今村信雄編
古典落語(上)
目 次
妾馬《めかうま》
文七元結《ぶんしちもとい》
高砂《たかさご》や
おせつ徳三郎《とくさぶろう》(上) 花見小僧
おせつ徳三郎(下) 刀屋《かたなや》
雪とん
明烏《あけがらす》
清正公酒屋《せいしょうこうざかや》
庖丁《ほうちょう》
春雨《はるさめ》
身代り杵《きね》
さら屋
二人書生《ににんしょせい》
薬違《くすりちが》い
子別れ〔上〕 おこわの女郎買い
子別れ〔中〕
子別れ〔下〕 子は鎹《かすがい》
山崎屋〔上〕 よかちょろ
山崎屋〔下〕
なめる
つるつる
付馬《つきうま》
たらちね
品川心中〔上〕 袴《はかま》
品川心中〔下〕 仕返し
紙入れ
三枚起請《さんまいきしょう》
首ッたけ
心眼《しんがん》
お見立て
身代わり石
剃刀《かみそり》
文《ふみ》違い
五人廻し
風呂敷
縮み上がり
宮戸川《みやとがわ》〔上〕
宮戸川《みやとがわ》〔下〕
搗屋無間《つきやむげん》
|佃祭り《つくだまつり》
裸《はだか》の嫁入り
敵討屋《あだうちや》 または「蟇《がま》の油」
三人旅
鰻屋《うなぎや》のたいこ
こんにゃく問答
笠碁《かさご》
道灌《どうかん》
船徳《ふなとく》
てんしき
目黒《めぐろ》のさんま
[#改ページ]
―――――――――――――――――
妾馬《めかうま》
―――――――――――――――――
女|氏《うじ》なくして玉《たま》の輿《こし》へ乗るとか申しまして、女の出世《しゅっせ》というものは、一足飛《いっそくと》びでございます。とりわけ昔はお大名《だいみょう》がお妾《めかけ》をたくさんおきましたもので、それは何かというと、先祖の勲功《くんこう》によって、何万石を領《りょう》すという血統が絶えますと、その家が断絶《だんぜつ》する。それがために子供が大切ゆえお妾《めかけ》をおおきになったというわけ、しかしこれも長者《ちょうじゃ》でなければできないことでございます。
丸の内の赤井御門守《あかいごもんのかみ》というお大名、あるお屋敷へおいでのお帰りみち、わずかのお供を従え、ご通行のおりから、いま裏店《うらだな》から出てまいったのは豆腐でも買いに行きますのか、右の手へ味噌《みそ》こしを持ち、あやしげな染返《そめかえ》したような着物に、細い帯をグルリと巻き、前垂《まえかけ》というほどのものでもなく、ただ前へぼろが下がっているというような塩梅《あんばい》、髪も乱れ、年のころは十七八、左の手で袂《たもと》を持って、何のためか後ろへまわしてこれをお尻のところへ当てて、出かけようとすると、ちょうどお大名のお通り、路次口《ろじぐち》へ立ってこれを見ておりますと、お駕籠《かご》の中から殿様が彼《か》の娘をご覧になりました。大名は女の鑑定がなかなか上手な者とみえまして、化粧《けしょう》もせず、髪を乱しておってあれだけの美人、これをひと磨き磨き上げたら大したものだろうとお目にとまりました。すぐお駕籠《かご》脇の侍《さむらい》を召され、何か内所話《ないしょばなし》をして、そのままお駕籠はスーッと行ってしまいました。彼の侍《さむらい》が裏へ入ってみると、大長屋《おおながや》、井戸があって少し離れて、掃溜《はきだめ》の総雪隠《そうこうか》〔共同便所〕というのが昔の裏長屋《うらながや》の紋切形《もんきりがた》、すっぱだかになった奴《やつ》が井戸の中に首を突込んでいるのは、いかさま釣瓶《つるべ》を落してそれを取ろうとしているものか、
侍「コレコレ町人、コレッ」
○「ヘエ、ヘエこれはどうも相すみません。裸体《はだか》でおりまして、どうも誠に……、ただいま釣瓶《つるべ》を落としまして、私が月番《つきばん》だもんですから、糊屋《のりや》の婆がグヅグヅ言いまして、片ッ方ではどうも汲《く》みにくくっていかねえの、ヤレどうのというんで、忙しいなかで、急いで取ろうと思うと苔《こけ》が付いてるんで、すべって落こッちまうんで錨《いかり》がありゃァ直《じき》に取れるんですが、家主《おおや》が吝嗇《けちんぼ》だもんだから錨《いかり》がねえんで、仕方がねえからいろいろ工夫をして中へ首を突込んで、誠にどうも裸体ですみません。なにかご用でございますか」
侍「イヤこの長屋を守る家守《やもり》はいるか」
○「ヘエ、井戸《いどばた》ざらいをチョイチョイいたしますから、守宮《やもり》はおりません、守宮《やもり》は壁から生《わ》くもんで、晩方になって下見《したみ》を見ると大抵《たいてい》二三|疋《びき》は這っております」
侍「イヤ虫の守宮《やもり》ではない。この長屋の支配《しはい》をする者をいうのだ、きさまか」
○「イエ私じゃァございません」
侍「長屋の支配《しはい》をする者はどこだ」
○「ヘエそれは家主《おおや》さんでございます」
侍「何だ」
○「ヘエ家主《おおや》さんなら、旦那ご苦労様でも、もう一遍《いっぺん》外へお出なすって、右ッ角に米屋がございます。その隣りが瀬戸物屋《せとものや》で、その隣りで荒物《あらもの》を少しばかり売っておりますけれども、自身番《じしんばん》へ出て、町役人《ちょうやくにん》とかなんとか言われまして、たいした役に立つ爺《おやじ》でもありませんけれども、でもマァ高慢な面《つら》をしております。商《あきな》いといったところが店子《たなこ》の者とか、町内の者が義理に買いますが、何を買っても高い家で……」
侍「よけいなことをいうな、それが支配《しはい》をいたす者か」
○「さようでございます。角から三軒目、二間半間口で草ぼうきが外へ突立ってて、たわしだの、蝋燭《ろうそく》だの、線香《せんこう》だの、そんな物を売っております。二階の窓の外に三尺ばかりの物干し見たような物が出来ています。この爺さん植木が好きで、好きッたってろくな物はございません。縁日《えんにち》へ行って負かして買ってくるんで、つまらねえ植木ばかりで、ケチな松の木がすり鉢の鉢巻をした奴に植《うわ》ってます。」
侍「何だ、鉢巻とは」
○「ナニすり鉢がひびが入ってるんで、箍《たが》が掛っていますんで、植木棚が腐ってるから危のうございます。この間もそういったんで、買物に来た人の頭にでも落ちると大怪我をするといったんですが、やっぱりそのままになってます。これを出て右へ曲がるとすぐに知れます」
侍「ウム、判った……。コレコレこの先の米屋の裏長屋を支配するのはそのほうか」
家「ヘエ、米屋の裏はずっと私が支配しております。なんぞ長屋の者が粗相《そそう》でもいたしましたら、私がなりかわってお詫《わび》をいたします。どうも無作法《ぶさほう》な奴ばかりたくさんにおります。裏長屋のことで、どうも……」
侍「イヤあやまるには及ばん、あの長屋に年令《としごろ》は十七八、扮装《なり》も疎末《そまつ》なら、髪も乱れているが、誠に容貌《みめ》よき女子《おなご》があるが、あれは何者の娘であるか」
家「ヘエ、長屋に十七八、ヘエへエ、あれは少し不具者《かたわもの》でございまして、十七八には見えますが、まだ年は十三と少しばかりで、誠にどうも相すみませんが、子供のことゆえ何分はご勘弁《かんべん》願います。親孝行者でございまして、親父《おやじ》は三年あとになくなりまして、兄貴がありますが、これが破落者《ならずもの》でしょうがございません。親子三人貧乏暮しをいたしております」
侍「ウーム、ハテ困ったなあ、十三ではどうもいかんな」
家「ヘエどういう粗相《そそう》でございますか、親に親孝行者ゆえ……」
侍「イヤ粗相《そそう》をいたして、それを咎《とが》めにまいったわけではない、身共《みども》は丸の内|赤井御門守《あかいごもんのかみ》の家来|赤熊軍十郎《あかぐまぐんじゅうろう》と申す者である」
家「ヘエ」
軍「実はあの娘が上《かみ》のお目にとまって、妾《めかけ》に欲しいという仰せであるが、十二三ではどうもいたしかたがない」
家「ア、さようでございますか、それは有難うぞんじます。何か粗相《そそう》をいたしたこととぞんじまして、十三と申しましたが、全くギリギリのところは十八で……」
軍「何だ十八じゃと、髪は島田《しまだ》に束ねているが、町家《ちょうか》の者は良夫《おっと》のある者でも島田髷《しまだまげ》にいたしておる。亭主《ていしゅ》など定まりおるのか」
家「どういたしまして、まだなかなか亭主などは持ちません、兄はあってもなきがごとく、阿母《おふくろ》を相手にああやってぼろを着て、髪も乱して一生懸命内職をして働いておりますが、実に感心な娘でございます。まだ色気《いろけ》とても丸ッきりございません。もしご縁がございまして、そういうことにでもなれば、阿母《おふくろ》の喜びは一通りではありません。どうも有難うぞんじます」
軍「イヤ、お前は有難いといったところが、本人が不承知ではいかず、また破落者《ならずもの》にもせよ兄という者があってみれば、それに相談をしなければなるまい」
家「ナニあなた、兄貴だってあんな野郎は長屋の厄介者《やっかいもの》で、否応《いやおう》いわせる気遣《きずかい》はございません」
軍「しかし万一|不服《ふふく》があってはならん。さっそく赤井御門守《あかいごもんのかみ》屋敷へ尋《たづ》ねまいるよう、その方から申し付けてもらいたい。支度金《したくきん》は望みどおり取らせる、また一つ申しておくが、いたってお堅い殿様で、これまで幾らお勧めしても妾《めかけ》という者をお持ちあそばさない、ところが奥様にまだお子様がないによってお家のために、お召し抱えになろうというものだが、かの娘はちょっと身体のようすを見ても誠に丈夫そうであるから幸いにお世取《よとり》でも挙げるようになれば大層な出世《しっせ》であるから母や兄にもよく申しつけて、とくと相談の上さっそく否やを申しでるよう、ただいま申すとおり、仕度金《したくきん》は望みどおり取らせる」
家「ヘエ、さっそく明朝うかがうようにいたします」
いいおいて侍は帰ってしまった。
家「婆さんや、婆さんや、大変なことになっちまった。お前も聞いてたろう。裏へ行っておつるの阿母《おふくろ》を呼んできな、アノ婆さんも聞いたらさぞ喜ぶだろう。正直の者は神様が助けるんだな、支度金《したくきん》は望みどおりに出すというんだ……、どうした、エー風邪《かぜ》をひいたって寝ている。そうか、あんな丈夫の婆さんでも風邪をひくか、鬼の霍乱《かくらん》という奴だ。眠り病じやァあるめえ。病人を呼ぶというわけにもゆくめえ。俺が行って話をしてやったら、風邪《かぜ》くらいなおってしまうだろう……。オイ婆さんや閉めて寝ているのか、よっぽど悪いと見えるな、婆さんや」
婆「何をいってるんだい、また酒屋のご用聞きだよ、きまってるよ、人のことを婆さん婆さんって、用のある時にはヤレお婆さんだの、阿母《おっか》さんだのッて、何を叩くんだ、人の家を遠慮もなく……叩っこわしちまうよ、店賃《たなちん》もろくろく納めないで、戸でもこわしたら、家主《おおや》さんに対してすまねえ。ご用聞きめ、きまってやがる」
家「何をいってるんだ、酒屋のご用聞きじゃァねえ、俺だよ、あかねえのか、エー締《しま》りはしてねえッて、あかねえじゃァねえか、なに力を入れてウンと押せ……、アーなるほどあいた、オオ寝ているな」
婆「オヤ家主《おおや》さんでございますか、マアとんだ失礼をいたしました。イエいつもこの横丁の酒屋のご用聞きが来ましては、私のことをヤレ皺《しわ》くちゃ婆ァだの、百なり婆ァだのと言いますんで、ちょっとお声が似てたもんでございますから、大きに失礼をいたしました。家主《おおや》さん毎度どうも有難うぞんじます」
家「どうした、鬼の霍乱《かくらん》ということがあるが、平常《ふだん》丈夫のお前が風邪をひくなんて……」
婆「イエナニ仮病なんでございます。明日は晦日《みそか》でございましょう。ソロソロ書付《かきつけ》や何か持って来ますんで、モウ気になってなりません。マア風邪でもひいているといえば、同じ言訳《いいわけ》をするにもしようがございますから、時々|仮病《けびょう》をつかいますが、実は丈夫なんでございます」
家「それは何より幸いだ。身体の丈夫くらい結構なことはない。今お前のところへ来たのは、他じやァないが、マアあがって話そう」
婆「どうぞこっちへ……ご承知のとおり、ヤクザ野郎があのとおりで、たびたび小言もいってくださるが、糠《ぬか》に釘で家《うち》にったらちっとも寄《よ》ッつきません。今日で五日も帰りません。何にもしないで、ノソノソしておりますのでほんとうに困り切っておます。それでもマアおつる坊《ぼう》が孝行をしてくれまして、一生懸命内職をしましたり、お使いをしてお小遣《こずかい》を頂いたりして、どうやらこうやら、母子二人は足らないながらも凌《しの》いでおります。ただいまもちょっとそこまで使いにまいりましてございますが、家主《おおや》様にもいろいろご厄介《やっかい》になりまして、この間も、お隣のおかつさんと噂《うわさ》をしたんでございます。ここの家主《おおや》さんくらい結構《けっこう》な方はない。おさっしがよくって、長屋の者を可愛がって、店賃《たなちん》の催促もなさらず、五六日前にも、おかつさんがお目にかかったら体裁《ていさい》が悪くって、ツイ良人《うちのひと》が仕事を休んでおりましてと言いかけると、家主《おおや》さんが外の話をしてお帰りになった。アンナご苦労人はないと言いますから、私があなたのことを知ってますから言って聞かしてやりました。苦労人たって、アンナ苦労をした方があるもんじゃァない。立派な身代《しんだい》の家に生まれたわけではない、上総《かづさ》の鹿野山下《かのうざんした》の根本《ねもと》村というところからお出になって、番太《ばんた》のところえ奉公《ほうこう》していらしったことを私が知っておりますから話をしてやりました。話をしなければ苦労人《くろうにん》ということがわからないとぞんじましてね、その時分には何とか言いました。アゝ久助《きゅうすけ》さんといって町内の使いやら何かしておいでなすった。私どもは表店《おもてだな》にいて、立派というほどじやァありませんけれども、これでもどうにかこうにかして、町内の祭りなどというと、どうだろう、こういう風にしようじゃァないか、貧乏町内ではあるけれども、余りみっともないことも出来まい、これはこうしたらよかろうと、死んだ親父《おやじ》にいちいち相談するような身分でございましたのが、今ではこんな汚ないといっては家主《おおや》さんにすみませんけれども、マア裏へ引込んで、その時分|番太郎《ばんたろう》に奉公をしていた方が、今では立派な家主《おおや》さんになって、町役人をしておいでなさる。人間という者の浮き沈みは分からないもので、しかしそれだけに苦労をなすったから、何も彼もおさっしがよくっていらっしゃると、散々おかつさんに話をして聞かしたんでございましよ」
家「マアマアそうノベツに喋舌《しゃべ》んなさんな。俺が一言《ことこと》言ううちにお前が十言《じゅっこと》も喋るから始末にいかねぇ。余計なことをいって俺の讒訴《ざんそ》をしちゃァいかねぇ」
婆「イエ讒訴《ざんそ》というわけではございません。自慢話《じまんばなし》で、人間というものはどうでも貧乏から仕上げたんでなければいけません」
家「マアいいよ、褒《ほ》められるんだか悪くいわれるんだか分からねえ。実はマアあの娘のことについて、お前を喜ばせようと思って来たんだ」
婆「オヤ恐れ入りましたね、もう私は全然歯が立ちませんで、固いものは少しも食べられません。お酒はいただきませんし、アンコは結構で……」
家「何をいってるんだ、意地のきたねえ婆さんだ。アンコじゃァねえ、あの子、おつる坊のことなんだが、八|公《こう》はどこへ行ってるんだ」
婆「アノ野郎の居所が分った例《ためし》はありません」
家「分らねえッて兎も角も名前人《なまえにん》だ、八公に相談しなくっちゃァいかねえ」
婆「デハおつるが何かいたしましたか、ほんとうに子供という者は油断がならないと、よく申しますが、女の餓鬼《がき》はそれが一番嫌なんで、マア対手《あいて》は誰でございます」
家「何をいってるんだ、対手《あいて》も何もありゃァしない」
婆「何だか私にはちっとも訳が分りません」
家「俺だって訳が分らなくなった」
婆「おつるが情夫《いろおとこ》でもこしらえたじゃァないんですか」
家「そんな訳じゃァねえ、マア落着いて聞きなよ」
婆「私は落着いています」
家「落着いちゃァいないよ、先刻《さっき》この前を、お大名《だいみょう》がお通りになったんだ」
婆「アア彼奴《あいつ》がお転婆《てんば》でございますから、お供先《ともさき》でも切って。それで自身番《じしんばん》へ……」
家「そうじゃァねえ、お前《めえ》のようにそう先がけにいっちゃァ話が出来ねえ。その時におつる坊がお目にとまったんだ」
婆「お目にとまったというのは、どういうことで……」
家「どういうッて、大変にお気に入って、奥様はあっても子供が出来ず、お妾《めかけ》を勧めても今まで一人もお妾《めかけ》をお置きなさらなかったところが、おつる坊を是非お妾《めかけ》にしたいというのだ。幸いのことじゃァねえか、支度金《したくきん》は望みしだいくださるが、それともお前不承知か」
婆「不承知どころじゃァございません。この通り三度の飯にも差し支えるくらいのところ、マア私は起きてるでしょうか」
家「起きて口を利いてるじゃァねえか」
婆「ほんとうに夢のような心持ちがいたします。有難うぞんじます。是《これ》と申すも三年あとに亡くなりました親父《おやじ》の引合せでございましょう。俗名《ぞくみょう》は治兵衛《じへえ》戒名《かいみょう》は安蒙養空信士《あんもうようくうしんし》、また二つには日頃信ずる高宗日蓮大菩薩様《こうそうにちれんだいぼさつさま》、中山の鬼子母神様《きしぼじんさま》、熊本の清正公様《せいしょうこうさま》……」
家「オイオイじょうだんじゃァねえ。本当に呆れ返った婆さんだ、しっかりしなくちゃァいかねえ」
婆「有難うぞんじます、しっかりしております」
家「泣いちゃァいかねえ。困ったなァ、それについて八公に是非会わなくちゃァならねえ」
婆「イエあんな野郎《やろう》に、こんな話をすれば何をするか知れません」
家「馬鹿なことを言いなさんな。ともかくも名前人《なまえにん》だ。さっそく居所を捜して俺のところへ八公をよこしな、町内《ちょうない》の内にいるだろう」
婆「左様でございますね、アノ野郎《やろう》町内中あらかた借りがありますから」
家「借りなんか心配することはねえ。この話さえまとまれば皆んな返せるんだ」
婆「ハイ、そうなりませば、心当たりもありますから、呼びにまいりまして、グヅグヅしていれば首ッ玉へ縄を付けて引っ張ッてまいります」
家「そんなにしねえでもいいが、何しろ明日の朝までにお屋敷の方へ御返事をしなけりゃァならない。こっちさえよければ先様では御意《ぎょい》に適)かなってるんだから、いいかい、いたらすぐに八公を家へよこしておくれ」
婆「かしこまりました。どうか少々お待ちくださいまし」
と婆さんが飛び出したが、なかなか破漢戸《ごろつき》の八公、どこを歩いてるか分らない。
婆「銀さん銀さん」
銀「オゝ阿母《おっかあ》、何だい」
婆「八の野郎どこにいるか知らないかね」
銀「アア新道《しんみち》の建具屋《たてぐや》の二階に素裸《すっぱだか》で、閉じこもっていたっけ」
婆「また始めやがって、何でも飲むと打つと、買うんだからしょうがない」
銀「隠れてるから、お前が行ってもいねえというだろう、お前用があるなら呼び出してやってもいいが、ともかくもお前|門口《かどぐち》へ行って聞いてみねえ。いけなかったら、俺が呼んでやるから」
婆「どうかお頼い申しますよ、ほんとうにしょうのねえ野郎だ。……内儀《おかみ》さん、毎度どうも野郎が御厄介《ごやっかい》になってすみません。あの野郎こちらにおりましょうか」
女「そうですねえ。家《うち》は出入りが多いからよく分りませんが……八さんは来ているかい」
○「いませんよ」
女「来ていないそうですよ」
婆「オヤそうで……ちょっと銀さん銀さん」
銀「エー、いないって、仕様がねえな、極《きま》ってやがる、オゝ八や、俺だい」
八「アゝ銀衆《ぎんしう》か、マアあがんねえ」
銀「あがんねえじゃァねえや、阿母《おふくろ》が心配して探してるんだ」
婆「アラこん畜生、ほんとうにいるのにいねえなんって、呆れ返った野郎だ」
八「アゝ阿母《おっか》さんか、阿母さん仕様がねえ」
婆「馬鹿にするな、何が阿母さんだ」
八「来ちゃァいかねよ、何しに来たんだ」
婆「何しにじゃァねえ、少し話があるんだ」
八「極《きま》ってらァ、マアいいよ、判ってるよ」
婆「判ってるって奴があるかい、仕様のねえ奴だ、ここまでちょっと降りて来ねえ」
八「何だかそっちで怒鳴んねえな」
婆「大きな声じゃァ話せねえことだよ」
八「どこから催促が来たんだ」
婆「催促じゃァない。もっとこっちへ耳を持って来ねえ」
八「しょうがねえなァ……ナニウム、おつるがフゝゝゝゝ。ウン成るほど、支度金は望み次第、しめたな。そうか……」
婆「それについて家主さんが心配しているんだ。何しろお前が名前人《なんまえにん》だから、お前の承知のないことは出来ないと、アゝいう堅《かた》い人だからそういうんだ、お前、すぐに家主さんとこへ行かなくっちゃァいけないよ」
八「借りがあるからなァ」
婆「借りがあっても話しさえ極《きま》れば返せるんだ。家主さんの方がお前より喜んでるから、何しろ行かっなくちゃいけねえ」
八「行くったって裸体《はだか》だ、家主さんにこういってくんねえ。まことにすみませんけれども、朋友《ともだち》に頼まれて、義理で建具屋の二階に裸体《はだか》でおりますから、どうかよろしきようにお頼み申しますって……」
婆「朋友《ともだち》の義理で裸体《はだか》でいる奴があるか、しょうのねえ奴だなァ」
婆さんが仕方がないから、家主さんへ行って話をして単物《ひとえもの》を一枚借りて来て、これを引掛けさせて連れて来ました。
八「こんにちは、どうも家主さんすみません」
家「マア今日は小言はいわねえ、こっちへあがんなあがんな」
八「ヘエ、どうも誠にすみません。阿母《おふくろ》からあらまし話は聞きましたが、何だか知らなえけれども、おつるの阿魔《あま》が、大名《だいみょう》の鼻の先きえブラ下がったって……」
家「鼻の先へブラ下がる奴があるか。お目にとまったんだ」
八「アゝお目にとまったのか、何でもその見当だと思った。で、マア支度金とか何とかを、おくんなさるって、どうも有難うぞんじます」
家「何をいってるんだ、それについてお前に不承知があるかねえか、それを聞きてえから、阿母《おふくろ》に探しにやったんだ」
八「どういたしまして、不承知なんかありゃァしません。あんな者でも売れ口がありゃァ結構だ」
家「仕様のねえ奴だなあ、支度金のところは望み次第取らせるというから、ともかくも着物をこしらえたり何かして、このくらいいるだろうというところを言い出しなさい、幾らでもよい」
八「さようですねえ、そういうことはたいがい相場がありましょうから、どうかよろしく……」
家「それはいけねえや。俺はこんな人間で中へ入って、一銭一文でも儲《もう》けようという考えはねえ」
八「なるほど、桂庵賃《けいあんちん》〔取り次ぎ料〕は先方から出るんで」
家「変なことをいうな、お前のためを思うから心配しているようなものの、俺のことじゃァねえ。お前は主人じゃァねえか」
八「主人は裸体《はだか》だ」
家「裸体《はだか》でも何でも生きてるから、望みがあるんだろう。このくらい支度にかかって、婆さんの手当も少しは取って、借金を返すくらいの勘定を立てなよ」
八「うまくいってやがる、店賃《たなちん》を取ろうと思って……」
家「何をいやがる、店賃《たなちん》を取ろうというわけじゃァねえ。明日の朝までに返事をするんだからどうだ」
八「どうも弱ったなァ、こんなことに初めて出くわしたんだから……。あいつを女郎《じょろう》に年いっぱい打込《ぶちこ》んだところで大したことはねえ」
家「女郎《じょろう》に売るのたァ違うよ。女郎と一緒にする奴があるか」
八「そりゃァそうだけれども、弱ったなァ。……どういうもんでごぜえましょう。エー片手《かたて》ぐらいのところじゃァ」
家「そうさなァ、片手というと、ちっと大仰《おおぎょう》じゃァねえかと思うが……」
八「じゃァ三両くらい」
家「馬鹿野郎、対手《あいて》はお大名様《だいみょうさま》だ。何だ三両ばかり、五百両だと思うから少し多い、といったんだ、少なくとも三百両くらいのところは大丈夫だ」
八「三百両、ようがす。手を打ちましょう」
家「手を打つ奴があるか、古着屋じゃァあるめえし」
八「どうも有難え。三百両ときた日にゃァ、スッカリ扮装《なり》も出来て、近所の借金を返すけれども、家主さん、店賃《たなちん》は払わねえよ」
家「馬鹿ァいえ、貰うものは貰うよ」
八「そうかねえ」
何しろ三百両と聞いたから二つ返事、どうぞお願い申しますというので、家主からお屋敷の方へお挨拶《あいさつ》をすると、三百両のお支度金《したくきん》が差し支えなく下がり、支度万端《したくばんたん》整っておつるはお妾《めかけ》に上がりました。もともと見初《みそ》めたくらいの者ゆえ殿様の御寵愛《ごちょうあい》深く、たちまち御妊娠《ごにんしん》。オギャッと産み落としたのがお玉の様なる男の子お世襲《よつぎ》をお産み申しましたから、すぐに、お鶴《つる》の方というお方号《かたごう》を頂いて、お上《かみ》通りの取扱い。そこで妹の方から兄に遭いたいと願ったものか、八五郎を呼べという仰せ。早速、家主《いえぬし》付添い、お屋敷へ出るようにという御沙汰《ごさた》が来ましたから、家主は喜んで八五郎を呼びにやる。
八「こんちは、どうも有難うぞんじます。今聞きましたら何だか妹が餓鬼《がき》を産《ひ》り出したそうで……」
家「馬鹿ッ、餓鬼《がき》を産《ひ》リ出すってえ奴があるか、それについてお屋敷からお沙汰があったから、お喜びにお前出なくちゃァいかねえ」
八「ヘエー、私が行くんですかい、弱ったなァどうも。金は大概つかっちまったし、ちったァ良い衣類《きもの》も着て行かなけりゃァならず、交際《つきあい》に追い倒されてやり切れねえ、これは断っておくんなさいな、大名交際《だいみょうつきあい》ときた日にゃァ骨が折れるからね」
家「馬鹿野郎、交際《つきあ》う気になってやがる」
八「だってタダも行かれねえ。どんなに吝嗇《しみったれ》にしたって、飴《あめ》でも買って、チビチビおしゃぶんなさいくらいのことは言わなくちゃァならねえ」
家「馬鹿野郎、高貴方《あかたがた》へ対して、何か持ってくなどということは大変失礼だ。ただ行きさえすりゃァいい、お前こそ行きゃァ只《ただ》ということはねえや」
八「ヘエー、何かくれますか」
家「お目録頂戴《もくろくちょうだい》くらいある」
八「ヘエーおもくおもく」
家「おもくおもくという奴があるか、お目録《もくろく》といってお金をくださる」
八「ヘエー大名てえ者はなかなか呉れたがるもんだね、して見ると交際《つきあっ》て損はねえ」
家「どうもお前はガサツ者だからいけねえ、口の利きよう、起居振舞《たちふるまい》丁寧《ていねい》にしねえと、妹が恥をかくぜ」
八「ヘエようございます」
家「袴羽織《はかまはおり》はどうしても着けて往かなけりゃァならねえが、その用意があるか」
八「エーあります」
家「年中|尻切半纏《しりきりばんてん》一枚でいる奴がよく持ってるな」
八「その古い方の箪笥《たんす》の上から二番目の抽斗《ひきだし》に入ってる」
家「これァ俺のところの箪笥《たんす》だ」
八「その抽斗《ひきだし》に入ってる」
家「気味の悪い奴だなこいつ、なるほど上から二番目に袴羽織《はかまはおり》が入ってるが、どうして知ってる」
八「このあいだ来た時に、台所の方に誰もいねえから上がり込んだのを、店番をしていた少女《こども》が知らねえからちょっと開けてみたんで」
家「物騒《ぶっそう》な奴だなァ」
八「ふだん高慢《こうまん》なことを言ってるけれども、箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》に、どんな物が入ってるかと思って開けてみたんで」
家「物騒《ぶっそう》な奴があったもんだ」
家主も呆れましたが、しかし破漢戸《ごろつき》でも根が正直な奴だから、腹も立てずに袴羽織《はかまはおり》から衣類そっくり貸してやって、先方でこういったらこういえ、なるたけ口を利かねえで、殿様の前へ出たら、すべて丁寧にしろよと、すっかり教えております。身分の高下《こうげ》は争われない。貴い方の前へ出ますと、御威光《ごいこう》に恐れて、八公ガタガタふるえ出して、段々後ろの方へ下がってくる。
殿「妹つる、世襲《よつぎ》をあげ、満足である。これにおるも窮屈《きゅうくつ》らしい。ついで酒を取らせろ」
というお声がかかる。
侍「サァどうぞこちらへ……」
という案内に次へ来て見ると酒肴《さけさかな》がならんでおります。
八「ヘエ、どうも皆さんいろいろご厄介様でございます。有難うぞんじます。婆さんも心配してどうだろうどうだろうと、家で苦労ばかりしています。悪い物でも食って身体を悪くしやァしねえか、軽はずみの真似をして転びでもすると大変だって、そんなことばかりいって毎日心配しているんで、大丈夫だよ、余計な心配しねえがよいと言っても老人《としより》だもんだから、苦労ばかりしているんで……」
侍「モシモシ余り大声《たいせい》を発しないように……」
八「大声《たいせい》って……アア大声《おおごえ》を出しちゃァいけねッてんですかい。どうもすみません。つい、でけえ声をしつけてるもんだから……ネーモシ旦那、酒てえ奴は一人で飲んでちゃァ旨くねえ、一つどうです。エーそうですか……、何だか少し痺《しび》れが切れてきてしょうがねえが、この辺でトグロを巻いちゃァどうでしょう」
侍「ハア、トグロを巻くといいますと、どういうことで……」
八「胡座《あぐら》をかくんだ」
侍「ハア胡座《あぐら》のことで、どうぞご遠慮なくトグロをお巻きくださるように」
八「それにゃァどうも窮屈袋《きゅうくつぶくろ》を穿いちゃァ旨くいかねえ、……サアこうなりゃァ何でも持ってこい、手酌《てじゃく》でグングンやるからズンズン酒をつけておくんなせえ」
くだらないことを言い言いガブガブ飲み、ことに妹が出世をしたので、嬉しくってたまりませんから、十二分に酔払って、
八「ねえ旦那《だんな》、何しろ大名なんてえ者は、旦那の前だが、随分骨が折れるね」
侍「どうもそう大声《たいせい》を発しては……」
八「大声《たいせい》たってそうじゃァねえか、驚いたねえ、どうぞこっちへというんで、幾ら歩いても畳の上ばかり、ここで追っぱなされたら私やァ出口が分らねえ、迷子になるぐらいだ。家が立派で、道具は良し、食物は旨えし、安くはねえね、一合幾らだか知らねえが……」
侍「さようなことは言わんで、サアズンズン飲みなさい」
八「ズンズンたってそうのべつに飲める訳のものじゃァねえ、婆さんが喜んでたぜ。おれがこれこれで屋敷へ行くことになったといったら、それは何しろ結構だ、けれども婆さんがたったひと言……」
侍「そんな大きな声を……」
八「大きな声たってそうじゃァねえか、身分の違うというものは情けない、おつるの阿魔《あま》が……」
侍「阿魔《あま》とはけしからん」
八「ヘエおつる様というんでごぜえますか」
侍「おつる様とはいわんでも、阿魔《あま》はいかん」
八「マアおつるが生みやァ初孫《ういまご》だ、こっちが貧乏人で先方が大名《だいみょう》の殿的《とのてき》だ」
侍「殿的《とのてき》……」
八「アゝ御免なさい御大名《おだいみょう》だから孫の顔を見たいってったって見ることは出来ねえ、抱きてえって抱くことも出来ねえ、何も楽しみがねえから、お前が行ったらその餓鬼《がき》……じゃァねえ、その子供を、二人前《ににんめえ》だけ見て来ておくれと婆さんが言いやァがるんだ、撲られたって泣いたことのねえ俺だが、その時にゃァ涙が溢《こぼ》れたねえ、もし抱けるようなら二人前《ににんめえ》抱いて来てくれと言やァがって、ボロボロ婆さんが泣やァがるんだ、二人前《ににんめえ》見るの、三人前見るのッて訝《おか》しいけれども、身分が違うために傍に寄ることが出来ねえと思うと、婆さんだって可哀想じゃァねえか、ネーオイ大将……」
侍「コレそんな大きな声をしては困る」
手に取るようにこれが殿様のお耳へ入りまして、思わず御落涙《ごらくるい》。アゝ可哀想に、身分がちがうために初孫が見たいというのは道理じゃ。かような物を知らん奴でも男は男は、楠《くすのき》は泣男《なきおとこ》を抱えたという例《ためし》もある。また何ぞの役に立つであろうから、小身《しょうしん》たりとも侍に取り立ってつかわしたら、母も共に屋敷へ引取り孫の顔も見られるであろうと、ソコで改めてお沙汰になって八五郎、五十|石《こく》の小身《しょうしん》ではあるが侍にお取り立ての上、お小屋《こや》をくださることになり、親子共々大喜びで、それに引き移りましたが、名前が無くてはいけない。妹と違ってこれはひどい酷男《ぶおとこ》、お側役人《そばやくにん》も面白半分、まるで蟹に似ているからおかしな名前をつけてやろうと、石垣杢蔵源《いしがきもくぞうみなもと》の蟹成《かになり》という名をつけました。サア御家来方《ごけらいがた》の玩弄《おもちゃ》物、
○「石垣氏《いしがきうじ》」
八「エー何だ」
その頓珍漢《とんちんかん》というものは実におかしい、ある日のこと
八「阿母《おっかあ》、俺がこの間ちょっと話しに聞いたけれども、マアこうやってこっちへ引き取られるようになってから朋友《ともだち》の奴等がいろいろなことをいってるそうだ。妹の縁でこの頃はたいしたことになったという話をする人もあるそうだが、中にはやり切れなくなってとうとう夜逃げをしてしまったといってる奴もあるそうだ、つい急いだもんだから、ろくに暇乞《いとまごい》もして来なかった。それについて俺はこの間からそう思ってるが、今日はひとつ後ろのほころびたような羽織《はおり》を着て、朋友《ともだち》のところをズーッと廻って来ようと思う」
婆「けれどもお前が二本差して出たところが、まだ髷《まげ》が小さいからね」
八「そんなことを待っちやァいられねえ、姿《なり》を見たら皆んなも安心するだろうし、家主さんのところへも行って来てえ」
婆「じゃァ行って来るがいい」
大小《だいしょう》を差し、ぶっ割き羽織《はおり》を着て、一人供を連れて、屋敷を出て町内へ来ると、職人が多いからあまり昼間はおりません。あっちへマゴマゴこっちへマゴマゴしていると向こうから来た職人
○「オゝ向こうへ来た侍《さむれえ》は、八の野郎にどうも似ているぜ」
△「似ているけれども侍《さむれえ》だ。あいつ夜逃げをしたってえじゃァねえか」
○「ウム、やり切れなくなって逃げちまった」
△「夜逃げをした奴が侍《さむれえ》になる訳がねえ」
○「だけれども何だか、妹を女郎《じょろう》に売ったとか、妾《めかけ》にしたとかいうぜ」
△「妹が妾《めかけ》になって、あいつが侍《さむれえ》になる訳がねえ」
○「しかし余りよく似ているなァ、ニコニコ笑って来やがる。声を掛けてみようじゃァねえか」
△「八|公《こう》なんて、もし違ってたら突然《いきなり》引っこ抜いて無礼《ぶれい》打ちなんぞやられると大変じゃァねえか」
○「だけれどもよ似ているぜ、段々こっちへ来る、なァオイ、一つ何とか言って見よう」
△「じゃァ、俺は尻を端折って逃げる支度をしているから、お前声を掛けて見ねえ、八公ッたら俺はパッと逃げ出すよーッ」
○「なるほど、そいつァ面白い。ナニ追駈《おっか》けたって先方《むこう》はあれだけの物を差してるんだ。こっちやァ空身《からみ》だから、駈けっこなら大丈夫だ、いいか、呼ぶぜ、どうした八公、恐ろしく立派になったじゃァねえか」
八「イヤ、是《これ》は是は一別以来《いちべついらい》……」
△「オーイ逃げねえでもいい、ほんものだ、一別以来《いちべついらい》と来やがった、恐ろしく立派な刀を差してるじゃァねえか」
八「是は殿より拝領《はいりょう》して貰って、頂いたんだ」
○「馬鹿に丁寧なんだな、何しても旨くやりやァがった」
八「マア喜んでくれ、今じゃァこういう身分になった」
と朋友《ともだち》のところを触れて歩く。赤井御門守《あかいごもんのかみ》においては、そのうちに御親戚へそれが知れて、面白いご家来をお抱えになった、どうぞ非番《ひばん》の折などは徒然《とぜん》を慰めるため、お遣《つかわ》しくださいと毎日のように八公|玩弄《おもちゃ》物に諸方のお屋敷へ呼ばれ、あるいはイケゾンザイな口を利いたり、変なことをするのがおかしく、明日はお客があるから来てくれというような具合。ある日のことご親戚のお大名から、どうぞ是非というお頼みがあった。当人も諸所《ほうぼう》へ行っちゃァ恥をかくので、流石《さすが》に体裁《きまり》が悪く、もうご免こうむるというので、そのことを先方へ伝えるために、わざわざとお使者の役を言い付けた。委細《いさい》のことはこの文箱《ふばこ》中の書状にしたためてあるから、これを持ってまいれという申し付けで、文箱《ふばこ》を持って出ようとすると、馬の用意がしてある。
八「オイこの馬をどうするんだ」
槍「ヘエ、あなたがお召しになるんで」
八「いけねえ、まだ三日しきゃァ馬の稽古《けいこ》をしねえから、尻がフワフワして鞍につかねえ」
槍「それでも馬上のお使いだから、お召しにならなくちゃァいけません」
八「いけねぇたって俺にゃァ乗れねえから、お前乗ってくれ、俺が槍を担いで行く」
槍「それはいけません、ご主人が槍を担いで槍持《やりもち》が馬に乗るということはありません」
八「弱ったなァ稽古《けいこ》を三日しきゃァしねえんだからな。……じゃァ乗るよ」
どうかこうか手綱《たづな》を持つくらいのことは稽古《けいこ》して覚えたから仕方がなしに乗り出したが、馬は乗手《のって》を知るといって、悧巧《りこう》なもので、馬の方で馬鹿にしてノソノソと歩き出して、どうもソノのろいこと。ちょうど夕方今の小川町というような賑やかなところへ来ると、ピタリ立ち停まってどうしても動きません。
八「オイいけねえや、馬をどうかしてくれ。オイどうかしてくれ、馬も疲労《くたびれ》たと見えて、動かなくなっちまった。弱ったなァ、どうも仕様がねえ」
そのうちに人が集まって見る。槍持は槍を持って往来に突立ってもいられない。こっちの番太郎《ばんたろう》の家へ槍を立て掛けて、縁台《えんだい》がありますから、それへ腰を掛けて、日当たりがいいんで居眠りをしている。
甲「オイオイあの侍はどうしたんだ」
乙「寝てるんだろ。邪魔の野郎だ、引っぱたけ」
片っ方が職人で、気が短い、ポンと一つ鞭を入れた途端に、馬はヒーンと棹立《さおだ》ちに立ったから、やっこさん肝をつぶして首っ玉へかじり付いた。
八「助けてくれえー、助けてくれえー」
怒鳴ったが馬はそのまま走り出して品川の方を指して飛んで行く。この時ちょうど品川の方からお出でになった同家中《どうかちゅう》で、岩田馬之丞《いわたうまのじょう》という馬術の先生、飛んで来る馬の前へ立って、ドウといって口を取ると馬は先生ということを知っているから、たちまちピタリッと四|足《そく》をとめた。
馬「石垣氏《いしがきうじ》、血相変えて何《いづ》れへお越しになる。何かお家に椿事出来《ちんじしったい》、お国表《くにおもて》への早打《はやうち》か、但し、何《いづ》れへお出でになる」
八「馬が知っておりましょう……」
[解説]このサゲは、「素人鰻《しろうとうなぎ》」の「うなぎにお聞きください」を思わせる。この噺《はなし》は大阪の方が古いそうであるが、名作である。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
文七元結《ぶんしちもとい》
―――――――――――――――――
ただ今と徳川時代とは、よほど様子が違いまして、昔は遊び人というものがございまして、ただ遊んで暮らしておりました。どうして遊んで生活《くらし》がついたものだと言うと、天下|御禁制《ごきんせい》のことをいたします。また遊び人ばかりでなく、稼業《かぎょう》があっても怠《なま》けるもので、その中へ飛び込み、自然商売が疎遠《そえん》になるというそれが、また奇態《きたい》に腕の良いお職人などに多くあったもので、仕事を精出してしさえすれば、大した金が取れて立派に暮しのえきる人だが、惜しいことには怠情者《なまけもの》だと言うのがよくありまして。
本所《ほんじょう》の達磨横町《だるまよこちょう》に左官《さかん》の長兵衛《ちょうべえ》と言う人がございました。二人前の仕事をいたし、早くって手際がよくって、塵際《ちりぎわ》などスッキリして、落雁肌《らくがんはだ》にムラのないように塗る左官《さかん》は少ないもので、戸前口《とまえぐち》をこの人が塗れば、必ず火の這入《はい》るようなことはないと言うので、どんな職人が土蔵《くら》をこしらえましても、戸前口《とまえぐち》だけは長兵衛《ちょうべえ》さんが頼まれるほど腕は良い。だが、誠になまけ者でございます。
昔は博奕《ばくち》に負けると裸体《はだか》で歩いたもので、ただ今は裸体《はだか》どころか股引《ももひき》も脱《と》ることが出来ませんけれども、その頃は素裸体《すっぱだか》で赤合羽《あかがっぱ》を着て、昨夜はカラどうもすっかり剥がれちまったと、自慢にしていたという馬鹿げたことでございます。いま長兵衛《ちょうべえ》は着物まで取られてしまい、仕方なく友達のところで十一になる少女《こども》の半纏《はんてん》を借りて着たが、行丈《ゆきたけ》が短かく、下帯の結び目が出ていますが、平気な顔をして、日暮にぼんやり我が家へ帰ってまいり、
長「オゝいま帰ったよ、お兼《かね》……家を真っ暗にしてどうしたんだ、灯火《あかり》をつけねえか……オイどこへ往《い》ってるんだ、灯火をつけなよ、オイどこなんだ、そこに居るじゃァねえか」
かね「アーここに居るよ」
長「|真っ闇《まっくら》だから見えねえや、鼻ァつままれても知れねえ、暗《くれ》えところに坐ってねえで、サッサと灯火《あかり》をつけねえ、縁起《えんぎ》が悪いや、お燈明《とうみょう》でもあげろい」
か「お燈明《とうみょう》どころじゃァない、私は今帰ったばかりだよ。深川の一の得意まで往《い》って来たんだが、どこまで行ったって知れやァしない。今朝うちのお久《ひさ》が出たッきり帰らねえんだよ」
長「エッ……お久がどこへ行ったんだ」
か「どこへ行ったか判らないから方々探して歩いたが見えないんだよ、朝は飯を食べて出たがそれっきりいなくなっちまって、ほんとうに心配でたまらない、だから方々探したが、いまだに判らないから私はぼんやりして帰ってきたが、くたびれかえってここへ坐ったところだ」
長「イヤ年頃の娘だ。いくら温順《おとな》しいたって悪漢《わるもの》にでもだまされてよ、智恵ェつけられていい気になって、その男に誘われてプイと遠くえ行かねえとも限らねえ、手前《てめえ》はその為に留守居《るすい》をしているんじゃァねえか、気をつけてくれなくっちゃァ困るじゃァねえかエーオイ」
か「留守居をしているッたって、こんな貧乏|世帯《しょたい》を張ってるから、使いに出すたび一緒についてなんぞ行かれるものかね、浮気をして情夫《いろ》を連れて逃げるような娘じゃァないよ。親に愛想《あいそ》が尽きてしまったに違いない。十人並みの器量を持ってゝ世間では温厚《おとな》しい、親孝行ものだと言われてるのにおまえが三年越し博奕《ばくち》ばかりして借金だらけにしてしまい、家をしまう夫婦別れをするのと言うことを聞けばあの娘だって心配して、アゝ馬鹿々々しい、いつまでも親のそばに喰いついては生涯うだつが上がらないから、どこへか奉公でもするか、どんな亭主でも持つか、襤褸《ぼろ》を着てこのような真似をして、こんな親についているよりはいっそのこと、いい処へ往《い》ってしまおうと、おまえに愛想《あいそ》が尽きて出て行ったに違いない。あの娘がいればこそ、永い間貧乏世帯を張って苦労しながらこうやっていたが、お久《ひさ》がいないくらいなら、私はすぐに出て往《い》っちまうよ」
長「お前ばかりじゃァねえ、お久がいなけりゃァ俺だって出て往《い》っちまわァな、だからヨー俺が悪かったから伴れて来てくんな。阿父《おとう》が悪かった、これから辛抱するからッて、エーオイ、お願えだ、俺だってポカリと好い目が出りゃァ、また取返して子供にも着物の一枚も着せてえと思って、つい追目《おいめ》にかかったんだが、以後もうきっぱりと博奕《ばくち》はしねえで仕事を精出すから、どこかえ往《い》って、お久を探して来てくんなよ、おかね」
か「探してこいたって居ないよ」
長「居ねえ居ねえと言ったって、どこか居る処へ往《い》って探して来ねえな」
か「居るところが知れてるくらいなら、こんなに心配しやァしない。おふざけでないよ、私だって、もうお前のような人の傍《そば》には居られないよ」
長「居られねえたって、エーオイ、お久をどうかして……」
か「どう探しても居ないんだよ」
長「居なえって……エーオイ」
か「一体お前の服装《なり》は何だネ、子供の着物なんぞ着てさ、見っともないじゃァないか」
長「見っともねえたって、竹ン処のミイ坊の半纏《はんてん》を借りて着たんだ」
か「お尻がまるで出てるよ、子供の半纏《はんてん》なぞを着て、いい気になって往来をノソノソ歩いてさ」
とグヅグヅ言っていると表の戸をトントン
男「へえ、ご免ください」
か「ハイただ今開けます……誰か来たよ、お前隠れ場が……仕様《しょう》がねえ」
男「どうか開けておくんなさい。ご免なさいまし、エー、誠にしばらく、いつもご壮健《そうけん》で」
長「ヘエ……誰だっけ忘れちまった、どなたでしたか」
男「エーわたくし角海老《かどえび》の藤助《とうすけ》でございます」
と言われて長兵衛《ちょうべい》は手を拍《う》ち
長「オー違えねえ、これやァどうもスッカリ忘れちまった。カラどうも、大御無沙汰《おおごぶさた》になっちまって、体裁《きまり》が悪いんでネ、こんな処へ来てしまったんだ。誠にどうもツイ……」
藤「エーお内儀《かみ》さんがちょっと長兵衛さんにご相談申したいことがあるから、すぐに一緒に来るようにということで」
長「お前さんのところへは余りご無沙汰になって敷居《しきい》が鴨居《かもい》で往《い》かれねえから、いづれ春になったら往《い》きます。暮れの内は少々|変間《へま》になって、往《い》かれねえからいづれ……」
藤「何か兎や角おっしゃるだろうが、すぐにお伴れ申して来いとお内儀さんの申しつけで」
長「すぐにったって大騒ぎなんだ。家内に少し取り込みがあるんで、年頃の一人娘の阿魔《あま》ッちょが今朝出たっきり帰らねえんで、うちの女房《かかあ》も心配してるんでネ」
藤「お宅の娘さんのお久さんは、わたくしどもへ来ておいでなさいますよ、そのことについてお内儀さんがあなたにご相談があるので」
長「エッ……お久がお前さんの処へ往《い》ってるとエ」
か「アラマアほんとうに有難うぞんじます。どこへまいりましたかとぞんじて、心配をしておりましたが、ご親切に有難うぞんじます。お前さんすぐに往《い》って伴れて来ておくれよ」
長「じゃァマア何だ……すぐに後から往《い》きますから、お内儀さんによろしく」
藤「すぐにご同道しろと申されましたから」
長「すぐにったって……何ですから、直《じき》に後からまいります……さようならよろしく」
か「何だよお前さん、ご親切に知らせてくだすったのに、何故すぐに往《い》かないんだ」
長「何故だってこの服装じゃァ往《い》かれねえじゃァねえか……手前《てめい》の着ている、それを貸しねえ」
か「いやだよ、これを脱いだら私の着る物がありゃァしないよ」
長「手前《てめい》は宅に居るんだから、この半纏《はんてん》を着ていろな」
か「そんなものを着ちゃいられない。お尻がまるで出てしまうよ」
長「腰巻《こしまき》をしていりゃァ知れねえや」
か「人が来たって挨拶もできないよ」
長「面と向かって話をして、後ろへさがる時に立たねえで後退《あとじさ》りをすればいい」
か「おふざけでない」
長「そんなことを言わなえで貸しなよ」
無理やりに女房の着物を引剥いで、これを着て出かけました。左官の長兵衛《ちょうべい》、吉原土手から大門を這入りまして、京町一丁目の角海老《かどえび》楼の前まで来たが、馴染《なじみ》の家でも少しきまりが悪く、敷居《しきい》が高いから恐る恐るながら這入ってまいり、窮屈そうに畏《かしこ》まって、隅の方へ坐ってお辞儀《じぎ》をして、
長「お内儀さん、誠に大御無沙汰をしてきまりが悪くって何だかどうもネ……、さっき藤助どんにもそう申しやしたんですが、あんまりご無沙汰になったんで、お見外《みそ》れ申したくらいでございまして、しかしマア何時もご繁昌《はんじょう》のことは陰ながら聞いて喜んでおります。誠になんともどうもお忙しい中をわざわざお知らせくだすって、誠に有難うごぜえました……お久、てめえマアここに坐ってゝ、うちの者に心配を掛けてほんとうに困るじゃァねえか、阿母《おっか》ァお前《めえ》を探しに一の得意まで往《い》ったぜ、何でご当家様へ来ているんだ、こういうご商売柄の中へ……」
内儀「それどころじゃァない。こうしてお前のことを心配して来たのだよ、這入りにくがって門口をウロウロしていたがセッパ詰まって、這入って来たんだが、私も忘れちまったァね、お前が仕事に来る時分|喋々髷《ちょんちょんまげ》に結って、お弁当を持って来たっきり、久しく会わないから私も忘れてしまったが、ここへ来てこの娘がオイオイ泣いて口が利けないんだよ、それからマアどうしたんだ、何か心配事でも出来たのかと言うと、この娘が親の恥を申しましてすみませんけれども、阿父《おとっ》さんがまだ道楽が止みませんで、うちへも帰らず、博奕《ばくち》ばかりしておりますので、明日にも阿父《おとっ》さんの腰へ縄でも付きますようなことがありましては大変と、そればかりではございません、段々借財がえきましてどうしてもこの暮れが行き立たず、夫婦別れをしようか、世帯を仕舞おうかと言うのを傍で聞いておりますと、私ももう小児《こども》じゃァなし、聞き捨てにもなりませんので、誠に申しかねましたがお役には立ちますまいけれども、私がご当家様へ何年でもご奉公をいたしますから阿父《おとっ》さんをお呼びなすって私の身の代《しろ》をやって、借財を片付けて、両親仲睦まじく暮しの付きますようご意見をなすってください。私がこういうところへ勤めをしておりませば、ヨモヤ阿父《おとっ》さんも私への義理で、道楽も止めるかとぞんじます。さようなれば阿父《おとっ》さんへの意見にもなりますから、どうぞ私の身体をお買いなすってくださいと、手をついて私へ頼むから私も吃驚《びっくり》したんだよ、ほんとうに感心なことだって当家《うち》にもこうやって抱えの妓《こ》も沢山あるが、年頃になって売れてくるものは大概《たいがい》浮気か何か、悪いことをして来るものが多いんだのに、親のために自分から駈込んで来るものは、またとある訳のものじゃァないヨ、ほんとうにこんな親孝行者に苦労をさせていい気になっちゃァすまないよ、お前幾つにおなりだい四十の坂を越してどうしたんだようマアこの娘に不孝だよ」
長「エー……誠にどうも面目次第《めんぼくしだい》もございません。そんなこととは知らねえもんですからね、年頃にもなってますから、ヒョンと悪い男でも付いて意地を付けて遠方へ往《い》っちまったと思って、嬶《かか》ァも驚きやして方々探して歩いた訳なんで、ヘエ……お久堪忍してくれ、誠に面目次第もねえ、汝《てめえ》にまで俺は苦労させて……」
と言いさして涙を浮かべ声を曇らし、
長「実は俺やァお内儀さんの前だが汝《てめえ》に手を突いて謝まるくれえ、親の方が悪いんだが、汝《てめえ》の知ってる通り、この暮はどうしてもゆきたたねえ訳になっちまんだ……、たった一人の娘を娼妓《じょろう》に売りたくもねえし、世間へ対してもすまねえ訳だ、また本意でねえから、そんなことをしたくもねえが、どうしてもこうしてもこの暮が行き立たねえからお久、親が手を突いて頼むがどうかマア他家様《わきさま》なら願いにくいがご当家様だから惨酷《むごく》もしてくださるめえから、ご当家様へ奉公して、二年か三年辛抱して居てくれゝば、汝《てめえ》の身の代だけは、いったん借金の片せえつけば、俺がまたどんなにでも働いて、何とかするからそしてくれりゃァ俺えの好い意見だ。こんご断然《だんぜん》もう博奕《ばくち》のばの字も断って元々通り、仕事を稼いで、じきに汝《てめえ》の身受けをしに来るから、それまで汝《てめえ》奉公していてくれ」
久「私はもとより覚悟をして来たことだから、何時までも奉公しますけれども、お前また私の身の代を持って帰っていつものように博奕《ばくち》に引掛ってお金を失してしまうと、阿母《おっか》さんが、アアいう気性だからお前に逆らって、何だかんだというと、お前もまた癇癪《かんしゃく》を起して喧嘩《けんか》を始めて手暴《てあら》いことでもして、阿母《おっか》さんが血の道を起すか、癪《しゃく》でも起ったりすると、私がいれば医者を呼びに往《い》ったり、お薬を飲ましたりして看病することも出来ますが、私がいないと阿母《おっか》さんを介抱する人がないのだから後生お願いだから私は幾らでも辛抱するから、お前|阿母《おっか》さんと仲好くどうぞ暮らしておくんなさいよ」
長「アイヨ……アイヨ……誠にどうも、カラどうも面目次第もございません。何ともハヤどうもアーア後悔しやした」
内「ご覧よ、こういう心だもの、実に私もこの娘には感心してしまったが、お前幾らお金があったらこの暮が行き立つんだえ」
長「ヘエ、どうせ私らの身の上でございやすから、百両もあればすっかり綺麗《きれい》さっぱりになるんで」
内「百両でいいのかえ」
長「ヘエ……」
内「それではお前に百両のお金をあげるが、これというのもこの娘の親孝行に免じてあげるのだよ、お前持って往《い》って、またうっかり消費《つか》ってしまってはいけないよ、このお金ばかりは一生懸命にお前が持って往《い》くんだよ、いいかえ、この娘のことだから妾《わたし》も店えは出したくもないというのは、また悪い病でも受けて病屋《とや》にでもつかれると可哀想だから、こういうほんとうの娘ゆえ、私の塩梅《あんばい》の悪い時に手許へ置いて看病でもさせたいが、私の手許へ置くと思うとお前に油断が出ていけないから店へ出してあるつもりで精出して稼いでこの娘を受け出しに来ておくれ、いいかい」
長「ヘエこっちも一生懸命になって稼ぎますがどうぞ一年か二年と思っておくんなせえまし」
内「それでは二年経って身受けに来ないとお気の毒だが店え出しますよ、店え出して悪い病でも出ると、お前この娘の罰は当たらないでも、神様の罰が当たるよ」
長「エーそれは当たります。ヘー有難うごぜえやす。貧乏世帯を張ってるもんですから、今までも阿母《おふくろ》と一緒に苦労して、借金取りの家え自分で言い訳に往《い》って詫びごとをしてくれたんです……ヘエその代わりお役には立ちますめえから……一々|叱責《こごと》を仰しゃってくだせえまし……お久、お内儀さんもこう仰しゃってくださるから、何だ店へ出てお客の機嫌気ままの取れる人間じゃァねえが、そのうちにゃァ様子も判るだろうから……俺は早くうちへ帰って阿母《おっか》ァにも喜ばせ、借金の片をつけて質を受けて、汝《おめえ》の着物を持って来るから……」
内「そんなことはいいよ、ついでの時に取りにやるから……お前|財布《さいふ》があるまい。お金も丁度|他家《わき》から来たのがあるから、財布ぐるみ百両貸してあげるよ、サア持っておいで」
長「ヘエ誠にどうも有難うごぜえやす。じゃァお内儀さんすぐにお暇《いとま》しやす」
内「早く家へ往《い》ってお内儀さんに安心させておあげよ」
長「じゃァお久いいか」
久「阿母《おっか》さんによく言っておくれ」
長「アイヨ……アイヨ」
と表へ出たが、掌《て》の内の玉を取られたような心持ちで、腕組みをしてぼんやりして仲の町をブラブラまいり、大門《おおもん》を出て土手へ掛り、山の宿《しゅく》から花川戸《はなかわど》へぬけ、いま吾妻橋《あづまばし》を渡りに掛ると、空は一面に曇って雪模様、風は少し北風が強く、ドブンドブンと橋間《はしま》へ打ち付ける波の音、真闇《まっくら》でございます。いま長兵衛が橋の中央まで来ると、上手に向かって欄干《らんかん》へ手を掛け、片足踏み掛けているのは、年頃二十二三の若い男で、腰に大きな矢立《やたて》を差したお店者風体《たなものふうてい》な男が飛込もうとしていますからあわてて後ろから抱き止め、
長「オイオイ」
男「ヘエ、ヘエ……」
長「気味の悪い、何だ」
男「ヘエ……真平《まっぴら》ご免なさいまし」
長「何だお前は、足を欄干《らんかん》へ踏掛《ふみか》けてどうするんだ」
男「ヘエー」
長「身投げじゃァねえか、エーオイ」
男「ナニよろしうございます」
長「ナニいいことがあるもんか、なんだ、若え身体ァして、お店風《たなもの》だな、軽はづみして親に歎《なげ》きをかけちゃァいけねえよ、ポカリと、投身《とびこん》じまって、ガブガブ騒いだって、お前助かりァしねえぜ。エーオイ、何で身を投げるんだ」
男「ご親切に有難うございます。私も身を投げる気はございませんが、とても行き立ちません。もう思案《しあん》も分別《ふんべつ》もし尽くしました暁《あかつき》に、覚悟をきめたもので、なかなか容易なことではございませんから、お構いなく往《い》らしってくださいまし」
長「お構いなくたって、お構いなく往《い》かれるかエ、人情《にんじょう》としてお前の飛び込むのを見てアアそうかと言って往《い》かれねえじゃァねえか、何で死ぬんだよ、店者《たなもの》だから大方|女郎《じょろう》にでも嵌《はま》って、費《つか》え込みで金が足りねえ、主人にすまねえって……きまってらァ、そうだろう」
男「イエそんな訳じゃァないんで、ナニよろしうございます」
長「よろしかァねえよ、戯談《じょうだん》じゃァねえぜ、エーオイ」
男「ご親切は有難うぞんじます。私は白銀町《しろがねちょう》三丁目の近卯《きんう》と申します鼈甲問屋《べっこうどんや》の若い者ですが、小梅《こうめ》の水戸様《みとさま》へまいって、お払いを百金いただき首へ掛けて枕橋《まくらばし》までまいりますと、ポカリと怪訝《おかし》な奴が突当りましたから、ハッと思っていると、私の懐中《ふところ》へ手を入れて逃げて往《い》きましたから、何をしやァがると言って、後で見ますと金がありません。小僧の使いではなし金を奪《と》られましたからと言って帰られもせず、と言ってどこへ往《い》って相談いたすと言うところもございませんから、身を投げるんで、大金のことでございまして、どんな処へまいりまして相談をいたしても無駄でございますから、身を投げるんでございます。どうぞお構いなく往《い》らしって……」
長「百両|奪《と》られちまったのかエ……どうも仕様《しょう》がねえなァ、戯談《じょうだん》じゃァねえ、大店《おおだな》なんてえものは、オオカマだなァ、こちとらの身の上じゃァ百両の金で借金を残らず返して、いい正月が出来るんだ、ほんとうに大金を奪《と》られるような者に、払いを取りにやるとは、オオカマなもんだなァ、おめえもまた間抜けじゃァねえか、胴巻きへ納《い》れてしっかり懐中《ふところ》へ入れておけばいいのに、百両と言えば大した金だ、ほんとうに戯談《じょうだん》じゃァねえぜ、ダガノ……金で生命は買えねえや、エーオイ、どこかへ相談に往《い》きなえナ、旦那《だんな》に逢ってそう言いえね、盗賊《どろぼう》に奪《と》られて誠に面目次第もござえやせん。全く奪《と》られたに違いありませんと、エーオイ、どこかへ往《い》って相談してみねえな」
男「ヘエ相談したくも親も兄弟も無い身の上で、主人も私ばかりは親類頼《みよりたよ》りのない身の上だから辛抱次第で行く行くは暖簾《のれん》を分けてやるその代わり辛抱しろ、かりそめにも曲った心を出すなと、つくづくご意見くだすって、あんまり私を贔屓《ひいき》になすってくださいますもんだから、番頭《ばんとう》さんが嫉妬《ねたむ》んで根性の悪いことをいたしますくらいゆえ、とても相談も出来ません。盗賊《どろぼう》に奪《と》られたといったところで、どうしても私が女郎《じょろう》買いでもして使い込んだとしきゃァ思われませんから、面目なくって旦那さまに会わす顔はございません……ナニよろしうございますからお構いなく往《い》らしって」
長「いけねえなァ、どうしてもお前死んでしまわなくっちゃァいけねえのかな……じやァ仕方がねえ、金づくで人の命は買えねえ、俺も無くっちゃァならねえ金だが、おめえに出っくわしたのが災難だから、この金をおめえに……ダガどうか死なねえようにしてくんな、エーオイ」
男「ヘイ死なないようにいたしますからお構いなく往《い》らしってくださいまし」
長「お構いなくったって……じゃァ往《い》くからきっと死なねえとはっきり極まりをつけてくんなよ」
男「よろしうございます、死にません、死にません、ヘエ」
長「戯談《じょうだん》じゃァねえぜ、往《い》くよ、いいか」
と言いながらバタバタと十歩ばかり駈けて来たが、どうも気になるから、振り返って見ると、その若い者がバタバタと下手の欄干《らんかん》の辺りへまいり、また片足を踏掛《ふんが》けて飛込もうとする様子ゆえ、驚いて引返して抱きとめ、
長「マア待ちなよ、待ちなってェに……それじゃァどうしても金が無けりゃァ生きていられねえのか。仕様《しょう》がねえなァ……サァ俺がこの金をだが……どうか死なねえような工夫はねえかなァ、じゃァマア仕方がねえ……困るなァ」
男「お構いなく往《い》らしって、ご親切はわかりましたから」
長「往《い》くよ往《い》くよ」
とバタバタと往《い》きかかったがまた飛込もうとするから、
長「仕様《しょう》がねえなァ、この人はじょうだんじゃァねえぜ、金が無くちゃァどうしてもいけねえのか」
と男はサメザメと泣き、涙声で、
男「私だって死にたくはございませんけれども、よんどころない訳でございますから、どうぞお構いなく往《い》らしって、ナニよろしうございます」
こう聞くと長兵衛《ちょうべい》、持前の侠気《おとこぎ》、もう自分のことを考える暇《いとま》がありません。
長「お構いなくったって、そう往《い》くものか、じゃァ俺がこの金をやろう、実はここに百両持ってるが、これはお前のを奪《と》ったんじゃァねえぜ。俺はこんな嬶《かか》ァの着物を着て歩くくれえの貧乏世帯の者で、百両なんてえ大金を持ってる気遣えはねえけれども、俺に親孝行な娘が一人あっての、今年十七になるお久てえ者だが、今日|吉原《よしはら》の角海老《かどえび》へ駈込んでって、阿父《おやじ》が行き立ちませんからどうか私の身体を買っておくんなさい、阿父への意見にもなりましょうからって、娘が身を売ってくれた金がここにあるんだが、その身の代をそっくりおめえにやるんだ、俺んとこの娘は泥水へ沈んだって、死ぬんじゃァねえが、お前はここから飛込みゃァ、ほんとうに死ぬんだから、この金をやっちまうんだ、その代わり俺は仕事をして段々借金を返していったところが、三年かかるか五年かかるか知れねえんだが、そっくり借金を返しきって、また三年でも五年でも稼がなけりゃァ百両の金を持って娘の身受けをしに往《い》くことが出来ねえ、アアアアどうでもこうでも娘を女郎《じょろう》にするのだが仕方がねえ、その代わり俺の娘が悪い病を引受けませんよう、朝晩何事もなく壮健《たっしゃ》で年期の明くまで勤めますようにと、お前心に掛けて平常《ふだん》信心する不動様《ふどうさま》でも|お祖師様《そしさま》でも何様でも一生懸命に信心してやってくんねえ」
男「どういたしましてさような金は要りません」
長「俺だってやりたかァねえけれども、お前が死ぬと言うからやるてェのに、人の親切を無にするのか」
と言いながらパッと財布を投《ほう》り付けて、長兵衛《ちょうべい》そのまゝ駈け出しました。
男「ヤイ何をしやァがるんだ、こんなものを打付《ぶっつ》けやァがって畜生奴《ちくしょうめ》、財布の中へ石ころか何か入れといて人の頭へ叩き付けて態《ざま》ァ見やがれ、あんな汚い服装《なり》をしていながら、百両なんてェ金を持ってる気遣いはねえ、あいつが盗賊《どろぼう》だか何だか知れやしない、こんな大きな石を入れておきやァがって」
と、撫でてみるとおかしな手触りだから、財布の中へ手を入れて引出して見ると、封じ金で百両ありますから、吃驚《びっくり》して橋の袂《たもと》まで追駈けてまいり、
男「モシモシおまえさん、今の御仁《おひと》、モシ……ああもう見えなくなっちまった……有難うぞんじます。この御恩は死んでも忘れません、さような御仁ともぞんじませんで悪口をつきましてすみません。誠に有難うぞんじます。必ず一度はこの御恩をお返し申します。有難うぞんじます」
と生きかえったような心持ちになりましたから、取急ぎ白銀町三丁目の店へ帰ってまいりましたが、御主人は使いの帰りがあまり遅いからご心配でございます。
主「平助《へいすけ》どん、まだ帰りませんか、文七《ぶんしち》は」
平「ヘエまだ帰りません。使いに出すと永いのがあの男の癖で、お払い金などを取りにおやりにならぬよういたしたがよろしうございます」
主「帰ったらよく叱言《こごと》を言いましょう」
と心配しているところえ表の戸をトントントン
文「番頭《ばんとう》さん……トントントン……番頭さん、文七でございます。ただいま帰りました」
平「旦那、文七が帰りました」
主「よくそう言ってくんな」
平「今開けるよ……どういうもんだなァ余り遅いじゃァないか、掛廻りに往《い》った時などは早く帰ってきてくれないと、旦那のお叱言《こごと》が私の方へ来るからほんとうに迷惑だ、じょうだんじゃァないぜ」
文「誠に遅くなりまして、ツイ高橋さんのお相手をしておりましてご機嫌を取り取りいろいろお話になりましたので、大きに遅くなりまして誠に相すみません」
平「旦那、文七が帰りました」
主「サァサァこっちへよこしておくれ、実に困ります」
文「旦那ただいま……高橋さんでいろいろ世の中のお話がありまして、また碁のお相手をいたしたものですから、大きに遅くなりました。エーそれから高橋さんが当家から持ってまいりました革《かわ》の財布をご覧なさいまして、商人は妙な財布を持つ、少し借りたい、その代わりこっちの縞の財布を貸してやるとおっしゃいまして、これを拝借いたしまして金子《きんす》はたしかに百両受取ってまいりましたからお改めなすってお受取りくださいますように」
主「ナニ金を……何を言うんだナ、実に文七は使いに出せないネ、ほんとうにお得意先へ掛廻りに往《い》って、そこでお相手をするたって、碁を打つということはありませんよ、お前は碁に掛けるとカラ夢中だから困る。お前が帰ってしまったあとを見ると、碁盤《ごばん》の下に財布の中に百両這入ったなりにあったから、高橋さんが驚きなすって、さぞ案じているだろうから、早く知らせてやれと仰しゃって、あちらからご家来が二人でさっき金子《きんす》を届けてくだすったのに虚言《うそ》をついて、革財布はあちらで入用《いりよう》とは何だ。チャンとここに百両届いていますよ……その百両の金はどこから持って来たんだ」
文「ヘエ……それは大変」
主「ナニ」
文「それはどうも大変なことで」
主「何だ」
文「ヘエ……そんなら奪《と》られたんじゃァなかったんだ」
主「何だかお前の言うことは訳がわからんで、仕様《しょう》がない……平助どん、この金の出処を調べておくれ、イエサまだ二十二や三になるものに、百両という大金を自由にされるようなことはあるまい、お前に店を預けておくのに、またこの者がどういう融通をしてどこに金を預けておくかしれねえから、この百両の出所《でどころ》を調べてくんな」
平「ヘエーオイお前、私が迷惑するよ、じょうだんじゃァない、困るよ、とっくに金は届いてる処へまた百両持って来るてェのは訝《おか》しいじゃァないか」
文「ヘエヘエ、まことに粗忽《そこつ》千万なことをいたしまして何とも申訳はございませんが、実はたしかに懐中《ふところ》へ入れてお屋敷を出た了簡《りょうけん》でございまして枕橋《まくらばし》までまいると、怪しい奴が私に突当りながらグット手を私の懐中《ふところ》へ入れました時に奪《と》られたに違いないと思い、小僧の使いじゃァなし、旦那さまに申訳がない、百両の金を奪《と》られてはすまんとぞんじまして、吾妻橋《あづまばし》から身を投げようといたすところへ通り掛ったお職人体《しょくにんてい》の人が私を抱き止めて、どういう訳で死ぬかと尋ねましたから、コレコレと申すと、それは気の毒だ、ここに百両ある、これをてめえにやるから盗賊《どろぼう》に奪《と》られないつもりで主人の処へ往《い》くがいい、しかしそれは尋常《ただ》の金じゃァない、たった一人の娘が身を売った身の代金だけれどもこれをおめえにやるからと仰しゃって、ご親切なお仁《ひと》に戴いてまいりましたのでございます」
主「イヤハヤどうも呆れちまった……どうだろうそのお仁《ひと》が通らなければドンブリと飛込んでしまい、土左衛門《どざえもん》になっちまったんだ。アア危ないところだった。ウームそのお仁《ひと》はお前の命の親だ、ご親切なお仁《ひと》だの、どうも百金という金をすぐに恵んでくださるとは有難いお方だ……ソノ何はどこのお方で、何と言うお名前だ」
文「ヘエ……、何てェお仁《ひと》だかぞんじません」
主「馬鹿だネお前は、どうもこれ百両と言う大金を戴きながら、そのお方のお名前も宿所《ところ》も聞かんてェことはありませんよ」
文「お名前もお宿所《ところ》もお聞き申す間もないので、アレアレといってるうちにポンと金を投付けて逃げて行きました」
主「金を人に投付けて逃げて行く奴があるものか、お名前が知れんじゃァ、お礼のしようもなし、ほんとうに困るじゃァねえか」
文「ヘエ、誠にどうもすみませんで」
主「ウム娘を売った金とか言ったな」
文「ヘエ、ソノ今年十七になるお久さんと言う娘の身を角海老《かどえび》へ売った金が百両あるから、これをお前にやるが、娘は女郎《じょろう》にならなけりゃァならない、悪い病を受けて死ぬかも知れないから朝晩|凶《わる》いことのないように、ふだん信心する不動さまえでも何でもお線香をあげてくれと男泣きに泣きながら頼みましたが、旦那さま、どうかお店の傍へ不動様をお祀《まつ》りくだすって……」
主「何だ馬鹿なことをいって、エート、角海老《かどえび》というのは女郎屋《じょろうや》さんだ、そこへ往《い》ってお久さんという十七になる娘が身を売ったかと聞けばそれから知れるが、私はとんと吉原《よしはら》へ往《い》ったことがないのだ。こういう時に店のものの余り堅いのも困るな、吉原《よしはら》へは皆な往《い》ったことがないから。ノウ平助どんなども堅いから吉原《よしはら》は知るまいな」
平「エー角海老てェ妓楼《うち》は京町の角店で立派なもんでげす」
主「お前吉原へ往《い》ったのかい」
平「このあいだ三人で……イエナニ、ソノ……」
主「ごまかして時々出掛けるネ、しかし今夜は小言《こごと》を言いません、夜更けのことだから。今後は嗜《たしな》まないではいけませんよ」
と別に小言もなく引けました。翌朝主人は番頭を呼んで、何かコソコソ話をいたしましたが、やがて番頭の平助はどこへか出て往《い》き、しばらく経って来まして、またコソコソ話をしたが、判ったと見えまして
主「羽織《はおり》を出してくんな、文七や供だよ」
文「ヘエ」
と文七が包みを持って旦那の後へついて、観音様《かんのんさま》へ参詣《さんけい》をいたし、それから吾妻橋《あづまばし》へ掛りました時に文七は、アア昨夜はここン処で飛込もうとしたかと思うとぞっとしながら橋を渡ってまいりました。
主「本所達磨横町《ほんじょうだるまよこちょう》というのはどこだェ……たしかこの辺かと思うが、あの酒屋さんで聞いてみな、左官の長兵衛《ちょうべい》さんと言うお方がございますかって」
文「ヘエ、少々物を承《うけたまわ》ります。エエご近所に左官の長兵衛さんてえ人がございますか」
番「それはネ、あすこの魚屋の裏へ入ると一番奥の家で、前に掃溜《はきだめ》と雪隠《せついん》が並んでますから、じきに知れますヨ」
主「大きに有難うぞんじます、それから五升《しょう》の切手《きって》〔受け取り〕を頂戴いたします、角樽《つのだる》を拝借《はいしゃく》したい。樽はこっちで持ってまいりますから」
と代を払って魚屋の路次《ろじ》へ入ってまいりました。こちらは長兵衛の家は昨夜から大騒ぎでございます。
か「どうするんだよ、どこへ、金をやったんだ」
長「どこへたって、やっちまったんだ」
か「お金を預けた処をお言いな」
長「預けたんじゃァねえ、俺だってやりたかァねえが、人が死ぬてェんだ、人の命に換えられるかい」
か「フン人を助けるなんてェのは立派な大家《たいけ》の旦那さまのすることだよ。娘が身を売ってお前のために百両|才覚《さいかく》してくれたものを、ムザムザと他人にやっちまうてェ奴があるかいほんとうに……どこかへ金を預けておいて、また博奕《ばくち》の資本《もとで》にしようと思って、ほんとうにその金はどうしたんだよ、どこへやったんだよ」
長「俺だってやりたかァねえが、余り見かねたから助けたんだ」
か「フン見かねて助けるふうかい、足がらをすくって放り込むだろう」
長「誰が放り込む奴があるものか、何をいやァがる」
言ってる処へ
主「ハイご免くださいまし」
長「オーむやみに開けちゃァいけねえよ……見とっもねえそんな姿《なり》をして、客人が来たんだよ、俺が挨拶するまで、そこに匿《かく》れていねえ」
か「見とっもないッたって、誰がこんな姿《なり》にしたんだよ」
長「エー大きな声をするない。見とっもねえから、その半屏風《はんびょうぶ》の後ろへ引込んでな……エもう開けてもようがす」
主「ご免くださいまし、エー、長兵衛さんと仰しゃる棟梁《とおりょう》さんのお宅はご当家で」
長「エー、ナニ棟梁《とおりょう》でも何でもねえんで、へへ、縮屋《ちぢみや》さんかえ」
主「私は白銀町《しろがねちょう》三丁目、近江屋卯兵衛《おおみやうへえ》と申しまして、鼈甲渡世《べっこうとせい》をいたす者で、この者をお見覚えがございますか、よくこの男の顔をご覧なすって、文七《ぶんしち》こっちへ出てこのお方に顔を見せな」
文「ヘエヘエこのお方……アアこのお方でございます。昨晩は誠に有難うぞんじました……旦那さま、このお方が私を助けてくださったに違いないので」
長「オーこの人だ、お前だ、どうもマアよかったお前に金をやったに違えねえな……博奕《ばくち》の資本《もとで》に他へ預けたんじゃァねえな、見やァがれ、チャンと証拠があるんだ、アーよかった」
文「ヘエどうもこれはどうも、昨晩は暗くってろくにお顔も見ませんでしたが、お陰様で助かりました。有難うぞんじました」
主「その折はまたこの者が不調法なつまらんことを申し、あなたにご苦労をかけまして、何ともお礼の申し上げようがございません。全くはこの者が盗賊《どろぼう》に奪《と》られたのでございません。お屋敷へ忘れてまいりましたので、この者が宅へ帰らんうちに金子《かね》はお屋敷から届けてくださいましたから、不思議に思いまして、だんだん調べてみますると、全く賊に奪《と》られたと心得て吾妻橋《あづまばし》から身を投げようとするところへ、コレコレのお方が通りかかって助けなすったということが判りましたゆえ、とりあえずお礼に出ましたが、何とどうも恐れ入りました。有難うぞんじます。なれども、名前が知れず、誠に心配いたしておりましたが、ようやくのことでわかりましたから、ご返金にまいりましたが、たしかこの品は角海老さんとかでご拝借《はいしゃく》の財布だそうで、封金《ふうじきん》のまま持ってまいりましたから、ソックリお手許《てもと》へお返し申します」
と差し出したのを長兵衛手に取り上げて考え、
長「金子《かね》が出たんですか」
主「ヘエ金子《かね》は奪《と》られはいたしません。この者より先に私宅へ届いておりましたから、二重でございます」
長「ウームじゃァ、この人は奪《と》られなかったのかェ、じょうだんじゃァねえぜエーオイ、俺やァお前のお陰で終夜《よっぴいて》、嬶《かかあ》に責められた……、旦那ァ間違《まちげえ》にも程があらァ」
主「この者も全く奪《と》られたと思ったので、誠にどうもお礼の申し上げようがございません。金子《かね》はそのままお受け取りを願います」
長「ダガネこの金は私が貰うのは変だ、いったんこの人にやったんだから、取り返すのは極まりが悪いや。やっぱりこの人にやっちまおう、わたしはどうせ貧乏人で、金が性に合わねえんだ、授からねえんだろうからこの人が店でも出す時の足しにしてくだせえ、いったんこの人に授かった金なんだからどうかやっておくんねえ」
主「イエイエどういたしまして、ご気性《きしょう》はわかりましたから……しかしそれでは全く二重に金を私が戴く訳で」
長「ダガネどうもエー……何をだからよ……じゃァ、もらっておくからいいじゃァねえか……誠にどうも旦那、極まりが悪いけれども、私もこの通り貧乏世帯を張ってますから、それならこのお金はもらい申しましょう」
主「それは有難いことで、つきましては親方、誠にどうも失礼のことを申上げるようでございますが今日から手前と親類になってくださるように、私は他に兄弟と言う者がない身の上でございますからどうか幾久しくご交際を願いたいもので」
長「じょうだん言っちゃァいけません。私のような貧乏人が親類になろうもんなら、番ごとに借りばかりいってしょうがねえ」
主「イエイエ、どうかお願い申します。それにまたこの文七は親も兄弟もない者で、出店《でみせ》でも出してやりますにも、しかるべき、後見人《こうけんにん》がなければ困ると思っておりましたが、あなたのようなお方が後見になってくだされば、私はすぐに暖簾《のれん》を分けてやるつもりで、命の親という縁もございますから、親兄弟のない者ゆえ、この者のあなたの子としてやってくださいまし、コレ、文七お前からもお願い申しな」
文「どうかあなたそうでもしてくださいませんと、あなたに私はご恩返しの仕方がございません」
長「ヘエー、しかしどうも旦那妙ですな、変てこですな」
主「イエどういたしまして、親兄弟血縁《おやきょうだいけつえん》の盃《さかづき》をいたしましょ。……先刻《せんこく》の酒をソノ角樽《つのだる》を文七」
文「ヘエーお肴《さかな》が……」
主「イエサ、もう来ているだろう」
と言いながら、腰障子《こししょうじ》を開けると、その頃のことゆえ、四つ手|駕籠《てかご》で刺青《ほりもの》だらけの駕籠《かご》が三枚で飛ばしてまいり、路地口《ろじぐち》へ駕籠をおろし、簾《すだれ》をあげると、中から出たのはお久で、昨日に変わる今日の扮装《いでたち》、立派になり駕籠の中から出ながら、
久「阿父《おとう》さん帰ってきたよ」
長「ウーンお久どうして来た」
久「あのここにいらっしゃる鼈甲屋《べっこうや》の旦那さまに受け出されて帰ってきたの」
か「オヤお久、帰ったかエ」
堪りかねて女房のおかねが立ち上がったが腰きりの半纏《はんてん》一つ、間が悪いから、クルリと廻ってまた屏風《びょうぶ》の裡《うち》へ匿《かく》れました。さてこれから文七とお久を夫婦にいたし、主人が暖簾《のれん》を分けて、麹町《こうじまち》六丁目へ文七元結《ぶんしちもとい》の店を開いたという、おめでたいお話でございます。
[解説]以前からあったちょっとした話を、円朝《えんちょう》がこれだけに纏《まと》めあげたものだという。円朝得意の人情噺《にんじょうばなし》であった。娘お久の駈込んだのは、吉原の佐野槌《さのづち》であるが、いつの頃からか角海老としてやる人も出て来た。この文七元結は始め新派で取上げ、明治三十四年十月、改良座《かいりょうざ》で上演したのを始めとして、井伊容峰一座がしばしば演じている。また旧劇では、明治三十五年五代目の菊五郎が歌舞伎座で上演したのが最初で、六代目の菊五郎も再三これを上演している。落語では、円喬、円右等の各名人はもとより、先代の円生も得意だった。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
高砂《たかさご》や
―――――――――――――――――
隠「八さんや、それじゃァお前が仲人《なこうど》を頼まれたというのかい。ああ袴羽織《はかまはおり》ぐらいは貸してあげます。けれどもお開きの前には、ちょっとご祝儀《しゅうぎ》をやらなけりゃァならんな」
八「ええどうも仕方《しかた》がございません。で、女中や小僧にでもいくらかやりますので」
隠「そんな祝儀じゃァない。冗談いっちゃァいけない、そんな卑《いや》しいものじゃァないよ、高砂《たかさご》やぐらいのことはな」
八「へえ日本橋の飯屋《めしや》で」
隠「飯屋じゃァない」
八「あゝ角刀《すもう》のお茶屋《ちゃや》でげすな」
隠「そんなものではない、おかしいなこの人は。高砂《たかさご》やというのは謡《うたい》だ」
八「ああ謡《うたい》か」
隠「知ってるか」
八「いいえ」
隠「何だな、知らないのに知ってそうな挨拶《あいさつ》をする奴があるかい、それがお前の役だ」
八「弱ったね、まるっきり見たことも聞いたこともないんで」
隠「けれども、頭だけちょっと覚えていればいいんだよ」
八「ちょっとにも何にもまるっきり知らねえんで」
隠「こうしよう、私が形だけ教えてやろう」
八「そいつは有難《ありがて》えね、お前さんが知ってるなら教えてもらいたいな」
隠「けれども教えてやるというほどのことはできない、巧《うま》くはいかない、拙《まず》いよ」
八「そりゃァそうだろう」
隠「おい、そんなことにそうだろうという奴があるかい、呆《あき》れたもんだ、どういたしましてぐらいのことは義理《ぎり》にも言うもんだ」
八「ところがね、お前さんのはそうらしい面《つら》だから」
隠「なんだ」
八「人は見掛けによるものでね」
隠「よるというのはないよ、見掛けによらないと言うんだ」
八「よる面《つら》だよお前さんの面なんざァ、どう考えたってよる面だからね。よらねえというのは巧そうな面ァして、まァどうも拙いとか、拙そうな面ァして馬鹿に巧いから見掛けによらねえんだが、お前さんのは拙そうな面ァしゃァがって、拙いんだからまるで」
隠「まァ何だな、教えない先からそんなことをいっちゃァいけない、何しろやってみよう。もう少し前へ出て膝《ひざ》へ手をおいて、いいか、扇拍子《おおぎひょうし》で、どうせほんの頭だけお前が謡《うた》えば、あとは親類方がみな順につけてくださる。はや住《すみ》の江《え》に着きにけり、おめでたくお開きということになるな」
八「能書《のうがき》はいわねえで、やってみておくんなさい。どんな声がでるか」
隠「ひとつやってみるか」
八「やってみてくんな」
隠「やるよ、よく聞いていなよ〔謡〕高砂《たかさご》や、この浦船《うらふね》に帆《ほ》を上げて……」
八「うふ、はッはッはははは、呆れちまうね。まるでお前さんの声は虎の鳴くような声をして」
隠「虎の鳴く声ッてあるかい」
八「それでお前さんの親は人間だったのかい」
隠「馬鹿だなこの人は、ともかくこんなふうにやらなくっちゃァいけない」
八「そんな間抜《まぬ》けな声は出ねえからね」
隠「悪口をいっちゃァいけない、そんなことじゃァ覚えられない」
八「すみませんがね、もう一遍ひとつやってみて、おもらい申してえんで」
隠「幾度やっても同じことだ〔謡〕高砂《たかさご》やァ……」
八「どうも変な声だな。それをどうしてもやらなくっちゃァいけませんかい」
隠「そうさ」
八「弱ったなどうも、何とか言うんだな」
隠「高砂やこの浦船に帆を上げてと言うんだな」
八「驚いたなァ、文句はあらまし覚えちゃったがね、文句だけならばわけはねえが、もう少しいい声が出ちゃァいけねえかな」
隠「馬鹿だなこの人は、謡《うた》うものに声のいいくらい結構なことはないんだ」
八「そんならわけはねえんだ」
隠「やってみな」
八「たかさァ」
隠「おいおいそんなところから出ちゃァいけない。もっと下から出る」
八「下にも上にもどうでもいいじゃァねえか」
隠「どうでもよかァないよ、謡《うたい》は謡らしくだな、もっと下から、たァーと」
八「たァー」
隠「おゝそんなところから出ちゃァいけないよ」
八「いいかね、そういう間抜けな声が出ねえからね」
隠「弱ったなァ、この人は、夕方来るあの豆腐屋《とうふや》を知っているかい」
八「えゝ知ってますとも」
隠「あの声がちょっとな、音が何となく似ているな謡《うたい》に」
八「そうかねえ、じゃァひとつやってみますが、そんなことでよけりゃァ器用な人間なんだ、豆腐《とうふ》ーイ」
隠「巧いな、巧いがそりゃァ若い豆腐屋だ、もっとお爺《じい》さんで太い声をだすのが来るだろう」
八「あゝあれか、あれならなるほど謡《うたい》に似ているよなァ豆腐《とうふ》ーイ」
隠「巧い巧い、それがそっくり謡の音だな」
八「妙だねえ、謡のけんちんなんてえものは、みな豆腐屋が土台だね」
隠「謡《うたい》とけんちんを一緒にする奴があるかい、やってみな」
八「豆腐《とうふ》ーイ」
隠「豆腐屋ばかりじゃァいけないよ、その呼吸で高砂やこの浦船に帆を上げて、やってみな」
八「豆腐《とうふ》ーイとくる」
隠「その呼吸だな」
八「たかさ」
隠「それじゃァいけない」
八「いけねえいけねえ、豆腐だとうまくいくんだがね、豆腐ばかりじゃァ間に合わねえかねえ」
隠「豆腐ばかりじゃァいけないってことさ、やってみな」
八「豆腐《とうふ》ーイ、うめえな、これならいいんだがたか……あれ、どうもいけねえな、どうも工合が悪いねえ、豆腐《とうふ》ーイ、うめえな、これならいいんだがたか……たか……たかふーイ」
隠「たかふいと言うのはないよ」
八「豆腐《とうふ》ーイとくらァ、高砂《たかさご》やァ豆腐《とうふ》ーイとくらあ、この浦船《うらふね》に豆腐《とうふ》ーイとくらァ帆《ほ》を上げがんもどき」
隠「がんもどきなんざァいけないよ」
八「煎《い》りたて煎豆腐《いりとうふ》」
隠「何を言ってるんだい、まァまァ気をつけてうまくやんなよ」
八「さようなら」
奴《やっこ》さん半分夢中で飛びだしましたが、お盃《さかずき》もめでたく相すみまして、お仲人《なこうど》様ご祝儀《しゅうぎ》と、きましたので、奴さんすましたもんで、ずいとそれへ出ましたが
八「じゃァそろそろご祝儀《しゅうぎ》をおっ始《ぱじ》めますんで、豆腐《とうふ》ーイ」
○「これはどうもとんだお戯《たわむ》れで」
八「ええすみません、これだけまけといておくんねえ、のど試しをしねえと工合が悪いからねえ……高砂《たかさご》やァ……この浦船《うらふね》に帆《ほ》を上げて……」
○「うふふッ、どうもこれは恐れ入りました。お仲人《なこうど》様お謡はご堪能《たんのう》でございまして、どうぞそのお先を願いたいもので」
八「お先……お先はその、ご親戚方がつけて下さるんで」
○「これはどうも面目次第《めんぼくしだい》もございません。親戚ども一統、謡は不調法《ぶちょうほう》でございまして」
八「あッそれァいかねえ、不調法《ぶちょうほう》なんぞ流行《はやら》ねえ、やりますよ……高砂やァ、この浦船に帆を上げて……」
○「どうぞそのお先を」
八「高砂やァ、この浦船に……帆を……下げてーッ」
○「下げちゃァいけません」
八「また上げて……高砂やァ」
○「だんだんお早くなりますな。もそっとお節《ふし》を、お節をおつけくださいまするよう」
八「たァかァさァごォやァ、このうらふうねェに帆《ほ》を上げてェ……」(と御詠歌になる)親戚一同が、
一同「婚礼《こんれい》に御用捨《ごようしゃ》……」
[解説]「婚礼に御用捨」は「巡礼《じゅんれい》に御報謝《ごほうしゃ》」の地口落ちである。「上げて下げて……助け船ヤーイ」というサゲもある。三代目小さんの十八番だった。一説によると頭だけやれば、誰かがあとをつけてくれるという伏線があるのだから、苦しまぎれに「助け船ヤーイ」という方が本当で、この方が原作ではないかという人もある。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
おせつ徳三郎《とくさぶろう》(上) 花見小僧
―――――――――――――――――
世の中のものすべて変りました中に、変りのないのが男女の間柄、人情《にんじょう》に変りというものはございません。もっとも愛情の深いのが親子の情、その次が夫婦の情、他人と他人との寄合《よりあい》でありながら、親同胞《おやどうほう》に言えぬことまでご相談なさるというのがご夫婦。ところがもう一つ深いのが色の間の情だそうでございます。互いに迷い迷いいたしますると、可愛い女房子《にょうぼうこ》を心得ちがいに捨てるということになります。けれども若いうちの愛情というやつは、どうもあまり長持ちがいたしません。どこまで行っても変りのないのが親子の情でございます。ところでお年頃になる娘御《むすめご》をお持ちなさる親御様は誠にご心配なもので、娘さんばかりでなく、男女共にそうで、まだまだ子供だ子供だと思っているうちに、アッといって口の開《あ》くようなことが往々あります。
主人「番頭《ばんとう》どんこっちへお入り、いろいろお世話だった。あの横山町《よこやまちょう》さんの方へ使いをやってくれたかね。アアそうかえ。それはそれは……時にこの間から折があったらお前にひとつ相談をしようと思っていたが……ナニ他の事じゃァない、おせつの事さ」
番「ヘエ、どういうことで……」
主「あれも幼《ちい》さい時分に、おふくろに別れて私が手ひとつでこれまでに育て、マア女の道ひと通りは仕込んだつもりだ。ところがもう十九になるから、どうか相当の者があったら婿《むこ》に取って、一日も早く初孫《ういまご》の顔でも見て、楽をしたいという訳ではない、マア安心をしたいとこう思ってね。それゆえ諸方様《ほうぼうさま》へ願っておいたところが、今度|米沢町《よねざわちょう》さんからお世話下すったのは好《い》い男だったね。色白な、これならさぞ娘も喜ぶだろうと話をすると、親父《おとっ》さん断って下さい。なぜだというと、あんまり色が白すぎて嫌じゃァありませんかとこういうんだ。なるほどそういえば白すぎる、色の黒い方が汚《よごれ》ッぽくなくってよかろうというんで、今度は黒いのを見せた。もっともこれは少し黒すぎたがね。するとあれが親父《おとっ》さん、あの方はむこうを向いていらっしゃるんでございましょうか、こっちを向いていらっしゃるんでございましょうかというんだ。私は口の悪いのに驚いた。いくらお前色が黒いって、かおの裏表の分らない人間というのはありやァしない。丈《せい》の高いのを見せればヤレ、ヒョロヒョロしていていけない、痩《や》せたのを見せれば、弱々しくっていけない、肥《ふと》ったのを見せれば、デクデクしているのと、いろいろ我儘《わがまま》をいって、見合《みあい》ばかりも四十人からしたけれどもきまらない。どちらさまももう愛想《あいそ》をつかしてお世話下さらない、しかたがない、縁のないことと私はあきらめてそのままにしておいた。するとつい二三日前ご近所の若い衆方《しゅがた》の噂に、店にいる徳三郎《とくさぶろう》とおせつが出来ているという事をチラリと聞いて、イヤモウ私はびっくりしました。お前も店にいてそういう事を聞いているだろうに、私に隠していられては誠に困る。それならそうと一つ話してもらいたいと思って、それゆえちょっと呼んだわけだが、どうだね、お前知ってるだろうね」
番「ヘエ、どうもご心配の事でございます。私ははじめて伺いました。しかしどなたがどういう話をしたか知りませんが、ご当家のお嬢《じょう》さんに限っては、さような事はなかろうと思いますが」
主「ハアお前さんも知らない。イヤご近所の方はお目が高い。親というものは馬鹿なもので、まだまだ子供だと思っているうちに……もちろん紙袋《かみぶくろ》と小娘《こむすめ》は油断がならないというたとえもあるが、それじゃァまったくお前知らないかい」
番「エーまったく存じません」
主「そんなら仕方がないが、今後もしそんな噂を聞いたら、すぐ私に知らしておくれ。マアよいやね、今お茶を入れるから……。アアそうかい、店が忙しいなら強いてもとめまい。デワどうぞお頼み申すよ、時に小僧《こぞう》の長松《ちょうまつ》がいるかね。アア使いに出たかえ、なに急ぎはしない。帰ったらちょっとよこしておくれ……、あの去年|花見《はなみ》の供にやった小僧はたしか長松だったね。アアそうそう。ではお頼う申す。……まつや、ちょっとここへ来ておくれ。その火鉢の下のひき出しに艾《もぐさ》が入ってる、それをみんな盆《ぼん》の上へ出しておくれ。このあいだ印肉《いんにく》にしようと思ってたくさん取っておいた。それに線香《せんこう》を三本ばかりのせてきておくれ。アアそれでいい。用があったら手を叩くから、お前むこうへ行っていておくれ……誰だそこへ来たのは、長松じゃァないか。後ろを閉めてもっと前へ出ろ」
長「お使いに行きましたので」
主「アアいいから前へ出ろ。手前《てめえ》はなぜ主人に物をかくす。後ろ暗《ぐら》い奴だ」
長「ご免下さいまし。何も隠した事はございません」
主「無い事はない、胸へ手を当てて考えてみろ」
長「ヘエ先月|三日《みっか》の晩のことでございますか。ご免下さいまし。あれはお店を終《しま》いまして、帳場格子《ちょうばごうし》を片付けようと思いましたら、お金が出ましたので、旦那《だんな》のところへ持って行かなければ悪いと思ったのを、もう帳面《ちょうめん》も〆てしまったから今旦那のところへ持って行くのはつまらない、縁の下の力持《ちからもち》だ、お店でお鮨《すし》を買って食べようと吉《きち》どんがいいますから、私もそれがよかろうと言ったんで……」
主「なぜそれがよかろうなどと言う、悪い奴だ。まだあるだろう」
長「ア、松屋《まつや》さんの猫を天水桶《てんすいおけ》へほうり込んだ事がございます」
主「なぜそんな事をする」
長「あれは向こうの繁《しげ》どんが悪いんでございます。猫の首っ玉へ縄をつけてほうり込んだから私がちょっと棒でかき廻しただけなんで」
主「かき廻すだけ余計だ。悪戯《いたずら》ばかりしやァがる。まだあるだろう」
長「もう何もございません。根ッきり葉ッきり是《これ》ッきりでございます」
主「嘘をつけ、きさまが忘れているなら、俺がそういってやる。去年三月おせつの供をして向島《むこうじま》へ花見に行ったろう」
長「ヘエ、参りました。あの時にゃァ旦那おもしろうございましたよ」
主「その時の話をしろ」
長「もう忘れてしまいました」
主「しらばッくれるな、面白かったといいながら、忘れる奴があるか」
長「あの時には面白かったんですけれども、今は忘れてしまいました」
主「忘れたら思い出せ」
長「どうしても思い出せません。スッカリ忘れちまったんですから」
主「ウムそうか、よくあるやつだ。子供が物を忘れる若《わか》もうろく、それには灸《きゅう》が一番だという。いま灸をすえてやる、これ見ろ艾《もぐさ》がこんなにある。小さな灸をすえたって思い出せないから、脳天《のうてん》から爪先《つまさき》まで利くように固めた奴をすえてやる。サア足を出せ」
長「ご免下さいまし」
主「出せ」
長「ご免下さいまし、そんな大きなのをすえられると足へ穴があいてしまいます」
主「穴があいたら思い出せる」
長「忘れてしまいました」
主「だからすえてやるんだ」
長「ご免下さいまし」
主「イヤいえなければいうな。年に二度の薮入《やぶいり》ももうやらないからそう思え」
長「冗談いっちゃァいけません。薮入へやらないで、そんな大きなお灸をすえられるくらいなら死んじまう方がいいや。笑《わら》かしやァがらァ」
主「何だ笑かしやァがるなんて、主人に悪態《あくたい》をつく。泣くほど嫌ならなぜいわない。言えば二度の薮入を月に二度やり、店の者にないしょで小遣《こづか》いも気をつけてやる。サアどっちがいいか考えてみろ」
長「ヘエ、いわないとお灸をすえられて、薮入にも行かれないんですか」
主「そうよ」
長「いえば年に二度の薮入が月に二度ずつになって、お小遣いを下さるんでございますか」
主「そうだよ」
長「大変な出入《でい》りだなァ」
主「そうだとも、幾らきさまが隠したって他の者がしゃべっちまった」
長「ヘエー誰がしゃべったんで」
主「せつが一番先だ。さて親父《おとっ》さんすみませんが、是々斯々《これこれこうこう》でございます。どうぞご勘弁なすって下さいましと、すっかり白状《はくじょう》をしてしまった。それから徳三郎《とくさぶろう》、ばあや……、手前《てめえ》は子供のくせに主人に物を隠す後ろ暗《ぐら》い奴だ」
長「みながそういったんなら、旦那ご存じでございましょう」
主「ちゃんと知ってる」
長「知ってるならお聞きなさらないでもよいじゃァございませんか」
主「この野郎、上げ足を取りやァがる。みんなのいう事と、口が違うといけねえから聞くんだ。いわなけりゃァ灸だ」
長「ご免なさいまし、馬鹿にしやがる。ばあやが、私だの徳さんは大丈夫だけれども、この小僧が一番口が軽いから危険だといやァがって、自分たちが先にいうのはひどいや」
主「何をグズグズいっている。いわなけれやァ、灸をすえるから足を出せ」
長「では旦那、ほんとうに月に二度づつ薮入にやって下さいますか」
主「ウムいえばやるよ」
長「じゃァお灸をそっちへ片付けて下さいな。ちっと思い出しました」
主「何だちっと思い出したとは、スッカリ思い出してしまえ」
長「お家《うち》を出ましてお嬢さんが、砂ほこりの中を歩くのは嫌だから、お船で行くとおっしゃったんで」
主「ウム」
長「それから柳橋《やなぎばし》の枡田屋《ますだや》という家から船にのりました。大川《おおかわ》へお船がズッと出まして、スッチャラカチャンチャンスッチャラカチャンチャン」
主「何だそれは」
長「向うの屋根船《やねぶね》で芸者《げいしゃ》が三味線《さみせん》をひいてたんで」
主「余計な話はいらない。向うはどうでもこっちの話をすればいい」
長「それからその船が向島《むこうじま》の四囲《よめぐり》へ着きました」
主「四囲《よめぐり》という奴があるか、三囲《みめぐり》だ」
長「一囲《ひとめぐり》おまけでございます」
主「おまけなんぞはいらない。ウム、それからどうした」
長「それでお終いでございます」
主「何だ船が柳橋《やなぎばし》を出て、向島《むこうじま》の三囲《みめぐり》へ着いて、それでもうお終いか」
長「忘れちまったんですから……」
主「忘れたら足を出せ」
長「ご免下さい。それじゃァもう少し思い出します」
主「どうした」
長「何だかお船へ板がかかりました」
主「ウム桟橋《さんばし》か」
長「するとお嬢さんが、長松《ちょうまつ》や、怖いからお前先へお上がりとおっしゃるから、私が上がりました。それから徳どんが上がってばあやが上がったんでございます」
主「なるほど」
長「ばあやの身体が大きいもんでございますから、板が動くんでございます」
主「そうだろう」
長「土手《どて》へ上がろうとするとすべって転んだんです」
主「危ないなァ」
長「土手がみんな崩れちまいました」
主「嘘をつけ。手前《てめえ》たちがみな上がって、せつが一番|後《あと》か」
長「ヘエお嬢さんが一番|後《あと》でございました」
主「危ねえじゃァねえか」
長「するとお嬢さんが怖いから手を引いておくれとおっしゃいましたから、私が手を取ろうとしたらばあやにつねられました」
主「ひどい奴だな」
長「お前は出過ぎものだよ。小僧のくせにそんな事をしないでもいい。こっちへお出《い》でと、私の手を取って土手の上へ引きずり上げました」
主「ひどい事をするな」
長「そうすると徳どんが行って、私がお手を引きましょうといって、お嬢さんの手を徳どんが引張ると、お嬢さんが、徳や怖いよといってしっかり捉《つか》まりました。ヘェ、その時のお嬢さんの顔がポーッと赤くなりました。畜生ッ」
主「何だ畜生《ちくしょう》とは、それからどうした」
長「もうお終いでございます」
主「またお終いか」
長「忘れちまったんです」
主「足を出せ」
長「ご免なさい。もう少し思い出しました」
主「よくチビチビ思い出すな」
長「くたびれたからこの辺で休もうと、お茶屋へ腰を掛けました」
主「ウム」
長「お嬢さんが長松や、何でもお前の好きな物をおあがりといいますから、私がいろいろな物をいただきました。慈姑《くわい》の串で刺したんだの、塩煎餅《しおせんべい》だの、いろんな物を食べました」
主「それはよかった」
長「徳どんは何を食べるかと思って見ていましたら、茹玉子《ゆでたまご》を皮をむいて、半分食べて、半分しか食べられないが打捨《うっちゃ》ろうかしらとひとり言をいってるんです」
主「フーム打捨《うっちゃ》るなんてもったいない」
長「これが役者かなんかの食べかけなら、誰か食べてくれるだろうけれども、年季野郎《ねんきやろう》の食べかけだから、誰も食べてくれてがないといいますから、私が食べましょうと手を出したら、ばあやにつねられました」
主「よくつねられる奴だな。気が利かない。何でつねられた」
長「お前は意地の汚ない子だねえ。玉子が食べたければ幾らでもそっちのをお食べな。アレ向うに都鳥《みやこどり》がいるからご覧々々と、私の耳をグイグイ引張るから、ヒョイと向うを見るうちにいつか玉子がなくなってしまいました」
主「手品使いじゃァあるまいし、そんなに早く玉子がなくなる奴があるかい。どうした」
長「何だかなくなっちゃいました」
主「アアそうか、徳三郎が食べたかい」
長「そうじゃァございません」
主「ばあやでも食べたか」
長「イーエ、そうじゃァございません」
主「誰だ」
長「何だか知りませんけれども、お嬢さんの方を見ましたら口のところへ袂《たもと》をやってモグモグしておりました。面白いなァ」
主「何も面白かァねえ、とんでもない話だ。世間様《せけんさま》へ行ってそんな話をしちやァなりませんぞ。ウムそれから」
長「それでお終いでございます」
主「またお終えか。よくお終いになるな」
長「忘れっちまいました」
主「忘れたら足を出せ」
長「ご免なさい。それじゃァもう少し思い出します」
主「よく切れ切れに思い出す、悪い奴だ」
長「それから午《うま》の御前《ごぜん》へ参りました」
主「ホラまた違った、牛《うし》の御前様《ごぜんさま》だ」
長「ヘエ角《つの》を落としたんでございます」
主「よけいな事をいうな」
長「お嬢さんが、お賽銭《さいせん》をたくさん上げて、南無妙法蓮華経《なむみょうほうれんげきょう》南無妙法蓮華経といいました」
主「ウム」
長「徳どんが南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》南無阿弥陀仏、ばあやがオンガボキアベーロシャノー」
主「みなが違ってるな」
長「お嬢さまが、私が法華《ほっけ》だからみな法華にならなくっちゃァいけない。みな違った事をいうと、牛の御前の罰が当って牛になるとおっしゃいましたが、旦那牛になりますかね」
主「なるとも、手前《てめえ》などは子どものくせに嘘をつくから、その中でもなり方が早いよ」
長「私は牛になっちまう方がいい」
主「なぜ」
長「寝ていてご飯が食べられて」
主「無精《ぶしょう》な事をいやァがる。それから」
長「それからお腹がすいたからご飯を食べようというんで……」
主「よく食うな。いま玉子を食べたじゃァないか、もったいない」
長「それからお茶屋へ行きましたら、お茶屋に姐《ねえ》さんがたくさんおりまして、お嬢さんを知ってるとみえて、お嬢さんいらっしゃいまし、いらっしゃいましといいました」
主「アア、そうか」
長「お嬢さんいらっしゃいまし」
主「わかったよ」
長「若旦那さまいらっしゃいまし。ばあやさんいらっしゃいまし。小僧どんご苦労さま」
主「なるほど」
長「私だけは違います。何だってみんなにいらっしゃいましといって、私だけは小僧どんご苦労さまといったんでしょう」
主「いいじゃァないか。手前《てめえ》が小僧だから小僧どんご苦労さまといったんだ」
長「小僧どんはひどいと思います」
主「何といやァいいんだ」
長「ぼっちゃんとか何とかいいそうなもんで……」
主「ふざけるな、ぼっちゃんもねえもんだ。それから何だその若旦那というのは……」
長「それは徳どんが若旦那になってしまったんですよ」
主「ハアー」
長「うちを出ると急に扮装《なり》が変わったから若旦那で、私はそういってやろうと思いました。若旦那じゃァありません。お店の奉公人《ほうこうにん》でございますといってやろうと思いましたが、往《ゆ》きに船の中でお小遣いももらったし、……ウーム旦那あすこの料理は美味《おいし》うございますね」
主「この野郎ごまかしたな。往きに船の中でどうしたと」
長「ほうぼう見えます」
主「嘘をつけ」
長「お嬢さんのお膳《ぜん》も私の膳も旦那同じでございましたよ」
主「茶屋へ行けば主従《しゅじゅう》でも同じ膳《ぜん》だ」
長「りっぱな料理でしたよ」
主「そうか」
長「うちのお昼のお菜《かず》よりよっぽど美味《おいし》うございました」
主「よけいな事をいうな」
長「雀《すずめ》の焼いたのが旦那出ました」
主「雀の焼いたのなんぞ出すものか」
長「何でございましょう、鳥ですよ」
主「それは鴫《しぎ》だ」
長「ヘエー」
主「鴫《しぎ》だよ」
長「ふしぎだなァ」
主「何をいやがる」
長「お嬢さんが慈姑《くわい》の金団《きんとん》を私に下さいました」
主「それはよかったな」
長「徳どんもまねをして、長松どんにやろうといってくれました」
主「フム」
長「ばあやさんは吝嗇《けちんぼ》だから半分くれました」
主「大変に金団《きんとん》をもらったな」
長「ヘエ、一生懸命私は食べました。もう咽喉《のど》のところまで詰ってしまって、屈《こご》むと出るんで」
主「きたない奴だな。出るまで食う奴があるか」
長「それからお嬢さんが、お金を出してばあやが家へお土産にするから、長命丸寺《ちょうめいがんじ》へ行って桜餅を買っておいでといいました」
主「何だ、長命丸寺《ちょうめいがんじ》という奴があるかい。利口のようでも子供だな。あれは長命寺《ちょうめいじ》だ。門番《もんばん》が桜の葉を拾って、その葉へ包んだのが桜餅のはじめだ、よく覚えておけ」
長「ヘエ、それから」
主「門へ入るとその桜の木がある。その下に十返舎一九《じっぺんしゃいっく》の碑《ひ》がある。ないそんか腎虚《じんきょ》を我は願うなり、それは百年も生延《いきのび》し後《のち》。奥に翁《おきな》の碑《ひ》がある。いざさらば雪見《ゆきみ》に転ぶところまで、とこれは名代《なだい》の句だ。よく覚えておけ」
長「ヘエそれから」
主「彼方《むこう》へ行って桜餅を食べないと、何んだか物忘れをしたような心持がするな」
長「ヘエそれから」
主「茶は良いのをのませるの」
長「ヘエ、それから」
主「それでお終い」
長「お終い……忘れたら足を出せ」
主「反対《あべこべ》だこの野郎、それからどうした」
長「オヤオヤ、またこっちへ戻ってきた。しようがありませんね旦那、それじゃァギリギリいっぱいのところを申し上げますよ」
主「みんな言ってしまえ」
長「長松、お前もう用がないから遊んでおいでとおっしゃいましたから、私も表へ遊びに出ましたけれども、面白くありませんから帰ってきましたら、ばあやも帰ってきていましたが、お嬢さんも徳どんもいないのです」
主「どうした」
長「ばあやに聞いたんです。お嬢さんはどうしましたといったら、お嬢さんはいま癪《しゃく》が起こって向うのお座敷で、大変に苦しんでいるといいますから、私が行ってみましょうというと、お前が行かないでもよい。この癪《しゃく》は徳どんに限るというので、その時に私はハハアと思いました」
主「何だハハアとは」
長「それからないしょで行って立聞きをしてやりました」
主「悪い奴だ」
長「けれども旦那、立聞きをしたから、なかの模様がわかったんでしょう」
主「生意気な事をいうな」
長「お嬢さんと徳どんと、いろいろな事を言っていましたぜ」
主「ウム何と言ってた」
長「徳や、なぜお前私の事をお嬢さんお嬢さんというのだえ。でもあなたはご主人様のお娘さんだからお嬢さんといいます。もうこれからそんな事をいわないで、私だって名があるから名を呼んでおくれ。せつやといってくれなけりゃァ嫌ァって、フフン……」
主「変な声を出すな、もういい」
長「それからね、旦那」
主「もういいというに煩《うる》さい。あっちへ行け」
長「だって旦那しゃべれといったじゃァありませんか。それから旦那ちょっと伺いますがね」
主「何をいやァがる、何を伺うんだ」
長「年に二度の薮入を月に二度ずつにして、お小遣いを下さる約束はようございますかね」
主「そんな事は知らないな」
長「じゃァ約束が違うじゃァありませんか旦那オイ……」
主「オイとは何だ……」
旦那も心配でございますから、そこで番頭さんを呼んでいろいろご相談をなすったが、どうもよい考えが出ません。とにかく徳三郎は何ともつかずお暇《ひま》が出まして、おせつのところへ婿《むこ》が来るということになりました。ところがこの徳三郎、ほかに親戚もございません。たった一人の銀町《しろがねちょう》の義理ある叔父のところへ預けられました。(つづく)
[解説]これは先代しん生の速記本によるものだが、しん生がふだん寄席でやる時には、長松が「それからそれから」と主人に尋ねる 主「もうお終いだ」 長「なにお終い……忘れたら足を出せ」というクスグリでさげていた。これは逆さ落ちである。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
おせつ徳三郎(下)刀屋《かたなや》
―――――――――――――――――
○「コレコレ何だ。人様の前へ掃《は》き出して……どうもご免なすって下さいまし、子供でございますから、どうぞご勘弁を願います」
徳「ナニよろしうございます。こちら様は刀屋さんでございますね」
○「ヘエさようでございます」
徳「どうぞ刀を一つお見せなすって下さい」
○「ヘエヘエ、どうぞこちらへお入んなすって大戸《おおど》をおろしますから……、サアサアいいから表をしめてしまいな……。お客様を掃き出しやァがってほんとうにそそうな奴だ。婆さん茶を入れな。お腰の物はどういうところがお望みでございますか」
徳「どういうところでも宜しうございます。どうか切れますのをお見せなすって、何でも滅茶々々《めちゃめちゃ》に切れるのを」
○「切れることはみな切れます。お拵《こし》らえに望みはございませんか」
徳「エー拵《こし》らえなんぞ何でもようございます」
○「ヘエヘエ承知いたしました。そちらの白鞘《しらざや》の方を持ってきな……どうぞご覧を」
徳「これはノッペラボーで」
○「イエ白鞘《しらざや》でまだ拵《こし》らえを致しませんので」
徳「さようでございますか。ウンッ……、これは抜けません」
○「抜けないわけはございません。ちょっとお見せなさい……」
ポンと一つ叩いて、ツと抜きかけて渡しました。それを受取って震えながら抜いて見ておりましたが、
徳「切れますか」
○「エーお受け合い申します。あなたどうぞ鞘《さや》へ納めてください。刀を前において考えていちゃァいけません。どうぞ鞘へお納めください。」
徳「いかほどでございます」
○「モー当節柄《とうせつがら》でございますから、お高いことは申しは致しません。マア全体なれば兎角《とうこう》と申すところでございますが、懸引《かけひ》きなし、働らきまして本金《ほんきん》二枚に致しておきます」
徳「幾らでございます」
○「本金二枚」
徳「十五両でございますか」
○「さようでございます」
懐へ手を入れて、お金の勘定《かんじょう》をして黙って考えておりましたが、
徳「そちらへどうぞお納めなすって下さい」
○「御意《ぎょい》に入りませんか」
徳「ナニ気には入っておりますが、ヘエ、そんなに切れなくってもようございます。モット、ズッと安いのをどうぞ……」
○「切れないでもようございますか」
徳「ヘエ、切れないでもようございますからズッと安いのを……」
○「小僧やそちらのそれを持ってきな……。これはいかがで」
徳「ウム、これも抜けない、どうぞちょっと抜いて見せて下さい」
○「それは抜けません。木刀《ぼくとう》でございます」
徳「木刀じゃァしようがありません」
○「切れないでもいいとおっしゃいますから」
徳「切れないでよいッたって、まるで切れないではしようがない。人殺しをすることができません。対手《あいて》を切ることができません」
○「ナニ対手を切ることが……、オイ婆さん茶を入れるのを見合わせな……」
徳「どうぞ切れるのをお見せなすって」
○「お望みなれば何ほどでもご覧にいれますが今あなたの仰《おっ》しゃる言葉に対手を切ることができないと仰しゃったが、全体何を切るんで」
徳「ヘエよろしうございます」
○「よろしくはない。いうと可笑しいが私も永い間こうやって、刀屋をしているが、あなたのような方に刀を売ったことがない。何を切んなさるのだか」
徳「ヘエ。さようでございます。そんならお話し申しますが、私はまだよそに奉公をしている身体でございます」
○「ハハア、ご主人持ちでいなさるか」
徳「暮れになりますとあっちこっち掛取《かけと》りに歩きます。山道などへ参りまして、もし山賊《さんぞく》などに出あった時に引っこ抜いて盗賊《どろぼう》を切りますので」
○「ハアーあなたがね。ウーン、それはよいご了簡《りょうけん》だとおほめ申したいが、ちっとほめにくい。失礼ではございますが、あなたどのくらい腕前が勝《すぐ》れていらっしゃるか知りませんが、芝居などで見ると山賊《さんぞく》というと熊の皮の胴腹《どうふく》を着て長い刀《やつ》を差して恐ろしいようすをしている。あなたがどれほど腕前ができたところが、対手が大勢ででもあったら、ご主人の物を取られた上になまじ刃物を持ってるだけに、刃むかう了簡《りょうけん》が起って、かえってその身に過ちをする。つまり自分の刃《やいば》で自分が切られることになる。失礼だがそうじゃァありますまいか。先ほどあなたが入ってきた時の様子をみると、唇の色まで変わって身体もブルブルふるえておいでなすったが、若いうちはよくあるやつで、満座《まんざ》の中で恥をかかせられたとか、惚《ほ》れた女が寝返りを打って、男が立たない。ナニ先の女を切って、おれも死にさえすれば事がすむなどという心得違いをする者もある。けれどもその本人は死んでしまえばすむが、跡に残った親兄弟に嘆《なげ》きをかける。このくらい不幸なことはない。マアお客様にこんな意見がましいことをいってはまことに失礼ではあるが、他人とは思わない。あなたお幾つでげえす。エー幾つ。二十……ハアそうでございますか、婆さん、こちらは二十三になんなさるとよ。家の野郎も同年《おないどし》だ。実はね、私にもあなたと同年になる倅《せがれ》があります。イヤこの野郎しようのないヤクザ者で、飲酒賭博女郎買《のむうつかう》三道楽そろっているんで、親類とも相談の上、仕方がない倅ひとり棄ててしまおうというので、三年後に勘当《かんどう》しました。そんな不良野郎《やくざやろう》だからどうでもいいようなものだが、不幸者ほど親はまた心配をするもので、雨降風間《あめふりかざま》に婆さんと、アア今日は野郎どうしているか。ああいう不良野郎《やくざやろう》だから、悪い事をして、おかみの手にでもかかりゃァしないか。食うや食わずでいはしないかと、婆と二人で目をこすったり、鼻をすすったりすることもある。そういう奴でも親子となるとその位のもの、ましてあなたのようなおとなしい、そういう優しい息子さんを持った親御の心をお察し申すから、マアはなはだ失礼だが、ツイこんな意見がましいことをいうだ。私も若い時分にはずいぶん聴くの聴かないのといったこともあるが、年過ぎてみれば、マア馬鹿なことをしたと、いまになって自分ながら可笑しいやら、恥かしいやらで、思わず冷汗《ひやあせ》をかくようなことがあります。だから一旦《いったん》に思いつめないで、気をユックリと持って、そういうことのあった時にはゆっくりとお考えなさい。ようございますか」
徳「ヘエ、有難うございます」
○「もしもあなたが失礼だが、思案《しあん》に余るようなことがあったら、大きにお世話だが、私たちで事のすむことなら、ご相談にものろうじゃァありませんか。だからあなたねえ……。婆さん、この方は何かよっぽどすまない事があるとみえて、男泣きに泣いておいでなさる。ネーあなた、おやさしいお方だが、短気を起しちゃァいけませんよ」
徳「ヘエ有難うぞんじます。実はちいさい時分に両親に別れまして、義理ある叔父の厄介になっておりますので、他に親戚《みより》頼りもございません。あなたのようにそうおっしゃって下さると、何だか他人とは思われません。有難うぞんじます」
○「ヘ……わたしもまたお前さんを他人とは思わない。だから今いう通り短気を起しちゃァいけません。また私のような者でもご相談しようじゃァありませんか」
徳「ヘエ有難う存じますご意見に従い。私は刀を買うのはよしましょう」
○「およしなさい、私も実は売りたくない。マアいまお茶を入れ直すからゆっくりお話なさい」
徳「ヘエお言葉に甘えまして、少しあなたにご相談がしたいことがございます」
○「ハイハイ伺いましょう。アアおわかりの早いやさしいお方だ。婆さん早く茶を入れなさい……。それに何か菓子があったろう」
徳「あなたの前でございますが、全体どちらが悪うございましょう」
○「何が悪いのだか、突然では私にもわかりません」
徳「だってあんまり無理だと思います」
○「何が無理なんで」
徳「実は私じゃァないんです」
○「ヘエー」
徳「私の友だちでございます」
○「なるほど、お朋友《ともだち》……」
徳「他に奉公している者がございます」
○「なるほど、まだご主人持ちで……」
徳「ところがその男がね」
○「ウム」
徳「主人の娘とちょっと成ったので」
○「何が成りました」
徳「イエ出来ました」
○「出来た……、アア若いもんだから脂《あぶら》ぎって、何か腫物《できもの》でも……」
徳「腫物《できもの》じゃァありません。わかりませんか」
○「わかりませんな」
徳「くっついたんで」
○「アアそれは善くない。どうもご主人の娘をそそのかすというのは善くない、フーン」
徳「それでそのことが知れたんで、その男は暇《いとま》になりました」
○「ウム、ご主人は目が高い。なるほど」
徳「ところがその男に一応の沙汰《さた》もなく、今夜娘のところへ婿《むこ》が来るんで」
○「ハア今晩が婚礼《こんれい》なのですか」
徳「ヘエ」
○「その娘さんは得心《とくしん》でかな」
徳「そうです」
○「えらいね、感心だ……。婆さん、人間が利口になったね。お前やおれたちの若い時分には先の男にすむのすまないの、死ぬの生きるの、駈落《かけおち》をするのといって騒いだもんだが、アー親の許さぬ不義淫奔《ふぎいたづら》をしたのは善くない。お若いから一時心得違いをしても、親御のお仕込みが良いから、過《あやま》って改たむるに憚《はばか》ることなかれということを知っていなさるゆえ、親にあてがわれる婿を取って親御に安心をさせようというのは実に悧巧《りこう》の娘さんだ。えらいねえ。あなたのお朋友《ともだち》は蔭ながら聞いてよろこびましたか」
徳「ナニよろこびません。だって酷《ひど》うございます……、ひと言も断わらないというのは余り酷うございましょう。それだから婚礼の席へ暴れ込んで、婿も娘も殺して、自分も死のうとこういうんで」
○「アハ……とんだ心得違いの人だな、あなたのお朋友《ともだち》という人は……。ネエ譬《たとえ》にもいうではありませんか、親子は一世《いっせ》夫婦は二世《にせ》、主従|三世《さんせ》と、三世の深い縁のある主人の娘と不義を働き、その上これを殺そうなどとは恐ろしい了簡《りょうけん》、主人殺しは重罪だよ」
徳「だってその男に一応の断りもなく、婿を取るというのは余り馬鹿にしております。人を欺《だま》しやァがって……」
○「モシお前さん、馬鹿にしている。欺《だま》したといいなさるが、その男とくっついた時に、男から主人の娘へいくら払いました。いかほど金を出しました」
徳「それやァもともと出来合《できあ》いでございますから、金も何も出しません」
○「ただでげすか。ただより安いものはない。いうと可笑しいが、入山形《いりやまがた》に二ッ星、仲《なか》の町張《ちょうば》りの立派な花魁《おいらん》を買うには、芸者幇間末社《げいしゃほうかんまつしゃ》までに金を使って、その上高い食物《くいもの》を食って、いよいよというところでドッコイ矢筈《やはず》を食ったり、しょい投げを食ったりする。それから思えばもともと出来合いであってみれば、何も断わりがないからといってそんなに腹を立つところはない。そういうと失礼だが、あなたのお朋友《ともだち》がそれほど口惜しいと思ったら、なぜ男らしく仕返しをしてやんなさらない」
徳「ヘエ、男らしく仕返しというと」
○「先方《むこう》を殺せば自分も死ななければならない」
徳「さようでございます」
○「それだったら命がけで仕返しをするんだ。その仕返しというのは、今に見ろというんで、自分が死んだ気になって、一生懸命に働くんだね。ようがすか。稼いでその主人の家よりも自分の方が立派な身上《しんしょう》になって、その娘よりなお美《い》い女を女房に持つんだ。そうして見せびらかしてやるんだ。サアどうだ。なぜおれを亭主にしなかった。おれはこのくらい働き者だ。羨ましかろうと見せつけてやるこそ男らしい仕返しだ。つまりはその娘が男に惚れていないから、そんな婿などを取るんだろう。ネエそうじゃァありませんか。イーエサお前さんは朋友《ともだち》だから、惚れてると思ってるのだろうが惚れていないね。もしまたそれほど惚れてると思うなら……、マアお聞きなさいよ。その女が惚れているなら婿を取ったところがどういう心持でいるか分らない。確かに惚れていると思ったら満更《まんざら》憎いこともあるまい。それともどうあっても了簡《りょうけん》がならない。自分も死に、先に殺そうと思うなら、主殺しにならないよう、手を下さないで殺す工夫がある」
徳「ヘエ手を下さないで殺すというのは、どういたします」
○「その男がドカンポコンをきめるんだ」
徳「ドカンポコンというのは……」
○「その男は泳ぎを知ってるかね……」
徳「知りません」
○「泳ぎを知らなければ誠に幸いだ。両国橋《りょうごくばし》なり大橋《おおはし》なり勝手のところからドカンポコンと飛び込む。一旦沈んで浮き上がり、また沈んで今度は土佐衛門《どざえもん》と改名をして浮き上がるんだが、ちょっと面白かろう」
徳「面白かァありません」
○「そこで芝居《しばい》仕立てにすれば、お嬢さんが腰元《こしもと》に手を引かれて、日傘《ひがさ》かなにかで、ここへ通りかかる、死骸が河岸《かし》に流れ着いているとか、桟橋《さんばし》の傍へ引上げているとかいうのを見て、アアすまない、私ゆえにこういう姿になったか情けない、面目《めんぼく》ないと思って、娘が惚れていれば、つづいてドカンボコンと飛込む。そうすれば死骸が二つになって主殺しでなくって情死《じょうし》と浮名《うきな》が立つという話。マア惚れていればそうだが、惚れてなければ、あの人は死んだかえ、いい塩梅《あんばい》だ。いい気味といえばそれまでのこと。マアマア女ひでりがするわけでなし、そればかりが女じゃァない。先方が惚れてるか、惚れてないかこっちを見定めるまで、そんな事を一徹《いってつ》に思わないで、粋《すい》に暮らすが上分別《じょうふんべつ》、世の中すいすいお茶漬けサラサラアア、腹がへった、飯を食おう。あなたご飯を食べていらっしゃい……」
表の方で
「迷子《まいご》やァい……」
○「何だえ表がガヤガヤして、アア迷子か。嫌だぜ、地《じ》あまりにも、およそ淋しいものは、ショボショボ雨に寒念仏《かんねんぶつ》、迷子の迷子の三太郎《さんたろう》というがこのごろ子供がりこうになって、迷子にならないと思ったが、婆さん、あの声は迷子だよ」
婆「オオ怖い。私しゃ迷子と間違えられて連れて行かれるといけないから出ませんよ」
○「くだらねえことをいうなよ」
×「ヘエこんばんは」
○「ハイ、お出でなさいまし。ヤァ、これはこれはサアお入んなさい」
×「ちょっと急ぎますから……」
○「何でございます」
×「誠にすみませんが、お金を少々|拝借《はいしゃく》したいんですが……」
○「ハアいかほど……ナニたったそれッばかり……、エーお安いご用、ところで何ですえいったい……」
×「エー迷子で……」
○「オヤオヤそれはご苦労様でございます。シテどちらのね」
×「ナニ地主様のお嬢さんが飛び出したんで、ご両親はひと通りの心配じゃァありません」
○「エーお嬢様、幾つにおなんなさる」
×「十九で」
○「十九、何だ迷子じゃァない。迷親《まいおや》だ、べらぼうな。十九になって迷子は馬鹿々々しいね」
×「ちょっと聞くと馬鹿々々しいようだが……」
○「どう聞いたって馬鹿々々しい」
×「それがおかしな話なんで、実はね。店にいた若い者と去年あたりから少々怪しい事があった。それが知れて男は暇《いとま》が出たんだ。ところが今度娘の嫌がるものを無理往生《むりおうじょう》に婿を取ることになった。それじゃあ先の男にすまないというんで、庭口からお嬢さんが跣足《はだし》で駈け出してしまったんで、親御はウロウロ、媒酌人《なこうど》は間へ入ってマゴマゴする騒ぎ、私どもも地主様のこったから、捨てておかれない。急に手分けをしてお嬢さんの行方を捜しに出たところが懐《ふとこ》ろに百もない。夜更けになって徹夜《よあかし》の物でも食おうと思っても、銭がなくっちゃァしようがねえ。家まで引返すのも面倒だと思ったら、ちょうどこちらの戸がまだ一枚おりずにいたんで、とんだご無心《むしん》を致しました……。ア痛え、何をするんだ、いきなり人の横腹《よこっぱら》を肱《ひじ》で突いて飛出しやァがった。アッ……あれやァ徳じゃァねえかえ。いま向うをむいて話している様子が、ちょっと似てると思ったが、今の話を聞いて飛出したところを見ると、徳三郎《とくさぶろう》だ。あの男にすまないといってお嬢さんは逃げ出したんだ」
○「アアそうでげすか、道理《どうり》で好い男だ。どうも来た時から、刀を見る様子がへんてこだと思って、今まで足をとめていたが、どこへ行ったろう。ナア婆さん、前の意見だけでよせばよかったが、ドカンポコンなぞをいったからな。それが只じゃ湿ッぽく見えねえから、ちょっと芝居仕立てにしようと思って、粋《いき》な話を仕掛けていたところだが、どうもこれは弱ったな。婆さんお前|提灯《ちょうちん》をつけな。皆さんすみませんが、お嫌でもございましょうが、私も迷子の中へ入れてください」
×「およしなさいな。折角行っていなけりゃァつまらねえ」
○「ナニそうでない、若い者ひとり殺すのは可哀相だ」
×「オイどうしよう、旦那が一緒に行きてえというが」
△「連れといで連れといで、どうせ夜更けになるんだ。一人でも多いほうがいい」
×「じゃァお出《いで》なせえ」
○「それは有難い、婆さん提灯《ちょうちん》はついたかえ」
△「旦那ご苦労様でございます」
○「ヤアとんだ迷子の野次馬ができた。どうぞ連れてって下さい」
ワアワアいいながら両国《りょうごく》の橋へかかり、
×「迷子の迷子の三太郎《さんたろう》やーイ……オイオイ女で三太郎というのは可笑しいが、お嬢さんは何という名前だね」
◎「サア、何という名前だか分らねえ、お嬢さんお嬢さんとばかりいってるから」
△「おせつさんだおせつさんだ」
×「アアそうか、迷子の迷子のおせつやーイ」
○「迷子の迷子の、ドカンポコンやーい……」
徳三郎《とくさぶろう》は刀屋の店を飛び出して、両国《りょうごく》の橋の上まで駈けて来て、合掌《がっしょう》組んで飛び込もうとすると、遅ればせに来た女の足音、振返って見て、
徳「オーお嬢さんですか」
せつ「オヤ徳かえ、わたしゃお前に話があったよ」
後から「迷子やーい……」話をしていられませんから迷子の声に追われ追われて深川《ふかがわ》の木場《きば》の橋まで来ると、迷子やァいという声が横にそれた様子。
せつ「徳や、道々もいう通り、私は親父《おとう》さんのいうことに背いて、こうやって駈け出してきたからには、とても生きてはいられない」
徳「さようなれば私もご一緒に……」
せつ「嬉しいのう。未来とやらは夫婦だよ」
と互いに手に手を取かわし、経宗《きょうしゅう》とみえ、妙法蓮華教《みょうほうれんげきょう》、南無妙法蓮華経《なむみょうほうれんげきょう》と、橋の上からサーッと飛び込むと、アノ辺だから下がいっぱいの筏《いかだ》でございます。
せつ「オヤ、なぜ死ねないのだろう」
徳「アア、今の御材木《おざいもく》で助かった」
[解説]「御材木」と「御題目」の地口落ちである。現在はこれを上下に分け、しかも真中を抜いて、上を「花見小僧」下を「刀屋」と題して二席の落語にしているが、元は人情噺であった。作者は初代の春風亭柳枝《しゅんぷうていりゅうし》である。この人は元祖|麗々亭柳橋《れいれいていりゅうきょう》の門人で、人情噺、特に女の描写の名人であった。明治元年七月に歿している。多くの門人があったが、初代|談洲楼燕枝《だんしゅうろうえんし》、初代柳家小さん、二代目柳枝等が傑出している。またこの噺を上下に分け、上を花見小僧と題してやり始めたのは、初代の三遊亭円遊《さんゆうていえんしゅう》だという説もあるが、これにも二つの型があって、主人が灸をすえるぞと言って小僧を脅し、娘の情事を聞き出すものと、小僧が脅しもされずに自らべらべら喋ってしまうものとがある。原作は灸をすえる方であった。また円遊のは、屋根船には乗らず、二人乗りの人力車二台に、おせつと徳三郎、小僧と乳母が合い乗りで行く事になっていた。そうして小僧が「牛の御前様にお参りをして、お題目を唱えないと、牛になるよ」とおせつに言われたという話しから、花車《だし》の人形の身振りになる「それでは娘が、諸方引廻して歩いたか」「ヘエ、私はダシに使われました」というサゲになっている。円遊は灸を使わない方だが、先代のしん生は、この線香で小僧を脅すところが殊にうまかった。また、下の「刀屋」は名人円喬の十八番だった。この方のサゲも、「御材木で助かった」というのが普通ではあるが、六代目の文治《ぶんじ》のは、二人が材木の上に身を投げてから「徳や、死ねないね」「お嬢さん、水を呑まなければ死ねませんよ」というと、おせつが川の水を両手にすくって「徳や、おあがり」とサゲたそうである。また中《ちゅう》に当たるところは、伯父の家に預けられた徳三郎が伯父からおせつのところに婿が来ることを聞かされて怒り、おせつを殺して自分も死のうと覚悟をするところである。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
雪とん
―――――――――――――――――
雪とんというお噺《はなし》を、一席申し上げます。本町小町《ほんちょうこまち》と異名《いみょう》を取った本町の糸屋の娘さんが、江戸馴れない男に思いつかれたというお噺でございます。
世の中が変るに従って、病《やまい》の名までも変ってまいりまして、また病気の親類も多くなりました。その代わりには医学の進歩で大概の病はなおってしまった、ついには死なずにいられるようになりましょう。
ところで昔から四百四病《しひゃくしびょう》の外《ほか》としてありますのが恋病《こいわずらい》、しかし今ではトンと、この恋煩《こいわずら》いなどをする者はございません。ずいぶん結構のところのお嬢さんでも、御意《ぎょい》に召した男があると、ズンズンご自分でお掛け合い遊ばして、自由結婚をなすってこれが神聖《しんせい》の恋だなどと言っておる。上野や日比谷の公園あたりへ夜分まいってみると、神聖の恋があっちにもこっちにも囲《かたま》っております。
しかし昔でも恋煩いはご婦人のもののようで、殿方《とのがた》の恋煩いはお色気がない、髭《ひげ》モジャになってモンパの足袋《たび》をどぶの中へほうり込んだような面《かお》をして、ウンウンうなっていた日にゃァどうしても女に嫌われます。
もちろん昔の色男《いろおとこ》と今の色男とは違ったようで、どういうところが違ったかというと、昔の色男は色白で痩せぎすの、スラリとした芝居でよくいたす突転《つっころ》ばしのようなものを申したのを、当今《とうこん》ではデップリとふとった赤ら顔のお髭でも生《はや》しているようなものが色男というように違ってしまいました。
両国《りょうごく》の船宿に信州ドロドロ坂の茂左衛門《もざえもん》のせがれで茂十《もじゅう》という金満家《きんまんか》の息子さんが遊びに来ているうちに、何だかブラブラ身体の工合が悪く、一室へ入って考え事ばかりしております。
女房「モシモシあなたあなた」
茂「ハイ」
女「ちょっとここへ出てお出《いで》なさいよ」
茂「ハイ、どうも往《い》かねえ」
女「今ね、アノ寸白《すんはく》さんがお帰りになりましたが……」
茂「アア医者どんけえ」
女「ハア、先生も大変ご心配なすってね何だかあなたが食が進まないというのが一番困ると仰《おっ》しゃいましたよ」
茂「どうも困ったでがんす」
女「さっきあなたがお鮨《すし》か何か食べたいといって買いにやんなすったようで……」
茂「ヒエー少しばかり買ってもれえました」
女「少しばかりって幾らお買いにおやんなさいました」
茂「ヒエーなに一|分《ぶ》買ったでがす」
女「大変にお買いなすったね、食べられましたか」
茂「エー二《ふた》ツ……」
