経ってからだが、ある日仏壇に向かってこの後妻が、声を出して、生きている者に口をきくように、うらみを言っている。私が聞きとがめると、今まであなたにお隠し申しておりましたが、じつに姉さんもわからない、あのくらい口ぎれいなことをいって、わたしが心配だから亡いのちは夫婦になって、妻になりかわって旦那を大事にしてくれと、いわば無理おうじょうにあなたと夫婦にしておいて、草葉《くさば》のかげでわたしをねたんでいますという。馬鹿なことを言いなさる、そんなことがあるものか、イエそうでございません、この二三日ここに一つの証拠があります。なにが証拠だと聞くと、毎日でもございませんが、この二三日、朝おちゃとうをすると姉さんの位牌が背を向けております、気になるからこっちへ向けて置き、またあくる朝おちゃとうをすると姉さんの位牌が後ろ向きになっている、また元の通りに直して、今朝も見るとまた向こうを向いております。そんな馬鹿なことがあるものかつまらぬことをいうな。女というものはたわいないことを気にするものえ、決してそんなことはないと、小言をいったが、私も気になるから翌日の朝起きて、俺が今日はおちゃとうをしてやると仏壇を開けると、いかさま位牌が後ろ向きになっている」
△「ヘエー不思議なことがあるものでございますな」
幸「サア不思議でたまらねえ、モウひと朝ためそうと、あくる朝仏壇を開けると、また後ろ向き」
△「なるほど」
幸「今話を聞いてさえおまえも不思議に思うだろう。その時分にはなんで恨んでいるかと、俺が考えるくらいだから、まして後妻の身になれば姉である、先妻ではあるし、疑うのももっともだ、こいつを気やみにして三杯食う飯も二杯しか食わねえ、三度の食事もしまいには二度くらい、顔の色は悪くなり、ドッと枕もあがらぬ大病人《たいびょうにん》、泣き言ばかりいっていたが、この妹もとうとう往生、わずかの間に二人の葬式は困るじゃァねえか」
△「ごしゅうしょうさまで、なんとも申しあげようもございません」
幸「今さら悔みをいわれたところでしようがねえが、これはマア話だ」
△「しかしお長屋は拝借できましょうか」
幸「それはあとで話をするよ、サァ俺が不思議でたまらねえ、右手の二階家だがあの家がずいぶん古い家で、年寄りにきいてみても、俺たちは知らねえというほど古い家だ、屋台ぼねはしっかりしているが、モウ少し曲がっている、古い家にはよく縁の下に狐狸《きつねたぬき》が棲んでいて、いたずらをするという話が昔からいくらもある」
△「さようでございます」
幸「サアこいつァひつじょう、|こり《ヽヽ》のしわざだと思ったから、この|こり《ヽヽ》妖怪のたぐいを見あらわしてやろうという奮発心《ふんぱつしん》が起こった」
△「なるほど」
幸「ある晩のこと先妻の位牌を二つチャンとこっちへ向けておき、むこうはちまきをして裾をはしょり……」
△「ヘエ」
幸「六尺棒をそばへ置いて、なんでも出たら殴り殺してくれようと、宵のうちから踏み台に腰をかけて仏壇の前にわき目もふらずに位牌をにらんでいた」
△「ハアー」
幸「五ツや四ツはまだ宵だが、八ツ九ツとなると世間はシーンとしてくる」
△「なるほど」
幸「ジッとにらんでいたが何事もない」
△「ヘエ」
幸「九ツ半八ツとなると世間は水を打ったようにガタリッともしない。うしみつという刻限、どこの寺か……えんじの鐘がボーン……」
△「ヘエー」
幸「こう位牌をにらんでいると」
△「なるほど……」
幸「ふるえなさんなよ」
△「ふるえはいたしません」
幸「だが何事もない。そのうちに八ツ、八ツ半とくるとますます夜はしんしんとしてくる」
△「ヘエー」
幸「二つの位牌を、わき目もふらずに見ていたが何事もない」
△「ハアー」
幸「七ツときたが何事もない」
△「さようでございますか」
幸「スルと七ツから、やがて七ツ半にかかろうとすると隣の米屋で、ガラガラと戸があいた」
△「ハア」
幸「戸のすきまから明りがさす、アー隣の米屋が起きたなと思うとこめつきが、〔唄〕鐘が鳴るかよう、しゅもくが鳴るかよう、ズシンズシン……」
△「ヘエー」
幸「〔唄〕鐘となァしょもくのあいが鳴るう、ズシーン……この響きで位牌がクルリクルリ……、こっちのうちで起きて仏壇を開けて、おちゃとうをする時分に位牌がちょうど後ろを向くじゃァねえか」
△「ヘエーなるほど」
幸「せんの女房は寿命づくだが、二度目の女房は手もなく米屋が殺しやァがったんだ」
△「けれども私は……」
幸「おまえがそうしなくっても、つきごめやという商売は二度目の女房のかたき……だ。米屋が来やがったら、この意趣がえしに……」
驚いて米屋は裸足で飛び出しました……。
仕「ごめんなさいまし」
幸「ハイおいでなさい、天気がいいものだから、婆さんいろいろのやつが来るよ、マアこっちへおはいり」
仕「少々うかがいとう存じます」
幸「今度は人並みの人間が来たよ。たいそう丁寧だ。ハイ、なんぞご用で」
仕「おもての角に、にけんはんまぐちの二階家で、けっこうな空き家がございまして、貸し家という札が貼ってございますが、あれは私どものような者に、お貸しくださることができましょうか、できますまいか、この段ちょっとうかがいに出ましたが」
幸「婆さん茶を入れな……。今度のは本当の人だ。たぶん相談ができるだろう。マアこっちへおはいり、お世辞というものは、世の中の道具だな、おもてにけっこうな空き家がございますが、あれは私どものような者にお貸しくださることができましょうか、できますまいか、この段ちょっとうかがうというのは感心だね。かんぷくしました。この段なぞはなかなか生やさしい学問でうかがえるものじゃァないよ、九段なら突き当りが招魂社《しょうこんしゃ》だが……」
仕「恐れ入ります」
幸「おまえさんのような人に貸さなければ、長屋が立ちぐされになってしまいます、けれど二つ三つ聞いてみたいが、気に入れば貸す、入らなければ貸すわけにゆかない。家はこっちの物だ」
仕「ヘエヘエ」
幸「重ね返事はよしなよ。へえへえというのはいけない」
仕「なるほど」
幸「商売はなんだい」
仕「仕立て渡世《とせい》で」
幸「けっこうな家業だ。この界隈に一軒もない。一月なぞは、せめて羽織は仕立て屋の手にかけようと思うが、遠方まで持ってゆかなければならないという者がたくさんある。越して来るときっと繁昌する、しかし今まで住んでいた所に、何か不都合のことでもありゃァしないかえ」
仕「イエ、じつはこの辺にたくさんのお得意様がございまして、なにぶん遠方過ぎる、急ぎの時などにはまことに不都合だと、ほうぼうのお得意様で言っていらっしゃいます。それゆえご近所に、ちょうど見当りましたを幸いうかがいましたが、いかがでございましょう」
幸「むろん相談ができるよ、こっちも無くて困っている仕立て屋さんだ、両方の利益を計って結構だ……。で何人暮らしだえ」
仕「私とかないと、せがれが一人の三人暮しでございます」
幸「婆さんお茶を早くしな。お菓子かなにかあるだろう。最初に来たやつとはたいそうな違いだ。先に来たやつは、私に女房が一人ございますといったが、今度は私と家内とせがれが一人きり、言葉が少なくて良くわかる。マアこっちへおあがり、たぶん相談ができる、しかしせがれというのはいたずら盛りじゃァないか」
仕「イエモウ当年二十二歳になっております」
幸「それはまた早い子持ちだ。おまえさんは三十八九……四十、くらいだろうが、それにしては早い子持ちだ。早く子を持つと、早く苦労をするというがその代わりまた早く楽ができるな」
仕「ありがとうございます、てめえが仕事を教えております」
幸「どうだねその仕事のほうは」
仕「おっぱってやっております。それに器用で、ろくろく修業もいたしませんが、はかまなどもまことにうまくいたします。それゆえお得意様で、せがれにぜひ仕立てさしてくれろという注文がございますくらいで」
幸「それは結構だ。仕事がじょうずなら親にまさって繁昌する。でおまえの夫婦仲はむつまじいかね」
仕「いさかい一ついたしたこともございません」
幸「せがれは年が二十二で、仕事がじょうずとしたところで、なにか道楽とか、夜遊びなどはしないかえ」
仕「イエモウ夜遊び一ついたしませんで、いたってかたぶつでございまして」
幸「それはまた心配だな、病気でも出るといけないよ。夜遊びなら寄席へやんな、落語の寄席へ」
仕「ありがとうございます。せいぜいそういうことにいたしましょう」
幸「まずそれでは嫁とりざかりだ」
仕「嫁のことはあちこちへ口をかけておきましたが、どうも長し短しで」
幸「それは心配な話だ、もっともこっちで気に入ったと思うと、先方でいけず、兄弟が悪いとか親がいけないとかいってね……。マアマア早く越しておいで、相談ができるよ、嫁の世話といってもできないが、橋渡しくらいはしようじゃァないか」
仕「ありがとう存じます、なにぶんお願い申します」
幸「しかしなんだよ、百人見ても気に入らねえといえばそれまで、こればかりは間に合わせに持ってろ、また来年取り換えてやろうというわけにはいかねえ、来る嫁のほうも、生涯の夫と定めるのだから、幾人見ても気に入らねえ者は気に入らねえ。こっちがよければあっちがいけない、今いう長し短しだがさて二十二で独身《ひとり》では……この界隈にはまた娘っ子が多いときてるのだ、サア心配のことができたな、この間違いばかりは取り返しがつかねえ。じつに心配だ、もっとも心配といったところが、おまえの顔を見たところじゃァ、マア安心の顔だが、親子だから似ているだろうな」
仕「ヘエ、安心の顔は恐れ入りましたな。あいにくと手前に似ませんで、とんびが鷹を産んだというたとえがございますが、今までおります近所の方々が仕立て屋のせがれは色は白いし、まるで俳優のようだなんと申しますくらい、まず、いい男のほうでございます」
幸「年が二十二で、いい男で、ひとり者ときちゃァ、婆さん、菓子は少し見合わせなよ、どうも話がチットむずかしくなってきた」
仕「いかがでございましょう、お長屋は……」
幸「マアお待ち……。おまえのせがれの名はなんというね」
仕「六三郎《ろくさぶろう》と申します」
幸「アアむろん相談ができない、なんだってそんな色男の名をつけたんだ。六三郎というと昔から、おその六三、かしく六三、みんなろくなことはしねえ、心中するぜ」
仕「ヘエヘエ」
幸「ヘエヘエじゃァねえ、六右衛門《ろくえもん》とかなんとかしておけばいいじゃァねえか。ろくさぶろうは色男の名だ。おその六三は深川《ふかがわ》の洲崎堤《すざきづつみ》で心中したよ、この近所にまた、おそのというのがいるよ……どこの娘だっけ……、アアそうか、向こうの古着屋の娘だ、しかもひとり娘だ……。あの娘はいくつになるか婆さん知ってるかいエー十九……、そんなになりゃァしめえ、まだこどもだぜ。……十九か、女の子の育つのは早いな、モウ十九になった、自分の年をとるのはわからねえが……、十九、二十、二十一、二十二かせがれは、いよいよいけねえ、四目《よめ》に当る、四目十目《よめとおめ》といって第一、年まわりがよくない、向こうがひとりっ子、こっちがひとつぶだね、とても無駄じゃァねえか」
仕「ヘエ、どういうものでございますか、私はこちら様へ縁談のことをうかがいにあがったのではございません、お長屋を拝借に出ましたのでございますが」
幸「貸せないよ」
仕「どういうもので」
幸「どういうものとはなんだ、みすみす長家に心中ができるじゃねえか、それだから貸すわけにいかねえ」
仕「心中を誰がいたします」
幸「誰がいたします……。少し話しをしておるうちに、こいつ、モウそろそろ馬鹿があらわれてきやがった」
仕「ヘエ」
幸「なにがヘエだ、きさまのところのせがれが六三郎、向こうの古着屋におそのという娘がある、古着屋と仕立て屋とはごくこころやすくなりやすい家業だ。越して来ればきさまのところのせがれが、近所をまわるだろう」
仕「商売むきから家事むきをみんな、せがれに任しておきますから、ご近所へもさし出します」
幸「ほかは普通の挨拶、向こうへ越して来た者でございます。なにぶんどうぞ願いますと、ひととおりの挨拶だが、向こうが古着屋とくりゃあ、エーお向こうへ引き移ってまいりました、仕立て屋とせいでございます、ろくなことはできませんが、どうぞこちら様で、お急ぎの物でもございましたら、夜なべをかけましても、きっとお間に合わせいたします、なにぶんどうぞ、お引き立てを願いますとかなんとかいうだろう」
仕「ヘエ、そのくらいのことは、なかなか世辞のいいやつでございますから、申すかも知れません」
幸「それみなさい、これを今日じゅうに間に合わせてくださいと、大急ぎの物を持って来る、それに娘が裁縫の稽古をしている」
仕「ヘエ」
幸「今までの師匠をさがってしまうわけにはいかねえ、稽古には今までの師匠の所へ行っておふくろの着物だのをこしらえているが、どうも羽織の襟がわたしにうまくいかないとか、つまさきの具合はどうしたらようございましょうとか、おまえのせがれの所へ聞きに来るやつが近づきになりはじめだ」
仕「なるほど」
幸「おまえはのそのそいい年をして、夫婦そろって芝居なんぞ見に行くことがあるだろう」
仕「そんなことは今までございません」
幸「行くよ、この留守というやつがある、親の許さぬ不義いたずら、そうなると今まで来たやつが来なくなる、こいつが露顕のもとで隠すことはあらわれるとやら、そこが親馬鹿で、世間にパッとしないうちにとずうずうしく向こうへ行って、さてこういう噂がございますが、事の大きくならないうちにまとめてやりたいが、嫁にくれろとおまえがもらいに行く、ところが向こうは一人娘だ、くれるかえ、おまえのほうもひとつぶだねだ、養子にはやれめえ」
仕「それはどうしてもやれません」
幸「しようがねえ、両方とも跡取りだ、では娘は当分お屋敷へでも奉公さしてと、ここでなまきをさくということになるだろう」
仕「もちろん」
幸「手軽くもちろんといやァがって、ずうずうしいやつだ、きさまたちはもちろんで済むだろうが、当人同志夫婦の約束がしてあるのだ、親にはすまないが、わびをして、夫婦は二世というから、あの世へ行って夫婦になろうじゃァありませんかということになる、あの世というところがあるか、どうしても心中じゃァねえか」
仕「ハアなるほど、いろいろお骨折りで心中になりましたな」
幸「なにがお骨折りだ」
仕「ヘエ、心中の模様はどういうことになりますか」
幸「いうまでもない、名前に対しても深川のすざきづつみでしなければ本すじじゃァねえ」
仕「あんな所へまいりますか」
幸「名前に対しても行くよ、まず幕があくと向こうはいったいの土手だ」
仕「すしの」
幸「まぐろじゃァねえ、すざきの土手だ、土手の向こうに、なみのとうみが見える」
仕「なるほど」
幸「で、しもてに出っぱって丈の高い土手がある、葛西念仏《かさいねんぶつ》という鳴り物、ジャンジャンドンドン迷い子やァイ――というのが幕あきだ」
仕「大変なものですな」
幸「ところへ両方の家主店子《いえぬしたなこ》が、二人かけおちをしたというので、迷い子やァイと探しに出て来る。ドンチャン騒ぎ。なかに酔ったやつなどがある、そこで舞台のまんなかに書いた物が落ちている、これを捨いこうじょうという。浄瑠璃なだい東西々々」
仕「なかなかご器用でいらっしゃいます」
幸「なになにと題名を読んで、太夫連名《たゆうれんめい》常磐津某《ときわづなにがし》、三味線|岸沢某《きしざわなにがし》、あい勤めまする役人、なんの誰と読みおわって、なんだこれは、芝居のこうじょうぶれだ、皆さんご苦労だがモウいっぺんまわって探そうじゃァないか。サア行こうサア行こう、迷い子やァイ、ジャンジャンドンドンと騒々しく揚げ幕にはいる、浄瑠璃ゆかの下に拍子木《ひょうしぎ》をさしあげて背中を見せて立っている男がある」
仕「なるほど」
幸「狂言方《きょうげんかた》というやつだ、チョンチョンと、木を刻むと土手がひっくり返る」
仕「危のうございますな、地震で」
幸「地震じゃァねえ、心配するな、芝居の道具だ、紙に書いてある土手が崩れるのだ、崩れるというとおかしいが、バラリとちょうつがいが二つに折れるだけだ。朱ぬりのたこ足の見台《けんだい》が三つ、三味線が二ちょう、一ちょうはかせがかかって上調子《うわちょうし》、三味線弾き二名、たゆう三名、以上五人が黒の着付けに柿いろのかみしも、土手の中で太夫がピンとはなをかんで湯を飲んで控えている、三味線弾きは胴がけに二の腕をなめて、腕をこすりつけて待っている、土手がベラリと返るとたんに、テンツントン、チントリリンシャン」
仕「ご器用でいらっしゃいますな、三味線などはじつにうまいもので」
幸「やりたくもないけれども、誰も手伝ってくれねえから仕方がねえ、一人でやっちまう。置き浄瑠璃といって、たゆう三味線弾きとも舞台に出ているのは五人きりだ、道具を見せただけでまだ俳優は一人もいない、たゆうと三味線弾きのもうかるところだ」
仕「よほどもうかりますか」
幸「ぜにかねじゃァねえ、芸が引き立つところだ、だんだん文句をたたんで来て、〔唄〕覚悟もついの晴れ小袖《こそで》……チチンチン、チチンチン、チチンチン、チチンチンとあいかたになるとバタバタと来る」
仕「バタバタというのはなんでございます」
幸「柏子木で板をたたく、人が駈け出して来る音だな。向こうの娘がさきだちで、女のくせに足の早いやつで、先へ駈けて来る。……つい模様の小袖晒《こそでさらし》の手ぬぐいでにぎりめしのように顔を三角にして、手ぬぐいのはしを口にくわえ、ノタノタと来るというと、石かなにかにつまずいたという思い入れで、花道のちょうどころあいの所へころぶ」
仕「ヘエー」
幸「袖で顔を隠し、あとからおってのかかる身のうえ、人目をはばかるために顔を隠す、しかし転んだらすぐに起きたらよさそうなものだが、転んだまま起きない」
仕「よほど強く打ちましたか」
幸「どうだかわからねえ、第一先へ出て来るのがおかしいじゃァねえか」
仕「もっとも手前どものせがれは、いじょくであんまり足は丈夫でございません」
幸「余計なことをいわねえでもいい、であとから出て来るのがきさまのせがれだ、馬鹿野郎め……」
仕「馬鹿野郎は恐れ入りましたな、まだ越して来ないのでございますが」
幸「越して来れば騒ぎになるから、心配じゃァねえか」
仕「なるほど」
幸「同じ模様の小袖に、さらしの手ぬぐいほおかぶり、男だけに顔をまるだし、やつ口の着物が第一おかしいじゃァねえか、幅の広い帯を締めて、鮫鞘《さめざや》の一本差《いっぽんざし》、裾をはしょって……足におしろいをつけるやつがあるか」
仕「なんで足におしろいをつけます」
幸「足の毛をみんなすってしまって、いやな野郎だ、出て来てきょろきょろしているくせに、どういうわけだか女につまずく」
仕「なるほど」
幸「向こうへポンとこいつを飛び越し、あたりをきょろきょろ見てかみてに飛び越した男が、再びしもてへ来て、女がかみてへ来て、かみしもで顔を見合わせ、おそのじゃないか、六三さん、コレッというやつが道行《みちゆき》のもんきりがただ。チチンリン、オーイ……」
仕「大変なところへおわいやがまいりましたな」
幸「おわいやじゃァねえ、三味線弾きのかけ声だ」
仕「それからどういうことになります」
幸「マア浄瑠璃のあいだは花道で二人ながら、おどりをおどっている、これから死ぬというのに踊りをおどるのはおかしいが、もちろん死ぬくらいだから本性《ほんしょう》じゃァねえ、いくらか気が狂ってるな」
仕「さようでございますかな」
幸「これからいよいよ本舞台へかかり、世迷いごとをさんざんいう、愚痴ッぽい野郎だ」
仕「あんまり愚痴はないほうでございますが」
幸「いうよ」
仕「さようですか」
幸「そこで、十八日がめいにちになるとも知らず、せかれてのち、逢ったもちょうどあとの月、数えてみれば……オイ……」
仕「恐れ入りました。二三日風邪をひいておりますせいか、頭が痛んでぞくぞくしてまいりました。たいがいなところでごめんを願いたいのでございます。まだ越してまいりませんので」
幸「越して来ればこの騒ぎになるのだ、わからねえ男だ。浄瑠璃がだんだんと運んで来て、即成仏《そくじょうぶつ》と立ち止まり、と来る、まだぐずぐずいうな、マアそれは抜きにしていよいよ死ぬということになる」
仕「ヘエ」
幸「覚悟はよいか、アッ、ちょっと待ってくれ、……おまえのところの宗旨《しゅうし》はなんだえ」
仕「代々日蓮宗」
幸「いけねえな、向こうが真言宗《しんごんしゅう》だから、女の子が大きな口をあけてオンガボキャーベーロシャー……、色気がなさすぎらァ、もっともおまえのせがれの女房となったからは、おまえのほうの宗旨になるのは当然だ、けれども心中にみょうほうれんげきょう……、陽気すぎていけねえな」
仕「ハア」
幸「どうも仕方がない、ここは真宗《しんしゅう》の流儀だ、流儀というのはおかしいが、覚悟はよいかときたら、なむあみだぶつと、一つ宗旨を変えておくれ」
仕「それはマアご相談のうえ、どうともいたします」
幸「覚悟はよいが、南無阿弥陀仏カンカンカンと伏せがねというやつを打ち上げる、たゆうのほうじゃ、のどをしめして待っているところだ、なんまいだァ、なんまいだなんまいだ……。あれは霊岸《れいがん》の常念仏《じょうねんぶつ》……」
仕「きびが悪くなってまいりました、まだ越してまいりませんが」
幸「越してくればこの騒動になるのだ。のど元からぷっつり刺して、上に乗って六三郎が、腹を切ってしまうじゃァねえか、それだから長屋は貸せねえ」
仕「ヘエー、まことにどうも……」
幸「まことにどうもとはなんだ、心中ができると俺の名前が一番先に出るんだ……。アアとても長家はふさがらねえ……。また来やがった、オオ今度は大変なやつが来たな。ぞうりをはいて半纏《はんてん》一枚、格子を足で開けやがる」
鉄「ヤイ家主のこうべえてえのはてめえか」
幸「こうべえは私だ」
鉄「高慢なつらをするな。表に貸し家の札がはってあるずいぶん汚ねえ曲がった家だが、あれを我慢して借りておこうッてんだが、家賃はいくらだ」
幸「汚かろうが曲がってようが家はこっちの物だ」
鉄「てめえの物だから聞きに来たんだ」
幸「借りようといっても私の気に入らなければお貸し申すわけにはいかない」
鉄「貸されねえ家なら札をはるな」
幸「まるで貸さないとはいわないが、近所に類のない商売の方にお貸し申したいんだ。おまえさんのご商売は……」。
鉄「なにをいってやがる、俺の商売は鉄砲鍛冶《てっぽうかじ》だ」
幸「どうりでぽんぽん言いなさる」
[解説]このはなしは、はじめ陰気に、後は陽気にできている。今は上下に分けて、前半は「つきやこうべえ」、後半を「小言こうべえ」といっている。三代目小さんは、後半の駆け落ちのところへ、常磐津《ときわづ》を入れたりしてすこぶる好評だった。上だけやる場合も下だけをやる場合も、サゲはたいがい鉄砲鍛冶でやっている。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
芝浜《しばはま》
――――――――――――――――――
酒は百薬《ひゃくやく》の長《ちょう》とか申しまして、ご酒家《しゅか》の方《かた》にいたせばこのくらい結構なものはない。酒なくて何のおのれが桜かな。花を見るにも、酒がなければ楽しみにならない。喜びにつけ悲しみにつけ、なくてならないものだとしてございます。しかしそれもいわゆる程度問題でほどというところがいいので、よけいに過ごせば必ずからだを傷めるとか、喧嘩をするとか、商売をなまけるとか、はなはだしいのになると、命を捨てるような大事をひき起こしますから、あまり過ごしてはいけませんものに違いありません。
百薬の長だの、天の美録《びろく》だの、うれいをはらう玉ぼうきなどというのは皆その程に召し上がっている方の言うことで、もう酒飲みとなると、少しでよすということはなかなかむずかしい。モウ一杯モウ一杯と、ついには度を過ごして、ふだんは猫のようにおとなしい人でも酔うと虎のように気が荒くなる。酒は狂水《きちがいみず》などというのはここでございましょう。さんざんあばれて酔いが醒めるとアアそうだったのか、そんなことはちっとも知らなかった。以来きっとつつしむ、などというかと思うとすぐにまた始める。なかなかあきらめることはできません。
あまり大酒《たいしゅ》をするのでおふくろが心配して泣いて意見をして、禁酒を勧め、こんぴらさまへ連れて行って、せがれが今日から生涯お酒を断ちますからどうかお守り下さいますようにと拝んでいると、その後ろへ立ったせがれが、それは嘘でございます、今月だけは断ちますが、とても生涯なんて飲まずにはいられません。おふくろの言うことはお取りあげくださいませんようにと、そばから取り消しを申し込んだという話があります。
ある人が一口飲んでいるところへ酒好きの友達が来ました。
甲「アアちょうど一人で始めたところだ、サア一杯おやり」
乙「イヤせっかくだが、俺は少し心願《しんがん》があって今日から三年酒をたった」
甲「ハア、それは偉いな、しかし辛抱ができまいぜ」
乙「ナニできないことはない。たったからにはきっと飲まないよ、マア長い目で見ていておくれ」
と広言《こうげん》をはらって帰りましたが、その翌晩また二三人で飲んでいるところへやって来た。
甲「アアたった人の前で飲むのは気の毒だ。膳《ぜん》を片付けよう」
乙「アア片付けるには及ばない。みなが飲んでいるようだから、一杯つきあいに来たんだ」
甲「なんだ、モウ禁酒破りか」
乙「イヤ破りはしないが、まるで飲まないのは不自由だ、三年のところを六年にして夜だけ飲むつもりだ」
甲「ハハハハ、それはいいくふうだ、いっそのこと九年にして朝だけたって夜昼飲んだらよかろう」
これじゃァなんにもなりません。もっとも身分によっては差しつかえもありませんが、その日稼ぎの者なぞが大酒をしてたら始末にいけません。どうしても身体が大儀《たいぎ》になり、稼ぐことがいやになるから、今日は休みだといって寝てしまう。稼業を休むから従ってお宝の入るのも休みとくるから、たちまち懐中がからになり、その日が送れなくなる。サァ連れ添う女房の心配というものは大変でございます。これではとてもやり切れないからお酒をたって稼いでもらいたいと意見をすると、その時は、「俺が悪かった」と言って、これから酒をたって稼ぐ気になりたやすく受け合いますが、前《ぜん》申したような酒癖《さけぐせ》の人で、時がたつとまた飲みはじめる。飲めば休むというので、じつにやりきれません。女房が涙ながらに
女「ねえ金《きん》さん、どうしてもおまえさんがお酒を止められないというなら仕方がない。世帯《しょたい》をたたんでしまわなければならない。世帯を閉《し》まやァこの先一緒にいられるかどうだかわからない。私のようなものでも可哀想だと思ったらどうか、少しの間お酒を断って稼いでおくれでないか」
金「イヤ俺が悪かった。モウこれからこんぴらさんへたって酒は飲まない、明日から一生懸命に稼ぐから安心してくんな」
女「そうしてくれれば私はほんとうにうれしい」
とその晩は寝ましたが、女房はオチオチ眠られません。
女「サァサァ金さん、目を覚ましておくれな」
金「ムーウムウム……アア眠いな」
女「なんだね眠いなんて、今日は大事の日じゃァないか、おまえさんお酒をたってわたしゃゆうべオチオチ寝やしない。早く起きておくんなさいよ」
金「ウーム今起きるよ、目がこうくっついていてあかねえや、アア眠い。なんだまだくれえじゃァねえか」
女「暗いうちに出て行かなけりゃァひとさまより先に買い出しはできないじゃァないか。途中まで行けばスッカリ夜が明けるように、私は刻限《こくげん》を計って起こしたんだから、早く顔を洗って目をお覚ましよ」
金「どうも仕方がねえ、じゃァ顔を洗ってこよう」
亭主が起きて顔を洗っているうちに、なれておりますから盤台《ばんだい》や天秤《てんびん》をそろえてそれへ出した女房が
女「じゃァ行っておいでなさい」
金さんは天秤を肩にのせて、芝浜《しばはま》へ買い出しにまいりましたが、途中で夜が明けるどころじゃァない、真っ暗で問屋だっても一軒だって起きた家《うち》はない。
金「なんだいこりゃァ、驚いたなァ。マアどうしたんだろう。女房め、刻限をまちげえやがったにちげえねえ、馬鹿々々しい。一軒だって起きてやァしねえ、しようがねえ、けえろうかしら、けれどもけえるうちにゃァ夜が明ける。夜が明けりゃァまたここへ出て来なけりゃァならなえ。いったり来たりするのもくたびれもうけでつまらねえ、夜が明けるまで待ってよう」
浜へ行って、漁船《りょうせん》の来るのでも見ていようと、ブラブラ浜へ出てきたが真っ暗で船もなにも来ない。
金「アアなんだか眠くなった。一つ汐水《しおみず》で顔を洗ってやろう。そうしたら目が覚めるだろう」
とザブザブ波打ちぎわへ入ってきて、ザブザブと水をしゃくって顔を洗い、ブクブクをして、
金「オーッしおッぺえ、ピリピリしやァがる。アアやっと目が覚めてきた」
と言いながら、ヒョイと見ると波打ちぎわのところで足に引っかかるものがある。ただの縄ではない。細いひものようだから、なんだろうとわらじの先へ引っからげたまま、グイと引くとズシリと重い。足に力を入れると、ズルズルと砂の中から出たのが革の財布、オヤと思って見ると中にかねが入っているようす、金さんあたりへ目を配ったが人っ子一人いない、その財布を濡れたまま懐中へねじ込んで盤台をかつぐとそのままトットと飛ぶがごとく帰ってきました。
金「オオちょっとあけてくんな」
女「オヤおまえさん帰ってきたのかえ。今あけるよ」
ガラガラッと戸をあけるとたん、盤台をかついだまま土間へ飛び込み
金「オイ早く閉めねえ」
女「閉めるけれど、マア天秤を下ろしたらいいだろう、たいそう息を切ってるが、おまえさん喧嘩でもしたのかい」
金「喧嘩じゃァねえが、おまえ今そこを閉めた時に、あとから人が来やしなかったか」
女「イイエ誰も来やァしないよ」
金「そうか、そんならいいが、アア驚いた」
女「どうしたの、マアわらじをとっておあがりな」
金「ウム、あがるけれども、おまえもひでえじゃァねえか、途中で夜が明けるといったが、まだ夜は明けきらねえぜ」
女「すまなかったねえ。わたしはおまえさんを早く出してあげたいと思って、ゆうべウトウトしていて、ツイ刻限を間違えて、起こしたのが早すぎたんで、途中でどうかしやァしないかと心配していたんだよ。おまえさんゼイゼイいってどうかしたのかえ」
金「マア聞いてくんねえ、はええとは思ったけれども、おまえにせがまれて出て行ったところが、向こうへ行っても真っ暗で、一軒だって起きてる家はねえ。なんだかまるで狐につままれたようなあんばいだから、てっきりおまえが刻限をまちげえたんだと思ったが、家へ帰ってくりゃァ、すぐにまた出直さなけりゃァならねえし、なにしろ眠くってしようがねえから、浜へ行って目の覚めるように汐水で顔を洗って、波打ちぎわをあがろうとするとわらじの先へ引っかかるものがあるんだ。それをたぐって引っぱってみると、革の財布だ、だいぶ金がへえってるようだから、そのままふところへ入れてあわててけえってきたが、なんだか後ろから人に追っかけられるような気がして、俺はのけぞるように駆けてきたが、よくいう踵がおどすというやつで、自分の踵に脅かされて駈けてきたんだな」
女「ヘエー、そうかい、シテおまえさんその財布はどうしたい」
金「懐に入ってる」
女「マア濡れたまま財布を懐ヘなんぞ入れていると毒だよ」
金「そういやァ腹が冷たくなってきた。ソレ財布はこれだ」
女「中を見たかえ」
金「まだ見やァしねえが確かにぜににちげえねえ、待ちねえよ、今開けるから……」
財布の紐をといて逆さにして振ると、中から出たのは、鳥目《ちょうもく》ではない、二分金《にぶきん》がザラザラザラ。
金「オッこりゃァ金《かね》だぜ」
女「マァたいそうあるわ」
金「驚いたな、こりゃァほんとうの金にちげえねえ、大したもんだ」
女「どのくらいあるだろうね」
金「そうよ、いくらあるかな」
女「ちょっと勘定してごらんな」
金「マア待ちねえ、すみのほうから勘定するから……、いいか、ヒトよヒトよフタよフタよ」
女「なにをしてるんだね、魚を数えるんじゃァあるまいしそんなことで勘定ができるかね、サア私が勘定してみよう」
夫婦ともども勘定してみると、そのころの金で五十両というから、たいきんでございます。魚金《うおきん》は大喜び、
金「ありがてえな、こんなに金を持ってるやつは世の中にたんとはなかろう」
女「マアどうしたんだろう、このお金は」
金「そうだなァ、俺の考えじゃァ金を持って難船《なんせん》かなにかしたやつがあって、死骸は鮫や鯨に食われてしまい、金だけどうかしてあすこへ打ちあげられたんだね」
女「そうかねえ」
金「なにしろこいつァ俺に授かったものだ、ほんとうにこんな嬉しいことはねえ」
女「だが金さん、このお金をおまえどうするつもりだえ」
金「そうよなァ、どうすると聞かれた日にゃァ俺にもちょっと返答ができねえが、なにしろ嬉しくって、たましいが飛びあがってるんだから、急に返答ができねえが、マアこうしねえ、おまえにも今まで貧乏さして気の毒だったから、これから先はなんだ、ウンと贅沢をしねえ、長屋の者がよく言ってるじゃァねえか、襟肩《えりかた》のあいた着物を着たことがねえとかなんとかいうがよ、かまわねえから、襟肩のあいたものを五十枚でも六十枚でも着てくんねえ、普段着だってケチなものを着てなさんな、縮緬《ちりめん》か羽二重《はぶたえ》、蜀江《しょっこう》の錦《にしき》かなにか着ねえ、俺もしょうべえに出るときに縮緬の鯉口《こぐち》を着て行くから」
女「マア大変な騒ぎだね」
金「それから友達を呼んでおめでてえお祝いに、みんなに一ぺえ飲ましてやろうと思うがどうだろう」
女「しかしこれは拾ったお金だろう」
金「そうよ」
女「それじゃァそんなことをしないで、いちおう御上《おかみ》へお届けをしなければなるまいよ」
金「なにをいやァがる、くだらねえことをいうな、せっかく俺が拾ってきたんだ、なにをいやァがる、なんぞてェと、てめえは高慢をいやァがるんで、しゃくにさわらァ、そんなことをいわれると、むなくそが悪いから、今夜この金を持って飛び出すぜ」
女「じゃァいいよ、ともだちを呼ぶともなにをするとも勝手におしよ、だがこのお金はわたしが預っておくよ」
金「ウム、大事にしまっておいてくんねえ、俺はともだちを迎いに行くから」
女「まだ早いから、少しのあいだ横におなりよ」
金「寝られねえよ」
女「でもあまり早すぎるから、ちっと横におなりよ」
と無理に寝かしてしまう。金さんは疲れておりますから横になると、トロリとして、目が覚めてみるとモウ、スッカリ夜が明けはなれてる、ビックリして表へ飛び出したから、どこへ行ったかと思ってると、やがて帰ってきました。
女「おまえさんどこへ行ったの」
金「どこへ行くやつがあるものか友達のところへ触れてきたよ、ついでに酒や肴《さかな》をあつれえてきたから、持って来たら支度《したく》をしておいてくんねえ。みんな喜んだぜ、わりまえなしで今日はご馳走だといったら、ありがてえありがてえッて、コロコロしていた。今にやって来るからの」
女「だがね金さん、今日は久しぶりであきないに出るという大事の日じゃァないか、家で飲みつぶれちまったらしようがない、ご苦労でもモウいっぺん買い出しに行っておいでよ」
金「買い出しに……なにをいやがるんだ、買い出しなんぞに行けるかい、今日は休みだ、おめでてえ日なんだから、天下晴れて休んでお祝いをしなけりゃァいけねえ、なにもグズグズ言うところはねえや、おめでてえんだから、ウンと飲んでくれるんだ、モウソロソロ皆がやって来るだろう、ヤア来た来た、サアこっちへあがってくんねえ、今日はおめでてえんだからウンと飲んでくれ、オオおっかあ、酒がついたら出しねえ、さかなも来たろう、なにしろめでてえんだから遠慮しねえで、ウンとやってくんねえ」
とこれから酒を飲み始めたが、金さんは一人でめでてえめでてえと言って喜んでいる。友達はなにがなんだかわかりませんがご馳走になるんだから、これもやたらにおめでてえおめでてえといって飲んでおりますうちに、金さんはスッカリいい心持ちになって、とうとう酔い倒れてしまいました。
金「オヤァ、いつの間にか日が暮れてやァがる。アアみんなを相手にいい心持ちに飲んでるうちにちょっと横になったなァ知ってるが、そのまま寝ちまったんだな、オイ水を一ぺえくれねえか」
女「おまえさん目が覚めたかえ、よく眠ったねえ」
金「ウム夢中でねちまった。友達は皆どうした、エーさっき帰っちまった、そうか」
女「ねえ金さん、お酒もいい加減にしないと身体をこわすよ、時にね、目が覚めたら聞こうと思ってたんだがね、お友達を大勢呼んでおめでたいおめでたいと言って、お酒を飲んだのはいいが、この勘定はどうするんだい、明日の朝取りに来るが……」
金「どうもこうもねえや、おまえのほうで払っときねえな」
女「そんなことをいったって、わたしゃお金なんぞありゃァしないよ」
金「ねえことがあるものか、ソレ一件の五十両あるじゃァねえか」
女「なんだい五十両てえのは」
金「とぼけるない、てめえに預けといたじゃァねえか」
女「おふざけでないよ、わたしゃ五十両なんてお金をおまえから預った覚えはないよ」
金「覚えがねえヤツがあるものかい、ソレ芝浜で拾ってきた革財布の金が五十両あるじゃァねえか」
女「アレ、金さんちょっと待っておくれ、どうもさっきから変なことばかり言うと思ったがそれじゃァおまえ、なにかい、芝の浜で五十両拾ってきたと思って、友達を呼んでお酒を飲んだのかい」
金「なにを言ってやがるんだ、拾ってきたにちげえねえじゃねえか」
女「マアあきれたねえ、どうも私も変だ変だと思ったが、人てえものはそういうものかしら。貧乏すると、寝ても起きてもお金が欲しい欲しいと思ってるんで、そんな変な夢を見るんだよ、道理こそいきなり飛び起きて、お友達を呼んでめでてえめでてえって、お酒を飲んでるから、なにがめでたいのかと思ったら、じょうだんじゃァないよ、お金を拾ったのは夢で、お酒を飲んだのは本当なんだよ、ねぼけるにもほどがあらァね、サァおまえさんこの勘定はどうするんだよ」
金「なんだって夢を見た、なにをいやァがる。夢じゃァねえ、確かに俺が拾って来て、てめえに預けたじゃァねえか」
女「イイエわたしゃ預らないよ、ほんとうになさけない人だね、あきれて物がいわれやァしない。ようく考えてごらんよ」
金「だって今朝拾ってきて確かにおまえに預けて、それから寝て起きて、飲んでまた寝て起きて……」
女「なにをグズグズ言ってるんだよ」
金「なんだかわからなくなっちまった」
女「おまえさん夢を見たのに違いないよ」
金「そうかなァ、夢かしら、こりゃァ驚いたな、マア待ってくんねえ。泣いたところでしようがねえやな。イヤ俺が悪かった、夢とは気がつかなかった。拾ってきたようにも思うんだが、アア酒を飲んじゃァいけねえな。なにもかもわからなくなっちまった。わからねえとすると夢にちげえねえ、金比羅様へ酒をたっておきながら飲んだもんだからこういうばちが当ったんだ、アアどうもとんでもねえことになっちまった。金を拾ったのが夢で、酒を飲んだのがほんとうか。馬鹿な話があるもんだ、じゅうじゅう俺が悪かった。すまねえ、まったく俺がしくじったのだから、この通りあやまる、今度ばかりゃァ改心した、今日から改めて生涯酒をたつ……」
女「たつのはいいけれども、長くたってまたそのうちになにかの動機で飲むようなことがあっては神様のばちが当るといけないから、こうおしよ。向こう三年お酒をたって、そうして、ミッチリ稼いだら、今までの取り返しは付くだろうと思う」
金「なるほど、そんならそういうことにして、きっと三年のあいだ酒の匂いも嗅がねえで、一生懸命稼ぐから安心してくれ」
女「じゃァどうかお願いだからそうしておくんなさい。私は決しておまえさんにお酒を飲ませるのがいやじゃァないが、飲むと商売をしないで困るからツイガミガミ言ったんだよ。心持ちを悪くしないで、どうか今度は辛抱しておくれ。この勘定はおばさんのところへでも行って話をしてどうにでもするから……」
といたって気だてのいい女房でございますからどういうことにしたか、酒肴《さけさかな》の勘定は済ませてしまいました。
さすが飲んべえの金さんも今度という今度はスッカリ改心して、どうも酒というものは心の狂うものだ、人間酒を飲んじゃァ生涯頭があがらねえと気がつくと以前とはまるで生まれ変わったように、朝も女房に起こされないうちに起きて、買い出しに行き、おこたらず得意まわりをするようになりましたから、お得意でも、マアあのなまけ者がどうしてこのごろそんなに精を出すようになったんだろうというくらい、もとより魚を見ることは確かでございますので新しい上に買い出しがじょうずだから値が安い。こうなると一旦しくじった得意も帰ってくれば新規の得意がふえるばかり、サァ金さん酒のサの字も振り向いて見ない。商いがおもしろくなってまいりまして、ますます一心不乱に稼ぐからおかみさんもジッとしていない、夫婦共稼ぎで必死に働きます、たとえにも稼ぐに追いつく貧乏なしでモウ三年たたないうちにスッカリ世帯《しょたい》のようすが変わって、借金などは一もんもなくなりまして、この分なら来年は表へ出て立派な店が持てるという勢い、ちょうどその年のおおみそか、ふだんと違ってお得意まわりをして帰ってきた時分には、モウ日が暮れております、その足ですぐ湯に行って戻ってくるとおかみさんがスッカリと掃除をして、神棚にあがっているおとうみょうも、気のせいかいっそう明るいような心持ち、なんだかプンプン匂いがするから、見るといつの間にか畳の新しいのが敷き込んである。
金「アアなんだか家《うち》が明るいと思ったら畳が新しくなったがどうしたんだ」
女「おまえさんに無断でして小言をいわれるか知れないが、商いに行った留守に向う横町の畳屋さんに聞いたら、ちょうどモウほかの仕事がスッカリあがったというから、急にたのんで取り替えてもらったんだよ」
金「そうか、ありがてえ、小言をいうどころじゃァねえ、礼をいうよ、いい匂いがするな。こんな新しい畳へ乗っかったことがねえ、いい心持ちのもんだな。たとえにもいう通り、畳の新しいのと、女房の……、新しいのはいけねえや。畳は新しいのがいいけれども、女房は古いのに限る」
女「うまいことをいってるよ。サァお茶を一つおあがり」
金「これはどうもご馳走さま……、オヤなんだか変な味がするぜこのお茶は」
女「それは福茶《ふくちゃ》だよ」
金「ああ福茶か、ありがてえなァ、おおみそかの晩に宵の内から家を片付けて、こうして、新しい畳の上で福茶を飲むなんてえのは、なんだか急におだいじんの隠居さんにでもなったような心持ちがするなァ。三年あとのおおみそかにゃァ驚いたっけ。借金とりが降るように来やァがって、そのうちにもアノやかましいおおやが来たから、俺が戸棚へもぐり込
んだのはよかったが、あいにく唐紙《からかみ》がねえんで風呂敷をかぶって隅の所にいると家主めえ、こっちへ目をつけて、不思議なことがあるもんだなァ、アノ風呂敷が動いているといやァがった。そんなことも今は笑って話すようになったのも稼いだおかげだ。アノ時分なまけてる時にゃァ、てめえが買い出しに行けというと癪にさわって酒を飲んで寝る気になったが、このごろはどうだえ、一日骨休みをしたらよかろうといわれてもお得意が待ってるだろうと思うと、休むことができねえ、妙なものだなァ、このせつは商いに出るのがおもしろくってしようがねえ、なんでも人間は怠けちゃァいけねえ、辛抱がかんじんだなァ」
女「ほんとうだねえ、おまえさんが稼いでくれたんで、今年のおおみそかばかりはスッカリ安心したよ、時にねえ金さん」
金「なんだ」
女「私が内職をして、少しばかり貯めたお金があるがね、おまえ今夜勘定をして受け取っておくれな」
金「じょうだんいうな、おめえの内職をして貯めた金を俺がなんで受け取れるものか、それで好きな物でも買いねえな」
女「だってね、家のためにと思って一生懸命に貯めたお金で、むだに使うのはもったいないから、ともかくもおまえさん取っておいておくれ」
金「そうか、それじゃァ勘定しよう、なんでもおおみそかの晩は大蝋《おおろう》をつけるものだというが、なにも大蝋を買うには及ばねえ、ありあわせのろうそくをつけて、ここへその銭《ぜに》を出しねえ」
女「サァ、この竹筒《たけづつ》の中に入ってるから、開けて見ておくれ、たんとあるまいけれども……」
金「アハハ内職の銭は竹筒ときまってるなァ、ドレ見せねえ」
と金さんが竹筒を引き寄せてカラリ逆さにしてぶちまけると、穴のあいた銭ばかりと思いのほか、中から出たのは二分金ばかり。
金「オイこりゃァなんだ」
女「内職のお金さ、沢山もあるまいが確か五十両ばかりあると思うよ」
金「エーッ五十両、ふざけちゃァいけねえ。いくらおめえが働き者だって、女の細腕で、それも亭主の稼ぎに出た留守のまにする内職で、五十両なんてえまとまった金が貯まる道理がねえじゃァねえか」
女「サア、おまえさんがそういうならほんとうのことを話をするが、金さん忘れたかえ、ちょうど今年で足掛け三年前、おまえさんが芝浜で拾ってきたお金だよ」
金「ナニ捨ってきたァ……。だっておめえ、あれは夢じゃァねえか」
女「夢だといったのはじつは嘘だよ」
金「ナニ嘘……ちくしょう、ちくしょう」
女「マア怒らないで私の話を聞いておくれよ、アノとき貧乏の中で五十両というお金を見たのだからわたしゃ飛び立つほどに嬉しかったけれども、おまえの心が疑われるから、このお金をどうするえと聞いたら、おまえさんいい着物を着るとか、友達を呼んでお酒を飲むとか言ったろう、そういう了簡の人にお金を渡しておいたら、わずかの間になくしてしまうに違いない、それに拾ったものを黙って使うことはできない、そこでおまえさんを寝かしておいて家主さんへ行って話しをして、アノお金は御上へ届けておいたんだよ。スルと一年たってお呼び出しになって元々海の中で拾ったお金で、落とし主も出ないというので、私がもらってきて、その時すぐにおまえさんに渡そうと思ったが、イヤイヤそうでない、このお金が入ったらまたおまえさん気がゆるんで、元のようにお酒を飲んで怠けぐせがつきゃァしないかと思って、今日が日までわたしゃ黙っていたんだよ、スルと今おまえさんが、人間は辛抱が肝腎だ、怠けちゃァならないといった一言《いちごん》、アアどうしてこんなに変わってくれたかと、わたしゃつくづく感心をして、思わず涙がこぼれてそれからここへ出したようなわけでモウおもてむき御上からいただいたお金だから、おまえさんがなんに使おうと勝手しだい、どうかそっちへしまって下さい。長い間おまえさんをだまして、このお金を私が隠しておいたのはまことにすみませんでした、それは改めておまえさんにあやまるから勘弁しておくれ」
金「マア待ちねえ。おめえにそう手をついてあやまられちゃァ俺が困るよ。どうか手を上げてくんねえ。アアどうも恐れ入った。おめえとくらべっこをしても俺のほうがよっぽど馬鹿だな。まったくおまえのいう通り、アノ時ならきっと使っちまう、使うなァいいとしてもそれが御上へ知れた日にゃァ俺は牢へ入れられる、そうなったら大変、いま時分はどうなったかわからねえ、おめえが隠しておいてくれたればこそ牢へも入らずにすんだのだし、あれから一生懸命稼いでこう運が向いてきたんだ、シテみると俺がおめえに礼をいわなけりゃァならねえ、ほんとうに俺はおめえをただの女房とは思わねえ、女房大明神さまさまこの通り拝むよ」
女「なんだねえ金さん、手なんか合わせて、それはそうと久しく好きなお酒も飲まないで、身体にさわりゃァしないかと思っていたんだが、今夜はおおみそかで、おめでたく年を送るんだからお祝に一口飲んでもらおうと思って、お酒もお肴も取ってあるから、サアこれからゆっくりと飲んでおくれ」
金「なるほど、今夜はおおみそかでめでたく年を送るんだから、久しぶりで一杯、イヤよそう。酒は飲むめえ」
女「ナゼさァ」
金「飲んでまたこれが、夢になるといけねえ」
[解説]これは元三題噺である。酔っぱらい、芝浜、財布の三つをまとめたもので、原作者は初代の円生《えんしょう》だともいうが判然しない。とにかく現在のような名作落語に作りあげたのは円朝である。海で拾った革財布を腹がけの丼にしまうものと、財布を盤台へ投げ込むものと、また前を略して、家へ帰って来たところから始めるものと、さらにまた金を女房が竹筒から出すものと、革財布そのまま出すものといろいろの型がある。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
こえ瓶《がめ》
―――――――――――――――――――
江戸ッ子ということをよく申しますが、気の早いのが特長になっております。電車に乗っても停留場に着くまで待っておりません。手前で飛び降りるから急いで横町へでも曲がるのかと思うとまたノソノソ停留場まで歩いて行く、それなら別段《べつだん》飛び降りないでもよさそうなものですが、着くのを待ってから降りたんじゃァ気が利かないというんで、それがためにおうおう間違いがあります。これはチトお古いお話ですが、
車掌「あなた、モウじきとまります、あなたモウじきとまりますよ」
○「何をいやァがるんだ、つらァ見て物を言え、初めて飛び降りをするんじゃァねえや」
車「さようですか、デモここは速力《そくりょく》の早い所なんですから、あなたそっちを向いて飛び降りちゃァあなたあなた、アッ引っくり返ってしまった」
○「何をいやァがるんだ。初めて引っくりけえるんじゃァねえや。たびたびだい」
落っこって威張ってる方などがありますが、これは気の短いための間違いで、それにまた品物をいわないで先方《むこう》で察してくれるというのは、江戸ッ子の気転《きてん》がいいところだそうで
甲「オウ湯に行くんだが」
乙「オイきた手ぬぐいかい」
と先方で言ってくれます。そういう風ですからまた折々間違いもあります。昔のお話でございますが、江戸ッ子の心持ちというおはなしがございます。
留「オイそこへ行くなァ、民《たみ》じゃァねえか」
民「オオ留《とめ》か」
留「どうも変なところで逢ったな。どうしたい、おめえ死んだってことを聞いたが、そうでもなかったのか」
民「死んだ人間がここにいるわけがねえじゃァねえか、知っての通りな、あれからどうも町内にいられねえから、かかァの里が今戸《いまど》にあるんで、そこへ行ってやっかいになってるんだ。ただ遊んでいられねえから、マアこうやって瀬戸物を少しばかりならべて商《あきな》いをしているんだが、ありがてえことに食うだけはかせげらァ」
留「そうか、マアしんぼうして稼ぎねえ。だが久しぶりで逢ったんだから、いっしょにいっぺえやりてえと思うが、なにしろここは丸の内だから、どこへ行くにもしようがねえ」
民「いま俺がごちそうをするから待ってくんねえ」
留「オイオイなにするんだ、丼《どんぶり》を石崖《いしがけ》に叩きつけてめちゃめちゃにこわしちまったが、気でもちがったか」
民「なんにもご馳走が出来ねえから、これで一杯飲んだと思ってくんねえ」
留「そりゃァどうもすまねえ、その天秤棒《てんびんぼう》をちょっと貸しねえ」
民「なにをするんだ」
留「マア貸しねえよ」
民「こンちくしょうなにをするんだ。人の頭をだしぬけにぶんなぐって」
留「おめえにご馳走になって酔っぱらったと思ってくんねえ」
とんだ頓知頓才《とんちとんさい》もあったもので……。
○「オイちょっと……」
△「なんだ」
○「少し話がある」
△「話があったらあすこで言うがいいじゃァねえか」
○「オレもあすこでいおうと思ったが、そばにいた金太《きんた》に聞かれるといけねえからおめえを引っぱり出したんだ」
△「なんだ」
○「竹《たけ》あにいが家《うち》をもったんだ」
△「ウム、そんな話を聞いたっけ」
○「家みまいになにか持って行こうかと思うのだが、一人で行くより二人で持って行くほうがいいからそれで相談をするんだ」
△「ウムなにを持って行こう」
○「じつはオレが家を持った時に瀬戸《せと》の火鉢《ひばち》を竹あにいが祝ってくれたのが、チャンと今でも残ってるが、やっぱりあとへ残るものを持っていこうと思うんだ」
△「なるほど」
○「どうだ冷蔵庫を持って行こうじゃァねえか」
△「冷蔵庫は安かァねえ」
○「ナニ二十銭」
△「二十銭、大変に安いな、どんなんだ」
○「おもちゃだ」
△「おもちゃなんかしようがねえ」
○「じゃァ電気洗濯器を持って行こう」
△「大きなことばかりいってやがる」
○「だめか、さて何がいいかな」
△「じゃァこうしよう。先方へいって聞こうじゃァねえか。二人で祝いものをしてえんだが有るものを持っていってもしようがねえからって、これがもらいてえというものを持って行こうじゃァねえか」
○「なるほど、それがいいだろう……こんちは」
竹「オウ二人そろって来たな。マアあがんねえ」
○「どうもおめでとう……どうもけっこうな家で」
竹「あまりよくもねえけれど、おふくろをいつまでも奉公さしておくのはかあいそうだから、こんなところヘトグロを巻いたんだ、いつでも通りかかったら寄んねえ、雨が降ったら傘ぐれえ貸すから」
○「ありがとう、デ、マア二人で相談をしたんだが、あにきにはいろいろ世話になってるから、なにか祝い物をしてえだが」
竹「祝い物、そんなことをしねえでもいいや、時節柄《じせつがら》……」
○「ナニそうでねえ、ところがなんだ、有るものを持ってきてもしようがねえから、なにか無《ね》えものをそういってくんねえ、二人で心配するから」
竹「じゃァせっかくそう言ってくれるものを、親切を無にするでもねえから、火鉢はあるんだがねえ、どうしても茶箪笥《ちゃだんす》を欲しいと思ったんだ」
○「茶箪笥か、それを持ってこよう、桑《くわ》の茶箪笥で、戸を光沢《つや》消しガラスかなにかにして……」
△「オイオイオイ、くだらねえことをいうな、茶箪笥なんぞ受け合ったって安かァねえぜ」
○「そうかい、あにき、茶箪笥はキチンとそこへ納まらねえといかねえから、ほかの、その大きさのきまった物をそういってくんねえ」
竹「衣服《きもの》の入れものがねえんだが」
○「アア、そうか、じゃァ箪笥を持ってこよう、総桐《そうぎり》の洋服箪笥に四分一《しぶいち》の金物《かなもの》かなにか付けて」
△「オイオイ箪笥は安かァねえぜ、そんなたけえもの受け合っちゃァ大変だぜ」
○「あにき箪笥は四角なもんだから」
竹「まるい箪笥ってえのがあるもんか」
○「じゃァ、モット安いものをそういってくんねえ、ごみ取りはあるか」
竹「箪笥とごみ取りとは違いすぎらァ」
○「じゃァ台所のもので安そうなものをそういってくんねえ」
竹「水道だが汲み込んでおくにゃァ、やっぱり水瓶《みずがめ》でなけりゃァいけねえとおふくろがいうんだ」
○「ウム水瓶か、オウ水瓶を持ってこよう」
△「なんだ人をひっぱり出しやァがって、やす受け合いをしていいのか」
○「水瓶ならいくらもしねえ、アノ納豆屋《なっとうや》のばあさんの家にあるのだろう」
△「あんな玩具《おもちゃ》みたような瓶じゃァしようがねえ、ほんとうの水瓶ときたらなかなか安かァねえ、二円じゃァ買えねえ」
○「弱ったなァ、もっとも金は三円あるんだ」
△「三円あれば結構だ」
○「それは勘定を取った時にゃァそれだけあったんだが、足袋屋《たびや》へ払いをして、草履屋《ぞうりや》へ払いをして、髪結床《かみいどこ》へ二つ払いをして……」
△「ヘイ髪結床へ二つ払いというなァ全体なんだい」
○「銭《ぜに》のねえ時に苅込《かりこみ》をしたんだ。親方、いま財布を忘れたからあとで、一緒に持ってくるといって飛び出すんだ。頭をかっちまって返せというわけにもいかねえだろう。どうもいい工夫《くふう》なんだ、オレが発明したんだ。その伝《でん》で二ツ借りたんだ、その払いをした、ダカラその差し引いた残りが十銭あるんだ」
△「なんだたった十銭か、驚いたなァこりゃァ。このカンカン天気にいい若い者が一貫《いっかん》しかねえのか」
○「ダッテねえものは仕方がねえ、あにきはいくらあるんだ」
△「オレなんざァはばかりながら大枚金円《たいまいきんえん》を所持しているんだ」
○「じゃァいくらあるんだい」
△「ダカラよ、オレはまるっきりねえんだ」
○「全然ねえってえなァひどいや」
△「フフフ、サッパリしていらァ」
○「サッパリしすぎらァ。じつはオレもねえからおめえを誘い出して、おめえに立て替《け》えてもらっといて、あとで払おうとこう思ったんだ」
△「だっておめえがあんまり安受け合いをするから、あるんだと思った」
○「俺もあにきがあるんだろうと思って受け合ったんだ。なにしろ瓶を持って行かなくっちゃァしようがねえや、受け合って出てきたんだからな、マアいいや、聞いてみようじゃァねえか。そこに瀬戸物屋があるから……」
△「けれども十銭の水瓶はねえぜ」
○「でも当って砕けろというからね。前にいい水瓶がならんでらァ。……こんにちは」
×「いらっしゃいまし」
○「水瓶を一つおもらい申したいんですが、この前にある瓶はいくらです」
×「エー、それは一円八十銭、それからちょっとそっちの小さいほうは一円五十銭ですが二十銭お引き申して一円三十銭に願っておきましょう」
○「どうです、番頭さん。こりゃァ十銭に負《ま》かりませんか」
×「ご冗談おっしゃっちゃァいけません。底の抜けた瓶じゃァございませんから」
○「どうしても負かりませんか」
×「とてもそれじゃァご相談になりません。また今度の世にお願い申しましょう」
○「どうもありがとうございます……オイあにい、聞いてきたよ」
△「どうしたい」
○「一円八十銭に、一円三十銭だってんだ」
△「ウムそうだろう」
○「それを十銭に負かりませんかといったら、底の抜けた瓶じゃァありませんからとてもご相談になりません。今度の世にお願い申しましょうといやァがった。それからありがとうございますといってけえってきた」
△「ちっともありがてえことはねえじゃァねえか。瀬戸物屋にひやかされてきやァがった。気の利かねえ野郎じゃァねえか、馬鹿野郎」
○「こりゃァあにき、とても新しくっちゃァ買えねえからね、なにか古い出物《でもの》の掘り出し物を見つけようじゃァねえか」
△「出物でも十銭で水瓶が買えるもんか」
○「じゃァ今度はなんだ、十銭しきゃァねえんだが、十銭で瓶があるかねえか始めから種《たね》を明かして聞いてみりゃァ、別段買わなくってもいいんだから、ちょっと待ってくんねえ……こんにちはお暑うございます。十銭ばかりの瓶がありましょうか、ありませんかね」
◎「じゃァ横丁へおいでなすってください……ここに二つございますがね、これなら二つで十銭でよろしゅうございます」
○「ヘエー、二つで十銭、なにも二つはいりませんですが、底が抜けちゃァいませんか」
◎「イエ、この通り水が入っていますくらいですから底が抜けちゃァおりません、大丈夫ですよ」
○「オウあにき、きねえきねえ掘り出し物だ」
△「ナニ」
○「この瓶が二つで十銭だとよ」
△「何円と十銭なんだ」
○「ただの十銭なんだよ」
△「うそをつけ」
○「うそじゃァねえんだ、ネエ旦那」
◎「ヘエそんなら五銭でよろしゅうございます」
△「そりゃァありがてえ」
○「あにき、とうとう掘り出し物があったな、じゃァ十銭あげますから、おつりをください。それからすみませんが、天秤棒を一つお貸しなすってください、かついで行きますから」
◎「じやァそこに竹の棒と荒縄《あらなわ》がありますから、それをあげましょう」
○「どうもありがとう、じゃァ、ここへ水をあけちまおうじゃァねえか」
◎「ア、そこへ水をあけちゃァいけません、そこへあけられると臭《くさ》くって困りますからな」
△「そういやァなんだか、この水は臭《くせ》えな、いったい旦那どういう訳なんです」
◎「じつはこの前に新しい長屋が三軒あるでしょう。あの家が根継《ねつ》ぎ〔傷んだ柱の根元の修理〕をした時に出ましたもんで。三つあった瓶の中で、一つはこわしてしまったが、二つはこうやってチャンとしておりまから、こわすのもなんだと思って、雨叩《あまだた》きにしておいたんですが、じつは肥瓶《こえがめ》なんで」
○「肥瓶かいこりゃァ、あにき肥瓶だとよ」
△「てめえ知らなかったのか」
〇「ちっとも知らなかった」
△「ダッテ掘り出し物だ掘り出し物だといってたじゃァねえか」
○「なるほど、そりゃァ掘り出し物だ」
△「感心するない」
○「ウム、じゃァおもらい申して行きますから……」
△「アアここに川があるから、瓶を洗って行こう。オレァ着物の番人をしてやるからおめえは裸体《はだか》になって川の中へ飛び込んで、そこにゴミが固まってるから、そいつをひん丸めて景気よく中をガラガラと洗っちゃってくんねえ。上でもってオレが、オイきたと受けるから」
○「オレが番人のほうをやろうじゃァねえか」
△「マアいいや、遠慮しなくってもおめえやんねえや」
○「遠慮をするわけじゃァねえけれども、なかなかこんなものは景気をつけて洗えねえ。オレのほうが金主《きんしゅ》だからあにき洗ってくんねえ」
△「じゃァ仕方がねえから二人で洗おう……オッと底のほうをきれいに洗いねえ。そうだそうだサアいい、どうだ綺麗になった、生まれ変わったようになった」
○「ダガなんだね、瓶をこうやって二人で担いで行くなァあまりいい形じゃァねえな」
△「マアいいやな、紺屋《こうや》の引越しだと思やァ…オイちょっと先棒《さきぼう》持ってくんねえ」
○「なんだ」
△「どうもオレが後棒《あとぼう》へまわったが向い風で、プンプン匂いがしてたまらねえ、おめえ代わってくんねえ」
○「どう……フーンなるほど」
△「なんだぜ、こりゃァ水が入ると匂いが止まってるんだがね、つまり水は臭気《くさけ》止めなんだね、水道があったら、水をくんで持って行こうじゃァねえか、水はおっかさんへのつかいものだって、……アアあった、ありがてえありがてえ」
△「あんまり水を一ぱい入れなさんなよ……アアそのくらいでいいだろう」
ようようのことでやって来て、
△「ソレソレそこへ入れろ」
○「アアちょうどいい塩梅《あんばい》に納まった」
△「あにい行ってきた」
竹「ほんとうに持ってきたのかい、そいつァ気の毒だったな、例の冗談だろうと思っていたんだ、いい瓶だな。安かァねえだろう」
○「それがね、掘り出し物で」
△「だまってろい」
○「イヤあにい、匂いを嗅《か》いでみろ、大変な匂いがするぜ。おれは、ちっと汗になったから湯へ入ってくる」
竹「じゃァ、そこに手ぬぐいがあるから持って行きねえ……。おっかあ、なにがねえでも一杯つけてやんな」
母「アアいいよ……」
○「あにい行ってきました」
竹「たいそうはええな」
○「もう大丈夫だ」
竹「なにが大丈夫だ、なんにもねえが、一杯飲んでくんねえ、海老《えび》と冬瓜汁《とうがんじる》なんだ」
○「そいつァありがてえ、薄葛《うすくず》の利いてるやつはたまらねえからね」
△「ちょっと待ちなよ、冬瓜の汁《つゆ》の水はどこの水でやったんだか、聞いてみねえ、ことによるとあの瓶の水じゃァねえか」
○「こりゃァなんですか、冬瓜の汁はどこの水で……」
竹「あの瓶の水だよ」
○「エーッ、その、じつはね、忘れていたが、今日は精進《しょうじん》なんだ」
竹「精進かい、それじゃァ塩海老はいけねえな、じゃァその豆腐でやってくんねえ」
○「ありがてえ、海苔《のり》が入ってる、どうも摺生姜《すりしょうが》はいいね、こいつァありがてえ、どうもうめえ……あにきなにかい、この豆腐を冷した水は……」
竹「やっぱり水瓶の水だ」
△「アッ、じつはその豆腐はたったんで」
竹「変な物をたったな、じゃァおめえ食いねえ」
○「じつはわっしも食えねえ、こいつがたったもんだから、つきあいにたった」
竹「ヘエーつきあいにたったのかい、それじゃァ仕方がねえ、香物《こうこう》が出ているから、それでやってくれ」
○「香物を洗ったのはどこの水で」
竹「かめの水だよ」
○「アアいけねえ、じゃァまたそのうちにうかがいます、さようなら……」
竹「なんだいあいつらは、かめの水だと言うとろくに挨拶もしねえで駈け出しやァがって……、なるほどこりゃァひどいにごりだな……オイオイ今度来る時に、鮒《ふな》をいっぴき買ってきてくんねえ、水が濁っていけねえから、かめの中へ入れるんだ」
△「ナニ鮒を入れるにゃァ及ばねえ、今まで|こい《ヽヽ》が入っていた」
[解説]「こい」と「こえ」という言葉の典型的な地口《じぐち》落ち。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
三年目
―――――――――――――――――――
万物《ばんぶつ》の霊長たる人間が、思い込んだら、その一念の残らない限りはなかろうと思います。ましてや惚れあっているというのはどうも大変なもので……、男女とも、アアいい男だ、いい女だと思う。しかしこのいい女というのは誰がきめたものか、つまらん理屈をいうようですが、どういう顔をもっていいとするのだか判りません。
昔は細面《ほそおもて》の顔を美人としたとみえて、古い美人画を見ますと、たいがい細面に描いてあります。もっともごく古い師宜《もろのぶ》あたりの美人画になると、またポッチャリとした顔に描いてあります。やっぱり器量にもはやりすたりがあるようでございます。男もそうで、昔はスンナリとしたやせぎすな柔弱《にゅうじゃく》な男を見ると、いい男だねえ、悪口をいやァ少しにやけているけれども、スンナリ男だねえといったのが、当今《とうこん》はこのスンナリ男は肺病づらだといってあんまりはやりません。このせつの好男子というと、デップリふとって立派らしいのを指していう。ちょっと婦人が手でも触った時に、その手がやわらかいと、オヤ好《す》いたらしい人だといったのが、今は軟らかいとこの野郎なまけ者だといわれ、手がゴツゴツしていると、この人は稼ぎ者だ、働き者だといってたいそう婦人に好かれる、すべて昔と今とは行方《ゆきかた》が違っておりますから、美人のかたちも大きに変わってまいりました。
この容貌《かおだち》の好い男女へ付け込んで、昔みょうなことをした者がございました。なんにもせずにただブラリッと浅草《あさくさ》の観音様とか、深川《ふかがわ》の不動尊とかいう、人の出盛《でさか》る所へ行って立っていると、妙齢《としごろ》の娘におっかさんがついて、乳母、腰元、小僧さんなどを供《とも》に連れて参詣《さんけい》に来る。それがおみくじでも取っているようすを見ると、これはどこの娘だと跡《あと》をつけて行って、何町の何屋|何兵衛《なにべえ》の娘とわかると、近所の家へ入って、なにか話のつてを求めてだんだんと探り出す。
○「何屋の娘御《むすめご》はお婿《むこ》取りでございましょうか、それともお嫁《よめ》にお出しになるんでしょうか」
△「さようさ、このあいだ中御殿《うちごてん》にあがっていたが妙齢になったので、お暇《いとま》をいただいて、宿《やど》へ来ているんだが、お婿がまだきまったわけでもない、いずれお嫁に出すんでございましょう、兄さんが跡《あと》をお取りなさるんだから」
○「ヘエー、お年はいくつで……」
年がいくついくつ、名はなにということまですっかり聞くと、スーッとまた元の観音様なり、不動様なり、あんな所へ行ってブラブラしていて、前の娘さんが十八九なら二十一二になる好い息子さんの来るのを待って、これが似合いと思うのが来ると、その息子の跡をつけて行って、何町何丁目何屋何兵衛さんの若旦那と知れると、前の通り、近所でようすを聞いて、双方《そうほう》判ったところでそれから手土産《てみやげ》などを持って、あつかましく先方へ出掛けます。
△「ほかでもございませんが、こちらの若旦那様のことでうかがいました、先様《さきさま》のお名前はあとで申し上げますがお年頃はこうこうの娘さんで、不動様へお参詣の折にお見受け申しまして、跡を尾けますると、こちらの若旦那ということが判りましたけれども、そこは内気《うちき》の娘御でございますから、まさか口へ出して言うことは出来ません。だんだんと思い詰めて、食事ものどに通らんようになり、それがために昨今《さっこん》ご病気でございます。ご両親もいろいろ心配をして、なんだかだとだんだん問い糺《ただ》すと、じつはこちらの若旦那様をみそめ、寝ても覚めてもお姿が目の前へちらついて忘れ兼ねるという、俗に申す恋わずらい、このまま捨ておきますれば、一命《いちめい》にかかわるやもはかられません、万一ひとり娘に間違いでもあってはと男親はとにかく、女親が昨今のところでは半狂人《はんきちがい》のようでございますから、老人《としより》と娘を助けるとおぼしめして、若旦那をこちらへくださればなお結構《けっこう》でございますが、そういうわけにまいりませんければ、お嫁に差し出してもよろしゅうざいますが……」
こういわれると、男のほうでもまんざら悪い心持ちはしない、自分のために恋煩《こいわずら》いまでされると思うと憎くない、父親としても、自分のせがれをみそめて、わずらっていると聞けば、優しい心の娘だ「そういう者ならば、別段|許嫁《いいなずけ》もない者でございますから、よく親類と相談をしてご挨拶《あいさつ》をいたしましょう」
と、九分九厘《くぶくりん》承知をするという見込みのついたところで、先方の名前と自分の名前までも明かして、今度は女のほうへまいりますと
○「ほかではございませんが、その名前はあとで申し上げますけれども、年がいくつ、商売は何、学問も十分に修め、商法《しょうほう》のほうもスッカリのみ込こんで、いつ何時《なんどき》ご両親の跡をついでも、立派に家《うち》が押さえられるという息子さんでございますが、それが先《せん》だってから、どうもすること為すこと手につきません、一室へ入って考えてばかりおりまして、果ては食事も咽喉へ通らないという始末、だんだん聞いてみるとじつは観音様へお参詣に参った時に、こちらのお嬢さんを見初めまして、その後お姿が目先にちらついて、寝ても覚めても忘れ兼ね、それがために病気になったということがわかりました。親達も心配をして、かけがえのない息子、万一間違いがあった日には、老人夫婦は世に楽しみがないから、廻国《かいこく》でもしようという騒ぎ、どうか老人夫婦にせがれ一人を助けるとおぼしめして、うけたまわりますればこちら様ではお兄上様が跡をやっておいでなさるということで……まだご縁組が定まりませんければいかがでございましょう」
と両方へ同じようなことをいう、女のほうでも自分に恋煩いしてくれるような優しいお方なら、亭主にしたいと思い、親御《おやご》とてもその通り、そこで話がまとまって、いよいよ婚礼もすむ、最初のうちはどちらも惚れられてると思うから憎くない、ことに若い同志だから、夫婦仲もむつまじい、それがだんだん時が経つに従って所帯《しょたい》じみてもくれば、お互いに作り合ってもいられない、自然夫婦喧嘩もする。
女「おふざけでない、アノ時わたしが来なければおまえさんは焦《こが》れ死《じ》にをするから、助けると思って来てくれよというのでお嫁にきたんだよ」
男「馬鹿をいえ、べらぼうめえ、きさまがオレのために恋煩いをして死ぬというからオレがもらってやったんだ……」
両方おんなじようなことを言ううちにはまたうまくまとまって、互いに惚れ合って、この女に限る、この旦那に限るといって、睦まじく治まるのもあります。
とかくこの落語家や講談師《こうだんし》のほうで、ご婦人の器量の言い立てをすると、たいがいきまっておりまして、まるでいわないわけにはまいりませんから、アッサリと申し上げますが、まず一番先が目でございます。顔の心棒《しんぼう》は鼻ですが、これは二番手になっております。よく女の目には鈴《すず》を張れといいますが、この女はどうかといますと、鰐口《わにぐち》でも張りそうな、パッチリとした二重瞼《ふたえまぶた》で睫毛《まつげ》が長くって、黒目がち……もっとも白目がちでは見えないけれども……ソコで眉毛《まゆげ》は地蔵《じぞう》眉毛、はなすじ通りというが、ここがむずかしい、男と違って婦人は、どちらかというと、あまり鼻のたかいのは、ケンがあってよくない、ピイなるをもってよしとすというが、しかしまたあまりピイ通ぎると額《ひたい》と頭が出て鼻ばかり引っ込んで、上からのぞくと古い薪割台《まきわりだい》へ里芋をほうりこんだような塩梅《あんばい》になります。頭の毛は真っ黒で、ふさふさとしてもみあげが長くって、自分がふんまえて、前へのめるくらい、襟足《えりあし》はかかとまで通っていて、乳《ちち》は小さく、あんパンヘ椎《しい》の実をのっけたような、まことに風格好《ふうかっこう》もよし色白でのこんの雪をあざむくくらいのものでなく、ガラスでこしらえたように腹も中が透き通ってわかる、肝《かん》の臓《ぞう》がどうで、肺《はい》の臓が確かで、胃袋はどのくらいに拡がっていて、今朝食べた千六本《せんろっぽん》の味噌汁の実が肋骨にぶら下がってるのまで透き通って見えるほどの綺麗《きれい》な婦人でございます。
そのくらい顔のよろしいところへ気性《きしょう》が良し、舅姑《しゅうとしゅうとめ》によく仕え、いうまでもなくご亭主にもまことによく仕えるから、舅のほうも大きに喜び、それでうちうちの経済がうまくって人にも愛想《あいそ》は好しこれならばいうところはないから、分家《ぶんけ》をさせても大丈夫と、別に家を持たせて、若夫婦二人で暮らすことになったが、あんまり仲が好すぎたせいか、このお嫁さんがちょっと風邪の心地で床《とこ》につきました。さっそく医者にもかかりましたが、だんだん重《おも》るばかり、モウ今は枕も上がらぬ大病となり、今日か明日かという容態《ようだい》、かあいそうにご亭主は心配でたまらない、昼夜とも枕許《まくらもと》に付きっきりで離れません。
亭「オイおきく、薬をここへ置くよ」
きく「ハイ」
亭「おあがりよ、先生がね、いくらか加減をして飲みいいようにしたとおっしゃったからね、ちょうどのみ加減になったから、おあがんなさい、口直しは枕許にあるよ……、モウ少しさすろうか」
きく「イエもったいない、あなたにいろいろお手数をかけて……私はすみません」
亭「なにもおまえ、もったいないなんていうことはない、なんでも遠慮なくおいい、病気中はそんな遠慮をしてはいけない、それよりは早く薬を飲んで、一日も早くよくなってくれるほうがいいから、わずらってる間は遠慮をおしでない、サア早く薬をおあがり」
きく「恐れ入りました、後でちょうだいいたします」
亭「恐れ入ることはなんにもない、後でといわずに、私の見ているところでおあがり……イーエいけませんよ私がいなくなると薬を飲まないで、捨ててしまうという、どうも薬を飲まないでは癒《なお》りませんよ」
きく「モウ私は薬を飲んでもとても癒りません」
亭「それは……それはいけません、病いは気で持つという、岩へかぶりついても癒ろうという気にならなければならない、おまえの病気は第一気から出たんだから、どうしても癒る気にならないではいけない、まだ年は若いし……」
きく「そんなことをおっしゃってもあなたお隠しなすっていらっしゃる」
亭「なにもおまえに隠したことはない」
きく「イエいけません、せんだって長益《ちょうえき》さんが、あなたを屏風《びょうぶ》の外へお呼びなすって、なにかひそひそ話をなすっていらっしゃるから、なんだかと思って、そっと床《とこ》から這い出して、屏風の内で聞いていましたら、先生がどうも私には見込みがない、誰かほかの医者に見せるならば見せてください、お薬はまずあげてはおきましょうけれどもとおっしゃいました、ちょうどアノ先生で六人目、モウ五六人のお医者様に見放されるようではどうせない命、とてもないものなれば一日も早くあなたのご苦労を除き、自分も早く楽になりたいと思いますけれども、ただ一つ気掛りのことがあって……」
亭「どうも困りましたね、おまえそんならスッカリ聞こえたのかい、聞こえたら隠すわけにはいかないが、病人には聞かせないほうがいいというから、黙っていたけれどもおまえが聞こえたというなら話をしよう、なるほど、長益さんはそう言った、言ったけれどもしかしアノ方ばかりがご名医というわけではない、この広い江戸だよ、いくらも良い医者があるからほかの先生を願ってあげようが、おまえが、その心残りがあるというのは、どんなことだか、そんなことはあるまいが、その気になることを私に話しておくれ、それをまた果たしてあげたら今いう気病《きや》みだから、癒らないこともあるまい、私も気になるからどうか遠慮なく言っておくれ、私の身体《からだ》で出来ることならばどんなことでもしてあげる」
きく「イエそれはねえ、しようとすれば出来ないことはありますまいけれども、とてもどうも出来ませんことで……」
亭「出来ないといわずに言っておくれ、なんでもしますよ」
きく「だめ……」
亭「だめということはない、なんでもそうお言い、キットしてあげるから」
きく「じゃァほんとうに叶《かな》えてくださるか」
亭「ほんとうに叶えるよ、なにが気掛りだえ」
きく「ほかじゃァありませんけれども、心残りというは……オホホなんだかはずかしいから……」
亭「なにもはずかしいことはない、誰も聞いてるものはないからお言い」
きく「マアねえ、私がご当家へまいりましてまだ二年とたたないうちに、この病気でございます」
亭「ウム」
きく「私のようなふつつかの者でも、マア可愛《かあい》がってやさしくしてくださいまして、ましてこの病気になってはなおのこと、片時も離れずにこうやってご看病くださいますが……」
亭「ウム、それがどうしました」
きく「デ、マア手前が亡いのちは、あなたもお年が若いからほかにまたお嫁さんをおもらい遊ばして、手前のように、こう大事にしてあげるだろうと思うと羨ましくって、それが心残りで……」
亭「じょうだんいっちゃァいけない、くだらないことをいってる、何をいうかと思ったらそれだけのことかえ、そんならば安心なさい、マアそんなことはないけれども、もしものことがあれば、私は女房は持ちません、生涯|独身《ひとり》でいます」
きく「イーエそれはだめ……」
亭「いくらどんなことがあっても、私は持たないよ」
きく「あなたが今、いくらそうおっしゃってもいけません」
亭「なぜいけない」
きく「なぜったってまだ、お年は若いし、おとっさんやおっかさんもおあり遊ばし、ご親類もあり、後妻《のちぞえ》を持てとおっしゃられれば、どうしてもあなたが強情《ごうじょう》を張ることは出来ません、それを一年はともかくですが、だんだん先へ行けば、とても持たずにはいられません」
亭「じゃァね、こういう約束しておきましょう、マアそんなことはないが、万一おまえに間違いがあった時に、親類や両親がいろいろ勧めて嫁を取れといっても、どうしても持たないつもりだが、たって断わり切れなければ、一応承知をするから、いよいよ婚礼という晩に、おまえがそれまでに思うならば幽霊に出ておいで、私はおまえが出てきてくれれば嬉しいくらい、決してこわくも恐ろしくもなんともないが、気の弱い嫁は目をまわすよ、目をまわさないまでも、翌日《あくるひ》はさとへ逃げて帰っちまう、そういうことが二三度続くと、あすこの家には先妻の幽霊が出るという噂《うわさ》が立って、誰も嫁にきてはない、そうすれば私は生涯|独身《ひとり》で送られる、万一間違いがあったらそうしなさい」
きく「じゃァ手前が幽霊に……」
亭「アア出ておいで」
きく「きっとでございますよ」
つまらん約束をしたもので、しかしそれで安心をしたものとみえて、急に容態が変わったから、ご親類へ人を出す、いろいろ手当もしたが、まったくない寿命が、とうとうおなくなりになった、泣く泣く野辺《のべ》の送りもすませ、三十五日、四十九日はたったが、まだ百ヵ日もたたないうちに、若い者を独身《ひとり》でおいてはいけないから、後妻をもらったらよかろうと、親類から勧められたが、私は仔細《しさい》あって、どんなことがあっても女房は持ちませんと、初めは言いのがれていたが、だんだんとその仔細はなんだと責められてみると、じつは死んだ女房が幽霊に出る約束をしまして……などなど、そんな馬鹿々々しいことは言えない、断わり切れなくなって、デハよろしゅうございますと、気は進まんがもらうということになると、かねて評判の美男子でありますから、ちょっとござっている娘さんもある、さいわいにそれを二度ぞえに迎えることに話が届いて、いよいよ婚礼の当日とあいなりました、媒酌人《なこうど》は宵の口、早くお開きとなってお床盃《とこさかずき》、褥衣《ねまき》と着換《きか》え、布団の上に座ってみたが、ご亭主は寝ません、八ツの鐘《かね》がボーンと鳴れば出るというんで、寝るどころではない、けれども女のほうはたとえにもいう嫁に行った晩でげす、ご亭主が寝ないのに、はめをはずして、ふんぞり返って寝るわけにもいかないから、これもモジモジしている、お嫁さんも災難でございます。
亭「おやすみなさい、遠慮しないでもいいから、おやすみなさい」
女「でもおなたがおやすみなさらないでは……」
亭「なんどきだい」
女「ただいま四ツでございます」
亭「四ツか……九ツ、八ツ、まだ間《ま》があるな」
女「なにの間がございます」
亭「ナニよろしいから、私にかまわずおやすみなさい」
女「デモ私ばかりどうも……」
亭「ナニようございます、何時だい」
女「ただいま四ツ半でございます」
亭「四ツ半、それはなかなか大変だ、明日疲れるからおやすみなさい」
女「あなたも少々おやすみ遊ばせ」
亭「私に遠慮はないからおまえさんおやすみなさい、だめなんだから……」
女「なにがだめでございます」
亭「ナーニよろしい、今何時だろう」
女「ただいま九ツで」
亭「九ツ、そろそろおいでなさる」
女「どちらへおいでになります」
亭「マアようございます、どこへも行くわけじゃァないが、つまらん約束をしてしまったんで……」
女「なにかお約束遊ばしたことが……」
亭「ナニようございます、何時ですえ……」
時刻ばかり聞いていてどうしても寝ないでいたが、さすがに嫁が可哀想だと思ったから、横になって枕には就いたが、眠るどころではない、今か今かと待っているうちに、八ツが鳴る、八ツ七ツときても幽霊は出ない、そのうちにガラリ夜が明けてしまった。
亭「オヤとうとう幽霊が出ない、もっとも幽霊も十万億土《じゅうまんおくど》から来るんだから、乗り込み初日は骨が折れるだろう、昨夜《ゆうべ》は出なかったが、今夜は確かに出るだろう」
と思うと二日目の晩になっても、やっぱり出ない。なんだ二晩スカを食った。おもしろくもない今日は三日目、返り初日だ、今夜こそ出るだろうと思っていると、三日たっても七日たっても出ない、アアつまらない、これならば化けて出るの、取り殺すなんていうのは、息あるうちのこと、まったくそんなことは無いものだと、初めて悟った。シテみれば二度目のだって、まんざらいやというわけではない、次第に仲睦まじくなって、間もなく、この二度目のお嫁さんが妊娠をいたし、月満ちて玉のような男の子が生まれました。たいがい子供の生まれるを、玉のようなという冠《かんむり》が付くが、たまには炭団《たどん》のようなのもございます。
その年も過ぎ、翌年も過ぎて三年目、先妻の三回|忌《き》の法事、後妻も死跡《しにあと》を承知で来たお嫁さんだから、その手前を兼ねるところもない、蒸物《むしもの》配りなどをすませて、当日は子供衆《こどもし》を連れて若夫婦|仏参《ぶっさん》をして帰ってくる、昼の疲れでグッスリと寝た真夜中に、ヒョイとご亭主が目を覚まして、
亭「オイオイ坊が目を覚ましたよ、アハハ子供の眠ったがりというが、赤ン坊のほうがよっぽど怜悧《りこう》だ、もぐり込んでって、おふくろの乳をくわえてる、フフ、それでも昼間寺参りに行って、観音様へまわって遊んできたんで、いくら子供ながらも疲れているとみえて、乳首《ちちくび》をくわえてまたスヤスヤ眠ってしまった、なんどきだろう……モウ八ツかな……アアー〔あくび〕しかし今日は墓参りをしたが、神参り仏参りをしたあとというものはまことに好い心持ちのものだ、女郎《じょろう》買いの朝帰りとは大ちがいのものだけれども、さっき墓へ手を合わせて拝んでるうちに妙な感じが起こった、先《せん》のが今日まで生きていたら、この女には聞かされないが、こういう子供でも出来たら、じいさん婆さんもどのくらい喜ぶか、アノ時分にはまだ親父《おやじ》も案じて、ここへ店を出したからといっても物に馴れなかったから、ずいぶんあれにも苦労をさせたが、早死《はやじに》をしたのは可哀想だった」
と、フト胸に浮《うか》むとまんざら好い心持ちでない、枕許《まくらもと》の行燈《あんどん》がボンヤリと暗くなると縁側の戸でも開けたように、サーッと吹き込んでくる風に、障子へサラサラサラ、毛の当る音がする。
ハテ変だな、髪を洗って髢《かもじ》でもあすこへぶらさげて置いたか、不思議に思って、腹ばいになって煙管《きせる》の雁首《がんくび》を、屏風の縁《ふち》へ掛けて、ヒョイと開いて見ると、先妻が緑の黒髪を振り乱して、さもうらめしげに枕許の屏風のそばにピッタリ座っている。
亭「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、今日法事をしてやっても礼に来るには及ばない、なんだって今時分《いまじぶん》出たんだ」
きく「なんで今時分たって、あなたはほんとうに恨めしいお方だ、あれほどお約束を遊ばしながら、百ヵ日もたたないうちに、そんな美しい、お嫁さんをお持ちなすって、赤ちゃんまでこしらえて、お仲をよくしていらっしゃるというのは、あんまりじゃァございませんか、それではお約束が違いましょう」
亭「オイおきく、おまえは生きてるうちは女ながらもちっとは理窟がわかったが、死ねばそうも物がわからなくなるのか、なるほどおまえのいう通り、約束はしたよ、約束はしたけれども、おまえの察しの通り、親父や親類の者が承知しないために、よんどころなくこの女を家へ入れた、けれどもかねて約束があるから、今日は出るか出るかと、蝙蝠《こうもり》みたように昼間寝て、夜起きて待っていたが、幾日《いくにち》たってもおまえの影も形も見えない、そうしておいて、こんな子供まで出来てから、ここへ不意に出てきて、怨《うら》みをいわれては困るじゃァないか、気の利いた化け物はとうに引っ込む時分だ、なんだって今時分でてきて、そんなことをいうのはおまえのほうが悪いだろう」
きく「それはわからないことはありません、私は死んだって、気は確かに残っております、どなたがお世話をなすって、何月何日《いついっか》にお嫁さんがおいでなすって、何日《なんにち》に子供さんがお生まれになったということは皆よく存じておりますよ」
亭「それじゃァなぜもっと早く出ねえんだ」
きく「それはあなた無理なことをおっしゃる」
亭「なにが無理なんだ」
きく「でも私の死んだ時に、大勢寄ってたかって髪を坊さんになすったでしよう」
亭「それはおまえ、親類が集まって一剃《ひとそり》ずつ剃《そ》ったさ」
きく「ソレごらんなさい、坊さんで出ると、愛想《あいそ》が尽きるだろうと思い、毛の伸びるまで待ってました」
[解説]おかし味はうすいが、はこびにしてもサゲにしても、天晴《あっぱれ》名作である。名人円喬の十八番《おはこ》であったが、その後先代の円生も得意であった。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
狸《たぬき》の釜《かま》
―――――――――――――――――――
狐は奸智《かんち》に長《た》けたもの、狸は愚かのものだといってあります。愚かでもなんでもすべて生《しょう》あるものは、喜怒哀楽の情があるもので、犬なども物をやれば尻尾《しっぽ》を振って来る、嬉しい悲しいがわからぬというものは決してないと申します。
八五郎「誰だそこを叩くのは、ドンドン叩くなよ、きまってやがる、また夜遊びをして締め出しをくったんで、泊めてくれだろう、誰だ、返事をしねえな」
狸「私でございます」
八「はっきり口をききな、変だナ、夜中だってェのにおどかすない、おくびょうの人間だ……今開けてやるよ、誰だ」
狸「早く開けてください」
八「うるせえなァ、今|心張《しんばり》を取るから待て……サア開いた……オヤ誰もいねえじゃァねえか、どこかそこらへ隠れやがったな、じょうだんするない、夜夜半《よるよなか》人をわざわざ起こしておいて、ふざけていやがる、誰かからかいに来やがったんだな、馬鹿にしていやがらァ……肝《きも》をつぶした、なんだ薄暗いところに……」
狸「こんばんは」
八「アレッ、なんだへっついの影に……アッ狸だな、こンちくしょう」
狸「ヘエ、せんだってはどうも……」
八「じょうだんじゃァねえ、せんだってがどうしたんだ、俺はそんなものにつきあいはねえ、狸の親類はねえよ」
狸「ヘエ、お忘れになりましたか、昨年の暮れでございました、あなたに命を助けていただきました狸でございます、今晩お礼ながらちょっとうかがいました」
八「アア寺まいりの帰りに畑道《はたけみち》を通ったら子供が大勢いるから、喧嘩でもしているのかと思ってそばへ寄ってみたら、子供がちいぽけな狸をつかめえて、ふんじばってひどい目にあわしているから、寺まいりの帰りでもあるし助けてやったら仏《ほとけ》の功徳《くどく》にもなるだろうと、子供に銭《ぜに》をやって助けてやったら、振り返り振り返り嬉しそうに逃げて行ったっけ、あの小狸《こだぬき》か、てめえが」
狸「ヘエ、あの時のことがありがたいと思って忘れる暇《ひま》はございません、お礼に出よう出ようと思いながら、ツイ無精《ぶしょう》をしておりますと、今日|親父《おやじ》が少し疝気《せんき》でもって寝ております……」
八「狸だてに疝気だといやァがる」
狸「ちょっと来いといいますから、そばへ行きますと、きさまは勘当《かんどう》してしまうとこういうんで」
八「フーム、てめえのほうにも勘当だの廃嫡《はいちゃく》だのということがあるのか」
狸「ヘエ」
八「なにか道楽でもしたのか」
狸「イエ親孝行をしております」
八「べらぼうめえ、いくら狸だって親孝行をして勘当される奴があるものか、第一いきなりに勘当はひどすぎるなァ」
狸「私もそう思って、どういうわけで勘当するのだと聞きましたら、きさまは命を助けていただいた大恩人を忘れちゃァ済むめえとこう言いますから、朝に晩にありがたいと思って、チャンと覚えておりますと言うと、馬鹿野郎となお叱《しか》られました、恩を忘れねえからといって、それで済むわけのものじゃァない、なにゆえお礼に行ってご恩返しをしねえと、親父の理屈を聞いてみればなるほどこっちが悪いので」
八「ご恩返し、俺はなにも恩返しをされようと思って助けたんじゃァねえ、かあいそうだと思って助けたんだ、そんな義理だてはいらねえ」
狸「イエ私もご恩返しをしたいと思いながら、ついご無沙汰《ぶさた》をしておりましたと言うと、それだからきさまなどはいかねえ、命を助けていただいてご恩返しをすることを知らねえ、きさまのような奴は人間にも劣るといわれました」
八「大変なことをいやァがるな、恩返しというのは何をするんだ」
狸「べつにしようもございませんが、おつかれになった時に、肩でも叩いてあげたり足でもさすったり」
八「いけねえいけねえ、俺は人間にせえ肩や足をさわられるのがきれえだから、そんな真似をされちゃァ恩返しにならねえや、マアいいから帰ってくんな、自体俺は臆病だから、狸と一緒にいるのはいやだ」
狸「帰ると親父に叱られます、ナゼご恩返しをしてこないと勘当されてしまいます」
八「困ったなァ、じゃァマアいてもいいがな、俺の所は貧乏だからなにも食い物がねえぞ」
狸「食い物なぞはどうにでもいたします」
八「ウムそうか、マア二三日もいたら馴れてきて気味の悪いこともねえかも知れねえが、昼間いくらも家《うち》へ友だちやなにか人が来る、みんな口の悪いヤツがそろってるから、あの野郎のところへ行くといつでも狸がふくれッつらをしているって、俺は八五郎という名だが、狸の八五郎なんて綽名《あだな》をされると困るからな」
狸「イエそれはご心配に及びません、なるたけ人の目に立たないようにしております」
八「親父に叱られるなら仕方がねえ、可哀想だからいてもいいが、今いった通り食い物がねえよ」
狸「ヘエ食い物くらい自分でどうにかいたします」
八「なにしろ遅いからもう寝よう、そこにヌッとしていられると、俺も寝にくいから寝ちまいねえ」
狸「じゃァお先にごめんなさいまし」
八「オッ、縁《えん》の下へ入らねえでもいい、夜中に人の来る気遣いはねえ、大丈夫だ」
狸「さようでございましょうが、畳が敷いてありますから……」
八「畳が敷いてあったって遠慮するな」
狸「遠慮はいたしませんが畳の上は冷えていけません」
八「ウフッ、畳の上は冷えていけねえッて、言うことがみんな変わってやがる、やっぱり縁の下のほうがいいのか、じゃァ勝手にしねえ、アアきびが悪いな……」
自体臆病な男だからあまりいい心持ちはいたしません、けれども昼のつかれがあるから横になるとグッスリ寝込んでしまいました、狸はまだ薄明るいうちから起きて、掃除|万端《ばんたん》残らず行き届いて、
狸「親方、親方……もうこれで五たび目だ、いくら起こしても起きねえ、人間は寝坊だなァ、死んでるようなもんだ、親方……しようがねえな、俺のほうじゃァまた寝ていても起きてる、狸寝入りというくらいだから……親方、親方」
八「ウム、ウム、アアアーどうもスッカリ寝込んでしまった」
狸「モウ起きなさい」
八「アッお向こうのおじいさんか、おまえさんは早起きだからね、エーと……アアそうか、ゆうべ変なことがあって、しまりをしずに寝てしまった、そうだそうだ……オヤ向こうのおじいさんかと思ったら見たことのねえ人だが、おまえさんはなんだえ」
狸「ヘエ昨晩の狸で」
八「アレッ、化けやがったな、こンちくしょう恩を仇でけえすてえのはてめえのことだ、恩返しをするなんて言やがって、人をばかしやァがる」
狸「お静かに願います、ばかしたわけじゃァございませんが、昼間なるたけ目立たないようにとこう思いまして、これでもなかなか心配して、さっきからいろいろやってみました、ちょうどあなたの年頃に似合った女に化けてみましたが、お長屋のおつきあいもあるし、突然におかみさんが出来たらおかしいと思って、おばあさんに化けましたが、どうもうまくいきませんから、いっそおじいさんのほうが目に付かないでいいと思いまして……」
八「そうか、しかしじいさんにしちゃァ、ふとりすぎてらァ」
狸「じゃァ少しやせます」
八「そう自由にいくかえ」
狸「ヘエ、ちょっとごらんなすって……」
八「アアやせたやせた、ちっとやせすぎた……オットットそのくらいでよかろう、さっき顔が向こうのじいさんによく似ていたが、少し変わってきたぜ」
狸「ヘエ時々変わります」
八「いけねえや時々変わっちゃァ、毎日同じ爺でなけりゃァ八公《はちこう》の所にいろいろな爺がいるなんていわれると困るから」
狸「そうでございますか、それは少し面倒で……」
八「せいぜい面倒をみてくれ、いつの間にか馬鹿に家がきれいになったな」
狸「あなたはずいぶん不精《ぶしょう》だとみえて汚《きた》のうございました、今朝薄暗い時分から起きてお湯をわかしてすっかり掃除をしてしまったんで、いい心持ちになりました。それからまァ顔を洗って手をきよめてご飯をたいてお汁をこしらえて、煮豆に納豆を買って、ついでに梅漬《うめづけ》の生姜《しょうが》に沢庵《たくあん》と茶漬物を買って来ました」
八「アレじょうだんをするない、俺のところは米もろくになし……」
狸「エー一粒もありません」
八「薪《まき》もなにもねえ、第一|銭《ぜに》がねえや」
狸「エーわけェございません」
八「わけェねえってどうした」
狸「火鉢《ひばち》のひきだしを開けたら手帳がありましたからそれを破って使いました」
八「手帳を破ってどう使った」
狸「その紙がちょっと札《さつ》やなんかに見えます」
八「フーン、それでみんな買ったのかえ」
狸「ヘエ、つりがここにたくさん取ってあります」
八「手帳の紙でつりを取ったのか……大変にあるなァ」
狸「ヘエこれは米屋のおつりで、これが薪屋のおつり、これは鰹節《かつおぶし》屋のおつり」
八「鰹節まで買って来たのか、こいつァ剛儀《ごうぎ》だ、なにしろじつによく働いてくれて第一きれいになってありがてえ、アアなるほど薪がたいそうあるな」
狸「ヘエそこへ積んでおきました、退屈でしようがないから、ほうぼうの薪屋へいくども行って、そのたんびにおつりを取って二わずつ買って来たんで……札はその時だけでじきに元の紙になっちまいますから、幾度も行くと露顕《ろけん》します」
八「なるほど、この辺の薪屋にこれだけ積んである家はありゃァしねえ、たいそうなものだ」
狸「お長屋へ一わずつやりましょうか」
八「そんなことをしねえでもいい……こりゃァ貧乏人は女房持つより狸を飼っといたほうがよほど徳用だ、当分俺の家に居てくれ、生涯居たっていい、重宝なもんだ」
八五郎顔を洗っておつけでご飯を食べてしまって、
八「時に狸公《たぬこう》や、人間というものは貧乏で意気地《いくじ》のねえものだと思うか知らねえが、俺は独身者《ひとりもの》でツイ怠けぐせが付いてるもんだから、借金もいくらか出来た、中に越後《えちご》から来る縮屋《ちぢみや》に四円なにがし、五円近い借りがあるんだ、あなただけいただけないために、宿屋でむだめしを食べているといって、うるさく催促に来やァがるんだが、今日も来るにちげえねえからおまえ一つ新聞紙かなにかで札をこしらえといてくんねえな」
狸「エーそれが長いあいだ札に見えるわけにいかないんで、じきに元の紙になっちまいますから、持って帰って新聞紙かなにかになってると、これは怪しいというのであなたが警察へでも連れて行かれるようなことになると私のご恩返しが無駄になりますから」
八「ウム、人間より考えがふけえな、なるほど……それじゃァどうだい、なにか化かす工夫《くふう》で、俺のところの一軒置いた隣に馬鹿に貧乏人があるが、まちげえて向うへ催促に行くというようなことにしたら……」
狸「いけません、第一そんな化かし方は面倒でございます」
八「面倒だろうがやっておくれ、それでなければモウ少しあちこちからおつりを集めてきてもらいてえな」
狸「ナニそんなことをしないでも、その人が来たら私が札に化けて先方ヘ行きましょう」
八「おまえが札になれるかえ」
狸「エエ、札や銀貨にはチョイチョイなっております、ちいさい時によくやって親父に叱られました」
八「なんで叱られた」
狸「夜十一時すぎになって往来のあかりの下なぞに札や銀貨になって転がってるんで、欲張ってる奴が拾おうとして手を出すと、引っ掻いて逃げ出すんで、なかなかおもしろうございます」
八「悪いいたずらをするな」
狸「ちいさい時にはずいぶんそんなことをしました」
八「じゃァ一つやってくれ、一円札で五枚……」
狸「それはいけません、一人だから一枚でなくっちゃァ、別々にはなれません、どうしても五枚でなくっていけなければ友だちを連れて来ますけれども」
八「友だちなんか連れてきちゃァいかねえ、それじゃァ五円札でいい、おつりはいらねえといって皆やっちまうから」
狸「いっそ百円札になって、おつりをもらいましょうか」
八「だしぬけになんか出すと、それこそ怪しまれる、モウ来るよ、毎日々々あしたあしたとのべてあるんだから……不意に家を明けられてアワを食ってしそこなうといかねえ、モウソロソロ化けてくんな」
狸「それじゃァ私が引っくり返りますから、あなた手拍子《てびょうし》を打っておくんなさい」
八「ヨシ、いいか、ひのふのみッと……オヤどこかへ行っちまいやがった、ナニ札などになれるものか、ごまかして逃げちまやがったのだろう」
狸「親方々々」
八「アレどこかで呼んでやがる、どこだ狸公」
狸「ヘエ」
八「ア、返事をしている」
狸「親方の膝《ひざ》のところに札があります」
八「アア、こりゃァてめえか、そうか、むやみに口をきくな」
狸「大丈夫」
八「不思議なものだなァ……アアいけねえや裏に毛が生えてるぜ」
狸「表だけ、ちょっと見本にご覧入れたので」
八「見本か裏も一つ……うめえうめえなんだか少し横がなげえようだな、オットオットそれじゃァつまりすぎた、よしそこだ、うめえうめえ、しかし札になるとめかたで軽くなるのは剛儀だなァ」
狸「アアたたんじゃァいけません、苦しゅうございます」
八「苦しかろうがしばらく我慢をしろよ」
狸「渡すまで、ひろげておいておくんなさい」
八「よしよし、うめえものだ、モウ来るだろう……」
縮屋「ごめんくださいまし」
八「アア来た来た、今朝は来るだろうと思ってチャンと都合して待っていた、五円だ、おつりはいらねえ」
縮「へへどうもすみません、皆いただきません、でもせめて宿賃のたしにと存じておりましたので、余分にいただきましては……」
八「江戸ッ子だ、ねえ時にゃァやれねェけれども、ありせェすりゃァ半端《はんぱ》にやるんじゃァねえや、ソーッとしまいな、あんまりひどいことをすると食いつかれるよ」
縮「へーッ」
八「肝《きも》をつぶさねえでもいい、そうやたらに引っくり返しなさんな、目がまわると可哀想だから、何も怪しいところはありゃァしめえ」
縮「ヘエ確かにちょうだいいたしました」
八「じゃァ面倒でも受け取りを置いてってくんな、どんなに懇意の間柄でも銭金《ぜにかね》は他人ということがある。後で、まだ受け取らねえなぞと言うといかねえから……」
縮「ヘエありがとう存じます、こう皆いただけるとは思いませんでした、どうもありがとう存じます」
八「気をつけて行きなよ、ええかえ、……アア行っちまやァがった、キョロキョロしやァがって、幾度も引っくり返して見やァがるから、どんなに、心配したか知れねえ、とうとうほんとうの札と思って縮屋《ちぢみや》め、狸をふところへ入れて喜んで帰った、どうだろう、露顕《ろけん》をして殺されると罪を作るもとだが、……アア肝《きも》をつぶしたモウ行ってきたのか」
狸「ヘエ途中から逃げてきました」
八「あんまり早えじゃァねえか、どうした」
狸「どうも驚いちまいました、あすこの路地の入口のところへ立ち留まったからどうするかと思うと、札を出して見ていました」
八「札というとてめえだな」
狸「ヘエ拡げて透かして見たり、引っぱって見たりいろいろなことをしやがるんで苦しくってしようがありません、それでも我慢をしていると、丁寧に四つにたたんで紙入れの中ヘギュッと押し込んでしまったんで……」
八「そいつァ困ったろう、どうして逃げ出した」
狸「紙入れを食い破って来ました」
八「そんなことがよく出来たな」
狸「ヘエ、どうせ逃げ出すついでだから、紙入れの中にいくらかあるなら、持って来ようと思いましたら、宿屋へ置いたとみえて、一円札がたった二枚しかありません、おこづかいに持って来ました」
八「ヘエー、札が札を持って来たのか、ありがてえありがてえ、どうもうめえもんだなァ」
狸「ヘエ年はわけえがなかなか性《しょう》がいいと、仲間にもほめられております」
八「自慢をしていやァがる、恩返しとはいいながら、てめえに大変に骨を折らした、俺も土産《みやげ》の一つも持たして親父のところへ帰してえが、なにを言うにも先立つものは金だ、ついちゃァ俺の行く寺の和尚がこのごろ茶の湯に凝っておまえは世間が広いから、あちこち歩いてるうちに、格安の釜が見当ったら世話をしてくれといわれているんだ、なんでも先方で好んでるのはヅンドという型の釜が沸きが早くっていいといってる、一つその釜になってくれめえか」
狸「ヘエよろしゅうございます」
八「めしを炊《た》く釜じゃァねえよ、茶の湯の釜だよ」
狸「エー茶釜なら文福《ぶんぶく》というのが私の先祖で」
八「また自慢をしていやがる、釜に一つなってくれ」
狸「どうか手拍子を願います」
八「よし、ひのふのみっつ……そう膨らんではいけねえ、俺が手でなでるからその形になってくんねえ……そうだそうだ、うめえうめえ飴細工《あめざいく》見たように自由になる、うめえけれどもなんだか淋しいね、アッ環《かん》を付けるところがねえ……そうだよしよし環がねえな、……ナニ、別にするには友だちを連れてくるって、そりゃァ困るよ、じゃァいいや、環は忘れてきたから、後で届けるとでも言っておこう、もう少し小ぶりになると申し分がねえな、アア、よし、それでモウ動いちゃァいかねえ、今度はやわらかいほうの風呂敷へ包んでやろう……アア、重いな、かなものだからやっぱり重くなければいかねえって……それはそうだ、札の時には軽くなるしなかなか器用のものだ、エーごめんくださいまし、和尚様はおいででございますか……」
和尚「オーこれはこれは、サアどうぞ、こちらへ……」
八「エーこの間お話がございました釜の手ごろのが他に払い物でございましたから、ちょっと借りてまいりましたが、いかがで……」
和「アアそうかえ、それはさっそく拝見しよう……なるほどこれは家にあるのより、少し小ぶりだな」
八「ヘエ、まだ大きくもなります」
和「イヤ小ぶりのほうを好むので、これならば思い通り、お急ぎでなくばマアゆっくりなさい、お茶を一つご馳走しよう、イヤどうもまことに手ごろで気に入った、ちょっと試してみるから……アア弁長《べんちょう》や、これへ水を入れてな、イヤ湯だけ沸けばいいのだから、その火鉢へもっと炭《すみ》をついで……」
八「エー和尚さんどうなさるんで……」
和「イヤちょっと火に掛けて試してみる」
八「それはいけません」
和「いけないというはキズでもあるのかえ」
八「どういたしましてキズなどございません」
和「それなら試してみるにさしつかえあるまい」
八「ヘエ、じゃァ私はまたあがります」
和「またあがるといって、用がないなら少しお待ちなさい」
八「イエちょっと行ってまいります、じきにまたうかがいますが、いかがでございましょう、先方では手放すくらいでございますからひどくお金を急いでおりますが……」
和「アアお金を急ぐ、そうかえ、煮えを試してみてから値を聞こうと思っていたが、いかほどだね」
八「さようでございます、先方で申しますには……円ぐらいというので」
和「どうもわからんな、はっきり言ってもらいたい」
八「ヘェ、どうでございましょう……円ぐらい」
和「ハア十円かえ」
八「ヘエ、十円十円」
和「手間は取らせない、煮えを試した上で……」
八「で、ございましょうがちっと急ぎますから……」
和「じゃァこうしよう、気に入ったら十円即金であげる、とにかく半分だけ持っておいで」
八「どうもありがとう存じます、さようならのちほど」
和「なんだか気ぜわしい人だの、わざわざ持ってきたくらいで少しの間が待てないで行ってしまった、弁長、釜へ水を入れたかえ、なにを見ている」
弁「ヘエ、なんだかさっきから見ると少し大きくなりましたようで」
和「ナニ大きくなるわけがない、水を入れたら火へ掛けなさい、どうも火のおこりが悪いな、どうも困るな、炭《すみ》を湿らしてしまって仕方がない、下をあおぎなさい、火が鈍いと煮えが遅い……アアそうバタバタあおぐな、灰が立っていかん」
狸「なっしょ」
弁「オヤ」
和「なんだ」
弁「誰かなっしょなっしょと言います」
和「きさまは弁長という名がある、誰もなっしょなどというものはない」
弁「エー花屋のお爺さんがお小僧さんお小僧さんといいますがなっしょなんてものは一人もありません」
狸「なっしょ」
弁「アレまた言います」
和「どこで」
弁「ここでございます」
和「ここで言うわけがない」
弁「アア表の煙草屋《たばこや》の小僧が、よく私のことをなっしょなっしょといいま
す、小僧がどこかに隠れていて、からかうんでございましょう」
和「そうか、悪い奴だ」
狸「なっしょ、あつい」
弁「オヤなっしょあついと言いました」
和「なるほど何か言ったな」
弁「この釜のようで」
和「馬鹿をいい、釜は湯が沸けば鳴るけれど、なっしょあついなどと言うものか」
弁「でも不思議でございます」
和「不思議ということはない、心の迷いだ、仏門《ぶつもん》に入っているものがそんなことをいってはいかん、オレがあおいでみよう、それでなにかいえばおかしい」
狸「じゅうじ」
和「オヤ、なんでそんな声を出す」
弁「私はなにもいやァしません」
和「うそをつけ、じゅうじといった」
弁「そんなことをいやァしません」
和「ウムわかった、あまり水を一ぱい入れたので、湯気が蓋《ふた》へたまって下へまわる、それでジューというのがじゅうじと聞えたのだ、イヤ確かにそうだよ……ヤアこれはいかん、なるほどこの釜は変だ、なにをあいつ持ってきたか怪しい釜だ、あおげあおげ、ドンドンあおげあおげ」
パッパとあおいだからたまりません。灰かぐらをあげて飛び出した、「ソレ釜が化けた」と坊主頭へ鉢巻をしてなっしょ坊主が、棒を持って追いかける、
和「コレコレ、とてもつかまらないからよせ、しかしなんだなありゃァ」
弁「本堂の脇へ追い詰めた時に見ましたら狸でございます」
和「狸だ、ウムそれでは半金《はんきん》かたられたか」
弁「包んだ風呂敷が、八丈《はちじょう》でございました」
[解説]狸といえば大概この落語だが、「七條の袈裟」という噺をやる人もある。狸を金襴《きんらん》の袈裟《けさ》に化けさせて出入りの寺に持って行き、金をもらって帰って来ると、モウ先に狸は帰って来ている。「実に恐れ入ったものだな、この上の頼みは、狸の睾丸《きんたま》《きんたま》八畳|敷《じ》きとよくいうが、一ツその大きなきんたまを見せてくれ」「かしこまりました」といって狸のひろげたのはようやく一畳敷きくらい「オイこれは小さいじゃないか、八畳なんぞないよ」「ヘエ、あとは先ほど七條の袈裟にいたしました」というのである。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
たちきり 〔上方の題〕立切れ線香
―――――――――――――――――――
エー、まえかた時計のございません時分《じぶん》には、芸者の玉《ぎょく》を線香《せんこう》で数えました。その時分のお話でございますが、
若旦那「かしら、うちかえ」
頭「オヤ、こりゃァ若旦那、サアどうぞこちらへ……オイ布団を持ってきねえ、マアどうもよくおいでなすった」
若「イヤ頭、私も来たい来たいと思ってるけれども、どうも出るひまがないんで……あねさんしばらく………」
女房「どうも若旦那まことにしばらく、わたしもねえあなたが桐生《きりゅう》からお帰りになったてえことをうかがいましたから、ちょっと上がりたいと思ってながら、ツイなんのかのッて一日遅れになっておりましてあいすみません、しかしまァよくお早くお帰りになりましたねえ」
頭「ほんとうに若旦那がこんなに早くお帰りになろうとは思わなかった、お茶を早く入れねえ、それからアノ蒸羊羹《むしようかん》を切ってきねえ、ありゃァあんまり甘くねえからかえって若旦那のお口に合うだろう」
若「イヤ頭今日はそうしてもいられない、今|親父《おやじ》が仲間の寄合《よりあい》で出かけたから、ちょっと機会を見ておふくろを欺《だま》して出て来たんだ、この間からたびたび尋ねておくれだが、いつも話をすることも出来ず残念でたまらないが、小夏《こなつ》はどんな様子だえ」
頭「ヘエ、じつはねえ若旦那、あなたと小夏の交情《なか》は私が手引きをしたんだろうなんかという噂《うわさ》もあるようでなんだかきまりが悪くって、あなたが去年の十月桐生のおじさんのところへおあずけになってから暫くてえものはお店へも敷居が高くって上がり兼ねていたようなわけで、ようようこの頃また上がるようになったんで……しかし若旦那、早いもんですねえ、昨日今日と思ううちに田舎へおいでなすってから丸一年たちましたね」
若「頭、おまえは早いと思うか知らないが、わたしゃもう十年も二十年もたったような気がする。なにしろ、親父にだまされてオレの代りにちょっと桐生へ行ってこいというので、なんの気なしに行ってみるとおまえ、むこうへはチャンと手紙が行ってるんで、芸者狂いをして店のためにならないから、改心するまで預ってくれという伯父への頼みだから座敷牢へこそ入れられないが、厳重に押さえつけられて窮屈のなんのって。こうと知ったら、小夏に逢《あ》っていろいろ話もしておき、金の少しも置いとくようにしたものを、しくじったことをした、さぞ小夏が情《じょう》なしだと恨んでいるだろうとそればかり気にかかってならなかった、といって手紙を一本出すこともできず、ただモウ毎日することもなく、貸し本なんぞを読んで日暮しをしているばかり、あんまりやり切れないから、偽《にせ》病気を使ったところが、ソコは田舎の人だけに正直だねえ、伯父がたいそう心配してブラブラやまいでも出やァしないかというんで、親父のところへ手紙をよこしたような塩梅《あんばい》、スルと間もなく番頭が迎いに来たんだが、じつにその時には生き返ったような心持ちがしたねえ、ところがこっちへ帰ってきても、先のような自儘《じまま》が出来ないから、小夏の様子も尋ねられず、ただ心配ばかりをしているがどうだい小夏は相変わらずやってるかえ」
頭「それがねえ若旦那、芸者なんてえ者は、旦那があるとか、情人《いろ》があるなどとかいうと、すぐに人気が落ちる稼業で、小夏さんもあなたてえ者があるという評判が立ったんで、パッタリ売れなくなっちまったんで、わっしもねえ、気の毒でならねえから、今に若旦那が帰っておいでなすったらご相談をして抱妓《かかえ》でも置いてそうしておまえは看板を引くなり、遊びながら出るなりして、おふくろにも楽をさせるようにしたらばよかろうから、マアそんなに心配しねえがいいと慰めておいたんで」
若「なるほど、それじゃァまだ一人で出ているかえ」
頭「そりゃァマア出ていたんで……スルとね……オイその戸棚の文庫《ぶんこ》を出しねえ……なにを泣きやがるんだ、すぐに涙をこぼしやァがる、早く出しねえ」
女「若旦那がお聞きなすったらさぞお驚きなさるだろうねえ」
頭「マア黙ってろい……若旦那マアこれを見ておくんなさい」
若「オオこりゃァみんな小夏から私に宛てた手紙……」
頭「さようでげす、みんなで確か三十七本ありますが、チョイチョイお湯の行き掛けとかおまいりの帰りとかに私のところへ寄っちゃァ、どうかこれを桐生の若旦那のところへ送ってくれッてこう言うんです、送れねえといやァ気をもむと思うから、アイヨアイヨといって、受け取っておいたのが、そんなにたまったんで、しまいにはここへ来て愚痴《ぐち》をいうじゃァありませんか、あんなに手紙をあげたのに、一度や二度はご返事がありそうなものだ、全然ご返事のないところをみると、若旦那のお心が変わったんじゃァないか、もしも若旦那のお心が変わったんなら、わたしゃいっそ死んでしまったほうがましだなんッて変なことを言うんでげしょう、可哀想とは思うけれど、熊《くま》と私が荒っぽい調子で気の引き立つようなことをいって慰めていたんだが、だんだん身体《からだ》が悪くなってふさぎ出してきたんで、土台が内気《うちき》のところへふさぎ出したからモウ座敷へ出たって考えてばかりいて、おもしろくもなんともねえお客は減るばかり、とうとうドッと枕に就《つ》くような病気になってしまいました」
若「エーッ、それじゃァ小夏はわずらっているのかえ」
頭「マアお聞きなさい、それが二月の中旬《なかば》だったなァおまえ」
女「そうです、モウ悪くなってからというもの、トロリと眠ると若旦那の夢ばかり見ているとみえて始終《しじゅう》若旦那のことをうわ言にいっているんで、そばでおっかさんもオドオド心配しているんですよ、スルとちょうど四月の十八日でございました、急に使いが飛んで来て、どうか夫婦にすぐに来てくれるように、容体《ようだい》が変わったからと言うんです、ところが生憎《あいにく》うちのひとがおりませんから、わたしがとりあえず飛んでまいりますと、身内の者も来ておりまして、早く姐《ねえ》さんに遇《あ》ってやってくださいといいますから、枕辺《まくらもと》へ行ってみると、モウ細い息なんで、夏ちゃん、おまえなにか言うことがあるならわたしにお言い、若旦那にお言伝《ことづけ》でもありゃァしないかいと言いましたら、それでも顔を上げまして、わたしの手をしっかりと握りまして、姐さんの声はわかるけれども、モウ顔が見えない、ただ言い残しておきたいのは、若旦那に一通りならずお世話を受けながら、お目にかかってお礼を申すことが出来ませんから、どうか若旦那がお帰りになったらくれぐれもよろしく申し上げてください、あとに老母《はは》を残しますからなにぶんお願い申しますと言ったきり、口がきけないでとうとう可哀想なことをしました」
若「なんてえことだろう、まるで夢のようだねえ、わずかのうちに」
頭「どうも人間てえものは、寿命の知れねえもんで、じつに可哀想なことをしました、たった一人の娘でございますから、おふくろがどうも眼が当てられません、カラキシポーッとしちまって」
若「そうだろうなァ」
頭「ヤイヤイ若旦那の前でそう泣くない……アアどうも今日はいやに蒸暑くって、なんだか知らねえが目から汗が出やがっていけねえ」
若「それじゃァなにかえ、今おふくろは身体でも悪いかえ」
頭「ナニこの頃は大きに諦《あきら》めがついたとみえて、一時ほどでもなく、マア時々わっちが行って酒の一杯も飲みながら、いろいろ慰めてやってますが、あなたにお目にかかったら、なんとか相談をして、どうかしてやりてえと思っていたんで」
若「なるほど」
頭「わっちの考えじゃァ、ちょっと奇麗首《きれいくび》の抱えをして、それに二代目の小夏を名乗らして、アアしてあなたのこしらえてやった着物やなにかもあるもんだから、それをそのまま着せて、そうしてその妓《こ》に稼《かせ》がせて、おふくろが寝酒の一合ずつも飲んでゆけりゃァ、自分の子と思って気も晴れるし、仏《ほとけ》も安心するだろうとこう思うんで」
若「そりゃァ頭、おまえのいうまでもない、いわば小夏の死んだのは私に逢えないのがもとだろう」
頭「エエそりゃァきまってまさァ」
若「じゃァおふくろもさぞ私を恨んでるだろうな、モウこうなれば、親父にスッカリ話をしてどうにかしよう、そのくらいのことはしなければならない、私も男だ」
頭「イヤ若旦那ありがとうございます、そのお言葉をうかがったんで、私もスッカリ安心いたしました、なァてめえにもそう言ったろう、若旦那だからキット話が早くわかるって、ここへあなたが金を少しばかりも出してなんとかいってお逃げなさるような人なら、女の子も惚《ほ》れねえんだが、この通り実《じつ》があっておやさしいお気性《きしょう》だから、小夏だってなァ……フフ、小夏でなくっても俺だって惚れちまわァ」
女「おまえさんなにを下らないことをいってるんだね、マアそうしておやんなされば、おふくろはもちろんのことアノ妓だって草葉《くさば》のかげで、どんなに喜ぶか知れません、ネーおまえさん、せっかくだから若旦那に、ちょっとおふくろに会ってやっていただいたらどうだろう」
頭「それもそうだ、若旦那、お帰りがけに、ちょっとおふくろに逢っておやんなさい、アノ妓の位牌《いはい》に線香の一本もあなたが立っておやんなさりゃァ、どんなに悦《よろこ》ぶか知れませんぜ」
若「じゃァ頭、ご苦労だがおまえ一緒に行っておくれ、おふくろにあまり愚痴でもいわれると困るから」
頭「エーようがす、そんな愚痴なんぞ言うようなおふくろじゃァありません、じゃァ行きましょう」
頭「おっかァいるかえ、ア若旦那をお連れ申してきたよ」
母「どなた、オ……カ頭、マア若旦那……サアおあがんなさいまし、マアよくおいでくだすった、サアどうぞこちらへ」
若「おっかさん、しばらくだったね、いつもたっしゃでいいねえ」
母「あなたこそお変わりもなく、いつお帰りでございました、わたしもちょっとお目にかかりたいと思ってもそういうわけにいかず、こんなに早くお帰りのことを知ったら娘もわずらやァしなかったんでございましょうに、お聞き及びでもございましょうが、四月の十八日に小夏は歿《な》くなりましてございますよ、あなたにもいろいろご恩になってお礼も申し上げないで、息を引き取るまであなたのことを言っておりました」
若「イヤおふくろ、今頭のところで聞いてわたしもさんざん泣いてきた、いろいろ頭とも相談をしてあとあとおまえの往《ゆ》き立つようにしようから、決して心配しなさんな」
頭「若旦那のおっしゃる通りあとあとのことはいろいろ相談をしてきたから、下らねえことを愚痴をこぼすんじゃァねえよ」
若「私の顔を見たら、さぞ愚痴も出るだろうが、そこは因縁《いんねん》とあきらめておくれ、そのうちおまえの身体は私が生涯|背負《しょ》って立つ、抱えの芸者でも置いて美味《おいし》いものでも食べたり、酒の一合ずつも飲んで楽のできるよう、どんなにでも面倒をみるから恨んでおくれでない」
母「マアありがとうございます、なんであなたに向かって愚痴どころではございません、年寄りがあとに残ってお世話になりますのは、まことにどうもすみません、とんだお荷物でございます」
頭「しかし若旦那がそうしてくださりゃァ、仏もどんなに喜ぶか知れねえ……オイおふくろ如来《にょらい》様のおあかりがついてねえじゃァねえか」
母「オヤ今まで点いてましたが、いつの間にか消えました、今つけますから、どうぞ会ってやってくださいまし」
おふくろがあかりをつけるのを待って、若旦那が仏壇の前へ来てみますと、まだ新しい小夏の位牌「妙月清光信女《みょうげっせいこうしんにょ》、四月十八日死」としてございます、線香をあげて回向《えこう》をいたし、ヒョイとわきを見ると、桐の箱の上に三味線がついでございますから
若「オヤオヤ三味線が継いであるが、誰がひくんだえ」
母「若旦那聞いてくださいまし、この三味線はアノ妓が枕に就きますと、菊岡《きくおか》から出来てまいりましたので。娘のいうには、おっかさん、この三味線はよく出来たが、モウお座敷へ出て弾くようなことはとても出来ないと言いますからそんなことをいわないで、早く治っておくれと申しまして、ちっとでも工合《ぐあい》のいい時には、三味線が好きだもんですから、蒲団《ふとん》の上で調子などを調べましたのが、今なお目の先にチラつきます、それゆえ毎日掃除をいたしては、仏の楽しみにと思ってここへそなえておきます」
若「そうかえ……アーこれは大層よい出来だ、一度も座敷へ持って出ないじゃァさぞ残念だろう」
と若旦那が取りあげて一二三の調子を合わせて箱の上へ置くと、不思議やこの三味線が一中節《いっちゅうぶし》の紙治《かみじ》を弾き出しました。
頭「オオ若旦那、怖いもんじゃァありませんか、あなたが調子を合わせたもんだから、仏が三味線を弾くんですぜ、怖いな、これは不思議だ」
若「ウウム、紙治だね」
頭「ヘエ」
若「私が好きでいつでも座敷でこれをやらないことはない、これが出ないと若旦那、まだ紙治が出ませんよと、皆が言うくらいにオレが好きな浄瑠璃《じょうるり》だから、小夏がわざわざ弾いてくれるとみえる、アア顔が見たいな……アア、オヤ音がとまった、モウ少し弾いてくれればいいに、肝腎《かんじん》なところでとめちまった、……さりとはせまきご量見《りょうけん》、死んで花みが咲こかなァ、……モウ少し弾いてもらいたかった、おっかあモウ音がとまった……よ」
母「ハイ若旦那、そのはずで、仏壇の線香が断ち切りました」
[解説]元は上方の噺、最初三代目小さんが東京に移した。精十郎という呉服屋の若旦那が吉原《よしわら》の芸者小夏に馴染むという長いものだったが、その後|円右《えんう》が前半を略してやっていた。現在は誰がやってもたいがい前記のようになっている。東京では「たちきり」だが、上方では「たちきれ」である。サゲはぶッつけ落ち。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
もと犬
―――――――――――――――――――
もと犬というお笑いを申し上げます。元々落語はおかしいのが目的でございますから馬鹿々々しいという理窟を捨てて、ご覧願います。仏説《ぶっせつ》にでもありますものか、昔から白い犬は今度の世に人間に生まれ変わるとかいってあります。すでに徳川様のころ、犬公方《いぬくぼう》というのがございまして、これはご自分が戌《いぬ》の年なので、たいそう犬をお愛しになり、そのころ犬を殺しでもしたら大変、うっかりぶつことも出来なかった、これがためどうも市中にえらい騒ぎが出来ました。
音羽《おとわ》の一丁目に護持院《ごじいん》というお寺がございますが、昔この寺に白い犬が飼ってございました。もっともこれは徳川幕府からチャンと餌料《えさりょう》が付いて護持院に預けられていたものだそうで、総身《そうしん》差し毛一本ない真っ白の犬というものはまれだそうでございます。それがために真っ白の犬を人間に近いといったものでございましょう。いつのころの話ですか、その護持院に飼ってあった白犬、むろん純粋の日本犬でございますが、人の言うことがよくわかったといいます。そういうところからマアこの落語《はなし》が出来たものと思われます。
浅草|蔵前《くらまえ》の界隈にどこの家《うち》の犬というのでない始めは迷子犬《まいごいぬ》であったのが、今ではほうぼうで食い物などをやって、つまり町内の共有物《きょうゆうもの》みたようなもので、この辺で可愛がっている白犬、八幡様《はちまんさま》の境内にしじゅう遊んでおります。通る人ごとに、「白犬は人間に近いというが、真っ白で良い犬だ、きさまは今度の世には人間に生まれ変わるぞ、アアうれしそうな顔をしている、人の言うことがわかるとみえる、そうだろう、モウ半分人間みたようなものだ、今度は人間になるのだぞ、アア良い犬だ」
と人ごとに人間になれるなれるというのを聞いて、犬ながらも今度の世には人間になれる了簡《りょうけん》、今度の世というと死んで生まれ変わるのだ、しかし生《しょう》あるものは生まれる時と死ぬ時とこの二度の時に前後を忘れてしまうとかいいます。
