[#表紙(表紙.jpg)]
増補 現代思想のキイ・ワード
今村仁司
目 次
思想の言葉
現代思想キイ・パーソンズ見取図
第T部[#「第T部」はゴシック体]
○ノマドロジー(遊牧論)
○否定弁証法
○批判理論
○脱中心化(知の考古学)
○呪われた部分(蕩尽)
○マルクス現象
○ディコンストラクション(脱構築)
○スピノザ現象
第U部[#「第U部」はゴシック体]
○群衆
○暴力
○ノイズ
○儀礼
○全体主義
第V部[#「第V部」はゴシック体]
○ユートピア
一―ユートピアとは何だろう
二―願望夢としてのユートピア
三―山岳割拠型ユートピア
四―海上移民型ユートピア
五―解放的ノマディスム
六―ノマドとしての机竜之助
第W部[#「第W部」はゴシック体]
○自由
○オートノミー(自律性)
○希望
第X部[#「第X部」はゴシック体]
序 世界史の現在
1 政治と法(権利)
○国家
○リパブリックの哲学
○ナショナリズム
○トランスナショナル
○コスモポリス
○公共圏
○市民/公民
○法/権利
2 経済
○技術=経済体制
○所有
3 過酷な現実と倫理の再建
○暴力
○戦争
○差別
○難民
○倫理
○ホスピタリティー
まとめ
あとがき
文庫版あとがき
参考文献
[#改ページ]
思想の言葉
現代はともかく忙しい。人は激しく動く。物の動きも目まぐるしい。新しい物がどんどん現れ、人びとの考え方もつぎつぎと変わる。忙しい、忙しいといっている間は気もまぎれるが、ふと立ちどまってみると、一寸先は暗闇といった気分になる。それほどまでに、個人の日常生活も社会全体もあわただしい。
多忙は人に錯覚をひきおこしやすい。こまねずみのように動き廻っていると、生活に充実感があると思うものだ。立ちどまれば、空虚感がひたひたと心に沁みわたる。忙しさは充実どころか生活の空白をつくっているのではないか。現代の消費社会は、消費物をつくる生産の面でも、物を消費する日常生活のなかでも、せかせか、こせこせの気分を助長している。精神の空白のなかに、目に見えぬ大きな支配力がしのびこんでいるのであるが、目に見えぬ力などはないものと思って、私たちはやりすごしているのではないか。
こうした反省を促す機会をたびたびもつ必要があるだろう。書物を読むことは、しのびよる空虚をおしかえして、自己の生活と社会生活全体を反省するもっとも大きな機会のひとつである。読書とは、文字を読むことを通して、文字に触発されつつ、自分の内部へと帰る行為である。本書は、このような機会を提供できればと願って書かれたものである。
本書は、『現代思想のキイ・ワード』と題されているように、いくつかの同時代の重要な言葉をとりあげる。ひとつひとつの言葉は、そのなかに大きな思想を宿している。生きた言葉は、たとえ抽象的なテクニカル・ターム(専門用語)であっても、読者とぶつかって激しい衝撃力をもつかぎりは、真実の思想の言葉となる。ひとつひとつの言葉を生きた言葉にするのは、言葉のつくり手だけでなく、言葉を受けとめる読者の仕事である。
読者が言葉を生きたものにすることはもっとも大切なことだが、もうひとつその前に、言葉がつくり出される生産面と文脈もきわめて大切である。この生産面と文脈を理解してこそ、言葉を受けとる者もより深く言葉の内側へと入っていくことができるからである。
思想の言葉は、思想家とひとつになっている。どのような文脈と経験からひとりの思想家がキイ・ワードをつくったのか。この点を本書は重視する。重要な思想家をキイ・パーソンとよべば、キイ・ワードはキイ・パーソンとともに語られなくてはならない。もし思想の言葉がある種のクセをもつとすれば、それは言葉が独自の個性をもつ思想家の産物だからである。思想の言葉の理解は、言葉のクセや個性に注目することから始まる。クセや個性のない言葉は、道具にはなりえても、生きた思想の言葉にはなりえない。キイ・パーソンとともにキイ・ワードが理解されはじめるとき、言葉というミクロ・コスモスから思想というマクロ・コスモスへの道が見えてくる。
したがって本書は、用語辞典の性質はもたない。人と言葉と思想を一体として語るひとつの現代思想入門が、本書のめざすところである。
[#改ページ]
第T部[#「第T部」はゴシック体]
[#改ページ]
ノマドロジー(遊牧論)
現代思想のキイ・ワードを語るに際して、何を冒頭にもってくるかは大いに迷う。体系的に語る必要はないし、そんなことができるわけもないのだから、何から語りはじめてもかまわないようなものだが、それでもやはり現代思想の入口になるような、それらしき雰囲気を示唆するような言葉がいるのではないか。あれこれ迷った挙句、けたたましく、華々しい雄叫《おたけ》びから始めてみよう、という結論におちついた次第である。現代は明るそうにみえてなお暗いところが多い。勇ましいかけ声は、たとえ軽薄にみえても、人びとを鼓舞することがある。そのひとつの叫び声が、ノマドロジーなのである。まずはこのキイ・ワードを味わってみよう。
リゾーム[#「リゾーム」はゴシック体]
ジル・ドゥルーズというフランスの哲学者がいる。かれの哲学や文学批評は、フランスやヨーロッパ諸国ではつとに高い評価をうけてよく読まれてきた(ドゥルーズとガタリの共著『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』、ともに河出書房新社)。邦訳書や紹介論文などをつうじて、若い青年層のなかにドゥルーズへの関心が高まった。ドゥルーズ(とガタリ)の思想のエッセンスを要約した『リゾーム』(朝日出版社)は、若者のあいだに熱狂的な読者をみいだした。
『リゾーム』は、もともとは、大著への序論にすぎず、理論的な展開というよりも、イメージを喚起する形で書かれた修辞的な論文であって、それほどはっきりした理論的構造を示すものではない。それでも、日本の若い読者たちはかなり敏感に反応する。『リゾーム』が、哲学的というよりも、文学的イメージをもって書かれているがゆえに、厳格な理論書よりもすぐれて青年の心に訴えるところがあるからであろう。日本の青年たちは、『リゾーム』をリゾーム感覚で読んできたのである。これは、ドゥルーズとガタリのもっとも望んだところであろう。
フランスの青年はドゥルーズとガタリの本を母国語ですべて読むことができるはずであるが、はたして日本の青年たち以上に、リゾーム感覚でかれらの著作を読んできたのだろうか。私の知るかぎりでは、一九七〇年代から八〇年代のフランスでは、たいしてドゥルーズ熱がはびこっているとは見えなかったが、反対に日本ではドゥルーズ熱がいち早く上陸した。
リゾーム感覚[#「リゾーム感覚」はゴシック体]
少しずつドゥルーズの思想に関心が高まってきたところへ、浅田彰の『構造と力』(勁草書房)が出た。この本は、完全にドゥルージアンの本である。著者の浅田彰自身が、日本の若き世代の時代感覚をもっともよく体現しており、ドゥルーズ的リゾーム感覚をもっともよく発揮している。日本のリゾーム感覚が本能的にリゾーム的哲学をかぎつけるのは、自然のなりゆきである。浅田彰だけでなく、現在の二十代から三十代前半の青年層は、リゾームというドゥルーズ的用語を知らなくても、自然発生的にリゾーム的に生きている。かれらがドゥルーズに出会うのはむしろ必然なのである。
いやそれどころか、四十代の人間をも、ドゥルーズの思想はとらえているかにみえる。吉本隆明と栗本慎一郎の『相対幻論』(冬樹社、一九八三年)は、ベストセラーになったが、この本のなかで、栗本慎一郎は、しきりに、熱狂的にドゥルーズ、ドゥルーズと叫んでいる。吉本隆明は冷静にドゥルーズを「批判的マルクス主義」の中に算入して、たいして心をうばわれていない。
ドゥルーズが批判的マルクス主義かどうかはともかくとして、吉本隆明がドゥルーズ的リゾームに熱狂しないのは当然であるが、栗本がドゥルージアンに宗旨がえをした事実は、ひとつの発見である。まことにおもしろいことだ。ドゥルーズの思想が日本で人びとをとらえているという証拠のひとつであろう。
私は、ドゥルーズの立論に感心し、そこから刺激を受けているひとりであるが、ドゥルージアンではない。二十代から三十代半ばまでの青年がドゥルージアンたりうるのは、自然である。四十歳をこえた者がドゥルージアンであるのは、若々しく立派であるが、他面ではガキっぽいことでもある。年をとって、ガキっぽいのも、たしかにひとつのメリットである。ドゥルーズはそれを自ら実践したところが偉い。
消費社会とリゾーム感覚[#「消費社会とリゾーム感覚」はゴシック体]
フランスやヨーロッパではなくて、ほかならぬ日本で、かくもドゥルージアンが発生したのは、なぜであろうか。
ひとつは、日本の社会生活の現実が、ドゥルージアンをつくりだすリゾーム感覚的現実になっていることが考えられる。フランスのゴタゴタした現実はとてもこんな状況ではあるまい。
ボードリヤールがいった消費社会のことを考えてみてもよい。消費社会とは、アメリカや日本では現実であっても、ヨーロッパではそうではないのだ。ボードリヤール的消費社会[#「消費社会」はゴシック体]やシミュレーション社会[#「シミュレーション社会」はゴシック体]でも、ドゥルーズ的リゾームでも、日本のほうがはるかに現実的にうけとめられるのだ。リゾームとは、地下茎のごとく多様にいりくみ、多方向的に展開する生活の現実[#「リゾームとは、地下茎のごとく多様にいりくみ、多方向的に展開する生活の現実」はゴシック体]を隠喩的に表現する言葉であるが、物質的にも精神的にもリゾームが現実的になるのは、高度資本主義の生産力と消費生活があってのことだろう。
ヨーロッパでは、まだまだユートピア的なものが、日本では現実的になる。ヨーロッパでは理論的・哲学的にしか語れないリゾーム的生活は、日本では比較的現実のものになっている。
ドゥルーズとガタリの著作、とりわけ『リゾーム』と『千のプラトー』は、皮肉なめぐりあわせで、著者の予想をこえて、日本の現代の生活実感を先取りしたものとすらいえる。若い世代は、このことを本能的に気づいているし、栗本のようにあまり若くないが動物感覚的するどさをもつ人も、これに気づいたのである。
フランス人の先取り的議論は、フランスではなくて、日本でより多くうけとめられてきた。かつてボードリヤールがそうであったし、ドゥルーズがそうなった。かれら以外の誰であっても、先取り感覚をもつ思想家は、日本ですばやくうけとめられるであろう。社会的現実面での彼我の差がそうさせる。これはひとつの法則である。
ノマド願望[#「ノマド願望」はゴシック体]
だが、それにしても、リゾーム感覚とは具体的には何だろう。先に、地下茎のイメージで語ったが、生活のあり方の面で、リゾームとは何にあたるのか。
ドゥルーズとガタリの著作のなかで、もっとも興味深い議論のひとつは、ノマドロジーである。ノマド(遊牧民)論の意である。砂漠の民やジプシーのことを考えてみるのがよい。かれらは、国境などというものを知らず、知っていても無視して、大地をかけぬける。定住民のごとく、一定の場所に根づいて安定した生活を送ろうともしない。地球全体がかれらノマドの生活空間である。私有の観念や囲い込む精神もかれらには無縁である。万物は逆旅《げきりよ》にして、欲望のおもむくままに旅をし、生活を楽しむ。定住民との戦いが不可避とあれば、いつでも戦う用意はあるが、戦いは避けられるならば、可能なかぎり避けるであろう。ドゥルーズは、ノマド的生活を戦争機械[#「戦争機械」はゴシック体]ともよんでいる。この戦争は、陰気な血なまぐささで考えられているのではなく、もっと陽気に、ゲーム(遊戯)とひとつになった生活のあり方として考えられている。戦うときは、祭りのごとく、遊戯のごとく戦えといっているのである。これがノマドのイメージである。
ヨーロッパのように階級社会と身分社会がいつまでも残存している定住民社会からみれば、ノマドはつねに異邦人であり、敵であり、おそろしいものだ。他方では、定住民からみれば、ノマドの生活は一種のノスタルジーと憧憬をよびおこす。このノスタルジーにロマンティックにひかれてノマド的生活にとびこんだ有名人は多い(バイロン、ランボー、アラビアのロレンスなど)。ドゥルーズとガタリのノマドロジーも、あるいはひとつのノスタルジーかもしれない。
しかし、ひるがえって考えてみると、ノマドロジーは現在では単なるユートピアでもロマンティックなノスタルジーでもなくて、現実になりつつあるのではないか。社会生活の動きが、いろいろの領域で、ノマド的生活の現実化をうながしているのではないか。たしかにそうなのである。
ヨーロッパでもいずれそうなるだろう。日本では、すでに現実化しはじめている。たとえ皮相な形ではあれ、生活を多様化し、多面的に関心を伸ばし、狭くおのれをかぎらない生き方[#「生活を多様化し、多面的に関心を伸ばし、狭くおのれをかぎらない生き方」はゴシック体]が、自然発生的に登場しているのは、けっして否定的なことではない。多様性や多面性の自発的展開をおしとどめて、ひとつの画一的な道に追いこむ制度化はいまもなお強いが、それに抗して、それをおしかえす若々しい力も大きく登場しはじめていることも確かなのだ。日本中世の遊行《ゆぎよう》の民や無縁界への関心が強いのも、ノマドロジックな感覚のあらわれである。リゾーム感覚とノマドロジーの時代がはじまりかけているのだ。
[#改ページ]
否定弁証法
ノマドロジーやリゾームは明るい展望を与える。けれども、現代思想は明るさに充ちているわけではない。明るい思想が出てくるのも、その背景に暗い現実があるからだ。暗闇が濃いほど、明るさはいっそう際立つ。そうだとすれば、暗い現実と戦う思想のなかから、現代思想のキイ・ワードをとり出さねばならないはずである。今度は一転して、いやがうえにも暗い思想をとりあげよう。否定性の思想がそれである。
アウシュヴィッツとヒロシマ[#「アウシュヴィッツとヒロシマ」はゴシック体]
アウシュヴィッツの後では、もはや詩を書くことはできない。この命題は、一般化されるとまちがいのもとになる。なぜなら、果てしない苦しみも表現の権利をもち、犠牲者も叫ぶ権利をもつからである。しかし歴史的現実としてのアウシュヴィッツの経験[#「アウシュヴィッツの経験」はゴシック体]は、事実において、人びとの詩をつくる意欲をうちくだく。アウシュヴィッツは、時代の象徴であって、強制収容所[#「強制収容所」はゴシック体]だけでなく、それをつくりだした歴史的現実のすべてが問われる。ドイツだけの経験ではない。ロシア、アメリカ、日本の経験のすべてが、アウシュヴィッツ的である。あるいはアウシュヴィッツ=ヒロシマ的である。
アウシュヴィッツ的なもの、ヒロシマ的なものは、二十世紀現代の本質を表出する。大量虐殺は、人間の死を日常化し、個体的生の現実性をすべて無化する。個体の存在が否定され、死が全体をおおい、すべての仔牛が黒い夜のごとく、個体的生をまっくろにするとき、詩をつくることも哲学することも不可能になる[#「個体の存在が否定され、死が全体をおおい、すべての仔牛が黒い夜のごとく、個体的生をまっくろにするとき、詩をつくることも哲学することも不可能になる」はゴシック体]。人びとは、生物的生を生きつづけるにしても、真実にいきいきと生きる感覚を喪失し、どこにも足がかりを得られずに、ただひたすら時代の傍観者になる。傍観者になるとは、自覚的批判的に時代を観望するという意味ではなく、収容所のガス室に送りこまれる同胞をなすすべもなく見送るほかになかった途方もなく麻痺した感覚、強制された無力な観察者の状態をさす。この現実を、あるがままに具体的に知りたければ、ぜひともエリ・ヴィーゼルの『夜・夜明け・昼』と『幸運の町』(ともにみすず書房)を読むべきである。いかなる歴史書にもまさって、ヴィーゼルは、二十世紀のもっとも重要な事件と現実の本質を教えてくれる。ヴィーゼルは、ユダヤ人として、アウシュヴィッツに収容され、生きのこった時代の証言者[#「時代の証言者」はゴシック体]である。
いっさいの個体性が消去されるとき、異質で独自のクオリティも消失する。個人は、全面的に死におおわれた人間なるものの代表見本でしかない。無意味な物質と化した人間という同一性のなかに、個体という非同一性が解消していく。なぜ、個体が非同一性[#「非同一性」はゴシック体]なのか。個体とは、それぞれが互いに異質にして独自の宇宙をもち、多面的な生を送りうる存在であって、ひとつの観念、ひとつの制度にはけっしてとりこまれる(同一化される)ことはできないものであるからだ。個体の生の充実感がなければ、詩などは生まれない。同一性と全体主義的な全体への抵抗の拠点となる非同一性がなければ、芸術だけでなく、認識の努力も生まれない。アウシュヴィッツの後では、詩も哲学も不可能となる。
この体験は思想にとって決定的である。芸術や哲学が不可能だとしても、生きることができればよいではないか。そうはいかないところが問題である。ふつうならガス室で死んだであろうが、たまたま死を免れた人間が、生きのびていることの責任を問われる。思想の責任とは、生きのびた者の生き方の責任である。
アドルノは、一九四四年にガス室で死ぬべき運命の下にあったが、たまたま外国で生きのびることのできたひとりである。生きのびたひとりとして、アドルノは生き残る者の責任を思想の内部でとろうとする。エリ・ヴィーゼルは芸術によって責任をひきうける。芸術と哲学の不可能性に抗して、芸術と哲学の可能性を、それらの甦《よみがえ》りを試みる。啓蒙の展開の帰結がアウシュヴィッツ=ヒロシマであったとすれば、この帰結にいたる啓蒙の歴史過程をあばきださねばならない。そうすることによって、真実の啓蒙を復活させ、啓蒙の堕落をふせぎとめる方法と精神を見つけださなくてはならない。アドルノの「否定弁証法」はこの課題の実現である。
否定弁証法[#「否定弁証法」はゴシック体]
アドルノの否定の弁証法[#「否定の弁証法」はゴシック体]は、伝統的な弁証法への侵犯である。弁証法は、否定の契機を含むけれども、その否定作用はつねに肯定を産出することにある。否定の弁証法は、肯定の弁証法と対立するとき、どこで対立するかというと、否定作用を肯定の産出に限定する思想を斬る点にある。プラトンからヘーゲルにいたる伝統的弁証法のなかで、否定作用が肯定を産出する、ちょうどそのプロセスを切断する。弁証法を肯定的本質から解放する。肯定の弁証法は、同一性の弁証法であり、根拠の哲学である。このような思考は、個体的変異、個体による多面的な差異化を抹殺し、クセのない画一的な存在につくりかえてしまう。個体はせいぜい全体のとりかえのきく部分として許されるものでしかない。こういう思考は、権力の思考[#「権力の思考」はゴシック体]ではないだろうか。根拠と同一性を欲望することこそ、肯定性の内容である。肯定の弁証法が否定を含んでいるにしても、その否定性は肯定性のしもべでしかない。それは肯定性と同一性を産出するための道具でしかない。
アドルノは否定性を肯定性のための単なる道具から解放し、否定性のラディカリズムを救出しようとする。ヘーゲルは『精神現象学』のなかでこうのべている。「精神は絶対的分裂のうちに身を置くことによってのみ、自らの真理をかち取ることができる。精神にかくも威力がそなわっているのは、否定的な事態から目をそらす肯定的なものであるからではない。……ひとえに否定的な事態に目をすえ、それにかかずらうことによってのみ、かかる威力が精神にそなわってくるのである。」そうすると、ヘーゲルとアドルノはたいして違いがないのであろうか。ヘーゲルのこの言葉は、そのままアドルノの言葉でもあるといってよい。
アドルノは、ヘーゲルのなかにある否定の弁証法をラディカルにうけつぐ。その点では、アドルノはヘーゲリヤンである。しかし、アドルノは、ヘーゲルのなかにある否定の弁証法の消極性を拒否する。ヘーゲルは体系と全体性を重視する。それに比べると否定性や非同一性の契機は、どんなに重要でも二次的になる傾向がある。否定性と非同一性の担い手である個物(個体、個人)もまた二次的になる。ヘーゲルの「否定弁証法」の宣言にもかかわらず、ヘーゲルはその体系性と全体性、あるいは、同一性と肯定性の中心化のゆえに、おのれの否定弁証法の精神をうらぎりつづける。
非同一的なもの[#「非同一的なもの」はゴシック体]
アドルノは、『否定の弁証法』の序文のなかで、根拠の概念の批判と内容的思考の優位を宣言している。古代ギリシア以来の「根拠」への思考を根底から解体することも、否定の弁証法の課題であるが、それは同時に「内容的思考」をもって「形式的思考」を批判することとひとつである。形相(形式)的思考は、概念的思考である。ヘーゲルの概念的思考は、概念の自己創造過程である。形相(形式)と概念の自己閉鎖性は、イデアや絶対精神の自己同一性の土台の上で可能である。アドルノのいう「内容的思考」は、概念や形式のなかに全面的に吸収されえない非概念的なものをとことんまで重視し、非概念的なもの[#「非概念的なもの」はゴシック体]によって、概念的なもの、形相的なものを批判する。
アドルノのいう非概念的なものをマテリー[#「マテリー」はゴシック体]とよんでもよい。概念と形相の哲学は、そして同一性と肯定性の哲学、要するに「根拠」の哲学は、概念的なものがつねにいたるところで非概念的なものにとりつかれていること、それによって媒介されていることを忘却し、無視し、消去する。イデアリスムがひとつのイデオロギーに変質するのは、非概念的なものやマテリーの作用を、あたかも存在しないかのごとく処理するからである。否定の弁証法は、このトリックをあばきたてる。近年、こうした「批判」は陰険なやり口だとして評判が悪いが、しかしよく考えてみると、けっして概念化できないもの、全面的には形相化できないものの存在やその思考への作用を無視して隠蔽するほうがずっと陰険である。
理性の治療[#「理性の治療」はゴシック体]
イデアリスムや伝統哲学の批判というとき、歴史的マルクス主義は性急に「実践」をもちだす。若きマルクスの実にアイマイなテーゼ(「解釈するのではなく、世界を変革することが問題だ」、「実践こそ真理の基準だ」……)を楯にとって、いわゆる「実践」をもって哲学の批判は終わったと称するドグマティズムがある。
アドルノの批判理論は、こういう手合いから一種のイデアリスムだと批判されているが、ひるがえって考えてみると、いわゆる「実践」も、たとえ素朴な政治的実践であっても、ひとつの概念である。実践の概念もまた、いつのまにやら、根拠、同一性、肯定性の形而上学におちいっている。アドルノはこうした自称唯物論の形而上学をも伝統哲学として切りすてるし、またそれは正しいことだ。
アドルノは、あくまで哲学と概念のなかにふみとどまりつつ、しかし同時に「内容的なもの」(インハルト、ザッヘ)の作用を、それによる媒介性をつきつける。それは終わりなき作業であり、迷妄へとおちこんだ啓蒙の治療[#「啓蒙の治療」はゴシック体]である。あくまで頑固なマテリーと個物にとどまりつづけること、非同一性に賭けること、これがアドルノの思想である。
[#改ページ]
批判理論
世界中でフランクフルト学派への関心が高まった時期がある。ドイツでは、一九六八年前後に、学生運動の高まりとともにフランクフルト学派の遺産が学ばれたが、ひとたび沈静した後に、もっと冷静な形で、アドルノやホルクハイマー、マルクーゼの再読の気運が再びもりあがった。フランス、イギリス、アメリカでは、八〇年代半ばがフランクフルト学派の輸入の時期にあたっている。ドイツ以外の国のうち、日本では早くからフランクフルト学派への関心はどこよりも強く、一九六〇年代以降すぐれた研究が始まっていたが、八〇年代にはそれ以上の規模でフランクフルト学派への関心が高まった。フランクフルト学派とその批判理論は、全世界的にみても、現代思想のキイ・ワードになったのである。そこで、ここでは、フランクフルト学派の大立物マックス・ホルクハイマーをとりあげて、批判理論の軌跡を追っておくことにしよう。
啓蒙の弁証法[#「啓蒙の弁証法」はゴシック体]
マックス・ホルクハイマーは、アドルノとともにフランクフルト学派の中心人物であった。かれは、批判理論をもって伝統的理論と対決した。伝統的理論とは、形而上学やブルジョア的歴史哲学、さまざまの反動的イデオロギーなどの総称といってよい。
初期のホルクハイマーの批判理論は、マルクス主義の立場に立ち、当時大きく登場してきたファシズムの嵐に立ち向かおうとしていた。批判理論の仕事は、ファシズムに対して思想的に抵抗することだけでなく、ファシズムを許してしまうようなさまざまのイデオロギーをも批判の射程に入れる。批判理論は、マルクスが開始したイデオロギー批判を現代にひきつぎ、発展させるものであった。
ホルクハイマーは、マルクス主義から出発しながらも、ファシズムと第二次大戦の体験を通して、批判理論の初期にみられた明るさを失い、諦念をともなう暗いペシミズムへとおちこんでいったようにみえる。希望の光であったマルクス主義のスターリニズムへの変質、ロシア社会主義の全体主義的現実に直面して、ホルクハイマーは、革命という理念に疑いをもちはじめる。マルクス主義や社会主義への疑いが大きくなる時期に書かれた書物が、アドルノとの共著である『啓蒙の弁証法』である。ハーバーマスは、この書物を「暗い書物」とよんでいる。
たしかに、それはまことに暗い。ギリシア以来の啓蒙の歴史は、啓蒙の本来の使命を失って野蛮へとおちこむ。理性は技術と化し、道具化した理性は権力の奉仕者となる[#「理性は技術と化し、道具化した理性は権力の奉仕者となる」はゴシック体]。ファシズムとスターリニズムは、啓蒙がいきついた極限である。たとえ進歩があったとしても、その進歩のために支払った代価はきわめて高い。『啓蒙の弁証法』は、絶望する前に、なお啓蒙の新しい形態を模索しつつ、伝統的啓蒙と闘おうとする課題をもっていた。野蛮にいきつくことがあまりにもはっきりしている啓蒙の弁証法的展開のなかで、必ずしも希望が保証されていない哲学的努力をすること自体が、きわめて暗い性格を帯びる。戦後のホルクハイマーはほとんど沈黙する。
マルクス主義批判[#「マルクス主義批判」はゴシック体]
ところが、ホルクハイマーは、一九七〇年に沈黙をやぶって発言する。アドルノの死の直後に発表された「批判理論、昨日と今日」という論文は、いろいろの意味で興味深い。この論文は、ホルクハイマーの遺言書ともいえるもので、アドルノとともに歩んだ批判理論の歴史を回顧しつつ、同時にきたるべき世代に向けてなすべき課題を提示している。
それは、ホルクハイマーによれば、古い批判理論にとって代わるべき新しい批判理論の提示なのである。晩年のホルクハイマーは、かつての批判理論の立場を全面的に放棄する。それは、マルクス主義を否認することである。マルクス主義の革命的展望を根拠づけるものであったいくつかの点は、現代ではまったく消失してしまったのである。窮乏化法則はなくなり、プロレタリアートも消える。革命に結びつくはずであった恐慌ももはやない。また正義と自由との調和がかつては期待されたが、今ではそんな期待はとうていもつことはできない、経済の面でも政治の面でも、マルクス主義の思想的、実践的有効性が消えた、とホルクハイマーは考える。
とりわけ正義と自由との敵対関係[#「正義と自由との敵対関係」はゴシック体]が重要である。「正義があればあるほど、自由はますます少なくなる。」社会は、いろいろの正義の名の下に(ファシズム的正義、スターリニズム的正義)、あらゆる人びとを全体主義的に管理する。現代の動向とは、政治的正義の過剰、管理と支配の過剰と、個人の自由の過少と縮小とが並行して進展するといった事態である。これが、人類史とともに開始した啓蒙の帰結である。かつてのホルクハイマーは、この啓蒙の歴史に対抗して啓蒙をもって闘おうとした。しかし新しい批判理論は、それを虚妄とみなす。
「こういうわけで、新しい批判理論はもう革命のために闘うつもりはありません。考えてもみてください。ナチの没落後、東の国々でも革命は新しいテロリズムの形態、新たなおそるべき状態にいきついてしまったのです。進歩をおしとどめることなしに、私たちが積極的なものと評価できるものを保存するほうがよいのです――たとえば、個人の自立、個人の重要性、さまざまな個人心理、文化のいくつかの側面などがそうです。――私たちが失いたくないもの、つまり個人の自律性を、どうしても必要なものとして、決して妨げてはならぬものとして保存することです。」
個体の自律[#「個体の自律」はゴシック体]
資本主義であれ社会主義であれ、ファシズムであれスターリニズムであれ、やり口は違っても、社会を全体主義的に管理し個人の自由と自立を圧殺することに変わりはない。あるいはこうもいえるかもしれない。経済としての資本主義だけでなく、文化と啓蒙としての資本主義は、社会主義をも吸収し、自分の一分肢として合体したといえるだろう。社会主義は資本主義をのりこえたのではなく、資本主義を延長したのである。世界史の必然的傾向がこうだとすれば、新批判理論の課題は明白である。――万難を排して個体の自律[#「個体の自律」はゴシック体]を守ること。
だが、どうすれば、この自律性を守ることができようか。ここに、晩年のホルクハイマーの独自性が出てくる。ホルクハイマーは、個体の自律性を守るための思想的支柱として、かつて宗教がもっていたもっとも積極的な真理内容を復権させようとする。「他者」[#「「他者」」はゴシック体]があること、無限[#「無限」はゴシック体]があることを認めよう。他者と無限への「ノスタルジックな欲望」をかきたて、それによって有限な存在のおごりを抑えねばならない。
ホルクハイマーは、旧神学や既存の宗教ドグマを復権せよというのではないが、宗教がもっていた原罪論の本来の意味を継承しようというのである。「たとえわれわれが幸福でありうるとしても、その幸福の一瞬一瞬は、数限りない他の被造物(人間であれ動物であれ)の犠牲によって贖《あがな》われているのだ。」絶対的正義などは語りえない。われわれがいいうるのは、ただ、どこに悪があるのかを指摘することのみである。人間がこうした良心をもって生きることこそ、批判理論の思想に通ずる、とホルクハイマーはいう。
原罪論には、悲しみの情念がともなう。苦悩のなかで悲しみの情念が育てられる。原罪とは、人間の暴力的存在と同義である。「この一瞬一瞬に、地球上いたるところで人びとは虐殺され、おそるべき状況で、苦悩と悲惨の中で生きていかねばならない。最悪のことは、けっして飢えではなくて、暴力を前にした苦悩である。まさにこの暴力を告発することが、批判理論の課題である。」
権力と暴力[#「権力と暴力」はゴシック体]
もはや、安易な進歩崇拝を採ることはできない。進歩は、フランス革命以来、途方もない犠牲を要求してきた。進歩[#「進歩」はゴシック体]とともに、それだけが真の現実であるはずの個体的自由と自立が衰退してきたのだとすれば、進歩というスローガンに結集するいっさいの合理性を根本から問いなおさなくてはならない。
第一に、理論的課題としては、理性と知識がどう支配権力と結びつくかを解明しなくてはならない。合理性の歴史的内容を分析しなくてはならない。
第二に、実践的には、暴力の発現を抑制する倫理的基準を探求しなくてはならない。
ホルクハイマーの遺言のうち、第一の課題は、ドイツのハーバーマスとフランスのフーコーが取り組んで重要な成果をもたらした。第二の課題は、まだとうてい成果があるとはいえない状況にある。けれども、たとえば、フランスのレヴィナスの哲学は、ほとんどホルクハイマーの問題意識と重なっている。レヴィナスの哲学的研究は、ぴたりと暴力に照準を合わせている。レヴィナス的な方向がさらに多くの人びとに共有されるとき、ホルクハイマーの期待は、もっと広い思想圏の中で充たされるであろう。
少なくとも私は、この仕事の一端を担いたいと考えている。
[#改ページ]
脱中心化(知の考古学)
昔に比べれば、現代に生きる個人の自由度は増していると、人びとは確信しているのではないだろうか。たしかにそうだ。その点だけを極度に誇張すれば、今後の人類の社会生活は明るさいっぱいの楽しい未来をもつといいたくなるだろう。事実、そういう甘い楽観主義を素朴にぶちあげている人もいる。だが、悲しいことにそうはいかない。二十世紀の歴史的経験をふりかえってみると、相当うっとうしい現実がしばしば眼を撃つ。近代の歴史が一歩進むごとに、確かに個々人の自由度も自立度も高まったが、それ以上に、個々人の生き活動する範囲を狭める力も大きくなっていく。合理性の前進と深化は、他方では個体的自由と自律の制限でもあった。そのことを端的に、誰の目にも明らかにしたのが、この二十世紀であった。世界大戦が二度もおこり、ファシズム、ナチズム、スターリニズムなどが時を同じくして生誕したことをみても、そのことは明らかである。二十世紀の社会的現実を、ひとは、全体主義[#「全体主義」はゴシック体]とか管理社会[#「管理社会」はゴシック体]とかよぶが、いずれにしても、私たちにとってもっともリアルな個人的生活世界が息苦しくなったことに変わりはない。社会が良くなったか悪くなったかの判断を可能にする健全な基準は、たぶんひとつだろう。それは、具体的に生きている個人の内面的、外面的生活が充実しているかどうかである。充実とは、生活が楽しいことであり、その楽しさは、個人の自律と自由なしにはありえない。
個人の自律と自由を圧殺する動きを全体化という。秩序と支配が効率的に運営されるかぎりで、適当に個人の自由の存続を許しはするが、それ以上の逸脱は許さず、また危機の時にはいっさいの自由を圧殺する、というのが全体化[#「全体化」はゴシック体]であり、権力の中心化[#「中心化」はゴシック体]である。
近代は理性の時代だという。近代的理性の開発にもかかわらず、なぜ二十世紀は理性の原則をくつがえして、全体化と中心化の支配ばかりが大きくなったのか。二十世紀だけが例外であるのか、それとも近代全体が二十世紀の全体主義へといきつく内在的傾向をかかえこんでいたのか。こうした問いは、歴史学的な問いであると同時に、哲学的な問いでもある。この問いの二重性をあわせてひきうけてみた思想家たちが、前にみたフランクフルト学派の人びとであり、またフランスのミシェル・フーコーであった。ここでは、フーコーをとりあげて、全体化と中心化に抗する脱中心化[#「脱中心化」はゴシック体]の意味を考えてみたい。
