今村信雄編
古典落語(下)
目 次
三軒長屋
寝床
厩《うまや》火事
道具屋
子|褒《ほ》め
唐茄子屋《とうなすや》 別名〔蜜柑屋〕
牛|褒《ぼ》め
古着屋
石返し 別名〔鍋屋敷〕
近日息子
ろくろ首
磯《いそ》の鮑《あわび》
厄払《やくばら》い
二丁蝋燭《にちょうろうそく》 しわい屋〔上〕
位牌屋《いはいや》 しわい屋〔下〕
にゅう
魔風《まかぜ》
豆屋
酢豆腐
芋俵《いもだわら》 別名〔芋どろ〕
鮑熨斗《あわびのし》 〔上方名題〕生貝
錦名竹《きんめいちく》
火焔太鼓《かえんだいこ》
代脈《だいみゃく》
大工調べ
六尺棒
熊の皮
二十四孝《にじゅうしこう》
雁《がん》捕り 〔上方名題〕鷺《さぎ》とり
もぐら 〔上方名題〕おごろもち
片棒《かたぼう》
百川《ももかわ》
花色木綿《はないろもめん》〔別名 出来心〕
無筆《むひつ》の帳《ちょう》づけ 〔別名 三人無筆〕
本膳《ほんぜん》
武助馬《ぶすけうま》
辻駕籠《つじかご》
一目《ひとめ》上がり
寿限無《じゅげむ》
堀の内〔別名 あわて者〕
粗忽《そこつ》の釘
粗忽《そこつ》長屋
永代橋《えいたいばし》〔別名 武兵衛《ぶへえ》ちがい〕
柳の馬場
そこつの使者
法華長屋《ほっけながや》
饅頭《まんじゅう》こわい
鰍沢《かじかざわ》
袈裟御前《けさごぜん》
錦《にしき》の袈裟《けさ》
親子酒
盃《さかずき》の殿様
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三軒長屋
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ここに申し上げます三軒長屋というのは、三軒ならんでいる中で、とっつきが鳶頭《とびがしら》の家で、鬼格子かなにかで土間を広くとって、そばに地形《ちぎょう》の道具、金でこしらえたかと思うようなピカピカ光った長鈎《ながかぎ》などがある。真ん中の家はさっぱりとした囲い者でございます。もう一軒はずれが剣術の先生、三軒ともみな気合いがちがっている。
事がなければいいが、ちょっと葛藤《ごたごた》ができると治まりがつかない。前の頭《かしら》のほうでは若い衆が集まりまして、夜などは粋な声で、畳をたたいて木遣《きや》りの稽古、また真ん中の家では、河東節《かとうぶし》とか、一中節《いっちゅうぶし》とか、または歌沢《うたざわ》なんぞを楽しんでいる。また片っぽうの撃剣《げきけん》のほうとくると音曲気《おんぎょくけ》はさらになし、宮本武蔵と荒木又右衛門とどっちが強かったなどと、くだらないことをいっているから、とても話が合わない。
○「ごめんねえ。姐《あね》さんこんにちは、頭《かしら》はいねえんですか」
姐「いないんだよ」
○「どこへ行ったんで」
姐「亀の尾の寄り合いから、まだ帰ってこないんだよ」
○「ダッテあの寄り合いは、二三日前のこっちゃァありませんか」
姐「それがまだ帰ってこないんだよ」
○「ヘエーどこだろう。品川かな、それとも吉原かしら。そんなことはどうでもいいが、あねさん頭が留守で困ったなァ」
姐「なにか仕事のことかえ」
○「ナーニ」
姐「なんだい」
○「じつはこの二階を借りてェと思って……」
姐「いけないよ、またつまらないことをするんだろう」
○「イーエそうじゃァねえんで、ちょっと仲直りをしてえと思って……」
姐「なんだい仲直りッて、また喧嘩かえ。たいがいにおしな、なんぼ鳶《とび》の者だって、そう喧嘩っぱやいのが能じゃァなし、対手《あいて》変われど主《ぬし》変わらず、またおまえ……だれと喧嘩をしたんだ」
○「ナーニあっしじゃァねえ」
姐「だれだい」
○「ヘエ半公《はんこう》の野郎と、|虎ン兵衛《とらんべえ》の野郎が喧嘩をしたんで」
姐「おまえはなんだ」
○「あっしゃァ仲人《ちゅうにん》なんで」
姐「フフフン、こりゃァお天気が変わらなきゃァいい。おまえが仲人というなァ……喧嘩はなんだい」
○「なんだかわからねえ」
姐「だっておまえ仲人じゃァないか」
○「仲人でもよくわからねえんだ。横丁の丁子風呂《ちょうじぶろ》で喧嘩を始めやがったんだ。あっしがちょうど二階にいたんで、下でドタンバタン喧嘩だから来てくれというから、行ってみると虎ン兵衛と半公の野郎と、つかみ合ってるんだ、あっしばかりじゃァねえ、ほかに人もいたから間へ入って引き分けたところが、おまえさん、半公の野郎のこめかみを虎ン兵衛が食い取ったという騒ぎなんだ」
姐「ヘエーたいへんだねえ、ほんとうに食い取ったのかい」
○「ト思ったんだ、するとブッと吐き出したからよくよく見ると、頭痛がするんで梅干を貼ってた、それを食い取ったんだ」
姐「なんだ、ばかばかしい」
○「ソコでマア仲直りすることになったんだが、なにしろご時節柄だ。待ち合いを借りるというのも大仰《おおぎょう》でいけねえ、表町《おもてちょう》の頭《かしら》の二階は広いからあすこを借りて手打ちをさせようとこう思ってきたんだが、頭《かしら》がいなくっちゃァいけますめえね」
姐「ナニいいとも、ほかのこととちがって、そういうことならけっこうだから、頭がいなくっても貸してやろうじゃァないか」
○「エー貸しておくんなさる。そいつァありがてえ」
姐「ただことわっておくが、おまきの奴が身体が悪いといって宿《やど》へ行ったんで、家《うち》ァ奴《やっこ》〔下男〕とあたしと二人ぎりだから、なんだかんだと用が足りねえがそれさえ承知なら」
○「そりゃァいいとも、いずれ働きもあっしのほうで連れてくるから、どうぞ二階だけ一ツ貸しておくんなせえ」
姐「アアいいよ、そんなら晩にでもくるかえ」
○「イーエ」
姐「明日かえ」
○「イーエ」
姐「いつだえ。仲直りは早くしねえと気が抜けちゃったらおかしいじゃァないか」
○「じつは今みんなおもてに待ってるんで……」
姐「そりゃァまたあんまり早急《さっきゅう》だが、しかし待っているならこっちへお入《い》れな」
○「ようげすかえ」
姐「いいともさ……」
○「ヤイヤイあねさんが頭はいねえけれども、二階を貸してやるというから、こっちへ入《へえ》んねえ」
金「あねさんこんちは」
姐「オヤ金さん」
虎「あねさんこんちは」
姐「ヤヤ虎さん」
松「あねさんこんちは」
姐「オヤ松さん」
半「あねさん、こんちは」
姐「オヤ半さん……、マアいちいち挨拶はめんどうだから、かまわず二階へおあがりおあがり」
ドカドカ二階へあがってゆく。
○「ヤイヤイ静かにしろ静かにしろ、なんだって鉄、てめえ二階へあがるんだ」
鉄「ダッテ二|階《けえ》へあがれってェから」
○「利いたふうなことをいうな。てめえたちはなにも二階へあがってくるにゃァおよばねえや、てめえはお燗番《かんばん》に連れてきたんだ。下へ降りてお燗番のほうを働け」
鉄「だがマアめでてえからちょっと」
○「ナニこの野郎なまいきなことを言うな」
鉄「なにがなまいきだ」
姐「マアよしなよ、そうおどかすにゃァおよばないやね。おまえは仲人《ちゅうにん》じゃァないか……鉄、おまえもそうだね、下でお燗番をしろといったらするがいいやな。サアみんないいから二階へあがんなあがんな」
鉄「どうもありがとうごぜえます。あねさんの前だが、ジリジリ癪《しゃく》にさわるから」
姐「なんだいあすこにある樽《たる》だの俵《たわら》なんぞ」
鉄「ありゃァ酒に炭で」
姐「ヤボじゃァないか、そんな物を持ってきて、そのくらいの物はあたしは達引《たてひ》こうじゃァないか、おめでたい仲直りというなら」
鉄「それでもあねさんに心配をかけちゃァすまねえんで……」
姐「ナニそんなこたァかまわない……それじゃァ奴《やっこ》、おまえその炭俵を台所口へ持ってゆきな、燗徳利《かんどくり》は五六本あるから、それをお使い、盃も出して使うがいい」
鉄「ありがとうごぜえます」
姐「おまえ炭の口を開けるならそこに出刃《でば》がある」
鉄「ナーニ出刃にゃァおよばねえ。手で切っちゃった」
姐「乱暴だね、手づかみで炭を出して……、マア布巾で手を拭いちゃァしようがないね」
鉄「奴《やっこ》、あすこから火種《ひだね》を持ってきねえ……、あねさん七輪《しちりん》を借りますぜ」
姐「アアいいとも……、団扇《うちわ》もそこにあるよ」
鉄「ありがとうがす。奴、肴《さかな》をこっちへ入れて、それからなんだ猫がくるといけねえから、なにか上へ掛けといてくれ。あおいでさえいりゃァ火は熾《おこ》るんだ。あねさん頭は」
姐「寄り合いの日からまだ帰ってこないんだよ」
鉄「どこへ行ってるんだろう」
姐「どこへ行ってるかわかりゃァしないよ」
鉄「しかし頭なんざァ交際《つきあい》が張るからなァ。他の組合の中へ入ったって、うちの頭ときたら巾が利くんだから。なんだって物が行き届いて、ちょっと女ッ惚れのする好い男だし、あねさんの前でそんなことをいっちゃァよくねえが……、そのかわりどうしたって上へ立つにゃァ冗費《むだ》が出るから骨が折れらァ。時にあねさん隣の家はツイこの間空き家だと思ったら垣根なんぞして、なにが越してきたんですかえ」
姐「アー人が入ったんだよ」
鉄「ちょっと植木を入れて、雲隠《せっちん》のところから|四ツ目垣《よつめがき》にして、腰高の障子という、ちょっと小気態《こぎてい》のきいてるようすだが……、ヤア年増が出た。あねさんあねさん」
姐「騒々しいね、大きな声を出しなさんな、なんてえ声を出すんだ」
鉄「美《い》い女が出ましたぜ、隣の家から」
姐「美《よ》かァないよ、お化粧だよ」
鉄「お化粧だけれども、一体ありゃァなんですエ」
姐「人間さ」
鉄「人間はあねさん言わなくったって知れてるが、何者なんで、白かえ黒かえ」
姐「そりゃァマア黒上がりと思うんだが、囲い者だよ」
鉄「ヘエー、どこの」
姐「横丁の伊勢勘《いせかん》の」
鉄「質屋のかい」
姐「そうさ」
鉄「ダッテ伊勢勘じゃァ、このあいだ嫁がきたばかりだが」
姐「嫁がきたのは若いので、こっちなァおとっさんのさ」
鉄「アノなにかえ、やかんかえ……、へー年甲斐《としがい》もねえ播粉木《すりこぎ》じゃァねえか、アンナ若《わけ》えの……。マアあきれちまった。じじいもじじいだがアノ女も妙だね。アン畜生じじいに惚れているのかい」
姐「惚れねえッておまえ、囲い者は、金《かね》ずくだよ」
鉄「ちげえねえ、そうだ、金せえありゃァ、あんないい女が自由になるんだ。アア金がほしいな、こうなってみると……。わしどものような者でもいくらかありゃァ、まず最初|扮装《なり》を吟味するね、扮装が悪くッちゃァやっぱり女に好かれねえ。マアなんだね、男の扮装は結城紬《ゆうきつむぎ》だね。こちとらだから角帯《かくおび》は締めねえでも、三尺帯か平括《ひらぐけ》だな」
姐「おまえ、こしらえるのかい」
鉄「今というわけじゃァねえが、銭があったらそうしようと思うんで……あねさんどこへ行くんで、お湯かえ、オイ奴、あねさんがお湯へ行きなさるッてえから、下駄を出しねえ、まぬけッ、綱《つな》を踏むない。アレ鳶口《とびぐち》に触るない。まぬけの野郎だなァ、胴突きの道具へ手を付けるなよ、頭が帰ってくると叱られるぜ」
姐「じゃァたのむよ」
鉄「ようごぜえます。行っておいでなせえ……。女というやつはほかの女を褒めると気に入らねえもんで、家のあねさんがあの隣の囲い者を美《よ》かァねえお化粧だというが、そりゃァお化粧もあるだろうがいい女だ。家のあねさんもいい女だけれども、青物でいやァ薹《とう》が立ってる。お燗番の余祿《よろく》だ、アアいういい年増を見るのは。さっき障子を開けてなにか庭へ落としたんだ、アア年増かとあんまり大きな声を出したもんだから顔を赤くして障子を閉めてしまった。もういっぺん見てえなァ。そりゃァいいけれども七輪の火がちっとも熾《おこ》らねえ。アッ口がむこうを向いてやがる……。しめた、障子があいたぞ。今の年増が出てきてくれ……。オヤオヤなんだいありゃァ、下女だな。たいへんな化け物を飼っておきやァがる。アアなんだこういう者をそばへ置くから、今の年増がよけいよく見えるんだ。それがためにこういう悪いのを置くにちげえねえ、なにしろたいへんな者だ。一人で見るのは惜しいや……オーイ二階《にけえ》から首を出してみろやーい。隣の家から化け物が首を出した」
△「なんだ下で妙なことをいってるぜ」
二階の連中、下を見おろして、
◎「ヤアなるほど、なんだあの女は」
△「隣の家から出たんだとよ」
◎「フーム妙な顔をしていやがる。なるほど化け物とはよく名をつけた。人間のほうははるか遠いや。アレ見や、化け物が駈け出しやァがる」
みんな窓から首を出して悪口をいうから下女は真っ赤になってどこか知らないが駈け出していってしまった。そのうちに二階に酒が始まってときどき高ッ調子の笑い声がきこえる。じつは、かの下女は裏の雪隠へ行ったので、ワイワイいわれてきまりが悪いから、しばらく雪隠の中にひそんでいたが、ようやく静まったようすだから、ソッと出てきて、今裏から入ろうとすると、下の奴がまた見つけた。
奴「ヤー化け物が帰ってきた。オーイみんな見ねえか見ねえか、どう見たって化け物だ。化け物やーイ」
とワイワイ、はやし立てる。
妾「なんだえ、そうドタバタ入るもんじゃァない。どうしたんだい」
○「おかみさん、もうわたしはお宅に辛抱《しんぼう》ができません。イエご新造《しんぞう》さまはなんでございますけれども、ご近所がこれではとても……」
妾「いいよ、聞こえた聞こえた、なにを言ってもかまやァしないよ。だからわたしがいうんじゃァないか。おもての厠《はばかり》へゆかないで、家のへお入りというのに、つまらないことを遠慮して、そんなところへゆくからだよ。さっきわたしが庭口を開けたら、若い衆がいるようだから、おまえにもお出でないというのに、おまえが出たから悪いんだよ。お泣きでない、みっともないよ……。オヤ旦那さまがおいでなすった……いらっしゃいまし」
勘「ハイ、いま店での帳合いをしていると、伜《せがれ》が、おとっさん美味い物がありますからご飯をあがっておいでなさいと言ってくれたけれども、ナニ家へ行ってとこっちへ帰ってきたが……おや竹が泣いてるな、お竹や、おまえの泣き声でオレはびっくりしたよ。路地を入ってくるとベーッとたいへんな声がしたからなんだと思ったらおまえの泣き声だ。なんだろうまたお芳《よし》、おまえ女中を対手《あいて》に誰がいいとか彼がいいとか、つまらねえ役者の噂から喧嘩をしたんだろう。ばかばかしいじゃァないか、およしなさいよ」
妾「そうじゃァございませんよ」
勘「どうしたんだ」
妾「イーエ隣へ集まってる若い者が、竹がおもてへ小便《ちょうず》に行ったのを見て、化け物化け物といったので……」
勘「竹をかえ、ちょっと竹、顔を見せな……〔小声〕ウムなるほどうまい。化け物とは、ほかに批評はないや……マア泣くな泣くなこんな美《い》い女つかまえて化け物などと。あいつらのいうことをいちいち気にとめなさんな、あいつらはどうせ悪口に凝《こ》ってるんだ。今もな、俺が路地を入ってくると、ヤー見ろ、やかんが宙を飛んでる、やかんが宙を飛ぶといった。妙なことを言うと思って、ヒョイと仰向《あおむ》いてみると、俺のあたまを指さしてドッと笑やァがった、そのくらいだ。あいつらの言うことは右の耳から左の耳へ聞き流しにしなければいけねえ。マアマア腹がへった。お膳立てをしてな」
そのうちに隣家の二階では、そろそろお酒がまわってきた。
△「オーイ金坊やい、もうめでたく手打ちもすんで、いま聞きゃァおかみさんは湯に行ったというから上がってくるまでに片づけておくように、もうお開きにしよう」
金「マアいいや、めでたいから、ひとつ大盃《おおきい》ので」
△「よしねえってことよ、いつまでも飲《や》ってると、またあねさんによくねえから、おもてへ行って飲むなら飲もうじゃァねえか、ここに長く居なさんな。オイよしねえよ」
金「マアいいよ、もうひとつ大盃ので」
△「そう大盃のでばかり飲《くら》っちゃァしようがねえじゃァねえか。みんなが迷惑をすらァな。この野郎一人で酒ばかり飲《くら》ってばかりいやァがる。さァ立ちねえ立ちねえ」
というと、持っていた湯呑みをポンと放り出して、
金「悪かった。一人で酒ばかり呑んでいて悪かった。だれも対手《あいて》をするものがねえから、俺が一人で飲んだんだ。めでてえと思うから俺は飲んだんだ。どうも一人で飲んで悪かったよ。おめえはその代わり下戸《げこ》だから一人で肴《さかな》ばかり暴《あら》していやがる……なんでえ、ままにしやァがれ播粉木《すりこぎ》めえ」
△「ナニ、なんとかいったな」
金「だからごめんなせえといったらよかろう。おめえはエライや剛気《ごうぎ》だ、ウフン」
△「なにがウフンだ、いやな野郎じゃァねえか、こんな癪にさわる奴ァねえぜ」
金「だからごめんなせえと言ったらよかろう。フフン、人間はなんでも困った時のことを忘れるようじゃァしようがねえ」
△「いやなことばかりいやァがるな、なにを俺が忘れた」
金「なにをってべらぼうめえ、八年|後《あと》の暮れのことを忘れやァがったか」
△「この野郎おそろしい古いことを担ぎ出しやァがったな。八年後の暮れにどうした」
金「合羽屋《かっぱや》の二階に赤合羽一枚でくすぶってやがって、俺のことをアニイごかしにしやァがって、かわいそうだから家へ連れてくると、おおぜい居たんでおどろきやァがって、何だというから、一夜明ければ獅子舞いに出るんだ、てめえもやるかというと、ぜひやりてえから使ってくれというから、そんならちょうどこっちは手が足りねえところだ使ってやるが、どうだてめえ何ができる、スケを行くかといったら、てめえはチャンギリは手が冷たくっていやだといったろう。それじゃァ笛はどうだというと、ほらは吹くが笛は吹けねえ、太鼓も夜番の太鼓ならたたくが獅子の太鼓は打てねえ、獅子をかぶって踊るというから、獅子はむずかしいや、よしたらよかろうといったら、なんでもやりてえとこういうから、ちったァ覚えもあるかと思って、やらしてみるとなんだ、寒さしのぎに獅子をかぶりやァがったんだ、掩布《かぶり》にくるまって、うしろから見た態《さま》の悪いこと、それでもかまわねえが、下町もまわれめえというんで山の手のほうへ流してゆくと、子供がおおぜいで、ヤー獅子の鼻から煙《けむ》が出るというから感心した。こりゃァ新工夫だ、どうして煙を出すだろうと思って掩布をまくってみると、この野郎いつの間に買やァがったのか、焼き芋を食ってやがる。麹町《こうじまち》へ来ると玄関構えの家で呼び込んで獅子を威勢よくやってくれろと二分《にぶ》出したんだ。オイ二分だぜというと、二分の声にてめえが目がくらんで、チキリンチャン、チキリンチャン、チキリンチャンと踊り込んで息子《ぼっ》ちゃんが遊んでるその息子ちゃんのあたまへ獅子の鼻面をぶっつけやがったんで、息子ちゃんが泣き出した。そばに町内の頭《かしら》が見ていて、息子ちゃん泣くんじゃァございません。この獅子は道化《どうけ》たんでございますと、なだめているところを獅子の口から拳固《げんこ》を出しやァがってこのガキはじゃまだと殴りやァがった。頭《かしら》がいたからたまらねえ、玄関の式台《しきだい》へたたきつけられてギュギュいやがったことを忘れたか。みっともねえけれどもしかたがねえ、こちとらも太鼓や笛をほうり出してピョロピョロおじぎであやまって、もう山の手はツケが悪いから下町へ下りるんだというんで、日本橋へ来ると魚屋で呼び込んで、威勢よくやってくれって一両だ。てめえ先《せん》に二分で目がくらんだところを一両と聞いて、盲目《めくら》になりやがって、チャンチキリン、チャンチキリン、チャンチキリンと踊り込むとたんに、穴蔵の片ぶた明いてるのを知らねえで獅子をかぶって穴蔵の中へ飛び込みやァがって、助けてくれ助けてくれとどなりやァがったろう。先方《さき》の親方が獅子がおっこったじゃァねえか、上げねえといわれて、野郎はどうでもいいけれども獅子が借り物だから早く上げろと、上げてみると、てめえは無事だったが、獅子の鼻面を三寸ばかりぶっかきやがった……」
ブルブルふるえながら聞いていたが、突然立ちあがってポカリ。
金「アいてえ、ぶちやァがったな」
△「あたりまえだい、殴ったがどうした。そりゃァな、お互いだ、困る時にゃァ朋友《ともだち》ずくで助け合うのが当然だ」
金「助け合うのがあたりまえでねえとはいわねえが、それだけのことを忘れやがって、なまいきなことをぬかすなと言うんだ」
△「なにをいやァがる」
すばしッこいから、そばにあった刺身皿を取って、いきなり放りつけた。周囲《まわり》にいた者が総立ちだ。
金「サア殺せ、刺身皿を俺にたたきつけやがったな。サア殺せ」
△「殺さねえでどうするものか」
いきなり下へ飛んで降りて、台所にあった出刃庖丁を持って、二階へ駈け上がろうとする。ところへあねさんが帰ってきて
姐「マアおまえたちどうしたんだい。なんだマア仲直りに喧嘩をする奴があるものか。誰かとめないかよ、ヤイ出刃なんぞ持ってどうするんだ、バカ野郎」
△「どうもあねさんすみません。すみませんが満座の中で恥をかかせやがったから、野郎生かしておかれねえ、一疋取換《いっぴきとりけえ》だ。サア野郎逃げるな」
金「べらぼうめえ、だれが逃げるもんか、サア殺せ」
姐「冗談じゃァないよ、だれか止めないか、しようのない奴だ。じきに酒に酔やァがって、」
ドサリバタリ大さわぎ、この一軒置いた隣では剣術の稽古、楠運平《くすのきうんぺい》先生。
運「サア近藤、井上おかかんなさい。ナニ疲れた。さようなことを言っていてはいかん。スワ戦争という時に敵と一騎打ちの勝負になって、私は疲れたからモーよすといってすむわけの者じゃァない。インヤお支度をなさい。サア石野地蔵《いしのじぞう》、山坂転太《やまさかころんだ》、これへ出なさい。サアおいで、ソーラお面、お籠手《こて》、お突き、お胴……」
向こうの羽目へ持っていってドターリ。
△「まいった」
こっちの二階では、ドタリバタリ、
金「サア殺せエ……」
真ん中の家は災難、
妾「旦那越してくださいよ。これですから」
勘「こりゃァたいへんだ。こっちが喧嘩にこっちが剣術か、毎日というわけでもなかろう」
妾「イーエ毎日のことですよ」
勘「ウムこれはおどろいたな。竹や、棚の物を下ろしておきな。アア痛い。なんだいあたまにぶっつかったのは、アアお神酒徳利《みきどっくり》だ、こりゃァたいへんだ。やかんに漏《も》りをこしらえてしまった……。しかしマアしばらく我慢をしていな。こっちで越さねえでもいい。いまに二軒を立たせてしまって、三軒を一軒に住むようにするからな。誰にもそんなことを言ってはならねえ。内々の話だが、この地面は俺の家《うち》へ抵当《かた》に入っている。もう少しでこっちのものになるから……。そうしたら二軒とも少しの移転料《ひっこしりょう》をやって、頭《かしら》のほうは雑作《ぞうさく》がいいから住宅《すまい》にして、楠さんのほうを毀《こわ》してズッと庭に取って、三軒を一軒に住めばいい家になる。少しのうちの辛抱だ。石の上にも三年ということがある。横丁の売卜者《うらないしゃ》を見ねえな、どぶ板の上に七年いらァ」
お妾《めかけ》と下女をなだめて旦那は帰りました。さて、わざわいは下から起こるで、翌日下女が井戸端へ出てこの話を少しおまけを付けていうと、ひとつ長屋には必ず一人ずつ鉄棒《かなぼう》引き〔うわさ好き〕というものがございます。頭の女房におべっかでこのことをいうと、男まさりの利かない気だから怒ったの怒らないのではない。ことに頭が四五日帰ってこないで、嫉妬《やきもち》でムシャムシャしているところだから、カッと癇癪の虫が込み上げて、あたり近所へ当たり散らしているところへ頭が帰ってきたが、四五日家を明けたので、まじめでは入りにくい、おもてから、
頭「奴、おもてを掃除しろ、こんなに散らかってるじゃァねえか、気をつけなくっちゃァいけねえ」
姐「奴、うっちゃっておきねえ、掃除なんぞしねえでもいいよ。どうせここの家は空き家になるんだから、うっちゃっておきな……。アイお帰んなさい」
頭「なにを大きな声を出しゃァがるんだ。空き家になるとはなんだ。まぬけめェ、気をつけろい」
姐「気をつけろって、たいへんな騒動が起こったんだよ、それも知らないで、どこをホウつき歩いてるんだい」
頭「なにをいやァがる、三日や四日家を明けたって、嫉妬《やきもち》らしいことをいやがるな」
姐「頭、嫉妬じゃァない。あたしは悋気《りんき》なんかしない。おまえさんが一年帰らないでも出先がわかってりゃァ、グズグズいやァしないが、鉄砲玉のように行き先がわからないから、困るんだよ。家はひっくり返るような騒ぎが起こってるんだ。ここの家は店立《たなだ》てを食ってるんだよ」
頭「ばかッ、おおきな声を出しゃァがるな、店立てだの地立てだのッと、あんまり見得《みえ》のものじゃァねえ、けれどもここの地面を借りる時に、地面が入り用の節《せつ》はいつでも明け渡すという約束があるんだから、地面が入り用だから立ってくれといえば、まだ行く先がございませんと、ヤボなことも言えねえ、すぐにも立たなきゃァならねえが……」
姐「それが、地主から地立てを食うならわかってるが隣の伊勢勘から地立てを食うんだから癪にさわるじゃァないか」
頭「こりゃァわからねえ、伊勢勘から地立てを食うわけがねえ」
姐「わけがねえたって、あるからおかしい」
頭「どうしたんだ」
姐「どうしたって、マアこういうわけさ。おまえさんが留守になると、若い者が集まって、木遣りの稽古から酒を飲《くら》ってドタバタ喧嘩一件だ。楠さんのところでは、剣術がこの節《せつ》夜までかかるんで、妾が血の道が起こるとか気のぼせがするとかいって、やかんを煽《あお》ったものとみえるんだ。ところがこの地面が伊勢勘のなんとかいうんだ。カジキに入ってるというんだ」
頭「ナニ」
姐「|カジキ《ヽヽヽ》にさ」
頭「刺身にでもして食っちまえ」
姐「じれったいね、なんだか抵当《かた》に金を借りて」
頭「家質《かじち》か」
姐「そうだよ、そのカジキにかマグロにか入って、モー少しで自分の所有《もの》になるから、そうしたら二軒とも追い立ってしまって一軒にするッて、女中なんぞにそんなことをいやァがって、それもいいけれども、どぶさらいがどうしたとか、祖父《じじい》の代には半纏《はんてん》をやったとか、なんとかたわごとをいってやがる。おまえさんはどんな世話になったか、どんな義理があるか知らないが、あたしはあんな者にぐずぐずいわれるわけがない、またおまえさんも町内で頭《かしら》とか尻尾《しっぽ》とかいわれているんだから黙っちゃァいられない。行ってじじいのあたまをたたッこわしておいで」
頭「静かにしろい、ほんとうに隠居がいったのか確かだね」
姐「確かって証人があるんだよ」
頭「よし、行ってこよう」
姐「おいでおいで」
頭「これでも行かれねえ、羽織を出してくれ」
姐「羽織なんぞ着ないで頭巾《ずきん》を着けて、鈎《かぎ》でも持っておいで」
頭「ばかをいえ、マー羽織を出せ」
羽織をひっかけておもてへ出たから隣の家へ行くかと思うと、また物の頭になる人はちがったもので、一軒置いた隣の家へゆきました。造りもいかめしく、わきのほうに高く武者窓の取ってあるのは道場とみえます。そのそばがせまくとも玄関構え、突き当たりに小さなつい立てがあって、長押《なげし》の槍《やり》が一本、高張りが二本立って、一つの高張りは退屈とみえてあくびをしている。
頭「おたのみ申します」
○「ドーレ……いずれから」
政「ヘエ隣の政五郎《まさごろう》でございます」
○「イヤそれはそれは」
政「先生ご在宿《ざいしゅく》なれば、ちょっとお目にかかってお話しをしたいことがあって上がりました」
○「少々お控えください……、申しあげます」
運「なんだ」
○「お隣家《となり》の政五郎殿が、先生にお目にかかりたいと申します」
運「さようか、これへお通し申せ」
○「どうぞこちらへお通りを」
政「ごめんください。いつもどうもお稽古がお盛んで、ヘェ先生ごきげんよろしゅう、ご無沙汰ばかり」
運「これはこれは、ズッとどうぞお進みください。そこは端近《はしぢか》で、イザまずこれへ」
芝居がかりだ。
政「ご無沙汰いたしました」
運「イヤ手前も隣家でありながら、存外にご無沙汰いたした……、石野地蔵、お茶をまいらせるよう」
政「どうぞおかまいくださるな、じつは先生、密々《みつみつ》ご相談があって上がりました」
運「ハア、密々のご内談というのは」
政「恐れ入りましたが、どうぞご門弟衆をちょっと……」
運「さようか……山坂転太、石野地蔵、政五郎殿ご内談というから、茶はあとでもよろしい。次の間へさがって休息しやれ」
次の間もなにもない、井戸端へ行ってひなたぼっこをするくらいのもの。
運「サア門弟は遠ざけ、ほかに聞く者もござらん。何のご用かうけたまわろう」
政「どうも先生、調子が高くっていけねえ、こういうわけで……。あなたのところは毎日剣術のお稽古でたいそうにぎやかだが、また私のところも私が留守にすると、若え者が集まって、木遣りの稽古から崩れが喧嘩で、たびたびドタバタやるんで、真ん中にいる囲い者が気のぼせがするとか、血の道が起こるとかいって隠居をあおったところが、私がよくは知らねえが、この地面は伊勢屋ヘマァ抵当《かた》になってるんだそうで、地主が伊勢屋から金を借りているんで、まだ己《おのれ》の物にならねえうちから、二軒へ地立てを食わして三軒を一軒にして住まうという御託《ごたく》を並べてるそうで……」
運「しばらくお待ちください。地立てだの店立てだのとは何事、さようなことを伊勢屋勘右衛門が申しましたか、奇怪至極《きかいしごく》の老いぼれ、たとえ借家《しゃっか》なりといえども楠運平政国《くすのきうんぺいまさくに》が住まいおるならば城廓《じょうかく》も同様、表口を大手、裏口を搦手《からめて》といたし、前なる井戸を濠《ほり》となし、引き窓を櫓《やぐら》といたす。助勢《じょせい》におよばず、手勢を持って攻め滅ぼし、伊勢屋の隠居の白髪首《しらがくび》を討ち取って……」
政「マァ先生そんなにさわいでもしかたがねえ、ちょっとお耳をお貸しなすって」
運「よろしい、どこへでもお持ちなさい」
政「持ってゆくんじゃァねえ、ちょっとここへ貸しておくんなせえ……」
運「ウンなるほど、それはおもしろい」
政「おわかりになりましたか」
運「少しもわからない」
政「なんだ、なにがおもしろいんだ、今わっしがいったことが耳へ入りませんか」
運「じつは手前青年の折に、武者修行をして、日光中禅寺《にっこうちゅうぜんじ》において天狗と試合をいたし、その折、左の耳をしたたかに打たれ、それがために暑さ寒さに耳がガンガンいって聞こえない」
政「聞こえない耳を出したってしかたがない」
運「なれども人に貸すには最初悪いほうを」
政「冗談じゃァございません」
運「こっちの耳なら聞こえる、受け合って」
政「受け合わないでもいいが、マアこういうわけなんでございます」
運「なるほど……なるほどイヤ妙計……よろしい、さっそくの謀計に取りかかろう」
なにを二人で相談したか、翌朝になると、先生旦那の出ないうちと思うから、朝飯が終わると、すぐにカラカラ朴歯《ほうば》の下駄で隣の家へまいり
運「たのもう、たのもう」
女「オヤいらっしゃいまし……、旦那さまお隣の先生が」
勘「オヤいらっしゃいまし……、サァどうぞこちらへ」
運「ごめん、ご主人ご在宿中と心得、早朝からまかり越した」
勘「それはそれは、どうぞこちらへ」
運「はじめて面会いたすが、手前隣家にいる楠運平橘政国《くすのきうんぺいたちばなのまさくに》と申す剣客者《けんかくしゃ》、この上ともご別懇《べっこん》にあずかりたい」
勘「これはご丁寧のご挨拶、どうぞお手をお上げなすって、手前は伊勢屋勘右衛門と申す不調法者、お隣でありながら、またお近づきには女ばかり差し出しまして、手前もちょっとうかがうのでございますが、ご存じの通り、まだ店のほうが若夫婦で、どうにもこうにもなりませんので、それがためかツイツイ今日は上がろう明日は上がろうと思いながら、だんだんご無沙汰いたしました。しかし女ばかり置きまするについて、お宅さまが道場なのでおおきに安心をいたしております。ようこそおいでくださいました。サアお茶をひとつ」
運「イヤおかまいくださるな、さてご主人、今朝《こんちょう》上がったのは他ではないが、せっかくおなじみに相なったが、手前都合によって転宅いたさなければならん」
勘「オヤオヤ、せっかくおなじみ申しあげましたところ、どういうわけで」
運「ご承知のごとく、門弟も日に増しふえるばかりで、ついてはなにぶん道場が手ぜまゆえ、モソッと広いところへ転宅いたそうとこう思った。ところがおはずかしいが手もとおおきに不如意で、だんだん考えた末、千本試合というのを催そうとこういうことになった」
勘「ヘエー千本試合」
運「それはじつは先祖伝来の腰の刀《もの》、その他、具足鎗《ぐそくやり》薙刀《なぎなた》のような物を並べてみせて、ソコで他流他門の者が集まって試合というわけで、ところがほかの稽古とちがって、こういう稽古はずいぶん意恨《いこん》のある者が参らんとも限らん、竹刀《しない》木剣《ぼっけん》ではおもしろくないから真剣で来いということになると、ことによると、首の二つや腕の五六本ぐらい落とすものがあるテ」
勘「ヘエ、お勇ましいことでありますが、それはどこでおやりになりますな」
運「どこといって、ただいまのところ他にやるところはない、道場においていたす心算《つもり》……ついてはご隣家のことゆえ、今いう首や手が転がり込んでこないとも限らない。たぶん三日ぐらいかかろうと思う。はなはだ迷惑であろうけれども、どうかマア三日の間は裏表を締め切っていただきたい。そのことを果たしてから、転宅いたそうとこう思うので」
勘「それはそれはどうもお勇ましいことで、しかしなんでございますな、失礼ながらあなたさまの芸はお引っ越しなさる時に、そういうことをなさるように決まっているのでございますか」
運「イヤそういうわけではないが、畢竟《ひっきょう》勝手不如意のために、これをいたすといくらか金が集まるこういう次第で、金さえあればそんなことはいたしたくないのだ」
勘「失礼でございますが、よほどの大金がご入用でごさいますか」
運「ナニ雑費引き去り、今後移るについて五十金も手もとに残ればいいのだ」
勘「なるほど先生ご立腹では、はなはだ恐れ入りますが、五十金ぐらいと申すことなら、手前は隠居の身の上ではございますが、伜からもらいました小遣いが、まだ手もとにございますから、なんとそれをお使いくださいませんか」
運「イヤせっかくのご親切ではあるが、おことわり申す、というのは、拝借しても昔とちがい、無祿無庵《むろくむあん》の浪人でござるから、返済のあてがない」
勘「先生、こう申しては失礼ではございますが、そんなご斟酌《しんしゃく》にはおよばんではございませんか。こうやって隣りづからでおりますれば、マア内輪も同じこと、決してご心配なく、お使いくださればこれに越したことはございません」
運「どうも千万かたじけないが、主人から借用するというのは……さようかな、ウムしからば拝借いたそうかな」
勘「その代わり、千本試合の儀は」
運「イヤモー金さえあれば手前もそういうことはやりたくないから」
勘「さようでございますか」
手匣《てばこ》のうちにございます金を取り出して、
勘「はなはだ失礼ではございますが、それではこれをどうぞお検《あらた》めの上そっちへ」
運「これはどうもかたじけない。しかしご主人、拙者も武士のことゆえ、きっとご返金はいたすが、いつだかそのへんはわからん」
勘「エーよろしゅうございます」
運「それをご承知くだされば、安心いたして借用する。モーこの金子《きんす》が手に入れば、明早朝には隣を引きはらうことにいたす。いずれ落ちつく先はお宅へもお知らせ申す」
勘「さようでございますか、マアなにはなくとも一口」
運「イヤせっかくではあるが、明日《みょうにち》転宅のことであるから、支度もあるによってごめんをこうむる」
勘「さようでございますか、それはどうもお粗相《そそう》申しました」
運「イヤお送りくだすっては恐れ入る、どうぞそのまま、さようならごめんこうむる」
と運平先生帰ってしまった。
勘「アーびっくりした。ずいぶんやりかねないよ。あの塩梅《あんばい》では、しかし五十両じゃァ安い。こっちから立ってくれろというんでは越し料をいくらなどといって、たいそうなことをいわれる、マアマアよかった」
お茶を飲んでおりますと
政「おはよう……」
女「アノお隣の頭がまいりました」
勘「オオ頭かこっちへおいで」
政「おはようございます」
勘「マアこっちへ頭、女ばかりこの間ちょっと近づきに上げておいたが、私はまだ無沙汰をしているよ」
政「どういたしまして」
勘「マアおまえのところが隣だから、私も安心をしているが、さぞマアやかましかろう」
政「どういたしまして、あなたのほうこそ、さぞおやかましゅうございましょう。旦那、じつは今日上がりましたのは、ほかじゃァございませんが、せっかくお心やすくなりましたが、いよいよお隣を引っ越すようなことになったんで」
勘「オヤオヤ、それはそれは困ったものだ、ウムなんでマア」
政「ヘエ、ちょっとほかの仕事をひとつ受け合ってみようと思うんで、それについて家に若え者がいなけりゃァソレッという時に間に合いません。それについてここじゃァマア、都合が悪いから、越そうと思うんでげすが、なにぶんその支度に金がかかるんで、私どもはマア今まで一度も催したことがございませんが、ひとつ花会をやりてえと思うんで、それも時節柄でございますから、待ち合いを借りたり、なにかするより、いっそのこと家でやったらよかろうというんで」
勘「それは剛気《ごうぎ》だ。いいとも」
政「それについちゃァ、江戸中の組合へそのことを触れまして、あっちこっちに組合がございますから、一日ではとてもいけません。二三日はかかろうと思うんで、ところがどうせ私どものことでございますから丁寧なことはできません。肴はまぐろの土手へ庖丁をつけておき、酒樽は柄杓《ひしゃく》をつけて勝手放題に飲むというような趣向にしようと思うんで」
勘「なるほど」
政「それについて平常《ふだん》癪にさわっている奴やなにかねえとも限りません。それが狂水《きちがいみず》を飲《や》って気の立っているところだから、そばにある刃物を持ってあばれねえとも限りません。血だらけの奴がお宅へ転げ込んだりなにかしちゃァご迷惑だろうから、どうか三日の間は裏も表も閉めておいてくださるように……」
勘「ナニうっちゃっておきなさい……。そりゃァ勇ましくってけっこうだ。ようございます。おやんなさい。ナーニ近所はおたがいだ。決してかまったことはない。私もそういうことは好きだ……。ナニいいよ、うっちゃっておきなよ……。しかしなにか、頭、人死《ひとじに》ができようね」
政「エエそりゃァできねえとも限りません」
勘「なにかえ、人死ができるほどの騒ぎをしてどのくらいか金が集まるんだえ」
政「どうも私どもの身体だから沢山《たんと》なことはできません。せめて五十両ぐらいで」
勘「そうかえ、たったそれッぱかりの金で人死ができるような騒ぎをして……頭、まだ若いね。なぜこうこうだと最初から話しをしておくんなさらない。マアこうやって隣りづからになっているが、おまえの祖父《おじい》さんの代まで印物《しるしもの》の一枚もあげたことがあるが、私になってからそれも都合があってしない。おまえのことだからそれはなんとも思うことはなかろうが、しかし昔はそういう間柄、ましてやこうやって隣りづからでいるものだから、マアそんなことをいうよりは、私のところへきて、こうこういうわけだからこうしてくれといやァ私のほうでも女ばかり置いて世話になっているものだから、どうにか相談にのる。今のようにいってくると、私のほうでも、それは勇ましい。やんなさい。けっこうだと口ではいうが、しかしじつのところは好きじゃァない嫌いだよ。そんなことは臆病だから、それもだね、たいそうまとまった金ならとにかく、そのくらいの金ですむならば、マアそれはよしたがよかろう。五十両でいいなら私がおまえにあげるよ。ナニそんなことをなにも遠慮はない。五十両あげましょう。いいかい五十両で……。それじゃァ出してあげな五十両……サア頭、少ないが持っていっておくれ、マアいいからさ」
政「ヘエどうもそれじゃァまことにすみません。エエおかみさん、まことにお気の毒さまで、じゃァおかげさまでこうやってお金が手に入りゃァさっそく引っ越しをいたします。いずれまたお暇乞《いとまご》いに出ますがどうぞごきげんよろしゅう」
勘「ハイそれでは頭、いつおまえ越すね」
政「ヘェ明日《みょうにち》越そうと思います」
勘「じつは今がた、お隣の楠さんが来て、これも明日お引っ越しになるそうだが、おまえは全体どこへ越すんだい」
政「私が先生のあとへ行って、先生が私のあとへ越してくるんでごぜえます」
[解説]この噺は支那の小噺から取ったものらしいが、昔は「楠運平」という題で、そんなに長い物ではなかったのを鳶頭の家の件などを入れて、今は上下に分けるような長い噺になった。
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寝床
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素人義太夫はどこへ行っても流行いたしておりますが、俗に旦那芸《だんなげい》と申しまして、なかにはずいぶん不結構《ふけっこう》なものがございます。お師匠さんのほうでもまた、銭《ぜに》取り主義で教えます。節まわしなどはどうでもかまわない、段数《だんかず》さえ上げればそれでよい、はななだしいのになると一段の浄瑠璃《じょうるり》を三日で上げるなどというのがあります。
さて覚えこんでみると、誰かに聞かしてみたいという、不了簡《ふりょうけん》を起こすのは人情。けれどもまさかに目上の者を呼びつけて、強制的に聞かせるわけにもいかないという、人間としてそのくらいの常識はありますから、目下の者を呼びつけて、強制的に聞かせるというのがございます。つまり資本家の圧政、今ならば出入りの職人だろうが、店借《たなが》りだろうが、そんなことにはなかなか応じませんが、まだ明治時代まではこういう人が幅をきかせておりました。もちろん客をするのだから、料理人を呼んで酒肴《さけさかな》の用意をする、下戸《げこ》には甘い物をそれぞれ馳走《ちそう》してもてなしをしますが、それでも下手《へた》な浄瑠璃を聞くのがつらいから何とかいって、のがれる算段《さんだん》をする者が多い。
主「アア繁蔵《しげぞう》大きにご苦労だった、スッカリまわって来たかえ」
繁「ヘエ行ってまいりました」
主「今日は漏《も》れなくまわったろうね。このまえ太兵衛《たへえ》にまわらしたが、提灯屋《ちょうちんや》の吊右衛門《ぶらえもん》のとろへ知らせるのを忘れたんで、そのご吊右衛門が俺《おれ》の顔さえ見ると愚痴《ぐち》をこぼしてこまった。先《せん》だってはお浄瑠璃をお語りなさったそうで、なんで私どもへはお知らせ下さいませんでしたかと怨《うら》みをいわれて弱ったよ。今日はおまえのこったから漏《も》れなくまわって来たろうね」
繁「ヘエ残らずまわりました。ところが旦那様、あいにく今晩は、みな予定がありまして、提灯屋はお祭りを前にひかえて大いそがしで、豆腐屋へまいりましたら、どこからかがんもどきの注文を受けて今晩|徹夜《よあかし》をするようなわけで伺《うかが》われないと申します。頭《かしら》は明朝《みょうちょう》一番の汽車で小田原の道了様《どうりょうさま》へ参りますので、今夜|講中《こうちゅう》の者と打ち合わせの寄り合をいたしますのだそうで……」
主「アアわかったわかった、モウよい。それじゃァ誰も来ないのだね。つまり私の義太夫が拙《まず》いから聞くのがつらいというので、長屋の者はありもしない用をいいふらして断わるのだろう、モウ止《よ》しますよ。ナニ浄瑠璃さえ語らなければいいんだ、師匠も断わってしまいなさい。料理人なんぞ追い帰してしまえ、繁蔵モウいっぺん長屋をまわってな、少々都合がございますから、明日|正午《ひる》までに店《たな》を全部引き払って下さいと言い渡してきてくれ、……ナニ乱暴なことはない、店を貸すときに、何日《いつ》何時《なんどき》でもご入用のときにはお明け申しますという証文《しょうもん》が入ってるんだ。義太夫の情合《じょうあい》が分からないような者には、店を貸しておかれない。それから店の者もそうだ。私の家《うち》に奉公していれば、たまには下手な義太夫も聞かなければならず、さだめし辛《つら》かろうから、今日かぎり一同へ暇《ひま》をあげる。どうか今夜のうちにみんな出ていってもらいましょう」
と旦那がスッカリ怒ってしまった。なにしろ店子《たなこ》には店立《たなだ》て、奉公人には暇が出るというのだから穏やかでない。モウいっぺん長屋を触れ歩くと、店立てを食うより義太夫を聞いたほうがいいだろうというので、しぶしぶながらみんなやって参りました。
繁「エー旦那様」
主「モウ寝ますよ」
繁「ただいま、アノ、お長屋の衆《しゅう》が参りました」
主「長屋の者が来るわけがない、みんな用があるんだ」
繁「それがただいま揃《そろ》ってやって参りました」
主「揃って来たって、モウ私は義太夫を語らないといったら語りませんよ。帰しておしまい」
繁「アアさようで、それではそう申しましょう」
主「オイいくら物は正直がいいったって、正直すぎるよ。帰しておしまいと聞いて、ヘエそうですかとはなんだ、こっちもモウ一度ぐらいすすめるだろうと思うから、懸引《かけひき》でいったんだ、せっかく来たものを語らないと、また後日《ごじつ》私が何とかいわれるんだ、あの旦那もいいけれども、芸惜《げいお》しみするのが悪いとか何とかいうだろう。仕方がない語ろう」
繁「アアさようで、それではこちらへ通しましょう」
主「早く通すがいい……、オイオイ師匠にそういってな、どうか少し調子を……ナニ師匠は帰してしまった。いけないな、早く迎えに行ってきな。支度《したく》はいいかい、料理のほうの……ナニことわってしまった。いけないよ、早く呼んでおいで、湯《ゆ》は沸《わ》いているだろうな、……なんだ、モウみんな空《あ》けて洗濯物をつけてしまった。早いな、こんなことはいい出してから二時間ぐらい猶予するもんだよ。早く湯を沸かしておくれ……」
○「ヘエ今晩は」
△「ヘエ今晩はありがとうさまで」
○「ヘエ今晩は」
主「サアサアどうぞこっちへ、オヤオヤたいそうお揃いで、オヤ豆腐屋さん今晩は、お前さんは今晩、徹夜で仕事をなさるということじゃないか」
○「ヘエ、どうもお使いを有り難う存じました。先ほども申し上げましたとおり、今晩は徹夜で仕事をするつもりでしたが、なにがさて好きな道でございますから、今頃は旦那様が何をお語りになっておいでなさるかと思うと、ウカウカとして仕事が手につかず、三角の雁《がん》もどきをこしらえたりいたしますものですから、家内のいいますには、それほどまでにお前さんが聞きたいのなら、代わりを入れて行ったらいいだろうと申しますので、今しがた代わりを入れまして伺《うかが》いに出ましたような訳でございます」
主「アッハッハ、そうかいイヤ恐れ入ったね、代わりを入れてまで聞きに来てくれるとは、イエその手間《てま》ぐらいのことは、後日にどうにでもご相談に乗りますよ、どうぞこちらへ……オヤオヤお頭《かしら》、お前さん、明日《あした》の朝一番で小田原へ行くといったじゃァないか」
頭「ナーニ小田原へ行くなんといったなァ嘘っぱちで、イエ、嘘っぱちという訳でもねえんですけれども、さっき繁蔵さんが来て、今夜義太夫をやるから来いというから、しまった、ナニそいつァありがてえ、たとえ腐った半纏《はんてん》の一枚でも……イエナニ腐るほど下さるんだから、たまにはヘッポコ義太夫、じゃァねえ、けっこうな義太夫を聞かして下さるんだ、ふだん長屋の者もそういってるんで、アノ旦那もいい旦那だが義太夫さえやらなけりゃァ……義太夫をやるからけっこうだが、どうせ旦那様のことだから、お上手なことだってんで、マアなにしろお目出とうごぜえます」
主「なんだかサッパリ分らないな、どうぞみなさんあっちへ行って……、それから飲み手の方は左り側、下戸《げこ》の方は右側へおすわんなすって……」
○「どうも恐れ入ります、モウおかまい下さいませんように」
主「それでは今じきに始めますから……」
○「イヤ今晩はご苦労様で……、どうも驚ろきましたな、店立《たなだ》てには驚きましたよ。全体ここの旦那は何の因果《いんが》で、こんなに義太夫を語りたがるのだろう」
△「それはいくら語ったって、先方《むこう》の勝手だが、聞かせられる方こそいい面の皮だ、悪い声というのは世間にいくらもあるが、当家の主人みたような妙な声を出す人は類《るい》がありませんね、夜半《よなか》に動物園の裏手を通るとアアいう声が聞こえますがね、なにしろ不思議ですよ、こないだは横町の袋物屋《ふくろものや》の隠居が、この旦那の義太夫を聞いて家へ帰るとドッと熱が出まして早速医者に診てもらうと何だかサッパリ分らない。だんだん調べてみたところが、義太夫を聞いてから熱が出た、義太夫熱といって、これはいくら医者でも薬のもりようがないそうだ」
○「たいへんな義太夫ですね」
△「だから私は気付薬《きつけぐすり》の用意をして来ました」
□「お話が出たからいいますが、私もじつは石炭酸《せきたんさん》の強いのを少しばかり持って来ました」
△「なるほどそれはいい思い付きだ、石炭酸ならたいがいの微菌《ばいきん》は死んでしまう、……なんですそこでメソメソ泣いてらっしゃるのは、気が早いね、義太夫を聞かないうちから泣いているのは……オヤ鈴木さんの若旦那じやァありませんか」
若「さようでございます」
○「マアこっちへお出でなさい、どうなさいました」
若「ヘエ、今晩はどうも、とんだ親不孝をいたしました」
○「ヘエ、それは怪《け》しからん、あなたは町内で若い者のかがみにされてるんですよ、そのあなたが義太夫のために、親不孝をしたというのはどういう訳で……」
若「マアお聞き下さい。今朝私が横浜へ用たしに参りましたのは、本当の話なんで、いい塩梅《あんばい》に用が早く片づきましたから、急いで帰って参りますと、なんだか胸騒ぎがしてたまりません、宅へ戻って格子《こうし》を開けますと、患《わずら》っている阿母《おふくろ》が床から這《は》い出して来ました、下駄《げた》を出してくれと申しますから、おっかさんどこへお出でなさると聞くと、旦那のところから義太夫を聞かしてやるから来いというお使いがあった、一度はお断りをしたが、最前のお使いで、聞きに来なければ店立《たなだ》てを食わせるとおっしゃるから、私はこれから行くのだとこう申します。それはおっかさん、とんでもないことをおっしゃる。身体《からだ》の達者の者が聞いてさえ二三日熱が出るという義太夫、ましてやご病人のあなたなどがお聞きになれば、たちどころに命を取られます、私が代わりに行って参りますというと、イヤイヤお前はまだ生先《おいさ》きの長い身体、万が一のことでもあったあかつきには、私が親類の者に聞かれても面目《めんぼく》ない、私はどうせモウ生先《おいさ》きのない身体ゆえ、命を落としたところで惜しくはないのだから、なんでも行くと申します、それはおっかさんいけません。親のかけがえはないというじゃァありませんか。子の私がみすみすあなたが殺されにいらっしゃるものを、なんで見ていられましょう、私が代わりに行って参りますとおふくろをつき飛ばして出て参りましたが、後《あと》でどうなすったかと思って苦労で苦労でたまりません、近ごろ警視庁でも悪疫《あくえき》流行の折柄《おりがら》衛生上についていろいろ注意をして下さるのはありがたいが、なぜこの義太夫のような人間に害を与えるものを差し止めないのでしょうか、私は警視庁を怨《うら》みます」
○「冗談いっちゃァいけない、マアマア少しご辛抱なさいよ、今にどうにかしてズラかして上げますから、時に今夜は旦那はどのぐらい語るんでしょう」
△「サア、どのぐらい語りますかな。だいたいの見当がついてると、またそのように覚悟もしますがね」
○「一ツ聞いて見ましょう……エー旦那、今晩はどういうお浄瑠璃が出ましょうか」
主「えらい、どうも恐れ入ったね、あなた方は。それほどにあなた方で力を入れて下さると、私の方でも張り合いがある、たくさん語りますよ」
○「やぶへびやぶへび。たくさんと申してどのくらい……」
主「まず最初はのど調べのため、簾内《みすうち》を語ります、橋弁慶《はしべんけい》」
○「なるほど、お勇ましいお浄瑠璃でございますな」
主「その次が、伽羅千代萩《めいぼくせんだいはぎ》、御殿政岡《ごてんまさおか》忠義の段、その次が艶容《あですがた》女舞衣《おんなまいぎぬ》、三勝半七《みかつはんしち》酒屋の段。そのあとが三十三間堂棟由来《さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい》、平太郎住家《へいたろうすみか》から木遣《きやり》。これば私の専売ものだから、これを聞いてもらいたいね、その次が菅原伝授手習鏡《すがわらでんじゅてならいかがみ》、松王丸屋敷《まつおうまるやしき》から手習小屋《てならいごや》まで、次が関取千両幟《せきとりせんりょうのぼり》、猪名川《いながわ》の家から櫓太鼓《やぐらだいこ》の曲弾《きょくび》きで、お三味線にもうけさせる」
○「アア三味線にもうけさしておしまいというので」
主「イエまだ肝腎《かんじん》のものが出ません。玉藻前旭袂《たまものまえあさひたもと》三段目、道春館《みちはるやかた》の段、本朝二十四孝《ほんちょうにじゅうしこう》三段目、勘助住家《かんすけすみか》の段、彦山権現誓助剣《ひこざんごんげんちかいのすけだち》毛谷村六助家《けやむらろくすけうち》の段、播州皿屋敷鉄山館《ばんしゅうさらやしきてつさんやかた》の段、恋娘昔八丈《こいむすめむかしはちじょう》、城木屋店《しろきやみせ》から|鈴ケ森《すずがもり》まで、近頃河原達引《ちかごろかわらのたてひき》|お俊伝兵衛《おしゅんでんべえ》堀川猿廻《ほりかわさるまわし》で、またちょっと三味線にもうけさせる」
○「それでおしまいで」
主「イヤイヤ、まだ私のお得意ものが出ません。伊賀道中双六《いがどうちゅうすごろく》、沼津《ぬまづ》の段、碁盤太平記《ごばんたいへいき》、白石噺新吉原揚屋《しらいしばなししんよしわらあげや》の段。釜淵双級巴《かまがふちふたつどもえ》、継子《ままこ》いじめの段。そのあとは|一の谷熊谷陣屋《いちのたにくまがいじんや》、仮名手本忠臣蔵《かなでほんちゅうしんぐら》、大序《だいじょ》よリ十二段までぶっ通し、あとに紀州返《きしゅうかえ》しまで語る」
○「たいへんお語りになりますな」
主「二百八十六段」
○「ホウ……今晩中に語り切れましょうか」
主「とても今夜中には片がつきませんよ。まず明後日《あさって》の夜の白々《しらじら》明けですね」
○「やっぱり提灯引《ちょうちんび》けで」
主「そりゃ葬式《とむらい》じゃァないか、今すぐに始めます」
そのうちにデデンと始まりました。
○「サアみなさんご注意なさいよ、なるべく頭を下げていらっしゃい、頭を下げているといくらか声が上を通過してしまいます。油断をして頭を持ち上げたところを、胸へ一発ズドンと来ると致命傷ですよ、義太夫はまずいが、この通りご馳走がようがすからね。アア一つ献《けん》じましょう」
○△「これはどうも恐れ入ります、……イヤなかなか良い酒です。この旨煮《うまに》を一つやってご覧なさい」
○「ダガこうやって黙って飲んだり食ったりばかりしていても悪い。少しはほめなけりやァいけますまい」
△「ほめるところなんぞありやァしない」
○「なくっても誉めなけりやァ義理が悪い」
△「それじゃぁ誉めますよ、うまいうまい三味線が」
○「アレ、三味線を誉めちやァ何にもなりません。旦那を誉めるんだ」
△「うまいうまい口取《くちと》りが」
○「誰だい、口取りを誉めるのは」
勝手なことを言いながら、飲んだり食ったり、義太夫を聞いてる者なんか一人もない。そのうちに腹の皮が張って来るにしたがって、目の皮がだんだんゆるんで来る。最初はコックリコックリ居眠りをしていたが、しまいにはグウグウ高鼾《たかいびき》、魚河岸へ鮪船《まぐろぶね》が着いたようだ。旦那も夢中になっていたが、あまり前が静かなので、さてはミッシリ聞いているのかと、簾《みす》をソッと持ち上げて見るとこのテイタラクだから、
主「師匠ちょっと待って下さい。どうもあきれた人達だ、人に義太夫を語らして置いて寝てしまうとは何事です、どうかみなさん起きて下さい、けしからん人達だ。散々ぱら飲んだり食ったりした挙げ句に、寝てしまうとは何事だ、お帰り下さい、また番頭の与兵衛《よへえ》もそうだ、禿頭をしやァがって、鼻から提灯《ちょうちん》を出して寝ていやがる、番頭起きろ起きろ」
与「ヨウヨウうまいうまい」
主「なにがうまいんだ、モウ義太夫はおしまいだ」
与「惜しい――」
主「嘘をつけ、あきれたねえ――、誰だいそこで泣いてるのは、アア定吉《さだきち》かい、こっちへ来な」
定「ヘエ」
主「どうした」
定「悲しうございます」
主「悲しうございます。えらい、アアやって大人がみなだらしなく寝てしまううちに、貴様だけが、おれの浄瑠璃を聞いて悲しうございますといって、泣いているのは天晴《あっぱ》れ見込みのある奴だ。サアこっちへ来な。褒美《ほうび》に何かやるぞ、シテどこが悲しかった。待ちなよ、子供のお前が身につまされるものというと、千代萩の千松《せんまつ》だな、お腹《はら》が空《す》いても飢《ひも》じうない、あの辺かな」
定「そんなところじやァありません」
主「ハハア、それじやァ宗五郎《そうごろう》の子別れか」
定「そんなところでもないんで」
主「釜淵双級巴《かまがふちふたつどもえ》の継子《ままこ》いじめ」
定「そんなところじやァありません」
主「そうでもねえとすると、どこが悲しかった」
定「あすこでござんす」
主「あすこは今、俺が義太夫を語った床《ゆか》だ」
定「あすこが私の寝床でございます」
[解説]上方では単に「床」と言っている。名作である。
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厩《うまや》火事
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近頃は世間一般にきれいになりましたが、とりわけ、目立って良くなりましたのは湯屋《ゆや》に髪結床《かみいどこ》でございます。ことに髪結床は昔床屋といった時分のおもかげが、ぜんぜんなくなってしまいました。それに女髪結床の変わったことは別段で、以前は女髪結というと、もっともいやしい稼業《しょうばい》のように見なされ、中には良家の家庭へ立ち入るところから色《いろ》の執り持ちなどをして幕府時代にも一時風紀を乱す者として禁ぜられたことがありましたそうでございます。
その女髪結の向上発展というものは非常なもので名称も美髪師と変わり、中には帝国美容院々長、花《はな》の高子《たかこ》、執務時間午前八時より午後四時迄、ただし至急を要せらるる方は特急料を申し受くべし。なんという金文字の看板を入口へ出して女髪結さんを先生と称し出張は往復とも自動車、お医者さまとまちがえるようなのがございます。
こういう工合でございますからつまらないご亭主などは持ちません。いずれ博士とか学士、美術家または文士などというようなものでなければ結婚をしない、昔は女髪結のご亭主といえばたいてい女房の稼ぎをあてにして、デレリ然といい男妾《おとこめかけ》の気になって遊んでおりました。されば夫婦喧嘩が絶えません。男女同権どころか女権のほうが気を持って、しぜん男権が下落いたします。困りますのは、その親分〔頼りにされる仮親〕で、
竹「親分さん、おはようございます」
親「オオたいへんに早いな。なにか用か」
竹「おまえさんがおいでにならないうちにと思って急いで来ました」
親「なんだ」
竹「またお約束の……」
親「お約束ってなんだ。夫婦喧嘩」
竹「ハア」
親「ハアもないもんだ、よく喧嘩をするな。おまえたちは困るんではなし、子供はなし、舅姑《しゅうとしゅうとめ》はなし、べつに喧嘩をするようなことはねえはずじゃァねえか」
竹「それでもねえ、あんまりアノ人がわからないんですもの」
親「なんだ今朝の喧嘩の種は……」
竹「今朝はお飯《まんま》で……」
親「お飯がどうしたんだ」
竹「わたしが鮭《さけ》を焼いてご飯を食べようと言ったの、そうすると良人《うちのひと》は、頭芋《やつがしら》を煮てくれと言うんでしょう。ねェ、おまえさん、そんなものはゆでたり煮たりしていて、手間がかかってしようがないじゃァありませんか、わたしだって遊んでいるんじゃァなし、これからお得意さまへゆく身体で、そんなことをしていられないから、晩にしてくださいと言ったの、そうすると怒っちまって、てめえは了簡が変わっているから、食い物も変わっているんだと、マアこうわたしに言うのサ」
親「ウン、それから」
竹「わたしはまた奇態《きたい》に生臭いものが好きだもんだから、わたしのことを魚河岸婆《うおがしばばあ》とこういうんですよ、それからわたしがナニこの大根河岸野郎《だいこんがしやろう》、と言ってやったんで」
親「つまらねえ喧嘩だなァ、魚河岸婆に大根河岸野郎、それからどうした」
竹「そうすると、すぐ人をぶったりなにかするんで」
親「それはよくない、おまえが稼いで八公を遊ばして食わしておくんじゃァねえか、それを少し気に入らねえことがあるって、ぶったりたたいたりするてえことがあるものか、よし、俺がすぐここへ呼んでおめえが見ている前で叱言《こごと》をいってやる」
竹「ナニそりゃァぶたれたっていいんですけれども……」
親「なんだって……、べらぼうめ、ぶたれていいならなにもおめえ怒ることはねえじゃァねえか」
竹「それがあるんで、二言目には、きっとわたしに出て行けというんでしょう、わたしだって癪《しゃく》にさわるじゃァありませんか、わたしはあの人に別れても困りません、自分で稼ぐから……けれどもあの人はわたしに別れたら、遊びぐせがついているからちょっと困ります、その困ることを承知してわたしに出て行けッてえのはどういうわけでしょう」
親「どういうわけだか知らねえが、俺が思うにそれは売り言葉に買い言葉、まさかおめえをほんとうに出そうと思って言うんじゃァねえ。それはホンの腹立ちまぎれに出る言葉で、江戸っ子は皐月《さつき》の鯉の吹き流し、口先きばかり腸《はらわた》はなし、まして職人だもの、負けてられねえから、心にもねえことをいっちまうんだよ、なにも真実おめえを出そうと思ってそうゆうんじゃァねえ、たぶん八公が二言いう間におまえが十言《とこと》もいうんだろう」
竹「エーエーわたしゃ十言も二十言もいってやりますわ」
親「ソーラ、だからホンの口先だよ」
竹「おまえさん、じき八さんの贔屓《ひいき》をするからわたしは癪にさわっちまう、口先きというが、腹までわたしに別れようという気がなくって、そんなことがいわれるもんですか、親分わたしの考えでは他に情婦《いろ》かなにかできたにちがいない。そいつがキット意地を付けるんで、おめえなんだねえ、廻り髪結なんか女房に持って、いい情夫《いろ》かなんかのつもりで遊んでいるが、遊んでいたきゃァこっちへおいでとかなんとかいわれて、それでわたしのほうを肱《ひじ》をきめて、そうして先方《むこう》へ行くんだろうと思うと、くやしくって、くやしくって……」
親「オイオイそんな怖《こえ》え顔するもんじゃァねえ、狂人《きちがい》じみてらァ、じゃァそれで別れようというんだナ」
竹「イイエ、別れようてえ気ならおまえさんとこへ来やァしません」
親「それじゃァどうしようてえんだ」
竹「わたしあの人の心のうちを見たいの」
親「ヘェー、おもしろいことをいうな、心のうちをどう見てえんだ」
竹「どう見たいって、おまえさんの言う通り口先ばかりなら、自分が惚れている亭主だから、ぶたれてもたたかれても殺されてもいいワ。けれども、もしわたしの考え通りむこうの了簡が変わっていれば、それこそつまらない、だからあの人の了簡がまっすぐか、それとも不人情の人か、善悪ともあの人の了簡を見抜きたいので」
親「なるほど、そりゃァおまえのいうのも道理だ、じゃァ、俺が良いことを教えてやるからやってみな、八公の了簡が、チャンとわかるようなことがある」
竹「どうするの親分さん……」
親「こりゃァ俺がお店の隠居さんに聞いたんだが、むかし唐土《もろこし》に孔子《こうし》さまというお方があって、お馬が飼ってあった」
竹「ヘエー」
親「ご家来に、この馬は私が秘蔵の馬だから、私と思って大切に扱ってくれろと、かねがね申し付けてあった」
竹「ヘエー」
親「するとある日お留守にお厩《うまや》から火事が出て、あいにく旦那さまから大事にしろと言い付かってるお馬が焼け死んじまった、サアこれはたいへんなことになった、旦那さまがお帰りになったら、どんなにお叱言《こごと》をこうむるだろうと、ご家来がみんな青くなっている。ところへお帰りになった。さっそくそのことを申し上げると、馬のことは一言もお聞きなさらないで、家来はだれも負傷をしなかったか、厩だけの焼失かそれはよかった、火の元を大切にせんければならんぞ。家来が無事なればめでたい、アアよかったと、いつもよりごきげんだ、それで家来が、奇態なことがあるもんだ、マアご冗談にもせよ、おのれより大切にしろとおっしゃった馬が焼け死んだんだからどういうことになるかと思うと、馬のことは一言もお聞きなさらないで、家来のことを再三お聞きなさる、シテみると平常《ふだん》おっしゃったのは真実《ほんとう》の口先で、イザとなれば畜生よりも人間の家来を深く思《おぼ》し召してくださる、アーありがたい旦那さまだといって、ご家来が忠義を尽くしたというが、それがその論語とかいう本に出ているとよ、厩焼けたり、子庁《しちょう》より退《しりぞ》いていわく、人|傷《やぶ》らずやと、馬を問わず……」
竹「お経《きょう》かえ」
親「お経じゃァねえ、それと反対な話というのは番町《ばんちょう》へんにさる殿さまがあった」
竹「マアめずらしいねえ、猿が殿さまになったの」
親「べらぼうめ、猿が殿さまになったんだじゃねえ、そんなバカなことをいうから喧嘩になるんだ、だまってフンフン聞いてればわかるんだ」
竹「フーン」
親「その殿さまがご秘蔵のお菓子皿があった、古い青磁《せいじ》かなにか、今買おうたってねえんだ、デ奥さまにおっしゃるには、この菓子皿は客に自慢に出す私が大事の皿だ、奉公人に扱わして、もし毀《こわ》されると、また買おうといっても無いものだから、これはどうかおまえが出し入れをしておくれと奥さまにたのんでお置きになった、奥さまがかしこまりましたと、始終その菓子皿はご自分が出し入れをしておいでになると、ある日のこと、お客がお帰りになって、二階から奥さまが持ってお降り遊ばそうとすると、もう二三段のところで、お足袋《たび》が新しかったので、ツルリとすべると下ヘドーンとお落ちになった。すると殿さまがおどろいて、菓子皿を毀しやァしないか菓子皿を毀したんじゃァないかとあわててお聞きなすった、奥さまは毀してはたいへんだと思うから一生懸命持っていて、イエなんともございません、アアそれはよかった、そうか、奥おまえもどこか痛めはせんか、イエなんともございません、アアそれはよかった、そうか、といってその日はそれですんでしまった。すると五、六日経って奥さまがちょっと実家へ行ってまいりとうございます。アー行ってきなさい、となにかご自分のご用でおいでになったと思っているとご実家から、どうかご離縁を願いますという掛け合いだ、どういう訳だと聞くと、ほかではございませんけど、ご当家ご大切のお菓子皿を持って、奥さまが二階からお降り遊ばします時に、ツイお足がすべりお落ちになりました。その節《せつ》、殿さまがお驚きで、菓子血を毀しはしないか菓子皿を毀しはしないかと重ねておたずねでございまして、しまいにお捨て言葉に一言、奥おまえもどこか痛めはしないかというおたずねでございました、してみるとご当家では奥さまよりお菓子皿の方がご大切の品と心得ます、いかような品かは存じませんが、さほどご不用な奥さまをお置きになってもお無駄なもの、手前方《てまえかた》でも心もちよくございませんから、ご離縁を願いますというので、いやでもない奥さまだけれども、別れるようなことが出来《しゅったい》した」
竹「ヘエー」
親「そこだ、おまえんとこの八公も、その不人情な殿さまの型に行くか、それとも孔子さまの型に行くか、ひとつやってみると八公の了簡がチャンとわかる、なにか八公の大切にしているものがありゃァしねえか、毀れそうなもので」
竹「そうねえ、べつに大切にしているものはありませんが……ア、ありますあります」
親「なんだ」
竹「蓋物《ふたもの》、たいへんに大切にしているのがあるの、宅に何個もあるのに、またこないだ道具屋で買ってきたんで、エー二百五十円だって、マアちょっと良い藍気《あいけ》の蓋物なの、これへつまらないものを入れてお膳の上へ置いちゃァ喜んでいるの、宅じゃァこれがマア一番良い蓋物なのよ」
親「アーそれがいい、それをおまえが洗うつもりで、わざところんでぶち毀してしまうんだ、ソコデ一番にその蓋物のことを聞いたら、別れてしまいねえ、おまえより蓋物のほうが大切なんだから、そんな亭主を持ってたって、うだつが上がらねえ、別れてしまうほうがいい、もし蓋物を毀してもそのことを聞かねえで、おまえの身体のうちを、指一本でもどうしたと聞きでもしたら」
竹「ハア」
親「出て行けというのは口先で、イザといえばおまえのことを、少しも忘れるのではないほんとうに実《じつ》があるんだ、これを真実という、どうだわかったか」
竹「わかりました……。ほんとうに親分、わたしはそれを聞いたんで胸がスーッとしました、お腹《なか》がすいたからご飯をご馳走になりますよ」
親「ふざけちゃァいけねえ」
竹「そんならわたしは、これから帰って、蓋物を洗うふりをしてしまうんですね」
親「そうだ、それで蓋物のほうを先へ聞いたら別れちまうんだぜ」
竹「わたしは別れるのはいやねえ」
親「いやなら我慢していねえな」
竹「我慢していた日にゃァむこうの了簡がわからないし」
親「わからなけりゃァ俺がおしえた通りしてみねえ」
竹「たいへんにむずかしいね」
親「そりゃァむずかしい」
竹「わたしなんだか胸がドキドキしてきた」
親「天下分け目だ」
竹「ダガ親分、そういやわたしがうぬぼれているようだが、マサカわたしゃ、二百五十円とわたしと一緒にゃァならない、きっとわたしの身体を先に聞くだろうと思うワ」
親「それはどうだかわからねえ」
竹「いけないねえ」
親「いけないねえたって、俺が聞くんじゃァねえ、その時に八公のほんとうの了簡が出るんだ」
竹「それじゃァ親分、後生だからこうしておくんなさい」
親「どうするんだ」
竹「おまえさん先へ八さんに会って、このごろ買ったあの蓋物を洗う時にあの女がころぶかもしれない、ころんで蓋物を毀しても、蓋物のことは聞かずに、彼女のことを聞いてやってくれと、たのんでください」
親「ばかァいいねえ、それじゃァこしらえごとで、なんにもならねえじゃァねえか、マアなにしろやってみなよ」
竹「じゃァやってみましょう、親分いろいろありがとうございました、おやかましゅう、さようなら……ほんとうに親分はりこうだねえ、わたしゃあんな人を議員さんにして、東京中の夫婦喧嘩を治めてもらいたいね、蓋物と聞くと別れるんだ、わたしゃ別れるのはいやだ、それともわたしのことを聞くか、蓋物を聞くか、わたしの身体か、蓋物か、どっちだろう」
八「オイ、なにをいってるんだ」
竹「ただいま……、おまえさんどこかへ行くかえ」
八「チョイと巣鴨《すがも》まで行くんだ」
竹「監獄かえ」
八「バカァいやがれ、縁起《えんぎ》でもねえ」
竹「少し待っておくんなさい、天下分け目の掛け合いだから」
八「なにをいってるんだ、なにか親分のところへ行って聞いてきたな」
竹「マアそこへ坐ってください」
八「ウン、なんだ」
竹「アノ唐土《もろこし》に孔子さまがありました」
八「何をいやがるんだ、唐土に孔子さまがあったって、こっちの知ったこっちゃァねえ」
竹「そんなおまえさん理屈を言っちゃァいけない、ただフンフンとだまって聞いていりゃァわかるんだよ」
八「フーン」
竹「馬を大切《だいじ》にしましたろう」
八「フン」
竹「それだからご家来も馬を大切にしました」
八「フン」
竹「厩から火事が出ましたろう」
八「そんなことは俺ァ知らねえな」
竹「アラまァ寝ぼう……馬を焼き殺したじゃァありませんか」
八「オヤオヤ、それはおどろいた、可哀想《かあいそう》なことをしたな、どこだえ」
竹「唐土だよ」
八「なにをいってやがるんだ唐土で馬を焼こうが牛を焼こうがかまわねえじゃァねえか」
竹「またそんな理屈をいうよ、だまってフーンと言えばそれでいいんだよ」
八「フーン」
竹「それと反対な話がありましょう、番町で猿が殿さまになった話を知ってますか」
八「ヘェー、番町で猿が殿さまに……、どうしたんだ」
竹「アレサ、猿が殿さまになりようはない」
八「だって今おまえがそういったじゃァねえか」
竹「マアだまってフーンといっていればわかるんだよ」
八「フーン」
竹「デ、菓子皿を大切にしましたろう」
八「フーン」
竹「デ、殿さまは毀されるといけないから、その出し入れを奥さまにしろとおっしゃったのさ」
八「フーン」
竹「奥さまはお客がお帰りになったから、それを持って二階からお降りになろうとすると、お足袋がすべって落っこったのは粗忽《そこつ》だから仕方がないじゃァありませんか」
八「フーン」
竹「それをなにもおまえさん、ぐずぐずいうことはありますまい」
八「俺ァなにもいやァしない」
竹「おまえさん話がわからないね」
八「おまえのしようがわからねえんだ」
竹「それじゃァわたしゃすぐその処置に取りかかるからね」
八「なんにでも取りかかんねえ」
竹「チャンチャンチャン、チャチャチャチャチャン」
八「なにをしているんだ……、オイオイその蓋物を出してなにをするんだ、他家《わき》へ貸すのならほかのにしてくれ、それは俺が一番大切にしているんだ」
竹「だまってそっちで見ておいでなさい」
八「洗うのかい、べつによごれているんじゃァない」
竹「チャン、チャチャチャチャン……」
八「洗うのなら、流しの前の板が一枚みじっけえから、ころぶといけねえよ」
竹「それがこっちの付け目だよ、チャン、チャチャチャン……」
八「ころぶといけねえったらよ」
竹「ハイハイ」
と言いながらトントンと流しのみじかい板を踏むと、ズルズルドーン、ガラガラガラ。
八「ソーラいわねえこっちゃァねえほんとうに、テ、テ、手を痛めやァしねえか、蓋物は毀したってそんなものは銭を出せばいくらでも買えるがおまえの手を痛めやァしねえか」
竹「アラマアこれはほんものだよ」
八「なにがほんものだよ」
竹「おまえは不人情だと思ったら、ほんとうに実《じつ》があるよ」
八「なにが実がある」
竹「なにが実があるって、この蓋物は毀しても、そんな物は銭を出せばいくらでも買える、手を傷めやァしないかと、わたしのことを心配してくれて……」
八「ナーニおめえが手を傷めると髪が結えねえだろう」
竹「そうさ」
八「そうすると俺が遊んでいて食うことができねえ」
[解説]この噺もおうむ返しになっている。落語にはおうむの型がたくさんあるけれども、たいがいはサゲが悪い、ただおうむの取り柄はクスグリが多いので前座や二ツ目の人がやっても客にうけることだ。そこへゆくとこの厩火事は、立派な真打噺《しんうちばなし》で、サゲもいい。これは落語の中で、最も粋な落ちだといわれるトタン落ちである。トタン落ちとはサゲの一言で話全体が結びつく、という落ちである。
[#改ページ]
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道具屋
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なにをしても人間はおろかではいけません。けれども落語のほうへ出るおろかは、少しはしゃれもわかるおかし味のある、変わったところがなければおもしろくありません。
○「アア与太《よた》、来たか、こっちへ上がんな、さっきおっかさんがきて泣いていったぜ」
与「色男になりたくないな」
○「なにが色男だ」
与「どこへ行っても女に泣かれる」
○「ばかだなァ、毎日遊んでばかりいちゃァしようがない、なにか商売をしろ」
与「冗談いっちゃァいけません、これでも遊んでばかりいやァしません、チャンと商売があるんで……」
○「なんの商売をしている」
与「こう見えても私の家《うち》は七ツ商売があるんだ」
○「七ツ、そりゃァたいへんだな、何と何をしている」
与「おふくろが針仕事洗濯をして一商売、私が無〔六〕商売……」
○「ばかにするな、無商売なんぞは世間体が悪いから、なにか商いをしろ」
与「商いもいろいろやってみたが、どうもうまくいかないもので……」
○「なにをやった」
与「去年の暮れは観音さまの市《いち》へ出ました」
○「それは感心だ、際物《きわもの》とくると儲かるものだ、しかしあすこは地代が高いだろうな」
与「ヘエ、高うございます、一番高いところを借りちまったんで……」
○「どこだ」
与「五重の塔」
○「ふざけるな、マア場所はどこでもいいがどういう物を売ったえ」
与「エ−、苧《お》を売りました」
○「ハハア麻か、麻は婚礼にも用い、友白髪《ともしらが》などといって縁起を祝うめでたいものだ、そればかりか」
与「串柿《くしがき》に橙《だいだい》…」
○「それもいいが、しかし取り合わせが妙だな」
与「それから番傘を売りました」
○「ハアなんだって」
与「よく観音さまの市の時に急に雨が降り出して、困る人があるから傘が売れるだろうと思って……」
○「ウムおまえのことを人がばかだというが、ばかどころじゃァない、なかなかうまい考えだ、してどうだった雨は降ったか」
与「イーエいいお天気で」
○「なんだ」
与「だまって店を出していたら、隣に出ている人が、なんでも市の物は景気をつけなけりゃァいけないというから、威勢よく七輪《しちりん》へ掛けておいたトタンのやかんをひっくり返した」
○「いけねえな、そんなことをして」
与「隣の奴もおどろいて、そうじゃァねえ、景気よく大きな声で、売り物をどなるんだというから、その人のどなる通りやった」
○「人の売り物をどなってどうするんだ」
与「先方《むこう》でもそういった、こういう工合に自分の売り物を呼ぶんだというから、一番先にオー、オーッてった、オー崎から品川だ」
○「なにをいやァがる」
与「隣の人がおめえのようにオーオーと離して呼んじゃァいけない、続けてやれというからオオオオオオ」
○「よさねえか、気味《きび》が悪いや、唖がどうかしたようだ」
与「なんでもやの字をつければいいというんで苧《お》や苧や……」
○「オイオイ市の売り物にオヤオヤてえのがあるかい」
与「一品《ひとしな》だから変だ、重ねてみろと教えてくれたから、苧や橙……」
○「うまいな、あとは」
与「傘っ柿……」
○「ばかッ、あきれたものだ、そんなものを買う奴があるものか」
与「ちっとも売れない」
○「あたりまえだ」
与「一夜明けてから縁起なおしに宝船を売りました」
○「ウム、あれはずいぶん立派な人が、やわらかい着物を着て三年続けて宝船を売ると、運が開くといって道楽半分売って歩く人がある、どうだ売れたかえ」
与「二日の晩に出ました」
○「そうだ、二日の晩にきまってるな」
与「ところがもうおおぜい売ってるから私は考えた」
○「どう考えた」
与「こうおおぜい売り手が出ていちゃァ、いけないと思って三日の晩に出た」
○「フームどうした、売れたか」
与「宝船は二日の物だ、もうおそいという人があったから、一生懸命に駈け出したがどうも二日に追ッつかなかった」
○「あきれ返ったものだ、それきりかえ」
与「それからしかたがないからズッと休んで、三月のお節句を待って、お雛さまの道具を売りました」
○「なるほど、これはよかったろう、やっぱり箪笥《たんす》、長持《ながもち》、煙草盆、火鉢などというものだな」
与「イエ、そんなものはどこの店にもあるから、なるたけ無い物と思って……」
○「ウム感心だ、そこへ気がつくというのはえらい、何を売った」
与「早桶《はやおけ》〔最下級の棺桶〕に華《はな》、人夫付きで三円五十銭という大勉強で売ったけれども、だれも買わなかった」
○「ばかッ、お雛さまに早桶を売る奴があるかい、しようのねえ男だ、どうだきさま、俺のところの内職をやってみねえか」
与「おまえさんの内職というと」
○「知らねえか」
与「アー知ってる知ってる、大きな風呂敷包みをしょって歩くんだねえ」
○「ウム」
与「夜仕事に出るんだ」
○「夜と限ったこともねえが、マア夜店のほうがいいな」
与「あのドの字がつくんだろう」
○「なるほどドの字がつく」
与「どろぼうだろう」
○「なぐるぜこの野郎、とんでもないことをいやァがる、ちょっと言うことが同じだから当ったと思ったら」
与「それじゃァなんだい」
○「俺の内職は道具屋だよ」
与「アア道具屋、お月さま見てはねるか」
○「しゃれるない、どうだ、おめえ眼が利くか」
与「エー」
○「眼が利くかよ」
与「おまえさんがそこに坐っているのがよく見える、悪いところにホクロがある」
○「大きなお世話だ」
与「そこに鉄びんがかかってる」
○「それがおめえに踏めるか」
与「火傷《やけど》する」
○「鉄びんを足で踏まれてたまるものか、いくらぐらいのものだかわかるかというのだ、とてもわかるめえ、しかたがねえから初めはゴミを売るんだ」
与「ごみを売るというと、はきだめから持ち出すので」
○「そうじゃァない、道具屋のほうではガラクタのことをゴミという、土びんのふたのちがってるのだの、お膳の縁《ふち》の取れたのだの」
与「そんなものが売れますか」
○「東京は広いところだ、こんな物でも売れる、それからだんだん目が利いてくると、屑屋《くずや》になるんだ」
与「ヘエー、資本《もとで》はどうするんで」
○「やる気さいあれば、しかたがないから俺が貸してやる」
与「いい心がけだ」
○「なにをいやァがる、ソコで道具屋には道具屋の符丁《ふちょう》がある、けれども初めッから符丁なんぞいってもわかるまいが、買わずにゆくことを小便ぐらいのことは覚えておかねえといかねえ、サアここに元帳があるから、これをソックリ貸してやる、この道具を持っていって、この元帳よりいくらでも上に売りゃァそれだけ儲かるんだ、たくさん儲けようとすると売れねえから、薄利《うすり》でやってみねえ、いいかえ、品を一通り改めてゆきなさい」
与「ヘエ、これはなんで」
○「これは掛け物だ」
与「化け物」
○「化け物じゃァない、掛け物」
与「やァこりゃァ比丘尼《びくに》が孕《はら》んでる」
○「そうじゃァない、これは唐《もろこし》金山寺の布袋和尚《ほていおしょう》だ」
与「ヘエー、人は見かけによらなえものだ、正直そうな顔をしているが……」
○「なにを」
与「唐で金山寺を盗んだ太え和尚」
○「なにをいってるんだ」
与「やァまたありました、これは鯔《ぼら》がそうめんを食ってる」
○「困った男だ、これは鯉の滝昇りだ……サアいいか気をつけて行きなよ、おまえの器量いっぱいに儲けるがいい、二三日こっち、佐兵衛《さへえ》が見えないから猿屋町の佐兵衛が出るところへ行って、今日は佐兵衛の代わりにまいりましたといえば、誰でも知っているから……気をつけなよ」
与「ありがとう存じます、じゃァ行ってまいります」
浅草|茅町《かやちょう》の通りへ来てズラリと店を並べる。
□「オオ道具屋、そののこぎりを見せねえ」
与「ヘエぶっ切りは横町の飴屋《あめや》」
□「飴じゃァねえ、のこを見せろってんだ」
与「乾物屋へおいでなさい」
□「ナニ」
与「数の子でございましょう」
□「なにをいってやがるんだ、のこぎりを見せろというんだ」
与「ヘエそうでございますか……」
□「なるほど、こりゃァ少し甘《あめ》えようだな」
与「イエ甘いか辛《から》いか、まだなめてみませんが、なんなら少し端のほうをおなめなすって」
□「のこぎりをなめる奴があるかい、生《なま》じゃァねえか」
与「イエ生じゃァございません、だいじょうぶでございます火事場で捨ってきたんでございますから……モシ焼けておりませんければ、焼けたのとお取り替え申します、ヘエ」
□「おめえはなんだな、素人だな」
与「ナーニ与太郎と申します」
□「名前を聞くんじゃァねえ、マヌケめえ」
与「アアおどろいたな、初めッから小便だ、のこぎりの歯など小便された日にゃァどうにもこうにもしかたがねえ」
△「エエ道具屋さん、なにかその珍《ちん》なものはげえせんかな」
与「ヘエ、わたしどもの家主《おおや》さんのところに猫がおります」
△「ホホ困ったな、珍《めず》らかな品はげえせんか」
与「ヘエ」
△「珍物《ちんぶつ》はげえせんか」
与「ヘエ見物にいらっしゃいますか」
△「イヤ困ったな、なにか珍らかな物はげえせんか」
与「ヘエ」
△「その君の前に短刀があるようでげすな」
与「ヘエ沢山《たんと》にもちっとにもこれだけでございます、初めのうちあんまり沢山持ってゆくと盗賊が多いからというんで、ヘエ」
△「イヤどうも困ったな、その腰の物で」
与「ヘエこれでございますか、ごらんなすって」
△「これはどうも……、抜けないな」
与「ヘエ、それは抜けません、木刀《ぼくとう》ですから」
△「木刀ではいけませんな、抜けるんでなければ」
与「これなら受け合って抜けますが、どうでございましょう」
△「イヤお雛さまの首の抜けるのはもらってもしようがない、いずれまたうかがいます」
与「なにかお買いなすって」
△「べつにどうも目にとまった品もございませんが、なにかうしろにお軸がございますな」
与「ヘエ」
△「その掛け物は」
与「この化け物でございますか」
△「文晁《ぶんちょう》でげすか、図は粟穂《あわほ》に鶉《うずら》ですかな」
与「イエ、女房に葛籠《つづら》というわけでもございません」
△「イヤ粟穂に鶉でげしょう」
与「ヘエその粟穂に鶉で」
△「文晁は偽《ぎ》でげすな」
与「受け合って|ぎ《ヽ》なんで、|ぎ《ヽ》でございませんければきっとお取り替えいたします」
△「どうも偽ではしかたがない、またまいります」
与「オヤオヤ行ってしまった……アア横町の美《みい》ちゃんが通る……オイ美ちゃん、美ちゃん、今日は道具屋になったんだよ、アア真っ赤になって行ってしまった、アハハハ、オヤここにあったやかんがなくなった、アアこれだ……」
◇「オイオイなにをするんだ、そりゃァ私の品だ、おまえのやかんは今むこうへ持ってかれた」
与「アアどろぼう……」
◇「今になってどろぼうたってしようがねえ」
与「オヤオヤやかんを取られてしまった、なんでも今度は小便をしようったら前にことわっておくんだな、小便をしちゃァいけませんって……」
×「オイオイ道具屋、そこにある股引《ももひき》を見せねえ」
与「ことわっておきますが、小便はできませんよ」
×「小便ができねえ、こいつァ不都合だな、小便のできねえ股引は買ってもしかたがねえ」
与「モシモシ、その小便とはちがいますよ……アア行っちまった、こりゃァおどろいたな」
婆「ちょっと道具屋さん」
与「オヤお婆さんおいでなさい」
婆「アノおまえさんのそばに木魚《もくぎょ》がありますね」
与「ヘエありますよ」
婆「それは、いかほど」
与「これですかえ、この木魚は……二円五十銭ですよ」
婆「二円五十銭……鳴りますかね」
与「今持ってきたばかりで、まだたたいてみませんが、木魚と半鐘《はんしょう》の鳴らないのは役に立たねえ、ひとつたたいてごらんなさい」
婆「それならば道具屋さん、どうせたたくなら、私は真言宗《しんごんしゅう》だから拝みながらたたきますよ」
与「マアお前さんのいいようにして、やってご覧なさい」
婆「ハイ、ごめんなさいよ……オンガボキャァベーロシャノ、マカモダラ、マニハンドマ、ジンバラハラハリターヤーオンゴン、オンガボキャァベーロシャノ、マカモダラ、マニハンドマ、ジンバラハラハリターヤー……」
与「お婆さんいつまでやってるんで、買うならかまわないが……」
婆「おいくらでしたっけねえ」
与「アレ忘れちゃァいけない、二円五十銭」
婆「一円二十五銭に負かりませんかね」
与「お婆さん一円二十五銭にゃァ負からないよ」
婆「負からなければご縁がないのだ、さようなら」
与「アレお婆さん、さんざんたたいて拝んだりしておきながら小便するなァひどいな」
婆「どうも年をとると小便近い」
与「なにをいやァがるんだ、みんな小便ばかりしやァがる」
書生「オイ道具屋、その君の前の笛をちょっと見せてくれ」
与「ヘエ」
書「笛をちょっと見せてくれ」
与「ヘエごらんなさい」
書「だいぶよごれてるな、売り物はよく掃除しておかなければいかん、ぼくが掃除をしてやる」
与「ありがとうございます」
書「フッフッ、アアこれは非常のほこりじゃな、けれどもこの笛というものは、我が日本の楽器の中でももっとも高尚なるもので、夏などは散歩のおりから吹いて歩くと思わず歩行ができ、すこぶる愉快のものじゃ……アッこれはいかん、これは不都合ができた、指がはまってしまった抜けん……ヤア道具屋、これはいくらだ」
与「さようでございます、少々その笛はお高うございますが」
書「足もとを見るな」
与「イエ足もとなんぞ見やァいたしません」
書「いくらだ」
与「八円五十銭」
書「ヤァこんなきたない笛を八円五十銭は高い、もっと負けてくれ」
与「いけません、おいやなら抜いてッておくんなさい」
書「意地の悪い奴だ、ではしかたがない、八円五十銭で買うが、いま懐中にそれだけ持ち合わせがないから、すまんけれどもおまえぼくの下宿まで同道《どうどう》してきてくれ」
与「遠くじゃァいけませんよ」
書「じきこの豊島《としま》町だ」
与「じゃァ店を隣へたのんでご一緒にゆきましょう」
書「それじゃァすまんけれども来てくれ、アアここがぼくの下宿だが、玄関に立ってるのもきまりが悪かろうから、この三ツ目の窓の座敷がぼくの部屋だからあすこへ来てくれたまえ」
与「ヘエよろしゅうございます、うまいことになっちまったな、アノ笛が八円五十銭になりゃァ、剛気《ごうぎ》だ早くお金をくれりゃァいいな、なにをしているんだろう」
中をのぞいてみると、一生懸命笛を引っぱって指を抜こうとしている。
与「アア旦那、そりゃァいくら引っぱってもダメですよ、すみませんがどうか八円五十銭早くおくんなさい、店を明けてあるんだから」
言いながら竹の窓のちょうど横の棧《さん》が取れているやつへ両方の手をかけて、真ん中へ顔を突ッ込んで中をのぞくはずみに、どうしたかげんかヒョイと首が中へ入っちまって抜こうと思ってもなかなか抜けない、
与「ヤアこれは、たいへんだ、首が抜けなくなっちゃった、しようがねえなァ……モシこの窓はいくらでございます」
[解説]今は誰がやっても、「道具屋」の主人公の名前は与太郎であるけれども、これは初代の円遊以来で、その以前には、みな別の名前だった。円朝なども杢兵衛《もくべえ》でやっていた。それに年齢も四十五六の、まぬけ男ということになっている。与太郎と改名をさせた円遊とても、年は四十がらみの愚かな男としてやっていた。最近は与太郎の年がだいぶ若くなって、みんな二十五六の愚か者になっているようだ。時世につれて落語も少しずつ改められてはきたがこの道具屋は江戸時代からの古い噺で現在までに多くの名人もやっていて決しておろそかにはできないものだが、最近ではほとんど前座噺になっている。丁寧にやればずいぶんと長いが、クスグリの連続であるから、どこでも切れるという便利な噺である。
この「道具屋」には、まだこのほかにも毛ぬき、小刀、鉄砲、コタツ、刀の鍔《つば》など種々の品物があって、ひとつひとつにサゲが付いている。中で最も古いのは鉄砲だという説がある。そのサゲは、「オイこの鉄砲はなんぼか」と客に聞かれて与太郎「ヘエ一本しかありません」「イヤ代を聞くのじゃ」「台は樫の木で」「そうではない、値じゃ」「音はボーン……」という間ぬけ落。また小刀の「この小刀は先が切れないから十銭に負けろ」「イエ十銭にしては、先が切れなくっても、元がきれます」というぶッつけ落がある。最も多いのは笛だが、笛にしても四通りある。客の指から笛がぬけないと見て与太郎が高いことをいうと、客は怒って「オイオイ足もとを見るな」「イーエ手もとを見ました」というこれもぶッつけ落。また客の指が笛からポーンとぬけるのを見て与太郎、あわてて「まけるまける」客「指がぬければ、ただでもいやだ」という拍子落。さらに窓に首を入れる件だが、昔は客が武士で、その供をして屋敷に行き、武者窓、俗にいう曰く窓に首を突っ込むのだ、入れる時には首を横にするから楽に入るのだが、首を立てのままにして抜こうとするから抜けないのである。現在は下宿屋に直したので、竹の窓にして「どうした加減かヒョイと首が中へ入った」などというが、これはどう考えても無理である。それはとにかく、首がぬけないので与太郎、「ああしようがねえな、首がぬけなくなってしまった……、モシ旦那、この窓はいくらです」という逆さ落。あるいはまた「旦那、痛うございますから、どうか抜いてください」「じゃァそのほうの首と、この指を差し引いておけ」の間ぬけ落などいろいろある。
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子|褒《ほ》め
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付け焼き刃ははげやすいということを申しますが、どうも何事も自分の心からしないといけないようで、お世辞なんというものは、ともすると失敗になりやすいものでございます。
隠「どうしたい、今日は仕事は休みかい」
熊「じつはなんでございます、仕事が半チクになりましたので家にいてもつまらねえからお宅にうかがったようなわけで、いま友だちに聞いたんですが、なんだってねえ、お宅へ菰冠《こもかぶ》りが一本着いてるんだって、俺は酒ときた日にゃァ目のねえ男なんですが、それでも自分で買うてえものはあまり心持ちがよくねえんで、おごってもらうのが大好きな性分なんです、一杯飲ましてもれえやしょうか」
隠「おごってあげるよ、おごってあげないこともないけれども、なんだな、おまえさんぐらい不器用な人はないね、職人なんてえものはなにか芸をやるよ」
熊「なにかやるったって、別段、芸なんてことはあんまり勉強しねえんだから……」
隠「宅《うち》ではそれでいいけれども、よそへ行った日にゃァお世辞の一つも言えなくっちゃァおごってくれないな」
熊「アアなるほど、お世辞なんてことはあんまりやったことはねえんでがすが、いったいどんなことを言うんで」
隠「教えるというわけにゃァゆかないけれども、マアなんだ、チョット人さまに会ったら、ていねいに言葉をかけるんだな、こんにちは、いいお天気でございます、しばらくお見えになりませんでしたが、どちらのほうへおいでになりました、先さまでもって商用で海岸のほうへとおっしゃったら、どうりで潮風にお吹かれになったとみえてたいそうお顔の色が黒くなりました、しかしあなたさまなどは元来がお色がお白いから故郷の水でお洗いになればじきに元通りになりましょう、ご安心なさい、そういうふうに一生懸命になっておいでになればお店のほうも大繁昌、したがって旦那の信用も厚くなる、おめでたいことでございます、こう言うんだ」
熊「アアなるほど、それがお世辞というのか、そういえばなんだね、一杯飲ましてくれるね」
隠「それで飲ましてくれなかったら奥の手を出して年令《とし》を聞く、失礼なことをうかがうようでござんすが、あなたのお年令はおいくつで、先さまで四十五《しじゅうご》だとおっしゃったら四十五にしてはたいそうお若い、どう見ても厄《やく》そこそこでございます」
熊「アアなるほど、けれど厄てえのはあんまり聞いたことがねえが、なんのやくで」
隠「四十二《しじゅうに》のことを厄というんだ」
熊「ヘエー、四十二が厄か」
隠「そういえばたいてい一杯飲ませるな、人情てえものでね、一つでも年令を若く言われれば一杯飲ませたくなる」
熊「そうかね、そんなことぐらいなら俺だって言えるよ、向こうから人が来たらなんでしょう、聞いてみりゃァいいんでしょう、こんにちはとくらァ、いいお天気でごぜえますと、しばらくお見えになりませんでしたが、どちらのほうへおいでになりやしたと、向こうのほうで商売用で海岸の地方へと言ったら、こちらが、どうりで潮風に吹かれたとみえて、たいそう面《つら》が真っ黒だ」
隠「面なんていう奴があるかい、お顔の色が黒くなったと丁寧に言わなくっちゃァいけない」
熊「なるほど」
隠「一杯飲ましてもらうんだから、丁寧に言わなくっちゃァいけないよ」
熊「お顔のお色が黒くなってと、あなたなんぞ元が黒いから」
隠「オイオイ、元が白いんだ」
熊「元が白いから故郷の水で洗えばじき白くなるから安心しろい、けだものめ」
隠「そんなことをいったら喧嘩になるよ、ご安心なさいと丁寧にいうんだ」
熊「それで一杯飲ませるね、いよいよ飲ませなかったら奥の手を出して、年令を聞けばいいんだろう、失礼なことをうかがうようでごぜえますが、あなたお年令はおいくつで、向こうでもって四十五といったら四十五にしてはたいそうお若い、どう見ても百そこそこだと」
隠「オイオイばかなことを言っちゃァいけない、厄そこそこだよ」
熊「アアそうか、厄そこそこだ、これで一杯飲ませるね」
隠「飲ませるよ」
熊「飲ませなかったら、隠居さん立て替えるかえ」
隠「ばかを言っちゃァいけない、マアマアやってみなさい」
熊「なるほど、これで一杯飲ませることをおぼえた、だけど隠居さん、それはうまく行かねえね」
隠「なぜ」
熊「なぜって往来の中だから、うまく四十五の人が来りゃァいいけれども、五十の人が来たらなんと言うんだえ」
隠「五十だとおっしゃったら、そうさな、四十五六ぐらいに見えます、とそう言っときな」
熊「なるほど、六十だといったら」
隠「五十五六」
熊「七十だといったら」
隠「六十五六」
熊「八十だといったら」
隠「七十五六」
熊「九十だといったら」
隠「その順でゆきない」
熊「順でゆきなといってその順がわからねえから聞いてるんじゃァねえか、まぬけめ、なにをいってやァがるんだ、今まで教えておいて後を教えねえなんてずるいことがあるもんか、教えねえなら教えねえといってみろ、風の吹く日にてめえの家へ火を放《つ》けるから」
隠「あぶない奴だな、九十だとおっしゃたら八十五六と言うんだ」
熊「なるほど、百だといったら」
隠「そう生きる方はめったにないけれども、あったら九十五六と言いな」
熊「二百といったら」
隠「そんな人はないよ」
熊「なるほどそうか…それからもうひとつ聞きてえんだがね、俺の家の隣の金太の野郎にね、子供ができたんだ、それで長屋じゅうがそろって、義理をやるんだとかなんとかいって、晦日《みそか》前の苦しいとこを二分《にぶ》、ふんだくられちゃったんだ、血の出るような銭をよ、だけども町内の交際《つきあい》でいやだとも言っていられねえからやったんだ、それで俺も癪《しゃく》だから飲みに行こうと思うんだけども、なにしろそんなところへ行って口を利いたこともねえから、まだ行かずにいたんで、いま褒め言葉てえものを初めて習ったが、やっぱり赤ん坊を褒めるときにもしばらくお見えになりませんと言うんですかえ」
隠「そんな褒め方はないよ、私は金太さんのところの子供は見ないけれどもたいてい紋切型《もんきりがた》がきまってるよ、たいそうよいお子さんでございます、お祖父さんに似ておいでになってご長命の相がおありなさる、旃檀《せんだん》は双葉《ふたば》より芳《かんば》しく、蛇《じゃ》は寸にして人を呑む、どうかこういうお子さんにあやかりとうございます、とそう言やァ自分の子を褒められて悪い気のする者はない、きっと一杯飲ませるよ」
熊「そうですかえ、本当に一杯飲ましてくれますか」
隠「飲ませるよ」
熊「じゃァさようなら」
隠「マアお待ち、家で一杯|燗《つ》けたから飲んでゆきなよ」
熊「いや、よしやしょう、いま教えられたことを忘れるといけねえ、さようなら……なんだべらぼうめ、今の熊さんは昨日までの熊さんと熊さんがちがってらァ、しばらくお見えになりませんでしたがで、酒を一杯飲ませる術をおぼえてしまったんだからなァ……おぼえたのはいいが、なんだだれも人が通らねえ、よわったな、アッ向こうから来た来た、たいそう真っ黒な野郎だな、同じ褒めるにも褒められるほうで張り合いがあるだろう、モシモシそこへ行く人、こっちへ来さっせえ、ハハア来やァがったな……こんにちは」
○「こんにちは」
熊「しばらくお見えになりませんでしたが……」
○「ハア失礼ですがあなたは誰でしたっけ」
熊「ハハアたいそうお色が真っ黒け」
○「大きなお世話だ、さようなら」
熊「いけねえや、まるッきり知らねえ人では困るな、知ってる人は来ねえかなァ……ヤア来た来た、伊勢屋の番頭が……オーイ番頭さん、こんにちは」
番「イヤどうした、色男」
熊「しめたッ、畜生……エエしばらくお見えになりませんでしたが」
番「なにをいってる昨夜《ゆうべ》髪床で会ったろう」
熊「アッ困ったなア、髪床からこっちしばらくお目にかかりませんでしたね」
番「今朝、お湯で会った」
熊「よく会うな……この間じゅうしばらくお目にかかりませんでした」
番「アアこの間じゅうはチョット商売用で海岸のほうへ……」
熊「ありがてえ、畜生、来やァがったな、そう来なくっちゃァいけねえ」
番「いやだねえ、どうしたんだい」
熊「ところで潮風に吹かれたとみえてたいそうお顔の色が黒くなりました……アアくたびれた」
番「なんだい、そんなに黒くなったかい」
熊「アアどっちが後ろだか前だかわからねえ……そういうふうに一生懸命になっておいでになればお店もご繁昌と、したがって旦那の信用も厚くなる、増長《つけあが》って帳面づらをごまかすな」
番「いやだなァ、人聞きの悪いことを言っては困るよ」
熊「どうだ、一杯飲ませるだろう」
番「飲ませない」
熊「飲ませねえ、……よし、飲ませなけりゃァ飲ませなくってもいい、奥の手というやつがしまってあるんだから」
番「ハハア」
熊「失礼なことをうかがうようでごぜえますが……」
番「いやだねこの人は、あらたまって何を聞くんだい」
熊「あなたのお年はおいくつで」
番「年を聞かれると面目ないよ」
熊「面目ねえという年があるけえ畜生、ごまかしやがるな、ふざけやァがって、白状しろい」
番「警察だね、まるで……一ぱいだよ」
熊「アア百で」
番「そうじゃァないよ、これだけだ」
四本指を出す、
熊「四歳《よっつ》かい」
番「四ツじゃァないよ、四十《しじゅう》だよ」
熊「四十か、四十にしちゃァたいそう……よわったナこいつァ、こんなことがあるだろうと思ったから四十五から上は聞いてきたんだがね、下を聞いてくるのを忘れた、すまねえが四十五になってくんねえ」
番「ばかなことを言ってはいけない、自分でそう勝手になれるものかね」
熊「なれねえでも頼むんだ、四十五だと言ってくれ」
番「そうか四十五だよ」
熊「四十五にしちゃたいそうお若え」
番「そりゃァそうだろう、本当は四十だもの」
熊「いくつぐれえに見えるかと聞いておくれよ」
番「いくつぐらいに見える」
熊「どう見ても厄そこそこだ」
番「ばかを言うない、この野郎」
熊「アッ痛い痛い、なぐりやァがったな、アア痛え、もう人の年を聞くのはよした、赤ん坊にしよう、赤ん坊なら少しぐれえまちがったって、なぐられァしねえだろう……居るかい金太」
金「オオだれかと思ったら熊さんかい、先日《こないだ》は義理をもらってありがとう」
熊「今日は赤ん坊を褒めに来たんだ」
金「そうか、それはありがとう、マア奥に寝ているから見てやってくんな、産婆も言ってたよ、たいそう大きな赤ン坊だって、こんな赤ン坊はめずらしいってね、内々喜んでいるんだ、奥に寝ているよ」
熊「そうけえ、なるほど大きいな、大きすぎたな、額《ひたい》ぎわへ頭痛膏《ずつうこう》が貼ってあるね」
金「それは親父だよ、親父が頭が痛いといって寝ているんだ」
熊「親父か、どうりででっけえと思った」
金「となりに寝ているのが赤ン坊だ」
熊「これが赤ン坊か、オヤオヤ人形のような赤ン坊だな」
金「ありがとう、そう言ってくれるのはおめえだけだ、来る奴来る奴がみんな猿のようだとかなんだとか悪口を言ってゆきやがる、人形のようだと言ってくれるのはおめえだけだ、ありがとう」
熊「だってこうやってだまっているだろう、腹を押すとキュッキュッと泣くぜ」
金「お腹を押さえたらだめだよ、赤ン坊が腹を痛めてしまわァ」
熊「可愛らしい手だな、紅葉《もみじ》のような手だな」
金「ありがたいね」
熊「紅葉のようなちいせえ手をしていやァがって、畜生、よくもこれで俺たちから二分ずつふんだくったな」
金「いやだね、オイ、赤ン坊が取ったんじゃないよ、俺がもらったんだよ、そんなに惜しけりゃァおめえにだけ返《けえ》すよ」
熊「返さねえたっていいけれども、これがだんだん大きくなって、この手が伸びると泥棒か巾着切《きんちゃっき》り……」
金「いやだね、へんなことを言うなよ」
熊「マア褒められるだけ褒めてやるよ」
金「ありがとう」
熊「俺ァ金太さんのとこの子供はまだ見ませんけども……」
金「オイオイ見てるじゃァないかそこで」
熊「アアそうか、フム、これがあなたのお子さんでござんすか」
金「俺の子だよ」
熊「よくお祖父《じい》さんに似ておいでになってと――お祖父さんに似ておいでになってご長命でごぜえますと、たいそういいお子さんでごぜえますと、|せんだん《ヽヽヽヽ》の石段はたいそう高《たけ》えと、愛宕山《あたごやま》よりまだ高え」
金「なんだいそれは」
熊「蛇は寸にしてミミズを呑むと、しばらくお見えになりませんでしたが、どちらのほうへ行っておいでになりやしたかと、商売用で海岸のほうへ、どうりで潮風に吹かれたとみえてお顔の色がたいそう……赤《あけ》えネ」
金「そりゃ赤いから赤ン坊てえんだ」
熊「アアそうか……失礼なことをうかがうようですが、あなたはおいくつで」
金「いやだね、オイオイだれの年を聞いているんだよ」
熊「赤ン坊の年を聞いてるんだよ」
金「赤ン坊の年なんぞ聞かなくたってわかるじゃァないか、今日は七夜《しちや》だよ」
熊「アア、初七日《しょなのか》か」
金「初七日じゃァないよ、七夜だよ、ひとつだ」
熊「ひとつか、ひとつにしちゃァたいそうお若え」
金「ばか言うな、ひとつで若いなら、いくつに見える」
熊「どう見てもただだ」
[解説]落語には、何事もこじつけて答える「やかん型」と、口から出まかせにしゃべる「弥次郎型」一ツ言葉を繰り返す「おうむ型」愚か者の「与太郎型」人真似をして失敗をする「付け焼刃型」等があるが、この「子褒め」は、付け焼刃型の代表的なもので、落語家にして、これをやらぬ者はないくらいだが、また与太郎の系統にも属する。
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唐茄子屋《とうなすや》 別名〔蜜柑屋〕
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何商売でもこれが容易《たやすい》というものはありません。ことに売り声が売り物に相当しないと、まことにいけないものだそうでございます。子供相手の者はことにいろいろ趣向をこらしてせいぜい子供の気に入るようにやります。そのまた売り声というものがなかなかうまくやれないものです。
○「オイオイ田舎の人、こっちへおいで、おまえも東京へ出てきて、どこかへ奉公しようというのだが、まだ良い口がない。そのうちにどうか良い奉公口が見つかるだろうが、それまでただ遊んでいても退屈だろう。小遣い取りにひとつ商いをしてみなさい。ナニむずかしかない。そこに岡持ちがあるだろう、そのふたを開けてみねえ」
△「ヤアこりゃァなんだな、小豆《あずき》を煮たんだな」
○「そばに小さな紙袋がついているだろう。それに一杯一銭で売るんだ、いいか。砂糖入り金時《きんとき》といって売るんだ」
△「なんちゅうだね」
○「砂糖入り金時というんだよ」
△「そんな頓狂《とんきょう》な声は出ねえ」
○「出なくっちゃァいけねえ、砂糖入り金時だ」
△「砂糖入りなんちゅうだね」
○「そうどうもわからなくっちゃァ困るな。こうしねえ、忘れたらなァ、五月人形の強い人だと思え、金時だぜ」
△「なるほど、五月人形の強い人で金時か、これならばだいじょうぶだ。これなら忘れっこねえ、じゃァ行ってまいります」
○「うまくやっておいでよ」
夕方になると青い顔をして帰ってきました。
○「どうした。たいへんに顔の色が青いじゃァねえか、身体《からだ》でも悪いのか」
△「ナーニ、腹がへっただよ」
○「なんだなァ、田舎者のばか正直というが、あんまり正直すぎるじゃねえか、売りだめで何か買って食うがいいじゃァねえか」
△「売りだめにもなんにも、まるで売れねえでがすよ。人がみんな笑ってばかりいて、だれも買わねえだ」
○「そりゃァおまえの言葉がおかしいから笑いもするだろうが、一銭も売れねえってえのはおかしいじゃァねえか。なんだろうな、売り声は砂糖入り金時と言ったろうな」
△「アッまちげえた、砂糖入り弁慶《べんけい》といった」
これじゃァ売れません。
伯「アア与太郎来たかい。マアマアなんだこっちへ入んな。先刻《さっき》おふくろに会ったところが、まだおまえはあいかわらず遊んでるそうだな。てめえはもう、カレコレ二十歳《はたち》にもなっているんだな。遊んでちゃァだめだ」
与「ウーン、オレも二十歳になんかなりたかァねえけれども自然になっちまったんだ。伯父さんなんだね、二十のことをハタチというんだね。してみると三十のことをイタチてえかね」
伯「イタチってえ年があるものか。そんなだらしのないことを言ってちゃァしようがねえじゃァねえか。おめえだって小商人《こあきんど》の伜《せがれ》だ。親父が死んでしまっていつまでもおふくろの稼ぎを的《あて》にしてちゃァいけねえ。今日からおめえを商人にしてやるからそう思え」
与「なにを始めるんだい」
伯「今年はカボチャの当たり年だ。たいへんにカボチャがよくできたから、きさまにカボチャを売らしてやろうというんだ、もうチャンと籠《かご》に入れて支度がしてある。勘定のしいいように両方の籠に十ずつ入れてあるから両方で二十あるんだ」
与「それじゃァ両方で|はたち《ヽヽヽ》なんだねえ」
伯「オイ、カボチャの数と人間の年と一緒にする奴があるか。大きいのが二十円で小さいのが十五円だ、こりゃァ元値だから売る時にはよく上を見るんだぞ」
与「上を見るのかい」
伯「いいか、忘れちゃァいけねえぞ。それからなんだぞ、お客さまが何をいっても決して逆らっちゃァいけねえ。大通りはいけねえよ、裏店《うらだな》へ入るんだ。ひやかす奴もあるだろうが、腹を立っちゃァいけねえ。おめえはボンヤリしているからそこがいいんだ。しっかりやってこなくっちゃァいけねえ。口はハキハキとききねえよ。そこに股引《ももひき》がある、それをはいて草鞋《わらじ》をはくんだ。オイオイ先へ草鞋をはいてそれから股引をはく奴があるか、股引をはいてから草鞋をはくんだよ。そこに財布があるから、それを首へかけて売った銭はそれへ入れるんだ。財布をブラさげておくな、腹かけの丼へ入れておくんだ。サァよしよし、その天秤をかついでみろ、そんなに重くはあるめえ。まずい腰をしやがるな、もっと口を結べ、電車の車掌のカバンみたように口を開けッぱなしにしておくな。しっかりしろしっかりしろ、くもりガラスみたようにボンヤリしてちゃァいかねえ。なんでも売り声が肝腎だ、大きい声をしろ裏店へ入るんだぞ、早く売ってこい」
与「おどろいたなァどうも、なかなか大きい声は出ねえや。またなんだってカボチャなんか食う人があるんだろう。カボチャなぞ食う人があるから、オレが売らせられるようなことになっちまったんだ、カボチャのおかげだ、このカボチャのざまァみやァがれ、カボチャカボチャ」
○「ヤイてめえか、うしろから来やがってカボチャカボチャといやがったのは」