もう半分人間になってるというのだから、いっそのことこの世から人間になりたいものだと考え、畜生ながらも一心《いっしん》、無理な願いではあるが、八幡様へ願《がん》をこめまして、どうぞこの世からなれるものなら人間になさしめたまえと、さんしち二十一日、精進潔斎《しょうじんけっさい》裸足まいり、もっとも犬は下駄《げた》やなにかはきゃァいたしませんが、堂へ向かってしきりに祈っていると、ちょうど満願《まんがん》の日の朝ソヨソヨ身体《からだ》へ風が当っていい心持ちで拝んでおりますと、フカフカ白い毛が飛びはじめた。信心《しんじん》はすべきもので、神の利益《りやく》でこつねんと人間が一人できあがりました。
白「オヤ、アアありがてえな、こりゃァなった、人間に、……人の言うことは用いるものだ、ありがとうございます、手もチャンとある、アア人間だ」
けれども人間になってみると、きまりが悪くって、はだかじゃァ歩けない、せめて腰のまわりだけもまとうものがなかろうかと、あたりを見るとちょうど、ちょうずばちのところに納《おさ》め手ぬぐいというやつがかかっている。これを二三枚取って、腰のあたりへ付け、モウこれではずかしいことはない、当今と違って昔のこと、裸体《はだか》で歩いていても差しつかえないから、蔵前通りをノソリノソリ歩きはじめたが、どうも立つとグラグラする、はってみたり、立ってみたり、人間がはうというのはおかしなものだ、なるたけ立とうと、ブラブラ歩いてまいりますと向こうから来たのは桂庵《けいあん》〔口いれ屋〕の主人、
白「ヘエこんにちは」
○「アア肝《きも》をつぶした、なんだいおまえさんは素っ裸体で、それもいいが、歩いてきたと思ったらいきなり這ってどうしたんだ」
白「ヘエこんにちは」
○「なにか私に用ですかえ」
白「ヘエ奉公がしたいんで、あなたにお願い申しとうございます」
○「奉公がしたい、おかしな人間だな、私はおまえさんをまるで見たことがないが、だしぬけに奉公がしたいというのは、わたしの商売を知っているのかえ」
白「ヘエ知っております、上総屋《かずさや》さんで……」
上「アア私は上総屋という人入れ稼業だ、よくご存じだね」
白「ヘエ始終、お宅のところへ行っております」
上「そうかえ、人の出入りが多いので、ツイおみそれ申した、奉公口はいくらでもあるよ、今もお得意から催促があったんだが、人がなくって困って、これから心当りをたずねようと思って出てきたんだが、おまえさん年頃がちょうどいい、けれどもおとっさんかおっかさん、それとも親類かなにかあるかえ」
白「ヘエなんにもないんで」
上「なんにもない、アア裸体でいるところをみると、遠国者《えんごくもの》だな」
白「ヘエ遠国者で……」
上「そうかえ、よくあるやつだ、宿屋のポン引きとか、悪い番頭なぞが、遊びかなにかへ連れて行きいくらもかからねえで、これだけかかりましたと、金から着物まで取ってしまって一昨日《おととい》来いとほうり出される、その手がいくらもあるんだよ、土地なれねえから、そんなものに引っかかる、おおかたそうだろう」
白「ヘエそうでございます」
上「なんだか見た様子からおとなしそうな人だ、受け人のない人をむやみに世話もできねえけれども、異国から来たわけでもない、同じ日本人だ、じつは人に困ってるところだからともかくも私の家までおいで」
白「アアさようでございますか、奉公さしてくださいますか」
上「世話をしてあげるからおいで」
白「ヘエありがとうございます」
上「なにしろ裸体じゃァいかない、私の羽織《はおり》を貸そう、これをお着……アア頭へかぶるんじゃァない、着るんだよ、着物の着ようも満足に知らないのは困ったな、けれどもそういう人のほうがまた質朴《しつぼく》でいいだろう、なんになっても一生懸命|正直一遍《しょうじきいっぺん》、主人を大事に勤めなければいけねえよ」
白「ヘエありがとう存じます」
上「ここだ私の家は、知ってるかえ」
白「ヘエ存じております、このあいだ台所のところにおりましたら、おかみさんに水をぶっかけられました」
上「どこのおかみさんに……エー私の家の……変なことをお言いでない、なんだかポーッとしているね」
白「ヘエ、ポーッとしております」
上「マアお入り……だが裸足じゃァいけねえ、裏へまわってあがんなさい、そっちへまわってまわって……なにをグルグルまわってるんだ、台所へまわんだ、おかしな男だなァ」
女「お帰んなさい、たいそう早かったね」
上「今そこまで行くと色の白い若い男だ、田舎者らしい、ポーッとしているんで、ポン引きかなにか悪い奴に引っかかって、吉原《よしわら》へでも連れて行かれたんだろう、持ってる金はみんな使わされた上、裸体にして追い出されたんだな、人の良さそうな奴だから連れて来たが……アレッ、オイ困ったなァ、台所へまわって、足を洗わずに上がったぜ、田舎者はゾンゼイだというが、内も外も一緒にしちゃァいかねえ、足を洗いねえ、そう板の間へ泥足《どろあし》でクルクル廻っちゃァいけねえ、下へ降りて足を洗って、足を拭いたら板の間をよく拭くんだ、マア手ぬぐいで板の間を拭いちゃァいけねえ、こっちに雑巾《ぞうきん》がある……そうだそうだその這って拭くところなんぞは知ってるようなところもあるが、なんだかほかはポーッとしているな、ここへおいで、……なんだか坐り方がおかしいな、チャンとお坐り、おまえは様子がいちいち変わってるが、どういう所へ奉公がしたいんだえ」
白「ヘエどこでもようございます」
上「どこでもじゃァいかない、おまえのほうに望みがあるだろう」
白「イエべつに望みということもございませんが、うまいものを食べられる所がようございます」
上「変なことを言うな、もっともずいぶんケチな家があってな、食い物も満足のものを食わせねえという家があるからな、マアいい所へ世話をしよう、腹がへってるようだ、飯《めし》を食いねえ、なにか出してやんな……香物《こうこう》ばかりだ……香物ばかりだというがおまえ食べるかえ、嫌いの人があるが」
白「お香物はまだ食べたことがございません」
上「梅干はどうだい」
白「これも食べたことがないんで……」
上「ウム嫌いだとみえる、奉公して苦労すると、そんなことはなくなる、つまりわがままだ、どんな物でも食わなくっちゃァいけねえ」
白「ヘエさようでございますか」
上「干物《ひもの》があったっけ、|くさや《ヽヽヽ》の干物を食うかい」
白「ヘエ干物は頭でもなんでも食べます」
上「頭まで食わねえでもいい、じゃァ干物を二三枚焼いてやれ、くるみ足の膳《ぜん》がいい、給仕なんぞしてやらねえでもそこへ出してやりゃァいい、なにしろ裸体じゃァいかねえ、ちょうど背格好《せいかっこう》も同じくらいだから俺の着物で間に合うだろう、何か出してやんねえ、帯《おび》と羽織《はおり》……アアそれがいい、下帯《したおび》もねえのか、納め手拭を褌《ふんどし》にするなんてもったいねえ、神様へ納めたものだ、そっちを出してやんねえ、……エー飯を先に食っちまって、それから支度《したく》をするがいい……どうした、食べちまったか、遠慮はねえからたくさんお食べ」
白「ヘエモーみんないただきました」
上「ナニ飯櫃《おはち》が空《から》だ、そいつァ食いすぎるな」
白「その代りこれでもって三日四日食べずにいられます」
上「食いだめなんぞしねえでもいい、飯は毎日三度ずつ食うものだ」
白「アアそうでございますか」
上「そうでございますかとは変だな、いくら忙しいからって、飯の食いだめはできねえものだがなんだか変てこだな、サア着物をお着、下帯を先に締めて……立て立て、オイ首のまわりへ褌を巻くんじゃねえよ、やっかいだな、下帯を締めることも知らねえ、なんでもよっぽど暖《あった》けえ国で生まれたんだな、それに違いねえ、待ちねえ、俺が締めてやる……ソレこういうふうに締めるんだ」
白「なるほどいい工合のもので」
上「いい工合じゃァねえ、着物をろくに着たことがねえに違いねえ、どうも変だ、さっき表で羽織を着せてやったら、頭からかぶったっけ、おまえ着物を着たことはねえのかえ」
白「ヘエ」
上「おかしいなァ……アア横丁の隠居さんのところからまた使いが来たっけな、とぼけた男をよこしてくれというんだ……どうだいおまえさん、いい口があるが、先はご隠居さんで、女中が一人に、おまえが行けばマアおまえともで三人ぎりだ、講釈《こうしゃく》が好きなご隠居で、毎日講釈場へ出て行ってしまうとあとは女中が一人ぎりで寂しくって可哀相だから、男を一人置いてやりたい、それには家にいても女中と対座《たいざ》でいるのもまことにつまらないものだから、どうかちょっと話相手になる、腹を抱えて笑わせるような瓢軽者《ひょうきんもの》を雇いたいというので、この間から二人ばかり目見得《めみえ》にやったけれども、しゃべりすぎていけないとか幇間《ほうかん》じみていけないとかいって気に入られないんだがおまえのさっきからの様子がなんだか吹き出すようなことがいくらもあるが、そういうのが気に入られやァしないかと思うがどうだい、給金《きゅうきん》もいくらか割がいい、身体が楽で食い物はいいし先方で気に入るかどうだかそこは行ってみなければわからないけれども、つまり隠居さんを笑わせるようなことをすれば、たしかに気に入るに違いない」
白「どうでございましょう、おまんまは食べられましょうか」
上「お飯を食わせねえ奴があるものか、行くんなら早いほうがいい、催促をされてるんだから……じゃァ俺はちょっと隠居さんの所へ連れてってくるから伊勢屋さんから使いが来たら、まことに田舎者の女中が当時少のうございますが、今日中には仲間内を探してどうかいたしますとこういっておいてくれ……サアおまえさんこっちへおいで、アア下駄がなくちゃいけない、エー下駄を履いたことがねえ、アー田舎者はそうかも知れねえ、裸足じゃァいかれねえ、その上の棚に俺の下駄がある、それを履いて行きねえ、アア下駄を口でくわえる奴があるか、手でおろしねえ……なにを見ているんだ、オヤ唸《うな》ってる……どうしたんだ」
白「ヘエあすこにチンコロがおりますから、噛《か》み倒してやろうと思って」
上「そんなことをしちゃァいけない、チンコロなんぞ噛み倒す奴があるものか……オイオイそこらへんへむやみに小便をしちゃァいかねえ、田舎とは違うから、アア匂いを嗅《か》いでる、変だなァこの人は、そんなことは先方へ行ってやらなけりゃァ蔭《かげ》でやっても縁《えん》の下の力持ちでつまらねえ、そういうおかしなことをご隠居が退屈でもしていると思ったらやってごらん、きっと喜ぶから……ここの家だが、すぐにおまえを連れ込むわけにもいかないから、少しここに待っておいで」
白「ヘエ」
上「ここに待ってるんだよ……こんにちは……へえどうもツイご無沙汰《ぶさた》をいたしました」
隠「アー上総屋《かずさや》かい、私のほうで無理を頼むのだからしかたがないが、どうだえ、あったかえ」
上「ヘエ今度いいのがございました、遠国者でございまして、当地にこれという受け人もございませんが当人は確かに正直そうな者でございます、年もまだ若く、ちょっときれいな男でございます」
隠「田舎者ならいいだろう、おもしろい男かね」
上「なんだかよほど変わっております」
隠「ヘエー」
上「その代り、少し大食いでございます」
隠「食い物なぞはいくら食ってもいい」
上「いま宅《たく》で飯櫃《おはち》にいっぱいあったご飯を食べさせたら、お腹もすいてたんでございましょうがみんな食べてしまいまして、これで三日くらいは食べずにいても平気だと言いました」
隠「ヘエー、ほかにまだ変わってるところがあるかえ」
上「すべてのことが変わっております、手があるくせに私の下駄を口で咬《くわ》えました」
隠「おもしろいな、そういう奴がいいな、とにかく連れてきておくれ」
上「ヘエ外に待たしてございます」
隠「それがいけないよ、待たしてなんぞおかないでこっちへすぐあげるがいいじゃァないか」
上「ヘエ……アッあの通りでございます、待っていろと言いましたら、下駄の上に頬杖《ほおづえ》をついて寝ています」
隠「アア綺麗な男だな、なるほど少しこれは変わり者だ、よかろうこういうのが……寝ているかと思うと目をあいてる、これはおかしいな、こっちへお入り……アア肝《きも》をつぶした、飛び込んじゃァいけない」
上「いきなり飛び込む奴があるか、このご隠居様だから、よく気をつけておいていただかなくっちゃァいかねえよ」
白「ヘエ」
隠「狂人《きちがい》じゃァ困るが、様子が変わってておかしい、マアマア置いてってごらん」
上「さようでございますか」
隠「明日の朝早く来ておくれ、このあいだ来たおしゃべりの奴、アアいうのは嫌いだが、これはいいかも知れない、なんだか横っ倒しに坐ってるが、足でも悪いか」
上「そんなことはございませんが、坐りつけないんでございましょう」
隠「アア田舎で育っちゃァそうだろうな、とにかく置いておいで」
上「さようでございますか、いずれ明朝うかがいに出ます」
隠「そうしておくれ、一日一晩いればだいたいわかるから、それだって私のほうで置きたいと思っても、当人が辛抱《しんぼう》ができないというのを無理にいてくれというわけにもいかない、縁づくだから……」
上「さようでございます、女中さんのおもとさんにどうかよろしく」
隠「アアいよ……オイオイおまえのあとからその男が付いて行くぜ」
上「アレ、付いて来ちゃァいかねえ、そっちへ行ってるんだよ、明日早くまたうかがいに来るから、おまえはこっちでお目見得をするんだ」
隠「サアサアおまえこっちへおいで、初めての奉公かな」
白「ヘエ」
隠「いくつだえ」
白「エエ」
隠「エエじゃァない、何歳だというんだよ」
白「それはどうも」
隠「それはどうもといって、自分の年は知ってるだろう」
白「皆のいうには……」
隠「皆がいうのはてえのはおかしい、おまえの生まれたのはいつなんだ」
白「それがソノ、よく知らないんでございます」
隠「自分の生まれた年を知らないというのは変だな、生まれはどこだえ、遠国だというが」
白「蔵前の酒屋の先に金物屋《かなものや》があります」
隠「ウム」
白「あすこの裏で生まれました」
隠「金物屋というのは私の伜《せがれ》の家だ、アノ裏で生れたてえのはおかしいな、俺も元はあすこにいたがツイゾ見たことがない、おまえのほうじゃァ私を知ってるかえ」
白「ヘエ知っています」
隠「ヘエーそうかい」
白「あなたがあすこにおいでの時分には私はまだ小さかったんで、アノ頭《かしら》の長吉《ちょうきち》さんという人が可愛がってくれました、ヘエ火の番の時には町内を連れて歩いてくれました」
隠「火の番といやァ夜遅くまわるんだ、子供を連れて歩くというは変だな、アノ裏のどっち側にいたんだ」
白「ヘエ突き当り」
隠「突き当りにゃァおまえ長屋はないぜ、両側に長屋があって突き当りの所には掃溜《はきだめ》がある」
白「ヘエ、アノ掃溜の隅《すみ》でございます」
隠「掃溜で生まれる奴があるものか、掃溜見たような家で生まれたというんだろう」
白「ヘエ、そうでございます」
隠「親父はどうした」
白「ヘエ」
隠「イヤサ親父はどこへか行ったのかそれとも死んだのか」
白「それがソノ、いろいろなものがあるのでよくわかりません」
隠「ハア、シテみるとおまえのおふくろという者は浮気な馬鹿女で、享主が定まっていないんだな」
白「ヘエ、そうでございます」
隠「それでどうした」
白「横浜から西洋人が洋犬《かめ》を連れて来て、そのあとを匂いを嗅いで一緒に行ってしまいました」
隠「なんだか変だな、親父のわからないほど、さんざん浮気をしたその上に、目色《めいろ》の変わった西洋人のあとに付いて行くというのは大変者《たいへんもの》だな」
白「ヘエさようでございます」
隠「兄弟はないのか」
白「三疋《さんびき》ございます」
隠「三疋はおかしい、土地ッ子を連れて田舎者だなんて上総屋という奴はそそっかしい奴だ、兄貴か弟か」
白「ヘエ私が一番先に生まれたんですから弟で」
隠「先へ生まれたから弟というのは変わってるな、アア三つ子か」
白「ヘエさようで……」
隠「三人ながら男かえ」
白「みんな牡《おす》でございます」
隠「牡ッてえ奴があるか、それはどうした」
白「小さいうちに石をくっつけて天王橋《てんのうばし》から放り込まれて死んでしまいました」
隠「それは可哀相に、乱暴な奴があるものだ、モウ一人はどうした」
白「車にひかれて死んじまいました」
隠「アアそれは可哀相にな、ほかに身寄り頼《たよ》りはないのか」
白「ヘエなにもないんでございます」
隠「しかしそれが親父だろうという者がわかりそうなものだな、みんな近所の男なら」
白「ヘエ、マア酒屋のぶちに一番耳のところがよく似ております」
隠「ナニ耳が似ているというのは変だな、なんだかおまえの言うことはいちいちおかしいよ、いくら俺が変わったことが好きだって真面目《まじめ》の話の時には真面目に話しをしなくっちゃァいけないよ、また俺が退屈をしているなと思ったら、そばへ来てとぼけたことをいって笑わせてくんな、もとや、もと……これは女中のおもとというんだ、俺とおまえと女中と三人きり、ほかに誰もいない、朋輩仲《ほうばいなか》が悪いと俺のほうで困る、昔からのたとえにも、犬も朋輩、鷹《たか》も朋輩、なにをキョロキョロするんだよ、仲をよくしてくんなよ、俺のいうことがわからなくっちゃァ困る、犬も朋輩、鷹も朋輩……オイオイどこへ行くんだ、オイオイ帰っちゃァいかない、初めての奉公というやつは家が恋しくなるもんだが、この土地で生まれたものなら、なにもそんなに家を恋しがることはないマア落ち着いてなさい、いやならいやでしかたがないが、明日の朝上総屋の来るまで待ちなさい、まだ肝腎《かんじん》の名を聞かなかったが、なんという名だえ」
白「白」
隠「ナニ」
白「白」
隠「白吉《しろきち》とか白蔵《しろぞう》とかいうのか」
白「なんだか知りませんが、ただ白というんで……」
隠「ただ白はおかししい、ただ白……、アア只四郎《ただしろう》か」
白「ヘエそうでございます」
隠「変わった名だな、しかしとんだおもしろい男だ、マア茶でも入れよう、おまえ茶をのむかえ……エーのんだことがない、嫌いとみえるな、人間、嫌いが多くってはいけない、ソコは他人の家へ奉公をすると豪気《ごうき》なもので、嫌いなぞはなくなる、マア茶を入れてなにか菓子でもやろう」
白「ヘェありがとうございます」
隠「いま茶を入れようと思って鉄瓶《てつびん》を掛けておいたが女中がどこかへ行ったようだ、おまえちょっと見てくんな、チンチンといってるかどうだか」
白「ヘエ」
隠「チンチンいってるか……なんだいおまえにチンチンをしろというんじゃァない、鉄瓶がチンチンいってるか見てくれというんだ」
白「さようでございますか」
隠「なんだか変だな、私は番茶を焙《ほう》じたのが一番好きだ、茶焙《ちゃほうじ》がこげてしまったから、おまえちょっとそのなにを取ってきておくれ、そこに焙籠《ほいろ》がかかっている、その焙籠《ほいろ》」
白「ワン」
隠「焙籠《ほいろ》だよ」
白「ワンワン」
隠「へんだな、ふざけちゃァいけない焙籠だよ」
白「ワンワン」
隠「オイ飛び付いちゃァいけないよ、困ったなァ、オイ上総屋を呼んできな、これはちと変わりすぎらァ、どこへ行ったおもとは、オイ、|もと《ヽヽ》はいぬか」
白「今朝ほど人間になりました」
[解説]「心学」〔江戸時代の庶民道徳の心得〕のたとえ話から材料をとったものという。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
猫の忠信《ただのぶ》 〔または〕猫忠
―――――――――――――――――――
毎度|落語家《はなしか》がお女中のことを引き合いに出しますが、どうもご婦人が出ないとはなしになりません。町内へ稽古所《けいこじょ》ができましても、師匠が女と男とでは人気が違います。
○「オイ、横町へ稽古所ができたぜ」
△「女か男か」
○「男だ」
△「まだこちとらへ顔を出さねえぜ。病み犬をけしかけてやろうか」
なぞとおっしゃいます。女が稽古所を始めますと、
○「横町へ稽古所ができたぜ」
△「男か女か」
○「女だ」
△「女か、じゃァさっそく弟子いりをしようじゃァねえか」
といって、常磐津《ときわづ》か清元《きよもと》か知らないで、稽古いりをするが、女という者は大した愛嬌の者で、お師匠さんのほうでナカナカお世辞を振りまくのがむずかしい。てんでんに稽古は付けたりで、師匠をオレが手に入れてしまおう。オレが師匠を食ってしまおうとまるで化け猫みたように、狙いを付けております。そのうちにお寒くなりますと、こたつというものが出ます。これを俗に世話ばこと申して、良くないものでございます。お師匠さんがあたっておりますと、その向こうに若い衆が入ってあたっているが上に布団が掛っていますから中でなにをしても知れません。よもやまばなし、芝居がおもしろいとか、どこへ行ってみようとかいう話をしておりますうちに、まさか無法なこともできませんが、話をしているうちに、ちょっと、手先へさわる。小指を一本引っぱってみて、黙っているから、その次の薬指を引っぱってみる。順に五本引っぱってしまっても黙っているから、それから、マア師匠の手をなでてみたり、くすぐってみたりすると、向こうで手をつねります。こりゃァしめたと思うから、グッと手を握る、向こうでも締めつける。モウしめたもんだ。師匠はオレのものだと、しっかり握っております。そのうちに台所でおっかさんが、
母「ちょっと師匠来ておくれ」
師「アイヨ」
とお師匠さんは台所へ行ってしまう。師匠が台所へ行ったのに、手を握っているから、ハテナ師匠が台所へ行ってもここに手がある。恐ろしい長い手だなと、若い衆同志ヒョイと顔を見合わせて、
○「なんだてめえの手か」
△「てめえか、オレの指を引っぱったなァ」
○「ちくしょう、オレの手をつねったな」
△「恐ろしく師匠はあぶらっ手だと思ったらてめえか」
○「オレも師匠の指にしちゃァ爪が生えすぎていると思った。少し爪を切れ」
△「この握った手はどうする」
○「しかたがねえから腕押しをしよう」
こたつの中で腕押しを始めるなんて、おおきに間の悪いことがございます。師匠は、一人だけに世辞を言いますと、ほかの若いしの気を悪くしますから、大勢にまんべんなく世辞を振りまく。便所から出て、
師「ちょっと辰《たつ》さん、すみませんがおひやを持ってきてちょうだいな、ちょうずばちに水がないから」
この辰さんという人が親に言いつけられても、動こうとしない無精者だが、師匠の声がかかると、
辰「オイきたッ」
と返事と共に立ちあがり、水を汲んで来る。これだけ大勢いる中で、水を持ってきてくれというからは、師匠はオレにおぼしめしがあるんだと大喜び、スルとお師匠さん手を洗ってしまって、
師「ちょっと源《げん》さん、この手ぬぐいが濡れてるんですが、あなたの手ぬぐいを貸してちょうだいな」
この源さんもこれだけいる中で、オレに手ぬぐいを貸せというからには、師匠はおぼしめしがあるなと思う。師匠がズッと見まわして、
師「アノ平《へい》さん、お茶を一杯ちょうだいな」
平「ヘエ、オレに茶をくれというのはおぼしめしがあるな」
と喜こぶ、あとにまだ二三人いる、そこへ来て、
師「どうかこのあいだへ坐らして下さいな」
と右の若い衆の膝をグイと押して、左の若い衆の横腹をウンと突く。膝を押された人も横腹を突かれた人も、
○「モウ少しひどく押せばいいな」
△「モウ少しひどく突けばいいな」
ひどく突かれれば息が止まる。命がけでお師匠さんの所へ行くようなことになりますが、そのうちに一人この人というのができたとなると、サア、面倒だ、ほかのお弟子が寄るとさわると、
次「オイ六さん、文字静《もじしず》の所へ行くかい」
六「このごろいかねえよ。……時に次郎《じろ》さん、なんだか吉野屋の常公《つねこう》と師匠と怪しい評判じゃァねえか」
次「評判どころか、大できなんだ。たしかにできてることをチャンとオレは知ってる……。行くな行くな、オレもモウとうから行かねえんだ。師匠だってなにも吉野屋の常公なんかといい仲にならねえたっていいじゃァねえか、ほかに男がないじゃァなし」
六「けれどもマア、常公はちょっと様子がいいからなァ」
次「いまいましいなァ本当に、ふざけやがって、師匠がアアなったのは、誰のおかげだと思ってるんだ。親父が死んだ時に、おふくろがなんといった。どうかこの先はご町内の若い衆さん達なにぶんお願い申します。ひとえにお助けくださいましと、富士講《ふじこう》のおたきあげ見たような声を出して頼みやがったくせにしやァがって、おもしろくもねえちくしょう」
六「なんだかおまえのように言うと、まるでオレがおまえに小言をいわれているようだ」
次「向こうへ言うのを、てめえで間に合わしておくんだ」
六「つまらねえことを間に合わしてるもんだ。ふざけちゃァいかねえ」
次「なにか意趣がえしをしてえもんだな」
六「そうよ。どうだろう。あの常公の女房は大変なやきもちやきだから、常公の留守に行って、あの女房をたきつけよう。常公が帰って来ると夫婦喧嘩がはじまる。それを高見で見物して笑ってるてえのはどうだ」
次「そいつァおもしれえな。さっそくやっつけよう。オレは人の家に騒動のできるのは大好きだ。めでてえことなんかあると、しゃくに障るがゴタゴタがおッぱじまると嬉しくってしようがねえ。てめえ常公の女房がやきもち焼きてえことをよく知ってるな」
六「そりゃァ恐ろしいチンチンだよ」
次「ヘエー、おまわりやお預けはどうだい」
六「犬じゃァねえや」
次「なにしろ一つ行ってたきつけよう」
六「けれどもな、これから行ってもし家に常公がいた日にゃァつまらねえ。師匠の家に常公がいるかいねえか、見てから家へ行くほうがいい」
次「そうだ、じゃァ師匠の家へまわって行こう、……どこからかのぞく所はねえか」
六「黒塀の真ん中に穴があいてる。ここからのぞいて見ねえ」
次「ウム、いるいる……、ちくしょう、師匠と二人で酒を飲んでやがる」
六「どうどう、オレにも見せろ……。せんさまはおかわりだ」
次「からくりじゃァねえや」
六「ウームなるほど、オヤッ師匠が常公の膝に寄っかかって、常公のほっぺたを小楊子《こようじ》で突ッついてやがる。証拠を見届けた上は猶予はならねえ。家へ行って女房にたきつけてやろう」
次「よし、火をつけてあおりこんでやれ」
不用心《ふようじん》の人たちがあったもんで、
六「おかみさんこんにちは」
女「オヤいらっしゃいまし」
次「こんにちは、どうもいいお天気ですな……、相変わらずお店番をしながら針を持っておいでですね。ネエ六さん、おかみさんが店番をしながら裁縫《しごと》をしていなさるなァ感心だなァ。おかみさんは当り前だというが、この当り前がなかなかできねえことだよ。オレの女房なんざァ店番をしながら居眠りをしやがる、ほんとうによく居眠りをするって、あんな居眠りの好きな奴もねえもんだ。あんまり居眠りをするから、この間こういうことを書いてやった。朝寝《あさね》して、夜寝《よるね》るまでに昼寝して、起きているまも居眠りをする……、それでもいっこう感じねえんだから困っちまう。それから思うと、おかみさんはじつにえらいもんだ、だがねえ六さん、こういう結構なおかみさんを持ちながら、どうもあんな師匠なんかに浮かれているなァ了見ちげだえ」
六「オイ、およしよおよしよ。常さんがかみさんを離縁して師匠を女房にしようなんてえ腹のあることを、おかみさんに聞かせねえほうがいいよ……。オイ黙ってねえよ」
次「アア言うめえ……。それをいうとよくねえから言うめえよ」
女「ちょっと、あなたがた、私どもになにか出来たんでございますか」
次「ソラおいでなさった」
六「お言いでないよ……。言わないほうがいいよ」
次「けれどもね六さん……、少しゃァ聞かしておかないとかえってためにならないよ」
女「なんですか六さん、聞かしておいてくださいな。ねえ……次郎さん、何が出来たのです。決してあなた方にご迷惑はかけませんから、私に含ましておいてくださいな」
次「六さんえらいねえ。あなた方にご迷惑はかけませんから、含ましておいてくださいというなァ恐れ入ったね。じゃァおかみさんにないないお話をしますがね、じつはどうもおしゃべりをするなァあんまりよくないことじゃァあるけれども、どうかただ腹へ納めておいてくださいよ。こういう訳なんです。皆でもって遊び半分に横町の常磐津《ときわづ》の師匠の所へ弟子入りをしたところが、あの師匠とおまえさんとこの常さんと、いい仲になったんです。どんな仲になったって、何も私達のかまったこッちゃァねえが、このあいだ二人で話しているところを、ヒョイと立ち聞きをするとね。なんでもおまえさんを出してしまって、師匠を女房にしようという相談なんだ。もっとも途中から聞いたんだから、はっきりしたことはわかりませんが、ヨウ常さん、おかみさんをいつ出すんだよ。私は家へ早く行きたいのだよーと、アノ女が言ってるところを聞いたんですが。なんと憎い女ですねえ。しかし常さんは、師匠そう急いだってしようがねえ、そのうちにいいおりをみて追い出すとこう言ってましたよ。マアお気をおつけなさい。いいおりが来るとおまえさん追い出されるか、いいおりがなけりゃァ竹の皮で間に合わせるかも知れませんけれども」
女「マアどうもあきれましたねえ」
次「本当にあきれましたよ」
女「私はちっとも知りませんでした。よく教えておくれでした」
次「けれどもマアおかみさん心配おしなさんな。いよいよそんな話が持ちあがりゃァ、私と六さんとで常さんにかけあってあげますから、マア落ち着いておいでなさい。イザとなりゃァ私と六さんがおかみさんのために肌を脱ぎますよ」
女「なにぶんどうかお願い申します……。ほんとうに私はくやしゅうございます」
次「そうでございましょうとも、おかみさんの身になればくやしいのはあたりめえだ。私達だってくやしいんだから……、ねえ六さん」
六「アアくやしいともね、今も師匠が常さんの膝へ寄っかかって、小楊枝で常さんのほっぺたを突っついて、真ッ昼間だってえのに、ふざけているところを見せつけられたんだからね。ずいぶんくやしいや」
女「マアちょっと、それはいつです」
六「たったいま見て来ましたばかり」
女「今ごらんなすって……」
六「ヘエ」
女「オヤそうでございますか。それをうかがって安心しました」
六「ヘエー、安心したえ。こりゃァえらいね、それを聞いて安心したといって落ち着いて坐っておいでなさる胆力《たんりょく》には驚いたね。たいがいなら駈け出して行って、むなぐらでもつかまえるところだ」
女「ですけれどもね、たった今見てきたとおっしゃるから安心しております」
六「そりゃァまたどういうわけで」
女「うちは家にいるんですよ」
次「エー、家にいるえ、ジョ冗談いっちゃいけません」
女「あなたがたのお話がきれませんから、起こしませんが、うちは奥の三畳に寝ておりますよ」
次「エー寝ているッて、冗談じゃァねえ。たったいま師匠のところで酒を飲みながら膝によりかかりのほっぺた突っつき……」
女「ちょっとおまえさん……、いま起こしてごらんにいれますよ、ちょっとおまえさん」
中じきりの障子をあけて、
女「この通り、ちょっとおまえさん……、六さんと次郎さんがおいでになりましたよ」
常「アイヨ……、アアァ誰……、六さんと次郎さん……イヤこれは、どうもスッカリ寝込んでしまった。いつ来たの、今かい」
次「エーこんにちは……驚いたね六さん、オイおまえ逃げちゃァいかねえ」
六「ほんとうに驚いたね、家に居るのにほっぺた突っつきなんか言っちまって困ったなァ……」
常「なんだい、なにが困ったんだい。どうしたって……」
女「ちょっとおまえさんおもしろい話さ……。あのね、おまえさんが常磐津のお師匠さんと好い仲になって私を離縁して、師匠を家へ入れて女房にすると、親切に知らしてくだすったんだよ」
常「ナニ親切のものか。オイおまえたち夫婦喧嘩をさせようと思って、悪いいたずらをしてはいけねえや。オレが家に居たからいいけれども、留守ならきっと夫婦喧嘩が始まるじゃァねえか、エーオイ」
次「ウーン、こりゃァ困った。マア聞いておくれ。こうなりゃァかぶとを脱いで、まったくの話をするが、じつはね、できごころだよ。悪い了見じゃァねえんだから」
常「あんまり良い了見でもあるめえ」
次「ほんとうの話はね。いま師匠とおめえと酒を飲んで、師匠がおめえの膝に寄り掛かったり、くすぐったりしているところを、塀の穴から見て、こりゃァまったく常さんと師匠と出来てるに違いねえ、早く留守へ行っておかみさんを焚きつけ……」
常「どうしたんだ次郎さん、それから先は」
次「おかみさんを焚きつけようと、マア親切に知らせるつもりで、じつはここへ来て話をしたわけなんだ」
常「見たというからにゃァ、二人とも確かに……」
次「アア確かに見たんで、着物から帯《おび》その通りだ」
常「着物や帯は世間に似たものがいくらもあるよ」
次「イヤなんでも人違いじゃァねえ、おめえに違いねえよ」
常「じゃァモウいっぺん見てきねえ」
次「ウム、六さんモウいっぺん見て来よう」
常「二人で行くには及ばねえ。一人ここへ残って次郎さん、早く行ってよく見ておいで……ハハハハ次郎さん駈け出して行った。マアお茶でもお入れ、なにかお菓子があるだろう。サア六さんお茶をおあがり」
六「ありがとう、だが変だなァ、確かに居たにちげえねえが……」
常「マア次郎さんが、見て来るだろう」
次「行ってきた。裏へ廻り、表へ廻って見た……」
常「違ってたろう」
次「イヤおめえだ。よく見たが煙草入れからきせるまでその通り」
常「ヘエー、きせる煙草入れもこの通り……」
次「おまけに師匠が、常さん、おちょうしが熱くなったよと言うのを確かに聞いてきた」
常「フーン、それじゃァオレかも知れねえな」
次「ヘエ、なにか思い当ったかえ」
常「思い当ったというわけでもねえが、そういわれてみると、今朝から心持ちが悪い。気がふさいで眠くってならねえ。いったん起きたが、気色《きしょく》が悪いからまた寝てしまったが、それではオレのからだに化けて向こうへはいり込んでる奴があるのだろう。オレに化けているから、オレの心持ちが悪く、気がふさぐというのはそこだろう。それじゃァこれから向こうにいるオレをオレが行って見てみよう」
次「なるほど、これはおめえがおめえを見れば、このくれえ確かなことはねえ。行って見るのが一番だ」
常「じゃァ行って見よう」
女「なんだか気味《きび》の悪い話じゃァないかね」
常「ナニ気味の悪いこともなにもない、三人で行って一つ正体を見みあらわそう。いま考えたが魂が離れるってえいう離魂病《りこんびょう》ということをよく話に聞いてるが、ことによったら、その離魂病かも知れねえ。オヤオヤ来は来たけれども、師匠の家はしまってるぜ」
次「こっちの黒塀からのぞくんで……」
常「モウ居めえよ……、むこうが化け物ならここへ本物が来たということを悟って消えちまったろうよ」
次「そうさ、消えたかな。ひとつオレがのぞいてみよう。……イヤ消えるどころかい、酒を飲んでる。……オッこっちを向いた。おめえだおめえだおめえだ、おめえに違いない」
常「ドレドレ……そんな馬鹿々々しいことが……アアなるほどこりゃァオレだ。フーン……オレだよ。こうなってみると、向こうに居るのがオレか、ここに居るのがオレか、どっちがオレだかオレにもわからねえ」
六「おめえにわからねえようじゃァこちとらにはなおわからねえ。こっちのがおめえだか、向こうのがおめえだか、どっちが化け物だかわからねえ」
常「サアいよいよわからなくなっちまった。向こうにいるオレが化け物だか、こっちにいるオレが化け物だかどっちが化け物だろうな」
次「どうだい、おめえ、化け物のような気がするかい」
常「オレにゃァわからねえ。本物のつもりだがな。しかしなんどき耳が出るかしっぽが出るか、受け合えねえよ」
次「そいつァ困るなァ……」
常「まず向こうを化け物とすると、きっとこりだね」
次「ウム、大きいから柳ごうりかな」
常「馬鹿いうない、きつねたぬきをこりというんだ」
次「じゃァむじなか、ぶんこか」
常「冗談言ってねえで家へ乗り込んで、いつもふざけるように、常さんどうだとかなんとかいって、耳をさわってみねえ。人間なら動かさねえがけだものなら耳をヒョコヒョコと動かす。耳が動いて身振いをすりゃァ確かにけだものだ」
次「なるほど、耳ピョコピョコのブルブルか。よろしい心得た」
常「けれどもけだものだと食い付かれるか、引っ掻かれるかわからねえよ」
次「そいつァ驚いたな。のどぶえでもやられちゃァ大変だから、のどを押さえて行こう……。オイ六さん格子を開けてくれ……、ヘエこんにちはお師匠さん……」
師「オヤ六さんと次郎さん、サッパリお見限りでひどいのねえ……。ちょっと常さん、六さんと次郎さんが……」
○「これはちょうどいいとこだ。サア一杯……」
次「ありがてえが私はのどがふさがってるから」
○「なんでのどを押さえてるんだ」
次「少しどうも呼吸が悪いんでね……」
○「マア一杯おあがりな」
次「どうだい六さん、ちょうだいしようか」
六「待ちねえ、いま尻をはしょって腕まくりをして……」
○「なにも酒を飲むのに、腕まくりをしたり、尻ッぱしょりをしねえでもいいじゃァねえか、相撲でも取るんじゃァあるめえし」
六「それがね、このごろはやるんだよ、ソレ次郎さんいいか」
次「よし、オレが腕を取るから、おめえ耳を……」
六「心得た。ソレどうだ」
次「アーッ耳が動いた」
○「ア痛い痛い」
師「マア二人で常さんをどうするの」
次「師匠、こりゃァ化けつねだ……。オーイ早く本物来てくれ、耳ピョコのブルブルだ」
師「オヤ、常さんが二人になっちまったよ。マアどうしたんだろう」
常「オイ師匠、おめえスッカリ化かされたんだよ。どうだつかめえたかい」
次「しっかり押さえ付けた……。顔を上げねえからたしかに怪しい」
常「コレヤイ、そこにいるオレ……、てめえはなんだ……、つらァ上げろ、まことの吉野屋つねきちはオレだ。コレ吉野屋つねきちはこのオレだがてめえは何だか言え……」
○「ハイ、ハイハイ申し上げます……。私の申し上げること、ひと通りお聞きなされてくださりませ〔これより芝居がかり〕ころは人皇《にんのう》六十二代村上天皇のぎょう山城大和《やましろやまと》の二カ国に、でんそといってでんぱたを荒らす鼠住みしが、時のはかせに占わせしところ、高位の方に飼い置かれし、雌猫《めねこ》の生き皮にて三味線を張り、それを弾く時は、でんそはたちまち退《しりぞ》くとのこと、そのころ女三の宮につかえし雌猫の生き皮をはぎ、三味線を張り、それをば調べしところ、でんそはたちまち退き、たみ百姓はじめて喜びの声をあげしゆえ、初音《はつね》のしゃみと名づけたもう。国のためとは言いながら、私は親猫をば殺されました、その時には、百目《ひゃくめ》に足らぬ小猫ゆえ鼠の味は覚えても、親猫恋し母恋し、ゴロニャエゴロニャエと泣きとおし、ようよう尋ねて参りました。アレアレ、あれに掛かっております三味線は、私が親、私はあの三味線の子でございます……」
次「気取ってやがる、化け猫のくせに……、アノ三味線の子といえば、こいつは猫だな。お待ちよ、あれが初音の三味線というからには、猫のただのぶだろう」
六「ナニ猫のくせに忠信……」
次「初音の三味線だから猫の忠信……、とんだ千本桜《せんぼんざくら》の御殿場だね。ことに私が駿河屋の次郎吉だから、駿河の次郎、おまえが亀屋の六さんだから亀井の六郎、常さんが吉野屋のつねきちだからよしつねだ」
常「ウーンそうそう、文字静《もじしず》というから師匠がしずかごぜんだよ」
師「冗談いっちゃァいけません、私のようなものがどうして、しずかに似合うものかね」
猫が顔を見て、
猫「ニアウニアウ」
[解説]芝居ばなしである。駿河の次郎や亀井の六郎は、あまりこしらえ過ぎているので、今はたいがい略している。サゲは地口《じぐち》落ち。これは今より二代の六代目文治のから取った。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
幽女《ゆうじょ》買い
―――――――――――――――――――
これはちと遠い国のおうわさでございます。
○「ハテナ、俺は病気で寝ていたのにいつの間にこんなところへ来たかしら、いったいここはどこだろう、こんなところへ来る道理がねえが、なんだかボンヤリ薄ッくれえな」
△「オイオイ長太《ちょうた》じゃァねえか」
長「ヤア半公《はんこう》か、どうも不思議だ、ハテナ半公、てめえは死んだんじゃァねえか」
半「そうよ」
長「死んだのにてめえに逢うのはおかしいなァ」
半「なにがおかしい」
長「だっててめえ死んだんだろう」
半「そうよ」
長「俺ァともらいにも行ってやったなァ」
半「ウムいろいろ世話になっておまけにともらいにも来てもらってすまねえなァ」
長「死んだてめえに、ここで逢うのはおかしい」
半「てめえも死んだんじゃァねえか」
長「エッ、俺も死んだのか、そいつァなさけねえことになったな、なにしろ初めて死んだんだから、様子がわからねえが、てめえに逢ったんで、少しは心強くなった、てめえは古参だから知ってるだろう」
半「そりゃァ知ってらァな」
長「そうか、てめえだの俺はしゃばでも悪いことをしているから地獄へ送られて責められるなァきまってらァ、困ったなァ」
半「それがしあわせに戦争や流行《はやり》病いでたくさん亡者《もうじゃ》が来たもんだからなかなかこれまでの鬼の数じゃァ手が届かねえ、ばんじ忙しいので、まだ浄瑠璃《じょうるり》の鏡をとぐひまもねえんで、曇っているからはっきり写らねえということだ、それを幸いとうまく言い抜ければのがれねえこともあるめえと思う、ナニその時にゃァ俺が弁護をしてやるよ」
長「そいつァありがてえ、おめえはどこにいるんだ」
半「どこにいるったって今のところはただぼんやりしているんだ」
長「なるほど亡者だからぼんやりしているんだなァ」
半「そういうわけでもねえが、これというすることもねえからな、てめえ懐《ふところ》はどうだ」
長「今死んだばかりだから、ろくどうせんがあるだけだ。それも近ごろほんものじゃァねえ、紙で銭《ぜに》をこしらえて、マア紙幣《さつ》よ、仕方がねえや」
半「いずれ閻魔《えんま》大王の調べがあって、そのとき地獄とか極楽とかきまるんだが、まだいつ裁判が始まるか知れねえから、今夜俺と一緒に行きねえ、てめえにもいろいろ世話になってるからなにかおごろう」
長「しょうじんものか」
半「こっちへ来ればまた違うよ、今夜はどうだ一つ浮かれようじゃァねえか」
長「浮れるたァなんだ」
半「ゆうじょでも買いに行こうじゃァねえか」
長「ここにも遊女屋があるのか」
半「そりゃァ女郎屋でも芝居、寄席、なんでもあらァな」
長「なるほどそりゃァおもしれえね」
半「女郎屋で亡者が店を張ってるところを見せてやろう」
長「それじゃァ出かけよう」
と、これから二人が歩き出した。足はないからフラフラ宙を浮いて動いてます。
半「あれが大門《おおもん》だ」
長「なるほど、薄ぐれえ小さなちょうちんだなァ」
半「あれはひとだまだ」
長「アアそうか……アアなにか書いてあるようだな、ハハア、しんよしわら、か」
半「てめえ読み方が悪い、しによしわらだ」
長「なるほど、入ればふしみ町か」
半「それがふしぎ町というのよ」
長「えどちょう一丁目二丁目か」
半「めいどちょう一丁目二丁目よ」
長「なるほどあげや町もあるのか」
半「あのよ町というのだ」
長「おもしれえな、ここのちょうちんはちいせえなァ、子供のひとだまか」
半「悪口をいうなよ、ここは小格子《こごうし》だ」
長「やァ店を張ってる、どうだいあの女はおしょくかな、青いつらをしていやがる」
半「娑婆ならいろじろというところだが、ここだからいろあおというのよ」
長「なるほどみんな散らしがみだな、まがきのほうに寄ってるのはきりかみじゃァねえか」
半「あれはしんぞうよ、このごろ死んで来た亡者だ」
長「みょうだなァ、みんな色青ざめてやがる」
半「どうだい、ここでひやかしてあがるとしようじゃァねえか」
長「よかろう、アア向こうから和讃《わさん》を唄って来る」
□「火の用心さっしゃりましょう」
長「ヤアじまわりが来た」
半「ナニ地蔵がしゃくじょうを振って来たんだ」
長「そうか、地蔵様がここいらまでまわって来るのか」
女「ちょっとお寄んなさいよ、新入りや新亡者や」
長「オイてめえのことを新亡者といやァがる」
半「ナニべらぼうめえ、百年もめえから来てるんだ」
女「嘘つきや、ひたいに三角の紙が付いてるよ」
半「ヤア長公《ちょうこう》、ひたいの三角を取れ、気が利かねえ」
長「なにをいやァがる、俺たちを引っぱりあげたって、てめえなんぞの格に合うめえ、俺たちは幽霊を殺すためにフラフラへえってるんだ」
女「大きなことをお言いでないよ、マゴマゴしているとしまいには土手の空き寺へでも行って野宿をするしろものだよ、赤鬼にでもつかまって鉄の棒で尻ッペたでも殴られてお泣きでないよ、馬鹿ァ」
長「なにをいやァがるんだ、スベタ女郎め、やせっこけてまっさおなつらァしてるくせに」
半「オイ長公、ここじゃァ痩せて青いのが上等なんだからそんなことをいってドジを踏むといけねえ、どうだおもしろかろう」
長「なるほどおもしれえね」
若衆「いらっしゃい、いかがさまで親方さん」
半「若い衆、おめえのうちは玉ぞろえだな」
若「ありがとう存じます」
半「あの上座《かみざ》に青いしかけを着ているおいらんはなんというんだ」
若「ヘエあのおいらんはこしきみさんと申します」
半「じゃァこうしようじゃァねえか、食い物といったってうめえ物はなかろう、はすのめしやそうめんやなまなすは食えねえ、まくらだんごは付け焼きがいいなァ」
若「かしこまりました、どうぞおあがり遊ばして」
半「じゃァここへあがるかな」
ようよう二人は二階へあがりますとやり手が出て来て、
やり「いらっしゃい」
半「オイ頼むぜ」
やり「あなたがたお見立ては」
半「かみと二枚目を頼むよ」
やり「承知いたしました、おあつらえものは」
半「今も表で言ったが、うめえ物もあるめえ、一杯飲んですぐにねんねだ」
そのうちに幽霊がサラサラと廊下を来る。
若「ヘエあなたさん、こしきみさん、あなたさん、線香さん、ちょいとお召しかえ」
長「うまくいやァがらァ、きょうかたびら一めえのくせに」
半「黙ってろよ、オイ若い衆、芸者をいっぴき生捕るよ」
若「ヘエただいまよいのが娑婆からまいりました、ただいますぐに」
としばらくたって木魚とりんを持って、首にじゅずを掛けた芸者が入って来た。
芸「こんばんは」
長「イヤ久しく逢わなかったな、どうしたい化け物」
芸「オヤマア長さん、いつか青山の六道《ろくどう》の辻で逢ったっきりでしたわね、わたしはあれからこっちへ来たのよ」
長「アアそうか、俺もとうとうこっちへ来るようになった」
芸「マアおなじみですから一つおおいんきに騒ぎましょうよ、チョイと、大きな珠数を持って来ておくれな、ひゃくまんべんのを」
長「おおげさだなァ」
芸「それとも新猫《しんねこ》にまくらねんぶつにしましょうか」
長「マア一杯飲もう」
芸「お水ですか」
長「ナニ水なんかしようがねえ」
芸「だって水が一番いいのよ」
これからドンドン騒ぎ始めた。すると隣りにふられた奴とみえて、しきりに手を叩いております。
○「コウ誰かおらんか、若い亡者はおらぬか」
若「ヘエお呼びになりましたか」
○「ここへ来い」
若「ヘエ」
○「このほうがこうして一人ポツネンとしているのを汝も見て知っているだろうな」
若「まことにお気の毒様で」
○「まだ何も聞かずにお気の毒様とはなんだ、俺をなんと心得る、しゃばっぷさげのがりがりもうじゃだ、こんなところへ来て馬鹿にされては亡者仲間に顔が立たぬ、よいにあがった時にチラリと火が燃えたからじきに遊女が参るだろうと思っているに、いまだに出て来んじゃァないか、初めて後ろ影でも見せそうなものじゃが、ピカリと光りもせず髪の毛がしょうじに当りもせず、うしみつを過ぎて、モウ明け方に近いのにまだ火も燃えぬのはどういうわけだ」
若「まことにお気の毒様で、今晩はちとお客様が立て込みまして」
○「それはてめえが言わんでも知っているけれども、せめて姿だけはちょっとでも現わさにゃァならんじゃァないか、いまだに参らんのはどういうものじゃ、隣で新亡者が何か言っているのを意地にも聞いておられんじゃァないか」
若「なにか失礼を申しましたか」
○「失礼にもなにも、あいつこのごろ来ていつづけをしておる様子じゃ」
若「ヘエさよう、こんにちで初七日ほどいつづけをしておいでになります」
○「なにかくどくど言うておるが、だいぶ迷っているようじゃな」
若「ヘエさようで、いっそおまえさんと二人で生きてしまいたいなどと申しております、ヘエモウとんだいきごとでございます」
○「馬鹿め、いきごともないものだ、サアいよいよ遊女を出さずば大勢の亡者を引き連れてきて当家の妨害をするがどうだ、乱暴亡者を引っぱってきて当家をぶちこわしてしまおうか、それとも地震で死んだ亡者を呼んできて大旋風を起こさせようか」
若「ヘエまことに相すみませんでございます、そのただ今すぐに……」
○「イヤただ今ではわからん、きっと返答をしろ」
若「アア太鼓が鳴りますようで、ほどなく現われるようでございます、アレあの通りドロドロ鳴っております」
○「遊女が出ずに、いたいのわからんひとだまなどが出ると許さんぞ」
若「イエまったくただ今参ります」
と若い衆は出て行きました。こちらでもまた振られた亡者が、
×「コウ俺達を振りゃァがるとばちが当って、しまいにゃァ生き返されるぞ、馬鹿にしやがって……」
ポンポン言っていると、廊下でチーンと鈴が鳴って「きみょうちょうらいじぞうそん、さいのかわらの物語り、一つ二つ三つや四つ、とうにも足らぬおさなごが……」
わさんをうたうと思うと遊女の髪の毛が障子へサラサラサラ、
△「チェッ、馬鹿にしてやァがる、気のきいた化け物は引っ込む時分だ、モウ夜が明けらァ、けえろうけえろう」
若「ヘエ、めいどありがとう存じます」
という若い衆の声に送られて表へ出る。とたんに向こうから、「おむかいおむかい」
[解説]落語には、地獄を扱った物は少なくない。とりわけこのはなしは、≪いき≫だといって江戸人には喜ばれたものである。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
お化け長屋
―――――――――――――――――
当今《ただいま》でいえば管理人と申しますものを従前《じゅうぜん》は家《うち》の持ち主でなくっても家主《いえぬし》といったもので、別号《べつごう》を大家《おおや》さん、つまり御大家《ごたいけ》と尊敬をして申したものでございましょうが、この家主は町役人をつとめておりましたところから、自然権威がありまして店子《たなこ》に対して意地《いじ》の悪いことをしたり、苛《いじ》めたりするものも往々《おうおう》ありました。
家主といっても、地主または家作主《かさくぬし》が建てた家を、五十軒なら五十軒、三十軒なら三十軒の長屋を月《つき》幾らというので安く借り受け、畳建具《たたみたてぐ》を入れて幾らというふうに貸す、それでも家作主のほうではたとえ幾らでも滞《とどこお》りなく、空《あ》いている、塞《ふさ》がってるのにかかわらずきまっただけは頭から取ってしまいます。それゆえ店賃《たなちん》の上げ下げは万事家主のほうで計らいました。
借家人のほうは本来なれば店《たな》を借りて家賃を払ってるのでございますから、お客様扱いをされてよいわけでございます。ところがなかなかどうしてこの家主というのは大きな顔をしております。永い習慣というものは恐ろしいものでございます。折々家主と借家人《しゃくやにん》との間にごたごたが起こるなどということが新聞によく見えますが、貧乏長屋とくるととりわけ乱暴、また貧乏人くらい気の強いものはありません。お金があると喧嘩をしようと思っても、マアよそうとなるのを、貧乏人は、なにもかもも無茶苦茶で鼻っぱしばかり強いもので、このお化け長屋も元はというと、家主が家賃を上げた、どうもしかたがねえ、ほかより少し安いと思ったら、とうとう上げやがった、長屋のものも一度は往生《おうじょう》しておりましたが、また少したつと上げる、一度二度は我慢をするが三度目になると不服《ふふく》が起こります。
家「オイこれで長屋のものは一同そろったか、イヤ大きに忙しいところをご苦労だけれども、夜でねえと皆さんが揃って相談をすることが出来ねえのだ、さっそくだがまことにこのごろ困ることには、マア知っての通り、なにやかやが高くなり、地代《じだい》はもちろんのことその他ちょっと大工《だいく》を頼んでも、手間《てま》が上がったところへ、材木が高い、どうにもこうにも私のほうではやり切れない、それゆえ今月からまことに気の毒だが、モウ一円ずつどうか一つ上げてもらわなければならない、今の分ではどうも私のほうは算盤《そろばん》が取れなくなった、どうかそういうことに頼みたい、一同|不服《ふふく》があるなら遠慮なく言ってくれよ、他所《よそ》を聞き合わしたところで、そんなに高いはずじゃァないんだが、もし高くって嫌《いや》ならばほかにいくらも借人《かりて》があるんだから、それでいかねえ人は引っ越してもらうよりほかに仕方がねえ、一同|承知《しょうち》なら承知、私は不服だというので他へ引っ越すなら引っ越すと、こういうふうに決めて返事をしてもらいたいんだ、私は決して酷《ひど》いことをいうんじゃァないんだ、わずか一円ずつでも長屋が二十六軒あるから、それでいくらか違うというものだ、それもだいぶ溝板《どぶいた》が悪くなっている、長屋の子供がつまずいて転んで怪我《けが》をした、それで膏薬《こうやく》を買ったと思やァなんでもない話だからどうかそういうことに……」
源「ヘエ今ここで少し相談をしたんでございますが、いずれあらためてご挨拶《あいさつ》いたします、べつに皆不服もなかろうとは思いますが、私が今月の月番《つきばん》でございますから、皆の心持ちをよくききましてなんとかご挨拶を……」
家「アアそうかい、そういうことにしてくれればまことにありがたい、それじゃァおまえさんが万事引き受けてくれるのだね、皆さんへご承知なら、今月から上げることにするからどうかそのつもりで、イヤお茶もろくろくあげないでまことに気の毒だった、忙しい身体《からだ》を呼び付けてすまないが、私が一軒々々まわると相談がまちまちで困る、それでマア来てもらったのだが、さっそく承知で大きにありがたかった……」
乙「みんな来たかじゃァない、源兵衛《げんべえ》さん、どうも困るね、ほかのものには話をしたか知らねえが、俺になんざァろくに話もしねえで、べつに皆不服はないようだなんて、一人で引き受けちまっちゃァ困るじゃァないか、おまえさんは居職《いじょく》だからいいけれども、俺なんざァ出職《でしょく》だ、月に一円てえと訳《わけ》ねえようだけれども、それだけ余計に払うとなるとなかなか大変なものだよ、サりゃァ一度だけお茶を減らしゃァいいようなものだが、それも天気が好《よ》けりゃァいいけれども、雨に続かれた日にゃァそれこそマゴマゴすると店賃に追われて口が干上《ひあ》がっちまわァ」
源「マアマアそう騒《さわ》ぎなさんなよ」
乙「いくら騒ぐなって今もいう通りだ、そりゃァおまえさんなんざァこうやって家にいていい手間を取ってるからいいだろうが、私なんざァ雨降り風間《かざま》、月三十日満足に仕事の出来るなんてえことはねえんだ」
源「それじゃァ困る、マア静かにおしよ、私に考えがある、いくら皆が面《つら》を膨《ふく》らして角目《つのめ》立ったところで家主がそれでは下げるという気遣《きづか》いはねえ、それより、今のところ温柔《おとな》しく承知をしておいて自然むこうから下げさしてみせる。というのはこの長屋は二十六軒あるが、皆塞がっているということはない、あっちが空いてるとか、こちらが空いてるとかするんで、そうでしょう」
乙「そりゃァまあそうだ」
源「それがこっちの付け目だ。きっと家主のほうから下げさしてみせる、二月《ふたつき》と無駄《むだ》な物を払わせる気遣いはない、よくわかったか」
乙「ちっともわからねえ」
源「どうだい皆わかったかい」
丙「サッパリわからねえ」
源「イヤおいおいわかって行く、いいかね、竹《たけ》さんに吉《きっ》さんおまえさんは露路《ろじ》の入口だね、おまえさんがむこうで、おまえさんがこっちだ、ところでもし家を借りに来た人があったら、むこうが家主ですから、家主へいってお聞きなさいといって俺のところへよこすんだ、留守でも、そうするようにおかみさんに言い付けておいてくれなけりゃァいけねえ、幸いここの家主は二十|間《けん》も三十間も離れて、通りで荒物屋《あらものや》をしてやがるから都合がいい、私が家主だというのでその来た者を応対《あしらっ》て、なんでも塞げなけりゃァいいんだから、私が口から出まかせに貸さないように話をする」
吉「ヘエなるほど、どんなふうに」
源「それはいえない、人を見て法を説けだからその野郎の様子を見て、臆病《おくびょう》な奴《やつ》だと思ったら悪いことは言わないからあすこはおよしなさい、このあいだ首くくりがあった、なぞと言うんだ、そうしたら大概《たいがい》借りねえだろう、二軒の家が二月《ふたつき》空いていれば、四月《よつき》ぶん店賃がはいらねえ、どういうわけだろう、つまりこれは店賃が高いためだろうというので、家主のほうから店賃を二円下げます、と言ってくるだろうと思う、どうだい皆、一ツやってみる気はないか」
乙「なるほど、あまり癪《しゃく》にさわるから、家主の頭を撲《なぐ》り倒してやろうかと思ったが、源兵衛さんはさすがに年の功《こう》で考えがうまい、じゃァ一ツおまかせ申すからなにぶんお頼み申します」
その晩スッカリ話が定《きま》ってしまいました。
○「エエごめんください、エエ少々うかがいます、この長屋の家主をなすっているのはこちらでございますか」
源「ハイ私どもですよ」
○「こちら側の一番奥の家が空いておるようでございますが、拝借《はいしゃく》が出来ましょうか」
源「アアあすこでございますか、あなたはどちらで」
○「山の手におります、営業《しょうばい》の都合で、どうもこちらの方がいいと思って、とうから探しておりましたので、お安い所で手広い所という註文《ちゅうもん》がむずかしいので、よい家もございませんでしたが、幸いあすこの家はちょっと庭などもありましてな」
源「アア庭があります、よくごらんなさい」
○「ヘェ、いま拝見いたして参りました、つきまして家賃はどういう工合《ぐあい》で……」
源「家賃、アア家賃は安《やす》うございますよ」
○「では造作《ぞうさく》でも」
源「ナニ畳建具みんな付いています」
○「それでお幾らでございます」
源「エエ十五円で」
○「十五円、エエどうでございましょう、モウ少し負けていただくわけにはいきませんかね」
源「私のほうじゃァ十五円なら安いと思うんだがねえ」
○「ヘェ、そりゃァお安いには違いございませんが、モウちっとなんとか……」
源「アアおまえさん、なんだ、考え違《ちげ》えをしているのだろう、十五円というのは一年だよ、一年に十五円月に割ると一円三十銭ちょっと欠けるんだ」
○「ヘえー、そりゃァさっそく願いたいものでございますな、そういたしますと、十五円は一度に納めますか、それとも毎月差しあげますか」
源「アアそれもどっちでもいい、あったら持って来なさい、なかったらいつでもいい」
○「ヘイそりゃァ旦那、どういうわけで、あまりお安いのでなんでございますが、どういう……」
源「どういうッてお聞きなさるなら話しをするが、安くでもしなければ借人《かりて》がない……」
○「ヘエ」
源「私は他の家主と違って、実直《じっちょく》の者だから包まずに話をするが、じつは引越して来る者が三日か四日経つとみんな越してしまう、そのたびにただ貸すのじゃァない、敷金《しききん》の受取りを書いたり、また預けた金を出さなければならず、厄介《やっかい》でしようがない、家主と店子は親子も同様、おまえさんが借りてくれれば親子同様の間柄《あいだがら》になるのだ、こんなことがあるのなら、先に言ってくれたらよさそうなものだと、おまえさんに恨《うら》まれるのが嫌だから、本来なら、一日も早く貸したいから黙って貸すんだけれども、私はそういうことは嫌いだ、マアこっちへお掛けなさい、あすこの家はちょっとうしろに大きな木があって、日当りが悪いので、まことに陰気《いんき》でいけない」
○「ハハアそれでお安いので」
源「イヤそんなことなら、少し安くすれは誰でも借りるが、それで安いというわけではない、元あすこにちょっと小金《こがね》を残した夫婦がいた、このおかみさんというものはなかなかの美人でどっちかといえば、かかあ天下《でんか》というのだろうか、マアマア口も八丁《はっちょう》手も八丁、決して無駄なことをしない、亭主が儲《もう》けてきていくらでも余るとすぐに貯金をするという工合《ぐあい》だ、まるで大商人《おおあきんど》かなにかのすることだな、無駄な金というものは一文《いちもん》も置かない、それで亭主の営業《しょうばい》がなんだというと紙屑買《かみくずかい》だ、なんでもないようだが、あんな商売はまことにいい儲けのあるものだってね」
○「ヘエ」
源「よほど儲かったとみえる、終《しま》いにはこの長家では一等の身代《しんだい》になって甚兵衛《じんべえ》さんに借りのねえ貧乏人はないというくらいだ、それで金を貸してもなかなか情《なさけ》深くってひどい催促《さいそく》はしないというふうだから、高利《こうり》で貸してもみんな喜んで借りる、利が利を産むというふうだからますます金は殖《ふ》えるばかりだ」
○「結構なことでございますな」
源「ところが盈《みつ》れば虧《か》けるというが、ちょっと病いに取り付かれたのが始まりで、枕が上がらなくなった、サアそれが原因で三月《みつき》か四月煩《よつきわずら》ってとうとう死んでしまった」
○「オヤオヤ」
源「その時分にはモウ何万という金が貯《たま》っていたから、あとへ残ったおかみさんだって困るということはなく、奉公人《ほうこうにん》を使って相変わらず金貸しをしているから別段に使うことはなし、貯ればといって減ることはない」
○「なるほど安心でございますな」
源「その時がちょうど死んだ亭主が五十いくつでおかみさんは四十いくつだよ、女寡婦《おんなやもめ》に花が咲くで、はじめのうちこそ質素《しっそ》にしていたが、百ヵ日が済み、一周忌《いっしゅうき》が済むというと襟白粉《えりおしろい》を付け、口紅でもさすというふうになり、ちょっと表へ出るにも薄化粧《うすげしょう》をして着物を着替えるとかする、大体が美《い》い女だ」
○「ヘイヘイ」
源「石塔《せきとう》の赤い信女《しんにょ》が子を孕《はら》み、という川柳《せんりゅう》があるがね、いくら悧巧《りこう》なものでも、さてこの道ばかりは別なものだ」
○「ヘエ」
源「悪い奴にこの女が引っかかった、男でも女でも四十を越えて迷い始めたのはしようのないもので、カラ夢中、近所の評判てえものは大変だ、またこの野郎が酷《ひど》い奴で、ねこそぎ取ったよ、わずか三年ばかりの間に何万とあった金を残らず絞《しぼ》り取っておかみさんのちょっと外へ出る衣類《きもの》まで取りあげてしまった」
○「ヘエ」
源「スッカリ取りあげていよいよモウ逆《さか》さに振るったって鼻血も出ないというようになったら、ドロンをきめて、鼬《いたち》の道だ、おかみさんは狂人《きちがい》のようになって、ウロウロしたが、どこへ行ったか影も形も見せない、サアいよいよ気が変になってだんだん痩《や》せてくるばかり、目は窪《くぼ》み頬骨《ほおぼね》が高くなり、髪を振り乱して、それがまた美い女だけに、いっそう凄《すご》い、夜中になると、その逃げた男のことを口にして、神だか仏だか知らねえが、一生懸命に祈っている、あまり物凄いので両隣の者は移転して行ってしまう、それはモウ四五年前の話だよ」
○「ヘエなるほど」
源「ドッと枕に就《つ》いて起臥《たちい》も自由にならないという有様《ありさま》だ、ある夜のこと水が飲みたくって、這《は》い出したが、手をのばして流しの水瓶《みずがめ》の水を汲《く》んで飲もうというのだが、どうしたのかコロコロと転がり落ちた、近所でもひどい音がしたと思ったが、夜中のことだから誰も行きもしなかった、スルと長屋に親切な糊《のり》売りのお婆《ばあ》さんがいる、朝夕に飯汁《めしじる》を持って行っては世話を焼いていた」
○「なるほど」
源「その翌朝お婆さんが例の通り飯汁を持って行くと、この始末だ、お婆さんがキャッと声を上げたので、みんなが行ってみるとどこをぶち切ったか顔のところからダクダク血が流れて、唇が打ち切れていて、口から舌が半分ダラリと出ている、目は明いたっきり天眼《てんがん》というやつだ、両方の手はよほど苦しんだものとみえてギューッと握っている、見たばかりで慄然《ぞっ》とするくらいだ」
○「ヘエ、大変なものでございますな」
源「モウ息が絶えたのかと思うとその姿でいてまだ息があるんだよ、それでしきりに逃げた男の名を呼んで怨《うら》んでいるのだ、婆さんが起こそうと思って手をかけると、口惜《くや》しいといってバリバリ歯軋《はぎし》りをしたそうだ、そりゃァモウ話のようなものじゃァない」
○「ヘエー」
源「いよいよ死んでしまったが、もとより夫婦のほかに親類も何もない人だったのだ、死体の引取り人がないから近所の人がいくらかずつ香奠《こうでん》を出し合って、式《かた》ばかりに葬式《ともらい》を出し、墓地を三尺四方《さんじゃくしほう》ばかり買ってそこへ葬《ほうむ》ってやった、長屋になかなか奇特《きとく》な人がいて、今だに折々|墓詣《はかまい》りをしてやっているものもある」
○「ヘエなるほど」
源「それからスッカリ造作《ぞうさく》などを直し、綺麗《きれい》にして貸し屋の札《ふだ》を貼るとなかなか借りに来る者がある、しかしそれがみんな長くいないよ、大概|二晩《ふたばん》か三晩《みばん》、臆病《おくびょう》な人は一晩《ひとばん》で引越して行ってしまう」
○「ヘエー」
源「モウあすこの家もかなり長く空いているのだ、私のほうでも一軒無駄な家をあけておくのは嫌だから早く貸したいとは思わないではないが、またおまえさんに貸したところで、二晩か三晩で移転して行かれてしまった日にはなんにもならないから、先へちょっとお話だけをして、それでおまえさんが承知ならかまわない、家賃はもとより安い、月に一円三十銭で一年十五円だ、畳建具スッカリ付いている、おそらくこんな安い家はありゃァしない、日本広しといえどもこんな安い家は他にはあるまい」
○「そりゃァほんとうで、こんなお安い家はありゃァしません、ダカラぜひお借り申したいと思うんですけれども、どういうわけでみんな二晩か三晩で越して行くんでございましょうね」
源「それがだ、私もあまり不思議だから聞いてみたんだ、スルと借りた人の話に、丑満時《うしみつどき》というからちょうど夜の二時ごろだね、世間は寝静まってシーンとすると、ピラピラと青い火が燃える」
○「ヘエ」
源「シーンとしているうちに、仏壇《ぶつだん》でチーンという鈴《りん》の音がする」
○「ヘエなるほど」
源「縁側《えんがわ》の戸が人もいないのに、ガタガタと開《あ》く」
○「ヘエ」
源「女の髪の毛だろうな、障子へサラサラと当る」
○「ヘエなるほど」
源「仏壇の中から長い細い白い手がヌッと出て、『よく移転しておいでだねえ』と情けなさそうな声をして顔を下から上へ……」
○「ブルブルッ、アッ、アーおどろいた、なんでございます、モウたくさんで、わかりました、せっかくなんでございますが……」
源「マアいいじゃァないか、ゆっくり話をするから」
○「イヤモウたくさんでさようなら……」
源「吉さん」
吉「エエ」
源「アア台所にいたのかい」
吉「うめえね、驚ろいたねどうも、怪談話《かいだんばなし》を台所で聞いてなんだか気味が悪くなったぜ、うまいねおまえさんは、どうも恐れ入った」
源「アア吉さん、来たよ来たよ、また来たようだから台所へ行っておいで、静かにおしよ、ヘエ、おいでなさい、アアそうですか、この差配《さはい》をするのは私です」
△「アー向こう側に二軒|空家《あきや》がございますね、あのこちらの口許《くちもと》のほうでございますが、あれをお借り申したいので、家賃はどういう工合でございます」
源「アアあすこの家ならただでよいので」
△「ただ、ヘエー、どういう訳で」
源「いずれ訳があります、あすこに元|按摩《あんま》が住んでいたんで」
△「ヘエ」
源「その按摩が金を貯めたんだ」
△「ヘエ」
源「その男が酒ッ飲《くら》いだものだから、夜酔っぱらって帰ってきて、上がり端《はた》で足を踏み外《はず》してドターンとひっくり返って、それなり死んでしまったんだ」
△「ヘエ」
源「それから家を浄《きよ》めたりなにかして貸したけれども、みんなじきに移転して行ってしまう、つまり按摩が貯めた金に気を残してか夜十二時すぎになると、青い玉がフワフワと家の中を飛んで歩く、嫌な唸《うな》り声がするという始末で誰も借り手がない、もちろん按摩の金は検視《けんし》の時に警察のほうで持って行って、今は区役所にでもあるのだろう、その金に気が残ってか、かようの次第だから、いっそただなら誰か住んでくれるだろうと思うのだ、どうですえ」
△「エー、せっかくでございますが、マアよしましょう、それじゃァまたなんでございます」
源「フフ帰っちまったよ、吉さん」
吉「大変に今のは早かった」
源「アア臆病な野郎だから、モウ安いには安い訳があるといったら、顔色を変えてしまやがった、あんな奴に骨を折るのはいやだと思うから、アッサリやっといた……アアまた来た来た、また台所へいってな」
×「ごめんよ」
源「なんだい」
×「ここの差配をする奴てえのはおまえかい」
源「なんだ」
×「差配人てのはてめえか」
源「いかにも」
×「イカにもタコにもあるものか、この長屋の一番|隅《すみ》に狭《せめ》え家がある……俺ァ独身者《ひとりもの》だからちょうどいいんだ、あすこに三尺《さんじゃく》の戸棚がある下へ箪笥《たんす》を一本入れて上は仏壇にするんだ、それからこっちに一間《いっけん》に三尺の戸棚がある、あれヘマア寝道具《ねどうぐ》だのちょっとしたものを入れるんだ、狭えわりによく出来てる、それに小綺麗《こぎれい》だから借りようと思うんだが、幾らだ店賃《たなちん》は」
源「アア店賃は幾らでもようございます」
×「変なことを言うない、あまり高けりゃァとてもこちとらには住《すま》えねえ、そのうちには嬶《かか》ァももらわなけりゃァならねえし、それにチョイチョイ友達が泊りに来るから、あまり小ぎたねえ所でもいけねえんだ、幾らなんだい」
源「さようでございますな、月に一円ずつもいただけばいいんで」
×「それじゃァ……高え造作でも買うんじゃァ困るが」
源「ナニ畳建具いっさい付いてるんで」
×「ナニ、造作ぐるみだって、冗談いっちゃァいけねえ、あまり安すぎるじゃァねえか」
源「イヤそれは安い訳がある、いよいよお話がきまって引越しておいでになると、家主店子といえば親子の間柄《あいだがら》だ」
×「それがどうした」
源「あとになって、あの時ちょっと言ってくれればよかったにと、怨《うら》まれるのが嫌だからお話しをするがマアこっちへお掛けなさい」
×「ウム」
源「マア考えてごらんなさいよ、あのこっちの汚ない家でも六円に貸してあるんだ、それだのにアノ家を造作付きで一円で貸すというのだから、いずれ訳がある、話をすれば長いことだが、あすこの家にもと美《い》い女の後家《ごけ》さんが住まっていた」
×「なるほど」
源「親戚《みより》というものがない、可哀想《かあいそう》な後家だけれども金はいくらか持っていたんだな、近所のものが営業《しょうばい》の資本《もとで》やなにかをチョイチョイ借りると、べつに高利《こうり》でなく安く貸してくれるから、これはいい融通口《ゆうずうぐち》が出来たと、みんな喜んでいた、したがって後家さんのほうもますます金がふえるばかりだ」
×「ウムなるほど」
源「スルと、女てえものはいけないものだ」
×「ウム」
源「ちょっと騙《だま》されやすいもので、山ッ気のある人がこの長屋にいた、小さな山だそうな、確かに銅《どう》が出るとか鉄《てつ》が出るとかいう見込みで、とても一人じゃァやれないが、三人か四人で金を出し合ったらうまく行くだろう、うまく行けばそれこそ宝の山入りというのだ、一口《ひとくち》乗りませんかと、その人が後家さんに話をした」
×「なるほど」
源「こいつに引っかったのが、この後家さんの生涯《しょうがい》の過失《かしつ》だったね、たくさんでもないだろうが、三千か五千の金は確かにあったのだから女一人では生涯、楽々と送って行けるものを、ちょっと欲《よく》が出てその山に手を出したところが、スッカリはずれてしまって、スッテンテンに失《うしな》ってしまった、じつに哀《あわ》れだったよ」
×「ヘエー」
源「外《はず》れたときた日にゃァ山はどうにもしようがない、ほかにもその山のためには損《そん》をした人もあるんだがそこが女だ、世話人ばかりを怨《うら》んだ、怨んだってしようがない、自分が承知で金を出したんだから」
×「それからどうしたえ」
源「どうにもこうにもしようがない、モウ着替えの着物もないという始末になった、あまり心配したので気が変になって、ある晩|剃刀《かみそり》で咽喉《のど》をプツリと刺《や》ったが、女の力だから死にきれない、その苦しむこと目も当てられない、長家の者も不実《ふじつ》のようだが、女房《かみさん》や娘たちはみんな怖がって側へも寄り付かない、そうかといって男たちはみんな営業《しょうばい》が忙しいから昼間のうちは付いていてやれない、そのうちに三日三晩苦しみ続けて、とうとう死んでしまった」
×「ヘエ」
源「妙《みょう》なものだね、口惜《くや》しいと思ったらその対手《あいて》のところへ出そうなものだが、どういうものだかその家へ気が残ったんだ」
×「ヘエ、それからどうしたんで」
源「それからだ、家をスッカリ掃除《そうじ》をして貸しはじめると、来る人も来る人も、みんな三日目くらいに引越して行ってしまう」
×「ヘエ」
源「どういうものかと思って、だんだん聞いてみると、出るんだ」
×「何が出るんで」
源「草木《くさき》も眠る丑満《うしみつ》のころ、障子《しょうじ》へサラサラッと女の髪の毛が当る、スーッと障子が開《あ》く仏壇の中で鈴がチーン、とたんに天井からスーッと長い手が出てきて顔をこう逆《さか》さまに……」
×「ブルブルッ、エエなにをしやがるんだ、なにをしやがるんだちくしょうめ、けれどもなにかい、そりゃァその美《い》い女の幽霊《ゆうれい》が出るんだね」
源「そりゃァ美い女だとはいうが、その咽候を突いて、血だらけな顔をして」
×「なにもその女に恨みを受けるというわけじゃァなし、出たからってかまわねえや、俺は独り者だ幽霊でも出てくれりゃァ話し相手が出来ていいや」
源「それがそのなんだ、夜便所へ行こうなどと思って起きると、開けないうちに障子がスーッと開いたりアア暗いなと思うとパッと明るくなる」
×「フーン、そりゃァますますいいね、俺なんざァこんな結構なことはねえや、それじゃァほんとうに月に一両《いちりょう》だね」
源「マア待っておくんなさい、女ばかりじゃァないんだ、天井から大入道《おおにゅうどう》が」
×「なにを言ってやァがるんだ、大入道は大《でえ》好きだからちょうどいいや、女の幽霊でも大入道でも一ツ目小僧でもなんでも持って来い、なにが出たってかまわねえんだ、おまえは差配なら家を貸しさえすりゃァいいだろう、じゃァ引越して来るよ」
源「オーイ……アア行っちまった、吉さん吉さん」
吉「どうも大変だね、怪談話《かいだんばなし》も相手が悪くっちゃァきかねえや、笑ってやがる」
源「ウム、女に咽喉を突かしてみたが駄目だから、大入道を出したら、大好きだといやァがったよ」
吉「どうもあの具合じゃァほんとうに引越して来るぜ」
源「どうも弱ったなァ……」
と言っているとその日の夕方
×「オーイありがとうありがとうここだここだ、オオさっきの小父《おじ》さん引越して来たぜ、掃除は入ってから出来るんだ、箪笥《たんす》に仏様《ほとけさま》にあとは雑物《ぞうもつ》だ、蕎麦《そば》くらいは、いま配りやすぜ」
源「オオ吉さん吉さんちょっと相談が出来たから来ておくれ、いよいよ野郎《やろう》引越して来やァがった」
吉「困ったね」
源「困った、めったに家主が来ねえからいいけれども、あすこは幾らなんだ」
吉「そうさ、よくは知らねえけれども、六円五十銭だとか、七円だとかいうんだが、おまえさん出しといたらいいだろう」
源「冗談いっちゃァいけない、なにしろあんなに言ったものだから、一度は幽霊を出さなけりゃァいけねえ」
吉「けれどもなんだねえ、あァいう気の強い奴だから、マゴマゴするとふんづかまって、ひどい目に遇《あ》わせられるよ」
相談をしているとは知らないから、こっちでは友達が手伝いに来て大騒ぎ。
○「サァこれでいいいい、また明日来るよ、どうもご馳走《ちそう》さま、さようなら」
×「アッハハハハ、飲みッ放し、食いッ放しで帰っちまやァがった、しかし掃除が出来てキチンと物がきまるといい心持ちだな、人の家の二階に厄介になってるのと違って、自分の家となるといい心地だ、アア蕎麦が一ツ残ったな、蕎麦の伸びたなァうまくねえが仕方がねえや、一ツ風呂へ行って来て、また寝際《ねぎわ》に食うとしよう……オウ小父さんちょっと湯へ行って来ますがね、お頼み申しますよ」
□「アアそうかい、ゆっくり行って来るがいい、またさっきはお蕎麦をありがとう」
×「どういたしまして……じゃァお頼み申しますよ」
源「オイ吉さん、竹さん来たかい、サァこれからだ、まず吉さん、おまえさんはなんだ、電気の安全器の紐《ひも》を引っぱっておくれ、灯火《あかり》が消えるのが始まりだ」
吉「なるほど心得た」
源「それから弥吉《やきち》さん、おまえさんこっちへ来ねえ、おまえさんは体格《からだ》が小せえから仏壇の中に隠れて」
弥「ヘエ、それでどうするんで」
源「鈴《りん》があるから、電気の消えるのを合図《あいず》にチーンと叩くんだ、あとはほかの人がするから、おまえはそれで役済みだ、竹さん、おまえさんは身が軽いから天井《てんじょう》へ入っていておくれ、そして天井板を一枚|剥《は》がして棕櫚箒《しゅろほうき》を持って待っているんだ」
竹「それでどうするんだい」
源「スルとまた一人が縁側《えんがわ》の障子を開ける、障子へ女の髪がサラサラと当る、いくら度胸《どきょう》がいい奴でもたまりかねて飛び起きるだろう、とたんにおまえが棕櫚箒で顔を撫《な》でるんだ、野郎が肝《きも》をつぶして逃げ出すところをこっちに待っている者が一人、大きい才槌《さいづち》かなにかで頭をポカリと殴《なぐ》るのだからこの手順を間違えては困る、マアざっとこういう筋書《すじがき》なんだから、さっそく支度《したく》に取りかかってもらわなけりゃァならない、誰か女の髪を持ってておくれよ、おかみさんの髢《かもじ》かなにかを、一番先が電気、それから鈴だよ」
これからスッカリ支度をいたして例の家へやって来た。
源「サアサアさっそく取りかからなくちゃァいけねえ、おまえさんは天井へ上がって、おまえさんはソレその仏壇の中だ、オイ吉さん蕎麦なんぞ食っちゃァいけねえ……アッいいや蕎麦なんぞなくなってるとかえっておもしろいだろう、私はこっちへ隠れている」
スッカリ支度が出来たところへ、奴《やっこ》さん帰って来た。
×「どうも小父さんありがとう……オヤ誰か来やがったかな、オヤオヤ蕎麦を食っちまやァがった、さっき帰ったばかりだから、誰も友達が来るわけはなし、親分がいま時分来る気遺《きづけ》えもねえ、第一わざわざおれのところへ親分が来やァしなかろう、なんだか薄ッ気味の悪い家だなァ、大家の奴がこんなことを言ったと親分に話をしたら、そんな家はよせといったが、べらぼうめェなにが出たって驚くんじゃァねえと威張《いば》ってはみたけれども、さてこう住んでみるといやな心持ちだなァ、仕方がねえや、それじゃァすぐに小便でもしてきて寝るとしよう、けれども火に縁《えん》のねえ所から煙《けむり》は立たねえ、あの家主まんざら嘘《うそ》をいうわけもなかろう、なんだかいやな気持ちだなあ」
床《とこ》を敷いて横になったがさて眠れません。そのうちにだんだんと夜が更《ふ》けてくる。四辺《あたり》がシーンといたしました。スルと電気がパッと消えました。
×「オヤッ燈火《あかり》が消えた」
とたんに仏壇の中でチーン。
×「オヤオヤいよいよ始まったかな」
チーン
×「また鳴りやァがった、オヤ縁側の戸が開いたな、誰が来たのかしら」
障子ヘサラサラッとなにか当った。
×「アッ気味が悪い、チーンのガタガタのサラサラと来やがった、こりゃどうも寝ていられねえや、起きよう」
立ちあがるとたんに、上から棕櫚箒がスーッと降りてきて、顔をサッとこすった、アッというと飛び出して来る奴を待ち構えていた奴が才槌でポカリ。
×「アッ痛《いて》え」
がらり戸を開けると表へ飛び出して、息を切って親分のところへ飛んで来た。ドンドンドン。
×「姐《あね》さん姐さん」
姐「騒々《そうぞう》しいねえ、そんなに叩かないってまだ起きているんだよ、なんだね、いま時分飛んで来てどうしたんだい、締《しま》りはありゃァしないよ、ほんとうにどうしたんだねえ」
明日《あした》の朝はやく他所へ行くのでしきりにお歯黒《はぐろ》を付けていたので、歯はもとより口の周囲を真っ黒にしている。それで立って来て
姐「どうしたんだえ」
と戸をがらり開ける、その顔を見て、ヤーッお化けだというと腰を抜かしてしまった。
姐「しっかりおしよ、どうしたのさいったい」
じつはこれこれと話す、親分もまだ目が覚めていたので
親「なんだ化け物が出た、ソレみろ、それだから俺がそんな家はよせといったんだ」
スルと二階から金太《きんた》という奴が降りて来て、
金「私はちょっと行ってきます」
親「金太どこへ行く」
金「それでもこの野郎があまり臆病なんで、今どき化け物なんぞは出るわけがねえ、大方《おおかた》なんでしょう、家主に怨みでもある奴が貸さねえ算段《さんだん》にそんなことをするんだろうと思います、それならそのように、話をすりゃァこっちだって男だ、手伝っても借人のねえようにしてやるんだ、ほんとうに人を馬鹿にしてやがる、俺と一緒に来い正体《しょうたい》を見届けてやるから、てめえほんとうに意気地《いくじ》のねえ野郎だ」
×「そんなことを言うけれども大変な化け物だぜ」
金「なにが大変な化け物なんだ」
×「なにがって聞いてくんねえ、俺が湯へ行って来てから食おうと思っておいた蕎麦をみんな食っちまやァがった、食い意地の張った化け物だ、それから俺が寝ちまったんだ、スルとパッと電気が消えた」
金「そりゃァ電気だって消えることもあらァ」
×「それから大変なんだ、仏壇の中でチーン……」
金「なにを言ってやがるんだ」
×「ほんとうなんだ、嫌な心持ちだった、スルと、縁側の戸がスーッと開いた、そうすると障子へ女の髪だね、サラサラと当った」
金「なにを言ってやがるんだ、てめえが臆病で、そんなことばかり気にしてやがるから、そう聞こえるんだろう」
×「ナニそうじゃァねえや真実《ほんとう》だ、俺が驚いて飛び起きると、毛だらけの手で俺の顔を撫でやがった、大入道か何かに違《ちげ》えねえ、それから表へ飛び出そうとすると、突然《いきなり》頭をぶん殴《なぐ》りやァがった」
金「なるほど、額《ひたい》が腫《は》れてやがる、悪いいたずらをしやァがる、俺が行って化け物の正体を見届けてやる、俺が付いてるんだしっかりしろ」
×「あにきが行ってくれりゃァ心丈夫《こころじょうぶ》だ」
こっちは長屋の連中《れんちゅう》
源「どうだいうまくいったね、けれどもなんだぜ気の強い奴だから、きっと仕返しに来るに違えねえ、モウいっぺんやらなけりゃァいけねえよ、……オオあすこに来たなァ大按摩《おおあんま》じゃァねえか」
吉「大按摩だ、大按摩だ」
ちょうど大入道のような面《つら》の按摩が通りかかった。
源「オイ按摩さん按摩さん」
按「ハイハイお呼びになりましたか」
吉「こっちだこっちへ来てくんな」
按「オオ皆さんお揃いでございますか」
吉「おまえさんはいつも忙しくって結構だなァ今日はねえ、療治《りょうじ》をしてもらうんじゃァないよ、ほかに少し頼みがあるんだ」
按「ハアなるほど、なんですな」
源「じつは少し俺たちが意恨《いこん》のある奴があるんだ、そいつを一つ脅《おど》かしやろうと思うんだけれども、おまえは身体が大きいから、それにはもってこいというんだ」
按「ヘエ、私はなんで、モウ強く揉《も》んでくれろという方には私ぐらいの按摩はないんで、指先に力がありますからな、野郎一人くらいは捻《ひね》り殺してしまいます」
源「大きなことをいやァがるな、一ツおまえに大入道になってもらやァいいんだ」
按「大入道、葛籠《つづら》の中からでも出るのでございますか」
源「そんな所から出るんじゃァねえ、そこに寝てりゃァいいんだ、その代り二円やるぜ」
按「二円、それはありがたいね、そういうことなら毎日やってもいい」
源「ちょうどいいや、弁慶縞《べんけいじま》の布団が二枚あるから、これを縦《たて》に掛ける、仰向《あおむ》けに寝ていてくんな、待ちなよ少し貼《は》る物があるから、三ツ目入道にするんだ、額へ大きい目玉を貼り付けて。恐ろしい大きな面《かお》だな体躯《なり》より面《つら》のほうが大きいもんだからね、頭はこれでよしと、どうもなんだな、足が出ねえと工合が悪い、誰か裾《すそ》のほうへ入って足になってくれ、それから両脇《りょうわき》へみんな入ってくれ、俺もいま入るよ、ちょっと形を見ておかなくっちゃァいけねえ……弥吉さん弥吉さん、モット足を伸ばしてくれなけりゃァいけねえ」
すっかり支度が出来上がったのを見ると、一丈二尺《いちじょうにしゃく》ばかりの大入道。そこへ二人がやって来た。
×「ここだここだソレ見ねえ、明火《あかり》が点いてらァ、さっき俺が出てった時にゃァ明火が消えてたんだ」
金「なにも不思議はねえじゃァねえか」
×「アッ出た」
金「なんだ」
×「覗《のぞ》いて見ねえ、大入道が寝ている、まるでお鉢《はち》くらいの大きな面だ、なんでもさっき俺の面を撫でたなァあいつに違えねえ」
金「馬鹿ァ言え、いま時分大入道なんかがいてたまるものか、あがってみろ……、なるほどこりゃァ大きな面だなァ……よししっかりしろ、俺が撲《なぐ》り殺してやるから」
×「マアよしねえ、剣呑《けんのん》だからよしねえ」
金「ナニ危険なものか、ヤイ入道、……オヤ馬鹿にしてやがらァ、見ろ目玉が貼ってあるんだ、なんだ按摩じゃァねえか、それにしても大きな身体だなァ捲《まく》って、見ろい」
みんなかなわないと思ったから、裾のほうからバラバラ逃げ出した。
金「ヤイこの野郎め、なんの怨みがあって、こんなことをしやがるんだ、ほんとうに意気地《いくじ》のねえ奴じゃァねえか腰抜けめ、引腰《ひっこし》のねえ野郎だ」
按「ハイその訳《わけ》で、いま腰のほうは逃げて行ってしまいました」
[解説]「花見の仇討」〔上方の題「桜の宮」〕が滝亭鯉丈《たきていりじょう》作の「花暦八笑人《はなごよみはちしょうじん》」から取ったものであるように、このお化け長屋も同じ鯉丈作の「和合人」から借用したものであることは明らかである。ただおもしろいのは、原作が同じでも、東京の落語作者と上方の落語作者では扱い方が違っている。東京では、友人が新宅を持ったと聞いて二三人のいたずら者が祝いに行くと、独身者の主《あるじ》は湯に行って不在だ。そこで三人は急の思い付きで化け物屋敷のいたずらをすることになっているのだ。しかしこの方はすたって今はやりてがなく、上方の借家怪談をソックリ移して、題名だけを東京風に直したのが現在の「お化け長屋」である。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
いが栗
―――――――――――――――――――
ある旅人が甲州《こうしゅう》の山中へ入って道を踏み迷い、人に尋ねたくも樵夫《きこり》一人通りません。「アア弱ったな、こりゃァだんだん山の奥へ踏み込んでしまったようだ、そのくせあすこに立石《たていし》があったが、倒れていたんで、字を見ずに、たぶんこっちが道幅が広いから本道だろうと思ったのがまちがいだったかも知れない、どこまで行ってもこりゃァ里へ出るようすがない。日が暮れてこんなところを歩いていて、狼にでも出っくわしたら大変だ」
と、ふと向こうを見ると、こわれた辻堂がありますから、とにかくあすこでひと休みして考えようと、この辻堂の前まで来ると、えんのところに腰をかけているのは年のころ四十五六にもなりましょうか、鼻のツンとした、かなつぼまなこで口の大きい、眉毛がふさふさとして、ひげがぼうぼうと生えて、頭は俗に言ういが栗《ぐり》というのでございます。ねずみの衣類に汚ないやぶれた法衣《ころも》を着て、眼を半眼《はんがん》に閉じ、数珠《じゅず》をつまぐりながらしきりに何か唱えごとをしているようす。
旅人「エエ少々うかがいます、私は旅の者でございますが、この山へ踏み迷い、難儀をしておりますが、里へ出ますには、どちらへ行ったらよろしゅうございますか、お教えなすってくださいまし、モシご出家《しゅっけ》さんへ、私は旅の者でございますがな、道をまちがえて難渋《なんじゅう》をしておりますんで、どうまいったら里へ出ましょうかな、モシご出家さんへ、……ハテナ、何と言っても黙ってるなァ、つんぼかしら……エーお坊さん、私はなァ、道に迷って難儀をしている者でございますがな、宿《しゅく》へ出ますにはどちらへまいったらようございましょうか、人を助けるは出家の役だと申しますが、どうか道を教えていただきたいもので……いよいよこりゃァつんぼだ、それにしても目の前で人間が口を動かしてるのを見たらわかりそうなものだ……よくもこうすましていられたものだな、それとも眼が見えねえのかしら……つんぼなら悪口を言ってもわかるまい、オイ坊さん、坊主、ズボウ、ズクにゅう……アアまったく聞こえないんだ…なにを言っても黙ってる……イヤこいつァしまった、ご出家は無言のぎょうということをするッてえことを聞いていたが、さては今その無言のぎょうの最中なんだ……エーどうもまことにあいすみません、おぎょうちゅう気がつきませんで、いろいろなことを申してはなはだ失礼をいたしました、お口をおききになりませんでも、こっちへ行けとかあっちへ行けとか、ちょっと指さしだけしてくださればよろしゅうございます、モシご出家さん、おぎょうちゅう、あいすみませんが、ちょっとどうか……」
なにを言っても答えない、まばたきもしないでジーッとこっちを見つめております。その顔の怖いこと、ぞっとするほど気味が悪くなってきましたから、そのまま一生懸命トットと方角もかまわずに元の道を駈けて来ると一軒のあばらやがございます。
旅「少々うかがいます」
婆「ハイなんだね」
旅「エーこのへんに宿屋《やどや》がございましょうか」
婆「さようさね、マァねえこともねえでがすが、こんな山の中で、一里半も山越しをしなけりゃァ宿屋のあるところへは出られましねえ、おまけに夜になっちゃァ道がくどいからなかなか判るめえのう」
旅「ヘエー、私は旅の者でございますが、ご当所は不案内で、ツイ道を踏みちがえてこの山の中へ入ってしまいまして、はなはだ難渋いたしておりますが、まことに恐れ入りますけれども、ご当家へ一晩お泊めくださるわけにはまいりますまいか」
婆「ハイ、それはまあさぞ困んなさるだろう、マァ泊めてあげてえけれども、じつは私のうちに病人があっての、心配しているだから、どうも泊めるわけにならねえでの」
旅「ヘエー、いかがでございましょう、まことにご無理を願って恐れ入りますが、ご病人の看病のお手伝いくらいいたしますが、一晩どうか、ごやっかいを願いたいもんで」
婆「ハイそれならばマア泊めてあげてもええけれども、私のところへ泊んなすって後であんなところへ泊らなけりゃァこういう恐ろしい思いはしなかったと悔《くや》むようなことがあるとお気の毒だから、それで泊めるわけにいかねえ」
旅「ヘエー、恐ろしいと思います、と申しますと、そのご病人はどういう何でございますか」
婆「ハイここにいるのは私の娘でがすよ」
見ると年のころ十七八、長くわずらっているものとみえて、色のあおじろい、目もとに愛嬌のある、口もと尋常《じんじょう》な、眉毛の濃い、山家《やまが》にまれな美人でございます。
旅「ヘェー、失礼ながらいいご器量でありながら、ご病気のためにお悩みになるというのはお気の毒でございますな、シテ恐ろしいというのは、どういうご病気のたちで」
婆「じゃァマア話をぶつがね、見るとおり私にはマア不似合いの人並みの器量に生まれながら、嫁に行くこともできねえような因果《いんが》の病気にかかっているでねえ」
旅「ヘエー」
婆「もと、わしはこの山の麓《ふもと》の村に住んでいたところが、夜の八ツごろになると、恐ろしい坊さまが出てきて、娘の枕もとへ座ると、娘がえれえ苦しみをするでね、医者さまにもみてもらったが、何という病気だかわからねえ、村の者もそんな恐ろしい病人が近所にいて、うつりでもされてはならねえから、どうか病気が治るまで少しのあいだ村を立ち退いてもらいてえといわれ、情けねえことだとは思ったが仕方なしに、マアここへ連れてきて、ほったてごや同様のところへ入って私がそばで看病しているが、嫁入りざかりの娘にこうして患われているわしが心をどうぞ察しておくんなせえまし」
旅「ヘエーどうもお気の毒で、イエ私はどんな恐ろしい思いをしてもよろしゅうございます、この山の中を夜よなか歩いておりまして、狼にでも出っくわすとそれこそ大変でございます、どんな怖い思いをしようと家の中なら仔細《しさい》がございません、娘さんの枕もとで看病をしてあげますから、どうぞ一晩お泊めくださいまし」
婆「ハイ、それせえ承知ならお泊まんなせえまし」
旅「ありがとう存じます」
婆「あなた、さだめし腹がすいていなさるだろう」
旅「ヘエずいぶんおなかがすいております」
婆「あなたは言葉のようすでは江戸もののようだが、こんな山の中だで、米の飯《めし》ねえでがすよ」
旅「エーもう麦飯《むぎめし》でけっこうでございます」
婆「麦の飯もねえで」
旅「さようでございますか、アアなるほど、いつかわたしが信州へまいりました時に、お百姓がとうもろこしを粉に挽《ひ》いてお団子をこしらえてくれまして、塩をつけて食べたことがございましたが、やはりアアいったようなもので」
婆「ナァニ稗《ひえ》だよ」
旅「ヘェー稗、カナリヤみたようだな……、イエナニけっこうでございます」
婆「米の飯も少しは入ってるけれども、おかぼというのでね」
旅「イエかえって軽くってようございます」
婆「あなたなにかえ、精進《しょうじん》かね」
旅「イエ精進ではございません、こういうところはさだめし山女《やまめ》とか鮎とかいうものが獲《と》れましょうなァ」
婆「そんな贅沢なものはねえでがすよ、おたまじゃくしの佃煮があるがどうだね」
旅「ヘエー、ありがとう存じますが、マアごめんをこうむりましょう」
婆「あなた、きれえかね」
旅「嫌いにも好きにも、いただいたことがございません」
婆「ハハハハそうかね、じゃァ、イナゴはどうだね」
旅「イナゴ、これは両三度いただいたことがございます、羽や足をむしってしまって亀甲万《きっこうまん》のしょうゆとみりんで煮ましたのは、ちょっとお茶漬けのお菜《さい》にはようございます」
婆「そんな贅沢なもんでねえ、こんな山の中だし、それに病人を相手にやるこったから、ていねいのことはとうていできねえ、中にゃボッタもまじってるさ、羽も足もついたまま……」
旅「ヘエー、ボッタもまじってますか、せっかくですが、どうかそれはご勘弁を願います、かえって、おこうこうのほうがけっこうで」
婆さんが親切に粥をこしらえてくれた。
婆「サアたくさんあがんなせえよ」
旅「ありがとう存じます‥‥、エエ少々うかがいますが、この茶色をしているのは何でしょう」
婆「これは米の中へ稗《ひえ》ェ入れたんだが、今いうとおり病人を相手につくだから、よくつけねえで、ひえの皮が入ってるので」
旅「皮ですか、このおこうこうはきゅうりですな」
婆「ハイ」
旅「白い粉がついてるのは何で……」
婆「それはおまえさん、ぬかや塩がついてるで、洗うともったいねえから洗わずにそのまま食べるでね」
旅「オーヤオヤ、ぬかみそを洗わずに食べるたァ恐れ入ったな……ではいただきます」
いきなり、かの稗《ひえ》の飯を一口ほおばるとゴツゴツしてどうにもこうにも納まりがつきません、しかし吐き出すわけにもいかず、お茶をかけてようやく流し込んで
旅「どうもこれはおどろいた……ヘエ、もうじゅうぶんいただきました」
婆「そうかね、ちっとも食べねえようだが」
旅「どういたしまして」
婆「じゃァお客さん、疲れてるようだから寝なさい。だが、着て寝る物もなんにもねえよ」
旅「イエもう横にさえなれば、このままでけっこうでございます」
と、着のみ着のまま、次の間《ま》へ入って横になったが、前の病人の話も聞いておりますし、敷いて寝る物もないから急には寝つかれません、けれども疲れておりますから、ウトウトとしているうちにだんだん夜が更けるにしたがってスウスウという鼾《いびき》、四ツが鳴り九ツが鳴り、八ツの鐘がボーン……陰《いん》にこもってものすごく聞こえまする時分になると、かの娘がウーン、ウーンという恐ろしい苦しみ、フト目を覚ましてそっとのぞいてみると、娘の枕もとに年のころ四十五六になります、鼻筋のツンとした、かなつぼまなこの、眉毛のふっさりした髯のぼうぼうと生えて頭はいが栗というので……ねずみの衣類にやぶれた法衣《ころも》を着た坊主が娘の頭の上へ手をかざして、べつになでるでもなく、ただこうしてかざしているだけだが、娘はたっての苦しみでございます。アア恐ろしい坊主だな……ハテこの坊主はどこかで見たようだが……ウムそうだ、こっちへ来るとき辻堂のところに腰をかけていた坊主だ、不思議なことがあるものだ……と思うとぞっといたしまして、着ている合羽《かっぱ》を頭からかぶってガタガタガタガタふるえておりましたが、そのうちカアカアと夜明けを告げるからす、空が薄明るくなってまいりましたから、そっと向こうを見ると、いつのまにか坊主の姿は消え失せてしまいました。
旅「おかみさんじつにお察し申します」
婆「あなた見なすったか」
旅「ヘエ、じつになんともお気の毒さまで、ご心労お察し申します、私はあんなすごいものを初めて見ました、ついては私がちょっと人から聞いたことがございますから、このむすめごの病気をきっと治してあげましょう」
婆「エエマア、私はこの娘の病気が治りさえすれば、自分の命をちぢめてもいいと思ってるで、治るものなら、どうか治しておくんなせえまし」
旅「エエエようございます、ちょっと私は行ってまいります」
なんと思ったかおもてへ飛び出して昨日来た山道をドンドン来ると、かの辻堂のところに相変わらず坊主が腰をかけ、眼を半眼にして珠数をつまぐりながら何か唱えごとをしております。
旅「こンちくしょう、ヤイ坊主、てめえオレが昨日道を聞いたらなんとも言やがらねえで、ちくしょうめ、てめえがそんな馬鹿なまねをしているんで、かあいそうにこの山に住んでる婆さんの娘は死んじまった」
坊「ヘエー、それではアノ娘はほんとうに死にましたか」
旅「ヤアちくしょう口をきいたな、嘘じゃァねえ、あの娘は死んじまった」
坊「アーッ死にましたか」
と言うと今まで坊主の姿であったのがグズグズと崩れると、一つの白骨になりました、旅人は驚いたのなんの、ワーッといって腰を抜かさんばかり、夢中で帰ってきて
旅「ヘエただいま」
婆「マアお帰んなさいまし、あなたえらく顔色が悪いがどうかしたかね」
旅「さっそくうかがいますが、娘さんどんなようすで……」
婆「マアあなた、喜んでおくんなさいましよ、あなたが出かけて行って少し経つと、いつもより、ぐあいが良くなったようで」
旅「ヘェー、それはどうも不思議だ」
じつはこれこれと話をすると
婆「マアあなたのような親切のお方はねえ、ありがとうございます、あなたにはまことにすまねえけれども、どうかもう一晩泊っておくんなさらねえか」
旅「こうなれば私も掛かり合い、心配でございますから、もう一晩ごやっかいになりましょう」
と、その晩もここへ泊ると、娘は昨日よりグッとよいようだ、もう一晩といって三日目になると、ケロケロと治ってしまいました。
婆「マアあなたのような偉《えれ》え方はねえ、江戸のお方だから、さだめしこんな山の中でいやだろうが、商売の都合でたまさか帰っておくんなさりゃァいいだが、どうかこの娘をあなたの女房にしてくださらねえか、ふつつかものじゃァあるけれども」
こういわれてみると、元々当人もひとりものだし田舎にまれな器量よし、まんざらでもないから承知をいたしました。それからおふくろが村方《むらかた》へ来てこれこれこういうわけで娘の病気が治ったと話をすると、村の人もたいそう喜びまして、元の家へ帰るようになり、吉日《きちにち》を選んで婚礼をする、その晩のこと、田舎にはよくありますが、鼠穴《ねずみあな》へ栗の毬《いが》をはさんでおきます、ガラガラ、ガラガラガラと天井で鼠の騒ぐ音がしたと思うと
娘「アイタタタタ」
婆「アレどうした、アー危ねえ、天井の隙間《すきま》から栗の毬が落ちただ」
かの男がそれを見て
男「ウーム、まだいが栗がたたってるか」
[解説]上田秋成の雨月物語にある青頭巾から思いついた落語らしい。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
王子の狐 〔上方の題〕高倉ぎつね
―――――――――――――――――――
以前お稲荷様のお祭りには、いずれの子供衆も、稲荷まんねん講《こう》などといってほうぼうこづかいをもらって歩いたもので、今日は時勢に従ってそういう賎《いや》しいことをする子供衆はございませんが、しかし稲荷様を祭る家《うち》では太鼓をたたき、お神楽《かぐら》をいたし、稲荷ずしをこしらえたり、赤飯をふかしたりして、子供衆にごちそうをいたします。きつねはこのお稲荷様のお使い姫とかいって、稲荷の信仰者はたいそうこれを尊《とうと》みます。けれどもきつねは陰獣《いんじゅう》でよく人をばかすと申しまして、同じ化けてもきつねのほうは利巧に化けますが、たぬきのほうは化け方がドジでございます。
ある田舎でおおぜい村の者が寄って博奕《ばくち》をしておりました。するとたぬきがどこからまいりましたか、そのへんをうろうろ歩いていると、なにか人声がするから節穴《ふしあな》からのぞいてみると、車座《くるまざ》になって、
○「どうだいてめえ、いかく勝ったようだな」
△「ナニ俺ァそんなに勝たねえぞ」
○「イヤ勝ったぞ」
△「ナンノ勝つものか」
と争っている。ハテナだいぶ集まってるが、アア博奕をしていやがる、悪い奴らだ、よし、俺が一つ化けてって、こいつらの金をみんなふんだくってやろう、誰か村の者に化けて入ろう、けれども大勢いるからもしその中に本人がいるといかねえ、今に誰か出て来るだろうからそうしたらその人に化けて入ろうと、戸外にたぬき先生待っておりますと、中で一人
△「いずれまた明晩」
○「じゃァおめえ、けえるかえ」
△「オオ俺ァけえる」
○「そこをピッシャリ閉めてってくれよ」
△「オオよし」
ピッシャリ戸を閉めて出かけた者があるから、たぬきはしめたといきなりヌッと中へ入り、一人あいた蒲団《ふとん》のところヘドッカリ座って、
△「今帰ったけれども、また一つやりたくなったから引っ返《けえ》して来た」
ヒョイと見るとたぬきが座っている。一同驚いて、このたぬきめと七八人、力のある奴にふん捕まって、ポカポカ殴られてとうとう死んでしまった。あまりあわてて中へ飛び込んだんで、化けるのを忘れて入った。そそっかしい奴があるもので、そこへ行くときつねは利巧だから化けるのがじょうずでございます。その利巧なきつねを人間が化かしたという話があります。きつねに化かされた話はいくらもあるが、きつねを化かしたという話はあまりございません。
ある方が王子の稲荷様へ参詣いたし、ブラブラあっちこっちを歩いておりますと、ただ今のようにまだ王子もひらけません時分で、稲むらのところにヒョックリ尻尾《しっぽ》が見える、どうも犬の尻尾のようでない。ハテナとそっと近寄ってよくよく見るときつねに相違《そうい》ない。フフきつねめ、昼寝をしてやがると、よせばいいのにいたずらな人で、石を拾って見当をつけてポーンと投げると、きつねはいい心持ちに寝ているところを石をぶっつけられたから驚いて、飛び起きてみると人間がいるから、そのまま稲むらの蔭《かげ》へ入ってしまった。ハテナなにをするかと思って、こっちから見ていると、蔭へ隠れてきつねがしきりに頭へ草をのっけています。オヤオヤみょうなことをするなと思ううちに、ポーンと一つ引っくり返ると、たちまち二十六七の半元服《はんげんぷく》のポッチャリした色白の女に化けた。アハハこれはおもしろいな俺も今までずいぶん絵や何かでは見ているが、きつねが人間に化けるのを目前《もくぜん》見たのは初めてだ。色の白い婦人に化けた。アハハこれはおもしろいな、イヤこんなことをいっているうちに危険だぞ、これは俺が女が好きだというんで、女に化けやがったんだな……オヤどこかへ見えなくなっちまった、グズグズしているうちに化かされるぞ、よし、一ツこっちも化かしてやろうと、眉毛へ唾をつけてスタスタ二三丁やって来ると、よしず張りの茶店に婆さんが居眠りをしているから
○「お婆さん」
婆「ハイ」
○「アノほかじゃァないが、少しお聞き申したいことがある」
婆「ハイ」
○「今がた、ここを二十六七になる色白のポッチャリした婦人が通りゃァしなかったかえ」
婆「イエお見かけ申しませんね」
○「ハテナ……ナニじつはね、私と一緒におまいりに来てね、そこここと見ているうちに、はぐれちまったんだがね……この道を来るほかにどこへも行く気遣いはないと思うが……」
女「モシあなた、モシ」
振り返って見まするといつの間にかおいでなすった。
○「オーけんのんけんのん」
眉毛へ唾をつけて
○「オオどうした」
狐「アラマア探していましたよ」
○「そうかえ、私もさんざん探して、どうしても知れなけりゃァ王子の頭《かしら》のところへ寄って、若い者でも頼もうと思っていたんだ、今もこのお婆さんにこういう婦人が通りゃァしなかったかと聞いていたところだ、マアよかった、ちょうどもう時分だからどこかへご飯を食べて行こう」
狐「そうですねえ」
○「どこにしよう、扇屋《おうぎや》にしようか、海老屋《えびや》にしようか」
狐「どこでもようございます」
○「じゃァ扇屋でご飯を食べよう、けれどもあすこでは油揚《あぶらげ》は食わせめえな」
狐「いやですねえ、油揚なんぞわたしゃ好きませんよ」
○「アッ、油揚は好かねえ、ただのきつねじゃァねえな、……マアなんでもいい一緒に行こう」
女「いらっしゃいまし、どうぞお二階へ……」
○「おまえさんお酒は飲めるのかね」
狐「ハイ少しはいただきます」
○「アアそう……ねえさんお酒を持ってきておくれ、お肴《さかな》は見つくろって、どうか早く持ってきておくんなさい……少しは飲めるというのがさいわいだ、酔っぱらわしてやろう……サア一つ……」
盃《さかずき》を差されてきつねも飲める口とみえ、ガブガブ飲んだんで、いい心持ちに酔ってしまった。
狐「どうも大変に酔ったんですよ」
○「そうかい、だいぶいい色になった、マアゆっくりとしていこう、まだ日が高いから」
狐「そうですねえ」
○「私もいい心持ちになった」
狐「どうも私は大変に酔っちまったんですよ」
○「そうかい、だいぶいい心持ちそうだ、もういけないかい、ナニ頭が痛い、アア少し飲みすぎたとみえる〔ポンポンポン〕アノねえさん、お気の毒ですがね、ちょっと枕を一ツ貸してくださいな、ナニ少し頭が痛いというから……マアいいからそこへ少し横になっておいで」
狐「なんだかきまりが悪いようで」
○「いいってことさ、少し寝ているとじきに酔いがさめるよ」
狐「では少しごめんなさいまし」
とそれへ横になったと思うと、そのままいい心持ちそうにスンスン寝てしまったようす、寝息をうかがってそっと下へ降りてきて玉子焼を三人前おみやげにあつらえておき、それを持って、かの男は先へ帰ってしまった。こちらは二階に寝ていたきつね、ヒヤリとしたので目が覚め、酔いも醒めて、アアいい心持ちになったとヒョイと見ると、かの人がおりません。ビックリして手をたたいて女中を呼んだから、
女「ハイ、お呼びなさいましたか」
狐「アノねえさんお気の毒様ですがね、お湯でもお茶でも一杯くださいませんか」
女「ハイ、かしこまりました……これへ持ってまいりました」
狐「アアありがとう存じます……アアいい心持ちになりました、アノつかんことをお聞き申しますが、連れの人はどこかへまいりましたか」
女「ハイ、さきほどお帰りになりましてございますよ」
狐「オヤ帰りましたかえ」
女「ハイお帰りになりました」
狐「そうですか、マアひどいじゃァないかね、わたしを寝こかしにしてさ……アノ妙なことをお聞き申しますがご勘定をしてまいりましたか」
女「イエご勘定はあなたからとおっしゃって……」
狐「エーッ」
言われた時にさすがのきつねも驚いたとみえまして、今まできれいな顔の年増《としま》であったのが、たちまち耳を出すと、うしろへ結んでいた帯が大きなしっぽとなってヒョックリぶらさがったから、ビックリした女中がまっさおになり転がるようにはしご段を降りてまいりまして
女「吉《きち》さん、勝《かつ》さん大変だよ大変だよ」
吉「なんだ、どうしたんだ、大きな声を出してビックリするじゃァねえか」
女「大変だよ、二階へ行ってごらん、大変だよ」
吉「なにが大変なんだ」
女「さっきの二人のお客ね、一人男のほうは帰ったろう」
吉「ウム」
女「二階に女のほうは寝ていたんだが、あれはきつねだよ」
吉「冗談いっちゃァいけねえ、そんな奴があるもんか」
女「じゃァ行ってごらんな、おかみさんのほうが寝ていたところが目を覚まして、お茶でもお湯でもいいから一杯くれろというからお茶を持ってったら、連れの人はどうしたと聞くから玉子焼のおみやげを持ってお帰りになりました、ご勘定はというから、ご勘定はあなたからというと、ビックリしたとみえてブルブルと身ぶるいをすると、今までいい年増だったのが耳を出して、締めていた帯がしっぽになってしまったんだよ」
吉「嘘をつきねえ、ふざけちゃァいかねえ」
女「ダカラ早く行ってごらんよ、きつねがチャンと座ってるから……」
あやしみながら若い者があがって来てみると驚きました、なるほど女中のいう通り、しっぽが後ろへ出て手を胸に当てがい考えているようすだから
吉「ヤア勝さん万《まん》さん、ちょっと来《き》ねえ、ほんとうにきつねだ」
勝「ナニほんとうか、そいつァ驚いたな、王子に稼業をしていて、きつねなどに食い逃げをされてたまるものか、そのきつねをぶち殺してやろう」
若い者が七八人、鉢巻をして、天秤棒《てんびんぼう》や心張棒《しんばりぼう》などを持ってそっと二階へあがって来た、きつねは自分が本体をあらわしているとは気がつかない、しきりに考えているところへ、いきなり大勢あがって来てこのきつねめと打ち込まれて不意をくったからたまりません、座敷の中を逃げまわったが棒を持って追いまわされ、いよいよかなわなくなるときつねのほうには逃げるほうがあるとみえて、一発鼻をつらぬくようなやつをパッと放った、いたちの最後ッ屁《ぺ》ということはよく申しますが、きつねの苦しッ屁ときたら、どうもその目口へ染み込んで
吉「アッ、プッ、これはたまらねえ、誰だいこの中で……ナニきつねだ、驚いたねえどうも、オヤきつねは逃げちまった、驚いたねえきつねめ、苦しッ屁をして逃げちまやァがった、とんでもねえことをした、オオ親方お帰んなさいまし」
主「なんだなんだ、鉢巻などをして、てんでに天秤棒や心張棒を持って、なんの真似だ」
吉「なんの真似ったって食い逃げでございます」
主「食い逃げだって手荒いことをしちゃァならねえ、お客様へ対して」
吉「それが親方、きつねなんで」
主「ナニきつね」
吉「ヘエきつねが二匹きやァがって、夫婦《みょうと》ぎつねで、おぎつねのほうが先に帰ってしまって、めぎつねのほうが後に残って飲みすぎて寝ていやがって女中が行って勘定をと言うと、そのきつねがビックリして耳と尻ッ尾を出しやがったんで、大勢でぶち殺そうとしたうちに苦しッ屁をして逃げてしまいました」
主「それは大変なことをしてくれた」
吉「なんで」
主「なんだっておまえたちも考えてみねえ、永代《えいだい》こうして王子に稼業をしているのはなんだと思っている、みんな王子の稲荷様のおかげだ」
吉「ヘエ」
主「ヘエじゃァねえ、王子の稲荷様のおきつね様がわざわざ来てくだすったんだ、せっかく扇屋へご夫婦で来てくだすったのをぶち殺すなどとはあきれるじゃァねえか」
吉「なるほど、王子の稲荷様がおいでくだすったんで、そりゃァ大変なことをしました」
主「とんでもねえことをしたじゃァねえか、今夜は大変だ、おまえたちは取り着かれるぞ」
吉「ヘエ」
主「ヘエじゃァねえ、病気にでも取り着かれたらしようがねえ」
吉「困ったなァ、どうしたらようございましょう」
主「尋常じゃァいかねえ、おわびに行かなけりゃァいかねえ」
と扇屋の家は大騒ぎでございまして、大勢そろってお稲荷さまへおわびに行くという始末。こちら例の男は三人前の玉子焼を持っていい心持ちにほろよいきげんで
○「こんにちは」
△「ヤアどこへおいでなすった、たいそういいご機嫌で」
○「イヤ今日は王子の稲荷様へおまいりをしてブラブラあっちこっち歩いて来ましたが、どうも浅草やなにかとちがって、またアノ辺はいい心持ちで……」
△「お一人じゃァありますまい」
○「エー連れがありました」
△「お連れはご婦人で」
○「エエナニきつねでございます」
△「エー」
○「きつねでございます」
△「きつね、アア吉原《よしわら》の花魁《おいらん》を……」
○「イエ本物のきつね」
△「ヘエー、それはどういう訳で」
○「じつはこういう次第なんで、きつねがあぜ道で昼寝をしていたから、石をぶっつけると、稲むらの蔭へ入って女に化けたんで、きつねの化けたのを絵では見るが、実物は初めて見ました、それからこっちで化かされないうちに反対に化かしてやろうと思って、王子の扇屋へ引っぱり込んで酒に酔わして寝かしておいて玉子焼を三人前みやげに持って勘定を押しつけて逃げて来ちまった」
△「ひどいことをなさるねえどうも、人間がきつねに化かされた話はたびたび聞きますが、人間がきつねを化かすというのは初めて聞きました、どうも驚きましたねえ、しかしそれはあなたとんだことをなすった」
○「ナーニ」
△「ナーニじゃァない、きつねは稲荷様のお使い姫です、おまいりに行ってきつねをだますとは、そんなことをしたらお稲荷さまのお怒りに触れますぜ、第一そのきつねがあとでどんな目にあったか知れません」
○「なるほど」
△「なるほどじゃァありませんぜ、きつねを酔わして茶屋へ置いてくるというなァひどい話だ、もしもそのきつねがぶち殺されでもしたら、おまえさんはともかくも、子供衆やおかみさんがどんなにたたられるか知れませんよ」
○「なるほどそういえばそうだねえ」
いくらいたずらな人でも気がついてみると神経が起こって、悪いことをしたと思ったから、明日の朝おわびに行こうと、その晩は家へ帰っておかみさんにも話さず、翌朝早く起きて家を飛び出し、いろいろのみやげ物をととのえて王子へやってまいりましたが、どこの何町何番地の誰というわけではない、どの穴のきつねだかわからない、サァ困った、ほうぼうの穴へ行ってようすをうかがってみるが知れない、だんだん来ると稲荷様のそばのところに小さな鳥居があって奥深い穴があるから、その穴へ耳を付けてみると、うなり声が聞こえます。
○「アアここだ、ごめんなさい、ごめんください……なんだかおかしいな、エエ少々うかがいます……アッ、小さなきつねが出て来た、フフッこれはどうもおもしろいな、フフッ昨日見たきつねの子供だ……ヘヘェモシあなた息子ちゃんですか、お嬢ちゃんですか、へ、おぼっちゃんで……どうもお毛並がようございますな、エエちょっとうかがいますが、あなたのおっかさんでいらっしゃいましょうか、じつは昨日、そのおっかさんを化かしました人間なのでございますが、どうもまことにすまないことをいたしました、ちょっとフラフラとあァいう気が出ましたんで、以後は決していたずらをいたしません、どうぞご勘弁を願います、エエこれはつまらんものでございますが、ホンのおわびの印、どうかあなたからよろしくおっかさんにおっしゃってくださいまし、へヘお可愛らしいお顔ですね、お毛並のいいこと……アアくわえて奥へ引っ込んでっちまった」
狐「アア痛い痛い、白やおもてへ出るんじゃないよ、おっかさんは昨日おもてへ出てネ人間にひどい目にあったのだから、おまえもおもてへ出ちゃァいけないよ、おまえなぞは子供だから、どんな目にあうか知れない、この節《せつ》の人間は油断ができないよ、おもてへ出るんじゃァないよ……なんだえなんだえ」
小供「アノネ、昨日おっかさんが化かされた人間が来たよ」
狐「エー来たえ、マァあきれた奴だ」
小供「なんだか大変にあやまってるよ、出て行ったら坊ちゃんですか、嬢ちゃんですか、お可愛らしいいいお毛並だってそう言ってたよ」
狐「ソラゾラしい奴だねえ、嫌な奴だ、出るじゃァありませんよ」
小供「ウン大変にあやまってるよ、それでね、アノおっかさんによろしくそう言ってくれろ、まことにすみませんでした、これはホンのおわびだからだと言って、なんだかこんな物をくれたよ、開けてみよう、ヤアぼたもちが入ってらァ、食べよう」
狐「食べるじゃァない、おおかた馬の糞かも知れない」
[解説]王子には昔たくさんきつねの穴があったそうである。そうして王子は江戸庶民が四季おりおりに訪れた場所である。たとえこれが上方の高倉狐から直したものであっても、江戸で最初に作られた噺として少しも不自然を感じない。サゲは逆さ落、つまりきつねが人間に化かされたというわけである。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
樟脳玉《しょうのうだま》
〔別名 ねじべえ〕〔上方の題〕げんべえだま
―――――――――――――――――――
当今では樟脳《しょうのう》もドンドンできてまいりまして、いろいろ需要の路も広くなっておりますが、昔はわずかにこの粉を紙に包んで箪笥のひきだしへ入れておくとか、または雛の箱へ入れるとか、五月の武者人形の箱の中へ入れておくとかいたすと、虫が付かないなどといって用いたもので、この樟脳を小さく丸めて、これを赤く塗りまして、香具師《やし》が火をつけててのひらへ載せて樟脳玉、一名、長太郎玉《ちょうたろうだま》と申して売っておりました。今はまるで見かけませんが、以前は縁日などであきないまして、子供衆がおもちゃに買ったものでございます。それから思い付いてのお噺。
いったい、人というものは、我々のような智恵のない男が窮しますと、ろくなことは考えません、小人《しょうにん》閑居《かんきょ》して不善《ふぜん》をなすとか申して、智恵のないくせに働くのがいやで、どうかおいしい物を食べてブラブラ遊んでいたいなどというので、いろいろなことを考える。
○「吉さん、うちかえ」
吉「誰だ、あけねえ」
○「こんにちは」
吉「オウ八か、どうした、ちっとも顔を見せねえが、ひとつ長屋にいておまえの顔を四五日見ねえと、なんだか二三年会わねえような心持ちがする、どうだ何かおもしろいことがあるか」
八「それがちっともおもしれえことがねえんだ、今年くらい悪い年はアニキねえね、どうにもこうにも、ほうがえしがつかねえ、何かうめえことはねえかと思って考えてるんだが、どうも銭《ぜに》もうけというものはねえもんだなァ」
吉「それはお互いだ、俺もこの節《せつ》はやり切りが付かなくなって、やはりてめえと同じで、ただ何かうめえことを見つけてえと考えてるんだ、何かてめえ考えついたか」
八「じつは三日三晩寝ずに考えた金儲けのことがあるんだ、アニイ半口乗ってくんねえか」
吉「そいつァ剛義《ごうぎ》だ、金儲けの口といやァ半口どころかまるで乗ってもいい、どういうことだ」
八「そこを閉めてくんねえ、人に聞かれると大変だ」
吉「サァ早く聞かせねえ」
八「アニイ気の毒だが引き窓をちょっと閉めてくれ」
吉「なんだって引き窓を閉めるんだ、暗くなっていけねえや」
八「人にのぞかれると一大事だ、引き窓が開いてると天が見通しだ、おてんとうさまに見ておられちゃァ気が差して話ができねえ」
吉「くだらねえことをいうな」
八「くだらなかァねえ、後生だから閉めてくれ」
吉「やっかいな奴だな……ホラ閉めた、これでいいだろう」
八「ウム、もうひとつお願いがある、仏壇をちょっと閉めてくんねえ」
吉「いいじゃァねえか、仏壇が開いてたって」
八「イヤそうでねえ、おまえのところのご先祖様にこの話を聞かれちゃァ大変だ、後生だちょっと……」
吉「やっかいなことをいやァがるな、俺のところの仏壇は風呂敷を掛けりゃァいいんだ、サァこれでよかろう」
八「まだいけねえ」
吉「なにが」
八「そばに猫がいる、猫をどこかへやってくんねえ」
吉「猫がいたっていいじゃァねえか」
八「いけねえよ、猫は魔物だってえから、人間に化けてどこかへ行ってしゃべらねえとも限らねえ、お願いだからそいつを追ってくんねえ」
吉「やっかいのことをいやがるな、シーッちくしょう、アハハ猫が驚いて飛び出していきやァがった、サアこれならよかろう、話をしねえ」
八「まだいけねえ」
吉「なんだ」
八「ダッテおめえがそこにいるじゃァねえか」
吉「俺がどいて誰に話をするんだ」
八「アアそうだなァ、そんなら安心だ、ほかのことじゃァねえがな」
吉「ウム」
八「この長屋のねじべえな」
吉「ウム、ねじべえがどうした」
八「ありゃァねじべえという名じゃァねえんだよ、ほんとうの名前は喜六《きろく》というんだが、変にねじけているから、あいつのことを皆でねじべえと綽名を付けたんだ、ところがおめえこの節《せつ》は当人もねじべえさんというと、ヘエと返事をするようになったからおかしいじゃァねえか」
吉「そんなことはどうでもいいが、金儲けの話ってえのはなんだ」
八「マア聞きねえってことよ、アノねじべえの女房が大したもので、じつにねじべえってやつは、良い月日の下で生まれやがった奴だと、うらやましく思ってるんだ、あいつの女房なんぞになる女じゃァねえ、あれはおめえも知ってるだろう、ある屋敷へ奉公をして、ウンと金を儲けて一生奉公するつもりでいたところが、その屋敷が瓦解とかなんとかで、暇が出たもんだから急に身を固めることになったが、なんでも大事にしてくれて、心だての優しい人をというんでだんだんほうぼうを聞いた上、ねじべえがいいとこうなって、あいつの家へかたづいたんだ、ねじべえ喜んで、なんでも女房のことというと、嫌といわずにするんだ」
吉「なんだ、てめえなにか、その話をしてェために、俺のところへ来て、猫を追い出したり、引き窓を閉めさしたりしたのか」
八「そうよ」
吉「くだらねえことを言うな、てめえから聞かなくってもひとつ長屋にいるんだ、俺のほうがよく知ってらァ、なにをくだらねえことをいやァがるんだ」
八「怒っちゃァいけねえ、これから金儲けになるんだからマア聞いてくれ、するとあの女房が、コロリ死んだろう」
吉「ウム」
八「生きてるうちのようすをおめえ見たか知らねえが、朝俺が出がけに道具箱をかついであすこの家の前を通る時に、女房が見てえから俺がおはようございますと声をかけると、ねじべえが、オヤ八さんでございますかおはようございます、マアお寄んなさいましというから、野郎に用はねえが寄ってみると、ねじべえが茶を汲んで出したりなにかして、女房はまだ寝ているんだ、飯《めし》もねじべえが自分で炊くんだな、俺が茶をのんでると、その間に女房を起こすんだ、その起こし方が大変だ、三段起こししてるんだ」
吉「なんだ三段起こしッてなァ」
八「枕もとへ行って、サァ起きてもいい時分だから起きたらどうだい、八さんが来ているよ、起きたらいいだろう、もう起きたらいいだろう」
吉「なんだいそれは」
八「声をだんだんにこう、せり上げてくるんだ、初めがちいせえ声で、次が中ぐらい、しまいにでけえ声をだす、それが三段起こし、初めから大きな声を出して起こすと、女房がハッと驚くといけねえというので、だんだんに大きな声を出すんだ、それほどに思う女房が死んだんだから、ねじべえはまるできちがいのようだ、家に閉じこもって仏壇の前へ座って、愚痴ばかりこぼしている、なぜおまえは死んでくれたんだとかいって位牌と話をしている、そこで俺が考えた、これほどに死んだ女房のことばかり思ってる男だ、夜中に小便に行くだろう、ちょうどいいことに、ねじべえのとこの便所をいま修繕してるんだ、で長屋の共同便所へ行くんだ、二人でねじべえの来るのを待って、はきだめのそばからあいつの女房の幽霊になって出るんだ、ナニこのままじゃァいけねえが、怪談をやる落語家《はなしか》の心やすいのがある、そこへ行って着物とかつらを借りて、この顔へおしろいを塗ってはきだめのそばからヌーッと出て恨めしいねじべえさん、私はお金や着物に気が残ってどうしても浮かばれない、お願いだから着物にお金を持ってきておくれというと、あいつは女房のことといえばなんでもするんだから、そうかえ、おまえがそんなに気が残ってるなら持ってきてあげようというのでそこへ蔵物《ぞうもつ》を持ってくるだろう、持ってきた時に、まさか幽霊が包みをしょうわけにいかない、そこでアニキ、おまえが黒衣《くろご》を着てそばに後見をしていて、真っ黒に塗った竹の先へ釘かなにか付けたやつをヌッと出して、その包みを引っかけて引いてくんねえ、暗いところだからわからねえ、あいつが驚いて目をつぶって念仏でも唱えてるうちに、はきだめの陰へ引っこんでしまって、あとで蔵物を山分けにしようというんだ、素晴らしい金儲けだ、アニイ手伝ってくんねえ」
吉「そうかそれを三日三晩寝ずに考えたのか」
八「そうだ」