歴史と哲学の結合[#「歴史と哲学の結合」はゴシック体]
ミシェル・フーコーは働き盛りのときに急逝した。まだ五十代の働き盛りであった。『狂気の歴史』『言葉と物』『監獄の誕生』などの著作によって、すでに数多くの話題を提供し、思想界に強い刺激を与えてきたフーコーのことだから、その後も長生きしつづけたとしたら、どんなに巨大な仕事を成し遂げたかしれない。
かれは、哲学者でありつづけたが、ふつうの形での哲学的な表現形式を選ばないで、歴史研究を選ぶ。それは、哲学の歴史といったものではない。たとえば、狂気の歴史を描くことで理性の在り方を問いなおし、市民社会の内部に浸透する諸権力の分析を通して、権力に奉仕する人間諸科学の本質をあばきだす[#「市民社会の内部に浸透する諸権力の分析を通して、権力に奉仕する人間諸科学の本質をあばきだす」はゴシック体]。
フーコーの歴史研究は、歴史学者の歴史とは違って、つねに哲学的な問いを秘めており、歴史的出来事が哲学的な問いによっておもわぬ光のもとにさらされる。フーコーは、歴史学的叙述を通して、哲学を実践する。フーコーは、このような形で、伝統的な哲学研究から身をもぎ離したのである。
フーコーにとって、アカデミックな哲学研究を継続することは考えられもしなかった。反対に、フーコーの狙いは、理性、知識、合理性といった一群の哲学的諸問題を、歴史の文脈の中に位置づけなおして、批判することであった。そこにフーコーがふつうの意味での歴史家になれない理由もある。
フーコーは、あくまで、西欧哲学の内在的な自己批判を実践する人であり、その意味での反哲学者[#「反哲学者」はゴシック体]であった。
知と権力[#「知と権力」はゴシック体]
ところで、フーコーについては日本でも多くのことが語られてきた。けれども、あまり注目されていないが、たいへん興味深い事実がひとつある。それは、フーコーとフランクフルト学派との親近性ということである。
フーコーの仕事全体を貫いている大きいテーマは、理性、知識、合理性といった広義の啓蒙現象を、権力と支配と暴力との関係の視座からとらえなおすこと[#「権力と支配と暴力との関係の視座からとらえなおすこと」はゴシック体]である。「啓蒙とは何か」という問いは、カントの有名な論文から、マルクスとウェーバーを通って、アドルノやホルクハイマーまでつづいていくが、この問題をフーコーは事実上独力で問いなおしたのである。フーコーが取り組んだ狂気、監獄、人間科学の形成過程、性現象などは、近代の啓蒙(合理性)の諸現象である。アドルノとホルクハイマーは『啓蒙の弁証法』を書いたが、フーコーはその仕事全体を通して、いわば啓蒙の弁証法を書いたともいえるだろう。
フーコーがジェラール・ローレとの対談(『テロス』一九八三年春)のなかで語っているように、かれは久しい間、フランクフルト学派について何も知らなかった。それは、フランスの思想界が一九三〇年代以来、フランクフルト学派の仕事を無視していたことの結果である。フーコーはこんなことを述べている――もしも私がフランクフルト学派の仕事をもっとはやく知っていたとしたら、あれほどのまわり道をしたり、つまらぬまちがいを犯したりしないでもすんだであろう、と。遅ればせに、フーコーはフランクフルト学派の仕事を知り、そこに自分の仕事の先駆を認め、あらためてドイツの先達の遺産を再評価しつつ、しかもそれを新たな研究をもって拡大していこうとしていた。
最近では、フランスでも、フランクフルト学派の仕事がつぎつぎと翻訳されるようになった。アドルノやホルクハイマーを読む人もふえてきている。しかし、仕事の内容からいえば、フーコーこそフランクフルト学派の血筋であり、それを真にうけついだ人といえるだろう。奇妙なことだが、ドイツよりもフランスにおいて、フランクフルト学派はよりよく発展させられたとすらいえるだろう。この点は、もう少し突っこんで考えてみるに値する。
啓蒙と野蛮[#「啓蒙と野蛮」はゴシック体]
フランクフルトの「批判理論」グループは、啓蒙が長い歴史の果てに再び野蛮に転化することを証明しようとした。とりわけ、啓蒙は近代に入って技術的・道具的理性[#「技術的・道具的理性」はゴシック体]に変質し、さまざまの実証主義のイデオロギーに助けられながら、権力と秩序に奉仕する。近代の理想であった自立した主観性は、実際には完全に他律的になり、権力の僕《しもべ》になる。サブジェクティヴィティ[#「サブジェクティヴィティ」はゴシック体](主観性)は、サブジェクション[#「は、サブジェクション」はゴシック体](隷属)となる[#「となる」はゴシック体]。啓蒙の歴史の帰結の政治的表現がファシズムであり、スターリニズムである。
野蛮になりさがった啓蒙を批判し、のりこえるには、野蛮にならない啓蒙の道を模索しなくてはならない。理性への不信と理性への期待との両極を、批判理論は歩きぬかねばならない。理性への完全な不信は、非合理主義に陥る。理性への無批判的信頼は実証主義に陥る。アドルノの戦略たる「否定の弁証法」は、このきわどい綱渡りを模範的な形で示してくれる。いっさいの希望が消えたときに、なお人は希望を語りうるだろうか。希望なきもののための希望[#「希望なきもののための希望」はゴシック体]というベンヤミン的テーゼをかかげつつ、アドルノたちは戦後史を生きぬいた。つまり、このような展望こそが、全体化の支配圏から脱出する精神の運動を活性化するのである。権力の全体化は、いっさいを中心へと収斂《しゆうれん》させる。権力的中心化を内部からゆるがし、中心化を拒否して、中心化の魔手から免れる脱中心化[#「脱中心化」はゴシック体]の実践こそ、希望なき時代の希望[#「希望」はゴシック体]となるのである。
この思想的構図は、アドルノやホルクハイマーなどの暗さはないにしても、基本的にはフーコーと同世代のフランスの哲学者たちにもあてはまるのではなかろうか。フーコーは明らかに、アドルノにもっとも近い。しかしフーコーだけでなく、デリダやドゥルーズやリオタールらも、アドルノに近い。デリダのディコンストラクション[#「ディコンストラクション」はゴシック体]、ドゥルーズの逃走論[#「逃走論」はゴシック体]、リオタールの漂流論[#「漂流論」はゴシック体]などは、アドルノが限定的否定論をもって非同一性のそのつどの発見を主張したことから遠いものではない。七〇年代に入って、デリダやリオタールがアドルノやベンヤミンに接近するのは、けっして偶然ではないのだ。
フーコー対ハーバーマス[#「フーコー対ハーバーマス」はゴシック体]
フーコーを代表とするフランスの哲学者たちが、フランクフルト学派第一世代に近いことをもっともよく気づいているのが、ユルゲン・ハーバーマスである。周知のとおり、ハーバーマスは、アドルノとホルクハイマーの最良で最大の弟子であり、ドイツのフランクフルト学派の旗手である。しかし、ハーバーマスは、アドルノやホルクハイマーのもっとも鋭い批判者でもある。つまりハーバーマスは、ニヒリズムと思われかねないアドルノやホルクハイマーの思想と手を切るのである。
ハーバーマスは、アドルノたちによる啓蒙=野蛮のテーゼを拒否し、新たなる啓蒙の積極的建設に向かう。はっきりいえば、ハーバーマスは、アドルノ的否定弁証法ではなく、肯定弁証法につくのである。そこに、ハーバーマスによるカントとヘーゲルの再評価がみられる。かれの『対話的行為論』は、近年のハーバーマスの意図をよく示している。ハーバーマスには、対話的理性[#「対話的理性」はゴシック体]への限りない信頼がある。
ところが、フランスの哲学者には、ハーバーマスのようなオプティミスムはない。フーコーやデリダが希望をもたないわけではない。ただかれらは、アドルノらが見てしまった啓蒙と理性の暗い暗い裏面に着目するのである。フーコーやデリダは、アドルノの非同一性の哲学をアドルノ以上に徹底することで、形而上学と政治的なものとの共犯関係[#「形而上学と政治的なものとの共犯関係」はゴシック体]を白日のもとにさらす。ハーバーマスは、近年のフランス哲学の動きを「非合理主義」として非難するが、それは誤解というものだ。こういうやり口のなかに、ハーバーマスがアドルノをついに受け入れなかった理由もそこはかとなく現れている。
逆説的なことだが、アドルノたちの仕事は、ハーバーマスよりもフーコーのほうに受けつがれていると私は思う。フランス側の遅ればせの努力によって、フランクフルト学派の本来の意味が、かつて以上に解明される日も近いだろう。独力でフランクフルト学派に匹敵する仕事を成し遂げたフーコーを、あらためて称讃しておきたい。
[#改ページ]
呪われた部分(蕩尽)
破門された思想家[#「破門された思想家」はゴシック体]
どんなに偉大な哲学者でも、多くの人びとの心をとらえなければ何ものでもない。哲学がとらえる人びとは、必ずしも同時代人である必要もない。偉大な哲学者のなかには、同時代人に理解してもらえずに無視されたり、あるいは同時代人をおそれさせて、黙殺される例もある。かつて、スピノザがそうであったし、マルクスやニーチェもそうであった。
しかし、同時代人からは黙殺され敬遠された哲学も、それが真に偉大な内容をもつかぎりは、必ずや後世の人びとをとらえ、かくすることで、時代を動かすことにもなる。スピノザは、ヘルダーやゲーテ、シェリングやヘーゲルによって大々的に復活して以来、もはや消えることのできない古典的思想家として生きつづける。呪われ、破門された思想家[#「破門された思想家」はゴシック体]が、後世の努力によって発見され救出されるという事態は、思想史のなかにはしばしば起こる。
反対に、同時代人のなかで圧倒的な影響力をもち、無冠の帝王のごとくふるまう思想家が、時がすぎれば塵芥《ちりあくた》のごとく捨て去られ忘れ去られることも、思想史の常道である。
遠い過去に視力を注ぎ、いくつかの思想の有為転変をながめやることは、思想史を志すことの知的快楽である。ところが、近い過去や同時代の思想を扱うことは、必ずしも知的快楽をともなわない。むしろ、苦痛を感ずることのほうが多い。一人の思想家、一つの思想に教条主義よろしく没入しているかぎりは、快楽とはいわないまでも、ある種の陶酔感は得られよう。そうでない場合には、とくに冷静にたち向かう場合には、近い過去や同時代の思想(家)を扱うことには、いくたの困難をともなう。距離がとりにくいし、ある種の観念には共感はもてても、他の観念についてはさっぱりついていけない、ということがあって、遠い過去の思想(家)とつきあっていたほうが、ずっと気が楽なのである。
私は、現代フランスの思想家の仕事につきあうことが多いが、たとえば、ルイ・アルチュセールのように久しくつきあってきた人の思想ですら、どこか最後までわかりきることができないところがある。ましてや、あまりつきあわない思想家のいわんとすることには、どんなに努力しても了解に達することはむずかしいものだ。一般的にいって、二十世紀の思想家よりも、十九世紀の思想家がわかりやすいともいえるわけで、あまりに近い時代の思想は敬遠したいという気にもなってくる。
理性と非理性の間[#「理性と非理性の間」はゴシック体]
そうはいっても、同時代には無視するわけにはいかない思想家がいる。ジョルジュ・バタイユ[#「ジョルジュ・バタイユ」はゴシック体]は、きわめて重要な思想家だと思われるが、なんとも処理しかねる難物でもある。バタイユは、生前から論争の多い人物であり、死後の評価も決定したわけではなく、今後も評価の流動性は避けられないだろう。一部の文学者には熱狂的な崇拝者もいるはずであるが、文学畑を除くとバタイユを読んでみようとする人はまれである。かれの秘教的文体は読者の理解を遠ざけるから、サルトルがかちえたような多数の読者と圧倒的名声も期待できない。しかし、それでもバタイユという人物は、いちどは読んで、考えてみるに値する人である。どういう点で、再考に値するのか。
冒頭の話につなげていうと、バタイユは、スピノザほどではないにしても、呪われた思想家、破門された思想家といえなくもない。合理主義思想が圧倒的につよいフランスでも他の国でも、バタイユは神秘主義とみられがちであるし、非合理主義者というレッテルが貼られる。そうされる理由もあるのだが、ひるがえって考えてみると、理性の限界線上で、理性をこえ出る何ごとかをとらえ、思索しようとすれば、人は不可避に神秘主義や非合理主義とすれすれのところを歩まざるをえない[#「理性の限界線上で、理性をこえ出る何ごとかをとらえ、思索しようとすれば、人は不可避に神秘主義や非合理主義とすれすれのところを歩まざるをえない」はゴシック体]。しかし、この歩みは、「すれすれ」であって、完全に神秘主義でも非合理主義でもないのだ。理性の手にあまる現実は、つねに厳然としてあるし、そうした現実がイデオロギー的にごまかされていることだってある。いわゆる理性なるものがとらえきれないものを、「神秘」と名づけて、理性の圏内からたたき出したところで、いうところの「神秘」が消失するわけではない。
思考の経済にとっては、こういうやっかいな代物は敬遠したほうが得策である。思考の経済など意に介さない人間が、火中の栗を拾ってみようとする。理性の限界点でようやく姿が垣間見られるような現象は、どうころんでも、すっきりした理解も、明快な概念も得られはしない。きれいごとをいってすますほうが好きな人間たちは、こうしたことには手をださないほうがよい。バタイユのように、思想のドン・キホーテに甘んずる人、どろくさくても地道にザッヘにつきうる資格をもつ人のみが、この冒険的な精神の旅路につくことができる。
思考不可能なもの[#「思考不可能なもの」はゴシック体]
理性の限界線上に現れてはすぐに消えさるものは、すべて「思考不可能なもの」[#「「思考不可能なもの」」はゴシック体]であるが、この「思考不可能なもの」にも二つの型がある。ひとつは、イデオロギー的思考にとって思考不可能なものである。もうひとつは、原理的に理性の限界を画すごとき何ものかである。この二種の思考不可能事を、ジョルジュ・バタイユは「呪われた部分」[#「「呪われた部分」」はゴシック体]とよぶ。バタイユは「呪われた部分」の二類型を区別しているわけではない。実際に、二つを区別するのは困難である。けれども、二類型の区別は理論上は十分に考えられるのだから、二つの面にわたるバタイユの貢献を知るためにも、両類型の「思考不可能事」は注意深く区分しておいたほうがよい。
イデオロギーにとって思考不可能なものを思考可能にきりかえることは、社会科学や社会哲学にとって大変重要である。この面でのバタイユの貢献は、三部作の一つ『呪われた部分』である。この本はふつう「消費論」とみなされているが、まちがいである。生産論中心の経済学に、消費の経済学を対置したのではない[#「ない」に傍点]。反対に、生産―交換―消費といった経済学のパラダイムを転倒させる「蕩尽《とうじん》」の経済論をうちだす。
蕩尽[#「蕩尽」はゴシック体]
バタイユ的「蕩尽」[#「「蕩尽」」はゴシック体]は、およそ経済学的消費とは異質である。経済学的消費はグローバルな生産体系の一環であり、つねに有用性と価値にリンクしている。これに対して、バタイユが「蕩尽」という用語でめざすのは、いっさいの有用性をテロス(目的)とする思考と行動のパターンをつきくずすことであった。何の役にもたたないという無用性の思考と行動[#「無用性の思考と行動」はゴシック体]のリアリティが、バタイユにとって問題である。近代の思想枠からは追放されるが、人間の現実生活はこのような無用なものに憑《つ》かれているし、またそこに人間は生の充実をもみいだしている。近代の消費論は、節約的消費である。そのかぎり、この消費は経済合理性[#「経済合理性」はゴシック体]をもつ。しかし、蕩尽は、経済合理性をもたないが、過剰分を祝祭その他の仕方で浪費することで生活の充実と活性化に役立つ。それもまた別の独自な合理性なのである。カーニヴァル、ポトラッチ(共同飲食)は蕩尽の典型である。
この現実は「蕩尽」「無用性」「呪われた部分」などとよばれているが、何とよばれようと、この現実を思考可能なものにしたバタイユはけっして忘れさられてはならぬ。バタイユの仕事は未完である。それをひきのばしていくのが、後からいくもののつとめである。
原理的に理性の限界を画すものは何か。バタイユは、イデオロギーが隠したものをあばくことで、根源的な思考不可能事に達する。こちらの面でのバタイユの仕事は、『エロティシズム』や『ラスコーの壁画』『内的経験』や『至高性』がある。このレベルでバタイユが扱うものは、非理性的なもの[#「非理性的なもの」はゴシック体]である。理性の本性は非理性的なものを同化することにあるが、非理性的なものは理性にあくまで抵抗する。この抵抗力を手がかりに、非理性を「考える」というパラドクシカルな思考の冒険にバタイユはとりくむ。
ムダなこと、徒労に終わる、と理性主義はいうだろう。しかし、総じて「美的なもの」(芸術にかぎらない)は非理性的なものであり、理性以上に人間の生活の根源にあるものである。理性は非理性的思考と触れることで、おのれの空虚をのりこえねばならない。バタイユは、現代理性批判の画期的な試みを開始したのである。
[#改ページ]
マルクス現象
カール・マルクスは、十九世紀に生まれ、生きて死んだ歴史上の人物である。死後のマルクスは、単なる歴史上の人物になるのではなくて、現代まで生きつづける思想現象となる。固有名詞としてのマルクスが死んだ後に、普通名詞としての「マルクス」が生まれる。この「マルクス」をマルクス現象[#「マルクス現象」はゴシック体]と名づけよう。
歴史上の人物が死後もなお思想的に生きつづける例は多い。けれども、十九世紀と二十世紀を通じて、マルクスほど世界を動かしつづけた例はまれである。十九世紀に生まれたマルクスの思想が、死後百年以上にもわたって、いわば同時代の思想のように、人びとをつかみ、鼓舞し、あるいは怒らせ、恐怖させたという事実のなかに、古典的思想家としてのマルクスの意義ばかりでなく、現代思想としてのマルクスの意義もある。「マルクス」は、現代思想のキイ・パーソンにしてキイ・ワードなのである。
現代の思想家群像のなかで、直接的にであれ間接的にであれ、マルクスと無縁なものはいない。卓越した思想家であればあるほど、その人はマルクスに何らかの形で関わっている。ハイデッガーのように、社会的、政治的な思想のレベルでマルクスと正反対な立場に立つ人ですら、マルクスとの対決は避けられなかったのである。革命的左翼の側からであろうと、反動的な右翼の側からであろうと、マルクスはずっと気がかりな思想家であった。今でもそうである。マルクスをのりこえようとする思想運動が日本でも西欧でも盛んになろうとしているが、そうした「のりこえ」の対象となるほどにマルクスは険阻な巨峰なのである。したがって、「マルクス」またはマルクス現象をぬきにして現代思想を語ることはできないのである。マルクス現象は、現代思想の諸類型がその上で運動する巨大な地盤であり、どこまでも伸びていく文脈である。
コンテクストとしてのマルクス現象をこれから考えてみたい。社会主義の経験が幻滅に終わったという政治的な批判からではなくて、マルクスを現代に甦《よみがえ》らせる努力に光を当てながらマルクス現象を考えるという立場に私は立つ。私は、マルクスの批判精神はなお依然として現代的意義をもつと考えるからである。
マルクス思想の現代的意義[#「マルクス思想の現代的意義」はゴシック体]
一八八三年以降のマルクス主義の歴史は、労働運動を中心とする革命的闘争の歴史であり、二十世紀に入ってはロシアを突破口とした、いわゆる「社会主義」社会建設の歴史でもあった。この歴史を思想の側面でとらえれば、それはマルクス思想の全世界的規模におけるさまざまの「受容」の歴史である。地域によって異なる運動があり、それに応じて異なったマルクス「受容」がある。一枚岩のマルクス主義たるものはどこにもない。ひとつの巨大思想が複雑多様に「受容」されるのは、実にあたりまえのことであって、逆にその多様性を消し去って、あたかも唯一の真理があるかのごとくみせかけるほうがごまかしになる。
ロシア人によって全世界に流布された「弁証法的唯物論」なるものは、多様な受容の可能性を抹消して、唯一絶対の真理を求めた結果である。それは、およそ存在しえない「真理」を存在するかのごとく幻想をいだいたというだけでなく、同時に「絶対真理」を全世界におしつけるという専制主義的な政治的実践の帰結でもある。マルクス死後の百年は、この二重の虚偽[#「二重の虚偽」はゴシック体](思想と政治の両面でのそれ)に根底から染めあげられていたのではないか。
そうだとすれば、マルクス死後百年を過ぎた現在、私たちがマルクス主義を反省するときに、何よりもまず着目すべきことは、この二重の虚偽であり、何よりもなすべきことはこの二重の虚偽を批判し解体することであろう。もしもこの虚偽を今後もなお存続させるとなれば、マルクスの思想はこの虚偽の重層化とともに、闇にうずもれ忘れさられていくことは必定である。
二重の虚偽の批判と解体の課題は、きわめて重く、扱うべき内容は広大すぎる。すでに先駆的な仕事もいくつか出ているにしても、全体的展望からすれば十分満足のいくものではない。幾度も試みられていくべきもので、マルクスの思想が人びとをとらえてはなさないかぎりは、永遠の課題であろう。
右のような立論は、マルクスの思想にいまもなお現代的意義をみとめる者にとってのみ可能である。ヘーゲルにもマルクスにも意義をいっさい認めない者にとっては、マルクスの思想を暗闇から救いだすといったことなどは、何の意味ももたないだろう。私は、マルクスの思想に現代的意義をみいだす者であるから、反マルクス論者にとってはどうでもよいかにみえる仕事にいつまでも執着する。
執着するのには、それなりの理由がある。たとえば、この百年間、マルクスの思想が思想と政治のすべてにわたって、全世界の人びとをゆり動かしたこと、この巨大な流れのなかで無数の人びとの生活が左右されたことは、どうでもよいことではない。それどころか、とてつもない大事件であったとみるべきである。マルクス主義の歴史は、単なる観念の歴史ではない。地球上のあらゆる地域で人びとが命をかけ、希望を託し、挫折し、死んでいく、そういった生活全体をのみこむ運動であった。近代思想史上、これに匹敵する思想は皆無である。キリスト教だけがマルクス主義に匹敵する役割を果たしたといえよう。
このような現実をふまえて、私はマルクスの思想の意義(これだって十分はっきりしていないのだ)に執着しつづけるのである。これまでのマルクス主義による弁護論的自己反省ではなくて、非弁護論的な、解体的な反省によって、マルクスの思想をとらえなおすときである。しばらくこの問題を考えてみよう。
危機と再生――ルカーチとサルトル[#「危機と再生――ルカーチとサルトル」はゴシック体]
ひとつの巨大な思想運動が危機におちいるたびに、その思想運動を最初につくりだした始祖へ戻る試みがくりかえされる。思想運動というものは、歴史のなかにある以上は、いつでも危機にさらされているはずである[#「いつでも危機にさらされているはずである」はゴシック体]が、たいていは何らかの形で隠されているだけである。
しかし、時にはどうしても隠しきれない危機がその思想運動をおそう。マルクス主義をおそった大危機はいくつかあったが、なかでも最大の危機は、ロシア系マルクス主義の硬直化[#「マルクス主義の硬直化」はゴシック体]である。この貧血症マルクス主義をのりこえる試みは、すでに二〇年代に開始された。もっともすぐれた仕事は、G・ルカーチ[#「G・ルカーチ」はゴシック体]の仕事である。ルカーチの努力は、マルクス主義の危機をのりこえるために、マルクスへ帰る道をまさぐった最初の試みといえる(ルカーチ『歴史と階級意識』白水社および未来社)。
危機があると源泉[#「源泉」はゴシック体]に帰ろうというのが常道であるが、しかし帰り道は必ずしも用意されてはいない。マルクスを直接に読めばよいといったものではない。各人がそれぞれ「帰り道」を創造するほかはない。ルカーチは「帰り道」をつくる独創的な試みに挑戦したが、つまるところかれはマルクスではなくて、ヘーゲルに帰り着いた。ルカーチの主体性論[#「主体性論」はゴシック体]は、ヘーゲルの精神の自己同一性と全体性と異なるところはなかったからである。ルカーチは、人間の自己疎外論の最初の巨大な提唱者であった。疎外の概念は、元来、ヘーゲルのものであるが、ルカーチは初期マルクスの疎外論をまだ知らぬときに(初期マルクスの原稿の発見と刊行は三〇年代)、独力で疎外論を構築した。しかし、かれの疎外論はきわめてヘーゲル主義的であった。それがルカーチの挫折のもとにもなる。
サルトル[#「サルトル」はゴシック体]は、ルカーチの挫折を承知しつつ、より厳密な方法をもってマルクス再建の壮大な試論を発表した(サルトル『弁証法的理性批判』人文書院)。おどろくほどの豊かさを秘めたサルトルの仕事も、主体性の固有性の再獲得という点では、ヘーゲル、ルカーチと同じである。ルカーチやサルトルにとって、コギト(我考える)や主体の自己同一性は譲ることのできない根本前提であった。これが時代の精神というものであり、個人の功罪をこえる性質のものである。
開かれたマルクス――アルチュセール[#「開かれたマルクス――アルチュセール」はゴシック体]
けれども、この根本前提が成り立たないとしたらどうだろうか。主体性論やそれにもとづく疎外論[#「疎外論」はゴシック体]がマルクスへの帰り道ではなかったとすればどうだろうか。このように、近代思想史の根本前提を疑い、別の読み方でマルクスに接近した人がいた。それが、ルイ・アルチュセール[#「ルイ・アルチュセール」はゴシック体]である。アルチュセールが疎外論や主体性論を認めなかったのは、かれが客観主義や科学主義に依ったからではない。近代思想の疑われざる前提たる主体の概念[#「主体の概念」はゴシック体]が、とうていマルクスの社会関係の理論と両立しえないと判断したからである。ここにマルクスの読み方の新しい歴史が始まった。
この主体をめぐる論点は、けっして単純ではないし、ひとりマルクス主義にかぎったことではない複雑な問題である。論証を省いて簡単にいうほかはないが、西洋の哲学でいう「主体」というのは非常に危険なイデオロギーであるということが判明したのは、ごく最近のことである。社会理論の観点でいうと、「主体性」とは、自己が絶対的に自己のもとにあることであり、要するに私的所有の構造[#「私的所有の構造」はゴシック体]と一致する。アルチュセールが、マルクス主義的主体性論やヒューマニズム[#「ヒューマニズム」はゴシック体]がきわめて問題的であるとくりかえし主張したのは、マルクスの思想と両立しえない近代市民的イデオロギー[#「近代市民的イデオロギー」はゴシック体]の無批判的導入があったからである。
アルチュセールは、構造主義者であると一般にはいわれている。たしかにかれは、レヴィ=ストロースやジャック・ラカンからの影響や刺激をうけてはいる。用語も構造主義的である。けれども、かれは、構造主義の方法を単純にマルクス読解に応用したのではない。むしろ反対に、構造主義の後戻り不可能な意義を認めつつも、構造主義の内在的限界をぶちやぶる仕事をしたのである。たとえ不十分でも、そうした方向がなければ、とうていマルクスの新しい読み方はできなかったのだ。事実、アルチュセールの仕事はマルクス論をこえて、ひろく社会と歴史の認識の領域でうけつがれ、拡大されていったのである。
アルチュセールのマルクス読解は、差異性[#「差異性」はゴシック体]と関係性[#「関係性」はゴシック体]のなかでの「主体性」の存立不可能性を証明し、もって多様的な諸実践の多面的展開、またそのなかでの新たな自由と自立の生活連関[#「自由と自立の生活連関」はゴシック体]を展望することにあった。この意味では、アルチュセールは、ポスト構造主義の先駆者というべきである。
はたしてマルクスは、主観主義と客観主義、観念論と実在論の対立を超え出る思想をつくりあげていたのか。この問いへの答えをめぐって活発に展開したのが、六〇年代のアルチュセールの仕事である。どうしても「資本論」を精密に読みなおさなくてはならない(アルチュセール『資本論を読む』ちくま学芸文庫)。そのために、精密な「読むことの理論」[#「「読むことの理論」」はゴシック体]をつくらねばならない。アルチュセールを一言で評すると、かれは画期的「読みの理論」をつくり、同時に初めて開放的なマルクス読解への道をひらいたといえよう。だが、それは第一歩であった。アルチュセールの試みをうけつぐものは誰なのか。
[#改ページ]
ディコンストラクション(脱構築)
ディコンストラクション(脱構築)が全世界で大流行した。最初の提唱者は、フランスの哲学者ジャック・デリダ[#「ジャック・デリダ」はゴシック体]である。一九六〇年代にすでにこの用語は登場していたのだが(デリダ『グラマトロジーについて―根源の彼方に―』足立和浩訳、現代思潮社)、その後国境を越えて、イギリス、アメリカに渡る。アメリカでデリダの書物は翻訳されるとベストセラーになり、同時にデリダの「ディコンストラクション」も流行語になっていった。
アメリカでは「ディコンストラクション」は、主として文学研究のなかに受けいれられた。「ディコンストラクション」が文学の「方法」になると、それはいわば中性的な分析用具になることだ。方法と道具になれば、ディコンストラクションは創設者の個人的クセを脱して万人が利用できるというデモクラティックな効用を得るけれども、思想的インパクトはますます減少していく。
デリダの「ディコンストラクション」は元々毒をたっぷり含んだ思想の言葉[#「毒をたっぷり含んだ思想の言葉」はゴシック体]であった。思想のキイ・ワードとは本来そういうものなのだ。毒を消すことを中性化[#「中性化」はゴシック体](中和)という。毒のある言葉を道具化するとは、つまるところ骨抜きにすることでもある。中性化し、骨抜きにされたアメリカ的「ディコンストラクション」に対して批判と異論が出されるのは当然のなりゆきである。主要な批判は、アカデミーのなかからではなく、社会運動のなかから出てくる。アメリカにも、ラディカルな形で「ディコンストラクション」を受けとめる潮流もあることは注目してよい。事実、デリダ的「ディコンストラクション」は、伝統的思想の批判にのみ限定されるのではなく、現代の社会・政治・経済の全体を脱構築する方向をもめざしているのだ。
このような観点から、ディコンストラクションをもういちどデリダに戻して、デリダの発想の根を洗い直しておく必要がある。デリダの思考が身を置く思想的コンテクストをも視野に入れて、ディコンストラクションを、毒のある、批判精神[#「批判精神」はゴシック体]に富んだ現代思想のキイ・ワードにしなくてはならない。そして、思想上の毒といえば、昔も今も「マルクス」である。マルクスとデリダをつなぐ線を、アルチュセールとのかかわりで見ていくのが好便である。何といっても、デリダはアルチュセールの弟子であるからだ。
読むとはどういう行為か[#「読むとはどういう行為か」はゴシック体]
アルチュセールが『資本論を読む』と題した本を出版したのは、十分注意されていない。経験とは世界を書物のように「読む」ことだが、読むとは考えることとひとつである。だから、自然であれ社会であれ、ヘーゲルやマルクスであれ、それらを「読む」ための用意周到な準備がいる。アルチュセールの仕事は、超越体、絶対者、自己同一性などを解体する[#「解体する」はゴシック体]ような、真の意味での関係性の「読解」理論[#「関係性の「読解」理論」はゴシック体]への道を切り拓いた。
プラトンからヘーゲルを通ってフッサールまで、西欧形而上学は超越性、自己同一性、自己現前性を出発点にして帰着点とする「形而上学的循環」を反復してきた。「社会関係の総体」と一括しうる社会と歴史の現実の奥底にせまるためには、この接近を妨げるスクリーンとしての形而上学的循環をぶちやぶらねばならない。この突破こそもっとも現代的な思想的課題である。もとより、現存マルクス主義はことごとく、この循環のワナに完全にからめとられている。ところが、このワナに気づいて、この円環から脱出しようと試みた少数の人がいる。二十世紀ではハイデッガー[#「ハイデッガー」はゴシック体]がいる。かれは半歩だけ脱け出した。かれ以上に進まねばならない。ハイデッガーより前に、この突破を開始した人がいた。それがマルクスとニーチェ[#「ニーチェ」はゴシック体]だ、こうアルチュセールはいう。
こう書くと、反論するものもあろう。そういう発言はアルチュセールではなく、デリダのものだ、と。なるほど、先述の形而上学的循環論はいかにもデリダ的であるが、しかしそれは確かにアルチュセール自身の言葉なのだ。つまり、アルチュセールとデリダは、これほど近い思想的立場に立っているのである。アルチュセールは、西欧形而上学批判[#「西欧形而上学批判」はゴシック体]の壮大な企画をマルクスのなかに見てとり、マルクスの仕事を微細に分析してみせた。アルチュセールのやりのこした仕事を、アルチュセール以上に精密に、徹底的に実行してきたのが、ジャック・デリダである。
脱構築[#「脱構築」はゴシック体]
デリダは、くりかえしハイデッガーに立ち戻り、ハイデッガーと同様にニーチェの形而上学批判の意味を徹底分析して、ついにハイデッガー以上に「異様な」、しかしまったく新しい思考のタイプを創出した。アルチュセールの『資本論を読む』とデリダの『グラマトロジー』は、現代西欧哲学のなかでの金字塔といってよい。二つの書物の狙いは、対象こそちがえ、まったく同じである。デリダ風にいえば、プラトンからフッサールにいたる西欧形而上学の「現前」[#「「現前」」はゴシック体](自己の自己への現前という自己同一性)中心主義、つまりロゴス中心主義を突破して、非現前的で非ロゴス的な社会的・歴史的現実へと接近することである。