与「ウンオレだ」
○「ヤイオレの面《つら》がカボチャに似ているというのか」
与「ナーニ、カボチャになんか似ているもんか、じゃがいもに似てらァ」
○「なにをいってやがるんだ人の後から来やがって、カボチャカボチャというから気になるじゃねえか。なんだてめえカボチャを売ってるのか、カボチャカボチャと言うからいけねえんだ。唐茄子屋《とうなすや》でございと言ってみろ、うまく行くだろう」
与「なるほど、それじゃァ唐茄子屋でこざい。オイ一つ買ってくんねえか」
○「オレァこれから湯屋へ行くんだ、唐茄子なんかいらねえ」
与「湯なんかどうでもいいじゃァねえか、唐茄子を買っておくれよ」
○「いらねえよ。うるせえ奴だ」
与「アア怒って行っちまやァがった……。唐茄子屋、唐茄子屋、唐茄子屋でござい、アア大通りはいけねえや、裏店へ入るんだっけなァ。アアここらは銀行ばかりで路地なんかありゃしねえ、唐茄子屋でござい、ア、あったあった、せめえ路地だなァ。唐茄子屋でござい、アアいけねえ、こりゃァ突き当たりだ。大きな土蔵だと思ったら質屋の蔵らしいな。こりゃァいけねえ帰ろうと思っても天秤棒がつかえて帰《けえ》れねえサァたいへんだ、こりゃァいけねえ」
△「ヤイヤイ、格子へ籠をぶっつけちゃァいけねえじゃァねえか、格子が毀《こわ》れちまう」
与「ヘエまことにすみませんねえ、後へ帰ろうと思うんだが帰れなくなっちゃったんで、ちょっと土蔵を片づけてくださいな」
△「ばかァいえ、土蔵が片づくかい。知恵のねえ奴だなァ。一度天秤棒を下へ置いててめえが身体を転《かわ》しゃァいいんじゃねえか、ざまァみやがれ。せっかくオレが昼寝をしているところを大きな音をさせやがったんで飛び起きちまった。人をおどろかしやがって太い奴だ」
与「オレだっておどろいた」
△「なにをいやァがる。はり倒すぞ」
与「なぐったってなかなか倒れねえ」
△「理屈をいってやがる、なぐるぞ」
与「いくつ」
△「勘定を聞く奴があるかい、手都合だ。十《とう》なぐることもありゃァ二十なぐることもあらァ、いくつなぐるか前々からはわからねえ」
与「じゃァ二つばかりなぐらせるから唐茄子を買ってくれ」
△「この野郎、押し売りは天下の禁制《はっと》だ」
与「禁制でもいいから買ってくれ」
△「わからねえ奴だ。あたまをなぐって買わねえわけにいかねえか、安けりゃァ買ってやる。大きいのはいくらだ」
与「二十円だ」
△「ちいせえのは」
与「十五円だ」
△「ウム、高かァねえ、じゃァ大きいのを二個ばかり買おう。サア四十円やるぜ、二つ取ってくんな」
与「売る時は上を見るんだから、おめえのほうで取ってくれ、上を見ているから」
△「じゃァいいか、二つ取ったよ」
○「なんだい吉《きっ》さん」
吉「アアおかみさん、今ここへ唐茄子屋が荷を下ろしたんだ、二十円に十五円というが安いじゃァねえか」
○「それは安いね、わたしも買うからおくれ」
と、いううちに向こうのお婆さん、となりのお爺さん、果ては長家総出で唐茄子を買って、すぐにみんな売れてしまった。
吉「オイオイみんな売れちまって、銭はこれだけあるんだが、いいのかい」
与「勘定はわかってるんだろう。両方に十個《とう》ずつ入っている」
吉「ウムちょうど三百五十円ある。また買ってやるから持ってきな」
与「ありがたい、すっかり売れちまった」
与太郎は伯父さんの家へ帰ってきました。
与「伯父さん行ってきた」
伯「たいそう早いな、夕方まで売ってくるがいいじゃねえか」
与「それでもみんな売れちまったんだ」
伯「みんな売れた、なるほど籠がカラになった。えらいえらい。それだから商いをしなくっちゃァいけない。ばかだばかだというがどうしてなかなか、隅へ置けねえや」
与「じゃァもっと前へ出ようか」
伯「ナニ出なくったっていい。だから何でも使いようによるんだ。ご苦労ご苦労さぞくたびれたろう、売りだめをこっちへ出しな」
与「お銭《あし》はこれだけある」
伯「ウム三百五十円これは元だ。どのくらい儲かったか儲けを出しな」
与「儲けはそれだけだ」
伯「元はどうした」
与「元がそれなんだ」
伯「だから売りだめをそっくり出してみなよ」
与「みんなでそれだけだ」
伯「どんな商いをしてきたんだ」
与「大きいほうが二十円、小さいほうを十五円に売ったんだ」
伯「おまえそりゃァ元値じゃァねえか。上を見ろと言ったのはどうした」
与「上を見たんだ。あんまり長く見ていたんで首が痛くなった」
伯「ばかめ。上を見ろといったって仰向《あおむ》いている奴があるか、あきれたなァ。掛け値をいえというんだ。元値が二十円の物なら二十五円というんだ、二十二円にお負けという、それじゃァお負け申しましょうと、一つ二十二円に売るだろう、だから一個売れば二円の儲けだ。わずか二円の儲けだが塵《ちり》積もって山となるということがある。それだから上を見ろと言ったんだ。掛け値をいわないと女房《にょうぼう》子が養なえねえ、まだ早いからもう一籠売ってきな」
与「おどろいたなァ、しかたがねえから、もういっぺんあの裏へ行こう……オイ親方」
吉「ヤアさっきの唐茄子屋だな」
与「ウンまた来た」
吉「なにを持ってきたんだ」
与「唐茄子だ」
吉「そんなに唐茄子ばかり買っちゃァいられねえ。しかし今もそういってたんだ。たいへんに安い唐茄子だって、長屋中の評判だぜ。来たもんなら使い物にするから、大きい奴を三個《みっつ》ばかりもらっておこう」
与「今度は値段がちがうんだ。二十円じゃァねえ」
吉「ウーンいくらだ」
与「大きい奴が二十五円だ。こういったら高いから、おまえのほうで二十二円に負けろというだろう。ようございます。といって負けたところで一個で二円儲かるから十個売っているうちには二十円だ。塵積もって山だ、売る奴がりこうで買う奴がばかだ」
吉「なんださっきはとぼけてるのかと思ったら、おまえそれが地だな。じゃァさっきの二十円というのは元価か」
与「ウン、家へ帰ったら伯父さんにしかられた。今度はチャンと売ってこいというから、親方買ってくんねえな」
吉「ウム可哀相《かあいそう》に。いい若え者だ、幾歳《いくつ》だ」
与「六十だ」
吉「ナニ六十だ。見たところが二十《はたち》ぐれえじゃねえか」
与「元は二十だが、掛け値をいわねえと、女房子が養えねえ」
[解説]これは上方落語の「蜜柑屋」であるが四代目小さんは「唐茄子屋」と改題してやっていた。四代目も最初は蜜柑屋でやっていたのだが、ある年、落語研究会で、当時はまだ小三治だった小さんが「唐茄子屋」と番組に発表をするとお客は呆然とした。というのは、円右の唐茄子屋があまりにも有名であったのでお客はみな新人の小三治がどうしてあの人情噺をこなすだろうと思っていたところが聞いてみると案に相違の与太郎噺だったという訳だ。四代目も最初は洒落に改題してやったのだったが、いつかそれが本題になってしまった。
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牛|褒《ぼ》め
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牛褒めという落語を一席申し上げます。
父「与太郎、ここへ来い」
与「なんだおとっさん」
父「そこへ坐れ」
与「アアイ」
父「きさまのことを人がバカだバカだと言うだろう」
与「ウン、みんながそう言ってくれるよ」
父「くれるんじゃァない、きさまはなんとも思うまいが、親の身になってみろ、きさまがバカといわれるたんびに、じつに身を切られるほどつらいや、けれども親の欲目から見てさえバカと思うくらいだから、世間の人の目から見れば、どのくらいバカに見えるか知れやしない、バカをバカというんだから腹も立てられないが、どうかバカと言われないようにさしたいもんだ、こりゃァマア叱言《こごと》をいったって直るものでないからしかたがない、その中でも横町の佐兵衛《さへえ》さんが、一番よけいバカバカと言うようだ、どうか与太郎と名を呼んでくれるようにしたいもんだ」
と親はありがたいもので、バカといわれる子ほど不憫《ふびん》を増し、しきりに考えておりましたが、
父「オオそうだ、佐兵衛さんで思い出したが、今度アノ佐兵衛さんが新宅をこしらえ、もうでき上がった、四五日前にちょっと俺が見に行ったが、佐兵衛さんがいなかったので、そのまま何ともいわずに帰ってきたが、ちょうど幸い、今日これからおまえが行って家《うち》を褒めてきな」
与「アイ、じゃァ行ってこよう」
父「待て待て、バカのくせに気が早い、いきなり飛び出して行ってなんて褒める」
与「ウン、そりゃァ知らない」
父「知らないでむやみに駈け出す奴があるか、今おとっさんが教えてやるからよく聞いてろ、先方《むこう》へ行ったら第一におじぎをするのだ、さてこんにちは、けっこうなお天気でございます、先日はおとっさんが上がりまして、おやかましゅうございました、このたびご普請《ふしん》がご落成……待て待て、ご落成より出来あがりましたのほうがいいや、エエ家をお褒め申しにまいりましたといえば、マアこっちへといって奥へ通す、通ったらそれから構造《こしらえ》を褒めるんだ、まずいろいろな木も使ってあるけれども、檜《ひのき》が一番よけい使ってあるから、ご普請は総檜造りでございますな、畳は備後《びんご》の五分縁《ごぶべり》で、左右の壁は砂ずりでございますな、天井は薩摩《さつま》の鶉木目《うずらもく》、お庭は総みかげ造り、これもいろいろな石があるけれども、みかげ石がよけいだから総みかげ造りと言ってしまえ、向こうのお床の間に掛け物が掛かっておりますは、隠元禅師《いんげんぜんじ》の唐画茄子《とうがなすび》でございますな、と褒めるんだ、そうすりゃァむこうでおどろく……」
与「むこうより俺のほうがおどろく」
父「なにをおどろく……」
与「なんだか長くってわからねえ」
父「そりゃァ一度でわかるものか稽古をするんだ、俺のいう通りやってみろ」
与「なにをやるんだ」
父「俺のいう真似をするんだ」
与「そうか、さァなんとでも言ってみろッ」
父「なんだ親に向かって言ってみろという奴があるか、ご普請は総檜造りでございますな」
与「ご普請は総|ヘノキ《ヽヽヽ》造りでございますな」
父「|ヘノキ《ヽヽヽ》じゃァない、檜、畳は備後の五分縁《ごぶべり》で」
与「畳は貧乏でボロボロで」
父「そうじゃァない、備後の五分縁……」
与「フーム、びんつけ油の堅練《かたね》り……」
父「まだちがう、畳は備後の五分縁だ」
与「ウム、畳は備後の五分縁で」
父「左右の壁は砂ずりでございますな」
与「佐兵衛の女房《かかあ》は|ひきずり《ヽヽヽヽ》でございますな」
父「しようがねえな、それじゃァ佐兵衛さんの家へ喧嘩を売りにゆくようなもんだ、|ひきずり《ヽヽヽヽ》じゃァない、よく聞けよ、左右の壁は砂ずりでございます」
与「フーン、左右の壁は砂ずりでございます」
父「天井は薩摩の鶉木目《うずらもく》」
与「フフン」
父「なにを笑っているんだ」
与「それでも、天井にさつまいもがぶら下がっている」
父「天井にさつまいもやヘチマがぶら下がるか……」
与「それじゃァなにがぶら下がったんだ」
父「なにもぶら下がったんじゃァない、よく聞いていろ、天井は薩摩の鶉木目だ」
与「天井は薩摩の鶉木目」
父「お庭は総みかげ造りでございます」
与「お庭は総見かけだおしでございます」
父「またちがう、お庭は総みかげ造りでございます」
与「ウンお庭は総みかげ造りでございます」
父「向こうの床の間に軸物が掛かっております」
与「向こうの床の間に化け物が出かかって……」
父「コレコレ化け物なんて、新しい家を褒めるのそんなことをいっちゃァいかねえ、向こうの床の間に軸物が掛かっております」
与「向こうの床の間に軸物が掛かっております」
父「この軸は隠元禅師の唐画の茄子《なす》の掛け物」
与「この軸はインゲン豆、ぜんまい、唐茄子《とうなす》の化け物」
父「こいつ化け物が好きだなァ、おまけに八百屋じゃァあるまいし、インゲン豆、ぜんまい、唐茄子てえやつがあるか、隠元禅師という方がお書きなすった唐の画だから唐画というんだ、よく覚えろ、隠元禅師の唐画茄子の掛け物」
与「隠元禅師の唐画茄子の掛け物」
父「なにやら上に賛《さん》がしてございます」
与「なにやら上に賛がしてございます」
父「都では」
与「都では」
父「まだ味知らず」
与「まだ味知らず」
父「初茄子《はつなすび》」
与「初茄子」
父「これはたしか去来《きょらい》の句でございます」
与「これはたしか去年の暮れでございますな」
父「去年の暮れではない……」
与「それでは今年か」
父「ちがう」
与「来年か」
父「だれが年を聞いてるんだ、去来の句でございますなというんだ」
与「さようか、その通りでございますな」
父「なんだ、俺と話すんじゃァねえ、この句はたしか去来の句でございますというんだ」
与「ウンさようか、この句はたしか去来の句でございます」
父「そうだ、わかったか」
与「少しもわからない」
父「なんのために稽古をするんだ、それでは俺がかなで書いてやる、バカでもかなの読めるだけがとりえだ、紙と硯箱《すずりばこ》を持ってこい、よしよし、サア書いてやったぞ、これをむこうに見られないようにきさまが読むんだ、いいか、それだけのことをいってみろ、むこうで感心するばかりではない、なかなか物を知ってると思うと、こののちバカとはいわずに、与太郎とか与太さんとかいってくれる、ことによると、座敷から真正面に見える台所の柱に、大きな節穴がある、それを佐兵衛さんがひどく気にしていなさるということをおかみさんから聞いたが、その節穴を見せたら、きさまがそういうんだ」
与「ウム、なんというんだ」
父「お座敷の柱ではなし、台所の柱ですから気をもむことはありません、穴の上へ火の用心のお札をお貼んなさると、穴が隠れて火伏せになりますというんだ」
与「また長いなァ」
父「待て待て、それでは穴で気をもむことはありません、穴の上へ火の用心の札をお貼んなさいといえば、むこうで穴が隠れて火伏せになるくらいなことは考える」
与「もし考えなかったらどうしよう」
父「そんな心配にはおよばない、たしかに佐兵衛さんが考える、それをうまくやってみろ、なにかご馳走をするかそれとも小遣い銭の少しぐらいくれるかもしれない」
与「小遣い銭はいくらぐらいくれる」
父「いくらだかわかるものか、相手がきさまだからたくさんはくれない、十円もくれるかな」
与「よしよし、もしくれなかったら、おまえ立て替えるか」
父「そんなことができるものか、よけいなことをいわずによく覚えていけ、穴を見せたら穴で気をもむことはありません、上へ火の用心の札をお貼んなさいというんだ」
与「ウン、俺ァ途中稽古をしながら行こう」
父「うまくやってこいよ」
与「ウンうまくやると十円くれるな」
父「コレコレ、十円は忘れてもいいが、穴の上へ火の用心の札をお貼んなさいを忘れちゃァいかねえよ」
与「ウン、忘れねえ、行ってくる」
ほどなくやってまいりましたのが佐兵衛さんの新宅でございます。もとより金に不自由のない身の上ですから数寄《すき》を凝らした造作から庭の造り、まことに見事なものが出来あがりました。おもてからバカの与太郎、
与「オイオイ佐兵衛さん、佐兵衛さん」
座敷にいた佐兵衛さん、おかみさんと目を見合わせまして、
佐「婆さんや見な、バカという者はしようのないものだのう、年をとったわしを友達同様に心得て、戸外《そと》から大きな声で佐兵衛さん、佐兵衛さんと呼んでいる、なんだ」
与「オイ、上がってもいいかい」
佐「いいからこっちへ上がんな」
与「ドッコイショ、佐兵衛さん、まず第一がおじぎだ、こんにちは、けっこうなお天気でございます」
佐「婆さん聞いたか、今日は挨拶ができるな、ハイハイこんにちは、けっこうな天気だのう」
与「先日はおとっさんが上がりまして、おやかましゅうございました」
佐「イヤこの間はおとっさんがみえたが、あいにくわしが留守でおかまい申さなかった」
与「それにこの度はご普請ができあがったそうでござい、お褒め申しに来たのでござい」
佐「そいつァありがたいな、褒めてくれるか」
与「ウン褒める、いよいよ褒めるぞ、サア覚悟しろ」
佐「おかしいなァ家を褒めるのに覚悟をしろはハハハハハ、よしよし覚悟をした」
与「覚悟をしたらそっちを向け」
佐「エ、こっちを向くのか」
与「そうだ、ご普請は総檜造りでございますな、畳は備後の五分縁で、佐兵衛の女房はひきずりで……」
佐「なんだと」
与「そうではない、左右の壁は砂ずりでございます、天井は薩摩の鶉木目、お庭は総みかげ造りでございます、向こうの床の間に軸物が掛かっております、これは隠元禅師唐画茄子の掛け物、なにやら上に賛がしてある、都ではまだ味知らず初茄子、この句はたしか去来の句でございます……もうこっちを向いてもいい」
佐「与太さんなにか読んでいるようだなァ」
与「ウンー読んでなんかいない……」
佐「読んでもかまわないが、恐れ入ったものだ、よくそうわかるのう、おまえにそうわかれば見せるものがある、この通り台所の柱に節穴が真正面に見える、どっちかへまわせばいいのに大工が木取り具合とみえて、穴が真正面に見えるので気になっていけない……」
与「オイオイ佐兵衛さん、穴で気をもむことはない、穴の上へ火の用心の札を貼るといい」
佐「なるほど、婆さん聞いたか、座敷の柱とはちがって台所の柱だ、火の用心の札で穴を隠すのは気がつかなかったのう、バカどころではない、こっちのほうがよっぽどバカだ、三つ子に教わって浅瀬を渡るというのはここだなァ、与太さん、さっそく火の用心の札で穴を隠すよ」
与「どうだ、俺は賢かろう、りこうだろう」
佐「そうともそうとも、なかなかりこうになった、婆さんやなにか菓子はないか、ナニなにもない、じゃァ小遣い銭を少しやってくんな、さようさ、十円もやったらいいだろう、その白紙へ包んで出しな、与太さんこれはおまえの小遣い銭だよ、帰りになにか買っておいで」
与「ありがたい、りこうになると儲かる、中を見てもいいかえ」
佐「アア勝手に見なさい」
与「ヤア、十円だ、ヘヘッ新しいなァ、できたてのホヤホヤだなァ」
佐「さようさ、きれいだろう」
与「これはおまえがこしらいたのかえ」
佐「冗談いうな、ほかのものとちがって、金をこしらえたかと、聞く奴があるか」
与「フフン、俺ァ帰るよ……」
父「ア、さようか、帰ったらおとっさんによろしくいっておくれ、アハハハハ、もう行ってしまった」
与「オイおとっさん、行ってきた」
父「さようか、どうした」
与「うまく褒めたぜ」
父「それはよかった」
与「佐兵衛さんおどろいていたぜ、十円くれた」
父「ソラみろ、それだから口をきくのにも気をつけなければいけないよ」
与「フフンりこうになると儲かるなァ、どこか家を褒めに行くところはないか」
父「そんなにはない」
与「どうだ、向こうの家を褒めてこようか」
父「向こうでは普請もなにもしやァしない」
与「それでは自家《うち》を褒めるから五円くれ」
父「こいつバカなくせに欲が深いな」
与「どこかほかに普請をした家はないかな」
父「待て待て、多七《たしち》さんところで牛を買ったというから、その牛を褒めてこい」
与「そんなら行ってくるよ」
父「コレコレ待て、褒めかたを知ってるか」
与「知ってるよ」
父「そりゃァ感心だ、なんといって褒める」
与「ご普請は総檜造りでございます」
父「そりゃァ家だ、家と牛とはちがう」
与「|うち《ヽヽ》と|うし《ヽヽ》、少しのちがいだ……」
父「牛の褒めかたはむずかしい、牛は天角《てんかく》、地眼《ちがん》、一黒《いっこく》、鹿頭《ろくとう》、耳小《じしょう》、歯違《はちご》うだ、天角というから角は上を向いたのがいい、眼は地眼といって下を見ているのがいい、一黒といって一に黒く、鹿頭といって頭は鹿に似たのがいい、耳小といって耳は小さいのがいい、歯違うといって歯は食い違ったのがいいが、そうそろったのはまずない、けれども、そう褒めとけばまちがいはない、また稽古のために一緒にやるんだ」
与「ウン……」
父「稽古をするんだよ、いいか天角地眼」
与「天角地眼《てんかくちがん》」
父「一黒鹿頭《いっこくろくとう》」
与「一石六斗《いっこくろくと》」
父「耳小歯違《じしょうはちご》う」
与「二升八合五勺《にしょうはちごうごしゃく》」
父「なんだいその五勺は」
与「これはおまけだ」
父「おまけなんぞはいらない」
与「まけなければ売れないぜ」
父「牛を売る気になっている、そんなところへまけはいらない、耳小歯違うてんだ、米じゃァない」
与「さようか、それでは量りッきりだね」
父「なにをいってやァがる、わかったか」
与「わからない」
父「しようのない奴だな、さァさァそれも書いてやろう……さァ書いた、これを持っていって、やっぱりこれも多七さんに見られてはいけないぜ、この書きつけをむこうに気づかれないように、ソッと見ながら褒めるんだ」
与「今度褒めたらいくらくれるえ」
父「いくらくれるかわかるもんか、バカのくせに欲ばるな、それよりまちがいのないように、うまくやってこい」
与「それじゃァ行ってくるよ」
父「待ちな待ちな、おとっさんがよろしくというんだぞ」
与「アイ、じゃァ行ってくらァ」
今度は親父の友人で、多七という人の家へやってまいりました。
与「オーイ多七さん」
多「だれだい、そんな大きな声を出すなァ」
与「俺だい」
多「ウム、だれかと思ったら与太さんか、こっちへお上がり」
与「オイ多七さん、おまえ牛を買ったってねえ」
多「アア買ったよ」
与「俺ァその牛を褒めにきたんだ」
多「そうかえ、そりゃァありがたいな……なにをキョロキョロしてるんだ」
与「それでも牛がいないもの」
多「冗談いっちゃァいけない、家の中に牛がノソノソしているものか」
与「そうか、それじゃァ戸棚か」
多「バカなことをいうな、牛が戸棚や箪笥《たんす》のひきだしに入ってるもんか」
与「どこにいるんだ」
多「裏の小屋にいる、見せるから一緒においで」
与「アイ」
と裏手の空き地へまいりました。
与「ヤアいたいた、小さな牛だなァ」
多「オイオイ、そりゃァ牛じゃァない、犬だ」
与「さようか、どうりで小さい」
多「これだよ」
与「ウムいたいた、大きいなァこの牛ァ角《つの》がある」
多「そりゃァおどろくことはない、牛はみんな角がある」
与「この牛は良い牛だなァ」
多「ナァニそれほど良い牛ではない」
与「そんなことをいわないで、俺が褒めてやるから多七さん、そっちを向いておいで」
多「ナニ牛を褒めるのにこっちを向くのか」
与「そうだ、俺がいいというまでこっちを向いちゃァいけないよ」
多「よしよし、こっちを向いてる」
与「この牛は天角、地眼、一黒、鹿頭、耳小、歯違う五勺はいらない、量りッきりでござい」
多「オイオイなにか売ってるようだな、五勺はいらないの量りッきりだのというのは、しかしおまえの褒めたような牛はとても我々が買うことはできない。昔、菅原道真公《すがわらみちざねこう》が筑紫《つくし》でお乗りになった牛は、天角地眼一黒鹿頭耳小歯違うの牛であったそうだ、我々の牛はやくざ牛、なれども褒めてくれればまことにうれしい、いつの間にそうりこうになった、感心したなァ」
与「どうだ多七さん、えらかろう」
多「えらいともえらいとも、感心した……」
与「オイオイ多七さん、牛が糞《ふん》をした、きたねえなァ」
多「サア、おまえがせっかく褒めてくれても、そこは畜生だから褒めた人の前で遠慮なく糞をする、これも商法の都合で買ったんだが、決して獣類《けもの》は飼うものではない、朝夕掃除をしてやってもよごされるんで精が尽きる――といって掃除をしなければ、よけいきたないし、ぜんたい後ろにこの穴があるから糞をするんだ、この穴がないといいんだがなァ」
与「オイオイ多七さん、そんなに穴で気をもむことはない、穴の上へ屁の用心の札を貼ると、穴が隠れて屁伏せにならァ」
[解説]これは昔噺の馬鹿|婿《むこ》から取ったものらしい。この噺のサゲは、柱の穴であるから、仕込み落なのであるけれども、屁の用心だの屁伏せなどというので、地口落にもなっている。おうむ返しの与太郎話でどこから見ても前座噺にできている。
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古着屋
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何ご商売でもこれぞ楽というご商売はございませんが、ことに我々の家業はいたって損な商売で、俗に弱い稼業と申しますくらい、お商人方《あきんどがた》はまことに気の強いところがあります。御意《ぎょい》にかなわなければおよし遊ばせ、お金はそっちのもの品物はこっちのものでございますからといってしまえば、それで事が足りる、我々のほうはそういうわけにまいりません。御意にかなわなければおよしなさい、お金はそっちのもの、品物……はといっても品物がないんだからまことに不都合だ、髪結床《かみいどこ》がそのとおり、ヘンな刈り方だねえ親方、気に入らなけりゃァおよしなさい、銭はおまえさんのもの、品物も、おまえさんのもんだ、怒れば刈り損になってしまいます。しかしお商人《あきんど》でも因業《いんごう》なのは損でございます。世辞愛嬌《せじあいきょう》が肝腎で、初めてのお客でも毎度ありがとう存じますといえば、お客のほうでも毎度来るような顔つきをして、いつも繁昌でけっこうだねなどとお世辞をいってくれる。
○「ごめんやす」
△「だれだえ」
○「わしや」
△「アア徳さんか、あがんねえ」
○「ごめんやす」
△「なにか用かえ」
○「ちょっとお願いがあって来たがなァ、あんた今なんぞ用がおますか」
△「ウム、別段これという用もないが、なんだ」
○「じつはな、一緒に行って買物をしてもらいたいのや」
△「ハア行ってやるが何を買いに行くんだ」
○「話しせんとわかりまへんがな、わしンところも女房に弟があります」
△「ウム」
○「これがあんた、女房より年が下でおますぜ」
△「あたりまえだ」
○「それがあんた、神田のほうへ奉公に行ってましたところがな、道楽でしようがおまへん」
△「ウム」
○「とうとう主人の金を使い込んで、それがためにお暇が出ました」
△「ウム」
○「家の女房えろう怒りまして、あんな者は家へ入れんというさかい、わたい義理がおますから、マアいいワ、若いうちはありがちだによって後をようたしなめて家へ置いたがええというたら、女房も喜んで、それから引き取って世話してますがな」
△「ウム」
○「そやけれども、若い者長く遊ばしておくはかえって為にならん、どこか奉公口はないかというて、ほうぼう探しましたらな、ちょうど浅草のほうにいい口がおます、そこへやったらとこう思って、あさってそこへ目見えにやることになるとな、着物がおまへん、みんななくしてしもうて羽織一枚おまへん、わての羽織貸してやりたくも、わては体躯《なり》がちっこいに、そいつはエラ大きゅうて役に立ちまへん、縞物《しまもの》の安い羽織を買うて着せてやろうとこう思います」
△「なるほど」
○「ところが家の女房のいうには、おまえさんみたようななにも知らん者が買いに行くと足もとを付けられて高い物を買う、買物するはむずかしい、人の悪い、なんでも人の物ただ窃《と》るような奴に一緒に行ってもらうがええというさかい、誰がええだろうというたら横町の辰さんが‥‥ハハこんにちは」
△「なんだ、なんだって」
○「マアようおます」
△「よかァねえ、なにが、おめえがまぬけだから買物がへただ、俺みたような盗賊了簡のある人間を連れてって買ってこいと女房がいったんだな」
○「聞こえましたか」
△「聞こえねえ奴があるか」
○「じつは家で内証でいいましたんで……」
△「内証のことを大きな声でしゃべりゃァなんにもならねえ、アァアァおめえみたような者を対手《あいて》に怒ったってしようがねえ、一緒に行ってやろう……、オイ羽織を出してくんな、ナニ外套《がいとう》はいらねえ……じゃァちょっと行ってくる」
○「おかみさん、すんまへんがな、ちょっと辰さんを借りまっせ」
とおもてへ出る。
○「ナア、買物というものはえらいむずかしいもんやな」
△「そうだなァ、すべてこっちの口のききようひとつで、マア仮に紋付きの羽織を買いに行くと思いねえ」
○「紋付きはいりまへん、商人家《あきんどや》へ奉公に行きますで、縞の羽織がようおます」
△「マア仮に紋付きを買うと思いねえ」
○「いりまへん」
△「わからねえ男だな、仮に紋付きを買いに行ったと思いねえよ」
○「アアそうだっか、なるほど、思います」
△「おまえのところの紋が三柏《みつがしわ》とする」
○「わての紋は横木瓜《よこもっこう》だす」
△「いちいちうるさいな、マア横木瓜なら横木瓜にしておきねえ」
○「しておかんと先《せん》から横木瓜だす」
△「おまえと話をしているとしまいにゃァ腹が立つ、横木瓜の紋が付いた黒の羽織で、行丈《ゆきたけ》もちょうどよく裏も気にかなったとしたらおめえなんという」
○「そりゃいい、気に入ったと褒《ほ》めますな」
△「それがいけねえ、するとむこうが商人だからすぐこっちの足もとをみる、品物に惚れたなと思うと、値段が上がる、千円のものなら千二百円という、それを千百円に負けさして千百円で買って、こっちじゃァ安いと思ってもむこうでは千円に売ればいい品なんだから、つまり百円高いものを買ってる」
○「なるほど」
△「その時ちょっとキズを付けるんだ」
○「ハアその羽織をはさみで切りますか」
△「そうではない」
○「口で裂きますか」
△「そうでもない、つまり口で悪くいうのだ」
○「なるほど」
△「これは黒もよし、行丈《ゆきたけ》もちょうどいいが、裏が派手だ、第一、紋がちがってるというんだ」
○「ヘエー」
△「しかしせっかく入ったものだから、ひやかすのも悪い、値段との相談だが、安ければ買ってもいいとこうぶっつかると、むこうで客が浮き足だと思うから下手《したで》に出る、千円の物なら九百五十円と五十円安値を打って出る」
○「なるほど」
△「買ってもいいが、第一紋がちがってる、どうだい紋だけ引いてくれ、それはご無理ですとか、いけませんとかいうのをマァいいから負けてお置きと、五ツ紋なら一つ三十円ずつとして百五十円だが、そこをあいびゃって百円引かして八百五十円に買う、千円の物を千百円で買うのと八百五十円で買うのと、こうそろばんがちがってくる」
○「なるほど、むずかしいもんやなァ……」
△「話しながら歩くのは早いもんで、もう柳原《やなぎわら》へ来た、ここは古着屋の本場といってもいいところだ、この家がよさそうだな……」
番「ヘエいらっしゃい、どうぞこっちへお掛けなすって、小僧や、お布団を持ってきな、エエ毎度ご贔屓《ひいき》さまにありがとう存じます」
○「毎度やおまへん、今日初めてやな」
△「よけいなことをいうな、羽織を一枚見せてもらいてえ」
番「ヘエ、お縞でございますかご紋付きでございますか……、エエお縞を、承知いたしましてございます……、縞のお羽織、アノ八番のやつを持ってきな……、コーここらではいかがでございましょう、お年はおいくつくらいでいらっしゃいますか」
△「オオ年は何歳だ」
○「エエー、家の女房が二十八……」
△「おめえの女房の年を聞きやしねえ、弟の年だ」
○「マア待っておくんなはれ、それから繰ってみなけりゃァわからん、なんでもそれより下だから二十五六ぐらいにしておいておくんなはれ」
△「妙だなァおめえの言い方は……、二十五か六だそうだ」
番「さようならこの辺はいかがで、これは丈夫一式《じょうぶいっしき》、二十代から四十二三までは向きます」
△「ウム、よさそうだが、どうだこの羽織は」
○「ヘエ」
△「どうだよ」
○「黒はええけれどもこの裏が派手やな」
△「オイオイそりゃァ紋付を買いに行った時の文句だ、こりゃァ縞じゃァねえか」
○「アアさよか」
△「気に入ったか」
○「ヘエ」
△「気に入ったならば買ってもいいがね、値段との相談だ、いくらだ」
番「さようでございます、ちょっとお待ちなすって……」
そろばんを立って
番「エーここらのとこでございますが……」
△「そうかえ、オオこれだとよ」
○「ヘエ」
△「これだよ」
○「これとはなんや」
△「番頭さんがそろばんを出してるじゃァねえか」
○「ヘエ」
△「動かしてみねえでもいいか」
○「なにを」
△「玉を動かさねえでもいいか」
○「アアさよか……サア動かしました」
△「じゃァ、番頭さんそれでいいかね」
番「ヘエ恐れ入ります、エー二十五万……エーこれはいかほどで……」
△「オイいくらに置いたんだ」
○「なんや知らんけれども動かせといやはるから、万便なくガチャガチャと動かしたんで……」
△「ばかッ、そろばんを知らなけりゃァ知らねえと初めからぬかしゃァいいじゃァねえか、まぬけ、|どじ《ヽヽ》……」
○「なんじゃい、えらそうに|どじ《ヽヽ》とは、どうせわて、アホウやから頼んだんじゃい、どじとはなんじゃい、ポンポン言いくさるな」
△「なにをッ、グズグズしやがって、なぐられるな」
○「ぶてるならぶってみなはれ、ぶってみなはれ」
番「アアモシ恐れ入りますが、どうか店先で喧嘩をなさいませんで、いかがでございましょう、どのくらいの思《おぼ》し召しで……」
○「ヤアあんたのとこの迷惑になってはならん、わてが買います」
番「ヘエどちらに願いますも同じことで……、エーただいま願いましたのはこのそろばんで……」
○「ヤアそろばん見るとまた喧嘩になる、口でいうてくんなはれ」
番「エー四千七百円に願います」
○「四千七百円は高い、負からんか」
番「なにほどに」
○「十円に負からんか」
番「ヘエッ」
○「十円に負からんか」
番「十円お負け申して四千六百九十円に……」
○「イヤただの十円に」
番「小僧やそっちへしまいな、そろばんをそっちへ片づけて……、なんだ、朝ッぱらから人の店へひやかしに来やがって」
○「負かりまへんか」
番「フン、ばかだなおまえさんは……家の品物は紙でこしらえたものや贓品《どろぼうもの》じゃァねえ」
○「負かりまへんか」
番「ばかっ」
△「オオおめえなにか、ここの番頭さんか、ご主人か」
番「ヘエ手前は番頭でございます」
△「番頭か、そうだろう、てめえみたような者が主人ならこの家はとうにつぶれちまった、ヤイ前へ出ろ、なんだと、ばかとはなんだ、ばかとは、客をつかめえてばかたァなんだ、失礼のことをいうな、初めおめえのとこの敷居をまたいで、羽織を見せてくれといったのはだれだ、俺じゃァねえか、こりゃァなるほどばかにゃァちげえねえ、そろばんの動かし方も知らねえ人間だからばかにゃァちげえなかろうが、千円の物を十円に付けたからって、そこは商人だ、なにもばか呼ばわりをしねえたって、どうもそれではそろばんが取れませんから、またなんぞ外々《ほかほか》の物を願いますとでも言って断るのがあたりめえだ、客をつかめえてばかとはなんだ、家の品物は紙でこしれえた物や贓品《どろぼうもの》じゃァねえとぬかしたな、この柳原にも贓品や紙でこしれえた物を売るやつがほかにあるか、見そこなやァがったか、まぬけめえ、てめえがばか野郎だ、半間《はんま》、とんちき、のろま、ふぬけ、ざまァみやがれ、盗人《ぬすっと》……」
番「ちょっと待ってください、盗人とはなんでございます、私がなにを盗みました」
△「なにをいやァがる、手を出して物を窃《と》るばかりが盗人じゃァねえ、てめえは何年この家に奉公しているか知らねえが、ともかくも番頭になるまでには十年以上いるだろう、番頭をしていてその店をあずかることができなけりゃァ飯《めし》どろぼうだ、主人の飯を盗んで食ってる飯盗人《めしぬすっと》だ……ヤイヤイおめえのおかげで喧嘩をしているんじゃァねえか、だまってる奴があるか、てめえが恥をかかせられてながらぼんやりしているな」
○「さようか」
△「いやだなァこの男は、恥をかかされて、さようかてえ奴があるか、威張ってやれ威張ってやれ」
○「威張ってもかまわんか」
△「かまわねえとも」
○「さようか、あのなモシ……」
△「あのなモシッてえ喧嘩があるか」
○「ようポンポンいやはったな、俺がアホウじゃないワ、盗人《ぬすっと》め、だいたいてめえはな、アーなんと言おうな……アー飯盗人、なァ飯盗人、ハハおもしろいな」
△「おもしれえ奴があるか……、気をつけろ、ばか野郎ッ」
ポンポンいって二人は出て行ってしまった。あとに残った番頭ぼんやりしていると、
主「定《さだ》や」
定「ヘエ」
主「番頭さんにちょっと奥まで来てくださいとそういってくんな」
定「へエ……、番頭さん叱られるだろう……番頭さん」
番「なんだ」
定「旦那がちょっと」
番「アイヨ……ヘエ、旦那なにかご用でございますか」
主「アア、たいぶ店がにぎやかのようだったがどうしました」
番「ヘエあんまり無法の奴がまいりましたから、二言三言争いましたが、とうとう言い込めてやりました」
主「そうかい言い込めたかい、わしの聞いたところでは言い込められたようだったが……、どうもおまえさんはなぜそうだろう、ちょっとした口に毒を持っている、それに気が短い、商いは牛のよだれ、気を長く持ってお客の気をそらさないようにしなければ商売は繁昌しません、アノ方の言い方もずいぶんひどいけれども、だいたいこっちが悪いのだから奥からわしが出てなにも言う機《おり》がない、そのうち先方で盗人といった、これは少しひどすぎると思ったが飯盗人だという、考えてみるとなるほど道理《もっとも》だ、十三の時から奉公して今年|四十六《しじゅうろく》になるだろう、ずいぶん長い間俺の家の飯を盗んだねえ」
番「ヘエ」
主「叱言《こごと》じゃァないが、よく気をつけてくれなけりゃァ困る、マア自分の身上《しんじょう》と思って、店を大事にしてくれないでは困る、あずけておいてまことに安心がならないからな」
番「ヘエなんとも申し訳がございません、どうぞご勘弁を……」
主「おまえに叱言をいうわけではないから、後々を気をつけておくれ、ちょうどご飯もできたからすぐにおあがり」
番「ちょうだいいたします、……小僧や、店番をしておいで」
定「ヘエーヘヘヘ番頭め叱られやがった、いい気味《きび》だなァ、平常《ふだん》あんまり俺のあたまをぶちやァがるもんだから罰《ばち》があたりやァがった……マアお入り、なんでございますか、まだこっちにいろいろ変わった品がございます、マアお入り……」
×「オオ小僧さん、刺し子をひとつ見せておくれ」
定「ヘエかしこまりました、エーこのへんではいかがで、これはおあつらえになりましたまま取りにおいでがございません、お手付け金だけいただいてありますんで、見切りましてお安く願います、品はだいじょうぶです、ヘエ」
×「なかなか小僧さんおめえやり手だな、幾歳《いくつ》だ」
定「ヘエ十六でございます」
×「十六だ、わりに柄《がら》が小せえな」
定「その代わり行きが延びております」
×「行きはよかったな、ちょっと着せてみせてくれ」
定「ヘエ、旦那、よくお似合いでございます」
×「ウム寸法もちょうどいいな」
定「おあつらい向きでございます」
×「そうかい似合ったかな」
しきりに刺し子を見ているとたん、じき向こうからボーッと燃え上がるとジャンジャンジャン、ソレ火事だというと、かの男は刺し子を着たまま火事場へ駈け出していってしまった。
定「モシ……、ワアー、モシ……」
番「コレコレなんだ、どうしたんだ」
定「ボーッ、ジャンジャンジャン」
番「なにがジャンジャンだ」
定「刺し子を着て行っちまいました、まことに申し訳がございません」
番「ナニ刺し子を……、ばか、俺が叱られたもんだから、俺に鼻を明かせようと思って、なまいきなことをするもんだからみろ、着逃げをされちまった、きさまなんぞに商売ができるものか、俺は十三の時からこの年になるまでこの家にいてさいやりそこなうんだ、なぜお客があったら俺を呼ばないんだ、なんでも商人は目先を利かせなくっちゃァいかねえ、しようのない奴だ、旦那にいやァまたお叱言だ、内証にしておいてやるからいいか、きさましゃべるな」
定「まことにすみません」
番「こののちもあることだ、気をつけろ」
定「ヘエどうもすみません」
○「ごめんなさい」
番「いらっしゃいまし」
○「アア、モーニングをひとつ見せてもらいたい」
番「ヘエ、モーニング、承知いたしました、小僧や、六番の棚のを持ってきな」
定「おあいにくさま」
番「無いことはない、六番の……」
定「イエおあいにくさま」
番「アレさっき俺がしまったばかりだ、まだ売れやァしない」
定「番頭さん目先をお利かせなさい、今お向こうからお葬式が出ます……」
[解説]上方噺の「古手屋」を直したもので、東京に持ってきたのは先代円馬のむらく当時であった。葬式にモーニングはいるまいというサゲになっている。
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石返し 別名〔鍋屋敷〕
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手前ども落語家《はなしか》はよく愚か者のお噂《うわさ》を申し上げますが、なにもあらたまって申し上げなくても、手前ども本人が愚かなのでございます。といって、この落語家もまるっきりのばかではできない稼業で、ちょいとお客さまが見ていらっしゃると愚かなようでも、つきあってみるとあんがい低能で、言うことを聞いていると間が抜けていて、親しくしてみたら物足らなくって、よく調べたら能無しで、親類一同いずれも脳《のう》が腐敗してあたまがみんな冷蔵庫に入っているというような者ばかりが落語家になっております。
父「しようがない奴だなどうも、なにを遊んでばかりいやァがるんだろう……オヤ帰ってきた帰ってきた、与太ッどこで遊んでいたんだ」
与「遊んでいたんじゃァないんだよ、お向こうの小父さんのところへ行って話を聞いていたんだ」
父「ウム、年寄りの言うことはまちがいがない、どんなことを聞いてきた」
与「アノネ箱根山というのは山だとさ、おとっさん」
父「なにをいってやがるんだ、箱根山が山だぐらいのことは、子供だって知ってらァ」
与「俺ァはじめて聞いた」
父「ばかだなァどうも、高い山だ」
与「そこへ汽車が通ってるんだとさ、そうして機関車が一つで長い汽車をひっぱっていくんでずいぶん機関車が苦しいんだとさ、乗っているお客が、この坂を上がるのは、さぞ骨が折れるだろうといったら機関車がこう言ったってさ、なんだ坂こんな坂、なんだ坂こんな坂……」
父「なさけねえ奴だな、本当に、向こうのじじいも、いい閑人《ひまじん》だ、なんだ坂こんな坂などといって喜んでいやァがる、おまえもまたそれを聞いて喜んで笑ってたんだろう」
与「笑ってやァしないよ、感心した」
父「なお悪いや、一日も早くおとっさんに楽をさせようという気にならねえのか」
与「それはならないことはないんだよ、おとといもなったよ」
父「いやに日をきりやァがつたな、どうしておとといなった」
与「寝ていてふと眼がさめてね、こう不景気だしするから、いっそ楽をさせちまおうかと思った」
父「へんな思い方だな、なんだっていっそ楽をさせようと思ったんだ」
与「この間床屋の小父さんのところへ俺が遊びにいっていたら、伊勢屋のご隠居が来たが、あの人は九十八だとさ、この町内に長寿《ながいき》をした人もずいぶんあるだろうけれども、オレぐらい長寿をした者はありますまいというからね、俺はそばへ行って、ご隠居さんはお幾歳《いくつ》ですと聞いたら、九十八といやァがるんだ、それからよく保《も》つねえって……」
父「なんだか人間の言葉じゃァねえ、保つねということがあるか」
与「それからね、ご隠居さんの身体をほうぼう触ってみてね、これが九十八とはよく使った」
父「使った……品物だと思っていやァがる、ご隠居さんは怒ったろう」
与「怒りゃァしないよ、オレも九十八まで生きてけっこうなようだが、若い者に残されちゃァいやだ、一日も早く楽をしてえと、そう言っていた、それからね、隠居さん遊んでいて楽でしょうと、そう言ったら、働くのが骨なんじゃァねえんだとさ、死ぬのが楽なんだというんだ、だからおとっさんも|いっそ《ヽヽヽ》楽をさせちまおうと思って……」
父「こいつめ、とんでもねえ奴だ、親を殺す気でいやァがる」
与「殺す気はないんだよ、思うだけだ」
父「思うだけだって、そんなことを思う奴があるか、とんでもねえ、この間大掃除をした時、物置きからガラクタ道具が出てきた、集めてみたら、そっくりそろっているんだ、おとっさんの以前にやった稼業《しょうばい》でもやりねえ」
与「おとっさんの以前やった稼業というのはどういうのだい」
父「汁粉屋《しるこや》だ」
与「エエ」
父「お汁粉屋だよ」
与「アア汁粉か、俺大好きだ」
父「おまえが食うんじゃァねえ、売るんだ」
与「でも売りながらチョイチョイ」
父「チョイチョイ食う奴があるか、汁粉屋をやるか」
与「汁粉屋ならやらしてくんねえな」
父「同じやるんなら、好きなことがいいや」
与「じゃァおとっさん、ここんとこを腰かけにしてしまって、火鉢の置いてあるあそこへお汁粉の道具を置いて、お汁粉一ぱい上がったよ……」
父「なにをいってやァがる、てめえたちにそんなことをさせたら、いくら資本《もと》がかかるか知れねえから、夜商《よあきな》いをするんだ」
与「なんだい、夜商いというのは」
父「汁粉を流して歩くんだよ」
与「エエ」
父「汁粉を流して歩くんだよ」
与「もったいねえことをするんだなァ、そんなら飲んじまったほうがいいや」
父「なにを言ってやァがるんだ、捨ててしまうんじゃァねえ、おもてをどなって歩くんだ」
与「アア火事だ火事だって」
父「ばかッ、そんな汁粉屋があるか、おとっさんは以前にやったおぼえがある、うまくはねえがこんな調子にやれ、汁粉ーウ、汁粉、白玉ーアお汁粉……」
与「こりゃァ、うめえや、ちょいと汁粉屋さん」
父「こん畜生、呼んでやァがる、やってみろ」
与「なんてんだっけな」
父「汁粉ーウというんだ」
与「汁粉ォ」
父「どうも腹にしまりがねえな、もっと引っぱって」
与「汁粉ォーウ」
父「どこかやぶけていやァがる、息が少しもるぞ、もっと力を入れて」
与「汁粉ーッ」
父「もう少しふんわりと」
与「汁粉ッ」
父「咽喉《のど》へつかえるようだな」
与「汁粉、汁粉、汁粉、汁粉」
父「まるで犬を呼んでるようだ、ちゃんとやらねえとひッぱたくぞ」
与「〔泣きながら〕汁紛、汁粉ーオ、白玉汁紛……」
父「泣き汁粉《じるこ》が売れるか、もっとやってみろ」
与「おとっさん、こういう蓄音機《ちくおんき》の板はねえかなァ」
父「なにをいやァがる、蓄音機をかけて売る奴があるか、……さァ支度をしな、支度を、荷ができているぞ」
与「これはなんだい」
父「それを担ぐんだ」
与「だれが」
父「おまえが担ぐのだ」
与「こんな大きな物をみっともねえな、円タクでもたのんでおくれよ」
父「ばかッ、自動車へのせて売る奴があるか、おまえが担ぐのだ」
与「オレがな……ウーン、おとっさん、持ち上がらねえよ、アッハッハ持ち上がらねえ」
父「なにを笑ってやがるんだ、笑ってちゃァ持ち上がらねえ、ドレおとっさんが担いでみせてやる、こんなものは腕ずくや力ずくじゃァねえ、呼吸もんだ、見ていろよ、わずかの呼吸だ、ちょいとした加減だ、ウーッと、重てえな」
与「それは重いとも、おとっさん、なかなか呼吸が骨だよ、荷物の紐が下の敷居の釘にひッかかっている」
父「なぜ早くとらねえんだ」
与「おとっさんが持ち上がるというから敷居ごと持ち上がるかと思って」
父「なにをいってやァがる、ウーンと、こういう工合だ」
占「アハハハハハ……持ち上がったァ」
父「ばかだな、前に鍋があるだろう」
与「アア鍋がある、お汁粉が入っているよ」
父「あたりまえだ、売りに行くから入れてあるんだ、一杯五十銭だぞ」
与「二杯は」
父「一円」
与「三杯は」
父「一円五十銭」
与「四杯は」
父「二円」
与「五杯は」
父「うるせえ」
与「うるせえというのはいくらだ」
父「こん畜生、逆らってやァがる、五杯なんて食う人があるか」
与「俺は六杯ぐらい食わァ」
父「おまえみたような奴はないよ」
与「六杯は」
父「三円」
与「七杯は」
父「三円五十銭」
与「八杯は」
父「押してゆけ」
与「押してゆくのか、危ねえな、川があると落っこっちまう」
父「なにをいってやァがる、食うほうで勘定しているよ……オイオイ、どこへ売りに行くつもりだ」
与「銀座通りへ行くのだ」
父「銀座通りじゃァ売れねえ」
与「だっておおぜい人が通っているぜ」
父「人が通ってたって、大きい通りへ行けば、立派な汁粉屋があるから、そこへ行って、こんな汁粉が売れやァしない、だから大通りでない淋しいところをよってゆきゃァいいんだ」
与「じゃァ淋しいところがいいんだね」
父「そうだよ」
与「淋しいところがよければ青山墓地……」
父「ばかッ、なぐり倒すぞ」
与「アッハッハーアィ、追いかけてきた……汁粉、汁粉、汁粉、汁粉と、フッ、甘えな〔なめる〕フッ、これは甘えや、売るよりなめてるほうが、よっぽどうまいや……甘ーイ、甘いじゃねえ汁粉だ、汁粉ーとくらァ、汁粉汁粉汁粉ーッときやがらァ」
○「オイ汁紛屋」
与「なんだ」
○「アレッ、あっさりしていやァがるな、汁粉をくんねえ」
与「やらない」
○「ないのか」
与「どっさりある」
○「あったら売りねえな」
与「こんなにぎかなとこじゃァ売らねえんだ、淋しいところでなくっちゃァ売らねえんだ、そんなに食べたけりゃァ墓場まで一緒においで」
○「そんな汁粉屋があるか」
与「素人があんなことをいっていやァがらァ、だけども、大通りではいけないというと、しようがないな、淋しいところが汁粉汁粉汁粉ーウとくら……せまい路地だな、ガタガタぶつかって仕方がない、荷が壊れてしまわァ、汁粉汁粉……アアいけねえ、荷がつかえてしまった、ウンと……オヤオヤ、どっちへもまわらなくなってしまった、帰ることができねえぞ、こりゃァ、今夜ここへ泊るのかな、こうと知ったら枕を持ってくるんだっけな……汁粉汁粉ーと、弱っちまったな……アアあすこに戸があらァ、あすこをぶち壊して向こうへぬけるか、汁粉汁粉……」
△「ばかッ」
与「ヘーイ……なんだい、便所だ、だれか入っているんだ、〔ドンドン〕……汁粉はどうです」
△「ばかだなこの野郎、便所へ汁粉を持ってくる奴があるか」
与「食べながらゆっくり……」
△「きたねえな、あっちへ行け」
与「アハハハハハ……、アアおどろいた、おどかされたんでおもてへ出られたが、アッとんでもねえことをしてしまった、鍋のほうを置いてきてしまったかしら……アアそうじゃァねえ、うしろにあらァ、アハハハハハァ、いつの間にかうしろ向きになってしまった、ふしぎな行灯《あんどん》だな、汁粉汁粉とくらァ、汁粉汁粉汁粉汁粉ーッと、しようがないな、だんだんにぎやかになってくる」
与太郎はあっちこっちとぐずぐず歩いているうちに夜が更けてきた、明け方までやらなければいけないといわれたので、淋しいところ淋しいところとよってまいります。
与「ずいぶん淋しくなってきたぞ、片ッかわが石垣で片ッかわが塀だ、こんな淋しいところでだれが食うだろう、まさか石垣から蟹《かに》が出てきて食やァしめえ……エー汁粉汁粉、汁粉……買う人のいねえところでどなったってしようがねえがな、汁粉汁粉……」
甲「オイ長谷川、めずらしいな、汁粉屋が通るぜ」
乙「ひとつやってやれ」
甲「ひッかけようか」
乙「やってやれやってやれ」
甲「オイオイ汁粉屋汁粉屋」
与「ヘーイ……どこだろうな、呼ぶことは呼ぶけれども……アアあの高いところに窓があらァ、だれか顔を出していやァがる、バーア」
甲「ウフッ、ろくな代物じゃァねえな……オイ汁粉屋、汁粉はどのくらいある」
与「エエ、どのくらいったって、まだ一杯も売らねえんだ」
甲「そうか、じゃァみんな買ってやるぞ」
与「みんな、ヘエありがとう……手がとどかねえや、おめえさんの口は下まで伸びるかい」
甲「ひょっとこじゃァねえから、そんなに伸びねえ」
与「だって象は鼻が伸びらァ」
甲「象とオレとちがわい……アア今そこへ鍋をおろすから、鍋の中へ一杯入れろ」
与「ヘエ鍋の中へ……ヘエなるほど、鍋へ入れるのか、アア下がってきたきた、大きな鍋だな、ヘエこの中へ……なるほどかしこまりました、曲がるとこぼれますから、まっすぐに上げてくださいよ……アア上がった上がった、お汁粉が一杯上がったよーというのは、これが本当だ……アア障子《しょうじ》が閉まってしまった……アレ、もしもし」
甲「なんだ」
与「なんだって、お銭《あし》をくださいな」
甲「アア銭《ぜに》はいくらだ」
与「ヘエ一杯五十銭……アッ、鍋に一杯いくらだか聞いてこなかった、どのくらいあるかわからねえや、こいつは……すみませんが、勘定してくださいな」
甲「勘定してくれったって、いくらぐらいだ」
与「いくらでもいいんですけれどもね」
甲「いくらでもいいといって、そこへ銭を投げると見えなくなってしまう、それよりその石垣のところを付いて行くと黒い塀があって、その塀のそばに小さい家がある、そこが門番だからそこんとこで汁粉の金をもらってくれ」
与「アアそうですか。門番からもらえばいいんですか」
甲「ウム、そこにきたない爺《じじい》がいるから、そこでもらえ」
与「ヘエなるほど、放るとお銭がなくなっちまう……アアここだな、門がある、アアなるほどきたない爺がいたな、ちっとも洗濯をしないとみえるな」
門番「なにを言ってやァがるんだ、だれだ!」
与「お銭《あし》をおくれ」
門「なにをいってやァがる……アア汁粉屋だな、汁粉を食わないのに銭を払う奴があるか」
与「だって、この先の石垣のあるとこの高いところに窓があるだろう、あすこから顔を出して汁粉をくれといって鍋がさがってきた、鍋に一杯売ったんだから、お銭をおくれ」
門「お銭をくれったって、あすこに人間がいるわけがない」
与「わけがないったって鍋が下がってきた」
門「おまえ、たぬきかなにかに化かされたんだろう」
与「冗談いっちゃァいけねえ、化かされるものか」
門「いやそうではない、あすこいらには悪いたぬきがいて、ときどき往来の人を化かしていけねえんだ、この間もおでん屋が化かされて、どぶの中へ落とされたことがある、おまえはどぶの中へ落とされないだけしあわせだ」
与「アアそうか、俺はしあわせか」
門「しあわせだから早く帰れ」
与「帰れッたってお銭……」
門「お銭ッたって、ここで食わないものを払えるか。少し足りないな」
与「エエ」
門「少しおまえは足りないな」
与「アア、みんながそういってるんだ」
門「どうもそうらしいや、おまえ総領《そうりょう》だろう」
与「やァ門番のお爺さん、よく知っているな、おいら総領だよ」
門「そうだろう、だいぶ鼻の下が長い、昔から川柳にあらァ≪総領は尺八を吹く面に出来≫といってな、世の中をボーッと暮らすんだろう」
与「世の中をボーッ……ヘエありがとう」
門「礼をいってやァがる、だからあっちへゆけというんだ」
与「だってお銭を……」
門「お銭ということがあるか」
与「鍋が下がってきたんだよ」
門「鍋じゃァねえ、たぬきの睾丸《きんたま》だ」
与「あれが、ウソだい、あれがたぬきの睾丸のことがあるものか、たぬきの睾丸なら、熱い汁粉を入れたら睾丸が縮むはずだ」
門「なにを言ってやァがるんだ、あっちへ行け」
与「アーッ、ひどい爺だな、棒をもっておっかけやがる……ヘエおとっさん」
父「泣いてきやァがった、どうしたんだ」
与「食い逃げーエ」
父「もう食やァがったんだな、どうも早いな、まァしかたがねえ、どうも馴れねえうちはどうしてもやられるんだ、一杯二杯の食い逃げはあきらめろ、何杯やられた」
与「一杯」
父「一杯ぐらいしかたがねえ、がまんしろ」
与「鍋に一杯……」
父「そんなに大きい食い逃げがあるか、どこかでころんだのか」
与「ころびやァしねえんだ、なるたけ淋しいところをよって行けというものだから、なんだか知らねえが、真っ暗なところを通っていったら、片がわに石垣があって、片ッかわが塀なんだ、石垣の高いところに窓があって、そこから顔を出して、汁粉屋と呼ぶんだ、そこまで届かねえもんだから、鍋をおろしてきやァがってね鍋の中へ汁粉を入れて上げてしまった、お銭はといったら門番へ行ってもらえというから門番のところへ行ったらあすこは人間がいねえ、あれはたぬきだと、そういやァがる、この間もおでん屋がたぬきに化かされてどぶへ落ちた、おまえはどぶへ落ちないでしあわせだといった、おとっさん俺はしあわせだよ」
父「なにをいってやがる」
与「だって鍋を下げたぜといったら、それは鍋じゃァねえ、狸の睾丸だというから、嘘をつけ、睾丸だったら、熱い汁粉を入れたら睾丸が縮むだろうといってやった」
父「なにを言ってやァがる、それからどうした」
与「お銭をくれろといったら、おまえは少し足りねえといやァがるんだ、アア、よく知っているよ、俺のことを、それで総領だろうと、そういやァがるんだよ、おかしくなってしまったぜ、総領は尺八を吹く面に出来てるといって、世の中をボーッと……」
父「ばかッ、こん畜生、なさけねえ奴だな、汁粉をただで食われて、世の中をボーッとまで言われりゃァ世話はねえや、鍋に一杯汁粉をただでやってくるくらいなら、商いをしねえで寝ているほうがましだ」
与「アアそうだ、そのほうが俺も楽だ」
父「あれだ、しようのねえ奴だ、その行灯《あんどん》をこっちへ持ってこい」
与「もうお休みか」
父「お休みじゃァねえ、半紙を持ってこい、当り箱を持ってこい」
与「いそがしいな」
父「なにをいってやァがるんだ」
そこで親父は行灯を貼りかえて「なべやきうどん」と書き、
父「さァこの行灯を担いで、さっきのところへ一緒に行け」
与「さっきの汁粉をとられたところはいやだ、たぬきがいらァ」
父「たぬきじゃァねえ、それは悪い奴がいたずらをしやァがるんだ、たぬきでもねえ、おとっさんがいっしょに行ってやるから来い」
与「本当か」
父「早く一緒に来な」
与「あぶなっかしいな……ここんとこだよ」
父「この石垣のところか、ここでどなれ、ここでどなるんだよ」
与「どなるのか、汁粉ーッ」
父「ばかッ、行灯をよく見ろ」
与「なんだい」
父「なべやきうどんと書いてあらァ」
与「アアそうか、なべやきィうどん白玉うどーん」
父「白玉うどんというのがあるか、しようのねえ奴だ、オレがやってやる……なべやきうどーん」
甲「オイ長谷川、今夜はどうも運のいい晩だな、今度はうどん屋が来たぜ、またやってやろうか……オイうどん屋」
与「ソーラおとっさん、顔を出した、あれがたぬきなんだ、あれがたぬきだよ」
父「だまっていろ……ヘエお呼びでございますか、ありがとう存じます……ヘエ鍋を、さようでございますか、ヘエかしこまりました……なるほど、鍋がさがってきたな」
与「どうしておとっさん鍋だと思うと大ちがい、睾丸だとさ、つかんでごらん」
父「なにを言ってやがるんだ……ヘエただ今、ただ今入れますから、へエ……オイ行灯の明かりを消してしまえ、行灯の明かりを消してしまえ、さァこの鍋を行灯の中へぶち込んでしまって、先へズンズン帰ってしまえ、……アア待ちな待ちな、そこに大きな石がある、こっちへ貸しな、この石をウンとふんじばって……ヘエ、お待ち遠さまでございます、ヘエヘエ入りましてございますから、お上げくださいまし……曲げるとこぼれますから、どうかまっすぐに……」
甲「まっすぐに……なるほど、こりゃァたいへんに入ったらしい、長谷川手を貸してくれ、たいへん重いよ、ウーンと、ドッコイショ、ウントコショのドッコイショ……オイオイうどん屋、これは一体なんだ」
父「ヘエ、先ほどの石返しでございます」
[解説]意趣《いしゅ》返し、石返しの地口落ちである。石返しという題名は、底を割っておもしろくないというので、鍋屋敷と題してやる人もある。また売り物をおでん屋に変え、家を下宿屋などに直してやっている人もあるが、時代は幕末悪旗本の屋敷でやるのが本当である。
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近日息子
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俗に四十八《しじゅうはち》馬鹿などと申して、馬鹿にも種類がたくさんございます。色っぽい馬鹿、食い意地の張った馬鹿、おしゃべりの馬鹿、人の真似をする馬鹿などというのがございますが、鵜《う》の真似をする鴉《からす》水に溺るるとか申して、どうもこの真似事はいけません。
父親「ヤイヤイどこをノソノソ歩いてるんだ」
息子「ノソノソ歩いてやァしねえ、ブラブラ遊んで歩いてたんだ」
父「同じことじゃァねえか」
息「おとっさん芝居があした開《あ》くぜ」
父「うそをつけ、きのう千秋楽になったばかりで、今日一日おいて明日《あした》初日が出るものか、次の狂言がきまって大道具衣装その他支度をする、その間に稽古もしなくちゃァならねえのだから、明日《あした》開くわけがねえや」
息「それでも芝居の看板に近日開場|仕候《つかまつりそうろう》と書いてあるぜ」
父「それだからてめえはバカだというんだ、近日開場というのは、明日《あした》開くことじゃァねえや」
息「おとっさんも字を知らねえから困るな」
父「なんだ、字を知らねえとは」
息「でも近日とは近い日と書くんだぜ、今日から勘定すると明日《あした》が一番近い日だぜ、だから明日開くのじゃァねえか」
父「なまいきな理屈をいうな、いつ開くかまだはっきりわからねえから、近日開場仕候という札を出して近いうちに開きますということをお客に知らせるのだ、つまり客を呼ぶためだ、たとえば呉服物にしても、みすみす廃《すた》ったものでも、ただ今こういう柄《がら》がたいそう出ますというと、田舎から出てきたお客などは、それが流行《はや》るのかと思って買ってゆく、ソコが商《あきな》いのかけひき、なんでも人間、気を働かせなかった日にゃァ一生のうちにどのくらい損があるか知れねえ、早い話がてめえに用を言い付ける、一つ言い付かったら二つ気を働かせなくちゃァいかねえ、また二つ言い付かったら、三つも四つも気を働かせなくちゃァ、今の世の中は渡っていかれねえ、なんでも先へ先へと気を働かせるようにしねえじゃァだめだ」
息「ウムそれじゃァなんでも先へ先へと気を働かせりゃァいいんだね」
父「そうだよ」
息「なんだ、そんなことなら訳《わけ》なしだ」
父「どうしてどうして訳なしどころじゃァねえ、それができればバカじゃァねえ、なかなか一人前の人間だってそうはできねえもんだ」
息「だって先へ先へと気を働かしさえすりゃァいいんだろう、今夜寝る時に顔を洗って寝らァ、そうすりゃァ明日の朝起きて顔を洗う世話がねえや」
父「バカをいうなよ、前の晩に顔を洗って寝てなんになる」
息「先に先にと気を働かせるにはそのくらいにしなくちゃァしようがねえ、ご飯食べる前に茶碗を洗って、雪隠《せっちん》へ行く前に尻を拭いてとなかなか忙しいな」
父「くだらねえことばかりいってやがる、それだからてめえはバカだというんだ」
息「オイおとっさんどこへ行くんだ」
父「ちょっと便所へ行くんだ」
息「便所へ行くなら外で小便をしていったらいいだろう」
父「バカ、外で小便をすりゃァ便所へ行くにゃァおよばねえや」
息「オイおとっさんまだかえ」
父「今入ったばかりだ」
息「早く出ておいでよ」
父「うるせえなァ、なんだ」
息「サア手をお出し、水をかけてあげるから」
父「ハハハハたいそう気がきくなァ、……アイアイありがとう、マアマアこんな工合に気をつければ他人にバカだなんていわれねえや」
息「おとっさんお茶をいれたよ、サアおあがり……」
父「ウム、これはこれは、ハイありがとう」
息「お菓子を買ってこようか」
父「ナニべつに菓子は食べたくない」
息「そうかえ、じゃァお蕎麦《そば》でもそういってこようか」
父「イヤ蕎麦も食べたくない」
息「だっておとっさんはお蕎麦が大すきじゃァないか」
父「そのすきな蕎麦も今日は食えねえんだ」
息「ナゼ」
父「昨日から持病の疝気《せんき》がきざして、下ッ腹が痛くってかなわねえから、蕎麦はよすよ」
息「ヘエー疝気かい」
父「ウム、陽気の変わり目だからな」
息「そいつァたいへんだ……」
父「コレコレどこへ行くんだ、アハハ、またどこかへ出かけてゆきやァがった、しかしバカだバカだというようなものの、いって聞かせればわかるもんさ、バカに付ける薬はねえといったら、それじゃァ服薬《のみぐすり》をくれといったという話があるが、それほどのバカでもねえようだ、なんにしても年は薬だ、便所から出れば手へ水をかける、座れば茶を汲んで出す、菓子を買ってこようの蕎麦をそういおうのと、気の付くだけふしぎだ、マアマア一つずつ年を取るにしたがって、いくらか役に立ってくるもんだ……」
医者「ハイごめん」
父「オヤこれは先生、おめずらしい、どうぞお上がりください」
医「イヤどうもご無沙汰をしました、しかし医者はご無沙汰のほうがいいようで」
父「サアお茶をひとつ……」
医「ありがとう、さっそくだがご病人はどちらにおいでか、すぐに診察をしましょう」
父「ヘエッ病人、手前どもに、ハテナ、アア先生、それは失礼ながらおまちがいでございましょう、手前どもには病人はございません、おおかた横丁の伊勢屋でございましょう、伊勢屋ちがいで……」
医「イヤイヤまちがいではない、いま当家の息子さんが息をきって駆けてきなすって、急病人があるから先生にすぐ来てもらいたいというが、あいにく患者が二三人来ているから、それを診てしまうと行くといったところが、それじゃァ間に合わないからすぐにすぐにと足もとから鳥が立つようなさわぎだから、患者に訳をいって、待たしておいて大急ぎでお見舞い申したような次第だ」
父「へー、どうもあきれましたな、しようのない奴で、先生お忙しいところをなんとも申し訳ございません、ナニあなた、今朝ほどあんまり気が利きませんから、人間という者はなんでも先へ先へ気を配らなければいけないと小言を申して、わたくしが疝気の気味で腰が痛いといいましたので、それで先生のお宅へそんなことを申して出たのでございましょう、どうも恐れ入りました、別段ご診察をねがうほどのことでもございません」
医「アアそうでしたか、イヤ急病人といいなすったので、急いで来ました、しかしそれほどでなければけっこうです、じゃァお暇《いとま》いたします」
父「どうも相すみません、マアお茶をひとつ……」
医「イヤ宅に患者を待たしてありますから」
父「さようでございますか、どうも申し訳ございません……、本当にしようのねえバカ野郎だな、うっかり小言もいえやァしねえ……」
○「ごめんください」
父「オヤオヤたいそう大きな物をしょい込んできたな……ハイどなたで」
○「私は隣町の早桶屋《はやおけや》でございます、どうもこちらさまでもとんだことでございました」
父「エーなんだい」
○「ご註文が図抜けの大一番ということでございましたが、あいにく店に出来合いがございませんので、しかしこのおかみさんの時にもいろいろお引き立てをいただきましたから、どうかお間に合わせたいと存じまして、仲間うちを駈け歩いてやっとのことでお間に合いました、付属の品はこれに取りそろえてございます、樒《しきみ》が一本、お線香立ての土器《かわらけ》、お灯明《とうみょう》皿、白木のお位牌《いはい》、それからお手少なだとうけたまわりましたから枕団子も買ってまいりました」
父「オイオイ冗談じゃァない、そんな物を店へ列べられては困るじゃァないか、縁起でもねえ、俺の家にゃァ不幸なんぞねえよ」
○「ヘエーお宅さまじゃ、どなたさまもお亡くなりにならないんですか」
父「だれも死にやァしねえ、縁起の悪い、そんな物をそこへ置かれちゃ迷惑だ、早く持って帰っておくれ、エー鶴亀《つるかめ》鶴亀」
○「ヘエ、しかし旦那、私もこちらへ押し売りに来たんじゃァございません、お宅の息子さんが手前どもへおいでになって、おあつらえになりましたから、ただ今申し上げた通り、仲間うちを駈けまわって、ようやく探し当てお間に合わせましたようなわけなんで、なにも押し売りにまいったのじゃァございません、それを縁起が悪いのなんのとおっしゃいますが、縁起が悪かろうが善かろうが、私のほうで知ったことじゃァざいません、ともかくも代金をいただきます、ヘエ、決して押し売りをするのじゃァないのでご註文があったから持ってまいりましたので」
父「それはそうかも知れねえが、俺の家じゃ早桶の買い置きはできねえから持って帰んなさい」
○「持って帰れといっても、持ち帰るわけにゃァまいりません、ご註文があったから持ってきたので、それも宅にあったものならともかくも、他店《わき》から買ってきた品で、ばかばかしくって先方《むこう》へも返せやァしません、書き付けになっておりますから、代金をお払いなすってください」
父「冗談いっちゃァいけねえ、いりもしねえ物を買う奴があるものか、銭は出せねえから、持って帰んねえ」
○「ナニッ、銭は出せねえ……と、よし、出さなけりゃァ出さねえでもいい、こっちでも取るようにして取ってみせる、警察へ出てもきっと取るからそう思いなせえ」
父「オイオイ、オイ…、アッ置いてっちまった弱ったなァ、こんな物を店先へならべて行きやァがって、しようがねえ、アア鶴亀鶴亀……、それにしてもバカ野郎どこへ行きやァがったろう」
息「おとっさん行ってきました」
父「野郎行ってきたじゃァねえ、なんだって医者へ行ったり、早桶屋へ行ったりしやァがるんだ、見やがれ、こんな大きな早桶を担ぎ込まれてしようがねえじゃァねえか、バカもいい加減にしろ」
息「ナーニこれからお寺へ行こうと思ったんだが、お寺へは一人で行くものでねえというから、伯父さんところへ行って一緒に行ってもらおうと思って……」
父「マアどうもあきれ返った奴だ、店先へこんな物をならべられてどうする心算《つもり》だ」
するとこれを見ておりました向こう側の人たちが、
吉「ちょっと源兵衛さん、どうしたんでしょう、向こうの家じゃァ、息子さんが出たり入ったりしていると思うと、医者が来て帰る、間もなく早桶屋が来る、だれか死んだんでしょうか」
源「さようさねえ、お向こうは親子二人暮らしだが、親父はもう少しさっき、おもてを掃いてたようでしたぜ」
吉「それでも早桶を持ち込んだところをみると、だれか死んだに相違ない……ああごらんなさい簾《すだれ》がかかって、忌中《きちゅう》という札が出ました」
源「なるほど忌中という札が出るからには、だれか死んだにちがいないがハテナ、だれが死んだんだろう、親子二人きりで、親父が無事でいて伜《せがれ》がああして出たり入ったりしているほかに人がいねえ家だがへんだなァ」
吉「アアわかった、向こうのかみさんが亡くなった時に、近所の人たちが、男ばかりでは不便だから茶飲み友だちを世話しようといったら、この年をして今さら二度嫁を持つのも世間へ対してきまりが悪いし、それにアノ通りバカの伜《せがれ》がありますから、どうも継母《ままはは》の手にかけたくございません、不自由ぐらいは我慢をして、男世帯《おとこじょたい》でやりますなんて立派な口はきいていたが、その後なんだかちょっと乙な年増が出入りをするのを見かけたことがある、さては内々で茶飲み友だちをもらったのかもしれない、おおかたそれがおめでたくなったんじゃァないか」
源「ウムなるほどそういえば、私も時々妙な女を見かけたよ、しかし披露目《ひろめ》はなくとも、忌中札を立派に出されてみれば、向こう三軒両隣はお交際《つきあい》で捨てておくわけにもいくまいから、悔《くや》みに行かなくちゃァなりますまい」
吉「そうさねえ、じゃァ悔みに行ってこよう」
と二人は相談をして出かけました。
吉「ごめんください……」
父「ハイハイ、どなたかおいでになった、バカ野郎めどこへも行くことはならねえぞ……。オーお向こうの旦那方おそろいで、マアお上がりください、サアサアどうぞこっちへ」
源「ヘエ、ごめんくださいまし」
父「サアどうぞ、ご遠慮なくこれへ」
源「エー、お取り込み中へ出まして」
父「イエイエなにも取り込んじゃァおりません、おそろいでお出かけは何かご用で……」
源「エーどうもご当家でもとんだことで、なんとも申し上げようございません、さぞご愁傷さまのことで、お察し申し上げます、よくよくご家内さまにご縁のお薄いのでございますな、まことにお気の毒で……」
父「なんでございますッて、どうもへんなことをおっしゃるが、なんだか私にはサッパリわけがわかりません」
源「イヤごもっともさまで、ツイうかがいもいたしませんでしたが、ご家内さまはいつごろからお悪うございましたか、お見舞いにも出ませんで相すみません、ご出棺は明日何時でございますか」
父「イエ、家内は昨年亡くなりまして、ただ今は私と伜と親子二人ぎりでございます」
吉「イヤ、ご家内と申し上げてはそうかもしれませんが失礼ながらアノ……お茶飲み友だちというようなことで、お置きになった方がお亡くなりになったのでございましょう」
父「アアそれでは医者がまいったり、そのあとから早桶を担ぎ込んだりしたので、だれか死んだと思っておいでなすったのですね……イヤハヤまことにばかばかしいお話で、じつにお話し申すも面目ない次第でございます、みんな伜の所業《しわざ》でございますよ」
吉「ヘエー、それはどういうわけで」
父「ナニ今朝ほどあんまりあれが気が利きませんから、人間というものは先へ先へと気を配らなければいけないと小言を申しましたところが、この始末で医者が来る、早桶屋が早桶を担ぎ込む、イヤハヤあきれてしまいました、そういうわけで誰も亡くなったのではございません」
源「オヤオヤそうでございますか、それはどうもとんだ失礼をいたしました、イヤそういえばどうもおかしいとは思いましたが、しかしなにも私らがはやまってお悔みに上がったわけではございません、じつはおもてに忌中の札が出ておりますので、ハテどなたがお亡くなりなすったのだろう、あなたもお変わりないごようす、息子さんも出たり入ったりしていなさるし、さてはお茶飲み友だちでもと、こう存じてうかがいましたようなわけで……」
父「ヘエー、忌中札が出ておりますと、私はちっとも知りませんでした、マアどうもあきれたバカ野郎だ、イヤとんだご心配をかけて相すみません、別段だれも死んだ者はございませんからご安心くださいまし……、ヤイバカ野郎、なんだって忌中の札なんぞ出したんだ」
息「アハハおとっさん、近所の奴はバカだな」
父「ナニご近所の方がなんでバカだ」
息「だって添え書きを見ずに入ってきたもの」
父「なんと添え書きがしてあるんだ」
息「近日と……」
[解脱]このサゲは仕込み落ちでもあり、また間ぬけ落ちでもある。文化版の江戸小噺「お伽噺」の中に「気転者」と題して、これに似たものがある。すなわち奉公人の気転の利いたのが、主人の顔色が悪いといって医者を呼びに行き、また二三日しても本復しないというので寺へ知らせに行くというのがあるが、思うにこの小噺を骨子にしたものであろう。
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ろくろ首
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盲《めくら》、蛇《へび》に怖《お》じずと申しますが、人間もばかだと物に動じない。その代わり一ツなにかにおどろきでもしようものなら、それこそ並の人一倍の騒ぎをする、つまりがこれは動じないのではなくて、わからないので、わかればやっぱりおどろくのがあたりまえでございます。
伯父「ばか野郎。人の家《うち》へ来たら、こんにちはと、ていねいに頭を下げて挨拶をするもんだ、それからお暑うございますとか、お寒うございますぐらいの世辞はいえるだろう」
○「ちょうどいい加減だ」
伯「なにをいってやがるんだ、暑いとか寒いとかいえってのに、ちょうどいい加減てやつがあるもんか。おふくろがこの間も来て愚痴をこぼしていたが無理もねえ、おふくろやあにきから小遣い銭をせびり取っちゃァ、馬みたような大きな図体をしやがって、一日|懐手《ふところで》をしてノソノソ歩いてやがる。なにが楽しみなんだ」
○「楽しみなんざァありゃァしねえや」
伯「なんだ。楽しみもなくってなにが不足でなまけてるんだ。あにきの商売でも手伝ったら少しは役に立つだろう、もう十九二十歳といえば男|一人前《いちにんまえ》だ」
○「二十三だ」
伯「なお悪いじゃァねえか。こういうことをしてみようとか、こんなところへ奉公をしてみようとか、たいがいもう考えそうなものじゃァねえか」
○「だって不足なんだ」
伯「なにが不足だ」
○「あにきはもう三年前におかみさんをもらっちまった」
伯「おかみさんをもらったのが、どうしたんだ」
○「子供ができちまった」
伯「おかみさんを持ちゃァ子供のできるのはあたりまえだ」
○「それで飯を食う時だってなんだぜ、おかみさんがお膳の向こうへ坐ると、あにきがこっちへ坐ってまんなかへ子供が坐るんだ。手でつまんで食ったりなにかするぜ」
伯「なにをいってるんだ。くだらねえことをいってやがる。それがどうしたんだ」
○「可愛らしいや。寝ればったってなんだ。あにきが向こうの端へ寝て、子供がまんなかへ寝て、おかみさんがこっちの端へ寝るんだ」
伯「それがどうしたんだ」
○「こっちは隣座敷へおふくろと寝てるんだ。寝るとすぐ婆さんはグーッグーッといびきをかくんだ、顔を見たって、しわくちゃで、きたねえぜ」
伯「そりゃァあたりめえよ、年を取りゃァだれだってしわくちゃになる」
○「飯を食えばったってそうだ、おふくろと差し向かいで、お給仕をしてもらったってうまかァねえや」
伯「ばか野郎。大きな図体をしやがって、おふくろに盛《よそ》ってもらわねえったって自分で盛えるだろう。またおふくろもそうだ、あんまり甘やかして育てるからこんな馬鹿ができてしまうんだ。それからどうしたんだ」
○「あにきが三年前におかみさんをもらって、子供ができてそれがだんだん大きくなったんだ」
伯「あたりめえよ、だんだん小さくなられてたまるか」
○「それから飯を食えばッたってそうだ、お膳をまんなかへ置いて」
伯「なにを一つ事をいってやがるんだ。それだからどうしようというんだよ」
○「俺もおかみさんをもらいてえんだ」
伯「ばか野郎、なにをいってやがるんだ。てめえ、かみさんをもらったって飯を食わせられるか」
○「飯は自分で勝手に食えるだろう」
伯「なにをいってやがるんだ。自分で食うのはあたりめえだが、てめえが女房を養うだけの稼ぎができるかというんだ」
○「俺は稼がねえでもあにきはこの節《せつ》工面がいいんだぜ」
伯「なんだ、ばかのくせに人の懐中《ふところ》をあてにしてやがる。そりゃァあにきとてめえとの間はそれでもいいだろうが、他人という者が入っているからそういうわけにはいかねえ」
○「他人てなァなんだ」
伯「わからねえ奴だな、他人ぐらい知ってそうなものじゃァねえか。あにきの嫁さんは他所《よそ》から来たんだから他人だ 他人が一人入っているとなると、そんなことをした日にゃァ家が円くいかねえ」
○「円くなければ四角だ」
伯「なにをいってやがるんだ、わからねえ奴だ、そりゃァそうと、あにきとおふくろに相談をしようと思っていたんだが、てめえ養子に行く気はねえか」
○「養子かい。そうだなァ。けれども小糠《こぬか》三合持ったら婿《むこ》養子には行くなッてえから|ようし《ヽヽヽ》にしようか」
伯「ばかなくせにダジャレをいってやがる、なまいきなことをいうな。そりゃァ一人前の人間のいうことだ、てめえなぞは半人前も役に立たねえ。役に立たねえけれどもなにも先方はご大家《たいけ》のことだ、養子の稼ぎなぞはあてにするんじゃァない。そんなことはかまわないから、世話をしようと思うんだ、お嬢さんはまだ独身でいるとお言いなさるんだが、いつまで独身でおくわけにはいかず、だんだん年を取るばかりだから早く養子をというんで探しているところなんだ。てめえは馬鹿でも白痴でも見たところじゃァ立派な一人前の人間だ」
○「美《い》い男だ」
伯「なにをいってやがるんだ。人間は役にも立たねえ愚か者だが、見たところがちょっと立派だから世話をしてやろうと思うんだが、どうだ行く気はねえか。俺も亡くなったお嬢さまの親御さまにお世話になったから、そのご恩返しにお嬢さまのお世話をしようと思うんだが、この前やはり俺が二度ばかり養子のお世話をしたけれども、それが十日といねえ。もっとも俺ばかりじゃァねえ。よそからも世話をしたんだが、どれもこれも十日と辛抱する者がない、たいがい五日か六日で飛び出してしまうというんだ。それには言うまでもない少しわけありなんだが、それさえてめえが承知してゆきゃァ、先方はたいそうな財産家なんだ。地面もあり、家作《かさく》もあり、そのほかいろいろ財産があるんだ。人のうわさには百万円だなどというが、話半分としたところで五十万円はあるわけだ。そこの家の一人娘でたいそう別嬪《べっぴん》だ。親御さんはもうご両親とも亡くなって、お嬢さんにお乳を飲ませたという乳母《ばあや》が、もう六十ばかりになるんだが、どうしてもお嬢さんが可愛くてどこへも行くことができないというので一生奉公をしている。そのほかにやっぱり六十ばかりになる爺さんがいるんだ。奉公人といってもそれッきり、てめえが行ったところでで四人暮らしだ。こんなけっこうな口がまたとあるもんじゃァねえ。どうだ行くか。本来ならてめえのような馬鹿の能なしが行けるところじゃァないが、なにをいうにもお嬢さんの身体にきずがある」
○「たぶんそんなことだろうと思った。それじゃァお尻かなにかにヒビが入ってるのかね」
伯「ばかッ、品物じゃァあるめえし、ヒビの入っている人間てのがあるもんか、そうじゃァねえ、ほかに少しきずがあるんだ」
○「ア、それじゃァ顔の裏表でもわからねえんで」
伯「ばかなことをいえ、顔の裏表のわからねえ人間というのがあるもんか。お嬢さんはたいそうな美人だ」
○「ヘエー」
伯「いくら顔がよくっても、丈《せい》がばかに低いとか、またはあんまり高すぎるとかいう者もあるが、マアお嬢さんのは中肉中背というのだろうな。もったいないくらいの美人だが、おしいことにいくら婿をもらっても納まらないというのが、まず夜半《やはん》だな」
○「ヘエー、そんな別嬪で、やかんなんで」
伯「やかんじゃァない夜半、夜中だ。家の棟も三寸下がり、草木も眠る丑満《うしみつ》の頃になると、どういうわけかそこの家ではまだ電灯をつけない、昔のままに行灯《あんどん》を使っている。油皿へ油をいっぱいついで、細い灯心《とうしん》が一本入っている。するとグッスリ寝ているお嬢さんの首が、だんだん長くなっていって、行灯を一巻き巻いて長い舌をペロリと出すと油をペチャペチャなめるんだそうだ」
○「ヘエー、それからどうするんで」
伯「それだけのことだ」
○「アアそれだけか、夜中だね」
伯「夜中だ」
○「夜中ならかまわねえ。俺はもう横になりゃァすぐに眠《ね》ちまうんだから、なにをしたってかまわねえ」
伯「そうか、てめえが承知でゆきゃァ、おふくろはどんなに喜こぶか知れねえ。そう事がきまったら、これからてめえを先方《むこう》へ見合いに連れてゆく。とにかくてめえをお嬢さんと乳母さんに見せなけりゃァならないから」
○「つまりそれじゃァ今日は手見せに行くんだね」
伯「手見せというやつがあるものか。ソコで困ったことにはその乳母《ばあや》さんというのがたいへんに丁寧な人だからいろいろ挨拶をするだろうから、その時にてめえが何とか言わなけりゃァならねえが、てめえがしゃべるとボロを出すからな……じゃァこうしろ、乳母が出てきて、こんにちはけっこうなお天気でございますとこういったらてめえが、さようさようとこういやァいいんだ。それからただ今のお話がまとまりましたら、さだめし草場の影で亡くなりましたご両親もお喜びでございましょうぐらいのことは言うだろうから、そうしたらてめえが、ごもっともの次第でございますという意味で、ごもっともごもっともとこう言うんだ。つきまして手前のような年をとりました者はお役に立ちませんでお気の毒さまでございますが、この末長くなにぶん願いますといったら、なかなかどういたしましてという心持ちで、なかなかと言うんだ」
○「ヘエそれじゃァさようさように、ごもっともに、なかなかとこれだけ覚えていりゃァいいんだね」
伯「そうだ、けれどもトンチンカンの挨拶をしちゃァいけない、ひとつ稽古をしてみよう。いいかい、私のような年をとりました者はお役に立ちませんでお気の毒でございます」
○「さようさようだね」
伯「それじゃァいけねえや」
○「じゃァ、ごもっとも」
伯「なおいけねえ、なかなかというんだ」
○「ア、そうか」
伯「こまったな……じゃァこうしよう、オイオイ婆さんや、どうもやっかいな男でしかたがねえ。そこに子供の持っていた毬《まり》があったな……アアソレソレ、そいつへ糸をつけて持ってきな、サアこの糸の先を下帯の脇のところへ結びつけるんだ。裸体《はだか》にならなくってもいい、手をつッこんで……その毬をなんだ、袂《たもと》から外へ出しておくんだ。いよいよという時に俺が知れないようにその毬をひっぱるから、いいか、一ツひっぱったらさようさようだ。二ツひっぱったらごもっとも、三ツひっぱったらなかなかだ、いいか、稽古をするよ。こんにちはけっこうなお天気でございます。ホラ一ツだ」
○「さようさよう」
伯「そうだうまい。そういう工合にやりゃァいい。ごもっともが二ツで、なかなかが三ツだよ」
○「ウンそれならだいじょうぶだ」
伯「それじゃァ婆さん着物を出してやれ。俺の着物でもしかたがねえや。中でなるたけ派手そうなものを選《よ》って着せてやれ……」
支度ができたので、先方へまいりました。
伯「サアサアそこへ坐れ、その蒲団の上へ坐るんだ。どうだけっこうな家だろう。ソラ乳母《ばあや》さんが出てきた。しっかりやるんだぞ」
婆「アアこのお方が、さようでございますか、たいそうご立派でいらっしゃいます。ようこそおいでくださいました。こんにちはけっこうなお天気でございます」
○「エーと……さようさよう」
婆「どうも恐れ入ります。只今のお話がまとまりましたらお亡くなりになりましたご両親も草場の蔭でさぞお喜びでございましょう」
○「エーと……ごもっともごもっとも、あとはなかなか」
婆「どうも恐れ入ります、只今お嬢さんがお庭前《にわさき》をお通りになりますから、どうぞごらん遊ばしまして、ゆっくりとなさいまし。ごめんくださいまし」
○「アッ行ってしまった」
伯「オイオイなんだってよけいなことをいうんだ。先方でなんともいわないうちに、なかなかだなんていう奴があるもんか」
○「それでもどうせ言うもんだろうと思ったから手まわしをして先へいっちまった」
伯「しようのねえ奴だ。今お嬢さんがお庭前を通るというから見ていろ」
○「アア猫が来た。来い来い来い、来た来た猫や、俺がこの家へ来たらなにぶん頼むぞ」
伯「ばかだな猫に挨拶をする奴があるものか、ソレソレ嬢さんがお通りなさる。見なくちゃァいけない」
○「ヤア美《い》い女だなァ」
伯「大きな声をしちゃァいけない。お年は二十三だが、ご容貌《きりょう》がいいから、どうしても十八ぐらいにしか見えない。この身代に生まれたあんな美しいお嬢さんが、悪いご病気があるというのはお気の毒なことだ」
○「さようさよう、なかなか、ごもっとも」
伯「なにをいってるんだ。オイ」
○「さようさよう、なかなか、ごもっともごもっとも」
伯「ばかッ。おおきな声をしやがって、てめえがへんなことをいうから、真っ赤になって駆け出して行っちまった、なにをいってやがるんだ」
○「それでも伯父さんが毬をひっぱるから」
伯「だれもひっぱりゃァしない」
○「さようさよう、なかなかなかなか……アッ猫が毬をひっぱってやがるんだ。アアおどろいた」
こんなばかでも縁のあるというのはふしぎなもので、話がきまって黄道吉日《おうどうきちにち》を選び、めでたく婚礼の式もすんでお床入り。どんな寝坊でも寝床が変わると寝られないもので、九尺二間の棟割長屋に住んでいた者が、急に広々した座敷へ寝かされたからなかなか寝付かれません。
○「アアなるほど、伯父さんのいったのも嘘じゃァねえや。なかなかいい女だ、あにきのおかみさんなんざァ足もとへもおっつかねえ。けれども寝相が悪いな。枕をはずしているぜ、横にはずしているなァ普通だが、まっすぐにはずしているのはめずらしいや……オヤッ動いたぞ、アレッ、これはおどろいたな」
と、見ているうちにズーッと首が延びて、キラキラと目を光らしながら、行灯を一巻き巻くと赤い長い舌を出して、油皿の油をペチャペチャなめはじめたから奴さん肝をつぶして、キャッというと飛び起きてどこをどう開けたものだか夢中で跣足《はだし》のままおもてへ飛び出した。ドンドン、ドンドンドン。
○「伯父さん伯父さん」
伯「だれだ。そこをたたくのはだれだ」
ドンドン、ドンドン
○「伯父さん伯父さん」
伯「うるさいなァ、たたくなたたくな、ご近所へ気の毒だ……なんだてめえか、びっくりさせやがった。今時分なにしに来やがった。コラこっちへ入って、後を閉めろ……どうした。夫婦喧嘩でもしたのか」
○「伯父さん今時分なんだって起きてるんだ」
伯「ナーニ明日の朝早くお参りに出かけるんで弁当をこしらえるんだが、婆さんを起こすのも可哀想だから俺が一人でやってるんだ」
○「そうかい。伯父さん俺ァもう養子はこりごりだ。おことわりだ」
伯「なにをいってやがるんだ。ばか野郎、なにがこりごりだ」
○「ダッテおどろいた。枕をはずしてるんだと思ったらだんだん首が長くなっていって、行灯の油をペロペロなめたんだ」
伯「それでどうしたんだ」
○「それからびっくりして飛び出してきちまった」
伯「ばか野郎。それだから前にことわっておいたじゃァねえか、それを夜半に目が覚めないからといって、承知をして行ったんじゃァねえか」
○「目が覚めなかろうと思ったら、覚めちまったんだ」
伯「なにしろしようのねえ奴だ。お嬢さんが食いつきでもしたってんならまたことわりようもあるけれども、あの乳母さんからくれぐれも念を押されて、だいじょうぶだと俺が受け合っててめえをやったんだから、こんな真似をされちゃァ俺が乳母さんに顔が合わされねえ。サア帰れ」
○「帰れッたってそりゃァだめだ。こまったなァ……じゃァ伯父さんこうしてくださいな、六、七、八、とこの三月だけ養子を休みにしてくださいな」
伯「なんだ養子の休みというのがあるか、なんでまたそんなことをいうんだ」
○「俺は蚊が大きらいなんで、たびたび蚊帳《かや》を出たり入ったりされると、蚊が入ってこまるから」
[解説]諸国昔噺の内に、これと同じ筋の物が見える。昔噺の内の、馬鹿息子、馬鹿婿の噺が多く落語に取り入れられて、与太郎になっている。このろくろ首は四代目〔先代〕小さんが十八番であった。サゲはまぬけ落ち。
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磯《いそ》の鮑《あわび》
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昔は町内の若い者が髪床《かみどこ》などへ大勢集まりまして、つまらない話をしていたもので、
○「エエどうもみんな、遊びに行って振られた話をする奴は一人もねえんで、聞くのに大儀《たいぎ》じゃァねえか、集まるとみんなもてた話ばかりしていやァがる、そのくせ女に可愛がられる奴は一人もありゃァしねえ、だけれどもなんだなァ、大勢こうやっているけれどもなんでもどうも、どういうことをして遊ぶにも師匠を取った芸でなくっちゃァいけねえからなァ、師匠という者は大事なもんだよ」
男「ヘエみなさん遅なわりました」
乙「ヤ与太郎《よたろう》、どうしたえ」
与「どうしたって私はね、女郎買いにまだ行ったことがないんで。あなた今、何商売でも師匠がなくっちゃァいけないとおっしゃいましたが、女郎買いにもやッぱりお師匠さんがありますかなァ」
甲「チェッ、白痴《こけ》だなァ、女郎買いの師匠はねえかってやがらァ、ばかだなァ」
乙「そういうなよ……与太、女郎買いの師匠はあるよ」
与「ありますか……どこにあります」
乙「本所《ほんじょ》の達磨横町《だるまよこちょう》の梅村《うめむら》さんというお方がある、ここへ行ってな、どうぞ女郎買いのご指南を願います、どうぞ教えてくださいましといえば親切に教えてくれる、私んとこじゃァ知らんといってもズウズウしく坐って動くな、そうすりゃァ教えてくれるぜ、オレが手紙を付けてやるから」
与「どうもありがとうございます」
悪い者が大勢集まって嘲弄《おもちゃ》にされるとは知らないから、手紙をもらって本所達磨横町の梅村さんの家へやってまいりました。
与「ごめんください」
書生「ドーレ」
与「エエ金さん、八さん、熊さんが、ここは女郎買いのお師匠さんだから稽古をしてもらえと申しましたからまいりました、手紙をお師匠さんに……どうぞよろしく」
書「コレは恐れ入った……エエ旦那さま、熊や八に教わったって妙な奴が来ました、こちらを女郎買いのお師匠さまだって……」
梅「しかたのない奴らだ、みんな碁の仲間で、先日もオレを剣術の師匠だって武者修行を一人よこしやァがって、大きな人にいきなり三ツひっぱたかれた、だんだん聞いてみたら隙をみて打ち込むんだから隙を狙って先へ打ち込まなくっちゃァいけないってそういったんだとヨ……今日はどんな奴が来たえ」
書「なんだかヨダレをダラダラ流して、さもさも白痴《たわけ》らしい男が来ました」
梅「とんだ奴をよこしやァがった……この手紙はなんと書いてある……ナニこの者は与太郎と申して白痴《こけ》のウンテラガリの御《おん》デレ助に候間《そうろうあいだ》、そのもとを女郎買いの師匠と見立て差しいだし候間《そうろうあいだ》、よろしく御なぶりくだされたく、まずはあらあらめでたくかしく……なにがめでたくだ、マアこちらへお通し」
書「あなたこちらへ……」
与「ヘエ……お師匠さんこんにちは、エヘヘヘヘ今日はどんなことがあっても帰らない心でまいったんでございます」
梅「なるほど手紙どおりのお方だ、あなた神田はどこです」
与「神田の須田町《すだちょう》におりますんで、今日私にみなさんがお女郎買いもお師匠がなければいけないという話で、ご当家を教わってまいりましたが、さいわい知れました」
梅「おまえさん担《かつ》がれて来たんだよ」
与「イエ私は歩いてまいったんでございます」
梅「おまえさんは遊ばれたんだ」
与「私が遊んでおったんでございます」
梅「こりゃァ困ったな……おまえさんがみんなに馬鹿にされたんでございます」
与「ヘエ私を馬鹿に……私のことを馬鹿だ馬鹿だっていいますよ」
梅「おかしいなァ……コレおまえさん、世の中に女郎買いの師匠なんてえ者はあるもんじゃァない、またそんな馬鹿なことを教えることも出来ずするから、腹がすいたんなら飯でも食ってお帰んなさい」
与「みんながきっとそう言うだろうから、そこで帰るようなことではお弟子にしてくれないから、坐ったら動くなと申しましたから、教えてくださらんうちは帰りません」
梅「こりゃァ驚いたなァ……伊東《いとう》、どうしよう」
伊東「いい加減なことをおっしゃってお帰しなすったほうがよろしゅうございましょう」
梅「そうさな……おまえ吉原《よしわら》へ行ったことがあるかえ、吉原を知ってるかえ」
与「吉原はどこのほうの見当ですかなァ」
梅「あきれたネ、観音様の五重の塔を知ってるだろう」
与「五重の塔……ヘエ知っとります」
梅「あれから五町ばかり行って聞くといいよ」
与「ヘエなるほど……」
梅「あの近所で聞くと知れるよ、それから大門《おおもん》をズッと入るとチリカラタッポーこの節《せつ》仁輪加《にわか》も始まってるからたいそう景気がいいよ」
与「何かにわかに始まりましたか」
梅「ナーニ吉原には昔からあるよ」
与「なんでげしょうそいつは……」
梅「チョッ〔舌打ち〕……困ったね、にわかてえのはね北廓《なか》の芸者や幇間《たいこ》が集まって、仲の町《ちょう》を、踊りの車をひいて歩くんだよ」
与「ヘエーなるほど……」
梅「そこでそういうものを見ていると遅くなるといけないから、見ずに角町《すみちょう》へ曲がってもらいたいな」
与「そんな隅のところに町内がございますか」
梅「そういう町の名だよ」
与「ヘエーなるほど……」
梅「曲がってブラブラ歩いて行くと、おまえの袖を若衆《わかいし》が引っぱります」
与「ヘエー私の袖を誰が」
梅「女郎屋の若衆が……」
与「若い人ばかりでございますか」
梅「困るね、老人でも若衆というのがあの里の常《つね》の言葉になっているから……するとおあがんなさいと向こうでいうから、その時おまえが洒落《しゃれ》るんだネ」
与「洒落と申しますと」
梅「洒落というとネ、ちょっとソノー……こりゃァ伊東弱ったなァ、よほどの変わりもんだなァ……洒落というのはこういうんです、おあがんなさいといったらおまえさんがいうんだネ、あがったらほうぼうが見えますか、十二階やニコライじゃァがァせんよ」
与「ありゃァ真間国府台《ままこうのだい》のほうまで見えますよ」
梅「そんなことはどうでもいい、よく覚えなくっちゃァいけません、向こうで袖を引きましたら、あがったらほうぼうが見えますかネ、十二階やニコライじゃァがァせんよ……」
与「あがったらほうぼうが見えますかネ、十二階やニコライじゃァがァせんよ」
梅「そうそうそこで登楼《あが》ると後尻《あとじり》というところがございます」
与「後尻と申しますとなんのお尻でございます」
梅「イヤサちょっとあがるとね、花魁《おいらん》の姿が後ろから見えるところがございます、そこを見ながら二階へあがって接待所《ひきつけ》へ通るんでございます」
与「引き付けと申しますと誰か目をまわしますんで……」
梅「目をまわすんじゃァない、広いお座敷を接待所《ひきつけ》というんですが、そこへ花魁が出てきます」
与「ヘエなるほど」
梅「そこで媒酌役《なこうど》があって花魁とおまえさんと三三九度の盃があってそれから陽気に騒ぐんだが、おまえさんお肴《さかな》が出てきたらあんまり食ったりしてはいけない、そうするとお寝《やす》みなさい、そこで一ツお小便《ちょうず》と来る、こりゃァ出たくなくっても行ってもらいたい、行ってるうちにお床が敷いてある、サアいよいよお床入りになってから一ツ口説《くぜつ》があるね」
与「ヘーなるほど……なるほど……」
梅「こういうんです……花魁あなたは拙者を知るまいが私はおまえを知ってるよ、疾《と》うからあがろうあがろうと思ったが機会《おり》がなくってあがることができなかった……今日という今日は、ようようの思いであがった」
与「なるほど……」
梅「今日という今日は、ようようの思いであがった、これが磯の鮑《あわび》の片思いだ……とおまえさんが花魁の膝をつねるんだ」
与「なるほど……」
梅「こう言おうもんなら花魁がおまえを可愛がることは一通りじゃァないね、おまえさんもてますぜ」
与「どうもありがとうございます」
梅「わかりましたか」
与「わかりました」
とチョキかかりな奴で物を半分聞いて駆け出したんでございます、大門を入ると両側のにぎわいはたいへんです。
与「イヤーありがたいどうも……アアとんだことをした、観音様の五重の塔の下で聞くんだっけ」
正直な奴でまた五重の塔の下まで帰ってきました。
与「モシ吉原の大門へ行くにゃァどう行きますなァ」
甲「これからここを八丁ばかり土手を登って左へ行きゃァ大門で……」
与「ヘー……ハハハまたここへ来た、二度来るなんぞは恐れ入ったね……ハーここが仲の町というところだな……少々うかがいます、隅町というのは……」
甲「隅町はここの横町で」
与「ありがとうございます……ここらんとこでオレを引っぱらなくちゃァいけねえ……オイ引っぱらないか」
若「エヘヘヘいかがさまでございます、エエちょっとおあがりはいかがさまでございます」
与「しめたゾ……洒落るヨ、おまえはなんだろう年齢《とし》をとっても若衆だろう……」
若「ご冗談ばかり……」
与「いよいよ洒落るヨ、あがったらほうぼうが見えますかネ、奥山の十二階かニコライじゃァごわせんョ、エヘン〔咳払い……〕」
若「こりゃァ恐れ入りました、たいへんお洒落が……」
与「うまいだろう登楼《あがろ》う……あがって後尻《あとじり》なんぞちょっと見るよ」
若「ヘエ……なにもかもよくご存知で……おあがりだ」
女「いらっしゃいまし」
与「あの目をまわした座敷を心得ているよ」
女「どんなお座敷で……ああなるほど、ひきつけ、ご冗談もんで」
与「そこで食い物はおまえさんのほうのよきようにあつらえてください」
とここで引き付けが済む、しばらく騒ぎまして、
与「そこで長居はいけないから私は小便《ちょうず》に行きますよ、小便に行っているうちに食い物がズーッと引いちまって床んなるという寸法でしょう」
若「こりゃァどうも恐れ入りまして、なにもかもご存知でいらっしゃいます」
与「なんでも知っとりますよ、師匠を取ったんでございますから何事も師匠を取らなくっちゃァいけませんからな……小便に行こう……」
若「こちらへ」
とこれからお小便をして帰ってくると、お床になって花魁は商売でございますからここを先途《せんど》と勤めなくてはいけないと、かのお客さまのそばへピッタリ坐りまして、
花魁「主《ぬし》は温和《おとなし》くって真《ほん》に好いたらしい」
与「マ、花魁私のいうことを先へよく聞いてくださいよ……花魁」
花「なんですよ」
与「おまえは私を知るまいが、私はおまえを知ってるよ」
花「アラ……マーそう」
与「疾《と》うからあがろうあがろうと思っていたが、機会《おり》がなくってあがることができなかった」
花「アラマー嬉しいことねえ」
与「そこで今日という今日はようようのことであがりました、これが磯の……花魁……」
花「なんですよ」
与「疾うからあがろうあがろうと思っていたが機会がなくってあがることができなかった、これが磯のワカメ……磯のワラビ……磯のワサビの片思い〔つねる〕」
花「アラ痛いじゃありませんか涙が出ますよ」
与「そんなら今のワサビが利いたんだ」
[解説]この噺も、与太郎でなく、他の名前でやっていた人もある。とにかく、今はもう過去の落語になってしまった。
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厄払《やくばら》い
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愚かしい者のお話を一席申し上げます。愚かしい者は落語のほうでは与太郎《よたろう》とだいたい相場がきまっております。
家主「なんだ、そこに立ってる奴があるか、座んなさい、こんにちはいいお天気ぐらいのことは言いなさい」
与「おらァ伝言《ことづけ》されたから来たんだ」
家「用があるから伝言をしておまえを呼んだんだ。人の家《うち》へ来たらチャンと座って、こんにちはぐらいのことが言えなけりゃァいけない、おまえももう牛にも馬にも踏まれないような年になったんだから、一人で稼いで立派に一人で食わなきゃいけない、どうしてそうぐずぐずしているんだ。家の長屋の水なぞをくんで、天丼のあまりなぞをもらって食って嬉しがってるようじゃ、おふくろが可哀相《かあいそう》じゃァねえか、しっかりしなくちゃいかねえ」
与「そりゃァおふくろだって可哀相にゃァちがいないが、俺だってずいぶん可哀相だ」
家「妙なことをいう奴だな、なんでてめえが可哀相だ」
与「おふくろより俺のほうが腹がへるほうが多いや、おふくろはちっと食ってももうたくさんだというが、おらァウンと食わなけりゃたくさんでねえから、腹のへるのは俺のほうが多い」
家「なにをいってやがるんだ、腹がへったらたくさん食って、腹のへらないようにしたらいいだろう、それにゃァやっぱり働かなけりゃァいけねえ、明日の晩は節分だから、厄払いをやってみろ」
与「厄払い、ありゃァ暮れにやるんだろう」
家「ばか野郎、厄払いをなんで暮れにやるんだ」
与「畳をたたくのよ」
家「そりゃァ煤《すす》払いだ」
与「厄払いというのはどうやるんだい」
家「どうやるもこうやるもねえ、建具屋の金公《きんこう》なぞが、よく湯で怒鳴ってるだろう、アーラめでたいなめでたいな、めでたきことにて払いましょう。鶴は千年亀は万年、浦島太郎は三千歳、三浦の大輔《おおすけ》百六ツ、東方朔《とうぼうさく》は八千年、かかるめでたき折柄《おりがら》に、悪魔|外道《げどう》が飛んで出て、妨《さまた》げなさんとする折を、この厄払いが掻《か》いつかみ、西の海とは思えども、東の海へサラーリ、やーく払いましょう、厄払い……こうやるんだ。これは資本《もとで》はいらないいい稼業《しょうばい》だ、そうすれば、豆まきの豆をくれる」
与「しかしむずかしいや、厄払いの文句はなかなか家主《おおや》さんむずかしいね」
家「むずかしいッたってこのくらいのことはできなけりゃァしようがない。じゃァ俺が紙へ書いてやろう。いろはを読めるだけがまだ取り得だ。さもなけりゃァ生きていられない人間だ……サアこの通り書いた。いいか厄払いましょう厄落としと、やってみろ」
与「あら、あらめで……あらめで……」
家「そうじゃァねえ、アーラめでたいなだ。節《ふし》を付けるんだいいか、鶴は千年、亀は万年、こんなことは書くこたァねえんだ。初めだけ書いといてやろう、浦島太郎が三千歳、三浦の大輔百六ツ、東方朔は八千年、いいかみんなあたまだけ書いたぞ、これでやって来てみな、豆なんざァドッサリもらっても食いきれるもんじゃァねえ、俺ンとこへ持ってこい」
与「豆腐屋へ売るんだろう」
家「なにをいいやァがるんだ。煎《い》った豆なんぞを豆腐屋で買うものか」
与「だから焼き豆腐をこしらえるんだろう」
家「それがてめえのばかのところだ。ぐずぐず言わず今夜一晩稽古をして明日の晩出かけてみろ」
与「ヘイ、それじゃァ行ってきます……アアありがてえありがてえぞ今夜ウンと銭儲けができるんだ。オヤオヤあっちでもこっちでも厄払いの声がたくさんしているな、なるほど豆をもらってやがる。それじゃァ俺もひとつ怒鳴るかなウン、なかなかうまく怒鳴れそうもねえな、おちついてやらかそう。マア厄払い、厄払い、マア厄払い」
○「利兵衛《りへえ》や、おもてへマア厄払いというふしぎなのが来たよ、人のことみたようにやってる厄払いだ。アアいうのがかえっておもしろいもんだよ、重ね扇に裏梅のなんて小気《こき》の利いた厄払いより、よほどボーッとしてるのにおもしろいのがある。呼びなよ」
利「ヘエ、厄払いや」
与「マア厄払い……」
利「オイこっちだよ」
与「ヘイありがとうございます」
利「なんだい手を出して」
与「豆をおくんなさるのでしょう」
利「そりゃァやるけれども、先へやってくれなけりゃァいけない」
与「ヘエよろしゅうございます。アアそこを開けといておくんなさい、暗くっちゃァできませんから」
利「ヘンな厄払いだね、暗いほうがかえってやりよかろうと思うが、それじゃァマア開けとくよ」
与「ヘイ、こっちを見てちゃァできないんですよ」
利「いろんなことをいやァがるな、サアサア始めてくんな」
与「よろしゅうございます。なにしろ厄払いは私の懐《ふところ》の中にあるんですから」
利「へんなことをいう厄払いだな。サッサと縁起よくやっておくれよ」
与「承知しました。それじゃァ始めますよ」
利「ことわらなくてもいい、早くやんなよ」
与「エーと、少し薄暗《うすぐれ》えな、向こうの古着屋のガス灯の下でやっちゃァいけませんか」
利「家でたのんだ厄払いが他家《よそ》の家の前でやっちゃァいけないじゃァないか」
与「そうですか、エーと、アラめ、アラめうでたいよ……」
利「なにをいやァがるんだ。あいつァ煮豆屋かなにかが厄払いに出たんだろう。アラメなんぞ家へ帰ってから茹《う》でろ、商売のほうをやらずに厄払いのほうをやれ」
与「アラめ、うでたいな、アラめでたいな」
利「オヤオヤあらめうでたいが、アラめでたいに変わってきた」
与「鶴……鶴は十年……」
利「なにをいやァがんで、鶴の年も知らねえ厄払いもねえもんだ。十年とはなんだ」
与「なるほどそうかな……十年というのは鶴の子供ですよ」
利「俺ンとこは子供でなく大人でやってくれよ、千年の口でやっておくれ」
与「よろしゅうございます。鶴は千年、亀は、亀は……、ちょっとうかがいますがね、向こうの質屋の名前はなんてんです」
利「ヘンな厄払いだね、話をしてやがらァ、向こうの質屋は万屋《よろずや》というんだよ」
与「アアそうですか、亀は万年《よろずねん》」
利「なにをいやァがるんだ。すえたような厄払いだ。サアサアしっかりやってくんな」
与「浦島太郎が百六ツ、三浦のほうすけ……」
利「そうじゃァない大輔だろう……」
与「とうぼう、こりゃァどうもわからねえ、とうぼう、とてもわからねえからごめんをこうむろう」
主「オイ利兵衛や、厄払いがバッタリ黙ってしまったが、あんな変な厄払いだからまた戸袋へでも寄りかかって寝ちゃァしないか、ちょっと見てやんてくんなよ」
利「チェッ、手数のかかる厄払いだな、こいつのために幾度も寒い思いをしなけりゃならねえや……オイ厄払いや、そこに寝てちゃァいけねえよ……オヤ逃げちまやァがった……旦那、厄払い屋はもう疾《と》うにいなくなってしまいましたよ」
主「ハハアわかった。それで東方《とうぼう》東方〔逃亡〕といったのだ」
[解説]この噺を普通に寄席なぞでやる場合には、例によって与太郎が歳末の売物や、三月の売物を去年やって失敗したという話などをした上で、厄払いをやれと進められることになる。また厄払い屋になってからも同業者との間に多少のクスグリがあるのだが、「道具屋」や「唐茄子屋」とダブルので略すことにした。
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二丁蝋燭《にちょうろうそく》 しわい屋〔上〕
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すべて落語に出ますものは、度が強くなっております。たとえば吝嗇《りんしょく》〔けち〕の話にしても吝《しわ》い人が聞いたり見たりして肝をつぶすというやつでなければ、おもしろくございません。この吝嗇にもいろいろございますが、爪で火をともすというように、自分の身体《からだ》からつめてゆく、これを適度にやってゆけば倹約でございますが度が過ぎると吝嗇になります。また世の中にはずいぶん自分は贅沢をしながら、貧乏人を苦しめて金を貯《た》めるという非道な人がございます、もっともそういうのは貧乏人の思いでも末は必ずよくございません。死にますと地獄のほうへ送られ、閻魔《えんま》さまの浄玻璃《じょうはり》の鏡に照らされて、闇黒地獄《くらやみじごく》という、とりわけ酷《ひど》いところへやられます、新入りの亡者を閻魔大王が、こいつらは闇黒地獄へほうり込めというご沙汰、
赤鬼「ナア青鬼」
青鬼「なんだ赤鬼」
赤「俺の親父でせえ知らねえという闇黒地獄だ、てめえ知ってるか」
青「ウム、俺の親父がたった一度|山椒太夫《さんしょだゆう》てえ奴を引っぱって入ったことがあるそうだ、なんでも真っ暗なところだそうだ」
赤「そうか、それじゃァおめえは、親父から話を聞いていくらか知ってるだろう、先へ立って案内をしてくれ、……コレ亡者」
亡「ヘエ」
赤「ヘエじゃァねえ、てめえみたようなケチな野郎が来やァがったから、今まで入ったことのねえ闇黒地獄などというところへ案内しなけりゃァならねえ、まぬけ野郎め」
亡「ヘエ、どうもお気の毒さまです」
青「なにを言やがる、サアサアこっちへ来い……サアここだここだ」
赤「鍵は俺が持ってる」
赤鬼は鍵を出して、ガチャガチャやったが開《あ》けばこそ、何年にも開けませんから、鍵が錆びついております、青鬼と赤鬼が一生懸命、ガチャガチャやっていると、いくらか錆が取れたものとみえて、ガチンと開きました。
赤「サア入れ」
青「赤、それじゃァ俺が先へ立ってゆくよ」
赤「ウムずいぶん暗《くれ》えな」
青「暗えにもなんにも真っ暗だ、気をつけねえよ、ソロソロ歩かねえと、なんにぶっつかるかわかりゃァしねえ、そりゃァそうと亡者の野郎はどうした、亡者」
亡「ヘエ」
青「オウそばにいやァがったのか、てめえのおかげでこんな難儀をするんだ、薄ッ気味が悪くって一寸も先へ出られやァしねえ」
亡「それじゃァ私がご案内いたしましょう」
青「なまいきなことをいうな、亡者のくせにご案内しましょうと言やがる、どうするのだ」
亡「先へ立ってまいります」