吉「てめえの智恵はそんなものだろうな、よく考えてみねえ、ねじべえという奴は未練な奴で、死んだ女房のことばかり思ってるんだ、その幽霊をほんとの女房だと思って、あいつが驚かねえで、よく出てくれた、なつかしかったとかなんとか言って、てめえに抱きついたらどうする」
八「なるほど、そういやァあいつのことだからやりかねねえ、そんなことをさ
れちゃァ困っちまう、もし抱きついたら、相撲の手でほうり出す」
吉「それだからてめえの考えなぞは駄目だ、ほんとうにてめえそれをやる気か」
八「やる気があるから引き窓を閉めてもらったり猫を追い出したりしたんじゃァねえか」
吉「そういうことは、もしやりそこなって知れると、二人とも食らい込むぜ」
八「そうだ」
吉「ダカラうかつにゃァできねえ、じつは俺もそれに似た考えをしていたんだ、てめえがやる気なら俺も一緒にやるけれども、しかしその手じゃァいけねえ、この考えは俺のほうが少し上だろうと思う、ここにこういう物がある」
火鉢のひきだしから出した例の香具師《てきや》の売っている長太郎玉という樟脳を玉にしたやつで、これは付け木で火を付けると、青い火が燃える、それをてのひらへのせて転がしているから、
八「なんだいそれは、火の玉を掌へのっけて熱くねえか」
吉「ウム、こうして転がしてりゃァ熱くもなんともねえ、こうやると消える、フッ……」
八「なるほどそれは不思議だ」
吉「てめえちょっと掌へのせてみねえ」
八「火傷をしやァしねえか」
吉「だいじょうぶだ、ホラどうだ」
八「なるほど、こりゃァおもしろいや」
吉「熱くなかろう、吹き消してみな」
八「フッ……アア消えた消えた、妙な匂いがするなァ」
吉「てめえ知らねえのか、こりゃァ樟脳を丸めて玉にした長太郎玉ッてんだ」
八「そうか」
吉「こいつをこしらえて針金の先へ付けて、夜中にねじべえが念仏を唱えてる時分、屋根へ昇って、引き窓を開けて火を付けた玉をブラ下げるんだ、どうせせめえ家だから仏壇の前に座ってるところへ、台所で火の玉が燃えりゃァすぐに気がつくから、きっと驚くだろう、こいつを二ツ三ツ廻して引き上げて、あくる朝てめえが肩へ風呂敷を掛けて、おはようございますと、ねじべえのところへ行くんだ」
八「俺が行ってなにかゆうべ引き窓から火の付いたものが下がりゃァしねえかと聞くのか」
吉「そんなことを言っちゃァいけねえ、なんでもまじめくさって、さぞおかみさんが亡くなって、おさみしかろうとかなんとか悔みをいうんだ」
八「ウム、俺はまだねじべえにしみじみ悔みをいってねえ、なんだか悔みの文句がむずかしいからな、そのくせ葬式の時には寺で手伝ってやった、ふだんはケチだがさすがに女房に惚れてただけに、思いきって銭を使った。長屋の葬式であのくらい立派なのはマアねえね、なにより赤飯《せきはん》に銭をかけやがった、どこへあつらえたのか、がんもどきがばかにうまかった、じつは俺は三つ持ってきた」
吉「食い物の話なんざァどうでもいい、てめえまだ悔みをいわねえというからちょうど幸いだ、さてねじべえさん、今度はおかみさんがとんだことでございました、なんとも申しようがございません、ご丹精がいもなく、さぞお力落としでございましょう、けれどもあなたが後生をよくなさるので、おかみさんも定めし極楽往生をなさいましょうと、二三度くり返して言ってみねえ、するとねじべえが、イエ極楽往生はいたしますまい、なにかあれは心に残ることがあるとみえて、昨晩、魂が来たとか火の玉が来たとかいやァしめたもんだ、その口に乗ってそいつァ驚きましたね、なるほどシテみると何かおかみさんの心に残ることがあるんでございましょう、あなたはおかみさんの着物やお金をお寺へお納めなすったか、イエ納めませんといったら、じゃァそれへ気が残ってるんでございましょう、さっそくお納めなさいまし、もしなんなら私がこれからあなたのお寺の近所まで用たしに行きますから納めてきてあげましょう、この通り私は風呂敷を持ってきました、おおかたこれは仏様の引き合わせでございましょう、この風呂敷へ包んで持って行ってあげましょうと、こう言って、金と蔵物を持って来い、それをたたき売って、金はもとよりてめえと山分けにする、このほうがよっぽど考えがいいだろう、どうだい」
八「なるほど、こいつァうめえや、そうしてやろう」
吉「じゃァ樟脳を買って来い」
それから買ってまいりました樟脳をでっちまして、その晩、更けるのを待っております。ねじべえは相変わらず夜に入りますと、仏壇へ向かって、
捻「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、アアおまえもとうとう紙一枚におなりだ、私は愚痴をこぼすようだが、どうしておまえ私を置いて先へ死んでしまったのだ、私はいくらあきらめようとしても、おまえの姿が目先にチラついて、あきらめることができない、情けないことになった、私はおまえのことは忘れられない、朝も早く起きておまえの笑い顔を見るのが楽しみで、煮たきをして枕もとへ行って私が煙草を付けて出すと、おまえがありがとう、とそれをのんで嬉しそうな顔をして私を見る、その顔が今だに目についていてどうにも忘れることができない、おまえが死んだからといって、もう他に女房は持たないから安心して、浮かんでおくれよ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、私があんまり鈴《りん》をたたくんで鈴《りん》が傷んでしまった、明日良い鈴《りん》を買ってきて鳴らしてあげるよ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
しきりに愚痴をいっては念仏を唱えております、二人の者はそっと屋根へ昇ってきて、
八「アニイやってるぜ」
吉「しッ、声を出すな、引き窓を開けなくっちゃァいけねえ、どうだ開いたか、うめえうめえ、静かにしろよ……サア樟脳玉へ火を付けろ、ソレいいか」
スーッと引き窓から針金でブラ下げました。ねじべえ一生懸命
捻「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
やってるところへ火の玉が下がってまいりましたから
捻「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、おまえ迷って出たか、浮かんでおくれ、浮かんでおくれ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
言ううちにスーッと引き上げて二人は帰ってまいり、夜が明けると肩へ風呂敷を掛けて
八「ヘェおはようございます、ねじべえさんおはようございます」
捻「どなたでございます、オオお長屋の八さんでございますか、このたびはいろいろお世話くださいましてありがとう存じます、ちょっとお礼に上がりたいのでございますがなにかと用にかまけまして」
八「どういたしまして、どうもいろいろあなたもお骨が折れましてございましょう、さてこのたびはおかみさんがとんだことになりまして、さぞお力落としでございましょう、どうもじつに立派なお葬式でございましたねえ、がんもどきの塩加減なぞはまったくけっこうで、あんなにおまえさんが後々もよくしてあげたら、さぞおかみさんも行くところへ行かれましょう、極楽往生ができましたろう、おかみさんは確かに極楽往生でございましょう」
捻「ありがとう存じます、皆さんがそうおっしゃってくださいますが、あれは極楽往生をなかなかいたしません」
八「冗談いっちゃァいけません、おまえさんがこんなによくしてあげて、これで極楽往生ができねえわけはございません」
捻「イエよくしてやる心得ではございますが何か気に入らないことがあるとみえまして、あなただからお話し申しますが、じつは昨晩あれの魂がまいりました」
八「エーッ、おかみさんの魂が……驚いたな」
捻「なにか心の残ることでもあるのでございましょう」
八「おっかねえ、来ましたかえ、それはなにか心残りが……あなたなんですかい、おかみさんの着物なんぞお寺へお納めなすったかね」
捻「イーエ、なにも納めません」
八「アッそれだ、そいつァおまえさん着物に気が残っているにちがいありません、それはお寺へ納めたらようございましょう」
捻「そうでございましょう……、あれが着物のことばかり始終言っておりましたから……」
八「それへ気が残ったにちがいありません」
捻「よくおっしゃってくださいました、さっそく誰か頼みまして、あれの物を寺へ納めましょう」
八「モシモシねじべえさん、誰も頼むことはありません、ここへ私が来合わしたのが縁《えん》でございましょう、ちょうどお寺の近所へ用があってまいりますから、私が行って納めてあげましょう」
捻「そう願えればけっこうでございますが、お気の毒様でございますな」
八「ナニ気の毒なことはありません、コレごらんなさい、幸い私が大きい風呂敷を持っています、この風呂敷へ包んで持って行きましょう」
捻「ヘエ、あなた風呂敷をお持ちでございますか、まったくこれは草場《くさば》の蔭であれが引き合わせるのでございましょう」
八「アアそっちで言われてしまった」
捻「なんでございます」
八「ナニこっちのことで……、確かにおかみさんの引き合わせにちがいありません」
捻「それではこの箪笥の中にあるものを皆納めましょう」
八「サアお出しなさい」
捻「八さん見てください、この縮緬《ちりめん》は京都から取り寄せたものでございます」
八「ヘエー、良い羽織《はおり》だね」
捻「これは京織りで」
八「なんだか素晴らしいものだね」
稔「これは紬《つむぎ》の着物でございます、この紋を見るにつけ思いの種でございます」
八「ヘエー、泣くようなことがあるんでございますか」
捻「マア聞いてくださいまし、お屋敷であれが白紬《しろつむぎ》をいただいてまいりましたのを、着物にしたいというので色はなにに染めたらよかろうというと、私はもうあなたを夫としたからには、ほかの色には染まらないよう、黒にしたいと申しますから、なるほどそれがよかろう、紋は何にしようというと、いっそのことあなたの紋と私の紋と比翼《ひよく》に付けたいと申します」
八「ウムなるほど」
捻「あれの紋は井筒《いづつ》で私の紋が橘《たちばな》、井筒に橘を比翼に染めにやりますと、紺屋《こんや》でまちがえまして、この通り井桁《いげた》の中へ橘を付けました、これを着て歩きますと皆さんが、あれはお祖師様《そしさま》のお仕着せじゃァないかと申しますので……」
八「マア泣いちゃァいけません、なるほどそうでございますか、それじゃァこっちへ重ねます」
捻「それからこれは帯で、唐繻子《とうじゅす》と繻珍《しゅちん》の腹合わせ、あとは夏物でございます。これは上布《じょうふ》」
八「アア良い上布だ」
捻「これは透綾《すきや》、これは明石《あかし》でございます」
八「みんな上物《じょうもの》でございますね」
捻「これは白薩摩《しろさつま》」
八「ヘエー」
捻「この白薩摩を……」
八「ヘエー」
捻「この白薩摩を見るにつけても思いの種でございます」
八「また始まった、ヘエどうしましたえ」
捻「これがまことにあれに良く似合いますので、ちょうど両国の川開きの時でございました」
八「なるほど」
捻「あれは今までお屋敷におりまして、両国の花火を見たことがないと申しますから、それから私が連れてってやろうと申しますと、たいそう喜んで、夕方から支度をさせて、その時にこの白薩摩を着せましてございます」
八「さぞ似合いましたろうね」
捻「エーじつによく似合いました、それに万事、気のつくこと一通りでございません、夜分《やぶん》になって万一寒くなると、風邪でも引いてはいけませんから、私が合羽《かっぱ》と羽織を風呂敷に包んでしょいました」
八「ヘエーおまえさんがしょったんで……」
捻「それから雨が降っても困らないように、足駄《あしだ》も持って行ったらよかろう傘もと申しまして、あんな気の付く女はございません、私が風呂敷包をしょって傘を二本かつぎ、足駄を二足《にそく》紐でブラ下げて、あれの後から付いてまいりますと、途中で若衆たちが見て、あすこへ行く女を見ろ、アノ年増《としま》はいい女じゃァないかと皆さんがほめてくださるのが私の耳に入って嬉しくって嬉しくって……、すると女はたいそう美いけれども後から風呂敷包をしょって傘をかついで足駄をぶら下げて行く奴のつらを見ろ、まぬけまぬけしていると皆様が申しました、その時の私の嬉しさというものは、どんなでございましたろう……」
八「ダッテおまえさん悪く言われたんじゃァねえか」
捻「デモそれほどあれが美しかったと思うと、それが涙の種でございます」
八「イヤどうも困ったな、泣かないであとをお出しなさい」
捻「これは長繻絆《ながじゅばん》で、これが湯布《ゆもじ》でございます」
八「ようございます、じゃァ私がこういう工合に包んで、すみませんが中結《なかゆわ》えの紐かなにか貸しておくんなさい……こう真ん中を結えて行きゃァだいじょうぶ」
捻「お気の毒様で」
八「ナニ気の毒のことはございません、じゃァこれからすぐに納めてきます」
捻「よろしくお願い申します」
風呂敷をしょっておもてへ出て、あたりへ気を配り
八「オウ行ってきた」
吉「ご苦労ご苦労、早く入って後ろを閉めねえ閉めねえ、風呂敷がつかえてるじゃァねえか、サア下ろしねえ、俺が後ろで受けてる……だいぶあるな」
八「ウム、こんな貧乏長屋の女房には珍らしい物持ちだ」
吉「どんなようすだった」
八「どんなって驚いた、あいつが一々これを見るにつけても、思いの種でございますと一々泣きやァがるんだもの、ほんとうに辛かった」
吉「ウム、こりゃァ大したものだな、金はどうした……金はどのくらいあったよ」
八「金……サア大変だスッカリ忘れちまった」
吉「まぬけだなァ、金が大専《だいせん》で代物《しろもの》は二の次だ、かんじんの金を忘れる奴があるかい」
八「そう小言をいいなさんな、おまえは家に座ってるからなんでもねえが、行った者の身になってみねえ、泣かれるんでずいぶん辛かった、仕方がねえからアニイ、また今夜やろうじゃァねえか。今夜、ゆうべより大きくこしれえてやったらどうだ」
吉「じゃァもう一晩やろう」
それからまた樟脳玉をこしらえて真夜中に二人、ミシミシ屋根へ上がってまいりました、ねじべえさんは例のごとく仏壇へ向かって、鈴を鳴らし、
捻「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、おまえが迷ってることは知らなかった、今日は長屋の八さんに頼んで着物をお寺へ納めたからあれでどうか浮かんでおくれ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
引き窓のところから樟脳玉へ火を付けてスーッと下げると、ねじべえびっくりして
捻「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、おまえまた今夜もおいでか、おまえの気に残っている着物は今日八さんに頼んでお寺へ納めたからもう迷わずに浮かんでおくれ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
そのまま二人は樟脳玉を引き上げて翌朝
八「おはようございます」
捻「オヤ八さんでございますか、サアどうぞこちらへ……」
八「昨日お寺へ着物を納めに行ったら、和尚さんがたいそうほめて、けっこうなことだといって、お経をウンと上げてくれたから、もうおかみさんは迷う気づかいありません、大丈夫ですよ」
捻「八さん、昨日はご苦労様、あなたがご心配をしてくださいましたが、まだ迷っております、また昨夜もまいりましたよ」
八「ヘエーまた来ましたかえ」
捻「来たどころではございません、前の晩より大きくなって……」
八「ヘエーそれは驚きましたねえ、まだ、なにか気の残るものがあるかな……何を納めなすったかね金を」
捻「イーエ」
八「アーそれじゃァ金だ、金に気が残ってるんだ、さっそく金をお納めなさい」
捻「ありがとうございますが、お金と申してべつにございません」
八「冗談いっちゃァいけません、ねえことはねえでしよう、ウンとありましょう」
捻「イエ八さんの前でございますが、葬式|万端《ばんたん》なにやかやで、金は残らずつかいまして、ただいまでは少しもございません」
八「ヘエー、こいつァ驚いたなァ魂のやりそこない……イエナニ、金がなければほかに何かありそうなもので……」
捻「そうでございますね、そういえばあれのお雛様がございます」
八「お雛様……」
捻「たいそうあれが大事にしていましたので……」
八「マアお雛様でもようございましょう、季節に向かえばいくらにかなるから」
捻「エエ」
八「ナニサ、そんな物でもいくらか気が残ってるんでしょう、納めておしまいなさい、持ってってあげるから」
捻「そうですか、では、どうぞお願い申します」
と戸棚を開けて、つづらを出しふたを取りまして、中から雛箱を一つ一つ出して
捻「ごらんくださいまし、これは秀月《しゅうげつ》、これは玉山《ぎょくざん》でございます」
八「どうも良いお雛様ですね……オヤねじべえさん、またおまえさん泣いてなさるがどうしたい」
捻「ヘエ八さん、あれはまったくこの雛に気が残っていたにちがいございません、魂の匂いがいたします」
[解説]にせ物の幽霊の噺も少なくないが、この話に出るねじべえは珍らしい善人である。雛の箱についている樟脳の匂いを嗅いで樟脳玉の燃える匂いを思い出し、魂を連想したところなどは、あっぱれ作者の働きで、名作である。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
猫退治
―――――――――――――――――――
ご婦人が恋のためにやつれている姿はまた別段、風情のあるものでございます。もっとも同じご婦人でも、器量の悪いお方は、あまり恋わずらいはないようで、というは、ご自分の器量に恥じ、たとえ想う男があっても、とても駄目だとあきらめますから、恋わずらいまでには及びません。
ある大家《たいけ》のお嬢様がいたって美人で、ある日お花見に行って帰ってくると、なんとなくお気がふさいでしまって、それからドッと床《とこ》につきました。旦那様がたいそう心配して
主人「番頭や、さっきお医者様がお帰りの時におっしゃるには、うちの嬢の病いは、あれは普通の病いでない、早くいうと、なにか胸に思ったことがあって、それが胸へ固まってしまったのだ、物にたとえてみればマア胸の中へ徳利《とっくり》ができたようなものなんで、その徳利に栓がしてあるから、いくら薬を飲んでもその薬が徳利の中へ納まらないというような形で、胸に思ったことが晴れれば、徳利の栓が抜ける、それから薬をのめば、たちまちそのききめがあって、病いが全快をするというわけだ、なんでもこりゃァ徳利の栓を取るようにしなければならない、それから今、婆さんと相談をして、嬢にいろいろ聞いてみたが、どうも言わない、しつこく聞くとただ下を向いて泣いてばかりいるので、じつにどうも困った、どうかおまえの智恵を借りて、嬢の胸に溜まったことを一つ聞いてみたいんだ」
番「なるほど、それはあなた方がお聞き遊ばしてもお嬢様がおっしゃりはいたしますまい、また私が改まってお尋ね申したところがなかなかお嬢様がおっしゃりはしません、それよりお嬢様のお気に入った者をおそばへ置いて、それとなく聞くようにすれば、お嬢様もお気に入った人だから、じつにこういう訳だがどうしたらよかろうとご相談をなさるにちがいありません」
主「なるほど、よいところへ気が付いた、それでは誰か嬢の気に入った者をそばへ置いて、その人に聞いてもらおう……誰がよかろう」
番「さようでございますな、見渡したところどうも店の中には別にお嬢様のお気に入ってるような者もございません、ただ私の考えでは、お嬢様がどちらへいらっしゃるにも、横町のやぶ医者の竹庵《ちくあん》を連れていらっしゃいます、あれはまことにおもしろい男で、医者はへたでございますが、俗に言うおたいこ医者で、たいそうお嬢様がお気に入りでございますから、あの竹庵をおそばへ呼んで竹庵から聞いてもらうようにしたらいかがでございます」
主「なるほどそれはよかろう、さっそく竹庵のところへ人をやって呼んでくんな」
番「じつは竹庵はさっきからお店へまいっております」
主「それは幸いだ、こっちへよこしなさい……オイ竹庵や、こっちへおいで……」
竹「イヤどうもごぶさたをいたしました、ツイ私もチョット上がらなければならんのでございますが、どうも忙しいものですから、ツイツイご無沙汰をいたしておりました」
主「ハア、おまえの忙しいのは不思議だ、しかし病人はあるまいな」
竹「イヤ、ところが病人がたくさんございまして、なかなか忙しゅうございます」
主「ヘエ、おまえにかかって病気が治る人があるかい」
竹「ご冗談おっしゃっちゃァいけません、私はこれでも医者でげす、せんだって病人を二人治しましてからたいそう評判がよろしくなって、引き続いて忙しゅうございます」
主「ハアどういう病いをおまえが治したのだ」
竹「ナニあなた風邪を治したので」
主「風邪を……、よほどこじらせたのか」
竹「イイエみずッぱなで、葛根湯《かっこんとう》をもって治しました」
主「そんならおまえの手を借りないでも治るよ、しかしまたおまえもえらいところがある、こう言っては失礼だが医者はまことに下手だけれども、おたいこがじょうずだ」
竹「どうも恐れ入りました」
主「ところが家の嬢がおまえをたいそう贔負《ひいき》にして、どこへ行くにもおまえを連れて行くようにしているが、その嬢のことについておまえに少し頼みがある」
竹「ハアなるほど、お嬢様は先だってからおわずらい遊ばしていらっしゃるようにうかがいましたが、さぞご心配で……」
主「ところが他の医者にかかっても治らんというので、じつは竹庵でなければならんというところからおまえに頼みたいが」
竹「ヘエよろしゅうございます、私も日ごろの腕前をこういう時に現わすことのできるのはまことにしあわせで、しかしいたって貧乏でございますから、良い薬の持ち合わせがございませんが、お嬢様のお脈を拝見して、こうという病気の根がわかれば良い薬を取り寄せて、それをもってきっとご全快ということにいたしてごらんに入れます、そうなるとまずお嬢様の命をつなぎとめたというのでこちらのご身代《しんだい》の半分を私にくださる」
主「馬鹿なことを言うな、おまえに薬を盛られたら三日とはもたない、おまえに頼みというのは決して薬を盛ってくれというのではない、いまお願い申しているお医者様があるんだ、そのお方が今日おいでになって、お帰りの時におっしゃるには、嬢の病いというのは、胸に思ったことがあって、それが固まって、物にたとえてみると、徳利に栓をあてたようなものだから、いくら上から薬をのんでもその徳利の中へ薬が通らない、それゆえききめがなくなって、病いも治らないのだから、なんでもその胸に思っていることを言って、徳利の栓を抜いてしまえば、薬も中へ入ってききめがよく現われるというお話であったから、さっそく嬢にその思っていることを尋ねたが、どうしても言わない、デおまえに頼むのは、しじゅう嬢のそばにいて、どうか気長に嬢の胸に思っていることを聞いてもらいたいのだ」
竹「ハァなるほど、それでは私が今日から徳利の栓ぬきに雇われますので」
主「まずそうだ」
竹「へー、で一ツ抜いたらどのくらいいただけましょう」
主「病いが治りさいすればいくらでもあげる」
竹「いくらでも……なるほど、いくらでもというのが少々気に入りませんが、いかがでございましょう、しかと決めていただきたいもので、当今は徳利ぬきの相場がたいそうあがっておりまして……」
主「馬鹿なことを言いなさんな、徳利の栓ぬきに相場があるか、それではおまえの望みを言いなさい」
竹「望みといっても大したことはございません、いかがなものでございましょう、栓を一ツ抜いたら十円ちょうだい」
主「よろしい、十円でも二十円でも栓さえ抜けばおまえの望みだけやりましょうから、気長に聞いておくれ、急に聞こうといっても容易に言うまいから」
竹「よろしゅうございます、それでは一つが十円でございますよ、そう事《こと》が決まればお嬢さんに願って十ばかり抜かしていただきます、そうすればまずここで百円になる、私も百円の金にありつけばちょっと楽ができます」
主「欲ばんなさんな、マアもらうことばかり言わないで、嬢のところへ行って聞いてくれ」
竹「かしこまりました、ではさっそくお嬢さんのところへまいります」
主「あんまりそばへ寄って大きな声を出してはいけないよ」
竹「よろしゅうございます、ばんじ私へおまかせを願います」
これから竹庵がお嬢さんの寝ている居間へまいりまして、
竹「ヘエこんにちは、大きにご無沙汰いたしました、オオ、たいそうおやつれになりましたな、あなたはお気が小さいからいけませんよ、なんでもお気を大きくお持ち遊ばせ、そうしてあなたがお一人で考えていらっしゃると徳利の栓がふえるばかり、あなたのご病気というのは、他の病いではない、徳利病といっておなかの中へ徳利ができてしまって、それに栓がしてあるので、この栓がどんな医者が来ても抜けません、おまえに限るというので相談がまとまってその栓ぬきに雇われて一ツ抜くと十円ということに決まって抜きにまいりました、あなただって私をごひいきにしてくださるんでございましょう、竹庵やおまえが商売になることなら、勝手にお抜きと私のところへ徳利を出してくだされば抜きますよ、十抜けば百円ちょうだいできます」
嬢「なんだね竹庵、おなかの中へ徳利ができるやつがあるものかね」
竹「それがあなたのようにそう考えていると徳利ができますよ、なにかあなたはお胸に思ったことがございましょう、その胸に思ったことがだんだん固まってしまって、それが徳利になったので、それに栓が付いている、どうすれば栓が抜けるというと、あなたが胸に思ってることを二ツおっしゃれば一ツ抜けます三ツおっしゃれば二ツ抜けます、あなたがお父さんやお母さんに言いにくいことでございましょうから、私だけにおっしゃれば、竹庵がどんなことでもかなえてさしあげます、なにかあなた思ったことがございましょう」
嬢「マア大きな声だね、静かにおしよ、それは胸に思ったことがあるけれども、このことばかりは私はどうしても言えない、誰にも言えない、死んでも言われません」
竹「ヘエー、あなた死んでもおっしゃいませんか、死ぬと命が亡くなってしまいますよ」
嬢「うるさいね、あっちへ行っておくれ」
竹「うるさいとは、きびしゅうございますね、私はあなたのおためなればどんなことでもいたします、竹庵そこで鯱鉾立《しゃちほこだ》ちしてごらんとおっしゃれば、すぐにやります、壁立《かべだ》ちでもなんでもいたします、竹庵おまえ命をくれないかとおっしゃれば、私は命をさしあげます」
嬢「竹庵、おまえたいそう親切だね」
竹「エエあなたのためならどんな親切でも尽くします」
嬢「じゃァなにかえ竹庵、おまえは私に命をくれるというのかえ……ほんとにきっと私に命をくれるかい」
竹「エエ、それはお話の次第によってさしあげます」
嬢「それだから私は話ができないんだよ、かえってうるさいからあっちへ行っておくれ」
竹「それじゃァなんでございますか、あなたは私の命を取らなければ話ができないので……」
嬢「おまえが私に命をくれるとなれば話すかも知れない」
竹「ヘエーそれでは命がけだ、当年いっぱいぐらい日のべはできますまいか」
嬢「それが今日取るか明日取るかわからない」
竹「心細い命でございますな、少々お待ちなすって……よろしゅうございます、さしあげましょう」
嬢「おまえ本当にくれるかえ」
竹「本当にさしあげます」
嬢「きっとくれるね」
念を押されて竹庵ブルブルふるえ出して
竹「ヘヘさしあげます」
嬢「おまえが私に命をくれるならまったく話をするから、もう少しこっちへお寄り」
竹「ヘエ」
嬢「そこをピッタリ閉めてこっちへおいで」
竹「へエ……このくらいで……」
嬢「モッとお寄り」
竹「ヘエもうこれでいっぱいでございます」
嬢「なんだえ遠慮をおしでない、モッとズッと私のそばへ……」
竹「ヘヘヘヘヘ、お嬢さんご冗談をおっしゃってはいけません、あなたはとんだ心得ちがいで、よく考えてごらん遊ばせ、あなたはなにも私のような者のために恋わずらいを遊ばさないでもようございましょう、私はとてもご当家の養子にはなれません、とてもこれは納まりません、おあきらめ遊ばせ……」
嬢「なにを言ってるんだねえ……」
竹「ヘエーじゃあ誰で」
嬢「おまえが私に命をくれるというから話をするが、モッとこっちへ寄っておくれ」
竹「誰だか当ててみましょうか、いつぞやあなたが私とばあやと歌舞伎座へ行きました、あの時、前に二人いた左のほうの男はいい男でございましたね、あれをあなたが一目ごらん遊ばすと、お顔がポーッと赤くなりました、それからお宅へお帰り遊ばすとお病気、どうかアアいう人と夫婦になりたいが、どこの人か知れないというので、ここへ固まってしまったんでしょう」
嬢「イイエそうではない」
竹「ヘエーちがいましたか、それじゃァあなたと私と向島《むこうじま》へお花見に行きました、あのとき桜餅《さくらもち》を食べに寄りましたね、すると年の頃二十一二でございましたか、ちいさな子供を連れて花を見ておりましたのが少し病身のようではございましたが、あのくらいの男はめったにございません、あれをあなたチョット横目でにらんでポーッと顔を赤くなすった、それからお宅へお帰り遊ばすとお床に就いたのでございましょう、ありゃァあなた私が知っていますよ、小川町《おがわちょう》の唐物屋《とうぶつや》の息子さんで、毎度私がご贔負になります、それなればあなた早くおっしゃればお父さんに知れないようにお取り持ちをいたしたものを、彼でございますか……」
嬢「イイエそうじゃァない」
竹「オヤまたちがいましたか」
嬢「じつはおまえが私に命をくれるというからおまえだけに話をするが、私とおまえと、ソレお花見に行ったね」
竹「ヘエヘエ」
嬢「あの帰りに三囲《みめぐり》のところで猫を一匹拾ってきたろう」
竹「ヘェ拾ってきました、良い猫でげしたな」
嬢「あれを私が大切にしていたんだよ」
竹「なるほど」
嬢「するとね、あの猫がこのあいだ死んでしまったんだよ」
竹「ヤレヤレそれはごしゅうしょうさまで」
嬢「あの猫が死ぬと、おまえも知っているだろうけれども私のそばにいたばあやが……」
竹「ヘエヘエ」
嬢「夜になるとおまえ、死んだ猫のとおりの顔になるんだよ」
竹「ヘエーなるほど」
嬢「そうして私のところへ来て、お嬢様このことをお父さんやお母さんにおっしゃると、あなたを生かしてはおきません、きっと食い殺すというんだよ」
竹「ヘエー」
嬢「そうしておまえ、長い舌を出して、私の手から足から、身体中、ぺロペロぺロペロなめるんだよ……」
これを聞くと竹庵アッと言うと、廊下へ飛び出すとたんに目をまわした。この物音に家中の者が驚いた。
主「オイ番頭や、なんだ竹庵か大きな声をしていま音がした、目でもまわしたんじゃァないか」
番「ハイ……やァ定吉《さだきち》水を持って来い、竹庵さんが目をまわしたん
じゃァないか」
主「そこじゃァいけねえ、こっちへ連れて来い」
というので大勢で竹庵をかかえ、主人夫婦の居間へ連れてまいり、水を飲ませる、薬を飲ませる、大さわぎをして介抱をすると、ようやくのことで息を吹き返した。
主「竹庵しっかりしろ」
番「どうしたんだしっかりしねえよ」
竹「ヘエもうとてもいけません、竹庵は死にました」
主「馬鹿をいえ、死んだ奴が口をきくか、嬢の話を聞いたか」
竹「ヘエ」
主「聞いたら話をして聞かせろ」
竹「お話し申すとあなたもすぐにこういうふうになります」
主「なんでもいいから話をしろ」
竹「それでは申し上げますが、お嬢さんと私とばあやと花見に行きました」
主「アア行った」
竹「あの帰りに猫を一匹拾ってまいりました」
主「ウムウム」
竹「家へ連れてくるとその猫が死にました」
主「ウムウム、そうだ嬢が可愛がっていたが、惜しいことに死んでしまった」
竹「あの猫が死ぬとお嬢様のそばに付いているばあやが……」
主「ウム」
竹「夜になるとその死んだ猫のとおりの顔になるんで」
主「エッ」
竹「そうしてお嬢様のところへ来て、お嬢様、このことをお父さんやお母さんにおっしゃると、あなたを食い殺しますよと言って、長い舌を出して、お嬢様の手から足から身体中、ペロペロペロペロなめるんでございます」
主「変なつらをするな、まったくか」
竹「まったくでございます、うっちゃっておくと今夜のうちにお嬢様は猫のために食い殺されます、ことによると私もついでに食い殺されるかも知れません」
主「それは大変だな……番頭聞いたか」
番「どうも困ったことができましたな」
主「今時どうもそんなことがあろうとは思わないが、こうしよう、いくら金がかかってもたった一人の娘を猫のために食い殺されでもした日にはかあいそうだ、猫|退治《たいじ》をしよう、今夜|鳶頭《とびがしら》のところへ行って若い者を五十人ばかり集めてもらって、てんでに鳶口《とびぐち》を一本ずつ用意をして、宵のうちはさんざん酒を飲ましてさわがせて、夜が更けていよいよ猫が出るという時分になったら身支度《みじたく》をしてもらって、シーンとさせておいて猫が嬢のそばへ来たところを、五十人ばかりでだしぬけに跳り込んで鳶口をぶっ込んだら、どんな猫でもまいるだろう」
番「ヘェなるほど、うまいごしゅこうでございますな、そうしたら殺せましょう、じゃァひとつ鳶頭《とびがしら》のところへ行って相談をしてまいりましょう」
主「アアどうか頼むよ」
番「かしこまりました」
と番頭がさっそく鳶頭のところへ行って頼むと、金の勢いは恐ろしいもので、たちまち五十人ばかりの若い者を集めてまいり、宵のうちは酒を飲んで騒いでおりましたが、夜中になるとシーンと鎮まり返ってしまった。
すると鳶頭が
頭「オイオイみんな起きてるか、そろそろ支度しねえ」
○「もう鳶頭、支度はできてるんだ、支度はできてるが、まだ猫の大きさを聞かなかった、全体、猫の大きさはどのくらいあるんだ」
頭「そうよな、オレも見ねえんだが、頭の大きさは四斗樽《しとだる》くらいあるということだ」
○「そいつァ恐ろしいな……この中に誰か食い殺される奴があるだろうな」
頭「そうよ、五六人は食い殺される奴があると覚悟をしなくっちゃァならねえ」
○「ヘエー……鳶頭、まだ猫は出ませんかな」
頭「もう出ているんだ、静かにしねえ」
〇「モー出てるったってどこに……」
頭「おまえの座ってるところの唐紙《からかみ》ひとつへだった座敷だ」
○「アッこりゃァいけねえ、どうりでなんだかいやな風が吹いて来たと思った……かしら、私はなんだか腹が痛くってしようがねえ、疝気《せんき》持ちで腰が痛くなってきた、家へ行って薬をのんでくるから……」
頭「弱いことをいうな、てめえだって覚悟をしてきたんだろう、大切なお店のお嬢様を助けるんだ、威勢よくやってくれ、そりゃァそうともう猫が出ているだろうから、のぞいてみねえ」
唐紙のすきまからソッとのぞいてみると驚いた。そののぞいた奴はまっさおになって口も利かずにそこへ尻餅《しりもち》をついた。
頭「どうしたんだ」
○「フワフワフワ」
頭「どうしたんだしっかりしろ」
○「オレは生まれて初めてこんなものを見た、大きな眼玉がピカピカ光ってる、誰か代わってみろ」
また一人の奴がのぞいてみると、ドタリそれへひっくり返ってしまった。
△「てんでに弱い奴らだ、オレなんざァべらぼうめ怖いなぞと思ったことがねえ、どうかひとつ怖いものに出ッくわしたいと思っているんだ、たかが猫だ、オレが一人で退治してやる、腕に筋金《すじがね》が入ってるんだ」
さんざん威張ってのぞいてみると驚いた。
△「ワーッ」
と言うとそいつもまっさおになって口が利けない。
頭「どうしたしっかりしろ」
△「ウーン、もう駄目だ」
頭「馬鹿野郎、てめえ今なんと言った、腕に筋金が入ってると言ったじゃァねえか」
△「こんな怖《こえ》えものじゃァねえと思った、生まれてこのくらい驚いたことはねえ」
頭「てんでに同じようなことを言ってやがる、そうみんな怖がっていた日には退治することができねえ、いよいよいると決まったらこうしよう、身仕度をして、唐紙を威勢よく開けて、一時にときの声をあげて飛び込もう」
△「だって向こうがジーッとしちゃァいめえ、開けたところをいきなり向こうから飛び付かれでもした日にゃァたまらねえ」
頭「意気地のねえことを言うな、てめえ開けろ」
△「オレァ開けるのはいやだ」
○「オレもいやだ」
頭「じゃァ権助《ごんすけ》がいい、あいつに開けさせる、イヤ権助、おまえはたいそう忠義者《ちゅうぎもの》だ、お嬢様を助けるんだから一ツ働いてくれ、こうしてオレ達も命がけでやるんだが」
権「ヘエ」
頭「オレ達が鳶口を持って飛び込むから、おまえ一ツ唐紙を威勢よく開けてくれ、おまえがガラリと開ける、とたんにオレ達が飛び込んで猫をぶち殺すんだ」
権「よすべえ」
頭「なぜ」
権「なぜたって、中に猫が入ってる、その猫が人間に化けるくらいのものだから、身体が自由に利くにちがいねえ、唐紙を開けるところを咽喉笛《のどぶえ》へでも食い付かれたらそれッきりだ、大勢いた日にゃァオレは逃げることがなんねえ……」
頭「じゃァこうしよう、オレたちは両方に立っていて真ん中へ逃げるだけの道をこしらえてやろう、唐紙を開けたらすぐに真ん中をぬけて逃げてしまいねえ」
権「なるほど、オレ一人逃げておまえたちは中へ入るんだな、……それじゃァやるべえ、けれどもおまえたちが同時に逃げたら駄目だよ」
頭「大丈夫だ」
権「そんならやるべえ、……もッとこっちを広く開けてくれ、邪魔なものを、そっちへ片付けてもらいてえ……その障子やなにか、みんなブッ倒してくれ」
頭「よしよし……どうだ」
権「その柱も邪魔になる、それも取ってもらうべえ」
頭「これを取れば家がこわれてしまう」
権「それじゃァ仕方がねえ……ソレいいか開けるぞ、オレが開けたらおまえたち中へ入るんだ、ええか、同時に逃げるたら駄目だよ、おまえたちが先へ逃げると駄目だよ、おまえたちが先へ逃げると、オレァあとから逃げる、猫が追っかけてくればオレが先へ食われてしまう」
頭「大丈夫だ、いいからシッカリお頼み申すぜ……」
権「サア開けるぞ」
権助が唐紙へ手をかけて、自分も怖いから、うしろを振り向きながら、
権「ソレええか、開けるとオレァ逃げ出すから」
頭「大丈夫だ」
権「おまえたち逃げちゃァ駄目でがす、ソレ開けた」
開けられたからたまらない、五十人ばかりの若者が、逃げるわけにもいかないから、ワーッと声をあげて中へ飛び込むと、猫も不意を食ってグルグルまわって天井うらへ飛び付いたが逃げるところがない。壁へ大きな穴を開けて突きやぶって逃げてしまった。
頭「だから見やァがれ、てめえそんな物を持っていてなぜ猫の身体をたたかねえんだ」
○「たたこうと思ったんだが、なにしろこっちへ向かってむこうから飛び付かれちゃァかなわねえと思ってよけたんだ」
頭「本当に意気地ねえ野郎だ、あの猫を逃がしてしまったらこの先どんなことするか知れねえ、しかしマアこの家のお嬢さんはよくこれまで食い殺されずにいたな、オヤ少し待ちねえ、猫の逃げたこの壁になにか書いてある、ナニナニなんだと……歯があれば食い殺したく思えども、ほんのはなしでなめたばっかり」
[解説]いまはやり手がないが、先代の金馬が得意にしていた。地口《じぐち》落ちである。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
黄金餅《こがねもち》
―――――――――――――――――――
何事によらず行いを正しく勉強しなければなりません。商売もいろいろありますが、中には人の門《かど》に立ち、お銭《あし》をもらってそれを貯めて立派な者になるかと思うと、たとえにも乞食《こじき》を三日すればやめられないという通り生涯乞食で終わってしまうのが多いようで、しかしどうかすると、たまにはまたお貰《もら》いをしていて存外《ぞんがい》金を貯めた者もあります、昔とちがって当今《とうこん》はお貰いもむずかしくなりました。
その昔はいろいろのお貰いがありまして、そういう者が多く住まっているところは、芝《しば》で新網《しんあみ》、日本橋で橋本町、下谷《したや》で山崎町あたり、いろいろの姿をしてお貰いに歩きます。中には子供を損料《そんりょう》で借りて縁日《えんにち》だの何かへ出る、その子供を一日いくらで借りてくるのだから、貰いがないとつねって泣かしたりなにかして、さも哀れな声を出してお客様からおあしをもらい、それで世渡りをしている者があります。
その昔、山崎町に西念《さいねん》という坊さんがありました。これは毎日、市中《しちゅう》を歩きましてはお経を読み、人の門《かど》へ立ってアーッとうなってるうちにその家の宗旨《しゅうし》を見て法華《ほっけ》だと思うと、首に掛けているずだぶくろに井桁《いげた》にタチバナが付いて南無妙法蓮華経と書いてあるほうを出して題目をとなえ、門徒だと思うと裏の南無阿弥陀仏と書いたほうを返して念仏をとなえ、つまり八宗兼学《はっしゅうけんがく》、いいあんばいにお経を融通している、なかなかしゃれた坊さんでございます。
ひとりもので、もう五十の坂を越え、六十になんなんとする爺さまでございます、ちょっと見たところがなんとなく愛嬌があってありがたそうな坊さんだから、同じ恵む人も一文《いちもん》やろうと思うところを二文くれる、毎日雨風をいとわず諸方貰って歩き、貰った銭をようよう貯めてかなり小金《こがね》もあるようす。ところがこの人がフトわずらい付いて五六日修行にも出ない。九尺二間の棟割り長屋、隣におりますのは金山寺《きんざんじ》屋の金兵衛《きんべえ》さん、ある日のことでございますが
金「オイ坊さん」
西「オヤこれはどなただと思ったらお隣の金兵衛さんですか」
金「おまえ四五日前から身体が悪いと聞いていたが、昨夜《ゆうべ》ひどくうなったようだ、ちょっと今朝見舞おうと思ったが、商いに早く出たもんだから遅くなったが、どうだい」
西「ハイありがとう存じます、どうもひどく、ぐあいが悪うございます」
金「それはいけないな、気をつけなくっちゃァ……、医者にかかったかえ」
西「イエ医者にはかかりません」
金「なぜ」
西「医者にかかれば金兵衛さん薬礼《やくれい》を取られます」
金「あたりまえだ、それじゃァなにか買い薬でもなすったかえ」
西「イエ買い薬もいたしません」
金「いけねえなそりゃァ……、だいぶ熱があるようだ、熱くさいや、買い薬もしなければ医者にもかからねえでは治らねえじゃァねえか」
西「イエ私は一人でいろいろ療治《りょうじ》をしております」
金「なにをしている」
西「水を飲んじゃァ雪隠《せっちん》へ行きます」
金「ヘエーみょうだね、水を欽んで雪隠へ行けばおまえの病いは治るのかえ」
西「ヘェ腹の中を洗濯してしまったら病気は消えてしまいましょう」
金「冗談いっちゃァいけねえよ、オイ西念さん、昔から水を飲んで身体の治った者はありゃァしねえ、医者にかかったらよかろう」
西「ご親切はありがとう存じますが、今いう通り医者はタダじゃァございません」
金「それはあたりまえだよ、じゃァまあ口に合う物でも食べてみたらどうだ」
西「ありがとう存じます、じつは私が食べたい物があるので……」
金「なにが食べたい」
四「あんころ餅《もち》が食べとうございます」
金「エーあんころ餅、いとやすいことだ、私があんころ餅を買ってきてやるよ」
四「ありがとう存じます、どうぞ一つお願い申します」
金「どのくらいありゃァいいね」
西「ヘエマア一貫《いっかん》ばかり……」
金「オイ冗談いっちゃァいけねえ、あんころ餅がそんなに食えるものか」
西「ヘエそのくらいなければとても足りません」
金「じゃァ買ってきてやろう」
西「ご親切さまにありがとう存じます」
金「お銭《あし》を出しな」
西「エー銭《ぜに》を出すくらいなら頼みやァいたしません」
金「オヤオヤ」
西「買ってきて食べさせようという親切の心持ちがあるなら、おまえさん病気見舞いにあんころを買ってきてくださいな」
金「なるほど、これはどうも相変わらず西念さん銭を残すことばかり考えてるな、マアいいや、一つ長屋にいるものだから、買ってきてやろう、お待ちよ」
金山寺屋の金兵衛さん、おもてへ飛び出して、そのころおいの一貫のあんころ餅、たいそうございます。竹の皮包みを持って帰ってきて、
金「サアサア西念さん、おまえのいう通り買ってきてあげたからおあがり」
西「ありがとう存じます」
金「サア見ている前で食べたらよかろう」
西「イエ、マアよろしゅうございます」
金「ナニ」
西「マアよろしゅうございます、どうぞおまえさん家へ行って一ぷくおやんなすってください」
金「だってせっかく買ってきてやったんだから、すぐに食べたらよかろう」
西「ヘエ」
金「同じことでも物を買ってきてやって、見ている前で食べてアアうまかったとか、おいしいとか言われれば買ってきた者も心持ちがいいが、へんに遠慮されちゃァ……」
西「イエ遠慮というわけではございませんが、私は人が見ている前では物が食べられないたちで……」
金「そうかね、それじゃァ病人に逆らってもいけねえから帰ろう、また用があったらちょっとおどなりよ、声をかけてくれればすぐに来るから」
西「どうもいろいろとありがとう存じます、あなたはまだ三十になるかならないお若い方だが、珍しい親切な方だ、どうもありがとう存じます」
金「どういたして、用があったらお呼びよ、私もねェ女房でもあればおまえさんのところへよこしておくが、ご存じの通りひとりものだ、お互いにひとりもの同志、身体が悪い時には、ひとりものぐらい心細いものはねえから……」
西「ヘエどうもありがとう存じます」
金「それじゃァゆっくりおあがり」
西「ヘイごちそうさま」
金「……イヤひどい坊主があるものだ、買ってきてやったんだからおまえさんも一つおあがんなさいくらいのことを言いそうなものだ、なにをしやがるか」
と、金兵衛さん壁のところに小さな穴がありますから、その穴からのぞいて見ていると、やがてのこと西念さん、床《とこ》の上へあんころを包んだ竹の皮を引き上げて、指で餡《あん》を取ってる、オヤオヤ……アア餅だけ食おうというのかな、あんころというくらいだから餡がなくっちゃァうまかァねえが、その餡をかき落としちまうのはおかしいな……。
見ているうちにスッカリ餡を取ってしまって餅ばかりそこへ並べて餡は餡で別にいたし、しばらくふところをモジモジやっていたが、ねずみ色になって汚い胴巻きを取り出したのを見ると、真ん中がふっくりふくれて、蛇が蛙を呑んだよう、あたりを見ながら、その胴巻きをこいて中から引き出したは金《かね》《かね》、紙へ包んであるやつをブッツリ切ると、二分金《にぶきん》、二朱金《にしゅきん》小粒で取り混ぜて金の高《たか》なら六七十両金……オヤオヤオヤ、たいそう金を持ってやがる。
西「エー金兵衛さん」
金「エー、なにか用かえ坊さん」
西「イエのぞいちゃァいけませんよ」
金「なにものぞきゃァしねえよ、私はいま横になったところだ」
西「ヘエそうでございますか」
金「なにか用かえ」
西「イエ用ではございませんが、今おまえさん壁のところで返事をしたようだが、のぞいてるんじゃァありませんか」
金「ナニのぞきなんぞしないよ」
西「見ちゃァいけません」
金「見やァしないよ、あんころはおいしいかえ」
西「ヘエこれから食べるところで……」
金「人が食べるところを見たってしようがねえ」
見ちゃァいけないといわれるとなおさら見たい、金兵衛ソッとのぞいて見ていると、餅をスッカリ手で延ばしている。
金「オオオオ妙なことをするな……」
その餅の中へありったけの金を残らず包んでしまった。
金「妙な真似をしやがるな、アアあれを長屋じゅうへ配るんだな、オレのところへは余計にくれるだろう、餅をオレが買ってきてやったんだから、長々ごやっかいになりました、これは形見でございますと配るつもりだな……、オヤそうじゃァねえ、餅をほおばって、アッ目を白黒して、冗談じゃァねえ、金を食ってやがる、ハアこの坊主が年中一生懸命貰い蓄めた金が、あんなにある、もう身体は死んでるが、金に気が残って死ぬことができねえんだ、それもいいけれども世界の通用金を死んで持って行く了簡だな、アア食ってやがる……、サア大変だ目を白黒し
ている、胸へつかえやがった」
西「ウーム……」
金「オイ西念さん、たいそう唸るじゃァねえか、どうかしたかえ」
西「ヘエいま胸へつかえました」
金「ゆっくりおあがりよ」
西「ヘエ」
金「ゆっくりおあがり、ゆっくり……」
やがてのことにその餅をみんな平らげてしまった、四五日物を食わずにいたところへ、あんころ餅を一貫とやらかしたから腹がはって苦しくなった、しばらくすると、ウーンというとバッタリ音がした。金兵衛さんようすを見ていたから驚いて飛び込んできて、
金「オイ西念さん、しっかりしなくっちゃァいかねえ、オイ西念さん、あまり餅を食いすぎるからこんなことになるんだ、つめ込んだ餅を出しておしまい、吐いておしまい、あとでオレが掃除をするから……」
これなら誰でも掃除をします、背中をさすって介抱してみたが、ウーンと言ったがこの世の別れ、こうなると金兵衛さん、死骸が大切だ。
金「エーそれだから言わねえことじゃァねえ、あんまり食いすぎるからいけねえんだ、マァオレが始末をしてやろう、西念さんこの世に心を残さずに成仏《じょうぶつ》しねえ……アッこれはいけねえ、オレ一人じゃァ係りあいだ、長屋の人誰かいねえか、オーイ誰か……、イヤ待てよ、誰もいねえのが幸い、いま食ったばかりだから口から出す工夫はないかな、この拳固は入らず……よしよし、尻から棒を入れてつついたら口から出るだろう、しかし、ところてんを突くようにうまくはいくめえ、腹を断ち割ればソックリ出るが、寺で受け取るめえ、ハテ困ったな……、ウムいいことがある、焼場《やきば》でごぼう抜きに取ってやろう、なにしろ片付けるだけは一人でやっちまおう、ソコデ棺《かん》をどうしような、オー井戸端におおやさんの菜漬けの樽に水が張ってあった、あいつへ入れてやろう……」
金兵衛井戸端へ行って四斗樽《しとだる》の水をあけて持ってきて、それへ西念の死骸をやっとのことで押し込んで、あたりを取り片付けておいて家主のところへやってまいりました。
金「ヘエごめんなさい」
家「ハイハイ……オヤ誰かと思ったら金兵衛さん、なんだえ」
金「ほかじゃァざいませんが、私どもの隣の西念さんで」
家「ウム、坊さん身体が悪いとかいったが、どんなだね」
金「ヘエ今なんでございます、息を引き取りました」
家「オヤオヤまあそれはかあいそうに、そうかい、さっそく行ってみてやりましょう、さぞマア二人で困ったろう」
金「ご承知の通りひとりもので、ひとりもの同志のこと、それに隣り合ってますから、マアチョイチョイ行って世話をしてやっておりましたが今急にようすが変わって息を引き取りやしたが、しかし死水《しにみず》は私が取ってやりました」
家「アアそれは親切によくしてやんなすった」
金「ヘエ今日も私が稼業を休んで看病をしておりましたところが、当人が今日は機嫌よくいろいろの話をして私は兄弟も親戚もございません、一番あなたが親切に朝晩見舞ってくだすっていろいろ世話をしておくんなさるから、あなたが兄弟のように思われますと言いましたよ」
家「ウーム」
金「ソコで坊さんのいうには、ただひとつ私のお頼みというは万が一のことがありましたら私は寺がありませんが、どうかあなたの寺へ葬ってくださいまし、それからまことにすみませんが、私は土葬が嫌いですkら火葬にしてお貰い申したいといろいろのことを申しますから、よしよし万一のことがあったら私の寺へ葬ってやるから安心しろと言いましたら、当人もたいそう喜んで、湯をくれといいますから、湯を汲んでやると一口飲んでうれしそうな顔をして、枕についたかと思ううちにそのまま眠るように往生をしてしまいました」
家「そうかえ、それはかあいそうのことをした、オレもツイ忙しいもんだからろくろく見舞ってもやらなかったが、おまえが親切にしてやってくれたんで私もまことに安心した、おまえにきっといい報いがある、ドレ私も行ってみてやりましょう」
と、家主の六兵衛《ろくべえ》さんが金兵衛と同道《どうどう》をして西念の家へまいりました。
六「オヤオヤスッカリ片付いているな、金兵衛さんおまえ仏《ほとけ》をどこへやったえ」
金「エーもう棺へ納めてしまいました」
六「そうかえ、よく一人でやったね、オオたいそう頑丈な桶だ、ハテナ山形に吉《きち》という印……金兵衛さん、おまえどこからこの桶を持ってきたえ」
金「ヘエ井戸端に水がいっぱい張ってありましたのをあけて持ってきて入れました」
六「ナニ井戸端の、冗談じゃァない、オレの家の菜漬けの樽だぜ」
金「そりゃァすみません、寺へ持ってくまで貸しておくんなさい、あけたら洗ってお返し申します」
六「ふざけちゃァいけねえ、死人を入れたものを洗って返されてたまるものか、香奠《こうでん》代わりにやっちまうよ、しかしよく白布《しろぬの》があったな」
金「ヘエ私のふんどしの洗い替えです」
六「ふんどしはひどいな、このさんだらぼっちはなんだえ」
金「編笠の代わりなんで」
六「人を馬鹿にしているぜ、しかし金兵衛さんおまえの寺はどこだえ」
金「麻布ゼツニュウ釜無村《かまなしむら》の目蓮寺《もくれんじ》で」
六「それは遠いなァ、なにしろ誰か長屋の者を呼んでこなくっちゃァいけねえ……、オイオイらおやきせるの杢兵衛《もくべえ》さん、いま西念坊が死んだんだが、オレの家へ行って婆さんに二貫ばかりもらって樒《しきび》を一本に線香を一束、かわらけを一枚と白団子を買ってきて、それから茶碗へ飯を山盛りに盛って箸を二本差して持ってきてくんなさい」
杢「ヘエヘエかしこまりました」
杢兵衛が買物に出かける、そのうちに長屋の者がおいおい集まってきて
○「家主さん、大きに遅《おそ》なはりました、マア西念さんはとんだことでした」
六「サアサアみんなも一つ長屋のつきあいだ、ともらいの手伝いをしてやんなさい、時に金兵衛さん、どうしよう明日の朝の明け方に出そうか」
金「そうさ、いっそ今夜出してしまいましょう、明日というと、みんな一日稼業を休まんければなりませんから、今夜すぐに、ネー皆さんどうです」
○「エー今晩のほうがようございます」
六「それじゃァご苦労だが今夜行ってもらうとしようか」
○「よろしゅうございます」
とソコで長屋の衆が十人ばかり、向こう鉢巻しるしばんてん、わらじばきで思い思いの提灯をつけ、中には茶店の貸提灯もあれば、ぶら提灯もあり、死骸を入れた樽を縄ッからげにして天秤でかつぎ出し、下谷《したや》山崎町から山下の通りへ出て上野の三橋《みはし》を渡り、御成《おなり》街道をまっすぐに五軒町《ごけんちょう》の堀様《ほりさま》と鳥居様《とりいさま》のお屋敷前を筋違御門《すじかいごもん》から大通りへ神田|須田町《すだちょう》、新石町《しんごくちょう》、鍋町、鍛治町、今川橋、本銀町《ほんじろちょう》、石町《こくちょう》、本町、室町から日本橋を渡って、通四丁、中橋、南伝馬町、京橋通りをまっすぐに新橋前を右へ折れ、土橋を渡り久保町から新《あたら》し橋の通りを出て、愛宕下《あたごした》の天徳寺《てんとくじ》を通り抜け、西の久保から神谷町《かみやちょう》、飯倉《いいくら》六丁目の坂を上がり、飯倉|片町《かたまち》おかめ団子を通り越し、左へ麻布永坂《あざぶながさか》を下り、十番から一本松|大黒坂《だいこくざか》から、ゼツニュウ釜無村の目蓮寺へやっとのことでかつぎ込んだ。
金「ヤア皆さんご苦労さま、さぞ疲れたろう」
○「イヤなかなか疲れた、あんまり皆がワッショイワッショイ騒いだんで、芝の京極橋のお辻番にしかられちまった」
△「どうして、まじめに来られるものか」
金「ソコで皆さん、これから坊主に掛け合うんだからマア一ぷくやってておくんなさい……〔ドンドンオーイオーイ〕目蓮寺の和尚やーい、門をあけてくれ」
和「なんだなんだ酒屋のご用か、一升や二升で目蓮寺の住職は夜逃げはせんぞ、帰って主人にそう言え」
金「オイ酒屋じゃァねえ、下谷山崎町の金山寺屋の金兵衛だ、金山寺屋だよ」
和「ウムちょうど酒を飲んでいるところへ金山寺はけっこうだ、たくさん持って来い」
金「アレなにをいってるんだ、金兵衛だよ、山崎町の金兵衛だってことよ」
和「金兵衛さんが今じぶんなにしに来たんだ」
金「なにしに来る奴があるものか葬式だよ」
和「ナニ金兵衛さんが死んだのか」
金「縁起の悪いことを言うない、金兵衛はピンピン達者だい」
和「だって金兵衛さんはひとりものじゃァないか」
金「イヤ家の者じゃァねえ、心やすい者から仏をたのまれて持ってきたんだ」
和「アハハ心やすいにも事を替えて、仏をたのまれる奴もないものだ」
金「いまさら持って帰るわけにはいかねえから、門を開けてくれ、開けなけりゃァぶち倒すぜ」
和「コレコレ乱暴をしちゃァいかん、その門は開かんよ、このあいだの嵐でブッ倒れたから、ヤツがかってあるんだ、強くたたくと門がひっくりかえる」
金「じゃァどこから入るんだ」
和「面倒だが銀杏《いちょう》へ付いて横丁を曲がって塔婆垣《とうばがき》の破れから一疋《いっぴき》ずつくぐって来い」
金「皆さんいま聞いた通り、門が開かないから横丁の塔婆垣の破れから一疋ずつくぐっておくんなさい」
○「なんだい一疋ずつくぐれって、犬みたようだ」
△「やれやれ遠方のところを仏をかついで来て、犬あつかいをされた日にゃァ目も当てられねえ」
○「寺も寺だが和尚も和尚だ」
△「仏も仏、施主《せしゅ》も施主だ」
金「ナーニ施主は上等だ」
○「あんまり上等でもあるまい、途中でわらじが切れて馬のわらじを捨ってはいたろう」
金「アハハ、シテみると畜生あつかいをされるのも無理はねえかな」
○「サアサア塔婆垣をブッ倒せ、杢兵衛さん、おまえさん先へおはいんなさい」
杢「私は肥っているからあとにしましょう」
○「肥ってるから先へおはいんなさい、あとの者が楽だから」
杢「冗談いっちゃァいけません……」
これからワイワイ塔婆垣を倒して棺を本堂へかつぎ込んで、庫裡《くり》のほうへ来てみると和尚は囲炉《いろり》の傍《はた》へ大あぐらをかいて、膳の上へ干物のむしりかけと徳利《とっくり》を置いて、チビリチビリ飲んでおります。
金「ヤア和尚、いいご機嫌だな」
和「オッこれは金兵衛さん久しぶりだ、シテ仏というなァなんだえ」
金「ナーニ私の親類だが、寺がねえから仕方がなしにかつぎ込んだ、和尚どうかたのむよ」
和「しかし金兵衛さん、|百カ日仕切《ひゃっかにちしきり》までいくら出すんだ」
金「そうさ、天保《てんぽう》五枚出そう」
和「ナニ天保五枚はひどいなァ、せめて飲代《のみしろ》にもう一枚はずんでくれ」
金「いやに足もとを付け込まれるようだな、マァいいや天保六枚出そう」
ソコで和尚は立ち上がって膳を片隅へ寄せ、本堂へ出てきたが、もとより袈裟衣《けさごろも》はたたき売って飲んでしまって仕方がないから麻ぶろしきを戸棚から引きずり出し、破れたところへ首を通して、まるでホオズキの化け物みたような形をして、采配を持って踏み台へ腰をかけ、前のところへ小桶にどんぶりばち、湯のみに茶碗をならべてケチな古道具屋が夜店を出したようなあんばい、香《こう》がないから煙草の粉と番茶の粉をくべるので、けむいと臭いのでたまりません、和尚はすましたもんで大あくびをして、アアーアー……
金「和尚しっかりたのむぜ」
和「ジャランボロンー、ガン、チーン……南ァ無阿弥ィ陀ァ、……、金魚金魚三金魚、初めの金魚良い金魚、中の金魚セコ金魚、アトの金魚しな金魚、天神天神三天神、はなの天神鼻ッかけ、中の天神セコ天神、後の天神良い天神、虎なかねえ虎なかね虎がないちゃァ大変だ、犬の子がチーン……、それつらつらおもんみれば汝がんらいひょっとこのごとし、君に別れて松原行けば松の露やら涙やら、ヒョコヒョコマのホイ……、施主の衆、お焼香を……」
金「なんだい和尚あれが引導《いんどう》か、なんだか知らねえがおかしなお経だなァ、マァいいや、大きにご苦労だった……さて皆さんご遠方のところをご苦労様、全体お茶お菓子でも差しあげるのでございますが、ご存じの通り貧乏人のことで、何もあげることができません、まだはようございますから、お帰りに新橋あたりで茶飯でも夜鷹蕎麦《よたかそば》でもお手銭《てせん》でたくさんと、ご遠慮なしにおあがんなさるよう……」
○「なんだばかばかしい、手銭で物を食うに遠慮はしませんよ、サアサアみんな行こう行こう」
と、長屋の衆は中腹《ちゅうッぱら》でドヤドヤ帰ってしまう。あとに残った金兵衛、和尚から焼場の鑑札をもらって、早桶《はやおけ》へ連雀《れんじゃく》を付け、なにするつもりか目蓮寺の台所にあった、あじきりぼうちょうの錆びたのを手拭いに包んで腰へ差し、早桶をしょい出し、相模殿《さがみどの》橋を渡って右へ曲がり、日切地蔵《ひぎりじぞう》の大久保彦左衛門様の墓地の前へさしかかってまいりました。ここは日中も往来が途切れるというくらいの淋しいところで、
金「アア恐ろしく淋しいなァ、こんなところを仏を背負って通るなァあんまり気味がよくねえが、しかし明日焼場でごぼう抜きにあれだけの金を抜き取ってしまやァ、家主には当分田舎へ行ってまいりますと、古道具をバッタに売り、山の手のほうへ店を出して、女房を持って小僧の二人も置いて、エーありがたいな、女房がちょっとあなた、ご飯をおあがんなさい、モシあなたちょっとなんッてやがって……、しかしどうも淋しいな、なんだか白いものがチラ……チラ、ちくしょうッ、アー驚いた、白犬が出やがった……」
また突き当って右へ白金《しろがね》の清正公《せいしょうこう》様の前から、瑞正寺《ずいしょうじ》の前をまっすぐに|桐ヶ谷《きりがや》の焼場まで
まいりまして、
金「オイオイお坊さん、あけておくれ麻布の目蓮寺だ」
○「アイアイ今あけるよ」
かんぬきを取って
○「なんだ目蓮寺か、今時分、菜漬けを持ってきたか」
金「ナニ仏だ、手を貸しておろしてくれ」
○「ひどいとむらいだなァ、オレァまた菜漬けだと思った」
金「たしかに仏だ、すぐに焼いてくれ」
○「なみやきかなんだえ」
金「値《ね》にゃァかまわねえ、安く焼いてくれ」
○「置いてきなせえ」
金「すぐに焼いてくれ」
○「ダッテ順ぐりに焼くんだ」
金「順ぐりも椎《しい》の実《み》もいるものか」
○「置いてきなせえ、よく焼いとくから」
金「よく焼いちゃァいかねえ、仏の遺言だ腹はなまやきにしてくれ、あまりよく焼いて後で使えねえと困る」
○「なにが」
金「ナニこっちのことよ」
○「明日早く骨《こつ》上げに来なせえ」
金「まちがえちゃァいけねえよ」
○「大丈夫だ、これが商売だよ」
金「じゃァたのむ」
と焼場を出て金兵衛はいったん新橋まで来たが、すぐにまた引き返して焼場へまいりまして、
金「オイオイ焼けてるか焼けてるか」
○「なんだ、まるで焼芋でも買いに来たようだな」
金「仏はどうだどうだ」
○「なにか入れものがあるか、なければ壺を売ろうか」
金「ナニそんなものじゃァねえ、ホンの胴巻きでいいんだ」
○「なにをいってるんだ、こつだよ」
金「アアこつか、こつはたもとへ入れる」
○「馬鹿ァいっちゃァいけねえ、おまえよっぽど変な人だな、こつをたもとへ入れるやつがあるか」
金「サアサアこつはどこだ、オイどこだよ」
○「騒ぎなさんな、火屋《ひや》にあるのだ、今オレがこつを分けてやるから待ちなよ」
金「イヤいけねえいけねえ、仏の遺言だ、他人が手を付けるべからず、オレは隠坊《おんぼう》をやったことがあるから一人でできる、おまえあっちへ行きな、つらを出すと目のくり玉を火箸で突ッつくぜ」
○「オイオイ、そんなにかきまわすと、こつが砕けちまわァ」
金「つらを出しなさんなッてことよ、おんぼ焼いて押し付けるぜ」
ようよう竹の箸でかきまわすうちになにやら鍛冶糞《かじくそ》のような固まりがあるから、てっきりコレと、かねて用意のあじきりを出して突いてみると色も変わらず山吹色で金がバラバラと出ました。
金「ヤア出た出た出た、ありがたい、ありがたい、ありがたい」
と、たもとへ入れて金兵衛は夢中になって、羽目《はめ》を破り、藪の中へ飛び込んだ。
○「オイオイどこへ行くんだ、この人は気でも狂ったのか、こつはどうするんだ」
金「そんなこつはもういらねえ犬にでも食わせろ」
○「焼賃を置かねえかえ」
金「焼賃も糞もいるもんか、泥棒、泥棒」
と言って駈け出した、どっちが泥棒だか知れやァしません。この金をもって金兵衛が目黒へ世帯を持ち、女房を迎えて黄金餅《こがねもち》という餅店を開いてたいそう繁昌をいたしました、人の運はどこにあるかわかりません、黄金餅の由来という一席のお話でございます。
[解説]これは人情噺の発端にあたるらしいが、その後の噺は残っていない。金馬やしん生がときどきやっていた。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
へっついの幽霊
―――――――――――――――――――
幽霊が出るなどといったのは昔のことで、死んでしまえば土となる、この世の形を現わすわけはないと当今では申しますが、しかしまたこの節《せつ》チラチラ新聞に怪談を見ることがございますから、あながち世の中が開けたから幽霊がないとばかりもいい切れません、人の一念《いちねん》、すなわち気が残って形を現わすと申します。なかに己《おのれ》が神経を痛めて、夢を見たなどというは、つまり迷いを捨てれば人間もたいそうなもので、易者《えきしゃ》が客を盲者《もうじゃ》という、つまり迷って来るという意味で、まず凡人として迷いのない者はありますまい、迷って幽霊に出るもの、迷って己から幽霊を出すのも元をただせば多く色欲《しきよく》の迷いから起こるようでございます。
とりわけ色情《しきじょう》のために迷うのが、どうも、しつこいようでございます。欲のほうでは博奕《ばくち》などに深く迷い込む人がある。まことにつまらんわけのもので、自分の金を賭けて懲役《ちょうえき》に行ったり、罰金を取られたりいたします。当今はだいぶ警察が行き届いて、よほど少なくなったそうでございますが同じ勝負事の遊びでも、碁将棋などというものは、見ていても醜くないが花札をいじり、サイコロを転がしたりするやつは、金銭を賭けないでも、まことに醜いものでございます。子供がすごろくの上で転がすのは別物でございますが……。
ソコで勝負事、博奕というものは、仏に縁《えん》のあるもので、もっとも博奕のそもそも元祖はお釈迦さまだと申します、釈迦が仏教をひろめる当時というものは、まだ世の中が殺伐《さつばつ》で、とてもありがたいお説教などを聞かしたからといって耳へ入りません。それからあのサイコロというものをこしらえて、大勢の人を集めて、お堂でもって博奕をさせた、それゆえ、博奕を打つところを堂と申します、やることを開帳《かいちょう》といい、また主人が取る銭《ぜに》を寺銭《てらせん》といいます。もっとも寺は取り込むばかりで、出すことがないというところから、あるいは寺と付けたのかも知れません。デ大勢の人が集まって博奕をやる、そのあいだあいだに説教を聞かせる、しまいにはだんだんありがたいお説教が身にしみてきて、マア博奕をやめて説教を聞くようになったところが博奕でスッカリ取られてしまって、よんどころなくお釈迦さまのお弟子になった人が、阿難《あなん》、迦難《かなん》、目連舎利弗《もくれんしゃりぶつ》、賓頭虚《びんづる》などという連中、その証拠には何尊者《なにそんじゃ》、何尊者と名が付いております。これはどうだか、あてになりません。
船頭衆はサイコロのことを船霊様《ふなだまさま》と言います、一天地六、南三北四、東五西二などと目安に置いて磁石の代わりにいたしたものでございます。どの道この勝負事はいたすべきものでない、両親兄弟親類縁者に迷惑をかけついにはその身の置き所に困り、人の物を盗むむようになります。しかしわずかでもなまじい勝つと喜んでつかってしまう、これをアブク銭と申します。負ければどうか取り返そうと思ってだんだん深みへはいる。どっちにしてもこれがために身を立てる者はない、バクチとはよくいったもので、葉が朽《く》ちてしまって実にならない、たまに持ち付けない銭がふところへ入ると、サア臍《へそ》を突っついて突っついてどうにもたまりません。
○「エエこの銭がねえと思やァいいんだ、スッカリ取られちまったやつがこれだけになった、取られッぱなしだと思やァなんでもねえ、なにかこれで買おう、友だちが家へ遊びに来ても、家が悪くってもちょっとこれで火鉢の良いのがあると、目につくものだ、中になんにもなくっても箪笥《たんす》の良いやつが飾ってあると、人の家に価値があるようだ、ソコでマア台所へ入って、へっついだな、へっついのいいのがあると立派に見える、家のへっついはあんまり悪すぎるから、今日は一つ、へっついを買ってこよう……、アアあすこにへっつい屋がある、だいぶ列《なら》んでるな、……こんにちは」
△「ヘエいらっしゃいまし」
○「このへっついはこれでいくらぐらいするね」
△「一ツへっついですかえ」
○「そうだよ」
△「それは、そうですなァ一両一分にしておきましょう」
○「おそろしい高《たけ》えな」
△「高いとお言いなさるが、それは念入りにできてます、ここのはお安うがす、これなら二分二朱……」
○「それは悪すぎらァ」
△「ヘエ」
○「オヤ、そこにある中古《ちゅうぶる》の、そりゃァ良いへっついだが、売り物か」
△「ヘエヘヘヘヘ、エエそのへっついは願われねえんで……」
○「売れねえのか、どこかへ決まってるのかえ」
△「ナニ決まったわけじゃァねえんですが……」
○「決まってねえでなぜ売れねえんだ」
△「少しそのへっついはいわく付きで、じつは今日、ぶちこわしちまおうと思ってるところなんで……」
○「ヘエエ、どういうわけだ」
△「どういうわけだッて売ってもすぐに返されるから……」
○「どこか悪いところがあるのか」
△「ごらんの通り別段どこも悪いところはありませんけれども、どういうものだか、このへっついを売って、たいてい三日とはもたない、じきに返しにおいでなさる、私共でも初めはマァ二両ばかりで引き取ったんですが、もうたびたび引けを取ってるンで、ところがごらんの通り、出来がようがすから、目に付くものとみえて、店に半日も飾っておかねえですぐに縁付くんですが、またじきに返されます、今日もコレ、さっき返されたばかりで、あんまりチョイチョイ返してくるから、こっちも気味が悪くなって、私共は常店《じょうみせ》で商いをしているから、変なものをたびたびほうぼう様へ売って店に障《さわ》るようなことがあるといかねえからいっそぶちこわそうと思ってるんで……」
○「ヘエ、おかしいなァ、なにか返すというのは訳があるんだろうが、どうだい値《ね》との相談で買って行くが……」
△「けれどもいけません、やはりお持ちなすってもじき返されますからね、さんざ騒がしだからこわしちまったほうがようございます」
○「そんなことを言わねえで、俺はこのへっついが馬鹿に気に入ったんだ」
△「じゃァこうしましょう親方、そんなにご執心《しゅうしん》なら、このへっついを失礼ですが持ち込みぐるみあなたにタダさしあげます」
○「タダくれるッて」
△「その代わりなんです、お返しなすっても受け取りませんよ」
○「アアいいとも、タダもらって返すということはねえ、ぶちこわしてよけりゃァ俺のほうでこわす」
△「じゃァ私のほうから持たしてあげましょう」
○「そいつァありがてえ、そんなら待ってるよ、こういう所だから……」
△「ヘェよろしゅうございます」
○「他から口がかかってもやっちゃァいかねえよ」
△「けれども親方なんですよ、皆さんが買っておいでなすって、たびたびお返しなさるところをみると、一通りのことじゃァねえと思いますから、それだけはお断わり申しておきますよ」
○「いいとも、どんなことがあったって、たかがへっついだ、命まで取られる気づけえねえ、じゃァ待ってるからなるたけ早く持ち込んでくんねえ……アァありがてえありがてえ、人間、間《ま》が良くなっちゃァたまらねえな、博奕をすれば目が出るし、へっついを買いに行きゃァタダくれるし……、アアご苦労だった、ずッとこっちへかつぎ込んでくれ、なるたけぶっつけねえようにしてな……その土《ど》べっついをどけて、そのあとへ、すえてもらいてえ……そうそう、気の毒だが、この土べっついを持ってってくれ、屑屋にやったって持ってきゃァしねえ、いくらか銭を出すよ、かついでッてくれ、どうせ車があるんだから……、じゃァ銭をここへ置くぜ……、アア良いへっついだ、まずこれでへっついができたと、今度これに火鉢を買って、箪笥を買えば、それで家のきまりが付くんだ、昨夜の具合では、どうも今日は銭なしの布団首《ふとんくび》で転がってることと思ったが、ひとつぶつかるとトントン拍子にうまくいくもんだ、この塩梅《あんばい》じゃァ箪笥屋へ行ったら、箪笥へ銭を付けてくれるかも知れねえ、明日は一つ畳屋へ行ってこなけりゃァならねえ、オオ日が暮れたな、一ツ風呂へ入ってこよう……」
湯に入って帰ってきたが、ひとりものでございます、行灯《あんどん》の下で一ぱい飲んでゴロリ転がりましたが、さてあんまり気味がよくない、
「なんだかどうも気になるなァ、いくらなんでもこの世の中に品物をタダくれて、持ち込み料まで先方で出すという品物だからな、なんだろうこのへっついに怪しいことのあるというなァ……ことによったら夜中にへっついの中から青い火でも燃えるのじゃァねえか、アアいま打つのは八ツだな、屋《や》の棟《むね》が三寸下がるの、水の流れが止まるなどということをよく講釈師が言うが、なるほど陰気だなァ……オヤなんだ大変な音がしやがった、オオ台所の障子がパッと明るくなった、これだこれだ、いよいよへっついから火が燃え出した、しめたなおもしろいおもしろい、これを香具師《やし》のところへ持ってきゃァへっついから自然に火が燃え出すというんで、きっといい値に買うにちげえねえ、だんだん運が向いてきた、なにしろ障子をあけてみよう……アア、燃えてる燃えてる、しかしへっついで火が燃えるなァ不思議はねえ、これが水瓶《みずがめ》から火が燃え出すとかなんとかいうと不思議なんだが、……アア出やがった出やがった、ナナナなんだ、幽霊が出やがったな、アハッ、こりゃァ男の幽霊だ」
幽「うらめしい……」
○「なにをッ」
幽「うらめしい……」
○「うらめしいッて、馬鹿にするない、そそっかしい幽霊じゃァねえか、戸惑いしやがったンだろう、なにも俺はてめえに恨みを受ける覚えはねえじゃァねえか、なにがうらめしいんだよ、初めて遇《あ》った俺になにが恨みがあるんだ」
幽「ハアなるほど、これはどうもすみません、イヤこのうらめしいというヤツは幽霊のおきまり、前文《ぜんぶん》みたようなものでアレをいわないと、ちょっとあとの出が悪いもんですから、うらめしいとやりますんで、お気にさわりましてまことにすみません、今晩はだいぶおさびしゅうございますね」
○「いやにお世辞のいい幽霊だ、なんだって出て来やがった」
幽「ヘエ、親方おまえさんはどうもなかなか度胸のいい人ですねえ、私はこれまで皆さんにお話をしたいことがあって、姿を現わすと、皆さんが目をまわしてしまったり、キャッといって逃げ出してしまったりして、自分の思ってることを、今日が日まで言うことができなかったんで、あなたのような度胸のよい方は初めてだ、ついては親方、お見掛け申して少しお願い申したいことがあるんでございます」
○「ウム、頼みてえことがあるッて、なんだか言ってみな」
幽「ほかではございませんが、私は左官の長《ちょう》という者でございます、恐ろしく博奕が好きでございましてね」
○「ウム、類《るい》は友を呼ぶというやつで、俺も三度の飯より博奕が好きだ」
幽「そうですか、悪いことは言いませんから博奕はおよしなさいよ」
○「なにを言やァがる、幽霊が意見をしてやがる、デどうしたんだ」
幽「その博奕のために両親をはじめ、兄弟親類に愛想《あいそ》をつかされてしまって、ひとりボンヤリくすぶってたんでございます」
○「ウム」
幽「ところがある日のこと、わずかの銭から百二三十両もうけました、それで私は考えました、アア博奕というものはするもんじゃァない、わずかの銭から百何十両と儲かる、こういう味をしめた日にゃァ間《あいだ》に取られることは忘れちまって、どうしてもやめられない、こりゃァ思い切ってこのへんが見切り時だと、それっきり博奕を見切りました、ところがひとりもので、金のしまい所がありません、ちょっとマァお手のものですから自分でこのへっついをこしらえて、この中へ百両塗り込んで、残る三十両の金で飲んだり食ったりしているうちに、親に不孝をしたばちで、私はおまえさん、往来で頓死してしまいました、どこの者だかわからねえというんで、いい加減にくだらねえところへ埋められちまって、坊さんにお経ひとつあげてもらうこともできねえで、地獄の沙汰も金しだいというから、せめてこの百両をへっついの中から出して、その金を坊さんにやって、ありがたいお経の一つもあげてもらったら浮かばれるだろうと思うのでございます、どうか親方すみませんが、このへっついから金を出してくださいませんか」
○「ヘエ、そうかえ、それじゃァこのへっついの中の百両に気が残って、姿を現わした、金さえ出せば浮かばれるというんだな」
幽「ヘエそうでございます、くだらねえところへ埋められて、お経ひとつあげてもらうことができませんから、いま申す通り、坊さんにやる金さえあればそれで浮かばれるんでございます」
○「よしよし、けれどもなァ、オイ幽霊や、俺もなにしろこのへっついは高い銭を出して買ったんだ、それをぶちこわしてしまうんだから、おまえの足もとに付け込むようだけれどもタダ出すというわけにいかねえ」
幽「親方、冗談いっちゃァいけません、おまえさんタダ貰ってきたんじゃァありませんか」
○「こンちくしょうなんでも知ってやがる、けれど貰ったにしろ、今じゃァ俺のへっついだ、こわそうとこわすめえと俺の勝手だ、金を出すのがいやならよせ、おめえこれから先どこへ迷って行ったって俺みたような話をする者がねえ、たいてい目をまわしたり腰を抜かしたり、とても話相手にゃァならねえ、そうしたらこのへっついの中の金は出すことができねえ、どうだ俺にいくら金をくれる」
幽「なるほどこりゃァ親方のおっしゃる通り、これから先をおまえさんみたような人があれば話もできるが、たいてい私の姿を見れば目をまわしてしまうから、いくらたっても話はできない、ようございます、親方、長《なげ》え短《みじけ》えは言わずに山分けにして五十両あげましょう」
○「よしよし、そうことがきまれば、俺がへっついの中から金を出してやる」
幽「どうか一つお願い申します、グズグズして夜が明けた日にゃァ困りますから……」
○「アアいいともいいとも、今出してやるから待ちな待ちな、もう少しそっちへどいてくれ、邪魔になっていかねえ、イヤに薄暗えな、おまえさっきのようにもう一度パアッと明るくしてくんねえ」
幽「アレは出る時と引っ込む時ばかり明るくなるんで、あとは明るくっちゃァいけません」
○「不自由なことをいうな、もうちっと向こうへどいてろ」
幽「親方なるたけ静かにやっておくんなさい、泥が目へ入ると困るから」
○「馬鹿なことをいうな、幽霊のくせにしやがって……〔玄翁《げんのう》を振り上げてへっついを引っぱたいた〕サア出た出た、なるほど百両ある、半分に分けたぜ」
幽「ヘエありがとうございます」
○「いいか、俺が五十両受け取ったぜ」
幽「ヘエ、……アーアー……」
○「なにをため息をついてやがるんだ」
幽「これが百両ならいいんですけれども、五十両じゃァ半分だから……」
○「そんなことを言ったって約束じゃァねえか」
幽「約束は約束ですけれども、百両とまとまってればようございますが、五十両ではなんだか物足りない、親方どうでしょう、ものは相談だが」
○「なんだ」
幽「運試しをしようじゃァありませんか」
○「なんだ運試しというなァ」
幽「あなたが運がいいか、私が運がいいか、この五十両押し付けッこをやりましょう」
○「押し付けッこたァどうするんだ」
幽「ここで一つ博奕をするんで……」
○「まだ博奕のことをいってやがる、スッカリやめたというくせに、死んでもやめねえのか」
幽「ナニ私はやめて死んだくらいだから、なにもやりたいとは思いませんが、おまえさんの運の善し悪しをここが試しどころでございましょう、私が運がなくってこの金を取られれば、それでいい心持ちに浮かびます、おまえさんだってそうじゃァありませんか、この金を私に取られるようならもうこれから先運はないんだから、勝負事なぞはおよしなさい、いつまで博奕をしていても親方の前だが目が出やァしませんよ、人間は盛りの時に見切らなけりゃァいけません、運試しをやろうじゃァありませんか」
○「なるほど、てめえのいう通り、幽霊に金を取られるようなら、これから先勝負事をしたって目の出るはずはねえ、よし、それじゃァやッつけよう」
幽「なにか道具はありませんか」
○「そうよなァ、アアあるある、このあいだ子供が双六をして置いてったサイコロがある、サァいいか」
幽「じゃァ私は半を張ります」
○「一両」
幽「冗談いっちゃァいけません、お互いに五十両ずつ金を持ってるじゃァありませんか、一両ばかり張ってやり取りをしていちゃァ夜が明けちまいます、夜が明けた日にゃァわたしゃいられませんからね、どうです男らしく、いっぺんに五十両張って、それでお互いに運を決めましょう」
○「ウムおもしろいな、てめえなかなかいいきっぷだ、じゃァいっぺんに五十両、俺は丁《ちょう》だよ、いかさまじゃァねえから見ていろ」
幽「エエ見ています」
○「ソラどうだ……、アハハハハオイ幽霊気の毒だなァ」
幽「オーヤオーヤなるほど、死ぬくらいだから私は運がない、ようございます、これであきらめます、おまえさんはご運があるんだ、その代わり親方、もうこれで博奕はおやめなさいよ、大きにお邪魔をいたしました」
○「オイオイ待ちねえッてことよ、オーイ幽霊やーい、気の早えやつだな、消えてなくなっちまやァがったちくしょう、せめて餞別《せんべつ》でもやろうと思ったに、なんだか、こうきまりが悪いなァ、幽霊の金を取ったなどというなァ、心持ちが悪い、そうしてみりゃァ夢でもねえ、なんにしろ寝よう……」
翌朝になってみると、なるほどへっついの上に百両の金が載っているから、夢ではなかった、不思議なこともあるもんです、サア持ち付けない金がふところへ百両も入ったんだからたまりません、友だちを大勢呼び集めて、
○「サア今日はおおばんぶるまいだ、いくらでも飲んでくれ、食ってくれ」
とワイワイという騒ぎ、またそういう連中が集まると、どうもいかんもので、コソコソと悪いことが始まりました、そのうちにおいおい夜が更けてくる、ちょうど八ツ時分。
×「ごめんなさい、こんばんは、エエごめんなさいまし」
○「シーッ、静かに静かに、誰か来た、静かにしろ」
×「エエこんばんは」
○「寝たふりをしていろ、寝たふりを……、グーッグーッ」
×「いけませんよ、寝たふりをしたって、腕組みして大きな目を開いて鼾《いびき》をかいてちゃァいけませんよ」
○「オヤのぞいてやがる、アア節穴《ふしあな》があるのを気が付かなかった、行灯《あんどん》を先へ消しちまやァよかった」
×「行灯を消したって暗闇でよく見えますよ」
○「ハテナ、聞き覚えのある声だが、誰だえ」
×「ヘエ、私でございます」
○「私……私じゃァわからねえ、名を言いねえ」
×「昨晩まいった者でございます」
○「昨晩来た者……、兄弟誰だろう、昨晩来たってえのは」
△「昨晩来た者……、さっきおまえが話をしたへっついから出た幽的《ゆうてき》じゃァねえか」
○「幽霊、アアまた来やがったか、キット気が残ってまた来やがったかな、オオどうした、おまえ幽霊さんだな」
×「ヘエ、親方ちょっと開けてください」
○「幽的なんだって来やがった、オイ幽公《ゆうこう》、てめえ昨晩なんと言った、運試しだからもうお互いにこれであきらめると言ったじゃァねえか、まだ金に気が残って、迷っ出て来やがったな」
×「親方そうじゃァありませんよ、けれども今晩はだいぶ顔がそろってるから、せめて寺だけ、こしらえてもらいに来ました」
[解説]こういう噺はただ本で読んだり、ラジオで聞いたのでは、実演を見るほどのおもしろ味は出ないが、噺家の声色や身振り手振りを勝手に想像しながら読むというのも、なかなかおもしろいものである。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
植木のお化け〔音曲落語〕
―――――――――――――――――――
エー一席申し上げます、この落語《はなし》は、植木のお化けという、ごく古い音曲噺《おんきょくばなし》で、昔はよくこの落語の中へ、咽喉《のど》の美《よ》い噺家《はなしか》が音曲を入れたり、あるいは三味線を弾きながら落語を申し上げたんだそうで、
甲「オイどうしたい、たいそう顔の色が蒼《あお》いじゃァねえか、なんでえビッコなんかひいてどうしたんだい」
乙「アニキか、たずねてくれんのはありがたいが、そんな大きな声をしねえでくれ、俺はじつは、横根《よこね》を腫《は》らしちゃったんだ」
甲「なに、横根ッ」
乙「そ、そんな大きな声を出しなさんなよ馬鹿だな」
甲「俺がそばで大きな声をしてさえ傷に響《ひび》けるってェのに、ノソノソ歩いてどこへ行くんでェ」
乙「ウン、じつはネ、今年になってまだ餅《もち》を一つも食わねえんだ、おめえたちとちがって俺ァ酒を呑まねえから餅を食おうと思うんだがね、万一餅を食ったがために、横根がよけいひどくなるようなことがあるといけねえから、これから医者へ行って聞いてこようと思って」
甲「ああそうか、おめえもそれで一人前の男になったんだ剛気《ごうぎ》々々、しかしまあ大切にしねえ」
乙「ありがとう、さようなら、ああ痛い痛い……エーおたの申します、おたの申します」
書生「ドーレッ」
乙「ウワー大きな声だな」
書「ドーレッ、アーなんですか」
乙「書生さん、まことにあいすみませんがね、じつは横根が腫れちまったんですが、餅を食べてよいか悪いかちょっと先生にうかがってくれませんか」
書「ああそうですか、では少々待ちなさい」
奴《やっこ》さん玄関で待っておりますと、町内の若い衆、一杯|機嫌《きげん》で、
若「曇らば曇れ箱根山《はこねやま》ァ、晴れたとてハアコリャコリャ、お江戸が見ゆるじゃあるまいしコチャカマヤセヌ」
乙「大きな声をしやがるねえ、あんな古い唄を唄ってやがら、べらぼうめ、俺だってそんな唄うたえるぞ、我慢して唄ってやろうか、曇らッ……ああ痛い、くもッ痛いな、ようし、かえ唄ができたぞ、痛まば痛め、横根病《よこねや》み、腫《は》れたとて、ハアコリャコリャ、おいらが一人で悩むのだ」
てェと書生さんが出て来て、
書「餅やコチャカマヤセヌ」
粋《いき》な落語があるもので、初代の都々逸坊扇歌《どどいつぼうせんか》という人は音曲師としては名人だったそうで、高座《こうざ》でお客様から題をいただいて、トツチリトンだとか都々逸などを即座にこしらえて唄ったということで、寄席の音曲師としては隠れた名人で、落語家《はなしか》で名人と申しますと、初代の三遊亭|円朝《えんちょう》を思い出します、また俳優では市川団十郎、彫刻師《ほりものし》では左甚五郎利勝《ひだりじんごろうとしかつ》、狂歌師《きょうかし》では太田蜀山人《おおたしょくさんじん》などと、名人もその道によって大勢ごさいましたが、幽霊の絵を画《か》かせて名人と称したのは、円山応挙《まるやまおうきょ》先生、幽霊を画かせたら前後を通じてまずあの方一人だそうで、幽霊を画きっぱなしでは筆が汚れるというところから柳をあしらって筆を清めたそうで、なにも筆を清めるのなら、梅でも桜でもよさそうなものですが、幽霊は陰《いん》のもの、柳は陽木《ようぼく》、陰陽《いんよう》をとるために柳の木を添えたんだそうで、講釈のほうでも草木《くさき》も眠る丑満《うしみつ》ごろ、なんて申しますが、幽霊も、草木も眠る丑満ごろに化けて出るからものすごいが、午後一時頃に銀座の真ん中へでも出てごらんなさい、恐くもなんともない、
幽「恨《うら》めしい」
○「オイ芳《よし》さん、あすこへなんか出たぜ」
芳「どこへ」
○「あの地下鉄の出入口の脇を見ろよ」
芳「あ、なるほど、なんだろう、電気|工夫《こうふ》が感電でもしたんじゃないかえ」
幽「恨めしい」
芳「オイ恨めしいッてサ、なんだいおまえは」
幽「ゆうれい」
芳「幽霊なら夜中に出ねえナ」
幽「夜は犬が吠えて恐い」
そんな幽霊はありゃしません、やっぱり丑満ごろでないと、すごくない。五代目の尾上菊五郎《おのうえきくごろう》という俳優は幽霊を演《や》ると名人だったそうで、芝居では幽霊の出る前には必ず大ドロという鳴り物を入れます。この太鼓が鳴ると火の玉が出る。気の早い見物人はこの火を見て音羽屋《おとわや》ァと褒《ほ》める。そそっかしい人が火事を見て音羽屋ァと褒めて殴られたことがありましたが、火事なんざァ、あんまり褒めないほうがよろしい。幽霊とは、「かすかなみたま」と書きます。幽霊は気の迷いで見えるんだそうで、恐い恐いと思うと棕櫚箒《しゅろぼうき》が鬼に見えます。幽霊なんてえ物はあるもんじゃない、しかし化け物はこの世にあるそうで、狸は七《なな》化け狐は八《や》化けと申しますが、人間も化けます。とりわけてご婦人のほうが化けやすい、お河童《かっぱ》さんからお下髪《さげ》に化ける、お下髪から束髪《そくはつ》に化けて、それから島田《しまだ》に化ける、丸髷《まるまげ》に化けて切髪《きりがみ》に化け、坊主に化けて早桶《はやおけ》に入るのが化仕舞《ばけじま》いだそうで、雀《すずめ》が海中に入って蛤《はまぐり》となる。わら草履《ぞうり》が薙刀《なぎなた》に化けます。
甲「エーこんばんは」
乙「こんばんは」
丙「エーこんばんは」
丁「こんばんは」
隠「オヤこれは皆さんおそろいで、マアこっちへいらっしゃい」
甲「ごめんください」
隠「サアどうぞ、ところでなにかご用事でもおありですか」
丙「ヘエ、今晩こうして大勢でうかがったのは他でもありませんが、世間のうわさではお宅の庭にお化けが出ますそうで、それを拝見にあがりましたんで」
隠「イヤこりゃどうも恐れ入りましたな、ではお話しいたしますが、私はこの老年になりまして、別段にこれという楽しみもありませんので、ちかごろ植木いじりをはじめましてナ、おかげでようよう目が鑑《き》くようになりました、先日も本店のほうから万年青《おもと》のよいのを二杯買ったから目を通してくれと申しますので、せがれの家へ行っております留守に、宅におりました飯焚《めしたき》の権助《ごんすけ》なァ」
丙「エェ山出しの」
隠「あれがナ、朝晩庭の掃除が面倒とでも思ったんでしょう、庭の植木へ煮え湯をかけてしまったんで。植木とはいえ生あるもの、煮え湯で殺されて恨めしいのか植木の遺恨《いこん》がよごとよごと出ますんで」
甲「ああさようですかい、で、どこの辺から出ますかナ」
隠「庭のあちらに築山《つきやま》がありましょう」
乙「へえへえ」
隠「あの築山のうしろから出るんです」
甲「なるほど、じゃァあの垣根のところはお化けの楽屋《がくや》ですかえ」
隠「お化けの楽屋てえなァない」
乙「いつごろ出ますな」
隠「さようサ、草木《くさき》も眠る丑満《うしみつ》ごろと昔から相場がきまってますから、マア二時ごろでしょうな」
乙「二時まで待っておられませんねえ、どうでしょう、こうして皆そろって来ているんですから、今晩だけ特別急行で」
隠「そうはまいりません、汽車じゃァあるまいし、マア少しお待ちなさい、ただいま一杯差しあげますから」
と、これから酒肴《しゅこう》の用意をして盃の取りやりをしておりますうちに、ようように夜も更けてまいりますうちに、十二時も過ぎ一時も過ぎ、かれこれ二時とおぼしきころ、庭の隅から異様な光りもの、怪しい姿が現われます。〔ドロドロドロドロ〕
唄「梅は咲いたか桜はまだかいな、柳はなよなよ風しだい、山吹《やまぶき》は浮気でトチチリシャン色ばっかりしょんがいナ、ヘッウーイだ、誰だッいま時分こんなとこへ俺を引っぱり出したなァ、サア勘弁できねえ、矢でも鉄砲でも持ってこいッ……」
甲「なんですあれは」
隠「あれが植木のお化けですよ」
乙「へえ、たいそうお酒に酔ってましたが、なんの植木です」
隠「榊《さかき》に蘭の化けたのでつまり酒乱《しゅらん》だ」
丙「アーなるほど、榊に蘭で酒乱、これが植木のお化けですか、こりゃおもしろい、オヤまた出てきたようです」
ドロドロドロドロ、
声色「もうし、ご出家《しゅっけ》様、この御山《みやま》に今道心《いまどうしん》がましまさば、教えてたべ」
声色「こわ、興《きょう》がるな小児《しょうに》かな、九百九十の寺々に、日ごと入り来る初発心《しょほっしん》、きのう剃《そ》ったも今道心、おととい剃ったも今道心、ただ今道心では知れがたし、俗の名いうて尋ねられよ」
甲「ああ消えちまった、もし、ただ今のはあれはなんです」
隠「雅児桜《ちござくら》に苅萱《かるかや》の化けたんで」
甲「ようよう、粋なもんだねえこりゃ、アッまた出ましたよ」
ドロドロドロドロ、
唄「夜ざくらやァ、うかれ烏《がらす》が舞い舞いと、とぼけしゃんすなあ、芽吹き柳が風に吹かれてエエ、ふうわりふわりとおうさ、しょんがいな、おうさそうじゃえー。マア旦那いらっしゃい、先日はどうもありがとう存じました、いいえ本当にありがとう存じました、大変おもしろい思いさせていただいてありがとう存じました」
乙「あら消えちゃった、ただ今のお化けは」
隠「おじぎそうにシャクヤクの化けたのさ」
乙「ウンおじぎそうにお酒を酌役《しゃくやく》でなるほど、こりゃおもしろいね、オヤオヤまた出てきました」
ドロドロドロドロ、
亭主「サア勘弁できねえ、亭主のいうことをきかねえような嬶《かか》ァは家風に合わねえ、とっとと出て行け」
女房「なにを言ってやがァるこのヒョットコ野郎のおたんちんめ、家風に合わねえもよく言えた、なんだと亭主だと、ふざけたことをぬかすねえ、嬶ァにすることもしねえで、亭主が聞いてあきれらァ、まごまごしやァがると向脛《むこうずね》に喰らい付くぞ」
丙「オヤオヤ夫婦喧嘩のお化けですぜ、しかも、かかあ天下ですね」
隠「あれが、サイカチの木ですよ」
丙「ハハアなるほど、アーまた出ました」
ドロドロドロドロ、
乙「あれッ、なんにも言わずに消えちまった、ありゃァなんです」
隠「くちなしサ」
乙「ウフッこりゃァ洒落《しゃれ》ている」
ドロドロドロドロ、ドドンジャン、ブー、ドドンジャン、
声色「おめんッ、おどう、ようッ、おこてやッ」
甲「アッ消えちゃった、あれは天狗様の剣術ですね」
隠「さよう、鞍馬八流《くらまはちりゅう》の天狗試合で」
甲「なんの木です」
隠「木じゃァない、花菖蒲《はなしょうぶ》〔鼻勝負〕です」
甲「アーそうですか、アッ、また出ました」
ドロドロドロドロ、
浦里声色「あの時《とき》さんは、どこにどうして居さんすことじゃァやら、も一度顔が見たい逢いたいわいなァ」
唄「きのうの花はきょうの夢、今は吾が身につまされて、義理という字は、ぜひもなや……」
丙「アッ、おしいところで消えちまったね、もし、ただ今のはなんですな」
隠「雪の下におみなえしサ」
丙「ヘェ、雪の下というのは、明烏《あけがらす》だから解りましたが、おみなえしというのは」
隠「女郎花《じょろうばな》サ」
丙「アーそれで浦里《うらざと》が出たんですか、なるほど、なかなか凝《こ》ったもんですな、オヤまた暗くなりましたよ」
ドロドロドロドロ、
唄「旅の衣《ころも》はすずかけの、すずかけの、露《つゆ》けき袖《そで》やしぼるらん」
声色「いかに関守《せきもり》、われわれは南都《なんと》東大寺の僧、盧舎那仏《るしゃなぶつ》建立《こんりゅう》のため北陸道へまかり通る、関門《せきもん》開いてお通しそうらえ」
富樫《とがし》「まことの山伏とあらば勧進帳《かんじんちょう》をご所持なき事よもあらじ、勧進帳を遊ばされそうらえ、これにて聴聞《ちょうもん》つかまつらん」
弁慶「なに、勧進帳を読めとおおせそうろうな」
富樫「いかにも」
弁慶「ウーム、心得申してそうろう」
唄「もとより勧進帳のあればこそ、笈《おい》の内より往来の巻物一巻取り出し勧進帳と名づけつつ、たからかにこそ、読み上げけり……」
乙「もし、今のはなんの植木です」
隠「石菖《せきしょう》に弁慶草《べんけいそう》」
乙「あ、安宅《あたか》の関所に弁慶草か、なるほど、オヤオヤ今度はたいそうどっさり出てきましたよ」
「ドロドロドロドロドロドロドロ、南無妙法蓮華経《なむみょうほうれんげきょう》、南無妙法蓮華経」
甲「オーオー大変|賑《にぎ》やかなお化けですな、ご隠居さん、あれはわかりました」
隠「おや、おわかりですか」
甲「あれは、南無妙法蓮華経草の化けたんでしょう」
隠「ナァニ、蓮華《れんげ》に橘《たちばな》サ」
[解説]これは音曲噺である。下座に影で唄わせる人もあるが、本当は自分で唄や声色を使うものである。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
米|搗《つ》きの幽霊 〔または〕信濃者
―――――――――――――――――――
なんでも程《ほど》でございますが、ことに食事は腹八分《はらはちぶ》がよろしいとしてあります。しかし力業《ちからわざ》をする者はどうしても大食をするようでございます。当今はたいがいの米屋が器械でつきますが、以前人の力でつく時分、この米つきは年中、四度飯《よたびめし》でございました。朝七時ごろに食べると昼飯《ひるめし》を十一時ごろに食べる、それから二時ごろに茶うけに食う、それから五時ごろに晩飯を食べる。それが油絞《あぶらじめ》ときますと、五度めしというのだから終日《いちにち》飯を食ってるようなものでございます、今日では何でも電気で機械を動かしますから、おいおいそういう大飯を食べる者の必要がなくなってまいりましたし、人間も利巧になったから暴食をすれば衛生上よろしくないというので、てんでに気を付けますが、昔はずいぶん大食をしてそれがために寿命を縮めたなどという話がございます。
主人「オイ久蔵《きゅうぞう》や」
久「ハイ、おはようごぜえます」
主「こっちへ入んな、ほかじゃァないがな、今日は少しおまえに意見をしなければならない、どうもおまえのようにそう食べては、腹をこわしてしまうと思って心配だ、この間も髪結床《かみゆいどこ》の奥座敷の十畳と六畳の二間《ふたま》へ若い者が大勢集まって食いっこをしよう、よかろうというので、みんなが食えるだけ食った、それで番付けを作ったというから、オレが見るときさまの名がない、どうも変だと思ってよくよく見ると、真ん中のところに大きく勧進元《かんじんもと》として信濃屋方久蔵《しなのやかたきゅうぞう》と書き、オレのところの名前まで出ていた、ほかのことならとにかく大食いの番付けなんか外聞《がいぶん》が悪いじゃァないか、大関や横綱どころじゃァない、勧進元だなんて、どのくらい食ったんだ」
久「ナニありゃァなんでごぜえます、世話人が源兵衛《げんべえ》さんでごぜえまして、おまえはえらく大ぐらいだから、とにかく来てくんろというもんでごぜえますから、まいりましたところが、この人は二升《にしょう》の飯を食うというのだから別格だちゅうので、床の間の前へわしを座らせただ」
主「それでどういうことになった」
久「普通の飯じゃァ身体のために悪かろうちゅうので、麦飯にトロロということにして、なにしろ大変でがした、町内の若《わけ》え者ばかり二十二人来やした」
主「二十二人の同勢《どうぜい》か」
久「さようでごぜえます、まずおまえから先へ食ってくんろと言いやすから、食い始めやした、飯の上へ青海苔《あおのり》をかけやして、それへトロロをドッサリかけてくれやすので」
主「よッぽど食ったか」
久「何杯食ったか数なんかわかんねえ、茶碗だって二つや三つじゃァねえ、なにしろ二十二人が代わる代わるに給仕してくれるだが間に合わねえくらいだ、おもしろうがしたよ」
主「おもしろかったじゃァない、いくらなんでもばかばかしいな、どうもおまえは普通の身体ではない、こんど珍庵《ちんあん》さんがおいでなさるから、よくみてもらい、どうもこのごろ顔の色が悪いぞ、病気だろうと思う」
久「イヤ病気なんぞねえ」
主「イヤ病気でないことはない、たしかに病気だ、顔の色でわかる、元のような赤い色なんぞなくなってしまって、蒼《あお》い顔をしている、米をついていても、このごろだいぶ息切れがするようじゃァないか、口臼《くちうす》をついている繁蔵《しげぞう》も心配している、寝ていてもきさまは唸《うな》るそうだ」
久「あれはなんでがす、少し食い過ぎまして苦しかったから唸っただ」
主「苦しくなるまで物を食うやつがあるか」
久「それが食いてえでがす、うまくってたまんねえ……」
主「なんだ、先生が来てくだすった、そうか、オレがこの間ちょっとお願い申しといたんだ、サアサア先生どうぞこちらへ」
珍「イヤこれはご主人、ご病人はどこに寝ているので」
主「イヤここにおります」
珍「ハハアこのお方はどこがお悪い」
久「イヤわしどこも悪くねえだ」
珍「ハハアおまえさんか、大食いをなさるというのは」
久「ナニ大食いッてえほどでもねえけれども、少しべえ余計食います」
珍「同じことだ、そりゃァいかん、食事はたいがい度《ど》のあるものだ、どのくらい食べなさる」
久「ここに旦那様がおりますけれど、たくさん食っては駄目だってえから、ようようこのごろでは二升くらいしか食わねえ」
珍「日に二升といっては大変だ、男|一人扶持《いちにんぶち》五合《ごごう》というのは多分に見積ってあるのだ、それだのに日に二升といっては四人前食うことになるのだからよほどの大食いだ」
久「だめでがす、わし五合くらい食った日には死んじまうだ」
珍「イヤそうでない、ご主人もおまえの身体を案じなすっておっしゃるのだ、ケチでいうのではないから悪く思ってはいけない、とにかくみてあげよう……、イヤこりゃァだめだ、腹がもうこわれている」
久「馬鹿いわねえもんだ、わしの腹、こわれてなんぞいねえだ」
珍「コレコレ腹を出さなくってもよい、上《うわ》ッかわから見たってわかりゃァしない、腹の中がこわれているのだ、ご主人もこの間おっしゃるのだ、おまえが同国の信州から出て来て、長い間、実直《じっちょく》に働いているからどうか長く生かしておいてやりたいと思うのだが、どうもあまり暴食をするので、自分から寿命を縮めるようなものだといってご心配なすっていたが、その通りだ、このままだとおまえさんはとても長く生きられないよ、小食《しょうしょく》しなさい」
久「ヘエ、小食てェとどのくらい食われますかな」
珍「まず一日五合だな、今もいう通り、普通の人なら五合は決して小食じゃァないが、おまえは特別だから五合を小食としておこう」
久「イヤそりゃァせっかくだけれどもハアとても辛抱できねえでがす、二升のうちを五合減らして一升五合で我慢しろというなら、わしもハア命が惜しいだから辛抱するだが、ただの五合べえ食ってた日にゃ、わし飢え死んでしまうでがす」
珍「馬鹿なことを言いなさい、五合食って飢え死ぬやつがあるものか、少し腹を干すくらいにしなけれりゃァとても直るものでない」
久「それじゃァ先生どうだね、一升八合にしたら」
珍「そんなことを言っているが、おまえは命が惜しくはないか」
久「命は惜しいけれども、どうしてもわし、飯を減らさなけりゃァ死んでしまいやすかな」
珍「わからないな、わしも長らく、ご当家へ出入りをしているから、おまえが初めてご当家へ来た時も知っているが、元はいい色気をしていたが、このごろは大変顔色が悪い」
久「そういわれてみると、このごろハアちょっと仕事に取りかかるのが大儀《たいぎ》だし、米ついてると息切れがしますからね」
珍「ソレみなさい、身体が大切だと思ったら良く慎みなさい、薬をあげるから精《せい》出して飲まなければいけない」
久「薬をのむと病気が治りますかな」
珍「治らなければならないものだ」
久「それでもこのあいだ近所の医者ッポーのうわさに」
主「コレコレなんだ医者ッポーとは」
久「医者のうわさだったがね、たいがいの医者にかかったら、うかつに薬はのめねえ、盛り殺されてしまうと……」
主「コレコレ馬鹿なことを言うな、あきれたものだ、先生のいうこと聞いて、なるたけやわらかい物でも食べるように心がけろ」
久「承知いたしやした、ありがとうごぜえます、だけれども先生、薬はなるたけ味よくこせえてもれェてえもんだ」
主「馬鹿なことをいうな」
珍「それではとにかく薬をこしらえてあげるから、よくそれをのんで、仕事を当分休んで寝ていなけりゃァいけない、決して暴食をしてはいけませんよ」
久「ありがとう存じます」
これから久蔵は己《おのれ》の部屋へ床《とこ》を敷いて寝ましたが、だいたい腹を食い拡げてしまったから、年中腹の中にたくさん入っていないと腹がへったような気がするので、厳しく言われるがどうも我慢ができません。
久「おさきどんや、おさきどん」
さき「なんです久蔵さん」
久「旦那様お店にいますか」
さき「ご商用でお出かけになってお留守ですよ」
久「おかみさんは」
さき「奥で仕事をしておいでです」
久「アアそうかね、すまねえけれどもな、冷飯《ひやめし》でもなんでもいいけれど……、朝、土鍋《どなべ》へ一杯《いっぺえ》お粥《かゆ》を煮てくれたが、あんなもの五杯も食わなけりゃァ我慢ができねえ、腹がへってしようがねえ、犬も朋輩《ほうばい》、鷹《たか》も朋輩ということがあるのだから、どうだ内密《ないしょ》で食わしてもれェてえ」
さき「そりゃァいけませんよ、チャンとご主人様から言い付かっているんだから、おまえさんのお膳に付ける物だって、旦那様かおかみさんが一々ごらんなすって、おはちなんかもあの身体で盗み食いでもするといけないからというので、戸棚へ入れて錠《じょう》をかってしまうんだよ、それもこれも皆おまえのためを思ってしてくださるんだから悪く思っちゃァいけませんよ」
久「困ったな……定吉《さだきち》どんや定吉どん」
定「久蔵さん、なんです」
久「気の毒だがな、腐った飯でもなんでもいいだけれども、飯少し食わしてもれェてえもんだ、このままでいるとわし寿命がねえだ、腹がへって腹がへってしようがねえ、そんなにわしに飯を食わせるのが惜しいならいっそのこと絞め殺してもれェてえだ、どうかハア旦那様は留守だそうだ、おかみさんに内緒で飯持って来て食わしてくれろ」
定「だめだよ、おはちは戸棚へ入って錠がかかってあるんだから出せやァしないよ」
久「困ったなァ、なんでそんなにわしをいじめ殺すだかなァ、食わせる物ぐらい食わしたらよかろうになァ、食わしてくだせえよ」
定「おかみさん久蔵さんが涙をこぼして食わしてくれろと言いますから、お粥をお湯たくさんにして少し食べさしてやったらいけませんかね」
女「いけないいけない、病気だから食べさしちゃァいけません」
久「おかみさん食わしてくだせえよ」
女「アラッおまえ出て来たのかい、寝ていなくっちゃァいけないよ」
久「おかみさん後生《ごしょう》だから食わしてくだせえよ、わし飢干《ひぼ》しになっちまうがなァ」
女「馬鹿なことをお言いでない、あれだけ大きな土鍋に一ぱい食べてしまって、飢干しになられてたまるものかね、食べたいのが病いなんだから、それを我慢して寝ていなけりゃァいけない」
久「いくら寝てろといったって、腹がへって寝ていられねえでがす、あんな土鍋じゃァ五杯も食わなけりゃァ足りねえでがす、アアどうせ死ぬならたくさん食って死にてえものだな、こう腹がへっては手においねえ、こうしてくだせえや、たった一つかみでもいいだから、食わしてくだせえよう、三粒ばかり食わしてくだせえよ」
人の顔さえ見れば食わしてくれ食わしてくれと言う、もうしまいには半分|狂人《きちがい》のよう、寝ても覚めても、うわ言にまで食いたい食いたいと言っております。ある晩のこと、
久「アア食いたいなァ、みんな寝てしまったかな、どうせもう助からねえ寿命だから、食うだけ食って死にてェもんだ、旦那もおかみさんも寝てしまったかな、みんな寝てしまったようだから一ツ盗み食いに行くべえ」
と、ソッと二階から下りてきて、台所へまいりますと、おはちは戸棚へしまって錠前がかかっております。だいたい力のある男だから、いくら病人でも食いたい一心で、とうとう錠前をねじ切ってしまいました、戸棚からおはちを取り出してふたを開けて中へ手を突っ込んでこれから食おうという時に、旦那が目を覚まして、(オヤ誰か台所でガチャガチャやっている)、と出て来てみると久蔵がつかみ食いをしている
主「コレ久蔵」
久「ヤア旦那様か、こりゃァいかねえなァ」
主「どういうものできさまは、わけのわからん奴だ、きさまは同国の者ではあるし、長く家に奉公して正直によく働いてくれるから、どうか病気を治してやろうと思って医者にかけたり、面倒を見たりしてやっているのだ、冷飯などを食やァがってとんでもねえ奴だ、二階へ上がって寝ちまえ」
久「ヘエ」
脅《おど》かされて二階へ上がって寝ましたが、ますますこれから痩せるばかり。
「食いてえ食いてえ」
と、言い続けてとうとうこれで死んでしまいました。だいたい腹をこわしてしまったところへ今日のように医術も進んでおりませんのに、本人が養生《ようじょう》をする気がないのだから治りっこありません。ほとんど狂人のようになって死んでしまいました。ご主人もせっかく治してやろうと思うから、いやな思いをして意見もしたり小言もいったのだが、どうせ死ぬものなら食わしてやってもよかったと思うくらい、さっそく国元《くにもと》へ沙汰《さた》をしてやったから、国から親父が出て来るといっても、昔のことで日数《ひかず》がかかりますから、葬式は形のごとく出して、仏は骨にして寺へ預けておいたのを、親父が来てしょって帰りました。
ところがある晩のこと、番頭の善兵衛《ぜんべえ》という男が、おかずの塩ッ辛い鮭《さけ》を食ったものだから、のどが渇いてしようがないので、夜中にソッと起きて台所へまいり、水を飲もうという考え、するともう久蔵がいないものだから、台所へおはちが出しッぱなしになっております。そのおはちのそばにどうも人がいるようだ、ハテナと思ってよくよく見ると、おはちのふたを開けて手づかみで飯を食っている。
「誰だッ」
声をかけると、ヒョイと振り返ったからその顔を見ると久蔵だ。
「わしでがす、どうか旦那へ内密にしてくだせえ」
「キャッ」
というと番頭は飛びあがりました。その声に驚いて主人が出て来て、
「誰だ誰だ、どうしたんだ」
「ダダ旦那大変でございます」
「どうしたんだ、善兵衛じゃァないか、寝ぼけたのか」
「イエ寝ぼけたんじゃァございません、小便に起きまして、それから水を飲もうと思って台所へまいりましたところが、飯びつのふたを開けて誰かがつかみ食いをしております。誰だと声をかけると、ふり返ったからその顔を見ると、死んだ久蔵でございます、どうか旦那へ内密にしてくだせえと言いましたので、私は驚いて腰が抜けてしまいました」
「そりゃァおまえの気のせいだろう、そんな馬鹿なことはなかろう」
「イエまったくでございます、ほんとうで」
「しかしおまえさんの口からあまり吹聴《ふいちょう》をしてもらいたくない」
「かしこまりました」
と、言いましたが、なんで黙っているものですか、たちまちこれが家中の評判となる。夜になると誰も台所へ行く者がない、そんなことが世間に知れない気づかいはない、たちまちこれが近所じゅうの評判になると、ただでさえ人は他人の家のことを悪く言いたがるもの、中にはまた商売敵《しょうばいがたき》がありますから、それをいいことにして、あすこの家では奉公人にろくに食い物を食わせずに殺したものだから、その男が怨《うら》んで化けて出るなどと悪い評判をする、それがために店がだんだんさびれてまいりまして、奉公人も一人減り、二人減り、ついには旦那とおかみさんと赤ん坊と三人きりになってしまいました。これでは商売も何もできたものではありません、元は相当の財産のある人だから差しあたって暮らしに困るようなことはありませんが、大きな店を張って居食《いぐ》いをしているような始末、
主「ナアおまえ困ったね、縁《えん》なき衆生《しゅじょう》は度しがたしということがあるが、あの久蔵のようにわからない奴もないものだ、あいつのためを思ってしてやったことを、かえって仇《あだ》に思って、死んでまで祟《たた》りをする、なんということだろう、奉公人はみんな逃げてしまうし、商売は全然できなくなってしまった。このままここにこうしてもいられない、いったん腐った店だからどこか他へ引越して新規まき直しに開業をしよう、だがとにかく善兵衛の奴があんなことを言い出したのが始まりで、ほんとうに出るものだか出ないものだか一ツ今夜確かめてみようと思う」
女「およしなさいよ気味が悪いから」
主「なんの気味の悪いことがあるものか、あいつになにも怨まれることはないのだから」
と、気丈《きじょう》の人で、その晩夜更けに、おかみさんの寝息をうかがい、ソッと床を脱け出して、台所へやってまいりました、やッぱり気のせいだ、なんにも出やァしない、怖い怖いと思っていると、棕櫚箒《しゅろぼうき》も鬼に見えるということがある、幽霊が冷飯を手づかみで食うなんて、そんな馬鹿なことがあるものか、なんにも出やァしないと、独り言をいっていると、スーッとその前へ煙のように人が出てきて、いきなり前にあった飯びつのふたを取りまして、中へ手を突っ込むとムシャムシャ食い始めました。旦那は驚いた。
主「オヤ出た出た、こいつずうずうしい幽霊だ、オレの見ている前で食い始めやがって……コレ久蔵」
久「ヘエ」
主「なんだ、オレの見ている前で飯びつの中へ手を突っ込みやがって、ムシャムシャ食って、第一きさまは死んだ者だろう」
久「ナーニ|しなの《ヽヽヽ》者でごぜえます」
[解説]信濃者と死なぬ者との地口《じぐち》落ちである。江戸時代、信濃者は大飯食いの代名詞になっていた。川柳に「信濃者にっこりとして食いかかり」「冷飯のほうから信濃かたづける」「信濃者三杯目から噛んで食い」等がある。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
反魂香《はんごんこう》 〔上方の題〕高尾
―――――――――――――――――――
陰陽というのは何にでもありますもので、第一人間にも陰陽があります。俗に屈《かが》み女に反《そ》り男とか申しまして、ご婦人は常に陰のものとしてありますから、少し屈み加減、男子は陽のものとしてありますから、ちょっと反り身になっておるほうが形がようございますが、近頃は洋服を召しますからなおさらでございます。水死《すいし》をいたすと陰が陽にかえって、陽が陰にかえります。どういうわけか水死|仏《ぼとけ》のことを土左衛門《どざえもん》といいます。男はマァ土左衛門でもいいが女で土左衛門はおかしい、お土左《とさ》とかなんとか言いそうなもので、この土左衛門というのは、どういうところから付けた名称かと聞いてみますと、寛永《かんえい》のころの力士に、成田山《なりたやま》土左衛門という人がありました。この人色が青白く、恐ろしく脚《あし》のふくれて水死人によく似ておりましたそうで、それから水死人を土左衛門というようになったそうでございます。
ソコでご婦人は陰のものですから陽にかえって、必ず上を向いて流れる、男子は陽のもので陰にかえりますから下を向いて流れてまいります。わたくしがある寺の和尚に聞きましたが、仏説《ぶっせつ》で申しますと、女は罪の深いものですから死んでも万人に顔をさらすのだそうで、またある人に聞きましたところが、男は睾丸《きんたま》の重みで下を向くのだという……、それじゃァ疝気《せんき》持ちは底を流れそうなもんだ。それからわたくしがその方に聞いた、男は睾丸の重みで下を向くのならご婦人はどういうわけで上を向くのですというと「よく考えてみなさい、女はお尻の重みで上を向くんだ」とおっしゃいましたが、ご婦人だってあながち大きいお尻の持ち主ばかりでもありますまい。
この陰陽は手のひらを返すうちにもあるそうでございます。伏せた手が陰で、仰向《あおむ》いた手が陽だ、それですから幽霊は手を下へ向けます。そうかといってあまり下へやると名主《なぬし》様のようだ、ちょうど胸の辺へやりまして両手を伏せて、恨めしいと出ます。手を伏せておるから怨めしいが手を仰向けに出すと、どうしても何かもらいたそうでございます。だいたい、みな幽霊は手を下へ向けておる。と申し上げると、なにかわたくしが幽霊を見たようでございますが、本物にはまだお目にかかりません。おもに絵や芝居でご面会をいたしました。どうもあれはあまり見た人が少ないようで先日もさるご贔負《ひいき》になっておるお客様が、故人の尾上梅幸《おのうえばいこう》が大層お好きで、あの役者は何をさせてもうまかったが、その中でも幽霊はソックリだとおっしゃいましたから、それではあなた本物をご覧なさいましたかというと、ナーニ本物は見ない、本物を見ないで似ておるというのはおかしゅうございます。
だいたい絵でも芝居でも柳の下へ出ますようで、幽霊に柳は付きものになっております。その柳も青々としたのにきまっておる「幽霊の手持ちぶさたや枯柳《かれやなぎ》」青々としていないと出た幽霊が引き立たない、幽霊に付きものだから柳は陰木《いんぼく》だろうと思うと、これが陽木《ようぼく》だそうで、その証拠には正月雑煮を祝う時には柳箸《やなぎばし》を使う、なぜ幽霊のそばに柳が付いているかというと、これは円山応挙《まるやまおうきょ》という絵師《えかき》が幽霊は幽《かす》かな霊《れい》と書く、たぶんこんなものだろうと、腰から下のない陰の者を描いてみた。その時なにかそばへ陽木をというので考えて、最初、もみじを描いたが、もみじの下へ幽霊はどうも引き立ちません。それから牡丹を描いたがいけない、きれいすぎる。ソコで今度は菊を描いたがやっぱりいけない、なぜ紅葉と牡丹と菊で「よろし」にならないだろうと思いましたら、紙へ裏管《うらす》ができておりました……それからしまいに柳を描きました「柄《つか》《つか》に手を掛ければ元の柳かな」「幽霊の正体見たり枯尾花《かれおばな》」などといいまして、あるものかないものかわたくしにはわかりません。神経だといって無いものだという方もあるし、ナニ必ず有るものだという方もございます。シテみれば己の気で見るのでございますから有るとおっしゃる方には必ず有る、無いとおっしゃる方には必ず無い、どなたでもその方のおぼしめしにお任せ申すことにいたしましょう。
昔、二代目|柳枝《りゅうし》がまだ柳朝《りゅうちょう》と申しました時分の弟子に、春風亭|梅朝《ばいちょう》というものがございました、この者は八丁堀《はっちょうぼり》松屋橋の柳家《やなぎや》という待合い茶屋の息子で芸もなかなか良くできましたが、どうも身持ちが悪うございますので、そのおふくろが当人を当てにしないで、妹に頼っておりました、ところがこの界隈のお客様は旦那衆が多うございます。旦那衆というのは、昔の与力同心衆《よりきどうしんしゅう》でございます。
あるとき八丁堀|名代《なだい》の服部《はっとり》の旦那がおいでになりまして、お酒などを召し上がり、かれこれなすった後、
旦「おふくろや、ちょっと来な」
母「ハイ、なんぞご用でございますか」
旦「他のことじゃァねえが、おまえのせがれの梅朝がこの節どうも評判が悪い、ここにいるうちはこっちの手では見逃しておくようなものの、もし加役《かやく》のほうからでも用便《ようべん》になられると、我々の落ち度になるから当分のうち少し草鞋《わらじ》でもはかしたらよかろう」
母「ありがとう存じます」
と礼をいって、その時はすみましたが、サア馬鹿正直のおふくろでございますから、これは大変だ、盗人《ぬすっと》をするような者を息子に持って、このままでうっちゃっておいたら、しまいには親の首へ縄でもかけるか、それは自分の子であってみれば仕方がないが、もし妹にでも難儀《なんぎ》がかかってはならないから、不憫だけれどもいっそのこと殺してしまおうと、恐ろしい覚悟をいたしました。
しかし親として子を殺すというのは大変なことでございます。これは神様のおさしずを願うほうがよいと、日ごろ信心いたす不動《ふどう》様へ参りまして、殺してよろしいものなれば凶、もし助けてよろしいものなら吉をもってお告げを願いますと、一生懸命に拝んで、みくじをいただいてみますと、百番の大凶、覚悟をいたしておりましても、そこが親の欲、万一吉が出はせぬかと三度までいただき直してみたが不思議にも三度ながら百番の大凶、アアこれはもうしかたがない、いよいよ殺してしまおう、それならどうぞ今晩帰って来るようにと願《がん》を掛けましたが、これはもう、九分の一の願いでございます。なぜなれば梅朝だって自分の身の危ないということくらいは悪いことをする奴だけに百も二百も承知しておりますから、立ちまわっては危ない、おふくろのところへなんぞどうして帰ってはまいりません。帰らないのが九分九厘でございます。
ところがその晩ヒョックリ帰ってまいりましたのは、よくよく運の尽きでございましょう。母親はもう殺そうと覚悟を決めておるのでございますから、その晩はべつに小言も申しません。かえって酒などを飲まして機嫌を取って寝かしました。そのうちに妹も寝ましたから、母親は二人の眠るのを待ち、ふだん飲みもせぬ酒を手酌《てじゃく》で無理に飲んで、夜の更けるのを待っております。そのうちに世間がヒッソリとして、聞こゆるものは犬の遠吠えばかり、時分はよしと勝手元から持ってまいりました刺身庖丁、これでやるつもり、よく寝入っております息子の夜具《やぐ》の上へ馬乗りにまたがりまして、南無阿弥陀仏も口のうち、目をねぶり、夢中で咽喉《のど》のところヘズブリ、アッといって起き上がる。この物音に驚いて、妹が目を覚まし、
妹「アレー皆さん来てください、おっかさんが気が狂って兄さんを殺しました」
と怒鳴《どな》ったから、サア近所の人達がおもてをぶちこわして飛び込んで来る、大変な騒ぎ、そのうちにお役人がおいでになる、さっそく手当をして傷口を洗うと、よほど重傷《いたで》、母はただ泣いてばかりおりますのでわかりません。するとせがれが苦しさをこらえまして、
伜「私はなにを隠しましょう、じつはこれまでだんだん悪事を重ねまして、もう生きてはいられぬ身体《からだ》、いっそのこと死んでしまおうと、じつは今夜おふくろや妹に、よそながら別れの盃をいたしまして、二人の眠りますのを待って自害しようとしましたのを、このおふくろが見つけまして止めておりますところを、妹が、母が私を殺すとまちがえて騒ぎ立てましたので、決して母が私を殺そうとしたのではございません」
とこれだけのことを言うと、ガックリ息は絶えました、人の性《せい》は本善《ほんぜん》、死にぎわに親に難儀をかけまいと、かように申し立てましたから、おふくろは子殺しにならないで落着いたしました。
ところが不思議なことがあるもので、そのころ有名であった木原亭《きはらだな》の席主《せきしゅ》伊助《いすけ》さんが、夕方、木戸《きど》を張っておりますと、かの梅朝が裃《かみしも》を着てやって来て、
梅「親方、私も永々お世話様になりましたが、今度、仔細《しさい》あって遠いところへまいります。ずいぶんご機嫌よろしく」
というから、伊助さんが、
亭「オイオイ冗談じゃァねえぜ、突然にどこへ行くんだ、マア待ちねえ梅朝さん……」
ふと気が付くとこれなん南柯《なんか》の一夢《いちむ》、ちょうど、梅朝の殺された夜明けの夢でございました。
お話変わってこちらは師匠の柳朝《りゅうちょう》、同じ夜明けの夢に梅朝が羽織《はおり》を着てまいりまして、
梅「師匠永々ひとかたならぬお世話様になりましたが、私もよんどころないことがございまして、遠いところへまいります、なにぶん後に残りましたおふくろや妹をお願い申します」
といって表へ出て行きますから、
師「どういうわけで遠いところへ行くのだ、マァ待ちねえ」
と大きな声でいった。その己の声で目を覚ましました。ハテ妙な夢を見るものだと、そのまま起きてしまいましたがちょうどこれが夜明けでございます。ところへ松屋橋から梅朝がのどを突いて死にましたと知らせがありました。シテみるとこれが幽霊というものであろうという話。
しかしわたくしが考えまするのに、幽霊はたいてい夜中に出るものだと思いますのに、この幽霊は朝出ましたが、出たのが梅朝であり、出られたのが柳朝ですから、朝出たのかも知れません。これは実際のお話でありますが、これをもってみると幽霊は有るものだという論に帰します。
それはさておきまして、前申し上げた通りすべて物には陰陽がありますが、鳴り物の中にも陽気なものと、陰気なものとありますようで、三味線は陽気、木魚は陰気、太鼓はにぎやか、鐘は騒々しい、それも用い方によって、いろいろで陽気なものが陰気にもなれば、陰気なものが陽気にもなります、同じ木魚でも念仏堂《ねんぶつどう》へ行きまして、大勢でワァワァやっております時は陰気どころではございません、酔った方などは木魚につれて踊り出すことなどがあります。また三味線とても用い方によっては夜更けて爪弾《つめび》きかで、おつな文句の端唄《はうた》かなんか聞いてごろうじろ、思わずホロリと来て、あまり陽気なものじゃァございません。また鳴り物の中でも鐘というやつはずいぶんやかましいもので、どうも夜更けていくら一ツ鐘《ばん》や二ツ鐘で火事は遠いといっても寝付かれません。同じ鐘でも陰気ではありますが、やはり耳ざわりで寝られませんのが、夜更けて看経《かんぎょう》の鉦《かね》というやつ、カンカンという音が耳へ響きますと、なんだかうるさいもので、