この仕事を、デリダは「ディコンストラクション」(脱構築)とよぶ。脱構築[#「脱構築」はゴシック体]とは、単なる否定でも破壊でもなくて、形而上学の内部にとどまりつつ、形而上学の土台をずらしゆるがして、未曾有の現実へと接近することである[#「形而上学の内部にとどまりつつ、形而上学の土台をずらしゆるがして、未曾有の現実へと接近することである」はゴシック体]。外面的批判なぞは問題ではない。アルチュセールが、「内なる外」とか「不可視の地盤への移動」[#「「不可視の地盤への移動」」はゴシック体]とかいうのも別のことではない。してみると、アルチュセール=デリダ的ディコンストラクションは、マルクスの「経済学批判」と同じことであり、非現前的=非ロゴス的なものをめざすこととは、マルクス的な意味での「マテリアリスム」と同じことなのである。アルチュセールとデリダがマルクスとニーチェとをつなぐのは、けっして偶然ではないのだ。マルクスの「マテリアリスム」は、こうして「弁証法的唯物論」なるものからついに解放されて、まったく新たな相貌を獲得する。マルクスはまさに現代の生ける思想なのである。
私は、修学時代にルイ・アルチュセールの著作にめぐり会い、心をうちふるわせてくりかえし読んだ。それはめったにない偶然の出会いであった。私はいまもアルチュセールを読むとき、昔ほどではないがやはり感動する。アルチュセールの一行は一冊の書物に値する。若いときには、ある種の書物と感動的な出会いをする機会が多いが、年をとるとそうもいかない。それでも、時に、びっくりするような書物との出会いがある。アルチュセールの後で、私はジャック・デリダの書物と同じ程度の感動をもって出会った。いま、デリダは私の座右の書である。私はデリダ論を書いたことはないが、書く必要もない。デリダは、ハイデッガーと同様に、論を立てるのが極度にむずかしい思想家である。それは、思想ではあるが、より正しくは生きる実践とひとつになった思想のいとなみである。
デリダとマルクス[#「デリダとマルクス」はゴシック体]
このようなわけで、私は、アルチュセールとデリダの深い関係をのべることになったが、もうひとひねりすると、デリダとマルクスの関係がうかびあがる。私は、デリダを読みながら、つねづね、デリダ的思考とマルクス的思考が相当に近いと――アルチュセールのおかげで――感じとっていた。同じように感じている人が、西欧にもいることを最近知った。
マイケル・ライアン[#「マイケル・ライアン」はゴシック体]の『マルクス主義とディコンストラクション』がそれだ。ライアンは、デリダの形而上学批判とマルクスの経済学批判とが、対象はちがっても同じ課題をひきうけたものとみなして、マルクスとデリダとの結合、というよりも、デリダの仕事をもってマルクスの思想を活性化させようとする。私は、ライアンの着眼をたいへん鋭いものと評価し、基本的に賛同する。
私とライアンとのちがいがあるとすれば、それは、アルチュセール評価にかかわる。ライアンは、ほとんどアルチュセールを読まずに誤解して、おかげで視野を狭くしている。ライアンは、アルチュセールをしりぞけて、イタリアのアントニオ・ネグリ[#「アントニオ・ネグリ」はゴシック体](『マルクスを越えるマルクス』)をもちあげる。ライアンは、イタリアのオートノミー[#「オートノミー」はゴシック体](自律)運動の賛同者である。私見では、ネグリの研究は鋭いものと思うが、『資本論』を読み切れないままに、いたずらに革命的主体性を呼号する傾向がつよすぎる。しかし、私はこの点をあまりつよく批判したくない。なぜなら、ネグリたちは、イタリア特有の社会的・文化的なコンテクストから生まれるきびしい課題をひきうけているからである。
右のような異論はあっても、ライアンのデリダ論は非常に重要である。デリダの「ディコンストラクション」を単に文芸批評にのみ限定してしまうアメリカの風土のなかでは、ライアンの仕事は抜きんでて鋭い。前にのべたようにアメリカでいまデリダは流行の人ではあるが、その流行は文学畑に限られている。そのために、デリダとアルチュセール、デリダとマルクス、という重要な連絡ルートがぬけおちてしまうのだ。日本でも似たようなことがおきていて、デリダを読むのは文学者ばかりというのでは、デリダを小さくするのではないか。
デリダは、自分を「マルクシスト」であると述べたことがある。私にとっては、あたりまえの帰結だと思うが、それでもこの宣言は貴重である。デリダ自身が、デリダ・モードを批判したと受けとることができるからである。デリダのマルクス主義は、もちろん、「オープン・マルクス主義」であって、かつてのアドルノの立場と近い。アドルノの遺産も、今ではフランスに伝えられており、アドルノとデリダとの親近性も語りうるほどになっている。いまや、思いもかけぬめぐり会いで、マルクスは復活しつつある。アドルノ、アルチュセール、デリダ、それにドゥルーズやリオタールを加えてみると、マルクスの思想は、異様なまでに光り輝いてくるから妙なものだ。しかし、このマルクスは、ひと昔前までのマルクスではあるまい。マルクスが播《ま》いた種は、現代の思想家たちのなかにとびちって、別の形をとった花をさかせようとしているのだろう。このようにして、思想は生きのびていくものだ。
[#改ページ]
スピノザ現象
スピノザかヘーゲルか[#「スピノザかヘーゲルか」はゴシック体]
これまでいくども、マルクスのアクチュアリティを語ってきた。私がマルクスを語る仕方は、必ずしも日本の思想動向とは直接に連絡しないようで、読者にお叱りをうける場合もあるかもしれない。私は無自覚にそうしているのではない。私は、故意にマルクスをヨーロッパの思想動向に位置づけて、ヨーロッパの思想家としてのマルクスを理解したいと思っているからである。日本型の独創的なマルクス像もあっていいと思うが、さしあたり私はマルクスの思想のヨーロッパ性に関心をもつのである。
ここで語ることがらも、まことにヨーロッパ的現象である。日本の文脈ではまったく視野から欠落している事柄を語ろうと思う。それは、マルクスを中心に展開するスピノザとヘーゲルとの対決という問題である。ヨーロッパでも日本でも、ヘーゲルとマルクスとの関係は、ほぼ常識になっている。とりわけ、弁証法にかんしては、マルクスはヘーゲルの偉大な弟子だということになっている。これは世界中の常識であって、これを疑うなどということは、およそ狂気じみているといわれる。だから、ヘーゲルとマルクスの連続性に疑いをもち、異論をもつ人は、全世界で無視され、バカ扱いされることになる。
ところが、勇気をふるってこの世界的常識に挑戦した人が少数ながらいる。その最初の人が、例によってルイ・アルチュセールであった。アルチュセールが『資本論を読む』のなかで強調したのは、マルクスをヘーゲルとの関係においてではなくて、スピノザとの関係において読むべし、ということであった。マルクスが『資本論』でぶつかった認識論的射程をより深く知るには、デカルトの後でスピノザが実行した認識論的革命[#「認識論的革命」はゴシック体]を手がかりにしてはじめて了解できるとアルチュセールはいった。ここには、途方もなく大きい現代思想の分岐点が暗示されている。アルチュセールが「理論上のアンチ・ヒューマニズム」を提起したのは、何も構造主義にいかれていったのではなく、それはほかならぬスピノザ[#「スピノザ」はゴシック体]の『エチカ[#「エチカ」はゴシック体]』の立場であったからだ。スピノザこそ、史上最初の徹底した無神論者[#「無神論者」はゴシック体]にして唯物論者であって、その徹底ぶりはマルクスをしのぐほどのものである。
しかし、スピノザは「神への知的愛」をいっているのではないか、かれは神を信じているではないか、という人もあろう。けれども、スピノザの「神」とは「モノ(自然)」であり、「モノ」とは「神」であって、つまるところ、神学的用語にまぶして語られた「存在」にほかならない。そしてスピノザには、ヘーゲル的な「アウフヘーベン」はなく、またそれによる最終的決着もなく、無限の力動的プロセス[#「無限の力動的プロセス」はゴシック体]しかない。アルチュセールは、スピノザのなかに認識論的革命のみをみたが、右のことから存在論上の革命[#「存在論上の革命」はゴシック体](存在観の変革)を語ってもよいだろう。
アルチュセールの提唱にかかるスピノザ=マルクス関係は、無視された。しかしごく少数の人びとはそれをきわめて重く受けとめている。フランスでは、ドゥルーズ、デザンティ、マシュレーがいるし、イタリアにはアントニオ・ネグリがいる。
スピノザ・ルネサンス[#「スピノザ・ルネサンス」はゴシック体]
この問題をよりよく知るためには、フランスでのスピノザ研究の現状を知る必要がある。現在、フランスほどスピノザ研究が深化しているところはあるまい。二十世紀のスピノザ・ルネサンスは、フランスで起きた。もっとも大きい研究は、マルシアル・ゲルーの『スピノザ』(全二巻)であるが、それにつづいてドゥルーズの『スピノザと表出の問題』が出るし、マシュレーの『ヘーゲルかスピノザか』と『スピノザの『エチカ』入門』(全五巻)が出る。併行して、アレクサンドル・マテロンの厖大なスピノザ研究が進展する。J・T・デザンティは数学認識論の専門家だが、かれのスピノザ崇拝はアルチュセールに劣らない。そのほかに、マテロンやモローを中心にした『カイエ・スピノザ』も毎年一回ずつ刊行中で、詳細なテクスト・クリティークなども(たとえば『政治論』について)おこなわれている。
このような知的状況を背景におくならば、アルチュセールの提案はけっして孤独ではない。マルクスをめぐって、スピノザにニーチェを加えると、ラディカリスムはもっと深まる。この方向を、アルチュセール以上におしすすめたのが、ジル・ドゥルーズである。かれの『差異と反復』や『千のプラトー』(ガタリとの共著)は、スピノザ=マルクス=ニーチェを手がかりにしたラディカリスムの書物である。
反弁証法[#「反弁証法」はゴシック体]
アルチュセールは、マルクスの「弁証法」はヘーゲルの弁証法とは異質であるといって、「重層的決定」[#「「重層的決定」」はゴシック体]と「過程」[#「「過程」」はゴシック体]を基軸にマルクスの「弁証法」を再構成しようとした。しかし、その「弁証法」は、常識的なヘーゲル弁証法にてらせば、およそ弁証法らしくない。極端にいえば、アルチュセール的「弁証法」は、事実上、ヘーゲル弁証法を崩壊させ、弁証法一般を解体させる方向に向かっているともいえる。ドゥルーズは、それを一歩おしすすめる。ドゥルーズの『差異と反復』は、アンチ弁証法[#「アンチ弁証法」はゴシック体](それはニーチェの見解でもある)の書物である。
ロシア・マルクス主義をはじめとする歴史的マルクス主義が、弁証法をふりまわして保守的・反動的な思想になってしまった歴史的経験をにらみすえるとき、アルチュセールからドゥルーズにいたるアンチ弁証法の思想が、どれほど解放的な思想であるかがわかろうというものである。アドルノの『否定の弁証法』も、アンチ弁証法ではないが、ほとんどそれに接近している。アウフヘーベンにもとづく弁証法が抑圧の弁証法[#「抑圧の弁証法」はゴシック体]に転化するのだとすれば、断乎としてそれを拒否したらよい。それは、たとえ行き過ぎがあろうとも、現在の思想状況を解放的にしてくれるであろう。少々のぶれ[#「ぶれ」に傍点]には目をつむらねばならない。
力の思想[#「力の思想」はゴシック体]
現代のマルクス解釈のなかでひとつの重要なポイントとして「力」の思想家マルクスというのがある。「力」[#「「力」」はゴシック体]とは、存在とひとつになった力であり、具体的には暴力や権力や闘争となってあらわれる。そして社会関係のなかでは、「政治」の場が「力」の現出する場所である。アルチュセールが政治と階級闘争を強調した理由もよくわかる。しかし、かれはそれを十分に展開できなかった。かれには具体的な存在論が欠けているからである。アルチュセール学派には認識論主義のブレーキがかかっている。
私は、社会存在論の中に「力」ないし、「暴力」を導入することを提唱した(拙著『暴力のオントロギー』勁草書房、をみられたい)。社会存在は「力」とひとつであり、「力」の発現が社会関係となる。この点で、最近非常におもしろい存在論的研究が出た。前にもちょっとマルクス研究についてふれた、アントニオ・ネグリの書物『荒ぶるアノマリー―スピノザにおける力と権力』がそれである。ネグリの迫力はすさまじい。かれのマルクス論もすさまじいが、スピノザ論もすさまじい。
ネグリの着眼は、スピノザ研究でエピソード的に扱われる部分を中心にすえて、主著『エチカ』を読みなおすことにある。エピソード部分というのは、『政治論』であり『神学政治論』である。ネグリのスピノザ像は、「政治」(あるいは「力」)をスピノザ存在論の中心にすえて、『エチカ』を徹底して「力」ないし「政治」の存在論として読むことである。スピノザの「政治」論は、他の著作ではなくて、まさに『エチカ』そのものであるという。『エチカ』は近代最初の厳密で徹底した存在論の書物であるが、同時に、ネグリによれば、政治哲学の書物でもある。スピノザの力の思想の中に、そのことがあらわれている。政治をそれとして語りえない十七世紀オランダの状況がかくあらしめたのは事実であるが、それがかえって現代の存在論的思惟の未来を指し示すことにもなっているとネグリはいうが、そのテーゼはまことに励ましを与える力をもっている。ネグリのスピノザ論は、アルチュセールのし残した仕事の実現だとすらいえよう。
[#改ページ]
第U部[#「第U部」はゴシック体]
[#改ページ]
群衆
十九世紀の社会史を理解するキイ・タームは、階級[#「階級」はゴシック体]であった。二十世紀の社会史のキイ・タームは群衆[#「群衆」はゴシック体]だったのではあるまいか。階級と群衆はそれほど截然《せつぜん》と区別できないが、両者の本性上の相違をはっきりさせることは大切なことである。階級は、労働者階級とか資本家階級とかいうように、主として経済学や歴史学によって定義され、私たちの常識内にも入ってきており、日常語にすらなっている。ところが群衆はそうではない。群衆が何ものであるかは十分に知られていない。群衆研究もそれほど前進していない。十分に知られていないからといって、群衆論を放置していいわけではない。人間の群衆化がもたらす結果がきわめて重大であることを鑑《かんが》みて、これからしばらく群衆をめぐる諸問題を序説風に述べてみたいと思う。
大衆と群衆[#「大衆と群衆」はゴシック体]
ヨーロッパ語のマスは、ふつう「大衆」と訳されている。あるものは「マス」現象を積極的に評価し、他のものはそれをなげかわしい現象とみる。マス化をプラス評価するものは、マスに「大衆」の訳語をあて、それをほとんど「民衆」と同一視する。マス化をうれうべきものと断罪する人は、マスに「群衆」の訳語をあて、そこに自立人間の解体をみるだろう。すでにそこには、マス化現象をめぐるイデオロギー的対立がみてとれる(ただし、日本では、マスは「大衆」と訳され、大衆社会論の中で固定的イメージを得ている)。イデオロギー的対立があるのは、きわめて当然のことであって、近代社会に特有のマス化傾向[#「マス化傾向」はゴシック体]は、デモクラシーの前進とともに、デモクラシーの解体をもつつみこんでいるからである。
私は、ここで、マスに「群衆」の訳語をあてて、マス化の否定的側面[#「マス化の否定的側面」はゴシック体]に光をあててみたいと思う。イデオロギー上の論戦に参加する気は毛頭ないが、しばしば見おとされているマス化の消極面を前面に出したいからである。
群衆の遍在[#「群衆の遍在」はゴシック体]
群衆論の百科全書は、エリアス・カネッティ[#「エリアス・カネッティ」はゴシック体]の『群衆と権力』(法政大学出版局)である。カネッティがみごとに描き出しているように、群れと群衆の現象はけっして近代にのみあるのではなくて、未開社会以降の人類史全体に遍在する。ひとつの自立した社会システムは、つねに、その背景に、その基礎に、群衆をもっている。
オルテガがどこかでいっていたように、ギリシアやローマのポリス国家も、群衆なしには考えられない。未開社会には、狩猟、儀礼、戦闘の群衆[#「狩猟、儀礼、戦闘の群衆」はゴシック体](群れといったほうがよいが)があり、ギリシアにはデマゴーグをうみだす群衆(プレブス)が、ローマにはパンとサーカスに群れる群衆がいた。イギリス革命とフランス革命にも、革命的群衆[#「革命的群衆」はゴシック体]が決定的な役割を果たす(G・ルフェーブル『革命的群衆』創文社、をみよ)。もちろん、中世には、とくにペスト大流行のときにも、十字軍遠征のときにも、それぞれに特有な群衆が登場していた。ペストのときにはユダヤ人虐殺の群衆[#「虐殺の群衆」はゴシック体]が、十字軍のときには宗教的熱狂と掠奪とがいりまじった大群衆が活躍していたことはよく知られている(最近の手頃な本としては、村上陽一郎『ペスト大流行』岩波新書、をみよ)。
このように、群衆は、人類史上、いたるところにみられる。この群衆を人民だの、民衆だのといったところで、何ものも理解できたことにはならない。こうした人間のかたまりは、まさに群衆(クラウド、フール)というほかはないのだ。階級闘争をおこなう階級も、こうした群衆とまじりあいながら展開したのであって、純粋の「階級」闘争などはどこにもありはしない。群衆現象を背景としてみたとき、階級闘争[#「階級闘争」はゴシック体]も、これまで以上にはっきりすることだろう。ところが、ふつうは、階級たるものを実体化し抽象化してしまっている。ここに、伝統的なマルクス主義の用語法の難点もある。
群衆の科学の登場[#「群衆の科学の登場」はゴシック体]
ところで、こういうと、群衆現象が久しい以前から重視されていたかにみえるが、本当はそうではない。人間の大きなかたまりを「群衆」と名づけて、まじめに社会科学的研究の対象にすえるようになったのは、ごく最近のことである。つまり、せいぜい百年の歴史があるにすぎない。セルジュ・モスコヴィシというフランスの学者が、この経緯を詳しく調べているが、それによると、群衆論の創始者は、ギュスターヴ・ルボン[#「ギュスターヴ・ルボン」はゴシック体]である。ルボンの後、タルドが出るし、ドイツのフロイト[#「フロイト」はゴシック体]も群衆心理学に手をそめる(モスコヴィシ『群衆の時代』法政大学出版局)。二十世紀に入ると、オルテガ・イ・ガセット[#「オルテガ・イ・ガセット」はゴシック体]の有名な『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)も出る。その間に、マックス・ウェーバー[#「マックス・ウェーバー」はゴシック体]の『支配の社会学』(創文社)がはさまる。こうみてくると、群衆が注目されだしたのは、十九世紀後半から二十世紀前半あたりだといってよい。そうして、近年では、これらの遺産をもとに、十九世紀と二十世紀の群衆現象だけでなく、近代以前の群衆の存在にも注意がいきとどくようになったということができるだろう。
してみると、十九世紀後半のヨーロッパ社会は、とてつもない現象を経験したことがわかる。群衆の科学[#「群衆の科学」はゴシック体]が生誕したというからには(ルボンやフロイト)、それをひきおこすだけの経験、とりわけびっくり仰天する経験があったと判断できるのである。この経験は、それ以前の経験と同じなのだろうか、それとも違うのだろうか。私は、根本的に違うと判断したい。以前にも群衆経験はあった(前述のとおりだ)。だが、以前の経験は、「群衆の科学」を生まなかった。おどろきの度合が、何か決定的に違うようだ。決定的に違うゆえんを考えてみたい。
群衆体験[#「群衆体験」はゴシック体]
十九世紀の群衆現象の登場がどれほどおどろくべきものだったかを知るには、さしあたり、オルテガの『大衆の反逆』を読むとよい。オルテガのような精神の貴族こそ、よくおどろくからだ。かれの文章には、まったく新奇な現象がひどく恐喝的に登場する事態が反響している。オルテガは十九世紀末から二十世紀前半の人で、しかもファシズムやスターリニズムを眼の前にしているから、当然の証言のようでもあるが、十九世紀の証人をひきあいにだすと、まずはトクヴィル[#「トクヴィル」はゴシック体](『アメリカのデモクラシー』松本礼二訳、岩波文庫)、ついでニーチェ(「権力への意志」〔『ニーチェ全集12・13』〕ちくま学芸文庫)があげられる。トクヴィルは、ヨーロッパではなくてアメリカの群衆デモクラシー[#「群衆デモクラシー」はゴシック体]におどろき、ニーチェは、ヨーロッパ人の群衆化[#「ヨーロッパ人の群衆化」はゴシック体]におどろいている。
要するに、型にはまりきれない人間のかたまりが大量に登場したのである。この登場の背景は、かんたんに確認できる。ひとつは、技術革新による食糧生産の増加や医学の発達による死亡率の低下であり、ひとつは、自由主義デモクラシー機構の確立である。ゾンバルトによると、一八〇〇年までのヨーロッパの人口は一億八千万を超えなかったが、その後、人口は激増した。これが群衆形成の背景にあることはたしかである。
オルテガは、群衆を精神のあり方で規定する。階級の上下にかかわらず、自立し努力するエトスをもたないものはすべて群衆になる。群衆は階級切断線を無視して、あらゆる社会階級層にしみこむ。オルテガは、そこにヨーロッパの危機[#「ヨーロッパの危機」はゴシック体]をみたが、それはどちらかというと心理学的規定である。
私は、オルテガその他とちがって、もっと近代資本主義経済の動きを重視したい。近代市民社会は、他のいかなる社会ともちがって、貨幣・資本という経済形式に全面的におおわれる社会[#「経済形式に全面的におおわれる社会」はゴシック体]である。市民社会と経済形式がこれほど全面的に不可分になった社会はない。そこで生きる「市民」は、経済メカニズムによって、全員が等質化[#「等質化」はゴシック体]される。異質的で自立的な個人は、否応なく、経済のロジックによって否定される。諸個人は、まずクラス内で同質化し、ついでクラスとクラスが同質化する。
理念的にいうと、異質性と独自性の抹殺、一様な人間類型[#「異質性と独自性の抹殺、一様な人間類型」はゴシック体]、これが市民経済の帰結である。そして、この同質性、一様性の特質こそ、まさに群衆の根本特性である。かつて部分的現象であった群衆存在が、全社会をおおうことになった。万人が群衆[#「万人が群衆」はゴシック体]になる。十九世紀産業資本主義はこの事業をなしとげ、二十世紀はこれを全地球上に拡大させる。二十世紀の革命と反革命(ファシズム、ナチズム、スターリニズム)は、この異様な群衆化傾向のなせるわざであった。その本質はまだ見ぬかれていない。
群衆の時代[#「群衆の時代」はゴシック体]
経済史の研究が教えるように、ヨーロッパの十九世紀前半期は、まことに暗く陰惨な時代であった。産業革命とフランス革命のダブルパンチをくらって、ヨーロッパの諸社会は激動をくぐりぬけざるをえなかった。その時代の最後の頂点が、一八四八年の諸革命である。エリック・ホブズボームによれば、大陸の革命らしい革命だけでなく、イギリスの改良運動、南ヨーロッパやギリシアの民族運動、南北アメリカの諸種の改良と独立の運動などを加えると、一八四八年頃の時代は、文字通り史上最初にして最後の世界革命の時代であった(ホブズボーム『市民革命と産業革命』岩波書店)。
ヨーロッパ大陸に限定していうと、十九世紀前半期は、経済史では、飢餓の時代だという。時代の病根は貧困[#「貧困」はゴシック体]に代表される。経済学は貧困の原因の学にして、貧困をなくすことを期待された学であって、どうころんでも陰湿なイメージがつきまとう学問であった(ディズマル・サイエンス)。ところが、四八年革命以降になると、ヨーロッパはなんとなく明るい気分がただよいはじめる。革命家たちはおおいに苛立ったらしいが、たいていの人びとは未来に明るい希望をいだきだす。経済のレベルでは、産業革命が大国のいくつかで軌道にのり、生産力の上昇があったことが、明るさのもっとも大きい理由のひとつだろう。十九世紀後半の安定しのんびりした特徴を示すのが、ヴィクトリア朝イングランドである。経済学も暗い学問から明るい学問へと転化しはじめる。
こうして、十九世紀は、科学主義の時代とか平和の百年とかいわれて、なんとなく明るさいっぱいの時代だというイメージが固定化しはじめる時代に入るのだが、現実に生きていた人びと、とくに過敏性の思想家や文学者たちは、ほんとうに明るいと感じていたのだろうか。表面の安定性と明るさとはうらはらに、何かしらえもいわれぬ不気味なもの[#「不気味なもの」はゴシック体]が登場してきたのではないか。経済史ではけっしてとらえることができない生活の内実を、私たちは別のところに探し求めなくてはならない。この探求は、私たちが知らず知らずつくりあげている十九世紀のイメージ、資本主義市場経済のイメージを少しでもつきくずす試みでもある。
威嚇する群衆[#「威嚇する群衆」はゴシック体]
精神のいとなみがいくつかあるなかで、あるものは異常に過敏であり、他のものはひどく鈍感である。それぞれに持ち味というものがあって、どちらがとくによいというものではないが、生活の本質を深いところで射ぬく力は、過敏性の精神がいちばんすぐれていることはいうまでもない。二十世紀の思想家のなかで、際立って繊細にして過敏なヴァルター・ベンヤミン[#「ヴァルター・ベンヤミン」はゴシック体]が、同じ程度に繊細過敏なシャルル・ボードレール[#「シャルル・ボードレール」はゴシック体]をどう読んだかを、ここで考えてみたい。材料は、文学であるが、ねらいは、群衆論である。
ベンヤミンは、十九世紀パリの事情に通じ、ボードレールの詩の世界を、社会環境との関係で微細に分析する。ベンヤミンのボードレール読解のキイ概念は、まさに群衆である。
ベンヤミンがことわっているように、ボードレールの作品のなかには、群衆はそれ自体として登場していないにせよ、まさにその不在のゆえにボードレールの作品は群衆を陰画的に現出させる。「かれ(ポー)は、エンゲルスとおなじように、群衆がしめす劇のなかにある威嚇的なものを感知した。これこそまさしくボードレールにおいて決定的な役割を果たすことになった大都市の群衆の像である。ボードレールは、群衆がかれを惹きつけ遊民としてかれを群衆の一人とするその力に屈しはしたが、群衆の非人間的性質という感情はけっしてかれを去ることがなかった。かれは自分を群衆の共犯者とし、ほとんどその同じ瞬間に群衆から離反する。」(ベンヤミン『ボードレール』晶文社、56―57ページ)。
ベンヤミンは、これをボードレールにおける衝撃の体験[#「衝撃の体験」はゴシック体]とよんでいる。ボードレールをふくむある種の人びとにとっては、群衆との出会いは衝撃的であり、魅惑と反撥との両義的反応[#「魅惑と反撥との両義的反応」はゴシック体]をよびおこす驚きの経験[#「驚きの経験」はゴシック体]であった。私は、他のところでくりかえし指摘したことだが、両義性のあらわれるところ、必ずつねに暴力あり、といいたい。
十九世紀の過敏性思想家にとって、なぜ群衆がそれほど驚きで衝撃的なのか。それを解く鍵は、群衆という形をとった新しい人間の在り方が示す両義性と暴力性だといえよう。群衆は、単なる人間の集合ではない。統計的見方ではすくいあげられない人間の両義的・分裂的在り方が、群衆存在のなかにある。そのことを、ポーやボードレールははやくも見てとっている。そしてポーやボードレールを、時をへだてて、いぶかりの眼をもって読むベンヤミンも、二十世紀ではいちはやく、十九世紀的群衆の子孫たる二十世紀の群衆が、かつて以上に破壊的で暴力化している事情をみてとっている。ベンヤミンが、ポーやボードレール、プルーストやヴァレリーのなかに、群衆の衝撃の痕跡を読みとりえたのも、すでにベンヤミンが二十世紀の群衆によって衝撃を与えられ、とほうもない驚きを経験していたからなのである。
ベンヤミンがつぎのボードレールの言葉をひいたとき、かれはそこに自己の感情を託してもいたことだろう。
「この殺伐な世界に迷いこみ、群衆にこづきまわされている[#「群衆にこづきまわされている」に傍点]僕は、背後の深い歳月に覚醒と苦難とをしか見ず、前途に、なにひとつ新奇なものを、教訓も苦悩も、含んでいない暴風をしか見ない、困憊した人間に似ている。」(同前書、86ページ)。
群衆と分身[#「群衆と分身」はゴシック体]
人間の生活から、ときどきアウラ(光り輝く光輪)が消えるというのではない。人間の生活の全面にわたって、アウラが消滅する時代[#「アウラが消滅する時代」はゴシック体]が到来したのだ。十九世紀のみかけの明るさの背後で、アウラをなくし、物と化した人間群がカオスの顔をもって(というのは分裂的な相をもって)陸続と登場する事態が開始する。過敏性の思想家にしかみてとれない群衆的人間の在り方も、二十世紀に入ると、その本性をむきだしにする。二十世紀は十九世紀以上に群衆の時代である。こうベンヤミンは、われわれに語りかけているようだ。
分裂の人間とは、何よりも分身として現れる。ポーの「ウィリアム・ウィルソン」からドストエフスキーの「二重人格」やワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」まで、分身化する人間の悲劇の例は多いが、その群衆的人間のレベルでの現象は、均質化し画一化した交換可能な人間[#「均質化し画一化した交換可能な人間」はゴシック体]という在り方である。
ベンヤミンがすでによく気づいているように、個人と集団の両面であらわれる人間の分裂症は、日常的な経済生活の中に用意されている。近代市場経済の商品と貨幣の水平化の力は、物も人間もひとしなみにひとつの同一の形式にたたきこみ、純粋な量に変えてしまう。量化の暴力と群衆化の暴力[#「量化の暴力と群衆化の暴力」はゴシック体]とは、同じことの両面にすぎない。群衆とは何よりも妖怪である。
[#改ページ]
暴力
群衆と暴力とのかかわりを見た以上は、もう少しつっこんで、暴力とは何か、を考えてみることも必要だろう。もういちど、ヴァルター・ベンヤミンの議論を参照しながら、やや理論的な形で、暴力論を整理してみよう。
暴力批判の課題[#「暴力批判の課題」はゴシック体]
十九世紀の都市現象としての群衆の登場に過敏に反応したボードレールに対して、同じ程度に過敏に反応したヴァルター・ベンヤミンは、群衆がはらむ暴力だけでなく、近代法体系がはらむ暴力にも敏感に反応する。ベンヤミンの『暴力批判論』(一九二一年)は、叙述の形としては法哲学の形式をとっているが、行間から伝わる著者の気分は、日常生活の中にあふれかえる暴力現象への極端な反撥である。法体系を暴力と暴力批判の視座から把握しなおしてみるというベンヤミンの認識関心は、その根底においては、十九世紀から二十世紀にかけて市民社会にあふれ出る諸々の暴力の体験に規定されており、単なる理論的関心から出たものではあるまい。法哲学的叙述の最中に、警察権力が日常生活に土足でふみこんでくる事態をいらつきを示しながら挿入するのは、いかにも唐突だが、ベンヤミンの現状への過敏性反応をよく示している。またこういう反応が可能な人にしてはじめて、学者風の法哲学論議ではたいてい無視されてしまう暴力への視座[#「暴力への視座」はゴシック体]を提出することができたのである。
子供のような倫理的無垢性の徴表を帯びたベンヤミンは「暴力に反撥する」といったが、この表現は誤解されかねない。人間主義の情念からいっさいの暴力に反対するといった見方や立場は、ベンヤミンには無縁である。たしかにベンヤミンの暴力批判論は、いっさいの法的暴力、国家暴力を「廃絶する」意図から構想されている。だからといって、ベンヤミンが常識的意味での反暴力論や非暴力論を唱えたわけではない。ベンヤミンは、ヘラクレイトス的「子供」の視座、無垢としてのピュシス(ギリシアの自然概念)の視座に立つ。その視座からとらえられた人間的現実は、諸種の互いに異質な暴力のアンサンブルに見えてくるのである。
ベンヤミンの叙述は、できるかぎり理論的明晰さを保持しようとしているが、全体としてなお直観的である。暴力問題は、どう努力したところで、透徹した明晰さに達することはできず、事柄の本性にしたがって隠喩的たらざるをえないが、それでもベンヤミンの洞察をさらにひきのばす形で理論化させねばならない。
暴力の二類型[#「暴力の二類型」はゴシック体]
ベンヤミンは、法や掟とよばれる「秩序」一般の発生とその存続維持のなかに根源的に内在する暴力をつかみだす。ベンヤミンの暴力のカテゴリー的分類にしたがっていうと、われわれが直接的に経験しうる暴力は、法措定的暴力と法維持的暴力[#「法措定的暴力と法維持的暴力」はゴシック体]である。法措定的暴力とは、社会秩序の形成を担当する暴力であって、これを常識に近づけて再定義すれば、政治権力ないし国家権力とよんでもよいだろう。なぜなら、「秩序」とは、ハンナ・アレントもいうように、「権力」にほかならないからである。(アレント『暴力について』みすず書房)。ベンヤミン的にいえば、秩序と権力は、本質的に暴力である。これに対して、法維持的暴力は、すでに成立した秩序=権力を解体と崩壊から守るべく、抑圧的に働く。これも常識に近づけて再定義すると、法維持的暴力とは国家装置群の暴力である。そこには、物理的な抑圧暴力[#「物理的な抑圧暴力」はゴシック体]だけでなく、イデオロギー的な抑圧[#「イデオロギー的な抑圧」はゴシック体]と秩序への組み込みの暴力がたえず働いている(私はここでアルチュセールが提案した国家権力と国家装置の区別を念頭においている)。
ベンヤミンは、法措定的と法維持的との二つの暴力を、簡単に法的暴力と要約している。ここまでは、ベンヤミンの用語法を除けば、ベンヤミンの独創性はない。ベンヤミンの独創性は別のところにある。それは、この法的暴力に対置された、それとは異質の暴力を「発見」したところにある。ベンヤミンは、法的暴力全体を「神話的暴力」[#「「神話的暴力」」はゴシック体]とよびかえる。いっさいの秩序形成的・秩序維持的暴力は、人間がつくりだすものであるが、人間にかかわるものとして「神話的」である。これに対して、法的・神話的諸暴力の根源にあり、またそれらが発出してくる根源的暴力[#「根源的暴力」はゴシック体]を、ベンヤミンは「神的暴力」[#「「神的暴力」」はゴシック体]とよぶ。それは、人間の世界とおおいにかかわりがあるが、しかし人間の領域をこえ出る領域で働く暴力である。ベンヤミンは、神的暴力を「純粋暴力」とよぶ。ここにベンヤミンの暴力批判論のおおいなる独創性と卓越さがある。