女「ヘエー、いけませんねえ二つばかり召上るようなこっては、あなたは平常《ふだん》ずいぶん召し上がる方だのにね」
茂「なに二つ残したんで……」
女「アレマアそんなに……。それで食が進まないってなおかしいじゃァありませんか」
茂「ハイどうも思うように進まねえ」
女「フフ、変ですねえ。だがね、いま寸白《すんはく》さんに私が聞いたんですよ、ところがねえ何でもお前さんの病気は腹に思ってる事がある。それさえ遂げればなおるんで、ほかになんと言うことはないとこういうんで、何ですえ思ってることというのは、そういえば、始終考え事ばかりしているようですがどうしたんですよ」
茂「イヤそれやァ医者どんのいう通りだ」
女「何ですよ考えてる事というのは」
茂「それがどうもえれえことで……マア言わねえ方がよかんべい」
女「お話なさいよ。家の親方《おやかた》も心配してるんですよ、言ったっていいじゃァありませんか、何だかおっしゃいよ」
茂「エエー、どうだなァ、何だか知んねえが小《こ》っ恥《ぱず》かしい訳だからなどうも仕方がねえさ。これがもとでおれァ病死《おっち》ぬだろうと思って」
女「大変ですね、何なんですよ」
茂「マアよすべえ」
女「アレサ、何ですねえ、お話しなさいよ」
茂「そうだ言ったところで駄目だんべえと思うから」
女「何だか知らないが、お前さん口に出さずにただクヨクヨ思ったってしようがないからお話しなさいよ……アア女だと思って言わないんですね」
茂「ナニ、それは女子《おなご》の方がええかと思うけれども……」
女「じゃァなお更じゃァありませんか、お話しなさいったら」
茂「そうかね、そんなら内儀《おかみ》さん話するが笑っちゃァいかねえよ」
女「何ですねえ、笑うもんですか」
茂「笑われるとなんねえな」
女「何ですねえ、早く早くお話なさいよ」
茂「じゃァ話すがの、おらの病気ちうものは……どうもこれは言われねえ」
女「何ですよ、エーナニ」
茂「おらが病気はな、コ、コ、恋煩れえだよ」
女「エー」
茂「恋煩れえだァよ」
女「アラマア嫌ですよ」
茂「それだから笑っちゃいかねえと言うのだ」
女「笑やァしませんよ……、恋煩い、ヘエーそうですか……。そうですねえあなたが恋煩いてえと、当ててみましょうか」
茂「エー」
女「当ててみましょう」
茂「当ててみてくんろ」
女「そうですねえ、お待ちなさいよ……。アアわかりました」
茂「エー」
女「わかりました」
茂「わかったのかえ」
女「エエ」
茂「誰だと思ってる」
女「アノお向うの近江屋《おおみや》の飯焚きのおきぬどん、世帯崩《しょたいくず》しでなかなか粋《いき》ですねえ、あの人でしょう」
茂「ナニそうじゃァねえ」
女「おやそう。それじゃァ何ですか、アアわかりました。家の親方とちょっと飲みに行った事がある、その時にどこかでお茶屋の姐《ねえ》さんでも見染《みそ》めたんで……」
茂「ナニそういう者じゃァねえ」
女「はてねえ花魁《おいらん》買いに行ったような事はなし、……アアわかりました。アノソレ、向うの山田屋《やまだや》の婆やさんでしょう」
茂「馬鹿な、アンな者をどうすべえ」
女「わかりませんねえ誰でしょう……アア向う裏にいる囲い者」
茂「ナニそんな者じゃァねえ」
女「ハテネ、亭主持ちじゃァありますまいね」
茂「ナニ亭主持ちじゃァねえ」
女「おかしいじゃありませんか。お言いなさいな」
茂「マアソレ金づくで出来ることなら、国元《くに》せえそういってやりゃァ出来るが……」
女「それじゃァお金づくで往かない者なんでしょうね」
茂「金づくじゃァ駄目だろうと思う」
女「困りましたねえ……」
茂「じゃァおらの方で言うがの、ソレここの前を毎日|正午時分《ひるじぶん》女子《おなご》が二人通るベえ」
女「それやァ幾人も通りますよ」
茂「だがさ、門を通ってここへ声を掛けて行くべえ。ソレお前らが出て、世辞《せじ》いうじゃねえか。わかんねえか。アレソノ。なんだか知んねえがおしゃべりの女がともをして八丈《はちじょう》の着物を着て通るじゃァねえか」
女「アア、アノ本町小町《ほんちょうこまち》、糸屋さんのお嬢さんですか」
茂「糸屋の娘かねあれやァ」
女「マアそうですか……。困ったねえ」
茂「何を」
女「何をって、あれは一人娘でね、もう婿《むこ》もきまったようですよ」
茂「ハテそうかな、だからおらァ駄目だと言っただ」
女「どうも困りましたねえ、他ならまた何とか話のしようもありますけれども、家でも世話になってるお店《たな》の何ですからね」
茂「それじゃァどうだね内儀《おかみ》さん。せめてあの娘が平常《ふだん》持っている物でも、おら貰いてえがどうだろう。そうしてマアここへ寄った時に、チョックラあがって話の一つもしてくれればなおいいだが、そんな事はなくともマア常に大切にしている物でも貰えば、それで諦める事もあるが、どうか出来めえか、金は幾らでも出すが……」
女「そうでございますね、そんな事が知れては大変でございますがお待ちなさいよ……。これは困ったねえ……。じゃァこうしましょう。あなただってどうしてもと無理を言う訳ではなし、あの下女《げじょ》のおまつという奴がなかなかの奴ですからあれに話をしてみましょう」
茂「アアそうか。どうでもおらの言い分さえ立てばおらはそれで我慢する」
女「じゃァひとつ話してみましょう……。アラちょっとマアいい工合ですよ、向うからお嬢さんが来ましたよ。ちょっとご覧なさい」
茂「ウン、いい女だなァ……」
唐土出《もろこしで》の八丈《はちじょう》、繻子《しゅす》の帯、文金《ぶんきん》の高島田《たかしまだ》、どうしても堅気《かたぎ》の娘で、姿といい形といい、絶世《ぜっせい》の美人でございます。後からデクデクふとったおまつという女が、何か包みを持ってお供をしてちょうどこの船宿の前を通り掛りました。
女「来ましたよ来ましたよ、あなた引っ込んでおいでなさい……チョイトおまつどん、……オヤお嬢さんこんにちは、マアお寄んなさいまし……。どうぞお上りを。おまつさんちょっと上っておくれ、少し話があるんだから」
まつ「ナニ内儀《おかみ》さん」
女「お嬢さん、ちょっとお待ち下さいましよ、おまつどんに少し話があるんで……アノおまつどん近頃家に来ている田舎のさる大家《たいけ》の若旦那さんですがね、親方が昔その親父《おとっ》さんに世話になったんで、こちらへ来て遊んでいらっしゃるの、ところがね」
まつ「ハア」
女「その方がマア何がね、どうしてもお前でなければならない訳なんで、お前さんウンといってくれりゃァねえ、それやァお金の五両や縮緬《ちりめん》の羽織《はおり》の一枚くらい拵《こしら》えてもらってあげるが、何も嫌な真似をする訳ではないんだけれどもねえ……」
まつ「オヤさようでございますか、どうも有難う存じます、エエモウ私のような者でもそう仰《おっ》しゃって下さるなら……」
女「イエサおまつどんお前じゃァないんだよ」
まつ「オヤさようでございますか。私は今までそんな事はないんですから変だと思ったんで……」
女「お前ンとこのお嬢さんだよ」
まつ「エー何です田舎者《いなかもの》が家《うち》のお嬢さんを」
女「シー、大きな声をお出しでないよ。……フフ……マアお聞きよ。その方がね、お嬢さんを見染めて恋煩《こいわずら》いなんだよ」
まつ「マア嫌ですね」
女「デ、マアこうしたいんだよ。どうせこの恋は叶う気遣《きづか》いない、だからせめてお嬢さんがお平常《ふだん》に持ちなすっているお品でも頂く事が出来ればそれを大切に肌に着けてそれで諦める、その上、なろう事ならお側へ出て、お茶の一つも頂く事が出来れば、それこそ思いを遂げたようなものだが、何とか話をしてくれろという私への頼みなんで、誠に罪のない話なんだがお前の計《はか》らいでどうにかなるまいかねおまつさん」
まつ「さようですねえ、それやァ私がお嬢さんの事を一切しているんですから、お品くらいの事は出来なくもなし、また様子によって御酒《ごしゅ》は兎に角、お茶の一つも召し上ってお話ぐらいおさせ申してもよろしうございます」
女「出来ようかねえ」
まつ「それはモウ私に出来ない事はありませんよ。奥と表が離れておりますから、表の寝静まった頃に庭の三尺の切戸《きりど》をトントンと叩いて下されば、私が出て開けて離れへお連れ申しますから……」
女「そう、そうしてあげておくれなら、あの方がどんなに喜ぶかしれないよ」
まつ「その代り内儀さん、今のお金と羽織《はおり》を……」
女「アアそれはきっとお礼をするよ」
まつ「じゃァよろしうございます」
女「いつ……」
まつ「そうですねえ……。明日の晩でよろしうございますよ」
女「そうかえ。じゃァきっとだよ、嘘になると私がその方に恨まれるからね」
まつ「大丈夫。けれども内儀さん今仰しゃったこと……」
女「それはいいよ。私が確かに呑み込んでるから。じゃァお頼み申しますよ」
まつ「よろしうございます。お嬢さんお待ちどおさま」
女「どうもあなた誠に失礼いたしました。さようなら」
このまつという仲働《なかばたら》きがなかなか悪い奴で、欲と二人連れで万事受け合って帰りました。
女「ちょっと茂十さんお聞きなすった」
茂「ヤアどうもおれ耳を澄《すま》して聞いていたがいい心持ちで、すんでの事に飛び出そうと思った」
女「何ですよ」
茂「おれァマアこれで心持がサッパリして、頭痛したのもなおっちまった」
女「そうでしょう、じゃァあなた明日の晩ですよ。お湯に入って床屋《とこや》へでも行ってめかしてお出でなさいよ」
茂「ハハハハじゃァ、チョックラ床屋へ行って湯に入ってくるべえ、急に腹がへってきた。鰻飯《うなぎめし》を五ツ六ツあつらえてくれ」
サア湯に入ったり床屋に行ったり、二度も三度も往復をして、真赤になって、
茂「いま帰ってきた」
女「オヤ大層きれいになって来ましたねえ」
茂「イヤどうも顔がピリピリする」
女「マア大変ですねえ」
茂「何でもハア、床屋へ三度行って湯に五度入って糠《ぬか》の大袋くれったら大袋ってねえというから、なるたけ糠《ぬか》をたくさんにして貰って、ゴシゴシ引っこすったけれども、まだどうもきれいになったような心持がしねえ。それから軽石《かるいし》で洗おうと思ったが、痛くっていかねえ」
女「馬鹿な事をするもんじゃァありません。踵《かかと》じゃァあるまいし……。ダガきれいになりましたよ……」
翌日になると嬉しくってたまらない、またお湯に入って髪結床《かみゆいどこ》へ行ってピカピカ頭を光らして、日の暮れるのを待っていると、八ツ時分からチラチラ雪が降り出して、夕刻になると盛んになって参りました。
女「あなた大分雪が降って来ましたね」
茂「雪が降っても何でもかまわねえ、惚れて通えば千里も一里という事がある」
女「そうですねえ」
茂「それとも余り雪が強ければ蓑《みの》でも着て行くべえか」
女「色男が蓑《みの》を着る奴がありますかね。その扮装《なり》ではいけません。シッカリめかしてお出なさい」
女「アラマア大層まるくなって……」
茂「ウム襦袢《じゅばん》三枚着て胴着《どうぎ》を四枚に小袖《こそで》六枚重ねて着た」
女「アラ何ですねえ判《はん》じ物見たような。しかし寒いところを行くんですから沢山着て行った方が風邪をひかないでようございましょう。じゃァこの傘を……。印があると面倒だから無印なのを出しておきました。先方へ行ったらあんまり大きな声を出しちゃァいけませんよ」
茂「大丈夫だ」
女「じゃァ分ってましょうね、新道《しんみち》を曲ってお庭口《にわぐち》の方の三尺の開きをトントン」
茂「アア分った」
女「そんならあなたゆっくり行ってお出でなさい、お楽しみ……」
背中を叩かれて奴さん嬉し喜んで出掛ける。ところがこの茂十よりも一足先に糸屋の裏口を通りかかった男があります。
男「オウ寒い、強く降ってきやがった、この塩梅《あんばい》じゃァ今度はウンと積るだろう。アアしようがねえ下駄《げた》の歯へ雪が挟まってどうも歩きにくい」
ひとり言を言いながら、黒塀《くろべい》の所で、トントントン、下駄の歯の雪を払う途端に、
まつ「ハイ……」
トントントン
まつ「ハイ……」
ギイッと三尺の開戸が開いて
まつ「オヤ大層遅うございましたねえ、雪の降るのによくいらっしゃいましよ」
男「ヘエ」
まつ「お傘をこっちへお出しなさいまし」
男「オヤオヤ何だ、傘を持ってっちまった……ハテナここは糸屋の庭口だ、いま出て来たのは女中だ」
まつ「サア何をしていらっしゃるんで、こっちへ入んなさいましよ」
手を取って引かれるままにズッと中へ入る。ガチャガチャとかけ鍵《がね》を掛けてしまう。こっちは茂十さん、番傘《ばんがさ》を担いで、
茂「アア強い降りだ……。ご免なせえ、トントントントン、ご免なせえ。お約束の色男が参りました。オイ開けてくんなせえ……ハテナ、違ったかな、ここじゃァねえか知らん……。アアここだんベえ。トントントン、ご免なせえモシご免なせえまし」
○「ハイハイ。何でげすかお買物なら明日願います」
女「アアこれは違った。これやァいかねえな……。ここかな…ご免くだせえ、お約束の色男が参りました。」
と、町内中|終夜《よっぴいて》叩いて歩いたが何処《どこ》でも開けない。モウ夜が白んで来て、がっかりして帰ろうと思って来る。ちょうど糸屋の庭口三尺の開戸がギイッと開いて、
まつ「どうも誠にお疎《そ》そう様でございました……」
茂「アアここだ……。これは駄目だ、誰かおれより先へ入った奴があるな、どうも呆れた、誰だなァおれより先へ入ったなァ」
夜は開けてしまう。仕方がないから奴さん、ぼんやり傘を担いで帰って参りました。
茂「アアいま帰って来ました」
女「マア驚きましたねほんとうに、昨夜《ゆうべ》お帰んなさるだろうと思って火をおこして寝衣《ねまき》をあたためて待っていたら昨夜泊まりましたねえ。マアお楽しみ様」
茂「お楽しみどころか、えらいお苦しみだ」
女「オヤどうして」
茂「どうにもこうにも何処を叩いても開けてくんねえ」
女「マアおかしいじゃァありませんか」
茂「町内じゅう叩いて歩いたが駄目だ」
女「いやですよ、夜番《よばん》じゃあるまいし町内じゅう叩いて歩いたってしようがないじゃァありませんか」
茂「ところが開けてくんねえ訳がある」
女「どうしました」
茂「明方になって帰《けえ》ってこようと思って来ると、ちょうど糸屋の庭口へ出た、やっぱり昨夜最初に叩いたところに違えねえ」
女「なるほど」
茂「すると三尺の開戸が開いて、おおきにお疎《そ》そう様だといって女子《おなご》に送り出されてきた奴がある、何でもおらより先へ入った奴に違えねえ」
女「マア呆れましたね。あのまたおまつという仲働きが悪い奴だからね……。シテその出て来た男というのはどんな男でした」
茂「何でもハア色の生白い……。アア内儀さん、今あすこを通るあの野郎だ」
女「マア指差しをおしなさるな……、オヤオヤ、マア驚いた。あいつですか」
茂「ウムあれやァ一体何です」
女「あれはね、もと二長町《にちょうまち》の芝居者《しばいもん》で、ちょっと悪いことがあって騒がれたんですが、いい声でね、お祭り佐七《さしち》という綽名《あだな》のある色男なんですよ」
茂「ナニお祭り……。ウムおれはだしに使われたんだ」
[解説]雪の中をトントンと叩いて歩くというところから、「雪とん」と名づけたものだ。これは戯曲の小糸佐七を人情噺に作りかえ、更にその発端を落語にしたものであろう。お大尽を佐野にしたのは、吉原百人噺の次郎左衛門を連想させ、醜男《ぶおとこ》を表現するためであったと思われる。人情噺のほうでは、お糸から簪《かんざし》を貰った佐七が、糸屋の店先へ、簪を証拠に、強請《ゆすり》に行くというような筋になっている。サゲは間ぬけ落ち。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
明烏《あけがらす》
―――――――――――――――――
世の中に食わず嫌いというお方が幾らもございます。食って嫌いというなら仕方もございませんが、食べないで嫌いというのは少し困ります。
△「どうも牛《ぎゅう》は食べられませんョ、あの足のぶら下っているところを見ると食う気になりませんね」
なぞと言う。
○「中村さん、いま親類から軍鶏《しゃも》をもらった、ちょうど今煮えているんだが食いませんかえ」
中「結構ですな、私はね牛は大嫌いだが軍鶏《しゃも》とくると大好物で、けっこうです、ちょうだい致しましょう、じゃァご免をこうむって箸を突込みますよ……、ウンこれは旨《うま》いね」
○「旨うございますか」
中「好《い》い味ですね」
○「そうかえ、実はお前さんがふだん嫌いだと言ってる牛肉なんだよ」
中「ヘェーこれが牛なんですかえ、これなら好きだ」
それなら早く食べたらよさそうなものです。中にはまた女嫌いという方がございますが、これもチット判らないようで、男と生れて女を嫌う方はない、女と生れて男を嫌う方もございませんようで、それがあるから不思議で、手前どものお客さまで、ややともすると俺は女は嫌いだと仰《おっ》しゃる。ある時お宅へ行ってみますと沢山子供衆がいますから、
芸「旦那さま」
○「何だえ」
芸「お子供衆が沢山おありでげすが皆親類のお子さまですか」
○「うちの子だよ」
芸「さようでございますか、沢山にお貰いになすったので」
○「貰ったんじゃァありません、みんな俺の子だよ」
芸「あなたのお子さま……と仰しゃると、あなたの奥さんの……」
○「そうだ」
芸「ヘェー、あなた何ですな、女は嫌いだとよく仰しゃいましたが……」
○「君の前だがね、女なんぞは見るのも嫌だ」
芸「ヘェーさようでございますかね、女は嫌いだというあなたに子供衆が沢山あるのはおかしな話で」
○「女は嫌いだが女房は好きだ」
じゃァ同じ事ですけれども、こういうのが出まするとお話の材料《たね》になります。
父「かあさんや」
妻「ハイ」
父「ちょっと来なよ、アノネ他じゃァないがね、自分の倅《せがれ》の事だが、よその倅は道楽《どうらく》をするがそれがために親も心配するけれども、また自分の倅はチト堅すぎますね、堅餅《かたもち》の焼ざましみたような奴だ、たまには女郎買《じょろうが》いの一ツもするとか、芸者買《げいしゃが》いでもするかというようならいいのだが……、と言ってまさか親の口から女郎買いをしろとも言い出しかねるが、何しろ一日|一室《ひとま》に入って本ばかり読んでいて、あれでは身体に障るよ、段々顔が青くなってくるような気がするよ、余り家にばかりいると良くないから今用をこしらえて使いに出してやったが、どうもアー堅いのも困るね……オイ婆さん噂をすれば影だ、モー帰って来た……お帰りかえ」
倅「行って参りました」
父「ハイご苦労、何と言ったね」
倅「先方《さき》様でも宜しく申されまして、四五日うちに伺うと仰しゃいました」
父「そうかえご苦労ご苦労、どうだえお湯にでも入ってきたら」
倅「有難うございます、ただ今ちょっと横町を通って参りましたら、お稲荷様の初午《はつうま》でございまして」
父「そうそう今日は初午《はつうま》だね」
倅「参詣《さんけい》をいたしましたらご町内の方が大勢いらっしゃいまして、赤飯《こわめし》にお煮《に》しめを下さいました、幸いお腹が空いておりましたから、赤飯《こわめし》を三人前お代りをいたしまして」
父「オイじょうだん言っちゃァいけないよ、恥しいじゃァないか、稲荷様の祭りで御赤飯《おこわ》のお代りを三人前、よく食えたね、オイ毒だよ」
倅「それからアノ源兵衛《げんべえ》さんと太助《たすけ》さんにお目にかかりまして、これから浅草の観音様の後ろに黒助稲荷《くろすけいなり》とか申すお稲荷様があるそうで、そこへお籠《こも》りに行くがつきあわないかと申されますが行って参って宜しゅうございましょうかしら」
父「ナニ源兵衛《げんべえ》に太助《たすけ》が浅草の観音様の後ろの黒助稲荷《くろすけいなり》へお籠《こも》りをする、黒助稲荷《くろすけいなり》へお籠《こも》り……アーそうか、判りました、阿父《おとっ》さんもよくお籠《こも》りに行ったよ、アノ稲荷様はご利益《りやく》があるね、俺なぞも若い時分には毎日|参詣《おまいり》したものだ、アーそうか行ってきなよ」
倅「ヘエじゃァお籠《こも》りでございますから、小僧に夜具《やぐ》でも背負《しょわ》せまして連れて参りましょう」
父「夜具《やぐ》を……心配しなくってもいいよ、むこうに立派な寝道具《ねどうぐ》もありますよ、相手は誰だっけナ源兵衛《げんべえ》に太助《たすけ》かい、ウーン、スルト中酌《なかつぎ》をするだろう」
倅「ヘエ中酌《なかつぎ》と申しますると……」
父「どこかのお茶屋へ行って一杯飲んで行くのだ」
倅「アーさようでございますか、私はお酒は大嫌いですから、それはよしましょう」
父「それがいけないというのだよ、お前は交際《つきあい》という事を知らないから困るよ、一杯くらいは飲《や》るだろう我慢して飲みな、それから先は嫌だと思ったら飲んだふりをして盃洗《はいせん》へこぼしてしまえ、ソコデ大概、ここが終局《おつもり》と思った時分に裏梯子《うらばしご》から降りて勘定してしまうのだ」
倅「ヘエ私だけ勘定いたしますか」
父「そうじゃァない、三人分するんだよ」
倅「さようでございますか、三人分勘定いたしまして、あとで割前《わりまえ》を取りますので」
父「割前《わりまえ》なぞを取っていけない、アノ人たちはね町内で札付《ふだつき》の悪い連中だ、アノ人たちに勘定されてみろ後がこわいや、そのつもりでな、待ちな待ちな、かあさん出かけると言うから派手な衣服《きもの》を出してやんなよ、ウン帯かえ紺献上《こんげんじょう》が良いだろう、羽織《はおり》かえ、荒い縞の方がいいだろうな、お金も三十円ばかり出してやんなよ」
倅「イエお賽銭《さいせん》ならここに二十銭ございますから」
父「いけませんよ、二十銭や三十銭ではいけません、アノお稲荷様は衣服《きもの》がわるかったり御銭《おあし》が少なかったりするとご利益の無いお稲荷様だ、お賽銭《さいせん》を沢山持って立派に着飾って行く処だよ」
倅「さようでございますか、では行って参りますから」
父「アイヨゆっくり行っておいで」
倅「ヘエ行って参ります」
こちらは太助《たすけ》と源兵衛《げんべえ》、
太「オイ大将《たいしょう》行こうじゃねえか、来やァしねえよ変り者だから」
源「そうでない来るよ、このあいだ親父《おやじ》にあったら、うちの倅は誠に堅すぎて困るからお稲荷様のお籠《こも》りに伴《つ》れて行ってやってくれろとこう言うんだ、どうだえ、粋な親父があるもんじゃァないか、今に来るからお待ちよ」
太「今に来ると言って来ないじゃァないか」
源「ここに立っていたって入費《にゅうひ》がかかる訳じゃァないやね、マアお待ち」
太「あたりまえじゃァないか、往来に立っていて入費《にゅうひ》を取られてたまるものか」
源「そう尖《とんが》るものじゃァないよ、待ってくれろと頼んで行ったじゃァないか、ソラご覧、来た来た」
倅「お待遠さまでございます」
源「たいそう遅かったね」
倅「親父が好い方の衣服《きもの》を着て行けと申しまして、それがために遅くなりました」
源「驚いたネ、阿父《おとう》さんは苦労人だ」
倅「いい塩梅《あんばい》にお天気でございます」
源「いい塩梅ですね」
倅「あなたがたは中酌《なかつぎ》をなさるそうでございますが」
源「恐れ入ったね、どうもご存知でいらっしゃる、そうさね、どこかで一杯やりましょう」
倅「ヘエ、私はお酒は嫌いでございますが、一杯だけ頂戴いたしまして後は何盃《なんばい》でもみな盃洗《はいせん》にあけてしまいますから、それに大概ここが終局《おつもり》と思う時分に、裏梯子を降りまして勘定を三人分致しますから」
源「そんな事は心配しては困りますよ、勘定は私がするから」
倅「それがいけないのでございます。親父《おやじ》がそう申しました、あなた方は町内で札付《ふだつき》の連中だからあなた方に勘定されるとあとが恐いと……」
源「オヤオヤ手放しだよ、オイやりきれねえや、何処かで一杯やろう」
これから途中のお茶屋へ参りまして一杯傾けまして、時間が早いからと言うのでブラブラ歩きで土手八丁から見返り柳、大門《おおもん》を入ると、両側はチリカラタッポの大陽気《おおようき》でございます。
源「若旦那ここだよ、どうだい立派なものでげしょう」
若「ヘエどうも大層なところでございますね」
源「お宮がこう沢山並んでおりますが、どうですえ」
若「ヘエ、みな通る方はお籠《こも》りをなさるのでございますか」
源「それはお籠《こも》りをなさる方もあるし、ちょっとご参詣《さんけい》なすって直《じき》にお帰りなさる方もあるので」
若「さようでございますか」
源「何を考えているんだよ」
太「変り者が見えないじゃァないか」
源「放尿《おしっこ》に行ったよ」
太「この間に先へお茶屋へ行って狂言《きょうげん》をうまく書いて来なよ、だしぬけに行くと露見《ろけん》するといけねえや」
源「よし心得た、一件者《けんもの》を逃してはいけねえや」
太「あとは大丈夫だ」
源「阿母《おっか》ァ今晩は」
内「いらっしゃいましどうも暫らくでしたね、お敷物を持っておいで、サァどうぞこちらへ、ほんとうにあなたはひどいよ、先だっても今夜ぜひ来るッてあれッきりでしょう、たまには来ておやんなさい、罪ですョ、知ってますわよ、大層あなたこの節|新橋《しんばし》へ凝《こ》っているッて、イイエ聞きましたョ、華魁《おいらん》が馬鹿な惚れ方をしていますよ、全くさ、あの妓《こ》がからかわれると真赤な顔をしているンですよ」
源「ところで阿母《おっか》ァ耳を貸しねえ」
内「ハイ、ハア、ハイハイハア」
源「まるで馬を追っているようだな、判ったかい」
内「イイエ、ちっとも聞こえません」
源「冗談じゃァない、この人は」
内「実はね、のぼせの加減でまるでこっちは聞えないの」
源「聞える方を出しねえ」
内「だけれどもどうせ貸すんなら悪い方を貸そうと思って」
源「じょうだんじゃァ叶わないよ……こういう訳だ」
内「ハイこっちは聞えますよ、ハアオヤ廿歳《はたち》になって御女郎買《おじょろうが》いをした事がないので、嘘でしょう、ほんとう……ただでは来ないからお稲荷様へお籠《こも》りのつもりで。マアおかしいわね、ヘエー私のところが御神子《おみこ》の宿、アラ御神子《おみこ》の宿はおかしいじゃァありませんか、今日は総初会《そうしょかい》だッて、マア今どきの方には珍しい事ね、アラマアそう」
源「いいかえ頼むよ……サア若旦那こっちへお出《いで》なさい」
若「ご免くださいまし、今日は初めてお目にかかります、手前は本所割下水《ほんじょわりげすい》におりまする春日屋《かすがや》の時次郎《ときじろう》と申すものでございます。今日は三名でお籠《こも》りに参りました、どうぞマアお見知りおかれましてお心安く願いたいものでございます」
内「今晩はよくいらっしゃいました事、まだチトお寒いようでございますが、ハァさようでございますねどうも恐れ入りました、どうぞお手をおあげ下さいな、恐れ入ります、ハイ今晩はさようでございますとも、どうも恐れ入ります」
源「オイ若旦那、いつまでお辞儀をしているンだね、サア阿母《おっか》ァ頼むヨ、今の訳だから大急ぎで」
内「ハアそうでございますか、どうぞ若旦那お二階へ」
と言うのでこれから二階へ上がりまする。お敷物に煙草盆《たばこぼん》お茶が出ようという趣向《しゅこう》、そうこうするうちに置提灯《はこちょうちん》で大見世《おおみせ》へ繰込もうと言うので、吉原《よしはら》で大見世《おおみせ》とくると角海老《かどえび》、稲本《いなもと》、大文字《だいもんじ》、品川楼《しながわろう》、幅の広い梯子を登る、廊下はズッと見通されないほど広いという、頭髪《つむり》は兵庫《ひょうご》でズッとうちかけを羽折って厚い草履《ぞうり》を穿いて歩いているのでございます。どんな始めてのお方でも女郎屋というものは判る。
若「もし源兵衛さん」
源「肝をつぶした、何と言う声を出すのだ」
若「私はどうも容子《ようす》が変だと思っていましたが、ココは女郎屋でございますね」
源「何だえ大きな声を出して、みっともねえやな、女郎屋だよ」
若「どうもあなた方はけしからぬ方ですな、お稲荷様のお籠《こも》りに行くと私を欺《たば》かって女郎屋へ連れて来るなんて、実にあなた方はけしからぬ方ですよ、私は帰ります」
源「オイオイ泣いちゃァいけねえや、それはねお前さんを欺《だま》してはすまないけれども、これには仔細《しさい》がある、お前さんにお話し申せば腹の立てぬ事があるのだ、帰ると言うなら帰ってもいいけれども、ここの楼《うち》も忌儀渡世《えんぎとせい》、あがって直に帰ると言う訳にはいかねえ、一杯飲んでお引けとなって三時間も過ぎたら帰りましょう、それまでつきあっておくんなさい、一緒に帰りますから」
若「いやでございます、女郎買いは大嫌いです、女郎を買うと梅毒《かさ》をかきます」
源「オヤオヤ、どうにかしてくんねえよ、笑っていねえで、女郎を買うと梅毒《かさ》をかくとよ、オイやり切れねえや」
太「お前は人が好いからいけねえ、若旦那に吉原の規則をお話し申したらいいだろう、遠慮はねえやな、ねえ若旦那お前さん帰る帰ると言うが吉原は入ったら帰れない処ですぜ、私たちが三人づれで来てお前さんが一人で帰ると怪しまれる、大門《おおもん》に番人がいてそいつがチャンと帳面につけてあるので、今夜はどういう扮装《なり》の者が幾人《いくたり》入っている、と、チャンと書いてある。そこへお前さんが一人で帰ってご覧なさい、こやつ迂散《うさん》臭い奴だととっ捕まって棒縛りになりますよ、さっき大門に一人縛られていた者があったが気がつきませんかえ、棒縛りになってもよければお帰んなさい」
若「どうもとんでもない処で」
源「とんでもない処でも、そういう規則なんだから仕方がございせん」
若「それでもあなた方二人で大門のそばまで送って行っておくんなさい」
太「嫌だよ、だから三時間か四時間もつきあえたら一緒に帰ると言っているじゃァございませんか、お前さんのように因業《いんごう》の事を言うなら一人でお帰りなさい……」
若「ヘエ待っています、仕方がございませんから待っていましょう、あなた方はお酒を召しあがっていますが、お猪口《ちょこ》で飲んでいますと誠に暇がかかりますから丼で一度にグット飲んで下さいまし」
太「丼で酒を飲めとよ、ウン火事場だネ、どうもこう急がれては酒を飲んでも身にも皮にもなりゃァしねえ、オイ向うをむいて若旦那泣いている、女郎買いじゃァねえ、まるでお通夜《つや》だな、オイ何とかしてくんねえな、困るじゃァねえか」
女「サァ若旦那あっちへいらっしゃいまし、あなたがそこにいらっしゃるとお二人がワザと永くお酒を飲んでいらっしゃいますからあっちへお出遊ばせ、お床がとってございます。華魁《おいらん》が待っていますから、サァあっちへいらっしゃい」
若「イエモウここで沢山でございます、お構いなく私はこちらが勝手でございます、モー直に帰りますから決してお構いなく、私はこっちがいいので、なにをするンで、あなた手を引っ張ってどうするので、もし源兵衛《げんべえ》さん太助《たすけ》さん」
大変な騒ぎです。ソコは餅屋《もちや》は餅屋でどこをどう捏《こね》ッ返しをつけましたか華魁《おいらん》の部屋へ連れて行ってしまいました。あとはもう邪魔がいなくなったので飲めよ謡えの大陽気、そうこうする内にお引《ひけ》になる。烏がカアで夜が明けまする。女郎買いふられた奴が起こし番とはよく言ったものです、ふられた方が先へ起きるようで……、揚子《ようじ》を口にくわえて好きな事を言っております。
源「おはよう、驚いたネ昨夜は、とんでもない者を引っ張って来たネ、どうしたい一件者《けんもの》は帰ってしまったろう」
太「まだいるとよ」
源「ヘエーいるのかい、馬鹿にしていやァがらァ、何だえ、とうに帰《けえ》ったと思ったが、俺の相方《あいかた》は遅く来やァがってグウグウ寝てしまったが驚いた」
太「俺は昨夜は弱った」
源「どうして」
太「馬鹿なもて方で、抓《つね》る引っかく食い付くね」
源「なぐるぜ、何しろ変り者が寝ているというのはおかしいじゃァないか」
太「どういう容子だか行ってみよう」
源「ココダココダおはよう、返事が無いぜドッコイショと、おや屏風《びょうぶ》を立てまわしてある」
太「遠慮はねえや、屏風《びょうぶ》をどけな」
源「オイ若旦那どうしましたえ……エ、赤い顔をして布団をかぶってしまったぜ、どうですお籠《こも》りは」
若「結構でございます、モー一晩お籠《こも》りをいたしましょう」
太「オヤオヤ薬がきき過ぎるな、何しろ若旦那カンカン日があたって大門を出るのはきまりが悪いから、今のうちに茶屋へ引退《ひきさが》って一ッ風呂《ぷろ》を浴びて一杯やって腹をこしらえてかえりましょう」
花魁「若旦那お起きなさいよ、皆さんがお迎えにお出なすったから今日はこれでお帰んなすってまたいらっしゃいよ」
太「若旦那|華魁《おいらん》が帰れと言うじゃァございませんか、サァお帰りなさい」
若「ヘェ華魁《おいらん》は口でばっかり帰れと言いますが心は帰したくないので。ギューッと足で押えています」
太「じょうだんじゃァないぜ、帰らなければ私たちは先へ帰りますから、どうしても今日は帰らなければならない用があるんで」
若「あなた方が帰るなら帰ってご覧なさい、大門で棒縛りにあいます」
[解説]人情噺《にんじょうばなし》「明烏後真夢《あけがらすのちのまさゆめ》」の発端である。噺の中のクスグリをサゲにして、一席の落語にしてあるが、人情噺の発端を落語にしたものは、この外にも「船徳」「成田小僧」などいろいろある。サゲは逆さ落ち。桂文楽師の十八番である。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
清正公酒屋《せいしょうこうざかや》
―――――――――――――――――
宗旨《しゅうし》宗旨ということをよく申しますが、下戸《げこ》は下戸、上戸《じょうご》は上戸で、自分勝手の理屈をつけまして、酒は憂いを払う玉箒《たまぼうき》、飲むべし、飲まるべからず。一杯飲むと気が大きくなって苦労を忘れる。第一男は酒飲みでなくちゃァいけない。男のくせに汁粉屋《しるこや》の暖簾《のれん》を潜《くぐ》って出て来る奴の気が知れないなどと、上戸は下戸のことを大変に悪く言いますが、また下戸に言わせれば、酒なんという物をガブガブ飲む奴の気が知れない。酔っ払うと身分を忘れてしまって、往来中へ打倒《ぶったお》れて犬と接吻《キッス》したり何かしている。実に酒てえものは嫌なものだ。上戸のことを悪く言う。しかしこのお酒というものは誠に交際の広くなるもので、ちょっとお料理屋か何かで飲んでいると隣の人がぼんやり膳《ぜん》の来るのを待っているのに、
甲「チョイトあなた、お待ちどおでしょうから一つ差し上げましょう」
などというので、お酒のために心易くなる。そのうちにお互いに酔っ払ってしまって、
甲「何だか、このままお別れをするのも物足りないような心持がしますが、どうでしょう、寄席《よせ》へでもおつきあい下さいませんか」
なんて寄席へ出掛け、面白い思いをして、
甲「どうもとんだ失礼を致しました。またその内に、さようなら」
乙「どうも失礼、ご免なさい」
知らない人同士がまるで親類のような交際《つきあい》をして別れる。これが即ちお酒の徳でございます。そこへ行くと下戸の方はそう往きません。汁粉屋《しるこや》へ参りまして隣の人が注文をした物がまだ来ないで煙草《たばこ》をすっている。
△「モシあなたお待ちどおさまでしょう。この家は餅《もち》も好し、餡《あん》も好いのを使いますから大層繁昌《はんじょう》を致します。私もこちらへ来るたびに寄りますが、どうしても繁昌するから待たされます。あなたもだいぶ先刻《さっき》から待っておいでのようですが、いかがでございます。一つ手前のを召し上っては」
と箸へ牡丹餅《ぼたんもち》を挟んで出すという訳にはゆきません。またお酒の方はどんな粗そうをしても、酒の上だといって、人が勘弁してくれます。
×「どうも昨日は相すみませんでございました、久しぶりで友だちが来たもんだから、一杯飲み始めた奴が段々と長くなって、家じゃァ面白くないというんで、表へ飛び出して、あっちこっち飲んで歩き、グデングデンに酔っ払ってしまったもんだから、お宅へ来てとんだ粗そうをしました。どうも内儀《おかみ》さんえらいご迷惑をかけまして相済みません。酒の上ですから、どうかご勘弁を願います」
上戸の方はそれで済んでしまいますが、下戸の方はそうゆきません。
△「どうも昨晩は相済みません。友だちが来やァがったもんだから一つ餅でも焼こうじゃァねえかというんで、安倍川《あべかわ》をこしらえて、八つ餅を食って、どうだい汁粉を一杯食ってみようじゃァねえかというんで、表へ飛び出して汁粉屋へ入り、御膳汁粉を食って善哉《ぜんざい》を食ってお萩《はぎ》を食ったんで、それがために、こちらへ飛び込んで、小間物店《こまものや》を開いちまったような訳なんで……どうか餅の上だからご勘弁を願います」
これじゃァ人が許しません。この辺は上戸の方が徳で、よく上戸と下戸は仲が悪いというが、これはどうしても話が合わないから、仲が悪くなります。またお宗旨《しゅうし》がそうでございます。法華《ほっけ》は門徒《もんと》を大層悪くいう。門徒はまた法華を悪くいう。これはどうも何によらず、その反対に立つ者を悪くいうのが人情で、天下を治める政治家でもそうでございます。
父「清七《せいしち》や、誰もいないか」
清「ヘエ」
父「そこを開けて中へお入り、後をピッシャリと閉めておきなよ。少しお前に人のいない処でゆっくり話をしてまた聞きたい事があるんだが、今は幸い誰もいないからちょうどよい。そこへお座り」
清「阿父《とう》さん、ご用というのは何でございます」
父「イヤ外じゃァないが、私のいう事をウンと言ってくれればよし、思い切れないといえば仕方がない、阿父《とう》さんには阿父さんだけの考えがあるが、どうだ、ウンと言って、思い切ってくれるか」
清「ヘエ、阿父さん、あなたの仰《おっ》しゃる事は何が何だかサッパリ私には分りません。思い切らなければ了簡《りょうけん》があると仰しゃいますが、別に私は何も夢中になっている事はございません。ヘエ、商売物でもお酒ときたら利酒《ききざけ》一つした事はございませんし、博奕《ばくち》などは振返って見た事もございません。どんな事を阿父さんが思い切れと仰しゃるんですか、サッパリ私にはわかりませんが、いったい阿父さん何の事でございます」
父「何を思い切れというのかッて、それは言わねえでも、お前に覚えがあるだろう。自分の腹に聞いてみたら分るだろう」
清「ヘェ、自分の腹に聞くと申しますと、やはり何でございますか。お臍《へそ》のところへ耳を押し付けまして…」
父「馬鹿ッ、親を馬鹿にするな。腹に聞いてみるというのは自分の腹にある事を考えてみろというのだ。臍に口を押し付けて話をしたって臍が返事をするものか。胸へ手を当て、よく自分のしている事を考えてみたら分るだろう」
清「誠にどうも阿父さん相済みませんが、私は阿父さんのように道楽をした人間でございませんからそう遠廻しに仰しゃられちゃァ、私には判断をしかねます。どうか仰しゃる事がありましたら打ち開けて言って戴きとうございますが、いかがなもので」
父「ウム、ぶっつけて言って聞かせろって、よし、それではぶっつけて言って聞かせよう。モッと前へ進みなさい。このごろ向うの饅頭屋の娘のおなかとお前は好い仲になっているだろう。俺は知るまいと思ってるかどうか知らないが、とうに耳に入っている。どうだ覚えはないか、饅頭屋の娘のおなかと……」
清「これやァどうも阿父《おとっ》さん驚きましたな。ヘヘッさようでございますか。阿父さんがまさかにご存知はなかろうと思っておりました。なるほどこれァ驚きました。誰がそんな事を阿父さんのお耳に入れたか知りませんが、どうも面目次第もございません。じゃァこうしましょう。何か阿父さんに今晩|奢《おご》りましょう」
父「コレコレ、何だ、どこの国に親が倅を取り巻いて奢《おご》らせる奴があるものか。誰が色女を拵えたから奢れと言ったよ、馬鹿め、どうか向うのおなかの事ばかりは思い切ってくれろと俺が頼むんだ。サッパリと思い切んなさい」
清「それはどうも阿父さん困りましたな。私と向うのおなかとの仲は一通りや、二通りの仲じゃァないんで、骨がなけりゃァ一つになりたい、生れた時は別々でも、死ぬ時には一緒に死のうと、固く約束をした間柄なんでございます。あなたが思い切れと仰しゃっても、とても思い切る事は出来ません」
父「馬鹿野郎、黙っていればいい気になって、親父の前で手放しでのろ気ていやがる。たとい当人同士でどんな約束をしたにしろ、親が不承知だから思い切れというのだ、外の者ならば兎も角も、おなかとばかりはどうしても一緒にする事は出来ない」
清「これは阿父さん。変な事は仰しゃいますな。外の者なら兎も角も、おなかばかりはいけないというのはどういう訳でございます。これが世間のあばずれ娘だとか売女《ばいじょ》とかいうのなら兎も角もおなかは評判の娘でございます。女の道ひと通りはもとより茶の湯、活花《いけばな》、盆画盆石《ぼんがぼんせき》、歌俳諧《うたはいかい》出来ない事は一つだってない。この十丁|界隈《かいわい》にあの位の娘はないという位の評判で今小町《いまこまち》だの虎屋《とらや》の小町だとか言われる位のけっこうな娘が、自分の倅に惚れてくれたんだからあなたが喜んでくださらなけりゃならない筈だのに、阿父さんが先へ立って岡焼半分《おかやきはんぶん》よさせようなんて……」
父「コレコレ馬鹿、口が横に裂けていると思って勝手な事を言いやァがる。岡焼半分《おかやきはんぶん》とは何だ。誰が倅が女を拵えたからって焼く奴があるものか。おなかという女が親の気に入らないから思い切れとこういうんだ」
清「それでは阿父さんは、あのおなかという娘が気に入らないんですか」
父「家も気に入らなければ、娘も気に入らない」
清「アア、それじゃァ何でございますか、家の稼業が酒屋で、向うの稼業が饅頭屋、商売が気に入らないから止せとこういうのでございますか」
父「馬鹿な事を言いなさい。そんな気の小さい事をいうのじゃァない」
清「それじゃァ何でございますか、むこうが一向宗《いっこうしゅう》で家が法華《ほっけ》だから、それで気に入らないと仰しゃるんですか」
父「じょう談言っちゃァいけないよ。一向宗だから、嫁に貰わないの、法華だから婿にやらないという、そんな世間の狭いことは言いません」
清「それでなけりゃァ阿父さん、何も差し支えないじゃァありませんか。いいじゃァございませんか」
父「何だ、いいじゃァございませんかとは、よくないからそう言ってるんだ。考えてみなさい、家と饅頭屋とは向う前でありながら、大の不仲だ。よく世間には、主人同士は喧嘩していても奉公人同士は口を利いているなどというのは、幾らもあるけれども、家は奉公人同士まで仲が悪くって、朝晩顔を合せても挨拶もしなければ往来で遭えば顔をそむけるというほどだ。そのくらい仲の悪い饅頭屋の娘と、幾らお前がいい仲になったからと言って、嫁にする事は出来ないから、それで諦めてしまえというんだ。どうだ判ったか」
清「ヘェさようでございますか。全体何で阿父さんはそんなに饅頭屋と仲が悪くなったので」
父「オヤ、お前は知らなかったのかえ」
清「ヘェ存じません」
父「知らないというならいって聞かせよう。みな清七お前のためだ」
清「ヘェー、はじめて承《うけたま》わりました。私のために」
父「アアそうだよ。お前のためだとも、まだお前が五つの時だ。小僧に背負《おぶさ》って、表で遊んでいたが、やがて火のつくように泣いて帰って来た。どうしたのだと聞くと、小僧のいうには、どういう訳だか存じませんが、坊ちゃんが饅頭屋の虎のついた看板を見ると、火のつくように泣き出しましたとこういうんだ。馬鹿な事を言え、はじめて見た看板じゃァなし、生れて以来五年のあいだ見続けている虎の看板、何を今日に限ってそれを見て泣くという訳がねえ。何か外に物驚きでもする事があったろうと言って、いろいろ宥《なだ》めたがどうしても、泣き止まない。考えてみるのに虫が起こっているから虎のついている看板がいつになく恐ろしく感じたのかもしれない。子が可愛いから饅頭屋へ出掛けて行って、藤兵衛《とうべえ》さん、外ではございませんが、私どもの倅がコレコレで、おおかた虫のせいでございましょう。誠に勝手な事を申してすみませんが、お宅にも子供衆がある事だからどうか、可哀相だと思召《おぼしめ》したら、四五日虎の看板を引込まして置いて下さいませんかと、頼むと、藤兵衛が、それやァ清兵衛さん、せっかくですがお断り申します。私どもの先祖が虎屋出雲大椽《とらやいずものだいじょう》と申しまして、その先祖から代々譲られております看板でございます。その看板を掲げていればこそ、店が繁昌しております。たとい五日でもその看板を引込ませて、店が寂《さび》れるような事がありましたら、先祖へ対して申し訳がございませんから、お気の毒様だが、引込ませる訳にいきませんという色気のない挨拶。二の句が継げないところだが、子供が可愛いから、さようでもございましょうが、長いことは申しません。ちょっと子供を連れて来て、もう怖い物はないぞといって見せる間だけ看板を外して戴きたいと言って頼むと、煙草《たばこ》の煙を輪に吹いていた藤兵衛が、オイオイ清兵衛さん、お前さんは理屈の分らない人だね。私も男ですからね。いったん男が歯から外へ出してしゃべってしまった事は後へ引く事は出来ない。何百遍お前さんが頼もうとも引く事は出来ないとケンもホロロの挨拶、売言葉《うりことば》に買言葉《かいことば》だから、そう言われるとこっちも黙っていない。それじゃァお頼み申しません。その代りこの後お宅とは何事があってもお交際《つきあい》はしませんからと言って、畳を蹴立って饅頭屋を飛び出し、家へ帰って来ると、お前は火のつくように泣いている。女房でもいてくれればいいが死んでしまって男の手一つホトホト困り果ててしまい、どうかして泣き止ませたい。このうえは神様のお力を借りるより外しようがない。虎を負かすのだから清正公様《せいしょうこうさま》がよかろうと、それから清正公様を一心不乱に拝んでいると、不思議にもお前がピッタリ泣き止んで、私の顔を見てニコニコ笑っている。アアありがたい、これは全く清正公様のご利益だと思うから、すぐに浜町へ人をやり、肥後《ひご》の熊本へもはるばる代参を立てるという始末。ソコデ清正公様のお木像をこしらえさせて、店の帳場格子《ちょうばごうし》の脇へ飾って置くと、酒を買いに来たお客が、嘘か実《まこと》か知らないが、いろいろ噂をする。俺が酒を買いに行ったら清正公様がゲラゲラ笑った。俺が行った時もニコニコと笑ったと、一人二人噂をしたのが、たちまち評判になって、清正公様が見たいために、わざわざ二軒も三軒も外の酒屋の前を通り越して、家へ買いに来て下さる、いつか清正公酒屋という綽名《あだな》を付けられて、繁昌をするようになった。ところがその翌年のことだ。前の饅頭屋の娘のおなかがお前と一つ違いで、その時ちょうど五つだ。乳母に背負って家の表のところへ来て遊んでいたが、やがての事に、因縁《いんねん》というものは不思議なものだ。清正公様のお木像を見ると火のつくように泣き出した。帳場格子の内から俺が見て、いい気味だと思っていると、藤兵衛が顔色を変えてやって来て、さて清兵衛さん、昨年は私どもに子供がありながら、因業《いんごう》な事を申してすみませんでした。はなはだ勝手を申すようでございますが、ただ今家のおなかがお宅の清正公様を見て帰って来て、火のつくように泣いております。誠に相済みませんが暫らくのあいだ清正公様を引込ませて置いて下さいましと言って藤兵衛が頼んだ。アアさようでございますか、お宅のお嬢さんが、宅の清正公様のお木像を見て泣き出したというのはお気の毒でございますから、早速引込まして上げましょうとこう申し上げたらあなたの方はご都合がよかろうが、私どもの清正公様は先祖から譲られましたもので、あのお木像があるために店が繁昌をしております。今あのお木像を僅かの間でも引込ませて、店が寂れるような事があっては、先祖へ対して申し訳がございませんから、誠にお気の毒でございますが、お断り申しますと、先に先方が言った通り言返してやると、藤兵衛も子供が可愛いとみえて、どうか清兵衛さん、そう言わないで私どもの虎の看板も片付けますからお宅の清正公様の看板を片付けて頂きとうございますと、こういうんだ。それから私が、藤兵衛どん、何もお宅の虎の看板を片付けるには及びません。そう言えばどうやらお前さんの顔も虎に似てきた、ついでの事に四ン這いになって、首を振って座敷を這って歩いたらようござんしょうと言ってやると、藤兵衛がたいそう怒って、そんなら頼みません。その代わり以後どんな事があっても、お前さんとは交際《つきあい》をしませんよと言って、畳を蹴立って帰ってしまった。それからというものは向かい合っていながら口を利いた事もない。マアそんなに睨み合っていないで、仲を好くした方がいい、仲裁をしようと言ってくれた人もあったが、お互いに頑固を言ってこれまでとうとう仲直りをしなかった。それだから今お前が向うのおなかと妙な仲になったからと言って、今さら娘と倅がこういう事になりましたから、どうか仲裁をして下さいと世間の人に頼めるか頼めないか、よく考えてみろ。頭を禿らかした男がいったん歯から外へ出した事を引込ます事は出来ない。それだから世間に女がないではなし、あのおなかの事だけは思い切ってしまえとこういうのだ。この理屈が分らないお前でもなかろう」
清「アアなるほど、さようでございますかよく分りました。けれどもそれは何でございますな、私がまだ幼《ちい》さい時分のことで」
父「そうだ。お前がまだ五つの時の話だ」
清「阿父さん、それやァ私も幼さかったから虎を見て泣いたんでございましょうが、モウ今は泣きませんよ」
父「馬鹿ッ、そんな大きな図体《ずうたい》をして看板の虎を見て泣かれてたまるものか。思い切んなさい」
清「けれども阿父さんの前でございますが、私が幼さい時に、お前の家の虎の看板を見て泣いた。お前が私の家の清正公様のお木像を見て泣いて、それから親と親が仲が悪くなって、とても夫婦になれそうもないから、お前の事は思い切るなんてえ事は、私には言えません、どうしても思い切れません」
父「なに思い切れない」
清「ヘェ、いけません。モウこれがギリギリ決着でございます」
父「何を言いやがるんだ。夜店の商いじゃァあるめえし、ギリギリ決着という事があるか。思い切れ、思い切らないと了簡《りょうけん》があるぞ」
清「ヘェー、阿父さんどういう了簡がございます」
父「思い切れなければ仕方がない。親のいう事をきかないような倅は、見込みがないから勘当する」
清「阿父さんあなたは私をご勘当なさると仰しゃいますが、子といったら私一人きりでございますよ」
父「たとい一人が半人でも気に入らない倅は仕方がない。勘当する」
清「それじゃァ阿父さん伺いますが、あなた鬼子母神様《きしもじんさま》をご存知でございますか」
父「知ってるとも」
清「それでは鬼子母神様には、どういう訳で柘榴《ざくろ》の実をあげるのだかご存知でございますか」
父「そんな事は宗旨でないから知らない」
清「ご存知なければ私がお話を致しましょう。鬼子母神様には千人の子があったそうで、その子供を大層可愛がって、よその子供を取っては殺し、その肉を自分の子供に食べさせる。それがためにどのくらい世間の親が嘆くか知れない。そこでお釈迦様が千人の内十人の子供を隠してしまった。鬼子母神様は大層驚き、狂人《きちがい》のようになってあっちこっちを探して歩くが知れない。その時にお釈迦様が子供を出して、お前は千人もある子供のうちから十人ばかり隠されてもそんなに心配をするじゃァないか。世間の親は沢山ない子を、お前のために取られてどのくらい嘆くか知れない。親の心持は誰でも同じ事だから、以来決してそんな事をしてはならないと意見をしたので、それ以来鬼子母神様は人の子を取らなくなったという。そこで人間の肉の味によく似ているという、柘榴の実をあげるんだそうでございます。千人もある子供の中から十人ばかり隠されても、狂人のようになるのが親の心持だというのに、たった一人しきゃない倅をささいの事から勘当をするという、理屈がありますか」
父「どっちが叱言《こごと》を言われているのだか判らない。兎に角親の気に入らないから勘当をする」
清「じゃァいよいよ勘当という事になりますか」
父「何だ勘当という事になりますかとは」
清「ややともするとあなたは勘当をする、勘当をすると仰しゃいますが、今までご勘当をなさった事は一度もございません。面倒ですから今度は私の方から勘当を致します」
父「倅が親を勘当する奴があるか」
清「それじゃァご免下さいまし」
父「オイオイ、お前どこへ行くんだ」
清「ようございます。私は勘当を致します」
父「ふざけた事を言え、マア待てよ、待ちなよと言ったら、勘当をするからと言ったって、そう早く出て行かないでもいい」
何しろ打捨《うっちゃ》っておいてはよくないというので親類相談の上、分家へ預ける事に致しました。すると饅頭屋の方でも同じように酒屋の清七と乳繰り合っているから、打捨っておいてはよくないというので、芝《しば》のお母さんの実家《さと》へ預けました。若旦那の方は男ですから……もっとも若旦那に女はないが……。一人で預けられました。おなかさんの方は女中がついて来ております。
女「ねえお嬢さん、若旦那はどうなすったんでございましょうね。ちっともお便りがございませんのねえ。お手紙をお届けなすったらいかがでございます。私がお届け申します」
なか「それじゃァ書きましょう」
と、それからおなかさんが思いの丈《たけ》を書いて女中に渡す。女中から酒屋の小僧に頼む。その小僧が若旦那のところへ機嫌聞きに往くふりをして持って行って、ソッと渡す。清七おおきに喜んで披《ひら》いてみると、連れて逃げてくれという文、すぐにも飛び出そうとは思ったが、月夜では工合が悪い。暗《やみ》の晩におなかさんを連れ出して、いっそ何処かで心中をしようというので、暗になるのを指折り数えて待っておりました。この心中場はお芝居でやると誠によろしゅうございます。木頭《きがしら》で幕が開くと、お約束の迷子ヤーイという奴で、五六人出て来て、舞台の真中で手紙を拾います。何だか知らないが、事によったら手掛かりになるかもしれない。一つ読んでみよう、読み上げると、芝居の浄瑠璃《じょうるり》触れ、
○「こんな物を読んでいてはしようがない。サアサア早く参りましょう。迷子ヤーイ」
とこれが引込んでしまう。また木の頭で釣幕が落ちると背景が海岸でございます。清元《きよもと》延寿太夫《えんじゅだゆう》か何かが山台出語《やまだいでがた》りで置浄瑠璃《おきじょうるり》がある。ここへ出て来るのがおなか、花道の七三《しちさん》のところまで来て石につまずいて倒れる。処へ後からバタバタと駈けて来るのが清七、おなかさんをポーンと飛び越して上手へ行ってクルリと廻ってそこへヌーツと立っている。おなかさんが起き上って清七の腰へ手を掛けて、これから互いの科白《せりふ》になる。(いにしえの都の月に照されて、心を直《すぐ》な竹柴の、向うに見ゆる白魚の、かがりを当てに二人連れ、姿を隠す袖ヶ浦)とくるといやに色ッぽくなります。
清「おなかさん、道々私も考えてきたが、私は阿父さん一人で、男の事だから思い切りもいいが、お前の阿父さんは思い切っても、阿母さんは女の事だから、思い出しては泣き、考えては泣き、それがためにもし阿母さんの身に間違いでもあったら、それこそお前が不孝の上に不孝を重ねるようなもの、私は一人で死にますから、お前さんは生きながらえて、三度に一度思い出したら線香の一本も手向《たむ》けて下さい」
なか「それは清七さん、今になってあんまりでございます。あれほど堅い約束をして、生れた時は別々でも死ぬ時には一緒に死のうと言った仲」
清「それじゃァやっぱり一緒に死にましょう」
なか「そういうことにして下さいまし」
清「そんならおなかさん、覚悟はよいか」
なか「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》」
清「南無妙法蓮華経《なむみょうほうれんげきょう》」
なか「オヤ清七さん、可笑しうございますね」
清「だって私どもは清正公様が信仰だから、南無妙法蓮華経と言うので、お前さんだって私のところの嫁になれば、やっぱり南無妙法蓮華経と言わなければなりません」
なか「アアそうですねえ。じゃァ私も南無妙法蓮華経と言いましょう」
清「それじゃァモウ一遍初めからヤリ直しましょう。おなかさん、覚悟はよいか」
なか「南無妙法蓮華経」
清「旨い旨い、妙法蓮華経」
なか「南無妙法蓮華経」
清「妙法蓮華経」
なか「南無妙法蓮華経」
清「妙法蓮華経……おなかさん、おなかさん、どうもこれはいけませんね。法華ではなかなか死ねません。何だかお前さんの頭をポカポカ叩きたくなる」
なか「やっぱり死ぬのは南無阿弥陀仏に限ります」
清「それじゃァ死ぬだけ、南無阿弥陀仏ときめて、モウ一遍やり直しましょう。覚悟はいいか」
なか「南無阿弥陀仏」
清「南無阿弥陀仏」
二人が一緒に飛び込もうとすると、おなかだけは飛び込んだが清七の方は、
△「コレ待て、清七はやまるな」
と押えられた。清七は、
清「どなただか存じませんが、私は死なねばならぬものでございますから、どうぞお放しなすって下さいまし」
△「コレ清七、我は清正公大神祇《せいしょうこうだいじんぎ》なるぞ」
清「アア清正公様でございますか、有難う存じます。南無妙法蓮華経、妙法蓮華経、ただいま向うの饅頭屋のおなかさんが飛び込みましたが、どうぞお助けなすって下さいまし」
神「イヤ汝は助けてつかわすが、なかは助ける訳には相成らん」
清「それでも法華になって、お題目を唱えたらよいではありませんか」
神「イヤ、俺の敵の饅頭屋の娘だ」
[解説]加藤肥後守清正《かとうひごのかみきよまさ》は、その存在を恐れはばかった徳川方のため、毒饅頭を食わされ、病を得てついに病死したと伝えられるので、このサゲが出来たのであろうが、清正と虎、酒と甘味、法華と念仏、こしらえ過ぎてはあるが、対立の妙はあって面白い、サゲはぶッつけ落ち。桂文治師の得意物だった。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
庖丁《ほうちょう》
―――――――――――――――――
虎「おおそこへ行くなァ久次《きゅうじ》じゃァねえか」
久「やァ誰かと思ったら虎か」
虎「どうも久しく会わねえ、豪気《ごうき》とめかしてるじゃァねえか」
久「うむ、人間は妙なもので、あの時どこへも行き所のなかった俺だが、この先の清元《きよもと》の師匠《ししょう》の家へ出|入《はい》ってるうちに、師匠と妙な仲になったと思いねえ」
虎「いやだぜ冗談じゃァねえ、久しぶりで会って立談《たちばなし》で惚言《のろけ》を聞かされちゃァ世話ァねえ、何か奢《おご》んねえな」
久「うむちょうどいい、鰻屋へでも行こうじゃァねえか」
虎「そいつァ有難え、もう俺はこの節どうする事も出来ねえ」
久「まァまァ溢《こぼ》しなさんな……おおご免よ」
女「いらっしゃいまし」
久「どこか静かな座敷へ通してくんねえ」
女「こちらへいらしって下さいまし」
久「姐《ねえ》さん、あの細けえとこを焼いて酒を早く持って来てくれ」
女「かしこまりました」
久「いやどうも久しぶりだったなァどうした、あれから」
虎「うむ、お前《めえ》に別れてから横須賀の方へしばらく行って、先々月こっちへ帰って来て、お前の居所を探していたんだ」
久「そうか、いま言う通り俺はあれから清元の師匠のとこへずるずるべッたり這入《はい》り込んで、まァ亭主同様になってるんだ」
虎「うまくやってるなァ、お前は男が好いのに気が利いてるから、どうしたって女が出来らァ」
久「なにそうでもねえが、お前に今日ここで会ったのは幸いだ、どうだ少し相談に乗ってもらいてえ事があるんだが」
虎「結構だなァ、俺はもうこの節|不漁《しけ》続きで手も足も出ねえ、金儲けの相談なら何でもやるよ」
女「お待ちどうさま」
久「アア酒が来た、姐《ねえ》や、鰻をなるたけ早くしてくれ、さァ虎|注《つ》ごう」
虎「どうも有難え……ああいい酒だ、久しぶりでこんな酒を飲んだ、この節はもうおちおち酒を飲めねえんだ、手前《てめえ》はまァ幸福だなァ」
久「うむ……まァとんとん拍子《びょうし》に俺もうまく行ったんだが、それについて相談というなァ他でもねえ、その清元の師匠のとこにいるうちに、実はまた他にちょっと女が出来たんだ」
虎「いやだぜ、冗談じゃァねえ、これァ鰻じゃァ安いもんだ」
久「まァ、聞きねえ、ところでこの師匠を止してえと思うんだが、いろいろ世話になってるもんだからただ止す訳には行かねえ」
虎「全体|何歳《いくつ》だ」
久「うん三十一だ」
虎「年増《としま》盛りだなァ」
久「ところがこいつが、清元の師匠なぞをしているが、馬鹿|堅《かて》えんだ」
虎「うむ」
久「ちょうどいい事にやァ手前の顔を知らねえから、俺の友達で久しぶりに尋ねたというような事にして、家へ行ってちょっと一杯飲むんだ、もっとも俺の留守になかなか酒なんぞ出すような女じゃァねえから、手前が酒を土産だといって買って行くんだ」
虎「うむ成るほど、で家は何処なんだ」
久「ちげえねえ、家を言わなくっちゃァ解らねえな、この先の横町を曲ると、格子造りで清元延清《きよもとのぶせい》と書いてある」
虎「うむ、おせいさんと言うのか」
久「そこへ行って、手前が俺にいろいろ世話になったというような事を言うんだ」
虎「ふざけちゃァいかねえ、俺はお前に世話になりゃァしねえ」
久「そうだけれども、そこが狂言《きょうげん》なんだから、兄きにいろいろ世話になったと俺を立ててくれなくちゃァいかねえ」
虎「まァ仕方がねえ、ご馳走になってるんだから、言いなり次第になるよ」
久「手前が酒を持ってっていろいろな事を話してるうちに、敵《かたき》の家へ行っても口を濡《ぬら》すということがあるから、留守じゃァあるがちょっと一杯、どうせ先方で酒を取って出す気遣《きづけ》えねえから、手前が持ってった酒を飲むんだ」
虎「成るほど」
久「肴《さかな》もありゃァしめえ、何か有り合わせの物で我慢しねえ、台所の三つ目のあげ蓋を取ると糠味噌桶《ぬかみそおけ》があるから、お多福大根《たふくだいこん》がちょうど漬き頃だろう、それを手前自分で出しねえ」
虎「おかしいじゃァねえか、他人の家へ行って」
久「まァいいや、構やァしねえ、それで蝿帳《はいちょう》の二つ目の棚に佃煮があるから、それを出して、一杯飲むんだ」
虎「どうもこれァ少し酔わなけりゃァ出来ねえ」
久「だからここで飲んで行きねえな、何でも手前が様子のいい事を言って、油断を見澄まして、俺の事を何と言っても構わねえ、酔って言うんだから構わねえ、そうしてちょっと袖か何か引いてくんねえな」
虎「成るほど驚いたなァこいつァ……」
久「そうして手前が引いて愚図愚図している処へ、俺が出刃庖丁を持って飛び込んで行く」
虎「ふーん、成るほどこいつァよくねえ仕事だなァ」
久「この阿魔《あま》俺の留守にこんな野郎を引っ張り込みやァがって、ふざけた真似をしやァがる、さァ勘弁が出来ねえと言って、俺が出刃庖丁を畳へ突き通す、いいか」
虎「うむ、どうもよくねえなァ仕方が……成るほど、ふーん、それからどうする」
久「そこですったもんだがあって、とどの詰りがこの女を田舎の芸者にでも嵌め込んで、幾らになるか知らねえが三年でも四年でも叩き売って、それを手前と俺と金は立《たて》ん棒だ」
虎「うむ、うまくいきゃァ好いがな、あまりやりつけねえから……」
久「誰だってこんな事を度々やる奴はねえが、そこをうまくやってくんねえ、さァこれは小遣い銭だ」
虎「そうか、じゃァまァもう少し飲んで行こう」
と、悪い奴はあるもので。ほろ酔い機嫌ですっかり話を極めて表へ飛び出しました。酒を一升買ったのは先方へ行って飲む気だから、樽を提《さ》げて、
虎「何しろ久の野郎はほんとうに女運のある奴だ、もっとも俺と違って男前も好し、様子もいいから無理はねえが、酷《ひど》いことをしやァがる、清元の師匠だって粋な年増てえが、罪だなァそんな事をするなァ……ああこの横丁だ……ここだ、ああ清元延清としてある……え…ご免なさい……」
延「はいどなた」
虎「えーご免なさい」
延「どなたでございます」
虎「えー、あの久次《きゅうじ》兄さんのお宅はこちらで……」
延「はい、久次の宅は手前でございますが、あなたはどちらから」
虎「えー私は友達の虎という者で、兄きにお目にかかりたくって上りました」
延「左様でございますか、あいにくただ今|不在《るす》でございますが」
虎「左様でございましょう今あすこで……なに、そうでございますかえ、私は子供のうちからの友達でございます」
延「左様でございますか」
虎「四月《よつき》ばかり前にちょっと会いました時に、今じゃァすっかり締《しま》って女房を持ってこういう所にいるから寄ってくれと言ったもんですから、お家見舞いかたがた参りました」
延「左様でございますか、あいにく不在でございますが、まァお上がんなさいまし」
虎「まっぴらご免なさい……いいお住居ですねえ、これはつまらねえもんですが、ほんのお土産の印で……」
延「あらどうも恐れ入りましたねえ」
虎「いえもう、ほんの何で、へへ、どうもいい年増だ、へへへこれはどうも……」
延「何でございますか、大層いいご機嫌で……」
虎「へへ、どうも久の野郎|了簡《りょうけん》違いだ、こんないい女を……」
延「ハイ」
虎「いえなにこっちのことで、しかしなんですねえ内儀《おかみ》さん……」
延「何でございます」
虎「へへ、私は何でございますが、どうかちょっと一杯……」
延「おやまァ相済みません、ついまだお茶もあげませんで」
虎「いえお茶などはどうでもようございますが、ちょっと一杯ご馳走になりてえんで……」
延「ああそうでございますか、あの誠に生憎でございますが、わたしはお相手が出来ませんし夫が留守でございますもんですから……」
虎「いえなにそれァ構いません、ちょっとなに、私のお土産を……へへお土産を自分で飲むってえのは可笑《おか》しうげすが、まァ兄弟の家だから構わねえ、どうかお茶碗を拝借」
延「いえそれは好うございますが、何もございませんので……」
虎「いえなにお構いなさるな、酒さえあればお肴なんぞは、へへこれだこれだ」
延「あれあなた何をなさいます」
虎「へへ、この蝿帳の二つ目の棚に佃煮がありますよ」
延「あれまァ厭な方だよ、初めて来て家の事をよく知ってる、|ト占者《うらないしゃ》見たような方だね」
虎「へへへ、まァようございます、しかし久次は幸福者ですねえ、どうですお内儀さん一つ……」
延「いえわたしは……」
虎「そうですか、まァ一つ」
延「いえほんとにいけませんので」
虎「まァそう言わねえで、せめてお猪口《ちょこ》だけでも……」
延「いえわたしは一垂《ひとたらし》もお酒は……」
虎「へえ、そうですか」
延「どうもお気の毒さまで」
虎「いやお内儀さんの前だが私なんざァいけません、酒を飲むと愚図でねえ」
延「いえ夫《うち》のもあの通り、年来のお友達ならご存知でございましょうが、お酒が好きで……」
虎「ええ、お互に酒が好きだもんでげすから……フフ好い年増だ……いえなに、久次は何てえ間がいい奴でしょうあなたのようなお内儀さんを持って幸福ですねえ、へへへ」
延「いいえわたしなんぞもう婆でございますから……」
虎「どう致しまして、婆なんて、フフフ……ねえお内儀さん」
延「何ですよ」
虎「へへへあなた召上りませんか」
延「わたしァ飲みませんよ」
虎「ああ左様で、へへへ飲まなけりゃァ仕方がない……いい年増だなァ……」
あんまり酔っ払っちまってはいけないと思うから、四辺《あたり》をきょろきょろ見廻しながら、そっとお内儀さんの傍へ寄ってきたから、こっちも驚いて、
延「あなたは何をなさるんで……」
虎「いいじゃァありませんかお内儀さん、久次は幸福者ですねえ、こんな優しい……」
延「何をするんで……」
虎「へへ酒を飲むとねえ、どうもいけねえ、ねえお内儀さん香物《こうこう》か何か……」
延「何もありませんよ、夫がいませんから……」
虎「まァいいやねへへへへ……」
延「あらまァ何をなさるんで」
虎「ふふん、台所の糠味噌のお多福大根が漬き頃でしょう、へへへ……」
延「あら厭だよ、何でもかんでも知っていることねえ」
虎「糠味噌の中へ手を入れる訳にもいかない酒さへ飲めば仕方がない、まさか素面《しらふ》では言い難い、ねえお内儀さん」
延「知りませんよ」
虎「まァいいじゃァありませんか、お内儀さん」
延「うるさいねえ」
虎「うるさい、えへへへ、こんな優しい……」
延「何をするんです」
虎「あ痛ッ、ああ痛え……へへお打《う》ちお叩きどうでもおしよ、打《ぶ》たれる覚悟の結び髪、ねえお内儀さん、いいじゃァありませんか」
延「ええまァこの人はうるさいねえ」
虎「痛ッ、ああ痛え……へへ何もそう怒る事ァねえや、私だって久次とは年来の友達だ、いいじゃァねえか……」
延「何をするんだねえ、この人は、袖なんぞ引張って、冗談じゃァないよ、呆れちまうじゃァないかこんな婆の手を引ッ張ったり袖を引ッ張ったり、ほんとに厭な人だねえ、うちの人の留守に来て、図々しいじゃァないか、何ぼ酔ったって女を口説くって面じゃァない、ざまァ見やがれ、だぼ鯊《はぜ》見たような面をして厚かましいや、女を口説く面はもう少し気が利いてらァ、呆助《ほうすけ》……」
虎「ええ止せッ」
延「何だって」
虎「止せッ、べら棒めえ、頼まれたからするんだ厭なら厭でいいや、呆助たァ何だ」
延「冗談言っちゃァいけない、誰がこんな事を頼む奴があるものか」
虎「あるから来たんだ」
延「じゃァ誰に頼まれたんだえ」
虎「誰にッて、お前《めえ》の亭主の久次から頼まれたんだ」
延「おや、へえー、じゃァ何ですか……へえそうですか」
虎「何を言やァがるんだ、へえそうですかって言やがる、ふん笑《わら》かしやァがる、初めて来て台所にお多福大根があって、蝿帳の二ッ目の棚に佃煮のある事まで知ってる訳がねえ、千里眼や|ト占者《うらないしゃ》じゃァねえや、第一女を口説く面じゃァねえの、呆助だのっていろいろの事を言やァがる、手前ン所の久次に頼まれたんだ」
延「まァ何だってねえ」
虎「こうなったら言って聞かせるが、今日久しぶりで久次に会ったんだ、惚言《のろけ》を聞かせるから来いというんでこの先の鰻屋で一杯やってるうちに、これこれこうでちょっとした女が出来たんだ、ついちゃァ今の嬶《かかあ》が邪魔になるんだがまさか瑕《きず》のねえ者をどうするという訳にもいかねえ、実は俺も嬶《かかあ》のおかげで暑くなく寒くなくしているんだから、理屈なく離れる事は出来ねえからお前家へ行って嬶《かかあ》を口説いてくれ、そこへ俺が出刃庖丁を持って間男《まおとこ》見つけたと飛び込んで、男の顔へ泥を塗ったと難癖をつけて、嬶《かかあ》を田舎へ女郎《じょろう》か芸妓《げいしゃ》に嵌め込んで、その金は立てん棒にしようと久次に頼まれて来たんだ、べら棒めえふざけやがるな」
延「おやそうでございますか、そうとは知らないでとんだ失礼を言って、ご免なさいよほんとに、まァ呆れたね」
虎「へん何を言やァがる」
延「まァお前さんに始めてお目にかかって、こんな事を言っちゃァすみませんけれども、ずい分あの人の為には苦労をしたんですよ」
虎「べら棒めえ、そんな事ァ聞きたかァねえや」
延「ほんとにお気の毒さまねえ、わたしァ口惜しくってならないんですよ、なァに別に籍を入れた亭主てえ訳じゃァなし、どうか敵《かたき》を取ってやりたいんですが、ねえ虎さん、こんな事を言っちゃァ可笑しいんですけれども、お前さんわたしのようなこんな者でも、内輪になってあいつに赤ッ恥をかかして叩き出して下さいな」
虎「ええ俺が……」
延「だからさ、わたしのような者でも一緒になって、久次が帰って来たら摘《つま》み出して下さいな」
虎「だってお前そう言ったじゃァねえか、女を口説くような面じゃァねえって」
延「それァ腹が立ったからなんですけれども、いやでなければ……」
虎「えー結構だ、いいとも、全体あいつがよくねえ奴だから……」
どっちがよくないか解りません、それからお膳を出して互いに献《や》ったり酬《と》ったりしているところへ、もう時刻はよしと久次は出刃庖丁を持って飛び込んで来た。
久「さァとんでもねえ事をしやァがる、俺の留守に色男を引っ張り込みやァがって、間男をしていやがる、どうするか見ろ、よくも俺の面へ泥を塗りやァがったな」
虎「おい、いかねえいかねえ久次止しねえ、止しねえッたら」
久「なに、何が止せだ」
虎「何がって、もういけねえから止しねえよ、よくよく考えるとお前が悪いや」
久「何をぬかしやァがる、さァ間男をしやァがって……」
延「何が間男だい、畜生、何を言ってやがる、三年前の事を忘れたかい、よくもそんな事を言われた義理だ、ほんとに呆れ返って物が言われない、今この人からみんな聞いちまったよ、他へ女をこしらえて、わたしに難癖をつけて人を田舎へ叩き売って立ん棒にするなんてとんでもない野郎だ、わたしァね、お前さんのような不実な人は厭だからこの人を亭主にしたよ、間男だなんてとんでもない野郎だ、間男だなんて何が間男だ、何が亭主だ、亭主もないもんだ、茘枝《れいし》見たような面をして、さァお前さん威張っておやり」
虎「うむ、おい止せやい、もう止せよ」
久「こん畜生畜生まァほんとうに畜生……」
延「何を言ってるんだい、出刃庖丁なんか振り廻しておふざけでないよ、そんな物はこっちへ出しておしまい、ざまァ見やがれ畜生奴、着物も羽織も脱いといで、みんなこれァあたしがこしらえてやったんだ。さァお前さんにちょうどいいから之《これ》をお着よ、畜生出て行きやァがれ、もう今日からこの虎さんてえ人を亭主にしたんだから、家へ這入ると叩きなぐるよ、出て行け行け」
久「おい虎、それじゃァ話が違う」
虎「だからいけねえよ、お前が悪いや、止しねえ止しねえ」
延「何を愚図愚図言ってるんだ、出て行かねえか……」
恐ろしい権幕《けんまく》でどうすることも出来ません。とうとう表へ突き出されてしまった。
延「ああ好い心持だ、野郎突き出してやった、あんな不実な奴はありゃァしない、人の恩を忘れやがって……その代わりお前さん見捨てちゃァいけませんよ」
虎「うむ見捨てやァしねえけれども、全体あいつがよくねえ」
延「まァいいから一杯お飲《や》んなさいよ」
また二人でちんちん鴨《かも》でいると、何を思ったか表の格子をがらりと開けて、ぬッと這入って来た久次。
久「さァ出せ」
延「何だまた這入って来やがった、何を出すんだ」
久「さっきの出刃庖丁を取りに来たんだ」
延「さっきの出刃庖丁、呆れたねえ」
虎「やい久次、嬶《かかあ》に追い出されて、またのそのそ出刃庖丁なんぞ取りに来る奴があるか、誰かに表で智恵をつけられて来やがったな、出刃庖丁でこの二人をどうかしようてんだろう、さァこうなりゃァ俺が相手だ、この野郎ふざけやがって何だ、出刃庖丁はここにあらァ、突くとも切るとも勝手にしろ」
久「なに切るんじゃァねえ」
虎「切らねえんなら出刃庖丁をどうするんだ」
久「うむ、表の魚屋へ返すんだ」
[解説]このサゲは間ぬけ落ち。古今亭しん生の得意であるが、以前は三遊亭|円右《えんう》が十八番であった。円右は幼少の頃、玩具を持って円橘《えんきつ》の門に遊び、橘六から三橋となったが、後に大師匠の円朝《えんちょう》の弟子になって円右と改名した。晩年実子小円右にその名を譲り二代目円朝を襲名したが、改名後は病のため一度も高座に上らなかった。「火事息子」「五人廻し」「王子の狐」等が最も得意であった。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
春雨《はるさめ》
―――――――――――――――――
お好みにより、一席古い落語を申し上げます。これは円朝《えんちょう》があるお座敷で即席に演じました三題|噺《ばなし》で、お題は「春雨《はるさめ》」「恋煩《こいわずら》い」「山椒《さんしょ》の擂粉木《すりこぎ》」と申します。春の雨は同じ静かでも秋雨《あきさめ》とは違いまして何となく情味《じょうみ》のありますもので。
内儀「きよや、今日はいい塩梅《あんばい》にお天気だねえ」
きよ「左様でございます。春雨にシッポリ濡れて、どうのこうのと言いますけれども、何だか知りませんが、あまり降り続いては仕様がありませんね、まるで五月雨《さみだれ》のように思われます」
内「そうだねえ、お前もチョイチョイだんな様にいかがうんで、春雨だの五月雨だのを覚えたね、それはそうと、おせなはどんな様子だね」
きよ「困りましたね内儀《おかみ》さん、どういうものでございますか……」
内「風邪かね」
きよ「イエ風邪ではないようでございます。シクシク泣いてると思うと、夜夜中《よるよなか》おかしな声を出してゲラゲラ笑ったり何かして実は気味が悪うございますから、昨晩からお客間の脇の方へ寝るように致しました」
内「困るねえお前がそんな事をいっちゃァ……。何だろうね病気は」
きよ「何でございましょう」
内「お前は全体何だと思うね」
きよ「どうも変でございます」
内「私はマア何じゃァないかと思う」
きよ「私も何じゃァないかと思う」
内「何だねえ口真似《くちまね》ばかりして……去年の暮|浅草《あさくさ》の市《いち》へ私が行った、お前がアノ時行かれないので、おせなを連れて行ったろう」
きよ「左様でございました」
内「あれから帰って来て、変じゃァないか」
きよ「そう仰《おっ》しゃればそうでございますね」
内「私の考えじゃァ、あの市で国の者にでも遇《あっ》て、家が恋しくなったのじゃァないかと思う」
きよ「そう仰しゃれば、成るほどそうかも知れません、どうしたものでございましょう」
内「それならそれで、ただいつまでもああやっておいても、段々病気が重《おも》るばかり、かえって何だろう、ともかくも宿の方へ下げてやってもいい、お前が少し骨も折れるだろうが、モウ年始のお客もなしするから、お前と私と、少し不自由な思いをしてやればいいんだから、帰してもいいが、当人が何というかお前胸を聞いてみておくれ」
きよ「よろしうございます」
犬も朋輩《ほうばい》、鷹《たか》も朋輩《ほうばい》、頼もしい仲働き、女部屋を開けると、島田髷《しまだまげ》が横に返って、痩せ衰えたと言いたいが、少し肥ってるから肥え衰えた方で、
きよ「どうだおせなさん」
せな「どうも駄目でがす」
きよ「駄目じゃァないよ、病は気で持つと言うから、しっかりしなくっちゃァいけないよ」
せな「ヘエ」
きよ「ヘエじゃァないよ、おせなどん、お前のは気病《きやみ》と言うので、何か心に思ってる事があるのだからそれをお言いな、そうすれば私が内儀さんに願ってどうにでもしてあげるから」
せな「イエ何も思ってる事ねえでがす」
きよ「無い事はないよ、こうやって一緒にいるんじゃァないか、私はお前を他人と思わないよ。お前の方じゃァ何と思ってるか知らないけれども、私は親はなし、きょうだいはなし、伯父さん伯母さんの厄介《やっかい》になって、マアこうやって当家へ上がってるんで、お前のような人は、私はまるで自分の妹のように思ってるんだよ」
せな「それはあなた有難い訳で、私も済まねえけれども、あなたは真の姉さんだと思ってるでな」
きよ「マア嬉しいねえ、私のような者でも、姉とか何とか思ってくれるなら、ナゼ打ち明けて言ってくれないんだよ」
せな「ダッテ打ち明けること何も無《ね》えだもの」
きよ「無い事はないよ、何でも心に思ってる事があるんだよ、去年の暮にアノ内儀さんのお供をして浅草の市へ行って、あれからお前の様子がどうも変だが、あの時に国の許婚《いいなづけ》の人にでも遇って、それから国の事を思い出したんじゃァないか」
せな「そんな事ねえだよ」
きよ「いけないよ隠したって顔をご覧よ、ポーッと赤くなったよ、それに相違ないよ、そんならそうと言いな、お前ぐらいの年頃になりゃァそんな事あたりまえだよ、私なんかお前ぐらいの時分にゃァ、冗談を言った男に恥をかかした事はなかったよ。伯父さんも愛想を尽かしてこんな性悪《しょうわる》の奴は無いって、ずいぶん世話を焼かしたもんだよ、お前も何かそんな事でもあるなら、お言いよ、私がどんな事をしてもその人に遇わしてあげようから……」
せな「ヘエたまげたね、あんた堅《かて》え人だと思ったらマアそうけえ、実は私タッタ一人……」
きよ「ソレご覧、あるじゃァないか」
せな「だってもソレ駄目でがすよ」
きよ「駄目じゃァないよ、対手《あいて》さへ分れば遇わしてあげるよ」
せな「アレほんとうに遇わしてくれるかい」
きよ「ほんとうだよ」
せな「キット……欺《だま》すじゃァあんめえね」
きよ「欺しなんぞしやァしないよ、早くその人をお言いな」
せな「そんなら言いますがね、実は眠っててもその人が目の前にちらつくでね」
きよ「いやだよこの人は」
せな「こうやって話をしているあなたの顔もその人に見えるだよ」
きよ「薄っ気味が悪いね、何だえそれは」
せな「暮に観音様の市へ内儀さんの供ぶって行った、その時に正面の門から入らねえで、横の方から入った」
きよ「そうだって、二天門《にてんもん》の方から入ったってね」
せな「あすこに観音様でねえモウ一つ御堂《おどう》があるだね」
きよ「アア三社様《さんじゃさま》」
せな「アノ脇に、鉢巻《はちまき》して長半天《ながはんてん》着た好い男がでけえ声をして負《まか》りました負りました……」
きよ「そんな大きな声をお前がしないでもいいよ」
せな「色の白っこい、俺ァ白っ子じゃァねえかと思ったくらい。こんな好い男が世の中にあるもんかと立ち止まって顔を見てえたら、その人が姉さん何でそんなに俺が顔見るだ、俺の顔に祭りも何も通らねえ、これでも買ったらどうだと山椒《さんしょ》の擂粉木《すりこぎ》出したから買いますべえと言うので買ってきただ、それから家へ帰って来ても、その男の顔が目の前にちらついて忘られねえ、それでこの山椒の擂粉木、男の手から買っただから、その人だと思って抱いて寝ているだ」
きよ「いやだよ道理で、このあいだビショビショ降ってる晩|小便《ちょうづ》に行ったら、何だかゴトゴト音がするので雨戸を開けてみたら、お前が雨だれで何か洗ってたから変だと思ってたんだよ」
せな「アハハハあれあまり抱き詰めて寝臭《ねぐさ》くなったろうと思ったから」
きよ「ふざけちゃァいけないよ、雨だれで擂粉木を洗う奴があるかね、そう分りさいすれば、ナニ男は|己惚れ《うぬぼれ》が強いから、話をして遇わしてあげるよ」
せな「マアほんとうに遇わしてくれるかね」
きよ「遇わしてあげるが、しかしそれはどこの人だえ」
せな「三社様《さんじゃさま》の前に店を出していた人で」
きよ「それはそうだろうが家はどこだえ」
せな「家はどこだか分らねえ」
きよ「それじゃァ困るねえ、市の商人《あきんど》と言う者は、今年出ても来年出るか出ないか分らない者だよ、お前だって煩らうほどにも惚れた人なら、お前さんの家はどこだって聞けばいいじゃァないか」
せな「そんな事、きまりが悪くって、聞かれねえ、擂粉木突きつけられた時にカーアと気が遠くなってしまった」
きよ「だってお前、先が分らないでは仕方がない」
せな「ダッテ遇わしてくんなさると言って……」
きよ「遇わしてくれるって、雲を掴むような尋ね者で、どこを尋ねていいか分からないじゃァないか、先を聞いて来ないじゃァ私だって困らァね」
せな「それもそうだね、だからおらも仕方がねえからこうやって煩らってるだ、先が分るくらいならクヨクヨ煩らってやァしねえ」
きよ「恋煩いのくせに理窟をお言いでないよ、どうしても分らない者は仕方がないからお諦めよ」
せな「おら諦めること出来ねえ、それじゃァあんた遇わしてやるといったは欺言《だまかし》か」
きよ「欺す訳じゃァないが、先が分らなければ仕方がないよ」
せな「あんた嘘べえ吐《つ》く人だから、おらおッ死ねば三日たたねえうちに取り殺すからそう思ってくれなせえ」
きよ「冗談お言いでないよ、取り殺されてたまるものかね……、アッちょっと桶屋さん……、少しお待ちよ、表を桶屋さんが通るから、毎日降ってたんで桶の底が悪くなったのを直して貰おう……アノ桶屋さんこの桶を直して下さいな、底がモウいけなければ切り詰めてもいいから……」
せな「アレ少し待ってもらいてえ」
きよ「何だよ病人のくせに……ナニあの人だって、アノ桶屋さんが擂粉木を売った人、そうかえそれはよかったね、ほんとうにお前深い縁だよ」
せな「私も国の道六神様《どうろくじんさま》祈ったご利益《りやく》だ」
きよ「内儀さんに内緒でここへ連れて来てあげるから、いいかい待ってお出でよ」
△「姉さんこれはまるで底が腐ってるから……」
きよ「桶はまあどうでもいいが……成るほど好い男だねえ」
△「姉さんふざけちゃいけねえ、からかいっこなしにしておくんなさい、人の顔を見て……これはスッカリ箍《たが》も入れ換えなけりゃァ……」
きよ「マア箍《たが》なんかどうでもいいが、ちょっとお前さん何ですか、浅草の市へ出ますか」
△「エー親父の代から三社様へ毎年店を出します。じゃァこの桶は市の時に……」
きよ「桶の話じゃァないんだよ、実はね、今年十八になる女がお前さんに恋煩いをして、モウ今日か明日かと言うような……」
△「冗談いっちゃいけません」
きよ「冗談じゃないんで、観音様の市の晩にお前さんから擂粉木を買ってきて恋煩いをして毎晩その擂粉木を抱いて寝ているんだよ。どうか遇って何とか気休めを言ってやっておくれな。そうしないと焦がれ死にをして、三日経たないうちに取り殺される始末なんだから……」
△「冗談いっちゃァいけねえ」
きよ「冗談どころじゃァないったら」
△「ヘエーご当家のお嬢さんでげすか」
きよ「お嬢さんじゃァないご飯炊きなんで」
△「ヘーン……」
きよ「何だえそんな返事をして、マアちょっと上がって気休めの一つも言ってくれりゃァいいんだからさ」
△「いけませんよそれやァ……」
きよ「いけるもいけないもないよちょっと遇っておやりよ……サァおせなさん恋人を連れてきたよ、何だねそっちを向いて……ちょっとお前さん何とか言っておやりよ……」
△「冗談じゃァねえ弱ったなァ……アッ姉さん閉めて行っちまっちゃァいけません、アア仕様がねえな、大変な……ねえ姉さん、アノ姉さんがアンナ事を言っても嘘じゃァありませんかえ」
せな「嘘じゃァねえほんとうだよ、あんたの手からこの擂粉木を買ってきただよ」
△「それじゃァ女中さん私も独身者《ひとりもの》だが、こんな者でも女房になっておくんなさるかね、イヤ全くだ、全くだが、今という訳にもいかない、ここは旦那の家だから見つかりでもするといかねえ、私はこれからいったん家へ行って、家を片付けて晩の十二時を合図に、この黒塀《くろべい》の所に小さな口があるね、あすこへ来て叩くから、庭口からお前さん出て私と一緒に逃げておくれ」
せな「どこへでも逃げる」
△「逃げるにしたところが何かなくっちゃァ仕様がねえな」
せな「ここに去年の給金《きゅうきん》がソックリたまってる、これを今お前さんに渡しとくからキッと連れて逃げてもらいたい」
嬉しい一心に何の考えもなく、給金の貯ってるのを幾らあったか残らず手渡したから、それを腹掛《はらがけ》の丼《どんぶり》へ突込み、着物だか風呂敷へ包んだ奴を受け取り、道具箱へのっけて引っ担いだまま帰って来た。
○「間抜け、何だニコニコ笑やァがって、薄っ気味の悪い奴だ」
△「兄きマア聞いてくんねえ」
○「何だ」
△「今日たまの天気だから、ちいっとばかり箍《たが》を持って仕事に出たんだ、ウム、ちょうど蔵前《くらまえ》の方へ行くと、何だか勤人《つとめにん》のような家へ呼び込まれた」
○「ウム」
△「スルとここの家で今年十八になる女で俺に恋煩いをしている女がある」
○「止せこん畜生、往来の真中でふざけやァがって……」
△「マア奢《おご》るから聞いてくれ」
○「何だそれやァ、そこのお嬢さんか」
△「ウーン飯炊《めしたき》だ」
○「そうだろうてめえに惚るんだからな」
△「マアまぜッ返《けえ》さずに聞いてくれ」
○「どうした」
△「仲働きの女から段々話を聞いてみると、市で商いをしているのを見て、俺から山椒の擂粉木を買ってッて、俺と思って擂粉木を毎晩抱いて寝てるんだとよ」
○「ざまァ見やがれ擂粉木野郎」
△「混ッ返しっこなしよ。ソコで仲働きがどいて、その女と差し向いになって話してみると、俺と一緒に逃げるというから、品物を先へ出しねえ、晩の十二時を合図に迎いに来るといって、物《ぞうもつ》と金と先へ受け取ってきたんだ」
○「そうかそれやァうまくしやァがったな、それじゃァ何だな、今夜十二時を合図に連れて来てお前が独身者だから、嬶《かか》ァにしようというんだな」
△「冗談いっちゃァいけねえ、土百姓《どびゃくしょう》まっぴらご免だ」
○「そんなら欺したのか」
△「むこうが俺を擂粉木にしたから、おさんに摺《す》らしてやるんだ」
[解説]円朝《えんちょう》作の三題噺と言う、あまり名作ではないが、三題噺としては悪い出来ではない。だいたい三題噺は、元祖|三笑亭可楽《さんしょうていからく》が始めたもので最初は別段規定はなかったようだが、後には人物、物品、事件または場所というように決められ、その内の一題から、必ず落ちをつけなければならないように定められた。三題噺のうちの有名な外題には「芝浜《しばはま》」「鰍沢《かじかざわ》」「白木屋《しろきや》」「大仏餅《だいぶつもち》」などがある。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
身代り杵《きね》
―――――――――――――――――
すべて物は何にでも徳不徳というものがありますもの、良家の娘さんでもめっぽう美《い》い容貌《きりょう》をお持ちあそばしながら、どうも良縁がなく、それがためにご苦労をなさる方がございます。あまりこのご容貌《きりょう》の美いのはどちらかと申しますとご運が悪いのだそうで、美人薄命などと申します。これも徳不徳で、いま申す通りすべての事に徳不徳という事があります。
もっともその訳で昔からいろいろお名をあげた方も沢山ありますが、毎度われわれ社会や講釈師《こうしゃくし》の方で申し上げる名奉行《めいぶぎょう》というと、まず大岡越前守《おおおかえちぜんのかみ》にきまったよう、また祖師《そし》は日蓮《にちれん》に奪われ、大師《だいし》は弘法《こうぼう》に奪わるなどという事を申しまして、各|宗旨《しゅうし》ともに各々|開祖《かいそ》というものがございますが、ただ一口に祖師と言えば日蓮様にきまっているようになっております。
黄門《こうもん》とくると水戸様《みとさま》が一番売り出している、もちろん水戸様は天下に一大事のございます時は、必ずこのお方が調べる役人の尻を押す。調べる役人の尻を押すから黄門だという訳でもございますまいけれども……、また大師様を取りました者も幾らもございます。その中には弘法大師様《こうぼうだいしさま》、空海上人《くうかいしょうにん》と仰せられる方がたいそう売れております。
おなじ祖師でもお気の毒なのは禅家《ぜんけ》の祖師|達磨様《だるまさま》、もっとも辛抱強いお方で、九年の間|坐禅《ざぜん》を組んでお尻の腐るほど行をしながら考えた事がある。何を考えたかというと坐禅豆という豆を煮る事を考えた。隠元大師《いんげんだいし》という坊さんは隠元豆を煮る事を発明いたし、唐土《もろこし》金山寺《きんざんじ》の布袋和尚《ほていおしょう》は金山寺味噌をつくる事を考えた。
品川の東海寺《とうかんじ》の沢庵禅師《たくあんぜんじ》というお方は沢庵をつける事をお考えになりました。妙なもので、品川東海寺の門の内ではあれを沢庵とは申しません。沢庵というと暗に御開山様《ごかいざんさま》を呼び捨てにするようでもったいないというので、東海寺門内ではこれを百本漬けと申します。それが門の外へさげて持ち出せば沢庵、何にもなりませんけれども、御門の内だけ百本漬けと称える、坊さんの考えますものでございますから、みなお茶漬けのお副食《かづ》になるような物ばかり、しかし何でもあとへ残そうという、そのご苦心は容易のものではない。
いま申し上げました空海上人、後に弘法大師とお成んなすった。このお方がたいそう美男であった。御年四十二になりまして、ちょっと見が二十四五にしか見えなかった。諸国を修行いたし、廻り廻って武蔵野国|橘樹郡《たちばなこおり》平間村《ひらまむら》というところへまいり、名主|源左衛門《げんざえもん》方へ逗留《とうりゅう》して、真言秘密《しんごんひみつ》の法をもって病人の加持祈祷《かじきとう》を致し、毒鋸《どくこ》をもってさするときは難病不治《なんびょうふじ》の病もたちどころになおる。サアこれが大変な評判になりまして、
○「五左衛門さん聞きましたかえ。どうも名主どんの所にござる坊様は生仏《いきぼとけ》だという評判だ」
五「そうだよ、まだ年は若えけれどもえれえ者だ。昨日なんざァ躄《いざり》が立って車を担いで帰《けえ》ったよ」
○「ヘエーおそろしい有難い坊様だな。そう言えば一昨日《おととい》は盲人《めくら》が来やしてな。坊様にお加持《かじ》してもらったら、たちまち癒《なお》ったで、杖がじゃまだって田の畦《うね》へ打っちゃってった。何でもお医者さまで癒《なお》らねえ病はきっと癒《なお》すそうだ。お有難え坊さんがござったもんだなァ」
とたいした評判でございます。今日は立とう、明日は立とうと、しばらくの間ここに逗留をしておりますとこの源左衛門におもよさんといって年十八になる娘がございます。これが田舎《ひな》には稀なポッチャリとした色白で、手つま先もきれいな、ごく美《い》いという程ではございませんけれども、マア十人並みに勝れております女。チョイチョイご用をたしておりますうちに、スッカリお上人を想い込んでしまい、ある日のこと、お上人のそばで、この娘が、四方八方《よもやま》の話をしておりましたが、
もよ「ねえお上人様、どうぞあなた還俗《げんぞく》遊ばして下さる訳にはなりますまいか」
突然に言われて上人びっくりして
弘「還俗をしろとは何というわけ」
もよ「わたしがこれほど想い焦がれておりますのを、なんぼご出家とはいいながら、少しはお解りになりそうなものでございます」
と単刀直入《たんとうちょくにゅう》、直接談判、なかなか開けた娘でございます。驚いたのは上人、身に大望のある方でございますから色よい返事も出来ず、
弘「それでは私に還俗をさして、お前さんの思い通りになってくれろと仰しゃるのか」
もよ「申すまでもございません。父親に話をいたして、あなたを家のお婿《むこ》にしたいと思います。あなたを還俗させても小はだの鮨《すし》などは売らせません」
洒落た娘があるもので、
弘「私はそういう訳にいかん、出家の身の上であってみれば、なかなか他人の家へ婿に入るということは出来ない。それは娘御、悪い了簡《りょうけん》、私のことなどは思い切って親の眼識《めがね》に叶った者をご亭主にして、それと仲良く暮しなさい」
と、キッパリそこで言い切りますと娘が、ワッとばかりに泣き伏しましたが、なにを思ったか、帯の間にありましたうす錆に錆びた剃刀《かみそり》を取り出し、すんでの事に咽喉《のど》へ突き立てようとするから、
弘「イヤ娘御には、何ゆえさような短気な事をなさる」
もよ「何ゆえとはお情けない。女の口からはずかしい、このようなこと言い出して、叶わぬ時は是非もなく、死ぬる覚悟であるわいなァ」
娘さん芝居掛りでお出でなすったけれども、上人ウンという訳にゆかない。出家は辛いことには五戒《ごかい》をたもつ身、痴情に迷えばこれを邪淫戒《じゃいんかい》と言い、嘘を吐けば妄語戒《もうごかい》となり、このまま殺せば殺生戒《せっしょうかい》、どうしても罪を作らなければならない。誠に辛いものでございます。しかし仏の方には嘘も方便《ほうべん》という逃げ道がある。欺《だま》すにしかずと思ったから、
弘「マアマア待ちなさい。それほどまでに思い詰めて下さるというは、誠に私もかたじけなく思うけれども、今ここで即答はなりかねる。どうか晩に私の寝間まで忍んで来て下さるよう。行末のこともとくと相談するから」
娘はようよう顔を上げまして、
もよ「それではわたしのいう事を叶えて下さる思召しか」
弘「それが今すぐに返事は出来かねるが、晩ほど私の寝間に来て下されば、よく相談を致す」
もよ「そんならきっと家内の者が寝静まった時分に上がりますから」
と昼間の内よりお湯へ入り、髪を結い、化粧を致し、スッカリきれい事になって、夜の更けるのを待っておりましたが、ただいまで言う十二時過ぎ、もう家内も寝静まった様子だからそろそろと上人の部屋へ来てみると、行灯《あんどん》の灯火《あかり》がボンヤリとついております。夜具の中へ頭が這入《はい》っているとみえて、上人のお頭《つも》が見えない、頭も見えなければ、足も見えない。その訳でございます、(坊主色に持ちゃあ滅茶苦茶《めちゃくちゃ》に可愛い、どこが頭やら尻尾やら)というから頭も尻尾も見えなかったかしれない。
燈心《とうしん》を掻きたって枕もとに坐わり、
もよ「お上人様、お目をお覚《さま》し下さるよう」
一声掛けたが、まだ上人は夜具の中から出て来ない。ハテ不思議と思うから、夜具を取除けてみると、上人はもぬけの殻、床の中には大きな杵《きね》がほおり込んである。ビックリ驚いた娘が書置《かきおき》でもあるかと思い、四辺《あたり》を見ると書置も何もない。このとき悧巧《りこう》の娘だから考えた。さては我が事を思いきねとの辻占《つじうら》か、それともあとからついて来いという謎かしら、そう考えてはしばしも堪らず、
もよ「のう恨めしのお上人、それほど嫌なわたしを女房に持つと何故いうた」
チツテツトンという騒ぎ……これから杵を担いで半狂乱、杵かつぎの尻端折《しりっぱしょ》り、野道畦道《よみちあぜみち》嫌いなく坊主臭い方へと思い、せっせと追いかけたが、もう上人はどこへ行ったか、トンと判りません。ついにこの娘が、この世で夫婦になれなければ、未来とやらでお待ち申すと、杵を担いだなり六郷《ろくごう》の川へドカンボコンと来た。ドカンボコンではお解りがございますまいけども、ドカンというのは飛び込んで、ボコンというのは沈んだ所、翌朝になると杵を担いだなり、柳の根方に死骸が引掛って浮き上がりました。サァ大勢集まって、名主どんの娘だと、ワイワイ騒いでおりまする。所へ上人通りかかり、
弘「アア飛んだことをした。嘘をついたばかりに、あたら蕾の花を散らした。これも前世の宿業とは言いながら、出家の身にあるまじきことをした」
と、ご後悔。そのままにはして置かれませんから、たちまち源左衛門のところへ知らせる。親が泣きの涙で死骸を引取る。十分お上人が引導《いんどう》を渡して、この娘の死骸を弔い、誠にとんだ罪を作ったと、上人が娘の追善供養《ついぜんくよう》のためにと、竹の柱に萱《かや》の屋根、そまつなる庵室をこしらえ、三年のあいだ足を留め、病人の加持祈祷《かじきとう》をいたし、土地の者に徳を施こしておいでなされたが、御年四十二歳にして僅か十八の娘に想われるくらいでありますから一寸見《ちょっとみ》は二十四五にしか見えない。
人間は四十二が厄《やく》、厄というのはつまり大難《だいなん》、男も女も好く生れると、どうもその大難の相がある。婦人だってあまり美しく生れると大難の相がある。シテみるとあまり美《い》い男だの美い女は知らず識らず罪を作る。
このとき初めて上人様がこしらえた物がある。男が女に惚れられるのは大難だというので、女除けの守りというのを作らえた。ところがちっとも受けなかったという。もっとも女除けの守りなどを作らえられてはさざえの壷焼《つぼやき》などは売れなくなってしまう。これが女惚れの守りなら、水天宮《すいてんぐう》様の、戌年《いぬどし》の戌の日のお守りよりも受けるのでございますが、女除けではどうも受けが悪い。大難に出遭いたがってウロウロしている奴が沢山ある。仕方がないから厄を除けるというのでただ厄除けの守りと致しましたが、つまりこれが女除けの守りだそうで、ここに留まって加持祈祷をしておりますうちに、ご利益《りやく》を頂いた人々が、あまりこれでは御堂がそまつで勿体ないというので、材木を納める人があれば、瓦を納める人もありまして、ただ今のように川崎の大師様の御堂というものが大きくなってしまいました。
一説には、あすこに弘法大師様の自作自開眼《じさくじかいげん》の尊体があるとかいって、たいそう霊験あらたかで、皆さんがお詣《まい》りに参りますが、ここで見ることが出来ない物がある。大きなお厨子《ずし》がありまして、蝦錠《えびじょう》が掛っております。
誰一人見た者がない。それが自作自開眼のお像だということで、その昔お代交わりの時に、寺社奉行《じしゃぶぎょう》立会いの上、一遍これを開けて拝んだことがある、ところが拝んだ方に聞きますと、ナニ自作自開眼でも何でもない。別に大師様のお尊像があるのではない。あのとき娘が担いで飛び込んだ、身代りの杵が入っていたと申したそうでございます。どうも訳が解りませんから、このあいだ川崎へお詣りに参り、お坊さんに聞いてみました。あの蝦錠の掛っておりますお厨子の中は、杵だそうですね、というと、
○「ナーニ、ウスだ……」
[解説]またの名を「杵大師」「大師の杵」と言う。「ウスだ」はむろん「ウソだ」の地口落ちである。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
さら屋
―――――――――――――――――
四季の眺めは雪月花《せつげっか》と申しますが、とりわけて花は多くの人の目を喜ばせますようで、春になると人の心の浮き立つと言うのも、一つは花という結構なものがあるからでございましょう。
ここに本町《ほんちょう》の質屋《しちや》さんで、山田屋という、親御《おやご》さんが物堅《ものがた》い人で、息子さんが一人ございます。親御に似てこれも堅人《かたじん》でございますが、たまには出入りの者と遊びに行ったこともございますけれど、近ごろはバッタリ外へ出るのも厭《いや》だ何処へ行くのも厭だと言って、一間《ひとま》に入って鬱々《うつうつ》と致しております。ご両親は一人息子の事でございますから心配をして、ある日のこと番頭《ばんとう》と差し向いで、
主「番頭どん、お前いま倅《せがれ》の部屋へ行きなすったの」
番「ヘエちょっと伺《うかが》いました」
主「どうだね」
番「どうも別に何処が悪いという所もないようでございます」
主「さっきも竹庵《ちくあん》さんが帰りがけに、何だか訳の分らない事を言ったが、見立《みたて》がつかなければモウちっと良い医者にかけてみようと思うがどうだろう」
番「左様でございますか」
主「お前は何の病気だと思いなさる」
番「左様、私には別にこういう見立もつきませんが、マア素人《しろうと》考えには、若旦那はアアいう堅いお方で遊びなどは余りなさいません。それは一度や二度はお出でになった事もあるかも知れませんが、しかし何かソノ想っておいでの事があろうかと存じます」
主「ウム何を想ってるのだろう」
番「ヘエ何と言って、私が申し上げる事も出来ませんが」
主「ハア何だろう。当っても当らないでも、お前の考えがあるなら、聞かして貰いたい」
番「左様でございますな。どうも誠に親御様には申訳のない事でございますが、事によったら、ご婦人の事ではないかと存じます」
主「なるほど、何か倅が気に入っている者があるなら、嫁に貰ってやるし、あまり身分違い者でも困るが相当の者ならよいじゃァないか」
番「左様」
主「しかし、私がそれを倅に聞くという訳にはいかない。と言って婆さんでも尚更、番頭どんでも聞きにくかろう」
番「左様」
主「誰がよいかな」
考えているところへ、
金「ヘエこんにちは」
主「誰だえ、オヤ本屋の金兵衛《きんべえ》さんかい」
金「何かお話中でございますか」
主「ナニ別に面倒の話でもないから、こっちへお入り」
金「番頭さんこんにちは」
番「オヤお出でなさい。サアサアこっちへお入り」
主「ちょうど好い所へ金兵衛さんは見えたが、お前アノ家《うち》の倅とは仲好しだね」
金「ヘエ、若旦那とは何でございます。深いお馴染《なじ》みでございます。実にこちらの若旦那さまぐらい結構なお方はございません。お年は若いが、何やかやとお気がついて、私はもう何処へ参っても、こちらの若旦那さまを褒《ほ》めない事はございません。この間もちょうど仲間の寄合《よりあい》のございました時に、どうも山田屋さんの若旦那は男が好《よ》くって、お年が若くって気がついて、実にアアいうお方は沢山《たんと》ないと言ってね、ヘエ若旦那の惚気《のろけ》を言ったんでございます」
主「イヤそれは誠に幸いだ。マアお茶をお上がり、いま番頭どんと話をしていた事だが、実は倅が近ごろどうも鬱々《うつうつ》していて、何処へも出ない」
金「左様でございますか」
主「で、マア番頭の佐兵衛《さへえ》の言うのには、何か腹に思ってる事があるんだろう。多分気に入った女でもあってそれを女房にしてくれとも言われず、ただ心の中に思い詰めてるような事じゃァないかと言うんだが、どうも親の口から聞くのもおかしいし、番頭も改まって聞きにくいと言うんで、マアどういうものか知らないが、相当の者なら女房にもしてやってもいい。たった一人の倅の事で、万一の事でもあられては誠に私たちも困るのだが、どうか金兵衛さんお前が別段《べつだん》の仲だから、倅に会って一ツ話を聞いてはくれまいか」
金「エエ宜しうございます。雑作《ぞうさ》もない事で、若旦那だって、私なら何もお隠しになる気遣いはございません。早速伺いましょう」
主「それじゃァ奥の八畳にいるから行っておくれ。私たちはかえって側に行かない方がよいから」
金「エエ宜しうございます」
と、本屋の金兵衛至って直《ちょく》な人で、ことに若旦那には大層気に入られております。
金「ヘエこんにちはご無沙汰を」
若「アア金兵衛さんか、こっちへお入り」
金「若旦那、お加減が悪いそうでどうも困りましたな。お食事も進まないようで、それやァどうもいけません。第一こう閉じ込めているのはいけませんな。ズーッと開け払って新しい風を入れて、お庭でもお眺めなさるのが宜しうございます。実は今ちょっと大旦那にもお目にかかりましたが、大層ご両親ともご心配なすって、番頭さんといろいろお話のところでございました。そこへマア私が参って万事《ばんじ》請け合って来たんでございますが、ねえ若旦那、私は知ってますよ。あなたお隠しなさるな。阿父《おとっ》さんはどういうものでも倅の気に入った者があれば女房にしてやるとこう仰《おっ》しゃるんで、あなたは恋|病《わずら》いをしていらっしゃいますね。アハハハハハ、お若いからご無理はない。忘れもしませんがいつか私がお供をして、向島《むこうじま》の花を見て、金兵衛どこかでお飯《まんま》を食べようと言うんで、渡しを渡って重箱《じゅうばこ》へ行ってご飯を戴いてから、帰りに吉原《よしわら》の夜桜を見に行きましたな。あの時にソレ仲の町ですれ違ったのは美《い》い女でございましたな。年頃二十一二にもなりましょうか、ポッチャリした愛嬌《あいきょう》のある、こっちを向いてにっこりと笑った時の顔が、まだ目についてますよ。私が美い女じゃァありませんかと言ったら、あなたも美い女だとお言いなすった。あれァあなた角海老《かどえび》の花魁《おいらん》で、左近《さこん》さんと言うんでげすよ。あれならば、素人にしてもいい、大概の花魁は素人にするといけませんが、あの花魁に限って何でも出来る、裁縫《しごと》が出来て、遊芸《ゆうげい》は三味線《しゃみせん》も出来、月琴《げっきん》も出来、木琴《もくきん》も出来、借金の言訳、何でも出来ます。あなたきっとあの花魁がお気に召したんでございましょう」
若「そうじゃァないよ」
金「ヘエー、そうでないと、ハテナ、そう言えばあなた、ちょっと横を向いて何とか仰しゃったね。手に取るな、やはり野に置け蓮華草《れんげそう》と言ったきりで、後を言わないところが……」
若「大きな声をお出しでないよ」
金「どうも私はお饒舌《しゃべり》で、仲間のあいだにも落語家《はなしか》になったらよかろうと言われるんで、ハテナ、それでは……アア分りました。川長《かわちょう》の参会《さんかい》へいらっしったときに、柳橋《やなぎばし》の金助《きんすけ》、小酉《ことり》、若いけれども|おとわ《ヽヽヽ》などと言う芸者が出ましたね。あの中の誰かがお目に止まったのでございましょう」
若「そうじゃァないよ」
金「ヘエー、ハテナ。知ってます知ってます彼《あ》れでございましょう。それ二丁目の芝居へお供をした事がございましたね」
若「芝居」
金「ヘエ、むこうの桟敷《さじき》にいた、あの文金《ぶんきん》の高島田《たかしまだ》か何かで、恐ろしく品の好いお嬢さん。あれァあなたと一対の雛様《ひなさま》と言ってもいい位だ」
若「何を言ってるんだえ。そんな者じゃァないよ」
金「そうでないと……、どうも見当が付かないな。じゃァ出入りの中に何かお気に入った娘でもあるんでございますか。何しろ仰しゃいな。親御さんがご心配をなすっているのに、あなたが何にも仰しゃらないのは、親不孝になりますよ。ねえあなたお言いなさいな」
若「よくペラペラ饒舌《しゃべ》るね騒々しい」
金「騒々しいったって、饒舌らなければ分りません。何も私に遠慮はないじゃァございませんか」
若「そんなに金兵衛、阿父《おとっ》さんや阿母《おっか》さんがご心配をしていなさるかえ」
金「ヘエご心配どころじゃァございません。どういう者を思っているのか聞いてくれと私が実はいいつけで伺ったので、倅の気に入ったものならば女房にしてやろうとこう仰しゃるのでございますから、あなたが速《すみや》かに言って下さらないじゃァ困ります」
若「ウム、金兵衛、それなら話をするがね」
金「ヘエ」
若「実はマア私の考えじゃァ、先方《むこう》も病《わずら》っているだろうと思うんだ」
金「ヘエー相惚《あいぼ》れでげすか。それじゃァ差し支えないじゃァございませんか。誰でございます」
若「実はこういう訳なんだよ。去年上野へ花見に行った事があったね」
金「ヘエへエそうでございました。私はあいにく加減が悪くって、お供が出来ませんでしたが」
若「アノ時に清水堂《きよみずどう》のそばの所で、家の定吉《さだきち》と先方の小僧さんと、草履《ぞうり》の放《ほう》りっくらをしているうち、ちょどそのそばに職人が五六人、花見をしていて、先方の小僧さんの放った草履がぶつかったので大層怒ってね」
金「ヘエ」
若「スルト先方のご主人だろう。人品《じんぴん》の好い人が行って、何だかしきりにあやまって、小僧の汚したお肴《さかな》をこちらへ頂戴して、こちらのお肴と取替えて差し上げると言ったのが職人の気に障って、何も肴の事を言うんじゃァねえ。悪い肴も好い肴もあるものかと言うんで、大変に怒った」
金「なるほど道理《もっとも》で」
若「それからマア私がそこへ入って段々あやまって先方の小僧が放ったのだけれども、こちらの小僧がしたようにして、温順《おとな》しくあやまったものだから、職人も我が折れて私に免じて勘弁をしてくれた」
金「なるほど、あなたなら勘弁をしましょう。お優しいからね」
若「その時にたいそう先方の阿父《おとっ》さんが喜んで」
金「ヘエなるほど、じゃァ親父の恋病いでございますか」
若「そうじゃァないよ。マア話をお聞きよ」
金「ヘエ聞きましょう。それからどう致しました」
若「そのうちに一人、娘さんがいてね、その娘が私の所へわざわざ礼に来た」
金「ヘエ、なるほど、そうでございますか。じゃァ雑作《ぞうさ》もない事で……。シテそれは何処の人でございます」
若「ただ麹町《こうじまち》と言ったきり、名前も何も聞かなかったし」
金「それは困りましたな。けれどもナニ宜しうございます。麹町と言えば十三丁目残らず、捜せば知れないこともありますまい。しかし何かその麹町というほかに、キッカケはございませんか」
若「キッカケ……あるよ」
金「あるならなお宜しうございます。何でげす」
若「こっちはその娘からよこした物がある」
金「よこした物が、拝見しましょう」
若「お前だから見せるけれども、他の人に見せちゃァ困る」
金「エエ誰にも見せやァしません。何でございます。……何だかたいそう大事にしてありますね、オオ扇子《せんす》でげすな。これァどうもあなた罪が深いや、時代だね、扇子をよこすというのは、ヘヘヘヘヘなるほどこれァ立派なものだ何か書いてありますね、エエ……瀬《せ》をはやみ岩にせかるる滝川《たきがわ》の……ヘエこれは百人一首の崇徳院様《すとくいんさま》の歌で、下の句が、われても末にあわんとぞ思ふ……と言うんだ。これは若旦那本物でございますよ。きっと先方も病《わずら》ってます」
若「そうかえ」
金「エーッ病ってますとも、これを今まで打捨《うっちゃ》っておくという事はありませんよ。どんな事をしても私がきっと捜してあなたと夫婦にして上げます」
若「金兵衛、お前本当かえ」
金「エエ雑作もない事で、大丈夫受け合いました。時にねえ若旦那、あなたのあの唐桟《とうざん》のお召《めし》を頂戴したいんでげすが」
若「上げるよ」
金「けれども唐桟の衣類《きもの》が出来てみると、悪い下着じゃァ面白くない。……アノ更紗《さらさ》のお下着が頂戴できますまいか」
若「上げるよ」
金「けれども帯が小倉《こくら》じゃァいけない。あなたの博多の帯を」
若「上げるよ」
金「戴けますか、有難う存じます。そうなってくると羽織がないと、何だか変でげすが、アノあなたのお派手の方では私には似合いませんが、くすんだ方のを頂戴したい」
若「アアいいとも、上げよう」
金「それやァどうも有難う存じます。着物から羽織、帯まで支度が出来てくると、どうも懐中《かいちゅう》が淋しくては面白くないな」
若「何を」
金「イエ」
若「無ければ上げるよ」
金「ヘエ頂戴が出来ますか、有難う存じます。紙入ればかりでは何でございますが、ついでにお金を五十金ばかり」
若「欲張ってるねお前は」
金「けれども若旦那、これから麹町十三町目を尋ねるというのはなかなか大変で、おまけに雲をつかむような尋ね者で」
若「アア分った、上げるよ」
金「有難う存じます。さっそく私が尋ね当てますからご安心なさいまし」
若「じゃァ金兵衛、なにぶん頼むよ」
金兵衛喜んで若旦那の屋敷から出て参りまして、
金「旦那さま分りました」
主「エエ分ったかえ」
金「ヘエ実は去年お花見を見に行った折に、小僧さん同志で、草履の放りっくらをして、それがお職人たちの食物の中へ入ったと言うので、間違いが出来た所が、若旦那が中へ入って納まったので、先方のお嬢さんが礼に来たんだそうで」
主「ウム、そんな話をチラリと聞いた」
金「そのお嬢さんを若旦那が思っておいでなさるんでげすよ」
主「そうか。金兵衛さん、それは何処の娘だか知ってるかえ」
金「私はその時参りませんから知りません。何でも若旦那の仰しゃるには、麹町だという事でございますから、私はこれから探します」
主「それは気の毒だがそうしておくれ」
金「宜しゅうございます」
それから金兵衛が彼《か》の扇子を懐中《ふところ》にして、毎日のように麹町を探しましたが、どうも分りません。と言ってまさか一軒々々聞いて歩く訳にもなりません。目ぼしいところを当りましたが、どうも当りがない。落胆《らくたん》したがそのままに過ごす訳にもなりません。いろいろ考えてなるたけこれは人の大勢集まる所へ行って聞き出すに限ると、湯屋髪床《ゆやかみどこ》のような所へ参りまして、世間話を聞いている。終いには湯屋髪床なぞは馴染《なじみ》になるくらい、ある日のこと、
金「ハイこんにちは」
○「イヤこれは先ほどのお客さん」
金「モウ髭《ひげ》を剃《そ》るのじゃァない。親方お銭《あし》は置くが髭はいいんだよ。モウ行き所がないからまたここへ来たんで」
○「ヘエ、あなた何かご用でございますか」
金「用という訳じゃァないが、何となく湯屋髪床が好きになってね。今日は今朝《けさ》からお湯に八度入ってスッカリのぼせてしまった。髪結床へお前の所の外に、三軒で剃ってもらって、もう顔がピリピリしてきた。誠に気の毒だけれども、眠くてたまらないから少し居眠りをさしてもらいたいんだ」
○「宜しゅうございます。そこに布団がありますから、横になって……ゆっくりお寝《やす》みなさい……」
頭「こんにちは」
○「オオ鳶頭《かしら》寄ってお出でな。今やれますぜ、ここにいる方はやるんじゃァねえから。……マアいいじゃァございませんか、鳶頭にも似合わねえ、たいそう髭が生えてるじゃァねえか」
頭「ちょっと剃ってもらいてえと思うんだけれども二三日忙しくって弱っちまった。店の用で毎日毎日歩いているんだ」
○「お店《たな》のご用で、それやマア結構だ。いずれ儲《もう》け口なんで」
頭「イヤ儲け口じゃァねえ、店のお嬢さんが病気なんだ」
○「ヘエー、お店のお嬢さんと言うと」
頭「ソレ皿屋《さらや》の」
○「あアアそうですかえ。何病気なんで」
頭「何病気だって、何だかブラブラしているんだ。マア親方だから話をするがね。ナニサしっかり聞いておけばいいんだのに」
○「何を」
頭「ウム、恋病いなんだ」
○「ヘエー」
頭「若えうちはずいぶん有りがちな事で、去年何だかお花見に行っての、ある所の若旦那を見染めたんだ。その時に何だったそうだ。若旦那へ扇子を印に置いてきたんだ。その扇子に歌が書いてあったとさ。ところが肝腎《かんじん》の名前も所も聞かねえから、何処の人だか分らねえで、マア扇子をやったと言うのを目当に、毎日俺が諸方《ほうぼう》尋ねて歩いてるんだ。江戸中残らず歩いて分らなけりゃァ仕方がないから、東海道《とうかいどう》から、中仙道《なかせんどう》は申すに及ばず、木曾街道《きそかいどう》の方へも出掛けなけりゃァならねえ」
亭「ダッテ頭、まさか東海道や木曾街道からわざわざ花見に出て来やァしますまい」
頭「それァマアそうとも思うけれども、しかし分らなけりゃァ何処までも探してみなけりゃならねえ」
話を聞くと寝ていた金兵衛が、
金「しめた」
と言うと起き上がっていきなり鳶頭の胸倉《むなぐら》を取って、
金「こん畜生」
頭「アー痛ェ痛ェ何だ手前は、ヤイ何だ」
金「何も糞《くそ》もあるものか」
頭「ヤイ何をするんだ。放さねえか」
金「放してたまるもんか、会わせるんだウーム」
頭「じょうだんじゃァねえ。おれの咽喉《のど》を締めてどうするんだ」
金「どうするったって逃がすものか、この野郎」
頭「何だ逃げも隠れもしやァしねえ。どうしたんだか、気を落付けて理由《わけ》を話せ」
金「サアお嬢さんの恋病いの種というのはこの扇子だろう」
頭「ナニ扇子」
金「実は今ここで夢のように話を聞いていたが、扇子と言われたんで気がついた。この扇子に歌が書いてある。瀬をはやみ岩にせかるる滝川の、唐桟《とうざん》の上着に更紗《さらさ》の下着、くすんだ羽織に博多《はかた》の帯、紙入の中へ金が五十両……モウ目が見えぬ、ウーン」
頭「サア大変だ、親方この人は目を眩《まわ》してしまった。水を打掛《ぶっかけ》ろ」
大騒ぎで、ようやく気がついて扇子を開いてみると、彼の歌が書いてある。これで双方話が分って、段々聞き合わしてみると立派なもので、麹町十丁目の骨董屋《こっとうや》皿屋という家の娘と知れ、さっそく話がまとまって今まで何処の人とも知れず、互いに思い合っていた念が届いて夫婦になったという、誠におめでたいお話でございます。
[解説]サゲはいろいろにやる。もともと人情噺である。がまた、想い合った二人が夫婦になって、後に、女房が病気になって「どうか自分が死んでも後妻を貰ってくれるな、あなたが後添《のちぞ》えを貰えば私は怨んで化《ばけ》て出ます」と遺言をして死ぬ。そうして三年目になってその幽霊が出るという即ち「三年目」に続くのだという説もある。大阪では「崇徳院《すとくいん》」という題になっている。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
二人書生《ににんしょせい》
―――――――――――――――――
これは明治末期の新作落語と思召《おぼしめ》してご覧を願います。
甲「オイ君、君は故郷《くに》から学費が充分に来るから構わんだろうが、僕は先々月からしてまったく金が来ない、もっとも僕は不幸にして早く両親に別れ、伯父から学費を貢《みつ》いでもらっているのだからして、強く請求する事もできん、やむを得ず、近ごろは苦学をしているが、ついてなァ、僕はおおいに経済の方法を考えたが、君同意をしてくれんか」
乙「ハア、経済の方法というは結構だが、どういう事だ」
甲「この下宿におって費やす一カ月だけの金があったら、三月《みつき》くらいはやれる事を考えた」
乙「ハア」
甲「つまり家《うち》を一軒借りるのだね」
乙「なるほど」
甲「その家を僕は探して来た、少し不便の所ではあるけれども非常に家賃が安い、六畳に四畳半に三畳でちょっと庭もあって畳建具《たみたてぐ》付き一切《いっさい》一カ月三円というなァ近ごろ物価|騰貴《とうき》の世の中に実に破格の廉価《れんか》じゃァないか」
乙「ハアそれは何か因縁《いんねん》付きじゃァないか君」
甲「イヤ別に因縁といっては無いが、二百坪ばかりの空地《あきち》へ一軒建ての家で近くに長屋《ながや》が出来るんだそうだ、それまでのあいだ家主があけておくのが嫌だから、安くとも貸したいというんだ、それに塞《ふさ》がっていれば、かえって家も損じゃない、第一|空店《あきだな》にしておくと夜|乞食《こじき》などが入って寝て物騒《ぶっそう》でいかんから早く塞《ふさ》げたいというので、勉強をするには君|閑静《かんせい》ですこぶるいいぜ」
乙「なるほどそれも一理《いちり》あるな」
甲「そこでこの家を借りて、食い物は近所の弁当屋と特約しておくと先方《むこう》から三度三度配達をするがこれも安いぞ、三度食って一日三十銭、どうせろくな物は食わせんけれども我慢するのだね、経済だから……、君は三度食いたまえ、僕は二度にしておく、二度なら二十銭で済むだろう、腹が空いたら芋でも何でも食っとくからいいさ、そうして勉強したら大いに経済だ、どうだ君同意してくれんか」
乙「なるほど、それはいいねえ、僕だって充分に金があるというわけでもないからそれは同意するが、いったい君それはどこだ」
甲「浅草光月町《あさくさこうげつちょう》だ」
乙「ウム、浅草光月町というと、神田《かんだ》の学校へ通うにはちっと不便だが、経済上徳用なら少しくらい遠いのはかまわん、我々はお互いに健脚《けんきゃく》だからな」
甲「そうだ、それじゃさっそく移転するとして、家主の所へはがき一本出しておいて明日すぐに移転する事にしよう」
と相談がまとまりまして、その翌日|本郷《ほんごう》の下宿を引き払い、元々大した荷物もありません。小さな柳行李《やなぎごうり》が二つ、煎餅布団《せんべいぶとん》の汚いのに、机、本の一包み別に着がえの衣類《きもの》もありません、それに小さなランプが一つ、縁《ふち》の取れた角火鉢《かくひばち》が一つに土瓶《どびん》に茶碗、むろん客用のものなどはございません、これだけ車に乗せて自分らが傍へついて光月町へ引越して参りました。掃除《そうじ》なども碌《ろく》にしない、手桶《ておけ》代わりのバケツとブリキ柄杓《ひしゃく》、炭を少しばかり買い込んでとにかく一世帯《いっしょたい》ここへ構えました、それでもマア今日は引越しで目出度いというので、蕎麦《そば》を取って飯《めし》の代わりにいたし、その夜二人は枕につきましたが片方《かたっぽう》の方は大胆《だいたん》の男でいたって暢気《のんき》の性質でございますから、高いびきでグーッと寝込んでしまいました。片方の人は少々|臆病《おくびょう》のところへ家が変ったので就眠《ねつ》かれません、そのうち段々に夜が更けて午前の二時ごろ世間はしっとりといたし、弁天山《べんてんやま》の鐘の音がボーンと大川に響いて聞えるのが何となく物凄く、戸の隙間から吹き込みまする風がダンダンと障子《しょうじ》に当り、昼のうちから催しておりました雨がザーッと降り出してまいりました。昔と違っていくら辺鄙《へんぴ》とは言え、東京市内、夜夜中でも電気や瓦斯《がす》で往来は明るく人通りの絶える事のないこの世の中に恐いの恐ろしいのという事はない筈でございますが、そこが臆病、男のくせに一人で便所へも行かれない人物、アア何だか陰気《いんき》だなアア本郷と違って淋しい所だと、思っていると天井裏《てんじょううら》で突然にガタガタ、
乙「アア肝《きも》をつぶした、鼠の畜生、不意に暴れ出したんで何か出たと思ったが、この男はまた平気でよく睡《ね》ているなァ」
またしばらくウトウトしていると、どこともなくウームという唸《うな》り声がかすかに聞えます。いよいよ堪らなくなって
乙「オイ君、起きてくれたまえ、……よく睡ているなァ……、オイ起きんか」
揺さぶり起され、ようようの事で眼を覚して
甲「どうした夜が明けたか」
乙「まだ夜は明けやせん」
甲「夜も明けないのになぜ起したんだ」
乙「なぜ起したというがな君、店賃《たなちん》の安い原因が分ったよ」
甲「何だ」
乙「出るよ」
甲「何が出る」
乙「僕は元来《がんらい》家が変ると眠られん性分《しょうぶん》だが、今夜も横になったきり、まるで眠れん、モジモジしているうちに、夜が段々更けて四辺《あたり》はひっそりとして来た」
甲「ウム」
乙「スルト君、鐘の音がボーンと聞える、戸のすき間から風は入って障子《しょうじ》がガタガタいう、雨が降ってくる、イヤどうも陰々《いんいん》として僕は堪らんのだ」
甲「相変わらず臆病だな」
乙「すると君、天井で突然にガタガタガタと来たろう」
甲「何だ」
乙「それやァ鼠だ」
甲「鼠なんぞに驚く奴があるか」
乙「初めから鼠としってりゃァ驚かんが、ひっそりとしている所へ不意を食ったんだもの、驚かずにはいられないよ、それだけならいいが君、耳を澄まして聞いてみたまえ、どこか分らんがウーンとかすかに唸《うな》り声が聞える、確かに何かいるに違いない」
甲「何かいるといって君、この家はこの三間《みま》より外にないんだから、外に何かいようがないじゃァないか」
乙「それが君、確かに唸り声が聞えるよ、それじゃァ近所に病人があるんだ、病人という奴は昼間のうちは唸っても聞えないが、夜が更けるとよく聞えるものだ」
甲「いくら夜が更けても、このように離れている所で他の家の病人の唸り声が聞えるものか、第一病人なら一つ所で唸りそうなものだ、イヤそれは君の神経が一カ所で唸る奴がそう聞えるのだよ、何も唸っておらんじゃァないか」
乙「マア静かにしていてみたまえ、かすかに唸り声が聞えるから」
両人はしばらく黙っておりましたが、
乙「それ君、唸ってるだろう」
甲「ウーム唸ってるな、なるほどこれやァ当家のようだ、どこだろう、ハテナどうも不思議だ」
乙「君、この畳へ耳を押し付けてみたまえ、どうも縁の下のようだ」
甲「待て待て……オイ君わかった、まさに縁の下だ、ちょっと手を貸したまえ」
乙「どうするんだ」
甲「畳を上げてみるんだ」
乙「止したまえ君、薄気味が悪いや」
甲「馬鹿ァいえ、男子の癖に気味が悪いとは何だ、手を貸さんか」
乙「君止そうよこんな危険の家は……、僕は夜が明けたら元の本郷の下宿へ帰るよ」
甲「意気地のない奴だな、よし、君が手を貸さんければ僕は一人で調べてみる」
といきなり畳を三畳ばかり上げて、根太板《ねだいた》を二三枚剥がして、ランプの燈火《あかり》で縁の下を覗いてみると、さすが大胆の書生さんも驚きました。縁の下に恐ろしい大きな穴が掘ってありまして、その中で唸ってる者がある。
甲「オイ君、此所《ここ》だ此所だ、この縁の下に穴が掘ってあるぞ」
乙「エー穴が」
甲「ウムその中で何か唸ってる、オイ君、手を貸せ、中の者を引きずり出すから」
乙「アアこれは弱ったなァ、すまんけれどもどうか勘弁してくれたまえ」
甲「君はなぜそう臆病だ、よしおまえの手は借りんぞ、そこで見ておれ、僕が一人で引きずり出すから」
寝衣《ねまき》を脱いでシャツ一枚になって縁の下へ入ると、穴の中にいる男を一人引きずり出すと、まだ跡に女が一人おります。女のほうは真蒼《まっさお》になって目が窪んでしまい、頬肉が落ちて鼻がツンと隆《たか》くなって、髪が乱れ、髪の毛が両方へ垂れてそのすごいこと幽霊のような姿でございます。これを見ると臆病先生ブルブル慄《ふる》え出して、
乙「オイ君止せよ、なぜそんな物を引っ張り出すんだ、化け物だか何だか知れんものを、元の穴の中へ入れてしまえ」
甲「馬鹿ァ言え、これ見ろ、化け物じゃァない、人間だ人間だ、まだ生きてるんだ、コレきさまたちは何か」
尋ねても口が利けません、水を持って来て一口飲ませ、親切にいろいろ介抱《かいほう》してみると、ようようのことで口が利けるようになりました。
甲「オイ、コラしっかりしろ、判るか、僕らは今日この家へ引越して来た者だ、しかるに君らがこれに唸っておることを発見して引きずり出したのだが、どうしてこんな惨酷《ざんこく》な目にあっておった、オイしっかりしろ、どうしてこんな目にあっておった」
男はようようかすかな声を出して、
男「ハイ、ご親切に有難う存じます。ここにおります女は元この家に使われておりました者でございまして、私はその主人と懇意《こころやす》いので、チョイチョイ遊びに参りました、主人と言うのは独身者《ひとりもの》で、この女を雇いまして閨《ねや》寂しさにしきりに挑みますのを女が嫌って主人のいうことをききません、ところがどういうものでございますか、これが私に、へへ惚れましたのでございます」
甲「イヤこれは怪《け》しからんな、オイ君聞いたか死にかかって惚気《のろけ》を言ってるぜ、それからどうした」
男「けれども主人が想いをかけてるのを知っておりますから、私が断りましたが、どうしてもききません、この願いが叶わなければ死んでしまうと言います。人の命に拘わる事でございますから可哀相だと思って、私もとうとう是非に及んだ訳でございます」
甲「どうもこれは厳しいな」
男「そうなると心を引かれて余計こっちへ遊びにくるような事になりました。ところが悪い事は出来ないものでございますな、いつか主人に知れたものと見えます、もともと自分が想いをかけている女と私が不都合を働きましたので、嫉妬《しっと》のために一層腹立ちが強うございまして、ある日今夜は帰らないから、締まりをして寝てしまえと言って出ていったあとへ私が参りますと、女が今夜は主人が帰らないから心おきなく泊って行ってくれろと言うので、その晩私が泊りました、スルトちょうど夜の二時頃になると裏の戸を蹴破って主人が飛び込んできて、どうもこの間から二人の様子が訝《おか》しいと思ったが実地を見ないから黙っていたが、主人の留守へ来て寝泊りをするなどとは不都合の男だ、女も女だ、よくも人に恥をかかせたな、どうするか見ろと、二人を縛って置きまして縁の下へ穴を掘って二人を入れ、ここから出るとじきに来て叩ッ殺してしまうといって、二三日前どこかへ引越して行ってしまいました」
甲「ハア、嫉妬のために腹も立ったろうが、けれどもあまりといえば惨酷だ、今日は法律もあれば警察もある、君ら二人の命は僕らが助けてやる」
男「有難うございますが、実は私ども二人が悪いので、どうかこのまま元の穴へお入れ置きを願います」
甲「馬鹿なことを言うな、あまり惨酷だ、構わんから出ろ、その男が来たら僕らが談判してやる」
男「イエそれが、私ども二人がこういう目に遇っても仕方がない訳がございます、というのは二人が捕まりました時に、たった一言《ひとこと》言ったことが悪かったので」
甲「ハア、何ということを言った」
男「穴があったら入りたいと申しました」
[解説]明治時代に、新作落語を多くやったのは、先代の三遊亭|金馬《きんば》である。金馬はこれも先代の三遊亭|小円朝《こえんちょう》の門人で、前名を円流と言ったが、もともとお盆をこしらえる盆屋職人であった。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
薬違《くすりちが》い
―――――――――――――――――
一席お古いお笑いを申し上げます。人間は病《やまい》の器《うつわ》とかいいまして、病気の数もなかなかたくさんありまするそうで、どんなご丈夫な人でもなにか病の無い人はない。中には求めて煩《わずら》うような者があります。いわゆる暴飲暴食、飲みすぎたり食いすぎたりして、身体を悪くする。
昔からずいぶん威勢のいい人で、俺は汁粉《しるこ》を十二杯食ったとか蕎麦《そば》を坐《すわ》ってる丈《たけ》だけ食ったなどと自慢をいうかと思うと、俺は酒を日になん升《じょう》飲むなどといって威張ってる者もある。
ある時そういう人ばかり集まって食い物の会というのをいたしました。なんでも人の食わない物を食おうという催し、その時の番付けで東の大関になったのが雪駄《せった》の裏皮を一枚食ったという。大変な奴があればあるものでそれに醤油を五合飲んだのがありますがこれは間もなく死んだそうでございます。なにも命懸けでそんなものを食わないでもよさそうなものだが、昔はこういう人がよくあったようでございます。
ところでまた病気に罹《かか》ればどうしても早く医者の診察を受けて薬を飲まなければならんもので、しかるに心得違いから病気に罹っても薬を用いず、俺は呪咀《まじない》で治すとか、ご祈祷あるいは呪咀などということもあながち頭からけなしたものでない。つまり神経を休めるだけの利生利益《りしょうりえき》というものはきっとあるに違いないが、どうもこれに凝りすぎて、神仏に無理な願掛けなどをして迷いのためにだんだん身体を悪くしてしまう人がいくらもあります。