青「ナニ先へ立ってゆく、よかろう、先へゆけ、俺たちでせえこの年になって、まだ一度も入ったことのねえとこだ、親父の代にもたったいっぺんしか入ったことがねえというとこだから、どんな物が路傍《みちばた》にあるかわからねえ、どうせてめえは悪いことをしてここへよこされたんだから、しかたがねえ、先へ立ってゆけ」
亡「ヘエよろしゅうございます」
赤鬼と青鬼が後から付いてゆくと、亡者はすましたもので、ズンズン先へ立ってゆく、あんまりふしぎだから赤鬼が後ろからヒョイと覗《のぞ》いてみたら、爪で火をともしていました。
ある商人《あきんど》で十人からの人を使っていた人が、こう不景気ではしかたがない、奉公人が多すぎるから五人にしてみようと、減らしてみると、五人でどうにかこうにかその家《うち》が立ち廻ってまいります。これだからムダもあるもんだ、五人で用が足りるなら、三人減らして二人の奉公人でも足りるだろう二人にしてみようと、二人にしてみるとやっぱり用が足ります。二人で用が足りるところをみると、夫婦で襷《たすき》をかけて働いたら、手廻るだろうと奉公人を止《よ》してみると、どうにかこうにか間に合う、待てよ、こうなると女房もムダだなァ、夫婦で用が足りるもんなら一人でたくさんだ、と女房を離縁してみると、一人でやっぱり手廻る、イヤ一人で手廻るところをみると、オレもムダだ、オレは首をくくって死んでしまおうか……、マサカそうもゆきません。
主人「小僧や」
小「ヘエ」
主「向こうの家へ行って金槌《かなづち》を一|挺《ちょう》借りてきな」
小「ヘエ」
主「早く行ってきな」
小「ヘエ……、おはようございます」
○「なんだえ小僧さん」
小「旦那が金槌を貸してくださいと申しました」
○「金槌を……、なにを打つんだい」
小「釘を打つんでございましょう」
○「鉄《かね》の釘か、竹の釘か聞いてきな」
小「そりゃァわかってるんで、鉄の釘でございます」
○「鉄の釘じゃァ貸されねえ、鉄と鉄でぶっつかれば、いくらか減るから貸されねえと言いな」
小「ヘエかしこまりました」
主「どうしたな貸してよこしたか」
小「貸してくれません、竹の釘を打つのか鉄の釘を打つのかと聞きますから、鉄の釘だと申しましたら鉄と鉄とぶっつかれば減るから貸されないとこう言いました」
主「ケチなことをいう奴だ、じゃァ家《うち》のを出してこい」
上には上があるものです。
甲「ごめんなさい」
乙「オヤおいで、サアこっちへお入り」
甲「ヘエ、もう日が暮れましたが、お宅では灯火《あかり》をつけないんですか」
乙「灯火なんぞはもちろんムダなもんで、私どもではつけたことがない」
甲「夜分灯火をつけないというのはずいぶん酷いご倹約で」
乙「そういうおまえは贅沢だ、……しかし贅沢とはいうものの、世間からくらべてみると、おまえなどはマア心がけのいいほうだ」
甲「たびたび上がってはご教訓を受けますために、だいぶ当時は倹約が身にしみまして、諸事倹約をいたしております」
乙「けれどもまだ贅沢だよ、過日《このあいだ》おまえの家へ行ったら、ちょうど飯を食っていたが、あんな飯を食ってはいかんよ、米という物は、白い物だと心得てるようなことじゃァいけない、第一塩をなめて飯を食っていたが、アアおごっちゃァいかんぜ」
甲「ヘエー私はあれより倹約のしようはないと思いますが塩のお菜《かず》では、まだ贅沢ですか」
乙「贅沢だとも、ちょっと立って私のお菜をごらん、そこに膳が出ているから」
甲「どこにあるか薄暗くってわかりません」
乙「そこにある、よく見なさい」
甲「なるほど、梅干しですな」
乙「梅干しだ」
甲「梅干しを上がったら、塩よりいくらかお高いもんで」
乙「ばかァいっちゃァいけない、食べたら高いもんだが、食べないんだ」
甲「ヘエ」
乙「梅干しを見て飯を食う」
甲「梅干しを見て……」
乙「しばらく見ていれば、梅というものは、なんとなく口が酸っぱくなる、酸っぱくなったところで飯を食えば梅干しを食うのも同じことだ」
甲「ヘエ」
乙「この梅干しは八年になるが、別段小さくもならない」
甲「大変なもんでございますなァ、なるほど……私はまだそれまでにもなりませんが、どうもだんだんありがとう存じます、つきましては態《わざ》ッとこれはお土産《みやげ》で」
乙「オイオイ土産を持ってくるようなことじゃァいかんな、なんだいこりゃァ……」
甲「ヘエ、上に御羅宇《おんらお》通しと書いてございますが、中は畳のヒゴを二三本……」
乙「こりゃァおもしろい、けれどもこうどうも物を贅沢にしちゃァ困る」
甲「まだ贅沢ですかな、ただでございますよ」
乙「たといただでも贅沢だ、こんな長い物、土産までに使うということはない、おまえにすぐ返礼をしよう」
甲「ヘエありがとう存じます、こりゃァなんでございます」
乙「今の畳のゴミを三|分《ぶ》ぐらいずつに切ったものだ」
甲「ヘエーなんにいたしますんで」
乙「薬で」
甲「なんの薬で」
乙「唾《つば》でもって額《ひたい》に貼る」
甲「ヘエ」
乙「しびれの薬だ」
甲「薬じゃァございません、まじないでございましょう」
乙「どっちでもいいが、もらいっぱなしにもできんから、よんどころなく返礼をするのだ」
甲「おどろきましたなァ、しかし夜分灯火てえ物のいらんということを、今晩初めて知りました、しばらく暗いところにおりますと、あたりがよく見えてきますなァ」
乙「そうだ、暗いところに居付ければ、暗いということを知らんで済む」
甲「夏向きの扇を使うのに、五年使えるものなら十年使えるような法で」
乙「ウーム、そこらが倹約の第一だ、十年の物を二十年使えるようにするというのは、けっこうだが、どうするんだえ」
甲「まるで拡げるから、五年の物は十年きゃ保《も》たないんで。半分拡げて五年使い、五年使って損《いた》んだら拡げないほうの半分で、五年使うんで、こういうことを考えました」
乙「なるほど、それはマア倹約でけっこうだが、それじゃァまだいけないね、十年使える物なら、一生涯使える工夫がある」
甲「ヘエー、生涯使える工夫というのがありますか」
乙「半分なんて、そんなケチなことをしないで、開きっぱなしにしておく」
甲「ヘエー」
乙「首の下へ当てがい、扇のほうを動かすから扇が傷む、首のほうを横に振るんだ」
甲「それじゃァ風が出やァしません」
乙「風が出ないでも扇子を使ってると思やァ涼しい気がする」
甲「なるほど、いろいろありがとう存じます、ヘエお暇《いとま》を」
乙「マアいいじゃァないか、モーちっと遊んでおいで、いま水でもあげるから」
甲「イエもう寒いから水はたくさんで……、暗くって履き物がわかりませんが、付け木を一つ……」
乙「灯火もつけないくらい、付け木があるものじゃァない」
甲「それでも暗くって下駄が見えません」
乙「そこに薪が出してある、その薪で目と鼻の間をポカリと一ツなぐってごらん」
甲「痛うございます」
乙「もちろん痛い、痛いために目から火が出る、その火で見てゆきな」
甲「驚きましたなァ、そんなことだろうと思ったから、じつは履き物を履かずにまいりました」
甲「そうだろうと思って、オレも畳を裏返しておいた」
ここにしわい屋|吝右衛門《けちえもん》というお商人《あきんど》、奉公人の二人や三人使っているほどでありながら、非常にケチな人で奉公人こそ往生、ろくな物は食わしたことはございません。それで奉公人のいるのはふしぎなくらい、世間では変人として、あまり交際《つきあ》う者がございません。なによりケチな証拠には、もう四十幾歳というのに女房《おかみ》さんというものをどうしても持たない。
番「おはようございます」
吝「ハイおはよう」
番「エエ旦那さま、たびたび申し上げるようでございますが、いつまでもお独身《ひとり》でおいでになるのはご不自由でもあるし、非常にご損でございます」
吝「イヤ女房などというものはいけない、給金こそ取らないが、病気すれば医者に見せるとか、買い薬をするとかしなければならないし、こういう物が着たいとか、こういう物が買いたいとかいわれてみると世間の手前もあるから、全然買ってやらないというわけにもいかないし、あんな無駄《むだ》なものはない」
番「それは旦那さま、一を知って二をご存じないお言葉と存じます、なぜならば、手前どもでも小僧が台所をいたしております、もとより良くやっているというわけでもないから、まことに乱暴を働きますので、皿小鉢をこわす、野菜物などを有る上に買ったりなどして、前のを腐らしてしまう、そういうムダが出ます、そこへ行くと女てえものは、まことに細かいところへ気がつきますからそういうムダが出ません、丁寧だからめったに物をこわすようなことはなし、それに男ばかりだと、襦袢《じゅばん》一枚にしても表へ出して相当な仕立賃を取られなければならない、これがまことに高いもので、古くなると継ぐの綴じくるのということができませんから、丸めておいて屑屋《くずや》へ二束三文に売ってしまう、こんな物はなんの足しにもなりません、女が居るとそういうことはなく、また寒くなると行火《あんか》をお抱きになる、なかなか当節は炭団《たどん》も安くございません、その寒い時に行火代わりになる、仕事をするから、お針の代わりになる、小僧が台所をしているから残った物はみんな食べてしまうが、おかみさんならそれを取っておくからまことに得で、つまりお女中代わりになります。また戸じまりなどもよく気を付け、ちょっとしたこともなまじいな小僧一人前の代わりをするし、またあなたのお手助けにもなる、それに旦那さまがたまたま今夜帰らないなどとおっしゃって、お出かけになることがある、いずれお女郎買いにでもおいでなすって、多少のご散財になるのでございましょう、おかみさんができればその必要もないから、お女郎の代わりになります、八方十方よろしいことだらけでございますが、どうでしょうおかみさんをお持ちになっては」
吝「イヤおまえさんはそういうが、女郎などというものは後腹《あとばら》が病《や》めなくっていい、女房をもらうのはいいが子供ができる、産をするにはどんな倹約をしても、相当の費用がかかる、それが第一にムダだ、それも女の子でもできれば、せいぜいまずい物を食わして、年頃になったら女郎にでも売ってしまうからいいが、男の子ができてみなさい、相当なことを仕込まなければならないし、年頃になって、親の金を使い込みでもされた日にはたまったものではない」
番「けれども、世間にはいくらもおとっさんの身代《しんだい》を倍にしたなどということがあるじゃァございませんか」
吝「やっぱり息子などというものは山のようなもので、当たればよし、当たらなかったらしようがないからな」
番「身体が達者《たっしゃ》ならば、医者や買い薬をするようなことのない代わりには、子供ができます、また子供のできないような女なら、きっと身体が弱うございます、どうも困りましたな、けれどもこれはなんですな、旦那さまのお心持ち次第で寒い時なら格別、一所寝《ひとところね》をなさらなければ子供衆のできることはございません、なにしろご親戚でもご心配なすっておいでになるのでございますから、ともかくもお持ちになったほうがよろしゅうございましょう」
と番頭がいろいろ口説いたものでございますから、ようやく旦那も承知して、女房をもらうことになりました。いよいよお嫁さんが来ると、番頭がかげに呼んで、家の旦那はこういうお気性でございますから三度の食事などもかげでドッサリ食べておいて、旦那とご一緒に食べる時には、ようよう一膳か二膳、それも軽く食べておかなければいけませんと、いろいろ教えておきましたからおかみさんもスッカリその呼吸を呑み込んで、なるたけ旦那の前では一膳しか食べないようにしております。またそのおかみさんがまるまるとした女、一所寝をしては子供ができる憂いがあるというので、おかみさんを二階へ寝かして旦那は下に寝ている。そのうちだんだんと寒くなってまいりました。
吝「アア寒いな、ばかな寒さだ、こりゃァ寝られない、弱ったな、どうにもこうにも足が冷えて寝られない、今から火を熾《おこ》すのも大変だし、オヤッ、二階がミシリミシリというぞ、アアおかみさんもやっぱり寝られないとみえるな、こりゃァ損だ、明日から俺が二階へ寝よう、オヤッ、またミシリといったぞ、こうミシリミシリやられたのでは、なにしろ大きな女だからな、目方ばかりは軽くするわけにはいかない、アレまたミシリといった、これはいけないよ、いよいよ下へ寝かさなくっちゃァいけない、だが待てよ、番頭がおかみさんは行火の代わりになるといったな、これならどうせあるものだ、火を熾すには及ばない、至極便利だ、一ツ行ってみよう……ナァおまえまことに気の毒だが、寒くって寝られない、行火の代わりにそばへ入れて温めてもらいたい」
おかみさんは大喜び。
女「サアどうぞお入りを願います」
工合《ぐあい》よく温まりました。これで味を覚えたので、翌晩はもう宵の内からおかみさんを行火代わりというので出かける、まことに工合がよく温まる、寒い間毎晩毎晩温まりに行くうちに、女は受け身、いよいよお腹が大きくなりました。
吝「藤兵衛《とうべえ》さんちょっと来てください」
藤「ヘエなんぞご用でございますか」
吝「ほかじゃァないが、どうもこの二三日、胸さわぎがして、変な心持ちだと思ったら、おかみさんのお腹が大きくなりました」
藤「それはおめでたいことでございます」
吝「なにがおめでたいものか、じつはな、今まであれはご飯をようやく一膳か二膳しか食べなかったが、子供ができて、五月《いつつき》にもなると、やっぱり腹の中で、子供が食べるとみえる、だいぶお腹がへるといっては二杯三杯ぐらいずつ余計に食う、どうもこういう工合ではまことに困る」
藤「ヘエ」
吝「ところでおまえ気の毒だが、麻布の家へ行ってきておくれ」
藤「お実家へ行ってなんと申します」
吝「おかみさんが懐妊をして、もう五月になります、なにしろこっちは男ばかりで手がありませんからまことに行き届かなくって困ります、どうか産み落として肥立《ひだ》つまでのところをよろしくお世話を願いたいと言ってきてもらいたい」
藤「ヘエ」
吝「それで帳面をこしらえて、掛かりの入費《にゅうひ》は一々つけておいてくだされば、後でお払いをいたしますといっておくれ、そうしたら親子の間だ、まさかにいくらいくら掛かりましたといって取る気遣いはあるまい、ご苦労だがちょっと行ってきておくれ」
藤「かしこまりました……、行ってまいりました」
吝「ご苦労ご苦労どうしたえ」
藤「先方さまでもたいそうお喜びになりまして、それはけっこうだ、家は妹もいるし、女の手はたくさんあるから遠慮なくよこしてください、掛かりの費用なんてそんな物は要りませんから、決してご心配なくということでございます」
吝「アアそれはよかった」
というのですぐに実家へおかみさんを送り届けました。それから数カ月たちまして、
藤「エエ旦那さま」
吝「なんだい」
藤「ただ今麻布のお宅からお使いで、玉のような男の子さんがお生まれになりまして、ご両人ともご丈夫でございますということで」
吝「なんだい赤ン坊が生まれたって、オヤオヤそれは困ったね、男かい、いやだね」
藤「それは旦那さま、失礼ながらお心得ちがいでございましょう、これだけのご身上を一体どなたにお譲りになるお考えでございます、お世取りがなければ譲る者がないじゃァございませんか」
吝「誰にもやらない、私が汗を流して貯めた金だからみんな食ってしまう」
藤「ご冗談おっしゃっちゃァいけません、天下のご通用金を食べてしまうなんて、そんなもったいないことはできません、まずまずお世取りができたのでございますから、こんなめでたいことはございません、なにしろあなたはちょっと麻布へお顔を出さなければなりません」
吝「イヤ、それがな、ちょっと風邪をひいて熱があるから、うかがいかねると言っておまえ代理に行ってきておくれ」
藤「ヘエ、よろしゅうございます」
藤「ヘエ、行ってまいりました」
吝「アアご苦労だった、どうだったい」
藤「どうも真っ赤な赤さんで、ご丈夫でございますよ」
吝「オヤオヤ困ったな」
ふさいでいると、ちょうど七日目の朝、
藤「エエ旦那さま、ただ今麻布のお宅からお使者でございます」
吝「ウムウム子供が死んだのかい」
藤「イエどういたしまして、今日はちょうどお七夜《しちや》になりますから、ぜひおいでを願いたいということでございますが、いかがでございます」
吝「アアそうかい、ご馳走をするって、それじゃァ行きますとも、定吉《さだきち》や」
定「ヘイ麻布のおかみさんのところへお供をして行くのですか、あすこへ行くとお菓子をくださいます」
吝「余計なことをいうな、今日はお菓子ぐらいじゃァないぞ、赤のご飯に尾頭《おかしら》付きのお魚がたくさん出るぞ」
定「それはありがとう存じます」
吝「きさまは運のいい奴だ、支度をするんだ、正午《ひる》から出かけるから、それから切溜《きりだめ》を下ろしてなるたけ目立たないように、風呂敷に包んで持って行くんだ、それから提灯《ちょうちん》を出しておくれ、正午から出かけてゆけば、たいがい先方へ着く時分には日が暮れる、帰りには真っ暗になる、提灯を持って行くんだ、それから先方へ行ったら、俺ときさまと一緒にお膳が出るにちがいない、そうしたら二人の間にこの切溜を置くんだ、そのうちにみんな酒がまわってきて、陽気になったところでチョイチョイ人の膳の物を取って切溜の中へ入れるんだ、その代わり自分はお香の物でご飯を食べるんだぞ、切溜が一杯になったら家へしょってくれば当分家のお菜《かず》は間に合う」
定「ヘエ、なるほど」
吝「それからいよいよ帰る時に門口で、灯火をつけろ、提灯をつけろと俺が言い付けるから、そうしたらきさまが提灯を見て、泣きッ面をするんだ」
定「ヘイ、泣き面ならできますが、それからどうするんで」
吝「なにをしているんだといったら、きさまが大変なことをしました、蝋燭《ろうそく》を入れてくるのを忘れましたとこう言え」
定「ヘイ」
吝「ナニ、蝋燭を忘れてきたァ、このばか野郎、蝋燭がなくって提灯ばかりでどうする、といいながらポカリきさまの頭をなぐる」
定「アレッ、あなたが入れるなと言い付けておきながら、忘れてきたといって私を打つんですか」
吝「打つたって大したことはないよ、打つ真似をすればいいんだから、笠かなにかで打つ、そうしたらきさまが泣き出すんだ」
定「ヘエ」
吝「そうすると先方で蝋燭を忘れたくらいでそんなにお叱言《こごと》をおっしゃらないほうがよろしゅうございます、蝋燭なら手前どもにありますから、お持ちなさいといってくれる、この蝋燭というものは、二丁入れるのが法だ、蝋燭が途中で消えたり倒れたりすることがある、そういう時の掛け替えに一丁余計くれる」
定「ヘエなるほど」
吝「それではまことにすみませんがといって、もらって出かける、少し歩いたら消してしまうんだ、そうすれば二丁蝋燭が儲かる、すべてこういうふうにしなければ、身上はできないぞ、よく覚えておきなさい」
定「それではすぐに支度をして出かけますか」
吝「ウムすぐに出かけるのだ」
定「旦那これから日が暮れるまで歩いて行くんで、お腹がへりましょう、まだお昼をいただきません」
吝「俺だって食やァしない、その代わり先方へ行ったら詰まるだけ食うんだ、遠慮するとかえって失礼になる、その代わり明日の朝も食わさない」
定「オヤオヤそれじゃァ一時に三度ぶり食っておくのですね、犬みたようだ」
吝「余計なことをいうな、……ハイごめんください」
女「オヤ日本橋の旦那さま、いらっしゃいまし、サアどうぞこちらへ、どうぞおあがりください」
吝「イヤどうもなにかとお世話さまになります、疾《と》うにあがらなければならないのですが、なにやかやと取り込んでおりましてな、それに少し風邪をひきましてご無沙汰ばかり、今日《こんにち》はまたお使者を恐れ入りました、それに産の入用はご遠慮なくおっしゃってくださいまし」
主「イヤ、そんな水くさいことをおっしゃってはいけません、決してそんなご心配なく」
吝「さようでございますか、いろいろご迷惑をおかけして相すみませんが、ではお言葉に甘えましてそういうことに……」
主「サアどうぞこちらへ」
というので、奥へ通ると、もうお客が大勢来ております。お膳が出ると三度ぶり、いっぺんに食っておけというので小僧も一生懸命食べた、
吝「定吉、切溜はどうした」
定「一杯になりました」
吝「きさまはどうした」
定「ヘイ咽喉《のど》までいっぱいに詰め込みました」
吝「そうか、おじぎをしろ」
定「できません、下を向くと口から出ます」
吝「みなさま、まことに相すみませんが、なにぶんにも遠方でございますから、これで中座をいたします」
主「マアよろしいではございませんか、そうでございますか、どうもおかまい申しませんで」
吝「イエ、どういたしまして、とんだご馳走に相なりまして、それでは肥立《ひだ》つまでなにぶんよろしく」
主「それは決してご心配なく、たしかにお預かり申します、ご機嫌よう」
吝「もうお見送りくださいませんでも……それではかえって恐れ入ります、小僧や提灯をつけろ」
定「ヘイ」
吝「提灯をつけろ」
定「ヘイ」
吝「変な顔をしてどうしたんだ」
定「ヘエ旦那、大変なことをしちまいました」
吝「なんだ提灯をのぞいて大変なことというのは、アア蝋燭を忘れてきたな」
定「そうじゃないんで、忘れて二丁入れてきました」
[解説]しわい屋|吝右衛門《けちえもん》の伝記で、「二丁蝋燭」とつぎの「位牌屋」は続きものになっている。冒頭に入れた四ツの小噺は、気分を出すためのマクラである。
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位牌屋《いはいや》 しわい屋〔下〕
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番頭「ヘエ旦那さま、おめでとう存じます」
主「オヤ番頭どんかい、なにがめでたいんだ」
番「ヘエ、このたびは令息《おぼっ》ちゃんのお誕生、じつにこのくらいおめでたいことはございません、子宝と申すくらい」
主「イヤそれをただめでたいといってくれては困る、藁《わら》の上から三貫《さんがん》という昔のたとえ、今はなかなかそんなことじゃァ足らん、人の憂いを好むてえのはおまえ良くない」
番「憂いということはございません、めでたくお宮参りも相済みまして、今日はご馳走が出るといって、みんな喜んでおります」
主「ご馳走なんって贅沢をいうもんじゃァない、もっとも子宝とおまえにいわれてみれば、まんざらめでたくないこともない、この子供が成長をしたらまた金儲けをしてくれるだろう、損をして得《とく》を取れだからなんとかしよう……、マアそっちへ行っていなさい」
八百屋「つまみ菜つまみ菜」
主「オイ八百屋さん」
八「ヘエ」
主「つまみ菜を買うよ」
八「ヘエありがとう存じます」
主「私どもは家内多《かないおお》だから、少しじゃァいけない。担いでいるだけ買うが、よッぽどあるかい」
八「ヘエずいぶんございます」
主「みんなでいくらだい」
八「五貫五百でございます」
主「五貫五百……みんな買ってやるが、上ッかわへ良いやつを載せて、中へ枯ッ葉なんぞがありゃァしないか」
八「そんないかさま物じゃァございません」
主「そうでない、品物は見ないといかんから明けてみなさい」
八「よろしゅうございます」
主「オイ長松《ちょうまつ》や、筵《むしろ》を持ってきな、そこに新しい筵があったろう」
長「ヘエ」
主「オオそれそれ……サア八百屋さん明けてお見せ」
八「ヘエ」
主「なるほど出して見ると、大変にあるな、こりゃァなかなかある、みんなで五貫五百かい」
八「元値でげす、今ここで商いをしちまえばモーひとっ担《かつ》ぎ、多町《たちょう》へ引っ返せますから、それで五貫五百にお負け申すんで」
主「けれども少し負けておきなさい」
八「別段お掛け値のないところですが……」
主「そういわないで、五百ばかりに負からねえかな」
八「五百ばかり……五貫五百の内を、五百引くんですか」
主「ナニ五貫のほうを負けて五百で売るんだ」
八「チェッ……ひやかしちゃァいけません、こんな者をひやかしたって仕方がねえじゃァありませんか、道楽に稼業《しょうばい》をしてるんじゃァねえぜ、五百で買えりゃァ、こっちで買わァ、ばかッ、なにをいってやがるんだ」
主「そう腹を立っちゃァいけない、銭はこっちのもの、品物はそっちのもんだ、売れなければそれまでだ、なにも腹を立つところはない、買おうという気があるから呼んだんだ」
八「べらぼうめえ買ってくれなくったってもこっちァ困らねえや……、つまみ菜や……」
主「ハハハ、腹を立っちゃァ損だ、定吉《さだきち》味噌|漉《こ》しを持ってこい……、そのこぼれているつまみ菜を拾え、そっちにもまだある、コレ見ろ、味噌漉しに一杯ある、なんでも腹を立っちゃァ損だ、それがお汁の実だが一度に入れるんじゃァないぞ、二三度のお汁の実になるから」
定「驚きましたなァ」
主「驚くことがあるものか、このくらいにしなくっちゃァいけない……、オイオイ芋屋《いもや》さん、芋を買ってやろう、みんなそっちへ行ってろ……、オイ芋屋さん」
芋「ヘエお寒うございます」
主「イヤこっちへおいで、日がよく当たるから、こっちへお掛け、遠慮することはない、こっちへ掛けなさい、どうもだいぶ寒いな」
芋「お寒うございます」
主「こっちへお掛け、芋を買うよ」
芋「ヘエ」
主「芋百貫目はいくらだい」
芋「エエ百貫目でも一貫目でも、目方のもんで、そうちがいもございませんが」
主「けれどもたくさんになると、その割で安かろう」
芋「私は百貫目なんて担いじゃァいませんがね、さよう、一貫目で十文宛てお安くしましょう」
主「なるほど、その割合でお芋を五文おくれな」
芋「五文あげますか」
主「アア五文売ってくれ」
芋「ヘエ、五文なら五文と最初からいっておくんなさりゃァいいんだ、ヘエ一本お負け申します」
主「良い芋だな、おまえのは芋の性質がよいようだ……、芋屋さん今小僧に買いにやったがまだ帰ってこないから、ちょっと煙草を貸しておくれな、煙草はないと余計|喫《の》みたい」
芋「サアおあがんなさい、悪い煙草で」
主「悪くってもけっこうだ……、イヤ悪いどころじゃァない、なかなかこりゃァ良い煙草だ、小買いか玉かい」
芋「小買いです」
主「小買いは損だ、玉でお買い、よい煙草だ商人《あきんど》がこんな煙草を喫むようではいけない、香りがあってよい煙草だ、お家《うち》はどこだい」
芋「神田の竪大工町《たてだいくちょう》で」
主「フムー、よいところに住まいなさる、家内多かい」
芋「女房と子供が一人ございます」
主「店賃《たなちん》とも四人暮らしだね、一人の稼ぎじゃァお骨が折れよう、買い出しはどこでなさる」
芋「多町でいたします」
主「マア近くってよい、弁当なぞは持って出なさるか、それとも家へ帰って……」
芋「めんどくさいから出先出先の飯屋で食うてえようなことにいたします」
主「それはいけないよ、大変な損だ、梅干しの一つも入れて、弁当を持って出なさい、都合の悪いようなこともあろうが、こっちのほうへ来た時は私の台所へ来なさい、茶も沸かしてあれば、沢庵《たくあん》ぐらいはいつでも出ている、そんなものはただ進ぜるから、家の台所へ来て、ご飯をおあがり」
芋「ご親切にありがとう存じます」
主「そのおまえの担いできた、籠の下から赤くヒョイと飛び出しているのはやっぱり芋かい」
芋「ヘエ、これでございますか」
主「オオ芋だ、よい芋だな、大した芋だな、なにかいこんなよい芋もやっぱり一つ俵から出るのかね」
芋「さようで」
主「妙なもんだな、昔琉球から薩摩さまへ献上した芋みたようで、アアいい芋だ、第一真っ赤で色がいい、食べるのはもったいない、置物になるよ、芋の置物てえのもないが、あんまりいい芋だ、これを負けておきな」
芋「ヘエようございます、お負け申しましょう一本くらいようございます」
主「負けてくれるかえ、お気の毒だね、商人は損をして得を取れということがある、おまえさんは福相だ、行く行くはよい芋問屋になる……、時に芋屋さん、おまえはお宅はどこたっけね」
芋「ヘエ……今申しましたが、神田の竪大工町で」
主「家内はお幾人だい」
芋「ヘエ……なんで、女房と子供が一人ございます」
主「オオ店賃共四人暮らしだね、一人の稼ぎではお骨が折れるだろう。買い出しはどこでなさる」
芋「多町でございます」
主「ずいぶん重たかろうね」
芋「ヘエ、朝なんぞは、天秤棒が折れるようで」
主「そうだろう、弁当なぞはどこで使いなさる、持って出なさるか」
芋「イエめんどくそうございますから、出先で飯屋へ飛び込んでやっつけます」
主「それは損だ、一文から争う商人が飯屋に儲けられちゃァつまらない、梅干しの一ツも入れて、持って出なさい、家の台所へ来て弁当をお使い、茶も沸いてるし、沢庵ぐらいはご馳走するから家へ来て使いなさい」
芋「ヘエ、ありがとう存じます」
主「決して遠慮することはない」
芋「ヘエ、どうもありがとう存じます」
主「ついてはこっちの籠に白い物がちょっと見えるなァ、あれもやっぱり芋かえ」
芋「これでございますか」
主「アアよい形の芋だな、昔琉球から薩摩さまへ献上をした芋は、こういう芋だろう、芋屋さんこれを一ツ負けておきな」
芋「ご冗談ばかり……、そう負けてしまった日にゃァ、儲けはさておき損が行きます」
主「そんなことをいうもんじゃァない、損をして得を取れということがある」
芋「マアようございます、お負け申しましょう」
主「こりゃァありがたい、おまえは福相だ、行く行くは芋問屋になるよ」
芋「ヘエ」
主「時に芋問屋さんおまえはどこだ」
芋「わからねえなァ、さっきから何度聞くんだい、どこだというから神田の竪大工町だといやァ、家内多かと聞くから、女房に子供が一人ある店賃とも四人暮らし、お骨が折れるだろう、買い出しはどこだというから多町だといやァ、ずいぶん重たかろう、ヘエ朝なんぞは天秤の折れるようなことがあります、弁当はどこで使う、出先で食べる、そりゃァ損だから家から持って出ろ、梅干しの一ツも入れて、家へおいで、茶も沸いてりゃァ沢庵ぐらいはご馳走をする……なにをいやがるんだ、沢庵なんぞは、どこへ行ったってあらァ、その籠から出ている赤い物はなんだというから、出して見せりゃァよい芋だ、薩摩さまへ琉球から献上の芋だろう、置物によい一ツ負けておき……、なにをいってやがるんだ、こんなところにいようもんなら、品物をただ捲き上げられちまう……、オオ煙草入れをカラにしてしまやァがった、行こう行こう、とんだ目にあった、なにをいってやがるんだ」
主「マアサ商人という者は、そう怒るようなことじゃァいかねえ、気を練って気を練って……」
芋「なにをぬかしやァがるんだ、芋やァさつま芋……」
主「オオ怒って行ってしまやァがった、定吉や」
定「ヘエ」
主「横町の仏師屋《ぶっしや》まで行ってきな」
定「どこへまいりますんで」
主「横町の仏師屋に行くんだ」
定「仏師屋というのは」
主「わからない奴だな、仏師屋を知らねえ奴があるかい」
定「でも存じませんので」
主「横町に位牌《いはい》をこしらえる家があるだろう」
定「ヘエ、アノ位牌屋で……」
主「位牌屋てえのがあるもんか、あれは仏師屋だ」
定「どこでしたっけなァ」
主「この横町をズーッと行ってみろ右ッかわに豆腐屋がある」
定「ヘエ、から屋があります」
主「から屋じゃァない、豆腐屋だ」
定「けれども私はあそこへいつもオカラばかり買いに行きますから、オカラ屋だと思っていますよ」
主「ばかにするな、アノ豆腐屋を右に曲がると位牌の並んでいる家がある、そこへ行ってな、過日あつらえて、もう銭が払ってあるんだから、位牌を取ってこい」
定「ヘエかしこまりました」
主「早く行ってこい行ってこい」
定「履き物がございません」
主「どうも保《も》ちざっぺえが悪くっていかねえな、おととい買ってやった冷飯草履《ひやめしぞうり》はどうしたんだ」
定「ありゃァモー摺り切れてしまって、いろいろ直してみましたが、どうしても履けません」
主「どうも今の小僧は贅沢で困る、なんでも跣足《はだし》で歩いて、砂利のほうが痛いようでなくっちゃァいかねえ、そこの揚げ板を揚げてみろ、馬の沓《くつ》が二ツ揃ってるから履いて行け」
定「馬の沓は履けません」
主「膝へ縛り付けて這って行くんだ」
定「じゃァ早くは行かれません」
主「そんなら跣足で行って、向こうによい下駄があったら履いてこい、そんなことをちっと今から心がけるようでなけりゃァ、一人前の商人にはなれねえぞ」
定「それじゃァ泥棒です」
主「泥棒でもかまわねえ、人間少しはその了見がなけりゃァいかねえ」
定「こりゃァ驚いたなァ」
仕方がないから、定吉は跣足で出かけました。
定「こんにちは」
亭主「オヤ小僧さん」
定「このあいだ家の旦那があつらえた位牌はできていますか」
亭「アアできてるよ、ソラごらん」
定「オオいい位牌だ」
亭「いいか悪いかわかりゃァしめえ」
定「時に位牌屋さん」
亭「なんだい、家は位牌屋てえ商売じゃァねえ」
定「お気の毒だが、煙草を一服貸しておくんな、今小僧に買いにやったんだがね」
亭「てめえが小僧じゃァねえか」
定「煙草は喫むやつがないと、余計喫みたくって仕方のないもんだ」
亭「喫みねえ、いくらもある」
定「こりゃァなにかえ小買いかえ」
亭「玉で買ってあるんだよ」
定「こんなよい煙草を喫んじゃァもったいない、時に位牌屋さん、おまえお宅はどこだい」
亭「宅はどこだってここだ」
定「エエ」
亭「ここが家だよ」
定「神田の竪大工町だろう」
亭「ここが家だよ」
定「お家内《うち》は大勢かい」
亭「おかしなことをいってやがるなァ、大勢かって、職人もいりゃァ小僧もいる、女房もあれば子供もいらァ」
定「そうかい、店賃ともゴタゴタ暮らしでお骨が折れるだろう、買い出しはどこだい」
亭「なにを」
定「買い出しは……」
亭「買い出しなぞはしねえよ」
定「多町だろう、朝なんぞは天秤がしなうだろう」
亭「おかしなことをいやァがるな」
定「弁当はどこでお使いだい」
亭「弁当なぞは使やァしねえ」
定「飯屋なぞで食べちゃァ損だよ、為にならない、梅干しの一ツも入れて、私どもへおいで、茶も沸いてりゃァ、沢庵ぐらいはご馳走するから」
亭「いちいち飯のたびにおまえンところまで弁当をさげて行かれるものか」
定「そりゃァ損だ、時に位牌屋さん」
亭「なんだようるさいなァこの小僧は、煙草ばかりふかしていやがる、オイオイ袂《たもと》へ入れていっちゃァいけねえ」
定「黙っておいで、おまえの後ろの籠のところにちょっと見えるのはなんだい」
亭「籠なんぞはありゃァしねえ」
定「その棚のところにあるのは」
亭「いくらも並んでる、これか」
定「その隣の……」
亭「これか」
定「アアそりゃァなんだい」
亭「やッぱり位牌だ」
定「いい位牌だ、昔琉球から薩摩さまに献上した位牌だ」
亭「位牌を献上する奴があるかい」
定「こりゃァよいねえ、床の間の置物になる、形がよい、これを位牌屋さん、一ツお負けな」
亭「ばかだなァ持ってっちゃァいけないよ、オイオイ……、エエ、ナニ彫り損ないだ、要らねえのか、そうか、……それじゃァやらァ」
定「商人は損をして得を取れ、おまえは福相だ行く行くは位牌問屋になる、さようならありがとう、ヘエ行ってまいりました」
主「コレコレどうした、下駄を履いてきたか」
定「ヘエ」
主「アア片ちんばに下駄を履いてきやがった」
定「アッ泡ァ食ったもんだから、こりゃァ驚いたなァ、取り替えてきましょうか」
主「ばかァいえ、今度行こうもんなら、ぶん殴られらァ、なにを袂《たもと》をモジモジしている」
定「ヘエ煙草を袂へ入れてきたんで」
主「感心感心、そのくらいの了簡でなくっちゃァいけない、位牌はできていたか」
定「できていました」
主「オオなるほど、出来は悪くっても、安いほうがよいといったが、なかなかよい出来だ、こりゃァなんだい」
定「お負けです」
主「位牌のお負けはおかしいな」
定「おだててやって、持ってきたんで、形がよいから床の間の置物にするッて」
主「ばか野郎、あきれ返っちまう、こんな小さい位牌を、きさまなんにする了簡だ、同じ負けてもらうんなら、もッと大きいのにすればいいんだ」
定「ナニ、今度生まれた令息《おぼっ》ちゃんのになさいまし」
[解説]しわい屋|吝兵衛《けちべえ》の伝記で、「二丁蝋燭」と「位牌屋」は続きものになっている。
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むかし浅草の駒形《こまがた》に半田屋長兵衛《はんだやちょうべえ》という茶器の鑑定家《めきき》がございました。そのころ諸侯方《しょこうがた》へ召されて長兵衛がこのくらいの価値があるとお話をするとその代物を見ずに、お買い上げになったというくらい、この人は大人《たいじん》でございますから、たいがいなところから呼びに来てもなかなかまいりません。家《うち》には変な奉公人を置きまして、ばかな者を愛して喜んでいるという、ごく無欲な人でございました。
女房「あなたお手紙がまいりました」
長「どこから」
女「万屋五左衛門《よろずやござえもん》さんから」
長「また迎《むか》いか。どうもたびたび招待状を付けられて困るなァ。先方《むこう》はこのごろ茶を始めたてえが、金満家ゆえ、ごくわがままな茶で、いろいろ道具を飾りちらかしてあるのを、仲間が行っちゃァゴマをするてえことを聞いたが、俺はそういうことをするのがきらいだから、ことわってくんなさい」
女「だってあなた、たびたびのことですから、一度行ってらっしゃいな。あんまりもったいを付けるように思われるといけませんよ」
長「茶もなにもやったことのない奴が変にひねったことを言ったり、にせものを飾っておくのを見て、この器は贋《がん》でございますともいえないから、アアーけっこうなお道具でございますと褒《ほ》めなければならない、それがいやだから俺の代わりにあの弥吉《やきち》のばか野郎をやって、一度でこりごりするようにしてやろう」
女「およし遊ばせよ。あなたはあれをりこうと思し召していらっしゃいますが、今朝も合羽屋の乳婆《ばあや》さんが店でお坊ちゃんを遊ばしているそばで、弥吉が自分のかかとの皮をむいて食べさせたり、お気の毒な子供衆《こどもし》だもんですからなんにも知らずムシャムシャ食べていましたが、ほんとうにきたないことをするじゃァありませんか。それにこの頃ではなまいきになって大人に腹を立たせますよ」
長「イヤばかとはさみは使いようだというが、おまえはきらいだけれども俺は好きだ……弥吉はどこへ行った弥吉」
弥「エエ――」
長「フフフ返事がおもしろいな……サアこっちへ来い」
弥「エエ――」
長「なんだ、大きな図体《ずうたい》をして、立ってる奴があるか座んなよ」
弥「用があるなら、すぐに行ってくるにゃァ立ってるほうが早《はえ》えや」
長「ばかだな。仮にも主人が呼んだら、なにかご用でございますかと手を支えて言うもんだ。なんだな大きな体躯《なり》をして、きたねえ掌《てのひら》で垢《あか》をグルグルもんで出せばどのくらいの手柄になる……それにこの頃はなまいきになって、だいぶ大人をからかうそうだが、よくないぞ。源蔵《げんぞう》みたような堅い人を怒らせるじゃァねえぞ」
弥「ウッフーン、なにねあの人は疝気《せんき》が起こっていけないってえから、私がアノそれは薬を飲んだって無益《むだ》でございます、仰向けに寝て、脇差しの小柄《こづか》を腹の上に載っけてお置きなさいといったんで」
長「フーン、まじないかい」
弥「ナーニ疝気の小柄ッ腹〔千住の小塚原。有名な刑場があった〕といったら怒りやァがった」
長「ばかなことを言うな、てめえは江戸ッ子じゃァねえぞ、十一の時|三州西尾《さんしゅうにしお》の在《ざい》から、親父が手をひいて家へ連れてきて、どうぞ置いてくれと頼まれた時、オレが鼠半切れへ狂歌を書いてやったっけ、エーなんとかいったよ……そうだ≪西尾から東を差して来た〔北〕小僧|皆身《みなみ》〔南〕のために年季奉公≫と東西南北で書いてやるとおまえの親父がたいそう喜んで、これを国へ持っていって、掛け物にして朝夕床にかけておきます、これに古色《こしょく》が付き、時代が付きますに従って、伜《せがれ》も成人いたしましょう、そればかり楽しみでございます、なにぶんお世話を願いますといって持って帰った。親はそれほどに思っているのに、親の心子知らずというのはおまえのことだ。大きな体をしていながら、道具はちっとも覚えやしねえ、親の恩を忘れちゃァすまんぞ」
弥「アハハハ親玉ァ」
長「なんだ人が意見をいってるのに褒める奴があるか、困るなァ。もう十八だぜ、てめえも」
弥「そうそう来年は十九だ」
長「そんなことはいわなくってもいい。いま万屋《よろずや》から手紙が来たんだ、先方でオレの顔を知らないのを幸い、おまえが俺のつもりで代わりに行け」
弥「ヘエ代わりてえのは……」
長「俺の代わりに行くんだ」
弥「ハハハハそれじゃァ私がこの身上《しんしょう》をもらうんだね」
女「ごらんなさい、ばかでも欲張っていますね」
長「黙っていな、俺はばかが好きだ……かえってそのまま綿服《めんぷく》で行け。むこうへ行くと、寄り付きへ通すか、それとも広間へ通すか知らないが、鍋島《なべしま》か唐物《からもの》が敷いてあるだろう。囲いへ通る、草履《ぞうり》が出ていよう、路地は打ち水かなにかしてあろう、むこうも茶人だから、来客が他になければおまえ一人だから広間へ通すかもしれないが、おまえは辞儀《じぎ》が下手でまことに困る、両手をチグハグについてはいけないよ。手の先と頭の先をそろえ、胴を詰めて、しとやかに辞儀をして、かねがねお招きに預かりました半田屋の長兵衛と申すいたって未熟者、この後共にお見知りおかれてご懇意に願いますというと、まずこちらへと鑑定《めきき》をしてもらう心算《つもり》で、自慢の掛け物は松華堂《しょうかどう》の醋吸三聖《すすいさんせい》を見せるだろう、このあいだ呼ばれて行った朋友《ともだち》からちょっと聞いたがこれはいい掛け物だそうだ。箱書きは小堀権十郎《こぼりごんじゅうろう》で、仕立てがたしか良かったよ、天地が唐物緞子《からものどんす》、中が白茶地の古錦襴《こきんらん》で」
弥「ヘエ……なにを」
長「松華堂の三聖醋吸の図で、風袋《ふうたい》一文字が紫印金《むらさきいんきん》だ、よく見て覚えておけ」
弥「ヘエー、紫色のいんきんだえ、あれは痒《かゆ》くっていけねえもんだ」
長「なんだ、そんな尾籠《びろう》なことをいっちゃァなりませんよ、けっこうなお軸でございますというんだ。出して見せるか掛けて見せるか知らんけれども、掛けてあったらまず辞儀をして、一応拝見をしてまことにどうもお仕立てと申し、落ち着きのある、さすがに松華堂はまた格別でございます、アアけっこうなお品で、かようなお道具を拝見いたすのは、私どもの眼の修行に相なりますといって、身を卑下《ひげ》するんだ」
弥「鬚《ひげ》を剃《す》るんなら角の髪結床《かみいどこ》へ行きゃァすぐだ」
長「鬚を剃るんではない、吾身《わがみ》をいやしめるんだ。そうすると先方では惚れ込んだと思うから、お引取り価格をとくる、その時かいかぶりをしないように、その掛け物へ瑕《きず》を付けるんだ」
弥「ヘエそれは造作もねえ、やぶくか」
長「やぶくのではない、知れないように瑕を付けるのが道具商《どうぐや》の秘事《ひじ》だよ」
弥「ウッフーン、ひじは道具商より畳職《たたみや》のほうが強いや」
長「黙って人のいうことを聞け、醋吸《すすい》の三聖はけっこうでございます、なれども、ちとご祝儀の席には向きませんかと存じます。孔子に老子釈迦は仏だからお祝いの席には掛けられませんと、買ってくれといわれないように瑕《きず》を見出して、惜しいことには|にゅう《ヽヽヽ》がありますといって|にゅう《ヽヽヽ》を見出さなくっちゃあいかねえ」
弥「ヘエー……|にゅう《ヽヽヽ》てえのは坊さんかい、ダッテ、坊さんのことを、ズクニュウというじゃないか、ウフフフフ」
長「そうじゃァねえ、軸に|にゅう《ヽヽヽ》がありますというのだ」
弥「ヘエー」
長「|にゅう《ヽヽヽ》を知らないか。道具屋の飯を食っていて|にゅう《ヽヽヽ》を知らない奴もねえもんだ」
弥「アハ……なんのことだね」
長「瑕ができたといっては、あまり素人じみるから、瑕を|にゅう《ヽヽヽ》というのが道具屋の通言《とおりことば》だ」
弥「ヘエー初めて聞いた」
長「どうかするとお客さまに腰の物を出されるかも知れねえ。そうしたら、私は小道具のほうとはちがいますゆえ、刀剣の類は流《りゅう》ちがいでございますから、心得ませんが拝見だけ仰せ付けられてくださいましといって、まず頭《かしら》から先へ眼を付け、それから縁《ふち》から目貫《めぬき》を見てどうもまことにお差しごろで、さだめしお中身はけっこうなことでございましょう、当節かような物はまことに少なくなりましたが、といって、袱紗《ふくさ》を柄《つか》へ巻いて抜くんだよ。先方へ刃を向けないように、こっちへ刃を向けて、帽子先まで出たところでチョンと鞘《さや》へ納め、まことにけっこうなお品でございますと褒めながら、瑕を付けるんだ。惜しいことには揚物《あげもの》でございますって」
弥「ヘエてんぷらかい」
長「わからないな、長い刀を揚げて短くしたのを揚身《あげみ》という」
弥「やっぱり穴子なぞは長いのを二つに切りますよ」
長「食い意地が張っているな、鑑定《めきき》がすむと、これからお茶を立てるんで、お広間へ釜がかけてある。おまえにも二三度教えたこともあったが、いつも飲むようにしては茶碗なぞはわかりませんよ。なんでございますか、まことにけっこうなお茶碗でといちいち聞いて、先方にいわせなければなりませんよ。それからポッポと煙《けむ》の出るようなお口取りが出るよ、栗まんじゅうか蕎麦まんじゅうが出るだろう」
弥「ヘエー何人前出るえ」
長「何人前なんて葬式《とむらい》じゃァあるまいし、菓子器へ乗せて一つだよ」
弥「たった一つかァ」
長「がつがつ食うと腹を見られるぞ」
弥「じゃァ腹掛けを掛けてゆきましょう」
長「フフフフその三|留縞《とめじま》の布子《ぬのこ》にそれでいい、袴《はかま》は白棧《しろさん》の五本手縞か、変な姿だハハハハ。のう、足袋だけ新しいのを履かせてやれ」
弥「じゃァ行ってまいります」
と火の付きそうな乱髪で、年寄りだか若い者だかわかりません。
長「ずいぶん茶のある男だな……草履と下駄を片ちんばに履いていく奴があるか。犬がくわえて行った、ほかにないか。それではそれで行け、醋吸の三聖、孔子に老子に釈迦だよ、天地が唐物緞子、中が白茶地、古錦欄、風袋一文字が紫印金だよ。瑕のことが|にゅう《ヽヽヽ》だ、忘れちゃァいけないよ」
弥「ヘエかしこまりました」
というのでようよう出かけましたが、愚かしい者ゆえ、万屋五左衛門の表口から入ればよいのに裏口から飛び込んで二重の建仁寺垣《けんにんじがき》をはいり、庭伝いにまいりますと、萱門《かやもん》があって締めてあるのを無理に押したから閂《かんぬき》が抜けて扉が開くはずみに中へ転がり込み、泥だらけになって、青苔《あおごけ》や下草を踏みあらし、すべって転んで石灯籠を押し倒し、松ヶ枝を折るというさわぎ。さきほどから万屋の主人は四畳の囲いへはいり伽羅《きゃら》を焚いて香をかいでおりました。弥吉はほうぼうのぞいたが誰もいませんから、フト囲いへ眼を付けて、
弥「この中に人がいるだろう」
と、けしからん奴で指の先へ唾《つば》を付け、ポツリと障子へ穴を開けて、のぞいてみて、
弥「イヤーなにか食っていやァがる」
主「コレ誰か来たよ……誰だそこへ穴を開けたのは。けしからん人だな、貼りたての障子へポツリ穴を開けて乱暴な真似をする。誰だなのぞいちゃァいかん、誰だ」
弥「ハハッなにか怒ってやァがる。エッヘヘヘヘごめんなさい」
主「これは驚いた……誰か来たよ、変な人が来たが……そこは入るところじゃァありません、ズカズカ入ってきちゃァいけません」
弥「門をやぶって入った」
主「オウオウ乱暴|狼藉《ろうぜき》で、飛び石なぞは犬の糞だらけにして、青苔をさんざんに踏みあらし、せっかくいい塩梅《あんばい》に苔むした石灯籠を倒し、松ヶ枝を折っちまい、乱暴だね、どちらからおいでなすった」
弥「アハハハハッ……驚いちまったな。エーとかねがねお招きになりました半田屋の長兵衛で」
主「ヘエー、これは驚き入った、さようとは心得ず、はなはだご無礼の段々、何ともどうもこれは恐縮千万……どうぞこれへこれへ、すみやかにお通りを願います。どうぞこれへこれへ」
弥「ハハハハせまいところに入ってるな……俺ァおまえにまじないを教えてやろうか」
主「ハハハハご冗談ばかり……ヘエなるほど……エエかねがね天下有名のお方で、大人《たいじん》でいらっしゃるということは存じておりましたが、今日《こんにち》は万屋の家へ初めて行くのだからというので、故意《わざ》と裏門からお入りになり、萱門を押し破ってさんざんに下草をお荒しになりましたところのご胆力《たんりょく》どうもまことに恐れ入りましたことで、今日《こんにち》のおいではなんともどうもじつにありがたいことで、大いに身の誉れに相成ります。どうぞすみやかにこっちへこっちへ」
弥「おまえに淋病が起こってもすぐに治るまじないを教えてやろう、縄を持ってきな、すぐに治らァ」
主「ハテナ……ヘエー」
弥「淋病〔尋常〕に縄にかかれというのだ」
主「エッヘヘヘヘご冗談ばかり、おからかいは恐れ入ります。エエ初めまして手前は当家の主人五左衛門と申す、いたって無骨者《ぶこつもの》で、どうか一度拝顔を得たく心得おりましたが、なかなか大人《たいじん》は知らんところへご来臨のないことは存じておりましたが、一度にても先生のおいでがないと、朋友の前もじつに外聞悪く思いますところから、ご無礼をかえりみず、再度書面を差し上げましたところお断りのみにて今日もおいではあるまいと存じましたが、図らざるところのご尊来、朋友の手前外聞かたがたまことにありがたいことで、恐れ入ります……どうもお扮装《なり》の工合《ぐあい》お袴の穿《は》きようから、さらにお飾りなさらんところといい、お履き物がどうもふしぎで、我々が紗綾《さや》縮緬《ちりめん》羽二重《はぶたえ》を着ますのは心恥ずかしいことで、じつに恐れ入ります。どうぞこちらへこちらへ」
弥「おまえさんのところから頼みがあったので見にきた」
主「それはまことに恐れ入ります」
弥「手をそろえてお辞儀をするんだが、どうだいこのくらいでちょうど、そろっているかいねえか見てくれ」
主「ヘヘヘヘご冗談ばかり」
弥「揚げ物がわかるか、揚げ物てえと素人はてんぷらだと思うだろうが、長《なげ》えのをようよう詰めたのを揚げ物てえのだ、それから早く掛け物を出して見せなよ、やぶきゃァしねえからお見せなせえ、|いんさんだむじ《ヽヽヽヽヽヽヽ》のくッついてる箱は、河原崎権十郎《かわはらざきごんじゅうろう》の書いたてえ……エエ、すべって転んだので忘れちまった、醋吸《すすい》の三聖、格子に障子に……すだれ、アハハハオイどうした、しっかりしねえ」
主人五左衛門は驚きまして、太鼓張りの襖《ふすま》を開けて水屋のほうへ飛び出してしまいました。
弥「オイ……アハハハあっちへ逃げてゆきやァがった、ばかな奴だなァ……先刻《さっき》モグモグ食っていた栗まんじゅうはどうしたろう。ウンここに煙《けむ》の出てるまんじゅうがある、食いかけて残してゆきやァがったな……」
と香炉を手に取り上げ銀のさじで火の付いた香を口に入れ、
弥「熱ッ……」
主「乱暴な人だ、火を食っている……モシあなた、口の中に瑕《きず》ができましたろう」
弥「イーエ|にゅう《ヽヽヽ》ができました」
[解説]三遊亭円朝の作、茶の湯に凝っていた円朝が、いろいろと通をならべた噺で、茶道に心得のある人にはけっこう面白かろうが、一般向けのする噺かどうか。
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魔風《まかぜ》
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○「誰だ、そこでのぞいてるのは」
与「在宅《うち》か」
○「与太だな。人の家をのぞきやァがって、在宅かとはなんだ。なにか用があるのか」
与「ウーン、遊びにきたんだ」
○「遊びにきた。マアこっちへ入れ」
与「ごめんよ」
○「ごめんよじゃァない。そんなきたない足をして上がってきちゃァいけない。そこにある雑巾で足を拭いて上がれ……。コレ、頬かぶりをして人の家へ上がる奴があるか、ばか野郎。しようのない奴だ」
与「それだって舞い風で、目へホコリが入るんだもの」
○「おもてはともかくだ、人の家へ入ってからかぶっている奴があるものか。第一舞い風とはなんだ」
与「人が舞い風っていうじゃァないか、ホコリが立ってとても歩けねえ」
○「ばかッ、舞い風って奴があるか。あれはな、旋風《つむじかぜ》が吹いてホコリが立つ、というのは魔が通るんだ。魔が通る時に吹くから魔風というんだ」
与「へーそうかい。俺ァ風がクルクルッと舞うから舞い風かと思った」
○「そんなことをいうから、人に笑われるんだ。おまえのことをみんなばかだばかだといってる。ほんとうにきさまぐらい物を知らない奴はないな。この間だってそうだ。浅草の仲見世で会った時の態《ざま》はなんだ。薙刀草履《なぎなたぞうり》ってのは聞いてるが、てめえのは半分なくなってる。それを履きやァがって、兵児帯《へこおび》をダラリとぶら下げて引きずって歩いている。前はだらしなくおッぴろげて、褌《ふんどし》を出して、そのきたない手拭いで頬かぶりをして、オイオイ、オイオイって呼びながら追っかけてきやがった。きまりが悪いじゃァないか、なんだかおめえに俺が借りでもあるようで、困っちまった」
与「それだって知ってるから声をかけたんだ」
○「いくら知ってたって、ちっとは遠慮をするもんだ。第一あの長い鮨《すし》を丸ッかじりにして、みっともないじゃァないか。それはとにかくきさまの言うことはみんなちがってるぞ」
与「そうかね」
○「そうかねじゃァない、みんなちがってる」
与「なにがちがってる」
○「なにがってこのあいだ永代橋《えいたいばし》を通った時は、おそろしい立派な|鉄きう《ヽヽヽ》だといってな。ありゃァ鉄きうじゃァねえ、鉄橋というんだ」
与「ヘエー鉄橋というのかい」
○「奥山へ行って|軽はだ《ヽヽヽ》を見てきたといったが、|軽はだ《ヽヽヽ》なんてものはない」
与「それじゃァ軽べたかい」
○「なんだ軽べたなんて。そんな物があるものか、軽業《かるわざ》というんだ」
与「軽業かい」
○「高いところへあがって軽い業をするから軽業だ」
与「アアそうか」
○「そうかじゃァない。みんなきさまの言うことはちがってるから、気をつけて直せ。これから往来で声をかけるなよ」
与「ウン。あの高いところでするのはなんだっけね」
○「高いところで軽い業をするから軽業だ」
与「それから鉄の橋はなんだっけね」
○「鉄橋だろう」
与「それから風が吹いて砂が立つのは舞い風だね」
○「舞い風じゃァない魔風だよ」
与「アー魔風か……。このくらい物を知ってたら、人がばかといわないだろうね」
○「それはいわないよ。りこうになったといって、人が褒めてくれるだろう」
与「そいつはありがたいな。どこかへ行って褒められてえもんだ」
○「よしな。もしほかのことでも聞かれると困るから」
与「聞かれたってかまわねえ。さようなら……。アハハハおもしろいもんだな。一ツどこかへ行って驚かしてやろう。ヤア干し物の着物がしゃっちこばってやァがる。おもしろいな。なにしろどうも酷《ひど》い風だな、目を開《あ》いちゃァ歩けねえや、アッ……ここの家がいい、ここでひとつ驚かしてやろう……在宅《うち》かッ」
×「アッ、見な。ばかが来やがった……。ばかどうした」
与「みっともねえぞ、ばか野郎」
×「オヤッ、オイ聞いたか、エー。むこうで俺のことをばかだといやがった……なにか用か」
与「なにか用かじゃァねえ、ばか野郎。人の家へ入って頬かぶりをしている奴があるか」
×「なにをいってやがるんだ。てめえが頬かぶりをしているんじゃァねえか」
与「ウソをつけ。第一きさまぐれえ物を知らねえ奴はないぞ」
×「なにをいってやがるんだ。てめえ今日はどうかしてるぞ。陽気があったかくなったから頭でも狂《おか》しくなったんじゃァねえか。変なことをいうなよ」
与「なにをいってるんだ。往来を歩いてもみっともねえや」
×「なにがみっともねえんだ」
与「なにがみっともねえったって、みっともねえや。てめえぐれい物を知らねえばかはねえ。このあいだ浅草で会ったろう」
×「俺ァ会やァしねえ」
与「三日ばかり後に浅草で会ったじゃァねえか」
×「会やァしねえよ」
与「ナニ会ったよ、会った」
×「なんだいこれは、俺を叱ってやがる。会やァしねえよ」
与「会ったい。忘れたのかこの野郎、もうろくをしやがって」
×「しようがねえな、会ったらどうしたんだ」
与「なんだあの時の態《ざま》は。みっともねえ風《ふう》をしやがって。ボロボロの着物を着て、草履だってそうだ、世間に薙刀草履というのはいくらもあるが、てめえのは半分なくなってやがる」
×「俺ァそんな草履を履いたことはねえや」
与「うまく言ってやがる。このあいだ履いていたじゃァねえか。それから兵児帯《へこおび》をダラリとぶら下げて」
×「俺ァ兵児帯を締めたことァねえ、いつでも角帯《かくおび》だ」
与「うまく言ってらァ、このあいだ締めていたじゃねえか。着物の前がはだかって、きたねえ褌を出していやがって、ばか野郎。それにそのきたねえ手拭いで頬かぶりをしやがってよ、あきれけえった奴だ」
×「ばか野郎、俺ァそんなことをした覚えはねえ」
与「おめえがしたんじゃァねえか。第一鮨を丸かじり、尺八みたようにして食ってやがった」
女「おまえさんそんなみっともないことをしたの、お鮨の丸かじりなんぞして……」
×「ウソだよ、俺ァそんな真似をしやァしねえ」
与「ばか野郎」
×「オヤッ、まだ怒っていやがる、しようのねえ奴だな」
与「もうこれから往来で会っても、決して声をかけてくれるな外聞《げえぶん》が悪いから」
×「俺のほうもありがてえや」
与「第一きさまの言うことはみんなちがってる」
×「なにがちがってるんだ」
与「このあいだ永代橋を通った時は、おそろしい立派な|鉄きう《ヽヽヽ》だといったろう、ありゃァ鉄きうじゃァねえ、鉄の橋だから鉄橋だ」
×「誰かに教わってきやがったんだな」
与「それから奥山へ行ってカルハダを見てきたといったが、カルハダなんてえ物はねえ」
×「誰もカルハダなんてえこたァいやァしねえ」
与「いった、あれはカルハダじゃァねえ、高いところで軽い業をするから軽業というんだ、よく覚えとけ」
×「なにをいってやがるんだ。俺ァそんなこたァいやァしねえ」
与「それから今日風が吹いてるだろう。これはなんてえ風だか知ってるか」
×「舞い風よ」
与「なんだ」
×「みんなそういうじゃァねえか、風が舞うから舞い風よ」
与「それだ。それがちがってる」
×「なにがちがってるんだ」
与「なにがちがってるったって、舞い風てえ奴があるか」
×「ヘエー、あれァ舞い風じゃァねえか。それじゃァなんだ」
与「あれァなんだって風だ」
×「なんの風だ」
与「つむじが巻くから舞い風だ」
×「同じことをいってるじゃァねえか」
与「それがちがってるんだ」
×「どうちがってるんだ」
与「待ってろ、今考えてくるから」
×「アッハッハッハ、行っちまやァがった……」
与「ごめんなさい、ごめんなさい」
○「どうした、どこかへ行ってやってきたか」
与「うまくやってきたけれども、舞い風のところへ行ってやりそこなった。舞い風ってなァなんだっけね」
○「舞い風じゃァない魔風だ」
与「アアそうそう、魔風だっけね。なにが通るんだっけね」
○「魔が通るから魔風だ」
与「アア、魔が通るから魔風ッてえのか、あァそうか」
○「待て待て、魔というのはなんだと聞かれたら困るだろう。魔というのはな狗賓《ぐひん》さんのことだ」
与「|ぐひん《ヽヽヽ》さん。|ぐひん《ヽヽヽ》さんというのはなんだい」
○「鼻高《はなたか》さんのことだ」
与「鼻高さんてえのはなんだい」
○「天狗さんだ」
与「アッそうか、なんとかいったっけね」
○「魔が通る時に吹く風だから魔風。魔というのは狗賓さん、鼻高さんの天狗さんのことだ」
与「そうか。じゃァもういっぺんやってくらァ、大きにありがとう……ばかッ」
×「また来やァがった。なんだ」
与「今日風の吹くのは舞い風じゃァねえぞ」
×「まだいってやがる、それじゃァなんだ」
与「なんだって、ありゃァ通るんだ」
×「なにが」
与「なにがったって電車じゃァねえぞ」
×「なにをいってやがるんだ」
与「ウン、通るんだ」
×「なにが通るんだよ」
与「アア、ママ、ママ、魔が通るんだ」
×「なんだ、魔が通る」
与「ソレ魔が通るから魔風よ」
×「なるほど、こりゃァうめえな。魔が通るから魔風か、どこかへ行って聞いてきやがったな。こいつァうめえ、掘り出し物だ。じゃァ与太、魔が通るから魔風ってんだな」
与「そうだ、驚いたか、よく覚えとけ」
×「そんなら聞くがな、魔というなァなんだ」
与「魔が通るから魔風よ」
×「それだからよ、その魔というなァどんなもんだ」
与「魔か、魔はなんだ、魔だ」
×「その魔を聞くんだ」
与「アノー、か、か、|かひん《ヽヽヽ》さんのこッた」
×「ナニ|かひん《ヽヽヽ》さん、おかしなことをいやァがったな。その|かひん《ヽヽヽ》さんてえのはなんだ」
与「花立てさんのことよ」
[解説]この落語は元来上方噺だから、花瓶を|かひん《ヽヽヽ》と澄んで言う。そこで花立てさんというサゲになっている。地口の間ぬけ落ちである。桂文治師が東京風に与太郎に直してやっているけれども、東京ではサゲがチト工合が悪い。
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豆屋
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豆売りというお話を申し上げます。馴れない商人《あきんど》は昔からずいぶん滑稽のがありましたもので「さきざきの時計になれや小商人《こあきんど》」などと申します。
アノ豆腐屋さんが来たからもう午刻《おひる》だと、今はそんなことはございませんが、昔は時計というものは、よほど大家《たいけ》でなければなかったから、時刻というものが全然わからない、日差しを見てもうじき午刻だとか、あるいは未刻《おやつ》だとかいった。天気が悪いと日が当たりませんが、そういう時には腹工合やなにかで考える。ところへ大きな声を出す豆腐屋が来る、アアあの人が来たからもう午刻だろうという、そこまでゆくと行商人も一人前だといいます。小さい商いとはいいながら、なかなかむずかしいもので、昔からこういう商人《あきんど》は、人に知られるために馬鹿な大きな声を出したり、あるいは変な声を出したりして、耳立つようにやったものとみえます。
今では豆腐屋がラッパを吹いて歩くとか、煮豆屋が鈴を鳴らして来るとか、またピーイと長く鳴らしながら来るとアア羅宇屋《らおや》が来たとかどんな人でも気がつくというように、声を出さないで器械を用いるようになりましたが、昔は羅宇屋煙管《らおやきせる》なんて沈んだ声で流して歩いたから、ちょっと忙しい時や近所でガヤガヤしている時などは、聞き損じてしまうことがいくらもありました。魚屋さんも若手の売出しがイワシを売って、老い込みのお爺さんがナマコを売るという、耄碌頭巾《もうろくずきん》をかぶって、水ッぱなをたらしながら、「ナマコ、ナマーコ……」なんだか威勢がない。若い者が、向こう鉢巻で鯉口《こいぐち》を着て、暑いも寒いも夢中で、「オーウ、イワシこい……」ちょっとイワシ屋さんと後ろのほうで呼んでも、通り過ぎるともう後へ戻らないというくらいの勢い、売り声が調子が高くって、さもイワシがピンピン跳ねてるかと思うよう。
魚「オウ、イワシこい」
○「ふるーい」
魚「まだいってやがる、よさねえかい」
○「私は篩屋《ふるいや》だから篩というんで、おまえさんも商いならこっちも商いだ」
魚「商いだって一つ所を歩かねえで裏通りでも歩きねえな」
○「私の商売は裏通りじゃァ買い手がない、篩の要るような家《うち》は大通りに多くあるんで、裏店《うらだな》なんかへ入ってもしようがない」
魚「なにをいってやがるんだ、どこを歩こうとかまわねえが人の後へ付いて来るなよ……オウ、イワシこい」
○「ふるい」
魚「コン畜生まだいやァがるな」
と魚屋と篩屋とが喧嘩を始めた。ところへ古金屋《ふるかねや》が仲裁に入りまして、
古「マアマアどっちも商いだ、イワシ屋さんおまえのいうようなわけにもいかない、篩屋さんが篩というのはおまえさんがイワシこいというのとおんなじわけだ、しかしよりによってイワシ屋さんと篩屋さんはおもしろくない、これは離れて歩いたらよかろう」
魚「ところがこの野郎、俺が駈け出しゃァ一緒に駈け出して、ふるーいふるーいといやァがるから癪《しゃく》にさわるじゃァねえか」
古「じゃァ私が間へ入るから、イワシ屋さん先へおいで」
魚「オウ、イワシこい」
○「ふるーいふるーい」
後から古金屋が、
古「古かねえ……」
これは昔の噺、考えてみると商人の呼び声などというものはなかなかむずかしゅうございます。品物の通りに呼ぶのがあります。芋を売りますには三色に呼び分ける、生の芋を売るにはなるたけ堅く「芋やさつま芋」蒸《ふ》かすと柔らかくなるから、フンワリと「蒸かしたてさつま芋……」煙《けむ》の出るように呼ぶ。これを薄く切って油で揚げたやつを、どういうわけか、おさつの丸揚げといい、焼き芋屋の看板にまる焼というのがある、つまりこれにならったものでございましょう。全体ではない、丸く切って揚げるから、丸揚げというこれは円く油ですべるように「おさつの丸揚げッ……」なにをしても稼業となると楽なものではございません。
○「アアこっちへ来なさい」
△「ヘエ」
○「ヘエじゃァない、またなにか婆さんに金を二円貸してくれと借りに来たそうだが、なんにもしねえで遊んでいて婆さんの小遣い銭をセビって使ってちゃァしようがない、この間もなにか商売をするんだから資本《もとで》を貸してくれといくらか持って行ったじゃァねえか」
△「ヘエ」
○「ヘエもねえもんだ、なにをやったんだ」
△「八百屋をやりました、八百勝《やおかつ》さんのいうには、いちばん気安い商売だからやれというので教えてくれました」
○「そうそう、そんな話を聞いた、それもじき廃《や》めちまったんだね」
△「ヘエやりそこないました」
○「どうしたんだ」
△「なんでも八百屋というものは時々で品物が変わってゆくから、初めは一色《ひといろ》商いということをして、なんでも三年ぐらい辛抱してやればスッカリ覚えてしまうというんで」
○「どうするんだ、一色商いというのは」
△「菜なら菜、小松菜なら小松菜を今日売って、売れ残ったらまた明日新しいのと交ぜて売る、そうして商いの道を覚えてだんだんいろいろなものを売るようになるんだそうで……」
○「商売商売でむずかしいものだな、どうした」
△「水菜を売りました」
○「ハア水菜〔京菜ともいう〕売れたかえ」
△「ちっとも売れません」
○「どういうものだ」
△「馴れないからそういうことになったんだ」
○「どうした」
△「よく教わって行ったんですが、水菜という名を忘れちまったんで」
○「忘れちゃァしようがない、それからどうした」
△「菜のようなものはよろしゅうございますかと売って歩いたんで」
○「菜のようなものはおかしいな」
△「やっぱり菜のようなものだから、そう言ったらわかるだろうと思って……」
○「しようがねえな、それじゃァ売れるわけがねえや」
△「そのうちにだんだんしおれてグニャグニャになっちまったんで……」
○「オヤオヤそれじゃァ売り物にならねえ」
△「ちょうど大川端を通って、いまいましいから川の中へほうり込んじまいました」
○「乱暴をするなァ」
△「そうしたら結んであった縄が切れて、菜がバラバラになって、川の中を流れてゆくのをこっちも歩きながら、見ると枯れたような菜が、水を含んだから威勢がよくなって、流れてゆくんでアア水菜だったと思い出したけれどももう間に合わなかった」
○「後で思い付いたってしようがない」
△「だから自分でもしようがないと思った」
○「あきれかえったなァ、これからどうするんだ」
△「八百勝さんのいうには、なんでもあきないだから、飽きずにやらなくっちゃぁいけないというんで」
○「うまいことを言うな、|あきない《ヽヽヽヽ》だから飽きずにやれとは、今度はなにをやる」
△「ヘエ、豆を売るんで」
○「エー」
△「そら豆を」
○「そら豆」
△「たくさん仕入れてもいけないから二円も資本《もと》があったらいいというんで」
○「ウム仕方がねえ婆さん二円出してやんな、八百勝さんのいう通り品物を覚える間、一つ物で辛抱して、なんでも一人前になって店を出すようにならなけりゃァいかねえ、そうなりゃァまた資本《もとで》も出してやる」
△「店を持てば一人でもいられないから女房《かみ》さんをもらう」
○「なにをいやァがる、妻子を養うにはよッぽど稼がなけりゃァいかねえ、しっかりやれ」
△「ヘエ」
○「俺のところに金の生《な》る木があるわけじゃァねえから、やりそこなったたんびに来さえすりゃァ貸してくれるだろうと思ったってそうはいかねえぞ、いいか」
△「ヘエ、大丈夫でございます」
○「なんだと」
△「今度は大丈夫でございます」
○「大丈夫ならサッサと帰ってしっかりやってみねえ」
△「ヘエお金を」
○「ナニまだ金をもらわねえのか婆さん早く出してやんねえな、この男もまぬけだから、うっちゃっときゃァいつまでぐずぐずしていらァ、じゃァ八百勝さんへ行ったら伯父さんがよろしく申しました、いずれお目にかかってお礼を申しますとこう言っておきな、いいか」
△「ヘエ、今日のうちに支度をして明日からやります、さようなら……エー二円借りてきました」
勝「アァそんなになくってもよかった、私が都合がよければ出しておいてあげてもいいんだがそうもいかない、私のは荷車で得意場をまわるのだが、おまえのは昔の棒手振りというやつだ、これは本番という桝《ます》だよいいかえ、商いして呼吸を覚えるにはなんでも裏へ入らなければいけない」
△「ヘエ」
勝「今は井戸が水道に変わったから昔のようじゃないけれども、長屋の女房《かみさん》たちやなにか集まっていろいろ話しをしているところへ、むやみに荷を下ろすといけない、よけいなことを言う婆ァがある、この豆はさんざん水をくぐってきたからうまくないなんていう奴があるから気をつけて、また長屋の商いは呼吸を覚えろというくらいだから、むずかしいところがある、まず一升いくらだといったら十三銭ものなら十八銭とか、十五銭のは二十銭とか思い切って掛け値をいうんだ、ばかに踏み倒すから、すったもんだといった末に十七銭にお負け申しますとか、十五銭にしておきましょうとかいわないと、きっと元を切らすようなことがあるから、よほどうまくやらなくっちゃァいけない、なんでも相手を見て商いをするようにすればいいんだ」
△「ヘエ」
勝「それじゃァ明日の朝早くおいで……」
翌朝八百勝さんが、親切に買い出しをしてきてそっくり荷をこしらえてくれましたから、やっこさん天秤《てんびん》を肩に当て付けないからずいぶん重いけれども、一生懸命出かけました。先には売り物の名を忘れたが今度はだいじょうぶだ。
△「豆でござい、そら豆の上等でござい、うまいうまい、……この意気でやりゃァいい、豆でござい、そら豆の上等」
×「オオ豆屋」
△「ヘエ……豆屋はどっちでございます」
×「豆屋は手前だ」
△「ヘエ」
×「豆屋は手前だよ」
△「ヘエさようでございます、今豆屋とお呼びなすったのはどちらで……」
×「呼んだのは俺だ」
△「ヘエヘエ」
×「ばか、商いをするのになぜ荷を下ろさねえのだよ……」
△「ヘエごめんくださいまし」
×「こっちへ入んな、いくらだ一升」
△「ヘエ」
×「いくらだよ」
△「ヘエ」
×「そら豆は一升いくらだというんだ」
△「ヘエこの桝は本当でございます」
×「なにを」
△「エー一升二十銭で」
×「いくら」
△「一升二十銭でございます」
×「二十銭……おたけ、格子を締めて、鍵をかっちまえ、それから薪雑棒《まきざっぽう》を一本持ってこい……ヤイ」
△「ヘエ」
×「二貫だとぬかしやァがったな」
△「ヘエ、二貫とは申しましたけれどもまたご相談で……」
×「なにがご相談だ、己《うぬ》のような奴は死ぬ者の咽喉《のど》を絞めるという奴だ、首くくりの手を引っぱったり足を引っぱったりするだろう、今身を投げようという奴がありゃァ、後ろから突き飛ばすだろう、あきれ返った奴だ、この長屋のようすを見て物をいえ、この貧乏長屋へ来て、こんな豆を一升二貫で売ろうなんて太《ふて》え奴だ、てめえ命が惜しくねえか」
△「命は惜しゅうございます」
×「なにをいやァがる、二貫なんかで買う奴があるものか、負けろグッと負けろ」
△「ヘエお負け申して十八銭」
×「なにを、この薪がてめえ目に入らねえか、この節だらけの薪が……」
△「ヘエ、とてもそれは目に入りません」
×「なにをいやァがる、なんでもかまわねえから負けろよ」
△「ヘエ十八銭にしておきます」
×「まだアンナことをいってやがる二百に負けろ」
△「ヘエ、二百負けますと十八銭になります」
×「なにをいやがるんだ、一升二百に負けろというんだ」
△「冗談いっちゃァいけません、いくら掛け値をいったって、そんなに負かるものじゃァございません」
×「ナニ負からねえ、盗人《ぬすっと》ヤイ、己《うぬ》は命が要らねえんだな、よし畜生、負けるな……」
△「ヘエ負けます負けます」
×「ナニッ」
△「負けます負けます」
×「負けるか」
△「ヘエ負けます一升二百でございますか」
×「幾度いっても同じことだ、負からなけりゃァ負からねえといえ、はっきり」
△「ヘエ負けますからなにとぞ格子をお開けなすって、豆が外にありますから」
×「なにをいやァがる、こっちへ引き寄せろ、そうそうなんだケチな量りかたをするない、もっとウンと入れろ、こぼれたら拾やァいいや……ヤイヤイ上をならすな、米を量りゃァしめえし、豆なんざァ山量りにするもんだ」
△「ヘエーそういうことを教わりませんが、山量りというんで」
×「山に盛るんだ、そら豆だの里芋だのてえものは、山盛りにするのがあたりまえだ」
△「そういうことは教わらなかった、じゃァ山に量ります」
×「山に量ります山に量りますってこの野郎ケチのことをするな、桝の隅へ指なんぞ入れねえで、こういう塩梅《あんばい》に手で屏風のように桝の上を囲ってみねえ、もっと入るから……そうよ、入るじゃァねえか……もう少し手を持ち上げろ」
△「手を持ち上げると間からこぼれます」
×「こぼれたのはこっちへ入れねえ」
△「それじゃァいくらでも入ります」
×「グズグズいうな、そのこぼれたのをこっちへ入れろ、サア二百持ってけ」
△「ヘエありがとう存じます」
×「また買ってやるからチョイチョイ来い」
△「ヘエどうぞお願い申します……アア驚いたどうも……そら豆やそら豆」
□「オイ豆屋」
△「ヘエ黙って行っちまやァよかった、また筋向こうの家で呼んだ、おっかない裏だからなァ……ヘエ豆屋をお呼びなすったのはこっちでございますか」
□「ここへ荷を下ろしたら身体だけこっちへ入《へえ》れ、入れ、こっちへ入んねえよ」
△「ヘエ」
□「一升いくらだ、そら豆は一升いくらだよ」
△「ヘエ、おまえさんはお向こうのかたより、なお怖い顔をしていますな」
□「人の面《つら》の|ざんそ《ヽヽヽ》をいうな殴るぞ」
△「まだいくらともいやァしません」
□「なにをいやァがるんだ、なんが怖い面だ、豆は一升いくらだってんだ」
△「エー一升……さようでございます」
□「いくらだよ」
△「エー一升二――」
□「はっきり口を利きねえ、グズグズいっちゃァわからねえ、もっとこっちへ寄ってはっきりと言え、いくらだ」
△「ヘエ二銭」
□「一升二銭、たった二百か」
△「ヘエ、二銭、たった二百……」
□「おたつ、格子を締めて鍵をかっちまえ、薪雑棒の太えやつを一本持ってこい」
△「ヘエ、二銭なんでございます」
□「なにをいやがるんだ、てめえはポク除けに豆屋をしていやがるんだな、この豆を一升二百ばかりで売って妻子が養われるか、これで稼業になるかよ、こいつは内職で本職があるんだろう、ヤイなにをいやがる、俺の面の怖いのを今知ったか、光秀《みつひで》の金太《きんた》といやァ知らねえ者はねえんだ、腕ずくならどんな野郎でも負けたことがねえんだ、この薪雑棒が目に入らねえか、まぬけめえ」
△「ダカラ二百にお負け申して……」
金「なにをいやがるんだ、本番の桝へ一升量ったものをたった二百で買って食っちゃァ、朋友《ともだち》に面《つら》出しができねえ、そんな兄《あに》さんじゃァねえや」
△「ヘエ、では一銭八厘……」
金「なにをいやがるんだ、負けろというんじゃァねえや」
△「さようでございますか、いくらにしたらよろしうございます」
金「もっと高けりゃァいいんだ」
△「十五銭でも少し儲かるんでございます」
金「なにをこン泥棒」
△「ヘエ」
金「十五銭、こン畜生ケチなことをいやがる、もっとこっちへ来い野郎」
△「高ければお負け申します」
金「まだあんなことをいやァがる、一升一貫五百ばかりの豆を食って朋友《ともだち》に顔向けができるか、光秀の金太の理由を知らねえか、顔に向こうキズがあるから光秀の金太なんだ、よく見ろ」
△「さようでございますか、どうも相すみません」
金「相すまねえもなにもねえ、いくらなんだ」
△「十八銭」
金「殴るぜこン畜生、十八銭ばかりの端銭《はしたぜに》で、豆を一升買ったといやァ……」
△「わかりましたわかりました、どのくらいならよろしゅうございますか」
金「五十銭とか一円とか大きなことをいやァ、おんなじこっても食い心地がいいや、べらぼうめえ江戸ッ子だ」
△「アアそうでございますか、五十銭ならけっこうでございます、ありがとう存じます、その代わり本番の桝で盛りを良く量ります」
金「ヤイヤイなにをしやがるんだ」
△「ヘエ、豆を量りますので」
金「ばか、なるたけ中をフンワリと透きのあるようにして、一杯詰めたように見せるのがあたりまえだ、上から押しつける奴があるか、こン泥棒、変な真似をしやがる、桝の隅へ手をかけて山に積んでやがる」
△「ヘエ、けれどもそら豆だの里芋だのというものは、山量りといいまして、手を隅へかけるとどうしても山盛りが高くなります」
金「ばかにするな、桝てえものは深さがいくらで横縦が何寸何分ときまってる、何のためにできてる桝だ、べらぼうめえ、高く山にするくらいならな、なんで量っても同じことだ、なんのために桝の寸法がきまってるんだよ」
△「ヘエそうすると、どういうふうにやります」
金「どういうふうったってそれを平《ひら》にしねえ」
△「アア平にするんで、よっぽど取れました」
金「ばか、商人がそんなことで商売になるか、その山形の中をくぼむように取ってみねえ」
△「なるほど二十粒ばかり取ったら少し中がくぼみました」
金「ばか、商人がそんなことで飯が食えるか、もっとへこませろ」
△「もうへこみやァしません」
金「両方の手を反らしてすくえ」
△「私の手は強くって反りません」
金「内へ反るだろ、フン内へこういうふうに反らねえか」
△「アア内のほうならいくらでも反ります」
金「ソレみろ、こうしてすくうようにして、もっとグッと減らせろ」
△「もうこんなに取ってしまって、すくいにくくなりました、これじゃァ親方いくらもありませんが、これで五十銭に買いますか」
金「買わねえんだい」
「解説」 上方落語の東京輸入である。これも最初は三代目小さんが東京へ持ってきたのだが、後に先代〔七代目〕柳枝が得意にしていた。この柳枝は柳亭左楽の門人で、佐太郎から痴楽芝楽等を経て柳枝を襲名したが「植木屋の娘」「猿後家」など、上方落語を十八番《おはこ》にした。エヘヘというのが口癖で、噺の内にたくさんにエヘヘが入ったが、その割合には邪魔にならなかった。
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酢豆腐
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○「オウばかに暑いじゃァねえか。どうだい、久しぶりで顔がそろったんだ、暑気《しょき》ばらいに一杯|飲《や》ろうってんだが」
△「ヘッヘッヘ酒かい」
○「そうよ」
△「悪くねえね、おいらァ酒と聞いちゃァ目のねえ人間だからね」
○「よせこの野郎、このあいだ甘《あめ》え物を買ったところへ入ってきたから、いいところへ来やがった。金つばを一つつままねえかといったら、てめえなんといやがった、けっこう、甘え物と聞いちゃァ目がねえといやァがった、今度は酒なら目がねえといやァがる。一体なんなら目があるんだ」
△「どじょうの丸煮とくじらの酢味噌だと目がある」
○「なにをいやがるんだ。駒形《こまがた》あたりへ行ってそんなことをいうと殴られるぞ。〔駒形には有名などじょう屋がある〕酒はだれでも飲むが先立つ物があるんだが合点か」
△「立つよ」
○「てめえが立ったってしようがねえや。銭がいるんだ」
△「金か」
○「そうよ」
△「あいにくだったな」
○「なにをいやがる、あいにくなんて言葉はてめえたちの使う言葉じゃァねえや、平常《ふだん》銭を持ってる人がたまに持ってねえからあいにくというんで、てめえなんざァ年中のべつにあいにくじゃァねえか」
△「そういやァ俺らァ、物心ついてからあいにくなんだ」
○「ずいぶん長《なげ》えこったな。どうだえ勘《かん》さん一杯|飲《や》ろうてんだが、懐《ふところ》はあったけえかい」
勘「ばかにあったけえよ」
○「そうかえ」
勘「なにしろ腹巻が一丈二尺ばかりあって、その上へ腹掛けを掛けてるんだ」
○「そのあったけえんじゃァねえよ、銭があるかッてんだ」
勘「銭ならねえよ」
○「そんなら早くいいねえな、松ちゃんはどうだい」
松「同じく」
○「素直だね返辞が、鉄さん懐工合は」
鉄「ヘッヘッヘ、夜中の往来さ」
○「なんでえ夜中の往来てえのは」
鉄「淋しいよ」
○「手数のかかる挨拶だな、どうも不景気だが、安《やす》ちゃんはどうだね」
安「コウ、コウ、なまいきなことを言うようだが、俺ンとこの親父の遺言だよ。人なかへ出たら、銭のことで恥をかいちゃァならねえと言われているおあにいさんだ」
○「えれえな、酒を飲もうってんだ、いくらか寄進についてくんねえか」
安「ところが今日はあいにく財布を忘れてきた」
○「なにをいやァがるんだ、又《また》さんどうだい」
又「紙幣《さつ》かい銀貨かい」
○「たいそうな勢いだな、紙幣でも銀貨でもどっちでもいいんだ」
又「どっちもねえや」
○「ばかにしやがるない」
△「オイオイあにい、さっきから人の懐ばかり聞いてるが、一体あにいがいくら出してくれるんだ」
◯「べらぼうめ、俺が有るくれえなら人の懐なんざァ当てにするものか」
△「オヤオヤそれじゃァここに居る者は一人も銭がねえんだね、掘り抜き井戸ときたな」
○「どうして」
△「金《かね》ッ気なしだ」
○「ヤレヤレとても女郎買いにはいけねえな」
△「湯にも行けねえや」
◯「酒が飲めねえ」
△「水も飲めねえ」
◯「よせやいナサケねえことをいうな、これだけの顔だ、三升もあったらいいんだ、後でどうにかなるだろう。酒屋から取り寄せようじゃァねえか」
△「けっこうだね」
○「オウすまねえ、金さん、酒屋へひとッ走りご用を申し付けてきてくんな。だれだ火鉢のそばへ坐ってるなァ。そこへ坐ったのが因果とあきらめて、鉄瓶の下を赤くしてくんな。徳利を突ッこんでから、十分も立たなけりゃァ燗《かん》がつかねえなんてえのは、酒を飲んでもうまくねえからな、いいか頼むぜ、ところでみんなに相談だが、酒は来るんだが肴《さかな》がねえや。酒飲みに肴はいらねえというが、そりゃァ負けおしみだ、食っても食わなくっても前に列べてねえとどうも工合が悪いや。といってお互《たげ》えに懐は秋の暮れときているんだが、どうだ、なるべく銭のかからねえで、酒飲みの食い物で、歯当りのいい、腹へ当らねえ、他人に見られて恥ずかしくねえ、夏の食い物はねえか」
△「長《なげ》え註文だな」
○「どうでえみんな、妙な肴はねえかな」
勘「あるとも大ありだ。世の中になにが妙だって、刺身ぐれえ妙なものはないね。酒によし、飯によし、暑い時分によくって、寒い時分にもいいってんだ。少し油のところをツンとくる山葵《わさび》で食った日にゃァたまらねえや」
○「なにを言ってやがるんだ、刺身を食おうなんてえのは銭のある者の言うこッた。てめえみたような銭なしの言い草じゃァねえや、黙って引っこんでろ……オウみんな、なにかいい工夫はねえか」
安「コウ二百散財してくんな」
○「一銭か」
安「そうだよ」
○「どうするんだ」
安「小楊子《こようじ》を一袋買ってくるんだ。それを一本ずつ口にくわえて酒を飲むんだ。酒を飲んじゃァ楊子を使い、楊子を使っちゃァ酒を飲めば、他から見りゃァ、うめえ物でも食ってるように見えるし、第一腹へたまらねえで、あっさりした肴だろう」
○「ばか、歯をほじりながら酒が飲めるかい」
安「衛生にいいや。歯の掃除が終ったら、口の中へ石灰《いしばい》をまけ」
○「ふざけるない」
安「石灰をまいちまったらアゴへ札を貼れ」
○「なんだって」
安「検査済と」
○「よせッこの野郎、大掃除じゃねえや、たいがいにしやがれ。人の口をおもちゃにしやがる……どうだい、みんないい趣向はねえか」
鉄「オオこうしねえな、食い物なんてえ物ァ、銭を出したからうめえ物があるときまったものじゃァねえや。こうするんだ、ぬか味噌桶へ手を突っこむとな、思いがけねえ古漬けがあるんだ。そやつを出してよく切れる薄刃で、こまかくカクヤに切った中へしょうがでもきざみ込んで、すぐじゃァ臭味があっていけねえから、少し水へ泳がせておいて、すくい上げてよ、ぬれた布巾でキューッとしぼったやつへ醤油をかけてやってみりゃ、ちょっと酒の肴にならァな」
○「ヤイみんな聞いたか、道楽者てえなァここをいうんだ。さんざん銭を費《つか》ったものでなくちゃァこんな知恵は出るもんじゃァねえ……カクヤの香の物たァ気がつかなかったな。えれえ、いい趣向だ。ところでなおまえ言い出しべえだから、そのぬか味噌の古漬けを出してくんねえか」
鉄「ヤイヤイ気をつけて口を利け、大体その本《もと》を考えた俺に言い付ける奴があるもんけえ。他人《ひと》に言い付けるがあたりまえじゃァねえか。参謀本部で計略を考える人と戦争へ行って働く人たァ人間がちがう世の中だ」
○「わかったよ、なにもそんな大げさなことを言うない、参謀本部とぬか味噌と一緒にする奴もねえもんだ。なるほど俺が悪かった、だれかに言い付けるから堪忍しろ。そうじきにふくれるなよ、おでん屋のはんぺんみたいに」
鉄「なんだいおでん屋のはんぺんたァ、どうせ俺ァはんぺんみてえな人間だよ」
○「よしねえ、もう。オウ吉さんすまねえ、おめえ、忠実《まめ》な人だ、ぬか味噌を出してくんねえか」
吉「ことわった」
○「なにを」
吉「ぬか味噌へ手を入れることを、金比羅様《こんぴらさま》へことわったんだよ」
○「妙な断ち物をしたんだな、じゃァ幸《こう》ちゃん頼まァ」
幸「遺言ですから」
○「なにが」
幸「おふくろが死にぎわにそういった。私の亡い後は必ずぬか味噌へ手を入れるなって」
○「ふざけなさんな、万《まん》さん、おまえは平素《ふだん》から忠実《まめ》な人だからぜひ頼まァ」
万「ごめんこうむりやっしょ。べらぼうめ目先を利かして口を利きねえ。食っちゃァうめえか知らねえが、世の中にぬか味噌ぐれえヤボな物はありゃァしねえや、手を突っこんだが最後、いくら洗ったって容易に臭味は落ちやァしねえや。いやにニチャニチャ油ぎりやァがってよ。爪の間へはさまってるなんざァあんまりいい若《わけ》え者のすることじゃァねえ、ごめんこうむりやっしょ」
○「なまいきなことをぬかすねい。いい若え者たァだれのことをいうんだ。てめえなんざァどこに若え面があるんだ。若え者ッてなァな、始終|襟垢《えりあか》の付かねえなりをして、目先が利いて、言うことに無駄がなくって、銭使《ぜにつけ》えのきれいな男がいい若え者ッてんだ。てめえなんぞそんな値打ちはただの一ツもあるめえ。友だちと物を食いに行っててめえが勘定を済ましたことが一度でもあるか、いつだっておんぶじゃァねえか、なにがいい若え者なんだばか野郎、酒が来たって飲ませねえからそう思え。いけねえぜみんな、せっかくの趣向もなにもならねえや」
△「オットあにい待ちな、ぬか味噌の古漬けが自然に出てきた」
○「どうして」
△「俺にまかしておきや、おめえたちは口出しをしちゃァいけねえぜ。いいか、俺が一人でおしゃべりをすりゃァきっと古漬けを出してみせらァ……オウ半公《はんこう》素通りか」
半「ヤアこんにちは」
△「素通りはひでえぜ、一服やってゆけ」
半「ありがとう、だが少しヤボ用があって急ぐんだ、帰りに寄らァ」
△「だろうけれど、ちょっと寄ってゆきねえな、友だちが大勢集まってるんだ。暑気|払《ばれ》えに一杯やろうッてえところなんだからよ、寄ってきねえよ」
半「だがまったく急ぐんだから、助けてくれ」
△「そうか、じゃァ悪留めはしねえから帰りに寄んねえ。マア待てよ半公」
半「エエ」
△「あんまりようすのいいところを見せて歩くなよ。女を迷わせて歩くなァ罪だからよしねえよ。アノナァ半公、小間物屋の美坊《みいぼう》な、どうにか返事をしてやれ、てめえのためにゃァ足駄ァ履いて首ッたけというのは通り文句だ、脚立《きゃたつ》へ乗って首ったけだ、刃物持たずの人殺しめ、あんまり女を迷わせるな」
半「エヘヘヘヘご順にお膝送りを……」
○「なんだってこんな狭《せめ》えところへ入ってきやがるんだ。暑っ苦しいや、てめえ急ぐ用があるッてえじゃァねえか」
半「ナーニそれほど急ぎやァしねえ。ねえ熊あにい……」
熊「こんな時だけあにいを付けるな」
半「マアサ、小間物屋の美坊《みいぼう》なるものが、なにか俺のことを言ってやしたかい」
熊「よせやい。てめえだって男じゃァねえか、惚れてるとか慕われてるとかいう、女のことを聞くのに無手《むて》で聞く奴があるかい」
半「オットあにい、こんど懐都合のいい時に、一杯おごるよ、シテなんかいってたかい」
熊「いい女だな美坊は」
半「いい女だって、あのくれえの女がこの町内に住んでるなァ、この土地の名誉だね」
熊「ウフッ、名誉たァいやァがったな……しかし若えに似合わず白粉《おしろい》ッ気なしで、色の白い」
半「おまえなんざァ気がつくめえが、第一髪の毛がいいや」
熊「あの美坊ならだれでも一苦労してみる気になるが、俺ァこの間つくづく脈を上げてしまった」
半「どうして」
熊「滅法界《めっぽうかい》暑い晩だった、涼み台で美坊と落ち合った」
半「フーム」
熊「いろいろ世間話をしているとな、美坊の畜生、てめえの話ばかりしたがるんだ」
半「ヘエーなるほど」
熊「俺だって小癪にさわるからスッパぬいてやった。オウ美《みい》ちゃんおめえ妙に半公の話ばかりしているな、さては半公に岡惚《おかぼっ》てるねと、一本突っこんだと思いな」
半「ウーム」
熊「うなるない」
半「それからどうしたい」
熊「もうよそう」
半「よしちゃァいけねえやな、それから」
熊「年頃の女がこうスッパ抜かれたんだ。顔を赤くするだろうと思うと、美坊ビクともしねえ。おかしいね、わたしが半ちゃんに惚れてるッたらどうするのと逆捻《さかねじ》だ」
半「ナアールほど、それからどうしやした」
熊「そこで俺ァそういったね。美ちゃん、おめえもずいぶん物好きじゃァねえか、町内に男がねえんじァなし、もっと男ッぷりのいいのもありゃァ、服装《なり》のそろったのもある、銭使えのいい者もあるじゃァねえか、なんでおめえよりによって半公のような者に惚れたんだというと、美坊のいうにゃァ、私やァ男ぶりのいい人や服装《なり》のそろった人に惚れるんじゃァない。男らしい男に惚れるんだというからハテナ、半公はそんなに男らしい男かと聞くと、あれが男の中の男一匹、江戸ッ子気性、職人気性、達引《たてひき》の強い、人に頼まれるといやだと言ったことがない、わたしはあの気性に惚れ込んでしまったと美坊がいやがった」
半「ありがてえな、ようやっと世の中の女に、俺の了簡《りょうけん》がわかってきたとみえるな。あたりまえだ、江戸ッ子だ。職人だ、他人に頼まれていやだと言ったことのねえおあにいさんだ」
熊「えれえな。そこで半ちゃん、どうだろう一同そろっておめえに頼みがあるんだが、一番ウンと聞いてくれねえか」
半「なんでも頼みや。火の中へでも水の中へでも飛び込まァ」
熊「ほかでもねえが、ぬか味噌の古漬けを一つ出してくんねえ。頼まァ」
半「エエッ」
熊「おまえは達引が強えなァ」
半「ウーム……この頃少し弱くなった」
熊「ふざけるない。サアぬか味噌を出してくんねえよ」
半「おどろいたなァ、こいつァ。いやに話がうますぎると思ったよ。なんぼなんでもぬか味噌の中へ手を突っこむなァごめんこうむろう」
熊「だって火の中や水の中へ飛び込むより楽だぜ」
半「じゃァこうしてくんねえな。香物《こうこう》を買うくらいの銭は出すから、ぬか味噌へ手を突っこむんだけは許してくれ」
熊「いくら出す」
半「二貫出そう」
熊「ケチなことをいうない」
半「じゃァ二|分《ぶ》出そう」
熊「待ちな、どうだえみんな、半公が五十銭出すから、示談にしてくれろッてんだが……エエそうよなァ口開けだ、負けちまおうか……では半公二分で負けてやらァ」
半「なんにも売り物がないくせに、負けるとはおどろいた」
熊「いやなら、ぬか味噌を出しな」
半「出すよ出すよサア……二分」
熊「たしかに受け取った。用があるだろう、帰ってもいいよ」
半「アレッ、俺だって二分出したんだ。みんなと一杯やろう」
熊「なにをッ、なにをいってやがるんだ。さんざッぱら、暑ッ苦しいことをぬかしやァがって、ずうずうしいことをいうない。早く帰れ帰れ、マゴマゴしやがると掃き出すぜ」
半「人を糸くずかなにかだと思ってやがる、帰るよ、さようなら……」
熊「アバよ……」
熊「どうだ、みんな、二分に有りついたろう」
○「うめえなァ熊、感心だ。なんだってあんな野郎に油をかけるのかと思ったら、とうとう野郎め、一杯引っかかりやァがった」
金「二分ありゃァ奈良漬けの二三枚は買えるだろう」
○「買えるとも、ところで今思い出したんだが、昨夜《ゆうべ》豆腐がだいぶ残ったが、ありゃァどうした」
金「ちげえねえそうだっけ、オオ、虎さんおめえ知ってるか」
虎「インヤ」
○「吉さん知ってるか」
吉「アアことによると与太郎が知ってるぜ」
○「そうか……ヤイ与太郎、昨夜残った豆腐なァ」
与「アア」
○「どうした」
与「チャンとしまってあらァ」
○「どこに」
与「だいじょうぶなところに」
○「ネズミ入らずか」
与「ウウン、この頃あのネズミ入らずは駄目なんだよ。時々ネズミが入るんだもの」
○「どうした」
与「お釜の中へ入れてふたをしておいたぜ」
○「ばか野郎、この暑気に終夜《よっぴて》釜の中へ豆腐を入れておいてみろ」
与「うまくなるか」
○「ふざけるない、腐っちまわァ。それでなくとも豆腐てえものは足が早えものじゃァねえか。マアここへ出してきてみろ。あきれけえったべらぼうじゃァねえか、たまに気を利かしたと思やァこんなことでいやァがらァ」
与「あにい、豆腐がこんな色になっちまった」
金「ドレ見せろ……アッそばへ持ってくるな、プンプン匂ってしかたがねえや」
○「酸っぺえ匂いが目鼻にしみらァ」
与「豆腐が腐ったからよ」
○「シテみると酢なんてえものは、豆腐を腐らして取るのかなァ」
金「ばかァいやがれ。早くうっちゃっちまえ、プンプン匂ってしようがねえや」
勘「オット待ちねえ、その豆腐をうっちゃらずにおきねえ」
○「どうするんだ勘さん」
勘「食わしてえ奴があるんだ」
○「半公にか」
勘「ナーニ半公ばかりいじめちゃァ可哀相だ、そうじゃァねえんだ。今向こうからやってくる横町の変物《へんぶつ》にさ」
○「アアそうか、けれどもいくら変物だって腐った豆腐は食うめえぜ」
勘「それがよ、腐った豆腐といっちゃァ食わねえが、こっちの持ってきようできっと食うよあいつは、俺にまかしておきねえ……エー若旦那ッ」
若「オヤこんちは」
勘「お暑うがすね」
若「どうも非常でげす、だいぶ美男子のおそろいで」
○「どういたしまして、マア若旦那、一服|喫《やっ》っていらっしゃい」
若「さようでげすか。それではチョット、一《いち》ふくやらしていただきやしょうか。どうも諸君子、酷暑でげすな」
勘「サア若旦那お敷きなさい、いつもご盛んですね、あなたの噂で持ち切りですぜ」
若「ハテね、どこで」
○「女湯で」
若「ホホホホそれほどでもないでげしょう」
勘「イヤほんとうなんで、今日は素手じゃァ返しませんよ。なにかおごっていただきたいな」
若「ハテね、罪悪が露顕《ろけん》しやしたかな」
勘「若旦那、私ァいつもこんなことをいったことのねえ人間なんだけれども、どうも今日ばかりは、ただでお帰し申しにくいというのはほかじゃァねえが、ちょっとお顔を拝見したところがひどくお目がくぼみましたね、モシ若旦那、昨夜は妙な二番目の幕がありましたね。夏の夜は短いねッてくれえの愚痴は出たんでしょうね」
若「ヨーッ、恐ろしい勘でげすな。君様《きみさま》は拙《せつ》の目を一見して、昨夜は妙な二番目がありやしたろう、夏の夜は短いね、ぐらいの愚痴が出やしたろうとは恐れ入りやしたね。寸鉄《すんてつ》人を殺すでげすねオホン、そもそも昨夜のていたらくといえば……」
勘「わかりましたよ若旦那、おっしゃるな、よく知ってますよねえ、女の子が寝かさないてなことをいったんでげしょう」
若「オホホホホホその通りでげすよ」
勘「イヤ、ご道理《もっとも》です。私なんざァなんですね、若旦那に惚れる女に同情しますね。惚れるなァ無理はねえや。時に若旦那今日はどちらへお出かけ」
若「ただ今、仏参の戻り道でげす」
勘「ヘエ、寺参りにいらしったんですか、ご奇特なことですな。お寺は深川でしたね」
若「イエ|三の輪《みのわ》の浄閑寺《じょうかんじ》で」
勘「ヘエー、お宅のご菩提所はたしか深川の霊岸《れいがん》のように覚えてましたが、それじゃァお友だちかご親類のお寺詣りで」
若「いいえ、三の輪の浄閑寺は申すまでもなく傾城《けいせい》遊女などの墓のあります寺でげす」
勘「そりゃァわかってますがね、そこへ若旦那がなんだっておいでなすったんで」
若「イヤこれはどうもお聞きにあずかって弱りましたな。拙《せつ》などはあまり婦人を泣かせやすから、この世に亡いあわれな傾城の回向《えこう》でもしてやったら、いささかは罪障《ざいしょう》消滅にもなろうかと思って」
勘「ナールほど、たいそうなお心がけでござんすな。もっとも若旦那なんざァ男ぶりはよし、お扮装《なり》は気が利いているし、お金使えはきれいだし、どうしたって女の子を泣かせずにゃァいませんや。そこへゆくと我々なんざァ俗物ですからね、ちょっとしたことだが、食い物がそうだ、若旦那が召し上がる物は我々にゃァ向かず、我々がうまがる物なんざァ若旦那のお口に合わずさ。すべてがガラリガラリと反対に行っているんだからね。食い物といえば若旦那、この頃のようにこう暑くっちゃァお口に合うような物は食べられますまいね。じつは若旦那、今よそから変な物をもらったんですがね、食い物だってんだが、私どもにゃァわからねえんですが、ひとつ見ていただきてえもので」
若「ヨウヨウ食べ物の本阿弥《ほんあみ》〔鑑定家〕を命ぜられたはうれしいね、ぜッひ一見しやしょう」
勘「エエ、ごらんに入れやしょう……オオこっちへ持ってきな……なにを笑ってやがるんで、若旦那これなんですがね」
若「さようでげすか。ドレッ……フッ、これはけしからん」
勘「食い物じゃねえんですか」
若「フウ、なんとかの上塗りときやしたな……たしかに食べ物でげすよ」
勘「食い物なんで」
若「もちりんでげす」
勘「若旦那のおっしゃることは、いちいちわからねえな」
若「もっともこれはなんでげすよ、君方《きみがた》がご存じないのも道理、我々|通家《つうか》が愛する食べ物ですかな」
勘「ヘエ、そうですか。だから聞いてみなきゃァわからねえ……お好きなら差し上げやしょうか」
若「けっこう、ちょうだいしやしょう。じつは久しくこの品を食さんから、今日《こんにち》あたりは食してみようかと思っていた矢先でげす」
勘「それじゃァ若旦那召し上がれ」
若「ちょうだいいたしやす。宅へ戻って夕涼みに一酌傾けながら」
勘「イヤ若旦那、そりゃァいけません。ここで召し上がっていただきたいな」
若「ここではいけませんよ。あまりといえば殺風景でげす」
勘「かまいませんよ若旦那、ご遠慮なしに召し上がれ」
若「さようでげすか、それじゃァちょうだいいたしやす」
勘「オウ箸を持ってきな。こりゃァ若旦那のような通人《つうじん》の召し上がるもんだそうだ……サア、若旦那召し上がれ」
若「どうもみなさん、はなはだ失礼でげすが、無礼講で、ここでちょうだいいたしやす。ごめんをエヘン、君方の前でげすが、通家はここを愛しやすよ」
勘「ヘエ、どこを愛しますね」
若「この香りが目鼻へツーンとしみるところがなんともいえぬ贅《ぜい》でげすな。食べ物はすべて口でばかり食すものと思し召すと大ちがいでげすよ」
勘「ヘエ、どこで食いますね」
若「鼻で食しやす。たとえば秋の松茸でげすな、香りがあればこそ、珍重するようなものの、匂いがでげすね、そばへ持って行くとなつかしきところの香りが目鼻へツンツン……オホッホッホ妙でげすな。この香りたるや、我々通家はここを愛しやすよ」
勘「どうぞ若旦那、早く召し上がってください」
若「けっこうちょうだいいたしやす。ごめんを、オホンただこの一刹那《いっせつな》でげす」
勘「おだやかでありませんな、一刹那なぞは、サア召し上がれ」
若「ちょうだいいたしやす、ごめんをこうむって……オッホッホ、妙でげすな、珍でげすね」
勘「召し上がりましたか若旦那、一体これはなんてえ物なんで」
若「君もご存じがないとはけしからんものでげすな、覚えておきたまえ、これは酢豆腐といいやす」
勘「なるほど酢豆腐にちげえねえや、若旦那、妙ならもっと召し上がれな」
若「イエ、酢豆腐は一口に限るものでげす、しかしこれも我々のような通家が食すから、酢豆腐というようなものの、君方が食べれば、腐った豆腐でげす」
[解説]「酢豆腐は一口に限る」でサゲることもあるが、その場合は拍子落ちと言い、「腐った豆腐でげす」までいえば、間ぬけ落ちになる。上方ではこの酢豆腐に似たものをチリトテチンという名前でやっている。
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芋俵《いもだわら》 別名〔芋どろ〕
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毎度お差し合いに出ますが、我々のほうでは泥棒をご祝儀《しゅうぎ》ものにしてあります。なぜだと申しますと、お客を取り込むということで、落語家《はなしか》はろくなことを申しません。
甲「サアこっちへ入《へえ》んねえ」
乙「どうも兄弟《きょうでい》なんだな、この頃はいい仕事がちっとも無くってしようがねえなァ、とてもこれじゃァ泥棒では飯が食えねえから、商売替えをしなけりゃァならねえ、どこかにいい仕事はねえかな」
甲「それはいくらもあるんだ、三丁目に大きなもめん問屋があるだろう」
乙「ウムある」
甲「この間からあすこで仕事をしようと思うんだがな、あすこの家《うち》は旧弊《きゅうへい》な家で、銀行へ決して預けねえから、入りさえすればこっちのものだが、なにしろそのくらいだから締まりがばかに厳重なんだ、表から破って入るということはむずかしい」
乙「ウム」
甲「それについて俺が考えたんだが、誰かひとり店が開いてるうちに中へ入り込んで、夜が更けてから戸を開けるんだ、いくら厳重に締まりがしてあったって、中から開けられちゃァたまらねえだろう」
乙「ダッて明るいうちから人の家へ忍び込んでるわけにゃァいかねえだろう」
甲「そこだ、ちょっと知恵を働かせなけりゃァならねえ、見ろ、隅に芋俵があるだろう」
乙「ウム」
甲「あん中へ人間を入れて、上からサンダラボッチをかぶせてしまやァ誰だって芋俵だと思うだろう、そいつを俺が先棒《さきぼう》でおまえが後棒《あとぼう》になって、天秤《てんびん》を通して担いで行くんだ、あの家の門口《かどぐち》へ行ったら俺がエヘンと一ツ咳払いをするから、そうしたらおめえが、オッあにい待ってくんねえとこういうんだ、なんだなんだなにか話があるなら下ろして聞こう、ドッコイショと、こいつを下ろすんだ、それでなるべく家の中の者に聞こえるように大きな声で話すんだ、どうもとんでもねえことをしたよ、なんだ、芋屋でつり銭《せん》を取って入れたまま財布を忘れてきてしまったとこうおめえがいうんだ、それから俺がケンノミを食わせるんだ、まぬけッ、買い物をして財布を忘れる奴もねえもんじゃァねえか、ダッテあにいがあまりガンガンと急いだもんだからあわてて忘れちまったんだ、それじゃァ仕方がねえ、これから取りにゆこう、だけれどもこんな重い物を担いで行ったり来たりするなァ大変だ、ここへ少しの間置かしていただこうじゃァねえかと、それからあの家へ入って、まことにすみませんが、私どもは町内の者でございますが、こいつが芋屋で買い物をして財布を忘れてきちまやがったんで、これからちょっと行って取ってまいりますが、その間どうかお邪魔でもございましょうが、少しの間お店の前へ置かしていただきとうございます、中は芋でございますといやァ、まさかいやだとも言わなかろう、そのまま帰ってきちまうんだ、夜になっても取りに行かねえ、そうすりゃ預かり物を外へ置いて紛失でもしては面倒だというんで、家の中へ担ぎ込んで土間へでも転がしておいて寝てしまうだろう、夜半《よなか》になって家中《かちゅう》の寝静まるのを待ってサンダラボッチを切って中からヌーッと出てよ、締まりを取って開ける、俺たちが表に待ってて中へ入り、充分に仕事をするという狂言なんだ」
乙「なるほど、そいつはうめえ考えだが、全体中へ入るのは誰だ」
甲「それァおめえに頼まァ」
乙「俺が入ってもいいが、前棒《さきぼう》を担ぐのはおめえだよ」
甲「そうだ」
乙「それで後を担ぐのは誰だ」
甲「おめえだ」
乙「冗談いっちゃァいけねえ、一人で入ったり担いだりできるものか」
甲「アッなるほど、してみるとどうしてもここにもう一人人間がいるわけだな、いいや誰かそこらへ行って頼んでこよう」
乙「ばかなことをいっちゃぁいけねえ、ほかのこととはちがわァ、むやみに頼めるものか」
甲「それもそうだな、困ったなァこいつは……アアちょうどいいや、向こうから親分のところを食いつぶしてるまぬけな奴が来やがった、三人手がそろやァいいんだ、あいつを一ツ俵の中へ入れてやろうじゃァねえか、……オーイ、寄ってけ」
丙「ヤアいるな泥棒」
甲「ばかッ、大きな声で泥棒ッてえ奴があるか」
丙「あるかったって、よく友だちの中じゃァ盗人《ぬすっと》だの泥棒だのというじゃァねえか」
甲「こちとらのような本物に向かっていう奴があるか、気をつけろいまぬけめ、もし目でもつけられたらしようがねえや」
丙「すまねえ、悪いというんならこれから気をつけらァ」
甲「てめえ銭があるか」
丙「銭はねえや、仲間の懐中《ふところ》なんぞ狙っちゃァいけねえじゃァねえか、俺ァ銭なんかいくらも持ってやァしねえ」
甲「てめえたちの懐中なんぞ狙うんじゃァねえや、てめえ銭がなけりゃ、俺たちが金儲けをさしてやろうというんだ」
丙「そりゃァありがてえ」
甲「マアこっちへ来ねえ、いいから耳を貸せよ」
丙「くすぐってえよ、……アアなるほど、それじゃァなんだな、この俵の中へ俺が入ってって、夜になってから戸を開けて、ウンと泥棒するんだな」
甲「いちいち泥棒泥棒というなよ、仕事というんだ」
丙「じゃァ泥棒の仕事かい」
甲「アレッ、両方いってやがる、わかったか」
丙「わかった」
甲「わかったら少しのあいだ窮屈だけれども、その中へ入るんだ……サアいいか、よしよしそうだ、目をつぶってテ、いま上へかぶせると埃《ほこり》が落ちるから……サアこれで芋俵ができあがった、これから天秤を通して担ぐんだ……サア肩を入れたいいか、ドッコイショと、なんだな、ヤケに重いなこいつは」
丙「ヤアこりゃァおもしろいや、なかなかあったかくっていいや、顔へ少し埃がかかるけれどもこのくらい仕方がねえ、よく隙間から外が見えらァ……ヤア向こうから酒屋のシロが来やがった、シロこいこい」
甲「オイオイ俵の中で犬なんぞ呼んじゃァいけねえ、見ろい、犬が俵の周囲をまわって匂いをかいでやがる……ヤア来た来たいいか……エヘン」
乙「オオ忘れた忘れた、忘れ物だ、ちょっと待ってくれ」
甲「なんだなんだ、用があるんならちょっと下ろそう、ドッコイショ、なんだ」
乙「芋を入れた財布を忘れてきたんだ」
甲「なにをいってやがるんだ、芋屋へつり銭を入れた財布を忘れてきたとこういうんだろう」
乙「その通りだ」
甲「その通りじゃァねえや、しようがねえじゃァねえか」
乙「あまりあにいが急いだもんだからあわてて忘れてしまった、これからちょっと取りに行ってこよう」
甲「取りに行くったって、こんな重《おめ》え物を担いで行ったり来たりしちゃァ大変だ、ちょっとお店のかたに頼んでここへ置いていこう、おめえも一緒に行って共々お頼み申せ……エエごめんくださいまし、イエ買い物じゃァございません、町内の者でございますが、ただいま芋を一俵買ってまいったんでございますがね、このまぬけやろうが、財布を芋屋へ忘れてきちまったんで、これからちょっと取りに行ってこなければなりません、ついては重い物を持って行ったり来たりするのは大変でございます、じきに取りにまいりますが、少しの間お店の前へ置かしていただきたいもので」
番頭「それじゃァどうか邪魔になりますから、なるべく早く取りに来てくださいよ」
甲「ヘエじきに取りにまいりますから、しばらくどうかお頼う申します……」
と行ってしまった。
番「定吉や、もう店を締めなければならないが、先刻《さっき》のかたはまだ取りに来ないようだな」
定「ヘエまだ取りにまいりません」
番「町内の者だといったが、あまり見かけない人じゃァないか」
定「ヘイ」
番「しかたがない、預かり物を外へ出しておいて、紛失でもすると面倒だ、明日の朝でも取りにくる気だろうから、とにかく店の中へ入れといてやんな」
定「へいかしこまりました」
小僧には重くって持てないからゴロゴロゴロ転がし始めた。
番「オイオイ寝かして置いちゃァ邪魔になるから、隅のほうへおッ立《たっ》て置きな」
定「ハイ」
ようよう小僧が立てたのはいいが、あいにく逆に立ててしまった、中の泥棒窮屈でしようがないが、どうすることもできない、そのうちにお店はスッカリ片付いてしまった、台所で女中さんと小僧さんが競争で船こぎをしている。
女「定どん、よく居眠りをするね、みっともないから早く寝ておしまいよ」
定「ダッテまだ大旦那が起きていらっしゃるじゃァないか、人のことばかりいったって、自分も居眠りをしているじゃァないか」
女「オヤ、私がいつ居眠りをしたい、私はね、行儀見習いのためこちらへご奉公に来ているのだから、暇さいあればお辞儀《じぎ》の稽古をしているんだよ」
定「アラアラッ、うめえことをいってらァ、ダッテいま両方で居眠りをしていたから鉢合わせをしたんだ、ずいぶんおきよどんの頭は、石頭だから痛かった」
きよ「なにかこんな時には食べるといいんだけれども、あいにく今夜は副食物《おかず》の残りも無いから、困ったね」
定「困ったなァ……アッおきよどんいい物があらァ」
きよ「なんだい」
定「今日ね、夕方お店の前へ芋俵を持ってきて、少しの間預かって置いてくれろといってね、どこかへ行ったきり帰ってこないんだよ、おおかた明日の朝取りに来るんだろうといってね土間へ入れといたんだよ、あいつをソッと盗んできて食べようじゃァないか」
きよ「さつま芋かい」
定「ウム、うまいよ」
きよ「そいつをね、薄く切って焼いて食べるとうまいんだよ、それで残った奴はね、明日の朝の朝ご飯を炊くときに、上へ載っけて蒸《ふ》かすといい工合に蒸かし芋ができるんだよ」