ベンヤミンの直観的記述を分析的に再構成すると、つぎのようになる。第一に、神的宣言が発せられる。これは荒ぶる声であり、それとともに「事件」がおこる。それは人と神との間に「境界線をひく」ことである。境界線は神的暴力の痕跡である。この境界線とは何か。それが人間であり、人間の社会である。出来事としての「人間存在」の生起は、根源的な境界線の偶有的生起とともにおこる。デリダ風にいうと、神的宣言としての「境界線」は、原エクリチュールである。カオス的自然のなかに、一本の線をひけば、おのずとひとつの像や形象《かたち》ができあがる。それが、事件、出来事であり、たとえば「人間」である。この線をひくことを原エクリチュールとよぶ。デリダにおいても原エクリチュールは暴力であった。それにベンヤミンの定義を加えれば、原エクリチュールとは、純粋な神的暴力、私の言葉でいうと、根源的に荒ぶる力(とその作用)である。第二に、人間の領域で、神的な純粋原暴力が形をこえて反復される。法措定的暴力は、人間の領域の内部での、神/人の区分け(差異化)の再現である。法的なもの/非法的なもの、聖/俗の形成である。
これまでの法哲学は、第二の段階のレベルだけをとりあげ、それについて諸種の法イデオロギーをつくりあげてきた。ベンヤミンの自然法と実定法の両面批判は、旧法哲学の盲点をつく。旧法哲学が盲目であったことにも理由はあって、神的暴力はもともと不可視であり、めったには洞察しがたいものだからである。しかし盲目は盲目である。いっさいの経験可能な暴力のさらに奥底の不可視の根源暴力を弁別することこそ、暴力批判論の課題である。
ベンヤミンの「神話的暴力」と「神的暴力」の特徴づけは興味深い。
神話的暴力――法措定的、境界設定的、罪をつくったりあがなったりする、脅迫的、血の匂いがする……。
神的暴力――法破壊的、境界侵犯的、罪をとり消す、衝撃的、血の匂いがない……。
このような区分によってベンヤミンがいいたいことは、人間がつくりあげる秩序の境界内では、法は自然の自発性(神的なもの)にさからって人為的な罪をつくったり、逆に贖罪したり、人為的な不幸をつくり血を流したりするもので、つまるところいっさいの法的暴力こそ真に暴力的である。反対に、神的暴力は、人間の尺度をこえ出て自然的生命とひとつになっており、もはや暴力というのもはばかられるが、やはり人間の眼からみるかぎり、もっとも根源的な暴力であるが、しかしこの暴力は「血の匂いのない」浄化の暴力である。
暴力の廃棄[#「暴力の廃棄」はゴシック体]
いっさいの国家暴力、人為的暴力を廃絶するとはどういうことか。すでにベンヤミンは解答を与えている。神的暴力によって神話的暴力を廃絶すること、それが「革命」である。少なくとも、それがベンヤミンの「革命観」である。ヘーゲルやマルクスのなかにあった暴力のパラドクス――暴力によって暴力をのりこえる、闘争によって闘争をのりこえる(止揚する)――は、ベンヤミンの暴力批判論によって独自の解答が与えられたわけである。
ベンヤミンの暴力批判論は、暴力の社会哲学史のなかで、際立ってすぐれている。かれによる「神的暴力」の設定は、本質的なところをついているからである。一九二〇年代初頭にこうした認識に達したとは、おどろくべき洞察力といわねばならない。レヴィナス(レヴィナス『全体性と無限』岩波文庫)、あるいはジラールの仕事(ジラール『暴力と聖なるもの』法政大学出版局)は、直接にはベンヤミンとは何の関係もないが、しかしいまやベンヤミンの孤独で卓越した認識は、客観的にほぼ確証されたといってよい。後期のデリダがベンヤミンに強い関心をもったことは、その証拠のひとつである。惜しむべきは、ベンヤミンがこのテーマを徹底しなかったことである。社会科学の現状は、いまだにベンヤミンの水準に達していない。いまだに暴力批判論の視座がない。少なくとも私はベンヤミンの遺産をうけつぎたいと願う。
[#改ページ]
ノイズ
ノイズ。ノイズは雑音とも騒音とも訳されるが、これが人間にとってもつ意味は何だろうか。久しい間、ノイズといえば否定的な悪い意味しか与えられてこなかったが、近年、自然科学や社会科学で新しい光を浴びて、見直されはじめている。生命科学で「ノイズからの秩序」が問題になっている。人類学で「スケープゴート」現象や「カーニヴァル」「祝祭」が脚光を浴びている。それらは、いきつくところノイズ現象にぶつかる。なぜノイズがこと新しく話題にのぼるのかを、ここでは人間学的な観点から考えてみたい。
響きと怒り[#「響きと怒り」はゴシック体]
響きと怒り(The Sound and the Fury)。この言葉はシェークスピア[#「シェークスピア」はゴシック体]が『マクベス』のなかで使って以来有名になり、二十世紀ではフォークナーの小説の題名にすらなっている。この言葉は仮そめの体験を指すのではない。それは人間の根本にある過激な何ごとかを表現する。外部に音があり、それを聞くことはありふれた経験である。何ごとかにぶつかって怒りの感情をもつことも、ごくありふれた体験である。けれども音と怒りが別々ではなく、響きと怒りが切りはなしがたく合体したひとかたまりの嵐として私たちを襲うとき、この体験は日常的なものではなく、きわめて異常なものになる。
響きと怒りは、人間が時折出会うことを余儀なくされる危機の表現[#「危機の表現」はゴシック体]である。この危機に呑みこまれて没落するものもあれば、この危機をのりこえて力強く再生するものもある。きわめて深い危機の体験は文学の題材になるが、ごく小さい規模でなら、私たちの案外身近におこっているものかもしれない。しかし身近ではあっても、その体験は奥行きのある重要な体験なのである。
個人の場合にかぎらず、社会や共同体のレベルでも、響きと怒りの現象がある。社会や共同体がなんらかの危機を通過するとき、人々は集団的体験としての響きと怒りにとらえられる。一揆、革命、戦争、集団リンチ等のなかでは、けたたましい怒号[#「怒号」はゴシック体]とさまざまな物音[#「物音」はゴシック体]がいりまじった状況が現れる。
危機とは、けっして沈黙した静かな状態で経過するのではない。危機はあらあらしく語り、叫び、笑い、わめく。
体系とノイズの対立[#「体系とノイズの対立」はゴシック体]
響きと怒りは、たしかに異常事態ではあるが、周期的にしばしばあらわれるのをみると、それはけっして束の間の無力な現象ではなくて、人間にとって根本的な在り方なのではないか。それなしには社会の形成も歴史もありえないのではないか、と考えたくなる。単に現象を列挙するのではなくて、現象の根元にある経験を描写するとすれば、どんな仕方をもってそれを考えていけばよいのだろうか。
これまでの学問は、一元的体系をめざして、すっきりした論理を尊ぶ。ひとつの王道を立て、この王道の前に立ちふさがる障害物はいっさい除去していく。障害物は雑音(ブリュイ、ノイズ)である。体系的学問は、雑音を排除する。雑音とは軽蔑語である。あらゆる雑種は、たとえ存在するとしても、好ましくないものとして無視される。体系としての学問も、体系としての社会も、雑音や雑種的なものは、できれば根絶したいものなのである。なぜなら、雑音や雑種物は、体系をゆるがし、体系を狂わせ、体系を崩壊させてしまいかねないからである。体系の観点からみると、雑音はあってはならぬものという道徳的悪にすらなっていく。
ノイズの学の生誕[#「ノイズの学の生誕」はゴシック体]
雑音[#「雑音」はゴシック体]は、体系の必要からできるかぎりその重要度を小さく見つもられがちである。しかしさきにみたように、雑音こそ響きと怒りなのである。それは仮そめのつまらぬものではなく、根源的な体験である。いやむしろ、響きと怒りという雑音のなかから、体系や組織や制度が生まれでるものだというべきである。これまでの伝統的考え方は、この順序を逆転して、響きと怒りを夾雑物として、あってはならぬ、取るに足りないものとして、排除する。伝統的学問は、響きと怒りをそれとして考えることはできない。そうだとすれば、一度は、既存の学問の思考を離れて、方針も海図もないままに、あの根源的な経験の探求へと歩みださなくてはならない。既存の学問の概念や方法がここでは役に立たない以上、さしあたりはありあわせの表現法を採用していくほかはない。たいていは、文学的、詩的に語るほかはない。
フランスの哲学者ミシェル・セール[#「ミシェル・セール」はゴシック体]は、響きと怒りを理解しようとして、海図のない旅に出発する。それはひとつの知的冒険である。セールは、数理哲学畑の出身であり、情報科学の認識論のスペシャリストであるから、早くからノイズの問題にかかわってきた。科学的認識のレベルで登場するノイズ論に満足しないで、ノイズが元来もっているきわめて射程の広い人間の経験へと思索を深めるところに、セールの仕事の魅力と刺激がある。
ノイズと暴力[#「ノイズと暴力」はゴシック体]
私は、久しく暴力現象が人間と社会にとってもつ意味を探求してきた。わからぬことが多いが、そのなかで暴力[#「暴力」はゴシック体]がノイズと不可分であることがわかってきた。暴力は個人と集団の両面で、何よりもまず響きと怒りとして現れる。
同じことをセールもまた語る。セールの仕事は、そのままひとつの暴力論として読むことができるのである。その暴力論は、通常のイメージで考えてはならない。秩序をもつ世界が形成される過程こそが、響きと怒りの場合であり、暴力的というほかはない過程なのである。秩序の形成[#「秩序の形成」はゴシック体](ジュネーズ)を考えるとは、響きと怒りのさかまく現場を考えることなのである。セールの『創世記』(邦訳『生成』法政大学出版局)は、この課題をひきうけたまことに興味深い書物である。
セールは、響きと怒りを「哲学の新しい対象」[#「「哲学の新しい対象」」はゴシック体]であるという。どんなものが響きと怒りをつくりだしているのか。セールは、必ずしも人間の体験にかぎらない自然現象のなかに探索の糸を垂れる。たとえば、こんな描写がある――「鳴きかわしながら飛ぶ渡り鳥、一面に絹を敷いたような水を切って進むにしん[#「にしん」に傍点]の群、ジージーと鳴きながら雲のようにむらがるバッタ、ぶんぶんうなる蚊の渦巻……群衆、猟犬の群、騒々しい叫び声で空間を満たす移動する遊牧民たち、ライプニッツはこういうもの、こういう集団を集合体《アグレガ》と命名した……」
さまざまの群れや集合体がつくりだす響きと怒りを哲学の対象にすえることは、群れや集合体の実在を指摘するだけではすまない。騒音や叫びを発する群れの本質と運動を把握する概念をつくることが重要である。概念としては、単一性ではなくて多様性[#「多様性」はゴシック体]、一ではなく多[#「多」はゴシック体]、実体ではなく関係[#「関係」はゴシック体]が主要なものである。
これだけのことなら何もこと新しく「哲学の新しい対象」というほどのものではないともいえるが、多様性、関係性を、言葉をこえて概念へと仕上げることはきわめて困難な仕事なのである。この困難を突破するためには、哲学の常道にもどって、言葉を知的に操作するのではなくて、言葉の背後にある経験をつぶさに歩き、調査してみる必要がある。
ノイズに耳を傾ける[#「ノイズに耳を傾ける」はゴシック体]
なぜこんな回り道をするのだろうか。多様性や関係性を認識論的にもちあげてみせることは、その道の専門家たるセールにとってまことにたやすい仕事だろう。しかしそれは空虚な仕事だ。なぜなら、多様性や関係の概念は、伝統的な一元論的思考体系がつくりだした概念でもあって、いつまでも過去のイメージを背おいつづけているからである。単一や実体を批判すると称して、多様性と関係をもちだしても、影によって本体を批判するむなしさがつきまとう。当分は、多様性や関係は、実体一元論の諸思想からの借りものでありつづけるほかはない。
そうだとすれば、採るべき道はただひとつしかない。さしあたり多様性や関係という言葉を借りて語るけれども、これらの言葉がかすかに指示している現象や経験をあるがままに描写し考えぬくこと、これである。このような一種の現象学を経たあとで、一元論や実体論の刻印をできるかぎり払いおとした、その意味での「多様性」や「関係性」の概念へとすすむことができるであろう。
響きと怒りの現象学、暴力の現象学[#「響きと怒りの現象学、暴力の現象学」はゴシック体]、それらはきたるべき新しい学問への序曲である。身体の働きとしては、視覚ではなく聴覚[#「聴覚」はゴシック体]こそがモデルとなる。世界のなかに充ちている騒音と狂乱、響きと怒りを、ノイズを聴きとる[#「ノイズを聴きとる」はゴシック体]ことが、この現象学の根本的な構え方である。ここでは、考えることは、注意深く聴き耳を立てることである。現象は耳に現れ出る。
ノイズの暴力性[#「ノイズの暴力性」はゴシック体]
ノイズの積極面を見たが、今度はノイズのマイナス面にも目を向けておこう。私たちが身近に知っている日常生活内の「音」の暴力を考えてみたい。
私たちは、日常生活のなかに充ちている音(たいていは雑音)の暴力性に注意を払うことはめったにない。自動車や電車が発する音、群衆の雑踏から発せられる音、物売りや選挙演説の車ががなりたてる音、人や動物がつくりだす叫び声という音、その他あげればきりがないが、こういった発生源の違う雑音が私たちの日常生活をとりまいている。
最近では、本来雑音でなかったはずのメロディーをもった音ですら、都会の集合住宅の空間のなかでは雑音化し、人びとの精神と神経を苦しめ、時には殺人すらひきおこしたりしている。ピアノの練習曲すら雑音化し、殺人を誘発する時代である。暴走族のつくりだす、その耳をつんざくような、心臓に悪い雑音に、人びとが耐えられるわけがない。
雑音や騒音によって人殺しが起きるのは、けっしてよいことではないが、逆にいえば、雑音や騒音を発生させる人間が殺害されるほどには、人びとが音に対する敏感な感性をまだもちあわせていることも確かである。こういう逆説的ないい方をしなければならないほど、現代の人間は雑音や騒音に対する制御反応を喪失しているのである。
都市化[#「都市化」はゴシック体]の進展は、日常生活のなかにおびただしい雑音をひきいれた。ひと昔前までの人間ならとても耐えられようもない音でも、現在の人間なら耐えることができる。静かな農村や地方都市で暮らした人間は、大都会へ出てきたばかりの頃には、雑音ノイローゼ[#「雑音ノイローゼ」はゴシック体]にかかる。それもしばらくすると、都会の音に慣れて、雑音に対する耳の許容度が高まる。
都市は、人びとに雑音に対する忍耐を強制する。人びとは強制的に、しばしばそれと知らぬ間に、さまざまの音に慣れていかねばならない。雑音に慣れるとは、音の暴力性[#「音の暴力性」はゴシック体]に慣れることである。音の暴力性に慣れることは、音以外の物がもつ暴力性にも慣れることである。こうして、都会生活者は、暴力に対する過敏な反応を失って、どこまでも暴力的な現実を受動的に受け入れていくようになる。このような暴力不感症[#「暴力不感症」はゴシック体]は、きわめて恐ろしいことではあるまいか。
自動車公害が非難され、自動車がひきおこす殺人や騒音の弊害が告発されている。しかし、そうした告発の声もむなしく虚空に消える。自動車事故で人が死ねば、当事者も傍観者も一瞬はシュンとする。しかし、それで終わりだ。自動車天国となった日本列島では、人びとは非業の死に慣れてしまっている。非業の死への不感症[#「非業の死への不感症」はゴシック体]の基礎には、音の暴力性への不感症があるのだ。
生活のなかからできるかぎり不必要な音をなくそうとする健全な感性が生きていたとすれば、これほど自動車文明が栄えることはなかったであろう。西欧に比べて交通網が非常に発達しているにもかかわらず、個人所有の車が不必要なまでに多い日本の現状は、きわめて異常である。この異常さを支える理由は多々あるだろうが、そのうちでももっとも大きく、しかもしばしば忘れられている理由は、音の暴力性への無感覚である。
暴力への不感症[#「暴力への不感症」はゴシック体]
音の暴力性への不感症を毎日育てている場所のひとつに、学校がある。幼稚園、小学校、中学校、高等学校では、朝から夕方まで、子供たちの耳のなかに拡声器によるさまざまな雑音がたたきこまれている。幼稚園や小学校の校庭は、ふつう小さいものである。肉声で十分に子供たちの耳に入るはずである。それにもかかわらず、教師たちは、愚かにも、わざわざ拡声器でがなり立てている。
こうした環境のなかでは、聴覚に異常をきたす子供がでてきても不思議ではない。その悪影響は、大人になってはじめて症状を示すのだから始末が悪い。教師たちは、自覚してはいないが、子供たちのなかに暴力不感症を進んで育てているのだ。学校暴力を云々する以前に、教師たちは自分たちが無自覚にふるっている音の暴力をしめだすことからはじめるがよい。子供たちのなかに暴力誘発剤をたたきこんでおきながら、子供たちの暴力を非難するとは、本末転倒もはなはだしい。教師たちが、音の暴力性にまったく気づいていないことのほうが、よほど重大なのである。
教師が暴力を知らずして行使しているのは、音の暴力ばかりではない。制度的な象徴暴力[#「象徴暴力」はゴシック体]をも日常的に行使し、差別と抑圧をしつづけていることも、子供たちの学校生活を暴力化させている。教師が無垢で、子供や生徒が有罪であるなどとはとうてい考えられない。かれらも、事実上それを知っている。だからこそ教師たちは、暴力を行使する生徒ではなく、その家庭のほうに罪の原因をみいだそうとする。これなども根拠のない議論である。なによりもまず、教師たちは、偉そうにみえるだけで空虚な議論をふりまわす前に、日常化した音の暴力性に対する批判的感性を自己の内部に育てることから始めねばならない。
チリ紙交換車は、最大ボリュームで「お騒がせしてすみません」といいながら、雑音をくりかえしふりまいていく。左右を問わず、政党の宣伝カーも、チリ紙交換と同様に、「朝早くからごめんなさい」といいつつ、聞きたくもない無内容な演説を私たちの耳のなかに、暴力的にたたきこんでいく。それらを聞く人びとも、こうした音の暴力を当然と考えて、反対の声をあげようとしない。
きたない風景や事物があれば、見ないですますことができる。眼は閉じることができるからである。特別の場合を除けば、見ることを強制することはできないし、私たちも見ることを拒否できる。見たくないテレビ番組があれば、スイッチを切ればよい。新聞は読みたくなければ、放り出せばよい。
しかし、雑音や騒音は、そうはいかないのだ。耳をふさぐことはできるが、音の暴力は手で耳をふさぐことなど問題にしない。外からとびこんでくる音に対して、人間は無力なのである。聴覚への暴力[#「聴覚への暴力」はゴシック体]は、他の感覚への暴力以上に強力である。だからこそ、権力者はしばしば音の暴力性を政治的に利用することを工夫してきたのである。呼びかけと誘惑は、音を媒体としてのみ成立する。暴力的にして魅惑的な音は、ヒトラーの演説であろうと、広告の反復音であろうと、もっとも無防備な聴覚を狙うのである。
群衆社会の暴力[#「群衆社会の暴力」はゴシック体]
十九世紀以降、西欧でも日本でも、市民社会は群衆社会となった。英雄時代の都市的市民社会は消滅した。資本主義経済は市民社会の上に確立したのであるが、同時に市民社会を画一的な群衆社会へと変質させもした。自立的個人の確立の希望は、経済的発展の上に開花すると思われたその瞬間に、夢と化した。群衆社会は、具体的個人の特異性と個性を抹消し、無差別的群衆[#「無差別的群衆」はゴシック体]の中へと吸収していく傾向を強める。上からは強力な国家装置のたえざる呼びかけがあり、下からは群衆の雑踏がつくる魅惑の雑音が呼びかける。
音の暴力性は、恐怖と魅惑の両面を解きがたくよりあわせて、人びとの耳のなかに押しいってくる。権力の声であろうと、日常生活から発する雑音であろうと、はじめは小さく、後にますます大きくなっていく。ささやきの音から、脅迫の音へと、群衆社会のつくる音は成長する。学校や家庭、交通機関のなかや職場のなかで、いたるところで、音の暴力性は怪物的に肥大化する。
権力の服従命令の声音、消費を命令する広告の声、政治思想への参加の呼びかけの声、他方では殺害を許容せよという物から発する呼びかけの声、あらゆる音声が人びとの身体と精神をがんじがらめにしていく。二十世紀は、こうした暴力的音声のさかまく時代であり、現代社会はもっとも大きい騒音と大量の雑音で充ちた暴力的な社会[#「暴力的な社会」はゴシック体]となっている。
音の暴力性を許す社会は、人間の死と殺害を許す社会である。原爆とアウシュヴィッツをつくった現代社会は、かつてないネクロポリス[#「ネクロポリス」はゴシック体](死の都市)になっている。一見ささやかにみえる音の暴力にもっと大きい注意を払うべきである。
[#改ページ]
儀礼
人類学の重み[#「人類学の重み」はゴシック体]
国立民族学博物館は、世界中でもめずらしい民族学と人類学の専門研究所である。大阪の千里丘にそびえる民博の建物は、交通には不便なところにあるが、研究所としてはかなり立派なものである。そこでは多数の民族学者たちが数多くの共同セミナーを開いており、年に一、二回の大規模な国際セミナーも開催される。この民博の共同研究のひとつに、儀礼とイデオロギーを主題とした研究会がある。民博の田辺繁治氏が主宰する共同研究は、人類学者・民族学者だけの狭い研究会ではなく、精神医学、経済学、哲学の専門家たちも参加している学際的研究会である。
この共同研究は二つの目標をもっている。ひとつは、人類学的認識を根本から吟味しなおすことである。これは、広義の認識論的な研究といってよい。人類学は、エキゾチシズムと植民地主義のイデオロギーをどこかにひきずっており、どんなに精密に仕上げられても、かつての素朴な旅行記的センスと同質のものから免れない運命にある。人類学はたえず社会科学への成長をめざすのでなくてはならないが、その努力は自己の内なる独断的思考を批判的に解体しつづける作業と切り離せない。
西欧では、すでにレヴィ=ストロース[#「レヴィ=ストロース」はゴシック体]の認識論的研究があり(レヴィ=ストロース『野生の思考』みすず書房)、最近ではレヴィ=ストロースを含む人類学者の仕事を全体的に再検討にさらすダン・スペルベル[#「ダン・スペルベル」はゴシック体]の仕事も出はじめている(スペルベル『人類学とはなにか』紀伊国屋書店)。日本では、人類学の認識論的研究という地道な仕事は出にくい。その意味では、人類学的認識論[#「人類学的認識論」はゴシック体]の確立をテーマに掲げた民博の共同研究は、その成果がどうなるにせよ、かなり重要な試みである。
儀礼とイデオロギー[#「儀礼とイデオロギー」はゴシック体]
しかし、この共同研究は、人類学的認識の批判的吟味を哲学的にやろうとするのではない。人類学が当面する具体的現象を解明するなかで、人類学の自己批判的解剖[#「人類学の自己批判的解剖」はゴシック体]をするのである。さしあたり、共同研究がとりあげるのは、「儀礼とイデオロギー」である。このテーマは、親族関係を中心とする社会構造や経済生活を扱う場合よりも、人類学的認識の本質に触れる。なぜなら、儀礼[#「儀礼」はゴシック体]やイデオロギー[#「イデオロギー」はゴシック体]は、儀礼過程に参加する当事者の思考自体を問題にせざるをえないし、その思考を思考する人類学者の思考をも対象にせざるをえない。儀礼という行為やイデオロギーという観念現象を、客体として記述することはいちおう可能である。
しかしその客体的記述は、真の意味での客観性を示しはしない。それは、人類学者が外から自己の解釈図式をあてはめて解釈する域を出ない。これまでの客体的記述は、結局のところ、研究者自身の思想を対象に投げこんだ主観主義的解釈ではなかったか。このような難点をのりこえる記述はありうるのだろうか。もしも客体的記述しか可能でないとすれば、他者理解は永久に不可能である。解釈する者が適当な解釈図式をつくって満足するという、解釈の押しつけあい[#「解釈の押しつけあい」はゴシック体]しかないことになろう。これでは、かつてのエキゾチックな旅行記の水準を一歩もぬけ出せない。
別の可能性が模索されなくてはならない。人類学者が相手にしている人びとの自己解釈[#「人びとの自己解釈」はゴシック体]と人類学者の解釈[#「人類学者の解釈」はゴシック体]とは、つねにくいちがっているはずである。このくいちがいやズレを無視するとき、植民地主義的な解釈のおしつけが生まれる。問題は、二つの解釈項のズレ[#「解釈項のズレ」はゴシック体]をはっきりと摘出し、このズレを発条《ばね》にして解釈項相互の討論と対話の過程[#「解釈項相互の討論と対話の過程」はゴシック体]を発生させることであろう。ズレや差異を解消するのではなくて(それは永久になくならないだろう)、このズレを人類学的認識過程に組み入れることである。民族誌の記述も、このズレを通して発動する対話や討論のプロセスを組み入れてはじめて、客観性をもちうる。フィールド・ワークとは、事物や現象の採集にとどまらず、それ以上に、内なるもの(当事者)と外なるもの(人類学者)との不断の日常的な対話行為であり、対話行為を通しての両極の主観主義をのりこえることである。
このような認識論的問題は、人類学に限った話ではないが、容易にはコミュニケーションのつかない異質な社会を研究する人類学でこそ、他の社会科学では埋もれている問題を鋭く浮きあがらせる。人類学の成果が他の社会諸科学を刺激する大きい理由のひとつは、右にのべたような認識のあり方にあるのだろう。この主題が問いつめられ、人類学の新しい展望を切りひらいてみせるのは、もう少し先かもしれない。だが、新しい一歩が確実に踏みだされていたのである。
構造の形成と変動[#「構造の形成と変動」はゴシック体]
それにしても、いまなぜ、儀礼とイデオロギーがとりあげられるのか。その理由は単純である。これまで儀礼とイデオロギーの研究が深められていなかったからである。世界中に無数にある儀礼の採集は、これまでもたくさん蓄積されてきた。しかし儀礼的実践と他の社会的行動の関係、儀礼と不可分のイデオロギーの形成と作用、要するに儀礼のメカニズムの分析は、けっして豊かとはいえない。
これまで、コスモロジーとか象徴とかについては多くのことが語られてきた。しかしこれまでのコスモロジー論[#「コスモロジー論」はゴシック体]も象徴論[#「象徴論」はゴシック体]も、多かれ少なかれ単独研究であって、社会生活の全体的文脈に位置づけられてきたとはいえない。労働やセックス、生と死といった日常的生活のなかから、どのようにしてコスモロジーや象徴的世界が発生するのかの研究は、これからの課題である。そのとき、儀礼の研究は最大級の重要性をもつ。コスモロジー論も象徴論も、イデオロギーで一括するとすれば、イデオロギーは儀礼的実践過程の中で徐々に形成され、社会構造の変動[#「社会構造の変動」はゴシック体]につれて、機能も変化する。儀礼の研究によって、歴史の問題も浮かびあがる。
静態的な人類学(機能主義、構造主義)は、歴史を解消した。儀礼研究とともに、歴史が復活する。儀礼研究は、ひとつの人類学批判たりうるのである。
儀礼と権力[#「儀礼と権力」はゴシック体]
儀礼研究は、これまで手うすであった領域をも開拓する。儀礼的実践は、日常的世界と切断した超越的世界(宗教イデオロギー、コスモロジーなど)をつくりだすが、そのことによって権威や権力の維持[#「権威や権力の維持」はゴシック体]に役立つ。儀礼過程は、権威や権力が物理的暴力を直接に行使しないでも、当事者が自発的に権威を内面化して、自分で自分をコントロールする機制をつくりだす。権威や権力への個々人の服従を円滑に進行させるものこそ、儀礼的実践であり、そこでつくりだされるイデオロギーである。だから、儀礼論は権力論にもなるのである。
王権が存在するところでは、儀礼と権力の結びつきは、きわめてはっきりする。儀礼が権威と秩序への催眠的服従をさそうのは、国家儀礼[#「国家儀礼」はゴシック体]にかぎられない。もっとささやかな日常生活のなかで反復される小さな儀礼的実践[#「小さな儀礼的実践」はゴシック体]も、ある意味では巨大儀礼よりも重要である。それは未開社会に限ったことではなく、近代の資本主義社会でもみられる。商品交換にみられるフェティシズム[#「フェティシズム」はゴシック体](物神崇拝、呪物崇拝)自体がすでにひとつの日常的な儀礼行為であり、消費活動自体が儀礼的実践である(フェティシズムについては、高橋洋児『物神性の解読』勁草書房、今村仁司『社会科学批評』国文社を参照されたい)。
経済にかぎらず、社会生活のいたるところで、儀礼的実践がおこなわれている。人間の生活は、すみからすみまで儀礼的実践に充ち充ちている。未開社会も近代社会も、その点ではまったく同じである。そうだとすれば、社会の研究は、儀礼の研究ぬきにはありえないということができるだろう。
イデオロギー[#「イデオロギー」はゴシック体]
最後に、イデオロギーについて一言。イデオロギーはあいまいな用語である。だからといって捨ててよいわけではない。儀礼の研究とともに、イデオロギーの概念もつくりなおされる必要がある。非イデオロギー的な精神活動とイデオロギーの区別が明快にとりだせるなら、イデオロギー独自の本性と機能もより深く理解できるばかりでなく、イデオロギーへの批判も、今度はもっと深いところから可能になるだろう。
このイデオロギーの問題は、二つの方向で展開できる。ひとつは哲学的な研究である。イデオロギー的な知と実在的な認識との差異がどこにあるかを解明しなくてはならない。そうでないと、精神の産物はすべてイデオロギーになってしまいかねない。真実の知の存在があってはじめて、イデオロギー批判が可能になるからだ。もうひとつの方向は社会理論的研究である。幻想的な知をうみだすイデオロギーが、なぜかくも人びとをとらえ権力に奉仕するのかを、人間精神の内部に入って詳細に研究しなくてはならない。
儀礼の研究は、このように多面的可能性をもっている。今後の社会科学のもっとも生産的でスリリングな研究領域になるだろう。
[#改ページ]
全体主義
全体主義という言葉は、近頃あまりはやらない。政治についてひとは民主主義、社会主義、共産主義などを語ることが多く、管理社会論は口にされても全体主義論は今では影をひそめた。はたしてそれでいいのか。全体主義のすさまじさを避けて、管理というやや甘ったるい言葉でお茶をにごすことは、健全とはいえないだろう。全体主義は今でも依然としてキイ・ワードなのである。文学作品を材料にしながら、先人の全体主義との格闘の足跡を想起しておくのも無意味ではあるまい。
ガザに盲いて[#「ガザに盲いて」はゴシック体]
ここにひとつの気になる作品がある。二十世紀が生みだした奇怪な社会現象、俗に「全体主義的現象《フエノメーヌ・トタリテール》」[#「「全体主義的現象《フエノメーヌ・トタリテール》」」はゴシック体]とよばれる現実と格闘したとおぼしき作品、それがオルダス・ハクスレー[#「オルダス・ハクスレー」はゴシック体]の『ガザに盲いて』である。この作品の構成は複雑にいりくんでいて、筋を追うのがひどく困難で、とりわけ生活史の時間序列が自由に逆転させられたり、歴史的局面がいく重にもシャッフルされていて、ふつうの筋道を追う読書の仕方を混乱させる。けれども、小説自体を分析するのではなく、二十世紀の歴史的現実と格闘した思想の産物として読むかぎり、小説の読み方としては邪道かもしれないが、比較的楽にエッセンスをとりだすことができる。
この作品の諸章のうち、一九三〇年代の日付をうたれている諸章は、ハクスレーの社会哲学的思索が刻みこまれたものとみなしてよい。『ガザに盲いて』を小説としてではなく、ひとつの社会哲学的作品とみたてた場合、どんな興味深いことがあらわれてくるのだろうか。それを考えてみたい。
全体主義[#「全体主義」はゴシック体]
前に指摘した「全体主義的現象」(これは仮そめの用語でしかない)とは、ナチズムに代表される現象とスターリニズムに代表される現象をふくむ。常識に近い線でいえば、帝国主義的資本主義とロシア型社会主義である。
ある種の常識は、二つの体制をまったく異質のものとみなす。右翼的傾向(自由主義)であれ左翼的傾向(社会主義)であれ、両体制を異質とみる点では同じ物の見方に立つ。
もうひとつの常識は、両体制を「全体主義」と一括する。特定の指導組織が国家権力を握り独裁体制をしくとき、ナチズムもファシズムもボルシェヴィズムも同じ現象に一括される。これら二種の比較的ルースな常識論をこえ出ようという真剣な努力もかつてあった。
たとえば、ハンナ・アレント[#「ハンナ・アレント」はゴシック体]の『全体主義の起原』は、主としてボルシェヴィズムという政治現象を分析することを究極の課題としていたようだが、彼女は単純な形でナチズム、ファシズム、スターリニズムを同一視してはいない。彼女によれば、ナチズムもファシズムも、全体主義の芽でしかなく、スターリニズムはもう少し前進しているにしても、完全な意味での「全体主義」ではない。そうだとすると、前記三つの政治現象は、これから未来において実現するかもしれない巨大なうす気味悪い地獄の前奏曲をかなでるもので、われわれはもっとおそろしい何ものかを待ちつつあるのだともいいうるだろう。「全体主義的現象」は、ほんの顔をのぞかせたところであって、いままさに大きく登場しようとしている。これがアレント的予感であり、また別の形で、ハクスレー的予感でもあった。危機の現実に直面し苦悩した、二つの現代診断である。
ハクスレーは文学者だから、アレントのような政治哲学的分析をやっているわけではない。それでも現実を生きぬいた一人の思索者のなまの声としては、それはひとつの歴史的証言であろう。ここにひとつの対話がある。
(A)「例えば、嫉妬や野心を例にすると、この二つは肉体的暴行の面に現れるのが常だった。ところがいまでは、我々は、この二つが大部分、経済競争の形で現れるような具合に社会を組織してしまったんだ」
(B)「ところがそれを我々はいま、除去しようとしている」
(A)「そして、再び肉体的暴行をはやらせようとしているのかね?」(『ガザに盲いて』本多顕彰訳、新潮社、95ページ)
Aは元社会主義者で、Bは社会主義者である。小説では、Aはいくたの経験を経て新しい境地をひらくが、Bはいきづまって自殺する。その点はさしあたってどうでもよいが、話題の中心は、資本主義と社会主義を暴力の視座からとらえて、はたして社会主義は暴力を根絶して正義を実現できるのか、資本主義も社会主義も暴力を拡大するシステムだとすれば、他の道はありうるのかが問われている。