八「アー、うるさいなァ、せっかくいい心持ちに寝ようと思うと、毎晩々々カンカン鉦《かね》をたたきやァがって、ちくしょうめ、なんだろうあいつらァ、長屋の者がみんな寝られやァしねえ、ツイこのあいだ越して来やァがったんだが、どこかの浪人者らしい、これから夜中に鉦をたたかねえように、オレがひとつ掛け合ってやろう」
と、起き上がって支度《したく》をして浪人者の家へやってまいりました。
八「ごめんねえ」
浪「これはこれはどなたでござるな」
八「わっちは長屋の八五郎《はちごろう》ってえもんで」
浪「ハハアお長屋の八五郎殿でござるか、見苦しゅうはござるが、まずまずこれへおあがりくださいまし、夜中《やちゅう》にわかのお越し、なんぞご用でもござるかな」
八「チェッ、いやに落ち着いて気取ってちゃァ困るじゃァございませんか、他じゃァねえが、毎晩々々おまえはんが、今頃になると、カンカンカンカン鉦をたたくんで騒々しくって長屋中の者がみんな寝られねえんだ、どうかそいつを止めてもれェてえんで、たってたたかなけりゃァならねえンなら、昼間たたいてくんねえな」
浪「イヤこれはまことに面目次第《めんぼくしだい》もないわけでござるが、わずかのことであるから今しばしご辛抱を願いたい、この香合《こうごう》の中にある名香《めいこう》を焚《た》き捨てるそのあいだ……」
八「なんだか知らねえが、たってやらなけりゃァならねえンなら、昼間やっておくんなせえ」
浪「イヤごもっともでこざるが、白昼にてはその効なく、また仏のためにもあいならず、今も申し上げる通り、今しばらくのあいだご辛抱を願いたい」
八「なんだかわからねえが一体そりゃァどういうわけなんで」
浪「サア、お話し申すも涙の種、なにをか包もう、それがしことは因州鳥取《いんしゅうとっとり》の藩、島田|重三郎《じゅうざぶろう》と申す者、仔細あって主家《しゅか》を浪々《ろうろう》いたし、この江戸表へはるばるまかり越し、仕官《しかん》を望むそのうちにふと朋友《ほうゆう》に誘われて、かの吉原三浦屋の高尾《たかお》のもとに遊興いたし、一度が二度、二度が三度と馴染みを重ね、いかなる過世《すごせ》のえにしやら互いに真《まこと》を明かし合い、末は夫婦と言い交わしてな……」
八「ウフッ、冗談じゃァねえぜ、黙って聞いてりゃァいい気になって、夜よなか真面目でおのろけは恐れ入るぜ、それからどうしたってんだい、なるたけお手やわらかに願いますぜ」
浪「末《すえ》の松山《まつやま》末かけて互いに心変わらじと拙者《せっしゃ》よりは貞宗《さだむね》の短刀、そのせつ高尾より拙者へ渡せしものはこの名香《めいこう》、すなわち魂《たましい》かえす反魂香《はんごんこう》、起請《きしょう》代わりとせしところ、その後、高尾は不憫にも拙者にみさお立つるため、仙台の太守《たいしゅ》綱宗《つなむね》公のお心に従わず、ついに高尾丸にてお手討ちになり、はかなき最後をとげしゆえ、拙者も哀れに思い、毎夜|回向《えこう》のその折に、この名香をひとつずつ火中に入れて焚《た》く時は、高尾の姿が現われて、過ぎし昔を語り合う、お耳ざわりは右のわけ、この反魂香もあとわずかゆえ、なにとぞ今しばらくごようしゃを……」
八「ヘエーそういうわけなんですかえ、そういうこととはちっとも知らなかった、そりゃァお気の毒さまだね、わっちもじつは恋女房に三年前に死なれてね、なにもこれが仲人があってもらったという仲じゃァねえんで、へへへへ、すまねえが一ツその香を焚いて見せておくんなせえ」
浪「イヤなぐさみごとには焚かれません」
八「そんな意地の悪いことを言わねえで、わっちだけに見せておくんなせえな」
浪「しからば一粒焚きましょう、決してご他言くださるな」
八「エエもう決してわっちは他へ行ってしゃべりゃァしません」
かの浪人は香合《こうごう》の中より一粒取り出して仏壇へ向かい、ちょっと回向をして焚きますと、不思議にも煙の中へもうろうとして高尾の姿が現われました。
浪「そちや女房の高尾じゃないか」
高「おまえは島田重三郎さん、取り交わせし反魂香、あまり焚いてくださんすな」
浪「もう焚くまいとは思えども、いまひと目そちに逢いたさに南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
八公《はちこう》驚いた、
八「オカカの感心、オビビのびっくり、驚いたねえ、どうも、もっともだ道理だ、たくさん鉦《かね》をたたいてお逢いなせえ、わっちもこれから薬を買って来て三年前になくなった嬶《かか》ァに会いますから、ごめんねえ、さようなら」
八五郎は夢中になって薬屋へまいりましたが、夜中のこと、戸が閉まっております。そんなことにはかまわずドンドンドン、
八「オイ開けてくんねえ」
ドンドンドン
八「オイちょっと開けてくんねえ、開けねえとぶちこわすぞ」
ドンドンドンドンドン
八「大変だ大変だ大急ぎだ」
ドンドンドン
主「オイオイ誰か店の者、お客様だ、開けてあげな、薬屋というのものは、どんな真夜中でも起きるもんだ、急病人でもできたんだろう、起きてあげな」
店の者は不承々々《ふしょうぶしょう》に起き上がって燈火《あかり》をつけ、くぐり戸をガラガラと開けるとたんに夢中になってたたいておりましたから、いきなり若い衆の頭をポカッ。
若「イタッ、痛ェじゃァごさいませんか、これは私の頭で」
八「アッそうか、おまえの頭か、オレァまた戸にしちゃァいやに柔らけえと思った」
若「ご冗談で、こんな柔らかい戸がありますか」
八「オレァまた戸が膿《う》んでるのかと思った、マァごめんよ」
いきなり上がってお尻をまくってドッカと座り込んで、
八「薬をくんねえ」
若「ヘエー、なんの薬で」
八「こうスーッと煙《けむ》の出るもんだい」
若「なんでげす、煙が出るてえなァ」
八「そのなんだ、おまえは島田重三郎さんてんだ」
若「ヘエーなんでげすそれは」
八「そちや女房の高尾じゃァないかと来るんで」
若「ヘエー、妙なお薬でげすな、なんて名前でげす」
八「名前はそのなんで、その取り交わせし……なんだっけなァ……エエ取り交わせし……忘れた」
若「アアあなた、お忘れなすったら、これにみんな薬の名前が書いてございますからご覧ください」
八「アアそうかい、エエとなんだ、実母散《じつぼさん》と、さんなんてえのが付くんじゃァねえ、なんでもこの薬ッてえのは」
若「ヘエ、それは目の薬で、上に目が書いてございます」
八「そうかその次はなんだ、清風湯妙振出《せいふうとうみょうふりだ》し……そんなものじゃァねえ、なんだいこの相撲こうやくてえのは、相撲の顔役かい」
若「イエそれは相撲膏《すもうこう》でございます」
八「エエ伊勢の浅間《あさま》の万金丹《まんきんたん》、越中富山《えっちゅうとやま》の反魂丹《はんごんたん》……待てよ、反魂丹と……エエ、取り交わせし反魂丹……アッそうだこいつこいつ、馬鹿にしてやがって、こンちくしょう……」
若「おわかりになりましたか」
八「ナニおわかりになりましたかって、べらぼうめェ、あるくせにごまかしやァがって」
若「ナニごまかしやァしません」
八「その反魂丹てえのをくんねえ」
若「ヘエ、おいくらばかり差しあげます」
八「一貫ばかりくんねえ」
若「ヘエかしこまりました」
主「だいぶ急いでいらっしゃるようで、途中でお落としになるといけませんから、大きな袋へ入れておあげ申しな」
若「ヘエかしこまりました……エエお待ちどおさまでございました」
八「オオどうもお世話さま、さようなら……ありがてえありがてえ、マァ久しぶりで死んだ女房に逢えるんだ、長家の浪人がいいことを教えてくれたな、こんなことをちっとも知らなかった、ありがてえな、なにしろかかァが馬鹿に惚れていやァがったからな、死ぬ時にそういったよ、わたしゃなにも心残りはないが、おまえさんが私が死んだ後で若い、いいかみさんを持つかと思うと、それが心配で死にきれないよッてえなことをいやがったッけ、ウフフフフ……」
ワンワン、ワンワンワン、
八「シッ、畜生々々」
家へ帰って来まして、火鉢の中の炭団《たどん》を掘りくり出して、二ツ三ツ炭をつぎながら、
八「アッそうだっけそうだっけ、浪人者の家じゃァ仏壇へあかりをつけていたっけ、一ツつけるかな」
仏壇へ灯明《とうみょう》をつけて、
八「これでよしよし、エエ仏壇の前へこの火鉢を持って行くと、こいつァ火がおこらねえや、炭が湿ッてるとみえるな、火鉢のひきだしに扇子《せんす》があったっけ」
火鉢のひきだしから扇子を取り出して、
八「おっそろしく破けていやァがるな、マアねえよりましだ」
バタバタバタ火をおこしながら、
八「ありがてえな三年前に別れたかかァに今夜逢えるんだ、オレがこうこの薬を焚いたら煙の中ヘスーッと出て、どんなことを言うだろうな、嬉しそうにオレの顔見て、ニコニコ笑やァがるだろう、オレはそうなると気取るね……そちや女房おうめじゃないかッてなことをオレがいうね、そうするとむこうでおまえはやもめの八五郎さんと来らァ、ありがてえな、ウフッ……だいぶ火がおこってきたな、なにしろ一ツ焚いてみよう」
火の中へあの買ってまいりました薬をほうり込んで扇子でせッせとあおぐが、煙ばかりでなにも出るわけはありません。
八「オヤッ、こいつァ変だぞ、初めてだから少しじゃァ利かねえかな、奮発《ふんぱつ》して半分ばかりぶち込め、第一|鉦《かね》をたたかねえからいけねえんだ」
半分ばかり火中へ入れ、仏壇から鉦を取り出して一生懸命カンカンカンカンたたきますが、やっぱり煙ばかりで何にも出ません。
八「エエじれってえ、面倒くせえからみんな入れちまえ、ついでに袋までくべろ」
袋ごとほうり込んでバタバタあおぎましたので家じゅう煙が一杯、けむいことおびただしい。
八「ゴホンゴホン、アア苦しい、たまらねえ、ゴホンゴホンゴホン、こうけむくっちゃァ出て来たってわかりゃァしねえ、ゴホンゴホン」
とたんに表の戸をトントントン。
女「八さん、八さん」
八「オヤおいでなすったよ、ウフッ、煙の中から出ねえでおもてから来やがった、ウフッ気取ってやがらァ」
立ち上がっておもての戸をガラリ、
八「そちや女房おうめじゃないか、オヤ誰もいねえじゃァねえか」
また裏口でトントン。
女「八さん、八さん」
八「あんちくしょう、おもてじゃァ目に立つってえんで今度は裏口へまわったな」
裏の戸をガラリと開けて、
八「そちや女房おうめじゃァないか」
女「イエわたしゃ隣のおたけだがね、さっきからきな臭いのはおまえの家じゃァないかい」
[解説]上方では高尾という。東京では三代目の小さんがやっていたし、三升家小勝も得意にしていたが、今はあまりやる人はない。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
化けろ化けろ 〔または〕茶釜の喧嘩
―――――――――――――――――――
噺家《はなしか》の暗号に、化けるという言葉がございます。これは意外の出来事という意味に通じておりまして、早い話が日曜日の朝から雨が降っていたのが夕方にはカラリと晴れると、その晩はどこの寄席もお客様がいっぱいおいでになる、すると今夜は化けたねえなどと連中が喜びます。楽屋で仲間が、俺はこんど金側の時計を買ったよなどと申しますと、そいつは化けたねえなんというような具合、すべて意外の出来事だという意味に用いております、きつねやたぬきが化けるばかりではございません。我々の日用品で素敵に化けるものがある。何だというとお酒でございます。平常《ふだん》静かなお方もお酒の上では乱暴なすったり、中には泥棒上戸《どろぼうじょうご》などといって、正直な方がお酒の加減で、チョイとした出来心を起こすのもあります。お酒のことを気狂い水、化け薬などとはうまいことを言ったもので、はなはだしいのになりますと着物もなにも泥だらけになり、犬の糞を枕にして往来へ寝ている方があります。とても正気ではできない芸で、手が付けられません。
「オウあねご、ようよう連れて来たがマア見てくんねえこの有様だ、カラもう死人《しびと》も同様になって往来へひッくり返ってるだろうじゃァねえか、俺はもう引きずるようにしてかついで来たんだぜ、早く寝かしてやんねえ」
「アラマァすみません、ほんとうに、うちのひとはなぜこう酔うとダラシがないんだろう、毎度皆さんのお世話にばかりなってサ、つくづくあいそが尽きちまうよ、さぞマアごやっかいでしたろうねえ、イーエうちのひとはね、これでもしらふの時はそりゃァほんとに人がちがうように優しくしてくれるんですよ、寒《かん》のうちなんぞ私が腰が冷えるもんですからね、この間も都腰巻《みやここしまき》を買ってきてくれましたり、それはそれはほんとに大事にしてくれるんですよ」
「オイオイあねご、ふざけちゃァいけねえぜ、さんざっぱら酔っぱらいの始末をさせられた上で、のろけを聞かされりゃァ世話はねえや」
「マァすみません、イーエそういうわけじゃァないんですがね、しかしマァいろいろご親切にありがとうございました、いずれお礼に出ますよ」
「ナーニお礼なんぞにゃァ及ばねえが、じゃァマァ早く寝かしてやんねえよ」
友達は帰って行く、そこは酒飲みの女房になろうというくらいな女ですから馴れたもので、サッサと床《とこ》を取って逆らわずに寝かしてしまい、翌朝になったらミッチリ油を搾ってやろうというので、脱がせた泥だらけの着物はわざと片付けません、ご当人の枕もとへれいれいとブラ下げておきます、朝になって眼を覚ましてみると昨夜のことはまるで夢のよう、顔を上げると眼の前に泥だらけの着物が掛けてある。さてはまた昨日酔ってしくじったなと思うと、いかに何でもあまり決まりがよかァありません。おまけに頭はビンビン胸はムカムカして、その心持ちの悪さ加減たらありません。顔でも洗おうと起き上がって流しへ出かけ、のどの奥へ指を突っ込んで黄色い水を三合も吐いたかと思うと、いくらか我に返ったような心持ちになる、アアこういう時に熱燗《あつかん》でキューッとやったら、胃の腑へとどこおった溜飲《りゅういん》もきれいに下がり、さぞサッパリしたいい気持ちになるだろうになァと思いながら、ヒョイと見ると、あいにくこの家の向こう側が魚屋でございます、まぐろの土手の生き生きとしたところが見えたからたまらない。
「ナアおッかあ」
「なんだよ」
「向こう側の家は魚屋だなァ」
「何を言ってるんだね、向こう側の魚屋は九年もいらァね」
「ダガヨウ、魚屋は九年いたって、まぐろの土手は九年も店にありゃァしめえ」
「あたりまえだァね、九年もたったまぐろが食べられるものかね」
「ソコだ」
「どこなんだよ」
「どうでえ物は相談だがなァおっかあ、いいとこを五合《ごんごう》ばかりに、刺身の中トロのところをここへ並べてみねえかい、俺がヨーイチャンチャンチャンと鳴り物もなにもいらずに片付けて見せるがなァ」
「マァあきれ返っちまうよ、どこを押しゃァそんな音《ね》が出るんだい」
「べらぼうめえ呼鈴《よびりん》じゃァあるめえし、どこを押さなくっても、自然天然とこんなことにならァな」
「第一おまえさん、そこへ掛けてある着物が目に入らないかえ」
「これか、まことによく見えて困っているんだがな、マアいいじゃァねえか、少しぐれえなァ、ちょっとまめを見せて取って来てくんねえか」
「いけないよ、おまえさんはもうきまってるんだから、一杯はじめると、あとひき上戸《じょうご》で、もう一合もう一合といつでもその日をお休みにしちまうんですもの、仕事が忙しくない時ならかまわないけれども、一人じゃァ手が廻りきれないほどつかえてるんじゃァないか、昨日もお店から小僧さんが使いに来て、たっておまえさんが来られなけりゃァせめて代わりでもいいから寄越してもらいたいとガミガミ言って来てるんだよ、その忙しい中で仕事もしないで毎日酔っぱらってばかりいたらどこがおもしろいんだねというと、何か私がおまえさんの好きな酒を無理に止めて、口を干すとでもお思いだろうが、後生《ごしょう》だからお酒は寝酒にしておくれ、ね今日はどうしても私の言うことを聞いてください、サァ今朝はご飯も炊いてあるし、おつけも出来てるから、早くご飯を食べて仕事に行っておいでなさい」
と、お膳立てをして出されたのが癪《しゃく》にさわった、もっともこれから酒を飲もうと思うところへ飯を出されたんだからたちまち感情を害すのはこれがお酒飲みの常だそうで、なにをいやァがるんだべらぼうめえ、俺の稼いだ銭で俺が飲むんだ、よけいな指図をしやァがるなと、ポンポンたんかを切ろうとしたが怒られません、というのは女房のいうことが理の当然で、どんな無茶苦茶な乱暴者でも理窟には勝たれません、サアいまいましいなにか女房に落ち度があったら、それを種に小言をいい、ドサクサまぎれに酒を飲もうという考え、ジロジロあたりを見廻しましたが、鉄瓶《てつびん》のふたもチャンとしてあればお膳の足も取れていない、何かないかとヒョイと顔を上げると、神棚のおみきどっくりが片ッぽうしかありません、しめたと思ったから急に大きな声を出しまして、
「オイおとらッ」
「なんだねえ大きな声をしてさ」
「神棚のおみきどっくりはどうしたんだ、エーオイ、二つそろっていればこそ一対というんだ、片ッぽうじゃァしようがねえじゃァねえか、片ッぽうはどうしたんだ」
「なにをいってるんだね、あれはおまえも知ってる通りこのあいだ鼠が暴れて落として、こわしたんじゃァないか」
「なにをなにをッ、コウ、コウ」
「からすみたいだね」
「他のものとちがって神様の品物だ、こんな稼業をしてるのに、おみきどっくりが片ッぽう欠けてるままなんてえなァ剛気《ごうぎ》と縁起が悪いや、なぜ鼠がこわしたらすぐにあとを買っておかねえんだ、なにかそそうをするたァ鼠のせいにばかりしやァがって、てめえぐれェ世の中に物持ちの悪いかかァはねえぜ、てめえのような女房を持つと六十年の不作と言いてェが一生の不作だ、たった今出てッてくれ」
「なにをいうんだい、おみきどっくりの一つや半分こわしたのがどうしたってんだい、なんぞというと大きな声を出して、おどかせば驚くと思ってやがらァ、でこすけめ」
「オンヤこんちくしょう、あるじに向かって、でこすけといったな」
「なんの、あるじづらがあるものか、馬のわらじめ」
「なにをッ」
というとなにしろ気が荒いからたまらない、いきなり女房の横ッ面をポカリ、
「オヤ殴ったね、サア殺せ……」
大立ち廻りが始まる、こんな長屋に住んでる人は災難で、
「オイかかァ、隣でまた喧嘩を始めたぜ、エエ知らねえふりもできめえ、ちょっと止めて来てやんなよ」
「いやだよ私は、隣の家の夫婦喧嘩を気にしていちゃァとてもこの長家に住んじゃァいられないよ、この間も始まったから、おまえさんはいないし、仕方がないから私が飛んで行くといきなり三ツ殴られたよ、痛いの痛くないのってまさか側づえだから苦情も言えずサ、わたしゃもうこりごりだよ」
「しかたがねえやな、夫婦喧嘩の仲裁は一つや二つ殴られるものと昔から相場がきまってるんだ、マア止めて来なよ」
「わたしゃまっぴらだ、それよりおまえさん行っておいでよ」
「おめえ行きなよ」
「おまえさんおいでよ」
「なんでそう言うことを聞かねえんだ」
「嫌なものは仕方がないやね」
「どうしても行かねえな」
「行かなきゃァどうするんだい」
「なんだと……」
ここへも喧嘩が伝染をしそうな工合、仕方がないからご亭主が熊さんのところへ仲裁に入りまして、
「マァマァ熊さんお待ちよ、手荒なことしなくったって話がわかるじゃァないか、マアお待ちというのに、おかみさんも黙っておいで、イエサ、そりゃァおまえさんに落ち度がないってえことは百も承知、二百も合点《がってん》だ、ハテマアお待ちよ、いくらかみさんに理窟があっても、女というものは割の悪いもので、しまいには自分からあやまるようなことになるものだから、余計なことをいって一つでも二つでもぶたれたりなにかしちゃァ損だ、マア熊さん手荒いことはおよしというのに、マァサマァサ、アッ痛い俺の頭だ……」
と、大さわぎ。家主も捨てておけないから、熊公を呼びにやった。
「どうしたい熊公は来ると言ったかいアアそうかい、なに来たって、サア熊さん、マアこちらへおあがり」
「ヘエ、ただいまお人で、エーさっそくあがりましたがなにかご用でげすかい」
「アア用というのはほかじゃァないが、お気の毒だが熊さん、たったいま店《たな》を明けておくれ」
「エッ、やぶから棒にこいつァ驚きやしたねえ、なんでまた私がたなを明けるんですえ、なにかお気に入らねえところでもございますんで」
「ございますどころじゃァない、お気に入らねえところだらけだ、第一この長屋は三十六軒あるが、熊さんおまえの家ぐらい不断《ふだん》に夫婦喧嘩をする家はないね、近所合壁《きんじょがっぺき》はどのくらいに迷惑だか知れないよ、あんまり激しいから先月私がチャンと数取りをしてみたら、小の月だが三十日の間におまえは六十五たび、やんなすったぜ」
「イエどうもご丹念なことで」
「ふざけちゃァいけない、それにこの長屋は地主に近いので、その度ごとにおまえさんのかみさんの金切り声がビンビン聞こえるんで、地主さんから、あの声は何だ何だと聞かれるから俺はどんなに弱るか知れねえ、仕方がないからいろいろなことを言ってごまかしているんだが、もう我慢ができない、長い短いはいわないからたった今たなを明けておくれ」
「どうもこれは困りましたねえ、今すぐ立てといわれたってわたしゃどうすることもできねえんですが、どうでしょう喧嘩さえやめりゃァいいんでしょうから一つ金毘羅様《こんぴらさま》へ夫婦喧嘩を三年ばかり絶ちますか」
「夫婦喧嘩を絶ちものにする奴があるかえ、そんなことではとてもダメだ、|三ツ児《みつご》の魂《たましい》百までで、チョロチョロ歩きをする子供が虫のせいで砂を噛んだりなにかする児があるが、どんなに親が折檻しても病いだから治らないと同じことで、いくらおまえがやめようと思ったって、性分《しょうぶん》だから直らないのだからこうしな、たって店《たな》を借りていたけりゃァ、かみさんを離別してひとりものになんなさい」
「アッなるほど、これはいいや、昔からひとりものが夫婦喧嘩をしたためしはないからねえ、第一お酒を飲んでも小言のいいてがないや、こいつはうまいことを考えやァがったな、おおや」
「なんだい、おおやとは」
「ウフッ……さん……」
「なんだ今じぶん」
「どうもありがとうがす、じゃァさっそく、わしゃ心を改めて、かかァをたたき出して来やす、さようなら……」
「アッ帰っちまった、気の早い奴があるものだなァ、しかし婆さん、あの男はアアいって帰ったがな、いくら出て行けと言ったって、ハイさようですかとあのかみさんが素直に出て行く気遣いはないよ、どうしてあのかみさんときた日にゃァ凄《すご》いくらい落ち着いた女だからねえ、なにしろ熊公よりは年も五ツか六ツ上だそうだし、廓《くるわ》に勤めをしていた時分は京町《きょうまち》に三年、江戸町《えどちょう》に三年、角町《すみちょう》に三年いて揚屋町《あげやちょう》に三年ポンと出ると小塚原《こづかっぱら》に三年、品川の三年、板橋に三年いて新宿に三年、赤坂の桐畑《きりばたけ》に三年、根津《ねづ》に三年いたという、海に千年、山に千年、まるで山伏の法螺の貝みたいな代物だから強いやね、それに縁《えん》は異《い》なもので、あの仲人というのが横町の漢学の先生、イヤやかましいのやかましくないのって、婆さんおまえも知ってるだろう、世間で雷《かみなり》師匠というくらいな理窟屋だ、子供が弁当のおかずに卵焼を持って行くと贅沢だというので取り上げて代わりに沢庵のおこうこを食べさせたとかいう評判だ。熊公が家へ帰って出て行けといっても女房が承知しないよ、れっきとした仲人があるんだからってんで熊公をあの雷師匠のもとへ向ける、やっこさん目の玉の飛び出るほどやっつけられるに決まってらァ、こりゃァおもしろくなって来たぜ……」
熊公家へ帰って来て、
「サアなんでもかまわねえ、すぐと出て行ってくれ」
「なんの落ち度があって出されるんだえ」
「べらぼうめえ、てめえのような、かかァがあっちゃァ長屋を貸せねえッてんで家主からたな立てを食ってるんだ、なんといっても出て行ってくれ」
「フン馬鹿も休み休みお言いよ、女房のない者にはたなを貸せないという家主さんはあるか知れないが、女房を出さなけりゃァたなは貸せないなんというわからず家主は日本中どこを探したってありゃァしないよ」
「なにをいやァがるんだ日本中探し廻らなくったって俺が現在いわれてきたんだ、サアすぐに引き取ってくんねえ」
「冗談いっちゃァいけないよ、出すなら出すようにしておくれ、はばかりながら私がここの家へ来たにはね、れっきとした仲人があるんだよ、チャンとその仲人のほうから話をつけておくれ」
「ナニ、仲人、ウーム」
「ソレごらんな、行かれやァしまい」
「なんのクソ、行かれねえことがあるもんか」
とポンポンいって熊さん出掛けてまいりましたのが漢学先生の家。
師医「サア源四郎《げんしろう》や、与太郎、金十郎、私がこのあいだ教えた詩を吟《ぎん》じてごらん、よく覚えてくれないと私が困る、教えたものをおまえがたが覚えないと、つまり一旦売った品物をおまえがたが私に返したことになる、といって月謝は返すわけにはいかないんだからね、サア吟じてごらん」
「月|東山《とうざん》のふもとにいで、斗牛《とぎゅう》立って徘徊す、白浪江《はくろうこう》に横たわり、水湖《すいこ》天に交わる……」
「ごめんねえ」
「ハイおいで、イヤ誰かと思ったら熊さんかえ、こっちへお通り」
「モーさっそくですが誰か火傷《やけど》をしましたかえ」
「なぜ」
「だって大きな声でおまじないを怒鳴ってましたもの」
「なんだ、これは火傷のおまじないではない、いま子供達が詩を吟じたのだ」
「ナニ火を吟じた、やっぱり熱いほうへ近いと思った」
「つまらぬことを言いなさるな、さてなにかご用かえ」
「エー他でもねえんですが、さっそくかかァを引き取ってくんねえ」
「ハテね、何かあれに落ち度でもありましたかな」
「エー、そりゃァもうあったんで」
「ハハアどんなことだな」
「おみきどっくりを片ッぽうこわしたんで」
「馬鹿、何かと思ったらまたお株だ、全体おまえはいくつになんなさる、かりそめにも夫婦が別れるの離れるということは一大事だ、それを愚《ぐ》にも付かぬことでオイソレと出来るかえ、第一仲人たる私がきさまの家へ出かけて行って、おみきどっくりをおまえが片ッぽうこわしたによって熊五郎殿がたいそうご立腹ゆえ引き取りにまいったなどと、そんな馬鹿なことがあれに言えるか、あきれ返って物もいわれない、察するところなんだな、またおまえ飲みなすったな」
「イーエ……」
「ナニ、イーエのことがあるものか、確かに飲んだにちがいない、またいつもの通り泥のようになって、往来へでも倒れていたのを友達のやっかいになり、家へ担ぎ込まれてさんざん女房に世話をやかせ、自分はグウグウ寝てしまう、今朝になって眼が覚めると、頭はビンビン胸はムカムカ、心持ちが悪いから顔でも洗おうと、流しで黄色い水の三合も吐いたろう、アアこういう時は熱燗で一杯やったら、胃の腑へ滞った溜飲が下がり、さぞよい心持ちになるだろうとヒョイと見ると、アアあいにくきさまの家の向こう側が魚屋だな、まぐろの土手か何かを見て、女房に謎を掛けて、酒の五合に刺身の二貫も取って来てくれと頼んだが、あれが利巧者だからなかなか聞かない、おまえさんは酒を始めるとあとひき上戸でもう一合もう一合と、その日をお休みにしてしまう、ひまな時なら仕方がねえが、一人じゃァ手の廻りきれないほど忙しいうちを酒びたしになっていられちゃ困るというと、なにか好きな酒を無理にやめて亭主の口を干すようだが、後生だから飲むなら寝酒にしておくれ、サア今朝はご飯も炊いてあるし味噌汁もできてるから、ご飯を食べて仕事に行っておくれとお膳立てをして出されたのがきさま癪にさわったな、なにを言うんだ、自分の稼いだ銭で自分が酒を飲むのによけいな指図をするなと、いばれない、というのはあれの言うことが理の当然、いくらきさまが無茶苦茶でも理窟には勝たれない、サアいまいましくってたまらない、なにか落ち度があったらそれを種に小言をいい、ドサクサ紛れに酒を飲もうと、あたりを見廻したがあれのことだ何の落ち度もないわ、鉄瓶のふたはチャンとしてあるし、お膳の足も取れていない、ふと見ると、アッ、その時にきさまはおみきどっくりの片ッぽうしかないのを見つけたな、きさま内心しめたと思って急に大声を発してサアこの片ッぽうはどうしたという、あれもぬからず鼠が落としたのだと答えると、なんでもそそうをしては鼠のせいにばかりする、てめえのような物持ちの悪い女を女房にしておくと六十年と言いたいが一生の不作だ、出て行けとかなんとか言ったのが始まりでまた例の夫婦喧嘩を始め近所隣りのやっかいになったあげく、家主へ呼び付けられ、そうのべつ
に喧嘩ばかりしてる奴はたなを立ち退いてくれとおどかされ、面倒くさいから女房を離別してしまおうと、それできさま私の家へ出かけて来たんだな」
「アッ、これは驚いた、先生立ち聞きをしたね」
「誰が立ち聞きをする奴があるものか、そのくらいのことは見ていないでも、きさまの顔色でチャンと読める」
「アッさすが手習い師匠だけあって読む方はうめえや」
「ふざけるな、第一きさまなどは化けることを知らないからいけない、ちと化けろ化けろ」
「エッ化けろったって、人間が化けられますかえ」
「人間だって化けられないことはない、きさまなどは二合か三合の酒を飲むと、一升も二升も飲んだようになって方々を暴れて歩くそれだからいけない、まず一升飲んだ酒なら五合、五合飲んだ酒なら三合しか飲まないふりをして、二合も飲んだ時は口をぬぐってまるで飲まないような顔をしてみろ、家へ帰るとチャンと女房が酒をつけてお膳立てをして待っているようになる、これを人間の化けるというのだ、人間でさえこのくらい化けられるのだ、きつねやたぬきの化けるのは当然の話、昔、金毛九尾白面《きんもうきゅうびはくめん》のきつねは唐土《もろこし》に渡って姐妃《だっき》となり、殷《いん》の紂王《ちゅうおう》をたぶらかし、天竺に渡っては華陽夫人《かようふじん》となって班足太子《はんぞくたいし》をたぶらかし、我が朝《ちょう》においては玉藻前《たまものまえ》と化けて、かしこくも貴き方々を悩ましたてまつる、すでに人皇《にんのう》九十五代後醍醐天皇|御歳《おんとし》お七つのみぎり、萩のご見物においでになると、茨木童子《いばらぎどうじ》来たって明日《みょうにち》雨なりと申し上げた、帝《みかど》この時、行雁《ゆくかりがね》は風をいとい野雁《のがり》は雨をうれうとおっしゃって、笏《しゃく》を上げてお打ちになると、君のご威勢に恐れ、大なる野干《やかん》と化《か》して飛んだという」
「オヤ、危ねえ、誰も火傷をしませんかえ」
「よく火傷を気にするな、なんでそんなことをいう」
「だってヤカンが飛んだというからさ」
「そのヤカンではない、きつねのことだ」
「むじなのことは鉄瓶《てつびん》か」
「そんなことはない、なんでもいいから化けることを忘れなさるなよ」
「おやかましゅうございさようなら……なんだつまらねえ、聞きもしねえことまでしゃべりやァがって、なんてえやかましい仲人だろう頭からおどかしやァがらァ、ヘンこの頃のはやりものじゃァねえが、少し人権蹂躙《じんけんじゅうりん》の形《かた》があるよ、検事局へ訴えて仲人を取り替えてしまおう、おもしろくもねえ……」
熊公ブツブツ言いながら帰ってくると、友達の家で夫婦喧嘩をしている。
「なんだと、一人や二人の子供がどれほど足手まといになるんだい、台所へ行ってみろ、食ったお膳は出しっぱなしよ、茶釜なんざァ錆だらけだ、無精《ぶしょう》にするのもいい加減にしろ」
「オヤオヤオヤ、誰だかポンポン怒鳴ってるかと思ッたら、ここは久坊《きゅうぼう》の家だぜ、ウフッ夫婦喧嘩をしていやァがらァ、世の中に夫婦喧嘩の好きなのは俺ばかりだと思ったら、久坊もこのようすじゃァ嫌いじゃァねえらしい、たのもしい奴があるもんだな、しかしここの女房はいくらやかましく言ったって、かあいそうに子持ちだからなァ、おまけに臨月だとみえて大きな腹を抱えてるんだもの、たいてい大儀《たいぎ》だから無精にもなるだろう、あんなものを相手にして喧嘩をしたって仕方がねえじゃァねえか、それにここの女房もまた強情だからな、アアだんだん激しくなってきた、長屋から誰か止めに出そうなもんだがな、この長屋は薄清だね……イヤ待てよ、俺は今まで仲裁をされたことは何遍もあるが、仲裁をしたことは一ぺんもないよ、今日は一番、止めてみようかしら、第一久坊の野郎、ヤカンの由来を知らねえにちげえねえ、これは一ツよく言って聞かしてあいつを驚かしてやろう、オッと兄弟、待ちな、マア待ちなったら待ちなよ、手荒なことをしねえったって話はわからァな、マアおかみさんも黙っておいで、おまえに落ち度がねえことは百も承知二百も合点、三百は褌《ふんどし》に包んで持ってるくらいの始末だ、しかし女は割の悪いもんで、しまいにはいくら理屈があっても自分からあやまるようなことになる、余計なことを言って頭の一つや二つたたかれてもつまらねえ、マアサ俺にまかして機嫌を直してくんねえ、サア久坊、今度はてめえへ掛け合いだ、なんといっても、てめえが悪いや」
「なんでえ藪から棒に、なんで俺が悪いんだ」
「なんといってもよくねえ、ウン確かによくねえ、第一てめえまた飲んだな」
「オイなにをいうんだ、俺は性来|下戸《げこ》だから酒なんざァ飲んだことはねえ」
「イーヤなんでも飲んだにちげえねえ、泥のように酔って往来へ寝たろう、友達のやっかいになって家へ担ぎ込まれ、さんざっぱら女房に世話をやかせ、今朝になって目が覚めると、頭がビンビン胸がムカムカ、顔を洗おうと流しで黄色い水の三合も吐き、アア熱燗で一杯やったら、胃の腑へ滞った溜飲も下がり、さぞよい心持ちになるだろうと、ヒョイと見ると向こう側が魚屋じゃァねえ……八百屋だな、どじなところへ住んでいやァがるなァ、南瓜かなにかを見ちまやァがったな、酒を五ンつくに南瓜の五つか六つも買って来いと、女房に言い付けたが聞かねえや、おまえさんはお酒を始めると、あとひき上戸で、もう一合もう一合とその日はお休みになってしまう、ひまな時なら仕方がないが、一人じゃァ手の廻りきれないほど忙しいうちに、酒浸しになっていられちゃァ困るから、というと亭主の好きな酒を無理に止めて、口を干すとお思いだろうが、後生だから寝酒にしておくれ、今朝はご飯も炊いてあるし味噌汁もできてるから、ご飯を食べて仕事に行っておくれ、とお膳立てをして出されたのがてめえ癪にさわったな、なにをいやァがるんでェ俺の稼いだ銭で俺が酒を飲むんだ、よけいな指図をするなと威張ろうと思ったがいけねえや、女房のいうことが理の当然、いくらてめえが無茶苦茶でも理窟には勝たれねえ、サアいまいましくてたまらねえ、なにか女房に落ち度があったら、それを種に小言を言い、ドサクサ紛れに酒を飲もうと、見廻したがなんにもねえ、鉄瓶のふたもまっすぐにしてあればお膳の足も取れてない、ヒョイと見るとおみきどっくりが片ッぽうしかない、しめたとてめえ内心喜んだろう、たちまち大きな声を出して、サア片ッぽうはどうしたという、女房があれは鼠がこわしたというと、なんでもそそうをしては鼠のせいにばかりしやァがる、てめえのような物持ちの悪いかかァは、六十年の不作と言いたいが一生の不作だ、たった今出て行けとかなんとか言ったのが始まりで。例の夫帰喧嘩を始め、近所隣りのやっかいに……これからなろうというところだろう、あきれ返って物が言えねえ、第一てめえなんざァ化けることを知らねえからダメだ、何でもいいから化けろ化けろ、こういうと人間が化けられるものかと言うだろうが、てめえなんぞは二合か三合の酒を飲むと、一升も二升も飲んだようになって、暴れて歩くからしくじるんだ、一升飲んだ時は五合しか飲まねえふりをすれば、女房が膳立てをして待ってらァ、これを人間の化けるという、人間でせえ化けるん
だもの、きつねやたぬきの化けるのはあたりまえだ、エー久坊、久坊、ナニサてめえを呼んだンじゃァねえや、エートそうそう久坊、胡瓜百文《きゅうりひゃくもん》のきつねはとうもろこしを食って脱肛《だっこう》になった……」
「きたねえな」
「エエ黙ってろい、天竺に渡って通う千鳥《ちどり》恋の辻占《つじうら》……じゃァなかった……そうそう華陽夫人が団子とたにしを食べたとよ、我が朝《ちょう》では玉ころがしが恐ろしくはやって、番町の金兵衛が一点に四《し》を買ってパンを食った、人形が九十六銭で、てんのうさまが七ツ並んでお萩を召し上がったところへ、エーせえたかどうじ、じゃァなかった、こんがらどうじでもなかった、アそうそう、いばらぎどうじが出て来て明日は雨だというと、ひしゃくを振りまわしたんでヤカンが飛んだ、危ねえと思ったが誰も火傷をしたものはねえや、もっともヤカンはきつねだが、むじなのことは鉄瓶とはいわねえ、おまえのところはヤカンか鉄瓶かおみきどっくりか、何の喧嘩だ、何でもかまわねえから威勢よく化けてくんねえ」
「よくベラベラのべつにしゃべるな、ナーニいくら研《みが》け研けと言ってもかかァが無精で錆だらけにしておきゃァがるから小言をいったのが始まりなんだ、俺のところは茶釜の喧嘩よ」
「アそれじゃァおまえのところのかみさんは、たぬきの化けたのだろう」
[解説]前にきつねはヤカンという伏線があるので、茶釜とたぬきとを洒落たまで、即ち仕込み落ちであるが、同型のものに「天災」がある。盲の小さんが巧かった。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
おすわどん
―――――――――――――――――――
怖い怖いと思うと棕櫚箒《しゅろぼうき》も幽霊に見えるという比喩《たとえ》の通り、何でも物は思いようによってその通り見えたり聞こえたりする、つまり神経でございます、あるお商人の旦那様が、妾《めかけ》をお囲いなすって、そこへばかり行っていらっしゃって、お家へお帰りがない、ご家内のおあきさんというのが至って柔和《おとなし》い方ゆえ、どうも旦那様がこう家を明けてばかりいらっしてはお店のためにならないからいっそのこと、そのお妾を家へ入れておもらい申したほうがよかろうと考え、ある日のこと、旦那に話をすると、
旦「イヤおまえそんなことを誰から聞いたえ」
あき「誰からといって、あなたが小僧や権助《ごんすけ》をお供にお連れなさいますから、自然私の耳へ入って承知しております、たしかその方のお名前はおすわさんとおっしゃいますね」
旦「ウム、名前まで知ってられちゃァ仕方がない、おまえのいう通り家へ入れてもいいが、しかしおまえ嫉妬《やきもち》はやくまいね」
あき「わたくしはそんなことはいたしません、わたくしから申し上げるくらいですから」
旦「そんならば」
と、ソコでお妾のおすわを家へ入れると、その日からおかみさんは別間へ起臥《おきふし》をして、旦那はおすわにまかせッきり、憎いとも思わずおすわを妹のように面倒をみておやんなさる、ところがおすわという女が了簡ちがいで、好《よ》くされればされるほど、これを喜びません。
すわ「旦那え」
旦「なんだ」
すわ「わたしはどうか元の通り別にしておもらい申しとうございます」
旦「ナゼ」
すわ「わたしにはどうもお宅は居づらくッてなりません」
旦「居づらいたッて、宅じゃァちっともやかましいことはいわず、まるでおまえを姉妹同様に思って世話をしているのに、なにもつらいことはないはずじゃァないか」
すわ「あなたは男のことで、そんなことはご存知ありますまいが、わたしはもう針のむしろにすわっているような心持ちで、マアちょっとしたことが、いつの間にかわたしの汚れた湯巻《ゆもじ》をお湯殿へ持って行って、ご自分で洗って干してお置きなさるようなことをなさいます、わたしは誰か女中でもしたのかと思って聞きましたら、おかみさんがお洗いなさったんだって、ほんとうにつらいじゃァございませんか、わたしに恥をかかせるようにわざとそういうことをなさいます、わたしはどんな思いをしてもようございますから、元のように別に家を持たせてくださいまし」
旦那もその気になって、
旦「なるほど大きにそうだ、おまえもせっかくこうやって家へ来たんだから、そんなことをしやがればあいつを出しておまえを家へ置くから心配するな」
すわ「そんなことをいったって、あなたがおかみさんを出せるものですか」
旦「ナーニ出してみせる」
すわ「ほんとうですか、旦那、その口を忘れてはイヤですよ」
旦「ほんとうにもなんにもとんでもねえ奴だ、人の褌《ふんどし》なんぞ洗やがって……」
と、旦那はもう、スッカリおすわに巻き込まれてしまった。するとちょうど夷講《えびすこう》でお客が六七人ありまして、おかみさんは台所で女中と一緒にたすきを掛けて働いておりましたが、おすわのほうは二階で旦那のそばに坐っている、やがてお酒がたけなわになった時分、おかみさんがお肴《さかな》を持って二階へあがってきて、
あき「どうも皆さんおかまい申しませんで……」
甲「オヤオヤおかみさん、どうぞこちらへ、ご挨拶もいたしませんで、今日はまことにどうもご馳走さまになりまして……」
乙「おかみさんどうも今日はありがとう存じます、おかみさんがご自分でなすってくださるお料理で別段おいしゅうございます、サア一つ申し上げましょう」
あき「ありがとう存じますが、わたくしは無調法《ぶちょうほう》でございますから」
乙「マアそうおっしゃらずに一つ」
あき「せっかくでございますが、いただけませんから」
旦「コレ飲めねえからッて、なぜお盃《さかずき》だけも受けねえのだ、お盃をいただきねえ」
あき「ありがとうございます、それではお盃だけ……」
すわ「サア私がお酌《しゃく》をいたしましょう」
あき「おすわさんはお酌をしてはいけません」
すわ「ダッテ今日はおめでたいんだから一つお飲《あが》んなさいよ」
あき「……アレマアそんないっぱい、わたくしにはいただけませんから」
旦「いただけねえったって、いつまでもそこへついでおいちゃァいかねえ、この酒は毒じゃァねえ、一杯ぐらいどんな者だって飲めねえことはねえ、サッサと飲んでご返盃《へんぱい》をしねえか」
おかみさんも仕方がないからグイと飲んで、
あき「ありがとう存じます、ご返盃を……」
すわ「マアお見事でございます、わたしが一つ差し上げましょう」
あき「どうぞおすわさん堪忍してください」
すわ「そんなことおしゃらないで、あまりお見事でございますから、わたしが一つ差し上げましょう」
あき「どうぞ堪忍してください、まったくいただけないのですから」
旦「エーあっちへ行け行け、なんだそんな扮装《なり》をして、たすきを前へはさんで、てめえの気ではおすわがこうやって着物を着換えてここへ出ているので、面《つら》あてにわざと台所でたすきがけで働いてるんだろう、そんな扮装をして皆さんの前へ出られると、かえってオレが赤面をする、汚らしい面ァしやがって、あっちへ行け行け」
横面をピシリ張った。居合わす客も体裁悪く、とりなすことも出来兼ねて、座敷が白けわたってしまう、おかみさんは涙をのんで下へ降りてくると、
あき「アノきよや、さんや、どうか台所を少したのみますよ、そうしておまえたちの部屋をちょっと貸しておくれ」
きよ「おかみさん、どうかなさいましたか、大変にお顔色が悪いじゃァございませんか」
あき「なんだかキリキリ差し込んできたから……」
きよ「あんまりお働きなさったからでございますよ、少しお落ち着きなすったらようございましょう、アノおさんさん少し押しておあげな」
さん「わたしは力がないから権助さんにたのみましょう」
あき「ア、それじゃァちっと権助に押してもらっておくれ、おまえたちはかまわずに台所のほうをしておくれ」
きよ「ハイようございます、アノ権助さん、おかみさんが大変にお癪《しゃく》が起こって苦しんでおいでなさるから、おまえさんの力で押してあげておくんなさいな」
権「アーそうか、わしが押してあげべえ……、おかみさんしっかりなせえまし、ここかね……」
あき「アアありがとう、もう少し上のほうを」
権「ここでこぜえますか」
あき「アッ、アー……」
そり返るから権助が一生懸命、
権「ウーム、どうだね、ここかここか」
癪を押しているところへ、旦那が二階から降りてきて
旦「おあき、どこへ行ったおあき、台所にいねえじゃァねえか」
きよ「アノおかみさんは今お心持ちが悪いとおっしゃって、わたしどもの部屋へ……」
旦「ナニ女部屋に……、アッこれはおどろいた、オイおすわおすわ、ちょっと来てみろ、こういう奴だ、あきれ返るじゃァねえか、今はまだ、お客があるから我慢しているが、後《のち》にみろ両人《ふたり》ともどんな目に合わせるか知れねえぞ」
権「アレマア旦那様とんでもねえことをいいなさる、おかみさんがこの通り癪に閉じられて苦しんでいなさるから、押してあげてるだ、そこへ来て、ようすを見ながら薬をあげようともしねえで、権助とふざけてるとは何でがす、おきよどんにでも、おさんどんにでも聞けばわかるだ」
旦「なにをぬかしやァがるんだ、言い訳なんぞ聞くにやァ及ばねえ、なんでもかまわねえ、二人ともたたき出すからそう思え」
権「たたき出すたッて、そでもねえことに濡れ衣を着せられて出るわけにはいかねえ、第一おかみさんがお可哀相《かわいそう》だ、こんな権助と悪戯《いたずら》するような方であるかねえか、考《かんげ》えてみてもわかりそうなもんだ」
旦「エーやかましい、盗人《ぬすっと》猛々《たけだけ》しいとは汝《うぬ》がことだ、なんと言い訳をしようとこっちは現場を見たんだ」
すわ「ほんとうにマアあきれましたねえ、おかみさんも何だってそんなことをなすったんで……」
さすがのおあきさんもくやしいと思うからいっそう差し込んできて、口が利けません、ようよう胸を押さえて、
あき「モシおすわさん、わたくしはこの通り癪が起こって苦しんで……、どうぞ旦那へ言い訳をしてください、権助に押してもらったのが悪かったので」
すわ「そりゃァおかみさん、わたしだッて言い訳ができませんよ、男女七歳にして何とやらいうことがあるじゃァざいませんか、わたしは人の妾こそしておりますけれども、そんなことは大嫌い、わたしァ旦那一人を大切に守ってるんで、ほかに権助さんなんぞないんですよ……、アレお放しなさいよ、袖が切れます、旦那来てください、怖い顔をしておかみさんがわたしをにらんで取り殺すッてえます」
あき「おすわさん、これほどたのんでも、とりなしてくださらないか、エーッ恨めしいおすわさんだ」
すわ「アレ、いやですね恨めしいって、アンナ顔をして旦那放してくださいよ」
旦「エエ放さねえか」
と、ドーンと向こうへ蹴飛ばしたまま、おすわの手を取って旦那は二階へあがり、
旦「サア飲み直せ飲み直せ」
お客もようすがおかしいから一人帰り二人帰り、とうとうみんな帰ってしまう、主人はおすわを対手《あいて》にしきりに酒を飲んでいる、下では権助が腕を組んで、権「アア、とんだことをした、俺がおかみさんの癪を押したばっかりに悪名を付けられて、おかみさんにすまねえ」
おあきはもう癪の苦痛も忘れて、
あき「権助やおまえにも気の毒だった、私はもう癪が治まったから、あっちへ行って台所のほうを見ておくれ」
権「ようごぜえますか、じゃァごめんなすってくだせえ、明日またゆっくりと申し訳をいたします」
あき「わたくしこそおまえに迷惑をかけてすまない、どうぞ勘忍しておくれ」
と、両方で詫び入って、権助は台所へ行ってしまう、おあきはもう涙も出ません、エー恨めしいのはアノおすわ、よくも人に恥をかかせたな、いっそのことにと、人目を忍んでプイと飛び出し、どこへ行ったかわかりません、台所の者が気がついて、ソレおかみさんが居なくなったと大騒ぎを始めたが、旦那もおすわも平気なもの、
旦「いい塩梅《あんばい》だ、どこかへ出て行きやァがったんだろう、もう帰ってきたッて入れるものか」
と、奉公人がさがしに出ようというのを留めて寝てしまった。夜が明けて奉公人が水をくみに行くと、井戸へキラが浮いているというので大騒ぎになり、水をくみ出してみると、おあきの死骸が上がった。アアおかみさんは昨夜のことで身を投げてお死になすったか、お気の毒様のことをしたと、奉公人たちは涙をこぼしているが、旦那とおすわは驚きもしない、結局喜ぶくらい、まことに粗末な葬式を出してしまい、権助ももうこんな家に居るのはいやだと暇を取る、おすわはもう邪魔者が片付いていい塩梅だと思ったが、アノ晩に着物の裾をつかまえて、おすわさん、旦那に言い訳をしてくれないって怨めしいといった、アノ時の顔が目の前へチラつく、ただそれだけが忌《いや》な心持ちだと思いながら、寝ようとすると、おもてでバタバタバタ、おすわどーんと、二声三声、しわがれた声で呼ぶようす、たいがいの女ならキャッとでもいうのでありますが、ずうずうしいおすわのことでありますから、それほどの騒ぎもしないが、布団をかぶって寝てしまいました。
またあくる晩、昨夜の刻限なると、バタバタ、おすわどーんと二声三声聞こえる。サア怖くってたまらない、旦那にコレコレと話したから、旦那も耳をそばだてて聞いてみると、なるほど、おもてのほうでおすわど−ん……としゃがれた声で呼んでいる。
旦「マア仕方がない、我慢をして寝てしまうがいい、けれども幽霊というものは戸のすき間から入って来るかも知れない」
すわ「旦那そんなことを言ってはイヤでございます」
と、すがりつく、サアそれから毎晩のように同じ刻限になると、バタバタバタおすわどーんという声を聞いて、果てはこれを気病みに及んで、さすがに良心がとがめるから、アアわたしが殺したようなものだと、腹の中で思うので、なおさらそれが気になってなりません、ブラブラ患《わずら》いついて、毎晩九ツ時分になると、おかみさんが来て怖い怖いとブルブルふるえて騒ぐ、店の者へ言い付けても誰あって外へ出て見る者などはございません。仕方がないので、町内の剣術の先生にその話をすると、
先「よろしい、今晩私が行って正体を見届けよう」
と、その晩宵のうちから剣術の先生がやって来て、店の者から台所の者残らず寝かして、先生ただ一人刀を脇に引き付けて店で酒を飲んでいる。かれこれ九ツという時分になると、なんとなく眠気が差してまいりました、盃を下へ置いてウツラウツラしていると、バタバタ、おすわどーん……おすわどーん……という声が耳に入ったから、さては出たな、ここで正体を見届けなければ、たのまれた役目が立たんと刀の目釘《めくぎ》を湿《しめら》して、なおも耳を立てようすをうかがっていると、おすわどーんというしゃがれた声、突如《いきなり》ガラリ戸を明けて外へ飛び出して見ると、なにか荷を下ろしている者がある。
先「コレッ」
○「ヘエ、お蕎麦《そば》をあげますか」
先「ナニ」
○「お蕎麦をあげますか」
先「蕎麦なんぞ食うのではない、きさまか毎晩この家の前へ来て、当家の家内の名を呼ぶのは」
○「イーエ私は人様の名前なんぞ呼びやァいたしません」
先「ウーム、もういっぺん言ってみろ」
○「ヘエ、私はソノ、おそばうどんと申します」
先「ナニおそばうどーん、おもての戸をバタバタたたくのは何だ」
○「そんなことをした覚えはございません、この団扇《うちわ》でバタバタこの通り火を熾《おこ》しますが」
先「なるほど、戸をたたくのではないのか」
○「ヘエ」
先「いつ頃からここへ来る」
○「ヘエもうとうからお宅の前へまいります、ちょうどここが曲がり角でございまして、人通りもありますのでだいたい今頃になるとまいってはお邪魔をいたします、お断わり申すのが本来でございますが、もう九ツ過ぎお店の閉まってお寝《やす》みのところをわざわざお起こし申して申し上げるのもかえってご迷惑と存じましてお声を掛けておりません」
先「ウムそうか、じつは当家におすわという婦人がある、ところへ毎晩今頃になると、バタバタ戸をたたいて、おすわどーんおすわどーんと申すというので、拙者《せっしゃ》が今夜たのまれて正体を見届けにまいって、すんでのことにきさまをまっ二ツにしてしまうところであった」
○「冗談いっちゃァいけません、それはお気のせいでございます、私は当家のおかみさんをおすわさんとおっしゃるかなんだか知りません」
先「なるほどそれは知るまいな、しかしどうもきさまが毎晩これへ寄って、さようなことを申したために病人が出来、まことにどうも不都合千万、このままにいたすわけにならん、拙者も今晩寝ずに番をしていたその趣意を立ててもらわねばならん」
○「ヘエ、趣意を立てるとおっしゃるのは、どうしたらよろしゅうございます」
先「さいわい拙者の持っている刀は新刀であるが新身試《あらみだめ》しに、きさまの首を切って捨てるから覚悟をしなさい」
○「ジョジョ冗談おっしゃっちゃァいけません、なにも私は、悪いことをしたんじゃァございません、ただお店の前でどなっただけで、お聞きちがいになったのはそちらのお耳が悪いので、ヘエけれどもあなたもお武家様のごようす、ただ勘弁はしてくださいますまいから、私が身代わりを出します」
先「ウム身代わりを出す、身代わりでもいいからすぐにこれへ出せ」
○「ヘエヘエ、これでございます」
と、抽斗《ひきだし》を開けて袋を取り出したから、
先「なんだこれは」
○「ヘエ蕎麦粉《そばこ》でございます」
先「ナニ蕎麦粉がきさまの身代わりか」
○「さよう、これは私の伜《せがれ》でございます、ソレ|そば《ヽヽ》の|こ《ヽ》だから蕎麦の伜でざいます」
先「ふざけるな、蕎麦粉を身代わりに取ってなんとするのだ」
○「どうか、お手打ちになさいまし」
[解説]これもやや人情噺がかっていて、かなり深刻である。サゲも気が利いており、これはぶッつけ落ちである。ぶッつけ落ちとは、お互いのいっている事が、お互いに通じていないで落ちるサゲをさしていう。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
朝友《あさとも》
―――――――――――――――――――
男「アア今まではどうもいやな心持ちだったが、ばかにいい気持ちになった、どうしたんだろう……アアオレは死んだのだ、死んでみるとこっちがいいわい、食い物は食わず、あんなに苦しむくらいならこうなったほうがよほど楽でいい、だいぶ大勢で呼んでいるけれども、娑婆《しゃば》へ帰るよりかえって死んだほうがいい、死のう死のう……アアいやに薄ッ暗いな、なんだかサッパリどこがどうだかわからない……モシモシ、モシ」
女「ハイ」
男「ここは何という所でございますかうかがいます、私は初めてまいったのですからトンとわかりません」
女「わたしも初めてですからわからないのです、オヤ……あなたは、伊勢町《いせちょう》の文屋《ぶんや》の康次郎《やすじろう》さんじゃァごさいませんか」
康「オオあなたは何ですね、小日向水道町《こびなたすいどうちょう》の松月堂《しょうげつどう》の娘さん、お朝《あさ》さんでしたね」
朝「ハイ朝でございます」
康「妙なところでお目にかかるものですね、どうしてこちらへおいでなすった」
朝「じつはいつぞや長唄のおさらいであなたに目にかかりました、あの時にいろいろご親切におっしゃってくだすったので、わたしはどうかしてもう一度お目にかかって、いろいろお話をしたいと思っているうちに、患《わずら》い出しまして、とうとうこういう所へまいりました。あなたはどうしていらっしゃいました」
康「エエ私も同じことなんです、やはりあなたにお別れ申してから、ウツウツとなんだか病気にかかりまして、いっぺんお尋ね申そうと思ううちにこういうことになったので」
朝「そうでございますか、あなたはこれからどちらへいらっしゃいます」
康「どこへ行くという別にあてもないんですが」
朝「ご先祖様のところへおいでになるのでございましょう」
康「それがね、私の親父はご存じの通り伊勢町で、文屋検校《ぶんやけんぎょう》といって、一代身上《いちだいしんしょう》でございますから、どこの誰が先祖だかわかりません、これから極楽か地獄、どっちへかまいるのでございましょう、まいったら私は貸した金を取り立てて暮らそうと思うので」
朝「あなたはお金の貸しがあるので」
康「ヘエ、私が死にました時に親父が棺《かん》の中へたくさん証文《しょうもん》を入れてくれました、その証文でもって取り立てようと思うので」
朝「だって娑婆で貸したお金をこの世へ来て取れますか」
康「それはね、債務者が残らず死んでしまってみんなこっちへ来ていますから、取り立てたら取れないことはなかろうと思います」
朝「それは結構ですねえ、どうでございましょう、あなたが家《うち》をお持ちなすったならば、どうぞわたしを下女にでも使っていただきたいもので」
康「冗談いってはいけません、おまえさんを下女なんぞにはもったいない、おまえさんが私のような者でも想ってくださるなら、いっそのこと夫婦になりましょう」
朝「アラ本当ですか」
康「嘘はつきません」
朝「じつはあなたのことを思って患ってこういうことになったのでございますから、そうしてくださればわたしは飛び立つように嬉しゅうございます」
康「私も同じことで、おまえさんのことを片時も忘れたことはないのですから、おまえさんがよければこれから一緒に夫婦になって出かけようじゃァございませんか」
朝「どうぞそうしていただきましょう」
康「ようございます、だいぶ明るくなってきました、ごらんなさい、あっちからゾロゾロ来ますよ、やはり私たちと同じように死んだものと見えます、チョット聞いてみましょう…モシモシ」
○「ヘエ」
康「これからあなた方はどこへおいでなさる」
○「これからなんでもこの先は三途《さんず》の川の渡しで、渡しを越えますと閻魔《えんま》様のお調べがある、それで地獄へ行くなり極楽へ行くなり決まるのだそうで」
康「なるほど向こうに川がありますね」
と、川岸へ来ると船頭が、
船「サアサア亡者《もうじゃ》はみんな乗った乗った」
康「モシモシ、船頭さん、渡し代はいくら差し上げるのでございます」
般頭「渡し代はいらない、ツイこの間までは取っていたが、この間、市会でもって渡し船は無賃ということになった」
康「アアそうですか、冥土《めいど》の市会は結構ですね、お朝さんありがたいね、ただだって、サア乗りましょう」
みんなそろって乗り込む。
船「オイオイそう騒いじゃァいけない、危ない危ない、落ちると生き返るぞ」
朝「船頭さんが落ちると生き返るといっていますよ」
船「なるたけ、ひと固まりになって……」
一同乗り込む、そのうちに棹《さお》を突っぱります、櫓《ろ》に代わる。
船「当たるよ……」
向こう河岸《がし》へ着くとドロドロ、ドロドロあがって行きます、正面が閻魔の庁、こちらに控え所ができております。これへ亡者が入ってみな待っている。そのうちに正面の門が開きますと、かたわらに角《つの》が一本しか生えていない鬼が大声をあげて呼び込みます。
鬼「四谷《よつや》天竜寺門前行きだおれ、鉄道線路飛び込みヒステリー、失恋身投げ女、入りましょう、続いてコレラ病患者、チフス病患者団体はみんな固まって入って来い、次は生活難の一家心中入りましょう、日本橋伊勢町文屋康次郎……」
呼び込みになります、入りますると正面は閻魔大王が控えている。左右には青鬼、赤鬼が鉄の棒を持って控えている、かたえを見ると浄玻璃《じょうはり》の鏡、業《ごう》の衡器《はかり》、大きな釘ぬき、そばに大きなびんにアルコールに漬けた物がある、これは嘘をつく奴の舌を釘ぬきで抜いてアルコールに漬けてある、見るからにぞっといたします。これからお調べになって、針の山へやられるものもあり、また血の池へ追い込まれるものもある。中には禁錮《きんこ》に処せられるのもある、良いことをしたものは極楽へやられる、そのうちに賽《さい》の河原という所があります、これはじつにせいせいとしております、空気もよく子供が大勢遊んでいる、もっとも子供ばかりではないのでございます。年ごろになって男は女に接したことがない、婦人は男子に出あったことがないという者をみな、この賽の河原へやる、閻魔様の前へ真っ先に出たのが二十二三にもなろうという中年増《ちゅうどしま》。
「わたしはまだ男に出あったことがございませんから、賽の河原へおやりくださいまし」
大王これを聞いてすぐに、
閻「浄玻璃の鏡へ写せ」
という、写して見ると、男に出あったことがないどころじゃァない、色男が十三人もあったという莫連者《ばくれんもの》だ。
閻「けしからん奴である、血の池へほうり込め」
なかなか嘘はつけない、怖いところでございます。
鬼「日本橋伊勢町文屋康次郎……コレコレきさまだけお呼び出しになったのだ、女は後へさがれ、付いていることはならない、退れ退れ」
康「ヘエ、申し上げますが、これは私の家内でございますから」
鬼「きさまの女房か」
康「さようでございます」
鬼「申し上げます、この女は康次郎の妻だそうでございます」
閻「そうか、夫婦で一緒に死んで来たのか」
康「さようでございます」
閻「おかしいな、夫婦で一緒に死んだというはまさか心中したのではあるまい、どうして一緒に死んで来た」
康「よんどころないことがありまして」
閻「よんどころないことがあって死ぬ奴があるか、本当の夫婦か」
康「さようでございます」
閻「嘘をつけ、きさまは日本橋じゃァねえか、伊勢町の人間だ、そこで死んだのだ、そっちの女は小日向水道町、変じゃァねえか、夫婦で別々のところにいる奴があるか、嘘ばかりついてる、きさまたちいくら嘘をついてもだめだ、娑婆から送り状がチャンと届いている、けしからん奴だ」
康「まことにあいすみませんが、じつはこちらに来て新規に夫婦になったので」
閻「嘘ばかりつきやァがる、きさまはもう調べはいたさん、刑務所入り申し付ける、女は奪衣《しょうづか》の婆《ばばあ》へ預け置く、双方立てい」
そのうちに後のお調べにかかる、女は奪衣の婆へお預けになり、康次郎だけは赤鬼が連れて、
鬼「サアこっちへ来い、嘘ばかりつきやァがって」
康「まことにあいすみません、これから私はどうなるのでございますか」
鬼「黙って歩いて来い」
康「たいそう淋しい所へまいりましたが真っ暗で、ここはどこでございます」
鬼「黙って歩いて来い、ここは三途川の裏手だ」
康「これからどうなるのでございますか」
鬼「覚悟をしろ、てめえをここにおいてこの鉄の棒でぶち生かすのだ」
康「大変なことになりました、なんでそんなことをするので」
鬼「てめえが不憫《ふびん》だから言って聞かせる、悪い女と一緒になったんだ」
康「悪い女とおっしゃいますが、あのお朝は決して悪いことをする女ではないので」
鬼「べつに悪いことをしたのではないが、じつはこういう訳だ、閻魔大王様が独り寝の閨房《ねや》淋しく、どうか、気に入った妾《めかけ》がほしいとこういうので、新亡者のうちいろいろ調べてみたが、どうしてもお気に入らねえ、すると今度来た松月堂の娘お朝が、たいそう大王様のお気に入ったのだ」
康「なるほど」
鬼「きさまと夫婦になった日にゃァてめえが邪魔だから、それでてめえをここでぶち生かして、お朝を大王様のご愛妾《あいしょう》に差し上げるのだ、覚悟をしろ」
康「せっかく私も冥土へまいったのでございますから、どうかお許しを……」
鬼「許すことはできぬ、てめえは女をあきらめろ」
康「よろしゅうございます、あきらめまして、娑婆へ帰れとおっしゃるなら帰りますが、その鉄棒でぶち生かすのだけはご勘弁を願いたい」
鬼「地獄の沙汰も金しだい、ちっとは持っているか」
康「金はございませんが、ご勘弁をしてくだされば、私の持っている証文をあなたに差し上げます」
鬼「娑婆の証文をもらってどうする」
康「ヘエ、これはみな貸した奴がこちらへ来ているのですから、立派に取れます証文でございます」
鬼「そうか、持っているか、見せろ」
康「これでございます」
鬼「だいぶあるな、だがの、これが知れるとオレの役柄にかかわる、ぶち生かすのは勘弁してやるが、あの女に心が残ってこの地獄にまごついていると、きかねえぞ」
康「それは大丈夫でございます、娑婆へ帰ります」
鬼「きさま誰にも口外するな、てめえがしゃべるとエライことになる、このごろ冥途もだいぶやかましいから、賄路《わいろ》事件で、オレが食い込まなけりゃァならねえ」
康「さようでございますか、やはりこちらにもそういう事があるので」
鬼「この間からずいぶん食い込んだ者がある、しゃべるなよ」
康「決して申しません」
鬼「ウム、そんならばすぐとこれから心を残さず娑婆へ帰れ」
康「どっちへまいったら娑婆へ出られますか」
鬼「近道を教えてやる、これからまっすぐに行くと町家へ出る、だんだん賑やかなところへ出たら、左へ取ってまっすぐどこまでも突き当たりまで行ってみろ、それが娑婆へ出る近道だ、棒杭《ぼうぐい》が立ってて、すぐ知れる」
康「ありがとう存じます」
鬼「話が付いたら行け行け」
康「ヘエ、お別れいたします……おっかねえ奴だな鉄の棒を振りまわしゃァがる、娑婆でも怖い奴を鬼だというが、なるほど鬼だな……アア、だいぶ家がある、これからだんだん賑やかなところへ出るのか、どこもかしも締まっているが何という所だろう、これは大きな家だな、なんだ、枕団子卸し問屋……枕団子の卸し屋か……経帷子《きょうかたびら》洗濯所、アア洗濯屋か、大きなものだな……ここの家は粋《いき》な家だ、和讃指南所《わさんしなんどころ》アア稽古屋だな、習いに来る奴もあるのだな……オヤオヤ寒いと思ったら雪が降ってきた、冷てえな、やはり冥途の雪も同じことで冷てえ……こっちへ曲がろう、オヤ粋《いき》な家がある、黒板塀がある見越しの松、よい家のこしらえだな、なにしろひどく雪が降ってきた、松の下で、少し雪やみをしよう」
康次郎松の下へ来て塀に寄りかかっていると、中でコソコソ話し声、耳をそばだって聞いてみると奪衣婆《しょうづかばばあ》の家だ。
婆「オイお朝、悪いことはいわねえから、うんといって大王様のお心に従いなよ」
朝「お婆さん、どうかそれだけは勘弁してくださいまし、わたしには康次郎という言い交わした夫がありますので」
婆「何をいやァがるんだ、夫もねえものだ、てめえはこの地獄へ来て勝手に夫婦になったんじゃァねえか、大王様もあいつがあっては邪魔だからと、三途川の裏手で赤鬼に言い付けてぶち生かされ、もうあいつはとうに娑婆へ帰ってるよ、いくらおまえが想っても遇《あ》えやァしねえのだから、うんと言うがいい、悪いことはいわねえ、おまえのしあわせだ、栄耀栄華《えいようえいが》はし放題、娑婆より地獄のほうがよっぽど開けている、この三途の川の川開きなぞはそれは賑やかなものだぜ、芝居が見たければ線香座《せんこうざ》、蓮台座《れんだいざ》とあって、娑婆の歌舞伎座より上等だ、それに俳優が先代の幸四郎《こうしろう》、菊五郎《きくごろう》、羽左衛門《うざえもん》、梅幸《ばいこう》をはじめ顔ぞろいだ、もうとても娑婆じゃァ見られねえ、寄席が聞きたければ名人ばかりみんな来ている、落語研究会なんてえのも毎月一回日曜にやってたいそう評判がいいぜ、その他なんでもおもしろいものが見られるから、うんと言いなさい」
朝「それだけはどうかお婆さん、勘忍してください」
婆「いやか、頭を振るのは――いやか、このあまッちょめ、コレ優しく下から出りゃァつけあがって、誰だと思うんだ、奪衣婆《しょうづかばばあ》も先代よりは今のほうが押しが利いていると人にいわれているんだ、てめえのような生娘《きむすめ》に頭を振られて、さようでございますかと、引っこむような婆じゃァねえ、あとで後悔するな」
朝「なにをおっしゃってもわたしは……」
婆「いやか、このあまッちょめ、サア来い」
と、荒々しく手を取って庭へ引き出して、庭の松の木へお朝をくくり付けた。 憎々しく障子を閉め切って婆は奥へ入った。お朝は松にくくられて、
朝「アアなさけないことだ、娑婆で想いに想って患って冥府《このよ》へ来て、康次郎さんにお目にかかり、夫婦になって嬉しいと思ったのもつかのま、この苦しみをするというのは、わたしはなんたら因果者《いんがもの》か知らん」
涙にくれながらふと見ると康次郎がそばにおります。
朝「オオ康次郎さん」
康「シイッ静かにしな、塀の外で残らず話は聞いていた、ここでグズグズしているどころじゃァねえ、落ちられるだけ、二人で落ちてみようじゃァねえか」
朝「どうか康さん、お願いだからそうしてください」
手ばやく縄を解き二人は一生懸命、松の枝へつかまり塀の上、
康「サアここを飛び降りよう」
たがいに手を取り交わして塀の上から下へ飛び降りた。
朝「ウーン……」
○「大変でございますよ、棺桶《かんおけ》の中で今お嬢さんがうなりました」
主「うなった」
○「ああ驚いた、お嬢さんに魔がさしたんでございましょう」
主「そうか、和尚さん、魔でもさしたのでございます」
和「ウム、ひどい声を出した」
主「なにしろ棺桶のふたを取って娘をここへ出しなさい」
棺桶のふたをはらうと、
朝「おとうさん」
主「お朝か」
朝「ハイ、おとうさんでございますか」
和「エエ、ご主人、これは魔がさしたのでではない、生き返ったのだ」
朝「ありがとう存じます、おとうさん康次郎さんはおりませんか」
主「なんだい康次郎というのは」
朝「日本橋伊勢町の文屋検校のせがれ、康次郎さんというお方でございますが、言い交わしたことがございます、それがもとでわたしは患い出して冥府《あのよ》へ行ってまたお目にかかり、夫婦となってこの世へ帰ってまいりました、そこにおいではございませんか」
主「康次郎さんという人はいやしねえ、……和尚さん、これはどうしたのでございましょう、よみがえり早々娘はのろけをいっております、これは変だ、なんだって日本橋伊勢町の文屋検校のせがれ康次郎……」
和「マアご主人、さわがんでもいい、これはこうなさい、誰でも伊勢町へ行って文屋康次郎という人のようすを尋ねて来るようになさい」
主「さようでございますか…コレコレ誰かいないか、新吉《しんきち》、きさまちょっと一走り行って、日本橋伊勢町の文屋検校の伜康次郎という人のようすはどんな工合だか聞いてこい、こちらの話はするな、先方の話だけ聞いてこい」
新「行ってまいります」
主「早く行ってこい……和尚さんこれはどうしたのでございましょう」
和「これは冥府《あのよ》で二人で言い交わしてきたにちがいないな」
主「そんなことがあるものでございましょうか」
和「ないとも言えない、すでにこういう話がある、伊勢の国に文屋|康秀《やすひで》という人があった、この人が死んで地獄へ行って、閻魔大王が調べてみると、まだ命数《めいすう》が尽きない、気の毒であるから娑婆へ帰してやろうと思ったが、あいにく康秀の身体は火葬にした。それで帰すことができん、同月同日同時刻に死んだ者はないかと調べてみると、日向《ひゅうが》の国の松月《しょうげつ》の朝友《あさとも》という人がちょうど同じ時に死んだのだ、それならその者の体を借りてというので、康秀を生き返らした、すると朝友の親族どもは喜んで、アアよく帰ってきてくれたといってすがり付いた、しかるに、私は松月朝友ではない、文屋の康秀だといって袖を払って伊勢の国へ帰ったという、マアそんな話があるのじゃ、いま考えてみると、どうも先方が伊勢町の文屋の康次郎、文屋の康秀に似ている、こちらは小日向《こひなた》水道町、小日向は日向《ひゅうが》、松月堂の娘お朝、松月朝友よく語呂が似ているではないか、まったく冥府《あのよ》で約束したにちがいあるまい……」
○「使いの者が帰ってまいりました」
主「帰ってきたか、どうした新吉」
新「ただ今行ってまいりました」
主「どうした」
新「先方はまいりますと大騒ぎでございます」
主「ウム」
新「やはりこちらのお嬢さん同様、生き返って来てこちらのことばかりむこうでは言っているそうです」
和「ソレみなされご主人、どのみちお宅には男の子があって、この娘さんは他家へおかたづけになる方だろうから、これは康次郎さんと添わしてやんなさい、僧侶というものは縁談に口を出すものではないが、あまり珍しいから私が仲人をする、二人を添わしてやんなさい」
主「和尚さんこちらでばかりそう決めても、あちらに苦情はありますまいか」
朝「それは大丈夫、幽霊同志の約束だ、お互いに|あし《ヽヽ》はないはずだ」
[解説]これも地獄めぐりであるが、文屋康秀《ふんやのやすひで》〔平安朝の歌人。六歌仙の一人〕の伝説を入れたりして、少しこしらえ過ぎか。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
幽霊稼ぎ 〔上方の題〕不動|防火焔《ぼうかえん》
―――――――――――――――――――
幽霊の正体見たり枯尾花《かれおばな》、幽霊などというものはこの世の中にないものだというお説もございますが、しかし人間が怨《うら》みをのんで死ねば一念悪鬼《いちねんあっき》となって怨みある者を襲い、その人を苦しめるという、また怨みのある者ばかりでなく、たとえば乳呑児《ちのみご》を残して死んだ母親とか、可愛い女房を残して死んだご亭主とかいうものが、後に心が残ってその枕もとへ姿を現わすなどということをよく話に聞きますが、これは全くあるだろうと思います、我々|落語家《はなしか》や講釈師などにとっては、なくってもあるとしていただかなければ稼業《しょうばい》になりません、けれども落語のほうに出る幽霊や化け物にすごいのはあまりございませんな、だいたい化けそこなって尻尾《しっぽ》を出したり足を出したりする、つまり気の足りない奴ばかり、ソコでよく世間にありますが、男子が娼妓《しょうぎ》とか芸者とかいう婦人を相手にして、おなぐさみのうちはよいが、ついには深くおぼれまして、永年添った子まである女房を追い出して、勤め上がりの女を引き入れるなどということになると、とんだまちがいが起こります。
○「時にこうみんなよったところで一つ相談があるんだが、おめえたち今度の嬶《かか》ァを見たか」
△「見た見た、きのうの朝見た」
○「俺もきのう初めて会ったが、ふざけた阿魔《あま》じゃァねえか、お早うございますと、こっちで挨拶をしたら、ツンと上を向きやァがった、よっぽど殴ってやろうと思ったが、たとえなんでも他人の嬶ァになってるもんだから我慢をしたが、かわいそうなのは先のかみさんだなァ、子供まである中を出してしまって女郎上がりの女を引っぱり込みやァがって、俺はもう他人事《ひとごと》とは思えねえ、残念でたまらねえ、ついちゃァ先のかみさんを一つみんなで救ってやりてえと思うんだ、ちょうどきのう三輪《みのわ》の角で会ったら、ひとりで内職をして子供を養ってるといったが感心じゃァねえか、どうかしてやりてえと思うんだけれども、こちとらだってあんまり都合がいいんじゃァねえ、ところで俺が考えたんだが、どうだ熊の野郎と今度の嬶ァから金を取って、先のかみさんにやろうてんだ、みんな賛成してくれ」
△「なるほど、そいつァおもしろい趣向だが、けれども先で金を出すかな」
○「そりゃァただは出さねえが狂言《きょうげん》があるんだ」
△「なんだい狂言というなァ」
○「今夜あいつらが寝ているところへだしぬけに化けて行くんだ」
△「なんだ化けて行くってえなァ」
○「幽霊を使うんだ」
△「幽霊を使うてえのはどうするんで」
○「先のかみさんの幽霊をあすこの家へ出すんだ」
△「だっておまえ、先のかみさんにきのう三輪で会ったってえじゃァねえか、死なねえ者が幽霊になれるかい」
○「死んだつもりだよ」
△「ヤレヤレ」
○「あいつの寝込んだところを見すまして、屋根へ上がって、引き窓から忍び込んだら、どんな奴だって人間てえものは良心のあるもんで、いくら普段薄情の奴でも罪のねえ嬶ァを出したんだから、可哀相だ、気の毒だぐれえのことは、たまにゃァ思い出すことがあるにちげえねえ、そこへ先のかみさんの姿で恨めしいと化けて出るんだ」
△「なるほど」
○「むこうが驚いてキャッとかスーとかいったら、おまえわたしを忘れたか、先の女房のおことだ、よくも罪のない者を、子まで付けて離縁をして女郎上がりの女と夫婦になったな、怨み重なる二人の者を共に奈落《ならく》へ連れて行かんと、二人のえり首をつかんで引き立てようとする、むこうだって幽霊に取り殺されちゃァならねえから、助けてくれ、俺が悪かった、てめえは死んだのか、どうぞ迷わずに浮かんでくれ、俺が悪かったと詑びるだろう、ソコがこっちの付け目だ、浮かべというなら浮かびもするが、ただ浮かぶことはできねえ、金を出せというんだ」
△「おかしいなア、幽霊が金の無心《むしん》をするなァ」
○「だからおめえたちはわからねえ、阿弥陀も金で光る世の中というじゃァねえか、地獄へ行くったってタダは行かれねえ、三途《さんず》の川を渡るにも渡し銭《せん》がいる、なんでもかまわねえから、金を出したら浮かんでやるってんだ、むこうで幾らといったら二十両出せというんだ」
△「たいそうふっかけるな」
○「そのくらいあたりまえだよ、こんなことはそうたびたびやれるものじゃァねえ、二十両が一銭欠けても浮かばれねえ、二十両出さなけりゃァ取り殺すといやァ、おっかねえから出すよ、そうしたらおまえ十両先の女房のおことさんにやってよ、あとの十両、雑費を差し引いた残りで一杯飲もうじゃァねえか」
△「なるほど、こいつァうめえ考えだ、人助けをして自分たちももうかる、講釈師のよくいう一挙両得《いっきょりょうとく》の策てえのはこれだね、どうだいみんなも賛成だろう」
一同「賛成だ賛成だ」
○「じゃァやっつけよう、けれどもなんだよ、幽霊てえ奴が、どうも素人にゃァうまく形が付かねえ、こう見渡したところが幽霊らしい奴は一人もここにいねえなァ」
△「冗談いうな、幽霊らしくなんぞ見られてたまるものか」
○「誰かこころやすい芸人か何かねえか」
△「ねえこともねえ、音羽屋《おとわや》の弟子に知ってるのがある」
○「馬鹿ァいえ、そんな立派な役者じゃァ使い切れねえ、どうせ一両か二両で一晩たのむんだから、役者とは限らねえ、なんでも芸人ならちょっとようすよく出来らァな」
△「オオ芸人といやァ隣裏に浪花節《なにわぶし》の前座がいる、この頃こころやすくなったんだが、あれをたのもうか」
○「浪花節の前座、驚いたなァ」
△「それだって芸人じゃァねえか」
○「そうよなァ、来てくれるだろうか」
△「そりゃァおまえ、このごろは不景気だもの銭にさえなりゃァ来るよ」
○「じゃァ銀次《ぎんじ》、おまえ行って一両幽霊でたのんで来てくれ」
銀「よし、それじゃァ行ってくるぜ」
○「ソコで辰《たつ》、おまえご苦労だが、横丁の師匠のところへ行って幽霊の衣裳に使うんだから、白地の浴衣《ゆかた》と髢《かもじ》のあいてるのがあるだろうから借りてきてくれ、もし髢がなかったらどこかで算段《さんだん》してきてくれねえ、幽霊の散らし髪にするんだから」
辰「あにい、なかなか道具がいるなァ」
○「あたりまえだァな、大芝居を打つんだもの……オー与太《よた》」
与「エー」
○「なにをボンヤリしていやがるんだ、これがうまくいきゃァてめえにもおごってやらァ」
与「ありがてえ、おらァまんじゅうが好きだ」
○「気のきかねえことをいうない、てめえなァ、アルコールを十銭ばかり買ってきてくんねえ」
与「あにいが食うのかい」
○「バカッ、食うことばかりいうない、少し入用があるんだ」
与「ヘエー、なんにするんだ」
○「幽霊の前には青い火が燃えなけりゃァいかねえ、アルコールをくず紙へ付けて、針金の先へ結びつけて、ちょっと火をつければ青い火が燃えらァ」
与「ヘエー、燃えるかなア」
○「燃えるよ」
与「おらァ初めて聞いた」
○「馬鹿だなァこいつァ、なんでもいいから早く行ってきねえ……、まずこれで支度はよしと、どうしたろう浪花節は……、アアむこうから銀次の野郎引っぱって来やがったアノ人だぜ浪花節は……、先生ッてやろうじゃァねえか」
銀「あにい、この方なんだが、さっそく承知しておくんなすった」
○「ヘエ先生、いらっしゃいまし」
浪「イヤ、ただいま銀次さんからお話をうかがいましたが、今晩私が幽霊を勤めますので」
○「どうもご苦労様、どうかなにぶんお願い申します」
浪「では先方から二十両取ればよろしいのですな」
○「さようでげす」
浪「幽霊の節《ふし》は、どんな節でやりましょうな」
○「幽霊の節てえのもありませんが、ただ恨めしや、魂魄《こんぱく》この土にとどまって、二人の者を取り殺すとかなんとか、そこンところをうまくやっておもらい申してえンで」
浪「よろしゅうございます、それでは……〔♪〕魂魄この土にとどまって恨みを晴らさでおくべきか……」
○「浪花節をやっちゃァいけません、なるべく太《ふて》え声でなく、女らしい声でね、引き窓から綱を下ろして二十両受け取るのを見ると、また綱を引き上げますからそのおつもりで」
浪「委細《いさい》承知いたしました」
そのうちに、浪花節の前座先生、白地の洗いざらしの衣類《きもの》を着て、どこで算段してきたか怪しげな髢《かもじ》を頭へのっけて、どうやら支度ができました。
○「サァオイ支度ができたが、何はどうした与太郎は」
×「あにいが何か買いにやったじゃァねえか」
○「ウム、アルコールを買いにやった、あいつはグズだからな……アア来た来た、ヤイ与太ァ、何をしていやがるんだ」
与「ナニ一軒行ったらなかったもんだから、ほかへ行って買ってきた」
○「なんだ竹の皮を持ってるじゃァねえか」
与「ウム」
○「おかしいなァ……、ヤイこりゃァあんころじゃァねえか、誰があんころを買ってこいといった」
与「あにいがそういったじゃァねえか」
○「嘘をつけ、アルコールだ」
与「どうりで俺も変だと思った、|あんころ《ヽヽヽヽ》から青い火が出るというから」
○「バカッ……」
ようようのことでアルコールを買ってきまして、支度万端ととのう、まだ場末《ばすえ》の裏店《うらだな》などには電灯のない時分のことですから、こんな悪戯《いたずら》をするには結句《けっく》都合がよろしゅうございます、その晩の十二時過ぎ、熊五郎夫婦はなんにも知らず寝てしまう、世間も寝静まったようすを見すまして四五人の者がソッと屋根へ上がって引き窓をこじあけ、中をのぞいてみると、ランプが細くついて、夫婦スヤスヤ寝ているから、
○「先生、ようがすかい」
浪「よろしい、心得ました」
○「太い声でなく、なるたけ細くね」
浪「委細承知……、しかしあなたがた細引きの切れないようにおたのみ申します」
○「大丈夫……、いいかえ、火をつけた火を……、青い火を見て、女がアレーとでも言やァしめたもんだ、先生ようがすか」
浪「ええようございます」
幽霊になっている浪花節の前座が、ニューッと中へ入った、寝ていた夫婦がなにかガタガタ音がしたので目をさましてみると驚くまいことか
女「キャーッ……」
熊「ヤッ、なんだてめえは」
浪「怨めしや」
熊「ナニ怨めしい、俺は人に怨みを受けるようなものじゃァねえ」
浪「そういうおまえが怨めしい、わたしはおまえの先の女房、おことが成れの果てなるぞ」
熊「ナニおことだ、てめえ死んだのか、少しも知らなかった、しかし幽霊は生きてる時とは姿が変わるというが、おことにしちゃァあんまりちがい過ぎるなァ、声も太くって……、なにかてめえ、死んで俺を怨んで来たのか」
浪「おまえに捨てられ、よんどころなく井戸へ飛び込んで、死にはしたが、宇宙にさまよい浮かばれず、これというのも二人の者がなせる業《わざ》、デモ怨めしい姦夫姦婦、共に奈落へ連れ行かん」
と二人のえり首を取って引き上げようとするから驚いたのは熊五郎夫婦、
熊「マア待ってくれ待ってくれ待ってくれ、取り殺されちゃァたまらねえ、アア俺が悪かった悪かった、どうか勘弁してくれ、この女とも手を切るし、てめえの回向《えこう》もしてやる、この通り手を合わせて拝むから浮かんでくれ、浮かんでくれ、浮かんでくれ」
浪「浮かんでくれというならば、浮かんでやるまいものでもないが、長い短いはいわないから金を二十両出したら浮かぶ」
熊「ナニ二十両……、幽霊が金をもらってどうするんだ」
浪「地獄へ行くにも極楽へ行くにも金がなければ渡れぬ世の中、四の五のいわずに早く金を出してしまえ」
熊「金を出せったって、俺は二十両なんて金は持っていねえ」
浪「金がなければ浮かばれない」
熊「しようがねえなァ、十両ぐらいで浮かんでくれ」
浪「諸式《しょしき》高値の世の中じゃ、現金かけひき掛け値なし、二十両が一文欠けてもなかなか浮かばれない」
熊「困ったなァ……、仕方がねえおきんや、二十両出しねえ」
き「お待ちよ明りが暗くってわからないから……」
ランプの芯を掻き立って、用箪笥《ようだんす》のあるところへ行こうと思ってヒョイと見ると幽霊に足がある。
き「オヤ熊さん、ちょっとごらんよ、この幽霊には足があるよ」
熊「ナニ足がある……、ウームなるほど、これは毛もくじゃらな足だ」
上を見ると幽霊の帯のところからスーッと細引きが下がっている、
熊「オヤオヤオヤ、屋根から細引きがぶら下がってらァ、よし、出刃庖丁を出しねえ、この紐を切ってやるから」
こうなると女も強くなります、出刃包丁を持ってくるのを熊五郎が取ってプツリ細引きを切ったから、幽霊はドタリ落ちる、片方は職人、片方は芸人だから腕ずくではかなわない、たちまちの間に組み伏せられてしまいました。
熊「サアこンちくしょう、どうするかみろ、オヤオヤ屋根の上を大勢歩いていやがる、ヤイ、てめえはどこのなんという奴だ、名前をいえ」
浪「モシ親方、これにはいろいろ仔細《しさい》のあること……このこまやかにやまいりませんけれど、ひと通りお聞きなされてくださりませ――、私とても生まれついての幽霊じゃァないが……」
熊「なにをいやがる、生まれついての幽霊てえのがあるものか、そんなことをいってごまかしやァがって逃げようというんだな、アア、わかった、てめえたちはなんだな、こんなことをして稼いで歩く俗にいう幽霊稼ぎだな」
浪「イーエ私はこれでも遊芸《ゆうげい》稼ぎ人でございます」
[解説]上方の噺であるが、古くから東京に来ている。「樟脳玉《しょうのうだま》《しょうのうだま》」と似ているが、いささか劣るか。サゲは間ヌケ落ち、上方でいう仁輪加《にわか》落ちである。円右は幽霊稼ぎでやり、三代目小さんは不動防火焔という外題で講釈師の前座でやっていた。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
化け物使い
―――――――――――――――――――
昔も今も地方からご当地へ出てくる者は皆、江戸へ行って身を立てようとか、東京へ行ってひと儲けして来ようとかいって出てくるものでございますが、昔の話ですればまず江戸へ出てきて、泊まるところが馬喰町《ばくろちょう》で、その周旋をするところが芳町《よしちょう》にたくさんありました。ちょうど湯屋の番台みたように、三尺四方《さんじゃくしほう》ぐらいの高いところができていて、
「オイ、うなぎ屋の出前持ちはないかな、オイないかい、うなぎが食えるぜ」なんてことをいって、勧めております。
○「おまえどうした、なぜ奉公しねえんだ」
△「奉公しねえわけじゃァねえ、口がねえんだ」
○「口がねえたって、あんなにいろいろ呼んでるじゃァねえか」
△「俺あんなのは、きれえだよ、ヤレ出前持ちだの、水くみ役だのってあんな口は俺きれえだ、俺まことに陰気な性分だから、なるべく人の少ねえ家がいいだ、なにも骨惜しみするわけではねえけれども、騒々しい家はきれえだから、どうも気に入る口がねえだ」
番「オイ新規の口があるよ、給金《きゅうきん》がいいんだよ、誰か行かないかい、新規だよ」
○「新規の口があるとよ、聞いてみなよ」
△「その新規の口というなァ何でがすかね」
番「新規の口かえ、これはばかに給金がいいんだよ、男隠居一人なんだがね」
○「アアそりゃァ新規じゃァねえや、十日も前からあるんだ」
番「よけいなことを言っちゃァいけない、新規の人がいるんだから、どうだい、行かないかい、給金がいいんだよ、そのかわり隠居さんが厳しいがね、給金はいいよ、年に三両二分だ」
△「ナニ給金なんかかまわねえけれども、わし陰気な性分だから」
番「それにはちょうどいい、隠居さん一人なんだ、おまえが行って二人になるんだ、若い女中などを置いて、また近所で何かいわれたりしてはいやだというので男を置くんだが、ただ少し人づかいが荒いんだ」
△「ナニそんなことはかまわねえだ、人を使おうと思うから人を置くんだから、あたりまえのこんだ、俺そこヘ行くべえ」
番「行くかえ」
△「行きますべえ」
○「オイオイ、オイおよしよ、およしったら」
□「みんなが親切にいうんだからおよしよ」
△「よせよせって、俺そういうところが好みだ」
○「好みだってね、三日といた者はねえんだ」
△「ナニ三日といた者がなくってもかまわねえ、俺もう行くときめたら人が何といっても行く気性だから」
○「オイオイ、みんな止めてやらなけりゃいけないよ」
□「およしおよし、悪いことはいわない、誰が行っても三日といないんだよ、たいがい一日で驚いて帰ってきてしまうんだ、三日といた者がないんだから、給金をもらった者は今までに一人もねえんだ、おおかたしみったれな了簡《りょうけん》で、給金を払うまいという考えなんだろうと思うんだ」
△「けちんぼけっこうだ、行きてえ行きてえ」
○「よしなよ」
△「俺が行くてえものを、なんでそんなに止めるだ」
○「一つ鍋《なべ》のものを食う仲だから、親切に止めてやるんだ、ダカラよしたらよかろう」
△「俺よさねえ」
○「きっと帰ってくるんだから、無駄だよ、二日でも三日でも辛抱をして、先方へ使われるだけ無駄だよ、およしよ、悪いことはいわねえがな、ばかに人づかいが荒いんだそうだから」
△「人づかいが荒いったって人間が人間を使うだ、天狗様に使われるわけじゃァあるめえ、するだけの事さえすりゃァ、誰がなんというものでねえ、俺そこへ行くべえ」
○「そうかい、おまえがそれまでにいうんなら、行くがいいが辛抱ができないといって帰っておいででないよ」
△「おらァハア強情だから身体が失《なく》なっても帰ってこねえ、一生懸命働くだ」
○「ほんとうに強情だなおまえは、じゃァマア行っておいで……番頭さん、この人が行くそうだ、おまえさん何てったかね、エエ……久《きゅう》さんか、久さんが行くそうですよ」
番「アアそうですかえ、すぐだよ、本所《ほんじょ》だ、これこれいう家だから行っておいで、この札を持って行かなけりゃァいけない」
と、小さな札を渡した。べつに若い衆が連れて行くわけではない。教えられた通り一人で聞きながらやって来た。
久「わしァハア芳町から目見得《めみえ》にめえりました」
隠「アアそうか、いなかものだな」
久「さようでごぜえます、わし生国《しょうごく》は奥州《おうしゅう》でごぜえます」
隠「おあがりおあがり、サッサとおあがり、オイオイほこりをたたいて、自分の着物だよ、アアそこでたたく奴があるかい、いま俺がきれいにふいたんだ、そこへほこりが立てばまたふかなけりゃァならない、着物をたたいたらそこに雑巾があるからそれで足をふいておあがり、アッその雑巾はいけないよ、それはゆすいでチャンとしぼっておいたんだからその脇にひろがってるのがあるだろう、それは今ちょっとそのへんをふいたんだが、汚れた足をふくのはそれでたくさんだ、ナニ洗う、洗うなら洗うほうがよい、ついでにその雑巾をよくゆすいできておくれ、サアサアこっちへおいで、おまえもこうしてせっかく来たものだ、辛抱してくださいよ」
久「ヘエ、辛抱するだからいくらでも使ってくだせえ」
隠「まだ使うともなんともいやァしない、今はまだべつに用がないから、そこに坐っておいで」
久「それでも今わしがここの家へ来るといったら、みんなよせよせというた」
隠「ハテナ、どういうわけだ」
久「それからわしも聞いただ、俺が行くというものを、なぜ止めるだというと、一ツ鍋のものを食う仲だから親切で言うだが、そこの家へ行って三日と辛抱した者がねえ、あんな人づけえの荒え家はねえだから、とても辛抱はできねえ、たとえ二日でも三日でも、働くだけつまんねえから、よせとこういうのだ」
隠「ウーム」
久「そだからわし強情ッぱりだからそういってやった、いくら人づけえが荒えったって、人間が人間を使うだ、天狗様に使われるわけでねえから高が知れてる、わし身体を失《なく》すほど働いてきっと辛抱してみせるといって、みんなの止めるのをきかねえでやって来ただ、サア使ってくだせえ、いくらでも働くだ」
隠「アハハ、そうか、おもしろい男だ、おまえのいう通りオレだって人間だ、大して人づかいが荒いというのじゃァないが、ただ口やかましいというのだよ、どうもうっちゃってやらせておけない性分で、いちいち他《よそ》から口を出すものだから、人づかいが荒いなどというのだろう、そのかわり私の手もとで二三年も辛抱をすれば、自分で世帯を持ってから身上《しんじょう》を上げるにちがいない、たとえ香物《こうこ》を切っても尻尾《しりっぽ》のほうはカクヤにしてもらいたいのだ、それから掃除だな、掃除はよくしておくれよ、まことに私は癇性《かんしょう》だから、ほこりなどが少しでもあると心持ちが悪いのだから、けれどもおまえばかりやらせてはおかれない、私だって手伝うよ、もう六七年前までは自分一人でやっていたのだけれども、もう近頃は年のせいで大儀《たいぎ》でしようがないから、おまえのような人を頼もうというのだけれども、そのかわりなんだよ、お給金は並よりいくらか余計出すつもりだから、三両二分だよ、年にな」
久「ヘエ、それも承知していますだ、サア働きますべえ、なんでも言い付けてくだっせえ」
隠「マァそうおまえのように催促をされても困る、まだ来たばかりでこれといってしてもらうこともないが、マアとにかくお茶をいれようと思うんだ、ソレソレそこだ、オウそれだ、その戸はなんだよ、なるたけソーッと開けなければいけないよ、力を入れて開けるとどうしても木が早く減っていけないから、ソレそれそこに茶盆があるだろう、それをちょっとここにある布巾で拭いて……そうだ、この上へ出すんだ、そこにある茶碗、それだ、それが私の湯呑みで、そっちにあるその小さいほうがおまえの湯呑みだからそのつもりで、その急須と茶の缶があるだろう、それをちょっと取っておくれ……ナニおまえがいれたっていけない、こんなことは私がするからいいよ、あいにくと菓子がなんにもなかったな、マアいいや、仕方がない、カラ茶でもいい」
久「サアなにかすべえ、用言い付けてくだせえ、どこかへ使《つけ》えに行ってくるべえか」
隠「そうおまえのように用の催促ばかりされちゃァ困るな」
久「用するのおら好きだ、あすこの家へ行きゃァ三日と辛抱ができねえといわれたのが癪だ、おら何でもするだ、サア用すべえ、サア使ってくだせえ」
隠「マァよしなよ、そう催促をされちゃァこっちが使われるようだ、しかし気に入ったな、今までにずいぶん奉公人も使ったが、おまえのような奉公人を置いたことがない、おまえはいつまでもその了簡でいれば今にきっと出世をするよ、私のほうは気に入ったから、おまえを置くことにきめるから、おまえのほうさえよかったらすぐに行って決めてきなさい」
桂庵賃《けいあんちん》〔桂庵は口きき屋〕を払い、スッカリきまりました。隠居さんはいい奉公人を置き当てたと大喜びだが、近所の者も驚いて、世の中にあんな人づかいの荒い隠居もないが、あんなにまたよく働く奉公人もないといって評判をしております。
すると、じきそばにちょっとこじんまりした家がある、どういうものかそこの家に幽霊が出るという評判で半月と住まう者がない、たいがい一晩か二晩で越してしまうので、しまいには誰も住む人がない、年中貸家札が貼りッぱなしというのだから、持ち主もやりきれない、安く売ってしまいたいものだというのを聞いて隠居さん、もともとケチな男だから、そんなに安いのなら一ツ買おうと、先方へ話をする、持ち主は大喜びで、さっそく相談がまとまり、その頃は家を売買するといってもまことに簡単なもの、お互いの間で、金と書き付けのやりとりをすればそれで済んでしまう、先方も狡滑《こうかつ》だから、金を受け取ってしまってから、
「さて隠居さん、私もあの家には相当の金をかけてこしらえたのだから、こんなに安く売ってしまってはまことに合わないのだがこれには少し訳がある、それも、まるで知らない人ならかまわないけれども、始終お湯や髪床でお目にかかって、知り切っている仲だけに、念のためにちょっとお断わり申しておくけれども、あの家には、嘘かまことか私は実物を見ないから知らないが、だいぶおかしなうわさがある、どんな変事《へんじ》があるか知らないがそれはもう、わしのほうでは関係がありませんからどうかそのつもりで」
という話、しかし隠居さんももともと承知の上で買ったのだから少しも驚きません。それに今までいた家は他人がだいぶ欲しがっているので、その人に売れば値をよく売れる、いふるした家を高く売って新規に安い家を買って入れば、大変に割がよいというので、隠居さんはホクホク喜んでおります。
久「おはようごぜえます」
親方「オウ久蔵さんかい、おはよう」
久「一ツ結《ゆ》っておもれえ申します」
親方「まだ結って間もないから、乱れていないじゃァないか」
久「それでも一ツ結い直しておもらい申してえ」
親方「アアいいとも、こっちへおいでなさい……時に隠居さんはあの化け物屋敷を買ったというじゃァないか」
久「それについて少しおまえさんに聞きてえと思うだ、おらマアあすこの家へ来て、三年べえ辛抱をしたけれども、今度という今度はどうしても幸抱ができねえ、おらちっとも外へ出ねえだから、世間でどんな話があるか、まるで知らねえ、使えに出たところで、用が多くってむだ話などしてる間《ま》がねえだから、人のうわさなどをあまり聞いたことがねえ、ところがきのうだ、荒物屋の婆さんに話しかけられて、今度隠居さんが化け物の出る家を買って引っ越すだという、家にいてもおらそんなこと聞かなかった、第一化け物の出る家へ行くなどというのは初めて聞く、おら陰気な性分だけれども、化け物はきれえだからな、ほんとうに化け物が出るようならおらとても辛抱はできねえだけれども、ほんとうかね」
親方「ほんとうだともさ、誰だって三日と辛抱する者のない家だ、隠居さん安いものだから買ったんだが、あの家にはいくらなんでも辛抱ができまいと思うのだ、もししいて辛抱をすれば、しまいには化け物に祟《たた》り殺されてしまうだろうとみんな言ってるんだ、またおまえさんのことはみんな世間でほめているよ、よくあの家に辛抱をしているって」
久「おらもハアみんなが止めるのもきかずにあすこへ奉公に来ただから、意地で辛抱をしているうちに三年たってしまったが、今度は辛抱ができねえだから、暇もらうとしますべえ」
親方「悪いことを勧めるようだが命あってのものだねだからの」
久「ありがとうこぜえます、それでも店《たな》の旦那様は隠居さんとちがって大ザッパな旦那だから、使えに行くたびに、じゃァどこかでソバでも食って行くがいいといって、いくらかずつ小遣《こづけ》えをくだすったのと給金を使わずに貯《た》めておいたのが十二両三分ばかりある、これだけあれば国へ帰ってどうにかなるだから、今日すぐ暇もらって国へ帰るべえと思います」
親方「そうかい、それじゃァこれがお別れだな」
久「どうもいろいろご厄介になりましてありがとうごぜえます、じゃァここへ銭置きますから」
親方「アア久蔵さん、今日はいらないよ、もらわないでもいいよ、それからね、こりゃァわずかばかりだが餞別《せんべつ》だ、持って行っておくれ」
久「そりゃァどうも親方すまねえだな、髪はただ結ってもらって、そのうえ餞別までもらっちゃァすまねえ」
親方「そんなことはいわねえで持って行っておくれ」
久「そうですか、それじゃァまことにすまねえが、せっかくだからもらって行きますべえ、さようなら」
久蔵家へ帰ってきて、
久「さて旦那様」
隠「ヤア髪床へ行ってきたな、たいへんきれいになった」
久「サテ、あらためておまえ様に少し話があるだが聞いてくだせえ」
隠「なんだいあらたまって」
久「ほかじゃァねえだがこのあいだ使えに行った時、二ッ目で国の伯父《おじ》に行き会いやして、伯父の話に、おらの兄貴が大病でとても今度はだめらしい、もし兄貴にまちがいがあれば、二番目がわしだから、国へ帰《けえ》って後を継がなけりゃァならねえ、とにかく暇をもらって国へ帰ったらよかろうと言いやした、そういうわけだからどうか暇もれえてえだ」
隠「そうか、それはどうも困ったな、おまえにはまだ話さなかったが、今度私が家を買って、もう引っ越そうというまぎわなんだが……」
久「ナニ引っ越しぐれえ手伝ってもいい」
隠「それでも大病人だというから、少しも早く帰らなけりゃァいけなかろう」
久「ナニさ、じつは今いったこと嘘だ、兄貴が病気でもなんでもねえ、たいがいの者ならマアそういって暇を取るだが、おらそんな嘘つくのきれえだから正直にいうだが、今度おまえ様が買って引っ越すというのは、化け物の出る家でねえか、化け物ときたらとても辛抱ができねえからお暇いただきますべえ」
隠「そうか、どうもそういう訳ならしかたがない、おまえのような奉公人はめったにないからなるべくなら暇はやりたくないけれども、もうむこうの家は買ってしまったし、この家は人にゆずってしまったのだから、どうしても越さなければならない、越すのならば暇をくれろというのだから、とても話は折り合わない、しかたがないおまえに暇をやろう、けれども今まで二人でいたのが、急に一人になっては淋しいけれども、マアいいや、化け物が出るというから退屈しのぎにいいだろう」
久「おまえ様そんな度胸のいいこというだけれども、よしたらよかんべえ、世間でみんなうわさしているだから、人が悪いということはよすもんだよ」
隠「どうもいまさら、よすというわけにもいかない」
久「それじゃァおまえ様の勝手にするがええだが、おら預けておいたのが十二両二分あるが、それを返《けえ》していただきてえ」
隠「よしよし、それではおまえから預ったのが十二両二分、それに二分オレが餞別をやって十三両、これを持って行くがいい」
久「どうもありがとうごぜえます、それでは遠慮なくいたでえてまいります」
十三両の金をしまい、荷物をスッカリこしらえて、
久「さて旦那様、おらもこうして暇もらってしまえば今までの奉公人でねえ、おらも天下のお百姓だ」
隠「なんだあらたまって」
久「ほかではねえがすこし言い草があるだ、さてさておまえ様は人づけえの荒え人だ、いくら人間すり切れねえといったって、際限のあるものだ、おまえ様のように使われちゃァ、力も根《こん》も尽きてしまうだ、はええ話がタバコ買ってこいというから買ってくるだ、家へ入るか入らねえうちに、すぐ半紙一帖買ってこいという、たばこ屋と紙屋と隣り合わせているでねえか、なぜそれなら一緒に言い付けねえか、なんでもよけい身体を苦しめてやろうやろうとしているだ、あすこの家は人づけえが荒え、三日と辛抱する者はねえからよせとみんなが親切に言ってくれたけれども、そんなわけはねえ、いかに人づけえが荒えたって、そんなではねえと思ったから、強情をはって出てきた、きっと辛抱をしてみせるといった言葉があるから、おら辛《つれ》えのを我慢して今まで辛抱しただが、今度はマア化け物の件ができたから、これを幸いに暇もらって国へ帰るだが、これからもあるこんだ、あんな使え方が下手じゃァ、とても人を使うことはできねえだよ、今まではご主人と奉公人だから、我慢をしていたけんど、今はハア暇をもらって、五分と五分の人間になったから言うだが、よけいなこんだけれど、おまえ様のためを思っていうだから悪く思ってくんなさるなよ」
隠「イヤおまえに小言をいわれて面目《めんぼく》ないが、これが私の病気なのだ、自分で悪いということを知りながら、よせないのだ」
久「それじゃァマアしかたがねえけんど、できるだけは、いたわって人を使うほうがいいだよ、マアそれはそれとして、引っ越しするのに手がなくっては困るべえ、おらが手伝うだからすぐに越してしまいなせえ」
と働くは働くは、ドンドン荷物をむこうの家へ運んで、納めるところへキチンと納めてしまい、
久「もうソロソロ夜になるだからこれでおいとましますべえ」
隠「イヤ大きにご苦労だった、おかげで助かったよ、しかしきさまのような奉公人はじつに珍しいな、これまでずいぶん奉公人も使ったが、おまえのような男は今までに一人もなかった、これから先もおそらくないだろう、そう思うと暇を出すのは惜しいが、どうもしかたがない、感心な男だなおまえは、そのかわり今にきっと出世するよ」
久「イヤわしだって三年の間そばにいただから別れるのはなんとなく辛《つれ》えけれども、どうも化け物の出る家じゃァどうにも辛抱できねえだから、これで帰りますよ、それからお店《たな》のほうへもおいとまごいに行かねえじゃァ悪いだけれど、行ってまたかえって旦那様に餞別だのなんだのって、よけいな心配かけても悪いだから、お寄り申しやせんから、どうかおまえ様からよろしく言ってくだせえましよ、いずれまた国へ帰ってからお礼状だけは出しますから、さようなら」
隠「アアとうとう帰ってしまったか、しかし感心な男もあるもので、せっかくよいと思ったらここへ引っ越してきたために暇をとってしまった。どうもしかたがない、一人いた者が帰ったために急に淋《さび》しくなった、早く化け物でも出てくれればいいが……」
呑気《のんき》な人があるもので、暗くなったから灯火《あかり》をつけ、
隠「どうも退屈でしようがない、どんな化け物が出てくれるか、早く出てくればいいが、もっともなんだな、少し刻限が早いようだ」
と、独り言をいっているうちに、昼の疲れが出たか、火鉢に寄りかかってコクリコクリ居眠りを始めたが、やがてグーッグーッといびきをたてて寝てしまいました。夜中になって、急にえり元から水をかけられたように、ぞっとして、
隠「アッ、アッ、アーッ、アア寒い、こりゃァ寒い、行灯《あんどん》へ丁字《ちょうじ》がたまったので暗くなった、どうも寒い、なんだかこうゾクゾクするな、オヤオヤ、障子がスーッと開いたよ、誰かそこにいるのかい、アアいよいよ化け物のご出現か、前ぶれなんぞはどうでもいいから、サッサと出ておいで、久蔵がいるうちはよかったが、いなくなったら急に淋しくなって困っていたところだ、早く化け物出てきてくれ……ヤア出てきた出てきた、なんだ一ツ目小僧か、こいつは小さくって使いいい化け物だ、よく来てくれた、今なおまえの出ようが遅いから退屈をして居眠りをしていたので、スッカリ肩がこってしまった、少したたいてくれ……ちくしょう何を考えているんだ、早くたたけということよ、サアたたけ、そうだそうだなかなか力があるな……アアよしよし、ウムよし、もうよい、よいといったらよしなよ、なんでもオレがいう通りに働かなけりゃァいけないよ、いいといってからお世辞に後をたたくなんてことは大嫌いなんだ、サアお茶をいれて飲もう、おまえも初めて来たのだから一杯飲ましてやりたいが、なんにも菓子はなかったな……アアかき餅を焼いてやろう、ソレ小僧そこにつるしてあるのが取れないか、こういう時には小さい奴は役に立たないな、踏み台を持ってきたな、そっちの高いほうのだそれそれ……なんだまだ届かないか、しかたがないな、踏み台から飛びつけ……アッハッハかき餅を持って下へ落っこちやがった、それから台所へ行って網を持ってこい、そこらに掛けてあるんだがわからないか、……わかったか、一ツだが、なかなかよく見える目玉だな、それから戸棚を開けてな、皿を二枚としょうゆを持ってこい、なかなか役に立つな、よしよしひと通りそろったら、そこへ坐って、網の上へかき餅をのせるのだ、餅というものはチョイチョイ返さなけりゃァいけない、その皿へはな、お湯を少し入れてくれろ、歯が悪いから、漬けておいて柔かくしなけりゃァ食べられないから、そうだ……そうだアアおまえのほうのはそんなにドッサリ付けてはカラくてしようがないぞ、チョイチョイと付ければいいんだ、オイオイそっちにばかり気を取られていちゃァいけない、網の上のを返さないと焦げるぞ……ソーレみろ、真っ黒になってしまった、サアサア茶を飲め茶を……お茶を飲んでしまったらいつまでも坐っているのじゃない子供のくせに、サッサと立って働くのだ、この皿や茶碗をスッカリ洗って、ふいてしまったら布巾はな、よくすすぎ出して掛けておいてくれろよ、その使った水を雑巾桶へ明けてよく雑巾をしぼって台所をふいておいてくれ……ふいてしまったらその雑巾はな、やっぱりよくすすぎ出して干しておいてくれ……やっちまったか、それではな明日の朝水がないと困るから、手桶へ二三杯くんできて、水瓶《みずがめ》へ入れておいてくれ、万一また夜中に火事でもあって、瓶《かめ》に水がないと困るから、そういうことはよく気をつけなければいけない……とにかく感心だ、どうやら久蔵だけの用は足してくれる」
その晩はそれで済んでしまい、翌晩になると隠居さん、早く出てきそうなものだな、給金をやらないのと飯を食わせないだけ久蔵よりいいが、ただ昼間出てこないので困る、今夜来たら昼間も出てくるように掛け合ってやろう、まだ来ないかな、待ちくたびれてトロトロと居眠りをしていると、また夜半になって、ゾーッと寒気がした。
隠「よせやい、出るたびに寒気をさせやがって、これから寒気は抜きにしてもらおう……アア障子が開いたな……どうしたものだ、出てこないじゃァないか、なにをぐずぐずしているんだ、早く出ないか……」
ズシンズシン、
隠「なんだなんだ、大変な音がするぞ、地震かしら……アアッ、おどろかせやがるな、なんだい大きな松の木みたような物がヌッと出たが……オヤオヤ毛むくじゃらの足だよ、いきなり仁王の足のようだな、アッまた出た、足ばかりで胴が見えない、胴はどうしたんだ、オヤオヤ足を折ったな、なるほど膝を突かなければ身体が入らないのか、これはどうも大きいや、坐っても天井へ頭がつかえるのか、なんだい上のほうにピカピカ光ってるのは……なんだ眼玉か、しかも三つあるな、昨夜は一ツ目小僧だったが、今夜は三ツ目大入道ときたな、絵に描いたのを見たことがあるが、なるほどうまく化けたものだな、ちょうどいい屋根の上の草をむしってもらおう、梯子《はしご》いらずか重宝だな、それからな、昨夜来た奴は力がないとみえて水を半分しか入れて行かなかったが、今日は一杯入れておいておくれよ、なんだい、水瓶を片手にさげて行くのか……オウオウ井戸の中へ水瓶を入れて、下まで届くのかい、なるほど手が長いからな……オヤオヤ水瓶へ水を一杯入れて、軽々とさげて来やァがった、アアそこに屋根から落ちたゴミがあるそれをチョイと掃き出しておいてくれ、なんだ吹くのかアアなるほど、きれいに吹いてしまった、もうたくさんだたくさんだ、あまり強く吹くものだから座布団が二枚飛んで行ってしまった、ウカウカするとオレまで飛ばされてしまう……ナニ背中をたたいてくれる、気が利いているな……なんだそこにいてたたくのか、なるほど手が長いから、おもてにいて背中をたたけるのか、痛い痛い、モッとソッとたたいてくれ、アアうまいうまい、ちょうどいい工合だ……ナニ指でたたいているのだと、おどろいたな、指先の力がそんなにあるのか……もうたくさんだから床《とこ》を出してくれ、やっぱりそこにいて床を敷くのか、オオずいぶん長い手だな、ご苦労ご苦労、それからね、明日の晩は小僧をよこしておくれよ、縁《えん》の下を掃除してもらうから、大きいのと小さいのとチャンポンに来てもらうとまことに工合がいいから」
その晩は寝てまた翌晩になると隠居さん、化け物の出るのを待ちかまえている。
隠「ハテな、どうしたのだなもう睡気《ねむけ》のもよおす時分だが、今夜はどういうものか眠くない、早く出ないか出ないか」
と、いっていると、障子をサッと開いてそれへ飛び出したのを見ると、大きなたぬき、
隠「なんだおまえは」
狸「ヘェ、わたしは化け物でございます」
隠「アアそれじゃァ昨夜も一昨夜も出たのはおまえか」
狸「さようでございます」
隠「なぜ今夜は化けてこない」
狸「ヘエわたしもこれまでずいぶんほうぼうを化けて歩きましたが、あなたくらいの化け物づかいの荒い人を見たことがありません」
[解説]珍しい話である。サゲは前に、人づかいの荒いということが振ってあるから、即ち「化け物づかいの荒い人だ」という仕込み落ちである
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
わら人形
―――――――――――――――――――
ここに千住《せんじゅ》の女郎屋|若松《わかまつ》の板頭《いたがしら》でおくまという名代《なだい》の手取り女、このおくまにかかったら、どんな人でもかなわない。ずいぶんこの女のために身上《しんしょう》をつぶしたり、命をなくしたりしております。マアこんな腕の達者なものはなかろうと朋輩《ほうばい》のものもおどろいているくらい、ここに毎日千住の河原から観音様へ参詣をする西念《さいねん》という坊さん、鉦《かね》をたたいては、若松の前へ来て南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏を唱え、いくらかずつもらって行きます。ある日のこと例の通りカンカンカンカン鉦をたたきながら、
西「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
○「アア西念さんかえ」
西「ヘエ、いつもご繁昌でございます」
○「さっきね、アノおくまさんから頼まれたんだが、今日帰りに寄ってもらいたいといってました」
西「アアさようでございますか、かしこまりました」
○「なんでも、おとっさんの命日だから、西念さんにお経を上げてもらいたいといったっけ」
西「さようでございますか」
○「少し早く帰ってきて寄っておくれ」
西「ヘエ、よろしゅうございます、御家御繁昌《おいえごはんじょう》、御家内《ごかない》安全、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
カンカンカンカンしきりに拝んで、西念はこれから山谷《さんや》通りへ出て、吉野橋《よしのばし》を渡り、三丁目二丁目一丁目と三芝居のうち休んでいる芝居のお茶屋だけを、毎日お得意同様にしておりますから、その前へ立って拝んで、それから薮《やぶ》へ出まして、矢大臣門《やだいじんもん》から観音様へ参詣して馬道《うまみち》へ出て田町から土手へ上がり、千住の若松へいつもより早くやって来ました。
西「先刻は大きにありがとう存じました」
○「アア西念さんか、サアおあがり、そこに雑巾おけがあるから足を洗って……」
西「ありがとう存じます」
若い衆が案内をして、おくまの部屋、
○「サアこっちへお入り、花魁《おいらん》え、アノ西念さんがまいりました」
くま「アアそう、こっちへお入んなさい」
西「ヘエごめんくださいまし、毎度お心付けをちょうだいしてありがとう存じます、ご商売の繁昌いたすよう、毎日わしも拝んでおります」
くま「ありがとう、そのせいか、よくこのせつは繁昌しますよ」
西「恐れ入ります、ご評判がよくってけっこうでございます」
くま「西念さん、今日はわたしのおとっさんの命日だからおつとめをしておくれ」
西「ヘエかしこまりました」
これから位牌に向かい、鉦をたたいて西念がおつとめをいたす。それが終わると茶煙草盆《ちゃたばこぼん》などを出して、
くま「西念さん」
西「ヘエ」
くま「ご飯を食べていっておくんなさい」
西「ヘエあリがとう存じます」
くま「おまえお酒を飲むかえ」
西「若い時には、ずいぶんいただきましたが、もう年をとりまして、頭をこう丸めましてから、なんだか酔って鉦をたたいて歩くのもみっとものうございますから、今ではたくさんいただきません、宅《うち》へ帰って寝酒を一合くらいずつやります」
くま「アアそうかえ、もうおまえ今日はすぐ家へ帰るんだからいいやね、ゆっくり飲んでおいでな」
西「ヘエありがとうございます」
くま「わたしがお酌《しゃく》をしてあげよう」
西「ヘエこれは恐れ入ります、ありがとう存じます……どうもこれはけっこうなお酒でございますな、わしらが宅でふだん飲みますのは、|したみ《ヽヽヽ》同様な酒で、頭へ上がりますが、これはどうもいいお酒でございます、ヘエヘエちょうだいいたします」
くま「遠慮なしにやっておくれよ、お肴《さかな》へ手をつけてねえ」
西「ヘエありがとう存じます」
箸《はし》を取って、
西「アアけっこうでございます、わしはこのお刺身が大好きでございます、なかなかめったにいただくことができません」
くま「よければもっと取ってあげるから、遠慮しないでお食べよ」
西「恐れ入ります」
くま「サアお酌をしよう」
西「イエもうそれではかえってなんでございますから、わしが手酌《てじゃく》でいただきます」
くま「なるほどそのほうがいいね、じゅうぶん飲んでおくれ」
西「ありがとう存じます」
西念さん手酌で飲んでいるうちにスッカリ酔ってしまいました。
西「アアどうもいい心持ちになりました」
くま「西念さんたいそう赤くなったねえ」
西「ヘエ遠慮なしにいただきましてスッカリ酔いました」
くま「そんなに飲まないようだのにねえ、西念さんおまえ、いくつだえ」
西「ヘエわしはもう六十を越しまして、やがて七十でございます」
くま「ヘエー六十五かえ、六かえ」
西「さようでございます六十六で……」
くま「そうかえ、おまえさん言葉のようすじゃァ田舎の人じゃァないね」
西「ヘエッ」
くま「おまえさん田舎じゃァないね」
西「ヘエ、わしもこれでも江戸ッ子でございます」
くま「アアそう、江戸はどこ」
西「神田の三河町《みかわちょう》で生まれました」
くま「オヤオヤ神田ッ子、そうかえ」
西「イエもう、若い時分はずいぶん威勢がよくって、わしは安五郎《やすごろう》といいますけれども、誰も名を呼ぶものはありません、乱暴安《らんぼうやす》、乱暴安といって、三河町で乱暴といやア、わしのことのようになっておりました。親類ともだちをはじめ、ご近所にやっかいにばかりなっておりましたが、今になって考えると夢のようで、ご馳走をいただいてこんなお話しをしちゃァすみませんが、これも身のざんげで、今じゃァこうして頭を丸め、ねずみの手甲《てっこう》、ねずみの衣で殊勝らしくしておりますが、乱暴盛りにゃァ伝馬町《でんまちょう》のごやっかいにも二度三度なりました、年というものは恐ろしいもので、どうしてマアあんな乱暴なことをしたろう、と昔のことを思い出すと、自分ながらあきれてしまいます、マアごらんなさい、このねずみの手甲をはめているからわかりませんが、これを取るとソレこの通り文身《いれずみ》だらけでございます」
くま「オヤオヤマア……」
西「頭を丸めて衣を着け、鉦をたたいて歩くのに、文身《いれずみ》が見えちゃァ工合が悪いから、この手甲を始終はめたっきりでございます、じつに若い時には罪を作りましたよ」
くま「そうかえ、だからね、いろいろ話を聞いてみなければわからないもので、そのようすじゃァ若い時からずいぶん苦労をしたんだね」
西「エエもうそれは己が身から出た錆《さび》でしかたもございません」
くま「わたしもねえ、女でこそあれ、ずいぶんいろいろなことをしてとうとう今じゃァ勤め奉公をしているが、ソレここに書き付けがある、元はわたしもこういう者の娘さ」
西「ヘエーなるほど、ではあなたは以前は立派なお暮らしをなすったお嬢さんでございましたか、いずれご道楽の末でございましょう」
くま「マアそんなことさ」
西「ヘエ、しかし、かようなことを申しては恐れ入りますが、早くマア堅気《かたぎ》におなんなさいまし」
くま「それについて西念さん、おまえこうして毎日家の前を通って観音様へ日参《にっさん》をするんだそうだが、こないだから見るたびに思ってるんだが、おまえさんわたしのおとっさんにそっくりだよ」
西「ヘェー、わしのようなこんなじじいが……」
くま「イーエ、ほんとうに、格好といい、器量といい、よくもこう似た人があるもんだと思ってね、わたしゃなんだか他人とは思われない、死んだおとっさんのような気がしてならないんだよ」
西「ご冗談おっしゃっちゃァいけません」
くま「イエほんとう、今おまえさんから堅気になれという話もあったが、わたしもいつまでこんなことをしてたかァないからね、いろいろ心配していたところへ、幸い世話をしてくれようという人があって、マア近いうちにそのお客に引かされて堅気になるつもりなんだよ」
西「そうでございますか、そりゃァけっこうでございます」
くま「そうしてね、駒形《こまがた》へ絵双紙屋《えぞうしや》の店を出してくれるつもりなんで、もう来月の末にゃァ引かされることになっているんだよ」
西「ヘェーけっこうでございます、わしもマアどうかあなたのご出世になるよう、毎日拝んでおりますから、そういうことをお聞き申すと、じつに嬉しゅうございます」
くま「それについてわたしもおまえさんを親と思ってるから、おまえさんもどうかわたしのような者でも子と思ってね、……イエサほんとうだよ、ほかになんにも身寄り頼りのない身の上なんだからね、わたしが世帯を持ったら、おまえを家へ引き取ってあげたいと思ってるんだから、よければ家へ来ておくんなさいよ」
西「ヘエ、けっこうでございます、そうしていただけばわしもなによりで、こんな爺に嘘でもそんなやさしいお言葉をかけてくださいまして……」
くま「イエ嘘どころじゃァない、おまえさえよければわたしは来月末には必ず世帯を持つから、そうしたらぜひ来ておくれ、どうしても年寄りがいないと困るからね」
西「ありがとう存じます、そういうことなればお留守番がてらお家を守ります」
くま「どうぞそうしておくれ、アノ西念さん、今ご飯が来るがもう一本おあがりな、お酌をしようじゃァないか」
西「イエもういただけません」
くま「マアサ、いいじゃァないか、もう一本……」
じゅうぶんにお酒を飲み、ご飯を食べて、またいくらかの鳥目《ちょうもく》をもらって西念は大喜びで帰りました。それからまた二日ばかりたって西念若松の門へ立ちますと、
○「西念さんこのあいだはご苦労だったね」
西「ハイ、そのせつはありがとう存じました」
〇「アノネ、おくまさんがなんだか今日西念さんが来たら、ちょっと寄ってくれろとこういったよ」
西「さようでございますか」
と例の通り観音様へ参詣をして帰りがけ、若松へまいりおくまの部屋へ通って、
西「せんだってはいろいろご馳走になりましてありがとう存じました」
くま「西念さん、このあいだはご苦労様、少しおまえさんに話したいことがあってそれで呼んでもらったの」
西「さようでございますか」
くま「アアお膳が来た、マア一杯おあがり」
西「イエまだわしはおつとめが……」
くま「マアサおつとめもなんだけれども一杯おあがりよ、寒いじゃァないか」
西「どうもお寒うございます、この塩梅《あんばい》じゃァ二三日中に雪が降りましょうな」
くま「そうだねえ、雪もよいでそのせいか、わたしゃ下ッ腹が痛くッて……」
西「わしなども疝気《せんき》がございまして、どうも若い時の古キズが時々起こってしようがございません」
くま「マア寒いから一杯おあがり」
西「ありがとう存じます」
二本ばかりご馳走になっていい心持ちになり、
西「イヤどうもありがとう存じました、このあいだは少しいただき過ぎまして、宅へ帰りましたのも半分夢中で、そのまま寝てしまいました、今日はまことにいい心持ちにいただきましてございます」
くま「ついては西念さん、ほかじゃァないがね、このあいだちょっと話した通り、わたしも来月の末世話をしてくれようという人が田舎から帰ってくるんでね……」
西「ヘエさようだそうでございまして、まことにけっこうなことで……」
くま「ところがおまえさん、その駒形の絵双紙屋を出すという家が五十両の敷金をここですぐに入れてくれなければほかへ貸してしまうというんだよ、わたしも困っちまったんだよ、その旦那さえ帰ってくればどうにでもなるんだが、といって店のものや朋輩《ほうばい》に話をするのも嫌だしするんだがね、おまえさんほうぼう歩くけれども、利息はちっとぐらい高く出てもいいが、五十両ばかりどこかでお金を貸すところがあるならおまえ世話をしておくれ、旦那が帰ってくればすぐに返すから……」
西「さようでございますな、五十両、そりゃァあなたのことだから、お金を貸すところはいくらもありましょうけれども、しかしつまらないじゃァありませんか、高い利息なんかお払いなすって」
くま「つまらないったってせっかくいいと思った家を借りそこなっちまうのはなんだか幸先《さいさき》が悪いからね、旦那の旅先も知れてるから、手紙を出してもいいけども、しかしこういう身分だからわたしのほうから手紙なんぞあげたら、旦那が迷惑なさるだろうと思ってね、来月末にはきっとお帰んなさるんだから、それまでの間の融通に借りるんで、利息といったところが高が知れてるから西念さん、心あたりがあったら世話をしておくれな」
西「さようでございますな……いかがでございましょう、五十両といってはちっとむずかしゅうございますが、三十両ならわしがどうにか都合いたしましょう」
くま「貸すところがあるかえ」
西「イエわしが持ってきてご用だて申しましょう」
くま「おまえが……いやだよ西念さん、おまえにお金なんぞ貸してもらっちゃァ体裁が悪いじゃァないか、利息が出てもいいから、お金貸しがあるならそれから借りてきておくれな」
西「だってあなた、ばかばかしゅうございます、利息なんぞどうでも来月の末までにきっとお返しくだされば、わしのような者でもあなたが引き取ってやろうとまでおっしゃってくださるんですから……」
くま「だって西念さん、それじゃァなんだか……」
西「イエなんのそんなご遠慮なさらないでも、どうせわしがごやっかいになるんでございますから、ちょっといって持ってまいります」
と、西念が少しほろよいきげんでもあるし、セッセと河原の宅へ帰ってまいりまして、あたりを見まわし、家へ入って縁の下へ隠しておいた三十両の金がある。これを持ってきて、おくまに貸しました。
くま「ありがとうありがとう、それじゃァ旦那が帰ってきたら利を付けて返すから……」
西「イエ利なんぞをいただこうと思ってわしはご用だてるのではございません、元金さえお返しくださればよろしゅうございます」