定「ヤアおきよどん、いろんなことを知ってるな、そんなら取りに行くから一緒に来ておくれ」
きよ「じゃァ笊《ざる》を持って一緒に行こう、どこにあるんだい」
定「私が片付けたんだからよく知ってるよ、サアいいかい、こっちだよ真っ暗だから危ないよ……ここだここだ……」
きよ「なにをしてるんだい」
定「いま縄を解いてるんだ」
きよ「そんなことをしちゃァ大変じゃァないか、俵の横ッ腹へ手を突っこんで、引きずり出しゃァいいんだよ」
定「アーなるほど、おきよどんは泥棒馴れてるね」
きよ「ばかにおしでないよ、泥棒馴れてるわけじゃァないが、知恵があるんだ」
定「アッ」
と定吉が大きな声を出した。
きよ「なんてえ声を出すんだね、おどろくじゃァないか」
定「ダッテこのお芋はおかしいや、なんだか柔らかくてへこむんだもの」
きよ「なんだって、柔らかくってへこむ……アアそれじゃァ腐ってるんじゃァないか、そんな柔らかいのはいけないよ、握ってみて堅いのをお出しよ」
定「そうかい……アレアレッ、なんだかおきよどん変だよ、このお芋はあったけえぜ」
きよ「そりゃァきっと日なたへ転がして置いたからあったかいんだよ」
定「ダッテおかしいな、そんなに日なたに置いてあったんじゃァないんだからなァ」
俵の中の泥棒は逆さに置かれたので、苦しがっているところへ、小僧の定吉が股倉《またぐら》へ手を突っこんでモジモジするので、くすぐったくってたまらないが、笑うわけにもいかないから、ウムといきんでこらえる途端に、ブウッ……
きよ「オヤッ、気の早いお芋だ」
[解説]この噺のサゲは、考え落ちである。考え落ちには、長い噺は少なく、たいがい小噺である。ある日武士が飯屋の前を通ると帯から印籠がぬけて落ちた。それを見た飯屋の亭主が「旦那様お支度はいかがです」と勧めたという、これは考え落ちで、つまり腹が減ったから帯がゆるんだのであろう、帯がゆるんだから印籠が落ちたに違いないと考えて飯屋の亭主が、食事を勧めたのだという小噺。また長い物には「疝気の虫」がある、亭主が苦しんでいると頓智のいい医者が、亭主の女房にそばをたくさんたべさせて、そば好きの疝気の虫を、亭主のほうから女房の腹中に移転をさせ、その上で女房に唐辛子水を飲ませると、驚いた疝気の虫があわてて下の方に避難をしようとしたら、畳の上に飛び出してしまったという、これなども考え落ちである。
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鮑熨斗《あわびのし》 〔上方名題〕生貝
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付け焼刃ははげやすいとか申しますがそれに相違ございません。自分の腹にないことを他人《ひと》の知恵でやるのですから、順にうまくゆけばいいけれども、もしそれが逆に来ようものなら、とんでもないまちがいになります。
女房「オイおまえさん、なにを門口《かどぐち》でグズグズいってるんだよ、朝出たっきり今まで一体どこへ行ってたんだい」
亭主「どうもすみません、すみません」
女「すみませんじゃないよ、サッサとお上がり」
亭「お上がりって、また怒るんじゃねえか」
女「怒りもするだろうさ、笑っていられるものかね」
亭「笑っていられるかって、また殴っちゃァいやだよ、いいかい、悪かったらあやまるからね、ごめんよ」
女「おまえさんみたような者はもう殴らないよ、犬を打《ぶ》つようでつまらないから」
亭「ひでえな、犬と一緒にするない」
女「洒落《しゃれ》たことをお言いでない、犬のほうがよッぽど気が利いているよ、とにかく家《うち》には米を食う虫がいるんだからね」
亭「そいつァいけねえ早くつぶさねえと」
女「わからないねえ、その食う米が無いんだよ、今朝のお飯《まんま》だってしばらく間に合わせたんじゃァないか、人間生きているからは食わずにはいられないんだよ、ばかばかしい、マアお坐りよ」
亭「ムム」
女「お坐りよ、私が少し考えがあるんだがね、うまく行けばお金が儲かるんだから一つうまくやってごらん」
亭「なんだいその金儲けというなア」
女「おもての地主さんに今夜ご婚礼があるんだよ」
亭「ヘエー」
女「ヘエーじゃァない、地主さんの息子さんが今夜お嫁さんをもらうんだ、それについてはいずれ長屋で祝い物をするだろうから、こっちはかまわず先まわりをしてしまおうじゃァないか」
亭「なんだい先まわりってなア」
女「なんでもかまわないよ、私の言う通りにすればいいんだよ……そうさね、二円ばかりお魚を買って持って行くんだよ、そうすりゃァおまえなんだァね、地主さまは気前がいいから、おまえなんぞから物をもらいッぱなしにはしないよ、少なくってもお返しに十円くれるだろうと思うんだ、なんのことはない二円持ってって十円もらってくるんだよ、それでお米を買おうじゃァないか」
亭「アアそうか、じゃァ行ってこよう」
女「行ってこようたって家にゃァお銭《あし》がありゃァしないよ、お向こうの吉《きっ》さんのところへ行って借りておいで」
亭「それでも吉《きっ》さんは貸さねえぜ」
女「そりゃァおまえじゃァ貸さないがね、私がそういったといやァきっと貸すからさ……」
甚「いるかい吉さん」
吉「誰だい……甚兵衛《じんべえ》さんじゃァないか、今おまえなんだな、おかみさんに叱言《こごと》をいわれていたな」
甚「アア叱言を言われちまった、けれども、いい塩梅《あんばい》に今日は殴られなかった」
吉「冗談じゃァねえ、男のくせにかみさんに殴られる奴があるものか、みっともねえや、なんだかマアこっちへ上がんな、用かい」
甚「お銭《あし》を貸してくんねえな」
吉「そりゃァ貸してもいいけれどもな、おかみさんがうるせえからな」
甚「今日はいいんだよ、俺が借りるんじゃァねえんだ、我家《うち》のおかみさんがいったんだ」
吉「アアおみつさんがそういったのか」
甚「アアおみつさんがね」
吉「よしねえな、冗談じゃァねえや、いくら要るんだ」
甚「二円だ」
吉「二円……なんにするんだ」
甚「魚を買うんだ」
吉「ヘエー、魚を買うのもいいけれども……マア持って行きねえ、だが一体魚を買ってどうするんだ」
甚「ナニ表の地主のところに今夜婚礼があるんだ」
吉「ウンウン」
甚「それでマア長屋中で祝い物をやるだろう」
吉「そりゃァやるだろう」
甚「かまわねえから俺ンとこじゃァ先まわりをしちまうんだ」
吉「なんだ先まわりてなァ」
甚「二円で魚を買って祝い物に持って行くんだ、地主は気前がいいから十円くれらァ、ソレ見ねえ、二円で十円になるんだ」
吉「あきれちまうね、うめえことを考えやァがったな、おめえンとこのかみさんは抜け目がねえや、海老で鯛を釣ろうてんだな」
甚「ナーニ、二円で十円を釣ろうてんだ」
吉「下らねえことをいうな」
甚「オイ借りてきたよ」
女「早くおしよ、どうしたい……なんだい、二円借りてきたってお銭《あし》を持ってちゃァしようがないじゃァないか、家《うち》へいちいち帰ってくるまでのことはない、魚屋へまわって買っておいでな、どうせ二円じゃァろくな物は買えまいが、そこを見つくろって、なにか体裁のいいものを買っておいで……」
甚「こんにちは」
魚「なんだい甚兵衛さん」
甚「なにか体裁のいいものを一つ負けてくれねえな」
魚「なんだい体裁のいい物ってなア」
甚「ここにあるこの魚は一番大きいね、こりゃァ立派だな」
魚「そんな物を買ってどうするんだ」
甚「婚礼の祝い物にするんだ」
魚「祝え物にはこの魚はもってこいだね、けれどもこの魚は高《たけ》えよ、負けたところで十五両だね」
甚「すまねえが負けてくんねえか」
魚「いくらに負けるんだ」
甚「二円だ」
魚「十二円にか」
甚「ナニただの二円だ」
魚「冗談いっちゃァいけねえ、俺ンとこじゃァ腐った物を売るんじゃねえ」
甚「そうか、腐ってんじゃァねえのか」
魚「あたりめえよ、ふざけちゃァいけねえ、それじゃァなんだな、二両で婚礼の祝え物をこしらえようてんだな、困ったな」
甚「そこにある小せえのはいくらだ」
魚「そりゃァめざしじゃァねえか、婚礼の祝え物にめざしなんぞを持ってゆく奴があるもんか……待ちなよ、ここに鮑《あわび》が三ばい残っている、これを負けてやろうじゃァねえか、二両じゃァ元が切れるんだけれども仕方がねえ、おめえのことだから負けてやらァ、こいつをこうして籠《かご》へ入れてみねえ、どうだちょっと工合《ぐあい》がいいだろう」
甚「これを持ってゆきゃァ先方で十円くれるだろうね」
魚「どこで」
甚「地主だ」
魚「そりゃァどうか知らねえ」
甚「もしくれなかったらおめえ立て替えてくれるか」
魚「冗談いっちゃァいけねえ、マアなんでもいいから持ってゆきねえ」
甚「じゃァここへ二円置くよ、さようなら」
女「またぐずぐずしてやがる、早くおしよ、なにかあったかい……アア鮑かい、いい物があったね、じゃァ私が口上《こうじょう》を教えてあげよう、おもてから行っちゃァいけないよ、裏口から行くんだよ、黙って持って行っちゃァいけない、旦那にお目にかかってね、まことにお日柄《ひがら》もけっこうでございます、こちらさまでもおめでとうございます、いずれ長屋中からはお祝いにまいりましょうが、これは私のホンの心ばかりのお印でございますと、こういって持ってゆくんだよ」
甚「むずかしいな、この間のじゃァいけねえかな」
女「なんだいこの間のってのは」
甚「伯母さんのところへ行ってやった奴が、あれならチャンと覚えているんだ、お騒々しいことでございますいい塩梅に下火になりましてけっこうでございます」
女「なにをいってるんだね、そりゃァおまえ火事見舞いじゃァないか、火事見舞いとご婚礼のお祝いと一緒にする奴があるものかね、よく覚えてなくっちゃァいけないよ、まことにお日柄もけっこうでございます、こちらさまでもおめでとう存じます。いずれ長屋中からもお祝いに出ましょうが、これは私の心ばかりでございます……しっかりやっておいでよ」
甚「じゃァ帰りにお米を買ってこようか」
女「そんなことは後でもいいよ、早くやっておいでよ」
甚「なんだかどうもばかにむずかしいな……アアここが裏口だな、ごめんなさいよ」
主「アアどなたか来なすったようだな、どなただえ」
甚「ハイごめんくださいまし」
主「アア甚兵衛さんかえ、マアこっちへお入り、おもてから入ればいいのに」
甚「ヘエ、おもてから来ると少し都合が悪いもんですから」
主「なにかご用があっておいでかい」
甚「ヘエ、チャンとお低頭《じぎ》をするんでございます」
主「これはご丁寧に、マアなんだかこちらへお上がり」
甚「ヘエ、これからその口上なんでございます」
主「なんだかおかしいね、なんの口上を言うんだい」
甚「その口上がむずかしいんでございます、そのお騒々しいことで」
主「なんだい」
甚「エヘン、まことにそのおめでとうございます、こちらさまでもソノ、エーと、お日柄もよろしくっておめでとうございます」
主「なにをいってるんだかわからない」
甚「いずれ長屋中からでもなんでございましょうが、これは私の心……心ばかりのお祝いでございます、これを持ってきました」
主「アアわかりました、家へ今日嫁が来るというのでお祝いを持ってきてくだすったのか、それはそれはけっこうな物をありがとう存じます……アノ鮑ですか甚兵衛さん」
甚「ヘエ、さようで鮑で」
主「お帰んなすったらおかみさんによろしく言っておくれよ、なにかおかまいをするんだが、なにをいうにもこの通り取り込んでいるから、いずれそのうちにお呼びするから、ゆっくり遊びにおいでなさい」
甚「ヘエ、いずれ長屋中からお祝いに出ましょうが、これはホンの私の心ばかりのお印でございます」
主「ダカラお礼をいっているじゃァないか、どうかおかみさんによろしく言っておくれよ。なにかおかまい申したいが、この通り今日は取り込んでいるから、またゆっくり遊びにおいで」
甚「旦那忘れちまったんですか」
主「なにを」
甚「ダッテ家のおかみさんがいったんで」
主「なんといった」
甚「地主の旦那さまは気前がいいから、これを持ってゆくと十円くれるといったんで、ダカラおくんなさい」
主「これはおどろいたね」
甚「おくんなさい」
主「手を出したのはよかったね、それじゃァなにかい、これを私のところへ持ってくれば、私が気前がいいから十円くれると、おまえさんのおかみさんがいったのかい、甚兵衛さん、これはおまえさんが魚屋から買ってきなすったのかい」
甚「ヘエそうでございます、二円に負けてもらいました」
主「そんなことはどうでもいいが、おかみさんに見せておいでかい、それともズーッと持ってきなすったか」
甚「ヘエおかみさんに見せたんでございます、そうしたらいい物があったねといっておりました、それから口上を教えてくれたんでございます」
主「こりゃァおどろいたね、おまえのおかみさんはじつにえらいね、口も八丁、手も八丁、なんでもできるおかみさんだ、抜け目のないえらいおかみさんだ、これをおまえさんが魚屋で買ってすぐ持ってきたんなら、おまえだと思うから黙って受け取る、しかしいっぺんおかみさんに見せたとなると、こりゃァ少しもらいにくい」
甚「どういうわけで」
主「私はこんなことを言いたかァないが、磯の鮑の片思いということをよくいうじゃァないか、今日は婚礼がある嫁をもらうというのに、片思いはおもしろくないと思うんだ、持ってくる物にことをかいて、こんな物を持ってくる奴があるものか、サッサと持って帰れ」
というと、ポーンとほうり出してしまった。
甚「アアッ、旦那旦那、困るじゃァありませんか乱暴をしちゃァ、転がり出しちゃった、……オヤオヤ、三ツだと思ったら四ツ入ってやがった」
主「それは一ツ猫の椀が入ってるんだ」
甚「アアそうか」
主「そうかじゃァない、早く帰れ」
甚「ヘエさようなら、こりゃァ大変なことになっちまったよ、我が家へ帰るとおかみさんが怒るだろうな」
頭「オイ誰だいそこにぼんやりしているのは、甚兵衛さんじゃァないか」
甚「ヘヘ頭《かしら》ですか」
頭「頭じゃァない、生き物を持っている奴が、ノソノソしていちゃァしようがねえじゃァねえか、腐ってしまわァ、どこへ持ってゆくんだ」
甚「今夜地主のところに婚礼があるんで、それから祝い物にこれを持って行ったんだ、すると地主が磯の鮑の片思いで縁起が悪いといってほうり出したんだ、家へ帰ればおかみさんに殴られるかも知れねえ、第一これを地主が受け取って十円くれなきゃぁ、我家《うち》へ行ったって米を買うことができねえんだ」
頭「それじゃァなにか、その祝い物を持ってって、そのお返しに十円もらって、それで米を買おうというのか、なるほどうまいことを考えやがったな、おかみさんが考えたのかそれを……おまえのおかみさんは相変わらず抜け目がねえな、また地主もばかじゃァねえか、知らずに持ってったんだ、もらっとくがいいや、甚兵衛さん俺がいいことを教えてやる、なんだ、かまわねえからもういっぺん地主のところへ行くんだ」
甚「ヘエ、殴られやァしませんか」
頭「大丈夫だよ、しっかりやるんだぜいいか、地主に聞いてやるんだ、おまえさんところに今夜婚礼がありますが、さだめてほうぼうからお祝い物が来ましたろうね、とこう聞いてやるんだ、まずあすこらだ、ウンと来らア、祝い物が来るといったらね、祝い物にはみんな熨斗《のし》が付いてきますが、その熨斗はもらってお置きになりますか、お返しになりますかとこう聞いてやるんだ、返すもんじゃァねえから、きっともらっておくと言うにちげえねえ、そうしたらかまわねえから、尻をまくるんだ」
甚「ヘエ、尻をまくるんで」
頭「グイッと尻をまくってそういってやれ、ふざけやがって、てめえ熨斗をもらっておきやァがって、なぜ俺の持ってきた鮑をもらわねえんだ、とこういってやるんだ、これからが肝要《かんじん》なんだから甚兵衛さんよく覚えとかなくっちゃァいけねえよ、この鮑という物はな、海女が取るんだ、女に限るんだそうだ、取った鮑を釜でゆでるんだ、それから薄刃の庖丁で、スーッと薄く裂くんだな、そいつを蓆《むしろ》の上へ列《なら》べて置く、その上へ夫婦が一晩寝るんだ、それがめでたく熨斗になるんだ、熨斗の元は鮑だ、それだのになぜ熨斗をもらっておきながら鮑をもらわねえんだと掛け合うんだ、そうして二十円もらって来ねえ」
甚「ありがてえな、二十円もらうなア」
頭「欲ばっちゃァいけねえ……お待ちお待ちあんな野郎だ、また他のことを聞かねえとも限らねえ、仮名《かな》で|のし《ヽヽ》と書くのがある、それはどういうわけだと聞くかも知れねえ、そうしたらこれは鮑の剥《む》きかけでございと言いねえ、梨の皮でも柿の皮でも剥いたのを見るとみんな頭がのしという字になっている、ダカラこれは鮑の剥きかけでごぜえますといってみろ、二十円になるから」
甚「もしくれなかったら頭がくれるかい」
頭「欲ばっちゃァいけねえ、マア行って来ねえ」
甚「ありがとう……また来たぞ」
主「困った奴だな、またやって来やがったどうもうるさいな、なんだ」
甚「少し聞きたいことがあるんだ」
主「なにをッ」
甚「おまえさんとこじゃァいろいろ祝い物が来るだろう」
主「そりゃァほうぼうからいろいろ祝ってくださる」
甚「その祝い物に付いてくる熨斗をもらっておきなさるか、お返ししなさるか」
主「おかしなことを聞くな、熨斗はめでたい物だからおもらい申しておく」
甚「サアしめたぞ、尻をまくるぞ」
主「なんだ、とんでもない真似をしやァがる、なんてことをするんだばか野郎、勝手にしやがれ」
甚「その熨斗だ、その熨斗をもらっておきながらオレの持ってきた鮑をどうして返すんだ、ここが肝要《かんじん》なんだ、よく覚えておけ、鮑は海女が取るんだ、それを釜へ入れてゆでてから薄刃の庖丁で裂くんだそれを蓆の上に並べて置くその上へ夫婦が一晩寝るんだぞ、サア鮑熨斗ができるめでたいんだ、なぜ熨斗をもらって鮑をもらわねえんだ、サア二十円出せ」
主「これはおどろいた、因縁を付けに来やがった、なるほど熨斗は鮑でこしらえるということは、かねて聞いていたが、そういうわけのものか、それは私が気がつかなかった、いいよ、それじゃァ望み通り二十円あげるがね、その前に少し聞くことがあるよ、あすこにたくさん祝い物が積んであるが、あの中に仮名で|のし《ヽヽ》と書いたのがあるがありゃァなんだいやっぱり鮑かい」
甚「フフン、また五十銭取られるのを知らねえな」
主「なんだって」
甚「あれは鮑の剥きかけでござい」
主「なんだって」
甚「柿でも梨でも剥きかけをごらんなさい、頭が|のし《ヽヽ》という字になっております」
主「えらいな、鮑の剥きかけはよかったな、それじゃァ甚兵衛さんもう一ツ尋ねるがね」
甚「もういいじゃァありませんか、なんなら十円に負けらア」
主「負けなくってもいいよ、同じ仮名で書いたのにも、一本杖を突いた|のし《ヽヽ》という字があるが、あれはなんだい」
甚「杖を突いてるなァなんで……」
主「あれはなんだ」
甚「鮑のお爺さんでございます」
[解説]この噺を上方でやると「生貝」で、亭主の名前は喜イ公であるが、また甚兵衛さんでやっている人もある。上方から東京に渡ったものらしい。サゲはまぬけ落ち。
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錦名竹《きんめいちく》
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エエ相変わらずお罪のないお笑いを一席申しあげます。この落語のほうでは馬鹿が立て物でございまして利口が三枚目へまわります。お芝居のほうは利口が立て物で馬鹿が三枚目へまわります。すべてが反対でございます。もっとも普通の人間ばかりこれへ出ましたのでは少しもお笑いになりません。一人が利口で相手が愚かしい人間が出てまいりますと、そこに変わったおかし味が出てまいります。
主人「オイ長松《ちょうまつ》や、どうしたのだ……マアたいへんなほこりだなァ」
長松「ヘエ、今おもてを掃いていますので」
主「オイオイこの乾いているところをパッパッとほうき先をあげて掃くものがありますか、なぜ掃く前に水を打たないのだ、見なさい、向こう三軒両隣でどんなにご迷惑をなさるか知れやァしない、第一におもてをご通行なさる方が目を開いて歩くことができやァしない、こんなに乾いている時は先に水を打っておいて、それから掃かなければいけませんよ」
長「ヘイヘイ、かしこまりました」
主「オイオイ、そんな水の打ち方がありますか、ソラ見なさい、お通りのお方へ水をかけてしまった、ヘエ、どうも相すみません、どうぞご勘弁を願います、ばかめ、なぜこっちを向いて水をまかないのだ、おもてから内の方を向いて水をまいていればお通りの方が後ろへまわってお通りなさらァ、それをこっちからおもてへ向いてまくから人さまにかかるのだ、第一お通りの方の裾へ水をかけるというのはあるが、きさまのは胴中《どうなか》へかけやァがったんだ」
長「アアずいぶん骨が折れた」
主「骨を折って水を人にかける奴があるか、こっちを向いてまきなさい」
長「ヘエ……ヤアッ」
主「アッ、ばか、それじゃァ内へ水が入ってしまわァ、もうよしなさい……見やァがれ店じゅう水だらけだ……二階で片付け物をしたのでだいぶほこりが出た、ちょっと掃いて取っておいてくんな」
長「ヘエヘエ」
主「なんだバケツを持って二階へあがって、そのバケツは雑巾掛けに使うバケツじゃァないよ」
長「ヘエ掃く前に水をまきますので」
主「オイオイ二階へ水をまく者がありますか」
長「それでもさっき旦那が、こんなに乾いている時は掃く前に水をまいてとおっしゃったから、二階を掃く前に水をまきますので」
主「ばか野郎め、二階へ水をうつ奴がどこにある、うっかり小言もいわれやァしねえ、内も外も一緒にしていやがる……サアサア早く掃いてしまいなさい……イヤどうも愚かな奴を使うのは骨の折れるものだ」
長「ヘエ、掃いてきました」
主「たいそう早いなァ、いけぞんざいな掃き方をしたのだろう……少しお店に居ておくれ、俺は奥で調べ物をするのだから……だれか来たら奥へ取り次がなくってはいけませんよ、自分で取り計らってはまちがいになるから、何事でもお取り次ぎなさいよ」
長「ヘエかしこまりました……イヤどうもうちの旦那さまぐらい小言の好きな人はないナァ、朝起きるとすぐに小言をいっているよ、夜寝るまでやすみなしだ、あんなに小言をいってなにが楽しみなんだろう、俺の顔さえ見りゃァすぐ小言をいうんだもの俺が居なかったらどうするだろう、俺が一日居ないと小言がいわれないで困るだろうなァ、オヤオヤ雨が降ってきたよ、大きな粒の雨だナァ、そら豆ぐらいあるよ、……ヤアみんな駈け出したなァ、どうだいアノひと早いなァ、あんなに駆けて行たって先のほうだって雨が降っているよ、オヤオヤ乳母《おんば》さんがあんまりあわてて駈け出したものだから転んだよ……ヤッ坊ちゃん放り出してしまったよ、アアあわててさかさまに抱いたよ、ヤァ魚屋さんうまいことを発明したなァ、盤台《ばんだい》を頭へのせて笠《かさ》の代わりにして腕組みをして、すまして歩いて行くよ、オヤオヤ学校の帰りの子供がおおぜいで駈けて行くよ、アア風呂敷をかぶった女の人……アッびっくりした……なんだえ」
◎「少しお店を貸してください……にわか雨に傘を持たないのでひどい目にあってしまいました、まさか降ろうとは思わなかったんで……すっかり油断したので、びっしょ濡れになってしまったので、どうすることもできねえんで困りました」
長「オヤオヤ濡れたねえ、傘がねえからだね、傘を貸してあげましょうか」
◎「ヘエ、どうぞお悪いのでよろしゅうございますか、拝借ができますれば助かります、すぐにお返しに持ってあがります、一本お貸しなすってくださいな」
長「サアこれを持っておいでなさい」
◎「エッ……この傘はまだ新しいお傘ですが」
長「いいから持っておいでなさいな」
◎「ヘエ……それではあんまりなんですから、もっと悪いのでよろしゅうございますから」
長「いいよ持っておいでよ」
◎「さようですか、それではお借り申してまいります、おかげさまで助かります、ありがとう存じます」
長「ヤア喜んで行きやァがった」
主「オイ長松や」
長「へエ…ご用ですか」
主「だれか来たのかえ」
長「ヘエ雨宿りが来たんですよ」
主「アアそうかえ、大降りになったのう、なんだえ雨宿りが来たってだれもお店においでがないではないか」
長「エエ傘を貸してやったんで帰っていってしまいました」
主「貸し傘を奥へ取りに来なかったじゃないか、お店に貸し傘が出ていたかえ」
長「イイエ貸し傘は出ておりませんでしたよ」
主「おまえいつ取りに奥へ来たんだえ」
長「奥へなんか取りに行きません」
主「奥へ来なくってどこに傘があったえ」
長「さっき傘屋から出来てきた渋蛇《しぶじゃ》の目の傘です」
主「エッ、あれは俺のさし料の傘じゃァないか」
長「あれを貸してやったんですよ」
主「いけねえナァ……まだ出来てきていっぺんもさしはしないじゃァないか、それを他人《ひと》に貸すということがありますか」
長「それでも雨宿りの人が傘がなくってびしょ濡れになって困っていたもので」
主「どこの人だえ」
長「どこの人だか知らない人で」
主「知らねえ人に傘を貸す奴があるかえ」
長「喜んで持っていったァ」
主「しようのない奴だナァ……ナゼ断わらないのだ」
長「なんと言って断わるんです」
主「幾歳《いくつ》になるんだ……傘ぐらい断わることができない奴があるかナァ、これからもあることだ、知らない人が傘を貸してくださいと言ってきたら、手前どもにも貸し傘はたくさんにございましたが、過日《このあいだ》の長雨にみなさまへお貸し申しましたので、紙は破れますし骨は折れましたので、縄で束ねて物置へ投げ込んでございます、お持ちになってもお役に立ちませんからお気の毒さまですがお断わり申し上げます……とこう言えばいいのだ」
長「ヘ……私どもにも貸し傘もたくさんにございましたが、過日の長雨でみなさまにお貸し申しましたので紙は破れ骨は折れましたから縄で束ねて物置へ投げ込んでございますから、お持ちになってもお役に立ちますまいから、まことにお気の毒さまですがお断わり申します」
主「ウムそれでいいのだ……なにか来たら奥へ取り次ぎなよ」
長「ヘエ……また叱られた」
○「オイ長松どん、土蔵《くら》へねずみを閉め込んでしまったんだ、サアこればかりは人間|業《わざ》にゆかねえんだ、家の猫を貸しておくれな……猫を借りに来たんだ」
長「オヤオヤ今度は猫を借りに来たな……よしよし断わってやろう……手前どもにも貸し猫もたくさんにございましたが、過日の長雨にみなさまにお貸し申しましたので紙は破れ骨は折れて役に立ちませんから縄で束ねて物置へ投げ込んでございます、お持ちになっても役にたちますまいからお断わり申します……」
主「ばか……傘と猫を一緒にする奴があるか、ナゼ貸してあげないのだ、また先様に子供でもいておもちゃにでもされては可哀相だと思ったら、猫らしい断わりようをしなさい」
長「ヘエ猫らしい断わりようって、どんな断わり方をするんです」
主「ばか野郎、猫ひとつ断わることができないって、なさけない奴だ、手前にも猫は一匹おりますが、畜生のあさましさ、やりもいたしませんお魚を生で食べましてお腹《なか》の工合を悪くいたしましたので、薬を飲ませて寝かしてございます、お連れになってもお役には立ちますまい、お座敷へ粗相《そそう》でもいたしますといけませんからお断わり申し上げます、……このくらいのことが言えないでどうするのだ」
長「アア、訳はねえや」
主「だれが来ても取り次がなくっちゃいけないよ」
長「ヘエ、また叱られてしまった……小言が好きなんだねえ」
△「ヘエ、ごめんください……」
長「なんだい」
△「私は神戸《かんべ》から出ましたが、道具のことにつきまして旦那さまにちょっとお顔をお借り申したいのでございますが」
長「エッ、旦那の顔が借りたいのかい」
△「ヘエちよっとお顔をお借り申したいので」
長「サアたいへんだぞ……旦那の顔を借りたいって、旦那の顔は取りはずしにはならねえぞ、イイヤ断わってやろう……エエ旦那も家に一匹おりますが、畜生のあさましさ、やりもいたしもせん魚を生で食べましてお腹を悪くいたしましたので、薬を飲ませて寝かしてございますからお断わり申しあげます、お連れになりましてもお座敷へでも|そそう《ヽヽヽ》をいたしますといけませんから」
△「ヘエそれはとんだことでございます、一向に存じませんものですからお見舞も申しあげませんで相すません、いずれ主人が改めてお見舞にうかがいます、どうぞお奥へよろしく願います」
長「さようなら」
主「オイ長松やどちらかおいでになったかえ」
長「ヘイ、来ましたよ」
主「なんだえ来ましたとは、どちらがいらしったんだえ」
長「アノ神戸さんから来たのです、アノ旦那の顔を借りたいって」
主「ウム私に顔が借りたいって来なすったのか」
長「エエそれから考えてみたが旦那の顔は取りはずしになりませんねえ」
主「ばか、面《めん》じゃァあるまいし、人間の顔が取りはずしになりますか」
長「それから断わった」
主「エエまた変な断わりようをしやァしないか」
長「ちゃんと立派に断わりましたよ」
主「なんといって断わったんだえ」
長「ヘエ、……旦那も家に一匹おりますが」
主「コレコレ旦那が一匹とはなんだ」
長「畜生のあさましさにやりもいたしませんお魚を生で食べまして」
主「オイみっともないことをいうなよ」
長「お腹の工合を悪くいたしましたので薬を飲ませて寝かせてあります、お連れになりましてもお役に立ちますまい、お座敷へでも|そそう《ヽヽヽ》をいたしますといけませんからお断わり申します」
主「マアどうもあきれた奴だなァ」
長「そうしたら一向に存じませんのでお見舞にもあがりませんでした相すみません、主人が改めてお見舞にあがりますと、いって帰りましたから今に向こうの主人がお菓子の折か何か持ってお見舞に来るよ……アア儲かるな」
主「ばか……見舞になんぞ来られてたまるものか……オイオイお松や羽織を持ってきておくれよ、ちょっと神戸さんへ行ってきますよ」
女房「ハイすぐにいらっしゃいますか」
主「アア行ってきますよ……お店はばかが一人だからおまえ気をつけておくれよ、また長松は何が来てもすぐに奥へ取り次がなくってはいけませんよ」
長「ヘエかしこまりました……いっていらっしゃい」
女「なにか来たらすぐ私に知らしておくれよ、自分で取り計らってはいけないよ」
長「ヘエかしこまりました」
女「たのむよ」
長「ヘエ……アアこれで安心だよ……小言のいい人《て》がないんだから」
男「エエごめんやす」
長「エッ……ゴメン屋じゃァないよ、暖簾《のれん》に書いてあるよ伊勢屋というのだよ」
男「ヤッ家の名を問うのではごわりまへん、わいは中橋《なかばし》の加賀屋左市《かがやさいち》方から出た者でござりますが、仲買いの弥市《やいち》取り次ぎました道具七品のことで参じました、祐乗宗乗光乗《ゆいじょうそうじょうこうじょう》三作の三所物《みところもの》、備前長船《びぜんおさふね》の住則光《じゅうのりみつ》、横谷宗眠《よこやそうみん》四分一《しぶいち》こしらえ小柄《こづか》付きの脇差し、柄前《つかまえ》が|たがやさん《ヽヽヽヽヽ》じゃというてでございましたが、ありゃあれ埋木《うもれぎ》で木がちごうておりますさかい、ちょっとお断わり申しあげます、自在は黄蘖山錦名竹《おうばくさんきんめいちく》、ズンドの花活けには遠州宗甫《えんゆうそうほ》の銘がございます、織部《おりべ》の香合《こうごう》、温古《のんこう》の茶碗、古池や蛙《かわず》飛び込む水の音と申しまする風羅坊正筆《ふうらいぼうしょうひつ》の掛物、沢庵木庵隠元禅師《たくあんもくあんいんげんぜんじ》張りまぜの小屏風は、わいが旦那の旦那寺《だんなでら》が兵庫にございます、その兵庫の坊主のえらい好みまする屏風やさかい、兵庫の坊主の屏風にいたしまする、このようにお断わり申しまする」
長「ヤァおもしろいや……一銭やるからもういっぺんやってみな」
男「ヤァわいは銭もらいやおまへんゼ、わいはなァ中橋の加賀屋左市方から出た者でございますが、仲買いの弥市取り次ぎました道具七品のことで参じました、祐乗宗乗光乗三作の三所物、備前長船の住則光《じゅうのりみつ》、横谷宗眠《よこやそうみん》四分一こしらえ小柄付きの脇差し、柄前《つかまえ》が|たがやさん《ヽヽヽヽヽ》じゃというてでございましたが、ありゃあれ埋木で木がちごうておりますさかいちょっとお断わり申しあげます、自在は黄蘖山錦名竹《おうばくさんきんめいちく》、ズンドの花活けには遠州宗甫の銘がございます、織部の香合、温古《のんこう》の茶碗、古池や蛙飛び込む水の音と申しまする風羅坊正筆《ふうらいぼうしょうひつ》の掛物、沢庵木庵隠元禅師張りまぜの小屏風、あの屏風はわいの旦那の旦那寺が兵庫にございます、その兵庫の坊主の好みまする屏風やさかい、兵庫へやって坊主の屏風にいたしますると、こないにお断わり申しまする」
長「ヤア評判評判」
女「コレコレなにをいっているの、オヤいらっしゃいまし、どちらからおいででございますか、この者が愚かでございますからなにか失礼なことでも申しあげましたでございましょうが、私がお詑びを申しあげます、どうかご口上の趣《おもむき》を私に仰《おおせ》せ聞きを願います」
男「アアあんたはん、こっちゃのお家内《いえ》はんですか、イヤどうもわからん丁稚《でっち》はんじゃ……わいは中橋の加賀屋左市方から出た者でごわりまする、仲買の弥市取り次ぎました道具七品のことで参じました、祐乗宗乗光乗三作の三所物、備前長船の住則光、横谷宗眠|四分一《しぶいち》こしらえ小柄付きの脇差し、柄前が|たがやさん《ヽヽヽヽヽ》じゃというてでござりましたが、ありゃあれ埋木で木がちごうております、自在は黄蘖山錦名竹《おうばくさんきんめいちく》、ズンドの花活けには遠州宗甫の銘がござります、織部の香合、温古の茶碗、古池や蛙飛び込む水の音と申しまする風羅坊正筆《ふうらいぼうしょうひつ》の掛け物、沢庵木庵隠元禅師張りまぜの小屏風、あの屏風はわいの旦那の旦那寺が兵庫にござります、その兵庫の坊主の好みまする屏風やさかい、兵庫へやって兵庫の坊主の屏風にいたしまするとこないにお断わり申しまする」
女「長松やナゼお茶を持ってこないの、早くお茶をお持ちなさいな、アレ、ナゼ猫を蹴るのだよ、お客さまがいらっしゃればお茶をあげるのはきまっていることじゃァないか早くさ……アノまことに失礼をいたしました、小僧に用を申し付けておりましたのでご口上をちょっとうかがいもらしましたが、恐れ入りますがどうぞもう一度うかがいたく存じますが」
男「エッ……あなたにもおわかりになりまへんか……アアどうもえらいことになったなァ……どうも口が酢っぱくなって咽喉《のど》がひりひりしてきました」
長「そうだろう、俺は耳がガンガンしてきた」
女「なにをいっているんです早くお茶を持っておいでなさい…あなたどうぞもう一度」
男「ハイ……エエ……わいは中橋の加賀屋左市方から出た者でございまする、仲買いの弥市取り次ぎました道具七品のことで参じました〔これよりだんだん早口になる〕、祐乗宗乗光乗三作の三所物、備前長船の住則光、横谷宗眠四分一こしらえの小柄付きの脇差し、柄前が|たがやさん《ヽヽヽヽヽ》じゃというてでござりましたが、ありゃあれ埋木で木がちごうておりますさかいちょっとお断わり申しあげます、自在は黄蘖山錦名竹、ズンドの花活けには遠州宗甫の銘がござります、織部の香合、温古の茶碗、古池や蛙飛び込む水の音と申しまする風羅坊正筆の掛物、沢庵木庵隠元禅師張りまぜの小屏風、あの屏風はわいの旦那の旦那寺が兵庫にござります、その兵庫の坊主の好みまする屏風やさかい、兵庫へやって兵庫の坊主の屏風にいたしますると、こないにお断わり申しまする……さようならよろしく」
女「アアモシモシちょっと……アア一人で承知をして行ってしまったよ……おまえはたびたび聞いていたからアノ人の言ったことはわかっているだろうね」
長「ありゃァ中橋の加賀屋さんのお使いですよ」
女「それは知れているがサ……アノご口上がわかっているかと聞くのだよ」
長「アンナ唐人《とうじん》のいうことはわかりやしないよ」
女「しようがないねえ、アア旦那さまがお帰りになったよ、お帰り遊ばせ」
主「ハイ今帰りました、なんだえおまえさんお店へ出てだれか来たのかえ」
女「ハイ……アノ加賀屋さんからお人でした」
主「フム……なんだって」
長「アノ仲買いの弥市が気がちがってたって」
主「エッ、弥市が気がちがったって」
女「へエ……アノ親船で備前の国へ帰ってしまいますって」
主「エエ備前の国へ帰ったって」
長「それからね遊女を受け出してズンド切りにしたいって」
圭「気ちがいだなァそんなことを口走って」
女「アノ、沢庵と隠元豆でご飯を食べたいって」
主「ソンナことを俺のところへいってこなくってもいいじゃァねえか」
長「これから屏風を立て坊さんと寝たいといっていますと」
主「ウム……気ちがいという者はおかしなことをいうものだなァ」
女「それから、アノのん気なところで茶番がしたいと申しましたと」
主「ヘエ……」
長「アア旦那……古池へ飛び込んでしまいましたと」
主「エッ、道具を買えといいつけておいたが……かったかしら」
女「イイエ、|かわず《ヽヽヽ》でございます」
[解説]笑いの連続で人物も多く、早口のくりかえしが弁舌の練習にもなるので、前座用には好適とされている。
このサゲは「蛙《かわず》」と「買わず」の地口とは言え、仕込みと、ぶッつけ落を兼ねた気の利いたサゲである。|のんこう《ヽヽヽヽ》の茶碗は、楽の三代目吉左衛門|道入《どうにゅう》の作をのんこうと言うので、古池やの句も、わざと芭蕉といわず、風羅坊というところなどにも作者の苦心がうかがわれる。大体この作は、狂言の「骨皮新発意《ほねかわしんぱち》」からとって、寛政時代の落語家|石井宗淑《いしいそうしゅく》が初めて発表したものらしく、それを多くの落語家がおいおいと肉をつけて行き、今日のように長くしたものである。
このごろは新作が多く行なわれるから、これを手がけない落語家も多くあるが、以前この道に入る者で、この噺をやらない者はおそらくなかったということである。天晴れ名作である。
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火焔太鼓《かえんだいこ》
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徳川さまご繁昌のころ、銀座に吉兵衛《きちべえ》さんとおっしゃる道具屋さんがございました。道具屋さんもいろいろありますが、お店へけっこうなお道具をお列べになって、盆栽かなにか間へお置きなすって、おもてへ水でも打たせて、キチンとしていらっしゃれば商いをしながらお楽しみがございます。そういう道具屋さんになるとけっこうでございます。
どうもガラクタ道具屋さんになると見たところがまことにきれいでない。寒さに向かってくると、障子の骨の折れたのなぞが、いよいよ俺が世の中へ出るんだというような格好をして立て掛けてある、こっちには行燈《あんどん》のこわれたのがあり、火鉢の落としのないの、焙火《あんか》の縁《ふち》の取れたのなどが飾ってあるという、あまりいいものではございません。
銀座の吉兵衛さんはそれほどひどいのではございませんが、たいしていいほうでもない、中くらいのところで……。ある日のこと、買い出しにまいりますと、どうもいい道具がございません。太鼓の古いのが一つあります。火焔太鼓の飾りの取れたやつでだれも手の出し人《て》がございませんから、吉兵衛さんが三分二朱という札を入れると、落ちた、これを買って家へ帰ってまいりまして、
吉「いま帰った」
女房「オヤお帰んなさい、今日はどうだったい」
吉「どうにもこうにも、ろくな物はねえ、空《から》を踏んで帰るのも癪《しゃく》だから、太鼓を買ってきた」
女「なんの太鼓」
吉「火焔太鼓さ」
女「なんだってそんな物を買ってくるんだねえ、ばかばかしいじゃァないか、よっぽどおまえさんもトンチキだよ、……アラマアきたない、いやな太鼓だねえ、いくらだえ」
吉「三分二朱《さんぶにしゅ》だ」
女「いくつで」
吉「ひとつさ」
女「マアどうもおまえさんは商いが下手になったよ、こんな太鼓を三分二朱で買うなんて、いっそ道具屋をやめて、焼芋屋でもするほうがいい、とても道具屋ではお飯《まんま》を食べてゆくことはできないよ、それとも強情に道具屋をするなら私に離縁をしてください、ご飯を食べずにはいられない、いやだいやだアアいやだ」
吉「なにをいってやがる、人をばかにするな」
女「ばかにするなって、そんな物しようがないじゃァないか……、長松《ちょうまつ》や、こんなきたない物を飾っておくと、ほかの品物が悪く見えるから、どこか棚へでも上げてお置き」
吉「長松や、いま買い出したばかりだ、店の真ん中へ飾っておけ」
女「端へお置き」
吉「真ん中へ置け」
女「端へお置き」
吉「真ん中へ――置けッ……」
長「なんだ号令をかけてらァ、どうすりゃァいいんだ……ダガほんとうにオレんとこの旦那は買い出しは下手だよ、こんな物を三分二朱で買ってくるなんて、おかみさんの怒るなァ道理《もっとも》だ、おかみさんは端へ置け、旦那は真ん中へ置けという、こうなると小僧は間へ入って困ったなァ……どっちへ置いたらよろしかろ、チャチャ、チャンチャンチャンチャン」
吉「なにをいってるんだ」
長「へエ……叱言《こごと》をいったってしようがあるもんか、鳴るか知らん、破れてれば音がしないヤッ」
……ドドン……
吉「長松、その売り物を店でたたいてはいけないよ」
長「たたいたんじゃァございません、掃除をしようと思ったら、采配《さいはい》の柄《え》がちょっと当ったもんだから」
……ドドーン……
吉「コレたたくんじゃァない」
長「イエたたきやァしません」
ドドドン……
吉「コレッ」
長「ヘエ」
ドドドドン
音「コレッ」
長「ヘエ」
ドドドドン……ひどい奴があるもので、叱言を合図にドンドンたたいておりましたが、ちょうどこの吉兵衛さんのお店の前をお通りになりましたのは、赤井御門守《あかいごもんのかみ》様、金紋先箱《きんもんさきばこ》二本道具で、前《さき》を払ってエーホーというお行列、とたんにドドーンという太鼓の音色、鳴り物お執心の殿様と見え、どうも尋常の太鼓の音色でないと思《おぼ》し召して、お駕籠《かご》の中でお声がかかると、ピタリお駕籠がとまる、お供頭《ともがしら》を召してなにか仰せられると、
侍「ハハッ、ハアハア、ハアなるほど、ハッ承知つかまつりました」
なにかお言葉がございますと、お駕籠はそのまま上がって、行列は行ってしまう、ご家来が道具屋へまいりまして、
侍「コレ道具屋」
吉「ヘエいらっしゃいまし」
侍「ただ今そのほう店においてドンドン太鼓をたたきおったな」
吉「ヘェ、それは決してたたいたわけではございません、まことにお耳障りで恐れ入りますが、この小僧が掃除をしようとして、采配の柄がさわりましたために音を発しまして、叱言を申しましたが、根がばかでございまして、主人の言葉を用いませんでまことにハヤ困り切ります、年はまだ十五才でございますゆえ、どうぞご勘弁を願います」
待「そうむやみにあやまられては困る、太鼓をたたいたじゃろうと申すのじゃ」
吉「たたいたわけではございませんと申してお詑びをいたしますので」
侍「マア待ちなさいよ、理窟がわからんでむやみに詑びてはいかん、今ご通行になった殿様が、太鼓の音色をお聞きになって、求めて手もとへ置きたいという御意《ぎょい》だ、お上《かみ》がお買い上げになるとおっしゃるのだ」
吉「ヘエ、お買いくださる、さようでございますか、それはどうもちっとも存じませんで、ヘエ、この小僧はまことにこのたたくのが上手でございましてな、ちょっと見るとばかに見えますけれども、どこか心が利口でございます、ヘエヘエ、お屋敷様は……」
侍「赤井御門守《あかいごもんのかみ》様だ」
吉「アアさようでございますか、ご通用門が南側で、ご門番はお暖《あった》かでございましょう」
待「大きにお世話だ」
吉「ヘエただいま私がお屋敷へ持参いたします、ヘエヘエお屋敷はどこへ持ってまいってよろしゅうございますか……なるほど、お納戸方《なんどかた》、あなた様のご姓名は、……平平平平《ひらたいらへいべい》様、承知いたしました、ありがとう存じます、……オイおみつ、ちょっとここへおいで」
女「ナニ」
吉「なんだって、一体おまえは私のなんだえ」
女「アラいやだよ、何をいってるんだねえ、私ァおまえさんの女房さ、十六年前に婚礼をした、立派な女房だよ」
吉「そうだろう、女房は家の宝だ内宝《ないほう》だ」
女「まことにありがとう、お言葉ばかりでうれしく思います」
吉「そうすれば共々に力を添えて、身上《しんじょう》というものをこしらえなければならないものだ」
女「そんなことはおまえが言わないでも知ってるよ」
吉「知ってるなら、なぜオレが買ってきた太鼓をそんなにけなしたんだ、オレが目で見ていい物だと思ったから買ってきたのに、訳も知らずにヤレまぬけだの、トンチキだの、離縁をしろのとばかにしやがって、……どうだいま長松が太鼓をたたいた、それがご通行のお大名の耳に入って、これからお屋敷へ持ってゆきゃァ、五両や十両は放り出しても儲かる、どんなものだ」
女「おまえさん売れるのは当然《あたりまえ》じゃァないか」
吉「あたりまえならなんであんなことを言った」
女「デモそれは高いと思ったから、そういったんじゃァないか、おまえさんそんなにいばったって、持ってって先方《むこう》でどのくらいに買うかわからないじゃァないか」
吉「なんでもいい、風呂敷を持ってきねえ、殿様のお耳に当ったのでお買い上げになるからには、三分や一両で売る気づかいない、じゃァ行ってくるよ」
女「行っといでなさい……」
吉「アアいやだいやだ、ほんとうにあんなわがままな女房を持っちゃァしかたがない、持った時にはオレもいい女房を持ってしあわせだと思った、容貌《きりょう》は善し、人柄も好し、年は若し、もっともあれから十六年経ったけれども、アノ時は文金の高島田に結《ゆ》やァがって、大きな袖をダラリと下げて、オレのことをあなたあなたと言った、一番あなたを余計に言ったのが、婚礼をしてから五日目に五十三言ったが今の元服とちがって、へんてこな髪は結わない、半元服に髪を結って、眉毛を落とさないでお歯黒を付け、昨日《きのう》まであなたあなたといったのが、元服をした翌日からオレのことをおまえさんといったねえ、あすこは剛気《ごうぎ》だよ、昨日まであなたの言葉が、おまえさんと変わるところなどはたいしたものだった、それがこの節は舅姑《しゅうとしゅうとめ》はなし、小姑《こじゅうと》はなし、子供はなし、べつに気兼ねの者がねえもんだから、だんだん増長をして嬶天下《かかあでんか》だけれども、惚れてることはオレに惚れている、世の中に亭主はオレ一人だと思っているだけがうれしい、嬶アが惚れてる、嬶アが惚れた……」
門番「コレー」
吉「ヘエ……エー少々うかがいますが、赤井御門守《あかいごもんのかみ》様はこちらでございますか」
番「赤井御門守様はこっちだが、先刻《さっき》からおまえ門の前を行ったり来たりして、なんだかベソベソ泣くかと思うと笑い、嬶アが惚れてる、嬶アが惚れたなどと言ってなんだ」
吉「ヘェ、まさに惚れております」
番「ばかだなきさまは、お屋敷へ何かご用があってまいったのか」
吉「ヘェ、上《かみ》お買い上げの太鼓を持参いたしました、銀座の道具屋吉兵衛と申します、どうぞお係りへお目通りを願います」
番「アアそれなれば、向こうのお長屋に付いて曲がると井戸がある、井戸の端に大きな柳がある」
吉「そこへお化けが出やァしませんか」
番「そんなものは出ない、その向こうがお馬場だ、お馬場を左にとってズーッと行くと右のほうにお納戸口《なんどぐち》という標札が出ている、そこへ行きなさい」
吉「ヘエ、どうもありがとう存じます、……どうもお屋敷は広いからちっともようすがわからない、……ハテお納戸口、アアここだここだ、……お頼み申します」
侍「ドーレ……」
吉「エー私は銀座の道具屋吉兵衛と申す者でございます、御上でお買い上げの品を持参いたしました、お係り平平平平《ひらたいらへいべい》様へお目通りを願います」
待「ハア、ちょっとひかえていなさい、……ヒー平平氏《ひらたいらうじ》、銀座の道具屋がお買い上げの品を持ってまいりました」
平「ハアさようか……これはこれは、大きにご苦労だった、サアサアこっちへおあがり」
吉「さっきはどうもえらい失礼をいたしました」
平「イヤ私もお供先であったから、別段ソノ値段も取り決めずにまいったが、太鼓は持ってまいったか」
吉「ヘエ持参いたしました……どうぞごらんください」
平「ソコでな、どういうところが御前の御意に叶ったものだろうか、アノ太鼓を求めて手もとへ置きたいと上が仰せになるくらいでみると、よほど良い太鼓と思うが、何程で手放そうかな」
吉「まことにありがとう存じます、どうもお言葉に甘えて申し上げるようでございますが、道具屋という商売はまことに妙なものでございまして、安く買い出して高く売ることもあれば、高く買い出して安く手放してしまうこともございます、いわゆるお客様次第……と申しては相すみませんが、マアそういうようなことになっておりまするので、こちら様などはお大名様のことで、まずけっこうなお客様でございます」
平「別段何も客を褒めるには及ばん、値段のところはどのくらいだな」
吉「さようでございます、そこのところはどうかまァ何でエヒー……ヤッ……両に願います」
平「どのくらい」
吉「ヘエ……ヒヤッ両………エヘヘ」
平「なんだかおまえのいうことはわからんな、品物はおまえの物じゃから、遠慮せずに手一杯のところを申したらよろしかろう」
吉「ヘエ手一杯ならこれだけ願います」
平「なんだ手をひろげて、いくらだ」
吉「さようでございますな、五マン両」
平「エー五マン両」
吉「ヘエ」
平「おまえはちと逆上しているな、なんぼなんだって、この太鼓が五万両とは法外だ」
吉「イエ、ぜひとも五万両でなければならんというわけではございません、あなた様が手一杯に言えとおっしゃいますから申し上げましたが、あなたのほうで、値切りになればドンドンお負け申します」
平「乱暴だな、じつはさっき同僚とも相談をしてみたが、百両ぐらいにならお買い上げになろうと思うが、そのくらいで手放せようか」
吉「百両、ほんとうの百両」
平「うその百両というのがあるか」
吉「百両といえば十両を十で」
平「そうだ」
吉「ヘエ一両を百で百両」
平「どこまでいっても同じことだ」
吉「ではどうぞお金をいただきたく存じます」
平「マア急ぐな受け取りを書いて出しなさい」
吉「受け取り、あいにく紙も筆も持ち合わしておりませんが……」
平「これに硯《すずり》も紙もあるから認《したた》めなさい」
吉「ありがとう存じます、……エーほんとうの百両と……」
平「ほんとうと書いてはいかん」
吉「ヘエ、まことに相すみません、エー百両……百両、……アッ二ツ書いてしまった」
平「そうあわてずに落ち着いて認めろ」
吉「ヘエよろしゅうございます、エー……受け取りを書きましたが印形《いんぎょう》を持ってまいりません、まことにすみませんがどうかお屋敷の印形を拝借を願いたいもので」
平「だいぶおまえは急《せ》き込んでいるが、おまえの受け取りに当屋敷の印形を押してどうする」
吉「お金を私がいただいて、受け取りをこちらへ置いてゆくのでございます」
平「それは知れたことだ」
吉「だからその受け取りへこちらの印形を押してまいれば確かでございます」
平「妙なことを言い出したな、こちらの印形を押したのでは、おまえの受け取りにはならん」
吉「ハハハなるほど」
平「しかし私が見ている前でおまえが書いたのであるから印形には及ばん、また今度ついでの筋、立ち寄って押してまいったらよろしかろう」
吉「ありがとう存じます、どうぞお金を」
平「マア泡を食って落としてはいかん、ソレこれが五十両、これがまた五十両、両方で百両、よく員数《いんすう》を改めてゆきなさい」
吉「ヘエありがとう存じます、……ありがたいありがたい」
平「コレコレ踊ってはいかんよ、落とさないように持ってゆきなさい」
吉「持ってけったって入れ物がございません」
平「財布を持たんのか、ここに太鼓を包んできた風呂敷がある」
吉「それでは大きすぎますから、褌《ふんどし》へ包んでゆきましょう」
平「天下の通用金を褌へ包む奴があるものか」
吉「どっちも金でございます、さようならばまことにありがとう存じます……」
平「オイオイなにをしている」
吉「あまりうれしいと思ったら腰が立ちません」
平「困った奴だな、乗り物でも申し付けてやろうか」
吉「イエどうか腰をおたたきなすって、たたけば持ち上がる、吹けばふくらむ」
平「そんな奴があるか、ソレいいか〔ポンポン〕アア跣足《はだし》で駈け出した、オイオイ履き物を持ってゆかんか」
吉「エーよろしければお履きなさい……アアありがたいなァどうも三分二朱の太鼓が百両になったんだから腰が抜けてもしかたがない、家へ帰って嬶アが目でも眩《まわ》さなければいいが、女のことだから、オレよりなおびっくりするだろう、目でも眩して、良いお医者さまを頼む、その療治代をウンと取られると、百両のうちがいくらか減るだろう、こうしよう、家へ帰ったら、百両のうちを少しずつ見せたら、生涯見せ通すだろう、アアありがたいありがたい……」
番「オイ、コラコラ」
吉「ハイ」
番「ハイじゃァない、きさま先刻まいった道具屋じゃァないか、この前を行ったり来たりしてどうしたのだ」
吉「アア、どうりで道が遠いと思った、おまえさんそうやって門番を何年勤めているか知らないが、生涯勤めても百両の給金にはなるまい」
番「大きにお世話だ、きさま金を持ってウロウロしていて、落とすといかんぞ」
吉「ハハそんなことをいって賄賂《わいろ》を取ろうと思ったって、そううまくはいくものか、アアありがたいな、懐中《ふところ》の百両、誰も見てはいけませんよ、……アアまずやっと家へ帰ってきた、……オーおみつここへ来い、話を聞いておどろくな……」
女「アイタ、オオ痛い、アラおどろいたねえ吉兵衛さん、いきなり人の横ッ腹を突いて、おまえさん家はお向こうじゃァありませんか」
吉「アッちがった、どうも入口が変だと思ったら、ほかの家へ入っておかみさんの土手ッ腹を突いた、ほかのところを突こうものなら大変だった……おみつ今帰った」
みつ「アラいやだよおまえさん跣足《はだし》で、どうしたんだねえ、おおかたアノ太鼓がお屋敷の紛失物かなにかで、おまえさん何だろう、お役人に追いかけられたんだろう、なにも逃げることはないじゃァないか、おまえさん盗んだんじゃァなし、市場で買い出してきたんだから、その訳をいえばそれでいいのに」
吉「なにを言やがるんだ、マアあわてずに落ち着け」
みつ「私は落ち着いてる、おまえさんがあわてているんだよ、今お向こうの家へ入ったろう」
吉「アアおまえ見ていたのかどうだ、オレが三分二朱で太鼓を買ってきたらこんな物と言ってけなしたろう、男のすることは嬶アなんか黙ってるもんだ、おどろくな、三分二朱の太鼓が、現金百両になったぞ」
みつ「アラマア百両に、うそだろう」
吉「ほんとうだ」
みつ「アラそれじゃァ、ちょっとちょっと百両、お見せよ、早くさァお見せッたら」
吉「うかつに見せられねえ、オレでさい金を見た時にゃァ早腰《はやこし》を抜かしたんだから、おまえは女のことだから、目でも眩《まわ》されると、お医者さまに療治代をウンと取られて、儲かったのがなんにもならないから、胴中《どうなか》をなにかで締めて、柱かなにかに掴まっていておくれ」
みつ「そんなことをしないって、私ァ大丈夫だからよ」
吉「それじゃァ見せないよ」
みつ「アラいじわるねえ」
吉「いじわるじゃァない、目を眩すから掴まれというんだ、強情の女だ……長松や、おまえ気の毒だが、ここへ来ておかみさんの腰をしっかり押さえていてくれ」
長「かしこまりました、たいへんな騒ぎになった」
吉「お待ちよ、ソラきた、五十両……アー色が蒼くなった、しっかりしっかり、まだ五十両出るんだよ、……ソラ五十両、両方で百両……」
みつ「アラマア、ウーン……」
吉「ホラ目を眩《まわ》した、ダカラいわねえこっちゃァねえ、嬶アやーい……」
みつ「ウーン」
吉「嬶アやーい……」
みつ「ウーン」
やっと息を吹き返したというような始末、夫婦大よろこびで太鼓を三分二朱で買って儲かったから、鳴るものに限る今度は半鐘《はんしょう》を買ったらどんなに儲かるだろうと、ほうぼう歩いて手頃の半鐘を一両二分で買ってきて、
吉「長松や、セッセとこの半鐘をたたけ」
長「かしこまりました」
と小僧がおもしろ半分ジャンジャン半鐘をたたき出したからご近所ではおどろいて、火事だ火事だと飛び出して見ると、道具屋の店でジャンジャンたたいている「ソレ吉兵衛さんのところだ」といってワアワア店へ踏み込んできて、飾ってあった道具はメチャメチャになってしまったというお笑いの噺でございます。
[解説]最初はサゲはなかったが、後には「マアおまえさん、商売は上手だねえ、何でも音のするものに限るよ、今度は半鐘を買っておいでよ」「イヤ半鐘はいけない、せっかくの儲けが、オジャンになる」とサゲるようになった。オジャンになるは、駄目になるという意味で、東京だけの通言らしいが、これを半鐘の音にかけて洒落た、一種の地口落ち。
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代脈《だいみゃく》
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むかし中橋《なかばし》に尾台良玄《おだいりょうげん》という漢法の名医といわれた人がございました。そういう先生だから良い弟子がたくさんにできそうなものでございますが、さて名士の伜《せがれ》に必ず利口の人ができるというわけにはいかぬもので、銀南《ぎんなん》という弟子、これが名人の弟子でありながら、いたって愚鈍《ぐどん》、愚鈍にもいろいろ種類がございまして、我々のような他愛ない愚鈍は自分でいうのもおかしいがかえって愛嬌のあるものでございますが、ちょっと小憎《こにく》らしいというような馬鹿があるもの……
この銀南が幼少の時分には目から鼻に抜けるような利口な小僧さんで、先生も楽しみに修業をさせておりましたが、さて男女ともに十五六というところがちょっと人間の変わり時で……、色情《しきじょう》のために世間にもよくあります例で、あの利口の伜がどうしてこういう阿呆のことをしだろうかとか、あの利口の娘が、なんでかような馬鹿をしたろうかということがずいぶんございます。目から鼻へ抜けるような銀南先生十六七という年令から変に馬鹿になった。
それはどういうものかというと、色気の強い男で、下女が来るとすぐにこれにグズグズ言う、下女が居たたまれないから出て行き、また代わりが来る、また出かけるというほうへばかり勉強しておりまして、それがために昼間玄関で薬をきざみながら居眠りをしている。先生が奥で銀南と呼ぶとドーレと言って玄関へ出て行ったり、玄関でお頼み申しますというと、先生の前へ駈けて行ったりする。それで間があれば居眠りばかりしている。けれども親でも師匠でもそういう愚鈍なものとなるとなおさら不憫《ふびん》が増す、たとえにも不具《ふぐ》な子ほど可愛いとかいいまして、ある日のこと、
良玄「銀南や、また居眠りをしているか、呼んでも満足に返事をしたことのない奴だ、オイ銀南」
銀「ヘエー」
良「なんという返事のしようだ、大きな声を出して……そこへ坐れ」
銀「ヘエいつでも先生が返事はしっかりしろとおっしゃいますから」
良「しっかり返事をしろといったって、なにもそんなに大きな声を出すには及ばない、坐らないか」
銀「ヘエご用があってお呼びになりましたので、ご用をいい付かればすぐに駈け出します、ここへ坐ってしまいますと、また立たなければなりません、それゆえ手ッ取り早く……」
良「なにが手ッ取り早くだ、そこへ坐れ」
銀「ヘエ、坐りました、どうともなさいまし」
良「どうしようとは言わない……ばかな奴だ」
銀「ヘエ、おかげさまで」
良「なにがおかげさまだ、おかげさまという言葉はそんなところへ付けるものじゃァない、親はてめえが俺のところへ来ているから一人前の医者になれると思っている、その親に対して俺はまことに面目次第もない、医者というものは、もちろんその道は修業をしなければならないが、たとえばいくら上手の医者になっても、姿風俗《すがたかたち》に一つはある。また一つは顔容貌《かおきりょう》にもよる、これは性来《せいらい》で今さら愛嬌のある顔にはなれんが、マア年頃にもなれば、行儀作法も気を付けなければならない、そのうちでてまえは一ツも整っているものはない、せめて行儀作法でも覚えるように、今日から改めててまえを矯正してみせるからさよう心得ろ」
銀「矯正するというと、どういうことになります」
良「でっち直してやる」
銀「お団子みたようでございますな」
良「なにをいう……行儀を覚えるため、代脈につかわすから」
銀「ヘエ荷《かつ》いでまいりますか、それともしょってまいりますか」
良「何をしょってゆくのだ」
銀「材木をつかわすって」
良「材木ではない、文字を知らぬか、もの書かざるは理に疎《うと》し、代わる脈と書いて代脈と読む。代脈を知らんか」
銀「ハア、あれですか、いつも先生が手をとって脈を見ます」
良「そうだ、俺に代わって病家《びょうか》へてまえが行くのだ」
銀「ヘエ行ってまいります」
良「オイオイ行ってまいりますと言ってたくさんにある病家だ、どこ行くのか知っているか」
銀「ハアなるほど」
艮「なるほどじゃァない、ばか、行く先も聞かないで、駆け出す奴があるか、それが阿呆だ、蔵前の伊勢屋さんを知っているか」
銀「両三度お使いにまいりました」
良「あすこへ行くのだが、まず行儀作法を教えてやらなければならぬ」
銀「ヘエ」
良「まず、玄関へ行って頼もうと訪れると、いつも手代《てだい》が出てくる」
銀「ヘエ」
良「その手代に向かっててまえが安っぽい言葉をつかうと、口をきいたばかりでも下手に見える」
銀「さようでございますか」
良「仮に手代を呼べばとて、お手代と呼んで差し支えない」
銀「ヘエお手代……」
良「番頭さんというのもなんだか工合が悪い、番頭と呼び捨てにすればどうも失礼になる、ソコがむずかしいテ」
銀「では番ちゃん」
良「番ちゃんという奴があるか」
銀「それでは番州《ばんしゅう》」
良「そんなことはいえない、手代という上へおの字を付けて、お手代やとこう呼ぶとなんとなく見識があり、失礼でもない、それから橋場《はしば》にご寮がある、ご療養の方は橋場のほうへ行っていらっしゃる」
銀「ヘエなんです」
良「橋場にご寮があって、ご病気ご療養の方は橋場においでになっている」
銀「むずかしゅうございますな」
良「なにがむずかしい」
銀「舌のまわらない奴にはなかなか言われません」
良「よけいなことを言うな」
銀「蔵前の伊勢屋へゆくと、ちょっと乙なお嬢さんがいらっしゃいますな」
良「ばか野郎、なんという口の利きようだ、乙だなんて、あのお嬢さまは蔵前で名代《なだい》のご容貌《きりょう》よし、蔵前小町といわれてるくらいないいご容貌だな」
銀「いいご容貌ですな、まいりましたらお目にかかることができましょうか」
良「お目にかかるどころじゃァない、お嬢さまがご病人だ」
銀「そんなことはございません」
良「なんでそんなことがない」
銀「変な女かなにかなれば患《わずら》うこともありますが、あんな美女が患うわけがありません」
良「ばかッ……どんな美女でも人間は病いの器《うつわ》という、決して患わぬとはいえない、もっとも俗に言うブラブラ病い、大病という程でもないがあまり変わりのない病気で、隔日《かくじつ》にてまえを代脈にやる、行儀見習いのために……デ番頭が仮にもてまえを若先生ぐらいのことをお世辞にでもいう、その時にいつものようにヘエヘエなんて返事をしてはいかん」
銀「なるほど」
良「医者の見識を見せて立派に返事をしなければいかん」
銀「それは心得ております」
良「なんでも知らんということをいわん奴だ、どう返事をする」
銀「番頭が私のことを先生といいます」
良「そう」
銀「若先生とかなんとか言います、それを私が立派に|なんだ《ヽヽヽ》と答えます」
良「なんだという奴があるか、先方で先生といいましたら、ハーイハーイ、ヘエということはまことに賎しい、ハーイハーイとな」
銀「ヘエ先方《むこう》で先生といいましたら、ハイーハイーと」
良「そう寄席の木戸へ行ったような声を出さずに、ただ軽くハーイと言えばそれでいい、こちらへといって案内されたら、そこは医者の見識だ、遠慮なくその座布団へ坐っていい、医者というものはそこが見識だ、イエ私はこれでよろしいなぞと遠慮すると安っぽくていかん、それへ威張って坐れ、すると茶煙草盆《ちゃたばこぼん》、茶菓子が出る」
銀「お茶菓子が出ますか」
良「茶菓子と聞いて乗り出してくる奴があるか」
銀「なにが出ます、焼芋か」
良「そんな下等の物は出ない」
銀「最中《もなか》かなにか」
良「いつもけっこうな羊羹《ようかん》を厚切りにして、七|片《きれ》山のように積んで出るな」
銀「たいそうなもので、厚切りを七片食べれば、たいがいたくさんでございます」
良「それを食うのじゃァない」
銀「食えないようかん……」
良「食えるにはちがいないが……そこが医者の行儀見識というもので、もう羊羹なぞは食い飽きているというような顔をしている」
銀「全体無理な話で、食いもしないに食い飽きているなぞは」
良「なんでも食い飽きているように見せるのだ」
銀「食べなくって、食い飽きている顔をしていますので」
良「そうだ、けれども、先方でお一つといって、箸《はし》で取ってでも出したら、それでも食わぬと腹を立っているようでいかん、懐へ半紙を四折りにして持っていって、その半紙に受けて茶でも替えて取ってもらった羊羹を一片食う、さもなければ見ることもならぬ、見てもいかんよ」
銀「ヘエ」
良「勧めなければ決して食っちゃァならん、しかと申し付けておく」
銀「勧められれば一片食べますかお茶を替えて、勧めなければ食べることはできないので、出入りにしてみると大きな相違で」
良「なんだ大きな相違とは……デ挨拶が済むと病間へ通る、これからお嬢さまの臥《ね》ているところへてまえが行き、静かにそれへ坐る」
銀「そういたしますと、お嬢さまの脈を見るので」
良「あたりまえよ、下女の脈をみて、お嬢さまの病気がわかるか、到底てまえにはわかりゃァしないが」
銀「先生がいつもするようにします。手ばかりではわかりません、お舌を出しなさい、仰向けに寝ている胸を開げて、私が撫でたりなにかいたします」
良「脈の見ようぐらいは知っているだろう」
銀「ヘエ……お嬢さまがあとでなんと言いましょう、いつもはハゲ頭の先生が来るけれども、今日はおっかさん若い先生がいらしったと、きっとお嬢さまがそう言います、どうせ一人で居られるわけじゃァなし、ご養子をなさるのでございます、わたしが身体が弱いからああいう先生をご養子にしたらたいへん気丈夫でございますという、その時ご両親が何と言いましょう」
良「なんでてまえなぞをもらう気づかいはない、決してそんな心配はいらない」
銀「そんな心配はいらないといっても、もらわなければ当人が恋患い、娘一人には代えられないからって……」
良「ばか、誰がそんなことをいう奴がある、あきれたものだ……、それで脈を丁寧に見てお大事に、別段お変わりはございません、後ほどお薬をと、こう言っててまえは帰るのだが、医者には第一|頓智《とんち》というものがなければならぬ、ついでだから言って聞かすが、ツイこの間のこと、下腹がひどく堅くなっていた、それから俺《わし》が腹をさすって下腹を一ツ、グイと押すと……」
銀「ヘエ」
良「どういう工合か放屁《ほうひ》をなすった、身体のせいだな、プイと放屁をなすった、俺には聞こえたがそこが医者の頓知だ、お嬢さまが見る見るうちに顔が赤くなって恥ずかしそう」
銀「それはきまりが悪うございます」
良「ちょうどその時におっかさんがそばにいたから、おっかさんや、どうも逆上《のぼせ》て四五日俺は耳が遠くっていかんから、おっしゃることはなるたけ大きな声で言ってくださいと、こういうと、赤くなったお嬢さんが安心したとみえて顔色が直ったが、そのへんが医者の頓智だ、総て医者は見識行儀作法|衣服《なり》容姿《かたち》が大切だが、第一に頓知がなければいかん、なにしろ早く行ってこい……、コレコレ裾をはしょって駈け出す気になっている、そんな着物を着て行くのじゃァない」
銀「これで行っちゃァいけないので」
艮「さようだ」
銀「では裸体《はだか》でまいりますか」
良「裸体で行く奴があるか、こっちに着物が出してある、てまえは体躯《なり》が大きいから、わしの着物でたいがい間に合う」
銀「これはありがとうございます、いよいよ養子の相談かも知れません、こんな立派な姿をしては」
良「馬子にも衣装《いしょう》髪形《かみかたち》というが、この男は少しも立派にならない、それでもマアマアきたなくない、裾をはしょるのではないぞ、あきれた奴だ、それでいい、半紙を懐へ入れたか、裾をはしょって歩いて行くのじゃァない」
銀「ヘエたいへんでございますな、ずいぶん遠方でございますが、先方まで這ってゆくので」
良「這ってゆく奴があるか、いつも俺が乗って行く駕籠《かご》がある、富蔵《とみぞう》が居るだろう、陸尺《ろくしゃく》にいい付けて駕籠の支度をさせろ、橋場のご寮のほうへまいるのだから、伊勢屋といえばご寮のほうへ行くのは知っている」
銀「私を駕籠に入れてぶらさげてゆくので」
良「さげて行く駕籠というのがあるか、陸尺に言い付けて乗ってゆくのだ」
銀「さようなら行ってまいります」
とやがて駈け出してまいりました。いつも昼過ぎから先生がお出かけになるのでまだ時刻が早いから駕籠かき二人はゆっくり落ち着いて茶を入れて飲みながら、四方山《よもやま》話のさいちゅう、
銀「オイ陸尺、駕籠かき、富蔵さん、若先生がお出かけだ、蔵前の伊勢屋さんのお嬢さんがご病気だ、代脈というのはおまえらは知るまいが、文字に書いて代わる脈と書く」
富「医者の家に奉公していて、代脈を知らねえ奴があるか……誰が行くのだ」
銀「かくいう銀南」
富「おまえが行くのか」
銀「橋場にご寮があってご寮の方《かた》にゴヨゴヨだ」
富「なにをいっているんだ」
銀「駕籠を持ってこい」
富「オイ、なんだってあんな者を大事の病家へ代脈にやるんだろう……立派な扮装《なり》はしているがしようがねえな、恥をかかなければいいが」
△「当家の先生のような名人になると、療治の仕方はうまいものだね」
富「どううまい」
△「うまいじゃァねえか、お嬢さまは気のふさぐ病気だ、俗にいうブラブラ病いで、隅のところでメソメソ泣いていたりなにかしていけない、あんなばか野郎を時々やると、胸隔《きょうかく》が閉じているのが自然と開く、そこへ薬が入る、療治の仕方がうまいもんだ」
富「なんだか知らねえが、駕籠の掃除ができやァしない」
△「かまわねえゴミだらけの中へ放り込んで担いで行こう」
富「それもそうだ」
銀「オイ駕籠のふたを取っておくれ」
△「駕籠のふたというのはない、駕籠は戸だ」
銀「戸か……明けておくれ」
△「サアお乗んなさい……そう入っちゃァいけない、頭から入っちゃァいけない、お尻のほうから入るもんだ」
銀「おかしなもんだね、生まれてはじめて乗った」
富「今度は死ぬ時に乗るのだ」
銀「そんなことをいっちゃァいけない、お尻のほうから横に入るッて、矢立ての筆のようだ、寒くっていけない、ふたをしておくれ」
冨「ふたというのはおかしいね」
銀「イヤァ簀垂《すだれ》が両方にある、乗ったら見えなくなるかと思ったらよく見えらァ」
△「簀垂じゃァない御簾《みす》だよ」
銀「御簾か、いい工合のものだ、うしろに寄りかかる、びろうどを貼った板があるね、イヤー担ぎ出したな」
富「担ぎ出さなければ行かれやァしねえ」
銀「商売商売、うまいものだね、グラグラ揺れて目でもまわるかと思ったが、畳の上を行くような気持ちで工合がいいね、イヤー瀬戸物屋の前を通り過ごしたよ、てんぷら屋の前、イヤー立って食ってる奴がある」
富「よけいなことを言っちゃァいけない、駕籠の中でしゃべる奴があるものか」
銀「いつも先生が乗って行くと、ホイと言うじゃァないか」
富「あれは人をよけるためにいうのだ」
銀「そういっておくれな」
富「しようがねえなァ、そういったところで何にもいやァしねえ」
銀「デモ黙ってちゃァ景気が悪い、一つやっておくれな」
富「だって邪魔になる人がねえのに、よけろというのは無理だ」
銀「じゃァ私が言うぜ、ホーイ……」
富「駕籠の中で言うのはみっともない、往来の人が立ち止まって笑ってらァ」
乗りつけない駕籠へ乗り、揺れまして工合がいいからいつかウトウト居眠りをしたかと思うと、前にうつ伏したまま高鼾《たかいびき》、陸尺は慣れております、横に駕籠を付けまして、
富「お頼み申しますお見舞いでございます……オイ眠っちまったぜ、しようがねえな、静かになったと思や高鼾だ、銀南さん、起きなくっちゃァいけねえ……お頼み申します」
銀「ドーレ……」
富「そこで立つのじゃァないよ、頭を打つじゃァねえか」
銀「ドーレ」
富「ドーレは向こうで言うんだ、オイ這い出しちゃァいけねえ、横に出るんだよ」
銀「ウム……これはお手代」
富「まだ誰も出てきやァしねえ」
銀「そうか」
富「落ち着いてなければいけねえ」
そのうちに番頭が出てまいりました。
冨「ヘエこんにちは若先生がおいでで」
銀「おまえはなんだえ」
○「手前は当家の手代」
銀「手代……ア、お手代か、お手代や……」
○「恐れ入ります、ご案内をいたします、どうぞこちらへ」
銀「俺はこっちへ上がるよ、オイ陸尺、下駄を取られないように気を付けてな、おまえらは上がれないだろう」
富「あたりまえよ、陸尺が上がる奴があるものか」
○「どうぞこちらへ」
銀「ハーイハーイ、これはなかなか立派、八畳のお座敷でけっこうな座布団が出る、澄ましてこれへ坐る」
○「恐れ入りますがお布団へお坐り遊ばせ」
銀「お茶や煙草盆はまだかえ」
○「気短かな先生だ、早くお茶を差し上げるように、まことに相すみません……、いい塩梅《あんばい》にお天気になりそうで」
銀「アア天気はいい塩梅で……なかなかこれはうまいお茶だ、ハァ羊羹、なるほどこれは厚切りだ……私はまことにどうも酒が嫌いでしようがない」
○「イヤご出世前お酒の嫌いはけっこうで」
銀「酒が嫌いでどうもしようがない」
○「甘い物のほうでいらっしゃいますか、それはご無事で、しかしそう存じましたら、なんぞお口に合うようなものを、取り寄せておきましたのに、今日は不意のおいで……大先生は甘い物には目も触れぬようなご酒家《しゅか》でいらっしゃいます、それゆえ今日はとりわけて粗末の物をごらんに入れましたが、今後はなんぞめずらしいものを取り寄せておきます、今日のところはホンの前に並ベておくだけで、悪しからずお思し召しを願います」
銀「お茶をもう一杯ください」
○「お茶とてもその如くで、はなはだ粗茶《そちゃ》を献じまして」
銀「粗茶はけっこう、私はまことに粗茶が好きでね」
○「ヘエ恐れ入りました」
銀「どうしてなかなかこの粗茶は安くない」
○「ヘヘ恐れ入ります」
銀「アー医者というものは行儀作法見識頓智がなければいかんという、なかなかむずかしいものでな」
○「もちろん人の命にかかわりますもの、ご心配で」
銀「人の命に……、そんなことはどうでもかまわないが、マア病家にまいり、先方では食わせようというところから、お茶菓子にけっこうな羊羹……羊羹に限らず、そこへ何でも出る、こっちではどうか一ツちょうだいしたいと思っても、先方で一ツ召し上がれとすすめてくれなければどうも食べることができない、まことにむずかしいものでな」
○「これは恐れ入りました、イエくどくおすすめ申し上げたいのでございますが、今日《こんにち》ははなはだ粗末の品で、決しておすすめ申しはいたしませんから、どうぞマアごらん遊ばさぬように願います」
銀「ごらん遊ばさぬように……、もう一杯粗茶をください」
○「はなはだ粗茶で」
銀「アーお茶ばかり飲んで、まことに医者というものはむずかしいが、考えてみるとじつに情けないものだ」
○「ヘエ情けないとおっしゃいますと」
銀「病家へまいり、先方では食わせようというところから、そこへお茶菓子羊羹……羊羹に限らずなんでも出る、こっちはどうか一ツちょうだいしたいと思い、咽喉《のど》から手の出るほど食べたい、目の前にありながら……それを手を出して食べられない、アア医者は餓鬼道《がきどう》の責《せめ》で」
○「恐れ入ります、とにかく病間へご案内をいたします」
番頭さんに連れられて、泣きッ面をしながら病間へまいり、脈の見ようぐらいは心得ておりますから手を見る舌を見る、臥《ふ》しておりますから……ただ今も昔も見方は寸間尺《すんけんしゃく》とかいって、三ツの脈に変わりはないといいます、だんだん下腹のほうをさすってまいりまして、この凝固《かたまり》だと思いよせばいいのに、そこが愚かしい人物グッと、押すと……プイ、みるみるうちにお嬢さまが赤い顔になりました。
銀「ときにお手代や」
○「ヘエ」
銀「どうも何かおっしゃるならなるたけ大きな声で言ってくれないと、年のせいか、四五日耳が遠くっていけない」
○「ツイ二三日前に大先生もさようおっしゃいましたが、よほどお耳がいけませんかな」
銀「遠いとも、ちっとも聞こえない、今の放屁《おなら》さえ聞こえなかった」
[解説]文政版の小噺「江戸|嬉笑《きしょう》」の中に「代脈駕籠にゆられてグッスリ眠るうちに、病家に着く、駕昇が『頼もう』代脈ハッとして思わず『ドーレ……』」というのがあるが、その小噺の延長でもあろうか、サゲは間ぬけ落ち。
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大工調べ
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昔と今とはすべての模様が変わりましたから、落語なども昔のままで弁じては、今のお方にご合点のまいらんことが多くございます。さればなるべく筋《すじ》のものは現代……古くても明治時代のお話にして申し上げるようにいたしますが、中には昔のままでなければ人情の移らんものがございます。それに裁判ものなどを今の裁判に改めると、自然当時の法律というものに当てはめて調べをしなければならないから、事が面倒になってきて、我々の口にはなかなか乗りません。これらはどうしても昔のままで弁ずるほかはないようでございます。
棟梁「どうした、与太《よた》。てめえくらい怠け者はねえじゃァねえか、仕事にかかりゃァ良い腕を持ってながら怠けてばかりいやァがって……、この頃どんな叩き大工でも引っぱりだこになってるくらい忙しいのに、なんだって遊んでるんだ」
与「なんだったってしようがねえ」
棟「ナニ」
与「しようがねえんだよ」
棟「オレはじれったくっていかねえ、なにがしようがねえんだ」
与「ただしようがねえ」
棟「ただしようがねえたって身体でも悪いのか」
与「身体は悪かァねえ」
棟「そんなら仕事をしなや」
与「やりてえけれど仕事ができねえんだ」
棟「なんだってできねえ」
与「家主《おおや》の野郎がやかましいんで、できねえんだ」
棟「家主がやかましいたって、家主が仕事をするなとでもいったのか」
与「そうじゃァねえ」
棟「しっかりしろい、どうしたんだ」
与「|おもちゃ《ヽヽヽヽ》が家主のところへいってるんだ」
棟「ナニ家主のところへ|おもちゃ《ヽヽヽヽ》がいってるたァ道具箱か」
与「ウム」
棟「なんだって家主のところへ持ってったんだ」
与「店賃《たなちん》の借りがあるんだ」
棟「ちっともわからねえ。店賃がたまってその抵当《かた》に家主が道具箱を持ってったのか」
与「オレが持ってったんだ」
棟「なんだってそんなマヌケなことをしたんだ」
与「店賃をよこせよ、よこさなけりゃァ店を明けろってやかましくってしようがねえから、道具箱を持ってったんだ」
棟「しようがねえなァ……じゃァなにか、店賃を持ってけば、道具箱を受け戻して、明日にも仕事ができるんだな」
与「マア早くいやァそうだ」
棟「早くいわねえってそうだろう。いくらだ」
与「一両と八百だ」
棟「きたねえ家が高《たけ》えな」
与「おそろしく高えや、近所評判の高え家だ」
棟「ナニか、ひと月一両八百か」
与「ウーム四カ月でよ」
棟「じゃァ一分二百か、安すぎらア。それだけ持ってきゃァ道具箱を持ってこられるんだな」
与「ウン」
棟「サァ金を貸してやるから、早く行って持ってこい……、いやな奴じゃァねえか、なんだって金とオレの面《つら》を見比べてやがるんだ」
与「ダッテ棟梁、こりゃァ一両じゃァねえか」
棟「そうよ。それを持ってって道具箱を取ってくりゃァいいんだ」
与「一両と八百だよ」
棟「ダカラそれを持ってって道具箱を取ってこいというんだ」
与「こりゃ額《がく》が一枚だ」
棟「いくらいったって同じだよ」
与「だけれども、どう考えても八百足りねえなァ」
棟「考えねえって八百足りねえにきまってる。一両持って道具箱を取ってこいというんだ」
与「渡すか」
棟「てめえは人がいいなァ。渡すも渡さねえもあるものか、よく考えてみろ。道具というものがあるから大工は仕事をして、暑くなく寒くなくして暮らしていけるんで、その道具箱を取り上げて店賃を催促するたァまちがってる。言いずくにすりゃァただでも取り返せる、けれども長い物には巻かれろ、犬の糞《くそ》で敵《かたき》を取られてもつまらねえから、これだけ持ってって道具箱をおくんなさいというんだ。八百足りねえって|あたぼう《ヽヽヽヽ》だ、御《おん》の字だ」
与「そうか、じゃァ行ってくる」
棟「行ってきねえ行ってきねえ」
与「こんちはァ」
家「だれだ」
与「オレだ」
主「与太か、入れ入れ……婆さん裏の与太郎だ。仲間の者に聞くと良い腕だそうだが、どういうものだか怠け者で困った奴だ……オイオイ格子《こうし》を明けッぱなして人の家へ入ってくる奴があるか……なにしに来たんだ」
与「道具箱をくれ」
主「なんという口のききようだ。道具箱をくれというなァ、仕事をするのか。稼げ稼げ、この間も途中でおふくろにあったら愚痴をいっていたぜ、老い先の短い者にあんまり心配かけるなよ、道具箱を持ってきたから、どういう了簡だと思ったら、仕事がねえというから預かっておいたが、こんな物を家へ置いたってオレのほうじゃァしようのねえ話だ……エー婆さん道具箱を取ってきて仕事をするたァめずらしい話だ……アアおまえには出せめえ、オレが出してやる……出してはやるが与太、きまるところはきまらなけりゃァならねえがアノ、店賃はどうする」
与「どうしたって持ってきた、受け取れ」
主「なんだばか野郎、ほうり出す奴があるか、金をほうり出しやァがる。こういう了簡だからてめえは貧乏する。天下の通用金を何と思う、ばか野郎、……婆さんそっちへ銭が飛んできゃァしねえか、飛んでかねえ……、与太、額が一枚か」
与「ウム」
主「一両か」
与「ダカラ道具箱をくれというんだ」
主「ばか野郎、なんてえ口のききようだ。八百足りねえが、足りねえところはどうする」
与「どうするったってべらぼうめえ、八百ばかり御の字だ」
主「なにを言ってやがる、ばか野郎。御の字てえことがあるか」
与「あたぼうよ」
主「ナニあたぼう……、ばか野郎どうかしていやがる、たいがいにしろ、マヌケめえ。オレはてめえの気を知ってるから怒りゃァしねえが、そういう訳のものじゃァなかろう。なんぼ職人で口のききようを知らねえたって、いいようもあったもんだ。八百足りませんが、稼いだのち持ってくるから待ってくれとか、このつぎ一緒に入れるとか、なんとかいいようがあったものだ。それを御の字だの、あたぼうだのという奴があるか。店賃をなんだと思ってやがる、ばか野郎め。今日はてめえどうかしていやがるな、平常《ふだん》の口のききようでねえ、だれかに何か悪智恵をかかれてきたな。だれから聞いてきやがった、あとの八百はどうするんだ」
与「なにを言ってるんだ、全体ただでも取り返せるんだけれども、長《なげ》えものには巻かれろ、犬の糞で敵を取られるから持ってきたんだ」
主「なんだ、おもしれえことをいうな、ただでも取り返せる――アアわかった、てめえの智恵じゃァねえな、……だれか尻押しがあるな、おもしろい。てめえはともかく尻押しをした奴が憎い。ただで取り返せるなら取り返してみろ、女郎買いや博奕《ばくち》の貸し借りとはちがう。今日雨露をしのぐ店賃をなんとおもってる、ふざけたことをいやァがる、家主にもよれ、だれだと思うんだ。第一|町役人《ちょうやくにん》の家へ来て、突ッ立って、金をほうり出して、その言い草はなんという言い草だ、渡すことはできねえ。なにを手を出していやァがる」
与「道具箱を……」
主「ふざけるない、もう八百持ってこい」
与「じゃァ今持ってきた一両くれ」
主「ナニ」
与「今の一両」
主「ウム今のか。ありゃァ店賃の内金に頂かっておこう」
与「じゃァ道具箱は」
主「もう八百持ってこい」
与「ウーン」
主「なにをうなってやがるんだ。どんな野郎が付いていようとおどろかねえ。矢でも鉄砲でも持ってこい。グズグズしてやがると向こうずねをぶッぱらうぞ」
与「オーたいへんだ……、棟梁」
棟「どうした道具箱を持ってきたか」
与「いかねえ」
棟「ナニ」
与「くれねえ、もう八百持ってこいといやがるんだ」
棟「強情の畜生じゃァねえか、一両持ってって」
与「ウム、だから八百ばかり御の字だ、|あたぼうだ《ヽヽヽヽヽ》と言ったんだ」
棟「少し待てよ。てめえ先へ行って家主にオレの言った通りやったのかい」
与「言わなけりゃァ悪かろうと思って言った」
棟「そういう奴だ、家主が怒ったろう」
与「真っ赤になって、てめえの智恵じゃァなかろう、だれか悪智恵をかいた奴があるだろうといやァがるから、べらぼうめえ、ただでも取り返せるんだが犬の糞で敵《かたき》てえことがあるから、長い物には巻かれろで仕方がねえから、一両持ってきたんだ……」
棟「オヤオヤみんないったのか、しようのねえ畜生だなァ……。しかしそういったからって渡しそうなもんだ。てめえの気を知ってるんじゃァねえか。マア仕方がねえ、もう八百貸してやるから、いったん先の一両を出せ」
与「一両ねえや」
棟「今持ってった一両どうした」
与「店賃の内金に預かっておくって火鉢の抽斗《ひきだし》へ入れちまった」
棟「待てよ。それじゃァ道具箱も渡さねえのか」
与「ウム」
棟「持っていった一両は取り上げ婆ァか」
与「爺《じじい》が取った」
棟「なにをいってやがるんだ」
与「それで尻押しをした奴があるだろう、てめえはともかく悪智恵をかいた奴が憎いから渡すことはできねえ。ただでも取り返せるなら取り返してみろ、矢でも鉄砲でも持ってこい。クズグズしやがると向こうずねをぶッぱらうといやァがった」
棟「ウーム、もう八百のことだから貸してやってもいいが、あんまり強情すぎるから、サア町奉行へ恐れながらと駈け込み願いをしろ、願書を書いてやる」
さすがは棟梁、願書の書き方がうまかった。家主方に二十日《はつか》のあまり、道具を取り置かれ、一人《いちにん》の老母養いかね候という、どうもけしからんこと、という内容の家主へのお差紙《さしがみ》〔奉行所からの召喚状〕。ただいまとはちがいまして、名主代《なぬしだい》だのいろいろの者が同道したものだそうで、お呼び込みの声もろともに、白洲《しらす》へ出ましたが、町人は砂利の上へ坐りましたものだそうで、お奉行さまご縁《えん》間近にお着座に相成り、左右が目安方《めやすかた》、蹲踞《つくばい》の同心|鉤縄《かぎなわ》を持って控えている。白洲は水を打ったように粛然《しゅくぜん》としております。神田三河町|町役《ちょうやく》家主|源六《げんろく》、願人《ねがいにん》源六店《げんろくだな》大工職与太郎、差添人《さしぞえにん》神田|竪大工町《たてだいくちょう》矢本金兵衛《やもときんべえ》地借《ちかり》大工職|政五郎《まさごろう》、
奉「付添いの者一同そろったか」
○「ヘエーそろいましてございます」
奉「与太郎、面《おもて》を上げろ」
政「与太、面を上げろ」
与「焼芋屋のおもての廂《ひさし》を頼まれてるんだが、道具がねえんでやることができねえ」
奉「そのおもてたァちがわい、顔を上げるんだ」
与「ヘエ」
奉「何歳になる」
与「ヘエ」
奉「何歳じゃ」
政「年はいくつだってんだ」
与「だれの」
政「てめえのよ」
与「オレのほんとうの年は……」
政「しようがねえな、たしか二十八じゃァねえか」
与「エーたしか二十八で」
政「自分でたしかを付ける奴があるかい」
与「二十八でございます」
奉「政五郎そのほう何歳じゃ……ウム、願いの趣きそれなる与太郎、源六方に二十日のあまり道具を留め置かれ、一人の老母養いかねる趣きじゃが、それに相違ないか。ウム……、源六」
源「ヘエ」
奉「そのほう大工与太郎の道具箱を、いかがいたして二十日の余《よ》も留め置いた」
源「恐れながら申し上げます。与太郎儀家賃の滞りが四月《よつき》にも相なりまする。一両度《いちりょうど》催促をいたしましたところ、当人の申しますには、ただいまのところでは仕事も暇だからしばらく道具箱を預かり置いてくれろ、と当人の言うにまかせてたっての頼みゆえ預かりました。ところが先《せん》だって一両と八百のところを一両金持参をいたして道具箱を渡してくれろと申しますゆえ、八百の不足はと尋ねますると、八百ばかり御の字だの、あたぼうだの、やれただでも取り返せるのと、さまざまの悪口《あっこう》を申しまして、一つ二つの言い争いをいたし、御上へお手数を相かけまして重々恐れ入りまする。道具箱を預かり置きましたるはさようの次第に相違ございません」
奉「ウム、では一両と八百|文《もん》借用のあるところヘ一両金持参いたし、八百の不足のために言い争いができたと申すのじゃな」
源「御意《ぎょい》にございます」
奉「それは源六そのほうの聞き誤まりでもあるまいか。与太郎の言い誤まりかも知れん。かりそめにも町役をいたしておるそのほうのところへまいって、まさかさような悪口を申しはすまいと思うが、どうじゃ与太郎」
与「ヘエ」
奉「家主はアア申すがまさか家主のところへ行ってあたぼう、御の字なぞと、さような悪口はすまいな」
与「イエ悪口なんざしやァしませんが、家主さんがあんまり頑固だから、あたぼうだ御の字だ、ただでも取り返せるんだと、ズッとならべたんで」
奉「黙れ。それでは源六方へまいって、さような悪口を申したのか」
与「悪口なんぞしませんけれども、あんまりわからねえから……」
奉「黙れ。恩金《おんきん》ではないか。たとえ金子《きんす》はわずかたりとしても、ことには町役をも務めおる者のところへまいって、さようなことを申すとは不届《ふとどき》の奴だ。それに二十日のあまり道具を取り上げられ、一人の老母養いかねる者がいかがして一両の金の工面をいたした」
政「恐れながら申し上げます。一両金は手前が貸しつかわしたに相違ございません」
奉「ウム、政五郎そのほうそれはいかにも奇特《きとく》のことじゃが、しかし一両と八百ということを承知して、一両の金を貸しつかわしたか、それとも当人から一両貸してくれというので、貸しつかわしたか、どうじゃ」
政「一両と八百ということは承知いたしておりました」
奉「一両と八百ということを承知していて、一両貸す親切があるならば、八百文のことゆえナゼ貸してやらん。一両と八百持ってまいれば、道具箱は取り戻されると申せば、今八百そのほう貸し与えてはどうじゃ、アアさようか、では一両金は源六が……コレ源六、政五郎はアア申すが、一両金はそのほう方《かた》へ預かり置いたか」
源「ヘエ家賃の内金に預かり置きましたに相違ございません」
奉「ハァそうすればもうあと八百文でいいのじゃな……さようか。政五郎、とてもの親切にモー八百文貸してつかわすわけにはいかぬか。ウムでは与太郎、政五郎からもう八百文借り受け、家主のほうへ渡して、道具箱を取り戻し、明日《みょうにち》にも渡世《とせい》にありつけ。源六、あと八百文持参いたさば、すみやかに道具箱を渡せ、日延べ猶予は相ならん立てーッ」
ゾロゾロゾロゾロ腰かけへ帰ってくる。
○「源六さんどうでしたえ」
源「ありがとう存じます。世の中にばかほど怖いものはない、あきれけえって物がいわれません。店子《たなこ》が家主《いえぬし》を相手取るなんて、こんな公事《くじ》ははじめてだ。それをまた尻押しをする白痴《ばか》があるからおどろきますよ。高い所へ上がってトンカチやることは上手だろうが、お白洲へ出ちゃァカラ形なし。私なざァ毎朝|大神宮《だいじんぐう》のお棚へ向かって、町内繁昌とは祈らねえ。町内騒動を祈ってるんだ、番所の腰かけで弁当を使わなけりゃァ飯を食ったような気がしねえくらい、……サア与太日延べ猶予はならねえんだ、八百出して、道具箱を取りにこい。銭がなけりゃァ尻押しのところへ行って借りてこい」
与「棟梁、もう八百貸してくれ」
政「まぬけめえ、貸さねえたァいわねえが、なんだってあすこであたぼうだの御の字だのといやァがるんだ」
与「ダッテ物は正直にいわねえと悪かろうと思ったからよ。お奉行様がそういったぜ、こっちが良くねえって……」
政「ばか、ここまで恥をかきに来たようなもんだ……サア持ってけ」
与「家主《おおや》さん、サア持ってけ」
源「持ってけという奴があるか、ふざけやがって……。それじゃァ済口《すみくち》の書面を上げるんだ、どうもご苦労さまでございますが、もう一度恥のかきついでに願います」
家主が先き立ちでゾロゾロ白洲へ入ってズラリならびました。
奉「源六」
源「ヘエ」
奉「八百文受け取ったか。帰宅ののちは早々道具箱を渡せ。政五郎、そのほう八百文を与太郎へ貸しつかわしたか……ウム奇特のことだ、与太郎この後《ご》もあることだ、かりそめにも町役人のところへまいり、悪口を申すなどとは不届きな奴じゃ。このたびは差しゆるすが以後はきっとたしなめ。うけたまわればそのほうは怠け者だという、道具箱が戻ったらば渡世を励み、老い先みじかい親を大切に養育いたせ。ソコで与太郎そのほうへ尋ねるが、それなる道具箱というものは、源六がそのほう方にまいり道具箱を持っていったのか、そのほうが持ってまいったのか」
与「家主さんがガミガミいってしようがねえから、私がかついでいったんで。店賃を納めなけりゃァ店立てをくわせるてんで、いまいましいから、いっそ店を明けて、棟梁のところの二階へでも権八《ごんぱち》〔居候〕か何かでもと思ったんですけれども、おふくろが泣いてさわぐんで、年をとって人ンとこの二階に住まうのはいやだから、どうかしてくれというんでしようがねえから道具箱を私が持っていったに相違ございません」
奉「さようか。源六まったくそれにちがいないか」
源「御意にございます」
奉「その道具箱は何のために預かった」
源「ヘエ」
奉「一両と八百文の抵当《かた》に預かったのじゃろうな」
源「さようでございます」
奉「まず俗に申す質物《しちもの》じゃな」
源「御意にございます」
奉「ウム質屋の株はあるか」
源「ヘエ」
奉「質屋の株なくして、よも質物は取るまいな。質屋の株はあるか」
源「恐れ入ります」
奉「ただ恐れ入ったではわからん、有るのか無いのか」
源「ヘエございません」
奉「コレ質株なくして質物を取るというのは不届きの奴だ」
源「重々恐れ入ります」
奉「そのほう二十日の余《よ》、道具を取り上げ、これなる与太郎一人の老母を養いかねるという、いかにも不憫《ふびん》の至りじゃ。キッとおとがめを申し付くべきなれども願人が大工ゆえに、科料《かりょう》として、二十日間の手間料をそのほう払いつかわせ。コレ政五郎、大工の手間はこの頃一人どのくらいじゃ」
政「恐れながら申し上げます、常傭《じょうやとい》にいたしまして十|匁《もんめ》……」
奉「ウム、十匁か。二十日として二百匁であるな。源六二百匁払いつかわせ。日延べ猶予は相ならん、立てッ」
また腰かけへゾロゾロ下がってくる。
政「サア与太郎、行ってもらってこい。天道《てんとう》さまは見通しだ、ざまァみやがれ。行ってもらってこい、正法《しょうほう》にふしぎなしだ。日延べ猶予はならねえんだ、早く行って取ってこい」
与「家主さんくんねえ」
源「マア待て」
与「金が足りなけりゃァ尻押しに借りてこい」
源「真似をするない」
与「日延べ猶予はならねえんだ」
源「わかったよ。次郎兵衛さん、家へ帰るとお返し申します。すみませんがどうぞ少々……それでけっこうでございます。サア与太郎受け取れ」
与「棟梁もらってきた、サアそれおまえに預けるよ」
政「よしッ。どうもみなさんご苦労さまで、帰りに一杯やりましょう。じゃァもういっぺんご迷惑ついでに……」
今度は政五郎が先立ちで.ゾロゾロゾロ、よく出たり入ったりする白洲だ。
奉「源六二百匁払いつかわしたか、以後はキットたしなめよ。政五郎そのほう二百匁は預かり、帰宅ののち与太郎に相渡せ。与太郎明日から渡世に就き、老い先みじかい親を大切に養育いたせ。双方とも落着、立て…‥ッ、アア政五郎ちょっと待て一両と八百文で、二百匁とはこの公事はチト儲かったな。しかし徒弟《とてい》をあわれみ、世話をいたす親切、感服いたしたぞ、アさすが、大工は棟梁……」
政「ヘエ調べを御覧《ごろう》じろ」
[解説]サゲのほうが先に出来て、あとで筋を作ったものと、筋が一通り出来ていてそれにサゲをつけたものとがある。この「大工調べ」や「三方一両損」「茶碗屋敷」など講釈を材料にした落語は、どれも筋は面白いがサゲが拙劣である。大工調べの落ちの「大工は棟梁、調べを御覧じろ」は「細工は流々仕上げを御覧じろ」の地口落ちである。なお一匁というのは小判一両の六十分の一のことであるから、二百匁なれば、三両と十八匁にあたるので、一両八百文の家賃に対してだいぶ儲ったわけだ。
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六尺棒
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人間の年のうちに、もういけませんという年がございます。幾才《いくつ》ときまってはおりませんが、あなたはおいくつですと聞くと「イエもういけません」という。初めてこの時がうぬぼれというものの取れた時で、そういう方は若い者に意見をすると、若い者のほうでも聞きません「なにをいってやがるんだ、若い時が二度あるものか、自分たちだってさんざんやってきたんじゃァないか」というような塩梅《あんばい》。しかしお年寄りの了簡では、自分らが若気の至りに馬鹿をしてこりごりしたから、どうか若い者にはそんな馬鹿な目に遇わせてやりたくないという老婆心《ろうばしん》から意見をするのですが、どうしても水の出端《でばな》の若い者にはそれがわかりません。やっぱり年をとって、もういけませんという時になってから、アアあの人が意見をしてくれた時によせばよかったと初めて気が付きます。どうもこれは仕方のないものでございます。
ご承知の通りいろいろ遊びのある中で、一番いけないのが女遊び、酒も飲まない煙草も喫《す》わないというおとなしい息子さんも、一度女郎買いにでも行くと、たちまちの間に悪いことを覚えてしまいます。一度は酒を飲まないからといって甘味でも済ませますが二度目になりますと、女が甘味じゃァ堪忍しない、縁起ですから一口と来るといやいやながら女に勧められてよんどころなく、一二杯飲む奴が度重なるといつか酒の味がしみ込んで、たちまちのうちに一合や二合は飲めるようになります。もう酒を飲みはじめると道楽はだんだん進んで、勝負事に手を出したり、親の金を黙って持ち出したり親類をだまして金を借りたりするようになります。そのうちはまだいいが、せっぱつまると人を殺したり自殺したりするようなことになります。
じつに世の中に危険なものは酒と女でございますが「世の中に酒と女は敵《かたき》なり、どうぞ敵にめぐり遇いたい」とかいって、悪いと知りながら、さてはじめると止められないのがこの路でございます。
息子「オイ、もういいよ、ここでいいよ、俥屋《くるまや》ここでいいんだよ」
車夫「ヘエ、お店までまいりましょう」
息「ばかなことをいっちゃァいけねえ、この五十日というもの、ばかに親父が角《つの》を出しているんだ、いけないいけない、ここで下ろしてくれ」
車「さようでございますか、どうもありがとう存じます」
息「待ちな待ちなオイ待ちな、祝儀《しゅうぎ》をやるから」
車「ヘエ、どうもなんでございます、あちらでちょうだいいたしますから」
息「あちらはあちらだよ、少ねえが煙草銭《たばこせん》だ」
車「どうも恐れ入ります、なんぞ花魁《おいらん》にお伝言《ことづけ》はございませんか」
息「なかなかなんだね、お世辞がよくなったな、お伝言てえほどのこともないが……オイおさきにな……知っているだろう、おさきさんな」
車「ヘエ」
息「あれに耳打ちをしておいてもらいたいんだ、明日|正午《ひる》までに来ると俺がいったところが、花魁のいうには今夜こんなに早くお帰りになるようでは、また明日のお正午前に来ることはできなかろうというから、大丈夫来るとこう言って帰ってきたんだ、けれどもなにしろ親父がだいぶ曲がっているからな、夕方までにはどうにか都合をしてちょっとでも行くが、お正午までにはちっとむずかしかろうと、おまえからあの女に吹き込んどいてくんな、よく花魁にそういえってな、ご苦労ご苦労オイオイ待ちな待ちな、言っちゃァいけねえ、止そう、やっぱりそんな伝言《ことづけ》はしねえほうがいい、どうか都合をして行くよ、花魁がそれを聞いて、それじゃァまた来られないか知らないてんで、癪《しゃく》でも起こすと可哀相だからね、どんなにしても俺行くから、アア、ご苦労さま、よろしく言っておくれよ、さようなら……彼女《あいつ》にも弱ったね、またアァ惚れる奴もねえもんだ、片刻《かたとき》も離れていられねえというんだ、若旦那、もしあなたが三日でも来てくださらなけりゃァ私ァとても生きちゃァいられまへんと言やがった、ウーイ……、また久兵衛《きゅうべえ》という奴が俺にとってあのくらい忠義な奴はないよ、今朝も蔵前のところで、チョイチョイと呼んで手招きをしてやがるから、なんだと思って行ってみると、網戸が締まっていた、石の段へ腰をかけていたら小さな声で、今日はぜひいらっしゃい、いつもは明るいうちにいらしって、宵のうちに帰っておいでになるからおとっさんに見付かるので、暗くなってからお出かけになって、夜半《よなか》に帰っておいでなさい、そのほうがようございます、旦那さまがもしお聞きになったら、若旦那は今お湯へいらっしゃいましたと申し上げます、それじゃァ帰ってくるまで待っているとおっしゃる気づかいではありません、それからドンドン握りこぶしで店の戸をおたたきになると奥まで響きますから拳固《げんこ》でコツコツと軽くおたたきなさい、そうすると私が、店の者はみんな寝かしてしまって、私だけ店に起きておりますから、ソッと開けてあげますから、あなたはお部屋へ行って、延べてある蒲団へ入ってお寝《やす》みなさい、そうして翌朝早くお起きになって、少しはお眠くっても我慢をして、おはようございますと、おとっさんのところへご挨拶においでになれば、何のこともないじゃァありませんかといやァがる、へヘン、なかなかあいつ感心な奴だ、可哀相にみんな寝かしちまって、一人で起きていてくれようってんだ、俺が相続をするてえことになると、頼りになる奴だ……オイ久兵衛さん〔トントントントン〕久兵衛、寝ちまったかな困ったな、灯火《あかり》がおもてへ差しているから起きているにちがいないが、寝ちまっちゃァ困るな、そうかといって強くたたくこともできず、困ったなァ、久兵衛、久兵衛さんや」トントントントン
父「モシモシそこおたたきなるのはどなたでごさいますか、手前どもの店は十時限りで閉ざしまする、たとえなじみのお客さまでも、当時は物騒でございますから、お開け申すわけにまいりません、そのかわり朝は早ようございますから、お買物かおあつらえ物ならどうぞ明朝に願いたいもので、明朝ならどんなに早くってもよろしゅうございます、毎度ありがとうこざいます」
息「こりゃァいけない、親父だな、アッ計略の裏をかかれたんだ、困ったな、親父だ、さっき蔵の前で話をしていたのを、親父が蔵の中へでも入って、コツコツ片付け物かなにかしていたんだろう、あれを聞かれちまっちゃァ大変だ、どうもとんだことができたなこりゃァ〔トントントントン〕エーおとっさん、今日|上総屋《かずさや》さんへまいりまして、帰りに髪結床《かみいどこ》へ寄りましたところが、将棋がはじまっておりました、ツイ一番やろうてんで、将棋を差しましたんで、帰ろうと思うと先方でどうしても帰さないんで、もうひとつもうひとつってんでとうとう遅くなってしまいました、どうか開けてください〔トントントントン〕おとっさん」
父「そこをおたたきなさるのはどなたでございますか、手前どもの店はご承知のごとく十時限り鎖します、そのかわり朝は早うございますから、どうぞ明日《みょうにち》に願います、毎度どうもありがとうございます、ヤアおわァい……」
息「なんだしようがねえな……エエ私でございます、どうか開けていただきたいんで、私でございます」
父「どなただかわかりません、私という方は存じません、どなただかわかりませんがお名前をはっきりおっしゃっていただきたい」
息「たいがいわかりそうなものだなァ、あなたにたった一人の伜《せがれ》徳三郎《とくさぶろう》でございます」
父「ハハア徳三郎のお友だちの方でいらっしゃいますか、よく夜々半《よるよなか》ご親切にお訪ねくださいました、あれはご承知の通り商人《あきんど》にあるまじき行ない、昼夜の差別なく家を外にするというばか野郎、たまたま家に居れば踵《かかと》が畳へ付かんという有頂天、それゆえじつは今日親類会議を開きまして、協議の上、いよいよ廃嫡《はいちゃく》ということにいたしました、お友だちの方なら、あの野郎にお会いになりましたら、家へはもとより出入りはできないし、親類へ行って、無心をしたところで、銭一銭恵まないということに協議いたしました、一晩も泊めてやってはいけないという固い約束をしましたから、と、どうぞお伝言《ことづけ》を願いとう存じます、ご親切さまによくお訪ねくださいました、どうぞお願い申します、さようなら」
息「なんだそりゃァ乱暴ですね、おとっさん、そんな乱暴なことを言ったっていけませんぜ、だしぬけに勘当するなんて、不都合だ」
父「なにが不都合です、見込みがなければ親が廃嫡をするのに何も差し支えはない、きさまたちに苦情をいわれることはない、とこうどうかお伝言を願います」
息「ヘエさようでございますか、ほかに兄弟があるわけじゃァなし、あなたお年寄りじゃァありませんか、私を廃嫡をして勘当するなんてよくない、一体どうなされるんで」
父「よけいな心配をするなッ、と、どうぞこうお伝言を願います」
息「ヘエ、それでもあとのところを……」
父「あともへちまもない、ばか野郎ッと、どうぞお伝言を願います、私は幸いと兄弟が多いから姪だ甥だという者がたくさんございます、近い身内からよさそうな子供を選抜して跡目を譲りますから、よけいなことを心配することはないッと、こうお伝言を願います」
息「ずいぶんたくさんお伝言がありますんで、ヘエ、私も残念です、おとっさんには姪だ甥だというのは近い身内かも知れませんが、従兄弟従々兄弟《いとこはとこ》は他人も同様というじゃァありませんか、その他人みたような奴にこれだけの身上《しんしょう》を取られるのは私もくやしゅうございます」
父「ハハア、それでもくやしいと思いますか、そのくやしいと思うようなことを誰がしたんですか、みんな自分の了簡あってしたことだろうからこっちはそんなことは差し支えない、後悔してももう間に合わないと、こうお伝言を願います」
息「なんだ、ようこざいます、私も勘当され、親類へも行くことができず、居るところも寝るところもなく金もなければ食うこともできません」
父「だれに頼まれてそんなことをしたッと、こうお伝言を願います」
息「わかりましたよ、そんなにお伝言《ことづけ》ばかり願わなくってもようございます、じゃァ死んでしまいます、どうせ死ぬんならここの家の軒《のき》へ首をくくって死んでしまいますから」
父「死ぬ死ぬといった奴に昔から死んだためしがない、とこうお伝言を願います、もう一ツお伝言を願いたいのは、世間の息子さんたちをよく見習えと、向こうの常陸屋《ひたちや》さんの金ちゃんなぞを見ろ、きさまより二ツ年下でありながら、学校の成績もよく、おとっさんにはちっとも苦労をかけず一昨年《おととし》お嫁さんをおもらいなすって、おとっさんはもう去年|初孫《ういまご》の顔を見て、自慢そうに抱いて歩かれるたびに、俺の心持ちといったらどうだ、どんなに、うらやましく思うか知れない、それに引きかえてきさまなどは、昼夜の分かちなく遊びまわって親不孝の野郎めッと、こうお伝言を願います」
息「まだあんなことをいっている、それじゃァ仕方がない、店の脇にこう箱が二ツ積んであります……その上へ乗って……帯を解きました、軒の垂木《たるき》へ帯を通しました、ようござんすか、いま箱の上へ乗っかってるんですよ、帯を輪にして首を突ッ込みました、これで私がポーンと箱を蹴飛ばしゃァ、箱がひっくり返ってぶら下がります、ギュッと死んでしまいます、今もう箱を蹴飛ばしかけております……しようがねえなァ蹴飛ばすと死んでしまいますよ、明日の朝戸を開けると、たった一人の息子が店ッ先へぶら下がっていますよ、そうしたらあなたはご近所へ対しても立派でござんしょう、いま蹴飛ばします……まだ留めませんか困りますね、もう二十五秒ぐらいは特別に猶予してあげますが、留めませんか……ご返事のないは不承知か、困りましたなァ……いよいよ留めないとなりゃァ仕方がない、首くくりは変更いたします……これだけの家を他人に取られるのはいかにも残念ですからいっそ焼いてしまいます、これから火|放《つ》けのほうへ取りかかります、こんな家の一軒くらい焼くのはわけはありません、向こうの経師屋《きょうじや》の家が普請《ふしん》中で、私は一枚戸の開くところもなにもよく知っていますから、木ッ葉や鉋屑《かんなくず》を持ってきて、ちょうどここに燐寸《マッチ》を持っていますから、火を放《つ》けます。幸い今夜は風がありますから、すぐにピラピラと燃え上がります……エエたくさん木ッ葉を持ってきました、店のところへ積み上げました、それじゃァソロソロ裏口のほうからお逃げなさらないとけがをしますよ、風がずいぶんひどくなりました、それじゃァいよいよ火を放けます、首くくりより火事のほうがあったかくっていいや……エエ、まだ留めませんか留めなけりゃァ仕方がありません、それじゃァもう燐寸をすります」
父「ばか野郎、まるで狂人《きちがい》だ、あの野郎のことだからほんとうにやりかねない、他のこととちがってご近所迷惑になることだから、うっちゃっちゃァおけねえ、どうしてくれよう、アアここに用心にこしらえた六尺棒があるから、これを持って野郎の腰の立たないようにひっぱたいてやろう」
可愛いだけにまたいっそう腹も立つ、第一ご近所へご迷惑をかけては済まないと思うから、六尺棒を持って、ガラリ戸を開けると、
父「この野郎ッ」
と飛び出した。若旦那は胆をつぶして、バラバラバラバラ逃げ出した。