組織の暴力[#「組織の暴力」はゴシック体]
ハクスレーがたどりついた現実診断は、こうである。およそ第一原理[#「第一原理」はゴシック体]に基づいて社会を組織するやり方は、いかなる名称をもとうとも暴力的体制を生みだす。「組織的計画者」たちは、原理と計画(正義や幸福とよばれる)に反するものを「悪の権化」「鬼の化身」として追放したり殺害したりする。「宗教裁判所が生まれ、ロベスピエールが現れ、ゲー・ペー・ウーが設けられる。……第一原理によって考えるということは、必然的に、機関銃をもって行動するということを伴う。社会改良の総合計画を持つ政府は、拷問をやる政府なのである」
トーマス・マン風にいえば(『魔の山』)、ジェズイット共産主義(ロヨラ、ザヴィエル)であれボルシェヴィキ共産主義であれ、必ず拷問とスパイとテロを利用する圧制を生むとすれば、自由主義的資本主義のほうがよいのだろうか。ハクスレーは否と答える。それは、技術進歩と人口増加で崩壊するという。ではどうするのか、ハクスレーのいうディレンマを脱出する道は何なのか。ハクスレーはおそろしく単純なことしかいわない。いわく「自己を用いることを学び、精神を導くことを学ぶということである」。何となくデカルトの教えを聞くかのようである。デカルトは認識の道を語ったが、ハクスレーは実践の道を語っているつもりである。同じ問題ととりくんだトーマス・マンの『魔の山』は答えを留保しているが、ハクスレーは「救済」を求めているのだ(同前書、324―326ページ)。
求められた願わしい救済の道[#「救済の道」はゴシック体]は、およそ神秘的な求道行となる。「心と心をつなぐすべての人のための同じ平和、表面には分離した波が、渦が、しぶきがある。だが、その下にはつながりをもった差別のない海があり、深くなるにつれてますます穏やかになり、ついには全き静けさに到達する。深い底を支配する暗い平和。……すべての源であり実体である最後の明るみに到達する」(同前書、486―487ページ)
個物の救出を求めて[#「個物の救出を求めて」はゴシック体]
きわめて宗教的な境地に達したわけだが、小説の中では、絶対平和主義者ミラーの実践として具体的に描きだされている。これまでの社会組織の「実験」がおよそ暴力現象を除去できなかったとすれば、ハクスレーにとっては、個人の行動で暴力をさけ、遠ざかるモラルをさがすしかなかったのかもしれない。思想のあり方としては、これは要するに個人主義にちがいないし、その点で、純理論的には、テオドール・アドルノの批判が的中する。「ハックスリやヤスパースのような個人主義者は、……個々人の心がけ次第で全体の有り様も定まると見ているわけで、個々人を取り込んで奇形化するばかりでなく、かつて個人を個人として確立した人本主義の内うらまでくまなく浸透している一つの体制として社会を見る視点を欠いている」(『ミニマ・モラリア』三光長治訳、法政大学出版局、225ページ)
たしかに、アドルノのいうとおりだが、こういい切ってはみもふたもない。『ガザに盲いて』を読むならば、ハクスレーは個人に浸透する社会体制を十分に考えぬいていたことがわかるのだ。ハクスレーが社会を見る眼を欠いたのではなく、社会に内在している暴力[#「社会に内在している暴力」はゴシック体]をよく見ぬいたからこそ、結果的には個人的救済へと送りもどされてしまったのである。アドルノの批判は的をはずしている。いつもながら鋭いアドルノにしては皮相な批判といわねばならない。アドルノもまた後には同じ絶望に追いこまれなかったか、ホルクハイマーのごとく。
ハクスレーの迷いは他人事ではない。デカルトではないが、暫定的モラルとしては個人の日常生活で非暴力的にふるまう他はなかろう。しかし思想の課題としては、ハクスレーの苦悩に充ちた挫折の経験をふまえて、ベンヤミンの暴力批判論のごとく、暴力の何たるかを徹底的にあばき出すことが肝心のことであろう。そのかぎりで、ハクスレーの作品はいまでも十分に考慮に値する価値をもちつづけている。
[#改ページ]
第V部[#「第V部」はゴシック体]
[#改ページ]
ユートピア
一―ユートピアとは何だろう
人類史はユートピアに充ち充ちている。大小のユートピアがある。無際限にあるユートピアを短いスペースでまとめることは不可能に近い。ユートピア研究に本気に取り組むのであれば、たとえばエルンスト・ブロッホの『希望の原理』(白水社、全三巻)に匹敵する大著をものしなくてはなるまい。けれども、迷路のようなユートピア群像について少しでも明瞭なイメージを得るためには、大ざっぱな見取図でもつくって、それを手がかりにして迷路の中に踏みいってみるほかにない。ユートピア群の巨大さに圧倒されて手をこまぬいているよりも、そのほうがまだよい。ひとつ、手はじめに簡単な思想史的な類別を試みてみよう。
ユートピアのタイプ[#「ユートピアのタイプ」はゴシック体]
現実にはありえない理想的生活を想像の上でつくりあげることをユートピア的精神の仕事であると定義するならば、人類の思想史はことごとくユートピアの歴史であるともいいうる。原始宗教から近代の革命思想まで、超越的な思想の営みはすべてユートピアのメンバーである。しかし、狭義のユートピアの歴史は、近代に属する。トマス・モアやカンパネラ(十六世紀)からレチフ・ド・ラブルトンヌやバブーフ(十八世紀)を通って、フーリエ、サン=シモン、プルードン(十九世紀)、そして二十世紀の政治的ユートピア主義までが、ユートピア論の視野にはいる。近代のユートピアの歴史のなかには、時代の変化とともに、およそ三つの類型が現れる。
第一の類型。これは古典的ユートピア[#「古典的ユートピア」はゴシック体]といわれる。その代表はモアやカンパネラである。古典的ユートピアは、現実批判の意図から生まれたものではあるが、政治思想ではなくて、むしろ文学の領域にはいる。十六世紀から十八世紀までのあいだには、質のよしあしは別にして、多数のユートピア文学の作品が生まれた。文学作品でありながら、文学をこえ出る射程をもつ、といったものは少ない。社会批判へと通ずる傑出した仕事は、せいぜいモアとモルリぐらいなものであろう。レチフ・ド・ラブルトンヌは、「コミュニズム」という新造語の作者であるが、かれのユートピアも政治的というよりもずっと文学的である。ユートピアを論ずるとき、しばしば古典的ユートピアが言及されるが、古典的ユートピアの文学的性格を忘れてはならない。
第二の類型。第一の類型から第二の類型への転機は、すでに十八世紀において、モルリやバブーフでおきているが、第二類型のユートピアは十九世紀に入ってからのものである。典型的な思想家は、オーウェンとフーリエである。オーウェンやフーリエのユートピアは、もはや古典的ユートピアとちがって、文学的ではない。古典的ユートピアは理想社会を描くが、それはあくまで作家の想像力のなかにとどまる。これに対してオーウェンやフーリエのユートピアは、同じく理想社会論であっても、著者の想像力の世界からぬけ出して、社会的現実化へと向かう。フランスの社会学者ジュリアン・フロイントの言葉を借用していえば、オーウェンやフーリエのユートピアは実験的ユートピア[#「実験的ユートピア」はゴシック体]である。
これらのユートピアは、個人の願望ではなくて、集団的な実験的運動であり、きわめて実践的である。オーウェン主義もフーリエ主義も、新大陸アメリカに実験的コロニーをつくった。すべてが挫折することになるが、くりかえし実験が試みられる集団的意欲はとほうもなく大きい。十九世紀に入って、ユートピアは初めて現実化へと一歩を踏みだしたといえよう(宗教的千年王国運動の歴史は古いが、ここでは除外しておこう。これについては、次の文献をみられたい。ピーター・ワースレー『千年王国と未開社会』紀伊國屋書店、ノーマン・コーン『千年王国の追求』紀伊國屋書店、石川淳の小説『至福千年』岩波文庫)。
ユートピアの現実化運動は、実験的ユートピア以外にも数多く出現する。初期社会主義[#「初期社会主義」はゴシック体]は、すべて社会変革運動であり、多かれ少なかれ政治的性格をおびる。サン=シモン主義もプルードン主義も、理想社会論の実践的現実化の試みであった。コントの社会改造論は、社会運動であり、「実験的ユートピア」でもある(コント主義も新大陸で開花する)。この動きのなかで、ユートピア的性格をできるかぎり小さくするのは例外的であるが、マルクスとエンゲルスはその例外に入るだろう。
第三の類型。十九世紀後半から二十世紀にいたる期間に登場するのが、政治的ユートピア主義[#「政治的ユートピア主義」はゴシック体]である。マルクスとエンゲルス以後のマルクス主義の諸類型は、政治的ユートピア主義に入る。ロシア革命以後のいくたの革命は、「実験的」性格をもつにしても、あの「実験的ユートピア」とはおよそ異なる。国家権力の獲得をテコにした政治革命は、理想社会の実現の試みとしては挫折したが、永続的な収容所社会を生みだすことになった。政治的ユートピア主義の特徴は、理想的ユートピアを擬餌《ルアー》にして、苛酷な現実をおしつけることにある。けっして実現しない理想を観念的に消費することで、人びとは余儀なく現実を耐えしのぶ。第三類型にいたって、ユートピアは逆ユートピア[#「逆ユートピア」はゴシック体]に反転する。伝統的ユートピアの歴史の幕はおりる。
ユートピアへの疑い[#「ユートピアへの疑い」はゴシック体]
現在の文化的、社会的環境は、ユートピアを肯定的にもちあげることを許さない。とりわけ、政治思想と結びつくユートピアは、どんな形のものであれ、今日では、評判がよくない。二十世紀の政治主義的ユートピアが、それが約束することとは正反対のことを、あまりにも多く実行してきたからだ。現在の社会生活は、かつてのように貧困においまくられるような状態をとっくに脱していて、人びとにゆっくりとものを考える余裕を与えている。
現在の人びとは、かつてのように、そうやすやすとはユートピア的擬餌にひっかかることはない。物質的貧しさは、しばしば精神の貧しさをともなう。貧しさゆえに、また貧しさからくる苦悩のおかげで、現実をより深く知りぬくことも、ときにはおこるが、たいていの人びとは、貧しさゆえの現実逃避へとおちこむ。ユートピア的擬餌は、宗教的形態をとることも、政治的形態をとることもあるが、政治的擬餌のほうがはるかに多く幻滅をひきおこす。良かろうと悪かろうと、宗教的擬餌は人びとの魂を幻想的に救うことがある。政治主義的ユートピアも、現実の彼岸や未来を約束する以上は、いくぶんなりと宗教に似るが、それが惹起する事柄は、単なる心のなぐさめではなくて、現実的な行為であるから、その行為の結果はとほうもない。
二十世紀の政治主義的ユートピアの実験の結果が知られるにつれて、余裕のできた人びとはこの種の擬餌を拒絶しはじめる。こうして、現在、政治主義的ユートピアとともに、いっさいのユートピアへの拒絶反応が大きくなり、それと同時に、現実肯定への態度がかつて以上にふくらみはじめる。現実肯定の一般的雰囲気のかたわらには、大小の宗教的ユートピアの擬餌が待ちかまえている。いまやいたるところに、「ありがたや」がはびこりはじめている。
ユートピア研究の意義[#「ユートピア研究の意義」はゴシック体]
現実を否定する場合にも、現実を肯定する場合にも、どちらを向いても、ユートピアが誘惑者のようにひかえている。どんな態度をとっても、何らかのユートピアにまきこまれる。どうやら、ユートピア的なものは人間にとって欠かすことのできない同伴者のようであるが、こういう精神現象を冷やかし気分で処理しておいてよいものであろうか。ユートピアは無意味であると断言したとたんに、ひとは肯定主義的「ありがたや」におちいる。
無意味である、不可能である、絵空事である、とさんざんに悪口をいわれてきたユートピアは、人類の精神史のなかではきわめて大きい位置を占めつづけてきた。ユートピアを批判するに逆ユートピアをもってするほかはないほどに、ユートピア的精神は強力である。科学的合理主義をもってユートピアを批判しつくすことはできない。なぜなら、ユートピアはしたたかに科学的合理主義と手を結ぶこともできるからである。むしろ現在では、非難や告発ではなくて、かくも強力なユートピア精神が何ものであるかを、冷静に調査することこそ望ましい。
悪しきユートピア主義の克服[#「悪しきユートピア主義の克服」はゴシック体]
あらゆるユートピアとユートピア主義に共通することは、社会に内在する暴力への無関心、暴力の軽視、暴力の克服へ向けての楽観論である。政治的ユートピア主義の場合には、自覚的に暴力を行使しさえする。社会に内在する暴力について客観分析を欠き、暴力へ向けての哲学的・倫理学的批判を深めないところに、これまでの社会思想の「ユートピア性」(悪い意味での)がある。十六世紀から二十世紀までのユートピアの歴史は、この点を際立たせる。ユートピアが悪いのではない。暴力という客観的現実への態度のとり方がまちがっていたのである。暴力なき社会[#「暴力なき社会」はゴシック体]をめざしたユートピアが挫折したばかりでなく、ユートピア精神の批判的機能も枯渇したのだとすれば、もういちど原点に戻ってユートピアを考えなおさなくてはならない。政治的ユートピア主義がタテマエとしては暴力なき社会を掲げながら、実際には暴力と共犯関係に入った事実にみられるように、ユートピアと暴力との関係の根は深い。現在、ユートピアの批判的精神を再生させたいのであれば、暴力とユートピアの関係をとことんまで追求し、暴力への批判的能力をユートピア精神の内にとり戻すほかにない。そこから、ユートピアの伝統の内にまどろんでいたユートピアの本来の機能をめざめさせることができるであろう。
二―願望夢としてのユートピア
ユートピアがもち出されるとき、何かといえばすぐにヨーロッパのユートピア思想がもちだされる。私もユートピアのタイプ分けをやる場合に、ヨーロッパの事例を借用したわけだが、それはヨーロッパの社会思想のなかには多彩なユートピアが生まれたからである。けれども、日本の材料を使ってユートピアを論じたってかまわない。
私は、毎年夏の休暇に入ると、内外の長編小説を読むことにしている。午前中の勉強を終えて、午後のひと休みの時にソファーベッドに寝ころがりながら、いつまでたっても終わりそうにない物語を読みつづけることは、まことに気分のよいことである。そんな時に、ふと中里介山の『大菩薩峠』を手にした。高校時代に一度完読を試みたが挫折した。今度はついに読了した。おもしろくて止められず、最後まで読みついだ。未完であるのが恨めしく思われるほどおもしろい。介山の文章は、ふかした糯米《もちごめ》のように艶《つや》やかである。
ところで、ユートピアにかかわるかぎりでは、『大菩薩峠』の後半部分が圧倒的に興味深い。前半を読まないかぎり後半の面白さも理解できないのだが、『峠』を思想的議論の材料として利用するとすれば、何といっても後半部分は不可欠である。もし読者のなかに、以下にのべる『峠』のユートピア論に興味をそそられる方があれば、是非とも一度『峠』を通読してみたらいかがだろうか。読書の醍醐味を経験できるだけでなく、人の世を考えるためのいくたの示唆を得られること請け合いである。
人生という旅路[#「人生という旅路」はゴシック体]
中里介山の『大菩薩峠』を第一巻「甲源一刀流の巻」だけで想像すると、『峠』は剣豪小説になってしまう。『峠』は剣豪小説ではない。全巻を通読してはじめて『峠』がさまざまのユートピアの万華鏡であることがわかる。『峠』はいくつかの映画化の影響もあって、「音なしの構え」の机竜之助のイメージばかり強く固定してしまっているのがふつうであるが、それは『峠』全体を第一巻の「甲源一刀流の巻」で代理させるという悪い効果をもってしまった。たしかに第一巻は剣豪小説としてきわめておもしろく、文章もいきいきとしてひきしまっており申し分ない。しかしそれだけのことなら、中里介山は『峠』に一生をかけることもなかったであろう。「音なしの構え」の机竜之助の剣法は、単なる読者サービスにすぎない。通俗小説的手法を戦略にして、介山は読者を誘惑して、人生のさまざまな万華鏡へといざなう。『峠』は人生という旅路の物語である。
個人の願望夢[#「個人の願望夢」はゴシック体]
介山が描く人生絵図は、願望夢[#「願望夢」はゴシック体]という性格をもっている。この願望夢は、個人のレベル、集団のレベル、国家建設のレベルで展開される。願望夢を、エルンスト・ブロッホにならってユートピアの精神[#「ユートピアの精神」はゴシック体]と考えるならば、『峠』には、個人的ユートピア、集団運動的ユートピア、建国ユートピアの三類型が描かれているといってよい。『峠』に登場する主要な人物たちは、その生き方においてそれぞれ固有の願望夢を表現する。
そこには実におびただしい数の願望夢が語りだされている。机竜之助、宇治山田の米友、医師道庵、甲州富豪の娘お銀、竜之助の世話をするお雪、画家田山白雲、大盗賊七兵衛、その養女お松、七兵衛の捨て子与八、兄の仇竜之助を追う宇津木兵馬、仏法の境地をきわめんとする弁信法師、興行師お角、科学的天才駒井能登守、新撰組組長近藤勇、勤皇の志士たち、等々。かれらはそれぞれの仕方で原初的な人生ユートピアをもっている。これ以外にもおびただしい人物が登場して、たまさかの願望をはきだしつづける。介山は必ずしも全人物の個々の願望夢を完全に描きつくしてはいない。興味深い描写がはじまったままで放置された人物も多い。
集団の願望夢[#「集団の願望夢」はゴシック体]
集団のレベルでの願望夢の表出は、典型的なものだけをとりだすと、佐幕派の保守的運動体である新撰組と勤皇派の運動体(公家系の反幕運動組織)であろう。各運動体のなかには個性的な人物がそれぞれの願望夢に沿って描かれているが、それらの個人的願望夢から織りなされる集団的願望夢[#「集団的願望夢」はゴシック体]がそこにみられる。『峠』では、新撰組がいくども描かれており、個々の人物描写も細かい。勤皇派の運動体の描写は、「白骨の巻」にあるが、池田良斎をはじめとするメンバーの描写も運動のユートピア描写も、新撰組の描写に比べるとひどく抽象的である。『峠』の後半で、岩倉具視が登場するころから勤皇派の描写も生きた具体性を帯びはじめるが、開始したところで終わっている。介山はどちらかに肩入れするわけではないが、三多摩羽村産の介山にしては、心情的に、同じ三多摩出身の近藤勇や土方歳三に共感していることはたしかなようだ。近藤勇の願望夢はいきいきと描かれているのに対して、勤皇の歌詠み池田良斎の描写は何とも貧しい。これは郷土的連帯のなせるわざであろう。
以上は政治集団の願望夢の二類型であるが、集団的願望夢は必ずしも政治にかぎられない。小さな集団のなかにもそれに応じた願望夢がある。道庵の下町遊び人グループにも、神尾主膳のヤクザ連のなかにも、願望夢は存在する。それらは下等遊民群の二類型である。
建国ユートピアの二類型[#「建国ユートピアの二類型」はゴシック体]
『峠』のなかで、願望夢の社会化された類型、ユートピアらしいユートピアとして描写されるのは、建国ユートピア[#「建国ユートピア」はゴシック体]である。これにも二つのパターンがある。ひとつは「専制君主的デモクラシー」であり、いまひとつは「絶対自由主義的共和国」である。
作中では前者は「胆吹《いぶき》王国」として描かれており、後者は太平洋に無人島を求めて新型蒸気船で集団移住する運動として描かれている。前者のユートピアは、伊吹山腹を開拓して、そこに新たなる生産共同体を築こうとするのであるから、「山」へ逃亡するユートピアということができる。前者は山ごもり型であるから、きわめて閉鎖的性格をもち、集団の性格は緊密にして厳格である。そこには、絶対君主的指導者がきびしく君臨する。中央集権的な計画体制にもとづく共産主義国家である。ひとりの絶対君主のきびしい統制のもとで、君主を除くすべてのメンバーは平等主義的に共同生活を営む。この「胆吹王国」は、自由を犠牲にして、平等のみを実現するユートピア[#「自由を犠牲にして、平等のみを実現するユートピア」はゴシック体]である。これに対して、海上型ユートピアは、ひろびろとした海への憧憬から出るもので、本質的に自由を求めるユートピア[#「自由を求めるユートピア」はゴシック体]である。作中では駒井能登守(甚三郎)をいちおう指導者としていただいているが、駒井はけっして専制君主ではない。かれもまたひとりのメンバーとして、個人にそなわった能力をおしみなく発揮するにすぎない。海上ユートピアの特質は、平等に基礎をおくのではなく、しかし平等を犠牲にしないで自由を実現するユートピアである。この海上ユートピア(日本版メイ・フラワー号)のなかで、自由への願望夢がもっともいきいきと描き出されている。
二つの建国ユートピアの差異を際立たせているのが、二人の指導者の差異である。「胆吹王国」の絶対君主=女王は、甲州有野村の富豪の娘であり、机竜之助の愛人たるお銀である。この人物はきわめて興味深いが、いまは立ち入らない。彼女のユートピア建設の方法が「胆吹王国」の運命を決定する。まず第一に、彼女の出自が大富豪であり、その財産を自由にできるという点に、この王国の特質がみてとれる。貨幣的富と不動産を自由に処分できる一人の人間のみが「自由」であり、その人物のみがおのれの個人的願望を意のままに実現できる。
彼女の下で働く人びとは、生産共同体による連帯的分配政策によってけっして飢えることのない平等生活を享受することができるが、行動の自由はいっさいない。共同体のメンバーは、女王の奴隷であり、働き蜂である。逆にいえば、自由ではなく平等を願望夢とする人間のみが、喜んでこの専制主義的共産主義に没入することができる。ここでは、いっさいの自由を放棄しなくてはならない。その代価として平等を獲得できる。アジア的共同体とアジア的デスポットの二つの性質を結合するとき、女王お銀の胆吹王国が生まれる。だから、胆吹王国はアジア的デスポティズムのユートピア[#「アジア的デスポティズムのユートピア」はゴシック体]ということができる。自由を知らず、自由を願望せず、ひたすら食うことの権利の平等を希求する人間たちは、必ずこの種の願望夢にとらえられ、この種の「専制主義的デモクラシー」というパラドクシカルな建国ユートピアに逃亡することだろう。
デモクラシーにもいろいろある。平等主義型もあれば、自由主義型もある。平等のみを実現することでよしとするかぎり、専制主義的デモクラシーも、理論的には十分に成立するのである。かつて日本的トルストイアンであった徳富健次郎は、天皇制的デモクラシーを理想としたことがある。これなどは、介山描くところの、「胆吹王国」にぴったりである。この種の願望夢を描くのは徳富健次郎だけであろうか。そうではあるまい。八紘一宇の大東亜共栄圏を唱えて、そこに没入し、空虚な平等的願望夢へと逃亡した思想家たちは、「胆吹王国」型ユートピアをいだいていたはずである。「胆吹王国」とは、天皇制的日本人の心のなかにいつまでも巣喰う生きたイデオロギーではあるまいか。介山のモデルはまことに批判的機能をもつ。そして介山は、胆吹王国の貨幣的寄生性を突くことで、この王国の必然的崩壊をも描き出したのだ。介山は、大政翼賛会への加入を拒否して弾圧されたが、これもまた必然であった。
三―山岳割拠型ユートピア
専制のユートピア[#「専制のユートピア」はゴシック体]
私は、『大菩薩峠』の典型的建国ユートピアのひとつ「胆吹王国」をアジア的な専制主義的「デモクラシー」として特徴づけ、さらにこのモデルがもつ時代批判的機能にも言及した。もう少し別の角度から「胆吹王国」の特性描写にせまってみよう。
介山は建国ユートピアを造型するとき、しきりにプラトン、カンパネラ、モアなどにも言及しているところをみると、かれは「胆吹王国」をつくるに際して、ヨーロッパのユートピア思想史を研究したと思われる。たしかに、「胆吹王国」は形式からいうとプラトンの国家に似ている。モアやカンパネラの読書は、どちらかというと、後に触れるはずの海上ユートピアに役立っているようだ。プラトンのよき意図がどこにあったかはともかく、西欧思想史では、プラトンの哲人王国家は、リベラルサイドからは、専制主義的、独裁的との批判をうけてきたが、形式上はそうであるほかはない。プラトンの国家を裏返しにしたルソーの人民主権国家も、構造の同質性のゆえに、専制主義的、独裁的[#「専制主義的、独裁的」はゴシック体]となる(ルソーの意図に反して)。
介山の「胆吹王国」も、指導者=お銀のよき意図にもかかわらず、専制主義と独裁体制の弊は免れない。介山の狙いは、指導者の善意がどうあれ、この種の建国ユートピアは、いかなる形態をとろうと(プラトン型であれルソー型であれ)、平等主義[#「平等主義」はゴシック体]のみの実現をめざし、自由を犠牲にするときには、必ず崩壊すると主張することにあったと思われる。「胆吹王国」の左翼版たる社会主義・共産主義モデルも、したがって介山の批判にさらされることになる。「胆吹王国」モデルは、その批判的機能として、ファシズム、ナチズム、天皇制、スターリニズム、政治的プラトニズム、政治的ルソー主義、予言者中心の千年王国主義、などのすべてを批判しうる構図になっている。介山の生きた時代をおもえば、当時としてはおどろくべき洞察力を示すものといわねばならない。
テクノクラート主義[#「テクノクラート主義」はゴシック体]
介山の描く「胆吹王国」のひとつの特徴は、テクノクラート主義[#「テクノクラート主義」はゴシック体]である。指導者=女王としてのお銀は、きわめて傑出した知性をもつ人物である。きわめて高度の人文的教養にめぐまれ、かつ同時に富豪の娘らしく経済計算に明るく、財務管理のエキスパートである。理論と実践の両面で並ぶものなき女王が「胆吹王国」に君臨する。それだけではない。その下に、「不破の関守」という風流人がいる。かれは、介山の記述を考慮していうと、風流人としては今様西行法師、器量として不世出の財務官僚であった石田三成に匹敵する能吏である。
介山は「不破の関守」氏を美濃の軍神竹中半兵衛になぞらえている。かれは無私の人であるが、もしその気があるなら、いつでも国盗りができるし、一国をひっくりかえす器量の人だということだ。読者としては、「不破の関守」氏の活躍をつぶさにみたいところであったが、わずかに後半に、この傑物ともうひとりの実在の化物岩倉具視が組んで一仕事をすることが暗示されるところがあるが、それ以上の物語はない。まことに残念といわねばならない。この「不破の関守」氏に加えて、もうひとりの能吏がいる。「青嵐居士」がそれである。武士出身であるが、何ごとか世直し変革を企てようとする特異な人物である。しかしかれは、事を荒だてる人ではなく、百姓の水争いを調停したりした前歴をみると、和平工作を特技とするようだが、いったん緩急あれば、軍事計画をまたたくまにつくりあげる才能をも兼ねそなえている。この人もいくらかは竹中半兵衛的である。「青嵐居士」は、「胆吹王国」のモルトケということもできるだろう。
こうして、「胆吹王国」は、知力と財力にめぐまれた絶対君主の下に二人の知謀を備えたところのきわめて知的な性質をもった王国である。十分に科学的に計画され、計算されつくした管理体制である。指導者も副指導者も、いずれも、基本的には善意の人たちであるから、うまくいかないほうがおかしいくらいである。ところが、この「科学的な」胆吹王国は立ちゆかないのである。中里介山はその理由を明らかにしていない。『峠』では突如として胆吹王国が消滅することになっているが、著者の説明がないのは不思議である。その理由は読者が想像するほかにない。
挫折の理由[#「挫折の理由」はゴシック体]
理由は二つあると思われる。ひとつは、絶対君主たる女王が、自分だけの願望夢を実現するために利己主義的につくりだした国家が胆吹王国だということになる。しかもこの個人的願望夢は、彼女の悲劇的な体験から憎悪[#「憎悪」はゴシック体]をもって生誕している。女王お銀は、いっさいの女性的幸福を奪われた人、鬼面をもつ人である。この人は、自分に絶望し、全人類に絶望している。この人の生きる原動力は憎悪しかない。憎悪と羨望と嫉妬から生まれるユートピアが、つまるところ、悪魔的陰鬱と専制君主の移り気によってつぶれるのはきわめてありそうなことである。
しかしもっと大きな理由がある。すでにくりかえして指摘したように、胆吹王国は自由なき平等の王国[#「自由なき平等の王国」はゴシック体]であるが、ここに必然的没落の原因がある。介山の描写にのっとってみても、自由を知らず、自由を求めぬ人間たちの流入はありえても、それは単なる働き蜂と奴隷の流入でしかない。胆吹王国の挫折は、アメリカでのロバート・オーウェンの挫折とまったく同じである。生産と分配の「平等」を第一原理とするのみでは、どんなに科学的管理法[#「科学的管理法」はゴシック体]と中央集権的計画経済[#「中央集権的計画経済」はゴシック体]を精密にしたところで、人間社会は立ちゆかないことの証拠である。
四―海上移民型ユートピア
自由への夢[#「自由への夢」はゴシック体]
もうひとつの建国ユートピアに移ろう。介山がかなり共感的に描いている「海上」ユートピアは、自由のメタファーをオーシァンに求める自由を原理とするユートピア建設運動である。この海上ユートピア、移民ユートピアの指導者は、『峠』の中でもきわめて重要なヒーローのひとり、駒井甚三郎である。胆吹王国の指導者もきわめて明晰な知性の人であったが、駒井もまたきわめて明晰な知性の人である。胆吹の女王が人文的教養に秀でているのに対して、駒井は科学的教養に秀でている。介山は駒井なる人物を、幕末の生んだ最大級の知識人として描いている。偉大なる言語学者、偉大なる科学者にして技術者、そして幾重にも高尚にして高邁なる理想主義者である。
駒井は、日本ではじめて蒸気機関とそれで動く黒船を自力で建造し、そのなかに未来のユートピアをつくりだす人びとを乗せて、いずこへともなく出航する。この船は、ハワイ群島に属するある無人島に到着するが、そこで最初の建設にとりかかるところで話はとぎれている(周知のとおり、『峠』は介山の死によって未完である)。
駒井甚三郎についやされたページはきわめて多い。介山が造型した人物としては、机竜之助に匹敵する人物である。そのおおざっぱな特性はすでにみたとおりだが、もうひとつ見のがせない理想的体質がある。駒井は甲州支配の時代に、伊勢の「間の山」出身(被差別部落出身)の「お君」を愛し、一子をもうける。これがスキャンダルとなって駒井能登守は失脚し、日蔭者になる。しかし実は、小栗上野介や勝安房守に援助されて日本独自の技術開発に専念することになっている。
差別なき社会へ[#「差別なき社会へ」はゴシック体]
それはさておき、駒井の人物の特質として、「お君」なる女性を愛したという点が大きい。介山は、伊勢の「間の山」出身の二人の人物、この「お君」とその相棒「宇治山田の米友」をまことに共感と情愛をもって描いている。部落民をこれほど肯定的に描いた作品は少ない。『峠』のなかの「間の山」の巻は圧巻である。宇治山田の米友は、机竜之助とさしでうちあっても負けない槍つかいの豪傑であって、これもきわめて重要なヒーローのひとりであるが、かれの願望夢について語っている余裕はない。問題は、駒井の思想の特質が部落民「お君」を愛して悔いないという一点にある。胆吹の女王とちがって、駒井はすでに人間についての差別思想をのりこえた。これは人類への大いなる希望を託すことのできる特質であり、またそれが駒井の率いるユートピアの性格をも規定することになるはずである。
自由への変容[#「自由への変容」はゴシック体]
中里介山が描く「海上移民」ユートピアが「山岳割拠」ユートピアと決定的に違う理由のひとつは、両類型を指導する人物のタイプに表出されていることを前にみた。駒井甚三郎が率いる「無名丸」のなかで表現されるユートピアの内実をもっとつっこんで考えてみよう。
すでに指摘しておいたように、「無名丸」の「民主共和国」の第一原理は、「自由」にある。「専制主義的」「胆吹王国」では、指導者ひとりだけが自由を享受しており、その「自由」もかなり浮気っぽく移り気な性格をもっていた。絶対的指導者の「自由」なるものは、いつまでも恣意性から切りはなせないものだ。
これに対して、「無名丸共和国」では、指導者だけでなく、参加するすべてのメンバーが自由を享受する。しかも、この共和国の指導者ですら、真の意味では、指導者ではなく、たまたまよき才能と資金にめぐまれたメンバーのひとりにすぎない。その「指導者」は、「権力」や「権威」によってビッグ・マンになったのではなくて、その人物が自発的にかもしだす人徳ないし威信によって、自然の流れに沿って先導者になったにすぎない。少なくとも、駒井という「指導者」は、自らを自覚的に反権威的人間[#「反権威的人間」はゴシック体]につくりかえようと努力している。ついでにいっておくと、中里介山は、駒井甚三郎なる人物に多大のページをさいているが、駒井のたどる人生経路は、ことごとく、人格のつくりなおし、自己陶冶、脱自的変容を示している。明らかに介山は、駒井という人物の物語に託して、一人物の自己変革[#「自己変革」はゴシック体]を描写することを狙っている。
駒井が特権的な封建領主(「殿様」)であったことを知る必要がある。「殿様」から「自由人」に変容することは、並たいていのことではない。客観的条件からの試練(部落民お君との恋愛スキャンダルと失脚など)をくぐりぬけるだけでなく、自らも自覚的に脱自的変容の努力が必要であった。作中では、たえざる勉強(内外の文献研究)と思索の日々として描かれる。
自由の共和国[#「自由の共和国」はゴシック体]
こういうわけで、駒井を「求道の人」とよぶこともできる。しかし「求道の人」の努力には、抹香臭はない。そこには、大洋にうって出ようという気宇の壮大さとのびやかさが感じられる。専制主義的な「胆吹王国」の指導者も、ある意味では、「求道の人」であるが、その努力には、憎悪をバネとする陰湿さがついてまわる。「胆吹」の女王お銀の努力もまた脱自的変容と変身にちがいないが、まなじりをけっした悲壮さは独裁者に特有のものである。目を三角につりあげて、利己主義的理想につっぱしる指導者の下では、それにつきしたがう「愚衆」はつねに馬鹿をみるだけである。「自由人」はもっとかろやかで、ほがらかでなくてはならない。