上野《うえの》に夫婦杉《みょうとすぎ》という杉がございまして、この杉に願を掛けると、なにか縁談がまとまるとか、または板橋《いたばし》に縁切り榎《えのき》というのがあって、この榎の皮を煎じて飲ませると、まとまった縁が切れてしまうなぞといって、一時はたいそう行われたものでございます。
もっとも虫類《ちゅうるい》にも井守《いもり》の黒焼きというものがありまして、お成り街道に黒焼き屋さんが二軒ならんでいて、両方とも本家元祖としてあるが、どっちが本家だか元祖だかわかりません。ところでこの井守の黒焼きを想った人に掛けると先方《むこう》から靡《なび》いて来るというが、似た虫でも宮守《やもり》と来るとまとまった縁が切れる。|いもり《ヽヽヽ》、|やもり《ヽヽヽ》ただ一字の違いだが、切れるとまとまるとは大変な違いでございます。
ところでまたおそらく危険なのは薬違いで、どんな名医でも薬の配剤違《もりちが》いがないというわけではございません。いくらけっこうな薬でも、病に適さないものを服《の》んだらけっして治る気遣いない。毒薬も変じて薬となれば、良薬も病によっては毒薬になります。
○「オオ熊《くま》、与太《よた》の野郎が二三日前から寝ているってえから見舞ってやろう。ばかめ、隣りの婆さんでも頼んでちょっと知らしてよこしやァいいのに。平常《ふだん》から兄弟分とかなんとかいって交際《つきあっ》てるんだ、こんな時には知らせて来るがいいじゃァねえか。俺ァ今日までちっとも知らずにいた……オヤオヤどうしたんだ、表戸が閉まってる、ハテナ医者へでも行ったのか。オオ鍵が掛かっていねえや……オオうちか、与太やい、いねえのか。……イヤ鼾《いびき》が聞こえるようだからいるんだぜ、なんてえ真っ暗なんだ、どこもここも閉め切りやァがって、オオうちにいるのか、冗談じゃァねえ。なんだってこんなに閉め切って寝ているんだ、毒だから熊開けちまえ。どうしたんだ与太、布団を被って、なんだか身体が悪いというじゃァねえか。今日聞いたからさっそく見に来たんだが、どんな工合《ぐあい》だ」
与「アアあにきか、どうも俺はいけねえ、だいぶ工合が悪いよ」
○「医者に診てもらったか、薬を飲んだか」
与「それが俺の病気は医者や薬ではとても治らねえんだ」
○「医者や薬で治らねえ。どうして治らねえと、てめえきめてしまった」
与「浴びるほど薬を服んだって治りやしねえ。自分で自分の病がわかってるから、俺は医者に掛からねえ」
○「ばかなことをいってやがる、自分で自分の病がわかるものか。どんないい医者だって、自分の身体の悪い時には、ほかの医者に診てもらうくらいだ、素人のてめえに自分の病がわかるものか。マアどこが悪いんだ」
与「どこだって、おめえに話をすると笑うからな」
○「ばかなことをいうなよ、朋友《ともだち》の病気を聞いて笑う奴があるか。笑やァしねえからいって見ねえよ」
与「そんなら話をするがな、俺の病気は……マア止そう」
○「なにをいやがるんだ、いって見なってんだ」
与「きっと笑わねえか」
○「笑わねえからいって見ろよ」
与「そんなら話をするが、あにき、俺の病気は……、アア笑いそうな顔をしていらァ」
○「変な奴だなこン畜生。熊てめえが笑いそうな面をしているからいかねえ、あっちを向いてろ、……サア笑やァしねえからいって見な」
与「あにきなにを隠そう俺の病気は、お医者様でも草津《くさつ》の湯でもというんだ」
○「お医者様でも草津の湯でも……」
与「惚《ほ》れた病は治りやせぬって、恋わずらいだ」
○「恋わずらい、ウフッ……」
与「ソレ見ねえ、おめえ笑うじゃァねえか」
○「ダッテ笑わずにゃァいられねえやな、エー恋わずらいという柄じゃァねえぜ」
与「柄でわずらうものか」
○「そうでねえよ。昔から恋わずらいの一つもしようてえ奴は、モッと優美《しとやか》ないい男だ。そんなぶち殺しても死なねえような身体をして、……マアいいや、恋わずらいなら恋わずらいでいいが対手《あいて》はなんだ。亭主のある女なら諦めろ、このくらい罪のこたァねえ」
与「ナニ亭主はねえ、あにきおめえも知ってる女だ」
○「ナニ俺も知ってる女、誰だ」
与「この家主《おおや》の娘だ」
○「この家主の娘、どこだったなァ家主は」
与「ソレ横町の伊勢屋《いせや》よ」
○「アアなにか呉服屋の娘を見染めたのか。こン畜生ズウズウしい野郎だなァ。マアどうも見初める者にことを欠いて町内で小町娘という評判の女じゃァねえか。破鍋《われなべ》に|とじ《ヽヽ》蓋、物には釣り合いというものがあらァ、モット相当の所を見染めて置け。けれどもマアてめえも男だ、見染めるのも無理はねえ。アノくらいの美《い》い女はたんとねえ、どこといって非の打ち所がねえからな。なにか店にでも坐ってる所を通り掛かって見染めたのか」
与「ナニそんなことなら諦められるが、そんなんじゃァねえんだ。差し向かいで一つ物を飲み合った仲だから、どうも諦らめらんねえや」
○「差し向かいで一つ物を飲み合った仲だ。フーム、どうしてそんな深《ふけ》え仲になったんだ」
与「そも馴れ染めの始まりは」
○「止せ、こン畜生。いくら恋わずらいだって、そんな色ッぽいことをいわれると、ぞっとするじゃァねえか。初めどうしたんだ」
与「あすこのうちへ買い物に行ったんだ」
○「なにを買いに行った」
与「晒布《さらし》を六尺《ろくしゃく》」
○「恋わずらいをする奴が買いに行く品物じゃァねえな」
与「娘が俺の顔を見てニコニコ笑っていた」
○「ウム、そりゃァ笑うよ。見つけていてさえおかしな面《つら》だから、たまに見りゃァたまらねえよおかしくって……」
与「マア黙って聞きねえよ、ご近所の方だから尺を負けておあげといった」
○「フーム」
与「うちへ帰って来て見たら、|ふきん《ヽヽヽ》だけ余計|布《きれ》があったから、アア嬉しいと思った」
○「なにをいやァがるんだ、それが恋わずらいか」
与「まだ先きがある」
○「長《なげ》え話しだな」
与「その日の暮れ方のことでな」
○「ウム」
与「俺が路次《ろじ》の所に立ってると、娘が通り掛かったから、先程はありがとう存じます。ちとお遊びにいらっしゃいといったら、あなたの所へうかがいたいんですが、あなたおかみさんがあるんでしょうッて」
○「そんなことをいう者かい」
与「ほんとうにそういったんだよ。それから、けっして気兼ねの者はおりませんからいらっしゃいといって連れて来た」
○「エエ連れて来た、ここへ来たかえ」
与「来たとも、俺と娘と差し向かい……」
○「フーム。こン畜生、そばへだんだん寄って来やがるな、モウちっと離れてろ。今年や南瓜《かぼちゃ》の当たり年だなァ、それからどうした」
与「俺が茶を入れてやったら、先方で旨そうに飲んでるのを見て、俺は嬉しいと思ったら目が覚めた」
○「目が覚めた」
与「じつは夢だがな……」
○「なにをいやがるんだばか、夢なら夢だと先きにいえ、なんだ夢を見て恋わずらいか」
与「それからというものは寝ては夢起きては現《うつつ》、幻の娘の姿が目にちらつき、なにをしようと思っても手につかず、食い物はだんだん食えなくなる……」
○「そうか、それはいけねえな、ちっとも飯は食わねえか」
与「飯は六ぱいぐらいずつしきゃァ食えねえ」
○「それじゃァ食えねえ方でもねえ、ずいぶん大食いの方だ」
与「それでもたいへん弱ったよ」
○「なにしろ困るじゃァねえか、そんなことをいって寝ていちゃァ。しかしまるで手掛かりがねえことはねえ、家主なのを幸い、店賃《たなちん》でも持ってった時に、間《ま》を見て袖でも引っ張って見ねえ」
与「それがちょっと行きにくい訳があるんだ」
○「ダッテてめえ、晒布を買いに行ったてえじゃねえか」
与「夢だよ」
○「アアそれも夢か。どうして行かれねえ」
与「店賃が七月《ななつき》たまってる」
○「大変に滞めやがったな」
与「なかなか骨を折って」
○「骨を折って店賃を溜める奴があるか、ばかだなァ。店賃が七月たまってるところへ行って色ッぽいこともいえねえし、第一どうも違《ちげ》えすぎるからなァ。先方は女が美《よく》って人間が利巧《りこう》で金のあるうちの娘と来ている。それに引き換えて、こっちは銭がなくって、面が醜《まず》くって、人間がばかだから、こんな所へ来やァしねえ」
与「あにきそんなことをいわねえで、なんとか力をつけてくんねえ」
○「ダカラ俺も力をつけてみようと思って考《かんげ》えてるんだ。どうしても先方から仕掛ける恋でなければまとまらねえが、なんとか先方から靡いて来るてえ工夫はねえかな……アアいいことを考え出した、井守の黒焼きを想った女の着物へ掛けると先方から靡いて来るてえことを聞いたが、熊、朋友が生死《いきしに》の境だ、笑ってねえで、ここに銭があるから生薬屋《きぐすりや》へ行って井守の黒焼きを買って来な。急いで買って来い……与太|心配《しんぺえ》するな、朋友が付いている、もしいけなけりゃァほかにだって女はあらァ、死ぬなんぞという了簡を出すな……アアご苦労だったどうした、あったか、それはよかった。困ったなァなにか効能書きが書いてあるが、あいにくと三人寄っていろはのいの字も読めねえと来ている。かまわねえからこれを先方の着物へ皆振り掛けてしまったらどうかなるだろう。しかし、どうか娘の傍へ近寄る工夫をしなくっちゃァならねえ」
与「それにゃァあにき、いいことがある。俺の所から屋根続きで、伊勢屋の物干しへ行かれる。時にァ娘の着物が夜干《よぼ》しになってるから、もし今夜にも乾かしてあったら屋根伝いに行ってぶっ掛けて来る」
○「ウム旨《うめ》え所へ気が着いた、間違えて婆さんやなにかの着物へぶっ掛けるな。出来ねえからって死ぬなんて了簡を出すな。俺もモウちっと遊んでってやりてえが、仕掛けた仕事があるからそうしてもいられねえ、また明日来るからな……」
朋友という者は頼もしい者でございます。その晩一晩心配して翌朝またやって来ました。
○「おはよう。どうした与太……やァ坐ってやがる、少しは工合がいいか」
与「あにき、スッカリ病気が治った」
○「病気が治りや、締めたな。どうしたんだ」
与「薬の効能《ききめ》が現われた」
○「ウム薬の効能が現われたか」
与「昨夜な、見た所が娘の着物が夜干しになっているからな、残らずぶっ掛けて来たんだ」
○「ウム」
与「そうすると今朝な、女中が来て、お嬢様があなたに少々お話をしたいことがありますから、お手間は取らせませんから裏口からちょっといらしってくださいといった」
○「ウームどうも驚いたなァ、薬の効能というものはたいそうなもんだなァ、そうかえ。けれどもおかしいな、どうも両親がいるのに真っ昼間来いというのは……」
与「それが両親とも今朝早くどこかへ出掛けて行って、奥には娘と女中ぎりだ」
○「ウーム、この節の女は利巧だな。そうかなにしろ行って来ねえ、馬子《まご》にも衣裳髪形ということがある、どうにかしろ、大変な頭だなァ、煙突の掃除棒見たような頭をしてやがる。水でも付けて掻《か》いたらどうだ、櫛がなけりゃァ手でもいいから掻け。着物をキチンと着て旨くやって来い、待ってるから……アハハ出て行きやァがった。しかし熊の前だが、人間はばかだがあいつは面に似ねえ柔順《おとなし》い男だから、うまくするとこの恋は叶《かな》うかも知れねえぜ。なにしろ汚ねえから少し掃除をしてやれ。ナニ飯粒がついてる、そうだろうぶしょうだから。オヤオヤ黴《かび》が生えてやがる、アッ臭えななんてえ汚ねえんだろう男鰥《おとこやもめ》に蛆《うじ》が湧くたァこのことだ、これで伊勢屋の娘を見染めるなんて、ズウズウしい奴があるものだ。アア帰《けえ》って来た、どうだった、旨くいったか」
与「アアあにき、またぶり返しそうだ」
○「どうした」
与「俺が行った所がな、女中が奥へお通んなさいというから、しめたと思って奥座敷へ入ったら、長火鉢の傍に娘がいた、それから俺が嬉しいと思ったら、身体がゾクゾクとした、将来《ゆくゆく》はこの長火鉢を間に娘と差し向かいで坐れると思うと、あなたお忙がしい所をお呼び申してすみません、というからどういたしまして、ご縁談のことならご遠慮なくおっしゃってくださいとそういった」
○「思い切ったことをいやがったな、ばか野郎。先方でなんといった」
与「飛んでもないことでございます。外ではありませんが、あなたは、お家賃が七月とどこおっております……」
○「なんだな、縁談ごとに家賃の催促を食うってえのは」
与「俺もおかしいと思った。そうすると、そのお家賃の六月の所は、手前の方で棒を引いて差し上げます代わりに、ちょうど根継ぎ前になっておりますから今月のうちに店《たな》をお明けなすってくださるよう、親共が申して出掛けましたって、あにき店立《たなだ》てを食って来た」
○「ナニ店立てを食った……、変だなどうも。縁談と店立てとはたいへん違うな、オイそういえば熊、てめえ買って来たアノ薬は井守だろうな」
熊「ナーニ宮守だ」
○「アッしまった。薬違えだ」
[解説]「角兵衛《かくべえ》」「鏡代《かがみだい》」とこの「薬違い」は男の恋病《こいわずら》いを扱った点で同型である。三ツのうち、一番おかしいのは「角兵衛」多少好奇心を持たせるのはこの「薬違い」で、サゲのよいのは「鏡代」である。「薬違い」のサゲは、間ぬけ落ち。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
子別れ〔上〕 おこわの女郎買い
―――――――――――――――――
昔の川柳に「葬式《ともらい》を山谷《さんや》と聞いて親父行き」というのがあります。近所に吉原《よしわら》というのがあるから、若い者が行くとまちがいができやすいので老人が行くというくらいでございます。葬式で酒が出るというのもありませんが、お手伝いに行ったかたなどで、ずいぶん葬式のくるまでに台所でよろしくやって、肝腎の葬式のきた時分に働けなくなってしまうのがいくらもあります。
世の中になにがみっともないって、会葬者の酔っぱらいぐらいみっともない者はない。なかには今申した通り台所でヘベレケになって、会葬の人をつかまえてつまらないことを言ってるのがありますが、つかまったほうこそ災難でございます。
熊「ありがてえなァ、たいそうな葬式《ともらい》だ」
○「だれだい、あんなことを言ってるのは……、オヤオヤ熊さんか、棟梁《とうりょう》ばかに酔ってるな」
熊「じつに今日の葬式は万歳だねえ」
隠「葬式に万歳を祝《しゅく》する奴もねえもんだ……オイ棟梁、たいそういいごきげんだね」
熊「イヤ隠居さんご苦労さま、じつにいい葬式ですねえ」
隠「テ、テ、まことにテンキ都合もよし、たいそうな人だね」
熊「ほんとうに豪勢な天気になっちまった。今朝の塩梅《あんばい》じゃァ危ねえと思ったが、からりと上天気になっちまって、つまり仏さまがお幸せだ」
隠「そうだとも。だがアノ人くらい運のいい方はない。人間は土をかぶってみなけりゃァ運の良い悪いは言えないというが、マアこういう人を指して好運というんだね」
熊「そりゃァごもっともだ、無慈悲《むじひ》の人だったらこうはいかねえや、おまえさんの葬式の時にゃァたぶん降るだろう」
隠「大きにお世話だ、そんなことをいうもんじゃァない。しかしマア年に不足はないさ」
熊「いくつだとかいいましたね」
隠「九十六とか七とかいったじゃァないか」
熊「ヘエそうですかい、マア人間は死ぬ時が肝腎だね、近江屋《おうみや》の隠居はおそろしくもうろくしているが、たぶん死ぬのを忘れたんだろうなんて、おまえさんのことなんぞ人が噂をしますよ」
隠「ばかなことをいうな、しかし棟梁、おまえたいそういいごきげんだがどうしたんだえ」
熊「どうしたって今日は店《たな》の半纏《はんてん》を着て、台所の手伝いに来たんで……」
隠「アアそうか、借寺《かりでら》のほうに居たかえ」
熊「イーエ本寺《ほんでら》のほうに居ました」
隠「ヘエー、みかけなかったね」
熊「そうでしょう、葬式がきた時分には寝ていたから……」
隠「なんのために手伝いに来たんだい」
熊「しかしマア、あっしも長《なげ》えことやっかいになりました。あっしの親父がアノ店へ出入りをしていて、あっしの代になってから、人間がヤクザだもんだからとうとう出入りを禁じられちまったが、それでもねえご隠居さんはありがてえや。仕事のある時には他から立派な棟梁が入っても、あっしだけはきっと中へ入れて使っておくんなすって、てめえばかりは平《ひら》の職人たァ思わねえ、やっぱり家の出入りと思ってやるから、そのつもりで少し気を入れて辛抱しなくっちゃァいかねえと、よく意見をしておくんなすった。第一、こまる時に行って、さてご隠居さんというと、またはじめやがった、いくらあったらいいんだ、ヘエこれこれでございますればと掌《て》を出すと、ソレ持ってけと、その掌へのっけておくんなすってね……じつにあっしはアノご隠居に死なれたのは、銀行がつぶれたような気がするんで、どのくらいあっしは香典《こうでん》をもらったか知れねえ」
隠「おかしいな、香典というのはこっちからやるものだ。遺品《かたみ》じゃァないか」
熊「そうそう遺品遺品、同じことなら骨付きのほうをもらっておく」
隠「魚とまちがえている」
熊「しかしあァいう方はマアご隠居の前だが、極楽へ行くんでしょうねえ」
隠「仏説でいえばマアそうだな」
熊「ありがたいね。けれども地獄だの極楽だのが地の底にあるもんですかねえ」
隠「それは物のたとえだ。真《しん》の地獄極楽はこの世にある」
熊「そうでしょうね、どうもそれでなけりゃァならねえとあっしも思った。地の底に地獄があるなら電車の線路をつくろったり、ガスや水道の工事で地面を掘ったりする時に、たまにはつるはしで鬼の角《つの》ぐらい掘り出しそうなものだ。つまりなんでげしょう公園でも一通りまわって吉原へでも繰り込むというのが極楽でしょう」
隠「まずそこらだな。たのしむ時が極楽、苦しむ時が地獄、地獄、極楽は現世《げんせ》にあるのだ」
熊「ヘエー現世とはなんで……」
隠「今の世を現世といい、前の世を前世《ぜんせ》といい、後の世を後世《ごせ》という、これを三世《さんせ》というな」
熊「ヘエーありがたいね」
隠「なにがありがたい」
熊「現世でたのしみをすれば極楽でげしょう」
隠「そうだよ」
熊「それじゃァ、どうですえ、これからひとつ極楽へ行きませんか」
隠「なにを」
熊「極楽へ行きませんか」
隠「極楽とは」
熊「吉原へお繰り込みなさいな。わずかのお布施《ふせ》で生きた菩薩《ぼさつ》が自由になるんだ、どうですえ」
隠「ばかをいうな」
熊「いやかい」
隠「そんなばかなことをいうものじゃァない、年寄りに向かって……」
熊「年寄りだって人間だ。人間わずか五十年、六十越えりゃァとうに元を取り返している。今のところ利益配当利息で生きてるんだ。たまにゃ若い者につきあってもよかろう、エーいやかい」
隠「ばかにするな。遊ぶだけの銭があったら悪いことはいわないから、子供に衣類《きもの》の一枚も着せてやって女房においしいもののひとつも食わしてやんなさい。そのほうがどんなに為になるか知れない。年寄りは無駄は言わないから、棟梁いうことをきいてお帰り。サア熊さんお帰りよ」
熊「ナニッ、ばかにするないべらぼうめえ、大きにお世話だ。帰《けえ》ろうと帰るめえとおめえの指図を受けるかえ。意見をするならただ意見をしておけ。人の家の財政へ立ち入りやァがって、女房にうめえものを食わせろの、ガキに衣類を着せろのって、よけいなことをいやァがるな。ガキを裸体《はだか》にしておこうと、アンペラのチャンチャンを着せておこうと、ズックの袋へ入れて捨てようと、おめえのやっかいになるか、なにをぬかしァがる」
隠「ばかばかしいことをいうな、あきれ返ったなこの人は。人が為になることを言ってやれば、聞いてて顔から火の出るようなことを言う。みっともないからよしなさい」
熊「ヘン顔から火が出る、なにを言ってやがる。頭がやかんで顔から火が出りゃ世話ねえや、洒落《しゃれ》たことをいうな。てめえたちはな、いなりずしひとつ食うッたって算盤珠《そろばんだま》をせせらなけりゃァ食えなかろう、こちとらは百万|貫《かん》使っても腕から揉み出すんだ、それほど使ったこともねえけれども……」
隠「あきれ返った者だな」
熊「なにがあきれ返《けえ》った、クソでも食やァがれ南瓜頭《とうなすあたま》め。ざまァみやがれ、てめえの葬式の時にゃァ朝からドシャ降りになるように、前の晩から降り降り坊主をこしれえて祈ってやるからそう思え。死にぞこねえめ、なにをいやァがるんでえ、クソでも食らやァがれ……」
○「オイオイなにを怒ってるんだ、棟梁棟梁|対手《あいて》は居ねえよ」
熊「なんでえ人の肩をたたきやァがって……ヤァだれかと思ったら長《ちょう》さんか」
長「棟梁なにを怒ってるんだ」
熊「なにをたってべらぼうめえ、おもしろくもねえ、近江屋の隠居のいうことが気に入らねえ。親切らしいことを言やがって、なんだ人の財政上へ立ち入りやァがって……」
長「たいそうやかましいことをいうな」
熊「だっておめえ、これから吉原へでも繰り込もうといったら、遊ぶ銭があったらガキに衣類を買ってやれの、女房においしいものを食わせろのって、言うことが気に入らねえや」
長「なるほど」
熊「なにがなるほどだい、感心するない。第一江戸趣味というものがねえから困らァ」
長「なんだ江戸趣味たァ」
熊「あいつの葬式の時にドシャ降りになるように、降り降り坊主をこしれえてやろうというんだ。なァこう昔の子供は子供らしいことをしたものだ。照る照る坊主をこしれえて、みんな祈ったところが、いまどきの子供をみろ、明日どこそこへ遠足だとでもいうと、すぐ新聞と首ッぴきだ。天気予報というものを見やがって、多少の雨とか曇りとか、ゴツゴツしたことを言やァがって、いやになっちまう」
長「それをおめえが怒ったってしようがない、今は学問の世の中だよ、すべてのことが新聞を見ればわかるようになってるんだ」
熊「それだからよ、江戸趣味というものがねえから気にくわねえ」
長「おめえ一人で気にくわないったってしようがないってことよ……じゃァなにかい、隠居が意見をしたので怒ったのかい」
熊「はげあたまめ、利いたふうなことをいやァがったから、ケンノミを食わしてやったら逃げちまやがった」
長「あたりめえだァな。たいそうまた酔ったじゃァないか、ぜんたいおめえは酒の上が良くないから……」
熊「大きにお世話だ」
長「けれども身上《しんしょう》をこしれえるくらいの人の言うことはソツがないな。恐れ入った、つくづく身にしみるわ」
熊「なにが身にしみるんだ、湿疹《しっしん》かきが朝湯にでも入《へえ》りゃァしめし、そんなに身にしみてたまるものか。おめえだってそうやってるからにゃァ人間だろう、魂《たましい》の容器《いれもの》じゃァなかろう」
長「あたりめえサ」
熊「あたりめえなら喜怒哀楽《きどあいらく》ということを知ってるだろう」
長「やかましいことをいうな棟梁」
熊「そうじゃァねえか、なんでも人間は身体が健康でなけりゃァいけねえ」
長「こりゃァ恐れ入ったな、棟梁、柄《がら》にないことをいうな」
熊「柄にねえって、なにも俺が先《せん》から知ってたわけじゃァねえ。電車で若い書生さんみたような人がそんなことをいってたのを聞いてきて、受け売りをしたのが命中《めいちゅう》したんだ。なんでも身体が達者《たっしゃ》でなけりゃいけねえよ。食塩注射で親戚の者の来るまでもたせる、昏睡《こんすい》状態というようなありさまになった日には、金が山ほどあっても、ラジュームを身体中へしょったって、まわりを美人が取り巻いていたってしようがねえじゃァねえか。だから身体の達者のうちにそれだけの楽しみをしておかなけりゃァいけねえというんだ。金なんざァ死んで持って行かれるものじゃァねえ。どうだいひとつその意気で二人で今夜出かけようじゃァねえか」
長「けっこうだね。人間は命の洗濯、たまには保養をしなけりゃァたまらない。おおいに賛成だね」
熊「言うことが気に入ったな、こンちくしょう、おおいに賛成だっていやがる。けれどもおめえと一緒に歩いてると、どうしても釣合いが悪いな」
長「なぜ」
熊「なぜったって、おめえは借り物だろうが紋付きの羽織を着ているじゃァねえか」
長「大きにお世話だ、借り物なぞと言わないでもいい」
熊「だって借り物にちげえねえだろう。いまどきおめえがそんな羽織を持ってりゃァ警察からきて家宅捜索《やさがし》を食わァ、たいへんな小紋《こもん》だなァ、文化文政時《ぶんかぶんせいじ》の葵《あおい》の御紋から五光の差した時分、家主がお能拝見の時に着て出たような羽織だな、たいへんな羽織じゃァねえか。しかしぜいたくな染めだ、肩のところがズーッと霞《かすみ》に曙《あけぼの》染めときていやがる」
長「冗談いっちゃァいけない、ここは小紋が抜けたんだ」
熊「なるほど、知恩院《ちおんいん》の抜雀《ぬけすずめ》と好一対《こういっつい》の羽織、抜小紋《ぬきこもん》とおいでなすった」
長「ばかにしちゃァいけない」
熊「それに足袋《たび》の工合、ねずみにしちゃァ色が悪し……」
長「ねずみじゃァない、白足袋のよごれたのを洗ったんだ」
熊「ヘエー、白足袋は洗うとこうなるのかね、おめえんとこのかみさんなんかは洗濯がじょうずだ、洗いながら白とねずみに染め分けるのはえらいね……それに第一下駄がたいしたもんだ。世間にいろいろ下駄もあるが、おめえのは専売だねえ。前から見れば駒下駄、うしろから見れば雪駄《せった》、横のほうからそそっかしい奴が見ると地面へ鼻緒《はなお》を着けてそっくり返ったような下駄だね」
長「ばかにしちゃァいけない。おめえは悪口の目安を取るようなものだ」
熊「しかしおめえもなんだな。おめえも吉原へ行かねえかと誘われて、一も二もなく賛成するところをみると懐中《ふところ》にいくらかあるね」
長「きわどいところを調べるな。じつはあわてて出たもんだから、紙入れを忘れてきた」
熊「紙入れを持ってくりゃァ札《さつ》を忘れてくるだろう。なァオイ、紙入れは忘れても財布は持ってるだろう」
長「財布は持ってきた」
熊「中にいくらある」
長「ウム、端銭《はした》が少しばかりある」
熊「端銭……九十九銭九厘までは端銭だ、円助《えんすけ》とまとまらねえ銭は端銭だが、いくらあるんだ」
長「まことに面目《めんぼく》ないが、じつは一銭の銅貨が三つしかない」
熊「一銭の銅貨が三つというと三銭だねえ、おめえは」
長「じつはちょっとその道具屋で割の安い物があったから、手金を打っちまったんで」
熊「ヘエー商売に熱心だね。マア銭金《ぜにかね》のことは心配《しんぺえ》するな、これから行って大門《おおもん》を閉めるから〔吉原を借り切るの意〕」
長「たいそうな景気だね」
熊「しかしいくらで大門を閉めるんだろうな」
長「昔|紀伊国屋文左衛門《きのくにやぶんざえもん》は千両で閉めたというから、今の金にしたら余程だろうね」
熊「フーム、五十五銭ぐらいで閉まらねえか」
長「ふざけちゃァいけねえ。マアそれよりゃァ家へ帰って戸を閉めて寝たほうがいいね」
熊「ばかにするない、こう見えてもてめえから見りゃァお大尽《だいじん》だ。けれどもなんだぜ、女郎買いの割り前なぞ時が経つと取りにくい。催促のしにくいもんだから、今夜のところはやり繰っても、明日の朝、割り前を取り上げるがいいかい」
長「そりゃァどうにでもするよ」
熊「それじゃァひとつ出かけるときめようぜ紙屑屋《かみくずや》」
長「紙屑屋はよしておくれ」
熊「なにを。商売が紙屑屋だから紙屑屋というに差し支えなかろう」
長「そりゃァそうだろうが、たまさか遊廓《なか》へ行くのは気の保養に行くんじゃないか。白粉《おしろい》くさい女の前で紙屑屋紙屑屋といわれちゃァ器量が下がるからさ」
熊「なるほどおおきに悪かった紙屑屋。紙屑屋でねえものを紙屑屋といったら悪かろうが、紙屑屋を紙屑屋というに不足はなかろうと思うが、紙屑屋」
長「意地になってそうのべつにいうなァひどい。それをいわれるんなら私は行かないよ」
熊「言わねえから安心しろ紙屑屋」
長「まだいうじゃァないか」
熊「まだここに居るうちゃァいいだろう。いよいよおめえが行くときまりゃァ紙屑屋とはいわないズクや」
長「なんだいズク屋たァ」
熊「紙を取って屑を逆さにしたんだ」
長「そんなつまらないことをいわないでもいい」
熊「どうだひとつ勇気を付けて繰り込もうぜ」
長「けっこうだねえ」
熊「アアありがてえ、コリャコリャ」
長「オイオイ往来を踊って歩いちゃァいけない、危ない危ないオット危ねえってことさ。足もとが定まらないから溝《どぶ》へ落ちるとしようがないじゃァないか」
熊「なにをしやがるんだ。いくら仲良しでも油断ができねえ、この懐中の大金に眼が眩《く》れて溝の中へ俺を突き落とそうという了簡だな」
長「そうじゃァない、危ないから押えてやったんだ」
熊「オヤー、たいへんなことをしてくれたなァ長公《ちょうこう》」
長「どうした」
熊「どうしたってこりゃァおどろいた、情けないことをしてくれた。押さえるならヤンワリ押さえてくれるがいいじゃァねえか。ヤケに背中を押さえたもんだからたいへんなことをしちまった」
長「どうしたんだ」
熊「どうしたって、今日の仏の遺言でこの頃の葬式《ともれえ》の|こわ飯《ヽヽヽ》は折《おり》ばかり立派で中がチョボチョボしているのが気にくわねえ。俺の葬式の時には折にゃァ及ばねえ、竹の皮包みでいいから弁松《べんまつ》へ別あつらえにして、せいぜい煮しめをうまくこしらえてくれるようにと、今日の仏の遺言だ。だから煮しめにウンと銭をかけて昔風に竹の皮包みにしてあるから、折みたように巾を取らなくっていいや。そのこわ飯を七ツ背中にしょってきたんだ」
長「そうか、それでそう背中でふくれてるのかい」
熊「背中ばかりじゃァねえ、懐中《ふところ》にも三つある」
長「こりゃァおどろいたな」
熊「まだ右左の袂《たもと》に五つある」
長「たいへんに持ってきたねえ」
熊「これが七五三のしょいかただ」
長「つまらねえところへ七五三を使ったもんだ」
熊「それはいいけれども、背中をヤケに押さえたから、がんもどきに信田《しのだ》巻きの汁を含んだところを絞ってしまった」
長「オヤオヤそれはたいへんだな」
熊「たいへんどころじゃァねえ、腰へ疝気《せんき》の灸《きゅう》をすえたところへ醤油《しょうゆ》の伝わる気味悪さ、そればかりじゃァねえ、腹巻きと褌《ふんどし》が醤油だらけだ、腰から下が醤油漬けだ」
長「オヤオヤどうしよう」
熊「今さらどうすることもできねえ、このまま行ってなんとか始末をしよう」
長「それがいいね」
熊「イヤどうでえ長公、こうして遊廓へ繰り込んで行く心持ちというものは忘れられねえね、まずこのへんに愉快というものはあるんだね。日本一の大門口《おおもんぐち》、入相《いりあい》に大門口がせまくなり、じつにこの左右の茶屋へ灯火《あかり》のついた時の景気というものは何ともいえねえねえ、どうだい、たいそう人が出るなァ、オー紙屑屋ッ」
長「ヘエーッ……アッあまり景気よく呼ばれたんで我知らず返事をしてしまった。言わない約束じゃァないか」
熊「アア悪かった、かんべんしてくれ、アッハッハァ。どこかおめえ出入りがあるのか」
長「冗談いっちゃァいけない、遊廓へ買い出しにくる紙屑屋たァちがう」
熊「そうじゃァねえよ。出入りがあるというなァ、なじみがあるかという洒落だ」
長「そうかい。何年にもこっちへ来たことがないから、なじみなざァないや」
熊「それじゃァ二人とも初会《しょかい》がいいな。どこでもかまわねえ、呼び込まれたところとして押しあがることにしよう」
長「それがいい」
熊「どうだい長公、ならんだなア、向かって左へ三枚目の奴はちょっと乙《おつ》だねえ」
妓夫「いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい」
熊「だれだ、うしろで犬をけしかけるなァ」
長「犬をけしかけてるんじゃァない、若い衆が声をかけてるんだよ」
熊「アア犬じゃァねえ、|ぎふ《ヽヽ》か」
長「なぜそんな憎まれ口をきくんだ」
熊「エーなんだい、なんのご用があってお呼びなすったんで……」
夫「ヘエどうも恐れ入ります。親方さんいかがさまで……お手軽さまで願いたいものでございますが……」
熊「ふざけるない、柄《がら》を見て物を言え。お手軽さまとは失礼な言葉だ、お手重《ておも》さまならあがってやるが、お手軽さまなざァごめんこうむろう」
夫「恐れ入りました、お手重さまはけっこうで、どうかひとつ景気をつけていただきたいもので……」
熊「ありがたい。何事もお手重の世の中だ、お手軽なざァおもしろくねえ」
夫「えへへへ、だいぶいいごきげんで。今日はなんでげすか、どちらへかご愉快のお帰りで……」
熊「なにをいゃァがるんだ、お湯灌《ゆかん》は昨夜の二時に済んで今日の三時に葬式《ともれえ》を出したんだ、なにしろ坊主に総花《そうばな》ときたから〔すべての坊主に祝儀を出す〕、あすこあたりの坊主は総出で鳴り物からして行き届いてた、ジャランボーン、ジャランボーン、ジャランボーン、二十坊主がまんなかへ立ちやがって、それつらつら惟《おもん》みれば爾《なんじ》元来《がんらい》……」
夫「これは恐れ入りましたな。どうも宵店《よいみせ》から引導《いんどう》をうかがいまして手前どもには縁起がようございます」
熊「うまくいやァがる。どうだいひとつ久しぶりだ揚屋町《あげやまち》のほうでもまわって一風呂|入《へえ》って背中でも流して身体を清めてこようじゃァねえか。抹香《まっこう》臭くってあがっちゃァ気の毒だ」
夫「どういたしまして。手前どもでは、はかいきがいたしてけっこうでございます。どうぞそのままおあがりくださいまし」
熊「こりゃァ気に入った、はかいきがするからそのままあがってくれというのはありがたい。手をお出しいい物をやるから」
夫「ヘエありがとう存じます」
熊「お待ちよ」
夫「エーお背中にしまってありますか」
熊「黙ってろよ、いま出してみるから。おめえは青くしなびているところをみると、貧血症だな。やっぱり普段うめえものを食わなけりゃァ血を増さねえよ。サアお供物《くもつ》同様の品だ、九十何歳まで長生きをしたんだ、おめえもあやかるようにこれでも食いねえ」
夫「ヘエごちそうさまでございます」
熊「もうひとつやらァ、これも今日の仏のためだ」
夫「ヘエありがとう存じます」
熊「サア登《あが》ってやら」
夫「うへエどうぞお願い申します」
熊「あがるけれども、前《めえ》にちょっと断わっておくが、俺たちは不正《いかさま》の銭を使うんじゃァねえよ、銭づけえが荒《あれ》えからって腕からもみ出す銭だよ」
夫「ヘエ恐れ入りました」
熊「また銭づけえが荒えからといって、届けるところへ届けてお役人でも来るようなことがあると上《かみ》へお手数をかけてすまねえから」
夫「どういたしまして、手前どもではさようなことはいたしません」
熊「あまり的《あて》にならねえからそういっておくが、よく名前をおぼえていてくれ。俺は神田|竪大工町《たてだいくちょう》の熊五郎てんだ。ここにいるのは一つ町内に住まってる紙屑屋の長ぼうてんだ。紙屑屋だって今日この頃はじめた出来星《できぼし》たァ訳がちがう、こどもの時分からやってるんだ。もっともこどもの時分には龕燈《がんとう》をつけて往来を拾って歩いてたんだが、この頃スッカリ顔がよくなった」
長「オイ棟梁ばかにしなさんな」
熊「なにもばかにしやァしねえ、ほめてるんじゃァねえか。どうして今はたいそうなもんだぜ、東京中の抜け裏をそらんじているんだからな。抜け裏の博士なんだ、第一裏へ入った時には、声を二段に使い分ける、最初は咽喉《のど》で鳴いて、屑やい」
夫「ヘエ」
熊「それから鼻へ抜けて屑はござい……人間が一人で声を二色《ふたいろ》に使う、どうしたっても別の人としきゃァ思われねえ。どんな裏へでも親切に入る、そのかわり干し物などをチョイチョイ持ってくる」
長「ばかにしちゃァいけない」
熊「エーこの頃やめたかい」
夫「とにかくご冗談は抜きにしておあがりを願います」
熊「あがってやろう」
夫「ヘエおあがんなさるよ」
トントントン、
熊「ネエ長ぼう、この広い梯子《はしご》をトントントンとあがるところに女郎買いの値うちはあるね」
長「まったくだね」
夫「どうぞこちらこちら」
熊「どこだどこだ」
長「まるでボヤを探すようだな、こっちだこっちだ」
熊「ナニここだ、よしよし。オウ若い衆、くどいことはいわねえから、花魁《おいらん》のちょっとオツなところを取りもってくんねえ」
夫「ただいま花魁が……」
熊「親分たのむぜ……そこにニコニコ笑ってる少女《こども》はなんだい」
夫「これは家の|まめ《ヽヽ》でございます」〔まめは雛妓のこと〕
熊「豆やここへ来な」
豆「なんでございます」
熊「たいそう顔色が悪いな、青豆だな。青豆でしあわせだ、黒豆なら今時分|葭町《よしちょう》の寶莱屋《ほうらいや》あたりへ売られちまったんだ〔寶莱屋は黒豆で有名〕。何歳《いくつ》になる、ナニ取って十《とう》だ、にわとり見たようだな。何という名だ」
豆「たより」
熊「たよりという顔じゃァねえな、ご無沙汰をしてめんぼくねえような面《つら》をして、たよりだってやがる、目のふちをどうした、花魁につねられた、居眠りをして。可哀相に十や十一じゃァ居眠りをするなァあたりめえだ。花魁にそういってやれ、大事の身体だ、命まで親たちは売りゃァしねえ、そんなに邪険なことをしてくれるなってナ。こういうなァやっぱり親の餌《えさ》が悪いから肥料《こやし》がきかねえんだ。いいものをやるから手を出しな。向こうへ持ってって食いねえ。しかし食いつけねえものを食って気でも荒くならねえように気をつけな。人を見てむやみに吠えちゃァいけねえよ。警察から野犬狩りが来てポカとやられると可哀相だからな。サアやるから持ってきな」
豆「いりまへんよ」
熊「よせッ。人が親切に物をやろううというのをいりまへんよってやがる、くそでも食やァがれ。マゴマゴするとゴボウと一緒に油でいためて鉄火味噌《てっかみそ》にしちまうぜ」
夫「エーなにかこどもが粗忽《そこつ》でもいたしましたか」
熊「粗忽というわけじゃァねえが、人の親切を無にしゃァがる。せっかく|こわ飯《ヽヽヽ》をやるというのにいりまへんよっていいやがる」
夫「どうも相すみません。内所《ないしょ》〔遊女屋の奥〕できびしく申し付けてありますので、さようなことを申したのでございましょう、手前がかわりにいただきます」
熊「おめえには店で二つやったじゃァねえか」
夫「ヘエ」
熊「どうだった煮しめのぐあいは」
夫「どうもけっこう……」
熊「あたりめえよ、弁松《べんまつ》の別あつれえだ」
夫「恐れ入ります。しかしお汁《つゆ》かげんがちっと薄うございました」
熊「そうだろう、残ってるなら持ってきな」
夫「ヘエ取りかえてくださいますか」
熊「そうじゃァねえ、褌《ふんどし》にしみている汁をしぼってやる」
[解説]子別れの『上』は、べつの題を『赤飯《こわめし》の女郎買い』といって、昔の外題番付けにも出ている。相当古くからあったらしい。後に『中』が出来、また『下』が出来て、子別れの上中下というようになった。この『上』は品川に住んでいた橘家円蔵《たちばなやえんぞう》が得意だった。円蔵が落語家になったのは中年になってからで、はじめは田舎廻りの人形使いであったそうだ。四代目円生《えんしょう》の門に入って、さん生となり、後に円蔵を襲名した。十八番《おはこ》は「首提灯」「たがや」「百人坊主」などであった。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
子別れ〔中〕
―――――――――――――――――
酒はあやまちの基《もと》とか申しまして、お酒というものは、まず中《ちゅう》から以下の人が脳《あたま》が薄ッペらなせいか、酒のしみ方が早いようで。酒のためということは数えがたいほどでございますから、まず謹むべきものだろうと思います。
ちょっと遊びに行きましても上戸《じょうご》は下戸《げこ》から比べると散財も多く、一晩無我夢中で遊んでしまうようなことがあります。これは下戸には真似のできないことで、といって酒飲みと下戸と遊びに行って割り前がちがうかといえばそういうわけでもない。この点からいくとどうしても下戸は割りを食う。
もうひとつは芸者でも来てワアワア騒いでるうちは下戸も紛れているが、部屋へ帰る。しばし独り者となる、そのうち昨夜のことを思い出す。芸者は一人でよかった。それをもう一人いなくっちゃァ淋しいというんで仕方がないまた一人口をかける、サア食い物が足りない、どうのこうのとぜいたくを言いだしやァがって、酔ってるから何をするか知れないと思って、早くお引けにしようといってもなかなか止さない。カッポレを踊るといってよせばいいのに、へんなかっこうをして、しまいにはひっくり返って刺身の皿の上へころがって、あとが食えやァしない。
そのうちお会計とくると、少なくも割り前が一万円かな。一万円の割り前と思う奴は、なんだかんだといっても一万五千円、帰りにどこかで飯《めし》を食うことになると、全体で二万円だ。アアいやだいやだ、一万円あれば女房と子供に衣類《きもの》を着せられる、これから女郎買いにと思ったら止して、女房や子供に衣類の一枚ずつも着せるようにしよう、アアいやだいやだと考える。
愉快でもなんでもない。これは今も昔も同じことです。もっとも上戸の方は「サァ何でも、持って来い」と根こそぎ騒いで、飲み疲れてしまう。その晩のことはなにも知らない女のほうは、この客は二日や三日引き留めておいても大丈夫と見込みを付けると、普段一合飲む者はそういう場所ではまず少なくも五六合も飲んでいるから朝どうも心持ちが悪い、たださえ少し欲しいところへ鉄瓶の中に徳利が入っていて、
女「親方熱いところをひとつお飲《や》んなさいな」と勧められて、
○「そうか、じゃァ俺は急ぐから……」
と大きい物でグーッと一杯引っかける、昨夜の酔いが胸先へお迎いに出てきて、ちょっと二三合飲んだくらいいい心持ちになって、
○「アアいい心持ちだ、じゃァあるだけついでくれ」
と二三杯飲んでみるとそのままには立ち切れない。
○「もう一本熱くして燗《つ》けてくれ、俺は急ぐから……」
と口には言うが、ちっとも急ぎません。
○「なにかあつらえてくんねえ」
ということになる、サアお神輿《みこし》が据わって帰れません。その日は流連《いつづけ》、翌朝帰ろうとすると、二日も酒びたりになっているから心持ちが悪い、また迎い酒というので三日が四日となると懐中《ふところ》が危なくなる、銭のないのが縁の切れ目といいますが、これはもうそれに相違ないようで、敬《けい》して遠ざけるおばさんと称《とな》える者がそこへおん出てきて、
女「ねえ親方、花魁は幾日でも引き留めていたい、帰すのはいやだというんですけれども、内所でも気を揉んでるんで、お聞き申せば、おかみさんと子供衆もおあんなさるというに、もう四日になります、四日とくるとさだめしお宅でもご心配をしておいでなさるだろうからあまりお引き留め申しておいてはお為にならないとこういうんで、花魁はお帰し申すのはいやがるのですけれども、今日は一旦お宅へお帰んなすって、またあらためていらっしゃい」
というまことに親切の言葉、しかし裏を返せば親切どころではなく、金がもうないからお帰り、またお金をこしらえて出直しておいでという意味になる。不実《ふじつ》のところに決まっております。
なんぼ夫婦でも一文なしになって、朝ボンヤリと家へ帰るわけにはゆかない、朋友《ともだち》のところへ行って酒の二合も買ってもらってこれを飲《や》ると昨夜の酔いが出てくる。いい心持ちになり、俗にこれを面《めん》をかぶるといって上戸にはよくある奴で、ちょっと言いにくいことを言おうというのに、一杯引っかけて、酒の威勢で言ったり、借金の言い訳をするにも、一杯やって行けば、いくらか顔の皮が厚くなるというのはおかしなもので、フウフウと風吹鴉《かぜふきがらすみ》みたように帰ってきたが自分の家でも敷居が高いもので、遠くからそっと覗き込んで、ニヤニヤ笑っている。
女「アラお帰りなの」
亭「へへへ、どうもご無沙汰をいたしました」
女「なんだねえ、お向こうで笑ってるよ、ばかばかしい、自分の家へ帰ってきて、ご無沙汰てえやつがあるかね、どこへでも出さえすりゃァきっと酔っぱらうからこんなことになるんだよ、あまりご無沙汰をしすぎるじゃァないか、三日も四日もどこをほッつき歩いてるんだえ、家には米を食う虫がいるんだよ、いくらなんでもあんまりばかばかしい、行ったところが寄合いの崩れとか、なにか大きな仕事でもあって、そこを大勢で組んで入札をしたのが落ちてめでたいから祝うとか、物見《ものみ》遊山《ゆさん》に出かけたとかいうんなら仕方がないが、おまえさんお葬式《ともらい》に行ったんだろう、泊りがけのお葬式というのはないよ、第一お葬式はどこにあったのさ」
亭「お葬式は寺……」
女「エー」
亭「寺」
女「たいがいお寺だねえ、お葬式というものは女郎屋へ行くべきもんじゃァない、お寺はどこ」
亭「寺は山谷《さんや》よ」
女「山谷のお寺へ行ってどうしたの」
亭「帳付けがいたから、そこで帳面へ付けてきた、どうもご苦労さまどうぞこちらへというんで、それから下足《げそく》を付けて上へあがった」
女「あがってどうしたの」
亭「そのうち大勢ゾロゾロやって来やがって、よっぽど経ってから棺《かん》が着くという始末だ、ところへ土瓶と茶碗をスッと配りだしたから茶だと思ってつぐと酒だ、こりゃァ甚馬《じんま》の野郎が好きなことを知ってるもんだから気を利かして俺の前へ酒の土瓶を置いてッたんだ、そのうちに坊主が出てきやがってとんがらがって、白馬《しろうま》のしっぽみたような物をふりまわしてジャランボローン、ジャランボローン、ジャランボローン、ナーアムダー……」
女「なにをいってるんだねえ、ばかばかしい。いやな声を出して」
亭「お経がすむと施主が大勢まわってきやがって、今日《こんにち》はどうもご遠方のところをありがとう存じますと大きな声をして礼をいう、大勢だからずいぶん大きい声だ」
女「葬式の手順はたいがいそうだよ」
亭「それがすむとズンズン帰る人があるんだ、あまり出口が混んでいるから、少し待っていると、吉《きち》の奴がきて、ちょっと顔を貸してくれというんだ」
女「どうしたの」
亭「俺がそっちへ行ってみるとひとつの町内に住まっていて、一年も遇わねえ奴だ、ガキの時分からの朋友《ともだち》が寄れば話がおもしろいじゃァねえか、サアこっちへというんで十何人一つ所へ集まったんだ」
女「だからさ遊びに行ってもかまわないよ、ヒョッと古いお朋友に遇って、どこかへ行きやァしないかと思うから、家にあるお金をかき集めて紙入れに入れてあげたのを知ってるだろう」
亭「知ってる知ってる」
女「それだから遊びに行くのはかまわないが、マアどこへ行く相談ができたのさ」
亭「黙ってねえ、そんな浮いた話じゃァねえんだ」
女「浮いた話でないといってお朋友が寄ってどうしたの」
亭「六兵衛《ろくべえ》が一番先へ言い出したんだ、今日の隠居さんは年は一百《いっぴゃく》に近い、こんな長命の人は世間にたくさんないというんだ」
女「それはおまえさんが言わないでも、近所の人はみんな知ってるよ」
亭「けれどもよ、あんな良い隠居さんはない、町内の名物男をなくして惜しいことをしたとこういうんだ」
女「そりゃァそうさ」
亭「だから昨今の人はともかくも、ここにいる人はみんな町内|生《は》え抜きの人間じゃァねえか、若いうちからずいぶん世話にもなってるから、もう死んでしまったからいいといって、さようならとこのまま帰るのは不実の話だというんだ」
女「不実の話だといって、お葬式にお寺まで行けばそれでいいじゃァないか」
亭「けれどもよ、せめて焼き場まで供をしようとこうなった」
女「マアそのくらいのことは仕方がない。出入りをしているんだから、焼き場まで送るのもいいが山谷から焼き場までいくらもありゃァしないよ、あすこのところは何里《なんり》あるの、三日も四日もかかるわけがないじゃァないか」
亭「女てえものは道なんぞあんまり知ってるのはよくねえ」
女「なにをいってるんだい、焼き場へ行ってどうしたの」
亭「焼き場へ行くとマア、いろいろどうもご苦労さまといった」
女「へんなあいさつだね」
亭「デ、焼き場から帰るという時になると、六兵衛のいうには、みんな若い時分からこの仏さまにやっかいになったんじゃァねえかというんだ、もう焼き場へ来たからそれでいいと帰るのもあんまり薄情《はくじょう》だ」
女「なにを言ってるんだい、焼き場まで行きゃァ、もうそれでおしまいじゃァねえか」
亭「そこが相談だな」
女「どう相談……」
亭「せめて焼き場でもう一晩、これだけの者でお通夜をしようというんだ」
女「ばかなことをお言いでない、焼き場でお通夜をしたという話を聞いたことがない」
亭「だからいいじゃァねえか新発明だ、新発明は国益にならァ」
女「くだらないことをお言いでないよ、ばかばかしい、お通夜の新発明なんぞなんの益にもなるものかマア、お通夜をしたにしても焼き場に三日も四日も泊まってたのかえ」
亭「マア待ちなよそう立て続けられては、俺もやりきれねえじゃァねえか、いろいろまた考えることもあるんだ」
女「なにを考えたのさ、お通夜からどうしたの」
亭「だからよ、そのお通夜をしたところが、起こされたんだ目を覚ましてみると、もう日が当たってるんだ」
女「ばかばかしいね、徹夜《よっぴて》起きてるからお通夜だよ」
亭「そんなことをいったって、疲れれば寝るということもあらァ、起きるとゆうべもてているからな、楊子箱《ようじばこ》を出しやァがった、田舎者《いなかもの》の使う歯みがきとはちがうんだ、江戸ッ子だァ、丸八《まるはち》の黄袋の歯みがきだ、ピリッとしていい心持ちだ、ぬるま湯を汲んでくれたから、顔を洗って部屋へ来る、火鉢の前に大きな座布団が敷いてあるんだ、こんなゴツゴツしたきたねえんじゃァねえ、赤くってやわらけえ大きいンだ、俺がその布団の上にあぐらをかくと、塩湯を一杯くれたから、それを飲んでいる俺の顔をジーッと見て、今度おまえさんいつ来るのとこういやァがるんだ」
女「マアおかしいねえ、おまえさん焼き場じゃァないか、焼き場で今度いつ来るのなんて、だれが言うのさ」
亭「アーそうそう焼き場だ」
女「へんな焼き場だねえ、デだれが今度いつ来ると言ったのさ」
亭「ウーム、隠亡《おんぼう》が……」
女「隠亡がそんなことをいうものかね、人をばかにしているよ、だから行ってもかまわないというんじゃァないか、お女郎買いに行ったんだろう、ほんとうのことをお言いよ」
亭「そうそう」
女「そうそうもないもんだ、今いう通りお小遣いまで持たしてあげたくらいだから、遊びに行ってもいいけれども、なんぼなんでもお金のあるだけ、三日も四日も連流《いつづけ》をしていないたっていいじゃァないか、一文なしになったから追い帰されてきたんだろう」
亭「一文なしというほどでもない、三十五銭あるがこれじゃァ電車に乗れねえからブラブラ歩いて帰ってきたがずいぶんくたびれた」
女「くたびれたじゃァないよ、三日も四日も家を忘れて帰ってこないというのはどういう了見なんだい、あるッたけのお金を自分が持って出て、家に米を食う虫がどうしていると思うんだよ、サア私にも考えがある、おまえさんはどういう考えがあって三日も四日も家のことを思わないで、遊んでいたのさ、どんなに酔っぱらったって一晩寝て、目が覚めて正気になったら気がちがってるわけじゃァあるまい、どういうわけで三日も四日もいたんだよ」
亭「そうおまえ、あらたまって言われると俺も困るがそれがどうも……そこだ」
女「なにがそこだよ」
亭「だからほんとうのことを言ってるじゃァねえか」
女「なにがほんとうなんだよ」
亭「大きな声を出しなさんな、俺が悪いさ、俺が悪いが、男という者は、闘《しきい》をまたぐと八人の敵《かたき》があるだろう」
女「七人だよ、八人の敵てえのがあるかい」
亭「アッ七人だ、一人おまけ申したんだ」
女「なにをいってるんだよ」
亭「敵の片われは町内の紙屑屋の長公、あの野郎親の代から紙屑屋だけれども、あンちくしょう太《ふて》え奴で、土堤でがま口を捨って、鉄砲ざるへ入れて、すまして屑はございといってやァがる、あとから俺が行って、長公じゃァねえかといったら、こりゃァ棟梁さん、たいそういい景気ですねえといやァがった、どこぞへお供をいたしましょうといわれてみると、べらぼうめえ、こちとらも江戸ッ子だ、いやだと言やァ逃げるようで外聞《げえぶん》が悪い、それも酔ってなければそんこともなかったが、ツイ一杯機嫌で、久しぶりでブラブラひと回りまわって来ようと、あの野郎を連れてマゴマゴしていると明かりのたくさんついている景気のいい家がある、まずここへ押し上がろうじゃァねえかというと、いらっしゃいまし……」
女「大きな声をお出しでないよ、みっともない、そこへあがったのかい」
亭「マアあがったと思いねえ、なんだか真っ白にふくれた女が出てきて、台の物と酒がきたから、ガブガブ酒を飲《や》ってるうちに、下地があったからたまらねえ、酔っぱらって寝てしまった。夜中にくしゃみが出たんで目を覚ました、不実なところだ、羽織を着たまま畳の上に転がっている、薄い布団がただ一枚かけてあるばかり、風邪もひこうじゃァねえか、障子をあけてみると女郎屋だ、やァたいへんだ、やァたいへんだ、ゆうべ酔っぱらって、紙屑屋の長公を連れて、こんなところへあがっちまったとみえる、たいへんなことをしたと思ったけれども、いまさら逃げ出すわけにもいかねえ、小便に行きたくなったから、下へ降りて、廊下をマゴマゴしていると、ようやく便所がわかった。用を達して帰りに、曲がり角の薄ッ暗いところへくると、へんな女が立ってやがって、棟梁さん棟梁さんといいやァがって職人をおだてるにはみな棟梁さん棟梁さんといやァがる、こんなところへ七八年ぶりであがってなじみもなにもあるわけじゃァねえ、かっこうを見ていいかげんなことを言やがるんだろうと思うから、黙って行き過ぎようと思うと、モシ熊さんじゃァないかとこう言やァがるんだ、おまえの前だけれども名前まで呼ばれて、卑怯未練《ひきょうみれん》に敵にうしろを見せるということはできねえ、駒の頭《かしら》を立て直したね」
女「なにをいってるんだよ」
亭「それからよく見ると、これが敵《かたき》だ、ホラ敵に出っくわしたというなァここだ」
女「なんだい敵というなァ」
亭「おめえも覚えてるだろう、おめえと夫婦《いっしょ》になりたてに、フフン、俺がずいぶん夢中で通っていた品川の、おかつという女だ、こいつは色は少し黒いけれども、背のスラッとしたちょっと見られる女だ、足かけ四年のあいだ通って、二百八十いくつという玉《ぎょく》を付けたんだから、職人の細腕じゃァなかなかたいへんなもんだ、女のほうでも立て引いて、ずいぶん俺のために借金もした、そこへ俺がおめえと夫掃になった、けれどもそういうわけだから、まるっきり行かねえわけにもいかねえ、たまには行かなけりゃァならねえ、一晩明けると、すぐにてめえが泣きッつらをしたろう」
女「知らないよ」
亭「知らねえことはねえ、すぐに頭痛膏《ずつうこう》かなにか貼って、ふて寝をしやァがってどうにもしようがねえから、可哀相だけれどもむこうの女を思い切って、いたちの道で行かなくなった、その女に出っくわしたんだから、俺だっておどろこうじゃァねえか、てめえはおかつじゃァねえか、久しぶりだったおめえこんなところにいるのかと俺が聞いた、スルと女がなにもいわねえで俺の胸倉をつかめえ、ホロホロと涙をこぼして、じッと顔を見つめやがった、胸《むな》づくし取ったほうから涙ぐみ、ソリャおまえ……」
女「なんだい、三日も四日も家を明けてきてお隣やお向こうでも心配しているのに、大きな声で唄なぞ唄う奴があるかね」
亭「だからよ、三日も四日も家を明けた、その言い訳をしてるんだから黙って聞いてねえ、俺が女にそう言ってるんだ、おめえはなにか俺に怨みがあるのかというと、怨みがあるかないか、おまえ自分の胸に聞いてごらんと言やァがった。それから俺が、今自分の胸に聞いてみたけれども、よくわからねえとこう言ってやったら、笑ってやがった、あんなに手紙をやったんだから、せめていっぺんぐらい来てくれてもよさそうなもんじゃァないか、来られなけりゃァ来られないで、返事のひとつもくれたらよかろうというから俺は字が書けねえというと、区役所の代書を頼んでも、書いてもらえないことはなかろう、ばかなことをいうな、売り物に買い物だ、行かなけりゃァ行かれねえ、なにをぬかしやァがるとケンツクを食わした、そのおまえの邪慳《じゃけん》なところに私が惚れたんだよとこういやァがった、なんでもおまえにいい返事をくれろというわけじゃァない、おまえが来られなかったら、邪慳で不実な愛想づかし、あきらめの付くような手紙を一本よこしてくれればいいものを、なんとも話してもくれなければ来てもくれないから、七年も八年もおまえのことを思い出して涙をこぼすことがある。日に三度ぐらい泣きッ面をして、お朋輩《ともだち》に笑われたことが幾度あるか知れない、最初にそういう約束をしたんじゃァなかろうとこういうんだ、そういわれてみると無理はねえ」
女「なにが無理がないんだい売り物買い物、お金を持ってったんじゃァないか」
亭「だけどもそうはいかねえ、むこうだって俺のために借金をしているくらいだ、何の仲でも義理があるから俺があやまる、なにもおまえさんにあやまらせようというわけじゃァないが、あまりだから愚痴も出るじゃァないか、私の部屋へ来ておくれというんだ、久しぶりでその女の部屋へ行って、一杯飲んだところがモー下地があるからたまらねえスッカリ酔っぱらって寝てしまった。起こされて起きてみると灯火《あかり》がついていやァがる、まだ夜が明けねえのかといったら女がクスクス笑いながら、さっき日が暮れたといやァがるんだ」
女「夜中に起きてお酒を飲みはじめて、日が暮れるわけがないじゃァないか」
亭「あくる日一日まるっきり寝てしまって、目が覚めたのはあくる日の夜中だ、泡を食って帰ろうとするとおまえさん何時だと思う、夜中だよ、オヤオヤ引け過ぎかというんで、またそこで飲みはじめて、そのまま寝てしまって翌朝起きてみると、日がカンカン当たっている、帰ろうと思って、オイ羽織を出してくんなというと女が向こうを向いて涙を拭いていたが、思い切って俺の前ヘピタリと座って、もうこれぎり来ないと思うと、悲しくって帰したくない、いやだろうけれども助けると思ってもう一日居てくれろとこういうんだ、ナア、たった一言だけれども、助けると思ってもう一日居てくれろといわれてみると、人助けのためでどうもしかたがねえ、よし俺も江戸ッ子だ、助けてやろうと、その晩泊まって、あくる日になると女が目を真っ赤にしている、夜中から泣いていやがったんだ、助けると思ってもう一日居てくれろというから、俺も侠気《おとこぎ》を出して、泊まってやった。サア今朝帰ろうと思うと、また袖にすがりやァがってどうか、助けると思ってもう一日と言やァがるから承知ができねえじゃァねえか、ベらぼうめえ、職人だと思ってばかにしやがる、なにをぬかしやがるんだ」
女「大きな声をお出しでないよ」
亭「大きな声を出すって一度聞きゃァ物事がわかる人間だ、毎日毎日言い草がきまってやがる、助けると思ってもう一日もう一日となにをぬかしゃァがるんだ、あまり癪《しゃく》にさわるから俺が都々逸《どどいつ》を唄ってやった」
女「言うことがみんなトンチキだね、いくら酔ってるたって、癪にさわって都々逸を唄う奴があるものかね」
亭「それがあるんだ」
女「どんな都々逸さ」
亭「一度いやァわかることだよ二度も三度もくどいじゃないか、てめえだって泥水《どろみす》飲んだ人、とこうやった」
女「フッ」
亭「スルと女が俺の顔をジーッと見てやァがったがホロホロと涙をこぼしやァがって、そんなことをいうから幾年経ってもあきらめることができない、エーッ……」
女「なんてえ声を出すんだよ、静かにおしな、あきれ返って物がいわれない、そんな者にだまされて三日も四日も家を明けて、やっと帰ってきたと思えばへんなことばかり言って、おまえさん気がちがってるんだ、サア暇をください、男の子は男に付くというけれどもそんな人の手にかけるなァいやだから、子供だけは私がもらいます、たったいま暇をください、離縁状をおくれ」
亭「なにをいやァがる」
女「なにもいやァしない、先の見込みがないから離縁をしてください、なにもくれというんじゃァない離縁状さえもらやァいいんだから」
亭「騒々しいやい、なにをぬかしやァがるんだ、女ッてえものは、そんなもんじゃァねえぞ、こっちで暇をやるから、出て行けったって、私ァこの家は棺に入らなけりゃァ出ない心算《つもり》で来たんだ、それを暇を出すほどの私に悪いことがあるなら、これこれが悪いということをいってくださいぐらいのことは、たいがい言うものだ、女のほうから暇をくれとはなんだ、俺も男だ、暇をくれならくれてやる、離縁状もヘチマもあるものか、なにをいやァがるんだ、サア出て行け」
子供「なんだいおとうさん、また酔っぱらって帰ってきたのか」
女「おまえそんなことを言わないでこっちへおあがり、この子が可哀相だから、私にどうぞこの子ぐるみ暇をください」
亭「すぐに出て行け、サア足手まといがなくなっていい心持ちだ、女はウンとあとにつかえてるんだ、なまいきなことをいやァがって、あとで詫びをするなサア出て行け、俺が悪いと思えばこそ謝ってるんだ、それを増長しやァがって、なんだ、離縁状もなにもいるものか、サッサと出て行け」
もとより貧乏長屋のこと、こんなことは毎度ありがちなことでございますから誰も止める者も出ません。女のたしなみで洗濯をしたぐらいの物はあるから、子供にそれを着せ、すぐに包みを持って、あとで話のわかることと思うから、「それじゃァ暇をいただきます」と出かかり、
女「サア坊や、おまえもおとうさんにながながごやっかいに……もうおとうさんじゃァない、おまえのおとうさんじゃァないんだが、ながながお世話になりましたとよくお礼をお言い」
子「オイおとうさん、おまえが悪いんだよ、酔っぱらっていろいろなことをいうもんだから、おかあさんが怒るんじゃァないか」
亭「なにをいやァがるんだい」
女「もういいから行きましょう」
と子供の手をひいて、大きな風呂敷包みを持って出かけて行くから、長屋の者も見ていられません。
○「オイオイお徳《とく》さん、こっちへおいでおいで」
徳「さぞマアおやかましゅうございましょう、いろいろごやっかいになりまして……」
○「マアマアこっちへお入り、坊やあがんな、あがんな、そんな大きな包みを持って、みっともねえからマアお待ち、壁一重《かべひとえ》隣だ、ようすはスッカリ聞いて知ってるよ、ふだん兄弟同様にしている間だが、ほんとうにしようのねえ奴だ、俺が行って話してやるからマアここに居るがいい、おしづ、坊になにか食わしてやんな、……おお熊や……オヤオヤ、寝ていやがる、しようのねえ野郎だ、熊ァ熊ァ……」
熊「アッアー、なんだ」
○「なんだじゃァねえ、いま俺が聞いていたが、大概《てえげえ》にしろってことよ、三日も四日も家を明けやがって金を使ってきたあげく、女房子《にょうぼうこ》を離縁もヘチマもねえじゃァねえか、ばかだなー、それほどてめえはばかだとは思わなかった、飲んで酔ったらほんとうに形《かた》ァねえや、てえげえにしろ」
熊「オヤこれはいらっしゃいまし、どちらから……」
○「どちらもこちらもねえや、俺だ、半公《はんこう》だよ」
熊「エー半公、イヤこれは半公君か」
半「半公君もなにもねえや、さっきからのようすは壁一重だからよく聞こえてるが、おかみさんだって暇をくれぐらいのことは言いたくならァ、四日も家を明けて金を残らず使ってきてよ、女郎の惚気《のろけ》なんぞ言ってやがる、てえげえにしろ、てめえの女房はてめえにゃァ過ぎもんだ、よく考えてみろ、てめえが酒をくらって乱暴をしても愚痴ひとつ言わず、近所で悪く言う者がありゃァ、イエ御酒《ごしゅ》のせいでございます、決して悪気のある者ではございませんと言い訳をして、子供が可愛い可愛いで真っ黒になって働いている、容貌《きりょう》だって十人並みじゃァねえか、第一、手が書けて針仕事がばかにうまくって、ちょっと糸の道も明いてりゃァ人の応対もよし、俺のところの女房《かかあ》なんぞと比べものにならねえ、よく俺が家の女房に小言をいうのに、前の女房を見ろといって引き合いに出すくらいだ、てめえだってシラフの時にゃァ惚気半分女房の自慢をするじゃァねえか、そりゃァなんと自慢されても仕方がねえ、俺のところの女房なんざァ、俺が寄席が好きで行く、路次が十時に締まるからその前に帰ろうと思ってもおもしろければツイ遅くなる、帰りにそばの一杯も食って帰《けえ》ってくると路次が開かねえ、長屋の人がわざわざ起きてきて開けてくれる、いくらたたいても、女房が起きてきたことがない、気の毒でたまらねえ、しようがねえからこの頃では遅く帰ってきた時にゃァたたかねえで、素ッ裸になって犬くぐりから這い込むんで、始終背中にミミズ腫れが絶えねえが、家の締まりをしちまって、たたいたってどなったって、開けたことがねえ、しようがねえから戸を引っぱずして中へ入《へえ》ったところでてめえの家だ、そのままにしちゃァおかれねえから、もとの通りにして寝ていると目を覚まして、マアこの人は気味が悪い、どこから入った、節穴《ふしあな》からでも入ったかって、人を煙だと思ってやがる、それでも縁があって夫婦になったもんだと思やァ、我慢もしなけりゃァならねえ、おまえさんところのおかみさんなぞはおめえがどんなに遅く帰っても、それまで針仕事をして待っていてトントンとたたかねえうちに飛び出して路次を開けて、亭主を先へ家へ入れて、てめえがあとの始末をしてよ、夜夜中《よるよなか》帰ってきたって、酒が飲みてえといゃァ燗のできるようにしてあるというじゃァねえか、そんなけっこうな女房を離縁もヘチマもあるもんじゃァねえ、てえげえにしろ」
熊「イヤごもっともの次第」
半「なにがごもっともの次第だ、もっともだと思ったら元通りにしろ、ぜんたいてめえのほうで女房にあやまらなけりゃァもってえねえくらいのものだがそうもいくめえ、ナア、詑びもなにもいらねえから元の通りに……」
熊「やかましいやい、なにをぬかしゃァがる、大きな声をしやがってばかッ、てめえはいくつになる、頭を見やがれおしゃべり、ベラベラベラベラ口をききやァがって出過ぎ者め、人に口をきくならきくよう方法を持ってこい、知らなけりゃァ教えてやる、たとえ俺のほうが二重三重悪いにしても女房の前へ手をついてあやまれるか、てめえには過ぎ者とはなんだ、だんだん訳を聞いてみるとこれこれだそうだ、ちっとおかみさんが言い過ぎたが、それも亭主大事、子供が可愛い、身上が大切と思えばこそ言ったのだろうから、それを考えたらおめえさんも腹も立つだろうが、言い過ぎたとこはどんなにも詑びさせるから、どうか元々通りになってもらいたい、俺が初めての頼みだから、俺に免じて勘弁をしてくれぐれえのことをいうのがあたりめえだ、まぬけ野郎め、いくら物を知らねえたってあきれけえって物が言えねえ、なんだと思ってやがる、俺は出職《でじょく》で家に居ねえ、てめえは居職《いじょく》だから、ちくしょうめ、てめえと女房とあやしいな」
半「なにをぬかしやァがる、この野郎とんでもねえことを言やァがる」
と気が早いからいきなり立ち上がって、ポカリなぐった。
熊「オヤ俺をぶったな、サアぶちやァがったナ、殺すなら殺せ……」
サア長家の者が捨てておかれません、飛び込んできて、
△「マア半ちゃん、お待ち、危ねえからおよし」
半「なにこンちくしょう、女房とあやしいなんて、ふざけたことをぬかしやァがって……」
△「マアマアもっともだが、俺たちに任してくれ、酔ってる者をぶってケガでもするとしようがねえから」
半「エーどいてくれ、こンな野郎ぶち殺したってかまわねえ」
△「マア待ちねえッてことよ、対手《あいて》は酔ってるんだから仕方がねえやァな、オオ半ちゃんを家へ連れてッてくれオイ熊さんや、オイ色男オイ色男……」
熊「だれだ……ヤアこれは吉兵衛《きちべえ》さんか」
吉「吉兵衛さんかじゃァねえ、どうしたんだ、隣の半公にも困るなァ、あんな奴とおめえ、けんかをすると、おめえの器量が下がるよ、苦労ということをしたことがねえんだから話せねえやな、俺なんぞも今じゃァ年をとってるが、若え時分には、ちったァ女郎買いにも凝《こ》った、惚れたり惚れられたりしたこともあるんだ」
熊「そうかい吉兵衛さん、おめえは話せる人だありがてえねえ、どうだ、一杯燗《いっぺえつ》けようじゃァねえか」
吉「アア一杯やろう、ところでおまえさんのことについて兄弟同様仲のいい朋友《ともだち》だと思うから半公が来たんだ、言いようが悪かったもんだから、おめえの気にさわったんだが、それでおめえが腹を立てると器量が下がる、人の仲口《なかぐち》をきくというものはむずかしいもんだ、俺も聞いていた、おめえには過ぎた女房だなんてよくねえや、亭主が女房に手をついて謝れるわけのもんじゃァねえ、デいま半公がここに来て話しているうちに俺がおかみさんに遇ってだんだん小言をいって、おめえが離縁をくんなというなァよくねえ、亭主関白のくらいがある、逆らうという法はねえといろいろいって聞かせたところ、おかみさんの言うにはまことにすみませんでした、亭主が大事、子供が可愛い、身上が大切と思えばこそ、ツイ一言や二言荒いことをいいましたが、悪いことをしましたと涙を流して詫びているんだ、勘弁して元々通り家へ入れてやってくれ」
と、年をとった者が逆らわないようにうまく話をして、その場を鎮め、酔いが醒めたところでスッカリ意見をいたしていい塩梅に一時は納まりましたが、持ったが病いでしようがない、また酒を飲むと了簡が変わって、とうとう女房子を追い出して、古い買い馴じみの女郎を引き入れて女房にしてみると堅気《かたぎ》の女のようなわけにはゆきません、手に取るなやはり野に置けれんげ草とはよく言ったもので、朝は起こしたって起きません。
熊「オイ仕事に行くんだ、起きて支度をしねえじゃァ行かねえ」
女「いやだよこの人は、早く起きるくらいなら私ァおまえさんのところなんかへ来やァしない、お弁当を持って行くんなら冷飯《おひや》を詰めておいでな、さもなければ、天丼でも取ってお食べな」
熊「ばかなこと言うない、職人がそんなことをして所帯が持てるもんかい」
しようがないから自分がブーブー釜の下を吹いて飯を炊くというような始末、愛想もつきて追い出そうと思ううちにむこうから追ン出ていってしまう、前に別れた女房子が三年たってめでたく元の鞘におさまるという酒飲みの穿《うが》ちのお話でございます。
[解説]女房子を離縁した後、女郎を女房に直したが、朝、なかなか起きない、そこで亭主が起こすと、欠伸をかみかみ「アア厭だ厭だ」というところは円蔵《えんぞう》が非常に巧かった。しかし三日も家をあけて帰って来た男、女房の前で女郎の惚気をいうところは、三代目小さんが絶妙だった。小さんは徳川御家人の家に生まれ、はじめ常磐津の太夫になって家寿太夫から和国太夫といった。その後落語家になって、はじめは四代目|扇歌《せんか》の門人で歌太郎、また二代目禽語楼小さんの門に転じて、燕歌、燕花、小三治等を経て三代目を襲名した。「小言幸兵衛」「駱駝」「うどん屋」「猫久」などが最も得意であった。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
子別れ〔下〕 子は鎹《かすがい》
―――――――――――――――――
お笑いを一席うかがいます。笑う門《かど》には福来たる。世の中に笑うくらいけっこうなことはございません。この笑うということは、人間が神さまから与えられてある特権だそうで、馬が笑うなどと申しますが、これはあてにはなりません。どうかまァせいぜいご遠慮なくお笑いのほどを願っておきます。
「かくばかり偽《いつわ》り多き世の中に、子の可愛さは誠なりけり」どこへまいりましても、子の可愛いというこの愛に変わりはないものだそうで、お子供衆をお育てになるには親御さんはどのくらい馬鹿になるかわかりません、夢中になってお育てになります、ところで、この夫婦の折り合いが悪くて、一旦は夫婦別れをいたしましても、子の可愛さに引かされて元通りにまとまるというようなお話が、少なくございません、子は夫婦の鎹《かすがい》とはよく言ったものでございます。
番頭「なにね熊さん、このあいだ、ここンとこを通りかかったら、おまえさんとこの、あの亀太郎《かめたろう》とかいったな、ああ亀坊さ、あの子に良く似てるんだよ、どこに居るかわかってるのかい」
熊「ええ、あれはなんでございます、わからねえんで……」
番「そうかい……オオ噂をすれば影だ、そら、あすこへ出てきた、あの子だ、見ねえ、おまえさんとこの亀坊によく似ているぜ」
熊「へえ……アッそうでございます、亀の野郎でございます、へえ、親はなくとも子は育つ、大きくなっちまやァがった、ごらんなさい、番頭さん、動いています」
番「それは動くよ、生きているんだ、ちょうどいいとこだ、会っておやり、じゃァ、私は一足先へ行って、いつものところで待っているから、後から来てくれればいい」
熊「それじゃァすみませんが、おあとからすぐうかがいますから、どうぞ少々の間お待ちを願います、じき後から駈けつけます……やい亀坊ッ亀太郎、亀ッ、亀ッ……どこ見ているんだ、こっちだこっちだ、どうした、アハハ、てめえ、おとっさん忘れちまったか」
亀「やァだれかと思ったらおとっさんだ、さっきからねえ、亀亀と呼んでいるから、だれかと思っていたんだぜ、おとっさんだな」
熊「どうした、ええ、可愛がってくれるか」
亀「おっかさんかい」
熊「イヤ、おとっさんだ、おとっさんが可愛がってくれるかってんだ」
亀「おとっさんはおまえじゃァないか」
熊「後からおとっさんが来たろう」
亀「そんなわからない奴があるもんか、いくら世の中が進んだって、子供が先にできて、親が後からできる奴があるもんか、親が後からできるのは唐の芋ばかりじゃァねえか」
熊「いやにへこましやァがる……じゃァおっかさん、一人でいるのか、どうして暮らしをつけている」
亀「おっかさんはほうぼうのお裁縫をしたり、お洗濯をしたり、それで坊がほうぼうの家のお使いをしているんだ、近所の人がみんなそういっているよ、おっかさんは年も若いし、一人でいたって仕方がないから、相当の話し相手を持ったらいいだろういいだろうって、けれどもね、おっかさんは坊が可哀相だから持たないって、そういっているんだよ、第一、亭主は先《せん》のが飲んだくれで、てこずったからって、そういっていたよ」
熊「おやおや飲んだくれでてこずったと……そう言っていやァがるか、もっともさんざん苦労をさせたからな、そのくらいのことは言うだろう……学校へ行っているのか、豪儀《ごうぎ》だな、おっかさんの恩を忘れちゃァなんねえぞ、女の手ひとつで、学校へ上げて勉強させるなどというなァたいへんだ、孝行しなくっちゃァいけねえぜ、勉強をしてえらい人になってくれなくっちゃァいけねえよ」
亀「えらい人になるよ、学校の先生がそういった、……日本の子供は、外国人の子供と遊ぶようになるんだから、みなさん文字《もんじ》を知らないと恥だって、国家の恥というのをおとっさん知っているかい、諸君、勉強したまえ、先生がそういったよ、それから家に帰って、おっかさんにその話をしてやったら、おっかさんがそういったよ……だから世の中がむずかしくなった、おまえのおとっさんの育つ時分には、お職人なんざァ、字などは覚えなくってもいいといっていたもんだから、とうとうあんな大きくなっても明き盲だって、へヘッ、おとっさん、明き盲でよくぼくが見つかったなァ」
熊「なにをいやァがるんだ、だが、おとっさんのようじゃァしようがねえや、おめえ、勉強するのはかまわねえけれども、額《ひたい》にまで清書する奴があるかこんなところまで清書をしちゃァ……おやッ、これは墨《すみ》だと思ったら、墨じゃァねえな、傷だな、どうした、ころんだか、ほんとに冗談じゃァねえ気をつけろ、この頃は運動運動というが、そりゃ運動もけっこうだ、身体のためにけっこうだ、けれども気をつけなくっちゃァいけねえ……なに、ころんだんじゃァねえ、どうしたんだ」
亀「これはね、おとっさん、あすこに門のある、アノ電話のあるね……おとっさん、これは〔泣く〕近所の坊ちゃんと遊んでいたんだ、そうしたらね、藤城《ふじしろ》さんの坊ちゃんが、剣劇ごっこをしようというんで、ぼくは斬《き》られる役なんだ、斬られて立っていたら、斬られて立ってる奴があるか、大地に寝ろというから、地べたにねると衣服《きもの》がよごれて、おっかさんに叱られるから寝るのはいやだと、そういったら、そんなことをいうと一緒に遊ばないというから、じゃァ仕方がないからこごんでると、死んだ奴がこごんでいる法があるかって、刀でなぐったの〔泣く〕それから家へ帰っておっかさんに言いつけると、おっかさんは……男親がないと思って、人をばかにしやァがる、いいわいいわといっていると、しまいにはどんな目に遭わされるか知れない、行ってそういってやるから、どこの子だかそうお言い……って言うから、藤城さんのとこの坊ちゃんだ……とそういったら、それじゃァ痛いだろうが、亀や仕方がないから我慢をしろッて……〔泣く〕藤城さんでは、たくさん裁縫《しごと》をさせてくだすった上に、おいしいものができるときは持ってきてくれるから、痛いだろうけれども、我慢しろ、我慢しろって、仕方がないから我慢しちまったんだ〔泣く〕おとっさん、家へ来ておくれよ、近所の者がね、ぼくのことを親のないヘチマ野郎だとそういっているよ」
熊「ウム、親のないヘチマ野郎か……堪忍してくれ、みんなおとっさんがばかだから、てめえにまで苦労をかけてすまねえ、この通り頭をさげて謝らァ、堪忍してくれ、おとっさんは酒が悪いんだ、この頃じゃァ酒なんぞプッツリ断ってしまった、女も断ってしまって、仕事に一生懸命だ、おっかあは愛想《あいそ》が尽きているだろうが、てめえだけは引き取って、どんなにでもしてやるから、泣くな泣くな亀は男だ、男が泣いちゃァみっともねえ」
亀「その時に、おっかさんがそういったよ、こんな時に、あんな親でも男がいたらば、ちっとは案山子《かかし》になるだろうって」
熊「ひどいことを言やがるな、案山子とは……しかし案山子かも知れねえや、泣くな泣くな、いいかおとっさんが小遣いをやらァ、むだな物を買うんじゃァねえぞ、学校で入り用な物を買わなくちゃァいけねえぜ……なァ亀、おっかさんはおとっさんのことを何とかいっているか」
亀「ああ、そう、そういっているよ、からすの啼かない日はあっても、おとっさんのことを思い出さない日はないって、そういっているよ、おとっさんは善い人だけれどもあれは魔がさしたんだ、おとっさんは善い人だ善い人だって、おっかさん、たいへん褒めているよ、まだなかなか未練があらァ」
熊「なにをいやァがるんだ、つまらねえことをいうな、アハハハ、てめえなにか、うなぎは好きか」
亀「うなぎなんざァ好きにも嫌いにも、食べたことがねえや」
熊「なるほど、これはオレが悪かった、女の手ひとつだもの、手がまわらないのがあたりめえだ、よし、今日はいけねえ、他所《よそ》のおじさんと一緒だから、明日にしよう、いま時分ここへ来て待っていろ、オレがうなぎ屋ヘ連れていって、うなぎをたんと食わしてやる」
亀「本当に、おとっさん、うなぎをごちそうしてくれるのかい、先《せん》にはよく嘘をついたけれども……」
熊「先とはちがう、今度は本当だ……さァ遅くなるといけねえ、家へ帰んな、おっかさんが心配しているといけねえから……それからなんだぜ、帰ったらおっかさんに黙ってろ、おとっさんに逢ったということを言っちゃァいけねえぜ」
亀「どうしていけないんだい」
熊「どうしていけねえッて、言っちゃァならねえ、言うことをきかねえと、うなぎを食わしてやらねえぞ、おとっさんのいうことを聞いて黙っているんだぞ」
亀「おとっさん、ちょいと家へ寄って行かねえか」
熊「寄るわけにいかねえんだ」
亀「どうして寄るわけにいかないんだえ」
熊「てめえにはわからねえ、おとっさんはおっかさんに渡してあるものがあるんだ、また会う時もあらァ、まァいいや、オレのいうことを聞いて、必ずオレに逢ったということをいうなよ、あしたいま時分ここへ来て待っているんだ、忘れちゃいけねえぜ、うなぎ屋へ連れて行くんだからおっかさんに黙ってろよ、さようなら……フッ、大きくなりやァがったな」
亀太郎、父に別れてバタバタと帰ってきた我が家。
女房「なにをしているんだよ、近所の子供衆はみんな帰ってきてしまったじゃァないか、なにをぐずぐずしているんだよ、ほかの家の子供衆とはちがいますよ、早く帰ってきて、おっかさんの手助けをしてくれなくっちゃァ、困るじゃァないか」
亀「どうもすみません、そんなに怒らなくったっていいじゃァないか……ああそうか、糸を掛けるのか、なにもそんなに怒らなくったって……〔糸を手に掛けて解く形〕ヘッヘヘヘヘ」
女「なにを笑うんだよ、なにもおかしくもないことを笑うと、人がばかだと言いますよ……おやッ、おまえの帯《おび》の間に光ってるのはなんだい、お銭《あし》じゃァないか、五十銭というお銭をどうしたんだい」
亀「これは、これはもらったんだい」
女「もらったといって、だれにもらったのだえ」
亀「これは……もらったんだい」
女「だからさ、だれにもらったのだよ」
亀「これは言うことができないんだい、これをいうと、うなぎ……ヘッヘヘヘだいじょうぶなんだよ、決しておっかさん、心配することはないよ、あやしいお銭じゃァないよ、正当なお銭なんだよ」
女「正当なお銭なら、お言い、五十銭などというお金をいただいてみると、おっかさんもお礼をいわなくちゃァならないから、だれにもらったのか、そうお言い、言えばおまえの好きなものを買ってあげる、サッカーボールでもなんでも買ってあげるから、だれにもらったのか、お言い」
亀「|ちゃん《ヽヽヽ》にもらったんだい」
女「だからさ、だれにもらったんだい、おっかさんが困るからさ、そう言っておくれ」
亀「しようがないな、もらったんだい」
女「だから、だれにもらったんだよ、正当なお金なら、言えるだろう、おまえは悪いことをしてもらって来やァしないだろうけれども、おっかさん心配だから、お言い……言わないかえ、おっかさんがこれほど頼んでも、言わないね、どうしても言わないの、言わなきゃ、お言いでない、悪いことをして持ってきたね、さアどうしても言わないと、痛い思いをさせるよ……さアここに玄翁《げんのう》がある、おまえだろう、おとっさんと別れる時、荷物の中へ一緒に入れてきたのは、この玄翁でなぐれば、おとっさんがお仕置きをするのと同じことだから、言わなけりゃァ、この玄翁でなぐるよ」
亀「しようがないなァ、じつはネおっかさん今、おもてでもってね、おっかさんのいい人に逢ったんだよ」
女「なんだてえ、人をばかにして、悪いことばかり覚えやがって、おっかさんにいい人があるくらいなら、こんな苦労はしやしない〔泣く〕だれにもらったのだ、だれにもらったのだよ、亀ッ」
亀「泣かなくったっていいじゃァないか、おとっさんに逢ったんだい」
女「おやッ、おまえ、おとっさんにお逢いかい」
亀「ほら、おとっさんといったら乗り出してきたよ」
女「なにをいうんだね、本当にそりゃァよかったね、おとっさん、どんな姿をしていたえ」
亀「おっかさん、今日はね、おとっさん、立派な服装《なり》をしていたよ、この頃はお酒もやめてしまい、女も断ってしまって、お仕事を勉強しているから、おっかさんは愛想が尽きているだろうけれども、おまえだけは引き取って、どうにでもしてやるから、堪忍しろしろってたいへんに謝っていたよ、あんなに謝っているんだから腹は立つだろうけれども、亀が困るから、おっかさん、おとっさんに家へ来てもらっておくれな」
女「そうかい、そりゃァあの人が、そうして堅くなってくれりゃァうれしいけれども……なにかい、明日うなぎを……それはよかったね」
男親より倍増《ばいま》して女親はうれしゅうございます、翌日になりますと|ちょいと《ヽヽヽヽ》小ざっぱりした風をさしておもてへ出してやりました。亀坊は大喜び、父親と二人でうなぎ屋へあがって、差し向かいでやっていると、階下《した》で亀坊を呼ぶ者がある。
○「エエ坊ちゃん、エエ坊ちゃん」
熊「おい、下で呼んでいるじゃァねえか」
亀「ええ……」
熊「下で呼んでるよ」
亀「坊ちゃんて……ぼくのことか、坊ちゃんというのは……ええなァに」
と、はしご段のところまで行ったが、亀坊、すぐ帰ってきた。
亀「おとっさん、来たよ」
熊「なにが来たんだい」
亀「ヘッ、|えてもの《ヽヽヽヽ》が」
熊「なんだい、その|えてもの《ヽヽヽヽ》てえのはだれが来たんだよ……なにおっかァが来た……そいつはいけねえな、知ってるわけがねえじゃァねえか、おめえしゃべりゃァしねえか、しゃべったな、言わねえことじゃァねえや、だから、おとっさんが黙ってろといったじゃァねえか、なんか用があるんだろう、行ってお使いかなにかしてきねえ」
亀「なに用なんぞありゃァしないんだよ、下へ来たんなら呼んでやんなよ、いいじゃァねえか、おっかさんが来ているんだからさ……おっかさんおっかさん、こっちへおあがりよ」
女「なんだねえ、見ず知らずの方にごちそうになって……」
亀「へヘッ、うまくいってらァ、知ってるくせに、こっちへおあがりよ、……おとっさん、おっかさんが|きまり《ヽヽヽ》を悪がってるから、呼んでよ……おっかさんこっちへお上がりな、……おとっさん、呼んでやんなよ、おっかさん、おあがりよ、しようがないなやァ……おっかさん上がってきたぜ」
女「あれッだれかと思ったら、おまえさんなの、いえ、なんだか知らないけれども、うなぎをごちそうしてくださるというし、それにお銭をいただいたりなにかして、お礼をいわなくっちゃいけないと思って来たんだけれども、そうまァおまえさんなの……」
熊「ウム、なに、なんだ、その昨日は、おもてで逢ったんだ、ウム、それからまァ久しぶりでうなぎでも食わしてやろうと思ってな、それからまァなによ、ヘッヘヘヘまァいいや、そのなんだ……ちくしょうめ、だから黙っていろと、そういったんだ、しゃべってしまやァがって、子供なんてえものはしようがねえもんだ、まァいいや、なんだ、昨日おもてで亀に逢ったんだ、それでまァ久しぶりでな、うなぎでも食わしてやろうと思って、それからまァなんだ、ヘッヘ、そのなにしたわけだ、なんで、まァ……ちくしょう黙ってろと、そういったのにしゃべっちまやァがって、どうも子供なんてえものは、しようがねえものだな、昨日なんだ、おもてで亀に逢ったんだ……」
亀「おとっさん、おんなじようなことばかり言ってるんだなァ」
熊「ところで、今まで、亀を育ててくれたことは、おまえに礼をいう、ところで、これから先だ、一人で育てるのと二人で育てるのとたいへんなちがいだ、いまさらどの面《つら》さげて、こんなことが言えた義理じゃァねえがこれも子供のためだ、どうだい、もういっぺん撚《よ》りを戻してくれる気はねえか」
女「それはあたしだって、そうなりゃァ〔泣く〕どのくらいうれしいか知れやァしない、おまえさんがあんまり邪慳《じゃけん》にしたから、こんなことになってしまったんだよ、しかしね、熊さん、これを思うと、子供というものは、夫婦の仲の鎹《かすがい》だねえ」
亀「あたい鎹かい、ああそれだから、おっかさんが玄翁《げんのう》で殴るといったんだ」
[解説]子別れの(下)下は、三代目|柳枝《りゅうし》の作だといわれている。それに対抗して三遊の円朝《えんちょう》が「女の子別れ」を作った。すなわち柳枝のは、子供が父に別れて母親と共に暮しているが、円朝のほうでは子供が母に別れて父親と一緒にいることになっている。お屋敷奉公をしていた母親が、途中でせがれに遇うのだが、結果は同じである。三代目柳枝は、なぜか客の人気はなかったが、同業者間には大した人望で、蔵前の大師匠といわれた。門人も多くあったが、中で、四代目柳枝が人気があった。四代目は武家の家に生れて一時は商家の小僧になったが、落語を好んでついにこの社会に身を投じ、はじめは鶴枝《かくし》の門に入って鶴吉、後三代目柳枝の門に転じて、枝雀、さん枝、柏枝、小柳枝から四代目柳枝を継いだが、後に華柳《かりゅう》に改めた。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
山崎屋〔上〕 よかちょろ
―――――――――――――――――
エー「よかちょろ」という妙なお話を一席うかがいます。あながちこれがよかちょろというわけではございませんが、元|山崎屋《やまざきや》とか申しまして、若旦那がお道楽のためにその親御様がご心配を遊ばすという、世間ありがちのお噂でございますが。
このご道楽とお遊びとは、ことは一つのようで、大きに意味の異なるものだそうでございます。いわゆる倹約《けんやく》と吝嗇《りんしょく》と異なるようなもので。倹約はご交際のほうはもう世間に負けずに遊ばしておいでになって、ただご自分の身に付いたご費用をお省きになるというので、吝嗇となるとご自分はコソコソ内緒でなにか遊ばしながら、お交際《つきあい》向きになるとまことに出し汚いというようなわけでございます。
やっぱりお遊びがそうで、ご自分のご用もチャンと遊ばして、お交際になるとお間《ま》を欠かさずにお遊びになる。たとえば、女郎買いを遊ばしても、あるいはまた芸者をあげてお遊びになっても、お気を詰めてただご保養になさる。ご道楽になるとご自分の業務《しごと》のお間をお欠かしになり、義理のお交際ということはせず、慈善のことなどに使うよりは道楽のほうに使ったほうがよいなどということになると、まことに親御さんもご心配になりますから、笑っていつまでもよいと言っているわけになりません。
父「どうも困ったものだ、なんだ、平兵衛《へいべい》どんや、番頭、番頭」
平「ハイ……エーお招《よ》びになりましたか」
父「お招びになったからそこへ来なすったんだろう」
平「さようで、エーなにかご用でございますか」
父「用があるから招んだんだ」
平「ヘエ、なんのご用でございます」
父「うるさい男だ、催促をしないでも、私のほうから言い出します」
平「ヘエ、今日はチト不機嫌でいらッしゃいますな」
父「人間だもの、息の通《かよ》っているあいだは、機嫌のいい時も悪い時もある。雨の降る時もお天気のいい時もある。生きているうちは仕方がない。苦労もしたくないけれども、する事ができてくる。エエばかばかしい。おまえは幾歳《いくつ》になる」
平「まことに相すみません」
父「べつにすまないことはないが、番頭、おまえに私は小言を言いたくはないが」
平「ヘエ」
父「ヘエじゃァない、この間なんと言いなすった。うちの伜《せがれ》に金を持たせると、満足に家へ帰ってこない、依田《よだ》さんのお金はわずか二百両だけれども、おまえが行ってくんなさい、それとも清吉《せいきち》をやるか、藤兵衛《とうべえ》でもやるかとおまえにそう言った。スルとおまえが、若旦那はこの節たいへんにご辛抱《しんぼう》でいらっしゃいます、あなたみたようにそうお疑いになると、かえって若旦那のお気を損じてお遊びになります、ご心配なく若旦那をお遣わしになったほうがようございましょう、私が受け合いますと、おまえが立派に私に口をきいた。ところが見なさい。二日も三日も帰らない。今ノッソリと帰ってきたようじゃァないか」
平「さようでございます」
父「さようじゃァない、じつにおまえには困るよ、やくざ野郎の肩を持って」
平「ヘエ、私はやくざ野郎の肩を持つというわけではございませんが」
父「なんだいおまえまでも、同じようにやくざ野郎なんて」
平「ヘエ、じつにどうも、おやくざ野郎さまで」
父「どうも番頭どんや、ほんとうにあれは、おやくざ野郎だよ」
平「ヘエおやくざ野郎さまで、さぞお困りでございましょう」
父「どういう了簡でいるだろうな」
平「さようで、マアどういう思し召しでいらっしゃいましょうな」
父「親の心子知らずとはよく言ったものだね」
平「さよう、親の心子知らずとはよく申したもので」
父「おまえは私の真似ばかりしている、それでは困るじゃァないか、マアここへ呼んでおくれ。私も小言をわざわざ求めて言いたかァないけれども、しかしよいワといってうっちゃっておいた日には、どんなことになるか知れない、呼んでください」
平「ヘエ、少々どうかご猶予《ゆうよ》を願います……エー若旦那、若旦那」
伜「どうしたエ番頭。アーアいやだいやだ、オレはどうも本当に番頭おまえの前だがね、世間に親父もたくさんあるが、私の親父はどういう了簡だろう」
平「ヘエー、なんでございます」
伜「なにがッたッて、私がね、マア遊びに行ってお金を使うだろう。スルとそのたびたびにキッとマアなんのかのといって小言をいうが、じつに困ったものだね。ぜんたいどういう気持ちなんだろう」
平「さようでございますな。しかしマアあなたがお遊びにいらしって、あまりお金をお使いなされば、小言をおっしゃるのは世間普通のことだろうと私は思います」
伜「おまえまでがそんなことを言うから困る。人間はね番頭、あきらめというものが付かなければいけない。世の中にあきらめの悪い人は物の理窟がわからないで困る。これは大切な人だと思っても、死んでしまったらどうしたものだ。あとでどう思っても取り返しがつかない。それと同じことで、いくら親父がグズグズ言っても、私が借金をして使うというわけではない、家にある金を持っていって使うというのに、それを親父がグズグズいうのはわからない話だ。第一考えてごらん。私はここの家の二人とない子供だ、オレが番頭|壮健《たっしゃ》だからこうやって芸者をあげて遊ぶとか、ねえ、あるいは吉原へ行って流連《いつづけ》しているとか、なんとかして壮健で遊んで生きているのは親父の幸福だよ。よいかい、オレがもし身体が悪くッて、病院へでも入るようなことになったら、両親の心持ちはどうだい。おとうさんやおっかさんは何と思う。エッ、心配をして他にかけがえのない一人息子、両親に心配をさして、オレもいやな薬を飲んで、医者に気をもませる、それだけ親に不幸に当たる。どんなに気をもんでも、壮健で金を使って遊んでいれば、親も安心だし、医者のやっかいにもならず、私もよい保養をする。それをむやみに遊ぶといって小言をいうのは、親父の考えが古風だからいけない。もっとひらけてあきらめを付けてしまわなければいけない。だから番頭こうしようというのだ。親父によくわかるように私が話をしようと思う」
平「ヘエーあなたが……」
伜「ソコデ少し困ることにはねえ番頭、私がどんなにうまい理屈で親父に小言をいっても、親父がよし腹の中でなるほどと思っても、そうと言うわけにいかない。なかなか頑固だからね。自分勝手なことをしておきながら、親に向かって意見がましいことを言う、なまいきだといって、かんしゃく持ちだから、煙管《きせる》でも持っていると、私の頭へポンと来る。打たれれば生身だからキズが付く。これが私の身体なら親父に殺されても打たれても、番頭いいんだが、番頭おまえにはわかっているかい、だれのだと思うこの身体は」
平「ヘエー妙なことをおっしゃいます。あなたの身体はだれのでもない、やっぱりあなたの身体だ」
伜「それがね番頭、私が吉原の花魁《おいらん》から半年あずかっているんだ」
平「ハア、どうもあなたは時々妙なことをおっしゃいますな。吉原の花魁とどういうお約束になっているか知れませんけれども、しかしあれは売り物買い物でございますよ、ようございますか。あなたのおなじみを私が今晩買っても足りるじゃァございませんか、そういういやしい稼業をしている婦人からお大切のあなたの身体をおあずかりになるというのはわかりません」
伜「イヤ私はあずかる気はないが、先方であずけるんだ」
平「なんだってあずけるんで」
伜「番頭、彼女《あれ》がばかに惚れてね」
平「ヘエー」
伜「ソコで花魁の曰《いわ》く」
平「曰く……」
伜「こう言うんだ。若旦那と私は気性が合ってるにちがいない、私はあなたのお顔を見ると、なんとなく胸がスーッとすいていい心持ちになりますとこう言うんだが、番頭、私の顔はなんだね宝丹《ほうたん》か清心丹《せいしんたん》、それでなければラムネかサイダーみたようなものだね。このあいだ番頭こう言ったよ。チョイと若旦那、アノおまえさんの星はなんですというから、私は星などはなんだか知らないというと、アラ本当に男というものは気楽なものですね、ご自分の星を知らないなんて、私が当てましょうというから、当ててごらんと言ったら、おまえさんの星は梅干しだろうとこう言うんだ、番頭怒ったね私は、その時に、冗談いっちゃァいけない、オレとおまえの交情《なか》だからなんでもかまわないけれども、しかし梅干しという星があるかというと、あると言うんだ、サァ私が癇癪《かんしゃく》にさわったから、どういうわけで梅干しだと念を押した、番頭ここをよく聴いておくれよ、いいかい、スルと花魁のおっしゃるには」
伜「わしが好いているから梅干しだと、番頭わかったかい、どういうわけで……」
平「もうわかりましたよ」
伜「それからね、早く一緒になりたいけれども、いま一緒になるとお金がたいへんに要る、今までさんざんおまえさんにお金を使わしていて、早く夫婦になりたい、サアお金をと言っては、それではあんまりおまえさんに義理が立たないから、若旦那後生だから半年辛抱をしてください、半年経つと私の身体も楽になるから、そうしたら一緒になる、どうか若旦那と一緒になろうと思うと、もうじつは半年も別れているのはイヤだけれども、しかし私も勤めの身だから、そう自由にもいかない、半年経つと私の身体が軽くなるからお金を使わないで一緒になれるから、それまでの間おまはんの身体は私のだから、おまはんにお預け申しておきます、その代わり三日目にキット顔を見せてください、たしかにお預け申しました、この節は風邪がたいへんに流行《はや》るからお風邪でも召したら、買い薬などでグズグズしていると重くなってしようがないからインフルエンザとかサンフランシスコとか、そんな身体にならないうちに、良い先生にかかって、先生が脈をとって首をかしげたらすぐに葬儀社からお寺へまわってくれろ、まんじゅうは風月《ふうげつ》にあつらえてくれろと、それまでは釣り台へ乗ってもいいから三日目ごとにキット顔を見せてください、若旦那たしかにお預け申しましたよと、オレが半年|正《まさ》に預かっている身体だと思いなさい」
平「若旦那そうベソベソ泣かないでもいいじゃァございませんか」
伜「ところがね番頭、三日目に一度私がマア繰り込む、スルとおまえ自分が預けてある身体と思うから、なにがさておいてまず私の顔を見る、そうすると額《ひたい》に親父にぶたれたキズがある、サア承知しないよ、若旦那あなたのお顔のキズはどうなすった、どなたと争いを遊ばした、どなたがぶったか対手《あいて》をおっしゃい、あなたのお身体ではない、この間から決めてチャンと半年の間お預け申した身体だ、それをどうも他のところなら我慢もできるが、お顔にキズを付けられては私が承知できません、サアどなたにぶたれたか対手をおっしゃい……」
平「若旦那、そう私の胸倉を取ってはいけません、若旦那、オホ、オホホ、ホン〔咳〕アア苦しい、若旦那|咽喉《のど》がつまりますよ。仕方話《しかたばなし》〔身振りをまじえた話し方〕はよしてください、どうか口でわかるようにおっしゃっておくんなさいな」
伜「そうするとね番頭、私も黙っていられないから、花魁怒っちゃァいけない、私は朋友《ともだち》と喧嘩をするような、そんな不粋《ぶすい》の男じゃァない、おとうさんがあまりわからない小言をガミガミ言うから、私がおとうさんを言い込めた。スルとおとうさんが怒って額をぶったと言うと、番頭なお怒ったよ、サア私が承知しない」
平「若旦那、危ないからお気を付けなさい」
伜「だいじょうぶだいじょうぶ、他人なら事によったらぶったりぶたれたりすることもあるかも知れないが、現在のおとうさんが自分の息子の顔にキズのつくほどぶつというそんなわからずの親父がありますか、親父というものは人間のぬけがらです、死なないようにご飯をあてがっておけばよいので、そんな親父ならほかへ片づけてください、親父をすみやかに片づけてください」
平「若旦那おとうさんに聞こえますよ」
伜「親父を片づけてください」
父「番頭」
平「ヘエ……サアたいへんだ、聞こえてしまった。仕方がないいらッしゃい、いらッしゃいまし」
伜「行くよ。私が行って親父に談判《だんぱん》をするから、おまえ私のうしろに座ってお辞儀をしていておくれ」
平「ヘエ、それはどういうわけで」
伜「私が親父をドシドシ言い込める、言い込められて親父が仕方がないから、煙管《きせる》かなにかを持ッて私の頭をぶとうとする。私はぶたれると痛いからヒラリと体をかわす、ところへうしろからおまえが頭をヌッと出して、おまえが頭を心持ちよくスポリと打たれる」
平「若旦那、まことに思し召しはありがたく存じますが、それはごめんをこうむりましょう」
伜「番頭おまえはいやに遠慮深いよ」
平「遠慮はいたしませんが、私だって頭を打たれれば痛うございます」
伜「それはおまえただぶたせやァしないよ。一つポカリと打たれたらば現金で二円あげるよ」
平「ヘェーポカリ殴りの現金二円、よろしい、請け合いましょう。さしあたり十五ばかり続けて打たれましょう」
父「なにを言っているんだ、早く来ないか」
平「ヘエただいま、若旦那いらッしゃいまし」
伜「じゃァ番頭たのむよ」
平「ヘエよろしゅうございます」
伜「エーおとうさん、ごきげんよろしゅう」
父「少しもごきげんよくない。なんだおまえはわたしをつんぼとおもっていなさるか、親父は人間のぬけがらだと……ぬけがらにこれだけの身上《しんしょう》が起こせるか。おまえはな、ほかに兄弟があればもう私はとうに家に置く男ではない。一人だから私も我慢をしていればだんだん悪くなって、遊ぶことはじょうずになり少しも家に居て自分の業務ということをしない、よくものを考えてみろ。私も若いうちは少しぐらい遊びをしたからそれはいい、いいけれどもおまえのは不断《のべつ》だ、遊びが勤めになっている。今日《こんにち》幾才《いくつ》になる、子供じゃァなし……ナニ子供でないことはよく存じていると、口の減らない奴だ、もう二十二にもなって一文《いちもん》の稼ぎもできず、遊びばかりされてみては、おまえはよかろうけれども私が困る、第一もったいない、なにをどうしたい、依田《よだ》さんのお金は」
伜「エーあれはおとうさん、なんでございます、二百円五円札でたしかに受け取りました」
父「受け取ったかい、それはご苦労ご苦労。番頭に渡したか」
伜「エーまだ渡しません」
父「ウム、そこに持ッているのか」
伜「イエございません」
父「なんだ。受け取ったものがだれにも渡さず、持ってもいないというのは落としたのか」
伜「落とす気づかいはなかろうと思います」
父「ふざけやァがって、人をばかにするな。また使ってしまったんだろう」
伜「えらいッ」
父「なにがえらいんだ、ぜんたいそれを何に使ったのだ。二百円という金が一日や半日に使えるものじゃァない」
伜「アラおとうさん、わしいやだワ」
父「なんの真似だいそれは」
伜「なんの真似だッておまはん……」
父「オイおまはんとはなんだ。きさまはな、いやにグチャグチャした真似をして、それをいいことと心得、大切な金をドンドンふんだくられてじつにばかばかしい。私は親だからおまえに困らせようという気はないが天が許さない。しまいには金罰《きんばつ》が当たって困るようなことになるよ」
伜「おとうさん、あなたそれはたいへんに私とは見込みがちがいます。ばかにされて金をただ取られるの、無駄に金を使うというのは、それはおとうさんお考えがちがう。あなたはね、夏になって冬の話をなすってはいけませんよ。あなたの若いうちはそういう者があったかも知れませんが、今の若い者はね、一日に二百円使おうが三百円使おうが、ばかにされて使う者はございません。チャンと使いみちが立っているので」
父「なまいきなことを言うな。口に門番が居ねえと思ってなんだ。きさまがな、一日に二百円活きている金を使うことを知っていれば、私は安心をしておまえに身上を渡してしまう」
伜「すぐに受け取る」
父「ふざけるな。いちいちばかにしやァがって、そんなことを言って使い払いがオレの前でチャンと言えるか」
伜「言えるかって、それはおとっさん、かえって申し上げたほうがようございます。あなたは私がただ無駄に使う、遊びにふけって使い散らすと思召すからお腹が立ちましょう。それよりは私がここであなたに委細をお話をいたしますから、あなたはよくお書き取りください。スルとなるほどこういう使い方ではこれは無理はないとこう思し召して、あなたのごきげんも直り、私もよし、これから遊ぶにもたいへんよろしくなります」
父「なんでもいい、ちきしょう、人をばかにしやァがって、本当に書き立って十銭でも無駄があると承知しないぞ」
伜「エエ、一銭でも無駄はございません」
父「どうもきさまはな、悪い癖があっていけない。自分が遊んだりなんかして、親に小言をいわれたらば少しはしおれる心持ちがなければならない。自分が勝手なことをしておいて、どこまでもオレに負けない気で逆らってくるというのはじつにけしからん」
伜「逆らやァいたしません。ただその道を申し上げるので」
父「サア言え、一銭でも無駄があれば承知しない……オヤ筆の頭がない」
伜「おとうさん、それはさかさまで」
父「そんなことは言わないでも知っている」
伜「それでもあなた、ないとおっしゃったじゃァありませんか」
父「両方にないと言うのだ」
伜「さようでございますか」
父「サア言いなさい」
伜「じゃァお父さん申し上げますが、まず第一に髯《ひげ》を剃《す》りました代が三円と願います」
父「何度剃った」
伜「たったいっぺん」
父「オイオイおまえはマア妙な男だな。商人《あきんど》の腹に生まれてなにかい、物の勘定がわからんかい、しようがない男だ。オイ三円というが髯は五銭だよ。面中《つらじゅう》髯でも五銭出せば剃ってくれる。十五銭出せば親切に苅り込んで、鶏卵《たまご》まで使って洗ってくれる。なんだ、そのてめえのどじょう髯を、……」
伜「アッおとうさん入れ歯が落ちました」
父「なんだ、ウーム」
伜「おとうさんあなたはね、お小言をおっしゃる時には、お小言よりはご立腹のほうが多くなりますから、せっかくのお小言が引き立ちません」
父「オレは小言を引き立てるために言っているのじゃァない」
伜「私があなたにこう申し上げると、釈迦《しゃか》に説法、孔子《こうし》に意見をするようでまことにすみませんけれども、しかし言わないことにはわかりませんから、私の思うだけのことを申し上げます。およそこの天地の間に何事によらず死物活物《しぶつかつぶつ》とあって、物に上中下とこういう区別のついているものでございます。今あなたが五銭とおっしゃったのは、同じ理髪床《かみいどこ》でも下物《げぶつ》でございましょう。籐《とう》のいすに腰をかけて、三時間も待たされて、疝気《せんき》を起こして、ヤッと髯を剃ってもらう、それだから五銭。私のはおとうさん三階の角部屋《かどべや》でございます、広さは十二畳敷き、たんぼからいい空気が通って、前に三十五円の舶来の姿見が立って、あなたはご存じあるかないか知りませんが、ハンゾウというものへチャンといいかげんのお湯を八分目入れて、やわらかい布団を二枚敷いて、朝のことだから私は寝着《ねまき》を着て、扱帯《しごき》をグルグルと巻いて、そうしておとうさん私は懐手《ふところで》をしてこうやって居るので、私のそばに花魁が座って、こっちに番頭|新造《しんぞ》、うしろに理髪床の若い衆が立って、向こうに小女《こしょく》が居眠りをしている、そのそばに猫がいたりいなかッたり、私がこういう塩梅《あんばい》に……おとうさんごらんなさいよ、チョイとおとうさんごらんなさいよ」
父「見るよ」
伜「スルト花魁が、若旦那髯々とおっしゃるが、この節は髯があるほうがよほどようございます。おまえさんは髯を剃るとニヤケていけない、浮気でもしようと思って憎らしい。サア私が湿《しめ》してあげましょう。こっちをお向きなさいよ、アラマァ本当にこっちをお向きなさいッたら強情だね、こっちをお向きなさいよ……」
と、親父の身体をグイとまわした。
父「アイタタタタ、なにをするんだこの野郎」
伜「イイエ花魁が私をこう向けたんですよ」
父「花魁がおまえを向けたって、おまえが私を向けるには及ばない」
伜「でもおとうさん、話はこのくらいにしませんと人情が移りません」
父「ばか野郎、あきれたものだ。それからどうした」
伜「それからね花魁が、サア私が湿してあげましょうといって、自分の手を湿して、そうして私の顔をこう……」
父「エエなにをするんだ、いやな心持ちだ、人の顔を撫でやァがって……マア仕方がない。その三円はいい。アトはなんに使った」
伜「アトはおとうさん、|よかちょろ《ヽヽヽヽヽ》を四十五円買いました」
父「なんだいよかちょろとは、舶来物か」
伜「イエ、日本《こちら》の物で」
父「ヘエー、妙な名前を付けるなこの節は本当に、なんだい一体そのよかちょろというのは」
伜「さようでございます、マアチョッとお座敷向こうへ持ち出すようなものでございますな」
父「ヘエー、どうせおまえが買うようなものだからくだらないものだろう」
伜「イエ、それがおとうさん、私はね遊んでいるようでも決して無駄なものは買いませんよ。じつはおとうさんにご相談をして、ウンと買い込みたかったので」
父「ヘエー」
伜「ところが遊び先であったから、遊び先から申してよこしたらかえっておとうさんがご立腹になろうとこう存じまして、マア遊ぶ金の中を四十五円、買うのはじつに辛いんでございますがこれも家のためと思いまして、それで思い切って買ってしまいました」
父「それはマアしかし感心は感心だな。きさまは商人《あきんど》の腹から出ているから、たとえ遊んでいても家のためになるものと思うと買うというところはえらい。廃物《はいぶつ》になるものじゃなかろうな」
伜「エエ廃物には決してなりません、だんだん気を持つもので〔値打ちが出る〕」
父「それはえらい。そんならそういう話を早くするがいいじゃァないか、ばかだな。そうすりゃァ小言も言やァしない。そう割りのいいものなれば、どうせ土蔵《くら》も空いているものだから、ウンと買い込んでおいてもよかった」
伜「いよいよあなたお入り用なればごらんに入れましょう」
父「ウムそこにあるのか」
伜「ヘエ」
父「なんだべらぼうな、持っているなら早く出すがいい」
伜「じゃァご覧に入れましょう」
父「ウム見せな」
伜「アア――女ながらもまさかの時は、ハッハよかちょろ、主《ぬし》に代わりてエーエ玉襷《たまだすき》よかちょろ、すいのすいの、してみてしんちょろ、味みちゃよかちょろ、しげちょろパッパこれが四十五円……」
父「ばかばかしい、本当にあきれ返ってしまう。アアいやだいやだ、オイオイ……婆さん婆さんなんだいそっちを向いてクスクス笑っていて、どうもあきれたじゃァないか、チョイとここへ出てきなさい」
母「アハハハハハ、マアおとうさんほんとうに私はいやだよ」
父「なんだい踊っていやァがる。オレの家はまるで化け物屋敷だほんとうに、エエ伜が四十五円でよかちょろを買ったといえば、おふくろが喜んで踊っていやァがる。そこへお座りよ。おまえも親だろうが私も親だよ、じつにこれでは困らァ。二十二年前におまえの腹から出たんだが、こんな者が生まれるというのもおまえの畑が悪いからだ、少し恥入るがいいよ」
母「マアおとうさん、本当にマアご自分のお勝手なことばかりおっしゃいます。幸坊《こうぼう》が道楽をするといって畑々と私に小言をおっしゃいますけれども、私の畑よりはあなたの鍬《くわ》のほうが悪いんでございますよ」
父「ばかなことを言いなさんな」
母「イイエ私はばかなことは申しません。あなたがばかげていらッしゃいます」
父「なにがオレがばかげている」
母「だってあなた、幸坊があなたをつかまえておもちゃにしているんでしょう、それをあなたがムキになって筆の軸を噛んだり、入れ歯を吐き出したり、よほどあなたのほうがおかしゅうございます。ねェいいじゃァありませんか、売り物買い物で、幸坊がただでも女郎買いをするとか、人のお金を持っていって遊ぶとか、借金をして遊ぶとかいうんなら、それは親だからまさかに見ているわけにもいきますまいが、幸坊は自分のお金を自分で持っていって、それを使うのになにもグズグズ言うところはありません。よほどおとうさんのほうがどうかしていらっしゃる」
父「どうもあきれたものだな、おふくろが伜の道楽を褒めていやァがる」
母「ですけれどもねおとうさん、幸坊とあなたは年がちがいますよ」
父「あたりまえさ、親と子におんなじ年があるかい」
母「ソレごらんなさいまし、おとうさんだって二十二の時がありましたろう、ようございますか、生まれながら五十八じゃァございますまい。ねェ本当におとうさん私はあの時のことを写真に取っておきたかったんですよ、忘れやァしませんよ、あなたが二十二、私が十九で、こっちヘお嫁にきたんでしょう、ねェその時は三歳《みっつ》ちがい、今でもおとうさん三ツちがい。だがねおとうさん。いくつになっても年はちがいませんけれども、形というものはちがいますね。おとうさんは自分の変わったことがわかりませんか、ほんとうにおとうさん変わりましたよ。そんなことを言うと今でも冷や汗が出ますけれどもね。おとうさん私はお嫁にきた時はほんとうにうれしかったワ、アノお見合いがたしか下谷《したや》の伊豫紋《いよもん》でしたね、私はアノ時マアこれが自分のご亭主になるお方かと思うとただボーッとしてね、本当にマア胸がドキドキして少しもお顔がわからなかったが、それからマア、チャンとご婚礼がすんでしまって、ハッキリこれが自分のご亭主というのがわかってから、私はなおうれしくなって、どうしてこんないい男を亭主に持ったろうと、ただもううれしくって、おとうさんとお芝居へ行くにも、お花見へ行くにも一緒に行って、私は先の物を見るより聞くよりどうするより、ただおとうさんとご一緒に出るのが、それがもう私は一番うれしかったワ。それがおとうさん変わりましたね。こないだアノ依田さんからたいへんにお酒を召し上がって酔ってお帰りになりましたろう、お帰りになるとすぐに奥の八畳の座敷へ横になってしまって、それから私がお風邪を召すといけないと思って、薄掻巻《うすかいまき》を掛けて、お枕をさしてあげた。その時に私はおとうさん一人で笑っていましたよ、おつむがピカピカ光っているものだから、蝿が飛んできておとうさんのおつむヘチョイと乗って羽を休めようと思うんでしょう、羽を休めるとツルリとすべって落ちるじゃァありませんか、私はおかしくっておかしくってしようがなかったが、勘定をしてみたら即死が五疋、目をまわしたのが三疋、けが人が十七……」
父「なにを言っているんだばかばかしい、おまえくらいばかげた婆ァはないよ。だからおまえのことをシワクチャ姿ァというんだ」
母「年をとればおとうさんみんな皺クチャになりますよ、あなたはね、チリガミ爺ィだよ」
父「なんだこのゾウキン婆ァ」
母「トロメン爺ィ」
父「おまえとオレと喧嘩をしてもしようがない。いま幸坊が無駄の金は使わないというから、何と何を買ったというと、そのうちによかちょろを四十五円で買ったというから、どんな物だと聞くとたいへんに割りのいいものでこうこうだというから、そんなら見せなさい、ご覧に入れましょうというから、オレも割りがよければ奥の土蔵も空いているものだから買い込まうと思って聞いてみると、なんだあれは……エー何とかして何とかのうとかが何とかして、ソラ……でよかちょろパッパ、これがマア四十五円」
母「アラマアおとうさん、ほんとうにおとうさん、おまえさん物覚えが悪い。私はあっちのお座敷にいて聞いていましたけれども、ただ何とかのどうとかじゃァいけませんよ、ねェソレ私も忘れたが、どうとかして、パッパというところがありますよ、おとうさんパッパ……」
父「アアそれではあすこにか、ウムハッハよかちょろパッパ……」
[解説]昔の寄席は、多くても十|高座《こうざ》であった。従って今日のように、五分や七分で下がる事は決してなく、どうしても二十分以上をやらなければならなかった。ことに真打《しんうち》は、必ず四五十分は勤めたものである。その後、寄席の数が減り、交通が便利になるにつれて、各席とも高座数が殖え、受持時間が短縮されるようになった。そこで落語は段々に削られてサワリだけをやり、または上下二席に分けてやるようになった。「山崎屋」なども、現在は上下二席に分けているが、元来二席にする程の長い話ではなかった。初代の遊三が、一部分を「よかちょろ」と題してやりだしてから、自然これを上というようになったのである。
「山崎屋」の作者は分らないが、サゲは小噺から取ったものであり、若旦那が金を落としたふりをするというのも、人情噺などによくある手だ。遊三が「よかちょろ」に直す前は、道楽の結果で二階に押し込められた若旦那が、小僧を対手に花魁の身振りや声色を使ったりすることになっていた。ご承知の通り「よかちょろ」は桂文楽の得意物になっているが、以前は遊三の専売だった。この遊三は本名を小島長重《こじまながしげ》といい、旧幕の頃、おまかない後家人で、小石川小日向新屋敷に住んでいた。落語が好きで、寄席通いばかりしていたが、つに五明楼玉輔《ごめいろうたますけ》〔梅翁〕の弟子になって玉秀《ぎょくしゅう》という名を買い、高座に出るようになったところ、組頭に見つけられて大小言を食ったことがあった。しかし相変らず寄席に出ているうちに玉輔の前名|雀屋翫之助《すずめやがんのすけ》という名をもらった。そのころ弟弟子に|とう《ヽヽ》雀という者があったが、これが後の円遊である。翫之助は維新後、親戚の意見で、落語家を廃業し、司法省の属官になり、更に検事から判事になったが、ある裁判で、被告の美人に誘惑されて、曲った判決をしたことから免職になって、東京へ帰って来た所、弟弟子のとう雀が円遊と改名して大変な人気者になっている。そこでその円遊の弟子になり、三遊亭遊三となった、遊三の得意物はこのほかに「素人汁粉」「疝気の虫」などだった。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
山崎屋〔下〕
―――――――――――――――――
お若いうちはとかくまちがいができやすいもので、毎度申し上げる遊びの模様も、このごろはだいぶ変わってまいりました。
昔は入山形《いりやまがた》に二ツ星、本格の花魁《おいらん》買いとくるとなかなか入費《にゅうひ》もかかれば気骨《きぼね》も折れたものだそうですが、遊びに行って、銭を使って気苦労をしちゃァこんな合わない話はありませんが、それが通人《つうじん》の遊びだそうで、その時分の多くの娼妓《しょうぎ》の中で花魁といわれるくらいのものになると……なかなかいろいろなものを知っていたそうでございます。活け花、茶の湯はいうに及ばず、盆画《ぼんが》、盆石《ぼんせき》、詩歌《しいか》、雑俳《ざっぱい》、ひと通りの心得がなければ花魁とは言われなかったそうでございます。
だれが工夫をしましたか、廓言葉《さとことば》というものはまことによい思い付きでございます。国言葉を隠すためだそうです。越後《えちご》の小千谷《おじや》、丹波《たんば》の|屁ッ転谷《へッころだに》あたりから出てきた娼妓《しょうぎ》は生国《しょうごく》の言葉を露出《まるだし》では、ちっと工合が悪いかも知れません。
娼「モシイ、セーブラネーカヨー」
客「エエ」
娼「セーブラネーカッタラヨー」
客「何ですか」
娼「ドブセラネーカッタラヨー」
客「どぶをさらいますかな」
娼「アレー、わかんねえ人だね、寝ねえかヨンたら寝ねえかヨーン」
これじゃァどうもたまりません、そのころの花魁買いは、茶屋で三分の玉《ぎょく》を出しますと、花魁に新造《しんぞ》が付けたとか言います、俗にこれは中三《ちゅうさん》とか称《とな》えます。
若旦那「オイちょっと久兵衛《きゅうべえ》さん」
久「なにかご用ですか」
若「すまないが少しばかり金を貸してもらいたいんだがね」
久「またお金ですか、どうも困りましたな、なにほどばかり」
若「ナニ大してでもない、ちょっと三十両ばかり」
久「どうもいけませんな、少しばかりとおっしゃいますから三両か五両のことと思いましたら、三十両という大金でげすから、ちっとてめえの懐《ふところ》ではお間に合わせかねますが」
若「なにをいってるんだよ、おまえの懐で間に合わしてくれというのじゃァないよ、ちょっと帳場の金をまわしてくれろというんだよ、算盤《そろばん》を一桁|瞞着《まんちゃく》しやァそれですむんじゃァないか、おまえだって初めてごまかすのじゃァないだろう」
久「なんですって、けしからんことをおっしゃいますね、イエ、次第によっては聞き捨てなりません、初めてごまかすのじゃァなかろうとはだれにおっしゃるんです、申し上げては恐れ入りますが、ご縁あってご当家へまいって、三十六年も勤続しておりますが、ただ今まで何一ツ失策《しくじ》ったことのない番頭です、じつに山崎屋の久兵衛は堅い番頭で、大黒柱だ、焼き冷ましの餅より固いといわれている私です、石の橋で転べばカーンと音のする番頭です、とんでもないことをおっしゃいます」
若「なんだよ久兵衛どん、おまえそんな野暮なことをお言いでない」
久「野暮は持ち前です、ヘエ、商人《あきんど》の番頭はまた野暮でも勤まるものですから」
若「オイオイ大きな声をお出しでないよ」
久「大きな声は地声です、まだせり上げます」
若「せり上げないでもいいよそんなことを……なるほどおまえは堅い番頭だ、私が悪かったから堪忍しておくれよ、そんなに真っ赤になって怒らないでも、主《しゅ》が家来に手をついて投げ節の文句じゃァないけれども、謝るんだから勘弁しておくれよ、なるほどおまえは堅い番頭だ、ダガネ久兵衛どん、人間てえものはあんまりきれいな口はきけないものだよ、諺《ことわざ》にも言うが、新しい畳でもたたけば埃《ほこり》が出るというが、まったくそうだね、こりゃァおまえのことじゃァないけれども、ふしぎなことがあるんだよ、聞いておくれよ四五日前さ、お約束どおりの寝坊をしてしまったんで、またおとっさんの小言を聞くのも気が利かないと思ったから、手拭いをさげて、ブラリッと朝湯……というのもちっと面目《めんぼく》ないが、お昼過ぎては橘町《たちばなちょう》まで行くとおまえ「今日休み」ときたのさ、だれたねェ、どこか湯屋があるだろうと思ってブラブラ馬喰町《ばくろちょう》の通りをまっすぐに浪花町《なにわちょう》へ行くとちょっと小ぎれいな湯屋があった、男湯にも女湯にも俺一人ぎりだ、鼻唄まじりでせいぜい磨き込んでいるとね、女湯の格子がガラガラと開いたんだ、人情でおまえ見るじゃァないか、ヒョイと振り返ってみると、慄然《ぞっ》とするようないい女だったよ、その女は、いい女だけに若く見えるが、あれでも二十七八かね、おまえ丸髷《まるまげ》御召しの二枚物かなにかで寸分《すんぶん》スキがないんだ、ハテな芸者という柄《がら》じゃァなし、といってむろん堅気《かたぎ》の気づかいはなし、たしかにこの辺のお囲いにちがいない、こんないい女を妾《めかけ》にしておく奴はどこの何という奴だろうと思ってね、私も物好きだね、待ちあわせしてその女の後を尾《つ》けて行ったとお思いよ、スルと駕籠屋新道《かごやしんみち》に入りました、右側から来て右側の三軒目か四軒目の路地を入った突き当たり、江一屋《えいちや》格子《ごうし》にご神燈《しんとう》、清元延某《きよもとのぶのなにがし》という師匠なんだ、それじゃァひとツ、混ぜッ返しに飛び込んでやろうと思ってヒョイと沓《くつ》脱ぎを見ると、おどろいたね、いま脱いで上がった女の下駄はむろん粋《いき》な下駄なんだが、そのそばにチャンとならんであったのが、イヤハヤ野暮な下駄、山桐の両刳《りょうぐり》で小人島《こびとじま》のまな板より大きいのに、塗り革の万年鼻緒がすがっているんだよ、それもいいが歴然と焼印がしてあるんだよ、その印物《しるしもの》がまたまずいじゃァないか、家の印なんだよ、山形に崎というんだハテな、家の久兵衛のによく似ているが……イエさ、おまえは堅い番頭だもの、そんなところにいる気づかいはないが、なにしろ男がいちゃァ工合が悪いと思ってね、路地を出ようとすると、井戸端でおかみさんが洗濯をしていたからちょっと聞いてみた、モシおかみさん少しうかがいますが、この突き当たりの師匠さんではお弟子をお取りなさいましょうかと聞くと、そのおかみさんがおしゃべりで前かけで手を拭きながら、マアお聞きなさいましよ、くわしいことは存じませんが、なんでも近所の評判では、お師匠さんは付けたりで横山町の山崎屋という鼈甲《べっこう》問屋の一番番頭さんのお囲い者だと近所の評判なんですよ……おまえではないよ、おまえさんは堅い番頭だろう、焼き冷ましの餅より固いんだ、石の橋で転べばカーンと音がするだろ、ダカラおまえでないことはわかってる、そこで私は考えたね、きっと近所の者でおまえの名前を騙《かた》った奴があるんだね、おまえがあまり堅くって評判がいいものだから、嫉《ねた》みを起こしておまえにきずを付けようという奴があるんだよ、おまえの身のためだ、今日はおとっさんにそういって、表向き調べてもらうほうがいい、おまえさんのためになりませんから調べてみよう、おとっさん家の久兵衛はアノ駕寵屋新道に囲い者が……」
久「若旦那なんですねえあなた、そんな野暮なことを……」
若「野暮は持ち前だよ、商人の伜《せがれ》は野暮でも勤まるんですからね」
久「マアなんですねえ、おおきな声を……」
若「おおきな声は地声だよ、これからまだせり上げるよ」
久「せり上げなくってもようがすよ若旦那、こりゃァ困りましたな、どうもイイエ、私があなたまでにちょっと申し上げておかなかったのが久兵衛一生の不覚でございましたな、あれにはマアいろいろ理由《わけ》があるんでございます、私がなんでお店のご恩を忘れて、身分不相応の妾狂いなどをする気づかいがありましょう、若旦那それはお恨みでございますよ、今になって申し上げれば、なにをいっても言い訳になりますが、いろいろあの女については、事情があるんで、じつはあれは私の家内の妹でござんして、よんどころないところから世話をしているんで」
若「ダカラそれでいいじゃァないか、おまえのおかみさんの妹かい、ヘエーいい女だねえ、スルとなんだねえ、おまえにも義理ある妹とかいうんだね、マアその心算《つもり》でなんとかして三十両お貸しよ」
久「なんで」
若「なんでったって、貸せないかい、貸せなけりゃァ、貸せないでいいよ、アノおとっさん、家の久兵衛は、駕籠屋新道にお妾を……」
久「あなた、あなた、なんですねえ若旦那、困りますな、それじゃァマアお待ち遊ばせよ、それは三十両が五十両、百両が千両でもつまりあなたのご身代、それをただ私がお預かり申しているのですから、よこせとおっしゃるならば、さしあげないこともございませんが、そのお金をどうなさる」
若「どうなさるって、なんだろう花魁から日文矢文《ひぶみやぶみ》なんだよ」
久「ヘエヘエ、デなんでございましょうな、三十両のお金は今晩一晩……」
若「あたりまえじゃァないか、マア私と一度行ってごらんな、横山町さんとか、若旦那とかいわれているじゃァないか、だいぶお茶屋などにも借りがたまっているんだし、幇間末社《たいこまっしゃ》にも義理が悪いくらいなんだよ、三十両じゃ足りやァしないやね」
久「ヘエヘエなるほど、その花魁というのはなんでげすか、ほんとうにあなたに惚れてるんで」
若「エエエ惚れてますよ」
久「惚れていますよは恐れ入りましたな、シテみると末はご夫婦におなり遊ばそうという寸法なんでげしょう」
若「久兵衛さん察しておくれよ、もう花魁もそれを言い出しては泣くんだよ、どうしてアンな頑固な親父ができたかねえ、なんでもつくづく考えたがね、家の親父はなんだよ、普通の人間じゃァないんだよ、なんでもこの世の中に頑固という国があって、その国から頑固を広めに来たにちがいないんだよ」
久「ヘエ、どうでけす若旦那、つまりあなたのご身代になるものをですな、ご自分でお使い減らしになるくらい、愚《ぐ》な話はないじゃァありませんか、どうにかして、その花魁とご夫婦におさせ申そうじゃァございませんか」
若「エッ、そんなことができるかい」
久「ただではいけません、一狂言《ひときょうげん》書くんですな」
若「一狂言書くというと、なにかいおとっさんを締め殺す……」
久「シッ、冗談いっちゃァいけません、仮にもそんなことをおっしゃっちゃァいけません、大旦那にもおかみさんにもお得心《とくしん》のいくよう扱うのですが、私がなんとか才覚をいたしまして、とにかくその花魁を親元身受けとかなんとかいうことにして、身受けをいたしまして、一時|頭《かしら》の宅《ところ》へ預けておくんですね、その花魁を」
若「ヘエー」
久「ソコでその月の晦日《みそか》のお掛取《かけとり》のなかで、丸の内の赤井《あかい》様、アノお屋敷だけはどうしても手前が、まいらなければなりません、そこをなんとかかこ付けてあなたに行っていただくんでございます。金子《きんす》二百両それをあなたがお受け取りなすったらその足ですぐに頭のところへおいでなすって財布ぐるみ金を預けて、そのまま店へお帰りになるんで、おとうさん行ってまいりました、大きにご苦労だった、サアお金をお出しといった時に、ちょっとあなたが身振りをなさるんで、懐中やなにかほうぼうを探して、財布を落としたという思い入れでとやかくしているところへ頭がその財布を持ってくる、ただいま家のおもてにこういう落とし物がありました、拾ってみると、かねて覚えのあるお店の財布、もしやと思って、持ってまいりました、金がすぐに出るんですから大旦那もご安心で、晦日のことですから大旦那に頭のところへ礼に行っていただくんでございます、そこへ花魁が高島田《たかしまだ》で堅気の扮装《なり》をしてお茶のお給仕に出れば、おとうさんはなかなか女にかけては目が早いから、頭アノ娘さんはと、聞いたらもうこっちのものです、じつは家の嬶ァの妹で小さい時からお屋敷へご奉公をしていてもう妙齢《としごろ》になりましたんで、一生奉公も可哀相、当人も、ならば町家の住まいをしたいと申しますから無理にお暇をいただいて、下げたんでございます。たくさんもありませんが、いただき物をボツボツ貯《た》めたのが塵《ちり》積もって三百両、これを持参金として、女ひと通りのことはできますから、どこか相当のところがありましたら、嫁にやりたいと思います、またどうか、お宅あたりはお交際《つきあい》が広いから相応のところがあったらお世話を願います、こう頭が言えば欲にかけてはまた目のない大旦那、それでは伜の徳の嫁にと、こう来ること疑いなしじゃァこさいませんか」
若「なるほど」
久「頭の妹ではいけないから改めて浜町《はまちょう》さんとか本町《ほんちょう》さんとかを親元にして、天下晴れて高砂《たかさご》やと立派にご夫婦になれるじゃァございませんか。この計略はどうです若旦那」
若「ヘエー恐れ入った、たいそうな智恵がでるものだね、スラスラと、けれどなにかい久兵衛さん、そううまく本読み通りに行くだろうか」
久「マアマア黙っていらっしゃいよ、細工は粒々《りゅうりゅう》仕上げをご覧《ろう》じろというくらいのもので……」
旦那「久兵衛さんや、おまえさん丸の内のお屋敷へ行ってくれなければ困りますね、なにをしているんです」
久「エエ手前がまいるつもりでごさいましたが、今日はちっとその帳合いの面倒な口が二ツございますので、帳場を手放すわけにいかないのでございますが、だれか余人をお遣わしになるわけにはなりませんか」
旦「冗談いっちゃァいけませんよ、ほかのお屋敷とちがって、使いはやれません、おまえさんが行ってくれなければいけません、どうか都合ができませんか」
久「それではいかがでございましょう、手前の代わりと申し上げては恐れ入りますが、若旦那は今日《こんにち》べつにご用もないごようすでいらっしゃいますが、若旦那に行っていただいては……」
旦「オイオイなにを言っているんだよ、ばか野郎がそこらで聞いてますよ、とんでもないことをいっちゃァいけません、この頃だいぶ猫をかぶっていますが、アノ野郎に金なぞを取りにやった日には、なにをするかわかりません、仮にも二百両の掛け取りじゃァないか、エエ油をしょって火の中へ飛び込むよりもッと危ねえ、とんでもないことを」
久「ご心配の筋《すじ》も一応ごもっともでございますが、ご道楽ばかりは人の意見で聞くものではございません、若旦那もだんだんとるお年で、今度はほんとうにご改心になったものだろうと私は考えます、ともかくも今日はお遣わしになりまして、首尾よく二百両お持ち帰りになれば、ご安心のもので、たとえまた二百両に目がくれてお持ち帰りにならないようなことなれば、もうかれこれ言うところはございません、いいかげんにお諦めになったほうがよろしゅうございましょう。そりゃァもう一粒種《ひとつぶだね》の若旦那のことゆえ、ご心中お察し申し上げますが、長年ののれんに傷がつくようなことがあってはなりません、お店のためを思って私がこう申し上げるのでございます、ゆくゆくはご親戚からご夫婦養子というようなことにでも、ただ今のうちにご決心になりませんと……」
旦「ヘエヘエ、なるほど。イヤおまえさんのいうことはよくわかりましたよ、つまりなんだ店のためを思ってくれるからそういうのだ、それはなんですよ悪くは思いませんよ、どうも私もあのばか野郎、今のぶんではとてもこの身代は譲れやァしないと思っているんだから、私はかまわないが、また家の婆さんがイヤに愚痴ッぽいからね、けれどもなんだね久兵衛さん、二百両持ってきてくれりゃァいいけれども、持ってこないとするとなんだね、二百両が縁切金《えんきりがね》だね、少し試し金には高いようだね」