息「アアおどろいた、あの六尺棒でぶん殴られてたまるものか、打ちどころが悪けりゃァ、ギュッと死んでしまう、親父よッぽど怒ったんだな……アッまだ追いかけてくるぞ、こりゃァ大変だ、コラコラコーラコラ………もう大丈夫だ……オヤまだくるぞ、こりゃァいけないどこか隠れるところはないかしら、アアこの材木の影へ隠れてやれ……ソラきたきた……アッしめしめ向こうへ行っちまった、どこまで行く気なんだろう、きっと伯母さんのところへゆくんだよ、俺がこっちへ逃げてきたから、伯母さんのところへ行って泊まるんだろうと思ったんだよ、オイちょっとここを開けてくんな、家のばか野郎が来やァしねえか、とかなんとか言ってるぞ、イエまだ来ませんよ、おめえまたあいつを可愛がって隠したりなんかしちゃァいけない、それでもまいりませんよ、そうか、野郎どこへゆきやァがったろう、くわしい話はまたあしたするからな、もし来たらな、あいつまたどんなばかなまねをしないとも限らないから、家へ泊めて小遣いかなにかやってくれろ、けれどもなんだぜ俺が言ったなんていっちゃァ困るよ、とかなんとか言ってるんだろう、けれどもあっちへ行くと親父に見つかる、仕方がない、いま来た道を帰るよりしようがねえ……アア危なかったな、あの親父ときた日にゃァ力があって柔術《やわら》ができるんだから、捕まった日にゃァたいへんだ、俺はその伜だけれども力なんかサッパリないんだ、色男《いろおとこ》金と力はなかりけり、どこまで俺は色男にできあがっているんだろう……オヤッ、戸が開けッ放しだ、物騒だな、アアこりゃァ家だ、親父め腹立ちまぎれに飛び出したんで、戸を締めるのを忘れたんだ、あきれたものだ、けれどもよほど腹が立ったんだな、いつも奉公人にスッカリ締まりをさせて、寝ちまえッとみんな寝かしてしまってから、手燭《てしょく》を点けていちいち締まりを検《あらた》めて歩く、最後に台所へ行くから、なにをするかと思うと火消し壺をスッカリ診察をしてから初めて床《とこ》に入るという親父だが、よっぽどあわてたとみえて夜中に戸を開けッ放しにして飛び出した。どうしよう、開けておくのも物騒だ、俺がこの中へ入ってしまえ、風が吹ッ込むぞ、戸を締めちまえ、サアもうこれで大丈夫だ、掛け金を掛けて、タンと下ろしてしまえばもうこれで安心だ」
父「いまいましい奴だな、夜中まで心配をさせやがって、どこへ逃げてしまやァがったか、逃げ足の早い奴だ、ばかばかしい奴だ、首をくくるの、火を放けるのと、あんなことをいったらおどろいて開けるかと思やァがって脅《おど》かしやァがった、あんまり腹が立ったから六尺棒を持って飛び出したが、アッ、こりゃァたいへんだぞ、開けた拍子に野郎の顔が見えたんで、夢中になって追いかけたが、戸を締めるのを忘れてしまった、開けッ放しにしてきた、こりゃァいけなかったな、夜中に……締めたかな、そうでねえ、締める間がない、こりゃァいけない、こりゃァいけない、弱ったな……アーッアーッ、どうも肥ってるものだから、駈けると息が切れる、アア困ったな………エーと、ここが乾物屋さんだよ、そうするともう七八間先だ、ハテナ燈火《あかり》が差していないところをみると、それじゃァ締めて出たんだな、けれども締める間がなかったはずだ、やッぱり締めなかったにちげえねえが、それじゃァまた清蔵《せいぞう》に久兵衛がたびたび俺にあやまるのも工合が悪いと思って、差し控えていたが、俺が開けッ放して出て行ったから物騒だと思って締めてくれたんだろう、親切に清蔵か久兵衛が締めてくれたんだろう、……オイ開けてくんな、久兵衛さんかい、締めてくだすったのは、オイ、いけないな、締めてくれたのはたいへんに親切だが、寝ちまっちゃァ困る、オイみっともなくってしようがない、たたくわけにもいかないし、オイ、開けておくれよ〔トントントントン〕オイ、開けておくれよ〔トントントントン〕開けておくれ」
息「アア帰ってきたな、フフン……ヘエヘエそこをおたたきになるのは、どなたでござんすな」
父「オヤッ、へんな声を出しやァがったよ、だれだ開けてくんな、長松だな、寝ぼけやがってオイ開けておくれよ」
息「そこをおたたきになりますのはどなたでござんすな、手前どもの店はご承知の通り十時限りに鎖します、この頃はまことに物騒でございますから、おなじみさまでも開けることはできません、お買物なら明朝に願います、朝はどんなに早くっても起きております、毎度ありがとうございます、ヤアおわい」
父「なんだ、ばか野郎、入ったんだな、一生懸命追いかけて行ったんだが、どこで行きちがったんだか、しようのねえ奴だ、オイ開けておくれ、オイ」
息「どなたですな、そこをおたたきになるのは、エー手前どもの店は十時限りに鎖しますからお買物なら明朝に願います、毎度ありがとう存じます。ヘイおわーい」
父「ばか野郎、俺だ、開けろ、俺だから開けろ」
息「ヘエどなたでございます、俺じゃァわかりません、お名前をはっきりとおっしゃっていただきたい」
父「なにをいってやがる、親子の間でわかりそうなものだ、きさまの親父の徳右衛門《とくえもん》だ」
息「ハハア、親父の徳右衛門のお友だちの方でいらっしゃいますか、よる夜中よくご親切にお訪ねくださいましたが、あれは商人の親父にあるまじき行ないで、昼夜の分かちなく、銀行の通い帳だとか、地代の帳面とか、公債だとかいう物をひろげて見ちゃァ、算盤《そろばん》ばかりパチパチはじいております、家の中を歩いても畳へ踵が付かないというばか野郎、今日親類会議を開きまして、親類協議の上、廃……廃親父《はいおやじ》にいたしました」
父「ばか野郎、廃親父という奴があるか」
息「親類へも申し付けて、門端《かどばた》へ立っても、銭一銭やらんという堅い約束をいたしましたから、どうかあの野郎にお会いなすったら、こう一ツお伝言を願います」
父「なにをいってやがるんだ、ばかにしやがって」
息「ヘエ、それからもう一ツお伝言を願いたいのは、世間の親父を良く見習え、世間の親父てえものはそんなものではない、向こうの常陸屋さんの金兵衛さんをよく見ろ、若いうちから苦労をなすって、あれだけのご身上になすって、息子さんに早くからお嫁さんをもらってやり、去年アァやって孫さんの顔を見て喜んでいなさる、どこの宴会だとかいうと、息子さんばかりおやりになって、そんな着物を着て行っちゃァいけない、どこへ行って着物を脱ぐようなことがないとも限らないから、襦袢《じゅばん》からなにからソックリきれいにしてゆかないと、とんだ恥をかくじゃァねえか、五百円財布に入っているがまたこの頃は二次会三次会が流行《はや》るから金のことで恥をかくと外聞が悪いから、足りなかったらいくらでも取りによこせと、世間の親父は良くわかる、ちっと世間の親父を見習え」
父「ばか野郎、そんなに真似がしたけりゃァ六尺棒を持って追いかけてこい」
[解説]この噺は仕込み落ちだという人もあり、また逆さ落ちだという人もある。だが理屈ぬきに楽しめる。
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熊の皮
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「楽しみは春の桜に秋の月夫婦仲よく三度食う飯」とかいいまして、一家むつまじくお暮らしになれば従って稼業《しょうばい》も繁昌いたすというわけでございます。そこで女房を持つについてはよほど考えなければなりません。昔は親と親との許嫁《いいなづけ》などということがございまして、自分がいくら気にかなわなくても親同士が約束をした者は、いやでも夫婦にならなければならない。いやな亭主なり女房なりを生涯持ち通すという、このくらい不愉快なことはございますまい。夫婦は互いにその人を選ばなければなりません。亭主を亭主と思わず、年中尻に敷いて亭主扱いの悪いことというものは、まるで奉公人でも使うような気になっているのがあります。もちろんこういうご亭主は普通の人よりはいくぶん足りないところがあるにちがいございません。
亭「オオいま帰ったよ」
女房「冗談じゃァないよ、この人はどこをのたくってるんだね、何時だと思ってるんだよ」
亭「何時だと思ってるって、しようがねえじゃァねえか、景気が悪いんだから、おめえこれだけ物を売って帰ってくるまでには、ほんとうにどのくらい心配だかわかりゃァしねえ、それを帰る早々あたまからおめえのようにポンポン言って、どこをのたくってるなんて、人をヘビかミミズだと思ってる」
女「なんだねえ、グズグズおいいでないよ、草鞋《わらじ》をはいてるついでに水を一杯汲んできておくれ」
亭「水を汲んでこいって、おめえ家でなにをしているんだ」
女「なにをしているっておめえだって目があるじゃァないか、なにをしているか見えそうなもんだ」
亭「そりゃァ見えらァ、長火鉢に寄りかかって火ダコのできるほど、焙《あた》ってるじゃァねえか」
女「それほどまでわかってるなら皮肉に聞くことはないや」
亭「皮肉ということはないけれども、おめえが家にいて火鉢に焙ってるくらいなら、水の一杯ぐらい汲んでおいたって罰《ばち》も当たるめえ」
女「おまえだってそうじゃァないか、今いう通り草鞋をはいてるついでに、水の一杯ぐらい汲んだって罰も当たるまい、夫婦の仲でそのくらいのことができないなら頼まない、自分で汲むからいいよ、私だって手も足も二本ずつあるから頼まないよ、その代わりおまえのことはなんにもしないからそう思っておくれ」
亭「マアそう腹を立てなさんな、おめえは気が短くっていけねえ、じきに怒って目を据えて顔の色を変えるからおっかなくってしようがねえ、人間は、短気は損気《そんき》てえから、腹を立つと損をするぜ」
女「グズグズおいいでない、いやならいいよ」
亭「汲むよ汲むよ、そりゃァ汲むけれども一寸《いっすん》の虫にも五分《ごぶ》の魂、おまえのように頭からガミガミいわれると、俺のほうでもちったァ文句をいいたくならァ」
女「生意気なことをおいいでない、なにが魂だえ魂のぬけがらのくせにして、汲むなら早く汲んでおいでな、ほんとうに骨惜しみだねえこの人は……なんだって片ッぽうの手をあけてくんだねえ、両方の手桶をブラさげてって汲んでくりゃァ早いじゃァないか……水を汲んじまったら、そこにお米が量《はか》ってあるからちょっとお米をといでおいで」
亭「なかなかいろいろな用を言いつけるなァ」
女「その白水《しろみず》を取っとくんだよ、洗濯をするんだから……お米をといだらお願いだからすぐに洗濯をしてしまっておくれ」
亭「洗濯ってなにを洗うんだ」
女「そこに湯布《ふんどし》が出ているだろう」
亭「俺の褌《ふんどし》はきのう洗ったぜ」
女「おまえのなら頼みやァしない、私のを洗っておくれというんだよ」
亭「冗談いっちゃァいけない、なんぼなんだって男のくせに、女房《かかあ》の褌を洗うなんて、そんな奴があるもんか、それでなくってもおめえ世間でもって、源兵衛さんは女房の尻に敷かれているってみんなで笑やァがる、俺がおめえの褌をポチャポチャ洗ってるところを見られでもすると、源兵衛さんは尻に敷かれるわけだ、女房の褌まで洗わせられると言われるにちげえねえ」
女「グズグズお言いでないよ、夫婦の間で亭主が女房の褌を洗おうと、女房が亭主の褌を洗おうと、世間の人の口出しはいらない、世の中は開けて男女同権なんだから、なにをしようとかまわないよ」
亭「ヘエ、そういうことにきまったのかえ」
女「アアきまったとも」
亭「そんなことをどこできめたんだ」
女「どこできめたっていいやね、みなさんが集まって相談してきめたんだあね」
亭「つまらないことをきめたもんだな、じゃァ仕方がねえ、洗うことにしよう」
女「オイオイお米をとぎかけておいて褌を洗う奴があるものかね、お米のほうを先へといじまってよう、ぞんざいなとぎ方じゃァいけないよ、何度も流して白水が出ないようにして、米あげ笊《ざる》へあけて、桶へのっけて水を切ってこっちへお出し、サア早く洗濯をしておしまいよ、グズグズしていると日が暮れちまうじゃァないか……アアそう手を振り散らしちゃァこっちへきたない水がはねるじゃァないか」
亭「アアうるせえ、のぼせ上がっちまう」
女「私だって口が酢っぱくなっちまう、生絞りじゃァいけないよ、キュッと固く絞って干しておけば、まだ日があるからすぐに乾いてしまうよ、朝早く起きさいすれば、帰ってきてからそんな忙しい思いをしないでもいいんだァね」
亭「朝早くったって、おまえ俺より早く起きたことがあるか、昔から女房というものは亭主に寝顔を見せるのは、この上もない恥だということをいってるじゃァねえか」
女「ばかなことをお言いでない、昔は世の中が開けなかったからそんなことをいったんだが、今は世の中が変わってるからね、女房が亭主に寝顔でも見せてやればどのくらい楽しみになるか知れない、それだから骨を折って寝顔を見せてやるんだよ」
亭「ふざけちゃァいけねえ、よだれをたらしている寝顔なんぞ見たって楽しみにはならねえ」
女「グズグズ言わないで早く干しておいで、なるたけ西日の当たってるところを見つけて、いいかえ……アラどうしたんだえ、泥だらけになって帰ってきてどうしたのさ」
亭「どうしたっておまえが悪いや西日の当たるところ、当たるところっていうから、俺が見当をつけてお稲荷さまの鳥居《とりい》のところが一番西日がよく当たってるからあすこヘ干そうと思ったら落っことした」
女「あたりまえさ、なんぼ西日が当たってるって、お稲荷さまの鳥居へ褌を干す奴があるものかね、しようがないねえ、泥だらけになって、その手を先に洗って、もういっぺんゆすがなくっちゃァいけない……アッたらいの水をなぜそこへあけるんだねえ、ぬかるみになってしようがないじゃァないかね」
亭「おどろいたなァ、マアすこし黙っててくんねえ」
女「黙ってればなにをするかわからないじゃァないか……サア干してきたら、足を洗ってこっちへお上がり、まだ坐るんじゃァない、立ってるついでにちょっとお礼に行っておいで」
亭「なんだい、礼ってどこへ行くんだ」
女「横丁の先生のところからお赤飯をいただいたから」
亭「横丁の先生ってなんだ」
女「わからないね、ここの家主《おおや》さ、お医者さまだから先生じゃァないか」
亭「フフやぶ医者か」
女「やぶ医者なんてお言いでないよ、ここだからいいけれども、先方《むこう》さまへ行ってやぶ医者なんていっちゃァいけないよ」
亭「なにをもらったって」
女「お赤飯」
亭「おせきさん」
女「わからないね、赤飯だよ」
亭「そうか、腹がすいてるから一杯食わしてくれ」
女「いけないよ、お礼に行って帰ってきてからあげるよ、いま食べるとお腹がくちくなって無精《ぶしょう》になるから、お腹のすいてるところで、帰っておこわを食べようと思えば、楽しみになるから、早く行っておいで」
亭「なんと言って行くんだ」
女「なんと言って行くったって、お赤飯のお礼ぐらい言えそうなものじゃァないか」
亭「それが言えるくらいなら聞きやァしねえ」
女「言えないって幅をきかせる者があるかね、玄関から行かないで裏口からお行きよ……ごめんください先生は御在宅《おうち》でございますかとうかがって、先生が御在宅ならばお目通りをいたしてお礼を申し上げたいことがあってまいりましてございますと、お取次を願ってお目通りをしたらさて、うけたまわれば、何かお屋敷さまからご到来物がございましておめでとう存じます。お門多《かどおお》のところを手前方までお赤飯をちょうだいいたしまして、ありがとう存じますと、それだけ言えばいい」
亭「ウーム、なんというんだって」
女「しようがないねこの人は……さてうけたまわれば、なにかお屋敷からご到来物がございましておめでとう存じます、お門多のところを手前方までお赤飯をちょうだいいたしましてありがとう存じます」
亭「それだけか」
女「おぼえたかえ」
亭「イーエ」
女「おぼえもしないでそれだけかという奴があるかね」
亭「けれども三べん稽古は普通だぜ」
女「こんなことを稽古する気になる奴があるものかね」
亭「ダッテおぼえられなけりゃァしようがねえ」
女「じゃァこうおし、口うつしに一口ずつ教えてあげるから、それでおぼえておしまい」
亭「そんならそういうことにしてくんねえ、どうだこのくらいに口を開いては」
女「なんだねえ、大きな口をあいて……」
亭「ダッテ口うつしにするというから、なるたけ大きく口をあけていなかったらいけめえ」
女「あきれたねえこの人は、口うつしてえのは私の言葉を一言ずつ覚えるのだよ、私の真似をして覚えるのだァね」
亭「そうか」
女「サァおじぎをしてごらん、おじぎも満足にできないんだね、ほんとうにあきれかえっちまう、手をついてあたまを下げると、お尻が持ち上がっちまって、まるで米搗きバッタみたようだよ、チャンとおじぎをしてごらんなね」
亭「アア苦しい」
女「苦しいたってこのくらいのことができない奴があるかね、いいかえ、うけたまわれば何か」
亭「何かてえのは何だ」
女「なんだかわからないから、何かと言っとけばいいんだよ」
亭「そうか、さてうけたまわれば何か」
女「お屋敷さまからご到来物がございましたそうで、おめでとう存じます」
亭「お屋敷さまからごとごとごと……」
女「そんなタヌキが物をいうようでなくはっきりおいいよ、いいかえ、お門多のところを」
亭「お門多のところを」
女「そうそう」
亭「そうそう」
女「そんなことは言わないでもいいよ、……手前方までけっこうなお赤飯をちょうだいいたしまして、ありがとう存じます」
亭「手前方までけっこうな≪おせきさん≫をちょうだいいたしてありがとう存じます」
女「なんだよこの人は、舌がまわらないんだね、口上《こうじょう》ははっきりいわなくちゃァいけないよ、それからついでに私もよろしく申しましたと言っておくれ」
亭「ついでに私も宣しく申しましたとそういうのかえ」
女「そうだよ」
亭「おかしいなァ」
女「なにがおかしいんだよ」
亭「けれどもなんだろう、赤飯《こわめし》の礼に俺が行くんだろう」
女「そうさ」
亭「俺がむこうへ行って礼をいって、ついでに私もよろしくというのはおかしいじゃァねえか」
女「あきれ返っちまうね、誰がおまえ、自分で行って自分がよろしくという奴があるものかね、私なんだよ」
亭「だれだ」
女「私だよ」
亭「私、おめえか……そうか、そんならそうといえばいいのに、おっかアもよろしく申しましたというのか」
女「おっかアなんていう奴があるかね、ばかばかしい」
亭「じゃァなんというんだ」
女「女房もよろしく申しましたとお言いな」
亭「なるほど、いろいろ工夫のあるものだな」
女「工夫てえ奴があるかね、忘れちゃァいけないよ、早く行っといで……忘れると家へ入れないよ」
亭「おどろいたなァ、たいへんなことになっちまったなァ、赤飯も食いてえけれどもこんな心配が起こっちゃァかなわねえ、忘れると家へ入れねえというと、事によると追い出されるかもしれねえ、隣の吉兵衛《きちべえ》さんのおかみさんを頼んであやまってもらおうかしら、しかし家のおっかアは厳しいだけになんでも知ってやがるな、女房なんてえことを知ってるんだからおどろいた、世間で源兵衛さんのおかみさんは亭主を尻に敷くというけれども、尻に敷かれても仕方がねえ、女房なんてことを知ってるんだ、ほんとうにおどろかされるなァ……お頼み申します、ごめんください」
○「ドーレ……いずれからおいでで」
源「エー彼方《むこう》からおいでだ」
○「なんだか、イヤ薄暗いのでよくわからなかったが、長屋の源兵衛さんか」
源「ヘエ源兵衛さんでございます、エー先生は居ますか」
○「先生はちょうどご在宿《ざいしゅく》で……」
源「オヤオヤそうでございますか、せっかく来たのに無駄足か」
○「オイオイどこへ行くのだ」
源「在所へ行ったてえから帰ろうと思って」
○「在所ではない、ご在宿とはお宅にいらっしゃるのだ」
源「アア医者さまの符牒《ふちょう》かい」
○「なにが符牒だ、先生へなにか申し上げるのか」
源「おいでならばお目にかかってご談判《だんぱん》申したい」
○「イヤへんなことをいう人だ、しばらくお待ちなさい、いま取次いでやるから……エエ先生へ申し上げます、お長屋の源兵衛がまいりまして、お目通りをしたいと申します」
医「アアそうか、こっちへ通しなさい」
○「かしこまりました……サアこっちへお通り」
源「ヘエさようでございますか、じゃァごめんください……エエこんにちは」
医「オウこれはこれは、よくおいでだ、サアサアこっちへお入り、べつに火を取らんからズッとこっちへお進み、敷居越しではごあいさつができない、サアもそッとこっちへ……」
源「マア少し待っておくんなさい、そうおまえさんのほうで勝手のことばかりしゃべり付けられると、こっちがしゃべる隙《ひま》がないだろうじゃァありませんか……ヘエこんにちは」
医「イヤ改まってごあいさつか、ハイハイこんにちは、どういう用でおいでだな」
源「エーさようでございます、さて……」
医「なんだな」
源「さて……さて……」
医「軽業《かるわざ》の口上みたように、さてばかりいっていなさる、どうしたな」
源「うけたまわりました」
医「ハーなにをうけたまわったな」
源「エーなんだかうけたまわりました、お屋敷さまから、≪おともらい≫がございましたそうでございますが、おめでとう存じます、お門多のところを≪おせきとう≫をいただきましてありがとう存じます」
医「なんだい、へんなことを言いなさるな、≪ともらい≫だの≪おせきとう≫だのと縁起の悪い、なにか聞きまちがいだろう……アアおまえなんだね、赤飯の礼に来たんだろう、さてうけたまわりますれば何かお屋敷さまからご到来物がございましておめでとう存じます、お門多のところを手前方までお赤飯をいただいてありがたいと礼に来なすったのだろう」
源「先生おまえさん立ち聞きをしたね」
医「だれが立ち聞きなぞをするものか、おおかたそのくらいのことだろうと思う、じつはお屋敷の姫さまのご病気、他の医者が長く手がけてどうしてもいけないのを、私が診てからスッカリご全快になったのでたいそうお喜びで、以来お出入りにもなりけっこうなる熊の皮を拝領《はいりょう》した、医者としてこの上もない誉《ほま》れ、その祝いに赤飯を蒸《ふか》して長屋じゅうへお配りをしたのだ」
源「ハアなんですって」
医「熊の皮を拝領した」
源「拝領てえのはなんで」
医「いただいたのだ、あの床の間の前に敷いてあるあの皮だ」
源「ヘエーあれが熊の皮でございますか、すみませんがちょっと見せておくんなさい」
医「サアサアごらんなさい」
源「ヘエーなるほど、大きなものですな」
医「イヤさほど大きくはないよ」
源「ナニ大きうございます、犬から見ればよッぽど大きい」
医「なかなか口が悪いな」
源「ヘヘヘ、けれどもおまえさんこれはだまされました」
医「なにをだまされた」
源「熊の皮だというが、こりゃァ熊じゃァありませんよ」
医「どうして」
源「どうしてって、熊というものは毛の色が黒いものだが、これは赤うございます」
医「アアそれはな海辺に棲《す》んで魚類を食する、それがために毛が赤くなったものだ」
源「なんですって」
医「海辺に棲んで魚類を食べた」
源「ハアおそろしい丈夫な歯だな」
医「ナゼ」
源「鎧《よろい》を食べたって」
医「鎧じゃァない、魚類というのは魚のことだ」
源「いったいこれを、なんにするんで」
医「敷皮《しきがわ》だな」
源「敷皮というとどうするんで」
医「敷皮がわからんでは困るな、まずおまえに早くわかるようにいうと、尻に敷くものだ」
源「アッ、女房もよろしく申しました」
[解説]女房の尻に敷かれて、にらみの利かない亭主のことを、熊の皮と綽名《あだな》するほどにこの落語は有名なもの。以前は、熊の皮の傷痕の形状から、下《しも》がかったことを連想し、女房も宣しくを思い出すという、隈褻な演出を露骨に突っ込んで話したものだとある。それが次第に改良され、現在に至った次第、さればサゲは見立落ちと解される。文政以後の小噺本には、胴乱、敷物等、種々に直されたものをしばしば見かけるから、これは小噺の延長であろう。またひところ、家を出る前に女房が亭主の向う脛の毛をむしる、「痛えじゃねえか」と亭主、「痛かったら、忘れるんじゃァないよ」と女房がいう。それで亭主は先方に行って、熊の毛をむしり「女房が宣しく」と思い出す。これなら仕込み落ちでもある。
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二十四孝《にじゅうしこう》
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一席うかがいます。柄《がら》にない親孝行という、付け焼刃で親孝行をしたというお話を申し上げます。古い歌に「あらためて孝行するも不孝なり大事の親の胆をつぶさん」急にまた親孝行をするといって騒ぐといけない、もちろん世間並みということがあります。どうも人に見せるようにオレが親孝行だからこうしたとか、親がこうだとか、売り物をするという、ずいぶんけしからんのがあります。昔はとにかく、この親孝行を売り物にした者が多くありました。ただいまでもないとは限らない、大きな男が老人を背負って「難渋《なんじゅう》の親子でございます、どうぞお助けください」というと、背中の婆アが「親孝行の者でございます。おめぐみなすってくださいまし」と親子なれあいの孝行などがある。これはもともと乞食のほうの軍略で……軍略というも大仰《おおぎょう》だが、しかしこれらは論外として、普通の人間にもなかなかあやしい親孝行があります。
家主「こっちへあがんな、こっちへあがんな」
○「ヘエ」
家「ヘエではない、人の家《うち》へ来たら、立ってないで座んな」
○「ヘエ、座りました」
家「オレがあらためておまえに聞くわけではないが、どうもこの長屋というものが、三十六軒もあるんだからずいぶん子供のたくさんある家もある、そのうちでお職人もあれば、お勤めをなさる方もあるが、みんな静かだけれども、おまえの家というものは、三日に上げず喧嘩をするな」
○「さよう、だいたい毎日喧嘩をします」
家「なんだって毎日喧嘩をするんだ」
○「どうもよんどころなく喧嘩になるんで、今日らはどうも腹が立ちそうだから、オレに腹を立たせないようにしてくれというのに、それを立たせるから喧嘩になります」
家「自分が腹をたてなければよい、どうもけしからんこった、一軒の主人が先に立ってそんなことでどうする、今日は全体どうしたんだ」
○「ナニ今日友だちのところから少しばかり魚をもらいました」
家「ウム」
○「ちょっと湯に入ってくるから、魚を気をつけてくれといって、水がめのふたの上へ魚を置いて湯に行きました」
家「ハーそれから……」
○「帰ってきてみると、隣の泥棒猫が来て、水がめのふたの上へあがってやがるんで」
家「それからどうした」
○「魚がキズだらけになってやがる、仕方がねえから、魚を食った猫だから、猫を食ってやろうと、大きな口をあいて猫へ飛びついた」
家「ばかなことをしたな」
○「そうするとおまえさん、魚を食った猫が、後足《あとあし》で魚を蹴って、台所から飛び出した」
家「ハーッ」
○「それから隣の家の前へ行ってどなった」
家「なんてッてどなった」
○「サア泥棒猫これへ出て尋常《じんじょう》に勝負しろ……」
家「ばかなことを言え、猫に尋常に勝負をしろッたってわかるものか」
○「すると家の嬶《かか》アが、お隣でいろいろご厄介になってるのに、それしきのことでそんなことをいっては悪いと言やがったから、なにを余計なことをぬかしやァがる、黙って引っこんでろと、ちょっと撫《な》でました」
家「妙なところで撫でたんだな」
○「ちょっと横に撫でたんで」
家「ハァ、なぐったな」
○「マア早くいえば……」
家「遅くいったってそうだ、それからどうした」
○「去年までは二まわりまわりましたが今年はすぐにひっくりかえった」
家「角力《すもう》だと思ってやがる」
○「そうすると、おふくろが嬶アの肩を持ちやァがって、なぜそんなことをすると言いますから嬶アをなぐって悪ければ今度はてめえの番だと、婆アをそっと撫でました」
家「おっかさんをなぐったか」
○「なぐったんじゃァありません、撫でたんで」
家「どうも親に向かって手をあげる奴があるか」
○「ナニちょっとおふくろの襟ッ首へ手がさわったと思ったら、おふくろが向こう側へ飛んでッちまったんで……ハアハア」
家「ハアハアじゃァない、放《ほう》ったな」
○「早くいえば……どうも」
家「けしからんな、なんともハヤ言語同断の奴だ、おまえのような人に理屈をいっても無駄だ、ツベコベいうと、私のほうがかえって世間で笑われる、どうもアノ人は、店子《たなこ》の始末がつかない、店子にアアいう親不孝者がいるといわれると、私が肩身がせまくっていけない、手つかず店《たな》を明けてくんな、店を明けてくんなさい……」
○「なんです、店を明けるッてえなァ」
家「おまえの住まってる家を明けるんだ、いつでも入り用の節は、すみやかに明け渡すという店受証文《たなうけしょうもん》が入ってる、なにもいま要るというわけではないが、おまえのような親不孝者がいると、世間の人に笑われるから、明けてくれ……サアすぐと店《たな》を明けてくれ」
○「ヘエ、明けます」
家「サァすぐに明けろ」
○「これはおどろいたなァ、マア家主《おおや》さんちょっと待っておくんなさい、おまえさんにほんとうに怒られると困ります、私が悪けりゃァあやまります」
家「悪ければどころではない重々《じゅうじゅう》悪い、ナア人間の皮をかぶっていて人間でない」
○「そんなことをいわねえで、どうか堪忍《かんにん》しておくんなさいな」
家「勘弁もなにもない、きさまがそれでも気がついて、私は今まで行いが悪うございました、まことに親不孝をいたして相すみません、これから心をあらためて孝行をいたしますから、どうかこのお長屋へお置きくださいと、手を突いてあやまれ」
○「じゃァあやまります」
家「早くあやまれ」
○「なんとかいいましたね」
家「今までは重々悪うございました」
○「今までは重々悪うございました、これから、イヤハヤ……」
家「そのイヤハヤなぞを入れちゃァいけねえ、満足に口も利けねえじゃァねえか、ばか野郎……、おまえの親のことを言っちゃァすまねえが、おとっさんが食うことは仕込みなすったが、悲しいかな、人間の道ということは躾《しつ》けなかったから、そういうものがわからねえのだ、これから了簡を入れ替えて、親孝行をしろ。悪いことはいわねえ、昔からいうだろう『孝行のしたい時分に親はなし』おまえぐらいの年頃になって、気がつかねえというは残念のわけだ、おふくろに向かってお彼岸日和《ひがんびより》でまことに天気がいいから今日などはお寺詣りにでも行ったらよかろうとか、どこかへ気晴らしに出かけたらよかろうといって、いくらか小遣いでもやってみろ、わずかなことでも親というものは、してくれべきものでない他人にされたより、するのが当然の我が子にされたほうが嬉しいものだ、それをやさしい言葉ひとつかけず、どうもおふくろをなぐったり放《ほう》ったりするという、そんな乱暴の奴があるか」
○「どうかご勘弁を願います」
家「なんでも人間は、親に孝行をし、主人に忠義を尽くし、朋友《ともだち》に信を尽くせば、貧乏をして場末にくすぶっていても、人がうっちゃっておかない、あれでは気の毒だから、こうもしてやろうと、まずお商人《しょうにん》なれば品物をまわしてやるとか、お職人なれば、こういう仕事があるから、させようとか、たとい腕が悪くっても、どうかこうか、やって行かれる、親不孝の奴は、どんなに腕がよくっても、人が憎しみをかけてナニあんな奴を使わないでも、職人はいくらでもあるといわれてしまってどうしても世の中に用いられなくなる、親孝行の徳は、そこへ行って現われる。どうだわかったか」
○「ありがどうございます、少しわかりました」
家「少しわかったか、たくさんわからなくっちゃァいけない、無二膏《むにこう》や万能膏の効験《ききめ》より親孝行は何につけても……」
○「シテみると親孝行は、あかぎれやしもやけにもききますか」
家「そんなことをいうな、孝は百行《ひゃっこう》の基、忠臣は孝子の門《もん》より出ずるといって、たいそうなものだ」
○「さようでございますなァ」
家「わかったかえ」
○「わかりません」
家「わからねえで感心をしちゃァいけねえ、昔はおまえの前だが、親孝行でごほうびをいただいた者が幾人もある、いただくごほうびはわずかでも、たいそうな誉れで近郷近在から泊まりがけでそのごほうびをちょうだいするのを見に来たものだ、今のように、汽車汽船の便利がないから二日三日くらい泊りがけに出てきて、明日はお町奉行のお役宅でこういうことがあるといって見に行った、早い話が場末の町内でも、親孝行の者が出ると、どこそこの町から親孝行が出たといって、たいそう土地に値打ちがついて、アノ家主はえらいもんだ、店子から親孝行が出た、そういう店へ引っ越したならば、自然、子供なども親孝行するようになるだろう、店賃はちっとくらい高くってもよいと、家主までが共々に肩身が広かった、おまえのような人があると、世間で家主まで共に悪くなる」
○「ヘエー、ちょっとうかがいますが、親孝行のごほうびはどんなもので……」
家「青差し五|貫文《かんもん》だな」
○「今でもくださいましょうか」
家「今では五貫六貫とはいわない、その筋へうかがったところが、正金《しょうきん》五円ぐらいだそうだ」〔明治時代のはなし〕
○「ヘエー、五円ッちゃァいい値ですねえ」
家「ごほうびにいい値という言葉はない」
○「アノ婆ァでも五円になりますか」
家「アノ婆ァという奴があるか、親孝行でもしようという奴が、そんな口をきいちゃァいけねえ」
○「なるほど、じゃァ母上ッたらようございましょう」
家「母上もあらたまりすぎるが、マァ悪いことはない」
○「母上の相場が五円、ねずみより値がいい」
家「ねずみと一緒になるか、そばからぶちこわしちゃァ困るよ」
○「どうでございましょう、今日からドシドシ親孝行をしたら、この晦日に五円くださいましょうか」
家「それはわからない、昨年当年は、とりわけ政府《おかみ》もお忙しいから、こういうことは後まわしになるかもわからない」
○「後まわしでも確かにくれるということが、わかってりゃァ、どうでもまた融通がつくが、くれないと損だから」
家「どうもけしからんね、親孝行をして損ということはない、本来はおかまいくださらんでもよいが、励みになり、人の鑑《かがみ》になるというところから、下し置かれるんだ、五円か十円でよければ私が晦日におまえに立て替えてあげてもよいから孝行しなさい、オレは余計なことだが人に親孝行をさせるのに、このくらい騒ぐ、おまえの身になったら、しないでは相すむまい」
○「じゃァマアやらかしましょう」
家「やらかすッたって、おまえよく理屈がわかったかえ、ついでだから話してやるが、このあいだ向こう河岸《がし》で、おまえのおっかさんに遇った、どこへ行ったと聞いたら、酒を買いに来ましたというんだ、酒を買うなら、町内に酒屋があんなにあるにナゼ町内のを買わないというと、伜《せがれ》のいうには町内の酒は悪くって高いから、向こう河岸へ行けと申しますから、買いに来ましたといった、それが親不孝だ、親にわざわざ遠くまで買いにやった酒を飲んで、酔うというのがばかだ、むかし美濃《みの》に小佐次《こさじ》という人があった、親に酒を飲ませたいという一心が通じて、滝の水が酒になったという、時の帝《みかど》これを聞こし召され、孝子の徳を賞《しょう》し給いて、養老の滝とお名づけになった『孝行の心を神の水にせで酒とくまする養老の滝』という歌がある。そういう話さえあるに年とったおふくろをわざわざ遠くまで酒を買いにやるなぞというは大の親不孝、せめておまえの飲む酒はおまえが買って飲むがいい、親を使うというのはよくない、今のうちなんでもやさしくしてやれ、老い先の短い者だ、一日でも一月でもていねいにして、食べたいものを食わせ、見たいものを見せて、だいじに養ってやれ、また順送りだ、親をよくしておけば、また子にだいじにされる、親孝行の順ぐりだ、わかったか」
○「ヘエーすっかりとわかりました、じゃァこれから家へ帰って、さっそく親孝行に取りかかりましょう」
家「そうしろそうしろ」
○「家に古い葛籠《つづら》があります、アン中へ古綿を入れて……」
家「ウム」
○「その中へ婆ァを入れて、どこかへ預けましょう」
家「そんなことをしてはいけない、それだから、おまえは理窟がちっともわからない、マア前へ出なさい……、唐《もろこし》に二十四孝という者があった、ご存じか」
○「エー」
家「知ってるかえ」
○「知りません」
家「なんだあいまいな返事をしている、その中には時の帝《みかど》、天下の儒者、えらい方もあるが、それらは恐れ多いから別として、二三話をして聞かせよう、晋《しん》の王祥《おうしょう》という人は、継母《ままはは》に仕えて大の孝行、寒中のことだが、鯉《こい》が食したいという母の言いつけだ、どうか鯉を得たいと思ったがひどい貧乏人で、一銭の貯えもないのでいろいろ考えた末、沼へ行くと、大寒のことゆえ厚氷が張っていて獲ることができない、ふと思いついて、着ている衣を脱いで素裸体《すっぱだか》になって、氷の上へ腹ばいになっていると、その温気《うんき》で氷がとけ、その間から一尾の鯉が跳ね上がったのを獲って持ち帰って、母に与えたという、えらい孝行だな」
○「家主さん、王祥という奴はばかですねえ」
家「なにがばかだ」
○「なにがばかだって腹の温気で、氷がとけて、鯉が跳ね上がったからいいようなものの、ドカンボコンと落ちちゃったら、親孝行かたなし、土左衛門《どざえもん》になっちまう」
家「ところがそんな憂いはない、この人は親孝行だ」
○「ヘエー、死んじまっても、親孝行ができますか」
家「そこだ、おまえは理屈がわからない」
○「なぜ」
家「そのまちがいのないというは、王祥の親孝行を天の感ずるところだ」
○「ヘエー、天が感ずりましたか、まだありますか」
家「晋に孟宗《もうそう》という人があった、寒中に母が筍《たけのこ》の羹《あつもの》を食したいといった」
○「唐国《もろこし》のおふくろはみんな食い意地が張ってるな」
家「母の言いつけだ、鍬《くわ》を担いで、竹やぶへ行って、あさってみたが筍がない」
○「そりゃァ当然だ、寒のうちに筍があるわけのものじゃァねえ」
家「ところが暫時《ざんじ》やぶをにらんでいた」
○「アアその時に目の見当がちがったのが、やぶにらみの元祖でしょう」
家「おしゃべりをするな、天を仰いで嘆息《たんそく》をしてハラハラと落涙におよび、一人の母に孝行を尽くさんと思えども、筍なくては母の意にそむくと、さめざめと泣いていた、すると雪の中から筍がニョキッと出た、孟宗喜んで、雪を払い、筍を持って家へ帰り、羹にして、これを母に与えたという、大した孝行だ」
○「ダッテ寒中に筍が出るわけがない」
家「ソコが天の感ずるところだ」
○「また感ずったか」
家「それから晋の呉猛《ごもう》という人がある」
○「ヘー呉猛がどうしました」
家「大の貧民だ」
○「なんでございます、ヒンミンとは」
家「貧乏人だ」
○「金のある人はキンミンか」
家「そんな奴があるものか、ある夏のことでひどく蚊が出る、貧乏で蚊帳《かや》がない、近所の酒屋へ行って、したみ〔升からしたたって溜まった酒〕をもらってきて、おのれが裸体になって、着ていた着衣《きもの》を父にかけて、父を楽に眠らしたという、たいそうな孝行だな」
○「蚊が出ましたろうね、本所深川浅草下谷《ほんじょふかがわあさくさしたや》総出で繰り出したろう」
家「ところが一疋も出ない……」
○「出ないわけがない、ダッテどうも身体に酒を吹いて、裸体になったら蚊が集まって来るわけじゃァありませんか」
家「それが呉猛の孝行を天の感ずるところだ」
○「また感ずったか、けれども呉猛という奴は利巧でねえね」
家「おまえはよくそんなことをいう」
○「私ならそんなことはしねえ」
家「どうする」
○「どうするッてマア二階へ上がって、二階の壁へ酒を吹いてしまうんだ、蚊が喜んで、ドンドン上がってしまう、上がりきった時分に、はしごを取る」
家「つまらねえことをいうな、それだからばかだ」
○「もう一つ感ずっておくんなさい、まだありましょう」
家「エー、後漢《ごかん》に郭巨《かくきょ》という人があった」
○「食うと口がくさくなる……」
家「それはらっきょだ、その人が夫婦の中に子があって、一人の母があるが、いたって貧乏だ、ところが大の親孝行で、夫婦が食う物を食わないで、おっかさん、これをおあがんなさいというようにしているが、おふくろは孫を可愛がって、これまた自分が食べないでも孫にやる、我が子のあるために、母へ充分に孝を尽くすことができない、子のかけがえはあるが、親のかけがえはない、いっそ子を殺して母に孝を尽くそうと、夫婦相談の上、子供を抱えて、ある山へ埋めに行った」
○「埋めましたかね」
家「埋める心算《つもり》で穴を掘りはじめたが、さすがに慈愛の情に惹かれて、一|鍬《くわ》当てては涙を流し二鍬当てては落涙《らくるい》なし」
○「三鍬当ててはくしゃみをし」
家「よけいなことをいうな……、おりから鍬の先ヘガッチリ当ったものがある」
○「なんです」
家「金の釜だ、金の釜を掘り出した」
○「ヘエー、おおかたぜいたくな華族かなにか、甘酒屋をしたんだね」
家「イヤ、その釜じゃあるまい、金のことを一カマ二カマというから、ひとつの金の塊《かたまり》が出たんだろう、それを正直だからお上《かみ》へ届けると、だんだんお調べの上、郭巨の親孝行のことが知れて、その金はもちろん自分の物になり、後にはお扶持《ふち》までいただいて、たいそう裕福になって、無事に子供も育て、親孝行をしたという、えらい孝行だ」
○「あきれたねえ」
家「なぜあきれた」
○「なぜッたって、金を山から掘り出すのは容易のことじゃァないってのに、それを鍬で掘ったくらいで出るわけがねえ」
家「出るわけがねえッたって郭巨の親孝行を……」
○「オット、天の感ずるところか、感ずるのを待ってた、感ずった感ずった釜で感ずった……」
家「ばかなことをいうな、マアこれから親孝行をしなよ」
○「エー孝行をやります、それじゃァ家主さん、お上からごほうびが出なかったら五円立て替えておくんなさいよ、明日ッから家へ看板を出します」
家「なんッてね」
○「親孝行株式会社」
家「くだらないことをいうな、よく親をていねいにしろよ……」
○「今戻った」
女房「なんだねえこの人は、自分の家へ帰ってきて、いやにあらたまって芝居じゃァあるまいし今戻ったなんて、どうしたんだえ」
○「母上はいるか母上は……」
女「おっかさんはいつだって家に居らァね」
○「さて母上」
母「なんだえ、いつも婆ァ婆ァというのが今日に限って母上とは……」
○「マアいいや、今日から親孝行をはじめるんだ、どうだおっかア、鯉を食わねえか」
母「めずらしいねえマア、煎餅《せんべい》の欠けひとつ食えといったことがないのに、鯉を食えなんて、あいにく川魚はきらいだ」
〇「じゃァ筍《たけのこ》はどうだ」
母「モー総入歯になってしまって、十年以来まるで食わないよ」
○「しようがねえなア、どっちか食いねえ、頼むから」
母「頼まれてもいやだよ」
○「お願いだ、後生だ、いろいろこっちに都合があるんだから」
母「いやだよ」
○「いやでもあろうが……」
母「くどいよ」
○「勝手にしやがれ、たぬき婆ァめ」
女「ナニ、なんだって、たぬき婆ァだ」
○「いやならいやでいい、こっちゃァいろいろ何だから、食ってくれろと頼むんだ、唐土《もろこし》のおふくろは食ったから親孝行ができたんだ、いくらこっちで食わせようと思っても、親のほうで食わなけりゃァ仕方がねえ、相手が悪くっちゃァ親孝行はできねえ……」
女「ちょっとちょっとおまえさん何だって……」
○「何だッたって、親孝行をはじめて、せっかくオレが食わせようと思うのに食わねえというから、それじゃァいくら親孝行がしたくってもできねえというんだ」
女「それはおまえさん、いけない、おっかさんの食べられる物をあげるなら親孝行だが、いやだというものを無理に食べろというんじゃァ親孝行にならないよ」
○「ウムそうかな……、おふくろ勘忍してくれ、なにしろたった一人の母上に孝行するにゃァ子供があっちゃァ充分にできねえ」
女「なにをいってるんだい家に子供はないよ」
○「あればよ」
女「なんだかおまえさん急に親孝行親孝行ッて、どうしたんだい」
○「それだからてめえたちは理窟がわからねえや、親孝行はねずみより値がいいんだ……オイオイ辰《たつ》、寄ってきや……、上がんねえよ」
辰「ウム」
○「おまえンところじゃァ、たいへん仕事が忙しいてえじゃねえか」
辰「ウム、ばかに忙しい、目のまわるように忙しい」
○「今日は休みか」
辰「ナニ、昨日から少し身体の具合が悪いんだ、胸が痛くって、なんだか寒気がするが、仕事が忙しいから休むことができねえ、仕方がねえから親父にそういって、まことにすまねえけれども熱燗《あつかん》で二合ばかり飲ましてくれ、仕事は二人前やるからというと、親父が五六日経ったら飲ましてやる、それまでは一生懸命稼いでろというんだ、なにも五六日待つくらいなら、頼みやァしねい、平常《ふだん》一生懸命稼いでるのは、身体の悪い時に、酒の一合や二合飲むのが楽しみだからだ、なんぼなんでもあまり癪にさわるから勝手にしろと、家を飛び出してきた」
○「この野郎、親不孝の奴だ、コレてめえは親不孝だぞ」
辰「ウフッ、てめえこそ評判の親不孝じゃァねえか」
○「オレは特別の親不孝だ、てめえは新規の親不孝だ、なんでもよいからそこへ坐れ」
辰「坐ってらァ」
○「モーいちど立って坐れ」
辰「なんだかおかしいな……」
○「どうもきさまのような者はないな、言語瓢箪《ひょうたん》の奴だ」
辰「なんだ……」
○「何でもよいからすぐに店《たな》を明けろ、きさまのような奴が長屋に居ると肩身がせまいから、店を明けろ明けろ」
辰「店を明けろッてどうするんだ」
○「きさまの住まってる家を明けるんだ」
辰「おおきにお世話だ、ありゃァオレの家だ」
○「きさまの家でもかまわねえ、明けろ明けろ」
辰「そんなわからねえ奴があるものか」
○「きさまはなんだろう、ソノ唐土の二十四孝というものを知るめえ」
辰「てめえ知ってるか」
○「オレは知ってる、よく聞けよ、孝行のしたい時分に親は皺《しわ》くちゃだ」
辰「ちがってるちがってる、孝行のしたい時分に親はなしだ」
○「似たもんだ……、無二膏《むにこう》や安息香《あんそくこう》の功徳《くどく》より、親孝行はどこへ付けても……二十四孝のうちにも時の帝、天下の儒者、えらいかたもたくさんあるが、お前方に話してもわからねえ、晋《しん》の王祥《おうしょう》という人があった」
辰「これはほんものだな」
○「だまってろ、継母に仕えて大の孝行、寒中のことで母が鯉を食いたいという、母の言いつけ、どうか叶えてあげたいと、竹やぶへ入ってあさってみたが鯉がない」
辰「それはあるわけがない」
○「だまって聞け、その時にやぶをにらんで嘆息し天を仰いでカラカラと打ち笑い、果ては濁《だみ》たる声音を出《い》だしさめざめと泣いていると、コンモリと雪が高くなってきた、鍬《くわ》で払ってみると頃合の鯉が跳ね上がった、喜んでこれを持って帰って母に与えた、なんと得がたい孝行、すばらしい孝行、割引きの孝行、たくあんのこうこう……」
辰「なんだ竹やぶから鯉が跳ね出すやつがあるかい」
○「ソコがきさまたちにはわからねえ、王祥の孝行を天が感ずるところだ」
辰「なにをいってるんだ、そんなことをどこへ行って聞いてきた、しかしマァオレも悪かった思い直して親孝行をするが、おまえも評判が悪いぜ、おふくろを大切にしろ」
○「よし、オレもするからてめえも帰って親孝行をしろ」
辰「ウムありがとう、さようなら……」
○「アハハ意見をして帰してやった、親不孝め……、どうだおふくろ鯉を食わねえか」
辰「またはじめた、いやだよ」
○「困ったなァ筍は」
母「いやだよったら」
○「仕方がねえな、アアよいことがある、おかつ、すまねえが、酒を二合買ってきてくれ、親孝行に取りかかるんだ……、おっかア、モー寝なよ」
母「まだ寝ないでもよいよ」
○「寝ねえたら、親孝行をするんだ、オレがこれから酒を身体へ吹いて、おふくろが蚊に食われねえようにしてやる……アアありがてえ、この酒を吹いてしまうんだ……、フーッ…、アア良い匂いだ、この匂いじゃァたまらねえ、おもしろいな……、けれどもこの身体へ吹いておく奴がだんだん気が抜けちまったらつまらねえ、こりゃァオレが飲むほうがいくらか親孝行の効験《ききめ》があるにちげえねえ……アア腹のすいてるところへ吹き込んだら、よけい利きがよい、どうもありがたい……、スッカリ利いた……」
女「おまえさん、どうしたんだねえ、裸体《はだか》で……」
○「サアオレは親孝行をするんだ、このくらい酒を飲んでおけば蚊がオレのところへ集まってくるから母上が楽に寝られる、アアありがたい、親孝行でござい……」
グーグー、スッカリ寝てしまいました。夜がカラリと明けると、
母「オイオイ起きな起きな……」
○「エーなんだえ」
母「なんだじゃァない、お日さまがこんなに高く上がってるよ……」
〇「アー親孝行は剛儀《ごうぎ》だ、オレが酒を飲んで寝たら、蚊が一疋も来なかった」
母「なにをいってやがる、ばか野郎、私が終夜《よどおし》あおいでいたんだ」
[解説]心学(江戸期の庶民教育)本にこれに似た話があった。昔の落語家が心学からとって落語にしたものかも知れない。それともまた心学者が、落語を聞いて、教材に利用したものか、そのへんはわからないが、とにかくよくできた落語である。サゲはトタン落ち。
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雁《がん》捕り 〔上方名題〕鷺《さぎ》とり
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嘘つきは泥棒の始めなどと申しまして、偽りを申すのはようございませんが、あんまり正直すぎてもいけないことがございます。「おまえさんは馬鹿だね」「わるい男だね」いくら正直でも、そんなことをいうと怒られます。嘘にもいろいろございますが、総じてほんとうらしい嘘はよろしくないようで、ばかばかしい嘘は罪がなくって愛嬌《あいきょう》になります。そこで、いたって罪のない雁捕りというお笑いを一席申し上げます。
○「こんちは」
主人「だれだえ」
八「八さんで」
主「なんだ、自分の名前にさんを付ける奴があるか、さあこっちへお入り」
八「どうもご無沙汰をいたしました。つい貧乏暇なしで、鴨居《かもい》が敷居《しきい》になるようなわけで」
主「それはあベこベだ。敷居が鴨居になるのまちがいだろう」
八「ちげえねえ」
主「相変わらずおまえは無教育でこまる、チト書物を読んだらよかろう」
八「それはね、読めれば読みますが、読めねえから読まねえというわけで」
主「なるほど、読めないものを読めというのは私が無理だ、時になにかご用かね」
八「ぜひおまえさんに智恵を借りてえことがあって来ました」
主「私の智恵を借りたい、よろしい、貸しましょう、まず日本広しといえども、智恵のある人といえば私だろう、昔は楠正成《くすのきまさしげ》、真田幸村《さなだゆきむら》などというえらい智恵者が出たが、昭和の今日まず私の対手《あいて》になる智恵者《ちえしゃ》はないな、智恵を借りたいというのは感心だ、どういう智恵がお入用だえ」
八「ヘエー、智恵にもいろいろありますか」
主「それは区別があるね、まず戦《いくさ》に用いる智恵を軍略といい、ご出家方の智恵を方便《ほうべん》といい、商人《あきんど》の用いるのを商略という、その他いろいろあるが、おまえの借りようというのはどういう智恵なんだえ」
八「じつはね、なにをしても儲からねえから、どうしたら儲けることができようかと思って、その儲け口を探しに来たんで」
主「それでは商略という智恵が入用なんだ」
八「なんだか知らねえが、ただ儲けさえすればいいんで腹の立つほど儲けてみてえと、思いますがね」
主「妙なことを言うな、金を儲ければだれでもよろこぶが、おまえは腹を立ててみたいのかえ」
八「だれが金を儲けて憤《おこ》る奴があります」
主「それでも腹の立つほど儲けたいと言ったのではないか」
八「それはね、あんまり金貨や紙幣《さつ》があって、どうしたらよかろうと心配して臆病になるほど儲けてみてえと思うんで、病気になりゃァ、自然と気が短くなって腹も立つようになりましょう」
主「いやに欲ばっているな、しかし金が儲けたいと思っても降って来るもんではないが、資本《もとで》はあるかえ」
八「失礼なことをいっちゃァ困るね、あるかえとは人を疑う言葉だ」
主「これは失礼した、ではどのくらいあるな」
八「資本をいわなけりゃァだめですか」
主「そりゃァ資本によって金儲けもちがうからな」
八「じつはソノなんで、……円なんで」
主「百円か」
八「無円なんで」
主「無円というのがあるかえ」
八「じつは一文もないんで」
主「なんだ一文なしで商人になろうというのか」
八「金があるくらいなら、おまえさんの智恵なんざァ借りません」
主「あきれた男だな、それじゃァ一ツ資本いらずの金儲けを教えてやろう」
八「それはありがてえ、どんなことをするんで」
主「しかしこれは夜でなければできない」
八「せっかくですが止しましょう」
主「なぜ止しなさる」
八「なぜッてたいがいきまってるじゃァありませんか、おまえさん内々やっているとみえるね」
主「なんだい」
八「夜でなければできない資本いらずだといや、泥棒でしよう」
主「ばかなことをいいなさい、私のいうのはそんなことじゃァない、まず夜の二時ごろ起きて上野へ出かけるんだ」
八「ハハアわかった、西郷の銅像を盗もうというんで」
主「くだらんことを言わずに聞きな、上野の山を右に見て左へ行くと弁天様の社《やしろ》がある」
八「アアわかりました、お賽銭《さいせん》を盗むんで」
主「だれがそんなことをいった、少し冷たいが金儲けだ、辛抱してその池へ入るんだ」
八「ハハア蓮《はす》を掘るんだね」
主「イヤ蓮を堀るんじゃァない、アノ池はおまえも知っての通り殺生禁断《せっしょうきんだん》で、鳥はもちろんメダカ一尾も捕らせない」
八「なるほど」
主「それを知っているとみえて雁《がん》がよく降りる、鳥はなんによらず夜は目が見えないものだ」
八「ヘエ」
主「そこで雁が寝ているところへソッと行って捕まえてしまえば、なんの雑作《ぞうさ》もあるまい、それを持ってきて売ったらきっと金儲けになる、なにしろ元がただなんだから」
八「ありがたい、なるほどおまえさんは智恵者だね、寝ている鳥を捕れとはおもしろい、これは気が付かなかったね、さっそく今夜出かけましょう」
サア八さん、にわかに金儲けをしようと昼のうちから支度をいたしまして、二時の時計が鳴ると不忍池《しのばずのいけ》へ出かけてまいりました。池の中へソッと入って、どこに鳥が寝ているかと四方八方を見まわすと、雁が昼間のつかれで枯れ蓮《はす》の葉をかぶって寝ております。アノ鳥はなかなか利口なもので数十羽寝ていても一羽はキット起きております。あやしい者が来たら仲間に知らせようという、俗にこれを雁張ると申します。ところが今夜はその見張り番がコクリコクリ居眠りをしております。それゆえ八さんの来たことを知らなかった。
八「オヤたいそう雁がいるぞ、しめしめ、こいつを持って行ったら、一羽五十銭にしても、十円や二十円にはなるだろう、しかしどういうふうにして持って行ったものだろう、こうたくさんいては風呂敷に包むこともできねえ、そうか、良いことがある、腰へつけてやろう」
寝ている雁をとらえて腰の三尺へ首を突ッ込んで二三十羽結び付けてしまった。
八「こうすれば大丈夫」
八さん池から上がるとたんに、向こうに居りました見張りの雁が目を覚まして、ガワーッと啼《な》いたからたまりません。腰にぶらさがっていた雁が目を覚ましてバタバタと羽ばたきをして一時に立ったから八さんの足が池を離れるとスーッと空へ飛んでゆく。
八「オイ待ってくれー」
といったが雁のほうでは頓着《とんちゃく》しません。むやみに飛ぶので、八さんはまるで飛行機に乗ったよう、ピューと風を切って飛んで行く。そのうちに三尺帯がゆるくなったので、一羽抜け二羽抜け、だんだん少なくなった。
八「これはおどろいた。こういうようにだんだん抜けられては、しまいに落ちてしまうだろう、砂利の上へでも落とされてはたいへんだが、どうしたらよかろう、助けてくれー」
空の上でどなっております。とうとう終《しま》いには二羽になってしまった。これはたいへんと思ううちにスルリと抜けられたので、ズルズルと落ちてきた。ヒョイと手に触るものがあったから、しっかりつかまって四方を見ると靄《もや》がいっぱいにおりて少しも見えません。
八「どこだろう、ここはなんでも日本じゃァなさそうだ、|女護ヶ島《にょごがしま》か何かならありがたいが|鬼界ヶ島《きかいがしま》へでも落ちた日には始末が悪い、オヤオヤここは屋根だ、サアたいへんたいへんここは浅草の五重の塔だぜ、こんなところへ落ちた日にゃァ降りることができねえ、どうしたらよかろう、だれか来て助けてくださいよ」
泣きながら頼んでおります。そのうちに靄も晴れてきたから陽が出ましたが、なにしろ五重の塔の上に人間がいるので大さわぎ、上野の山王台《さんのうだい》で浅草のほうを見ていた人が一番先に見つけました。
八「喜兵衛《きへえ》さん、向こうに見える五重の塔の上になにか黒い物があるようだが、なんでしょう」
○「さようさ、妙なものがいますね、カラスじゃァなさそうだ」
△「なんでしょう」
○「どうも人間のようだが」
△「なんだってあんな高いところへ上がったんでしょう」
○「おおかた瓦《かわら》の修繕にでも上がったんでしょう」
△「それにしても足場がなくてよく上がれましたね」
△「どうもふしぎだね」
○「ことによったら天から降ってきたかね、夜這星《よばいぼし》かなにかが雲を踏みはずして落ちたに相違ない、なにしろ行ってみやしょう」
△「そうですね、なにか始まったに相違ない、とにかく行ってみやしょう」
ソレ行ってみろとぞろぞろ尾《つ》いてまいります。
○「モシモシなんでございますか」
△「火事だと言いますが」
○「どこでございます」
△「どこだかわからないのですが、みんな向こうへ駈けて行きますから火事があるんだろうと思いまして」
○「ヘエー」
×「イイエ火事じゃァございませんよ」
○「なんです」
×「向島《むこうじま》に心中があるので」
○「心中ですか、何者で」
×「男は会社員で、女は芸者です、去年の一月新年宴会の時に馴染みになって、それから夢中になって通ううちに二万円ばかり会社の金を使い込み、どうすることもできない、女も自分ゆえにそうなって気の毒だというので、ついに心中をすることになって場所は向島と決めましたが、お約束の背景は三囲《みめぐり》の鳥居を半分見せてズッとたんぼの書き割りで、山台《やまだい》には清元《きよもと》の太夫が三人、三味線は上《うわ》調子が入って、置浄瑠璃《おきじょうるり》が切れると、ゴーンと本釣鐘を打ち込む、チャリ、揚げ幕があくとバタバタと先へ出てきたのは例の芸者さね、衣類《きもの》は裾模様で手拭いを吹き流しにかぶり、花道の七三のところでポンと転ぶ、あとから出たのが男でげす、対の小袖に鮫鞘《さめざや》の落とし差し、手拭いで面《おもて》を包み、これも急ぎ足で来る、女の倒れているのを知らなかったとみえてそれへつまずいてポンと飛び越し、キョロキョロして見ている、近視眼《ちかめ》の夫婦が五銭の白銅《はくどう》を落としたように、やがて気がついたとみえて……≪おさんじゃないか、茂兵衛《もへえ》さん≫」
○「そんな声を出しちゃァいけません」
×「これからチョイと振事《ふりごと》があって本舞台へ来る、覚悟はよいか、南無阿弥陀仏とくると、ここで太夫が咽喉を一ツ聞かせようというので湿りをくれて待っていたのだから、南無と覚悟はしながらも……」
○「ヤア少し待っておくんなさい、まったくそういう大時代《おおじだい》の心中があったので」
×「こうくれば本物なんだが、そういかなかった、いよいよ心中するとなると、女の言うには、少し待っておくんなさい、お腹がすいたからお茶漬けを食べてくるといったので、サア男が怒ったね、死ぬ間際に飯を食うというのはばかにしている、モウ勘弁ができねえと、いきなり帯《さ》していた脇差しを抜いてズバリ……」
○「と斬《き》りましたかえ」
×「そうくれば本物なんだが斬れなかった」
○「ヘエー」
×「斬れねえわけなんで、その脇差しというものが、今まで下駄のササクレを取っていたものだから、女の頭をヤッと斬ると、切れねえで瘤《こぶ》ができたんで」
○「たいへんなものを帯《さ》していたんですね、それからどうしました」
×「どうしようかと思って考えているんで」
○「冗談じゃァない、こっちはほんとうの話かと思って聞いていた」
ゾロゾロ見物がまいります。
こっちは浅草の公園で
甲「おそろしい高いところへ上がるものだな、モシおまえさんどこから上がったんで」
八「上がったんじゃァない、落ちたんで」
甲「どこから落ちたんだか知らねえが、なんとかして助けてやりてえものだが、困ったね」
乙「困りましたな」
見物はわいわい言っている。ところへ観音様の和尚さんが出てまいりまして、
和「人を助けるのは出家の役、まして五重の塔へ落ちたというこの人を見殺しにできない、なんとかして助けたいものだ」
といろいろ評議をすると、
○「これは下で蒲団をひろげ、その上へ飛び降りるようにしたら怪我もあるまい」
しかし蒲団ばかりでは痛かろうから、それへやわらかな火口《ほぐち》を敷いておいて蒲団の四隅を坊さんが四人で持って
○「サアこの上へ飛び降りておいで」
八「ヘエ、これはおどろいたな」
○「早く降りておいで」
八「どうかしっかり持っていておくんなさい」
○「大丈夫だから安心して飛び込みなさい」
八「ようございますか」
と目を閉じてポンとこれへ飛ぶと、ダーッと蒲団がつぼまったので、四人の坊さんがコツコツと鉢合わせをすると、パッパッと目から火が出て、それが火口《ほくち》へ点《つ》いたからたまりません、とうとう八さんは焼け死んでしまいました。
[解説]「目から火が出たようだ」という諺があるが、本当に目から火が出たらどういう事になるかと、戯《たわむれ》に作ったものであろう。これは「大仏の眼」と同じ趣向である。「大仏の眼」というのは、奈良の大仏の眼が一ツ外れて落ちたことがある。職人を大勢よんで入札をすると、わずかに五両で引き受けた男が縄梯子でスルスルと大仏様の顔に這い上がり、眼の穴に入って、たちまちの間に眼球を中から打ち付けてしまった。直ったのはいいが自分はどこから出る気だろうと、一同心配していると、鼻の穴から無事に出て来た。見物は感心して「ああ利口な奴だ目から鼻へ抜けた」というサゲになる。さてこの雁とりの噺の元は上方で、五重の塔は天王子、雁は鷺《さぎ》になっている。
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もぐら 〔上方名題〕おごろもち
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泥棒にもいろいろございまして名称の付け方で、みなとり方がちがいます。泥棒、盗人《ぬすびと》、巾着切り、スリ。上方ではスリをチボと申します。その中で盗人というはどういうわけだろうと、だんだん聞いてみましたら遠慮なしに人様の家ヘヌーッと入ってスーッととって、トットと逃げ出すからだという、あまり的《あて》にはならない話でございます。
巾着切りというのはお金の入っておりますものをチョッと切って取ります。キンチョッキリというのだそうで、またチボというは上方のほうはまことに気が長うございまして、人を打つにもポカポカッと手で殴りません。棒切れを持ってきて殴る、こいつ、わいの時計とるというは悪い奴だ、どやしてしまえと、棒を持ってきてコツコツ撲る。頭がぶッ切れて血が出る。それが棒に付く、これを血棒《ちぼう》という。全体血のほうへ棒が付けばチボーだけれども、棒のほうへ血が付くのだから考えてみるとボーチかもしれない。
強そうで弱い奴は盗賊、たいへん名前が強そうでございます。此家《ここ》へ忍び込もうというと、若い奴が戸に耳を押し付けてようすをうかがってる、中にどんな人間がいるかわかりませんから、身体がゾクゾクするのでトーゾク……、中には踊り込みという奴があるが、踊って入っては物もとれません。ほんとうは脅《おど》し込みというのだそうで、長い奴を引っこ抜いて寝ている者のほっぺたへピタリピタリ、あまり良い心持ちのものじゃァございません、目を開《あ》いてみると、たいがい黒扮装《くろいでたち》でございまして、頬かぶりをして突ッ立っているのが寝ていて見るからなお大きく見える。
○「どうぞご勘弁を願います」
賊「静かにしろ、マゴマゴしやがるとたたッ切るぞ、静かにしろ」
○「静かにも騒々しいにも腰が抜けて動けません、どうぞご勘弁を……」
賊「ぐずぐずいうにゃァ及ばねえ、金を出せ」
○「ヘエ」
賊「金を出せよ」
○「お気の毒さまでございますが、火を落としますとすぐに銀行のほうへ金は持たしてやりますから、宅にはちっともございません」
賊「ばかをいえ、夜銀行で金を取り扱うか、そんなことを言ったってだめだ、泥棒は商売だ、見のがしっこねえ、昼間てめえの家へ無尽《むじん》で三百円金が入ったのを知ってる、出しちまえ」
○「さようでございますか、よくご存じで……よろしゅうございます、出します出します」
ガタガタふるえながら三百円
○「どうぞお持ちくださいまし」
賊「よし、しかし腹がへっていかねえから飯を一杯食わしてくれ」
○「ヘエ、お気の毒さまでございますが、手前どもは料理屋でございますから、商売物をただ上げるわけにはなりません」
賊「ウム勘定は払ってやるから飯を食わせろ」
○「よろしゅうございます、お魚はなんにいたしますか」
賊「久しく鯉を食わねえ、鯉汁《こいこく》で飯を食わしてくれ」
○「承知いたしました」
賛沢な泥棒があるもので、鯉汁でご飯をじゅうぶん食べて、
賊「サア勘定をやるぜ、いくらだ」
○「三百円ちょうだいいたします」
賊「ばかに高えな」
○「ヘエ、川魚が上がっております、手前どもは商売でございますから、いただかないわけに行きません、商売となると逃がしっこございません」
賊「ウーム、じゃァマア仕方がねえ、三百円やる」
○「ありがとう存じます、どうぞまた……チットおいでにならんほうがよろしゅうございます」
賊「なにをいってやがる、じゃまをした」
沈着《おちつ》いたもので、長いのを片手にさげまして、入口までまいりまして鐺《こじり》で入口の戸をガラガラ、
おもてへ出ようとすると、子分が大勢待っておりまして、
○「頭《かしら》ァ、首尾は……」
賊「シーッ、|こい《ヽヽ》が高い……」
洒落た泥棒が流行《はや》りました。今はそんな泥棒は少のうございます。昔、「焼き抜き」といって徳利《とっくり》へしかけをいたして戸へ持っていって火をフーフーフー吹き付けて、まるく穴が明きましたところから手を突っ込んで掛鍵《かけがね》をはずして入る。
小僧「旦那旦那」
主人「なんだ」
小「たいへんでございます」
主「なんだよ」
小「いま泥棒が入りました」
主「店の者はいないか」
小「みんな起きております」
主「みんななにを見ている」
番「ヘエ旦那、戸へ穴を明けております」
主「オヤオヤなるほどこれはたいへんだ、マアどうも焼きやァがったな、オイオイ火の熾《おこ》ったのを持ってきな……ウムよしよし、旦那が真っ赤に熾った火を火箸《ひばし》ではさんで一生懸命火を吹いております。泥棒はもうたいがいいいだろうと徳利の水を自分のほうで付けた火へかけるとジュウ……ヒョイと中へ手を突っ込むと中から火箸ではさんだ奴をピタリ、
賊「アツツツまだ消えねえ、水を出せ」
また穴のところへ水をやって手を突っ込むとまた火を付ける。
賊「アツツツ」
とうとう徹夜《よっぴて》やっていたという話がございます。
また≪もぐらもち≫という泥棒がございます。これは閾《しきい》の下を掘りまして、それから手を突っ込んで掛鍵をはずして中へ入る。うまいことをいたしたもので、晦日《みそか》の晩でございます。もう家じゅう寝たろうとセッセと掘って手を突っ込んでみたが掛鍵まで少し寸法が足りない。
賊「だめかな弱ったなァ、どうしても二寸足りねえ」
亭「オイオイおまえ寝ちまいな、勘定をしているそばで居眠りをしていられるとやりにくくってしようがねえ、昨夜《ゆうべ》小林さんのお銭《あし》をいただいたかえ、アアそうか、このそば屋の付けに天ぷらそば二つなんて、こんな物をおまえ食ったかい、二はいばかりめんどうくさい。すぐ銭を払ってやるがいいじゃァないか」
女「私ァ食べやァしません」
亭「食べないっておまえよりほかに食う者はない、俺の留守に食ったろう、食うなじゃァないがすぐと銭を払っておきなさい」
女「でも私ァ今月おそばなんかァ食べやァしません」
亭「食べないものがこうして書き付けが来ますか」
女「そりゃァあなた、本所の伯母さんが来たときにあなたと二人で食べたんで……」
亭「アアそうか、俺が食ったのか……、オイ正宗《まさむね》一合なんてめんどうくせえな、こんなもの銭を払っちまいなさいな」
女「私は飲みやァしない」
亭「飲まない奴が付いてるかい」
女「あなたお湯の帰りにさげてきたじゃァありませんか」
亭「ウムそうそう、やっぱり俺が飲んだのか、こういうものは日が経つと忘れるよ、エーと弱ったなァ、どうも少し銭が足りねえ、困ったなァ、もう少しのところだがなァ」
賊「もう少しのところだかなァ」
亭「いまいましいなァ」
賊「いまいましいなァ」
亭「オイ寝ちまえというのに人の真似をする奴があるか」
女「だれも真似をしやァしません」
亭「ダッテそこで俺の言う通り真似してやがる、うるせえ、寝言をいいなさんな」
女「起きてて寝言をいう者がありますか」
亭「おまえは言いそうだ、二両足りねえなァ」
賊「二寸足りねえなァ」
亭「二寸てえ金があるかい、くだらねえことをいうもんじゃァねえよ」
女「なんにもいやァしませんよ」
亭「うるせえから寝ちまえというんだ……もう少しだなァ」
賊「もう少しだなァ」
ヒョイと見るとおもてから手を入れてる。
亭「オヤたいへんなところへ手を突っ込みやがった、オヤオヤ……」
女「ハイ」
亭「居眠りをしなさんな、目覚しを見せてやる、土間のすみを見な、入口のすみをさ」
女「アラいやだ、マア、おまえさんなんだってアンナ種をまいたンで」
亭「だれがこんな種をまく奴があるものか、種をまいたって手が出るかえ」
女「なんだろう」
亭「泥棒だ」
女「エー」
亭「ふんじばるんだ」
女「あとでまたうるさいよ、仇《あだ》でもされるとしようがない」
亭「大丈夫だ、ちょうど二両銭が足りねえンだ、横丁の朝比奈《あさひな》さんは刑事だ、アノ方に引き渡せばあとで二両の報酬が来る」
女「ばかァおいいでないよ、泥棒を融通に使う奴があるかね」
亭「いいってことよ、縄を持ってきねえ、音をさせねえようにそっとそっと、いいか」
泥棒は、
賊「弱ったなァ、もう少しだがなァ……」
亭「こんちくしょうッ」
賊「アイタタタタ、どうぞご勘弁を願います、アノなんでございます、ツイフラフラと出来心でございまして、どうぞ親方ご勘弁を……」
亭「ばかをいえ、出来心で人の家へむやみに手を付けられてたまるものか……オイ縄をどうした、早く持ってきねえ」
女「マアおまえさん、およしというのに、逃がしておやりよ、可哀相だからさ、キット貧乏で困るもんだから、泥棒になったんだろう、逃がしておやりよ」
賊「そうでございます、今年八十六になるおふくろがございますが、食わせることができません、貧《ひん》の盗みでございますから……」
亭「ばかァいえ、いいから縄を出しねえ」
女「けれどもね、そんな奴という者は子分やなんか大勢あって、火でも放《つ》けられたらおまえさんどうするの」
亭「くだらねえことをいうな」
賊「さようでございます、おかみさんのおっしゃる通り、わたしは子分が八十二人ございまして、それがみんなお宅へ押しかけて火を放けます」
亭「なにをいやァがる、おふくろを養うことのできねえ奴が八十二人の子分が持てるか」
賊「なるほどごもっともでございます、どうぞ親方ご勘弁を……モシ親方親方、縛っちゃァいけませんよ、アイタタタ、親方、アイタタタどうぞ親方ご勘弁を……」
亭「クソでも食らえ……サアこうしておきゃァ大丈夫だ、明日の朝、朝比奈さんに引き渡しちまう、モウ勘定は止しだ、いくらやっても二両足りねえから、こいつを突き出して二両もらおう」
女「まだそんなことをいってる」
亭「うるせえからうっちゃっておけ」
賊「親方すみませんが、まったく意気地のねえ奴でございますからねエ、親方ケチな野郎でございますから、どうぞご勘弁をなすってください……ヤイ、勘弁できねえのか、なにをぬかしやがるんだ、マゴマゴするとたたッ殺すぞ……、というのは嘘でございますねえ親方……寝ちまやァがった、弱ったなァ、これはどうも、逃げるにも引くにも、こう手を曲げて結わえられちまっちゃァしようがねえ、オヤオヤ紙入れはアンナ方へ飛んじまってるし、どうすることもできねえ……」
泥捧一人で困ってるところへ、
○「オイ」
△「エー」
○「じゃァ明日の朝三両キット持ってきてくんな、俺が今日持っていなかろうもんなら、どんなに恥をかいたかしれねえ、明日の朝ぜひ三両持ってきてくれ」
△「アアいいとも、明日の朝になりゃァきっとできるんだから……」
○「じゃァここで別れよう、マア気をつけてゆきねえ……」
△「オイオイちょっと待ってくんな、アレ行っちまやァがった、これから先がいやに気味《きび》の悪いところだから一緒に行ってくれと頼んだんだ、アアしようがねえなァ、いやに薄ッ暗くって気味が悪いところだ、キツネやタヌキが時々出やァがる、アアいやだ帰るのはよそうかしらん、といって遊びに行くには銭はなし、明日の朝三両、算段しなけりゃァならず、困ったなァどうも……アアしめたしめた、向こうから汁粉屋が来やがった、あいつがここを曲がれば一緒に付いて行きゃァ家の路次だ、アア向こう角を曲がりやァがった、立ってても仕方がねえ、出かけよう、三両という金はなかなかできねえからな……」
賊「ヤイ待て、ヤイ」
△「ヘエ……アアおどろいた、なんだろう」
賊「シーッ」
△「エー」
賊「シーッ」
△「なんだシーシーいってるなァ、どこかになにか居るんだが真っ暗でわからない、声はすれども姿は見えず、ホンにおまえは……」
賊「静かにしやァがれ、ここだここだ」
△「アアおどろいた、おどかしやァがって、なんだ乞食《こじき》か」
賊「なにをいやァがる、乞食じゃァねえんだ、盗人《ぬすっと》だ」
△「ナニ盗人……まことに相すみません、どうぞごお勘弁を……」
賊「静かにしやァがれ、物をとる盗人じゃァねえ」
△「さようでございますか、物をとらない盗人でございますか」
賊「ばかァいやがれ、うぬらの物をとるというんじゃァねえ、ここの家へ入ろうと思って、仕事にかかると主人が起きてきやがって、とうとう中から手を縛られちゃって動けねえ」
△「オヤオヤ身体が外で、手だけ内で縛られたんで……」
賊「そうよ」
△「アハハハ、ドジな泥棒だ」
賊「なにをいやァがる、そこに紙入れが飛んでる、ソレおめえの足もとによ、ちょっとそれを取ってくれ、その中にはさみがある、礼をするから取ってくれ」
△「ヘヘヘ、そうでございますか、縛られていらっしゃるんで……お気の毒さまですなァ、なるほどこの紙入れでございますか、アアこれは安くありません、縫い取りでげすな、こりゃァやっぱりどこかで盗んでいらしったんで……」
賊「だまってろ、出せッてえことよ、はさみだけ出しゃァいいんだ」
△「ヘヘヘ五円札が四枚入ってますな」
賊「勘定するな」
△「これはどこでとったんで……」
賊「きのう仕事をしたんだ」
△「いい商売でございますな、二十円……しかし待てよ、明日の朝どうしても三両の金を算段しなけりゃァならねえんだ、まだその的《あて》がねえんだ、二十両ありゃァ三両払ってもあと十七円残る、フフヘヘヘ」
賊「ヤイなにを笑ってやがる、早く出さねえか」
△「ヘエ、出しますがね、あなたほんとうに縛られてるんでげすか」
賊「ほんとうだよ、この通り右の手をグイと中へ入れたところを縛られちまったんで、左を十分に入れて解くことができねえ、はさみを持ちゃァ届くんだ、一カ所バチッとやりゃァいいんだから……取ってくれと頼むんだ……」
△「なるほどそうでございますか、フフフフ」
賊「アレ気味の悪い奴だな、こいつァなにを笑ってやがる」
△「ヘエそんならばちょっとお待ちなさいよ、この紙入れはあなたのものだ、これをここへ置きますよ、ようございますか、こう尻をはしょってこの紙入れを懐中《ふところ》へ入れて、マアごらんください……」
と駈け出した、泥棒おどろいて
賊「ヤアだれか来てくれ、泥棒だァ」
[解説]これは五代目円生の十八番《おはこ》であった。夜更けに算盤をはじいている小商人《こあきんど》の亭主と、その傍で居眠りをしている女房、それに戸の外から穴を掘って、土間に手を突っ込んでいる泥棒と、連絡のないセリフのやりとりが面白い。やがて表を話しながら通る二人連れなど、目に見えるような情景である。描写のむずかしい噺である。
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片棒《かたぼう》
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ここに本町二丁目に赤螺屋《あかにしや》吝兵衛《けちべえ》という人があります。一代で百万円の身代《しんだい》を作ったというなかなかえらい人物、もう今年六十九歳、そろそろ先が見えてきました。そこで三人の伜《せがれ》があるが、どの伜に身上《しんしょう》をゆずったものか、順にゆけば総領《そうりょう》だが、もしそれが不心得の者だとせっかくこれまでにした身上を潰《つぶ》してしまわなければならないから、総領とは限らない、どれでも一番見どころのある伜に譲ろうという考えで、ある日のこと松太郎《まつたろう》、竹次郎《たけじろう》、梅三郎《うめさぶろう》という三人の伜を呼びました。
松「おとっさんなにかご用でございますか」
吝「サアサア三人ともみんなここへ来なよ、少し相談をすることがあるから……ここへ坐んな、さて松太郎、まずおまえから先に聞くがな」
松「ヘエヘエ、おとっさんなんでげすかな」
吝「なんだい、そのなんでげすというのは、変な言葉を使いなさんな、ほんとうにあきれるじゃァないか、商人《あきんど》の伜は商人らしく物を言いなさい、あらためていうまでもないが、俺も一文《いちもん》なしからこれだけの身上をこしらえたんだ、ちょっと見積《みつも》っても百万円はある、しかしもうわしも今年は六十九だ、今までは風邪ひとつひいたこともない、じつに自分でも不思議に思うくらい丈夫であった、マアこの塩梅《あんばい》じゃァ百二十五くらいまで生きられるだろうと思っていたが、この頃のようすじゃ、とてもそんなには生きられそうもない、いくら気が勝《か》っていても身体《からだ》がいうことをきかない、あっちが痛み、こっちが緩《ゆる》み、いわば古い家の造作《ぞうさく》だ、もうなんといっても長いことはなかろうと思うんだ」
松「ヨウヨウ待ってました」
吝「なんだ、なにを待ってたんだ、気をつけて物をいえバカ野郎」
松「ヘエ」
吝「ところで俺が眠ってしまったのちのこの財産だ、順にゆけばきさまが長男だから家督相続はきさまだが、三人とも男の子だから、だれにゆずってもいい、俺の考えでは三人のうちで一番見どころのある者にこの身上を譲りたいと思うのだ、それで今日は三人の器量を試す心算《つもり》だ、ソコでおまえが長男だからおまえから聞く、おまえのいうところが道理だこれだけの身上をやってゆかれるだろうと思えば、だれよりおまえに譲るのが順当だからおまえにやるが、もしおまえのいうところが悪ければ竹次郎にやるか、梅三郎にやるかわからないが、決しておまえはそれに対して文句をいうことはできませんぞ」
松「ヘエ、なんでもお問いくださいまし、速やかにお答えいたします」
吝「松太郎、俺がしんだらその葬式《とむらい》をどういう工合に出すか、それを聞きたいのだ」
松「ヘエヘエなるほどさすがはおとっさん、伜を呼んで葬式のご相談などは恐れ入りましたね、いいお覚悟で、それでは申し上げますが、私はどうも世間の葬式が気に入りません、ばかにハイカラがったのもいけないし、そうかといって旧式なのもあまり感心しませんからね、一ッ私は模範的の葬式を出したいと思いますな、それについては家の寺は狭くっていけませんから、芝《しば》の増上寺《ぞうじょうじ》を借りましょう」
吝「ヘエー」
松「葬式は午前十一時出棺ですな」
吝「ハア、午前十一時というとちょうど昼にかかるな」
松「さようで、葬式に来た者、みんなにご馳走をするんですがな」
吝「ヘエー」
松「ソコで私の考えでは、どこか塗物店《ぬりものてん》へあつらえまして、本塗角切《ほんぬりすみきり》三組の重箱ですな」
吝「ヘエー、それへなにをいれるのだね」
松「一番下が一流どころの鮨屋《すしや》へ命じて特製の鮨をいれますな、真ん中はやッぱり上等のお煮染めでしょうな、一番上は蒸し菓子を入れましょう、そうしてその重箱を縮緬《ちりめん》の袱紗《ふくさ》に包んで出します」
吝「なるほど、それで何人前くらいあつらえるんだ」
松「そうですな、五千人前もあったら足りましょう」
吝「フーン、たいそう金のかかる葬式だな」
松「それからおとっさん、あの火葬場の嗅《にお》いですな、あらためていうまでもありませんが、じつにいやな嗅いです、第一衛生上よろしくありません、それゆえおとっさんの棺《かん》の周囲へ香《こう》を一ぱい詰めます、これが一晩中焼けるんですから、いい匂いが一里四方くらいしますね、おとっさんどうです」
吝「フーン、たいそうな掛《かか》りだろうな」
松「第一自動車はいけません、宅から寺まで行列をして棺はやはり担《かつ》いでゆきます、それからアノ担ぐ人夫ですね、紺看板《こんかんばん》の梵天帯《ぼんてんおび》てえ奴は時代おくれな変なものです、といって神道《しんとう》ではないのだから白丁《はくちょう》を着るわけにはなりませんし、こうしましょう、幇間《ほうかん》を五六十人たのみまして、これをクリクリ坊主の青道心《あおどうしん》にしてしまいます、赤螺《あかにし》もようの着付けかなにかで、緋縮緬《ひじりめん》の股引《ももひき》をはかせ鬱金《うこん》の足袋《たび》に墨染めの麻の衣を着けまして、この連中にワッショイワッショイと担がせます」
吝「まるで神輿《みこし》の騒ぎだな」
松「ヘエ、会葬者に俳優、力士、落語家《はなしか》はいうまでもなく、東京中のあらゆる芸人の代表者を百人ばかり、黒羽二重《くろはぶたえ》かなにかで対服《ついふく》の仕着せを出します、それから新橋《しんばし》、日本橋《にほんばし》、芳町《よしちょう》、柳橋《やなぎばし》の芸者でごくきれい首のところを百五十人ばかりたのんで、手児《てこ》舞い姿で出てもらいます、それから各区の消防夫に警護をたのみますが、これもやっぱりお約束の祭礼半天《まつりはんてん》、むろん縮緬かなにかで染めましょう、背中へ朱《しゅ》で赤螺屋と大紋《だいもん》に打って抜きましょう、ちょっと乙《おつ》な半天ですぜ」
吝「そうですかえ」
松「この連中が木遣音頭《きやりおんど》で先鋒《せんぽう》です、底抜け屋台を出しまして、本物のお囃子《はやし》をたのんで、テンテンドンドンテンドンテンドンという鳴り物で角々へ行きますと、カチツという柝《き》の入るのが、キッカケで、鳴り物を止めます、チョンチョン東《とう》ー西《ざい》ーこれはかねがねご評判の本町二丁目赤螺屋吝兵衛六十九歳を一期《いちご》としてこの世を去りました、その葬式をば、本日午前十一時自宅出棺、芝増上寺におきまして賑々《にぎにぎ》しく営みまする、ついては生前の罪滅しのために、先着五百人のお方に限り、福引きをもって大景品を差し上げます」
吝「馬鹿ッあっちへ行けッ、あきれ返った野郎だ、何だと思ってやがるんだ、死んじまえ、とんでもねえ野郎だ、俺ァ涙も出ねえや……コレ竹次郎、ここへ来な、貴様はどういう考えだな、俺の葬式《とむらい》をどういうふうに出す考えだか言って見なさい」
竹「ハツ、それでは何ですか、おとっさんの葬式につきまして、私の意見を述べろとおっしゃるのですな、ハッ、我輩つらつら考えまするに」
吝「おまえはつらつら考えるのかえ」
竹「ハイ、おとっさんという者は、空拳《くうけん》から百万円以上の財産を作ったという立志伝《りっしでん》中の人物で、実に財界の偉人、言葉を替えていえば世界の覇者《はしゃ》です」
吝「ヘエヘエ」
竹「で、おとっさんの成功談すなわち経歴を綴って一冊の単行本として、無代で希望者に配布をしたならぱ、我が国民の教育について大なる利益があるだろうと思いますので、ハイ」
吝「何だかお前さんのは演説のようですね、それからどういうことにします」
竹「つらつら考えますのに」
吝「またつらつら考えますのか」
竹「ひとつ世界的の葬式を出したいと思いますな、いわゆる葬式界のレコードですな」
吝「ヘエー、どういう風にするんです」
竹「ソコで私がつらつら……」
吝「また考えますか」
竹「まあ黙っていらっしやい、葬式というものは古《いにしえ》から高貴のお方をはじめ夜営むものときまっております、ですからおとっさんの葬式はぜひ夜に致します」
吝「なるほど、夜のほうがいいかも知れねえ、人目に立たねえから」
竹「イヤ人目に立てるです、衆人の注目を引くのです、警視庁へ願って当夜は東京市中へ篝火《かがりび》を焚《た》きます」
吝「ヘエー、これも少し変っているな」
竹「場所はやっぱり日比谷公園あたりを借りましょう」
吝「ハハア、そんな広い所が要るのかい」
竹「ハッ東京中の名誉職その他芸人などを残らず招待致しますから、マア一万人くらいの見込みですな」
吝「たいへんな会葬者だね」
竹「それでいちいち飯を食わせるということはできませんから、立食の饗応《きょうおう》を致します」
吝「なかなか銭《ぜに》がかかりましょうね」
竹「ハッ、それでおとっさんの棺桶《かんおけ》は鋼鉄《こうてつ》で楕円形に造ります」
吝「みょうな棺桶ができるんだね」
竹「馬車や自動車はすでに陳腐《ちんぷ》ですから、飛行機へ搭載《とうさい》いたします」
吝「なにかい、葬式を飛行機で出すのかい」
竹「じつに奮《ふる》ってますな、午後八時三十分に日比谷公園を出発いたしまして青山《あおやま》の空へ向かって飛行して、空中において数回宙返りをして、空中へ赤螺屋吝兵衛の葬式と飛行機雲で書かせます、どうですおとっさん、天下の壮観《そうかん》じゃァありませんか」
吝「ばかッ、あっちへゆけッ、なんてえ奴だなどうも、あいつらが俺の伜だと思うとじつに情けなくなる、あきれ返ったやつらだ……梅三郎こっちへ来な、おまえも聞いていたとおり、総領は俺の葬式をお祭りと間違えてやがる、また中のあにきもそうだ、人の棺桶を飛行機へのせて宙返りをする、おまけに万歳《ばんざい》だといやがる、じつになんともいいようのないバカ野郎どもだ、おまえは普段から見どころがあると思ってるんだ、まさかにおまえはそんなことをいやァしなかろう」
梅「ヘエ、おっしゃるとおり、にいさん方は正気でおっしゃってるとはどうしても思われません、じつになげかわしいことでございます」
吝「そうだともさ、おまえはどういう考えだね」
梅「それにつきまして、なんでございます、おとっさんのお亡くなりになったのちのことなどは、子として申しあげるべきことではございませんが、悟《さと》ってみれば、誰しも人間いっぺんは死ぬものでございます、生意気なことを申して恐れいりますが、人間の死というものは、一元《げん》に帰《き》するとかいって元《もと》へ帰るんだそうでございます、それですから葬式ということは誠に形式なことであって、なにも立派にするには及ばないものだそうでございます」
吝「そうそうそれに違いない」
梅「といってまさかに野原にうっちゃるわけにもいきませんから、墓地へ穴を掘って埋めればそれですむことで、そんなことに多大の金をかけるというのは、はなはだバカバカしい話だと思います」
吝「そうだ、それに違いない、イヤ一番おまえが見込みがあるな、それでおまえはどういうふうに葬式をだす心算《つもり》だな」
梅「お尋ねでございますが、百年ののちおとっさんがお亡くなりになりました暁《あかつき》には、私は一文でもおとっさんのお貯めなすった財産を失《なく》なすようなことはいたしません心算でございますから、なるべく葬式などは質素《しっそ》にいたします」
吝「いくらくらい掛ける心算だな」
梅「そうでございますな、どうも倹約しましてもマア五十円はかかりますな」
吝「葬式が五十円で上がりますかな」
梅「上がりますとも」
吝「どういうふうにしますな」
梅「葬式は午後六時と発表をしまして、その実《じつ》午前四時ごろ出してしまいます」
吝「それでは六時と言いふらしておいて、四時に出してしまうのかい」
梅「さようでございます、たとえ何人でも会葬者が来れば、菓子などを出さなければなりませんから、そんな面倒をはぶいて早く出してしまいますれば、お互いによろしゅうございます」
吝「イヤそれもいいでしょう」
梅「寺のほうは十円五十銭くらいで引き取ってもらいます」
吝「寺でぐずぐずいうだろう」
梅「ぐずぐずいったら他の寺へ持っていきます」
吝「葬式の持ちまわりは驚いたが、マアそれもいいでしょう、それで棺はなんで出すね、駕籠《かご》かい」
梅「イエはなはだ相すみませんが、差荷《さしにな》いでご勘弁を願います」
吝「差荷いはちっと酷《ひど》いようだけれども、マアマアそれで我慢をしよう」
梅「それから棺桶でございますが、あれもなかなか安くまいりません、第一新しい木を焼いてしまうのはまことにもったいないことでございますから、私は沢庵《たくあん》の空樽《あきだる》で間に合わせようと思います、少々ご窮屈でございましょうが、どうかそれでご勘弁を願いたいものでございます」
吝「沢庵の空樽はすこし酷いようだな、しかしマアそれもよかろう、何事も家のためだから我慢しましょう、それも人足《にんそく》に担がせるかね」
梅「どういたしまして、けしからんことでございます、人足などを雇いますと、百円でも百五十円でも日当《にっとう》を払わなければなりません、しかしそれについて私も少々困っておりますことは、片棒はもちろん私が担ぎますが、合棒《あいぼう》の担ぎ人《て》がありませんので」
吝「イヤ伜、それは心配するな、俺が棺から出て担ぐ」
[解説]この噺のサゲは江戸小噺にあるが、明治の末に落語に作られ、その後に改良されたものが今も残されている。しかし葬式の行列というものが全然なくなって告別式となってしまった今日、若い方には、この噺はピッタリ来ないのではないか。これも大正の初め頃、小せんやつばめが競って手を入れた物で、その時代には新しいものだったが、今日になって見ると、非常に古い感じがする。昔は会葬者に、土瓶《どびん》で酒を出したり、下戸には饅頭や塩釜を出した時代がある、また菓子屋の共通切手などを出した時代もあるが、その後は葉書五枚となり、または電車の切符などと種々に変更をして、しまいにはただ印刷した礼状を帰りに渡すというようなことになってしまった。
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百川《ももかわ》
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日本橋|浮世小路《うきよこうじ》に百川《ももかわ》という有名な会席がありました。その頃のお話でございます。
○「はいごめんくだせえ、わたしゃ葭町《よしちょう》の千束屋《ちづかや》から参《めい》りました」
主「ああそうかえ、頼んどいたご飯炊きはおまえかえ」
○「ハイ」
主「おおきにご苦労さま、幾歳《いくつ》だね……ウムそうかえ、名はなんといいなさる」
○「わたしゃ百兵衛《ひゃくべえ》と申します」
主「百川の家へ百兵衛さんが来るのはおもしろい、よほど縁があるのだ、マアマア辛抱《しんぼう》しておくれ……ヘエーイ、二階でお手が鳴るよ、竹《たけ》や、お松《まつ》、お玉《たま》、いないのか、なんぼ、髪結《かみい》さんが来たって、みんな一緒に髪を解《と》いちまってどうするんだ、今日はお寄り合いで町内のお客さま大勢さんが来ているじゃァないか、二階であの通りお手が鳴るんだ、誰かゆくものはないかな、オイオイさっきの人、なんといったっけの、百兵衛さん、ちょいと来ておくれ、ほかじゃァないが、今二階へ魚河岸《うおがし》のお客さまがいらっしゃるんだ、私がゆく訳にはいかないが、二階へおまえちょいと行っておくれな」
百「ハイー」
主「河岸のお方だからおなじみになっておけば良いこともあるから」
百「ハイーかしこめえりました」
甲「どうしたんだろう、ここの女は、……しようがねえな」
ポンポンポン。
百「ヒエー」
甲「変な声を出すない、誰だい、そんな変な声を出すのは」
乙「誰もなんともいやァしねえ」
甲「でもそっちの方で変な声がしたぜ」
ポンポンポン
百「ヒエー」
甲「よせ、どじな声を出すない」
丙「なんともいやァしねえ」
甲「だって後ろのほうでたしかに……、あッ、そこにいる、おまえさんいったい誰だい」
百「わたしゃ当家《とうけ》の抱《かけ》え人でございます、主人が件《けん》でこれへ出ました、お一同様ご相談のうえ即刻にご挨拶を願いたいもんでござえますが、ハイ」〔早口の地方弁〕
甲「さようでございますか、まことに相すみません」
乙「どうしたんだい、あにき、なにを謝ってるんだ」
甲「だからよ、今この方がおいでになったんだ」
乙「なんの用があるんだえ」
甲「わからねえ野郎だな、エーモシこいつらがわからねえと申しますから、まことにすみませんが、わかるように、もう少々どうかゆっくりいっておやんなすって……」
百「ハイー、わたしゃ当家の抱《かけ》え人でございまして、主人が件でこれへ出ましたが、お一同様ご相談のうえ即刻ご挨拶を願いてえんでござえますが、ハイ」
甲「どうもご苦労さまで、あなたさまのほうからわざわざ足をお運びさせるまでもねえ、じつは今そのことでみんながこう寄っておりますので、オイ、そこに猪口《ちょこ》があったな、早く貸しねえ、なにをまごまごしてるんだ、マアあなた一つお上がんなすって、そこになにかねえか、アア下戸《げこ》の者もこういう時の役に立つ、おまえの前《めえ》に金団《きんとん》があるじゃァねえか、それをあげな、……早くしねえ、その小皿でいいから、……どじだなこいつは、箸を立てる奴があるか、横にそろえて出しねえな、……じつはそのことで寄り合ってるようなわけで、あなたのほうから足を運ばせるまでもないんで、ではこういたしましょう、きっぱりとしたご返事をいたしますから、このところは一つ大呑み込みに呑み込んで、お帰りを願いたいもんですが」
百「ハイ呑み込みますか、これを」
甲「あなたが一つ呑み込んでいただきたいもんで」
百「呑み込みますかな、ハイ」
甲「まことに相すみませんが、こいつらに免じて一つお呑み込みなすって」
百「これが呑み込めますかねえ」
甲「あなたを男と見込んで頼むんでございますから、どうぞこの所は大呑み込みに呑み込んでお帰りを願いたいんでげすが、いかがでございましょう」
百「ハイー、まだやったことはございませんけれども、マア一つやってみますべえか」
甲「どうぞ一つねえ」
百「えけえもんだ、これが呑み込めるかね、……ウッ、ウッ、……」
甲「アレッ、金団を呑み込んで苦しがってる、変だぜ、背中をさすってあげねえ」
百「アッ、ありがとうございました、呑み込みました」
甲「ではいずれご挨拶をいたしますから、……ヤイ笑う奴があるか」
乙「だって金団の慈姑《くわい》を呑み込みやァがった、アハハハハ」
甲「だからてめえたちは素人だってえんだ、考えてみろ、いいか、あの人なんぞは掛け合いごとは馴れてるんだ、掛け合いごとはぜひこうゆきてえ」
乙「掛け合いごとってなにも慈姑を呑み込んで目を白黒して、帰ってゆかなくたっていいじゃァねえか」
甲「わからねえ奴だな、今あの人がなんといった、しじんけんで、これへ出ました、ご一同様ご相談のうえ即刻ご挨拶を願いたいといったろう」
乙「そうよ」
甲「去年の祭の四神剣《しじんけん》の一件だ、俺たちが祭りがすんで、四神剣を質《しち》において遊びに行ったろう、今度の祭りまでに請《う》けなくっちゃァならねえ、その相談で今日寄ってるんじゃァねえか、あの人は町内の四神剣はどうしてくれるんだと掛け合いに来たんだ、ご一同様ご相談のうえ即刻ご挨拶を願いたいと、わかってるじゃァねえか」
乙「ウーム、それにしたって慈姑《くわい》を呑み込まなくたって……」
甲「それが素人だてえんだ」
乙「なぜ」
甲「なぜたって俺達が一杯やってるところへ来て四角ばったことをいったってしようがねえから、このところは大呑み込みに呑み込んで帰るてえのが、なかなか苦労人だ、金団の慈姑を呑み込んで、みんなを笑わして帰ったところなんざァ、|かれた《ヽヽヽ》もんだ」
乙「へえそうかな、かれてるかなァ、かれてるんだか青いんだかわからねえ」
甲「黙ってろ、……この家の女はまたなにをしてやがるんだろう……」
主「どうしたんだ百兵衛、二階から涙ぐんで降りてきたじゃァないか」
百「江戸てえところはおッかねえところでがす、わたしゃもう国へ帰《けえ》ります、今二階へゆくと呑み込めって、わたしゃお客の言い付けだから我慢して呑み込んだが、咽喉《のど》の仏さまが宿替えするかと思った」
主「なんだえ、なんだかわからないが、それァお客さまがおからかいなすったんだ、オヤ、二階でまたお手が鳴るよ、もういっぺん行っておくれ」
百「またゆきますかね」
主「また行ってみておくれ」
百「また呑み込むかね、……ヒエー」
甲「アッいらっしゃい、なにかお忘れ物ですか」
百「忘れ物ではねえでがすが、真にすまねえがどうぞからかわねえでご用をおっしゃっていただきとうがすが、どんなもんでごぜえましょう」
乙「からかわねえでご用、……あにい少し違うぜ」
甲「あなたは隣の町内の方でございましょう」
百「わたしゃ、この家の飯炊きでごぜえます」
甲「だって四神剣《しじんけん》のことで来たんじゃァねえか」
百「主人の件でこれへ出ました」
乙「アハハハハ、聞いたかい、誰だい四神剣だなんていったなァ、この人はこの家《うち》の奉公人だとよ」
甲「俺もそうとは思ったが」
乙「バカにするな、四神剣とまちげえやがって、女中を呼んでもらいたいんだが、ナニ、みな髪結《かみい》が来て髪を結ってる、それでおめえがでたのかい、それではおめえでもいいが、一つ使《つけ》えに行ってくんな、じつは今なにか絃《いと》をほしいというんだが、芸者でもあるめえから、長谷川町《はせがわちょう》の歌女文字《かめもじ》てえ師匠を呼んできてもらいてえんだ」
百「ハイ、使いにゆくかね、なんとかいったな」
乙「長谷川町の常盤津《ときわず》の歌女文字ッて名高い師匠だ、そこへ行っていま魚河岸の人が二三人来ていて、あとからおいおい来るからすぐ師匠に来てもらいてえとな、それからおめえ三味線箱をしょってきてくんな、いいかえ、頼んだぜ」
これから百兵衛おもてへ出たが、名前をスッカリ忘れてしまった。
百「えれえことができたぞ、なんとかいったな、エート、アッ長谷川町、長谷川町の名高え先生、……チョックラうかがいますべえ」
○「なんですえ」
百「長谷川町てえのはどこらでがす」
○「アア向こう側がズッと長谷川町だ」
百「そこになにはあるけえ、名高え先生が」
○「名高い先生はいくらもあるが、なんッてえんだ」
百「それを忘れたが、思い出してくんろ」
○「無理なことをいうじゃァねえか、おまえの忘れたのが俺に思い出せるかい、長谷川町で名高い、長谷川町で名高い先生と、……頭文字ぐれえ覚えてねえかい」
百「ウン、カア……カア」
○「まるで烏だな、なにか頭《かしら》へかの付く先生か」
百「そうでがす」
○「待てよ、オイ、頭へ≪か≫の字のつく名高え先生が長谷川町にあるかな」
△「そうさな、……鴨地道哲《かもじどうてつ》さんじゃァねえか」
百「かもじ……ちげえねえ、その先生だ」
○「それなら向こう側のアノ横丁へはいって、四五軒目の立派な門構えの家がそうだ」
百「どうもありがとうごぜえます。……お頼み申します」
取次「ドーレ、いずれからおいで」
百「ハイ、わたしゃ浮世小路の百川からまいりました、ハイ、いま魚河岸の衆が二三人|きられ《ヽヽヽ》ましてあとから追々|きられ《ヽヽヽ》ますから、どうぞ先生にすぐおいでを願いたいと申しております」
取「ちょっとお待ちを、……エエ先生、ただいま浮世小路の百川から使いがまいりまして、いま魚河岸の方が二三人|斬《き》られまして、あとから追々斬られますからさっそく先生においでを願いたいと申しております」
先「そうか、どうも河岸の人は威勢《いせい》がいいから、なんぞまちがいでもできたのだろう、よろしい丸の内の屋敷へ行かんければならんが、ふだん世話になる魚河岸の方だ、さっそくお見舞いするといって帰しなさい」
取「かしこまりました、……先生はただいま丸の内のお屋敷へお出かけになるところだが、ふだんお世話になる魚河岸の方のことだから、さっそくお見舞いすると、そういってください」
百「さようでごぜえますか、それから箱を……」
取「ああおまえさん持って行ってくれるかえ、それから家へ帰ったら、先生がお出でになるまでに、たまご、焼酎、白布《さらし》の類を用意しておくように」
百「ハイ、かしこめえりました、……行ってめえりました、先生様は丸の内のお屋敷へ出かけるところだが、魚河岸の方だから即刻お見舞いをすると申しました、ハイ」
甲「意気《いき》な師匠だな、魚河岸の人だから即刻お見舞いてえんだ、時々喧嘩をするから、お見舞いはおもしろいな三味線《はこ》はどうした」
百「ハイ、≪はこ≫はこれでござえます」
乙「オイちょっと来てみな、なんだか薬籠《やくろう》みてえだな」
甲「エーオイ、師匠は粹《いき》だな、三味線は三つ折りだ、真田《さなだ》の紐で結んだなァ凝ってるな」
百「それでたまご、焼酎、白布《さらし》の用意をしておいてくれといって」
乙「オイみんなこっちへ来てくれ、なんだえたまごてえのは」
甲「たまごか、たまごは浄瑠璃《じょうるり》を語るにゃァ咽喉が大事だ、生たまごを呑むんだ」
乙「じゃァ焼酎は」
甲「アノ師匠はたいへん酒が強いんだ、夏場は焼酎の冷たいのがいいもんだ」
乙「白布《さらし》はどうする」
甲「しっかり語ろうてえんだ、その白布は腹へ巻くんだ」
乙「おかしいな……」
先「ハイごめんよ」
主「オヤ先生、よくおいで」
先「ご病人はどこにいる」
主「ヘエ、……先生、お間違いじゃァございませんか」
先「イヤ間違いではない、浮世小路の百川から来たが、先生にさっそく来てくれと……」
主「ヘエー、マアマアともかくもこちらへお上がんなすって、お二階へお上がんなすって……」
乙「ヘエ、これァ先生でござりますか、マアこちらへ、なんですか先生、今日《こんち》はどちらへ」
先「マア挨拶はあととしてさっそくご病人をみよう、こういうことは手遅れになってはいかん」
乙「先生ご冗談で……」
先「冗談ではない、わしは急いでいる、手遅れになってはよろしくない」
乙「これは先生、なにかお間違いじゃァございませんか、ここに病人はおりませんが」
先「けれども現《げん》に二三人斬られた、あとから追々斬られるといった」
乙「それァ先生お間違いで」
先「間違いではない、わしの薬籠がそこに来ている」
乙「エッ、これは先生のでげすか、オイみんな来てくれ、先生の薬籠だとおっしゃるじゃァねえか」
甲「俺もじつはそうだろうと思った」
乙「また始めやがった、馬鹿にするな、イエ先生、じつはこういう訳なんでございます、少し祭りのことで相談がありまして、マアここへよったんでございます、それで芸者でもあるめえから、長谷川町の歌女文字《かめもじ》てえ師匠を呼んで一段やらせようてんで、ここの男に呼びにやったんでげす、あッ、そこに突っ立ってるその男で、そうしたら先生と間違えちまやァがったんで、ばかッ、ぬけさくッ」
百「なにがぬけさくだ、別段《べつだん》ハアぬけさくと言われる覚えはねえ」
乙「チェッばかッ、鴨地《かもじ》先生と歌女文字《かめもじ》と間違えやがって、それで抜けていねえといえるか、それだけ抜けてりゃァたくさんだ」
百「それだけッて……か、め、も、じ……か、も、じ……。タッタ一字しッきゃァ抜けていねえ」
[解説]落語には、本籍が東京か、それとも大阪か、判明しないものが多いが、この噺は明らかに江戸前である。サゲは、お互いの言っていることが、お互いに通じないという、ぶっつけ落ちだ。
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花色木綿《はないろもめん》〔別名 出来心〕
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○「オイこっちへ入《へえ》んな、こっちへ入んなよ」
△「ヘエ」
○「ヘエじゃァねえや、どうもじつにおまえのすることはあきれかえっちまう、なにをしても満足のことはできやァしねえ」
△「ヘエ、親分わっしは泥棒にはなれませんかな」
○「なにをいやァがる、泥棒を修行してなる奴はねえが、なにを教えても一つも満足にいかねえじゃァねえか、それともなにかやったか」
△「ヘエじつは四谷《よつや》に女主人で男ッ気の少ねえ、大変に身上《しんしょう》の良い家《うち》を見てきました」
○「フーム、昼間ノソノソ歩いていてそれへ気がつくようなら、ソロソロ商売人の端緒《いとぐち》だ、罪を作るばかりが能じゃァねえ、先方《せんぽう》へ疵《きず》を付けねえで、大金を盗《と》るのが正真《しょうしん》の盗人《ぬすっと》だ、言うまでもねえことだが、おめえはドジだから念のため教えて置く、忍びというやつで入《へえ》るんだぞ、カタリとも音をさしてはいかねえ、足の裏まで拭《ふ》いてかかるというのは、畳の上をそっと歩いても膏《あぶら》が出て、ニチャニチャしていれば畳へくっついて音がする、抜き足差し足、カタリともさしちゃァいかねえよ、しっかり仕事をして来ねえ」
言い付けられて出て行ったが、翌朝眠そうにぼんやり入ってきた。
○「どうした、タンマリやって来たか」
△「途中で夜が明けました」
○「途中で夜が明けるわけはねえがな」
△「本所《ほんじょ》を出るとすぐに抜き足をして行ったもんだから」
○「バカ野郎、それじゃァ途中で夜が明けるわけだ、先方《むこう》の人が眼を覚さねえように、抜き足をしろといったんだ、とても駄目だからよせ」
叱り付けられて、それッきり来ない、なにか堅気《かたぎ》の商売に取り付いたと思っていると、また茫然と入ってきた。
○「また来やがった、どうした」
△「ヘエ、どうも人にばかり教わっていてもいかねえから、自分で一つやってみようと思って、このあいだ土蔵を破りました」
○「大変なことをしやがったな、大きな土蔵か」
△「ヘエ一丁半《いっちょうはん》ばかりあります」
○「一丁半、大変だな、どこか河岸《かし》かなにかの土蔵か」
△「ヘエ屋敷の土蔵で……」
○「ウム屋敷か」
△「雨が宵《よい》から降っていました、道具で打ちこわして身体の入れるだけ穴を明けました」
○「それは剛義《ごうぎ》だ」
△「中へ入ってみると一ぱい草が生えてます」
○「草が生えてる」
△「土蔵の中に草が生えてるのはおかしいと思うと、そのうちに雨がやんで上を見ると星が出ている」
○「変だなァ、土蔵で星が見えるというなァ」
△「よくよく見たら土塀を破ったんで」
○「馬鹿ッ、土塀を破る奴があるかい、どこへ入ったんだ」
△「原っぱなんで」
○「なにを盗んだ」
△「隅のほうに石が積んでありましたが、重くって持てないからよしました」
○「なにをいってやがる、そんなことではとても駄目だよ」
△「ヘエ」
○「一つ空巣というやつをやってみねえ、人のいねえ空巣を狙って入る、いいか、それならできるだろう」
△「ヘエ、留守というのがわかりますか」
○「商売人になればわかるが、最初はわからねえ。閉まってる家があったら、当たってみるんだ、新道《しんみち》とか抜裏《ぬけうら》で戸が閉まってる家があったら、ごめんくださいごめんくださいと二三度声をかけて、中で返事がなければ門口《かどぐち》を開けて中へ入って、また声を掛ける、いいか、それで返事がなければ誰もいねえんだ、けれどもちょっと買い物にでも出たんだとじきに帰って来るから落ち付いちゃァいられねえ、といって泡を食っていいものを盗《とら》ねえで、くだらねえ物を持って来たってなんにもならねえぞ」
△「ヘエなるほど」
○「なるたけいい物を選《よ》って持って来るんだ、落ち付き過ぎていかず、泡を食っていかず、油断があっちゃァならねえぞ、なんでも先へ逃げ道を見て置け、いいか」
△「ヘエ逃げ道を……」
○「おもてから入ったら裏口を開けて、おもてから人が入ってきたら裏へ逃げるということにする」
△「なるほど」
○「裏から来れば表へ逃げるというようにするんだ」
△「ヘエ」
○「それから仕事にかかる、だがよ、どこか陰《かげ》に昼寝でもしているのを気がつかねえで、包みにしてしょい出そうとするところを≪どろぼう≫とでもいわれたら泡を食って外へ逃げちゃァいかねえ、そこの家へ入ってしまうんだ」
△「ヘエー、そこの家へ入っちまってどうするんで」
○「包みをそこへ置いて、まことにすみません、今この抜裏を近道と思って抜けようとすると、こっちの戸が少し開いております、入ってみるとこういう物が目に着きました、アアこれがあったらとこう思いまして、じつは職人のことで、親一人子一人、おふくろが三年越し患っておりまして、このごろどうも様子が悪うございますゆえもしも留守に間違いでもあってはならないと仕事を休み、今日は少し快《い》いと思って出かけましても、なにぶん病人のことが気になって仕事が手に着きません、半日で帰るというようなわけで、用が足りないところから親方に見限られ、仕事をしないで家にいればだんだん食い込むばかり、病人に薬を服《の》ませることもできません、アアこれがあったら質《しち》にでも置いておふくろに薬を服ませたり美味《うま》い物の一つも食べさせられると思いまして、ツイ出来心でなんでございます、どうかご勘弁を願います、品物はお返し申しますとこういえば、どんな無慈悲《むじひ》の人でも、盗んだ品物がそこへ返って、涙の一つも溢《こぼ》されてみればそれは可哀想《かあいそう》に、これから悪い心を出すなと、十円札の一枚もくれる」
△「なるほど」
○「泡を食って外へ出ればつかまってしまう」
△「ヘエー、そこが秘伝ですな」
○「秘伝というほどのことでもねえが、それさえ心得てればいい、なんでもやりそこなった時にごまかすことを知ってなくっちゃァいかねえ、いいかわかったか」
△「ヘエよくわかりました、どうか風呂敷を一つお貸しなすって」
○「なんにするんだ」
△「品物を盗《と》っても包む物がないと」
○「馬鹿だなァ、盗られるくらいの家だ、風呂敷なんぞは先方にあらァ」
△「なるほど、資本《もとで》いらずの掴《つか》み取り、こんなうまい仕事はありませんな」
○「しっかりしなよ、もし中で返事をしたらそこは頓智《とんち》だ、この裏に源兵衛さんという方はございませんか、新道《しんみち》ならこれから両国《りょうごく》へまいるにはどうまいります、とか、日本橋へ行くにはどうゆきます、とか、道を聞くんだ、知りませんといえばありがとうぞんじます、教えてくれればありがとうぞんじます、どっちもありがとうぞんじますというんだ」
△「なるほど、呼吸があるものですな、じゃァそろそろ隣あたりからききますか」
○「隣なんぞ聞いては駄目だ、わからねえ奴だ、せめてこの町内だけは離れてから聞きねえ」
△「どうもありがとうぞんじます、さようなら……アアありがてえな、だんだんいろいろなことを覚える、一つうめえことをして褒《ほ》められてえものだな……エーこんにちは」
×「ヘエおいでなさい」
△「オヤ、おりますかね」
×「いるから返事をするんだ」
△「なるほど」
×「なんだおまえは」
△「少々物をうかがいとうぞんじます」
×「なんだエ」
△「エーこの裏にございませんかな」
×「なにが」
△「アノー、なんという人なんで、エー……そうそう才五兵衛《さいごべえ》さんという人が」
×「そんな変な名の人はいねえよ」
△「ヘエ、ありがとうぞんじます」
×「なにをいやァがる、おかしな奴だ、あァいう奴がウロウロしていて、下駄やなにか持ってゆくんだ、気をつけなよ」