よき「指導者」にめぐまれた「無名丸共和国」の人びとは、おそらくしあわせであろう。少なくとも介山の示唆によると、そういわざるをえない。参加メンバーは、たいした強制も重い禁制もなく、各人の体質に応じて動いているようだ。何よりも注目すべきことは、「無名丸共和国」には、まことに異質で多様な人間[#「異質で多様な人間」はゴシック体]が集まっているということだ。ひとりひとりが際立った特質をもっている。ダラケた人間はダラケたなりに、特有の個性を発揮する。駒井は科学的・技術的知識人であり、田山白雲は画家であり、清澄の茂太郎は超能力の詩人であり、紅毛碧眼のマドロスは航海技師であり、七兵衛は元盗賊であるが農業技術者として生まれかわっている、等々。『峠』の記述は未完であるから、これらの人物たちが、新しい土地でどんな活躍をすることになるのかは永遠に知ることはできなくなったが、「自由(人)」を基礎にした共和国の特性は、かなりはっきりと提出されている。
共同体のメンバーが、各人の体質と特質に応じて活動すること、数的に多様であるばかりでなく、ひとりひとりの活動が質的に多様な活動を期待されていること、またそうすることの保証と合意が確認されていること、こうしたことは自由人の連合体(アソシアシオン)[#「自由人の連合体(アソシアシオン)」はゴシック体]にとっては不可欠の条件である。
「無名丸」はメイ・フラワー号と同様に移民船である。かつてのイギリス人が自分たちの信仰と宗教を守り育てるために、故国の宗教的政治的圧制のくびきを脱して新大陸に自由の王国を求めたように、「無名丸」もまた太平洋のいずれかの島に自由の大地を求めて封建的秩序から脱出する。メイ・フラワー号の人びとと違って、「無名丸」の人びとは宗教と信仰で団結しているわけではない。宗教的、擬似宗教的狂信からできうるかぎり遠ざかろうとするところに、「無名丸」の理想がある。あらゆる宗教が狂信[#「狂信」はゴシック体]に走るわけではないが、誓約集団はたいていは狂信的集団に変質する。誓約共同体は圧制と闘うときには自由の叫びをあげるが、ひとたび圧制を脱するや、誓約集団は再びもうひとつの圧制者になることは歴史にしばしばみられるところである。メイ・フラワー号の子孫たちは土着民に対して圧制者にならなかったろうか。ここにメイ・フラワー号型移民ユートピアの逆説がある。なぜなら、どんな新大陸にも、新しい土地にも、たいていは必ず先住民がいるからである。
異質性と多様性[#「異質性と多様性」はゴシック体]
「無名丸」は誓約共同体ではない。そのメンバーは狂信者ではない。各人がそれぞれの「神」をもち、それぞれの信ずるところにしたがって生きてよいことになっている。ほぼ理想的な共同体といってよいだろう。そのうえ、「無名丸」はメイ・フラワー号が人種的同一性を保っていたのとちがって、多人種型共同体[#「多人種型共同体」はゴシック体]である。「無名丸」に乗る人びとは日本人だけではない。西欧人の漂着者マドロスがいるし、中国人の金椎がいる。マドロスはたぶんクリスチャンであり、聾唖《ろうあ》者の金椎(抜群の腕前をもつ中国料理のコック)も熱烈なクリスチャンである。「無名丸」のメンバー構成は、このようにインターナショナルであり、信仰もまったく自由なのである。日本人のメンバーにおいても、神道的な人、仏教的な人、儒教的な人、無神論的な人がいて、まちまちなのである。
してみると、「無名丸」共同体は、人間の出自についても、宗教についても、職業と技能についても、実に多様であることがますますはっきりするだろう。人間の社会的行為、出自の条件、身体的条件のすべてにわたって、それぞれの存在理由が尊重されていることこそが、多様性[#「多様性」はゴシック体]と自由にとって根本的なのである。
移住のアキレス腱[#「移住のアキレス腱」はゴシック体]
しかしながら、この理想に近い「無名丸」共同体にもアキレス腱がある。ひとつは、男女関係のバランスの問題である。共同体が存続しつづけるためには、ジェネレーションの継続が保証されねばならない。「無名丸」には男が多く、女が少ない。ここでは女が稀少財になる。未開社会がぶつかったのとまったく同じ問題に「無名丸」共同体もぶつかる。いかにしてこれを解決するか。介山はよほどこまったとみえて、一種の神話的結婚物語をつくりだしてのりきろうとしている。指導者駒井(独身)と明敏な秘書お松(独身)との結婚がひとつの解決策として示唆されている。これが解決策になるのかどうかはっきりしないが、ジェネレーションの保証という条件は少なくともみたされるだろう。その他の成人男子は当分は女に恵まれない運命にあるのはいたしかたない。
もうひとつのアキレス腱は、メイ・フラワー号の場合と同種である。ある無人島に着いた「無名丸」はそこでひとりの先住者をみいだす。その先住者(西欧知識人の亡命者)は、駒井にむかって、いかなる大地にも先住民がいるもので、先住民[#「先住民」はゴシック体]は必ず新住民[#「新住民」はゴシック体]に駆逐されるものだといって警告する。「無名丸」は理想の大地を求める新住民である。いつかは必ず圧制者になる運命にあるのではないか。無人島の先住民はひとりさびしく再び逃亡の途につく。「無名丸」の前途にも暗雲がたれこめはじめる。
五―解放的ノマディスム
個人の夢、集団の夢[#「個人の夢、集団の夢」はゴシック体]
個人の胸のうちに生誕する願望夢が、現実化を求めてひろがりだすとき、あるときは流動的な運動体をつくりだし、あるときは組織的な集団をつくりだす。願望夢が極度にひろがったものが建国ユートピアである。『峠』のなかに描写された二つの建国ユートピアも、元はといえば、二人の人物(駒井とお銀)の胸のうちにやどった個人的願望夢から発する。かれらは、西欧の宗教者や社会主義者のように外から(上から)大衆を組織するオルガナイザーではないが、かれらが動きまわるにつれて、おのずと集団が形成されてくるわけで、二人の人物は集団が結晶体になる核になっている。駒井もお銀も、ヒトラーやムッソリーニのような大雄弁家ではなく、むしろ寡黙な人たちであるが、一種の雰囲気によって人びとをひきつけていくという点で、いかにも日本的な「オルガナイザー」というべきかもしれない。
お銀の「胆吹王国」も駒井の「無名丸共和国」も、介山によってかなり理論的に構想された建国ユートピアである。二つのモデルをこしらえるにあたって、介山はおおいに資料を研究したようだが、それだけにかえって相当かたくるしいところがある。叙述がかたくるしいというのではなくて、内容面がかたくるしいということである。物語の叙述は実に平明で、ともすれば二つのモデルが理論的研究と資料探求の産物であることが見失われるほどであるが、二つのモデルの意義をみすごしてはならぬと思って、これまで多くを語ってきた次第である。
愚者の願望夢[#「愚者の願望夢」はゴシック体]
ところで、建国ユートピアではないが、内容上はそれに匹敵するもうひとつのユートピア・モデルが『峠』にある。それは、自生的な民衆宗教運動[#「自生的な民衆宗教運動」はゴシック体]である。これの中心になる人物が「与八」である。『峠』の前半では、与八はずっと傍役である。与八がぐっとクローズアップされてくるのは、駒井の「無名丸」が太平洋に出帆するときからのことである。一方に「無名丸」共和国の出立、他方で「胆吹王国」の実験、この二つの型が姿をはっきりさせるにつれて、与八の願望夢もまた大きく姿をあらわすことになる。
与八とはどういう人物か。与八は青梅の甲州裏街道に捨てられていた子供で、机竜之助の父弾正に拾われて育てられた。机家の粉ひき小屋の番人である。角力のように大きくて怪力の持主でありながら、知能の発達が少しおくれており、そのおかげでかえってすなおでやさしく人情の深い人物である。与八を捨てた父親が怪盗七兵衛であることがわかるが、与八はそれを知らない。七兵衛は義賊であるが、後に悔悟して頭をまるめ、「無名丸」に参加する。机竜之助、七兵衛、駒井の秘書になるお松、与八との因縁は、およそ『峠』第一巻で出ている。
与八は『峠』では一貫して愚者[#「愚者」はゴシック体]とよばれている。自分もそう思いこんでいる。この愚者は、ほとんど神々しいまでに無垢の人[#「無垢の人」はゴシック体]である。ドストエフスキーの『白痴』と同じである。『白痴』の与八が動きだすとき、そのまわりは必ず子供たちが群がり集まってくる。与八は大きくなった子供であり、いつまでも子供でありつづける大人である。与八と子供との関係が、いたるところで(青梅でも甲州有野村でも)描かれるが、それは『峠』のなかでもっとも感動的な場面である。
与八は、素朴に地蔵尊を信仰する。お地蔵さんをおがむだけでなく、自ら彫刀をとって地蔵を刻む。この彫刻の修練が後に与八の糊口の資をかせぐ職業にもなる。この彫刻の腕一本をたよりに、あるとき与八は巡礼の旅に出る。旅につれそうのは、机竜之助の一子郁太郎である。おそらくそこには、竜之助という化物を生んだ机家から悪霊を祓う願いがこめられているだろう。しかし、たんにそれだけではなく、捨て子であった自分を育ててくれた机弾正への感謝の念もあるだろう。またさらに、捨て子でありながらかくも幸せに生きながらえることができることに深く感動するとともに、かくなった運命を神々に感謝すること、それを日々の生活のなかでひと知れず表現していくことが、与八の新しい人生のはじまりである。
与八はできるかぎり日蔭で生きようとする。できるだけ目だたぬ形で、自分の何ものかへの感謝を表わそうとする。ところが、与八が蔭にかくれようとするほどに、与八の行動はかくれようもなくなる。陰徳はいやおうなく顕現する[#「陰徳はいやおうなく顕現する」はゴシック体]。愚者がかえって賢者となる[#「愚者がかえって賢者となる」はゴシック体]。真実は、知的に仰々しく求めて得られるのではなく、愚昧に徹することで、かくれなさがかくれようもなくあらわれ出る。与八の人生の旅路のなかで展開されるのは、まさにこうした真実[#「真実」はゴシック体](かくれなさ、アレーティア)のドラマなのである。
愚者の旅、愚者による教育[#「愚者の旅、愚者による教育」はゴシック体]
与八の新しい人生が開始するのは、甲州有野村である。有野村は、「胆吹王国」の女王お銀の出身地である。与八はお銀の父(甲州金山を背景にした大富豪)の家に寄寓して、さまざまの仕事を手伝うが、与八の行動はおのずから子供をひきつけ、大人をひきつけ、いつのまにか有野村の生活の中心になっていく。与八は愚者であるが、子供の教育をひきうけ、ついには大人の教育をひきうける。
その教育は、知的教育というのではなく、単に対話することで一種の宗教的な教育になっている。教えるというよりも、そこに与八が生きていることそのことが無限の教育になるといった教育なのである。それは、与八という純粋無垢の人格のみがよくなしうる民衆教化の自然発生的運動である。与八が中心になることをさければさけるほどに、好むと好まざるにかかわらず、象徴的人物になっていかねばならない。
与八は、ひたすら素朴におのれの願望夢をかたるだけでよい。それが自然に伝播して民衆の心をとらえる。個人的願望夢が直接的に社会化する[#「個人的願望夢が直接的に社会化する」はゴシック体]典型的な例が、与八の物語である。中里介山は、与八というモデルをつくるにあたって、幕末に発生したいくつかの民衆宗教運動を調べたと思われる。大本、黒住、金光、天理などの下からの自然発生的な民衆的宗教運動のエッセンスが、与八という人物のなかにくりこまれているようであるが、それだけでなく、高野聖―木喰上人の系譜もまた与八のなかに流れこんでいる。与八が日常生活に密着しておのずから民衆をひきつけていく点では、多くの新興宗教と類似するが、与八はけっして教団をつくらない。さしあたっては甲州有野村に居ついているが、与八にはいつでもとびだして全国巡礼へ旅立つ用意がある。与八には与八大明神をつくる気などはさらさらない。与八は本質的に旅の人[#「旅の人」はゴシック体]であり、放浪する人[#「放浪する人」はゴシック体]である。その点で、与八を高野聖―木喰上人の系譜にいれるほうが妥当であるし、介山は自覚的にそうしていると思われる。
解放的ノマド[#「解放的ノマド」はゴシック体]
甲州有野村のお銀の家は呪われたところである。金(貨幣)で呪われ、その呪いによってお銀の家はバラバラに解体する。親と子とは血で血を洗う闘争にまで発展する。お銀自身がその呪いの犠牲者であり、それゆえにお銀はそこを脱出して「胆吹王国」をつくらねばならなかった。ところが、与八の来住によって、甲州有野村は金の呪い、憎悪のうずまきから救いだされる希望が生まれてきた。与八は、有野村を浄める人[#「浄める人」はゴシック体]となる。貨幣の呪いに対抗するには、与八の無垢、木喰上人的生活をもってするほかはない。そこに、与八による実践的なユートピア[#「実践的なユートピア」はゴシック体]がある。貨幣というファルマコンに対して、「白痴」「愚者」というファルマコンが対抗して、後者が勝利するドラマが甲州有野村に展開する。与八はプラスのファルマコンなのである(ファルマコン=毒と薬の両義性)。
与八は、教団もつくらず建国もしないで、ひたすら世界を流れ動くことで、貨幣、権力、支配その他による「呪い」からの解放の告知者となりつづける。解放するノマディスム[#「解放するノマディスム」はゴシック体](放浪生活)、それが与八のユートピアである。
六―ノマドとしての机竜之助
脱出と自由[#「脱出と自由」はゴシック体]
与八の願望夢とユートピアを語って、解放するノマディスムの名を与えた。ひるがえって考えてみると、『大菩薩峠』は全編ことごとくノマディスムの小説[#「ノマディスムの小説」はゴシック体]だといわねばならない。介山もよく旅する人であった。介山が歩いたところはすべて『峠』に描きこまれているようだ。介山が『峠』に書いたおかげで有名になったところもある(白骨温泉など)。中里介山だけではない。『峠』の登場人物は例外なく旅する人であり、定住者などはひとりもいない。あらゆる人が、元いたところから自由自在に放浪する。この放浪性が『峠』を非常にダイナミックにさせている理由である。主要人物たちは、誰ひとりとして故郷に戻ることはない。
駒井甚三郎もお銀も、机竜之助も宇津木兵馬も、清澄の茂太郎も弁信も、宇治山田の米友も医師道庵も、与八もお角も、佐幕派も勤皇派も、全員が故郷喪失者[#「故郷喪失者」はゴシック体]である。宇治山田の米友に典型的にみられるように、かぎりなく帰郷を熱望しながら、どういうわけか全国を走りまわらなくてはならない運命にある。机竜之助だってそうだ。医師道庵だってそうだ。まじめ一方の米友と道化の道庵の道行は、弥次喜多道中に比せられているが、むしろドン・キホーテとサンチョ・パンサの道中である(どちらがドン・キホーテでサンチョかわからないが)。道庵も江戸の長者町に住んでいればよさそうなものを、どういうわけか東海道を西へと下る衝動にかられる。脱出という衝動[#「脱出という衝動」はゴシック体]の強さの点では、道庵も駒井もお銀も変わらない。そしてかれらに共通するのは、脱出がなんともいえない解放感に充たされていることである。脱出と自由とがひとつになっている[#「脱出と自由とがひとつになっている」はゴシック体]のが、『峠』の群像の共通特徴である。駒井やお銀の場合には、脱出と逃亡が理論的・思想的に構想される。道庵の場合には、脱出がこれすべて演劇的で道化的で、まことにはなやかである。道庵においてもっともよく脱出、放浪、自由、解放がはなやかに朗らかに語られているといえるだろう。与八の場合には、にじみ出る感動を伴った脱出と自由である。
ノマディスムの文学[#「ノマディスムの文学」はゴシック体]
ノマディスムと自由(解放)の密接不可分の関係をみごとに提出した思想家は、フランスのジル・ドゥルーズであろう。ドゥルーズは、はやくからこの点に気づいていたようだが、ガタリとの共著『千のプラトー』のなかで、ノマディスム(ノマドロジー)を大々的に展開している。各人が、既存のあらゆる絆をたち切って、世界中に、また観念の中でさえ、あらゆる方向へと脱出し、放浪することのなかに、単に数的多様性でない真に質的な多様性[#「質的な多様性」はゴシック体]が現実化される。それが自由というものである。ノマディスムは、変身の可能性[#「変身の可能性」はゴシック体]の条件である。量的変身などは何ら多様性ではない(小が大になり、大が小になるといったこと)。与八にみられるように、質的な意味で大人が子供になり、賢者が愚者になることこそ、真実の変身であり、多様化なのである。もしドゥルーズが日本語ができて『大菩薩峠』を読んだなら、およそラブクラフトなどとは違った真実のノマディスムをそこに発見して、随喜の涙を流すのではあるまいか。
机竜之助とは何ものか[#「机竜之助とは何ものか」はゴシック体]
ところで、『大菩薩峠』を語って机竜之助を語らないのもおかしな話である。そこで、机竜之助とは何ものかを語ることで、『峠』試論をしめくくりたい。机竜之助が何ものであるかを考えるのは、実をいえば、もっともむずかしい。あれほど有名な主要ヒーローでありながら、机竜之助はわけがわからない人物である。例の「音なしの構え」の竜之助ならはっきりしている。天才剣士机竜之助は、甲源一刀流の家元を倒して天下に名をしらしめる。ところが、『峠』の巻がすすむにつれて、机竜之助の姿は狭霧《さぎり》のなかにあるかのごとくうすぼけてくる。中里介山は、おそらく意識的にぼかして書くから、ますます始末に悪い。なぜ介山はこんなことをするのだろうか。
『峠』の途中までは、机竜之助は、他のヒーローと同じく、たしかに骨肉をそなえて生きていた。ところがいつのころからか、竜之助は生きているのか死んでいるのか不分明になってくる。「白骨の巻」あたりが分水嶺であろうか。白骨温泉で、机竜之助は眼をなおす目的でお雪と生活しているのであるが、すでに亡者[#「亡者」はゴシック体]のごとくなっている。竜之助は殺人剣士であるが、いつのまにか死神[#「死神」はゴシック体]に変質する。
悪霊としての竜之助[#「悪霊としての竜之助」はゴシック体]
机竜之助はヴァンパイアー[#「ヴァンパイアー」はゴシック体]である。人を殺して血をみないと生きることも眠ることもできないやっかいな生物である。男も殺すが、このヴァンパイアーは女がよほど好きらしい。周知のとおり、竜之助は女殺しの色男であるが、性的に女好きである以上に、女の生血をすするほうがずっと好きだという化物である。竜之助は磁石のように女をひきつける。人妻であったお浜、お豊、お雪、お銀、その他いずれも竜之助にひきつけられて殺されるか、化物にされるかのどちらかである。竜之助の行くところつねに死があり、悪霊がある。あるときまでは、竜之助はふつうの人と同じく二本足で歩いているが、いつからか大地を浮かびあがるように、すべるように歩くようになる。しかも白装束で登場するのだから、化物としては完璧である。
人の生血、とくに女の生血をすすって生きるかぎりは、竜之助も殺人鬼ではあるが有体の人間である。ところがあまりに生血をすすったために、竜之助は変身しはじめる。本物の化物になるのである。権力が人身御供を要求することで化物じみるのと同じである。ついに竜之助は、この世のものでありながら、同時にあの世のものでもあるという、両義的存在者[#「両義的存在者」はゴシック体]になる。半面は人の顔、半面は妖怪の顔をもつ竜之助は、夜叉面のお銀が頭巾をかぶるように、頭巾で顔をかくさなくては外に出られなくなる。神話の世界でも、民俗の世界でも、はたまたわれわれの日常生活感覚においても、顔の両義性、人格の両義性[#「顔の両義性、人格の両義性」はゴシック体]は怪物性の特徴として現れる。
竜之助の願望夢[#「竜之助の願望夢」はゴシック体]
この両義性のゆえに、机竜之助は、この世とあの世とを自由に出入りすることができる。完全に人間でもなければ、完全に死者でもなく、その中間の宙ぶらりんの存在、そこにひとつの脱出と変身の境地が示されている。それは、おそらく机竜之助の願望夢であり、理想の境地であったのかもしれない。そうだとすれば、両義的存在者となった机竜之助は、おのれの願望夢をいちおう実現したということができるだろう。
机竜之助といえども、おのれのもって生まれた業たる人殺しの本性に自己嫌悪をもっている。そうでありながら、女の生血をすすり、なまあたたかい女の首をしめることに快感を求めて生きつづけざるをえない。この悪循環をどこかでたち切り、業からの脱出と解放を実現するというのが、竜之助の課題となり願望になる。この脱出口、切断点こそ、竜之助自身が両義的存在者になることにあった。
実際、竜之助がこの世とあの世の中間に生きるようになるにつれて、かれは人殺しへの欲望を感ずることが少なくなる。ときどき女の生血を求めて出没するが、以前ほどではない。昔は、無差別に女を殺していたが、だんだんと殺す女のタイプを選ぶようになる。だいたい両義性空間に近い女たちだけを殺すようになる。いずれ竜之助は、いかなる女も殺さないでも生きぬくことができる境地をみつけることができるだろう。それへの示唆が『峠』の終末の、京都大原の尼寺の場面にある。そこでは、両義的な男と女とが風流の境地に入って平和共存することができるようになっている。そのあたりが竜之助の到達点かもしれない。
さまざまの願望夢があった。おおいなる建国ユートピアも挫折の予兆をおびざるをえなかった。与八のユートピアですら先行きはわからない。大雄弁家弁信法師の大乗中観的存在論の構図でさえも、人の世を救う可能性はないようだ。挫折ふくみのさまざまのノマディスム運動が多々あるなかで、不思議にも机竜之助のみが、おのれの願望をよく実現できるかにみえる。日蔭者にして悪霊の机竜之助は、『峠』全巻をつらぬく最大のヒーローであることは、やはり真実である。なぜなら、机竜之助は真のノマドにして、ノマディスムの成功者であるからだ。
[#改ページ]
第W部[#「第W部」はゴシック体]
[#改ページ]
自由
身近さはワナだ[#「身近さはワナだ」はゴシック体]
あまりにも身近にあって、かえって気づきにくいものがある。それをひとは空気のような存在とよぶ。空気がなければ人間はけっして生きることができないほどに、なくてはならぬものであるが、特別の場合を除いて、ひとは空気のことなど気にもとめない。ましてや、空気の存在理由などに頭を悩ませはしない。空気が汚染され、不快感が増大するにつれて、人びとはようやく空気の大切さに思いいたり、新鮮な空気を取り戻そうと努力しはじめる。
自然[#「自然」はゴシック体]
しかし、そのときはもう手遅れなのだ。人間の不幸は、もっとも大切なものが、もはや取り戻し不可能なまでに失われてしまったときに、その重みを遅ればせに気づくという宿命的な欠陥にある。自然[#「自然」はゴシック体]が回復不可能なまでに破壊された後で、自然を守ろうなどと人間はいう。動物や植物が生きる環境を奪いとり、その略奪によってうまい汁をすってきた人間は、犠牲となった自然的生命を事後的に聖化しはじめる。人間がやることには、いつも偽善と詐欺めいたところがともなう。
現在、自然をとり戻そうとするエコロジー運動が、思想と実践の両面で前進してきている。たいへん結構なことだ。何ごとも手遅れにならないうちに、再生の策をうつことは大切だ。けれども、内と外の自然に加えつづけてきた人間の暴力をとことんまで反省しないままに、ロマン主義的気分にふけることは、もっとも大きい欺瞞であろう。この自己欺瞞への反省を欠くとき、せっかくのエコロジー運動も復古的イデオロギーに変質し、単なる権力の走狗になる。ここでも自己反省が欠かせない。
労働[#「労働」はゴシック体]
水や空気、動物や植物といった自然についていいうることは、人間が人間についてなすことにもいいうる。たとえば、かつておそらくはふくらみをもっていた仕事[#「仕事」はゴシック体]や労働[#「労働」はゴシック体]も、近代社会のなかでは、経済合理的労働とか商品化された労働に縮小され、それが現代になっては、およそ仕事ともいえないような労働にまで先細りして、ついには人間の世界から消滅するほどにすらなっている。労働という根源的な活動が人間の世界から消失したあとで、人間はどういうものになるのかについては、想像すらできない。
現代人は、手遅れになりはしたが、自然を守れの運動を開始した。しかし、労働の消滅傾向を前にして、遅ればせの取り戻し運動すら起こしていない。仕事をハイテクノロジーにまかせることで、経済的労働から免れるという消極的な解放感に満足しているにすぎない。労働が個人と人類の自己形成にとってもった本質的意味を、はたして技術が担ってくれるものかどうか。このおそろしげな事実を誰も考えようとはしない。
長い人類史のなかで、直接的に、間接的に自然と格闘しつづけた労働が人間の形成にとってもった意義はきわめて大きい。しかし、二十世紀はその労働の位置に大変動をもたらしたのだ。人間が労働から離れたらどうなるのかの経験と実験は、ほとんどない。労働を技術にかえることの意味も、長期的な幅で考えると、どうなるやら見当がつかない。テクノユートピアは、技術で人間が幸福になると考えるが、何の根拠もない。消費社会の悪いところは、大切なことを忘れさせ、皮相な効用だけで満足させることにある。今こそ、冷静に労働を考えるべきときである。
個人の自由だけが現実的だ[#「個人の自由だけが現実的だ」はゴシック体]
ところで、私がここで語りたいことがもうひとつある。自然や労働ではない。自然の中で、自然と対抗して、労働を原動力にして困難な道を歩いてきた人間の自由のことを語りたいのである。人間の自由[#「人間の自由」はゴシック体]とは、具体的な生活を営む個々人の自由である。自由とは、個人の自由以外になく、集団や類の自由というものはない。個人の自由は現実的である。集団の自由は、比喩でなければ、虚構である。
古来、集団の中に自由を求める思想はたえないが、集団の中の自由というのは、個体的自由の否定であり、非自由の別名でしかない。集団や社会関係のあり方が、個体的自由を保証することは原理上考えることができる(「原理上」というのは、この保証が現実化したことはまだないからである)。しかし、集団の自由なるものが存在するとはいえない。ここに、個人と集団、個別性と普遍性という古くて新しい問題がひかえている。
二つの自由[#「二つの自由」はゴシック体]
近代社会は良くも悪くも自由の観念にとりつかれている。近代以前では自由の観念などはそれほどの重みはなかった。自由の観念が近代人に病的にまでとりつくのは、個人が共同体との安定的な絆から切断されてしまったことに、根本的な理由がある。個人の自由を守ろうとする思想が、しばしば共同体への回帰の形式をとるのも、また共同体的人間関係の幻想的復活を試みるのも、自由の保証を共同体のなかにみたいという願望から出ている。
アイザイア・バーリン[#「アイザイア・バーリン」はゴシック体]は『自由論』(生松・小川・小池・福田訳、みすず書房)のなかで、消極的自由[#「消極的自由」はゴシック体]と積極的自由[#「積極的自由」はゴシック体]という二つの自由を区別すべきだといった。前者は、権力や抑圧「からの自由」である。後者は、共同体や集団や国家「への自由」である。近代西欧思想史のなかでは、二つの自由はいりまじって語られてきたが、たいていは、復古的な共同体回帰の形式をとろうと、未来の共同体での自由の回復という形式をとろうと、近代の自由論は「積極的自由」論が圧倒的に優勢である。とりわけ、理性的存在になりうることを現実主義的に強調する思想に根拠をおく自由論は、理性の法則への服従を主張することになる。いかなる制約からも解放されるはずであった自由は、反転して、きわめて強圧的な制約の下へと積極的にとびこむ。自由論は、つねに解きがたいパラドクス[#「パラドクス」はゴシック体]をかかえこんでしまっているのだ。
デモクラシーと専制主義[#「デモクラシーと専制主義」はゴシック体]
バーリンのいう「積極的自由」が積極的に不自由へと向かう事態は、ちょうどセルジュ・モスコヴィシ[#「セルジュ・モスコヴィシ」はゴシック体](『群衆の時代』古田幸男訳、法政大学出版局)が、西欧的デモクラシーが西欧的専制主義[#「西欧的専制主義」はゴシック体]を呼び起こすといった事態に対応するであろう。ふつうは、デモクラシーと専制主義とは本性上異なる体制とみなされている。それはちょうど、自由と不自由とが本性上異なると考えられているのと同様である。けれども、理性的自由論が自由の否定に反転するパラドクスを含むように、デモクラシーも専制主義へと反転するパラドクスをふくむものだ。
モスコヴィシは、デモクラシーと専制主義との内面的連関の結び目に「群衆」[#「「群衆」」はゴシック体]の存在をおいて、この反転のメカニズムを解釈しようとした。歴史的事例に即するかぎり、モスコヴィシの解釈は的を射ている。フランス革命から現在までの二百年ばかりの西欧政治史の展開に目をやれば、デモクラシーと専制主義との交替劇[#「デモクラシーと専制主義との交替劇」はゴシック体]をみてとることはきわめてたやすい。この交替の秘密を群衆社会の到来のなかにみたモスコヴィシの見解は卓見である。
なぜ市民社会は専制主義を要求するのか[#「なぜ市民社会は専制主義を要求するのか」はゴシック体]
だが、もう少しつっこんで考えてみる必要がある。モスコヴィシ的群衆論をまたずとも、近代市民社会の本性のなかに専制主義を呼び起こすものが内在していないだろうか。近代市民社会もデモクラシーも、個々人に即してみれば、個人と個人との距離(精神的距離と空間的距離)をできるかぎり小さくする傾向をもつ。
人間関係における距離の問題[#「距離の問題」はゴシック体]は重要である。距離が大きいときには、人と人との関係は敵対的にならない。距離が小さくなるにつれて、人と人との関係は敵対的になる。近代市民社会のアトム的諸個人は、できるかぎり大きい距離を望みながらも、社会関係の圧力によって、できるかぎり小さい距離しかとれなくされる。媒介者がなければ、諸個人は正面衝突するであろう。自主独立を看板にする個々人は、一方でデモクラシーと自由を求めながら、他方で敵対関係を増幅せざるをえない。
近代社会では、自由の要求と敵対関係の増大とは不即不離の関係にある。近代以前の社会に比べて、近代の社会はよりいっそう暴力的社会である。この不安定性のゆえに、近代市民社会はつねに専制主義を潜在的に要求せざるをえない。西欧的専制主義(ナポレオン体制、ファシズム、スターリニズム、ドゴール体制等)は、市民社会の危機を回避する「媒介者」の役割をひきうけるべく、周期的に登場することになる。
私たちは、近代が「発見した」自由の観念を貴重なものと考える。それをできるかぎり現実のものとしたいと願う。けれども、歴史的経験に照らしてみても、近代の哲学と思想の原理の分析からみても、自由の実現可能性はきわめてうすい。バーリンが言及したもうひとつの自由(「消極的自由」)が最後のよりどころらしくみえるが、これですらパラドクスを免れない。なにものからも制約を受けない自由を文字通り実行するとなれば、人は社会関係のなかで生きることはできなくなり、ついには自由の実現とは自殺しかないという帰結にいたる。
思想の課題のなかでも、自由の問題がもっとも大きく、もっとも困難である。けれども、人間と社会を語るときのアルファにしてオメガはこの自由論である。さまざまの逆理をかかえこむことも辞さずに、もういちど私たちは自由の可能性[#「自由の可能性」はゴシック体]へ向けて思考の努力をひきうけなくてはならない。
[#改ページ]
オートノミー(自律性)
自由とともに重要なタームは自律性《オートノミー》である。自由であることは、自律的であることなしには現実のものにならない。権利や形式としての自由は多様にあるが、そうした多面的自由を一貫して支えてくれるのが、自律性というものである。自由の根拠は自律である。
似たような言葉がいくつかある。自立や独立(インデペンデンス)は自律性と似ている。たしかに、それらの言葉は親類であろう。けれども、自律性は自立や独立よりも、射程が広く、根も深い。自立や独立は、反対語としての隷属あるいは従属をもつ。隷属状態と闘い、それから解放されようとするとき、自立や独立の価値は大きな社会的意義をもつ。これに対して、自律性は反対語をもたない。抽象的にいえば、存在がそれ自体で充足している状態[#「存在がそれ自体で充足している状態」はゴシック体]が自律性である。自立や独立が闘争的関係のなかで相対的な意味と価値をもつのに対して、自律性はそれ自体で価値と意味をもつ。自律性は、したがって、絶対的である。思想史の文脈で、このように絶対性と自己充足性をもつものとされたのは、神しかない。しかし私は、自律性と神とを結びつけるつもりはない。それどころか、神とは逆に、具体的な生きた個人のなかに自律性を求めたいのである。現代の思想的課題のひとつは、神への依存関係の中で相対的な価値としての自立や独立を確認するだけで満足するのではなくて、具体的な個人と、諸個人がつくりあげる共同社会の自律性を確立することである。少なくとも、その自律性の形成可能性の条件を模索することである。これは新しい課題であって、どんなやり方をとってもよい。ひとつの仕方を紹介してみよう。そしてそれに私の論評を加えてみよう。ここでご登場願う思想家は、コルネリウス・カストリアディス[#「コルネリウス・カストリアディス」はゴシック体]という。
マルクスとの対決[#「マルクスとの対決」はゴシック体]
コルネリウス・カストリアディスの思想と仕事が注目されはじめたのは、ようやく七〇年代の半ば頃である。かれは、一九四〇年代にギリシアで活発に政治的活動に参加していた。かれの回顧によると、今日の哲学的・政治的思想の中心部分は四〇年代に形づくられていたという。四〇年代には、能動的なマルクス主義者であり、フランスに来てからも、反スターリニズム運動に参加し、雑誌『社会主義か野蛮か』を発刊してからは、マルクス主義批判へと転ずる。
かれのマルクス主義批判は、よくある転向者のマルクス主義批判とはちがって、左翼的なマルクス主義批判である。その意味では、カストリアディスは、かつてマルクス主義的革命家であったときの初心を貫いており、かつてのマルクスや最良のマルクス主義が体現していた革命思想[#「革命思想」はゴシック体]をうけつぐひとりである。