久「イエそれが私は大丈夫だろうと思います、受け合います」
旦「そうかい、じゃァやってみましょうか……徳や、徳や」
徳「おとっさん行ってまいります」
旦「どこへ行くんだ」
若「丸の内の赤井御門守《あかいごもんのかみ》様へ、二百両のお掛け取りに」
旦「この野郎、気味の悪い奴だな、大丈夫かい久兵衛さん……じゃァアノ財布と判《はん》を出してやって、知ってるかい……アアそうか、じゃァなんだよ、お金を受け取ったらすぐに帰ってくるんだよ、道草などを食っていちゃァいけませんよ」
若旦郡は頭《かしら》のところへやって来て、
若「オイ頭、居るかい」
女「アラ若旦那、おあがんなさいましよ、ハイ夫《うち》もおりますから」
頭「オオ若旦那おいでなさい」
若「頭、これなんだよ、二百両入っている財布というのは、おまえなんだよ、すぐ来てくれなければ困るよ、嘘にも二百両落としたというのだから親父にどんなに怒られるか知れないから、待ってるからね」
頭「大丈夫ですよ、すぐに行きますから」
若「アノあれは……居るかい」
頭「ハイいま二階で裁縫《しごと》をしていますよ」
若「裁縫を、フフンなまいきだなァ、ちょっと二階へ行って来ちゃァ……」
頭「冗談いっちゃァいけませんよ、すぐ目の前にいることがわかっているんじゃァありませんか……」
若「ヘイおとっさん行ってまいりました」
父「オオご苦労ご苦労、久兵衛さん試し野郎が帰ってきましたよ、デモ人間の子だねえ、アアご苦労だった、ウンそうか、アノご用人の山田さんのお目にかかってウンウンそりゃァよかった、いただいてきたか、お金を、そうかそりゃァよかった、早くここへお出し」
若「ヘエ、かしこまりました、これからは私に来るがいいとおっしゃいました、エーと……オヤッ、オヤッ」
旦「コレほうぼう探してどうしたんだ、この野郎め、もしや財布を落としゃァしねえか」
若「ヘイ、アノチャラーン」
旦「なにがチャラーンだ、この野郎め、あきれた奴だ、二百両という金をなんと思ってるんだ、だめだよ久兵衛さん、ばか野郎落としやァがった、あきれた奴だね、情けない……エエだれが来たって、なにをッ、頭が来ました、今ちょっと取り込みで会っていられないから、また晩にでも来てくれろといってくんなよ」
頭「ヘエこんにちは、どうもお取り込みの中をまことにすみませんけれども、私のほうも少し心急《こころせ》きのものですから、ほかじゃァありませんけれども、いま帳場へ出ようとすると、軒先《のきさき》にこんな物が落ちてました、中は改めませんけれども、重みの工合、二百両くらいはたしかに入っているだろうと思うんで、見覚えのあるお店の財布、もしやと思ったから持ってまいりました、お心当たりはございませんか」
父「二百両の財布、アーありがとう存じます、そうかい、マアどうも頭ありがとうよ、ご親切に、ナニね、いま取り込みといったのはその騒ぎなんだよ、店中大騒ぎのところさ、そうかいどうもすみませんね、久兵衛さん中を改めて見ておくれよ……ナニまちがいはないと、二百両ありましたか、よかった、頭マアいいじゃァないか、ナニ急ぐからって、それじゃァ改めてお礼にうかがいますよ、どうもありがとうございました……ばか野郎、二百両の金をなんだと思ってるんだ、デモマア落としどこがよかったから出たんだぞ、頭だから持ってきてくれたんだ、ほかへ落としてみろアノ金はもうなんだ、とても出やァしねえ……ナニ大丈夫だ、なにが大丈夫だばか野郎……アアそうかい、アーようございますとも、礼に行ってきますよ、わけはありません、ナニ供にも何にも及びやァしません、晦日のことでおまえさんは忙しいだろうし私はどうせ用もないのだから、けれども手ぶらでも行けないね、オイだれか奥へ行ってね、羊羹《ようかん》の折を持っておいで、エエ羊羹の折じゃァいけない、ちっと古すぎるだろうって、そうかい、じゃァなにを持って行こうね、現金がいいって、だっておまえあんまり金じゃァ失礼じゃァないか、そうかい当世流行かい、それじゃァいくらくらいやったらいいだろうね、ナニ天下のご定法《ごじょうほう》では一割だけれども十両でいいだろうて、けれどもおまえ十両は少しかね、なるほど家ののれんにかかわることならあんまり少しも持って行かれまい、ナニたぶん先方で受け取るまい、世話になっていることだから、受け取らないまでも一応は持って行くのが世の礼儀、また頭のほうでもどこまでもそれを取らないのが世の礼儀だって、なるほど、そういったようなものかね、それなら十両包んで持って行きましょう、おまえさんのいうことにはまちがいがない、おまえが受け合ってくれれば大丈夫だ、ばか野郎しっかりしろまぬけ野郎……頭こんにちは、家かね」
頭「なんですねえ、こりゃァいけねえなァ、どうも大旦那困りましたね、ご用ならちょっとお使いをくださりゃァ手前から上がりましたのに、わざわざどうも大旦那に……オイおみつおみつ、お店の大旦那がいらしったんだ」
旦「イヤおかまいなすっちゃァいけませんよ、お騒がせ申しに来たんじゃァないんだから、どうかお静かにハイハイありがとう、さて頭、マア何からお礼を申していいかわかりませんで、今日はどうもありがとうございました、ナニね心配しているところへすぐにおまえさんが持ってきてくれた、どんなに安心したか知れません、どうもありがたかった、時にさっそくお礼に行かなければならないが、まさかに手ぶらでも行けない、といって、もらった羊羹でもあんまり古かろうというんで、やはり当世流行の現金のほうが重宝でよかろうというんで、それもだね、いろいろ心配をして相場を聞き合わせてみたところが、一割が天下のご定法だというけれども、それにも及ぶまい、しかしのれんにかかわるから少なくも十両は持って行かなければならないというんで、紙へ包んで持ってきました、しかしこれとてもおまえさんの日頃の気性だし、江戸ッ子|気質《かたぎ》で、ことには私のところへは長年出入りをして、印物《しるしもの》の一枚も着て、盆や暮れにはいくらか借りにも来るし、というようなわけだろう、まさかに受け取りゃァしなかろう、けれども持って行くのが浮世の義理、またおまえのほうでも受け取らないのが義理だからということで……」
頭「どうもこりゃァ弱ったねえ、冗談いっちゃァいけませんよ、長年ご恩になってるんで、もともとあなたのほうでお落としになったものを私が持って行くのは当然《あたりまえ》じゃァありませんか、そんなものをいただくわけがありません……エエなにをいってやがるんだ、てめえなんか引ッ込んでろ、なにをッ、よけいなことを言うなよ、まぬけめえ、ナニッそりゃァそうよ、そりゃァそれにちげえねえけれどもウムウムこりゃァもっともだ……エエ旦那、嬶ァともいま相談をいたしましたが、せっかく旦那がお持ちなすったものをいただかないのもあんまり失礼だと、こう嬶ァが申しますから、このお金はいただいておきます、どうもありがとう存じます」
旦「オイオイ頭、そりゃァおまえちがやァしねえかい、久兵衛のいうこともちっとも的《あて》にならなかったな……」
頭「オイお花、お茶を持ってきな」
花「ハイ……お茶をおあがんなはい」
旦「ハイハイ、これはどうもありがとう存じます、恐れ入りましたな……オイオイ頭、見慣れないお女中衆だね、どちらのお嬢さんだい」
頭「ヘイ、いずれお近付きに連れて上がろう上がろうと思っておりますけれども、ツイどうも手前にかまけて、出ずにおりますんで、じつは嬶ァの妹でございます、もうこれッぱかしの時分からお屋敷へご奉公に上がっておりまして、一生奉公も可哀相だ、当人もならば町家の住居《すまい》がしてみてえというんで、このあいだ無理にお暇《いとま》を願って親元へ下げたんでございます」
旦「フンフン」
頭「本人がケチなもんですから、いただき物をポツポツ貯めておいたのが、塵も積もって山とかで大きなものじゃァありませんか、三百両になりました、そのほか手道具一通りは持っております、商人《あきんど》がいいというんでございますが、恐れ入りましたがお宅様なんざァご交際がお広いからまた相応《そうおう》した縁がございましたら、お口添えを願いとう存じます」
旦「ハアそうですかい、ちっとも知りませんでした、あれがおみつさんのお妹御かい、ご姉妹《きょうだい》だというが、失礼ながらおみつさんはあんまりいいご容貌《きりょう》じゃァないが、イエおみつさんもいいご容貌だが、ことににお妹御はたいそう美しいね、お屋敷へご奉公をしていたって、なにかい持参金が三百両、フーン商人がいいってどうだろう頭、あんまり薮《やぶ》から棒《ぼう》の話で、おまえさん怒っちゃァいけないよ、相談だが、ちっと不足かも知れませんけれども、家の徳の嫁が長し短しでまことに因っているんだが、おまえにはまたなんとでもお礼はするがね、ぜひともなんだね、伜の嫁に……ナニおまえさんこの頃はだいぶ堅くなりましたよアノばか野郎、デモ年だね今日丸の内のお屋敷へ掛け取りにやったところが二百両の金をマア落としたところはちっとまずかったけれども、とにかく、持って帰ってきたにはちがいないのだ、おまえさんにゃァまたなんとかお礼をするからぜひ骨を折って伜の嫁にしてくれないか」
頭「そりゃァお宅の若旦那なら、けっこうにはちがいございませんが、若旦那も、なかなかお道楽をなすった方だから、まるで小児《ねんね》みたようなもので治るかどうだか」
旦「イエそうでないよ、伜なんかにおまえさんぐずぐず言われてたまるものかね、親の鑑識《めがね》で持たせる女房だ、モシまたなんだよ、伜がぐずぐず言ったら私がもらってもいい」
書いた狂言が思う壺にはまって、吉日を選んで高砂やということになりましたから、若夫婦の喜びはいうまでもなく、おとっさんおっかさんもたいそう気に入って喜んでおります。
旦「花や、マアお茶はあとでもいいよ、ちょっとここへ来てくんな、ナニこの間から、ゴタゴタしていたものだからろくろく聞きもしなかったが、頭の話じゃァおまえさんはお屋敷へ奉公をしていたね」
花「ハイ、北国《ほっこく》ざますの」
旦「北国というと加賀さまかい、百万石でお高頭《たかがしら》、大々名だ、さだめしお女中も多いことだろうね」
花「ハイ三千人いるの」
旦「ナニ三千人、そりゃァたいそうなものだね、やはり参勤交代《さんきんこうたい》で道中をするんだろうね」
花「ハイ、道中するんざますの」
旦「お駕籠《かご》でかい」
花「イイエ、大門口《おおもんぐち》は駕籠はならないざますの」
旦「フーム、女だから馬にも乗れず、結《ゆわ》い付け草履《ぞうり》かなにかで」
花「なんの三ツ歯のポックリで」
旦「三ツ歯のポックリで、加州《かしゅう》の金沢からこの江戸までじゃァ、なんだね女の足だから朝遅く立って夜早く泊まるんだね」
花「イーエ、夕暮れに出て、伊勢《いせ》へ行って、尾張《おわり》へ行って、長門《ながと》の大和《やまと》の長崎《ながさき》へ行くの」
旦「なにを、夕方に出て、伊勢へ行って、尾張へ行って、長門の大和の長崎だ、ハハーこりゃァ人間|術《わざ》じゃァないの、ウンおまえにはなにか魅物《つきもの》がするんだね、待ってくんなよ、諸国を歩くのが六十六部《ぶ》、それより早いのが飛脚《ひきゃく》に天狗《てんぐ》、アーおまえにはなんだね、六部に天狗が魅《つ》いたの」
花「イーエ、三|分《ぶ》で新造《しんぞ》が付きやんす」
[解説]今はこのように、前の部分で吉原のことをいろいろと説明しておかないとサゲが分からない、仕込み落ち。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
なめる
―――――――――――――――――
昔|猿若町《さるわかちょう》に三座並んでおりましたじぶん、芝居《ふた》が開場《あき》さえすれば、いつも大入りでじつにたいそうな景気であったもので、
男衆「お遅いじゃァございませんか。もう少し早くおいでくださると、どうにも都合したんですが、なにしろこの通りいっぱい被《かぶ》ってる芝居《しばい》でげすから、どうもいま時分おいでなすっても、穴がございません」
○「そんなことをいわねえで、たまに見るんだ。いつもだいたいマア立ち見ばかりしているんだが、今日は仕事の都合で、らくらく一日見ようと思うから、楽しんできたんじゃァねえか、日頃のなじみでどこでもいいから心配してくれ、少しぐらい価《ね》の上がるのはかまわねえから……」
男「どうもお気の毒さまでございますが、なにしろみな付け込みなんで、四五日前からお話がなければ、どうしても場が取れないというような上景気で、かえってどうもこうなると、手前どもは困ります」
○「どこでもいいから心配してくれ。おまえだって、名代《なだい》の若い衆じゃァねえか。なんとか都合の付かねえこともなかろう」
男「じゃァちょっとお待ちなさい、どこか都合しましょう……。すみませんけど、こうしておくんなさいアノ東の桟敷《さじき》ね」
○「ウム」
男「四ツ目にご婦人が二人いましょう」
○「ウムウム」
男「あすこのうしろで少し立って見ていてくださいな」
○「ヘエー、あすこに立っていていいかえ」
男「ヘエ大丈夫でございます。少しのあいだ」
○「いい女だな」
男「いい女でしょう。ずいぶん芝居には毎日いい女が来ますが、アノくらいの女はたんと来ません」
○「おまえの目にも美《よ》く見えるか」
男「私だっていい女はよく見えます」
○「シテみれば誰にもいいかな」
男「あたりまえでございます」
○「誰が目的《めあて》だえ」
男「べつだん目的というわけはありませんが、すべて音羽屋《おとわや》の狂言が気に入ってるようで……」
○「それじゃァ音羽屋かな」
男「どうだかわかりませんが、なんとなく音羽屋のすることを一生懸命見ているようでございます」
○「屋敷者《やしきもの》らしいな」
男「そうでございます。どうも屋敷者らしゅうございます」
○「茶屋か」
男「もちろん、お茶屋から来て、いつでも一|間《けん》買い切りで見ています」
○「ヘエー、何人でもかまわず買い切りというなァ物が贅沢だね。いくつだろう、片ッぽうのお姫様然《ひめさまぜん》としているのは」
男「さようさ、お嬢さんのほうは十八九でしょうな」
○「ウムいいところだ。年増《としま》はマア二十四五ぐらいだろう」
男「そんなもんでしょうな」
○「おめえ、年増がいいか、新姐《しんぞ》がいいか」
男「そんなことをいっても、お客さまで、どっちがよくても仕方がありません」
○「マアサ、どっちがいい」
男「両方ようございますね」
○「両方じゃァいけねえ」
男「それじゃァマア、新姐のほうがいいような気がします」
○「年増も悪くはねえな……。しかし芝居を見ねえで、女ばかり見ていてもしようがねえ、マア行ってみよう」
男「たぶん音羽屋が贔屓《ひいき》だろうと思いますから、うしろへ立って、音羽屋をひとつ褒《ほ》めてごらんなさい。こっちへお入んなさいぐらい言うかも知れません」
○「ありがてえな」
男「それで間がよければ、お弁当の一本ぐらいごちそうするかも知れません」
○「なるほど、それはありがてえ、キットごちそうするか」
男「受け合うことはできません」
○「先方《むこう》でごちそうしなければ、おめえするか」
男「冗談いっちゃァいけません。ともかくうしろへ立って見ていておくんなさい。そのうちなんとか都合をしますから」
○「けれども間がよかって、中へ入れてもらったら、もうほかへ心配しねえでもいい……」
のんきな野郎でございます。うしろに立って見ているうちに、音羽屋のちょっと小奇体《こきてい》の利いた乙《おつ》なところがあったからだしぬけに、
○「音羽屋ァ……。いいなァ、音羽屋ときた日にゃァ日本一だ。いい心持ちの役者だなァ……。音羽屋ァ、音羽屋ァ……」
のべつに褒めてる。騒々しいけれども、褒めるのだから小言を言うわけにもいかない。のべつに音羽屋音羽屋といいながら舞台のほうより前の女のほうばかり見ております。
年増「マアごらん遊ばせお嬢さま、このうしろに立ってる方が、あんなに音羽屋を褒めてくださいますよ、ほんとうにうれしいじゃァございませんか」
という声が聞こえた。占めたぞ。シテみれば音羽屋にちがいないと、もういっぱい調子を張り上げて、
○「音羽屋ァ、音羽屋ァ……」
年「どうもありがとう存じます。あなたさぞお疲れでございましょう」
○「イエ、どうもおやかましゅう、私は褒めるのが病いでございまして、どういうものか、いいところがあると褒めたくッて褒めたくッてしようがないんで……」
年「マアそうでございますか、ここで褒めていらっしゃるよりこちらへお入んなすッてはいかがでございます」
○「ありがとう存じます。まことにすみませんが、じゃァお邪魔をいたしてもよろしゅうございますか」
年「サアどうぞこちらへお入んなさいまし、その代わりあなたにご迷惑のお願いでございますが、いいところがありましたら、チョイチョイ褒めてくださいまし」
○「それはもうこうしておいてくだされば、べつだんにお礼のしようもございませんから、店賃《たなちん》だけ褒めます」
のんきな男があったもので、のべつに褒めていると、女が袖を引いて、
年「モシあなたごらん遊ばせ、幕が締まりました」
○「さようでございますか、どうもすみません。幕をついでに褒めておきましょう」
年「あれは音羽屋の幕ではありません。座元《ざもと》の幕で……」
○「ヘエ、さようでございますか。あんまり音羽屋がいいんで、幕になってもまだ目に映ってます」
年「ほんとうにうれしいじゃァございませんか。ぜんたいお嬢さまは私に褒めろとおっしゃるんでございますけれども、まさか女が褒めるわけにもまいりませんから、それゆえ誰か褒めてもらう人を頼んで来ればよかったと思ってましたところへ、幸いあなたがお褒めくだすったので、どのくらいいい心持ちにお芝居が見られましたか知れません」
○「どういたしまして、私こそとんだお邪魔をいたして相すみません」
年「ついてははなはだ失礼でございますが、お嬢さまがお手をお付けなさいませんが、お弁当はいかがでございますか」
○「ありがとう存じます……。なるほどこれは吉公《きちこう》のいった通りだ」
年「なんでございます」
○「イエこっちのことで、どうもありがとう存じます」
お弁当をかき込みながら褒めているから、あたりはお飯《まんま》ッ粒だらけでございます。
年「あなた召し上がってからお褒めくださいまし」
○「どういたしまして、食べるあいだも黙ってはいられません。褒めながらちょうだいいたします」
年「どうもありがとう存じます。お蔭さまで今日はどのくらいおもしろい思いをしたか知れません。お嬢さまお礼をおっしゃいまし……。なんでございますか私は……そうでございますか。じゃァお嬢さまの代わりにお礼を申します。どうも今日《こんにち》はありがとう存じます」
○「どうも恐れ入りました」
年「あなたはよほどお芝居がお好きのようでございますね」
○「ヘエ芝居は大好きで、芝居とくると私は用が手に着きません。いい芝居となると幾度でも飽きません」
年「さようでございますか。お嬢さまもずいぶんお芝居がお好きでございまして、一ツ芝居を三度もごらんになります」
○「そうでございますか、もっともいいところは何度でもようございますからな、これはまた別段で……」
年「あなたはご近所でいらっしゃいますか」
○「ヘエ、駒形《こまがた》でございます」
年「マアどうもお近くってようございますね」
○「近いもんですから、チョイチョイ仕事の合い間をみては駈け出して立ち見をしておりますが、どうも立ち見では見ごたえがございませんから、今日は仕事の都合で、一日ゆっくり見ようと思ってまいりました」
年「アアそうでございますか」
○「そうするとこの通りの大入りで、どこへも入るところがないんで、どうしようかと思ったところが、ここへ入れていただいたので、お蔭さまでらくらく見物ができてありがとう存じます」
年「どういたしまして、なんでございますか。あなたはまだお若いようでいらっしゃいますが、おいくつでございます」
○「ヘエナニ、いくつというほどでもございません」
年「アラいやですよ、ほどでもないなんて、本当においくつでいらっしゃいますえ」
○「ヘエなんでございます、二並びでございます」
年「二並びというお年はおいくつでございます」
○「エヘヘヘ、二十二でございます」
年「アアそうでございますか、なんでもそのくらいのお年だろうと思いましたよ、けれどもちょっと見るとなんですね、二十四五にはお見えなさることね」
○「ヘエやっぱり一人で世帯《しょたい》を持ったりなんかして、気楽のようでもいろいろ心配がございますから、どうしても老《ふ》けますよ」
年「ヘエそうでございますか」
と、いいながらかの年増が指を折って勘定をしておりましたが、
年「マアそうでございますか、二十二で十九、二十、二十一、二十二そうでございますか……」
○「たいそう感心をしていらっしゃいますな」
年「けれどもなんでございましょう。今お聞き申したら、一人で世帯を持っているとおっしゃいましたが、本当にお一人じゃァないんでございましょう」
○「イエまったく一人で」
年「マアさぞご不自由でございましょうね」
○「ヘエ、不自由のこともありますが、その代わりなにごとも一人で気がそろってのんきでございます」
年「それはそうでございましょうが、しかしあなたのようなご容姿《ようす》のいいお方を一人でお置き申す気づかいはございませんよ」
○「どういたしまして、まったく一人でございます。まだ世帯を持つのは早いんでげすが、この春親方の年季が明けましたので、前に職人も大勢いるし、弟子が多くあるからいっそ世帯を持ってやってみたほうがいいといわれたんで一軒|家《うち》を持ったところが、朝行って親方のところでご飯を食べて、晩のご飯も済ましてうちへ帰ってくるんでございますから、床《とこ》は取りッぱなし、帰ってくるとその中へもぐり込んで寝てしまうんでございますから、まことにのんきなもので、誰も叱言《こごと》の言い人《て》はなし、このくらい気楽なことはございません」
年「イエそれでもどなたか、お留守居《るすい》がいるんでございましょう」
○「他になにもおりません。留守居というのはマアねずみぐらいなもので、ただもう芝居が好きでございますから、間をみちゃァ見にくるのがなにより楽しみでございます」
年「マアそうでございますか」
○「お嬢さまのお住居《すまい》はどちらで」
年「アノお屋敷のほうはご遠方でございますが、ちっとお加減が悪くって、私がこうしてお付き申して、業平《なりひら》のほうに寮がございますので、そちらへ出養生《でようじょう》をしていらっしゃいます」
○「ヘエさようでございますか、業平というとそんなに遠くもございませんが、お淋しゅうございましょうから、なんならお帰りにお送り申しましょう」
年「本当に送ってくだされば、これほどけっこうなことはございません。じつは少しはお歩きなさらなければお毒だと、お医者さまがおっしゃるんでございますから、お身体のために良くないんでございます。あなたが送ってくださればこれほど幸いなことはございませんが、本当でございますか」
○「エエ本当でございますとも、お茶屋はどこで……アアさようでげすか、じゃァお茶屋の前に待っております」
年「ぜひそうしてくださいまし」
うまく話を持ち込まれて奴さん、大恐悦《だいきょうえつ》でニコニコしながら芝居を見ておりましたが、今とはちがい昔は幕数がたいそうございましたもので、朝早くから始めて夜もだいぶ更けるようなわけで、まーず今日はこれぎりドドンドンドンという打ち出し、かの男は表へ飛び出して約束通りお茶屋の前にボンヤリ突っ立っております。ところへ例の婦人が万々支度ができて茶屋から出てきました。
○「ヘエお待ち申していました」
年「マアご親切さまにありがとう存じます。本当にご親切でいらっしゃることね」
○「どうも恐れ入りました」
年「なんでございますか、お嬢さん歩いていらっしゃるほうがよろしゅうございましょう。もしお疲れのようなら、私がお手を引きますから」
○「なんなら手前が背負《おんぶ》をしてもようございます」
と、ばかをいいながら、ひょうきんの男でございますから、いろいろ話をしながら吾妻橋《あづまばし》を渡って本所《ほんじょ》の業平へまいりました。お嬢さまはたいそう気に入ったものとみえて、ニコニコ笑いながら送られて来るようなことで、
年「あのここでございます」
○「アアそうでございますか」
年「ここにたった二人でいるのでございまして、他に誰もおりませんので……」
○「ヘエーさぞお淋しゅうございましょうな、こんな大きなうちにお二人ッきりでは……」
年「もっとも女中が一人おりますけれども、これは台所のほうをしておりますから、奥は私とお嬢さんと二人ッきりでございます」
○「そうでございますか、こういうところに二人や三人でいるのはさぞお淋しいでございましょう。どうも今日はとんだごやっかいになりました。もうお宅さえわかっていれば、またうかがいます」
年「マアいいじゃァございませんか。なんですねえ、敵《かたき》のうちへ来ても口を濡《ぬ》らさずに帰るものではございません。せめてお茶でも上がっていらしってくださいまし」
○「ヘエありがとうございますが、私もまた遅くなるといけませんから」
年「遅くなったら泊まっていらっしゃいな」
○「ありがとう存じますが……」
年「あなたなにをしていらっしゃるの……。マアいやですね。あっちを向いて眉毛《まゆげ》へ唾《つば》を付けて、本当にばかばかしいじゃァございませんか。こんなとこにきつねやたぬきはおりませんよ」
○「それが剣呑《けんのん》でございます。私の友達が王子《おうじ》のほうから帰りがけに田端《たばた》というところで乙な女に出逢って遅くなったから泊まったところが、一晩地蔵さまの側《そば》に寝かされた奴がありますから……」
年「そんなばかなことはございませんよ」
といいながら手を取って冠木門《かぶきもん》の中へ入り、引かるるままに上がってみると、けっこうなお座敷を間《ま》ごと間ごと通り、奥の十畳ばかりの座敷へ案内をされると、絹張りの行燈《あんどん》がついて上段に座布団が敷いてございます。あたりを見ると、どうもけっこうずくめで、こういう座敷へ入ったのは初めてでございますからただもうあたりをキョロキョロ見ております。そのうちに立派な急須《きゅうす》へけっこうなお茶をいれて持ってまいりました。
年「どうぞお茶を召し上がりませ」
○「ありがとう存じます。今日はお蔭さまで芝居をゆるゆる拝見をいたしましたのみならず、いろいろごちそうさまになりまして相すみません」
年「どういたしまして、ただいまお嬢さまがここへおいでになりまして、よくあなたにお礼を申し上げるそうでございますから、どうぞしばらくお待ちくださいまし」
○「イエそんなことをなすっては困ります。もう私はそうしてはいられませんから」
年「マアようございますよ」
という、この女中がなかなか達者なもので、いい工合《ぐあい》に綾《あや》なしております。やがて女中が出て行くと、唐紙《からかみ》を開けて出てまいりましたのは以前のお嬢さま、芝居を見た時には縮緬《ちりめん》の小袖でございましたが、お帰りになると黄八丈《きはちじょう》のお召しでございまして、繻珍《しゅっちん》の帯を胸高に締め、お頭《つむり》を見ると島田《しまだ》でございます。顔の色が白いところへ病いのために蒼味《あおみ》がかっておりますから、すごいほど美しく見えます。そこへズッと出てきて、両手をついてお辞儀をした時には奴さん驚いた。襟元から水を掛けられたようでございます。
嬢「あなたそんなにお堅くッては恐れ入ります。どうぞお楽に……」
○「ありがとう存じます。今日はお蔭さまでらくらく芝居の見物ができました」
嬢「イエ私こそなんとお礼を申し上げてよいかわかりません。本当にお蔭さまでおもしろく芝居が見られて、こんなけっこうなことはございません。これをご縁としてチョイチョイお遊びにいらしってくださいまし」
○「ありがとう存じます」
嬢「今晩はもう遅うございますから、お泊んなすっていらっしゃいまし」
○「ありがとう存じます」
そのうちにまた女中が支度をいたしまして、
年「あなたなにもございませんが、茶屋から持ってまいりましたホンのお煮染《にし》めで、取り散らしてございますがどうぞひとつ召し上がってくださいまし」
○「これはどうも恐れ入りました」
年「あなたご酒《しゅ》は上がれるでございましょう」
○「ヘエ、そんなに深くちょうだいはいたしません。ナニ飲むというほどでもございませんが、少々はいただきます」
年「ではどうぞご遠慮なく召し上がって、そうしてお嬢さまがどうもお気が欝《ふさ》いでいけませんから、なにかおもしろいお話でもなすって、ゆっくり遊んでいってくださいまし」
○「どうももうそんなにご酒をお燗《つ》けなすっても深くはいただけません……、ヘエどうもこれは恐れ入りました。お嬢さまのお手ずからお酌《しゃく》をしていただこうとは思いませんでした。……こりゃァどうもいいご酒でございます。ごちそうさまで……」
年「どうぞあなたごゆっくり遊ばしてくださいまし。サアもう少々いかがで、お酌をいたします」
○「どうもありがとうございます。恐れ入りました。まことにけっこうなお住居でございますな。ここらはなんでございますな、ガヤガヤいたしませんで、こういうところへご保養にいらしってるという、これほどけっこうなことはございません。私のほうは表通りはにぎやかでございますが、裏のほうでげすから、汚《きた》な閑静《かんせい》でございましてこういうところのお静かのとはわけがちがいます。なんだか知れませんけれども、このお座敷へまいりましたら、ズーッといい心持ちになりまして、まるで竜宮《りゅうぐう》へでもまいったような心持ちがいたします」
年「ご冗談ばかりおっしゃいます、サア召し上がれ」
というのでだんだんお酒を強《し》いられて、たくさん飲めないところを、女中がじゅうぶんに待遇《もてな》しますから、ばかにいい心持ちに酔ってしまいました、そのうちにまた女中は立ってしまう、あとに残ったお嬢さんがもじもじしておりましたが、
嬢「あのあなたにお願い申したいことがございますが……」
○「ヘエー、どういうことでございますか存じませんが、あなたのおっしゃることなら、私はどういうご用でも足そうじゃァございませんか」
嬢「でもきまりが悪うございますから」
○「ナーニ、きまりの悪いことはございません。おっしゃってくださいまし。物はいわなくっちゃァわかりません」
嬢「申しましてから、いやだとおっしゃられますと……」
○「イエいやという気づかいはございません、あなたのことなら命までもさしあげてもよろしいくらいなもので」
嬢「真実あなたは私に命までくださいますか」
○「エエきっとさしあげます」
嬢「本当でございますか」
○「本当にさしあげます」
嬢「本当に……」
○「ひどく疑っていらっしゃいますが、まったく本当にさしあげます。嘘だと思し召すなら、手付けに目をまわしてごらんにいれます」
嬢「そんなことをなさらずともようございますが、本当に命まで……」
○「本当にさしあげます」
と、ばか野郎力を入れて請け合い込んだ。言い出しそうにしては、お嬢さんが言い兼ねて口ごもっております。
○「なんだか早くおっしゃいまし、山寺の鐘は千町万町響くといえど、撞木《しゅもく》を当てなければ音が出ないという、いわなければわかりません。早くおっしゃってください、どんなことでも命にかけてもお頼みを叶えますからと申したら、これほど確かなことはございますまい」
嬢「それなれば申し上げますが……」
○「あなたそう口ごもっていらしっては、私のほうでも気になります。なんでございますか、ザックバランにおっしゃいましな」
嬢「それではあなた本当に……」
○「たいそう念を押しておいでになる。確かでございますよ」
嬢「それでは申し上げますが、じつは私は乳におできができているのでございます」
○「ヘエなるほど」
嬢「それをあなた舐《な》めてくださいませんか」
○「ウムさようでございますか、どうもふしぎなことがあるもので、それじゃァお乳の下のおできを舐めろとおっしゃるんですね。……どうもようすが変だと思った」
嬢「それでございますから念を入れてうかがいましたら、命までもきっとくださるとおっしゃるから……」
○「それはさしあげますが、どうも恐れ入りましたな」
嬢「男がいっぺんお請け合いになって、いまさらいやということはございますまいねえ」
○「そうでございますな……。ヘエよろしゅうございます。私も男でげすから、どういうことでも受け合った以上はいたします。どういうおできでございますか、サア舐めますからお出しなさい。いくらでもお出しなさいまし」
嬢「イエそんなにいくつもあるのではございません、たったひとツで……」
お嬢さまも一生懸命とみえまして、顔を真っ赤にして胸をひろげると、燃え立つような緋縮緬《ひぢりめん》の襦袢《じゅばん》を下に召している、その間から真っ白の肌が見えると思うと、今まで麝香《じゃこう》やなにかの匂いで消されておりましたのが、胸をひろげたからおできのことでプーンと嫌な臭気《におい》が来た。
嬢「これをどうぞお願い申します」
○「ヘエなるほど、これは恐れ入りましたな。私はモット小さいと思っておりましたが、これはたいそうな大腫物《おおでき》でございますな、どうも大でき大でき」
驚いたのも無理はない。小さなおできだと思いきや、紫色に腫れ上がっているから、さすがの奴さん気味が悪くって、すくんでしまった。
嬢「サアあなたお約束でございますから……」
○「ヘエよろしゅうございます、こうなればもう命をさしあげると申したくらいでございますから一生懸命で舐めます」
といって前のほうへ少し進むところをいきなりお嬢さんが、細い手でもって、男の手をグイと引きましたから頭が前へ出る。その頭のところへまた細い腕を掛けてグイとやられたから、奴さんじゅうぶんに舐めさせられてしまった。
嬢「どうもありがとう存じます。どうぞあちらへおいでなすって、うがいをなさいまし」
年「サアあなたこちらへ」
というので縁端《えんがわ》へ来てうがいをいたし、顔を洗っていい心持ちになって、元の座敷へ来てみると、お嬢さまはスッカリ着物を着かえて元のところへピタリと坐っております。
嬢「サアどうぞ召し上がってくださいまし」
とまたまたお酒を出されて飲んでいるうちにいい心持ちになってしまう。
○「じゃァ今晩はごやっかいになります」
年「どうかそうなすってくださいまし。……ねえお嬢さまそれでようございましょうね。そうきまったらごゆっくり召し上がってくださいまし」
○「ありがとう存じます」
と酒を飲んでるところへ、表の門をドンドンドンドン破《わ》れるばかりにたたく者がございます。
年「サアたいへんでございます」
○「なんですえ」
年「なんだじゃァございません。このお嬢さまの伯父さまで、本所の表町にいらっしゃるたいへんに頑固のしようのないお方なんでございます。もしも男を入れてお酒でも飲んでいるということが知れると、家中《うちじゅう》撫で切りにされてしまいます」
○「それはたいへんだ」
年「まことにお気の毒さまでございますが、どうぞ今晩のところはお帰りくださいまし。また明日でもあさってでもご都合のいい時にどうぞいらしってくださいまし。まことにお気の毒さまで、表では危のうございますから、裏口からお逃げくださいまし」
○「ヘエありがとうございます」
おきよという女中に手を引かれて台所へひっぱり出され、水口を開けて、あわてて飛び出してポチャリ溝《どぶ》へおっこった。
年「アレお危ない、おけがはなさいませんか……」
○「ヘエ大丈夫でございます、このくらいのことなら命にはかかわりません」
年「マア本当にお気の毒さま……」
○「どういたしまして、首の落ちないほうがよッぽどようございます。いずれまた上がりますから」
とガタガタふるえながら夢中で駈け出して自分のうちへ帰ってきて、戸を開けたのか蹴《け》はずしたのか飛び上がったまま、夜の明けるまで坐っておりましたが、あまり尻が痛いので気がついてみると下駄をはいたまま坐っていた。そそっかしい奴があればあるものだ。なにしろこうしてはいられない。月に叢雲《むらくも》花に風、ゆうべはせっかくのところを邪魔が入ったのでいけなかったが、今日は一番めかしこんで出かけよう。昨晩はお気の毒さまというんで、いっそうもてなすにちがいない。ともかく湯に行ってこようと、お湯へ行ってみると髪が乱れているから、髪結い床へ行き、まだこれではいけないというので、また湯へ行き、湯屋と髪結い床を半日かけもちをして、鼻のところをすりむいてしまった。それからスッカリ着かえ込んで、表を歩くのもこうなるとマジメでは歩けません。世の中の色男をしょって立っているような心持ちでニヤニヤ笑いながら来ると向こうから来た男が、
△「八《はち》ヤイ、八」
○「オオ」
△「どこへ行くんだ。いやにニヤニヤ笑ってるじゃァねえか」
○「笑ってるッたって、ただもう気の毒なのは世の中の奴の面《つら》が皆ばかに見えていかねえ」
△「ヘエどういうもんだ」
○「どういうもんだって、人間という奴は運は天にありというが、いつどこでどんな出世をしねえとも限らねえ。マアいいから一緒に黙って行きねえ。おめえにもいい年増を取り持つぜ」
△「ヘエー」
○「さもなければ、今夜金の五両くらいもらってやらァ。たいへんにマア出世をしたから行ってみねえ」
△「ヘエー、なるほど、運てえ奴はいつ来るかわからねえ。そりゃァ後家《ごけ》だな。待ちねえよ、ちょっと親分とこの買い物を頼まれたから、その用を足してくるから」
○「買い物なんか帰《けえ》ってきてからだっていいじゃァねえか」
△「そりゃァいいけれども……」
○「じゃァ行きねえな」
△「どこだえ」
○「業平だよ」
△「ヘエー、業平ときた日にゃァずいぶんマア立派なうちがコテと並んでるが、いずれ金持ちの後家さんかなにかだろう」
○「ところが十八九のお嬢さんだ」
△「そいつァえらいことになったもんだ。マアてめえどうして、そういう者のお見立てにあずかったんだ」
○「そりゃァわけをいわなけりゃァわからねえが、昨日ちょっと芝居へ行って、かれこれ二ツ三ツ口を利いたのが始まりで、スッカリ懇意《こんい》になってしまったんだ」
△「ヘエー、ふしぎなことがあるもんだな。芝居にゃァ、きれいな役者が列《なら》んでる。その中でてめえみたようなものを見染めるというのは茶人だな」
○「まぜッ返さずに、黙って行きねえ」
△「なにしろマアえれえことになったもんだが、もう話は届いたのか」
○「じつはゆうべそこへ行って泊まろうと思うと、月に叢雲《むらくも》花に風だ。ちょっとさしがあったんで、マアゆうべは帰ってきたが、明日ぜひ出なおして来てくれろという約束だから、これから繰り出すんだ」
△「ヘエー、じゃァ一緒に行って、うらやましいけれども、一ぺえごちそうになってようすを拝見しよう」
○「ウム、一緒に来てくれ……」
△「ちょっと待ちねえよ、業平というとここじゃァねえか……なにをキョロキョロしてるんだ」
○「待ちねえッてことよ。ゆうべ初めて来たんだからわからねえが、ハテ、ここのうちかな」
△「ここのうちかッて、門が閉まってシーンとしてるじゃァねえか」
○「それが女ばかりでのんきだから、遊んで歩いてるんだ。ことによるとどこかへまた出かけたかと思うが、ちょっと待ちねえよ。ひとツ聞いてみるから、この煙草屋《たばこや》で……」
△「早く行って聞いてきねえ」
○「エエちょっとうかがいますが」
爺「ハイハイおいくらのを上げます」
○「煙草を買うんじゃァございません。少しお聞き申しとう存じますが」
爺「なんですね」
○「お隣家《となり》はお留守のようでございますが」
爺「ヘエ、お隣家のことをお尋ねなら、おまえさんはお出入りのお方かえ」
○「ヘエさようでございます」
爺「そうですか、マアお掛けなさい」
○「ヘエ」
爺「なんでございます、お隣家についてばかばかしいお話があるんで、うちの婆さんなんざァあんまり笑ったんで、今朝入れ歯を吐き出して愚痴をこぼしているくらい、私もゆうべから笑いづめで腹が痛くなってしまった」
○「ヘエー」
爺「ばかな話じゃァございませんか、あのおまえさんも出入りのお方ならご存じでございましょうけれども、かのお嬢さんは小川町《おがわちょう》のしかるべき屋敷のお嬢さんなんで……」
○「ヘエー、そうでございます」
爺「ところがおまえさん、まことに容貌《きりょう》よしでけっこうだけれども、どうも悪いおできができているそうですね」
○「ヘエヘエできております。右の乳の下のところに……」
爺「よくご存じだね。私なども始めのうちはマアよく知らなかったが、どうも色は白いが普通の白いのではない。少し蒼いから病いでもあるだろうと思っていたが、さてこそおできのためだ。立派なお屋敷のことだから、お出入りのお医者もたくさんあって、いろいろと手を尽くした。どうしても治らない、スルとある易者が、なんでも自分より四ツお年の上の男に舐めてもらうというと、その唾で治るというのだそうだ。お嬢さまのお年がマア十八だから、十九、二十、二十一、二十二になる男だね。お屋敷のうちにも二十二になる男がいくらもあるけれども、さて私が舐めましょうという忠義の者もなくッてまことに困っていた。スルとそこの女中におきよという達者なものがいて、世の中には色深いばか野郎があるから、そういうのを取っつかまえて舐めさせてしまったほうがいいというので、つまりこっちへ出養生というのは付けたりで、二人ッきりでこっちへ来てからほうぼう遊びながら二十二の野郎を探して歩いた」
○「ヘエー」
爺「スルと昨日行った芝居で、二十二になる野郎に出っくわした」
○「ヘヘッ」
爺「そいつが図々しいばか野郎で、うちへいらっしゃいというと、ノコノコついて来たのが運の尽きだ」
○「ヘエヘエなるほど」
爺「うちでさんざんごちそうをしたりなにかして、お嬢さんも自分の身体には代えられないから、一生懸命だ。いい工合いに持ちかけると、その野郎がばかだから、命までもさしあげますといったそうだ」
○「ヘエなるほど」
爺「ソコでお嬢さまが本当かと念を押したところが、男の歯から外へ出したからには、大丈夫だと、その野郎がいったそうだ。それでもマアお嬢さまが口ごもっていると、そいつが焦《あせ》りやァがって、どうか早くおっしゃってください。なんでもおっしゃることは背《そむ》きませんというんでお嬢さんが、じつはおできができているからこれを舐めてくださいというと、野郎も抽斗《ひきだし》がちがったもんだから呆気《あっけ》に取られてしまったそうだ」
○「なるほど」
爺「けれども、いったん言い出したからには、ぜひとも舐めてくださいというので、一生懸命お嬢さまが掛け合い込んだんだそうだ。その野郎が逃げるわけにはゆかず、よろしゅうございます。舐めますがその代わりご用を勤めた暁《あかつき》には、どういうことにしてくださるというと、お嬢さまが生涯お側にいて苦楽を共にいたしますといったもんだから、大請け合いに請け合った。ソコでいよいよというのでお嬢さまがそのおできを出した時には、野郎も驚いた。小さいのだと思ったら大きなので、大でき大できと、のろまが芝居を褒めるようなことをいって、驚いて見ていたが、とうとう無理往生《むりおうじょう》に舐めさせられてしまった」
○「ヘエヘエなるほど、なるほど」
爺「それから元のところへ来て一杯飲んで、ぐずぐずしているうちに泊まられちゃァたいへんだと思うから女中が気転を利かして、私のところへ来て頼むから、私が表の門をドンドンたたいた。スルとおきよという女中が、サアたいへんだ。お嬢さまの伯父さんで表町にいらっしゃるお方がお見まわりに来た。男を引き入れているということがわかると家中《うちじゅう》撫で切りにされてしまうと脅かしたもんだから、野郎|面《めん》くらって飛び出すとたんに、ドブへ落っこちてとうとう逃げてしまった」
○「ウームなるほど」
爺「それからお屋敷へ人をやって、明日になってそのばか野郎が来ると面倒だから、なんでも今夜のうちに引き払ってしまったほうがいいというので、お屋敷中の人が来て、昨夜のうちに引き払ったからお隣は空店《あきだな》だ」
○「ヘエー、それでお屋敷はどこでございます」
爺「おまえさんはなんじゃァないか、お出入りの方だといえばお屋敷を知っておりましょうがな」
○「ヘエヘエ……、なるほど……」
爺「いやだぜこの人は、気味の悪い声を出して。お嬢さまの身体はマアいい塩梅《あんばい》にそれでたちまちに治るそうだけれど、舐めた野郎が気の毒だね」
○「ヘエー」
爺「そのひどい毒を舐めた日には身体中へ毒がまわって、七日と保《も》たないそうだよ」
○「ウワーッ……」
爺「やアいかねえいかねえ、この人はひっくり返ってしまった。冗談じゃァねえ、咄癲癇《はなしてんかん》だ。話をしていて煙草の台の上へひっくり返ってしまった。連れもなにもいねえのかな……。ナニ友達が向こうの板塀のところにいる……呼んできな呼んできなモシモシあなた、あなた、ちょっと来てください」
△「ヘエなにかご用ですか」
爺「なんだか知らねえが、おまえさんはうちへ来た人のお連れだね」
△「イエ連れじゃァございません。ただ一緒に来たんで……」
爺「シテみりゃァ連れだ。どうかちょっとここへ来ておくれ」
△「ヤア冗談じゃァねえ。おまえさん絞め殺したのかい」
爺「絞め殺したんじゃァねえ。いま隣家の話をしているうちにひっくり返ったんだ、この人は持病があるかえ」
△「そんなことはございません」
爺「話をしているうちにひっくり返ってしまったんだ。早く医者を呼んで来てくれ……。しかし医者の来るあいだこうしちゃァ置かれねえ。どうも弱ったな」
△「こんなことと知ったら、一緒に来るんじゃァなかった。どうかすみませんけれども水を一杯おくんなさい……。ヤイ八、しっかりしろ……旦那すみませんけれども起こしておくんなさい。……薬はございませんかね」
爺「さようさ、べつだん薬はないが……アア宝丹《ほうたん》がある」
△「宝丹ならいいから早くおくんなさい……。八やい、八、しっかりしろ、八や八や八や八や、アッ尨犬《むくいぬ》が駈けだして来た。……畜生ッ、踵《かかと》を舐めていやがる……この野郎、しっかりしろ、八やい八やい、八公しっかりしなくッちゃいけねえ」
八「ウーン」
△「しっかりしろしっかりしろ、サア薬だ。ホーラいいか宝丹を舐めねえよ」
○「いけねえ……オレはもう舐めるのはこりごりだ」
[解説]もと品川の師匠といわれた橘家円蔵《たちばなやえんぞう》が、得意にやっていた噺だ。その昔は腫物の場所がモッと下のほうで、娘が羞《はじ》らいながら前をひろげるところがおかしかったという。サゲは間ぬけ落ち。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
つるつる
―――――――――――――――――
一席うかがいます。渡世《とせい》というものは何渡世でもやさしいというものはございません。芸人社会もいろいろありますが、その内で一番むずかしいのは芸者衆だそうで、お客さまが三人来るとして、一人は皮肉に端唄《はうた》を唄ってアノ芸者を困らしてやろうなんていう、またどうかアノ芸者を手に入れたいというお客さまが一人、モー一人は金ずくでなびかせようなんていう、こういうのが三人来た節には、じつに困るそうでございます。そういう時には気のありそうなお客さまの膝に肘《ひじ》をソッと乗せて片っぽうのお客さまを横眼で見て、前にいるお客さまに煙草をつけて出すのだそうで、むずかしいわけのもんです。
そのうえを越してむずかしいのは幇間《たいこもち》で『幇間上げてののちは幇間』という川柳がございますが、よほど苦労しなければ幇間はできませんそうで、お客さまがエヘンといえば吐月峯《はいふき》を持って行く、心地が悪いといえば薬を出す、それでもいけないといえばお医者さまを迎えてくる、医者がきて脈をみてヒョイと首をひねると、すぐに葬儀屋からお寺へまわってくる、ソンナに早くなくってもいいが、そのくらいに機敏《きびん》でないと幇間はできないそうでございます。
旦「オイたいそう酔ったな」
幇「酔いました。近年私このくらいうれしいことはないね、旦那さまのお顔をしげしげ拝見してご当家のお料理がよくってお酒がいいときていましょう、ばかな酩酊《めいてい》だな、ここにいらっしゃるあなたはね、どう考えても神様としか思われませんね」
旦「ありがたい、俺を神様と思ってくれるのはありがたいが俺はなんの神様だろう」
幇「あなたが神様ならば久米《くめ》の平内《へいない》様だ」
旦「色気がねえな、せめて金比羅《こんぴら》様とか摩利支天《まりしてん》様とかいいねえな、モッと粋な神様はないか」
幇「さもなければ疝気《せんき》の稲荷様、それでなければ道六神《どうろくじん》様、濡れ仏」
旦「心細いな、いやな神様ばかりだが、しかし俺を神様と思うだけうれしいね、どういうわけで神様だね」
幇「どういうわけって、旦那いま申します通り、けっこうなお茶屋のお二階でけっこうなお料理けっこうなご酒《しゅ》をちょうだいして、有名な芸者衆が並んでお世辞のいい女中衆はたくさんいるし、そのうえこうやってお布団までちょうだいして、まだご祝儀《しゅうぎ》はもらわないけれども……」
旦「いやな奴だな、ご祝儀の催促かえ」
幇「イヤ催促ではございません、ただお話だけでございます、お気が付かれた以上は一刻も早くちょうだいしたいネ」
旦「泥酔《よっぱら》っていてもイヤニ欲ばっているな、オイおまえなんだか今日は中座《ちゅうざ》をしなければならぬ、暇をくれろってこういったが、どういうわけで中座をするんだ、その訳を話しねえな」
幇「そんなご尋問はあるべからず、お帳場の時計がボンボンと十二時を打ったらさようならというので」
旦「いけないョ、察するところなんだな、先約があるのだろう、ここを逃げ出しておいて、どこか他を勤めようというので約束があるのだろう、イヤそれにちがいないね、そうならそうとなぜ最初からいわねえんだ、いやなことをいうようだが、ずいぶんおまえのためには俺が目をかけているョ、去年の暮れだッたが春の支度ができねェからというので少しばかりだが金を貸してやった、いまだに返さないじゃァないか」
幇「アアなるほど、あなたあれを覚えていますかえ」
旦「誰が忘れるものか」
幇「イヤに脳《あたま》が良いね、たいがいもう忘れたほうがようございましょう」
旦「ふざけるな、俺は暇をやらないよ、今夜は夜明かしだ」
幇「徹夜《よあかし》は堪《こた》えたな、よろしい、それじゃァ申しましょう、申し兼ねますけれども必ず憤《おこ》ったり笑ったりしてはいけませんよ、私どもにお梅《うめ》という芸者がございましょう」
旦「知っているよ」
幇「私はあのうちに食客《いそうろう》」
旦「わかっているよ」
幇「ところがあのお梅なるものが、どうか私と一緒になりたいといったと思し召せ」
旦「へんな顔をするなよ」
幇「むこうも独身者《ひとりもの》手前も独身者、当今は自由結婚ということがあるから、よし約定済みという札を下げて」
旦「なんだえ、約定済みというのはおかしいじゃァないか、まるで展覧会へ買い物に行くようだネ」
幇「ところで芸人同志で夫婦になって一ッ所にいると、みんな口が悪い連中だからとても一ッ所にはいられないので洋行《ようこう》しようとなって、アレが八王子《はちおうじ》へ洋行して私が横浜《よこはま》へ洋行するので」
旦「近いところへ洋行するな、横浜に八王子かえ」
幇「遠方へ行けば入費がかかります、さもなければ紳士方のお供で本当に洋行しますネ、とても自費では行けません、官費でなければだめです。亜米利加《あめりか》、仏蘭西《ふらんす》、英吉利《いぎりす》へ洋行して、あざやかに英語を覚えてきますね、デンキクライ、アンドンアカルイ」
旦「なんだいそれは。俺もずいぶん英語を習ったがはじめて聞いたネ、なんという語だえ」
幇「遅くいうと化けの皮が現われるのでそれで早くいって瞞着《ごまかす》ンで、デンキアカルイアンドンクライとやるんでげす」
旦「なんだえこの人は、妙なことをいう男だな」
幇「お金をこしらえて芸者屋をしようというので、アメリカに行くと何十階という高い家があるそうですが、私はそれより高い家をこしらえましてね、一番上を雷様へ貸してしまうので、それから下を風の神に貸しまして、あとは大蔵省や市役所、警視庁それをみな集めてしまって、一番下で私が芸者屋をしようというのでげす。抱えの百人ぐらいも置いてね、イザお座敷というと、十人を一組にして一組ずつ楽隊を付けて、ドロドロドンドンドロドロドロドロドン」
旦「なんだい気狂《きちが》いだネこの人は」
幇「そういうふうに演《や》ってみようじゃァないかとその話がきまったのでげす、それが今日の午前十時三十一分に、いよいよまとまったものと思し召せ」
旦「なるほど」
幇「今晩十二時を合図に手前が花婿なんでそれがために、なにとぞお暇を願いたいとこういう次第でございます」
旦「ハアなるほど、おまえはなかなか情夫《いろおとこ》だな、世の中は広いや、おまえみてェの者でもそんなことをいう女があると思うとふしぎなものだ」
幇「ひどいことをいいますな」
旦「よしそういうわけなら帰ってもよいが、すぐに行かれるとあとが淋しいからいけねえ、こうしよう手付かず俺がここに十円置こう」
幇「えらい、だから私はあなたのことを神様というので、手前も多くのお客さまにご愛顧《あいこ》になっていますがあなたぐらい粋《いき》なお客さまはありませんね、恐れ入った」
旦「オイオイなにをしまうのだョ」
幇「十円くださるンで」
旦「誰がやるといった、ただ出してみたのだョ」
幇「なんだ、これをくださるんじゃァないのですか」
旦「やるがね、ただやるンじゃァない、なにか変わったことをしねえナ、どうだえ半分坊主にならねえか」
幇「半分坊主」
旦「どうだい半分坊主の半分散髪おもしろかろう」
幇「なるほど、十円の商法はけっこうでげすけれども今日は私が花婿だからね、イザ三三九度のお盃になった時、アノ一八さん頭をどうしたの、片っぽう十円で売ってきたというのは色気がないからね、マアよしましょう」
旦「色気があっちゃァ幇間はできないョ、じゃァ五円」
幇「五円となると」
旦「眼の珠《たま》へ親指を半分入れさせねえか」
幇「いけません、眼がひとツなくなると不自由で」
旦「それでは今度は三円、三円で生爪《なまつめ》を剥がしねえな」
幇「いけません、あなたはどうも変なことばかり考えるね」
旦「じゃァあとは一円だ一円でポカリ」
幇「けっこう」
旦「これはどうだい」
幇「けっこうで、ポカリときてすぐに一円、ポカリポカリが二円、ポカポカポカとくればたちまちのうちに十円ぐらい、けっこうな商法でげすな、旦那私の頭を両方の手でなぐってください、ポカポカポカ私は前へ算盤《そろばん》を置いて、パチパチパチ」
旦「欲ばった男だな、やるかえ」
幇「むろんでげす」
旦「ところで頭なんぞをぶったッてつまらねえ、まず最初が目と鼻の間、その次が胸板、三番目が横っ腹……」
幇「なんでげす目と鼻の間に胸と脇腹、これはごめんをこうむりましょう、どうでげす背中なら五十銭で打たせましょう」
旦「いけない」
幇「お尻なら三十五銭、それがいけなければ踵《かかと》が二十五銭、肩が十五銭」
旦「按摩《あんま》じゃァねえや……」
幇「それじゃァどうでげす鉄拳《げんこつ》をみたばかりでただの五銭」
旦「殴るよ、じゃァこうしよう、この湯飲みに一杯酒を酌《しゃく》でグッと飲むかえ、みごとに飲めば五十銭」
幇「イヨありがたい、ご酒が一杯で五十銭、十杯で五円けっこうな商法でげす、たくさん酌《しゃく》じゃァいけません、オット、オットありがたい、半分飲んで」
幇「旦那本当にあなたはようすがいいね、黒の|五ツ処紋付《いつつところもんつき》の筒袖《つつそで》のお召し、浜縮緬《はまぢりめん》の兵児帯《へこおび》に鳥打帽子のこしらえで、吉原《よしわら》をお通りになった時に、私もお供をしましたが、そういっていましたよ、花魁《おいらん》方や芸者衆が本当にアノ旦那さまはごようすがいい、それに上品でいらっしゃる、どう見ても華族さまのようだッて、あなたのことを華族といいますと一人の芸者が、アレハおおかた盗賊《どろぼう》だろう……まことに失礼」
旦「コンちくしょうばかなことをいうな」
幇「おおきに失礼」
旦「オヤ恐れ入ったネ、お盃が充満《いっぱい》になってしまったぜ、姐《ねえ》さんあなたがお酌をしましたかえ、黙って酌じゃァ困る、今日は商法でやっているンですョ」
幇「旦那半分|殖《ふ》えましたョ、二十五銭増してちょうだい。なんでげす、てめえの油断だから増しはしねえって、これは恐れ入ったねどうも、二十五銭の川流れだ、どうも意地が悪いね、止めずにおくれその盃を酔わして寝かしてぬけて出るというのでげしょう、ソンナ意地の悪いことをするとスッパ抜きますよ……オヤまた盃が充満《いっぱい》になったぜ、これは驚いた、ほうぼうに徳利が忍んでいるのはひどいね、また二十五銭の川流れだ、都合で五十銭の損害は驚いたネ、十分ちょうだい、これでお暇《いとま》を」
旦「なにかやらないうちは帰さないョ」
幇「それは殺生でげしょう、ではひとツ音曲《おんきょく》をお聞かせ申しましょう」
旦「おまえの音曲はうれしいものじゃァねえぜ」
幇「誰もやれない音曲でげす」
旦「やってみな」
幇「どうでげす、こういうのはトーリャントーリャンシャベロロベ、ロンノアマ、モーメン、トーロートーロー、ホッシューロンノ、アイモーメン、スッチャンペラペッ、ポーパイ」
旦「あまりいいもんじゃァないな」
幇「これは露西亜《ろしあ》の端唄《はうた》なんで」
旦「そんなものはいけねえや、なにか日本の物をやんねえ」
幇「心得た、今年やいい年、いさぎよく、初荷の夢やばか囃《ばやし》、笛の与助《よすけ》の打ち込みは、チャンス、チンチンドンドンドン、これはあなたの紙入れで」
旦「なんだッて俺の紙入れを持って行くンだ」
幇「これは恐縮、デハこれにてお暇を、ありがたいさようなら……」
ゴロゴロストン
旦「オイ一八落ちやァしねえか」
幇「落ちたンじゃァございませんョ、六段いっぺんに降りたんですよ、お帳場から俺におみやげを下し置かれるはけっこうでげす、イヤ車なぞはいりませんョ、さようなら……どうだえトウトウごまかしてあすこを脱出《ぬけだ》したが、幇間という商売はいい商売だな、お客の入費で十分にご酒をごちそうになってご祝儀をもらっておみやげがあり、うちへ帰れば芸者が待っているンだ、好都合に行ったものだネ、俺の帰りが遅いから彼女が門口で愚痴をこぼしているョ、アノ人は本当に薄情だョ、まだ帰ってこないの、待つ身より待たれる身になれとはハテよういうたものじゃなァー、オヤ夢中になったので折を毀《こわ》したぜ、かまわねえナ、かまぼこが半分顔を出しているョ、食ってしまえ、オヤオヤきんとんがはみ出しやァがった、オー照り焼きが落ちてしまったゼ、モーこうなるとなにか拾わないうちは勘弁ができないね、なにか落ちていればすぐに拾うョ、なんだえ珊瑚珠《さんごじゅ》の八分珠が落ちていた、ありがたいと思ったら梅干しの核《たね》だ、こうダイヤモンドの大きいのが落ちていた、ありがたいね、これを拾って売れば百五十万円になるよ、それを銀行へ預けて毎日一銭ずつ使えば幾年かかるだろう、ありがたいと思ったらなんだい、ぬかるみへ月が映ったのだ、オヤ男帯が落ちていた、ありがたいと思ったら電車の線路、どうりで長いと思ったョ、オヤ黒縮緬《くろぢりめん》の羽織が落ちていた、そそっかしい奴があるもんだな、一枚縮緬で欲しいと思っていたンだからこれを拾って行こう」
ワンワン
幇「これは驚いた犬でいやァがる、オヤ今度は煙草が五匁《もんめ》以上落ちていたよ、まずこれで明日の飲み代《しろ》はたくさんだ、たいそう柔らかい煙草だ、イヤにニチャニチャしてへんな煙草があるものだ、イヨこれは恐れ入った馬の糞《ふん》てき、これはバフンと驚いた、どこかでこの手を拭くところはないかね、よし向こうの塀で拭いてやろう、オヤオヤ手が真っ黒になってしまった、仕方がないからこの手を頭で拭いてしまえ、アーいい心地だな、早いもんだモー自宅《うち》の前だ」
幇「ただいま帰りました」
○「オヤ帰ったの、サアこっちへお入り、臭いねこの人は、たいそう酔っているね」
幇「ヘエおみやげ」
○「おみやげだッて、折が毀《こわ》れているじゃァないか」
幇「なるほど、今|蔵前通《くらまえどお》りで揉《も》み毀してしまった、これから行って取ってきましょうか」
○「冗談いっちゃァいけないよ、早く寝ておしまい」
幇「アノお梅姐《ねえ》さんは」
○「心地が悪いといって、お座敷を断って六畳の座敷で寝ているよ」
幇「そうでげすかえ、イヤ俺は二階住まい、はなはだ失礼お休みなさい……ありがたいね、今夜ばかりは寝られねェこれから枕もとへ行って今帰ったよ、アラマア遅かったねテなことをいえばいいが、この野郎女一人のところへなにしに来やがった、ポカリと来た節には目がグラグラとまわってくるし、それに酔っぱらっているから背後《うしろ》にヒョロヒョロと来て、戸にぶっつかると腰が弱《やわ》なんだから、戸がこわれて庭へゴロゴロと転がって石燈籠《いしどうろう》へコツンと頭をぶっつけると大きなコブができるね、今度はこっちへヨロヨロとよろけて池へ手をつっ込むと、鼈《すっぽん》が食い付く、鼈というものは食い付いたら放さないョ、オー痛《いて》よ痛よ、犬がワンワン畜生という声でお巡査《まわり》さんがなんだと来た節には困るね、人知れず彼女の枕もとへそーッと行ける工夫はないかしら、ウンありますョ、薄莚《うすべり》をこう取ってしまい、上から跳び下りると、ミシミシという音で、姐さんが目を覚ましてどうしたンだい、上から落ちました、格子がはまっているのに落ちるわけないね、漏《も》りました、人間の漏るような格子はないね、これだ梁《はり》へ帯を解いてこの梁へこう掛けてしまい、足りないところを襟巻きを取ってこれを結び付け、着物はいらないね褌《ふんどし》ひとツでたくさんだ、これにつかまってズルズルと下りよう、下へ行って目がまわるといけない、この手拭いで目かくしをしてこれなら目がくらまないョ、ありがたい早く時間になればよい」
と帯へつかまっておりますると酔っているからたまらない、グッスリ寝込んでしまいました。チンチンとなった時計で目を覚まし、
幇「よし心得た」
ツルツルと下りると、もう夜はカラリと明けて、下では朝飯を食っている、お汁《つけ》の鍋の上へぶら下がって来た。
○「なんだえこれは、オイ一八」
幇「オヤ男の声だョ」
といいながら目かくしを取ってみると、家中でご飯を食べている。
幇「これは驚いた」
○「なんの態《ざま》だ、足元を気をつけろ下は鍋だョ」
幇「アツ、アツツツツツ」
○「なんだえおまえは、きさまのことだから井戸浚《いどかえ》の夢でも見たのか」
幇「なに、ちょっとブランコの稽古《けいこ》をいたしました」
[解説]円遊《えんゆう》の作であるが、ツルツルと帯を伝わって下りたという所から、ツルツルと題したものである。このごろは桂文楽《かつらぶんらく》のほかにやりてはないが、文楽君も結末はめったにやらない。なおこの二階に格子のはまっている件だが、現在はないけれども、昔の家には、明かり取り兼荷物の上げ下ろしのために、天井に穴をあけた家がいくらもあって、平常《ふだん》は格子をはめてあったものだ。サゲは拍子落ち。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
付馬《つきうま》
―――――――――――――――――
女郎買い振られた者が起こし番
女郎買い振られて帰る果報者
女郎買いばかりは、振られる者ほどしあわせで、安全だとしてあります。女郎買いばかりでなく、芸者《げいしゃ》買いなども嫌われちゃァおもしろくねえといって、女郎や芸妓に好かれたり惚れられたりしない者はしげしげ通いませんから、不義理なことをしでかすようなこともなく、しごく泰平無事《たいへいぶじ》でございます。どうも統計によりますと、心中する者は双方思い思われた仲に多いようです。
妓夫「ええ大将、チョイト大将」
客「大将と呼んだのは僕のことか」
妓夫「ヘエさようで」
客「オイオイ、オレは大将ではない。もっともオレの先祖は征夷大将軍《せいいたいしょうぐん》であったが、きさまに大将と呼ばれる理由はないぞ」
妓夫「どうも恐れ入りました。いかがでございましょう、手前方は一枚切符制度になっておりまして、ご契約申したほかにべつだんご散財をかけるようなことはいたしません。いかがでございましょう。今晩のところは手前方でお遊びくださいましては」
客「ハハア切符制度というと、汽車や電車のようだが、なにかな明日の朝帰りの電車賃まで負担するというのか」
妓「ご冗談ばかり、決して多分のご散財をかけるようなことはいたしませんから、どうぞお登楼《あがり》を願います。花魁《おいらん》もアノ通りそろっておりますで、お見立てのうえ、ご遊興を」
客「ハハア、するとなんだな、今晩一夜の春を当楼において買えと申すのだな」
妓「ヘエ、たいそうむずかしゅうございますな。マアそういうようなことで、ヘエ」
客「せっかく勧めてくれる厚意はかたじけないが、おりあしく懐中《かいちゅう》すこぶる淋しいのじゃテ」
妓「イエ決して多分にご散財くださらないでもよろしゅうございます。いくらお遣い捨てになりましたところで、野暮な方はお遣いになっただけのご愉快ができるものではございません。またわずかのお宝でしごくご愉快にお遊びができるのでございます。それがご通人のお遊び方、旦那のようにご通でいらっしゃる方にさような説明を申し上げますだけ野暮なことでございます。どうぞお登《あが》りを願います」
客「イヤ、ふところがあまり淋しいのだが……」
妓「そのへんは万事手前どものほうでお含み申しておきますから、どうぞお登りを」
客「きさまのほうで含むとあれば登ろう」
妓「どうもありがとうさまで、ご案内だよ」
広い梯子《はしご》をトントンと上がる。引き付けの座敷へ案内され、ここで敵娼《あいかた》が決まって一夜のご遊興、廓《くるわ》の夜は明けやすく、
番頭「ええ、はなはだなんでございますが、ちょっとお目覚めを願います。モシ旦那、ちょっとお起きなすって」
客「アッアーアー、どうもよく眠っちゃッた誰だい」
番頭「お寝《やす》み中をお起こし申しまして、まことに相すみません」
客「なんだ花魁かと思ったら、手前か、ナニはどうした花魁は」
番「花魁はただいまお客さまがお帰りになりますので、チョット階下《した》まで」
客「そうか、どうもゆうべは花魁の取り持ちがよかったので、ちっとも寝かされなかったから、朝になってグッスリ寝入ってしまったよ。すごいものだな、当家の花魁は」
番「ヘエどうもさよう仰せられますと、痛み入ります。ところではなはだぶしつけでございますが、昨夜のご勘定をちょうだいいたしたいと思ってまいりました。これは手前どもの規則でございますから、今日《こんにち》はお流しなさいましょうとも、昨夜の分は昨夜の分でお支払いを願いたいのでございます」
客「ナニ」
番「ヘエ昨夜の玉代《ぎょくだい》を」
客「いくらだね」
番「ヘエ合計で三円と六十五銭でございます」
客「ハア、それで何人分かね」
番「ヘエあなたさまお一人分で……」
客「これはけしからん、君のところでは、客を瞞着《まんちゃく》するのか」
番「どういたしまして、決してさようなわけではございません。玉代が六十銭、台の物が……」
客「イヤその玉代からして瞞着している」
番「決してさようなわけではございません。店にも玉代は六十銭と、看板に揚げてございます。手前方では暴利などということは、決していたしません」
客「しかしそれではチト約束がちがうな。昨夜僕が君の店の前を通ると、妓夫《ぎふ》とか馬とかいう男が、僕を大将といって呼び止め、どうか登ってくれと平身低頭して依頼に及んだから、今日はおりあしく懐中すこぶる淋しいと断わると、その妓夫とか馬とか申す者が、イエ決して多分の金銭を使ったからとておもしろい遊びができるわけのものでない。いくらでもよろしゅうございます。万事は含んでおくと申した」
番「ヘエ」
客「ゆえに僕が、しからばいくらでも遊興はできるな、その上のことは君のほうで含むというかと聞くと承知いたしましたと、だんぜん言い切ったよ。それゆえ僕は君のところへ登楼してやったが、三円六十五銭などという金子《きんす》は持ち合わせがないよ」
番「ヘエー、それは困りましたな。では失礼でございますが、旦那はいくらばかりご持参で……」
客「僕の懐中には金七銭だがね」
番「ヘエー、いくらと七銭で……」
客「いくらなどとは持たない、ただの七銭だ」
番「ただの七銭……」
客「もっともうちを出る時に十五銭あったがね、六銭で巻き煙草を買ってね、残り九銭のうち、おでん屋でこんにゃくを一切れ食ったね、アレは二銭だ、だから残り七銭は確かに持っているね」
番「どうも困りましたな。いくら多分にいただかないといいましたところで、七銭ではお登りなさいますとはあんまりひどうございますね。お持ち合わせの都合によっては、なんとか折り合いでもいたしましょうと存じましたが、ただの七銭じゃァあんまりひどうございますよ。じゃァご勘定はどうなすってくださいますので」
客「そう開き直らんでもいいじゃァないか、僕も確かに遊んだのだから、払わないとはいわない。なんとかしよう。抵当に置くといっても洗いざらしの白地が一枚、真岡木綿《もおかもめん》の兵児帯《へこおび》が一本、たびたび下駄の鼻緒に使用したので端のほうは少し細くなっている。ほかにサル股が一つ、いずれを置くにしても親子のどっちかが裸体《はだか》にならなければならない。それではどうも不都合だからこうしよう、僕はこう見えても三井《みつい》の甥だ。岩崎《いわさき》が従弟で大倉《おおくら》は家内の実家《さと》で、浅野《あさの》には姉が嫁《かた》づいてる。三円五六十銭ばかりの支払いに窮する身じゃァない」
番「ご冗談ばかりおっしゃって……、じゃァこっちへ金子をお呼びくださいませんか」
客「冗談いっちゃァいけない。岩崎から車で家来が三円五十銭の金子《かね》を持って来られまいじゃァないか、こうしよう、浅草蔵前《あさくさくらまえ》まで当家《うち》の誰でもいい、僕と同道してもらいたい、あすこに僕の義理ある叔父がいる。この人はまことに粋な人だ、若い時分にゃァさんざん道楽をした人だから、僕が行ってこれこれだと頼めばいやだなどと頭を横に振る人じゃァないのだ、そこまで誰か付いて来てもらいたい。昨夜の勘定は耳をそろえて支払うから」
番「困りましたな、どうも……。さようなことは手前方ではいっさい禁じてあるんでございますが、どうでございましょう。そのお方から呼び金《がね》でもいたしていただいては」
客「それはいけないのだよ。叔父のうちはたいそう忙しいうちで、わずか三円五十銭の金子で、オレを迎えにわざわざ吉原《よしわら》まで来られるものか」
番「では私のほうから使者を出しましては」
客「君はどうも物のわからない人だな。今日《こんにち》のように物騒な世の中で僕の名前や手紙で、うかつにたとえわずかの金でも手渡す者があると思うかい。それにオレは物堅いので通っているんだ。吉原からなんて知らない者が行ったらぶんなぐられるかも知れない。叔父のうちは少し気の荒い稼業だから若い者が出てきて……」
番「困りましたな。では致し方ございません。誰か付けてやりましょう」
客「そうしてくれたまえ」
番「松《まつ》どん、おまえとんでもない客を引き上げたものだ。あれは七銭しきゃァ持ってないんだぜ。だからふだん私がいわないことじゃァねえ。おまえは新米だから仕方がねえが、客種《きゃくだね》はよく見分けてから登げてくれないと、こんなことになるんだよ。この間も三銭の客を引き上げてさ。しかしゆうべの客は蔵前まで行けば、叔父さんがあるから、そこで始末を付けるというから、おまえ気の毒だけれど、馬に付いて行ってくんな」
松「ハエー、ただの七銭、どうも驚いたな」
番「おまえよりこっちが驚くじゃァねえか、それに僕は岩崎の甥で、三井の従弟だとか、大風呂敷を拡げやがって、性質《たち》のよくねえ奴だから、しっかりして蒔《ま》かれねえようにしておくれ、共同便所へ入ったり、変なところへ引っぱり込むようだとあやしいんだからね、よく気をつけておくれ」
松「かしこまりました、大丈夫でございます……ええ旦那、では私がお供いたしましょう」
客「アア君はゆうべ僕を引き上げた動物だね」
松「動物……」
客「そうじゃァないか。夜は牛《ぎゅう》〔妓夫〕となって朝は馬となる。動物でなければ化け物だ」
松「ひどいことをいう人だ」
客「なんだな、君がゆうべ、柱の陰で真っ黒な面《つら》を突き出して、扇子を持って、ええ旦那旦那……大将なんて呼んでいたところは、牛にそっくりだったが、今朝こうして面を見直すと、恐ろしい長い馬面《うまづら》だな。やっぱりその職務によって面まで変わるとみえるな」
松「そんな憎まれ口をたたかねえで、早く行ってもらいましょう。こっちは忙しい身体だ」
客「一昼夜のうちに、牛馬二役を勤めるんだから忙しいのも無理はないね。イヤどうも夜来れば一大歓楽場、不夜城などというが、昼こうして見ると殺風景きわまるな。アアあすこでも送り出していやがる。送り出されている野郎の面を見ろ、イヤにノッペリした男じゃないか。いやだね、あんな奴でも客となれば勤めなければならんというは、女郎などというものは残酷《ざんこく》のものだね。イヤア、これは驚いた。いま少し美人かと思ったが、近づいて見れば人三化七《にんさんばけしち》アレでも女かね。ねえ君夜になると客に咬み付かないかね、アレなら今のノッペリした男と一対だね、どうも天の配剤、|破れ鍋《われなべ》にトジ蓋《ぶた》とはこれを称していう。古人我れをあざむかずだ」
松「そんなに悪口をいわないで早くお歩きなさいよ」
客「アアこれが大門、無趣味な門だね。見返り柳か、すべてが俗化したが、名前が気に入ったね。この柳の下に立って、古来幾多のローマンスを作ったとか、権八小紫《ごんぱちこむらさき》、いま眼前に髣髴《ほうふつ》たりだ」
ペラペラしゃべりながら堤《どて》を右に切れて浅草公園に出ようとする道路、右側に湯屋があります。
客「オイ馬」
松「大きい声で馬なんて呼ぶのはごめんこうむりましょう」
客「馬だから馬というんだ。どうだ、朝湯に入《へえ》ろうじゃないか」
松「なまいきなことをいって、懐中《ふところ》は七銭じゃァありませんか」
客「君出しておけ……。ナニ叔父のうちへ行きゃァ湯銭なんぞは倍にして返してやるよ」
松「そうですか」
客「嘘はつかない。君も入りたまえ」
朝湯から上がると、
客「君すまないが、向こうの煙草屋で敷島《しきしま》を三個ばかり買ってきてくれ」
松「お金は」
客「君払っておきたまえ、叔父のうちへ行ったら倍にして返してやるよ」
松「そんなことをおっしゃって、もし叔父さんのほうでできなかった時は」
客「はははは、ばかなことをいうもんじゃない。僕の叔父は千や二千の金に窮するんじゃないのだ。向こうへ行ってみればわかるが、堂々たるものだ。だから安心して買ってきな」
松「ヘエ」
客「イヤどうもご苦労ご苦労、君も吸いたまえ」
松「ありがとうございます」
客「もう何時かな」
松「十一時でございます」
客「アアどうりでどうも空腹だと思った。どうだえ、向こうの小料理屋ね、あすこは割合にうまい物を食わせるよ。一口飲んで行こうじゃないか。ナニ勘定、そんなことは心配しなくってもいいよ」
○「いらっしゃいまし、二階へお上がんなさいまし」
客「オイなにをグズグズしているんだ。早く上がって来ないか、よけいな心配はするに及ばないよ。オイ姐《ねえ》さんなにか見つくろって一本付けておくれ、君はなにがいい、ええ丼だ。丼なんて無粋な物を食わねえで、刺し身か酢の物のさっぱりしたもので一口やって、後でなんでも取ったらよかろう」
ここでさんざんぱら飲み食いいたしまして、
客「オイ姐さんいくらだね」
女「ヘイどうもありがとう」
客「三円八十三銭か、オイ君払っておきたまえ」
松「どうしまして、そんな持ち合わせはございません」
客「嘘をいっちゃいかない。さっき煙草を買いに行った時に、五円の札がチラリと見えたぜ、叔父のところへ行きゃァ倍にして返してやるよ」
松「これはどうも驚いた。仕方がない」
相手は七銭しきゃァないのですから松という男が払いをして、表へ出て、やっと蔵前までまいりますと、
松「旦那ここは蔵前でございますが、叔父さんのおうちというのは」
客「オオもう来たかな」
松「来たかなじゃございません。吉原からここまで六時間ほどかかりましたよ。もう二時ですよ」
客「そうか、オイ見たまえ、向こうに総硝子戸《そうがらすど》張りで葬儀社としてあるだろう」
松「ヘエヘエ」
客「アレがオレの叔父のうちだよ。立派なものだろう。間口が六間あるがね、もっとも奥行きは二間半しきゃァないが」
松「あなたの叔父さんのうちはおとむらい屋でございますか」
客「そうだ、あすこにいるデップリ肥った人ね……アレが僕の叔父さんだ」
松「さようで、立派な方でございますな」
客「アレでなかなか粋なんだからね、今でも妾《めかけ》を三人囲ってあるんだ」
松「ヘエー、大したもので」
客「若い時には吉原の大門を十三度打ったもんだ」
松「ご冗談を……」
客「ところでおまえを連れて、叔父さんこんにちはこれは吉原から連れてきた馬ですといっても入れない。僕が先へ入って話をするから、おまえはここで待っててくんな」
松「かしこまりました」
ガラガラガラ、
客「こんちは」
○「いらっしゃいまし」
客「あんたが当家《こちら》のご主人で」
主「ヘエさようで」
客「じつはね、いま表に立っておりますアノ男の兄貴がゆうべ突然|卒中《そっちゅう》で死にましてね」
主「なるほど」
客「ところが若い時分から、素人相撲《しろうとずもう》の大関まで勤めたくらいの男で、身体が図抜けて大きいものですから、普通の早桶《はやおけ》じゃァとても入りきれませんので」
主「なるほど」
客「だから、小判形の大一番の早桶がいるのですが、おまえさんのほうですぐにできましょうか、出来合いがあるとまことに都合がいいんだけれど」
主「どうも小判形の大一番というような大きな早桶の出来合いなどはございません。しかし店にはこうして職人が大勢いるものですから、こしらえさせましょう。ナニじき出来ますよ」
客「そうですか、じゃァどうぞお願い申します。……オイオイここへ来な」
松「ヘエどうもありがとうございます」
客「今渡すというんじゃない。今ね、僕が叔父さんにうまく頼んだ。するとよしよし、すぐこしらえて渡してやるとこういうんだ。だからおまえ店へ入って待っていておくれ……。叔父さんこの男ですから、どうかこしらえて渡してやってください」
主「あなたでございますか、どうもご苦労さまでございます。じきにこしらえてさしあげますから、どうかこれへお掛けなすってお待ちくださいまし」
客「アアいってるから大丈夫だよ。おめえ待っていて受け取っておくれ」
松「よろしゅうございます」
お客はプイとどこかへ行ってしまった。
主「あなたどうもご苦労さまです。ただいまじきにこしらえてさしあげますから、どうか少しお待ちなすって、どうもとんだことでございました」
松「イエどういたしまして」
と話しているうちに小僧が二人であつらえの小判形早桶を持ってきた。
主「ヘエどうもおまちどうさまで、おあつらえの桶はこれでございます。どうぞお持ちなすって」
イヤ松という付馬、胆をつぶした。
松「これはなんでございます」
主「なんでございますといって、あなたのほうでおあつらえなすって小判形大一番の早桶ですよ」
松「エーッ……私はそんな物をあつらえやしません。私のいただいて帰るのは、昨夜の勘定でございます」
主「ナニ、昨夜の勘定だ」
松「ヘエ、じつは昨夜これこれで蔵前まで来てくれれば、義理ある叔父さんがいるから、そこで話をして金子をこしらえてやるとおっしゃいましたので、付いてまいりましたのですが、アレは当家さまの甥ごさんで」
主「冗談いっちゃァいけない。私にアンな小汚ない甥なんざァありやしないよ、しかし驚いたな、それじゃァおめえはアノ男に一杯食わされたのだよ」
松「ヘエー」
主「へーじゃない。だいたい付馬にでもなろうという者が、そんなまぬけでどうする。第一こんな大きな小判形の早桶なぞはうちへ置いても融通が利くものじゃァない。しかし訳を聞いてみれば気の毒だ、負けてやるから三円だけ置いていきなさい。オイみんな来て、この男にこの早桶を背負わせてやれ」
松「どうぞごめんなすって、こんな物をしょっては吉原へ行かれません。第一これまで来る道々でも立て替えさせられましたので、もう一文もございません」
主「なければ仕方がねえ、長松《ちょうまつ》てめえ吉原まで付馬に行け」
[解説]別の題を「早桶屋」という。支那の笑話を焼き直したものであるが、この付馬を材料にしたものは、ほかに「突き落とし」というのがある。勘定取りの若い衆をお歯黒溷《おはぐろどぶ》に突き落とすのだが、その時に相手の煙草入れを取って逃げるという話である。この「早桶屋」の題は逆さ落。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
たらちね
―――――――――――――――――
ご夫婦というものは出雲《いずも》の神様が縁結びをするのだといいますが、他人と他人とが一緒になって、血を分けた子供ができるという、こんな深い仲というものはない。親子は一世、夫婦は二世とか申しますが、出雲の神様が同胞《どうほう》一億というものの男女の縁を結ぶのでございます。
神が結ぶというくらいゆえ、ぜんたいしっかり結びそうなものだが、さて衝突をしはじめるとまことに困るもので、男女ともあの人は気質《きだて》がよくってまことに優しいから、親を大切《だいじ》にしてくれるだろうというので、身分を調べて、いいとなってこれをきめる、こういうのにまちがいがないかというと、きっとないというわけにはまいりません。しかし出来合いなぞでなく、正式に婚礼をしたのはどうしてもまちがいは少ないようで……、ちょっといい男だとか、いい女だとかいって、浮気で出来合ったのは、どうも長持ちがいたしません、器量というのは腹の中をいったものだそうで、容貌《かお》なぞはどうでもいいのでございます。
家主「オイどうしたんだな、おめえに耳よりの話を聞かせようと思って、呼びにやったのになにをしているんだ」
八「ヘエどうも遅くなって相すみません、ちょうど出ようとするところへ人が来たんで、つい出そこなっちまってまことにすみません」
家「マアこっちへあがんな」
八「ヘエここでなんでございます、エーどういうお話でございますか、これから仕事に出かけるんで」
家「ウム、仕事の邪魔をしちゃァ悪いが、マアこの長屋中に独身者《ひとりもの》も二三人あるが、どうも独身《ひとり》でいるとろくな行いをしねえ、中におまえだけは、年は一番若いが物が几帳面《きちょうめん》で、いうとおかしいが、人に満足にあいさつもできないような人間だけれども、まことに竹を割ったようなサックリとした気質で、俺もかねて目をつけていたんだ、昔からよくいうが、一人口は食えないが二人口は食えるという譬《たと》え、うちを切りまわす女房というものがなくてはならねえ、おめえがいくら堅くっても一人でいてクサクサすれば、たまにはフラフラと謀叛《むほん》が起こって、後でつまらねえことをしたと、悔やむようなこともあるだろう」
八「ヘエ、そういうこともないとはいわれません、けれども女房という奴がなかなか、こちとらみたような貧乏人のところへ来人《きて》がねえんでございます」
家「ところがある、先方《むこう》の女てえのは、ソレこの夏だッけな、うちの前へ涼み台を置くと、そこへおまえが湯の帰りに寄って腰を掛けた、その時いた女を覚えてるか」
八「イイエ覚えがありません」
家「もっとも薄暗かったが、そのとき先方が見て、長いあいだ窮屈のところへ奉公して、また嫁に行って、姑小姑《しゅうとこじゅうと》があって、窮屈の思いをするのはいやだ、気楽にさえ暮らせるなら、アアいうサックリした親切そうな方のところへ嫁に行きたいと、こういうんだが、どうだ、おめえもらう気はねえか」
八「ヘエ、けれどもマアどうにも貧乏で食うだけがやっとで、着せることもできませんから」
家「その心配には及ばない、着たきり雀というわけでもない。もっともあるというほどでもなかろうが、それでもマア夏冬の物に困るようなことはない。おまえが婿《むこ》になるというわけじゃァねえけれども、いわば持ち合い身上《しんしょう》、先方から六分持ってきて、おまえが四分出すという勘定だ、可哀想に両親に早く別れ人間がりこうで如才《じょさい》ないけれども、ただ困るなァ言葉が少し悪い、それだけがキズだ」
八「そのくらいなんでもねえじゃァございませんか、あっしはいずれそんな女だから、寝小便かなにかやりやしねえかと思っていましたが、そんなに言葉が|ぞんざい《ヽヽヽヽ》なんで」
家「そうじゃァない、言葉がていねいでいけない、大内《おおうち》へ奉公をしていたんだ」
八「ヘエー言葉が|ぞんざい《ヽヽヽヽ》だからていねいにしろというのは、むずかしいけれども、|ぞんざい《ヽヽヽヽ》のあっしと連れ添ってりゃァ、どんなていねいのものでも、すぐに悪いことは覚えるというから、ようございます」
家「じゃァ承知か」
八「ヘエ」
家「けれども親類とも相談して」
八「ナニ親類だって別にありゃァしません、伯父が一人ありますが、遠方にいるんだからかまやァしません」
家「それじゃァと……婆さん、暦《こよみ》を出しなさい、いい日を見てやるから……、ウム明日が悪くってあさってがよくないと、弱ったなァ善は急げ、早いほうがいいんだが」
八「その暦はいけねえから、隣家《となり》へ行って別の暦を借りてきましょう」
家「暦はどれもおんなじことだ、今日だとばかに良い日なんだ」
八「なおいいじゃァありませんか、そうすりゃァ、もう仕事に行くには少し遅くなって、半ちくだから、いっそ今日は休んじまいます」
家「そんならすぐ支度をして、時節柄《じせつがら》だ、物を略してな」
八「エエ、それは略しますけれども、なにしろきまりが悪いな、こっちはなにもねえんだから」
家「ないッたって、おめえだってうちに夜具《やぐ》布団《ぶとん》はあるだろう」
八「それはありますけれども、汚ねえんで」
家「汚ないのはおかみさんが来て洗濯をすればきれいになる、おまえが仕事にでる、おかみさんがうちで内職の一つもする、字もそうとうに書けるし女一通りのことはできる、この節|裁縫《しごと》なぞは内職ともいえないよ、今まで外へ出していたのをうちで縫って、別によその裁縫でもすれば、出入り大した利益だ、なにしろそれじゃァひとつ先方の都合も聞き合わせなけりゃァならない。婆さんや、ちょっと行って聞いてきてくれ、このところズーッと日が悪いんだが今日ならごくいいんだ、急のようだが先方さえよければ善は急げだ、今日やってしまおう、早く行ってきな」
八「どうもご苦労さまで、なんだか知らねえが、胸がドキドキしてきた」
家「すぐに婆さんが帰ってくるから、少し待ちなさい」
八「ヘエありがとう存じます」
お婆さんが出て行ったと思うと、すぐに帰ってきた。
家「どうしたい、エエ今日でけっこうだって、そうか、それじゃァきまった、そこで帰って少し掃除ぐれえして、おめえだって鬚《ひげ》だらけだ、髪結床《かみいどこ》へでも行って、ちっと小ぎれいにしていなけりゃァいかねえ、人間は心ひとつのものだからいいようなものだが、汚くしていちゃァいけない」
八「エエナニ掃除だって、ガサガサとほうきで一つ撫《な》でてしまやァそれでいいんだから、わけはありませんが、こっちへ来てから、こんなうちなら私はごめんをこうむるというようなことはありますまいか」
家「大丈夫、先方に否《いな》やはない、婆さんが念を押して聞いたら、早いほうがいいというくらいだ」
八「ヘエなるほど、へへへへどうもありがとうございます」
家「じゃァ晩がた行くからそれまでに……」
八「ヘエ掃除をしておきます、……オウお隣のおばさん」
婆「アラマア八《はっ》さん、仕事に行ったのだと思っていたらどうしたんだえ」
八「ナニ長屋におめでたがあるんだ」
婆「ヘエーちっとも知らなかった、なんだえおめでたてえのは」
八「お嫁さんが急に来るんだ」
婆「マアお嫁さんが来るなんて、噂も聞かなかったが、どこのうちへ」
八「私のところへ」
婆「なんだい長屋におめでただなんて」
八「へへ、なにしろマアおめでとうございます」
婆「アレ、こっちのいうことをいってる、いつ来るの」
八「今夜」
婆「今夜とはたいへんに早いねえ、今までなんの話もなかったのに」
八「ナニそれがね、アノ人でなけりゃァならねえとこういうんでね」
婆「およしよ、ばかばかしい」
八「けれどもさ、マアそういった勘定だ」
婆「ヘエー、それはどうもおめでとうございます」
八「ついちゃァおばさん、すまねえけれども後で煙草ぐらい買うが、うちを少しきれいに掃除してくれねえか、私ァ髪結床へ行って湯に入ってくるから」
婆「アアいいよ、マアけっこうだね、辛抱してお嫁さんをもらうようになったのはなによりだ」
八「ありがとうございます、へへへどうもすみません」
髪結床へ行き、湯に入り、スッカリ磨きあげて帰ってきてみると、ちゃんと掃除ができている。
八「おばさんありがとう、髪結床と湯に行ってきたあいだに、こんなにきれいになっちゃった、まだ日は暮れねえかしら」
婆「ばかァおいいでないよ、今しがた正午《ひる》じゃァないか」
八「なんだか知らねえが、たいへん日が長えね」
婆「今日は日が短い頂上だよ」
八「これで日の短《みじけ》え頂上かね、早く暮れねえかな」
婆「そんなに騒がないでも、少しぐずぐずしているうちには、すぐに暮れ方になるよ」
八「日が暮れさえすりゃァ、やって来るんだ、大家さんが媒酌人《なこうど》なんだが、ほんとうに親切な大家だ」
婆「なんだいこのあいだ不実の大家だの、わからずやの大家だのとさんざん悪くいってたくせに」
八「それはそうだけれども、こういうことをしてくれりゃァ親切だと思うんだ、そろそろ支度をしなけりゃァならねえ、おばさん火種はあるかね」
婆「あるよ、お湯は沸いてるだろう」
八「ナニ七輪《しちりん》へ火をおこすんだ……アアありがてえな、なにッていやがるんだろう、嫁が来て……言葉がていねいだというから、エーあなた、どうも平素《ふだん》からごようすがよくっておいでなさるとかなんとかいうかしら、竹《たけ》の野郎の女房はおかつというんだが、俺の女房はなんてんだろう、たまにはちょっと嫉妬喧嘩《やきもちけんか》もするが、じきに仲が直ってしまう、そこが夫婦だというが、その味をこっちは知らねえからな、膳を真ん中に置いて、八寸を四寸ずつ食う仲のよさというが、俺の箸《はし》は木で太《ふて》え、女房の箸は象牙《ぞうげ》で銀の股引きをはいてる、茶碗も俺のはばかに大きな輪形《わがた》のやつで箸が太いから飯を食うのにザクザクザク、たくあんの香物《こうこう》をバリバリとかじる、女房が小さい茶碗で銀の箸だから、チンチロリンのポリポリと来るだろう、俺がザクザクのバーリバリ、先方がチンチロリンのポーリポリ、ザークザクのバーリバリ、チンチロリンのポーリポリ、ザークザクのバーリバリ……」
婆「八さん騒々しいねえ、大きな声をしてなにをいってるんだい」
八「アッ、聞こえちまった、ハハハハマアこうだろうと思うんだ、勘弁しておくんなさい、すまねえけれども、しかしありがてえな、夫婦喧嘩もたまにはいいもんだよ、俺が少し仕事が遅くなって帰ってくる、おまえさんどうしたの、たいへんに遅いじゃァないか何かほかにお楽しみでもできて寄り道をして来たんだろう、なにをいやァがる、たといなにができようと、男の働きだ、いやなことをいやァがると、いきなりポカリッと張り倒すと、メソメソ泣くよ、おとなしいから、それが乱暴な奴だと泣かねえ、サア殺せ、こんちくしょうッてんで、立ちまわりがはじまる、隣りの婆ァは耳が近いからすぐに飛び出してきやがって、女だからきっと女房のほうの肩を持つ、そのうちに向こうの爺が出てきて、これはこっちの肩を持ってくれるにちげえねえ、けれども、なまじ人が入るとかえって喧嘩が大きくなる、サア殺すなら殺せ」
婆「八さん、どうしたんだね、誰と喧嘩をしているんだえ」
八「アハハハハハ、まだ喧嘩にゃァならねえ、稽古中《けいこちゅう》だ」
婆「喧嘩の稽古なんぞおしでないよ」
家「ハイごめんよ」
八「アア来た来た……ヘエ大家さんおいでなさいまし、いま七輪《しちりん》へなにを掛けたとこで、ヘエ」
家「マア静かにしろよ、婆さんが来られないから俺だけで連れてきた、支度はあとでいい、ホンの盃だけにしておいて、あとでゆっくり小鍋立てをするがいい、じつは今日考えてみたら無尽《むじん》の世話人でどうしてもちょっと顔を出さなければならねえんで、それから少し時刻を早めて来た、サアこっちへお入りお入り、ほかに誰もいやァしねえから、遠慮はいらねえ……オイなぜ彼方《むこう》を向いてるんだ」
八「ヘエ」
家「こっちへ来ねえか、盃の真似ごとをちょっとして……、なにをマゴマゴしているんだな、エエきまりが悪い、きまりが悪いって盃を早くしなくっちゃァいけねえ、サアいいか、万事略式だ……じゃァ俺がこれをお納めにする……、イヤおめでとう、あとは二人でゆっくり飲食《やる》がいい、長屋の近づきは明日婆さんに連れて歩かせるからな、ハイごめんよ」
八「アアちょっと待っておくんなさい、大家さん少し待っておくんなさい」
家「イヤ俺がいつまでいたってしようがない、また明日来る」
八「明日って、そりゃァいけねえ、ちょっと大家さん……アア行っちゃった、しようがねえなァ、弱ったなァこりゃァ、どうしていいんだかわかりゃァしねえ、ここにモジモジしているわけにもいかねえ……へへへ、ふしぎなご縁でへへなんでございます、どうかマアこんな人間でもなにぶんよろしくお頼み申します、ついてはねえ、まだ名前も知らねえんでございまして、あんまり急場のことだったもんだから、聞いとくのを忘れちまったんで、ヘエ、あなたの名前はなんというんでございましょうか、どうか聞かして、おもらい申してえんで、へへへ」
嫁「みずからの姓名を問いたもうや」
八「へへ、家主は清兵衛《せいべえ》と申しますんで、家主《おおや》の名前は知ってますが、どうかあなたのをひとつ……」
嫁「自らの姓名を問いたもうか」
八「ヘエ、さようでございます」
嫁「みずからことの姓名は、父は元|京都《きょうと》の産にして、姓は安藤《あんどう》名は慶三《けいぞう》、字《あざな》は五光《ごこう》、母は千代女《ちよじょ》と申せしが、三十三歳のおり、ある夜|丹頂《たんちょう》の鶴の夢見て孕《はら》めるがゆえに、たらちねの胎内をいでし時は鶴女《つるじょ》と申せしが、成長ののちこれを改め、清女《きよじょ》と申しはべるなり」
八「ハエーそれが名前ですかえ、どうも驚いたなァ、たいへんに長え名前だね、京都の者は気が長えというが、名も長えな、こいつァなかなか一度や二度聞いたって覚えきれねえ、すみませんがこれへ一つ書いておくんなせえ、あっしゃァ職人のことで、字が読めねえから、仮名《かな》でひとつお頼み申します、ヘエどうもまことにすみませんでございます」
嫁「仙菊仙檀《せんぎくせんだん》に入って学ばずんば、|キン《ヽヽ》たらんとす」
八「エー内職にゃァおもちゃの金太郎をこしらえるのが、割がようございますか、ヘエそうでございますか、どうもありがとう存じます……、アアすっかり仮名で書いてある、仮名ならマア拾い読みに読める、エーみずからァ、みずからことの姓名は、アー父は元京都の産にしてエー、姓は安藤、名は慶三、字は五光、母は千代女と申せしが、三十三歳の折、ある夜丹頂の鶴の夢見て孕めるがゆえに、たらちねの胎内をいでし時は、鶴女と申せしが〔読経の節〕成長ののちこれを改め、清女と申しはべるなりチーン、お経だなァこりゃァ、どうも驚いたな、俺が早出《はやで》居残りで、遅く帰《けえ》ってきて一ッ風呂|入《へえ》ってこようと思う時に、オウその手拭いを取ってくんねえにもたいへんだなァ、父は元京都の産にして姓は安藤、名は慶三、字は五光、母は千代女と申せしが、三十三歳の折、丹頂の鶴の夢見て孕めるがゆえに、たらちねの胎内をいでし時は鶴女と申せしが、成長ののちこれを改め清女と申しはべるなり、ちょっとその手拭いを取ってくんねえ……湯が抜けちまわァ、驚いたなこりゃァ、しかしマアお互いに習うより慣れろだ、毎日やってるうちにゃァどうにかなるだろう」
清「アーラ我が君……アーラ我が君」
八「アッ、アーラ我が君たァ私のことで……アーそうですかい、なんだね」
清「白米《しらげ》の所在はいずれなるや」
八「サア困ったなァ、私ァ今まで独身者でもずいぶんマメのほうで洗濯をよくしているから、虱《しらみ》なざァ一疋もいねえんで」
清「みずからの尋ねるシラゲとは白米のこと」
八「アア米のことか、アハハハそういちいち手をついて、アーラ我が君てえのは、よしておくんなせえ、夫婦の仲でなにも遠慮はねえんだから、そこにみかん箱がある、それがうちの米櫃《こめびつ》だから、どうかいいようにお頼み申します」
八さんはまたグッスリ寝てしまう、そのうちにご飯ができる、味噌があったから、それを摺《す》っておつゆをこしらえようとしたが、実がない、ところへ、商人《あきんど》が、
「|ねぎ《ヽヽ》や|ねぎ《ヽヽ》、岩槻《いわつき》|ねぎ《ヽヽ》や|ねぎ《ヽヽ》」
清「コレコレ門前に市をなす賤《しず》の男《おのこ》、男《おのこ》や男《おのこ》」
商「ヘエ、なんだか変な声を出したな、エエなんですえ」
清「そのほうがたずさえたる白根草《しらねぐさ》、一束《いちわ》何銭文なるや」
商「ヘエ、たいへん大風《おおふう》な女だな、白根草……アア根が白いから白根草か、ヘエこれでございますか」
清「一束|価《あたい》何銭文なるや」
商「ヘエ、お負け申して、エエ三十二文でございます」
清「ナニ三十二文とや、召すや召さぬや、我が君にうかがうあいだ、門前に控えておれ」
商「ハハア……、芝居がかりだ、門前は犬の糞だらけだ」
清「アーラ我が君」
八「いけねえなァ、うるさくって眠れねえ、後生だ、もうちっと寝かしてもらいてえ」
清「白根草一束価三十二文」
八「アア三十二文銭がいるのか、その火鉢の抽斗《ひきだし》にあるから出してかまわねえ、いちいち聞かねえでもいいから」
スッカリご飯の支度ができてから、容《かたち》を改め、
清「アーラ我が君」
八「オーヤオヤまた始まった、眠れねえや、今日はどうせ仕事は休みだからいいけれども、なんだい我が君」
清「もはや日も東天に出現ましませば、御衣《ぎょい》になって嗽手水《うがいちょうず》を遊ばされ、神前仏前に御灯火《みあかし》を捧げられ、ご飯召し上がられてしかるべう存じたてまつる恐惶謹言《きょうこうきんげん》」
八「なんだい、飯を食うのが恐惶謹言なら、酒を飲んだら、|よってくだんのごとし《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》か」
[解説]「たらちね」でやる人もあり、「たらちめ」でやる人もある。これはどっちでもいい。七輪をあおぎながら先々の連想をするところでやがて夫婦の仲に子供が生まれて、その子が五六才となり、仕事休みに夫婦して子供を連れて遊びに行くというところまで発展をさせる型がある。それは柳橋《やなぎばし》にいた円橘《えんきつ》の型で、今は円歌《えんか》君がこれをやっている。サゲの「よってくだんのごとし」を、「酒を飲んだら酔って管《くだ》をまくがごとしか」と昔はやったものだそうだ。女の言葉のばか丁寧なのが鼻についてついに離縁をする後日物語や、さらにまた女を殺してしまうと、その幽霊が出て「怨《うら》めしうはべる」といったので「あッ死んでもまだ直らねえ」とやった人もあるそうだ。恐惶謹言というのは「存じたてまつりそうろう」というのと同じで、「よってくだんのごとし」と最後に付けるのと変わらない。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
品川心中〔上〕 袴《はかま》
―――――――――――――――――
恋変じて無常となり無常変じて恋となるなぞといいますが、どうも無常変じて恋となるのは少ない、恋が一つ変じると必ず無常というやつになります。
あまりお若いうちにしげしげ色里にお運びになるのはためにならぬようで、結局には無分別《むふんべつ》を惹き起こしまして、いっそのこと女を殺して俺も死ぬなぞというのでついに無理《むり》心中《しんじゅう》という奴を思いつくのでございます。どうもそうなりますは、いわゆる魔という奴にとつかれるのでございます、よくゆけば情死ですが、やりそこないますとトンダ恥をかきます。
昔はこの花魁《おいらん》のほうから苦しまぎれに情死を吹っかけたりする奴があったもの、今とはちがいましてアノ廓《さと》には紋日《ものび》〔祝日など遊女に休みが許されなかった日。休むときは揚げ代を自分で負担しなければならなかった〕というやつがありまして、そのたびに金のことで苦しみますので、借金は殖《ふ》えるは客に頼んでおいても思うようにならない、と工夫が付かないからいっそのこと死んでしまおうなぞと、とんでもない考えを起こしたりなんかする奴がいくらもございました。
その昔|品川新宿《しながわしんじゅく》に白木屋《しろきや》という貸し屋敷がございましたが、そのうちにかなり売れっ妓《こ》でお染《そめ》というのがありました。その女がいま申しました紋日《ものび》前に差し詰まりまして、八方十方お客のところへ書面《てがみ》をやりましたがどうも金ができません、身の始末が付かなくなった。そうかといってご内所へ話をしても貸してくれず、モーいっそのこと死んでしまおう、けれどもこの場合に一人で死ねば紋日前の金に詰まって死んだといわれるのはくやしいから誰でもいいが熱くなって通ってくるおめでた野郎を情死の対手《あいて》に生け捕ろうと、玉帳《ぎょくちょう》を拡げまして、あれか、これかと調べてみると神田《かんだ》から来る本屋の金蔵《きんぞう》さんという方がある。この人は独身者《ひとりもの》でごくノンキでおめでたい。これがいい、これときめよう、こういうのを殺しておけば後のためにもなる、欲ばりで助平でケチで向こう見ずの始末のわるい奴だからこれに限る。大勢の客の中に撰《よ》り抜かれた奴は災難でございます。身の上のことについて少し相談したいことがあるからぜひ来てくれるようにと手紙を書いて、今なら郵便ですがその昔は使い屋さん、それに金蔵のところへ持たせてやりました。
金蔵は大よろこび、むやみにありがたがって相合《そうごう》をくずして使い屋へいくらかの物をやり嗽手水《うがいちょうず》をして独りニコニコ笑いながら手紙をひらいて読むと身の上のことについて相談したいというのですから、ハテナなんだろう、なにしろ行ってみなければならない、いろいろ算段をいたしましてすっかりめかしこんで品川へ行きました。女はどうかと思うところへ来たので待遇《もてなし》も別段でございます。
染「よく来てくれたネ、今夜は少し相談したいことがあるのだよ」
金「よし、心得た、どんな相談でも持ってきねえ、俺が引き受けた」
本人ばかに喜びましてお酒を取って飲んだり食ったりいたしておりますうちに、おりあしく二三人のお客が上がりました。
染「金ちゃん少しのあいだ先に寝て待っていておくれよ」
これから二三の廻しを取りに行く。後で金テキはグッスリ寝込んでしまう、真夜中ごろ目が覚めてみるとまだ相方《あいかた》が来ない、こうなると|中ッ腹《ちゅうっぱら》だ。
金「ばかにしていやァがる面白くもねえ、身の上のことについて相談があると人を招《よ》んでおきやァがって、なんの相談か知らねえがサッサと話をするがいいじゃァねえか、アーいやだいやだ、こうと知ったら来るんじゃァなかった、ほんとうにつまらねえ……」
愚痴をいっているとパタリパタリと草履の音が聞こえる、さては来たなと夜具を頭からかぶっていると部屋の前を行き過ぎてしまった。
金テキは夜具の中から首を出して、
金「なんだえ……たしかに来たと思うから夜具をかぶりゃァよその相方だ、よそへ相方の来るまで気をもんだりしちゃァ割に合わねえや」
愚痴をいっていると、パタリパタリ、今度は来たなと夜具をかぶると自分の部屋の前を通り越してしまう。
金「ばかにしていやァがる便所へ行くのだな、雪隠《せっちん》の世話までやかせられちゃァたまらねえや」
ブツブツいっているとパタリパタリ。
金「今度ァ来たナ、見やァがれ、さんざん人に気をもませやァがって、覚えていろ、向こうに気をもませてやるから、グー〔いびき〕……」
相方は障子をサラリと開けて、
染「アラよく眠《ね》ていることね」
金「くそを食らえ……」
染「ちょっとお起きヨ」
金「なにをいっていやァがる、いま時分来やァがって気の利いた化け物はとうに引っ込んでしまう時分だ」
染「オヤオヤこの人は寝言をいっているヨ」
金「あつかましいちきしょうだ、小言も寝言もわからない……」
染「ちょっと金ちゃんお起きよ」
金「グー……」
染「たいへんないびきだよこの人は……」
金「ばかにするな」
染「金ちゃん」
金「エーコー金ちゃん金ちゃんといやァがって、どこまでも人を甘く見ていやァがる」
染「こんな不実な人とは知らなかった……くやしい……」
金「こっちもくやしいや」
染「モー仕方がない、わたしだけ覚悟をしよう」
金「俺も俺だけで覚悟をしよう……べらぼうめ、いま時分顔を出しやァがって証文の出しおくれだ……」
いびきをかきながら夜具から首を出して向こうを見ますと、しきりに行燈《あんどん》のそばでなにやら手紙を書いているようです。いびきをかきながら這い出してきて覗き込みました。
染「おふざけでないよ、まだ酔っているよこの人は……冗談じゃァない、いびきをかきながら目をあいている奴があるものか、おふざけでないよ」
金「ふざけるなとは俺のほうでいうのだ、コーいやな真似をするナ面当《つらあ》てがましいことをするな」
染「誰が面当てがましいことをしたよ」
金「なにを……俺の枕元で手紙を書くんだ」
染「大きな声をしないでよ」
金「大きな声は俺の地声だ」
染「ほんとうに野暮な人だよ」
金「どうせ野暮だ、目の前で情夫《まぶ》へやる手紙を書かれるくらいだから」
染「情夫が他にあるくらいなら苦労はしないよ、おまえのところへ贈る手紙を書いているんだよ」
金「なにをいっていやァがる、ご本尊様がここにこうしているじゃァねエか」
染「サア手紙の宛名がちがっていたらどうともおしな」
金「あたりまえよ、てめえのほうで見せなくってもこっちで見ずにゃァいねえ、サァ出せ」
染「見るならごらんなさいよ」
金「早く出せ……」
手紙を取り上げて行燈《あんどん》を引き寄せ明かりをかき立て封をひらき、
金「なになに……書き置きのこと……オヤオヤなるほど、コイツは少しようすがちがう……一筆書き残しまいらせ候《そうろう》、かねて御前様もご存じの通りこの紋日には金子四十両なければ行き立ち申さず、他に談合いたすものも鳴くに鳴かれぬ鶯《うぐいす》の身はままならぬ籠の鳥、ホー法華経までお隠し申し候えども、もはやかない申さず今宵かぎり自害いたして相果て申し候間《そろあいだ》……オヤオヤ……もしわたしのことを不憫《ふびん》と思い出だされ候《そうら》えば、折節のご回向《えこう》を他のなにより嬉しく成仏つかまつり候、他に迷いはござなく候えどもわたし亡きあとはおかみさまをお持ちなされ候かとそれのみ心にかかり候、おまえさま百年のご寿命過ぎてののちあの世にてお目もじいたし候をなによりの楽しみにいたしおり候、まだ申したきは死出の山ほどもおわし候えども心|急《せ》くまま惜しき筆止めあらあらかしく染より金様まいる……オイこういうことがあるなら一応話をするがいいじゃァねエか」
染「おまえに相談しようと思ってもグウグウ眠っているじゃないか」
金「それがその眠っているような起きているような妙な眠り方をしていたんだが、オイ四十両ばかりの端金《はしたがね》で死ぬには及ばねエ、金で済むならなんにでもしようじゃァねえか」
染「ほんとうにうれしいこと……どうにかするの」
金「ならなくってよ、四十両ばかりの金だもの、しかしチット足りねえと思うのだが」
染「足りないといって、少しぐらいなら金さん私がなんとかするけれども、いったいどのくらいできるの」
金「そうさ、一両二分ぐらいで間に合わねえか」
染「おふざけでない、四十両のところへ一両二分ぐらいのお金がなんになるものかね、いいよどうせわたしは死ぬのだから可哀そうと思ったらね、思い出した時に線香の一本も上げてちょうだいな、これがこの世でおまえさんの顔の見納めだよ」
金「ふざけちゃァいけねえ、おまえが死んでしまっては後に残った俺がつまらねえじゃァねえか、死ぬなら一緒に死のう」
染「金さんわたしのようなばかは本当にするよ」
金「ほんとうに死ぬよ、嘘だと思うなら手つけに目をまわさァ……」
ヒドイ奴があるもの。
金「死ぬには死ぬように二人が白無垢《しろむく》を着て死のうじゃァねえか、二人覚悟の情死といわれ、のちに浮き名の残るようにしよう、今夜死ななければならねえという理由《わけ》もあるめえ、明日の晩死ぬことにしよう、うちへ帰って仕度をしてくるから」
染「ほんとうにうれしいこと」
その晩、腕によりをかけて勤められたからたまりません、翌朝帰りがけに道具屋を呼んできましてもとより独身者でございますから誰もかれこれいうものはなし、うちにあった物を残らず売ってしまい、空店《あきだな》同様にしてこれから白無垢を二枚買うつもりでございますが、少しお金が足りなかったので女物だけは満足な物を買い、自分のは腰から下のない羽織の胴裏《どううら》みたいな物を買い、猫の飛びつきそうな赤イワシの短刀を買って、暇乞《いとまご》いに親分のところへぼんやりやって来ました。
金「おはようございます」
親「誰だえ」
金「おはようございます」
親「掃除屋か、いま時分来ておはようございますというのは」
金「オヤオヤこう臭気《くさみ》が着いているようじゃァ往生だ」
親「誰だ、なにをいっているんだ」
金「おはようございます」
親「金蔵かえ」
金「金蔵でございます」
親「ぼんやりしているぜ、冗談じゃァねえ、なんだ大きな包みをしょっていやァがって、マアこっちへあがれ」
金「ヘエ」
親「ヘエじゃァねえ、先日《こないだ》からてめえに会ったら意見をしようと思っていたんだ、つまらねえ女に熱くなっているそうだが、よしねえヨ、もしこの紋日|前《めえ》に金に詰まって無理心中でも仕かけられたらどうする心算《つもり》だ」
金「うまく当たった」
親「なんだと」
金「ナニ……そのなんでございます、少し都合を悪くいたしまして……」
親「そうだろう、ろくろく稼ぎもしねえで年中女郎買いばかりしているのだもの、てめえの富裕《らく》な気づけえはねえ」
金「ヘエ田舎にひとツ行ってまいります」
親「田舎といってどっちへ行くのだ」
金「西のほうへまいります」
親「目的《めあて》があって行くのだろうが、いつごろ帰《けえ》るつもりだ」
金「来年の七月十三日に帰ってまいります、どうぞお迎い火をたくさんお焚きなすって……」
親「いやなことをいうな、来年の七月十三日と日を極《き》って行くようじゃァ里数《みちのり》はよほどあるようだな」
金「人の噂で、なんでも十万億土とか申します……」
親「冗談じゃァねえ、殴るヨはっきりしろヨ……ただ西のほうじゃァわからねえどこだ」
金「西方阿弥陀仏《せいほうあみだぶつ》……」
親「オイ、金蔵、駈け出す奴もねえもんだァ、アノ野郎どうかしているぜ」
女「ちょいと……水瓶《みずがめ》の上に、こんな短刀を置いて行きましたよ」
親「そうか……たいげえ犬|脅《おど》しのために持っていたんだろう、うっちゃっておきねえ」
親分のほうでそのままにしておきましたが、金さんのほうはその日|朋友《ともだち》のところへそれとなく暇乞いに行き、妙なことをいって歩いております。日の暮れ方に品川へまいりました。女はもう来るかと首を長くしているところへ来たのだから、
染「よく来ておくれだネ」
とこれからお約束の酒肴のあつらえ物をドンドン取って、もうこれが別れだというので飲んだり食ったりして、
金「サア勘定が足りなければ馬でもなんでも付けろ、地獄へ一緒に連れて行ってやるから」
染「なにをいうんだヨ」
金「なんでもかまわねえ、なんせ行きがけの駄賃だ……」
相方は気を揉みだした、もしこいつの口から露見《あらわれ》ちゃァたいへんだと思いますから、
染「サア金さんいい加減にお酒をよして寝ておしまいヨ」
とヘベレケに酔っぱらっている金蔵を寝かしてしまった。トタンに二三の客が登楼《あがっ》て来ましたのでその廻しを済まして真夜中ごろに来てみると、高いびきで寝ております。
染「ちょっと金ちゃんお起きよ、よく眠るじゃないか、チョイト金ちゃん」
金「アーもう夜が明けたのか」
染「夜が明けちゃァいけないよ」
金「ふざけなさんな、夜中に追い出されてたまるものか、高輪《たかなわ》のところに悪い犬がいて、先日の朝早く帰《けえ》ったら犬に取り巻かれてひどい目にあった」
染「なにをいうんだネ、しっかりしておくれ、冗談じゃァないおまえ忘れたのかえ」
金「なにを……」
染「今夜死ぬんじゃァないか」
金「なるほどちげえねえ、そうそう……すっかり忘れてしまった、一寝入りして起きたらいやな心持ちになった、どうだい二三日死ぬのは延ばすわけにはいかねえか」
染「それじゃァおまえは心変わりかえ」
金「ばかをいえ、俺も死ぬ気で来たのだ、その包みの中を見ねえ」
染「オヤ立派な白無垢があるねえ」
金「これがおめえので、コイツが俺のだ」
染「金さんおまえのは腰から下がないじゃァないか」
金「ご改革ついでのお取り払いだ」
染「なにか死ぬものを持ってきたかえ」
金「死ぬものを……サアたいへん短刀を買ってきたが、親分のうちへ暇乞いに行って水瓶の上へのせて忘れてしまった」
染「こういうことがあるかと虫が知らしたか、スッカリ昼間のうちに剃刀《かみそり》を研がしておいたが、金さん死ぬには剃刀にかぎるよ」
金「オイ、待ちなヨ、危ない……剃刀はいけない、刃の薄いもので斬った奴は療治がしにくいというから」
染「おふざけでないよ、いまさらそんなことを言っちゃァ困るじゃァないか」
金「デも剃刀はいけない」
染「剃刀がいけないなら、わたしが独りで死んでみせよう、人に恨みがあるものかないものか、わたしがここで死ぬ代わり、三日と過ぎないうちに取り殺してみせるから」
金「マア待ちねえ……死ぬよ、死ぬことは死ぬが剃刀はいけねえ、こうしよう、部屋にいって木綿針を五十本ばかり持ってきねエ、その五十本の針で二人が脈所《みゃくどこ》を突つき合っていたら死ぬるだろう」
染「おふざけでないよ、凍傷《しもやけ》の血を取るんじゃァあるまいし……」
金「といって松の木へぶら下がるのもあんまり気が利いたもんじゃァねえ」
染「それじゃァおまえ心変わりをしたのかえ」
金「ソンナことはありゃァしねえ」
染「それでは一緒に裏まで来ておくれ」
金「行くよ……行きますよ」
野郎ベソをかいております。女に急き立てられて裏ばしごを下りて来ました。音のしないように庭に出まして飛び石を伝わって来る。柵矢来《さくやらい》になっておりまして垣根が囲って木戸には錠が下りているのですからなかなか開きません。けれども一生懸命こうなると女のほうが度胸がすわっております。袂《たもと》を錠の上へのせて置いてグイとひねると汐風で腐っていたかそれとも壺《つぼ》がゆるんでいたかポキリと取れたので、これ幸いと木戸をあけて出ると前はモー海でございます、雨気《あまけ》を含んでいるとみえて空は一円に曇っております。ことに上げ端《ばな》というのですからドブンと来る水は岸を洗ってものすごいよう。
染「サア金さん死ぬんだよ」
金「オイ冗談じゃァねえ、ここへ飛び込むのか」
染「ズット前へお出よ」
金「驚いたな……久しい以前に|占い者《うらないしゃ》がそういったよ、おまえは水難の相があるッて……」
染「いまさらそんなことをいったってしようがないよ」
金「どうも驚いた」
度胸のない奴ですから泣き声を出しております。トタンに座敷のほうで、
○「お染さんエー」
二声三声聞こえましたので見つけられてはたいへんと金蔵の後方《うしろ》にまわって透かしてみると、ガタガタ爪先がふるえております。腰のところへ手をかけておいて、
染「金さんおまえばかりは殺しやァしない、堪忍しておくれ」
ドンともろに突かれたから奴さんドブンと飛び込んだ。女も続いて飛び込もうとすると、
男「お染さんお待ちなさい……」
染「どうぞ恥をかかしておくれでない、見逃しておくんなさい、どうぞ殺して……」
男「マアお待ちなさい……つまらねえことをするじゃァありませんか、たいがい物日前《ものびまえ》にお金ができねえでコンナ無分別をするんでしょう、お金ができたから死ぬのはおよしなさい……」
染「ほんとうに……」
男「誰が嘘をつくもんですか、番町《ばんちょう》の旦那が持ってきました、どうか早く当人に手渡しをして喜ぶ顔が見たい、しかも十両余計に五十両のお金ができて旦那が懐中《ふところ》に入れてさっきから待っておりますよ」
染「オヤそう……しかしとんでもないことをしてしまったよ、モー一足早ければこんなことをするんじゃァなかったんだが、ヒョイと押すと金さんが飛び込んでしまったよ」
男「ようございます、知っているのはおまえさんと私ばかりだ、黙っていれば知れる気づかいはございません」
染「それでも永年の懇意《こんい》だもの」
男「勘定ができないで居死《いのこり》をしていたが、とうとう飛び込んで死んだといえば、なんの仔細《しさい》もありゃァしません」
染「それでもね……ちょいと金さん……どこに流されてしまったんだよ……世話をやかせずにおあがんなさいよ」
男「ふざけちゃァいけない」
染「ぜんたいあの人がフラフラしているんだもの、チョイと押したら飛び込んでしまったのだよ、しかしお金ができてみると死ぬのは無駄だね……ちょっと金さん、ただ今までながなが失礼……」
このくらい世の中に失礼なものはありゃァしません。金公は驚いた、泡をくい、汐をくい、面くらい、四苦八苦の苦しみをいたしましたが、ご案内の通り品川の海は遠浅でございます。横になって汐をくったのですからどのくらい水を飲んだか知れませんが、ガバガバやりながら立ち上がると腰ッきりしか水がございません。
金「ちくしょうめ……ながなが失礼もねえもんだ」
くやしがったが仕方がない、これからガバガバ川岸に従って高輪の崖に這い上がりました。昔のことで駕夫《かごや》が暁《あけ》を担《かつ》ごうというので寝ぼけまなこを開いてみると腰から下は真っ黒で上のほうが白い、おまけに顔のところへ血が流れております。駕夫は驚いてワッというと逃げ出した。金蔵さん駕がそこにあっても担ぎ人《て》がないので駕のまわりをグルグルまわっている間にワンワンと吠えついてきた犬、金蔵さんむやみに逃げ出すと犬も続いて追い駈けてくる、芝《しば》まで来るとまた別の犬が出てくる……トウトウ犬の町内送りになるような始末、自分のうちは前《せん》申したような次第で空家同様でございますから親分のうちへまいりました。ところがこっちは若い者を集めてお鳥目《ちょうもく》を賭けてけしからんことをしていたのでございますが、にわかにワンワン吠える犬……、
親「静かにしねえ、ひどく表で犬が吠えるから」
といっているとたんにドンドンとあわただしく戸をたたいたので、そのうちの一人が「手がはいった」とどなったから総立ちになる。ろうそくをひっくりかえす。これを幸いに場銭《ばせん》をさらう奴なぞがあり、うちはたいへんな騒ぎでございます。
親「静かにしねえ、大家《おおや》さんにちげえねえ……ヘエただいま開けます、はげしくたたいちゃァいけない、大家さんがいきなりにたたいたのでうちの奴ら寝ぼけやがってアノ騒ぎでございます、オイ静かにしねえ、誰だえ金盥《かなだらい》をかぶって駈け出すのは……なにしろ真っ暗じゃしようがねえ……アッ痛え……誰か俺の頭を踏んづけやァがったな、人の頭を踏み台にする奴もないもんだ……アノちょっとなにを貸しねえ……アレを……」
○「暗闇で手真似をしても見えない、なにを貸すんです」
親「なんだ火打箱《ひうちばこ》だよ……あったあった……チットモ火が出ねえ、なんだえ餅のかけらがはいっているじゃァねえか、どうりでたたいても火が出ねえと思った……」
ようやくのことで灯火《あかり》をつけました。
親「オイろうそくを出しねえ……しようがねえな夜が更けたから大きな声を出すなといったのに、少しも考えねえからこんなことになるんだ、大家さんただいま開けますヨ……」
ろうそくをつけてガラリと戸を開けてみると、変な姿でぼんやり金蔵が立っております。親分は肝《きも》をつぶして、
親「誰か来てくれ、妙な奴が表に立っている」
金「ヘエ親分こんばんは」
親「アッびっくりした、てめえは金蔵じゃァねえか、なんだってソンナ態《なり》をしていやァがる」
金「ヘエ品川で情死のしそこない」
親「ソレみやァがれ、今朝いわねえことじゃァねえ、アレほど意見をしたのに聞かずに出て行きやァがって、女を殺しててめえが助かってきてどうするんだ」
金「ナニ女は助かったので、こっちが死にそこなったんで」
親「ばか野郎……マアあがるのは少し待て足が汚れているだろう……みんな騒ぎなさんな金蔵が来たんだよ……手桶に水を持ってきてくれ……」
金「寒くっていけねえ」
親「寒いのはてめえの心がらだ、サアこの水できれいに身体を洗え、本当にてめえくらいばかはねえ……オイたいそう煤《すす》が落ちるが誰だえ梁《はり》の上にあがっているのは」
△「私です」
親「てめえか、さっき俺の頭を踏み台にしてそこへあがったのは」
△「エ、一生懸命に上がりは上がったが安心したら降りられねえ」
親「降りられねえところへあがる奴があるか、誰か梯子《はしご》を持ってきてくれ冗談じゃァねえ、始末がつかねえナ……オイ誰だえその鼠入不《ねずみいらず》へ身体を半分つッ込んでいるのは、なに定《さだ》の野郎だ……早くこっちへ来い、アレてめえ佃煮をみんな食ってしまったな」
定「腹をこしらえようと思って」
親「あきれた野郎だ」
定「ついでに酒を飲もうと思ったらばかに塩からい」
親「それは酒じゃねえ醤油だ」
定「そうか|しょうゆう《ヽヽヽヽヽ》こととは知らなかった」
親「ふざけるなトンチキめ……オイ竃《へっつい》の中へ首を突っ込んでいるのは清兵衛《せいべえ》さんか、ナニ……頭が出ねえ……仕方がねえ茶釜を取って出してやれ……誰だい、ぬかみそをかきまわすのは……なんだと、ぬかみそへおっこった、しようがねえな、サッサと上がれ……ハテナ今度はぬかみその匂いじゃァない……便所《はばかり》をどうかしたか」
○「ヤーおっこったおっこった」
親「オイオイそのままであがって来ちゃァいけねえ」
○「あがって来た、あがって来た」
親「しようがねえな、しかしみんな伝兵衛《でんべえ》さんを見ろよ、さすがにお武家様だ、この騒ぎにビクともせずちゃんと座っておいでなさる」
伝「イヤお誉《ほ》めなさるな、とっくに腰が抜けております」
[解説]この噺は以前は一席でやったものを、今は二席に分けて、「上」だけを多くやっている。「上」の心中の件を物語にして、「下」の頭につけてやる人もある。いずれにしてもこの「上」には、落ちらしい落ちはない。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
品川心中〔下〕 仕返し
―――――――――――――――――
親分に尋ねられて金蔵《きんぞう》が、一部始終をスッカリ物語ると、
親「ウーム、ひどい奴があるものだな、そんならおめえ、すぐその時にあばれ込みゃァいいのに」
金「それがねえ、横手の崖からあがったことはあがったけれども、大台物を五枚取って飲んだり食ったりした勘定をする金が百もねえんで、我慢をして帰ってきましたが、女はたぶん私が死んだと思ってますよ……」
親「ウームどうもいまいましいなァ、こいつァひとつ狂言を書いて、その女に仕返《しけえ》しをしてやろうじゃァねえか、あまり癪にさわるから」
金「ヘエそりゃァどうするんで」
親「どうするって、これからな、夜食を食わずに大引《おおび》け時分に腹をへらして出かけるんだ」
金「ヘエ」
親「マアおめえが先へ行って登《あが》る、女に遇《あ》って、アノ時いったん死んだとこういうんだ」
金「ヘエ」
親「マア、先方でも死んだと思ってるところだから、死んで極楽へ一人で行くと、金蔵金蔵と呼ばれたんでヒョイと振り返るとたんに蘇生《いきかえ》った、まだ蘇生《いきかえり》たてのホヤホヤだって、いろんな縁起の悪いことをいって、あまり物をムシャムシャ食わずに、わずかの間だから我慢をして、たいがいのところでおめえ、心持ちが悪いから、寝てしまおうといって寝るんだ、それがおめえの役だ、いいか、そうしておめえが戒名《かいみょう》を一枚書いて懐《ふところ》へ入れてるんだ……そこで、民公《たみこう》民公、ちょっとここへ来ねえ、おめえご苦労だがあんまりそのおそめてえ女が癪にさわるから、そいつを坊主にしてやろうというんだが、それでおめえは金公の弟になって行き、そのおそめという女に遇って、金公が死んだということをいうんだ」
金「ヘエ」
親「おめえは女の顔を見たら、ただベソベソ泣いてるそれが役だ、いいか、それからオレが取り交わした起請《きしょう》を出しねえとこういったら、懐中《ふところ》から起請を出すんだ、戒名を出せというと、おめえがわざと懐中《ふところ》を探してみて、戒名をなくしてしまった、落としたか知らんと、マゴマゴするんだ、いいか。それで金公、オレが女に遇って、おめえが死んだというと、女が死にゃァしない、金さんは今夜来ている、死んだ者が来るわけがない、ナーニ死んだにちがいねえ、そんなら見せようといって、キッとおめえの寝ているところへ連れて行くだろう、そのゴタゴタしている間に、おめえは布団から抜け出して、戒名だけ残して、どこかへ隠れてるんだ、女はおめえが寝ていると思うから、オレたちに見せようと思って、部屋へ連れてって、屏風を開けてみると寝ていたおめえがいなくなって、戒名がある、こいつァきっと驚くだろう、先方《むこう》には覚えがあるからどうしたらよかろうという奴を捉《つか》めえて、てめえが金公をだまして、金公が正直だから、死んでしまった、このままてめえが澄ましていりゃァ、執《と》り殺されると嚇《おど》かしてやるんだ、それはたいへんだ、どうしようといったら、しようがないから、髪を切ってそれを寺へ納めたら金公も浮かぶだろう、そういやァきっと髪を切る、切ったらオレがポンポンと手を打つから、おめえがそれへ出るんだ」
金「ようございます」
それからチャンと支度をして、金公はお夜食も食べず、大引け時分に腹をへらして、ボンヤリ品川|新宿《しんじゅく》の白木屋《しろきや》の店先へ来ると、ちょうど清《せい》どんという若い衆が、二階からトントンと降りてきて、下駄をはいて外へ出ようという鼻先へ、金公がヌッと顔を出したから、若い衆は驚いた。
清「オヤッ金さん」
金「清どんか、まことにしばらく……」
清「あなたどうなさいました」
金「おそめさんはいますか」
清「アアおいででございます」
金「少しお目にかかって言いたいことがあるから、今夜はごやっかいになります」
清「どうぞおあがんなすって、お客さま……、ヘエこちらへ……、おそめさん、おそめさん、ちょっとお顔を……」
そめ「アイ」
清「アノ金さんが来ましたよ」
そめ「なにをいってるんだよ、冗談じゃァない、裏へ飛び込んであれッきりになったじゃァないか、死んだ者が来るもんかね」
清「それが来ましたよ」
そめ「ほんとう?」
清「嘘なんかつきゃァしません、いま煙草を買おうと思って、店へ出るととつぜん鼻先きへ、ニューッ……」
そめ「アラいやだよ、幽霊かえ」
清「そうですねえ、それがはっきりわからないんで、なんだか青い顔をして、おそめさんはいますかというから、おいでなさいますというと、いるならお目にかかって、少し言いたいことがあるから、今夜はごやっかいになるといっておあがりになりました」
そめ「いやだよいやだよ、足があったかえ」
清「それがツイ気がつきません」
そめ「たいへんだねえ、どうしたんだろう」
清「ともかくもあなたおいでなさい」
そめ「いやだよ私は」
清「いやだってしようがありません」
そめ「じゃァ清どん、おまえうしろをしっかり押さえていておくれ、私がキャッといったらひっぱっておくれよ」
清「よろしゅうございます、サアおいでなさい」
そめ「行くから、そうお押しでないよ」
清「押しやァしません、おまえさんがうしろへ退《さが》るんで」
そめ「清どん、うしろを押さえながらおふるえでないよ」
清「私ァふるえやァしません」
そめ「しっかり、いいかい、……アラマア金ちゃんしばらく、マアほんとうに清どん金ちゃんだよ、マアわたしゃほんとうにおまえさんがあれッきりになって、もう死んじまったかと思って、アノ晩を命日にして毎日のお題目を唱えてるの、生きてるなら早く来てくれればいいに……」
金「マアおそめさん、こっちへお入り」
そめ「ハイ」
金「おそめさん、じつは私は死んだんだよ」
そめ「アラマアやっぱり死んだの」
金「十万億土という暗いところをスタスタ行くと、金蔵金蔵と大勢で呼ぶ声がするんで、どこで呼ぶのかと、その声を知るべに、だんだんあとへ帰ってくると、真っ暗なところがだんだん明るくなる、オヤと思ううちに生き返ったんで、いま生きたてのホヤホヤだ」
そめ「マアよかったねえほんとうに、じゃァこうしよう、今夜はいろいろ話すことや聞くこともあるから、私が台の物を取ってあげよう」
金「それがもういったん死ぬと人間は意気地のねえもんで、腥物《なまぐさもの》はちっとも食べられない」
そめ「アラそう、精進物《しょうじんもの》ならいいだろう」
金「そんならまことにすまないけれどもお団子を少し」
そめ「いやだよマア、お団子は餡《あん》かえ焼き団子かえ」
金「白団子がいい」
そめ「いやなことをお言いでない」
金「ここにある花やなにかはなくしちまって樒《しきみ》を一本……」
そめ「おふざけでないよ、なにか甘い物を少し取ろう、きんとんは食べないかえ」
金「もう、なにも食べたくない、なんだか私ァ心持ちが悪いから、寝るよ」
そめ「アアそう、それじゃァおやすみなさい……」
金蔵を寝かしてしまう、入れ代わって来たのは親分と民公という男でございます。
親「オオ、民公民公、白木屋はここだな」
民「若い衆に聞いてみましょう」
男「いらっしゃいまし」
親「オオ若い衆さん、聞くのも体裁《きまり》が悪いがね、新宿の白木屋というなァどこだえ」
男「白木屋は手前どもで」
親「そうか、どうだ民公奇態なものだ、仏が導くんだなァ」
民「そうですねえ」
親「おまえさんとこになにか、おそめさんという女郎衆がいるかえ」
男「ヘエおります」
親「遅くなって気の毒だが、二人やっかいになるぜ」
男「ヘエ、お登《あが》りなるよ……どうぞこちらへ……、エーお初会《しょかい》さまでいらっしゃいますか」
親「初会だが、マアそりゃァ後にして、少し聞きてえことがあるから、ちょっと遇いてえもんだ」
男「ヘエかしこまりました、おそめさん、おそめさんえ」
そめ「なんだい」
男「初会のお客さまがお二人で、あなたにちょっとお目にかかりたいって、引き付け部屋にお待ちですよ」
そめ「……そう……オヤいらっしゃい」
親「おまえがおそめさんかえ」
そめ「ハイそめでございます」
親「こっちへお入りお入り、あとを閉めて……」
そめ「ハイ、なんでございます」
親「マア初めてお目にかかって、こんなことをいうのもいやだが、いわなければ話がわからないからいうが……、オイ民公、縁あってあにきのかみさんになったのはこの人だよ」
民「そうでございますか、初めてお目にかかります、私はなんでございますが、あにきがとんだことになりまして……」
親「オイオイ泣きなさんな、泣いたところで死んだ者が生き返るわけでもねえ、この男がおめえさんの顔を見てメソメソ泣いてるから、ばかか狂人《きちげえ》かと思うか知らねえが、話をしなけりゃァわからねえ、こういうわけだ、おめえさんのところへ神田《かんだ》の大工で金蔵という男が深くなって、通い詰めて夫婦約束をして、起請まで取り交わしたそうだが、ほんとうですかい」
そめ「ハアほんとう」
親「アノ金公がね、どうしたんだか、酒も飲まねえ男だが、土左衛門《どざえもん》になっちまったんだ、それがこの男のうちの表に神田川《かんだがわ》から続いてる小さい川がある、その河岸へ着いたんだ」
そめ「ヘエー」
親「それからね、マアみんなびっくりして、死骸を引き揚げてみると、ふしぎなことに、身体に付いてるものは残らず流れてしまった中に、おまえさんが書いた起請だけが、ピッタリと肌に付いているんだ」
そめ「ヘエー」
親「どうも驚いたね、みんなふしぎだといってるんだが、おおかたこれは死ぬ時に野郎がおめえさんのことを思って死んだんだろう、まだこのことをおめえさんが知るまいから、その起請と戒名をおめえさんのところへ持ってきて話をしたら、おまえさんも可哀相だと思って、お題目なり念仏なり唱えてくれるだろう、そうすりゃァ金蔵も浮かぶだろうというんで、さっそく私が来ようと思ったんだが、いろいろ用があるんで遅くなったが、今夜はちょっと暇があったからやって来たんだ、アノなにを出しねえ、起請を……、おそめさんこの起請はおめえさんが書いて金蔵にやったんだろう」