とそのまま西念は帰りましたが、翌朝から雨が降り出し、三日降り続いて四日目の朝ようやく天気になりまして、五日目には往来もできるように道もかわきましたから出掛けたいと思ったが、三四日休んだので衣を曲げて〔質にいれて〕しまい、これを受け出さなければおつとめに出られません。三十両の金を持っていたくらいでも、それはそれ、間にはその日その日のもらいで食っているのですから、どうしても一分《いちぶ》ばかりなければ衣を受け出すことはできないから、杖を突っぱって若松へ来ておくまさんに一分ばかり借りようと思って、
西「ごめんくださいまし」
○「アア西念さんか」
西「ヘエ、どうもよく降りましたな」
○「アアどうもおどろいたね」
西「ようようマア好い天気になりました」
○「どうしたえ、今日はおつとめに行くようなようすじゃァないね」
西「へエ、少しお願いがございまして、おくまさんにお目にかかりにまいりました」
○「マアそうかえ、少し待っておくれ、……おくまさんへ西念さんが来ました」
わきのほうで手を振って、
くま「居ないといっておくれよ」
○「だって居るといってしまいました」
くま「いいから居ないといっておくれよ」
○「エエ西念さん、おくまさんは居ませんよ」
西「いま居るとおっしゃったじゃァございませんか」
○「エー、ウム……困ったなァ、それがよ、居ても居ねえんだ」
西「なんですえ、居ないというのは……ご冗談おっしゃらず、どうぞ会わしてくださいまし」
○「おくまさん、困っちまいます、居ないといっても聞きませんよ」
くま「しようがないねえ、じゃァ、上げておくれ」
○「西念さんこっちへお上がり」
西「ヘエありがとう存じます」
くま「オヤ西念さん、よく降りつづいたね」
西「ヘエ出られないで困りましてございます」
くま「そうだったろうね、なんだえ西念さん、わたしに会いたいとお言いのは」
西「ヘエほかではございませんが、三四日この雨で休みまして困りましたところから、衣を曲げてしまい、一分なければ受け出されませんので、まことにすみませんが、一分ばかりお借りできるならお貸しくださいまし」
くま「お気の毒だがねえ、じつはわたしも今日、小遣いに困って朋輩衆にでも借りようと思ってたんだけれども、やっぱりこの雨でちっともお客がないもんだから、誰も持ってないんだよ、それくらいだから貸してあげることはできない、ほんとうにお気の毒だねえ」
西「しかし一分でございます」
くま「一分でもなんでもできないよ」
西「そうおっしゃいませんで、どうかお願い申します、あなただって、親同様にお世話くださるとまでおっしゃる思し召し、それなればこそ、わしも三十両の金をご用だて、来月末に旦那様がお帰りになればお返しくださるというお約束、それもご利息などをいただこうというわけじゃァございません、それゆえ、ただの一分ぐらい」
くま「オイ西念さん、ちょっとお待ち、なんだって、三十両を誰がおまえから借りたって……」
西「エーあなたにわしがご用だてしました」
くま「冗談いっちゃァいけない、わたしはおまえなんぞから、百だって借りたことはない、おふざけでない」
西「イエおまえさんわしを親同様に思って家へ引き取ってくだすって、駒形に絵双紙の店を出して……」
くま「なにをいってるんだい西念さん、誰がおまえを親だって……いやだよこの人は、ふざけちゃァいけないよ、アノ三十両はおまえがわたしにくれたんじゃァないか」
西「ご冗談ばっかり、あなたそんなひどいことを……なんでわしがあなたにそんな大金をあげるなんてことができましょう」
くま「そんならいうがね、じつはお友達と賭けをしたんだよ、西念という河原にいる坊主は、だいぶ金を持ってるようだ、なんでも内々人に金を貸しているようすだが、いくらおくまさんが達者でもあの西念さんの金は取れまいというから、ナニ、取れないことはないッて、それから賭けをしておまえさんから三十両もらったんだよ、マアいいじゃァないか、おまえさんだって若い時にはずいぶん人をだまして罪を作ったんだろう、罪ほろぼしになるよ、またチョイチョイ鉦をたたいて来れば少しずつあげるから、そのうちになんとかならァね」
西「エーッそりゃおまえさんあんまりでございます、今のわしを亡くなったおとっさんにそっくりだから、親同様に引き取るって……」
くま「冗談いっちゃァいけない、そんな乞食坊主を親だなんて、人を馬鹿におしでない、グズグズいわないで帰ってくれ、誰かこの乞食を突き出しておくれ」
西「マアおまえさんそりゃァあんまりひどいじゃァごさいませんか、なにをなさるんで」
若「エーグズグズいうない、とんでもねえ坊主だ、おくまさんに言いがかりしやァがって」
むりやりに若い者が大勢かかって、西念をおもてへ突き出してしまいました。
西「エエなさけない、おまえさん達はあんまりひどいことをする」
とまた入ろうとする奴を胸倉を取って小こづきまわしたあげくに、前へ引いたから、コロコロとよろけて、バッタリ倒れるとたんに、石へ眉間《みけん》を打ち付け、タラタラと血がたれた。
西「アイタタタ……アア血が出た、ひどいことをしやァがる、わしのような者をだまして金を取ったうえ、けがまでさせやァがった、覚えていろ」
恨めしそうに西念は、若松屋の家をにらんで帰りましたきり、おもての戸を締めっきりにして全然外に出ません、それからとうとう病気になって、ウンウンうなってる。長屋じゅうでも心配して、
○「茂兵衛《もへえ》さん、西念さんのところへ行ってやったかえ」
△「アア行ってやったがうなっている」
○「ふだん丈夫な西念坊主だがどうしたんだろう」
△「アノ塩梅じゃァ、もう長くもたねえぜ」
○「かわいそうもかわいそうだが、今月は誰が行司〔長屋の世話役〕だ」
△「糊《のり》売り婆ァのおかんだ」
○「オイ糊屋の婆さん」
婆「ハイ」
○「おまえ今月行司だ、ちょうど年寄り同志だ、まして行司だ、西念さんが病気だ見てやってくれ」
婆「いやだよ、わしは」
○「そんなことをいわないで年寄り同志のことだ」
婆「年寄りだって行司だって、わしゃァ糊を売らなきゃァ商売にならないよ」
○「糊を売るのを休んで行けってんじゃァねえ、商売に出るあいだに長屋のつきあいだからちょっと行ってやってくれ」
婆「いやだよ、わしは糊を売らなきゃァ、おまんまが食べられない」
○「この欲ばり婆ァめ、商売々々っていやァがっててめえの糊は腐って使えねえや、おとといもおみつさんがおまえの糊を買ったが、腐ってて臭くって使えねえって、どぶへ捨てちまった」
婆「なにをいやがるんだ、納豆屋の彦六《ひころく》め、てめえの納豆こそ腐って食えやァしねえ、このあいだおなかさんがおまえの納豆を買ったら、腐ってて食えねえから捨てちまった、とそういってた」
○「嘘をつけ、そんなことがあるもんか」
△「オイオイおまえさんなんだい、彦六さんとけんかしちゃァいかねえ」
婆「だけれどもこの野郎、人の糊が腐ってるのなんのというから」
○「この婆ァめ、人の納豆が腐ってるといやァがる」
△「マアマアよしねえよ納豆はわざと腐らせるんじゃァねえか」
見舞いに行かないでけんかをしているところへ、
×「少々うかがいますが、このお長屋に西念さんという人がおりましょうか」
△「西念さんはこの突きあたりの家だが、いま西念さんは患ってるよ」
×「アアさようでございますか、私は西念の身寄りの者でございまして……」
△「アアそうかい、オイオイ西念さんの身内が来た」
○「エエ身内、そいつァちょうどいい」
婆「オヤあなたなんでございますか、西念さんのお身内で、マアそうでございますか」
糊売り婆さん急にようすが変わりました。教えられてその男は西念の家の前へ来て、
×「ごめんなさい、ごめんなさい」
といったが締りがしてあるとみえて開かない、戸のすき間からのぞいて見ると心張《しんば》りが掛かっているようす、ガタガタと戸を二三度ゆすぶるとガタンと心張りが落ちた。
西「誰だい、開けたなァ誰だい」
×「おじさん、おらァ甚吉《じんきち》だよ」
西「ナニ、おいの甚吉か」
甚「おじさんどうしたんだ」
西「ヤア甚吉、よくおまえ達者でいてくれた」
甚「おじさんおまえもよく無事でいてくれたな、じつは俺はけんかをして伝馬町へ食らい込んでようやく三日ばかり前に出てきた」
西「アアそうか」
甚「今日親父の寺参りをして、アーおじさんが千住の河原に居たっけ、親がねえ後はおじさんが親だ、訪ねなけりゃァすまねえと思って、おまえの病気も知らねえで、訪ねてきたんだ、マア安心しておくれ、スッカリ堅気になっちまったから」
伯「そうか、よく訪ねてくれた、甚吉わしがいい手本だ、若《わけ》え時分はずいぶん心得ちがいをするが決して道にちがったことをしちゃァならねえ、マァ堅気になりゃァけっこうだ、ダガ俺はもう長えことはねえよ」
甚「オイおじさん、そんな弱い音を出しちゃァいけねえ、じつはもうおまえも年をとったから、これから話し相手になる気で俺は訪ねてきたんだ、しっかりしなくっちゃァいかねえ」
西「ありがとう、だがもう長《なげ》えことはねえ、てめえも知っての通り、てめえの親父はわしとちがって堅人《かたじん》だったが、わしは世間の者に忌《い》みきらわれ、今さらいうのもはずかしいが、臭《くせ》え飯もたびたび食い、アア悪いことをしたとようよう発心《ほっしん》をし、今じゃァ頭をまるめて、こうして仏に仕え、人様の門《かど》に立って合力《ごうりき》を受けている、なんでもわしをいい手本にして、堅気になってしっかりやらなけりゃァいかねえよ」
甚「アアいいよ、これから真人間になって、ウンと稼ぐつもりだ」
西「そうしてくれそうしてくれ、甚吉おらァちょっと小便に行ってくるから頼むよ」
甚「アアそうか、一人でいいかい、危ねえよ」
西「そりゃァいいが甚吉や、そこにあるその鍋のふたを開けて見ちゃァいけねえよ」
甚「エー鍋、こりゃなんだ」
西「だから開けちゃァいけねえよ」
甚「アアいいとも開けて悪いものなら開けやァしねえ……、アハハハ、年をとると、意地がきたなくなるもんだ、鍋の中へ何か食い物が入ってて、俺に食わせねえようにわざわざ断わって行ったのか、なんだか見てやれ」
ソコは人情で見るなといわれると見たくなるもの、開けて見ちゃァいけねえといわれたからなんだか知らんと、ソッと鍋のふたを取ってみると甚吉アッとびっくりして、ソッとふたをしてしまった。
西「アア好い心持ちになった、アア甚吉や」
甚「オオおじさんいってきたかい」
西「アア好い心持ちになった……、オヤ甚吉」
甚「エー」
西「おまえこの鍋のふたを開けたな」
基「イエ」
西「イヤ中を見たろう」
甚「見やァしねえ」
画「ナニ見ねえことがあるものか、鍋のふたが曲がってるじゃァねえか」
甚「アア、そりゃなんだ、今ちいせえねずみがチョロチョロと出てきて、鍋のふたの上に乗ったから、それで曲がったんだ」
西「嘘をつけ、見たら見たといってくれ」
甚「それじやァいうがおじ父さんあまり見るな見るなというので、見たくなったから、じつは今ふたを取って見た」
西「見たか」
甚「ウム見た。おまえも頭を丸めた了簡に似合わねえ、わら人形を油でいためて、いったい誰を祈り殺すつもりなんだ」
西「甚吉や、それについて話がある、マアひと通り聞いてくれ」
千住の若松という女郎屋の板頭のおくまという女がこれこれで、だまされて三十両の金を取られた話を残らずいたしまして、
西「それだから俺はまだ生きてはいるが、心はもう鬼になって、その阿魔《あま》を祈り殺すんだ」
甚「ヘエー、そうか、こいつァ俺も知らねえから、開けて見てすまなかった、だがおじさん、わらの人形に五寸釘《ごすんくぎ》ということはあるが、アノわら人形に灸《きゅう》がすえてある、灸ではおまえ祈りがきくめえ」
西「ナニ釘じゃァきかねえんだ、先の女がもと糠屋《ぬかや》の娘だ」
[解説]落語の乞食坊主は、いつも西念《さいねん》である。この話の西念も、物も食わずに金を貯えるところは、黄金餅《こがねもち》の西念に似ているが、宿場女郎にだまされて金を取られるのは、たとえ色恋ゆえでなくとも話に多少の色気がある。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
質屋の蔵《くら》
―――――――――――――――――――
一席申しあげます、ごくお古い落語《はなし》に、高慢の武士が化け物退治に出たというのがございます。
武「アア、コレコレ、その方《ほう》達はなにをいたしておる」
甲「ヘエこれはお武家様、いいところへおいでくださいました」
武「なんだ」
甲「どうもわしらァ困ったことがあるでがすよ、この先に古寺がごぜえましてな」
武「ウム」
甲「そこにハア毎夜毎夜悪い化け物が出ましてな、それがためにこの村へ住む者がなくなりまして、だんだんさびれてきますで、わしらァ困っています」
武「ハアア、その古寺というは、いずれにある」
甲「この村はずれのところでございますが、今はもう大破して住持《じゅうじ》もおりませんで、たぬきが巣を食ってるかきつねが巣を食ってるか、化け物が出るというので、毎日こうやって張り番をしておりまして、お武家様でもおいでになったらその化け物を退治していただこうと思っておりますので……」
武「ハア、みどもは武芸十八般なにひとつとして知らんものはない、ことに剣道はみどもが得意とするところ、よろしいしからば、みどもがその化け物を退治いたしてくれる」
甲「しかし旦那様、なかなかえらい化け物でございますから容易のことでは退治ができません」
武「なんの妖怪変化《ようかいへんげ》のする業《わざ》、高の知れたるものだ、その方達ご苦労だが案内しろ」
甲「さようでございますか、それでは九ツの鐘が打ちましたら出かけましょう、まだ早うございますから……」
武「イヤイヤそうでない、早くから行ってようすを見ておくほうがよい」
甲「そんなら旦那様お伴をいたしましょう」
と、もう日の暮方《くれがた》でございますから、提灯《ちょうちん》の支度をして村の者に案内されて来てみると、なるほど一軒の古寺、門はかたむき扉はたおれ、境内は草ぼうぼうとしておりましていかにもものすごい。
武「これか」
甲「ヘエ」
武「なるほどこれは荒れ寺だな、しからば、みどもは今夜一泊いたす」
甲「ハアここへお泊りになりますか」
武「泊まらなければ化け物の正体を見現わすことができん」
熊「どうも旦那様たまげたえらいお方だ、わしらァハア夜になったらこの寺の前を通るさえおっかねえと思うと、お武家様一人でお泊まんなさるというは恐れ入ったもんだね」
乙「ウム、えれえお武家様だァ、それじゃァ提灯を置いてッてあげるがええ」
武「イヤ提灯までには及ばんが、火口《ほくち》に火打石とろうそくを二三本置いていってくれ」
甲「さようでごぜえますか、それじゃァここへ置いてめえりますから、どうかなにぶんおねげえ申します」
と、百姓はろうそくと火打道具とを渡してみんな帰りました。あとに残った武士、おのれ化け物、我が日ごろの腕前を現わしくれんと、畳もなにもボロボロの本堂の柱にもたれ、刀を引きつけ大あぐらをかいて化け物の出るのを待ちかまえておりますうちに、早九ツも過ぎ、八ツ近くになってくるに従い、ますます陰々としてまいりました。アアもうほどなく怪物が出てくるだろうと思っているうちに、コロコロコロコロと一つの火の玉が前のところへ転がってきた。
武「ウムこれか、なるほど妖怪変化のなせるわざにきまっているな、コレコレさような化け方は古いぞ、もうちっと新しいことをやれ、古い古い」というと、パッと右の火の玉が消えてしまった。
武「ハアなるほど、みどもの古い古いという一言《いちごん》で火の玉が消えたが、今度はなにが出るか」
と、見ていると向こうから女の生首がコロコロコロコロと転がってきて、武士の前でヘヘヘヘヘと笑った。
武「ウームまた出たな、エー古い古い」
パッとまた消えた、もうこれきりかと正面を見ると一ツ目小僧。
武「なんだ一ツ目小僧など時代なものを見せるな、コレコレさようなものは古い古い」
しばらくすると、天井から二抱えもあろうという太い毛もくじゃらの人間の足がヌッと出た。
武「コレコレさような化け方は古いぞ、アッ古い古い」
パッとこれも消えてしまった。
武「ハハハハハ、もうこれきり出んのか、もう化けられんければ正体を現わせ」
しばらく待っていたが出てこない、そのうちに東のほうが白んできたからさてはもう夜が明けるとみえる、あやつ、みどもの勇気におどろいて、とうとう引っ込んでしまった。これから怪しき姿に化けて旅人を悩まし、里人をおびやかすようなことがあると、その分には捨ておかんぞ」
いううちだんだん明るくなってくる、カアカアカアカア、
武「アアからすがないてきた、まったく夜が明けたにちがいない、まずこれでよい、立ち帰って百姓どもに安心さしてやろう、コレ妖怪、このあと再び悪戯《あくぎ》をするにおいては、みどもなんどきでもまいって切り捨てるからさよう心得ろ」
と、ろうそくも火打道具も不用になったからその辺へ投げ捨てて本堂を出て意気揚々と山門のところまでまいると、こはいかに再び真っ暗になって見当がつかなくなった。
武「ヤアこれは不思議、夜が明けたと思ったらまた暗くなった。さてはこれも妖怪の業かな、ろうそくを捨ててしまい残念のことをいたした」
するとうしろに声がして「どうだ、これは新しかろう……」
さて本題の質屋の化け物というお噺、つたないところは急ごしらえでまだ化け馴れませんゆえとお見みのがし願います、古い川柳に「幽霊になれば平家も白いなり」たいがい幽霊は白い着物を着て出るようで、幽霊に赤い着物などは昔から今日までないようでございます。しかし幽霊と化け物とはちがうとか言います。そうかも知れません。物が化けるから化け物で、
熊「エーごめんください」
隠「誰だい、オオ熊さんか、サアおあがり、なにか用かね」
熊「ヘエ隠居さんに少しうかがいたいことがあって……」
隠「ハア、なんだえ」
熊「ほかじゃァございませんが、この先の乾物屋に幽霊が出るというのでこの頃たいそう評判が立ってますから、私もゆうべ行ってみました」
隠「ハア、どうしたえ」
熊「ナニ行ってみるとばかばかしい、とうとう一晩夜明かしをしてなにも出やァしません、どうも癪にさわってたまりません、皆がくだらねえことをいうもんだから、とうとうゆうべ寝ねえんで今日は仕事も休んでしまって、いまいましいから今二三人で一口やりながら賭けをしてきたんで……」
隠「なんだい賭けというのは」
熊「辰《たつ》の野郎のいうには、幽霊てえものは世の中にあるといやがる、わしは幽霊だの化け物だのてえものはねえというんで、あるかねえか伊勢屋の隠居さんはなにかご存じだから聞いてみたらわかるだろうと、賭けをして聞きにきたんでございますが、幽霊や化け物は世の中にあるかねえかどっちでございましょう」
隠「アアなるほどおもしろい話だね、アア幽霊は有るといえば有る、無いといえば無い」
熊「それじゃァ隠居さんわからない、有るとか無いとか片っぽうづけておくんなさいな」
隠「サアはっきりとわからないところが幽霊だな」
熊「ふざけちゃァいけません、こっちじゃァ真面目で聞きにきたんだから」
隠「それがさ、学者でさえいろいろ議論があるくらいだから、わしにもシカとしたことはいわれないが、しかし化け物はあるにちがいないな」
熊「へエー、化け物はありますかえ」
隠「アアある、浅草の公園あたりへ行くと、首のまっ白な化け物が出て往来の男を取って食い、その毒に触れようものなら鼻が落ちたり、眼がつぶれたり、はなはだしいのは骨がらみなどという奴になると、身体が利かなくなるね、新宿や有楽町あたりにもだいぶ化け物がいるということだ」
熊「じょうだんじゃァねえ、そんなものでなく、なにかほかに化ける物はありませんか」
隠「しかし熊さん、人間でも古くなりゃァ化けるよ、こどもが大人に化け、新姐《しんそ》が年増に化け、年増が婆ァに化ける」
熊「そりゃァなにも不思議じゃァねえ、あたりまえの話じゃァございませんか、なにかこう不思議な化け物があるなら聞きてえんで……」
隠「サアずいぶんわしも若い時分には、不思議な化け物に出あったことがある」
熊「また淫売《いんばい》の話かね」
隠「イヤそうじゃァない、ほんとの化け物だ」
熊「へエーどこで出っくわしました」
隠「私の若い時分、まだ世の中が今のように汽車などという便利のものもない、たしか二十二三の時だった、旅をしたね」
熊「へエー」
隠「若い頃まことの武張《ぶば》ったことが好きで、剣術も少しは習ったし、昔なら武者修業とでもいうように、諸国を廻って歩いてちょうど木曾へかかった」
熊「へエー」
隠「木曾の山中へ入ると、どう道を踏みちがえたものか、行けども行けども山また山、人家というもの更にない、サア困った、けれども若いから勇気はある、ナニどんなものが出ようと驚くことはない、こういう時には日ごろ覚えた剣術の手並を現わそうと思うから平気なものだ」
熊「へエー」
隠「ふとかたわらを見ると、二《ふた》抱えもあろうという大きな木の株がある」
熊「へエー」
隠「少し洞《ほら》のようになっているそこへ腰を掛けて休んでいると、しきりに眠む気をもよおしてきて、始めのうちはコクリコクリ居眠りをしていたが、いつの間にかグッスリ眠込んでしまった」
熊「へエー」
隠「やがて気がついてみるともう日が暮れている」
熊「なるほど」
隠「サアあたりはまっ暗、真の闇というのはこれだ、どうも困ったな」
熊「どうしました」
隠「仕方がない、今宵はここで野宿をすることかと思ってヒョイと向こうを見ると、チラチラ明りが見える」
熊「ヘエなるほど」
隠「昼のうちは気がつかなかったが、夜になって明りが点いたので、人家があることがわかった、ヤレうれしや、しかしこういう山中にすまいをするのは杣夫《そま》のたぐいでもあろう……」
熊「ヘエ山の中に、そばやがありますか」
隠「そばやじゃァない杣夫《そま》、樵夫《きこり》か猟師のすまいだろうと思ってだんだん近寄ってようすを見ると、古びたるところの一軒家、戸の隙間からのぞいてみると汚い行燈《あんどん》の下に糸車をひいてる婆さんがいる」
熊「へエー」
隠「さては伜《せがれ》がなにか仕事に出て婆さんが留守をしているのか、なんでもいいから今夜泊めてもらおうと、ごめんなさいごめんなさいと、二三度呼ぶとハイと返事をして出てきたのは今の婆さん、私の顔を見ておまえさんはどこからおいでだ、私は旅の者だがどこで道をまちがったか、この山中へ踏み迷ってどうすることもできない、どうか今夜一晩宿を貸してもらいたいというと婆さんが、アアそうかね、それはマアお気の毒なことだ、しかしこんな山の中でべつに食べる物もないけれども雨露をしのぐだけでよければゆっくりと休みなさるがいい、あいにくもう火も消して湯も沸いていないが、水でよければそこにあるから飲んで寝なさいと親切に婆さんがいってくれる、べつに食い物はいらない、今夜一晩泊めてくれればいいと、次に二畳敷ばかりの間がある、ボロボロになってる破れ障子を開けて中へ入ってわしが寝た」
熊「へエー」
隠「かれこれ二時間も寝たと思うと、なにやらトントン音がする」
熊「へエー」
隠「ハテどうしたのかと起きあがって障子の破れからこうのぞいて見ると、驚いたな」
熊「どうしました」
隠「さっきわしに口を利いた婆さんだ」
熊「へエー」
隠「先とはちがってきれいな若い花魁《おいらん》姿になって踊りを踊ってるんだ」
熊「へエー、いよいよ化けましたな」
隠「まさしくこれ妖怪変化にちがいない、我が腕を試すはこの時と、持っていた合口《あいくち》を引き抜いて、物をもいわず障子を蹴飛ばして、妖怪覚悟をしろと切りつけた」
熊「へエーどうしました」
隠「とたんに目が覚めた」
熊「なんですって」
隠「ハハ……じつは夢だよ」
熊「冗談じゃァねえ、人が真面目に聞いてりゃァ夢の話か、ばかばかしい、それじゃァ若い時分の旅をしたのも夢ですね」
隠「そうだ」
熊「それなら始めに断っておくんなさりゃァいいのに」
隠「始めっから断っちゃァ話にならない、ところが熊さん不思議なことには、あくるひ土蔵へ入って他《よそ》からお預りした応挙《おうきょ》の掛け物を出してみると、その花魁《おいらん》の絵と夢に見た女とそっくりだ」
熊「へエー」
隠「シテみると名画に魂が入っていて、浮かれ出したのを私が夢に見たんだな」
熊「なるほど、しかしその山に汚い婆さんになってるのはどうしたんでござんしょう」
隠「花魁の身のなれの果てがこの絵のうちにこもってるんだな、画工も名人になると恐ろしいものじゃァないか」
熊「なるほど、シテみるとそりゃァ絵の化け物ですなァ」
隠「マアマアそうだ」
熊「へエー、ずいぶん世の中には不思議なことがあるものですね」
隠「あるとも、じつはこれまで話をしたから隠さずにお前には内々で話をするが、そればかりじゃァない、わしのところへ毎晩いろいろな化け物が出るんだよ」
熊「へエー化け物が形を現わすんですかい」
隠「アア形を現わすものもあれば見えないで声がしたり、音がしたりするものもある」
熊「そんなことをいって、まただますんでしょう」
隠「誰がだますものか、しかし伊勢屋へ化け物が出るなどと世間へ吹聴されると家の衰微《すいび》になるから、どうか人に言っておくれでない」
熊「それはいう気遣いありませんけれども、どんな化け物が出るんで……」
隠「マアいろいろのが出る」
熊「やはりきつねやたぬきの化け物で……」
隠「きつねも出ればたぬきも出る、猫も出れば馬も出る」
熊「へエー」
隠「みんな質《しち》に取った品物の気が出るんだな」
熊「なるほど、じゃァ今の花魁の絵が抜け出したようなものなんですね」
隠「マアそうだ、ちょっと一つ二つ話をすれば、毎晩一時過ぎ二時ごろ世間の寝静まる頃になると、テンテレツクテンテレツクと遠くなったり近くなったり、馬鹿|囃子《ばやし》の音がするんだ」
熊「へエー」
隠「そうかと思うとドンドコドンドンドコドン、ドコドコドコドコと団扇太鼓《うちわだいこ》の音がするナ」
熊「へエー」
隠「始めのうちは気にもしなかったが、果てはわしが寝ている次の間あたりのところに聞こえることもあり、土蔵の中に聞こえることもあり、どうも変だ変だと思ってると、おまえ、それがある幇間《たいこ》から質に取った左甚五郎《ひだりじんごろう》作のたぬきが浮かれるんだ」
熊「へエー、彫り物のたぬきが太鼓をたたくんで……」
隠「もちろん甚五郎の作り物には往々そういうことがある、上野の鐘楼堂《かねつきどう》の竜が水を呑みに出たという話もあれば、竹っぺらの水仙に花が咲いたということもあるからな」
熊「なるほど剛儀《ごうぎ》なものですなァ」
隠「シテみればそれくらいのことのあるのは当然だ」
熊「そうですねえ、しかし隠居さん、たぬきという奴はまったく化けるもんですかね」
隠「まず動物のうちで化ける物というと、たぬき、きつね、てん、かわうそなどというが、マアきつね、たぬきがお職《しょく》だろうね」
熊「へエー」
隠「熊さんわしがまだ子供の時分、ご維新前だったがこういう話があった」
熊「また隠居さん夢じゃァないか」
隠「イヤこれは夢じゃァない、神田橋|御門外《ごもんがい》に護持院《ごじいん》という寺があって、これが柳沢《やなぎさわ》一件の時につぶれて後が原っぱで淋《さび》しかった、一番原、二番原、三番原とあるその原っぱのあいだが往来になっていて、そこを横切ると近いからわし共は子供で淋しかったけれども我慢してそこを通ったが、森がかぶさったようになっていてきつねやたぬきが棲んでいる、中に古いたぬきときつねと兄弟同様にしている奴があった」
熊「へエー、奇態のことがあるものだ、わし共の仲間にもきつねとむじなと兄弟分の奴があります。」
隠「ハア、それはどういうわけだ」
熊「一人が面《つら》がとがってるんできつねの三吉《さんきち》というんで、一人がひげもじゃの真っ黒な面《つら》をしているんでむじな金《きん》てえんです」
隠「ハハハハそれは綽名《あだな》だな、こっちのは本物のきつねとたぬきの兄弟分だ」
熊「それがどうしました」
隠「ある時たぬきがきつねどんどうだい、あっちの町の取っつきに日暮れになるとてんぷら屋が出る、アノ味を占めようじゃァねえかと、たぬきがちょっと頬っかぶりをして職人体《しょくにんてい》になった」
熊「へエー」
隠「それじゃァわしも同じ職人になろうと、このほうがたぬきより化け方が器用だ、そしててんぷら屋の店へ行ってさんざん食ってきつねがいくらだえ、ヘエいくらいくらでございます、ここへ置くよと腹がけの隠しから出したのは木の葉だけれども人間にはこれが銭に見えるんだな」
熊「なるほど」
隠「ソコでたぬきがどうもきつねには敵《かな》わねえ、化け方が俺から見るとうめえ、なにか他にねえことをして一番驚かしてやろうと、原の中で寝ていると侍が二人、どうだどこかへ行って飲もうか、イヤ今夜あまり夜を更かすと明日ご登城が早いからよそう、それじゃァ部屋へ帰って寝よう、しかしお互いに御三家でも水戸《みと》様のお供をしていると巾が利くなと話ながら通った」
熊「なるほど」
隠「これをたぬきが寝耳にはさんで、その晩きつねの棲家《すみか》へ来て、俺の仲間がみんな不器用だもんだからおまえ達に馬鹿にされる、なにか新化けに化けてみようといろいろ工夫して水戸のご行列に化けることを思いついたんだ、そいつァ剛儀だ、なかなかアノ大勢の足音を聞かせようというのはむずかしい、俺のほうでもよほど馴れなけりゃァできねえ、兄弟《きょうでえ》よくやれるな、ウム、明日二番原を、水戸様の行列になって通るから、おまえしゃがんでればいいんだ、見にきてくんねえ、アア行くともぜひ見物に行こうと約束をして別れた」
熊「なるほど」
隠「夜明け方になるときつねが、たぬきめなにをしやがるか、あいつにろくなことができるものか、俺が一言非を打てばたちまちぼろが出る、なにしろ行ってみようと、こいつ職人になって護持院ケ原の通りへきていると、下におろー下におろー……、水戸様の下におろーという下座《げざ》ぶれは少し鼻にかかるが威勢がよかった」
熊「へエー」
隠「ヤア来た来た、うまく化けやがったな、お先徒士《さきかち》からおかごのようす、何百人だろう、こうはなかなか化けられるものでねえと見ているうちにきつねの前へお先伴《さきとも》が来たから、オオもういいいい、今夜一緒にきてその化け方を教えてくれというと、その侍が無礼者といっていきなり抜き打ちにたたっ切った、きつねは正体を現わして苦しんでいるところをもう一太刀《ひとたち》浴びせてお徒士《かち》は行ってしまった」
熊「へエー、かあいそうなことをしましたねえ」
隠「それをたぬきが見て、アアきつねが切られちまったと逃げ帰ってきて自慢そうに話をした」
熊「なるほど」
隠「するとこの切られたきつねに子がある、その子ぎつねが親父の殺されたのはたぬきに計られたのだ、どうかして敵《かたき》を討ちたいものだと、子ぎつねが毎晩護持院ケ原へ来てはようすをうかがっていると水戸様が三日の登城、それを聞きかけたから、たぬきのところへ来て、親父が水戸様に殺されたからわしも水戸様に化けてみようと思って工夫をした、明日四ツ時分水戸様の行列になって通るから見ていて、悪いところがあったら、どうか教えてもらいたいというのでたぬきがあくる朝五ツ半時分、護持院ケ原へ来て待っていると、相変わらず下におろー下におろー、ヤア化けてきたな、うめえもんだこれなら本物だ非の打ちどころはねえ、剛儀だ剛儀だとほめると水戸様のお徒士《かち》が、無礼をすると手は見せぬぞという奴を、たぬきの職人がウム、うめえ者だと、徒士の肩をたたくところを抜き打ちに切られてしまった、きつねがこれを見て、手を合わせて水戸様の行列を拝んでお蔭様で敵討ちができましたと喜んだという、きつねとたぬきの化けくらべといって、その時分たいそうな評判だった」
熊「へエー面白い話だが、さっきの甚五郎の彫ったたぬきはまだ家にありますかえ」
隠「イヤこの間とうとう流れになったから市《いち》へ出したら五万三千六百円に売れた」
熊「恐ろしいいい値に売れたもんだね」
隠「それがたぬき値売りというんだろう」
熊「ふざけちゃァいけない、もう他におもしろい道具で化け物はありませんか」
隠「アアあるとも、どうかすると蔵《くら》の中でいい音《ね》じめの三味線の音がする」
熊「へエー」
隠「ちょっとこう端唄《はうた》でもやっているかと思うと、なんだかたいそう陽気にチャンヂャカチャンヂャカおもしろそうだから、そっと起きて土蔵の中をのぞいてみると、向こうの柱に掛けてある三味線の下で猫が踊ってるじゃァないか」
熊「へエー、驚きましたなァ」
隠「それはマア三味線の化け物だ」
熊「なるほど」
隠「それからおまえ、ある晩おどいたことがあったよ」
熊「へエーなんです」
隠「正宗《まさむね》の刀を一本あずかったんだが、どうもこれが鑑定家に見てもらうと村正《むらまさ》じゃァないかというんだ、それがおまえ、抜き身で暴れ出してな、土蔵の中でワアワアいう声がするんだ」
熊「それは誰の声なんで……」
隠「みんな質物《しちもの》だな、道具だの、着物だの、中にも女の着物なぞはキーキーいうんで、切られた着物もよほどあった」
熊「そいつァ大変でしたね、後始末はどうなりました」
隠「双方の入れ主《ぬし》にだんだん話をすると、なにしろ切られたほうはみんな利があるんだ、刀のほうはもともと無利息の言条《いいじょう》だからどうしても円く納まらず、つぐないをしてやっとのことで示談が調い、この一件は水に流した」
熊「なんだか隠居さん、口上茶番《こうじょうちゃばん》みたようだがまったく形のあったことですかえ」
隠「じつはこれだけはかたなしだ」
熊「ふざけちゃァいかねえ、おおかたそんなことだろうと思った」
隠「今度のはまったくの話だが、ちょうど秋のことだったな、シトシト雨の降るさびしい晩だ」
熊「ヘエ」
隠「かれこれ一時半二時とも思う時分になんだかシクシク女の泣き声が聞こえるんだ」
熊「へエー」
隠「ハテナ家の者で誰も夜中に泣くような者はないはずだが、と起きてみると土蔵の中だ」
熊「なるほど」
隠「のぞいてみると年ごろ十七八のいい女だよ、髪は島田に結って、色のクッキリと白いところへ黒縮緬《くろちりめん》の模様の着物を着ているから目立ってきれいに見える」
熊「へエー」
隠「モシ姉さん、あなたどちらでございますと、俺が思わず声をかけると、パッと姿が消えてしまった」
熊「おどかしちゃァいけません」
隠「おどかすんじゃァないほんとうの話だ、その晩は寝てしまって翌朝、土蔵の中をあらためるとわかった」
熊「へエーなんですえ」
隠「これがおまえ本郷のある商人《あきんど》さんへお嫁がきたんだ」
熊「なるほど」
隠「ところが間もなく商売の失敗で、衣類や道具をあらいざらい質に置いたり売ったりした中に、来たてのお嫁さんが婚礼の晩に着た晴れの衣装だな」
熊「へエー」
隠「それを質に入れたんで、お嫁さんまだ年が若いから悲しくって悲しくってしようがない、クヨクヨしているうちにそのお嫁さんが患いついてかあいそうにとうとう死んだ」
熊「へエー」
隠「ホーウ、その一念が土蔵へきて、念の残った着物を着て泣いていたんだな」
熊「なるほど」
隠「とりあえずその家へ人をやって昨夜これこれでございますから、どうかさっそくお受け出しを願いますというと、先方でも驚いてすぐに受け出して、嫁の念が残っているからというので、これを寺へ納めたな」
熊「ハア」
隠「これが昔なら火事になって江戸じゅう焼き払うというようなことになるんだが、今だからそんなことはなくって済んだのは、まずもってめでたいではないか」
熊「なんだか隠居さん、嘘みたようですね」
隠「嘘じゃァない本郷の話だ」
熊「洒落ちゃァいかない、なにしろ不思議なことがあるものだが、しかし質に置いた品物がそう化けるものですかね」
隠「アア化けるとも、ずいぶん学生さんの本が牛肉に化けたり、お若い衆の羽織が女郎に化けたり、長屋のかみさんの半纏《はんてん》がお米に化けたりするね」
熊「アアそういえばわしの袷《あわせ》もこのあいだ酒に化けた」
[解説]上方の小噺に、海岸を歩いていると、魚が一匹はねている。これをとろうとすると、たぬきの化け物だった。「そんなのは古い」というと、今度は一ツ目小僧や、三ツ目入道に化けて出る。どれを見ても「古い古い」というと、たぬきがそのまま飛び出して「どうだ新しかろう」というのがある。質屋の蔵も、やり手によっていろいろある。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
野ざらし
―――――――――――――――――――
古い川柳に「釣れますかなぞとおろかが二人寄り」なんということがいってございます。なるほど嫌いな方から見れば、おろかに見えるかも知れません。ある方が絵師《えかき》に向かって、世の中で一番馬鹿な者を描けといったら釣りをしているところを描いたそうでございます。このまた上手《うわて》の馬鹿はなんだといったら、釣りをしているのをデレッと見ているところを描いたそうでございますが、なるほどこれはそうかも知れません。どこそこへいつまでに行かなければならないという、非常な急用をかかえていながら、大きな風呂敷をしょってうなって見ている方がございますが、あまり体裁のいいものではございません。浮きの動くのを見ると足がすくんでしまうというのは、妙なわけで、
○「モシモシあなた」
△「大きな声を出してはいけないよ」
○「ですがな、さっきからアノ浮きが動いていますが掛かってるんですよ、今のうちに上げないと餌を取られますよ」
△「騒々しいなこの人は、目があって見ているんだよ、静かにしておくれ」
○「静かにしろといえば静かにしますがな、どうも気がもめてならないんですが、ちょっと上げてみていただきたいので、わしは急ぎなんですが」
△「急ぐなら早く行ったらよかろう」
○「アッソレアッソレソレ……」
△「騒々しいな、静かにしてくれというのに」
○「ホーラいわないことじゃァない餌を食われてしまった、さっきドンときた、あの時に上げれば掛かったんだ、まずいもんだな、オヤオヤこっちの小さい浮きはやっぱりあなたのですかえ、動いてますぜ」
△「困るよ、騒々しいなこの人は、アレアレ前へノコノコ出てきて、アー弁当を踏みつぶしてしまったじゃァないか」
○「弁当を踏みつぶしましたかえ、なるほど、おまんまがはみ出したな、半分ください」
ひどい奴があるものです、当今はまた銃猟《じゅうりょう》をお好みになる方がたいそうございます、銃猟とくると服装のこしらえがガラリと変わります。スコッチの洋服に鳥打帽というので、鉄砲をななめにしょってお出かけになるようすは、まことに活発でございます。手前の心やすいお方でございますが、スッカリ支度ができあがりましたから、猟にお出かけになるかというとそうでございません、ちょっとかの妓《こ》にこの姿を見せてやろうなんて新橋《しんばし》のほうへご自分がカモになりに行く。
客「オイ家へ帰るのだがな、どこかで雉子《きじ》を二三羽買ってきておくれ」
新橋で買った雉子を提《さ》げてお宅《うち》へお帰りになるなんて方があります。その代わりこういう方が、イザ山へおでかけになって、鉄砲を向けると鳥のほうでもまことに困るそうで。
○「オイ梟《ふくろう》、めじろ、早く逃げなよ」
梟「俺も逃げてえんだが逃げられねえよ」
○「なぜ」
梟「筒口が一方に向いていれば逃げるけれども、グラグラ動いてるから、弾丸《たま》がどこへ飛んでくるかわからねえ、アアいうのはほんとうに困るよ」
こっちは狙いが定まったから、ここぞと思って引金を引くと弾丸は筒を放れてドーンと行ったやつが鳥にあたるかと思うと、横にそれてお寺の本堂へ飛び込んで、阿弥陀様の首を打ち落として坊さんに掛け合われて、本堂《ほんどう》から気を付けますなんて、阿弥陀《あみだ》をこぼしてあやまるなどという、つまりこんなご連中がお話のたねになります。
△「オイ先生、開けておくれよ」
○「誰だえ騒々しいな、そういう声はお隣の八さんじゃァないか、だから世間の人がおまえのことをオイソレの八さんというのだよ、今開けるよ、騒々しいな、戸がこわれるから静かにしなというのに、サテおはいり、……ア痛ッ、オイ痛えな」
八「おはよう」
○「おはようじゃァない、なんだって人の頭をなぐるんだ」
八「今ぶつかったのはおまえさんの頭かえ、そうかえ、向こう見ずにたたいていたのをおまえさんが不意に開けたろう、ポカリとぶつかったが、どうも戸にしては柔かいと思った、よほど痛かったかえ」
○「痛くなくってさ、朝ッぱらからなんの用で来なすった」
八「先生だまって五十銭おくんなさい」
○「なんだえこの人は、朝ッぱらから人の家へ飛び込んできて、だしぬけに五十銭くれって、五十銭はさておいて一銭たりとも、いわれなくおまえに銭を出すわけはない」
八「なんだって畜生め」
○「なんだえ畜生とは失礼な」
八「失礼もねえもんだ、先生おまえさんが、毎日釣り竿をかついで向島《むこうじま》へ釣りに行くのは、どうも変だ、ふだんおまえさんなんといってるえ、わたしは女ぎらいだ、世の中を去っているなんて、そんな怪しい仙人があるかい、この間もそうじゃァねえか、ハゼを釣ってくるから大根を煮ておけ、きっと釣ってくるというからこっちは本当にして大根を煮て待っていても肝心な品物を持ってこなかったじゃァねえか、アノ時に、俺はそう思った、あんなに約束をしておきながら|ハゼ《ヽヽ》持ってこなかろうと怒ったよ、おまえさんは浮気をしているね、このきんぎょでも評判だよ、俺はぼうふらで聞いてきたが、おまえさん俺をひごいめにあわせるぜ」
○「なにをいうのだえ、この人は、たいそう魚をならべるじゃァないか、一体なんの用があって来なすったえ」
八「マア先生聞いておくんなさい、こういうわけだ、昨夜はどうしたか眠られねえ、ウトウトしていると、おまえさんの家でヒソヒソ話し声がする、オヤオヤお隣の大将はひとりもので、しかも話し声のするわけはねえが、猫じゃァなし、妙なことがあるものだと、首をもたげて聞いていると、相手はたしかに女だよ、ウンそうであったか、それはそれはゆるゆる遊んでいっておくれ、オーそうか、よしよしなどといっていたろう、ヤイ畜生」
○「なんだえ、ヤイ畜生とは、それではなにかえ、おまえは昨夜のようすを残らずお聞きか」
八「残らずお聞きだとも、ほんとうに馬鹿にしているぜ」
○「マアお聞き、あれはこういうわけだよ」
八「へエーそういうわけかえ」
○「まだなんともいやァしない」
八「どうりで聞こえねえ」
○「のんきな男だな、例の通り釣り竿をかついで向島へ行くと、どうした潮の加減か、小魚一匹もかからない、魔日《まび》ということがあるからこんな日は早く帰ろうと、釣り竿をまいていると、金龍山浅草寺《きんりゅうざんせんそうじ》で打ち出す鐘が陰にこもってものすごく、ボーンときたね」
八「先生驚かしちゃァいけねえ、わしはなりに似合わねえ、臆病なんだからね」
○「よもの山々雪とけて水かさまさる大川の岸辺に当たる浪の音がドブーン」
八「ウーンなるほど」
○「するとヨシの間からパッと出たのが……オイなにをするんだ、鉄瓶などを懐《ふところ》へ入れてはいけないよ、オヤオヤ俺がここへ置いた紙入れがないが、おまえ知らないかえ」
八「これかえ」
○「これかえじゃァないぜ」
八「じつはここで拾ったので」
○「家の中で物を拾う奴があるかえ、おまえだろう、このあいだ柱に掛かっていた時計を拾ったのは」
八「俺はね、恐いというとなにか拾いたくなるタチでね」
○「いやなタチだな」
八「先生、いったいそのヨシの間から出たてえものはなんです」
○「なにさ、カラスが出たのだ」
八「脅かしちゃいけない、肝をつぶしたね」
○「カラスが出たので気がついて、行ってみるとドクロがあった」
八「へエー、からかさのこわれたのがあったので」
○「それはろくろだ、屍《しかばね》があったのだ」
八「赤羽《あかばね》へ行ったんですかえ」
○「イヤそうじゃァない、水死仏《すいしほとけ》があったのだ、人骨《にんこつ》が」
八「そうか、つまらねえものだ」
○「わかったか」
八「イイエ」
○「わからないのにつまらねえというのはおかしいじゃァないか」
八「まるでわからねえというのもおかしいからちょっと愛嬌に」
○「愛嬌に返事をする奴があるかえ、早くいうと水におぼれた野ざらしがあったのだ」
八「ヘエなるほど」
○「なにがなるほどだ、わかったような顔をしていても種はまだわかるまい」
八「もちろん」
○「変なところへもちろんを付けるね、土左衛門《どざえもん》のしゃれこうべがあったのだ」
八「アアわかった、それですっかりわかった、おまえさんが、初めのほうを英語でいったろう」
○「誰が英語でなんぞ言うものか、どこの者か知らないが屍をさらしておくのはまことに気の毒だ、ふびんなものだとこう思ったから俺が回向《えこう》してやった」
八「猫を」
○「猫じゃァない回向だ、手向《たむ》けをしたのだ」
八「へエーたぬきを」
○「わからない男だな、手向けの句を唱えたのだ、野を肥やす骨にかたみのすすきかな、生者必滅会者常離《しょうじゃひつめつえしゃじょうり》、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、手向けの句を唱えて少しばかり瓢《ひさご》の酒が余っていたから、それを骨に掛けてやると少しコウ赤色をさしたような心持ちがした、いい功徳《くどく》
をしたと思って帰ってきて、一盃かたむけてゴロリと横になるとさよう、昨夜の二時頃と思うころ、弁天山《べんてんやま》で打ち出す鐘が陰にこもってものすごく」
八「待った、そしてボーンとくるんでしょう」
○「はばかりさまだね」
八「たいがいそう来るだろうと思ったよ、陰にこもってボーン、すると上野の鐘が金が入っているからコーンときましょう、目白の鐘が中央に鳴りわたって芝の増上寺《ぞうじょうじ》の鐘は大きいけれども海に半分音が引けるからグワーン、ニコライの鐘は性《しょう》がいいんだか悪いのだかわからないけれども近所では少しやかましいという評判、鐘をゴンゴンカンカンたたいて仏になるものならば、時計屋の近所は門並《かどなみ》仏になるであろう、なんまいだァ、なんまいだァ、なんまいだァ、ということを知ってますか」
○「そんなことは知らないね」
八「先生、それからどうしました」
○「なんだこの人は、人の話を半分ひやかしながら聞く奴があるものか、すると女の声で俺の家をたたいて起こすから、いずれから来たかと聞くと、向島のヨシの間からまいりましたというから、さては回向をしてやったのがかえって害となって、狐狸妖怪《こりようかい》の類《たぐい》が、さだめし俺をたぶらかさんと来たにちがいないとこう思ったから、手拭い取って後ろ鉢巻、たすき十字にあやなし、六尺棒を小脇にかい込んで……」
八「へエー、夜中に剣劇の稽古をしたんですか」
○「ふざけちゃァいけない、おまえは馬鹿にするがね、わしはこう見えても一合取っても武士の家に生まれた者だ、されば武芸もずいぶん習ったから腕に覚えがある」
八「そうですってね、どうも先生は普通《なみ》の人じゃァねえって、なんでも元は盗賊だからというてね」
○「なにを」
八「おまえさんのことさ、なんでも以前は盗賊だという評判だ」
○「盗賊ではない俺は士族だ」
八「そうそう、なんでもソノ賊だと思った」
○「賊とはけしからん」
八「するとおまえさんは昔から武士、二本差しだ」
○「さよう」
八「じゃァおまえさんはなにかえ、戦争に出たことがありますかえ」
○「かえとはなんだえ、けしからぬ、俺はほうぼうの戦争に出ているが、そのうちにも上野の戦争の時の働きなぞはおまえに見せたかったね」
八「あなたが」
○「ウン、たしか所は黒門口《くろもんぐち》だ、官軍を八人相手にして、見事に斬って捨てた、それから先は何人斬ったか、モー覚えがなかったね」
八「えらい働きをしましたね、それを聞いたんで胸がせいせいした、なんですかえ、その時はおまえさんが大将でしたかえ」
○「いかにも一方の旗頭《はたがしら》だよ」
八「しかしこのあいだ講釈で聞いたけれども、彰義隊《しょうぎたい》の大将で尾形清十郎《おがたせいじゅうろう》という人はなかったぜ」
○「そうだろう、じつはその働きは俺じゃァない」
八「いやだな」
○「それは天野八郎《あまのはちろう》という人だ、俺はまだそのじぶん子供だったから戦争には出なかった」
八「なんだ、先生もずいぶん弥次郎《やじろう》だね、ところで戦争話は他へかたづけておいて、おもてをたたいたその後を話しておくんなさい」
○「どうもおまえの話は他へそれて困る、そのとき十分支度をしておいて、サア来い来たれとガラリと戸をあけてみるとな、乱菊やきつねにもせよこの姿、見ぬようにしても目につく緋縮緬《ひぢりめん》、十八九になる婦人がスーと入ってきたと思いな」
八「俺ァいやだよ先生」
○「わたしは向島で屍をさらしていたものでございます、あなたの功徳《くどく》によって浮かばれます、それゆえ今晩はお礼にまいりました、せめてお足でもさすらしていただきたいと存じますとこういうのだ、六十五歳になる尾形清十郎に色気もなんにもないが、せっかくそういうものだから、かの娘に肩をさすられ足をさすられていたというわけで、昨夜来たのは普通の人間じゃァない、幽霊だ」
八「へエー、昨夜来たのは骨《こつ》ですかえ、ヘーエわからねえものだね、そうかねえ先生、そのひとつ句《く》を教えておくんなさい」
○「野を肥やす骨にかたみのすすきかな、生者必滅会者常離《しょうじゃひつめつえしゃじょうり》、南無阿弥陀仏、無阿弥陀仏」
八「なるほどなるほど、釣り竿を貸しておくんなさい」
○「いかんよそれは、つぎ竿だからおまえが使うと調子が狂う、釣り竿は堪忍しておくれ」
八「そんなことをいわずに貸しておくんなさい」
のんきな奴があるもので、話を半分聞いてプイと飛び出して、途中でお酒を一升買い込んで、釣り竿をひっかついで、向島の土手へやってまいりました。
八「やってるな、おそろしく大勢いやがるな、みんな骨《こつ》だな、こっちはどうだえ、おまえの骨は年増か新造《しんぞ》かえ」
△「オイ喜平《きへい》さん、いま土手から下りてきて骨々《こつこつ》といってるのは、おまえさん知ってる人ですかえ」
□「知らないよ」
△「わしも初めて見る人だが少し目の色が変わってるね、どうかお静かに願います、今やっと少しばかり魚が寄ってきたところですから」
八「俺も釣り仲間だよ、ホーラほうり込むよ、ナニ餌がないって、釣りに餌なぞがいるものか、ソレこうやってりゃァいいんだ、こうやってるうちに鐘がボーンとくりゃァこっちのものだ、鐘がボーンと鳴りゃカラスが飛び出す、コラサノサ、骨《こつ》があーる、サイサイ、なにをッ、かきまわしちゃァいけねえって、いつかきまわしたよ、ただ竿を突っ込んでるのじゃァねえか、かきまわすてえのはこうするんだ」
△「オイいかねえな、釣り竿でかきまわすもんだから、魚はみんな逃げてしまった、サアあっちへ行こう」
八「オイ弁当を忘れて行ったよ、オイ弁当があるよ、アレドンドン行っちまやァがった、なにを食ってやがるのだろう、焼き豆腐に油揚げときやァがった、どっちも豆腐だが、よっぽどとうふから来た奴かしら、これはうめえ、うまく煮てあるな、どうも釣りというものは徳があるね、これで晩に女の子が来るのだから、好都合のものだ、もう釣り竿はいらねえや、今夜が楽しみだね、十八九から二十五六どまり、なんというだろう、ちょっとおまえさんてなことをいうか、それともあなたやァというかな、さもなければ、あんた浮気をしてはいやよ、いいことッなんていうかな、しかしまた八重垣姫《やえがきひめ》のような女もいいね、そうなると俺はかたづけるね、勝頼《かつより》然と、……親と親との許婚《いいなずけ》、嫁入りする日を待ちかねて、おまえの姿を絵に描かせ、見れば見るほど美しい、こんな殿御と添いふしの、身は姫御前《ひめごぜ》の果報ぞと、……アッ痛え、てめえのあごを釣ってしまった、どういうわけで釣りに鈎《はり》がいるんだろう、骨《こつ》を釣るには鈎はいらねえ、それにしてももうカラスが出そうなもんだな、出た出たそれじゃァソロソロ骨を探そうかな、オウオウ大変なヨシだ、どこにあるんだか|こつ《ヽヽ》がわからねえ、この辺にありそうなもんだな、……あったあった、ウンと掛けてやるぜ、俺のは飲み残りじゃァねえ馬道《うまみち》で一升買ってきた酒をみんな掛けてやるんだ、けれども九十八歳六ヶ月なんてお婆さんが、出かけてきては困るな、橋の渡りぞめには立派なものだが、俺のところへ来たところがしようがねえぜ、若い女に限るぜ、オット待ってくんな、なんとかいうまじないがあったよ、ソウソウ、ノウおやす、骨《こつ》をたたいてお伊勢さん、神楽《かぐら》がお好きでトッピーのピー、それからなんとかいったね、庄《しょう》さんが湿病《しつ》をかいてお医者が蒸気に乗ったんだ、じゃァいいか、キット来てくんな、浅草の門跡《もんせき》様の後ろの、八百屋の裏を入って左側の腰障子に丸に八の字が書いてあるんだ、丸八ったってまちがえて銀座へ行っちゃァいけねえよ、本名が丸山八五郎《まるやまはちごろう》というんだ、たのむよ、さようなら」
プイと帰ってしまいました、するとヨシのかたわらに屋根船が一|艘《そう》ございまして、この中に幇間《たいこもち》が客待ちをしておりましたが、これを聞いたからのがさない。
幇「ヨウ恐れ入りましたね、僕はちょっとお客をしくじって、きさま暫時《ざんじ》そこに留守番をしていろといわれ、船の障子を閉めてとろとろと寝ていると、この船に誰もいないと思って女と晩の出会いの相談をしているとは憎いね、いくら倹約の世の中でも、ヨシの中でお逢いびきなんぞは恐れ入りやしたね、ここへ僕が飛び出して、ヨウおめでとうといえば、二円や三円にはなるね、しかしそれでは芸人の風流を失います、なんですって浅草の門跡様の後ろで、八百屋の裏を入って左側、腰障子に丸に八の字が書いてあるよ、まちがえて銀座へ行っちゃァいけないと、洒落《しゃれ》たことをいったよ、おもしろいね、こうしよう、家がわかってるのだから、僕が向こうへ出かけよう」
悪い奴が聞いたもんで、八さんはそんなこととはいっこう知りません、ドンドン家へ帰ってきて、七輪を出して一生懸命火を起こしておりましたが、なかなかやってまいりません、
八「どうしたんだろう、お隣の先生のほうへ骨《こつ》が行ったら、こっちへまわしておくんなさい、俺はなかなか入費《にゅうひ》をつかってるんだから、もしも骨《こつ》が来なかったら見やァがれ、向島へ行って片っぱしから踏みつぶしてくれるから、オヤ家の前でピッタリ足音が止まったが、来たらしいぜ、ソコへ来たのは向島からおいでなすったんですかえ」
幇「こんばんは、イヨー」
八「オヤオヤ変な声を出したぜ、先生おまえさんのところへ来た骨《こつ》もこんな声を出しましたかえ」
○「どうだかわからない」
八「なんだかきまりが悪いな、モシ、こっちへズッとお入んなさい」
幇「ヘエこんばんは、どうもけっこうなお住まいで、あなたがご主人ですかえ、お髪が延びてひげぼうぼうのかっこうはようがすね、流し腐りのみみずウヤウヤ、畳はがれの根太板《ねだいた》ばかり、うすべりの上に坐っているかっこうなぞは乙でげすよ、障子に渋紙を用いたところは経済でげすね、永久に張り替えいらず、それにお仏壇はみかん箱を荒縄でしばって吊るしてあるのはようがすな、線香だてがあわびッ貝でお燈明皿がさざえの壺、江の島へ行ったようだね、だが山水《さんすい》のていがたしかに見えますよ、裏住居《うらずまい》すれどこの家《や》に風情あり、質の流れに借金の山というのはこの辺でげしょう、手前もこうなる以上は、一つなにかやりましょう、人を助ける身をもちながら、アノ坊さんが、なぜか夜明けの鐘をつく、アレまた木魚の音がする」
八「なんだえこれは、女が来るかと思ったら、どうも口の悪い変な骨《こつ》が来やがった、一体おまえはなんだえ」
幇「私は新朝《しんちょう》という幇間《たいこ》です」
八「ナニ新調の太鼓だえ、アッしまった、馬の骨《こつ》であった」
[解説]この噺も、「こんにゃく問答」と同じく、二代目林屋正蔵の沢善の作だそうであるが、最初は手習い師匠が向島に釣りに行って、骸骨に酒をかけてやるだけの淋しい話であったのを、初代円遊が今のようにおもしろく直した。原作は中国の『笑府《しょうふ》』である。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
備前徳利《びぜんどっくり》
―――――――――――――――――――
酒は憂いの玉箒《たまぼうき》、飲むべし飲まるべからずと、よく昔から落語家《はなしか》社会で申します。これはつまりお客様に下戸《げこ》も上戸《じょうこ》もあるところから、どちらへもいいようにというのだろうと思います。下戸にいわせると、酒は命をけずる鉋《かんな》だと申します、また上戸にいわせれば、酒は百薬の長だといいます。どちらへ扇を上げていいかわかりません。もっとも昔から俗に、酒を狂人水《きちがいみず》と申しまして、ふだんとガラリと気質が変わるところを申すのだそうで、ふだん乱暴な人が酔いますと、必ずおとなしくなり、ふだんボーッとした人に限って、お酒になるとガラリ反対をいたして刃物三昧《はものざんまい》をしたり、あるいは目がすわってきて、いいこと悪いことを問わず、喧嘩をふっかけたりいたします。これを狂人水というのだそうで、けれどもなににつけても酒ぐらい重宝なものはありません。
ちょっと二三ヵ月留守にするからといって、別れの酒、帰ってきてめでたいといって酒、酒の上で喧嘩をして仲なおりがまた酒、家が焼けて酒、焼かなかった祝いの酒、いいことがある前祝の酒、やりそこなって自棄酒《やけざけ》、あまり飲み過ぎて二日酔いだといって、青い顔をして、向こう鉢巻きでうなっているかと思うと迎い酒、一杯やるとまたいうにいわれない心持ちになるという、さればご酒家《しゅか》を詠《よ》んだ狂歌の中に「酒のない国に行きたき二日酔い、また三日目に帰りたくなる」などというのがあります。中に物の扱いをするにはどうしても酒でなければいけません。めでたいにつけ酒、かなしいにつけ酒、飯ではすまぬ物の扱いとか申しますが、なるほど仲人口《なこうどぐち》を利くには、酒が一番いいようでございます。
「おまえもマア腹が立つだろうが、むこうもアア心が解けて、すまなかったというもんだから、どうかここンところを一つ俺の顔を立って、大負けに負けて、一つ笑ってくんねえ、……エエそうか、そういってくれりゃァ、俺も大きにあいだへ入って口を利いた張り合いがある、そうことがきまったら善は急げだ、今晩は俺が一ぱい買うから、一緒に飲んで笑ってくれ」
などというのがちょっと仲人口で、同じことでもぼた餅や安部川《あべかわ》ではちょっと工合《ぐあい》が悪うございます。
「おまえもさぞ腹が立つだろうが、先方がアア心が折れて、すまなかったというんだから、勘弁してやってくれ、マアそうかい、おまえがそういってくれれば、私もあいだに入って、骨折り甲斐があるというもの、それじゃァ気の変わらないうちに、一盆俺が買うから、ぼた餅を食って笑ってくれ」
どうもこのようすじゃァ仲人口は利けそうもない。お酒というものは、度さえ過ごさなければまことに愛嬌のあるけっこうなものでございます。しかし大食い大酒は芸のうちとか申しまして、大酒家《たいしゅか》というものもなかなか大きいものでございます。現にある落語家のおふくろがマア日に四升五合飲んだという大酒家でございます。マアそのころで酒も安うございましたから、いくらも飲めましたろうが、近ごろじゃァとてもさような大酒は、経済上できません、死ぬ時は胸のところへ固い物があるから、どうかそれを出してくれろというのが遺言でございました。
ソコでその遺言どおり、医者にたのんで切開をしてもらいましたところが、大きな団子ぐらいの石が出ました、この石が酒を飲むので、酒石《さけいし》とかいうのだそうで、それは医者が参考のために取っておくとか申しました。その医者はどこへ行ったかわかりません。
また明治二十年ごろの落語家で立川談生《たちかわだんしょう》という前座でございましたが、これがまた大食家で、もりそばを三十くらいペロリとやったそうで、なかにはまた物好きのお方が、おもしろずくに、「オイ、三十もりを食ったら五十銭やろう」などといってほうぼう連れて歩く方もあったと見えます。
余事《よじ》はさておき、ここに申し上げる備前徳利、この備前徳利には、七福神であるとか、あるいはまた裃《かみしも》を着けた男の絵などが、画《か》いてあります、これについて一つのお話があるので、池田藩に、片山|清左衛門《せいざえもん》という人がありました。生まれついての大酒家で、以前はごく小身なのでありましたが、あるとき諸侯が池田家へお客においでの時に、中にたいそう豪酒のお大名があって、
「誰でもよろしいから、我が相手のできる者をお呼びください」という。
ソコで家老方が、いろいろ相談をして、だれかお相手に出る者はないかといったところで、とてもその殿様と、太刀打ちのできるような人がいない、この上は仕方がないから、たとえ身分軽い者でも差し支えない、広い家中に一人ぐらいいないことはなかろうと、だんだんお調べになると、お台所役人に片山清左衛門という者があって、これが非常な大酒家だということがわかりましたので、さっそくそれを招き、身なりをあらためて、そのお客様のお相手に出したところ、さすがのお客様も、片山清左衛門には遅れを取って、たいそうごきげんよくお帰りになった。
ソコで池田の殿様が
「今日《こんにち》の働き、あっぱれである、汝あればこそ我が家の恥辱にならなかった、以来大酒家のお客のあった時にはいつでも汝をその相手に出すことにいたそう、あらためて今日より三百石に取り立ってつかわす」
たいそうな出世をしたものでこんなうまいことはありません、好きな酒を飲んで殿様にほめられて、そのうえ出世をしたのですから、じつに夢に夢を見たような心持ち、このひと、妻君は早死にをして、清三郎《せいざぶろう》という伜《せがれ》と共に生活している。べつにかかりもいらぬから、いくら酒を飲んだところでなかなか三百石は飲み尽くせない、それがためにたいそう裕福になりました。
ところがこれまで薬一服飲んだことのない人ですが、フトした風邪の心地で寝たのがもとで、枕も上がらぬ大病になりました。もう医者もとてもだめだと匙《さじ》を投げるくらい、本人もうすうすそれを知ったとみえて俺はもう苦い薬なぞは飲まない。酒は百薬の長というから、酒をウンと飲むという。伜の清三郎も心配をして意見をしましたが、どうしても承知をしない。それから医者に聞きますと、どっちにしてももう長くない寿命だ、本人の好きなものをおあげなさいというので、それから清左衛門枕もとへ徳利を置いて、わしも身不相応の大碌《たいろく》をいただきまして、なんのなすこともなく、病床にたおれるのはまことに申しわけがない、また自分としてもまことに残念である、ついてはかねて殿様が、なんでもそのほうの願いを一つ叶えてやると、おっしゃったことがある、そのお言葉に甘えて、臨終の際に一つお願い申したいのは、自分は酒のためにこの世に生まれて、酒のために命を捨てる、また出世をしたのも酒のためであるから、どうかこういう不思議な男があったということを話しの種に残したい、それについていろいろ考えたが、備前徳利へ自分の姿を画《か》いてそれを後の世まで残していただきたい、酒の徳利になれば始終酒びたりでいられる、こんなけっこうなことはなかろうと思う、どうか、これを殿様へお願い申してくれろというのが遺言で、ついに息を引き取りました。
ソコで親類縁者からこの由《よし》を殿様へお願いすると、殿様はニッコリお笑いなすって、
「さてさて酒の好きな奴である、死んで後まで酒に離れまいと考えているとは、ふびんな奴じゃ、当人の望みどおり計らってやれ」
という仰せ、鶴の一声で、さっそく備前徳利をこしらえる家へお沙汰になりました。それがために片山清左衛門の絵を画いた徳利が諸方へドンドン出ます。
ところが伜の清三郎は、父の跡目を仰せ付けられ、なす功もなく、三百石の高碌をいただいて、ご近習《きんじゅう》役を勤めることになりました、そのうちに殿様が江戸詰めを遊ばすことになって、清三郎もお供をして江戸表《えどおもて》へ出てまいりました。初めての江戸入りで、珍しいからほうぼうを見物して歩く。ある日非番のとき、悪友に誘われまして、吉原《よしわら》へまいり、名代《なだい》の佐野槌《さのづち》という家へあがって、九重《ここのえ》という女を買いましたのがやみつきで、それから暇をぬすんでは吉原へまいり、自然お勤めもおろそかになり、親父の貯めておいた金もよほど失《なく》しました。それにこのごろは酒がますます進んで、亡き父にも負けないくらいの大酒呑みになりました。
すると若党の権平《ごんぺい》というのがまことに忠義の者で、父の代から使っていて、清三郎もことによってはこの男と相談をするくらい、ところが不思議なことには、主人が主人なら家来も家来で、この男もなにより酒が好き、折々は酒のためにとんだそそうをすることがあります。なにしろこのごろのように若旦那が道楽者になってしまっては始末にいかない、もしも若旦那のお身の上にまちがえでもできては、亡くなった旦那様に申しわけがないというので、ある日のこと清三郎の後から尾《つ》けてまいって、たしかにここにおるというのを見届けてから、佐野槌の店へズーッと入ってまいりました。
権「ゆるしなさい」
若「ヘイいらっしゃいまし」
権「少し尋ねるが、当家に池田家藩士片山清三郎という方がおいでになっているだろう、隠すとその分に捨ておかんぞ」
若「ヘエ、どういたしまして、決してお隠し申しいたしません、ヘヘヘヘ」
権「なにがヘヘヘへだ、おかしくもないことを笑やァがって、けしからん奴だ、どうもきさまの面《つら》はおもしろくない面だ、いささか天庭《てんてい》に曇りがあって、まことに相好《そうごう》のよくない奴だな」
若「こりァどうも恐れ入りました、まっぴらごめんください」
若い衆は面《めん》くらって二階へ飛んでまいりまして
若「エエ片山の旦那様」
清「なんだ」
若「お宅からおいでになったご家来さんのようですが、大変な剣幕で、なんでも若旦那に会わせろといって、わしのことなんか、天庭に曇りがあって、相好のよくない奴だとこういうので」
清「ハハア爺来たか、いやに固ッ苦しいことばかりいっておもしろくない奴だ、だが親父の代からわしの家に永くおるので、わしなども、子供の時分からだいぶ世話になった、まさかに追い返すわけにもいかなかろう、こっちへ上げて、なんでもよい酒の好きな奴だから、文句をいったら酒をあてがって酔わしてしまえ、これへ呼びなさい」
やがて苦い顔をして、若い衆に案内をされて入ってきた権平が、
権「これは若旦那様、ここにおいでになりましたか、あなたはマアなんという方でございます。武士にもあるまじく、かような悪所へ日々お通いなさるということは、じつになげかわしいことで、このままにお捨ておき申しては私が亡くなった大旦那様に申しわけがございません、どうぞこのまますぐにお帰り遊ばして」
清「コレコレ権平、それはヤボじゃ、某《それがし》とても、なにもうつつを抜かして、かような悪所へまいり、勤めをおろそかにするわけではない、しかしわしも独身者《ひとりもの》だから、折々はかようなところへまいって浩然《こうぜん》の気を養わなければならん」
権「イヤそれは若旦那、たまにおいでになりますなれば差し支えございませんが、このごろのように毎日毎晩おいでになりまして、もしこれが、ご重役の耳にでも入りましたらどうなさいます」
清「アアコレコレ権平、さように大きな声を出すな、マア一杯飲め」
権「イエいただきません」
清「コレサ、なぜおまえはそう片意地だ、主人がつかわすのだ飲みなさい、コレコレ権平に酌をしてつかわせ」
権「イヤどうあってもいただきません、ご酒《しゅ》をいただくなら、お屋敷へ帰ってからゆっくりいただきます、もし、しいてあなたがお帰りなさらんとおっしゃればご主人でも私は捨ておきません、刺しちがえても……」
清「オヤオヤ権平の顔色が変わったぞ、どうもヤボでしようのない奴だ、仕方がない、これはだましてやるより他に仕方がない、……いや権平まことにすまなかった、わしが悪かった、おまえなればこそ意見をしてくれた、親のことをいわれてみればまことに申しわけがない、しからばおまえの意見にしたがってこのまま帰ろう」
権「エエそれでは私のご意見をお用いになって、ありがとう存じます、それでわしも安心をいたしました、どうぞすぐにお帰りをねがいます」
清「しかし権平、わしももはやこの家に二度とふたたび足を踏まん覚悟だ、ついては別れに今一杯飲んで行きたい、廓《くるわ》の酒の飲み納めだ、一杯飲むあいだ待ってくれ」
権「エエもうそれくらいはよろしゅうございます、どうぞおあがんなすって」
清「コレコレみなの衆、わしもこの権平の意見にしたがい、今日限りこの廓へ足を踏み入れぬ覚悟だ、別れの盃じゅうぶんについでくれ」
と、いいながら目つきでちょっと知らせた、そこは苦労人だから、早くも狂言だなと察して、
女「それじゃァ若旦那、これがもうお別れですか、お名残惜しいがどうも仕方がありません、じゃァお別れのお盃、わたしにも一杯くださいまし」
清「サア飲め飲め、みんな飲め」
それから居合わした者がみんな飲み始めた、酒の匂いがプンプンする、だまって見ていた権平が、もともと酒の好きな男ですから、のどをグビグビやっていたが、よだれを流し始めた。
清「どうだ権平、そちも一杯飲んだらどうだ」
権「イエ私は……」
清「遠慮をするな、わしが改心をした祝いの酒だ、ぜひとも飲んでくれ」
権「ヘエ、それでは一杯いただきましょう」
清「誰でもよい酌をしてやれ」
権「イヤこれはかたじけない、一杯飲んだからたまらない、せっかくのご馳走今一杯ちょうだいいたそう、……イヤこれは良い酒だ、駆けつけ三杯、今一杯」
ガブガブガブガブ飲んでいるうちに、グデングデンに酔っぱらってしまいました。
清「コレコレ権平、もはや帰ろう」
権「イヤ若旦那、あなたは一足先へお帰りください」
意見に来た者がこんな塩梅《あんばい》だから、どうしても清三郎も身持ちが直りません、相変わらず、悪所通いをしております、するとある夜のこと、枕もとに朦朧《もうろう》として立ち現われましたのが、亡き父の清左衛門、
「コレコレ伜、きさまはこのごろ日々悪所通いをいたして、お勤めをおろそかにするが、それではわしが殿様へ対して申し訳がない、以来は身をつつしめ」
といったかと思うと目がさめました。
清「なんだ夢か、つまらない夢を見たものだ」
気にもとめずにおりましたが、それから毎晩毎晩同じ夢を見る、さすがに清三郎も良心があるから、
清「アアこれは悪かった、自分の品行が悪いものだから、おとっさんが、苦労で浮かばれないものとみえる、以来は身をつつしみましょう」
と、心から感じて、プッツリ吉原通いをやめてしまいました。するとその晩、また朦朧として父上が現われまして、
父「伜や伜……」
清「オオこれはお父上でございますか、私の不品行からとんだおとうさんにご苦労をかけまして相すみません、今日から改心をいたしましたから、どうかご勘弁を願います。」
父「イヤわしもそれを聞いて大きに安心をした、今夜わしもおまえと夜の明けるまで、酒を飲もう、いろいろ話したいこともあるから」
清「ヘエかしこまりました、すぐ支度をいたします」
それから酒を持ってきて、親子がやったりとったり酒を飲みながら、
清「ねえおとうさん、あなたこの頃どこにいらっしゃるんで、まさか十万億土からおいでなさるのじゃァありますまい」
父「ナニわしはじきそばにいるんだよ」
清「じきそばとおっしゃるとどこで……」
父「両国に四方《よも》という酒屋がある、そこの家へ買われてきて、酒を入れられてあるんだ、おかげでこのごろは、酒びたしだ、これというのもみんな殿様のご恩だと思って、少しも忘れたことはない、どうか御前《ごぜん》へ今度出た時に、父がよろしく申したと申し上げてくれ」
清「かしこまりました、なにしろあなたも酒の徳利になっちゃァ、なにより本望《ほんもう》でございましょう」
父「伜や、また明日の晩来る」
清「マアいいじゃァありませんか」
父「イヤもうぐずぐずしていられない、もう夜が明けるから」
といったかと思うと姿はかき消すごとく、とたんに一番鶏が、コケコッコー、……その日もまた晩になると清左衛門が出てきて、親子していろいろな話しをしながら、酒を飲みます、毎晩毎晩来るのを、清三郎も楽しみにしております。するとどうしたのかこの二三日父がまいりませんから、清三郎も心配しておりますと、ある晩また忽然《こつぜん》と清左衛門が現われまして、
父「コレコレ伜」
清「オヤこりゃァお父上、いらっしゃいまし、四五日おいでがありませんから、心配しておりました、別にお変わりはございませんか、お身体でもお悪いのじゃァございませんか」
父「イヤ伜や、情けないことになった」
清「どうなさいました」
父「このごろ口が欠けたので、とうとう醤油徳利《しょうゆどっくり》にされてしまった」
[解説]このサゲはぶッつけ落ちでおもしろいが、もともとの小噺に「木乃伊《みいら》取り」などを入れたものらしい。三代目小さんが演じた。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
胴取り
―――――――――――――――――――
昔は口を利《き》かん者に、口を利かせるのを落語家《はなし》の腕としてありました。足と手が喧嘩をした。あるいは瀬戸物が病気になった。犬が口を利いたなどというお話がいくらもあります。
足「オオ手」
手「なんだ足」
足「上へあがってちょっと腕組みでもしてくれやい、どうもウンと歩いてきたんで、カッタルくってしようがねえ」
手「仕方がねえやな、おまえが足なんてえ下等なものに生まれついたから悪いんだ、それがつらいと思ったら、今度の世にはもっとどうにかしたものに生まれ変わって来い」
足「そんな意地の悪いことを言わねえで、上へあがってちっと俺にも休ましてくれ」
手「なにを生意気なことを言やァがるんだ、マゴマゴしやァがるとこれだぞ」
ポカリ……。
足「オオ痛え、うぬなぐりやがったな」
手「手が足をなぐるにふしぎはねえや」
足「おぼえてやがれ、敵討《かたきう》ちをするから」
手「フン足のくせに敵討ちができるかい」
足「今におもてへ出て犬のくそをふんづけて、てめえに拭かしてやる」
なるほどこれは手が拭かなければなりません、犬のくそで敵討ちをするというのは、これから始まったというが、あんまり当てになりません。
胴切りになった者が、足と身体と別々に奉公に行ったというお話がございます。
○「どうしたい」
胴「いらっしゃいまし」
○「番台か、この間おまえやられたというじゃァねえか」
胴「ヘエ、武士《さむらい》にからかったものだから、スパリとやられてしまいました」
○「災難だったなァ」
胴「ヘエ」
○「デモここの家へ奉公していりゃァけっこうだ、それで足のほうはどうした」
胴「ヘエ、足は別に奉公をしております」
○「へエー、別に……」
胴「三河町《みかわちょう》のこんにゃく屋へ奉公しております」
○「ヘエ、足と身体と別々に奉公をするというなァおもしろいな、三河町のどのへんだい、俺ァこれから三河町へ行くんだけれども、べつに用はねえか」
胴「ありがとう存じます、それではまことにすみませんけれども、ちょっとおことづけを……」
○「アアいいとも、なんというんだ」
胴「三里《さんり》へ灸《きゅう》をすえてくれるように、言ってくださいませんか、このごろ足がだるくってしようがないから」
○「むこうへすえてこっちへきくのかい」
胴「ヘイ、一心同体でございますからききますよ」
○「きくかい、それじゃァそういってやろう」
胴「まことにすみません」
○「どういたしまして……ごめんくださいまし」
△「いらっしゃいまし、なにをさしあげます」
○「イヤべつにいただきにまいったのではございません、お宅に足が奉公しておりますかね」
△「ヘエアノ四番目の桶《おけ》がそうでございます」
○「アアなるほどムクムク動いてるな……オイ足」
足「ヘイー」
○「フン返事をしやァがる、アノ湯屋に奉公をしている胴のほうから伝言があったぜ」
足「さようでございますか、ありがとう存じます、どういうことでございましたか」
○「ナニさ、三里へ灸をすえてくれろというのだ、のぼせていけねえから」
足「アッさようでございますか、まことに相すみませんが、お帰りになりましたら、もう一つお伝言を願います」
○「アアいいとも、なんだいどんな伝言だね」
足「あまり湯茶を飲んでくれるなといってください」
○「どうかしたのかい」
足「小便が近くって仕事ができません」
もう一つ瀬戸物の病気というお話を申し上げます。
茶碗「オイ徳利、皿、丼、みんなこっちへ来い」
徳「なんだ茶碗」
茶「ナニさ瀬戸物仲間で患ってる者があるんだ」
徳「誰だ」
茶「水がめよ」
徳「アッ水がめがどうした」
茶「なんだか知らねえけどもこの節、ちっとも出てこねえが新年会があっても忘年会があっても、どうもこの女がいねえと淋しくっていけねえ、このあいだ遇《あ》ったら病気だという、可哀想じゃァねえか、一ツみんなで見舞いに行ってやろう」
徳「よかろうよかろう」
それから七輪《しちりん》だのすり鉢だの、茶碗丼、皿小鉢、瀬戸物がたくさん集まって水がめのところへ見舞いにまいりました。
徳「家かい」
水「オヤみなさんおそろいで、サアどうぞお入りなさい」
徳「どうしたい身体が悪いってえが」
水「ありがとう、ナニたいしたこともないので」
徳「血の道か」
水「イイエ」
徳「どうしたんだ」
水「ナニさ、柄杓《ひしゃく》が突っぱるので」
これから本文に取りかかりますが、やはりこれも昔のお話でございます。以前は博奕《ばくち》というものが、だいぶ流行《はや》りました、当今はまことにそれがやかましくなって、そのバクエキを引き抜いて跡へチョウエキというものを植えた。妙な木があったもので、これはその博奕のはやった時分のお話でございます。胴を取るとか、または親をするとかいうことをよく申しますが、手前共にはサッパリわかりません。その胴を取るというのがスッカリ取られてしまって丸はだかで、はっぴ一枚に縄の帯で弥蔵《やぞう》という奴を二ツこしらえまして……ただ弥蔵じゃァおわかりになりますまいが、懐《ふところ》へ拳固《げんこ》を二ツこしらえて肌へ付けて歩きます。あれは弥蔵という人が始めたというわけでもございますまいが、二ツこしらえても八蔵《やぞう》とはこれいかに、おかしな問答ができそうで。
○「どうもいやになっちまうな、今年ぐれえいやな年はありゃァしねえ、テラまで取られちまった、半と張りゃァ丁と出る、丁と張りゃァ半と出る、サッパリ目がねえ、オオ寒いな、また今夜はヤケに寒いぜ、寒中の風は肌を切られるようだ」
侍「コレ若僧、それへまいる若僧、少々物を尋ねるぞ、コレ若僧」
○「俺か」
侍「いかにも汝《なんじ》じゃ」
○「汝だってやがらァ、なんだ」
侍「少々ものを尋ねる、このたび国表《くにおもて》よりまいりし田舎武士じゃ、土地不案内ゆえに、いずれへまいってよいか、とんと方角がわからん、一石橋《いっこくばし》へはどうまいるか教えてくれ」
○「なにをいやァがるんだい、人にものを聞くならていねいに頭を下げてぬかせ、うぬらは人の頭へ立つ人間じゃァねえか、若僧とはなにをぬかしやァがるんだ、てめえの家に若僧をしていた人間じゃァねえや、一石橋へはどうまいるか教えてくれ、なにをぬかしやァがるんだ、東と西と南と北と尋ねてみろい、それでわからなかったらその間々を探しゃァたいがいぶつかるだろう」
侍「たわけたことを申す、予は武士であるぞ」
○「武士だ、浪花節が聞いてあきれらァ、おおかた雲右衛門《くもえもん》の弟子で、道中軒旅右衛門《どうちゅうけんたびえもん》とでもいうんだろう」
侍「コレッ、二本たばさんでいるのが怖くないか」
○「二本たばさんでいるのが怖ければ、田楽《でんがく》で飯が食えるか、気の利いたうなぎは五六本も差している、そんなうなぎはてめえ食ったことはねえだろう、俺もしばらく食わねえんだ、まぬけめ」
侍「コレ、きさまにはこの大小が目に入らんか」
○「べらぼうめ、そんななげえ物が目の中へ入ってたまるものか、なにをいってやがるんだ、それが目の中へへえるくらいなら、博奕打ちなんかやめちまって、とうに手品使いになってらァ」
侍「おのれ無礼を申すとブチ放すぞ」
○「なんだブチ放す、そのブチを持ってるならこれへ出せ、横町のアカと交《つが》わしてやる」
侍「手を見せんぞ」
○「手を見せるのが惜しけりゃァ、しまっておけ、それともてめえ湿《しつ》ッかきか」
侍「おのれ過言《かごん》を吐くな」
○「ナニかごんだ、かごんなんか吐くものかい、うぬみたような奴には痰でもはっかけてやらァ、カップッ」
さなくとも勘弁がなりかねているところへ、横面へ青痰《あおたん》を吐きかけました。武士も一杯飲んでおりましたところゆえたまりません。
侍「おのれ無礼者」
柄《つか》へ手がかかるとギラリ、星の光にそれを見ると、そこが町人、一度に弱くなっちまって、
○「やあ抜いたなのか、ようか、九日、十日、金比羅様《こんぴらさん》の縁日だ」
一散に逃げ出した「逃がしはやらじ」とバラバラバラバラ、エッ、チャリン……、抜いたが早いか、切ったが早いか、鞘《さや》に納まるが早いか、目にも止まらんくらいの早わざ、血を見て落ち着くのが武家の習い。
侍「たわけものめ、無益な殺生をいたした、エーイ、アアよい心持ちじゃ、強者《つわもの》のう、とりどりの盃を……」と謡《うたい》をうたいながら行ってしまった。
○「バカッ、切ってみろやい、まぬけめッ、なにが強者《つわもの》の盃だい、まぬけめッ、切って赤《あけ》え血が出なけりゃァな、銭はいらねえ、西瓜《すいか》みたような人間だ、皮があって筋があって肉があって骨があるんだ、その間に血が通ってるんだ、切ってみろやい、アッハハハとうとう逃げ出しやァがった、やっぱり喧嘩をするのには威勢のいいほうがいいな、こっちの鼻ッつらが強《つえ》えもんだから武士《さむれえ》も手出しをしねえや、けれどもなんだぜ、えり元をヒヤリとさせやがった、いやな野郎だなあの野郎、追っかけてもとても間に合わねえと思ってどぶの水かなんかすくってかけやァがったにちげえねえ、アア寒い、家へ帰ったらまた嬶《かか》ァをせびって、質種でもこしらえさして、堂を取り直さなけりゃァ仕方がねえ、スッカリ堂をつぶされてしまったからナァ、エーイ……オヤッ、どこかへ声がもるぞ、〔唄〕締まらばァ……オヤオヤ、なんでも声が少しぬけるところがあるぞ、変だな、〔唄〕オーイ締めろー、打たばァ打て……オヤオヤ、俺がまっすぐに歩いてるのに、首だけ横を向きやァがる、おかしいな、こっちを向けやい」
両手を掛けて首をまん中へ直して、歌を唄い始めるとまた首だけ後ろのほうへヒョコヒョコと向いて行く、「いやだぜ、どうしたんだろう、俺がまっすぐに歩いてきたのに首だけ後ろを向きやァがるどうしたんだ」とえり首へ手を当て、なでてみると常明灯《じょうみょうとう》がありました、その燈籠《とうろう》のふたを開けてかざしてみると、手の中いっぱいの血、「ヤア切りやァがったな」手を放すと首がコロコロところがって、どぶ板の上へピタリと直った、それを見ると胴が……見たわけじゃァありますまいが……
胴「あんたはそこへおいででございますか、手前だけは先へまいります」
首「ヤイヤイ待て待て胴、てめえだって俺と同じ身内じゃァねえか、連れてってくれやーイ、不実な野郎だな、アレッ、向こう見ずにドンドン駈けて行きやァがる、てめえ一人で見当がつくかい、ソレその橋を渡っちゃァいけねえぞ、そっちへ曲がってひっくり返っちまやァがった、ほんとうに天保《てんぽう》が二枚、褌《ふんどし》に包んであるのを誰かに持って行かれちまわァ……なんだなんだフンフン人の匂いを嗅ぎやァがるのは、アア犬だ犬だ畜生、そっちへ行け」
犬「ワン、ワンワン」
首「なにがワンだ、畜生、そっちへ行け、畜生畜生……アッ小便を引っかけやァがったな、畜生」
△「火の用心〔カチカチカチ〕アア寒いなァ、こんな晩にはよけいこっちは寝られねえや、火の用心――アアまたこの燈籠のふたを誰か開けやァがった、アアきまってやァがる、吉原のひやかし連が開けやァがったんだろう、また町内の旦那方に見つかりゃァ、俺が叱言《こごと》をいわれなけりゃァならねえ……ふたをするんだけれども俺が丈《せい》が低いものだから困っちまう、これでも八寸着るんだけれども、もっとも三尺八寸ならいいんだが俺は二尺八寸だ、なんか台はないかしら、アアここに大きな石があった」と首の上に乗っかった。
首「アア痛《いて》え痛え、誰だ誰だ俺の首の上に乗っかるのは」
△「ウワーッ、火の用心……」
番太郎は驚いて逃げて行ってしまった。
首「バカッ、畜生、オウ痛え、日和下駄《ひよりげた》をはいて、俺の頭を踏みつけやァがった……オヤッ、なにかあるアア財布だ、財布を落として行きやァがったな、しめたしめたあの財布を拾ってやろう、……といったところで手がねえ、困ったなァ……」
としきりにこぼしておりますところへ、通りかったのがお友達でございます、これはまたたいそう儲けたと見えまして、声の出ようがちがう、「日本ばんざい私もばんざい」
首「オヤッ、大きな声を出してきやァがったな、虎《とら》の野郎じゃァねえか、大変な勢いだ、どこかで儲けたとみえる、オウ虎」
虎「エエッ、誰か呼んだかい、どこだい」
首「ここだよう」
虎「アレッ、声はすれども姿は見えぬだ、横町かしら」
首「横町じゃァねえよ、ここだ」
虎「どこだッ、アレッ、いやだぜいやだぜ、この辺はほんとうに淋しいからな、たぬきかしら」
首「なにをいってやがるんだい、虎公」
虎「アレッ、変な声を出すない誰だ、どこにいるんだ」
首「ここだ、足もとだ」
虎「アッ胆をつぶした、金太《きんた》じゃァねえか、この寒いのにどぶの中へ入りやァがって人をおどかす奴もねえもんだ」
首「誰がどぶの中へ入ってるものか、どぶ板の上だ」
虎「エッ……アアなるほど、板の上だ、どうしたんだ」
首「ナニサ、武士をやじったものだから、スパリとやられちまった」
虎「まぬけめ、ほんとにてめえは腹は悪くねえが、口に毒を持っていやァがってしようがねえ、あきらめねえあきらめねえ、俺も仲よくした友達だから、坊さんにたのんで百万遍の一ツも上げてもらってやるから、それで成仏《じょうぶつ》しろ」
首「ところが俺は成仏ができねえんだ」
虎「なぜ」
首「世間にはよく不死身というのがあるが、俺はまたお星様を見ると、傷が直っちまうからホシミというんだ」
虎「変な身体だな」
首「すまねえけれどもおまえンところへ連れてって、首だけ居候《いそうろう》をさしてくれ」
虎「フーン首の食客か、マア仕方がねえや」
首「たいそうおまえ景気がいいな、どこか行ってよかったのか」
虎「あたりまえよ、堂を取って丸もうけだ、それもおまえ達が行くところとはわけがちがう、旦那衆だ、丸式《まるしき》はドッサリだ、コマが下ろせるじゃァねえか、丁と下ろしやァ半と来る、こいつを開けりゃァ六の丁、その次にむこうで半と来るから、こっちで丁と受ける、こいつがグミ三の丁、むこうで丁と来るからこっちで半と受ける、これがグ二の半、丁半はつまらねえからチョボ一に直した、むこうが堂を三ツつぶして、俺の堂が四ツ立った、ちょっと小百両《こびゃくりょう》儲けたから、さようならというんでごめんこうむって来ちまったんだ、どうだい」
首「うまくやりゃァがったな、この暮れに小百両儲けりゃァいい正月ができらァ、すまねえけれども俺にちょっと十両貸してくれ」
虎「そりァおまえと俺の間だから、十両が二十両でも貸してやってもいいが、首だけでなにをするんだ」
首「ダカラ橋向こうへ胴〔堂〕を取りに行くんだ」
[解説]「胴取り」は「首提灯」や「胴と足」と同じ型の噺である。ただし落ちの種類は「胴取り」が地口落ち、「首提灯」が見たて落ち、「胴と足」が考え落ち、と趣向を変えてある。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
伊勢|詣《まい》り 〔上方の題〕夢八
―――――――――――――――――――
○「ごめんくださいまし」
△「誰だえ、オヤオヤこれは八《はっ》さんか、マアおあがり、どうしたえ、しばらく来なかったね、婆さんも心配していた、たいそうぼんやりしているじゃァないか」
八「ヘエ、どうもご無沙汰をいたしました」
△「遠方でも行きなすったか」
八「イイエどこへも行きません、おもてを閉めて家におりました」
△「ハハアおもてを閉めて家にいた、婆さんや、八さんが来たが、いつだっけなこのまえ来たのは……ナニ先月の十日、先月の十日に来たが、あれからおまえ家にいたのかい」
八「ヘエあれから寝ていたんで」
△「ウムそれじゃァ身体でも悪かったのか」
八「イエなんともございません」
△「なんともなくって、どうしてそんなに寝ていたんだ」
八「じつは私も考えたんで」
△「ウム、なにを」
八「なにか金儲けがありそうなものだと思っていろいろ考えましたが、どうもおもしろい金儲けがないんで、で果報は寝て待てということをいいますね」
△「アアいうよ」
八「それから寝たら果報がくるだろうと思いまして先月の十日の晩から三日ばかり寝ておりまして、目が覚めたがどうも果報がきません、寝が足りないんだろうから、今度は果報がくるまで寝ていようと思いまして、それからまた十日ばかり続けて寝ましたよ、やっぱり果報がきたようすがございませんから、それから今度二十五六日寝ていましたが、どうも果報がまいりません」
△「オイオイ八さん、冗談いっちゃァいけない、果報は寝て待てじゃァない、練って待てというのをまちがえて寝て待てというんだ」
八「そうですか、練って待てというんで、私はまた寝て待てと聞いたから、寝たら果報がくるだろうと思って、ちょうど四十日ばかり寝ましたが、どうも腹がへってたまりません」
△「なるほど目がくぼんで、やせたよ、それじゃァなにしろご飯でもご馳走しよう、婆さん、この男は四十日のあいだ寝ていて、ようよう目を覚ましたんだそうだ、腹が空ったというから飯でも食わしてやんな、今な婆さんが飯を炊いてご馳走するが、しかしそんなばかなまねをするものではない」
八「ヘエ、寝てても果報がきませんから、こちらへ来たらなにか金儲けがあるだろうと思って来ました、なにか金儲けはありませんかね」
△「そうよ不景気だからさしあたっては別段に金儲けもないが、そのうちにはなにかあるだろう」
八「なにか私が食べて行かれるくらいの仕事があったら、どうか話をしておくんなさいな、しかし旦那の前ですけれども、人間というものは妙なものですねえ」
△「なぜ」
八「私が考えますには、なんでも思うことがあったら、寝ようと思うんで。じつはソノ私はどうかして一生のうちに一ぺん、伊勢詣りをしてきたいと思っておりましたら、行ってきました」
△「そりァけっこうだな、伊勢詣りに行くのには、道づれがそろって、ワイワイ話をしながら行くのかい」
八「イイエ大勢でそろって行くと、泊まるのも発つのも一緒にしなければなりませんから、窮屈でいけません、やっぱり一人でブラリブラリ伊勢へ行ってお詣りをするんで、大勢の道者でもってワイワイ騒いで行くのよりは、のんきですな、伊勢は津《つ》でもつ津は伊勢でもつ、尾張《おわり》名古屋は城でもつと唄いながら伊勢詣りへ行きました、山田《やまだ》で三日も逗留《とうりゅう》をいたしまして、内宮外宮《ないぐうげぐう》を初めスッカリお伊勢様を参拝いたしました」
△「フーム、帰りは」
八「京都から大阪へまいりました、上方《かみがた》もスッカリ見物しまして、近江八景《おうみはっけい》を見物して、それから名古屋でまたばかな騒ぎをいたしましてようよう帰ってまいりました、そういうわけでマアお宅へもご無沙汰をしました」
△「ヘエそうかい」
八「これからどこへでも行きたくなったら寝ようと思うんで」
△「少し待ちな、お伊勢詣りから京大阪を見物をして、名古屋で遊んで、それで帰ってきた、さぞ金がかかったろうな」
八「ところが一文もいらないんで」
△「ハテね、それで一人で行ったのかい、どうして」
八「どうしてったって夢で」
△「エエッ」
八「夢でげす」
△「アア夢でか、なるほどそうか」
八「一日や二日寝たんじゃァとてもいけません、長く寝るというと思うところへ行かれます。これから私はどこへでも行きたいと思ったら、すぐに寝ようと思うんで、伊勢詣りがしたいと思ったら伊勢詣りに行く」
△「夢でかい」
八「ヘエ夢で、私は夢が大好きでございます、伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ、尾張名古屋は……」
△「オイオイうるさいな、そこで唄っちゃァ困る、なにしろ少しお待ち、今なにかご馳走をするから……」
×「ごめんくださいまし」
△「はいどなたですえ……オヤオヤ、これはこれはサアどうかこちらへおあがんなさい」
×「どうもおおきに、ご無沙汰をいたしました」
△「ハイ、なにかご用で」
×「ほかじゃァございませんがね」
△「ハイハイ」
×「少々旦那にお願いがあってまいりました」
△「ハアおたのみが、なんですえ」
×「へえ、はなはだ恐れ入りましたがな、少し秘密なお話でございまして、人に聞かれると私が迷惑をいたします、どうかお人払いを願いたいもので」
△「アアそうですか、八さんや、このお方がな、少し秘密な用があってわしのところへおいでなすったんだ、おまえさんがそこにいてはいけない、少しの間、奥へ行っていなさい、婆さんにそういって飯ができたら食べなさい、ピッタリそこを締めて……オイオイのぞいちゃァいけない、サアどうぞこちらへ、もう誰もおりません」
あたりを見まわして、
×「ヘエ、どなたも聞いちゃァおりませんね」
△「誰も聞いてやァしません、おまえさんとわしと二人きりだから、どういう話だかお話しなさい」
×「ヘエ、人に聞かれるとまことに私が困ります」
△「ダカラ誰も聞いてやァしません」
×「ヘエ、どなたも聞いちゃァおりませんか」
△「くどいな、サアお話しなさい」
×「ヘエそれではお話し申しますが」
△「ヘエうかがいましょう」
ただ口をモグモグやったり目をパチクリやっておりましたが、
×「おわかりになりましたか」
△「ちっともわからない」
×「あなたわかったような顔をしましたが……」
△「おまえさんがなにかいっているようだから、わしもあいさつだけ顔でしていたんだ」
×「アアそうでございますか、ちょっとどうかお耳を拝借」
△「ハイお持ちなさい……ハアハア、なるほど、ハアハア、ハテね、あの人が……ハアハア、なるほどそれはそれは……フー、それで……なるほど、食べ物は下に充分あるんですね……それはいけない、大勢たのんだら、一人帰り二人帰り、みんな帰ってしまった、そうだろう、こういうことはどうも一人に限る、よろしい、わしが請け合っておくよ、今ここにいましたろう、あれはいたってのんきな男で、四十日のあいだ寝ていて、今日ようよう目を覚ましたというんだ、世の中にこのくらいのんきな男はあまりなかろうと思う、あれにわしからいいように話をするから」
×「夜が明けるまで」
△「よろしい、わしが請け合った、あの男なら大丈夫だ、で夜が明けるまでどうだい、二円出すかい」
×「エエ二円けっこうで三円でも」
△「それじゃァ三円出すか」
×「なるべくなら二円のほうに願いたいもんで」
△「無理に三円だせというのじゃァない、二円で請け合ってやろう、じゃァ後から連れて行くから先へ行っていなさい」
×「そうでございますか、なにぶんお願い申します」
△「八さんや、ちょっとおいで」
八「ヘエ、話はすみましたか」
△「アアすんだよ、金儲けだよ」
八「ありがたいね、どういう金儲けで」
△「今夜一晩だ」
八「ヘエ」
△「明日の朝まで夜明かしをしてくれればよい」
八「ヘエヘエ」
△「今夜一晩だけ夜明かしをしてくれれば、それでおまえに二円やる」
八「二円、一晩で、けっこうですねえ」
△「金儲けだから一晩夜明かしをしてもいいだろう」
八「エエエエ金儲けなら毎日でもようございます」
△「そうはいかない、今晩一晩だけの急仕事なんだ」
八「ヘエ」
△「向こうへ行くと、燈火《あかり》が一ツ点《つ》いている、そのそばに食い物がたくさんある、むすびもあれば煮しめもある、その代わり寝てはいけないよ、おまえ一人でいるんだから」
八「ヘエ私のような寝坊でも、四十日のあいだ寝たんですもの、一晩や二晩夜明かしをしても、寝る気遣いはございません」
△「それじゃァわしが請け合って連れて行ってやろう、婆さんや、そこに薪雑棒《まきざっぽう》があるだろう、一本出しな八さん、これをおまえが持って行くんだ」
八「ヘエ」
△「向こうへ行ったら上げ板を一枚上げておまえの坐っている前へ置いて、この薪で上げ板をたたいているんだ、そうすると眠くないから」
八「ヘエよろしゅうございます」
△「それでよくば連れて行く」
これから先方《むこう》へまいりました。
△「モシモシ、じゃァ隣の家へ置いて行きますよ……八さんこの家だよ、サアおはいり、燈火《あかり》がカンカン点《つ》いているだろう、どこでもおまえのよさそうなところへ坐るんだ、アアその辺がよかろう、その上げ板を一枚持って行っておまえの坐っている前へ置くんだ……そうだ、それでよい、眠くならないようにその薪でもって上げ板をたたいてるんだ」
八「ヘエようございます、ありがとうございます」
△「ソレそこに食い物があるだろう、むすびに煮しめが入っている、それを腹が空いたら食いな」
八「ヘエご馳走様でございます」
△「じゃァねえ、今夜夜明けまでで二円だよ」
八「ありがとう存じます」
△「さようなら」
八「オヤ旦那」
△「なんだい」
八「おもてから鍵をかっちまいましたね」
△「アアかったよ」
八「ヘエ、さようでげすか、ようございます」
△「明日の朝までだよ」
八「ヘエ、二円でしたっけね」
△「アアそうだ、夜が明ければ迎いに来るから」
八「ヘエ」
八「ようございます」
△「時に八さんや」
八「ヘエ」
△「まだおまえに言い置くことを忘れたが、おまえの坐っているその上を見な、上から蓆《むしろ》が下がっているだろう」
八「ヘエ」
△「その蓆の下がっている向こうを見ちゃァいけねえよ」
八「ヘエようございます」
△「いいかい蓆の向こうへ行っちゃァいけないよ、夜の明けるまで」
八「ヘエかしこまりました、さようなら……ハテな、これァ不思議だぞ、なんだろう、上から蓆が下がってる、蓆の向こうを見ちゃァいけない、なんだろう、しかし見るなというものは見てえものだ」
しきりに薪で上げ板をたたきながら、蓆のほうを眺めておりますうちに、空腹になりましたから結飯を食ったり煮しめを食ったりしてヒョイとまた上を見ると、下がっている蓆の上のほうに散切《ざんぎ》り頭がチョイと見えた、蓆の下を見ると、足の爪先が二ツ見える、アアこりゃァ大変だ、こりゃァ首くくりだ、どうも驚いたな、首くくりの番人だ、こりゃァ二円じゃァ安いや、驚いたなァ、当人ブルブルふるえ出した、そのうちにだんだん夜が更けてくるにしたがって、世間がシーンとしてまいりました、いずれで打つか鐘の音がものすごくボーン……、鐘が打ち切ったかと思うと、屋根の上でミシリミシリという音がいたしまして、やがて足音が止まったかと思うと、引き窓がスーッと開きました、引き窓が開いたから、ヒョイと見ると恐ろしい大きなトラ猫が、首をヌーッと出して、ジロッとこっちを見た時のすごいこと、ヒョイと手を出して、その蓆へさわったかと思うと、縄が切れて、蓆がバサリと落ちたから、ヌーッと首くくりがむき出しにぶら下がった、
八「こりゃァ大変だ、大変だ、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、オンガーボーキャアベーロシャノー、マカモダラ、マニハンドバ、ジンバラハラハリタヤ、悪しきを払うて助けたまえ、天理王命《てんりおうのみこと》、高天原《たかまがはら》に神やどーる、南無妙法蓮華経……」
と拝んでいるうちに、かのトラ猫が、フーッと息を吹っかけますと、この首くくりが、パッチリ目を開きましてこっちをジロジロ見ている。
八「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
すると首くくりが大きな口を開いて、
首「オイオイ念仏などはよしてくれ、それよりもなにか陽気な唄でも唄ってくれ」
八「ヘエかしこまりました、唄います」
首「早く唄え」
八「ヘエ唄いますよ」
首「早く唄ってくんなよ」
八「ヘエただいま唄います」
情けない声を出して、
八「伊勢はなァ津でもつ、ヨーイトナ、ヨイヨイ」
とたんに首くくりが浮かれ出して、ヨーイトナ、ヨイヨイと踊り出すと、重みがかかったものか、縄がプッツリ切れまして、八五郎の前へドーンと落ちましたから、ビックリしてウーンというと目をまわしてしまいました。
そのうちに夜が明ける。
△「どうしたえ昨夜は」
×「ヘエ旦那ありがとうございます、ダガどうも昨夜、隣の騒ぎは大変でしたよ」
△「ハテね」
×「どうも踊りを踊るやら唄を唄うやら大騒ぎでした」
△「ヘエそうですかい、のんきな男ですからね、そのくらいのことはやりかねませんよ」
×「なんだか知れませんが夜の明け方に、恐ろしい大きな音がしましたが、それからスッカリ静かになってしまいました」
△「そうですかい、とにかく行ってみましょう」
これから空き家へ来て、戸を開けてみると、そこへうつ伏せになって寝ております。
△「オヤオヤのんきな奴だなこやつは、四十日も寝ていたというくせに、まだ寝が足りないとみえて……オヤオヤそれもいいが、一件物を下ろして二人で寝ちまやァがった、おい八さんや、起きないかい、八さんや」
大きな声で二声ばかり呼びますと、やっこさんパッチリ目を開いて、
八「ヘエ今唄います、唄いますよ唄いますよ、伊勢はなァ、津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」
△「ハハアごらんなさい、のんきな奴で、また伊勢詣りに行きました」
[解説]上方の噺で、東京ではやる人が少ないが、先代の金馬がやった。サゲはぶッつけ落ち。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
八百屋お七《しち》 〔または〕お七の十
―――――――――――――――――――
恋変じて無情となりますが、無情変じて恋となるというのはあまりございません。恋が変じて無情となるほうが多い、色恋《いろこい》のために道ならぬことをする者がいくらもあります。現に八百屋お七などというのは、色男に会いたいばかりに、自分の家《うち》を焼いたとかいう、お七は本郷《ほんごう》でたいそうな別嬪《べっぴん》で、小町と評判をされたくらいの女、もっとも小町といわれるくらいだから、造作《ぞうさく》はごく吟味《ぎんみ》して製造してあった。
まず、かみくだいて申し上げると髪は烏《からす》のぬれば色のように真っ黒、眉毛は三日月のごとしというのが二ツあるから、六日月《むいかづき》とでもいうか、目は鈴をはったような黒目がちでしあわせ、白目が勝っていると先が見えません。鼻筋がツンと通っているというが、ご婦人というものはあまり鼻筋が通っているのは、権《けん》があっていけないとかいいます。お七はツンと通っているけれども「けん」もなければサーベルもなかった。戦闘力にとぼしい顔色で、鼻の下のあまり距離の長い奴は、すけべッたらしくていけない。といって短いのはかんしゃく持ちのようでいけない。長くなく短くなく、度を計って製造する職工《しょっこう》もなかなかむずかしい。唇の厚ッぺらの奴は、口中《こうちゅう》がくさそうでいけない。薄ッぺらの奴は、おしゃべりをしそうでいけない、厚ッぺらでもなく薄ッぺらでもなく、ちょうどいいッぺらというぺら、むずかしいぺらがあるもんで……ご婦人の怒り肩というのはかっこうがよくない、首を掛け矢か才槌《さいづち》でたたッこんだようなのがありますが、なで肩といって、少しこけているほうがよろしゅうございます。けれども、こけすぎて羽織《はおり》がすべり落ちるようなのもおかしい、ちょうどほどよく痩けたやつがよい、前へまわると乳、このご婦人の乳というものは、どだい大きいものだが、どっちかというと小さいほうが着物を着ても胸が高く見えないで、形がようございます。小麦まんじゅうの頭へ大豆をのせたようなのもあれば、中には糠漉《ぬかこ》し袋の先へどんぐりを付けたような大きいやつもある、もっとも大は小を兼ねるといって、大きいやつは大きいだけあって、重宝なことがある。赤ン坊をしょっていて、乳を飲ませるという便利があります、おもてを歩いてても、
母「坊や泣くんじゃァないよ、泣かずにサアお乳をおあがり」
ヒョイと乳をかつぐ後ろへまわりますとお尻でげすが、ご婦人のお尻というものはまた大きい、というわけでもないでしょうが、私の考えでは、殿方のより少しタップリしているのだろうと思います、もっとも中には、ばかげて大きいのがあります、今月、来月、来々月《さらいげつ》、三月《みつき》一緒にして天下の豪傑、伊達《だて》の対決クソくらえというような大尻、二人乗りの幌《ほろ》みたような、夕立ちに三人かけ込んでぬれずにすんだなんかという、肥料会社より入札を入れるについてあなたのお尻からどのくらい肥料が出ましょうと聞きにきたという、そんな大きいものではまとまりがつきません。そうかと思うと幽霊尻《ゆうれいじり》、あるかないかわからない、俗に切り干《ぼ》し尻《じり》といって先に行くほど細くなるのもあります。
お七はまことに小さいお尻で、繻珍《しっちん》の丸帯《まるおび》を往来へ時々ズッコカしてきたという、ずいぶん小さいお尻のほうで、足も名古屋大根みたようにブクブクしているのがあります。足袋《たび》は十一文半、甲高幅広《こうだかはばびろ》で、かかとだけ出る。一|反《たん》で二足半しか取れないというこんな足に出くわしては始末にいけません。お七の足の小さいことよく歩けると思うくらい、色の白いこと雪に鈴をかけて、トクサでみがきあげ、今朝食べたたくあんが肋《あばら》の三枚目にぶらさがってるのが、おもてからすき通って見える。どこといって非の打ちどころがなかった。このくらいの女でげすから助兵衛連《すけべえれん》はたいへんでございました。どうか嫁にもらいたいといいましても、一人娘で嫁にやるわけにいかない、こうなると婿《むこ》取り、一人娘に婿八人、オレも行きたい我も行きたいというが、一人の娘にそんなに婿をもらってもしようがありません、婿のまわしを取るわけにもいかない、
甲「どうだ、オレが一ツ婿に行くんだ」
乙「バカァいえ、てめえの下書《げしょ》なんざァ入っていねえ」
甲「なんとでもいえ、オレは持参金でおどろかして行くんだ」
乙「おまえがじいさんきんで行くなら、オレはばあさんきんで行く」
いろいろな奴があるもので……、そのころお江戸の名物はなんだというと、火事に喧嘩、つまらない名物があったもので、今でもよくやります。
×「なにをぬかしやァがる、こうめえても江戸ッ子だ」
江戸時分にはにらみが利いたか知れませんが、東京となってからあまりにらみが利かなくなりました。
△「なにをぬかしやァがる、こうめえても東京ッ子だい」
にわとりが閧《とき》を作るようで威勢が悪い。おりしも本郷三丁目より出火というので、ジャンジャンジャンジャンジャンと、その時分のことだから半鐘《はんしょう》はなかった、なにがあったかというと、太鼓に板木《ばんぎ》、太鼓に板木では火事にちょっと出にくい。火事だァイ、ジャンジャンジャンジャン、
甲「火事はどこだい」
乙「吉原《よしわら》だ」
甲「用はねえけれども出かけよう」
てんで、野次馬という尻尾《しりっぽ》のない奴が、先になって出かけますが、太鼓や板木じゃァ親類が焼けても行く気にならない、火事だァイ、ドンドンドンポカンポカンポカン、川の中へ南瓜《かぼちゃ》を放り込んだようでどうも出る気になりません。ただ今のように、ポンプとか水道、消火器などという消防の道具がそなわっておりません、龍吐水《りゅうどすい》といって、糸こんにゃくか心天《ところてん》を突き出すようなもので、ジュウジュウと水をやるんだからなかなか容易には消えません、そこへゆくと今は早い、燃え出したと思うと、ジャンジャンジャン、ヒーン、パッパッパッ、ガランガランガランガラン、シューシュー、トテトテトー……。
もう消えてしまった。仕事が早い。また昔は火消しも暢気《のんき》なのがそろっておりました。大きなたらいへ水をくんで、龍吐水というやつを突っ込んで、ヤァイ、シュー、チュー、まるで大人国《たいじんこく》の猫の小便みたようなこんな物で、なかなか容易に火事が消えるものじゃァございません、いくら水の出ようが少ないからって、火事のほうで遠慮をして、ボヤボヤ、そんな燃え方をしやァしない、見ているうちに本郷二丁目は燃え広がり、お七の家も類焼をしてしまった。
そのころおいはまだ、火気《かき》のあるところへ掛小屋《かけごや》を掛けて商いをするのが自慢であった、お七の家も相当の財産でありますから、すぐに掛小屋を掛けて商いを始めたが、さて掛小屋などというものは、しまりがない、しまりがないから一人娘に虫が付くといけないというので、この虫ということについて、どのくらい頭を痛めたか知れない。私の考えでは、八百屋の虫だから、ねぎの虫か、大根の虫か、ごぼうの虫かにんじんの虫かと心得ておりましたら、娘に付く虫は色男だそうでございます。家へ置いてはためにならない、どこかへあずけよう、だがうっかりしたところへあずけて、かえって虫が付いてはなんにもならないというので、親類評議のうえ、寺方《てらかた》へあずけたら大丈夫だろうとそれから駒込《こまごめ》の吉祥寺《きちじょうじ》へあずけることになりました。ここを機械鏡《からくり》でよくやります〔♪〕「お寺さんわィ駒込の……吉祥寺……」ここへあずけました。
ここなら虫の付く気づかえはあるまいと思うとなかなか気はゆるせない、小姓《こしょう》の吉三《きちざ》といって、おそろしい好男子がありました。今業平《いまなりひら》といわれたくらいの男で、業平のところへ小町が行ったんだからこれはうっちゃっておくわけにはなりません。おまえでなければならない、おまはんでなければならない、唖《おし》の雷《かみなり》さんが寄り合いを付けたように、ならない同志、ついにけっこうな契約済みになりました。ところが、女のほうは受け身で、一度はよい二度はよいと、情けの数がたびかさなり、ポコランポコランポコラン、お七のお腹《なか》に子が留《と》まり、高天原《たかまがはら》に神|留《とど》まりとはわけがちがう、三月四月《みつきよつき》は袖でも隠す、はや五月《いつつき》の岩田帯《いわたおび》、ゆうべ風呂のあがり場で、母《かか》さんが見つけさんしてコレお七、と来ると事が少しくめんどうになりましたから、娘心にもそれを知れないようにと、デパートへまいりまして、繻珍《しっちん》の丸帯を十五万三千三百三十三円の奴を、五円値切って買った。ケチな奴で、それをお腹のまわりへグルグル巻き付けてしまいました。力の足らないところは仕事師にたのんで巻いた、そんなばかなまねもしやァしますまいが、
そうして隠しておりますと、家のほうはすっかり普請《ふしん》が落成いたしましたから、親が迎いにまいりますと、お七は帰るのがいやだという、これは人情の|しからびる《ヽヽヽヽヽ》ところ、けれども親が迎いに来たのを、帰らないわけにもいかない、どうかもうひとめ吉三さんに逢《あ》いたいと思った、一軒の家でもうひとめ逢いたいというのはおかしいようだが、寺方《てらかた》は広い、蓮《はす》の間《ま》があれば菖蒲《しょうぶ》の間がある、坊主の間もあれば桜の間もある、いろんな間がへだたっておりますから、ちょっと逢えない。するとちょうどその日「茶の湯座敷の次の間で、ソリャ、ガタン……」ここで勉強をしておりましたお七が後ろへ来て、膝でもってドンと突いて〔♪〕「膝でツツラ突いて目で知らせ」ということになった。「吉三さん、わたしゃ本郷へ行くワイナー」というところは、どのくらい人情がからんでいたか知れません。もっとも人情がからんだからいいので、梅毒《ばいどく》がからんだ日にはサルバルサンのごやっかいですが、そのまま宅《うち》へ帰りましたが、吉三の姿が目先にチラついて、どうしても忘れられない。だんだん以前のことを考え出して、家が火事で焼けてしまって吉祥寺へあずけられたから吉三さんという人ができた、せっかくこしらえた家をもったいないが、もう一度焼いたら吉三さんに逢えるだろうと、つまらない考えを起こし、寝ては夢、覚めては現幻《うつつまぼろし》の忘るるものか忘らりょか、死なねばなるまいこの苦労、鼻唄を唄いながら自分の家へ放火をして、これで吉祥寺へ行かれることと思うと、なかなかそうはいきません、天網快々粗《てんもうかいかいそ》にして洩《も》らさず、釜屋の武平《ぶへい》という者が訴人《そにん》をいたして、お七は召し捕りになり、江戸中引きまわしのうえ|鈴ガ森《すずがもり》で火あぶりとなりました。こうなると吉三のほうでもたいへん、二世《にせ》と交わしたお七に死なれてしまってはこの世に生きている張り合いがない、いっそのこと死んじまおう、だがただ死んだんじゃァつまらない、先方《むこう》が火で死んだから私は水で死んだらいくらか先方の身体が冷えるだろうと、氷まくらとまちがえて、吾妻橋《あづまばし》から身を投げて、吉三改め土左衛門《どざえもん》となってやって来たのが十万億土《じゅうまんおくど》、
吉「オヤオヤ暗いところだなァ、こんなところへ二度と来るもんじゃァない、たいへんなところへ来てしまった、これなら娑婆にいたほうがよッぽどよかった、しかし来たものだから仕方がない、恐ろしい棒杭《ぼうくい》が立ってやがるな、一本二本三本四本五本六本、……アアこれが六道《ろくどう》の辻《つじ》だな、これよりさき極楽道《ごくらくみち》と書いてある、こんなに筋《すじ》がわかれているのに、ただこれより先じゃァわからない、右とか左とか書いてありそうなものだ、こいつぁなるほど迷うわけだ……、エー少々うかがいます、私は極楽へ行きたいと思ってこっちに迷ってるんですが、あなたご存じありますまいか」
七「アラマアどうしたらようございましょう、わたしはねえ、極楽へ行きたいと思ってここに十日ばかり迷っていますの」
吉「そいつァおそろしく迷いましたねえ、わたしゃ今来たばかりだが、十日ばかりといえば、お七の来たのも十日ばかり前だ、本郷二丁目の八百屋の娘で、お七というのに遇いませんでしたか」
七「アラマアわたしがそのお七なんですよ、けれどもおまえさんはどなた」
吉「冗談いっちゃァいけません、私は小姓の吉三《きちざ》だが、お七さんはそんな真っ黒でちぢれッ毛で、デブデブしちゃァいない、もっと色の白い小ぶとりの粋《いき》な女です」
七「それはわたしだって娑婆にいたときはもっと色の白い小ぶとりの粋な女でしたけれども、鈴ガ森で火あぶりになってくすぶって、こんなになっちまったんでさァね、あなた吉三さんだって、小姓の吉三さんはそんな水瓶《みずがめ》の中へ落っこちた飯粒みたように、ブクブクふとってやァしませんよ」
吉「私だってなにも元からこんなにふくれていたわけじゃァないけれども、おまえに死なれてしまって、一人で娑婆へ残ってるのは張り合いがないと、急に死にたくなったが、ただ死んじゃァつまらない、おまえが火で死んだから私が水で死んだらいくらかおまえの身体が冷えるだろうと思って吾妻橋から身を投げて土左衛門になってきたんだ、水を飲めばたいがいふくれてしまう、これはみんな水ぶくれで肉気《にくげ》ないのだ」
七「それじゃァおまえさんほんとうに吉三《きちざ》さんですか」
吉「エーおまえはお七だったか」
なつかしい、かわいいと互いに抱きついたとたんにジューッ。これはそうでございましょう、片ッぽうが火で死んで片ッぽうが水で死んだ、火と水が合ったからジューッというにちがいない、それでなければ吉三の三《さん》を取ってお七の七《しち》を取り七に三足すと十《じゅう》、どっちでもかまわないが、このお七の幽霊が夜な夜な鈴ガ森へ出るというので近所の評判になり、暮れ方からは人ッ子一人通らない、しかし、弱い者ばかりはない、武士道盛んのころだから、着物を見ると、三味線の合の手、ツンツルテンに着て丸行燈《まるあんどん》を踏み付けたような菖蒲傘《しょうぶがさ》の袴《はかま》をはき、二尺八寸の人切り包丁《ぼうちょう》を帯挾《たばさ》んで往来を詩とか五とかいうものを詠《うた》いながら歩いている武士《さむらい》、「昔この地は戦場なり、流血《りゅうけつ》染め残す若木《わかぎ》の桜、須磨《すま》の浜風夕べに散らす、犬が西向きゃ尾は東に当たる……」通りかかった鈴ガ森、南無妙法蓮華経の七字の題目石《だいもくいし》のかたわらから現われいでたるお七の幽霊ドロドロドロドロ、
武「なんだ」
幽「こんにちは」
武「なんだそのほうは」
幽「お七の亡魂《ぼうこん》」
武「我はお七の幽霊に恨みを受ける因縁《いんねん》はない」
幽「恨みを受ける因縁があってもなくてもかまわない、十六歳で火あぶりになったからこの世に残っている者がむちゃくちゃに恨めしいから、チビリチビリ、なしくずしにとり殺すつもりだ」
武「さては聞きおよぶ通行人を悩ます幽霊なるか、拙者も武士のはしくれ、そのままには差し置かんぞ」
幽「なにをぬかしやァがる、こう見えても江戸ッ子の幽霊だ、マゴマゴしやァがると、どてっぱらを蹴破《けやぶ》って陸蒸気《おかじょうき》を押し込むぞ」
お七の幽霊、巻き舌でいばり出した、武士だから黙っていない、一足あとへ下がってぬきうちに右の腕を切り落とした、チェー残念と幽霊が左の手をのばして刀を取ろうとする、刀を取られてはたいへんだからまた左の腕を切った。幽霊の腕なしは役に立たない。飛び込んできて武士の陰嚢《いんのう》を蹴上げる、睾丸《きんたま》を蹴られてはたまらない、居合腰《いあいごし》になるとサッと横にはらった刀で股《もも》の付け根から切り落とした、片足ではもう仕方がない。
幽「かなわぬかなわぬ、逃げ出せ逃げ出せ、チンチンモガモガオヒャリコヒャリコ……」
武「お七、そのほうは一本の足でいずこへまいる」
幽「片足《かたあし》ゃ本郷へ行くわいなァ……」
[解説]これは先代円上が、まだ円窓で売り出し当時に得意にしていたものである。サゲは「わたしゃ本郷へ行くわいな」の地口落ちであるが、小噺を元にして、一席にまとめた地噺である。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
死神《しにがみ》
―――――――――――――――――――
昔、子供ができますと、名付け親というものをたのみましたもので、金があれば、すぐに子供に名がつけられますが、貧乏人はお七夜《しちや》になっても名をつけることができません、ちょっと名付け親をたのむにも三両の金がいりました。それがためにむやみに子供に権兵衛《ごんべえ》という名をつけました。名なしの権兵衛というのはこれから始まった。
女「チョイトおまえさん、子供が生まれたってお金がなくッちゃァ名付け親になってくれる人がない、どうするつもりだえ」
亭「どうするったって無《ね》えものは仕方がねえ」
女「仕方がねえッて沈着《おちつ》いてちゃァしようがないよ」
亭「しようがねえッたってしようがねえ」
女「だけどもさ、お金というものはね、世間にいくらも落っこってるもんだよ、少し行ってひろっておいでな」
亭「冗談いっちゃァいけねえ、そうむやみにひろえるものか」
女「ひろえないッて沈着《おちつ》いてちゃァなおひろえやァしない、たかが三両あればいいんじゃないか、三両ばかりのお金がおまえさん、できなくっちゃァ仕方がないよ、おまえさんも男だろう」
亭「そうよ」
女「男なら三両ぐらいのお金ができないということはないよ」
亭「そりゃァこしらえろというんならできらァ」
女「できるならこしらえておいでな」
亭「そんな無理なことをいうな、今すぐにはできねえ」
女「じゃァやっぱりできないんじゃァないか、おまえさん三両ばかりのお金ができないなら死んでおしまいよ」
亭「ひどいことをいやァがるな、俺だって男だ、こしらえてくらァ」
女「きっとこしらえておいでよ、できなかったら死んでおしまい、それもただ死ぬのじゃない、豆腐の角《かど》へ頭をぶつけて死んでおしまい」
亭「ひどいことをいやァがる、豆腐の角へ頭をぶつけて死ねるものか、よしこしらえてくるぞ」
女「きっとこしらえておいでよ」
それからおもてへ飛び出してまいりました、ブラリブラリ歩いてるうちに大川端《おおかわばた》へ出てきました。
亭「家《うち》の嬶《かか》ァもひどいことをいやァがるな、三両の金ができなければ死んでしまえと言った、それも豆腐の角へ頭をぶつけて死んでしまえといやァがった、あんなやわらかいものへ頭をぶつけたって死ねるものか、しかし俺も意気地《いくじ》がねえな、……三両の金ができねえなんて、家をいばって出てきたけれど、あてがない、当分貧乏神に取りつかれているんだな、……待てよ、金が無《ね》えのは首の無えのに劣《おと》るというが、シテみるというと俺は首がねえようなもんだな、首がなければ人間、死んでるようなもんだ、いや貧乏神よりこりゃァ死神だ――」というと、うしろから「エッ」といって出てきたものがある。
亭「おまえさんなんだ」
死神「俺は死神だ」
亭「エエ、なんだって?」
死「死神だよ」
亭「ヘエ死神……死神がなんだってここへ来たんだ」
死「今おまえが呼んだろう」
亭「イイエ、呼びやァしない」
死「だって今おまえ、死神と言ったじゃァないか」
亭「ナニ言やァしませんよ、ここで今考えていたんだ、嬶ァに子供ができたんで、ところがソノ三両の金がなくては名付け親になってくれ手がないんで家の嬶ァの言うには、三両ばかりの金ができなければ、死んでしまえというんで、それも豆腐の角へ頭をぶつけて死ねというんで、わたしも癪《しゃく》にさわるからこしらえてくるといってここまで飛び出してきたんで、しかし、あてがねえんでどうしようと考えているんで、でげすからマア金のねえのは首のねえのに劣る、首がねえようなもんだ、首がなければ死んでるようなもんだ、イヤわたしは貧乏神じゃァねえ、死神だとこう言ったんでございます」
死「アアそうか、おまえが死神だといったものだから俺ァうっかり出ちまった、しかしマアおまえと俺とは縁《えん》があるんだな」
亭「冗談いっちゃァいけません、死神なんぞには縁がねえほうがいい」
死「そう嫌うな」
亭「嫌いまさァ死神なんぞ」
死「そう死神死神というな、しかし袖摺《そです》り合うも他生《たしょう》の縁《えん》、躓《つまず》く石も縁の端《はし》ということがある、おまえと俺と縁があるんだ、どうだ話し相手になってやろう」
亭「マアようございますよ、ごめんをこうむりましょう」
行きかける奴を、
死「オイオイ待ちなさい、マア少し待ちなよ、どうだい、金が儲《もう》かったらいいんだろう」
亭「ヘエ、そりゃァ金ができりゃいいんで」
死「金ができるように俺がしてやろうじゃないか」
亭「冗談いっちゃいけませんよ、死神に……」
死「いちいち死神死神といやァがる、俺のいうことをきけば、きっと金ができる、あした商売替えをして医者になんな」
亭「だって医者になっても脈を取ることもできません、第一、薬を盛《も》ることを知らねえ」
死「ナニ、薬なんぞ盛らなくってもいいよ、俺が付いていれば大丈夫だ、人間の寿命というものはたいがい俺にわかっている、いくら患《わずら》っていても、寿命のある者は助かる、ピンピンしていたからッて寿命のねえものは死ぬ、他の者にはわからねえけれども、俺にはわかるんだ、ほかの人の目には着《つ》かねえ、おまえの目にだけ着くように、病人のところへ俺が先へ行っている、迎いにきたら行ってみて、脈を取らなくってもいい、病人の寝ているそばに俺がいる、しかしよくおぼえておきなさい、俺が裾《すそ》のほうへ坐《すわ》っていたら、その病人は必ず助かるんだ、寿命があるんだ、いくら重い病人でも、そのかわり枕もとのほうへ俺が坐っていたらとても助からない、それをおぼえていな、俺が裾のほうに坐っていたらこの病人は死ぬ気遣いはないし助かりますと受け合っちまうし、先方で、たって薬をくれろといったら茶でもなんでも煮出してやっておく、どうしても寿命のある奴は助かるんだ、そのかわり枕もとへ坐っていたらこれはとても助かりませんと言い切ってしまえ、それをおぼえていて行きな」
亭「なるほど、こりゃァ恐れ入った、それじゃァわたしも助かります、マアひとつ看板を掛けますからどうか助けておくんなさいよ」
死「よしよし、きっと金ができるぞ」
これから家へ帰りまして、あやしい看板を門口《かどぐち》へ掛けました。
○「こんにちは」
亭「誰だえ……オオ竹《たけ》さんかい、どちらへね」
竹「家《うち》のね、お店《たな》でげすがね、お嬢さまが長いこと患っていらっしゃるんで、どんな医者へ診せても験《しるし》が見えねえんで、方角が悪いんじゃァないかというんで、易者《えきしゃ》にみてもらうと、こっちの方角の医者にかけるとすぐに治るというんで、たのまれて探しにきたんだ、どうだろう、このへんにいい医者はあるまいか」
亭「ウムなるほど……どうだい俺が行こう」
竹「エエ」
亭「俺が行こう」
竹「イエ医者さまを探すんで」
亭「だから俺が行こうというんだ」
竹「おまえさんは医者じゃァないじゃァないか」
亭「それが医者だ、今日から医者だ」
竹「冗談いっちゃァいけねえ、そんなあやしい医者は連れて行かれませんよ、わたしの大事な店《たな》なんだから」
亭「ナニ俺はいい医者だ、病人を見て、助かる病人なら助けてやろうじゃァないか、助からねえものならどうしたって助からねえ、それがわかりさえすればいいんだ、だから俺を連れて行きな」