カストリアディスのマルクス主義批判は、直接には、ロシア・マルクス主義、スターリニズム[#「ロシア・マルクス主義、スターリニズム」はゴシック体]を標的にしている。かれは、経済学者として、ロシア社会の社会的経済的分析をすすめて、スターリニズムの根をあばき出す仕事を精力的におしすすめてきた。けれども、カストリアディスは、ロシア・マルクス主義からさらに一歩すすめて、マルクスの思想をも批判の対象にする。このときにいたってはじめて、カストリアディスは、おのれの過去の哲学的良心を清算し、マルクスにとってかわる革命思想の構想に着手することになる。
カストリアディスがマルクスから得たものは多い。社会の変革の理念[#「社会の変革の理念」はゴシック体]は、今もカストリアディスの中心にあるが、社会が根本から変えうること、そのための哲学的・政治的思考のねりあげが不可欠であること、この点はマルクスのものであり、またカストリアディスがうけつぐものである。カストリアディスは、このテーマと課題をうけつぎつつも、マルクスの思想の枠組みをなすとかれが考えるもの、つまりマルクスの中に巣喰うブルジョア的精神[#「ブルジョア的精神」はゴシック体](生産力主義、技術主義、啓蒙主義)をうけいれることはできない。カストリアディスにとって、マルクスの思想をそのままうけつぎ活性化することなど思いもよらない。むしろ大胆にマルクスとマルクス主義を清算して、新たなる変革の思想をつくることこそ急務だ、とかれはいう。
社会的想像力の理論[#「社会的想像力の理論」はゴシック体]
マルクスとの激しい対決意識から生まれたのが、カストリアディスの大著『社会の想像的創出』である。私は、カストリアディスが何者であるかを知る前に、この書物に出会い、それのもつ重みを感じとった。この強烈な印象のゆえに、拙著『労働のオントロギー』のなかにカストリアディス論が登場することになった。私見によれば、カストリアディスのマルクス批判は粗大にすぎると思うが、他方では、マルクスをこえでる革命の新理念に捧げるカストリアディスの意欲は、何といっても立派である。マルクスを防衛的に解釈する時代は終わったと強く感じせしめる記念碑的著作こそ『社会の想像的創出』である。カストリアディスの仕事は、この傾向へ向けての大きい指標のひとつであろう。今後はますますこの傾向(新しい変革の理念造型)が強まるであろう。
カストリアディスの主著の根本的理念は、社会が自己反省によって自己解体し、既存の自己と違う他者になりうる力[#「他者になりうる力」はゴシック体]を発見することである。かれは、この力を社会的想像力[#「社会的想像力」はゴシック体]にみる。
「まだ―ない―何ものか」[#「「まだ―ない―何ものか」」はゴシック体]をつくりだす行為の存在論的研究といってよいだろう。この問題にふれるやいなや、西欧形而上学の存在問題がとびだしてくる。カストリアディスは、マルクス的問題から出発して、ハイデッガーを通り、ついにはプラトン、アリストテレスにいたる。しかし、カストリアディスは、ギリシア人だからといって、プラトンやアリストテレスの復権を試みるのではなくて、プラトンからハイデッガーにいたるまでの西欧的存在観を根本から変えよう[#「西欧的存在観を根本から変えよう」はゴシック体]とするのである。
存在を、規定(決定)性からみる思考にかえて、非決定性[#「非決定性」はゴシック体](非規定性)から考える方向を開拓するのが、かれの哲学的課題である。かれは、伝統的な存在論理学を「集合―同一主義的論理学」とよび、それをのりこえる論理学を「マグマの論理学」[#「「マグマの論理学」」はゴシック体]とよぶ。これだけでは何もはっきりしないが、こういった存在論的研究を経ることなしには、「変革の新理念」の構築がありえないことをカストリアディスは身をもって示した。
マグマは地質学の用語である。地球の内部には、マグマという灼熱の活動物が多方向に流動している。そこには固定性や決定性といったものはいっさいない。非決定的な存在様式を、人間の存在様式に求めるカストリアディスは、その存在観の具体的イメージを求めて、マグマという用語を選んだのであろう。マグマの論理学は、新しい存在観に立つかぎりは、決定的に伝統的な「決定性の論理学」と手を切らねばならない。マグマの論理学は反アリストテレス的である。
マグマから「自己」へ[#「マグマから「自己」へ」はゴシック体]
かれのいう「マグマの論理学」、非決定性の存在観の提唱、社会的想像力論、いずれをとってもまだ未完というほかはないし、またけっして理解しやすいものでもない。しかし、ひとつだけ確かなことがある。それはすでに公認されつつあることだが、カストリアディスの存在論的研究は、科学のレベルでは、「自己組織化」「自己創造」のテーマの下で仕事をする生命科学者の関心をよび、またかれもその成果をくみいれつつあるが、これはかれの仕事の生産的機能であり、哲学や科学の面で人びとの思考を刺激しつづけることであろう。
生命体が一個の組織体になる過程は、生命体の生成過程である。生命は組織になってはじめて生命体になる。これを自己組織[#「自己組織」はゴシック体]とか自己創造[#「自己創造」はゴシック体]とよぶ。組織が自立することは、組織が「自己」(アウトウス)をつくったというにひとしい。この「自己」はマグマから出てくる。マグマから「自己」へのプロセスを追うことが、自然科学であれ、社会科学であれ、組織一般の研究課題になる。前にみたノイズの科学[#「ノイズの科学」はゴシック体]もここに参加してくる。
変革の理念――自律性[#「変革の理念――自律性」はゴシック体]
ところで、カストリアディスの哲学的研究は、つねに政治と結びついている。この政治は、単なる変革の技術としての政治ではなくて、個人と社会が他なるものに変換すること、「他なるものに成る」[#「「他なるものに成る」」はゴシック体]こと、である。社会的想像力論、非決定論的存在観は、すべてこの意味での「政治」、つまり「社会の変革」につながっている。
変革の可能性の条件を原理的に探求することは、二つの方向でおこなうことができる。第一に、過去の歴史の研究がある。第二に、これからおこなうべき社会変革の構想がある。カストリアディスの場合は、後者の課題がすべてである。そしてこのテーマの中心が「自律性」[#「「自律性」」はゴシック体](オートノミー)である。過去の社会と人間がいくたの変化と転換を経験したことを知るのも、変革の可能性の条件を知るのに役立つ。しかし、一般的に社会が変化することを知るのは、歴史学の課題ではあっても、社会哲学の課題ではない。
真実の意味で、根源的な生活の変革がいいうるのは、どんな条件の下でであるのか。このことを抽象的な原理的レベルでうちかためておく必要がある。カストリアディスは「自律性」、つまり個人の自律性と社会の自律性のなかに、ラディカルな変革のイデーをみる。それは、徹底したデモクラシーのイデーでもある。
ふつう、自律性は閉鎖性の相で考えられる。それ自体で存在するものは、はっきりした輪郭をもち、閉じた境界線内に存立しつづける。有機体はしばしばそう考えられる。カストリアディスの自律性論は、かれの言葉によると存在論的開放性[#「存在論的開放性」はゴシック体]である。制度は、たいていは他律的(ヘテロノミー)である。なぜなら、これまでの経験では、社会の閉鎖的存在様式は、つねに超越的価値によって制御されてきたからである(神、イデオロギーなど)。
カストリアディス的自律性をもつ社会は、歴史上にはほとんどない。他律性(支配、抑圧など)を打破し、個人の自律性を可能にする社会の自律性[#「個人の自律性を可能にする社会の自律性」はゴシック体]をめざすのが、これからの政治的実践となる。かれはいう――「自分自身の〈組織〉を問いただす社会の出現は、自己自身をはっきりと変更する〈形相〉の出現という存在論的創造を表現する。」既存のあり方を自覚的に問いただし、自覚的に別種の「法」をおのれ自身に与えうる個人が出現し、またそれを保証する社会が出現するとき、真の意味での自律的デモクラシーが可能になる。カストリアディスは、いま自主管理[#「自主管理」はゴシック体]、自己統治[#「自己統治」はゴシック体]の運動へとおもむく。
カストリアディスの自律性論は、その立論の条件が単純でありすぎるから、きわめて抽象的である。暴力や労働のリアリティを入れてこそ、かれの自律性論は生きることだろう。逆にいえば、それらが欠けるとき、自律性論は単なる空想になるだろう。この難題をどう克服するかは、残された課題というべきである。
カストリアディスは、自律性の原理の探求者である。かれとちがって、実践面で自律運動を展開するグループもヨーロッパにある。それがイタリアのアウトノミア運動である。思想的バックボーンにアントニオ・ネグリ(「スピノザ現象」の項をみよ)をもつイタリア・アウトノミア運動は、いっさいの強制的労働を拒否し、また、国家権力の支配を脱したところで自律的な群居運動をしつこく推進している。労働の拒否はけっしてサボタージュではない。ストライキでもない。それは、各人が自律的に自己の生活を統治する生活世界の解放運動なのである。新しい生活様式への模索がはじまっているのである。
[#改ページ]
希望
一哲学者の遍歴[#「一哲学者の遍歴」はゴシック体]
フランスにエマヌエル・レヴィナス[#「エマヌエル・レヴィナス」はゴシック体]という哲学者がいた。エドムント・フッサール[#「エドムント・フッサール」はゴシック体]の直弟子のひとりである。サルトルとほぼ同年齢でありながら、晩年までわかわかしい哲学的思索を発表しつづけた。レヴィナスは、フッサール現象学をフランスへ導入した最初の人である。かれの処女作『フッサール現象学の直観理論』(法政大学出版局)は、若きサルトルに現象学を教え、サルトルにつづく多くの哲学者たちも、レヴィナスの著作からフッサール研究の重要性を学びとったのであった。フランスの現象学史のなかでは、若きレヴィナスは、現代フランス思想史の輝かしい人びとの教師であったといえるだろう。
レヴィナスはフランス人ではない。リトアニアのカウナス出身で、ユダヤ人の家族のなかでユダヤ的教養を小さいときから積みながら、同時にロシア文学にどっぷりとつかって成長する。かれが十一歳のときにロシア革命が勃発する。青年レヴィナスは、ストラスブール大学に留学し、そこでの教師ジャン・エランの紹介でフライブルク大学のフッサールのところで現象学の手ほどきを受ける。フッサールとインガルデン(ポーランドの哲学者)との『往復書簡集』(せりか書房)のなかにも、レヴィナスの名前がでてくるところをみると、フッサールははやくからレヴィナスの英才に注目していたようである。
レヴィナスは、フッサールをこのうえなく尊敬し、徹底的に学びとろうと努力しつづけてきた。しかし、かれはけっしてフッサールの解説者でも祖述者でもなかった。人格全体をかけた思想のレベルでは、レヴィナスはフッサールに対して、かなり距離をとってすらいる。
フッサールは、レヴィナスと同じ裕福なユダヤ人の出ではあるが、フッサールはユダヤ教徒ではなく、改宗したプロテスタントである。著書『フッサールとハイデッガーとともに現実存在を発見しながら』のなかで、レヴィナスは短い自伝的注記をしたためているが、それを読むと、こんな興味深いことが書かれている。
フッサール夫人(プロテスタント)は、レヴィナスのいる前で、ユダヤ人を第三人称で(「かれらは……した」というように)語ったという。その口ぶりは、ほとんど軽蔑的であり、憎悪がふくまれている。これをみて、フッサールはこう語った。
「レヴィナス君、気にしないでくれたまえ。私もユダヤ人の商売人の生まれでね……(沈黙)」
プロテスタントに改宗し、ドイツ文化に同化しようとしたユダヤ人にありがちのことだが、こういう改宗者は、改宗しない同胞を見下し、自己を優越者に見たてたがる。ドイツ化したユダヤ人は、ドイツ人の眼でユダヤ同胞を差別する。フッサール夫人の発言にはそれが如実に出ているが、弁明したフッサールにもそうした差別意識がなかったとはいえない。
レヴィナスは、きわめてアカデミックな研究書のなかに、一見唐突な仕方で、このようなエピソードを記したのだが、なぜかれはそんなことをあえてしてしまったのだろうか。その仕草のなかには、レヴィナスのフッサールへの敬意と同時に、訣別の決意も秘められているようだ。事実、レヴィナスは、第二次大戦とナチスによる強制収容所体験[#「強制収容所体験」はゴシック体]を経て、フッサールを、そしてハイデッガーをのりこえる新しい哲学の道へと敢然と歩み出ていく。
強制収容所体験からの出発[#「強制収容所体験からの出発」はゴシック体]
レヴィナスは、哲学史上、もっともすばらしい書物をあえて三冊挙げるとすれば、プラトン[#「プラトン」はゴシック体]の『パイドロス』、ヘーゲル[#「ヘーゲル」はゴシック体]の『精神現象学』、ハイデッガー[#「ハイデッガー」はゴシック体]の『存在と時間』であるといっている。それほどに、レヴィナスはハイデッガーの哲学から決定的な影響をこうむったのであるが、レヴィナスの虐殺収容所体験はハイデッガー哲学の克服へ向けての貴重な出発点となる。
レヴィナスによると、ハイデッガーのナチス加担は許しがたい。この加担は、ハイデッガーがちょっと気を抜いて犯した誤りのごときものではない。その誤りを許す何かが、ハイデッガー哲学のなかには伏在している。ハイデッガーの誤りのなかにも、前にのべたフッサールの思想的偏向と同じく、厳密な理論を超えたところで哲学者をひそかに導く思想の偏向が働いている。こうした偏向や誤謬を犯させる何ものかを、レヴィナスは、自己の収容所体験を通して発見していくのである。
こうして、レヴィナスの独自の哲学が生誕する。その生誕の場所は、収容所時代に書きはじめられた『実存から実存者へ』(ちくま学芸文庫)である。そこではじめて、フッサールの「存在」とも、ハイデッガーの「存在」とも違う存在観が登場する。
後期ハイデッガーの「存在」は、惜しみなく与える贈与者[#「惜しみなく与える贈与者」はゴシック体]のイメージで語られることになるが、レヴィナスにいわせれば、ハイデッガーのいうような「寛大で」「惜しみない」存在など、どこにあったのだろうか。第二次大戦や大量虐殺の事実を考えれば、慈悲深く、人びとを暖かく迎えてくれる存在があるなどと、どうしていえよう。こうしたおそるべき現実から眼をそむけて、神学的な贈与的存在論を語りつづけるところに、哲学者の自己欺瞞[#「哲学者の自己欺瞞」はゴシック体]があるのではないか。
ハイデッガーは、西洋形而上学の「解体」をしなければならないといった。けれども、既成の存在観の「解体」を通して提出されたハイデッガーの「存在」は、依然として、西洋形而上学の「全体化する存在」[#「「全体化する存在」」はゴシック体]の一ヴァリアントではないか。ハイデッガーは、ヘーゲル的な全体化的理性[#「全体化的理性」はゴシック体]と手を切ると称しながら、別の形での全体化的理性へとおもむいたのではないか。これが、レヴィナスのハイデッガー批判の骨子である。
暴力を考えること[#「暴力を考えること」はゴシック体]
レヴィナスは、ユダヤ人として、多くの同胞とともに、人間的現実が体験しうる最悪の極限を見た。その極限は、暴力[#「暴力」はゴシック体]という言葉以外ではいい表わすことができない。暴力は、力でも権力でもない。いきいきした力も、暴力を抑制するかにみえる権力をも、すべて爆破して、あらあらしく破壊的に自己の道を突進する暴力は、人間がこの世に生きてあるかぎり人間につきまとう。
そうだとすれば、哲学的思索は、ほかならぬこの暴力の存在、暴力としての存在[#「暴力としての存在」はゴシック体]から出発しなおすべきである。いたずらに、暴力の存在を無視したり、それに無知であったりするならば、哲学的言説は、かつてハイデッガーが陥ったように、また本来暴力をなくすべく登場した左翼思想が結局は陥ったように、自己欺瞞とデマゴギーへと変質するのである。
存在は、けっして慈悲深くはない。むしろ、存在は冷淡で無慈悲である。人間がこの世に存在することそれ自体が、暴力をこうむる存在なのである。現実にそこに在ること(人間が生きていること)は、つねに、そのつど外傷をこうむること[#「外傷をこうむること」はゴシック体]である。人間の生の現実を語ることは、そのなかに刻みこまれている暴力を語ることである。具体的な存在者を考えるべきであって、それを超える抽象的な「存在」を語るべきではない。存在が存在者に優越するのではなくて、存在者と存在者との関係[#「存在者と存在者との関係」はゴシック体]の具体性のほうが優越する。存在者と存在者との関係(つまり人と人との関係)のなかにこそ、避けたくとも避けえない「外傷」「暴力」が介在してくる。
こうしてレヴィナスは、存在論中心の西洋哲学を批判し、いま一度倫理学としての形而上学[#「倫理学としての形而上学」はゴシック体]を復権させようとする。暴力は、人間存在の根本に触れるがゆえに、哲学の根本的課題になる。哲学的精神は、暴力の存在を思索の対象にすえ、同時に暴力を抑えこむ人間存在の新しい様態を構想するという倫理的実践的態度のなかでこそ、あらたに甦る。
ゆるぎなき希望[#「ゆるぎなき希望」はゴシック体]
きらびやかなユートピアや桃源郷の夢をどんなに称揚しても、それらが現実に人間生活の中に荒れ狂う暴力から眼をそらしているかぎりでは、一場のはかない夢と終わる。真実の希望は、地道に、はでやかでなく、現実の暴力との闘いのなかにこそある。現代では希望は華やかな所にあるのではない。傷つけられた生活のなかで、その場をしっかりと見つめ、その傷をいやす努力のなかにこそ、落ちつきのある堅固な希望が結ばれる。
私たちの実際生活では、面つき合わせればいつもいがみあってしまうことが多い。素顔と素顔との対面関係が本当に平和裡に進行することは、まことに困難である。面つき合わせれば、何か暴力的なものが顔を出すのではないかと恐れて、私たちは互いに顔をそむけ合う。顔と顔とのスキ間にひそかに支配する権力が割りこみ、個人の人格はいつのまにか目にみえぬ大きい力に隷属してしまう。生活のなかにしっかりと根をおろした希望(暴力なき人間関係)[#「希望(暴力なき人間関係)」はゴシック体]を少しでも現実のものにするためには、何よりもまず素顔同士の意思疎通[#「意思疎通」はゴシック体]の可能性を追求することが要求される。他人を、強制力や暴力なしに受け入れるつきあい方、交通の仕方を建設することである。暴力をおしもどし、それが頭を出すところでそれを溶解させてしまう他者との関係[#「他者との関係」はゴシック体]ができるとすれば、それこそ希望の名にふさわしい人間の生活が生まれたといいうるのである。言葉のなか、思考のなか、さまざまな行動のなかに、棘《とげ》のある暴力がある。私たちが実践する多面的な行為のなかから、暴力性とよぶべき要素をひとつひとつとり除いていくこと、こうした地味な作業こそ、単なる知的行為ではない真実の理性の仕事である。生きられる生活を、暴力なき理性[#「暴力なき理性」はゴシック体]をもって建設すること。そこに思想と実践のあらゆる面で希望を育てあげる道が開けていくのである。
希望を失うな、希望を育てよ[#「希望を失うな、希望を育てよ」はゴシック体]――これが現代思想の最後の言葉である。
[#改ページ]
第X部[#「第X部」はゴシック体]
[#改ページ]
序 世界史の現在[#「序 世界史の現在」はゴシック体]
二十世紀の末に、世界の地政学的構造に亀裂が走った。政治的意味での世界地図は変動を開始し、それに応じて思想の世界地図も少しずつ変わりはじめている。思想の動きは、二十世紀の六〇年代と七〇年代の動きほど華々しくはなく、むしろごく地味ですらある。それでも思想は新しい課題を担い、ねばり強い思索を重ねている。以前には影が薄かった諸問題が一挙に浮上しはじめている。この事情を時代の背景と対照させつつ、主要な用語を紹介し、吟味していきたい。
二十世紀の最後の二十年間に重要な事件がいくつか起きた。それは無数の要因が複合した歴史的事件であって、国際政治の側面と国内政治の側面が政治以外の要因(経済的要因や宗教その他のイデオロギー的要因など)と解きほぐしがたくからまりあっている。この種の諸事件はさしあたりは狭い意味での哲学や思想との直接的な関わりはないが、思想は考える主体がそのなかで生きる社会から主題をとりあげるかぎり、間接的に歴史的事件と必ず関係をとりむすぶことになる。思想はたんに社会から刺激を受け身で受けるのではなく、原則として自分が生きる社会と歴史が突きつけてくる諸問題を自分自身の課題として引き受けるものである。
時代の課題と格闘しない思想は、本来の思想ではない。世間で流通する種々の観念はまだ思想ではない。思想は、個別の経験から材料を受け取りながら、しかし個別的で局所的な体験の範囲にとどめず、より一般的なレベルにまで、ひいては人類全体に妥当するという意味で普遍的なレベルまで経験の意味を引き出しつつ展開する。その意味で思想は必然的に学問的形式をおびざるをえない。思想的語りは要請として矛盾なく首尾一貫して語る義務があるのだから、学問的体系性は少なくとも思想家にとって責務となる。
二十一世紀の最初の局面にある現在において、思想を論じるために、個々の思想家が生み出す思想と現在の時代との関連を確認することは、たとえ背景的な示唆にとどまるとしても避けて通れない。まずは現在の歴史的境地を簡単にふりかえることからはじめよう。
世界史の変動[#「世界史の変動」はゴシック体]
二十世紀の後半、とくに最後の十年はどういう時代であったのだろうか。
すでに周知の事実になってしまった感じもするが、おさらいのために前世紀の末に起きたいくつかの大事件を思い起こそう。無視できない事実がある。
注目すべき日付は一九八九年である。最初の大事件は中国で起きる。八九年五月の「天安門」事件である。中国では八八年の末からひそかな胎動が感じられた(当時私は北京に滞在中であって、この地震に似た地響きをひしひしと感じたことをいまもはっきりと思い出すことができる)。何かのきっかけがあれば、大騒動や決起があるだろうと誰もが予想できた。中国人ですらそう感じていた。文化大革命はすでに終わっていたが、自由な言論と思想の自由はまだゆるされていなかった。
民衆は海外の情報を存分に仕入れていたから、中国の貧しい現状に対して激しい怒りをもっていた。大学生はいつでも蜂起する覚悟をしていた。恐れと希望が入り交じった雰囲気が充満していた。改革は共通スローガンであった。ゴルバチョフの訪中と、慕われていた一人の指導者の突然の死はひとつのきっかけにすぎないが、ともかく政治体制の改革を求めて天安門広場はギリシアのアゴラのごとき公開討論の場となった。一時的ながら改革派指導者の排除と保守派の台頭はあったが、所詮は改革の流れを抑えることはできずデンシャオピン(ケ小平)の指導の下、中国は徐々に現代化の道を模索しはじめる。
その後の十数年の努力は、天安門事件の犠牲者の上にともかくも経済大国へと浮上する軌道が敷かれた。現代中国へのゴーサインは八九年五月の天安門事件であった。後戻りできない発展が開始されたのである。これはおそらくは東欧変動の間接的な引き金になったのだろう。八九年の主要舞台は東ヨーロッパに移る。
東欧諸国の政治革命は二十世紀最後のもっとも注目すべき事件である。東ドイツから開始した政治体制の変動は玉突き運動を生み出し、次々と東欧諸国を政治革命のなかに引きずり込んでいった。ルーマニアを除くすべての東欧諸国は八九年の間にソ連型政治レジームから離脱した。ルーマニアは九〇年初めに独裁政権を打倒し、これで西ドイツとソ連の間にある諸国はロシアの支配から独立した。東ドイツの崩壊から始まる東欧革命はソ連にまでおよび、ゴルバチョフはソ連邦の解体を宣言するまで追い込まれる(ゴルバチョフ自身はそれを歓迎しつつ実行したようにみえるが)。東欧の政治革命はソ連の解体という決定的な事件を生み出したのである。中国の変動、東欧の変動、ソ連邦の解体は、いわゆる「東」側の地政学を塗り替えてしまった。新しい時代が開始したのである。
東側陣営の変動ばかりではない。西側でも深刻な事態が起きた。ソ連の解体は同時に第二次大戦以後のいわゆる「米ソ冷戦体制」を崩壊させた。「冷戦体制」は、看板の上ではイデオロギー対立を煽りながら、実質面では世界の地政学的構造を米ソ両国によって二分し、国際政治の安定を保守的に確保する巧妙な政策であった。これが崩壊するなら、アメリカの支配も崩壊する。アメリカは必然的に一国だけによる「世界の警察」を引き受けざるをえない。アメリカの指令に服従しない諸国は敵として指弾し、敵とみなす諸国を爆撃して解体しようとする動きを止めることができなくなる。米ソ冷戦体制の崩壊は、二つの湾岸戦争(二つのイラク戦争)とアフガン戦争の引き金になり、現在に至る。
東欧変動、ソ連の解体、アメリカ主導のイラクやアフガニスタンとの戦争(その他の地域戦争)は、それぞれの民衆にとっては難民であることを強制される苦境を生み出す。難民の激増と受け入れ先における差別問題は、単に政治的・経済的問題ではなく、思想の課題を突きつけてくるだろう。世界史的事件は思想的課題である。
二十世紀を終わらせた要因[#「二十世紀を終わらせた要因」はゴシック体]
世紀末の数々の出来事は孤立した事件のシリーズではない。それらは深層において結ばれあった一連の出来事である。これらの出来事を通して、あるいは外面的な事件の姿をとるという回り道をして、二十世紀という時代が全面的に終焉したのである。とくに二十世紀後半を支配した国際政治体制とイデオロギー複合が解体したのである。とはいえこれらの事件のひとつひとつにはそれ固有の事情と要因があって、そうした社会的複合状況は思想にとっても無縁ではない。二十世紀の終焉の特質を照らし出すためにも、また個々の事件をつなぐ筋道を理解するためにも、概略ながら主要な論点を洗い出しておきたい。なぜなら、多少なりとも主要と思われる論点や特徴を押さえておかないと、現在の思想的課題の意味を実感できないからである。
八九年からはじまった諸事件は、何かの開始ではなく、むしろひとつの過程を総括する結末であった。九〇年代から現在に至る間に生じた事件は、それに先立つ三十年ほど前から用意されていたといえる。少なくともそのように仮説を立てて事件を解釈してみよう。
政治の変動または変革は、一般にあるいは原則的に、民衆の帰趨に依存する。民衆の帰趨[#「民衆の帰趨」はゴシック体]とは、民衆がそのなかで生きている政治経済体制への暗黙の同意があるかないかの傾向を意味する。個々の政権の変化ではなく、国家体制の根本的変動は、その体制への民衆の同意[#「同意」はゴシック体]または賛意[#「賛意」はゴシック体](積極的な場合もあるし、消極的な場合もある)がかぎりなくゼロに近づき、ついには同意の消滅が生まれるときに起きるものである。国家体制とそれへの民衆の同意は政治思想の現在的課題になるが、思想の観点からいえば世紀末の体制変革現象はこの論点にかかわるので、記憶にとどめておこう。この観点から、まずは東欧圏の政治変動について論じておこう。
指令型経済運営の挫折[#「指令型経済運営の挫折」はゴシック体]
たとえば東欧とソ連の政体変動を引き起こした要因のなかでも最たるものは、しばしば指摘されたように指令型経済運営の挫折であった。管理経済のすべてが悪ではないが、ソ連型の管理経済は、人間的自由の空間(思想の自由ばかりでなく、個人的欲望と行動の自由もふくめて)を否定し、最小限の物質的生活とその条件をさえトップダウンによって割り当て、それから逸脱するものを処罰する。個人や小集団が天下国家を論じ提案する資格はありえないと最初から前提されている。
誰が国家規模の経済を「正しく」認識し、「正しく」運営するのかといえば、それは一部の自称「選抜集団《エリート》」(ソ連ではこれを「前衛党」とよぶ)である。この集団は形式的に「全知全能」と想定されている。前衛党とよばれる国家管理集団は「間違うことはありえない」と前提されているから、この「お上」に逆らうものは、二つにひとつである――すなわち国家に反逆する犯罪者(「精神異常者」とレッテルを貼られるものも含む)であるか、または外国の「手先」(スパイ)である。どちらにころんでも犯罪者であり、かれらはおしなべていわゆる収容所(監獄と隔離病院)に押し込められる。
これは選抜集団が狂っているから起きた現象ではない。国家指導者のすべてが狂うことはありえない。一般に、古代であれ近代であれ、どの専制国家でも政治家が「狂っている」ことはありえない。こうした圧政と民衆生活の窒息状況は、国家運営の実践的・技術的「欠陥」から生じるというよりも、むしろ思想の原則[#「思想の原則」はゴシック体]から生じる。公式(俗流)マルクス主義は私的所有体制の廃棄はそのまま個人的所有の廃棄に等しいと信じていたから、かれらのいう「社会主義」社会の原理は、物も人もひっくるめて(基幹産業である重工業や農業だけでなく、一般民衆をも含めて、すべては操作可能な事物である)「国家的所有」とされる。すなわち人間もまた事物であり、支配と管理の対象として石ころと同じ身分をもつ事物なのである。
重要なことは、思想の原則であるから、この原則に則してみれば「国家社会主義」(ソ連と東欧諸国が典型)の官僚集団の行動は首尾一貫している。かれらは原則的に行動しているのであって、恣意的に行動しているのではない。だからこそ思想は恐ろしいのである。
若干の変更を加えるなら、同じことはファシスト国家にも当てはまる。とくに重要なことは、私的所有を破棄したら個人所有も自動的に破棄される。いやそれどころか、そもそも私的所有と個人所有の区別[#「私的所有と個人所有の区別」はゴシック体]の問いすらマルクス死後から今にいたるまで、まるでなかった(エンゲルスにはさすがにその予感があったのだが、それすら無視されてきた)。
個人所有の概念は、たんに経済的意味にとどまらず、思想と行動のすべてが個人の人格全体に統合されているものを含む。個人所有に属するものは、ひとの人格と一体であるから、いかなる国家にも「譲渡不可能な何ものか」である。それを消去するなら、人間は事物と同列に「処理される」ほかはない。
最小限の「食」と「自由」の消滅[#「最小限の「食」と「自由」の消滅」はゴシック体]
指令型経済運営の必然(民衆からいえば失敗としかいえないが)が結果として生み出した現象は、民衆の日常生活の苦難であった(必需品の全き不足)。配給所の前にまる一日立ちつくす長い主婦の行列はソ連の日常生活の全世界周知の風景であるが、少なくとも半日を、ときには一日を費やしてごくつまらない品物を入手するために疲労困憊する人生とは何か。それがまともな社会か。ソ連は政治革命を成就したかもしれないが、人民の日常生活を破壊した。何のための革命であったか。そう民衆が自問し始めても無理はない。配給の行列はソ連国家の無効を日々宣言していたにひとしい。
そればかりではない。民衆をどうにでも処理できるモノ扱いをする国家官僚の心的態度(これを哲学的には物象化した視線または思想とよぶ)は、その表明されざる前提として「人民は事物として絶対的に平等である」という思想がひかえている。ソ連と東欧諸国における平等とは事物としての平等であった。万人は指令されたように感じ、思考し、行動する。一様であることが「最高善」であった。それに反する人間は前述のように人間のクズであるから、万人はその人間を告発するのが「道徳的義務」であるとされる。
こうして万人告発社会が自動的に再生産される。隣人を告発することが「良いおこない」であり、国家から賞状をもらえるほどのものであるのだから、万人が万人を密告するのは責務と感じられてくることを避けることはできないだろう。どんな理屈でもでっちあげることはできる。密告社会[#「密告社会」はゴシック体]では自由に談論し、フランクに会話することが不可能になる。これを監獄社会とよぶことができる(「収容所列島」社会ともよばれた)。
事物的管理の原則が支配的であるとき、人間の管理は秘密警察という事物管理専門家の専管事項になるだろう。精神病院の「医師」とよばれる技術者もまた同じ種類の管理者となった(公平にいえば、医学的警察管理者になるのを余儀なくされたのだろう)。
こうしてソ連と東欧の政治体制の末期には、すでにひそかに蓄積されてきた民衆の国家への不信はますます増大していった。不信は個人的心理ではなく、ひとつの重要な政治現象である。いかなる国家も民衆からの何らかの信頼と合意なしには、たちゆかない。民衆の言葉以前の合意の条件は、最小限の条件として毎日の生活が飢えないで送れること、最小限の発言の自由があること、警察の許可なしに移動できることにある。そうした最小限の「食えること」とささやかな行為の自由がソ連と東欧では消滅していたのだが、それはまさに民衆による合意をソ連型国家は完璧に放棄したことに等しい。民衆生活の苦痛は国家権力の正統性の根拠のたえざる喪失を言葉以前に証明していたといえる。
いつの時代でも民衆は不満足な生活条件をある程度まで耐えることができたし、いまもできている。メシを食えるようにせよ、自由に動き回れるようにせよ、不満をぶちまけるぐらいは大目にみよ、こうした要求がある程度あれば民衆は不満たらたらながら現存国家に合意する。それがソ連型国家ではまったくなくなった。
「恐怖国家」の出現[#「「恐怖国家」の出現」はゴシック体]
人間が物体と同様に処理されるごとき「国家」とはそもそも国家なのか。この根本的な疑問が出てきてもおかしくない。学問的な名前をこの「ソ連型国家」に与えることはできる。試みにその名前を与えてみれば、たとえばそれはモンテスキューの命名が一番適当であろう。いわく、デスポティズム(専制主義政体)だと。デスポティズムの原理は、モンテスキューによれば、恐怖[#「恐怖」はゴシック体]である。日々が恐怖の情念で生きるほかはない独特の政体(ガヴァーンメント)、それがソ連と東欧の国家体制であった。そしてこの種の「恐怖の国家」はいつでもどこでも再発生することができる。モンテスキューが想像できなかったような形態で二十世紀にはこのデスポティズムが生まれたのである(二十世紀の政治思想では、この体制は全体主義とか独裁国家とかとよばれているが、さしあたり名前は何でもかまわない)。