そめ「アアそう」
親「ナニ、戒名出しねえ」
民「戒名……オヤオヤありませんぜ」
親「なにをいってるんだ、ありませんというなァおかしいじゃァねえか、戒名と起請をこの人のところへ持って行こうと、おめえがたしかに懐へ入れた、途中で鼻でもかんじまやァしないか」
民「とんだことで、ほかの物とちがって戒名で鼻をかむ気づかいはございません」
親「ダッテ起請があって、戒名がねえというなァおかしいじゃァねえか、どうも妙だな、これは」
そめ「およしなさいよ、おめえさんたちは何をくだらないことをいってるんです、ばかばかしいじゃァありませんか」
親「なにがばかばかしい」
そめ「なにがってつまらない洒落《しゃれ》をするもんじゃァありませんよ」
親「なんだ洒落というなァ」
そめ「なんだもないもんで、そんなことは金さんが来ない晩に来ていえば、私だって少しは覚えがあるから驚きもしますが、お気の毒さま、今夜は金さんが久しぶりで来て、チャンと下の部屋に寝てるんですよ」
親「エーッ、金公が来た、それだっておそめさん、死んだ者がおめえのところへ来るわけがねえ」
そめ「わけがあってもなくってもチャンと今寝ていますよ」
親「ほんとうかえ」
そめ「ほんとうかって、いやですよ、くだらない洒落を言っては……」
親「ほんとうに死んだ者がべらぼうめえ、来る奴があるもんか、大の男がわざわざ二人知らせに来て、だまされてノコノコ帰《けえ》れるものじゃァねえ」
そめ「そんなに疑《うたぐ》るなら行ってごらんなさいな、金さんの寝ているところへ……」
親「行ってみよう」
そめ「サア来てごらんなさい……、ちょっと金さん開けますよ、蚊帳《かや》が釣ってあるけれども見えましょう、ちょっと金さん……アッ……」
親「どうしたいるかえ」
そめ「オヤオヤ、オヤオヤ、いつの間にか金さんがこんなものになっちまってるわ」
親「ナニナニ、エッ養空食傷信士《ようくうしょくしょうしんし》……、アァ戒名だ」
そめ「アラマアいやだ、私どうしたらいいんだろう……」
親「オオお待ちお待ち、なにも慄《ふる》えて泣くことはねえ、初めからおめえが金公のために泣くような了簡《りょうけん》なら、こんなことにゃァならねえ、おめえは借金のために金公と心中しようといって、そうしてあいつを先へ殺しておめえが金ができたからといって死ぬのを止してよ、それもどこかへ鞍替《くらが》えでもすりゃァともかく、ズウズウしくここに商売している、それじゃァ金公が行くところへ行かれなかろうじゃァねえか、どんなばかな野郎だってこりゃァくやしいにちげえねえ、あいつが気がみじけえ奴なら、とうに化けて出るが、あいつは根が柔順《おとな》しいので、今までなんともなかったが、もう幽霊が出始めたらたまらねえ、これから幽霊が毎晩出て、おめえをジリジリジリ責めて責め殺すぜ」
そめ「アラたいへんなことになっちまった、そんなわけじゃァなかったんだけれども……」
親「そんなわけじゃァなかったってしようがねえ」
そめ「マア、どうしたらよかろうね」
親「どうしたってしようがねえ」
そめ「どうか助けると思って教えておくんなさいよ」
親「そうさ、ほかにしようがねえ、……じゃァこうしねえ、髪の毛を切んねえ、髪の毛を切ってそうして金を三円でも五円でも付けて寺へ納めて、お経を上げてもらいねえ、そうすると金公が出てもお題目の勢いで、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経といえば、ノコノコ引き退《さが》ってしまう、それよりほかにしようがねえ」
そめ「そんなら少し待っておくんなさい」
と剃刀《かみそり》を出してまいりまして、
そめ「ほんとうにたいへんなことになっちまった」
ブツリバラバラ、
そめ「サアこれでようございますか」
親「アッ切った……オイ金公金公」
金「オオ」と答えて金蔵ノコノコと出てきた。
そめ「アラいやだよいやだよ、冗談じゃァない、マアどうもちくしょうめ、ちくしょうめ、金さん生きてるじゃァないか、ほんとうにいやだよいやだよ」
親「やかましいやい、べらぼうめえ、いやだもなにもあるものか」
そめ「ほんとうにマアみんな寄って集《たか》って人を坊主にしてどうするんだねえ」
親「どうするって、おめえがあんまり客を釣るから|ビク《ヽヽ》にしたんだ」
[解説」 比丘尼《びくに》と魚籠《びく》の地口落ちで、またの題は仕返しという。それなりに面白いが、上の巻に競べて筋がすこし単調で、かつ陰気だからか、あまりやりてはない。
[#改ページ]
―――――――――――――――――
紙入れ
―――――――――――――――――
エー道ならぬことというものは通らないもの、まっすぐなる道を踏んでまいりますれば物にまちがいはなし、人にいわれることもございません。悪いことをしても知られまいと思うのは大きなまちがいで、もちろん天に口なし、人をもって言わしむということがございます。
物を隠れてやって知れないだろうと思ってると、いつしか天命というやつで知れるようなことになります。あとでいくら後悔しても犯した罪は決して消えるわけのものでない。しかし人間の常として見てはいけないというとちょっとでも見たがる、食べてはいけないといわれると盗んでも食べたがる、口止めをされたことはかえっておしゃべりがしたい。「おまえだけに話したんだ、決して他人《ひと》に言っちゃァいけねえよ」などといわれたことはツイ人に話をする。
○「オイなにを笑ってるんだ」
△「なにをッてマアばかげた話を聞いたんだ」
○「ヘエーなんだ」
△「じつァな、フフン、マアよそう」
○「エー」
△「マアよそうよ」
○「いやな奴だなこンちくしょう、物をいいかけてよされちゃァ気になるじゃァねえか、話して聞かせろやい」
△「おまえはいけねえ」
○「なぜ」
△「なぜったっておまえはしゃべりそうだ」
○「しゃべって悪いことならいやァしねえ」
△「それじゃァおまえだけに話すんだから、きっと人にいっちゃァいかねえぜ」
○「ばかに念を押すじゃァねえか、なんだ」
△「じつはソノ姦通《まおとこ》騒動だ」
○「フーム、つまらねえものをこいつは聞いてきやがったな、誰だえ」
△「つまらねえものなら聞かねえでもいいじゃァねえか」
○「だけれども、そこまで聞けば俺も気になる、どこなんだえ」
△「この町内の豆腐屋の女房《かかァ》さ」
○「ヘエー、亭主とはめっぽう年がちがうようだな」
△「ウム色白のポッチャリとしたオツな年増《としま》だ」
○「つり合わぬは不縁の源《もと》というなァこれだな、対手《あいて》ほうは知れてるかえ」
△「知れてるとも」
○「誰だえ」
△「建具屋《たてぐや》の半坊《はんぼう》だ」
○「ウム色の浅黒い丈《せい》のスラリとしたいい男で、ちょっと女惚れのする身体だ、あいつか」
△「ウム」
○「なにか、亭主は知らねえのか」
△「まだ亭主は知らねえんだ」
○「そうか、知れると一騒動持ち上がるな」
△「ウム」
○「昔の人はうめえことをいったな、町内で知らぬは亭主ばかりなり、とは知らずさて留守中はお世話さま、川柳なんてえものは穿《うが》ったもんだな、なにしろ半公うめえことをやってやがる」
△「けれどもそんなことを人にいっちゃァいかねえよ」
○「いやァしねえ」
これがいけない、最後に人にいっちゃァいけねえよとこの人が念を突いただけ悪い、右左へ別れる。
○「オオいいところで遇ったな、今おもしろい話を聞いた、まだ聞き立てのホヤホヤだ」
×「なんだ」
○「おまえだから話をするが、しゃべッちゃァいかねえよ」
×「しゃべりゃァしねえ」
○「姦通騒動で、これこれこういうわけなんだ」
×「ヘエー、半公うめえことをしていやがるな」
○「だけんども人にいっちゃァいかねえよ」
×「なにいやァしねえ」
つまりひろめて歩くようなもので、それからそれへとだんだん朋友《ともだち》の耳へ入る、そのうちに百の内なにぶんか足りない人間がこれを聞く、ばかという者はおしゃべりなもので、つまらないところへ行って店を開《ひろ》げる。
太郎「こんにちは」
亭主「オヤ太郎さん早いね」
太「アア、たいへんになんだか忙しいようだね」
亭「そりゃァどうも家内がいないところへ、ふいにがんもどきのあつらえがあったんで、おそろしく忙しい思いをしちまった」
太「ヘエー、そりゃァけっこうだ、世の中てえものはおもしろいね、おかみさんが留守で一人で忙しがって働いてる人もあれば、人の女房を取って楽しんでる奴もあるし、いろいろだねえ」
亭「オヤオヤ、なにか太郎さんおもしろそうな話だね」
太「おもしろそうだっておまえさん姦通騒動さ」
亭「ヘエーどこでね」
太「どこッたってこの町内の豆腐屋の女房さァ」
亭「ヘエー、お待ちよ太郎さん、この町内で豆腐屋といやァ私のところ一軒しきゃァないが」
太「アアそうそう、おまえさんとこのおかみさんがやってる」
亭「冗談いっちゃァいけない、人の罪になる話だよ、そんなことをいうもんじゃァない」
太「それだからいけない、近所じゃァたいへんな評判だぜ、町内で知らぬは亭主ばかりなり、おまえさんばかりだ、知らないのは、第一対手方が知れてるンだ」
亭「誰だい、その対手というのは」
太「建具屋の半公」
亭「アア、色の浅黒い、にがみ走った、いい男のあれかえ太郎さん」
太「アア」
亭「そうかえ、どうりでこの間からチョイチョイうちへ来ると思った、いいことを教えておくんなすったね」
太「だけれどもこんなことを人にいっちゃァいけないよ」
亭「誰がそんなことを人にいうものか」
これがいわゆる天に口なし人をもって言わしむというので、道ならぬことをすれば、どうしても知れずにはいません。もっとも当今ではそういう不心得の御人《ごじん》はございませんが、昔はずいぶんあったそうでございます。しかしする者が悪いのはむろんの話でございますが、される旦那のほうにも油断がありすぎるからいけない、川柳にも、間夫《まおとこ》は亭主のほうが先に惚れ、アノ男は確かだ、まことに正直だとご贔屓《ひいき》になさりすぎる、それがためにおかみさんが、悪い気を起こして道ならんことをするようなことになる、もっとも堅気《かたぎ》の方にそういうのはないが中に商売上がり、泥水稼業から出たりなにかした者でいわゆるお囲い者などによくあるやつで、ツイ商売をしていた時の気が失せませんで、ふらふらと心得ちがいをなさる、今いう旦那のご贔屓がすぎて、安心をしておいでなさるのに付け込んで、お留守の晩などそばへ引きつけて酒でも飲んで娯《たの》しむなどという良くないことをなさる方がいくらもあります。
女「大丈夫だよ新《しん》さん、遠くへ行って留守なんだから、今頃までにおいでがなければまだお帰りがないのだからおいでなさる気づかいはない、マアゆっくり遊んでおいでよ」
新「ありがとう存じます」
女「なにをソワソワしているの、もちろん私がこんな婆ァだから、おまえいやがるのも無理はないけれども……」
新「イエそんなことをおっしゃられてはまことに困ります、決してそういうわけではありませんけれども、こちらさまへ年中こうしてお出入りをいたして旦那さまにいろいろごやっかいになっております者でございますから、もしこういうところを、旦那さまのお目に留まるようなことがあると、もう私はご当家へお出入りができなくなります、第一世間へ対して申し訳がなくって私はこちらへ上がれません」
女「うまいことばかり言っておいでだ、そうじゃァないだろう、私が婆ァだから気に入らないんで、さてはなにかお楽しみのものが他にあるんだろう」
新「どういたしまして、そんなことをおっしゃられてはまことに困ります」
女「マアいいからゆっくり一杯飲んで、今夜泊まっといでよ」
新「ありがとう存じます、まったく今頃までおいでがなければ、もうおいでがないかも知れませんね」
道ならぬこととは知りながらいわるるままに、それから気を落ちつけて猪口《ちょこ》を献《さし》たり取ったり、いい心持ちに酔ってきたところへにわかに表の戸を、ドンドンドン。
主「オイ開けないか、開けてくれ、トントン」
サアたいへんだ、おいでになったと思うと、目がくらんで、はや腰が抜けんばかり、下女にはかねて鼻薬がつかってあるから、気転を利かして、すぐ明けるところをわざとガタガタやっております、こちらは大騒ぎ、
女「サアそっちへ行っちゃァいけないよ、こっちへおいでよ、こっちだよ」
というと、ようようのことで台所へ這い出してきて表を明けるとたんに水口からいちもくさんに逃げだし、真っ暗なところをむちゃくちゃに駆けてきて、
新「アア驚いた、なんだのかだのといって、いけないといやァあの通り嫌味《いやみ》をいうし、なにせおかみさんは元商売上がりで、さんざんのことをしておいでなすったんだから、こちとらのような若僧のいうことは少しも聞かないで、なんでも自由にしようというんだから困っちまう、しかしよい塩梅《あんばい》だった、グズグズしていて旦那につかまった日にゃァそれこそたいへん、アア驚いた、これから呼びに来ても当分もう行かない、なんでも足を抜いて行かないに限る、……待てよなにか忘れ物をしてきやァしなかったかしら、よしよし煙草入れもある、時計もある、……サアたいへんだ、紙入れを忘れてきてしまった、なるほど紙入れと煙草入れと重ねておいたのを狼狽《うろたえ》て煙草入れだけ取って紙入れを忘れてきちまった、どうもとんでもないことをした、アノ紙入れは旦那がよく知ってる更紗《さらさ》の、今時の布《きれ》でない古い物だから大事にしろといわれて、大切にしているんだが、置き放しにしてきて、もし旦那がごらんなすったら、こりゃァ覚えのある紙入れだ、新吉《しんきち》の紙入れじゃァないかと、中を見られた日にはたいへんだ、旦那が遠方へ行って留守だから遊びに来いと、さっきおかみさんからよこした手紙が入ってる、たいへんなことができちまった、どうもしようがない、今夜|徹夜《よっぴ》て逃げたらよッぽど逃げられるだろう、……しかし待てよ、モシおかみさんが気を利かして蔵《しま》っておいてくれりゃァ、旦那に見られる気づかいないからなにも逃げるにゃァ及ばない、ともかくも明日の朝行ってようすを見よう、もし旦那の顔色が変わっていて、この野郎主人の留守に入り込んでけしからん奴だとでもいわれたら、それから逃げ出そう、つかまったらそれまでだ、こっちが悪いんだから仕方がない」
と奴さん度胸をすえて、夜の明けるを待ってぼんやりやって来た。
新「おはようございます」
主「ハイ誰だい」
新「ヘエおはようございます」
主「アア新吉か、たいそう早いな、マアこっちへはいんな」
新「ハテナ」
主「なにがハテナだ、マア茶でも喫《の》みねえ」
新「ヘエありがとう存じます」
主「オイ茶碗を持ってきな、いつもの寝坊が今日はたいそう早起きだな、サアお茶をおあがり、朝茶はその日の災難を避けるというから……」
新「ありがとう存じます」
主「どうしただいぶ顔色が悪いな、なにか心配ごとでもできたのか」
新「ヘエ、じつはソノ少し世間へきまりの悪いことができまして、ほとぼりの冷めるまで当分田舎へでも行ってこようと思います」
主「フーム、世間へきまりの悪いことができた」
新「ヘエ」
主「アアわかった、情婦《いろ》かなにかできたんだろう」
新「ヘエ」
主「いいともいいとも、対手のない者ならなにをしてもかまやァしない、罪になるようなことでなければかまわない、おまえだっていつまでも独身《ひとり》でいられるわけのものでもないから、相応の者があったら話をしてもらってやろうじゃァないか、男もよし、商売も精出してやるし、柔順《おとなし》くって、俺が女なら一苦労したいと思うくらいだ、女の惚れるのは無理もない、なんでもかまわない、情婦もよし、女房にもらうもいいが、しかし新吉、主《ぬし》ある者だけはよしなよ」
新「ヘエ」
主「なんだ対手は」
新「ヘエ、もういけません」
主「ナニ」
新「もういけません」
主「なにが……」
新「じつはソノ少しばかり……」
主「オヤオヤしようがない、困るなァこの男は、冗談じゃァないぜ、じゃァそれが現われたのか」
新「まだ現われたというわけでもございません」
主「ウム、知れないうちに駈け落ちをしようというんだな、それはあんまり手まわしがよすぎる」
新「じつはソノおいでがないと思って泊まりました」
主「ウム」
新「スルと夜更けてとつぜんにおいでになりました」
主「オヤオヤ、その時になにか見つかったのか」
新「見つかったか、見つからないか、まだそのへんのところはわかりませんが、うろたえて飛び出したものでございますから、ちょっとソノ忘れ物をしてまいりました」
主「忘れ物を……オヤオヤ、その忘れ物を先の主人が知ってるのか」
新「ヘエ、ご存じなんで……」
主「ヤレヤレ証拠物《しょうこもの》を取られちゃァしようがないな、なんだ、その忘れた物は」
新「紙入れでございます」
主「ウムこの間おまえが持っていた更紗の紙入れか」
新「ヘエ」
主「あれを忘れて来たのか」
新「へえ、中におかみさんから、今夜旦那が留守だから遊びに来いという迎いの手紙が来たのが入ってるんで……」
主「そんな物はおまえなにも紙入れなんぞへ入れておくにゃァ及ばないじゃァないか、なるほどそれじゃァ心配になるのも無理はない、……エーナニどこのうちだか知らねえが、旦那の留守におかみさんから呼びによこした、その手紙を入れた紙入れを忘れてきたんだとさ」
女「いやだよ新さん、ほんとうにおまえは初心《うぶ》だねえ、どうせおまえ旦那のお留守に情夫《いろ》をうちへ引き入れて楽しみをしようというくらいの人だもの、そこに如才《じょさい》があるものかね、紙入れなんぞチャンとしまってあらァね、ねえ旦那」
主「そうともさ、主人が紙入れを見たからッてどうせ女を取られるくらいの奴だから、そこまでは気がつくめえ……」
[解説]間ぬけ落ち。この落語の台本は、昭和初期の、検閲がやかましかった当時に速記したものなので、正妻か、囲い者かわからないようにしてある。しん生の十八番であった。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
三枚起請《さんまいきしょう》
――――――――――――――――――
その昔|東照神君家康公《とうしょうしんくんいえやすこう》は、『嘘らしき嘘をつけ、実《まこと》らしき嘘はつくな』と、おっしゃったと申しますがなるほど嘘らしい嘘は罪がなくてよいもので、
甲「今日|上野《うえの》の山で、突かれてうなっていた者がある」
乙「ヘエー、女か男か」
甲「時の鐘だ」
こんな嘘は嘘らしくっていいが、まことらしい嘘はおおきに害をいたします。仏法では嘘を妄語戒《もうごかい》といって戒めてありますが、しかし御仏《みほとけ》も次第によれば方便《ほうべん》を説くと、うまく嘘の替え名をこしらえてあります。お武士《さむらい》さまは嘘をつかないというが、計略というのがやはり嘘の替え名で、またお商人《あきんど》のほうでは懸け引きという嘘の替え名をチョイチョイ店先で用いる。どうもこれでは元価《もとね》が切れますんでなんて、年中元価の切れる商いばかりしているようで、だんだんお店が大きくなる。これが嘘でございます。ソコで傾城《けいせい》は嘘を手練手管《てれんてくだ》とうまく名を付けたもので、その手管にお若いうちはツイかかりやすいものでございます。けれども嘘をつく傾城が悪いか、嘘をつかれる客が悪いかというと、これは俺が俺がという我《が》という奴で、つまり自分で自分の身体に惚れて、女郎が俺に惚れてるだろうという己惚《うぬぼ》れでやりそこなう。
棟梁「若旦那、意見がましいことをいって、まことにすみませんが、だいぶこの節|吉原《よしわら》のほうへお盛んだそうでございますが、おとっさんはアアいう酸《す》いも甘いもご存じの方だから、大旦那はなんだが、おっかさんのご心配なさることを少し考えてあげたら、どんなものでございます。
この間も大旦那にお湯でお目にかかったら、マア婆さんがしきりに心配しているけれども、ナニ棟梁、私も野暮はいわない。若いうちはありがちのことだから遊ぶもいい。若えに似合わねえうちの伜《せがれ》、親が子を褒めるようでおかしいけれどもなかなか儲けることも知ってるから、遊びをするもいい。いいけれども、たてつづけにアア遊ばれては困る。日曜ごとに行くとか、十日にいっぺん行くというなら行ってもいいが、どうも毎晩のようではまことに困る。棟梁おまえのところへ遊びに行ったら、伜の胸をひとツ聞いてくれ。そんなわからねえことをいう親父ではねえから、その女に限るというなら、そこはまた野暮はいわねえ、棟梁おまえからの話なら相談にもなるが、女に嵌《はま》って行くのか、遊びが好きで行くのかどちらだかわからねえ。遊びが好きというのはまことに困る。一人の女に限るのなら、その女をあてがってやるがどうだろう。とこういうおとっさんのお話でございます。半《はん》さんあなたにも似合わねえじゃァござんせんか。どうでげす。たまに行くようにしたらどんなもので……」
半「それはマア棟梁、まことに親父にもおふくろにも心配をかけてすまないけれども、私だってあいだに立ってじつにつらいことがある。私はなんだけれども、むこうが承知しないんだからね」
棟「誰が」
半「むこうだよ」
棟「むこうとは」
半「花魁《おいらん》のほうで承知しないからね。部屋の新姐《しんぞ》でも遣手《やりて》でもみんな困るというんだ」
棟「なにが」
半「私が約束をした日に都合が悪くって行かないことでもあると、誰にでも当たり散らしてしようがないそうだ。それからあとがおまえさん病気になって、三日も足を抜けば死んでしまうというんで。ぜんたいヒステリーの強い女で、私が三日明けても四日明けても、親父やおふくろはただ心配するだけのことで命にはかかわらないが、花魁のほうは三日行かなければ死ぬ。人命は貴いものだからね」
棟「大きなことをいっちゃァいけません。冗談じゃァねえ、しかしその花魁がそんなに気に入ってるなら大旦那も野暮なことはおっしゃらないんだから、私がお話をしましょう。なにも引かせるからッて、今時そう派手なことをするにも及ばねえから、相当のことでお身受けをなすったらようございましょう」
半「それは棟梁、おまえがいうまでもない。先方の胸を聞いてみたところが、『まことにありがたい、ありがたいけれども、いまさらこの廓《くるわ》を出るには、親元身受けかなにかでニューッと出ると、私はいいけれども、それじゃァねえ。芝居をしたのなんのといわれるし、トいってあまり派手なことをすれば、あとでお互いに苦しまなければならないから、来年の三月になれば、年明けだからそれまで待ってくれ』というんで……」
棟「それが半さん、わっちは少し気にくわないね」
半「なにが気にくわないんで」
棟「なにがッて、おまえさんが一日でも二日でも会わなければ、ヤレ死ぬの煩《わずら》うのという者が、身受けをしようといえば派手にやりたい、それも無益《むだ》だから来年三月まで待てと、おためごかしをいって、今のうちさんざん通わせて、金を使わして、いよいよ年明けという時にこっちへ来るかと思うと大ちがいで、変なところに行かれてしまって、あなたはホンの踏み台にされたところで種《ね》が売女《うりもの》のことで、願って出るわけにも行かずサ……」
半「棟梁、冗談いっちゃァいかない。そんなことは私だッて考えているよ。まさかそんなはずはない、もしも当人が違約《いやく》をすれば、私はチャンとそれを責める器械《きかい》を持っている」
棟「器械、器械というなァなんでげす」
半「マアいいよ」
棟「よかァない、そんな物があるならお見せなさい。……お見せなさいよ」
半「人に見せるわけにはいかない」
棟「人に見せられない、たいへんなもんですねなんだかお見せなさい。そんなことをいってなにもねえんでございましょう」
半「ありますよ」
棟「じゃァお見せなさい」
半「そんなら見せるけれども、黙っていてくださいよ。じつはこれなんで……」
棟「いただかなくッてもいいじゃァありませんか」
半「大事に見ておくれ、お直筆《じきひつ》だから」
棟「なんだいお直筆とは……。いやだなァ半ちゃん。今どきの女郎に起請でもねえじゃァありませんか。古い趣向だ。エーちくしょう、名前のところへ紅《べに》かなにか付けやがったな……エエ小照《こてる》こと本名すみ……半さん、この女は大阪種《おおさかだね》じゃァありませんか」
半「え、そうです」
棟「なんだか知らねえが、元大阪の天満《てんま》の御霊《みたま》へ出ていて……」
半「そうそう」
棟「引かされた客に死に別れて二度の勤めで……」
半「そうそうそう、その通り……棟梁よく知ってるね」
棟「これは半ちゃんいけませんや」
半「なにがいけないんで」
棟「おおかたこんなことだろうと思った。あなたに意見がましいことをいって面目ねえが、あなたがなんにも知らず惚れているからいうけれども、じつはこの女の起請なら、わっちも一本持ってる。イイエまったくですよ。仲間の寄り合いの崩れから、食らい酔って行って登《あが》ったのが始まりで、その後一二度行くとむこうでこんなものをよこしゃァがってばかにしてやがると思いながらもまんざら悪い心持ちもしねえから、こちらも独身者《ひとりもの》、雇い婆ァを対手《あいて》にうちに転がってるのもおもしろくねえ。今夜ひとつ出かけようと、行ってみりゃァあんなところだからやはりおもしろい。ツイ足をしげく運ぶようなわけで、ソレごらんなさい同じ名前ので同じ文句二枚起請だ」
△「こんちは」
棟「こんちは、オヤ若旦那おいでなさい……ちょっとこれをこっちへ隠して……」
若「ご主人ご在宿でげしたか」
棟「ヘエおります」
若「ご来客のようすで」
棟「イエナニ知ってる方で、マアおあがんなさい」
若「さようでげすか、デハごめんこうむって……、さて棟梁、存外のごぶさた……、イヤどうもこれはかかる好男子がいようとは夢にも知らんでしたな。半君あいかわらずお盛んで……。棟梁ちょっと尊家へ参上をと思いつつ、なにやかやで寸暇を得んでしたな。今日《こんにち》もちょっと他へ出かける折から、ご尊家の前を過《よ》ぎり、ご来客とは思えどなんとなくなつかしくお寄り申してみれば、あに図らんや、かほどの珍客ご来臨《らいりん》とは、棟梁なんぞ珍談はありませんか」
棟「なんだかあなたのおっしゃることはちっともわかりません。珍談といえば若旦那、あなたたいへんにこの節吉原のほうへお盛んでげすな」
若「さにあらず」
棟「さにあらずもないもんだ。だいぶ噂がありますぜ。噂ばかりじゃァない。チョイチョイ朝帰りの途中変なところでお目にかかる者もあるんで、ネー少しお聞かせなさいな」
若「これは恐れ入りましたな。あえて聞かせるほどのこともありません。マアようがす」
棟「よかァありません。お話なさいよ。先はなんですえ、若えんですか、それとも年増かね。へへへへいずれにしてもあなたの腕だから、さだめて迷わせているんでげしょう」
若「イヤ棟梁、そういわれると面目ないがじつにどうも困ったもので……」
棟「なにが困りました」
若「なにがといってどうにもこうにも、いわゆるソレ女子と小人《しょうじん》は養い難しで、こうなるとじつに婦人には弱りますね」
棟「どう弱るんで」
若「どう弱るって、どうもねえ昨今のところただ両親を恨んでいます」
棟「両親を恨むとは」
若「親たちがどうしてこういう人間をこしらえてくれたかと思うと情けないくらいのもので」
棟「それはなぜね」
若「なぜといって、どうして僕をこういう身体に生んだかと思うんで」
棟「けっこうじゃァありませんか」
若「けっこうのことはありませんよ。婦人のために僕は本年いっぱい命が保《も》たないかと思うと心細い」
棟「これは大仰《おおぎょう》になってきた」
若「マア変なことを申すようだが、先夜もねえ彼の曰く」
棟「たいそう堅いね、なんといいましたえ」
若「それはマアなんやかや、いうにいわれないわけもありますがね。ソコでこうもしようか、あアもしようかというと、先方のいうところが可愛い、いま互いに無理をして出たところが、あとで二人が苦しむようではつまらないから、来年の三月|年期《ねんき》明けだによって……」
棟「なるほどなるほど」
若「でマア、それまで待ってくれとこういうから、そりゃァ僕も男子《おとこ》だからそう約束が成り立てば待たんことはないというと、それでも男という者は変わりやすいから案じられるというンで、イヤ僕は大丈夫だが、君のほうがこういう勤めをしているからどうだかというと、あれが怒りましたね」
棟「ヘエー、なんッて怒りました」
若「こういう勤めといわれるのが残念だというんで、この通り八百万《やおよろず》の神へ誓いを立って契約証書を……」
棟「契約証書はおもしろいね。それをちょっとお見せなさい」
若「これはいけません内緒《ないしょ》だから」
棟「マアお見せなさいよ。誰にもいやァしねえ」
若「イヤこればかりはお目にかけられません」
棟「それじゃァようがす。見ないでもその契約書をくれた女を当てて見ましょうか。ちがったらごめんなさいよ。たぶんそりゃァ小照こと本名すみてンじゃァありませんか」
若「これは恐れ入りましたな。さすがはどうも北洲《ほくしゅう》博士ですな、そんなに探偵が届いてるとは知らんでしたよ」
棟「なんだばかばかしい、その起請をお見せなさい」
若「こればかりはいけません、どうぞごめんを……」
棟「おまえさんが見せなけりゃァこっちから見せましょう……。サアこれをごらんなさい」
若「なにか出ましたな。ドレ拝見いたしましょう。なるほど……一起請文のこと、おまえさまと夫婦の契約《やくそく》をいたし……、イヤこういうものの文句はありきたりでな……。ナニ小照こと本名すみ……これはけしからん、これはどうもけしからん」
棟「まだありますよ、半ちゃんそれを……」
若「なるほど、これはどうもいよいよ恐れ入りましたね。こうなったら僕もごらんに入れる。この通り腕守りの中に」
棟「腕守りは色ッぽいね……。どうりで腕が太いと思った」
半「なるほど、同作同筆……、エーばかばかしい」
棟「ソレごらんなさい半ちゃん。ダカラ、わっちがおまえさんにいうんだ。遊びはいくらでもおしなさいだが、真剣になって、ホレたハレたで通うなんてばかばかしい話はないというなァここで……」
半「おおきにありがとう。これは棟梁の……。富《とみ》さんのも拝借します」
棟「ちょっとお待ちなさい。みんなの起請を懐《ふところ》へ入れてどうするんで」
半「棟梁放しておくれ。私はこれから吉原へ行ってきます」
棟「吉原へなにしに……」
半「なにしにッてあンちくしょうの前へ三人の起請を突きつけて、どれがほんとうだか見比べさせて、……あンちくしょうの面の皮をひんむいてやります」
棟「マアお待ちなさい。おまえさんにも似合わねえじゃァありませんか。それを持ってって、どれがほんとうだか見比べさせるといったところが、先方はあァいう奴だから、おおきにあなたを見そこなってすみません。勘弁してくださいと、平蜘蛛《ひらぐも》のようになって詫《あや》まられれば、それまでのこと。しかしそれで詫まればいいが詫まりませんよ。オヤそうでしたか、おおきに悪うございました。どうせ女郎はこんなことをして、お客をだますのが商売手管、つまりだまされるおまえさんたちが悪いじゃァありませんかといわれたところで、おまえさんが頭の一つもなぐればそれまでの話、つまらねえじゃァありませんか。トはいうもののこのままにしておくのも癪にさわるから、これから吉原へ三人そろって行きましょう。若旦那あなたは……」
若「エーご同道いたしますとも、こうなれば吉原はおろか、朝鮮《ちょうせん》へでも満州《まんしゅう》へでもご同道いたしますよ」
棟「しかし三人そろって行っても、先方で客にしますまいから、私の行く茶屋が中村屋《なかむらや》で、ここのおかみが能天気《のうてんき》でおもしろいから、このおかみに話をしてこっちの味方につけ、アノ女を呼び出そうじゃァありませんか。それでめいめい隠れんぼをして、いよいよというところで三人そろって出たら、いくらアンナ酒蛙《しゃあ》つくでもマゴマゴするだろう。そこで油を取っておしまいにしてやったらようございましょう、ナニ昼間のほうがかえってよい。じゃァ一緒に出かけましょう。婆やうちを気をつけてくれよ……」
三人そろって吉原へ出かけましたが、夜とちがって昼のこと、錦《にしき》の裏を返したようだ。
棟「少しここで待っててください。三人そろって入るのもなんだから……。オーおかみ、ごぶさたを……」
内「オヤ棟梁どうもお見限りですねえ」
棟「ツイ仕事が立て込んで来られなかった」
内「デモありましょうけれども、アレッきりとはあまりひどいじゃァありませんか。花魁がたいへんに心配しているんですよ。お手紙をあげてもご返事の一本もくださらないんで、花魁がたいそう懊悩《じれ》てるんですよ。うちの者がみんなふしぎに思ってるのは、花魁衆だってなにも惚れないことはないけれども、アンナわけのものじゃァないのに、あの花魁があれほど惚言《のろけ》るのは棟梁の腕がよっぽどよいんだからッてほんとうに棟梁罪な人ねえ」
棟「なにをいってるんだ。マアそんなことはどうでもよい。おかみ少し話があるんだ。耳を貸してくんな」
内「耳……いけませんよ棟梁」
棟「なぜ」
内「なぜッてまたどこかで他の花魁でも見てきて、そこへ送れッてんでしょう。いけませんよ。そりゃァね。私のほうではどこへお送り申してもいいんですけれども、もし花魁に知れると怨まれますからね」
棟「マアいいから耳を……」
内「そう、なにを……ウム、フフン、エー、まさかそんなことが……イーエ嘘ですよ。そんなこと……、そりゃァおまえさんの邪推《じゃすい》ですよ。アノ花魁に限ってそんなことのある気づかいありませんよ……。エー。そう、マアほんとう……、あきれたねえ、ちっとも知らないの、驚いたねどうも、わたしまで一ぱい嵌《はま》ったんだよほんとうにいまいましい……、ようございます。呼びましょう。けれどもねえ棟梁、ちょっと断わっておきますが、スットンバタバタは廓の禁制《はっと》だからよしておくんなさいよ。口でいうぶんにはなにをいってもいいけれども、まんいち手出しでもされると、また会所へ出たりなにかして面倒だから」
棟「そりゃァ大丈夫だ」
内「それなら今使いをやりましょう……。ちょっとみい坊や、お使いに行ッておいで、アアそうさ、棟梁のことは内緒だよ……。アアおちかどんには言ってもよい。花魁にね、アノことでッて……余計なことをベラベラおしゃべりでないよ。それからね。行きがけにちょっと台屋へ寄って、ゆうべのあれではお客に出せないから、もう少し気をつけておくんなさいって、よいかえ……。女のくせに仲の町で犬なんぞけしかけちゃァいけないよ……。アーよいから早く行っておいで……。おぎんや、お二階へお蒲団とお煙草盆を、お三人だよ……。棟梁そのお方を……」
棟「少し待ちねえ……。サア半ちゃん、こちらへお入んなさい」
半「こんにちは、まことにどうもおやかましゅうございます」
内「いらっしゃいまし。サアどうぞお二階へ」
棟「若旦那お入んなさい」
若「これはおかみですか、初めてご面会いたします。かねて棟梁からお噂をうかがっておりますが、いつもご盛んで……。イヤどうも今日は図らざることで、ごやっかいに相なるというは、じつに恐れ入りました。この三人が今棟梁からお話をいたした、だまされ連中……」
棟「若旦那、みッともないからおよしなさい。そんなことはよいから早く二階へ……」
若「ソコで棟梁|レコ《ヽヽ》は」
棟「今迎いに行って、じき来ますが、ここに三人そろってるなァ知恵のねえ話だから、半ちゃんおまえさんはこの戸棚の中に隠れておいでなさい。私が呼び出すまで……、若旦那おまえさんはそちらの押入れの中にようがすか……、半ちゃん首を出しちゃァいけねえ、そこを閉めておおきなさい……」
小照「おかみさんごめんやす」
内「マア花魁よくねえ、たいそう早かったことね。おちかさん、おおきにご苦労さま、たしかに……ハアようございます。うちからなにしますから、どうぞお内所へよろしく……イーエ、棟梁がおいでになってね、なんだか知らないんですが、ちょっと二階まで」
小「そう……」
褄《つま》を取ってトントントン、二階へあがってきた小照、
小「おいでやす」
棟「ヤアこちらへお入り、よく出られたの……。誰、オレか、ウムちょっと来ようと思ったが仕事がへんてこにしゃれ込んで来たんで、今日は根岸《ねぎし》までちょッと用があって来て、その帰《けえ》りにちょっと寄ったんだが、お飯《まんま》でも食いながら少しおまえに話をしたいし、また聞きてえこともあるから、チョイと何したんだが、マア坐んねえな……。ほかじゃァねえンだがね花魁」
小「えらい他人行儀な口の利きようやなァ。花魁なんて私いやや」
棟「ほかじゃァねえンだ。オレも遊びに来るッてほども来ちゃァいねえが、マアオレが来るうちにおまえもオレの独身者《ひとりみ》は知って、どんな火打箱《ひうちばこ》みたようなうちでもいいから、年が明けたら飯籠《はんご》の世話をしたり弁当箱の世話をしてみてえといったのは、あれは本当に言ったのか。それともからかいに言ったんで、アアいうことはおまえたちのほうにはありがちのことなのか、それを聞いてからじつはきめようと思ってることがあるんだが、花魁ぜんたいおまえはどういう了簡《りょうけん》なんだ」
小「そうあのこと」
棟「そうよ」
小「あのことならなにもあなた今聞くまでのことはおまへんやろう。なぜッてそうですがな。なァ、そりゃァ私のようなものやさかい、どうせマアあなたの宅《うち》へ行ったかというて、土地馴れぬものやさかいそりゃァなにすることもないやろけど、しかしあなたもそう言わいでもよさそうなもんやなァ。私も素人ふうなものを一札《いっさつ》あなたに送ってあるやおまへんか」
棟「素人ふうというのは起請か」
小「静かにしいな、マア」
棟「静かにしろッて、その起請のことがあるから、じつは聞きにきたんだが、あの起請というものは一人にしきゃァやらねえものか、それともほかに二本も三本もやってもいいものか、それをじつは聞きにきたんだ」
小「奇態なことをいうやおまへんか。他にというて、誰やら他に持ってる者がおますか」
棟「おますから来たんだ」
小「いやなァ、誰がそないなものを持っております」
棟「誰が持ってるッたって、オレの近所の質両替え屋の富さんよ。あの人にもおめえやったろう」
小「富はんて誰や」
棟「誰やって、ソレ先月オレが雨が降って流連《いつづけ》したことがあったろう。あのとき廊下でちょっと出会わした人があって、オレのほうで部屋に逃げてって、おまえに今のはおまえの客かと聞いたら、あれは薫《かおる》さんのお客さんだが、薫さんがちょっとなんだから、私が代わりに送り出すんだとおまえが言ったろう。どうだあの人にもやってあるだろう」
小「薫さんのあのなにかお客さんかいな。いやな棟梁、あなたにも不似合いな。あいつならこのあいだ来おって、見立て替えをしてな、それであなたやるのやらんのと、よう物を積もってみなはれ。なァ女やか男やかわからんよな顔して、色は白いけれどあんまり白すぎて、ボッテリと顔はまるく肥って水瓶の中へ落ちたお飯粒《まんまつぶ》みたいな、あのような人にやることがおますかえ」
棟「やった覚えはねえな、よし……、水瓶のお飯粒こっちへ出ておいでなさい」
若「どうもけしからん、驚き入ったなァどうも」
小「あなたはん、そこにいたか」
若「最前から傍聴いたしました。どうもひどい悪言でげすなァ。水瓶に落っこちたお飯粒というお見立てはひどいねえ。しかしまだありますよ起請をやったものが」
小「もうありゃァしまへんがな」
若「イイエあります」
小「あなたまでが一緒になって……、ほかにやった覚えはありやしまへんがなァ」
若「僕の隣町の唐物屋《とうぶつや》の半ちゃんという若旦那にやってありましょう」
小「半ちゃんて知りまへんがな知りまへん」
若「知りまへんことはない、知ってるよ。先月の六日の僕が向こうを見てあの方はといったら夕霧《ゆうぎり》はんのお方だと言いましたろう」
小「アア夕やんのお客、あんなガキみたいな子伜《こせがれ》にやったことありまへんがな」
若「やらん……ガキみたいな小伜、ここへご出張を願いたい」
半「なにをいってやがるんだ、こんちくしょう……」
小「オヤ半やん、あなたそこにいたか」
半「いたかもねえもんだ。さっきから聞いてりゃァ、ガキみたいなような小伜たァなんだ。ふざけたことをいやァがるなべらぼうめ。サア三人そろって来たんだ。どれが本当だか見比べてくれ」
小「どれが本当やッて半やんなにを」
半「起請よ」
小「静かにしいな、アアびっくりした。どれが本当やかて、あなた言いなはるが、私にも半やんわかりまへんがな。なァよう物を積もって考えてみなはれ。あなたがた、どだいお三人ぎりやと思うていなはるさかい、了簡がちがうのや。この節のお客さん方は一筋縄や二筋縄でよういかれまへんがな。まァよう物を積もって、半やんも先のあることやさかい、考えてみなはれ。女郎はお客さんをだますのが商売や、もともとつまりあなたがたが阿呆《あほう》やから起こったことや」
半「阿呆とはなんだ、エエ阿呆とはなんだ」
棟「半ちゃん怒ってなぐったってしようがねえ」
小「棟梁ほっときなはれ、半やん、あなた私を打ちなはるか、みごと男なら打ちなはれ。私|打《ぶ》って欲しい。しかしあなた打つなら打つようにしておいて打ちなはれ。こうやって坐っているところは私の身体のようやけれど、私の身体のようで自分の身体やおまへん。足の爪先から頭のてっぺんまで証文に係って、まだ前借りのある身でおます。私を打ち突きしたければあなたが身受けして自分の物にした上で煮て食うなり、炊いて食うなりしなはれな、えらそうなことをいうてなんじゃい、そないな物を振り上げて、打つなら打ちなはれ、言うたが悪いか、女郎は客をだますのが商売やおまへんか」
棟「マアマア花魁静かにしねえ。おめえだって色を売る商売じゃァねえか、色気なしの声を出しなさんな。半ちゃんもマアお坐んなさい。だが花魁、よく物を積もってみな。おまえはたいした腕のある花魁だ。いい花魁だが、おまえの腕というなァそれッきりか。オレはもう少し腕のある女だと思ったぜ。本当に腕のたしかな花魁なら口で殺すぜ。証拠の残る嘘をつくのはおめえ罪だぜ。可哀相に起請だのなんだのしてあると若い人は本気にすらァ、昔|浅間《あさま》のできた時分からいうぜ。いやな起請を書く時にゃ、熊野《くまの》でからすが三羽死ぬというじゃァねえか。もうちっと新しい趣向は花魁ねえのか」
小「熊野のからすが三羽どうやらいうてやが、私は熊野どころじゃァおまへんぜ。世界中のからすをみんな殺そうと思ってますぜ」
棟「どういうわけだ」
小「勤めの身じゃもの、朝寝がしたい」
[解説]この噺は名人|円右《えんゆう》、先代の|志ん生《しんしょう》が得意にやっていたが、今はあまり、やりてがない。時代ばなれのした落語である。しかしこのサゲはトタン落ちといって、落ちの言葉一ツで、話全体の筋が結びつくというような、最も粋な落ちである。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
首ッたけ
――――――――――――――――――
「勤めする身も素人も恋に上下のへだてない」と申して、勤めの身でも、恋を知らないことはないけれどだいたい女郎衆にいわせると、自分の好いた人はままにならない。キザな奴が真実を尽くしてくれるというようなものだそうでございます。
また客を評した詞《ことば》に「容貌《きりょう》自慢、我が身に惚れて女郎には惚れぬふりして過ぎな」などということがございますが、これはおおきにそうかも知れません。ご自分の身に惚れていわゆる己惚《うぬぼ》れという奴が増長する。もちろんそれがためにアノ廓《くるわ》が繁昌するのでございます。
自分からなるほど俺には女は惚れないとあきらめれば、誰も無理算段や義理の悪い借金をしてまではげしく遊びにはまいりません。しかしあすこへまいりましても、親切に扱ってくれれば、ご散財をなすった甲斐がございますけれども、どうかすると三日月さまじゃないが、宵にチラリと見たばかりという待遇に出合うというと、じつに癪にさわる。中にはまたようやく来たと思うとたんに、若い衆が「花魁《おいらん》え」と呼びに来る「ハイ」といって出て行ってしまう。この花魁えというのは、つまり後からお客が来たという暗号かもしれません。それでも酒の勢いで、トロトロするとそのうちにまた花魁が来たと思うと、
女「ちょっとおまえはん、お願いだから少しの間待っていてちょうだいよ。今わたしじきに来るから」
と気やすめをいわれると、そこは男のやせ我慢、
男「アアいいとも、俺に遠慮はねえからゆっくり行ってきねえ」
と、たいへんにこれは負け惜しみの話。独りで寝るほうがよければ、なにもお金を使ってあんなところへ行かないでも、うちに寝ているほうがよさそうなものだが、ソコが見得《みえ》でございます。後生だから大急ぎで行ってきてくんなとは、男の口からどうしたって出やしません。誰もやせ我慢をする。
ゆっくり行ってきねえといわないでも、先方《むこう》は出て行けば商売だから一人のお客ばかりを大切にして、他の客を粗末にするというわけにはいかない。それでもいい人とか間夫《まぶ》とかなれば、他のお客に三十分いてその人のそばに二時間いるというのが人情でございますが、今申した通り、出て行ったきり、いつまで経ってもおいでがない。
そのうちに来るかそのうちに来るかといううちに、疲れという奴でトロトロと眠ったかと思うと、騒々しいので目を覚ます。なんだというと、その座敷から二ツ三ツ先きの大広間で、夜中に芸妓《げいしゃ》を揚げて、ドンドン騒いでいる。なかには飛んだり跳ねたりする奴がある。そのたびごとになにか物を蹴りつけるとみえて、ズシンズシンガラガラ頭へ響いて、いられるわけのものでない。そのうちに、自分の買っている女の声でキャッキャッいうのが聞こえたりなにかしてご覧《ろう》じろ。どうしたって寝られないのが道理でございます。人を待たしておきやァがって、べらぼうめえ。大一座の中で騒いでやがる。エエままにしやがれ、おもしろくもねえと、癪にさわるがそうかって野暮らしく手もたたけないから、我慢をしていると、またドンドンいう騒ぎ。いよいよ癪が起こって眠れない。こうなると黙っていられませんから、ポンポン手をたたく。
若「ヘエー」
客「オイ掛け流しの返事をするない。返事をしたらちょっと来てくれ」
若「ヘエヘエ」
客「なんだって重ね返事をしやァがる。ヘエヘエとはなんだ」
若「ごめんください……、オヤ辰《たつ》さんですか、エエまだおやすみになりませんか」
辰「もうさっきからおやすみになってるんだ。いま一眠りしたんだよ」
若「アアさようでございますか、じゃ今お目覚めのところで……」
辰「目も覚めるじゃァねえか。アノ騒ぎはなんだ、騒々しくってかなわねえや」
若「どうもお気の毒さまでございます。エー引け過ぎにちょっと五六人の一座で芸妓をあげてお騒ぎなさるんで、しかしもうそのうちに鎮まりましょう」
辰「小火《ぼや》の話をしているんじゃァねえや。そのうちには鎮まりましょうとはなんだ。騒がしくってかなわねえ、もう騒々しいのは通り越してらァ」
若「お気の毒さま、少しおにぎやか過ぎますか」
辰「にぎやかってんじゃァねえや。にぎやかというのはな、もう少し品よく遊ぶんだが、ワアワアキャキャいやァがって、ドンドン音をさせやがってなんだいありゃァ」
若「さようでございます。今なんだかちょっと肥ったお客さまが、カッポレを踊るというんで、鉢巻きをして立ち上がってヨーイトサというとたんに、ソノ皿の上へ尻もちをつきまして、それゆえアノ騒ぎでございます」
辰「いいかげんにしやがれ、おもしろくもねえ。人の気も知りやァがらねえで、ばかばかしい騒ぎをしやァがる」
若「さようでございます。けれども私のほうでは他のお客さまが騒々しいから、どうかお静かに願いますというわけにもちょっとまいり兼ねます」
辰「誰が向こうへ行って留めて来いといった」
若「ですがあなたが騒々しいとおっしゃいますからさよう申し上げました」
辰「口の減らねえことをいうな、誰も向こうへ行って留めて来いといやァしねえ」
若「さようでございます。留めるわけにもまいりません」
辰「おかしなことをいうな」
若「どうも相すみません。しかしマア辰さんの前でございますが、ご存じの通り、当今はどちらでもみな不景気でございますからな。ところが夜更けにお客さまがお登《あが》りになりまして、芸妓衆でも揚げてドンドン騒いでおりますというと、近所の同業者へ対しても、手前どもの営業隆盛というのを誇るというわけではございませんが、景気にもなりましてな……」
辰「フームおめえたいそう物知りだな。オオ学問があるな、営業隆盛だってやがる。なにをいやがるんだ。リュウセイだか星降《ほしくだ》りだか、そんなことは知らねえや。騒々しいから騒々しいというんだ。エーおめえなんぞはそれほど学問があって、なんだって廊下を這ってるんだ」
若「へへへへ」
辰「なにがへへへへだ」
若「ご冗談ばかりおっしゃいます。学問があるというわけじゃァございませんが、当今はもっぱらこういう言葉が流行《はや》ります」
辰「もっぱらなんて、なまいきの口を利きやァがるな。俺たちはわけのわからねえ職人だ、職人には職人らしく話をしろい。エー営業隆盛なんて高慢の口を利くない。なにしろ騒々しくっていかねえから帰らァ」
若「マアいいじゃァございませんか。辰さんなんですねえ、あなただって今日この頃のお客じゃァなし。こうしておなじみになってみれば、手前どもの繁昌をともに喜んでくだすってもよかろうと思います」
辰「なにをいやがるんだ、おまえのところが繁昌しようとしめえと、そんなことにこちとらは関係ねえんだ。騒々しくって寝られねえから、ほかへ行って寝るというんだ」
若「さようでございますか。しかしあなたが今ここで花魁に黙《だん》まりで、お帰りになりますと、花魁が私に後でなぜ留めといてくれない。間夫は勤めのうさ晴らしということを知らないかって、不足をいわれると、おおきに私が弁解に苦しみます」
辰「また始めやがったこの野郎は。弁解に苦しむってやがる。いやな奴だこンちくしょう、俺が帰《けえ》るというものを、おめえが留めるわけはねえじゃァねえか」
若「さようでございます。私もまたあなたがご都合上お帰りになるというのを無理におひきとめ申す権利はございません」
辰「いちいち変なことをいうない、権利はねえってやがる。こんな騒々しいところじゃァ寝られねえから俺は帰るんだ。明日稼がなけりゃァならねえ身体だ」
若「ごもっともでございます。とにかくただいま花魁を呼びますから、少々お待ちなすって……」
辰「呼ばねえでもいい」
若「呼ばないでもいいったって、あなたがお帰りになったと聞くと花魁は癪を起こします」
辰「ばかにするな」
若「イエまったくでございます」
辰「そんなことはどうでもいいが、じゃァちょっと呼んでくれ、勘定をして行くから」
若「さようでございますか……エー紅梅《こうばい》さんえ紅梅さんえ……」
紅「アーイ」
若「ちょっとお顔を、アノ辰さんがお帰んなさるというので……」
紅「アラいやだよ……。辰さんなんだって帰るの」
辰「なんで帰るったって騒々しくって寝られねえよ」
紅「アラにぎやかなんだわ」
辰「にぎやかを通り越してらァ、俺は帰るよ」
紅「夜中に帰らないでもいいじゃァないか」
辰「夜中だって今に夜が明けらァ」
紅「なにもお天道《てんとう》さまに借りがあるわけじゃァなし、夜が明けてから帰ったっていいじゃァないか」
辰「なにをいやァがる。帰るんだよ」
紅「なんでも帰るのかえ、それじゃァ仕方がない、お帰んなさい」
辰「ナニお帰んなさい……」
紅「だってしようがないじゃァないか。おまえさんが帰るというものを、わたしが無理に留めて置いて、どうこうというわけに行かないからさ。今夜はまたあいにく立て込んで、忙しいから……」
辰「気の毒だったな、今度また閑《ひま》の晩に来ようよ」
紅「皮肉なことをおいいでない。この廓はにぎやかだと、景気がいいんだからね」
辰「にぎやかにも程があらァ、おもしろくもねえ」
紅「そうかえ、静かなところがよかったらどこかお寺かなにかへ行って泊まってると静かだよ」
辰「おおきにお世話だ。どこへ行って泊まろうと……サア勘定をして行く」
紅「あたりまえさ、勘定をしないで行かれてたまるものかね。きれいに払っておいでな」
辰「誰が払わねえった。オオ若え衆、付けをくんねえ」
若「ヘエちょうだいいたします」
辰「やらねえとはいわねえ」
若「さようでございます。あなたのほうでくださらなければくださらないで、私のほうでも出るところへ出れば、遊興費請求という法律に照らして……」
辰「またはじめやがったこの野郎、誰がてめえに法律のことを聞いてるんだ。いつ俺が払わねえといった」
紅「そんなにおいばりでないよ、辰さん野暮くさいよ」
辰「どうせ俺は野暮だ、てめえたちにばかにされてたまるものか。サア早く付けを出しねえ」
紅「これだけよ」
辰「これだけじゃァわからねえ。出せ、見りァわかる……一円と七十三銭か」
紅「ハア」
辰「これだけの銭せえ払やァなにもいうところはなかろう」
紅「あたりまえだよ。女郎屋へ来て芸者を揚げて騒ぐのがやかましくっちゃ、遊びには来られないよ。もっともおまはんはこれまで遊びに来て、芸者を揚げたことなんぞない、年中ブマな遊びばっかり……」
辰「なにをぬかしやァがる。芸者を揚げて遊ばねえで気の毒だった。二度と再びてめえのところへなんぞ来るものか」
紅「ポンポンおいいでないよ、なんだねえおもしろくもない」
辰「おもしろくねえとはなんだ、捨てる銭があっても、もう来るものか」
紅「フン、おまえさんばかりお客じゃァない、来なけりゃァ来ないでいいよ」
辰「なんだなんだ、おまえばかり客じゃァねえと、よくもぬかしやァがったな。オオ剰銭《つり》をくれ」
紅「いいじゃァないか」
辰「いいもんかい、二円出したら二十何銭の剰銭《つり》じゃァねえか」
紅「なんだねそれッぱかし」
辰「それッぱかしとはなんだ、てめえのほうで相当のことをすりゃァこっちだって剰銭の盆に五十銭のひとツも載せてやらねえもんでもねえ。ダガばかにされて百だって余計なものをやるもんか。さんざん人になんだかだといやァがった揚げ句の果て、今になって突き出したらさぞいい心持ちだろう」
紅「突き出しやしないが、おまえさんが勝手に出て行くのを無理に留めるわけにゃァいかないんだからいいよ。どこへでも静かなところへおいでよ。サア剰銭《おつり》をあげるよ」
辰「あたりめえよ、取らねえでどうするものかべらぼうめェ、ただ銭を持ってくるんじゃァねえ、一粒いくらという汗をかいて稼いで取ってくる銭だ」
紅「アラマア一粒いくらって汗がお銭《あし》になるの。それじゃァ夏のほうがよけい儲かるだろう。汗がよけい出るから」
辰「ママにしゃァがれ、おもしろくもねえ、夜中に追い出したらいい心持ちだろう」
紅「またはじめたよこの人は、わたしのほうで追い出すんじゃァない。おまえが勝手におン出て行くんだよ」
辰「覚えてやがれ」
紅「忘れないよわたしは、おまはんのほうで覚えておいで、なんだいいまさら未練らしく、グズグズお言いでない。フン一人でいい男がってる。こっちにゃァほかにいい人が付いてるんだよ」
辰「なんだこの阿魔《あま》」
番「マアどうぞご勘弁を……花魁は少し酔ってらっしゃいますから」
辰「酔ったってべらぼうめえ、尻から酒を飲んでるわけじゃァあるめえ。ちくしょうめ、ほんとうによくも人に恥をかかせやがったな」
紅「なにをグズグズいってるんだよ。サッサとお帰りなね」
こうなると女郎衆は乱暴になります。腹立ちまぎれに客は梯子《はしご》を駈け降りる。寝ずの番が面くらって、
留「お帰りでございますか」
辰「帰るんだ」
番「ヘエ、なにか花魁が失礼でも……」
辰「よしてくんねえ、花魁もどうらんもあるものか。ばかにしやァがる、二度と再びこんなところへは来ねえ」
番「まことにお気の毒さまで、どうかお心持ちをお直しなすって」
辰「なにもいうにゃァ及ばねえ、早く下駄を出してくれ」
番「さようでございますか」
履き物をつっかけ、くぐり戸を開けてもらって外へ出ると、夜更けでございますから、どこも戸が降りております。ヒョイと向こうのうちを見ると、くぐり戸のところが二三寸開いているから、ガラリ開けて中を覗いてみると寝ずの番の爺《おやじ》が股火《またび》をして居眠りをしている。
番「オヤいらッしゃいまし」
辰「オオ、遅く来てすまねえが、今夜寝るだけでいいからあげてくんねえ」
番「オヤどなたかと思ったら、お向こうの紅梅さんのいい人で、花魁にあれだけ血道《ちみち》を上げさしておいて真向かいのうちへ来るなぞは困るじゃァありませんか。なにか今夜あって、そのあとで……」
辰「マアいいや、いい人も悪い人もねえんだ。このくらいコケにされりゃァ、よほどいい人にちげえねえや」
番「どうしたんでございます」
辰「どうしたって見ねえな。アノ通りの騒ぎじゃァねえか。騒々しくって寝られねえくれえのことは人間だから言おうじゃァねえか」
番「ごもっともでございます、少し騒々しゅうございます」
辰「そうしたらなんだかんだと変なことをいやァがって、癪にさわったから勘定をして飛び出したんだ」
番「さようでございますか」
辰「すまねえが今夜うちへ寝かしてくんねえ」
番「ヘエそれはようございますが、しかし辰さん今夜こっちへ寝て、明日になって向こうと仲が直って明日の晩また向こうへおいでになられると。今晩出た花魁に顔が立ちませんから」
辰「ばかをいうなってことよ。俺だっていったんこうと思い詰めたからは、なんで撚《より》を戻して向こうのうちなぞへ行くものか、どんなことがあっても向こうへは行かねえ。こっちの花魁へ二十でも三十でも玉《ぎょく》を付けてやろうよ」
番「ありがとう存じます。そんならお話をいたしますが、じつはうちの若柳《わかやぎ》さんという」
辰「ウムいい花魁だな」
番「この間からあなたのことをそういってるんでございます」
辰「冗談いっちゃァいかねえ」
番「イエほんとうで、向こうの紅梅さんはしあわせだ、辰さんのような人があるから、商売をしていても楽しみがある。ほんとうにうらやましいよなんっていっとります」
辰「冗談いうな」
番「まったくでございますよ、ちょうどアノ花魁のお客さまがお帰りになって、部屋が明いとりますから、私がひとつ花魁にお話しようじゃァありませんか」
辰「そうなりゃァ豪儀《ごうぎ》だな。アノ花魁が出てくれりゃァ、こんなけっこうなことはねェ」
番「じゃァただいま申し上げる通り、明日になって向こうへ撚が戻ると、こっちの花魁の顔が立ちませんから……」
辰「いいってえことよ。そりゃァ大丈夫だから、話をしてくれ」
番「よろしゅうございます、おあがんなさいまし」
それから二階へあがって、若い衆がばんばん話をすると、この若柳という花魁が、
若「マアほんとうにうれしいじゃァないか。けれども明日になってまた向こうへ行っちゃァいやですよ」
辰「誰が行く奴があるものか」
若「本当におまはんみたような人を粗末にするなんて、紅梅さんという人は、冥利《みょうり》の悪い人ですねえ。おまはんみたような容子《ようす》のいい人が、どこの風の吹きまわしで来たんだろう」
辰「ばかにするな、鉋屑《かんなくず》や低気圧じゃァあるめえし、風の吹きまわしで来る奴があるものか」
若「今夜は遅いからなにも取らないで、ここに少しお酒も食べる物もあるから、これで間に合わして、そうして明日の朝おまはんの帰る時に一ぱい飲んでご飯でも食べておいでなさいな」
辰「それはありがてえ」
サアこうなるとばかな親切、初会からばか厚遇《もて》、親元がどこで何年の年期で入っていつのいつかに年期が明ける。貯えがこれだけできて、というようなことをその晩スッカリ打ち明け話、初めて登《あが》ったような気がしない、辰さんばかにいい心持ちになってしまう。翌朝になると、わざわざ楊子《ようじ》をくわえて二階の手すりのところで向こうのうちを横目に見て、そっちでフラれてもこっちでモテるというような顔をしてにらんでる。それから一ぱい飲んでご飯を食べて帰る時に、
若「晩にもきっとですよ」
辰「来ずにいられるものか」
と、その晩また行く。その翌晩もというように凝《こ》ってくる。たまには向こうのうちの格子先へ立って、
辰「紅梅いつぞやのことを覚えてような。おめえのほうじゃァ振られても、捨てる神あれば助ける神だ。俺のような者でもまたなんとか思ってくれる花魁ができたんだ。ざまァみやがれ」
と、毒を流してこっちへ入る、妙なもので商売の意気張りずく、このまた若柳という花魁が勤めを離れてのもてなしに一週間ばかり、のべつに通っていたが、ある日のこと少し都合があって行かれない。その翌日今夜は行ってやろうと辰さん考えごとをしていると、ジャンジャンという半鐘《はんしょう》。
辰「オヤ火事だな。どこだどこだ」
△「なんでも見当は吉原《よしわら》だ」
辰「ナニ吉原だ。サアたいへんだ、吉原の昼間の火事とくると大きくなるぜ、こういう時にひとツ若柳に実意を見せてやろう」
とそれから蔵《しま》っておいた刺し子を出して、スッカリ支度をして、猫頭巾をかぶり、手鈎《てかぎ》を持ってズンズン吉原へ駈けつけて、大門のほうから入ってはなかなか行かれない。いっそ京町《きょうまち》のほうの河岸《かし》通りから非常口が開いてるだろうから、そこから飛び込もうと、だんだんはいって来ると河岸も大騒ぎでございます。鉄漿溝《おはぐろどぶ》の周囲《まわり》をまわって、なるたけ近いところから行こうという考え。なんでも刻限は午刻《ひる》ちっと前、花魁は前の晩のお客さまを送り出して、これからが自分の体《からだ》で、らくらくひと眠りしているとこの火事でございます。寝ぼけまなこで異様の姿をした奴が、大勢駈け出して来る。中には緋《ひ》の唐縮緬《とうぢりめん》の長襦袢《ながじゅばん》一枚、それもところどころ黒い汚点《しみ》のあるやつを着て、浅黄の唐縮緬の扱帯《しごき》をダラリと結んで、どういう了簡だか、腰のところへ煙管《きせる》を二本差して煙草の箱と金盥《かなだらい》をぶら下げて上草履ばきで逃げ出してくる奴がある。中にはまた赭熊《しゃぐま》が横ッ倒れになった上へ、頬被《ほおかむ》りをして上草履ばきで逃げ出してくるうろたえ者もある。もっとも昼間見るのでございますからまっくろけえの面《つら》のところへ白粉《おしろい》を塗ったのが、ところどころ禿げてるから化け猫みたような面の奴がゾロゾロ逃げてきて、
女「えらいおッ火事だね、ほんとうにわたしビックリしたわ」
男「なにをいってやがるんだ。火事なら火事でいいや。おッ火事だっていいやがる」
この中でまたからかってる男がある。なかにまた女郎衆の小力《こぢから》のあるのは尻をはしょって、葛籠《つづら》をしょって駈けてくる宙乗りの五右衛門《ごえもん》みたような女郎衆がある。ワイワイいう騒ぎ、少しも早く行って顔を見て、若柳に安心さしてやろうと、いま鉄漿溝のところを来ると、畳だかなんだか積んであるからこれを渡って行こうと、溜《ため》のふちへ来て、ヒョイと足を掛けるとたんにバラバラと駈けてきた女郎衆、
○「そっちへ行っては危ないわ。こっちへおいでよ、そっちへ行っては危ない」
と五六人の女郎衆がワアワア騒いでるうちに一人ボチャンと溝《どぶ》の中へ落ちた奴がある。なにしろ鉄漿溝だからたまりません。ワーッというとたんに腰のあたりまでもぐって、もがけばもがくほどだんだん入る。ヤレ可哀相に助けてやろうと思って、
辰「オオ手を出しねえ」
女「ありがたい」
というその顔をヒョイと見ると、前に愛想尽かしをされた紅梅だ。
辰「こンちくしょう」
紅「アラ誰かと思ったら辰さん」
辰「辰さんもねえもんだ。ちくしょう、てめえはよくもなんだな、夜中に俺を追い出しやァがったな。さんざん毒口を吐きゃァがった罰《ばち》が当たってざまァみろ、鉄漿溝へおっこちやァがった。沈むだけ沈んで泥水《どろみず》をウンとくらえ」
紅「アレ辰さん、お願いだから上げてちょうだいよ」
辰「くそを食らえマゴマゴしゃァがると、頭から小便をひっかけるぜ」
紅「そんな邪慳《じゃけん》なこというものじゃない、お願いだから上げてください、今度ばかりは首ッたけだよ……」
[解説]首ッたけとは身の程を忘れるまでに惚れ込んでいるということ、首に達するまで水があるということに掛けたサゲ、地口落ちのようでもあるが、ぶッつけ落ちのほうだろう。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
心眼《しんがん》
――――――――――――――――――
盲人の夢姿を見ず、つんぼの夢声を聞かずと申しますが、これは天性《てんせい》ご不自由のお方のこと、ところが中年から不自由になった人は、よく夢を見るそうでございますが、姿を見れば聞こえもする。つまり不自由でなかった時分に、見聞きしたものが、目に残り、耳に残っているのだろうと思います。
なかに一番お気の毒なのは、にわか盲人《めくら》。なまじい見えただけにいろいろな考えが起こります。第一、勘がわるいから粗相《そそう》が多い。馴れてしまえばまた盲人というものは、なまじい目明きよりも勘の良いものでございます。というのは心眼と申して心の目で見るために、気が散りません。目明きのほうは、腹のなかにどう思っていても、眼にいろいろなものが見えますため、あっちこっちに気が移るということがあります。
田舎から若い方が志を立って東京へ修行においでなさる。その時の腹の中には、たいがい大臣とか博士とかいうことが描かれておりますが、一度東京へ出てきて、美しい婦人などが目に入るようになると、たちまち腹の中の大臣も博士も消えてしまって、牛乳配達、新聞の夕刊売りぐらいで終わるのがずいぶんございます。シテみると目というものは危険千万なものでございます。そこへゆくと目の不自由の方はまことに安泰、芸事《げいごと》などもどうも盲人には名人が出るようでございます。
女房「どうしました、たいそう早く帰っておいでだが、横浜も思うようじゃァなかったとみえるね」
○「ウム、どうも不景気の時はどこへ行っても不景気、思ったように療治《りょうじ》もなかったよ」
女「それはいけなかったね、しかしどうも一体に不景気だからしかたがないと、あきらめるよりしかたがないが、けれどもおまえさん、たいそう顔の色が悪いじゃァないか、気分でも悪いのかい、エエ、心持ちでも、悪いの」
○「ナニべつに気分も悪いことはねえ、心持ちも悪いことはねえが、なにしろ歩きつけない道を横浜から歩いて帰ってきたものだから、スッカリ疲れてしまった」
女「なんだって横浜から歩いて来たの、いやだねえ、おまえさん、金《きん》さんに話をして、なぜ汽車賃だけ借りてこないんだね、そこが兄弟じゃァないか、どんなことをしたって立て替えておくんなさるのに、なんだって歩いて……アアおまえさん兄弟喧嘩をしてきたね、金さんとまた言い合いでもして帰ってきたんだろう、エエそうなんだろう」
○「ウム、……アア俺はなんでこんな不自由な身体になったんだろう、お竹《たけ》、くやしいや」
竹「なんだねえ、どうしておまえさんそんなに泣くんだよ、なにかくやしいことがあったのかえ」
○「ウム、聞いてくれ、いま言った通り、どうもあっちが不景気なんで、毎晩十二時過ぎ一時頃までも伊勢佐木町《いせざきちょう》通りを流して歩くんだけれども療治が思うようにない、療治がねえから思うように雑用《ぞうよう》〔日々の生活費〕を入れることができねえ、そうすると、アノ金公の野郎め、雑用をちっとも払わねえ、こいつがほんとうの食いつぶしだの食い倒しだのって……くやしくってくやしくってたまらねえから、野郎に食いついてやろうと思ったけれども、なにしろこういう不自由な身体、立ち上がればすぐに野郎にぶっ倒されてしまう、残念でならねえから、いっそのこと首でもくくってしまおうか身でも投げてやろうかと思ったけれども、俺が普段から感冒《かぜ》をひいて寝ても、おまえが気をもんでくれるのだから、俺が死んだと聞いたらさぞ後で嘆くだろうとこう思って、死ぬにも死なれず、元はというのも畢竟《ひっきょう》眼が見えねえから、あんな野郎にばかにされるんだから、俺は明日から茅場町《かやばちょう》の薬師様を一生懸命になって信心をして、この目を見えるようにしておもらい申す心算《つもり》だ」
竹「そうかい、どうもようすがおかしいから、おおかたそんなことだろうと思っていた、けれどもおまえさん、それはいけないよ、金さんは血を分けた真《しん》の兄弟、おまえさんには遠慮がないから、そうゆうことをいうんだろう、ナニ赤の他人なら、なかなかそんなことを言えるわけのものじゃァない、兄弟というものはマアなんと言ったところで、やはり後に残ってるわけでないから、おまえさんも、そんなことをいつまでも思わないほうがいい、あまり心配をして、身体でも悪くなるといけないから、そんなことは思わずにおいでなさい」
○「イヤそうでねえ、おまえはな、兄弟仲を悪くさせめえと、あいつをかばって、そんなことを言ってくれるが、なかなかそんな野郎じゃァねえ、野郎が赤ン坊の時分には、おぶったり抱いたりしてオレが姆《もり》をしてやった、その恩を忘れやァがって今オレがこういう不自由な身体になると、どめくらどめくらといやァがる、なんでも俺は一心になって目が明くように薬師様へお願い申すつもりだ」
竹「そうかえ、おまえさんがそう思い詰めたものを、どう留めたからといって留まる気づかいもないから、それじゃァ信心をしてごらんなさい、及ばずながら私も寿命を縮めても共におまえさんの目の明くように信心しましょう、なにしろ横浜から帰ってきたんじゃァ、さぞ疲れているだろう、サアサア床《とこ》を敷いてあげるから、今夜は早くおやすみなさい、あしたからのことにしましょう」
と、おかみさんが床を延べてくれる、横になったがくやしくってなかなか眠られない、そのうちに疲れが出ていつかトロトロとまどろみました。
さて翌日から浅草馬道《あさくさうまみち》より茅場町の薬師様へ三七《さんしち》二十一日の日参、どうぞこの目が明きまするように、両眼すずしくなりまするようにと一心に信心をいたしておりましたが、ちょうど満願の当日でございます。相変わらず手を合わせて一心に拝んでいると、
△「オイそこにいるのは梅喜《ばいき》さんじゃァないか、梅喜さん」
梅「ヘエ、どちらさまでございますか、私をお呼びなすったのは」
△「ヤア梅喜さん、おまえ、目があいたね」
梅「エッ目が、目……オオ見える、ヤア見える、薬師様のご利益《りやく》、エッありがとう存じます。へヘヘヘ見えます。見えます。指が一本二本三本四本五本、へ、六本七本八本九本十本、オ、ちゃんと見えます。アアありがたい、ご利益をもって見えるようになりました」
○「けっこうだけっこうだ、イヤわしはこのあいだからおまえンところへ迎いにやっても、ちっとも来てくれない、そんなに忙しいのかと思ったら、なにか目の明くようにこの薬師様へ信心をしていると聞いたから、アア無理なお願いだと思ったんだが、今日は八丁堀《はっちょうぼり》まで用達《ようたし》に来たから、この前やはり家内が薬師様のご利益で眼病が治ったからついでといっちゃァすまないが、お礼参りと思って来てみると、どうもおまえにうしろ姿が似ているから声をかけたんだが、イヤどうも人の一心というものは恐ろしいもんだなア、しかしおまえのおかみさんのお竹さんは感心だ、自分の寿命を縮めて、共々おまえの目の見えるように信心をしているという話を聞いたが、夫婦の一念が届いて薬師様のご利益を受けたのだろう、マア今後とても一層信心を怠《おこた》りなさんなよ」
梅「ありがとう存じます。シテあなたはどなたでございます」
○「どなたって、おまえ今日やきのうのなじみじゃァなし、声柄《こえがら》でもわかっているだろう。私は馬道の上総屋《かずさや》だよ」
梅「ヘエ上総屋の旦那、アアなるほど、そうだそうだ、目をつむってお声を聞くとよくわかります。マア旦那、喜んでくださいまし、もう見えるようになりましたから…いままであなたが、勘が悪い勘が悪いとおっしゃいましたが、もうあなたンとこの柱へ頭をぶち付けるようなことはございません、ありがとう存じます。しかし旦那さまなんでございますか、あなたはこれからすぐにお宅へお帰りになりますか」
上「アアもう用達もすんだし、これからすぐにうちへ帰る」
梅「さようでございますが、恐れ入りましたが、旦那ひとつご一緒にお連れなすってくださいませんか」
上「へんなことを言うじゃァないか、今までなればともかくも目が見えるようになったんじゃァないか、一人でサッサと帰れそうなものだ」
梅「それがね旦那、なまじい目が明きますと、サアどこかどうだか見当が付かなくなっちまったんで、どうかひとつお連れなすってくださいまし」
上「なるほどそう言われてみると、そうかもしれない、それじゃァ一緒に行くことにしよう」
梅「ありがとう存じます。少々お待ちくださいまし……アアどうも立派なものでございますな、毎日お詣りに来ておりますが、こんな立派なところとは思いませんでした。ねえモシ旦那なんでございましょう、アノ大きな……」
梅「アアあれは提灯《ちょうちん》だ」
梅「アア提灯ですか、イヤどうも目明きというものは不自由でげすな」
上「なにが……」
梅「なにがって、あんな大きな物をブラ下げて歩くんで」
上「冗談いっちゃァいけねえ、あれは納め提灯といって、人が持って歩く提灯じゃァない」
梅「アアそうですか、どうも立派だ、サアご一緒にまいりましょう……旦那旦那」
上「なんだえ」
梅「アノあれはなんで……」
上「あれは鎧橋《よろいばし》だ」
梅「ヘエー、鎧橋という橋なんて……」
上「アア鉄橋といって鉄でもって吊ってあるんだ」
梅「ヘエー、今まで私もアノ橋の上を通っていたが、目明きはまたこの辺の心配がありますな、いつこの橋が落ちるかわかりません」
上「ばかをいえ、落ちる気づかいがあるものか」
梅「そうですか、アア向こうから何か飛んできました」
上「ありゃァおまえ人力車だよ」
梅「ヘエー人力車ですか、お竹がよく、車があぶないから気をおつけなさいというなァあれでございますか、アノ上に人が乗っています」
上「ウムいい女が乗ってるな」
梅「ヘエあれはいい女でございますか」
上「いい女だ、芸者だな」
梅「つかんことをうかがいますが、私どものお竹と、いま行った女とどちらがいい女でございましょう」
上「冗談いっちゃァいけない、比べものになるものか」
梅「ヘエーお竹のほうが、ようございますか」
上「ふざけちゃァいけないよ、いま行った芸者は東京でもどこの誰という屈指《ゆびおり》のいい女だよ、おまえの前でこんなことをいうのはおかしいが、おまえンところのお竹さんはマア東京で何人というほどの醜《まず》い面《つら》だろう」
梅「そんなに醜うございますか」
上「そうだね、よく人が人三化七《にんさんばけしち》ということをいうが、おまえンところのお竹さんは、人《にん》なし化十《ばけじゅう》ッて、まず人間には遠い面だな」
梅「オヤオヤ、驚きましたなァ」
上「しかし梅喜さん、人は姿形《すがたかたち》よりただ心という、心さえ美しければいいじゃァないか、心においてはお竹さんはじつに美女だ、東京で幾人どころか日本に幾人という人だ、感心な者だ、話が出たからそういうがこのまえ雪の降った時、おまえに療治に来てもらったことがあるね、アノ時お竹さんが裸足になって、おまえの手を引いて、家まで連れてきて、また帰る時分に裸足で、おまえの手を引いて連れて行った、あとでオレはうちのかみさんに、梅喜の女房というものは感心なものだ、あれを少し見習えよと、いつも小言の出る時にはキットおまえンところのお竹さんを引き合いにするくらいのものだ、じつに感心な女だ、おまえも長年連れ添っているから、性質もわかっているだろうが不自由のおまえになるたけ心配をかけまいと、人の針仕事から手内職、寝る目もろくろく寝ないで稼いでいるのはじつに感心なものだ、しかし似たもの夫婦、割れ鍋《なべ》にとじ蓋《ぶた》などというが、容貌《きりょう》においてはおまえンところの夫婦くらいちがうものはたくさんあるまい、今いう通りお竹さんは醜い面だ、それに引き替えておまえは東京でいくらというほどの美男だ、おまえ浅草の春本《はるもと》の小春《こはる》という芸者のところへ療治に行くそうだが、アノ小春がおまえをたいそう褒めてるぜ、ナニ座敷に呼んだところでいろいろいい男の話が出て、マア当時役者じゃァ好男子は誰だ彼だといってるうちに、春本の小春が、好男子といったら私のところへ来る按摩《あんま》ぐらいいい男はないというから、わしが梅喜じゃァないかと聞くと、旦那よくご存じでというわけだ、じつはわしのところへも療治にくる、ほんとうにいい男だというと、あれで目が明いていたらたいそうなもので、女殺しでしょうねっておまえのことをたいそう褒めたぜ」
梅「アアそうでげすか、なんですかね旦那、つかんことをうかがいますが、アノ小春さんとうちのお竹とどっちがよい女でしょうね」
上「また始めた、一緒になりゃァしないよ」
梅「ハア小春さんのほうがようございますか」
上「そうだね」
梅「オヤオヤ、誰と比べてもうちのお竹のほうが悪い……、アア旦那旦那、あそこに乞食《こじき》が、女乞食がおりますね、あれとうちのお竹とどっちが」
上「まだあれより悪い」
梅「オヤオヤ乞食より悪いかな、驚いちまったなア、人間には遠い面というんだから……」
上「オイ梅喜さん梅喜さん、どうでもいいけれども、おまえ杖をつっぱって歩くのはよしたらよかろう、いままでなればともかくも、目が見えるようになって、杖を前へつっぱって歩くのはおかしいじゃァないか」
梅「なるほどこいつはおかしい、話に夢中になってツイ癖になってるもんだから、旦那ここはなんてえところで……」
上「毎日通るだろう、浅草の仲見世《なかみせ》だ」
梅「モー仲見世、待ってくださいよ」
しばらく杖に手を突いて、目をつむって考えておりましたが、
梅「ヤーなるほど、そうだそうだ、目をつむってみるとわかります」
上「オイみっともないよ、人が笑っているじゃァないか」
梅「ヤアそうだ、毎日通るんだけれども、これほどとは思わなかった。恐ろしい人ですなア……ねえ旦那、私はいつも御堂へ上がってお詣りすることはございませんが、今日は目があいたからひとツ上がってお詣りをしてゆきましょう」
上「そうかえ、それじゃァ俺もつきあう」
梅「どこも立派なものでございますなア、一寸八分の観音様がこんな大きな御堂に入っている姿は小さくとも、智恵はあるとみえますね……南無大慈大悲正観世音菩薩《なむだいじだいひしょうかんぜおんぼさつ》……」
大きな声を上けて拝んでいたが、
梅「ヘエ旦那おまちどおさま、どうか連れて行ってくださいまし……ちょっとちょっと危ない、旦那危のうございます、向う側に人が立っています」
上「ナニ誰も居やァしない」
梅「あんなにゴテゴテおります……」
上「ありゃァこっちの人が鏡へ写るんだ、アノ坊主はおまえだよ」
梅「ヘエー、じゃァなんですか、私の姿が向こうへ写るんで……アアなるほど、私が手を動かせば向こうも手を動かす、これが私ですか、アアよい男だ」
上「なにをいってるんだ」
権「じゃァつまり隣に立ってるのはあなたですな、まずい面だなア」
上「なんだって」
梅「しかし旦那、力を落としなさんな、人は容姿《みめかたち》よりただ心というから、心さえ美しければよいので」
上「人の真似をしちゃァいけない」
梅「アハハハハ、イヤありがたいなァ自分の姿が自分に見えるんだからな、今までは自分で自分がわからなかったが……オヤ旦那がどこかへ行ってしまった、上総屋の旦那ァ……アア今あんなことをいったもんだから、腹を立って置きっぱなしにしてしまった、けれどももうナニここまで来ればもう一人で帰れる。ソロソロ出かけてみよう……」
女「ちょっとそこにいるのは梅喜さんじゃァないかい」
梅「ヘエどなたでございます」
女「マア梅喜さん、おまえさんほんとうに目があいたのねえ」
梅「ヘエあなたはどなたで……」
女「いやだよ、私は小春だよ」
梅「エー春本屋の姐《ねえ》さん、なるほどいい女だ」
小「なにをいってるんだねえ」
梅「姐ねえさん喜んでくださいまし、目が明きました」
小「よかったことねえ、今アノ上総屋の旦那にそこでお目にかかったら、小春おまえが……アノなんだぜ、よく噂をする、梅喜が目が明いたとおっしゃるから、私はお詣りもしないで来たんだが、マアよかったね、梅喜さん、お利益《りやく》というものは恐ろしいものねえ」
梅「へエ姐さん喜んでください、見えるようになりました、お蔭さまで……どうかまた相変わらすご贔屓《ひいき》を願います」
小「ほんとうにおめでたかったね、じゃァ梅喜さんお喜びに一口あげたいと思うがつきあっておくれでないか」
梅「ヘエお供いたしますとも、どこへでもまいります」
小「それじゃァ一緒に来ておくれ」
その頃あい、富士下《ふじした》に釣り堀と申します連れ込みがございました。ただいまでいうなら待合茶屋で釣り堀の婆さんといって、その時代浅草|名代《なだい》のお世辞のいい婆さんがおりました。これへまいりまして小春は梅喜と差し向かい。
こっちは梅喜の女房お竹でございます。上総屋の主人とヒョックリ出合い、片時も早く知らせて喜ばせてやろうと、これこれと話をしたからお竹は喜び、観音様のお堂の姿見のまえへ来てみると、梅喜の姿は見えません、どこへ行っだろうと、あっちこっち見まわしながら来ると、富士横丁のほうへ芸者と二人でゆくうしろ姿が亭主の梅喜に似ておりますから、ハテあれかしらんと、あとを追ってきますと釣り堀へ入りました。幸いに見とがめるものもないから後からついて入りまして、植え込みの影へはいって、ようすを見ております。そうとは知らずこちらは二人差し向かいで、
心「梅喜さん、サァ遠慮なしにたくさん食べて飲んでくださいよ」
梅「イエもうなんでございます、たいへんにちょうだいいたしました」
小「ちっとも食べないじゃァないか、お食べなさいよ、お椀が冷めてしまうよ」
梅「ヘエありがとう存じます、姐さんお椀というのはこれで……ヘイ蓋のあるお椀ですね、私どものお椀には蓋がございません、立派なお椀ですね、じゃァごちそうになりますよ……アアどうもうまいなァ、みそ汁でございますな」
小「みそ汁というとおみそのお汁だけれどもこれはおつゆだよ」
梅「アアそうでございますかお魚が入っております、私どものみそ汁は菜っ葉ばかりで、……姐さん姐さんこれはなんでございます」
小「それはまぐろのお刺身だよ」
梅「ヘエーまぐろと納め提灯《ちょうちん》の色と同じようでございますね」
小「そんなもったいないことお言いでないよ、しかし梅喜さん、ほんとうにけっこうだったね目が明いて、その代わりおまえさんもこれから罪作りだよ」
梅「ヘエーなんでございます」
小「イエサ、今までもずいぶん私どものお朋友《ともだち》で、おまえさんに岡惚《おかぼ》れをしているものがいくらもあるんだから、目があいた日には、ほんとうにみんなうっちゃっちゃァおかないよ、女殺しだよ、けれどもおかみさんがあるからね」
梅「ナーニ、あってもなくっても同じようなもので……」
小「なに」
梅「イエ、あってもなくっても同じようなもので」
小「なぜ」
梅「姐さん人三化七《にんさんばけしち》というのはありますが、人《にん》なし化十《ばけじゅう》というんで、よっぽど人間に縁の遠い面だから今までは知らずに持っておりましたが、明いて見れば、あんなものはみっともないから女房に持っちゃァいられません」
小「アラ、じゃァなにかえ、ほんとうにおかみさんをよす心算《つもり》かえ」
梅「エー、あんな嬶《かか》ァは持っちゃァいられません」
小「それじゃァ梅喜さん、ものは相談だが、どうだろう、私と夫婦になってもらえまいか」
梅「姐さん、ジョジョ冗談いっちゃァいけません」
小「冗談じゃァないほんとうだよ、岡惚れも三年すれば何とかいうが、長い間おまえさんのことを思っていたんじゃァないか」
梅「姐さんほんとうでございますか、あなたがそういう気なら、私はアンナ者を明日とはいわずこれから帰って今すぐにたたき出してしまいます」
と、話しているのを植込みの陰に聞いておりました梅喜の女房、堅い女だけに、こういう時には我慢ができません、恥も外聞も忘れてしまってバラバラッとそこへ飛び込みきたって、梅喜の胸倉をとって、
竹「エーッ梅喜さんおまえぐらいひどい人はない、人に長らく苦労をさして、今になってなんぼ目が明いたからといってアンナ女房は持っていられん、明日ともいわず今日すぐにたたき出すとは、どの口でおまえそんなことが言えた義理だえ、私は今まで食べるものも食べないでもおまえに不自由をさせたことはないよ、寒い思いをさせたこともありゃァしないよ、梅喜さん、それをおまえが不実に私を捨てるというはあまりといえば情けない、私はおまえに捨てられればどうせ生きてはいない身体、死んで恨みを晴らすからそう思っておいで」
と、突然前の池ヘドブーン、飛び込みました。
梅「アアお竹や、オレが悪かった勘弁してくれ、お竹や……」
竹「梅喜さん、モシおまえさん、たいそううなされてなにか怖い夢でも見たの、サア起きなさい梅喜さん梅喜さん」
梅「アッお竹、オレが悪かった堪忍してくれ」
竹「どうしたんだね梅喜さん、まだ目が覚めないのか梅喜さん、エエなにか怖い夢でも見たのかえ」
梅「夢、オオ、じゃァ今のは夢だったか……アア恐ろしい夢を見た」
竹「どんな夢を見たんだえ、たいへんうなされて」
梅「オーお竹、おまえいったい何をしていたんだ」
竹「私はいま夜が明けたから、台所で働いていたんだよ」
梅「そうか、じゃァ池へ身を投げて死にやァしねえか」
竹「なにをいってるんだね、どんな夢を見たの、話をお聞かせな、私が身を投げた夢でも見たのかえ」
梅「ナニ、なまじい話をしねえほうがかえってよい」
竹「サア梅喜さん夜が明けたよ、ご飯を食べたら昨日の約束これから二人で茅場町の薬師様へお詣りに行き、おまえさんの目のあくよう、私の寿命を縮めてかまわないから、共々信心をしようねえ」
梅「お竹、すまねえ、イヤもうオレは信心はよそうよ」
竹「なんだね昨日までアンナに思い詰めていた者が、どうして信心をやめる気になったのだえ」
梅「ナニ、めくらだって不自由はねえよ、寝ている時だけよく見える」
[解説]円朝が門人某の実話を落語にしたものだという。上々の作である。サゲは間ぬけ落ち。文楽の十八番であった。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
お見立て
――――――――――――――――――
「女郎買い振られて帰る果報者」「傾城《けいせい》に可愛がられて運の尽き」という狂句にある通り遊廓《くるわ》などはあまり行くべきところではございません。
ところが若いうちは後で穴のあくのも知らないで、夢中になって通う。理窟はまたいろいろとつけようで、女郎のほうに言わせると、振るのがあたりまえ、どんなきれいな人でも、また我々のようなものでもやっぱり客で、まさか汚いから物置きへ入れるというわけにもいかず、同じように客にしなければならない。自然いやなものは振るというような勘定で、マア身の程を考えれば、行かないとするよりほかにしようのないところでございます。しかしどんな立派なお方でも振られて蒲団の上に坐っているくらいまぬけなものはございません。
花魁「だれだえ、そこへ来たのは」
男「ヘエ、花魁、まことにすみませんが、どうもあなたのように、そう一つ所にばかりいらっしっては困るじゃァございませんか。さっきから手が鳴って、行くたんびにどうも、それがなにか無法に腹でも立つなどというお客さまなら、ずいぶん取り扱い方もございますが、そうでないんで、あのお客の皮肉といったら、マア酒飲めとか話をしろとかいって、だいぶ忙しいようだが明け方までには俺のほうへも来るだろうかなどというんで、まことに困りますんで、どうかおいやでもございましょうが、五分間でもあなたがそばへおいでなすって今夜は忙しくていけないんだよとか何とかおっしゃれば、それで気がすむんですから、おいやでもどうぞ……。失礼ながらいやな客も我慢して勤めるから、これを苦界などというんだろうと私は思うんで」
花「なまいきなことをお言いでないよ。苦界も十界もあるものかね、五分間も十分間もおまえたちに勤めの指図などはされないよ。いやだからいやだというんだ。考えてごらんな、わたしはあの人のそばへ行くとぞっとするよ」
男「ぞっとするほどいやな者と、あなたなんだって夫婦約束なんぞをなすったんで」
花「それはおまえ、おととしだよ、おまえも知ってる通り、借金だらけでしようがなかったから、融通にしたんだァね」
男「これは驚きましたな。ところがむこうは融通と心得ていないんで、ほんとうに夫婦になる気なんで、いやに亭主がって、明け方までには俺のところへ来るだろうなんて、気の長いことをいってるんで」
花「しようがないねえ、面倒だから患《わずら》ってるとかなんとかいっておおきよ」
男「患ってるといったところで、どうも困りましたね。どういう病気で、何という医者にかかってるなどといわれた時に、何といいましょう」
花「なんだってかまやァしないやね。ただ身体が悪いんだといっておきゃァいいよ」
男「身体が悪いったって、病気の名に困りましたね。寝てるといやァどこに居るか、俺が顔を見せてやったら、少しは心持ちがよくなるだろうとか、気が晴れるだろうとかいわれると……」
花「しようがないね、いっそ跡腹《あとはら》の痛めないように死んじまったと、そう言っておくれな」
男「死んじまったとは、どうも恐ろしく思い切りましたな。いくらなんでも死んだとはいわれません。何月の何日に死んで、病気はなんだ診断書を出せのなんのといわれると困ります」
花「診断書なんて、そんなことをいう気づかいはないよ」
男「それでも亭主気取りでいるんですから、やかましく聞くにちがいありません」
花「じゃァなにか死にそうな病気がいくらもあるだろう、何とでもおいいな」
男「死にそうな病気だって、どうも眼が悪くって死んだというのもおかしゅうございますがな。足へ底豆《そこまめ》ができて死んだってえのも……」
花「しようがないね、いくらでも死にそうな病気があるじゃァないか」
男「それはあります。まず脳溢血《のういっけつ》だとか」
花「そんなのはいけないよ」
男「肺病《はいびょう》、肋膜《ろくまく》」
花「それもいけないね」
男「そう選り好みをしちゃァいけませんね」
花「なんとかありそうなものだ」
男「じゃァ威勢よく気が狂って咽喉《のど》を突いて」
花「縁起が悪いね」
男「縁起のいい死に方てえのはありません。どういうことにしましょう」
花「どういうって、おまえも長年|廓《くるわ》でご飯を食べてるんじゃァないか。そのくらいの智恵が出ないかえ、なんとでもいえるじゃァないか。ちょうど半年ばかり来ないんだろう、半年おいでがございませんところから、花魁は毎日焦がれていて、あなたのことばかりいいずめで、とうとう死にましたとかなんとか……」
男「なァるほど、さすがに花魁はうまいもんでげすな。じゃァ出ちゃァいけませんよ。出っくわさないとも限らないから、いずれのちほどお目にかかりますから、お礼をどうぞ」
花「なんだねえこの人は、お礼はするからこれぎり来ないようにやっておくれよ」
男「ヘエマアおやすみなさいまし……。ええ旦那どうもまことにお淋しゅういらっしゃりましょう」
客「アア誰だと思ったら喜助さんか、なんでここへ来て頭べえ下げてるんだ。他人行儀の真似ェしねえで、こっちへ入ったらよかんべえ。退屈でならねえが、酒でも飲め」
男「へえ旦那さま、まことに相すみませんが、少し花魁のことにつきまして申し上げなければならないことがございましてな。ヘヘヘヘ、で、上がりましたので、まことにハヤお気の毒さまで」
客「なにが気の毒なことがあるかね。あのことなれば、決して心配《しんぺえ》するな。あれがまわって来ようが遅いからといって、俺は手をたたくの、嫉妬《じんすけ》を起こすなんて、そんな野暮な人間でねえ。あれが来ようが遅ければまず商売繁昌で、客人が多ければ従って主人も儲かるだ、損したといわれると肩身が狭《せめ》えが、あれゆえに主人が儲かったといわれれば、喜ぶとも腹を立つ訳柄《わけがら》でねえ」
男「ヘエ、どうも恐れ入りましたが、じつはあなたさまが半年ばかりおいでがございませんところから花魁が毎日、今日はおいでだろう、今夜はいらっしゃろうかといって、お案じ申して、お癪《しゃく》ばかり起こしていらっしゃるんで、もっとも持病がございますが、まことにどうも困りました」
客「それがあれのわがまま病気だ。癪などという病気は昔あったか知らねえが、今時ねえ病いだ。他でかまいつけるからいかねえだ。放っておいてくらっせえ」
男「ヘエ、どうも半年ばかりおいでのないところから毎日毎日」
客「いやさ、それがわがままだ。この前も俺がそっと帰《けえ》るべえと思うと、どこで嗅ぎつけたか、はしご段の降り口まで追いかけて来て、私を捕めえてどうしても放さねえ、なぜ内緒で帰る。帰るなら帰るように納得させて帰るがええ。内緒で帰るとはどういうわけだと俺をこづくだ。マアきさまに留められると思うから、それで俺は内緒で帰るとこういうと、なんでも帰さねえ、もう一日遊んでいってくんろというから俺は理窟をいって聞かした。きさまはなぜそうものがわかんねえ。のちに夫婦になると、あれほど約束してあるじゃァねえか。してみればきさまが今主人の身体でなければええが、主人の身体である。昼間一日遊んでいったら三円なり五円なり金がいる。その金というものはおらが金だ。おらの金だったらば、きさまの金も同様でねえか。それみろ、そうすれば、二人の身代が三円なり五円なり、欠けるちゅう、その理屈がわかりそうなものだとこうおらが言ってやったら、ほろほろ涙こぼして、人はどうか知らねえけれども、わたしは惚れた男ゆえ欲も徳もいらねえとこういうだから手におえねえだ」
男「ヘエまことにごもっともさまで、ある日のこと、ひどく二階が雑踏いたします中で、花魁がまたお癪というんで、私もじつは腹を立って、毎日毎日癪だ癪だと、みなわがままから起こることだ。そのたびに手がふさがってしまって忙しい中で困るじゃァございませんか、花魁たいがいにおしなさいましと、小言《こごと》をいいながら、そばへ行ってみると眼をパッチリ開けておいでなさるんで、花魁、どうなさいました。しっかりおしなさい、くだらないことをくよくよお思いなさいますなと私がいうと、喜助さんかとおっしゃったばかり、いい塩梅に落ちついたようでございますから、しっかりなさいよというと花魁が、何にもいわずにほろほろ涙を流して、千葉の杢兵衛大尽《もくべえだいじん》はどう遊ばしたろうと、一言おっしゃったのがこの世の別れ、はかなく息は絶えにけりとございました」
客「なんだ、それっきりになったと……」
男「ヘエ、真《しん》にお可哀相に焦がれ死にをなさいました。ただあなたさまのことばかりいいづめで、ああいうおとなしいお妓《こ》さんだもんですから、あなたより他に男はないと、こう思っていらしったので、それが絶えておいでがなかったところからとうとう焦がれ死にをなさいました。長らくご贔屓《ひいき》になりましたが、どうぞこれまでのご縁とおあきらめを願います」
客「ウーム……どうもハア宵の口から平常《ふだん》とちがってなんだか陰気臭え、どうもただごとではあんめえと思わねえではなかったが、まさかにハアそんなこととは夢にも知らなんだ。しかしハア考えてみると、焦がれ死になぞというは昔の人間だ。恋煩いをするの、焦がれ死にをするのという、そんなことは当時ねえわけだ。なにか病根といって、病いの根がなければ死ぬなんて、そんなばかなことはねえ、何か病根をきさま知っていべえ」
男「ヘエ、それがまったく焦がれ死にで」
客「焦がれ死にだって、他に何か病気があったればこそ、死ぬようなことになっただろう。けれども病気なれば病気といってよこしせえすれば、見舞いぐらいには来てやるものを、あれっきり来なかったのもおらが悪かったが、なんとか沙汰《さた》をすればええだ。思えば不憫《ふびん》というは、死ぬる臨終《いまわ》の際《きわ》までも、ここにいるために、いわば籠《かご》の鳥で、顔を見てえからといって、見ることはできず、会いてえと思っても会うこともできねえところから、臨終の際までも、千葉の杢兵衛大尽さんは、どう遊ばしたかと、ふふおらがことばかり案じて死んだかと思うと、それがまことに不憫でなんねえ」
男「ふふッふふッ、まことにどうもごもっともさまで、ご病中その他|葬式《ともらい》や何やかや、私が取り仕切ってお世話をいたしましたが、思い出してもなんだかお可哀相でございます。まことにハヤ何ともお気の毒さまで」
客「けれどもマア男らしくもねえ、泣いたってどうしたって、死んだものが蘇生《いきかえ》ってくるわけがねえ。あきらめなくてはならねえが、しかし夫婦は二世という、いったん夫婦と約束したものが、マア死んだんだからそれでいいというわけにもいかねえ」
男「ごもっともさま、ご情愛としても、どうもそういうわけにもなりますまいが、どうぞ無きご縁とあきらめくださるように長らくご贔屓さまになりまして、ありがとう存じます。さようなれば……」
客「なんだ、なにがさようならばだ、どうもきさまは不実者だぞ、なんぼ薄情稼業《はくじょうかぎょう》でも」
男「さようなれば、どういうことにいたしますな」
客「どういうことといって、寺詣りをして和尚にあって経の一巻も読んでもらい、線香の一把ぐらい手向《たむ》けて花の一本も上げてやりてえ。寺はどこだ」
男「ヘエ……これは気がつかなかった。お墓参りはどうも恐れ入りましたな」
客「恐れ入らねえでもいい。もうかれこれ夜明けに間もあるめえ。寺は早起きのものだ。案内しろ」
男「ヘエ」
客「寺へ案内しろよ。どこだ寺は」
男「さようでございます。お寺はそのなんでござります。さようですなァ」
客「なにがさようだ。きさまは葬式万端、骨を折ってくれた人間だから、寺へ案内してもよかんべえ」
男「ヘエ、寺はこのなんでございます。堤《どて》を向こうへ下りますと、山谷《さんや》でございますな。あの裏通りはなかなか寺の多いところで」
客「多いもすくねえもねえが、山谷か」
男「ヘエ山谷で」
客「山谷なればまんざら遠方ではなし、そろそろ出かけてもよかんべえ」
男「ヘエ」
客「案内賃くれてやったらよかろう」
男「ヘエ、ではござりますが、私も主人から給料をもらっておりますので、たといお客さまのご用でも勝手に出るわけにはなりません」
客「それはきさまはこのうちの奉公人ということは俺も知ってるが、主人へ断わって行ったら仔細はあるめえ」
男「ヘエ、それではただいまご主人へ申しまして、それからご案内いたします。ヘヘヘヘ」
客「笑いごッちゃァねえ、早くしろ。いそぐんだから」
男「ただいますぐ申します……。サアたいへんなことができた。……花魁、冗談じゃァございません。わけがわからねえでしようがありません」
花「帰ったかえ」
男「帰るどころじゃァございません。めそめそ泣き出して、寺へ行って和尚に経の一巻も上げてもらいたい。花の一本も手向けてやりたいから、案内しろとこうきたんで」
花「お寺が遠方だから、ご案内はできませんといえばいいじゃァないか」
男「それがちょっと口がすべって山谷だといってしまったんで、山谷なら近いからすぐに案内しろとこういうんで」
花「しようがないねえ。もっとも山谷へ行けばお寺がたくさんあるから、いい加減のところへひっぱって行って、墓場へ入ってごらん。ズッと石塔が並んでるなかで、なるたけ新しそうなのを見つくろって……」
男「ヘエ、私もずいぶんこれまでほうぼう食客《いそうろう》をいたしましたから、おかずの盛りようのよいのは見つくろったことはありますけれども、石塔の見つくろいは初めてで」
花「わたしだってこんなことは初めてだよ。いいかえ、うまくやっておくれ」
男「ヘエよろしゅうございます……どうもたいへんなことになるもんだ。しかし考えてみると振られるのは当然だ。花魁だっていやだから死んじまったぐらい言いたくなる。ずいぶん醜《まず》い男もあるけれども、あのくらい醜い男というものは、世間にあるわけのものじゃァない。鼻があぐらをかいたというのはあるが、ありゃァ寝転んで足を投げ出したという鼻だ。鼻の穴が真向《まっこう》に向いておれば、悪口におもちゃの竈《へっつい》とかなんとか言うんだが、あのお客のは真向じゃァとても見えない、いつだったな、二階から用があって降りてゆく時に、あの客が浄手場《ちょうずば》に行って下からあがってきた。あの時に初めて鼻の穴を見た。どうもおでこが黒くなってるから痣《あざ》でもあるのかと思って、花魁に聞いてみたら、坐ってぱくぱく煙草《たばこ》ばかり喫《す》ってから、それでくすぶるんだといった。ずいぶん行儀の悪い鼻があるものだ。サア困ったな。これから的《あて》なしに連れ出すんだが、うまくごまかせればいいが……、エエおまちどおさま、ただいまちょっと花魁に……イエナニそのその内所へ申し上げたところが、主人の申しますには、それは定めて花魁がお喜びになるだろう、お寺へお連れ申して、なるたけ新しい、イエその見つくろって、ご祝儀などはくださるだろうかと、こういうなんで……」
客「なんだ。祝儀の催促をしねえでも、なんでも心得ている人間だ。サアここにちゃんと包んである。一包みはきさまに骨折りとしてくれてやるだ、一包みは和荷さまに塔婆《とうば》の一つも上げてくだせえと出すだ。それにばら銭がここにあるだろう。それで花だの線香を買うようにきさまに渡しておくから」
男「じゃァさっそくご案内申します」
客「忙しいなかを気の毒だが、サアもう夜が明けたようだ。寺は早《はえ》えものだから、たしかに門が開いているにちげえねえ、イヤ下駄などを直さねえでもええ、気の毒だなァ。しかし長《なげ》え間きさまに下駄を直してもらったが、もうきさまに下駄を直してもらい納めだと思うと、なんだか心細いな……。夜明け方はなんとなくええ心持ちだな」
男「ヘエさようでございます」
客「山谷へ来たが、どこだ、寺は」
男「ヘエ、山谷はここでこの通りにはあんまり寺がございません。横丁へ入ると裏通りは門並《かどなみ》寺で」
客「門並もなにもいらねえ、案内者だから知っていべえ。花魁の寺へ案内すればええ」
男「へえ、ここはなかなか良い寺で」
客「良い寺でも悪い寺でも案内せえすればええ」
男「ヘエああこれだ。この何はどうも大した寺でござります」
客「ハア、これはなかなか大寺《おおでら》だな」
男「ヘエ大寺で、段々を上がると敷石があって、門がございます」
客「たいがい寺には門がある。何宗の寺だ、宗旨は」
男「ヘエ、大丈夫で」
客「なにが大丈夫だ、宗旨はなんだというだ」
男「ヘエ、寺の宗旨はその、なにしろ花魁が内気の性分でいらっしゃるものだから、それがためにただもう一途にあなたのことばかり思いつめて」
客「コレみっともねえ往来で……、もう花魁のことをいってくれるなというに、忘れべえ忘れべえと思ってるに、後からあとから思い出すようなことをいうだから困る。そんナことを聞くわけでねえ、寺の宗旨はなにだよ……。ハーア暈酒不許入山門《ぐんしゅさんもんにいるをゆるさず》、ウーム禅宗《ぜんしゅう》だな、察するところ……」
男「ヘエ、禅家宗《ぜんけしゅう》で」
客「禅家宗などというのはねえ、禅寺《ぜんでら》だ」
男「エエ禅寺宗で」
客「禅寺宗てえがあるか、ばかだな、禅宗だ」
男「たしかに禅宗、大丈夫禅宗」
客「花はこの門に売っていべえ」
男「さようですな……。アア売ってます売ってます」
客「きさま案内者じゃァねえか、あの花桶へ水を汲まなけりゃァだめだ。その桶の中へ花を差して、片手へ線香を持って行け。あれ線香へ火をつけて持って行かなけりゃァならねえ、どっちへ行くだ」
男「ヘエ……なんでもこの見当で」
客「ここに墓場入り口と書いてある」
客「ああここここ、まちがえたんで」
客「案内者でねえ、不案内者だ、それでは」
男「たしかにここが入口で、これから入るとズーッと墓が並んでおります」
客「墓場だから墓が並んでいべえ」
男「どうもこの墓が長いのだの、短いのだのあって景色がようげすな」
客「山や川じゃァあるめえし、墓場に景色のいいも悪いもあるものか。どこへ行くだ。このまわりを歩いてもしようがねえ、どこだ」
男「ヘエ、ツイど忘れをいたしたんで、なんでもこのへんで、右側か左側のうちで」
客「ばかベエ言ってる。右か左かどっちだ」
男「ああここでございます。これこれ」
客「ハアこれか。どうも花ひとつ上げてねえ。不実社会だな、長え間ひとつ鍋の物を食い合っていながら、遠くもねえところだに、墓参りひとつしてやる者もねえというは……、掃除しろ掃除しろ、それがために水を汲んできただ」
男「ヘエ掃除をいたします。花魁が定めしお喜びでござりましょう。恋人がいらっしったのだからどんなにお喜びか知れません。花魁、あなたよくお聞きなさいよ。旦那さまがご親切にお墓参りをしてやろうというんで、私がこうやって来たんでございます。きっと花魁が地の下で、あら宅《うち》の人が来たんだよってんで、ねずみ鳴きかなにかしていますよ、チュッチュッ」
客「ばかァ、なんだ、無駄口をきかねえで、掃除をきれいにしろよ。水を上から掛けなけりゃァいかねえよ。ゴミがそこに付いていらァ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。ナァ喜助、こんなことになるとは、別段に俺がやかましいことをいうでなかっただ。障子の開閉《あけたて》もそう粗相《そそう》ではいかねえから、モッとていねいにしろよといって、マア末長く添い遂けべえと思えばこそ、行儀作法まで直して小言ばっかし言っていたが、それがマア、みなむだになってしまった。よく虫が知らすてえことをいうけれども、全く虫が知らすということもまんざらねえわけではねえ」
男「ヘエー、なにか手前のことでも虫が知らせましたか」
客「イヤ、われのことじゃァねえけれども、いま俺が考《かんげ》え出しただが、あの晩ぎりおらが来ねえだった。思い出せばあの晩に限っておらがの取り扱《あつけ》えがまるでちがっただよ。いつもハア邪慳《じゃけん》のことばかりいってる人間が、あの晩に限ってやさしげにマアなんだよ、おらが夜中に目を覚まして、酔醒《よいざめ》咽喉《のど》が渇いていかねえから、一杯もらえてえもんだというと、いつもならなかなか汲んでくれるところでねえ、おめえさまだって手も足もあるべえから、自分で汲んで飲んだらよかんべえなんて、邪慳なことをいう人間が、自分で汲んできてくれた。おらが湯飲みを取ってごっくり飲んで、われが汲んできてくれた水だから、別段にうめえようだというと、世の中に女房に世辞いう者があるかと、こう言うだからおらがなにも世辞いうわけでねえけれども、うめえような心持ちするだ。宵に飯食わなかったもんで、腹ァ減ってなんねえとこうおらが言ったら、わたしもお腹がすいたというから、それなれば飯にすべえというと夜中に飯食ったら毒だから雑炊《ぞうすい》にしてあげべえって、自分がまめまめしく立って鍋に汁が残っていた、それに飯取り分けてぐつぐつ煮ていたが、少し経つとできたから起きて食べたらどうだというから、起きるなァ大儀だから、ここへ持ってこうとおらが言っただ。すると腹ァ立って、病人ではあるめえし、蒲団の上で飯食う奴があるか、こっちへ来て食べたらどうだ。それじゃァそこへ行くべえって、膳に向けえ合って、おらは気がつかず、ざくざく食ってると、おらが顔をながめてぼろぼろ涙ァこぼしているだ。なんでわれ涙こぼすだ。あまり急いで食って咽喉にでもつかえたかとこういったら、おめえさまはそんな気楽のことばかりいってるだが、夫婦になるべえと、かねて約束はしてあるけれど、男の心と秋の空で、おめえさまの心持ちが変わったら、一つ膳のあっちとこっちへ向かえ合って、もう再び飯食うことができねえかと思うと、案じられて悲しくなるだとこういうから、決してそんな心配するな。おらはもう他に女というものはねえとあきらめてるだから、とこういってやった。すると涙ァ拭きながらニッコリ笑ってそれが本当ならじつにうれしゅうこぜえますと、こういうから、ナニそんな心配することはねえ、それよりかサッサと食ったらよかんべえというと、また箸を休めてるから、なんでそんなに泣きてえだな。身体でも悪くしちゃァなんねえというと、おめえさまの心も変わらず、わたしの心は決して変わるわけのものでねえから、願い通り夫婦になるべえが、まだ二三年は借財も抜けめえと思う、その二三年の間が冬は冷えるし、夏はなおさら辛《つれ》え思いをするだ。こんな稼業をしているから、いつ何時どんな病気でも起こって、おめえさまに再び会われねえようなことができやァしねえかと思うと、それがハア案じられて、食べ物が咽喉に通らねえとこういうだ。それからハア決してそんなくだらねえことを思うなッて、おらがしげしげ意見してやったが、あの晩だけは日頃のわがままに似合わねえで、取り扱えぶりがちがった。あれらが虫が知らしただろうとこう思うだ。それだからハア男らしくもねえ。泣いたってしようがねえけれどもあきらめがつかねえだ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、四十九日は屋《や》の棟《むね》に魂がいるとか、宙に迷っているとかいうが、そうしたらおらが言うことがわかるべえ。もうハア生涯|寡夫《ごけ》で暮らすからな、浮かんでくらっせえ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、ええ戒名《かいみょう》はなんというだ……安蒙養空信士《あんもうようくうしんし》……安蒙養空信士、ハテナ明治六年|酉年《とりどし》……コレ明治六年といえば何十年という昔だ……」
男「ヤツ、まちがえました、まちがえました」
客「あきれちまった、他人の墓を掃除して花まで上げて気のつかねえ奴があるか」
男「どうも恐れ入りました。隣とまちがえたので」
客「こっちか。形が似てるならまちがえるということもあるが、こんな太《ふて》えのとこんな小《ちっ》けえのとまちげえる奴があるか……。これは少し曲がってるだ。花一本手向ける者のねえというは、不実のもんだ。縁あって夫婦の約束までしたおらだ。われがこういうことになったと知るからはどうせ離れているから線香も絶やさねえというわけにはいかねえけれども、青い花だけは絶やさねえつもりだ。今も隣で愚痴ィいったから、われも聞いたろうが、どうぞ迷わねえで、浮かんでくれよ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……知善童子《ちぜんどうじ》……童子といえば子供の戒名だ、大正十二年……これは大地震の年だ」
男「ヤッ、またまちがった」
客「コレばかにするな。二度まで他人の墓の前で涙ァこぼさせて、またちがったもねえもんだ。あれの墓ァどれだ」
男「ヘエ、ズラッと並んでおりますから、お見立てを願います」
[解説]昔女郎が張り店をしていた頃の噺、現在では、その張り店の説明からしておかないとサゲがわからない。サゲは間ぬけ落ち。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
身代わり石
――――――――――――――――――
豊「伯父さんこんちは、ごぶさたをいたしました。ごきげんよろしゅう」
伯「オオ豊《ゆたか》か、どうした、久しく見えんだったが勉強しているか」
豊「ヘエ、盛んに勉強しております」
伯「そうか、なんでも勉強せんければいかん、母は変わりはないか」
豊「ハイ、おっかさんも壮健《たっしゃ》に働いております」
伯「それはけっこうだ、なにか用か」
豊「ハイ、他ではございませんが、伯父さんに少々ご相談があってまいりました」
伯「ウム」
豊「アアして母も壮健ではおりますが、なにを申すももう年でございますから、いつまでも働かしておきますのも心苦しく少し楽にさせてやりたいと思っております」
伯「ウム」
豊「ついては、はなはだなんでございますが、私妻を一人もらおうと思いますがいかがでございましょうか」
伯「ヤアそれはよかろう、もうおまえも嫁を迎えていい年頃だが、なにか相応の者があるか」
豊「ハイ、これならば私もよかろうと思う婦人が一人あります」
伯「ハア」
豊「容貌《きりょう》は十人並みチトすぐれているほうで、それで教育も相当にあり、文字《もんじ》などもなかなかよくいたします」
伯「ハア、それはけっこうだな」
豊「まず女一通りのことは備えておりまして、茶、花もいたし、だいいち人応待《ひとおうたい》が非常にいいです」
伯「ハア、申し分ないな」
豊「ハイ、その婦人が大いに私を愛してくれます」
伯「フフン、それで、その婦人はどこのご令嬢だ」
豊「さようご令嬢というほどの者ではございませんが、ただいまはちょっと他に奉公いたしております」
伯「ハアア、それはけっこうだ、奉公ということは婦人でも男子でもしなければならんことだ、人間は他人の飯《めし》を食わんければいかんということがある、行儀《ぎょうぎ》見習いのため奉公しているのか」
豊「エー、それが人にだまされてチト妙なところに奉公しております」
伯「ハア、どういうところに居る」
豊「どうも居るところが良くないです」
伯「どこだ」
豊「浅草ですがな」
伯「ナニ浅草」
豊「ハイ」
伯「浅草も広い、今戸橋《いまどばし》あたりにはだいぶお屋敷もあるが、どこだ」
豊「イエ屋敷ではございません」
伯「フーム、どのへんじゃ」
豊「じつはソノ千束町《せんぞくちょう》におります」
伯「千束町、なにをしている」
豊「エー特種喫茶店のハトというがありまして、そこに奉公しております」
伯「ヤアそれはいかん、そういうところにいる婦人などという者は、俗に醜業婦《しゅうぎょうふ》というやつで、男子をあざむくために、ちょっと学問でもありそうな口を利き、女学生の零落《おちぶれ》たような装いをする、それがあれらの手だ、おまえがあまり柔順《おとな》しいからそういう婦人にだまされたのだ、先方は商売でうまいことを言ってる、どうもそういう婦人ではおまえの妻としてうちへ入れることは私は許さん。だいいちおまえ、勉強していると言いながら、そういうところへ立ち入るというは、けしからんことだ」
豊「イエ立ち入るというわけではありませんけれども、いつぞやの日曜に映画を見に行きまして千束町のほうを散歩しますと、うしろから私の名を呼ぶ婦人があります、振り返ってみると、その婦人で、どうもしばらくでした、ちょっと寄って行ってくださいと、先方は私を知っているようでありますから、誰かと思ってちょっと寄りました、ところがじつに下へも置かんように親切に扱いくれまして、非常にその婦人が私に恋着《れんちゃく》しております」
伯「コレコレばかなことをいうな、伯父の前をはばからず、けしからん奴だ、それがきさま、だまれているのだ」
豊「けれどもですな、伯父さん、そう一様《いちよう》にはいわれませんよ、あアいうところにいる婦人だからといって、いわゆる泥中《でいちゅう》の蓮《はす》、ずいぶん相当の身分の者が不幸にして賎業《せんぎょう》に身を沈める者もなきにしもあらずです、まず私の見たところではじゅうぶん教育もあり、つまりある場合人のためにだまされてアアいうところへ入ったので一日も早く正道《せいどう》へ出て、この苦界をのがれたい、こういう望みで、伯父さんの前ですけれども、本人は非常に私を恋しております」
伯「まだそんなことをいってる、あくまできさま、だまされているな」
豊「イエだまされてはおりません、実際惚れております、今もし私が妻にはしないといえば、あれは落胆の結果、生きておりません、愛情きわまってかえって私を恨んで死にます」
伯「ばかッ、ますますあきれたな、どうもきさまにも……」
豊「イヤ伯父さん、あなたはその婦人をごらんにならんから、ただ賎業婦とか醜業婦とか罵倒《ばとう》してご排斥《はいせき》になりますが、ともかくも一度行ってごらんなすってください、ごらんなすった上で、なるほどこの婦人ならばとお見込みがついたらどうか妻にしてください、ごらんくだされば、私に真実惚れておるかおらんかということがおわかりになります」
伯「どうもきさまのような己惚れの強い奴はないな、よく考えてみろ、きさまは女が惚れる面《つら》か、よく面を見ろ、身内のオレが見てもあまりいい男ではないぞ」
豊「イエ伯父さんそれはいけません、人間真に惚れるというは容貌《きりょう》の点ではございません。昔の女はとにかく、今日の婦人は多くこの精神に惚れます」
伯「なまいきなことをいうな、しかしそれほどにきさまが言うならば、次第によって妻にしてやらんこともないが、実際その女がきさまに惚れておるかいないか、今一応試してみろ」
豊「なるほど、私はもう試す必要はないと思いますが、しかし伯父さんがそうおっしゃるなら、試してみましょう、けれどもどういうふうに試したらようございましょう」
伯「そうさな、まずその婦人が実際おまえに惚れていて、おまえが妻にしなければ死ぬとまでいってるものならば、むろん命を投げうってまでもと、思い込んでいるのだろう」
豊「もちろんでございます」
伯「それなら情死《じょうし》を持ち込みなさい」
豊「ハア、心中《しんじゅう》をしてくれと頼みますか」
伯「さようじゃ、それで速やかに応ずるくらいの婦人ならいいが、これに応ぜんような者ならば惚れてるのでも、なんでもない、おまえがだまされているのだ」
豊「それは私が死んでくれといえば必ず共に死ぬといいますけれども、伯父さん実際死んでしまったら、夫婦になることができません」
伯「イヤそれが狂言だ、いよいよ死ぬという瀬戸際《せとぎわ》まで行けばそれでいい」
豊「ヘエー、いよいよ死ぬという瀬戸際まで行ったところでどうします」
伯「その一刹那《いっせつな》なんとか工夫をもって助ける手段を取る、まず情死といえばなにがよかろう、鉄道往生《てつどうおうじょう》をやるか」
豊「そりゃァ伯父さん危険ですな、もし過《あやま》って死んでしまったら、しかたがありません」
伯「それではどうだ身投げは」
豊「なるほど身投げは陽気がいいからようございましょう、けれども私は泳ぎを知りませんがな」
伯「泳ぎを知らんでもいい、今飛び込もうという一刹那、助けることにするから」
豊「なるほどそれなら大丈夫ですな」
伯「まず身投げの場所は、向島《むこうじま》だな、向島が身投げの本場としてある、昔から心中は向島に限る」
豊「ヘエ向島はどのへんがよろしゅうございましょう」
伯「さようさ、竹屋の渡し場のあたり、三囲《みめぐり》の鳥居を見て、よく芝居でもやるな、アノへんでやれ」
豊「それでは伯父さん、その婦人を向島へ連れてまいりますが、イザ飛び込もうという一刹那、どうして助けてくださいます」
伯「それはうちに居る小林という書生な、あれはだいぶ道楽をした奴で、そんなことには気転の利いた男だから、小林を先へやっておくから安心をして、その女に悟られんように、いよいよ飛び込むというところまで猶予《ゆうよ》なくやれ」
豊「ヘエ、それはうまい趣向ですな、じゃァどうか小林に伯父さんから頼んでください」
伯「よし、オイ小林……」
小「ハイ」
伯「ちょっとここへ来てくれ」
小「ハイ……なにかご用で」
伯「イヤじつはこいつ、ばかな奴でな、ある賎業婦に惑溺《わくでき》して、ぜひこれを妻にしたいというから、オレが許さんといったところが、当人非常に逆上をしておって、先方の婦人は死ぬほど惚れておって、もし妻《さい》にしてやらんければ落胆して死ぬとまで言っていて、なんと諭《さと》しても更に聞き入れん、ソコデ今その女が実際惚れておるか惚れておらんかを確かめるために、心中を迫ってその心中《しんちゅう》を試すということになった、実際惚れておらなければ、すぐに断わるであろうから、この男も夢が覚めるにちがいない、もしまたこちらの言葉に応じて心中をしようといったら、その場所は向島の竹屋の渡し場のあたりと決めておくから、その時間を定めておいておまえ先へ向島へ行っていて、いよいよこれがその女と共々身を投げようとしたら、その一刹那飛び出して助けてもらいたい、飛び込ましてしまってはいかん、どっちも泳ぎを知らんのだから、いいか」
小「ハイかしこまりました、しかしこれは非常の大役ですよ、お手当は多分に出ましょうか」
伯「うまくやってくれれば手当は取らせるから、先へ行って待っていてくれろ」
小「よろしゅうございます、けれども向島は心中のたくさんあるところでありますから、もしまちがって他のを助けたらなんにもならんですが、なんですか提灯《ちょうちん》でもつけておりましょうか」
伯「ばかをいえ、心中をするのに、提灯をつけて行く奴があるか」
小「それではどうも今死のうという場合に見分けているわけにまいりませんから、間に合いませんな、なんとか工夫はありますまいか」
伯「そうだな」
豊「デハ君こうしよう、ぼくがその婦人と二人で念仏をいう、たいがい心中をする時には念仏をいうよ、なんとかいった、覚悟はいいか南無阿弥陀仏……」
小「けれども心中をする者がみんな覚悟はいいか南無阿弥陀仏と文句がきまってますから、いずれがあなただかわかりません」
豊「なるほどそれもそうだ、なにかうまい工夫はあるまいか……あるあるこうしよう、覚悟はいいか南無阿弥陀仏、エヘンとひとつ咳払いをする」
小「なるほど、その咳払いが合図ですな、ではその咳払いのほうはなるたけ大きくやってくださらんといけません」
豊「よろしい、その場合にはぼくも一生懸命で、咳払いだけことに大きくやる、それじゃァぼくはその婦人と同道して向島へ行くから……」
小「いつやります」
豊「さよう、今日これから行って話をして今夜出かけることにしよう」
小「それは急ですな」
豊「ナニ早いほうがいい」
小「あまり夜が更けるといけません、トいって宵の口でも困ります、何時ごろに出かけます」
豊「さよう、十時ごろに向島に行くようになる」
小「そうですか、それじゃァ私は十時前九時半ごろから先へ行ってます」
伯「デハ小林頼んだぞ、サアこれは骨折り賃の手付けだ」
小「ヤアありがとう存じます」
伯「また首尾よくやってくれれば、さらに礼をする」
小「どうもけっこうですな」
豊「デハ伯父さん、おいとまいたします。いろいろご心配をかけてありがとう存じます。小林さんお頼み申します」
と、ここを辞して例の女のところへ出かけてまいりました。
豊「ヤアこんちは」
女「オヤいらっしゃい。どうしましたあなた、ちっともいらっしゃらないで……」
豊「イヤ来ようとは思ってるけれどもツイどうもうちがやかましいので、日曜のほか出ることができん、今日はちょっとごまかして出てきた、どうだねお花はおるかね」
女「ハアお花さんは二階におります……ちょっとお花さん、アノ豊さんがいらしってよ」
花「アラマアそう、どうぞこちらへ……」
豊「ヤア、あがってもいいか」
花「おあがんなさい、誰も居りませんから」
豊「じゃァ失敬する……、オイ花子」
花「ハイ」
豊「ぼくなァ、君に少し相談があって来た」
花「なんです相談というのは」
豊「じつはな、ぼくはかねて話してある通り、まだ親がかりの身分であるが、だいぶ親の金を費消《ひしょう》した、ところがおふくろの前はどうにかごまかしてしまうつもりであったけれども、後見としている伯父の耳へこれが聞こえて非常に面倒になって、このぶんではとてもいま至急に君を迎えて妻にすることもできず、進退きわまってとても生きているわけにいかん、どうもしたかがないからぼくは死のうと覚悟をした」
花「マア」
豊「ついては君はかねて、ぼくのためなら生命《いのち》もいらんといったな」
花「そう」
豊「相談というのは他ではない、どうかぼくと一緒に死んでくれたまえ、心中をするんだ」
花「マアそれはたいへんねえ、だってあなた死ななくってもどうにかなりそうなもんじゃァありませんか」
豊「それが、もうどうにもならんのだ、どうにかなるくらいなら死ぬなどという相談はしない、とてもしかたがないから死ぬと覚悟をした、君が何もいわんけりゃァ君のところへ相談に来はせんけれども、ぼくとならば生死《しょうし》を共にする、ぼくと添うことができなければ死ぬと君いつか言ったろう」
花「それはマアその時の場合でそんなこともいったでしょうけれども、どうも困りましたね、どうにかしてせめて二た月三月、日延べをなさいよ」
豊「イヤもう猶予していられん、君いまさらそんなことをいわんで死んでくれ、前にいったことが真実なら一緒に行ってくれたまえ、ねえ君頼む」
花「……そう、じゃァマア行きますけれどもどこへ行って死ぬんです」
豊「きまってる、心中の本場だから向島へ行って身を投げるんだ」
花「じゃァ飛び込むんですか」
豊「そうだ」
花「デモわたし泳ぎを知らないわ」
豊「泳ぎを知ってちゃァ容易に死ねない」
花「そう、困りましたねえ……」
豊「それともぼくと死ぬのはいやか」
花「いやじゃァないんですけれども……じゃァ行きましょう」
豊「そうか、ありがたい、デハ一緒に死んでくれ」
花「じゃァ今ちょっと下のバツを合わせて出かけますから、一足先へ出て角に待っててください」
豊「よろしい、まちがいないように……」
花「じき行きますよ……、姉さんたいへんなことができちまったの」
女「どうしたのさ」
花「イエネ、あの人、いくらかお金があると思ったから、うまいことをいって惚れたふりをしていたんですよ、そうしたらほんとうに惚れてると思って、一緒に死んでくれというんですよ」
女「アラマアあきれたねえ、それからどうしたえ」
花「しかたがないから死のうと請け合ってしまったの」
女「おまえほんとうに死んだら困るじゃァないか」
花「ナニ向島へ行って身を投げるというんですから、堤《どて》まで行ってなんとかごまかして帰ってきます」
女「それじゃァ死なないで帰ってきておくれよ」
花「ハアようございます、じきに帰ってきます……あなたおまちどおさま」
豊「アアお花かだいぶ長かったな、どうしたうちの首尾は」
花「うまく行きましたよ」
豊「じゃァ出かけよう」
それから連れ立って向島の堤へやってまいりましたが、お花は逃げよう逃げようと考えている。
花「寂しいことねえ」
豊「ヤァ寂しいけれどもこれが心中の本場だ、にぎやかでは死ぬことはできん」
花「そりゃマアそうですねえ」
豊「覚悟して来たんだから、そう怖いも寂しいもない、サァいいか」
花「じゃァ死にましょう、けれどもどうしていいんだかようすがわからないから、あなたちょっと先へ飛び込んでみてください」
豊「ばかをいえ、心中というやつはたいがい二人で一緒に飛び込むもんだ」
花「だけれど、わたしちっともようすがわからないから見本を見せてくださいな」
豊「じゃァこうしよう、手を引き合って死のう」
花「そうですか、けれども深いでしょうね」
豊「死ぬのになにも深い浅いを心配しないでも、これだけ水があればたいがい死に損なうことはないよ」
花「死に損ないませんかねえ、……じゃァようございます、死にましょう」
豊「よしゃァ、覚悟をしろ、いよいよ死ぬぞ」
花「あなた大きな声ねえ」
豊「死ぬ時にはなんとかいうな、そうそう覚悟はいいか、南無阿弥陀仏」
花「わたし、南無阿弥陀仏でないわ」
豊「なんだ」
花「南無妙法蓮華経《なむみょうほうれんげきょう》」
豊「工合が悪いな、南無妙法蓮華経は、今日だけ南無阿弥陀仏にしておけ」
花「じゃァ、おつきあいに南無阿弥陀仏にしましょう」
豊「よし、じゃァ死ぬぞ……」
小林に聞えるようにわざと大きな声でどなっております、小林は一足先へまいりまして、もういまに来るだろう、来たらこういう塩梅《あんばい》に留めてみようと、しきりに身投げを助ける稽古《けいこ》をしているところへ巡査がまいりまして、これを狂人《きちがい》と見なして連れてッちまったあとへまいりましたから、いくら合図をしても出てきません。
豊「ヤアこりゃァどうも死ねんね」
花「だからよしましょう」
豊「よさん、どうしても死ぬ、一緒に死なんければしかたがない、別々に死のう」
花「それじゃァあなた先へ飛び込んで見せてください、わたしあとからすぐ飛び込みますから」
豊「そうか、じゃァそこに見ていないで、少し川下《かわしも》のほうへ行ってくれ、おまえがそこにいると思うと、未練で飛び込めんから」
花「ようございます……、じゃァこの道で……」
豊「ヤアそこらでもいかん、モットズーッと下のほうへ行け」
花「このへんでようございますか」
豊「見えるか」
花「見えます」
豊「そこらに立ってちゃァ気が差していかんな、モット、下へさがれ……、どうだ、もう見えんな……、アアあいつオレと共に死ぬとまで言いながら、伯父さんのいった通りまったく偽りであった、真に死ぬ気なんぞない、けしからん奴だ、どうせだまされたのなら、こっちでも死んだふりをしてあいつの神経を痛めさしてやろう……、サアオレは飛び込むぞ、オレが飛び込んでしまってきさまはもし生きてると承知せんぞ、きさまの家へ化けて出てとり殺すからそう思え、いよいよ飛び込むぞ」
ソレ見ろといいながらそばにあった大きな石を取って川の中ヘドブーンと投げ込んだ、ほうり込むと共に闇を幸いヒョイと身を縮めてこっちの掛け茶屋の下へもぐり込んでようすをうかがっております。
花「アラマア恐ろしい水音がしたが、とうとう飛び込んじまったよアノ人は、マア罪なことをしたねえ、たった一言一緒に死ぬといったもんだから、心中してくれなッて、こんな稼業をしていればそのくらいのこと誰にだって言うワ、そのたんびに死んだ日にゃ命がいくつあっても足りゃァしない、先方が本気にするのが悪いんだよ、けれどもあたら男を殺しちまったのは気の毒だったねえ、たまに思い出すことがあったらお線香の一本もあげるから、それで堪忍してくださいよ、トいうもののなにか言ってたよ、オレが死んだあとで生きてると、化けて出てとり殺すてなことをいってたから、あんな正直な人だからほんとうに化けて出るかも知れない、それもいやだねえ、……アアいいことがある、ここに大きな石がある、この石をほうり込んでやろう、ドブンと音がしたら、飛び込んだと思って往生するだろう、ちょっとあなた、アノネ、あなた一人殺しちゃァお気の毒だから、わたしも死にますよ、ようございますか、一緒に死にますよ、南無阿弥陀仏」
念仏とともに大きな石を川の中へドブーンとほうり込んで一目散に逃げだし、ゼイゼイいいながらうち帰ってきて、
花「ねえさん、ただいま」
女「どうしたえおまえよく帰ってきたね、一人かえ」
花「ハア」
女「アノ人は……」
花「どうしても一緒に死ぬんだって袂《たもと》を押さえて放さないんで、困っちまったんですが、ようやくのことで先へ飛び込んだから、わたしもすぐ帰ってきたら怨むだろうと思って、飛び込んだふりをして石を投げ込んで逃げてきたの」
女「マアそりゃァ可哀相なことをしたね、これからあまりおとなしい者に死ぬなんてえ約束をおしでないよ」
花「なんだかわたしゃァ気味が悪い、ビッショリ汗かいちまった、まだお湯があるでしょうか、一風呂入ってきますから」
女「アア早く行っといで、もう閉めちまうから」
石鹸《しゃぼん》と手拭いを持って風呂へ行って帰ってくると、四角の暗いところにボンヤリ男が立っております。
花「オヤ気味が悪い、なんだろう、もう豊さんが化けてきたのかしら」
ヒョイと見るとたんにむこうでもこっちを見て、顔と顔を見合わせると、
豊「オイきさまはお花か」
花「アラマア豊さんどうも、久しぶりねえ」
豊「なにがお久しぶりだ」
花「だってあなた、娑婆《しゃば》で遇ったきりじゃァありませんか」
[解説]「星野屋」「辰巳の辻占」「踏台」などと同工異曲の作である。サゲは「百年目」と同じで、トタン落ちである。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
剃刀《かみそり》
――――――――――――――――――
人間は何歳《いくつ》になりましても、色気というものは必ずなくなるものではない。息のかよってる間は、みな色気と欲気は付いているものだと申します。お年を召してご子息に世をゆずり、楽隠居《らくいんきょ》というので、お頭《つむり》をまるめて、十徳などを着て、表面から見るとたいそう堅固に見えて、それで内々浮かれていらっしゃる方がずいぶんあります。外面が堅くって芯《しん》が軟《やわ》らかい、日なたの食パンみたようなもので、
隠居「オヤ親方どうしたえ」
親方「これはご隠居さん、どちらへ」
隠「今日はお天気もよいし、うちにばかりいても体のためよくないから、ブラブラ運動に出かけたよ」
親「そうでございますか。そりゃァけっこうで」
隠「おまえさんどこへおいでだ」
親「ヘエ、きのう、ばかに店が取り込みまして、今日はすこし暇でございますから、ちょっと照降町《てりふりちょう》まで買物に行ってきました」
隠「アアそうかえ。時に親方、おまえに先日頼んでおいた剃刀はどうしたえ」
親「エーちょうどいいのがありました。これならお素人《しろうと》にちょっと使えようと思いましたから、いま長谷川町《はせがわちょう》へまわってスッカリ|ムラ《ヽヽ》を抜かしてきました」
隠「ドレお見せ」
親「これでございます」
隠「なるほど、これはたいそう工合がよさそうだ。なるほど……」
親「どうもご隠居さん、往来へ立って、髭《ひげ》をそってちゃァいけません」
隠「ちょっと切れ味を見なければわからんからね、……なるほどこれは使いいい、いくらだったえ」
親「ヘエ先日おあずかりをしたんで、|おつり《ヽヽヽ》になります」
隠「そうかえ、それは安かった。ナニつりはいらない。イヤ大きにお世話さま。どうも店へ行って親方に頭《つむり》をそってもらう間にも、私は若い時分から、一日おきぐらいに、この髭をサッとうちで撫でておかないと、まことに気色《きしょく》の悪い性分で……」