竹「弱ったな、こいつとんでもねえことをいった、大切な店だから」
亭「いいってことよ、心配するな、連れて行け連れて行け、ほかを探しても医者はねえや、俺ッきりだ、サアすぐに出かけよう」
竹「おどろいたなこいつは」
これから二人連れ立って出かけました。
竹「ここの家なんだ、中へ入っちゃいけねえよ、少しここに待っていてくんな……ヘエ旦那、行ってまいりました」
旦那「大きにご苦労ご苦労、さがした医者は見つかったか」
竹「ヘエ、見つかりましたが、わたしがことわったので、ところが先方で勝手について来ちまったんで」
旦「先生か」
竹「ヘエ、これはどうもあやしい医者なんで」
旦「なんだってそんな者を連れてきたんだ」
竹「これは今日からの医者なんで」
旦「ふざけちゃいけない、あれほどおまえにたのんだじゃないか、いい医者をたのんでくれと」
竹「ところがいい医者だから俺が行こうというんで、ついてきました、決して悪い了簡《りょうけん》で連れてきたわけじゃないんですから、どうかマアご勘弁《かんべん》なすって」
旦「来たものは仕方がねえ、脈でも取らして、薬を服《の》まなければ、いいだろう、こっちへあげなさい」
竹「ヘエ……オイ、先生、こちらへ」
亭「ハイハイ……これはこれは」
旦「オイこれが先生かい、マアどうもごくろうさまでございます、先生とにかく病人をごらんなすって、薬などはどうでもいい――」
亭「アア薬はどうでも、見さいすればいい、ご病人は……なるほど、お娘子《むすめご》かな、まだお年がお若いな……ウムご心配だな」
ヒョイと見ると裾《すそ》のほうに死神が坐っております、こいつはしめたと思って
亭「オイ親御《おやご》さん、このご病人は助かる、死ぬ気遣いは決してない……ナニ薬、薬は服《の》まずともよい、しいてくれろと言えばあげるが、茶でも沸《わ》かしてあげるくらいなものだ、治りますよ、大丈夫だ、私が受け合ったから大丈夫だ、また来ますよ、さようなら」
のんきな医者があったもので、この医者が帰ってしまうと、この病人がたちまち助かりました。サアこれから評判になりました。間《ま》のいい時には妙なもので、どの病人も病人もみんな助かるから、それがためにたちまちのうちに金ができました。人間というものは金ができると贅沢《ぜいたく》になりますもんで、それから一ツ京大阪のほうを見物しようというんで子供には立派な名付け親をこしらえまして名を付け、女房と子供を連れて、世帯《せたい》をしまって京大阪のほうへ見物に出かけました。金のあるのにまかしてあまり贅沢をしたんで結局また一文なしになってしまいました。帰ってきた時にはもう家がない。第一医者になろうにも死神が相手で、死神の居所《いどころ》がトンとわかりません、奴《やっこ》さん大川端へ来て、ボンヤリ突っ立って、
亭「アア住居《すまい》を聞いておくんだっけ、弱ったな、死神がいなくっちゃ医者になることができねえ、ここで呼んだ時に返事をした、一ツ呼んでみようかしら」と、言ううしろへ死神が立って、肩をポンとたたいて、
死「オイ、なにを考えているんだ」
亭「イヤこれはこれは、どうもその節《せつ》はいろいろごやっかいになりました、おかげで子供に立派に名を付けられました、金もできましてありがとう存じます、あの時は助かりました」
死「どうした、どこへ行ってきた」
亭「じつは、その京大阪のほうへ修行《しゅぎょう》に出かけました」
死「なんの修行に」
亭「医者の修行に」
死「馬鹿なことをいうな、俺が付いてれば修行もヘチマもいるものじゃァねえ、金はどうした」
亭「ところが一文なしで、どうかもう一度、助けてもらいたいもので、明日から看板を出しますが」
死「金はみんな遣《つか》ってしまったのか」
亭「ヘエ、きれいに遣っちまいました」
死「ナニ遣っちまった、そう無駄なことをしちゃいけない、おまえはなんといった、三両の金にこまって子供に名を付けることができないというから俺が助けてやったんだ、金ができたからいいというんでみんな遣ってしまうというものがあるか、勝手にしろ、もう俺はかまわねえ」
亭「そんなことを言わないで、もう一度助けてくださいな、なにしろ帰ってきて一文なしで、どうするにも仕方がないんで」
死「そうか、それじゃもう一度助けてやろう、そのかわり今度金ができたら無駄に遣わないようにしろ」
亭「ヘエ、もう今度はできれば大切にしますから」
これからまた先《せん》の家のそばへ家を借りてここへ看板を上げました、先にもう評判になっておりますからすぐに患者が来ました。
△「エエごめんください、ごめんください」
亭「ハイ」
△「エエ私は佐久間町《さくまちょう》の伊勢喜《いせき》からまいりました」
亭「ハアハア」
△「主人が長らく患っておりまして、どこの医者へかけましてもトント験《しるし》が見えません、先生はその病人を見るばかりで治してくださるということをうけたまわりましたが、どうか先生すぐにおいでを願います」
亭「ハハア佐久間町の伊勢喜さんか、よろしいご大家《たいけ》の、さっそくうかがいます、これでいい、すぐに行きましょう早いほうがいい」
△「さようでございますか、ありがとう存じます」
それから一緒に連れ立って出かけました。
△「ヘエただいま、先生おいでになりました」
支配人「アアそうか、どうぞ先生こちらへ」
亭「ハイハイ、これはこれはご病人は……」
支「どうぞこちらへ」
亭「ハアこれがご当家のご主人か」
支「ハイ」
亭「だいぶお年を召していらっしゃるな、ウム、ご心配だな」
ヒョッと、寝ている病人の裾のところを見ると死神がいない、枕もとを見ると枕もとにピタリと坐っている。
亭「イヤご支配人」
支「ヘエ」
亭「お気の毒だがこの病人はとても助かりません」
支「ヘエ先生助かりませんか」
亭「寿命がない」
支「寿命がございませんか」
亭「まことにお気の毒だ」
支「それは困りましたな、先生のお力でどうか一度助けていただきたいもんで」
亭「わたしも助けてあげたいけれども寿命がない」
支「ヘエ、いかがでございましょう先生、いま死なれますと困りますが、千両くらいならお礼をいたしますが一ツ先生のお力で助けていただきたいもので」
亭「ナニあのご病人を助ければ千両くださる、あの千両――」
死神のほうへ向かって小さな声で、
亭「今一文なしですがね、助けてもらいたいものですがどうでございましょう、千両になるんですが、ヘエ助からねえ……イヤご支配人、これはお気の毒だが千両ではとても助かりません」
支「ヘエ、千両でも助かりませんか、では二千両出しますが」
亭「二千両……」
また死神のほうへ向かって小さな声で、
亭「二千両になるんですがな、どうでございましょう、なんとかして助けるわけにはいきませんか……いけねえ……イヤご支配人、二千両ではとても助かりません」
支「ヘエいけませんかな、せめて本年一ぱいも生かしておきとう存じますが、三千両出しますが」
亭「三千両、この病人を助けると三千両……エエちょっとお耳を拝借《はいしゃく》……いかがでございますか、ご当家に力のある、手ばしこい者が四人おったら集めていただきたいので」
支「ヘエ、それはたくさんおりますが、どういたします」
亭「この病人の蒲団の四隅《よすみ》を持ってもらって、早くないといけませんよ、私が膝をたたくとたんにあの病人を向こうに向きを変えちまうんで、そうしたら助からないこともない」
支「なるほど、ヘエようございます」
これからたちまち家にいる、力のある手てばしッこい者を四人連れてまいりまして、寝ております病人の蒲団の四隅をつかんで、膝をたたくとたんにグルリと向きを変えてしまいました。今度は死神が裾のほうへ行ったからそれがためにこの病人がたちまち助かりました。大よろこびで三千両の金をもらって帰ってくると、家には先へ死神がきて坐っている。
亭「オヤどうもお早うございますね、先ほどは相《あい》すみません、あんなことはしたくなかったんですが、なにしろマア帰ってきたばかりで一文なし、ところへ三千両というんですから、あんなことをしましたが、どうか悪く思わないで」
死「オイなんだいあの真似は、俺にペテンを食わせやァがった、助からない者を無理に助けてあの病人はどうしても助からないんだよ、礼をもらったか」
亭「ヘエ、三千両もらいました」
死「もらったらいい、マア俺と一緒にゆきな」
亭「ヘエ」
死「俺と一緒にゆきな」
亭「どこへ行きまするかな、どうか悪く思わないで」
死「マアいいからついてきな……ホーラここだ、ここが俺の家だ」
亭「ヘエ、立派なもんでございますな、石の門が……」
死「サア、こっちへ入んな……」
亭「オヤオヤ真っ暗けでげすな」
死「だまってついてきなよ」
亭「オヤ、こりゃァおどろいた、急に明るくなってきました、こりゃァ大変な蝋燭《ろうそく》でございますな、こりゃァなんでございましょう」
死「これはみんな人間の寿命だ」
亭「エエ」
死「人の寿命だよ」
亭「なるほど、人間の寿命というものは蝋燭の灯火《あかり》のごとくだと言いますがなるほど本当ですね、恐れ入ったなここのところに恐ろしい目立った一本、まだ火が点《つ》いたばかりで威勢《いせい》よく燃えてますな、こりゃァどこの誰というのがすぐにわかりますか」
死「アアわかる」
亭「ヘエー、大変なもんだな」
死「これはなんだよ、おまえの倅《せがれ》だ」
亭「わたしの倅、これは恐れ入った、まだ寿命があって、盛んでげすな、壮健《たっしゃ》でげすな、まずありがたいな……この隣に半分ばかりになって燃えてますな」
死「ウム、それはおまえの女房だ」
亭「エエ」
死「おまえの女房だよ」
亭「わたしの女房、なるほど、まだまだ寿命がございますなわたしの女房も……オヤオヤ、この隣にもう少しで今にも消えそうになっている」
死「それがおまえの寿命だ」
亭「エエ」
死「おまえの寿命だよ」
亭「これがわたしの寿命……」
死「そうよ」
亭「今に消えますぜ」
死「消えれば死ぬのよ」
亭「エッ、これはいけませんね、おどろいたな、どうしてこんなに短くなっているんだ」
死「ここを見な、ここに半分より少し余計でもって威勢よく燃えているのがあるな」
亭「ヘエ」
死「これがおまえの本当の寿命だ、これはなさっきおまえが俺にペテンをくわせやァがって無理に助けた人の寿命だ、てめえは金に目が眩《くら》んで、てめえの寿命を売っちまったんだ、アハハハお気の毒なものだな」
亭「エエ、それはいけませんよ、いくら金があったってしようがねえ、金はいりません……」
死「俺に返したっていけない、気の毒だがやっちまったものは取り返しがつかねえ」
亭「そりゃァ困ったな、なんとか助かる工夫《くふう》はございますまいか」
死「まず助からねえな」
亭「そこをどうかなんとかして助けてもらいたいもので……」
死「俺も助けてやりたいけれども、どうも取り返しがつかない」
亭「けれどもなんとかして……」
死「サアうまく行くか行かないかここに半分消えかけがある、こいつを持って行って、接《つ》いでみな、うまく接げれば助かるから、なかなかうまくいかないぞ」
亭「ヘエヘエ接いでみます、死んじゃァ大変ですから、これが接げればいいんで」
死「そうよ」
亭「じゃァ接いでみましょう」
ブルブルブルブルふるえながら、蝋燭を取りに行く、
死「ふるえるな」
亭「わたしはふるえたくはねえんですが、ここへ来ると自然にふるえるんで……」
死「ソレ消えるぞ」
亭「ヘエ」
死「消えると死ぬぞ、シッカリしろ」
片ッぽうの手に蝋燭を持ちまして、今にも消えそうになっている蝋燭をつまんで、ブルブル震えながらそれを接ごうとしました。
死「ソレ消えるぞ」
亭「ヘエ」
死「消えると死ぬぞ」
ヒョイと接ごうとするとたんにプツ。
亭「アエ消えちまった」
[解説]これはイタリアのピアアヴェ作の喜歌劇「靴屋と妖精」の脚色であるが、死神にも二通りあって、ここにあげたのは円左、先代金馬らのやっていたもので、このほかに初代円遊のやっていた派手なものがあって、現在の金馬君はその円遊畑のほうをやる。このサゲは「アア消えちまった」といって高座に伏せてしまう。つまり死んだふりを見せる落ちなので、仕草《しぐさ》落ちといわれている。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
金魚の芸者
―――――――――――――――――――
一寸の虫にも五分の魂ということをよく申しますが、これはどうやらありそうなことでございます。
女「モシおまえさん、お起きなさいよ」
主「ウム、ウム、ウーム」
女「なにか怖い夢でもみたんですか、たいへんにうなされてましたよ、なんだか知らないが、気味の悪い声を出して、びっくりしてしまった」
主「アアそれでは今のは夢だったか」
女「どうしたのさ、どんな夢をみたの、おまえさんはふだん、聖人《せいじん》に夢なしだからオレは夢なんぞみないといって自慢をしているくせに、時々くだらない夢をみるじゃァないか、この間もそうだよ、たいへんに息ばって寝ているから、どうしたのかと思って起こしたら、電球をかじったがあんまりうまくなかったなんて、くだらないことをいっている、子供に聞かれてもみっともないじゃァないか」
主「みっともねえったって見るものはしようがねえ、この間なんざァ飛行機へ乗って落っこった夢をみた」
女「ほんとうにバカバカしいよ、今みた夢というのはどんなのさ」
主「ナニあの狂獅子《くるいじし》な」
女「なんです、狂獅子というのは」
主「泉水《せんすい》にいる金魚よ」
女「またはじまった、おまえさんは金魚というと夢中で、寝てまで金魚の夢をみているんだね」
主「それがたいへんなんだ、金魚の化け物だ」
女「オヤいやだ、金魚の化け物だなんて、西遊記《さいゆうき》のようだね」
主「マアだまって聞きねえ、あの狂獅子という金魚は、おまえも知っての通り、このまえ小石川《こいしかわ》の竹島町《たけしまちょう》を通りかかった時に子供が大勢でザルやなにか持って、金魚をすくったといって大さわぎをやっているから、ヒョイと、オレが見るとなかなかいい金魚だ、子供が指でつっついたりなにかして殺してしまいそうだから、オレがその子供に一円やってその金魚を買ってきたんだが、丹精《たんせい》がいがあってたいそういい金魚になったから、自慢で金魚道楽仲間に見せると、どうだ種《たね》を売ってくれろというもんだから子供を取ってそれをいい値にほうぼうへ売ってだいぶ儲《もう》けた、金魚のおかげでうまい酒も飲めるんだと思うからなるべく金魚にもうめえ物を食わして大事にしているんだ、すると昨夜《ゆうべ》だ、こんばんは、棟梁《とうりょう》さんのお宅はこちらでございますか、と入ってきたのを見ると、いい女だ、年頃は十七八かな、おまえみたような婆さんとちがって、新造《しんぞ》ッ子はいいな」
女「オヤどうもはばかりさま、わたしだって新造の時分があったじゃァないか、ソレ、わたしがお店《たな》へご奉公をしている時分、おまえが台所からソッと入ってきて、わたしの袂《たもと》を引っぱったじゃァないか、あの時分のことを忘れたのかい」
主「ナナなにをいってやがるんだ、昔のことなんぞいうない」
女「だってさ、昔のこともいいたくなるじゃァないか、さんざん苦労をしてようようこれまでにこぎつけたのに、今になっておまえに浮気なんぞをされて、だまっていられるものかね」
主「なにをッ、なにいってやがるんだ、いつオレが浮気をした」
女「たった今いったじゃァないか、十七八の新造ッ子がおまえを訪ねてきたって」
主「夢だよ」
女「夢……ごまかそうたってだめですよ、わたしはもう疾《と》うからあやしいあやしいと思っているんだから、夢にみるというのは常日頃からその女のことを想っているからじゃァないか」
主「マア大きな声をしなさんな、みっともねえ、真実《しんじつ》夢なんだから、だまって聞きねえ、その女のいうには、私は泉水の金魚でございますとこういうんだ」
女「ばかばかしいね」
主「長らくごやっかいになりましてありがとう存じます、どうかしてご恩返《おんがえ》しをしたいしたいと思っておりましたところ、このあいだ新橋《しんばし》の芸者屋さんの旦那というかたがおいでなすって、私の泳いでいるのをごらんなすって、アアこれはいい金魚だ、この金魚くらいの器量の人間だと芸者に買うんだけどもとお言いなすった、それから考えついたんですが私も人間に化けて芸者に売られ、あなたにお金儲けをさせて心ばかりのお礼をしたいと、こうその金魚の新造がいってくれるんだ、どうだありがたいじゃァねえか」
女「ばかばかしいことばかりいってるよ、そんなばかなことがあるものかね」
主「だからよ、オレだってなにも必ずそうだとはいわねえけれども、ずいぶん世間に観音様が夢枕《ゆめまくら》に立ったの、天神様が夢枕に立ったなんて話があるじゃァねえか、金魚だって夢枕に立たねえとも限らねえ」
女「観音様と金魚と一緒にする人があるものかね、もったいない」
もとより夢のことでございますから夫婦とも別段気にも留めません。するとその晩でございます。ご亭主は仕事場から帰ってきて、お湯へ行ってきて、おかみさんと差し向かいで一杯飲んでおりますと「ごめんくださいまし」とおもてから優しい声、
女「ハイいらっしゃいまし」
と、見るときれいな若い女でございます。
娘「棟梁《とうりょう》さんはお宅でございますか」と袂《たもと》を持ちあつかって恥ずかしそう、おかみさんは少し嫉妬《やきもち》で、
女「ハイ家《うち》におりますが、あなたはどなたでございますか」
娘「アノお庭の泉水から」
女「エーッ、おまえさん変な人が来たよ、見たところきれいな娘さんだけれども、お庭の泉水から来たってさ」
主「ドレドレ……ヤアこれァおいでなすった、おたつ、ソレ昨夜おまえに話したじゃァねえか、昨夜夢枕に立った金魚さんだ」
女「オヤそれじゃァあの泉水の狂獅子……」
金魚「さようでございます、まことにおはずかしゅう存じますが、私は金魚でございます、毎度ご丹精にあずかりましてありがとう存じます」
主「イヤどうしまして、お礼はこっちで言いたいくらい、おまえさんの産んでくれた子供で私はたいへんに儲けました」
女「マアどうぞこっちへお寄りなさい、一ぷくお喫《あが》んなさいな、マアなるほど煙草《たばこ》は喫りませんか、火のそばはいけないので、そうですか、お茶を……やはりいけませんか、では水でもあげましょうか、あまりどうもせっかくおいでなすったのに、おかまいしないようで」
金「どういたしまして、私の勝手なのですからどうかお捨ておきくださいまし、で棟梁、さっそくでございますが私をどうか新橋の芸者屋さんへお売んなすってくださいまし」
主「それじゃァ夢でみた通り、そうですか、そりゃァどうもご親切にありがとう、この間も来てどうかいい抱《かか》え〔芸者屋が抱える芸者のこと〕が欲しいがおまえは人づきあいが多いから、またいい器量の娘さんでもあったら世話をしてくれろとたのんでいったくらいだから、おまえさんを連れていきゃァ喜ぶにはちがいないが、おまえさん芸者なんぞができるかい」
金「エエできます、大丈夫でございます」
主「そいつァありがたいな」
女「けれどもねえ、おまえさん、もしも金魚だということが露顕《ろけん》したら大変だよ」
主「こうして話をしていたって、ちっとも金魚だということがわからないじゃァないか……エエ剛気《ごうぎ》なもんだなァ、そりァ大丈夫だから安心しているほうがいい、ねえ金魚さん」
金「大丈夫でございますから、おかみさんご安心くださいまし」
主「ソレみねえ、あの通りじゃァねえか」
女「ほんとうにふしぎだねえ」
主「じゃァ俥《くるま》を二台あつらえてくれ、まさかに電車じゃァいけねえだろうから」
金「アアまことになんでございますが、俥は身体にさわりますから、どうか私を手桶《ておけ》へ入れて提《さ》げてってくださいまし」
主「なんだい、手桶へ入れて提げてってくれだって、そんな大きな身体が手桶へなんぞ入らねえじゃァないか」
金「イエ途中は金魚になってまいります」
主「アアなるほど、金魚になって行くのか、それじゃァないしょで提げて行こう」
金「それでは水はやはり泉水の水をくんでくださいまし、水道の水は荒《あら》くっていけませんから……そうお二人で見ていられちゃ入りにくうございます。目をつむって手拍子を三つお打ちなすってくださいまし、そのとたんに飛び込みますから」
主「ようがす、ヨイヨイヨイ〔ポン、ポン、ポン〕ヤッいなくなっちまったぞ……アいたいた、おたつ見ろやい、水の中へ飛び込んで金魚になっちまった、奇態《きたい》なもんだな、なるほど金儲けだ、帰ってきてまた飲み直すから酒と肴《さかな》を買っておいてくれ」
これから手桶を提げて新橋へ出かけてきまして、芸者屋さんの裏口のほうへまわって人の気のつかないようなところへ置いて、
主「ヘイこんにちは」
○「オヤこりゃァ棟梁、めずらしい、サアこっちへ」
主「どうもご無沙汰をしました」
○「今日はなにか用かね」
主「ナニこのあいだお話がありましたから、今日は芸者を抱《かか》えていただこうと思って連れてきました」
○「イヤそれはありがたい、一人は欲しい欲しいと思っていたところだ……玉《たま》はどんなだい、顔はいいかい」
主「エエそりゃァもう別嬪《べっぴん》で」
○「そりゃァなによりだが、連れてきたのかい」
主「連れてきました」
○「どこにいる」
主「裏口に待たしてあります」
○「なんだなこっちへお入れ、裏口なんぞへまわさねえで、おもてからお入れな」
主「イエナニちょっとそのなんで、ただ今連れてまいります……オオそこにいましたかえ、さっそく化けてしまって、ナニ猫がシッ、畜生畜生、アア石を打《ぶ》ちつけてやったら逃げちまったからもう大丈夫で、サアサアこっちへ来てください……エエ旦那この人で」
○「サアサアズッとこっちへお通り、なるほどこりゃァいい娘《こ》だ、いくつだね」
主「エエソノなんで六|年子《ねんご》で」
○「なんだ」
主「エエナニソノなんで、こうズーッと大きくなったんでエッヘッヘ、そりゃァもうズーッと育ったんで」
○「そりゃァあたりまえさ、ズーッと育ったにはちがいないが、今なんとかいったね、六年子とか」
主「ナニそれァ六年前には子供でしたが、早いもんで、ちょっとマア……そうだそうだ十六でございます」
○「へんな人だな、十六なら十六と早く言うがいいじゃァないか、しかし十六にしちゃァ大きいな、同胞《きょうだい》はあるかえ」
主「同胞はソノなんで、みんな大尽方《だいじんがた》のところへ買われていって可愛がられております」
○「ハハアではみんな器量がいいとみえるな」
主「エエもう一ツ種でございますから」
○「そうかい、じゃおまえさんも追っつけ出世をするだろう、芸はどうだね」
主「三味線のほうはあまりなんですけれども、立つほうは巧《うま》いもんで、鯱鉾立《しゃちほこだ》ちなんざァ真似のしてがありませんや」
○「ヘヘーそうかい、じゃァ三味線よりも踊りのほうが得意なんだね、そりゃァけっこうだよ、ずいぶんいい姐《ねえ》さん達でも年中、扇《おうぎ》ばかりで稼業《しょうばい》をしている人があるから、また踊りも本場のを習わなければいけないから、こっちで藤間《ふじま》か花柳《はなやぎ》へでも入れて、性《たち》のいいようなら東会《あずまかい》にでも出してやる、そうするとまた人気もよけい出るから」
主「ヘエ、もう立つほうときたら得意で鼻面《はなづら》で立ったりします」
○「あぶないねそりゃァ、そんなことをしてもし大切な顔でもすりむいたら大変じゃァないか」
主「ナニそりァ馴れておりますから大丈夫で」
○「しかし芸者はやっぱりなにか変わった隠し芸のあるほうがいい、むやみにやっちゃァいけないが、たまには鯱鉾立ちもおもしろいかも知れないアハハハハ」
主「旦那服装《なり》を見てください、上は皮色縮緬《かわいろちりめん》下着は更紗《さらさ》《さらさ》で」
○「なるほどいい更紗だね、このあいだデパートで南方の更紗をたくさん売っていたがそんな珍しい柄《がら》はちょっとなかった」
主「羽織《はおり》は黒の一つ紋《もん》、顔の肥《ふと》りとして赤みをさして、青ッ白いのは病人臭くっていけません、俗に赤松葉《あかまつば》と言いますね、若いうちはこの顔が赤いくらいでなけりゃァいけませんや、このあいだ外国人にたいへん惚《ほ》れられちまいましてね、わざわざ径《けい》二寸もあるような輪金《わきん》をくれたりしました」
○「輪金……径二寸といっちゃァ指輪じゃァない、アア腕輪だね」
主「ヘエソノ腕輪で」
○「そうかいそりゃァ大したものだ、ところで食べ物なんどのことも聞いておかなければならない、誰しも好き嫌いはあるものだから、なにが好きだね」
主「ぼうふら……ナニなんです。その軽いものは好きです、麩《ふ》などはよく食います」
○「アアそうかい、それじゃァ精進《しょうじん》料理などが好きとみえるね、よくそういう人があるよ、けっこうだけっこうだ、ヤレ洋食が好きだの、てんぷらが好きだのといわれたって、そんな物はお惣菜《そうざい》には付けられない、精進料理が好きならまたそのように台所のばあやにもそう言っておくから」
主「ご飯《はん》はあまりたくさんやらないでください、目が飛び出すと困るから」
○「なにをいうんだ、おまえがくだらないことをいうから、本人が恥ずかしがって下を向いている、ご飯のことなんぞ私のほうじゃァいわない、自分のほうで気をつけなけりゃァ、だけれどもそりゃァ心配はないものだよ、おさんどんなにかに来る者はみんな腹いっぱい食うけれども、芸者や半玉《はんぎょく》に来る者は、肥るのをいやがって、たくさんお食べといっても食べないよ、ナニしろマアいろいろなお客を相手にする泥水《どろみず》稼業だからそのへんはよく承知していてくれなければ困る」
主「泥水はあまりいけませんよ、なるたけ澄んだ水のほうが」
○「それはマア清い水にはする心算《つもり》だけれども、だいたい泥水稼業だから」
主「なにぶん、どうか願います」
○「そりゃァ芸者を三日したら忘れられないというくらいで自分の腕次第で、芝居が見たければ芝居へも行けるし、暑い時にはお客をせびってモーターボートなどに乗って大川へ夜遊びなどにも行けるけれども、あまり川へ行って落っこちられては困るけれども」
主「ナニ落っこったって大丈夫で、泳ぎは名人でござい」
○「ヘエそうかい、なかなかおまえ、かくし芸があるね」
主「マアなにぶん一つお願い申します」
○「それからもう一つ聞いておかねばいけないが、べつに病気はないかい」
主「ときどき腸《ちょう》を出しますが、その時は唐辛子水《とうがらしみず》でも飲ませてやってくださればたくさんです」
○「不思議な病気だね、咽喉《のど》はどうだい、唄のほうは」
主「そりゃァもう、いい声で」
○「そうかい、とにかく一つやってみてもらおうじゃァないかや」
と、三味線を出したから、棟梁ビクビクものでいると、金魚は臆《おく》するようすもなく、三味線を弾《ひ》いて唄いましたが、なかなかどうもうまいものです。
○「なるほど、こりゃァどうも大したものだ、いい|こい《ヽヽ》だなァ」
金「イイエ、私は金魚でございます」
[解説]中国の「聊齊志異《りょうさいしい》」あたりから思い付いたものであろうか、初代円遊の作である。サゲはぶッつけ落ち。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
茄子《なす》の子
―――――――――――――――――――
ある田舎に小さなお寺がございました、お寺はせまいが地所はなかなか広く、裏のほうには畑がある。和尚《おしょう》さんは暇な時に自分で楽しみがてら手入れをしております。この和尚さん茄子が好きで毎日畑へ出ては肥料《こやし》をやる。
和「サア早く大きくなんなさい、大きくなったらわしの菜《さい》にしてやる、早く大きくなれ、わしの菜にするから」
と、そういっては丹精《たんせい》しておりました。ある日のこと、相変わらず畑で働いてお寺へ帰ってきましたが、くたびれたものだから転がってタバコを喫《の》んでいると垣根の向こうへ年の頃十七八になろうという可愛らしい新造《しんぞ》がまいりまして、なにか物いいたげにニコニコ笑いながらちょっと挨拶をいたしました。
和「これはこれは、どこのお娘《むすめ》さんだかあんまり見かけない女中衆《じゅちゅうし》だが、なにかわしに用でもあんなさるか、そこでは垣根越しだ、用があったらそのそばの開きを開けてズッとこっちへお入り……サアサアこっちへおいでどちらの娘さんだか、こんな田舎の娘ではないようだ、どちらから来なすった」
娘「ハイ、わたしはこの裏の畑の茄子でございます」
和「畑の茄子、ハテナそういえば少し色が黒いようだが、どうしてまた畑の茄子が女になってここへ来た」
娘「毎日和尚さんが畑へいらしって、早く大きくなれ、大きくなったらわしの妻《さい》にするからとおっしゃってくださいましたから、そのことを親たちに話しましたところが、そういうことなら一日も早く大きくなって、和尚さんにご恩を返さなければいけないと、親たちが申しましたから、わたしもその心算《つもり》でおりましたところ、ようよう思いが叶《かな》って、今日こうしてまいりました、畑を出ます時も親たちがいろいろと教訓をしてくれまして、よく和尚さんへつかえてご恩返しをしなければいけない、恩を知らない奴なら南瓜《かぼちゃ》のようだといわれるからと申しました」
和「おかしいなァ、初耳だな、どういう訳で、恩を知らない奴を南瓜のようだというのだ」
娘「アノそれはなんでございます、地に立たぬ南瓜は垣根を倒しけり、などということをよく申します、三つや四つの時分にはつかまり立ちをいたしますが、大きくなるにしたがって垣根を押し倒してしまいます、それがために恩を知らない奴は南瓜のようだと申します」
和「アーそうか、それはおもしろいな、けれどもな、わしが毎日畑へ行って早く大きくなれ、大きくなったらわしの|さい《ヽヽ》にするといったのは女房というわけではない、もとよりわしは坊主のことで、婦人に近寄ることはできない、それゆえ飯《めし》の菜《さい》にする、とこういったのだ、それをおまえが思いちがいをしたのだ」
娘「アアさようでございますか、けれどもせっかくこうしてまいりましたものですから、和尚さんのお側へ置いてなんなりとお手もとのご用をさせてくださいまし」
和「それは困ったな、寺へ若い女を置くわけにはいかない、けれどもしかし、せっかくそういってくれるものだから親切を無にしても悪い、少し肩が凝《こ》って困るから後ろへまわって背中をたたいておくれ」
娘「かしこまりました」
と、茄子の娘は和尚さんの後ろへまわって背中をなでたりさすったりしております。そのうちに和尚さんはいい心持ちになって寝てしまいました。すると寺の権助《ごんすけ》が村方《むらかた》へ行っていろいろ買い物をして帰ってまいりますと、和尚さんがしきりにウンウンうなっております。
権「和尚さん和尚さん、どうしなすった、なにか怖い夢でも見なすったか、和尚さんお起きなさい」
揺り起こされて、和尚さんはびっくりして飛び起きた、
和「誰かと思ったら権助、いつの間に帰ってきた」
権「ヘエ、いま村方で買い物をして帰ってまいりましたが、あなたがえらくうなされているから起こしてあげたが、なにか怖《こえ》え夢でも見なすったか」
和「アアそうか、それでは今のは夢だったか」
権「どんな夢を見なすった」
和「イヤ怖い夢だ、じつにふしぎな夢だ」
権「怖い夢ッてどんな夢かね」
和「ほかではないが、おまえも知ってる通り、わしゃァ毎日裏の畑へ行っては茄子を作っている、その茄子がいま人間に化けてきた」
権「なんだって、茄子が人間に化けたッて、そんなことがあるものでねえ」
和「だからそれは夢だよ」
権「アー夢でげすか、それでどうしなすった」
和「それがソノ、日ごろわしが茄子に向かって、早く大きくなれ、大きくなればわしの菜にするとこう冗談にいったところが、茄子が思いちがいをして、わしの女房になる気で、親から暇をもらってきたというのだ」
権「それからどうしなすった」
和「それからわしは坊主だから女房は持てんと断ったが、なんでも側に置いて使ってくれろと、それから肩をたたいてもらっているうちに眠くなって、いつかその女とともにまどろんだ気がする、イヤそれが夢だ」
権「おもしろい夢を見なすったな」
和「イヤおもしろいではない、出家《しゅっけ》として恥《は》ずべきことだ、つまりわしの修行が足りなければこそ、さような淫《みだ》らな夢を見るのだ、わしは立派な坊主になるためにこの寺を出て、いま一修行《ひとしゅぎょう》してみるつもりだ、おまえに暇を出すのもかわいそうだが仕方がない、ひとまず自分の村へ帰ってくれろ、それからわしは傘《からかさ》一本あればいいのだ、寺の物は残らずおまえに譲ってやるからどうとも勝手にするがいい、わしは七八年修行をしてくるつもりだ」
権「そうでございますか、それじゃァまたあなた、ご修行からお帰りなすったらわしを使っておくんなさい」
和「アーやはり馴《な》れているから、迷惑だろうけれどもおまえをたのむよ」
えらい坊さんで、つまらない夢を見たばっかりに寺を捨てて修行に出ました。ちょうど七年の間、諸国をまわりまわって修行をいたし久方《ひさかた》ぶりで元のお寺へ帰ってまいりました。さだめし七年も留守にしたから寺は荒れているだろうと思うと、誰か後住《ごじゅう》でもできたのか、なかなかお寺が立派でございます。裏の畑はどうなったか、さんざんわしが手を掛けてまた修行に出たのもあの畑の茄子のことからだが、どうなったろうかと思って寺の裏手へまわってまいりますと、畑の中からチョロチョロと駈《か》けてまいりましたのは六歳《むっつ》ばかりの可愛らしいおかっぱの女の子。
子「おとっさんおとっさん」
和「コレコレなにをいいなさる、わしは出家だ、女房というものを持つわけにいかん、女房がなければ子供もない、可愛らしい子だがおまえのような可愛らしい子におとっさんといわれるわけはない」
子「それでも常々おっかさんのいいなすったには、おとっさんはご修行とやらにおいでなすって今にお帰りになるということでした、わたしはこの畑の茄子の子でございます」
和「ナニ、おまえは畑の茄子の子だ、それは不思議なこともあるものだ、で、なにか、おまえのおっかさんは達者《たっしゃ》でいるか」
子「おっかさんはお屋敷へ|おこうこう《ヽヽヽヽヽ》に上がりました」
和「なるほど、おこうこうに上がった」
子「そうしてわたしはこうやって一人で育っております」
和「ナニ、一人で育った、剛気《ごうぎ》なもんだな、なるほど諺《ことわざ》にもいう通り、親は|なす《ヽヽ》とも子は育つ」
[解説]これは上方噺である。さる僧侶、日ごろ敬愛している仏画がぬけ出て、それと同衾《どうきん》したと夢みて、慙愧《ざんき》にたえず、畢竟《ひっきょう》おのれの修行の足らないためだといって雲水に出るという話が、仏書『沙石集《しゃせきしゅう》』にあったが、そこから取ったものであろう、地口落ち。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
権兵衛《ごんべえ》だぬき
―――――――――――――――――――
よく田舎やなにかで、きつね、たぬきが尻尾《しっぽ》で戸をたたくということを申しますが、尻尾ではなかなか人間のたたくような音はしないそうで、それではどうするのかと申しますと、戸へ寄りかかっていて頭でコツンコツンとたたくんだそうでございます。ある片田舎の一軒家に、権兵衛さんという独身者《ひとりもの》、若い時分に江戸へ出ましていろいろなことをして、道楽もさんざんいたしました。その苦労の果て年をとって在所へ帰りまして、親の残してあったわずかの田地を耕して独身者の気散《きさん》じ暮らし、村と村の境のところで、西北《にしきた》に山がありまして、東から南のほうが一面の田畑になっている、まことに風入りのいい、日当たりのいい爽々《せいせい》としたところに住まっております。そこへ隣り村から若い者がチョイチョイ遊びにくる、江戸でさんざん苦労をしてきたお爺さんだから、いろいろおもしろい話をして聞かせたりなにかするもので、毎晩のように若い者が集まってくる。ところがこの頃どうしたのか誰も遊びに来ないから、今晩は早寝をしようというので、スッカリ片付けて、囲炉裏のところへ胡坐《あぐら》をかいて、手前切りの煙草かなにかフカフカ喫《ふか》していると、おもての戸をトントントントン「権兵衛」トントントントン「権兵衛」
権「だれだね、入らねえか、このごろ誰も遊びにこねえで退屈だから、もう寝るべえと思ったところだ、入らねえかよ、なぜ返辞ぶたねえ、おかしな奴じゃァねえか」
またトントントントン「権兵衛」、トントントントン「権兵衛」
権「アレッ、うるさいな、悪戯《いたずら》しねえで入れや」
ガラリと戸をあけてみると、足音もせず、人影も見えない。
権「ハハア、裏山のたぬきだな、畜生、悪戯するじゃァねえぞ」
と、大きな声でどなってその晩は寝てしまいました。その翌晩も、だれも遊びにこないから今夜も早寝をしようというので、煙草を喫《の》みながら考えていると、トントントントン「権兵衛」トントントントン「権兵衛!」今夜は返辞をしません。ソッと土間のところへ降りてきて今度たたくという刻限を待っていて、戸へ手をかけた、息を殺して待っていると、トントントントン「権兵衛」というところをガラリあけた。たぬきは寄りかかってしきりにたたいているところを不意にあけられたからたまりません。土間の中へコロリと転がり込んだ。
権「サア、こンちきしょう、毎晩毎晩来やがって、権兵衛権兵衛てえ、おらが名を呼びつけにしやがる、うるせえ畜生だ、どうしてくれべえ」
荒縄で四足をふんじばって、梁《はり》へぶら下げて、
権「畜生、明日の朝になったら仕置きしてくれるからみろ」
その晩は寝てしまう、いつも早起きの男でげすから、薄ッ暗いうちから起きて、座敷を片付けたり、庭などを掃除して、囲炉裏の自在へ茶釜をかけて、湯を沸かし、山茶《ばんちゃ》を入れて飲んでおります、
権「オイ作十《さくじゅう》」
作「オー権兵衛さんか、おはよう」
権「寄らねえかね」
作「ハイ」
権「どこへ行くだ」
作「いま新田《しんでん》までチョックラ借り物があって行ってくるだ」
権「アアそうか、このごろ若え者が誰も遊びに来ねえがどうしただ」
作「アニの、蓆《むしろ》干しの縄なえするで忙しいもんだからな、それでみんな来ねえだけんども、もう二三日で終わるだから、そうしたら権兵衛どんとこへ行くべえってな、みんな楽しみにして待ってるだよ」
権「そうか、おらもな誰も来ねえだから寂しくっていかねえ、仕事終わったら遊びに来《こ》うよ、茶ァ飲んで行かねえか」
作「じゃァ一杯馳走になるべえかね……相変わらず権兵衛さん早えな、おらなんぞはハア今やっと起きて、眠い目こすりながら出てきただ」
茶を飲んでおりますうちに、
作「なんだねえ権兵衛さん、あのキイキイ泣いてるな、アレマア頭の上へぶらさがってるな、たぬきだね、でっけえたぬきだな、こりゃァうめえことをやったな、落とし穴で捕ったか」
権「アニの、昨夜|手捉《てづか》めえで捉めえてくれた」
作「うめえことやったな、こン畜生だよこのごろ悪戯《わるさ》しやがるのは、このあいだ背戸《せど》の女《あま》ッ子が土橋《どばし》のところで脅かされた、それからてえものは臥《ふ》せってるんだ、今だに気分悪いそうだ、よくねえ畜生だ、どうだんべえ、ぶち殺して食っちまうべえ、たぬき汁すべえ、村の若え者大勢呼ばってきて、おらがたぬき料理するだからおらに皮をくんろ」
権「欲ばったことをいうな、だめだよ」
作「なんでかね」
権「なんでかって常《つね》の日ならいいだけんども、今日はおらが若え時分にやくざをして、さんざん苦労をかけたとっさまの命日だから、今日だけは命取るの堪忍してやるべえ」
作「どうしてマアおめえさま、あいつをとっつかめえた」
権「アニの、このごろ誰も遊びに来ねえだ、淋しいから早寝すべえと思っていると、毎晩毎晩来やがって戸をドンドンたたきやァがって、権兵衛権兵衛といいやがるだ」
作「こン畜生がか」
権「そうだよ、それからおらがだしぬけに戸をあけたら、土間へ転び込みやァがったから手捉めえにしてやった、こんなにほうぼう引っかかれただ」
作「このくらい引っかかれても仕方がねえ、こんなでっけけえもの捕《つか》めえただもの、食っちまったらよかんべえ」
権「いつもの日とちがって、今日はとっさまの祥月《しょうつき》命日だ、仏のための放生会《ほうじょうえ》、助けてくれるだから、マア食いたかんべえけんども我慢しろよ」
作「そうけえ」
権「二三日うちに遊びに来うよ」
作「アァ仕事がたいがい明日あたりにおえるだから、そうしたら遊びに来るよ」
権「惣左衛門《そうざえもん》どんに遊びに来うといってくんろよ」
作「ウム、今度遊びに来る時にうどん打ってくるだから待ってろや」
権「ウム、ご馳走持って来いや」
作「さようなら……」
権「ソレみろ畜生め、おらがいいってば、ぶち殺されて食われちまうだ、今日はおらのとっさまの祥月命日だ、仏のためだ、供養に助けてやるだから必ずこの後《のち》、近所の村の人に悪戯《わるさ》しちゃァなんねえぞ、けども汝《われ》のような性《しょう》なしだ、ただ助けてやっても忘れてしまうだろうから、仕置きしてくれべえ」
やがてのことに鋏《はさみ》を出して
権「こんなに毛伸ばしていては良くねえ、おらが短く刈ってやる……どうだ今夜風が身にしみて寒かったら、この仕置きにあったことを忘れぬよう、必ず人間に悪戯するでねえぞ」
くれぐれも言い聞かせ、頭の毛を刈り込んでしまい裏山へ引っぱってきて、綱を解き、尻《しり》をたたいて逃がしてやりました、畜生ながらも嬉しかったものとみえましてふり返りふり返り山の中へソコソコに入りました。
権「アアいい功徳《くどく》をした」
と、だれしもものを助けたくらい、いい心持ちのことはない、その晩のことでしたが、また刻限たがわず、トントンドンドン
「権兵衛さん、権兵衛さん」
権「おべっかたぬきめ、昨夜までは権兵衛権兵衛といいやがって、今夜は権兵衛さんだってやがる」
ドンドンドンドン
「権兵衛さん」
権「畜生また来やがったか執念深え畜生じゃァねえか、あれほどよく言い聞かせて、頭まで刈り込んでやったのに何しに来ただ」
「ヘエ、すみませんが、今度は髯《ひげ》を一つやってください」
[解説]これも江戸小噺であるが、粋《いき》な噺である、ぶッつけ落ち。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
あたま山
―――――――――――――――――――
ある吝兵衛《けちべえ》さんという人がお花見にまいりまして、なんにも飲まず食わずというので、ボツボツ歩いていると、早咲きの桜がもうスッカリサクランボになって落ちているやつに気がついて、
「これはありがたい、なんでも銭を使わずに歩いてればこういううまい物がみつかる、オヤオヤこれはたいそう落ちている」
まだほんとうに熟していないのが、風のために散りましたやつを、むやみに摘《つ》んでは頬張った。中には実の入《い》らないのもある、こいつは渋くっていけない、これは甘いというので、桜の木の根本へしゃがみ込んで、泥がついているのもろくろく落とさずにむやみに食《や》らかして、家へ帰ってまいりました。
吝「今日は俺は花見に行っていいものを食ってきた」
女房「なにをおまえさん食べてきたえ」
吝「ナニ銭を出しちゃァつまらないから、ちょうどサクランボが落ちていたから食べた」
女「アアそうかい、おいしかったろうね」
吝「ウムうまかった」
女「少しわたしにも持ってきてくれればよかったに」
吝「持ってこようと思っているうちにみんな食べてしまった」
大笑いです。すると頭が少し痛んでまいりまして、どうしたことかと思っているうちに、泥のついたサクランボを食ったもんだから、頭の上へ桜の木の芽が吹いてきた。
吝「サアこれは大変なことになってしまった、かかあどん、大きくならないうちに芽を刈ってくれろ」
というので、さっそく芽の出たやつをはさみで剪《き》ってしまいました。心《しん》を止めるから幹がだんだん太くなって、ますます頭が脹《は》れてくる。大きな桜の木ができるというようなことになりました。なんでも木の周囲《まわり》が七八尺もあろうという、これがまた枝垂《しだ》れ桜というので、サアどうも吝兵衛《けちべえ》さんの頭山《あたまやま》の桜の見事なこと、そうなると大変でございます。この頭へお花見が出るという工合《ぐあい》で、ドンドン騒いで歩く、かと思うと茶店を出す奴がある。法界節《ほうかいぶし》やサノサ節などが来ようというんですからたまらない、どうも頭の山の流行《はや》ること、ひととおりではない。
吝「アアどうもたまらない、かかあどん、こう人が出ちゃァたまらねえ、オヤオヤ誰かすべって落っこった奴があるよ、いけねえなァ……こりゃァおどろいた、耳のところへ足を踏んがけてまた上がって行きやァがる、オヤオヤ頭のこっちのほうがピンピンしてカッカと逆《のぼ》せてきた、どうしたんだかちょっと見てくれ」
女「アレアレ大変だよ、おまえの頭の隅へ穴をあけて、火を熾《おこ》してお酒の燗《かん》をしているよ」
吝「オヤオヤひどいことをしやァがるな、畜生め、人の頭の上でそんなことをする奴があるものじゃァねえ、そんなところで火などを熾《おこ》されてたまるものか、これは一番|落花狼藉《らっかろうぜき》ということがあるから、いっそのこと花を散らしてしまえ」
というので吝兵衛《けちべえ》さん、一振り頭を振ったからたまりません、ソレ花嵐《はなあらし》だ花嵐だというのでゴロゴロゴロ転がり落ちる、花もみんな散ってしまいました。
吝「マアいい塩梅《あんばい》だ、これでスッカリ花を散らしてしまったから、人も来ないだろう、しかしこれから毎年頭の上で、花が咲くたんびにこんな目に遇わされた日にゃァかなわないから、これはいっそのこと抜いてしまったほうがよかろう」
女「そのほうがいいでしょう、それじゃァご近所のかたをたのんで」
というので、町内中の人をたのみまして、この頭の山の桜の木を抜こうというので、縄をつけて大勢これにつかまって、エンヤラのドッコイショと木遣《きや》りでとうとうこれを引っこ抜いてしまいました。するとあまり桜の根が張っていたので、それを抜くとそこへ大きな穴があきました。
吝「アアこれでスッカリせいせいした」
ある時おもてへ出ますと、大夕立ちに出遇いましたからたまるわけのものじゃァない、頭の穴へ水がいっぱい溜まってしまった、これを明けてしまえばいいのだが、そこが吝兵衛さんだから、
吝「これはいい塩梅だ、冷たくっていい、マア水を溜めておこう」
女「おまえさん明けてしまったほうがいいよ」
吝「ナニそうでねえ、水を溜めておくほうが、始終頭がひえびえしていい心持ちだ」
と、この水を溜めておくうちに、だんだんこれが腐ってまいりまして、終いにはボウフラが湧《わ》く、ハヤッ子が湧く、フナが湧く、ナマズが湧く、コイが湧くというようなことになった、すると今度はこの池へ釣り師がたくさん出る。
吝「オヤオヤおどろいたな、コイやウナギが湧いたんで釣りをはじめやァがった、一つのがれてまた一つ、しばらく桜の木を抜いてうるさくなくなったと思ったら、また水が溜まって魚が湧いたので釣りをはじめやァがった、川魚《かわうお》はなんでも釣れるから、たいそう釣り師が出る、アレ、誰かが鼻の穴へ針を引っかけやァがった、アイテッ、これはたまらねえ」
やがてのことに網船《あみぶね》が出るようなことになる、芸者を連れてスチャラカチャンと陽気に船で遊んで歩く、アアこんな苦しみをするくらいなら、いっそのことひと思いに死んでしまおうと、もんどり打ってドブーンと自分の頭へ身を投げた。
[解説]江戸小噺から取ったもので、このサゲは、「煙管《きせる》の袋を縫うように」ともといったそうだが、現在はその煙管の袋がわからなくなったから、このサゲのほうがいい。煙管の袋は裏返しに縫って、頭を中にしてひっくり返すとちょうど自分の頭の池へ身を投げるのと同じ形になる。「首提灯」なども同型のコントである。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
鬼娘《おにむすめ》
―――――――――――――――――――
ただ今もって廃《すた》らないのは、節分の豆まきでございます。これはご維新になってから、ご承知のとおり暦《こよみ》が変わりましたから、ただ今では新暦二月ですが旧暦ではたいがい十二月の月末で、豆をまいてから一夜明けて正月を迎えたものです。昔お大名方では裃《かみしも》をつけて豆をまき、お女中方が奪いあってひろったもので、町人でも年男を選んで豆をまかせ、その日はどこでもにぎやかで、大年越しと申しておせちを煮て御酒《ごしゅ》を出し、大盤振舞いをしたものでございます。
さて豆まきの当日は門口《かどぐち》へひいらぎと赤いわしを挿します。刀の錆びたのを赤いわしといいますが、これは正物《しょうもつ》の赤いわしを挿すのでなんのためかわかりませんが、やっぱり鬼が嫌うとみえます。またひいらぎはとげとげがあるからおおかた鬼を突くのでございましょう。
どこまでも鬼には禁物としてあります。また豆まきは遠方へ向かって福は内、福は内、福は内、鬼は外、鬼は外、鬼は外と三度まき、それから家中《うちじゅう》へまいて一番末に雪隠《せっちん》へまきます、それを家中でひろって、めいめいの年の数の一つ余分に豆を紙へ包み、中へ銭一文を入れ、中には天保《てんぽ》銭一枚ぐらい入れて厄払いにやれといいます。そのうちに際物師《きわものし》が大年越しの御祝儀御厄《ごしゅうぎおんやく》払いましょうと言ってまいります。諸方《ほうぼう》で役者名寄せ、またはめでたいことで厄を払うということがありましたが、ただ今では厄払いがあまりまいりませんから、四つ角へ豆を捨ててくる人が多いようです。またどういうわけか厄落としと名づけて年越しの晩には四ツ角へ男の褌《ふんどし》なぞが捨ててあります。これがしきたりで、今もってやる人があります。
当今また冴《さ》え返り、浅草の観音堂または川崎の大師《だいし》、鶴見の総持寺《そうじじ》なんというところで盛んに豆まきがありまして、角力《すもう》が豆まきをする、また役者がまくというので、女の子なぞが拾いに出かけます。わけて成田不動様では豆まきをするために臨時列車が出たり、往復割引の切符を売り出したりして、たいそう盛んなものでございます。
むかし慶応《けいおう》の年間に鬼娘《おにむすめ》というものが現れて人の子を取って食うということがたいそうな評判で、夕方になると親が子供に「鬼娘が来るから家へおはいり」なぞ申して、もう夜は子供をおもてへ出さないことがありました。するとこれが錦絵《にしきえ》に出ました。頭は島田で振り袖を着ておりますが顔は鬼の形をしております。この錦絵が出ると、香具師《やし》という者が目をつけました。浅草の奥山、または木挽町《こびきちょう》、釆女町《うねめちょう》、釆女ヶ原、芝の久保町《くぼちょう》の原または両国の広小路など、明治五年に取り払いになりまして、今ではまことに|せま《ヽヽ》小路になりましたが昔は大繁華で、中にも両国の広小路の有り様はまず川端に軒を連ねてお茶を客にすすめる、ねえさんはいずれも厚化粧につくり立て「お休み遊ばせ、いっぷく上がっていらっしゃい」と呼んでいた、これが有名の両国の並び茶屋。また芝居は東両国に垢離場《こりば》、また西両国に村右衛門《むらえもん》の芝居、この座を後に蛎殻町《かきがらちょう》に引いて中島座となり、また三人兄弟を久松町《ひさまつちょう》に移して久松座となり、米沢町《よねざわちょう》には結城座《ゆうきざ》というのがありました。
寄席は長右衛門《ちょうえもん》という山二亭《やまにてい》、また林家《はやしや》という席もあり、昼間に興行いたしておりました。そのほか義太夫席に橘屋《たちばなや》という寄席もあり商人《あきんど》はみな露店で、また一名|豆蔵《まめぞう》と申しますのは正面に後ろ幕を張り、前には定紋付きの箱をならべ、四角に縄張りをいたして呼び込みにはきつねの尻尾のような物を持ち出し「サアサアお客さま、いたちが曲をいたします」と、口に小さい笛を入れて身体中をキューキューキュー「コンちきしょうめ」と大地へたたきつけキューといわせ、また踏んづけてはキューといわせて客を笑わせる。だんだん客が集まると、これより本芸に取りかかり、剣《つるぎ》の刃渡り、升《ます》と石と豆の使いわけ、または籠《かご》抜けなぞさまざまの芸をいたしたもので、その隣りに五色《ごしき》の砂を握って明智左馬之助《あけちさまのすけ》、近江《おうみ》の湖水の乗っ切り、または高尾太夫《たかおだゆう》、吉備大臣野馬台《きびのだいじんやばだい》の詩などを書いたものです。
赤色を上赤《じょうあか》、黄色をきねこといい、子供なぞが前へ進むと「入っちゃァいかん入っちゃァいかん」と小言まじりの滑稽《こっけい》で笑わせる、これを砂文字と申します。大阪では砂絵と申します。またその隣りに住吉踊り白地の着物に腰衣《こしごろも》で傘を立て、拍子を取りながらヤアトコセイ、ヨヤイナーと頭のぶち合いなどがあってなかなかおかしいものでございました。また自分の身体を大黒天《だいこくてん》にして、張り子の馬にまたがり前足は自分の足で客に九つ見える眼鏡《めがね》を持たせ、「サアサア大黒天が通るは通るは雷《かみなり》めのこで、それからそれから、ほにほのほにほのサアサア大黒天は蓬莱山《ほうらいさん》、浮かれの手おどり」などなかなかおもしろいものでした。
またその隣りに大きな太刀《たち》を飾り、歯みがきを売りながら居合いぬきをして見せ、歯抜きもいたしました。露店の演芸は手拭いで蛇をこしらえ「サアサアお客さま、今この蛇が曲をごらんにいれる」なぞといううちに客が集まるとその蛇の手拭いをいつか解いて汗を拭きながら大道講釈《だいどうこうしゃく》をやらかす。
その隣りには上州左衛門《じょうしゅうざえもん》といって、大きなほら貝を吹きたて錫杖《しゃくじょう》を振り立って、かったんかったんとやりながら講釈を読みます。これを一名でろれん祭文《ざいもん》と申します、またその隣りには当今の浪花節、その頃のチョンガレ節というのが後ろへ柿色の幕を張り、畳一畳ぐらいの高座の山へ机を置き、どてらに腹がけ、三尺帯で語ります。並んでその女房が三味線を弾き、一人の女が手拭いをかぶり、扇を持って客の中へ入ってもらって歩き、お一人で五十文くださるというと浪花節の先生が「ありがたい」と礼をいう。集まった銭を机の上で勘定いたし、
「百、二百、三百、四百十六文、ありがたい、これで米の銭が取れたが、魚でお酒を一ぱい呑ましてください、かわりに荒木又右衛門と星合団四郎《ほしあいだんしろう》の試合を一席読みます、聞いてください」と言ったのが、明治十年頃から寄席へ出て、今では何右衛門《なにえもん》だの何丸《なにまる》なぞと海賊みたような名前の人が現れて芝居を演《や》るようになったのはたいそう出世したものです。
またそばには橋本町だの芝新網《しばしんあみ》あたりから出てくる、阿法陀羅経《あほだらきょう》というものがありました、ちょっと腰衣《こしごろも》ではげた木魚を竹の襷《たすき》でコチコチコチ「お経の文句がはじまるはじまる」コチコチコチコチとやってたもので、また商人《あきんど》もさまざまな物が出ておりました。まず五蔵円《ごぞうえん》の練り薬売り、ガマの油のいいたてから、弘法《こうぼう》さまの石芋が「あの根をとり、この根をとり」なぞとやっている。
中にひときわおもしろいものは早つぎの粉《こ》を商う商人が
「サアサアご用とお急ぎのない方は、ごゆっくりごらんなさい、いかなる大切な瀬戸物でも、もしあやまって女房さんやおさんどんがそそうで取り壊し急場の間に合わない、どうしたらよかろうという時にはこの早つぎの粉が入用だ、このくらい水で固く練り、こう割れ目へつけてこういう塩梅《あんばい》に出っぱった薬はへらで取り、火の上へちょっと載《の》せ、かわきさえすれば水の中へ入れまたは沸茶沸湯《にえちゃにえゆ》を注ぎ、このくらい棒でかき回しても、取れるの剥《は》がれるのという憂いがない、また手荒なことをしてもみせる」
と、四分板が糸でからげてある上へたたきつけ
「このくらいにしても毀《こわ》れない、なんとお立ち合い、一つ買ってお試しなさい」
また隣りには、錆《さび》落とし、刀を光らせ「これこのように磨けば磨くほど金《かね》が光る錆落としをお買いの方には銀流しの粉をおまけにさしあげる」またその隣には、男が二人連れ立って「サアサアお聞きなさい、お家のため、お身のため、いの字からすの字まで一々ご教訓になります。はの字ィ、春来れば夏来るものと心得て、今日一日を仇《あだ》に暮らすな、にの字ィ」といいながら袂《たもと》の銭を手をさし入れて気にしております。またこちらにはのぞき眼鏡、俗に機関銃、また飲食店はさざえの壺焼き、煮込みのおでん、やきとり、ふかし芋など、いろいろな商人が出ております。
その中にひときわ目に立つ絵看板は鬼娘が墓を発《あば》いて女の腹を裂き、子供を取り食らっているというすごい看板を上げ
「サアサアこれは先々評判の鬼娘でございます、なんと子供を取り食らうとは恐ろしいものが世にはあるもので、サアサア評判評判」とどなっているところへ一人の侍が僕《しもべ》を連れて入ってきて、
侍「コレコレ鬼娘と申すがこれはこしらえ物かまた正物《しょうぶつ》かどうじゃ」
○「こしらえ物ではございません、正物でございます」
侍「さようか、しからば調べるぞ、もしこしらえ物ならなんといたす」
サアこれには困った、こしらえ物といえばほかの客に済まず、
○「ヘイまったく正物にちがいございません」
侍「さようか、しからば調べるぞ」
○「アアモシモシ旦那あなたがいらっしゃると鬼が逃げます」
侍「ナゼ」
○「あなたのお羽織のご紋がひいらぎでございますから」
侍「しからば可内《べくない》、その方《ほう》まいって取り調べろ」
供「ヘイかしこまりました」
○「アアいけません、お供の方がいらしっても鬼が逃げます」
侍「ナゼ家来がまいって鬼が逃げる」
○「お供の方のお腰の物が赤いわしですから」
[解説]これは両国八景のうちの一ツであるが、このほかに居酒屋、ガマの油売り、または長太郎玉、大名の役番付け売りなどいろいろあって、だいたい会話なしの地言《じことば》で運ぶので、こういう話を地噺といっている。サゲはトタン落ち。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
夏の医者
―――――――――――――――――――
だんだん世の中が進んでまいりまして、すべてのことが昔から見ると結構になりましたが、中にも医道の進みましたことは大したもので、したがってお医師方もじゅうぶん修行をして免許がなければ、病人をみることができませんが、昔はそうでなかった。葛根湯《かっこんとう》の一|貼《じょう》も作れますというと、もうそれでお医者さまだといっておりまして、ずいぶん難渋をしている人などは、良いお医者さまにかかれないために、下手な医者にかかって盛り殺されるのがいくらもありましたが当今はそれがない、困る人のためには慈恵病院などというものがあって、やっぱり名医方が治療をしてくださいますから、まことに安心でございます。お古い話に藪《やぶ》医者というのがあります。
○「どうしたのお竹さん」
竹「あきれちまうよ、隣りの藪医者め、あそこにかかる病人なんぞちっともないんだろう」
○「アア」
竹「それをどう戸惑いしたか、すぐに来てくれって、今よびにきた人があるんだよ」
○「オヤオヤ」
竹「するとあわてて飛び出しながら、私のところのキイ坊を蹴飛ばして行ったんだよ」
○「マアあきれたねえ」
竹「けれどもよかったよ」
○「なにがさ」
竹「足でしあわせ、アノ人の手にかかって助かった者は一人もない……」
しかしまた田舎のお医者さまにも洒落《しゃれ》たのがございます。
医「ヤアおまえのところの茂助《もすけ》どんがこのあいだ塩梅《あんばい》が悪かったてえがどうだね」
△「ハイ、正月のことでがしたが、伊勢暦《いせこよみ》をまたいで、罰《ばち》ィあたりやしてな」
医「ウム」
△「それから万歳の真似ばかりィして、手事《てごと》に負えねえでがす」
医「ヤレヤレ」
△「それがまた二月になりやすと、お稲荷さまの真似をしてピョイピョイ跳《は》ねまわるでがす」
医「ウム」
△「三月になりますとおめえさま、シャッチコばっておひなさまの真似えするで」
医「なるほど」
△「四月になったら、はだかになりやァがって、お釈迦さまの誕生だってえでがす」
医「ウム」
△「五月になってからやっとショウキになりやした」
医「アアそれやァよかった、もうひと月うっちゃっておけばヨイヨイになったろう……」
前《ぜん》申し上げました通り、昔は片田舎へまいりますと、病人はお医者さまがなくてずいぶん不自由をすることがございました。
×「太郎作《たろさく》、とっさまァ塩梅悪いちゅうだね」
太「ヘエありがとうございます、きのう野良《のら》から帰《けえ》ってきましてな」
×「ウム」
太「それからというもの、胸苦しいって、ゆうべはハア、よっぴて胸を押さえてたでがす」
×「ウムそれはおいねえの、胸苦しくって飯なんぞ食えるかな」
太「それがさ、あまり食えねえさ、昨夜《ゆうべ》なぞは、ハア飯椀《めしわん》に五杯きゃァ食わねえ」
×「ウム五杯ぐれえ飯食ってるようでは駄目だの」
太「おらのところはハア知っての通り、親一人子一人、ほかに身寄り頼りもねえこんだから、今のとこ、とっさまにおっちなれた日には」
×「そうだとも、いつおっちんでもいいということはねえが、ましてやハア、汝《われ》が女房《かみさま》でも持って安心するまで、とっさま身体丈夫にしてもらわなければなんねえな」
太「ハイ、早くよくなる工夫《くふう》なかんべえか」
×「いま苦しんでるかな」
太「ええ塩梅に今朝少し胸の開きがついたとみえて、今のところでは眠ってます」
×「そうかえ、そりゃァええ塩梅だ、おおかた暑さに負けたんべえ」
太「おらもそう思ってるだがね」
×「ヤア新田《しんでん》の婆さまが来たかえ」
婆「ハイいま聞きやしたがの、この家《うち》でも、とっさま塩梅よくねえというこったから、それでハア、チョックラ見舞《みめ》えにきたでがす、どうだね太郎作さん」
太「ハイありがとうごぜえますよ、昨夜《ゆうべ》えらく苦しんでいやしたが、今朝それでもええ塩梅にスヤスヤ眠ってますで」
婆「そうかえ、それはよかったのう、なんでもハア身体が頑丈でなければだめだよ、どこ苦患《くげん》だの」
太「なにか、ハア胸につかえてるものがあるがしようがねえ」
婆「ウム、それはおいねえこんだの」
×「勘太《かんた》来たか、こっちへ入《へえ》れ」
勘「いま聞いたところが、なんだかとっさま胸につけえてるものがあるってな」
×「そうだよ」
勘「どうだんべえ胸のところへ吸瓢《すいふくべ》かけたらよかんべえ」
×「勘太、なんで吸瓢かけるだ」
勘「病《やめえ》を吸い取ったらよかっぺえ」
×「バカ野郎、腫れ物なら吸瓢かけて膿《うみ》取るてえこともあるが、胸のつかえに吸瓢かけて吸い取ることできるもんじゃァねえ」
勘「ハアそういうものかな」
×「ダラシねえ口を利くな、バカ野郎、なにしろ医者さまに診てもらわなければなるめえ」
太「ハイおらもそう思ってるでがすよ」
×「それともどうだね、米の飯でも食わしたらよかっぺえかな」
太「それも考えてるけれども、まだ米の飯を食わせるほど九死一生でもねえと思うし、べつにハア当人も米の飯食うほどの病人と思ってましねえ」
×「それもそうだの、このあいだ甚右衛門《じんえもん》とこの女子《おなご》が、塩梅悪くなってもうだめだというので、米の飯食わしたら、一升飯をペロリ食っちまった、そのかわり身体は頑丈になったけれども恐ろしいもんだ、しかしまだそれだけの病人でもねえに、米の飯食わせたら、かえって毒になるといかねえから、ともかくも医者どんに診てもらうが一番よかっぺえ」
太「この近所に医者どんがねえだからね」
×「この家《うち》のとっさま知ってべえ、山向こうの玄清老《げんせいろう》という医者どんを」
太「アアそうだっけ」
×「あの玄清老ならうめえだがな、どうだ汝《われ》とっさまのためだ、チョックラ山越しをして迎えに行ってきちゃァ……」
太「それじゃァこれから行って引っぱってくるからそのあいだ、とっさまをおたのみ申しますよ」
×「あとは心配しねえでもいい、俺がいるから、早く行って医者さまを呼ばってきたらよかっぺえ」
太「じゃァ行ってまいりますから、とっさま目覚めたら湯なり茶なりやっておいてくだせえよ」
×「アアいいとも」
親孝行の太郎作、村の人にたのんで、素足に草鞋《わらじ》をはき、燃えるような暑い中を菅笠《すげがさ》をかぶってドンドン駈け出した、なにしろ山縁《やまべり》をまわって行くと六里半からあるところ、骨は折れますが、山の間々を抜けて行くと半分道ぐらいで行かれる、ダクダク汗をかきながら、セッセと山から山を抜けてやってまいりまして、山向こうの玄清老のところへきてみるとお医者さま、すっぱだか、汚い越中褌《えっちゅうふんどし》ひとつで、網代《あじろ》で編んだ笠をかぶって田の中に生えている草を取ってる、病人ばかりではやりきれないから百姓もするというお医者さま。
太「アアいい塩梅に先生さま居てくだすったか」
玄「オオ誰かと思ったら太郎右衛門《たろうえもん》ところの太郎作さんか、なんだね」
太「ハイとっさま塩梅悪うごぜえましてね、チョックラハア来て、診《み》てもらい申してえもんで」
玄「アアそうけえ、それはいかねえの、いつからだの」
太「きのうの昼ごろから悪くなりました」
玄「そうけえ、今少しで田の草取りきれるから待ちなせえ」
太「そんなこといわねえで、田のほう後にして先へ来てもらいてえ、とっさまえらく難渋《なんじゅう》しているだから」
玄「それもそうだ、それじゃァ行くべえか、マアこちらへきていっぷくやらかせえ、いま支度するからな」
それから先生、田から上がり、手足を洗って支度をする、年の頃は五十五六、赤ら顔の盛岡《もりおか》りんごみたような顔をして、頭はクワイの把手《とって》みたような格好、扮装《なり》はというと、手織縞《ておりじま》の少し黄ばんでおりますあやしげな単物《ひとえもの》を着て、小倉《こくら》の帯を締め、蝉《せみ》の羽みたような羽織を着て、なにを入れたか懐《ふところ》をウンとふくらませ、白足袋がねずみ色になったやつをはいて、朴歯《ほうば》の少し曲がってきた日和下駄《ひよりげた》をはき、網代《あじろ》の笠をかぶり、
玄「サアお待ちどおだった、それじゃァ行くべえか」
太「ヘエご苦労さまでごぜえますな、お暑いところをお気の毒さまで」
玄「ナニ商売だもの、ことにおまえのとっさまとは久しい馴染みだからの、俺もできるだけのことは丹精するだから、安心するがいい、大したこともなかんべえ、あまり暑いのに野良へ出ていたので、おおかた暑さ負けしたんだべえ」
太「そうかも知れねえでごぜえます、なにしろ苦患《くげん》らしいようすで……」
玄「ハアそうけえ、じゃァこれをしょってってくんろ」
太「ハイ、ようごぜえます」
これから薬籠《やくろう》をしょって供をしてでかける。
玄「どこを通ってきなすった」
太「ヘエ山べりを来るとエラ遠いから抜け道をしてきました」
玄「アアそうけえ、どうだなァ、この山をまっすぐに突き抜けると、えらく近《ちけ》えが、おまえはこの山を通ったことねえか」
太「まだ通ったことはごぜえません」
玄「そうか、じゃァ俺が道しるべするべえ、そのかわり道が少し苦艱《くげん》だぞ」
太「そんなことはかまいません、少しも早くとっさまを診てもらいてえから、道の苦艱なんぞ身体頑丈の者だからなんでもごぜえません」
玄「それじゃァこの山越すべえ」
まっすぐに突き抜けてくると、近いには近いがえらい難所でございます、二人ともまるで滝を浴びたようにビッショリ汗をかいてドンドン山を登ってくると、大きな松の樹がある、その下が切り株になっております。
玄「アア苦艱《くげん》だのう」
太「えらい悪い道でごぜえますな」
玄「そのかわり道はどのくれえ近えか知れねえ、まずここで一休みして風に当たって行くべえ」
と、腰から火打ち石を出して、カチカチやって煙草を喫《の》みながら二人で、作物の話などをしながら、涼しい風に当たっているうちに、ウットリウットリなんだか眠くなりました。
玄「アアいい心持ちになった、じゃァでかけようかな」
太「ヘエでかけますべえ、オヤオヤなんだか幕を張ったようで、真っ暗でごぜえます」
玄「ウーム、こりゃァどうしたべえ」
太「そうでごぜえますね、なんだか変な臭いがしますな」
玄「ウム変な臭いがする、これはハアふしぎだ、雲にでも包まれたような心持ちだ」
太「なんだかハア足もとが見えなくなりました」
玄「これはおかしいぞ……ヤア大変だ、太郎作どん」
太「なんだね」
玄「この山には太《ふて》えウワバミがいるじゃがの、どうもいやに息苦しい、先の見えねえところをみると、二人とも呑まれたんじゃァねえか」
太「エー呑まれやしたかね、それはおいねえな、先生どうにかして助かる工夫はなかんべえか」
玄「待て、そう騒ぐなよ、俺もいま考えてるがあいにくのことに、今日は木刀《ぼくとう》を差してきた、これでは腹を裂いて出るわけにはならねえ、困ったな」
太「ヤアそりゃァ大変だ、なんとか助かる工夫はなかんべえか」
玄「騒ぐな騒ぐな、いま俺が工夫をするから……ウムちょうどええことがある、汝《われ》薬籠《やくろう》をしょっているの」
太「ハイ」
玄「ここへ出しなさい」
太「なにをするだね」
玄「ウワバミに下剤をかけてやるべえ、下《くだ》しをかけるのだ」
太「なるほど、どうも商売商売だね」
玄「下剤をかけたら必ず下《くだ》すにちげえねえ、サアこっちへ薬籠を出さっしゃい」
これから先生薬籠の中から大黄《だいおう》を出して下しをかけるとウワバミは初めて下剤を服《の》んで利いたものとみえ、ノタリノタリのたくって苦しみ出した。
太「いてえいてえ、何だ」
玄「なにじゃァねえ、下剤が利いて苦しいもんだから、のたくるんだ、少しの間だから我慢しろ」
太「アアそれはありがてえ、どうか早く外へ出なければたまらねえ」
といううちに、ウワバミは苦しむとたんにドーッと下《くだ》しはじめた。
太「ウームありがてえ、先生オーイ、どこにいさっしゃる」
玄「ここだここだ、恐ろしい、怪我はしないか」
太「いい塩梅に無事に出やした」
玄「マアよかった、早く行くべえ」
と、二人手に手を取って山を駆け下りる、ここは太郎作の帰りを待っているところへ、
太「ハイ今帰りました」
×「オオ帰ったか、ご苦労だった、とっさまさっき眼ェ覚まして大きに心持ちよくなったというが、どうだったな玄清老は」
太「いい塩梅に先生がいたからたのんできやした」
×「それはよかったっけな、さぞハア苦艱《くげん》だんべえ」
太「えらい道通ってきたものでね」
×「アアそうけえ、アレ先生いねえじゃァねえか」
太「オヤオヤそこまで来ただがね、ここまで来て溶けたかな」
×「ナニ、溶けたかとはなんだ」
太「話さなければわかんねえがね、じつはそのなんだよ、向こう山からまっすぐに突き抜けるほうが近えからと、玄清さまがいうから道ィ苦艱だが、とっさまの身体案じられて道の苦艱なぞおどろかねえから、この山をまっすぐに突き抜けてきただ」
×「ウム」
太「あんまり暑くて仕方がねえから、途中で大きな松の木の下でひと休み休んだんだよ」
×「ウム」
太「それから立って来べえと思うとな、まるでハア幕を張ったように真っ暗になって、暖《ぬく》とくて暖とくてしようがない」
×「ヤレヤレ」
太「玄清さまのいうのに、これはえらいことをした、この峠には太えウワバミがいる、二人ともウワバミに呑まれただろうってだ」
×「フーム、それからどうした」
太「それからなにも切れ物はなし、腹を裂いて出ることもできねえ、グズグズしていれば、腹の中が熱いために溶けてしまう」
×「ウム、そいつァえれえことになったな」
太「それでも商売商売だ、先生がウワバミに下剤をかけたのが効いて、たちまちの間に下しはじめたで二人とも外へ飛び出した」
×「ウーム、うめえことをやったの、新田の婆さまよ、聞いたか」
婆「マアよくそれで助かったのう」
太「それから玄清さまと一緒にここまで来ただが、おかしなことがあるものだ、ここまできて溶ける奴もなかんべえ」
勘「ヤア医者さまならいま井戸端で、たらいへ水を汲《く》んで身体ァ洗ってやすぞ」
太「アアそうけえ、それはよかった」
×「これやァ先生さまとんだ目に遇《あ》えなすった」
玄「イヤ今日ばかりは命びろいをしてきた、おっかねえ、ウワバミに呑まれてすんでのことにおっ死ぬところだった」
×「それはハアえらァ苦艱でごぜえましたろう、なにしろ裸体《はだか》ではだめだ、太郎作とっさまの着物でも貸してあげて、先生さまの着物、婆さま洗《すす》ぎ出してあげろ、この天気ならじきに乾くから……」
これから着物を出して着がえさせる、太郎作も行水を使って共々病人のそばへまいりまして、だんだん脈を取ってようすを診て
玄「ナニ大したことでねえ、これは暑さ負けだ、薬の三|貼《じょう》も服《の》めばたちまち元の身体になるから心配さっしゃるな」
太「ハア、それで大きに安心しやした、とっさま、暑さ負けだとよ」
父「そうか、それはよかった、なんでもハア医者どんに診てもらわなければだめだ、素人考えじゃァいかねえよ」
玄「時に太郎作どん、薬籠《やくろう》はどうしたっけの」
太「エー」
玄「薬籠さ」
太「薬籠ちゅうと」
玄「ソレ汝《われ》がしょってきたでねえか」
太「サア大変なことをした」
玄「どうしたかね」
太「どうしたって、あなたウワバミの腹の中で下しかける時に、渡したじゃァごぜえませんか」
玄「アアそうか、じゃァ忘れてきた」
太「エー」
玄「忘れてきただよ」
太「とんでもねえところへ忘れましたなァ」
○「どうしただね先生さま」
玄「ナニ太郎作どんから薬籠を受け取って下剤かけたまでは覚えてたが、それから外へ飛び出したまま、夢中でここまで駈けてきたで、スッカリ忘れていたが、薬籠をウワバミの腹の中へ置いてきた」
○「オヤオヤおいねえことをしたの、村の衆を集めてウワバミ狩りをして腹裂くべえかい」
玄「イヤ山の主だから後でつまらねえ祟《たた》りがあってはなんねえ」
○「なんとか先生さま、取りけえす工夫はありますめえか」
玄「そうさな……アアよしよし、俺がチョックラ行ってくべえ」
○「先生さま行ってどうするだね」
玄「ナニ今いっぺんウワバミに呑まれて、薬籠を取り返してくる」
○「そう巧くいくかな」
玄「ええとも心配しねえがええ、俺行ってくるから」
○「誰か付けてやるべえかな」
玄「ナニなまじ人が付いて行かねえほうがええ、俺一人でチョックラ行ってくるから……」
なかなか元気の先生で、笠をかぶって、ドンドン山へ登って、もとの松の木の所までやってきてみると、ウワバミは土用《どよう》のうち下剤をかけられたからたまりません、目はくぼみ、首をうなだれてウンウンうなっている。
玄「ヤア、ウワバミさんいてくれたかね、ありがてえ、まことにすまねえがな、おまえの腹へ忘れ物をしただから、チョックラ、もういっぺん呑んでもらいてえものだ」
ウワバミ「そういかねえ」
玄「エー」
ウワバミ「もういかねえ」
玄「そんなこといわねえで、もういっぺん呑んでもらいてえ」
ウワバミ「もういかねえ、夏の医者にゃァこりごりした」
[解説]これは上方の落語《はなし》だそうだが、落語によっては、どうしても上方弁のほうが味がある。これなどもそうで、医者「頼みじゃ、もういっぺん呑んでおくれんか」、ウワバミ「モウあかん、夏の医者にはこりごりした」というほうが、おかし味が深いようだ。サゲは間ぬけ落ちである。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
蕎麦の羽織 〔別名〕蕎麦清《そばせい》
―――――――――――――――――――
命《めい》は食にありとか申しまして、あまり暴食をする者に利口はないようで、暴食すれば衛生上、はなはだよろしくない、ついには寿命を縮めるなどということがあります。
主人「オイ権助《ごんすけ》や」
権助「ハイ、おはようごぜえます」
主「こっちへ入んな……座んなよ、ほかじゃァないけれどもな、今日は少しおまえに意見をしなければならない、どうもおまえのように、そう飯をよけい食っては身体《からだ》のためによくないぜ、ほかのこととちがって食い物のことだから私も言いにくいけれども、おまえのようにそう無茶苦茶に食っては腹をこわしてしまうと思って心配だ、聞けばおまえはどこかで食いっこをしたというじゃぁないか、どのくらい食ったい」
権「ヘエ、おもしろうごぜえました」
主「おもしろいって、どのくらい食べたえ」
権「ありゃァなんでございます、世話人が提灯屋《ちょうちんや》の伝兵衛さんでございまして、髪結床《かみいどこ》の奥座敷の十畳と六畳へ町内のわけえ者が大勢集まってね、どこで聞きやしたか、わしがひどく飯を食うてえことを知ってやして、ぜひ来てくんろというものでごぜえますから、まいりましたところが、わけえ者がみんな車座になって、真ん中に行司役の者がおりやして、いちいち帳面をつけるでごぜえます」
主「フフンなるほど」
権「ただの飯じゃァごぜえません、麦飯にとろろかけまして食うでごぜえますが、なかなか、うめうごぜえました」
主「うまいまずいを聞くのじゃァない、でどうした」
権「食いっこをする者ばかり二十五人でごぜえます、みんなハア威勢よく食っておりやしたが、十杯か十五杯食うとへこたれやしてな、カラモウ意気地のねえ奴らでごぜえます」
主「それでおめえはいったい、どのくらい食べたんだ」
権「わしでがすが、わしァハアわかんねえでがす」
主「だって自分の食べた、その数はおぼえてるだろう」
権「そりゃァハア食うそばから出すでがすから、無茶苦茶に食いやしてな、サア腹のふくれ工合じゃァ二三|升《じょう》も食いやしたかな」
主「たいそう食ったものだな」
権「旦那さまちょうどいいところだ、さっき大食いの番付けができてまいりやした」
主「ナニ番付けが……ドレドレ見せろ、オオ……なるほど、たいそう食う人があるものだな、ハテナ、おまえはそれほど食ったのだから、いずれ三役か横綱だろうと思ったが、おまえの名前が出ていないじゃァないか」
権「ヘイ、わしァ勧進元《かんじんもと》〔世話役〕でごぜえます」
こんな大食《たいしょく》でも困ります。ずいぶん蕎麦の好きな人が世の中にありますが、少しぐらいなら嫌いだなどというやっかいな人もある。
昔のお話でございますが、あるところに清兵衛《せいべえ》さんというたいそう蕎麦の好きな人がありました。誰いうとなく、お蕎麦の清兵衛と呼ぶくらい、ときどき蕎麦好きの連中が集まって食べっこなぞをすることがございますが、誰あって清兵衛さんと太刀打ちする者がない。どうだ、俺ぐらいの蕎麦好きはなかろうといばっておりました。ところが上には上のあるもので、ようよう遠方からお蕎麦の清兵衛さんの名前を聞き伝えて食い競《くら》べにやってきた者があります。これはおもしろい、一つ食い負かしてくれようと清兵衛さんが競争をすると、とうとう負けてしまった。残念で残念でたまらない、いずれまた折をみてこの仇討ちをしますからといってわかれた。ところが清兵衛さん商用で間もなく信州のほうへまいりました。ご承知の通り蕎麦の名所、毎日毎日蕎麦ばかり食っているが、いよいよ用も片付きましたので江戸へ帰ることになりました。
旅の支度を整えて信州を立って、ある大きな山へかかりましたが、そのうちに夕方になりました、前に一人の猟師が鉄砲をかついでまいりますサの後へついて行くと、にわかになまあったかい風が吹いてまいりまして、ガサガサガリガリという恐ろしい物音、なんであろうかと思っているところへ恐ろしい大きなウワバミが出てまいりました、猟師は驚いて逃げようとしたが、もういけない、見込まれてしまったので動くことができません。後から来た清兵衛さんもガタガタ震えてそれへちぢこまり、どうすることかとようすを見ておりますうちに、かのウワバミが大きな口を開いてたちまち猟師を呑んでしまいました。いくら大きなウワバミでも人一人呑んだのですから、見る見るうちに腹がふくれてよほど満腹になったとみえてノタノタ這い出しました。ハテ水でも呑みに行くかと、清兵衛さん見ておりますと、岩かげのところへ来たウワバミが赤い草の葉をペロペロ真っ赤な舌を出してなめております。そのうちにだんだん腹のふくれたのが小さくなってついに入っているのがわからないようになりました。ウワバミは心地よさそうに以前来たほうへ行ってしまいました。
これをおっかなびっくり見ていた清兵衛さん、ハテあの草は不思議な薬だ、あれをなめたらウワバミのお腹が小さくなった、さては食べた物を消化するものとみえる、こいつはいいものを見っけたぞ、これさえあれば誰と食いっこをしたところで負ける気|遣《づか》いはないと、この草を摘《つ》んで大切に荷物の中へしまい江戸へ帰ってまいりました、とにかく一つ町内の蕎麦食い仲間をおどろかしてやろうと触れを出しました。そこで大勢の友達が集まってきて
○「清兵衛さん、しばらく旅をなすっていたそうで」
清「ハイ、信州のほうへ行っておりました」
○「そうですか、信州は蕎麦の名所だそうで、さだめし蕎麦をたくさん食べてきましたろうね」
清「ハイ、毎日毎日蕎麦食っておりましたが、江戸の蕎麦と信州の蕎麦とはちがいます、時にみなさんにここへ寄っていただいたのはほかじゃァない、久しぶりで蕎麦の食いっこをしようと思うがいかがです」
○「オヤオヤ、おまえさん今まで毎日毎日蕎麦を食っていたというのに、まだあきずに食べる気ですか」
清「どういたしまして、あきるなんてえことがあるもんじゃァありません、第一久しぶりで江戸の蕎麦を食べたいと思います、それから今度わしは蕎麦をたくさん食べる秘訣をおぼえてきました」
○「ヘエーいったいどのくらい食べます」
清「まずちょっと三十ぐらいですなァ」
○「エー、ちょっと三十は恐れ入ったな、じゃァ、清兵衛さん一つ賭けをしようじゃァありませんか、あなたが五十の蕎麦を食ったら五両出しましょう」
清「ナニ五十食べたら五両、そりゃァありがたいな、ではさっそくいただきましょう」
○「イエ食べての上でなければあげられません」
清「大丈夫食べられますが、ではさっそくおあつらえください」
ソレッというので蕎麦屋へ注文、
○「なんだぜ、一度に五十といったって大変だから、できるそばからドンドン持ってこいッてそういってきなよ」
なんて大変な騒ぎ、それから清兵衛さんがまず帯をゆるめておいて食い始めた。たいがいなにかする時には褌《ふんどし》を堅く締め直すというのだが、この時ばかり帯をゆるめてかかります。さすがは自慢するだけあってその蕎麦を食べるのの早いこと、十、十五、二十、ペロペロとやってしまった。
△「どうです、おどろいたものだなァほんとうに、もう二十食べましたぜ」
といううち二十五、やがて三十、さすがの清兵衛さんも胃袋には制限がある、自分はもっと食べる気だけれど、腹が一杯になってしまった、下腹をなでてウンウンうなっている。
△「どうしました清兵衛さん、三十は片付きましたが、あとはまだ二十ありますよ」
清「エエ食いますとも、二十ぐらいなんでもありません」
と口では威張ったことを言っているが、なにしろ腹が一杯に詰まって咽喉《のど》のところまできているくらいだ。
清「みなさん、まことにすみませんが、ちょっとわしの身体を障子の外まで出してくださいな」
△「一人で出たらいいじゃァありませんかね」
清「それがね一人じゃァちょっと出られないんで、身体が重くて動くことができません」
△「ハハハハハ、そうでしょう、もうその上はいくらなんでも食べられますまい、あやまんなさい」
清「どういたしまして、あと二十ぐらいはなんでもありません、食いますよ」
△「食べるならすぐおあがんなさいな」
清「それがねちょっと障子の外へ出してくださりゃァ、すぐに戻って食べるんで」
△「ハーア、なにかおまじないをするんですな、じゃァとにかく出してあげましょう、やっかいですな」
これから二三人で手を取ったり後ろから押したりして次の間へ連れてきました。
清「その障子をピッタリ閉めておいてください、のぞいちゃァいけませんよ、ようござんすか、のぞきっこなしですよ」
と、清兵衛さん懐中《ふところ》から例のウワバミがなめて猟師を溶かした草を出してペロペロなめ始めました、しばらくたったがあまり静かなので外の者は、
△「どうしました清兵衛さん、みんなを待たしておいて、寝てしまってはいけませんよ、清兵衛さん清兵衛さん、オヤ返事がないな、さてはあんなことをいって逃げ出したんじゃァないか、開けますよ」
といって、みんなが障子を開けてみると清兵衛さんがおりません。
△「ソレ、清兵衛さんは、かなわなくなって逃げ出したのだ」
と、よくよく見ると、そこにお蕎麦が羽織を着ておりました。
[解説]理屈を言えば蕎麦が羽織を着ているというのはおかしい、羽織の下の着物はどうしたということになるが、それをとがめだてしないところが落語のよいところだと思う。もっとも上方では、俗に甚兵衛と称する短い単衣《ひとえ》を着ていることになっている。サゲはいうまでもなく、大蛇がなめていたのは人間のとける草だったという、考え落ちである。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
お血脈《けちみゃく》
―――――――――――――――――――
そのむかし天竺《てんじく》から閻浮壇金《えんぶだごん》とかいう、一寸八分ある仏像が初めて日本に渡ってきた時に、仏敵《ぶってき》守屋《もりや》の大臣《おとど》という人が、日本は神の国だ、こんなものがあるとかえって人心をまどわしていかんといって摂津《せっつ》、河内《かわち》、和泉《いずみ》の三ヵ国の鍛冶屋を呼び集めて、大勢でドカドカたたいたけれども、わずか一寸八分の仏像がどうしてもこわれない、ぶったり、たたいたりという言葉はこれから始まったのだと言いますが、あんまりあてにはなりません。なにしろちっぽけなくせに強情な奴だというので、簀巻《すまき》にして難波《なんば》ヶ池という池へほうり込んでしまった。
そのうちに日本もだんだん変わってきて、三つの法で治まるようになった。三つの法というのはなにかと申すと、仏法《ぶっぽう》に鉄砲に女房、これを天下の三法といい、かかあ天下などはすでにこの時より始まっていたという。考えてみると恐ろしいわけのもので、それよりだんだん仏法も広まるにしたがって、坊さん同志でいろいろ議論をして意見の衝突からついに新宗だの一新教だのと八|宗《しゅう》九|宗《しゅう》にわかれるようになった。その頃の悪口に「宗論《しゅうろん》はどっち負けても釈迦の恥」「どの道を往くも一つの花野《はなの》かな」何宗だろうとも、往くべきところは一つだということを申したものでございましょう。
のちに至って本多善光《ほんだよしみつ》という人が、あの難波《なんば》ヶ池の縁《ふち》を通りますと「ヨシミチヨシミチ」という可愛らしい声がする。善光《よしみつ》ふり返ってみると、仏像がおいでおいでをしている。昔の人は目がよかった。一寸八分の仏さまが薄ッ暗いところで手まねきをしているのがよくわかったもので、お姿《なり》が小さいからまだ舌がまわらない「ヨシミチヨシミチ」とおっしゃる。
本多善光ハハッと大地へ手をついてお辞儀をすると、
「予は信州へまいりたい、案内をいたしてくれ」
というおおせ。
善「かしこまりましてございます、サア爺やの背中へおんぶをなさいまし」
といって仏像をおぶったというが、高が一寸八分ばかりのもの、おぶわないでも財布か煙草入れへでも入れて行けばよかったのだろうと思います。
それから昼夜を分かたず、これを背負って道を急ぎますが、なにぶん道が整頓していませんから、木の根、岩かどへつまずき、生爪をはがし、足を痛めなどすると、背中でごらん遊ばして、
「アア昼夜のわかちなく、我れを背負いてくれ、そのほうもだいぶ疲れたるようす、夜は人目にかからんから予が代わり取らせる」
とあって、みるみるうちに丈余《じょうよ》の姿に変じた〔一丈以上の大きさになった〕。これだけにふやける力があるなら、なにも池の中でおたまじゃくしを相手に遊んでなくってもよかったろうにと思いますが、いわゆる時機を待っていたのでございましょう。昼間は人目にかかって悪いというので小さくなっていて、夜になって大きくなる。ちょっと聞くとおかしいようだが、これが信州へまいりまして、今もって善光寺《ぜんこうじ》へ納まって、善男善女の参詣ひきも切らず、お堂の内に階段めぐりという恐ろしい真っ暗なところがあります。これはありがたいお経文《きょうもん》が入っている、つまり地下倉庫で、入口に大きな錠が下りております。その錠へ手がさわると極楽往生ができると言い伝えているので、欲ばった奴が、手がさわったばかりで極楽へ往けるというなら捻《ね》じ切ったら、どんなことになるかと、三日三晩錠前へつかまってウンウンやったがどうしても切れなかったといいます。この錠前が捻じ切れる奴だったら、時節がら東京へ出てきて、どんな悪いことをするか知れません。
しかし世の中でいくら悪いことをしようと、いかなる大罪を犯そうとも、極楽往生ができるというので、昔は善光寺から血脈《けちみゃく》のご印《いん》というものを出しました。これはなんだというと百|疋《ぴき》〔一疋は二十文〕納めると、南無阿弥陀仏といって額《ひたい》のところへおけちみゃくのご印を押してくださる。するとたちまち罪障消滅《ざいしょうしょうめつ》、この世の罪が滅《めっ》して極楽へ行かれるというありがたいものでございます。たった百疋で極楽往生ができるのに、五百円も千円も出して地獄を探して歩いてる人があります。それは別の話だが……
サア善光寺がおけちみゃくのご印をくださるので、みんな極楽へ行ってしまって、地獄へ行く者がない。それがために地獄がことごとく衰微して閻魔《えんま》大王地獄の整理がつかなくなり、しかたがないから、浄玻璃《じょうはり》の鏡を床屋へ売り、部下の鬼の持っている鉄挺棒《かなてこぼう》を残らずまとめて洋館の柵《さく》用に売る。赤鬼などは色がさめて土器《かわらけ》色に変わり、青鬼もあせて空色になり、虎の皮の褌《ふんどし》も締めていられないから、これも売ってしまって鬱金木綿《うこんもめん》で間に合わせるようなありさまで、地獄が日ごとに衰微いたします。ここにおいて閻魔大王|奥殿《おくでん》で会議を開き、
閻「諸君、今日《こんにち》かく地獄の衰微を来たすということについては必ずなにか原因がなくてはならんことである。すみやかにこれが挽回《ばんかい》策を講じなければならんが、銘々意見があらば腹蔵《ふくぞう》なく述べてもらいたいものである」
と、沈痛なる態度をもってこう大王が発言すると、このとき座の中央より見る目嗅ぐ鼻という者進みいでて、
目「せんえつながら、私より大王閣下へ上申いたします、うけたまわるところによれば近ごろ娑婆の信州善光寺という寺院において、けちみゃくのご印というものを発行し、それがためにみなその罪が消滅して極楽往生をする者多く、その結果かく地獄の衰頽《すいたい》を来たすに至ったのであります、これにひきかえ、当今極楽の発展はじつに非常なもので、このまま捨て置きまする時は、ついに地獄は全滅の惨状を見るに至らんと、我々は大いに心痛いたしている次第であります」
これを聞くと閻魔大王|眉《まゆ》をひそめて、
閻「ホーッ、それは一大事である、なんとかしてこれを防ぐ方法はあるまいかのう」
目「さよう、私の考えではそのけちみゃくのご印なるものを盗み出してしまったならば、極楽へ行く者も自然地獄へ来ることになろうと思います」
閻「なるほどそれは名案じゃ、誰かその役を勤める者はないか」
目「それは地獄のことでありますから、昔からあらゆる盗賊がまいっております」
閻「そうじゃな、とにかく盗賊の戸籍調べをしてみい」
というのでそれから盗賊の戸籍調べを始めたが、
目「いかがでございましょう、ねずみ小僧なぞは」
閻「サア、彼くらいではこの大役をじゅうぶん仕遂げることはむずしかろう」
目「しからば袴垂式部大輔保輔《はかまだれしきぶだゆうやすすけ》」
閻「それはチトおおぎょうでいかん」
目「熊坂大太郎長範《くまさかだいたろうちょうはん》」
閻「どうも松の木をしょってノソノソ歩いてるようなことではしかたがない」
目「それではいっそ新人を用いて五寸|釘《くぎ》の寅吉《とらきち》などはいかがで……」
閻「それも適任ではあるまい」
目「説教強盗は」
閻「そんな者はまだ見えんではないか」
目「遠からずまいりましょう」
閻「それまで待たれん」
目「しからばこの際婦人に権利を与えまして、鬼神《きじん》のお松かマムシのおまさあたりを遣《つか》わしましてはいかがで」
閻「イヤまだ婦人を立たせるには早い」
サアそうなると人物がない、誰彼とだんだん盗賊を調べているうちに思い当たった。
目「石川五右衛門《いしかわごえもん》はじゅうぶん仕事を仕遂げようと存じます」
閻「ウム、彼なればじゅうぶん仕事を仕遂げるであろう、五右衛門は今いかがしているか」
目「まだ釜の中に入っております」
閻「とにかく五右衛門を呼びいだせ」
それから小使いを五右衛門のところへ迎えにやると、無徳道人《むとくどうにん》釜の中でさんざん都々逸《どどいつ》や浪花節《なにわぶし》をやってしまって、少し湯気に上がりかけているところへ、
小「五右衛門さん大王さまから娑婆へ派遣されるようなことを聞きました、首尾よくいけばあなた地獄の重役になれますぜ」
五「それはかたじけない」
小「なにしろ急いでおいでを願います」
五「承知いたした」
とさっそく五右衛門釜から上がって、黒の三枚小袖、緞子《どんす》の巾広帯、朱鞘《しゅざや》の大小を閂《かんぬき》差しにして素網《すあみ》を着込み、重ねぞうりをはき、月代《さかやき》を森のように生やして、六法《ろっぽう》を踏みながらノソリノソリ奥殿へやってきて、
五「エエお召しによって石川五右衛門こと無徳道人《むとくどうにん》出頭いたしました」
閻「ウム五右衛門苦しゅうない、もそっと、ちこう進め」
五「あまりお身近では恐れ入ります」
閻「イヤ苦しゅうない、さて五右衛門ほかではないが地獄の興廃ここにあり、汝にひとつ骨折ってもらわなければならんことができた、というのは娑婆の信州善光寺という寺において、けちみゃくのご印なるものを出した、それがために罪障《ざいしょう》消滅して極楽往生する者ばかり、地獄へ来る者は昨今ほとんどない、ついてこのけちみゃくのご印といえるものを盗み出したならば、極楽へ行くべき奴らでも残らず地獄へ来るだろうと思うのじゃが、どうであろう、けちみゃくの印を盗み取ってまいることはできまいか」
五「なにごとのご用かと存じましたら、さような仕事をいたすことは赤ん坊の手をひねるよりもいと易《やす》きこと、私も世にある時は伊賀流の忍術をもって豊太閤《ほうたいこう》秀吉のご寝所《しんじょ》へ忍び、すでに御首級《みしるし》を挙げんとして宿直《とのい》の者に押さえられ、世にもまれなる釜煎《かまい》りの刑に行われ、地獄にまいってまで、まだ釜の中で苦しみおりますところ、幸い大王のお見出しにあずかり、光栄これに過ぐる者はございません、ご奉公の仕納めにきっと任務を果たしてごらんにいれますから、ご安心くださるように」
閻「勇ましきその一言《いちごん》、しかからばじゅうぶん仕遂げるよう」
五「心得ました、しからば大王さま」
閻「オオ五右衛門早う行け」
五「ハハッ」
久しぶりで五右衛門娑婆へ出てきて、昼間は善光寺へ参詣するように見せて入り込み、中のようすを見届けて夜に入り、昔おぼえた忍術をもって奥殿へ忍び込み、あらゆる宝物をあらためましたが、見当たりません、そのうちに桐の絲柾《いとまさ》の箱があった、これこそ、まごうかたなきおけちみゃくと、箱をこわして中を見ると、二重になっている、そのまた中をこわして取り出したのは、けちみゃくのご印、これを持ったら、サッサと地獄へ帰ればいいのにソコが芝居心のある泥棒だから、いきなりこれを取って、
五「ハハありがてえかたじけねえ、マンマと首尾よく善光寺の奥殿へ忍び込み、うべえ取ったるけちみゃくのご印、これせえありゃァ大願成就、チェーかたじけねえ」
といただいたら、そのまま極楽へ行ってしまった。
[解説]この話は品川の円蔵が非常にうまかった。サゲは考え落ちである。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
応挙《おうきょ》の幽霊
―――――――――――――――――――
この世の中にいろいろのお道楽がございます。中にも書画骨董《しょがこっとう》のお道楽がございます。なんともけっこうなお道楽ではございますが、ずいぶんと金のかかるお道楽で、書画ときますと一幅、なん万円からする軸があるそうで、私も好きでございますが、とても、何万円は、夢の話で、何百円のもなかなか買えません。夜店へでも行って、高々十円か二十円くらいのを買いますのが、関の山でございます。それがために、近頃は絵を稽古して楽しんでおります。そのまた、絵が大変で、自分で描いて、なにを描いたのかわからないというようなのを描きますので、いつも、家の者に笑われておりますような次第でございます。
この絵でも、みんな好きずきがございまして山水《さんすい》の好きな方もあれば、また花鳥《かちょう》の好きな人もあります。中には、幽霊の絵が非常に好きで、幽霊の絵や軸があれば、買い集めるという妙な人がございます。
◯「こんばんは、岡本さんおりますか」
岡本「イヤ、おいでなさい、どなたかと思いましたら、大田さんですか、さあ、どうぞお上がりください」
大田「今朝、来てくれたそうでしたが、折悪《おりあ》しく用事で出かけていましたが、なんぞご用で」
岡「いえ、別に用というわけではございませんが、じつはあなたのお好きな、幽霊の軸が一本手に入りましたので、買っていただこうと思いまして、おうかがいしたようなわけで」
太「幽霊の軸が、それはめずらしい、見せてもらいましょう、気に入ったらいただくが」
岡「どうぞごらん、これです、スンナリとした軸です、よく描けていましょう、幽霊の画もたんとありますが、たいがいは血をたらしてるとか、子を抱いてるとか、きまったもんですが、この画は、ちょっと構想も変わっております」
太「気に入った、買いましょう、しかし誰の筆か、ほんとにいいな」
岡「ヘエ、応挙の描いた物ですが」
太「応挙ですか、ウーム、安くないでしょうな」
岡「ところがわりあいに値が安いのです、じつは一万円に買っていただきたいのですが、日ごろごひいきになっておりますので、一本引いて九千円にしておきます」
太「安い、もらっておきましょう、あしたの朝早く、持ってきてくれませんか、いま持ち合わせがないで、千円だけ手付け金として渡しておく」
岡「ありがとう存じます、ナニ手付け金なんてそんな物いりませんよ、明朝持ってまいりました時にいただいたらよろしゅうございます、ヘエーそうですか、そんなら千円お預かりしておきます」
太「明日、忘れないように持ってきてくださいよ」
岡「承知いたしました、もうお帰りですか、お茶もさしあげませんで、おあいそもなしで失礼いたします、さようなら」
そのまま、大田さんは帰りました。
岡「ありがたいなァこれだから、骨董屋という商売はやめられやァしない、昨日、市場で百円で買ってきた軸が九千円に売れるのだから、しばらくの間に八千九百円も儲かった、しかし一万五千円といっても、大田さん、買ってくれたかも知れなかった、イヤ、欲ばるまい、欲に限りなしか、ハハハハ、どれ、売れた祝いに一杯飲むか、しかし酒屋はなにをしてやがるのか、すぐに持ってきてくれと言ったのに、まだ持ってきやァしねえ」
小僧「こんばんは、毎度ありがとうございます、お酒を持ってまいりました」
岡「イヤご苦労さま、そこへ置いといて、そして、小僧さん、おまえ帰りがけに横町の鮒源《ふなげん》へ寄って、うなぎを一人前すぐ持ってこいといってくれないか、たのむぜ」
酒屋の小僧が帰る、しばらくすると若い衆《し》が
若者「毎度ありがとう、うなぎを持ってまいりました」
岡「鮒源か、そこへ置いていってくれ」
若者「ヘェ、ここへ置いときます、さよなら」
岡「ナア、独身というのは、ここらが気楽だなァ、飲みたい時分には、飲み、食いたい時には食い、寝たい時分には、時間かまわず寝るし、ほんとに気楽なものだ、どら、お膳を出して……」
と独り言をいいながら、お膳を出して飲み始めました。
岡「アハハハ、うまいな、同じ酒を飲んでも儲けて飲む酒と、やけで飲む時とは、えらいちがいのもんだな、こうしてちょっとの間に八千円儲かって飲むと、酒の味が、また、格別うまいなァ、そやけど、考えてみると、儲かるというのも、あの幽霊の軸があればこそだ、俺一人で飲まずに幽霊にも一杯あげよう……」
と床の間へ軸を掛けましてコップに酒をついで軸の前へ置きました。
岡「うなぎも一切れあげておきます、なんぼ幽霊だって、肴がなかったら、飲めないだろう、サア、俺もご馳走になろうか、アハハハハ、うまいなァ、なんともいえないな、五臓六腑へ浸みわたるわ、ハハハハ、まだ外に肴になりそうな物がなかったかしらん、あるある、隣のおさきさんから、もらったお多福豆の煮たの、俺はどういうものか、豆を肴に酒を飲むのが、一番好きなんだ、ハハハハ、オヤもう一本倒したぞ〔徳利を振ってみる〕
もう一本つけようか、うれしくって飲む時は、一本くらいはわけなしに飲むな、ハハハハ、〔酔ってきたような風態《ふうてい》になる〕
しかし独身者は気楽だな、誰にグズグズいわれることもなし、今夜はどこぞへ繰り込んでやろうかしらん、イヤやめておこう、もう月末だからやめておこう、それに、こないだも、渡辺と一緒に遊びに行った。まだあの割り前も払ってないや、ハハハハ、しかし渡辺はばかにこのところ景気がいいそうだから、今度割り前を取りにきやがったって払わないといってやろう、ハハハハ、だいぶ酔ってきた〔鴨緑江節《おうりょくこうぶし》になる〕
……しんしんと、草木も眠る丑三つごろ、油けもない洗髪、ヨイショ、膝にもたれてョ、ホロリと涙、おまえにゃ、マタチョイチョイ、泣かされるョか……ハハハハ、もう酒がないぞ、どら、飯を食おうか、なんだ、飯がない、しようがないな、飯のかわりにもう半分だけ、飲もうか、ハハハハハ、昔からよう言うな、「酒は灘《なだ》、肴《さかな》は気取り、酌は髱《たぼ》」というが、やっぱり独身者《ひとりもの》は気楽だといっても、酒を飲む時はちょっと、女がほしい、女に酌をしてもらって飲むと、酒が格別にうまいように思うな、どこかへ遊びに行こうかしらん、行くのは邪魔くさいし、向かいの米屋で電話を借りて、芸者一人二人よんで遊ぼうかしらん、イヤイヤ、やめておこう、やっぱり月末になると払うのが辛いからなァ、なんかいい酌がないかなァ、なんだ、急に電灯めが暗くなったぞ、おかしいなァ、体がゾクゾクと寒けがするぞ、風邪でもひいたのかしらん、酒を飲んで、風邪でもひいたらバカらしい、こりゃ早く飲んで寝よう、なんだかゾクゾクする」
幽「こんばんは」
岡「ヘエ、どなたです、声はすれども、姿は見えず、おかしな晩やぞ、どこです。モシ、どなたです」
幽「私は幽霊……」
岡「幽霊……、私ゃ幽霊なんぞに出られるような、悪いことをしたおぼえがないがなァ」
幽「イイエ、決して恨みがあって、出たわけじやァござりません」
岡「そんなら、なんで、なにを思って、迷って出なすった」
幽「さきほどから、お酒を召しあがっておられますが、お一人でお寂しいと思い、お礼かたがたお酌にまいりました」
岡「しかし、あんた、どこから来なすった」
幽「床の間に掛けていただいた、軸の中から」
岡「アハハ、軸の中の幽霊か、さすが名人の描いた物は、魂がはいってるとは聞いていたが、やっぱり抜けて出たのかなァ、しかし、お礼なんてご丁寧なことはいりませんのに、なんだか気味が悪いなァ」
幽「決して恐いの、怖ろしいのということはございません、私のいうことを一通りお聞きくださいませ〔下座《げざ》メリヤスの合い方を弾く〕
私もこれまで、ほうぼうへ買われたが、好者《すきしゃ》の癖として私を手に入れるまでは、それはそれは大さわぎ、手に入りましたらしばらくは、床の間に掛けてはくださいますが、奥さまやお子たちに、あの幽霊は怖いのと難癖《なんくせ》をつけられまして、土蔵の中へ押し込められて、暗闇地獄の箱の中、その箱の中で紙魚《しみ》に食われる苦しみに、水一パイもたむけてくださる人もなく、それにひきかえ、さきほどから、あなたさまは、ヤレお酒やうなぎよと手向けてくだされまして、ひさかたぶりにお酒をいただき気も浮き浮きとなりました、一杯ちょうだいいたしましょうか」
岡「ほんとにコップの酒もない、うなぎもないし」
幽「みんな、ちょうだいいたしました、久しぶりとて、ほんまにおいしゅうございました」
岡「顔がホンノリ赤くなったなァ」
幽「一パイくださいなァ」
岡「飲むなら、あげよう、おもしろいなァ幽霊が酒を飲むなんてサァ」〔盃をさす格好する〕
幽「お酌をしてくださいなァ」
岡「勝手についで飲みな」
幽「そんな水くさいことをいわずにお酌してくださいなァ、私は男の人にお酌してもらうのが好きです」
岡「幽霊にお酌するのははじめてだ」
幽「壁に三味線が掛かっていますね、あなたのとこは道具屋さんだけに、なんでもあります、どうです、三味線を弾いてなんか唄いましょう、あなたもなんぞお唄いなさいなァ」
岡「私は唄なんか、なんにも唄えないよ」
幽「それでも、さっき鴨緑江を唄っていたじゃありませんか」
岡「ハハハハハハ聞いてなはったのか、それより、あなたの唄を一ツ聞かしてもらおうか」
幽「それでは、一つ都々逸《どどいつ》を唄いましょうか」
岡「おまえさん、三味線弾くんだね、えらい、おもしろいなァ、幽霊と遊ぼうとは思わなかった、ハアコリャコリャ」
幽「声は私悪いんですけど
〔都々逸〕
おまえのうれしい心にひかれ
迷うて出たのが恥ずかしい
三途《さんず》の川でも竿《さお》さしゃ届く
思い届かぬことはない
どうです、もっとやりましょうか」
岡「もうやめておくれ、なんだか陰気な文句ばかりだ、初めが、迷って出て、後は三途の川だなんて」
幽「そんなら、やめて、一パイいただきましょう」
岡「ハハ、そんなに飲んでも大丈夫かえ」
幽「心配おしなはんな、酒でものんで浮き浮きしやんセ、気から病いが出るわいなァ、あまりクヨクヨすると命がない、死にますよ」
岡「なんだかバカらしくなってきた、幽霊に命がないだの、死にますなんていわれて、おかしくなってきたぜ、飲むなら好きなだけ飲みな、酒がなくなったら、言いに行けば、じきに持ってくるぜ」
幽「いただきますわ、べつに私だって殺されて迷って出たわけじやァなし、嫉妬《やきもち》焼いたこともなし、ただ、お酒を飲むだけが楽しみ」
岡「幽霊が酒を飲むだけが楽しみとはおかしいな、ハハハハハ、ときに、幽霊、……幽霊とはおかしい、おゆうさん、おれいさん……、どこへ行ったんだろう、便所かな、オイ便所へ行ったのか、わかってるか、オイオイオイ、オヤ、軸の中へ、いつの間にやらはいって、酔って手枕で、あっち向いて寝てしまってる、明日大田さんへ持って行かなけりァならないが、これはとんだことした、飲まさなけりやァよかったが、こりゃァ困ったな、酔いよったのはいいけれど、明日までに酔いが覚めるかしらん」
[解説]鶯亭金升《うぐいすていきんしょう》氏の作、上方の林家染丸が始めて高座にかけ東京ではそれを覚えた先代の柳枝、つまり七代目が得意にしていた。サゲについてはいろいろ議論がある、まぬけ落ちだという人もあれば、廻り落ちだという人もある。どこにしたらいいか、これは一番考え落ちである。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
仏馬《ほとけうま》 〔マクラ題〕後生《ごしょう》うなぎ
―――――――――――――――――――
「過ぎたるはなお及ばざるが如し」ということがありますが、まことにいい戒《いまし》めでございます。馬喰町《ばくろちょう》にお住居《すまい》なさるある隠居さんがたいそう信心家で、したがって慈善を施し殺生《せっしょう》ということを嫌いまして、蚊に刺されようが、のみに食われようが、決して殺しません。浅草観世音《あさくさかんぜおん》が信仰で、日参《にっさん》をしていらっしゃる。
ちょうど四万《しまん》六千日、観世音の大割り引き、世の中にこのくらいの大割り引きはありません。一日お参りをすると四万六千日お参りをしただけの利益《りやく》があるという、仏体こそ一寸八分だが、さすが十八|間《けん》四面の堂へ住まって、大きく暮らしているだけに知恵がありますから客を取ることは上手でございます。
この隠居さん日参をするくらいゆえ今日はなおさらのこと、お参りをして帰りがけ、蔵前《くらまえ》通りを天王橋のそばまで来ると、このごろ店を出したうなぎ屋、ふだんは気がつかなかったが、さすが紋日《もんぴ》〔特別な行事のある日〕でお客があるとみえ、団扇《うちわ》の音をさせているので、隠居さんヒョイと見ると亭主がうなぎの裂台《さきだい》へ上がって、今すでに目打ちを立てようとするからおどろいて、
隠「アアコレコレなにをするんだ」
亭「いらっしゃい、お上がんなさい」
隠「なにがお上がんなさいだ、おまえなにをするんだ」
亭「ヘェうなぎを裂《さ》いて蒲焼《かばやき》にするんで」
隠「では、うなぎを殺すのか」
亭「さようでございます」
隠「かわいそうだ、物の命を取ってそれを食えばどうなる」
亭「どうなるってお客さまのご注文だから、こしらえるんでございます」
隠「客という奴が心得ちがいだな、他に食い物がないわけじゃァなし、殺生をしないからってイモでもニンジンでも食ったらよさそうなものだ」
亭「そんなことをいった日にゃァ、わしどもの稼業になりません」
隠「稼業になってもならないでも俺の目にとまった以上は、どうして殺させるわけにはゆかない、俺が助けてやる、観世音|参詣《さんけい》の帰り道、俺の目についたのは助けてやれという観世音のお導きだ、しかしただ助けろとはいわない、他の客にも売るものだから、俺もそれだけの金を出したら売ってくれるだろう」
亭「さようでございます。それはもうどなたに売るのも同じことですからお売り申してもよろしゅうございますが、なにしろ不漁続きでおまけに今日は四万六千日で、ばかなはね方をしておりますから、ちっとお高《たこ》うございますが……」
隠「高いといっても千両はしまい」
亭「エー千両はいたしません、おまけ申して二分でございます」
隠「安いものだ、じゃァ二分わたすよ」
亭「ヘエどうもありがとうございます、入れ物がなくっちゃァお持ちになれませんから、こわれていますがこの籠《かご》へ入れてさしあげます」
隠「アアもうひと足俺が遅く通ると殺されちまった、コレうなぎ、この後必ず人の目にとまるようなところにいるなよ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
因果《いんが》を含めて天王橋からポチャリ川に逃がして、
隠「アアいい心持ちだ」と喜んで帰りました。それから毎日のようにうなぎ屋の前を通るたびに、亭主が裂台へ上がってうなぎを裂こうとするのを見ては買って逃がしてやる。うなぎ屋ではいい金箱ができたと喜んでいると、四五日隠居さん通らない。
亭「どうしやがったろう、この頃ちっとも隠居が通らねえが……」
女房「どうしたっておまえさんがあんまり毎日高く売るんで、隠居さんも買い切れないんで、いっそ見なければいいというのでまわり道をして新堀端《しんぼりばた》のほうでも行くんだよ」
亭「そうかも知れねえ、それじゃァ新堀へ一軒店を出そうか」
女「新堀へ店を出してどうするのさ」
亭「アノ隠居が通るだろう」
女「ダッテきっと通るかどうだかわかりゃァしない」
亭「それもそうだな、畜生どうしやがったろう、ふてえ奴だ」
女「なにがふてえんだえ、おまえのほうがよっぽどふてえ……ちょっとちょっとおまえさん噂《うわさ》をすれば蔭《かげ》とやら、向こうから、ご隠居さんが来たよ」
亭「エー来たァ……、ウム来た来た、じゃァきっと風邪でもひいて来なかったんだ、俺は裂台へ上がるからその手拭いを出しねぇ、鉢巻きをするんだ、ソレ襷《たすけ》を出さねえか、グズグズしているうちに来るといけねえ、エーうなぎもどじょうもなかったか、ヤァしまった、なにか生きてるものはいねえか、猫はどうした」
女「猫はどこかへ遊びに行っちまったよ」
亭「しようがねえなァ、家の猫はねずみをとることを知らねえでうなぎやどじょうばかりねらってやがるから、こういう時にでも役に立てなくっちゃァ仕方がねぇ、どこへ行きゃァがったか、納得がいかねえじゃァねえか、アアしようがねえなだんだん近づいてきた、なにか生きてるものは……、アアその赤ン坊を出しねぇ」
女「おまえさん赤ン坊をどうするんだえ」
亭「どうしてもいいから出せということよ、グズグズしているうちに家の前へ来るじゃァねえか」
ひったくるようにして赤ン坊を裂台の上へのせてギャァギャァ泣く奴を押えつけて庖丁を取り出したところへ来た隠居さん肝《きも》をつぶして店へとび込み
隠「コレコレなにをする、とんでもないばかな奴じゃァねえか、俺が四五日通らねえうちになにをしたかしれねえが、赤ン坊を殺そうなんてなんてえことだ」
亭「いらっしゃい、お上がんなさい」
隠「なにがいらっしゃいだ、赤ン坊を殺してどうする心算《つもり》だ」
亭「お客さんのご注文で」
隠「ばかをいえ、世の中に赤ン坊を食う奴があるか、とんでもねえ、わしの目にとまったからにゃァ、どうしても殺させるわけにいかねえ、俺が助けてやる」
亭「ご隠居さまの前でございますが、どうもこの頃は赤ン坊が不漁《しけ》続きで……」
隠「赤ン坊の不漁続きという奴があるか、いくらだ」
亭「お負け申して七両二分にいたしておきます」
隠「安いものだ、サア金をわたすよ」
亭「ヘエありがとうございます、では品物をお持ちくださいまし」
隠「オオ泣くな泣くな、俺がもうひと足遅かったら殺されちまうところだった、この後必ず人の目にとまるようなところにいるなよ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
因果を含めて赤ン坊を天王橋からドブーン、これは後生《ごしょう》うなぎという落語でございますが……、まことにいい戒めでございます。
西念「弁長《べんちょう》さん困るじゃァありませんかね、あなたみたようにそう酔っぱらってしまってはしようがありません、帰りが遅くなるとお師匠さまに叱られますから、いそいで帰りましょうよ」
弁長「マア西念《さいねん》、おまえのようにそういそがんでもいいというに、わしはひどく大儀《たいぎ》になったによってこの土手でしばらく休んでいく、毎日毎日こうして、師匠の言いつけで本堂|建立《こんりゅう》のためおまえと二人で勧化《かんげ》して歩くが、布施物がかようにたくさんあるで、イヤもう重うてならん」
西「困るなァ弁長さん、おまえさんそんなに酔って帰るとお師匠さまに叱られますよ、五戒《ごかい》をやぶっては困るじゃァありませんか」
弁「ハハハハハ、ナニわしが五戒をやぶった」
西「やぶったじゃァありませんか、おまえさんは飲酒戒をやぶってます」
弁「イヤおまえは年がいかんによって、そのようなこといいなさるが、師匠からして五戒をやぶっているではないか」
西「なんでお師匠さまが五戒をやぶりました」
弁「サア師匠がなんと説教して聞かせなさる、この世で悪いことしたら未来は地獄へ落ちて呵責《かしゃく》の苦しみを受けると、このようにいうてなはるやろが師匠さん地獄へ行って見てきたことがあるか、極楽見物をしたことがあるか、ありゃせまい、ソレ見たこともないことをいう、これ五戒の中の妄語戒《もうごかい》や、ナァ師匠からして五戒をやぶってるでないか、酒飲んでいい気持ちになっているうちにこれが真《しん》の極楽やハハハハハ、そうじゃないか西念……、アッ誰じゃ、わしの頭をたたくは、……ヤァおどろいた、ちっとも知らんでいたが、うしろに馬がつないである、馬めがわしの坊主頭をしっぽでもってたたきくさる、アーおどろいた、この馬のように重い物のせて歩かせられ、休む時にもつながれている、これがまず地獄の苦しみ、やァ……、いいことがあるぞ、西念、おまえも今までこうして重い物しょって地獄の苦しみをしていたが、これから極楽浄土へ導いてしんぜるぞ」
西「なんです弁長さん、極楽浄土へ導くというのは」
弁「その荷物をこっちへ出しなされ」
西「私の荷物をどうなさる」
弁「いいからこっちへ出しなされ、ソレおまえの荷物とわしの荷物と一緒にして、この馬の背中へこういう具合にのせる」
西「アレなんだって弁長さん馬の背中へ荷物をのせちまって」
弁「だまってなさい、エートそれからと……そうだそうだ、おまえの丸絎《まるぐけ》〔中に綿などをいれて丸く仕立てた帯〕をちょっと解きなさい」
西「これをどうするんで」
弁「こっちへ出しなされ、ソレいいか、こうしてなハハハハおとなしい馬やな、手綱を解いておまえの丸絎を手綱のかわりに結びつけて、サアこれを曳《ひ》いて、おまえ先に寺へ帰んなされ、わしは少し酔いをさましてあとからすぐに帰るによって、一足先へ行きなさい」
西「だってこの馬を曳いていっちまったら、馬の持ち主が困るじゃァありませんか」
弁「いいというに、わしがあとはいいように計らうによって、心配せんで先へ行きなされ、二人とも帰りが遅くなったら師匠によけい心配かけねばならん、おまえだけ先へ帰れば師匠も安心しなさる、もし師匠がわしのことを尋ねたら弁長はあとに残って説教をいたしておりますと、こういえば師匠も心配せんわ、はよう行きなされよ……、ハハハハ可愛い者やな、兄弟子《あにでし》と思うて、師匠に小言いわれんようにと案じてくれるはかたじけない、しかしこのように酔ってしもうてこれで寺へもどったら、師匠がまたなんのかのとうるさいことを言うやろうからな、ここでちょっと一眠りして酔いをさまして行こうか……アアいい心持ちじゃな、イヤこれはマア心づかんであったが、この堤の下は流れやな、わしは寝相が悪いさかい、これから転がり落ちて川へおっこったらどもならん、アアうまいことがある、この榎《えのき》に結びつけてある今の馬の手綱、わしの胴中へくくりつけて、そうして寝ていたら川へおちる気づかいない、ドレ一眠りやってこうか」
膝を枕にゴロリ転がる、一杯機嫌で高いびき、日は西山にかたむきまして、疎朶《そだ》を背負うた百姓、菅笠《すげがさ》をかぶって杖をつっぱりながらやってまいりまして、
「ヤアえらく遅うなったから、黒の畜生さぞマア待ちくたびれてるだろうのう、イヤドッコイショ、黒や、今もどってきたぞよ、さぞマア待遠だったろうのう、これからわれの背中借りてこの疎朶を積んでもどるだ……アレ榎へつないでおいた黒がいなくなったかわりに、坊さまがつながって寝ているだ、どうした、これや、モシ坊さま、せっかくハア寝ているところを気の毒だけれども、ここにつないでおいた黒馬、おめえさま知んねえかね、オイ坊さま、チョックラ起きてくんろ……」
弁長気がついて、眼を開いてみると前に疎朶をしょって菅笠をかぶった男が立っております。しまったこいつ馬の飼い主にちがいない、早く逃げちまえばよかったと思ったが今さらどうすることもできません、ヒョイと見ると笠の裏に次郎作と書いてあるのが目につきましたから、
弁「これは次郎作さま、おもどりでございましたか」
次「アレたまげたね、初めてあった坊さんが、おらの名前を知るわけはねえが、どうしておめえさま知ってるだね」
弁「知っているどころではございません、私は長い間あなたに飼っていただきました黒でございます」
次「なんだって……長《なげ》え間飼ってもらった黒だァ、われどうして坊さまに化けた」
弁「そのご不審はごもっともでございますが、これにはいろいろ訳のあることでございます、じつは私は前の世に弁長という出家でございましたが、身上《みじょう》が悪いのでお釈迦さまのお罰《ばち》をこうむりこの世に黒馬になって生まれてまいったのでございます、ご縁があってあなたさまに長らく飼っておもらい申しまして、難行苦行を積みましたおかげをもってやっとお釈迦さまのお怒りが解け、今日《こんにち》元の出家の身体《からだ》になりましてございます」
次「ハテこれはめずらしい話を聞くものだな、ウーム身上が悪くってお釈迦さまの罰を受けてこの世へ馬に生まれてきて、それが今日元の人間になったちゅうは、めでてえことだのう、そうか、縁あっておまえと長くこうして一緒に稼いできた、それに今日はおらが亡母《おふくろ》の祥月命日《しょうつきめいにち》だ、これから家へ一緒に行って仏さまへ経の一つも上げてもらいてえもんだ」
弁「ハイ、どうぞご一緒にお連れなすってくださいまし」
弁長もよんどころございませんから、次郎作と話し話しその家へ連れられてまいりました。
次「今帰ったぞ」
娘「とっさま戻んなすったかね、おっかさんよ、とっさま戻ったよ」
女房「アレとっさま、なんだってマァ自分で疎朶しょってきただね、黒の背中へ積んで来なすったらよかろうに」
次「それがよ、ふしぎな話もあるだ、マァおいね、われもここへ来いよ、……弁長さんなんだっておまえ門口に立ってるだ、初めて来た家じゃァあるめえ、──長《なげ》え間一緒にいて知んねえものでねえ、みんななじみの者だ、こっちへ入んなせえな」
娘「おっかさんよ、とっさまァなんだかようすおかしいがね、門口へなんだか見なれねえ坊さまァ連れてきて、長え間一緒にいてみんな知ってる顔だなんて、変なこといってるが、ことによったらきつねにでもだまされてきやしねえかね」
次「コレおいねよ、なにぼんやり立って見ているだ、待て待て今おらが草鞋《わらじ》脱いで上へあがってゆっくり話しするから……、さて二人ともにおらがいうことよく聞けよ、ここにいるこの坊さんはな、これはハア今朝まで家にいた黒だぞ」
娘「ソレみなさいおっかさん、とっさまはきつねにつままれたにちげえねえ、アノ坊さま馬だってよ」
次「ハハハハ、われがそう思うは無理はねえが、じつはここにいる坊さまァ、前の世にやっぱりご出家だった、それからおまえ身上が悪くってよ、お釈迦さまの罰を受けてこの世に馬に生まれてきて、縁あって家に長え間飼っておいた、それがやっと今元の坊さまになっただ、なんとめずらしい話でねえか」
娘「アアそうかね、どうりでアノ坊さま、色黒くって、長え面《つら》だ、これから始まっただね馬づらなんてえのは」
次「ハハハハそんな悪口はいわねえもんだ、サア弁長さんさっきいった通りだ、どうか一つ仏さまへお経を上げてやってくだせえ」
弁「ヘエかしこまりましてございます」
弁長、仏壇に向かってしきりに経文を唱えておりますうちに、斎《とき》の支度ができまして、
次「サァなにもねえけれども志だ、飯《まま》食べておくんなせえ」
弁「ありがとう存じます、ご馳走さまになります」
次「わしはここで相変わらずなにより楽しみの酒を一口飲むから、おめえさまそこで飯食べなせえ、おいねよ、われここへ来て坊さまにお給仕してあげろよ、おらは手酌《てじゃく》で始めるから」
うまそうに次郎作がチビリチビリ飲んでおりますのを見て弁長、どだい酒好き、目の前で飲まれてたまりません、咽喉《のど》をグビグビさして、
弁「モシ次郎作さん、あなたにご無心がございます」
次「ハアなんだね」
弁「他ではございませんが、私は久しいあいだ馬になっておりまして酒というものの味をスッカリ忘れてしまいましたが、どうでございましょう、一口いただくわけにはなりませんかな」
次「ナニ酒を飲むというのか、ソレよくなかんべえ、ご出家が酒を飲んだらまたお釈迦さまの罰が当たるだろう」
弁「イエお釈迦さまが今日だけは酒を許す、そのかわり明日からは決して飲んではならないとおっしゃいました」
次「ハアそうかそうか、それじゃァお釈迦さまが今日一日だけは飲んでもいいといったか、それではたくさん飲んで明日からきっと慎まなけりゃァならねえよ、おいね、酒なかったら取って来うよ、サア弁長さん飲みなさい」
弁長、下地のあるところへ、またじゅうぶんに飲みましたからベロベロに酔っぱらってしまい、
弁「アアこれはいい心持ちになりましたな、どうもしばらく酒の味を忘れていたところを飲みましたので、なんともいえん心持ちになりました、ハハハハどうだいおいねさん、あなたここへきて酌をしてくださらんかナァ、酒は燗《かん》、肴《さかな》は気取り、酌は髱《たぼ》というてな、どうも女子の酌でないと酒はうまく飲めん、あんた一つ酌をしてくれんか」
娘「お酌なんぞしないでも、自分で飲んだらよかろう」
次「コレなにをするだ弁長さん、おまえダメだぜ、女子の手を引っぱったりなんかして、そんなことするからお釈迦さまの罰受けるだ、また馬になるぞ」
どなりつけられてさすがに面目《めんぼく》なく、弁長は酔っぱらったふりをしてそこへぶったおれて寝てしまいました、風邪でもひかしてはならないと、布団をかけてやったりなにかしてソッと寝かしておくうちに、弁長目を覚ましてみると夜が明けております、肝をつぶして挨拶もソコソコ逃げ出してしまい、寺へ帰ってまいりまして、
弁「ハイお師匠さまただ今戻りましてございます」
住持「ヤア弁長か昨夜《ゆうべ》戻らんから、えろう心配していた、では夜ふけまで説教してきなされたか、それはご苦労じゃった、時に西念が曳いてきた馬じゃがな、あれはどういう訳の馬じゃか、おまえが戻ったら話聞こうと思っていた」