△「オヤオヤ泥棒の声を先方で心得てやがる、下駄泥棒だっていいやがった、ここはどうだな、こんにちは、エエこんにちは」
○「おいでなさい」
△「しようがねえな」
○「なんだえ人の家を尋ねて、おいでなさいといったらしようがねえとは、誰だ」
△「少々物をうかがいとうぞんじます」
○「なんだ」
△「この裏に、エー清兵衛《せいべえ》さんという人はおりませんかな」
○「清兵衛は私だ」
△「アアいけねえ、ここに出ている標札をみて聞いちまった、私でない清兵衛さんはございませんか」
○「なんだ、私でないというのは」
△「清兵衛さんでも他の清兵衛さんで……」
○「この裏に清兵衛というのは私だけだ、どんな男だ」
△「もう少しいい男の人で」
○「なにをいやがる、まぬけ野郎め」
△「さようなら……アア脅かされちまった、清兵衛は私といわれたんでめんくらっちまった、標札をみて聞いたんだからむりもねえ、醜男《ぶおとこ》だと聞いて腹を立てやァがった、うぬぼれの強い奴だ……アアこの裏はひっそりとしている、少々ごめんなさいまし、……大丈夫大丈夫、この裏口を開けて一つ、ごめんください……いないな、この障子を開ける、ごめんください」
◎「誰だい下へ来たのは」
△「アアこれやァいかねえや、二階にいるな」
◎「なんだエ」
△「エー少々物をうかがいとうぞんじます」
◎「人の家へ上がってきて物を聞く奴があるかい」
△「誰もおりませんから上がってきました」
◎「なんだ泥棒みたような男だな」
△「ヘエヘエ、そういうわけじゃァございませんが、他に聞くところがなかったもんだからなにしたんでございますけれども、アノ日本橋へまいりますにはどうまいります」
◎「馬鹿だな、日本橋を聞くのにこんな裏へ入《へえ》って聞く奴があるものか」
△「新道だと思ったんで」
◎「こんな狭い新道があるものか、通りへ出て聞きねえ」
△「さようでございますか、アア驚いた、これはいけねえな、どこかありそうなものだな……この裏へ入ってみようか、汚ねえ裏だな、けれどもこういう裏にいる奴はかえって食うものも食わずに金を蓄めてる奴がある、こんちは……おりませんか……いないな、しめしめ……戸が明かねえな、……アア閾《しきい》が腐ってやがる……アア明いた明いた、こんちは……、中に障子もなにもない、しめた、外から帰ってきた時に仕様がないから逃げ道を先へ明けておかなくっちゃァいかねえ……オヤこれやァ駄目だ、地境《じざかい》の赤煉瓦の高塀《たかべい》だ出られねえ、なんだか汚ねえな、空店《あきだな》でもねえ、人が住まってるには違いねえが、畳もボロボロで、たたみというほどのものじゃァねえ、≪たた≫がなくって≪み≫ばかりだ、なんにも目ぼしいものはねえ、弱ったなァ、けれども縁起《えんぎ》だからなにか持ってきてえな、オヤオヤ土瓶の口の取れたの、今戸焼《いまどやき》の土鍋、こんな物はしようがねえな、百にもなるものはねえや、これでも盗みやァ、泥棒の罪は同じだ、ばかばかしいな」
×「お婆さん、お隣りのお婆さんありがとう、俺のところへ誰か来たのかい、戸が明いてるけれども」
婆「イイエ知らないよ」
×「こいつァ変だな」
△「アアいけねえ、帰ってきた……」
出ようと思う所へ帰ってこられたから逃げることができない。
△「アア根太板《ねだいた》が明いてる、縁の下へ入ってりゃァ知れっこはねえ……」
×「仕様がねえな、誰か来やがって明けっ放しにしやがって、……大きな足跡だ、泥棒が入ったんだな、変な泥棒があるもんだな、こんな家へ入りやァがって、戸惑いでもしやがったんだろう、金や道具のあるところへ入って物を盗るから泥棒だが、こんな家へ入ったってなんにも持ってく物はねエ、ことによったら貧乏で可哀想だというんで、ねずみ小僧みたような泥棒が入って十円札の一枚も置いてってくれたかな……イヤなにもねえ、まぬけの盗人《ぬすっと》があったもんだ、しかしこれを考えると、貧乏人は安心だ、泥棒が入っても盗られる物もなんにもねえ、そこへゆくと工面《くめん》のいい者は心配だ、泥棒が入りゃァしねえか、火事がありゃァしねえかと、夜だってオチオチ眠れねえくらいだが、貧乏人はそんな苦労がなくって、どんなに気安いか知れねえ、ただ去年の大晦日のことを思い出すとぞっとする、大家《おおや》には店立《たなだ》てを食う、ほうぼうから借金取りが来る、日掛屋《ひかけや》がどなり込んで来やがる、ようようのことで切り抜けて、マアこの春は少し楽になったけれども、どうしても今月中に家を引き払ってくれと大家からやかましい掛け合いになってるんだ、これやァ泥棒の入ったのを幸い、大家さん大変だ、今朝泥棒が入ってこの通りあらいざらい、みんな持ってかれてしまったといやァ、それやァ気の毒のことをしたというにちげえねえ、ソコでこの災難にあってどうにも仕方がねえから、すみませんけれども、どうかひとつ店賃《たなちん》を猶予《ゆうよ》してくれといったら、それでも店《たな》を明けろという気づかいはねえ、アア当分待ってやるから一生懸命稼げとでもいうだろう、ありがてえ、大きな声でどなってやろう……大家さん……ちょっと来てくんなさい大家さん、泥棒が入っちまった、大家さん……」
大家「そうぞうしいな、大きな声を出して、泥棒が入ったって、そういう時には、なお静かにするもんだ、まぬけめ、締《しま》りをしておいたのか」
×「締りをしようと思ったけれども、するものがねえからしなかった」
大「締りをしねえでおきゃァ、泥棒に入られたって仕方がねえ」
×「それだから隣の婆ァに頼んで行ったんだが、婆ァめ、もうろくしていやがるから」
大「大きな声をするな、もうろくだけ余計だ、よっぽどなにか盗られたか」
×「ヘエ、みんな盗られちまった、どうか店賃を少し待っておくんなさい」
大「ウーム、それじゃァ店賃どころじゃァなかろう」
×「そうでごぜえます、店賃なんかどうでも構わねえんで」
大「どうでも構わないということはないが、なにしろ盗られた物を品書きにして、早く届けなけりゃァいかねえ」
×「エー」
大「警察へ届けるんだ」
×「ナニようございます、届けねえでも」
大「よかァねえ、届けておきやァ品触《しなぶ》れといって警察からほうぼうへ触《ふ》れるから品物が出ることがある」
×「ヘエーそいつァありがてえ、じゃァ届けておくんなさい」
大「嘘じゃァなかろうね」
×「嘘なんぞいやァしねえが、他で盗られた物でも出たらくれましょうか」
大「他の物までくれるものか、おまえの盗られた物だけだ」
×「アアそうか」
大「なにをいってやがる、早く届けなけりゃァいかねえ、なにを盗られたんだか、品をいいな」
×「みんな盗られちまった」
大「みんなと書けない、なんでも品を書いて、買った時は一円でも使ったんだから半分値にして五十銭とか三十五銭とか、なるたけ銭高《かねだか》を少なくしてやる方がいい」
×「なるほど」
大「ひと品ひと品にチャンと値段を付けるんだ」
×「ヘエひと品……なにがようございましょう」
大「なにがいいったって盗られた物をいいなさい」
×「どうもねえ、すっかり盗られちまったんで」
大「すっかりではわからない、ちょうど俺がここに筆も紙も持ってるから品数を付けてやろう、銭高は見つくろいでいいかげんに入れておこう、サア小口からいいなさい」
×「小口にも大口にもみんな盗られちまったんで」
大「みんなではわからない、なにをぐずぐずいってるんだ、なんでも片ッ端からいやァいいんだ」
×「ヘエ、エー大家さんの前ですけれども、泥棒なんてえ者は一体どういう物を持ってゆくもんでしょうね」
大「どういう物を持ってくッたって俺は泥棒じゃァなしわからねえが、まず主《おも》に目をかける物は着類《きるい》だなァ」
×「アアそうそう≪きるい≫≪きるい≫、四分板《しぶいた》、六分板、松丸太《まつまるた》……」
大「その≪きるい≫じゃァない、材木じゃァないよ、身体へ着ける着物だ」
×「アアそうそう着物を盗られた」
大「どんな着物を盗られた」
×「エエ褌《ふんどし》が一本」
大「そんな下らない物はどうでもいい、銭にして十銭以下のものは書き出さないでもいい」
×「アアそうか、じゃァ夜具蒲団《やぐふとん》」
大「とんちんかんだな、いうことが、夜具蒲団なんて大変にかさばる物を盗られたもんだ」
×「ヘエ、綿の入ってる夜具蒲団」
大「綿の入らねえ夜具蒲団があるか、厚い薄いはあってもみんな綿が入ってるもんだ、おもてはなんだ」
×「おもては酒屋と炭屋」
大「そのおもてじゃァない、夜具だ」
×「それやァ立派なもので……」
大「立派な物だけじゃァわからない、どんな物だ」
×「たいしたもんで」
大「たいしたもんじゃァわからない、絹布物《やわらかもの》か」
×「アアやわらか物」
大「なんだエ」
×「|おじや《ヽヽヽ》に|おかゆ《ヽヽヽ》」
大「食い物の軟らかい物じゃァない、夜具の表だよ」
×「困ったなァ、夜具の表だって」
大「けれどもたいがい見当が付きそうなもんだ、こんな物という……」
×「エー大家さんとこの物干しに、時々夜具が干してあるね」
大「ありゃァ絹布物じゃァない」
×「アア堅物《かたもの》だ」
大「堅物というのがあるかい、唐草《からくさ》の木綿だ」
×「そうそう唐草の木綿」
大「裏はなんだい」
×「抜け裏」
大「馬鹿だなァ、夜具の裏を聞いてりゃァ抜裏だッてやがる」
×「アア夜具の裏か、大家さん所の物干しによく干してある、あんなんで……」
大「俺のところのは丈夫向きで温《あっ》たかいから、花色木綿を付けてある」
×「アアその花色木綿」
大「ひと組か」
×「五十組」
大「五十組といっちゃァ大変なかさばり物だぜ、第一ここに五十組の夜具が入るものか」
×「私のところにゃァねえけれども、横町の損料屋《そんりょうや》〔蒲団や夜具の貸し屋〕にある」
大「損料屋のことを聞いてやァしねえ、盗られた数《やつ》を聞くんだ」
×「ひと組」
大「ウムひと組と、よし、あとはなんだ」
×「あとは……」
大「着物があるだろう」
×「長半纏《ながはんてん》」
大「モットいい物はないか、よそゆきというような物は」
×「いい物では……黒羽二重《くろはぶたえ》」
大「黒羽二重とは大変なものだな、そんな物を染めたのかエ」
×「ヘエ染めたんで」
大「小袖か」
×「大袖」
大「袖の大きい小さいをいうんじゃァねえ、綿の入った絹布物《やわらかもの》をぞくに小袖というんだ」
×「綿入りの小袖」
大「わからねえ男だ、紋はなんだ」
×「唐草」
大「オイ唐草という紋があるか、おまえのところの定紋《じょうもん》があるだろう」
×「そんな物はねえんで……」
大「定紋がない、無紋の黒羽二重はおかしいな、裏はなんだ」
×「花色木綿」
大「なにをいやァがる、黒羽二重の小袖に花色木綿の裏を付ける奴があるか」
×「それでも丈夫むきで温かいから」
大「変だなァこいつのいうことは、マアいいかげんの見計らいで付けておいてやろう、あとはなんだ」
×「あとはねえ、二子《ふたこ》」
大「ウム、二子なぞは相当だ、綿入れか」
×「小袖」
大「二子なぞは綿入れでいいんだ、よく考えてみろ、そうだろう」
×「ヘエそうだろう」
大「なにをいやァがる、二子綿入れ、柄《がら》はなんだ」
×「唐草」
大「唐草の着物はおかしいな、みな言うことが違ってる、気が転倒していやがる、しっかりしろ、あとはなんだ」
×「エーあとは……なにしろ数が多いからな」
大「大きいことをいうな、冬物ばかりで夏物はねえのか」
×「夏物は氷に真桑瓜《まくわうり》」
大「なにをいやがる、食い物じゃァねえ、単物《ひとえもの》とか帷子《かたびら》とか……」
×「帷子」
大「どんな帷子だ」
×「経帷子《きょうかたびら》」
大「経帷子を持ってる奴があるかい」
×「ぞうふ」
大「きたねえことをいうな、上布《じょうふ》か」
×「上布」
大「フーム、大した物を持ってるな、上布は縞《しま》か飛白《かすり》か」
×「橙々《だいだい》かァ」
大「変だなァこの男はまるで市《いち》の売り物でもしているようだ、縞なのか、飛白なのか」
×「縞」
大「どんな縞だ」
×「佃《つくだ》じま」
大「佃じまという縞があるかい」
×「表は唐草、裏は花色木綿」
大「帷子に裏を付ける奴があるか」
×「丈夫むきで温かいから」
大「馬鹿ッ、帷子は暑いから着るんだ、わからねえ奴だ、マア見計らいで付けといてやろうあとはなんだ」
×「帯」
大「帯は小倉《こくら》か博多《はかた》か」
×「はだか」
大「はだかじゃァねえ」
×「はだッ、はだッ、はだか」
大「まだいってやがる、博多」
×「は、か、た」
大「そうだ、豪儀《ごうぎ》だな、博多の帯なんか持ってて」
×「表は唐草、裏は花色木綿」
大「なにをいやァがる、唐草の帯があるかい、花色木綿の芯《しん》か」
×「芯だ」
大「あとはなんだ」
×「あとは蚊帳《かや》が一枚」
大「蚊帳は一枚というんじゃァねえ、ひと張りというんだ」
×「アアひと張り」
大「蚊帳ひと張りと、大きさは」
×「一人前」
大「一人前てえ奴があるか、食い物でもあつらえやァしめえし、五六か六七か」
×「一六」
大「一六なんて、そんな小さいのは無い」
×「モット大きかったんだが、だんだん小さくなっちまったんで」
大「変だなァ」
×「表が唐草、裏が花色木綿」
大「蚊帳へ裏を付ける奴があるか」
×「丈夫むきで温かいから」
大「蚊帳は夏|吊《つ》るもんだよ、馬鹿だなァ、マアいい加減に見計らって付けておこう、あとはなんだ」
×「あとは大変なもんだ」
大「なんだい大変の物とは」
×「宝物」
大「大げさのことをいうな、なんだ宝物というのは」
×「先祖代々伝わってる刀がひと張り」
大「刀がひと張りてえ奴があるか、刀はひと振りだ、また一本でもいい」
×「刀が一本」
大「長剣か短剣か」
×「ジャンケン」
大「ジャンケンなんてえのはねえ、長《なげ》えのか短いのか」
×「いいかげん」
大「道中差《どうちゅうさ》しぐらいか」
×「道中差しぐらい」
大「なんだ人のいうなりになってる、装飾《かざり》はなんだ」
×「表は唐草、裏は花色木綿」
大「馬鹿ッ、刀にそんな物を付ける奴があるかい、銘《めい》があるか」
×「姪《めい》はねえが神田《かんだ》に伯母さんがある」
大「その姪じゃァねえ、刀を鍛えた人の名が彫り付けてあるかと聞くんだ」
×「そんなものはない」
大「無銘か、あとはなんだ」
×「あとは札《さつ》にしようか、銀貨にしようか」
大「くだらねえことをいうと腹が立つよ、ばかばかしい、相当のことをいえ」
×「相当のことをいえば札だ」
大「そんなに札があるなら、なぜ店賃を入れねえ」
×「それやァ仕方がねえ、金てえ奴は貯まるほど汚なくなるもんだから」
大「ふざけるな、店賃も入れず、近所にもだいぶ借りがあるようだが、それで金を貯めてるのか」
×「ヘエ」
大「どんな札だ」
×「大札《おおさつ》」
大「大札ッてどのくらいだ」
×「畳二畳敷《たたみにじょうじ》き」
大「敷物じゃァあるめえし、そんな大きな札があるか、十円札とか百円札とかいうんだ」
×「百円札」
大「大げさなことをいうな」
×「ほんとうなんで、銀貨もある」
大「ナニ銀貨もある?」
縁の下でこれを聞いて泥棒がたまらなくなり飛び出してきた。
△「ヤイこンちきしょうなにをいやァがる、サア勘弁できねえ、こん泥棒、大きなことをいやァがって、なに一つ持ってくような物はねえ、こっちに持ってる物がありやァ置いてでもやろうと思うくらい貧乏じゃァねえか、大札もヘチマもあるものか、黒羽二重もねえもんだ、腐った半纏《はんてん》一枚ねえじゃァねえか」
×「アア痛《いて》え痛え、咽喉《のど》を締めちゃァ痛えってことよ、馬鹿にしてやがる、俺が泥棒じゃァねえ、てめえの方が泥棒じゃァねえか、人のことを泥棒だッていやァがって……」
大「マア待ちなよ、俺はここの差配《さはい》だが、縁の下から出て来たなァきさま泥棒だろう、ふざけャがってサア勘弁できねえ、たとえなにも盗らねえにしろ、人の家へ入ったのは物を盗もうと思うから入《へえ》ったんだろう、てめえ泥棒だろう」
△「ヘエさようでございます」
大「なにがさようでございますだ、逃げるといかねえ、閉めろ閉めろ」
△「逃げるどころじゃァない、入った所で……どうもすみません、おふくろが病気でございまして、ツイ出来心で……」
大「なんだ素人泥棒だな、この長屋から縄付きで出したくねえ、勘弁してやる、八公《はちこう》ここへ来い」
×「ヘエ」
大「こっちへ来いよ、バカ野郎、まるで形のねえことをいやがって、盗んだ奴……じゃァねえ、盗まねえ奴がここに謝まってるじゃァねえか親が病気で、出来心だという、きさまはまたなんでそんなことをいったんだ」
×「イエ私も出来心で」
[解説]これは十返舎一九の作であるが、原作では大家なぞは出ないで、賊に入られた男が賊に押さえられて「ホンの出来心です」とあやまるようになっている。
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無筆《むひつ》の帳《ちょう》づけ 〔別名 三人無筆〕
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世の中、文明が進んできますと、教育が行き届いてまいりますから、無筆《むひつ》という者が失くなってまいりますが、昔の職人などは算盤《そろばん》や読み書きのできないのをかえって自慢にしておりました。しかしこれは負け惜しみという奴で、なにかことのできた時には、どのくらい困るか知れません。したがって落語家《はなしか》の種になるようなことがいくらもできます。当今《とうこん》は子供が学校へ行っていろいろなことを覚えて来ては質問をするので、無筆のおとっさんが弱らせられる。またそうなると子供が親父を馬鹿にする。
子「おとっさん」
父「なんだ」
子「世間の人がね、おまえンとこの親父は明きめくらだというが、ほんとうに明きめくらかい」
父「馬鹿にしやがんねえ、どこのどいつが、そんなことをいったか知らねえが、そいつは俺の字の書けることを知らねえんだ」
子「ヘエー、じゃァおとっさん字が書けるのか」
父「書けるともよ」
子「ヘエー、けれどもなんだね、一度もおとっさんが字を書いたのを見たことがないが、ほんとうに書けるのかなァ」
父「ほんとうに書けるんだよ」
子「それじゃァなんだね、書けるくらいなら読めるんだね」
父「あたりめえよ」
子「それじゃァこのお双紙《そうし》を読んでごらんな」
父「そんなまずい字は読んだってしようがねえや」
子「アレッ、まずいったっておとっさん、形をしてりゃァ読めるだろう」
父「餓鬼《がき》のくせに理屈をいうな」
子「おとっさん、この字はなんてんだか知ってるかい」
父「知ってるともよ、そりゃァ大工《でえく》の大《でえ》という字だ」
子「ヤア違ってらァ、こりゃァね大という字じゃァありませんよ、ようくご覧願います」
父「なにいってやがるんだ、それじゃァなんだろう、大売出しの大という字だ」
子「そうじゃァないよ、頭に点が打ってあるから犬って字だぜ」
父「アアそうそう犬だ犬だ、犬の証拠にはそばに石ッころがぶつかっていらァ」
子「アレあんなことをいってらァ、ほんとうにおとっさん字を知ってるのかい」
父「なんでも知ってるんだ」
子「それじゃァ聞くけれどもね、字というものは理屈詰めのものだってね」
父「そうよ、ちゃんと、理に合ってるんだ」
子「百の足と書いて|むかで《ヽヽヽ》と読むんだね」
父「きまってるじゃァねえか、五十の足と書きゃァげじげじだ」
子「そんな奴があるもんか」
父「八本が章魚《たこ》で、一本が傘のお化けというんだ」
子「そんなわからない奴があるもんか」
父「なんでもみんなそういうふうに理屈に合ってるんだ」
子「門構えに横に一を引っぱってかんぬきだったね、門に横に一を引っ張りァ閂《かんぬき》にきまってる」
父「てめえが考えたのか」
子「そうじゃァないよ、昔からそう読んだ」
父「昔もそう読んだものだが、シテ見ると今だに衰微《すた》らねえかな」
子「なんだか変だなァ、本当にわかるんならおとっさんにね、少し聞きたいことがある」
父「なんだ」
子「木を二つ書いてなんというんだい」
父「木を二つで拍子木《ひょうしぎ》だ」
子「拍子木てえのはあるもんかい、林って字だぜ」
父「はやしでも拍子木でもどっちでもいい」
子「あんなことばかりいってらァ、どっちでもいいって奴があるもんか」
父「芝居へ行ってみろ、木を二ツ打てばすぐに|はやし《ヽヽヽ》にするからな」
子「そんな苦しがって、芝居を担《かつ》ぎ出したなァ驚いたな、じゃおとっさん木を三ツ書くんだ、三ツでなんだい」
父「木を三ツなら|おみき《ヽヽヽ》よ」
子「|おみき《ヽヽヽ》って奴があるもんか、三ツで森だぜ」
父「そりゃァそうよ引越しの蕎麦《そば》はモリが三ツと決まっている」
しかし昔は親代々無筆だったから、そんな心配もなかった、前にも申し上げた通り職人が文字でも書くと、かえって肝心の仕事のほうをくさされる、算盤をやるとなると一層評判が悪い、
○「あの野郎算盤を知ってやがる」
△「そうだろう吝嗇《けちんぼ》だから」
吝嗇《けち》で習うわけではないが、そういう塩梅《あんばい》だから、職人ときまったわけではなく、無筆というものが多くありました。この無筆の中には、書けないということをいわず、読めるふりをして、それがためにしくじることがいくらもございます。
女房「オヤ熊《くま》さんお帰り、お店《たな》へ行ってきたかい」
熊「ウム、行ったんだけれども、どうも弱ったことができちまった」
女「きまってるよこの人は、なんでも人の集まるところへゆきさいすれば、弱ったことって、きっとまた喧嘩かなにかしたんだろう」
熊「喧嘩じゃァねえが、おまえにいわれたからお店へ行って、まことにどうもすみませんと、こういったところが……」
女「マアお待ちよ、すみませんという悔やみがあるかい、先方に不幸があったんじゃァないか、おまえがすみませんというと、なにかおまえが失策《しくじり》でもしたように聞こえるじゃァないか」
熊「だからよ、まことにどうもとんでもない話でございます、とこういって……」
女「いけないよこの人は、承《うけたまわ》って驚きましたくらいのことはいえそうなものじゃァないか」
熊「ダカラよマアそれに似たようなことをいったんだ、なにしろマアお上がんなさいというから、しめたと思った……」
女「いやだねこの人は、なにがしめたんだえ」
熊「そりゃァなんだ、食い物がいろいろ並んでいるから、ドサクサまぎれにぱく付けると思って」
女「下司《げす》ばったことをいっているよ、それから上がってどうしたんだい」
熊「大勢マア町内の者も出入りの者も来ていて、誰があした土瓶を配ってくれとか、赤飯《こわめし》のほうへ廻ってくれとか、台所で茶の係りをしてくれとか、役々《やくやく》がきまったが、俺のところへはなんともいって来ねえ」
女「よくよく役に立たない男だと思ったんだろう」
熊「それならまだ仕合《しあわ》せだけれどもよ」
女「なにが仕合せなことがあるものかね、人間が役に立たないと見られてちっとも仕合せなことはないじゃァないか」
熊「けれどもマアありがてえ」
女「なにがありがたいもんかね、それからどうしたの」
熊「そうするとおめえ、羽織を着た奴が大勢出てきて、手をついてしきりにお辞儀《じぎ》をしてやがるんだ」
女「ご親類方だろう」
熊「親類方だか知らねえが、しきりにお辞儀をしやがって、大変にむずかしいことをいってやがる」
女「どうむずかしいことを」
熊「先方《むこう》がチャンと手をついてやがるから仕方がねえ、こっちも手をついてると、エーとなんとかいやァがったっけな、エーさてこのたびは……」
女「綱渡りの口上《こうじょう》みたようだね」
熊「いろいろご厄介になりましたというから、とんでもないことをお言いなさるといったんだ」
女「なんだいとんでもないことって」
熊「ダッテよ、俺は厄介にもなんにも、まだ来て上がって大福餅を二ツ食ったばかりで……」
女「そんなことをいう奴があるものかね、いろいろご厄介になりましたというのはお世辞だからこっちでもどういたしましてといやァいいんだね、それをとんでもないことなんていう奴があるものかね、それでなんとおっしゃったえ」
熊「エーあなたをお見掛け申してお願いがある、とこういうんだ」
女「ヘエなにをたのまれたの」
熊「こればかりは近所の人でねえと、記《つ》けなくってもいい所番地《ところばんち》を記けたり、よけいな手数が掛けるが、ご近所の方だとちょっと頭字《かしらじ》だけでも記けておいてわかるわけだから、どうぞ帳づけのところをたのむとこういうんだ」
女「ありがたいじゃァないか、帳づけなどというものは、赤飯を配ったりなにかするのよりズーッと気が利いている、帳場《ちょうば》に羽織でも着て坐っていると、人間に位《くらい》があるよ」
熊「なにをいってるんだ、書けりゃァけっこうだけれども、全然書けねえなァ、てめえだって知ってるじゃァねえか」
女「そうそうそれだから無筆は困るんだよ」
熊「困るったって、今になっちゃァ間に合わねえや」
女「間に合わないけれどもさ、ふだんからそういってるんだよ、仕事から帰ってきたら、夜々《よるよる》少しずつでも手習いして」
熊「手習えたって、明日の葬式《とむらい》に、今夜急にやったって仕方がねえ」
女「しようがないけれどもさ……マアそれからどうしたんだえ」
熊「どうしたって仕方がねえから、覚悟してよろしうございますと受け合っちゃった」
女「覚悟ってどう覚悟したの」
熊「家《うち》へ帰って、がらくた道具をたたき売って、夜逃げをしてしまおうと思って……」
女「馬鹿なことをお言いでない、帳づけをたのまれて、できないって夜逃げをする奴があるかね、せっかくおまえ半纏《はんてん》の一枚ももらうお店《たな》ができて、商人《あきんど》でも職人でも、土地に馴れるくらいありがたいことはない、それッばかりのことで夜逃げなんぞすることはないよ」
熊「それッばかりのことだって、べらぼうめえ江戸ッ子だ、いっぺん恥をかきゃァ、生涯人中へ面《つら》出しができねえじゃァねえか」
女「面出しができないったって、おまえあんまり馬鹿げてるよ、なんとか工夫がありそうなもんじゃァないか」
熊「工夫たって書けねえものは、どう考えたって書けねえ」
女「それはそうだけれども、あのくらい大家《たいけ》の葬式だから、おまえさん一人だけではなかなか帳づけが間に合うもんかね、ほかにもたのまれた人があるだろう」
熊「なんだか知らねえけれども、源兵衛《げんべえ》さんが俺のそばにいて、同じように受け合ったから、たぶん源兵衛さんと二人だろう」
女「二人なら訳はないよ、あの人はおまえ、ふだん高慢《こうまん》なことばかりいってる人だろう」
熊「そうだな」
女「あの人一人にたのんでおしまいよ」
熊「なるほど、じゃァ行ってこようか」
女「今ゆくより突然《だしぬけ》の方がいい、お葬式は明日の八ツだというから、朝早くお寺へ行って火でも熾《おこ》して、お茶を入れたりなにかして、紙はお寺にあるだろうから、帳面を綴じてスッカリ支度をしておくんだよ」
熊「それがな、俺はむやみにお世辞をいうことができねえんだ、マア夜逃げの代わりと思やァなんでもねえけれども、シテどうするんだ」
女「来たら下へも置かないようにして、サア一服召し上がれといって、厭《いや》といえないようにして置いてから、さてじつはこれこれでございます、満座《まんざ》の中で恥をかくのが厭だから受け合ったが、職人のことでお恥かしいが字が書けないから、どうかおまえさん書くほうをお願い申します、その代わりほかのことはなんでもするからといってそこはおまえ気を利かして、名刺でも持ってきたら受け取って、せいぜい働くんだよ」
熊「それがな、あの人は頑固だからな、半分ずつたのまれたんだからそうはいかねえとかなんとかいやァしねえか」
女「いけないとなってからだって夜逃げはできるじゃァないか」
熊「それもそうだ、じゃァ、おまえ家の支度をしておきねえ、それだッたらすぐに逃げるように」
女「なにでもそれほど騒がないでもいいよ」
熊「じゃァ行ってくるよ」
女「今っから行ったってしようがない、葬式は明日だよ」
熊「ダッテおめえいろいろ支度もあるから、今日から行ってくらァ」
女「泊りがけの葬式てえのはないよ、明日の朝早くゆきゃァいいよ」
熊「じゃァ寝よう」
女「日が当たってる内から寝られるものかね」
熊「月夜だと思やァいいや」
女「なんだねえ馬鹿馬鹿しい」
大変な騒ぎで、その夜《よ》はろくろく眠られず、夜が明けるとすぐに飛びだしたが、寺はもとより早起きのもの、
熊「お頼《たの》う申します」
○「ハイおはようございます、どちらからおいでで……」
熊「ヘエ、伊勢屋《いせや》の葬式に就きましてまいりました」
○「たいそうお早うございますな、たしか八ツというお話でございましたに」
熊「エエ早いかも知れませんが、少し待ち合わせる人があって来ました、どこか空いたお座敷があったらお借り申したいんで、少し早くこなければ都合が悪いことがあって来ました」
○「ハイ、早いくらいけっこうなことはございません、ご大家のお葬式で、まだ湯が沸かないとか、火がないとかいうようなことがあって、折ふし大まごつきがございます、……待ち合わせる人といえば夜の明け方に一人お出でになりまして、待ち合わせる人があるから座敷を借りたいといって、最前から突き当たりの座敷に待ちわびておいでの方がございます」
熊「ヘエー、じゃァ私より先へおいでの方があるんで」
○「ヘエ」
熊「どうせ知った方だろうからようございます、そこへゆきましょう……」
○「ヘエ」
熊「それからすみませんが、座布団だの火鉢やなにか少し支度をして」
○「ヘエ、みんないっております」
熊「ヘエー、それはご苦労さま……このお座敷で、アアわかりました、ごめんくださいまし」
源「オヤ、サアこちらへ、大変にお早い、まだなかなかおいでになるまいと思った、マアご苦労さま、また早く起きた心持ちは暑い寒いにかかわらずいい心持ちのもので、マア一服召し上がれ、サアお茶を召し上がれ、熱い物はいくらか寒さのしのぎにもなる、マアマアお茶を一つ、サアといえばすぐというように、帳面もこのとおり揃えてありますから、もうなんにもいりません、まだ間がありますから、ゆっくりお茶をお飲《や》りなさい」
熊「ヘエ、マアおまえさんお茶をお飲りなさい」
源「エエもう私はさっきからやっておりますから、おまえさんにおたのみ申したいことがあるんで、エエこういう訳なんで、昨日満座の中で帳づけをたのまれたんだが、他のことと違って私もふだん羽織の一枚も引っかけて、高慢な顔をしていて人の名前くらい書けないとは言いかねて、じつはおまえさんをあてに帳づけを引き受けたんで、いろいろ私も考えましたけれども、いっぺん恥を掻けば生涯取り返しが付かないというくらい、満座の中ゆえ、痩せ我慢でおまえさんを当てに受け合ったが、その代わり他のことはなんでもやりますから、帳づけだけのところを一ツ願います、じつはこんなに早くおいではなかろうと思いましたが、いくらか他の者より早いと思って、せめて少しでも先へ行って支度をしておいたら手助けになるだろうと思ってさっきからお待ち申しておりました」
熊「ヘエ、そりゃァなに雑作《ぞうさ》もないことでございますが、なにしろ私もマア生意気なことをいうようだが、今まで物をたのまれて、厭だのなんのと後退《あとずさ》りをしたことのねえ人間でございます」
源「そこを見込んでお願い申すんで、まことにすみませんが……」
熊「そりゃァなに構いませんが、おまえさんもこの町内に長くいなさるが、商人《あきんど》なら得意とか、職人なれば出入り場とかが、古く住まってるほど、なじみがあってありがたいことはない、とマアこういったような話でつまりこれは二人ながら、この町内にいられなくなる因縁でございましょう」
源「ヘエー、おまえさん涙を溢《こぼ》して泣きッ面をして……」
熊「泣きッ面もしようじゃァありませんか、私がこんな塩梅《あんばい》にやろうと思ってきたところを、あべこべにやられたんだから」
源「エッ、それじゃァおまえさんも無筆なんで」
熊「無筆にもなんにも無類《むるい》飛び切りの無筆だ」
源「オヤオヤ、おまえさんが無筆で私が無筆で、二人ながら無筆が帳づけを受け合うというなァおもしろいな」
熊「おもしろいどころか、こうしていて、今に大勢やって来てからじゃァ間に合わない、私はいったん夜逃げと覚悟をしたんだから、甚兵衛《じんべえ》の奴は道具は値を良く買うし、親切だから、あやつに売ってどこかへ逃げることにします、ナーニ職人は腕さえできれば、どこへ行ったって、食うくらいはできる、おまえさんだって商売の道さえ知っていれば、この土地を離れたってどうにかなるだろうから、これから一緒に夜逃げをおしなさい」
源「今から逃げりゃァ夜逃げじゃァない、朝逃げだ」
熊「朝逃げでもなんでもかまわねえからお逃げなさい」
源「マアそう騒がないでもいい、けれどもおかしなことがあるもんだ」
熊「ナニおかしかない、おまえさんは気楽な人だ」
源「気楽というわけじゃァないが、なんとか工夫がありましょう」
熊「工夫にもなんにも、書けない奴が二人寄って考えたって仕様がない」
源「そりゃァ書けないが、そこが工夫だよ、こうしましょう、玄関の所へ彼《か》の大きな机を控えて二人で並んでいる」
熊「書けない奴が何人並んでもしようがない」
源「書けないから帳面と硯《すずり》を向こうへ向けておいて、二人で大きな声を出してどなるんだ」
熊「どなるくらいなら一生懸命だからやりますが、なんといってどなるんで」
源「お名前は各自記入《めいめいづけ》でございます、自分づけ勝手づけと、二人で高慢な顔をしてどなる、なにか苦情をいう人があったら、隠居《いんきょ》の遺言だというんで、変だとか、なんだとかいったって、死人に口無しでしようがない」
熊「なるほどこいつは巧《うめ》え、死人に口無し、それなら大丈夫だ」
源「帳面をやッぱり二人にわけて出しとくほうがいい、なんでもかまわないから、めいめいづけ、めいめいづけと、こっちはどなるのが役だ」
熊「どうもありがとうございます、そのくらいのことなら大丈夫できる、もうソロソロ陣取ろう」
源「まだ早い」
熊「そうでない、早いほうがいいから」
大きな机の上へ帳面を向こうへ向けて、前のところへ二人並んで坐っております。そのうちにガヤガヤガヤ、
熊「ヤア来た来た来た」
源「仏が来たのにそう騒いじゃァいけない」
こうなるともう安心だから景気つけている。
熊「帳場はこっちでございこっちでござい、ただいまの内は前がすいております」
源「そんなことをいってはいけない、ヘイご苦労さまご苦労さま」
甲「どうぞお願い申します、私だから記《つ》けといとおくれ」
源「ア、モシモシ帳面は向こうづけでござい、どうぞご各々《めいめい》でお記けなすって……、サアどなるんだ」
熊「帳面は各々《おのおの》づけでござい、自分づけ、自分づけ……」
甲「なんだ漬物屋見たようなことをいってる、自分づけだって、冗談いっちゃァいけない、こんなゴタゴタしている中でいちいち自分で記けていられるものか、なんのために二人そこに坐ってるんだ」
源「坐っておって私どもが記けるわけにはいかないので、隠居の遺言で……」
甲「隠居の遺言、そんな遺言があるもんか」
源「ないといっても遺言だから仕方がない、送ってくだされる方は各々《めいめい》自分で帳面を記けていただきたいといったんで」
甲「やっかいなことを隠居さんが遺言したもんだなァ……アア先生、どうもご苦労さま、隠居の遺言だそうで……自分で帳面を記けてくれってんですが、どうもすみませんが、急ぎますからどうかおついでに一ツ……」
先「書いてあげてもいいが、各々《めいめい》づけと触れてるから」
甲「けれども少し都合が悪いんだから、どうか一ツやってください」
先「アアあなたは、ご自分の名前が書けないか、イヤどうも珍しいな、自分の名前が書けないというは、お帳場へちょっとうかがいますが……」
源「ハイハイ」
先「このかたが自分の名前が書けないという、どうも珍しいことで、当節自分の名前が書けないというは……」
甲「先生、そんな大きな声をしないで、内緒なんだから」
先「けれどもどうも珍しい、こんな方はもう二十年も経つとなくなる、内々《ないない》で代筆をしてもよろしかろうか」
源「エエよろしゅうございます、そっちでお記けなさる分は、手前どもは見ないふりをしております」
乙「エエ先生、どうぞついでに願います」
先「ハアどちらだな」
乙「番地もなにもいりません、近江屋源兵衛《おうみやげんべえ》と願います」
先「ハイ、近江屋源兵衛」
丙「先生お願い申します、田村屋伝次郎《たむらやでんじろう》」
先「どうせついでだからよろしい」
丁「どうか先生おついでに」
○「私のもどうか」
先「どうもこれァ忙しいな、どうもここでは書きにくい、お帳場、そちらと向き直ろう、サアお後はどなただ……」
こうなるともう大丈夫だ、先生もとより筆の達者の人だからズンズン片ッ端から代筆をして残らず記けてしまい、名札は残らず受け取って紙に包み、たちまちの間にまず帳場は片付き、そのうちにお経も済んで、ドヤドヤ帰ってゆきました。二人は青い息をついて、
熊「アア驚いた、私は一時はどうなることかと思った」
源「ちょうど手習いの先生が来て、残らず記けてくれたのはありがたいじゃァないか、こう片が付いてみるとお互いに同じことでも茶を運んだりなにかして下廻《したまわ》りを働くよりは、ご苦労さまと礼をいわれるにも、手を突いてお辞儀をされるようなもので……」
熊「そうですとも、先方へお茶菓子が出るところへ、こっちへは酒が出るという塩梅《あんばい》で……」
いろいろ下司張ったことをいってるところへ一人飛び込んできた。
熊「オウ八公《はちこう》か」
八「俺だ、遅くなって間に合わねえと思って飛んできた」
熊「なんだって今時分《いまじぶん》来たんだ」
八「今時分たって、どうも弱っちまった、内緒なんだが夕べ品川《しながわ》へ行ったんだ」
熊「なにをいってやがるんだ」
八「今朝葬式だから、早く帰《けえ》らなくっちゃァならねえといったんだが、女が嘘だといって帰さねえんだ」
熊「馬鹿だな、寺へ来てのろけてやがる」
八「なんにしろ記けてくれ」
熊「めいめいづけだ」
八「なんだめいめいづけというなァ」
熊「自分で帳面を記けるんだ、帳面はめいめいづけにしてくれろと隠居の遺言だ」
八「なにしろ俺は急いで来たんで手が震えていけねえんだ、ちょっとやってくれ」
熊「アアてめえそんなことをいって、自分の名が書けねえんだな、どうだい源兵衛さん、こんな人は当節珍しいね、自分の名が書けねえたァ珍しい、二十年も経つとなくなるね」
八「なにをいやがるんだ、遺言もクソもあるもんか、べらぼうめえ、書けなけりゃァ書けねえとはっきりいえ」
熊「ヤケに大きな声をするない、しようがねえ、友だちのことだからこっちの工夫をぶちまけようか、じつはなこっちも書けねえんだ」
八「ナニ、二人ながら無筆か」
熊「そうよ」
八「書けねえで、なんだって帳づけを受け合ったんだ」
熊「それがな満座の中でたのまれて、恥をかくのが厭だから、互いに受け合ったんだが、ここへきて話し合ってみると、どっちも書けねえんだ」
八「フーム」
熊「所が工夫てえものはあるもんで、源兵衛さんが各々づけってえことを考えて、隠居の遺言だから、ご各々に記けておくんなさいと二人でどなっているところへ、いい塩梅に手習いの師匠が来てみんな代筆をして済んでしまった」
八「なるほど、けれども苦しい時にはいろいろ工夫の出るもんで、各々づけってえのはうめえなァ、源兵衛さん洒落た人だ、うめえうめえ」
源「ほめてちゃァいかねえ、どうする帳面を」
八「ダカラそのくらいの工夫が付くんだから、源兵衛さんもう一ツいい工夫がありそうなもんだ」
源「さようさ……コーと、アアいい工夫がある」
八「ありますか」
源「あります、お前さんがこの寺へ来ないつもりにしてあげましょう」
[解説]この「無筆の帳づけ」のほかに、「清書無筆」「手紙無筆」「無筆の女房」など、無筆物が落語に少なくないが、その中でも一番面白いのはこの噺であろう。サゲもこれとは反対に、「おれの来ないことにしておいてもらおう」というのがある。どちらにしてもまぬけ落ちである。
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本膳《ほんぜん》
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庄屋「ヤアご苦労さん、サアこちらへ」
△「ハイ」
庄「イヤ呼びにやったのは昨夜《ゆうべ》話したとおりの訳での、みんなそろって行ったらよかんべいとこう思ってね……モウ二三人で出そろうだ……勘定《かんじょう》しろ勘定、二十八人だね、まだ三人べえ来ねえ、アアそうか……アア勘太《かんた》の野郎駈けて来たな、イヤご苦労さんで、マアこっちへ上がんなせえ」
○「ヤアご苦労さんでがす」
勘「イヤご苦労さんでがす」
庄「オオ源右衛門《げんえもん》さん大きにご苦労さんで、これだけでいいんだね……デマア昨夜《ゆうべ》も相談ぶった手習いのお師匠さんだね、あっちへも確かに迎いが来てるにきまってるから、あっちへ行って教わってゆこうと思うだ、ナーニかまわねえようなもんだけんどハア、アアやってお代官様へ江戸《えど》者の婿《むこ》さんが来たで、こんな目出度えことはねえッちうもので、村内こぞってお祝いのう申し上げるだ」
△「ところがいよいよ今日だな、あんな立派な手紙のようなものが来て、夕方からハア来てくれろという婿さんのお披露目だ」
庄「けんどもわしの考えで、なァみなさん、向こうへ行ってマゴマゴして、本膳《ほんぜん》というものが出たって本膳の食いようも知んねえといわれちゃァ、わしは恥を掻いてもなんでもねえけれども村内一統の恥になるだ、先祖に対してもすまねえ訳だから、お師匠様なら大丈夫だ、手習いのお師匠様ァたのんで、指南《しなん》を受けてくべえ、マアみんなが揃って昼間のうち稽古をしておいて、夕方からゆくとこういうことにして、これから行って稽古をしたらどうか間に合うべえ、なア、サアサア来なせえ、源右衛門どん、おめえら筆頭《ふでがしら》だから、先へゆくだけれども役柄だからオレが先に立ってゆくと、こういう訳だからすまねえけれども、オレから源右衛門どん、それからみんなおめえら順に来るがいいさ、サア勘太おめえこの次に、馬鹿ァいわねえもんだ、年は若くっても家柄が違うだ、なア、そうだそうだ、そういう順でいいんだ、向こうへ行って稽古するったって順やなにかのこともお師匠様に聞いたら、教えてくれるだんべえと思うだ、じゃァいいかね」
ガヤガヤ騒々しいのなんの……
庄「ヤアごめんなせえましの……ヤアごめんなせえましの」
師「ハア……アアこれはこれはイヤ大勢お揃いで、なにか村内で珍事でもできましたか」
庄「さようですが、鎮守様《ちんじゅさま》ッちうのはハア氷川様《ひかわさま》でがす、社《やしろ》の屋根が少しなんでございまして……」
師「イヤ鎮守様ではない、なにか間違いでもあったのか」
庄「ナニ間違えではごぜえません、お師匠様ハア毎度子供がハッハハハハご厄介様に相成りましてな、おかげさんでもうイロハは暗《やみ》で書くようになりましただ、アハハハハありがてえことでござるだ、ありがてえことだっての喜んでおりますだ、それに奥さんが江戸の方で、仮名はこう書かにゃァいかねえ、女子《おなご》は仮名がいいだなんてね、あれにおります藤兵衛《とうべえ》のハア娘ッ子などは、村一番の手書きになるべえなんて奥さんがよく教えてくださるで、アハハハ世の中がだんだんだんだんと変わって参りましただよ、なァ便利の世の中になりまして、なにからなにまでが、ハッハッよくなりましてね、マアありがてえことだって、喜んでいるでがす、それにつきましては今晩名主どんの所《とこ》へそのお婿さんの来ることについて、わしらァ招かれるッちうことになりましてな、夕方からゆくでがす」
師「ハハアさようですか、拙者《せっしゃ》などもな、夫婦でというのでござるが、留守居《るすい》もなくかたがた、わたしだけがご同伴をいたさんければならん」
庄「ヘエーさようでがすか……|ごどうはん《ヽヽヽヽ》を願う……源右衛門どん|どうはん《ヽヽヽヽ》てなにかね」
源「そうさ、ごどうはんて、麦飯かなにかかな、粟飯じゃァねえかな」
師「アハハハハ困りますな、ご同伴というのは一緒に行っていただきたいということで」
源「アハハハハさようでごぜえますか、ところがこれにおります者は昨夜からハア色々相談のうぶちました所が、本膳などというものを食ったことがねえ、お恥かしいわけでごぜえますがな、江戸者でなくて、村内の者がご養子に行ったならばなにもかまわねえけれども、江戸からのご養子だってね、本膳の食い方も知らねえ、情けねえ村だっていわれたら、名主どんの顔にもかかわりまして、村一同の恥になるでがんすから、一つ先生様に本膳の食い方をのう教わって、こういうふうに手順を付けなけりゃァなんねえからって、ご教授を願いてえと思って一同そろって参りましたので、これから夕方までお稽古をして頂きまして、デ向こうへいって曲がりなりにも順はこういうだッちうことだけ……」
師「アハハハハなにも本膳などと申して私も本当のことを知りませんが、つまりアアいうものは、そうざわつかんで落ちついて、蓋《ふた》を取ればいい、器《うつわ》を持てばいい、すべてを落ち付いて、粗忽《そこつ》のないようになさればそれで差し支えのないもので」
庄「それがさ、これだけの者が落ちつくにも、落ちつかねえにもまるで知らねえんでね、箸《はし》の持ち方も知らねえで」
師「ハア箸をお持ちになったことが……」
庄「それは持っておりますけれども、また本膳はむずかしい持ち方かなにか……」
師「そんなことはない、自分の勝手で、もっとも手づかみで食べるということはできませんがな」
庄「ハハアさようですかな、どうぞ一ついちいち……」
師「それはとても二十いく人、それを一人ずつお稽古をするといった日には第一間に合いません、ではこうしましょう、私はとにかく失礼ではあるが、みなさんに教授をしている所からあるいは先生こちらへと、上座《じょうざ》へ坐らせられるだろうと思います、それでもあなたがたはお役に付いている方だから、庄屋殿が先だとかどこが家柄がいいから先だというので、私は中程に坐ってもかまいません、ツマリ上座であったら上座、どこにいても私の真似をおしなさい、ズット横に並んでいるからよくは見えますまいが、お隣の方のすることを見なさい、私が汁椀の蓋を取ったらみなさんが汁椀の蓋をお取りになる」
庄「アアなるほどさようですかな」
師「それから平《ひら》の蓋を取ったら平の蓋を取る、飯の椀の蓋を取ったら蓋を取る、箸を取ったら箸を取る、食うものもそのとおり汁を吸ったら同じく汁を吸うというような手順になすったら差し支えない、別に稽古もなにもいらない、真似をしなさい」
庄「アアなるほど、人に物を教える方なんちうものは、えれえ者だな、みんな聞いたか、わかりました、なまじなまなか覚えたって、なかなか手順が揃うわけでもねえ、先生はどうでも上座へ願いますということに向こうへ行ったらするだ、みんな遠慮して、先生を上座にして、その次にオレが坐るだから、それからズッと順に坐ったらよかんべえ、そうしてハアなんでも先生のやるとおり、先生がお辞儀ぶったらこの方《ほう》もお辞儀ぶつだ、かまわねえからみんな揃ってな、そうでようございますかな」
師「その方がかえって間違いはないでよろしかろうと思います」
庄「アハハハハそうだね、二十八人の者が、いちいちソレお汁だ、どうだこうだと、手におえねえからね、それじゃァ今からでも早いようでございますから、みんな一度引き取りまして、夕景《ゆうけい》から……」
師「アア中には着物を着替えてお出での方《かた》もあり、中には着替えん方もあるようだから……アアそうですかハハア、アアなるほど、お羽織が無いですか、一枚や二枚なら私共にございます、そう沢山《たくさん》もありませんが、どうにかお間に合わしてもよいからお羽織だけは無いと工合《ぐあい》が悪いでしょうな」
勘「それを知んねえもんでがすからなんでがす」
庄「勘太郎黙ってろ、ここで恥を話さなくってもどこかに羽織の一枚ぐらいあるさ、ごく古いのがオレの所《とこ》に三枚くらいあるだね、その代わり乱暴に着ると切れてしまうだ、それさい承知なら羽織ぐれえどうかするだから、ここで先生にまで恥をいうでねえ……それじゃァ一同羽織を着ることにしまして、後ほどうかがいますでさようなら」
源「さようなら」
ワーワッと二十八人がガヤガヤガヤいうので先生のぼせ上がるようだ、そのうちに時刻になりますと、ゾロゾロ揃って来た。
師「サアご同道《どうどう》をいたしましょう、サアどうぞ」
庄「マア、あなたから」
師「イヤ、お役だからあなたが先に立たんと……」
庄「イヤそれはいかねえでがす、向こうへ行ってハア困るだから、先生様先に立ってくだせえ、その次に私が続きますで、それから順に役付いた者がゆくちうことにして、なんでもハア先生の真似をするでがすから」
師「それではご免をこうむります」
ゾロゾロ揃ってやって参りました。
師「お頼み申す」
庄「お頼う申します」
源「お頼う申します」
師「あなた方は黙って黙ってそう残らずお頼み申す、お頼み申すというと、騒々しくって向こうで胆《きも》をつぶすから……」
○「イヤこれはこれは」
師「エー村内の者お招きに預かりまして、一同そろって罷《まかり》り出《い》でました、よろしくお取次ぎを」
○「サアどうぞこちらへ」
というので出迎いが出る、先生がお辞儀をすると、一同がお辞儀をする、先生はおかしくってたまらないがどうも仕方がない。
師「ただ口止めをしたいのは、私のしゃべるとおりしゃべらんでもよいので、私がなにかいってお目出度いというようなことをいってお辞儀をしたら、一同はただお辞儀だけでその心持はとおっておりますから」
庄「ハイわかりました……みんな聞いたか」
師「シーッ大きな声をしちゃァいけません」
○「どうぞこちらへ」
源「またどこかへゆくんだよ、ここだと思ったらまだここでねえだ」
△「どうするのだんべえ」
師「サア黙ってゆかなくっちゃァいけない」
○「サアどうぞこちらへ」
それへ出まして主人がお膳へ着く前に一通りのあいさつをする、これからお知己《ちかづき》のお盃、順にまわり逆にまわり、そのうちにお盃がすんで、お膳が出る。
源「ソラ本膳が来たぞ、今までは赤《あけ》え盃で酒を向こうで注《つ》いでくれねえから飲むこともできねえけれども、これから二つ三つ飲《や》ったらえらくいい心持になるだんべえ」
庄「黙ってろよ、騒ぐなよ、これから礼式が始まるだから、よくオラの顔を見てるだ……、ソレ汁椀の蓋を取るだ汁椀の……」
先生が汁椀の蓋を取ると一同が順に取るのでありますから、その手順のいいことというものは、汁椀を取って一口吸ってそれへ置く、庄屋さんはすぐそこにいるのだから、そのとおり一口吸って、
庄「コレ二口吸うでねえぞ、いかねえ馬鹿、礼式に外れるでねえぞ、一口だ、一口一口、たくさん吸っては駄目だね」
二十八人がやるのだからそのおかしさ加減、今度ご飯の蓋を取って一口食うと、
△「ソレ飯だ」
○「エエ」
△「飯だよ、たくさん食っては駄目だぞ」
アマリおかしいから先生がクスリと笑った。笑った途端にヤケに尖《とん》がり鼻、鼻の先へ飯粒が二つくっついた。
△「駄目だ、礼式が違う違う、飯をくうだけではいかねえだ、食ってクスンと笑うだ、笑う途端に鼻の頭へ飯粒つけるだ、二粒つけるだ」
×「そうか」
△「オレくッ付いたか見てくんろ、ナニ五粒くッ付いた、三粒多いだから三粒取ってくれ……コレ食うなってえに、鼻の頭に付いたのを食べて、アッ始末におえねえ奴だ、ウッカリ粗忽《そそう》もできねえ」
早くご飯を終ってしまおうというつもりで、お平《ひら》の蓋を取る、田舎のことでございますからお箸が塗箸という、お平の中には芋の煮たの、アノ里芋というやつはお平などへ使うべきものではないが、そこは田舎の手料理、嫌にヌルヌルするもので挟もうと思うとツルリと箸がすべって、膳の上へ芋が転がり出した、挟んだがどうしても挟めないからツルツ、ツルツ、ツルツ……。
△「ヤッ、難しいぞ、今度はお平の蓋を取るだ」
×「エエ」
△「平の蓋を取るだ、蓋を取ったら膳の上へ芋を転ばし出すだ、そうしたら箸で突っ付くだ、そうそうだ」
二十八人一度に芋をコツンコツンコツンコツン、膳でもなんでも疵《きず》だらけでございます、主人もおかしくってならないが笑う訳にもならず、先生も仕方がない「それでは違う違う」というが、なかなかわからない。
師「そうではない、違う違う」
と、たまらないから庄屋の横ッ腹を拳固《げんこ》で突いた、
庄「オイテテ、オオ痛《いて》え今度の礼式は痛え……ぞ、ウムッ」拳固で次の男の脇腹を、
源「オオ痛えコレ突ッつくかね、痛え礼式だね、気が遠くなるぞ……ウムッ」
○「オオ痛え痛え、あにをするだね」
源「礼式だから仕方がねえ」
○「礼式かね、ソラ礼式だウムッ」
△「オオ痛え……エエ互《たげ》えのことだ、今度次へやるか、ウムッ」
×「オオ痛え痛え」
おかしいのなんの見ていられない一番|終《しま》いの人へ来て、
□「オオ痛え」
×「次を突くだ」
□「次を……アッいけねえ、先生様、この拳固はどこへやる」
[解説]講談のほうに、荒茶の湯というのがある。加藤清正、福島正則、加藤嘉明などがみんな細川の屋敷へ、茶の湯に呼ばれる。ところが清正のほかは茶の湯の心得がないので、一同はすべて上席の清正の真似をすることになる。そうしていろいろの失敗をする滑稽講談だが、落語の本膳はそれによく似ている。サゲはまぬけ落ち。
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武助馬《ぶすけうま》
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武助「ヘエどうもご無沙汰をいたしました」
主人「オー武助《ぶすけ》か、久しく見えなかったな」
武「ヘエしばらく遠方へ行っておりましてな、ちょっと手紙をさしあげたいと思いながら、ツイご承知の通り自分で書けないもんでございますから、存じながらご無沙汰をして相すみません」
主「ナニ手紙なんぞくれねえでも、便りがねえのは変わりがねえものと思ってるから、それはいいが、あれからどこへ行ってなにをしていたんだ」
武「ヘエ、当家をお暇《いとま》をいただいてから、いろいろ不幸続きで、これじゃァどうもしようがねえから、なにか一つ変わったことをやってみたいと思いまして、なんでも世の中で人に可愛がられるのは芸人だ、芸人の中でも役者てえ奴が一番人にヤイヤイ言われるから、一番役者になって、天下に名を揚げようとこう思いましてな」
主「ウム、えらいことを考えたな、それからどうした」
武「ついて、修業をするには上方《かみがた》がいいと聞きましたから、大阪へまいりました」
主「ウム、だれの弟子になった」
武「璃寛《りかん》の弟子になりました」
主「ハア璃寛の弟子でなんとなった」
武「みかんという名をもらいました」
主「みかんはおかしいな、しかしマア、名前はなんでも変わってるほうが人が覚えいいというから、みかんでもきんかんでもかまわねえが、どうだいいい役をするようになったか」
武「ヘエ初めて舞台を踏みましたのが忠臣蔵の五段目で」
主「ハア、それはよかったな、なにをやった」
武「猪《しし》をやりました」
主「猪、あんまりいい役でもねえが、それッきりか」
武「それから菅原《すがわら》の狂言へ出ました」
主「フン、そのときは」
武「筑紫《つくし》の配所《はいしょ》の牛になりました」
主「オヤオヤ、猪《しし》のあとが牛か」
武「どうもあんまり口をきく役が付きません」
主「口をきかねえというと、大名でもしたか」
武「それは多く兄弟子がやりました、私は供に出たり、高張提灯《たかはりぢょうちん》を持ったりする役ばかりです」
主「気が利かねえな」
武「それでもだんだん出世をして、少し口をきくようになりました、用事はない、次へ退《さが》れ、ハハア…」
主「なんだ、ハハア……だけか」
武「でもまァどうやらこうやら役者になって今度久しぶりで、当地へ帰ってまいりましたから、ご無沙汰のお詫びながらうかがいました」
主「そうか、なんにしても家《うち》にいた者が役者になったんだから、マアひいきにしてやろう」
武「ヘエ、どうかお願い申します、つきまして今度当地へ帰りまして、親方を替えて芝翫《しがん》の弟子になりました」
主「ウム、芝翫《しがん》の弟子になって、やっぱりみかんか」
武「イエまだ一貫五百ぐらいのところで」
主「一貫五百はへんだな」
武「デモ、弟子は師の半芸に到らずといいますから」
主「なまいきなことを言うな」
武「じつはまだ名前が付きませんから、元の名前で中村武助《なかむらぶすけ》といっております」
主「ウーム、中村武助、それで今度は何座へ出るんだ」
武「ヘエ新富座《しんとみざ》へ出ます、どうか一つご見物を願いたいもので」
主「そいつは剛義《ごうぎ》だ、ぜひみんなで見物しよう、狂言はなんだい」
武「一谷嫩軍記《いちのたにふたばぐんき》」
主「おまえの役は」
武「組み打ちのところで」
主「組み打ちのところというとあんまり役者のいらないところだが、熊谷《くまがや》や敦盛《あつもり》や玉織姫《たまおりひめ》なんぞなれッこはなし、平山《ひらやま》の武者所《むしゃどころ》か」
武「どういたして」
主「じゃァ軍兵《ぐんぴょう》か」
武「イイエ」
主「軍兵でもなくってなんだ」
武「馬でございます」
主「オヤオヤ、冗談じゃァねえ、猪になって、牛になって、馬になって、千代萩《せんだいはぎ》でネズミをすりゃァ世話ァねえや」
武「けれども旦那、よく馬の脚といいますが、あれがなかなかむずかしい役でございますよ、人間が二人で一疋の馬になるんですから前と後の呼吸《いき》が合わなけりゃァとても歩けません」
主「それはマアそうだろうが、しかしおまえはよく呼吸が合うかい」
武「それは相手次第ですけれども、私は後ろで、前脚のほうがむずかしゅうございますが、熊右衛門《くまえもん》さんてえのがやりますので……」
主「ウーム、馬の脚の見物てえのもあんまり流行《はやら》ねえが、マア仕方がねえ、オレの家にいた者が役者になって、馬の脚をするんだから、見物してくれとも頼めねえから、マアオレが散財してみんなに行ってもらおう、いつがいい」
武「なんでもあなたのほうのご都合で」
主「それじゃァ前に知らせるが、土間のほうがかえって見いいだろう、およそ何間《なんげん》ぐらい必要と、きまったら知らせるから、おまえから茶屋のほうへ伝えねえ」
武「ヘエ、どうもありがとう存じます、これで私も鼻が高うございます、芝居道始まって馬の脚で見物を呼ぶなんて役者はほかにありますまい」
主「剛勢幅《ごうせいはば》を利かすな、こっちも馬の脚で見物をするのは初めてだ、なにしろ、しっかりやんねえ」
武「ヘエ、どうか私が舞台へ出ましたら、お褒《ほ》めなすってくださいまし」
主「褒めてもやるが、褒め言葉に困るな、ただ馬の脚ッたって、前だか後だかわからねえ、馬の脚武助というのもへんだな」
武「そこのところはなんとか景気よくお願い申します、師匠だって熊谷になって、乗ってる馬が褒められたら張り合いがあります、弟子はいいのを取りたいもので……」
主「ふざけちゃァいかねえ」
武「ではなにぶんお願い申します」
と当人大喜び、ごちそうになって帰りましたが、二三日経つといよいよ見物の日がきまり、なにしろ馬の脚を見るのですから、花道寄りのほうを縦に五六間ぶっこ抜いて取ることになりました。ご主人もいい役者の見物なら、だれにでも頼めるがそうはいかない、一切自分で散財をして奉公人や出入りの者を連れて早くから茶屋へ乗り込み、楽屋へもじゅうぶん行き渡りを付けましたから、他の役者も喜び、
○「武助さん、どうもごちそうさま」
武「ヘエ、こんにちは、どうもありがとう存じます」
○「ナニ今日《きょう》はおまえが礼をいうんじゃァねえ、おまえのお蔭でごちそうになれるから、こっちで礼をいうんだ」
武「どうも恐れ入ります、ありがたいことで」
○「ほんとうに、ごひいきはありがてえもんだねえ、……おまえまだ二幕|間《あいだ》があるぜ、今から支度をしなくってもいい」
武「なるたけうまく歩こうと思って、稽古をするんで」
○「もう毎日やってるじゃァねえか」
武「それでも今日はまた特別の日で、ご見物に褒められて、親方に乗り心地がよかったと褒められりゃァ馬の脚の名誉でございます」
○「へんなところへ名誉が付くんだな……」
そのうちに自分の出る幕が近づいてきました。ところが合棒《あいぼう》の熊右衛門の姿が見えません、サア武助の心配ひととおりでありません、
武「熊右衛門さんはどうしたんだろうな」
△「武助さん、熊右衛門さんはお酒を飲んでそこに寝てるよ」
武「エー、寝ているって、冗談じゃァねえー、オイオイ熊右衛門さんどうしたんだ」
熊「アハハハハ武助、間のいい時にはいいもので、さっきちょっと茶屋においでのお客さまのところへ顔を出したらまだ早かろう、一杯やれッてんで、ご酒《しゅ》をいただいて、酢《す》だ肴《さかな》だといろいろごちそうになって、楽屋へ帰ってくると、おまえの見物だてんで、うなぎ飯が来ているんだろう、なにしろ馬の脚の見物なんてえのはめったにあるわけのものじゃァねえ、オレだって馬の脚だ、朋友《ともだち》のことだからともに喜ばなけりゃァならねえ、後にしようと思ったがちょっと蓋《ふた》を取ってみるとプンと良い匂いがしたもんだから、ツイ箸を取って平らげてしまった、一杯やっていい心持ちのところへ詰め込んだから、スッカリ腹がくちくなってしまった」
武「腹がくちくなったって、もう幕が開くよ、早くしねえと、親方をしくじるとたいへんだから……」
熊「マアそう騒ぐな、大丈夫だから」
武「大丈夫だって、今日は大切な日なんだからしっかりしておくんなさい」
熊「ウムよしよし、後へ来ねえ……、いいか、馬を持ち上げてくれ、かぶるから……、それよいか、アア……、いい心持ちだ腹の張ったところで一跳ね跳ねるとちょうどいい工合《ぐあい》になるよ」
武「そうですかなァ、なにしろおまえさんは前のところに布が張ってあるから見えるけれども、私のほうはまるッきり見えねえんですからなァ……、オヤおまえさん、おならをしましたね」
熊「イヤじゅうぶんごちそうになって腹が張ったもんだから」
武「アアくさい、息がこもったからこりゃァたまらねえ」
熊「シーッ、出だから動いちゃァいけねえ」
武「動いちゃァいかねえたってこりゃァおどろいた」
武助はクンクンいってる、そのうちに幕が開く、芝翫《しがん》の熊谷が馬にまたがる、もっとも芝翫の熊谷ときたら専売物《せんばいもの》で、いよいよ揚げ幕から乗り出したが、前脚はなおさらしっかりしていなければなりません、見物は待ち構えておりましたから、成駒屋《なりこまや》ァー成駒屋ァという声は沸き返るようだ、武助の主人は褒めてもらいたいが、上の熊谷に掛かる声で、馬の脚なんぞだれも褒める者はない、仕方がないから奉公人や出入りの者の尻を突ついて、
主「オイ褒めねえか、馬の脚を褒めるんだ、褒めなけりゃァ家へ帰って割り前を取るぜ」
甲「ヘエ褒めます褒めます、ヨー馬の脚ィ、後脚《あとあし》の歩き方が細《こま》こうございます、馬の脚……」
主「モット大きな声で」
乙「ヤーイ武助、しっかりやれ、ちきしょう……」
甲「オイオイ、そんなことをいうと旦那に怒られるぜ、家へ帰って割り前を取られるから、せいぜい褒めておやりよ」
乙「馬の脚ィー、武助馬ァー」
丙「馬の脚、うめえぞ」
○「シイー、静かにしろい、馬の脚なんか褒めやがって……」
乙「褒めなけりゃァ割り前を取られるんだ、馬の脚……」
△「シーイ、うるせえ、静かにしやがれ」
主「かまわねえ、モット褒めろ」
甲「馬の脚ィ」
○「なんだ、ばか野郎……」
客同士で喧嘩が始まったが、馬の脚は褒められるから嬉しくってたまらない、ポンポン跳ねる、前の脚も酔ってるところへ腹がくちいから腹ッこなしの了簡で跳ねる、花道で馬が大はしゃぎ、上の役者は危なくってかなわない、しっかりつかまって手綱さばきもなにもできません、調子にのって後脚のほうがヒーンと一鳴き鳴いたんで、見物がドッとどよめく、一幕とうとうめっちゃめちゃになってしまった。親方怒るまいことか、部屋へ帰ると頭取《とうどり》を呼び付け、
親「ばかにしやがって、あれはなんの態《ざま》だ」
頭「どうもまことになんともハヤ申し訳がございません、じつにあきれましてございます」
親「前脚はだれだい」
頭「やっぱり熊右衛門でございます」
親「後脚は」
頭「武助でございます」
親「ウム、武助をちょっと呼んでくれ」
頭「ヘエ……オイ武助、親方がお呼びだ、しようがねえじゃァねえか」
武「ヘエどうもありがとう存じます」
頭「なにがありがたいんだ」
武「親方が来いとおっしゃるのは、私の出来が良かったというんでご褒美かなにかくださるんで」
頭「なにをいってやがる、ばか……」
武「ヘエ親方ありがとうございます、お蔭さまで見物がたいそう後脚の歩きッぷりがいいといって褒めてくれました」
親「ばか野郎、なんという態《ざま》だ」
武「ヘエ、私も大車輪でやりましたが、よッぽど跳ねましたろうか」
親「それはマア仕方がねえが、武助てめえ鳴きやァがったな」
武「ヘエ、鳴き声はいかがでございました」
親「ばかッ、まだわからねえか、後脚が鳴く奴があるか」
武「それでも親方、熊右衛門さんは前脚でおならをしました」
[解説]これは鹿野武左衛門作「鹿の巻筆」第三巻の「堺町馬の顔見世」からとったものである。サゲは間ぬけ落ち。
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辻駕籠《つじかご》
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だんだん世の中が開けてまいりまして、当今は交通ということが自由自在でございますが、昔は京大阪《きょうおおさか》へまいりますには、東海道五十三次を歩いて行きましたので日数《ひかず》もかかればお金もかかりましたが、今日では汽車で一晩のうちに寝ていて行ってしまうというわけでございますから、マア東京にいるも京大阪にいるも同じようなものでございます。
昔はわずか十里か二十里先へまいりますにも、仲のいい者が品川《しながわ》の棒鼻まで送って別れを惜しんだなどという、今日《こんにち》からみるとおかしいようでございます。東京がまだ江戸と申した時分、乗り物で便利のものは駕籠《かご》よりほかになかったのです。
駕籠というものは一人を乗せて二人でかつぐ、中には三枚などと申して三人でかつぎました。もちろん駕籠にもいろいろありまして、旅へ出る旅駕籠と申しますのはまことに乗りにくいもので、これを雲助《くもすけ》がかつぎまして、山坂を越えるのですからなかなか≪はか≫がまいりません。
江戸でまず駕籠屋の有名なのは、芝《しば》の初音屋《はつねや》、大伝馬町《おおでんまちょう》の赤岩《あかいわ》、浅草《あさくさ》の江戸勘《えどかん》などでございます。吉原《よしわら》行きというと、たいがい赤岩と江戸勘で、品川行きは初音屋とそれぞれ看板が売れておりますから、他の駕籠屋は避けるようでございました。
辻駕籠というのはまたちがいまして、これは往来へ出て駕籠を置いてお客を引いております。ヘエ駕籠ヘエ駕籠とあまり気のない呼び方でございますが、この辻駕籠のほうは立派な若い衆はない。老人だの馴れない者が夜分出ておりまして、遊びに行く時など辻駕籠に乗ってくのは幅が利かない者でございました。
もっとも値段がばかに安い、まず昔から一番繁昌の遊廓は吉原で、次は深川《ふかがわ》でございました。仲町《なかちょう》から掛けまして辰巳《たつみ》と申しました。吉原のことが北国《ほっこく》で、深川が辰巳、辰巳八景などというものができておりました。そのころのたとえに派手は深川、勇みは神田《かんだ》と申しましたくらい。シテみると深川はよほど繁昌したものとみえます。つまりこの遊び場所が繁昌するというのは世の中が豊かなのでございますが、どんなに世間が豊かでもただもう、デレリとして稼ぎもしなければ遊びもしない、くだらなく暮らしているいる人が、今も昔もずいぶんございます。
家主「サアこっちへお上がり」
○「ヘエ、ただ今はお人でございまして」
主「アアちょっと迎えに上げたがよくおいでだ、そこを締めてこっちへお入り、喜六《きろく》さんこっちへお上がり。二人のところへ迎いに上げたのはほかでもないが、おまえさんがたに少し相談がある。私の店子《たなこ》はおまえも知っての通りたくさんあるが、一人も怠けている者はない。自慢じゃァないが私の長屋の者はみんな稼ぎ人ばかりだが、たった二人おまえさんがたばかりだ、ただそうブラブラ遊んでいるのは。今ちょうど稼ぎ盛りで、喜六さんのほうはアアやっておかみさんもあり甚兵衛《じんべえ》さんのほうはおっかさんがあるが、聞けばおっかさんやおかみさんは内職をして稼いでるに、おまえたち二人がブラブラ遊んでるということを聞いた。困った話じゃァないか、そればかりではない、ブラブラしていりゃァ小遣いだっているだろう、なにかやらせたいといろいろ考えたが、どうだいおまえたちは肩が利くかえ、力があるかえ」
喜「ヘエかなり力もあるつもりでございます」
主「おまえもあるかえ」
甚「ヘエ私もございます」
主「そんならどうだい、日が暮れたら駕籠をかついだらどうだ」
甚「ヘエ駕籠をかつぎますか」
主「夜の仕事で人にも知れず、なかなか儲けもあれば第一|資本《もとで》いらず、駕籠は私が懇意《こころやす》いところへそういってやれば貸してくれる。その駕籠を借りて天王橋《てんのうばし》なり浅草見附《あさくさみつけ》なりへ行って二人でヘエ駕籠といってれば客が来るだろう、いくらでも駄賃をきめて、乗っけてそれを二つ分けにしたら小遣いが取れるだろう、一人も客がなかった時にゃァオレが棒代は払ってやる、どっちにしたって損のゆくことじゃァない」
喜「なるほどこれは損をする気遣いない、オイ甚兵衛」
甚「なんだ喜六」
喜「どうだ駕籠をかついでみようじゃァねえか、客があったらいくらでも山分けにするし、客がなければ大家《おおや》さんのほうで駕籠代は払ってくれるとお言いなさるんだ」
甚「ウム、じゃァひとつやってみよう」
喜「善は急げというから今夜からやろう、じゃァお言葉に従って今夜からやってみましょう」
主「そんなら手紙を書いてやるから、支度をして江戸勘《えどかん》へ行って駕籠を借りて、浅草見附でも天王橋へでも行ってやってみなさい」
喜「ありがとう存じます、なにぶん願います」
主「おまえ硯《すずり》を取っておくれ、ナニ、二人に駕籠かつぎをやらしてみようというんだ、遊んでばかりいちゃァいかねえから……サアこれを持ってきなさい」
喜「ありがとう存じます」
主「江戸勘を知ってるか」
甚「知っております」
それから二人が宅へ帰って支度をして、江戸勘へまいりました。
喜「ごめんください、ごめんください」
女房「ハイなんです」
喜「エー私は大家《おおや》さんの彦六《ひころく》さんのところからまいりました、どうぞ駕籠を一つお願い申したいんで……」
女「アアそうですか、吉公《きちこう》や吉公や、大家さんの彦六さんからお客さまだよ……マアこっちへお掛けなさいまし、毎度ごひいきにありがとう存じます、どちらへ……」
喜「ヘエすぐなんで……」
女「そうですか、アアお一人ですか」
喜「二人で」
女「アーお二人……ご近所でございますか、よろしゅうございます、少々お待ちください。オイだれかいねえかえ、二階で寝ているなら起こして支度をしなくっちゃァいけねえ、大駕籠が二|挺《ちょう》出るんだから……彦六さんのところからお客さんがお二人だよ、早く支度をしな。……アノなんでございますか、ご近所と申して行く先はどちらでございます」
喜「ヘエー、行く先はなんでございます、どこでもいいので、天王橋か赤坂見附ですな」
女「ヘエー、あまりそばですが、マアそこへ寄っておいでなさるんで……」
喜「イエ寄ってくわけじゃァございません」
女「アノお客さまというのはなんでございますか、大家さんのところにおいでで、あすこまで駕籠をやるんでございますか」
喜「イエ、私共二人が駕籠をお借りしてかつぐんで……」
女「なんだかへんだねえ、この人たちは。マア吉公待ちな、へんだよ」
喜「なんだかわかりませんが、この手紙を持ってきました。これをご覧なすって……」
女「アアそうですか……、アレマアいやだよ、なんですねえ、おまえさんがたはお客さまじゃァないんで。吉公、駕籠の支度をしないでもいいよ、支度をさして気の毒だったがなんだよ、大家さんから駕籠を貸してくれろという手紙を持ってきたんで……じゃァなんですね、このお手紙でみるとおまえさんがた二人で今夜からやろうというんですね」
喜「そうでございます」
女「そんなら早く手紙を出せばいいのに」
○「なんだ客じゃァねえんだとよ、駕籠を借りにきたんだ」
△「冗談じゃァねえ、支度をさして、オオおまえさん二人でかつぐのかえ、素人てえものはなかなかうまくいかねえものだぜ」
女「アノ駕籠を一挺出しておやり……おまえさんがたその駕籠をお持ちなさい、蒲団《ふとん》も息杖《いきづえ》も付いてるが提灯《ちょうちん》は貸されませんよ」
喜「ヘエありがとう存じます、マア今晩からしっかりやるつもりでございます……どうかなにぶんお願い申します」
△「かつげるかえ、なんだかへんな人だなァ」
女「気をつけておやんなさいよ、大家さんによろしく言ってください」
喜「ありがとうございます」
二人は駕籠を借りてまいりまして、日が暮れると大家さんから提灯を借りて、天王橋のそばへやってきて、
喜「ここへ駕籠を置いて二人で立ってると、客が来るというんだ……ただ黙ってちゃァいけねえ、なんとか言うんだぜ」
甚「ヘエ駕籠ヘエ駕籠と言うんだ、やってみようか」
喜「やってみよう」
甚「ヘエ駕籠ヘエ駕籠」
喜「おまえの声はちいせえから、モット大きな声を出しねえ」
甚「人のことをいわねえでおまえやってみな」
喜「オレがやってみせる、大きな声を出すぞ……ヘエ……出ねえなァ、ヘエ駕籠」
○「マアびっくりした、なんだ、おどかしちゃァいけねえ」
喜「おどかしたんじゃァございません」
○「なんだって大きな声を出すんだ……」
喜「ヘエ駕籠と申したんで」
○「なんだ駕籠屋かえ」
喜「ヘエ」
○「びっくりした、だしぬけに大きな声を出して……」
喜「今晩私たち二人、口明けでございますがいくらでもよろしゅうございます。これもなにかのご縁でございましょう、どうぞお願い申します」
○「なにを」
喜「駕籠にお乗んなすってください」
○「冗談いっちゃァいけねえ、駕籠へ乗れったって手拭いを持ってるじゃァねえか、いま湯に行くんだよ」
喜「ヘエお湯へ……どうでございましょう、お湯屋までお乗んなすっちゃァ……」
○「ふざけるない」
甚「ハハハお湯まで乗ってくれといったら怒りやがった。しようがねえ、お客が来ねえなァ」
喜「飽きちゃァいけねえ、やってるうちに来るだろう、少し呼んでみよう、ヘエ駕籠ヘエ駕籠」
甚「ヘエ駕籠ヘエ駕籠ヘエ駕籠」
□「オイ若《わけ》え衆《し》、若え衆」
甚「ヘエどうもありがとうございます」
□「イヤ年のころ二十五六になる女だがな……」
甚「ヘエ女なら軽くってよろしゅうございます、どこまでまいります」
□「そうじゃァねえ、今この前を駈け出して通りゃァしなかったか」
甚「そんな人は知りません……、なんだお客じゃァねえ、年のころ二十五六の女が駆け出して通りゃァしねえかって、そんな番をしているもんか……つまらねえ、よそうじゃァねえか」
喜「ウム、帰ろうか」
×「オイオイ若え衆」
喜「また来たぜ……また人を聞くんじゃァねえか」
×「俺はいつでもこの先から乗るんだが、いつもの若え衆がいねえからここまで来た、一つやってくんねえか」
喜「ヘエよろしゅうございます、どうぞ願います、どこへ……」
×「どこだっていわねえでもわかりそうなもんだ、北国《ほっこく》だ」
喜「ヘエ」
甚「冗談じゃァねえ、断わっちまえ、そんな遠ッ走りはできねえ、旅稼ぎはやりませんと断わっちゃいねえ」
喜「お気の毒さまでございますが、旅稼ぎはいたしません」
×「旅稼ぎ、北国ッておまえどこへ行くつもりだ」
喜「加賀能登《かがのと》のほうで……」
×「ふざけちゃァいけねえ、北国というのは廓内《なか》のことだ」
喜「中のことだとよ」
甚「ヘエ中、どこの中で」
×「わからねえな、吉原だよ」
喜「アア吉原でございますか、吉原なら吉原とおっしゃってくださればいいのに、北国というんで胆をつぶしました、甚兵衛さん吉原だ」
×「行くときまったら急いでやってくれ。先方へ行きゃァ増しをやるよ、駕籠賃はたいがい相場があるから聞かねえ、定《きま》りだけ払ってそのほか祝儀をやるぜ」
喜「ヘエありがとう存じます」
×「そのかわり急ぎだぜ」
喜「ヘエよろしゅうございます……、じゃァ駕籠をこっちへ持ってこよう……、ヘエお客さまどうぞお乗りください」
×「じゃァ乗るよ」
甚「喜六さん、おまえ、前棒をやってくれ、俺は後ろをかつぐ」
×「オイ早くやってくれ」
甚「いいか、ウンと持ち上げて……」
喜「そうむやみに上げちゃァいけねえ、一二三で一緒に立とうぞ、ソラ、一二三……」
×「アア痛い、オイふざけちゃァいけねえ。オオ痛え、頭をたたきつけた」
喜「お客さまが怒ってらァ、しっかりやろうぜ」
甚「しっかりやろう」
喜「しっかりやるって甚兵衛さんおまえどっちへかついでるんだ、なんだかへんだぜ、俺は右の肩を当ててるんだぜ」
甚「俺は左だ」
喜「いけねえや、肩がちがってる」
×「どうだい若い衆少し急がねえか、なんだ下ろしたり上げたり」
甚「へえただ今、肩がちがっておりまして……」
×「どうりでへんだと思った、しっかりたのむぜ」
甚「よろしゅうございます、一二三、いいか、うめえうめえなかなか重いものだな……」
×「なんだかへんな駕籠だな、若え衆モット急いでくれ」
喜「いま急ぐところでございます、ドッコイドッコイ」
甚「ドッコイドッコイなかなかうまくいかない」
喜「そうむやみに後から押しちゃァいけねえ、ドッコイドッコイ、ハイごめんなさい」
甚「ドッコイドッコイ」
×「へんな駕籠だな、世の中に駕籠をかつぐにドッコイドッコイてえ奴はねえもんだ、親分の引っ越しの荷物でもかつぎやァしめえし、しっかりやってくれ、一生懸命ドンドン蔵前《くらまえ》通りを飛ばして、二人景気よく掛声《ない》てくれ」
喜「ヘエ、泣かなくっちゃいけませんか、オイ甚兵衛さんやっかいなことになった、一緒に泣くんだ」と二人は駕籠をかつぎながら「ワーッワーッ」
お客はおどろいた。
×「オイオイ冗談じゃァねえ、掛声《なく》ッたってワアワア泣かれてたまるものか、おまえたちはほんとうの素人だな、なんぼなんだってワアワア泣く奴もねえもんだ、なくってえのは駕籠屋の掛け声だ」
喜「そんなことは私共にはできません、どうぞ勘弁しておくんなせえ」
×「できねえ、やっかいな駕籠屋だなァ」
喜「ドッコイドッコイ」
甚「ドッコイドッコイ」
×「よしてくれ、よしてくれ、さっきからへんでいけねえ。後からチラチラ雪駄《せった》の音をさして、だれか付いてくるじゃァねえか」
甚「アアこれは私が雪駄を履いているので」
×「エエオイ、雪駄を履いて駕籠をかつぐ奴があるかえ」
甚「ヘエ私が丈《せい》が高いもんですから、ソコで前の喜六さんが駒下駄《こまげた》を履いてかついでるんで……」
×「おどろいたなァ、どうもさっきからへんだと思った、駒下駄と雪駄履きで駕籠をかつぐ奴もねえもんだ、後生《ごしょう》だ、はだしで担いでくれ」
喜「じゃァ甚兵衛さん、はだしになろうぜ」
甚「おまえ駒下駄をどうする」
喜「腰へ結びつけよう」
甚「そんなら俺も雪駄をそうしよう……いいか、ドッコイショ……なるほどこれはお客さまの言う通り、はだしのほうが早い」
喜「ウム少し足は痛えがこのほうが駕籠をかつぎいい」
×「ちっと工合がよくなったな、それで急いでやってくれ」
喜「ヘエ急いでおります」
×「冗談じゃァねえ、ちっとも急ぎゃァしねえじゃァねえか、モッと早くグズグズしねえで一概《いちげえ》にやってくれ」
喜「ヘエ市谷《いちがや》でございますか、よろしゅうございます、オイ甚兵衛さん、市谷だとよ」
甚「市谷か、じゃァもうちっと急ごうぜ、ドッコイ」
喜「ドッコイドッコイ」
お客は駕籠に揺られているうちに、昼の疲れで、ツイうとうと眠ってしまい、ヒョイと目を覚まして、
×「駕籠屋駕籠屋ここはどこだ」
喜「ヘエ水戸《みと》様前で」
甚「ヘエ水戸様前でございます」
×「水戸様前、オイ冗談じゃァねえ、なんだってこんなところへかついで来たんだ、吉原へ行く者がなんだってこんなところへ来たんだ」
喜「デモあなた急いで市谷へやれやれとおっしゃったから……」
×「ふざけちゃァいけねえ、市谷なんぞへかついで行かれてどうするんだ、急いで行くことを一概《いちげえ》にやってくれといったんだ」
喜「アアそうですか、私共はそんなことは存じませんから市谷のほうへ行くんだと思って……」
×「とてもこんな駕籠にゃァ乗ってられねえ、ちょっと下ろしてくれ」
喜「ヘエ、おい甚兵衛さん下ろすんだよ、ヘエ下ろしました」
×「冗談じゃァねえ、俺は生まれてからこんな駕籠に初めて乗った。あきれけえって物がいわれねえ、もう吉原へ行くのはいやになった、里心が付いたから家へ帰《けえ》らァ。いくらか銭をやるからここでごめんこうむらしてくれ。こんな駕籠に乗ってるとしまいにゃァどんな目に遭うか知れねえ」
喜「どうもお気の毒で……」
×「履き物を出しねえ」
喜「あなたの履き物、どこへお置きなすったんで」
×「どこで脱ぐものか、駕籠に乗る時に脱いで乗ったんじゃァねえか、おまえのほうで駕籠へ着けたろう」
喜「イーエ」
×「イーエ、じゃァねえぜ」
喜「甚兵衛さん、おまえ旦那さまの履き物を着けたかえ」
甚「イーエ」
喜「それじゃァあすこへ置いてきたんだ、旦那あなたが黙ってるもんだから私のほうじゃァ駕籠をかつぐのに気を取られて、あすこへ脱ぎッぱなしにしてきました」
×「おどろいたなァ、世の中に履き物を置きッぱなしにして駕籠をかつぐ奴もねえもんだ。まぬけだなァ、昨日《きのう》買ったばかりの下駄だ、昨夜の夢見が悪かったが、とうとうこんな目に遭っちまった。はだしでも歩けねえ。仕方がねえから駕籠で帰ろう。どうも胸くそが悪いな、オオこうしてくれ、吉原は止してこれからなにへやってくれ、辰巳へやってくれ、辰巳へ行って遊ぶから」
喜「ヘエ辰巳でございますか」
×「オイオイ駕籠屋どこへ行くんだ」
喜「待ってください、ただいま家へ行って磁石を持ってまいります」
[解説]三升家小勝《みますやこかつ》が得意だった素人俥は、つまりこの辻駕籠の焼き直しであった、そのまた素人俥を新しくしたのが、円歌君のボロタクということになるだろう。サゲは間ぬけ落ち。
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一目《ひとめ》上がり
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毎度われわれどもの仲間が申し上げまするように、落語というものは、くだらない、ばかばかしいお話がかえっておよろしいようで……もっとも落語を聴いて、明日の朝の味噌汁《おつけ》の菜《み》にしようとか、教科書の代わりに聴こうというような方もございますまいが、とにかく、上頤《うわあご》と下頤《したあご》のぶつかり次第なことを申し上げて、お聴きになっている方がアハハハとお笑いくだされば、それでよろしいので、しかしお笑いにならぬからといってこっちで腹を立って、お上《かみ》へ訴えようなんという、不届きの了見《りょうけん》は、もうとうございませぬから、ご安心遊ばしてお聴きのほどを、いやご覧のほどを願います。
落語に出てまいります人物はわれわれ同様|一拍子《いっぴょうし》変わりましたオッチョコチョイの人間が多うございまして、これが話をしておりますと、お笑いの種になりますようで、
八「エエこんにちは、ごめんくださいまし……こんにちは、いますかね、こんにちは、隠居、おりますかい、ごめんなさいまし」
隠「はい、どなただよ、こっちへおはいり、さァだれもおらぬからこっちへお入り、さァ、どなたで、おや八ちゃんかい、おめずらしいね、今日はどうしました」
八「へい、ありがとう、今日はね、じつは隠居さんの前ですけれど仕事が半ちくになっちまいましてね、休んじまったんです、で、家でね、ズラリボラリしていても、乙でもなし、家でお茶を飲んでいても……家の茶が、隠居の前で白状しますけれども、家の茶は番茶でしょう、十五|匁《もんめ》の茶だ、番茶をおまえさんガブガブ飲んでごらん、腹ばかり張って、小便ばかり出やがってしようがねえ、ところがおまえさんのところで出る茶は佳《い》いお茶で、五十目か六十目、甘《あめ》えような苦いようなお茶でがしょう、それにおまえさんところは、空《から》ッ茶ということはない、いつもお茶碗……でもない、なんだっけね、お茶托《ちゃたく》でもない、なんとかいったっけね、お茶、お茶|桶《おけ》じゃァねえ、鉢でもねえなんといったっけね」
隠「お茶うけか」
八「そうそう、そうだそうだ、桶でも受けでも大したちげえねえや、とにかく、空ッ茶ということはねえ、お茶のほかにお茶うけがあらァね、ひとつ佳いほうの茶をいれてもらいましょう、番茶なら家でもありますからね、いいのをね、いいお茶をどうぞ、空ッ茶じゃァいけねえ、いくらケチでも、お茶うけはあるでしょう、ホラ、いつも羊羹《ようかん》……エエ、今日はねえんですかい、おやおや、ねえものは仕方がねえ、じゃァカステラ、長崎のカステラとか、なんとかカステラとかいう……エッ、あれも今日はねえんですかい、おやおや最中《もなか》もねえ、なにもねえのかい、ケチだな、ご冗談でしょう、買っておけばいいじゃァねえか、あきれけえったものだね、金持ちの隠居ってえ、どこまでケチなものだろう、お茶うけぐらい買っとけばいいに、しかし、どうせ空ッ茶じゃァおかねえだろう、おまえさんいくらケチでもね、どうせ買うなら、俺は甘え物よりさっぱりした物がいいんだ、ひとつ鮪《まぐろ》のトロをね、一両ばかり、おまえさんの、それ、たぬき婆ァの、くそッたれ婆ァに言い付けて、大急ぎで鮪トロを一ツ……」
隠「いいかげんにおしよ、八ちゃん、冗談じゃァないよ、いい塩梅《あんばい》に、婆さんがお湯に行って留守だからいいけれども、人のおかみさんに対してたぬき婆ァだのくそッたれ婆ァだのといってこき下ろす奴がありますか、あきれ返って、腹も立てられない、いやごちそうしましょうよ、久しぶりのことだし、オレもお相伴《しょうばん》をするから、婆さんが帰ってきたら、すぐご注文通りにしましょうよ、まァ急いで帰らずに、ゆっくり遊んでおいで、オレもじつは退屈で、困っていたところだ、話し相手になりましょう、ゆっくり……」
八「そうくるだろうと思った、こう念を押しておけば、いくらおまえさんがケチでも……で、まァたらふく食い倒して、腹が大きくなったらお暇《いとま》だ、とこういう工合《ぐあい》にします、ありがたい、ゆっくり遊ばしておくんなさい、……おやおや隠居さん、なんですね、今日おまえさんのとこの床の間にぶら下げてある掛軸《かけじく》は、いつもの掛軸とちがって、たいそう淋《さび》しいのがぶら下がっておりますね、こんなケチなものを掛けねえで、もっとにぎやかな良いものをぶら下げたらいいじゃァねえか、ケチだね。もっともね、それはおまえさんのとこには、いろいろなお掛軸があるから始終同じ物ばかりかけてはおもしろくないね、それはそうだろうけれども、おもしろくねえや、淋しいね蟹《かに》の横ばいが一ツしか描《か》いてねえなんて、どうせ描くものなら五匹か六匹描けばいいじゃァねえか、一匹きりなんて、なんだいしみったれな……ああ隠居さん、なんですね、蟹は一つきり描いてねえんですが、蟹は一ツを一ぱいというのが本当ですか、一匹というのが本当ですか、まさか人間なみに一人てえじゃァねえんでげしょうね、なんというんですかね、なんだか紙にゴソゴソ描いてあるね、蟹の泡かね」
隠「泡を描く奴があるものか、これはこういうことが書いてあるんだ、横に行く蟹にも恥じよわが穴を、たちかえりみる心なき身は、という戒めが書いてあるのだよ」
八「へえ、なんですね、ニョゴニョゴニョゴ、ニョゴニョゴニョゴニョゴというのは……」
隠「おわかりにならぬかな、こういうのだよ、横に行く蟹にも恥じよわが穴を、たちかえり見る心なき身は――というのは、昔の人のいった言葉に、蟹は我が穴を知りて他の穴を知らず、人は他の穴を知りて我が穴を知らずという言葉がある、それを詠《うた》ったもので、蟹というものはね、自分の掘った住家の穴をよく知っておって、他へ遊びに行っても帰りがけに友だちの穴がまわりにいくつもあるが、まちがわずに自分の穴へ帰ってくる。それと人間は反対で、己れの穴、欠点というものはまるきりわからなくて、人様の穴、欠点ばかりを捜している、自分の頭の蝿《はえ》を追うことができないで、人様の頭の蝿を追っているから、横に行く蟹にも恥じよわが穴を、たちかえり見る心なき身は――とこういう戒めが書いてあるんだ」
八「ああなるほど、へえこいつは素晴らしいもんだね、見事なもんだね、上等なもんだね、けっこうなもんだね日光《にっこう》の日暮らしの門だね」
隠「いやな讃辞だね」
八「そうですかい、じゃァそれが大学の赤門……」
隠「大学の赤門という奴があるかい、覚えておきなさいよ、こういうものを見たらば、けっこうな賛《さん》と褒《ほ》めんければ、笑われるよ、八ちゃん、おまえさん、腹を立ってはいかんけれども、おまえさんのことを、蔭でね、おそらく八ちゃんという方は一人もないよ、蔭ではおまえさんのことを、みんなガラッ八、ガラッ八というよ」
八「そうですかい、蔭でもそういってますかそうですかい、マア隠居さん、喜んでおくんなさい、この頃はね、みなさんがわっしに面と向かってもそうおっしゃるんで……」
隠居さんはあきれ返って、
隠「喜んでいちゃァいけないよ、ばかだねおまえは名誉と思うのか、つまり、おまえさんをばかにするからそういう言葉が出てくる、仮にこういうものを見て、けっこうな賛だぐらいなことをいってごらん、今までおまえさんのことをガラッ八といった人も、もうばかにはできないから、八ちゃんとこういう塩梅《あんばい》式に、人が尊ぶというようなことになる、お気をつけよ」
八「へーえ、じゃァこういうものを見て、けっこうな賛だと褒めせえすりァ、ガラッ八というのが八ちゃんに出世をしますかい」
隠「出世ということはないが、まァそうなるねえ」
八「へえ、そうしたらこっちがよくなってきて、偉くなってきてですね、出世したんでしょう」
隠「まァそうそう、だから、人間が偉くなる」
八「じゃァなんですかい、ご隠居の前ですけれども、今までガラッ八が八ちゃんとなるのでしょう」
隠「ウム、そうそう」
八「今まで八ちゃんといった人は、どうなるんです」
隠「なるほど、こりゃァ妙な理屈だね、八五郎《はちごろう》式の理屈はおもしろいね、なるほど、今までガラッ八といった人が八ちゃんといえば、今まで八ちゃんといってた人はどうなるか、へんな理屈だな、そうですね八五郎君ぐらいのことをいうかね」
八「へえ、八五郎君、化けやがったね、それだけ偉く出世したんですね、八五郎君か、……それじゃァ、今まで八五郎君といっていた者は、その先はどうなるんですかい」
隠「そうですね、その先は困ったね、八五郎殿だとか様だとかいうかね」
八「へえ、八五郎殿だの様だの、化けやがったな、人間というものはうっちゃっておけば、途方もなく、どこまでも出世をするかわからないね、そうすると、今まで八五郎殿とか様とかいってた者はその先はどうなるんですかい」
隠「しつこいね、そう根掘り葉掘り聞かれては困る、その先はおかしいけれども、そうさ、八五郎閣下かね」
八「へえ、わっしが八五郎閣下、俺がね、八五郎閣下、ドンドンカッカと、そうすると、ご隠居の前ですけれども、今まで八五郎閣下といった者は、その先はどうなりますか」
隠「閣下の先は、人民の尊称はありません」
八「じゃァ閣下がドン詰まりの突き当たりかい、困っちまうな、閣下になると仕方がないから逆戻りしてガラッ八か……じゃァ隠居さん、ありがとうございます、これから、ごちそうになります、ひとまわり町内をまわってきます、その間に隠居さん、鮪トロを一両ばかりね、あつらえてできた時分に、閣下になって家へ帰ってきますからね、教わった通り、今のうちに用いておかねえと、明日になると忘れますから、じゃァ行ってまいりますよ、ありがとう存じます……ありがたいな、けっこうな賛でございますと言やァ閣下になっちまう、ちっとも知らなかった。わけァねえや、お掛軸のありそうな家は……なにしろ、この町内は貧乏町内だからな、お掛軸のある家はたんとはねえんだからね、心細いや、オオそうだ、先生のところにあったよ、一間《いっけん》の床の間があった、あすこへ行って、閣下になろうかな、けっこうな賛を用いるかな……ごめんくださいまし、こんにちは、ごめんなさいまし」
先「はいどなただ、だれだこっちへおはいり」
八「へえ、こんにちは、ごめんなさい、先生、お在宅ですかい」
先「はいこっちへおはいり、だれだ……いやァめずらしい、だれだと思ったら八五郎君かい、こっちへおはいりどうしたい、八五郎君」
八「へえ……八五郎君か、まだけっこうな賛を用いねえうちに、君になっちまやァがった、この呼吸でトントンと行きゃァ、すぐ閣下に……」
先「なにを言っているんだ、入口はこっちだよ、かまわずにおはいり」
八「ごめんなせえまし、じつは先生のところのね、お掛軸を褒めに来たんで、お掛軸を……おや先生のところのお掛軸はしゃちこばった字が書《け》いてありますね、先生がしゃちこばってるから、字までしゃちこばって、先生と競争してやがる、先生あのしゃちこばった字を、おまえさん読んでおくんなさい、褒めて、閣下になっちまうんですから……」
先「時々、君は奇抜なことを言うて来るな、これはな、滑稽なこと、愉快なことが書いてあるのだ」
八「へえ、どう書いてあります」
先「お聞きよ、こう書いてある、仁《じん》に遠き者は道に疎《うと》し、苦しまざる者は智に干《うと》し、と書いてあるのだ」
八「へえ、ニョゴニョゴニョゴ、ニョゴニョゴ、ちっともわかりませんね、なんですかい」
先「ハハアおわかりにならぬか、これはこういうのだ、仁に遠き者は道に疎し、苦しまざる者は智に干し――というのは、忠孝仁義《ちゅうこうじんぎ》ということをご存じだろう、仁義の道を知らぬ人間は、人道にはずれている。人間の道にはずれた人間である、また苦しまざる者は智に干し、苦労をして来ない人間は智恵がない愚かである、まァ早くいえば馬鹿である、とこういうんだな」
八「へえ、どうもおもしろくねえね、わっしにはわからないけれども、滑稽ということは、おかしいことを言うんでしょう」
先「むろんそうだよ」
八「おまえさん滑稽なことといったけれども、おもしろくねえじゃァありませんか」
先「イヤこれを棒読みすれば滑稽になる、おわかりになるかどうかわからぬが、ごらんよ遠仁者疎道、不苦者干智(じんにとおきものはみちにうとし、くるしまざるものはちにうとし)で、遠の字が上になって、仁の字が下になっているだろう、この遠の字は、≪お≫とも読む、また仁の字は≪に≫とも読む、そこでこれを上から棒読みにすると、≪おにはそとふくはうち≫となるのだ」
八「ハハア、こいつはけっこうな賛でござんすね」
先「賛という奴があるかい、これはな、聯詩《れんし》というて、まァ詩のうちだな、詩だな」
八「≪し≫だァ? 嘘でしょう、さんでしょう、どうでも≪し≫なんですかい」
先「詩だね」
八「そうかな、≪し≫ですかい、じゃァまたうかがいます、さようならごめんくださいまし……なんだいばかにしてやがる、隠居は≪さん≫だというし、先生は≪し≫だという、隠居め、もうろくしていやァがるんだ、くそったれじじいめ、しょうのねえじじいだ、金を残す奴は、どこまでケチだかわからねえ四を三といやァがる、こんなものは損得になるわけでもないだろうにな、こりゃァ≪し≫のほうが本当にちげえねえ、こうなりゃァ、閣下にならなくちゃァ家へ帰らねえや、じゃァけっこうな≪し≫でございますと、ひとつ褒めて閣下になろう、けっこうな≪し≫か、どこかねえかな、≪し≫を用いるところは、町内の中にどこか……ああ甘藷屋《いもや》の平兵衛《へいべえ》の家にあったな、あそこには床の間があるから、……こんちは、ごめんなさい、平兵衛さん」
平「エエどなたです……オヤ、これはめずらしいね、八ちゃんですかい、よく来なすったな、なにかご用か」
八「へえ、平兵衛さん、今日はね、おまえさんを褒めにきた、おまえさんを褒めにきたんだ、ひとつな、特別に褒めにきちゃったんだ」
平「そうだろう、どうもね、今までの問屋は、甘藷《いも》が悪くて困ったんだ、問屋を変えたらね、近頃だいぶ評判がよくって……」
八「いもを褒めにきたんじゃァねえ、お掛軸を俺が褒めっちまうんだ」
平「さァお見せするようなお掛軸はないよ」
八「どうせろくな物はねえだろうけれども……」
平「これは少しお言葉だね、ありがたいお掛軸なら一幅ありますがね」
八「ありがてえ、よし、ありがてえ、そのお掛軸を褒めてやるから、見せておくんなさい、褒めて閣下になっちまうんだから……」
平「そうかい、なんだかわからないけれども、そうかい……あのお婆さんや、お婆さん、あの洗濯物を後にしてね、ちょいと八ちゃんがご注文なんだ、仏さまのわきのほうに立て掛けてある軸だ、赤い軸のお掛軸……ああそれそれ、こっちへ持ってきておくれ……さァ八ちゃんや褒めてくださいよ、これは得がたい品物だ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、褒めてくださいよ」
八「へえこれがありがたいのか、こんな小ぎたねえ古ぼけたのが、じゃ俺の褌《ふんどし》もそろそろありがたくなってきていやァがる、笑わしやァがるな、ゴテゴテ書いてあるね、ねえ、平兵衛さん、こいつをおまえさん読んでみると、スパッと褒めて閣下になるんだから……」
平「なんだかわからないけれども、これはありがたいことが書いてあるんだよ、今のハイカラの言葉でいうとなんというのでしょうね、意味深長《いみしんちょう》とでもいうのですかね、味わってごらん、ありがたいことが書いてある、こうなんだ、お聞きなさいよ、遊ばんと欲す、遊びて足らず、楽しまんと欲す、楽しみて足らず、偽らんと欲す、偽りて足らず、貪《むさぼ》らんと欲す、貪りて足らず、ついに盗まんと欲す……とこう書いてあるんだ」
八「ムニャムニャ、ムニャ、ムニャムニャ、こりゃァどうもけっこうな詩でござんすね」
平「詩てえ奴があるかい、これは沢庵禅師《たくあんぜんじ》の悟《ご》だ」
八「悟だァ……≪し≫じゃァねえ、≪ご≫になったのかい」
平「ああ悟だよ」
八「≪し≫じゃァねえ、≪ご≫なのかい、そうですかい、さようなら、またうかがいます……なにを言ってやがるんだい今度は≪ご≫だといやァがる、≪さん≫だといえば≪し≫だといい、≪し≫だといえば≪ご≫だという、なんだい≪さん≫だの、≪し≫だの、≪ご≫だの、さん、し、ご、おや、三、四、五とは、ハァ一目《ひとめ》上がりになってるんだ、サイコロとおんなじなんだね、お掛軸という奴は、一番初めに行った家は、けっこうな三と褒めるんだ、なるほど、二軒目に行けば、けっこうな四でござんす、三軒目に行くと、けっこうな五でござんす、これから四軒目に行くと、けっこうな六でござんす、いや、これは八五郎閣下でござる、なにを言ってやがる、隠居が初めッから一目上がりということを言ってくれれば、こんなヘマな真似をしないでもすむのに、けっこうな賛だと褒めろというから、後々《のちのち》になっちまうんだ、けっこうな六でござんす、これで閣下になるんだ、ええ、町内にけっこうな六を用いるところはねえかな、源兵衛《げんべえ》の家にねえかな……源兵衛、いるか、こんにちは、源兵衛、いるか、源兵衛……」
源「だれだい、大きな声を出しやがって、……いやァめずらしいな、ガラ」
八「おや、ガラッ八がガラだけになっちまやァがった、どうせ閣下になるんだ、どっちだっていいや……兄弟《きょうでえ》、お掛軸を見せろ、お掛軸を……」
源「なにをッ」
八「お掛軸を見せろ、褒めッちまうんだから、閣下になるんだぜ、お掛軸を……」
源「そんな気の利いたものはねえよ、褒められるような物はなんにもねえよ」
八「そんなことを言わずに、なにか褒めさしてくんねえ、褒めて閣下にならなくちゃァ、帰《けえ》ることができねえ、こうなってくると、腹はすいてくるし、なんでもいいから見せておくんねえ」
源「見せろたって、ねえものはしようがねえ、二枚折りの屏風じゃァどうだ」
八「なに、屏風――屏風かい、なにか書いてあるか、よし書いてあれば屏風でも褒めなければ帰れねえから、なんでも褒める」
源「そうかい、おととい経師屋《きょうじや》から出来てきたばかりのホヤホヤだ、甘藷《いも》なら煙《けむ》が出てるぐらいのものだ、立派なものだろう」
八「なるほど、これは絵だな、絵のほうがまちげえねえや、たいそう天神さまが寄ってるな、どこの天神さまだ、三島《みしま》の天神さまか亀戸《かめいど》の天神さまか、北野《きたの》の天神さまか、二十五日にお賽銭をふんだくろうと思って、相談してるんだな」
源「天神さまはよかったね、覚えておきねえ、これは三条実美《さんじょうさねみ》様――ご維新の時、お骨を折られたお公卿《くげ》様での偉いお方だ、こちらが四条《しじょう》様、東久世《ひがしくぜ》様、壬生《みぶ》様、三条西《さんじょうにし》様、錦小路《にしきこうじ》様、沢《さわ》様、残らずズッとこうあるんだ」
八「どうもけっこうな六でござんすな」
源「六というんじゃない、これは御一新の七卿《しちきょう》落ちだ」
[解説]この噺の落ちはいく通りもある。町内の鳶頭《とびがしら》の家へ行き、宝船の図を見て「いい六だなァ」と褒めると「ナーニ七福神だ」とさげる。これが一番古いらしいが、ほかにも「これァ六だろう」「ナーニ質の流れだ」というのもあり、また更に「古池や蛙飛び込む水の音」まで持って行って「これは芭蕉の句(九)だ」とサゲルのもある。どれも拍子落ち。江戸小噺から取ったものだが一九の膝栗毛にも使われている。
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寿限無《じゅげむ》
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「かくまでに親は思うぞ千歳飴《ちとせあめ》」親子の情愛というものはまた別段で、我々が改めていう必要もございませんが、人間ばかりでなく、焼け野の雉子《きぎす》、夜の鶴、鳥畜類に至るまでこればかりは変わりがないと申します。
あの人は不実な人だ、あんな薄情な人はないといわれる人が、やっぱり我が子のことでは夢中になって騒いでおります。で人間の身体は父と母とが五輪五体持ち合ってこしらえるなどと昔から申しますが、どういうわけだか、子を産むということは女に限るようで、これはちっと不公平のように思われますが、造化《ぞうげ》の神のなす業、なんともしてみようもございません。とにかく十月十日《とつきとうか》の艱難辛苦《かんなんしんく》というものは並大抵のものではありません。なにを食べてはいけない。高いところへ手を上げてはいけない。身体を冷やしてはいけない。火事を見てもいけない。おとっさんものんきに構えてはいられません。さて生まれてみないうちは、目の三つあるものが飛び出しちゃァたいへんだ、指が四本しきゃないのができちゃァ困るとずいぶん心配なもので、
亭主「オオどうだい、早く産んでくんねえな、今日あたり産むわけにゃァいかねえかな、これで月がまたがると俺もちっと懐都合《ふところつごう》が悪いんだが……」
女房「なにをいってるんだよこの人は、そんなことをいったって時が来なけりゃァ生まれやしないよ」
亭「だけれどもさ、いろいろ手都合があるんだからやり繰って産んでやってくんねえな」
女「やり繰りは付きませんよ、おまえさんのんきなことばかり言ってるけれども、ちっとしっかりしてくれなくっちゃァ困るよ、オギャァと生まれりゃァ菰《こも》の上にも三貫というなァ昔からのたとえ、五円や十円はじきに消えてしまうよ」
亭「そりゃァ大丈夫だよ、俺だってガキが生まれると思うからこの間から心がけて倹約しているんだ、むだな銭なんぞ一文だって使やァしねえ、昨夜《ゆうべ》も角の鮨屋《すしや》に中脂《ちゅうとろ》のうまそうなのがあるんで、よほど飛び込んで食おうと思ったが、ここだと思って我慢をしてきた」
女「そうかえ頼もしいねえ、じゃァ子供の生まれることを思って好きなお鮨も食べなかったのかえ」
亭「ウム、鮨は食やァしねえ、その代わりてんぷらを食った」
女「なにをいってるんだい、それじゃァなんにもなりやァしない」
そのうちにいよいよ月満ちて潮時と共に、産声高く生まれ落ちましたのは玉のような男の子……これはたいがい寸法がきまっております。あまり団子のような女の子などというのは聞きません、ご亭主の喜びは一通りではございません。
亭「アハハ動いてる動いてる、赤《あけ》えなァ、もっとも赤えから赤ん坊だな、動くところを見りゃァ生きてるんだな」
女「あたりまえさ、死んじゃァいませんよ」
亭「へへこンちくしょう、なにかしゃべらねえかな、おとっさんこんちは、とかなんとかいいそうなもんだな」
女「ばかなことをお言いでない、生まれたばかりじゃァないか」
亭「明日あたりは少し歩くだろう」
女「冗談おいいでないよ、生まれてすぐ歩きゃァ化け物じゃァないか」
そのうちに今日は七日目、
女「おまえさん今日はお七夜《しちや》だよ」
亭「ナニ」
女「お七夜だよ」
亭「アアそうか、質屋へ目見えに連れてって、これがまた大きくなりましたら親父同様質を置きますから、値ェよく貸しておくんなさいと……」
女「なにをいってるんだよこの人は、わからないねえ、赤ン坊を質屋へ連れてく奴があるかね、生まれて七日目だから七夜《しちや》というんだよ」
亭「ナニ七日目だから七夜、アーなにか初七日のことか」
女「初七日という人があるかね縁起が悪い、アノ今日は産婆さんを呼んでお湯を使わしてもらって、それに名前をつける日なんだからサ、なんとか考えがあるかい」
亭「そうそう、名前をつけるんだな、名無しの権兵衛《ごんべえ》じゃァわからねえな、なんとつけよう」
女「そうだね、初めての子だから男の子らしい立派な名がつけたいね」
亭「じゃァひとつおめでたく万歳太郎《ばんざいたろう》としたらどうだ」
女「そんなのはないねえ」
亭「ライオン太郎」
女「いけないよ」
亭「男らしくって強そうじゃァねえか」
女「アノおもての熊《くま》さんのとこじゃァ、氏神様のおみくじを取ってつけたってえが、やっぱり性に合わないとみえて弱くっていけないと、熊さんもおかみさんもしじゅうこぼしてるよ、どうだろう壇那寺《だんなでら》で名をつけてもらうと長生きするということを聞いてるが、おまえさんお寺へ行って坊さんに名をつけてもらっては」
亭「ふざけるない、寺の坊主は長生きする者はお客にならねえから、ろくな名前はつけるもんか、第一縁起が悪いや、この前おふくろの葬式《とむれえ》の時にもウンと儲けやがって、欲ばり坊主め、面《つら》を見るのも癪《しゃく》にさわらァ」
女「そうでないよ、物は逆が順に帰る、凶は吉に帰るということがあるから反対でいいんだよ」
亭「それじゃァ行ってこようか……お隣のおばあさん、ちょっと他所《よそ》へ行ってきますから少しお願い申します……、赤ン坊が生まれて寺へ行くてえのはなんだか縁起が悪いようだが、女房のいう通り凶は吉に帰るというから、なるほどいいかもしんねえ、……オオごめんよ」
○「ハイ、オヤオヤこれは杉太《すぎた》さん、たいそうお早くご仏参で」
亭「なにをいやがるんだ、墓参りじゃァねえや、ふざけやがるなべらぼうめ、坊主はいるか、坊主がいるなら会いてえといってくれ」
○「ハア、少しお待ちください……エエ神田の杉太さんがおいでになりまして、なんだか和尚さんにお目にかかりたいと申します」
和尚「アアさようか、杉太さん、アハハおもしろい方だ、こちらへお通し申せ……オヤこれはこれはサアどうぞこちらへ、たいそうお早く、なにか改まってのご用でも」
亭「ヘエ、なにしろマアおめでとうございます」
和「ハハア、なにかお喜びごとでも……」
亭「お喜びごとにちげえねえ、なにしろマアお生まれなすったのが玉のような男のお子で、たいへんにマア親ごさんもお喜びなんで」
和「それはどちらでな」
亭「ヘへこちらでな」
和「アアそれではご家内がご安産をなすったか」
亭「まことに安々とご難産をいたしました」
和「安々とご難産はおかしい、男のお子か、それはそれはおめでとうござる」
亭「ところでね和尚さん、今日は七夜で名前《なめえ》をつける日なんだ、なにしろ初めてのガキで男なんだから、ひとつ立派な名をつけてえと思うんで、女房のいうには氏神様がどうも評判が悪いから、逆が順に帰って凶が吉に帰るから、寺の坊主を頼んで名をつけてもらったらよかろうとこういうんで、俺はまた寺の坊主なんぞ面を見るのも癪にさわる、この前おふくろの葬式の時にウンと儲けやがった、あんな欲ばりの坊主はねえと……」
和「これは恐れ入った、面と向かって欲ばり坊主はちかごろ恐縮でござるな」
亭「ハハハなるほど」
和「しかし愚僧に名付け親になれとのお頼み、委細《いさい》承知いたした」
亭「なにかこう死なねえ保険付きというような、素敵な名前をお頼み申します」
和「それはむずかしいな、生ある物は必ず死す、人間生まれたのがすなわち死ぬる初めじゃから、死なんというわけにはいかん、なれど親の情として子供衆の長寿を祈るというは道理、どうだえ鶴は千年の寿《ことぶき》を保つといってまことにめでたいが、その鶴の字を取って鶴太郎《つるたろう》とか鶴之助《つるのすけ》とか……」
亭「それはいけねえ、千年と限られると千年経ちゃァ死んでしまう、そんなつまらねえのはよしましょう、ありませんか、モット長《なげ》えのは」
和「ハハア千年では不足か、ではどうだえ亀は万年というから亀の字を取って……」
亭「いけねえいけねえ、亀の子なぞは縁日に金魚屋の荷へふんじばってぶら下げられて、頭をヒョイと突つかれれば首を縮める、人中《ひとなか》で頭を押さえられてちゃァ出世ができねえじゃァありませんか」
和「そういっては際限がない、それでは松はめでたいものだが……」
亭「松はいかねえ、アンナむずかしい物はねえ、植え換えるとじきに枯れてしまう、どんな上手な植木屋でもこればかりはしようがねえッてます、土地が変わるたびに枯れてしまっちゃァ引っ越しもできねえからね」
和「竹は丈夫な物だがいかがで……」
亭「たけのこは出るとみんな折られてしまうじゃねえか、折られねえまでもアンナ青くてヒョロヒョロしていちゃ心配でかなわねえ」
和「それもいけなければ梅はどうだ」
亭「いけませんよ、花が咲けば枝を折られるし、実がなりゃァもがれる、おまけの果てに戸板の上に列《なら》べられて天日にさらされて、樽の中へ押し込められてしまう、人間押し込められたら世の中へ出ることができねえ」
和「そういちいち理屈を付けてはとてもいい名前は付けられん、デハどうです、経文の中にめでたい文字《もんじ》がいくらもごわすがな、無量寿経《むりょうじゅきょう》などという、経文の中の文字ではどうじゃな」
亭「だからさ、お経でもなんでも長寿をすればかまわねえんだ」
和「それならいくらもある、どうじゃろう寿限無《じゅげむ》というのは」
亭「なんです寿限無てえのは」
和「寿《ことぶき》限り無しと書いて寿限無じゃ、つまり死ぬ時が無いというのだな」
亭「それそれ、ありがてえね、なるほど死なねえという名だね、俺のところの苗字が杉太てんだから、杉太寿限無かこりゃァめずらしいや、電車の車掌にもこんなのはありませんね、もうほかにゃありますめえか」