親「だからごきれいですなァ。ご隠居さんはお年を召しても、いつもおきれいだってみんな噂をいたします」
隠「イヤナニ年をとるときれいにしても自然に爺《じじ》くさくなるものだから、私などもなるたけきれいにしているのさ」
親「ごもっともでございます、ついてはご隠居さん、往来中で妙なお話をするようですが、あなたなんですな、チョイチョイ吉原へお繰り込みだそうで……。ナニ隠してもいけません、種があがっています」
隠「オヤオヤだれがそんなことをいいました」
親「店へくるお客で、この間遊びに行くと、京町のところでご隠居さんをお見かけ申したそうで、京町の電気が柱の上で光ってるのに、柱の下でもピカピカ光ってるなァたいへんだと思ってよく見たらご隠居さんの頭だったって……」
隠「冗談じゃァない。おまえのところは人出入りも多いし、若い者がチョイチョイ行くんで、そんなことをいうんだろうが、マア親方がおまえだから話をするがね、人間というものは、金をためるのはけっこうだ、けっこうだけれども無理にためてもいけないものだ、稼ぐだけ稼いで、使うだけ使って、それで残ったのでなければ、ほんとうに残ったのではない」
親「ごもっともでございます」
隠「私などは若い時分にはずいぶんこれで道楽もし、いろいろなことをして、それでもマアいくらか金ができた。ところが私には似ず、伜《せがれ》がばかに堅造《かたぞう》で、一生懸命に稼いでくれる。婆さんには早く死なれてしまって、その後|妾《めかけ》でも置けばいいようなものだが、そんなことは、伜や嫁の前もあるからして、じつはソノ妾手掛《めかけてか》けなんぞ置かずに、おまえ吉原ヘチョイチョイ繰り込んで、浩然《こうぜん》の気を養うというようなことでな」
親「けっこうでございますな。あなたはお気がお若いから、やっぱりお頭《つむり》にしても、きれいになさるようなもので、私なども、ずいぶん若い時には、ばかをして、親方のところへ付馬《つきうま》〔遊客についてゆく掛け取り人〕を引いて行ったりなにかして、いろいろなことをやりましたが、今じゃァマアあんな店でも一軒持って、親方とかなんとかいわれてれば、職人の手前もあり、弟子《でし》の前もあるんで、まさかばかもできませんで堅くしちゃァいますが、しかしご隠居さんの前ですが、世の中に遊興《あそび》ぐれえおもしろいものはございませんね」
隠「じゃァやっぱり親方もきらいじゃァないかい」
親「大好きでげすが、そういうわけでこのごろはよんどころなく堅くなって、吉原のほうへもあまり行きません。どうでげす、いい折がらだがご隠居さん、今夜どうせ運動にお出かけなさりゃァ、まじめにお宅へお帰りじゃァありますまい。吉原へいらっしゃるならお供をしようじゃァありませんか」
隠「そうさな、行ってもいいな、だが親方、店の都合はいいかえ」
親「エー今日は閑《ひま》でございますから、ぜひひとつお連れなすって」
隠「じゃァ出かけようか」
のんきな隠居さんもあるもので、往来中で理髪床《かみいどこ》の親方と相談ができて、どこかで汐待ちに一杯やろうと、公園あたりをブラブラしながら、ちょっとした小料理屋へ入って飲んでいるうちに早や黄昏《たそがれ》、
隠「アアいい心持ちになった。親方どうだえ」
親「エー私もばかにいい心持ちになっちまいました。いろいろごちそうさま」
隠「さっきから見るところ、おまえはあんまり酒の質《たち》が良くないようだな」
親「ナニ私の酒は猫みたような酒で……」
隠「そうでない、顔に出ないで、だんだん青くなって、目がすわるところを見ると、あんまりいい酒とは思われない」
親「ナニそんなことはありません。アアばかにいい心持ちになった。これから先もう少し飲めば、ただ人のいうことが癪《しゃく》にさわるだけで、そばにあるものをたたき付けて、ちょっとマア暴れるくらいなんで」
隠「それがよくない、そんなばかな真似をされては困るよ。私も隠れてマアたまに浩然の気を養うために遊びに行くんだから、もしむこうへ行って、おまえ女郎屋でまちがいでもあったら困るから」
親「大丈夫でございます。そんなことはご隠居さんご心配なさらねえでも、決してまちがえなんざァしませんから」
隠「なるたけマアおだやかにやってくれないじゃァ困る。遊びに行ってもゴタゴタするようなことではなんにもならないから」
親「よろしゅうございます。時になんでげすか、おなじみがありますか」
隠「私にはなじみはない」
親「だって、チョイチョイおいでなすって、なじみのないというのはおかしゅうげすね」
隠「それがさ、年をとってなじんで行けば余計に銭もいれば、たまには無心のひとつも言われるというものだから、なるたけ初会か再会《うら》ぐらいにして、あれだけある女郎屋だから、どこへでもチョイチョイ見世《みせ》をかえて遊びに行くほうがおもしろい」
親「ヘエーなるほど、やっぱりあなたは商人《あきんど》ですねえ。ちょっと遊びをするにも算盤《そろばん》を取ってかかるんだから……もっとも年をとって行けばいくらか嫌がられ賃を出さなけりゃァ。むこうでいい心持ちに遊ばしてくれませんからね。勘定高くって助兵衛《すけべえ》なんだから、手がつけられねえ……」
隠「オイオイ親方、いやなことをいうね。ソロソロ始めたぜ」
親「大丈夫、こんな冗談のひとつぐれえを言わなくっちゃァ酒もうまくねえから」
隠「マアマアなんでもいいから行こう」
二人ながら風に吹かれて、いい心持ちになって、吉原へ繰り込みました。
隠「親方どこにしような」
親「どこでもようごぜえます」
隠「どこでもいいッたって、なるたけよさそうなところへ……」
親「どうですえこのごろの見世の体裁は。いやだいやだ、クサクサしてしまう。なにがってごらんなさいな、金ピカで彫りがしてある。まるで仏壇みたようで、お寺さまへ行ったような気がする。ここへ登《あが》ろうじゃァありませんか。見世がお寺さまみたようで、坊さんが遊ぶんだからまんざら因縁のねえこともなかろう」
隠「つまらないことをいいなさんな」
若者「いらっしゃいまし。エーお手軽さまにいかがさまで……」
親「オーお手軽さまでも、お手重さまでも、そんなこたァかまわねえ。おまえンとこには|オツ《ヽヽ》な女がいるな」
若「ヘエ玉ぞろいでございます」
親「褒めりゃァ図に乗って玉ぞろいだってやがる。玉だっていい玉ばかりじゃァあるめえ。中にはキズの入ったのもあるだろう」
若「ご冗談さまで、とにかくお登りを願います」
親「オーご隠居さん」
隠「なんだ」
親「こう並んでる中で、どの代物がようがすね」
隠「そうさな、オレの見たところじゃァ上《かみ》を張ってるのが一番いいな」
親「ヘエー、私もじつはあれに目をつけたんで……」
隠「二人で一人の女に目をつけてもしようがない」
親「じゃァこうしましょう。私はアノ次ので我慢しましよう。若い衆さん」
若「ヘエ」
親「アノ上を張ってる花魁《おいらん》はなんというんだ」
若「エー上の花魁は籬《ませがき》さんとおっしゃいます」
親「いよいよお寺だ。なんぼ客が坊主だって、籬さんとはうめえ名を付けたもんだ。その次は」
若「お次は溝萩《みぞはぎ》さんとおっしゃいます」
親「いやだぜ、冗談じゃァねえ、盆みたようだなおめえンとこは、むこうが籬、その次が溝萩、こっちに蓮《はす》の飯《い》さんだろう」
若「恐れ入ります。どうぞおあがりを……ありがとうございます。ヘエおあがりだよ」
トントントン広いはしごをあがって引き付けへ通るまでが身上《しんじょう》だそうで、こっちへというので引き付けの座敷へ入る。籬に溝萩の二人がドタン、バッタン、ドタンバッタンあがって来る。幸いお座敷もあいてるので初会からポンと籬の座敷へ入る。
親「食い物をドシドシ持ってきな」
といろいろな物を取り寄せて、行き渡るものは行き渡ってしまい、ちょっと器用の遊びをしているうちに、あまり酒のよくない人でございますから、下地のあるところへまたつぎ込んで十分に酔ったからたまらない。向こうで女郎が耳こすりなぞする奴を見ると、
親「オー花魁、たいそう話がもてるな。エー、なんぼ初会だっておもしろくもねえ、そばへきて酌《しゃく》のひとつぐれえしてもよかろう」
隠「親方、マアいいやいいや。初会や再会《うら》じゃァ気心も知れないからしかたがない」
親「隠居さん、いやに贔屓《ひいき》をしなさんな、おもしろくもねえ……、なにをッ」
女「お酌をしていいんですか」
親「べらぼうめえ、酌をして悪い奴があるが、敵娼《あいかた》に買われたからにゃァ、酌のひとつぐれえするなァあたりめえだ。笑かしやァがる、おもしろくもねえ、さっきから見ていりゃァオツーおかしく澄ましていやがる。花魁とかなんとかいやァいい気になりゃァがって……。てめえたちは花魁なんてえ面《つら》じゃァねえ。白粉《おしろい》を塗って赤え仕掛けを着て頭へ赤熊《しゃぐま》の髷《まげ》をのっけて、どうやら形が花魁みたようだというんで、洒落に花魁といってやるんだ。あたりめえの扮装《なり》をしていりゃァ化け物とまちがえられらァ、工場で退場《ひけ》を打つとゾロゾロ出てくる女工の内にも、てめえたちみたような屑《くず》はねえや」
隠「マアマアそんなに言わないで勘弁しておやりよ」
親「勘弁しろッたって、隠居さんいやに女の贔屓をするね。こちとらァあたりめえのことをいうんだ」
隠「それがおまえ酒が悪いんだ」
親「なにが酒が悪い、ごちそうをするなら、するように、こころよくごちそうしねえ。なんだ、うまくもねえ酒を飲ませやがって、正宗《まさむね》だ正宗だといやァがって、鞘《さや》ばかり正宗でも、中身は村雨《むらまさ》だ。ムラムラと酔ったと思うと、スーッとさめちまう。こんないかさまの酒を持ってこねえで、正真正銘の酒を持ってこい。刺身だっておもしろくもねえ、ツマばかりゴテゴテあって、なんだ幾切れあると思う」
隠「マアサみっともない、女郎屋のものは高いにきまってる」
親「高えにもほどがあらァ、なにをいやァがる禿頭《はげあたま》」
隠「ばかばかしいな親方、馳走酒《ちそうざけ》に食らい酔ってブーブーいうのはあんまり立派じゃァない。私はおまえの姆《もり》をしにきたんじゃァないよ。これじゃァ遊びにきても楽しみにならない」
親「隠居さんオツーいいなさるね。エー。おもしろくもねえ。頭がまるくって心が四角ばってちゃァ世話ァねえ、上がまるくって下が四角なら、い組の纏《まとい》だ。なにをいやァがる凸凹《でこぼこ》め」
隠「なにが凸凹だ、いい加減にしろ」
親「あたりきよ、凸凹だから凸凹だというにふしぎはねえや。ざまァ見やがれ」
隠「親方いい加減にしなさい。エー、黙ってりゃァいい気になって、すきなことをいってる」
親「すきなことを言ったのがどうした」
隠「それだからおまえは酒が悪いというんだ」
親「よく酒が悪い悪いというな。悪いところまで酒を飲ませたかい。なにをいやァがる。もうこんなところにゃァいられねえから俺はよそへ行く」
隠「行けとも、俺もてめえみたような酔狂人《よっぱらい》のそばに付き合っちゃァいられねえ」
親「こっちもいられねえや。もうろく爺《じじい》なにをぬかしやァがる。くそでも食らやァがれ……」
女「親方なんですねそんなことをいって、マアお坐んなさいよ」
親「なにをぬかしやァがる。なんだてめえは……、新姐衆《しんぞし》だって、ふざけやがるな。てめえたちに留められたって留まるようなおあにィさんじゃァねえや」
隠「オイオイうっちゃっときな、うっちゃっときな、酒の悪い奴だからかまいなさんな」
隠居に喧嘩を吹っかけて、新姐《しんぞ》|仲どん《なかどん》花魁にまで当たり散らして手がつけられない、そのまま飛び出してしまった。
男「エーお連れさんがお帰りになりましたが……」
隠「かまわない、かまわない。アンナ者にいつまでも居られてたまるものか、アア大風《おおかぜ》の吹いたあとみたようだ」
もうこっちもなんだか座敷が白けておもしろくないから、いい加減のところで切り上げてお引けにしようというんで、座敷が片付く、寝衣《ねまき》を着替えて隠居さん横になったとたんに、籬サーンと呼ばれて花魁はハイーッと出て行ったきり……。酒の機嫌でグッスリ眠って、夜中に襟元へ冷たい風が入ったので目を覚まし、
隠「アアつまらない、つまらない、ばかげた目にあうものだ。馳走をしてやって、さんざん喧嘩を吹っかけられたあとで一人こんな冷たいところへ入って寝ている。これも心柄《こころがら》、ずいぶん遊びというものはおかしいことがあるものだが、今夜ぐらいおもしろくない晩はない、何時だろうな。……そうかといってまさか夜中に飛び出して年甲斐もなくほかへ行って遊び直しもできない」
と、いっぷく吸いながらモジモジしているところへ、ドタンバタンドタンバタン恐ろしい音をさして廊下を歩いてきていきなりガラリ障子を開けて、中へ飛び込んだと思うと、隠居の寝ているそばヘバタリぶったおれた。
隠「オヤ花魁かえ、おそろしく酔ってるねえ」
籬「ほんとうにしつっこいったら、飲めないてえのに、無理に飲まして、こんな苦しいこたァありゃァしない。旦那後生だから少し寝かしてちょうだいよ」
隠「アア寝なさいとも寝なさいとも。しかし花魁」
籬「眠いからしゃべらすに寝かしてください。うるさいよ、年寄りのくせにおしゃべりだねえ」
隠「オヤオヤ今夜ぐらいおそろしい酒の上の悪い奴にでっくわしたことがない。ばかげたことがあるもんだ。エー花魁」
籬「うるさいよほんとうに、黙ってお寝なさいよ。いやな坊さんだよ」
隠「オヤオヤ、いい面の皮だ。いやな坊さんまで聞きゃァ世話ァない」
むこう向きになったと思うと女はグーッグッと大いびき、鼻から提灯《ちょうちん》を出して寝てしまった。
隠「ばかにしていやがる、おもしろくもねえ。お客と心得ているのかなんと思ってやがるんだ、いまいましい。こんな奴はなにか悪戯《いたずら》をしてやりたいもんだ。目が覚めて胆をつぶすようなことをしてやろう。なにかないかな。顔へ墨をつけたところが洗えば落ちるから、洗っても落ちねえような工夫はないかしら……。アアあるあるさっきあいつから受け取った剃刀がある。これでこの女の眉毛《まゆげ》を片ッぽう落としてやろう……」
隠居さん剃刀を取り出して、幸いそこに茶碗があったからぬるま湯を汲んで眉毛《まゆげ》へ付けると黒い水が流れる。
隠「アア眉毛が薄いんで引き眉毛をしていやがる……。なるほどこの剃刀はよく切れる……」
興《きょう》に乗って片ッぽう剃り落としてしまった。
隠「ア、おもしろい顔になった。しかし片ッぽうではつまらない、今夜新姐でいた奴があした年増になってるってえのはおもしろい、両方とも落としてやろう……、なるほど眉毛を落としたらおそろしい額《ひたい》の広い顔だ。|したい《ヽヽヽ》〔下谷《したや》〕広小路面《ひろこうじづら》だ。ぜんたいこのもみあげが長すぎる。少し直してやろう」
ヒョットとやると中へ剃り込んでしまった。
隠「サァたいへんだ。片ッぽう鬢《びん》を落としちまった。よく切れるなァこの剃刀は……。どうも片ッぽうばかりじゃァおもしろくない。もう片ッぽうやっていっそのこと坊主にしてしまおう」
調子に乗ってゾリゾリそってしまうのを、女もまた寝坊だから少しも知らないでいい心持ちにグーグー寝ている。とうとうきれいに剃り上げて、
隠「アアこれでサバサバした。スッカリ坊主になっちまった。この女とオレとここに寝ていると、玉突きの台みたようだ。しかし興《きょう》に乗ってこんなことをしてしまったが、見つかった日にはたいへんだ。この女を身受けをしてくれとか、さもなければ頭の毛の延びるまで玉《ぎょく》をつけてくれとでもいわれた日にはつまらない散財をしなければならない。さっきあいつが酔っぱらってたから、町所《ちょうところ》やなにかはっきりしたことを付けなかったのが幸いだ。この女の寝てる間に逃げ出そう」
と、ひどい隠居があればあるもので、衣類を着がえて剃刀を懐《ふところ》に入れ、ソッと障子を明けて遺手《やりて》部屋のほうを見ると、時刻が過ぎてるから、おばさんも居眠りをしている。これ幸いと抜き足をしてソッと降りてこようと思うとソコは商売、
遣「オヤお帰りでございますか」
隠「アッ、急に用を思い出して、帰らなければならない」
遣「マアそうでございますか。お敵娼《あいかた》はどなたで、籬さんのお客さんですか」
隠「いいよいいよ起こさないでもよい。せっかくよく寝ているから……」
遣「そうでございません。アノ花魁は寝坊でございますから、いつでもお客さまのお帰りを送り出したことがない、それだからほんとうに見立てが利いても再会《うら》が帰らない、ちょっと花魁」
隠「いいよ。呼ばないでもいいッてことさ」
呼び起こされてはたいへんだから、あわてて、はしご段をころげるように降りてくると、仲どんが面くらって、
仲「オヤお帰りさまで、花魁はどなた……、籬さんで。ちょっとお待ちくださいまし、ただいま呼んでます」
隠「呼ばないでもいいよ。履き物を出しておくれ」
仲「ヘエただいま……」
隠「いいじゃァないか、勘定はゆうべ払ったし」
仲「ヘエいただきました」
隠「それなら留めるところはなかろう。急に用があって帰るんだ。履き物を出さないか、出さなければオレが出す」
仲「そうでございますか。ヘエどうも相すみません。ありがとう存じます。どうぞまたお近いうちに、さようなら……。ほんとうにしようがねえなァ。世の中にアンナ寝坊の花魁があるもんじゃァねえ、遣手《おば》さん」
遣「ハイ」
仲「ハイじゃァねえ、花魁を起こしておくんなさい」
遣「今起こしてるよ、ちょっと籬さんへ、籬さん……」
二三度どなられたから、いくら寝坊でもおばさんの声に気がついたとみえて、
籬「ハイー」
遣「ハイじァありませんよ。ちょっと、お客さまがお帰んなさるんだよ」
籬「アラおばさん、どのお客さま」
遣「どのお客さまでもいいから、サッサとお起きなさいよ。坊さんのお客さんなんだよ」
籬「そう、今行きますよ」
遣「サッサとおいでなさい」
ワイワイいってるうちに、お客はもう帰ってしまった。
籬「ハイ、今行きます」
ニューッと立って、赤い唐縮緬《とうちりめん》の長襦袢《ながじゅばん》に浅黄の唐縮緬の扱帯《しごき》をしめ、坊主頭で立ちあがった形というものは、二目と拝めたものではない。「今行きますよ」と障子をガラリと開けてニューッと出ようとするはずみに、草履の上にのっかってすべったからたまりません。廊下へドタリ尻餅を付くとたんに、障子へ頭をドシーン……。
籬「オー痛いこと、マアいやッてえほど頭を打ったワー」
髻《たぼ》のほうから頭をスーッと撫でて、
籬「アラいやだ。おばさん、お客さまはここに居まさァね……。じゃァ私ァどこに居るんだろう」
[解説]「隠れ遊び」と題してやる人もある。品川の円蔵がうまかった、間ぬけ落ち。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
文《ふみ》違い
――――――――――――――――――
世の中のことは何事によらず、秘密で持っております。秘密がなくて露骨にやった日には物事がまるく納まりません。
ことに遊女なぞはそうで、惚れたふりをする。これが秘密でございます。思うままにおまえさんは好かないよなどと露骨にいった日には、遊びに行く人はありません。またかの廊《くるわ》は、どなたがおいでになりましても、己惚《うぬぼ》れというやつが七分と申したいがマア九分九厘、初めっから、俺には女が惚れていないと思えば誰も行く者はないが、惚れてると思うから行く、つまり己惚れでセッセと通ううちにばかばかしい目に遭うことがいくらもあります。
その時に後悔しても追いつきませんから、遊びもなるたけ注意してなさらなければなりません、また女のほうでも、そうでございます、自分のいい人には、客をだまして金を貢《みつ》ぎたい。情夫《まぶ》のためには道ならぬこととは知りながら悪いことをいたしますが、また人をだませば自分もだまされる、世の中はそれで持ったもので、今も昔もこの道は変わりません。
女「今いう通りの仕儀《しぎ》なので、半ちゃん、じつにわたしは困ってしまうよ」
半「じゃァなにかい、その金をおまえがこしらえてやりさいすれば、親子の縁が切れるんだな」
女「そうなんだよ三十両こしらえてやれば、親子の縁が切れるんだよ、確かな証文を取ってそれで肩脱けになるんだよ。わたしもね、じつの親じゃァないけれど、育てられた恩があるから、この新宿へ身を沈めてこの苦しみをしているんだよ、それだのにまだ無理をいって来られるんで、あのような親があったのじゃァおまえさんと夫婦になったところで、しまいには愛想《あいそ》を尽かされるようなことになるから、どうかして手を切りたいと思って手切れの話を始めたんだよ、マアおまえさんにこのような苦労をかけてすまないけれども、どうだろう三十両できないかしら」
半「そうさな、三十両といえばなかなか大金だから……けれども親子の縁が切れて、赤の他人になって、二人むつまじく暮らせるようになれば、マァ安いものだが、あいにく三十両といっても今すぐに間に合わねえ、ここに十両くらいなら持ってるが」
女「じゃァ二十両足りないんだね」
半「そうだ」
女「いいよそれでも、この在方《ざいかた》から来る角蔵《かくぞう》という奴があるんだよ、こいつのところへさっき使いをやっておいたから、たぶん来るだろうと思う、それが来れば二十や三十のお金はどうかなるだろうと思う、マアとにかく半ちゃん、十両出すと決めておくれな」
半「アアそりゃァいいとも」
若「エーおすみさんえ」
女「なんだよ」
若「イエちょっとお顔を」
すみ「なんだい」
若「じつは角《かく》さんが」
すみ「アラそう、来たの、いい塩梅《あんばい》だよ半ちゃん」
半「そうかそいつァ豪気《ごうぎ》だ」
すみ「三番のほうへ入れてお置きよ、半ちゃん座敷が近いからいやなことが聞こえるかも知れないが我慢をおしよ、むこうの懐《ふところ》の物を巻き上げるんだから、少しは舌の長いことを言わなければむこうも安心しないから」
半「いいとも」
すみ「ちょっと行ってくるから待ってておくれ……」
角「マアこっちへ入れ」
すみ「どうしたんだね、おまえさんは」
角「なにが」
すみ「なにがじゃァないよ、いい加滅におしよ、ばかばかしい、人にさんざん気を揉ましてさ、何本手紙をあげても返事もくれないでさ、ほんとうに不実だよ」
角「なんでわれは、そうガミガミ言うだ、おらが顔を見るとそう甘ったれてえか、フフフフ」
すみ「甘ったれるじゃァないけれど、おまはんの顔を見るとなんだかムシャクシャ虫が込みあげてしようがないんだよ」
角「ばかなこといわねえもんだ、またなんだってそんなに腹が立っただ」
すみ「あたりまえさ、おまはんこのあいだ境《さかい》へ遊びに行ったじゃァないか」
角「ばかいえ、ありゃァおらが行くつもりじゃァなかったが、鎮守様の祭礼が済んでまことにめでてえからちょっと浮かれべえといって、上《かみ》の為松《ためまつ》と、新田《しんでん》の民四郎《たみしろう》に、本田《ほんでん》の惣左衛門《そうざえもん》とおらと四人で行ったが、おらがなにも先き立って行ったわけじゃァねえ、友だちの交際《つきあい》ならハア行なければならねえ場合もある」
すみ「あてにならないよ、おまはんが先き立ちだろう」
角「ばかァいえ、その境へ行った時に、出たアマっ子の面てえなかった、なんてえ長え面だかわからなかった、頭と額を見ているうちにまん中を忘れたような面で、まるで馬が紙くずかごをかぶったようだった」
すみ「ばかにおしでないよ、そんなこといいながらおまはん迷っているだろう、それだからわたしが気が揉めるんだよ、ちょっと藤助《とうすけ》どん、おまはんが見たら野暮に見えるだろうがこの人はこれで表面《うわべ》は野暮で心が粋なんだよ、うわべ野暮の心粋《こころいき》というんだから、それでわたしが苦労でならないんだよ」
角「ばかべえ言うな、べらぼうめ」
すみ「ほんとうにおまはんくらい性悪《しょうわる》の人はないよ」
角「ばかァいうなってえことよ藤助が聞いてるじゃァねえか、われがここで勤めをしているのも、おらがあるから辛抱できるというでねえか、そのおらの顔を見てなんでそうガミガミいうだ」
すみ「あたりまえさ、わたしとおまはんの仲は宿中《しゅくじゅう》で知らないものはないんだよ、それだのにちっとも来ないで浮気ばかりしているんだもの、くやしいんだよ」
角「ハハわからねえ奴だ、なんで浮気なんぞするもんか、コレ藤助なにか美味《うめ》え物持って来うよ」
藤「かしこまりました」
すみ「ねえおまはん、この間からおまはんにちょっと話したいことがあるんだよ」
角「なんだ」
すみ「わたしがこんなに寝たのもその訳なんだよ」
角「話してえことがあって寝るてえのはわかんねえな、われも身体が悪いか」
すみ「わたしが身体が悪いんじゃァない、おっかさんが九死一生について心配しているんだよ」
角「そりゃァ子として親の病気を心配するのは当然だがな」
すみ「だからわたしは茶断ちをしたり塩物断ちをしたりして廊下でお百度を踏んで心配しているので、このように痩せたんだよ」
角「そうかな、なんだかおらが目にはこの前来たときより肥ったような気がする」
すみ「それはおまはんの欲目《よくめ》だよ」
角「そりゃァ早く医者さまに掛けたらよかっぺえ」
すみ「お医者さまにも掛かっているんだけれども、今度はむずかしいというんだよ」
角「ウーム困ったなァそれは、われがためのかかさまなれば、おらがためにもかかさまだ、なんとかして助ける工夫するはあたりめえだ、けれどもあまり心配して、われが身体悪くなったらしようがなかんべえ」
すみ「けれどもねお医者さまのいうには、人参《にんじん》という薬を服《の》ませればどうにか取り留めるだろうというんだがね」
角「ウムそれを服ませたらよかペえ」
すみ「服ましたらよかァベえというたって、そのお金がないじゃァないか、人参を買うにはどうしても三十両いるんだとさ」
角「ばかァいえ、三十両人参を買ったら始末においねえ、おらが村へ行って買ってみろ、三両買えば馬に三駄《さんだ》ある」
すみ「アレサその人参じゃァないんだよ、唐人参《とうにんじん》さ」
角「アアそうか、なにしろ高え薬だな」
すみ「それだからおまえさんに相談をして、どうかおっかさんにその薬を服ませたいと思うが、そこにお金が三十両ないかね」
角「三十両といっても持ち合わせがねえ、ここに二十両べえあるが」
すみ「足りないところは七所借《ななとこがり》をしてもどうか都合をして、おっかさんを助けたいんだが、どうだろうその二十両わたしに貸しておくんな」
角「そうか困ったことがあるだ」
すみ「ナニ」
角「じつはこの二十両てえ金は、為松《ためまつ》の野郎から、馬の手金を預かってきたで、これをわれにやっちまうと、帰りに馬を連れて行くことができねえだ、馬を連れて帰ればかかさまを見殺にしなければなんねえし、ハテ困ったな、かかさまを助ければ馬を連れて帰ることができねえし」
すみ「角はん、おまはんほんとうに不実だね」
角「なにが不実だ」
すみ「なにが不実だって、おまはんみたいな人と夫婦になっても末がおそろしい、どうぞお願いだからこれまでのことは水に流しておくんなさい」
角「なんで、われそんなことをいうだ」
すみ「なんでもないものだ、馬とおっかさんと一緒にするような人と夫婦になったら末はどんなことになるか知れない、妻のおっかさんより馬のほうがおまはん大事だろうから……」
角「ばかァいえ、物のたとえ話じゃァねえか、しかしそう聞けば無理もねえ、馬とかかさまと一緒にしたようですまねえ、じゃァマアええ、この金をくれべえ、しかして一目も早くかかさまの病気治してやるがええ」
すみ「そうしてくれればわたしはどのくらいうれしいか知れない、そういうことになればわたしも元々惚れているおまはんだから……」
角「そうだとも、おらが言いようが悪かったかも知れねえが、悪いところはおらが詫びるから、気を直してこの金でもって、かかさまにその薬を服ましてやれ」
すみ「おまはんに詫びさせたり、お金をもらったりするほどわたしは働きのある人間じゃァない、じゃァすまないけれども角さん貸してちょうだい」
角「それがわれよくねえ」
すみ「なぜ」
角「なぜったってべらぼうな、われにおふくろなれば連れ添うおらがのためにもおふくろじゃァねえか、それを助けるに他人らしく金を貸してくんろッていうのがちがっている、おらが物はわれが物、われが物はおらが物だ」
すみ「マアそう言ってくれるとほんとにわたしはうれしいよ。じゃァわたしは下に使いの人が来ているから、このお金を手渡しをしてくる間、おまはんお願いだから一人で飲んでいておくれな」
角「アアいいとも、ゆっくり行って来う……」
半「フムなかなかうめえな、アノ田印《たじるし》をつかめえて、甘《あめ》えことをいって、とうとう金を巻きあげたな」
すみ「半ちゃん聞こえたろう」
半「うまく行ったな」
すみ「さだめしおまはん心持ちが悪いだろうと思ったが、あのくらいのことをいわないと金を出さないからね、二十両持ってきたから、半ちゃんお願いだから、十両貸しておくんな」
半「どうだ二十両で話がつくめえか」
すみ「そうさね、むこうで三十両と切り出したんだからね、それだけやったほうがきれいさっぱりと縁が切れて、親でもない子でもないという証文を取ってしまえば後腐れがないからね」
半「それもそうだ、じゃァこれを持って行きねえ」
すみ「すまないねえ、それじゃァちょっと使いの人に渡してくるから、半ちゃん少しの間待っていておくれよ」
半「アアいいとも、いいとも」
それから裏ばしごを降りてまいりまして、はしごの下の座敷、障子を開けて中をソッとのぞいて見ると年のころ三十格好、色の浅黒い苦み走ったいい男、髷《まげ》を大髻《おおたぶさ》に結い上げ、月代《さかやき》は少し延びております、服装《なり》は結城《ゆうき》のねずみみじんの袷《あわせ》を着て八反《はったん》の平括《ひらぐ》けを締め、古渡《こわた》りの荒い乱立《らんたつ》の襟幅の狭い半纏《はんてん》を着て、目が悪いかしてしきりと紅絹《もみ》の布で目を拭きながらろうそくの芯の溜まった燭台のそばにぼんやりと考えております。
すみ「由《よし》さんおまちどうでしたね」
由「ヤアおすみさんすまねえ、勤めの中をたびたび苦労をかけてすみません、今度という今度もじつに俺は面目ねえ」
すみ「そんなことお言いでないよ、それはそうとなにかえ、ひどく悪いかえ」
由「ウム、医者のいうには手遅れになるととんでもないことになると言うんだ」
すみ「ヘエーちょっと見たところでは、なんでもないようだけれども」
由「そのなんともないようなのが悪いんだとよ、ちょっと見て悪いのが知れるようなら性《たち》が良いんだが、表面《うわべ》から見てなんともねえようなのが、ごく性が悪いんだ、中がいけねえんだ」
すみ「医者さまはなんというんだい」
由「内障眼《そこひ》というんだとよ」
すみ「マア困るねえ、それからおまはんのいう通り三十両のお金ができたよ」
由「そうかえ、どうもすまねえ」
すみ「ナニすまないことがあるものかね、おまはんのために苦労をするのはあたりまえじゃァないかね、それからお金ができたら泊まっていっていいんだろうね」
由「それがいけねえんだよ」
すみ「なぜ」
由「医者のいうには、なるべく女のそばへ寄ってはいけねえというんだ」
すみ「なんだねばかばかしい、今夜一晩くらい泊まったっていいじゃァないか、いろいろ話したいことがあるから……話しぐらいしたっていいだろう」
由「なるたけ女のそばへ寄らねえほうがいいというから、今夜は帰る」
すみ「いやだよ、この人は、それじゃァわたしはこのお金をあげないよ……なぜだって考えてごらん、おまはんという者があればこそわたしは苦海の中でおまはんに遇うのを楽しみにこうしているんじゃァないか、お金の苦労をさしておいて、そのお金を持ってスッと帰られてしまったんじゃァわたしはつまらないじゃァないか、いいだろう一晩くらい泊まっていっても、ねえいいだろう」
由「フム、それでおめえの了簡がわかった、今までのことは長え夢を見たと思ってあきらめてもらおう、これッきりおめえとは交際《つきあわ》ねえから」
すみ「アラ由さん怒ったの」
由「あたりめえじゃァねえか、俺をほんとうに思ってくれるなら、こっちが泊まるといっても、少しも早く行って医者の寝ているところを起こしてもその真珠《しんじゅ》という薬を付け、一日も早く快くなっておくれというのが人情じゃァねえか、それを引き留めて泊まらなければ金をやらねえのと、そんな思いのかかった金をもらって薬を付けてめくらにでもなるといけねえから、よそうよ」
すみ「なるほどね、由さんすまなかった、じゃァこうしておくれ、おまはんにこの金をあげるから少しも早く薬を付けて良くなって、そしてちっとも早くわたしに顔を見せてください、ネエ由さん、わたしは詑びるからこのお金を持って行っておくれ」
由「なにもおめえにあやまらせたり金をもらったりするほど働きのある人間じゃァねえが、それじゃァおすみさんこれを借りていくぜ」
すみ「アレまァ、心地が悪いじゃァないか借りて行くなんて、おまはんの物はわたしの物、わたしの物はおまはんの物、そんなことを言わないで一日も早く快くなってくださいよ」
由「それじゃァこれからすぐ医者へ行こう」
すみ「じゃァ気をつけておいでなさいよ」
惚れている男の手をとって、
すみ「あぶないよ……ちょっと履き物を出しておくれ」
若「ヘイヘイ、どうもいけませんね、お目が悪うございますか、お大切になさいまし」
すみ「ちょっとお待ちよ、わたしが手を引いてあげるから」
上草履《うわぞうり》のまま土間へ降りて男の手を引いてやる。
すみ「じゃァ由さん、一日も早く治ってきておくれよ」
由「アアいいとも、おめえの思いばかりでも治らずにいねえ」
すみ「善悪《よしあし》とも知らせておくれよ心配だから」
由「大きにいろいろありがとう」
と表へ出る。女はくぐりを締めて二階へ上がったが惚れている情で心配だから、張り店へ出て由次郎のうしろ姿を見送っております。とは心つかず由次郎は二間《にけん》ばかり先のうちの前へ行っていきなり杖をポンとほうり出すと軒下から倶利迦羅紋々《くりからもんもん》の駕篭《かご》かきさんが二人。
由「オオおまちどうだったな」
駕「ヘエお早うございました」
駕籠へ乗る、垂れが下りるとそのまま行ってしまう。
すみ「マア由さんも、やきがまわったね、家の前へ駕篭を横付けにするがいいじゃァないか、わたしにお金を苦労させるといってあれだけ苦労をするんだね、可哀相に」
ねずみ鳴きをしながら今まで由次郎が話をしていた座敷へ戻って、ヒョイと見ると手紙が落ちております。
すみ「アラいやだよ、あの人は手紙を落として行って……」
そのうち二階でポンポンと手をたたく、
若「おすみさんえ」
すみ「うるさいねえ、少し待ってちょうだいよ……今じきに行くから……なんだろうこの手紙は、気になるよ……マアいい手で書いてあること、女の手紙だよ……由次郎さまへ小筆《こふで》より……アラマアあきれた、浮気をしていやがるよ、女のそばへ寄っていけない者がこんな手紙を持ってるものもないじゃァないか、なんだか知ら見てやろう、一筆《ひとふで》しめしまいらせそろ、先夜は図らずもお目もじ致し山々嬉しく存じそろ……アラいやだよ、ばかばかしい、女のそばへ寄れない奴がどこかで遇ってるンだよ、アアくやしい……その節お話し申し上げそろ通り、わたくし兄の欲心から田舎の大尽《だいじん》へ妾《めかけ》に行け、それがいやなら五十両よこせとの難題、よんどころなくご相談申し上げそろところ、あなたさまのおなじみの女郎にて、新宿のおすみとやら…アラばかにしていやがるよ……新宿のおすみとやらを眼病と偽り三十両こしらえくだされそろ由《よし》……。マアばかにしていやがるよちくしょうめ、マアくやしいどうも変だと思ったよ、なんともないようだから聞いたら内障眼だなんて、ちくしょうばかにしていやァがる、くやしい……今行くからお待ちよ、そんなに手をおたたきでないよ、うるさいね、それどころじゃァない…おこしらえくだされそろ由、もしさようなことが義理合いとなり、そのお方と夫婦におなりなされるよう相成りそろてはまことにわたしの身が立ち難く何卒何卒さようなことなきよう行く末までお見捨てなくお願い申し上げそろ、委細のお話はお目もじのうえ万々申し上げまいらせそろ。小筆より由次郎様へ……。ちくしょうちくしょう芸者だよこれは、ほんとにマア鳶《とんび》に油揚《あぶらげ》とはこのこと、追い駈けても間に合わず、ほんとうにいまいましいじゃァないかね、人にお金の心配をさせておいて目が悪いんだと思えば悪くもなんともありゃァしない、アアくやしい……」
半「なにしていやァがるんだなあいつは、下へ行ったきり来やァがらねえ、退屈だな……女郎子供とはよくいったもんだ、だらしがねえこの煙草盆の抽斗《ひきだし》はマア何が入ってるんだ、くだらねえ物がいっぺえ詰まっている、なんだ手紙が出やァがった……おすみどのへ、由次郎より……ウフッおすみどのへはよかったな、俺という者があるのも知らず、情人《いろ》気取りでおすみどのへ、これでこの廊が繁昌するんだ、イヤ書いた書いたなんだと……ちょっと申し上げそろ、いつもながらご全盛にお暮らしの由山々うれしく存じそろ……なるほど……それに引き換え私はこのほどより眼病にて引きこもりおり……なるほど目が悪くって来られねえというんだな、ご親切なものだ、お断わりには及ばねえや……医者に診てもらいそろところ真珠という薬をつければ治るとのこと、その薬の代金およそ三十両……おそろしく高え薬だな……その金に困りご相談申上そろところおなじみのお客にて日向屋《ひゅうがや》半七……オヤ俺の名が出ていやァがる……日向屋半七に親子の縁切り金と偽りおこしらえくだされそろ由……ばかにしてやがるなちきしょうめ、こいつァ驚いたな、まさかそんなじゃァねえと思ったら、見かけ倒しだ、いっぺえ食らい込んだ、しかしまだ三十両出さなかったのはこっちが運が良かった、けれとも十両だってあんな奴にやるのはいまいましいな、ばかにしていやァがる、ちきしょうめ……おこしらえくだされそろ由なにぶんともお願い申し上げそろ、いずれ一両日のうちに参りそろあいだ必ずおこしらえ置きくだされたくそろ……ばかにしていやァがる、ちきしょうめ……オオおすみか、こっちへ入んな、たいそうな花魁《おいらん》だな」
すみ「なにをポンポンいうんだね」
半「あたりめえだァ、え、おまえは立派な花魁だ、いい腕だなァ」
すみ「いやなことをお言いでないよ、ムシャクシャしているところへなにをいうんだね」
半「なにを言やァがるんだ、こっちがムシャクシャしていらァ、目が悪いまで聞きゃァたくさんだ」
すみ「悪いと思ったら悪かァないんだ」
半「なにをいやァがるんだ、ほかに色男のあるのも知ってらい」
すみ「こっちもほかに色女のあるのを知ってらァ」
半「なんだ同じようなことをいうない、こんな真似をされちゃァ朋友《ともだち》の前《めえ》へ対してきまりが悪いや」
すみ「こっちだって朋輩《ほうばい》の前へ対してもきまりが悪いや」
半「こっちゃァほんとうの親子の縁切りだと思って金をやったんだ」
すみ「こっちはほんとうに眼が悪いんだと思うから金をやったんだ」
半「ばかにするな、ちきしょう」
すみ「ばかにしやがるな、ちきしょうめ」
同じようなことをいっている、向こう座敷でポンポン手をたたいて、
角「オイ藤助《とうすけ》」
藤「ヘエ」
角「向こうの座敷ででけえ声を出している、アレたたかれている、ありゃァおすみじゃァねえか」
藤「さようでございます」
角「さようでござえますじゃァねえ、行って止めてやれ、なんだかおらが聞いていりゃァ色男があるの、金をこしらえたのはどうのこうのといってる、おおかたおらのことを嫉妬《やきもち》やいているだんべえ、仲へ入《へえ》って止めてやれ、あれは色男じゃァごぜえません、普通の客でごぜえます、かかさま病気悪いと聞いて、気の毒だといって金を用達《ようだ》ってやっただ、決して色男じゃァねえと早く行って止めてやれ、アレまたたたかれているでねえか……アア待て待て藤助、そういったらおらがの色男てえことが露《あら》われやァしねえか」
[解説]川柳に曰く、「人は客、おれは間夫《まぶ》だと思う客」お互いに騙し騙される色の世界を上手に綴ってある。考え方によれば、これもひとツの教訓であろう。間ぬけ落ち。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
五人廻し
――――――――――――――――――
川柳に「女郎買い振られて帰る果報者」などというのがございますが、しかしどうも行く以上は|もてる《ヽヽヽ》るほうがいいようで、花魁に振られるのもあんまり感心いたしません。
この大門《おおもん》を出てきまする時に、もてたお方ともてない方とは顔色でわかると申しますがそうでしょう、もてたお方は独身者《ひとりもの》がおかずをもらったようにニコニコして帰ってくるなぞ申します。なるほど恐悦顔《きょうえつがお》をして出てくるのはさだめし出来がよかったので、怒って出てきたのはあんまりいい客じゃァないということを申します。
「上《じょう》は来ず中《ちゅう》は昼来て下《げ》は夜に来る、そのまた下々《げげ》は流連《いつづけ》をする」などと申して、居続けの客などはどうもよくないとみえます。われわれどもが廓内《くるわ》のお噂をしても、もてたお話は少のうございます。不平の方ばかり、なるほど遊びというものはああいうものか、行くべきところでないと、こうお聴き取りになればいいが、中には落語家《はなしか》はあんなことをいうが、俺が行きゃァああじゃァねえと自惚れると大きにまちがいのできることがいくらもございます。
してみるとなるほど振られるほうがお身のためになるので「女房の妬《や》くほど亭主もてもせず」という川柳がございますが、夜が更けて腹を立てて飛び出すわけにもいかず、ただぼんやり按摩《あんま》や鍋焼きうどんの声を聞いて、所在がないからむっくり起きちゃァ煙草を喫《の》んだり、いろいろなことをしているうちに酔いが醒めてくる。うちのことを考え出す。
職人「ああつまらねえな、よせばよかった、ぜんたいゆうべの夢見が悪かったからな、あああ、酔いが醒めてみるとなんだか河童《かっぱ》が陸《おか》へ上がったようなもんだ、ああつまらねえ、ふん、いまさら腹を立てて飛び出したってしかたがなし、何時だろうな、もう大引け過ぎかしら、あー……煙草はなくなってくるし、さっきからあくびばかり出やがる……おやおや煙草も粉になってしまやァがった、落語家がそういったよ、煙草のねえ時は袂屑《たもとくず》喫めって、ふん、袂屑がまさか煙草の代用もしめえが、まァやってみろ、初めてだ、初物《はつもの》は七十五日生き延びるというから……あ、いけねえ、きなくせえ、こいつァいけねえや、ああいやだいやだ……待てよ、廊下へばたばた上草履《うわぞうり》の音が聞こえる、情夫《まぶ》は引け過ぎというから、他の奴ンとこをまわってきて、ちょいとおまはんすまないよ、今夜客が立て込んだもんだからねッてんで、俺は情夫にとられているのかな、ふふん、そんなになにも力を落としたものでもねえや、それじゃァ俺ァ情夫かしら」
と当人|虻《あぶ》みたような顔をしているくせに独り言をいって考えていると、ばたりばたりと上草履の音、自分の部屋の前へ来てとまったから、お入りになるかと思うと、隣のほうへズッと入ってしまった。
職人「ふんなんだ、隣部屋でいやァがる、間が悪いな、ああいやだいやだ」
といううちにバタバタ上草履の音、
職「ああ今度来たんだ」
吸いがらを消して向こうをむいて、ぐうッぐうッといびきをかいている真似をして、目はあけている。行儀のいい寝方でげす、すーッと障子が開いたようす。
職「ああ来た……」
○「ごめんくださいまし、ごめんくださいまし」
職「はてな、男の声だが……」
と、細めにあけてみると、若い衆がしきりに行燈《あんどん》の油をついでいたが、
○「ごめんくださいまし」
と出て行こうとする。
職「おいおい少し待ってくんねえ、若え衆さん少し待ちな」
○「へえ、お目覚めでいらっしゃいますか」
職「なに」
○「お目覚めでいらっしゃいますか」
職「お目覚め、ふざけるな、お目覚めというのはな、寝ているからお目覚めというのだ。起きていてお目覚めということはねえや」
○「ヘヘヘヘどうも、お一人でお淋しゅうございましょう」
職「なにをいやァがる、大きにお世話だ、なにしに来やがったんだ」
○「お油を」
職「なめるのか」
○「なめやァいたしません」
職「なめそうな面をしていやァがる」
○「ありがとう存じます」
職「礼にやおよばねえ、何をいやがるんだ、お目覚めたァなんだ、ふざけやがって、それはいいが、てめえ今なんといった、お一人でお淋しゅうございますと言ったろう、お一人でお淋しいのは昔からきまっていらァ、おもしろくもねえ、宵ッから備前《びぜん》の布袋《ほてい》の焼き物と俺と二人ッきりだ、べらぼうめえ、さっきッから癪《しゃく》にさわって|ほてえ《ヽヽヽ》られねえんだ」
○「お洒落《しゃれ》ですか」
職「なにをいやァがるんだまぬけめえ、こんなところに一人で居られるなら居てみろ」
○「ごもっともさまで」
職「ふざけやァがって、はじめて遊びにきたんじゃァねえや」
○「へえ、お敵娼《あいかた》は……はァ喜瀬川《きせがわ》さんで、あの花魁はちと今晩はお客さまが立て込んでいらっしゃいますので、へえ、やすんでいらっしゃいますので、へえ、頭が痛うございますので、大引け過ぎにはおまわりになりますんで、へえ」
職「おい若え衆、なにをいやァがるんだ、さっきッから聞いていりゃァ好きな御託《ごたく》をいってやァがる、女《あま》ァ酒を飲んで酔い倒れている、引け過ぎに何をどうしたって、ほどなくおまわりになりますと、なにをぬかしやァがるんだ、ヨウ、俺がそれをぐずぐずいうんじゃァねえや、勝手にしやァがれ、ほどなくおまわりになりますなんて、お祭に神輿《みこし》の来るのを待ちゃァしめえし、なにをいやァがるんだ、うぬらァ今日この頃|廓《なか》へ来やァがって廓の方式ッてえものを知るめえ、知らなければ言って聞かせるから、耳の穴をかッぽじってよく聞きやァがれ、この才槌《さいづち》め」
○「へえ」
職「吉原というのは、慶長《けいちょう》年間に京橋の柳町《やなぎちょう》に三十軒あったのだ、京橋が大門通りへ移って、明暦《めいれき》の三年丸山の大火事で全焼《まるやけ》になって、吉原へ移ったてえことも、小田原の庄司甚内《しょうじじんない》が願い出して何代目の養子はどこから来て、何代目の養子はどこから来た、誰はいつ幾日に死んで、施主は誰でまんじゅうか赤飯《こわめし》か、寺はどこだかちゃんと心得ているんだ、てめえのような才槌にゃァわかるめえ、いいか、いったい吉原の方式というものはうぬらは知るめえが、こちとらァおぎゃァと生まれて三歳《みっつ》の時からこの廊へ繰り込んで、どこの妓《こ》はもと品川にいたか新宿にいたか千住にいたか根津にいたか、どこからどこへいくらいくらで住み替えをしたか、借金はいくらあるか、いつになって年《ねん》があけるか、誰が情夫に取られているか、いいか、どこの芸者はどこの娘でどうして芸者になったか、どこの芸者はどんな芸が得手《えて》で、どんな情夫があるとか、猫が何匹いて狆《ちん》が何匹いるか、残らずちゃんと知っているおあにいさんだ、てめえッちのような才槌じゃァわからねえ、もうちっと人間らしい神経の通っている奴に出てこいッてそういってくれ」
○「へえ、手前もいささか神経が通っておりますので」
職「なにを言っていやがるんだ、うぬらのような無神経の奴にゃァわからねえというんだ、ええヨウ、なんのために玉《ぎょく》を払ってきてるんだ、丸太ン棒めえ、まごまごしやァがると目の玉をひっこぬくぜ」
○「へえー、ただいまじきにまいります……ああ驚いた驚いた、どうだいポンポンいばりやァがって、ああいやだいやだ、女郎屋の奉公などはするものじゃァねえや、えー、言うことがおそろしいや、三歳の時から仲の町《ちょう》へ繰り込んだといやァがる、三歳の時に仲の町へ捨て子にでもなりゃァがったんだろう、ああいやだいやだ、あんなのが花魁がゆくとすぐ直るんだぜ、くさくさしてしまうな、喜瀬川《きせがわ》花魁はどこへいってるんだろう、本当にしようがねえな……えー、喜瀬川さんえー、喜瀬川さんえー」
半可通「廊下をご通行になるのは当家の若い衆さんでげすか」
○「おや変な声がするぜ……ええ」
半可通「廊下をご通行になるのは当家の若い衆さんでげすか」
○「へえー……こんばんは」
半「まずご尊公そこではお話しができん、どうぞごれへ入りたまえ、清めたまえ」
○「へえ−、恐れ入りました」
半「まずそこではお話しはできない、どうぞこれへ入りたまえ、まずこれへ」
○「へえなんぞご用で」
半「向こうの部屋でげすか尊君の目玉を抜くというのは、ただ驚くのほかなしでげすな、拙《せつ》などは廓内《かくない》へ来てもあえて婦女子を恨むところはないでげすな」
○「へえ」
半「傾城傾国《けいせいけいこく》に罪なし、通う客人《まろうど》に罪ありでげすな、吉田の兼好《けんこう》が申されたごとく、寒からぬほどに見ておけ峯《みね》の雪でげすな」
○「へえー、ありがたきしあわせで、あなたさまのようなおわかりのいい方でございますと、手前どももへえ、心配するところはございませんが、あァいうそのお方もございますので、へえ、揚げ句にどうも玉代《ぎょくだい》を返せなどとというのは困ります」
半「はァ、まずもっとものような、まことにどうも野蛮というか、ただ恐るるのほかなしでげすな」
○「あなたのような通人の方はいらっしゃいません、それゆえ手前どもも……」
半「いやしかし、拙などはどうか一夜は振られてみたいとも思っているくらいのものでげすな」
○「へえ恐れ入ります」
半「尊君などは見ればまだお若いが、お独身でいずれもお道楽の結果廓内へ入って婦人の奴隷になっているのでげしょうな」
○「へえ」
半「親、親族にもお世話を焼かして、仕方がないというので、婦人の罪滅ぼしのため廓内へ入ったのでげしょう、でげしょうな」
○「いえ、私はいたって野暮人《やぼじん》で」
半「野暮人などと、隠すだけ罪が深うげす、拙には野暮人であるかないかはわかりやす」
○「へえ、どうも恐れ入ります、いたっての野暮人で」
半「いえ隠しちゃいけやせんよ、まだお若いが、しかし廓内におっても、お仲間同志ゆずり合って、ちょいちょいお浮かれ筋という寸法がありやしょう」
○「へえ」
半「ありやしょう」
○「へえ、まァそれは大千住《おおせんじゅ》、千住などへ、ちょいちょいとな、えへへへへ引け過ぎから……」
半「ああ憎うげすな、情夫は引け過ぎと言いやすからな」
○「恐れ入りました」
半「なんでげすか、お浮かれにまいって、その姫なるものが、おらぬほうがようがすかな」
○「へえ」
半「おらぬほうがいいか、おるほうがいいか、そこをうけたまわりたいが」
○「へえ……まことにどうもただいま、お敵娼《あいかた》は喜瀬川さんでげすか、あのお方はまことに今晩はお客さまが立て込みますので、ただいまじきにまいります」
半「いや拙などはあえて婦人のまいらんのをとやこう申すのではげえせん、しかし姫のおいでができなければ、私のほうへその玉なるものをご返却を願いやしょう、ただこうしておるのも退屈でげすから玉なるものをご返却を願ったほうがようがしょう」
○「へえ、ただいまなんでございますから」
半「いや若い衆、ちょっと待って」
○「へえただいま、……ああいやだいやだ、ええ仕方がねえ……ええ慌《あわ》をくって飛び出したはいいが、おやおや煙草入れを忘れてきた、ええ仕方がねえ……ああいやだいやだ、なんだいあれは、いやな声を出しやァがって、ええ、五色《ごしき》の声を出しやァがる、たまらねえや、人をさんざん煽《あお》っておきやァがって、遊びに行って姫なるものがおらぬほうがいいかおるほうがいいかといやァがる、ああいやだいやだやっぱり目の玉をひっこ抜くぜというほうがいいくらいのものだ……どうしたんだろう喜瀬川花魁は……えー喜瀬川さんえー」
官吏「おいおい、こらこら」
○「おやだいぶお手が鳴るよ」
官「これこれ、おい小使い、小使い」
○「おやッ、ヘッ、どこだい……あああすこだ……えーこちらさまで」
官「おいおいこらッ、きさまそこにいては話しができん、ちょっとこっちへ入ってくれ」
○「はい、なんぞご用で」
官「きさまはここで何役《なにやく》を勤めている者か」
○「へえ、大引け過ぎが手前の役で」
官「なにか」
○「この二階をまわしますので」
官「はァこの二階を、うーむ、非常な力のものじゃな、きさま一人でこの二階をまわすのか」
○「いえなに、引け過ぎになりますと手前の役で」
官「はァさようか、きさまに聞いたらわかるだろうが、大いに談判《だんぱん》せにゃならん」
○「へえ」
官「ぼくは何も知らんものじゃけれども、あれは八時頃であったか、きさまのとこの前を通行したところが、きさまではない今一人の者が我輩にぜひ登楼をしてくれいというから、私もせっかく勧めるものじゃから、一夜の快楽をむさぼるために登楼をしたのだ、宵の内にただ遊べもせんからして、芸妓を上げてくださいッちゅうから、それもいいというと、ここへ婆《ばばあ》のような新造《しんぞ》のような者がまいって、なにか三味線ちゅうものを弾いたり唄をうたったりする、ぼくはなにも知らんからわからんけれども、こういうものじゃろうと思って我慢をしておったところが、またこの者たちに祝儀ッちゅうものをやれというから、一名につき二十銭ずつつかわした、その莫大なる金銀を費やしたのも、なにを目的に来たのじゃ、ええおいこら」
○「へえ−、相すみません、ただいまじき花魁が……」
官「ただいまッちゅうか、今何時だと思う、こら、いやさ今何時だと思う、こら、夜明けじゃないか、夜明けになってもまいらんけりゃァ我輩も了簡がある、ぼくの朋友《ほうゆう》の者が同県から百名ほどまいっているから、その朋友を残らず呼んできさまの首をひっこ抜いて、ここのうちへ爆裂弾《ばくれつだん》を投げ込むから」
○「へえー、ただいまじきまいります」
官「おいこら、待てッ」
○「へえ、ただいま、驚いた驚いた、爆裂弾を投げ込むなんてたまるものじゃァない、なんだいおそろしい勢いだ、ああいやだいやだ、首をひっこ抜くといやァがる、たいへんたいへん、しようがねえな、ええ……喜瀬川さんえー」
田舎者「若え衆、若え衆、ちょっくらここへ来てくんなせえ」
○「おやおやなんだい、妙な声を出しやァがる……へえ」
田「若え衆さん、ちょっくらここへ入ってくんなせえ、そこじゃァ話しができねえ」
○「いらっしゃいまし、どちらさまかと存じましたら三河島在《みかわしまざい》の喜八《きはち》さんでいらっしゃいますか」
田「若え衆さん、わしらはァ、毎日毎日ここへ来て、地まわりとか日まわりとかいわれているんでげさァ」
○「ごもっともさまで」
田「今夜らァはァ、ちょっくら用があって来ると、あまッ子が、喜八さんあがってくんなさいましというから、今夜はそういうわけにいかねえ、鎮守様のお祭で寄り合いがあるので、どうしても今夜は帰らなけりゃァなんねえといったら、そんなことはいわねえであがってくんなせえおまえさんの顔を見なけりゃァ頭痛がしてなんねえというから、まアせっかくそういうのだし、若え衆の前だがね、おらがの顔を見なけりゃァ頭痛がしてなんねえとそういうので、命にゃァ代えられねえと思ってあがってやったに、いつまでたっても来ねえだ、いったいそれですむものかすまねえものか考えてみるがいい」
○「へえー」
田「あまッ子にそう言ってくんなせえ、わしのような客を振ると、女冥利《おんなみょうり》に尽き果てる、すッとんとろんこ、すッとんとろんこ」
○「おやおやただいまじきに……ああいやだいやだ、なんだい、とろんことろんこと来やァがった、あれだよ、店へあがるときに天神様の脇差しだといやァがったのは、豪気と長えじゃァねえかおもしろくもねえ、あいやだいやだ、喜瀬川さんえー……喜瀬川さんえー」
喜「あいー」
○「どこでげす」
喜「ここだよ」
○「ああ花魁、少しまわっておくんなさいよ、他の客が怒ってしようがないじゃァごわせんか」
喜「なんだよ一人じゃァないんだよ」
○「へえ……おやこれはどうも、こんばんは、ちっとも存じませんで……」
△「ここへ入《へえ》れ、喜助でねえか」
○「へえ、どうもちっとも存じませんで」
△「いや、なァに、おら今ここでそういってるだ、なにもおらばかりが客じゃァねえと、ここにいるうちはの、他へもまわって来いッて、こういうだ、おらのそばにばかりしていたってしかたがねえ、身請けをすればおらが国へ連れて帰《けえ》るから、そんなことをしねえで、そこが苦界の勤めだから、いやな客でも我慢して出なきゃァなんねえ、それは惚れた男のそばにはいたかんべえと、けれどもそこが苦界の勤めだとおらがいうだ」
○「へえ、どうも恐れ入ります、旦那のご容姿《ようす》がいいものでげすから、花魁が折々旦那さまのことをおのろけでげす」
△「そうかね、どうせ身請けをすりゃァおらの国へ連れて帰るだから、われもその時は一緒に来うよ」
○「へえありがとう存じます、花魁もおうれしゅうございましょう」
△「いや開けた村での、芸人もいかい来るだ、でろれん祭文《さいもん》では姉川茶之助《あねがわちゃのすけ》というのが来たが、あれはうめえもんでなァ」
○「へえー、さようでげすか」
△「いい役者では市川団袋《いちかわだんぶくろ》というのが来たがの、これもうまかった」
○「さようでげすか」
△「それになんだな座頭《ざがしら》が市川熊五郎《いちかわくまごろう》」
○「へえー、市川熊五郎、強そうな名でげすな」
△「えれえもんだどうも、それからなんというのが来たけれども、手品師で福牡丹蝶子《ふくぼたんちょうこ》、落語家《はなしか》では桂《かつら》のらくというのが来た、芸人というものがいかく来るので、芝居なんぞもずいぶんええのがあるだ」
○「へえぜひうかがいます」
△「女《これ》が来ねえといって、他の客が定めてわれに当たるだんべえ」
○「へえまことに困りますので、ただその勤めを返せ、まことにどうもその玉を返せという奴が一番困りますので」
△「あきれたな、まァ、じゃァなにかね、これが行かねえからって玉代を返せという奴があるか、あきれたもんだなァ、そんなことをいう奴はどうせ田舎者だんべえ、それは田舎者だんべえ」
○「ウフッ、さようでげす」
△「あきれたもんだな、まぬけな奴だ、それだから可愛がられねえんだ、ここへ遊びにくるのは、あまッ子を遊ばせるようなものだ、ばかな奴があったものだ、一人けえ」
○「いえ、お四人《よったり》でげす」
△「どうもあきれたな」
喜「ねえ、おまはん後生だから返しておくんなさいよ」
△「しようがねえな、われがそう言うならどうも仕方がねえ、玉のほうはおらが出してやるべえ、喜助、われにはァこれを渡すだから、みんなに玉を返《けえ》してくんろ」
○「どうも相すみませんでげす、まことにどうも恐れ入ります」
喜「早くさ、チョッ、気が利かないよ、喜助どんにいくらかおやりなさいよ」
△「十銭もやるべえか」
喜「そんなケチなことをお言いでないよ、五十銭おやりよ」
△「五十銭、多かんべえ」
喜「なんだよ、ケチなことをおいいでないよ、五十銭おやりよ、いいからお出しッてば」
△「出すよ、色男になると銭はいるもんだ、さァこれでいいようにしろ」
○「どうも相すみませんで、へヘヘヘまことに相すみません」
△「なにそんなにわれ、すまねえすまねえというなら、なにも無理にやりたかァねえだから」
○「いえ、どうつかまりましていただいておきます、花魁よろしく……」
喜「ちょいと喜助どん、早く返しておくれよ……ちょいとおまえはん、もう五十銭おはずみなさいよ」
△「いいさ」
喜「あれわからないね、私にさ」
△「あに、われがくれろというのかな、なにもわれがそんなこと言うにゃァ及ばねえじゃァねえか、われが物はおらが物、おらがの物はわれが物だ」
喜「だけどさ、なにかばかりは別だというからサ」
△「別だといって改まっていうにゃァ及ばねえじゃァねえか、さァこれをやるべえ」
喜「これをもらえば私の物だね」
△「やればわれの物だ、そんなこと聞くにゃァ及ばねえ」
喜「それじゃァ今度改めてこれをおまえはんにあげるから」
△「改めて俺がもらってどうするのだ」
喜「後生だからおまえはんもこれを持ってお帰り」
[解説]廓話の中でも有名なもので、五人の異った客を出し、それに妓夫と花魁の喜瀬川と、都合七人を話し分け、ことに江戸ッ子の職人のごときは、巻舌の早口で能弁を聞かせなければならないのだから、大いに熟練された話術を要し、凡手ではしゃべれない。サゲはぶッつけ落ちである。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
風呂敷
――――――――――――――――――
男「オオおたつ、おめえの前《めえ》だが、考《かんげ》えてみると俺はどうも良くねえと思うよ」
たつ「なにが」
男「なにがって、おめえのとこの親父は好人物だ、おめえを旦那からあずけられている上は親子とはいいながら、大切のあずかり物だ、そこへ俺が遊びにきて酒なんぞ飲んでちゃァすまねえと思ってる」
た「なんだねえこの人は、今になってすむもすまないもありゃァしないよ、なにも変なことでもしていやァしまいし、たまに会ったんだから一口付けて昔話をしているんじゃァないか」
男「そりゃァそれにちがいねえけれども、マアおまえだって主《ぬし》ある女だ、気がつかねえうちはともかくも、悪かったと気がついてみると、どうも良くねえ」
た「いいよ、かまやァしないよ、そんなことを言わないでマアお飲《あが》りよ」
男「だがこうして酒を飲んでてそんなことを考えると、なんだかいやな心持ちになってくるからな」
た「なにもいまさらそんなことを考えることはないじゃァないか」
男「だっておまえいつ何時《なんどき》親父が帰《けえ》ってくるかわからねえからな、アアいう物堅い親父だから見つかったらどんな目にあうか知れねえ」
た「大丈夫だよ、急ぎの仕事で早出居残りでやってるんだから、遅くなけりゃァ帰ってくる気づかいないよ」
男「大丈夫だってなんだか気になるからな」
た「なんだねえこの人は、臆病《おくびょう》じゃァないか、サア威勢よくお飲《や》りよ」
男「もう俺はたくさんだ」
た「マアそんなことをいわないで、お飲りッたら、大丈夫だよ、チャンと表も締めてあるんだよ」
男「そうか、なかなか用心がいいな」
だ「そりゃァおまえ誰が来まいものでもないから、そんなことにヌカリはないよ」
親父の留守を幸いに以前勤めをしていた時分のなじみの男に会ったので家へ引き入れ、無理に酒を勧めていると、間の悪い時にはしかたがない、親父が今日は仕事の都合で、半チクになって早じまい、帰りに棟梁《とうりょう》のところへ寄って馳走になったうえに、また途中で朋友《ともだち》にあって一口飲み合い、いいご機嫌でブラブラ帰ってきて、
熊「オオいま帰った」
と戸をあけようと思うとあかない。
熊「オオどうしたんだ、オーイ居ねえのか……」
た「オヤ帰ってきたよ」
男「ソレみねえな、だからいわねえこっちゃァねえ」
た「なにもそんなにあわてなくッていいじゃァないか、変なことでもしていやァしまいし……、チョイト、そっちへ行っても出るところはないよ、そこは便所だよ一方口なんだから、……アイヨおとっさんかえ、たたかないでも今開けるよ」
熊「なにをしているんだな、早く開けねえか」
た「あいよ……、じゃァチョイト、この戸棚へお入り」
男「なにかあるじゃァねえか」
た「きゅうくつでも少し我慢しておいでよ……」
大騒ぎでやっと戸棚へ男を入れて、ピタリ戸を締めて、
た「アイヨ待っておくれよ」
食い物があるから台所へ片づけておいて、ガチャガチャ、カラッ、
た「サアお入り、……アイタ、なにをするんだねおとっさん、痛いじゃァないか」
熊「なにをグズグズしているんだ」
た「なにをしているったって、不用心だから締めといたんじゃないか……、マアたいそう酔ってきて」
熊「どうしたって、べらぼうめえ、今日仕事が半チクになっちまったから、早じまいをして棟梁のところへ寄ってよ、ごちそうになって、それから棟梁のところを出て、親父橋《おやじばし》まで来ると金太郎《きんたろう》に逢ったんだ、マア久しぶりだというんで、それからまた牛肉屋で一杯やってたんだ」
た「マアたいへんだねえ、なにしろそんなところへ腰を掛けちまわないで、こっちへおあがりよ」
熊「あたりめえよ、自分のうちへ帰ったんだ、あがらねえ奴があるもんか……アアいい心持ちだ……」
た「アレそんな戸棚の前なぞへ坐っちまっちゃァいけないよ」
熊「なにをいやァがるんだ、どこへ坐ったっていいじゃァねえか」
た「なんだって今時分帰ってきたんだね」
熊「ナニー、べらぼうめえ、俺はなにも帰りたかァねえんだけれども、仕事の都合でしかたがねえや、棟梁がオイ熊やい頼むよといって、たとえ十人でも十五人でもシテ方《かた》を俺があずかってるんだ、俺だって一生懸命早出居残りでやってるんだけれども、仕事の都合で半チクに切り上げて棟梁のところへ寄って……」
た「アイよわかったよ、もうわかったよ」
熊「もうわかったって奴があるかい、俺が無理に帰ってきたわけじゃァねえ、第一おかしいじゃァねえか」
た「なにがおかしいのさ」
熊「なにがおかしいッたって、このまっ昼間、なんだって締めちまったんだ、べらぼうめえ、なにをいやァがるんだ、親父が稼いで帰ってくるになんだって締めやがったんだ」
た「そりゃァね、私が心持ちが悪いから寝ていたんだよ」
熊「心持ちが悪けりゃァ医者にかかりねえ」
た「ナニお医者にかかるほどでもないから、寝ていたんだよ、この節コソ泥が流行るからヒョッととろとろとした間に、なにか持って行かれるといけないから、それで締めておいたんだよ」
熊「そうかフフン……」
た「なんだねえ、へんな笑い方をして……」
熊「ナア、オイ」
だ「なんだよ」
熊「こいつァ少しおかしいぜ、コー親父が稼いで帰ってくるのに締めて寝ているのはおかしいや」
た「ちっともおかしいことはないじゃァないか、心持ちが悪いから、少し横になってたんだけども、なにひとつ盗《と》られても悪いから閉めておいたってえのがわからないかねえ」
熊「だってそこに酒の道具があるなァなんだ」
た「アアこれかえ、こりゃァおまえこの間もそういったじゃァないか、アノ本所《ほんじょ》の伯父さんが二三日内に訪ねてくるといったじゃァないか、さっき来たんだよ伯父さんが……」
熊「そうか、じゃァなぜ待たしておかねえんだ、俺だってあにきに久しく会わねえから会いてえじゃァねえか」
た「だっておまえのお帰りがいつも遅いから、そういったら夜までは居られないからまた来るといって帰ったんだよ」
熊「そうか、本所のあにきは粋《いき》な人間だ、おめえの伯父さんだが、あんな粋な男はねえや」
た「ほんとに粋だねえ」
熊「いつか俺が行った時に、一晩つきあってくれというから、若いうちにはずいぶん行ったが、年をとって兄弟で女郎買いもできねえというのをなんでも行けと、無理にひっぱって吉原へ三年ばかり前に行ったことがあった」
た「そうだったねえ」
熊「アノ時によ、ひとつ咽喉《のど》を聞かせようてんで、昔取った杵柄《きねづか》だ、あにきが端唄《はうた》を聞かせたが良い声だ、ヘヘッ、吉原の婆ァ芸者が胆をつぶしやァがった」
た「ほんとうに良い声だよ、それだからね、おまえにぜひ会って行きたいんだけれども、なにしろ年をとって足元やなにか悪いので夜になっては困るから、また来るといって帰ったよ」
熊「そうかそれじゃァごちそうしてやってくれたか、そいつァよかった、オ、おたつ、久しぶりで早じまいをしたんだ、この節どうも朝早くって夜遅いだろう、どうも腰ッ骨が痛くってしようがねえが、どうだひとつ按摩《あんま》にでも揉んでもらおうか」
た「それがいいね、揉んでおもらいな」
熊「じゃァお願《ねげ》えだ、おまえひとつ按摩を呼んできてくれ」
た「アッ、そうそう、あいにくなんだよ、さっき私もあんまり心持ちが悪いから按摩に揉んでもらおうと思って、お隣のおかみさんに頼んで呼びに行ってもらったんだが、今日はいないんだよ」
熊「いるよ」
た「いやァしないよ」
熊「今俺が帰ってくる時にあったから、オオ按摩さんどこへ行んだといったら、今帰りだといって、あいつは感じのいい按摩だ、杖をふりまわしながらスタスタうちへ帰って行った」
た「帰ったっていやァしないよ」
熊「いるよ、今俺が会ったんじゃァねえか」
た「会ったって……、マアいいじゃァないか呼びに行かないったって……」
熊「いいッたっておまえが揉んでもらうんじゃァねえ、俺が揉んでもらうんだ」
た「けれどもさ、按摩なんぞよして寝ておしまいよ、酔ってるところを揉むと毒だよ」
熊「毒じゃァねえよ」
た「じゃァあとで揉んでもらうとして、疲れてるんだから、お湯に行っといでよ」
熊「いけねえ、それこそ毒じゃァねえか」
た「しようがないね、じゃァちょっと小便《ちょうず》に行っといでよ」
熊「ナニ小便《しょうべん》に行けッてえのはおかしいじゃァねえか、ガキじゃァなし、小便の出てえ時には俺が勝手に行かァ、おまえの指図は受けねえ」
た「指図てえわけじゃァないけれども、ちょっと行っといでよ」
熊「大きにお世話だ、居びッたれでもしやァしめえし、なにを言やがるんだ」
た「だいいち戸棚の前へ坐っちまっちゃァいけないよ」
熊「なにがいけねえ、戸棚の前へ坐ってなにがいけねえことがある」
た「なにがって、出す物があるんだから」
熊「出す物があるなら出しねえな」
た「だってそこに居ては困るよ」
熊「やかましいことをいうない、俺のうちだ、どこにいようと俺の勝手だ」
た「マアいいからお寝よ……、じゃァ私がたたいてあげよう」
熊「そいつァありがてえ、けれどもおたつ、雨が降るぜ」
た「なぜ」
熊「なぜッたって、これまで俺をたたいてくれたことなんかねえじゃァねえか」
た「だけれども、按摩なんぞ呼んで無駄だからさ」
熊「そりゃァありがてえ、おめえでけっこうだ」
た「ここかい、こんな工合でいいのかい」
熊「ウムよし、ありがてえ……なにしろ俺だって棟梁に頼むといわれてみると、怠《なま》けていられねえじゃァねえか」
た「そりゃァわかってるよ、ここかえ……」
熊「ウムそこだ、アーありがてえ……」
た「なんだねえほんとうに、こんなにおまえ酔い倒れちまうくらいなら、棟梁のところで少し寝てくりゃァいいじゃァないか、今時分帰ってこないたって……」
熊「なにをいやがるんだ、今時分帰ったって俺がなにも勝手に帰ってくるわけじゃァねえ、ナア今日は仕事の都合で、半チクになってよ」
た「いいよ、わかったよ」
熊「わかってることを何をグズグズいやがるんだ」
た「なにも言やァしないよ、アーいやだいやだ、ほんとうに酒飲みはどうしてこんなに愚図だろう」
熊「ヤイヤイなにをしていやァがるんだ、たたかねえか」
た「アアたたくよ、ここかえここかえ」
熊「ウムそこよ、アアありがてえありがてえ持つべき者は娘だ、てめえにもさんざん苦労をかけたが、アノ旦那を持ってから堅くしているようすだから、オレも安心をしていると、今度旦那が旅をなさるについてオレにあずけておいでなすった。万一まちがいでもあると、オレが申し訳がねえ、なんでも女は身持ちをよくしなくっちゃァいけねえぜ……」
た「わかってるよ、グズグズ言わずに早く寝ておしまいよ、ここかえ……マアほんとうになにも今時分帰らないッたって、飲むんならモットゆっくり飲んでくるがいいじゃァないか」
熊「なにをグズグズいってやがるんだ、せっかく寝ようと思うと、てめえがたたきながらグズグズいうんで眠れやァしねえ、俺が勝手に帰ったんじゃァねえというのにわからねえな」
た「いいからお寝よ、ここかえここかえ……」
とこうしているうちに、酔っておりますから、娘に腰をたたかれて良い心持ちに高いびき、やれ安心とホッと息をついたが、戸棚の中の男を出そうと思っても、戸をあける音で目を覚まされてはならない、どうしたものかと困っていろいろ考えておりますところへ、
頭「オオ帰ってきたか」
た「オヤ頭《かしら》ですか、ちょうどいいところ、今帰ってきて、寝たばかりなんですよ」
頭「もう寝たのか」
た「ちょっと頭《かしら》、目を覚まされるとちと不都合なんですが、おまえさんを侠男《おとこ》と見込んで少しお願いがあるんですよ」
頭「なんだ」
た「ちょっと耳を貸してください」
頭「エーなんだ、ウムウム、そうか」
おたつが町内の頭《かしら》耳へ口を寄せてしきりになにかコソコソ話をしておりましたが、
頭「そりゃァまずかったなァ、エエオイおたつさん、おまえのとこの親父は職人じゃァあるが、まことに気質《きだて》のいい人で、マア酒を飲んでグズグズいうことはあるが、こんないい人はねえ、俺たちこんな短《みじけ》え物を着て、世の中を渡ってる人間だが、曲がったことは大きれえだ、おまえアンナいい旦那があってお留守中親父にあずけられている身体で、そりゃァ今は変なことはあるめえけれども、元のなじみを引き入れて、酒を飲ませるなんてえのはよくねえじゃァねえか、ほかのこととちがってこういうことはめったに口を出すわけにいかねえ」
た「ですからまことに悪いことをしたと、スッカリ後悔したんですけれども、なにしろあわてて、戸棚へ入れちまったんで、親父がどこかへ出かけさいすれば逃がそうと思うんですが、酔ってるんで戸棚の前へ坐って動かないんで、困っちまったんで。今ようやく寝かしたんですが、戸をあけて目を覚まされるといけないから、どうしようかと思っていたところ、頭《かしら》もうきっと気をつけますから、どうか工夫してくださいな」
頭「俺がとんだお先に使われるわけだな、マア今日のところはどうにか工夫してやるが、以後はおまえ決してこんなことをしちゃァいけないよ」
た「エエもうこんなことはきっとしません」
頭「気をつけなくちゃァいけねえ、今日だけは引き受けるがこの次こんなことがあると俺が親父に代わっておまえも野郎もただは置かねえからそう思いねえ、俺も町内をあずかって、頭とか親方とかいわれる身体だ、頼まれりゃァしかたがねえ、引き受けてやる」
た「どうかお頼み申します」
熊「アアーッ、……オオなんだなんだ、誰だ……なにを引き受けるんだ」
頭「オイオイ俺だよ、いいごきげんだな」
熊「オオこりゃァ頭《かしら》ですか、どうもすまねえ、酔ったもんだから……」
頭「マア寝ていねえ寝ていねえ、けっこうだ」
熊「ちっともけっこうなことはねえ、頭こそけっこうのいい身分だ、ねえ町内をあずかっていて、ひとつジャンとぶッつけりゃァ大したことになるんだ」
頭「ばかァいっちゃァいけねえ、ジャンとぶッつけられてなにが大したことがあるものか」
熊「だって頭、おまえさんがひとつ引き受けたといったら焼けッこはねえんだから……」
頭「なにをいってやがる、引き受けるものがちがわァ、今日はおまえ早じまいか」
熊「エー仕事が半チクになって、久しぶりに早じまいをして一杯棟梁のところで飲んで、それから外へ出ると朋友《ともだち》に出っくわしたもんだから、また一杯《いっぺえ》他で飲んで今帰ってきたところだ」
頭「そうかそりゃァけっこうだ」
熊「けっこうだけっこうだって、こちとらァちっともけっこうのことはねえ、頭ぐらいいい身分のものはねえ」
頭「そうでねえ、商売はなんになっても楽はできねえ」
熊「そりゃァマアそうだけれども、こちとらとはちがうからね、こちとらァ、カラキシしようがねえや」
頭「ナニそうばかりもねえ、マアすべて物事は善いこともあれば悪いこともあるが、ブラブラ歩いて、気楽に見えてもつまらねえところへ出っくわすことがあるもんで、どうもやっかいなことを頼まれちまった」
熊「なにを」
頭「なにをったってマアだいぶおまえ酔ってるから話したってわからねえ」
熊「酔ってたって、なにも俺は死んでるんじゃァなし、話のわからねえ奴があるものかねえ、頭、おまえさんにしろ、私にしろ、魚と水の稼業だ、なんだか話を聞かしておくんねえ」
頭「ナニ話して聞かせるというほどのことでもねえが、つまらねえところへ出っくわすとずいぶん迷惑なことを頼まれるもんで、ナニある旦那取りの女がな、都合があって当分のうち親父のところへ預けられているんだ」
熊「なるほど」
頭「スルと、おまえ親父の留守を幸いに、おまえの前だが、マア昔なじみかなにかひっぱり込んでいやがるんだ」
熊「フーン、そいつァよくねえな」
頭「そんな浮気な奴は、ウンと仕置きをしてやらねえとためにならねえけれども、しかし今悪いことをしてるというわけでもなし、この先気をつけるといってみりゃァしかたがねえ」
熊「そりゃァそうだとも」
頭「親父が居ねえというので、その男とマア一杯やっていたんだ」
熊「フーム」
頭「スルとおまえいつも早出居残りで遅く帰ってくる親父が、仕事の都合で早く帰ってきたんだ」
熊「ヘイ、よく似た話があるもんで、俺もそうだ」
頭「マアおまえもそうだろうが、その親父が帰ってきてみると戸が閉まってるんだ、悪いことはできねえな」
熊「そいつァよくねえな」
頭「なにしろ不意だったから面食らって、どうすることもできねえ、表へ出そうとしても、台所の一方口だ」
熊「ウムなるほど」
頭「まさか壁を突き抜いて隣へ逃がすわけにもいかねえから、戸棚の中へ入れちまったんだ」
熊「なるほど」
頭「スルとその戸棚の前へおめえ、親父がぶっ坐っちまって、とうとうそこへ寝ちまったと思いねえ」
熊「なるほど悪いことはできねえね」
頭「そこへ俺が通りかかったんで娘が、以後はきっと気をつけるから、どうか頭《かしら》今日のところ、ひとつなんとか工夫をしてくれという頼みだ、俺もこういうことに口を出すのはいやだと思ったけれども仕方がねえ、ウンと小言をいって、それから戸棚の中の男を出してやることにしたんだ」
熊「ヘエー、親父をどこかへやったのかえ」
頭「ナーニそこに横になっているんだ」
熊「アア寝ちまったのか」
頭「ナニなにかグズグズいっていばってる」
熊「おかしいなァこりゃァ、どうして親父を出したんだえ頭」
頭「イヤ今日はおまえ酔ってるから、また明日でも来て話をしよう」
熊「ナニもう酔ってやしねえ」
頭「じゃァ話をするが、親父が戸棚の前に居ちゃァ出すわけにいかねえじゃァねえか」
熊「そうだろう、だからおかしいと思うんだ」
頭「これにゃァ俺もこまった、しかたがねえから、いろいろ考えてひとついい工夫をした」
熊「どんな工夫をしたんだ」
頭「アアちょうどここに戸棚がある、この戸棚の前にいるおまえが仮にその親父となって、ここへこう寝ていると思いねえ」
熊「ウム」
頭「マア酔っぱらってやがるからいろいろなことをいいながら、俺がその親父の首ッ玉へこうかじりついた。いいか仕方話《しかたばなし》〔身振りをまじえた話し方〕だ」
熊「おもしろいねえ、仕方話は」
頭「ソレこう親父の首ッ玉へ手をかけて起こしたんだ」
熊「なるほど」
頭「オイおたつさん、その風呂敷を貸しな……それじゃァ小せえ、そっちの大きい風呂敷を……いいかえこう風呂敷を頭から掛ける」
熊「ウムこいつァ苦しいねえ」
頭「これだけじゃァ透いて見えるといけねえから、上からもうひとつ……」
熊「アーッこりゃァ苦しいや」
頭「どうだ見えめえ、首ッ玉へこう結んでおいて、それから前の戸棚をこう開けたんだ」
熊「なるほど」
頭「早く出ろ、俺が面《つら》を覚えてるぞ、こののち来やァがると勘弁しねえぞ、早く出ろ、あわてやがって何か忘れて行くな……と、意見をして表からその男を出してやって、それから親父の風呂敷をこう脱《と》ったという話さ、どうだわかったか」
熊「ウームなるほど、頭こいつァいい工夫だね」
[解説]この噺は改作で、原作では親父ではなく亭主の留守に情夫を引き込むのである。帰ってきた亭主は、戸棚の前に座り込んでしまうので情夫を出す事ができず弱って女は酒を買いに行くと称して頭のところへ頼みに行く、頭は呑み込んで風呂敷の用意をして熊五郎の家へ行き、仕方噺をしながら情夫を逃がすのである。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
縮み上がり
――――――――――――――――――
すべて物は取り合わせがよくないとおもしろみが少のうございます。ちょっとお酒のお肴なども取り合わせがよろしいと、多分のお金をかけませんでも、お酒がおいしく飲めます。
また女の子がチラチラ赤い縮緬《ちりめん》の蹴出《けだ》しなどが出るのは乙《おつ》なものでございますが、色の褪《さ》めたメンフランの腰巻きなどが出られた日にはまことに見にくうございます。
何事によらず付き物が肝要でございます。柳に幽霊、落語家《はなしか》に扇子《せんす》、按摩《あんま》に杖、心中に念仏……。落語家に扇子と按摩に杖はどうしても欠くべからざるところのもので、それから幽霊というヤツがそうで、柳の木をしょって出ないと凄味《すごみ》が薄うございます。
それから心中をする時には南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》に限ります。同じことでも天理教《てんりきょう》とくると少し文句が長すぎていけません。「南無天理王のみーこーとー、チョイと聞きな、神の言うこと聞いてくれ、悪しきのことを言わんでな。南無天理王のみーこーとー」これじゃァ死ぬのを忘れてしまいそうでございます。
おそらくご陽気なご宗旨といったら、日蓮宗《にちれんしゅう》でございましょうな。御会式《ごえしき》の時などは堀の内へほうぼうから集まってまいります。世の中が著しく変化した今日でもずいぶんにぎわいますから、四五十年前まではじつに盛んなものでございました。その頃のお話として申し上げますが、ちょっと気の利いた扮装《なり》をして団扇太鼓《うちわだいこ》を持って、サアサア景気を付けて、一貫三百どうでもいい、なんてんで、太鼓の撥《ばち》が折れるばかりにひったたく。
○「オイ天気がよくっていい塩梅《あんばい》だな」
△「けっこうだな」
○「助さんはどうした」
△「助さんはうっちゃっときねえ。うちを出る時にいったじゃァねえか、今年は子供の病気全快のお礼詣りに行くんだから、決して行きには口を利いてくれるな、その代わり帰りにはなんでも付き合うといったじゃァねえか。一生懸命になってるんだから、かまいなさんな」
○「そうか、いつもは三人で話しながら行くんだが、それじゃァ今年は二人で話しながら行こう……。どうだ見ねえ。陽気がいいところへもってきて、ばかにいい天気だもんだから、ゾロゾロ人間が上這《うわば》ってる」
△「なんだ上這ってる、汚《きたね》えことをいいなさんな、シラミみたようじゃァねえか」
○「なにをいやァがるんだ。人間だって陽気がよくって外へ出りゃァ、上這おうじゃァねえか。シラミだってそんなばかにしたものじゃァねえや。人間だってシラミだって同じことだ」
△「小ぎたねえことをいいなさんな」
○「小ぎたねえということがあるけえ。俺ァ身寄り親類もねえ独身者《ひとりもの》だ。血を分けた者はシラミばかりだ」
△「へんなところへ力を入れるな。シラミの肩を持つ奴があるものか」
○「シラミの肩を持つわけじゃァねえが、そんなにきたねえきたねえと、けなしたもんじゃァねえ」
△「よしねえよ、あまり自慢になった話じゃァねえから」
○「このごろ日本もだいぶ人が増えたね。人間と油虫とどっちが多いだろう」
△「オイオイつまらねえこと言うな」
○「これが人間だからいいようなものだけれども、犬だったら噛み合うだろうな」
△「なんだ、今度は犬になったのか。人間を捉まえて噛み合うだろうはひどいな」
○「いやにおめえ人間の肩を持つな」
△「あたりめえよ、俺ァ人間だもの、そういうおめえはなんだ」
○「俺ァ人だ」
△「なにをいってやァがるんだ、人間も人も同じじゃァねえか。マアくだらねえことをいわねえで向こうへ行く女を見ねえ。色は年増《としま》にとどめさすというが、ほんとうだな。お召し縮緬の着物をゾロリと着て、黒繻子《くろじゅす》と八反の腹合わせの帯をキュッと締めて、白縮緬の腰巻きをチラリと見せて素足に後歯《あとば》の下駄をつっかけたところは悪くねえな」
○「ウム安くねえ身体だな、どうでえあの女にチョイと惚れられて、待ち合いへ一緒に行ったってえ話をしようか」
△「誰もお前《めえ》なんかに惚れやァしねえよ」
○「マア惚れたとしてよ、たちまち相談がまとまって待ち合いへ行ってよ。さんざっぱら飲んだり食ったりするうちにお互いにいい心持ちになって、女の目のふちがホンノリと赤くなるね」
△「ウムいいものだな」
○「まるで山の手から見た下町の火事のようにポーッと赤くならァ。女の目のふちがホンノリ桜色でよ。俺の目のふちもホンノリ桜色とくるだろう」
△「オイオイ女の目のふちの桜色はわかっているが、おめえの目のふちが桜色ッてえな、わからねえな。おめえの目のふちときた日にゃァ油ぎって赤くって、まるで南京虫の背中のような色をしている」
○「よしねえ。人の面《つら》と南京虫の背中と一緒にする奴があるか……いいかい、俺の膝へ女がしなだれかかって、こんな格好をするだろう」
△「へんな格好じゃァねえか、なんだいそりゃァ」
○「そりゃァ俺がするからへんな格好に見えるだろうけれども、女がすりゃァいい格好なんだ」
△「まるで石地蔵が倒れかかったような格好だな」
○「色気のねえことをいいなさんな。マアいいや……にいさん、お盃をちょうだいようといやァがるんだ、それから俺が飲みかけた猪口《ちょこ》を女にやるだろう。むこうがちょっと飲んでこっちへ返すから俺が飲む、三三九度の盃をしたてえような心持ちで、にいさん、ひとつ唄ってくださいようッてんで、三味線をちょっととって水調子シンネコという奴だねトーントンとくらァ、ばかに音締めがいいんだからたまらねえや。トーントンてえんだ。チーンチンとくらァ、トーントン、チーンチン……」
△「よせやい、なにをいってやがるんだ」
○「三味線の音《ね》だよ」
△「アー三味線の音かい。俺ァ、また機屋《はたや》の音かと思った」
○「ふざけるない。それからマア俺がちょっと乙な咽候《のど》を聞かせるんだな」
△「なんだって」
○「俺が女の子の三味線で乙な咽喉を聞かせるんだよ」
△「乙な咽喉なんてえなァ、おめえたちが使う言葉じゃァねえや。チョイチョイ湯屋でおめえの咽喉は聞かされてるけれども、まるで障子のやぶれへ大風がぶっつかるようだ。ブルブルブルブルッ」
○「いちいち変なことをいうなってことよ……とにかくひとつ唄っちまって、眠くなったからゴロリと横になる。アラにいさんずいぶんね、そっちなんか向いて寝て、こっちを向いて寝てちょうだい。チョイとお向きなさいよ、いやだよ」
△「いやだよなんてきたねえ変な声を出すない」
○「黙ってろよ……。寝ようッたって寝かしませんよ。寝かしといてくんなよ、いけませんてば、お起きなさいヨー」
△「なんだいそのヨーとひっぱるところは、エンヤラヤァの女が綱《つな》でもひっぱるようだな」
○「よせやい、悪口をいうなッてえことよ……それじゃァどうしてもこっちを向きませんか、向かなければ私が向かしてあげますようてんでフフン」
△「いやな笑い方をしやァがるな。てめえが変な声を出しやァがるから、狂人《きちげえ》だと思ってあとから人が大勢ついてくらァ……オイオイ、小僧さんおめえ大きな風呂敷をひっちょって、なんだって尾行《つい》てくるんだ。どこかへ使えに行くんじゃァねえか」
小「ヘエ私は主人の使いで赤坂へまいるんでございますが、あんまりお話がおもしろいもんですからウカウカとついてきました」
△「なんだ赤坂へ行くのに、新宿へきてしまっちゃァたいへんだ。遅くなると叱られるぞ。早く元の道へ帰んねえ」
小「イエもうやけくそで、どっちにしたって叱られるんだからかまいません。その先を聞かしてください」
○「感心な小僧だな、よしよしその後を聞かしてやるからこっちへ来い、こっちへ」
△「よしねえよ。小僧をしくじらしちゃァ可哀相だ。だいいち女は居なくなってしまったじゃァねえか」
○「アッちくしょう、どこへ隠れやァがった。小僧、あてがなくなったから話はやめだ。帰んねえ帰んねえ」
△「ゾロゾロついてきちゃァいけねえよ、この人は狂人《きちがい》じゃァねえんだから」
○「狂人じゃァねえは驚いたな」
△「助《すけ》さんが見えねえがどうしたんだ」
○「アッあすこに立ち止まってるじゃァねえか。あとのほうにいらァ」
△「さっき俺たちより前にいたが、後になっちまったのか。どうしたんだよ。アアなるほど、女郎屋の前に立ち止まって、中を覗き込んでいやァがる。あすこは豊倉《とよくら》だろう、呼んでやれ呼んでやれ」
△「オー助さん、助さん」
助「ヘエこれはどうも、ごらんになりませんか、今のを」
△「なんだい今のをッて」
助「今あの豊倉屋ののれんをまくって表を覗いておりました女を」
△「冗談いっちゃァいけねえや。助さん、いっぺんうちへ帰って顔を洗ってきねえ。今日は子供のお礼詣りだから行きには口を利かねえ、話をしねえといったじゃァねえか。それだのにお詣りをしねえうちに女郎なぞに見惚れてちゃしようがねえじゃァねえか」
助「それだって私も木の股から生まれた人間じゃァございませんから、いい女を見ればまた変な気も起こります。その対手《あいて》が主《ぬし》ある者だとか、堅気《かたぎ》の娘さんだとかいうのなら、またあきらめようもございますが、売り物買い物で、お金さえ出せば一晩でも二晩でもおかみさんにできるんでございますからね、このままムザムザ帰ってしまった日には、宝の山に入りながら、手を空しくして帰るようなものでございます」
△「オイオイ宝の山だとよ。ふざけちゃァいけません」
助「どういたしまして、ふざけや冗談ではございません。どうでございましょう。お付き合いくださるわけにはゆきますまいか」
△「そうさな、あいにく今日はなんだったな。堀の内へお詣りをして、帰りにどこがで飯を食って帰るぐらいの銭《ぜに》しきゃァ待ってこなかった。明日また出直してこようじゃァねえか」
助「失礼ながらおつきあいくださるというのなら、決してあなた方にご迷惑はかけません。私が昨晩|無尽《むじん》に当たりましたお金をソックリ持ってまいりました。男が外へ出れば七人の敵がある。どこでどういう敵に出っくわさないとも限らないから、表へ出る時には必ず相当の金を肌へ着けていなければいけないと、親父が生前よく申しました。ことに今日は町内で一番|善《よ》くないあなた方がご一緒だから」
○「オイオイ助さんお静かにしましょうぜ。町内で一番善くねえ人間ならお交際《つきあい》はご遠慮申しましょうぜ」
助「イエ決してそういうわけではございません。お二人ともお女郎買いのお好きな方ばかりで、新宿というところを通るのでございますからきっと帰りには誘われるにちがいない。その時に勘定ができないようなことがあると、恥辱《ちじょく》でございますから、じゅうぶん用意をしてまいりました。今日の勘定は私が引き受けます。あなた方にご散財は掛けませんが、いかがでございましょう。お付き合いくださいませんか」
○「ちょっと待ちねえよ……。オイ留《とめ》さん、勘定は助さんが持つというんだけども登《あが》るかい」
留「登るよ」
△「たいそう早いね」
留「早いとも官費《かんぴ》とくらァなんでも引き受けるね」
△「素直だな……じゃァ助さん、勘定はおまえさんが持つんなら付き合うとさ」
助「お付き合いくださいますか。それはどうも相すみません。ありがとう存じます」
△「どういたしましてヘッヘヘ」
助「それじゃァすぐに登りましょう」
△「すぐにッたっておまえさん今日は堀の内へ子供のお礼詣りに来たんじゃァねえか」
助「でございますがこういうことになりますれば、そのほうはどうでもよろしゅうございます」
△「それはあまり乱暴だろう。わけはねえんだ。ちょっとお祖師様へお詣りをして、すぐに取って返すということにすりゃァいいじゃァねえか」
助「それじゃァマアせっかくあなたがそうおっしゃるものでございますから、お詣りにまいりましょう」
留「それじゃァ歩いて行っちゃァたいへんだから、ガラガラッと人力車《くるま》を飛ばしてって、待たしておいてちょっとお詣りをして、すぐに引っ返してくるッてえ工合に、ねえ、そうしよう」
助「ヘエじゃァマア万事あなた方にお任せ申します。車代もなにもみんな私がお引き受けいたします。お付き合いくださるんですから」
△「大きく出たな」
助「ヘエもうお金があるんでございますから、あなた方のような貧乏とはちがいまして」
△「こりゃァご挨拶だ……。オー車夫《くるまや》ァ、大急ぎで三挺持ってきな。堀の内へ往復だ」
人力車《くるま》を三台景気よく飛ばして堀の内へまいりますと、お賽銭《さいせん》をつかんで「こんちくしょう、こんちくしょう」
お祖師様も災難で、おそらくお賽銭をたたき付けられたのは初めてでしょう。もう魂は新宿へ行っているから、ぬけがらがお詣りをしているようなもの。待たしておいた人力車へ乗って引っ返してまいりました。
女「いらっしゃいまし、どうもしばらくサッパリお見限りでございますね。アラ、お祖師様の……そうでございますか。ご信心でいらっしゃいますね。それにしてはたいそうお早いじゃァありませんか……。アア豊倉へ、さようでございますか、それはありがとうございます」
△「ちょいと見染めた女があるんだ。俺じゃァねえんだ、この人なんだがね、オイ助さん、おめえが見染めた本人なんだから、モッと前へ出ねえ」
女「アラいらっしゃいまし、はじめまして……」
助「ヘエ、はじめましてお目にかります。私はこの人たちの友だちでございまして、助さんと申して」
△「オイオイこんなところでていねいに挨拶をしないたッていいんだ。おまえの見染めた女は豊倉の楼《うち》のなんてえ女なんだか、名前をいわなくっちゃァいけねえ」
助「エーこの中で私が一番アノお金を持っておりまして、今日の勘定は私が出します。この人たちは勘定は出しません」
留「そんなことはどうでもいいじゃァねえか」
助「そうでございません。他のこととちがいまして、勘定のことでございますから、金のために申し上げておきます。それでございますから、どうか私に気に入ったのを出していただいて、その代わりこの人たちには手遊箱《おもちゃばこ》をひっくり返したようなのでけっこうでございます」
留「よけいなことを言いなさんな。どっちにしたって同じ金を出すんだ。良いほうがいいや」
助「ナーニこの人たちはなんといったってかまやァしません。どうか私のだけ良いのをきめていただきとうございます」
女「ハイハイかしこまりました、それでなんという妓《こ》でございます、名前は」
助「ヘエのれんのところからさっき首を出しましたんで」
女「そんなことをおっしゃってもわかりません。みんな退屈なものでございますから、日のうちに何度も首を出して人を見ておりますが、どんなようすでございました。ちょっと顔にお覚えがございませんか、丸いとか長いとか」
助「ヘエ、丸いの長いのってそんなつまらないんじゃァないんで、ただめちゃくちゃにいい女なんで」
女「困りましたね、あすこの妓はみんな粒選《つぶより》なんですから……。ちょっとあの色の白い、どっちかというと面長《おもなが》のほうじゃァございませんか」
助「アッ、そうそう色の白い面長の人なんで」
女「三日月眉毛《みかづきまゆげ》で目のパッチリした」
助「そうそう、三日月眉毛で目のパッチリと二ツある」
女「ご冗談ばっかり、目が二ツなかった日には化け物でございます。鼻すじが通って口もとの可愛い」
助「そうそう、鼻すじが通って口もとが可愛い、ソレソレどうもその人らしゅうございます」
女「それじゃァおやまさんじゃァありませんか」
助「そうそうおやまさん……」
女「ちがいますか」
助「ちがったかな」
女「おやまさんですか」
助「おやまさんかな」
女「ちがいますか」
助「ちがったかな」
△「オイオイ助さん、いい加減にしねえ、いつまでひとッことをいったって限《きり》ねえや。とにかくそのおやまさんてえ女が似てる人ならそれを買ったらいいじゃァねえか」
助「じゃァよろしくお任せ申します」
これから豊倉という女郎屋へ送られる。女の子がヌーツと出てまいりまして、あなたさまはこのお妓さん、あなたさまはこのお妓さん、あなたさまはこのお妓さんというので、ちょっと挨拶がすんで、女の子は引きさがって行く、うしろ姿を見送って留さん、
留「オイオイごらんよ、どうだいあの一番後から出て行ったのを、ずいぶん長い顔だね、馬が紙くずかごをくわえて、シルクハットをかぶったようだね、鯨尺《くじら》で二尺ぐらいはあるだろうね、アッハッハ、ありゃァおめえの敵娼《あいかた》だろう」
△「俺んじゃァねえ」
助「留さんので」
留「ナーニおまえさんのだ」
助「ヘエ」
留「おまえさんのだよ」
助「冗談いっちゃァいけませんよ。私の見染めた女てなァちがいます。あんなんじゃァありません。ありゃァちがいます」
△「ちがうったっておまえ、いまさらどうもしようがないじゃァねえか、おまえだって初めて女郎買いにきたわけじゃァねえから知ってるだろう。今日はもうしようがねえからあきらめて、今度出直してきておまえの見染めた女を買いねえな。それで今夜買った女にゃァ空玉《からぎょく》を付けてやりゃァいいんだ。そうおしよ」
助「ヘエ、そういうことにいたしますと、勘定のところはどうなりましょう」
△「勘定……なにをいってるんだ。初めの約束じゃァねえか、みんなおまえが引き受けるというから俺たちが付き合いに登楼《あが》ったんじゃァねえか」
助「するとここの勘定もさっきの車代もみんな私が」
△「そうよ」
助「冗談じゃァありません。思う女は買えず、中で一番悪い女を押しつけられて、車代から女郎の勘定まで一人でさせられて、そんなばかな話があるもんですか」
△「だってしようがねえじゃァねえか、おまえが不運なんだ」
助「不運も不運も大不運だ。アーアッ」
留「およしよ、こんなところへ来てため息をつく奴があるかい。オイなんとか言ってやってくんねえ」
女「なんとおっしゃいましたっけね。助さんですか……アノ助さん、ちょっとどうなすったの」
助「どうなすったとは情けない。アーアッ」
女「いやですよ、たいそう陰気になりましたね」
助「陰気にもなりましょうさ、女はちがう。勘定はさせられる。これで陰気にならずにいられましょうか、アーアッ」
女「そんなにため息ばかりついておいでなさらないでご酒《しゅ》を召し上がれよ」
助「ご酒なんか飲みたくありません」
女「ご酒がおいやならなにか召し上がれな」
助「マアよしましょう、食えば食うだけ勘定がよけいになります」
女「アラどちらへかいらっしゃるの、お小便《ちょうず》ですか、ご案内しましょう」
厠《かわや》へ行って用をたしまして、手を洗いながらヒョイと向こうを見ると、廊下を通って行く女がありまず。一目見るより助さん大きな声を出して、
助「ヤッ見つけた」
女「どうしたんですね。マア敵討《かたきう》ちみたような騒ぎですね」
助「アレアレあの方あの方、ソレむこうへ行ってこっちへ抜けた。あっちへ行ってこっちへ行って、ア一どこかへ行っちまった」
女「あのお妓さんをお見染めなすったの……。アアそうでございますか、気が付きませんでしたねえ、二三日あとに来た新妓さんで、お熊さんというんですよ、なんだか話しのようすじゃァおやまさんだと思いましたから」
助「ヘエ、おやまさんだってお熊さんだって名前じゃァ大してちがいはないんですけれども、人間はたいへんちがいます」
女「そりゃァそうでございます。ようございます。それじゃァちょっと話しをしまして、お見立て替えをすることにしましょう」
助「どうかなにぶんお願い申します。ヨーイと、来たろう」
△「オヤッ、たいへんな景気が付きやァがった。どうしたんだ。小便をしたんでいい心持ちになったのか」
助「そんなことじゃァございません。ヘヘヘ女が見つかりました」
△「エッ、そりゃァおめでてえな」
助「サアサアお引けだお引けだ」
留「たいそう床《とこ》急ぎだな。いくら女が見つかったってあんまり早かろう」
助「早くったって、遅くたってかまいません。女が見つかってしまやァ、こんなところに用はございません」
△「ご挨拶だな、俺たちは今夜飲み明かす心算《つもり》なんだ」
助「エーもうあなた方は飲み明かすとも食い明かすともご勝手になさい。私はご遠慮なく先へ寝ます。どうぞみなさんごゆっくり、ハイさようなら……ハテお熊さんはどうしたかな、助さんがお待ちかねなんだよ……。オヤオヤ廊下に草履《ぞうり》の音がするよ、来たかな、なんだか体裁《きまり》が悪いな……通り抜けか。さてはちがったかな……。アアまた来たぞ、今度は本物だぞ。入って来る、待ってました。よくおいでなすったと、お辞儀をするのも変だな、寝ていようかしら、いびきをかいていようかな」
そのうちに部屋の前で草履の音が止まって障子が開いた。娼妓《おいらん》というものはたいがいお客さまのほうへ真向きには坐りません。体裁が悪いのかというとそうばかりではない。真向かいに坐りますと鼻が低いとかなんとかアラが見えますから、斜《はす》に坐ります。
助「エエお熊さん、あなたに失礼なことを申し上げるようでございますが、さっき表をごらんになっておいでなすった時に、私はスッカリ見染めてしまいました。もうおよしなさいよ。表を覗くのは罪ですよ。悪いことは申しません。私みたように表を歩いていた者が、ムラムラと変な気になる人がいくらあるかしれません。お熊さん、間夫《まぶ》は勤めの憂さ晴らしといって、いやなお客の勤めも、たまにちょっと口直しをすれば、それでいくぶんか気が晴れるというようなものでございます。私みたようないやな奴ではございますが、これからマア月に四五遍は必ずおうかがいいたしますから、アアいやな奴が来たと思し召しても、人助けになることでございますから、笑い顔のひとつもお見せなすってくださいまし、モシお熊さんご返事がないのはどういうもんでございます。モシこっちをお向きなさいよ、お熊さん」
熊「よさねえかッてば、この人は、ホントにそれどこのこんではねえがのんす」
助「エーッ、のんすは少し驚いたね。モシモシお熊さん、おまえさんの国はいったいどこだえ」
熊「おいらがの国かね。越後《えちご》の小千谷《おじや》だがのんす」
助「小千谷だ。アア、それで私が縮み上がった」
[解説]越後小千谷名産の縮みと、萎縮《いしゅく》するという、その縮みあがりとの地口落ち。桂文治が得意だった。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
宮戸川《みやとがわ》〔上〕
――――――――――――――――――
小網町《こあみちょう》に茜屋半左衛門《あかねやはんざえもん》と申して、質屋渡世《しちやとせい》をいたしている。主人はいたって頑固な人でございます。隣家は桜屋《さくらや》と申します船宿《ふなやど》で、これは粋な稼業。半左衛門の一子|半七《はんしち》、いたって堅《かた》い子息でございますが、ただ碁会所《ごかいしょ》などへまいりまして、碁や将棋のために時間を費やしては、おりふし父の前を失策《しくじり》ます。ただいまなれば、トランプや麻雀に凝っているといったようなわけ、親半左衛門はいかにも実直な人ですから、碁将棋にふけることをば、ことごとくやかましゅう申しますが、さて覚えてみますと、その道はおもしろいもので、碁将棋に凝れば、親の死に目にあえんとさえ申すほど夢中になります。ある夜、半七が碁か将棋のために遅くなりまして、自分のうちの門口《かどぐち》へ来てみますと、表も締まり、しんとしております。
半「エーただいま帰りました」
父「どなたでございます」
半「エー私でございます」
父「私ではわかりませんから、どうぞご姓名をおっしゃってください」
半「イエ、おとっさん私でございます」
父「ハー、おとっさんとおっしゃるが、どなたでございますか、はっきりご姓名をおっしゃってください」
半「イエ、半七でございます」
父「ハ、ハー、半七のお友だちの衆でございますか、エー私どもに半七という伜《せがれ》がございましたが、いかにも不孝者《ふこうもの》でちっとも親父の言うことをききません、勝手に日遊び、夜遊びをいたしてどうにもならん奴でございますから、さっそく見限りまして、勘当《かんどう》をいたしました、モー私が勘当をいたせば親類へ立ち寄ることもできません。どうぞ伜半七にお逢いになりましたら親父がこう申したと、お言伝《ことづけ》を願います」
半「おとっさん、私は伜の半七でございます、まことに遅くなりましてすみませんが、なにとぞご勘弁を願います」
父「ナニ、遅くなってすみませんからご勘弁を願うと……いい加減にしろ、今日はじめてなれば勘弁もしてやるが、何度きさまに碁の小言をいう、ウーン……いくら言ってもきさまにはわからん、たとえ碁であろうとも、将碁であろうとも、おとっさんは勝負事は一切きらいだ、なぜきさまは親のきらいなことを逆らってする、今まではさんざん意見も小言もいったが、今日はもはや堪忍袋の緒が切れた、もう意見も小言もいうには及ばん、親のきらいなことを嗜好《すきこの》むなら、自分の勝手にやれ、おとっさんの手もとを離れて世渡りができるならばどこへでも行け、決してきさまにはかまわん、実子があると思えばこそ心配もする、ないと思えばそれまでのことだ、この身代《しんだい》をなんでも伜にゆずらなければならんと限ったわけのものではない、ウーン、行け行け、夫婦養子でもなんでもして、死に水を取ってもらう、他人さまに……もう愛想もこそも尽き果てた、無駄口を利くには及びませんから、どこへでも勝手に行きなさい。今夜は家へ入れませんぞ、夜更けに帰ってきておとっさん開けてくださいとは何の戯言《たわごと》だ、うちには若い奉公人はたくさんいる、伜だからいいワといって棄てておいてみろ、奉公人にすみません、宅の店の者はみな謹直家《かたいもの》ばかりそろっているからいいが、ずいぶん世間には心得ちがいをする奉公人がいて伜が日遊び、夜遊びをする、たまには奉公人だって、ちっとは遊び歩いてもよかろうくらい、思いちがいをする者がいくらもある、宅の者にはありませんが、その堅《かた》い店の者へ対してすみません、俺は他人の子だろうが、自分の子だろうが分け隔てをするのはきらいだ、若いうちはだれしも、自己《おのれ》が勝手な真似をして遊びたいものだが、勝手な真似をして遊んで通るものなれば通してみろ、今日《こんにち》の業《わざ》もしないでノソノソホッツキ歩いてなんになるつもりだ、そんな小言をいっているのも面倒だ、どこへでも行ってしまえ、誰も表を開けて伜をうちへ入れて寝かしてはなりませんよ、どこへでも勝手に行け」
半「へエ……まことにすみません、私もこんなに遅くなるつもりじゃァないのでございましたがツイ遅くなりました、なんとも申し訳がございませんがおとっさん今後はきっと夜分戸外へ出ないようにいたします、碁も将棋も禁断《たち》ますから、どうぞご勘弁をなすってくださいまし、モー決して戸外へ出ないようにいたしますから……誰かおとっさんに詫び言をしておくれなネ……アアみんな眠てしまった、不人情だネ」
ちょうど隣家の桜屋の門口に娘のお花というが立っておりまして、
娘「おっかさんエ、おっかさんエ、まことに遅くなってすみませんが開けてくださいよ」
母「イイエなりませんよ、赤い布《きれ》をかけた、妙齢《としごろ》の娘が、夜更け、さふけ、まで表をホッツキ歩いて、いいものか悪いものか考えてごらん、しまいにはろくなことを仕出かしゃァしません、明朝おとっさんがお帰りになるから、よくおとっさんに聞いたうえで開けましょう、女親だと思ってばかにおしでない、どこへ行っていなすった、今時分まで戸外に遊んでいて、おまえなにをしておいでだ、妙齢の娘ッ子のしわざではないワ、棄ておけばどんなことをするか知れやァしない、今晩はうちへ入れることはできませんから、どこへでも勝手においでなさい」
娘「イイエ、ネおっかさん、みイちゃんのうちの前を通りかかったんですヨ、スルとみなさんがお酒をあがっておいでなすって、伯母さんがお酌をしてくれと、お頼みなさる、うちもこういう商売をしていますもの、しかたがないじゃァありませんか、ツイお酌やなにかしているうちに遅くなりました、あしたの朝みイちやんの伯母さんが来て、くわしくお話をいたしますから、どうぞおっかさん、ここを開けてくださいヨ、ヨー」
母「みイちやんのところでもそうだ、近所の若い男を引きずり込んだり、妙齢の娘ッ子を呼び入れて、いやな真似をさせる人たちだ、おっかさんが掛け合い申さなければならない」
娘「そんなこと言うもんじゃァありません」
母「言います」
娘「それもこれもみんなわたしが悪いんです、明朝おとっさんがお帰りになったら、お詫びをいたしますから、どうぞ今晩は開けてくださいまし、こンなに遅くなってどこへも行くことができゃァしません」
母「なりませんよ、どこへ行くことができようとできまいと勝手におし、なんだエ、こンな時ばかり、おっかさんおっかさんといって、ふだん私のことを世間へ行ってなんとお言いだ、私の母は継母《ままはは》だからいけないッて、真間《まま》だノ国府《こうふ》台だノと、もみじの名所じゃァあるまいし」
娘「開けてくださいな、わたしのうちへわたしが入るんですから、いいじゃァありませんか、……〔口の内にてつぶやく〕人がおっかさんおっかさんといえばいい気になって、おっかさんもないものだ、前のおっかさんが塩梅《あんばい》の悪いとき雇いに来てサ、おとっさんがおすけべいだから、こンなことになってしまったんだ……ドーゾここを開けてくださいヨ」
隣家では半七が声をからして、
半「おとっさん開けてくださいよ」
娘「おっかさん開けてくださいよ」
両方で掛け合いでございます。
半「そこにおいでなさるのは、お花さんじゃァありませんか」
花「オヤまア、お隣の若旦那、あなたどうなすった」
半「締め出しをくッちまいました」
花「わたしも締め出しをたべたの」
半「締め出しをたべたてえのはありません、たいそう今晩は締め出しが流行《はや》りますね」
花「つまらんものが流行りますネ」
半「おとっさんがどうしても開けてくれません」
花「わたしもおっかさんが、どうしても開けてくれないンですよ、あなたこれからどうなされますの」
半「しようがありません、うちへ入れませんから、霊岸島《れいがんじま》の伯父さんのところまで行こうと思っていますが、霊岸島まで行く道が淋しいから、おっかなくッてしようがありませんので、今考えています」
花「本当にあなたはお人が善いことネ、霊岸島までいらッしゃるに淋しいの怖いのッて、わたしなどはそンなところに伯父さんか伯母さんがあればすぐに逃げて行きますが、わたしの伯父さんはたいへんに遠くに行ってしまいましたからゆけません」
半「ヘエー……あなたの伯父さんは当節どちらにいらッしゃるんです」
花「わたしの伯父さんは肥前《ひぜん》の長崎《ながさき》にいます」
半「長崎エ……たいへん遠くにいらッしゃいますネ、それではとても今晩中にいらッしゃるわけにはまいりますまい、私はしかたがございませんから、ブラブラ出かけます」
花「半さん、あなたとわたしとは幼少時分からのお手習い朋輩《ほうばい》、まことにすみませんが、お淋しければ伯父さんのお宅までお送り申しますが、今夜一晩わたしをあなたの伯父さんのお宅のお台所のすみでも、それこそ物置きでもよろしゅうございますから、今夜一晩わたしを泊めていただくことはできますまいか」
半「ヘエ、それはいけませんな、せっかくのお頼みでございますけれども、まさか夜分婦人を連れて、親類のところへ泊まりに行くことはできません、男ならよろしゅうございますが、女だけに体裁《きまり》が悪うございます。私の親父は碁を打っていても遅くなれば、なんとかかとか厳《やか》ましいことを申します、女と伯父の家へ泊まりに行ったことでも知れれば、私は親父にどんな目にあうか知れやァしません、せっかくのお頼みですけれども、こればかりはいけません」
花「あなたそんなことをおっしゃるものではありません、伯父さんはわたしもいっぺんお目にかかって存じておりますヨ」
半「ヘエー、そうですか、どこでお会いなさいました」
花「アノ、昨年のえびす講の時に……」
半「アアそうですか、えびす講には毎年伯父さんはまいります」
花「たいへんに洒落《さばけ》た粋なお方ね」
半「伯父さんは、うちのおとっさんとちがいまして、往時《むかし》道楽をいたしましたから、おもしろい人です」
花「アノ都々逸《どどいつ》などをお唄いなすッて、チョイと鼻の頭の赤い、たんこぶのあるかたでしょう」
半「大きにお世話です鼻の頭が赤くッて……伯父さんはお酒を飲むから鼻の頭が赤いのです」
花「本当に粋な方ですに、たいへんに古い都々逸を唄ったりして……ざるや味噌こし、ささら、さいばし、馬わらじ……稲荷祭りの太鼓の音やなんか、深川七場所のあった時分に流行《はや》った唄だッとおっしゃって、たいそうご自慢なすったの」
半「その時分に道楽をした人なのです」
花「わたしもお目にかかったことがありますし、共々願いますから、あなたも願ってくださいましな」
半「それはなんとおっしゃってもいけません、あなた私と一緒においでなすッても家へ入れませんヨ、どうもかりそめにも女ですから……男女七歳にして席を同じうせず、あまつさえ夜分婦人を連れて人の家へ泊まりに行けば、善し悪しにかかわらず、それはいけません、こればかりは堅くお断わり申します」
花「ほんとうにあなたお堅くッていらッしゃることね」
半「私は野暮人《やぼじん》でございますから……ついて来たッていけませんよ、人が見るとなんとか言います、きまりが悪うございます、それでなくッてさえ、衆人《ひと》にいろいろなことをいわれるんだ」
花「アラまア、善いことをおっしゃいますこと、わたしのようなこンなおたふくがあなたの色と思われるのはうれしいワ」
半「私はいやでございます、そンなことは大きらいです。女はいったいきらいです。来たッていけませんというに……」
と、ぐずぐずいいながら半七が霊岸島の伯父のうちの門口までまいりました。お花もあとから何時《いつ》となくついてまいりました。
半「おいでなすッたっていけないというに、なんだッてついて来るんです、気味の悪い、人の顔を見てニコニコ笑って……、来たッていけませんョ、私の伯父さんのうちだから入れませんよ、あなたさんはどこへでも勝手においでなさい……伯父さん〔トントン〕伯父さん」
伯父「ハイハイハイ、アー……どなたでがす」
半「伯父さん、私でございます」
伯「ウン……今開けるから、あまり表をたたかずにおくんなせエ、誰だえ」
半「私でございます」
伯「なんだ、小網町の伜か」
半「ヘエ」
伯「おそろしく遅く来たな、アハハハハ、なんだな、またろくなことじゃァあるめエ、夜中に人の家をたたいて碁か将棋でしくじってきたか、野暮な野郎だ、いま開けてやるから待てよ、……婆さんや婆さんや……〔揺り起こしてみて〕寝相が悪いな、コレコレ婆さんや……これほど起こすのに平気だ、婆さんや、小網町の半七が来たよ」
婆「ハイ……」
あわてて飛び起きました。
伯「アレ、どうしたんだよ」
婆「お爺さん小網町で半鐘《はんしょう》を摺《す》りますかえ」
伯「ナニ……ナニをいってやァがる火事の夢でもみていたんだろう、そうではない、小網町の半七が来たんだよ」
婆「オヤオヤそうかエ、私は肝をつぶした、半坊やよくおいでだ、マアお茶でもおあがり」
伯「アレ……まだ入りゃァしねエ」
婆「お爺さん寝ぼけちゃァいけない」
伯「自分が寝ぼけているんだ、早く表を開けてやらッせイ」
婆「いま開けてやるからお待ちよ」
伯「ほんとうにすぐ寝ぼけるぜ、いい年をして、裸で飛び出して風呂敷へ枕を包んでしょい出そうとするのはなんということだ、ナニまた碁か将棋かでしくじって来たんだろう、しようのねえ野郎だ、オレなぞは若い時分、人の家に一人で行ったことはなかった、女の一人もひっぱって行ったが、あの野郎も満足な面を持っていながら年頃にもなってて働きがないんだ、たまには女の一人もひッぱってくるがいいんだ、碁や将棋ではまことに張り合いがなくッていけねえ、しくじり方が気が利かねエ」
婆「アノ子は晩《おく》だよ……、いま開けてあげるからお待ちよ」
伯母が目をこすりこすり表の戸をガラリと開けて、
婆「サ、お入り」
半「伯母さんこんばんは……」
婆「ナニをグズグズしている、早くお入りョ、お連れがあるのかエ、お連れがあるなら、こっちへお入れ申しな」
半「イイエ、連れじゃァないので」
婆「ダッテお連れがあるようじゃァないか……オヤオヤお女中かえ、ハイおいでなさいましごめんなさいまし、半七、このお方を一緒に連れてきた、オホホうまくやったの、よく取ったよく取った」
猫がねずみでも取ったと思っております。
婆「お爺さんや、およろこびなさいまし、今夜は一人ではございません、オホホホ、こんないい娘《こ》をひッぱってきましたこと、まことに可愛らしい娘ですから、ごらんなさいョ」
伯父「そうか……サこっちへお入りお入り、きさま挨拶をするには及ばない後でよろしい、どうぞこっちへ、ハハハはじめてお目にかかります、わたしはコレの伯父でございます、よくおいでなすった。まことにこんな手狭《てぜま》なところだが、よく訪ねてきてくだすった」
花「ハイありがとうございます……今晩はとんだごやっかいになりましてまことにすみません」
伯父「イーエどうつかまつりまして……半七よくひっぱって来たナ、こういう娘をほかへ連れて行かれると、少し癪《しゃく》にさわるが、安心しているがいい、きさまの親父がなんといおうとも、先方さまでなんといっても私に了簡があるから……あなた心配なさるには及びません、コレの親父と私とは気性がちがいます。こんなことは大好きだ、マ安心なさいまし、夫婦になれせえすればよかろう」
半「イエ、それはいけません、私は今夜伯父さんと一緒に寝ます」
伯父「ばかァいうな、情婦《おんな》をひっぱって来て、伯父さんと一緒に寝る奴があるか、アノお花さんウンと言ってください、ウンと言ってください」
花「伯父さんそれではわたしが半さんにお気の毒さまで、今晩はそういうわけでは」
伯父「そういうわけもこういうわけもいりません、若い同志が来て……マアマアこっちへおあがり、婆さんクスクス笑いなさるな、二階へ寝床でもとってやんなさい、半七ともかく二階へあがれ、あなた、マ二階へおあがりなさい」
二人ともけむに巻かれてしまいました。伯父さんは大きな了簡ちがいをしております。これから伯母が二階へ寝床をとってくれました。
婆「早く寝てしまいな」
体裁《きまり》が悪かろうと思って、伯母はすぐに下へ下りて来ました。
伯父「婆さん」
婆「ハイ」
伯父「体裁が悪いもんだから、くだらないことをグズグズ言ってしようのねえ奴だな、アハハハ」
婆「ナニ、若いうちはつまらないことが体裁の悪いものサ、……お爺さん、半七が二階から首を出しておりますよ」
伯父「首を出さねえで、寝てしまえ寝てしまえ、他人の家じゃァねえ、伯父さんのうちだ、心配するな、なんだ首などを出して……下りてくるとぶん殴るぞ、伯父さんに世話ァ焼かしやァがって」
半「ダッて、私は伯父さんと寝ます」
伯父「ばかをいうな、なんで伯父さんと寝る、そんなら色などをこしらえるには及ばねえわ……ヤイヤイそこで小言をいうな、イヤに亭主ぶりやァがって、まだ早いや、気に入るも入らねえもねえもんだ、ふざけたことを言うな、てめえが気に入らなければ、婆さんを出してオレがもらう」
婆「なにを言うんですよ」
伯父「おまえは黙って引っ込んでいなさい」
婆「ダけれども、おまえさん、年のいかないうちは、体裁の悪いものだよ」
伯父「そうよ、お互いに覚えがあるからな、本当に野郎はいくつだっけの」
婆「今年おまえ、十八になったんだァね」
伯父「そうか、ハハハまだ子供だ、あの娘はいくつくらいだの」
婆「おとっさん、十七くらいだよ」
伯父「一才《ひとつ》ちがいか、いい夫婦だ、一才ちがいは、金のわらじで探してもねえとかいうじゃァねえか、婆さんおまえが十七で、俺が十八だっけの、五郎兵衛町《ごろべえちょう》の甚兵衛《じんべえ》さんの家へ、夜たずねて行ったことがあったろう」
婆「私は忘れませんよ」
伯父「ウフフフ、一才ちがいだといわれたっけの」
婆「おとっさん、いまだに一才ちがいだねえ」
伯父「あたりまえだァね、甚兵衛さんの家の裏口をたたいたら、甚兵衛さんが手燭《てしょく》をつけて、燭火《あかり》を俺の鼻っ先へ出された時は体裁が悪かったよ、おめえも真っ赤になったっけな」
婆「私はあんな体裁の悪い思いをしたことはないよ、おまえは心易い人だけれども、私は初対面だから、お世辞をいわれるたんびに、私は脇の下から、冷や汗が出たよ」
伯父「そうよ、なんだっけ、富本《とみもと》の豊秋《とよあき》さんのおさらいの時だ、床《ゆか》へあがった時のことを覚えているかエ、おまえに三味線を弾いてもらって、俺が浅間《あさま》をやると、脇にいた人が、ヨウヨウ、お合い三味線……と声をかけられあまりうれしいのでまちがいだらけ、若い時分のことを追想《かんがえ》るとはずかしいな、ハハハ婆さん」
婆「エー」
伯父「だけれども、おまえは十七八の時分はいい女だったなア、文金《ぶんきん》の高髷《たかまげ》に結って、どうしても半四郎だね」
婆「お爺さんも若い時分は、いい男だったよ、粋なところに人柄があって菊五郎《おとわや》にソックリ……」
伯父「若い時分にゃァ、俺は男がよかった」
婆「往時《むかし》の自慢をおしでない」
伯父「往時と引き換えて、たぬき婆さんになったな」
婆「お爺さんおまえもしなびたねえ」
伯父「化けたな、お互いに……ダガ俺は気に変わりはねえけれども、小網町の伜が来て、若い娘とグズグズしていられると、まんざらウフフフ……いやな心持ちがする、なにをしていやァがるか、すみッこで見てやりてえ、くだらねえもんだろうなア、ママゴトをしているんだ、往時のことを考えたり、伜のことを考えると、おかしな心持ちになってきた、婆さん、モッとこっちへ寄んな……」
婆「ばかァお言いでないよ……」
伯父「だが、いい夫婦になるな、どうかして夫婦にしてやりてえ」
婆「そうだね」
と、下では伯父と伯母が相談をしております。二階のほうでは、互いになんでもありませんから、お花のほうは、体裁が悪いし、半七は下へ下りて行けば、ぶん殴るといわれるし大きに困りまして、
半「私はここに寝ます。眠くっていけませんから」
花「あなたお休みなさいナ」
半「おまえさん、どうなさいます」
花「わたしは起きております」
半「おまえさん、そこらへ勝手にお寝なさいな、物置きの隅でもなんでもいいといったんだから、私は伯父さんのうちだから蒲団の上に寝ます、それでもなんです、あなたが風邪でも引くとお隣ですから、おとっさんに悪うございますから、なるたけ私のほうへ寄らないようにして、お寝なさい、かいまきを半分貸しますから、半分きゃァ貸しませんヨ、この蒲団の縞《しま》を境にして、なるたけちいさくなって寝てください……」
と、二人は寝床に入りましたが、若い同志で、体裁が悪いから、はじめのうちは背中合わせに寝ましたが、『木曾殿《きそどの》と背中合わせの寒さかな』いい塩梅に行燈《あんどん》の灯が消えてしまいまして、ついにその夜あやしき夢を見ました。翌朝、半七が伯父の枕元にきてゆうべのようすとは打って変わり、
半「どうぞ伯父さん夫婦にしてください」
と頼みました、伯父は洒落者だから、
伯父「オットよろしい」
と、引き受けて、さっそく桜屋に掛け合ってみますると、お花の親父もちょうど帰っておりまして、
父「茜屋《あかねや》のご子息なれば、けっこう……願ったり叶ったり、なにぶんよろしく願います。あなたにお任せ申します」
と桜屋のほうでは二ツ返事で娘をくれました。さて茜屋半左衛門は、自分の兄弟でございますが、右の趣を掛け合うと、物堅い親父ゆえなかなか承知いたしません。
半左「他人の娘を誘拐《かどわかし》のような真似をした奴をうちへ入れるわけにはいかない、なんでも勘当をする」
としきりに頑固なことを言っておりますから、伯父も怒ってしまい、
伯父「そんなら勘当しねえ、俺がもらう、俺がもらって俺の伜にしよう」
と、親父のほうから勘当金といって、当座入用の金子《きんす》を取りまして、伯父が万端世話を焼き、両国横山町《りょうごくよこやまちょう》あたりへチョッと小ジンマリした家を持たして、下女に小僧くらい使いまして、小商いをさせ、伯父が万端見まわって、商いのようすを指図いたします。もとより場所柄でございますから、いい塩梅に商いも繁昌いたし、若夫婦は粋な暮らしでございます。
[解説]宮戸川は上下になっていて、上の部は多くやりてがあるが、下のほうは桂文治《かつらぶんじ》師以外にやりてがない。以前これを十八番《おはこ》にしていた名人|円右《えんう》や、先代のしん生なども、上のほうにとどめて、あとはやらなかった。これはその以前上下通して一席の芝居噺であったのを、寄席の上演時間が短縮されてから後半を切り捨てたものであろう。その証拠には、下のほうにはサゲがあるが、上にはサゲがないのでわかる。下にサゲがあって上にサゲのないものは、「品川心中」「大工調べ」「三軒長屋」「山崎屋」等であるが昔はみんな一席にやったものである。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
宮戸川《みやとがわ》〔下〕
――――――――――――――――――
ところがある夏のことで、女房のお花が浅草辺へ用達《ようたし》にまいりまして、観世音へ参詣をいたし、ただいまちょうど雷門《かみなりもん》のところまでまいりますと、ポツリポツリ降ってまいりました。夕方のことで、その時分には人力車もなければ、また馬車などもありませんから、心安いところがなければ傘一本借りることもできません。
そこでお花が、小僧に傘を取ってこいと言いつける、丁稚《でっち》は急ぎ駒形《こまがた》の知るべまで傘を取りにまいりました。お花は雷門の軒下に立っておりますと雨はますます激しく相なり、車軸《しゃじく》を流すようです、そのうちに日はぱッたり暮れ、ザーザッと空の底が抜けたかと思うようにピカピカと光るとたんに、ゴロゴロという大雷でございます。
お女中は気の狭いもの、もっとも雷やなにか好きな方はないが……怖い、気味が悪い、と軒下にお花は小僧の帰りを待っておりますうちに、雨が烈しいのと雷鳴の烈しいので、一時夜店の者は、店を片づけ、商人《あきんど》はみな戸を閉ざしますから、さすがの盛り場も日は暮れたばかりだが、人通りが途切れました。スルと吾妻橋《あずまばし》むこうへ落雷いたし、ガラガラズーン、という音に驚き、お花は癪《しゃく》を起こし歯を食いしばって、石の上に倒れました。
昼間なら、誰か介抱《かいほう》をいたしますが、この雷雨で、あいにく誰も見ているものがないからそのままでございます。とたんにあの辺にいる、ならず者三人、一人は頭から米俵をかぶって雨をしのぎ、一人は真っ裸で褌《ふんどし》一筋、一人はボロボロした着物を着て、なにやら頭《つむり》へ載せ、雨中を駆け出してまいりましたが、やがて雷門の軒下へ入り、雨止みをしながら、
甲「どうだえマアおそろしい雨だな、またアノ雷はどうだい、眼の中へ飛び込みやァがったかと思った、どこへ落ちたろうな」
乙「そうよ、吾妻橋むこう……枕橋辺へ落っこったんじゃァねえか」
甲「そうよな、少しここで雨止みをして行こう。オウそっちは真ッ裸か」
丙「ウム、真ッ裸だ、いかに夏でも」
甲「いかに夏でもうすら寒いだろう」
丙「なんだかヒヤヒヤして、いい心持ちと思ったが、今少し冷たくなった」
と着物を絞り、あるいは身体を拭い、手拭いを絞りなどしておりますと、真っ暗ではございますが、ヒョイと倒れているお花に目がそそぎました。
甲「イヤ、そこに何かいるじゃァないか、なんだイ……たいそうなものが倒れているな」
乙「アアどうしたんだろう……さては今の雷に驚いて目をまわしたか、可愛そうに、いい婦人だね」
丙「幾才《いくつ》くらいだろう」
甲「そうよな、ややまだ二十一二だね」
乙「そんなものだろうな、カラ若えが、年増になっているけれども、二十歳《はたち》か二十一だぜ」
丙「そうだ、助けてやろうじゃァねえか」
乙「助けてやろう」
とまだ息がありますから、一人が抱き上げて、雨水を含んで口移しに飲ましたが、歯を食いしばっておりますから、水も喉へ通りません。スルト一人の奴がお花の顔を穴の開くほど見つめておましたが、ホットため息をつき、
甲「いい女だな、こちとらァ、このくらいの女を生涯抱いて寝ようたッてとても叶わねえ願いだが、どうだえ、ここじゃァいけねえが、さびしいところへ連れてって、スッカリ介抱してやって、その返礼に三人で、楽しましてもらおうじゃァねえか」
乙「ばかなことをいうな、そんなことが天下のお膝元でできるか」
丙「ナーニ、命を救けてやった、お礼とするからよかろう」
乙「ばかをいうな、発覚《あらわれ》てみろ、たいへんだ」
丙「それはてめえ、了簡が狭え、これまでさんざん悪いことをしているから、殺されたって不足はあるめえ、煙草包丁《たばこぼうちょう》のように太く短くやっつけよう、このくらいの女を見逃すてえことはねえや」
甲「そうよナ、やッつけよう……あたりを見ろ……」
と見まわしたが、幸い明かり一ツも見えず、人通りはなし、しめたりと……三人でかの婦人を引っ担いで、吾妻橋のほうへ行ってしまいました。そのあとへ小僧が傘を担ぎまして、雷門の辺をウロウロしながら、
小僧「おかみさんエ、おかみさん……どこへ行ってしまったんだ、待ってておくんなさいといったのに、どこへいっちまったんだろう……おかみさん、傘を持ってきましたヨ、おかみさん……」
こじきが脇に寝ておりましたが、ムックリ首をあげて、
乞「小僧さん、おかみさんおかみさんとお尋ねだが、荒い薩摩《さつま》の浴衣《ゆかた》を着ておいでなすって、可愛らしいお新造《しんぞ》でしょう……お可哀相に、さっき雷さまにお驚きで倒れたとたんに、悪い人が大勢来て、おかみさんをどこぞへ担いで行ってしまいましたが、行った先がわかりませんぜ」
小僧「エッー…それはたいへんだ、おまえなぜ追いかけてくれない」
乞「追って行きたくも私は腰抜けゆえ立つことができない膝行《いざり》で」
小僧「不自由な膝行だな」
乞「そんな無理なことをいったってしかたがない」
小僧「なにしろたいへんだ」
と小僧は急ぎ立ち帰って半七にこのことを告げる。半七も驚いてさっそく八方へ手分けをして探したが、その夜はトウトウ知れません。翌日は伯父に相談してところどころ手配りをして尋ねたが、わかりません。上《かみ》へも訴え、ほうぼう探したがゆくえ知れずでございます。しかたなく出た日を命日といたしまして、野辺の送りもいたしてしまいました、月日に関守《せきもり》なく翌年の一周忌でございますから、橋場が菩提所ゆえ寺参りをいたし、親類の者にもわかれて半七は今戸《いまど》辺へチョッと用達をいたし、あまり熱いから、堀の船宿から船に乗って両国まで帰ろうと、船宿の門口《かどぐち》へ立ち
半「ハイ、ごめんヨ」
内儀「いらっしゃいまし」
半「元柳橋《もとやなぎばし》まで片道願います」
内「お気の毒さま……この通り熱いので屋根がございません、短舸《ちょき》でございます」
半「アア短舸でもなんでもいい、一人だから」
内「さようでございますか、かしこまりました」
半「お気の毒だが、チョッと一口いただきますから、何か見つくろってください」
内「ハイ、かしこまりました。召しあがり物は……水貝に洗い……」
半「そこらでよかろうな」
これから小舟へ酒肴を入れまして、船頭が一人付き、堀を出ました。
内「さようならば、お近いうちに……」
と櫓首《みよし》の先をチョイと船宿のおかみさんが手をかけますのは、何のたしにもなりませんが、愛嬌のあるもので、いま船が出ようというところへ、綽名《あだな》を正覚坊《しょうがくぼう》の亀という船頭が、小弁慶《こべんけい》の単衣《ひとえもの》に紺白木《こんしろき》の二重まわりの三尺を締め、ずぶろくに酔って
亀「オオ仁三《にさ》ァ」
仁「なんでえ」
亀「両国まで舟を頼む」
仁「ばかなことをいうな、屋根がなくって旦那さえ短舸《ちょき》に願ッてるんだ」
亀「いいじゃァないか、両国まで行くんだ、すみのほうでもいいから頼む」
仁「いけねェってえことよ」
亀「旦那に頼んでくれ」
仁「いけないヨ」
半「モシモシ船頭さん両国まで行くのなら、私も一人より相手の方があるほうがいいから、乗せておやりな」
仁「それでもあまり酔っぱらっておりますから」
半「ナニ酔ってても仔細はない」
仁「さようでございますか、まことにすみません、ナニふだんは猫みたような善い男でございます、酒をくらうとからきしだらしがありませんで、オイ亀、旦那がせっかくおっしゃってくださるから乗せてやるが、おとなしくしてェなくっちゃァいけねえぜ」
亀「ありがてえ、ありがてえ、さようなら旦那……ごめんをこうむります」
やがて小舟へ入ってまいりました。
亀「どうも旦那……とんだごやっかいになりました。この通り飲《くら》い酔《よ》ってて歩けませんから、ご無理を願いました、クサイお方ゆえ乗せてやろうとさっそくお聞き済みくだされありがとう存じます。しかし今日はばかにお熱うございますな、……舟くらいいいものはございません、自己《うぬ》が田へ水を引くのではございませんが、夏期は舟に限ります」
仁「サ、やります……」
と、船頭が櫓《ろ》へとッつかまって、漕ぎ始める、舟はスーと堀を出る、半七は盃をとって、亀に差し、
半「サ、ひとつおあがりな……」
亀「コレハどうも口果報《くちがほう》がございます」
半「お酌を……」