弁「ハイお師匠さま、あれはな、こういう訳でございました、二人がお布施をたくさんもらいまして、重い物しょって歩くのがかわいそうやから、この馬に積んで行ったがよいといってもらってきたのでございます」
住「それはご奇特《きとく》のことじゃ、しかしおまえ方二人の丹誠《たんせい》で、本堂建立の勧化《かんげ》も充分にいったが、アノ馬を飼うとなると飼い葉その他も費《かか》るによって、おまえご苦労じゃが、アノ馬を市へ持って行って金に換えてきておくれんか、その金を本堂建立のうちへ加えたら施主の志も届くやろうと思う」
住持の言いつけで否《いや》ともいえません。
弁「かしこまってございます」
と、馬を曳いて市へ出かけてきて、いくらかに売って帰りました、こっちは百姓の次郎作、永年飼っておいた馬がいなくなって、不自由でたまりませんから、かわりの馬を買おうというので市へやってきてみると、昨日まで飼っておりました黒がそこに売り物に出ております。
次「ハテナおかしいことがあるものだ、おらがところの黒によく似ている馬だが……アア黒にちげえねえ、左のほうの耳に白い差毛《さしげ》がある、これがたしかな証拠だ、黒だ、弁長さんだ、オイ弁長さん、おまえマアせっかく人間になったに、酒飲んだり女子にからかったりして、またお釈迦さまに罰当てられて馬になったな、アー弁長さん情けねえ姿になんなすったのう」
と馬の耳に口を寄せて、大きな声を出すと、馬はどう思ったか、首をヒョイヒョイと振った。
次「ハハハハダメだよ、いくらとぼけても、左の耳の差毛《さしげ》で知ってるだよ」
[解説]これは落語としては珍しいものである。親が牛に生まれ変わったとか、自分の前身が黒だったと偽る趣向は馬琴の作などによくある手だから、たいして珍しいともいえないが、今はやりてがない。先代の、二代目燕枝が時折やっていた。サゲはぶッつけ落ち。マクラの「後生うなぎ」のサゲは間抜け落ち。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
指仙人《ゆびせんにん》
―――――――――――――――――――
「傾城《けいせい》《けいせい》に可愛いがられて運の尽き」ということを申しますが、あまり女に可愛いがられた末が、親もとを勘当《かんどう》になって、自分が日ごろ贔屓《ひいき》にしていた芸人の家に居候となると、どんな利口な方もお値うちがなくなるものです。
善「ねェ若旦那、あなたどうなすったんです、手をまわしてお宅のごようすをうかがえば、おとっさんはべつにご立腹でもなし、ところであなたはなにがお気に入らないで、けっこうなお宅を出て、私のところにおいでなさるんで、それは何年おいでになったって決してかまいませんが、あなたのご了見がわかりませんな、幇間《たいこもち》のところにおいでになったって、べつにご利益《りやく》はありません、それよりはお宅へお帰りになって、時々お遊びにおいでなすったほうがいいじゃァげえせんか」
若「イヤどうもすまない、おまえが独身のところへきて、十日も二十日もやっかいになっていてはじつにすまないけれども、これには深いわけのあることで、それはもう今でも家へ帰れば、親父は喜んでニコニコしているにちがいないが、どうも家へ帰りたくないし、またおまえのやっかいになっているという訳は、三年あとに角海老《かどえび》を出て、フイと行方《ゆくえ》が知れなくなった羽衣花魁《はごろもおいらん》におまえがソックリそのまま、似たとはおろかウリ二つ、しかし花魁はおまえのように青髭《あおひげ》が生えていなかった」
善「冗談おっしゃっちゃァいけません、髭の生えた女があるもんですか、……だが若旦那、それほど羽衣花魁を思っておいでなさるなら、なぜ三年前、花魁と約束をなさらなかったんでげす」
若「そこに如才《じょさい》はない、ちゃんと契約を申し込んだのさ、ところが花魁のいうには若旦那、じつに思し召しはうれしいんざます、じつはわちきもおまはんを死ぬほど思っているんざますってね」
善「いやでげすぜ、若旦那、妙な身ぶりをなすっちゃァ」
若「マア、聞いておくれよ、ソコまではたいそうよかったが、それから花魁が、エヘンとひとつ咳《せき》ばらいをして言うには、だが若旦那、わちきは深い願いがあって、おまはんのおかみはんにはなれまへんから、おまはんは良いおかみはんを持ちなんして仲よく暮らしてくんなまし、わちきも蔭《かげ》ながら祈っておりんすって泣いたよ」
善「ヘェー妙でげすな……花魁はあなたを情人《いいひと》に取っていたことは、わちきも稼業《しょうばい》だからよく知っておりましたが、それじゃァ花魁は前々から、のっぴきならない約束があったんでげすな」
若「サア私もそう思ったからこういったよ、それじゃァ花魁、先約があるなら仕方がない、どうにかして断念もしようが、せめて約束した人の名前を聞かしておくれというと、花魁がワーッと泣き出して、そんな人があるくらいならこんなせつない思いはしません、どんなことをしてもそっちを断わっておまはんのところへ行きんすが、そういうわけじゃァないんざます、いうにいわれぬわけがありんして、わちきは廓《くるわ》を出るとすぐ、高山《たかやま》へ入ってしまうんざますから、どうか泣かせずにあきらめてくんなまし、後生《ごしょう》ざますといったきり、なんといっても理由を話さなかったが、それから二三日たって行ってみると、きのう年明《ねんあ》けになって田町《たまち》の世話人のところへ引き取ったというからすぐ田町へ行って聞いてみると、羽衣さんは来るとすぐ水を浴びて、木曾《きそ》のほうへ出立《しゅったつ》しましたといったきり、それでおしまいサ」
善「そのことは私も聞きましたが、そうしてみると若旦那、もうどんなに、花魁に慕ってみたところが無駄じゃァありませんか、それにあなたはこの四五日、断食をなすっておいでですが、なんのためだか知らないがおよしなさい、お身体《からだ》がたまりませんよ」
若「イヤ、親切にありがたいが、このあいだ三晩続けて妙な夢を見たから断食して身体を清め、それから木曾へ旅立ちをしようと思ってるのサ」
善「ヘェー、それじゃァもしや木曾の山中で花魁におあいなすった夢じゃァありませんか」
若「オヤオヤおまえ透見《すきみ》をしたネ」
善「夢の透見ができますものか」
若「どうして私の見た夢を知っているえ、ふしぎじゃァないか」
善「ふしぎでげしょう、そこが幇間の妙法力《みょうほうりき》でちゃんと知っているんでげす、じつはネ若旦那、私も昨夜《ゆうべ》で三晩続けて花魁とあなたと山の中で話しをなすってる夢を見ましたから、もしやあなたと同じ夢ではないかとそれでお聞き申したんでげす」
若「それだとありがたい、遇えるよ、サアこれから出かけよう」
善「どこへ行くんでげす」
若「どこって木曾の山中へ分け入って、羽衣にあわなければ、仙人《せんにん》か天狗《てんぐ》になって、羽衣に一目あうまで生き延びている心算《つもり》だ」
善「それでは、お宅の財産を捨てても花魁にあいたいとおっしゃるんでげすか」
若「アー財産は運がよければできるが、羽衣には二度と再びこうしていてはあわれないから出かけようというのだ」
善「ようがす、私も幇間仲間の変わり者でげす、あなたがそういう思し召しなら、私も欲得はいりません、サアお供をしましょう」
若「ありがたい、出かけよう」
善「お待ちなさい、これから木曾の山中へ分け入るにゃァ食い物がなくっちゃァ……」
若「おまえはそうだろうが、私は羽衣にあうまでは死んでも断食だから」
善「エッ……よろしい、あなたがそうなら私も断食だ、サァ出かけましょう」
若「家はどうするえ」
善「ナーニあなた、家は家主《おおや》のものですし、道具なんざァどうなってもようげす……ダガちょっと隣家《となり》の婆さんにたのんで行きやしょう、サァお出かけなさい、なにもお忘れ物はありゃせんか、錠を下ろしますよ、これでよしっと……エエと婆さんえ」
婆「オヤお師匠さん、どこへ」
善「これからちょっと木曾の山中まで行ってまいりますから、少しおたのみ申します」
婆「ハイごゆるりと、オホホホホ」
善「では行ってきます……若旦那、ごらんなすったかえ今の婆さんを」
若「アーたいそう太ってるね」
善「エヘヘヘあれが本肥《ほんぶと》りではないんで、ただもう欲で太ってるんですよ、日済《ひな》しを貸しているんでげすが一日でもまちがったら大変、尻をまくってねじ込むという大変なたぬき婆ァでげす……」
若「ハハァなるほど」
善「それはそうと、木曾まで歩いて行っては大変でげしょう」
若「ダカラ上野《うえの》から行けるところまで汽車に乗るのさ」
善「それに限ります、ソコデ若旦那、ご飯はどこでおあがりなさるんで」
若「断食だから飯には用なしだ」
善「あなたは断食でげしょうが私は」
若「マァいいや、一日や二日はつきあうさ」
善「どうもおどろきやしたなァ、サァ来た、乗り遅れないうちに切符を買って……」
とこれから汽車へ乗り込みまして、その日は信州の篠井《しののい》へ泊りまして、翌日午前五時二十七分の列車で、同八時十分に塩尻《しおじり》へ着きましたから、これからテクテク洗馬《せんば》、藪原《やぶはら》と六里五丁の道をやってまいったんですが、若旦那はもう断食に馴《な》れておりますが、善中《ぜんちゅう》はまだ昨日皮切りですからたまりません。
善「若旦那若旦那、アーもう歩けません」
若「そうか、まだ少し早いようだが、明日こそは山中深く分け入るのだから、今日はこのくらいで泊るとしようよ」
善「泊っても、断食のおつきあいでげすから、楽しみがありませんや」
若「それじゃァモー少し歩こうか」
善「どういたしまして、このうえ歩けば死んでしまいます」
若「じつは私も苦しいんだ……サア泊ろう」
と宿屋へ着くと、疲れておりますからグッスリ寝込んで、翌朝は山入りというので元気もよく、暗いうちから起きて出立いたしました。山路を三四里登りましたところに、一つの谷があって川水は水晶のようでありますから、二人はここで顔を洗い、水を飲みました。すると不思議にも勇気がついてまいって、今までの草臥《くたび》れがスッカリぬけました。
善「若旦那若旦那」
若「なんだえ」
善「あなたはいかがですか、私は今この谷の水を飲みましたら急に元気づきまして、疲れをスッカリ忘れてしまいました、ふしぎじゃァございませんか」
若「オーおまえもそうかえ、私も疲れを忘れたよ」
善「こりゃァなんでも花魁が守っておいでなさるに相違ありませんよ……アーありがたい、オンギャボカベーロシヤノ……」
若「コレサ仏じゃァないよ」
善「サァ、この勢いでドンドン登りましょう」
若「ウンよかろう、どうかして早くあいたい……」
と、一心不乱に二人はドンドンドンと登ってまいりました。およそ六七里もまいったろうと思うと、道が二筋に分かれておりまして、どっちの道へ行ったらいいかわかりません。
善「若旦那、困りましたなァ、どっちへ行ったら花魁にあえるんでげしょう」
若「そうさのう、右のほうの道は幅が広いから、人の通る道だろう、左のほうは道がせまいし、きたならしい道だから、猪狼《ししおおかみ》の通る道にちがいない」
善「でげしょう、私もそう思うのでげす……どっちへ行き・しょう」
若「なんでも清潔なほうがよかろう」
善「それじゃァ右の道を行きましょう……若旦那若旦那、むこうから樵夫《きこり》のおじいさんが来ましたよ、やっぱり人間の」
若「人間でない樵夫があるかえ」
善「人間じゃァ楽しみがありゃせんや」
若「それじゃァ化け物か猪狼か、または大蛇《おろち》なんぞが楽しみなのかえ」
善「冗談おっしゃっちゃァいけません、そんな物は絵に描いたのを見るのもいやです」
若「それではなにが楽しみなんだ」
善「仙人さんの樵夫なら楽しみなんでげす」
若「妙な望みだなァ」
樵「おまえがたはどこへ行きなさるのか、おおかた道に迷ってここに来なすったのだろうが、これから一里も行くと猪谷《ししだに》というのがあって、それを越えると蟒蛇山《うわばみやま》に行きあたって、それから先は道もなんにもない山ばかりさ、マアこの道へ知らない者が行けば狼に食われるか、蟒蛇に呑まれるか、どっちにしても帰ってきた者はないところだよ」
善「ヘェー大変大変、若旦那あとへ帰りましょう」
樵「いったいどこへ行くつもりだ」
善「ヘエ、別にどこというあてはないんでげすが、じつはお目にかかりたいお仙人さんがあるんでまいりましたんで」
樵「ナニ仙人にあいたいと……アハハハハ駄目だなァ、この山に仙人はいることはいるが、その仙人のいるところはそっちの細い道を四五里登ったところだそうだが、そこへ行く道三里ばかりのところは天狗殿が住むところで、そこへ行けば天狗殿に引っ裂かれるから誰も行く者はねえだで、なんの用か知らねえが、仙人などにあおうと思わねえで帰ったほうが徳用だよ、大事に使えば一生ある命だァ、考えてみさっせい、早く帰らねえと猪が来るよ」
善「オーどうも怖ろしい、ありがとうよく教えてくださいました」
樵「ふもとまで送ってやりてえが、わしはこれから向こうの谷あいの鬼婆ァに用があって行かにゃァならねえ、日が暮れねえうちに早く山を下りるがいい」
と行ってしまいました。
善「若旦那若旦那、行けませんぜ、帰りましょう、鬼婆ァに懇意《こんい》な樵夫さえ行かねえところへ行くのは無法《むほう》かもしれませんぜ、帰りましょう、そのほうが徳かも知れません」
若「今になって徳も損もないじゃァないか、もし仙人のいるところまで行かれなくなって、途中で天狗に引っ裂かれて死ねばそれまでさ、ぐずぐずしていて狼にでも食われちゃァつまらない、これから五里もあるというのだから急いで行こう」
善「およしなさいよ、若旦那、死んじゃァおためになりませんや」
若「おまえそんなに命が惜しいなら、帰ったほうがよかろう……」
善「ありがたい、いうことをきいて帰ってくださるか」
若「ナニ、私は死んでもいいんだから行くよ、おまえは一人でお帰り、私は遅くならないうちに行くから……」
善「アーモシ若旦那お待ちなさい、マアサお待ちなさいってば、あなたがおいでなさるなら私も行きまさァ」
と、これから細道をグングンやってまいります。善中はまるで顔色はありません、そのうちになんの障《さわ》りもなく二里ほどまいりますと、身には木の葉のような物をつづり合わせて着ており、髪の毛を腰のあたりまで振り乱したる女がやってまいりますのを、若旦那は見るより早くそばへ駈け寄り、
若「オヤおまえは羽衣」
善「マア花魁」
と、左右より取り付きました。
羽「アアモシ若旦那、善中さんもよく尋ねて来てくんなました、サアマア向こうの石へ腰をかけてくんなまし」
若「アーどうもありがたい、もう死んでもいい、死んで仙人になりたい」
羽「仙人になりんすと、男も女も夫婦の交わりはできんせん、そのうえ日に三度の苦しみをするざます、それにおまはんたちは仙人にはなれぬ因縁《いんねん》ざますから、思い切って帰ってくんなまし、そのかわりおまはんたちが身の立つようにしてあげんすから」
若「それではどうしても夫婦にはなれないか、ワァー」
善「モシ若旦那、お泣きなすっても仕方がありません」
羽「若旦那たいそう、やつれなんしたね」
若「断食をしているんだもの……」
善「私までおつきあいに今日で三日」
羽「そうざましたか、待ちなまし」
と突然天に向かい指をさし、口の中で呪文をとなえ、大声を発しまして、キンチカマル、キンチカマル、キンチカマル、キンチカマルというと、たちまち天よりりんご、ぶどう、夏みかん、バナナなどが降ってまいりました。
善「若旦那若旦那ごらんなさい、天から果物がたくさん降ってきましたよ、オット、ドッコイ」
羽「サア食《あが》なんし」
若「ダッテ神へ断食」
羽「イイエようざます、わちきが神々からいただいてあげたんざます」
若「アーそうかえ、それじゃァいただこう、サア師匠やろう」
善「ありがたい、アーうまい、どうも花魁じゃァないお仙人さま、ごちそうさまでげした、ゲーイ」
若「アーおいしかった」
羽「それから若旦那、おまはんなんぞ望みはありませんかえ」
若「おまえと夫婦になるよりほかに望みはありません」
羽「もう今日あいますのがお別れざますから、これまで永くお世話になりんしたお礼に、おとっさんにお世話になりんせんでも、お店を開けるだけのお金をあげんしょう、それをわちきだと思ってくんなまし」
若「ハイハイ」
これからまた羽衣仙女《はごろもせんにょ》はツト立ちあがり、天にむかいまして、キンチャカマル、キンチャカマル、キンチャカマル、前の通りに指さしをすると天から袋が降ってきました。
善「オヤオヤオヤなんだか天から袋が降ってきた、イヤドッコイ、これはなんでげす」
羽「それは紙幣《さつ》包みざます、サ若旦那、その中には紙幣が五千五百五十万円入ってありんすから、五十万円は善中さんにやってくんなまし」
善「ナニ五十万円私に、ありがたい……なんと若旦那、お仙人さまの指はたいした指でげすなァ、なんとかかんとかヒョイッと指さしをしたら、五千五百五十万円」
若「俺もじつにおどろいて見ていたのさ」
羽「サア若旦那、もうなにもお望みはありませんか」
若「すまないがもう一つ望みがあるよ」
羽「なんざます、いいなまし」
若「他でもないが、その指を切ってくれないか」
羽「ナニ指を切れ……おまはんよっぽど疑《うたぐ》り深いことねえ」
[解説]この話の元は中国の「笑府《しょうふ》」の内にある。原作では、ある浪人者が、山中で仙人になった旧友にあう。その仙人がかたわらの大石を指して何か呪文をすると、忽然《こつぜん》と金の袋が現れた。「サアこれを進ぜるから里へ帰って豊かに暮らしなさい。まだほかに欲しい物があれば差しあげる」というと浪人「かたじけのうござる、願わくば貴公の指をいただきたい」。この小噺を初代円遊〔初代小円遊ともいう〕が直したものだが、仙人を花魁にして「ナニ指を切れ、おまえはんはよっぽど疑り深い」と直したのは働きである。サゲはぶッつけ落ち。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
首提灯《くびぢょうちん》
―――――――――――――――――――
昔とただ今とは世の中がたいそう相違いたしました。その昔は士農工商と階級がへだたりまして、お武士《さむらい》がおそろしく威勢をふるいましたもので、町人はじつに往生《おうじょう》でございました。往来をしておりましてちょっと無礼でもするとすぐに手打ちにされ、切り徳、切られ損などというばかげたことがありまして、ややもすると手打ち手打ちと田舎からそば粉でももらったようにむやみに手打ちにしたがるから、うっかり往来もできなかった。それが王政復古して、弓は袋に太刀《たち》は鞘《さや》、まことにめでたき御代《みよ》になりました。王政復古と共に廃藩置県、四民同権というので、町人百姓も苗字を付けるようになりましたが、この苗字のできたてには自分で自分の苗字を忘れて、呼ばれても返事をしなかったなどということがずいぶんありました、そのくらいでございますから、隣の人の苗字などはなおわからない。
◯「エー少々うかがいます」
△「なんだい」
◯「このへんに山田|喜三郎《きさぶろう》さんという方はございませんか」
△「山田喜三郎、そんな奴は聞いたことがねえ、職業《しょうばい》はなんだい」
◯「ご職業は大工さんで」
△「大工なら隣で聞いてやろう、オウ喜三《きざ》ッぺえ喜三ッぺえ」
喜「なんだ」
◯「てめえと同職業だってえが、山田喜三郎という奴を知ってるか」
喜「山田喜三郎……アアそれは俺だ」
△「エー」
喜「俺だよ」
△「よせこン畜生」
喜「俺だってえことよ、俺は苗字が山田で、名前が喜三郎だ、職業は大工じゃァねえか」
△「ヘエー、そうか、山田てえ面《つら》じゃァねえがな」
喜「ばかにするな、面で苗字をきめるんじゃァねえや」
△「シテみると苗字なンざァ人見知りをしねえものだよ、オウおまえさん、大工の山田喜三郎はとなりだ」
◯「ヘエどうもありがとう存じます」
△「辰《たつ》、いいことを聞いたぜ」
辰「なんだ」
△「となりの喜三ッぺえな」
辰「喜三ッぺえがどうした」
△「いま聞いたが大工の喜三ッぺえてえのは世を忍ぶ仮の名だとよ」
辰「ヘエー」
△「真《まこと》本名は山田喜三郎ッてんだとよ」
辰「そうか、初めて聞いた、太《ふて》え野郎だな」
ナニ太いことがあるものですか。かような具合でございましたが……、当今ではそういうことは決してない、子供衆が学校へおいでになりましても、誰ちゃん彼ちゃんと名前を呼ぶということはございません。みんな苗字を呼んで、前田君、斎藤君、中村君、などと狆《ちんころ》が風邪でもひいたように、クンクンおっしゃる、昔は坊づくしでございました。どうした源坊《げんぼう》、しばらくだったな金坊《きんぼう》、はなはだしいのは四十八歳の男をつかまえて、どうだ仙坊《せんぼう》などというのがございました。仙坊の頭が半分ハゲてる。もういっぱいさかのぼって昔を尋ねると、江戸の者はオギャアと生まれる。武士《さむらい》という者が眼にしみて育っているから、さのみ怖がらない、往来をしていて、百万石のお大名の行列にでも出っくわすと、
甲「なんだなんだ」
乙「大名の行列だ」
丙「そうか、待ってる間に小便をするからつきあえや、関東の連れ小便だ」
どぶへ向かってジャアジャア小便をする、なかには悪戯《いたずら》をする奴がある。
甲「富士の山を描《か》こうと思ったら風が吹いたんで曲がっちまった」
乙「風のせいじゃァねえ、てめえの筆が曲がってるんだ」
甲「バカァいえ」
そのうちにお大名の行列は通ってしまう。百万石も剣菱《けんびし》もすれちごうたる江戸の街、「鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春」その繁昌《はんじょう》はじつにたいそうなもので、けれども江戸四里四方といっても、今日《こんにち》からみれば狭いものでございました。四宿の口々を出たらもうおしまい、東海道は八つ山が境で品川《しながわ》が親宿《おやじゅく》、ここに御殿があったから俗に御殿山《ごてんやま》という、なんのために御殿があったかというとお大名方が参勤交代《さんきんこうたい》の時、ここまで将軍がお出迎いになり、この御殿において出府大儀《しゅっぷたいぎ》というご挨拶があった。そのうちに将軍ご自身ご出張をよして、ご名代《みょうだい》が出ることになり、それからだんだん徳川の天下が固まって日本六十余州ガタリともするところがなくなったのでしまいにはご名代も出なくなって、ただ御殿ばかりが残りました。その御殿もなくなって今は御殿山という名前ばかりが残っております。奥羽大名の入ってまいりまするほうには小菅《こすげ》御殿、中山道には白山《はくさん》御殿というものが設けてありました。このお出迎いのご会釈を廃した徳川家の勢いはまた広大なもので、
◯「オオまだ西新井《にしあらい》までよほどあるかな」
△「ウム、この青果市場《やっちゃば》を越してそれからなんだ、左へ曲がって土手を通り、その土手を右へ下りて三軒家《さんげんや》、それから西新井だ」
◯「アアそうか、じゃァもうじきだな」
△「もうじきだ」
◯「青果市場はにぎやかだな」
△「江戸の八百屋物は、たいていここから出るのだ」
◯「たいそうなもんだなァ」
侍「下に──下に──……」
◯「アアなにか来やがった」
△「仕方がねえや土下座《どげざ》をするんだ」
◯「なんだ土下座たァ」
△「下に下にという時にゃァ下にいるのだ」
◯「縁《えん》の下へ入るのか」
△「そうじゃァねえ、こういう具合に大地へおじぎをするんだ」
◯「バカにしていやがる、畳へだって手をついておじぎをしたことのねえ者が、大地《じべた》へ坐って匂いをかいでりゃァ世話ァねえや」
△「愚痴をいったってしようがねえ、なにも匂いをかがねえでもいい」
◯「匂いをかがねえでもいいったってこうやってりゃァ自然と大地《じべた》の匂いがすらァ、このうえ丁寧におじぎをすりゃァ大地をなめるんだ」
△「ばかだなァ、来たからだまってねえ」
侍「下にー下にー、下にー下にー」
◯「アア行っちまった行っちまった行っちまった」
△「なんだ細長《ほそなげ》え箱が一つ行ったっきりだな」
◯「アノ箱の中に殿様が入ってるのか」
△「殿様が箱の中に入ってやしねえ、アー人に聞いてみよう……、少々うかがいます」
×「ハイハイ」
△「今お通りになったのはどちらの殿様でございます」
×「ありゃァ殿様じゃァありませんよ」
△「なんですえ」
×「将軍様へ献上の長芋《ながいも》ですよ」
△「長芋……オウ今土下座をしたのは長芋だとよ」
◯「アア嫌だ嫌だ、明日から八百屋の前もうっかり通れねえ」
芋でさえ献上品となるとこのくらい威勢があったものでございます。まして武士《さむらい》ともなれば、いばるのは無理もありません。けれどもいくら武士だといってそうやたらに人を切っていいわけのものではない。人切り庖丁を差しているのではない、大きくいえば国を守るために差している。小さくいえばその身を守るためで、つまり守り刀というくらいのものでございます。それを他愛ないのに鞘払いに及ぶ武士もよくないが、またなかには酔っぱらったりなにかして、町人のほうから喧嘩をふっかけたりして切られる者も往々ございました。
ところでこの酒というものは、人の心を乱す基《もとい》で、俗に狂水《きちがいみず》というくらい、程《ほど》に召しあがれば結構のものだが、度を過ごすととんだまちがいができます。ご身分のある方でも酒ゆえにはひどいことになるのがいくらでもありますが、酔って人の見分けがつかなくなるというのはまことに困ります。もっとも酒を飲んで静かになる者は少ない。飲めばいくらか気も荒くなり、なにか人にからんで気になるようなことをいいたがる上戸《じょうご》がよくあります。尻切れとんぼで飛んで歩いてる人間には、夜商人《よあきんど》などをいじめてたいそう手柄顔をしていばっている者が昔はずいぶんあったもので、
◎「オウ、おでん屋」
爺「ヘエいらっしゃいまし」
◎「居眠りをしなさんな」
爺「ヘエ、ツイお客さまが途切れましたのでうっとりいたしました」
◎「何時《なんどき》だな」
爺「まだ九ツ半くらいのものでございましょう」
◎「そうか、ありがてえ、どうだ酒が熱《つ》いてるか」
爺「ヘエ、上燗《じょうかん》に熱《つ》いております」
◎「微温酒《ぬるかん》は嫌《きれ》えなんだから、おまえのところで熱いのをグーッとひっかけると、先に飲んだ酒の酔いがポーッと出てくるんでいい心地になるだろう」
爺「ヘエ、なるほど、つまり二度のお楽しみでございますな」
◎「世辞《せじ》をいわねえで、なにか大きい器《もの》へついでくんねえな」
爺「かしこまりました、お熱いほうがよろしゅうございますか」
◎「熱いのがいいともよ、ぬるいのは美味《うま》くねえや、けれども爺さん、熱いたってほどがあるぜ、フウフウ吹いて飲むようなのは困るからな、酒は燗、肴は気取り、といったところがおでん屋じゃァ贅沢《ぜいたく》もいえねえな、酌は髱《たぼ》というが髱じゃァねえ、おまえは爺《じじい》だな」
爺「爺のお酌ではお気には入りますまいが、サア召しあがれ、お燗は極上燗で……」
◎「イヨーありがたい、……ウッこいつァ熱いや、すてきに熱いや、オウ爺さん冗談しちゃァいけねえぜ、咽喉仏《のどぼとけ》さまが火傷《やけど》するじゃァねえか」
爺「少しお燗が通りすぎましたかな」
◎「通りすぎたってえのはこんなもんじゃァねえ、沸《に》え立ってやがるからのどがただれちまった」
爺「お気の毒さまでございます、じゃァ今度のはようございましょう」
◎「なんだか知らねえけれども、ひどい目にあわせやがった、なんぼ熱燗がいいったって熱いにもほどがあらァ」
爺「どうも相《あい》すみません、これなら大丈夫でございます」
◎「ドレドレ……ウッこいつァばかにぬるいや、爺さん冗談じゃァねえぜ、水離れがしたばかりだ」
爺「どうもお気の毒さま、先のができすぎて、今のがぬるいというと、これならちょうどようございましょう」
◎「そうか、ドレなみなみついでくれ、ウムこれこれ、これなら本当の上燗だ……」
爺「さようでございますか」
◎「初手《しょて》からこれならなんのことはねえ」
爺「へへへへたいそうご機嫌でございますな」
◎「オウおでんを一本取ってくれ……、ありがたえ、こいつァ美味《うま》そうだな……アッこりゃァいけねえ、おそろしく塩辛《しおっかれ》えおでんだなァ、こんにゃくの佃煮《つくだに》だぜ冗談じゃァねえ、ひでえ物を食わせやがるな爺」
爺「アアあなた、食べかけを鍋の中へ入れちゃァいけません」
◎「いけるもいけねえもあるもんか、こんな物が食えるかい……、いくらだ勘定をしてくれ」
爺「ヘエありがとう存じます、エーお酒が三杯でございましたな」
◎「ナニ」
爺「お酒が三杯でございましたな」
◎「ばかァいえ、一杯しきゃ飲まねえ、先のはにえくら返ったしよ」
爺「それでも熱い熱いといいながらみんなお飲みなさいました」
◎「なにをいやがるんだ、後のはぬるくってしようがねえじゃァねえか」
爺「これも飲んでおしまいなさいました」
◎「当然よ、捨てちゃァもってえねえや」
爺「それからただ今のとちょうど三杯になります」
◎「ばかにするない、前の二杯は利き酒だ、見本だよ」
爺「ご冗談おっしゃっちゃァいけません」
◎「なにも冗談なんかいやァしねえ、だから初手からこれならなんのことねえといったじゃァねえか、一杯しきゃァ飲まねえよ」
爺「そりゃァいけません、かわいそうに夜商人《よあきんど》をいじめるもんじゃァございません」
◎「いつ夜商人をいじめた、俺が銭を払わねえとでもいったか、一杯はいい心地に飲んだからその銭は払うが、先の二杯は美味くねえから払わねえ、おでんは食いかけたけれども鍋の中へ返《けえ》したじゃァねえか」
爺「冗談いっちゃァいけません、兄さん」
◎「ふざけるない、あにいごかしにして余計の勘定を取ろうてえんだな、太《ふて》え爺だ、なにも銭を払わねえとはいわねえ、サアこれだけやる、あとは借りだ」
爺「親方これじゃァ足りません」
◎「ナニ、ぐずぐずいやァがると屋台をひっくり返すぜ、まごまごすると鍋ン中へ小便をするぜ」
爺「冗談しちゃァいけません、そんな乱暴なことをされてたまるものじゃァない、じゃァマアお勘定はこれでようございます」
◎「当然よ、いいも悪いもあるものか、しかしいい爺さんだ、また来るぜ」
爺「そんなにたびたび来ないでもようございます」
◎「なんだと、なにをぬかしゃァがる、よく面《つら》を覚えておけ、……アアいい心地になった、銭が足りねえからおでん屋の爺をおどかして飲んでやった、しかしかわいそうだ、こんど工合《ぐええ》のいい時に行って余計やろう……アアありがてえ、ばかにいい心地になっちまった、爺さんに聞いたら、まだ九ツ半だといったが、九ツ半なら遅かァねえ、この酔った勢いで品川へ出かけるかな、イヤこのごろ愛宕下《あたごした》からこの辺へかけてばかげて物騒だ、追いはぎだの、試し斬りだのが出るという評判だ、サアなんでも持ってこい一人二人は面倒だ、束になって来や、ナニ人間てえ者は一度死にゃァ二度と死なねえ、生まれて死ぬのは当然だ、死ぬと覚悟をしたら世の中に怖《こえ》えものはなんにもねえ、矢でも鉄砲でもなんでも持ってこい」
奴さん酔った威勢で腕へとぐろをまいて、ペロペロ口のまわりをなめながら千鳥足《ちどりあし》。
◎「ハハハハなんでも景気が肝腎《かんじん》だ、こっちの勇気におそれてなにも出てきやがらねえ、サア出るなら早く出てこい……」
武「オイオイ、コラ町人」
◎「オイ、出てきやがったな、なんだ大きな野郎だ、日当たりのいいところで値《ね》の知れねえ米を食って育ったとみえて、べらぼうにのっぽだなァ、なんだおじさん」
武「おじさんとはなんだ」
◎「なんだたァなんだ、おまえのほうでオイオイいうから俺のほうでオジサンというのに不思議はねえ、オイとオジなら他人でねえからどうでもいいが、赤の他人なら他人のような挨拶をしろ、いきなり暗闇からノッソリ出やがって、オイオイと大きなことをいやァがるな、この丸太ン棒め」
武「これはけしからん、人間をつかまえて丸太ン棒とはなんだ」
◎「人間の形をしているから幸せ、本来ならとうに親船へ引き取られて鉄のタガで鉢巻きをして潮風に吹かれて帆柱になってるんだ、それでなけりゃァ擂粉木《すりこぎ》だな、普通の擂粉木じゃァねえ、かまぼこ屋の擂粉木だな、ざまァみやがれ、擂粉木野郎」
武「これはけしからん、人が物を問わんとするに悪口雑言《あっこうぞうごん》を放つということがあるか」
◎「なにをいやがる、問いたけりゃなんでも問え、いくらでも答えてやる、腕ずくでかなわねえと思って問答できやがるな」
武「イヤ手前は昨日|江戸表在番《えどおもてざいばん》になり、いまだ土地不案内である、今日愛宕下へまいり、主用を果たし、これより麻布の屋敷へ戻ろうと思うが夜更けて道がとんとわからん、麻布に帰るにはどうまいるかな」
◎「なにをいやがるんだ、道を聞くなら聞くようにして聞け、暗闇から突然に出やがって、オイオイてえ奴があるか、麻布へ行くにゃァな、爪先を先にして、かかとを後にして、たがいちがいに歩いて行きゃ……それでわからなけりゃァ初め東へ行って西へ行って南へ行って北へ行け、それでまだわからなけりゃァ、東西南北の間々を探してみねえ、てめえみたような田舎|武士《ざむらい》が路に迷ってくるだろうと、手銭《てせん》で酒を飲《くら》って立って待ってる奴はこの江戸にゃァいねえや、武士だからッて大きな面をしていたら江戸っ子と交際《つきあい》はできねえよ、武士なら武士らしく礼を厚くして来い、路が聞きてえと思ったら、それなら御人《ごじん》、御足《おみあし》をお留め申して相すみません少々物がうかがいとう存じます、手前ことは何の何の守《かみ》家来|何石《なんごく》ちょうだいいたして何役を勤める何の某《なにがし》と申す者でござるが、江戸表不案内のため路に迷って難渋いたす、麻布へまいるにはどちらへまいってよろしゅうござるか、ご存じならばお教えくださいましと手をついておじぎをしろ、ことによったら屋敷へ連れてって殿様のおかんむりが曲がってたら詫言《わびごと》の一つもして納めてやらねえものでもねえが、てめえみたようなカボチャ野郎に脅かされてピョコピョコおじぎをしながら路を教えるほど弱《よえ》え尻はねえや、わかったか間抜けめえ、まごまごしやがると首と足をとっつかめえて細結びにしてしまうぜ」
武「これはけしからん、無礼きわまる奴だな」
◎「なにがけしからねえんだ、おもしろくもねえ、どっちが無礼きわまるか、よくヘソの下へ手をやって考えてみろ、それで考えがつかなけりゃァどうでもしろ三ピン」
武「三ピンとはなんだ」
◎「三ピンの訳を知らなけりゃァ聞かしてやる、三両一人扶持《さんりょういちにんぶち》だから三一《さんぴん》じゃァねえか」
武「おのれ、いわしておけば重ね重ねの悪口雑言、手は見せぬぞ」
◎「見せねえ手なら懐中《ふところ》へ入れておけ、みみずくと一緒に笹の先へぶら下げて大森土産《おおもりみやげ》にしてやるから」
武「こいつあくまで無礼を申すな、この大小が目に入らんか」
◎「なにをいやがるんだ、大小が目に入りゃァ豆蔵《まめぞう》〔大道芸人〕にならァ、二本差しがこわかった日にゃァ焼き豆腐を食うことはできねえ、煮込みのおでんだって一本は指してらァ、気の利いたうなぎは四本差してるが、てめえなんざァ四本差しのうなぎを食ったことはあるめえ、うなぎを食やァたいてい一本串か、それとも気ばかり強くって毛が抜けて目の悪そうなところをみると頭の焼いたのを食やァがるんだろう、どら猫め、なんだなんだそんなところへ手を掛けて抜く気かサア抜いてみろ、抜き身がこわけりゃァ雪花菜汁《おからじる》を食うことができねえ、べらぼうめえ柄《がら》が小さくッたって、そんなことでビクともするんじゃァねえ、山椒《さんしょ》は小粒でピリリと辛《かれ》えや、てめえは体躯《ずうてえ》こそ大きいが思いのほか甘《あめ》えなァ、バカ唐辛子め、サア切るなら切ってくれ、物心覚えてまだ怖《こえ》え思いと、痛《いて》え思いをしたことがねえんだ、腕からでも首からでもどこからでも切ってくれ、切って赤《あけ》え血が出なけりゃァ銭は取らねえスイカ野郎だ、もし切って中身が白かったら赤えのと取りかえてやらァ、どうだ、抜けめえ、豆腐でもなけりゃァて汝等《うぬら》に切れるものか、それでも二本差してりゃァ形だけは武士《さむらい》だ、この頃この近所が物騒で追いはぎが出る、試し斬りが出るなんてえ評判だが、大方てめえが弱え町人でも通るのを待って、おどかして仕事をするんだろう、エーオイ、それにちげえねえだろう、気の毒ながら俺は懐中に百も持ってねえよ、けれどもこれから品川へ行きゃァ女が達引《だてひ》いてくれるんだ、嘘だと思うなら一緒についてきてみや……、なんだくちばしをとんがらかしゃァがって、からす天狗が霧でも吹くような面をするない、どだいその面が癪《しゃく》にさわるんだ、カアプッ」
武「ヤアおのれ酔狂人《すいきょうじん》と見なし許しておけばつけ上がり、武士に対して悪口暴言、しかのみならず痰唾《たんつば》を吐きかけたな」
◎「べらぼうめえ、痰唾をかけたって怒ることはねえや、灰吹きみたようにとんがってやがるからだ、腹が立つならどうでもしろ」
武「おのれ不埒《ふらち》な奴……」
と、かの武士刀の柄《つか》に手を掛けたがジッとこらえている。
◎「なにを気取ってやがるんだまぬけめえ、切るならサッサと切ってくれ、ざまァみやがれ、クソでも食らえ、アッハッハァのハアーだ」
そのままヒョロヒョロ行く奴を、見送っておりました武士、もう堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》が切れたとみえて、
武「待て待て」
二声ばかりかけてチャチャチャチャチャ、雪駄《せった》の裏金を鳴らして追いかけてきたが、腰をひねってエイッ気合いをかけたかと思うとチャリン、鍔《つば》鳴りをさせ、ポンと袴《はかま》のヒダをたたいて突き袖《そで》をいたし、猩々《しょうじょう》の謡《うたい》を謡いながら横町へ曲がってしまった。
◎「ヘンなにをぬかしゃァがるんだ、ざまァみやがれ、野戯言《のたあごと》をつきやァがったって手出しもできねえじゃァねえか、サアどうでもしてみろ……、逃げるのか、オイ逃げるのかよ、それとも屋敷へ帰って先祖伝来の鎧《よろい》でも着て、やせ馬に乗って、錆槍《さびやり》をかかえて、朋友《ともだち》をたのんで仕返しに来ようというのか、喧嘩なら後へ引かねえからなんでも持ってきや、いつでも相手になってやらァ、オヤなんだかだんだんうしろのほうへ首が曲っちまやがる〔頭を左の手で押さえ、頭へ右の手を当ててちょっと左へひねり〕なんだべらぼうめえ、強えことをいやァがって抜くことはできなかろう、バカ野郎……、オヤオヤこりゃァどうも変だな……待てよ久しぶりで品川へ行ったら女がなにかいいやがるだろうな、おまはんこのごろまるで、いたちの道だよ、きっと他で浮気をしているんだろ、冗談いうない、おめえという者があってなんで浮気ができるものか、うまく言ってるよ、その口で方々の女をだまして歩くんだね、ほんとうにおまはんくらい罪な人はないよ……、オットットット、危ねえ危ねえ〔左の掌をあごへ当て右の掌で頭を押さえ〕どうしたんだな、ひどく首がぐらつき出しゃァがった、ハテナ、こんなにしまりの悪い首じゃァなかったが……、オットット、首ばかり先へ出てしようがねえ、ハテふしぎだなァ……」
右の手で咽頭《のど》の周囲をずーッとなでてみると血がベットリ、
◎「オヤオヤオヤサア大変だ、こいつァとんでもねえことをしちまった、切りゃァがったな畜生、うっかり武士なぞに冗談はいえねえ、満足の物を毀《こわ》れ物にしちまった、弱ったなァこりゃァどうも……今のうち囲りを膠《にかわ》で付けたら保《も》つかしら、おひなさまや五月人形とちがって膠じゃァ保つめえかな、オーットット危ねえ、危ねえ、こりゃァ弱ったなァ……」
あごと頭を押さえて奴さん立って考えているとたんに、ジャンジャンジャンジャンジャンジャンという早鐘《はやがね》、オヤッと見ると真正面のところへボーッと燃え上がった。
◎「サア大変だ、悪いところへ火事が始まった、こりゃァどうもおどろいたな……」
甲「こんばんは、おそうぞうしいことでこれだから油断ができませんね」
乙「さようでございます、こう火事ざたが烈《はげ》しくっちゃァ、オチオチ眠られませんね」
そのうちに提灯《ちょうちん》を振り立って弥次馬《やじうま》連中が、
弥「ホラホラホラホラ――……」
◎「オットットット、ぶっつけちゃァいけねえ、いけねえ、やんわりたのむぜ、こっちは毀れ物だ毀れ物だ毀れ物だ」
弥「ホラーホラーホラーホラー」
◎「オヤオヤいけねえ、大変に混んできた、ぶつかって落としちまうといけねえ……」
両方の手で首を押さえて前へ突き出し。
◎「ハイごめんハイごめん……」
[解説]今の円生君の前名は円蔵だったが、それよりも二代前のつまり品川の円蔵の絶品であった。サゲは、首を提灯に見立てた、いわゆる見たて落ちである。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
鉄拐《てっかい》
―――――――――――――――――――
昔から日本の英雄豪傑、または文人、書家、美術家などに酒を好んだ人が多くありますが、唐土《もろこし》にもずいぶん酒飲みがあったようでございます。
とりわけ有名なのは李白《りはく》に陶淵明《とうえんめい》、李白は唐の大詩人で、大酒のみ、玄宗皇帝がお召しになっても、酔っぱらっていて、臣《しん》は酒中《しゅちゅう》の仙《せん》なりといって、お召しに応じなかったというくらい、されば酒仙《しゅせん》という名を取りました。
また陶淵明という人は学者であるが、いたって潔白な人で、いわゆる清貧《せいひん》を楽しむという質《たち》で、かつて文部大臣に推薦されたが、我れ米のために俗人を相手にすることを好まぬといって断わり、その志に感じて金を寄付する人があれば、すぐに酒屋へその金を入れてしまい、酒を飲んで愉快に一生を終わったという、さすが大国だけに変人奇人も多かったようでございます。
ここに唐《から》の横町という、日本でいえばまず東京の本町《ほんちょう》通りというようなところに、上海《しゃんはい》屋|唐右衛門《とうえもん》という貿易商があります。日本を初め英国、フランス、アメリカ、イタリア、ドイツ方々に出店があって、奉公人は数千人も使っているという大家でございます。毎年九月に創業記念の祝賀会を開いて知己親類朋友残らずを集め、いろいろめずらしい余興を見せますので、もう上海屋の創業記念の宴会といっては有名で、みな楽しみにしております。
ところが余興も毎年のことで、だんだんしつくしたので、なにか今年はめずらしいものをさがしたいものだと、心配をして、主人公が番頭の金兵衛《きんべえ》を呼んで、いろいろと打ち合わせると、この金兵衛さんはなかなか演芸通で、毎年余興係ときまっている、ちょうど夏のことで、日本なら東京と大阪というくらい離れたところへ商用に出かけます。そのついでになにかむこうに変わった芸人があったら連れてまいりましょうといって出かけました。
中国はご承知の通り大国でいまだに充分に鉄道が行き渡っているというわけにはまいりません。まして昔のこと、脚絆《きゃはん》甲掛けわらじ履《ば》きで、テクテク出かけました。ちょうど七月二十日ごろに家を出て、遅くも八月いっぱいには帰るつもりのところ、ある時どう道をまちがえたか、行けども行けども里へ出ません。山また山の九十九《つづら》折りというところだ。さいわいパンと豚の缶詰の用意をしてきましたから、べつに食糧にはさしつかえはありませんけれども、やや一昼夜ばかり山中をグルグルまわっていたが、どうしても里へ出ません、当人もがっかりして
金「アア困ったなァ、どうしても里へ出ることができない、これなり猛獣に食われて死んでしまうのかしらん」
と主人にいいつかってきた用も気にかかるし、第一食糧がなくなってくるから、夢中になって神信心《かみしんじん》をしながら、足にまかせてトットコトットコ歩いていると、いつ来たとも知らず不思議なところへ出ました。よく唐絵《からえ》で見る仙人の住みそうなところ、なにしろ焼けるような暑さだというに、ここへくると急に秋にでもなったように、ソヨソヨ涼風が吹いて、どこから聞こえるのか、高尚な音楽が聞こえてくる、金兵衛腹のへったのもなにも忘れてしまって、スッカリいい気持ちになって、フワフワ歩いていると、向こうのほうにけっこうな松の古木が繁っている、その下に大きな岩があります。
ふと見ると、岩の上に荒布《あらめ》の共進会をはじめそうな、ボロボロした扮装《なり》をして杖をななめに持って、髭ぼうぼうとした爺さんが、煙のように立っております。頬骨は高く出て、目はくぼみ、今にも息が絶えそうな爺さんだが、とにかくようようのことで人に出くわしたから金兵衛ホッと息をついて、
金「きこりだか乞食だか知らないが、きたない爺さんだな、なにしろ人の形をしたものに出くわしたのは、地獄で仏にあったようなものだ、あの爺さんに道を聞いたら教えてくれるかも知れない……エー少々物をうかがいます」
といわれて、かの爺さん夢から冷めたようなふりをして、
爺「うるさいな、なんだきさまは」
金「ヘエ」
爺「おまえはなんだよ」
金「エー私は道を踏み迷いまして、この山中をあっちをグルグル、こっちをグルグル、歩いている者ですが、どうしても里へ出られません、なにしろもう食い物はなくなってしまうし、このままにミイラになってしまうことか、獣にでも食われてしまうことかと思って心配しながら来ますと、あなたにお目にかかったのでやっと生き返ったような心持ちになりました。すみませんが、どちらへ行きましたら、里へ出られますか、教えていただきたいもので」
爺「アアそうか、おまえは里人か」
金「ヘエさようで、私は唐の横町の上海屋唐右衛門の手代《てだい》で金兵衛というものでございますが、一体ここはなんというところで」
爺「ここか、ここは凡人の来るべきところではない」
金「ヘエ」
爺「ここは凡人の来るところではないよ」
金「凡人の来るところでないと申しますと、誰のまいりますところで」
爺「ここは仙人のいるところだ、なかなか凡人の来られるところではないが、おまえはどう道を踏み迷ってきたか知らんが、不浄《ふじょう》の身体でここへ来ると、必ず身に害がある、マアマア俺が道を教えてやるから早く里へ帰んなさい」
金「ヘエーさようでございますか、それじゃァかねて噂に聞きました、仙境《せんきょう》とでも申すところでございますか、してみるとあなたは仙人で」
爺「そうだよ」
金「仙人にしちゃァどうも、きたない」
爺「なんだと」
金「イエナニこっちのことで、さようでございますか、どうもまことに尊いおみなりをしていらっしゃいます、あなたはなんとおっしゃる仙人で」
爺「俺は鉄拐《てっかい》」
金「ヘエーてっかいさんというのはあなたでございますか、お目にかかるのは今日はじめてでございますが、お名前はかねて雷《らい》のごとくに承知しております、ところで仙人というものはなにか変わった術を使うと聞いておりますが、ほんとうでございますか」
鉄「あるな、仙人の術、仙術で、まず心を休める楽しみだな」
金「ヘエー、ところであなたのお楽しみはどういうもので」
鉄「俺のか、俺は退屈の時には、一身分体《いっしんぶんたい》の術をいたすぞ」
金「ヘエーなんでげすって」
鉄「一身分体の術をもって楽しみとするのだ」
金「どういうことをなさるので」
鉄「一身分体というのは、まず俺が、フーッと口から息をはくと俺の身体からもうひとつてっかいが出るのだ」
金「ヘエそれじゃあなたがフーッとやるとあなたのような方があなたの口から出ますか」
鉄「出るよ」
金「すみませんが、ひとつ見せてくださいませんか」
鉄「イヤむやみに凡人らに見せるべきものでない」
金「そんな意地の悪いことおっしゃらないで、袖《そで》すり合うも他生《たしょう》の縁《えん》、つまずく石も縁《えん》の端《はし》などということを申します、こうしてお目にかかったのもなにかの縁でございましょう、どうかひとつお見せなすって」
鉄「そうか、そんなにたのむなら一つ吹いてみせよう、よく見ていろよ、それ出るぞ……コレコレそんなに前へ出てきてはいけない、後へさがれさがれ」
金「ヘエかしこまりました、このくらいでよろしゅうございますか」
鉄「あまりそうべらべらしゃべるな、ガヤガヤさわぐと腹の中でてっかいがおどろいて出てこない、口をむすんで静かにしていろ」
てっかい仙人は曲がりくねった杖《つえ》を斜《はす》に肩へかけ、両眼を閉じ、しばらく腹をなでながら、なにかグツグツ呪文をとなえていたが、やがて顔を上げて頬をふくらし、口をつぼめてフーッと息をはくとてっかい仙人の口元から煙のようなものが出たかと思うと、それと一緒に豆のようなものが飛び出しました、見ているうちにだんだんそれが大きくなって、人形《ひとがた》をなすとてっかい仙人とおなじような杖を突いて、向こうの山をノコノコと歩いて行く、金兵衛おどろいて
金「ヘエー、これは不思議、どうも恐れ入りましたな、アレアレ向こうのほうを歩いて行きますね、アッ向こうで笑っておいでなさいます、これは奇態《きたい》だ」
鉄「エーそうぞうしい奴だな、静かにしろ、どうだわかったか俺の術が」
金「スッカリわかりました」
鉄「よかったらしまってしまう」
とてっかい仙人大きな口を開いたと思うと、向こうのてっかいがだんだんそばへ寄ってくればくるだけ小さくなってヒョイと口の中へ入ってしまった。
金「どうもてっかいさんありがとうございました、なによりこれが里へのいい土産で」
鉄「サァ早く帰れ」
金「ヘエどうも恐れ入りました、時に先生」
鉄「なんだ先生とは、変な笑い方をしゃァがって、いやな奴だな」
金「まことにどうもなんでございますが、あなたに折り入ってお願い申したいことがございますが」
鉄「なんだ」
金「ほかではございませんが、私は先刻も申しあげました通り、上海屋唐右衛門の手代金兵衛と申すものでございますが、主人方にて、当時繁盛しております営業の創立記念の祝賀会ということを毎年九月にいたします。その余興にいろいろめずらしい趣向をいたすのでございますが、もう芸という芸をたいがいやり尽くしたので、なにか当年は客をアッといわせるようなものをと、主人も大変心配をしております、ちょうど私が商用で旅をすることになりましたので、なにか旅先でめずらしい芸をさがして帰るようにと申しつけられてまいりましたが、なにがさてコレというめずらしいものも見当たりません、はなはだかようなことを申しあげては恐れ入りますが、そのかわりお礼はどのようにでもいたしますが、ちょっとどうか私と一緒に里へいらっしゃって、上海屋の祝賀会の席上で、ただ今のフーッというものを一つやっていただきたいと思いますが、いかがなものでございましょう」
鉄「ばかなことをいわっしゃい、仙人が里の余興の座敷へ行かれるか」
金「ごもっともさまでございますが、そこを、その折り入ってお願いいたしますので、なかなか里へなどいらっしゃっていただけない仙人さまに来ていただいたとなれば、上海屋としてもこれに越した名誉はございません、どうか人助けだと思って、おいでを願いとう存じます」
というとてっかい仙人、人を助けるという言葉が気に入ったものとみえまして
鉄「そうか、きさまはなかなか忠義な男だ、それほどいうなら行ってみようかな」
金「ありがとう存じます、どうかぜひ行らしっていただきとう存じます」
鉄「そのかわり断わっておくが、何べんもやってくれろといわれては困るぜ、誰がなんといっても一ぺんぎりですぐ帰ってくるから、悪止めをしなさんな、それからあまり丁寧にしてきれいなところへなぞ入れては困るぜ」
金「なるたけきたない凡界を離れたところへお泊まり願いますから、ぜひともおいでを願います」
鉄「コレコレ静かにしろよ、俺がいいというまで眼をあいてはいかんぞ」
金「ヘエ」
といううちに自然金兵衛の身体がフワフワと舞い上がりまして、まるで飛行機にでも乗ったような具合、
鉄「サァ眼をあけろ」
といわれてヒョイと目を開いてみると、いつの間にか、上海屋の店先に立っている、店の者もおどろいて、これを主人に取り次ぐ、主人も心配していたところだから、すぐ金兵衛をここへ呼べという、
金「ヘエ旦那さま、ただ今帰りました、大きに遅くなりました」
主「オー金兵衛どんかご苦労ご苦労、どうした、なにかありましたか」
金「旦那さま、どうも今度はおどろきました、山道へ踏み迷いまして、いくら歩いても里へは出ず、しまいには飢え死んでしまうか、猛獣の餌食にでもなることか、とうていもう旦那さまにもお目にかかることはできないと思って、ずいぶん苦労をいたしましたが、そのかわり仙人を見つけて連れてまいりました、これはよほどめずらしいものでございます」
主「どういう仙人だ」
金「てっかい仙人と申しますので、お聞き及びでもありましょうが、フーッと息を吹きますと、口から当人と同じような身体が出ますので」
主「それはふしぎだ、けれどもよく来たな」
金「それはもう里へ行くのはいやだと申しますのを、私が無理矢理にたのんで主人の名誉にもなるし人助けにもなることだからと申しますと、それなら行ってやろうと承知をしてくれました」
主「それは格別の骨折りだった、どこかきれいな座敷へでもお通し申しておいたか」
金「イエ物置へ放り込んでおきました」
主「物置はひどいではないか」
金「それでも当人が、きれいなところに入れては困るというので、椎《しい》の実をあてがっておきましたら、皮ごとゴツゴツかじっております、南京豆をやりましたら、油が強くて胃にさわるといっておりました」
主「そうか、なんでも気にさわらないようにしておかなければいけない」
上海屋の主人も大いに喜んでいるうちに、いよいよ当日となりました。もう定刻前からお客さまがドンドン突っかけてきます、灯火《あかり》をカンカンつけ、昼間も及ばないくらい、金銀|珠玉《しゅぎょく》をちりばめたるけっこうな舞台もでき、金にあかして唐の三越《みつこし》でこしらえたたいそうな緞帳《どんちょう》を下げ、鳴り物はご承知の支那音楽で、ピイピイドンドン、キュウキュウ、カンジャランボン大変なさわぎ、お客さまは充満していますが、なんの余興が始まるんだか、ちっともわからない。やがて番頭の金兵衛さんは、カチカチという拍子木を合図に、幕を明けさして、番頭の金兵衛が裃《かみしも》を付けて舞台の下手《しもて》に座り、
金「一座高うはござりますが、不弁舌《ふべんぜつ》なる口上をもって申しあげたてまつります、例年の吉例に従いまして余興としてごらんにいれまする芸道は、このたび世界無類一身分体の太夫《たゆう》てっかい仙人お目通り上座《じょうざ》まで控えさせまァす」
日本なればサカリバという鳴り物ですが、唐のことですから、チャンカラチャンカラチャンカラ、ジャンボーングワーン、拍子木に連れて出てきました、てっかいは気取りもなにもしない、ボロボロした例の荒布《あらめ》のような扮装《なり》のまま、伸びた爪で、ボリボリ顔をかきながら、ノソノソと出てきた、客は舞台の飾りつけの立派と鳴り物のさわぎ、口上の大げさなのにひきかえて、太夫のきたないのにおどろきましたが、悪くいっていいのか好くいっていいものかわからないから、みな呆気《あっけ》に取られて見ておりますと、てっかい仙人が正面の椅子にかかるのを合図に金兵衛が、カッチと拍子木をうって鳴り物をやめ
金「一身分体の太夫お目通りあいすみますればこれより分体の術をごらんにいれたてまつります、ヨイキタ」
アジラーン、ジャラン、ボングワーン、大変な鳴り物でてっかい仙人悠然として椅子にかかり、静かに下腹をなでまわし、正面に向かって頬をふくらし、口をつぼめ、ウーッと目をむき出し、フーッとやったがなにも出ません、金兵衛が小さな声で
金「先生出ませんね」
鉄「フー、フッ、番頭出ないよ、全体どうもこう灯火をつけて、鳴り物をドンチャンやられては腹の中のてっかいがおどろいてしまって、ブルブルふるえている、この塩梅《あんばい》ではとうてい出そうもないからよそう」
金「よしちゃァ困りますよ」
と途方にくれている、そのうちにお客はソロソロそうぞうしくなってきたから
金「太夫の腹中少々損じましたるによって、いま一囃子《ひとはやし》ご容赦を願いまーす」
と緞帳を下ろして楽屋の灯火を十分の一に減らし、舞台もズーッと暗くしてしまい、しばらく休息をして、再び幕を開けました、てっかい椅子にかかってフーッと吹くと今度は首尾よく出ましたから一同声をあげておどろきました。
◯「これァどうもふしぎだ、アレアレあっちへ歩いて行きますよ」
△「なるほどふしぎですね、ヤア、ニコニコ笑ってますよ、なにしろこりゃァたいそうな余興だ、よほど金がかかりましたろう」
と拍手喝采で場内やぶれるばかり、そのうちにてっかいは口のうちに吸い込んでしまう、幕を閉めると、てっかい腹がへったとみえて、相変わらず椎の実をかじっている。
金「ありがとう存じました、どうもご苦労さまで、お客さまも大満足で……、ごゆるりご休息を願います……なんだ俺に用のある方がきた、アアそうか今すぐに行く、……てっかい先生、はなはだ失礼でございますが、ちょっと客がきたそうで、ごめんくださいまし、……どなたです、私にご用の方というのは」
◯「エーごめんくださいまし、私どもは隣町の来々軒《らいらいけん》の若いものでございますが、今日の余興の太夫のことでご相談にきました」
金「ハアどういうお話ですか」
◯「じつは手前町内のお客さまが私どもへ打ち寄って宴会をお催しになるについて、町内の旦那方が今夜お宅さまへお招きにあずかって、余興を拝見いたしましたが、たいそうめずらしい芸人だからぜひこっちの宴会の余興にもたのみたい、先生を拝借したいとこういうわけで、手前が申しつかってうかがったのでございますが、まことに恐れ入りますけれども、明晩一時間ばかり、先生に願っていただきたいもので、つきましてお礼のところはどのくらいかうかがってくるようにというので私が申しつかってお願いに出ましたのですが……」
金「そうですか、そりゃァ私のほうは自分のところの宴会さえ済んでしまえば、どこへ出ようとも差し支えないが、なにしろ最初連れてくる時に一度しかやらせないという約束だったのだから、承知をするかどうだかわからないが、とにかく聞いてみてあげよう、少し待っておいで」
これから奥へ来て、てっかいにその話をすると、
鉄「そうか、どうせ来たついでだから、せっかくのたのみ、行ってやろうか」
金「そういうことに願えれば、隣町の者もさぞ喜ぶでございましょう」
こういう手つづきで、あっちへも行ってくれ、こっちへも来てくれとたのまれる、そのうちに、てっかいもだんだん里の風に慣れてきたから、椎の実なぞは食わない、
鉄「なにかさっぱりしたもので一杯やりたいな」
などというので、飯も食うし、祝儀もドンドン取る、仙人スッカリ欲ばってしまった、そのうちに興行師が出てきて
興「どうか先生寄席を一つ打っていただきたいもので」
鉄「アアよしよし、けれども安くっちゃァいやだよ」
というので、てっかいの一枚看板で、寄席を打ちはじめると、見物が来るわ来るわ、毎晩大入り「どうかご順にお膝送りを願います、後が込み合いますから楽屋へも詰めてください」という勢いで、てっかいおいおい贅沢になって
鉄「鳴り物はなんだな、音楽でもねえから、引っ込みの時はハヤコイでしてもらいてえ」
などと鳴り物の注文まで出すようになりました、上海屋から金を引き出して立派な家をこしらえ、先生然として緞子《どんす》の座布団の五枚重ねの上へいばっております。そのうちにまた変わった奴が出てきて弟子になりたいなどとたのみに来る。
甲「えー私はご近所にいる商人《あきんど》でございますが、じつはソノ伜《せがれ》が官につくのもいやだし、といって商人も好ましくないから、芸人になりたいと申しますので、当時芸人も多くございますが、その中で先生のお弟子になって寄席へ出たいとこう申します、どうか先生、伜をお弟子になすっていただきたいもので」
鉄「イヤー、私は弟子などを取るのはいやだ、断わるよ」
甲「そうでございましょうが、お一人では寄席へいらっしっても、お羽織《はおり》をたたむ者も、お紙入れを気をつける者もなければなりません、小間使いかたがたお弟子に置おきなすっていただくわけにいきますまいか」
鉄「ウーン、それもそうだなァ、それでは置いていきなさい」
甲「ヘエありがとう存じます、……それじゃァおまえ、よくお師匠さんのいうことを聞かなけりゃァいけないよ、いいか、先生のフーッとお吹きなさるところを覚えろ、先生が呼吸をお吹きなさる時には、目を離さずに見ていなければいけませんよ……つきましては、これになんとか名前をいただきたいもので」
鉄「マアなんでもいいわ」
甲「そうおっしゃらずにどうぞひとつ」
鉄「そうだな、てっかいの弟子になって宅にいるのだから、やっかいとかなんとかつけておけ」
甲「ヘエありがとう存じます……、やっかいという名前をちょうだいしたから、そのつもりでいな」
乙「私の伜もどうぞお弟子に願います、もっともまだ小そうございますが」
鉄「小さかったら、しじみっかいとしておけ」
丙「先生、どうか私の伜もお願い申します」
鉄「アアよしよし、そのほうはもっかいとしておけ」
そこでやっかい、もっかい、しじみっかいというお弟子ができまして、昼間は貴顕紳士《きけんしんし》の方々のお座敷へよばれ、夜はまた寄席へ出て、非常に繁盛する、あまりてっかいの評判がいいものだから、ねたんで陰口をきく者がある、
◯「どうだい人間も仙人もぜいたくに限りはねえな、上海屋の家で去年の九月だった、山から出てきやがった時には、雑巾と荒布の共進会のような扮装をして、椎の実をボリボリかじっていやがった奴が、この節《せつ》のぜいたくはどうだい、お高く止まりゃァがって、むやみに席を抜きゃァがる、昨夜も宮様のお座敷だってんで、弟子を連れて出かけやがったが、弟子の木拐《もっかい》てぇ奴がやると、身体が半分しきゃァ出ねえ、前座の蜆拐《しじみっかい》がフーッと吹いたら、首ばかりしきゃァ出なかったそうだ、いやにこの節お座敷が忙しいと思って、いばってやがらァ、本当にしゃくにさわるなァ」
乙「どうだい、俺はこの間から考えているんだが、ひとつてっかいの向こうを張るような仙人を引っぱってきて寄席へ出そうじゃァねえか」
甲「ウーンそれがよかろう」
なんの恨みもないのに、やきもちを起こして二三人連れで、鰹節《かつおぶし》などを用意して、深山へ分け入ってまいりましてフト向こうの岩角を見ると髭だらけの爺さんが腰をかけている。
甲「しめたぞ、仙人にちがいねえ、一ツたのんでみよう……ちょっとうかがいますが、おまえさんは仙人かい」
老「なんだ」
甲「おまえさんは仙人かい」
老「エーそうぞうしい奴らだ、きさまらはなんだ」
乙「私どもは里から来ました、おまえさん仙人でしょう」
老「仙人だ、仙人だがそれがどうした」
甲「なんという仙人だね」
老「俺は張果老《ちょうかろう》仙人だ」
甲「ヘェー張果老、やっぱりなんですかい、フーッと吹くと、なにか出ますかい」
張「なんだと」
甲「このごろてっかい仙人が里へきて、フーッと口から人を吹き出して、大変に流行《はや》っていますが、おまえさんも口からなにか出ますかい」
張「ウム仲間のてっかいが里へ行った話を聞いたが、なにかアノてっかいが流行ってるのか」
甲「大変な景気ですぜ、おまえさん口から二人ぐらい吹けますかい」
張「俺は人なんぞは吹かん」
甲「ヘエー……こいつは鰹節のかじり損かな……けれどもなにか芸がありましょう」
張「仙人に芸なぞはない、楽しみがある」
甲「楽しみてえのはなんです」
張「このひょうたんだ」
甲「オヤオヤのんだくれ仙人だ、酒ばかりガブガブ飲んで居眠りをしているのかい」
張「イヤこのひょうたんには酒が絶えんのだ」
甲「そんなのはつまらない、酒を飲んでいたところで客は来ゃァしねえが、それっきりかい」
張「このひょうたんの中から馬が出る」
乙「馬が、本当の馬が出ますか」
張「嘘《うそ》の馬というのがあるかい」
甲「だって、そんな小さな口から馬が出ますかい」
張「うたぐるなら出して見せようか」
甲「拝見しましょう」
張「今出して見せるから、もう少しうしろへさがれ」
これからひょうたんを腹へあてがい、しばらくなでていましたが、ひょうたんの口へ手をかけて、
張「サアサアどけどけ」
甲「ヘエ」
張「どけどけ」
といいながら、口をひねると煙のように馬がスーッと飛び出したから、三人はおどろいた、
甲「アア出た出た、これはふしぎだ、ピョンピョン飛んでいるぞ、これは豪気《ごうき》だ、てっかい仙人より一段上だ」
張「そうぞうしいな、そうギャアギャアさわぐと馬がおどろいてしまう」
甲「アア入っちまった、これはふしぎだ、どうかひとつ里へ行って寄席を打ってはくれませんか」
張「ばかなことをいいなさんな」
甲「そんなことをいわねえで、マア里へ出てごらんなさい、てっかいさんもはじめのうちは、炭俵《すみだわら》へ寄りかかって椎の実などをかじっていたのだが、この節じゃァぜいたくになって、立派な家へ住まい、うまい物を食ってお妾《めかけ》をおいたり芸者を引っぱって遊びに行ったり、なかにはまた、てっかいさんの髭ッぷりが粋《いき》だなんて、岡ぼれをする娘ッ子もあるくらいで、ちょいと乙《おつ》な女が、アラ仙ちゃんなんてえさわぎで、マア行ってごらんなさい粋な女があなたの馬を見てオヤ馬が出たよ、馬ちゃんなんてさわぎますぜ」
張「エーうるさい男だな」
乙「マァ行ってごらんなさいよ、ヤイこん畜生行かねえか、仙公」
張「ウーム、ひどくおもしろそうだな行ってみようか」
とうとう張果老も里へ引っぱり出されました。そこでてっかいの向こうを張り、凧足《たこあし》の大看板を出して興行すると、お客はまた珍しいから大喜び、たちまち大評判になって、あっちの演芸場へも出れば、こっちの寄席へも出る、したがってお座敷も忙しい、サアそうなるとてっかい仙人のほうがだんだん衰えてきた、なんのあんな奴がどうするものか、てっかい仙人、口先では平気なことをいっているが、腹の中じゃァおどろいた、このごろ売れなくなったのは張果老仙人が出てきたせいだ、いまいましいのはあの張果老の奴だ、どうにかして仇《あだ》をしてくれようと思っておりましたが、ある晩のこと張果老の家へしのびこみ居間へ来てみると張果老が疲れてグッスリ寝ているようす、床の間へ来てみると張果老の大きなひょうたんが一つあります、アアこれだな畜生、この中から馬を出すんだな、よしよしこの中の馬を盗んでしまえ、そうすりァこれから張果老がいくら吸ったって出っこねえから、高座で赤恥《あかっぱじ》をかくだろう、みやがれ畜生、
やがてひょうたんの口を取っておのれの口へ当てがってスーッと息を自分の腹の中へ吸い込んだ、なにしろ自分の身体を吹き出すというくらい、息の強い奴ですからたまりません、ひょうたんの中の馬がパッとてっかいの腹の中へ入っちまった、しめたとばかりなに食わぬ顔をして、自分の家へ帰ってしまいました。そんなこととは知らない張果老、その翌晩も席へ出て、いよいよ本芸にとりかかると、ひょうたんをいくら吸っても吹いてもなかなか馬が出ない、しかたがないからその晩は半札《はんふだ》を出して、身体が悪いからとか、なんとかいってソコソコにはねてしまいました。その翌晩も、またその次の晩も馬が出ない、そうなると少し人気にさわってくる。こっちはてっかい仙人、うわさを聞くと昨夜、張果老の馬が飛び出さなかったので、半札を出したということを聞いて、ざまァみやがれと、一人ニコニコしている。
◯「こんにちは」
鉄「どなた」
◯「私で」
鉄「オヤお珍しい、サァどうぞこっちへおいでなさい」
◯「ヘエありがとう、お身体が悪いそうで」
鉄「イヤどうもね、少し飲み過ぎたとみえてなんとなく具合が悪くなっていけません」
◯「寄席のほうもお休みなすっていらっしゃるそうで」
鉄「一月ばかり休んでいます」
◯「時にあなたお聞きになりましたか、あの張果老仙人のことを」
鉄「ヘエ、張果老がどうかしましたか」
◯「どうかしましたかって、あの馬を盗まれでもしたか、それとも逃げちまったんですか知りませんが、いくら吹いても出ないので、この頃ちょっと人気が落ちました、この機をはずさずにあなたがまた席へ出れば売れますぜ」
鉄「イヤ私も陽気がよくなったら、また看板を上げてみようと思ってるんで」
と話をしているとお腹の中で、ヒーン……、
◯「オヤッなにか鳴きますね」
ヒーン……、
◯「てっかいさん、さてはあなたが盗《と》りましたね」
鉄「なにを」
◯「隠してはいけませんぜ、張果老の馬を盗んだのはあなたでしょう、隠してもだめですぜ、腹の中で鳴いてるじゃァありませんか」
鉄「イヤおまえさんだから、話をするが、じつは盗んだのは私だよ」
◯「そうでしょう、どうもおかしいと思った、仙人仲間でなけりゃァ、なかなかひょうたんの中の馬は盗めませんから……、ところでてっかいさん、悪いことはいわない、すぐここで看板をお上げなさい、今までてっかい仙人だけ吹き出したのが、今度は馬に乗せて吹き出すといったら、お客が来ましょう」
鉄「なるほど、こいつはおもしろいね、てっかいの馬乗りはよかろう、さっそくやろう」
というので、それからまた看板を上げました。なにしろ先《せん》とちがって、今度はてっかいが馬に乗って出るというのですから、たいそうな評判、ところが困ったことには馬を吸い込むことはできたが、吹き出すことができない、それじゃァなんにもならないというので、客をみな口の中へ吸い込んで、お腹の中で見物させようという、サアそれがたいそう人気にかなって、俺も一つてっかいの腹の中を見物してこようと、奈良の大仏みたようでたいそうな大入りでございます。たちまち満員の札を入り口へあげるような景気
◯「どうでげす、もう一人だけ入れませんかな」
鉄「せっかくですが、もう入りきれませんからお断りいたします」
◯「そんなことをいわないで、入れておくれ、どこでもいいんだ、肋《あばら》の三枚目あたりでもかまわない」
お客さまのほうでたのむくらいでございます。するとお客の中に酔っぱらいがいて腹の中で喧嘩を始めました。
鉄「アア痛い痛い、腹の中で酔っ払いが喧嘩を始めやがって、痛い痛い」
◯「そんなに痛けりゃァ、酔っ払いだけ吹き出してしまったら……」
といわれて、てっかいが咳ばらいをする、とたんに口から飛び出した酔っぱらいをみると、李白と陶淵明。
[解説]これも支那の小咄から思いついたもので、おもしろくできているが、遺憾なのは、サゲがパッとしない。マクラに李白と陶淵明の大酒家ということを説明しておくのだが、それでもわかりにくい。仕込み落ち。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
駱駝《らくだ》
―――――――――――――――――――
ここに馬という名前の男がございまして、人が綽名《あだな》して駱駝と申します、もともと駱駝という文字《もんじ》には馬という肩書きが二つもあるくらいだから、あまりけっこうな人物ではありません、大きな図体《ずうたい》で、のそのそしているところから駱駝という名前がついて、馬というのは本名でございます。
○「おう寝てるのか、しようがねえな、どうも午後だというのに、おもてを締めて寝ていた日にゃァ、ろくなことはねえぜ、昔から果報《かほう》は寝て待てとよくいうが、寝ていて銭儲けをしたという例はねえ、本当にしようのねえ野郎だ、……ハテどうしやがったんだな、ここの家《うち》は締まりがあるんだかねえんだかわからねえ、たいがい開《あ》くだろう、……おやおや、昨夜《ゆうべ》酒を飲みすぎたとみえて、上がり端《ばた》のところへひっくり返って寝ていやがる、よく風邪をひかねえな、陽気が悪いのに起きろ起きろ、オイ起きろってえことよ、しようがねえなァ、……おや冷てえや、どうも妙な面《つら》をしていると思ったら死んじゃってやがる、ああ昨夜《ゆうべ》湯の帰りに、こいつに遇《あ》ったらフグをぶらさげてやがった、陽気違いにそんなものを食うなといったら、こう安くっちゃァ好きなものは食わずにゃァいられねえといいやがったが、きっとあのふぐを食って死にやァがったんだ、本当にあきれた奴があるもんだな、人の食うなというものを食うもんじゃァねえ、よせというものはよすものだというが本当だ、しかしこう死なれてみると、平常《ふだん》兄弟分といわれている仲で、まさかほおっておいて知らねえというわけにもいかねえ、どうにか差し担《かつ》いでも埋葬《まいそう》の支度《したく》だけはしてやらなけりゃァなるめえ、この野郎銭のあったためしはなし、俺もこのごろ一文なしときている、ほかに身内はなし、親類はなし、たたき売ろうという道具もろくになし、本当にしようがねえ、しかしどうも殴り殺しても死にそうもなかった奴で、まだこんになろうとは思わなかったが、今さらなんと思っても仕方がねえ、いくらもあるめえがマアここの家の洗いざらいをまとめてたたき売ったら、せめて早桶《はやおけ》〔いちばん安上がりの棺おけ〕ぐらい買えるだろう、それにしてもなんにもねえ家だな……」
屑「屑《くず》うーい、屑はござい、屑屋ーい……」
○「やッ、これは重宝《ちょうほう》だ、屑屋が来やがった、……オウ屑屋か」
屑「へえ、……やッここの家は馬さんの家だな、駱駝《らくだ》さんの家ときた日にゃァ、どうもおどろいたな、きのうの朝だ、呼ばれたから仕方がねえ、こわごわはいったら、ひびの入った皿小鉢《さらこばち》やなにか五六枚出して、五百に買ってくれ、買ってくれって、……買われませんといったら、しまいには殴りそうになったから、ぶん殴られるより、五百のほうが安いと思って買ったけれども、ただ取られたようなもんだ、始末にいかねえな、口明けからここでやられるようなことでは、今日も俺は大した儲けはねえや、俺の商売ばかりは、とんとんと一つうまくいって、所帯仕舞《しょたいじまい》の人にでも出っくわせばちょっと半月《はんつき》の稼ぎはできるんだが、……マアどうも呼ばれてみりゃァ仕方がねえ、……へえこんにちは、えーこちらは馬さんのお宅で……」
○「アア屑屋さん、なにかぐずぐずいってたな」
屑「ヘエ、ナニ……」
○「駱駝の家ッてえことをおまえ知ってるのか」
屑「へえ、もう古いおなじみでございますが、馬さんはどこかへいらっしゃいましたか」
○「ウム、マアどこかへ行ったんだがな、ここの家の物を洗いざらいまとめて売ろうというんだ、なるたけ奮発《ふんぱつ》して値をよく買ってもらいてえんだ」
屑「へえ、せいぜい働きまして、……ああ、そこに寝ておいでなさるのは馬さんで、……私はまた馬さんはどこかへお引っ越しになって、今度あなたがここへおいでになったのかと思いました、そこに寝ておいでなさいますな」
○「寝ていたっていいじゃァねえか」
屑「ヘエ、それはよろしゅうございますが、馬さんのお宅の物を……」
○「マア心配しねえで買いねえ」
屑「ナニ心配もいたしませんが、じつはここにある品は残らず、私のほうでも見合わせたい物ばかりでございます」
○「オヤオヤ、屑屋に見放されるくらいだから、こんなことになるんだ、……じゃァ本当のことをいうが、駱駝は昨夜《ゆうべ》フグを食って、それにあたってくたばっちまった」
屑「エーッ、あんな丈夫な方が、……マアおどろきましたな、それはどうもお気の毒でしたなァ、ヘエーちっともそんなことは知りませんで、あなたはお長屋の方でもないようですが……」
○「ウム、平常《ふだん》兄弟とかなんとかいわれてるんだ、まさかここへ死骸をほうり出しておくわけにもいかねえ、といって俺もこの二三日苦しくってしようがねえ、またこの野郎が一文だってあったためしはなし、どうか埋葬の形ぐらい出さなけりゃァならねえが、どうにも法がつかねえんで、幸いおまえも今までなじみなら、なるたけ奮発して買ってくれ、そのかわり残らず持ってってよい」
屑「ヘエ、スッカリいただいたところが満足な物は一つもございません、そこに土瓶《どびん》のちょっとよいのがあると思うと、口が取れてるし、せめてその口でもあれば継《つ》ぐとかなんとかしますがそれもなし、満足の物は一つもありません、焜炉《こんろ》は横ッ腹に穴があいてるし……」
○「すっかり知ってやがる、どうだい、いかねえか」
屑「ヘエ、とてもいけません、けれども私も今までお心易くしておりました者でございますから、まことにこれは少しばかりでございますが、ここに二貫あります、まだ商売に出たばかりで、持ち合わせがございません、ほんの心持ちだけを差し上げますから、どうかお腹を立てねえようになすって、お線香でもお上げなすって……」
○「それは気の毒だなァ、おまえにそんな散財をさせようと思って、ここへ呼び込んだわけじゃァねえ、マアいいや、仏さまも喜ぶだろう、ナア、おまえと古いなじみであってみれば、マアじゃァもらっておこう、いくらでも欲しいと思うところだ、気の毒だがもらっておくぜ、そのかわり道具はみんな……」
屑「イエいただかずにすむんならばどうか……」
○「そうだろうな、見たところでこれぞ役に立とうと思う物は一つもねえんだから、じゃァマアもらっておくが、ついちゃァ俺はじき近所の者だが、あんまりここの家へ来たことがねえんで、長屋の者は全然顔を知らねえ、いずれ月番《つきばん》が長屋にあるだろうが、今月の月番のところへちょっとそういってくんねえ」
屑「ヘエ、たしか角《かど》の家あたりが、今月の月番のようでございます、じゃァこのことを申しましょう……」
○「オイちょっと待ちな、気が早《はえ》えな、おまえだってマアいい得意場《とくいば》だ、そこに不幸があって手伝ってるのに、鉄砲笊《てっぽうざる》と秤《はかり》をぶらさげて行くのはおかしいじゃァねえか」
屑「さようでございますか」
○「そこへおいて行きねえ、商売道具だ、おいて行きねえ、月番のところへ行ったら、こういってくんな、ただこのことばかりいってはいかねえから、お長屋には祝儀不祝儀《しゅうぎぶしゅうぎ》のお交際《つきあい》がありましょうから、香典《こうでん》はなるたけ早く集めてもらいたい、それに、なにか買ってなんぞよこされてはかえって困るから、正金《しょうきん》でもれえてえってな」
屑「ヘエ、ずいぶん無遠慮な話でございますな」
○「無遠慮だって、たのまれて行くんだ、おまえは身内じゃァなし、親類じゃァなし、他人のことというものは言いにくいことでもいえるもんだなァ、そういってくんねえ」
屑「ヘエ、じゃァその通り申しましょう、へえ行ってまいります、……ええこんにちは」
△「なんだい」
屑「こちらはたしかお月番でございますな」
△「ああ俺のところが月番だよ……なんだおまえ屑屋じゃァねえか」
屑「へえ、いつもまいります屑屋でございますが、今日は屑屋ではございません」
△「ハア、商売|換《が》えかえ」
屑「イエ商売換えというわけではございませんが、このお長屋の駱駝さんがね、昨夜お亡くなんなさいました」
△「ハアあいつが……いい塩梅《あんばい》だ」
屑「ヘーエ、いい塩梅、……ついてはあの方の兄弟分とかなんとかいう人が一人来ております、ずいぶん怖い顔をした男でございます」
△「それがどうしたんだ」
屑「その方のいうには、月番のところへ行って、お長屋には祝儀不祝儀とか交際《つきあい》とかいうものがあるだろうから、香典をなるたけ早く集めてよこしてもらいたいとこういうんで、それでなまじなにか買ってよこされると困るから、正金でどうかもらいたいとこういっておりました」
△「フーム、それは長屋の交際はあるさ、あるけれども、今まであの人はいつでも、祝儀だろうが不祝儀だろうが、出したことがねえ、二貫ぐらいかかるといって行くと、そうかと言ったぎり出さない、二度目に取りに行くといずれやるよという、といって先方へ届けねえわけにはいかねえから、月番が立てかえて三度目に取りに行くと、うるせえってんで、殴られそうになるから、相手になるのもばかばかしいと思って、それッきりにしてしまう、そういうことが度々なんで、今じゃァ長屋中あの人とつきあわねえようになってるんだ、それを自分のほうで死んだから香典を集めろというなァ無理だろう」
屑「なるほど、それは無理ですなァ、いかにもごもっともで、けれどもアノ兄弟分という人が、怖い顔をしていますから、無理でもございましょうが、どうぞそこを……」
△「もっともだ、あの男が死ねばマア喜ぶ人ばかりだ、長屋中、このくらいめでたいことはないから、赤い飯を炊くかわりとして、いくらか出してくれろとわけを話したら、ちっとァ集まるだろう、おめえ帰ったらこういってくんねえ、なにしろ貧乏長屋でございますから、いくらも集まるまいけれども、さっそく集めてあげますと、こういっておきゃァ少し持って行ってもすまァ」
屑「ええそうでございますとも、そのご返辞をうかがえば、てめえも使いにきた甲斐《かい》がございます、じゃァどうぞなにぶん願います、……へえ、行ってまいりました」
○「ご苦労ご苦労、どうした」
屑「ええ貧乏長屋のことで、いくらも集まりますまいが、さっそく集めてあげるとこう申しました」
○「そうか、こっちだってただもらうわけじゃァねえ、長屋の交際《つきあい》なら当然だ、しかし大きにご苦労だった、そこで、もう一つたのまれてくれ」
屑「へえ、今朝まだ商売に出たばかりでございますがな、なにしろ一人稼ぎで、六人暮らしなんで、婆さんに女房に、子供が三人ございます、一日休むと明日釜のふたがあかないというわけで、どうかお暇をいただきます」
○「そんなことをいうな、いわば得意に不幸があれば、出入りの商人が来て働くくらいのことは仕方がねえ、家主のところへ一つ行ってくれ」
屑「ヘエ、じゃァ行ってまいります」
○「オイただ行くんじゃァねえや、マア駱駝の死んだことをいうのはきまってるが、おまえがいうんじゃァねえから、遠慮するな、俺がいうんだから、……今夜お通夜のまねごとをいたしますが、お忙しい中をおいでには及びません、ついては長屋の方がきても、ご承知の通り、貧乏でなにぶん酒を買うこともできませんから昔から家主《おおや》といえば親も同然、店子《たなこ》といえば子も同様ということをよくいう通り、親子同様の間柄ゆえ遠慮なく申し上げますが、いわば子供たちに食わせるんで、他人がはいるわけではない、長屋の方ばかりだからどうか酒を三升、あまり悪い酒は、頭へのぼるからちょっと飲める酒をよこしてもらいたい、肴《さかな》はいうまでもない、芋《いも》に蓮《はす》にはんぺんぐらいのところでいいから、少し塩をからめに煮て大きな丼《どんぶり》か、大皿へ入れてよこしてくれるようにそう言ってきてくれ」
屑「困りましたな、先方でくれるかくれないかわかりませんな」
○「くれるかくれねえかって、なにもおまえが家主の肩を持たねえでもいい」
屑「家主の肩を持つわけではありませんがな、駱駝さんのことだから、店賃《たなちん》がちゃんちゃんと入ってまいと思うんで……」
○「そんなことをいうにゃァ及ばねえ、もしくれねえといったらこういえ、俺がいった通りにいえよ」
屑「ヘエ」
○「かねてご存じでもございましょうが、身内も親類もなにもない、じつに死骸のやり場に困っております、家主さんでもかまうことができないとおっしゃるなら、どうにもしようがないから、こちらへ死骸をしょってまいりますから、どうかいいように処置をつけてくれろ、しょって来るついでだから、死人にカンカンノウを踊らせると、そういってやれ」
屑「ヘエー、じゃァ行ってまいります、……大変なことになるもんだな、鉄砲|笊《ざる》をあすこへ召し上げられなければ、逃げてしまうが、商売道具を取りあげられてしまったからしようがねえ、また先方じゃそれへ気がついたから、取りあげたんだ、なにしろえらいところへ出っくわしちまった、……エー家主さんこんにちは」
家「おう屑屋さんかえ、なんだね、大変にぴょこぴょこおじぎをして入ってきたが、まだ一昨日だった、おまえにやったのは、そんなに早く溜《た》まらねえが、どうしたんだ」
屑「ヘエ、今日はほかのことでまいりましたんで、じつはお長屋の駱駝さんが昨晩亡くなりました」
家「ハア、それはいい塩梅だね、たしかに死んだのかえ」
屑「へえ、フグを食べてそれにあたってなんでございます」
家「ハア、それじゃァたいがい大丈夫だな、それをおまえが見つけて知らしてきたのかえ」
屑「いえ、兄弟分だってえ人が一人おりますんで、ずいぶんいやな人でございます、駱駝さんよりもう少し目つきの悪い男で……」
家「フーム」
屑「それでどうも私は困りました」
家「なにが困る」
屑「その、今夜お通夜のまねごとをいたしますが、お忙しい中でございますから、おいでには及びませんとこう申します」
家「誰が行く奴があるものか、くだらねえことをいってやがる、そんな念には及ばねえとそういってくんな」
屑「ヘエ、それがその、……もっとも世間でそういいますな」
家「なにを」
屑「家主といえば親も同然、店子といえば子も同様ということを……」
家「それがどうしたんだ」
屑「長屋の方がきても貧乏だから、酒を一口あげることもできないと、こういうんで、親子同然の間柄だから遠慮なく申し上げますが、酒を三升ばかりよこしてもらいたい、悪い酒では頭へ上がっていかねえ、こりゃァ私がいうんじゃァございません、その人がいうんですよ、悪い酒でもいいようなものだけれど、どうも悪いのは頭に上がっていかねえから、ちょっと飲める酒を三升ばかりよこしてもらいたいというんで、それからたいがい言わないでもわかってるけれども、芋にはんぺん、蓮《はす》のような物を、なるたけ塩をからめに煮て、丼か大皿へ入れてよこしてもらいたいというんで」
家「誰がそんなことをいうんだ」
屑「それだから、私がいうんじゃァないんで、その兄弟分とかいう人がいばってそういってるんで、どうも困ったものでございます」
家「ウム、俺がそういったと、よくいってくれ、熱を吐《は》くな、人を甘くみやがって、なにをいってやがる、あの野郎が越してきてから二十何ヶ月というもの、店賃を一つも入れねえでしようがねえんだ、しっかりした請人《うけにん》はなし、もっともぶち毀《こわ》れた長屋じゃァあるけれど、……催促《さいそく》に行けば明日あげますの、いずれあげますのといやァがって、何度も行けばしまいには腹ァたって、この間なんざァ薪《まき》を持って追いかけやがった、俺はおどろいて逃げ出したくらいで、手がつけられねえ、店立《たなだ》てを食わせようと思って人をもって掛け合いにやれば、移転料をいくらよこせと大げさのことをいやがる、死んでしまえばそれがやっかい免《のが》れ、二十いくつという家賃それを残らず棒を引いて香典がわりにやるとして、酒などは一滴もやらねえ、そんなら立派な香典だろう」
屑「ごもっともでございます、が、それでどうも私が困ってしまいます」
家「なにが困る」
屑「ごもっともでございますがね、私がいうんじゃァないんですよ、先方の人がそういうんですからねえ」
家「なにをそういうんだ、言いねえ、なにが困るんだか、なんでも遠慮なくいいな」
屑「へえ、もしくれるの、くれねえのといったら、……こういうことをいってるからなにをするかわかりませんよ」
家「なにをいってるんだ」
屑「くれるのくれないのといやァ、この仏は身内も親類もなにもないんで、じつは死骸のやり場に困ってるんだから、死骸をこちらへ背負《せお》ってくるから、いいように処置をつけてくれろとこういうんで、そのほかにもまだいいました」
家「なにをいった」
屑「へえ、なんだか妙なことをいってました、来たついでだから、その死人にカンカンノウを踊らせると、こういうんでございます」
家「フーム、その野郎がいうのかえ」
屑「ヘエ、私じゃァございません、その人がいうんで」
家「よしッ、……帰って俺がいった通りいえよ、甘くみるなと、そういってくれ、そんなこけおどしに驚くんじゃァねえ、この界隈でも少しいやがられてる家主だ、見そこなうなとそういえ、ばかにしやがって、この年になるまで死人のカンカンノウを見たことがねえ、今日は朝から用がなくって退屈だから、死人のカンカンノウを見てえもんだ、連れてきて踊らせてもらいてえもんだって、喜んでたとそういえ」
屑「さようでございますか、……ああどうも、昨夜夢見が悪かったが、今日は休んでしまえばよかった、やっぱりこんなことになる前兆《ぜんちょう》だったんだな、……ヘエ行ってまいりました」
○「どうした、ぼんやりしてやがる、なんといった」
屑「ヘエ、先方でいうのも無理はないんで、あまり死んだ人を悪くいってはすみませんが、駱駝さんが悪いんでございます」
○「どうした」
屑「家賃がね、二十いくつとか、たまってるんだそうで、ずいぶんたまりました」
○「そうだろうって、そんなことはどうでもいいやな」
屑「どうでもよかァないんで、二十いくつという家賃は大変なものだ、それを棒をひいて香典がわりにやるとして、酒なんぞ一滴もやれねえとこういいます」
○「死骸を担ぎ込むといったか」
屑「それもいいましたところが、そんなことはおどろかねえ、この界隈でも人にいやがられている家主だ、そんなこけおどかしを聞くんじゃァねえ、甘くみるなっていろいろなことをいいました、この年になるけれども、まだ死人がカンカンノウを踊るのを見たことがねえって、これは誰も見やァしますまい、今朝から退屈しているから、連れてきて踊らしてみせてくれッて、喜んでたとそういえと、どうも恐ろしい権幕《けんまく》でございますから、私はおどろいてさようならと帰ってきましたが、どうもなかなか強い家主さんで少しもおどろきません」
○「それじゃァなにか、おどろかねえで、死人を踊らしてもらいてえというんだな」
屑「へえさようで、ちっともおどろかないでそういってるんです」
○「ウム、そっちを向きねえ」
屑「ヘエ」
○「そっちを向きねえよ」
屑「なにをなすんのかわかりませんが、こうですか……あッこれは、……これはいけない」
○「マア待ちねえ、……死人を背負《せお》ってきて踊らしてくれろというなら望み通り……」
屑「望み通りたって、こんなものを背負わされてはたまらない、どうぞこれだけは勘弁しておくんなさい」
○「ぐずぐずいうな、サア先へ立て」
屑「ワアッ、どうもおどろきましたな、なんだかどうも背中が変な心持ちで、噛《か》みつきゃァしませんか」
○「ばかァいえ、死んだものが噛みつくもんか、意気地のねえことをいうな、……サア着いた、中へはいって竃《へっつい》のところへ死人を立てかけろ、ソラいいか、俺が死人を踊らせるから、その奥の障子を開けろ、そうしててめえ手拍子でカンカンノウを謡《うた》え」
屑「どうも私には謡えませんな」
○「謡えねえ奴があるものか、子供だってやるじゃァねえか、サア謡わねえと殴り倒すぞ」
屑「謡いますよ謡いますよ……、カンカンノウ……」
のんきな奴があるもので、死骸を座敷へ担ぎ込んで、片方が手拍子を打ってカンカンノウを謡うにつれて踊らせる、家主はおどろいて
家「やァ婆さん大変だ、本当に死骸をしょってきて踊らせてる、……もうたくさんだ、どうか勘弁してくれ私が悪かった、酒も煮しめも持たせてあげる、どうか持って帰ってもらいたい」
とさすがの家主も青くなった、それから引き返してくると
○「ああご苦労だったご苦労だった、そこで、もう一つ用がある」
屑「もうこのくらいでたいがいにしておくんなさいな、商売がなければいつまででもかまいませんが、なにしろ稼業《しょうばい》に出たばかりで、年寄りも心配してますし、さっきもいう通り六人暮らしで、一日休むと明日の釜のふたが明かないんで……」
○「いやなことをいうない、どうせ今までいたんだ、おもての八百屋へ行ってきてくれ」
屑「ヘエー、香物《こうこう》を買ってきますか」
○「香物を買うんじゃァねえ、おまえ八百屋の親方を知ってるならちょうどいい、このことを話してまことにお気の毒だが、早桶がわりにするんでございますから、四斗樽の古いやつを一つおくんなさいといって、もしくんねえといったら」
屑「カンカンノウですか」
○「カンカンノウじゃァねえ、貸しておくんなさい、明きましたらすぐお返し申しますといえ」
屑「へえ、それじゃァ行ってまいります……エー八百屋の親方こんにちは」
八百屋「なんだえ、おお屑屋さんか」
屑「へえ、アノ昨夜裏の駱駝さんが死にましたんで」
八「ヘエー、死んだか、いい塩梅だ、それをおまえ知らせてきたのか」
屑「そういうわけじゃァないんですが、あの人の兄弟分だという男がきていて、貧乏で早桶を買うことができない、八百屋にはいくらも四斗樽があるから、古い四斗樽を一本もらってきてくれとたのまれてきたんですが……」
八「そりゃァある、あるが、いらねえものを邪魔ッけにこうして置きやァしねえ、みんな商売に使うんだ」
屑「そうでもございましょうが、古いのでようございますから、一つおくんなさい」
八「いけないよ、商売道具なんだから」
屑「それはわかってますがね、もしくれることができなければ、借りてこい、明けたら返すというんですがね、どうも死人《しびと》を入れた物をまた使うわけにはいきません、それは無理な話だが、カンカンノウさえご承知なら……」
八「なんだえわからねえな、カンカンノウというのは」
屑「それはその死人をおぶってきて、カンカンノウを踊らせるんで」
八「死人がカンカンノウを踊るかえ、それは観物《みもの》だ、おもしろかろう」
屑「おもしろかァありませんよ、今一つ踊らしたばかり、そうたびたびお座敷があっちゃァかなわない」
八「なんだいお座敷って……」
屑「じつは今、家主のところへ酒肴《さけさかな》をくれといってったところが断られたので、死人を私がしょわせられて、家主さんのところへ持ち込んだばかりだから、おもしろいなんていおうもんなら、死人をここへ担ぎ込まれますよ」
八「それは大変だ、どうもしようがねえなァ、じゃァなるたけ古いやつを一つ持っていきねえ」
屑「ヘエありがとうございます、それから親方、ついでに物置にある荒縄《あらなわ》を少しくださいな」
八「ああいい、あとを閉めて行ってくんなよ……」
屑「へえ行ってまいりました」
○「ヤアご苦労ご苦労、よこしたか」
屑「ヘエ、もういよいよしようがないから、奥の手を出して、カンカンノウで脅かしたら、先方《むこう》でも胆《きも》をつぶしてくれました、それから物置にある荒縄をついでにもらってきました」
○「それは気が利いてるな、さすがは江戸ッ子だ、この樽へ死骸を納めて、縄を十文字にかけりゃァ真物《ほんもの》だ、しかしマアおまえの骨折りが現れて、家主から婆さんが、まことにさきほどは失礼いたしました、といって酒肴を持ってきたから、燗《かん》をして飲んでみて、悪い酒ならたたッ返《けえ》してやろうと思ったら、ちょっと口当たりの良い酒だ、たいして良くもねえが、マアこのくらいなら勘弁してやらァ、それから煮しめも、あの通り丼へ一ぱい持ってきた、それに長屋から月番だという年をとった男がきて、まことにお恥ずかしいがといって香典を正金で持ってきてくれた、おめえの骨折りがスッカリ現れて、仏もさぞ喜ぶだろう、これでおめえは用なしだ」
屑「ありがとう存じます、そんなら私はこれでお暇をいただきます」
○「マア待ちねえってことよ、おめえもこれから商売にかかるんだろう」
屑「ヘエ」
○「なんの商売だって縁起《えんぎ》というものがある、死人をしょったりなにかしたんだから、身体を清めるために大きなもので一杯やっていきねえ」
屑「へえ、ありがとうございますが、またのちほど出直して……」
○「出直すもなにもねえ、このままおめえを帰《けえ》しちゃァ、俺ァ心持ちが悪いや、気は心だ、ちょっと一杯ぐらいいいじゃァねえか、なにもたくさん飲めというんじゃァねえ、ぐうッと一杯あおっていきねえ、縁起だ、清めるんだな」
屑「ヘエ、ツイお酒が好きだもんですから、飲むと商売もおろそかになって……」
○「いちいちそんなことをいうない、酔うほど飲ませようとはいわねえ、一つ飲んで身体を清めてそれから、スッと稼業《しょうべえ》に歩きゃァいいじゃァねえか」
屑「それが私は一杯飲んでも二杯飲んでも、すぐ酔うんで困ります」
○「酔ったら酔ったでいいじゃァねえか、好きなものが酒に酔ったって、身体にさわるということもなかろう、それとも飲まねえかい、たって飲まなけりゃァ、俺のほうでも飲むようにして飲ませるよ」
屑「怒っちゃァ困ります、それは私は好きでございますから、いただくなァけっこうですが、なにしろ年寄りが心配するもんでございますからな、ヘエ、どうも困りましたな、それじゃァ一つ、ヘエどうもお酌《しゃく》を願ってはすみません、オットット、どうもこんな物で、……どうもこれはなかなか良い酒で、お酌を願ってはすみません、オットット」
○「あんなケチな家主だけれども、よほどおどろいたものとみえて……」
屑「もっともたいがいおどろきますよ、どんな人でもおどろかないものはありませんよ」
○「サアこの煮しめを食いな、ヨウ」
屑「じゃァちょうだいいたします、……これで私はお暇をいたします、おおきにご馳走さま」
○「オイオイ飯だって一膳飯《いちぜんめし》というなァねえや、これでお暇なんて、マア急ぎなさんな、まだそんなに遅かァねえ、一杯ぎりというなァ心持ちが悪いや、もう一杯こころよく飲んでいきねえ、……飲みねえよ飲みねえ」
屑「怒っちゃァいけませんよ親方、じゃァもう一杯、どうぞ勘弁してください、私はこんな大きな物でたくさんは飲《い》けねえんですから、……オットット、ございますございます、ヘエどうも空腹《すきっぱら》へグーッとしみて、ひどく利きました、今日はまだこれで荷がありませんが、いつもこちらへ上がる時分には、荷が重くなるほどでなくってもずいぶん腹が減ります、……イエ、もうお肴はいただいたも同様で、これはまたお長屋の方でもおいでの時に、なんでございますから、イエもう私はお酒だけでたくさんでございます、どうか、もうこれでごめんをこうむります」
○「オイ待ちなってえことよ、俺も飲んでるじゃァねえか、酒飲みてえ奴は、そうソワソワして飲むもんじゃァねえ、せっかくうめえ酒がまずくなっちまう、もう一杯飲んでってくれ、よう、心持ちよくもう一杯飲んでゆけよ、もう一杯、……やさしくいってるうちに飲みねえよ、エーオイ」
屑「怒っちゃァいけません親方、じゃァどうかもうこれで、……どうぞもうこれッきり、どうぞご勘弁を、年寄りが心配しますから、一日休むと家内中の頤《あご》が飢えるんで……」
○「また始めやがった、そんなになにも急がねえたっていいや、なにもたくさん飲めといやァしねえサア、もう一つ……」
屑「どうも困りましたな、それじゃァどうかこれで、……ああ良い酒だ、どうもスッカリいい心持ちになっちまった、どうも親方は勧め上手だもんだから、エヘヘけれども親方はどうも失礼ながらえらい方だ、私は先刻《さっき》から本当にそう思ってるんだ、ねえ、えらいやなかなか……有る中で人の世話をするのは誰でもできるが、ねえ、無くってするのがマア本当の世話だろうと思うんだ、えらいや本当に、私ァ先刻からそう思ってるんだ、けれども人の世話はしたいねえ、私ァこれで貧乏はしているけれども、人のことというとからきし夢中だ、銭もねえくせに、よせばいいにと、いつでも婆ァに小言をいわれるんだけれども、私ァ見ていられねえんだ、しかしその世話てえやつがなかなかできるもんじゃァねえや、ねえ、それが証拠には山ほど金を積んであったって高見の見物で、世話をしねえ奴はしねえじゃァございませんか、アハハハハ、おもしれえや本当に、けれども人の世話はしておきなさい、ねえ、できるこっちゃァありませんや、つまり人のことをするんじゃァねえ、みんな自分のことをするんだ、アハハ、おかしなものだ、みんな自分に報《むく》ってくるんだ、オイそっちの大きいんでおくんなさいな〔この間に屑屋は数杯重ねて酔いがまわる〕」
○「ウーム、大変になんじゃァねえか、マアこのくらいのところで一つ、マアおめでたくお納めということにしなけりゃァ、ねえ、俺もまだ用があるしするからなんだ……」
屑「冗談いっちゃァいけねえ、いいじゃァねえか、それでおくんなさいな、なにももともと私が死人をおぶったりなにか骨を折ったんじゃァねえか、それでくんなよ、さァつがねえか」
○「だがね、稼業さえ終《しま》ってなら俺のほうでも心配はねえが、なにしろ商売を休んじゃったら年寄りも心配するだろうし、明日の朝釜のふたの明かねえようなことになると……」
屑「冗談いっちゃァいかねえ、そうみくびってもらいたくねえや、俺たちは貧乏はしているが、なにも一日や二日、雨降風間《あめふりかざま》病気その他もある、ナア一日や二日で、おふくろ初め女房《にょうぼう》子が飢え死んでしまう気遣いはねえんだ、ばかにするない、ついでくれついでくれ、つがねえかい」
○「じゃァマア一杯ぐらい」
屑「そんなケチなことをいいなさんな、酒屋へ行きやァいくらだって酒はあるんだ、俺ァもう帰《けえ》らねえよ、ネエオイ兄弟、このままサヨウナラで外へ出たところが、商売が手につかねえ、こうやって死骸をここへ置いていくなァ心持ちが悪いじゃァねえか、ちゃんと納めるものは納めて、せめて花の一本や線香の一つぐらい上げて、することだけはしようじゃァねえか」
○「ウム、じつは俺もこんなことは馴《な》れねえんで持てあましているんだ、じゃァ、片手貸してくれるか」
屑「冗談いいなさんな、片手もなにもねえじゃァねえか、なにしろ納めるものは納めちまわねえじゃァいけねえ、俺ァこんなことは馴れてるんだ、自慢じゃァねえが、いくらだってこんなことはわけねえや、生温《なまあった》かい湯はねえか、無え、そうだろうな、じゃァ水でもいいや、湯灌《ゆかん》のかわりに身体を拭いてやって髪の毛も大変に伸びてるな、どうせこれ極楽へ行ける仏さまじゃァねえ、地獄堕ちだろうけれどもせめて頭だけぐりぐりと円めてやろうじゃァねえか」
○「それがいけねえんだ、なけなしの銭で髪結いを呼んできたって、やすくは剃《す》ってくれめえ」
屑「冗談いっちゃァいかねえ、今時そんなことをいう奴があるものか、俺ァ家の子供はみんな自分で剃ってやるんだ、なんのわけなしだ、俺がちょっと剃っちまおう」
○「剃っちまうって、庖丁さえ満足なのがねえくらいだ、剃刀《かみそり》もなにもあるものか」
屑「そりゃァ家にはねえ、ここの家にねえったって長屋にあらァ、こっちがわの二軒目の家に女が二三人いる、女のいるところには剃刀はきっとある、二|挺《ちょう》ぐらいあるにちげえねえから、一挺貸してくれって借りてきねえ」
○「借りてこいったって、長屋の者が俺の顔を知らねえから……」
屑「だから駱駝のところからまいりましたが、じきにお返し申しますから、剃刀を一挺お貸しなすってといいねえな」
○「困るなァ、俺の面《つら》を知らねえから、先方で貸すか貸さねえか」
屑「冗談いっちゃァいかねえ、貸すも貸さねえもあるものか、なにをいってやがるんだ、貸すの貸さねえのと吐《ぬか》しやァがったら死人をしょって来てカンカンノウを踊らせると、そう言いねえ。ぐずぐずいわねえで早くしねえ、俺はそのあいだ身体を拭いてやるから……」
駱駝の兄弟分は煙《けむ》に巻かれて家を飛び出し、どこか長屋で剃刀を借りてまいりました、どうも乱暴で、酔った勢いでゴリゴリ剃り始めた、もっとも痛いもかゆいもございません、どうにか頭を円めてしまって、これを四斗樽の中へ二人で押し込んで、着ていた着物を上へふっかぶせて荒縄で引っからげたが、サア寺がどこだかわからない。
○「こいつァ困ったなァ、馬の寺はどこだか、ツイ聞いておかなかったが、俺の寺へもまるっきり無沙汰《ぶさた》をしているから担ぎ込むわけにもいかず、しようがねえな、屑屋さん、どこかあるめえか」
屑「そうさねえ、俺ンところでもまだ当地にきまった寺はねえが、少し遠方だけれども落合《おちあい》の火葬場に俺の友達の安公《やすこう》てえ奴がいる、いつか遊びにいった割り前の勘定を俺が立て替えてあるんだ、そいつをまけてやるから、これを一つ内証でどうか火屋《ひや》のついでに、どうでもかまわねえ、ぼうっと一つ焼いてくれろといったら友達ずくだ、承知するだろう」
○「そういきゃァありがてえ、すぐに担いでいってしまやァ造作《ぞうさ》もねえが、ただ困るなァ骨《こつ》あげだ」
屑「骨あげたって、田の隅かなにかへおっぽり込んでくれといやァ、先方でどうにかしてくれらァ」
○「そんならなお安直《あんちょく》だ」
屑「そうことがきまったら、もう酒がねえようだ、長屋からきた香典で酒を買っちまいねえ」
○「よし、そうしよう」
とそれから二人でありッたけの銭で酒を買って屑屋さんスッカリ酔っちまい、余った酒は樽を棺のわきへ結びつけて、途中飲み飲み行こうという、まるでお花見にでも行く了簡《りょうけん》。
○「サア出かけよう、だが担ぐものがねえ」
屑「いいや俺の天秤《てんびん》があるから、これで担いでゆこう」
○「そうかそいつァありがてえ、そこで途中日が暮れると提灯《ちょうちん》がねえな」
屑「提灯はいらねえ、俺が道案内をよく知ってるから、じゃァ俺が先棒《さきぼう》だよ、いいかい、右だよ」
○「右……右はいかねえ、俺は左利きだ」
屑「やっかいな奴だな、サアいいか」
○「よし」
屑「今のところはたいして重くねえが、だんだん草臥《くたび》れると重くなる、しかしいい心持ちだ、人のことをするてえものはまた別段のもんだ、ソレ、ヨッショ、ヨッショヨッショヨッショ、コリャコリャ」
○「オイ屑屋さん、黙って歩きねえよ、なんぼなんだって葬式《とむれえ》にコリャコリャという奴もねえもんじゃァねえか」
屑「景気がいいやな」
○「葬式に景気はいらねえ」
屑「そうでねえ、なんでも当時は景気をつける世の中だ、それ、お葬式だお葬式だ、サアお葬式だ」
○「なにも断らねえでもいい」
屑「そうでねえ、黙って歩いてると、沢庵《たくあん》だかなんだかわからねえ、葬式だといわねえと葬式らしくねえから」
○「なんだい往来の人が笑ってらァ」
屑「なにを笑やァがるんだ、葬式をたたきつけるぞ、……アハハ、おどろいて逃げやがった、ああ、そろそろ暗くなった、ここを姿見《すがたみ》の橋という、この橋を渡れば高田馬場《たかだのばば》、道は悪いがいわば一本道、曲がったりくねったり、たんぼだと思えば畑、畑だと思えばたんぼといやな道だ、するとまた小さい土橋《どばし》がある、その土橋を渡って突き当たり、左へ行けば新井《あらい》の薬師、右へ行けば火葬場だ、暗くなればなったように、セッセと歩いてもらいたい、もう少しだ、しかしせっかく行って安公がいねえと大変だ、どうかいてくれればいい、アッいかねえや、穴があった」
○「危ねえなァ、どうかしたか」
屑「どうもしねえが、こんなところへなんだって穴をあけておきやァがるんだ、アアこりゃァ水が出たんで土が流れ込んだんだ、どうも肩が片っぽうじゃァいかねえ、少しかえてくれ、おまえはやっぱり左か、俺は右だ少しぐらい調子が狂ったっていいや、片っぽうじゃァまいっちまう、サアいいか、……ソラちっと楽になった、ナニチョイチョイ肩を取りかえりゃァ、そんなに重かァねえんだけれども、……サアこっちへ曲がって、オオここでいいんだ、……オーイ安公やーい、安公ーッ」
安「オー誰だえ、久《きゅう》さんか」
屑「ウム久さんだ、安公一つやってくれ、この間の割り前は棒引きにするから、内証で一つ焼いてくれ、ナアおまえと俺との仲だ、そこンところはうまく一つ火屋《ひや》のついでにやってくれ」
安「なにしろそこじゃァいかねえ、こっちへ来ねえ、子供か」
屑「ウウン、大人、大人、大大人《おおおとな》だ……」
安「なにもねえじゃァねえか」
屑「ハテナ、あんなに重かったんだが、ああ底が抜けちまってなにもねえや」
○「ウムさっきズドンといった時に橋のところへ落っことしてしまったんだ」
屑「こりゃァいかねえ、早く行かねえと人にひろわれちまう」
○「誰もひろう奴はねえが、じゃァ見つけてこよう、それにしてもこの桶はもうだめだ、底が抜けてらァ」
屑「めんどくせえ、しょって来りゃァいいや、どうせいっぺんしょったんだ」
○「いっぺんしょったってもうよしねえ、仕方がねえ、底を縄で引っからげて押し込んでこよう」
再び、かの樽を担いで前の土橋のところまでまいりまして、
屑「なんでもこの辺だ、暗くってはっきりわからねえがこの辺に穴が明いてたんだ」
あっちこっち捜していると、この淀橋《よどばし》近傍には願人坊主《がんにんぼうず》〔乞食僧〕がたくさんいたもので、今日はご命日でもらいがあったので、じゅうぶん飲んだものとみえて前後も知らず、橋のそばでグウグウいい心持ちに寝ている。
屑「アアあったあったこれだ」
○「ウムこれだ、たしかにこれだ」
屑「サアいいか」
○「よし、俺のほうが頭だが、少し温《あった》かみがあるぜ」
屑「地息《ぢいき》で温まったんだろう」
○「いやにぶくぶくふとったぜ」
屑「夜露がかかってふくれたんだ」
なにしろのんきなものだ、この大きいのを早桶に入れようと思ったが、なかなかはいりません。
屑「はみ出してもかまわねえ、サアいいか」
○「いいよ」
屑「俺は先棒だぞ、オッ、こりゃァ腰が切れねえぞ、ソーラいいか」
○「恐ろしく重くなりやァがった」
屑「今度は道のりがみじけえから我慢しろ……」
樽の底へ十文字に縄をかけて、かの坊主を押し込んだが、大きいから身体がつかえて足だけ縄へ引っかかってぶらさがってるのをそのまま担いできた。
屑「サアここだ、安公やーい、あったあった、真っ暗なところに落っこってやがった」
安「こいつァ大きいな」
屑「夜露でだいぶふくれやがった」
安「じゃァすぐ焼いてやろう、もう薪《まき》は積んである」
屑「そいつァありがてえ、うまくやってくれ」
足のほうから火がかかると、もともと死んでいないのだからおどろきまして、
坊「あつあつ、あつあつあつ」
安「やァ跳《は》ね起きやがった」
○「熱い熱いといったぜ」
坊「ヤイ、なんだってこんなところへ入れやがったんだ、全体ここはどこだ」
安「なんだって、ここは日本一の火屋《ひや》だ」
坊「フフ、|ひや《ヽヽ》でもいいからもう一杯……」
[解説]三代目の小さんが、上方の桂文吾に教わってきた話で、これを東京風に直し、小さん第一の売り物にしていた。現在のしん生、可楽の両君は、上方のままにやっていられるが、五代目小さん君は三代目の直した通りにやっている。上方では「らくだ」の髪の毛を指にからんで引き抜き、毛の入った茶碗の酒を呑むところがあるのだが、三代目はこれを略して屑屋が兄弟分に「長屋の娘のいるところに行って剃刀を借りて来い、もし貸すの貸さないのといったら、仏を担いで行って、カンカンノウを踊らせるといえ」という風に直している。そうして多くの場合は、サゲまでやらずに、ここで高座を降りていたが、これでも立派なサゲになっている。すなわち逆さ落ちである。最後のサゲは火屋と冷やとの地口落ちだが、東京では焼き場といって火屋ということをいわないから、むしろ前の逆さ落ちのほうがよい。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
居候講釈《いそうろうこうしゃく》
―――――――――――――――――――
昔から、この居候と川柳《せんりゅう》は非常に仲が悪いとみえて、ずいぶんと居候の悪口がございます。
居候三バイ目には、そっと出し
居候置いてつまらず、いて合わず
居候しようことなしの子煩悩《こぼんのう》
居候|角《かく》な座敷を丸う掃き
箸紙《はしがみ》に様《さま》の付いたる居候
この箸紙に様の付いたる居候――これが一番、やっかいな居候で、ご大家《たいけ》の若旦那がしくじりまして家を放り出されたが、行くところがない。ウロウロしている途中で知人に遇《あ》い、マアマアと連れて帰ってもらって居候ということになった。こんな居候が先に申し上げた箸紙に様が付く居候で、朝はいちいち、起こさんならんという、三度三度臭い物はお膳へつけんならんという、いちばん困る居候で、
嬶「亭主《おまえ》さん、どうするのや」
亭主「なにを、どうせいというのや」
嬶「居《い》そはんやがなァ」
亭「居そはんて、だれや」
嬶「二階の居候やがなァ」
亭「居候なら、居候といえ、居そはんなんて――」
嬶「あなたの気に入りの居候やさかい、居候にはんを付けるのやがなァ」
亭「居候を、どうせいというのや」
嬶「いつまで置いとくのや」
亭「あほう――猫の子をもらうのとちがい、日限《にちげん》で置いとくあほうがあるかい」
嬶「イーヤ、置きなはんなとは言やへんわいなァ。置くのやったら、もっと、気のきいた居候を置いたらどうや」
亭「気のきいた奴なら、俺とこみたいな宅《うち》に辛抱《しんぼう》していやへんわい。気のきかん奴やさかい宅におるのじゃ」
嬶「マア――あなた、居候に贔屓《ひいき》をするのやなァ――わては、あんな居候に恩も義理もないのやさかいなァ」
亭「俺かて、あいつには、どうこうと世話になったことはないが、あいつの親に昔、やっかいになったことがあるさかい、その恩返しに置いたのや。そう、キャキャというない」
嬶「とうらい、あなた、居候が好きやなァ。せいぜい居候を置きや。居候を置いてや。明日からおもてへ看板をかけなはれな、居候養成所と――」
亭「やかましいわィ――」
嬶「言いとうなるやないかいなァ。――朝は昼のサイレンが鳴らな起きやがらへんし、それも下からほうきの柄《え》で突つかな起きやへんし、起きてきても、のらくらのらくらとしてなにもしやへんし、それにどこで買うてきやがったのか知らんが、時代おくれの紅《べに》いりの歯みがきを買うて、庭へチュチュと赤いツバを吐《は》きやがって、庭は石竹《せきちく》の花ざかりやがなァ」
亭「それもおまえが庭へ吐かんと、ドブへ吐いてやと言うたらええやないかい」
嬶「なんで、そんなに居候の贔屓をするのや、わてが忙しそうにバタバタしてるのに、バケツに水の一杯も汲《く》もかやれともせずに、鼻唄の一つも唄うておもてへ出よるのやがなァ」
亭「それもおまえが、汲んでんかと言うたらええやないかい」
嬶「なんでそない居候の肩を持つのや。あんた、自分の女房より居候のほうが大事なのかいなァ」
亭「そうヤイヤイというない。なに、なにを吐《ぬ》かすのじゃい、居候を置いたらどうしたのや。居候置いたさかいというて三度の飯を二遍にしたのやなし、三度の飯を三度食わしたら、それでええやないかい」
嬶「当たり前やないか、三度のご飯を二度にしられて、ジッとしてる奴があるか」
亭「ゴテゴテ、吐かすなァ、出て行け」
嬶「出て行かいでかい」
しゃべり出したら、女には男は勝てません。いうことにつまると、手が出てそばにあった鉄瓶《てつびん》を投げつける、鉄瓶は柱に当たって、そこらは湯だらけ、おかみさんは近所へスウと行ってしまいます。あとで亭主、腕を組んで独り言。
亭「死んだ親父が言うたぜ。嬶《かかあ》と仏壇とは、持ち急ぎをするなよう。気にいらんというてすぐに持ち替えるというわけにはいかんのやさかいと、なるほどなァ――えらい嬶を持ったなァ――また、二階の居候も居候やで、これだけ、下でヤイヤイ言うてるのにわからんのやろうか。嬶のいう通り、ほうきの柄で突つかな降りてきやへんのやさかいなァ〔ほうきの柄で天井を突く動作〕オイ――居そ、居候」
居候「ヤ――ちょっと、方角がちがいますぜ」
亭「なにがちがうのや」
居「毎朝、下からドンドンと突かれるので頭が痛いので、昨夜から枕を変えてますのや。今のところから三尺ほど、右へ触れてます」
亭「そんな気楽なことをいわずに、降りてこいや」
居「イヤ――今、起きようと思うてますのや〔鼻唄で〕アハ――フエン――エ――か」
亭「あくびか、唄か、それはなんやネ。マア――顔を洗うといで、アハ、オイオイ、歯みがきを使うたらツバはドブへ吐《は》いてや。庭は石竹の花ざかりやと嬶が怒ってよったさかいなァ」
居「時に|置き候《おきそうろう》」
亭「なんじゃい置き候――て」
居「私はいるさかい居候で、あなたは置いてるさかい置き候や、時に追々と時節も変わってきましたなァ」
亭「フン――おまえでも時節の変わったことがわかるのかい」
居「ヘイ――雷はたいてい、上で鳴るものですが、今朝は下で鳴ってましたなァ――」
亭「よう、そんなことをいうなァ――それなら朝からの喧嘩を知ってるのやろ、一言ぐらい挨拶に降りてきたらどうや」
居「気はつかんことはおまへんのや。けど、夫婦喧嘩は犬も食わんというさかい、マア、噛み合わしといたろ、どちらかが倒れよると思うて」
亭「そんなことをゆえたなァ、俺はどっちの贔屓もせんけど、嬶が忙《せわ》しかったら水の一杯も汲んでやったらどうや」
居「そらわかってますのや。私かて、汲みたいわいな、ちょっと、居そはん、水を一杯汲んでんかといわれたら、ヘイヘイよろしうおますと、二杯が三杯でも汲みますぜ。けど、あんたとこの嫁はん、そやないのや、水がないようになると、バケツと私の顔を見くらべますのや、柄杓《ひしゃく》を片手に水がないのやないのやと、どなりますのや。梅ケ枝《え》じゃあるまいし、バケツたたいたって水が出ますか。宅にむだ飯《めし》食って、ブラブラしてけつかる奴はあるけれども、水の一杯も汲もかやれともさらさんわ……と……これが雌の言葉ですやろか。そんなこと言われても水を汲みましょかと言えまへん。何なと吐《ぬ》かしてけつかれ、と、鼻唄を唄うて出る気になりましょうがなァ」
亭「なるほど、そう聞きゃァ――宅の嬶がようないわい」
居「サァ――宅の嬶がようない」
亭「どっちの嬶やわからへん。それもええけど日が暮れると嬶に三十銭ずつもらうて出ていくそうだが、あら、どこへ行くのや」
居「ヘイ――あら、講釈場《こうしゃくば》へ行きますのや」
亭「それやったらおまえ、下手《へた》やで。行ったら帰ってきて話をしてやってみい。嬶もおもしろうなってあくる日は嬶のほうから、居そはん、今晩も昨夜の続きを聞いてきて話をしとくなはれやと、嬶のほうから出すやないか」
居「そんなことぐらいは、あんたに教えてもらわいでも知ってますが、私は講釈を聞きに行かんので」
居「オイ、それやったらやめときや。銭を出して講釈場へ寝てくるなんてあほなことをしなや」
居「あほらしい。高い銭を出して寝るなんてそんなことをするかい」
亭「ほな、なにしに行くのや」
居「笑いに行きますのや」
亭「笑うのやったら、講釈なんかへ行かずに落語の席へ行き」
居「それはおかしいさかい、笑いますのや、私のはおもしろいさかい笑いますのや」
亭「ハァン、なにか、おかしいのとおもしろいのとちがうのか」
居「落語は聞いておかしいなァ――と笑いが出ますのや。おもしろいのは、あいつら、よう、こんなばかばかしいことを言うてよるなァと思うと、おもしろうてしようがない」
亭「おまえ、そらええ席へ行かんさかいやろ。大阪は今、講釈の席はないようになったけれど、マア――今でも大阪では旭堂南陵《きょくどうなんりょう》、氏原一山《うじはらいちざん》、楳林《ばいりん》なんぞというとこが大家《たいか》やなァ――」
居「あんなもん、講釈師やなんて、貝杓子《かいびゃくし》にも足らん」
亭「マア――東京では若手で神田白竜《かんだはくりゅう》、貞丈《ていじょう》、山陽《さんよう》、それから伯山《はくざん》、貞山《ていざん》、伯鶴《はっかく》、典山《てんざん》なんかが上手名人《じょうずめいじん》やと思うなァ」
居「あんなもの、私が雪隠《せっちん》へ行ったら、水をかけたり、手拭いを出したりする奴で」
貞「そういうと、少しぐらい、講釈をやるのか」
居「やるのか。コレ、頬げたが曲《いが》むで。私らの講釈はおまえさんらの俗物に聞かす講釈やないのや」
亭「俗物。俺も居候に俗物と言われたら本望じゃ。そしたら誰に聞かす講釈やないのや」
居「昔ならば、将軍さん、大名がた、今なら華族さまがたに聞いてもらう講釈や」
亭「そんならおまえ、居候せいでも、立派に講釈の先生で商売ができるやないか」
居「サア――彼らごとき愚物《ぐぶつ》と、同席して講釈を演《や》るのがいやでなァ――」
亭「そんなら、こうしようか。この町内は遊ぶところが遠い。旦那方やご隠居方が多い。横町の乾物屋が空き家になったるさかい、向こうを講釈の席にして旦那方に来てもらおう。それならおまえも居候で暮らさいでもええやないかい。とにかく、今晩、宅で演ってみい。これから、旦那方に来てもろうて手見《てみ》せしよう。して、おまえの講釈が旦那方の気に入ったら乾物屋を席にしよう。して、宅で今晩演るというても、前へなんぞ台がいるやろ」
居「当たり前やないかい。見台《けんだい》なしで演れるかい」
亭「そうポンポン言うない。ビールの空き箱でしんぼうしてくれ。して、前へやはり蝋燭《ろうそく》があるほうがええなあ――講釈場らしいでなァ。――なんぼ電灯があっても、前の燭台《しょくだい》に蝋燭がついたると、なんとのう情《じょう》が移って、大先生らしい見えるでなァ――」
居「なにを大先生に見える――吐かしたなァ――なに、当たり前やないかい。蝋燭がついたるのが時代遅れでも、そのほうがええやないかい」
亭「そやさかい、尋ねてるのや。それでは燭台二台置こう。して、横町の蝋燭屋で蝋燭を買《こ》うといで。ここに銅貨で三十銭あるさかい。して、おまえも今日から芸人になるのやさかい、腰を低う行かないかんで、ご面倒でおますけど、三十銭で蝋燭を二本、お売りなしとくなはれ、と、わかったなァ」
居「エィ――がなァ……」
亭「腰を低う行きゃ」
居「エイ――ワイ――」
と、出ていきよった居候、よほど、変わった奴で、横町へまわりますと、蝋燭屋の主人公、帳場格子《ちょうばごうし》のなかで帳合いをしておりますと、出てきよった居候、上がり口へ三十銭の銭をほうりつけよったのもので
主「アハ――びっくりした」
居「なにを……」
主「びっくりしました」
居「びっくりした。わずか三十銭ぐらいの銅貨銭《どうかせん》をここへほうったのよ……銭《ぜに》、三十銭でびっくりさらしてけつかる。鉄砲の音を聞いたら腰をぬかすで、大砲の音を聞いたら目をまわすやろなァ。食い物が悪いさかいに、わずかの音でびっくりさらすのや。青菜ばっかり食わんと、たまには肴《さかな》でも食え、カス」
主「ヘイヘイこら、なんでやすので」
居「銭やないかい、銭を知らんのかい、あほが」
主「ヘイヘイ、銭はわかってますのや、なにする銭だすのや」
居「なにする銭、おのれとこへ三十銭でも持ってこんならんという恩も義理もあるか。蝋燭屋へ銭を三十銭持ってきたら、蝋燭二本ときまったるなァ――ぼんやりせんと、蝋燭二本早よ出せ、ラッパ――」
主「あほらしいで、物が言えんわ、ヘエ――そんなら蝋燭二本――」
居「よし――」
主「アハ――モシ……こら銭が一銭、足りまへんわ」
居「足らな、ええやないかい」
主「イエ――多いのやないので一銭、不足してますので」
居「サア――不足してたらそれでええがなァ――」
主「ちがいます、多いのとちがいますぜ、足らんので」
居「こいつ執拗《ひつこい》な、足らなええというのに」
主「ヘイヘイ、いや、よろしやす。顔はわかってます、定《さだ》はんとこの居候はんだすなァ、お貸し申しておきます」
居「貸していらんわい」
主「いつでもよろしいさかい、おついでに持ってきておくなはれ」
居「ついでもないのや」
主「ヘイ――いつでもけっこうでやす」
居「いつでもないのや、一生ついでがないのや」
主「貸しとくというたら貸していらん。いつでもというと、いつでもがないとは、一体どうしたらよろしいので」
居「なに――どうしたらええ。下駄《げた》を預けやがったなァ。――この餓鬼《がき》、ぐずぐず吐かしたら頭を打ち割るぞこの餓鬼」
主「私も親の代から蝋燭屋していますが、銭が一銭足らんので頭を打ち割られたことがないので、割れるのなら、いっぺん割ってもらいましょう」
居「ヨシ、吐かしやがったなァ、この餓鬼」
と、いうが早いか下駄を片手にポンポンとこれを見た近所にいる子供があわてて、
子供「定はんのおっさん、おまえとこの居候なァ、横町の蝋燭屋のおっさんの頭を下駄でポンポンと殴ってよるで」
亭「また、喧嘩をしやがったな」
そのまま、駈けつけてきました蝋燭屋
亭「コレ待て、コレ居そ、待て」
居「けど、ばかにしやがって、恥をかかしやがって」
亭「サア――どんなことか知らんが、口で言うたらわかるがなァ。マア――待ちなされ、大将、どないしたのだす」
主「コレ、定はん、ヨウ、来とくなはった。おそらくあんたとこの居そはんぐらい、おそろしい、無茶な人は知りまへんワ。私が帳合いしていますと、ドスンと音がしました。すると、銅貨で三十銭のお銭《あし》を投げつけなした。アハ――びっくりしたというと、びっくりさらしたんか、三十銭でびっくりさらしたら、鉄砲の音を聞いたら腰をぬかすやろ。いつも、青菜ばっかり食いさらして、たまには、肴の一つも食いさらせカスと、まだそれもよろしい。銭を勘定すると一銭足りまへんのや。それで私が、一銭足りまへんなァというと、足らなええが、というてだした。多いのやおまへん。足りまへんのやというと、また足らなええやないかと、私もお顔を知ってますさかい、貸しておきますというと、貸していらん。おついでに持ってきてくれというと、一生ついでがないと、貸していらんワ、おついではないワとおっしゃると、どうしたら、よろしいのやと聞きますと、おのれ下駄を預けやがったなァ、ぐずぐず吐かすと頭を打ち割るワと言いなはる。私も銭は貸すワ、頭を打ち割るワといわれたので、割れるものやったら割ってみなはれというが早いか、下駄でポカポカときました。あんたの来るのがもう少し遅かったら、殺されてるかもわかりまへん」
亭「どうも、すまんことでした。マア――堪忍《かんにん》してやっとくなはれ。コレ、居そ。おまえが悪いやないか。銭が一銭足らんとおっしゃったら足りまへんか、足らなァ、ついでに持って上がりますというたらええやないか」
居「ほな、なにかい、銭が一銭でも足らんというたら、ついでに持ってくるというたらええのかい」