和「まだいくらもありますよ、五劫《ごこう》のスリキリ」
亭「なんだね五劫のスリキリてえのは」
和「これを詳しくいうと、一劫というは三千年に一度天人が天降《あまくだ》って、下界の巖《いわや》を衣《ころも》で撫《な》でる、その巖を撫で尽くして摺《す》り切れて失《なく》なってしまうのを一劫という、五劫というから何千年何万年何億年だか、数え尽くせない」
亭「しめしめ、それがいいね、杉太五劫の摺り切りか、まだありますかえ」
和「海砂利水魚《かいじゃりすいぎょ》などはどうじゃな」
亭「なんですえ海砂利水魚てえのは」
和「海砂利というのは海の砂利だ、水魚とは水にすむ魚だ、とてもとても獲り尽くせないというのはめでたいな」
亭「なるほど、海砂利水魚はいいね、もうありませんか」
和「水行末雲来末風来末《すいぎょうまつうんらいまつふうらいまつ》などというのがある」
亭「ヘエ、なんですねその水行末なんとか末てえのは」
和「水行末は水の行く末《すえ》、雲来末とは雲の行く末、風来末とは風の行く末、つまり果てしがないでめでたさだな」
亭「なるほどまだありますかえ」
和「人間衣食住この三ツのうち一つ欠けても生存することはできん、食う寝る所に住む所などはどうじゃな」
亭「なるほど食う寝る所に住む所か、もうありませんか」
和「ヤブラコウジのブラコウジというのはどうじゃ」
亭「おまえさんへんなことを言って、からかっちゃァいけねえぜ」
和「これはけしからん、それぞれ縁があるので、木にも藪柑子《やぶこうじ》というがあるがまことに丈夫なもので春若葉を生じ、夏に花咲き、秋実を結び、冬赤き色を添えて霜をしのぐめでたい木じゃ」
亭「なるほどそいつァいいね、まだありますかえ」
和「ついでに話をするがな、昔|唐土《もろこし》にパイポという国があって、シューリンガンという王様とグーリンダイというお后《きさき》の間に生まれたのがポンポコピーとポンポコナという二人のお姫さまで、これが類いまれな長寿であった」
亭「ヘエーまだありますかえ」
和「天長地久《てんちょうちきゅう》という、文字で書いても読んでもめでたいけっこうな字だ、それを取って長久命《ちょうきゅうめい》などというのはどうじゃな」
亭「ヘエなるほど」
和「まず私に男の子ができれば長助《ちょうすけ》という名前がいいと思うな、長く助ける」
亭「じゃァすみませんがね、その初めの寿限無から長助まで書いてみておくんなさい」
和「アアさようか、ハハハハひらがなでわかるように、よろしい、いま書いて進ぜる……、サアこれを見てこの中からいいのをお取んなさい」
亭「ヘエありがとうございます、なるほど、最初が寿限無てんですね、寿限無寿限無、五劫の摺り切り、海砂利水魚の水行末、雲来末風来末、食う寝る所に住む所、ヤブラコウジのブラコウジ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助か、なるほどこれはどれを付けても、工合が悪かった時に、あれにすりゃァよかったというような愚痴が出るといかねえから、面倒くせえいっそみんな付けちまおう」
と、家へ帰っておかみさんにも話をして、ばかばかしい長い名前をつけてしまった。サア近所では大評判。
婆「ハイこんちは」
亭「イヤお婆さんおいでなせえ」
婆「ほかじゃァないがね、この間からなんだよ、家の坊やの名前を覚えようと思っても、年をとるといけないもので、なかなか覚えきれないで、この頃ようやく少し覚えたから今日はさらってもらおうと思ってきたんで、いっぺんやってみるからもしちがったら直しておくんなさいよ、寿限無寿限無、五劫の摺り切り、海砂利水魚の水行末、雲来末風来末、食う寝る所に住む所、ヤブラコウジのブラコウジ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」
亭「オイふざけちゃァいけねえ、南無阿弥陀仏が余計じゃァねえか、縁起でもねえ……」
ところがこの名前が性に合いまして虫気《むしけ》もなく健やかに育ちまして、もう七つ八つの学校へ通うようになりますと、近所のお友だちが朝誘いに来ます。
友「寿限無寿限無、五劫の摺り切り、海砂利水魚の水行末、雲来末風来末、食う寝る所に住む所、ヤブラコウジのブラコウジ、パイポパイポパイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助さん、学校へ行かないかえ」
女「アラマア虎《とら》ちゃんよく誘っておくれだね、アノ家《うち》の寿限無寿限無、五劫の摺り切り、海砂利水魚の水行末、雲来末風来末、食う寝る所に住む所、ヤブラコウジのブラコウジ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助はまだ睡眠《ねんね》しているんだよ、今起こすから待ってておくれ、サアサア寿限無寿限無、五劫の摺り切り、海砂利水魚の水行末、雲来末風来末、食う寝る所に住む所、ヤブラコウジのブラコウジ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助や、起っきするんだよ、虎ちゃんがお迎いに来たじゃァないか」
虎「おばさん遅くなるからぼく先へ行くよ」
サアこの子供が成長するに従って、いたずらなことたいへん、毎度友だちを泣かしたりなにかする。ある日のこと自分より年長《としうえ》の子供と喧嘩をして、頭へ大きなコブをこしらえたのでワアワア泣きながら言いつけに来ました。
子供「おばさん、おまえンところの寿限無寿限無、五劫の摺り切り、海砂利水魚の水行末、雲来末風来末、食う寝る所に住む所、ヤブラコウジのブラコウジ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助が、私の頭をぶってこんな大きいコブをこしらえたよ」
女「アラマア金ちゃんなにかえ、家《うち》の寿限無寿限無、五劫の摺り切り、海砂利水魚、水行末、雲来末風来末、食う寝る所に住む所、ヤブラコウジのブラコウジ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助がおまえの頭へコブをこしらえたって、とんでもない子じゃァないか、ちょっとおまえさんも聞いたかえ、家《うち》の寿限無寿限無、五劫の摺り切り、海砂利水魚の水行末、雲来末風来末、食う寝る所に住む所、ヤブラコウジのブラコウジパイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助が金ちゃんの頭へコブをこしらえたとさ」
亭「じゃァなにか、家の寿限無寿限無、五劫の摺り切り、海砂利水魚の水行末、雲来末風来末、食う寝る所に住む所、ヤブラコウジのブラコウジ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助が金坊の頭へコブをこしらえたって、ドレ見せねえ頭を……、なんだコブなんざねえじゃァねえか」
金「あんまり長いからコブが引っ込んでしまったァ」
[解説]この噺も諸国伝説の内から取ったものである。また子供の長い名前は国々によって違うとみえ、落語愛好家にて、自分の故郷のものだといって教えてくれたものがいろいろある。寿限無はもちろん落語家の作らしい。サゲは拍子落ちであるが、ぶッつけ落ちとも言えよう。瘤だからぶッつけ落ちだという洒落ではない。
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堀の内 〔別名 あわて者〕
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堀の内というお好みでございまして、しばらくお耳ではないお目を拝借いたします。だいたいが粗忽《そこつ》なお話でございます。東京ではそそっかしいという、京阪《かみがた》へ行きますとあわて者と申しますが、これはそそっかしいよりあわて者のほうが本当らしいと思いますな、世の中にはずいぶんあわて者がたくさんございます。
われわれ同輩でのあわて者といえばまず三代目の柳家小さんという人、大のあわて者でございまして、ある年|浅草《あさくさ》の花屋敷《はなやしき》へ孫を忘れたという話がございます。どうも連れて行った子供を忘れる人もないもので、山雀《やまがら》の曲芸を見ておりまして、四五月ごろのことで少し暑い、人混みの中に立っておりますとつらい、羽織を脱いで抱えておりましたが、こらえきれなくなっておもてへ出てしまいました。仲見世へ来てなにか子供に玩具《おもちゃ》を買ってやろうと、見ますと、連れてきた子供がいない、よく考えてみると花屋敷へ忘れてきてしまった。「サアたいへんだ」あわてて取って返して、木戸を無断で飛び込んだ。先方《むこう》も顔を知っておりますから、別にとがめはしない。
○「師匠、なにか失《なく》し物ですか」
亭「ナニたいへんな物を忘れた」
行ってみますと子供は無邪気、そばの人の袖《そで》につかまって、山雀《やまがら》の曲芸を見ておりました。「ヤレありがたい、ここにあった、拾われないでしあわせだった」というので、もう玩具どころか電車に乗るのも忘れてしまって、上野の家まで長い道中、抱え通しで帰ってきたという、ずいぶんあわてた人もあるもので。
そそっかしいと言いますると東京の人が多い、江戸の昔から気の短いのは売り物でございます、気が短いくらいだから粗忽な人がたくさんございます。そのうちにも職人衆は別段で、
「オイッ、手ッ取り早くやっつけろい、手まわしをしねえ、便所へ行くんなら、先イ尻を拭いて行きねえよ」
手まわしもなんにもない。これは江戸時代の古いお噺で
女房「お帰りかえ」
亭主「いま帰った、どうもたいへんなことができちまった」
女「なんだい」
亭「早くマア薬を呼んできてくれ、医者でも飲まなけりゃァ治らねえ」
女「なんだねえ、薬を呼んで医者を飲む人があるものかえ、身体でも悪いかえ」
亭「悪いどころじゃァねえ、友だちと話をしていてな、おもてへ出るとたんに片ッぽうの足が長くなってしまった、見ろ」
女「ドレ、片っぽの足が長くなるというのはおかしい、どうして足が長くなったのだえ」
亭「見てくんねえ」
女「なんだねえ、履き物が片ちんばじゃァないか、草履《ぞうり》と下駄を履いているんじゃァないか」
亭「アアそうか、どうりで片ッぽう長くなったと思った、おどろいたな、どうすりゃ直る」
女「どうすりゃァ直るといって脱ぎゃァ直ってしまう、脱いでごらんな」
亭「脱いだって直らねえ」
女「どっちを脱いだのだえ」
亭「草履のほうを脱いだ」
女「それじゃァおんなじことだ、しようがないね、そうあわてちゃ困るよ、気をつけなくっちゃいけないよ」
亭「今も友だちがそういった、おめえのようなそそっかしい人間はねえ、今のうちに直したらよかろう、それも普通《ただ》じゃ直らねえから、信心《しんじん》でもしろ、信心ッたって、暗いうちに起きて弁当をしょって、草履をはいて、お賽銭の五銭も上げたらよかろう、なるべく銭を使わねえで信心をしろといわれた。これから信心を始めるから覚悟をしろ」
女「なんだねえ、覚悟もなにもいりやァしない。けれども、おまえの粗忽が信心で直ればこのくらいけっこうなことはない、なに様を信心するんだえ」
亭「堀の内の金比羅様を信心するんだ」
女「堀の内の金比羅様……」
亭「じゃァねえ水天宮様、ナニ不動様……」
女「なにをいうんだよ、堀の内はお祖師《そし》様〔日蓮のこと〕だよ」
亭「ああそのお祖師様お祖師様、あわを食うな」
女「おまえさんがあわを食ってるんだよ」
亭「そうきまったら明日《あした》の朝早いんだ、布団を出してくれ、寝ちまおう」
女「今ッから寝ないッたって、まだ日が暮れやしないよ」
亭「日が暮れないでもかまわねえ、戸を閉めて灯火《あかり》をつけろ」
女「戸をしめたって、日が当たってるよ」
亭「日が当たってたら良い月夜と欺《だま》かしねえ」
女「だれを欺すのさ」
亭「俺を……」
女「ばかなことをお言いでないよ」
そのうちに日も暮れましたので、床を取ってもらって中へ飛び込みました、良人《おっと》の粗忽を直そう一心、女房は宵のうちにそれ相応に支度をしておきまして、暗いうちに起きてお膳ごしらえ、弁当を詰めてしょって行けるように風呂敷に包んで枕もとへ置いたが粗忽先生起きやしない。
女「ちょいと、よく寝るね、暗いうちに起こしてくれと言っておきながら、もう日が当たってきたじゃァないか、ちょいと、目をお覚ましよ」
亭「ああおどろいた……これはどうもたいそうお早く、どちらのおかみさんで」
女「なにをいうんだよ、わたしだよ」
亭「アアおまえか、どうも俺ァどこかで見たような女だと思った」
女「ばかにおしでないよ、女房を見忘れてしまう人があるものかね、早く行っておいでよ」
亭「どこへ」
女「アレッ、忘れてしまったのかえ、堀の内のお祖師様」
亭「アアそうそう、だから言わねえこっちゃァねえ、なんだって早く起こさねえんだ」
女「さっきッから起こしているじゃァないか……チョイトチョイトなんだって裸《はだか》で飛び出すんだよ、着物を着ておいでよ」
亭「アアそうか、どうも身体が軽いと思った」
女「裸じゃァ軽いよ、チャンと着物を着ておいでよ」
亭「大丈夫だ」
女「枕もとにお弁当もなにもチャンとしてあるよ」
亭「そうか、じゃァ行ってくるよ」
女「アレッ顔を洗わないで行く者があるかえ、顔を洗っておいでよ」
亭「じゃァ仕方がねえ、顔だけ洗って行こう……オイオイ顔を洗えったって水がねえじゃァねえか」
女「水がないわけはないが……アレッあきれ返ってしまったね、箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》を開けて水を探している人があるかえ、流しへ行ってお洗いよ」
亭「どうも水がねえからヘンテコだと思った」
女「チョット、なぜ飯櫃《おひつ》のふたをとって顔を洗うんだよ、金盥《かなだらい》がそこにあるじゃァないか。アレッ、なんだってふきんで顔を拭くんだよ、手拭いがこっちに……なんだって猫をつかまえて顔をこすってるんだよ」
亭「アア猫か、どうりで手拭いがギャァギャァ啼《な》くと思った、手拭いが横ッ面ァ引っかきやァがった」
女「手拭いが引ッかく奴があるものかね、早く行っておいでよ。……アレッ、膝ッ小僧へ草鞋《わらじ》を履いているよ」
亭「アア膝ッ小僧か、どうりで履きにくいと思った、足の指がなくなったかと思ってビックリした」
女「サア早く行っておいでよ、枕もとにお弁当があるよ」
亭「大丈夫だ」
弁当を風呂敷に包んで
亭「行ってくるよ」
女「気をつけておいでよ」
亭「大丈夫だ……アアありがたいありがたい、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……オヤッ、なんだ、これはようすがおかしいぞ、これから堀の内へ行くのにこんな道はなかったがな……エーモシモシ少々うかがいますが……」
□「ハイ、なんですな」
亭「堀の内へ行きますには、これをまっすぐに行きますかな」
□「おまえさんどっちから来なすった」
亭「おまえさんどっちから来なすった」
□「真似をしちゃァいけない、どこから来なすった」
亭「神田《かんだ》から来たんで」
□「神田じゃァたいへんだ、後ろへ帰るんだ、ここは両国《りょうごく》だ」
亭「これはたいへんだ、西へ行くのを東へ来てしまった……南無妙法蓮華経、妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……たいそうにぎやかになった……ここは堀の内のお祖師様ですかな」
△「ここは浅草の観音様です」
亭「いつ観音様に化けました」
△「化ける奴があるものか、元から観音様だ」
亭「きょう一日お祖師様にしておくんなさい」
△「そんな無理なことをいったって仕方がないよ」
亭「不器用なことだな……おどろいたな、この塩梅《あんばい》じゃァどこへ行くかわからねえ……妙法蓮華経……南無妙法蓮華経、どこにいるんだか俺のいるところがわからねえ……オヤ俺の町内によく似ているぞ、オヤあすこにいる女はうちの嬶《かかあ》にソックリだ、不思議だな」
×「ちょいとおみつさん、おまえさんとこの人が風呂敷包みをしょって南無妙法蓮華経を言って駈けてくるよ」
女「そんなわけはないよ、うちの良人《ひと》はお祖師様へお参詣《まいり》に……オヤマア、いやだよ、今朝早く堀の内のほうへ行ったのに、まだあんなとこをぐずぐずしているよ……チョイトチョイト、おまえさんもう堀の内へ行ってきたのかい」
亭「これから行くんだ」
女「なにをしているんだよ」
亭「アアおどろいた、よく似ているはずだ、うちの嬶だもの、これから新規まき直しだ……妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……モシモシ少々うかがいますが」
○「なんですな」
亭「俺はこれからどこへ行きますな」
○「ばかなことを言っちゃァいけねえ、おまえさんの行く先がわかるものか」
亭「考えてみておくんなさい」
○「考えてみたってわからねえが、お題目を唱《とな》えて来なすったようだが、堀の内のお祖師様へお参詣をするのかえ」
亭「それみろ、それほど知っていて図々しい」
○「なんだい、お祖師様へ行くならここは四谷《よつや》だ、これからまっすぐに行って鍋屋横丁を左に曲がるんだ」
亭「ソレみろ、知っていて教えやがらねえ、ヤイヤイ物を教えて黙って行く奴があるか、礼ぐらい言って行け」
○「おまえが言うんだ」
亭「遠慮するない」
○「だれが遠慮をするものか」
亭「妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……オヤオヤ何横丁だか忘れてしまった……モシモシ少々うかがいますが」
○「おまえさん、いま俺に聞いたばかりじゃァないか」
亭「アア、そうか、どうも見たような人だと思った、何屋横町でしたっけね」
○「鍋屋横町」
亭「そうか、しっかり覚えて行け」
○「おまえさんが覚えて行くんだ」
亭「ちげえねえ……妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……太鼓が鳴ってらァ、ここにちげえねえ……モシモシこれは堀の内のお祖師様ですか」
坊主「そうですよ、祖師堂でございますよ」
亭「アアありがてえ、どうぞお祖師様……」
坊「冗談じゃァない、わしを拝んじゃァいけない、お祖師様は向こうだ」
亭「ああそうか、お祖師様にしちゃァ、あんまりきたない坊主だと思った」
坊「これはけしからん」
亭「なにしろマア手を洗って行こう、手を洗ったのはいいけれども、拭く手拭いがきたねえな、みんな濡れていやァがる、アアここにブラ下がっているのがいい」
参詣人「アアモシモシ、人の袂《たもと》で手を拭いちゃァいけない」
亭「アアそうか、すみません、手水《ちょうず》手拭いかと思った……どうかお祖師様、俺のそそっかしいのが直りますようにお願い申します、一日一文ずつお賽銭をさしあげます……あッしまった、たいへんだ、財布をほうり込んでしまったぜ、これはおどろいた、マア仕方がねえ。エーお祖師様、よく覚えておいてください。まとめてお賽銭を払いましたからどうかそのつもりで……これはおどろいたな、飯を食おうと思ってもお茶もなにもありやしねえ、お堂の隅を借りて飯を食おう……少々ここをお貸しくだせえ」
坊「ハイハイごゆっくりお休み」
亭「休むんじゃァござえません飯を食うので……サアしょってきた弁当を……オヤこれはヘンテコな風呂敷だな、おそろしい真っ黒な、紐が付いているぜ……アアこれは嬶の腰巻だぜ、ホイ腰巻で弁当を包んだんだ、あきれけえった奴だ、人のことをそそっかしいそそっかしいと言うが、嬶のほうがよっぽどそそっかしい……オオこれァいけねえ、弁当じゃァねえ、枕だぜこれは、ひでえことをしやァがるな本当に、道をまちげえるわけだ、嬶の腰巻をしょって駈けて歩いているんだもの。冗談じゃァねえや、お祖師様の罰《ばち》が当たる、俺がそそっかしいというが、嬶のほうがよっぽどそそっかしいや、家へ帰《けえ》ってどうするかみやがれ……
ヤイ俺がそそっかしいからおめえが気をつけてくれなけりゃいけねえや、あんな小ぎたねえ腰巻に木枕を包んでしょわせたから、こっちは東京じゅう見せびらかしてしまった、よくも亭主に恥をかかせやァがった……オヤ亭主の小言を笑っている奴があるか」
◎「笑わずにはいられない、おまえさんの家はお隣だよ」
亭「隣か……これはどうもまことに相すみません、どうぞご勘弁を……」
女「なんだね、お隣でいばって家へ帰ってきて謝る人があるもんかね、もう信心はおよしよ」
亭「アアおどろいた、あんまり忙《せわ》しいので鼻がまわりそうだ」
女「目がまわるんだよ」
亭「目も鼻も近所だから負けてくれ」
女「だれが負ける奴があるものかね、仕方がないね、早くご飯を食べてお湯へでも行っておいでな、ついでに坊を連れて行っておくれ」
亭「坊はどこにいる」
女「そこに寝ているよ」
亭「子供のくせに寝ている奴があるか、なまいきな奴だ、湯へ行くんだ、ヤイこんちくしょう」
坊「俺ァいやだ、おとっッあんとお湯へ行くのはいやだ」
亭「ナゼいやだ」
坊「このまえ逆さに入れたんだもの」
亭「黙ってろ、そんなこと」
坊「黙っていられるもんか、この間は水槽《みずぶね》へ入れたろう」
亭「黙ってろ、余計なことを言うな、サア負ぶされ、しっかり負ぶさって……おそろしい大きな尻だな」
女「おまえさんわたしだよ」
亭「アアいけねえ、嬶を負ぶって行く奴があるものか、しようがねえ、おまえいくつになるんだ」
坊「七つだ」
亭「ちいせえな、お向こうのご隠居さまをみろ、八十五だ、早く八十五になれ」
坊「そんなことを言ったってだめだよ……おとっさん、どこへ行くんだ」
亭「お湯へ行くんだ」
坊「もう湯屋は通り越したよ」
亭「ばかだな、黙っている奴があるか、コツン……」
亭「痛《いて》いな、ぶつかってみやァがれ、だからかがめというんだ」
坊「おとっさん、ぶつかったのはおまえの頭だよ……」
亭「アアそうか、どうりで頭が痛えと思った、なんぼ親子でもあんまり痛すぎると思った……さァさァ裸になるんだ、そっちを向け……たいそう立派な着物を着ていやァがるな、良い兵児帯《へこおび》をしやァがって……」
男「モシモシその子供を裸体《はだか》にしちゃァ困るよ、いま上がって着物を着せたばかりだ、子供がまちがってる、おまえさんのはこっちにいる」
亭「アアそうか、どうもすみません、他所《よそ》の子供を裸にしてしまった、家の子にしちゃァあんまりきれいすぎると思った……早く湯へ入らねえか、なんだって立っているんだ」
坊「おとっさん、着物を着ているよ」
亭「アッそうか、着物を着ていちゃァ入《へえ》られねえ……サア出かけろ出かけろ……ソレみろ、湯の中へ入ってみるとおとっさんよりおめえのほうが丈《せい》が高くなった、おめえは大男だ、サア顔を洗うんだ」
男「アアモシモシ人の顔を洗っちゃァいけない」
亭「オヤこれはどうもすみません、どうも子供にしちゃァあんまり髯《ひげ》だらけだと思った、まちがって脇の人の顔を洗ってしまった……しっかり中へ入るんだよ……ナニ熱イ、熱いといって震える奴があるか、子供は風の子だ、我慢をしろ、冗談じゃァねえ、そっちを向け、背中を洗ってやるからしっかりしているんだよ……オヤオヤどこまで幅があるんだ、恐ろしい大きな背中になりゃァがったなこンちくしょう、どこまで幅があるんだ手が届かねえ」
坊「おとっさん、それは湯屋の羽目だ」
[解説]これは粗忽者の小噺をまとめたもので、至るところにサゲのようなものがあるかわりに、肝腎のサゲになっても、まだ終わりのような気がしないという怨みがある。これにやや新味を加えたものに柳家権太楼のあわて者がある。間ぬけ落ち。
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粗忽《そこつ》の釘
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粗忽のお噺《はなし》でございますが、一言《ひとこと》で足りることを、三言《みこと》もいわなければ、用が足りないなどという人物が往々ございます。
○「オイ、そこにある、その、ううん、土瓶《どびん》じゃァねえ、アノ、なに、急須《きゅうす》じゃァねえ、ソレ、茶碗じゃァねえ、ソレ、それ湯呑みを取ってくれ」
などといって、ようやく用が足りるなどというのがございます。
主人「権助《ごんすけ》や」
権助「はい」
主「ちょいとここへ来な」
権「はい」
主「おまえ、あの、使いに行ってきてもらいたいな」
権「どこへ」
主「牛込《うしごめ》まで行ってくるんだ」
権「はい」
主「牛込の同朋町《どうほうちょう》で、矢頭平太兵衛《やとうへいたべえ》様という剣術のお師匠さんがある、そこへ行って先生にお手間は取らせませんが、どうかちょっとおいでくださるようにと言ってきな」
権「はァどこで」
主「牛込だ、矢頭平太兵衛様という剣術のお師匠さんのところへ行くんだ」
権「へえ、なんでね」
主「あれッ、先生にお手間は取らせませんがどうかちょっとおいでくださいましと言ってくるんだよ」
権「ははァ、ふふん、なんとかいったッけね、なにを、その、行く先は……」
主「しようがねえな、牛込同朋町矢頭平太兵衛という剣術のお師匠さんだ、いいか、剣術を忘れるなよ、わかったら行ってきな」
権「はい、じゃァ行ってまいります」
途中まで出るとすッかり忘れてしまった。
権「はてな、ここまで来たけれども、なんの用に来たか知んねえ、聞いてみべえか……ええ少々物をうかがいとうがすが」
○「なんだい」
権「俺の行くところはどこだんべえ」
○「冗談じゃァねえ、おまえの行く先がわかるものか、所を忘れたのか」
権「ちッとべえ忘れた……なんでも、はァ押し込みといったな、押し込みの泥棒《どろぼう》町だ」
○「ふむ、名前は」
権「名前《なめえ》は夜盗入《やとうへえ》ったべえ様といったよ」
○「夜盗入ったべえ様……商売《しょうべい》はなんだえ」
権「おおかた紛失《ふんしつ》のお師匠さんだべえ」
こんなにまちがった日には始末にいけない、これは明治時代のお話ですが……
女房「おやお帰りかえ、なにをしているんだねえ本当に、今日は引っ越しだよ」
亭主「引っ越しはわかっているよ」
女「わかってるなら早く帰ってくるがいいじゃァないか、お長屋の衆に手伝っていただいているのに、おまえが遊んでいちゃァ困るじゃァないか」
亭「遊んでいやァしねえ、あまり腹がへったから一杯《ぺえ》やってきたんだ」
女「のんきだよ、そんなことは片づけてしまって後でゆっくりおしな、お長屋の方に申し訳がないよ、さっさと手伝っておくれ」
亭「手伝うよ、さァなにを出しねえ」
女「なにを」
亭「なにをたって、こう、その、おい……風呂敷だァな」
女「風呂敷なら風呂敷と早くお言いな、じれったいよ本当に……ちょいとちょいとお待ちよ、おまえそんなに積んでどうするんだい」
亭「持って行くんだァな」
女「持って行くんだっておまえ、そんなにこてこて積み上げて、しょって行かれやしないよ」
亭「こんちくしょう余計なことをいうな、持って行かれるか持って行かれねえか、俺がしょってみた上でぐずぐずいえ、べらぼうめ、こうみえたって亭主関白のくらいだ、なにをいやァがるんだ」
女「そんなことをいったって持てやァしないよ」
亭「持てねえことがあるものか、いくら近《ちけ》えところだって行ったり来たり面倒くせえ、一時《いっとき》に持って行きゃァ早えや」
女「早いたっておまえ、そんなに一時に持って行かれやしないよ」
亭「こんちくしょう、亭主のいうことをなんでもくさしやァがる、俺がしょってみていけなけりゃァぐずぐずいえ、べらぼうめ、なにをいってやァがるんだ、三度の飯を食っていて、このくらいの物が持てねえことがあるものか、なんでも亭主をばかにすりゃァ正月だと思ってやァがる、平素手前は俺のことを意気地があるのねえのといやァがるか、意気地のほどを見せてやらァ」
女「なんだねえ、意気地のほどなんて、本当にいいかえ」
亭「いいかなんてべらぼうめばかにするな、うむッ……やッ……うむッ……上から押さえていちゃァいかねえ」
女「だれが押さえているものかね、私はこっちに立っているよ」
亭「その七輪《しちりん》だけ一つ下ろしてくんな」
女「ほれごらんな、いばったって持てやァしないじゃァないか」
亭「いちいち亭主の言い付けをぐずぐずいうな、ハイといえ」
女「ハイよ、いいかえ」
亭「大丈夫だ、それだけ下ろしゃァこっちのものだ、……うむッうむッ」
女「なんだえ、どうしたんだえ」
亭「上の箱だけ下ろしてくんな」
女「どうしたんだね本当に」
亭「いちいちぐずぐずいわねえで亭主の言うことはハイと言いねえ、亭主関白のくらいだ」
女「わかってるよ、そんなことをいちいちいわないでも、さァ下ろしたよ」
亭「しっかり結わえてくんな、いいか、よし、うん……おいちょいとその、なにを、用箪笥《ようだんす》を下ろしてくんな」
女「どうするんだねえ」
亭「どうこういわねえで、ハイといって下ろしねえな、亭主のいうことをハイといわねえか」
女「はいはい」
亭「なにをいってやがるんだべらぼうめ」
女「下ろしたよ」
亭「よし来た、うむッ、うむッ……みんな下ろしてくんな」
女「どうするんだえ、なにを持って行くんだよ、それだからこんな重い物を一時に持って行かれやしないといったんだ、さァみんな下ろしたよ」
亭「みんな下ろしてしまって風呂敷ばかりどうするんだ」
女「だってみんな下ろしてくれというからさ」
亭「みんな下ろしてくれたッて、風呂敷ばかりどうするんだ、しようがねえな、この火鉢は大きいところへ五徳《ごとく》がはいってるからばかに重い、これだけ持って行こう、どっこいしょ、ううん」
女「それだから先《せん》から、この火鉢だけにすればよかったんだ」
亭「これだけなら雑作はねえんだ、どれ行くよ」
ようようのことでしょい出しまして、ほど近いところでございますから、長屋の方の手を借りて引き移りましたが、今来るか今来るかと待っていてもご亭主がまいりません、すっかり片づけ物をしてしまってきれいに掃除してしまったがまだ来ない、ようようのことでのこのこやって来たから、
女「どうしたんだえおまえは」
亭「ああ重い」
女「なにをしているんだよ、どこへおまえ行っていたんだよ」
亭「どこったって、こんな重い物をしょってどこへも行くものはねえじゃァねえか、こっちへ来ようと思ったんだ」
女「どうしたんだえ、恐ろしく手間取ったじゃァないか」
亭「なァに、おまえ、あのなんだァな、人力車と自転車と突き当たったんだ」
女「危ないねえまァどうも、けがしやァしないかえ」
亭「俺が突き当たったんじゃァねえ、先方《むこう》同士で突き当たったんだ」
女「大きなお世話じゃァないか」
亭「だけどもよ、両方でぶッつけるというのは恐ろしいもんだな、おまえ両方ながらひっくりかえってしまった。すると自転車に乗っていた人が、カステラ屋の前で、たまごの中にすり鉢が百五六十入っている、……そうじゃァねえ、なんだ、カステラの中に……そうじゃァねえ、なに、すり鉢の中にたまごが百五六十割って入っていたんだ、そうするとその中へ自転車に乗ってる人が手をついたもんだからすり鉢が転がってたまごが流れ出す。カステラ屋の主人は怒ってね、おまえ、それから自転車と人力車と、カステラ屋と三人の喧嘩になってしまったんだ。するとそこへね、巡査さんがおいでなすって、なにしろ交番へ来いという騒ぎなんだ。俺もどうなるかと思うから、交番へくッついて行った」
女「あきれたよ本当に、冗談じゃァないよ、重い物を持って、交番などへ行ってみている奴があるかね」
亭「重い物をしょったって、おめえ見逃してくるわけにゃァいかねえやな、まァしばらくの間すったもんだと大さわぎだった、それからおめえ、ようようのことで示談でこと済みよ、まず安心だ」
女「なにが安心だよ」
亭「それからこっちへ来ようと思うとね、シロとアカと喧嘩を始めやがった。しばらく噛み合っていたが、どっちも強いからな、そうするとアカの奴が俺の足のところへ逃げて来やァがった、俺がおめえ後ろへ下がろうと思うと、重い物をしょっているから仰向けにひっくり返っちまって起きることができねえ、そばにいた人が手を貸してくれてようようのことで起きてきた、ああ重い」
女「ばかだよこの人は、まァそのなにを下ろしてお話しな、なにも重い物をしょってしゃべっていなくたっていいじゃァないか」
亭「だっておめえ、話してしまわねえとこんなことは忘れるからな」
女「忘れたっていいやね、くだらない」
亭「ああ重い重い」
女「酔狂《すいきょう》だよ冗談じゃァない、お長屋の方やなにか手伝っておくんなすったんで早く片付けたから、とりあえずおそばを上げておいたが、そば屋へ払うお銭《あし》をお出しよ」
亭「お銭……銭《ぜに》か、銭はなんだ、竃《へッつい》の抽斗《ひきだし》にはいっている」
女「竃に抽斗はないよ」
亭「うむ、七輪じゃァねえ、火消し壺の……ああそうだった、俺のしょってきた、その火鉢の抽斗に五銭の白銅《はくどう》が二つあるから、そば屋の勘定をしてしまって、それからあのおめえなんだ、酒を一升買ってきてくんねえ、お神酒《みき》を上げるんだから、それから牛《ぎゅう》の一|斤《きん》も買ってもらいてえ、それに今見てきたが、魚屋にうまそうな鰹《かつお》があったが、あれを片身ばかり買ってもらいてえ」
女「なにをいってるんだよ」
亭「なにをッたって、いっぺん言ったらわかりそうなものだ、よく聞いていねえべらぼうめ、火鉢の抽斗に五銭玉が二つあるから」
女「それはわかったよ」
亭「そば屋の勘定をして酒を一升買って牛を一斤買って、鰹を片身買ってくれというんだ」
女「十銭だよおまえ」
亭「また始めやがった、亭主のいうことをハイといえ」
女「なんぼおまえ亭主だって十銭でどうするんだよ、本当にのんきだね……ちょいとちょいと、今掃除をしてしまってほうきをかけようと思ったら釘がないんだよ、ちょっと打っておくれな」
亭「それみやァがれ、そういうことというと俺が出なければしようがねえ、べらぼうめ、ぐずぐずいやァがって、本当に亭主をばかにしやァがる……あ痛たた」
女「どうしたんだい」
亭「てめえがぐずぐずいうもんだから、そっちへ気を取られて金槌で手を打って豆ができた」
女「あきれてしまったよ、本当にそそっかしいじゃァないか」
亭「こんちくしょう、いちいち人をばかにしやァがる」
女「おいおいおまえ、それは大きな釘じゃァないか、なんの釘だえ」
亭「なんの釘ッたって……ああしくじった、なんだそっちへ気をとられて瓦《かわら》ッ釘を打ってしまった」
女「どうりで大きいと思った、みんな打ち込んでしまったのかえ」
亭「ああたいへんだ、ずぶずぶはいると思ったら壁だ」
女「なんだって、壁と柱とまちがえる奴があるものかね、瓦ッ釘をおまえ壁に打ち込んだら、お隣の棚の物がなにか損じやァしないか、お近づきは後にして、早く隣へ行って、なにか損じやァいたしませんかと聞いておいでよ」
亭「なるほどそれはそうだな、いやどうもまことにどうも……ええごめんなさい」
△「はいおいでなさい、なんです」
亭「へえ、どうもただ今なんでございますが」
△「なにがなんでございます」
亭「それがその、へえなんでございますで、どうもなんでございますな」
△「なんですえ」
亭「うまくこう打ち込んだんで」
△「なにを」
亭「その壁をなんしたんですが、どうでございましたろう」
△「なんだか訳がわかりませんね」
亭「へえどうもなんでしたってね、なにまァおまえさん、おちついて」
△「おまえさんのほうでおちつくんだ」
亭「へえ、その、じつはなんでございます、壁へほうきをたたッ込んで」
△「へえ」
亭「なにそうじゃァない、そのほうきの中へ壁を打ち込んで……そうじゃァない、ヘヘヘへ、なにしたんで、その瓦ッ釘を柱へたたッ込んでしまったんだから……それでもちがってる、ううんそうそう……ほうきをかけようと思ってね、釘をうったんです、そうしたところが壁となんです柱とまちがえて、その、瓦ッ釘を打ち込んでしまったんでおまえさんのところの棚の物が、なにか損じやァしませんか、ちょっと聞いてきたらよかろうというんでね、どうでございましたろう」
△「なんだかおまえさんの言うことはちっともわからないが、少しお待ちなさいよ、おまえさんはあの大きな風呂敷包みをしょって、向こうの家へ越してきたお方だね」
亭「へえさようで」
△「そんならまァどんな長い釘だか知れませんが、お向こうの家から私の家へ届くような、そんな長い釘はありますまい」
亭「なるほど、これはしまった、大きにどうも、さようなら……なるほど、なんてまァ俺はこうそそっかしいんだろう、なんでも人の家へ行ったら気をおちつけなけりゃァいけねえんだ、今度は一生懸命おちついて行こう……ええごめんください、ごめんください」
○「ハイおいでなさい、どちらからおいでなすった」
亭「こんにちは、まァごめんをこうむって上がらしてもらいましょう」
○「サアどうぞこちらへ」
腰から煙草入れを出しまして、
亭「まァ一服いただきましょう、いい塩梅《あんばい》にお天気になりました」
○「さようでございます、この塩梅ではまァ二三日は続きそうでございますな」
亭「さようで」
○「時になにご用で」
亭「つかんことをうかがいますが、あなたのとこのおかみさんは、なんでございますかな、仲人があっておもらいなすったのでございますか、ただしはまた、くッつき合いでございますか」
○「なんだえ……なんですか私共のは立派に仲人があってもらったんですが、どうかいたしましたか」
亭「いえなに、どうしたという訳もないんですが、なんでももう三々九度の盃をしてもらったんでなけりゃァいけませんよ、私共のはくッつき合いでございますが」
○「へえー」
亭「あなたはごらんなすったかは知りませんが、しかしちょっとまァおつな女でございましょう」
○「なんだえこりゃァ」
亭「もとその横町の伊勢屋《いせや》さんにご奉公しておりましたので、私があすこへお出入りだもんでございますから、ちょいちょいまァ行くたんびに、油元結《あぶらもとゆい》とかあるいは手拭いとか、前掛《まえだれ》ぐらいなものを持ってまいってやったところから、まァあの人は親切な人だとかなんだとか思ったんでございましょう」
○「おどろきましたねどうも」
亭「それでまァ妙なわけで夫婦になったようなわけでございますが、初めのうちはまことにそれ私に優しゅうございました、ところがこの頃になってそれは亭主をばかにいたしましてな、へえ、頭ごなしにばかだのまぬけだのと申しますので、ここをいうのでげすよ、仲人があってもらったのでなければいけないというのは、はい、へへへ」
○「なんだえこの人は、あきれ返って物がいえない、ぜんたいおまえさんは初めてお目にかかったお方だが、あながち見ず知らずの家へおかみさんののろけを言いに来たんでもありますまい、なにか用があって来たんでしょう」
亭「へえ、用があって来たんで」
○「なにご用で」
亭「なるほど、肝要《かんじん》の用を忘れてしまった、じつはなへへへへ、私は隣へ越してきたんで」
○「ははァさようですか、お近づきにおいでなすったので、これはこれは初めまして……」
亭「なにそうじゃァないんで、その、なに今、その、なにをまちがえてしまったんで」
○「なにを」
亭「へえ、いま壁をなんでたたッ込んでしまったので」
○「どこへたたき込みました」
亭「いえさ、なんでございます、そうじゃァない、そのほうきを柱へたたッ込んで、なに、うん、それ、ね、どうも、ええ柱のほうきじゃァない、壁と柱と、そうじゃァねえ、なに、釘の中へなんでその壁へなんですなあの瓦ッ釘の大きいのを打ち込んでしまったので、棚の物かなにか損じやァしないか、お隣へ行って聞いてきたらよかろうというので上がったのでございますが、なにか棚の物が損じやいたしませんか、ちょっとどうか見ていただきたいもんで」
○「ああそうでございますか、それはご念のいったことで、どこへ釘をお打ちになったので」
亭「私がこう釘をうった時に、上にくもの巣が張っておりましたが」
○「それはこっちからは見えません、ひとつ家へ帰ってそっちからたたいてみておくんなさい」
亭「ようございます……今やりますよ……ええよろしゅうございますか、たたきますよ、ここのところで」
○「どこですな」
亭「箪笥の上のところで」
○「こっちからは見えませんよ」
亭「それここですかな」
○「あッ静かにしておくんなさい、ごみが落ちらァ、やっかいな男が越してきたもんだ、こりゃァたいへんだ、たいへんだ」
亭「へへへわかりましたか」
○「わかりましたかじゃァねえ、こっちへ来て仏壇を見ておくんなさい」
亭「へえどこで……おやお立派な仏壇がございますな」
○「お立派はどうでもいいが、阿弥陀様の頭を見ておくんなさい」
亭「おおおお、これァ大きな釘だが、だれが打ったんで」
○「だれかっておまえさんが打ったのだ」
亭「これは不都合な、私だって自分の家の掃除をしてしまって、いちいち隣の仏壇までほうきをかけに来るわけにゃァいかねえ」
○「ふざけちゃァいけねえ、冗談じゃァねえ、のんきな人があるもんだ、本当にあきれてしまう、おまえさんはなにか、それで一家のあるじかね」
亭「さようで」
○「ふしぎだね、おまえさんご家内《かない》は何人だ」
亭「私に嬶《かかあ》に、それから九十八になる親父がありまして、これはその二階に上がって寝ておりますが、あッたいへんだ」
○「どうしました」
亭「親父を空き家へ忘れてきた」
[解説]以前この噺は「我忘れ」と題して、隣の主人が「呆れて物がいえない、冗談じゃァないよ、なんぼそそっかしいたって、親父を空店《あきだな》へ忘れて来る奴があるもんじゃァない」「ナーニ、親父を忘れるくらいはおろかのこと、酒の上じゃァ我を忘れる」というサゲであったのを、三代目の小さんが現在のように直したものである。
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粗忽《そこつ》長屋
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そこつ者ばかり住まっている一棟の長屋、むろん昔のお話でございますが、
○「オイよさねえかい、つまらねえじゃァねえか、他《ほか》のこととちがって夫婦喧嘩なぞするなってえことよ」
△「夫婦喧嘩を誰がした、てめえぐれえそそっかしい奴はねえぜ、俺は一人者だ、独り者が、夫婦喧嘩をする奴があるか」
○「強情を張るない」
△「強情は張りゃァしねえけれども、夫婦喧嘩というものは夫婦いるからできるんだ、俺は独り者じゃァねえか、第一喧嘩をするには夫婦喧嘩ばかりじゃァねえ、なにか相手がなけりゃァ喧嘩はできねえや、ここに誰か来た者があるとか、こういう行き違いがあったとかいうんで、喧嘩ができるんだ」
○「だって大きな声で怒鳴ったじゃァねえか」
△「なんの、あまりお天気がいいから、流しへ日を当てようとしたところが、せっかくきれいにした所へ、横町の牡《おす》犬が入ってきたから、こん畜生、この阿魔《あま》出て行けとこう俺が怒鳴ったんだ」
○「バカッ……、陰で聞いてりゃァ、この阿魔出て行けというその一言で、夫婦喧嘩としきゃァ思えねえ、なにをいってやがる、そそっかし過ぎらァ、むやみに犬なぞをぶつなよ、逃げたのが本当に幸せだ、ぶちどころが悪ければ犬なぞは一つで死んでしまわァ」
○「そうか」
○「このあいだ牛殺し……じゃァねえ、犬殺しがぶったのを見たけれども、棒でもって頭を一つ殴ったらコロリと死んでしまった、罪じゃァねえか」
△「一つぐれえで死ぬかな」
○「死ぬとも」
△「死ねば儲かるよ」
○「犬が死んで儲かるかい」
△「熊の胆《きも》が取れるじゃァねえか」
○「バカ……、犬から熊の胆が取れるか、それは鹿だ」
△「そうじゃァねえ豚だ……」
なんだか訳がわかりません。ノベツにそういうぐあいでございますから、毎日のようにどッと笑うことばかり、ちょうど長屋の中ほどに二軒隣り合ってお約束の熊《くま》さん八《はち》さん、どっちもそそっかしいが、とりわけて長屋中の評判者だ、一人は≪まめ≫でそそっかしい、一人はごく無精《ぶしょう》でそそっかしい、なるほどそそっかしいにもいろいろ質《たち》があって、ボーッとした男でそこつばかりしているものがある。同じそそっかしいなら、≪まめ≫でそそっかしい方がいくらか取り柄《え》があるかと思いますが、しかし≪まめ≫の方がどうしてもそこつがありがち。ある日|浅草《あさくさ》の観音様へ参詣をして、ブラリと、雷門《かみなりもん》を出て来ると、黒山のような人だかり、今では電車自動車自転車が輻輳《ふくそう》して、人通りがはげしいし、雷門なぞは交通巡査が整理しているくらいでございますから、ウッカリ立ち止まってもいられませんが、以前は原のように広かったもの、黒山のような人だかりで往来が停《と》まるくらいですから、どんなそそっかしい人間でも気がつきます。
八「少々ごめんなさい……、なんだ畜生、うまくやってやがる」
○「なんだ、後ろでおまえさんが怒鳴ったところでしようがない、誰もうまくもなにもやってやしない」
八「じゃァなんです、どういうことで」
○「私もなんだかと思って見ているのだが、後ろの方じゃァ見えない……、オイもう押してはいけない乱暴な人だな、股《また》をくぐって前へ出たぜ」
八「このくらいしなけりゃ、なかなか前の方に出られないから……、ヤァ人ばかり立っててまだなにも始まらねえのか、放下師《まめぞう》ですか」
△「アアおまえさんは新規に来た人だな、この周りに立っている人はさっきから、もうたびたび見ている、なるたけ変わった人に見てもらった方がいいのだ、ことにお職人|体《てい》の方だ、職人というものは交際《つきあい》の広いもの、じつは昨夜《ゆうべ》ここに、行き倒れがあったンだ」
八「ヘエー、どうもありがとうございます」
△「ありがたくもなんともないが」
八「マアいい塩梅《あんばい》で」
△「変だな、そうキョロキョロしないで、そこに菰《こも》が掛かってるが、心あたりの人かも知れないから見ておくれ、引き取りがわからないうちは私達も係り合いで心配しているんで、ちょっと見ておくれ、こっちだよ……」
八「なるほど菰が掛かって頭が出ている、これは人間かね」
△「人間さ……、犬なら心配しやァしない」
八「オイ起きねえか、みんな心配してるんだから」
△「モシモシ揺すぶっちゃァいけない、寝ているのじゃァない、死んでるんだよ」
八「そうか、おまえさん生き倒れといったじゃァないか」
△「イヤ生き倒れじゃァない、行き当たりばったり倒れてしまうので、本来これは行き倒れ人というのさ」
八「そうか、おおきにごくろうさま」
△「ちょっと見ておくれ」
八「イヤァ横を向いてやがる、妙なもんですな」
△「なにが妙なもんだえ」
八「きまりが悪いと見えて、横を向いてやがる」
△「それは先《せん》からそうなっているのだ……、オイオイ手をつけちゃァいけない、心あたりの人だか、ちょっと顔を見ておくれ」
八「オヤ、これは熊の奴だ、みんな心配しているんだ、大概《てえげえ》にしろ」
△「アレ、まだわからない、寝ているのじゃァない、死んでるんだよ、しかし熊と名前をいうからには、おまえさんごぞんじか」
八「ごぞんじどころじゃございません、となりに住んでいるんで、兄弟同様にしている者で」
△「それはいい塩梅だ」
八「人が死んでいるのをいい塩梅というのがあるかい、喜ぶところを見ると、てめえが締め殺したんだな」
△「冗談いっちゃァいけない、引き取り人がわかったのでいい塩梅といったのだ、……硯箱《すずりばこ》を持ってきな、おまえさんこっちへおいで……、おまえさんどこだい」
八「そんなことはどうでもようがす」
△「どうでもよくはない、急いで帰っておまえさんがこの人のおかみさんにでも知らせるとか、親類へでも知らせるとかして……」
八「こいつはなんにもねえんで」
△「それでは引き取りはどういうことにしやしょう」
八「どういうことッて、当人はべらぼうにそそっかしい野郎でね、今朝も寄った時に、ぼんやり考えてやがった」
△「誰が考えていたんだ」
八「エー当人が考えてやがったンで」
△「だって昨夜《ゆうべ》夜中にここへ行き倒れになったんだよ」
八「それを今朝になって、まだ気がつかねえくらいそそっかしい野郎なんで……」
△「おまえさんは変だな、のぼせてはいけませんよ、聞けば兄弟同様の友達だというが、こんな浅ましい姿になったのを見て、カッとのぼせたのかも知れないが、しっかりしておくんなさい」
八「じゃァマァとにかくおもらい申して行きましよう、といったところでこんなになっているとこも知らねえで、熊も心配して捜してるだろうと思うんだ、なにしろ当人が見本で雛形《ひながた》ですから、いま見本を連れて来ますから、見比べてくれればおまえさんの方も安心して渡せるというもんだ」
△「妙だな、いうことが、こういう時には気を落ち着けなければいけない」
八「なにしろそそっかしい奴で、死んだことを忘れてるんじゃァねえかと思うんで」
△「変なことをいっちゃァ困る」
八「なにしろもう少し番をしていておくんなさい、さようなら、……オイなにをしていやがるんだ、まだ寝ているのか」
熊「叩くな、そこは隣の空き家じゃァねえか」
八「オイ大変だ」
熊「なにが大変だ……草履を履いて座っちゃいけねえ、いくら汚ねえ家だって、草履を履いて上がられてたまるものか」
八「草履どころの騒ぎじゃァねえ、まだ気が付かないのか」
熊「なにが」
八「いやに落ち着いてやがるな、じつは今朝浅草の金比羅《こんぴら》様……、金比羅様じゃァねえ、水天宮《すいてんぐう》……、ナニアノ不動様」
熊「なんだな、浅草といえば観音様に決まってるじゃァねえか」
八「観音様か、泡を食うない」
熊「てめえが泡をくってるんだ」
八「観音様へ行くと、大勢人が集まってるんだ」
熊「今日らぁ天気がいいから人が出らァ」
八「黙ってろ、余計なこというからわからなくなっちまう、大勢人が集まってるのを一生懸命に押し分けてはいって見ると、行き倒れ人があるんだ、そこにいた奴を見てくれというから、掛かってた菰《こも》を捲《まく》って見ると、どうも人は脆《もろ》いもんだ、よく面をあらためて見ると、てめえがそこに死んでるんじゃァねえか」
熊「冗談いうなよ、俺は死んだような心持ちがしねえ」
八「あんなこといってやがる、死んだような心持ちッて、初めて死んだ様子がわかるか」
熊「どうも変だなァ」
八「ぐずぐずいうな、いま俺が見てきたんだ死んでるのを……、早く引き取りに行かなくちゃァいかねえ、大勢人が集まっているのに、早くいかねえと恥の上塗りだぜ」
熊「だって外聞《げえぶん》が悪いじゃァねえか」
八「なにをいってやがる、てめえは見本だ、雛形を連れてって見せなけりゃァ安心して先方《むこう》で渡せねえじゃァねえか」
熊「いくらなんだって外聞が悪いじゃァねえか」
八「わからねえこというな、外聞の悪い訳ねえや、他人の物でも取りに行きゃぁべつだが、てめえの物をてめえが取りに行くのじゃァねえか」
熊「だってなんだな、言い訳のしようがねえや」
八「つまらねえことをいうな、俺が先に出て、これこれこういう訳でございますと、トックリと一通り話をして、行き倒れ人はこの野郎でございますというと、先方でチョイチョイ見比べるんだ、でよさそうな様子だったら、まことにあいすみません、私が普段そそっかしい人間でございますから、昨夜ここで行き倒れになってしまいましたのを忘れておりましたと……」
熊「なんだかへんだぜ」
八「なにがへんだ……早くしろよ……家なんぞはそのままでいいやな、……サァここだ……先ほどはまことにどうも……」
△「オヤオヤまた来たよさっきの人が、困ったな、おまえさん、よく落ち着いてしっかりしなければいけないよ」
八「いろいろどうもおせわさまでございました、あれからすぐに帰りまして、当人にこれこれでみなさんのご厄介になって、てまえが死んでいるとこういって聞かせましたら、そそっかしい奴ですから、どうしても死んだような心持ちがしねえ、わかりきっていることを強情張りやァがって……」
△「しっかりおしなさいよ」
八「ヘェ、だんだん詳しく話して、よく考えてみろといい聞かしたところが、しばらく考えていやがって、そういえば今朝大変心持ちが悪いからそうかも知れねえと……」
△「いけないよ」
八「オイこっちへ出ねえよ、外聞の悪いことはねえやな、エーこれが見本で、雛形でございますが、どうか一つ見比べてよろしければ引き渡して頂きたいもんで」
△「オイおまえさんかい、行き倒れ人というのは」
熊「ヘェいろいろご厄介になりました、私がそそっかしいもんですから、昨夜死骸にされたのを忘れまして……」
△「あんなことをいって、困ったものだ、一人ならず二人まで、そんなこといっちゃァいけない、気味《きび》が悪いぜ、もし当人という方、こっちへおいで」
八「オイよく死骸を見ろよ」
熊「けれどもなァあにき、いっそ死に目にあわねえ方が諦めがいいぜ」
八「なにをいってやがる、こっちへ来て見ろ」
熊「オヤオヤ、大変|面《つら》が長くなったなァ」
八「南風が吹いたんで、自然と伸びたんじゃァねえか」
熊「奇態だな……オヤオヤ情けねえ姿になった」
八「泣きっ面をするな、外聞が悪いやな」
熊「おまえはこんなになっても、先へ行っちまう身体だ、後に残ってこの俺がてめえの情けない姿をみるとあんまりいい心持ちはしねえ、どうもこれは因縁だ……」
○「アア泣いてるよ」
△「オイオイおまえさん、死骸を抱き上げて持ってっちゃァいけない」
熊「あにき」
八「なんだ」
熊「わからねえことができちまった」
八「なにがわからねえ」
熊「この死骸は俺にちげえねえが、抱いている俺は誰だろう……」
[解説]そんなばかな話があるものか、といえばそれまでである。しかしここまで突き詰めて、超越してこそ、心からの笑いもできるというものである。まぬけ落ちとして、最もすぐれたサゲであろう。
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永代橋《えいたいばし》〔別名 武兵衛《ぶへえ》ちがい〕
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ここに下谷徒士町《したやおかちまち》に太兵衛《たへえ》という人がございました。そそっかしい人で、その家に同居人がございましてこれを武兵衛《ぶへえ》と申し、主人がそそっかしいのに同居人がそそっかしいのでございますから、始終ものをまちがえてばかりいて、満足に家へ入ったことがない。隣の家へ入って他人《ひと》のかみさんに剣突《けんつく》を食わせるなどということはたびたびございます。
商売は夜分古着を商う人で、商売にかかるとそんなにそこつでもありませんが、ふだんはバカにそそっかしいのでございます。それでもマァ二人は兄弟のように仲良くしております。ちょうど文化の四年のこと、深川八幡《ふかがわはちまん》の祭りのときでしたが、十五、十六は雨が降りまして、十七、十八、十九の三日に延びました。するとこの武兵衛がたいそうお祭り好きでございまして、
武「今日は八幡様のお祭りでたいそうの賑わいとか、参詣しながら見物をしてくる、どうかおたのみ申します」
太「およしな、おまえは少しそそっかしいんだから、人混みの中で、ケガでもするといけない」
武「イヤじきに行ってきます、なにか土産を買ってきますよ」
太「デモよしたらよかろうに、なにも今日に限ったことはないじゃァないか、四万六千日《しまんろくせんにち》〔浅草の観音様の祭礼〕なんたってつまらねえ話だ、よしたらよかろう」
武「誰か四万六千日へ行くのだえ」
太「おまえが……」
武「ヘェー」
太「観音様へ行くのだろう」
武「そうじゃァねえ、深川の八幡様のお祭りへ行くんで」
太「ソレ見ねえ、そうそそっかしいんだ」
武「私じゃァねえ、おまえさんの方がそそっかしいや」
太「アアそうか」
武「じゃァ行ってきますよ」
太「大丈夫かえ」
武「エエ大丈夫ですよ」
太「よく気をつけて行って、早く帰っておいでよ」
これから武兵衛は出てまいりました、ところがどうも今年の祭りはたいそうよくできたという評判が立ったのでその人出というものはおびただしいことで、モウ永代《えいたい》の橋ぎわまで来ると、歩けないほどでございます。ただいまでは鉄橋で、大川筋《おおかわすじ》も橋が増えましたが、今の厩橋《うまやばし》などという所はその昔は渡し船でございまして、どうも不便でございました。両側が河岸《かし》で厩河岸《うまやがし》と申し、この渡し船がひっくりかえってたいそう人死《ひとじに》があったのでそれ以来あの渡し船へ乗りてが少なくなり、廻り道をして両国橋か吾妻橋《あづまばし》を渡ったということで、その時に「おっこちができてわたしが忌《いや》になり」という川柳ができました。うまいことをいったもので……武兵衛さんは今、永代橋の手前までくると大変な人出で身動きもできないくらい、
武「危ねえな、どうだえ恐ろしい人だな……、押しちゃァいけませんよ、押しちゃァ……、危ね危ねえ恐ろしく人がでたなァどうも」
スルト向こうから来た一人の男が、いきなり武兵衛の胸のところにドーンと頭をぶっつけた。
武「アイテテ、アア痛え、ヤイ気をつけろい、オオ痛え、ひどい奴だな、どうもあいつは、俺の胸へいやッてえほど頭をぶっつけやがって、おまけにあの石頭の固えの固くねえの、オオ痛かった、畜生め、ひどい奴があるもんだ、まんなかは危ねえ端の方へ行こう、またあんな奴にあてられると大変だ」
と、いいながら懐中《ふところ》へ手を入れて、
武「オヤッ、オヤオヤオヤ、オッ、俺の紙入れがねえ、ハテな、どうしたんだろう、アッ今の奴は盗賊《どろぼう》だ、俺の紙入れを持ってっちまいやがって、どっちへ行ったろう、わからねえな、この人だから追っかけることもできねえ、太兵衛さんにとめられたのをきかないできたから、こんな目に遭ったんだ、忌々《いめえま》しいな、お祭りへ行くのはよして家へ帰ろう、縁起が悪いや、よそうよそう、どこかへ行って酒でも飲んで帰ろう……、アッ酒を飲むにも紙入れがなくっちゃァしようがねえ、あの中に残らず入ってるんだ、そそっかしいけれども忘れやしねえ、金《かね》が七両二分だ、いくらかバラでも入っていたと思ったが……、ヤァ大変だ、あの中に手帳が入っている、あれがねえと明日《あした》ッから商いができねえ、情けねぇなァ……」
山「武兵衛さん、武兵衛さん」
武「オオどなたかと思ったら山田屋さんですか」
山「なにをそこで考えているんだ」
武「エエいま懐中の紙入れを取られてしまったのだ」
山「ウム、おまえさん家へ置いてきやァしねえか」
武「イエまったく取られたんで、あすこまで行くと、いきなり私の胸へ固い頭をぶっつけた奴があると思うと、紙入れがない」
山「じゃァやられたね、スリが多いから、どうも気の毒だったな、おまえさんのようないい人が巾着切《きんちゃっき》りに遭うなんて、ほんとうに神仏もねえようなもんだ、しかしおまえさんのそそっかしいのには、家《うち》の女房もいつも話をして笑ってるんだ、どうだえ一杯ご馳走をしようじゃァありませんか、私の所へお出でなさいな、私はじきこの近所の小網町《こあみちょう》ですからお出でなさい」
武「じゃァご一緒にまいります……」
山「いま帰ったよ」
女「オヤお帰んなさい、おまえさんどこへ行ったんですねえ」
山「ナニ八幡様へおまいりに行こうと思ったんだが、あんまり人が出てるからよして帰ってきた、スルト途中であのそそっかしい武兵衛さんに会って、スリに紙入れを取られたって、気の毒だから一杯ご馳走をしようと思ってお連れ申して来たよ」
女「アアそうですか、サァこっちへおあがんなさい」
武「ヘェこんにちは、どうも初めましてお目にかかります、てまえは武兵衛と申すもので……」
山「なにをいってるんだい、初めてじゃァない女房だよ」
武「アアおかみさん、スッカリ忘れてしまった……、なるほと初めてじゃァなかった……、どうもいいお住まいですね、先に来た時より良くなった」
山「冗談いっちゃァいけない、ここは先の家たァ、ちがいますよ」
武「ヘェそうですか」
女「ほんとうに武兵衛さんは面白いお方ですね」
これからあり合わせの肴《さかな》で酒が出る、それを飲みながら話をしていると、にわかに表が割れるような騒ぎ、ワーッという人声でございます。
山「なんだろう、ハテな、喧嘩かしら、オイなにが始まったんだか、誰か見せにやんな……、なんだァ、アノ騒ぎは」
女「大変ですよ旦那、お祭りであんまり人が出たんで、いま永代橋が落っこちて、侍が後ろから押してくる人をとめようてんで長い刀を抜いて振り回してるんで、ひどい騒ぎでございますよ」
山「そうか、それゃァとんだ間違いだな、しかしマァ早く帰ってきて良いことをした、武兵衛さん、永代橋が落っこちたそうで」
武「ヘェー、驚いたなァ、マァ行こうもんなら私はいまじぶん、ちょうど永代橋を渡っているんですね」
山「そうだ、ちょうどそんな刻限だ」
武「アア私はそそっかしいから死にますね」
山「そそっかしから死ぬというものでもないが」
武「イエきっと死にますよ、こうなると命拾いをした、紙入れを盗られたばかりで助かったんだから、あの盗賊は私にとっちゃァ命の親、盗賊様だ」
山「盗賊に様をつけるのはおかしいね、しかしマァ運がいい、大難が小難、盗賊に金を取られても命が助かればこんな目出度いことはない」
武「そうですとも、命あっての物種だ、こんなうれしいことはありません」
山「イヤおまえさんもうれしかろうが、おまえさんに遭ったばっかりで向こうへ行くのをやめて、帰ってきた私も共に助かったような訳さ、今夜は私の所へお泊んなさい、いろいろお話もあるから」
武「じゃァご厄介になりましょう」
というので武兵衛さんはその晩泊まることになりました。お話変わって主人の太兵衛は表で永代橋の騒ぎを聞いて、ヒョッとしたら武兵衛も川へ落っこちでもしやァしないかと心配して、その晩ろくろく寝ずに待っておりましたが、とうとう帰ってまいりません、あくる日|家主《いえぬし》が表から駆け込んでまいりまして、
家「太兵衛さんえらいことができた、おまえン所の同居の武兵衛が永代橋から落っこちて死んだというお上からお知らせがあった、すぐに死体を引き取りに来いというから、早く行って死体を引き取ってきねえ」
太「ヘェッ、ほんとうですか」
家「ほんとうだ」
太「ダカラ家主《おおや》さん、私がとめたんだけれどもきかずに出ていったんで、畜生、私ァ弟のような心持ちがしているんで」
家「俺も一緒に行きてえんだが、いま町内に用事ができたから、俺は後から行くよ、おまえこの差し紙を持って先に行きねえ」
太「さようでございますか、なにしろマァ一刻も早くまいりましょう」
ここで太兵衛が慌てて羽織を裏返しに着たり下駄をひっくり返したり、大騒ぎをして、永代橋へ出かけようとすると向こうから、一杯機嫌になっていい心持ちで、武兵衛が帰ってまいりました。
武「オヤ、太兵衛さんがこっちへ来る、どこへ行くんだろう、アア血眼になって駆け出した……太兵衛さん太兵衛さん」
太「オオおまえ武兵衛さんだな」
武「ヘェ武兵衛さんで」
太「武兵衛さんもねぇもんだ、俺はおまえのおかげで、どんなに心配しているか知れやァしねえ」
武「なんでございます」
太「なんでございますもねぇもんだ、おまえは、きのう永代橋から落っこちて死んだことを知らねぇのかえ」
武「アアそうだ、永代橋から落ちた」
太「そうだじゃァねえ、おまえの死骸を引き取りに来いというので、これから行って死骸を引き取るのだ、ここで遭ったのを幸い一緒に来ねえ」
武「ヘェー驚きましたなァ、なにしろ一緒に行きます」
と、これから二人息を切って永代橋へまいりますと、仮小屋が立ってお役人が控え、向こうの方に死骸がモウ棺に入ってズーッと並んでおります。それぞれ引き取り人が来て差し紙を出しては、みんな涙ながらに死骸を引き取ってまいります、その混雑は一方《ひとかた》ならない」
太「オイオイ武兵衛さん見な、どうだ、大変に人が死んでる、引き取り人が大勢いるな」
武「驚きましたね」
太「驚きましたじゃァねえ、おれがきのう止めたのに来たからこういうことになったんだ、サァ一緒に来ねえ、あすこの役人のいるところへ……エエ申し上げます」
役「なんだなんだ」
太「ヘェ」
役「なんだ」
太「さようでございますな、なんでございましょうか」
役「なんがなんだわからん、貴様はなにしにここへ来たんだ」
太「ヘェ、じつはその私ンところの家主《いえぬし》はなんともうしますか」
役「貴様の家主なんか知るものか」
太「ヘェ、なんとかいったな、家主《いえぬし》杢兵衛《もくべえ》じゃァなし」
役「早くいえ」
太「ヘェちょっと忘れましたが……、そうそう家主|家主《いえぬし》甚兵衛《じんべえ》でございます」
役「所はどこだ」
太「徒士町《おかちまち》でその店子の太兵衛と申します」
役「アアそうか……死骸を引き取りに……、下谷徒士町甚兵衛店子太兵衛、同居人武兵衛という者の死骸を引き取りに来たんだな」
太「エエさようで」
役「死骸は棺に入れて名前がついて印がしてあるから、間違いないように引き取って行け」
太「ヘェありがとう存じます……、オイ武兵衛さん、こっちだこっちだ、どうだい早桶《はやおけ》がたくさん並んでるじゃァねえか……、こっちだこっちだ、蓋《ふた》がしてあらァ……」
役「オイオイ」
太「ヘェ」
役「わかったか」
太「ヘェわかりました」
役「わかったら一応死骸をあらためろ」
太「ヘェ、だたいまあらためます、サァ開けてみよう」
と蓋を取って、
太「オヤオヤ、恐ろしい顔をしているぜ、見ねえ」
武「これは誰だ」
太「誰じゃァねえ、おまえじゃァねえか」
武「これはおれじゃぁねえ、顔が変わってる」
太「なにをいやァがるんだ、死にゃァ顔も変わるじゃァねえか」
武「いくら変わるったって、これァおれじゃァねえ」
太「オイおまえいい加減にしねえ、ほんとうにモウ俺ァおまえのことでどんなに心配したか知れねえ、おまけにここまで死骸を引き取りに来て、俺でねえたァなんだ、よくもそんなことをいわれた道理だ、これがおまえでなくって俺はどうするんだ」
武「どうでも勝手になさい」
太「どうでも勝手にしろとはなんだ、てめえのようなわからねえ奴はねえ、こん畜生」
武「なにをするんだ」
太「あまりわからねえから殴るんだ」
武「わからねえたって、私はこんな顔じゃァございません……」
太「オヤまだいってやがる……」
役「コレコレ」
太「ヘェ」
役「なにをしている、大声を発してけしからん奴だ、早く死骸を引き取って行け」
太「ヘェ」
役「なんだ、おまえの連れているのは、親類か」
太「へェ親類どころじゃァございません、これがその本人で」」
役「ナニ」
太「ヘェこれが本人で、私は引き取ろうと思いますが、本人が俺じゃァねえといって、強情を張って困ります、どうぞお役人様から言って聞かしていただきとうございます」
役「待て待て、貴様はおかしなことをいうな、それはなにか武兵衛という同居人か」
太「ヘェ」
役「わからんな、生きている者が自分の死骸を引き取りに来るというのはどういう訳だ」
太「ヘェなるほど」
役「なるほどではない、どういう訳だ」
太「わたしはちっともわかりません」
役「ウム、おまえ達はよほどのそこつ者だな」
太「ヘェ、そこつにもなんにも大関と横綱がそろっているんで、ヘェ」
役「なにかこれは間違いだ、おまえは確かに同居人の武兵衛だな」
武「さようでございます」
役「アアそうか、それなれば死骸はちがっている、なにかのまちがいだ……、ハテな……武兵衛おまえはなにかなくした物はないか」
武「なにもございません」
役「なにもないではない、よく考えてみろ」
武「アッそうだ、ありますあります、エエ紙入れを取られました」
役「いつ取られた」
武「きのう、永代橋の側まで来ますと、私の胸へぶつかった奴があります、そのとたんに紙入れがなくなりました」
役「ウムそうか、それでようようわかった、ちょっと待て、いま見せる物があるから」
これから役人が紙入れを持ってまいりました。
役「コレコレ、この紙入れを見覚えがあるか」
武「アッッそれやァ私の紙入れだ、その中に七両二分にバラが入っているんで、冗談じゃァございませんぜ、人の胸へぶつかって紙入れを抜くなんて……」
役「バカを申せ、仮にも上役人たる者が人の紙入れを抜くものか、貴様達はよほどそこつ者じゃな……よくよく考えて物をいわんと飛んだ間違いが起こるぞ、これはこういう訳だ、死骸の懐中《かいちゅう》をあらためると、紙入れの中から手帳が出た、それを見ると太兵衛同居人武兵衛ということを記してある、それでおまえのところへ知らせてやったのだが、これは賊が死んだのか、妙な間違いがあるものだな、サテここだて、人は悪いことをしてはならんというのは、……おまえが賊のために紙入れを取られなければ、やはりおまえが死ぬところだ、つまり賊がおまえの身代わりになったのだ、人というものは悪いことをすればこういうことになるといういい戒めだな」
武「ヘェ、じゃァ私は死んだのじゃァございませんので」
役「バカなことをいいなさんな」
武「太兵衛さん」
太「なんだえ」
武「おまえさんは私が強情を張ってもきかないで、私の頭をぶったね」
太「ウム、俺も少し変だと思ったが……」
武「嘘を付きなさい、変だと思ったものが人の頭をぶつ奴があるものか、いくら居候だって理屈に二ツはねえ、人の頭をポカポカぶってとんでもないことだ、ここで私に謝まっておしまいなさい」
太「俺ァ謝まらねえ」
武「謝まらねえって、そんな奴があるものか……アア、申しあげます」
役「なんだ」
武「なんだって私の頭をぶっても謝まりませんから、どうかご裁判を願います」
役「そんなことはどうでも良いではないか、おまえの命が助かったのだから、早く帰ったらよかろう」
武「イエ帰れません、私はぶたれましたから、どうかご裁判を願います」
役「イヤおまえはいくらいうてもこの者には敵《かな》わんよ」
武「ヘェ、どういう訳でございます」
役「考えてみなさい、太兵衛は武兵衛には敵わない」
[解説]「太兵衛は武兵衛に敵わない」というサゲは、言うまでもなく、「多勢《たぜい》には無勢《ぶぜい》は敵わない」の地口落ちだが、太兵衛に武兵衛という仮定の人物を作り出している点から見れば、仕込み落ちともいえる。講談からとった「海の春」という落語があるが、このサゲは、清元の名人太兵衛と画家の喜多武清《きたぶせい》があるとき一緒に長州家《ちょうしゅうけ》へ招かれて、腰元達の人気がとても太兵衛に及ばないといって武清が嘆くと、門人から「先生それは駄目です、昔からたとええにも申しましょう、太兵衛に武清はかなわない」というのがある。あるいはそのへんから考えついたものではないかと思われる。
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柳の馬場
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やせ我慢はするものでないと申します。ところが人の質《たち》にもよりますが、とにかくこのやせ我慢ということはしたがるものでございます。盲人が見えるふりをする、無筆《むひつ》が読めるふりをする。物を知らぬ人が知ったふりをするという。これはままよくあるようでございます。按摩さんという稼業《しょうばい》、これがまた知らんということができないというのは、何故であるかというと、お得意の中には閑人《ひまじん》の隠居さんやなんか、利《き》く利かないはどうでもよい、擦《さす》ってもらって下らない世間話を聞くのを楽しみにする人があります。またその世間話の中に按摩さんの秘事ということがあると申します。
商売の秘事はなんにでもあるにそういありません。芝居の好きな人の肩につかまって療治《りょうじ》をしている時には、芝居の話を持ちかける。これは世間へ出入りしますから、自分は芝居へ行かないでも、私は芝居が好きでございますとか、今度は帝劇より歌舞伎座の方がよろしうございますとか、ヤレ今誰々がなんの狂言をしておりますけれども、どうもじつに大したものだとか、よく演《や》っているとかいって、そのお客様の気に入るような話を持ちかける。あるいは大地震の話が出ればこうこういう可哀想な人があったそうでございますなどと、ほうぼうで聞いてきたことを、盲人は記憶のよいもので、受け売り話をやって客の機嫌を取る。だから、あいつは療治は下手だけれども、あのくらいまた記憶のいい奴はいない、世間が広いとか、面白い男だとか、いいおもちゃになる。
我々の商売もちょうど同じようなもので、その試験官はどういうお方かといいますとお客様がた、試験官の気に入られない者はどうもいけないようでございます。
富《とみ》の市《いち》という按摩さん、これは一つの性分《しょうぶん》でございましょうが、商売上手というのか、なかなか繁盛するというのは、口からでまかせ、それからそれへと、なんでも知っているように喋《しゃべ》るのがこの人の癖、それが一つの徳にもなればまた、たとえにもいうが口は禍《わざわい》の門、舌は禍の根で、あまり口数の多いのは失策《しくじり》のあるものでございます。
主人「サァこっちへ入れ富の市」
富「ヘェ、エーご機嫌よろしうございます、ツイ忙しうございまして、ご機嫌うかがいにも出ませんで、ご前様《ぜんさま》だいぶ遠のきましてございますな、ご丈夫でけっこうでございます。お肩もこのごろはお張りにならんのかしら、お忙しいのかしら、お忙しいとすると、なおさらお肩が張らなければならん訳だが、それともまた自分が失策《しくじり》がありはしないかと、心配しておりまいた。ところへお迎いで、まことに安心致しました。今日はご療治で……」
主「アア療治ばかりで、呼びにやった訳ではないが、どうだな忙しいか」
富「イエ今日はどこもございませんので、ヘエたまにはこういうこともよろしいのでございます。というのは彼奴《あいつ》はどうも仕事が忙しいために療治が粗雑になったということがあってはいけません。今日はどこへもまいる所はございません。本来この春先はどうも忙しくなるのでございますが、世の中に景気がよいといけないという商売は少のうございますが、あまりまた景気がよいと、自然お身体がお忙しいために我々の方もちょっと閑になるような訳でございまして、ヘエ、さっそくご療治を……」
主「イヤ療治は別として、用人《ようにん》の藤太夫《とうだゆう》がこの間いろいろ話のいつでに、貴様は按摩には勿体ないくらい、たいそう武芸に達しているということを聞いたが、ほんとうか」
富「ヘェ、ナニ、達しているという程のこともございませんがな。ツイどうも武芸が好きになってしまうので、というは、おりおり表町《おもてちょう》の斎藤《さいとう》さんへまいります。ヘェ、ご老母が六十幾歳というのでございまして、手が痛いとか、肩が痛いとかいって、チョイチョイうかがいます。先生にはお目にかかることがあまりございませんが、ある日のこと、鬼の霍乱《かくらん》で、風邪をひいたか、身体がどうもたいぎだ、一つやってくれとおっしゃいます。それはひどく揉《も》んではいけません。お擦り申すくらいがよろしうございましょうといって横になっていらっしゃる先生のお肩を擦ったり揉んだりしておりますとたいそう御意《ぎょい》に叶って、明日もきてくれろとおっしゃるので罷《まか》り出ましたところが、起きておいでなさいましたから、モウご全快かと申しますと、ナニたかが風邪で、今日はたいへん心持ちがよい。それはけっこうで、お熱がないようですから揉みましょう。一つやってくれと、それから揉み始めると、そこはそう酷《ひど》く揉んではいかんとか、その筋はどうとか、この骨はどうなっておるものだというような講釈をなすって下さるうちに、貴様一つ柔術《やわら》をやったらどうだ。ヘエ、私は大好きでございます。教えて下されば一生懸命にやりますがいかがでございましょうか。それでは道場へこい、ここへつかまれアアしてこうしてとおっしゃるので、私は毎日うかがって習っておりますと、貴様は見込みがある。腕はバカに力がある。それは商売でございますから、力がございます。身体もいいし十分に仕込んでやるというので、その代わり随分苦しみました」
主「ウム、なるほど」
富「それで、間がなとうがな、道場へ行って、スットンスットン投げ出されたり、また見事に先生を放り出すこともございますので、私がだいぶ腕が上がったと申しましたら、先生がお笑いなって、イヤそうでない。貴様がすこし乗ってきたから俺の方でわざわざ投げられて見せてやったのだ。それじゃァ飴《あめ》を食わされたので、そんなこんなでやっている内に、早いもので四五年経ちまして、それからだんだんできてきて、目録をくださるということになって、ただ今では免許でございます」
主「ウーム、何流だ」
富「斎藤先生は真楊《しんよう》流でございます」
主「ウム面目次第もないな。一朝ことある時には天下の旗本を固めるという、その職にありながらなかなか我々はそうはまいらぬ。目録くらいをもらっている者は何人かあるが免許という所まで達している者は少ない。しかるにその方は按摩を渡世に致しながら柔術の免許の腕前があるというのは感服いたした。どうだ馬は稽古いたしたか」
富「ヘェ大坪《おおつぼ》流で」
主「やったのか」
富「ヘェこれも免許で」
主「恐れ入ったな、弓はどうだ」
富「弓も免許で」
主「弓も免許……どうもおかしいな。弓はすべて的を狙って射るが、どちらにしたところで目が見えなくては……」
富「その眼というものは心の眼、心眼とか申して心で見るので」
主「心で見たにした所で、肝心の映るべき眼《まなこ》がないではないか」
富「それが映らなくても勘で見るので、ツマリ敵がどこにいる、これから当たるということがチャンとわかります。それでございますから四寸が三寸の的、あるいは金的たりとも、私がチャンと腹を固めてかかりましたら、平らな地でも下からなん寸上がっているということを、必ず心の眼で見ることができます」
主「どうも恐れ入ったものだな」
富「そこが免許の腕前で」
主「剣術は」
富「一刀流で」
主「よほどやったのか」
富「免許で」
主「なにもかも免許、一眼《いちがん》とかいって剣術は目の配りが肝心だというな」
富「ヘエ、やはり心の眼で」
主「心の眼といったところで弓やなにかと違って、現に傍に敵がおって太刀を振り下ろしてくる、それを眼がなくて受けられるかな」
富「太刀風といって、風を切って太刀が下りてまいります。それを片手でチャンと受けます。そこが免許の腕前で」
主「ウーム、もっとも武芸の話については、自分が大してできんでも、話だけは聞いているが、五人力ある奴が太刀を振り下ろしても、免許というものは、片手でもってチャンと受け止めて、その受けた奴を下へ持って下ろすことができるという、それをもって、剣術という。ウーム大した腕前だが目の不自由なのは惜しいものだな」
富「ヘェ、先生もいつかそうおっしゃって、これで眼があったら諸国遍歴をして、他流試合でもして歩いたら、豪《えら》い者になるだろうと申されましたが、ナニ私は一つの道楽でやりましたのでございます。先だってもお屋敷から帰ると藤太夫様のところからご新造がお出なすって、富の市、家の旦那が肩が凝っていかんというからちょっときてくれろとおっしゃるので、夜分おうかがい致しましたが、ヘエ、武芸のことはなかなか藤太夫様お好きだと見えてまして、いろいろお話がございましてな、それから武芸のお話しばかりで。夜更けまでかかりました。ヘエ、で、こちらのお屋敷には立派なお馬場があるけれども、殿様が幼い時に、木馬に召して、木馬から落ちてひどく懲《こ》りておしまいなすって、馬というものはお嫌いでおありなさるとおっしゃいますから、それはまことに残念なことで、もし馬術がお好きなら、マア鬼鹿毛《おにかげ》とかいうようなけっこうな馬で、とても腕のできない奴には乗りこなすことはむろん、側へも寄れぬという、はりきっている馬を、一つ乗りこなしてご覧に入れたいなどとお話し申したところが、どうも馬がないからとこういうので……」
主「イヤそれについて今日|招《よ》びに遣わしたのだ。齢《とし》は四歳で、価《あたい》がいかにも安い。もちろん貧乏旗本で、高いのは買えんが……、見たところがじつにけっこうな馬で、傷もないと思ったから、それを安く買ったところが、これがえらい癖馬《くせうま》で、どうも未熟な我々には乗りこなすことができんでな」
富「ハハア、それはなんですな。し、失礼でございますが、お嫌いでいらっしゃるからですな、ヘェヘェなるほど」
主「いよいよ悪くなって、どうにもしようがない。ちょうどよいから富の市を招んで一鞍《ひとくら》攻めてもらいたいと、こう思って招びにやったのだ」
富「ヘェ、ヘェヘェ、お、お買いになりましたので」
主「ウム、安く買った。買いは買ったが、安かろう悪かろう。癖があってどうにもしょうがない」
富「なるほど」
主「側にも寄せ付けぬようになっているから、どうか一鞍攻めてくれ」
富「ヘェ」
主「ひと汗かかしてくれ」
富「さようでげすな。雑作《ぞうさ》もないことで、それは免許の腕前でございますから、どう張っておろうかどうしょうが、轡面《くつわづら》を取って曳きだしまして、鬢《びん》をツーツとなで下ろすと、どんな馬でも四足をピタリ止めるという、そこは免許の腕前で、なんでもないことでございますが、じつはご前様、こっちへでかけによその奥様が、これもお得意さまでございますが、急にお癪《しゃく》がおこって、ヘェ、鍼《はり》を持ってきてくれろとこういうお話でございましたけれども、こっちがご先約だからそういう訳にもいかないから、とにかくご前様へ上がってその訳を申し上げて、チョッとお暇《いとま》を頂いてと、こう思いましたので、チョッとお暇を頂まして、ナニじきお癪も納まりましょう。一本の鍼《はり》でございます。道具を持っておりますので。そうしてこちらへ帰ってまいります。なにしろあちらはご病人のことでございますから」
主「そんなことをいわんで、あちらに差し支えのないように、私の方から立派な鍼医を頼んで廻してやるから、決して心配するな、貴様の失敗にならないようにしてやる」
富「さようでございますか、鍼というものは、上手下手はさておいて、身体を知らぬ鍼医ではお得意で嫌がりまして、ヘェ、なにしろ、急のご病人でございますから、少々お待ちなすって、チョッチョッチョイと行ってまいりますから」
主「コレコレ、そう立ちかかったところで手を取ってやる者もなし、そっちへ行っては縁側へ落ちてしまう」
富「ヘェヘェこのお廊下を」
主「お廊下をでない、それではだんだん奥へはいる」
富「ヘェ、ですけれども」
主「ですけれどもじゃァない、かまわず馬をひけ、その方の差し支えないようにこちらがしてやるから、コレコレ藤太夫、馬を持ってまいれ……」
富「イエ、なななんでございまして……」
主「藤太夫逃がすな」
藤「ヘエ」
富「アイタタタ、ご用人さんでございますか。そうひどく手を押さえちゃァ痛《いと》うございます。私は今日身体の具合が悪いので、なんでございます、どうかご勘弁を」
主「ご勘弁をといって、貴様は免許の腕前ではないか」
富「ヘェ、ではございますが、あちらは大切なお得意でございまして、お得意様方のお陰でどうにか命をつないでいるのでございますから」
主「それならこちらも得意ではないか。馬を乗りこなしてもらおうと思って出したんだ。張りきっているコレコレ馬を早くひけ、藤太夫馬へ乗せてやれ」
藤「ヘェ」
富「アア痛い痛い、ご用人様、痛い痛い」
主「痛いといって、貴様|真楊《しんよう》流の腕前ではないか、藤太夫ごとき痩せ腕につかまれて痛いということはない。引きずってしまえ、私が許すから」
富「ソソ、それがなんでございます、相手ができる人だと引き外せますが、しッしッ素人が無茶苦茶につかんだというものはなかなか、ひひ引き外しがたいもので」
主「引き外しがたいといってもかまわんから……」
富「いくらかまわんといっても」
主「コレコレ藤太夫、馬へ乗せろ」
富「ええどうぞ、どうぞご勘弁なすって、私今日は少し眩暈《めまい》がいたしますので」
主「そんな眼などが眩暈がいたすか」
富「それはいけません、潰《つぶ》れておりましても目やにが出まして、時には赤くなって痛んだりいたします」
主「いたしますといって、私の方で頼んで、乗りこなしてもらおうというのだ。かまわないから乗せろ乗せろ」
富「いけません。いけませんよ。人殺し!」
主「なんだ人殺しとは、かまわず乗せろ」
富「アア、どうもこの馬は生きている。動く」
主「動くのは当たり前だ。なんだって鞍壺につかまって震えているんだ。手綱がそこにあるのに肝心の手綱を取らんで……」
富「ご前様、まままったく私は、馬は、いいいけないので、わわ私は……」
主「そんな泣きっ面をするな。かまわないから鞭《むち》を入れてやれ」
藤「かしこまりました」
といってご用人がピシーリ、鞭を入れたので、馬は棒立ちに飛び上がった。富の市鞍壺につかまって、
富「人殺しィ、助けてくれ」
主「モウ一鞭入れろ」
モウ一鞭入れると馬はパッとお馬場へ走り込んだ。円い大きな立派なお馬場、周囲はズッと柳が植わっている。春のことでモウ若葉が出て、枝が垂れております。そのお馬場を馬はグルグル駆け通す。奴さんが真っ青になって鞍壺につかまって、
富「助けてくれ――、助けてくれ――」
ワーワーッという騒ぎ、富の市はグルグル廻っているうちに頭へなにか触った物がある。なんだろうと思いながらしっかりつかまって乗っている。盲人でなくとも眼をつぶって乗っていると、馬というものは、駈けるほど坂へ登るような心持ちがするもので、もともとからかいになさるので、殿様頓知のよいお方でございますから、
主「コレコレ山へ登ってはいかん。山だ山だ。ここは赤坂黒桑谷《あかさかくろくわだに》という谷だ。谷へ落ちるといかん。谷へ落ちるといかん。山へ登るな」
富「落ちるとおっしゃっても……、どどどどうか馬に叱言《こごと》をいってやってください」
主「馬に叱言を申してもしかたがない。気を付けろ、谷へ落ちれば何丈という深さで、下は岩窟だ、落ちれば身体がコナゴナになってしまう」
富「コナゴナになってはいけません」
主「コレコレ左に寄ると谷へ落ちる、左へ寄るな、左へ」
左へ寄るな寄るなというが、円いお馬場を左の方へ廻るのでございますから、どう考えても左へ寄るように思われるので、真っ青になって鞍へつかまってお馬場をドンドン駈けてくると、柳の枝が下がっている。谷だ谷だというから、こいつ藤蔓《ふじづる》かなにかに当たるのだとこう考えた、この藤蔓にブラ下がったら助かるだろう。落ちれば馬もろとも死んでしまうと思ったから、一生懸命頭の上へ手を揚げて柳の枝をパッとつかまえると、馬の背を放れましたので、ブラリとぶら下がった。
主「アアあんな所へブラ下がったのか、コレコレどうした」
富「ヘエ、藤蔓へつかまったようでございますが、どうぞお助け下さい」
主「オオ助けてやる」
富「どうぞお助けなすって」
主「助けてやるが、なにしろ手を放すな。放してはならんぞ。放せば何丈という谷で、コナゴナになってしまう」
富「ヘェ、コナゴナになっては大変で、どうぞお助けなすって、命ばかりはお助けなすって……」
主「助けてやるが、以来口からでまかせの駄法螺《だぼら》を吹くなよ。舌三寸のまちがいだ。舌は禍の根とかいうが、これから無茶苦茶な嘘はつくな、バカめ、嘘ばかりついている」
富「ヘェ、そんなことおっしゃってもしようがございません。助けて……」
主「助けてやる。いま人足を雇って、下から足場を組まなければならぬ。とてもそういうところへ下がっていては、尋常のことでは助けられない」
富「ヘェ、何時までもここにブラ下がっているので、大変だな、どうも、どうかお助けなすって……」
主「今助けてやる。やるが、これから人足がきて丸太で足場を組み立てると明日になる。明日の朝までそうやっていられるかな」
富「明日の朝まではとてもいけません。モウ腕が抜けそうになってまいりました。どうぞお助け下さい。私が亡くなった日には、六十八になる阿母《おふくろ》がございまして、私が一人で稼いでございますから、路頭に迷います」
主「それは心配するな。屋敷には若い女が多いから、その取り締まりもするによって、その年寄りは私の方へ引き取って、楽々と過ごさせてやるから、後へ心を残さず死んでしまえ。どうもしかたがない。いまさら足場を組んでいてもとても間に合わない。手を放してしまえ。上へは落ちん、下へ落ちるんだ。下へ落ちると、下は岩窟でコナゴナになってしまう」
富「それはどうも大変で、どうぞどうぞお助けください」
主「これから駄法螺を吹くなよ」
富「そんなことおっしゃっても、モウ吹いてしまった後なので、これからは決して申しませんから助けて……」
主「助けてやりたいが、助けることができん、だから阿母のことなぞは心残さず、早く成仏しろ」
富「成仏……、情けないなァどうも……」
主「しかたがない、手を放してしまえ」
富「どういたしまして、放すことはできません」
主「放すことができんことはなかろう。放せば上へ落ちる気遣いはない。下へ落ちるのだから心配するな」
富「あなたは人のことだからそういうことをおっしゃいますが、落ちれば命が失くなります」
主「なくなってもしかたがない。手を放せば上へは落ちない、下へ落ちるのだ、わからぬ奴だ。かまわず落ちて成仏しろよ」
富「情けないな、どうも腕が抜けそうで……それでどうか阿母のことは何分お頼み申します」
主「どうも自分の口からでたことでしかたがない。舌三寸の誤りだと諦めて、手を放せ」
富「ヘェ放します。南無阿弥陀仏……どうぞ阿母のことを願います。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
とパッと手を放すと、大地へポカンと立ちました。立ったも道理、足の下は三寸……
[解説]「舌三寸の誤り」というたとえを落ちに、作者がいろいろ工夫をして、デッチ上げたものではないかと思われる。盲人の個性をよくあらわし、それに教訓も加えてあって、傑作というべきであろう。
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そこつの使者
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そそっかしいというのは性来《うまれつき》で、どうもやむを得ません訳でございまして、よくそそっかしい人は役に立たん者が多いように申しますが、そうばかりでもなく、なかなかそこつな人にも偉い人がございます。
浅野内匠頭《あさのたくみのかみ》の家来、武林唯七《たけばやしただしち》というお方が、ごくのそこつでございましたが、忠義無二の人物で、本所《ほんじょう》の吉良《きらけ》家へ乱入の折りは、大した働きをいたしましたから、決して役に立たぬということはございません。講釈の方でも毎度申しあげますが、唯七が鉄砲洲《てっぽうず》のお屋敷から芸州家《げいしゅうけ》へのお使者にまいった時、お屋敷をまちがいましてお隣の黒田家へ入ってしまった。主人が入ったから仕方がない。お供の方も入りました。使者の間へ通ってから、お屋敷がちがったのに唯七初めて気が付いて、サァ大変だ、侍《さむらい》が斯様《かよう》なまちがいをするというは、容易ならんことで、腹でも切らなければならない、どうしたらよかろうと思案に暮れました。しかしそこつな人でも考えはある。ソコでお取り次ぎの出たときに、はなはだ恐れ入りますが、空腹をいたしたからご飯のご馳走に預かりたいと斯様《かよう》申しました。
おかしな話で、しかし係りの役人が、浅野の家来武林唯七のそこつということは知っている。ヒョッとしたら屋敷をまちがえたのではないか、だが、ご飯の無心とは面白い話である。たくさん馳走したらよかろうというので、手厚い饗応をしたので唯七はウントご馳走になって、黒田家を出て首尾よくこのお使いをまっとうして帰りました。ところがこのことを殿様がお聞きになって、たいそうご感心遊ばし、たいがいのものならば慌《あわ》てて度を失ってしまうところであるが、すぐに飯の無心をしたというのは、胆力の据わったものである。唯七は偉い武士であると、お賞めになったそうでございます。
そこつ者と申すと一様に変な人間のようでございますが、そうではございません。てまえの考えでは、かえってそこつ者に悪人はいないようでございます。何故だと申すと、人を欺《だま》すのなんのという悪だくみをするということは、そこつでは決してできないものでございます。むかし杉平柾目正《すぎだいらまさめのしょう》様という、お大名様のご家来で地武太治部右衛門《じぶたじぶえもん》という方が、たいそうそそっかしい人で、お大名様は月代《さかやき》を剃るのにご家来に申し付けます。この治部右衛門《じぶえもん》さんはたいそう剃刀《かみそり》が上手で、この人が剃ると痛くない。そこつ者ですが人には一つずつ長所がありますもので、あるときお月代を剃っていると、我々が使います剃刀とちがいまして、高貴の方の剃刀は黒塗りのけっこうな柄《つか》がついております。それがどうしたはずみか抜けてきましたので、思わず殿様の頭を叩いてこの柄を嵌《は》めました。コツンと音がしたくらいだから痛い、殿様は驚き遊ばして、
殿「無礼者めッ」
治「ハッ」
とそれへ平伏する。
殿「そのほうは性来のそこつ者じゃ、今日は忘れ取らするが、以後心つけい」
とお笑い遊ばした。当人、頭をあげるかと思うと、いつまでたっても頭をあげません。傍にいたご家来が、
家「地武太《じぶた》殿、お主君のお許しでござるぞ、頭をおあげなさい、コレ頭をおあげなさい」」
頭をあげないはずで、そのままグーグーいい心持ちに眠ってしまった。ある日のこと、お使者を仰《おお》せ付けられました、こんなそこつな人にお使者を申し付けずともよさそうなものだが、ご座興のためか、ご親類へのお使者治部右衛門さん身支度をして出てまいりました。お供まわりは支度をして待っている。
○「オイ誰だい、今日のお使者は」
△「今ちょっと聞いたがな、そそっかし家だ」
○「地武太さんか、とんでもねえ者をお使者にしたもんだな、来た来た、人間がそそっかしいから着ているものも変に曲がっているぜ」
治「コレあのな、弁当《べんとう》」
○「モウ間違っている」
治「なにさ、コレ弁当ではない、馬丁《べっとう》〔馬丁《ばてい》のこと〕、支度はできているか、できているか」
○「ヘェできております」
治「牛の支度だぞ」
○「牛の支度、そんな支度はございません」
治「イヤ牛ではないなんだ、馬の支度はできているか」
○「最前からお待ち受けいたしております」
治「それはどこにいる」
○「あなたの前におります」
治「コレ馬丁《べっとう》、斯様《かよう》な小さい馬があるか」
○「それは犬でございます」
治「ア犬か、どうりで小さいと思った」
○「あなたの左の方におります」
治「これか、なるほど、馬によく似ておる」
○「似ているどころじゃァございません、馬でございます」
ヒラリと跨《またが》った。
治「コレ馬丁《べっとう》、この馬には首がないな」
○「それはいけません、乗り方がちがっております反対《あべこべ》でございます、馬の頭はあなたの後ろになっております」
治「アそうか、後ろにあるのか、コレなんともハヤそこつ千万なことをいたした。なれども武士たる者が乗り替えるはいかにも残念、身共ちょっと臀部を持ちあげるによって、この馬を一廻り回せ」
○「冗談いっちゃァいけません、乗り替えていただきます」
ようよう馬に乗って出かけました。行く先はご親類の赤井御門守《あかいごもんのかみ》様、途中、別にまちがいもなく、ご門前にまいりまして、
○「お使者――杉平柾目正《すぎだいらまさめのしょう》様」
お使者触れということをいたします、ご門前で馬から下り、玄関へ通る、案内に従って使者の間に通る、茶が出る、煙草盆が出る、そのうちにお使者受けとして一人出てまいりました。
○「はじめまして御意《ぎょい》得ます、てまえは当方の家臣|田中三太夫《たなかさんだゆう》と申します、以後お見知り置かれてご別懇《べっこん》のほどお願いつかまつります」
治「さようでござるか、エーてまえことは杉平杢目正《すぎだいらもくめのしょう》、イヤ杢目《もくめ》ではござらぬ、柾目正《まさめのしょう》家来、地武太治部衛門と申す者でございます、以後お見知り置かれてご別懇の儀を……」
三「ご丁寧なるご挨拶、して今日のお使者ご口上は」
治「使者の口上、余の儀でござらぬ、まことに……ウーム、結構なお天気でござる」
三「さようにございます、お使者の口上を承《うけたまわ》ります」
治「てまえことは、杉平柾目正家来、地武太治部衛門と申す者でござる、以後お見知り置かれてご別懇の儀を」
三「イヤ、お名前の儀は確《しか》と承知仕りました、お使者ご口上を承りとうござる、いかが遊ばしました、お顔の色がただならぬご様子、ご腹痛でも遊ばしますか」
治「イエ腹痛という次第ではござらぬ、てまえご当家を拝借して腹切り相果てなければならぬことが出来《しゅったい》つかまつりました」
三「コレは異《い》なことを仰せられる、武士たる者が腹を切って相果てるとは容易ならぬことと存じます」
治「なんと申すも腹を切らなければならぬことができ申した」
三「どういうことでございますか」
治「まことに面目次第もござらぬが、使者の口上、ガラリ失念つかまつりました」
三「イヤこれはお戯《たわむ》れでは恐れ入ります」
治「まったくもって戯れではござらぬ、武士は相身互《あいみたが》い、尊公より今日の使者の口上よろしくお取り計らいのほどを願います」
三「それは困りましたな、他のこととちがい、使者の口上を途中で取り計ろう訳にはなりません、どうにか思い出す工夫はございませんか」
治「じつはてまえ、恥をお話し申さねばわからぬ次第でござるが、性来のそこつ者にて、親共もこのことに付いては苦心いたし、汝のようなそこつ者はないと、物忘れをいたしますたびに、臀部《でんぶ》をつねりました、その痛さに耐えかねて失念いたしたことを思い出しました、じつに恥入ったる次第にございますが、尊公てまえの臀部をおつねり下されば、千万かたじけのう存じます、いかがでござろうか」
三「さようなことは、いと易《やす》きお頼み、それにて思い出せば重畳《ちょうじょう》」
治「ではまことに面目次第もござらぬが、よしなにお取りはからいを願います」
三「よろしうございますか」
治「どうぞおつねりください、力を入れておつねりください」
三「いかがでござろうか、この辺では」
グッとつねりました。
治「おつねり下し置かれまするか」
三「いかがでございます」
治「一向に通じません」
三「通じませんか、たいそう固い臀部で、ではこれではいかがでございます」
治「一向に通じません、モソッとお手強く願います」
三「コレは恐れ入りましたな、てまえこれより指に力はござらぬ」
治「それは困りましたな、いかがでござろう、ご当家にて指の先に力のあるご仁ござらば、これにお差出しを願いたい」
三「ハァどうも困りましたな、剣術あるいは柔術ならば、免許皆伝を受けたものもございますが指の先に力がある者は、差し当たりこれならばと申す人物もございません。もっとも当家も大藩のことでござるから、全然無いとも限らぬが、一応相尋ねて見ましょう、暫時《ざんじ》お控えください」
三太夫さんが詰め所へまいりまして、この話をすると、年をとった方は苦い顔をする、若い者は腹を抱えて笑う、けれどもこうなると俺がつねるといって出る者もございません。するとこの時にお屋敷の修繕に大工が入っておりましたが、
○「オイ辰《たつ》」
辰「なんだ」
○「妙なことがあるぜ、俺は生まれてこのかた、こんなおかしなことを聞いたことは無《ね》え、大笑いだ」
辰「なんだ大笑いというのは」
○「俺が今なんだ、向こうで仕事をしているとな、将棋の駒みたいな奴が来て」
辰「なんだい将棋の駒というのは」
○「ソレよく屋敷へ来るじゃァねえか、馬なんかに乗ってよ」
辰「それは使者だ」
○「そうそう、その使者が来やがったところが、おかしいじゃァねえか、口上を忘れてしまったんだとよ。面目ねえから腹を切ってとボロボロ泣き出した。どうなることかと思って、ソッと陰から覗いて見ているとな、三太夫さんがどうにかして思い出す工夫が無えかと聞くと、その野郎のいい草が面白えや、尻をつねってくれれば思い出す、それじゃァおつねり申しましょうと、三太夫さんが真っ赤な面をして一生懸命につねった、するとおまえそいつの尻がバカに固え、いくらつねっても感じねえというんで、三太夫さんも驚いちまった様子だ。そこで俺が考えた、使者の口上を忘れたくらいで人間一匹殺すのは可哀想だ、ちょうどいま仕事も手明きだから、これから行ってそいつの尻をつねって口上を思い出させ、腹を切るところを助けてやろうと思うがどうだろう」
辰「バカ、おたばこぼん、汝《てめえ》のようなどこへでも飛び出す奴は無え、よく考えて見ろ」
○「なにを」
辰「なにをじゃァねえや、三太夫さんは剣術ができる、その人が力一杯つねって利かねえものを、てめえぐれえの力でつねったところで利くものか」
○「それはな、普通《あたりまえ》じゃァ利かなえが、ここに閻魔があるんだ、釘抜きよ、どうだいこいつを持ってって、あの野郎の尻をつねってやったらきっと利くだろうと思う」
辰「飛んでも無えこといいやァがる、そんな物でつねって怪我をしたらどうする」
○「いいじゃァねえか、腹を切って死ぬんだ、少しくらい尻を傷めたところで、死ぬよりよかろう」
辰「だって後で間違いになるといけねえ」
○「ナニ大丈夫だ、俺は了簡があってやる仕事だ、黙って見ていねえ……少々願い申します」
侍「なんだ、ここは大工が来るところではない、お口がちがう、お作事場へ廻れ」
○「イエ、田中の旦那様にちょっとお目にかかりたいもので、すみませんが、三太夫さんに会わしておくんなさい」
侍「どういう用だ」
○「そんなことを聞かねえで、ちょっと会わしておくんなさい」
侍「それに控えておれ、……田中氏、なんだか貴公に大工が会いたいと申しおりますが」
三「さようか、なに用だろう」
三太夫さんが出てきて、
三「なんだ、コレ職人、どういう用事だ」
○「おまえさん、今やっていましたね」
三「やっていたとはなんだ」
○「真っ赤な顔して指の先に力を入れて、いかがでございます」
三「コレ、怪しからぬ奴だ、あれを見たか」
○「すっかり見てしまいました」
三「なんだってそんなものを覗いて見たのだ」
○「なんで見たって、ちょうど仕事であすこへ行って、見る気もなしに見ちまったんで、今更どうもしようがございません、ついて田中さん、あの野郎は、腹を切って死ななければならねえといいましたね、そそっかしい奴があるもので口上を忘れるなんて、とぼけた奴だ、このまま打棄《うっちゃ》って置けば可哀想に彼奴《あいつ》は腹を切ります、それが気の毒だから、そこで彼奴の尻をつねって口上を思い出さして無事に帰してやろうと、こう思って来ましたが」
三「ウーム、貴様指の先に力があるか」
○「あるのねえのって、これは生まれつきで、餓鬼《がき》の内から指に力があって、指相撲なぞを取っても負けたことが無え、その力のある小哥《わっち》が一生懸命につねったらきっと利くだろうと思います」
三「少し待て、どうですかな各々《おのおの》、大工が指の先に力があると申しますが、これにつねらしてはいかがでござろうか」
侍「さよう、大工を頼んで出したとあっては、ご当家の外聞に関わろう」
三「ご道理《もっとも》、それでは当家の家来ということにして、差し出せば差し支えはあるまい」
侍「なるほどそれならばよろしうござろう」
三「コレ大工、貴様をな拙者の下役ということにして、差し出すからそのつもりでおれ」
○「なんでも構わねえ、あの野郎の尻をつねってやればそれでいいいんだ」
三「出すにした所で、その扮装《なり》ではいかん、渡辺《わたなべ》殿、ちょっとあなたの衣類《きもの》を少々拝借いたしたい、コレ大工、服を改めろ」
○「ヘェー、こんなものを着るんで」
三「ちょっと着て見ろ、コレコレ両足を片方のみに入れてはいかん、そんな袴《はかま》の穿き方があるか、破けてしまう、足の入れ方がちがう」
○「どうもやかましいもんだな」
三「それにあるのは腰板ではないか、それが前にあってはいかん」
○「ようございましょう、紙入れを載っける台で」
三「そんなものがあるか、それを後ろに廻して、そうしてはいかん、穿いたままでは廻らない、乱暴な奴だな、穿き替えろ」
三「面倒なもんだね」
○「なんだ、それへ落ちたのは」
三「イエなんでございます」
慌てて釘抜きを拾って懐中《ふところ》に入れた、
三「頭がそれではいかん、刷毛《はけ》を真っ直ぐにして、ウフ、馬子《まご》にも衣装髪形、侍らしく見えるところが不思議だ、時に職人、貴様の名はなんという」
○「ヘェ」
三「名前《なめえ》はなんという」
○「留《とめ》ッ子《こ》と申します」
三「なんだ」
○「留ッ子」
三「妙な名だな、留ッ子という名はあるまい留次郎《とめじろう》か留三郎《とめさぶろう》か」
留「なんだか知らないが、餓鬼の時分から、留ッ子留ッ子といっています」
三「自分の名を知らぬ白痴《たわけ》た奴だ、しかし留ッ子は侍らしくない、なんとか名前をつけなければいかんが、留吉《とめきち》などはどうであろうか、差し支えがあると、では留太夫《とめだゆう》なぞはどうでござろう、これは差し支えないか、コレ職人、貴様の名を留太夫と致すから」
留「ヘェ留太夫、おまえさんが三太夫、伊勢の御師《おし》〔伊勢神宮の下級神職〕みたいだ」
三「よけいなことをいうな、座敷に出たらば、成るべく言葉を丁寧に使え、物の頭にはおの字を付けて先方を奉ると、自然丁寧になる」
留「大丈夫ですよ、心配しなさんな、さようござり奉るでいいんだから、心配しなさんな」
三「大丈夫か、ソレに控えておれ、留太夫と呼んだら直ぐに返事をして出てまいれ」
留「ヘェ」
留ッ子を待たして置いて元の使者の間、
三「ごめん、イヤ長らくお待たせ申しました、さぞかしお待ち久しういられましたろう」
治「ハッ、其許《そのもと》はどなた様でございますか、ご尊名を承りとう存じます」
三「これは恐れ入りました、お忘れでございますか、さっきお目通りをいたした、田中三太夫でござる」
治「アッ三太夫殿でござったか、あまりのご貴殿のお出でが遅いので、腹を切ろうかと考えておった所でござる」
三「ご短慮なことをなすってはいけません、ところでただいまいろいろ指の先に力があるものを取り調べましたるところ、拙者下役に留太夫と申す者がございまして、これが指の先にたいそう力がございます。ただいまこれに呼び出しまするによって、この者にお申し付けを願います」
治「いろいろお心を尽くしくだされ、千万かたじけのう存じます」
三「ただいまこれへ呼び出します、……留太夫殿、留太夫殿、なにをしておる、コレ留ッ子」
留「オウ」
三「シッ、なんだ、大きな声を出して」
留「留太夫というから小哥《わっち》のことじゃァねえと思っていた、そこを留ッ子と呼ばれて面喰らった」
三「なにを申す、地武太殿、ただいま申しあげました、これが留太夫でございます」
治「ハッ初めましてお目通りをつかまつります、てまえ事は杉平柾目正《すぎだいらまさめのしょう》家来、地武太治部右衛門と申す者でござる、以後お見知り置かれてご別懇の儀を……」
三「これはご丁寧なるご挨拶、コレご挨拶をいたさぬか」
留「ヘェ、どうも飛んだことでございまして、初めましてお目通りをいたし奉《たてまつ》ります、私事は留太夫様と申しあげ奉りまして」
三「なにを申している、自分の名に様を付ける奴があるか」
留「マァ黙っていておくんなさい、どうもあなた様がお使者の口上をお忘れ奉りましたに就いて、私があなた様のお尻をおつねり奉るようなことになりまして……」
三「コレコレなんだ」
留「三太夫さん、おまえさんがここにいちゃ、いけねえや、傍にいると仕事がしにくい、ちょっと他所《よそ》へ隠れていてください」
三「よろしいか、貴様一人で」
留「大丈夫でございます、ようございます、そこはピシャリとお締め切っておくんなさい、覗き奉るとお困り奉りますから、お頼み申し奉りますよ、オイ、大将こっちを向きねえ」
治「ハハ」
留「変な声をするな、お前《めえ》、今日使者の口上を忘れたとな、そそっかしいじゃァねえか、しかし口上を忘れては生きちゃァいられねえ、腹を切って死ぬというから、そいつは気の毒だ、俺が一番|尻《けつ》をつねって思い出さしてやろうと思ってきたんだ、なにもいうことはねえ、こっちへ尻を出しねえ」
治「コレは恐れ入りました」
留「なにも恐れ入るところはねえやな、こっちを見ちゃァいけねえよ、三太夫さんお覗き奉っちゃァ困りますよ」
懐中から釘抜きを出してお尻のところへ当ててキューツと捻《ひね》った。
留「どうだ利いたか」
治「一向に通じません」
留「ナニ通じねえ、恐ろしい固い尻だ、サァどうだこれでは」
治「モソッとお手荒くおつねりください」
留「こん畜生、サア遠慮をしねえぞ、冗談じゃあねえぜ……どうだこれじゃァ、少しは利いたろう」
治「なるほど、なかなかの力量でござる、ウーム、コレは痛み耐え難い」
留「しめたしめた、サ思い出してしまえ、どうだどうだ」
治「ウム、思い出してござる」
これを聞いて三太夫さんが間の襖《ふすま》をサラリと開け、
三「シテお使者のご口上は」
治「屋敷を出る折り聞かずに参じました」
[解説]昔は尻ひねり、釘ぬきなどともいった。小咄に講釈をまぜて作ったもので、サゲはぶッつけ落ち。
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法華長屋《ほっけながや》
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宗論《しゅうろん》はどっちが負けても釈迦の恥……よくわれわれどもが問答のお噺をいたしますが、ご宗旨もいろいろございまして、今日《こんにち》ではまたアーメンとかソーメンとか申して、耶蘇《ヤソ》教というものが行われますが、なに宗旨でもその教えの根源はみな一つ、決して悪いことをいってある訳ではございませんが、とかく自分の信ずる宗旨を広めるために、他宗を謗《そし》る。これを見てると宗教でも商法でも変わりはない、世の中にあるものはなんでも競争は免《まぬが》れないものと見えます。
しかしご出家がお説教をなさるのは、われわれがおしゃべりをするのと違って、人を感じさせる調子などは巧《うま》いものでございます。なかにも門徒《もんと》宗とくると、おありがたいご連中を集めて、お説法の力が身上《しんじょう》をなげうってもこのご宗旨のためにことをしようというような心を起こさせる。あまりこれも凝り過ぎると害をなすと申します。
ご老人が息子さんだの、お嫁さんから絞ったお金を巾着《きんちゃく》へ入れてお孫さんの手を引いてお寺へでかけて、ありがたいお説法を聞いて、どうか冥土へ行ったら極楽往生をしたいという、まずご老人としてはけっこうなお考え。
老「吉坊《よしぼう》や、早く歩きなよ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
孫「婆ちゃん、ここにお銭《あし》が落ちているよ」
老「拾いな」
孫「欠けてる」
老「ヤレ南無阿弥陀仏」
などたいそう力を落とす。お説法を聞いてありがたい所があったら投げようというので、巾着の口を開けて待っていると、立派な法衣を着けたご出家さんが高い所へ登って、もったいらしく、疝気《せんき》病みが雪隠《せっちん》へでも入ったように、エヘンエヘンとしきりに咳払いをして
僧「それ人間の身体を四季にたとえれば春は春霞というて、眼が霞み、蝉が鳴くように耳がガンガンと鳴り、秋は木の葉の落ちるように歯が抜ける。頭には霜をいただく年の暮れかなじゃ。南無阿弥陀仏、それじゃから人間は、ありがたき時も南無阿弥陀仏、悲しき時にも南無阿弥陀仏、ただ南無阿弥陀仏とさえ唱えれば、御光《ごこう》でさえもありがたや、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