亀「イエ自由に……コレハ恐れ入りますな、……さようなれば旦那ごめんをこうむります……」
と二盃、三盃さしたりさされたりしているうちに
亀「旦那え、あなたさまはなんでございましょうネ、ご容貌《きりょう》はよし、お身装《みなり》はよし、お若くはあるし、女が惚れましょうな」
半「ばかなことをおいいでない、私のような野暮天《やぼてん》になんで女が惚れましょう、女の惚れたりする稼業はおまえさん方だ、おまえさん方は粋な稼業だネ」
亀「それは旦那、粋なことをする小舟乗りの船頭もございますが、この野郎やわっちにはなかなかそんなことはできません、わっちの面《つら》をお見なせえ、色気がありませんから、酒でもくらってポンポンいってるので、……この野郎もやっぱり女に可愛がられねえ面で……しかし旦那え、旦那さまは粋なことも、乙なことも数々なさいましたろうが、わっちどもは粋なことは少しも知りません」
半「うまいことをいっているね、そう隠すと、なお聞きたいネ、なにかお酒の肴に惚気《のろけ》を聞きましょう」
亀「冗談いっちゃァいけません、女に惚れられたり、もてたりしたことはありません……ムウ、女に惚れられたといえばおかしいことがございます、この野郎とわっちと年中女郎買いに行けばいつでもきっと振られますが、おかしいことがあるから、マア聞いておくんなさい、去年のちょうど……今時分だったな、なんでも熱い時分で、めちゃめちゃに雨が降って、おまえさん、この野郎ともう一人の友達とわっちと三人で、カラスッテンに取られ、わっちなどは真ッ裸で雷門までまいりました。スルト雨はますます強く降り出し、雷は鳴るし……」
仁「ヤイヤイ何をいやァがるんだ、つまらねえ話をするな、くだらないことを言うな」
亀「いいじゃァないか、酒の肴に話しをするんだァな」
仁「モッと他の話をしろ」
亀「他のッて、おもしろい話はなかろうじゃァねえか、ネー旦那エ」
半「船頭さん、酔っている方がおっしゃること、私は別に取りあげはしないから、おまえさん聞きたいネ、マアマア黙っておいでヨ……なるほどコレハとんだおもしろそうなお話だ」
亀「スルとおまえさん、三人で雷門の軒下へ立っていると、年頃二十か……二十一になる、いい女だ、雷が近所へ落っこったもんだから、驚いて目をまわして倒れました」
半「ウンウン」
亀「なにしろ介抱してやろうと思いましたが、さて旦那、薬はなし、あたり近所は戸が締まっててしようがありません」
半「ウン、それからどうしたエ」
仁「ヤイヤイ、旦那そんな話を聞いちゃァいけません、こいつの名は千三《せんみつ》てェんで、千話しをするうちに、まったくのことは三ツきゃァないから、千三というので、本当にしちゃァいけません」
亀「黙っていろイ……仁三のいう通りわっちは千三でございます、本当のことは三ツしかございません、その三ツのうちを申し上げます。ほんとうに側から口を出すので、話がメチャメチャになってしまう」
半「船頭さん黙っておいでよ、私は取りあげやァしないから」
亀「私が介抱をしようと思うと、この野郎です、このくらいのいい女を生涯抱いて寝ることはできないから、強淫《ごういん》をしようということになって、じゃァしようと三人で多田薬師《ただやくし》の石置き場へ引ッ担いで行って、人通りはなし、幸いだと、こいつが慰《なぐさ》んで、もう一人やって、わっちの番になると、その婦人が息を吹ッ返したとお思いなせエ」
半「ウン」
亀「ちょうど月が出てわっちの顔を見て、その婦人が亀じゃァねえかと、こういうので」
半「ウン、なるほど……」
亀「みんながてめエ知ってる女かといいますから、よくよく考えてみますと、その女は小網町の桜屋てェ船宿の娘で、お花というンで、少しばかりわっちのためには主人筋のうちの娘だから驚きましたな」
半「ウン……」
亀「そいつがおまえさん、亀じゃァねえかときたから、わっちァ逃げ出そうと思うと、この野郎が知っていられちゃァこうしちゃァおかれねえ、三人の素《そ》ッ首が飛ぶ仕事だ、やっつけてしまえと、可哀相だとは思いましたが、助けてくれてえ奴をおまえさん、三人で手拭いでその女の口をゆわいて、無惨にも縊《くび》り殺し吾妻橋から川ン中へほうり込んでしまいました。今考えますと、気の毒なことをいたしました、ばかをみたのはわっち一人で、お察しなすっておくんなせえまし」
と、酒がいわせる、一部始終の話を半七が聞いて、半七は思わず手に持ってた盃をポンと落とし、
半「ハア……不図《はからず》おもしろい話を聞きました、サ一盞《いっさん》献じましょう」
亀「ヘエ、ちょうだい……」
と出す手先をヒン握って
半「コレでようすが、ガラリと知れた」
とキッと見得《みえ》になる。よろしくあつらえの合い方になり
半「しかも去年六月十七日、女房お花が観音へ参る下向《げこう》の道すがら」
亀「俺もその日は大勢で、寄せ集まって手慰み、スッカリ取られその末が、しようことなしの冷やかし見、スゴスゴ帰る途中にて、にわかに降り出す篠突《しのつ》く雨」
仁「暫時《しばし》駈け込む雷門、はたちの上が、二ツ三ツ、四ツにからんで寝たならばと、こぼれかかった愛矯に、気が差したのが運の尽き」
半「丁稚の知らせに折よくも、そこやここぞと尋ねしが、未だにゆくえの知れぬのは」
亀「知れぬも道理ヨ、多田薬師の石置き場、さんざん慰むその末に、助けてやろうと思ったが、後の報いがおそろしく、ふびんと思えど宮戸川」
仁「ドンブリ投げた水けむり」
半「さてはその日の悪漢《わるもの》は、わいらであったか」
二人「亭主というはわれであったか」
半「ハテいいところで……」
二人「悪いところで……」
三人「逢うたヨナ……」
小僧「モシモシ旦那さま旦那さま、たいそううなされておいででございます」
半「ウウ……オオ……帰ったか、お花は」
小「いま浅草見附まで来ますと雷が鳴って大粒な雨が降ってきましたゆえ、おかみさんを待たしておいて傘を取りにまいりました」
半「それじゃァ花に別状はないか」
小「お濡れなさるといけませんから急いで傘を取りにきました」
半「アアそれでわかった。夢は小僧の使いだわえ」
[解説]夢は五臓の疲れの地口落ちである。竜頭蛇尾に終るが、芝居噺というものは、多くはこんなものである。ご参考までに。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
搗屋無間《つきやむげん》
――――――――――――――――――
ご商売というものは、なんに限らずむずかしいというが、しかし今と昔とはたいへんなちがいで、昔はみんな手でしたことを、今日《こんにち》では機械を用いますから、仕事が早くできて綺麗事《きれいごと》に上がる、
なかでも搗米屋《つきごめや》さんなどは、昔は杵《きね》を持っていちいち手で搗《つ》いたものだそうで、今から考えてみるとずいぶん気の長い話です。それが今日では電力を利用するからわずかの時間にたくさん搗けて、減りも少ないそうで、手で搗いている時分には、二割の搗き減りは通り相場になっていました。
たとえば一|斗《と》の米を搗き上げるには、二割の搗き減りが出るから、一斗二分搗かなければならない、それも下手な者が搗くほど、搗き減りが多いそうで……
今もいう通り何商売に限らず、その道へ入ってみると、素人《しろうと》にわからない苦労のあるもので、我々|落語家《はなしか》などは、くだらないことをおしゃべりしているのだから、どなたにもできそうなものですが、なかなかこれでむずかしいもので、嘘だと思し召すならやってごらんなさいまし、きっとできませんから、もっともできないのがあたりまえで、なぜかと言うと、あなたがたは我々とは教育の仕方がちがいます。あなたがたは親御さんがご教育をなさるときに、人に笑われないようにといって教育をなさいました。ところが我々のほうは、なるたけ人に笑われるようにといって教育されたのですから、ぜんぜん反対でございます。
しかし芸人の中でなにが一番むずかしいかというと幇間《たいこもち》だそうで、十人の客がよれば十色《といろ》にお心持ちがちがう、その十人のお客さまに残らず気に入るようにしなければならないのですからまことにむずかしい。仮にお酒の好きなお客さまの前へ出て、旦那|牡丹餅《ぼたもち》はけっこうですなどといえば、お客がいやな顔をする、また甘党のお客の前へ出て、酒の話をすれば、あまりいい心持ちはしません。すべて先へ先へと気がついて、お客の心持ちをよく察して、いろいろに銭を使わせるように持ち掛けるという営業、だからむずかしい、もっとも名のある太夫衆とくると、チャンと寸法を心得ているから、別段むずかしいとも思いますまい、お客さまがエヘンといえば直ぐに灰吹きを持って行く。厠《かわや》へ行ったなと思えば、あとから紙を揉みながらついて行く、どこか悪いなと思えば薬屋へ行って薬を買ってきて飲ませる、それでもいけなければ医者を呼んで来る、医者が脈をとって首をヒョイとかしげれば、すぐにお寺へ行って掛け合ってくる。帰りに早桶屋のほうへまわって来ようというように、先から先へと気がつく。
そんなに早くっても困りますが、なかにはまた何になってもしようがないから幇間にでもなってみようかなという、|でも《ヽヽ》付きの野幇間《のだいこ》とくると、場知らずでずうずうしい、往来をぼんやり歩いている者があったらそいつを取り巻いて、食い稼ぎをしようとか、うまく行ったら祝儀包み一つにもり有りつこうなどという、ずいぶん下等な奴がありますが、こういう者につかまった人こそ災難で、あやしげな羽織をひっかけて、扇子をパチパチやりながら、ヨカヨカ飴屋《あめや》のような格好して、肩と腰で調子を取って歩いている。
幇「アヤあすこへ来るのはどこかで見たような男だよ、アアあれは搗屋の徳兵衛《とくべえ》だな、搗徳と来たな、あいつをひとツ取り巻いてやれ……エー搗徳さんどちらへいらっしゃいます」
徳「誰だ」
幇「お忘れになりましたか、誰だは情けのうげすな」
徳「巾着切《きんちゃっき》りじゃァあるめえな」
幇「巾着切りは恐れ入りました、拙《せつ》は芸人でげすよ、幇間でげす」
徳「芸人だか幇間だか知んねえけれども、おめえのような者に、おら遇ったこともねえ」
幇「遇ったこともねえは憎いね、あなたの顔を毎朝湯屋で拝見しておりますよ。折節《おりせつ》は拙の顔を見かけたでげしょう」
徳「そりゃァ駄目だ、人ちげえだんべえ、おら毎朝湯なんぞで遇うわけがねえ、湯なんてえものは年に三度か四度しか入《へえ》んねえからな」
幇「きたないね、年に三度しか入らないなぞは不潔ですね、しかしあなたお顔の色が悪うがす、風邪でもありますか、もっともあなたは風邪の神のほうで逃げ出しそうな柄《がら》でげすが……、やっぱり疝気《せんき》で下ッ腹が張るというような色気のない病いでげしょう」
徳「それがハアおらが病いは色気のある病いで」
幇「ハハァ、色気のある病いというとなんでげすな」
徳「おめえ笑っちゃァ負《お》えねえぞ」
幇「笑やァしませんが、あなたの病名は何でげす」
徳「こう見えてもおら恋わずらいだ」
幇「恋わずらいは恐れ入りましたな、あなた恋わずらいをする柄じゃァない、もっとも柄でわずらうわけじゃァないが、そうするとつまりあなたがある婦人をごらんになってどうかその婦人に会いたいというところから、わずらってるんでげしょう、よろしいお取りもちをしましょう、そうすればあなたの病気が治るんでげしょうからおっしゃいな、しかしこれが人の持ち物だとか、大家のおかみさんだとか、またはお嬢さんなぞとくると、私の手際にはちっと荷が勝ちますが、対手《あいて》はどういうご婦人でげす。大籬《おおまがき》の花魁とでもきましたか、それとも新橋《しんばし》、芳町《よしちょう》、柳橋《やなぎばし》辺の姐さん方でも見ましたか、それとも赤襟《あかえり》の雛妓《おしゃく》さんとでもきましたか」
徳「それがハア見当がサッパリわからねえだ」
幇「見当がわからないというのはおかしいね、まるで火事でも見るようですな、しかしそのご婦人にあなたがどこでお会いなすったんで」
徳「そのアマッ子はね、ぶら下がってましたよ」
幇「ぶら下っているというなァ変だね、どこにぶら下がってました」
徳「絵双紙屋《えぞうしや》にぶら下がってた」
幇「冗談じゃァない、あなたの恋わずらいをしている女というなァ絵に描いてあるんですか、驚いたなアどうも、絵を見て恋わずらいをしてちゃァ困るなァ、仁王様みたような柄をして泣き面をしていちゃァ困りますな、そりゃァ絵だってまんざら的《あて》のつかないこともないが、錦絵《にしきえ》なんてえ物は有名な者ばかり描くんでげすからその絵にもなんとか名前が書いてありましたろう」
徳「そりゃァ肩書きが付いていた」
幇「肩書きてえなおかしいが、何という肩書きがありました」
徳「岩井半四郎《いわいはんしろう》と書いてあった」
幇「そりゃァちがいますよ、それは俳優でげす、男が女に化けているので」
徳「アアあれは化け物か」
幇「化け物じゃァない、芝居の女形《おんながた》でげす」
徳「その隣にあった女だがね」
幇「なんだそれじゃァないんで、錦絵を隣から始められちゃァ困る、隣の女はなんてんで」
徳「その隣のアマッ子は、えかくかんざしを差してきれいな着物を着たいいアマッ子だ、肩書きには稲本内小《いなもとうちこ》と書《け》えてあった、そのアマッ子の姿をチョックラ見るより俺ァ恋わずらいだ、察してくんろ、あにい」
幇「どうも驚いたね、そりゃァ大籬《おおまがき》の花魁でげす、しかしわけはない、売り物買い物だ、金さえ持ってゆきゃァどうにでもなりまさァ、あの花魁には私もちょっとご贔屓《ひいき》になっていますから、お供をして出かけましょう……出かけましょうだが、その服装《なり》じゃァ工合が悪いや、むこうも大籬の花魁だ、米搗きさんじゃァちょっとお客にしません、その服装を替えて、今日はひとツ立派な風態《ふうてい》で出かけますかな、どうでげすな、嚢中《のうちゅう》自ら金ありでげすかな」
徳「ベつだん金はねえがどうだんべえ、真鍮《しんちゅう》の煙管《きせる》ではいかねえかな」
幇「そんな物じゃァいけません、お金でげす」
徳「アア金なら、おら十三両二分持っているだ」
幇「十三両二分ありゃァけっこうだ、そこにありますか」
徳「ここにはねえ、ここにあるのは百五十だ」
幇「百五十じゃァ花魁は買えねえや、十三両二分の金はどこにあるんでげすね」
徳「三年辛抱ぶって貯めた給金が預けてあるだ、それを持ってきべえ」
幇「そいつは工合が悪いねい、なんてって持ってきます」
徳「なんていうッたってわけはねえ、おら恋わずらいして、女郎買いに行くだからくんろというさ」
幇「そりゃァいけません三年間の給金をためた金を女郎買いにゆくといったって、なかなか渡しますまい」
徳「渡さねえかな、渡さなけりゃァかまわねえ、おらが黙って持ってくる」
幇「それじゃァ泥棒《どろぼう》だ」
徳「ちょっと聞くと泥棒のようだけんど、十三両二分というおらの金だけを持ってくるだから泥棒じゃァねえ、どうだわかったか野郎」
幇「なんだ、野郎はひどいね拙には名前がある」
徳「おめえの名なんかおら知んねえ、なんてえ名前だ」
幇「次郎孝《じろこう》と申します」
徳「ずろ孝ちゅうかい」
次「ずろ孝じゃァない、次郎孝、そこで今日《こんにち》はあなたが旦那で私が取り巻きの幇間で行くんだから、大きく次郎孝と願いたいね」
徳「アア次郎孝というかね次郎孝、次郎孝、次郎孝、次郎孝」
次「なんだか犬でも呼ぶようだね、ともかくもお金を早く持ってきたまい、うまくいきますか」
徳「うまくいくかいかねえか知んねえけんど、マアやってみるだから待っててくんろ」
次郎孝がブラブラしていると、やがて徳兵衛|懐中《ふところ》をふくらましてやってみました。
徳「待ったかね次郎孝」
次「お金を持ってきましたか」
徳「持ってきた、ここにハア十三両二分持ってるだ」
次「じゃァそのお金をこちらへ出したまえ」
徳「おめえに渡すかな」
次「大丈夫でげすよ、あなたのお金を私がお預りしたって使い込むようなことはしませんや、とにかくその服装じゃァ工合が悪いから、頭のてっぺんから足の爪先まで誰が見ても立派な旦那に見えるように仕立てなけりゃァいけない、頭のてっぺんといえば、どうしたんで、たいへんな雲脂《ふけ》だなどうも」
徳「知らねえ者が見ると、これは雲脂だなんと思うだが、こりゃァ雲脂ではねえだ」
次「ハハアなんでげす」
徳「こりゃァ年来《ねんらい》米を搗いてるで、糠《ぬか》を浴びてるだ」
次「汚ないなどうも、年来の糠頭ときちゃァずいぶん念の入った頭だ、床屋へ行ってひとつ親方に無理をいって、頭をうまく化粧してもらいましょう、それじゃァこういうことにして行きましょう、あなたが木更津《きさらず》のお大尽《だいじん》ということにして行きましょう」
徳「ハハア、木更津の大蛇《だいじゃ》かな」
次「大蛇じゃァない、大尽で」
徳「大尽というなァなんのこった」
次「お金持ちのことを大尽というんで」
徳「なるほど、おらが十三両二分持ってるだから大尽か」
次「冗談いっちゃァいけない、なかなか十三両二分ぐらい持ってたって大尽といわれやァしないが、家には何万両あるか知れないというような大きな顔をしてゆくんで」
徳「ハハア、でけえ顔をするかな、そんだらばこの顔少しひっぱるべえか」
次「ひっぱったっていけない、お高く留まってるんで」
徳「ヘエ困ったもんだね、どんな塩梅《あんばい》にやらかすかな」
次「まず花魁の部屋へ入ったらあまりしゃべっちゃァいけませんよ、くだらないことをベラベラしゃべるとお里が現われるから、なるたけ口数を利かないようにして、まず床の間へ目をつけてもらいたいね」
徳「床の間へ目をくッつけるかな」
次「くッつけるんじゃァない、床の間へ目を配るんで」
徳「困ったもんだね、目が二つしかねえが、どこへ配って行くだ」
次「わからない人だな、床の間を見るんでげす」
徳「見るなら見ろといったらよかんべえ、くッつけるだの配るだのというからサッパリわかんねえ」
次「しようがないな、床の間には容斎《ようさい》の軸が掛けてある、あれは花魁が自慢で掛けておいたのだが、今までのお客さまに一人も褒めてくれた人がなかったといって花魁がこぼしていた、それをおまえさんが行って褒めれば、きっと花魁の懐《ふところ》へ入りますよ」
徳「懐へ入って寝るのか」
次「イヤ寝るのはまだあとで、その掛け物も褒め方があります、ただいいと褒めただけじゃァ値うちがないから、床の間をちょっと斜《はす》に見て身体を少しこう横にして私を呼びながら容斎を措《お》しがるんですな、するてえと、大尽らしくなる」
徳「ヘエーどんな塩梅にやるだな」
衣「今いう通り床の間へ斜に向かって、オイ次郎孝とひとつ呼んでください」
徳「ハア呼ぶか」
次「見たかこれを、|於玉ケ池《おたまがいけ》の先生だ、惜しい者を故人《こじん》にしたな、オホンてなことをいって、よそいきの咳払いをするんでげす」
徳「ハテナ、咳払いにもよそいきと平常《ふだん》があるかね」
次「困ったねこの人は、片づけてオホンとひとつやるとたんに、ヒョイと紙入れを突き出してもらいたいね」
徳「突き出しますか、つき出すならわけはねえ、毎朝つき出してるだ」
次「毎朝紙入れを」
徳「ナニ米を、搗き出してる」
次「米を搗き出してたってしようがない、紙入れをポーンと突き出してもらいたい、ひとつやってご覧《ろう》じろ」
徳「やってみるかな……アア次郎孝」
次「そんなまぬけな声をしちゃァしようがない」
徳「それじゃァもう一度やるべえ、次郎孝見たか於玉ケ池の容斎が、ぶッたおれた」
次「ぶッたおれたじゃァない、於玉ケ池の容斎、惜しい者を故人にしたな、オホン」
徳「惜しい者を乞食《こじき》にしたな」
次「乞食じゃァない、故人だ」
徳「故人にしたな、可哀相気《かあいそうげ》だ、オホン」
次「たいそう紙入れを突き出したね、そんなにたくさん出さなくってもいい、なんだえ、どうしたんですえおまえさんの手は、豆だらけじゃァないか」
徳「アアこれはなんだ、年来米を搗いて杵《きね》を握ってるからタコができたのだ」
次「タコか、花魁が白魚《しらお》を五本列べたようなおきれいで柔らかい手で、あなたのその硬い手を握ったら、花魁が胆をつぶしますぜ、これはどうしたんざますなんて聞かれたらどうしますえ」
徳「どうするもんでねえ、嘘をついたら悪かんべえ、こりゃァハア年来米を搗いて杵を握ったタコだ、月にいっぺんずつ小刀で削るだけれども、当月はまだ削らねえ、爪で弾《はじ》くとカチカチ音がするだ」
次「そんなことをいっちゃァ困ります。それじゃァあなたの商売が現われて、私が恥をかきますよ」
徳「そんならなんというべえか」
次「それじゃァこうしましょう、いつか私が剣術の先生の取り巻きで行った時に、竹刀《しない》ダコをなんだと聞かれたから鼓《つづみ》の稽古《けいこ》をしたてえことにごまかしましたが、あなたもしようがない、国にいて身体を持ち扱って、鼓の稽古をしてこういう豆ができたんだてなことをおっしゃい」
徳「なるほど、おらが国にいて万歳《まんざい》になって」
次「万歳ばかりが鼓を打ちゃァしない、観世流《かんぜりゅう》かなにかの鼓で」
徳「ハハア観世よりの鼓か、そんな物ぶったたいたら、おッこわれちまうだろう」
次「いけないね、鼓をぶったたくなぞといっちゃァいけない。ただ鼓の稽古をしたといやァいいので」
徳「ただ鼓の稽古をぶったちゅうかね」
次「わかりましたか」
徳「てえげえわかった」
次「それじゃァ床屋へ行ってね、親方に無理いって、うまく結《ゆ》ってもらって、それがすんだらお湯へ行って、よく垢《あか》を落としてこなけりゃァいけませんんよ、そのうちに私が着物を買ってきますから、あなたはどう見ても江戸ッ子には見えない、江戸三分の田舎七分だ、いな七、江戸三だ」
徳「むずかしいものだな」
次「縞物《しまもの》より黒の紋付きのほうが立派でようげしょう、早く行っていらっしゃい」
徳兵衛さんこれから床屋へ行ってスッカリ髪ができる、お湯へ入って磨き上げ、着物を着替えると馬子《まご》にも衣裳|髪形《かみかたち》で、どうやら見られるようになりました。
徳「どこに旦那がいるだね」
次「あなたが旦那だ」
徳「俺ァ旦那なんて言われたなァ今日はじめてだ」
次「初めてでもなんでもあなたが旦那で、私が取り巻きの幇間で行くんだから……旦那らしい顔をしていなけりゃァいけません、エエ旦那」
徳「オーイ」
次「そんな返辞をしちゃァいけない、旦那らしい返辞をしなけりゃァいけません、モット軽くやってごらんなさい」
徳「軽くやるかね」
次「エー旦那さま」
徳「オワイ」
次「あんまり軽すぎる、掃除屋のようで工合が悪い、マアマア返辞はそのくらいでようがすから、それから芸妓衆《げいしゃしゅう》も来るし、太夫衆《だゆうしゅう》もおおぜい来ますが、そのとき木更津の大尽という触れ込みで行くんだから、ことによると大尽は木更津のどのへんでいらっしゃいますと聞かれるかも知れない、もし聞かれた時に知らなくっちゃァ工合が悪い、といって今教えたところでなかなか覚えちゃァいられますまいから、もし所を聞きましたら、少し反《そ》り身になって、木更津を忘れるためにこの廊《くるわ》へ来たんじゃァねえか、噂をされても感心しねえオホンてなことをいって、とたんにまた紙入れを突き出すんで」
徳「ハハアまた突き出すかね、よし、そんなら俺なんべんでも突き出すから」
話をしながら、いつか吉原へ来てしまった。
次「あなたここに少し待っていておくんなさい、ちょっと私があすこの茶屋へ行って相談をしてきますから、呼んだら来てください……おかみこんにちは」
内「オヤマア次郎さんしばらくだね、どうしたの、ちっとも顔を見せないじゃァないか、まるでイタチの道だからうちの者も心配していたんだよ、どうしたんだろう、身体でも悪いんじゃァないかといってたんだよ、今日はお客さまかい」
次「今日は木更津の大尽の取り巻きで来たんで」
内「オヤオヤそうかい、そりゃァよかったね」
次「ヘエ、為になるいいお客さまだからこちらへくわえ込んで来ましたんで、どうかよろしく願います」
内「そうかい、旦那さまはどちらに……」
次「あすこに立ってるんで」
内「なんだって旦那さまをあんなところへお立たせ申しとくんだね」
次「小稲《こいね》花魁というお名指しなんだから、とにかく花魁の部屋が空いてるかどうかだが聞かしてみておくんなさい」
女「アア今お部屋へは聞きにやるから、とにかく旦那をこっちへお呼び申して」
次「旦那、どうぞこちらへ……」
内「いらっしゃいまし、よくいらっしゃいました、サアどうぞごちらへおあがり遊ばせ」
徳「ごめんなさいまし……私はハア国で退屈《てえくつ》だもんだから、鼓の稽古ぶッぱてえて」
次「まだ早いよ」
内「オヤマァお洒落さまでございますか、どうも野暮天《やぼてん》にはわかりませんで困りますよ……ちょいとおまえね、お店へ行って花魁のお部屋が空いているかどうだかちょっとうかがっておいで、よけいなことを言っちゃァいけないよ、ただ木更津の大尽とさえ申し上げればいいんだよ、よけいなことをいわないで……ナニ初会なじみかってそりゃァそうさね、いうまでもない、あたりまえじゃァないか、早く行っておいでよ……どうか一服召し上がって……お履き物を上げたかい、ナニ一足足りないって、旦那のがかい、アノ次郎さん、旦那のお履き物がないそうだが、知りませんか」
次「旦那、お履き物は」
徳「懐へ入れて来やした」
次「いけないね、そんなことをしちゃァ、若い者に預けるんで」
徳「なくなりゃァしねえかな」
次「大丈夫ですよ」
徳「オイ若え者」
○「ヘエ」
徳「おめえ若え者か」
○「ヘエ手前当家の若い者でございます」
徳「ひどく頭が禿げているな、それでも若え者か」
○「恐れ入ります、この廓ではいくつになりましても若い者で」
徳「アアそうか、おらはハアおめえの頭がひどく禿げてるだから、虫のせいでもあるかと思った、おめえここのうちに何年奉公ぶってる」
○「おかしなことをお尋ねになりますな、手前当家に五年辛抱をいたしております」
徳「ハア五年辛抱ぶってるが、それなら下駄を預けたところで泥棒するようなこともあるめえ」
○「これは恐れ入りました、どうぞお預けくださいまし」
徳「それでおらも安心ぶったが、そんならおめえに預けるだ、もしおらが帰《けえ》る時にこの下駄がねえなんて言やァがるとただはおかねえぞ」
〇「どうも恐れ入りました、確かにお預りいたしますから大丈夫でございます」
内「アノそれから旦那さまにちょっとうかがっておかなければなりませんが、旦那ほかにおなじみがございましょうか」
徳「そりゃァおらだって、なじみの三人や四人はあるさ」
内「ソレごらんなさい次郎さん、だから旦那にうかがってくれなけりゃァいけないといったんじゃァないか、ほかにおなじみが三人も四人もおあんなさるというじゃァないか」
次「ハテナ、なじみのあるわけはねえんだが、しようがねえなァ」
内「旦那なんですかおなじみがあるというのは、一丁目ですか二丁目ですか」
徳「おらのなじみは八丁目だ」
内「ご冗談ばっかりこの吉原に八丁目なぞはありませんよ」
徳「ナニ吉原じゃァねえ、麹町《こうじまち》八丁目だ、芋屋の屁兵衛《へーべえ》と言いやして、コレおらが国の者でな、いかく金を貯めたけんど、このあいだ野郎相場に手を出しやァがって、よしゃァいいのに、すっかりすっちまったようだ」
内「オホホ、イエそうではございません、この廓におなじみがございませんかというので」
徳「アア車屋になじみもありますよ、万年町《まんねんちょう》の甚次郎《じんじろう》てえ奴でね、これもハアやっぱりおらが国の者だ、なんでもこの野郎|流行病《はやりやめ》えでおッ死《ち》んだてえことを聞きました、あとにかかさまに子供が残ってるだが、かかさまも子供がなけりゃァ奉公ぶったけんど、子供があっては足手まといで奉公もできねえとこぼしていたがね……」
煙草を喫《の》んでいたが、手のひらへ火の玉をプッと吹いてのっけたから、まわりに居た者は驚いて、
内「旦那冗談をなすって、火傷《やけど》をするといけません」
徳「ナーニ、火傷なんかするものでねえ、手の皮が厚いだから、はじくとカチカチ音がするだ」
次「冗談いっちゃァいけません、旦那、そんなことをしちゃァいけませんよ、困ったな……芸者衆がきました、太夫衆もきました」
善「エエはじめましてお目通りをいたします。桜川の善孝《ぜんこう》と申します、どうぞご贔屓《ひいき》に願います」
芸「こんばんは、ありい……」
徳「ひどく入ってきやがったな、これはハアたまげたもんだな、坊主頭がひどく入ってきたな、きれいなアマッ子が入って来た、ヤアきれいなアマッ子の中にきたねえ婆ァが入ってきた。ちりめん婆ァのぞうきん婆ァが入ってきやがった。これはハアたまげたな、ヤア小《ちい》っこいアマッ子も入ってきたな、アレマア小っこい子供が大きな野郎の中へ入って、踏みつぶされるなよ、オイ次郎孝」
次「へイへイ、なんぞ旦那ご用で」
徳「こんなにおおぜい入《へえ》ってきやがっても、十三両二分で足りようかな」
次「困ったな、黙ってなくっちゃァいけませんよ」
内「エー旦那さまちょうどよろしゅうございます、ただいまうかがいましたところが、花魁のお部屋が空いておりますから、どうかあちらへお引っ越しを願います」
徳「なんだってここの家引っ越しするか、せっかくおらがこうして来たのにな、あしたにしたらよかっぺえ、ナニそういかねえか、仕方がねえ、おらも関係《かかりええ》だ、箪笥《たんす》のひとツも引っ担いでってやるべえ」
次「ご冗談おっしゃっちゃァいけません、ここの家が越すんじゃァございません」
芸者「ほんとうに旦那はご冗談ばかりおっしゃっておもしろいお方ですね、なんでございますか、旦那は木更津のお大尽ということでございますが、話を聞くと木更津はたいそういいところだそうで、私もいっぺん行ってみたいと思っておりますが、ツイ機会がないもんですからまだまいったことがございませんが、旦那さまは木更津のどの辺でいらっしゃいますか」
徳「おらハァ木更津辺にべつに知り合いはねえが」
芸者「アレまたしてもご冗談ばかり、木更津のどの辺でいらっしゃいます」
徳「なんだか知んねえけんど俺ハァ木更津の大蛇だ」
芸「ヘエー、木更津にも大蛇が出ますか」
徳「おらが大蛇だ」
芸「なんだか話がサッパリわかりませんね」
徳「おらにもちっともわかんねえ、なんでもかまわねえ、おらが木更津の大蛇で、於玉ケ池の先生がぶッたおれて、乞食になって可哀相でたまんねえ、オホンでヤッとこう紙入れを突き出して」
芸「マア旦那のお手はきたないお手ですこと、どうなさいましたの、豆だらけね」
徳「ヤアいけねえとうとう見つかったかな、たまげたね、次郎孝なんだっけな、なんの豆だっけ、えんどう豆ではねえ、いんげん豆でもねえし、ハテ何豆だっけな……アアそうだ、思い出したこの豆はな、おらが国に居やしての、身体を持ち扱って、鼓の稽古をぶッぱたいて、こんな豆ができただ」
芸「アラ旦那が鼓の稽古をなすったんですか、それでは大胴《おおどう》ですか小胴《こどう》ですか」
徳「そりゃァ大俵《おおびょう》もありゃァ小俵《こひょう》もありますが、大俵は大概|五斗俵《ごとびょう》だね」
芸「なんだか、旦那お話がちがいますね、アノ羯鼓《かっこ》の打ち上げはほんとうにむずかしいでしよう」
徳「そうだよ、なんでも尾張米《おわりまい》より美濃米《みのまい》のほうが搗きにくいソーレ、ズイと来い、ソーレズイト来い」
たいへんな騒ぎ、こんなことでもどうやらこうやらその晩はすみました。翌朝になると徳兵衛ぬけがらとなってぼんやり家へ帰ってきたが、サァ仕事が手に付かない、小稲のことばかり思っているから、何を見ても小稲に見える、自分の目の先へその顔がチラ付いて、力もなにも出ません、二階の隅へ一人で小さくなって、泣いたり笑ったりしている。気味の悪いこと、まるで狂人《きちがい》の始末だ、災難なのは親方で、仕事もしずに大きな男に遊んでいられてはやり切れない、他の者の手前もあるから、
親方「徳兵衛の奴どうしやがったんだか、しようのねえ奴だ」
と、ブツブツいいながら二階へあがってきて、
親「徳兵衛、どうしたんだコレ徳兵衛」
徳「エエ」
親「エエじゃァねえ、おめえよっぽどどうかしているな、この頃ちっとも仕事もしねえじゃアねえか、他の者の手前もあるから、黙っている訳にいかねえ、第一お前はこのあいだ俺の手文庫の中から十三両二分の金を黙って持ってったじゃアねえか、そりゃァおめえのものだからいいようなものだが、預けといた物を黙って持って行くというなァよくねえ、一言いやァ出してやるものを、あの金をどうしたんだ、ナニ一晩で使っちまった、せっかく三年の間着る物も着ずに働いて貯めた十三両二分をたった一晩で使ってしまうてえなァ乱暴じゃァねえか、一体何に使ったんだ、そりゃァ自分の金だから、使うもいいが、またこれから貯めるのには容易のことじゃァねえや、ほんとうにしようのねえ奴だ、とにかく今夜はもう遅いから寝ちまえ、あしたまたゆっくり話をするから」
徳「ヘエ、おやすみなさいまし」
徳兵衛下へ降りてきて、厠《かわや》へ行って用を達し、手水鉢《ちょうずばち》で手を洗おうとすると、むこうも料理屋の二階でおもしろそうに唄ったり騒いだりしている。
徳「アアうらやましいなァ、おもしろそうにアマッッ子が唄ってやがる、あれはどこかで聞いたような唄だな、そうだ、この裏の娘ッ子がよく稽古をぶってたっけ、あれは無間《むげん》の鐘というんだ、昔|梅ケ枝《うめがえ》てえ女郎が手水鉢をぶっぱたいて三百両の金を授かったってえが、おらもハア三百両の金がありゃァ毎晩毎晩小稲に会われるだ、三百両の金が欲しいもんだな、おらもひとつ手水鉢をぶっぱたいてみるべえか、出ねえところで元ッ子だ、出るか出ねえか知んねえがひとつやってみべえ」
と柄杓《ひしゃく》を取り上げると、
徳「エエ手水鉢さまへお願え申します。どうかハア三百両の金を授けてくだせえまし、三百両あれば毎晩小稲のところへ遇いに行かれます、どうぞお願え申します、うまく降ってきておくんなさいまし」
コツコツコツと柄杓で手水鉢をたたきますとどこをどうしたか、ふしぎなことにお金がバラバラと降ってきた、徳兵衛喜び、
徳「なんでもやってみるものだ、ありがてえことに降ってきたぞ、まんざら嘘でもなかった、ありがてえものだ、ここに十両、こっちに五両、こっちに八両、こっちに三両、ありがてえありがてえ」
と、お金を残らず拾い集めて、勘定をしてみると、ちょうど二百四十両あった。
徳「ハテナ、こりゃァ二百四十両しかねえ、昔の梅ケ枝がぶっぱたいた時には三百両降ったというが、おらがぶっぱたいたら二百四十両しか降らねえ、これじゃァ六十両足りねえぞ、ハテどうして三百両降らねえのか……アア二割の搗きべりがしたか」
[解説]冒頭に米の搗きべりのことを言っておかなければわからないから、これは仕込み落ちである。先代の円生や柳枝が得意にやっていた。今の柳枝も折々やる。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
|佃祭り《つくだまつり》
――――――――――――――――――
昔のお咄に体躯《なり》のごく小さい人がございまして、あまり人が、おまえはなりが小さい小さいといいますのでスッカリふさぎまして、ある日親分宅へ出て行って、
○「親分、どうも私は残念でたまりません」
親分「どうした、顔色が悪いが、なにが残念だ、喧嘩でもしたのか」
○「イエ、喧嘩をしたんじゃァございませんが、私のことをみんなが、一寸法師だの、チンチクリンだのといって冷笑《ひやか》します、どうもそれがくやしくってたまりません、どうか私の身体の大きくなる工夫はありませんか」
親「それはどうもだめだ、こればかりはどうすることもできない、いいじゃァねえか、人が小さいといってもかまったことはねえじゃァねえか、もしみんながグズグズいったら、そういってやんねえ、なりが小さいッて昔からえらい人がいくらでもある、太閤秀吉《たいこうひでよし》などは自分は小さかったが、加藤清正《かとうきよまさ》という大男を家来に持っていたじゃァねえか、浅草《あさくさ》の観音様は一寸八分で、十八年間四面のお堂に入って、仁王《におう》という大男を門番に使ってる。小さいからって侮《あなど》るなってそういってやれ」
○「デハございますが、どうか大きくなることはできますまいか」
親「そりゃァとても人力ではできねえ、マァ神に頼むよりほかに仕方があるめえ、幸いオレのところに芝山《しばやま》の仁王様の掛け物があるから、仁王様へ願《がん》をかけてみねえ」
○「さようでございますか、ではそういたしましょう」
よほどくやしいとみえて、宅へ帰りまして、仁王様に一心をこめてお願い申し、水を浴び、精進潔斎《しょうじんけっさい》というんで、三七二十一日のあいだ信心をいたしました。スルと満願の真夜中におそろしい物音がいたしましたので、気が付いて見ると枕元にありありと仁王様の姿が立っていますから、びっくりいたしました。
仁王「コレコレ、汝は身の丈を伸ばしてくれというて、我を信ずるは神妙の至り、汝の心に愛《め》でて、今晩|利益《りやく》を授けるから、さよう心得ろ」
○「ありがとう存じます、なにぶんよろしくお願い申します」
仁「両手の手をズッと下へ伸ばしてみよ」
仰せに従い、両手をグッと伸ばしてみますと、この手が布団の下へズーッと出ました。
○「ありがたいことでございます」
仁「続いて両の足をそろえて伸ばしてみろ」
○「かしこまりました」
と両足をウーンとつッぱりますと、ふしぎなことに、この足がまた布団の外へズーッと出ました。アアご利益はありがたいと、喜んで目を覚ましてみると三布団《みのぶとん》を横に寝ていたというお話がございます。またこの信心ばかりは一心不乱でなければ、我が心が神に通じないという、されば神様を拝む時には手を合わせて口にあてがう、口遍《くちへん》に十という字を書いて叶《かのう》というこの理合いだとか申します。ソコで、目を閉じて拝みますのは、目を明いていると、気が散りますから、それを塞《ふさ》いで拝む、けれども鼻を塞いで拝む方はあまりありません。もっとも鼻を塞いでは呼吸《いき》ができないかも知れませんが、どうもこの鼻という奴が、邪魔をいたすようでございます。
プーンと香水の匂いでもいたしますと、フンフン鼻を動かしてアアいい匂いだ、女が来たようだ、どんな女だろうと思うと塞いでいる目をソッと明けて見る、ヤア美《い》い女だ、二十一二かな、なにを祈るんだろう、情夫《いろ》の病気全快でも願うんじゃァねえか、ちくしょう、南無不動明王……なんかと、鼻というものがあるから畢竟《ひっきょう》気が散る、ほんとうに信心をするときは目を閉じ、十本の指を合わせ、口へあて、親指を二本鼻の穴へ押し込んで拝むのだそうで、そんな思いをして信心しないでもいいが、中にはまた信心はつけたりで騒ぎに行くのかと思うのがございます。
あの御会式《おえしき》などとくると、法華宗《ほっけしゅう》の方ばかりではございません。他宗の者までが混じって出かける。なんだというと、燃えるような赤い腰巻きをチラチラ出して、真っ白に白粉《おしろい》を塗って、白地の手拭いを姐《あね》さんかぶりにして、南無妙ホーライガイキョウなどというご婦人と打ち混じって歩くのが楽しみでお出かけになる方がある。
甲「妙法蓮華経《みょうほうれんげきょう》南無妙法蓮華経……、けっこうなお天気ですね」
乙「さようでございます、お祖師様《そしさま》はおしあわせで……」
ナニ自分たちのほうがおしあわせでございましょう。
甲「南無妙法蓮華経々々、どうでございます、たいそうな人でげすな、妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……あすこへ来たのは、どこの……、エー金兵衛《きんべえ》さんの娘かえ、ヘエー……妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……幾歳《いくつ》になります、今年十八、ヘエー妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……ツイこの間じゅう蝶々髷《ちょうちょうまげ》でいたのがもうあんなになりましたか、妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……嫁入り盛りでございますなヘエ、妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……モウどこかへ嫁ずく口ができましたか……ヘエー、そうでございますか、妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……どんな男かしら、うまくしていやがる、妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……」
こう気が散ってはとても信心はできません。それでこの神様にもみょうなもので、おのおのお得意がある。お得意というとおかしゅうございますが、薬師様《やくしさま》を信心すると、眼が治るとか水天満様《すいてんまんぐうさま》を信心すると水難を除《よ》けるとか、瘡守様《かさもりさま》は梅毒《ばいどく》が治るとか、また戸隠様《とかくしさま》を信心すれば、歯の痛みが治るとか申しますが、ふしぎなものでございます。
ところでこの神々の祭礼というものがすべて当今は衰微《すいび》いたしましたが、明治以前にはたいそう盛んのものでありました。江戸では山王《さんのう》、明神《みょうじん》と申すと、将軍のご上覧があるといって、えらい騒ぎをいたしました。そのために娘を吉原へ売っても、その費用を整え、後のことはかまわずに華美《はで》なことをいたして騒いだものでございます。
かの佃《つくだ》というところに住吉様《すみよしさま》というのがありまして、この祭礼《まつり》がなかなかにぎやかでございます。小さい島だけに気がそろって、ある年たいそうよくできました。この佃の祭礼《さいれい》を見物にまいりました人が、あまりにぎやかで、あっちからは踊り屋台が出る。こっちからは地囃子《じばやし》が出る、いろいろの飾り物があるというので、我を忘れてあっちこっちを見ているうちに、打ち出したのが八幡《はちまん》の六つの鐘……。あすこは島人《しまびと》のおりますところでございますから、暮六つ〔午後六時〕には船が留まります。島に懇意《こんい》のものがあれば、そこへ泊まるということもあるが、知る人がなければ、この船に乗って帰らなければならないのでございます。平常《ふだん》は二|艘《そう》で交代をしております渡し船が、祭礼でたくさん人が出るというので今日は十艘出ております。モーそれがだいたい出てしまって、たった一ぱい残っております終い船、いま桟橋からこの船に乗ろうと思いますと、うしろから駆け出してきた者が、いきなり袂《たもと》を押さえて、
女「旦那さま少々待ってくださいまし……」
○「アアなんですか、急ぎますから、どうか袂を放してください、船頭さん、その船をちょっと止めといておくれ……、なんの用だか知りませんが、この船に乗り遅れると、私はうちへ帰ることができませんからどうぞ袂を放してください、船頭さん、オイちょっと待って……、アレ船を出してしまやがった。少しのあいだ待ってくれというのに、意地の悪い奴だな、もう帰ることができやァしねえ」
といいながら初めて留めた人を見ると、年の頃二十二三にもなろうという、色白の年増《としま》でございます。
○「なんだ、見おぼえのない人だが、迷惑千万《めいわくせんばん》な、おまえさん人ちがいじゃァないか」
女「イエ人ちがいではございません、まことに御足《おみあし》をお止めして、お気の毒さまでございますが、往来ではお話ができませんから、どうか手前宅へ立ち寄りを願います」
○「ヘエー、モー船へ乗りそこなったんだ、うちへ帰ることができません、なにしろご同道いたしましょう」
ともに来てみますると、小さな家ではありますが、お祭りのことで、掃除も行き届かないでおりまして、花筵《はなむしろ》が敷いてあります。その人を上座《じょうざ》に直してお茶を持ってまいりました。
○「おかみさん、私はお茶もなにも飲みたくありません、どうしても私は考え出せないが、おまえさんはどうして私をご存じでございます」
女「旦那さまお見忘れでございますか」
○「ヘエどこでお目にかかった方だか、とんと私は覚えがありません」
女「さようでございますか、ちょうど数えてみると、三年あとの今月の今晩でございます。私は奉公をしておりまして、金子《きんす》をなくして、吾妻橋から入水《じゅすい》いたそうと思いましたところへ、旦那さまがお通りかかりになって五両の金子をくだすってお助けくださいましたことがありますが、お忘れでございますか」
○「アアー、そうでしたか……、それで思い出した、三年あとに吾妻橋で身投げを助けたが、おまえさんでございましたか」
女「ハイ、その折りの者でございます、お名前もご住所もうかがいませんで、お礼に出ることもできず、どうか今一度お目にかかりたいと願った念が届いて、今日図らずも、あすこでお目にかかりまして、うれしさのあまりお船へ召しますお邪魔をいたしまして申し訳ございません」
○「ヘエー、どうもふしぎでございますね、なるほどそういえば、見覚えがあります、アノ時はおまえさんはまだ島田でおいでなすったが、丸髷《まるまげ》を結ってたいそう立派のおかみさんになったので、スッカリ見忘れてしまいました。これはおまえさんのお宅ですかえ……、ウム、ウムなるほど、ご亭主さんができて……アアそれはけっこうだ、身が固まってなにより……してご商売は……船頭さんですえ、そうですか、じゃァなんですね、いつでも船は向こう河岸《がし》へ出せましょうな……アアそれで落ち着いた、帰ることができないと思って、じつは弱ってました」
女「いつでも良人《やど》と、旦那さまのお噂ばかり申しておりますので、もうそのうちに帰ってまいりましょうから、どうかお茶をひとつ召し上がって……」
○「さようでございますか思いがけないことで、とんだお邪魔をいたしました、デハマァお茶をいただきます」
と二つ三つ話しておりますうちに、表でワアッという人声、女房もなんだか知らん、お祭礼のことだから喧嘩でも始まったのかと、心配しているところへ、入ってまいりました人は、年頃三十近い、色の黒いデップリ肥った人。
女「オーお帰りかえ……、良人が帰ってまいりました、ちょっとおまえさん上がってくださいよ」
男「上がるどころじゃァねえ、たいへんなことができたんだ」
女「なんですえ」
男「いま終い船があまり人を乗せ過ぎたんで、沈《しも》りかけたというんで、おそろしい騒ぎになって助け船を出さなけりゃァなんねえだ、みんな出かけたからオレもちょっと行ってくる、なんだかお客さまがいるようだが、あとでゆっくりお目にかかる、着物をそっちへ取ってくれ」
と亭主は裸になって出てまいりました。
○「おかみさん……」
女「ハイ」
○「今帰ってきたのが家の親方ですか」
女「ハイ、さようでございます、旦那さまお聞きなさいましたか、終い船が沈りかかったという話し……」
○「うかがいましたがほんとうに驚きましたねえ、アノ船へ私が乗るところであったのを、おまえさんが袂を押さえたばっかりで乗りそこなったが、おまえさんに遇わなければ、今時分、船と共に沈んでしまわなければなりません。私は自慢じゃァありませんが、泳ぎを知りません、ブクブクと徳利《とっくり》の声色《こわいろ》を使わなければならなかったので……」
女「ほんとうに危ないところでございました、マアおそろしい騒ぎでございますが、そのうちに良人が帰れば詳しいこともわかりましょう、どうかマアなんにもございませんが一口召し上がって……」
○「イヤおかみさん、それはどうぞごめんをこうむる、ご酒どころではない今の話を聞いたんで、私はへんな心持ちになりました」
女「そんなことをおっしゃいませんで、どうか一口……」
とあり合いの煮染肴《にしめさかな》を取りそろえて待遇《もてなし》ているところへ亭主が帰ってまいりました。
女「お帰りかえ」
男「今帰った」
女「おそろしい騒ぎでしたが、どうしました船は……」
男「どうにもこうにも、女子供が多いんで、助け船も間に合わず、たいがい死《くたば》っちまった、船場に死骸が山のように積み重なってるが、身内が来たら、驚くだろうと思ったら、なんだか知らねえが、心地が悪くなって、帰ってきた、お客さまがおいでのようだがどこのお方だ」
女「あちらにいらっしゃるのは三年あと、わたしが吾妻橋で助けていただいた旦那さま、ちょうどいいところでお目にかかったから、無理にご案内申して来ましたちょっとご挨拶を……」
男「ご挨拶だって、裸体《はだか》じゃァしようがねえ、着物を持ってきてくれ」
着物をひっかけまして、
男「これはお初にお目にかかります、金五郎《きんごろう》と申します船頭渡世をしております粗相者《そそうもの》でごぜえます。ろくすッぽう、口も利けねえ男でごぜえますが、どうぞご懇意にお願《ねげ》え申します」
○「これはこれは親方さんでございますか、はじめまして、手前は次郎兵衛《じろうべえ》と申します、どうぞご懇意にお願い申します。お留守へ上がりまして、いろいろごちそうになりまして……」
金「とんでもねえ、ごちそうどころじゃァごぜえません、なにもありませんで、さぞご退屈でごぜえましたろう、しかし旦那え、からすの啼かぬ日はあれど、あなたの噂の出ねえことはねえんでごぜえます。いつでもこの女が涙をこぼしてありがてえ旦那だ、一度お礼を申し上げなけりゃァならねえと、泣いておりますから、私が叱言《こごと》をいうんでごぜえます、てめえのようなわからねえ女もねえもんだ、お名前か、おところを聞いておかなけりゃァ、お尋ね申す手段がねえ、お礼を申し上げてえといったところが、お目にかからねえじゃァしようがねえが、マァ神様にでも頼むほかはねえから信心しろと、私は神様へ手を合わせたことはごぜえませんが、この女と共に、どうか一度お目にかかれるようにとお願え申すんだが、的《あて》がわからねえで、なんといって拝んだらいいか、しかたがねえから吾妻橋様に会いますようにと、お願い申しているんでございます。その念が叶って今日お目にかかれましたのはまことに幸い、ご恩返しと申しちゃァ、なにひとつできませんが、なんぞありました時に、これをしろよ、あれをしろよと、どうかご遠慮なく、ご用を言い付けていただけば、命に換えてもご用を勤めます。末々目をかけてお使いのほど願えます」
次「いや親方、そう丁寧《ていねい》にいたされちゃァ困ります、イーエおかみさんの命を助けたといっても、恩もなにもありません。じつは、今の船に私が乗るところでございました。すでに桟橋へ片足かかり、片足がいま船へ入ろうというとたんに、おかみさんに袂を押さえられ、乗りそこなって、ふり向いてみると、私は顔に覚えがない。どこの人か余計なことをすると思いながら、お宅へ来て、話しを聞いてみると、三年あと、これこれこういう訳だという、なるほどアノ時の娘さんはおまえさんかと、初めてわかったような訳、ところが船が沈んだという騒ぎ、もしおかみさんに遇わなければ、アノ船へ私は乗るところでした。シテみれば今日おかみさんに命を助けられたので……じつにふしぎなことがあるものでございます。お助け申したのが三年あとの今月の今晩、月も変わらず、日も変わらず、今度はこっちが助けられるとはなにかの因縁《いんねん》、べつに礼をおっしゃるところはありません、つまり相互《おたがいこ》になったンで……」
金「そうでごぜえますか、旦那もアノ船に乗ろうとなすったのか、そいつァ危ねえところでごぜえましたな、マァナニこの女があなたをお助け申したわけじゃァありません、あなたのようなお方が助からなかった日にやァ、神も仏もあるわけのもんじゃァごぜえません、これはまったくお天道様《てんとうさま》が助けたんだ、どうか旦那、今夜一晩、こんな汚いところじゃァありますが、お泊んなさっておくんなせえ、いろいろまたお話やなにかうかがいとうございます……」
次「これは困りましたな、どうも泊まるわけにはいかないのです、宅を日の暮れには帰るといって出てまいったのでございますから、帰らないと騒ぎが起こります。私の家内というのは、大の嫉妬家《やきもちやき》で……イエなんです、大の心配性でございますから、どうかあなた、ご商売がらのことゆえ、すぐに向こう河岸まで船を出しておもらい申したいので……」
金「さようでございますか、それはお宅でもご心配でごぜえましょうが、旦那まちがいのあったところを、すぐと船を出すわけにいかねえんで、土地の仲間にもいろいろまた法がありますから、お気の毒さまでごぜえますが長くはお留め申しませんから、会所の鎮まるまで、どうか一口召し上がっていてくだせえましな」
女「旦那さま、良人《うち》もせっかく申してますから、少々くらいはいいじゃァございませんか、どうか熱いところをおひとつ召し上がって、しばらくお遊びくださいな」
と夫婦の者が命の親と思いますから、鄭重《ていちょう》にもてなすので、次郎兵衛さんよんどころなく、ここでまたお酒を飲むことになりました。スルとお話が変わって次郎兵衛さんのおかみさんは、日が暮れても帰ってこないというので、大の嫉妬家でございますから、出たり入ったりしておりますと、表はとりどりの評判で、佃で船がひっくりかえって、人死にがあった。五十人もあったろう百人も死んだろう、イヤ千人だろうなどと針ほどのことを棒ほどに騒いでいる。これを聞いたおかみさん、いきなりうちへ駆け込んでまいりまして、亭主の帰って来ないのは、さだめし佃でまちいがあっただろうと、オイオイ泣いておりますところへおっかさんが用たしから帰ってきてこれを聞いて驚いたが、女のことでどうすることもできずただ泣くばかりというんで長屋の者も見かねまして、家主へ相談をする。気の早い奴は二三人そろってそれへ悔やみにまいりまして、
甲「ごめんなさいまし」
母「さあどうぞおあがんなさい」
甲「ごめんなさい、……さておっかさん、ただ今うかがいましたが、次郎さんが佃でとんだまちがいだったそうで、びっくりいたしました、なんともはやどうも申し上げようもございません、さぞご愁傷様《しゅうしょうさま》でございましょう」
母「ハイ、いろいろどうもありがとう存じます。じつは私は今日|芝辺《しばへん》へ用事がありまして、宅を留守にいたし、帰ってみますると、これが泣いております、どういう理由だと聞いてみると、次郎兵衛がこれこれだという話しを聞きまして、私もじつはびっくりいたしました。なんだか夢のような心地で……、なにもかも因縁とあきらめようといたしましても、そばであまりこれが泣きますので、どうしていいのやら、私も気が転倒いたして……」
甲「ごもっともさまでございます、サァおまえさんはこっちへおいでなさい」
乙「ヘエ、エーおっかさんどうもとんでもないことでございました。今仕事から帰って、女房《かかあ》に聞いて驚きました。あんなマァけっこうな方が、そういう災難に遇うというのはじつに神も仏もあるものかって、今わっちがポンポンうちで理屈をいったんで、女房のいうには、おまえさんがなにもここで理屈をいってもしかたがねえといやァがる。ダッテおまえさん、あまりわからねえ、と思ってねえ、どうもハヤまことにご愁傷様で……」
母「まことにありがとうございます。オヤ糊屋《のりや》のお婆さんこっちへ……」
婆「ごめんなさいまし、おっかさんただいまうけたまわりまして、驚き入りました。次郎兵衛さんがマァなんたるおまちがいだろう、あんな良いお方がどうして、そんなことになったろうと、伜《せがれ》とも話しをしたようなわけで、自由になるならば私などが代わりにまいりたいというようなことを申しておりましたので、なんとも申し上げようもございません、ほんとうに人の身の上はわからないもので、明日ありと思う心の仇桜《あだざくら》、夜半に嵐の吹かぬものかは……」
甲「お婆さん、ソコでご法談をやっちゃァいかねえ、おっかさん今家主さんと相談したところが奥の与太郎《よたろう》さんが行司ですから、アノ方に頼んで早桶を買いにやりましょう。そうして今夜長屋の者が影通夜《かげつや》をして明朝早く死骸を引き取りに行くと、こういうことに今相談できめました。ソコでたくさん死骸があるそうでございますが、姿かたちも変わってわからないものあるだろうから、お扮装《なり》やなにかのことをちょっとうかがっておきたいものでございますが……」
母「ハイ、いろいろありがとうぞんじます。おまえそこで泣いてるところでない、みなさんがご心配してくださるから、よくお話しをしないではいけない。私は知らなかったが、次郎兵衛はどんななりで行ったえ」
女「ハイ、みなさんありがとう存じます、今日はなんだか私は出すのがいやでございますから、留めたんでございますが、それを聞かずにまいったンでございます、扮装は薩摩《さつま》のこまかい絣《かすり》に透綾《すきや》の羽織、茶献上《ちゃけんじょう》の帯白足袋、白鞣皮《しろなめし》の鼻緒の下駄という支度で出てまいりましたが、再び立ち戻ってまいりましたから、おまいさんどうしたんですと聞きますと、紙入れを忘れたと申しますから、それを私が渡しました時に、いつになく顔をじッと見ておりましたが、ニヤリと笑って出てまいりました。今思えばあの顔が見納めでございます」
甲「ヘイなるほど、おなりもわかりました。おまえさん聞きましたろうね」
乙「エー聞きました。ですがな、おまえさんの前だが、なりだって同じなりが幾人もありましょうし、薩摩のこまかい絣だの、透綾の羽織を着ている人がどれくらいあるか知れねえ、まして駒下駄など履いてる気づかいはねえ、ほかの死骸を引き取ってきた日には大事だが、身体の内になにか印がありそうなものですな」
甲「なるほど、それはごもっとも、ちょっと聞いてみましょう……おかみさん、次郎さんの身体の内に、こういう肉繍《ほりもの》があるとか、またイボがあるとかあざがあるとかいうもので、なにか印はありませんか」
女「良人《うち》の身体にはなにもそういうものはございませんが……二の腕を見ていただきとうございます」
甲「ヘエーどうかなってますか」
女「まことにおはずかしゅうございますが……」
甲「なにもはずかしいことはありません。この場合ですから言っていただきたい、二の腕がどうなっております」
女「二の腕に私の名が彫ってございます」
甲「ヘエーそうでございますか、どうです、人は見かけによらないものですなァ、次郎兵衛さんはおかみさんの名を彫り物にしているそうでございます。きわどいところで惚言《のろけ》を聞かせられたもんだ……」
ここで早桶がまいり、家主が来る、影通夜というんで、正面に大きな早桶を置き、一本花に線香を供えて通夜をしているところへ、次郎兵衛さん立ち帰ってまいりました。
次「どうもいろいろお世話さまになりました、どうかちょっと寄ってください、私の家はアノ二軒目の家がそうでございます……、たいそう灯火《あかり》が点いて、人の出たり入ったりしているようだが……あすこですがちょっと寄って行ってください」
金「ありがとう存じます。じつは今晩おかみさんにもお目にかかってまいりてえんでごぜえますが、こんななりをしていますし、それに会所のほうも、ゴタゴタしておりますから、お目にかからずにまいります。またこのごろにゆっくりお訪ね申しますから、今夜はこれでお別れをいたします」
次「アアそうでございますか、またお宅のほうにもいろいろご用がありましょう、それじゃァここでお別れ申し上げます。どうぞまたゆっくり来てください」
金「じゃァごめんなさい」
次「ハイ、さようなら……、アア親切な人だ。ここまで送って来てくれた。……なんだかオレのうちがたいへんに騒がしいな……」
門口からのぞいて見て驚いた。
次「これはたいへんだ、うちに早桶が飾ってある。たった一日家を明けたばっかりで、おふくろがどうかなったか知らん、すまないことをした……ヤッおふくろはいる。家内もいる。なんだ長屋の者が大勢集まってるが、どうしたんだろう……、ハイただいま帰りましたよ……」
長屋の者は飛び上がって、
◎「ヤッこれは驚いた。これはどうも、次郎兵衛さんが帰ってきましたぜおかみさん……」
女「アレマアおまえさん、マァどうしたらよかろう、死んだんじゃァないんで……」
次「なんだこの早桶は」
女「むやみにあがっちゃァいけませんよ。マァ驚いたねえ、おまえさんほんとうに次郎兵衛さんだね……おや足もある。これはマァどうしたんだろうねえ……」
次「なにがなんだかサッパリ訳がわからない。いったいこの早桶は誰のだ」
家主「マァ私が話しをしよう、誰の早桶でもねえおまえさんのだ、佃で船がひっくりかえったという騒ぎで、おまえさんが帰ってこないから、テッキリ死んでしまったことと思って、一同が影通夜をしているンだ」
次「そうでございますか、イヤそれは私が悪かった。どうぞ勘弁してください、おっかさん勘弁してください、オイオイおまえ、泣きなさんな、みなさんも死んだと思うは無理はない、私もじつは死ぬところであったがこういう訳で助かった」
と前の話を残らずここでいたしました。長屋の人はこれを聞いてびっくりいたし、
◎「じつに次郎兵衛さんのお心がけは真似できない、ずいぶん人に施しをするものはいくらもあるが、たいがい名聞《みょうもん》でやる。それを名前も出さず所も言わずに見ず知らずの女に金をやって助けたというのはこれが陰徳《いんとく》でじつに感心の話だ。情けは人の為にならずという、三年経って月も変わらず日も同じその人のために助けられるというのは、まったくまわって来たんだ、アア善いことはしたいものだ、おかみさんお喜びなさい。次郎兵衛さんのお心がけは感心なものだ、その女に遇ってお酒の馳走になって帰ってきたんだそうで……」
女「それだから私は腹が立つんでございます、うちでこんな騒ぎをしているのに、他でお酒なんか飲んでるとはなんたることでございましょう……イーエ助けたと申しても、女でございますから、この人が金をやったんでございます、いったい助兵衛でございますから、その女と密通《くっつい》てるかなんだかわかりません」
◎「イエ嫉妬《やきもち》どころではない、けっこうな話で、この早桶が不用になるという、こんなめでたいことはない、じつにおめでたい」
というんで、長屋の者は一同帰ってしまった。スルト長屋に与太郎という人がおりまして、これを聞いて、なるほど人は助くべきものだと感心をして、家へ帰ったが、金がないから、道具屋を呼んできて、あらいざらい売り払ってようやく五両の金をこしらえ、これを懐中して、毎晩身投げを助けに出ました。妙な人があるもので、ところがどうしても身投げに出ッくわしません、ある夜永代橋へかかると橋上に婦人が一人立っております。年の頃は二十四五にもなろうという、大丸髷の粋な年増、鬢《びん》の|ほつれ《ヽヽヽ》が顔にかかり、袂をふくらして、水面を臨んで今飛び込もうというようす、見ると与太郎さん喜んで、いきなりうしろから抱き付いた。
与「マアマアおかみさんお待ちなさい」
女「マアあなたなにをなさるんですよ」
与「なにをするッたっておまえさん了簡ちがいだ、五両の金で身を投げるんでしょう」
女「私は身投げじゃァありません、歯が痛いから戸隠様へ願かけをしているんで……」
与「そんな嘘をついちゃァいけません。おまえさんの袂にいっぱい石が入ってるじゃァありませんか」
女「イーエこれは戸隠様へ納める梨でございます」
[解説]佃祭りの実話を小噺を着けてサゲたものである。これは立派な真打ち噺で、本文だけでも三十分以上あるのに、信心などをマクラをつけて、四十分からの長い高座にしている。サゲはまぬけ落ち。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
裸《はだか》の嫁入り
――――――――――――――――――
何事もご縁ということを申しますが、このご夫婦くらい深い縁はなかろうかと存じます。けれどもお互いによく選んで持たないと生涯の不幸で、なかには糠《ぬか》ぶくろを縫わせれば四日半日かかってようやく縫い上げたと思えば、四方を縫ってしまって糠のいれどころがないというような仕事をする女房もあります。
亭「オオいま帰ってきた」
女「オヤお帰りか」
亭「早速だがな、お前、横丁の婆さんのところへ行って、大急ぎでこの浴衣《ゆかた》を縫ってもらってくれ、みんなそろいで明日遊びに行くんだ」
女「なんだえ、横丁の婆さんのところへ持っていって縫ってもらえって」
亭「ウム」
女「そんなものを人手に頼むことはないじゃアないか」
亭「頼まねえでどうする」
女「わたしが縫ってあげるよ」
亭「エー、それじゃア、お前、なにか仕事ができるか」
女「フフ、冗談じゃアない、できるかとは何だね、縫ってあげるからだ出しな」
亭「そうか、そいつはけっこうだ、俺は湯に入ってそれから理髪床《かみいどこ》へ行ってくる」
女「アア行っておいで」
亭「明日早くみんなと出かけるんだが、お前間に合うか」
女「いいってことさ、大丈夫だから安心してお湯に行っておいでよ」
亭「そうか、お前が仕事ができるとは今まで知らなかった、じゃア行ってくるよ」
やがて帰ってくると、お女房《かみ》さん、さっきのとおり火鉢の前へ座って煙草をふかしている。
亭「アレ、まだ座っているのか、それだから俺があれほどそう言ったじゃァねえか、湯に入《へえ》って理髪床《かみいどこ》へ行って帰《けえ》ってきても、まだ煙草を喫《す》ってすましていちゃァ困るじゃァねえか、ズンズンやってくれ」
女「なんだねェ、そこに縫ってあるよ」
亭「エー、縫ってある……ヘエ恐ろしく早いじゃァねえか」
女「ナニ早くもないけれども……」
亭「どこにある」
女「そこにたたんであるよ」
亭「アーなるほど、これやァ驚いた、もうできてしまったのかあ」
女「アア、ひろげてご覧よ」
亭主が、畳表《たとう》に包んであるのをひろげてみると、五布《いつの》風呂敷みたような具合に四角に縫って、その真ん中に孔《あな》があいている。
亭「オンヤー、なんだいこれァ、どう着るんだ」
女「どう着るって、真ん中の孔に頭を入れてごらんな」
亭「ジョジョ冗談じゃァねえ、馬鹿にするな」
女「馬鹿にしやァしない、マア入れてご覧よ」
亭「へんなものだなァこれやァ、ホウズキの化け物みたような……小坊主が大きな衣を着たように、どうすることもできねェ、フッ馬鹿にしちゃァいけねえ」
亭主があきれているのを女房のほうは煙草を喫いながら澄ましたもので、
女「まあこの人は、仕立ておろしを着たんで、剛儀《ごうぎ》とご機嫌だね」
こんな女房じゃァ始末にいけません。
八「ヘエごめんなさい」
家「オヤ誰かと思ったら八公かい」
八「ヘエ、いまお人でございましたが」
家「さァこっちへおあがり」
八「まっぴらごめんんなさい」
家「コレコレなんだい、人の家へあがるといきなり胡座《あぐら》をかく者があるかい」
八「かしこまるとひっくりかえるんで」
家「やっかいな男だな、呼びにやったのは他《ほか》じゃァないが、俺は長屋が三十六軒ある、他はみんな女房持ちだが、お前ばかりは独身者《ひとりもの》だ、感心なことにはお前は仕事が一人前だということを仲間の者もほめているが、なんでもマア一生懸命やらなくちゃァいけねえ、ついてほかじゃァねえが、女房をひとつ世話しようと思うがどうだ」
八「女房ってやっぱり女ですかい」
家「男の女房てえのはねえや」
八「けれども私のような者の女房になる者がありましょうか」
家「あるから俺が世話しようというんだ、わるい者は世話はしねえ、女房というものはたとえ容貌《きりょう》がまずくっても夫を大事にして家を守って、一生懸命働いてくれるのを持たなけりゃァいけねえ」
八「それはそうでしょうね」
家「よくいうやつだが、家内のことは女房にありというから、なんでも不経済な女房をもっちゃァ生涯の損だ」
八「なるほど、けれどもこっちが働きが薄いから、女房を持っても食わせるのに骨が折れるからね」
家「それがさ、二人口《ふたりぐち》は食えるが、一人口は食えねえといって、いま言うとおり家《うち》のためになる女房さえ持ちゃァ、食わせられないということはないよ」
八「そうですねえ、掃除をしようと思ってもツイ面倒だから、すぐ飛び出して外で飯を食って仕事から帰ってくると、敷きっぱなしの布団に包《つつ》まって寝ちまうというようなわけで……」
家「それが男は不精《ぶしょう》でいけない、掃除もしないで、敷きっぱなしの床《とこ》の中へモグリこんで寝るなぞという、そんなことをすりゃァ第一身体のためによくねえ、マア俺が世話する女房だから、決して悪い者を世話する気遣《づか》いはない」
八「ヘエありがとうございます、じゃァなんですかい身体に疵《きず》でもあって……」
家「イヤイヤそうでもない」
八「じゃァ亭主があったんだけれども、その亭主が死んだとか別れたとでもいうので……」
家「イヤそんなことじゃァない」
八「ヘエー、じゃァなんですかい、勤《つと》めあがりかなにかで」
家「イヤそうでもない、女房はなんでも堅気《かたぎ》で、子供のできるような者を持たなければいけない」
八「それァそうですね」
家「そうしてマァ、せっせと稼ぐんだな」
八「ヘエ、なんですか、年はいくつぐらいで」
家「そうさ、お前とはちょうど年頃もいいの」
八「ヘエー、いくつです」
家「二十一だ」
八「ありがとうございます。二十一とくりゃァ剛的《ごうてき》だが、シテ大家さんの前でございますが、|ラツ《ヽヽ》の塩梅はいかがなんで……」
家「なんだいラツとは」
八「ツラでございます」
家「顔か、マアマア十人なみだな」
八「ありがたいなァ、年が二十一で十人なみというと、人の持ち物でもあったので」
家「イヤイヤそうではない、堅気《かたぎ》だ」
八「ヘエ」
家「堅気だよ」
八「ヘエ」
家「実はな、私の親戚で、不憫《ふびん》なことに両親に早く死に別れて、この地へ来たんだ」
八「ヘエー」
家「どこかへ奉公でもしようというので出てきたんだが、奉公するより亭主を持ったらどうかという話になって、俺も頼まれたんだが、お前にはちょうどよいと思うがどうだ」
八「ヘエー、じゃァ田舎者なんですね」
家「アア、生国《しょうごく》は金谷《かなや》だから田舎者には違いないけれども、決して悪い者ではない、そのかわり八公や別にこれという瑕《きず》はないが、ただ支度《したく》が全然ない、着たっきりだ」
八「ナニ、それはようございます、大家さんの前でございますけれども、それは私が一生懸命稼いで着物なんざこしらえてやります」
家「そうさ、なんでもその意気でなければいけない、けれども夏冬の物は持ってくる」
八「そりゃァけっこうだ、じゃァなにも裸というわけじゃァない、どうかひとつ早速お願い申します」
家「アアモウ先方《むこう》は話がついているから、お前さえよければすぐに決めるよ」
八「エエどうかお頼み申します」
家「しかし婚礼などというものは吉日を選ばなければならない、ちょっと暦《こよみ》を見るから待ちなさい」
八「そうですかい」
家「エーと……ウームこれぁ八さんどうも困ったな、今月うちはいい日がない」
八「そりゃァいけねえな、暦なんざどうでもいいじゃァありませんか」
家「そうでないよ」
八「じゃァ待っておくんなさい、家《うち》の隣へ行ってほかの暦を借りてきましょう」
家「なに、暦はどこのだって同《おんな》じことだ」
八「そいつァ困ったなァ」
家「今夜だと吉日だけれども……」
八「今夜、いいじゃァありませんか」
家「それは悪いこともないが、いま話をして今夜婚礼というのはあまり早急だな……しかし先方もいま言うとおり別に支度があるわけでもないからそれもよかろう」
八「ようがすかえ、そいつァありがてえ」
家「そうと決まったら、俺はすぐに話をしてくるが、ついちゃァなんだな、祝いだからちょっと一杯つけて……」
八「エーそんなことは訳はありません」
家「別に改まったことはしないでも、なにか吸い物に肴《さかな》の二品もあればたくさんだ」
八「ようございます、仕出屋へ行ってあつらえてきましょう」
家「それじゃァこれから先方へ行って話をして、晩にお前のところへ連れて行くが、いま言うとおり何も支度はない、裸だよ」
八「エーけっこうでございます、そんなことはかまいません、じゃァどうかお頼み申します」
八五郎うれし喜んで帰ってきて
八「お隣のあばさんこんにちは」
○「オヤ八さんなんだい、嬉しそうな顔をして」
八「嬉しそうだって、今夜は長屋へ嫁が来るんだ」
○「オヤ、マアおかしいじゃァないか、長屋へお嫁って、この長屋で独身者《ひとりもの》はお前さんばかり、ほかはみんな女房持ちだのに、どこへお嫁さんが来るんだえ」
八「ダカラその私のところへ来るのさ」
○「オヤオヤマァ、お前さんのとこへ」
八「ウム、大家の茶可兵衛《ちゃかべえ》さんが世話をしてくれるんだ」
○「マアそれはけっこうだが、今夜とはまた早急じゃァないか」
八「今夜でなくっちゃァ暦の都合が悪いんだ、なにしろ家が汚《きた》ねえから掃除のひとつもしなけりゃァならねえ」
○「じゃァ私が行って掃除をしてあげよう」
八「そいつァありがてえ、おばさん頼む、私はあつらえ物やなにかしてくるから」
○「アア行っておいで」
やっこさん一、二軒駆け回ってあつらえ物をして、湯屋、理髪床《かみいどこ》へ行って帰ってくると、スッカリ掃除ができている。
八「おばさんどうもご苦労様、おかげできれいになった……しかし女房を持つてえものは何となく楽しみのものだな、よく辰《たつ》の野郎が女房と二人で取り膳で酒を飲んだり飯を食ったりむつまじそうな様子を見せやがったが、俺だって女房をもちゃァあの真似ができるんだ、仕事から帰ってくると、オヤお帰りかってなことを言やがるだろう、フフッ、そりゃァいいが、一杯|飲《や》ろうと思うと、肴がなんにもねえと言いやがる、俺だって一日稼いで一杯飲《や》るのを楽しみに帰ってきたのに、なんにも肴がねえと言われてむっとするね、冗談じゃァねえ、なんにもなくって酒が飲めるものか、魚屋にだいぶあったようだ、刺身でもそう言ってきねえというと、むこうが女だからつつましいや、それやお前さんいけないよ、なぜ、なぜって八さんのところへ女房さんが来てから都合が悪くなったと言われるのがいやだから、お惣菜で飲んでおおきよ、冗談言うないべらぼうめえ、こんなもので酒が飲めるものか刺身をそう言ってこい、およしったら、女房の言うことだって聞くもんだよ、ほんとうにこの人は贅沢だよ」
○「ちょっと八さん」
八「エー」
○「どなたかおいでかえ」
八「アッ聞こえちまった、エーナニ誰もいねえんですよ」
○「なんだかご婦人の声がするじゃァないか」
八「ナニ今ね、ちょっと寝言を言ったんで」
○「オヤオヤモウ寝たのかい」
八「イイエ起きているんだがね」
○「起きていて寝言てえのはないね」
八「なにを言ってやがるんだ、隣のばばあ、いやに耳が近《ちけ》えな、なにしろありがてえや、女房は三味線は弾けるかな、たまにはいいや、むこうが三味線を弾きやァ俺だって唄うよ、雨でも降って俺が休みで家にいると、お前さんたまのお休みだから一口飲んで咽喉《のど》をお聞かせな、私が爪弾《つまび》きで弾くよ、ナニ爪弾きでなくったって撥《ばち》で弾きねえな、そうかい、それじゃァ弾くよって言やがって、女房が三味線をとって、チンテレンカステラン、ビリビリットン……腹が下るようだね、ちょっとお唄いよ、咽喉をお聞かせな、どうもお前の三味線じゃァ唄えねえじゃァねえか、アラ生意気な、私の三味線だって唄えないことはないじゃァないか、お前さんはいい声だから唄って聞かせてよ、なんて言やがるだろうな」
○「ちょっと八さんどうしたの」
八「アアおばさんですかい」
○「なにを言ってるんだよ」
八「アア、ちょっと寝言を言ってるんで」
○「いやだよ」
八「隣のばばあ、いつもつんぼのくせにしやァがって、こんなことは聞こえやがる……お隣のおばさん」
○「なんだい八さん」
八「まだ日は暮れませんかね」
○「まだ日は暮れないねえ」
八「きのうは今ごろ日が暮れたかがなァ」
○「うそをおつきよ」
八「こういう時にはお天道さまが気をきかして、早く引っ込んでくれりゃァいいんだ」
○「そういうわけにもいかないやね」
八「なにしろ女房を持つてえものは、気のもめるこったなァ……ようやくのことで日が暮れやがった、モウ来そうなもんだな」
家「ハイごめんよ」
八「オオ大家さん、おいでなさまし」
家「サアお前こっちへおはいり」
八「ウファ、こりゃ驚いたね、アアなるほど大きな包みを持っているところをみると、ここへきて着替えようというんですね」
家「ナニ着物じゃァない、これだ」
八「なんだえこれやァ、行火《あんか》に渋団扇《しぶうちわ》は……」
家「さっきそう言った夏冬の道具だ」
八「フフとんだ茶番だね」
家「サアお前もモットこっちへおいで、なにもきまりの悪いことはない、これが今日からお前のご亭主になる人だ、あいさつをしなさい」
嫁「ハイ、お初にお目にかかります、私のような田舎者でごぜえますが、なにぶんお見捨てなく、いく久しく可愛がっておくんなせえまし」
八「ウフッ、こりゃ驚いた……ヘエどうも恐れ入ります、なにぶんマアお願え申します」
家「サア支度がよければ、ここでめでたく盃《さかずき》をしてしまおう、いいかい嫁さんからお前のほうへ差すんだ」
八「イヤこりゃァへんだねどうも……襦袢《じゅばん》一枚で盃てえのは、ウフッへんだねえ」
家「だからお前が稼いで着せてやんなさい」
八「それやァ着せますがね、なにしろたいへんなことになるもんだね」
家「けれどもお前、女房ができてみねえ、明日からどんなに楽しみだか知れねえよ」
八「どうもありがとうございます」
家「マアめでたく盃もすんだから、ひとつご祝儀に謡《うたい》をやらなければならねえが、俺にその謡ができねえんだ」
嫁「アア大家さま、謡なら私が唄いますべえ」
家「エーお前が謡をやるか、どうだ八公、謡をやるとよ」
八「ヘエ驚いたねえ、それだから人は馬鹿にできねえものだ」
嫁「アノ、チョックラ手ぬぐいと棒を貸してもらえてえもので……」
家「手ぬぐいと棒、……踊るのかい」
嫁「踊るじゃァねえでがすが、なんでも棒と手ぬぐいがなければ謡が唄えねえでごぜえます」
家「ハテネ、なにもないかえ棒は……」
八「心張《しんば》り棒があります」
家「じゃァ手ぬぐいと心張り棒、これでいいかい」
嫁「ハイありがとう存じます」
家「じゃァどうかひとつ頼むよ」
八「イヤこれは驚いたねどうも、新造《しんぞ》が鉢巻をして」
お嫁さん、鉢巻きをして立ち上がり、心張り棒を肩にあてて、
嫁「(長持ち唄)立場《たてば》立場でヨーウ、酒さい飲めばエー、青梅桟留《おうめさんとめ》着たつもりだヨー、チェッヘイ、チェッヘイ……」
八「オヤオヤ驚いたなァ、大家さんなんですえこりゃァ、まるで街道の雲助のようですねえ」
家「わからねえ男だなァ、嫁が裸だから、あとから長持ちが来る」
[解説]大家の世話で急にその晩、嫁をもらうことになり、その嫁の来る前にいろいろ楽しい予想をするところなど、すべて組み立ては「たらちね」に似ているが、「たらちね」より自然にできているし、サゲもトタン落ちですぐれている。しかしおかしみではどうか、議論のあるところだろう。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
敵討屋《あだうちや》 または「蟇《がま》の油」
――――――――――――――――――
なにごとも昔と今はガラリとようすが変わりまして、進歩進歩というので、すべてのことが進んでまいりました。
昔は旅をいたしますに乗り物といえば駕《かご》か馬よりなかった。当今ではわずかの時間で遠いところを往復できる、まことにけっこうな世の中でございます。昔は少し隔ったところへ旅立ちをするには、一里でも二里でも朋友《ともだち》が送ってきて、水が変わるから気をつけてくんねえと、泣きの涙で別れるというような次第でございましたが、今はそんなことはありません。
ダガ物事はすべて昔のほうが粋でございました。盗賊なぞにもずいぶん粋な奴がありました。石川五右衛門《いしかわごえもん》という盗賊が、ある家へ忍び込むと小児《こども》が目を覚ました。おじちゃんお銭《あし》をおくれといわれたので、懐中《ふところ》から小判を一枚出して与えると、小児は喜んでこれを持ってニコニコしながら遊んでいる。その無邪気なようすに見惚《みと》れているうちに、夜が明けて一物《いちもつ》も得ないで、かえってお金を置いて帰ったという。こんな洒落《しゃれ》た盗賊は当今はありますまい。
大道商人というのがありますが、これも昔と今とは変わりました。これも昔のほうがなんとなく洒落ている。酒中花《しゅちゅうばな》とか紋の切形、また砂文字などという粋なものがありました。浅草《あさくさ》公園へまいりましても見世物がぜんぜん以前と変わりました。
昔、蔵前《くらまえ》に長井兵助《ながいひょうすけ》というものがありました。これは香具師《やし》仲間ではなかなか勢力があったものだそうで、居合い抜きをいたして蟇《がま》の膏《あぶら》を売ります。旅から興行師《こうぎょうし》がまいりますと、長井兵助のところへちょっと顔出しをして、こういう物を持ってまいりましたから、どうかなにぶんよろしくお願いしますと、一言いわなければ、江戸で商売ができなかったというくらい、香具師仲間で元締めといわれた人でございます。十二階下に出ておりました独楽《こま》廻しの松井源水《まついげんすい》、これも居合いのほうでは有名のもので、居合いを抜いては歯の薬を売っておりました。
昔も今も変わらないのはこの浅草奥山の人出、いましも年のころ二十二三の容貌の美しい女、鎖鎌《くさりがま》を一手使って、疲れたのか、脇のほうへ下がってしゃがんで休んでおりますと、その者の弟と見え、二十才前後の若者が刀を抜いて蟇の膏の効能を述べ立てる。
「サアサアご用とお急ぎのないお方はゆっくりとお聞きなさい。遠出山越し笠の内、物の文色《あいろ》と道理がわからぬ。山寺の鐘はゴンゴンと鳴るといえども、童子一人来たり鐘に撞木《しゅもく》を当てざれば、鐘が鳴るやら撞木《しゅもく》が鳴るやら、その音色がわからぬ道理、ダガしかしお立ち会い、手前《てまい》持ち出したる棗《なつめ》の中に、一寸八分|唐子機関《からこぜんまい》の人形。日本にもあまた細工人はありといえど、京都にはシズイ、大阪にては竹田縫之助《たけだぬいのすけ》、近江《おおみ》の大掾《たいしょう》、藤原《ふじわら》の朝臣《あそん》、手前持ち出したるは近江の津守細工《つもりさいく》、咽喉にはハイ、八枚の車を仕掛け、背中には十二枚の輊《くろる》を仕掛け、大道に棗《なつめ》をこしらえ置く時には天の光、地の湿りを受け陰陽合体いたし棗の蓋《ふた》をパッと取る時にはツカツカと、進むが虎の小走り、雀の駒となり、駒返し、孔雀雷鳥《くじゃくらいちょう》の舞い人形の芸道十二通りある。ダガお立ち合い、おひねり銭はおよしなさい。大道に未熟な渡世はいたしても、はばかりながら天下の町人、今のお人のようにひねり銭や投げ銭をもらわずに、なにを業にするやというに、多年|営業《なりわい》というは、蟇仙草《ひきせんぞう》四六の蝦蟇の膏だ。今のお人のようにそういう蝦蟇は俺の家の縁の下や流しの下にたくさんいるというお方があるが、お玉蛙蟇蛙《たまがえるひきがえる》といって薬力《やくりょく》と効能《こうのう》にはならぬ。手前のは四六の蝦蟇、四五六はどこでわかる。前足が四本に後足が六本、これを名づけて四六の蝦蟇、この蝦蟇の住めるところはこれからはるか北に当たって筑波山《つくばさん》のふもとで車前草《おんばそう》という露草《つゆくさ》を食《くろ》う。この蝦蟇の油を取るには四方には鏡を立て、下には金網を張ってその中へ蝦蟇を追い込み、蝦蟇は己れの姿が鏡に写るので、己れの姿を見て驚き、タラリタラリと膏汗を流す。それを下の金網にて透き取り、柳の小枝をもって三七、二十一日の間トロリトロリと煮詰めたのが、この蝦蟇の膏だ。赤いカシシヤに、ヤシュウ油、テレメンティカに、マンティカ金創《かねきず》には切創《きりきず》、効能は出痔疣痔《でじいぼじ》、走り痔、横根雁瘡《よこねがんそう》、いつも一貝十二文だが、今日は小貝を添えて二貝で十二文、蝦蟇の効能はそればかりかというと、まだある。第一切れ物の切味を留める。手前持ち出したるは、鈍刀なりといえども本《もと》が切れて先が切れない、中刃が切れないというのではない。御目の前で白紙を細かに刻んでご覧に入れる。春は三月落花の形、比良《ひら》の暮雪《ぼせつ》は雪降りの形、フーッ、このくらいの切れる刀でも差し裏差し表へ、蝦蟇の膏を塗る時は、白紙一枚容易に切れない。引いて切れない、たたいて切れない。拭き取る時にはどうだというと、鉄の一寸板でも真二ツ、ちょっとさわってもこのくらい切れる。ダガしかしお立ち合い、このくらいの傷はなんの雑作もない。蝦蟇の油を付ければ痛みが去って、血がピタリと止まる。なんとお立ち会い……」
しきりに蝦蟇の膏薬の効能を陳べ立って、売っております。そこへまいりましたのは、年の頃は五十四五にもなりましょうか、共を連れたお武士《さむらい》。
武「寄れ寄れ、寄れ……アーコレ若い者、最前からこれにてうけたまわっておれば、なにか金創切創《かねきずきりきず》の妙薬とかいう、その薬は新しい傷ばかりか、それとも古傷でも治るか」
商「古い新しいを問わず、一貝二貝お付けになれば必ず治ります」
武「二十年ほど過ぎ去った傷でも治るか」
商「二十年……ちょっとその傷所を拝見いたしましょう」
武「サア見てもらいたい」
と突然武士は片肌脱いで傷所を見せる。
商「ヤア武士にはあるまじき後ろ傷、これは投げ太刀の傷でござるな」
武「ウーム、貴公なかなか目が高い。いかにも投げ太刀の傷でござる」
商「よくある奴で、若気の至り、斬り取り強盗武士の習いなど申して、人を脅かさんとしてかえって脅かされ」
武「イヤイヤさようなことではござらん。懺悔《ざんげ》じゃお話し申す。お聞きくだされ。もはや二十年ほど過ぎ去ったことだから、拙者を敵《かたき》と狙う者もござるまい。手前、もと薩州《さっしゅう》の藩で、下役なにがしの妻がいたって美形、その婦人に拙者|懸想《けそう》いたした。イヤお笑いくださるな、事実でござる。手を替え品を替え、言い寄るといえどもイッカナなびかぬ。ある日夫の不在につけ入って、手込めにせんとした時、おり悪《あ》しく夫が立ち帰り、上役の身をもちながら、主ある者に無態《むたい》の恋慕は不都合とたしなめられ、なにをこしゃくと抜き打ちに、切って捨てて、アアとんでもない殺生をいたしたと、気がついたがもう後の祭りで仕方がない。そのまま逃げにかかると、夫の敵と女房が乳のみ児を抱いて懐剣《かいけん》引き抜き、向かったが男の足と女の足、及ばんと思ったか、その懐剣を投げた奴が背中に刺さり、暑さにつけ、寒さにつけ、どうも痛んでならん。治るものなら治してもらいたい」
商「ドレ拝見」
と、見ているうちに
商「オオ、そのもとは飽沢源内殿《あくさわげんないどの》ではないか」
武「ナニ拙者の姓名を知るそのもとは……」
商「ヤアめずらしや飽沢源内、かくゆう拙者は稲垣平左衛門《いながきへいざえもん》の遺子《いじ》平太郎《へいたろう》、これに控えるは姉ゆき、親の敵汝《かたきなんじ》を討たんがため、姉弟雨に打たれ、風にさらされ、長の年月艱難辛苦《かんなんしんく》の甲斐あって、盲亀《もうき》の浮木《ふぼく》浮曇華《うどんげ》の花得たる今日ただ今、このところに出遇いしは天の導き、イザ尋常に勝負いたせ、姉人《あねびと》油断あるな」
ゆき「心得ました、親の敵」
と左右から獲物を取ってジリジリと詰め寄りました。物見高いは江戸の常、ことに観音の境内、たちまちの間に黒山のような人になり、遠くからこの騒ぎを見てまいり
甲「なんだなんだ、なんだなんだどうしたんだ」
乙「乞食がお産をしたんだ」
甲「たいへんなところではじめやがった」
乙「出物腫物《でものはれもの》所嫌わずだから仕方ねえ。が、あふれそうな腹をしやがって、人混みの中へ飛び込んで来やァがったもんだから前後から押されて飛び出したんだ」
甲「ばかな、押して出るのは心太《ところてん》ばかりだ。乞食がお産をしたのかい」
丙「ナニそうじゃァねえ、巾着切りがつかまったんだ」
甲「なんだ、巾着切りがつかまったのを見ているのか」
丙「ナニそうじゃァねえ、犬が咬み合っているんだ」
甲「いやだなァ、冗談じゃァねえや。犬のけんかを見たってしようがねえじゃァねえか」
丁「そうじゃァねえ、そうじゃァねえ、そうじゃァねえ敵討ちだ」
乙「敵討ちだと、上がっちまえ上がっちまえ」
丁「どこへ上がるんだ」
乙「五重の塔へ昇るんだ」
丁「そんなところへ昇れるものか」
ワイワイいって弥次馬之助《やじうまのすけ》という、尻尾のない連中が、騒ぎ立てますからたまりません。中には石を投げる奴がある、たいへんな騒ぎになりました。
武「アイヤ天網恢々《てんもうかいかい》疎にして洩らさず、問うに落ちず、語るに落ちるとはこのこと、もはや二十年も過ぎ去ったることなれば、よもや敵と狙う者もあるまいと油断をして、現在敵と狙うそのもとに口外いたしたうえは、もはや天命のがれざるところ、いかにも敵と名乗って討たれよう。なれどもここは観音の境内、血をもって汚すははなはだ恐れ多い、それに拙者はいま主《しゅ》持つ身の上、ことに今日は主命をもって、使者にまいりし戻り道、立ち帰ってご主君に復命をいたさなければ使者の役目が立たん。今生《こんじょう》の内に今一度ご恩を受けしご主君にお目通りをして、お暇《いとま》をちょうだいなし、心おきなく尋常の勝負をいたして、この首を差し上げん。明日巳《みょうにちみ》の刻までお待ちを願いたいがいかがでござる」
○「だめだだめだ、そんなことを言って逃げるんだ逃げるんだ、グズグズしていねえでやっちまえ、やっちまえ」
□「アイヤ卑怯者《ひきょうもの》を取り逃がしてはならん。拙者ご助勢をいたすから、すみやかに仇討《あだう》ちをしなさい」
と武士が一人助太刀に出てきた。
平「オウしばらくお待ちください。いかにも明日巳の刻まで相待とう」
源「ナニお待ちくださるか、それは千万かたじけない」
平「なれどもその出会い場所はいずれだ」
源「サァ、そのお出会い申すところは……オウ高田《たかだ》の馬場《ばば》にてお待ち受けいたす」
平「ウム必ずそれに相違ないか」
源「年は老いても飽沢源内、金打《きんちょう》いたしてお約束いたす」
平「しかと相違ないか、まちがいござらんか、しからば、明日巳の刻までお待ち申す」
源「それは千万かたじけない。しからば今日はこれにてお別れいたす……」
○「なんだ、仇討ちは明日巳の刻までお預りだとよ。なんだかぜんぜん講釈場へ行ったようだ。今チャンチャンバラバラそこではじまると思って、手に汗を握って見ていたら、敵討ちは明日巳の刻までお預かりときやがったんで、気が抜けちまった」
△「そんなこというな、明日おまえ高田の馬場へ行きゃァいいじゃァねえか、高田の馬場まで行きゃァ見られるんだ。俺は見に行くよ」
○「おまえ、行くか、そいつァありがてえや、ひとツ大勢で出かけようじゃァねえか」
こういう弥次馬連中がうちへ帰って、それぞれしゃべったものだから、たちまちの間に江戸中の評判になって、夜の明けない内からワイワイ高田の馬場へ押し掛けるので、さしも広い高田の馬場はいっぱいの人、けれどもいつまでも立っているわけにはいかないから、近所の茶屋へ入って一休みしようというので、下戸《げこ》は汁粉屋へ入る。また上戸《じょうご》は料理屋で一杯飲る、ポンポンポンポン。
女「ハーイ……お呼びになりましたか」
甲「お刺身があるかい」
女「お気の毒さま、もう売り切れになりました」
甲「刺身はねえのか、ほかはなにができるんだ」
女「さようでございますね、親子煮くらいのものでございます」
甲「親子煮か。あまりうまくねえな、仕方ねえ、ねえよりいいや、ともかく持ってきてくんな、酒はあるだろうな」
女「さようでございます。少々くらいなら」
甲「少々くらいならは情けねえな。なんでもいいや、熱燗《あつかん》にして二三本持ってきてくんな……オイ姐さんや、いま何刻だい」
女「ハイ、アノ午《うま》の刻でございます」
甲「午かい、おかしいなア、敵討ちは巳の刻だというのに、もう巳午《みうま》を過ぎちまった。まさか敵討ちが日延べになったわけでもなかろうが、へんだなァ」
乙「ダカラ俺はいやだというんだ、ほんとうにおまえは嘘つきだ。この前だってそうだ」
甲「なにを俺が嘘をついた」
乙「なにをッて両国《りょうごく》の橋へ行ってみろ。竜宮の乙姫様が出るからというから、わざわざ両国へ行って立ってたがなんも出やしねえから通りがかりの武士《さむらい》に、竜宮の乙姫様はまだ出ませんかと聞くと、今日は出まいといやがった。武士まで俺をばかにしてやがる。ダカラおまえは嘘つきだというんだ」
甲「あいつァ嘘だが、今日のはほんとうだからこの通り見物がみんな来ているんだ。嘘じゃァねえよ」
乙「それもそうだな、どうしたんだろうな……オイオイ」
甲「なんだい」
乙「あすこを見ねえ、あの酒を飲んでいる武士を」
甲「ウム、俺はどうもさっきからそう思って見ていたが、どうもあすこに飲んでいるのが昨日の敵の爺武士《じじざむらい》のように思うんだがひとツ聞いてみようか」
乙「よせよせ、よせやい。無礼討ちだなんて食った日にゃァたまらねえや」
甲「ばかなことをいうな、狂人《きちがい》じゃァあるめえし、むやみに人を切る気づけえがあるものか。俺がうまく聞いてみるから任しておきねえ……エエお武家さん、だいぶご酒を召し上がりますな。まだお帰りになりませんか」
武「ウム、まだ下から勘定をもらわんから帰らんが、勘定をもらったら帰ろうと思う」
甲「ヘエ料理屋へ来て勘定を払って帰るというのはわかっているが、勘定をもらって帰るというのは聞いたことがねえが……旦那、なんでございますな、だいぶお酒がいけますな」
武「ウム、たくさんもいかんけれど、一食一升かな」
甲「一食一升というと、日に三升でございますな」
武「そうだ」
甲「大したものでございますな。とてもこちとらには飲めませんや。稼ぎが細うごぜえますから」
武「そのほうの稼ぎが薄いというが、商売は何だ」
甲「私どもは、|でいく《ヽヽヽ》でござんす」
武「ナニ」
甲「大工《でいく》でごぜえます」
武「アアだいくか」
甲「ヘエでいくで……」
武「大工といえば職人の中で一番上に立つ職人だというが、そのほうは日にどれくらい稼ぎがある」
甲「そうでごぜえますね。日に三文がご定法《じょうほう》でごぜえます」
武「日に三文というと、三三が九と、ザッと一月に一両二分くらいだな」
甲「まぁそんなもんでごぜえます」
武「アハハハハ情けない商売だな。そんならつまらん商売はやめて身共の商売になれ」
甲「旦那のご商売はなんで」
武「身共は敵討屋《あだうちや》というのだ」
甲「敵討屋、ヘエー初めて聞きましたが、敵討屋というのはどういうので」
武「貴様知らんのか、昨日観世音の境内で、蝦蟇の膏薬売りと……」
甲「オットそうでしょう。どうもさっきからそうだろうと思っていたんで。それなら話が早わかりですが、やっぱり旦那でしたかい。それで敵討ちはまだ今日は始まらねえんですかい。昨日の膏薬売りの男と女は来ねんで」
武「今日は天気がいいからうちで洗濯をしているだろう」
甲「家で洗濯を……そりゃァおかしいじゃァございませんか、今日敵討ちをしようというのにうちで洗濯をしているというのは」
武「イヤモウ敵討ちはやめだ」
甲「おやめで、よく先方が承知しましたね」
武「あれは身共の伜と娘だ」
甲「ヘー、旦那の息子さんと娘さんで……オイ聞いたか、あの二人はこの旦那の息子さんと娘さんだとよ。驚いたなあ、なんだってまた旦那、あんな真似をなすったんで」
武「イヤ今日高田の馬場で敵討ちがあるといって評判すれば、必ず人出がある。従って近所の料理屋が繁昌をするだろう。ダカラその料理屋の揚がり高の二割をもらって遊んでおるのだ」
[解説]宮崎三昧道人の随筆にも見える。サゲはトタン落ち。高田の馬場という題でやることもある。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
三人旅
――――――――――――――――――
旅のお噺もたくさんございますが、江戸ッ子の伊勢《いせ》参り、上方《かみがた》見物などというと、奇態に三人連れが多いようで、もちろん中に一人変わった人物を混ぜませんと、おかしみが薄うございますから、作者の働きでこういうことにいたしたものとみえます。
しかしその噺のすじ道はおのおの異なっておりますから、これをズッと続けて申し上げると自然連絡が取れてずいぶん長い道中記になります。もっとも演者によって外題《げだい》や名前は勝手に用いますから、そのへんはご容赦を願います。
○「マアマア吉《きっ》さん、上がってくんねえ」
吉「なんだえ八《はっ》さん、すぐに来てくれという迎いだったが」
八「ほかじゃァねえが、オレもマア長《なげ》えことみなと交際《つきあ》っていたが、もうこれからおまえたちとつきあえねえ身体になってしまった」
吉「それは困ったなァ。どういうことをしたんだ、まちがいでもしたのか」
八「そうじゃァねえが、じつはみなが無尽《むじん》などに入るな、職人は稼いでれば食うには困らねえといわれたのを忘れて、うっかり入っていた浮き草の無尽、昨日は朝からへんな日だと思いながら出かけて行ったところが、坐った場所が悪かったのか、オレの悪日《あくび》か、その無尽が当たったんだ」
吉「ばかにするない、無尽に当たって悪日とか、坐りどころが悪かったと愚痴をいう奴があるものか」
八「それがわずかの金ならいいけれども、あまり大きい無尽に当たったものだから、ゆうべは寝られなかった。今朝もどうしてよいかと考えてるんだが、こういう時だ。朋友《ともだち》に相談をしてなんとか始末を着けてもらおうと思って、おまえのところへ迎えをやったんだ。もう一人いま来るだろう、ここで相談をして金の始末をしてくんねえ」
吉「ヤレヤレたいへんなことになったなァ……、ウム辰坊《たつぼう》か、サア上がってくんねえ。いまオレは来てちょっと聞いたが、この野郎無尽に当たって金があって困るというんだ」
辰「フーム、いままで貧乏ぶりのよい奴で、良い朋友だと思ってたけれども、こいつが銭ができてやはり世の中の俗物になるのかと思うと、兄弟《きょうでい》に一人死なれたような心持ちがする」
八「マアマアそんなことをいいなさんな。どうせ仕方がねえ。野郎も銭ができりゃァ、もう長持ちはねえんだから、つきあってやんねえ」
辰「時に八公、無尽はぜんたいいくらなんだ」
八「それがな、世界の金を七分集めた無尽よ」
辰「ばかばかしい大きな無尽だなァ。なんだってそんなものに入ったんだ。まアそれをどうしようというんだ」
八「どうか始末をしてくんねえ」
辰「よしよし。人は一代名は末代というから金のあるうちてめえ、なにか思い切ったことをして名を揚げねえ」
八「どんなことをしたらよかろう」
辰「昔|紀国屋文左衛門《きのくにやぶんざえもん》という人が、吉原《よしわら》へ行って大門を打って名を残したというから、吉原へ行って大門でも打ちねえな」
八「打ちてえがいくらぐらいいるだろう」
辰「大門を打つといえば、女郎屋から茶屋に掛かり合ってる女郎はもちろん、若い衆《しゅ》、女中、芸者幇間《げいしゃほうかん》、朝晩商いに来る豆腐屋から糊屋の婆さん、鍋焼きうどん、按摩鍼《あんまはり》に至るまで、スッカリ銭を渡した日にはなかなかたいへん、昔の金で何万両かかったというから、今じゃァずいぶんかかるだろうな。それでも名前を残せばよい。一番江戸ッ子らしいことをしてくれ」
八「それがな、やりてえけれども、そうは金がねえんだ」
辰「それでもおまえ、世界の金を七分集めた無尽だというじゃァねえか」
八「それがよ、ズッと集めれば七分になるだろうけれども、それほどはねえんだ」
辰「マアぜんたいいくらの無尽だ。金高《きんだか》を聞かせねえな」
八「それならゆうがな、まずおよそ、ウーム、合計でなァ」
辰「なるほど」
八「|総〆《そうじめ》でな」
辰「一ツことをいうない」
八「二十両なんだ」
辰「ナニたった二十両か」
八「そうよ」
辰「なんだつまらねえ」
八「つまらねえというが、だいたいなところへ行ったって、なかなか二十両という金はねえぜ」
辰「てめえばかだなァ。少し大店《おおだな》向きのうちへ行ってみねえ、千両箱が杉形に積んであらァ」
八「そりゃァ、あるところにはあるだろうが、破産《つぶ》れたうちへ行ったってねえや」
辰「そりゃァどうしたってねえ。無理なことをいうな。よしよし二十両なら二十両のように考えてやろう。どうだ、そんならだいぶ陽気も春めいてきたが、一日|浅草《あさくさ》へ出かけて、五重塔を借り切ってよ、金のありッたけ油揚げを買って、五重塔の素頂上《すてっぺん》から油揚げをまきねえ」
八「そうすりゃどうする」
辰「どこから集まるともなく鳶《とび》が集まってきて、その油揚げをさらう。そりゃァ見ものだぜ。この油揚げをまいて鳶を集めたのは誰だとたちまち名が揚がるぜ」
八「あまりおもしろくねえな。まだなにかあるか」
辰「それじゃァ木端《こっぱ》やかんなくず、煙硝《えんしょう》なぞをウンと買い込むんだ」
八「それでどうする」
辰「うちの周囲《まわり》へ積んで置いて、西風のはげしい晩に火を放《つ》けるんだ」
八「とんでもねえことだ。そんな真似をすりゃ火事にならァ」
辰「そうよ。昔自分の家へ火を放けたばかな奴があるというので、後世まで名前《なまい》が残らァ」
八「ろくなことはいわねえ」
辰「イヤ冗談は冗談。おまえ平常《ふだん》いってるじゃァねえか、どうか伊勢参宮をして、親父も信心したものだから、金比羅様《こんぴらさま》へお詣りをして、おふくろの白骨が納まってるから、高野山《こうやさん》へも行きてえということを、てめえしじゅういってるじゃァねえか」
八「そうよ」
辰「ソレ見ねえ、天が感じてくだすったんだ。この金で伊勢参宮をして、見ねえところを見て来い。贅沢《ぜいたく》をしちゃァ足りねえが、腹さえへらなけりゃァよい、眠いとき寝て食うだけ食って歩いて来りゃァ、二十両ありゃァたくさんだ。人間なにが薬だって旅をするくらい薬はねえ」
八「そりゃァ良い思いつきだが、どうも一人じゃァ行かれねえ。おめえたちも一緒に行ってくれねえか」
辰「そうさ、オレも行きてえけれども、なかなか安く行かれねえ。てめえみたいに無尽でも当たりゃァ行けるが……ウム、それにゃァよいことがある。店の旦那がそういった、ほかの金は貸せねえが、信心参りなら貸してやろう。女房子ができちゃァ信心ができねえからといった。店の旦那へ話をして借りて行こう、時に吉公おめえも行きねえな」
吉「それじゃァオレも棟梁《とうりょう》に話をして出かけよう」
辰「ついちゃァなんだぜ。たとえにも江戸ッ子は上り大名下り乞食といって、行きに使ってしまって、帰りに銭がなくなって裸体《はだか》で帰ってくるというくらいだが、そいつァどうかやりたくねえ」
吉「ナニそれは棟梁の話に、京都大阪はどこも行ったから、もしも旅をするならオレが教えてやる。そうたびたび行けるもんでねえから、なるたけ見落としのねえように、名所|古蹟《こせき》を見ながら泊まり泊まりの宿屋の普請《ふしん》を見ても、稼業の助けになるといった。ひとつ棟梁のところへ行って相談をしよう」
辰「それじゃァ三人で出かけよう」
とここで、たちまち相談がまとまり、身上《しんじょう》も軽いが身も軽い。うちの始末はどうでもなる。棟梁のところへ来て話をするとそれはけっこうだ。そういうことなら行きに中仙道《なかせんどう》を行って、帰りに東海道を見て来るがよい。中仙道なら使いたくも使えねえからと、道中の案内をくわしく教えてくれる。お店へ行って金の工面もでき、まず銘々《めいめい》懐も暖かいから威勢が良い。いよいよ出立《しゅったつ》となると板橋《いたばし》まで友達が送ってくれる。マアマア無事に行って来ねえと、手打ちをしてみんなに別れ、三人になってみると、急に淋しくなってなんだか心細い。互いに後を振り返り振り返り行くうちに、だんだん姿も見えなくなって、これからボツボツ出かける。蜀山《しょくさん》先生がうまいことを言いました「旅人はゆき呉竹《くれたけ》のむら雀、とまりては立ちとまりては立ち」一日二日はどうにかおもしろく道もはかどりましたが、もう三日四日となると馴れない旅、足へ豆ができる。見るところは変わらず、食い物はだんだん塩ッ辛くなってきて、なんとなく浮腫《むく》んだような顔をして元気がない。
辰「サアサアしっかりして歩け歩け、ボンヤリしてるな」
八「しっかりしてるよ。なんだか陰気だな」
辰「陰気だ、おもしろくねえ」
八「旅はよいというが、いけねえものだ。どこまで行っても同じようだ」
辰「それは仕方がねえ、芝居を見るようなわけにゃァいかねえ。しかしこれから先へ行けばけっこうなところがある。愚痴をいわねえで、サッサと歩けよ」
八「歩いてるよ……オオ待ちねえな、二人で話をしながら、おいてきぼりにするのはひでえや。オレだって一緒にそろって行きてえや」
辰「だからサッサと歩けッてんだ」
八「サッサと歩けッたってべらぼうめえ、ぜんたい癪《しゃく》にさわらァ」
辰「おかしいなどうも。癪にさわるというわけがねえじゃァねえが、相談ずくで三人で出て来て、なにも癪にさわることはねえじゃァねえか」
八「それがな、昨日や今日じゃァねえ」
辰「なにを」
八「おととしの暮れから癪にさわってるんだ」
辰「おそろしい気の長え奴だなこいつは。おととしからどんなことが癪にさわってるんだ」
八「オレの親父が九死一生の時があったろう」
辰「そうよ、知ってる。友だちの親父だと思うから、オレたちもチョイチョイ見舞いに行ってやった。それがどうした」
八「それが癪にさわる。いよいよ危篤《きとく》という時にてめえなんといった。医者がいけねえというものでも、神仏の利益《りやく》で治ることがある。平常なにを信心してるというから、親父は不動様を信心してるというと、オレが不動様へ連れて行ってやる。深川《ふかがわ》もよいが、あすこは出店だから同じことなら本家へ行けばご利益《りやく》も余計あるだろう。そんなら行こうというので、下総《しもうさ》の成田山《なりたさん》へ三人連れで行ったら、ただ信心しても利かねえ、断食《だんじき》をしろというんで、てめえたち二人が受け人になったじゃァねえか」
辰「そうよ。断食の受け人なんてえものは、むやみにするもんじゃァねえが、親身の友だちだからしたんだ。それがどうした」
八「それもいいが、オレは毎日断食をしてるのに、てめえたちは赤い顔をして魚で飯を食い、ヤア今日はなにがうまかったなんていやァがって、オレにばかりなにも食わせなかったろう」
辰「そりゃァ当然よ、断食をしているんだ。そんなことを今になってぐずぐずいってもしようがねえ、ぜんたいどうすりゃいいんだ」
八「どうもこうもねえ、アアいう時には、不動様に内緒でにぎり飯の二ツずつも持ってきて食わせるのが、友だちの義務だ」
辰「ふざけちゃァいけねえ。そのくらいならなにも断食をしねえでもいい。そんなら今度てめえが断食をする時にゃァ、ウンと飯を持ってって食わしてやる」
吉「ヤイヤイ、なにもここでおととしの断食のことをいって喧嘩をしてもしようがねえ。サッサと歩け……」
甲「どうだねおめえさん、馬ァやんべいかね」
吉「ウム馬子《まご》か、なにを言ってるんだ」
甲「なにもいうわけじゃァねえが、馬をやんべいか」
吉「もらってもいい。取っておきゃァなにかになるだろう。オイ馬をくれるのかい」
甲「ナーニ、やるわけじゃァねえが、先の宿まで行って帰りだ、おめえたちはくたびれてるようだから安く乗せべいと思うがどうだ。おめえさん方も三人、こっちも三人だから乗らねえか」
吉「そうさ、乗ってもいい。もう先の宿でたいがい泊まりだろう。馬子さん先の宿までいくらだえ」
甲「いくらもかくらもねえ。後の宿まで豆かすを乗せて行っただが、また人間のかす乗せるだからいくらでもいい」
吉「人間のかすはひでえな。マア言ってみろ、いくらだ」
甲「そうさ、じゃァマア、ヤミずつもらおうか」
吉「ヤミじゃァ高《たけ》え、月夜にしろ」
甲「月夜というのはいくらだ」
吉「月夜に釜を抜くってえから、ヌキはただだ」
甲「ただじゃァいけねえ。それじゃァジバでやろう」
吉「襦袢《じゅばん》じゃァいけねえ、股《もも》ひきでやれ」
甲「股ひきッてえなァいくらだ」
吉「足が二本入るから二百よ」
甲「二百でもいいから乗んなせえ、じつはジバも二百だ」
吉「アッ、なんだ言い値か……じゃァ乗るよ……」
甲「オイその綱へ足をかけちゃァいけねえ、馬の口を下げてしまう」
吉「叱言《こごと》をいいなさんな……サアみんな乗った。シッカリやってくれ」
甲「じゃァ出かけるよ……ハイハイハイ」
辰「なァ馬子さん。おめえたちはしじゅうこうして旅の者を乗せるから、たいがいこの客はどこの者だというのがわかるだろうな」
甲「そりゃァわかる」
辰「じゃァオレたちはどこだ」
甲「江戸の客人だ」
辰「ウム、商売がわかるか」
甲「そうさ。マア前にいる客人は眼がでけえ、キョロキョロした、するどい顔をしてるのは、護摩《ごま》の灰かな」
吉「ばかにしやァがるな、お客をつかまえて護摩の灰とはなんだ」
乙「おめえさま怒っちゃァいけねえ、馬方ァ口の悪いものだから……」
丙「よせえ野郎、お客さまを護摩の灰などといって、ぜんたい護摩の灰などというものは、モット利巧そうな顔をしている」
吉「なお悪くしてやがる」
辰「時に馬子さん、この先の宿へ泊まりてえが、なんという宿屋がいいか、指し宿をしてもらいてえ」
甲「ハア、どうだ、どこがいいな」
乙「そうさ、オレの考えでみると、本陣跡《ほんじんあと》はどうだ」
甲「イヤ本陣跡はこの間も聞いたが、だいぶ評判がよくねえ。それにまたたぬきが出るなんてえから、よしたがよかんべえ」
辰「そんなところへ泊まりたくねえな。なるたけいいうちを指してくれ」
甲「じゃァ、鶴屋《つるや》がよかんべい」
辰「ウン、鶴屋というなァ宿屋かい」
甲「宿《しゅく》の中ほどに鶴屋善兵衛《つるやぜんべえ》という宿屋がある。七、八年この方宿屋を始めたんだが、なかなかこの近所では古い家柄で、着る物がきれいだし、あそこならマア一番いいだろう」
辰「じゃァその鶴屋にしようじゃァねえか……」
甲「ヤアお客さん、これからもう一町《いっちょう》ばかりのところだが馬もだいぶん疲れてるし、わしらも後へ五六丁帰らなけれァなんねえ。ここで下りてもらうと馬も楽だが……」
辰「よし、下りてやれ下りてやれ。馬だって人間だって少しは楽もさせなけりゃァ身体が続かねえ……じゃァこれァ駄賃だ、少ねえけれども酒代《さかて》だよ」
甲「気の毒だなァマア、こんなにもらっちゃァすまねえ」
辰「そんなことをいいなさんな、江戸ッ子だ。こうして銭をまいて歩いて、日本中の景気を直すんだ」
吉「大きなことをいいなさんな……サア、もう一町ばかりというから、急いで行こうぜ。だいぶ腹もへってきた。宿へ着いて湯に入って、一ぱい呑んで寝るのは楽しみだなァ。なにを八公てめえ考えてるんだ」
八「考えてるわけもねえが、オレも今までウカウカして暮らしていたが、今日という今日はつくづく見て感心をした」
辰「なにをそんなによく見た」
八「馬の顔ァ長えな」
辰「なにをいやァがるんだ、ばかめ、馬の顔の長えのは昔からきまってらァ、長え顔を馬面《うまづら》というじゃァねえか」
八「それを今まで気がつかなかった。今日こそはよく見た。鼻の穴などもずいぶん大きいな」
辰「よしねえよ、くだらねえことをいうな」
○「おめえさま方ァ、お泊まりじゃァございませんか」
八「なにをいってやァがるんだ。泊まるにゃァきまってるんだが、てめえのうちはなんというのだ」
○「私のうちは池田屋《いけだや》と申します」
八「なんだべらぼうめえ、そんなとこへ泊まるんじゃァねえや。馬子に聞いてきたんだ。鶴屋善兵衛へ泊まるんだ……けれども吉、鶴屋ッてえなァどこだろうな」
吉「おおかた書いてあるだろうが、ご同然に字が読めねえというのは、聞くのもいまいましい」
辰「じゃァどこかよいところヘ泊まろうじゃァねえか、どこだってかまうことはねえ……」
△「おめえさまァ、お泊まりじゃァございませんか」
辰「おめえのところはなんてえのだ」
△「てめえどもは鶴屋善兵衛と申します」
八「ウムなるほど、こいつァ鶴屋にちげえねえ。首の長えこと鶴みてえでおめでてえ面だ」
吉「余計なことをいうな……ここかてめえのうちは」
△「ヘエここでございます」
八「ウム、ここに書いてある。鶴屋善兵衛という宿屋で候《そうろう》と書いてある」
辰「おかしなこというない。候なんぞが書いてあるもんか」
△「お客さまだよ、お洗水《すすぎ》を」
八「お洗水なぞはいいから、足を洗うものを早く持って来い」
△「どうぞお上がんなすって。江戸のお客さまだから、疎相《そそう》があってはいけないよ。上段の間へご案内をしな……」
八「兄弟《きょうでえ》」
吉「なんだ」
八「せっかく泊まったが茶代のちっともやって帰ろうか」
吉「なぜ」
八「なぜッたって、じょうだんの間へ案内をしろって、冗談にこしらえたところへ通されて夜中に毀《こわ》れでもしたらしようがねえ」
吉「ばかをいえ。上段の間というなァ一段高えところで、上等のお客があると、上段の間へ通すんだ」
八「ウム、たいそうなもんだな。じゃァオレたちを大名とまちがえたかな」
吉「誰が大名と見る奴があるものか」
番「ヘエお早いお着きさまで」
吉「これは番頭さんこちらへお入り」
番「お疲れさまで」
八「ナーニ、さのみ疲れもしねえが、あまり楽でもねえ」
吉「いちいちくだらねえことをいうな」
番「エエつきましてはお旅籠《はたご》は上旅籠にいたしましょうか、並でよろしゅうございますか」
八「きまってらァ江戸ッ子だ。上にしてくれ」
番「かしこまりました……どうぞお風呂をお召しなすって……」
これから三人が替わる替わるに湯に入る。上がって来た二人
八「姐《ねえ》さん美《い》い女だな」
女「俺ァ、こッぱずかしい」
八「なにがこッぱずかしい。オレのほうがよっぽどこッぱずかしいや」
辰「時に姐さん、妙なことをいうが、泊まり泊まりの旅籠屋で、ホンの旅寝の仮枕というが、どうも女の子がいねえと夜寝られねえ性質《たち》だが、なにかえ、この宿には女郎という者はねえかえ」
女「ハイなんでもマアご領主さまがやかましくって、この宿にはハア女郎屋はございませんよ」
辰「ヘエー、芸者はねえのかえ」
女「芸者などもございませんよ」
辰「困ったなァ。なにかこう女で対手《あいて》をする者はねえか」
女「ハイ、押しくらというものがございます」
辰「押しくらとはなんだ」
女「他の土地じゃァ後家《ごけ》だの飯盛りだのといいますが、この土地じゃァ押しくらといいますよ」
辰「アアそうか、こいつァ剛気だ。三人呼んでくれ」
女「ハイ」
辰「どこにいるんだ」
女「ここのうちにいるんで」
辰「ヘエー、そりゃァ世話なしだ」
女「けれども、お気の毒さまだが、今二人しかいねえで」
辰「ここのうちに二人しかいねえでも、他にいるだろう」
女「他から呼ぶことは、この土地じゃァならねえのでございます」
辰「でも三人客がいて、女が二人じゃァしようがねえ。なにかいねえか、女でせえありゃァいいんだ。年をとっていようが、子供だろうがそんなことはかまわねえ、なにかいねえかえ」
女「なにかいねえかって、ねえおはなさん、困ったわね」
はな「そうさ、おまえと私とはいいけれども、今一人お帳場にお比丘《びく》さんがいるがどうだろう……」
辰「オオ待ちねえ待ちねえ、お比丘さんとくると少しようすが変わってきた。おめえたちの前で言いにくいが、お比丘さんなざァ乙だ。いくつぐらいになるんだ」
女「年をとっています」
辰「年をとっててもかまわねえ、いくつだ」
女「今いくつだか知りませんが、よッぽど前だった。お上《かみ》様からハア年寄りのごほうびが出ました。あの時にやはりもらった仲間で」
辰「たいへんな婆ァだな。なんだってここへ来ているんだ」
女「ナニこの先に阿弥陀堂がございまして、この建立《こんりゅう》をするんで寄進についてもらいてえといって、今夜来ております」
辰「それじゃァその比丘尼《びくに》を後でひっぱって来るとして、おめえたちはここへ来て酌をしてくんねえ」
女「ハアよろしゅうございます」
辰「オオ吉坊、湯から出たかえ」
吉「アア湯に入ったら、くたびれが取れていい心持ちになった」
辰「時に吉坊、旅の疲れをなぐさめるために、女を買うというのはどうだ」
吉「乙だな。しかし女がいるかえ」
辰「いることはいるが、ここに二人しかいねえ。他から呼ぶことができねえんだから、気の毒だがおめえだけねえんだから、あきらめてくんねえ」
吉「ふざけちゃァいけねえ。てめえたち二人が女を買って、オレだけ当たらねえという、そんな不実な話があるもんか」
辰「それァ冗談だが、じつはな吉公、おめえに今夜の旅籠をまかなってもらいてえくらいなもんだ」
吉「どうしたんだ」
辰「さっきこの宿へ泊まりに着いた時に、帳場に年増《としま》が一人いたろう」
吉「気が付かねえ」
辰「そうか。その年増の話をだんだん聞くと、元江戸で左褄《ひだりづま》を取って、柳橋《やなぎばし》でたたいた女なんだ。恋路のためには知らねえ他国で苦労をするといって、好いた人と二人でこっちへ来たんだ」
吉「なるほど」
辰「ところがその男というのは死んだんだ」
吉「ヤレヤレ」
辰「ソコでもう世の中はいやだといって、頭を円《まる》めてこの近所の阿弥陀堂で、木魚をポクポクたたいて、仏の守《も》りをしているが、今日用があってここへ来ていると三人泊まりが着いた。ところがその三人のうち一人が苦労をした男に生き写しだとよ。この野郎うぬぼれるな、その男というなァてめえなんだ」
吉「嘘をつけ」
辰「本当だよ。似ているどころじゃァねえ、生き写しなんだ。てめえの姿を見ると、ゾクゾクと寒気がするくらい、恋風が身にしみて、アア、人というものは気を落とすもんじゃァねえ。生きていれば、またこういう人に会うことができるといって、ぜひてめえに今夜会って話をしてえというんだ」
吉「ウム、でどこが似ているんだ」
辰「どこが似てるったって、金壺眼《かなつぼまなこ》と鳩胸のところと出尻《でッちり》で外足に歩くところがよく似ている」
吉「悪いところばかり似てやァがる」
辰「ソコで、マアおめえの酒の相手をして、江戸の話を聞きてえというんだ。どうだ吉坊、こうやって友だちが二人で口を利くんだ。どうこうもいわずウンといってくんなよ」
吉「エエ」
辰「ウンといいねえよ」
吉「ウンウン」
辰「そんなにいくつもいわねえでもいい。しかしそれ者の果てといいながら、頭を円めて、この明るい座敷へ出るのもはずかしいだろうから後のこととして、若え女を対手に一杯やって寝ようじゃァねえか」
それから二人の女に酌をさせて、酒を呑みながらばかッぱなし。
辰「姐さん、こうやって旅をしていると、土地土地の名物があるが、このへんにもなにか名物があるかえ」
女「べつに名物といってもありやしねえ」
辰「じゃァなにか時々の流行物《はやりもの》があるだろう」
女「そりゃァ流行物はございます」
辰「なにか江戸へ帰って話しの種になるような唄が流行っていねえか。いるなら聞かしてくんねえか」
女「そうさね。おはなさん、江戸の客人だから唄うべいか」
辰「ひとツやってくれ、なんという唄が流行るんだ」
女「なんだかこッぱずかしいな」
辰「はずかしかァねえよ、なんていう唄だえ」
女「じゃァ、ひとツ唄うべいか……ハアー木崎《きざき》街道のあの四ツ辻に、立たせたもうは色地蔵様よ。男通ればあちら向いてござる。女通ればニコニコ笑う。これが本当の色地蔵様よ、トコトントントコトントントントコナ……」
辰「ヤアおもしろえ、おもしろえ」
と三人もほどよく酒を飲んで、サア寝ようということになると、おめえさまこっちの座敷、おめえさま向こうの六畳だ、おめえさまはこっちと、みんな別々の座敷へ入って寝てしまった。吉公は一人床の中で、
吉「アア妙なもんだな。こんなところへ来てマアコレ江戸の芸者が比丘尼をしているという。芸者でもしている者なれば、なにか芸人にでもなりそうなものじゃァねえか。その女がオレを見て、先《せん》の亭主に似ているというところから、迷いを起こして、オレの対手になりてえというなァ乙なもんだ」
と独り言をいいながら、心待ちに待っているところへ障子を開けて入って来たものがある。
吉「ヤア来たな……誰だか来たかえ」
比「ハイごめんなさいまし、まっぴらごめんなさい」
吉「オヤ年増じゃァねえ、おそろしく婆ァ声だ。按摩さんかえ」
比「按摩じゃございません。私は今晩お情けに預かりました比丘尼でございます」
吉「ナニお比丘だって……オオ待ちねえ待ちねえ……ヤア芸者上がりの年増どころか、たいへんな婆ァだ。辰公八公たいへんだたいへんだ」
辰「どうしたどうした」
吉「お比丘だお比丘だ、たいへんな婆ァが来た……年増だなんて、てめえたちだましやァがった。この婆ァを見ろい」
辰「そんなに騒ぐない。年増じゃァねえか、女の年をとったのは年増だ」
吉「なんぼ年増だって、年増すぎらァ……オイ婆ァさんそばへ寄っちゃァいけねえよ」
比「ハイ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
吉「オヤオヤ、手が付けられねえな。婆さんおめえいくつなんだぜんたい」
比「私の年かね」
吉「おめえの年だよ、いくつなんだ」
比「ツイ年を忘れました」
吉「オヤオヤ、あきれ返ったな。名前はなんというんだ」
比「私の名はね、小野《おの》の小町《こまち》……」
吉「なにをいやァがるんだ」
吉さんプンプン怒ってとうとう一晩ろくに寝ない。夜がガラリと明ける。楊枝《ようじ》を使って顔を洗い茶が出る。梅干しに三盆の砂糖がチッとばかりふりかけてあるやつを持ってくる。
辰「オオ茶を呑みねえ……ヤイ吉坊、プイプイ怒るない。ゆうべのお比丘さんはどうだった」
吉「ばかにするない。あんな婆ァを押し付けやがって」
辰「怒るなってえことよ、またいいこともあらァ。オイ姐や……ゆうべはやっかいになったな。帰りにまた寄りてえが、東海道を帰るから寄ることができねえ。都合ができたら、また江戸へ遊びに来ねえ、帰りのみやげ物ぐらいは買って面倒をみてやるから……これァ少ねえがゆうべの礼だよ」
女「お気の毒さま」
辰「八公、てめえもいくらかやんねえな」
八「オイ姐や、ゆうべはやっかいになった。都合ができたらまた江戸へ出て来ねえ。帰りのみやげ物ぐれえ買って面倒をみてやるから。これァ少ねえが油でも買ってくれ」
はな「どうもお気の毒さま、それじゃァハアちょうだいいたします」
辰「オイオイ吉坊、おめえもやりねえ」
吉「なにを」
辰「お比丘さんにやんねえよ」
吉「なにもやるところはねえじゃァねえか」
辰「やるところはねえッたッて、二人がこうやってやってるのに、てめえ一人やらねえじゃァ仲間はずれじゃァねえか」
吉「フン、どこまでばかにされるんだか知れやァしねえ……オイ婆さん――婆ァ」
辰「そんな声を出すなよ」
吉「オレはゆうべやっかいにもなんにもなりやァしねえ、友だちのつきあいで銭をやるんだ。盗賊《ぬすっと》に取られるようなもんだ」
辰「愚痴をいうない」
吉「これァ少ねえが、おめえにやるから油でも買って頭髪《かみ》へ付けねえ。ヤア頭に毛がねえな……油でも買って仏壇へ燈明《とうみょう》でも上げてくんねえ」
[解説]以上の一節を普通は三人旅と称してやっているが、昔は五十三次を順に追ってやったものらしく、現在残っているものでも、神奈川、小田原、京都などがあり、神奈川は「朝這い」小田原は「押しくら」京都は「京見物」と題が変わっている。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
鰻屋《うなぎや》のたいこ
――――――――――――――――――
川柳に「太鼓持ち、銅羅《どら》をたたいて陣を引き」というのがあります。どこのなんのなにがしといわれるような人になれば、そんなことはありませんが、俗に野幇間《のだいこ》という奴。立派に稼業があるくせに、人を取り巻いておごらせるのが大好き、またまたそれを名誉と心得ていて、古着屋で買ったあやしげな紋付きをひっかけて、これをどこの旦那からいただいたのだなどといって、自分で自分の価値を下げ、天丼ひとツ馳走になってメリンスの長襦袢《ながじゅばん》を出して深川《ふかがわ》などを踊って喜んでいるという、おかしな人があります。
往来でブラブラしていて、お客をつかまえるのを、陸釣《おかづ》りといい、お客さまのお宅へごきげんうかがいに行きますのを穴釣りと言います。羊羹《ようかん》の二|棹《さお》ばかりの折りを持って、まず芸者屋さんとか待ち合いさんとかいうところを狙って歩いています。
幇「ヘイこんちは、どうもご無沙汰をいたしました。どうもその節は」
女「おや、どなたです」
幇「私でございます。姐《ねえ》さんはおいでですか」
女「アノ、旦那と箱根《はこね》へ湯治《とうじ》にいらっしゃいましたが」
幇「アアさようでございますか。それはそれは。じゃァおかあさんにごらんに入れてくださいまし。つまらない物ですが」
女「アアさようでございますか、どうもすみませんねえ。なんですよ、うちにはおかあさんはいませんよ」
幇「アッ、さようでしたねえ、そりゃァどうも、またうかがいます、さようなら」
女「じゃァ姐さんがお帰りになったら見せますから」
幇「なんのこったい、驚いたね。姐さんがいないってェから、おかあさんにといったら、うちにはおかあさんはいませんと言いやァがる。なるほどいねえや。箱根から帰ってきたらごらんに入れるって、それまで羊羹があるものか、みんな食っちまうにちがいない。驚いたなどうも。ひとツ|松の家《まつのや》さんへ行ってみようかな……エエごめんくださいまし、おかみさんはおいでですか」
女「オヤおめずらしいね。毎日おまえさんの噂ばかりしているんだが、あいにく今日はお留守で」
幇「ヘエー、箱根へ湯治にいらっしゃいましたか」
女「イエちょっと、銀座のほうへ買い物に行きました」
幇「アアさようでございますか、ではまたうかがいます」
女「モシモシ」
幇「ヘエ」
女「なにかおみやげがあるなら預かっておきましょうか」
幇「イエこれはなんです、お弁当で……」
女「お弁当にしちゃァ少し形がおかしいね」
幇「イエこれはなんです、朝、端《はじ》のほうをいただきまして、正午《ひる》に真ん中を食べて、晩にこっちの端を食うというお弁当箱なんで」
女「もうすぐに姐さんはお帰りになるんですよ」
幇「それじゃァお待ち申してもよろしゅうございます」
女「けれどもことによると、吉原《よしわら》へ用たしに行くなんていってましたよ」
幇「アアさようですか、それじゃァまたうかがいます。さようなら」
女「じゃァこれをお預り申しておきますよ」
幇「オヤとうとう折りを巻き上げられてしまった。……驚いたな、かれこれもう三時だな、だいぶお腹がへってきた。いまさら手銭でなにか食べるのは残念だな。誰か知ってる人が来そうなものだな。オヤッ、向こうから俺の顔を見て笑って来る人があるよ。半纏《はんてん》を着て粋な人だな、どうもどこかで見たような人だ。ヘエこんにちは、どうもごきげんさまで」
男「おみそれ申しました。どなたでございましたっけね」
幇「いつでございましたか、その節はどうもたいへん、大失礼をいたしました。ヘッヘッどうも……」
男「なんだ、気味が悪いね。黒い羽織をひっかけて、アアおまえは師匠だね」
幇「ヘエどうも恐れ入りました。さようでございます。あの節は私がたいへんに酔っぱらってしまって」
男「ナニ、俺はちょっと、お酉《とり》様の晩に声をかけたんだ」
幇「そうそう、あのお酉様の晩にたいへん酔っぱらってしまって、どうも失礼をいたしました。どうもいつもごきげんさまで、お久しぶりでございましたな」
男「またチョイチョイ遊びにおいでよ」
幇「ヘエありがとう存じます。お宅はどちらでございましたっけね」
男「やッぱり先《せん》のところだよ」
幇「さようでございますか」
男「遊びに来ねえ」
幇「ヘエヘエ、お久しぶりでお目にかかりまして、このままおさらばというのは残念でございますね。ちょうどもうかれこれ食事時になりますが、ひとツどこかでご飯かなにかいただきたいもので」
男「そうかい、俺も用たしの帰りで、こんな服装《なり》をしているが、どうだい師匠、鰻を食おうじゃないか」
幇「ヘエ、お鰻、けっこうですね。じゃァ竹葉《ちくよう》さんですか、大黒屋《だいこくや》さん、それとも神田川《かんだがわ》さん」
男「オイオイ冗談いっちゃァいけねえ。こんな服装をして、そんな遠ッ走りはできねえ」
幇「親方、界隈《かいわい》に乙なうちがございますか」
男「ウム、ちょっとしたうちがあるんだ。手間なしで、主人が俺と心安いから、そこへ行ってご飯を食べることにしようじゃァねえか」
幇「けっこうですねえ、お供をいたしましょう」
女「いらっしゃいまし」
男「サアサア師匠先へあがんねえ。俺は今あとからあつらえ物をして行くから」
幇「ヘエヘエごめんくださいまし、なるほどこれァ汚い二階だな、畳がみんなすり切れてる。オヤオヤ子供が手習いをしている。アー俺が来たんで、片づけているな、坊ちゃんなかなか字がうまいねえ。けれども坊ちゃんてエ面じゃァねえや、まるで小僧だな」
男「どうも師匠おまちどう、なんだなァ。そんなに堅ッ苦しく坐ってねえであぐらをおかきよ。サア平らに平らに。いま出前を出すというところを、無理にこっちへまわしてもらったんだよ。そこへいくと、知ってるうちは自由が利く。サア酒が来た。いちいちお酌なんぞは面倒くせえ。手酌でやってくんねえ。さっそく焼いて来た……どうだ柔らけえだろう」
幇「どうもなんですねえ、舌の上へ載せるととろけるようですねえ」
男「ウンとおやり」
幇「じゃァ旦那、遠慮なくちょうだいいたします」
男「旦那旦那といわれちゃァ困るじゃァないか、おやりよ」
幇「ヘエありがとう存じます」
男「どうだい。ちょっと乙な二階だねえ」
幇「さようでございます。この渋紙の敷いてあるところが、うれしゅうございます。襖《ふすま》の破れたところへ新聞紙を貼り付けたなァけっこうでございますな」
男「サアサア、モッとおやり」
幇「どうも恐れ入ります」
男「またチョイチョイ遊びに来なよ」
幇「お宅はどなたさまで」
男「先《せん》のところだよ」
幇「アアさようで、先のところでございましたね。ぜひうかがいます。みなさんはお変わりなくご壮健で……エーときにお宅はどなたさまで」
男「ダカラ先のところだよ」
幇「アアさようで、先のところで。きっとうかがいます」
男「遠慮なくゆっくりやってくんなよ。ちょっとわたしゃ便所へ行ってくるから」
幇「お供を」
男「お供なんぞに来られちゃァ困るじゃァねえか。そこに待っててくんなよ」
幇「じゃァごめんください。……粋なお客さまだね。エエ、どうも二軒目で折りの取りあげを食った時には、今日は日並みがわるいと思ったら、そうでねえな。ちょっと便所へ行ってくるから遠慮なくやんななんざァ気が利いてるな。……オオ姐さん姐さん、お酌をしてくんねえ、焼けたらモッと持っておいで、後でご飯をいただくよ。……ハテな、ばかに長いねえ。便所は分別所《ふんべつじょ》っていうから、あいつにいくらかやろうと思ったが、ちょっと都合が悪いから、ここの勘定のお剰銭《つりせん》だけやろうかしら。それにも及ぶまい。食うだけ食わしてみやげの折りだけ持たしてやろうなんてことになるかも知れない。これはなんだな、遅れれば遅れるだけ不利益だな。ひとツお迎いに行くとしよう。またあんなことをいうものの、俺が便所へ行っても迎いに来ねえなんていわれまいものでもないから、迎いに行こう迎いに行こうオイ、姐さん便所はどこだい、アアあすこか。……エエ旦那、黙ってちゃァいけません。開けるとたんにワーッなどと脅《おど》しちゃァいけませんよ。よろしゅうがすか……オヤ、いないぞ……オウ姐や、便所はひとツしかないかい。ナニどこにある。アアあれか、あれはなにかい、お客さまの入るのじゃァないのかい。……ナニ奉公人が入るんだ。そんなところへ入りゃァしねえや。それじゃァ聞くが、俺と一緒に来たお客さまはどうしたい。……ナニとっくにお帰りになりました。黙ってちゃァ困るじゃねえか。ご挨拶をしなけりゃァならない。アアわかった、ますます粋なお客だね。さようならなんて挨拶をされるのがいやだし、あいにく持ち合わせが少しばかりで出しにくいというんで、帳場へ紙へ包んだ物を置いて、これを帰る時に渡しておくれってんで、おつりだけくれようという趣向だな。そうなると落ちついて飲むよ……なにかい姐さん。あのお客さまはチョイチョイ来るのかい」
女「イーエ、初めていらっしゃいました」
幇「ナニ初めてだ。そうじゃァないだろう。おまえが知らないんじゃァないか。帳場へ紙に包んだ物かなにか渡して行きゃァしなかったかい」
女「イーエ」
幇「イーエじゃァないよ、なにかあるだろう。持ってきておくれ」
女「かしこまりました。……これでございます」
幇「なんだこれは、勘定書きじゃァないか」
女「そうでございます」
幇「これじゃァないんだよ。俺が勘定書きを見たってしようがないじゃァないか」
女「デモあのお勘定を……」
幇「お勘定ったって、旦那が払ったろう」
女「イイエ」
幇「ナニ払わない」
女「アノ、下りていらっしゃいまして、俺は供だ、二階にいるのが旦那だから、旦那に勘定をいただいてくれとおっしゃいました」