亭「そうや、そういうたらええのや」
居「ちがいないなァ、銭が一銭たらんというたら、ついでに持ってくるというたら、それで文句はないのやろ、オイ――」
亭「この男、俺にまで喧嘩を売る気やなァ、サアサア、ささ、早よ帰《い》のう帰のう。町内をたのんできて、旦那方は、みな、待っていやはるがなァ。……サアはいり。ソレ、みな、そろうてはるが、サア、仕度をしい」
△「オオ――これは――山田屋さんの、おはようございますなァ」
□「オオ――貴島屋《きじまや》さん、この町内は世話好きの人がいてくれるので、えらいけっこうで、なんじゃ、今度の講釈の先生は、我々の聞かしてもらえる先生じゃないそうなァ、昔なら将軍さんか、お大名、今なら華族さまがたがお聞きになる先生やそうな。――して、講釈が気に入ったら、町内の乾物屋のあとを町内で持ちよりで、講釈の席にしようとの相談で」
乙「イヤイヤ、遊ぶ場所のない町内、そんな物ぐらいは知れたもので。アハ――あら、ここの居候です。あんな、無茶な奴はごわせんで、夕方横町の蝋燭屋で喧嘩をさらして、それも聞くとおのれが銭を一銭足らずに持っていきやがって、足らんと言われたら、腹を立てやがって、蝋燭屋の主人の頭を下駄で殴りやがって、気の毒なは、蝋燭屋の主《あるじ》さんで、戸板《といた》に乗って医者へ行きましたが、多分、あかんやろと言うてました」
△「紋付きを着てなにをウロウロしていよるのやろ」
□「あほに蝋燭のしんを切らしますのやろ」
△「しんを切るのなら、前から切ったら、よかりそうなもんやのに、真ん中へ坐りやがって」
□「アハ……こら、私の思いちがいで、人寄せの間、あほに落語《はなし》を演《や》らしますのやろ」
△「アハ……さよか。ハ……。なるほど、コレコレ居そはん、おもしろい落語を演って聞かしてや」
居「なんだ――」〔にらむ〕
□「にらんでますぜ、こっちを。うっかり言いなはんなや。下駄で頭を割りよるさかい」
居「今晩、当家に集まった町内のガラクタども」
□「ガラクタ――人を焚《た》きつけみたいに言いよる」
居「この大先生の講釈を聞くに、座布団を敷いて、煙草盆《たばこぼん》を控ゆるなんぞは言語道断、これ、定吉《さだきち》、座布団と煙草盆を取り上げ」
□「フワ……座布団を取りなはれ、煙草盆をそっちへやりなはれ。また、下駄で頭を割られますぜ」
居「今晩の大先生の講釈を聞いたなれば、横丁の乾物屋のあとを借り受け、先生の講釈場をこしらえるか、こしらえぬか、性根《しょうね》をすえて返答に及べ」
△「アハ……私、もう帰《い》なしてもらいますわ。まるで、役所へきて叱られているような」
居「エヘン――さて、ここもと、うかがいますはいずくの浦々、谷々までおなじみふかき、義士銘々伝《ぎしめいめいでん》のお話。後席《こうせき》は桜田雪のあけぼの、前席《ぜんせき》、お人固めとしてうかがいまするは、難波戦記《なにわせんき》のお話。頃は慶長《けいちょう》十五年も相《あい》あらたまり元和《げんわ》元年五月七日の儀に候、大阪城中、千畳敷き、大御上段《だいごじょうだん》の間《ま》には、内大臣|秀頼《ひでより》公、おん左の座には御母公《ごぼごう》、淀君《よどぎみ》、介添えとして大野道犬《おおのどうけん》、修理主馬之介《しゅりしゅめのすけ》、軍師には真田左衛門尉幸村《さなださえもんのじょうゆきむら》、同名|伜《せがれ》大助、後藤又兵衛|基次《もとつぐ》、薄田隼人正兼助《すすきだはやとのしょうかねすけ》、長曽我部元親《ちょうそかべもとちか》、七手組番頭には伊藤|丹後守《たんごのかみ》、早速甲斐守《はやみかいのかみ》、木村|長門守重成《ながとのかみしげなり》、いずれも持ち口を固めたり。この時、辰《たつ》の一角より武者一騎現れたり。大手の門にツト立ち止まり、ヤアヤ遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ、われこそは、駿遠三《すんえんさん》にさる者ありといわれたる、徳川家康公の家臣にして、本多平八郎|忠勝《ただかつ》が一子、同名|忠友《ただとも》とは我がことなり。われと思わん者あらば、一騎打ちして功名手柄をあらわせと、かんらかんらと呼ばわったり、この時、城内より憎《にっく》き敵のふるまいかな、この者、逃がすな、討ち取れと、大手の門を八文字《はちもんじ》に打ち開き、真っ先に出で来たる武者一騎。その日の扮装《いでたち》見てみれば、燕尾服《えんびふく》にはシルクハット――柄長《えなが》のステッキを振りかざしたるは、これなん、軍縮全権委員長、若槻礼次郎《わかつきれいじろう》氏と見受けたり。続いて出でたるは紺絣《こんがすり》には小倉袴《こくらばかま》にブルドッグを引き連れたるは、これ西郷隆盛、またもやあらわれたるはブース女史、救世軍を二ヶ師団引き連れ、どっとばかりにせめ寄せたり。これを見たる敵方も、こざかしい敵のふるまい、味方の若武者討たすな加勢せよと、もみにもんでせめかける。中にも、この時、ひとしお目に立つは、手には数百の敵あるとも、これさえあればなんの恐れることあらんと、扇子《せんす》を得物と打ちてかかるは、これ落語家の桂春団治《かつらはるだんじ》、桂三木助《かつらみきすけ》、笑福亭枝鶴《しょうふくていしかく》なり。続いて出で来たるは、中村|雁治郎《がんじろう》、市村|羽左衛門《うざえもん》、阪東妻三郎《ばんどうつまさぶろう》、この時、池上《いけがみ》に、ただならぬ物音いたすゆえ、なにごとならんと、小手《こて》をかざして相みれば、怪物といわれたる、ツェッペリン飛行船、地下よりあらわれたり。それ、おのおの、油断すなと呼ばわる時、城内無線電信にて、玉造口《たまづくりぐち》、危うし、ただちに援兵《えんぺい》乞う旨情報あり。それ捨ておき難し、ただちに甘粕《あまかす》大尉を派遣せよと命《めい》くだる。軍師真田幸村は心得て候と桐野利秋《きりのとしあき》を呼び寄せ、ただ今、玉造口が心もとなし、貴殿、ただちに出張、加勢せられたし、玉造口に行くに、徒歩《かち》では時間を経るばかり、ここに五銭あり、この五銭にて市電に乗って行かれよ、五銭あれば片道乗れる。帰りはいさぎよく国家のために戦死せられよと下知《げち》なせば、心得て候と、勇みに勇む桐野利秋は……」
□「コレ、ちょっと、居そはん、待ち、なんじゃその講釈は。そら初めは難波戦記らしかったが、しまいには無茶苦茶じゃがなァ。それも五目講釈《ごもくこうしゃく》として聞いてりゃ、聞いてられんことはないが、なんじゃ、市電に片道五銭で乗って行けとかいうたなァ。なんぼ無茶な講釈でも市電の電車賃ぐらいは覚えときや、お子たちでも知っていなはるで、大阪の市電は片道六銭じゃおまえさんが言うたのは五銭、それでは一銭足らんで」
居「足らんとこは、ついでに持ってきます」
[解説]同じ勘当をされた若旦那でも「湯屋番」や「立つ浪」は、多少改心の色を現わして、奉公に行こうという殊勝《しゅしょう》の点があるが、この若旦那は「きめんさん」の若旦那と同じで質《たち》の悪い若旦那である。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
将棋の殿様
――――――――――――――――――
当今では華族さまのご公達《きんだち》が大道《だいどう》で、寿司や天ぷらの立ち食いをなさるというくらい、世の中が変わってまいりましたから、たいしたまちがいはございませんが、昔のお大名にはずいぶんおかしなお話がございました。もちろん生まれ立ちから多くのご家来にかしずかれ、なんのご苦労もなく、ボーッとして、お育ちになったから、下情《げじょう》のことをご存じなかった。ある殿様がお物見から市中のようすを見ていらしったが
殿「アアコレコレ藤太夫《とうだゆう》、町人というものはさてにあわれなものであるな」
藤「なんぞお目におとまりになりましたか」
殿「見ろ、職人どもが煙草を喫《の》んでいる」
藤「職人でも煙草を喫みます」
殿「喫むのはよいが、一ぷくの煙草を二人で喫んでいる」
火を貸しているのをごらんになったのでございます。今から考えるとばかばかしいようでございますが、これらはお大名の心意気で、そこにまた味わいがあります。つまり世間見ずだからずいぶん無理なことをいう。それをおおせごもっともと少しも反抗のできないのが君臣《くんしん》の礼としてありました。
ある時ご親戚へお客においでの節《せつ》、ご馳走に蕎麦《そば》が出ました。なにも蕎麦がうまいから差し上げようというのではございません。職人を庭前へ入れまして、蕎麦を打つところをごらんに入れるのが一つのご馳走でございます。殿様のことで、蕎麦というものは木にでもなっている物か、ところてんのようにニュウと突き出すもののように思《おぼ》し召していらっしゃる。それを蕎麦粉から打ちまして麺棒《めんぼう》で伸《の》して庖丁を入れて釜でゆであげて前へ出したからおどろきました。
なるほど蕎麦というものはこんなことをしてつくるものかと、感心をして、あれはなんというものだ、木鉢《きばち》でございますとか、これは麺棒と申しますとか、いろいろみな側で申しあげて、蕎麦の作り方をあらかたお覚えになり、お屋敷へお帰りになると、そこが大名でなんとかご自分で蕎麦をこしらえてみたくってなりません
殿「コレ金弥《きんや》金弥」
金「ハハッ」
殿「どうじゃ。みなの者は蕎麦は好きか」
金「ハッ、しばらく……近藤、吉田どうだえ、御前《ごぜん》がお尋ねだ。みな蕎麦が好きかとおっしゃるが、貴公はどうだ」
近「大好物」
金「お手前は」
吉「けっこう」
金「みな好きだな……エエ、恐れながら申し上げます。みな大好物にございます」
殿「好きか。しからば一同へ蕎麦をふるまいつかわす」
金「ハハッ、ありがたいことで。どうだえ、お蕎麦のおふるまいだ。更科《さらしな》か蘭麺《らんめん》か、さだめしけっこうな蕎麦屋へご注文になることだろう」
殿「コレコレ予《よ》が打ってつかわすぞ」
金「ヘエ――、御前がお蕎麦を……」
殿「ウム、製することは、もとからよく存じておる。控《ひか》えておれ……蕎麦粉を持ってまいれ」
鶴の一声、かねて内々《ないない》お申し付けになっていたものとみえて、すぐにお坊主衆が蕎麦粉をかますで担ぎ込んでまいりました。
殿「木鉢を持て」
大きな木鉢がまいります。
殿「水がいる。たくさんに水を入れて持ってまいれ」
荷担《にない》でもって御殿《ごてん》へ水を持ち込んできました。やがて御前は羽織をお脱ぎ遊ばし、たすき十字に綾どり、蕎麦粉を木鉢の中へ入れ、水を入れまして打ちます。これを見ているとわけがなさそうですが、やってみるとなかなかうまくはゆきません。まして分量がわからず、水が多すぎてボチャボチャするから、これではいかんというので蕎麦粉を足す。今度は蕎麦粉が多すぎて、また水を入れるという始末で、ままッ粉〔だま〕が出来放題、大きなかたまりと、小さなかたまりを山のように積み上げました。
殿「どうじゃ」
金「恐れ入りました」
殿「くたびれたな。さて、これからどういたしたっけの、オオそうじゃそうじゃ。これへ板を持て」
金「エエうかがいまするが、板と申しますると、どういう板でございます」
殿「わからん奴じゃな。手前たちは蕎麦をつくるのを見たことはないか、この蕎麦のかたまりを伸《の》す板じゃ。なにかあるじゃろう。アアコレコレ杉戸をはずしてこれへ直せ」
金「ハテ、お杉戸をはずしまするか、それはちとお手荒いかと心得ますが、楯板《たていた》では間に合いますまいか」
殿「なんでもよい、早ういたせ」
ソコで軍用に使う楯板を持ってきた。
殿「前へ直せ、アアそれでよろしい。まずこの上へのせて、それからじゃ。アアそうだこれをコロコロやるのじゃな。棒を持て棒を」
金「ハハ恐れながら棒と申しまするとどういう……」
殿「この蕎麦を、コロコロやる棒じゃ。なんでもよいから早く持て、六尺棒を持て、六尺棒を……」
麺棒ということを忘れました。六尺棒という仰せだから、さっそく足軽部屋から真っ黒によごれている六尺棒を取り寄せる。
殿「オーよしよし」
これでゴロゴロ伸す。それから庖丁を入れる。庖丁だって本当に入りません。お庭にお釜があって、これに湯が沸いている。その中へ蕎麦を入れて、ゆで上げるとズーッとお吸物膳《すいものぜん》が出る。うつわはもちろん立派でございます。
○「恐れ入ったな。どうもご器用なことで、御前が蕎麦をお打ちになるというのは」
△「イヤどうもおどろきました。これが本当の御膳蕎麦《ごぜんそば》だろう」
○「大きにさよう……イヤこれは蕎麦が固まっている。蕎麦粉ばかりで、つなぎがないようでござるな」
△「これこそまことの生蕎麦《きそば》でござろう。どうも、拙者蕎麦好きといっては類のないくらい、ちょうだいいたそう。恐れながら、申し上げます、お手作りのお蕎麦ありがたくちょうだいいたします」
殿「オオ遠慮いたさず、じゅうぶんに食べろ」
○「ありがとう存じます、いただきます」
箸を上げて、はさもうとすると、蕎麦が固まっていて、箸にかかりません。
○「これは困ったな、どうも……」
隣を見ると、蕎麦の中へグイと箸をつっこんでちぎっているから
○「なるほど、こうちぎって液汁《したじる》を付けるのかな……」
口へ入れると手あかのついた六尺棒でこしらえたお蕎麦でございますから、イヤに塩気がある。中には生ゆでのところがあって粉が出る。ヒョイと向こうを見ると殿様がピタリと見張っていらっしゃるから吐き出すわけにもゆかない。蕎麦のためにしくじってはなりませんから、一生懸命に食べ終わりまして
○「ありがたくちょうだいつかまつりました」
殿「アア遠慮いたさず、じゅうぶんに食《しょく》せ。コレ代わりを持て」
○「イエもうたくさんちょうだいつかまつりました」
殿「たくさんということはない。一ぱいではいかん、遠慮をするな」
○「なかなかもちましてご遠慮はつかまつりません」
殿「イヤ大好物であると申しながら、一ぱいということはない、代わりを食べろ」
○「ヘエどうも恐れ入りました、しからばちょうだいつかまつります。エエ恐れ入りますが液汁《したじる》のお代わりをどうか願います」
お汁はお膳所でこしらえますので、まことにけっこうでございますから、汁の勢いで食べるだけ。アア奉公はつらいもの、どうしてもこの蕎麦を食べなければならんのかと腹の中でグチをこぼしながら、口のところまで持ってくるとウンザリする。ようようのことで、もう一ぱい食べ終わったと思うと御前が見張っていらっして
殿「コレコレあれに、もうないようじゃ。代わりを持て代わりを」
坊「ヘエお代わりでございます」
○「エエ貴公そうむやみと明けてはいけません。手前じゅうぶん満腹いたしました。これを一ついただけば、たいがいたくさんで、あとからそうお明けなさるというのはなんたる情けないことで……」
これが殿様のお耳に入ると
殿「コレコレ情けないとはなんだ。せっかく予が自ら作ってふるまいつかわすものを、情けないとは無礼千万《ぶれいせんばん》、さようわがままを申して食さんにおいては、手打ちにいたすぞ」
ご家来ハッと気がついて、
○「なるほど、手打ち蕎麦とはこれか……」
つまりご登城のほかには別にご用がないから、ご退屈のままいろいろ遊びごとをお考えになります。
殿「コリャコリャ、家来ども一同そろったか」
○「ごきげんよろしゅう」
殿「イヤどうも毎日、汝《なんじ》らからいろいろ話は聞いているが、べつだんおもしろいこともない。どうじゃ、予が子供のころ将棋を差したことがあるが、汝ら将棋を差せるか」
○「ヘエ、差せると申すほどでもございませんが、ホンの駒を動かすくらいのことならわきまえております」
殿「アアそうか、しからば盤を持て」
さっそくけっこうな将棋盤がそれへ出る
○「しからば手前がお相手をつかまつります」
殿「アア汝はいくらかやれそうだな。サアサア相手をしろ」
○「なかなかお相手などというわけにはまいりません。お稽古を願います」
殿「よしよし、サアこっちへまいれ……早くならべろ」
○「アアさようで」
相手のほうまで列べさせられてご家来が
○「エエ御上《おかみ》へうかがいます」
殿「なんじゃ」
○「しもじもではこの将棋を差します前に、先手後手を定めまするために、金《きん》か歩《ふ》を、ということをいたします。恐れながらこのように一人駒をにぎっておりまして金か歩かと尋ねまする。甲が金なら金と申します。そこでこれを投げてみまして、金が出れば甲が先手、歩が出れば乙の先手とこういうことにあいなります」
殿「ホホウ先に出るのと、後で出るのといずれが利益だ」
○「それはもちろん先へ出ましたほうが利益でございます」
殿「さようか、しからば予は先手を取る」
○「アアお先へ遊ばしますか」
殿「予が先へ出る。この歩を突くのがよいということを記憶しておるがな。この角《かく》というものはイザ敵地へ乗り込んで成ってしまうと、縦横に歩けるから働きをいたすものだが、わが陣地にあってはまことに役に立たんやつだ。それゆえ身体を自由にしてやるために、角道《かくみち》から出るのが将棋の法だということを聞いたがどうじゃな」
○「御意《ぎょい》にございます。碁《ご》には碁の定石《じょうせき》のありますごとく、将棋にもまたその法のあるもの、角道から出ますのは将棋の法にかなっているように、うけたまわりおります。なかなかご名手かと存じます」
殿「ウム、さようか」
○「手前は、少々工夫を変えまして、こちらから出ますことにいたします」
殿「さようか、しからば予はこう出る」
○「ヘエ……どうもなかなか御上はお手順がきまってあらせられますので、おおきに苦しみます、しからばこちらの金が上がりますことにつかまつります。ヘエ」
殿「ウムなるほど、そのほうはなかなかよくやるな」
○「恐れ入ります」
殿「また頭を下げる。なにもそう恐れ入ることはない。予を敵と思え。予がこう突いて出る、サア早くやれ早くやれ」
○「ハハッ、いつの間に君《きみ》にはかくご上達遊ばしましたか、なかなかお出来でございますな」
殿「イヤほめるな。敵に向かって追従《ついしょう》を申す奴があるか……アアコレコレその歩を取ってはいかん」
○「ヘエッ」
殿「その歩を取ってはいかんよ」
○「エエただいま上《かみ》にはこれをお突きになりました。それゆえ手前がこれを取ります。隔番《かくばん》に」
殿「隔番にやるくらいは、そちに教わらんでも存じておる」
○「ただいま上がこの歩をお突きになりましたから、それゆえ手前がこれをちょうだいいたします」
殿「イヤその歩を取られては、こちらが不都合だ」
○「不都合だと仰せられましても、恐れながら手前の手で」
殿「そのほうの手にはちがいないが、当方において不都合があるから取ってはならんと申すにわからんか。主人の不都合をかえりみずこの歩を取るというは不忠《ふちゅう》ではないか。たって言葉にそむくか」
○「イエご立腹では恐れ入ります」
殿「その歩を取らずに他の手にいたせ。けしからん奴だ」
○「ハハッ、イヤご同役《どうやく》お笑いなさるな」
殿「サア早くいたせ」
○「お言葉にそむくと仰せられましては、はなはだ恐れ入りますから、仰せの歩を取ることはしばらく思いとどまりまして……他の手がありません。やむをえず端《はし》のほうの歩を突くことにいたします。どうかこれにてご勘弁を願います」
殿「しかとさようか、それなら、このほうにおいてこの歩を取ると、はなはだ都合がよろしい」
○「ハハッごもっとも」
殿「わからんことを申さずに早くいたせ。下手《へた》の考え休むに似たりということがあるが、戦争をいたすにそういちいち首を傾けて考えておっては勝つことができんの。これはいかんな、アアコレ控えろ、その飛車《ひしゃ》はいつの間にかこちらの陣中へ乗り込み、あまつさえこのあたりの駒をみな取ってしまうというは、けしからん奴だ。そのほうは主人の言葉にそむくか」
○「恐れ入ります。決してお言葉にそむきはいたしませんが、この飛車なる者が敵の陣中へ乗り込みますまでには、いくばくの艱苦《かんく》をなめ、ようやくこれまでまいりましたものゆえ、なにとぞこれまでの艱苦を思し召し、飛車だけはご憐愍《れんびん》のご沙汰をもちまして、そのままお差し置きを願います」
殿「そのほう、いかに嘆願に及ぶといえども、この飛車がわが陣中に乗り込んでまいったのは、いかにもけしからんことだ。しかしながらせっかくそのほうの嘆願いたすものであるから……なんとか趣意を見つけ出してつかわす。待て待て暫時《ざんじ》差し控えておれ。こうっと……あったあった趣意をさずけてつかわす、ここにうずくまっているこちらの飛車をそのほうの陣中に成り込ませれば、許してつかわすが、そのかわりそのほうの飛車は当分動かしてはならんぞ」
○「ハハッ、恐れながら手前の飛車をお助け下し置かれるために、手前陣中に上の飛車がお成り込みに相成りますることは、承知いたしましたが、しかし途中に金と銀とがございますのを飛び越して入らせられましてははなはだ迷惑つかまつります」
殿「わからん奴だな。そのほうの飛車を助けるがために、こちらの飛車を成り込ましたのじゃ、しかるになんぞや、通り道に金銀があって、飛び越したとてよいではないか」
○「お飛び越しと申すは、飛び将棋のほかはないかと存じます」
殿「将棋の法にないといたしてみれば、こちらの飛車もそのほうへ行くことができん。行くことができんければ、そのほうの飛車も助けるわけにはならん。もし飛び越すことができんなら、この金銀は目ざわりによって取りはらい申し付ける。さっそく取りはらえ」
○「ハハッ……ご同役お笑いなさるな。しからばかよう取りはらいます」
殿「コレコレ死体はこちらへ引き渡せ。そのほうの願い通り助けてやる。かわりにこちらの飛車はそのほうへまいるぞ」
○「恐れ入りました」
殿「どうじゃ負けたか、そのほうは下手じゃな。コレ入れ代わってまいれまいれ」
サアそれから何人かのご近臣《きんしん》が入れかわり立ちかわり出ましたがみな取りはらい、お飛び越し、差し控えを申し付けられ、はなはだしきは御上が二手ぐらい遊ばしますから、どんな先生だってこれじゃァ負けます。「碁敵《ごがたき》は憎さも憎しなつかしし」で、すべて勝負事は負け勝ちの中にお互いに楽しみをいたすものでございますが、これはいつでも殿様が勝って家来が負けて、おじぎをするときまっているからおもしろくない。ご近臣の者が毎日お相手をいたし、もう飽きるだろうと思うとなかなか飽きない。ご飯を召し上がると、ご休息もなさらずにすぐに始める。ご家来方もやり切れないから、なるたけ早く負けることばかり考えております。
○「おはよう」
△「これはたいそうお早く、ご苦労千万、上は」
○「もうとうにお目覚めになったようで、ただ今ちょっとのぞいてみましたところが、将棋盤がもう出ております」
△「それはそれは。もはやたいがいお飽きになりそうなものではござらぬか。どうも困ったもので、またお相手仰せ付けられるかな」
○「イヤこれもよんどころござらん。じつは拙者、昨夜親父に相談をいたしたところ、それはどうもいたしかたがないから、ご機嫌を取り結んだがよい。それがご奉公の道であるといわれてみると、それに相違ござらん」
△「いかさま是非に及ばん。どうでござる、もうお出ましになろうか」
○「イヤまだチト早うござろう」
殿「コリャコリャ次の間に声がいたすが、一同見えたか」
「ハハッ、ごきげんおよろしゅう……」
殿「サアみなの者まいれ」
△「ソレ、お飛び越しお取り払いのお呼び込みだ」
殿「コレコレそのほうどもはどうも下手でいかん。いつやってもこちらが勝つときまっておっておもしろうない。負ければおじぎさえすればよいと心得ておるによって、いつまでも上達いたさん。奨励のため、ひと工夫いたした。ここへ鉄扇《てっせん》を掛けおいて、負けたる者はこの扇で頭を打たれることにきめたからさよう心得ろ。勝負のことだから、そのほうが勝ったら遠慮なくじゅうぶんに予を打て、依怙《えこ》の沙汰はない。どうじゃ」
○「しからば幸いにして、我々が勝ちを得ましたる節は、恐れながら上のお頭《つむ》を打ちたてまつりましても、お叱りはございませんか」
殿「それは勝負であるから、腹蔵《ふくぞう》なく打て」
○「ハッ、一同へただいま申し聞かせまする間、しばらくご猶予を願います……同役いま聞く通りのわけだからよいか」
△「イヤいかん、とうてい勝てるわけがない」
○「今日我々が勝てばあの鉄扇を拝借して、御上を打つんだが、ナニほんとうにやれば御上などは赤子の手をねじるより、たやすいことじゃ」
△「それがなかなかそうはいかんよ、お取り払い、お飛び越し、差し控えがたびたびあった日にはとうてい勝てん」
○「イヤそれはなかろう、いつもとちがい現在、腹蔵なく打てとおっしゃったのだから」
△「そうかな、それではとにかくうかがってみよう……エエ恐れながらうかがいますが、一統の者へ励みのために鉄扇のことをば申し聞かせ一統承知つかまつりましたが、それにつきまして、少々前にうかがいおきたきは、鉄扇がお出ましになってもやはり、例のお取り払い、お飛び越し、差し控えを仰せ聞かせられるようなことがございましょうか、念のためにうかがいたてまつります」
殿「それは念の入った尋ねだが、盤に向かってみなければわからん。不都合な時には取りはらい、飛び越しもあるものと存ぜい」
○「オヤオヤ、おのおのやはりお飛び越しがありますと。どうぞ、貴殿から先へお相手に」
△「イエどうぞ貴公から、ご遠慮には及ばん」
ブルブルもので盤に向かって手を出すと、不都合はないどころではありません。常よりはげしい、たちまち勝負がついて、
殿「どうじゃ」
○「恐れ入りました」
殿「頭を持ちまいれ」
○「ヘエ……恐れながらお手やわらかに願いとう存じまする」
殿「イヤそれはいかん。ひどく打たれれば、これではたまらんと存ずるところから、上達いたすのじゃ。このくらいなら我慢がしよいというのでは上手《じょうず》にはなれんによって、じゅうぶんに打つからさよう心得ろ」
と例の鉄扇で頭をポカン
殿「どうじゃ……代わってまいれ」
剣術でもやるような塩梅《あんばい》、出ても出てもお取り払いお飛び越しをして、ポカポカ頭を打たれるから、それが幾日も続きますので、ご近臣やりきれません。
○「イヤイヤどうもたまらんな……オヤ貴公はめずらしいな。こぶが一つもございませんが、いかがなされた」
×「ナニ拙者、こぶが一つもないのではござらん。あまりたくさんになりすぎて、一面に地ぶくれがいたしたのだ、お察しください。昨夜お夜詰めでお相手仰せ付けられ、誰もほかに交代がないので、多分に打たれ、かくのごとき次第」
○「イヤそれはどうもお気の毒千万、どうりでお顔の色が悪いと思った」
×「いつもとは気分も異なり、ことによったら、こぶ衝心《しょうしん》かもしれん」
と各自にグチをこぼしているところへ、いずれのお大名にもご意見番と申し、殿様のけむったがるお爺さんが一人や二人あります。大久保三太夫《おおくぼさんだゆう》という人が、病気でひきこもっておりましたが、このことを聞いて、これは捨ておけないというので、病気を押して出仕《しゅっし》いたし、次の間まで来てみるとおどろいた、ご近臣の面々いずれもこぶだらけで青くなっております。
三「ウム、おのおのがた、だいぶ頭にこぶがあるが、察するところ素面素小手《すめんすこて》の仕合に及んだものであろう……ナニ将棋のお相手をして負けたる者は鉄扇にて頭を打たれる。ウーム将棋は武道軍学算木《ぶどうぐんがくさんき》をもって割り出した畳の上の戦争だ。治《ち》にいて乱を忘れず、まことにけっこうなことをなさる。上にも定めておこぶがたくさんお出来であろうな」
○「ところが御上においては一つもございません」
三「しからば、おのおのがたが負ければ打たれ、上は負けても打たれんという片手落ちのきめか」
○「イエそういうわけではございません。御上はなかなかお強くして、七日八日かかって一人も勝つことができません」
三「イヤそれほどのお上手のわけがない。上いまだご幼少のみぎり、某《それがし》が一手二手、お教え申したことはあるが、さようにご上達はないはずだ」
△「イヤそれがどうも、我々|下手《へた》ゆえによんどころございません」
三「ウムよほどおのおのがたは下手だとみえるな。しからば今日はこの三太夫が上のお対手をいたし、鉄扇を拝借して多寡《たか》の知れたる上のお手際、おのおのがたの復讐をいたして進ぜる」
○「イヤなかなかそうはまいりません」
三「ナニ拙者必ず勝ってごらんにいれる。エエ恐れながら、上にはいつもご機嫌の体《てい》を拝し、恐悦至極《きょうえつしごく》に存じたてまつります」
殿「オウ爺《じい》みえたか。病《やまい》全快いたしたか」
三「ハッいまだ全快はつかまつりませんが、日々ご近臣みえましての話に、なにか将棋のお催しがあるとのこと」
殿「爺また意見か、将棋をいたして悪いか」
三「イエ悪いどころではございません。将棋のおなぐさみはまことにけっこう。なにか負けました者が鉄扇で打たれるとかいう、至極おもしろいお考え、しかるところ若侍《わかざむらい》ども、いずれもこぶだらけでありまするに、上お一人はひとつもこぶがございませんのは、よほどご上達と見受けます。つきましてはかく申す三太夫、年寄りの冷や水には似たれど一番お相手をいたして、運よくば御上のお頭《つむ》を打たん心得にてまかり出でました」
殿「イヤ三太夫、そのほうはいかん。年寄りと思うと不憫《ふびん》じゃによって、こちらの腕がにぶる。若い者のほうがよい」
三「恐れながら手前年寄りではございますが、自ら仇討ちを勤めましょうと名乗りかけて出ました者、幼少の頃より嚢竹刀《ふくろしない》で打ち固めたこの頭、ご軟弱のお腕にてお打ちになりましても、容易にこのやかんはへこみません。もしまた手前の頭をへこますほどのお腕前にならせられれば、手前死しても武士の本懐《ほんかい》、さらに悔やむところはございません。ごじゅうぶんにこの頭の砕けるほどお打ちください」
殿「しからば相手を勤めるか、打つぞ」
三「委細承知つかまつりました。しかしながら万一、手前勝ちを得ましたる節は恐れながら上のお頭《つむ》を」
殿「オオ約束じゃ、じゅうぶんに打て」
三「お坊主衆、将棋盤をお取り出しください」
○「ホラいよいよお取り払いが始まるぞ」
殿「イヤそのほうは列べても、こちらのが列んでおらん」
三「これは異《い》なことをうけたまわるものかな。駒を並べるのはすなわち陣を作るも同じこと、味方の陣を敵に列べさせるなどという、さようなことはござらん。ご自身でお列べ遊ばせ」
殿「よいよいしからば自身で列べる……サアよいか、こちらが先手であるぞ」
三「もちろん下手《へた》のほうから先手ときまっております」
殿「けしからんことを申すな……いつも角《かく》の道から出るときまっておるのじゃ」
三「さよう、下手はたいがい角の道から出るもの」
殿「いちいち下手下手というな……ウム、なかなかそのほうは早いな」
三「さようで、下手の考え休むに似たりと申します。戦争をいたすに考え考えいたしておるようなことではなりません。その場に向かわば油断なく知恵をめぐらし、機に臨み、変に応じなければなりません」
殿「いかにもそのほうの申す通りじゃ……コレコレ控えろ控えろ」
三「ハア」
殿「その右の手をちょっとはなせ、その歩で桂馬《けいま》を取ってはいかん」
三「ハッ」
○「フフフフフご同役、始まりましたよ」
△「いよいよこの次がお取り払い、その次がお飛び越しときまっている」
殿「三太夫その桂馬を取ってはいかん」
三「ヘエ……御上のお手は左の金が、右のほうへお上がりになりましたから、桂馬の高上がりは歩の餌食《えじき》というたとえの通りで、桂馬を取りました。御上一人で差す将棋ではございませんから、取りましても差しつかえなきものと存じます」
殿「イヤそれはそうじゃろうが、その桂馬を取られては、こちらにおいて不都合があるから申すのじゃ。そのほうは主人のためをもかえりみず、たって取るか」
三「これは近頃けしからんことをうけたまわります。敵の不為《ふい》、不都合は味方の幸い、敵が都合よくば味方は全敗ときまっております。すでにかくのごとく盤面に向って互いに勝負を争う以上は、君臣の別はございません。すなわち御前を憎い敵と心得て、勝ちたる時は御上のお頭《つむ》を……」
殿「イヤそれは心得ているが、こちらにおいて困るによって、取るなと申しつけるに主人の言葉にそむくか」
三「上のお言葉にそむくかと仰せられましては恐れ入りますが、拙者、老衰《ろうすい》いたせばとて、武士でござる。いったん取りかけました物を敵の迷惑になるから差し控えるなどというのは、はなはだ卑怯でござる。たとえお怒りに触れてお手討ちに相成っても、この桂馬を取らざるうちはこの座は立ちません。御上の怒りを恐れて待つような、へつらい武士は知らぬこと、真の武士は一歩もゆずりません。これを真の戦争としてお考え遊ばせ。恐れながら歩は雑兵《ざっぴょう》、桂馬は馬まわり以上、一騎当千《いっきとうせん》の武士なり、その身分軽き足軽が君恩《くんおん》を重んじ、わが命を軽んじ、一騎当千の武士に立ち向かって、その首を上げるというは末たのもしき奴、あっぱれな奴にございますから、いずれ帰参のうえは士分《しぶん》にも取り立ててつかわさんと存ずるほどの者、それを敵の大将がとやかく申したからとて、その言葉に従えましょうか。将棋はもとより軍学の稽古同様のものにて、いまだかつてさような例《ためし》のあることを、うけたまわったことがございません」
殿「イヤそのほう、そう理屈を申すな。マアよろしい、その桂馬は取れ」
三「もとより取るべきこの桂馬、取れと仰せがなくとも取ります……イヤこれはけしからん。飛車が歩を飛び越してまいるとは」
殿「コレコレこっちの飛車を投げ返すとは無礼であろう」
三「イヤ、無礼のおとがめこそ恐れ入ります。御上もご両眼《りょうがん》明らかにいらせられますれば、これに金銀のあることをご存じでございましょう。金銀は境壁《きょうへき》を固くして王将の前後を護衛し、飛車は盤上重く用うる軍師でございます。いやしくも軍師たる者が、軍略によらず、陣法に従わず、卑怯未練《ひきょうみれん》にも道なきところを飛び越してまいるとは将棋の法にございません。すなわち軍法にそむいておりますから切り捨てようかとは存じましたが、重き身分にありながら、軍法をわきまえざる者を切るは、かえって刀のよごれと存じ、情《じょう》によってお返し申したが、ご異存あらばこっちへお返しください。首をはねて軍門にさらします」
殿「マアマアよい……この通り道に金銀がいないとよいのだな」
三「こちらの駒が上がって王手《おうて》になります」
殿「そうか、この駒はいつの間に入っておったのか。よろしい、サア早くやれ」
三「ちょっとうけたまわりおきますが、もし敵が城の塀ぎわまで迫った節はいかが遊ばされますか。恐れながら敵勢塀ぎわに詰め寄せるまで戦うは大将たるものの不面目であります。およそ心得ある大将は、三日も以前にその勝敗がわかっているようでなければ一国一城の大将とは申されません。もっとも時としては、計略によって敵が塀ぎわまで押し寄せるを機として打ち出し、勝ちを得ることもありますが、軍法かけひきのなき勝ちなれば、真の勝ちとは申されません。策もなく、略もなく、安閑《あんかん》として敵が塀ぎわまで詰め寄せるも知らず、空然《くうぜん》と控えている者のごときは武士の風上にも置けぬ、馬鹿大将とも間抜け大将ともいうべきで、俗にいう雪隠《せっちん》詰めになるまで逃げまどい苦しんでいるとは、じつにバカバカしき言語道断のことでござる」
殿「ナニ馬鹿大将とはけしからん……ソレこれへまいるぞ、ナナナニ金がおると。ウーム負けたか」
三「負けたと仰せられるはどなたで」
殿「皮肉なことを申すな、こっちじゃ」
三「御上が負けたと仰せられれば三太夫勝ちを得ましたもので、まずこの頭もへこまずにすみました。しからばお約束通りお鉄扇をどうか拝借」
殿「サアこれだ」
三「ハハア、これは手頃のけっこうな鉄扇でござる。エイッエイッ」
殿「コレコレそんなに気合いを入れるな」
三「恐れながら手前|壮年《そうねん》の折から、一刀流《いっとうりゅう》の片手打ちが自慢で、一人も争う者はなきほどでございましたが、近年老衰いたし、力の脱けましたために痛さの利きませんところは、幾重《いくえ》にもご容赦を……」
殿「そんなことは、わびんでもよい」
三「サアおのおのがた、ご見物なさい。武士はこの通りでござる」
と総身の力を腕に込めてポカッと打った。剣術のできる人に打たれたからたまらない。殿様ポロポロ涙をこぼしながら
殿「ウムなかなか利いた、えらいなどうも」
三「今ひとつまいりましょうか」
殿「イヤそれには及ばん。コレコレ、一同なにを笑っている。早く将棋盤を取り片付けろ……明日《みょうにち》から将棋を差す者には切腹申し付ける」
[解説] 大久保彦左衛門の将棋の意見の焼き直しであろう。サゲは逆さ落ち。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
田能久《たのきゅう》
―――――――――――――――――――
阿波《あわ》の国、徳島在に田能村《たのむら》というところがございます。ここに久兵衛《きゅうべえ》さんという百姓がありまして、まことに親孝行な方で、たった一人のおっかさん、天にも地にもかけがえがないというので、たいそう孝行を尽くしました。この人がまたすてきに芝居がうまい。
もっともその日に困るという貧乏人でもないが、さて金持ちでもありません。方々からおまえさんが座頭《ざがしら》になってひとつ芝居をやってもらいたいとたのまれますので出かけると、またこれがたいへんな評判で、商売人より田能久のほうがよいという。それでしぜんと村の百姓衆が、この久兵衛さんの弟子になりまして、ついには田能久一座というのができました。
サアこうなるとあっちの鎮守《ちんじゅ》さまの祭礼に来てくれ、こっちに来てくれと、諸方からたのまれて芝居を打って歩きましたが、そのうちにどうも在《ざい》ばかりではおもしろくない。どこか大場所で演《や》りたいといっているところへ、伊予《いよ》の宇和島《うわじま》からたのみにきた。
これ幸いとここに乗り込みまして初日を開けると評判がたいそうよい。ある日のこと、国もとのおっかさんのところから手紙がまいりましたので、久兵衛さんさっそく開いてみると、おまえが家《うち》を出てからどうしているかと旅先を案じて、それが原因で今は病いにかかり、嫁の世話を受けているが、どうかこれを見たらば、すぐに帰ってきてくれとの文面でございます。
性来《しょうらい》親孝行の男ですから、もうなにも手につきません。そこであとのことは一座の者に万々たのみ、狂言なかばではあるが、私はおふくろが病気だから帰るといって、さっそく支度をいたし、自分が日ごろ大事にしている鬘《かつら》を三つばかりふろしきに入れ、糸経《いとだて》を着、菅笠《すげがさ》をかむり、宇和島を出発いたしましたが、その途中|保気津《ほきつ》峠に十坂《とおさか》峠というのがございます。今しも久兵衛さんが保気津峠を越え、十坂峠にかかろうとすると秋のこと、今まで青々として雲ひとつなかった空が、急に曇ってきて、ポツリポツリ雨が降ってきました。どうしようかと思案に暮れているところへ百姓、杣夫《そま》、樵夫《きこり》などが通りかかって、
○「モシ、旅の人、おまえさんこの峠を越すかね」
久「ヘイ、少し急ぎますから、夜になりますが越しますつもりでございます」
○「そりゃァよしたらよかんべえ。この峠を無事に夜越えした者はねえだよ。なんでも悪いものが出るというこんだ。よさっせえ」
久「ご親切にありがとうございます」
といいながらも久兵衛さん、少しも早くおっかさんに逢い、安心させようと思い、百姓や樵夫たちが通り過ぎたのを見て、止められたのもきかずに峠にさしかかり、ちょうど、十坂峠の中ほどまでまいりますと日はトップリと暮れ、雨はますます烈《はげ》しく降ってまいりました。すべりすべり爪先《つまさき》上がり、ようようのことで十坂峠の頂上に達しますと、もはやあたりは真っ暗で、黒白もわかりません。
雨は盆をかえすように降りしきり、道もわからず、途方に暮れておりました。すると左のほうに黒く家らしいものが見えますので、それへ近づいてみると、これは昼間杣夫樵夫の連中が仕事にきて小憩《こやす》みをする掘っ立て小屋でございますから、これに入ってしばらく雨《あま》やみをする考え。
しかし身体《からだ》がぬれているし、ことに頂上で寒さが烈しいからなにかないかとあたりを探すと、木の葉や枯れ枝がありましたから、さっそくこれを積みかさねて用意の火口《ほぐち》を取り出し、カチカチとやって火をつけ一服しながら身体を暖めている。ところがだいぶお腹《なか》がすいてきたので、背負っていた包みからおむすびを出して食べ、お腹がよくなって、身体が暖かになりましたのでコクリコクリ居眠りが出てきました。かたわらを見ると幸い莚《むしろ》がありますから、それを敷いて横になると昼の疲れが出て、グッスリ寝込んでしまいました。
サーッと吹きくる風が肌に当たり、ゾッとして目をさましてみると、焚火《たきび》は消え真っ暗でございます。ヒョイと枕もとを見ると、年は古稀《こき》をも過ぎましたか、白髪白髯《はくはつはくぜん》の老人が白衣《びゃくい》をまとい、高足駄《たかげた》に杖をついております。
久兵衛さんこれにはおどろいた。なまじ、なにか言っては危険だと思いましたから、眼を明いたまま、いびきをグウグウかいておりますと、
老「オイオイ旅人、寝たふりをしなさんな。眼を明いていびきをかくやつがあるかい、横着《おうちゃく》な野郎だ」
久「ヘエどうかご勘弁を願います。ここはあなたのお小屋でございますか。私は旅の者でございますが行き暮れまして、ことにこの大雨で難渋いたしまして、お断り申さず、ここを拝借いたしましてまことに申しわけがございません」
老「ナニここは俺の小屋じゃあねえ。いつ入ったっていいが、おまえこの麓《ふもと》で百姓になにかいわれたかい、この峠を夜越えをするは、よせとかなんとか……」
久「ヘエ、よくあなたはご存じでごぜえますな」
老「どうも、この頃は人間が邪魔をしていけねえ。しかし今日は、久しぶりで人間に出会った」
久「エッ」
老「人間の味を忘れかねていたんだ」
久「ナナなんです。あ、あなたは全体なんでございます」
老「俺か。なにもそんなに怖れるものじゃァねえ、この十坂峠に古く住んでいる蟒蛇《うわばみ》だ」
久「キャッ」
老「オイさわぐな、サアいさぎよく俺に呑まれろ。もうこうなったからには逃げようたって逃がしはしねえから、支度をしな」
久「ソソそんなことをいったってダメですよ。風呂かなにかなら裸体《はだか》になって飛び込みもしましょうが、あなたのお腹へ入るのは、ドドどうかお許しくださいまし」
老「ヤイヤイ未練らしいことをいうない。きさまも男だろう。サア覚悟しろ」
久「マママ待っておくんなさい、蟒蛇《うわばみ》さま。私はあなたに呑まれるのは厭《いと》いませんが、たった一人の母親が病気でおりますから、その親を見送るまでどうかお助けを願います。今しばらくの間お見逃しくださいまし」
老「ばかにするな。ようよう人間にありついてよ、逃がしてたまるものか」
久「ソソそれではどうかおふくろに一目逢わしてください。私は麓で止められたのもきかずにのぼって来たのでございますから、呑まれるのも仕方はございませんが、どうか今しばらく……」
老「グズグズいうな。しかしおまえも止められたのにのぼって来るとはずいぶん強情な奴だな。なに者だ」
久「ヘエ、私はアア阿波の国の、トト徳島の在で」
老「しっかりいえ」
久「タタタ田能久と申します」
老「なんだ、たぬきだと」
久「ヘエ」
老「人間じゃあねえのか、ばかにしやァがって。ウンそういえば先刻《さっき》変だと思った。眼を明いていびきをかいていたが、アアなるほどあれがたぬき寝入りなのだな。俺も人間だと思ったから、ヤレうれしや飢えていた人間に逢ったと思ったら、そうでなくたぬきなのか。たぬきを呑んじゃァ仲間の者に外聞が悪いや、呑む物がなくなって獣《けもの》を呑んだと笑われらァ。アアつまらねえつまらねえ、楽しみが無になってしまった。だが狸公《たぬこう》」
久「ヘエ」
老「おまえはよくなにかに化けるというじゃァねえか。どうだひとつ、俺に化けて見せてくれねえか」
といわれて久兵衛さん、困ったことになったと思いましたが、ふと気づきましたのは背負ってまいりました鬘《かつら》
久「それではひとつお目にかけます」
といって暗いところへ頭を突っ込んで鬘をかぶりまして、蟒蛇の前へ顔を出しました。
老「ウーン、うめえな、恐れ入った」
久「もうひとつ、ごらんに入れましょう」
老「もうたくさんだ、いい」
久「イエひとつではお疑いがあるといけませんから」
老「オヤ女に化けたな。こりゃァ狸公じつに恐れ入ったな。俺なぞは、この老爺《おやじ》に化けるのが精一杯なんだ。おまえはちょっとの間に何度も化けるが、ひとつそのコツを教えてくれ。どうだ二三日俺の穴に逗留《とうりゅう》していかねえか」
久「ありがとうございますが、私は急ぎの用がございますから、またごやっかいになりに来ます。今日はこれでお暇《いとま》をいたします」
老「マア待て狸公、急ぎなら泊まらなくってもいいが、躓《つまず》く石も縁《えん》の端《はし》とやらだ。この先お互いに仲よくつき合おうぜ」
久「ヘエ」
老「ついちゃァな。仲よくつき合うにゃァ互いに打ち明け話をしようじゃァねえか。どんなものでも、ひとつ恐ろしいものがあるというが、おまえなんぞはなにが恐ろしいな」
久「それはもういろいろございます」
老「いろいろあるうちでなんだ、犬なぞは怖かァねえか。一番怖いものだぜ」
久「そうでございますな。一番怖いものと申しますと、まァ金《かね》でございましょうな」
老「ナニ金が怖い。あの使う金が怖いのか。エッ、そりゃァまたどういうわけだ」
久「あの金でございますがね、ずいぶんと命を取ったり、また取られたりする者が、いくらあるかわかりません。まァあのくらい怖いものは世の中にあるまいと思います」
老「そうか、妙だな」
久「蟒蛇《うわばみ》さまなぞはなにが恐ろしいのでございましょうか」
老「俺はな、タバコの脂《やに》が、一番怖いな」
久「ヘエー、あのタバコの脂《やに》が。変ですな。どうして怖いのです」
老「あいつが身体に付くと、肉から骨までしみ込んでついには死んでしまうからな、それから次は柿渋《かきしぶ》だ、あいつがまた身体につくと、すくんでしまって思うように動けねえから、マアこの二つが怖いものだな」
久「そうですか」
老「だがな、こうふたりとも打ち明けた以上、決して人間にこんなことをいっちゃァならねえぞ。そのかわり俺もおまえが怖い金のことは人間に話さねえから、もしおまえが脂と柿渋が俺の怖いものだなぞと人間にいえば、徳島の住居《うち》へ行ってきさまを食い殺してしまうからそう思ってろ」
久「イエ、決して他言はいたしません」
老「しかしこのまま別れるのも残念だな。またなんだ、そのうちに遊びに来ねえ。俺もおまえのところへ遊びに行くぜ」
久「どうかお尋ねくださいまし、それではごめんを……」
といった時、かの老人はどこともなく立ち去ってしまいました。ホッと一息ついた久兵衛さん、やれうれしやと思い、一目散《いちもくさん》に駈け出しました。そのうちに雨もやみ、東が白んでまいりましたので、道もわかるようになりましたが、ただ無我夢中で包みを背負って峠をくだってまいりますと、早や夜は明けて杣夫《そま》や樵夫《きこり》が山へ仕事にまいるので、ゾロゾロ麓からのぼって来ると、蒼白《まっさお》になって駈けてくる人があるので、
○「モシモシ、モーシ」
久「ヘエー」
○「どうしなすった。マア蒼白《まっさお》になって、なにか峠の上にいましたか。今時分どうして峠を下りてきなすった」
久「ハイありがとうございます。私は少し急ぎの旅でございましたため、昨日十坂峠の手前で人が止めましたのをきかずにのぼってまいりますと、頂上で雨があまりひどく降ってまいりましたから、雨やみをしようと思い、小屋で焚火をしてトロトロとしましたところへ、蟒蛇《うわばみ》が出てきまして、あやうく呑まれるところでした」
○「ヘエー蟒蛇が出た」
久「十坂峠に古く住んでいるそうで、老人の姿に化けましてな」
○「ハア、それは危なかったなァ」
久「なに者だと申しますから、私は阿波の徳島在の田能久でございます、と申しましたところが蟒蛇がたぬきとまちがえまして、人間なら呑んでしまうのだが、たぬきだから呑まない。そのかわり化けろと申しますので、お恥ずかしゅうございますが、私は芝居が道楽で、ちょうど鬘の持ち合わせがありましたから、それでさっそく化けてみましたので、疑いが晴れてようようくだってまいりましたのでございます」
○「それはしあわせだ。おまえさん田能久さんか。そうか、たいそうな評判だよ。それに親孝行だというから、それでおまえさん、神様がお助けくだすったのだ」
久「これは恐れ入ります。それで蟒蛇が申しますにはおまえの怖いものはなんだというから、私は金ですといいましたところ、蟒蛇の一番怖いものはタバコの脂と柿渋だそうでございますよ。柿渋が身体にかかるとすくんで動けないそうで、また脂は骨までしみて、終いには死んでしまうと申しましたよ」
と久兵衛さんここで残らず昨夜のことを話してしまい、それから急いで田能村に帰ってまいりました。こっちは杣夫に樵夫の連中
○「どうだ、聞いたか。いま田能久さんがいうには、この山に蟒蛇がいるというじゃァねえか。そんなものにいられた日にゃァ、俺たちが仕事に行って、もしものことがあってはなんねえ。ことに旅人がどんなに困るか知んねえから。ひとつみんなで蟒蛇退治をしようじゃァねえか」
△「よかろう」
○「それには田能久さんが話した通り、タバコの脂や柿渋で殺してしまおう」
△「よかろう」
とここで村の若い者が大勢集まってタバコの脂に柿渋を集め、これを樽に入れて四五人でかついで、あとの者はおのおの得物《えもの》やまたは柄杓《ひしゃく》を持ち、ワーワーッといって十坂峠を登ってまいりました。蟒蛇はなにが始まったかと思いまして、穴から首を出したところが、村の者が見つけて、
○「ソラあそこに蟒蛇がいた。柿渋をかけろ、柄杓で脂《やに》を打ちかけろ」
と、大勢|鬨《とき》の声をあげて、脂に柿渋をかけられた。サアおどろいたのは蟒蛇、身をもだえ苦しみましたが、いよいよかなわなくなってきたので、法を使って雨風を一時に起こした。これにはさすがの村の若い連中もおどろいてあっちこっちと、ひとつところに固まってしまう。雨がやむとまた村の者が攻める。サアこうなると、蟒蛇と村の人との根気くらべでございます。ところがなかなか村の人は根《こん》が強いので、蟒蛇もとうとう永々住みなれた穴を逃げなければならない。
いよいよここを脱走したので喜んだのは土地の人でございます。蟒蛇は怒るまいことか、あのたぬきが話したにちがいない。どうするかみろと、徳島を指してまいりました。こちらは久兵衛さん、家へ帰ってくるとおふくろさんの病気もそれほど大したことはないので、ただ伜《せがれ》の出先を案じて患《わずら》ったのでございますから、帰ってきたのでだいぶ快《よ》くなり、
母「どうか久兵衛や、おまえが家にいないとなんとなく心配になっていけないから、どうか旅立ちはよしておくれ」
久「ハイ、もうこれからはおっかさんのそばにおりますから、どうかご安心を願います」
と、久兵衛さんその日は疲れも出ましたから、寝床に入ると、おもての戸を破《わ》れるばかりにたたくものがありますので
久「誰だろう、いま時分来るのは」
○「開けろ、開けないか。開けないとぶちこわしてしまうぞ」
久「お待ちなさいよ、どうも聞きなれない声だな」
○「早くしろ」
久「どうも変だ、オイおまえな、おふくろさんのお目の覚めねえようにしてな、なにか変わったことがあれば大きな声をするから、おっかさんを連れて裏から逃げてくれ」
と母親のことを女房にたのみまして、怖れながら土間へおりて、戸をスーッと開けてみると十坂峠で出会った白衣の老人。びっくりしてふるえ出した。老人は頭が破《わ》れて顔に血が流れ、恨めしそうな顔をして、久兵衛を凝視《みつめ》ております。
久「エエ、これはよくおいでなさいました」
老「ヤイたぬき、よくは来《こ》ねえ。このおしゃべり野郎め、あれほど俺が言っておいたのに、てめえは麓へいって村の野郎にしゃべったな」
久「イエ、ソソそんなことはございません」
老「無いことはねえ。きさまがしゃべらねえで、誰が俺の一番怖いものを知っている。よくもしゃべったな、どうするかみろ」
久「どうか蟒蛇さま、ご勘弁を願います。私がしゃべったのではございません」
老「グズグズいうな。俺の怖いものをいったから、俺もきさまの怖いものをやるからそう思え」
とかの蟒蛇が片手に抱えておりました大きな箱を、ドカリと土間へ放り込んで、どこともなく姿を消しました。久兵衛さんは怖いものをやるといわれたので、ブルブルふるえておりましたが、なんであろうと、そっと箱のそばに寄って、こわごわながらにふたを取って、またびっくり、
久「ウァーッ」
そのはずで、箱の中は山吹色《やまぶきいろ》が一杯、勘定してみるとちょうど千両あったそうでございます。
[解説]演者によっては、田之助の弟子の沢村田之紀という、やはり親孝行な俳優のことにして話すが、伝説口碑にはよくある材料。孝行の徳が幸福を得たというのだから感じがよい。サゲは間抜け落ちである。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
蚊いくさ
―――――――――――――――――――
汗水を流して習う剣術の
役にも立たぬ御代《みよ》のめでたさ
不戦条約が成立し、軍縮会議の開かれる世の中でも、しょせん治《ち》にいて乱を忘れず、武芸奨励のためのさまざまな催しもあり、かつは護身《ごしん》のため剣術柔術は学ばなければならないというところから、昨今まただいぶこの剣術柔術が流行いたし、あちらにもこちらにも道場ができまして、盛んにお若い方がやっていらっしゃいます。今でさえなかなか盛んでございますからまして軍国といわれし昔|流行《はや》ったのは当然。町家《ちょうか》でもお店がお引けになりますとお若い衆が顔に魚焼きの網のような物をかむって、
甲「ヤアヤア」
ポンポン
乙「お面」
甲「かすったァ」
乙「お胴」
甲「かすったァ」
乙「お籠手《こて》」
甲「かすったァ」
のべつにかすっております。これが竹刀だからいいが真剣の勝負でかようにかすってごらんなさい。人間が心棒ばかりになってしまいます。お職人などでも稼業を忘れて剣術に凝《こ》ってしまうのがありました。
熊五郎「ヘエ先生、先刻は」
先生「ヤアこれはこれは熊五郎《くまごろう》殿、だいぶご精《せい》が出ますな……。サアサアお仕度をなさい。一本まいろう」
熊「ヘエどうもありがとうございますが、先生に少々お願いがあって来ましたので……」
先「ナニ願い……。あらためて拙者に願いとは」
熊「まことに申し兼ねますが、今日から十日ばかりお暇をいただきたいので」
先「ウム、あいわかった。さては当道場において貴殿の手に立つ者がないによって、廻国《かいこく》武者修行にでも出たいと言わっしゃるのか」
熊「イエイエさような訳ではございません……じつは私の家へ化け物が出ますので」
先「ナニ妖怪変化《ようかいへんげ》が出ると申すか」
熊「イエ、お茶うけじゃァありませんから、ようかんやせんべいは出ません」
先「コレコレなにをいわっしゃる。誰がようかんやせんべいと申した。妖怪変化、イヤサ狐狸《こり》のたぐいが出るかというのだ」
熊「ヘエ、宅には行李《こうり》はございませんが、古い葛籠《つづら》が一つございます」
先「わからん男だな。狐狸《こり》とはきつねたぬきじゃ」
熊「ヘエー、それじゃァ狐狸が行李に化けたので」
先「まだわからんか。コリとは狐狸のことで、化けたのではない。シテその化け物はやはり夜半《やはん》の頃合いにでも出るかな」
熊「イエイエ、やかんの黒焼きなぞは出ません」
先「イヤサ夜半のことだ、すなわち丑満《うしみつ》だ」
熊「イヤ夜半どころじゃァございません。日の暮れ方から出ます」
先「ハアー、形を見たかナ」
熊「ヘエ、見ました」
先「どんな形をして出てくるな」
熊「ヘエその顔は目が二つ丸くってひげが生え、くちばしがとんがって、縞《しま》のももひきをはいて背中に羽が生えておりまして、それで人間の活き血を吸い取りますので……」
先「ナニ人間の活き血を吸う……。ウム形は小天狗、烏《からす》天狗のようなものじゃな……。人間の活き血を吸うとは打ち捨ておかれぬ怪物じゃ。拙者がまいって退治してくれよう」
熊「先生がおいでになっても、なかなか退治できません」
先「イヤイヤ一流の武芸者が怪物が出ると聞いて、そのままにいたしておいては末代《まつだい》までの名折れ、ぜひとも拙者が退治してつかわす」
熊「しかし先生、いくらあなたでも退治できませんと申しますのは、化け物の数が多いので」
先「ナニまだその外にも怪物が出ると申すのか」
熊「ヘエ一ぴきや二ひきじゃァございません……その数は何百万びきというものですからなァ」
先「フーム……。シテその怪物の出る時には、家鳴り振動でもいたすか、また光でも放つか、鳴き声でもいたすかな」
熊「ヘエ鳴き声がいたします」
先「どんな声で鳴くな」
熊「ヘエ、ブーン……」
先「怪物の大きさはどのくらいじゃな」
熊「エエ二分《にぶ》くらいな大きさで」
先「コレコレ熊五郎殿、それは蚊ではござらんか」
熊「ヘエ蚊で……」
先「蚊を化け物とは大仰《おおぎょう》な申しようじゃ」
熊「ヘエ、それでも蚊はぼうふらの化けたので……」
先「アハハハ、蚊はどこにでも出るではござらんか」
熊「ヘエ……それが山の神が申しまするには河童《かっぱ》野郎の頭をみてくれ、まるでお持仏《じぶつ》さまの化けたのみたいだと申しますので」
先「アア、コレコレ熊五郎殿、待たっしゃい。いろいろの化け物が出るな。山の神の化け物に河童の化け物、お持仏の化け物」
熊「イエナニそれァ化け物じゃァないんで……山の神といいますのは女房のことで、河童野郎てえのは伜《せがれ》のことで、お持仏さまの化けたのみたいになったといいますのは、伜の頭を蚊が刺して、はれたのがブツブツ腫物《できもの》になってしまったので、まるでお持仏さまの頭のようになって、かわいそうだと女房が申しましたので」
先「アアあいわかった……蚊帳《かや》をつって寝さっしゃい」
熊「イエその蚊帳が……十の字の尻《しり》が曲がっているので」
先「ナニ、十の字の尻が曲がったとは」
熊「ヘエ十の字の尻を曲げますと七となります。じつはソノ蚊帳が質《しち》にはいっておりますので、女房が申しますには、おまえさん子供をふびんと思うなら、先生のところへ行ってお断り申して、十日ばかりお稽古を休んで、明日から一生懸命に仕事に行って、蚊帳を質から出して、それからまた稽古に行ってくれと申しますので、そういうわけでございますから、どうか十日ばかりお暇《ひま》を願いたいので」
先「ウム、あいわかった。しかし熊五郎殿、よく聞かっしゃいよ。昔から、手習いは坂に車を押すごとく、油断をすればあとへ戻るぞ。コリャ手習いばかりではない。どの芸でも同じことじゃ。まして剣術は一刻を争う。それを十日も休んでみさっしゃい。……アアじつに残念じゃ。まず当道場に取り立ての門弟《もんてい》あまたある中に、ゆくゆくこの道場をゆずるべき者は貴殿のほかに一人もない。そのご貴殿がこのありさま。しかし熊五郎殿、蚊さえ出んければよいのであろう」
熊「ヘエ、蚊さえ出ませんければよろしいので」
先「しからば蚊の出ん謀計《はかりごと》をおさずけ申そう」
熊「ヘエ、おまじないで」
先「イヤイヤ、まじないではない謀計でござる。ついては大工熊五郎ではいかんな」
熊「ヘエ、名前替えをいたしますか」
先「イヤイヤ改名いたさんでもよい。つまり大工ということを念頭においてはいかんのだ。まず大名になった気持ちにならっしゃい。それも小さな大名ではない、一国一城の主《あるじ》じゃ」
熊「ヘエ……私がお大名に」
先「貴殿のご家内が北の方《かた》」
熊「ヘエ、きたねえ方」
先「イヤ北の方じゃ。大名の奥方は北の方、またはご簾中《れんちゅう》と申すな。そこでご子息は公達《きんだち》じゃ」
熊「ヘエ、公達……きたねえ公達だ、睾隠《きんかくし》みたいだ」
先「いずれ貴殿の住居を城郭《じょうかく》にかたどるのじゃ。表口が大手、裏口が搦手《からめて》、引き窓が天主《てんしゅ》じゃな」
熊「ヘエ」
先「せまいお城の堀じゃ。ドブ板が大手二重橋じゃ」
熊「アアこのあいだその二重橋を湯屋のさん助が持ってッちまやァがった」
先「よけいなことはいわっしゃるな。夕暮れにあいなると、近国の城々において、狼煙《のろし》をあげるでござろう」
熊「イエ、狼煙なんぞあげません」
先「イヤイヤ狼煙とは蚊|燻《いぶ》しのことじゃ」
熊「エエ蚊燻しなら焚《た》きますとも。私の宅《うち》などはモー終夜《よっぴて》蚊燻しで立て切ってます」
先「それを蚊燻しをしてはいかんよ。夕暮れになったら、大手、搦手、天主残らず開け放して、陣扇《じんせん》を持って大手二重橋へ突っ立ちあがり、大音《だいおん》に敵をさしまねくのだ」
熊「陣扇などはございません」
先「イヤ渋団扇《しぶうちわ》でも、やぶれ扇《おうぎ》でもよいから大手……、表の敷居の上でも、ドブ板の上でも立ちあがって、扇でさしまねきながら、ヤアヤア敵の面々よくうけたまわれ、当城においては今宵《こよい》蚊帳をつらぬによって、何万にても来れや来れとさしまねく。スルと敵はよき城と心得、乗り込み来《きた》る」
熊「エエ、まねきませんでも乗り込み来たります」
先「じゅうぶんに敵を手元へ引き寄せておいて、大手、搦手、天主を一時に閉めるのだ」
熊「そりゃ大変で、蚊に食い殺されます」
先「イヤイヤこれが謀計《はかりごと》じゃ。じゅうぶんに敵を引き寄せておいて、急に狼煙《のろし》をあげるのじゃ。……睾玉火鉢《きんたまひばち》に楠《くす》の根っこを入れて蚊燻しをするのじゃ。――敵は不意を食っておどろくな」
熊「ヘエ敵ばかりじゃァありません。味方もこりゃァ煙《けむ》くっておどろきますな」
先「それが反間苦肉《はんかんくにく》の謀計じゃ。じゅうぶんに敵を苦しめておいて、大手、搦手、天主を開け放つ。同時に団扇《うちわ》、扇《おうぎ》を持って蚊をあおぎ出すのじゃ。スルと蚊は煙と一緒に出てしまい、すぐに大手、搦手、天主を閉めてしまう。スルと城内に蚊の姿が一ぴきも見えなくなる。安心をして寝られるだろう。煙くとも後に寝やすき蚊やりかな、古人の名吟《めいぎん》、謀計は密なるをもって良しとする。必ず敵に悟られぬようにさっしゃい」
熊「ヘイヘイどうもありがとうございます。さようなら」
先「アアコレコレ熊五郎殿、それがいかんよ。ヘイヘイどうもありがとうございます。さようならなんて、ピョコピョコおじぎなぞをして、それでは元の大工の熊五郎じゃ。ただ今よりは大名じゃ、大名らしくせんければいかん。まずこう突き袖《そで》をして反り身になって、先払いをして」
熊「ヘエ咳《せき》払いをしますか」
先「咳払いではない。先払いだ。先供露払《さきどもつゆはら》いという、こういう工合いに、下におろう下におろう」
熊「ヘエなるほど……それでは私がお大名の殿様で……、こう突き袖をして反り身になって先生が家来で、先払いをしてくださるので」
先「イヤイヤそれも、そこもとがするのだ」
熊「それでも私は殿様で」
先「両方とも、そこもとがするのだ」
熊「ヘエ、それじゃァ殿様と家来と二役ですな。これはなかなか忙しい、早変わりをしなければならない。下におろう下におろう……。こんな工合いで」
先「もう少し、下っ腹へ力を入れて、こう反り身になって、下におろう下におろう――」
といいながら出て行きます。こちらは女房のおたけ、井戸端で隣の女房と水をくみながら
竹「アアちょいとお梅《うめ》さん、おまえさんとこでは今朝仕事に行ったの」
梅「アア早く出かけたの……。どうも昨夜《ゆうべ》はありがとう……。イーエあんまりしつッくどいから、口返答《くちごたえ》をしたんで、とんだごやっかいになっちまって、ほんとにすまなかったねえ」
竹「ナアニ、そんなことはお互いさまだァね……けれどもお酒を飲んでる時はあまり逆らわないほうがいいよ。男てえ者は気が短いから、すぐに昨夜のようなことになって、つまりなに一つ毀《こわ》したってみな身上《しんじょう》にかかわるんだからねえ。その時は黙っていて、翌日酔いのさめた時にトックリと話すほうがいいよ」
梅「ありがとう。イエ宅《うち》の人は、お酒さえ飲まなきゃァ、あんな親切な実意《じつい》のある人はないさ。わたしがお腹でも痛いなんてえと、朝も先へ起きて、お米をといでご飯を炊いて、お香物《しんこう》を出して、お弁当を自分でつめて、サア、お湯を取ったから起きて顔をお洗いなんて、じつにやさしくしてくれるのさ。去年の暮れにも自分の着物を買うって出ていって、なんにも買わないで、わたしのものを買ってきたから、おまえさんなんだって自分の物を買わないで、わたしのなんか買ってきたのッてえと、おまえが寒かろうと思って買ってきたんだ。女は冷え性だから気をつけなけりゃァいけないッて、ほんとうに親切だって……」
竹「モシモシおたのう申しますよ。井戸の中へよだれが流れ込むよ……。おどろいたねえ夜々中《よるよなか》夫婦喧嘩をして、その仲裁をさせられたあとでご亭主のおのろけじゃァ助からないねえ」
梅「アハハハ、どうもすみません。あとでお茶でもいれましょう。今朝もね、出がけにお隣へちょっとお礼をいっておいでッたら、なんだかきまりが悪いから、あとでおまえがよくお礼をいっといてくれッて、出て行ったのさ。お竹さんどうか熊さんによろしくいってくださいよ……。今朝もそういったのさ。どうしてお酒を飲むと、アア気が狂うッてえと、自分もつくづくと考えたから、もう酒を断《た》ってしまうって……だけれども飲む人が、急にやめて身体でも悪くなるといけないと思うと、また心配だわねえ……、おまえさんところの熊さんはいいねえ、お酒は飲まないし、なんにも道楽がないから、じつにうらやましいよ」
竹「イーエ道楽がないどころじゃァない」
梅「アラなにか道楽があるの」
竹「あるともさ、この頃は半狂気《はんきちがい》だよ」
梅「ヘーなんの道楽なの」
竹「剣術に凝ってるの。毎日毎日ヤットウヤットウッて、朝のご飯なぞは納豆《なっとう》でなければ食べないくらいさ」
梅「ヘエ少しも知らなかったが、いいじゃァないか。お酒や女郎買いとちがって、どこへ出てもはずかしくなくって、身体が丈夫になって」
竹「それでもこの頃は商売を休んで道場へはいり込んでいるのだもの、じつに困ってしまうよ。このあいだもわたしが意見をしたら、わたしの顔をジーッと見てアア情けない奴だ。女と生まれたら奥様とかご新造《しんぞ》とかいわれて死ぬことを考えろッてえから、ばかなことをお言いでない。裏店《うらだな》住まいの大工の女房に奥様があるものかといったら、てめえは一生大工の女房でいる了簡が情けないというから、どうも仕方がないといったら、それだから俺が一生懸命になってるんだ。今に俺がどこかの道場の先生になると、大勢の門弟衆がてめえのことをなんという。ご新造とか、奥様とかいうだろうというから、おまえさんばかなことをお言いでない。子供の時からその道にはいっていればともかくも、中年者がなんで先生になれるものかというと、それは腕次第だ。サア俺の腕前の上達したのを見せてやろう。そこにある心張り棒で俺を打ってみろってえから、なんぼなんでも、亭主の頭へ手は上げられないってえと、世の中に、素人《しろうと》ぐらい恐ろしいものはない、俺の頭を打つ了簡だからずうずうしい。サア、打てるなら打ってみろ、その棒がちょっとでも俺の身体に当たったら、それっきり剣術をやめるというから、剣術さえやめてくれれば他に道楽のない人、亭主を打ってはすまないが家のためだと思ったから、それじゃァ、わたしがおまえさんを打ったら、剣術をやめるねと念を押すと、きっとやめるというから、そんならばというので、わたしは襷十字《たすきじゅうじ》に綾《あや》取って手拭いをたたんでうしろ鉢巻き」
梅「ヨーヨーどうも見たかったねえ……。それからどうしたえ」
竹「サアおまえさん支度《したく》をおしなさいってえと素人を相手にするのに、なにも支度なぞはいらない。無手《むて》でたくさんだというから、それでもわたしが打ち込んだ時、受ける物がないじゃァないかえというと、ナアニ今きさまが打ち込んでくるその太刀風《たちかぜ》で俺が体《たい》を開く。するときさまが空《くう》を打つ、それを俺が手刀で打ち落とす。きさまがそれを取ろうとするところを、俺が取って押さえる。サアどこからでも打ってこいというから、それじゃァごめんと打ちおろしたの」
梅「その時、体《たい》を開かれて空《くう》を打って取って押さえられたかえ」
竹「イーエ、それが宅《うち》の人の頭をポカンと打ったの」
梅「アラマア……」
竹「サア今日限り剣術をやめておくれというと、なんでやめるのだというんだよ。約束じゃァないかってえと、俺はおまえに打たれたらやめようといったんだというから、今打ったからやめておくれ。ナニ打たれたらやめる、けれども打たれないからやめないというんだよ。デモ打ったじゃァないかってえと、俺は打たれない、受けたというから、なんで受けたと聞くと、頭で受けた。受けた証拠には、ここへこぶができたというんだもの……」
梅「マアおどろいたねえ」
竹「それでも子供は可愛いとみえてね。先刻《さっき》先生のところへ十日ばかり暇をもらいに行ったの」
熊「エー下におろう下におろう……」
梅「チョイト、お竹さんごらんよ、熊さんが突き袖をして、いばって来たよ」
熊「下におろう下におろう」
竹「アラッ、大変だ……。宅《うち》の人が気がちがっちまったよ……。チョイトおまえさん、モシおまえさんてェば……それでも自分の家はわかるとみえて入ってくよ……おまえさん、どうしたのさ、気をたしかに持っておくれよ」
熊「イヤナニ北の方」
竹「ナニだれも来やァしないよ」
熊「イヤだれか来たというのじゃァねえ」
竹「それでも今おまえさんが来たのかッて、いったじゃァないか」
熊「そうじゃァねえ、北の方というのはおまえのことだ」
竹「アラわたしが北の方と名をかえるの」
熊「イヤナニ北の方、公達《きんだち》はいずくへまいった」
竹「なにをいうんだねえ、家にゃァ金の太刀なんざァありやァしないよ」
熊「金の太刀じゃァねえ、公達というのは河童野郎のことだ」
竹「アラ金坊が公達と名をかえたのかえ……金坊はいま油を買いに行ったよ」
熊「いけねえなァ、大名の若君《わかぎみ》が油なんぞ買いに行っちゃァ困るな」
金坊「ヤアおとうさん帰ってきたな、お銭《あし》をおくれ」
熊「ばかめ、大名の公達が銭《ぜに》をくれなんて、……北の方のそばへ行ってろ……。おっかァのそばへ」
竹「金坊や、お父さんは気が変になったんだから、おかあさんのそばへおいで」
熊「イヤナニ北の方、近国の城々にては、狼煙《のろし》をあげるか、物見《ものみ》いたせ」
竹「なにをいってるんだよ。こんな裏店で狼煙なんぞあげやァしないよ。線香花火もあげやァしない」
熊「そうじゃァねえ、蚊燻しを始めたか見ろってえのだ」
竹「アアいま家でも始めるんだよ」
熊「アイヤしばらく、ひそかにひそかに……。イヤナニ北の方……、大手を開門いたせ」
竹「なにをしろって」
熊「門口《かどぐち》を開けろってえんだ。表の戸を……表口が大手で、裏口がねえから搦手は裏の窓にしよう……。天主を開けろッ」
竹「なんだえ、天主てえのは」
熊「引き窓のことよ。……ウムそれでよし――、アイヤ北の方、軍扇《ぐんせん》を持ちまいれ」
竹「なんだえ、軍扇とは」
熊「ソレそこにある渋団扇のことだ」
竹「アイヨこれかえ」
熊「ウム、よしよし」
と渋団扇を持って門口へ立ちいでて大音《だいおん》に、
熊「ヤアヤア敵の面々よっくうけたまわれ、当城においては今宵蚊帳をつらぬによって何万にても、きたれやきたれッ」
竹「オイオイおまえさん、チョイト熊さん、なんだねえ。宅《うち》の蚊帳のないのを世間へ知らせるようなものじゃァないか……。ごらんな、ほうぼうで蚊燻しをしているのに、宅ばかり蚊燻しをしないでおもてを開放しているから、蚊がはいってきてしようがないじゃァないか。早く蚊燻しをしようよ」
熊「コリャたわけめ、静かにいたせ……。燕雀《えんじゃく》なんぞ大鵬《たいほう》の志《こころざし》を知らんや。女童《おんなわらべ》の知るところにあらず、下がりおろう……ウム敵は空城《くうじょう》と心得、乗り込み来たるわ……、アイヤ北の方、大手、搦手、天主を閉めろ」
竹「アイヨ」
とおかみさんが素直に裏表引き窓を閉めました。
熊「イヤナニ北の方、狼煙の道具持参いたせ」
竹「狼煙の道具なんざァありやァしないよ」
熊「わからねえ奴だな。睾玉火鉢に楠の根ッこだ」
竹「そんなら早くそういえばいいに……、サア持ってきたよ」
熊さんはこれを燻し始めましたからたまりません、家の中は一面黒煙、渦巻き立って眼口《めくち》へはいりますから、女房子供はおどろいて、
竹「ゴホンゴホン……ちょっとおまえさん……ゴホンゴホン、なんだねえ……ゴホンゴホン、裏表を締めて……ゴホンゴホンいぶされてたまるものかねゴホンゴホン……ハクショイ……ゴホンゴホン金坊や、お泣きでないよ、ゴホンゴホンハックショ……」
熊「ナニ煙《けむ》い……ウム、柔弱千万な、ナニこれしきのこと……あれ見よ、敵は狼狽《ろうばい》して右往左往と逃げまわり、みな討死《うちじに》とあい見えたり……。ヤアヤア敵の大将、どこにある。イザ尋常《じんじょう》に勝負勝負……。ヤアじゅうぶんに苦しみおるわい……アアうしろへまわってくる敵がある。卑怯《ひきょう》な奴……、ゴホンゴホン、アアッ反間苦肉の計略はまことに苦しいものじゃ。ゴホンゴホン、アアこれはたまらぬ。ゴホン……アイヤ北の方、大手、搦手、天主を開けろ」
竹「アア苦しい……開けろッていわないでも開けずにゃァいられない」
苦しまぎれにガタピシガタピシみな開け放しましたから、蚊は煙とともに表へ残らず出てしまいました。
熊「ヤアヤア敵にうしろを見せるとは卑怯なふるまい、引っ返して勝負勝負」
竹「おまえさん、いいかげんにおしよ、煙と一緒に蚊はみな出てしまったよ」
熊「サアサア早く表を閉めろ……。早く裏窓も引き窓も閉めろ」
竹「アラチョイト、ふしぎだねえ。蚊が一ぴきもいなくなったよ」
竹「そうか。煙くともあとは寝やすき蚊やりかな、アア古人の名吟、イヤナニ北の方、公達を抱えて臥床《ふしど》へさがれ」
竹「なんだえ、ふしどとは」
熊「河童野郎を連れて次の間へさがれというのだ」
竹「なにをいうんだね、次の間もなにもこの四畳半ひと間きりじゃァないか」
熊「それじゃァ縁の下へはいれ」
竹「犬の子じゃァないよ……。サア蚊がいなくなったから早くお寝《やす》みよ」
熊「おろかなことを申すな、油断大敵と申して、ウカウカ大将が寝られるか。万一敵が夜討ちをしかけまいものでもない。勝って兜《かぶと》の緒《お》を締めろとはかような時のいましめじゃ。油断をして寝首をかかれんとも限らん」
蚊「ブゥーン」
熊「ウム……。声がいたすぞ。敵の落ち武者とあい見えるわ……。ヤッ、アア額《ひたい》へ止まった……、ただひと打ち……ムムこいつ敵の旗持ちとあい見え、縞のももひきを着用しおる。雑兵小者《ざっぴょうこもの》の分際《ぶんざい》にて大将に向かって一騎打ちの勝負などとは蟷螂《とうろう》の斧《おの》をもって竜車《りゅうしゃ》に刃向かうがごとし、たったひと討ち、血は八方へ散乱いたした……コレ北の方、死骸を取り片づけい……」
竹「なんだねえ、おおげさな。そうぞうしくって寝られやァしない、早くおまえさんもおやすみよ」
熊「たわけめ、大将がそうやすやすと寝られるか」
蚊「ブゥーン……ブゥーン」
熊「イヤハヤこれは大変、夜討ちじゃ夜討ちじゃ」
蚊「ブゥーン、ブゥーン」
竹「チョイト熊さん、大変に蚊が出てきたよ。どうかしておくれよ」
熊「ああ天なるかな命なるかな我が武道もこれまでなり……サア北の方、支度いたせ」
竹「エエ支度……、なんの支度を」
熊「かく敵が押し寄せては、是非に及ばん。城を開け渡さずばなるまい」
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
巌流島《がんりゅうじま》
―――――――――――――――――――
当今はどこへまいりますにも、昔とちがいまして、まことに便利でございまして、以前のように駕籠《かご》や馬のやっかいになるということはトンとございません。どんどん世の中が開けまして、知恵のある方がいろいろなことを考え、飛行機もよろしいがときどき落ちるから危ない、もっとも安全なものをというので羽を付けて人間が飛んで歩くようなことを考える人がある。
ちょっと用達《ようた》しに行くから羽を出しなというので、そうなってくると落語家などは借金を質《しち》に置いても買うようなことになります。電車で掛け持ちも気が利かない。車もどうもおもしろくない。羽を付けてフーッと飛んで行く。寄席ばかりではない。どこへ行くにも重宝で、表から借金取りが来る、裏口から羽を付けて逃げて行く。けれどもまた先方には金があるから落語家の家にそなえてある羽よりけっこうなのを買う、ひとあおりで何十丁というような上等の羽で、落語家が逃げて行くあとから追いかけてきて、
金「オイオイ逃げちゃァいけねえよ」
落「イヤどうもあなたのはけっこうなお羽でげすな」
金「そうさ。おまえのような、そんな、弱い羽じゃァない。いくらおまえが裏口から逃げたっていけないよ。オレのほうでも羽を伸ばして追いかけて行けるから、どうだいあのほうはどうしてくれる」
落「そうですな、あのほうはさよう、来月の半ばまでお待ちなすって」
高いところで借金の言い訳などはあまり感心しません。もっともこれがもう出来たわけではない。あるお方が考え中だそうでございますが、当てにはならない。むかし駕籠へ乗って歩く時分にはずいぶん不便なもので、二人の人間が一人を担ぐという今の世の中からみれば知恵のない話で、当節では芝居ででも見るよりほか、市中ではまず見受けません。
なかにまた好奇《ものずき》な人があってどうか一ツこの駕籠を流行《はや》らせてみたいと、けっこうな駕籠に青簾《あおすだれ》を下ろして、蛇形《じゃがた》の単物《ひとえもの》かなにかで、駕籠舁《かごかき》さん二人、スタスタ担いで行く。目に馴れませんから、どうもおかしなもので
○「オイ」
△「エエ」
○「駕籠が通るじゃァねえか」
△「そうよ、めずらしいな、なんだろう」
○「なんだろうたって、きまってらぁ、葬式だよ」
△「エエ」
○「葬式だよ」
△「ウム、葬式にしちゃァ施主《せしゅ》も会葬者《かいそうしゃ》もいねえじゃァねえか」
○「ナニ貧乏葬式だ、投げ込み同様なものだ」
中にいる人は気が気でない。お金を出して乗って歩いて、駕籠を流行らせようと思ったのに、投げ込み同様な葬式だといわれては癪《しゃく》にさわるから、駕籠の中でエヘンと咳をすると、
△「オイ」
○「エエ」
△「いるじゃァねえか、葬式だって駕籠の中で咳をしているぜ」
○「じゃァ病人かな」
いよいよ癪にさわるから、駕籠の垂れをヒョイと上げて、中にいる人が
×「なにをいいやァがるんだ」
○「アアちがった、中のは狂人《きちがい》だ」
いずれにしてもいけません。シテみると世の中に廃《すた》ったことはどうしてもいけない。下手でもなんでも自転車ならおかしくない。ずいぶん気の利いた服を着て走らしてくる。先方から粋な年増や新造が来ると、出もしない洟《はな》をハンケチでうまくかんだりなんかして曲乗りをする人がある。けっこうな自転車で乗り手がお上手かと思うとヨタヨタしながら方向の定まらないような怪しいのがございます。
しかしだんだん見る物聞く物が変わってまいりまして、ことに今日では乗り物がすべてまことにけっこうになりましたが、変わらないのが渡し舟、どうかすると肥桶《こいおけ》と一座をしたり、あるいは馬と一緒に乗ることもある。穴守《あなもり》の渡し舟などでも、ずいぶんきたないのと一緒に乗ることがございましたが、橋がかかりましてからその憂いもトンとなくなりました。これはお古いお話しで、厩橋《うまやばし》にまだ渡し船があったころ、どうも時刻を争って乗ることがございます。もちろんどこの渡船場《わたしば》も陽気のよい時分にはずいぶん乗り手のあったもので、春先など、ふた月で一年の生活費《くらし》を取ろうというので、船頭もむやみに乗せたもので、少しご勘弁なすってくださいましと、頭の上へ間が悪いと下駄などを載せられることがある、込み合う時に新姐《しんぞ》やなんかあわてて向島《むこうじま》へ渡ろうという時に、
女「船頭さん乗れましょうか」
というと乗り合いの人が
○「アアねえさん乗れますよ」
△「エエ乗れますとも」
女「たいそう込んでいるようで」
○「ナァニ込んでいたって乗れますよ。この膝の上へお掛けなさい」
とたいそう親切な方がある。その後からお婆さんが来て、
婆「乗れましょうか」
○「危ない危ないもういっぱいだ」
意地の悪い奴があるもので……わずかの渡し銭《せん》で今の時間で五分か六分で向こう河岸《がし》へ渡れます。タバコの好きな人はタバコを喫《の》む。今日《こんにち》は巻き煙草などというものがあるが、その頃はいちいち煙管《きせる》を出して喫まなければならなかった。ちょうど今暮れ方でございます、厩橋の渡船場で、
船「出船でございます出船でございます」
と船頭が声をしわがらしてどなっている。もういずれも帰途を急ぐものでございますから、たちまち船はいっぱいになりました。中に一人のお武家がございまして、年の頃二十八九、三十がらみの目のすごいたくましい扮装《いでたち》で、天秤棒のような刀をさして、一杯機嫌でタバコを召し上がっておりましたが、ポンと小縁《こべり》で吸いがらをたたくとたんに羅宇屋《らうや》さんのごやっかい前で、ゆるんでいたものとみえて、雁首《がんくび》をポカリと落とした。
武「アアいかんいかん、コレコレ船頭船頭」
船「ヘエなんでございます」
武「船をとめてくれ、船をとめてくれろよ」
船「なんで船をとめます」
武「コレ早くとめんか」
船「なんでございます」
武「なんでではない、あれへ今|拙者《せっしゃ》がこの煙管の雁首を落とした。あの辺にあるから船をとめろ船をとめろ」
船「旦那、川の中へお落としになりましたか」
武「そうよ」
船「それやァいけません。とても取れません」
武「ナニ」
船「とても取れません」
武「なぜ取れん」
船「なぜとおっしゃって、小さなもので、ちょうど今|干汐《ひきしお》でございますから、水が少し早くなっているので、船が横に外《そ》れますから、入費を使ったところで、すでに取れません」
武「ハァいかんかな」
船「ヘエ」
武「どうも心外なことをいたしたな、こりゃァどうもいかんことをした」
と大変にお武家さまが力を落としている。スルとそのそばにおりましたのは、市中を徘徊《はいかい》いたします屑屋《くずや》さんで、この屑屋さんも商売人になるとなかなかむずかしいそうで、新米の屑屋ではいけません。鉄砲笊《てっぽうざる》を引っ担いで秤《はかり》を持って屑はござい屑はございと歩いている。貧乏長屋などにまいりますと、湿降《しけ》でも続いた時はどうも気がとがめて屑屋さん屑屋さんと声を出すことができない。その時にはかみさんがガラリと戸を開けて戸外へ出て、屑屋が通ると、屑屋さんと大きな声を出さないで、呼ぶような呼ばないような変なふりをしてみせる。その時に屑屋が、ヘエヘエただ今まいりますというのは素人で、商売人になるとただ合点をしてあまり音のしないように、ソッと入って表の戸を閉め、
屑「ヘエお払いはこちらでございますか」
こういう時にはかえって掘り出しものがございます。今渡し船に乗っておりますのは、商売人だけに吉原かぶりを取りまして、お武家さまがたいそう残念がっている前へ頭を下げて、
屑「エエ旦那さま、とんだことをなさいました」
武「アアどうもいかんことをした」
屑「エエ銀のようにお見受け申しました」
武「アア銀だ」
屑「お目方《めかた》もよほどございますようで、エヘヘヘヘ、どうもお煙管は吸い口ばかりではいたし方がございませんが、ヘエ手前は屑渡世をいたしておりますが、ご不用なればお代は高くいただきますが、いかがさまでございましょう」
かのお武家が、雁首を落としてムシャクシャしているところへ屑屋さんのきっかけが悪かった。物のちょっと言いどころが悪いと人間腹の立つものでムラムラとしたから持っていた扇子《せんす》で屑屋の頭をポカリ、おどろいたねどうも、不意をくったから、
屑「ヘエ」
武「コレ身共《みども》に対して吸い口の払い下げを願うとは、イヤどうもけしからん奴だ。コレきさまは、いやしき屑屋ではないか」
屑「ヘエ、どうぞご勘弁を願います」
武「なにが勘弁だ。無礼な奴だ。拙者は浪人をいたし、粗服《そふく》をまとっているが、きさまのような素町人《すちょうにん》に吸い口などを払う、さようなものではない、どうもあきれた奴だ。勘弁ならん」
屑「どうぞおゆるし願いたいもので、私がツイ気づかずに申しましたのが、まことに不調法でございました」
武「イヤ勘弁ならん、無礼討ちにいたすからこれへ首を出せ」
屑「ヘエ」
武「これへ首を出せ」
屑「ヘエ、この首で」
武「ナニこの首といって、他に首があるか、首がきさまのはいくつある。たわけたことをいうな。イヤ勘弁ならん。早々首を出せ。この川の中へ首を打ち落としてやる」
と柄《つか》へ手を掛けた。乗り合いの者はいろいろの話をしておりましたが、このようすを見てシーンとして誰一人口を出す者もない。こちらのほうにおりました二三人の職人
甲「オイオイ」
乙「エエ」
甲「かわいそうだな」
乙「ウムかわいそうだ。だからうっかり口は利けねえな」
甲「まったくだ。てめえなぞはおしゃべりだから、むやみにつまらねえことをしゃべるなてえのはここのことだ、口は禍《わざわい》の門、舌は禍の根というからな」
乙「なにをいいやァがる。講釈師のいうことを聞いてきやァがって」
甲「だけれども、かわいそうじゃァねえか、熊」
熊「エエ」
甲「おまえはふだん強がってるじゃァねえか、どうだ屑屋が困ってるから、詫《わ》び言《ごと》をしてやれ」
熊「ごめんこうむろう、いやだいやだ」
甲「強がっても、相手が相手だオレはもう武士とフグは大|嫌《きれ》えだ」
熊「おまけに相手が酔ってるようだ。こういうところへ口を出して、なにを余計なことを吐《ぬ》かす、よいところへ来た、ついでに手前の首も斬ってやるなど、いわれた日にはたまらねえ」
甲「この野郎、ふだん強がってるくせに、イザとなると意気地のねえ野郎だな」
誰でも相手が武士で、ことに酒気を帯びているようすでございますから、口を出す者がない。屑屋は途方にくれ、いろいろと詫び入りまするがいっこう勘弁をいたしません。かたわらにおりましたのは六十の上を二ツ三ツ超えました品のよいお武家さま、本所《ほんじょ》あたりのお屋敷へお帰りとみえまして、供を一人連れて、そのお供さんが槍を担いでそばにしゃがんでおります。見兼ねましたかのご老人のお武家、二三人の人を分けてそれへ進み、
老「アイヤお武家、手前もこれへ乗り合わし、委細《いさい》うけたまわったが、いかにも無礼な奴で……コレ屑屋」
屑「ヘエ」
老「お詫びしなさい」
屑「ヘエお詫びをいたしております」
老「どうもけしからん奴だ。お武家へ対して吸い口の払い下げを願うというのは、なにごとだ。イヤこれはご立腹の段ごもっともである。手討ちにいたすくらいのことは、拙者とても申すが、しかしかく詫びておる。このような者をお手討ちになすったところが、かえってお腰の物のけがれになる。どうかご勘弁のほどを願いたい」
武「イヤ勘弁ならん、このような者は無礼討ちにすればよろしいので、エエ勘弁ならん」
老「イヤ、しかしかく詫びておる。このような者をお手討ちにすると、お腰の物がけがれる。屑屋に代わって拙者がお詫びをいたす。平《ひら》にご勘弁のほどを願いたい。いかにもふびんな奴で、手前が屑屋に代わってこの通りお詫びをいたす」
武「ハア、これはおもしろい。なにか貴公《きこう》が屑屋に代わって……これはおもしろい。もとより好むところだ。このような素町人の屑屋を相手にいたしたところがトンと冴《さ》えん。さいわいお武家なればお相手を願おう」
老「イヤその儀《ぎ》は拙者はなはだ迷惑をいたす」
武「イヤ屑屋の代わりなら、相手をさっしゃい。ご老人といえども武家だ。いずれのご藩かご直参《じきさん》かは知らんがお相手を願う。拙者の姓名は申されんが、当時浪人でいかに尾羽《おは》打ち枯らせばとて、屑屋ごとき者に軽蔑いたされるははなはだ残念、いかにも無礼な奴だ。イヤサお相手を願う」
老「その儀はどうかご勘弁のほどを願う」
武「イヤ勘弁ならん。失礼だがご老人、お手前のお腰の物は竹光《たけみつ》か、イヤサご老人の刀は竹光か、拙者浪人いたすといえども、腰の物は竹光でもなければ鈍刀《どんとう》でもない。サアお相手を願う。貴公のは竹光か、ご老人の刀は……」
だんだん調子が荒くなってまいりましたから、どうか大事にならなければよいと一同の者は汗を流して心配をいたしております。かの老人はさまざまに詫び入っておりましたが、あまりのことに堪《た》えかねたものとみえて、ズッと額《ひたい》に青筋が出てまいりました。
老「ウム、これなる屑屋がふびんなればこそ、拙者代わってお詫びをいたしたが、おきき入れがない上は是非《ぜひ》に及ばん。好むことではないがよんどころない、いかにもお相手いたそう」
武「これはおもしろい、サア尋常に勝負をいたせ」
甲「オイ熊、見ねえ、大変なことになっちまった。今度は屑屋と武士《さむらい》じゃァねえ、武士同士になった。そうよ、騒動が大きくなってきたな」
熊「エエこんな安いものはねえな、これで二文《にもん》だ」
甲「安いたってあまり場所が近すぎるじゃァねえか、ここでおまえ斬り合いが始まってみねえ、のんきな顔をして見ちゃァいられねえぜ。抜き身がスーッと頭の上へ光ってきて、首から上を持って行かれた日にゃァ人間フイだ。こりゃァいけねえな。危ねえ危ねえ、モットそっちへ寄ってくんねえ」
乙「寄れねえよ」
甲「危ねえから、モットそっちへ寄ってくれというんだ」
乙「無理じゃァねえか。もうここは小縁《こべり》だから、寄れねえよ、てめえ川へ入んな」
甲「ばかなことをいっちゃァいけねえ」
老人はおちつき払って、
老「好むところではないが、お相手をいたす。しかし船でとやかくいたしては乗り合いの者が迷惑する。向こう岸に船を着けてのち相手をいたす」
武「もとよりだ。船頭なぜぼんやりしておる。早く船をこがんか」
船「よろしうございます。みなさん危のうございます」
○「オイオイ見ろや、屑屋が中へ入って困ってらァ。あの顔を見ねえ。こうなってくると屑屋は大変にボロを出したなァ」
△「洒落《しゃれ》をいうな」
この騒ぎのうちに船は岸へ着く
船「当たります」
というので船が横付けに着くと、かの武士は袴《はかま》の股立《ももだち》を高く取り上げる。船頭が
船「みなさんごゆっくりお上がんなさい、お武家さまを早くお上げなさるがいい」
武士はヒョイと陸《おか》へ上がりましたが、グイと袴の高はしょりをいたし、下緒《したお》を取って襷十字《たすきじゅうじ》に綾《あや》なし、目釘《めくぎ》を湿して長い奴をズイと抜いて仁王立ちに立ち上がったのは、居合い抜きが気が狂ったような塩梅《あんばい》、ご老人は立ち上がって、
老「ただ今上がる、逃げも隠れもいたさん」
武「早く上がんなさい」
老「よろしい、コレ作助《さくすけ》槍を出せ」
作「ヘエ」
老「槍を出せ」
作「お危のうございますよ。先方が若侍《わかざむらい》でございますから、旦那さまに過失《あやまち》でもあっては私がお屋敷へ帰れません。あいにく私が田舎者で剣術もなにも存じません。こういうことと知ったら、日ごろ旦那さまのおっしゃる通り、剣術を習っておきましたら、お助太刀《すけだち》もできましょうに、あいにく剣術を全然知りません」
老「なにを申す、ばかめ、槍を出さんか」
槍を取って二ツ三ツリュウリュウとしごいたが、槍というものは手もとへ繰り込むほうがむずかしいそうでございます。かのご老人は二三度しごいてズイと張ると思うと石突きを返して、グーンと石垣を突いたから、かの船がズーッと後へ戻った。船頭はじめ不意をくっておどろいたが、陸の武士大いに怒り
武「コレコレ船を戻してはならん」
作「旦那、これはうまいご工夫でございます」
老「これを巌流島の計略というのだ。早く漕《こ》げ」
船「かしこまりました」
と船頭がグイグイ棹《さお》を突っぱるからだんだん川のほうへ出る。陸に上がった武士
武「どうもけしからん奴だ。船頭、船を戻してはならん」
老「かまわんから戻せ」
船「よろしうございます」
作「うまい工夫でございます」
一同の者
○「どうもけっこうでございます。屑屋さんお礼をいいねえ、おまえを助けてくだすったんだ。あの武士を見ろや、置いてきぼりをくいやァがった」
武「どうもこれはけしからんな。コレ老人|卑怯《ひきょう》だぞ、船を着けろ、コレ……」
△「ヤアばか野郎、真っ赤になって怒ってやがる。馬鹿|武士《ざむらい》、てめえが両国《りょうごく》をまわってくるうちには、オレたちは向こう河岸へ着いて、家へ帰って茶漬けでも食って寝てしまわァ。ばかやーい」
と一同船の中でワイワイ囃《はや》すから、かの武士真っ赤になってウーンとにらんでいたが、なにを思ったか、バラバラと桟橋のところまで駈け出したようす、オヤッと見ていると袴《はかま》を取って帯を解き、裸体《はだか》になって短い刀を口にくわえたなりに、ドブーンと飛び込んだまま、しばらく浮かない。
○「オイ見ねえ、武士が飛び込んだじゃァねえか」
△「ウーン飛び込んだ。浮き上がらねえが、水をもぐって来るんじゃァねえか。こいつあ困ったな……モシ旦那エ、あの武士は飛び込みましたぜ」
老「よほど水練に長《た》けておるとみえるな」
○「ヘッ武士が怒ったんだ。てめえが馬鹿武士だのなんのとつまらねえことをいったもんだから、刀をくわえて飛び込んだ。船の底へ穴を明けられた日には大変だ。わしャ泳ぎを知らねえから、助からねえ。旦那どうしたらよろしゅうございましょう」
老「コレコレさわぐなさわぐな、突っ立ってはいかん、しゃがんでおれ。立ちさわいではかえって危ない。しずまれ」
かのご老体は舳《みよし》のほうへ出まして、槍を小脇にかき込んで、四辺《あたり》をジイッと見ておりますと舳のこっちへヌーッと最前《さいぜん》の武家が浮き上がりました。これを見るとご老人が
老「コレあざむかれたるを残念に思い、水中をもぐって船の底でもえぐりにまいったか」
武「ナニ先刻の雁首を探しに来たのだ」
[解説]講談のほうでは佐々木巌柳に同様のがあるので、かような題名をつけたのであろう。続き話のごとく重々しく振り込んで軽く落とすところ、真打ちのやるべき大物である。
[#改ページ]
―――――――――――――――――――
湯屋番《ゆやばん》
―――――――――――――――――――
よく楽しみということを申しますが、この楽しみがなかなか苦労なもので、苦労しいしい楽しむというのはわからない話でございますが、苦は楽のたねとか、楽は苦のたねとか言って、楽しみの中にも苦しみがありますものだそうで。
もっともお年を召した方の楽しみと、若いうちの楽しみとはちがいます。まず若いうちは、男子《おとこ》は、花柳界《かりゅうかい》で遊んでいらっしゃるくらいお楽しみはございません。これへあまり通い詰めました果てがご勘当《かんどう》となる。当今は勘当というものがなくなったようでございますが、やっぱり廃嫡《はいちゃく》とか、長男除きなどといろいろございます。
毎度申し上げることでございますが、米の飯《めし》と天道《てんとう》さまは付き物だといって、勘当されても初めのうちはその苦労がわかりません。わたしのところの親父も死んだ亀の子で、話せなくって困る。世の中を知らなすぎる、少しは世間を見たらよかろうというと、愛宕山《あたごやま》から九段《くだん》へ行って、世間を見てきたってようなことをいうんだ。……アアいう爺《じじい》だよ、電信へ小包をブラ下げたら早く届くだろうッていうなァ。
あんな野暮な親父にどうしてオレのような粋《いき》な伜《せがれ》ができたろうと、陰口にいろいろなことをいっているけれども、さて勘当となってはしようがございません。初めのうちこそいくらかもらった涙金《なみだきん》があるから、のんきな顔もしているが、いよいよ金がなくなってしまうと、古い川柳に
親父より先へ見限る幇間《たいこもち》
幇間《たいこもち》銅羅《どら》をたたいて陣を引き
などというようなことになります。サアこうなるとマゴマゴして、心易い者のところをたよって食客《しょっかく》でございます。食客というと体裁がよろしいが、早くいえば居候、遅くいったって居候、
居候置いて合わずいて合わず
というが居て合わないことはないが、置いて合わないにきまっております。けれども川柳のほうでいうと居候は女の敵でございます。中に如才《じょさい》ないのは
居候しようことなしの子煩悩《こぼんのう》
また中には憐れな居候がある
居候三ばい目にはソッと出し
中にひどいのは
居候出さば出る気で五はい食い
居候嵐に屋根を這いまわり
などというのがある。また困るのは
出店迷惑様付けの居候
居候にいくらか遠慮をしなければならない。お出入りの職人がお店の若旦那を預かるなどというのは、ずいぶん迷惑をいたします。かみさんにはぐずぐずいわれる。
女房「どうするんだよ」
亭「エエ」
女「どうするんだッてえば」
亭「なにをどうするんだ」
女「なにをどうするったって二階のをさ」
亭「ウム、弱ったなどうも」
女「本当に困るよ」
亭「しかしおまえはそういうがな。あの人の親御は、オレの代じゃァねえが、親父の代に世話になった人で、その息子さんだと思うから、生意気にちょっと一言口を利いたのが災難で、こうやって家へ引き取るようなことになったんだが、マアお世話をしておきやァ、将来悪いこともねえだろうから、そこをひとつ考えて我慢をしてくんねえ」
女「だっておまえ、親身《しんみ》の親でさえあきれるくらいな代物だから、もうダメだよ」
亭「ダメだってそこを辛抱《しんぼう》して……」
女「いやだよ。まったくいつまでときめて引き取ったんだえ」
亭「なにも年を切って家へ置くというわけじゃァねえけれども、もう少しだから辛抱しろというんだ」
女「わたしはもういやだよ。一言おきにおまえは世話になった世話になったというが、そりゃァおまえさんはどんなに世話になったか知らないけれども、わたしは知らないんだからね。家だけのことなら辛抱もしようが、お長屋の方にまで迷惑をかけるんじゃァないか」
亭「なにを」
女「なにをッたってこの間も物干しへ傘を干しておくと、その番傘《ばんがさ》を引っ担いで、芝居のまねかなにかするとたんに、二階にあった万年青《おもと》の鉢を蹴飛ばして、下をご差配の旦那が通って、もう少しで頭へ打ちつけるところ、ほんとうにビックリしたよ。第一|無精《ぶしょう》でね。風が吹いたって表へ水を一つまいてくれるじゃなし、本当にばかばかしい。どうしてもおまえあのひとを置くんなら、わたしは出て行くからそう思っておくれ」
亭「困るなァどうも、二言目には出て行く出て行くというけれども、嬶《かか》ァを出してまでも居候を置くというわけには行かねえからな、……いいや、マアなんとかしよう。……どこへ行ったろう」
女「どこへも行きやァしない。まだ寝ているよ」
亭「エーまだ寝ているのか。あきれたなァ」
女「ソレごらんな」
亭「マアいいや。おまえがいると面倒だから、おまえちょっとお花さんのところへでも行ってきねえ。……なにも邪魔にして追い出すわけではねえが、お互いに顔を見合わして言い争いでもすると仕方がなしにおまえに拳《こぶし》の一つも当てるようなことがあると、おまえだってばかばかしいから行ってきねえというんだ。……オイオイ行くんなら煙草《たばこ》の箱を持っていきねえ、お先煙草をしなさんな。あまりまたべらべら饒舌《しゃべ》んなさんなよ。……本当に理窟がわからなくってしようのねえ擂粉木《すりこぎ》だ。また二階のもそうだ。よく寝るじゃァねえか、何時だと思ってるんだ。アア、ミシリって音がした。寝返りでもしたんだろう。……オオ徳さん、徳さん、……返辞をしねえね。アアここにほうきが転がっている。ほうきで一つたたいてやろう。……オヤオヤ天井がほうきの跡《あと》だらけだ。……オイオイまだ寝ているんですかえ、いいかげんに起きなくっちゃァいけませんぜ」
徳「ナニ寝ちゃァいないよ」
亭「起きてるんですかえ」
徳「起きてるとも付かず、寝てるとも付かず……」
亭「どうしてるんで」
徳「壁へ足を付けて横に立ってる」
亭「やっぱり寝ているんじゃァねえか。ちょっと話しがしてえんですが、降りてきておくんなさいな」
徳「アア雌鶏《めんどり》すすめて、雄鶏《おんどり》時をつくり始めたね。ずいぶん悧巧《りこう》ばった顔をして小理屈《こりくつ》の一つもいうけれども、自分のことはわからねえや。あの嬶ァが良いと思ってるなァ、アア世の中は変わったものだ、アアア――ア」
亭「たいそう長いあくびだな。ちょっと降りてきておくんなさい」
徳「アイヨ、――アアいやだいやだ。……おはようござい」
亭「おはようたってあんた、何時だと思ってるんで」
徳「おまえも今まで寝ていたのかえ」
亭「ふざけちゃァいけません。もうとっくに起きて得意先をひとまわり廻ってきたんで」
徳「起きてる者が寝ているものに時を聞くとはこれいかに」
亭「問答しちゃァいけません。マアお坐んなさい」
徳「坐ったらどうするんで」
亭「どうもしやァしませんが、じつはね、あんたに私もこういうことをいうのはじつに言いにくい、言いたくもない」
徳「私も聞きたくない」
亭「それじゃァ話しができねえじゃァございませんか。じつはね、今よそから帰ってくると、家《うち》の奴がなにかいうんでげす」
徳「アア家の奴がまたなにか、おまえに焚《た》き付けたんだね」
亭「イエ私んところのお多福だって悪いが……」
徳「チョットお待ち、お多福。そういうと悪いがお多福というのは、アアいう容貌《かお》じゃありませんよ。ニッコリとした愛嬌のある顔がマアお多福、俗におかめの性《たち》の良いのだ。おまえンところのかみさんのことは、正直にいうと、お多貧乏《たびんぼう》というんだ」
亭「なにもおまえさんに降りてきてもらって、嬶ァの面《つら》の讒訴《ざんそ》を聞くんじゃァありません」
徳「言いたかァないが、物のついでだからいうんだが、全体なんですかえ、あのかみさんを良いと思って持っているのか、悪いと思って持っているのか、それがうかがいたい」
亭「良いにも悪いにも、マア嬶ァのほうはどうでもよろしゅうございます」
徳「どうでもよくはない。じつにどうもかみさんはどういうわけでアア意地が悪いんだろう。折々《おりおり》おまえさんになにかいうごとに二階で聞いて知っていますよ。君の困るということもお察し申さないことはない。お察し申さないことはないから、私もマアできるだけ、ご用は達したいと思うけれども、いかにも意地が悪いね。たとえば水をまいてもらいたいと思ったら徳さん水をまいておくんなさいといえば、私だってハイといってまきますよ。それを言いつけないで、いやみにいうんだからね。どうかするとバケツの中へトタンの柄杓《ひしゃく》を入れてガランガランとかきまわして、蒸気ポンプとでもいう洒落《しゃれ》かなんか知らないがこう風が吹いちゃァ火事でもあったら大変だ。第一ほこりが立ってしようがない。ご近所では若い人がみな水をまくからよいけれども、家にゃァ若い人がいたってまいてくれやァしないと身体《からだ》をゆすぶっていやにすねるがね、どうもすねるガラじゃァないよあの身体は、私だって癪《しゃく》にさわるじゃァないか。それが済むと今度は、味噌こしへいくらかお銭《かね》を入れてガラガラ振って、お豆腐のお汁をこしらえようというんだが、若い者が今いないし、チョットお豆腐の一丁くらい小買い物に行く者がなくって困るとこういうんだ。いやな言いぐさだと思うけれども仕方がない。お豆腐なら買ってきましょうといって、私が味噌こしを持って路次口《ろじぐち》まで出たけれども、路次のところに近所の娘ッ子が大勢立って、なにか話しをしてるじゃァないか。味噌こしを下げて出る形はあまりよくないものだと右《と》つ左《お》いつしていると、いつも裏へ来る豆腐屋がやってきたから、その豆腐を一丁買って入ろうと思ったが、おまえンところのかみさんはどういうものだか、売りに来る豆腐は気に入らない。どういう訳だというと、売りに来る豆腐はやわらかくっていけない。横町の豆腐がかたくっていいってんだが、根岸《ねぎし》までわざわざ売り切れないうちに、やわらかい豆腐を食いに行く世の中に、かたい豆腐が食いたいというのはよっぽど妙だね。それだから裏へ来る豆腐を買ったといっちゃァ帰れない、横町まで行って買ってきたふりをするんだが、時間がかからなくっちゃァいけない。どこで時間を延ばそうかと思うと、こういう時には知恵の出るものだ。それを持って共同便所へ行ったがね……」
亭「きたないね、食べ物を持って便所へ入っちゃァ」
徳「時間を計って行ってきましたというと、こりゃァ裏へ来る豆腐じゃァありませんか。イエ横町へ行って買ってきた。ウソをおつきなさい、横町の豆腐と裏へ来る豆腐とは、横のほうの布地でちがうといったが、豆腐の鑑識《めきき》は明らかなものだ。そんなことはどうでもいいが、こうしてごやっかいになっているけれども、どうかご飯だけはチャンと食べさせていただきたい」
亭「徳さん、いやなことをおっしゃいますね。なんでげすか、私どもの嬶ァがご飯を上げませんか」
徳「イヤそうじゃァない。食べさせないとはいわないが、食べさせるような食べさせないようなそこの工合《ぐあい》はじつにいやだね。物のついでだから話しをするけれども、私がご飯を食べようと思うと、徳さんお給仕をしましょうと、春藤玄蕃《しゅんどうげんば》みたいに飯櫃《おはち》をグイと引き付けてね、居候のお給仕は食いにくいものだよ。今日はご飯が硬《こわ》いから、少し練って上げましょうというが、練るんじゃァない。ただ飯杓子《しゃもじ》でもって、ピシャピシャとたたくから、上はいっぱいご飯があると見えて中はがらんどうだ、まるで香具師《やし》が曲げ物へ油を詰めるような塩梅《あんばい》しきだ。お茶をかけると端のほうからだんだん中のほうへ解け込んでくる。いやなことをいうようだが、雪の中へ小便をしたようだ。お茶漬けサクサクとはゆかない。サッと一口に食べてしまう。二度目に出すと、お茶かご飯かというんだが、二度目にお茶を呑むものはない、三ばい目に出すと、お茶かお湯かという。はなはだしい時には小楊枝《こようじ》かというが、楊枝を使うほど口へご飯が入りませんや。せめて腹いっぱいというわけにゆかないまでも、腹八分だけ食べたいと思ってね。表を見ると、清元《きよもと》の師匠がしきりに−ハンケチかなんか洗ってるようすだから、そばへ行ってゲイゲイいっていると、どうかしましたかと聞いた。ヘエ小魚の小骨が咽喉《のど》へ立ったんですが、お師匠さん象牙の揆《ばち》があるなら拝借をしたいというと、師匠が眼の縁をポッと赤くして、あのこのあいだ引っ越し祝いにたのまれて行って、ツイ揆を置いてきました。咽喉へ骨を立てたのなら、それよりもご飯のかたまりをチョイと呑めばじきに取れますというから、しめたと思ってすみませんが、私のところでは今飯櫃を洗ったんですが、お宅にありませんかというと、エエ勝手にあるからお上がんなさいというので、師匠のところの台所へ這い込んだ」
亭「どろぼう猫みたいだね」
徳「飯櫃のふたを取ってみるとご飯が八分目ばかりある。蝿帳《はいちょう》から丼《どんぶり》を出してね、こいつへテンコ盛りによそって、水かけ飯《めし》を食ったね。大きい丼で三ばい食べて、四はい目を盛ろうと思うと、師匠が入ってきて、背中を一ツポンとたたいて、徳さんなにをするんですね、お茶漬けじゃァいけません。かたまりを呑むんですよというから、それはありがたいと、今度は赤ん坊の頭のような塩むすびを三ツこしらえて食った」
亭「どうも徳さん飯をもらって食って歩くというなァ困りますな。……イヤわかりました。そういう了簡でお世話をしたわけじゃァないんで、ようがす、嬶ァをたたき出して……」
徳「イヤ怒っちゃァいけない、これは内々《ないない》の話しだ。おかみさんにこんなことをいわれると、ことが面倒になる。よしや物が納まったにしたところが、あとあとまでも心持ちが悪いから、これはこの場限りに聞き流してもらいたい。ついでだから話したようなものだが。……しかし棟梁《とうりょう》、いつまでこうやってやっかいになっているのもなんだから、どこかへひとつ奉公をしようと思うがどうだえ」
亭「なるほど、あんたが奉公する気があるならおいでなさいというと、おまえさんを追い出すようだが、そうじゃァない。私のところの二階にこうやって転がっていた日には、お宅のほうの首尾をどうするこうするというわけにも行きません。奉公というのはしごくよいお考えだが、しかしどういうところへご奉公に行くつもりでございます」
徳「なんでもマア、口のあるところへ行ってみようじゃァないか」
亭「そりゃァ徳さんいけません。なんでもよいから行ってみようというが、ご自分でなにかこういうことなら辛抱ができようという見込みがなければ、なかなか奉公はできるわけのものじゃァございません、なにか考えがあるならそれをおっしゃい。それによって口を探そうじゃァありませんか」
徳「なんでもいいんだがね、ただ私の望みというのは、扮装《なり》をくずさずに、なんにもしないで坐っているんだ。それで給金をくれるところはあるまいか」
亭「そんな奉公はどこへ行ったってありやァしませんよ」
徳「ウム」
亭「アア、うってつけのがあるがどうです」
徳「なんだい、男妾《おとこめかけ》かえ」
亭「冗談いっちゃァいけません。風呂屋の番頭というのはどうで……」
徳「ごめんこうむる」
亭「いけませんかえ」
徳「いけませんかッて、ありゃァできませんよ。ねえ素っ裸で流しを這いまわって、女の背中へつかまるのはうれしいけれども……」
亭「イエ、そりゃァおまえさんにしろったって、とてもできるもんじゃァありません。流しじゃァないんで、番人なんですよ。着物の番さえしてればいいんで」
徳「なるほど、あれならよかろう。女湯だけを……」
亭「おまえさんはじきにそんなことをいうが、女湯だって男湯だって、両方見なければいけません」
徳「それでもマア女のほうを念入りに見て、男のほうはどうでもよい」
亭「そんなことをいっちゃァいけません」
徳「よろしい、やりましょう。じゃァただ行ってもいいかえ」
亭「ただ行っちゃァいけません。手紙を書くからそれを持っておいでなさい。第一行く先がわからなくっちゃァいけない。知ってましょう。柳湯《やなぎゆ》を……」
徳「アア、柳湯、心得てる」
亭「ついてはあんたがおいでなさるというからお話しをするが、どうもあんたは無精ですよ。そういうと悪いが、先へ行ったらもう少しマメ+にしなくちゃァいけません。家にいるのとはちがって奉公ですから」
徳「よろしい、わかった。先方へ行けば働きます。なにもここにいるから働かないというわけではないが、おかみさんの扱い方も悪いし、それにはお心やすだてがすぎるんでね……」
亭「どうかそれをひとつ気をつけておくんなさらなくっちゃァいけません。じつは二三日前に会って話しが出たんだ。私の心易い友達の親類なんだが、ことによったら、もう代わりができたかもしれませんが」
徳「よろしい。じゃァこの手紙をもらって行きますよ。……おかみさんにもよろしく」
亭「辛抱なさいよ、さようなら……」
徳「イヤ棟梁もアンナ人間じゃァなかったが、嬶ァが変テコだもんだから、やっぱり様子が変わってきた。……アアここだここだ、良いお湯屋だね。この辺は場所柄だが、この節はどこへ行ってもお湯屋がきれいになった。ハイごめん……」
主「こっちは女湯ですよ」
徳「ヘエヘエ。オヤオヤ女が一人もいないや。朝のうちのせいか。イエ客ではないんで、棟梁のところからまいりました」
主「アアそうですか。おおきにご苦労さま。このあいだ途中で会いましたが、アアお手紙ですかえ。マアおまえさんこっちへ上がって一風呂お入んなさい」
徳「ヘエありがとうございます」
主「アアなるほど、この手紙のようすではおまえさんが……このあいだ会った時、ちょっと話しをしたが、まだ代わりはない。なんですかい、家へ奉公したいというのはあんたかい」
徳「ヘエあんたで……」
主「なんだ。この手紙で見ると、ご放蕩《どうらく》の果てのようだが、辛抱ができますかね」
徳「しかしこれもご縁ものだから、私のほうでいくら置いていただきたいと思っても、あんたのほうのお気に入らなければそれまでで、とにかく辛抱をする気でまいりました。どうかよろしくお願い申します」
主「ごもっともだ。それじゃァマアこっちへお上がんなさい。ご飯は上がってきなすったか、……じゃァちょっと、番台へ代わっていただきたい。先刻《さっき》ッからご飯ご飯というんだが、一人っきりで代わる者がないんで、困っていたところだ。男湯のほうに二三人しかいないが、混み合う時より二三人というすいてる時がかえって物騒だから、すまないがどうか番をお頼《たの》う申します。話しは後にしますから……」
徳「さようでございますか、ごゆっくり召し上がってください。私がそこへ上がりますから」
主「アアちょっと待って、……私が下りなければ上がれない。……サア上がっておくんなさい。それからね。糠《ぬか》といったらその後ろの棚に箱がある。糠袋もそこにあります。それへ二杯半ばかり入れてください。三杯入れてもよいが、もみにくいから。……流しは男湯が一つで、女湯が二つ。拍子木《ひょうしぎ》をお頼《たの》う申しますよ。それからね、気をつけておもらい申したいのは下駄だ。新しい、いい下駄でも取られると、買って返すッたって大変だから、……どうぞお頼う申しますよ」
徳「ヘエ」
主「これがせっけんの箱で」
徳「ヘエよろしうございます。……アア湯屋の番台というものへ初めて上がってみたが、のんきなものだ。こっちが男湯でこっちは女湯だが、女のほうはどうしても午後でなければ客が来ない。男のほうは色気がないね。アッあの人はおどろいたな、流しへプップと痰《たん》を吐くが、警察のお触れの出ているのがわからないかしら、困ったものだね。……しかしこうやって坐っていればこれでいいんだ。湯屋の番頭だって、一《ぴん》から十《きり》まである。よだれと水っぱなをたらしていちゃァ色気がないが、……まずお世辞が肝腎だ。ガラガラ、ヘエいらっしゃいまし、いらっしゃいまし。女湯と男湯のほうへ首をふり分けて、いらっしゃいいらっしゃいとおじぎばかりしていると頭痛が起こって、脳病《のうびょう》持ちには勤まらない。これは首は下げないでもいいから愛嬌をふりまくに限る。女湯のほうでガラリ、いらっしゃいまし番台が変わりまして、新参《しんざん》ものでございます。よろしゅうどうか願います、とお世辞をふりまく、娘ッ子などは二三人連れできて、のぼせ性の者は、先へ上がって待ってる間、手持ち無沙汰、団扇《うちわ》使いでもしているところを番台から、ねえさんこのごろお芝居へおいでになりましたか。そこは新造《しんぞう》っ子はお芝居とくれば、どうとかこうとか話しをする。役者のうわさになって、自分の好きな役者を賞《ほ》められれば、まんざら悪い心持ちはしないや。娘たちは口が早いから、近所の友だちへ話しをする。今度良い番台さんが柳湯へきたよ。本当にようすが良くっていやみのない、キリッとしたところが吉右衛門のようで、そうかと思うとフックリしたところが菊五郎の形があって、サッパリとしたところが高島屋で、品の良いところが成駒屋《なりこまや》で、粋なところが羽左衛門《うざえもん》だというようなことを評判するから、だんだん女湯のほうが繁昌してくる。したがって男湯のほうも繁昌する。
そうなると主人がホクホクして、よい奉公人を置き当てたと大喜び、……いらっしゃいまし、ヘエお流しでございますか。ヘエいらっしゃいましどちらが一つでどちらが二つだか忘れてしまった。無茶苦茶に拍子木を打ってやろう。……アハハハハハ番頭めあんなに湯をくんで両方へ積み上げやがった。エエ番頭さん男湯だけでございますよ。ヘエお一人なんで、フフふくれてやがる。……それはいいが、ここでこんなことをしてただお世辞ばかりいっていてもしようがない。なにかなじみを一人こしらえよう。色は年増《としま》にとどめを刺すというが、また新造もいいものだ。けれどもね、いよいよ別れる時に新造は面倒だ。死ぬの生きるのと、いろいろいわれると、罪をつくるもとだからね、マア新造はよそう。後家《ごけ》だねえ。後家を情人《いろ》にすれば小遣い銭には困らないが、しかしそれも三十四五というところは良いが、五十六十になる婆ァではお荷物だからね。エーと、ここは芸妓屋《げいしゃや》が遠いから芸妓《げいこ》は来ない。茶屋女は忙しくっていけず、稽古所のお師匠さんというと、町内の張り子たちににらまれる。間男《まおとこ》はなおいけない。こうなると対手《あいて》がいないな。……アアあるある囲い者が良い。川柳に、安囲い突っかい棒が二三本、定《きま》った旦那は二三人で、あとは数知れずなんて、そんなのはいけない。なんでも旦那は一人っきり、少し年をとってる旦那で日曜ごとに来るとかなんとかいう、そういう囲い者になると、お湯へ来るにも一人じゃァ来ない。女中に浴衣《ゆかた》を持たして、お湯のことだから、ちょっと白木台の下駄とか、甲の薄い吾妻下駄《あずまげた》かなんかで、カランコロンと下駄の音だっていいや、あとから女中がギイギイ少し歯がゆるんでいるんで、直せばいいんだけれども、不精だからね、ガラガラ格子を開けて入ってくる番台へお鳥目《ちょうもく》を置く、いらっしゃいまし。新参者の番台でございます。なにぶんご贔屓《ひいき》に願いますというと、そういうのはなんにもいわない。オヤそうといいながら、チョイと横目でオレの顔をジロリと見る時に、ボーッと目の縁が紅くなる。これがエレキだかラジオだかなんにもいわないで、女中とコソコソ話しをしてその日は帰る。二三度来るうちに女中から先へ取り入っていろいろ話しをする。そのうちにこのお妾《めかけ》さんとも心易くなって、チョイチョイ話しをする。番台さん、お暇の時チトいらっしゃいましとかなんとかいう。ありがとうございます、ぜひうかがいます、といったところでお湯屋はチョイチョイ休みはないや、検査日に半日休みがあるかぎり、そのうちにいい塩梅に釜が損じてお休みになる。今日行かなければ行く時はないというのでチョイと出かける。いずれ夏のことで、結城《ゆうき》の十の字|絣《がすり》の単衣《ひとえ》……湯屋の番台の結城の単衣も変だな、マア白薩摩《しろさつま》とくれば無難でいいな。
夕方前を通ると表に女中が水をまいている。わざわざ水をまく先へやって行くと、パッとまいた水が、少しオレの足へかかる。アレごめんなさいよと言いながら顔を見て、アラ誰だと思ったら番台さん、マアお入んなさいよ。オヤここでございますか。今日はどちらへ。いろんな話しをしている。出窓の簾《すだれ》の中で年増がなにか一人で焦《こ》がれているところへ、オレの声がしたら、簾をまくって女中に、チョイとおたけや、誰だい。イエ柳湯の番台さんですよ。オヤそう、お入んなさいな、今日はどちらへ。ヘエちょっと釜が損じてお休みになりましたから。……イヤよそうよそう、釜が損じたでは色消しだ。チョイと仏参りにまいりました。オヤマアお若いのに感心ね、お休みならよろしいでしょう、お上がんなさいな。じゃァごめんなさい。格子へ入って玄関から茶の間を横に見て、奥は六畳に八畳、中庭が取ってある。六畳の座敷へ通って、番台さん、今日はもうご用はないんでしょう、マアお休みならゆっくりおしなさいなと、女中になにか言いつける。一口どうでございますと言われた時に、ここがむずかしいんだ。けっこうでございますといって、盃《さかずき》を取る。先方が呑み手ならば合い口でいいが、先方が呑まないというと、あの人もいいが、酒呑みだからいやだといわれると困る。いただけばいただきます、いただきませんければいただきません、そんな変なこともいわれず、先方で気を利かしてビールかなんか氷を添えて持ってくる、呑みながらよもやまの話しになるんだが、ここでオレが長居をしたくない。初めて来て長ッ尻《ちり》だといわれちゃァいけない。といってさようなら、おやかましゅうといった時に、マアもうひとついいじゃァありませんかといってくれればいいが、オヤそうとすましていわれると、またそこへ坐り直すわけにもゆかず、ここに至って雨がぜひいるね。いやに蒸し暑いところで、にわか雨が来そうに曇ってくる。どうも空具合が悪くなりましたからお暇《いとま》を。マアいいじゃァありませんか、降ったって通り雨だからじきにやみますよ、言ってるうちにザーッと降ってくる。降り込むから縁側《えんがわ》を閉める。家の中がドンヨリ暗くなる。どうも雨ばかりでは色気がない、雷さまをここへ配剤してもらおう、日光の中禅寺《ちゅうぜんじ》あたりからガラガラガラ、あまり大きいとなんだから、小雷公《こかみなり》をひっぱってきてもらいたい、ゴロゴロゴロガラガラゴロゴロゴロ、ピカッ、ガラガラガラ……アレおたけ蚊帳《かや》をおつりよ。目関《めせき》の寝ござを敷いて蚊帳をおつり、女中は怖いから、桑原《くわばら》桑原|万歳楽《ばんざいらく》、自分の部屋へとじこもってしまう。かみさんは中へ入って、番頭さんこっちへお入んなさい、と深草の団扇でオレをあおいで呼んでいる、とたんにピカリ、ガラガラガラピッシャリ近所へ落雷をする。女の持ち前|癪《しゃく》という奴でウーン、あまり近い所へ落ちるとオレも一緒に目をまわす、雷さまにほどのよい所ヘ落ちてもらう。女中衆女中衆と呼ぶけれども鼻薬が当てがってあるから、女中はわざと来ない。仕方がないから蚊帳をもぐって中へ入り、抱き起こして水を飲ませる。ハッと気がつくとパッチリ眼を開いて、オヤ番頭さんありがとう……」
ピシリッ。
徳「アイタ、なにをなさるんで」
職「狂人《きちげえ》、あきれ返って物が言えねえや、先刻から番台番台といってるのに、おまえの耳に入らねえのか」
徳「なんのご用か知りませんが、下から顎《あご》を突き上げるのはひどうございますね」
職「頭へ手が届かねえからだ」
徳「なにかご用で」
職「なにかご用じゃァねえ、着物も腹がけもありやァしねえ」
徳「どこへお脱ぎなすったんで」
職「その向こうにある籠《かご》へ脱いといたんだ」
徳「よく見てください。エエございませんか」
職「ありゃァしねえよ」
徳「ヘエ、誰が持って行きました」
職「ナニ」
徳「誰が持って行きました」
職「ふざけるねえ。誰が持ってったか、持ってった者がわかるくらいなら、さわぎやァしねえや」
徳「だまって持って行きましたか、ハテこれはけしからん」
職「こん畜生《ちきしょう》、どこまで人をばかにしやァがるんだ」
ピシャリ。
徳「アッ、どうもおどろきましたな」
主「モシあんたどうなさいました。なにか粗相《そそう》をいたしましたか」
職「アア親方かえ。じょうだんじゃァねえ、番台が変わったようすで、入る時からなんだかいやな奴だと思ったが、おかしくもねえことを、ゲラゲラ笑いやァがって、湯の中で見てりゃァ、女の身ぶりをして、変な声を出してると思うと、稲光から雷の仮声《こわいろ》まで使ってやがる。上がってきてみると着物が無えや。それも仕方がねえが、お気の毒さまぐらいなことをいっても罰《ばち》は当たるめえ、誰が持ってまいりましたの、だまって持って行きましたのかッて、あまり人をばかにしてやァがる」
主「ヘエごもっともさまでございます、新参者でツイ馴れませんものでございますから。ヘエヘエどうもまことに相すみません。……オイオイ松公《まつこう》松公、オレのあの浴衣の洗ってあるのを、持って来ねえ。……まことになんでございます、どうか親方これを召していらしってくださいまし。いずれお詫びにうかがいますから、どうぞご勘弁くださいまし。まことにお気の毒さまで。ヘエ、ごめんくださいまし、さようなら。どうしたんだおまえさん」
徳「どこの者だか恐ろしい嫉妬家《やきもちや》でございます」
主「なにが嫉妬家だい」
徳「私があそこへ行ってまだお酒を呑みながら話しをしているうちはなんにもいわないで、蚊帳をまくって中へ入って、水を呑ませたんで腹を立って、突然ポカときたんでございます」
主「なんだかちっともおまえの言うことはわからない」
徳「さようでございますか、私にもわかりません」
主「ふざけちゃァいけない……」
ここの家を追い出されまして、これから紙屑屋《かみくずや》へ奉公をするという居候のお話しでございます。
[解説]サゲにもいく通りかあり、騒ぎに驚いた風呂屋の主人が出てきて、若旦那の袂《たもと》へくすねた湯銭を咎《とが》め「ハハアこの金で飲食をする気だな」「イイエお払いは先方の女がします」〔これは間ぬけ落ち〕、浴客が「オイ、てめえが下らねえことをしゃべっているものだから、見ろ、おれの下駄を誰かはいていっちまったぞ」「ハァそんならそこにある柾《まさ》の上等なのをはいておいでなさい。順々に他のを履かして、しまいの一人をはだしで帰せば済みます」〔これも間ぬけ落ち〕、また「たいそう貴方の顔から血が流れていますね」「ウン、こりゃァこの男が気ちがいじみた独り言をいっているのに見とれて、軽石で顔をこすったんだ」〔これはぶっつけ落ち〕等、演者によって一定しない。