ひと区切りつくと後ろの方で小坊主が
小「ご冥加《みょうが》〔謝礼金〕あげられましょう」
ここだと思うからありがたやありあたやといっては、巾着のお金をみんな投げてしまう。そのお金が溜《たま》って本堂の普請金にでもなるかと思うと大違い、新宿《しんじゅく》か橋向《はしむ》こうへ行って、法衣の袖を後ろへ結んで、浮いた浮いたなんて、変な踊りを踊ったりなにかしては、浪費《つかっ》てしまう。なまぐさ坊主が、ずいぶん昔はあったもので、今日はそういうご出家は一人もございません。モウ正しいお方ばかり、また法華宗に凝り固まったお方をよそから見ると、まるで狂人《きちがい》のよう、ことにお会式《えしき》などとくると、鉢巻き襷《たすき》掛けで万灯《まんどう》を押し立って手に手に団扇《うちわ》太鼓を持って、南無妙法蓮華経、ドンドコドンドン、ドンドコドンドン南無妙法蓮華経と、どうも威勢のよいこと、
○「どうです。大した景気で――なにしろお天気がよくってけっこうでげす。みなさんご苦労様、お婆さん危ないよ、足を踏まれるといけないから、気を付けなくっちやァ、南無妙法蓮華経……アノ向こうへ行く十八九の新造はちょっと悪くないね。どこの娘だえ。エ横町《よこちょう》の豆腐屋の、そうかい、婀娜《あだ》っぽいいい娘だアノこっちのはウム仕立屋のお梅坊《うめぼう》か、いつの間にあんないい娘になっちまったろう。幾歳《いくつ》、十九だって……ナニ先月|婿《むこ》がきた。そうかエ仲がいい、嫌だなァ畜生、妙法蓮華経……」
なんて、法華経とくると威勢がようございます。しかしなに宗でもあまり凝り過ぎるとそれがために他宗を悪くいう、これは甚だよろしくないことでございます。むかし下谷《したや》へんに家主《おおや》の茶嘉兵衛《ちゃかべえ》さん、この方が大の法華信者で、なんでも法華宗でなければならないというので誰いうことなく法華家主とあだ名するくらいの変わり者、長屋をなん軒も持っておりますが、他宗の者にはいっさい貸さない。法華宗の人ばかり住んでおりますから、これを法華長屋と申します。路地口へ他宗の者入るべからずという大きな札を出して、八百屋魚屋を初め、諸|商人《あきんど》も法華宗の者でなければ入れない。商人《あきんど》のほうでもみな知っております。
茶「八百屋さん、なにがあるェ」
八「妙法蓮草《みょうほうれんそう》に、そし大根でございます」
茶「そし大根は、にちれんなむめうだェ」
八「三十ばんじんでございます」
茶「それは高いな。ほんだい十六もんにおまけな……」
まるで落語をしているようでございます。ある日のこと、行司の太助《たすけ》さんと安兵衛《やすべえ》さんという二人がまいりまして
太「おはようございます」
茶「ヤアおはよう、サアこっちへお入り、なんだえお揃いで……」
太「ヘェ、他じゃァございませんが、おいおい陽気もよくなってまいりますのについては、お長屋の雪隠《せっちん》のことでございますが……」
茶「イヤ私もまことに汚いことが大嫌いだから、とうに大工の方へそういってやってあるんだが……」
太「イヤそうではございません。だいぶソノ溜まりましてございますがな」
茶「アアそうそう、葛西《かさい》の次郎兵衛《じろうべえ》はどうしたんだか、私のところでもじつは困ってるんだ」
安「てまえどもの家内なんぞには、向こう裏に妹がおりますが、どうも他宗のところの便所は入りたくないと申しておりますので」
茶「イヤ嬉しいね。このくらい長屋の者がご宗旨に凝っているというのは、他宗へ聞こえても巾が利くね。なにしろ葛西の次郎兵衛がこないとなると、どうも困ったなァ……じゃァこうしょう。こればかりはどうも他へ取っておくということもできず、仕方がないから、表へ掃除屋がきたら、その中には法華宗の者もあるだろうから、それを呼んで掃除させることにしょう」
太「なにぶんお頼み申します」
茶「アア、よしよし、チョイチョイ表を通るから呼び込んで、さっそく汲《く》ませることにする。大きにご苦労、なんもそんなことに行司が二人揃ってこないでもよいのに、ハイさようなら……。婆さんや表を掃除屋が通るだろうから、おまえも気を付けてな、それからアノ塩壷をちょっとここへ出してくんな」
女房「お爺さん塩壷をなににするんで……」
茶「なににしてもよいから持ってきな。それから弓の折《おれ》がそこにあったの」
女「弓の折《おれ》なんぞどうするんで……」
茶「ナニ掃除屋を呼んで、中にまたグズグズいう奴があったら、向こう脛を打ち払うために、弓の折を側へ置くんだ」
女「なんだか知らないが、荒っぽいことをおしなさんな」
茶「大丈夫だよ。今日は風もなし、だいぶ温《あっ》たけえから、そこを明けといてくんな」
家主さん弓の折と塩壷を側に置いて頑張っていると、汚い桶を担ぎまして、ぼんやりと、
甲「オワーイ」
茶「オイオイ掃除屋」
甲「ハイ、掃除口はどこですか」
茶「イヤどうせおまえを呼んだから汲んでもらう心算《つもり》だが、その前にちょっと聞くことがある」
甲「ハイなんですか」
茶「貴様の宗旨が俺の気に入ったら、五六|荷《か》の肥《こえ》をただやってご馳走もしてやるが、宗旨を聞いて気に入らなけりゃァ掃除をさせる訳にいかねえ」
甲「ハァそれは家主さんの前ですが、えれえ出入りでごぜえますな」
茶「ウム、えらい出入りだ。おまえの宗旨は」
甲「私の宗旨はありがてえ宗旨でがす」
茶「ありがてえ宗旨といえば、俺の宗旨のほかにねえが、しかし聞かねえことはわからねえ、なんだェ」
甲「おらが宗旨はの、門徒宗だ」
茶「ナニ」
甲「門徒宗だよ」
茶「門徒、オヤオヤ南無阿弥陀仏ときやがったな。そうだろう、門徒らしい面《つら》をしていやがる」
甲「門徒らしい面とはなんだい」
茶「なにも糞もねえ、地獄の下積み野郎め、縁起が悪いや、早く行け行け」
甲「アレなにをするんだい、頭から白い物をぶっかけて……アァなめてみたら塩辛え、塩をかけたな」
茶「そうよ、貴様の宗旨が気に入らねえ。縁起が悪いから塩をかけたのがどうした」
甲「ばかなことをしねえもんだ。俺の宗旨がなんで気に入らねえ。南無阿弥陀仏がなんで気に入らねえ」
茶「なにをいやァがる。南無阿弥陀仏なんて、それが気に入らねえんだ、地獄の下積み野郎」
甲「気に入らねえって、なにもハァ頭から塩をぶっかけるには及ばねえ。ここへ呼んだからには肥《こえ》を汲ませべえといっただろう。半荷《はんか》でもええから汲ましてもらいてえ」
茶「いけねえいけねえ、とんでもねえことをいいやがる」
甲「オヤオヤどうしても汲ましてくれねえかね」
茶「汲ませねったら汲ませねえ。マゴマゴしやがると弓の折で向こう脛をぶっぱらうぞ」
掃除屋は肝をつぶして行ってしまった。その後へ
乙「オワーイ」
茶「オイオイ掃除屋」
乙「ヤヤア肥《こえ》取るかね」
茶「マァ取る前にちょっと聞くことがある。貴様の宗旨が気にいれば、五六荷ただ汲まして飯を食わせるが、なんだえおまえの宗旨は」
乙「ヒエ妙だね、長年掃除屋をしているが、宗旨を聞いて肥取らせるなんて、出っくわしたことがねえ、それはどういう訳だね」
茶「どういう訳でもいいからいってみなさい」
乙「俺の宗旨はありがてえ宗旨でがす」
茶「ナニ」
乙「ありがてえ宗旨でがす」
茶「あまりありがてえのが当てになれねえ、なに宗だエ」
乙「俺の宗旨は、天台宗でがす」
茶「ナニ天台宗、いけねえいけねえ肥を取らせることはできねえ、アア縁起が悪い行け行け」
乙「あんで天台宗が縁起が悪いだね」
茶「あんも味噌もあるものか、行かねえか」
乙「アレどうするだ……ヤァ頭へ塩ぶっかけたな」
茶「縁起が悪いから塩をぶっかけたんだ。グズグズしゃァがると弓で向う脛をぶっぱらうぞ、ざまァみやがれ魔伽莫陀羅《まかむだら》野郎……」
乙「なんだ狂人だ……」
茶「アハハハ行っちまやがった」
丙「オワーイ」
茶「アア、またきた、オイオイ掃除屋、ちょっと寄ってくんな」
丙「ヒヤァ、掃除口どこだね」
茶「掃除口よりおまえにちょっと聞くことがある。おまえの宗旨が気に入れば肥をただやってご馳走するが、なんだェおまえの宗旨は」
丙「ハァそりやァありがてえ。私の宗旨は真言宗といってたいそうな宗旨だ」
茶「ばか野郎、真言宗がなにがたいそうだ。亡国野郎め、真言亡国律国賊《しんごんぼうこくりっこくぞく》ということを知らねえか、サッサと行け」
丙「アレ、じゃァ肥取らせてご馳走してくんねえかね」
茶「誰がご馳走なんかするものか、グツグツしやがると塩をぶっかけるぜ」
丙「アレマァ人をナメクジだと思ってる……」
丁「オワーイ」
茶「オイオイ掃除屋、ちょっと寄ってくんな」
丁「ハァなんですか」
茶「おまえの宗旨はなんだ」
丁「俺ァ禅宗だ」
茶「アア縁起が悪い、念仏無間禅天魔《ねんぶつむげんぜんてんま》、天魔なんぞに用はねえ、行け行け」
丁「アレッ、なんでわし呼び止めただ」
茶「なんでもかでも構ァねえ。サッサと行かねえか、グズグズすると弓の折でぶんなぐるぞ」
丁「アア狂人か……オワーイ……」
茶「婆さんしようがねえ。とても経宗《けいしゅう》のものはこねえ、弱ったな」
くる奴もくる奴もみな塩をぶっかけて怒鳴りつけられる。ちょうど午《ひる》時分、二三丁先の飯屋へおおぜい集まって掃除屋が
甲「アァこれやァ上目黒《かみめぐろ》、高井戸《たかいど》、小松川《こまつがわ》、みな揃ってるな」
乙「オオっ蛇窪《へびくぼ》、しばらくだった。いつもご機嫌よう」
甲「マァ天気が乾いてけっこうだけれども、また秋口になって長降りして水でも出られちゃァなんねえな」
丙「そうとも、農作に害がある。世間中が不景気になるからね」
甲「ヤアこのうえ不景気になったらやり切れねえだ。どうかマァ今年は無事にしてえもんだ……ヤァ、左十《さじゅう》、だいぶわれ景気がいいな」
乙「ナニ景気よくねえだけれども、少し癪に障ったことがあるから一杯|飲《や》っているだ。太郎作《たろさく》どん、この間おめえ、ええ馬を買ったというじゃァねえか」
甲「ナニ駄目だ、九八《くはち》からでかく金出して買ったところが、背骨高く出ていて、荷鞍の付きが悪くってしようがねえ」
乙「ハァそうけえ。明日の晩、花之丞《はなのじょう》のところへ嫁っ子がくるそうだな」
甲「ウム、八郎兵衛の娘のおへこが嫁に行くだ。アアもうとうから乳繰り合ってやがっただ、去年の鎮守《ちんじゅ》の祭りの時に阿魔っ子め、鼻の頭へ真っ白い粉ァ付けて花之丞と手ェ組んで歩いてやがったが、とうとう腹《はら》ァ膨れたか……オオ太郎作《たろさく》われ頭どうした。なんだか白っぽげな粉ぶっかかってるだ」
甲「エ、アア茂右衛門《もえもん》、われの頭にもぶっかかってるだ」
乙「アア、それじゃァわれ、この先で弓持って威張られやぁッしねえか」
甲「アアわれもやられたか。俺の宗旨聞きやァがって、気に入った宗旨なら長屋の肥をただ汲まして、おまけにご馳走すべえというから、俺ァ門徒だといったら、えれえことを吐《ぬか》しゃがって、頭から塩をぶっかけやがった」
乙「そうか、俺もそれ食ってきただ」
甲「そうか、やられたか」
乙「俺ァ天台だといったら、そんな宗旨縁起が悪いといって、塩をぶっかけやがって、マゴマゴすると弓の折で向こう脛をぶっぱらうと吐《ぬか》しゃァがった」
丙「アァ俺もやられた」
丁「われもやられたか」
甲「呆れたなァ。なんだべえあれやッ」
乙「俺の考えにゃァ、宗旨|狂人《きちげえ》だと思う」
甲「そうだな、なん宗旨だんべえ」
乙「マァここにいる者の宗旨はだいたいわかってるが、このなかに法華宗のものなかんべえ」
甲「ウムなるほど、こりゃァ不思議だ。これだけ寄ってるなかに法華宗の者一人もねえだ」
乙「みな塩をぶっかけられるところを見ると、なんでもアノ家《うち》は法華|狂人《きちげえ》にちげえねえ。法華宗だといやァたしかに肥くれたうえにご馳走するだ」
甲「そうかな。惜しいこった、ただ肥もらってご馳走にありつきてえもんだが、チョックラ法華宗になる訳にもいかずよ。誰かハァ法華宗の者ねえかな」
戌「オオ俺ァまだ出遇《でっくわ》さねえ。ちょうど飯も食わねえ内だから、行ってご馳走になってくるべえ」
五郎八《ごろはち》さんという若い掃除屋さん、教わった通りやってまいりまして
五「オワーイ」
茶「オイオイ掃除屋さん」
五「なんだね」
茶「ちょっとおまえに聞くことがある。他じゃァないが、おまえの宗旨はなんだえ。宗旨が気にいれば長屋じゅうの肥をただやってそのうえご馳走をするが、なんだえおまえの宗旨は」
五「俺の宗旨はハァありがてえ宗旨だ」
茶「ただありがたい宗旨というのは、どうも当てにならないが、なに宗だえ」
五「なん宗だって俺ァハァただの肥取り屋でねえ。おまえ様の宗旨はなんだね」
茶「俺の宗旨はありがてえ宗旨だ」
五「ただありがてえ宗旨って、当てになれねえ。おまえの宗旨聞いて俺が気に入ればハァただ肥汲んでやるけれども、さもなければ汲むことなんねえ」
茶「これは面白いな。マァおまえの方でなんだかいってみな」
五「いってみろなんて、この野郎、俺にいわしてからに、欺《だま》して汲ませべえといって、そう旨くはいかねえ」
茶「これやァ反対だ。なんだかいって見てくんなよ」
五「俺の宗旨はえれえ宗旨だ、祖師は日蓮大上人南無妙法蓮華経という日本一のありがてえ宗旨だ」
茶「オイオイ婆さん婆さん、とうとうお出でなすった。くる奴もくる奴もみな他宗の奴ばかりでどうしょうと思っていたが、お祖師様の引き合わせだ。この掃除屋さんは法華宗だそうだ。これはただの掃除屋さんじゃァねえ。じゃァなにかえ、まったくおめえ経宗だね。じつは俺のところは先祖代々法華の固まりだ」
五「駄目|吐《こ》くな。法華だなんて旨えことをいっていやァがって、おめえのところの仏壇を見せろ」
茶「ウム見せてやる……ソレどうだ、法華に違いなかろう」
五「ウムなるほど、これは法華だ。綿《わた》ァ被《かぶ》ってござるな、法華に違えねえ。そんならハァ汲んでやるべえ」
茶「じつはいつもくる掃除屋が、一月あまりこねえで、スッカリ溜まっちまったもんだから、長屋じゅう大騒ぎだ。一つ汲んでもらいてえ」
五「じゃァその前《めえ》にご馳走になりてえもんだ」
茶「マァ汲んでから後でご馳走しよう」
五「ヤァそうでねえ。おめえ今なんといった、日蓮上人の手引きだといったでねえか。|そしゅ《ヽヽヽ》一ぺえつけてもらうべえ」
茶「なるほど|そしゅ《ヽヽヽ》はありがたいな。よしよし今つけてやるよ、婆さんや早く酒をつけな。それから魚屋へ行ってな、刺身かなにか大急ぎで取ってきてやんな……サァ燗《かん》ができたからおあがり」
五「そうけえ。じゃァマァすまねえけれどもご馳走になるべえ。その代わりみな俺が汲んでやるから安心していねえ」
茶「マァありがてえ。お祖師様のお引き合わせでようやくご宗旨の掃除屋がきてくれた。婆さん後でご仏壇へお灯明をつけてあげな……。サアおまえさん一ぱい飲んだらいい加減汲んでおくれ」
五「ヤァなかなかハァこんことでは、足りねえだ。モウ二三本つけてもらいてえ」
茶「そんなに飲んで酔っ払って肥が汲めるかえ」
五「汲めるも汲めねえもねえさ。ハァ俺の腕は素人にはわからねえ。アハハハハいい心持ちだね、ありがてえ。マァ世の中に法華宗くらいの宗旨はなかんべえな」
茶「それはもうおまえのいうまでもない。経宗ぐらいありがたい宗旨はないね」
五「そうだよ。日蓮様が佐渡のご難なんて、えらいご苦労なすった。これもハァみなのためだ。ありがてえ、モウ一本つけてくれ」
茶「冗談じゃァない。そんなに酔っちまって汲めるかい」
五「心配《しんぺえ》するなてえことよ、サァ酌をしてくれ」
茶「たいぶおまえフラフラしているな」
五「アハハハハいい心持ちになって、なんだか気が重くなった。桶預けて行って明日の朝きて汲むからな」
茶「オイふざけちゃァいけねえ。肥桶を置いてかれて、たまるもんじゃァねえ。だから初めからいったんだ。酔わねえうちに汲んでくれといったのに困ったなァ」
五「なんだ。俺ァハァ日蓮様のお手引きでここへきたべ、グズグズいうとハァ罰ィ当たるぞ」
茶「なにをいっているんだ。マァこっちへきて汲んでくれなくっちゃァいけねえ」
五「汲まねえでいけねえなら、おまえ汲みなせえ」
茶「冗談いっちゃァいけねえ。おまえ商売じゃァねえか」
五「商売でも、ハァ今日は日蓮上人のお引き合わせだ。俺ァハァ日蓮様だ。おまえ様汲むがいい」
茶「しようがねえな。臭くって困るなァ。オイ婆さん手拭いを持ってきてくんな……しょうがねえ、俺が一杯汲むから後を汲んでくんな」
五「ハハ汲むか、物は試しだ。やってみな」
茶「驚いたなッこれにゃァ」
五「旨く汲め」
茶「なんだいこれは、肥を汲んで叱られりゃァ世話ァねえ、バカバカしい。サア後を汲んでくれ」
五「ついでだ、みな汲めよ、その代わり、おら担いで行ってやる」
茶「当たり前だ。このうえ担がされてたまるもんじゃァねえ。しようのねえことになっちまった。前に酒を飲ませなきゃァよかった……」
家主さんいまさらよす訳にもいかない。手拭いで鼻を縛って、尻っぱしょりで、ようやく一荷汲み出して
茶「サァ汲んだから持っててくれ」
五「ハハハハとうとう汲んだな。これもハァ日蓮様のためだ、お祖師様のためならしかたがあんめえ。ええさハァ大丈夫だ。こればかりの酒に酔っ払ってしようがあるもんか。先祖代々掃除屋の家柄だ。酒飲んで肥の一荷や二荷担げねえことがあるもんか。チョックラハァおまえ担いで見ろ」
茶「俺が担ぐんじゃァねえ。おまえが担ぐのだ」
五「ええよ、いま担ぐよ。おまえ素人だから駄目だ。腰がきまらねえ。肩で担ぐだ。腰で担ぐでねえ、ドッコイショ」
茶「オイオイ大丈夫か。なんだか能書きばかりでちっとも腰がきまらねえな」
五「大丈夫さ。酒飲んだからって稼業にかけたら、こんなもんだ。心配するなよ」
茶「アー危ねえ、ソレぶつけた」
五「オートットット、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
茶「オヤ、掃除屋、貴様法華じゃァねえな」
五「エーッ、アンおら法華だ」
茶「嘘をつけ、いま南無阿弥陀仏といったじゃァねえか」
五「ヤア、こんな時には家主さん、他宗へかづけるだ」
[解説]長屋ものの快作のひとつ。強烈な信者気質を、極端に諷刺し尽くしてある。なかでも若い掃除屋の啖呵がきいている。
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饅頭《まんじゅう》こわい
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甲「サァみんなこっちへ入ってくんねえ。いいからこっちへ入ンな。入口に立っていると小縁起《こえんぎ》が悪いから、サァみんなこっちへ入れ、入ったからって遠慮をしねえであぐらを組んでくんナ。布団は三枚しかねえんで、一人で敷いて一人が敷かずにいるのは気まずいから、いっさい抜きとしな」
乙「時に兄弟、廻状《かいじょう》がまわってきたが、なんか大きな請け負いでもあるのか」
甲「なんの、他のことじゃァねえが、じつはこういうわけなんだ。今日仕事が半ちくになってしまったから休んじまった。そこでいつもおまえがたとは一緒になることもなし、おたがいに稼業があるからそうそう遊んでもいられねえ。しかし今日は俺が休んだから、おまえがたに来てもらって、落ち着いて話しをしようと思っての」
乙「それはけっこうだね、至極《しごく》賛成だ」
丙「けっこうだ。ゆっくり話しをしたいね」
甲「みんなが賛成となると言うことがあるんだ。というのはどうもおまえがたは酒ぐせが悪いから、せっかく寄ったところで喧嘩でもできた日には困るから、どうもすまねえが、酒は抜きにするよ」
乙「オット、少し待ってくんねえ。ご冗談でしょう。ふざけちゃァいけねえぜ。こちとらはなんのために朝むっくり起きて出かけて、お星さまの出る時分にようよう帰ってくるんだ。酒を飲みてェために働いてるんだ。それを禁じられた日にゃァ生きてる甲斐がねえ。ふざけちゃァいけねえぜ」
甲「マア少し待ってくんねえ」
乙「どうしたんだ」
甲「怒るなよ。終《しめ》えまで話を聞いてくんねえ」
乙「どういう話か知らねえが、こちとらは飲まずにゃァいられねえんだ」
甲「だからよ、飲みたきゃァ飲むがいい、しかしここだけは酒をよしてくんねえ。二次会に飲むということにして」
乙「なるほどわかった。それなら苦情はいわねえ、みんな安心しろ、二次会に飲めるんだから」
丙「それはありがてえ、そうきまったら、みんなの気が変わらねえうちにさっそく二次会にしよう」
甲「あまり早過ぎる。それから封じておくことが三つあるんだ」
乙「なんだえその封じるということは」
甲「他のことでもねえが、自慢話は今日は抜きにしようぜ。自慢話をしている奴はよかろうが、聞いている者は歯が浮いていけねえから、それからもうひとつ封じるのは惚気話《のろけばなし》だ。女の話は今日だけよしてくんねえ、もっともここへ寄った連中は女には縁が遠いから、のろける種もあるめえから安心だ」
乙「安心だは心細いね」
甲「オイ初《はつ》、おまえ妙な顔をしているがどうしたんだ。気持ちでも悪いというのか」
初「なに、俺だけ今日の会は、別ちょ除物《のけもの》にしてもらいたい」
甲「なに、別ちょ除物だ」
初「そうよ。自慢話はする種も腕もねえから黙っているが、女の話を封じられちゃァ困るからナ、彼女《あれ》だってたまには俺がのろけてやるんで、つらい勤めも苦にならねえのだと思うンだ」
甲「いやな奴だナしっかりしろよ」
初「だが兄弟《きょうでい》、自慢話を封じ、のろけを禁じた日にゃァ話がなくなるぜ」
甲「話がなくなるといって、なにもニラメッコをするわけでもねえ。なにしろここに集まった連中はみんな古い友だちだから一日子供の心持ちになって、くだらねえ話をして遊びたいとこういう寸法なんだ」
乙「悪い寸法だナ。なにしろこう大きくなっているンだから、子供の心持ちには到底なれねえ」
甲「なにも子供になれといったわけじゃァねえやな」
乙「そうだろうがその心持ちになれというから……、しかしせっかくあにいがそう言うんだ、後の二次会を楽しみに我慢をしよう。オヤしばらく会わなかったナ甚馬《じんま》、どうしたえ。真ん中へ出てこいよ。隅にいたから気がつかねえ。こっちへこいよ。どうもおまえの顔を見るとなつかしいや。久しく会わなかったナ。ここにいるものはみんな、かなり古い友だちだ。中にもおまえと俺はガキの時分からの友だちだ。おまえの顔を見ると本当になつかしいよ。まったくだぜ。人中《ひとなか》で恥をかかせるようですまねえけれども、おまえくらいガキの時分に泣き虫はなかったぜ、ちょっと触ってもワッと泣き出したが、今でもちょっと触っても泣くかえ」
甚「冗談いいなさんナ、あまり人をバカにしなさんな。この頃はおそろしく強くなったぜ。うそだと思ったら触ってみねえ、泣かねえから」
丙「よせよ。くだらねえことを言うな。それはそうと甚馬、おまえは子供の時分は臆病だったな。ばかにこわがったことがあったぜ。なんだっけな。ウンそうそうヘビだったナ」
甚「ウム、ヘビと聞くとゾッとするよ」
丙「そうかえ、いまだにヘビはきらいか」
甚「大きらいだ。ヘビを見ると足が前へ出ないね」
丙「妙なもんだナ。虫が好かねえんだ。なんでも胞衣《えな》を埋めたところを〔後産の胎盤などを埋める習慣があった〕第一番にヘビが通ったので、それでヘビがこわいに相違ない。オイおまえはなにがこわい」
丁「俺はカエルがこわいね」
甚「カエルなんぞのこわいわけはあるめえ」
丁「ところがカエルを見ると身体が縮んでしまう」
甚「じゃァおまえの埋めた胞衣の上を、いの一番にカエルが通ったのだナ」
丁「それでこわいのかナ。松《まつ》おまえなにがこわい」
松「俺はヘビもカエルもこわくねえがナメクジがこわいね」
丁「虫拳《むしけん》〔親指を蛙、人差し指を蛇、小指をナメクジとしておこなうジャンケン〕だね」
松「本当だよ。ナメクジを見ると手も足も出ねえ。どうも自分ながらふしぎだナ」
甚「フーンおまえなにがこわい。エ梅《うめ》」
梅「俺はゲジゲジだね」
甚「そっちはなんだえ」
戍「俺はイモムシだ」
甲「だんだん意気地がなくなってきたな。オイ八《はち》、おまえはさっきから人の顔を見ながら煙草ばかり喫《の》んでいるがなにがこわい」
八「なにを、なにをぬかしゃァがるんだ。てめらはなんだ。この動物めら」
甲「これは猛烈だね。動物めらはひどいね」
八「てめえらはなんだえ。やせても枯れても人間だろう。人間といえば万物の霊長だろう。その人間がヘビがこわいのカエルがこわいのと意気地のねえ野郎だ」
甲「これはおどろいた。それは人間のほうが強いけれども虫の好かねえものがある。なにかおまえにだってきらいなものがあるだろう」
八「こわいものはなにもねえ、ひとつもねえよ」
甲「考えたらひとつくらいあるだろう」
八「じれってえ野郎だな。ひとつもこわいものはないよ。まごまごすると、片ッぱしからはり倒すぞ」
甲「よせ、なにをいやァがる。そう怒るな、子供のような心持ちになって今日は遊ぼうというのだ。いやにいばってばかりいやがる。なんかひとつくらいこわいものがありそうなものじゃァねえか」
八「こわいものはバカだな。世の中にこのくらい恐ろしいものはない。それに借金だ。こいつもまたばかにこわい」
甲「そんなものでなく、なんかありそうなものだ」
八「じつはあるよ」
甲「それみろ」
八「あるが、それを言うとおまえらが笑うから」
甲「笑やァしねえよ」
八「笑うから言わねえ」
甲「なに笑うものか、なんだか白状しねえ」
八「じつはね、俺はまんじゅうがこわいのだ」
甲「なに、マ、まんじゅう……妙なものがこわいものだ。だがおまえの言うまんじゅうは虫か、獣《けもの》か」
八「虫でもなければ獣でもねえ、ただのまんじゅうだ」
甲「食うまんじゅうか、それはうそだろう」
八「ほんとうだよ、俺はまんじゅうを見るとゾッとする」
○「まったくか」
八「うそじゃァねえ」
甲「へエー、そばまんじゅうはどうだ」
八「ばかにこわいな」
甲「なるほど顔の色が変わってきたぜ、ふしぎだな」
八「話をしたばかりでいやな心持ちになった、どうしよう。すまねえが俺はこれから帰るよ」
甲「こまるな。せっかく集まったのにおまえが一人居なくなると淋しくっていけねえ。どうだい奥の六畳で一眠りしねえか、そのうちには気持ちがよくなるだろう」
八「そうか、じゃァ二次会まで寝かしておいてくんねえ。グッスリ寝たら心持ちが治るだろう。本当にまんじゅうの話をしたらこわくなった。このまま帰ると割り前を恐れて逃げたと思われちゃァ癪《しゃく》にさわるから、少しの間、寝かしてもらおう」
甲「いいともいいとも、奥で寝ていねえよ……どうだ妙な奴があるものだな。まんじゅうがこわいというのはふしぎだね。まさか胞衣《えな》の上をまんじゅうが通ったわけでもあるめえが、妙なものをこわがる奴だな」
甚「それについて、少し相談があるんだがな」
甲「なんだい」
甚「みんな、ひとっとこに集まってくんねえ。あいつに聞こえるといけねえ」
乙「どんな相談だい」
甚「どうだろうみんな、八をひとつおどかしてやろうじゃァねえか。まんじゅうがこわいということは今まで聞いたことがねえ。俺の考えではあいつの胞衣を埋めた上へまんじゅうを持った子供でも通ったので、それであいつがこわがるのだと思う」
乙「なるほど」
甚「そこであいつは平常《ふだん》からいやに理屈をいって、なまいきにあにィぶっていやがるから、オイみんなそばへ寄ってくんねえ。聞こえやァしめえな」
丙「だいじょうぶだ」
甚「ところでひとつあいつをおどかしてやることにして、みんな銭を出してまんじゅうを買ってきて、あいつの寝ている枕もとへズッと並べてしまって、それから起こしてやると目の前にきらいなまんじゅうが並んでいる、びっくりするぜ。その時にヤイ八、てめえ平常《ふだん》からなまいきなことをいうが、これから先、心を改めて柔順《おとな》しくなれば、このまんじゅうを引っ込ましてやろう、それともまだ了簡が治らなければこれをてめえの懐中《ふところ》へ押し込むがどうだというと、あいつがきっとこれからおとなしくするから勘弁してくれと詑びるにちがいない。どうだ、友だちのよしみだ。あいつをまんじゅうで真人間《まにんげん》にしてやろう。これを名づけてまんじゅうのご意見という、なんとおもしろかろう」
乙「それはおもしろいが、少し待ちねえ」
甚「なんだ」
乙「あいつはまんじゅうの話をしたばかりで、顔の色が悪くなるほどきらいだ。そのまんじゅうを見たらば目をまわすだろう」
甚「それは目をまわすよ。むろん目をまわす」
乙「そうなったらどうしよう」
甚「医者へ駈けつけるのだ。医者がきて首をひねったらすぐに葬儀社と寺へ駈けつけることにして」
乙「たいへんな騒ぎだぜ」
甚「友だちの了簡を入れ替えてやるのだ。そのくらいの手数もかかろうじゃァねえか」
丙「大きにそうだな」
甚「なにしろまんじゅうを買ってこなければいけねえ、オイ松、どこへ行ったんだ」
松「まんじゅうを買いに行ったのよ」
甚「おそろしく気の早い奴だな」
松「相談がきまったら、いいも悪いもあるものか。物は早いほうが勝ちだ。すぐに買ってきた」
甚「たいそう買ってきたな」
松「財布をひっぱたいて八十五銭も買ってきてしまった」
甚「そうか、なんだいこれは、そばまんじゅうか」
梅「オイ俺も買ってきた。五十銭奮発した」
甚「なるほど、なんだいこのまんじゅうは」
松「腰高《こしだか》まんじゅうだ」
甚「おまえのはなんだ」
梅「田舎《いなか》まんじゅうよ」
甚「これだけ野郎に見せればおどろくぜ。それはいいが、イザとなったら医者へ駈けつけろ。いいか、手落ちがあっちゃァならねえ。ことによると八公はこのまんじゅうを見るとおめでたくなるかも知れねえ。どうしたどうした寝ているか」
そっと次の間をのぞいて
乙「よく寝ているよ」
甚「しめたしめた、知らぬが仏とはよくいったものだ。俺が持って行って並べるから……」
と次の間へそっと入り、枕もとにまんじゅうを並べる。
松「どうしたどうした」
甚「だいじょうぶ、だいじょうぶ、あいつは知らずに寝ていやがる。静かにしねえよ。いいという時分に俺が起こすから」
松「しかしおかしいな。まんじゅうをこわがるというのは妙じゃァねえか」
甚「虫のせいだよ」
丙「大の男がまんじゅうを見るとふるえるというのは、おそろしいものだな」
甚「静かにしねえ、静かに」
乙「どうだえあにき、あいつは飛び起きておもてへ駈け出すだろうと思うんだ。ふだんから強がっている奴がまんじゅうを見て逃げ出す態《ざま》は見られねえぜ」
甚「マアいいや、起こしてみねえうちはわからねえ、いいかえ、ソロソロ起こすよ……。オイ八あにィ、オイ兄弟、もう二次会だ。早く起きねえか」
八「そうか。もう二次会か、おそろしく寝てしまった、アーアーアー、たいへんだたいへんだ……ヤーたいへんだたいへんだ兄弟助けてくんねえ、まんじゅうが来やァがった。たいへんだたいへんだ」
松「しめしめ、八公ふるえてやがる。ふしぎだねえこれは、どうしてあんな物がこわいのだろう。どうしたどうした八あにィ」
八「たいへんだたいへんだ、ああこわいこわい」
言いながらまんじゅうを食い始める。
八「これはこわい……腰高まんじゅうなぞはバカにこわい、そばまんじゅうときたらたいへんにこわい。オー今度は田舎まんじゅう、これもこわい、|日まし《ヽヽ》だとみえて皮までこわい」
甲「オイ少し待ちねえ。ようすがおかしいぜ。こわいこわいと言いながら、まんじゅうを食ってるぜ。医者にはおよばねえよ。ちくしょう、うまくやりゃァがったな。どうだい一杯食ったぜ。ばかにした野郎だな。ヤイ八公、あまりばかにするない」
八「なにがばかにしたい」
申「なにがっててめえがまんじゅうがこわいというから、みんな壊中《ふところ》を引ったたいてまんじゅうを買ってきたんだ。こわいという物をそばから食う奴があるか」
八「そうか、まんじゅうのこわいというのはうそだよ」
甲「ナニ、うそだ……サァみんなここへ集まれ、うそだとよ」
松「どうも俺もへんだと思った、ヤイ八、ほんとにおまえのこわいのはなんだ」
八「ウム、今度こわいのは濃い茶が一杯……」
[解説]このサゲはぶっつけ落ちのごとくに解されるが、それよりも拍子落ちのほうが当たっていよう。談州楼焉馬《だんしゅうろうえんば》編の「落噺《おとしばなし》六」義の中には、東南西北平作として出ている。
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鰍沢《かじかざわ》
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ご宗旨《しゅうし》も八宗九宗に分かれていろいろありますが、たんにお祖師様《そしさま》というと、だれしも指を屈するのが日蓮様《にちれんさま》、これは申すまでなく経宗《けいしゅう》の祖師で、他宗でもそれぞれえらい祖師があるけれども、どういうものか、お祖師様というと、日蓮様のほかにないように思っている人がございます。
この法華宗は一番あとから起こって、最もよく広まりました。そのかわりご宗旨を広める時には他宗のことを悪く言いました。念仏《ねんぶつ》無間《むげん》、禅天魔《ぜんてんま》、真言亡国《しんげんぼうこく》、律国賊《りっこくぞく》などといって、他宗をののしりました。それがために日蓮宗はたびたびご寿命を縮めるような目に会いました。ご開帳でも始まると、ドンドコドンドンドコドコ、太鼓をたたいて毎晩毎晩ご参詣に行く。ずいぶんたいへんだというが、それどころではございません。
ご本山は甲州《こうしゅう》の身延山《みのぶさん》、ご承知の通りの険しいお山だが、その難渋《なんじゅう》を冒《おか》してわざわざご参詣をなさいます。それもお天気の時はまだしもですが、雪などに降られた日にはたまりません。行けども行けども山また山、四辺《あたり》は一面の銀世界、真綿《まわた》をちぎって投げられるような雪がドンドン降っている。道に踏み迷ったものか、人家がさらになくなって、腹はへってくるし、日は暮れるしこれは困ったと、一生懸命足を棒のようにして急いでくると、はるか向こうに燈火《あかり》がチラチラ見えます。ヤレありがたいと、その燈火をたよりにきてみると壊れかかった家がただ一軒、中をのぞいて見ると囲炉裡《いろり》のところに年頃三十格好になりますおかみさんが、しきりに囲炉裡へ粗朶《そだ》をくべております。
旅「エエ、少々お尋ねいたします」
女「ハイ」
旅「私は小室山《こむろやま》から鰍沢《かじかざわ》へまいります者でございますが、どうまいったらよろしゅうございましょうか」
女「オヤオヤそれはマアたいへんに方角がちがいますよ。こっちへおいでなすっちゃァ、鰍沢のほうとはまるで見当がちがっておりますよ」
旅「さようでございますか、お見かけ申してご無心《むしん》があるのですが、いかがでござんしょう。今夜一晩雪をしのぐだけでよろしゅうございますけれども、泊めていただきたいものでございますが」
女「困りましたねえ。着て寝るものもなし、食べる物もないが、それがご承知なら、夜を明かすだけ明かしておいでなさい」
旅「ありがとう存じます。どこでどう道を踏み迷いましたか、ひどい目にあいましたもので、こちらがございませんければ、雪のために私はこごえ死ぬところでございました」
女「サァサァこっちへ入ってお焙《あた》んなさい」
旅「ありがとう存じます」
草鞋《わらじ》を解いて、囲炉裡のそばへまいりまして、
旅「どうもひどい目にあいました。どうぞ一晩だけ、夜を明かさせていただきとう存じます」
焙りながらこの婦人のようすを見ておりましたが、ボーゥと燃え上がった明かりでよく見ると、男のどてらを着て、巻き帯をいたし、髪は結び髪というやつで山家《やまが》にはまれないい女。おしいかな咽喉《のど》のところに月形の傷があります。旅人はジロジロ見ておりましたが、
旅「エーお言葉のごようすじゃァ、江戸のお方のようでございますが、やっぱり以前は江戸の方でございましょうな」
女「水の流れと人の行く末、どんなところで暮らすかわからないもので、江戸と聞くとなつかしいんですよ」
旅「アア、さようでございますか、どうもごようすがあちらのほうと思いました。どういう所でどういう人にお目にかかるか知れないもので、じつに悪いことはできません。どうもどこかでお見かけ申したことのあるように思いますが……つかぬことをお聞き申しますが、あなたはもしや以前|吉原《よしわら》にいらしったことはございませんか」
女「アラマアきまりが悪いじゃァありませんか、ご存じですか」
旅「まちがったらお詫びを申しますが、熊蔵《くまくら》丸屋《まるや》の|月の戸花魁《つきのとおいらん》じゃァございませんか」
女「マアきまりが悪い。おっしゃる通り、月の戸のなれの果てでございますよ」
旅「どうも最前《さいぜん》からお見かけ申した時、そうじゃァないかと思ったもんですから、失礼ながらお尋ねいたしました。お忘れかも知れませんが、久しい以前に私はいっぺんお酉様《とりさま》の晩に行ったことがございました。私の連れの男が唐の芋を廊下へ出しておいて、そいつを踏みつけてたいへんごやっかいになったことがございました。その後まいりまして、おうわさを聞きますと、花魁は心中をしたとか死にそこなったとかいうお話でしたが、真実そんなことがあったんですか」
女「じつはねえ、心中をしそこなって、品川溜《しながわだめ》へ下げられて、今じゃァこのようなところへきて暮らしています」
旅「ヘエさようでございますか、デ旦那というのはなにをしていらっしゃいます」
女「元が生薬屋《きぐすりや》なので、膏薬《こうやく》を練ることを知っているものですから、今では熊の膏薬を売っております」
旅「ヘエーそうでございますか。なんかお芝居にでもありそうでございますな、身の古傷を隠そうため、亭主は熊の膏薬売り……イヤどうも変われば変わるもので……」
話をしながら、懐中《ふところ》へ手を入れて、モジモジやっておりましたが、胴巻きを脇から出して、その中から金包みを取り出して、封を切って小判を二枚
旅「これははなはだ失礼でございますが、ホンの手みやげの印でございます。花魁がここにいらっしゃるってェことを知ってりゃァ、なんか江戸からめずらしいものでも持ってくるんでしたが、よもやここでお目にかかろうとは思いませんでした。ホンの私の心ばかり」
女「マアいけませんよ。このようなものをもらうと、うちの人が帰ってきて、叱られますから」
旅「イエ、ホンのなんでございます。失礼でございますが」
女「そうでございますか、じゃァなんというか知れません、夫が帰るまでおあずかりをいたしておきます。あなたはお酒を上がりますか」
旅「ヘエいただきます。エエじつは途中で一杯やってきたんでございますが、この雪のために酔いもなにもまるで醒《さ》めてしまいました」
女「それじゃァこのへんのは地酒《じざけ》でいけませんから、たまご酒《ざけ》にでもしてあげましょう」
やがてたまご酒をこしらえてくれまして
女「サア一杯おあがんなさい」
旅「どうもありがとうございます。久しぶりでお目にかかかりましたばかりでなく、ここで計らずも、花魁のお酌でお酒をいただこうとは思いませんでした。ごちそうさまで」
冗談をいいながら大きな湯のみへ一杯ついでもらったのをグイッと飲み、
旅「アア、どうもよい心地だ。これでスッカリ暖まりました。この雪のために道を迷って、こうして花魁のごやっかいになるというのも、なにかのご縁でございましょう……こりゃァありがとう存じます。どうもおそれいります」
また一杯ひっかけて、かの男はよい心地になり
旅「おかげさまでスッカリ暖まりました。お腹の中は酒で暖め、外は焚き火で暖め、なんのことはないまるでカステラをこしらえるようなもので、へヘヘどうも雪の中を歩いてきたものですから、ひどく疲れてしまいました」
女「サアサア、それじゃァ遠慮なく、次の間へ行っておやすみなさい。そのかわりべつに着て寝る物もありませんよ」
旅「イエもうけっこうでございます。ありがとう存じます」
道中差しを持って胴巻きをブラさげ、
旅「それじゃァお先へごめんくださいまし。ご主人がお帰りになりましたらよろしく」
反古《ほご》張りの障子を開けて小座敷へ入りますと、蒲団に枕が出ております。着がえの着物にくるまってゴロリ横になると、酒の威勢でグウグウ眠てしまった。お熊は亭主に飲ませる酒がなくなりましたから、山家とはいいながらどこか酒を商う家があるとみえて、番傘をさし、徳利をさげて出て行きましたが、入れ変わって帰ってきましたのが亭主の熊の膏薬売り伝三郎《でんざぶろう》、鹿の皮の朋服《ほうふく》を着て山刀《やまがたな》を差し膏薬箱をさげて、草鞋《わらじ》ばきでザクザクザクザク
伝「オオお熊、いま帰った。オヤ居ねえのか、アアまたどこかへ行きやァがったな。しようのねえ女だなァ」
箱をそばへ下ろして炉のところヘドッカリあぐらをかいて、ボッボと粗朶《そだ》をくべて焙《あた》りながら、
伝「オオ寒い寒い、この塩梅《あんばい》じゃァまた明日も降りだな」
ヒョイッとそばを見て
伝「なんだたまご酒か、バカにしてやがる。こっちゃァ雪の中を歩いて帰ってくりゃァ、家にいてたまご酒なんぞ飲んでやがる」
徳利を振ってみると、まだ残っている。それを湯呑みへついでグーッとあおった。
伝「アーアー、たまご酒のぬるくなったなァあまりうまくねえもんだなァ」
ぐずぐず言いながら焙《あた》ってると
熊「オイちょっと開けておくれよ」
伝「なんだおくまか、てめえで開けて入んねえな」
熊「そんなことを言わないで開けておくれなね。下駄の歯へ雪が入ってしまって、ゴロゴロしてしようがないんだよ。両方の手がふさがってるんだから開けておくれよ」
伝「いま開けてやるから。待ちな、どこへ行ったんだ」
熊「ナニネ、お客があって、おまえの飲む酒がなくなったから、代わりを買いに行ってきたんだよ」
伝「アアそうか。今開けてやるからよ。……アイタタタ、オオ痛え痛え、アイタタタタ」
熊「どうしたんだえ」
伝「ちょっと待ってくれ、アイタタタタ」
熊「どうしたんだよ。しようがないじゃァないか、どうかしたかい」
伝「どうもしやァしねえが、なんだか急にひどく差し込んできやがった」
お熊、傘を投げ捨てて、自分で戸を開け入ってきて、
熊「おお寒いところを歩いて、つまらない物でも食べて当ったんじゃァないか」
伝「ナニも食いやァしねえ、いま家へ帰ってくると、たまご酒が残っていたから、そいつを飲んだんだ」
熊「エッ、アレマアおまえ、とんだことをしたじゃァないか、ありゃァおまえ|しびれ《ヽヽヽ》薬だよ」
伝「エーッこんちきしょうめ、俺に毒を飲ませやがったな」
熊「おまえに飲ませたわけじゃァないが、道に迷ってきた客人の懐中を見ると、百両ばかり金があるようだから、いつまでこんな山中で暮らすのもつまらない。その金をこっちへ巻き上げようと思って、おまえがこの間こしらえといた|しびれ《ヽヽヽ》薬を、たまご酒の中へ入れて飲ました。その残りをおまえが飲むたァ、なんてえ意地きたない真似をするんだろうね」
伝「ヤアそりゃァとんでもねえことをしちまった、ウーム苦しい」
熊「どうもしかたがない、おまえがこしらえた薬でおまえが死ぬんだ、自業自得とあきらめて死んでおしまいよ」
伝「ナ、ナ、ナニひどいことを言いやァがるな、とんでもねえちくしょうだ。こうなっちゃァ死なねェ、俺ァ死んでも死なねえ」
ひどく欲ばった奴があるもので、しきりに苦しんでおります。その騒ぎに次の間で寝ていた旅人《たびにん》が目を覚まし、
旅「こりゃァたいへんだ。とんだところへ泊まり合わせた」
とヒョイと起きようと思うと、毒がまわっておりますから身体が利かない。
旅「サァたいへんだッ」
ヒョロヒョロッと立ち上がり、雨戸のところへ寄りかかって、グッと押すと閾《しきい》の溝も浅かったか、戸といっしょに外へ転がり出した。そのうちに気づいたのか、小室山《こもろやま》から受けてきた毒消しのご符《ふ》、それを取り出して、口へ含み、雪をつかんで飲み込みまして、
旅「南無妙法蓮華経《なむみょうほうれんげきょう》、南無妙法蓮華経」
と一心不乱に題目を唱えるとふしぎやその毒消しのご符の効能《ききめ》で、どうやら身体が利いてまいりました。こうなると欲を知らない者はありませんから、ふりわけの荷物を取って肩へかけ、道中差しを腰に差して、裏口から逃げ出すようす。
熊「エーしょうがないネェ。おまえの敵はあの客人だ、女の足では追いつかない、この鉄砲を持ってって撃ち殺してしまうから、それを冥土《めいど》のみやげにおまえも死んでくれ」
ウームウームと苦しんでいる亭主をそのまま立ち上がったおくまはそばに掛けてあった鉄砲の弾丸《たま》込めをいたし、火縄へ火をつけ、雪で消されないように、袖の中へ入れて、鉄砲をさげ裸足のまま旅人の後を追い駈けてくる。旅人は一生懸命無我夢中に駈け出しましたが、足がすくんで思うように駈けられません。何遍《なんべん》も何遍も転がりながら逃げてくると、突き当たりは屏風《びょうぶ》を立ったような岩、そばを見ると東海道|岩淵《いわぶち》へ流れてまいりまする鰍沢、雪どけのため水かさが増しておりますから、ゴーッゴーッという山川の急流、サーおどろいた、突き当たりは岩、そばは急流、ひき返そうと思ってふりむくと、後ろから鉄砲を持って、追い駈けてくるようす。もう仕方がない、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれと、思いきってパッと飛び込むと、ちょうどつないであった筏《いかだ》のうえへ落ちるとたんに道中差しが鞘走《さやばし》って、筏をつないだ藤蔓《ふじづる》がぷッつり切れると、水かさがまさっておりますから、ゴーッと筏が流れ出した。
旅「アアこりゃァたいへんだ、たいへんだ」
といううちに岩角ヘドーンとぶつかると、この筏がバラバラになってしまった。旅人はただ一本の材木に一生懸命にすがりついたまま、
旅「妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」
とたんに後を追ってきた月の輪お熊、ねらいが定まったものか、ガッチリ引き金を引く、弾丸は銃をはなれてドーン、ハッと思うと髷節《まげっぷし》をかすって、前の岩角へカチーン
旅「アッ、この大難《だいなん》をまぬかれたのも、お祖師様のご利益《りやく》、ただ一本のご材木〔ご題目〕で助かった」
[解説]円朝作の三題噺〔客から適当に三つの題をもらい、一席の噺にする〕という、題は毒消し、鉄砲、たまご酒であった。サゲは地口落ちで、「清正公酒屋」と同じであるが、三題噺のことであるから無理にサゲをつけてはあるものの、人情噺としてはサゲのないほうがいいようなものである。落語中の大物とされている。
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袈裟御前《けさごぜん》
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人によって芝居の好きな方もあれば、相撲《すもう》の好きな方もありますが、徳川時代には女は相撲を見せると気が荒くなっていけないといって、勧進相撲《かんじんずもう》には婦人は入れなかったくらい。つまり婦人は陰《いん》なるもの、されば気を鎮めるために鼈甲《べっこう》といって玳瑁《たいまい》の甲羅《こうら》で製した物を髪飾りに用いました。すべてこの亀に属したたぐいのものは心《しん》は強くとも、形の穏やかなもので、子供が甲羅を持って頭を突っつくと、首も四つ足もひっこましてしまう。女もこれにならって甲羅で造った物を頭へのせるのだと申しますが、これはどうだかわかりません。
この鼈甲というものがなかなかお安いものでございません。上流社会のご婦人はその高いけっこうな鼈甲を子供の時から頭へのせておりますから、お嫁《かた》づきの後、どういうことでか、たまたま旦那さまと言い争いをなさることがありましても、その時に旦那さまが一言、女というものはあまりペラペラしゃべるものではない。黙っておいでなさいというと、ソコで鼈甲の効能でございます。たちまち黙っておしまいなさる。われわれ下層社会の女房でも女のことだから、やはり鼈甲の櫛《くし》がほしいと思うことがあるとみえてねだります。
女「ちょっとおまえさん、後生だから鼈甲の櫛を買ってくださいな」
男「なにをいってるんだ。こちとらの女房が鼈甲の櫛なんかいるものか」
女「それでもお向こうの渡辺さんの奥さんは二十円で櫛をおこしらえなすったが、斑《ふ》が切れていて本当に良いから……」
男「二十円なんてとんでもないことだ。渡辺さんの奥さんは、それだけのご身分があるからお買いなさるが、とてもこちとらには手が届かねえ」
と小言はいうようなものの、人情だから買ってやりたくも思います。けれども、二十円の二十五円のといっては買えません。なにか安直の物があったらと心がけていると、あるとき浅草公園の露店《ろてん》で見かけたのが馬爪《ばづ》でこしらえた鼈甲まがいの櫛、ちょっと見ると本物かと思うようによくできているが、日なたへ出したり火鉢の上へのせたりするとすぐにそりっ返る、水の中へ入れると溶ける、火水を避けろというたいへんなもので、それを買ってきまして、
男「サア、オイおまえがこの間から欲しがっていた物を買ってきたぜ」
女「なんだい」
男「なんでもいいから礼を言いねえ、アアちょっと窓から日が当たるから、そこを閉めてくれ」
女「いいじゃァないか、日に当たって」
男「いけねえいけねえ。その火鉢をモットそっちへやんねえ」
女「うるさいね本当に、マアなにさ、私の欲しがってるものてェのは」
男「ソレ、この間からおまえがねだってる櫛だ」
女「アラマア良い櫛だね。本当にマアどうしたの。拾ってきたのじゃァないか」
男「なにをいやァがるんだ。じつはいま石井さんへ行ったんだ。スルト石井さんのご新造《しんぞ》が、新規にお求めになったんで先のが不用になった。これをこしらえた時には、二十三円だったが小間物屋へ下にさげると八円五十銭にしか引き取らないというんだ。それなら俺が、家内にゆずっていただきたいといって、元が二十三円の奴を、八円五十銭でゆずってもらった」
女「アラマア本当によいことね。この櫛さえあれば私は裸体《はだか》でいてもいいよ。質に入ってる帯や衣類を流してしまっても、裸体で頭へ櫛をのっけてるからかまわない」
男「そんなことをしねえでもいい」
喜んで馬の爪でこしらえたものをいただいている。ところがそんなものをのせないでも、平常《ふだん》跳ねよう跳ねようと思ってるところへ、馬の爪でこしらえたものをのっけたから、サア気強くなって亭主を跳ね飛ばすような勢いで、なんかというとヒーンと跳ね上がる。そのどうもおそろしいこと、当今は婦人の跳ねるのが流行いたしますが、あまり見よいものではございません。腹がしっかりしていて表面《うわべ》は慎ましやかのがよいとしてあります。今度もアメリカからおはね嬢がそろって日本婦人の特性を研究にくるとか申しますが、日本婦人の特性としたらまず袈裟御前《けさごぜん》などはそのモデルとしてもよいかと思います。
これは九代目|団十郎《だんじゅうろう》が歌舞伎十八番のうちで得意に演じました遠藤武者盛遠《えんどうむしゃもりとお》、のちに文覚上人《もんがくしょうにん》となって、紀州那智山《きしゅうなちさん》の滝にかかるという勇ましい狂言でございます。新しくできた渡辺橋の橋供養の奉行職というんで、盛遠が鐙《よろい》を着けて烏帽子《えぼし》をかぶり、高慢な顔色をして、供の者を七八人連れて乗馬で本舞台へ出てまいります。橋奉行のくせに橋のほうへ頓着なく、それへ出てくる袈裟御前が美しい姿で向こうへ行くのを見て、ポーッと見とれてしまって、その後を見送ったままひっこんでしまう。次が口説きの場でございますが、どうも奉行でもする者が人の女房を恋慕《れんぼ》するというは、はなはだ不都合、これが幸い先方が貞女でピタリと断わったからよろしゅうございますが、もし諾《はい》といった日にはたいへんなことになります。
鎧を着て待合茶屋へ女をひっぱりこんだというので官紀粛正《かんきしゅくせい》問題などが盛んに起こります。もっとも袈裟御前という婦人はすこぶる美しい容貌《きりょう》でございました。顔の真ん中に鼻があったといいますが、私の考えでは、鼻というものは顔の真ん中にあるものだと、こう思っておりましたが、これはまれなことだそうで。造物主がはじめ造った時には規則正しく顔の真ん中に鼻を付けたものだそうでありますから、顔の真ん中に鼻のあるのが本当の美男美女だと申します。ところが多くは真ん中から二|分《ぶ》下がったり、三分上がったりしております。中にはあぐらをかいてるのもあれば寝そべっているのもあって、真ん中にあるのは少ないそうでございます。いちいち人様の鼻の寸法を取るわけにもゆきませんが、ご自分で寸法を取ってご覧になって、真ん中にあれば美人だと思ってもいいが、もし真ん中から少しでも上がったり下がったりしていれば決して美男美女とはいわれませんから、そのおつもりで。
ところが袈裟御前はまことに真ん中にありました。目は涼《すず》やかにして、大きからず小さからず、口元尋常、髪の毛はつやつやとして赤からず白からず、じつは烏《からす》の濡羽色《ぬればいろ》のごとく、丈《せい》もまた高からず低からず、肥《こ》えすぎず痩《や》せすぎず、中肉中背、その容貌美麗なること、一度|笑《え》めば城を傾け、再び笑めば国を傾け、また一度《ひとたび》怒るときには悪鬼外道《あっきげどう》も退散するばかり、なにか気に入らないことがあってむずかしい時というものは、海棠《かいどう》の露《つゆ》に悩み、桜の花が雨にあうたるがごとし。秋の七草、室《むろ》の梅、しなだれかかる藤の花、あやめ菖蒲《しょうぶ》やかきつばた、牡丹《ぼたん》に菊に鹿でよろしいというくらい、じつに花の中の花というほどの容貌でございますから、盛遠が自分の身をなげだして恋慕におよんだのも無理はない。
盛「サア俺の心に従えばよし、いやだといえば俺には伯母に当たるが、おまえの母を殺してしまう。サア嫌《いや》か応《おう》かどうだ」
と談判におよんだ。気弱いご婦人ならふるえてしまい、気が強ければ食いつく。ところが袈裟御前という人が、気が強くも弱くもありません。禅学でもよほど修業をしたものとみえて、まことにあきらめがよろしゅうございます。アア情けないことだ。ナゼカ私はこんな美しい容貌に生まれてきたが、私が尋常の女なら、盛遠《もりとお》殿も自分の身をなげ出して、夫のあるのを横恋慕する気づかいはあるまい。シテみれば盛遠殿に科《とが》はない。美しく生まれたのが私の因果だ。
……こう考えると人というものは決して腹は立たないもので、自動車へ乗って、運転手の粗相《そそう》で川へ落とされてケガをしても、運転手が悪いのではない、オレが乗ったのが悪い、歩いて行けば川なんか入りゃァしなかったと、こう思えば腹は立ちません。人に頭をなぐられてもその通り、ぶった者が悪いと思えば腹が立つが、ぶった者は悪くはない、オレの頭がここにあったから先方の拳固《げんこ》が当たったのだ……。殺されたところがそうで、殺した者は悪くはない。オレが生きてたから殺されたんだ。死んでて殺される者はありませんけれども、すべて物はあきらめようでございます。
もちろん袈裟御前は悟っていたわけで、仏に縁がありました。自分の名が袈裟で母親が衣川《ころもがわ》といい、まことに悟りがよろしいから、こっちが容貌《きりょう》よく生まれたのが悪いけれども、貞女両夫にまみえず、女は定まる夫のある以上、たとえ命を取られても、他の男の言うことをきくことはできない。しかし、それをいやだといえば親を殺される。こちら立てればあちらが立たぬ。九尺二間に戸が二枚、ヤレコレマカセノウントコナと考えた。これは親に代わり、夫に代わり、死ぬより他に仕方がない。死んでしまえば盛遠殿もあきらめがつくだろう。死ぬと覚悟をした上は、気持ちよく返事をしようと思ったから
袈「思《おぼ》し召しはまことにありがとう存じますが、私には亘《わたる》という夫がございます。夫のある以上は、あなたがいかようにおっしゃいましても、お心に従うことはできませんから、さほど思し召してくださるなら、夫をすみやかにお討ちくださいまし、夫なき後はあなたのお心に従いましょう」
という返事でありますから、盛遠大きに喜び、
盛「シテどういう手都合にして夫|亘《わたる》を討たせる」
袈「今晩八ツの鐘を合図に庭口からお忍びくだされば、縁側の戸を細目に明けておきますから、それよりお入り遊ばすように。三つめの部屋が夫亘の部屋でございます。明かりは消しておきますが、今夜亘に髪を澄まさせおきますれば、洗い髪を的《まと》にお討ちくださいまし」
盛「ウム、それではまちがいのないよう」
袈「いつわりは申し上げません」
とニッコリ笑った。ソコで両人は別れ、袈裟御前は屋敷へ帰りましたが、これほどのことを母親にもご亭主にも話しません。いつもより機嫌のいい顔をして、髪を洗ってお化粧をじゅうぶんにして、お召しがえにおよんだから、いつもより一層も二層も容貌《きりょう》を上げました。ソコで|おっとに《ヽヽヽヽ》、|一しょう《ヽヽヽヽ》の別れでございますから、お酒を五《ヽ》合ととのえ、|チョコ《ヽヽヽ》然と坐って、|トックリ《ヽヽヽヽ》と考え、|サケサケ《ヽヽヽヽ》、これが別れになるか、情けないことと思えど、それと面《おもて》に現わさず、うれしげに亘殿へお酌をしている。神ならぬ身の亘殿これが夫婦の別れとは知るよしもなく、家内が今夜はいつもより別《べっ》して美しいと、目尻を下げ、鼻の下を延ばし、我が妻に見とれて思わず杯を重ねたので、スッカリ酩酊《めいてい》をいたしました。
袈「サアあなた、ご寝所へ行っておやすみ遊ばせ」
と袈裟御前に手を取られ、連れて行かれるままに、自分の部屋も家内の部屋もわからずに、ねまきも着替えず、そこに延べてあるお床の中へ横になるが早いが、グーッと高いびき……。袈裟御前はフンワリと小掻巻《こかいまき》を掛け、その上へ夜具を掛けて、そっと立ち出でようといたしましたが、さすがに優しき婦人のこと、これが夫の顔の見納めかと思いますから、ふり返って亘の寝顔をつくづくと見ると、一時に悲しくなったとみえ、ためぬいておきました貯蓄の涙を銀行から取り寄せて、一度にドッとこぼしてしまえばただの女だが、なかなかたくさんはこぼさない。その中からごく良いところの涙を一粒半、ポタリポタリ……剛儀《ごうぎ》なものでございます。胆力《たんりょく》のいい婦人で、夫の生涯の別れの涙が一粒半、われわれの女房ならちょっと小ぜり合いの夫婦喧嘩でも、二升八合ぐらい、はげしい時には坪当り一石五升……たいへんに相場がちがいます。
袈裟御前は一粒半の涙を置きみやげにして夫の部屋へ入って、八ツの鐘を合図に亘の身代わりに自分が討たれる覚悟で待っている。こちらは盛遠、袴《はかま》の股立《ももだち》を高く取り上げ、二尺八寸の大刀《だいとう》を横たえ、約束通り庭へ忍んできてみると、縁側の戸が一枚あいておりますから、それへ手をかけて、ソッと廊下へ上がり、ところどころ手探りでまいりますと、三つめの部屋の障子があいております。寝息をうかがうとスヤスヤ眠っておる者がありますから、中へ踏み込み、枕辺へ手をさし延べてみると、手先に洗い髪がさわった。刃物はよし、腕は冴えておりますから、ヤッという一声もろとも首を打ち落としました。血払いなして鞘《さや》に納め、ここが芝居でいたしますと首を切る、すぐチョンという柝《き》が廻り舞台になって、ギーッとまわると、正面に石段がございます。
横手から盛遠が首をかかえて出てきて、その首をあらためようと思うと、あいにく闇でございますから見えない。ところが芝居は重宝《ちょうほう》だから闇でもなんでもない。役者の都合のよいようにチャンと親切にお月さまがニューッと出てくると、あに図らんや、恋に焦がれたるところの袈裟御前の首だから、さすがの盛遠もおどろいて、アップーッというと後ろヘドゥと倒れる。柝《き》なしでスーッと幕になるのでございますが、本物では月もそう都合よく出てくれません。この女の首は毛がたくさんあって軽いもので、男の首は毛が少なくても重いものだそうでございます。ところが盛遠首をかかえてきたが、いかにも毛がたくさんあって軽いから、ハテナと、そこへ気がついて、切り口のところへピタリ手を当ててみると手のひらへベットリご飯がついた。
盛「アッ、こりゃ|けさのごぜん《ヽヽヽヽヽヽ》であったか」
[解説]落語ではあるが、叙述は漫談の型といったところ。サゲはもちろん、袈裟御前と今朝御前の地口落ち。こういうのを地ばなしと称する。
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錦《にしき》の袈裟《けさ》
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ご酒宴の席で旦那方がおおぜいそろって打ち興じた末に
○「どうですね浜町《はまちょう》さん、久しぶりだからおおぜい集まってただ飲んで食って別れてしまうのもなんだか曲《きょく》がない、私ゃ今日くらいいい心持ちに飲んだことは近頃にない、どうもこのまま別れるのは心残りで帰りきれない」
浜「そうですとも、家へ帰りゃァ店の者やら召使いに冗談ひとつもいえない」
○「むろんです」
浜「それでこの二月《ふたつき》三月《みつき》というものは、まるでどこへも出かけなかったので浮気の虫もおこっている」
○「たまには命の洗濯だ、出かけますかい世直しに」
浜「モチムロでしょう」
○「なんだい、そのモチムロてえのは」
浜「もちろんとむろんといっしょにまぜたんでモチムロさ、……どうです石町《こくちょう》さん」
石「異議なし、大賛成です」
○「ありがたい、この気のそろうのが、なにより嬉しいね、……ところでね諸氏にちょっと申し上げたいのはただそろって廓《くるわ》へ行ってそうぞうしく騒ぐばかりが遊びじゃない」
浜「なるほど」
○「なにか趣向をしていただきたいと思うがどうですねえ」
石「どういう趣向です」
○「ところでさしあたり珍趣向もないが、どうです、一座がそろって今が遊びの頂上というところで、にぎやかにそろって、裸の総踊りをやるんだ」
浜「こりゃあんまり気の利いた趣向じゃないよ……第一寒いところで裸はちょっとこたえるね」
○「ナーニ酒が入っている、座敷はぴったり締めきってある、人はおおぜいいる、ほんの一二分間だ、ところであたり前の褌《ふんどし》じゃ趣向にならない」
浜「なるほど」
○「羽二重《はぶたえ》の褌で総踊りをやるんだ、それでこの羽二重は大幅ものを、二尺並ぐらいに、はさみを入れて裂いて踊りながら切っては、まわりにいる芸者や花魁《おいらん》に分けてやる、マサカに鼻をかんで捨ててしまう者も、いないでしょう」
浜「総踊りけっこう、やりましょう……オイ三越へ電話をかけてくれ」
やがて三越から羽二重の大幅ものを持ち込んでくる、すっかり仕度ができあがりまして出かけることになった。
○「ねえ裏河岸《うらがし》さんどうです、……運動ながら少し歩こうじゃァありませんか、それで歩くのがいやになったら自動車でもなんでも命じましょう」
裏「ようがすね、さあみんなおそろいだよ」
十二三人連中が集まっていい心持ちに歩いてくると、やって来たのが野幇間《のだいこ》の平助《へいすけ》という男、
○「アッこりゃァ困った、向こうから来るのは平助じゃァないか」
浜「そうだ、悪いところでぶつかったね」
○「つかまったが最後、ダニみたいな奴でなかなか離れないからね」
石「だから羽二重の褌を締めていることを話してやろう」
○「それ、それがあいつはずうずうしいから羽二重の褌なんざ、どこか探して借りてくる」
裏「それじゃァ羽二重でなく、ちょっと借りてこられないあんまり類のないもので別珍《べっちん》の褌か緞子《どんす》の褌か」
○「イエもっとも類の少ない立派な生地でなきゃァだめだ」
石「錦の布片《きれ》のようなものだね」
○「ソイツァけっこう、いい思いつきだ、別段にまくって見せるわけじゃないんだからね、来た来た来た」
平「ヨウこんにちは、おそろいさまでいずれへかお繰り込みで、ぜッひお供を願いたいもので……」
○「イケナイ今日はかんべんしておくれ、ちょっと趣向があるんだから」
平「ご趣向けっこう、ぜひその仲間へ入ろうじゃごわせんか」
浜「だめだからおよしよ」
平「頭からだめは心細いですな、どんな趣向でござんしょう」
石「マア話してもだめだよ」
平「できないまでも、お話だけ聞かせてくださいましな」
○「上っ皮から見ちゃァわからないが、中身で落ちを取ろうてんだ」
平「長襦袢《ながじゅばん》のおそろいでしょう」
○「ちがうちがう」
平「煙草入れのおそろい」
○「当たっていないよ」
平「紙入れのおそろいでしょう」
○「まったくのことをいえば褌のおそろいだ」
平「コリャご趣向ですな、なるほど裸になって総踊りという寸法で、おそれいりましたな……当ててみましょうか、欝金木綿《うこんもめん》の下帯でしょう」
○「鳥羽絵《とばえ》を踊るんじゃァねえぜ」
平「赤い褌で総踊りなら大漁祝いのようだし……虎の皮の褌じゃないでしょうな……なにかおどろかせてやろうてんでズックの褌でしょう」
浜「ばかにするない」
平「なにを締めていらっしゃるか話だけ聞かせてくださいな」
石「本当のことをいえば錦だ」
平「へエー錦の布片《ぬのきれ》を下帯に、もったいないねどうも、そういえばそろっていらっしゃるようすがなんだかへんだと思った、どうも|いじかり《ヽヽヽヽ》股をしていると思いました、……それじゃァ私が錦の下帯を締めればお供ができるんでしょう」
○「そりゃァそうさ、おそろいになればけっこうだ、おおぜいそろっているところを一人だけそろっていなかった日にゃァ、せっかくの趣向もめちゃめちゃだからな」
平「まったくです……では私もその錦の下帯を締めればお供ができるでしょう」
浜「おそろいになれば連れて行こう」
平「けっこう、じゃァ旦那様方は……これから浅草の例のところでまた充分にお仕度なすってお繰り込み、では一時間ばかりご猶予《ゆうよ》を、のちほど、ごめん……」
○「早く来なよ」
平「むろん円タクです、ありがたいな、……しかし受け合うには受け合ったが、錦の布地はあまりふだん見かけねえからな……カラッとなんでも金巾《かなきん》で模様が織り出してあるものだったな……そうそういつか高島屋の陳列で見たなんとか錦の丸帯で三百八十円の札がついていたな……高島屋で貸してくれりゃいいが柄《がら》や地《じ》を見るのとちがって褌にするんだからな、しわくちゃになる、客のほうじゃァ俺に見せねえけれど俺はまくってみんなに見せなけりゃァならねえからな……しかし丸ごと締めねえでもまくって見せる時、前だけ三角に下がっていればいいんだな……三角の金布《かなきん》がありゃ用が足りるんだが三角の金布を……ああ、あるあるどこかの仏壇の前に下がっている家があったが……どこの家だか忘れちまったな、あれがありゃァいいんだが思い出せねえな、……けれどもありゃたしか紋が付いていたかな……なんぼ立派だって紋付の褌なんて見たことがない、……そうそうあるある、お寺さまへ行って頼んでみよう、和尚さまのお掛けになる袈裟を拝借に上がりました、なににするんだい……褌にするといったら怒って貸してくれねえだろうな、なにか名案がと、……あるある……こんにちはお頼み申します」
△「ハイハイ」
平「こんにちは平助でございますが、和尚さまはいらっしゃいましょうか」
△「奥においでになります、お通りください」
平「ではごめんください、ヘエ和尚さまこんにちは、ご無沙汰いたしました」
和「マアお敷きなさい、急いでいなさるようだがなにか急用かな」
平「じつはお願いに上がりましたのはほかじゃァございませんが、私ども親類の娘に≪きつね≫がつきましたので、お加持《かじ》やご祈祷《きとう》をやりましたが、どうもきつねがおちません」
和「ハハそりゃァご心配だね」
平「それである人の話には、立派な和尚さまの掛けた袈裟を一晩掛けて寝かすと≪きつね≫がおちるということを聞きまして、じつは拝借に上がりました次第で」
和「よろしい、お貸し申そう、……オイそのけんどんの一番上のたとうをこれへ出しなさい……こりゃァどうだね」
平「ヘエこりゃァなんの布ですか」
和「古代錦の袈裟で、当山のご開山さまがお掛けなすった物だ」
平「ヘェーご開山さまがこれを……なるほどずいぶん色がさめて、この端のほうの糸がぬけているようですね」
和「当寺に十三代伝えられている」
平「このお寺の宝物ですな……こりゃもったいないな、もっと近頃できた新しいものはございませんでしょうか」
和「しかしどちらかといえば、このほうがありがたい経文《きょうもん》がたくさん上がっている、早くいえばこのほうがご利益《りやく》があるわけだ」
平「ヘエ、ご利益はなんですが、なるたけ派手な新しいものを掛けてもらいたいなんて、≪きつね≫がぜいたくなことを言っています」
和「きつねが……オイ、それではこの次の棚にあるのを持ってきなさい、……これはどうだね」
平「こりゃァけっこう、これもやっぱり袈裟ですか」
和「むろん錦だ」
平「ではこれを拝借します、さようなら」
和「オイオイ、それを持って行っちゃァ困る、それは明日|檀家《だんか》の法事があって読経《どきょう》のとき掛けて出なけばならないのだ。ほかのにしてください」
平「これが一番派手で……なにしろ人が一人助かるんですからね、明日の朝起きぬけに持ってきますがねえ」
和「こりゃァ困ったね、その話を聞いてお貸し申さないのも本意でない、しかしこの間なにかお貸し申したのをお返しくださらなかったように思うがね、……しかし今度は病人のことでおまちがいもなかろうが……こうしよう、もし明日の朝お持ちくださらなかったら、以後はおいでをお断わりする、だんぜん絶交するが、ご承知かね」
平「だいじょうぶでございます、今度は決してまちがいはございません、明日の朝起きぬけにお返しに上がります、さようなら」
さらうようにして借りてきて途中で、腰のまわりに厳重に巻き付け、急いでおおぜい旦那方のいるところへやって来た。
平「ヘエ、ただいま」
○「待っていたんだ、サァ出かけよう」
と廓《くるわ》へ入る、茶屋から送られて大見世《おおみせ》へ上がります。酒肴《しゅこう》がならぶ、芸者がきて騒ぎが始まった刻限を見計って芸者に甚句《じんく》の三味線をひかせる、おおぜいは裸になって総踊りが始まった。
女「ちょっとお里《さと》さんごらんよ、みんな羽二重の下帯のおそろいなんだね……アラごらんなさいよ、はさみが入って切れるようになってるんだね、一切れもらいたいね、だんだんここへ踊りながらまわって来るんでしょうね」
里「ちょっと一番後ろの人ごらんよ、あの人は着物を脱いでいないで前をまくって歩いているよ、アラ立派な下帯だね、ピカピカ光った模様が出ている、煙草入れや紙入れにする布なんだよ、どうせもらうんならあの布片を切ってもらおうじゃないか、ちょっと清《せい》どん、はさみを五六|挺《ちょう》借りておくれな」
おおぜいの花魁だの新造がはさみを持って追っかけてくる、つかまった日にゃァ平助たいへんだ、ぐるぐる家中を駈けて歩くという騒ぎ。そのうちに部屋へ入ると、みんな高いびきで寝入ってしまった。
主人「ねえ清どん、今晩上がったお客はなかなか陽気なお方だね」
清「さようでございます」
主「あの方々はおまえさんどういうご身分だと思う」
清「さようですね、私の考えでは旦那手合いの寄合いの崩れじゃァないかと思います」
主「とんでもないこと、今晩上がったお客さまはありゃァみんな華族様方だ、昔ならお大名様だよ」
清「さようですかな」
主「中で殿様がどの方だかわかるかい」
清「一番前で踊っていらしった背の高い方でございましょう」
主「一番後ろから着物を着たまま前をまくって踊っていた方があったろう、あれが殿様だ」
清「けれどもあの方はお銚子を運んだり、便所へ他の方がおいでになると後から付いて行って、手拭いを出したり水をかけたり働いていましたがな」
主「それが角兵衛《かくべえ》遊びというやつで、殿様が今日はご家来方をご招待してご自分が取り巻きになって遊ばしておるなんざァ、しゃれたもんじゃないか」
清「さようですかな、殿様だけはさすがに裸になりませんな」
主「殿様の下帯を見たかい、ありゃたいへんなものだ、古代物で坪いくらという帛《ふくさ》で、あの下帯だけで何万円というものだ……そればかりでなく前のところへ象牙の平ったい輪《わ》が下がっていただろう」
清「そういえば白い輪のようなものがぶらぶら下がっていると思いましたが、ありゃなんでしょう」
主「あれが殿様の印だ」
清「殿様は褌へ輪なぞ下げますんですかなァ」
主「つまり用を足す時にじかに手をふれないようになっているんだね」
清「ていねいなもんですな」
主「それであの殿様の相方《あいかた》はだれだい」
清「歌花《うたはな》さんでございます」
主「じゃおまえさんから花魁に通じておいて、失礼のないようにしておくれ」
清「かしこまりました」
若い衆から花魁へ通じておいたので、一座の間で平助が一番おもしろい遊びをしてしまった、あくる朝
歌「モシあなたお目ざめでございますか」
平「ヘエおはようございます」
歌「あなた御前様《ごぜんさま》でいらっしゃいましょう」
平「御前様はおどろいたね」
歌「私も長い間商売をしておりますけれども御前様のようなお方に出ましたのは初めてで、本当にしあわせだと思いましたわ」
平「なんだか知らねえが昨夜、はさみをもって五六人で追い駈けて来られた時にゃどうしようかと思いましたね」
歌「アラ、まだお隠し遊ばしていらっしゃる、今日はお直し遊ばしましょうな……お流し〔遊里に居続けること〕になってもよろしいんでしょう」
平「残念だがそうは行かないんだ」
歌「だけどもケサは帰しませんよ」
平「ナニ袈裟は返さねえ……そりゃァたいへんだ、袈裟を返さねえとお寺をしくじってしまう」
[解説]サゲは典型的な地口落ちである。
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親子酒
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ヘエ、お酒のおうわさを一席申し上げます。このお酒というものはけっこうなもので、酒は百薬の長とか言いますが、あんまり飲みすぎますとお身体に毒なようで。まだ、私の幼少の時分に禁酒の演説会の催しがありました。その時分には、まだ、演説会のめずらしい時で、檀上には金屏風を、花活けには花を活け、テーブルには髭《ひげ》の生えた人が、
弁士「アー……諸君……」
聴衆「ヘエ……」
その時分には聴衆が、弁士が、アー諸君……というと、ヘエーと返事して、大半はおじぎをした時で
弁「酒は飲むべし、飲むべからず」
と、しゃべり出しますと、前の聴衆の中で、今でいうハイカラといいますか、モダンとでも申しますか、いわゆる、新しい人がヒヤかしを言いますと、中には、これを聞いた人が、帰って燗《かん》をせずに冷《ひや》で飲んだといいますが、まさかそんなこともありますまい。が、このお酒を飲むと、自然と体が崩れて眼はトロンとして口は遠乗りの馬か競馬ウマのように、口のあたりを泡だらけにして、道でもまっすぐに歩けません。九人歩きというやつ、こっちへ四人《よったり》〔寄ったり〕あっちへ四人《よったり》〔寄ったり〕、それに自分を加えて九人歩き、そろばんでも持たな勘定ができんという歩き方。
△「〔謡の調子で〕海老《えび》は幼少にして、髭ながなが、腰には梓《あずさ》の弓をはり……ゲーブ……ブ……」
犬「ワン」
△「シ……アーびっくりした……だしぬけに吠えやがって……」
犬かて、吠えますとも、尾を踏まれたのですさかい。しかし、犬かて、ジッと見ると、見おぼえのある町内の人ですさかい、すぐに尾をふって、足元へまとい付いてきます。
△「コラ、そう飛びつくな。着物がよごれる。着物をよごすと、また、嫁に叱られる。ハハハハハコレ……ちょっと、ここを開けとくれ。ドンドン、〔戸をたたく動作〕ドンドン」
女「ハイ、ただいま、開けます。ヘエーお帰り」
△「ハイ、はばかりさま。作次郎《さくじろう》は、宅《うち》におりますか伜《せがれ》は……」
女「若旦那は、おとうさんがお出ましになった後から、すぐに出られまして、まだ、お帰りやございません」
△「また、出ましたか。あの極道、どこぞで酒をズサズサと飲んでいやがるのや。若い体をして酒ばっかり飲んで、酒毒《じゅどく》が残るということを心得んからや。今日という今日は伜が帰ってきたら、ゲープ、意見をしますのじゃ」
女「おとうさん、あんたも酔うておいで遊ばす。奥に床を延べますさかい、早よ、おやすみ」
△「イーヤ、寝ません。伜に意見をして、今後とも……一切、酒を飲まんというのなら、財産をゆずりますが、モシ、言うことを聞かんようなら勘当《かんどう》じゃ。しかし、伜は勘当してもじゃ、おまえさんは心配せんでもいい。ゲープ。アッ……酔うた。ところでじゃ、おまえと伜、作次郎となれあいの交情《なか》なら、またと言うことがあるが、立派な仲人がはいってもろうたおまえさんじゃ。たとえ、伜は勘当しても、私の……ゲープ……娘として、立派な、酒を飲まん婿さんをもろうてあげます」
女「なにをおとうさん、おっしゃってますの。そんなところで、おやすみになっては風邪をひきます。モシ、おとうさん、モシ……」
おやじさんぐずぐずとくだを巻きながら、そこヘゴロリと寝てしまいました。孝行な嫁さん、おとうさんに風邪をひかしてはと、蒲団をかけて、良人《おっと》の婦りを待ってますと、伜のほうは年が若いだけにえらい元気で
伜「ヨイトサノナ……か、ゲープ――〔唄〕姉と妹と……か、年を尋ねてみたら……か、姉は姉だけに年が上……か、犬が東むきゃ尾は西にある……と」
うどん屋「うどん――や、そばウイ」
伜「うどん屋、熱いか」
うどん屋「ヘエ――大将、古い洒落《しゃれ》だすなア、うどん屋、熱いか、熱けりゃ――肩抜けなんて」
伜「だれが熱いか――と言うた」
うどん屋「今、あなたがおっしゃった」
伜「俺の言うたのは、うどん屋、あっちへ行くか、と言うたのや」
うどん屋「マア、どうでもよろしいが――」
伜「ところでなア、うどん屋。おまえ、宅のおやじがここを通ったか知らんか」
うどん屋「イーエ、いっこう。お宅のおとうさんの顔を存じまへんさかい、通りなはったか、まだか、存じまへん」
伜「宅のおやじの顔を知らんか、不都合なうどん屋だなア。おやじに先へ宅へ帰られると、ちょっと都合が悪いのやがなア。時にうどん屋、おまえ、俺がこんなに酔うまで、どこで飲んでたか知ってるか。なに……知らん。知らなア教えてやる。おまえ、あの上田君を知っているか」
うどん屋「イーエ、いっこう、存じまへん」
伜「なんにも知らん男やなア。その上田の女房が政子《まさこ》というて、おととしの秋に、宅のおやじが仲人になって嫁入りさしたのや。それが縁でこの頃はまるで親類みたいになったのや。しかし女子《おなご》という者はわずかの間にコロッと変わるものやなア。上田へ嫁入りする前までは、可愛らしい女学生やったんやが、今も行ってみると、一番の大丸髷《おおまるまげ》で、赤い手絡《てがら》を掛けて、ええ女房ぶりやで。その政子が、俺が行くと、ツーンとしてるやないかい、うどん屋」
うどん屋「ヘイ」
伜「聞いてみると上田君がまだ帰ってこんので悋気《りんき》や。それで、俺はおかしいなった。嫁入りすると、もう、チャンと悋気することをおぼえるなんて。そこで俺が言い聞かした。女という者は、あまり嫉《や》くものやない。男かて、またどんなことで用ができんものでもない。聞いた上で悋気せいと、言うてるところへ上田君が帰ってきたんや。オイ、上田、帰る時間には、チャンと帰らんと、宅で女房が心配するやないかいなア――と言うと、イヤ……今日は会社の重役会の席上で説明の役が当たって、それがようようすむと、飯を食いに行ったのや。それから二次会と、相手が重役ときてるので、逃げるわけにもいかず、宅も気にかかってたんやけど、お相手をしてたんで、今になった次第や、と上田が言いよる。聞いてみると無理もない。そんなわけで、後は俺にごちそうするというていろいろの物を料理屋へ注文して、上田と飲んだが、俺はその前に飲んで行った。そこヘ、また、上田と七本あけて、後はビールとまた、ビールを三本飲んだ。しかしビールの肴《さかな》はやっぱり、洋食に限るようやなア、うどん屋」
うどん屋「ヘイ」
伜「しかしたいてい、決まったる。テキをいうか、カツか、ハムエッグは、ビールの肴に一番ええ物や。いろいろと、たらふく飲んだり食ったりしたんで腹がふくれて、なにも食えん、ハハハハ」
うどん屋「モシ、そんな殺生《せっしょう》なことがおますかいなア。うどんの一杯も食べてもらおうと思うので、ヘイヘイと聞いてますのや」
伜「まあええ――そのうちに、上田も酔うてくると、オイ、政子、三味線をひけ、歌を唄うんやなんて、上田が唄い出す、だいぶと円満になってきやがった。しまいには、俺にまで唄えと言いよるので、俺も負けん気で美声で都々逸《どどいつ》を唄うてやった。どや、うどん屋、ひとつ、聞かしてやる。オイ、湯を一杯くれ」
うどん屋「ヘイ……」
伜「オイ、うどん屋、うどんの湯をくれるのやったら、ついでに出汁をちょっとついでくれたらどうや」
うどん屋「ヘイ――」
伜「そうや。こうすると、なんぼ、うどんをつけた湯でも、うもう飲めるやろ。しかしこの湯代なんぼや」
うどん屋「ソラべつに銭をもらわいでもよろしい」
伜「あたりまえや。モシ、この湯代を五銭でもくれとぬかしたら、俺は承知せんのや。風呂屋の湯と比較したら、ハハハハ
〔唄〕離れて寝やんせ、さぞ涼しかろ――暑い辛抱は外でして……
どや、俺の唄、ええ声やろ。オイ、うどんや……」
うどや屋「うどん――や、そば、ウイ……」
伜「アハハハハ、うどん屋め、行ってしまいやがった。コラサ、ドッコイサノサ、か。
〔唄〕草津《くさつ》よいとこ、一度はおいでか……ハハハハオイ、ちょっと、開けてんか。〔ドンドン〕オイ……」
□「どいつや、ドンドンたたくのは」
伜「コラ、けしからん、夫の留守に、男の声がするとは。ナア、間男《まおとこ》、見つけた」
□「なにを言うのや、作さんやないか。また、酔うてるのか。おまえんとこなら西へ三軒目や」
伜「アハ、こら太田はんだすか、すんまへん……オイ〔ドンドン戸をたたく動作〕開けてんか」
女「どなた……」
伜「コラ、おかしい……長年連れ添う亭主の声をわからんか」
女「アハ、作次郎はんだすか、お宅なら西へ五軒目」
伜「いよいよ、おかしい。いま太田はんで聞いたら西へ三軒目、今度は五軒目とは」
女「あなたは酔うてなはるさかい、西へ行くのを東へ行きなはるさかい。だんだんと遠うなりますのや」
伜「人が酔うてると思うて、せいぜい、家を提《さ》げて歩け。オイ、俺とこの家はどこや」
女房「モシ、大きな声を出して、ドンドンとご近所をたたきまわして、ご迷惑だということがわかりませんか。早よ、こちらへはいりなはれ、また、酔うてきて」
伜「おやじは帰ってきてるか」
女房「おとうさんは、先ほど、酔うて帰ってこられて、あなたに意見するのやとか、なんとか、ぐずぐず言うて、玄関で寝てしまやはりました」
伜「こらけしからん。老人だてら、いつも、ズザズザと酒ばっかり飲んで、酔うてケガでもするか中風《ちゅうぶ》でも起こしたら、どないするつもりやろ。俺が意見してやる」
女房「おとうさんと同じことを言うて、起こしなはんなや。せっかく、ええ具合に寝てはりまんのやさかい」
伜「イヤ――意見するのや。オイ、おやじさん、オイ、おやじ、コラ」
△「ウニャウニャウン……だれや」
伜「おやじさん、起きんか。起きな鼻をつまむぞオイ」
△「なにをするのや、人の鼻をつまんで、せっかくええ具合に寝てるのに。イヤだれやと思うたら伜か」
伜「どうやおやじさん、ひとつ、一拳《けん》やろうか」
△「なにをぬかすのや。いつも、酒ばっかりズサズサ飲みくさって。おのれの顔を見てみい。化け物じゃ顔が五ツにも六ツにも見えて、そんな化け物みたいな伜に、この家をやることはできん、トットと出て行け」
伜「出て行かいでか、こんなグルグルまわる家は、ほしゅうないわい」
[解説]屋台を担いで売り歩くのが蕎麦屋でなくうどん屋であるあたりにも、上方の雰囲気がよくでている。
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盃《さかずき》の殿様
――――――――――――――――――――
お古いお話でございますが、昔のお大名様というと、ご先祖がさまざまのご苦心を遊ばして、何万石《なんまんごく》という大禄《たいろく》をお取り遊ばすようになった。そのお家《いえ》に生まれまして、弓は袋、槍《やり》は鞘《さや》と、太平《たいへい》をうたう世の中に育ち、下様《しもざま》のことなぞは一向にご存じがない。ただご近習《きんじゅう》の面々が、そういうことを遊ばしては御身《おんみ》の上におよろしくございません。これはかよう遊ばせ、こう遊ばせと、むやみに遊ばせ言葉で持ち上げるので、ニューッと大きくお育ちになって、人間のモヤシみたいなものができあった。しかし大名は鷹揚《おうよう》の鑑《かがみ》というくらい、口のききようなどもあまりおじょうずではない、古い咄《はなし》に
殿「藤太夫《とうだゆう》、今夜は十五夜じゃな」
藤「御意《ぎょい》にございます」
殿「お月さまは出たか」
藤「おそれながら申し上げます。お月さまと仰《おお》せられましては、下様の者の言葉にございます。上《かみ》はご大身《だいしん》のお身の上なれば、月なれば月と仰せられまするよう」
殿「アアさようか、予《よ》は大名じゃから、様を付けずに月と申すか」
藤「御意にございます」
殿「どうじゃ月は出たか」
藤「冴《さ》えわたりましてございます」
殿「ウム、星めらも出たか」
そんなに粗雑に言わないでもいい。しかし大名はそのくらいのものだった。その頃の狂歌《きょうか》に「片仮名のトの字に一の引きようで、上になったり下になったり」ご承知の通り上という字は下に引いてある一で下様《しもざま》がわからない。下々《しもじも》の者は上に引いてある一で上方《うわっかた》がわからない。いいのは中という字、上下突き通し、上も下もわかる。マア以前のお役でいうと町奉行《まちぶぎょう》、これは中途におりまして上下をご存じなければ勤まらんお役。
さて人間の情で、見られないとなると見たい。聞けないとなると聞きたいもので、お大名がご登城の折りなどお駕篭《かご》の戸を両方明けて町人の立ち話をお聞きかじって、下々に通じているというのを殿中《でんちゅう》で誇り顔にお噂をなさることなどがある。名にしおう江戸といえば、「百万石も剣菱《けんびし》もすれちごうたる繁昌は、金のなる木の植えどころ」というくらいで、百万石の大名と剣菱の酒菰《さかこも》を着た乞食《こじき》とがすれちがってもおかしくない。さればお大名がお通りでも、勇み衆は平気で立ち話
甲「ナア次郎さん」
乙「エー」
甲「マア天下は泰平《たいへい》だなア」
乙「そうかなア」
甲「なにしろ町人は暮らしいいや、今日の米相場《こめそうば》を聞いたか」
乙「聞かねえ、どんなもんだ」
甲「両に五斗五升《ごとごしょう》だ」
乙「そりゃァ楽だなア」
お駕篭のなかで聞きかじって、アア町人が今日の米相場が両に五斗五升でよほど楽だという、よいことを聞いた。大名多くある中に今日の米相場を存じておる者はそれがしばかり、ひとつ一同をおどろかしてくれようと、殿中ヘお登りになると、他の大名衆
△「これはお早いご出仕《しゅっし》」
○「イヤ大きに遅刻いたした」
△「イヤイヤまだ刻限もござる、どうかこれへ、時に市中のようすはいかがでござる」
○「されば町人はズンと楽で、天下泰平と申してもよいな」
△「さようでござるか」
○「今日の米相場は、両に五斗五升、町人は楽でござる」
△「イヤこれはおそれいった。武士はかくありたきものでござる。今日の米相場をご承知あるは多くある大名衆の中で貴殿ばかり、シテ両に五斗五升、両というは何両で」
○「されば……百両……」
じゃァなんにもならない。これも同じくお大名衆のお姫様、煙草《たばこ》がお好きとみえます。けれどもわれわれとちがって高貴のお方はご自分で煙草をひねって召し上がるのではないそうで、煙草というとお側の衆がチャンとつけてさしあげる。いくら召し上がってもご自分ではつけない。そこで召し上がって煙管《きせる》をポんと畳の上へお置きになると、二度とはその煙管をお用いにならない。お下《しも》へ下げる。それでございますから、お姫様が煙草を召し上がるにもお側の女中がいちいち付けてさしあげる。ちょうどいま煙管をお取りになると、秋のことで雁《がん》が二三羽渡るのを見て
姫「皐月《さつき》見やれ、雁《がん》が飛んだ」
皐「お姫様、加賀の千代〔江戸中期の女流俳人〕でさえも、初雁《はつかり》や並べて聞くは惜しいものと申しましたくらい、まして大身《たいしん》の姫様、雁《がん》と仰せられず、≪かり≫と御意遊ばすよう」
姫「アアさようか」
ポンとお膝をたたくとたんに、どういたしたか、煙管の雁首《がんくび》が向こうへ飛んだ。
姫「皐月、雁首《かりくび》が飛んだ」
皐「おそれいりましてございます」
これはやはり雁首《がんくび》と言わなければいけません。お大名衆は召し上がりの物はなかなか贅沢《ぜいたく》で、鯛《たい》なら鯛のお焼き物が出る。ちょっとお箸をおつけなさると代わりをとおっしゃって、背をひっくり返さないで、お下《しも》へ下がって、また同じようなお魚が出ます。われわれなら鯛の煮魚でも出れば、両片《りょうぺら》食べて、眼肉《めにく》を食べて、頬肉を食べて、一番しまいに骨湯《こつゆ》にして飲みます。猫のほうに近くなって、人間界を離れております。お大名は骨湯などにはしない。さるお大名様が花のころ、向島《むこうじま》の下屋敷《しもやしき》、塀越しに隅田堤をながめ、お庭の桜を見ながらご酒宴、ただいま申し上げた通りちょっとお魚にお箸がつくと、代わりをとおっしゃる。ところがあいにくその日は、おかわりの魚がない。空不漁《からッしけ》でございます。けれどもないといえば、お膳部方《ぜんぶかた》の失策になる、一同こまりました時に、中に一人とんちの良い人が
○「お上へ申し上げます。花は半開を楽しむと申しまして、一本の枝垂桜《しだれざくら》、ちょうどなかば開きましたる風情《ふぜい》、えも言われません」
殿「ドレドレ、アア、みごとみごと」
殿様、桜のほうへ気をとられているうちに、スッとお皿を引いて鯛をひっくり返し
○「おかわりがまいりました」
殿「オオ、もうまいったか」
またお箸を取って、チョイチョイと傷をつけ
殿「かわりを」
もう、かわりはない。
殿「かわりを」
○「ハッ」
殿「いま一度花を見ようや」
殿様知ってるからなんにもなりません。その頃のお話で、元服したばかりの若殿がありました。もちろんお年若でまだ奥様をおむかい遊ばしません。どうもお気鬱《きうつ》のようすで、ご家老は言うにおよばず、ご家中一同心配いたし、なんとかして気のまぎれるようなことをしなければならない。こまったものだと、そこで美しい腰元やなにか婦人を側へ付けておきますが、どうも婦人などはお目にはいらない。ご後室《こうしつ》が一方《ひとかた》ならずご心配遊ばし、おりおりご殿へ狂言師《きょうげんし》を呼び、狂言などの催しがありましてもどうもおもしろくないごようす、講釈師《こうしゃくし》、落語家《はなしか》などをお招きになっても、トンとお喜びがない。ある時お側の衆が東錦絵《あずまにしきえ》をご覧に入れると、これがたいそう御意にかない、しきりにご覧遊ばして、
殿「金弥《きんや》」
金「ハッ」
殿「これはなんじゃ」
金「おそれながら一百八人水滸伝《いっぴゃくはちにんすいこでん》の豪傑《ごうけつ》にございます」
殿「何者が描いた」
金「名人の聞こえを取りました、ただいま盛んの国芳《くによし》が筆をとりました。丹精して描《えが》きましたもので……」
殿「こわい顔じゃの」
金「御意にございます」
殿「これはなんじゃ」
金「広重《ひろしげ》の描きました江戸名所〔江戸名所百景〕にございます」
殿「さようか、これは……」
金「おそれながら|霞ケ関《かすみがせき》にございます」
金「霞ケ関、ウム、これは安芸《あき》の黒田じゃの〔霞ヶ関に描かれた黒田家の屋敷〕」
金「御意にございます」
殿「ウム、実地を見るようじゃな」
金「ヘエまことにじょうずなもので」
殿「これはなんじゃ」
金「鎧《よろい》の渡し〔日本橋川にあった渡し〕にございます」
殿「股の下に土蔵があるの」
金「船頭を大きく描きまして、下へ景色を小さく描きましたもので」
殿「さようか、これはなんじゃ」
金「浅草観世音《あさくさかんぜおん》の歳《とし》の市《いち》の図にございます」
殿「雪が降っているな」
金「御意にございます」
殿「傘じゃの」
金「仰せのごとくにございます」
殿「これはなんじゃ」
金「吉原街《よしわらまち》の桜どきにございます」
殿「ハア、向島と申すのはこれか」
金「イエ向島とはちがいます。吉原の夜桜の図にございます」
殿「さようか、下にいるこれはなんじゃ、阿弥陀《あみだ》のように頭に御光《ごこう》の差しているのは」
金「それは傾城《けいせい》にございます」
殿「さようか、これはなんじゃ」
金「ただいまご覧遊ばしました。その傾城を一枚絵に取りましたので」
殿「やはり広重という者が描いたか」
金「イエ、亀戸《かめいど》の豊国《とよくに》にございます」
殿「これはなんじゃ」
金「丁字屋《ちょうじや》の丁山《ちょうざん》と申します」
殿「丁山というはなんじゃ、やはり三韓《さんかん》のうちか」
金「イエ国ではございません。丁山と申す名前の遊女でございます。浮かれ女にございます」
殿「さようか、これはなんと申す」
金「扇屋の花扇《はなおおぎ》と申します」
殿「ウム、こんな者がいるのか」
金「美しいがために豊国が似顔を丹精いたして描きましたものでございます」
殿「この通りか」
金「御意に……」
殿「虚言《いつわり》を申すな」
金「まったくでございます」
殿「桜と申すとただ今じゃな」
金「御意にございます」
殿「見たいな」
金「ヘエ」
殿「まいろう」
金「ヘエ」
殿「支度をいたせ、供申し付ける」
○「どうした金弥、たいそう御意にかなったな」
金「イヤたいへんたいへん」
△「なんだ、だいぶ御意にかなったじゃァないか」
金「御意にかなって、こまってしまった」
△「どうこまった」
金「吉原へ行くとおっしゃる」
△「エー」
金「吉原へ行くとおっしゃる」
△「吉原へ……、それはいけない、なんでそんなことをお勧め申した」
金「お勧め申したのではない。広重の名所江戸百景の吉原街をご覧になったところが、よくおわかりにならない」
△「ウム」
金「それから豊国の描いた一枚絵をご覧に入れたところが、こういうものがあるかとの御意だ。ないとは言えないからございますと申し上げたら、まいるから供いたせとの御意だ」
△「それはいけない、ほかのところとちがって悪場所《あくばしょ》へお連れ申すということはできん、なんとか言ってお止め申しなさい」
金「ご貴殿なんとか申し上げて……」
△「それがしはどうも……オオお手が鳴るよ、お手が……」
金「ハッ」
殿「吉原街へ行こう」
金「おそれながら悪場所にござりますから」
殿「苦しゅうない」
金「しかしご身分柄そういうところへおいで遊ばしては、大公儀《だいこうぎ》への聞こえも恐れ……」
殿「ならんと申すか」
金「ヘエ」
殿「医者を呼べ、だれもこれへまいるな、ウーム」
金「ハッ、どうもこれはこまったな、いけないといえば医者を呼べとおっしゃる」
仕方がないからお留守居の頼母《たのも》という方へ相談をすると、是非におよばん、それではご家老へ内々《ないない》で、ちょうど桜どきであるから、道中でもお目にかけたらよろしかろう。このことを申し上げると大喜び、
殿「さっそく供揃《ともぞろ》いいたせ」
金「おそれながら申し上げます」
殿「なんじゃ」
金「お供揃いはなりません。ただいま申し上げた通り、悪場所のことでございますから、お忍びやかにおいでを……」
殿「さようか、なんでも苦しゅうない」
言い出してはとまらない、お忍び姿といっても五人や十人の供は付きます。大門《だいもん》を入って山口巴《やまぐちともえ》、ここの二階へ上がって、いま障子を開けはらうとたんに、コンカン、コンカン、コンカン、金槌《かなづち》の音もろともにコロンカラ、コロンカラという外八文字《そとはちもんじ》〔遊女の足のはこび〕、
殿「金弥、なるほど豊国と申す者は名人じゃな」
金「ヘエ」
殿「どうも少しの嘘もない、絵の通りじゃ」
金「仰せの通り」
殿「向こうからまいったあれはなんじゃ」
金「お指差しを遊ばしてはなりません。あれは錦絵《にしき》にてご覧遊ばした丁山《ちょうざん》にございます」
殿「アアさようか、そのほう、なじみか」
金「どうつかまつりまして」
殿「よう名前を存じておるな」
金「提灯《ちょうちん》に書いてございます」
殿「さようかなるほど、あの差掛傘《さしかけがさ》、あれはなんじゃ」
金「須崎万字《すさきまんじ》にございます」
殿「遊女の名前か」
金「家名にございます」
殿「ウム、あれはただいまの奴じゃな」
金「御意の通り、丁字屋の丁山にございます」
殿「丁字屋の丁山と申すのは家の子か」
金「イエ、お職《しょく》と申して、家名を肩に付けますので」
殿「ハア、マア早く申せば徳川で松平《まつだいら》と名乗るといったような、丁字屋の連枝《れんし》じゃの」
金「ご連枝というほどでもありませんが、マアマアと申したようのものでございます」
殿「ハアあれはどうじゃ」
遠くから火事の見当を見るように指差しばかりしている。四番目あたりに出てまいったのが扇屋の花扇《はなおうぎ》、あたりまばゆき向こう差し、後ろから傘をさしかけさせ、ひときわ目立って美しい、
殿「金弥」
金「ハッ」
殿「どうも美しいの」
金「御意にございます」
殿「全体毎日こうやっているのか」
金「イエ桜どき、ことに今日は晴れの道中」
殿「道中というのはなんじゃ」
金「アアやって練って歩きまするを道中と申します」
殿「さようか、旅の装いでもなく、あれで道中かアアあれを呼べ」
金「ヘエ」
殿「あれを呼べ」
金「ヘエ」
殿「アアならんと申すか、医者を呼べ」
しようがない、ダダッ子だから、よんどころなくお茶のお給仕ぐらいはと、呼んだのがはじまり、いよいよ襖《ふすま》を共にするというさわぎ、お忍びやかにお屋敷へお帰りになったが、どうも忘れかねて、
殿「金弥」
金「ハッ」
殿「昨夜、太夫《たゆう》がな」
金「おそれいりました」
殿「予のかたわらへまいって、あやつ感心な奴じゃ、殿さん、よう来なましたと、かよう申したぞ」
金「ヘエー、おそれいりまする」
殿「いちいちおそれいるな、あれの申すには」
金「ヘエ」
殿「何事も打ち解けてもらいたいと申した」
金「ヘエ」
殿「そのほうのことを言うた」
金「ハア」
殿「殿様いつ来なますと申すから、予は来たいが、あれにおる金弥がもうこれきりならんと言いおると、かよう申したところ、金弥はんという人は憎い人ざますと、そのほうを太夫が憎いと申したぞ」
金「ヘッ、おそれいります」
殿「しかし予の家来として、太夫にそのほうを憎ませるも不憫《ふびん》に思う」
金「ありがたきしあわせ」
殿「そこで金弥を憎まんのには、どういたしたらよいのじゃと言ったら、初会に来なまして、裏なじみ〔二度目の登楼〕に来なましなさいと」
金「ヘエ」
殿「客の恥じゃと、かよう申した。予も恥をかくのはいかにも残念、先祖よりいたして、いかなる戦場にても敵に背後《うしろ》を見せたことのない家柄じゃ」
金「ヘエ」
殿「たかが遊女の太夫にうしろを見せるというはこの上もない恥辱《ちじょく》じゃから、今宵いま一度まいるぞ」
金「ヘエ、おそれながらその儀は」
殿「ならんか、医者を呼べ」
しようがない、またその晩もおいでになる。また翌日
殿「金弥」
金「ヘエ……アアだれか代わって出てくれ、俺はもうやりきれなくなった」
殿「昨夜、太夫が」
金「ヘエ」
殿「申すには」
金「ヘエ」
殿「初会裏にまいって、なじみ〔三度目の登楼〕とかにまいらんのは傾城の恥辱じゃと申した。してみると襖《ふすま》を共にした太夫に、恥辱を与えるはいかにも不憫、いま一晩まいるぞ」
金「どうもそう切々《せいせい》おいでになりましては」
殿「ならんか、医者を呼べ」
しようがないから、お留守居に相談をいたし、一度はよい、二度はよいといううちに、だんだん度重なるとご家老|矢柄十郎左衛門《やがらじゅうろうざえもん》の耳に入ったから捨て置けません。大公儀へ聞こえてもよろしくない。そこで急に、国詰めということになった。
殿「国詰めも承知いたしたが、名残りにいま一夜」
という。お留守居はじめお側の衆も、こういうことは上も下もない。マアマアお名残り惜しかろうから、もうお国入りの日もきまったことゆえ、それではお名残りを遊ばせというので、またおいでになりましたが、どうもお座敷も浮きません。ご道理のわけで、これでこの花魁に別れてお国へ行けば、二三年会うことはできないのだから、殿様も浮きませんが、また花魁も共に浮きません。花魁の部屋へきて三蒲団《みつぶとん》
殿「太夫、予はこのたび国詰めじゃ、そのほうにもしばらく会うことができん。ついては少し無心があるが聞き済んでくれるかどうじゃ」
お大名も油断がない。お客のくせに花魁へ無心でございます。また片方は大籬《おおまがき》の花魁、ビクともしない
花「なんなりとも言いなまし」
殿「それでは太夫、そこもとを初めて見た時の、アノ道中の晴れ着、国裏へ持ってまいり、衣桁《いこう》へ掛けて朝夕ながめておったら、波濤《はとう》をへだつといえども太夫のかたわらにおるように心得る。アノ打ち掛けとやらを無心したいものじゃ」
大名だけに少し強請物《ゆすりもの》が大きゅうございます。しかし、打ち掛けを無心されても花魁は悪びれない。このくらいのお客に無心をされて、やる物をやっておけば、まんざら自分のためにならないこともないと、前後の考えをするような、いやしい了簡はないが
花「ようざます、持って行きなまし」
殿「さっそくの承知、千万《せんばん》かたじけない」
ポンポンと手を打つと、遊びでもやはり次の間にご家来が控えている。控えているご家来こそまことに迷惑
殿「手箱を持て」
金「ハハッ」
いくらあるか知らないが、奉書《ほうしょ》をひらいて、文庫の中からいくつとなく、小判をつかんでは載せ、つかんでは載せ、花魁の顔を見い見いやるから、いくらだかわからないが、たくさんそれへ載せて
殿「太夫、当座の手当て、これを取らせる」
けれども花魁だから、アラうれしいヨーなんて、ねずみ鳴きなどはしない。お金のほうは見向かない。煙管を突いて頬肱《ほおひじ》をして、
花「ありがとうござんす」
やるにもこういうふうにやりたい、もらうにもこういうふうにもらいたい、昔の金でいくらだか知らないが「ありがとうござんす」とオットリしたもので、暁《あけ》近いころ、後朝《きぬぎぬ》の別れを告げて忍びやかにお戻りになったお国は花の頓狂島《とんきょうじま》、そんなへんなところはあるかどうかわかりませんが、お大名様にさしさわりがあってはならないから、わけのわからない地名を昔はつけたものです。お名前はだいたい杉平柾目之正《すぎひらまさめのしょう》殿に赤井御門守《あかいごもんのかみ》、ところは丸の内辺、心中は向島、追いはぎは|護持院ケ原《ごじいんがはら》、身投げが大橋、病み犬にかみつかれるのが麻布の広尾の原、首くくりは食いちがいと落語のほうではきまっております。丸の内|根引駿河守《ねびきするがのもり》様、お国へいらっしゃったが太夫のことが忘れられないから衣桁《いこう》へあの打ち掛けをかけて朝夕ながめていらっしゃる。ころしも八月十五日、今宵は月見の御宴、ところが残暑のきびしいことで、暑いの暑くないのではない。昼間からしてご酒宴が始まり、
殿「藤太夫、藤太夫」
藤「ハッ」
殿「金弥はおらぬか」
藤「金弥殿、召します」
金「ハッ」
殿「アア金弥、いま、予がふと心づいたが、あれにおる坊主|珍斎《ちんさい》の」
金「ヘエ」
殿「花扇に面《おも》ざしが似ておるように見受けるが、そのほうどうじゃ」
金「なるほど、上《かみ》の仰せの通り男と女、頭のちがいまするばかり、じつに太夫に瓜二つのように思われます」
殿「そのほうにもさように見えるか」
金「仰せのごとく見受けまする」
殿「今日《こんにち》の酒宴、なんとなく先刻からもの寂しく思うておった。珍斎が太夫に似ているがさいわいであるから、あれに太夫の打ち掛けを着せ、予のかたわらへ座らせろ」
金「ヘエ、珍斎珍斎」
珍「ハイハイ」
金「上の仰せじゃ、あの打ち掛けを着るのじゃ」
珍「ごめんこうむりましょう」
金「ナニ」
珍「ごめんこうむりましょう。いかに上の仰せといって、帷子《かたびら》でさえ耐えられませんところ、アンナ厚い物を着た日には霍乱《かくらん》〔暑気あたり〕いたします」
金「と申して、主命は辞しがたい、仕方がないから着なさい」
珍「おどろきましたな、どうもこれは情けない」
ご家来大勢立って珍斎に打ち掛けを着せた。
殿「ウムよいよい、珍斎よく似合った。しかし頭が坊主ではいかん。予がゆるす、かぶり物をかぶり物を……」
金「ナア珍斎、上からおゆるしだ、かぶり物を……」
珍「ゆるされないほうがよろしゅうございます。こんな厚い物を着せられた上に、あねさんかぶりなどは、ごめんをこうむります」
金「上の御意にそむくか」
珍「アア情けない。昨夜の夢見が悪かった」
金「愚痴をいうな」
殿「アアそれでよい、予のかたわらへまいれ」
金「御前《ごぜん》へ御前へ」
珍「ヘエ」
金「珍斎、しなだれろとおっしゃる」
珍「情けないな、ヘエどういうふうにします」
殿「そのほうの肘を予の膝へ突くのだ」
珍「ありがたいような情けないような、累《かさね》の浄瑠璃にそういうのがある。お情けすぎて情けない」
金「今さらそんなことを言ってもしようがない」
珍「かようにいたしますか」
殿「いちいち聞くな、殿さんよう来なましたと申せ」
珍「ハッ」
珍「情けないわけで、殿さん……」
殿「いやな声じゃな、そのほうの声は、モットやさしく……殿さん、よう来なました。その後はおいでもなく、憎らしいざます、と申して、予の膝をつねれ」
珍「ヘエー、殿はんよう来なましたと、かよう申しますか」
殿「かよう申しますかなどというな」
珍「ハッ」
殿「ナアなんでもよいから、予の膝をつねれ」
珍「おそれいりました」
殿「苦しゅうない」
珍「ヘエ、殿さんよう来なました。ウーム……」
殿「アッ、痛いな。そのほうのはあまり痛いな、もうゆるす」
珍「ヘヘッ」
殿「金弥」
金「ハッ」
殿「いま取り上げたこの盃《さかずき》、江戸にいたら太夫と共に月を見るかと思うと、そぞろに太夫に献じたくなった。だれか足の早い者はないか」
金「大手前御飛脚屋《おおてまえおひきゃくや》足軽藤三郎《あしがるとうざぶろう》と申す者がございます。これは日に百里ずつ歩きます」
殿「さようか、藤三郎を呼べ」
すぐお足軽藤三郎をお召し、日に百里歩くというと、うそのような話だが、ずいぶん昔は健脚《けんきゃく》な人があったものでございます。なにしろ足軽がお目見えがかなうのでございますから、身にとりましてこの上ない。さっそく仕度をしてお庭前へまかりいで、ご縁側のところへ手を付きました。
殿「足軽藤三郎と申すはそのほうか」
藤「ハハッ」
殿「面《おもて》を上げえ」
藤「ハッ」
殿「頭を上げえ、藤三郎、金弥からうけたまわったか、江戸表吉原の花扇に予が焦がれてかわす盃、取りつぎをいたしてくれ、苦しゅうない、すぐに予へ返答いたせ、即答いたせ」
藤「ハッ、委細承知《いさいしょうち》つかまつりました」
殿「ウム、つげ」
三合入りのお盃へなみなみとつがせたのを
殿「藤三郎よく見ろよ」
と息をもつかず、グーッとお干しになって懐紙《かいし》で拭いて
殿「藤三郎、太夫に献ず、よう申したとくれぐれも申せ」
藤「委細承知つかまつりまする」
紙に包んで懐中《ふところ》へ入れ、セッセと花の頓狂島から江戸表へまいり、吉原へ来てこのことを言うと、太夫も思いに思いぬいていた殿様よりのお使いというので、番頭新姐《ばんとうしんぞ》に手を引かれ、バターリバターリ、立兵庫《たてひょうご》の髪で見世先《みせさき》へ出て、
花「お国表からのお使いは主《ぬし》ざますか」
藤「おそれながら足軽藤三郎と申します。上《かみ》より焦がれて献ずお盃、お受けを願わしゅう存じまする」
なにも言わず取り上げたお盃、禿《かむろ》がつぐ銚子、なみなみと受け、
花「殿はん、おなつかしゅう存じます」
ホロリと落とす一雫《ひとしずく》、グーッと息をもつかず、
花「ご返盃《へんぱい》ざます、殿はんによろしゅう」
藤「ほかにお言伝《ことづて》はございませんか」
ちょっと吹っかけてみた使い賃を……花魁は気がついたかつかないか、
花「よろしゅう言うてくんなまし」
藤「かしこまって候《そうろう》」
と、これを懐中へ入れて、セッセと駈け出しました。こっちではもう今に盃が返るか、今に盃が返るかとを膝立って、首を長くして殿様待ち受けていると、江戸表から藤三郎帰国いたしました。ソレッというのですぐにお庭前へまわし、
殿「藤三郎遅刻いたしたぞ」
藤「ハーッ」
これほど急いでまいったところを大儀大儀といわれ、安心をしてウーンと気を失います。お医者がバラバラ来て気付けの手当て、
殿「藤三郎、予が思うより半日遅刻いたしたが、いかがいたした」
藤「ハッ、ご近習まで」
殿「イヤじかに申せ、いかがいたした」
藤「ハハア、さようならばおそれながら申し上げます。吉原街の太夫へ上の仰せを申しましたところ、おなつかしゅう思っておりましたるところ、ようこそお盃をくだされ、うれしく存じますと、なみなみとつぎましたるを息をもつかず飲み干してご返盃という盃を受け取り、道を急いで帰る途中、ちょうど箱根へかかりますると、あの甘酒を売る婆の四五丁手前にて、いずれの諸公か存じませんが、お供先をば急ぐがままに手前、突っ切りましたるところ、お供の面々に無礼とあって取り押えられ、すでにお供尻まで引き据えられんといたしたるところ、お駕篭の内より太守お呼び止め遊ばし、いずれの者にてなにゆえにさように先を急ぐかとお尋ねに、じつはおそれいりましたるが、かようかようの次第と申し上げると、その殿様お膝を打って、アア大名はかくありたきこと、国表にいて江戸のなじみと盃のやりとりをいたすというは、じつに泰平《たいへい》の御代《みよ》とはいえ、大名はそれほどに大腹中《だいふくちゅう》〔ふとっぱら〕にいたしたい、予もそのほうの主人にあやかるよう、途中で合《あ》いをいたすと仰せられ、なかなかのご酒豪とみえまして、お駕篭の衆が大きなる瓢箪《ふくべ》に酒を持ち、これをなみなみとつがせ、箱根の山中において、お合いをいたしておりましたので、半日ほど遅刻いたしました。まことになんともお詫びのいたしようもございません」
殿「イヤ苦しゅうない、さようか、予にあやかりたいために、途中で合いをいたしたる者があると申すのか」
籐「御意にございます」
殿「フム、その方はよほど御酒《ごしゅ》を上がるかな」
藤「ただいま申し上げました瓢箪《ふくべ》は手前の見ましたるところ、二升くらいと思いました。そのお盃を取り上げ、なみなみとつがせ、息をもつかずグーッと一息にお飲み干しになりました」
殿「フム、おみごと、お手もと拝見、今いっぺん行ってこい……」
[解説]若殿の馬鹿さ加減に右往左往させられる家来たち……「馬鹿殿もの」とでもいう範疇にはいる噺である。広重・豊国・国芳などの浮世絵や江戸の風物、吉原の風習など、聞くうちに少し物知りにもなれるという趣向で、よくできている。サゲはトタン落ち。