幇「オイオイ冗談じゃァないよ、せっかく酔った酒が醒めてしまうじゃァないか。そりゃァほんとかい」
女「真実でございます」
幇「ヘエ、これァどうも驚いた。けれどもおまえのほうでもわかりそうなものじゃァないか。俺が羽織を着ていて、あちらのことを旦那旦那というんだから、こりゃァどうも驚いたね」
女「アノモッとお酒を持ってまいりましょうか」
幇「酒なんかもういい」
女「ではご飯になさいますか」
幇「もう飯も食わない。勘定はいくらだい、五円七十銭。こりゃァ少し高いじゃァないか。ぜんたい鰻てえ物は安い物じゃァないけれども、鰻が幾人前来ているんだ。徳利が何本|列《なら》んでいるんだ。やッと三本ぐらいじゃァないか。それで五円七十銭は少し高すぎるよ。まちがいじゃァないかい」
女「アノお供さんが、みやげを四人前お持ちになりました」
幇「ナニ土産を持って行った。堅気《かたぎ》の人にゃァできすぎてるぜ、冗談が洒落にならないよ。おみやげは悪だね。もっともへんだと思ったよ。お宅はお宅はと聞いたら、先のところだとばかり言ってた。お世辞に柔らかい舌の上に載せるととろけるようだといったが、融《と》けるどころか、牛蒡《ごぼう》みたいだ。江戸前が聞いてあきれらァ。朝鮮から来るんだかなんだか知れやしねえや。イエ払いますよ。ナニ、まだ五十銭足りないと、サアあげるよ」
女「どうぞまたお近いうちに」
幇「誰がこんなところへ二度と再び来るものか」
女「毎度ありがとう存じます」
幇「毎度じゃァない、今日初めて来たんだ。下駄を出しておくれ。……オイオイそんな汚い下駄じゃァないよ、表付きのだ。あるだろう」
女「アアそれはお供さんが履いてらっしゃいました」
[解説]こういう実話があったのだそうであるが、幇間物《ほうかんもの》の内の傑作である。サゲは間抜け落ち。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
こんにゃく問答
――――――――――――――――――
無法、腕ずくに負けず、無学者、論に負けずとか申しますが、負けたことを知らなければ、いくら論をしても負ける気づかいはございません。
甲「我れ鉄眼の竜《りゅう》となって汝《なんじ》の五体を取り巻く時にはいかに」
乙「汝鉄眼の竜となって我が五体を取り巻く時には、我れ焔《ほのお》となってこれを溶《とか》す」
甲「汝焔となる時には、我れ水となってこれを消さん」
乙「汝水となってこれを消すときには、我れ土手を築いてこれを防がん」
甲「汝土手となる時は、我れ猪《いのしし》となってこれを崩す」
乙「汝猪となる時は、我れ猟人《かりゅうど》となって鉄砲で射止める」
甲「汝猟人となって鉄砲を出す時には、我れ名主《なぬし》となってこれを負かす」
乙「汝名主となれば、我れ地頭《じとう》となる」
甲「汝地頭となれば、我れ老中《ろうじゅう》となる」
乙「汝老中となれば、我れ大老となる」
甲「汝大老となれば、我れ天下の将軍となる」
乙「汝将軍となれば、我れ日輪《にちりん》となる」
甲「汝日輪となれば、我れ日蝕となって世界を闇にす」
乙「汝日蝕となれば、我れ百匁《ひゃくめ》掛けの蝋燭《ろうそく》となって世界を照らす」
甲「汝百匁掛けの蝋燭となれば、我れ大風《たいふう》となってこれを消さん」
乙「汝大風となる時は、我れ戸障子となってこれを防がん」
甲「汝戸障子となって防ぐ時には、我れ火の雨となってこれを裂《つん》ざく」
乙「汝火の雨となって降る時には、我れ鉄鍋《てつなべ》をかぶって歩く」
甲「汝鉄鍋をかぶって歩く時には、我れ粗忽《そそっ》かしいおさんどんとなってその鍋を毀《こわ》す」
乙「汝おさんどんとなる時には、我れ権助《ごんすけ》となって這い込む」
甲「汝権助となって来る時は、我れ琉球畳《りゅうきゅうたたみ》の目の荒いのとなって、汝の向こうずねをすりむく」
乙「汝琉球畳の目の荒いのとなれば、我れ革の股引きをはいて這って行く」
甲「汝革の股引きをはいて来る時は、我れ鼠となってこれを食い破る」
乙「汝鼠となる時は、我れ猫となる」
甲「汝猫となる時は、我れ犬となる」
乙「汝犬となる時は、我れ馬となる」
甲「汝馬となる時は、我れ牛となる」
乙「汝牛となる時は、我れ熊となる」
甲「汝熊となる時は、我れ虎となる」
乙「汝虎となる時は、我れ加藤清正《かとうきよまさ》となってこれを退治する」
甲「汝清正となる時は、我れ太閤《たいこう》となる」
乙「汝太閤となる時は、我れ家康《いえやす》となって世を治める」
どこまで行っても際限がありません。ここに武州扇町谷《ぶしゅうおおぎまちだに》の在《ざい》にこんにゃく屋の六兵衛《ろくべえ》さんという人がありまして、いたって侠気《おとこぎ》の人で、金はありませんが、人を助けることが大好きでございます。さんざん道楽をして、身体が利かなくなったなどという者がいくらも六兵衛さんのところへ頼ってまいります。それを六兵衛さんがいくらか金をこしらえて、湯治《とうじ》にやります。まことに親切な人で、この六兵衛さんにたびたび世話になる、名前を八五郎《はちごろう》という、これも道楽の結果、身体が利かなくなり、なにも仕事をすることができません、そこでまた六兵衛さんの骨折りで、ちょうど在方に空き寺が一軒ありますので、そこへ坊主に住み込ませました。お経も知らなければ戒名《かいみょう》を書くこともできません。ホンのお寺の番人みたいなもので、ずいぶん昔は乱暴なものでございました。この和尚、酒が好きで、年中酒を飲まずにはいられない男でございますが、坊主になったらたくさん飲んじゃいけないと、六兵衛さんがよく意見をしたので、たくさんは飲まないようになりましたが、それでも持ったのが病ですからどうも飲まずにはいられません。いつも飯炊きの権助を対手《あいて》にして飲《や》っております。そういう寺ですから葬式はさらにない。
八「権助や、退屈だな」
権「退屈でがすな」
八「葬式がちっとも来ねえじゃァねえか」
権「葬式の来ねえ時はおまじないするだ」
八「まじないというなァどうするんだ」
権「湯灌場《ゆかんば》踊りてえ奴をやると、きっと葬式が来るだ」
八「湯灌場踊りッて、どんな真似をするんだ」
権「墓場から塔婆《とうば》持ってきてそれをかついで踊るだ」
八「誰がやるんだ」
権「あなたにはできめえ」
八「おらァ知らねえ」
権「おらが踊るべえ。葬式が来なくっちゃァ小遣えに困るからな」
八「それをやると葬式が来るのか」
権「まず来るな。村はずれの金右衛門《きんえもん》とこのおさん婆さんが、この間から病《わずら》ってるだ。もうおッ死《ち》ぬべえ、この婆さんがおッ死んだら葬式が来べえと思う。早くおッ死ぬように踊るでがす」
八「そいつァありがてえ。それじゃァ前祝いに一杯飲ろう」
権「酒か、酒ときちゃァ目がねえ」
八「じゃァ一杯飲ろう。なにか肴《さかな》がなくちゃァいけねえ。まぐろの刺し身を買って来い」
権「あんただめだ」
八「なにが」
権「なにがって、和尚さんが酒だのまぐろの刺し身だのといっちゃァいけねえ、各々|符牒《ふちょう》があるだ」
八「フーン、まぐろの刺し身のことはなんてんだ」
権「まぐろのことは赤豆腐というだ」
八「なるほどまぐろが赤豆腐か。おもしろいな。じゃァ酒はなんてんだ」
権「般若湯《はんにゃとう》というだ」
八「蛸《たこ》は」
権「天蓋《てんがい》ともいうし、お仲間ともいう」
八「なるほど、かつおぶしは」
権「色文《いろぶみ》というだ」
八「どういうわけだ」
権「隠してかくだからさ」
八「なるほどうめえな。ほかにおもしろいものがあるか」
権「たまごが遠眼鏡《とおめがね》よ」
八「ウムおもしろいな」
権「どじょうが踊りッ子よ、生きてるのを鍋の中へ入れて煮ると中で踊るべえ。踊りッ子だ」
八「なるほど、それじゃァこうしようじゃァねえか。般若湯を五合に、踊りッ子を買って来ねえ。踊りッ子鍋に遠眼鏡をたたッ込もうじゃァねえか」
権「なるほど、踊りッ子鍋に遠眼鏡か、おもしろいな、買って来べえ」
八「オウオウ目笊《めざる》なんか持ってどうするんだ、みんな洩《も》っちまわァ、貧乏徳利を持って行きねえ。そん中へ踊りッ子を入れてもらって来い。片ッぽうへは酒を入れてもらって来い。酢だかみりんだかわからねえ」
権「こいつはうめえな、じゃァマア買って来べえ」
これから権助が徳利を二本持って、前町《まえまち》へ酒とどじょうを買いにまいりまして、帰ってくると門前に遊んでいた子供が
子「アァ権助どんお酒かい」
権「酒じゃァねえや」
子「しょうゆかい」
権「しょうゆでもねえ」
子「酢かい」
権「酢でもねえ。この徳利の中へ入っている物、なんだか当ててみねえ」
子「お酒でなくって、しょうゆでなくって酢でもないんだね。それじゃァみりんかい」
権「みりんでもねえ」
子「焼酎《しょうちゅう》かい」
権「イヤ焼酎でもねえ。まず当たらねえよ。うまく当たったら中のどじょうをすっかりやるべえ」
なんにもなりません、これから和尚と権助と酒を飲み始めますと、おいおい酔いがまわってきました。
八「権助、寝ちまっちゃァいけねえ。サアまじないだ、湯灌場踊りをやるんだ」
権「アアちげえねえ、忘れた」
八「忘れちゃァいけねえ」
権助が塔婆をかついで、しきりに踊っておりますところへ
○「頼む」
権「ホーラ葬式が来た」
八「ありがてえありがてえ、早く行ってみろ」
権「これはこれはおいでなせえまし。エエおさん婆さんもハアとんでもねえことでございました。しかしマア年に不足もありますめえ。穴掘りのほうは私がうけたまわりますで、お布施《ふせ》によって深くも浅くも掘ります。エーいつでしたな。ゆうべおッ死んだでがすか」
○「アアモシモシ手前はそういうものではございません」
権「ヤアこれは坊さまか。われ、またおさん婆さんが昨夜《ゆんべ》おッ死んだかと思った。あんたなんだ」
○「愚僧ことは越前国永平寺学堂《えちぜんのくにえいへいじがくどう》の沙弥托善《しゃみたくぜん》と申しまする諸国|行脚雲水《あんぎゃうんすい》の僧、ただいまご門前を通行いたしましたるところ、戒壇石《かいだんせき》に不許葷酒入山門《ぐんしゅさんもんにいるをゆるさず》とございましたるゆえ、すなわち当山は禅家《ぜんか》と承知いたし、大和尚ご在庵ならば一問答《ひともんどう》つかまつりたく心得、推参《すいざん》つかまつりましてございます」
権「アアそうかね、ちょっと待っておくんなせえ……和尚、たいへんだ」
八「どうした、葬式《とむらい》か」
権「大ちげえだ。問答坊主がやって来やがった」
八「なんだ問答坊主というのは」
権「あんた問答知んねえのか。越前国永平寺学堂の沙弥托善とかいう坊主が問答に来ただ」
八「なんだってそんな坊主が、舞い込んで来たんだな」
権「それは表に問答をするという看板が出ておるそうだ。それを見て来ただ」
八「なんだってそんな物を出しとくんだ、捨てちまやァいいに」
権「捨てちまうわけにはいかねえだ」
八「どうも困ったな……。よしよし俺が出て行って追っぱらってしまう。……ヘエこれはおいでなせえ、どちらからおいでになりました」
托「拙僧ことは越前国永平寺学堂の沙弥托善と申する諸国行脚雲水の僧、ただ今ご門前を通行いたしましたるところ、戒壇石に不許葷酒入山門と記してありましたるゆえ、禅家道場と心得、大和尚に一問答つかまつりたく推参つかまつりましてござる」
八「そうでげすか、そりゃァどうもお気の毒さまでせっかくでげすが、うちの和尚さんは留守で」
托「お留守とあらば、また明朝うかがう」
八「そいつがね。出るといつ帰《けえ》ってくるかわからねえ。ちょっと出ても四五日ぐらい帰らねえ」
托「四五日はおろか、十日でも二十日でも苦しゅうございません。毎日うかがいます」
八「毎日来るったって困ったな、おめえものんきな坊主だな。弱ったな、ダカラよ、いつ帰るかわからねえんだよ。この前なんざァちょっと隣まで行ってくるといって、一年半帰らねえことがあった。ダカラ一年で帰るか、二年で帰るか三年になるかわからねえ」
托「たとえ一年が三年、五年が十年、百年が千年でも、命のあらん限りお訪《たず》ね申す。しからばいずれ明日」
八「勝手にしやァがれ、サア困った。しようがねえ、あんな強情な坊主だから、毎日根気よく来やがるにちげえねえ。問答ができなかったらどうなるんだ」
権「あなたはこの寺を取られて、傘一本で追い出されるんだ」
八「そいつは驚いたな。なんとかしようはねえのかな」
権「あなた問答ができねえだもの、どうにもしようがねえ」
八「じゃァこうしよう。権助おめえと二人で道具屋を連れてきて、ここの寺にある物をみんなたたき売っちまって金にして、二人で夜逃げをしよう」
権「それがよかっぺえ。それじゃァおらが在所に来るか」
八「どこだ」
権「丹波《たんば》の笹山《ささやま》だ」
八「少し遠すぎるな。なんでもかまわねえ道具屋を呼んで来い」
権助は道具屋を呼びに行く。その間に八五郎本堂の物をすっかりかつぎ出しましたところへ、こんにゃく屋の六兵衛さんがやってまいりました。
六「なにをしてるんだ、大掃除か」
八「こりゃァ親分おいでなせえ」
六「なんだってそんなにみんな出しちまうんだ」
八「じつァね。問答坊主が来やァがったんで、私が和尚はいねえというと、それじゃァ帰ってくるまで毎日毎日、命のあらん限りやって来るというんだ。問答に負けると、この寺を傘一本で追い出されるんだそうだ。つまらねえから道具屋を呼んで来て、みんなたたき売っちまおうと思うんだ」
六「ばかなことをするな。おまえを俺が世話をしたんだ。そんなことをされちゃァ困るじゃァねえか。ウムそうか、それじゃァなにか、毎日来るんだな」
八「ウム、また明日も来るそうだ」
六「そいつは困ったな……それじゃァこうしよう、俺が明日来て問答をしよう」
八「親分、問答ができるのか」
六「できやァしねえが、マアいいから俺にまかしとけ」
六兵衛さんその日はそのまま帰りましたが、翌朝早くやってまいりました。
六「サア法衣《ころも》を持ってこい……サア袈裟《けさ》だ袈裟だ」
とスッカリ支度をした。
六「どうだ和尚らしく見えるか」
八「親分いけねえや。こっちから見ると腹がけが見えてらァ」
六「ちげえねえ、そうだっけ……サア、これでいいか」
八「こりゃァ驚いた。ばかに坊主ぶりがいいぜ」
六「混ぜッ返すな。なにはどうした、帽子よ」
八「エッ、なんだって」
六「帽子よ、頭へかぶるもんだ」
八「アア頭へかぶる、このとんがり頭巾《ずきん》か」
六「おそろしく焼けッ焦がしをあつらえやがったな」
八「ウム、このあいだ前町に小火《ぼや》のあった時に、それをかぶって火かがりをした」
六「乱暴なことをしやがるな。なにはどうした払子《ほっす》は」
八「払子てなんだ」
六「棒の先へ毛の付いたもんだ」
八「アア馬の尻尾か」
六「おそろしく毛が少なくなったな」
八「毎日、はたきの代わりに使ってる」
六「そんな乱暴なことをしちゃァいけねえ。サア如意《にょい》を出せ……よしよし、もし問答坊主が来やァがったらな。俺はなにもいわずに黙っているが、なんだと聞いたら、うちの和尚はつんぼで、おしで、障眼《そこひ》だとそういえ」
八「なるほどこいつァうめえや。おしでつんぼで障眼か」
六「それで俺が負けそうになったらかまわねえ。角塔婆を持ってきて、向こうずねをかっぱらえ。権助は大釜へ湯を沸かしておいて、頭から煮え湯をぶっかけろ」
八「こいつァおもしろい。こうなったら早く来やァがりゃァいい」
じゅうぶんに支度をして待っております。そんなことは夢にも知らない。旅僧托善がやってまいりました。
托「頼む」
八「これはおいでなさい。おまえさんが来るだろうと思ってじつは待っていた。昨夜のうちに大和尚が帰ってきた。こんなに早く帰ってくることはめずらしいんだ。それからおまえさんの来たことを話をしたら、しばらく問答はやらねえ。久しぶりで問答をやろうってんで、先刻から待っております」
托「さようでございますか、大和尚ご姓名は」
八「こんにゃく屋」
と言おうとしたが、あわてて口を押さえて
八「日蓮上人《にちれんしょうにん》」
托「恐れながら日蓮上人は安房《あわ》の国|長狭郡小湊《ながさのごおりこみなと》にてご誕生、父は貫名《ぬきな》の判官|重忠《しげただ》、母は梅菊《うめぎく》と申され、幼名|善日丸《ぜんにちまる》、中年にして薬王麿《やくおうまろ》、後に日蓮とならせ給う。末には弘安《こうあん》の五年十月十三日、武州荏原郡池上《ぶしゅうえばらごおりいけがみ》の大堂にてご入滅。日蓮宗の祖師と存じます」
八「それでは高野山弘法大師《こうやさんこうぼうだいし》」
托「弘法大師は讃州多度津《さぬきたどつ》の産、姓は佐伯《さえき》名は空海《くうかい》、後に入唐して慧果阿闍梨《けいかあじゃり》の御弟子《みでし》と相なり、末には紀州高野《きしゅうこうや》の山を開き給う。真言の祖師と存じおります」
八「それでは親鸞上人《しんらんしょうにん》」
托「親鸞上人は大職冠|鎌足《かまたり》の後胤《こういん》にして、御年《おんとし》九歳の折黒谷《くろだに》の法然上人《ほうねんしょうにん》の御弟子と相なり……」
八「それでは達磨大師《だるまだいし》、布袋《ほてい》和尚、法性寺《ほうしょうじ》入道藤原の弁慶《べんけい》」
なにをいうかと冷笑《あざわら》って旅僧は、竜《りゅう》の髭《ひげ》を踏み分け踏み分け来てみれば、本堂は七間の吹き下ろし、巾広の障子左右に押しひろげ、正面には釈迦《しゃか》、かたわらには行基菩薩《ぎょうぎぼさつ》、高麗《こうらい》縁の畳は破れ果て、格天井《ごうてんじょう》の狩野元信《かのうもとのぶ》の描きし墨絵の竜は、鼠小便のために汚染《しみ》ができ、欄間《らんま》の天人はくもの巣に閉じられ、金襴《きんらん》の巻き柱ははげわたり、旗天蓋は裂れ果て、見る影もないありさま……一段高きところに、身には衣、頭には帽子をいただき、手には払子を持ち、座禅閑房寂寞《ざぜんかんぼうじゃくばく》とひかえおるは当山の和尚とは真っ赤ないつわり、なにも知らぬこんにゃく屋の六兵衛、旅僧は謹んで唐礼、和礼の挨拶をして
托「大和尚|一不審《いちふしん》もってまいる。法華経五字の説法は八天に閉じ、松風の二道は松に声あるや、また松風を生むや。有無の二道は禅家五道の悟りにして、いずれが理なるやいずれが非なるや。説破《せっぱ》いかに今ひとつ不審もちまいる。東海に魚《うお》あり、尾もなく頭もなく中の四骨を断つ。この意いかに」
六兵衛、口のなかで「なんとでもいえ、おしでつんぼで障眼だぞ」
托「ハハアお答えなきところをみると、当山の和尚は三|荒行《あらぎょう》のうち無言の行中とお察し申す。しからば形でまいらん。これはいか」
と両手の拇指《おやゆび》と指名指《ひとさしゆび》で円《まる》い物をこしらえて見せました。スルト六兵衛なんと思いましたか、同じく両手で大きな輪をこしらえて見せました。今度は托善が両手をひろげて十本の指を出しますと、六兵衛負けない気になって、片手を挙げて五本の指を出しました。今度は托善が指を三本出すと、六兵衛が目の下へ指をやりました。遠くで見ていた八五郎と権助にはなにをしているのだか、サッパリわかりません。スルトどうしたのか旅僧托善が、ハハッと平伏して、
托「とうてい拙僧ごときが遠く及ぶところではございません。平《ひら》にご勘弁を」
といってバラバラ荷物をかかえて逃げ出しました。
八「ソレ権助坊主が逃げ出した。逃がすな取りおさえろ……ヤイヤイ坊主どうしたんだ」
托「どうか命ばかりは、平にご勘弁を……」
八「問答はどうした」
托「とうてい拙僧ごときが及ぶところではございません。かかる名僧とも存じませんで、失礼の段、平にご勘弁を」
八「それじゃァおまえが問答に負けたのか」
托「恐れ入りましてございます」
八「驚いたな。そうかい、どうして負けた」
托「拙僧最初に法華経の五字の説法は八天に閉じ、松風の二道は松に声あるや、また松風を生むや有無の二道は禅家五道の悟りにして、いずれが理なるや、いずれが非なるや、説破いかにとうかがいましたるところ、大和尚のお答えがございません。それゆえ今ひとつ不審もってまいる。東海に魚あり、尾もなく頭もなく、中の四骨を断つ、この意いかにとうかがいましたるところ、またお答えがございません」
八「なんだって。わからねえことをいうんだな。東海に魚がいたって、頭もなくって尾もねえ。へんな魚だな、そんなものがほんとうにいたのかい」
托「それが悟りでござる。魚という字の頭と下を取れば、田という字になります」
八「なるほど」
托「田の中の四ツの角を取り退《のぞ》けば口という字になります。それをお尋ね申したので」
八「なるほど、こいつはおもしろいや。判じ物だね。それからどうしたい」
托「大和尚なんのお答えもございません。察するに三荒行のうち無言の行中と存じましたゆえ、指にて円き物をこしらえ、日の本はとうかがいましたるところ、大海のごとしとのお答え、十方世界《じっぽうせかい》はとうかがいましたるに、五戒で保つとのお答え、三尊の弥陀はとうかがいましたるところ、目の下にありとのお答え、とうてい拙僧ごときの遠く及ぶところではございません。ひらに命ばかりはご勘弁を」
八「そうかい早く行きねえ行きねえ。マゴマゴすると角塔婆で向こうずねをかっぱらって頭から煮え湯をぶっかけるから」
托「恐れ入りましてございます」
ほうほうの体《てい》で托善という旅僧は逃げ出してしまいました。八五郎本堂へ来てみると、こんにゃく屋の六兵衛さん法衣を脱いで腹がけひとつになって真っ赤になって怒っております。
六「今の坊主はどうした。逃がしちゃァならねえ、たたき殺してしまえ」
八「親分冗談じゃァねえ、驚いたな。大した隠し芸があるんだな。親分が問答なんかできようとは思わなかった。今の坊主驚いて行きやがった。命ばかりはお助けくださいってピョコピョコ頭を下げて逃げて行った」
六「冗談いっちゃァいけねえ。ありゃァ永平寺の坊主なんてえなァ嘘だ。なんでもこのへんをほっつき歩いてる乞食坊主にちげえねえ、俺ンとこの営業《しょうばい》を知ってやがる」
八「ヘエー」
六「ダッて、てめえのところのこんにゃくはこれッぱかりだと小さな丸をこしらえやがった。それから俺がこんなに大きいと手をひろげてやった。スルト今度は十丁でいくらだとこう聞くんだ。人の営業をけなしやァがって癪にさわるから、高《たけ》えとは思ったが五百だといってやったら、ケチな奴め高えから三百に負けろといやァがるから、赤んべをしてやった」
[解説]運びに無理がなく明朗でおかしくて構想の奇抜なところ、まことに代表的な名作である。作者は二代目正蔵で、前身は僧侶で法名を托善といったから、人よんで托善正蔵、それなればこそこういう専門的の話も作れたのである。すなわち編中の旅僧には自分の名を使ったわけで、形で見せるこのサゲは見立て落ちと名づけられる。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
笠碁《かさご》
――――――――――――――――――
『碁敵《ごがたき》は憎さも憎し懐かしし』よく人情を穿《うが》ったもので、碁というものは、わずか一目か二目のことから兄弟のようにむつまじい友だちが喧嘩をするようなことになります。もっとも喧嘩をしたからといって、ほかのこととちがって、碁将棋の争いはじきに仲が直ってしまいます。喧嘩をすればするほど親しくなり、親しくなればなるほど喧嘩をする。おかしなものでございます。「碁敵は憎さも憎し懐かしし」この句がいま申し上げるところの骨子《こっし》といってもよいものでございます。
○「おはようございます。どうも天気が悪いのでうちにいてもクラクラしてしようがないから、少し早いけれども出かけて来ました。一石《いっせき》願おうと思って」
△「イヤよくおいでなすった、思いは同じだ。サアおあがんなさい」
○「どうぞおかまいなく、まだ早いのですから、ごゆっくりご用をお済ませなすって」
△「ナニまた明日という日もあります。これだけ片づけておいて、明日その気で働けば同じことで、ではさっそくやりましょう。昨日《きのう》おまえさんに別れてから、横川《よこがわ》の隠居に逢いましたよ」
○「アアそうですか、相変わらず達者で」
△「私もしばらく無沙汰をしていましたが、ちょうどあちらへ用があって前を通りかかると、マアなんでも寄れというんで、またあの人が碁ときたら飯よりも好きでね、隠居のことで別に用がない、退屈をして人を恋しがっているところだからたまらない。サア一石願いましょうと、碁盤を突き出されると、こっちも下手の横好きでひとつ願いましょう。隠居さんに少し稽古《けいこ》をしていただいたら、ちっとは人中《ひとなか》で打てるようにもなれましょう。ナニそんなこともないがひとつおやりというので始めると、イヤもう連戦連敗」
○「そいつは残念でしたな。そうと知ったら私も行けばよかった。とにかく残念でしたな」
△「ナニそれが少しも残念でない」
○「ハア」
△「これが互格《ごかく》の腕で勝ったり負けたりすると、くやしくもあり、おもしろくもある。ところが盤に向かったばかりで、もう負けている。手も出なければ足も出ない。こうなるともうくやしくもなんともない。さっそく尻尾を巻いて逃げ出そうと思うと、お茶を出されたり、菓子を出されたりしたから、よんどころなく少しのあいだ話対手《はなしあいて》になっていましたが、あの人たちの話はちがうね。我々はただ無茶苦茶に石を並べるだけなのだから、うまい人の講釈を聞いたってわからないが、とにかく隠居のいうには、おまえさんとも一年ばかりやらなかったが、その後おまえさん打ったのかい。碁が少しも動いていない。いったいどういう打ち方をしているんだ。止《や》めてるのかというから、ナニ一生懸命やっております。じつは吉兵衛《きちべえ》さんとちょうどよい対手だから、互先《ごせん》で勝ったり負けたりしておもしろうございます。そういうと隠居のいうには、互先というものは無茶苦茶でもなんでも力だけは上がるものだ、つめなんぞを食った時にへんな真似をしているかと思うとそれをうまく殺せたりなんかすることがある。そりゃァまたふしぎなものだ。それがおまえさんのは番数を打っている人にしては石が動かない、毎日打つといってどのくらいおやんなさるというから、昼頃から夕景まで毎日やっています。その時間で番数をどのくらい打ちます。サア勘定をしたこともありませんが、少なくとも二十七八番は打つというと、隠居が吹き出してしまった。それじゃァでたらめに石を並べて行くというだけのことで、少しも腕の上がりっこはない。碁というものは、将棋よりはいっそう深く考えて打たなければいけない、おまえさんのように無茶苦茶に打った日には、どのくらいやったところで碁は進まない。たとえ一目《いちもく》置くにしても、よく考えてまちがってもなんでも、ここならよいと自分の思ったところへ、ピタリと石を下ろす、それが後になってうまく行くか、またもうひとつこっちへ下ろして置けばよかったなどということがわかる。そうすればそれだけの石の働きができてくる。以来そういうふうにして稽古をすれば、どうやら人中で打てるようになる。それから待ったなどをしてはいけない。石を下ろす前ならいくら考えたっていいが、いったん下ろしてしまった以上は、もうその石へ手を付けることは絶対にできないものだ。待ったなどをしちゃァいけない、それから私たちの仲間でおりおりやることがあるが、賭け碁というと体裁《ていさい》が悪いけれども、少しばかり賭けて打つと、人間てえものはケチなもので、たとえわずかばかりでも、自分の物を取られるか、人の物を取るかということになると、自然乱暴な石は打たなくなるから、碁のためにはたいへんよい。今度やってごらんといわれた。それから私も昨夜いろいろと考えたが、他の者とやるわけじゃァない、おまえさんと私との仲だ。たくさんのことはいけないけれども、わずか一円ばかりお互いに賭けてやってみたらどうかと思って」
○「けれども賭け碁というやつは、体裁の悪いものだ」
△「イヤ賭け碁としては体裁が悪いが、負けたほうは罰金として一円取られる。勝ったほうは賞与として一円取るということにしたら差し支えなかろうと思う」
○「なるほど、罰金と賞与はおもしろいな、ではそうときめてやりましょう」
△「だが待ったなしですよ、いったん石を下ろしトしまった上は、たとえまちがえでもやり直しはしないということにきめておきましょう。ではどっちが先手《せんて》でしたな」
○「ナニ先手も後手《ごて》もない我々のことですからマアお打ちなさい」
△「じゃァ私が先手を打つか」
○「そうことがきまったら賭けますよ」
△「サアお賭け、私もここへ賭けました。だがまずこれは私のものかな。勝つと取りますよ」
○「私も幸いに勝ちを得れば、私がいただきます……」
△「さてむずかしくなってきたな。ウーム」
○「なにをうなってるんで」
△「考えている」
○「冗談じゃァない。ひとつもやらないうちから考えちゃァ仕方がない」
△「いよいよ打ちますよ」
○「ハハア、賭けとなったらいつも低くおいでなさるやつを高く出ましたな。やられたかな」
△「やったもやられたもありゃァしない。ただ一目打ったばかりで」
○「ではこう置くと」
△「ウム、なるほど、おまえも高く出てきたな。おもしろいなこれは……。なんのそんなことと……ひとつ行くかな」
○「ヨウヨウ、なるほど、だいぶ今日は、やりッぷりがちがっていますな……。そう来るならばと、こう行くかな」
△「なるほどうまいな……そんな手に乗るものかと、ひとつどうだ」
○「なんのそれしきのことと、こういったらどうする」
△「そう行けばこうさ」
○「ナニそんならこっちをこう行くさ。サア来いと」
△「悪かったなァこりゃァ、ウーム、この石が切れようとは思わなかった。ただ目のちがいだこう切ってしまっちゃァおもしろくない。この石はよすよ」
○「そりゃァいけません、おまえさん今なんといいました。待ったなしだと言ったじゃありませんか」
△「そりゃァ言ったがね。言ったけれども、それがソノなんだよ。私もこの石が切れようとは思わなかったんだが、切れる石じゃァないと思うから下ろしたんだ。それを黙っちまうという法はないだろう。私はまちがったことはいわない心算《つもり》だよ。仮に将棋をしたってそうじゃないか。王手なら王手だというだろう。碁だって将棋だって同じことだ。そうじゃァないか。碁だって将棋だって同じだよ」
○「けれどもあなたが、いったん石を下ろして手を上げてしまった以上は、石に触れることはできないとおっしゃったじゃァありませんか」
△「だからそりゃ言ったというんだよ。言ったけれどもね、だいたい前に一言ぐらいおまえが注意してくれてもよかろうと思うんだ。切れているのを知っていながら、黙って切ってしまうというのは不親切じゃァないか。それも気が付かねえんなら仕方がないが、気が付いていながら切ってしまうなんて、そんな法があるものか」
○「そりゃァあなたご無理というもんです」
△「なにが無理です」
○「だってそうじゃァありませんか。あなたのほうで気の付かないところを、私のほうでわかるからそれで初めて勝負が付くんで、それをいちいちこっちの利益になることを、あなたそうお打ちなすったらご損でしょうといった日にゃァ際限《きり》がありません。そうじゃァありませんか」
△「なにも私はいちいち教えてくれろといやァしない。けれども一言ぐらい切れますよと注意してくれたってよかろうと思う」
○「とにかくあなたが待ったなしと言い出したんですから、過ぎたことは仕方がないとして、これからお気を付けなすったらいいじゃァありませんか。なにもこれで勝負がついたというわけじゃなし、これからの打ちようで一目や二目はどうにでもなりましょう」
△「そりゃァそういってしまやァそうだけれども」
○「どういったってそうじゃァありませんか。自分から言い出した規則を自分から破っちゃァ困ります、そんな自分勝手なことはなかろうと思う」
△「なにもそう大きな声を出さなくったっていいじゃァないか」
○「大きい声も出るじゃァありませんか」
△「おまえ愛嬌《あいきょう》がないね。ただ一目や二目待ったところで、なにもおまえのほうで百目もちがうというわけじゃァないだろう。それだのに規則だのなんのって理窟張《りくつば》って、私はなにも規則を破ってまで待ってくれろというわけじゃァないが、ただおまえも不親切だというんだ」
○「親切も不親切もありません。勝負ごとをしていて、親切ばかりしていた日にゃァ、勝てっこはない。それもご自分が作った規則でなけりゃまだしも、自分がこしらえといて破るなんて、理窟も言いたくなるじゃァありませんか」
△「わかったよわかったよ、待ってもらわなけりゃァいいんだろう。そんなに口をとがらすことはないじゃァないか。おまえは二言目にはすぐに腹を立つんだね」
○「腹も立つじゃァありませんか。あなたがあまり卑怯《ひきょう》なことをおっしゃるから」
△「ナニ私が卑怯だ。アア卑怯な人間だよ。おまえは名人だ、私は平凡《へぼ》だ。よせばいいんだ。負けたよ負けたよ」
○「負けたも勝ったもないじゃァありませんか。まだ打ち始めたばかりで」
△「いいよ、私が負けたんだから、その一円おまえが取ればいいだろう。けれどもおまえと私の仲はそういうものじゃァなかろうと思うね。なにしろうちの娘が……、総領《そうりょう》のだよ。もう嫁に行って子供ができた。あの娘が生まれた頃からだ。二十年というもの、おまえと交際《つきあ》っている。私は貧乏だよ。貧乏だけれども、おまえのやっかいにただの一度もなったことはないよ。失礼ながらおまえのためにはずいぶん私はしているつもりだ。昔のことをひっぱり出すようだが、総領の娘が生まれたばかりだから、もう二十三四年にもなるかな。考えてみたらわかるだろう。まだおまえさん裏通りで小さな道具屋を出していなすった頃だ。暮れが迫って家賃が払えないので、店立《たなだ》てを食い、一家の者が寝るところに困るといっておまえさんが泣き込んできた。そりゃァ気の毒だといって、私がいくらか都合をしてあげた。それが今じゃァおまえも奉公人の二三人も使うような身上《しんじょう》になった。それが始めだ。そのあとまたおまえが屋敷から払い物が出た。買えばみすみす儲かるのだけれども資本《もとで》がない。今ほうぼうで算段をしたけれども、どうしても八十円ばかり足りない。どうかしてくれないかというから、その時も快く貸してやった。それはすぐに持ってきて返したさ。お蔭でたいそう儲かりましたと礼をいって返してきた。利息をといったが私は金貸し稼業じゃないからといって、一文だって利息を取ったことはない。その後も何度だか知れない。ヤレ買い出しだ、ヤレなんだといって借りに来る。そのたびにいやな顔もせず、貸してやったが、一文だって利息を取ったことがあるかい。今までそういう不実な人間だと思ってつきあってたんじゃァない。碁なんぞよしてしまやァいいんだ。この恩知らずめ」
○「モシモシそりゃァ少しあなた、お言葉が過ぎやァしませんか」
△「なんの言葉が過ぎるんだ。世話をしたからしたというのに、どこがちがう」
○「そりゃァお世話になりました。しかし私だって失礼ながらそれだけのご恩報じはしているつもりなんで、いそがしい中をこうして、店を奉公人にまかせておいて、おもしろくもない碁の対手《あいて》に毎日来ているんだ。それも勝ってばかりいりゃァぐずぐずいうから、わざと骨を折って負けてるんだ。こんなへボ碁の対手をするのはおもしろくもなんともねえ」
△「なんだこの野郎、へボ碁とはなんだ」
○「へボ碁にちがいないから、へボ碁というんだ。なにをいやァがるんだ。無利息、無利息とおもしろくもねえ、最初八十円借りた。元金《がんきん》に利息を添えて持ってきて、取ってくれろというと、金貸しじゃァねえから取らねえという。それをたって取ってくれろというのは失礼に当たるから、それじゃァ利子としては上げないが、そうかといってただ借りッぱなしはできないというので、女房とも相談の上、まだ娘さんが小さかったから三越《みつこし》へ行って玩具《おもちゃ》を買ったり、着物を買ったりして持ってきたじゃァありませんか。利息としては払わないけれども相当のことで礼はしてあるんだ。そればかりじゃァない。売り出しをするから店の若い者を貸してくれ、大掃除だから人を貸してくれという。こっちも忙しいのだけれども仕方がない。お手伝いにやると、もりそば一杯、天丼ひとつ食べさしてくれない。仕方がないから私が自腹を切って五十銭銀貨のひとつもやるというなァなんでございます。とにかくお世話になっているからお返しをするつもりなんだ。毎日毎日へボ碁の対手をするのだって大抵じゃァない」
△「なにをこの野郎、ふざけやがって、サア出て行ってくれ。そんな奴にいてもらいたくねえ。俺なんざァ世間を広くつきあってるんだ。てめえばかりが碁を打つ人じゃァねえ、いくらだってほかに対手はある、なにをいやァがるんだ」
とうとう追い帰してしまった。ところがふしぎなものでお天気だと稼業のほうに気を取られているから忘れていますが、その翌日あいにく雨になりました。サア店が暇で退屈をしてくる。
△「あの野郎今日は来ねえな。あまり意固地なことをいやがるから、さんざんおさらいをしてやったら、涙をこぼしてくやしがりやがって、あいつもずいぶんひどいことをいやがった。しかしマアお互いにいってしまやァ、腹になにもあるわけじゃァねえ。来るがいいじゃァねえか、おかしな奴だなあいつは、腹立ちッぽいけれど悪気のない奴で、自分の家の店は奉公人にまかせておいて、朝っぱらからうちへ来てこっちの仕事を手伝ったりなんかしている。おもしろい男だ。……オイ店は今日、暇だ。おまえたちそっちに用があるなら勝手にしなよ。俺が店番をしているから、火だけ持ってきてくんな。茶はいらない、店にいたら店の前でもブラリと通るだろう、そこを呼び込むんだ。この雨止《あまや》みかなにか狙って出てくるだろう。アアまた降ってきたね。前さえ通りゃァしめたものだ。オイなにをしてるんだ。先刻から待ってるんだとか、なんとかいって、ひっぱり上げてしまうんだが、こっちから呼びに行くと、なんだかあやまりに行くように当たるからな、困ったなァ」
しきりに案じております。こっちもやはり同じ心地。
○「伊勢屋《いせや》からまだ迎いが来ないようだな。定吉《さだきち》、伊勢屋さんから、まだ、どなたも迎いに来ないか」
定「ヘエいつもなら、もう三度ぐらい来る時分ですが、今日はまだ一度も来ません」
○「ひとつ出かけてって前を通ってみようかな。前を通ったら呼び込むだろう、呼び込んだら、ヤア昨日は失礼とかなんとかいってしまえばそれで済むんだ。オイ傘と下駄を出してくれ……。ナニ傘はみんな貸してしまった。しようがねえな、うちの者が困るじゃァねえか。ばかばかしい有るもので不自由しなけりゃァならねえ、……オイそこにかぶり笠があるな、菅笠《すげがさ》が、それを持ってきな。エエこんな物をかぶっておかしい、おかしいったってかまやしねえ。風がねえから雨がまっすぐ降ってるんだ、いつか大山《おおやま》へ行った時にかぶった笠だ。これをこうしてかぶりゃァいいんだ。おかしいったってかまわないってことさ。これでもかぶっていりゃァ濡れッこねえ。どこへ行くったって他に行くところはないよ。外から呼びに来たってそんなところへ行って打てる碁じゃァない、どうにかしてうまくなろうと二人で一生懸命打ってるんだ。じゃァ行ってくるよ。店にいてくれりゃァいいなァ……」
△「オイ、火が熾《おこ》ってるかと、かみさんにそういってくんな。来た来た、ノッソリノッソリやって来やァがった。お茶の入るようにしておけよ……アハ……なんといやァがるだろうな。昨日はちょっと客が来まして、一杯|飲《や》りまして、こちらへ上がった時には酒きげんだったもんですから、なにを言いましたか、酒にまわされてしまったので、ご勘弁をとかなんとかいうだろう。そうだ、先方の入りよいように、ここえへ碁盤を出しておいてやろう。オイ、ここへ碁盤を持ってきなよ、そこへ置け、そこへ……火が熾ったら煙草盆を出してな……。アア来た来た、オヤ向こう側を通ってやがる。ウフッわざと笠なんかかぶって来たんだな。オー火をどうした。早く持ってこいよ。すぐに茶を入れる支度をしな。俺の顔を見て、ヤア昨日はとかなんとかいうだろう。オイ待ってたんだよ。碁盤もこの通り出してあるんだ。サアやろうってんですぐにやれる、しめしめ……、オヤオヤ、また向こう側のほうへ寄ったよ。アッ、いまいましい奴だな。見て見ないふりをしてうちの前を通り越してしまやァがった。ハハア隣町かどこかへ打ちに行くのかな。これァいけねえ、オイ茶はまだ入れなくってもいいよ。どこへ行きやァがるか。……オヤオヤあすこへ立ってなにか考えてやがる。やはり体裁が悪くって入りにくいんだろう、かまわず入って来りゃァいいのにな。アアッ引っ返してきた。だんだん寄ってきたな。オイ茶の支度をしなよ。アーそうだ。俺がここで煙草を喫《の》んでいよう。そうするとあいつが火をひとつお貸しなすってとかなんとかいって入ってくるだろう。アレッいまいましい奴だな。また通り過ぎてしやまァがった。それじゃァとうとうあきらめて帰るのかな。アーまたあすこへ立ってやがる。やはり帰れやァーしない。来た来た、今度は大丈夫だ。お茶をいれなよ、なにか菓子があるだろう。……アレッまた通り越してしまやァがった。……ヤイ、へボやい」
○「なにがへボでございます。あなたこそへボじゃァございませんか、待ったなしだときめておきながら待ってくれなんていうほうがよほどへボでしょう」
△「なまいきなことをいうね。サア、へボだかへボでないか、碁盤が出ている。サア一番来るか」
○「オウやりましょうとも、昨日はあなたが先手だったが、今日は私が先手だ。よろしゅうございますか」
△「よいからおやりよ」
○「やァこりゃァたいへんだ雨がたいへんに洩《も》りますよ」
△「ハテナ、どこからまわるのか、雨の洩るわけはないが、オイ小僧かなにか、二階で水でも溢《こぼ》しゃァしないか。それでなけりゃァこうボタボタ……アッいけないよ。かぶり笠を脱《と》らなくっちゃァ」
[解説]サゲはトタン落ち。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
道灌《どうかん》
――――――――――――――――――
落語のほうでは、我々のような人間から、いま少し肥料《こやし》の利かない奴が、幅をきかしております。今の世の中には少なくなりましたが、まだいくぶんか骨が残っているようで、つまり教育のない、なんだか訳のわからない、空々寂々《くうくうじゃくじゃく》世の中を無茶苦茶に送っている奴で、いわゆるイケゾンザイガサツモノ、あわて者、そこつ者などいう類《たぐい》の者がみなこの中にまじっております。人のうちへ来て、足で格子《こうし》を明けないと、どうも職人らしくない、威勢が悪いというのだから始末にいけません。
隠居「誰だいガラガラやって入って来たのは」
△「ヘエごめんなさい」
隠「アア八《はっ》さんか。人のうちへ来て突然あぐらをかく奴があるかい」
八「ヘエどうもすみません。坐るとしびれが切れて、ひっくり返るもんだから」
隠「困った男だ。なにか用があるかい」
八「用がありゃァ来やァーしません」
隠「言いぐさが人とちがってるなお前は。用があれば来ないというのはまちがってるだろう」
八「ところがねえんです。なんにも用なしと来てやがる。今日仕事を休んじまって、うちで表を見ても裏を見てもしようがねえ。隣家《となり》でガキが座便《いびったれ》をして灸を点《す》えられてギャアギャア泣いてるのを聞いてるのもあまりおもしろくねえから、ブラッと出てきたが、隠居さん忙しゅうがすかえ」
隠「イヤ隠居をすれば世の中を捨てたもの、これという用もない。じつは退屈をして対手《あいて》欲しやでいたところだ。マアゆっくりして」
八「ヘエ、なんならこっちのうちへ籍《せき》を入れちまってもかまいません、自分のうちにいた日にゃァ畳建具《たたみたてぐ》は汚ねえし、ごみだらけの庭をながめていたところでつまらねえ。隠居さんのところは、庭はよし、うちはきれいだし、風入りはいいし、飲み物でも食い物でも悪い物はなし、いい物ずくめだからこう思って来たんで。マアお茶でもおいれなさいな」
隠「おまえに催促をされないたって、茶ぐらいいれるよ……。サアおあがり」
八「なにかうめえものでも出したらよかろう」
隠「いちいち催促は恐れ入るな。マア菓子でもおごろう。なにかおもしろい話はないかえ」
八「そう聞かれちゃァ困ります。私どもはなにもわからねえ人間で、新聞一枚読むにも、十日ぐらいかからなけりゃァ読めねえンで、面倒くせえから読んだことがねえから、世間のことは全然知らねえ。隠居さんは毎日朝から晩までなにか書くとか読むとかしているんだから、おもしろいことがウンとありましょう」
隠「ところが今いう世捨て人で、世間がこのごろまことに暗い」
八「ヘエー、電気が安くなったんでたいへんに世間が明るくなったと思ってましたが、やはり暗うございますか」
隠「わからない男だな。世の中を捨てたから、世間のことを知らないというんだ」
八「ヘエー、おまえさんが世の中を捨てたのかえ」
隠「そうだ」
八「私はまた世捨て人という者は、いくらか世の中の役に立っていた人が隠居をするから、世捨て人だと思ってたが、おまえさん方はどっちにしたっておじいさんで、世の中に捨てられた人じゃァねえんですかい」
隠「イヤどうも口の減らない人だな。そういうことをいうものじゃァないよ。サア菓子をおあがり」
八「ヘエ、どうも、ありがとう存じます。この羊羹《ようかん》てえ奴は薄っぺらだと歯ごたえがなくって、こればかりは、厚く切らねえとうまくねえ」
隠「文句をいわずに食ったらよかろう」
八「ヘエありがとうごぜえます。時に隠居さん、妙なことを聞くようですが、私が平常《ふだん》愚痴をいうのはほかじゃァねえ。隠居さんを見ちゃァときどき考えるんだが、こっちは朝から晩まで真っ黒になって膏汗《あぶらあせ》を流して、一生懸命稼いでいても不足だらけだ。その中に隠居さんなぞは、一日なんにもしねえでうめえ物を食って、おもしれえ物を見て、立派なうちへ住まって、着ている物はこちとらがいっぺんも見たことのねえような物を着て、楽をしていられる。これを見ると正直に働いてる者はつまらねえものだと愚痴が出るんでございます」
隠「八さんそういうと、まことに言葉にトゲがあっていけないな。私がさも不正直だといわないばかりだ」
八「どうせこうやって楽をしているんだから、ただじゃァなかろうと評判をしているんで」
隠「ただじゃァなかろうはへんだな。誰がそんな評判をするんだい」
八「たいがい私がするんで」
隠「なんだ、おまえがそんな評判をしちゃァいけないな」
八「だがどうして食ってるんだかわからねえから」
隠「食ってるなぞということをいいなさんな。つまり若いうち怠けていては年をとってから、楽はできない。身体を粉にし、頭を痛め、いろいろ骨を折って金を貯めたから、年をとってどうやら楽ができる」
八「なるほど、よほど若いうちに盗み貯めたんですなァ」
隠「盗み貯めたという奴があるか。それじゃァ私が盗賊でもしたようだ。一生懸命に働いたお蔭で、財産ができ、今では地面も少しはあり、家作も少しはある。それに私には一人娘がある」
八「ハア、ちょっと垢抜《あかぬ》けた女のガキがあると気楽だねえ。おおかた娘にいい旦那ができて……」
隠「失礼なことをいうな。旦那なぞを取るものか」
八「だって娘があって、楽をしているというから、そっちから食い扶持《ぶち》が来るんだと思って……」
隠「ばかなことをいいなさんな。なんでも人間というものは、食うことと住むことと着ることがしじゅう付いてまわってる」
八「ところがこちとらは付いてまわらねえこと、はなはだしい。店賃《たなちん》が四ツ借りがある。先月から店立《たなだ》てを食ってるけれども、私が図太いから動かねえ。着る物は着たッきりで、食う物は人の物を食ってるというようなわけで、まるっきり首がまわらねえ」
隠「それが怠けちゃァいけない。一心《いっしん》に働いてれば、そんなことというものはないわけだ」
八「それはそうと娘てえのは、独身者《ひとりもの》ですかい」
隠「亭主がある」
八「ヘエー」
隠「養子をした。この養子がまた働き者でな」
八「働いても働かねえでも養子なんざァかまわねえが、美《い》い女ですかい、娘てえのは」
隠「へんなことを聞きなさるな。親の口から美い女とはいえない。まず十人並だな」
八「十人並じゃァわからねえ、マアどんな女で……」
隠「私にソックリだ」
八「ヘエー、おまえさんソックリな娘ができちゃァ、なるほど儲かるわけだ。観《み》せ物かなにかに出したんだね」
隠「ナニ」
八「やはり禿げ頭で白い髯《ひげ》が生えてるんで……」
隠「ばかだなおまえは。白い髯のはえてる娘があるかい」
八「ねえから銭儲けだというんで」
隠「そうではない、私に面貌《かおつき》がソックリ、瓜二ツだと世間の人がいう」
八「ヘエーへんだねえ。瓜二ツなんてえものは、細面《ほそおもて》のスベスベした顔をいうんだが、おまえさんのようなスベタッ面のデコボコは唐茄子《とうなす》二ツとかなんとかいうんだ」
隠「余計なことをいうな。口の悪い男だ」
八「いくつなんですえ、その娘は」
隠「今年たしか四十になったろう」
八「なンだ、娘というから力瘤《ちからこぶ》を入れて聞いてたんだ。十七八ぐらいかと思ったら四十といやァもう婆ァじゃァねえか」
隠「ばかをいいなさい。四十になろうが五十になろうが娘は娘じゃァないか」
八「自分だけの娘で、世間の相場は婆ァだ」
隠「なにをいってる。デマア世帯はその娘夫婦にゆずって、私はこうして遊んでいるんだ」
八「ヘエーうめえ話しだね。しかし隠居さんだってなにか道楽がありましょう」
隠「それはマア少しは楽しみがないでもないな」
八「そうだろうと思って。私には隠さねえでほんとのことをいっておくんなさい。芸者かなにかで、オヤ旦那がいらっしたというようなのがあるんだね、ちくしょう」
隠「ばかだな、そんな楽しみじゃァない。私は書画が好きでな」
八「ヘエー、それで頭が赤いんだね」
隠「なんだって」
八「生姜《しょうが》が好きだってえから。唐辛子の好きな者は鼻の頭が赤くなる。生姜もやっぱり赤いから同じ理窟《りくつ》だ」
隠「生姜じゃァない書画だよ」
八「ヘエーなんだえ書画てえのは」
隠「画《え》や字だな」
八「食い物じゃァねんですかい」
隠「食い物じゃァない。古びた物でも買い集めてマア仕立て直しかなんかして楽しむのだな」
八「ヘエー古い物に良いやつがありますかね」
隠「古いから良いというわけではないが、ひどく汚れて価値のない物を夜店などで買ってきて洗ってみると存外良いものがある」
八「ヘエー、このごろは紺屋でも器用になってうまくしみ抜きなぞをするから、古い物を買って洗い張りをしたら、なるほどようげしょうね」
隠「着る物とはちがう。画や字は見て楽しむものだ」
八「アア絵双紙屋《えぞうしや》でよく立って見ている奴があるが、いつまでも立って見ている奴に買ったためしはねえもんですね」
隠「余計なことをいいなさんな。おまえはへんなことばかりいってるな」
八「ヘエー、そういやァいろいろな物がぶら下がったり貼り付けたりしてあるが、つまらねえ道楽があるもんだね。あっしどもはこんなものを見たってしようがねえ。そのおめえさんのうしろにあるのはなんですえ」
隠「屏風だよ」
八「冗談いっちゃァいけません。屏風てえものはモッと長えもんだ。そんなしみったれの屏風があるものか」
隠「屏風だって二ツ折りもあれば、四ツ折りも、六ツ折りもある」
八「ヘエーそうですかい。せっかくきれいな屏風へなんだってそんな小汚ねえものを貼り付けたんで……」
隠「口の悪いことをいうものじゃァない。今いう持ち古した故人のかいたものを貼《は》りまぜにしたのだ」
八「ヘエー、それはなんですえ、その上のやつは」
隠「これは名ある人だな」
八「ヘエ」
隠「有名といって、名ある人が画《えが》いたものだ」
八「ヘエー、名のねえ人が世間にあったら、ずいぶん困るだろうね。第一区役所で籍が無茶苦茶になっちまう」
隠「余計なことをいうな。みんな名はあるが、名高い人が画いたのだ」
八「ヘエー、名高い人が画けば価値《ねうち》があるものかね」
隠「それはそうだ」
八「惜しいことをしちまったな。そうと知ってりゃァ画いてもらっておくんだっけ」
隠「ハア、なんだえ」
八「名高い人で、京大阪《きょうおおさか》まで知れてる世間の交際《つきあい》の広い人で八丁堀《はっちょうぼり》にいた井戸屋なんですがね、この節はマア水道になってあまり用がなくなったが、この人が土二尺か三尺掘ってみて、ここならここといえばきっと良い水が出るといったくらいのもので……」
隠「ハア、その人が画か字が上手なのかえ」
八「上手だか下手だか知らねえが、名高え人だから」
隠「わからないなこの人は、井戸屋で名高くってもしようがない」
八「じゃァその画を描いたなァなんてえ人で」
隠「|於玉ヶ池《おたまがいけ》の先生だ」
八「ヘエー」
隠「於玉ヶ池の先生だよ」
八「アア赤羽《あかばね》先生か。あの人は小児科の親切な医者だ。謡《うたい》とかなんとかいうものをやりますが、良い声だね。ちょっと富本《とみもと》なども語るし、なかなか裕福でね、貧乏人のところへは俥《じん》に乗ってかねえで、年をとってから自転車に乗ることを覚えて、飛んで歩いてます」
隠「なにをいってるんだ」
八「だって、於玉ヶ池の先生だというからお医者さまだと思った」
隠「そうじゃァない、画工《がこう》の先生だ」
八「アー学校か」
隠「まだちがってる、学校じゃァない画工」
八「がこうたァなんで」
隠「えかきだ」
八「ヘエー画工は先生かえ。そいつを知らねえから私は今まで親方親方といっていたが、悪かったなァ」
隠「画工を親方はおかしいな。おまえの知っているのはなんという先生だえ」
八「なんてんだか知らねえが、暮れから春にかけて凧《たこ》の絵が済むとビラや提灯《ちょうちん》のほうへかかるんで……」
隠「なんだ、そりゃ画工じゃない」
八「だって絵を描きますぜ」
隠「絵を描いても画工というもんじゃァない、そんな者こそ親方でよかろう」
八「そんな者というけれども、なかなか大したもので、この春描いた板額の絵なんざァ、巧《うも》うございましたぜ」
隠「そんなものじゃァない。こりゃァ菊地容斎《きくちようさい》先生といって多く歴史画を残した人だ」
八「ヘエーここに貼ってあるのは、みなそうですかえ」
隠「みなそうではない、こういう大家の画いたものはたくさんはない。持ち古した画帳の画をマアこういう形に貼り集めた、これが私の楽しみだ」
八「ヘエーさようですかねえ。その上の洗い髪の女が夜着《よぎ》を着て考えてるのはなんですね」
隠「洗い髪という奴があるかい」
八「なんですえ」
隠「下げ髪というんだ。着ているのは夜着じゃァない、十二一重《じゅうにひとえ》というんだ」
八「拍子木《ひょうしぎ》みたいなものを持ってるのはどういうわけで」
隠「拍子木じゃァない短冊《たんざく》だ」
八「雨が降ってるね」
隠「小野小町《おののこまち》が雨乞いをした図だ。小町をおまえ知ってるだろう」
八「エー三度きゃァ買いません、河内屋《かわちや》にいた女で、なかなかあすこの女はこちとらのような職人にゃァ買い切れません。なじみを付けてそれでおしまい、だが客取りの女でした」
隠「女郎じゃァない、小野小町」
八「そうそう小野小町てえのはいい女ですってねえ」
隠「まず美女だよ」
八「雨に降られてビショになったんですね」
隠「そうじゃァない、いい女のことを美女」
八「なるほど、醜いのは」
隠「悪女《あくじょ》」
八「錫杖《しゃくじょう》かい」
隠「悪女だよ」
八「悪女か。私ンとこの表の質屋のお婆さんなんざァずいぶん悪女だね。ありゃァ面ばかり悪女じゃァねえ、身体じゅう悪女だからね。三尺ぐらいしきゃァ丈《せい》がなくって、井戸側《いどがわ》ぐらい肥ってる。急ぎの使えに行く時にゃァ、駈け出すより転がるほうが早え」
隠「余計なことをいいなさんな」
八「しかし世間にゃァ悪女のほうが多いね。おまえさんとこのお婆さんなぞも悪女だ」
隠「大きにお世話だ、婆さんに聞こえると怒らァ。三十一文字《みそひともじ》の歌の徳で雨が降ったな」
八「ヘエー大したことですね」
隠「大したことにはちがいないが、こればかりじゃァない。関津富《せきしんぶ》という人も雨乞いの句を詠んで雨を降らしたよ」
八「ヘエ」
隠「其角《きかく》という人も句を詠んで雨を降らした」
八「ヘエーなんてんで」
隠「いまの向島須崎村《むこうじますさきむら》というようなところで、日照り続きで百姓が苦しんでいる時、其角がゆたかという折《お》り句で雨をいのった。夕立や田を三囲《みめぐり》の神ならばという、この句の徳で雨が降ってきた」
八「おそろしいことをやったもんですねえ。ヘエいい女ですかい」
隠「なにが」
八「その女は美女ですか、悪女ですかい」
隠「女じゃァないお爺さんの坊さんだ」
八「なんだ、いやになっちまうな。女だと思って話をしていたら、じじいの坊主だなんて、ばかにしてやがる」
隠「誰もばかにしやァしない」
八「その下に簑《みの》を着て、簑の下は鎧《よろい》だネ。桜の皮を剥《は》いでなにか書いてる奴がある。そりゃァなんで……」
隠「これは備後三郎《びんごさぶろう》、勤王無二《きんのうむに》の武士だ」
八「ヘエー、よほど前だったが、鯱《しゃち》が河へ入って戸惑いした話があるが、貧乏の武士が金魚に食われたってえのは年代記もんだねえ」
隠「なにをいってるんだ。備後の三郎という忠義の武士、桜の皮を削って、矢立ての筆を染めて詩を書くところの図だ」
八「ヘエー桜の木へ書いたなァいい趣向だね。花見じぶんにトタン板の大きな徳利や人形の広告を出すなァ困るからね」
隠「くだらないことをそんなにいいなさんな。|天莫空勾践、時非無范蠡(てんこうせんをむなしゅうするなかれ、ときにはんれいなきにしもあらず)という文字を書いた」
八「ヘエー、呪咀《まじない》かい」
隠「まじないじゃァない」
八「こりゃァなんだね、簑を着ているところを見ると、雨が降り続いて困るんで、お天気になるように書いたんだね」
隠「そうじゃァない、こういう話はおまえにしてもわからない」
八「そうですかねえ。いろいろな画があるが、その唐人飴屋《とうじんあめや》みたいな奴が高えところへ登って琴をひっかいてる、そりゃァなんです」
隠「琴をひっかく奴があるか」
八「だってひっかくでいけなけりゃァ、かきまわすのかい」
隠「かきまわすとはなんだえ、琴は弾《だん》ずる、三味線は曳《ひ》くという。しかしマア琴も曳くといって差し支えはあるまい」
八「そうですかね。その琴を弾じている奴はなんで」
隠「孔明《こうめい》」
八「エー」
隠「孔明だよ。唐《から》で孔明、日本で楠《くすのき》ということをよくいうだろう、軍師だ」
八「ヘエーその下にいる奴は」
隠「これは敵の軍師で、司馬忠達《しばちゅうだつ》という者だ」
八「戦争のさいちゅうに琴を弾いてるのは、気が狂ったのかえ」
隠「そうじゃァない、孔明がこの忠達と戦ってたびたび利がない」
八「無利息だね」
隠「金の貸し借りじゃァない。戦争で負けてばかりいる。仕方がないからわずかの兵をもって籠城《ろうじょう》しているところを、十五万という大軍をもって忠達に取り囲まれた。孔明もひどく困ったが、さすがは智者だ。一計を周《めぐ》らして、楼門に登って澄まして琴を弾じていた。忠達がこれを見るとこっちができる人だから、つまり買いかぶって定めて伏勢があるだろうと思い、その計略に陥《おちい》らんようにと、狼狽《あわて》て鐘を鳴らし兵を引いたという」
八「ヘエー大したことをしたものですな。それからどうしました」
隠「逃げて行こうとすると、こっちのほうでワーッという喊《とき》の声。ソレッというので、またこっちへ逃げようとすると、ワーッという喊の声。計略に陥って這々《ほうほう》の体《てい》で逃げ去ったな」
八「ヘエー、山カンにかかったんだね」
隠「山カンはおかしいね」
八「なるほど、それもなにか書いてあるね」
隠「孔明楼門に琴を弾ずれば、忠達駒を走らす」
八「フーン、なんですッて」
隠「孔明楼門に琴を弾ずれば、忠達駒を走らすと書いてあるんだ」
八「似たことがあるもんだね」
隠「エー」
八「よく似た話があるもんだ」
隠「なんだ」
八「幸兵衛《こうべえ》の肛門へ膏薬《こうやく》を貼って周達俥《しゅうたつじん》を走らす」
隠「なんだえそれは」
八「ナニ家主の幸兵衛が痔をわずらった時に、鍼医《はりい》の周達が来て、尻へ膏薬を貼って俥《じん》に乗って帰ったんで……」
隠「汚ない話だなァ」
八「その赤い着物を着てホー・カイ屋みたいな笠をかぶってる、あまり見付けねえ姿だがそりゃァ」
隠「それは狩り装束《しょうぞく》だ」
八「下に女がお辞儀をしている、武士の出歯亀《でばかめ》だね」
隠「武士の出歯亀という奴があるものか。治にいて乱を忘れず、調練のために田端《たばた》の里へ狩り倉にお出ましになった太田道灌持資《おおたどうかんもちすけ》という方だ」
八「ヘエー、それがどうしたんで……」
隠「折りしもにわかの村雨《むらさめ》」
八「村雨が食いてえというのか」
隠「菓子じゃァないよ、にわか雨だ」
八「アア雨か」
隠「原の中で雨宿りをするところがない」
八「こいつァ困ったろうね。私もこの前に丸の内で夕立ちに出っくわして、桜田《さくらだ》へ行くにも、和田倉《わだくら》へ行くにも真ん中でどうにもしようがない。交番があったら飛び込もうと思うと、お巡査《まわり》さんが外に立って満員という札が貼ってあるんで……」
隠「ふざけちゃァいけない、交番に満員があるかえ。おかしなことばかりいってる」
八「まったくで……。ただそのお武士《さむらい》も原の中で困ったろう」
隠「そばを見るとたった一軒|破家《あばらや》があった」
八「昔の人は気が利かねえね。にぎやかなところでさえ商いがなくって困ってるのに、原の中で油屋なんかしたって買いに来る奴はありやァしめえ」
隠「油屋じゃァない、破れ家、破れたうちをいうんだ」
八「ヘエー、できたてのうちなら背骨家だね」
隠「いちいち妙なことをいいなさんな」
八「ヘエーどうしたんだね」
隠「雨具を借用したいと訪れると、二八《にはち》ばかりの|賤の女《しずのめ》が出てきた」
八「なるほど、古いうちだから巣を作ってるんだね」
隠「なにが」
八「雀が出てきたってえから」
隠「雀じゃァない賤の女、賤《いや》しい女だ」
八「アアつまみ食いやなにかするんだね」
隠「その卑《いや》しいのとはちがう、マア貧しい女、貧乏人だな」
八「ヘエー貧乏人にしちゃァ、ちょっと小ぎれいな姿をしているが……」
隠「イヤ汚ない姿だけれども、画だからきれいに見えるのだ」
八「ヘエー」
隠「スルとその乙女は顔を赤らめて、奥へ入った」
八「ハア、新橋《しんばし》の芸者に乙女《おとめ》さんというのがあったが、年をとっても腕は確かだった。吉原《よしわら》仕込みだからね」
隠「芸者じゃァない、十六七ぐらいの女を指して乙女という」
八「ヘエーそうですかね」
隠「それが再び出てきて、山吹の枝を盆の上に載せて出して、かくのごとくでございましておはずかしゅう存じますと、断わりをしたところだ」
八「ヘエー、つまり田舎娘だから気が利かねえんだね。山吹の枝で雨を払って行けというんだろうが、こりやァだめだ、蓮《はす》の葉かなにかなら頭へかぶって駈け出すてえこともあるが」
隠「大きな声をしなさんな。おまえにわからないのは無理はない。太田持資《おおたもちすけ》という人は乱世の頃だから武にばかり凝《こ》って文に疎《うと》かったので、おわかりがなかった。物もいわずに立っていると、中村数馬《なかむらかずま》というご家来、これは若年者だがお父さんが歌人なので、早くもこの謎が解けた。そこで数馬が、恐れながら、兼明親王《かねあきしんのう》のお歌に、七重八重花は咲けども山吹の、みのひとつだになきぞかなしき……恥ずかしながら、お貸し申す蓑《みの》ひとつだにございませんと、実と簑を掛けて山吹の枝をもって申し訳をいたしたものでございましょうと申し上げた」
八「ヘエー、女のくせにたいそうなことをいやがったな」
隠「すると持資という人が、アア予《よ》は歌道に暗いといって、そのまま帰城《きじょう》をなすった。」
八「なんだね帰城というのは」
隠「お城へ帰った」
八「お城なぞのある人かえ」
隠「あるとも、太田持資のこしらえた城が今の皇居だよ」
八「冗談いっちゃァいけねえ、親父に聞いたけれども、アノお城は元|徳川《とくがわ》さまのお城だった」
隠「それだから、太田持資の城が徳川のものになったんだ」
八「ヘエー、シテみると徳川が売り家を安く買ったんだね」
隠「売り家じゃァない。それでお帰りになってから、数馬がいなければ少女のために予は辱《はじ》をかくところであった。武士は文武両道に達しなければならんと、それから歌人を招《よ》んで毎日歌の稽古《けいこ》をした。そのくらいの人だからかならずよくできる。のちに入道して道灌といい、日本一の歌人になった」
八「ヘエー、昔はずいぶん大きな火事があったからね。今はソレ火事だというと、すぐにガンガランガランと飛び出してチューッと消しちまう。ありがたいようなものだが、ときどき大きな火事がねえと、火災保険が儲かりすぎらァ」
隠「余計なことをいうな。火事じゃァない歌人だ」
八「なんですえ、かじんッて」
隠「歌を詠《よ》む人を歌人という」
八「ア、詠まねえのは地震だね」
隠「そんな奴があるか。しかしおもしろいではないか、雨具を貸してくれといわれ、山吹の枝を出してこの通りでございますというと、片ッぽうが歌の心得があるから、アアみのひとつだにないという意味だなと謎を解く」
八「ヘエー、形で問答するようなもんだね」
隠「マアそうだ」
八「なるほど、その歌ッてえ奴をひとつ書いておくんなさいな」
隠「なににする」
八「なんでもいいから書いておくんなさい。仮名《かな》でなくっちゃァ読めねえよ……。ヘエありがとうございます」
隠「それを持ってどうする」
八「ナニ、私の朋友《ともだち》が雨が降ってくると傘を借りに来やがる。貸すなァかまわねえが、返したことがねえ。このあいだ行ってみると私のところの傘があるから、こりゃァ俺の貸した傘じゃァねえかというと、ウム半年ばかり前に借りたが、チョイチョイさしてるうちに破れちまったから、もう返されねえ。もらってもいいだろうといやァがるんで、ばかにしていやがると思ったが、喧嘩もできねえから黙ってるが、今度借りに来やがったら、ただ断わるのも癪にさわるから、これを出して驚かしてやろうと思うんで……」
隠「しかしそれを出しても、対手がそんな人じゃァわかるまい」
八「わかってもわからねえでも、こっちせえわかってりゃァかまわねえ……、オオ|むらさき《ヽヽヽヽ》が降ってきた、しめしめこれで雨が降らなかった日にゃァ貸しになっちまう。すぐに役に立ってありがてえ、また来ます、さようなら……」
隠「マアもうひとつ茶でも喫《の》んでおいでな……」
八「エーまた出直して来ます。アアありがてえありがてえ、物事がなんでもこううまくぶつかってくれりゃァいいんだ……。アア引き窓が明けっ放しになっていやがる、|むらさき《ヽヽヽヽ》が降り込みやァがって竈《へっつい》が濡れちまった。……どうだい、通る通る道灌がゾロゾロ通りやァがる。アー守《も》りッ子の道灌が駈け出して行く。赤児《あかんぼ》の首を降り落としそうだ。大工の道灌が草履の下へ木をたたき付けてあれで下駄の間に合うんだ。うめえことをしたもんだな。風鈴屋の道灌が来た。こいつァグズグズしてやがるわけだ。駈け出すと風鈴をこわしちまう。アア郵便配達の道灌が来た、こりゃァ駈けて歩くほうがいいや。オー牛方《うしかた》の道灌、牛を引っぱたいたってなお動かねえ。婆ァの道灌、年増《としま》の道灌、いろいろな道灌が来らァ。アア新姐《しんぞ》の道灌が向こうのうちの軒下へ駈け込みやァがった。オヤ袂《たもと》から風呂敷を出して尻を包んだ。アア持って駆けられねえんで尻を包んであそこへ預けて行こうというんだな……。アアそうじゃァねえ、帯が濡れるから包んだのか。しみったれじゃァねえか、そんな帯どうするんだ……。アアびっくりした、突然に飛び込みやァがって……、雨に出くわしてまた傘を借りに来たな」
○「傘じゃァねえ、あにき、すまねえが提灯を貸してくれ」
八「ナニ」
○「提灯を借りに来たんだ」
八「こンちくしょう、場ちげえの道灌が来やがったな。雨が降って提灯がいるかい」
○「ナニ深川《ふかがわ》まで車をひいて行くんだが、提灯を忘れて来ちまった。途中で日が暮れるといけねえから提灯を借りて行くんだ」
八「皮肉だなァこいつァ、雨具を借りてえんだろう」
○「ナニ曇って来たから、傘は持って出たんだ」
八「まぬけだなァ。それじゃァ仕方がねえ、おまえと俺の仲だから、融通はどうにでも付かァ。雨具を借用したいとこういいねえ、そうすりゃァ提灯を貸してやる」
○「なにをいってるんだ。雨具はあるんだよ」
八「あってもいいからそういうんだよ。それでねえとだめになっちまうから」
○「へんだなァ。じゃァ傘を貸してくんねえ」
八「傘ときまっちゃァいけねえ、少し都合があるんだ、雨具を借用してえといいな」
○「おかしな男だなァ。どっちだっていいじゃァねえか」
八「いけねえってことよ」
○「じゃァ雨具を借用してえ」
八「サアこれだ」
○「エー」
八「これを読むんだよ」
○「なんだなァ。そんな書き付けなんか出さねえで、これから遠方へ行くんだから、早くしてくんねえな」
八「だからそれを見りゃァわかるんだよ」
○「なんだいこりゃァ」
八「仮名で書いてあるから、読めるだろう」
○「ウム仮名なら読めらァ。なな、えや、え」
八「なにをいってやがる、七重八重《ななえやえ》だ」
○「アアそうか、ななえやえ、はなはさけどもやまぶきの、みの、ひとつ、だに、なきぞ、かなしき……、都々逸《どどいつ》にしちゃァ唄いにくいな、字余り都々逸か」
八「ばか、これを見てわからなけりゃァ、てめえもよっぽど歌道が暗えな」
○「暗えから提灯を借りるんだ」
[解説]およそ落語家で、道灌を演《や》らぬものはほとんど無かろうというくらい、前座咄の中での王様にも当たろう。一句一句にクスグリがある上、途中に動きもあり、サゲも地口落ちながら気がきいているというのだから、名作に違いない。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
船徳《ふなとく》
――――――――――――――――――
大家《たいけ》の若旦那にはよくあることで、ご道楽の結果勘当、当今は廃嫡《はいちゃく》といって家督除きをされるので、同じことでもちっと勘当よりきびしいようで。
以前のは懲《こ》らしめのため、こうもしたら改心するだろうというので、一時勘当をするのが多かったから、改心をすればうちへ入れて、家督も継げましたが、廃嫡となると、いわば永《なが》の勘当というやつで、生涯世に出られない。まことにつまらないわけのものでございます。
一時の懲らしめのための勘当なら、早く改心をしたらよさそうなものだが、もともと追い出されるくらいの者、なかなかそうはいきません。あっちへ行って無心《むしん》をいい、こっちへ来ては金を借り、融通の付くかぎりはブラブラしていて、トドのつまり、人のうちへ食客《いそうろう》。もっともそうなるまでには、むろん金もつかっているし、人の世話もしてあるので、うちへ置いてくれる者はあります。
柳橋《やなぎばし》の船宿で愛顧をいただいているお得意さまの若旦那で徳《とく》さん、ご道楽のために親父さんから勘当され、他に行きどころがないので、とうぶん食客の身。こっちではお客扱いにしているが、若旦那のほうではかえって迷惑、元来《がんらい》好きな道ゆえ、毎日|河岸《かし》へ出て、若い者の中にまじって船の稽古《けいこ》をする。
艪《ろ》は三月で覚えられるが、棹《さお》は三年かかると申します。ことに大川《おおかわ》へ出ると神田川《かんだがわ》あたりとちがいまして、大汐にでもなると、ずいぶん骨が折れるそうで、泳ぎの稽古なぞをなさる方はご存じでございますが、大汐の引きはな、引き汐のはなというものは、矢を射るように流れる。神田川の内へ入れば、上げ汐といったところが大したことはない。引く時もその通り。稽古には楽でございますから、そこへ出て船をあっちへぶっつけ、こっちへぶっつけ、毎日のようにやってるうちに、今日は汐の工合《ぐあい》がいいから行ってみようと、大川へ出てみると、どうやらこうやらやれる。サアしきりに船頭になりたくなって若い者に頼んでそこはそれじゃァいけない。ここはこうじゃァいけないと教えてもらう。
主人「若旦那こっちへいらっしゃい」
徳「ヘエ」
主「ヘエじゃァございません。困ったもんですな、河岸へ行っちゃァあいつらと一緒になって悪戯《いたずら》をしていなすっちゃァ。おとうさんは懲らしめのための勘当、私がお世話をしているのも、どうか及ばずながら、お詫び言をしてえといろいろ心配している中で、この間も湯へ行って、ヒョイとあなたの後ろ姿を見ると、ホンの筋彫りだけれども刺青《いれずみ》をなすったようだが、マア若旦那、どういうご了簡なんで……」
徳「ヘエ、それについて少しお願《ねげ》えがございます」
主「なんですえ、お願えがございますって……口の利きようからして、このごろ変わってきて、やっけえだの、じゃァねえのということがチョイチョイ私の耳に入りますが、どうも困ったもので。……シテお願いというのはなんでございます」
徳「ヘエ、どうせ親父は勘当を免《ゆる》す気づかいはございません。この間も番頭の清吉《せいきち》にちょっと遇ったところが、とてもお詫びは叶いそうもございません。初めは懲らしめの勘当だったところが、あなたが三尺を締めて歩いていらっしゃるところを親父さんが見て、うちへ帰っても、あんな奴はとても見込みがない。頭の形から姿形まで、アアいう下品のことを好むようでは、どうしても商人のうちへは入れられないから、親類から夫婦養子をしてうちを継がせるとまでおっしゃいました。気をつけなくちゃァいけませんといわれて、エー面倒くさいという気が出まして、それから河岸へ行っちゃァ、竹《たけ》さんだの、源《げん》さんだのに棹を使うのはこう、艪を押すのはこうと教わって、どうやら仕事もできるようになりましたから、ひとつ船頭にしておもらい申したいと思うので」
主「イヤ若旦那、マア暑い時は水の上を渡る稼業はよい心持ちのようだが、寒くなって雪でも降ったり東北風《こちかぜ》でも烈《はげ》しく吹く時分になってごらんなさい。これから堀まで仕事があるんだ行ってくれなぞといわれると、身を切られるような思いをして、艪を押したり棹をつっぱらして、アア船の中の人は暖かくして、これから遊びに行くという楽しみがあるが、こっちァ送ってッて、また、寒い川の中を船を漕いで帰らなけりゃァならぬ。つまらねえ稼業だ、アアいやだいやだと思うことがいくらあるか知れません。それもどうやらこうやら辛抱して、マアこのような小さな船宿でも一軒持つようになったようなものの、その間の苦労というものは、どのくらいだか知れません。マアマア船頭になるなんという考えはおよしなさいまし」
徳「イエもうすっかり稽古をしたんで……」
主「冗談いっちゃァいけません。棹を一人前に差すまでには、三年というが、とても三年じゃァむずかしゅうございます。まして失礼だがあなたのようなお身体で、どうして、かような仕事のできるわけがねえんだから、およしなさい」
徳「ヘエ、どうしてもいけませんければ、仕方がないからお暇《いとま》をいただいて……」
主「なんだか私があなたを雇ってでもいるようだね、暇をもらうなんて」
徳「ヘエ、そうして他へ行って、ウンと修業をして、一人前になったらこっちへ来て使っていただきます」
主「困ったなァ。マアよろしゅうございます、そうおっしゃるならやってごらんなさい。他へ行ってもつらい思いをするのは同じ、どうしてもやるとおきめなさったら、うちにいてやってごらんなさるがいい。つらい稼業ということさえ頭へ入れていれば、またいいことがありますから」
徳「ヘエ、ありがとうございます、どうかなにぶんお願い申します。つきましてはどうか若い衆をみなさん呼んで、今日から私を船頭にしたからと、こうひとつ言い渡していただきとうございます」
主「エーよろしゅうございます。……オイおきよ、……オイおきよ、返事ばかりするない。呼んだらすぐ来ねえか」
きよ「ハイ」
主「若《わけ》え奴らが河岸にいるから呼んで来い。大急ぎで用があるッて、俺がそういったって呼んで来ねえか」
きよ「ハイ。竹さん、――源さん――」
源「また呼んでやがらァ、飯か」
きよ「呼びさえすればご飯だと思ってる。食い意地が張ってるねえ」
源「なにをいやがるんだ、大きな尻をふりやァがって、なんだ用というなァ」
きよ「なんだか親方が怒ってるよ。みんなそろってすぐ来いって。グズグズしているなってそういってるよ」
源「うるせえなァ、……竹、また寝てやがる。よく寝てばかりいやがるなァ、こいつの起きているのを見たことがねえ。サア起きろ、親方が急用だとよ。なんだか知らねえが怒ってるとよ」
竹「また小言か、きまってるなァ」
源「サア行け行け」
竹「なんだろうな。俺は小言を言われるようなことはねえ」
源「ねえッたって、なにか小言があるんだろう」
竹「俺はなるたけうしろのほうへ置いてくれ。先きへ出ると真っ向に小言がぶつかって来るんで、どうしても当たりが強いや」
主「なにをグズグズいってるんだ。こっちへ入れ入れ」
源「ヘエ、親方なんともどうも相すみません」
主「なにを……」
源「どうも親方相すみません」
主「なにがすまねえんだ」
源「グズ竹の野郎がやらかしたんでごぜえます」
主「なにを」
源「ヘエ、新造《しんぞう》の船首《みよし》をぶっ欠きました」
主「ナニ、新造の船首を欠いた」
竹「ヘエ、揚げ場までまいりまして、汐の引きばなのところを下って来たんで、ヘエ、昌平橋《しょうへいばし》のところまで来ると橋杭へたたき付けたもんですから、少しばかり欠きました」
主「俺はちっとも知らなかった」
竹「エ、なんだ、てめえがおしゃべりだから余計なことをいっちまった」
主「グズグズいわねえで、モットこっちへ入んな。そんなことで呼んだんじゃァねえ」
源「じゃァ軍鶏屋《しゃもや》の喧嘩で」
主「なにが軍鶏屋の喧嘩だ」
源「ナニこっちが悪いわけじゃァねえんですが、皿を二枚こわしたやつを銭をやらなかったんで」
主「そんな真似をされちゃァ俺の顔にかかわらァ」
源「どうも相すみません」
主「そんなことで呼んだんでもねえ」
源「またちがったか。親方どういうことでごぜえますか、悪いところはおわびをいたしますが」
主「ナニおまえたちに小言をいおうッて呼びにやったわけじゃァねえ」
源「こンちくしょう、おきよッ子の奴が嘘をつきやァがったんだ。親方がたいへんに怒ってるッてえから、おおかたアノ小言だろうと思ってしゃべっちまったんで」
主「今日は俺のほうからおまえたちに頼みがあるんだ。他じゃァねえが、この若旦那がどうしても船頭になりてえというんで、いろいろご意見をしたんだが、ぜひともとおっしゃるんだ。じゃァひとつやってごらんなさいということになったんだが、それについててめえたちはろくなことを教えやがらねえ。このあいだも若旦那が博奕《ばくち》の話をしているから、どうもへんだと思ったら若旦那が知ってるわけだ、てめえたちが教えたんだそうだ。悪いことばかりしやァがって。それに若旦那の身体へ紅葉《もみじ》の刺青を彫ったのは誰だ。商売人じゃァねえ、竹の野郎だろう」
竹「私じゃァごぜえません」
主「源公か」
源「私じゃァごぜえません」
主「富《とみ》の野郎か」
富「私じゃァございません」
主「誰だ」
源「誰かほかの者でござんしょう」
主「ほかの者たって、三人きりじゃァねえか。ろくなことァしやァがらねえ。若旦那もこれから一生懸命修業をするというから、間があったら河岸へ出て、こういうところはこうとか、そう棹をつっぱっちゃァいけねえとか、艪はそう握っては手付きが悪いとか、腰付きがそれじゃァいけねえとかいうことをいちいちよく教えてあげねえ。ほかの悪いことを教えちゃァいけねえぜ」
源「ヘエよろしゅうごぜえます」
徳「もうひとつ親方にお願いがございます。私のことをみなさんが若旦那、若旦那といいますが、船頭になれば朋友《ともだち》とはいえ、私のほうが新参でいわば子供みたいなもので、どうかこれから名前を呼んでいただくように」
主「なるほど、よくおいいなすった。みんな、もうこれから若旦那というな。いいか」
源「ヘエよろしゅうございます。若旦那でなくって名前をいうと徳さん……」
徳「イエ、さん付けなぞにされては困りますから、やはりみなさんと同じように、徳やいとかなんとかいっていただきとうございます」
源「エーなるほど、じゃァマア若旦那といわねえで、名前を呼ぶようにするんですね若旦那」
主「それじゃァなんにもならねえじゃァねえか。てめえたちが竹や源やというように、徳やっていえばいいんだ」
源「それがだんだん馴れッこになればいえるかも知れませんが、まだ素人のうちはそうはいかねえんで」
主「名前を呼ぶのに素人も商売人もあるもんじゃァねえ」
源「だッてこれまで浴衣《ゆかた》の一枚ずつもくだすったり、ご祝儀だって人並はずれて余計おくんなすった、その若旦那をつかめえて、呼び捨てにゃァできません」
主「若旦那がそうしてくれというんだから、そういわなくっちゃァいけねえ」
源「じゃァマア、ヘヘエーオー徳やい、ごめんなさい」
主「あやまらねえたっていい」
それが粗雑のことは馴れるのも早いもので、しまいには徳やい、徳公などというようになり、河岸へ出てみんな手を取って教えてくれるので、もう俺は腕っこきの船頭になったという了簡。折りしも浅草観音《あさくさかんのん》の四万六千日《しまんろくせんにち》、昔はこの四万六千日というと、浅草見附から先は人で埋まるほどの人出で、蔵前《くらまえ》通りなどは往来が烈しいのでホコリだらけ、少しお金のある人は歩いては行きません。多くは船で大川を行くので、もうどこの船宿でも船は出払い、船頭も出払うという景気。中に若旦那はまだ親方がゆるして一人では仕事に出しません。姿は蛇形《じゃがた》の単物《ひとえもの》に白木の三尺を締め、粋な頭髪《あたま》に結って芥子玉《けしだま》の手拭いで向こう鉢巻き、気の利いたようすはしているが、用がないので柱にもたれ、居眠りをしていたのが、いつかグウグウ高いびき、うちの中で船を漕いでるんだから、このくらい安心な船頭はありますまい。
△「いやだということさ、私は船は好かないんだから」
○「好かないッたって、ホコリだらけになって、ノソノソ歩いて行けるものじゃァない」
△「ホコリになったって、先方へ行って湯に入ったらいいじゃァないか」
○「それは湯もあるさ。けれども船で行けばホコリにもならず、涼みながら苦しみなしにズット行けるじゃァないか」
△「けれども、もう柳橋でも船は出払ってるよ」
○「それは大丈夫、チャンと私が見当を付けてあるんだ。確かだよ。いくら出払ったといったって、一艘や二艘あるから心配おしでない。マア私にまかしておおき。決して悪いことはいわない。おまえの肥った身体で人混みの中を一緒に歩けるもんじゃァない」
△「けれども私はどうも」
○「どうももなにもないよ。おいでッてえことだ」
女将「オヤいらっしゃいまし、どうも先だってはありがとう存じました。今日はご参詣でございますか」
○「イヤ堀までひとつ」
女「アラマアそうでございますか。どうもお気の毒さまでございますが、ちょっと前にお沙汰《しらせ》がございませば、なんとでもしておきましたのでございますが、なにしろごらんの通りの景気で船もスッカリ出払いまして……」
○「オットおかみさん。船は河岸に一艘あるよ」
女「それが旦那、なんでございますけれども、あいにく船頭がみんな出てしまいまして、それに一人風邪を冒《ひ》いて我慢にも仕事ができないといって、休んでる者がありまして……」
○「それは困ったな。船があっても船頭がいなくっちゃァしようがないな。……アッ、あそこに威勢のいい若い衆《しゅ》がいるじゃァないか、柱によりかかって……」
女「イエあれはまだなんでございます」
○「なんでございますたって、年来のなじみだ。約束があって待ってるのか知らないが、遠いところへ行くんじゃァなく、堀まで送ってくれりゃァいいんだ。その間に、約束の客が来たらちょっと二階でどうぞお涼みなすってください、ただ今すぐといってるうちにゃァ若い衆が帰ってくる。それでこそなじみじゃァないか」
女「それはなんでございます」
○「なんでもかんでもいいよ。オイ船頭さん、ちょっとおまえ行ってくれるだろうな」
徳「ヘエヘエ」
寝ていたんで、目をこすりこすり飛び出してきた。
○「アア威勢のいい若い衆だ。おまえひとつ、堀まで行っておくれ」
徳「ヘエありがとう存じます」
女「アラいけませんよ、その人は」
○「いけないッてやっぱり船頭だろう」
徳「船頭にもなんにも腕ッこきで、この通り腕がうなっています」
○「アア威勢がいいな。すぐ船の支度をしておくれ」
女「若旦那いけませんよ」
徳「大丈夫、ヘへ腕がうなってます。昨日も首尾の松まで行ってみましたが、もう大丈夫の腕前だってみんなが褒めてくれました」
女「だって今もう、汐が引きはなになってるから」
○「オイオイなにをいってるんだ。ないしょ話は後でいいじゃァないか。若い衆早く船をこしらえておくれ、見たところから江戸ッ子の船頭で、腕ができそうだ」
女将さんもお客にゃァ攻められ、当人が出るというものだから、留めるわけにもいきません。平常《ふだん》稽古をしているからどうにかなるだろうという考え、すっかり支度ができましたから、お客を船へ送り込んで
女「お危のうございますから、お気をつけなすって……」
○「イヤ江戸ッ子の船頭に行ってもらうんで安心だ。オイおかみさん船頭はどうしたえ」
女「ハイなんでございましょう。ちょっと小便にでも」
○「アアそうかえ、マアゆっくりでいい、べつに急ぐ旅というわけでもないから……しかしチット長すぎるなァ、支度でもしているのかね」
女「イエもう支度はできてるんでございます」
○「どうしたんだな。わたしゃ急がないが、船をいやがる人を無理に連れてきたんだから、あまり手間が取れると困る。ちょっと捜してきておくれ」
女「アア帰ってきました帰ってきました、向こうから駈けて来ました。……マアどこへ行ってたんで、……お客さまがお待ち兼ねじゃァありませんか」
徳「どうも相すみません。少し髪が乱れていましたから、ちょっと髪床へ行って撫で付けてもらって来たんで」
○「こりゃァおもしろいや。この船頭は船を出す前になって、髪を撫で付けてくるというなァおもしろいね。ヨウヨウ、見たばかりでうれしいね。サアオイいいかね」
徳「ヘエ大丈夫」
女「ごきげんよろしゅう」
グイと船をおかみさんが押すのは、べつになんの力にもなりませんが、これがたいそうなお世辞だそうで、徳さん棹をウンとつっぱったが動けばこそ、もう汐が引き始めたから、底が付いてなかなか出ない。一生懸命棹をつっぱりましたから、ズブズブズブ
○「オオ船頭さん、中へ入っちまうぜ。大丈夫かえ」
徳「ヘエ、こういう時には棹をつっぱってさえいれば大丈夫で。……ウーム、アア抜けました」
○「アー水がはねるよ。むやみに棹を振りまわしなさんな」
△「オイいいかね、大丈夫かね」
○「大丈夫だよ。けれども小縁《こべり》へ手を出しておいでなさい、指を怪我するといけないから」
△「こりゃァどうも怖いものだね。それだからいやだといったんだ」
○「ナニ怖いッてえほどのことはないよ。……アッうまいうまい、どうしてなかなか腕は達してる。船頭さんいくつだえ」
徳「ヘエ、二十三でございます」
○「けっこうだね。これからの腕前だ、どうしたって若くなくっちゃァいけない。見たばかりでいい心持ちだね。水ッぱな垂らしゃなにかは腕が良くってもなんとなく乗り心地は悪いけれども、この威勢のよいようすがありがたいね。ヨウヨウ感心感心」
徳「ヘエ、柳橋を越しました。橋の上に芸者が見ております。ありゃァ私を見ているので」
△「なんだかへんだな。いいかえ、しっかり頼むよ」
徳「ヘエもう大丈夫で」
そのうちにやっと大川へ出る。棹を上げて艪と代わりました。
徳「サアこれからが仕事でございます」
○「どうだいいい心持ちだろう。ホコリッ気はこの川の中にはないからね」
△「なんだか知らないが、この船はだんだん岸のほうへ寄ってくじゃァないか」
○「ナニこりゃァ今汐の引きばなだから、岸へ寄るほど楽なんだよ」
△「楽だってひどく揺れるじゃァないか、こりゃァ驚いた。首尾の松の下に杭があるよ。ぶっつかりやァしないか」
○「ナニぶつかったってひっくりかえる気づかいないよ。ひっくりかえったところが、このへんは浅いから驚くことはない。ソレ離れたろう。船へ乗ったら船頭にまかしておきゃァ大丈夫だ」
△「オイ大丈夫じゃァない。アアまた岸へ寄って来た。船頭さんいいかえ」
徳「ヘエずいぶんお暑うございます」
○「なんだえ」
徳「どうも厳《はげ》しいお暑さでございます。汗が出てきました」
○「そりゃァ暑かろう、ただいてさえ暑いから……アア石垣へくっついちまった。しっかりしなくちゃァいけない。どうしたえ」
徳「ヘエ、もうここへくっつけておけば大丈夫で、まず一休みなさいまし」
△「冗談いっちゃァいけない。かようなところで休んでちゃァ仕方がねえ」
徳「それでもここなら流れる気づかいございません。昨晩こちらのほうへまいりまして、真ん中のところで休んだら、流されて驚きました」
△「なんだかへんだなァ、いいかいオイ」
徳「ヘエ、少しこっちへ付きすぎちまったんで、ヨッ、ウーム。……ヘエ出ました」
△「アッ危ない、こりゃァ驚いたなァ」
○「大丈夫。駕籠《かご》だって、グイと持ち上げたり道の悪いところをヒョイと飛んだりすると、ガクリと来る。アノ理窟《りくつ》だよ。若いうちはどうしても仕事が荒いが、その代わり乗って心持ちがいいね」
△「あまり心持ちがよかァない。アアまた石垣へ付いたぜ」
○「船頭さん、よく石垣のほうへ寄るねえ」
徳「ヘエこの船は石垣が好きとみえて、むやみに寄りたがります。その代わり万一のことがありましても、ここなら命に関わるようなことはございません」
△「オイ冗談いっちゃァいけない。万一のことなんぞあられてたまるものか」
○「そりゃァまったくここなら浅いからね」
△「浅いたッて底が見えやァしない」
○「ナニ丈《せい》は立つよ」
△「オーヤオヤ、心細いなァ。またくっついちまったじゃァないか。どうなるんだい」
○「アハハハどうしたい船頭さん、動かないな」
徳「旦那笑っていないで、どうかひとつ石垣をドンと突いてみてくださいな。……アアそんなにひどく突いちゃァいけません。艪臍《ろへそ》がはずれちまった。これがなかなかうまくはまらないもので、ちょっとどうか艪臍を湿していただきたいんで、……ヘエどうもありがとう存じます。これをはめてしまえばもう大丈夫」
△「オイオイ大丈夫じゃァない。こう船をまわしちゃァいけねえな」
徳「向こうから大きな船が来たようでございますが、どうか気をつけておくんなさい。ぶっつかると沈みますから」
△「アアいけねえな。だからいやだったんじゃァねえか。どこか上がるところはないか。こんな船に乗っちゃァいられねえ。……アアまたまわり出したぜ、アレまた岸へ来たよ」
徳「ヘエ、ここで一休み、休ましていただかなくちゃァ、腰が痛くってたまりません」
○「オイ、しようがないな、そんなことをいっちゃァ」
徳「あなた方まことに恐れ入りますが、どうか後ろから腰を少したたいてくださいな」
○「冗談いっちゃァいけねえ。船頭の腰をたたくぐらいなら船に乗りやァしねえ。しっかりしてくれ」
徳「そっちの肥った方、あまり動かないようにしていただきたいもので、川へ落ちると私が泳ぎを知りませんから」
△「オヤオヤ泳ぎを知らない船頭と聞いちゃァ、いよいよ心細くなって来たな。いいかいオイ」
徳「ヘエよろしゅうございます。ここまで出りゃァもうなんでもございません」
△「なんだか息づかいが変になってきたな」
○「そう心配をおしでないよ。どうせこの汐の引きばなを上って行くんだから、どんな腕ッコキでも、骨が折れるんだ。まして痩せぎすな男で、力がないんだから仕方がない。オイもう少しで吾妻橋《あずまばし》だよ。渡しを通り越しちまやァわけはない」
徳「ヘエこの辺で観音様へご参詣なすってはいかがでございます」
○「オイなにしに船で来たんだ。そんなことをいわねえでやっておくれ」
若旦那の徳さんも一生懸命、命カラガラまっさおになってようよう漕ぎ付けて桟橋へ着けようと思うと、ソコリというやつでどうしても船が動かない。
○「オイ棹をお貸し」
と客が二人でしきりに棹をつっぱったが動けばこそ、船の底が吸い付いちまってしようがない。
徳「どうかすみませんが、ここからひとつお上がんなすって……」
△「冗談じゃァねえ、こんな水のあるところから上がれるものか」
徳「ナニ腰ッきりぐらいしきゃァ水はありません。あそこから上がって足をお洗いなすってください」
○「アハハハ、可哀想にまっさおになって、身体がヘトヘトになっちまったようだ。いいや、仕方がない歩こう」
△「歩くッたって、私は肥ってるだけに体重《めかた》もあるから、ズブズブ入った日にゃァたいへんだ」
○「ナニ大丈夫だよ。サア私が手を引いてあげよう」
△「驚いたなァどうも。それだからいやだといったんだ」
○「いまさら愚痴をこぼしても仕方がない」
徳「どうもすみません。ありがとうございます。お気の毒さまでございます。……アアモシあなた方、お上がんなすったら、お願いがございます」
○「どうするんだ」
徳「まことにすみませんが、柳橋まで船頭を一人雇ってください」
[解説]この噺は人情噺の一節で、後に一人前の船頭になり、芸者の色ができたり鞘当《さやあ》てがあったりするのだが、今はやる者がない。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
てんしき
――――――――――――――――――
お噺というものは話さなければさっぱりないものですが、どうしてどうして始まりさえすれば後から後から続くものです。きまってるじゃないかと申されるでしょうが、無理に話せたってなかなか出ないものです。まして本人の知らないことなどできるものではありませんが、知らないといってそれで済ましてしまうこともできません。知らんといってしまえば恥を人前でかくようなことはございませんが、なかなか一口にそういって済ましてしまうことも出来ないものでございます。知らぬが仏でなく知るに足りなしということで……
さてある片田舎《かたいなか》のことで、田舎のお寺でございます。あんまりけっこうなお寺ではございませんが、ここのお住職はなにごとも知らんということが大きらいなたちで、もっとも一寺の和尚でございますからお経の読みかたぐらいは心得ております。おそらく村中で学者といえるのはこの俺様だろうくらいのことは思っているのでしょう。あるとき下ァ腹がはって気持ちが悪くっていかんというようなことがあって、医者を呼んで見てもらいましたところが医者のいうには、
医「イヤ、多分なことはございませんから、けっしてご心配なく。のちほどお小僧さんに薬をとりにお使わしくださるように……」
和「ハァさようで……」
医「すぐ宅《うち》へ帰りますから、じきお使わしください。ひどく下っ腹がはっているようでございますが、はなはだへんなことをうかがうようだが、てんしきはございますかなァ?」
和「ヘェェ?」
医「そのつもりで薬を加減いたしますが、てんしきはいかがでげす。ございますかな?」
和「ヘエあります……」
医「ありますか」
和「ございますんで」
医「いやあればよろしゅうござる。そのつもりで薬を加減いたしますから。イヤまた明日うかがいますから、のちほどお小僧さんを……」
和「かしこまりましてございます」
医「さようなら」
和「じゃァのちほどお薬を……」
と医者を帰しましたがサァ和尚さんに、てんしきということがわからない。ありますかといわれたからある方がいいだろうと思ってございますといって帰しは帰しましたが、あとで首をひねって考えてみても、どうしてもわかりません。その晩いろいろ考えて字引きなどを引いてみたりお経など調べてみたが、てんしきというものはない。あくる朝早く、
和「天了《てんりょう》や」
天「ハイ……」
和「ちょっとこれへ来な」
天「ヘエなんでございます?」
和「なんだじゃない。ちょっと使いがある行ってきなさい」
天「ハイどこへ行ってまいりますんで」
和「門前の花屋のうちまで、ちょっと行って来てくれ」
天「ヘエなんといって……」
和「あのなあ爺ィさんにいわなくちァいけないよ。おれがそういったがすぐ返すから、てんしきを貸してくれといって借りて来てくれ」
天「ヘエ」
和「もしないといったら、ご隠居のところへ行って借りて来てくれ。すぐにお返し申すからといって……」
天「かしこまりました」
和「早く行って来な」
天「ヘエ。――おはようございます」
花「エエ?」
天「おはようございます」
花「オヤオヤお小僧さんかィ、たいそうお早くなにかご用かィ?」
天「だんなが少し入り用だからすぐお返し申すから|てんしき《ヽヽヽヽ》を少しお借り申したいといって……」
花「ああ、ふろしきかィ。大きいのかィ? 小さいのかィ?」
天「ふろしきじゃございません。|てんしき《ヽヽヽヽ》をちょっと……」
花「てん……てんしっき……」
天「てんしきをちょっと……」
花「てんしき……なんだろう」
天「おまえさん知らないんでございますか?」
花「知らなかァないがね。……アアア惜しいことをしちまったなァ」
天「ヘェェ?」
花「こないだじゅう二ツ三ツあったがね、もう暖かくなってわしはあんまり使わねえもんだから貸してくれというんで親類に貸してしまった」
天「ヘェェ」
花「あればお貸し申すけれども、ないから残念だがお断わり申すといっておくれ。ナァニてんしきの一ツや二ツあれば貸してあげるがないからしかたがない」
とこの爺ィさんもやせ我慢の強い人と見えていいかげんの挨拶をしたから、天了いわれたとおり隠居のうちへやってまいりまして
天「ヘエおはようございます」
隠「オヤオヤなんだィ、あわただしくはいって来て急用でもできましたか?」
天「うちのだんながね」
隠「アアきょうは終日碁を打とうという約束をしておいたがそのお迎いかね?」
天「イエそうじゃぁないんで。少し拝借物がありまして来ましたんで」
隠「ああそうかィ、私のところにある品なら貸してあげよう」
天「てんしきをちょっと貸してください」
隠「|てんしき《ヽヽヽヽ》……。アア|てんしき《ヽヽヽヽ》……。気の毒なことをしたなァ」
天「ヘェェ?」
隠「もとはあったんだが……。いらないものだからというんで台所のすみへほうりこんでおいたんだ。ところがこないだ、たいへんにねずみが騒ぐから行って見ると棚から落としてこなごなにしてしまったから、掃きだめに捨ててしまったよ。もうかけらもなかろうよ。お気の毒だがそういっておくれ。お貸し申すはやすいことだがないのだからしかたがない……」
天「ヘエなんだかちっともわからねえなァ。――ヘエ行ってまいりました」
和「貸してよこしたか?」
天「花屋の爺ィさんところへ最初まいりましたところが親類へ貸してしまってねえからまことに残念だ、とこういって断わられました」
和「ウム……」
天「それからご隠居のところへまいりますと、たいそう早いがきのう碁の約束をしたがその迎えかとこう申しましたから、拝借物があって来ましたがてんしきを貸してください、とこう申しましたところが、棚のすみへ上げておいたところがねずみがあばれて落としてこなごなにしてしまって掃きだめへ捨てたがもうかけらもあるまい、まことに気の毒だがそういっておくれ、とかよう申しました」
和「しかたがないな、そりゃどうも困った」
天「お師匠さんに少々うかがいますが、そのてんしきというものはどういうものでございましょう。私は見たことがございません」
和「ばか野郎。あきれ返ったやつがあるもんだ。おれのうちに長らくおって、てんしきぐらい知らないてェのは……」
天「どんなもんで」
和「どんなものといってあきれ返ったやつがあるもんだ。てんしきぐらい……」
天「知らないんでげす。知らないことを教えていただくのがお師匠さん。どうか教えていただきたいもんで」
和「きさまはおれの弟子だから教えてやるのはわけはない……けれども遊びにばかり気が入って、おれが教えてやると、忘れてもいつでも教われると思うからまた忘れてしまう」
天「いえけっして忘れません」
和「忘れる!……これから薬取りに行ったら、きさまの腹から出たように、きょうあなたがお寺にいらっしてお師匠さんにてんしきがあるかとおたずねになりましたが私にはいっこうにわかりません。てんしきとはどういうものでございますかと、きさまの腹から出たようにちょっと聞いて来い……」
天「ヘエ聞くのはかまいませんが、なんだか他人に聞くというのはきまりが悪うございます。なるべくはあなたに……」
和「他人だからふたたび聞くことができん。気にゆるみがないからかならず忘れることがない。先生にきいてこい」
天「さようでございますか」
和「早く行って来い。これはきさまの腹から出たように聞くんだぞ」
天「ヘエじゃァお薬をちょうだいしてまいります。〔外へ出て〕チョァ……。うちのお師匠さんは意地が悪いからなかなか教えてくれァしない。――エエお頼み申します」
医「どォれ。――オヤオヤお小僧さんかィ。早く来なくちゃいけない」
天「用があっておそくなりました」
医「用があっておそくなったかそうか。やっぱりきのうのとおりの煎じ加減でよろしい。途中で遊んでいちゃいけないよ」
天「大丈夫でございます。つきましては先生、少々お聞きしたいことがございますが」
医「ウム聞きたいことがある? それは感心だ。聞くは一時《いっとき》の恥じ聞かぬは末代の恥じといってな。なんでも教えてやる。行く末見込みのある小僧だ。知ってることなら教えてやるがなんだイ。エ?」
天「きのうおいでになって脈をご覧なさいましたなァ」
医「そりゃァ家業だから脈を見る」
天「そのときに|てんしき《ヽヽヽヽ》があるかとこうおっしゃいました。するとうちのだんながあるとこう申しましたが、そのてんしきというものはどういうものですかなァ?」
医「つまらん、そんなこと聞いたところで益にもならないことだ」
天「ヘエ……」
医「おぼえんでも差しつかえのないことだよ」
天「でございますが、ぜひ……」
医「うちで聞いたらよかろう。字を教えてくれる師匠というものがついている」
天「ところが教えてくれないんで」
医「どうして」
天「おれが教えてやるのはいいが、気にゆるみがあって忘れてしまう。また忘れても聞けると思うようなことではならんから、先生に聞いて来いと、こう申しました」
医「ウム、さすがに師匠の口からはいえまい。教えてやるが|てんしき《ヽヽヽヽ》とは昔|支那《しな》から伝わった言葉で転失気《てんしっき》と申して転び失なう気……転失気……」
天「ヘェェたいそうむずかしいもんで」
医「むずかしいというほどのこともないが、てんしきはあるかと聞いて、ありますと答えたのはさすが学問のある坊さん感服をした。気を転び失なう、気をめぐり失なう、おならのことだ」
天「ヘエ、なんで?」
医「おなら」
天「おなら? おならてェのはなんでございます?」
医「おならだよ」
天「ヘエ、どういう形のもんで」
医「形は見たことがない。屁《へ》のことだ」
天「ヘェェ……おなら……おへ……おへのおならどんなものでございます?」
医「屁だよ」
天「アアア……プウッ。やっぱりあれでございますか、ヘェェ!」
医「そんなに肝をつぶすことはない。おぼえたところでなんの益もないことだ」
天「ありがとうございます、さようなら。――わからねえことがあるもんだなァ。世の中にはおならを借りにやるもんがあるか知らん。花屋の爺さんは二つ三つあったけれども暖かくなっていらなくなったから親類へ貸してやった。隠居の爺ィさんは一つ棚にあったけれどもねずみが落としてこなごなにしてしまった。掃きだめに捨ててしまったがかけらもあるまい。うちのだんなが屁を借りにやるのもおかしいが、親類へ貸したというのもおかしい。ねずみが屁を落としてこなごなにしたというのもわからねえ……。アアそうだ花屋も隠居も知らねんだ。みんな知ったかぶりであんなことをいっているんだ。……待てよ。帰って『煎じ加減はきのうのとおりでございます』『てんしきのことはなんていった』『おならのことでございます』といやあ、負け惜しみの強いお師匠さんだから、アそうかとはいわない。かならずばか野郎め知れ切ったことを聞きに行きやあがると、俺がけんつく食うに知れている。こいつァはうそをついてやろう。なんとうそをつこうかしら……。ねずみが落としてかいたという題が出ているから道具がいいな。茶わん……盃……盃がいいや。うちのお師匠さんは盃やなにかいいものをもっているから……。『てんしきとはなんだといった』『ヘエ盃のことでございます』と……」
和「なにをしゃべりながら歩いていやァがる。ソワソワしているからいかんのだ。薬をもらって来たか」
天「ヘエ、煎じ加減は一杯を一杯半に煮つめるんで」
和「うそをつけ。一杯半を一杯にするんだろう」
天「さようでございます」
和「なにを笑っているんだ、ばか野郎……。聞いて来たのか……」
天「ハハハハ」
和「なにがおかしいんだばか野郎。なんといって教えた、忘れてしまったか」
天「いえ、忘れやァしません」
和「じゃ、てんしきというのはなんだ」
天「盃のことをばてんしきというのだと教えてくれました」
和「そうよ! 盃のことをばてんしき、忘れるなよ。なぜ笑う……笑うような精神だからものを忘れるのだ。あきれたやつだ。だれだっててんしきぐらいのことは知っている。てんは呑《の》む、しは酒で、きは器という字を書くから呑酒器《てんしき》という。笑うなばか野郎、しかたないやつがあるもんだ! そっちへ行ってろそっちへ行ってろ。――先生がおいでになった。さどうかこちらへ先生。おしとねをもって来ないか、なぜ笑っている。まことに困る。どうも世話ばかりやかせおってな。――昨日は先生、檀家へまいりぎわで、まことにお茶をもさし上げないで失礼をいたしました。それについてもおたずねの|てんしき《ヽヽヽヽ》もただあるとのみ申し上げておきましたが、今日は|てんしき《ヽヽヽヽ》をいろいろお目にかけようと存じて、おいでを待ちかねておったのでゆっくりとご覧を願いたいもんで」
医「拝見をいたしますが、ま、止しておきましょう。ただあるだけを承《うけたま》わればよろしいのでござるから」
和「どうつかまつりまして、大きいてんしきをご覧に入れる。――天了やその袋戸棚の中の蒔絵《まきえ》の箱を出しな。笑うんじゃねえ、あきれ返っちまう。いろいろござるから、自慢でご覧に入れる。いやもうけっしてご遠慮なく……。じつは私はこのごろてんしき道楽。イヤどうかご覧ください」
見ると箱の中から出したのは鬱金《うこん》の切れへくるんであります。
医「こりゃてんしきが包んでございますな。自然としみてこういう色になりましたか?」
和「イヤそれほどのこともございませんが、この方はそうとう高価なてんしきで、こっちは九谷《くたに》のてんしきでございます」
医「イヤ……まちがいかしらんが、あなたのおからだについててんしきがあるかとお聞き申したは気を転び失なう……生意気なことでござるが、医者の方でてんしきというは屁のことでございます」
和「イヤ! 私はてんしきは盃のことと思っておりましたが。――そっちへ行ってろ、そっちへ行ってろばか野郎!」
医「あなたの方では盃のことをてんしきと申しますか?」
和「さよう盃をてんしきと申します」
医「エエどういうわけで……」
和「この盃を重ねますと、しまいにはブウブウが出ます」
[解説]これはとくに解説をいれることもなかろう。明るく、素直にやれば、たいへんおもしろい。
[#改ページ]
――――――――――――――――――
目黒《めぐろ》のさんま
――――――――――――――――――
昔からお家騒動と申しますと、講釈師ばかりでなくお芝居やお浄瑠璃などでもたくさん語り伝えられております。たくさんのお大藩《たいはん》がありましたから、その中にありましてはさまざまな騒動が起こりましたのは勿論でございます。
加賀騒動《かがそうどう》とか越後騒動《えちごそうどう》などは代表的なものであり、世間一般の人たちには良く知られているようでございます。しかしこのように表立った騒動の中にありまして、いまだ良く知られていない、たいへんおもしろいお話もたくさんございます。
とりわけご代々名君の現われましたお家柄は、雲州松江《うんしゅうまつえ》十八万石の松平出羽守《まつだいらでわのかみ》さまでございます。ご当主は代々出羽守できまっていましたが、その中には、いまもお茶人《ちゃびと》の尊敬しまする不眛公《ふまいこう》と申し上げます方があります。この不眛公のご子息さまに号を月旦公《げつたんこう》と申しましてたいへん学問をなされる方がございました。ご当主出羽守にならせられ、その当時ご大名の武人《ぶじん》といわれ、また学者と評されておりました。文武両道にわたっておいでになり、なかなかの大人物でございましたから、なにごとにおいても油断はございません。常日頃より治にいて乱を忘れずということをしじゅうおおせられていました。この出羽守さまがあるとき、
守「目黒不動参詣を名として馬乗りをためそう」
というおぼし召しがありまして、早朝から二十騎ばかりのお供をつれまして、主従ともに馬術は名人でございます。鷹の狩倉《かりくら》というこしらえで、きょうは采女返《うねめがえ》しの股引《ももひ》き脚絆《きゃはん》、切り緒のわらじ、白山たび、大小には柄袋《つかぶくろ》、蟇肌《ひきはだ》をかぶせ、菅《すげ》の一文字の笠に白麻のひもで後ろへ十文字にして前で結び、ご紋付きの馬柄杓《うまびしゃく》を腰にさし、めいめい鞭《むち》を手にもっておいでになりました。鞭の総《ふさ》は赤白紫とありますが、馬術の巧拙によって総の色がちがうものだといいます。みな同じようないでたちですので、殿様と家来の見分けがつきません。いま赤坂御門内《あかさかごもんない》のお屋敷からとび出し、砂煙を蹴立て鞍上《あんじょう》に人なく鞍下《あんか》に馬なきありさまにて、目黒不動へ参詣においでになりました。そこで目黒不動へ参詣して別当所《べっとうしょ》でしばらくご休息になり、昼のお弁当を上がる都合でございます。
が、なにしろ馬乗りでありますから、またたくまに赤坂から目黒まで来てご参詣もすみ休息所までいらっしたが、正午までにはまだだいぶ時間があります。そこで、二十人ばかりの近臣をつれて、馬をしばらく休ませ、あちらこちらと地内《じない》を散歩していらっしゃいました。ご承知のとおり目黒の地内はさほど広くもありませんから、門を出まして後ろの方へまいりまして上目黒元富士《かみめぐろもとふじ》などという景色のたいへん良いけっこうな田舎道《いなかみち》へ出ました。殿はそこでふと、家来達のどの者の足が達者であるか、心得のために息のつづく限り駆けさせようとおぼし召しました。殿の足がピタリと止まりましたからご近臣一同なにをするのかと思っていますと、お笠のひもを堅くしめ帯をしめなおして大小を差しこんでいますから、ご家来はそれだけのことと思いましてしゃがんでお辞儀をしていますと、
殿「アア今日はまことにいい気持ちである。どうもコノ馬乗りとちがって、足というものは常日頃から自分で試しておかなければならん」
家「御意《ぎょい》にございます」
殿「ところで今日この方《ほう》が考えるに、戦場にて馬が倒れた時にはわが足をもって逃げなければならん」
家「ごもっともさまで……」
殿「そこで息のつづくだけ駆けてみようと思う」
家「なるほど」
殿「その方どもは足ごしらえもできており、足も達者であろうが、その方らには負けんつもりで予《よ》は一生懸命駆けてみるから、おくれぬようについてまいれ」
家「委細《いさい》かしこまりました」
殿「この方より先へ駆け抜けた者には、屋敷へ立ちもどって褒美《ほうび》をつかわす。またおくれたる者にはそれぞれ沙汰《さた》に及ぶからさよう心得ろ。よろしいか」
とヒト声残していきなり殿さまが駆け出したから、ご家来は驚きました。殿さまに出し抜けを食らって二十人ばかりヒイヒイ息を切って駆け出し、
家「お上《かみ》に勝ってご褒美をいただかんでもいいから、せめて叱かられんように……」
というので一生懸命に駆け出したがなかなか駆けられません。それに今日は空身《からみ》でありません。菅《すげ》の一文字の大きな笠が頭にのっており、腰には大小|馬柄杓《うまびしゃく》を差していましていろいろ持ち物がありますから駆けられません。
家「なかなかお上はお早いねェ君」
家「なかなか早い。かなわない。……殿様を見失なってしまったがどこへいらっしたのだろう?」
家「殿さまは向こうの山にいらっしゃる。松の木のそばに……」
家「ウム二町《にちょう》ばかりおくれている」
家「二町ばかりおくれてるって近眼のくせに見えるか?」
家「なにを?」
家「あなたは近眼だが見えるか」
家「見えるかって松の木さ」
家「松の木のどこに?」
家「上にいる」
家「あれは鳶《とび》だァネ。なにしろ行ってみよう。――どうだェ? 今度は近眼でも見えるだろう」
家「今度は見える」
家「今度ッたって当てにならんが、じゃどこに」
家「田んぼの中にさ」
家「田んぼの中ってどこに?」
家「すぐそこの田んぼに簑《みの》を着て笠をかぶって」
家「あれは案山子《かかし》だァね。サア急いで行こう」
と畦道を通りこし藪《やぶ》をくぐりぬけて追ッかけて来ましたが、なかなか追ッつきません。殿さまはドンドン先へ駆けてまいり、ホッと息をつきながらそばを見ると、松の切り株がありましてさいわい天然の腰かけをなしています。そこへ腰をかけ、ホッと息をつきながら振り向いてみると、十七人はどこへ行ったか影も形も見えず、ついてまいりましたは三人かぎり。十七人のおくれた連中《れんじゅう》のうち大胆者《だいたんもの》は、
家「目黒の別当所へ帰っていたら、いずれ帰っていらっしゃるだろう」
また篤実《とくじつ》の者は、
家「武士道が立たんからお屋敷へ帰って切腹しよう」
また気楽なやつは鞭で田んぼの中をかき回しています。かき回したって殿さまは田螺《たにし》でないから田んぼの中へ隠れることはない。殿さまは鞭をピュウピュウ振りながらややしばらく無言、ついて来たご家来も疲れて口がきけません。しばらくして、
殿「どうだ疲れたな?」
家「なかなか疲れました」
殿「しかしどうもこれほど歩くというと、よほど疲れるな」
家「ヘエ」
殿「この方の歩いたとこは、道のりにしてどのくらいあると思うか?」
家「夢中で駆けましてございますから、いっこうわかりません。――竹内《たけうち》どの、貴殿は、お上のお駆け遊ばしたところはどのくらいあるとおぼし召す?」
竹「さればどうもわからんが、今歩いたとこだけ駆けたにちがいない」
家「それは当たり前。道のりは?」
竹「二十町足らずあるかと思われる」
家「そんなものかね――エエ恐れながらただいま竹内の申しますには、夢中で駆けてトンとはっきりいたしたことは申し上げられませんが、二十町足らずもあるかと申します」
殿「いかんな」
家「ヘェ?」
殿「幼少のおりに老臣たちの話を承《うけたまわ》るに、神祖《しんそ》家康《いえやす》公|三十里《さんじゅうり》駆けても疲れんで歩いたということをしばしば聞いている。それが二十町足らずで疲れを覚えるようでは太平《たいへい》の大名はトンと役に立たんものであるナ」
家「恐れ入ります」
殿「それに従うその方らは、なおさら役に立たん」
家「ありがとう存じます」
殿「礼をいうな……。しかしいかんとも空腹でたまらん。日ざしを見るともはや未刻《やつ》すぎだろう」
殿さまは午飯《ひるめし》も食べずに未刻すぎまで駆けずり回ったから、お腹がすいていかんともしかたがございません。けれども大名のことだから、近所で食パンのひときれも、焼きいもも買うわけにはまいりません。それから立ち上がってただいまの別当所の方へおいでにならんとする折から、秋の末でさんまの多い時分でありますから近所の百姓家で焼いていたものと見えて、さんまの香気《におい》がプンとした。さんまの焼く香気はたいへん遠走りをいたしますもので、この前私の心やすいかたが長崎《ながさき》の丸山《まるやま》でさんまを三匹焼きましたが、三日目に香港《ほんこん》まで匂って行きましたがなかなか遠走りがいたします。今プンとしたやつが香ばしいうまそうな匂いでありますが、雲州公にはなんの匂いだかおわかりにならない。これはご存じのないわけで、さんまはそのころ下魚《げうお》と言われ、お大名がたは召し上がりません。お旗本でも千石以上のかたは口には入れません。さんま、このしろ、いわしなどはみな下魚で、ことさら十八万石のお大名でありますからご覧遊ばしたこともないですが、一塩《ひとじお》にしたのを焼くのでうまそうな香気、ことに人は腹がへってくるとよく鼻がきいて来ます。
殿「コレだいぶうまそうないい匂いがいたすが、その方どもには匂いがいたさんか。どうじゃ?」
家「先刻から匂っております」
殿「よほど香ばしいかおりじゃな」
家「なかなかけっこうなかおりで、ただいま竹内の申しますには、だいぶ空腹の折りからじゃによって、どうかこの匂いで一杯『茶ズリたい』と申しています」
殿「ハア……空腹の折りからじゃによって、この匂いで『茶ズリたい』たいと申すは、どういうわけか?」
家「恐れながら申し上げます。茶づけを一膳食べたいと申すので。茶づけを一膳食べたいと申しましてはだいぶ手間がとれますから早手回しに『茶ズリたい』と申しましたので」
殿「ウムなるほど茶づけを一膳食べたいと申すのを詰めて『茶ズリたい』という言葉は、軽便でよろしいな。この方もよほど空腹じゃ。この匂いを肴《さかな》にして茶ズリたいと存ずる」
家「ウフ……恐れ入ります」
殿「なんの匂いじゃ?」
家「恐れながらお上はご存じあらせられません。下様《しもざま》でさんまと申す一塩にした魚で、丈《たけ》は一尺《いっしゃく》もございます。脇差しの身に似ており細く光る魚でございます。そのさんまを近辺の農家で焼いていることと存ぜられます」
殿「ウムこの匂いはさんまと申すものか」
家「御意……」
殿「されば、この近辺の農家で焼いているさんまという魚を焼く匂いか。うまそうな匂いじゃな? この方も空腹の折りから苦しゅうない、そのさんまを求めてまいれ」
家「恐れながらその儀は相かないませんと存じます。下様の下人《げにん》どもが食《しょく》いたします。俗に下魚と唱えますものゆえ、高位のかたの上がるものではけっしてござらん。下魚でございますからお上がりには相なりません」
殿「農民どもの食《しょく》いたすものは、大名は食するものではないか」
家「さよう……」
殿「しからば食べようとは申さんが、その方の心得が少々ちがっておろうかと存ずる。なぜならば、その方は治にいて乱を忘れずというところの心がけが少ない。ただいまは太平の御代《みよ》じゃによってそのようなことを申しているが、イザ戦場になったときに、戦さは勝つことばかりはない。たまには負けることもある。もし敗走して逃げるときは山また山をこえ寒村僻地《かんそんへきち》に至り、空腹を覚え食を求むるときに、大名は下人どもの食するものは食さんといって眼前に食がありながら大名はそれを見ながら餓死するか、どうじゃ!」
家「ヘエ……」
殿「この方の考えるには大名も人間、下様のものも人間。人間に別はあるまいと存ずるがどうじゃ? 身分に高下こそあれ、人間に別《べつ》はさらにない。人間の食うべきものを大名のこの方じゃとて食えんことはない。苦しゅうないから求めてまいれ」
家「ヘエ恐れ入りました」
とひとりのご近臣があとのふたりへ殿さまの警護を頼んで鞭をピュウピュウ振り振り、匂いを当てに十歩ばかりまいりますと、藪垣《やぶがき》があって、あばら家ともなんとも名づけようのないあばら家がございます。中をのぞいて見ると、ひとりものと見え焚き火をしてさんまを五六本串に通して火にあぶりジュウジュウいわせ、油がたらたらたれ、煙をドンドンあげています。囲炉裡《いろり》の前にはボロの着物を着てあぐらをかき、うまそうに串ごと横ッかじりしながら飯を食っている様子
家「コレ少々頼む」
百「ヘェおいでなせえ」
家「ただいまさんまを焼いていたのはその方の家か」
百「恐れ入りました。お目に止まってハァまことに相すみません」
家「ここらにまだ家があるか?」
百「イエハァほかに人家《うち》はまず五六町も行かねえでは、この付近《ふきん》にはうちは一軒もござえやしねえ」
家「さようか、きさまのうちから南の方へ少々まいると芝原があろう。ただいまあすこへお上がお野立て〔お小休み〕に相なった。ただお上と申してもわかるまいが雲州松江の城主松平出羽守さまというご身分尊いお大名さまである。そのおかたがあすこへお休みになっていらせられたるところ、さんまを焼く匂いがいたしたから拙者がその匂いを目立てにきさまのうちにまいったのだ」
百「まことに相すみません。どうもハヤまことにすまねえでごぜえますが、そういう偉《えれ》えかたが来るか来ねえか知らねえもんでげすから、わしィ、ハアさんまを焼きました。包み隠しはいたしません。わしィ、ハイこの村の百姓で馬丁《うまかた》をいたしている者でハイ。ところがハァ江戸向《えどむ》きへ毎日仕事に行くでがすが、馬ァ引っぱって荷ィつけて。ところがハァ、二三日まえから馬が按配《あんべい》が悪くなって病馬《びょうま》でごぜえますから、きょうは半日堪忍してやるべえと思って馬ァ引っぱって江戸の町を帰ってまいりますと、どこの魚屋にも山のようにさんまがあるだネ。いくらかと思って、付け木に書《け》えてあるのを見ると安いだネ。買うべえかと思ったがそこが人情ちゅうものがあるから、馬が按配の悪いのに馬丁がさんまを食っちゃァすまねえ、安いから買うべえと思ったが我慢して帰《けえ》って目黒町へ来ると、目黒の町にまでさんまがあるのでハイ。ここえらは江戸たァ値がちがうべえと思って見ると、江戸向きで見た値と目黒あたりの魚屋の値と同じさ。親父の若《わけ》え時分にここらと江戸と同じ値段でさんま食えたことがあるちゅう話を聞いていましたが、わしィハア、ものごころついて、ここらと江戸とさんまの値段が同じてェのは珍らしい。馬にはすまねえが馬には豆のふたつかみも余計にやってさんまを食うべえと思って、買って来て食ってみたがうめえだネ甘塩で」
家「コレコレさんまの講釈を聞きにはまいらん」
百「そういう偉えかたが来るときには、庄屋どのが前もって、煙を出すなァとか表をあけるなとかひどくやかましいことをいって来るが、なんの布令《ふれ》もないからさんまを焼いてたんです。そういうことと知ったらできねえでがす。大名を困らせべえと思ってさんまを焼いてたわけではねえ。どうかマアあやまっておくンなせいまし。まことにすまねえことでハイ。布令《ふれ》を出さねえのは庄屋どのが悪いだ。またさんまを焼く匂いをまいたのは風伯《かぜのかみ》だから、小言は風伯か庄屋どのにお願え申します」
家「コレコレあやまってはいけない。けっして驚くことはない。この方は小言を申しに来たわけではないから、マア拙者のいうことをよく聞け。お上がご空腹じゃによってそのさんまが食べたいとおっしゃる。匂いがしたところからその方のうちにさんまをもらいにまいったのじゃが、ゆずってくれるわけにはまいらんか? どうもあやまるには及ばん」
百「アアそうですか。おらァハイ魂消《たまげ》たァ。おまえさんはさんまの小言をいいに来たと思ったが、おまえさまのご主人は大名ちゅう野郎……」
家「野郎とはなんだ?」
百「偉えかたがござったが。ところが腹ァへって来てなにか食いてえと思ってると、おらが焼いたさんまの匂いがした。して、ここらの百姓がさんまを焼いているからもらって来るようにと殿さまに頼まれて、おらンところへさんまをもらいにござったのでごぜえますか」
家「さよう」
百「お武家さま。それじゃお気の毒だが、さんまを上げるわけには行きましねえ。断わっておくんなせえ。」
家「無代《ただ》はもらわない。手当ては十分につかわす」
百「だれがやるものか! さんま一本が千両になっても売らねえ。お気の毒だが断わっておくンなせえ。見るところおまえさまは人切り庖丁を差して侍の形《なり》しているけんど、ほんとの侍ではねえ。おらはなんにも知ンねえ百姓でいろはのいの字はどっちからこさえるか知んねえが、おらァが村の庄屋どのの子息《むすこ》は偉い学者だ。源平藤橘《げんぺいとうきつ》を|そら《ヽヽ》で読む、偉いもんだ。雨降りや正月にいろいろ話を聞いて覚えているが、おまえさまは人にものをもらえに来ただんべェ? 檀那寺《だんなでら》の和尚の話に、侍は四民《しみん》の上てェ偉いもんだから第一礼儀を知らねぇければなンねえ。礼儀を知ンねえ者は腰ぬけ侍だ。腰ぬけのくせによくここまで歩いて来られたな。なんだエ? 笠をかぶって手袋をはめ、ヌックリ立って細ッこい物をヒュウヒュウ鳴らして人のうちへ来て、さんまをもらいたいなんてばか野郎腰ぬけ侍! うぬらには骨でもやらねえぞ。百姓々々と口ぎたなくいっても百姓の因縁がわかるめえ。土ッ掘りばかりする者と思っているが、武家が七十家、公家が三十家合わせて百姓ということはわかるめえ。こういわれたのがくやしければ刀を抜け。おれも人間だ黙って切られねえぞ。裏口の肥《こい》の一荷も頭からぶっかけられねえ用心をしろ!」
武士に権力のありました時分だから、額に筋《すじ》を出し武士に向かって無礼の一言《いちごん》聞き捨てに相ならんと柄前《つかまえ》に手をかけて怒るところだが、明君の下に愚臣なしで、年若の侍でありますが百姓の論じ詰めたる理に服したものか、
家「礼儀を失したことは相すまん」
といって大刀《たち》を投げ出し、笠をぬぎ手袋をとり、手をつかえて、
家「なかなか理屈を申すやつじゃ恐れ入った。拙者主命をこうむり、とり急ぎ少しも早く差し上げたいと存じ、笠もぬがず手袋もとらずに無心を申し入れ礼儀を失した段は幾重にもわびるから、勘弁してさんまをゆずってくれるように……」
百「イヤなにもおまえさまをあやまらして喜ぶわけはないけンど、きょうはゆずってやるから今後はつつしむがよかんべェ」
家「まことにすまない」
とあべこべにピョコピョコあやまってさんまをゆずり受けました。もとよりただもらうわけにはいきません。とらんというのを無理に押っつけてさんまをもらい受け、
家「なにか入れ物はないか」
百「皿はあるが欠けてる」
家「欠けないのはないか」
百「欠けないのは鮑貝《あわび》があるがどうだェ?」
家「猫じゃあるまいし」
と欠け皿の上に小菊の紙を出してこれを敷き、その上にさんまをのせてピョコピョコ百姓にあやまってひとりのご近臣が殿さまのお待ちかねのところへさんまをもってまいり、
家「ヘエこれでござる。召し上がってご覧遊ばしませ」
殿「ウン」
と脇差しの笄《こうがい》を抜いて召し上がってご覧なさる。うめいのうまくないのってたまらんようにおぼし召しまして、
殿「コレはよほどうまい! さんまと申す物はよほどうまい物である。下様《しもざま》では常に大名よりうまいものを食する。よほどうまい。代わりを申しつける」
家「お代わりは相なりません」
殿「じゃ新香《しんこ》でご飯を半人前そういってまいれ」
まさかそんなことはおっしゃいません。当日ごきげん斜めならずしてお帰りになり、翌日早朝ご老臣たちを呼んで、
殿「大名とていざ戦場というときには下様の者と同様の物を食さねばならん。今日は家来ども一同へさんまを十分やるからその用意に及べ」
家「ハア」
とお受けをしたが、何百軒だかわかりません、家中《かちゅう》へ配るのでございますからちっとやそっとのさんまでは足りません。お勘定方《かんじょうがた》がまいりまして、江戸市中のさんまを残らずお買い上げになりました。十八万石の勢いで買い上げたのだから、さんまの値段のいやもう高くなりましたこと。五寸《ごすん》ぐらいのさんまで一本七両二分ぐらいになっちまいました。雲州公の家中は翌日お上から下げ置かれたさんまを何百軒というご家中が焼き立てたから、さあたいへん。赤坂のお屋敷は黒煙天を焦がすのありさま。どうしてさんま臭くって、お屋敷の前は通れませんでした。さて殿さまはたまらなくうまいとおぼし召して、その翌日|殿中《でんちゅう》へおいでになり、大広間の溜まり所で諸侯がたがいろいろお話になりますうちに、雲州公が列座の中へ進んで。
殿「さて諸侯がたに申し上げますは余《よ》の儀でもござらんが、下様の情を探ると、なかなかおもしろいことやらうまい物を召し上がることができる。諸公のうちにさんまという物を召し上がったことがございますか」
大広間へお集まりのお大名、ご存じのかたはひとりもいませんから、
大「いっこうに存じません」
殿「どなたも治にいて乱を忘れずというお心があったら、下様の情を探っておかなければなりません」
大「さようでござる……」
たださようでござるといって、お辞儀をなすっているかたばかりはありません。中には立腹したかたもあります。とりわけ筑前福岡《ちくぜんふくおか》のご城主|黒田筑前守《くろだちくぜんのかみ》さまが怒って、
筑「治にいて乱を忘れずという心をもってさんまを食ってみろとは、奇怪《きっかい》な言葉である。食わざれば大名でないようなことを雲州が申すは、怪しからんやつである」
と真っ赤になってプンプン憤《おこ》ってお館に帰って、ご老臣を残らず火急に呼び集めまして、
筑「今日はからずも松平出羽守にさんまをもって恥辱をあたえられ、ウムナ、残念……さっそくさんまをとりませェ!」
家「かしこまりました」
と買いに行ったがありません。みな出羽さまでお買い上げになっちまいましたから、江戸じゅうにございません。そこでご入用《にゅうよう》おかまいなしで、早船早飛脚で網元にまいってあつらえましたから、夜を冒してエッシャエッシャと押し送り、船で積み送り、何万尾というさんまが江戸へ着くや否や、じきに|霞が関《かすみがせき》のお上屋敷へもちこむので、ご膳所《ぜんどころ》はさんまで山をなしました。今これを焼いてお上へ差し上げるときに御膳奉行《おぜんぶぎょう》が来て、
奉「これを上げることはけっしてなりません。なぜなれば塩の強い油のはなはだしいものを上がりつけないお上ゆえ、塩気と油気をさっぱり抜いてそれから焼いてお上げなさい」
てんでげすが、さんまというものは塩気と油気でもったもので、これを抜いては味がありません。噛みしめたってうまいものでない。油気と塩気を抜いて焼いたら乾鰯《ほしいわし》を茹《ゆ》でたようなもので、形はそのままですがちっとも味がない。
家「ヘエこれがさんまでございますか」
筑「ウム頬の落ちるほどうまいものだそうだ」
とおっしゃりながら箸をとって召し上がるとちっともうまくない。
筑「う……これはよほどまずいなァ。魚がちがっていやせんか。いずれからとり寄せた?」
家「ヘエ房州《ぼうしゅう》の網元ヘ申しつけましたからけっこうな品で」
筑「ウム……雲州は頬の落ちるほどうまいものじゃと申したが、けしからんやつだ」
とあちらこちらといずれを突っついて食っても少しもうまくないから、
筑「とり捨てを申しつける」
とまた殿中にご登城になり、お玄関より貞鑑《ていかん》の間、柳ノ間を越えて大広間へ通り、
筑「ごめんなされ」
と面相を変えて溜まりの大広間へ血眼になって来ると、仙台《せんだい》さま、薩州《さっしゅう》さま、長州《ちょうしゅう》さまなどを相手にして雲州公さんまの講釈の真ッ最中、
殿「長州公《ちょうしゅうどの》、薩州公《さっしゅうどの》まだ召し上がりませんか? マア召し上がってご覧《ろう》じろ。油があって甘塩でうまいものでござるから」
なんてンで馬丁と同じことをおっしゃってますところへ、黒田筑前守さまが面相を変えて雲州公のそばへすり寄り、
筑「このさんまのことについてご貴殿ヘお目にかかりたく、わざわざ出仕《しゅっし》いたしてござる。よほどうまい頬の落ちるほどうまいと仰せられるさんまを食してみたが、よほどまずいものでござる。雲州公の口中は失礼ながら異なっておろうと存ずる。武士を偽《いつわ》ってさようなことをおっしゃるとはその意を得ん。ご挨拶によってはその分には差しおかん」
雲州公はちっともわかりません。
殿「さんまがまずいというおとがめは恐れ入りますが、あれほどのうまいものをまずいとおっしゃるのはまことにおかしなことでござるが、ご貴殿、魚がちがっておりましょう」
筑「ちがってはおらん。さんまに相違ござらん。一尺足らずの脇差しの身に似ており、光る魚で塩気も油気もなにもないから、まるで木を茹で噛んでいるようなものでよほどまずい……」
殿「まずいとおっしゃいますのはいっこうにわかりませんが黒田公《くろだどの》」
筑「なんでござる?」
殿「ご貴殿さまはいずれからお取り寄せになりました」
筑「家来に申しつけて房州の網元から」
殿「黒田公それは房州だからまずい! さんまは目黒にかぎる」
[解説]食い物の話だから「味がある」というわけでもないが、味わい深い名作。仰々しい馬乗りのいでたち、駈けっこの末の空腹とさんまの匂い、百姓の啖呵、大名どうしのやりとり、誰も目黒がどういうところかまったく知らない世間知らず……文字で追うと、また格別のおもしろさがあるから不思議だ。(完)