二十世紀がかくも多くのデスポティズム政体を生んだとすれば、いいかえれば「もっとも文明化した」現代社会のなかで、さらにいえば人類の歴史のなかで最も高度に「合理主義」が発展した時代に、まさに古代的デスポティズムが「フューラー・システム」(統領または前衛の独裁体制)の形態をとって現れた(ドイツのナチズム、イタリアのファシズム、ソ連と東欧のボルシェヴィズム、あるいはこれを小規模で反復するいわゆる「開発独裁」体制――二十世紀は地球上のいたるところでこんなものばかりが見られた。つい六十年前まで日本もまたこの種の政体を戴いていたのだ。よくよく銘記すべき問題である)。
これがソ連型社会に顕著に出現したのである。それはソ連的社会主義の「思想原則」から必然的に生じるものであって、個人(たとえばレーニンやスターリン)の恣意的決断によるのではない。思想はかくまでに人間の人生を左右することにもっとおどろいてしかるべきであろう。そしてこれこそが新しい政治思想や倫理思想をよびおこす根源になるだろう。これは、まさにもっとも悩ましい現代の思想的課題である(ドイツのフランクフルト学派が先駆的にこの問題と取り組んだことはけっして忘れることはできない)。
ここで問題にしているのは、国家または政体の正統性[#「正統性」はゴシック体]の問題である。正統性は、民衆による合意の存在を絶対条件とする。仮に民衆がそれまで、からくも維持してきた政体への最小の合意すら放棄したことを、とくに身体的に表現するとき、その瞬間に政体は正統性を喪失し、ただちに崩壊を開始する。民衆の側からの合意の放棄は、「食えない、食わせろ」、「自由の空気が希薄だ、空気を入れ換えろ」という身体的表現として登場する。バナナが食いたい、隣の国ではバナナが食い放題ではないか、バナナが食えない国ならいつでも退散してやるぞ、というのがソ連と東欧の崩壊の決定的契機であったのだ。胃袋を馬鹿にする政体は胃袋の反逆で倒れるものだ。身体は生物的である以上に、政治的現象である。これもまた未決の政治思想的問題である。
「世界の警察国家」アメリカ[#「「世界の警察国家」アメリカ」はゴシック体]
ところで、ソ連の解体は同時に米ソ冷戦体制の崩壊となったことは、周知のとおりである。国際面ではどうなったか。アメリカの「世界の警察国家」への変貌は、アメリカ国内でも体質の変動をよびおこし、外部に向かっては「地球規模のデスポティズム」の姿を露呈しはじめたのではなかったか。アメリカ国内の政党がどうこうという問題ではない。どの政党が政権党になろうと、アメリカが軍事力を頼りにして「世界の警察」になろうと意志するとき、アメリカ国家はデスポティックな世界的警察国家になるほかはない。アメリカはその憲法原則に反して軍事的帝国主義の支配力を地球の隅々まで押し通そうとしている。それはかつてヒトラーやスターリンが望んでできなかったことである。
現在のアメリカは、イデオロギーの看板が民主的粉飾をこらしていても、ヒトラーやスターリンの企てをむしろ完成させているとすらいえよう。その結果はどうなったか。二つの湾岸(イラク)戦争とアフガン戦争は冷戦後の国際関係をアメリカ主導によって再建するための企てであり、それはいまも眼前で進行中である。これは同時にイスラム軍事勢力を活性化させ、イスラム型カミカゼ戦術を全地球上に蔓延させることになった。それはイスラムが原因ではなく、アメリカの軍事警察帝国への変貌が原因なのである。
いまや「政治思想」が現代思想[#「いまや「政治思想」が現代思想」はゴシック体]
してみると、現代思想はいやがうえにも政治思想のたてなおしという、これまでの現代思想のイメージを一変させる方向へと動き出さなくてはならないだろう。いったい「リパブリック」(政治共同体)とはいかなるものであるのか、それは政体と同じなのか、ちがうものなのか。国内体制のめざすべき理想は何か、国際的国家関係はどうあるべきなのか、といった諸問題は回避できないばかりでなく、それを無視して政治思想はもとより、倫理思想すら語ることができないのである。いまや政治思想こそが現代思想なのである。より正確にいえば、政治共同体に関する思索と共同体の維持管理をめぐる「法と権利の思想」が倫理思想を刺激し、両者あいまって現代思想の中心になろうとしている。
これに関してもうひとつの注目すべき政治現象にふれておこう。
もうひとつの現象とは、アメリカのグローバル化に対抗して、欧州連合の強化と拡大の動きである。欧州連合が二十五カ国へと拡大して展開しつつある(ひょっとして将来、参加国はもっと増える可能性もある)。欧州の地政学的版図はついにイスラム圏(たとえばトルコ)をも包摂する勢いをみせ、近い将来においてアラビア・イスラム圏の紛争地域を、アメリカに代わって調停し管理する展望を示す勢いをみせている。
アメリカのグローバル化は皮肉にもアメリカを衰退させ、欧州の復活と地域的連合国家への趨勢を促進した。この傾向は今後加速するだろうし、アジア地域とイスラム圏においても経済・政治的連携から欧州型の連合にまで進展する可能性すらある。局地的国家連合形成の玉突き運動がとうとう開始された。二十一世紀はカントの世界連邦国家構想が実現する端緒になるかもしれない。
以上の概括的記述をみるだけでも、世界史の現実と政治的現象が現代思想へおよぼすインパクトが推測できる。現在進行中の世界史的プロセスは、多くの苦難をともなうだろう。局地戦争、民族紛争、種々のゲリラ抵抗戦の世界化によって、史上まれにみる難民時代が到来する。世界「連邦型」国家の歩みは新しい国際政治と国際法の思想的構築を要求し、巨大な量の難民の出現は国民国家の枠内にとどまる法と倫理を再検討し、コスモポリスに対応する法と倫理(万民が公民であること、国籍を問わない相互歓待)の実現を迫るだろう。
さて、ようやく二十世紀の末から現在にいたる時期の現代思想のキイ・ワードを論じる段階にたどりついた。思想家の言葉だけが現代の思想ではない。おしせまる厳しい事象が思想の言葉になるべきである。右の記述のなかにすでに示唆されているように、いくつかの主要な主題が浮かびあがる。理解の便宜のために、大雑把に分類してみると、およそ三つの項目にまとめることができるだろう。
第一に、政治と法(権利)に関する用語
第二に、経済に関する用語
第三に、倫理に関する用語
となろうか。いずれの項目も古くからの思想的諸問題をかかえるが、ここでは古い主題に新しい光を当てる可能性を発掘するしかたで論じてみよう。
[#改ページ]
1 政治と法(権利)[#「政治と法(権利)」はゴシック体]
国家(state 英 staat 独 stat 仏)
現在、社会や経済を語ることが盛んであって、「国家」を語ることはいかにも古くさくみえるが、じつはそうでもないのだ。
古代国家と近代国家ではその本性がかなりちがっているのは確かであるが、政治権力一般の地平で語る場合には、いくらでも共通項をとりだすことはできる。ここでは国家一般ではなく、近代的とみなされてきた国家と現在の国家の相違を問題にしたい。現在の国家は百年前の、いやそれどころか半世紀前の国家とすらちがってきているのではないか。これが古そうにみえる「国家」をことさらに論じる理由である。そのうえに、近代国家の本性すら案外知られていないかもしれないし、無限に持続する国家のイメージがいまでも流通しているようでもある。ところが、実情に即していえば、その民族単位の国家の永続性がいまや喪失しはじめているのである。そうだとすれば「国家」はまさに現代思想の焦眉の課題となるだろう。
近代国民国家の成立[#「近代国民国家の成立」はゴシック体]
西洋の絶対主義[#「絶対主義」はゴシック体]王権が領域的支配圏[#「領域的支配圏」はゴシック体]を確立したとき、近代国家[#「近代国家」はゴシック体]の枠組みが成立した。この政治的領域は後に国民国家とよばれる。すべての国家権力は簒奪権力であるから(この点については拙著『抗争する人間』講談社選書メチエを参照)、その正統性[#「正統性」はゴシック体]を主張するために国家の理論がつくられた。原則的にいって、簒奪権力には正統性が存在しえないからである。新しく登場する権力は、その「流血の」簒奪性格をなんとかして払拭しなくてはならない。簒奪のにおいがいつまでも残るとき、国家と権力への不信もまた残りつづける。支配者にとってはこれが一番こわい。嘘かまことかを問わず、民衆を信頼させる説得言説を発明しなくてはならない。国家の表面から簒奪性を消去する必要が出てくるのだが、この大掃除をする役目はいつの時代でも「知識人」とよばれる集団であったし、いまでもそうである。これを権力の正統化イデオロギー[#「権力の正統化イデオロギー」はゴシック体]とよび、その職務を担当する人間集団をイデオローグ[#「イデオローグ」はゴシック体]とよぶ。
正統化のためのイデオロギー言説の内容は、主権(国家の最高権力、国家存立の原理)を道徳的に弁明し弁護すること、すなわち道徳的な「正当化」であり、さらに法的制度による正当化(権威の合法性の獲得)である。マックス・ウェーバーが提起した「カリスマ的支配」、「伝統的支配」、「合法的支配」の三類型は、現実には程度の違いをもって共存しているが、近代国家との関連ではとくに法的正統化として「合法的支配」が重要であるから、もっぱら法的権威による権力の正統化論を視野におくことにする。とはいえ、ナチズムやファシズムあるいはスターリニズムなどにみられるように、「制度の合理化傾向」が強い時代でも、個人崇拝的な「カリスマ的支配」が登場することを忘れないようにしよう。
国家のイデオロギー装置[#「国家のイデオロギー装置」はゴシック体]
フランス革命以後に登場した民主主義政体もまた内部の分裂をかかえるために、つまりマルクス流にいえば、階級利害によって分裂し階級闘争によって政治共同体が分断されているのだから、主権の正統性がつねに課題になってきたし、今もそうである。議会や裁判所のような国家装置は実効的支配の装置であり、この種の装置は「物質的・物理的」抑圧機構とよばれる。これが社会生活の前面にせり出てくるときには、社会全体が危機に陥っている証拠である(内戦の危機)。物理的暴力(軍事警察的装置の暴力)だけでは国家は再生産できない。国家の存続のためには別の装置を必要とする。
権力の正統性を民衆に対して説得し、思想の言葉によって権力を正統化する仕事を担当するのは、知識人という具体的個人の集団であるが、かれらの活動の舞台はさまざまある。それを総称していえば、国家のイデオロギー装置とよぶことができる(これはフランスの哲学者アルチュセールの用語である)。近代国家は古代や中世の諸国家に比べて正統化のための言説機構が充実している(学校、メディア、等々)。近代国家はイデオロギー装置なしには運営できないともいえる。そのような「観念的」装置体系のおかげで、近代と現代の国家は、内部の利害対立と闘争にかかわらず、ある程度まで安定性を確保できている。
ところで、十七世紀以来(絶対主義国家の登場以来ともいえるが)近代国家は原則的に「領域的に」閉じた政治支配圏を前提として維持されてきた。これがいわゆる国民‐国家[#「国民‐国家」はゴシック体](Etat-Nation) である。共通の文化的伝統、共通の言語習慣をもつような「民族的《ナシヨナル》」国家なるものが、なかば虚構的なかば現実的な形式でともかくも二十世紀中葉まで存続してきた。
ところが、この「国民‐国家」の形式が、ほかならぬ国家形式自身の歴史がつくりだした趨勢によっていまや解体しようとしている。事実、世界市場なしには存続しえない資本主義の運動がこの解体傾向を加速させている。資本はかつて国境をこえないといわれてきた(海外利潤は必ず自国資本に還流するとされた)が、いまや資本は国境をものともしない(暗黒の犯罪者と同様に)。
国民国家の解体者は実際には資本主義経済である。資本主義の世界的展開は、あらゆる地域の民衆を「経済的人間」(ホモ・エコノミクス)として全面的に等質化しようとしている。ロンドン、パリ、北京、東京、ニューヨークの住民相互の間に相違はなくなった。どこでも消費人間と生産人間は金太郎飴のように同じ顔をしている。趣味すら同一になろうとしている。経済的人間にとって国境はない。かつての国民国家の境界線は徐々に溶解しようとしている。国内問題は自国内だけで処理できなくなった。世界はジョイントコントロール時代に突入した。
[#改ページ]
リパブリックの哲学(philosophie de la republique)
政治共同体(レース・プブリカ)[#「政治共同体(レース・プブリカ)」はゴシック体]
われわれは、右にのべた現状をふまえて、こんどは逆に少なくとも近代の政治思想の基本概念を再考し、思想史のなかで蓄積されてきた消しがたい共同の遺産をあらためて点検し、同時に時代をこえて通用する普遍的な思考をわがものにする努力が要請されている。おそらく主権概念と政治共同体(レース・プブリカ)の概念の再考はもっとも重要な課題にならなくてはならない。
われわれが国家を語るとき、しばしば二つの区別されるべき現象を混同しているのではないだろうか。すなわち、通常ひとが想定している「国家」のなかには、よくみると、統治する機構としての政体[#「政体」はゴシック体](gouvernement 政府)とげ政治共同体[#「政治共同体」はゴシック体](res pubulica republique) が同時にふくまれている。両者は別のものである。しばしば混同されているのだが、峻別しなくてはならない。要するに、種々の政体(古代以来の類型でいえば、君主制、貴族制、民主制など)は、「レース・プブリカ」(共同のもの、人間に即していえば結合した人民、政治共同体)を土台とし、それの「上方に」、いわば上部構造としてそびえたつ。
真実の「国家」がどこにあるかといえば、それはまさに下方にあるレース・プブリカ(共同体としての人民)である。これがあってはじめて統治機構もまたありうる。しかもレース・プブリカとしての「人民」(公的人格の集合体であって私人の集合ではない)の自由も権利も、他のなにものかによって代理されたり、他者に譲渡されたりすることは原理的にできない。なぜなら、「公的人民」それ自身は「一にして唯一」であるからである。
政治共同体はあたかもスピノザの「実体」のように「自己において(in se) あり、自己によって(de se) 理解される」のである。それは分割不可能な本体である。ルソーもまたこう述べている。「主権者は一個の集合的存在にほかならないのだから、自己自身による以外に代理(代表)されることはできない」(『社会契約論』第二部第一章)、「主権はそれが譲渡できないのと同じ理由で代理(代表)されることはできない。主権は本質からして一般意志のなかにあり、この意志はけっして代理(代表)されない。それはそれ自身であるか、他のものであるかのどちらかである。その中間はけっしてない」(同書、第三部第十五章)。
「人民」とは何か[#「「人民」とは何か」はゴシック体]
「人民」(peuple) という言葉に注意しよう。「人民」は公民(シトワイヤン)として公的共同体に結集した法的人格であって、日常の「私人」ではない。「私人」は世俗の民衆であって、それはホッブズによれば「ばらばらの群衆」(multitudo dissoluta)」であり、ヘーゲルによれば「俗衆」(vulgus) である。要するに、「人民」とはホッブズとルソーによれば civitas(キウイタス、レース・プブリカ)なのである。したがって「人民」が主権者であることは、公的共同体が主権者であるのと同じ意味である。「人民」と同義の公的共同体にもっとも適合する統治形式はおそらくはデモクラティアであろう。なぜなら主権が譲渡不可能であり、かつ代理不可能であるのなら、それは自分で自分を統治する以外にはありえないからである。それが自己統治の政体をもつのは必然的である。
ルソーの思想を、かれの特異体質のあらわれとみてはならない。代表者を拒否するルソーの理論にはパラドクスがふくまれるとはいえ、それをのりこえる努力が後につづく。人口数の多い現代社会のなかで、ルソーのリパブリックの哲学を現実化することは確かにむずかしい。けれども、「人民」としての公的共同体が譲渡不可能であり、代理不可能であることが消しがたい原理であるなら、それを生かすような思想的探求が必要である。
たとえば、人民を代表すると自称する「代議士」は、国家運営のための方便でしかなく、代議士はつねに一時的な「雇われ人」以上のものではない。それにもかかわらず、代理人でしかない人間があたかも国家(公的人民)の主人公であるかのごとき錯覚がいつのまにか生まれている。
この転倒を批判する原理は、公的人民としてのレース・プブリカの哲学しかないのもやはり依然として真実である。人びとがリパブリックの哲学によって訓練されないかぎり、いわゆる代議士政治家による共同体の「簒奪」を阻止することは永遠に不可能になる。
現在の転倒した国家事情は地球上のいたるところでみられる。その意味で、二十世紀後半の思想運動も確かに現代思想であるだろうが、政治に関しては意外にも十八世紀の思想(モンテスキューやルソーからヘーゲルあたりまで)こそが現代思想であるともいえるのである。
[#改ページ]
ナショナリズム (nationalism)
ネイション‐ステイト(国民‐国家)が近代の国家形式であるとすれば、ネイションと同時にナショナリズムが発生する。ナショナリズムは近代国民国家によって生み出されたといえる。この国家は、どこでもおおむね多民族国家であるが、その支配民族は他の少数派を文化的にも政治的にも劣位におき、しばしば自民族へと同化させる。同時に外部に向かっては等質的なナショナリティーを協調し、領土拡大をめざすときには帝国主義的傾向(植民地獲得)を示す。また実際にそうしてきた。
しかしこの国民国家の最盛期はすでに終わった。すでにみたように、資本主義の地球規模の拡大、あるいは非資本主義領域の資本主義への吸収による市場的等質化[#「市場的等質化」はゴシック体]によって、地球人類はいまや事実上、市場的人間へと変形されようとしているし、経済における国境の融解傾向[#「国境の融解傾向」はゴシック体]がよびおこす国際関係の共同管理の傾向もまた加速している。そのとき、かえって時代遅れにみえるナショナリズムが種々のしかたで復活してくる。
ナショナリズムとグローバリゼーション[#「ナショナリズムとグローバリゼーション」はゴシック体]
いわゆるグローバリゼーション(globalization) は、政治と経済の地球規模での共同管理である。そのなかで国家の主権的性格は制限される。自分のことは自分で決めるという伝統的な安心感もまた消滅する。民衆はそれを恐怖する。それがナショナリズムを新たに覚醒させる。
現在の地球上に蔓延しつつあるナショナリズムは十九世紀にみられたような興隆期のネイション‐ステイト(国民‐国家)と連帯したものではなく、衰退期のネイション‐ステイトの時代における「ネイション=民族」へのノスタルジーに近い(ただし、いまようやく独立を獲得しようとする小規模のネイションの場合、事情は同じではないかもしれない。それはむしろ西洋における十九世紀の意気軒昂たるナショナリズムに酷似するだろう)。衰退するナショナリズムは極端なまでに自民族中心主義[#「自民族中心主義」はゴシック体](ethnocentrism) の形をとる。それは極右運動のなかに叫び声をあげる。
現在のナショナリズムは、軍事的にして経済的なグローバリゼーションへの後ろ向きの抵抗であり、同時に抑圧された民衆の叫びであり抗議である。グローバリゼーションとナショナリズムは同じ現実の表と裏であり、地球規模の共同管理が国家連合や連邦の形式で前進するたびに、地方主義的なナショナリズムがよびおこされつづけるだろう。
地方主義は愛国心や郷土愛の形式をとり、国際的な人間移動によって流入する外国人への排斥もまた激化する。全世界の等質化傾向[#「全世界の等質化傾向」はゴシック体]のなかで、それへの反逆の形式の下で、民族主義や人種差別という古い衣装がもちだされる。しかし世界的等質化運動の強烈な前進を前にして、古い衣装はしょせん一個の風俗と化すだろう。世界の経済的等質化にもとづく地球の共同管理はけっして幸福ではないが、同時にそれへの抵抗と抗議もまた幸福ではない。不幸の重層的決定がいま世界史の現段階を特徴づけている。
[#改ページ]
トランスナショナル (transnational)
国境をこえ出る運動はすべてトランスナショナルとよべる。資本の国際移動も、難民の故郷喪失(ディアスポラ)と地球規模の分散もトランスナショナルである。トランスナショナルな資本移動は金儲け主義であるが、難民のトランスナショナルはデラシネ(根無し草)的な絶対的悲惨である。上方には金儲けで膨らんだデラシネがあり、下方には絶対的悲惨と窮乏のデラシネがある。二つは鏡のなかの反射像のように酷似している。
こうした不幸な動きを下部構造とするなら、その上に世界のトランスナショナルな共同管理運動が展開し、他方では必ずしもマイナスではない動き、つまり領域支配をのりこえる一種の「合衆国化」運動も登場する。たとえば、典型的な「上部の」トランスナショナル現象は、主要な経済列強が蔵相会議や首脳会議を通じて、主として各国の経済運営に介入し、共同運営をおこなう慣例にみられる。それを補完する国際的統制装置(国際通貨基金など)も多々つくられた。しかしこれは本来のトランスナショナル現象ではなく、それの準備である。
現在もっとも注目すべきトランスナショナル現象は、EU(欧州連合)である。これにいたる過程で西洋諸国は共同市場をつくり、ついには政治統合をめざすまでに成長した。政治統合にいたるまでにはいくつかの段階をのりこえなくてはならないが、すでにヨーロッパ委員会という連邦内閣とヨーロッパ議会と裁判所もそなえている。現在のEUは真の政治統合ではなく、各国の国家主権を温存した国家連合にとどまる。
しかし諸般の状況は国家連合をこえて、連邦国家へと進展しようとしている。この段階ですでに共同管理はかなり強力になっていて、かつてのトップ(首脳、蔵相)会談はすでに時代遅れになっている。EUが国際関係におよぼす影響は甚大であり、将来的には地球上の各地に類似の連合現象を生み出すに違いない。かつてカントが理想として展望した唯一の世界連邦と世界政府が地平線に姿をみせるかもしれない。そこまで世界史は来ている。
トランスナショナルな傾向を現在の世界的状況に即していえば、次のようにいえるのではないだろうか。すでにのべたことでもあるが、少し別の角度から整理しておこう。現代思想と現実が不可分であることが、これによっていっそう確認できるだろうからである。
アメリカニズムの終焉[#「アメリカニズムの終焉」はゴシック体]
国際政治の一元支配という意味でのアメリカニズムは、二十世紀の二つの世界戦争をいわば無傷に(具体的にいえば、自己を戦場にしないで)のりきっただけでなく、戦争とその結果から巨大な経済的・政治的利益を引き出したことから生じた。米ソ冷戦において、アメリカが西側の主導権を握ったこともまた、一元的支配を固めた。しかしソ連の崩壊によって、アメリカが国際政治を主導する理由が消滅したばかりでなく、冷戦体制のなかでひそかに成長したヨーロッパ諸国の経済と政治における力量の増大もまたアメリカの国際的支配を掘り崩した。
その事実に直面したアメリカは覇権を保持するために、あえて危険な賭けをし続けるように追い込まれた。その具体的ケースが二つの湾岸戦争であった。今回のイラク戦争はアメリカによる主導権確保のための必死の努力から生まれたが、国連や独仏との対立は、アメリカニズムの終焉を確実なものにした。欧州連合の世界政治における圧力または影響力は日増しに強化されているし(内部の葛藤はあるにしても)、これまでアメリカによってほとんど無視されてきた国連の発言力が大きくなった。
この傾向はこれらの二大勢力を軽視してアメリカが「一国帝国主義的に」独走することをついに不可能にする。この趨勢は政治思想に関する現代思想にはかりしれない影響を及ぼすことだろう。なぜなら世界の政治地図は変貌しようとしているからである。
ヨーロッパの復権[#「ヨーロッパの復権」はゴシック体]
アメリカの後退はヨーロッパの浮上に等しい。この半世紀のあいだ雌伏してきたヨーロッパはいまや国家連合[#「国家連合」はゴシック体]にまで突き進み、近い将来には連邦国家[#「連邦国家」はゴシック体]をすらめざそうとしている。それが実現するなら、ローマ帝国の版図に匹敵する巨大な政治勢力になる。西欧連邦政府、連邦議会、連邦軍が確立されるとき、その影響はきわめて大きい。そこから種々の思想の課題が出てくる。
国民国家の消滅と「帝国的」政治をいかに考えるか。ヨーロッパ中心主義は危険な抑圧思想にならないか。新手の帝国主義が登場するのか。未決の諸問題が続出してくる。だからこそ、このような諸問題を考えるに際して、かえって古典的な政治思想(たとえば、ホッブズ、モンテスキュー、ルソー、ヘーゲル等々)に立ち返り、それらを「リパブリックの哲学」の観点から学びなおす必要がまさにあるのである。
他方、西欧連邦が政治統合のモデルになる可能性が大いにある。イスラム、東アジア、南北アメリカなどで類似の国家連合や連邦の企てを誘発する。局地的なミニ「帝国」形式の国家連合の出現は、はたして近代思想がモデルにしてきた民主主義の統治形式だけに頼ることができるのか。それともまったく新しい国家理念を構想すべきなのか。経験のない現実を前にして人類の思想は躊躇するばかりである。しかしおそらくこれが全地球人類に課せられている現代の思想的課題といえないだろうか。
あらゆる地域で近代思想の根本からの吟味(批判的検討と学びなおしの両面で)が開始される。それは近年のポストモダン思想とは比べものにならないほど深刻な思想的転換を要求している。ヨーロッパの国際政治における重要な地位と発言権の増大は、地球全体にとってひとつの文化的大地震になるかもしれない。
[#改ページ]
コスモポリス (cosmopolis)
トランスナショナルの現象を論じたからには、古い言葉であるが、コスモポリスを論じておくべきであろう。この言葉の起源は古代ギリシア(とくにヘレニズム時代の言葉)であって、その地理的範囲といえば、歴史的にはせいぜいギリシア文化圏をこえるものではなかった。しかし現在の世界史的状況でこの用語を使うときには、地球全体を想定しなくてはならない。この二百年の期間に即して概観をしておこう。
カントの理想[#「カントの理想」はゴシック体]
二百年前に、カント(『永遠平和のために』)はグローバルな統一国家の可能性を予告している。人類は平和な交通を積み重ねることで徐々に世界市民体制へと向かう。その前段階が国家連合であり、さらにそれをこえるとき、人類は唯一の世界連邦または世界国家に近づくだろう。地球上のすべての個人は世界国家《コスモポリス》のメンバーになりうる。すべての政治的業務は世界的規模の共同管理あるいは共同統治となる。それだけが人類に永遠平和をもたらすとカントは述べた。フランス革命の同時代人であったが、まだ絶対主義体制を温存させていたドイツの市民としてのカントにとっては、国家連合ですら理想でしかなく、ましてや世界連邦や世界国家などは夢のまた夢であった。
しかし二百年の紆余曲折をへた後では、カントの理想はいまや現実になろうとしているのではないか。現状をみれば、たしかに永遠平和はまだ遠い。しかし現在の地球で起きている種々の民族紛争は、もうじき愚かな惑溺であったと思い知るときも近いのではないだろうか。これからの歴史はコスモポリスへの一歩一歩となる可能性がかなり大きいのだとすれば、そのような世界認識にもとづく歴史哲学が、そしてリパブリックの理論が必要になるだろう。
[#改ページ]
公共圏 (public sphere)
国家と私の中間[#「国家と私の中間」はゴシック体]
公共圏は、国家でも私的経済社会でもなく、その中間に出現する。それは中間的なものであるから、国家の公的要素と市民社会の私的要素の混合体である。
公共圏が独自な現象として登場するのは近代である。古代の都市国家では、政治共同体のメンバーは自由人[#「自由人」はゴシック体]であり、自由人は全面的に公的人間[#「公的人間」はゴシック体]であった。社会生活のなかで国家と私的社会の区別はなかった。いやむしろ公的人格の公的生活ばかりがあったというほうが適切かもしれない。私的なものは家族のなかにあり、私的家族は公的空間から排除された(公的生活の外部へとかくされた)。『アンチゴーネ』における政治権力と家族の悲劇的対立は古代に特有の公・私の和解しがたい対立を劇的に表現する。
古代とは反対に、私的利害を中心に動く近代経済が社会生活に影響するにおよんで、国家と経済社会とが分化する。このとき、人間[#「人間」はゴシック体](私人)と公民[#「公民」はゴシック体](国家メンバー)の明快な区別が生まれた。これと並行して、私人でありながら、私的利害をこえて普遍的な公的問題を論議する公衆[#「論議する公衆」はゴシック体]が登場し(ハーバーマス)、公共圏が生まれる。公共圏は私的な経済社会のなかの国家以前的な公的空間である。アレントが古代の公民の行為を言説的行為として特徴づけたが、それと同様に、近代の公的活動は言語活動による公的事物の討議である。
ハーバーマスはこの活動をコミュニケーション的行為と名づける。十八世紀啓蒙時代では公衆の分裂はなかったが、現代では公衆は消費公衆と論議公衆に分化する傾向があるという。ハーバーマスによれば、論議する公衆のみが本来の公共圏の担い手である。その具体例は、現在の自発的結社であるNGOやNPOであり、十九世紀以来の「生活防衛結社」(生協的組織)も公的な事柄を論議するかぎりでは公共圏のメンバーである。
こうして伝統的な「公」と「私」の区別だけでは処理できない社会空間を公共領域とよぶ。国家的「公」と経済的「私」の間に割って入る人間類型(公共圏の公共人)が地球上のあらゆる地域で決定的な役割を果たそうとしている。これが現代的意味での市民社会である。
[#改ページ]
市民/公民(citizen 英 citoyen 仏)
「市民」の二つの概念[#「「市民」の二つの概念」はゴシック体]
日本語で市民というとき、二つの概念が混同されがちである。西洋中世都市の職業人(商人と手工業者)も市民と呼ばれるが、それは歴史学上のブルジョアである。他方、ギリシアのポリス、ルネサンス期の都市国家、近代のコモンウエルス(国家)という政治共同体のメンバーもまた市民とよばれるが、これは公的人格の意味での公民であって、必ずしもブルジョアではない。都市の職業人がつくる利益社会は経済的社会であり、それはブルジョア社会とよばれる。
公的人格をメンバーとする共同社会は civil society であり、市民社会と翻訳されるが、もっと適切には公民社会(国家)であり、初期近代では civil society とコモンウエルス(政治共同体)は同義であった。近代経済が発展し、無視できない勢力になるとき、公民社会は分裂し、近代国家と経済的市民社会に分かれる。これが用語の上で確立するのは十九世紀前半である。ヘーゲルの『法哲学』(一八二一年)の第三編「人倫」の区分(家族、市民社会、国家)は歴史的事実を忠実に反映している。
十九世紀なかば以降になると、市民社会はブルジョア社会と一致するようになった。国家と「ブルジョア的」市民社会への二分化は、すでにフランス革命の『人権宣言』(一七八九年)のなかで語られる「人間の権利」と「市民の権利」にも反映していた。「人間」とは実際には私的人間すなわち職業人(ブルジョア)であり、「市民」は公的人格(公民)である。
前項でみたように、公衆(publicum) は私的ブルジョアでなく、純粋の公的人格でもない。カントによれば、公衆は理性を公的に使用できる人間であり、私的人間でありながら、半公的な人格として公的事柄を議論する。要するに、日本語の「市民」のなかには、私的ブルジョア、公民(国家メンバー)、公衆の三つがふくまれていることに注意しなくてはならない。
[#改ページ]
法/権利(recht/right)
社会生活における「公」と「私」[#「社会生活における「公」と「私」」はゴシック体]
社会生活というとき、そのなかには少なくとも二つの領域が重要である。ひとつは公的な生活すなわち政治共同体のメンバーとして公共の事物(レース・プブリカ)に参加する生活である。もうひとつは職業人としての私的利害を追求する生活である。一人の人間は同時に二つの領域で生きているから、二つの領域が要求する「利害関心」は個人の内面で衝突する場合がしばしばある。いやむしろ関心の衝突のほうがあたりまえであるだろう。
衝突は無数にあるのだから、衝突を調停する原理がなければ、社会生活は立ちゆかない。二つの領域のなかで際限のない矛盾と葛藤を可能なかぎり調停する原理は古来「正義」とよばれてきたが、その正義の理念(歴史的、地域的に偏差があるのは当然だが)にもとづいて共同体のメンバーの行為の正当性を規定する観念が「法」(権利ともなる法)であり、この「法」が具体的にコード化されたものは「(法)律」とよばれる。実定法[#「実定法」はゴシック体](法律)の前に権利としての法[#「権利としての法」はゴシック体]の理念があり、さらにその基礎としての正義[#「正義」はゴシック体]があるという関係が成り立っている。
正義と法の理念が現実の葛藤含みの社会生活のなかに実現して人びとの行為の規範になるとき、それは政治共同体と経済的社会の両面での社会的倫理[#「社会的倫理」はゴシック体](伝統的な用語でいえば人倫[#「人倫」はゴシック体])である。正義と法の理念がなければ、またそれは現実の生活のなかで有効に働いていないときには、原理的に社会生活は無‐秩序または内戦になっているといえる。
正義と法の理念は、たしかに観念的で精神的な現象であるが、しかしそれらは現実の人間の身体的・物質的行動と一体不可分である。それが社会生活という言葉で指示されている内容である。正義と法のない人間社会はどこにもなかったし、今後もないであろう。リパブリックの哲学は正義と法の哲学である。
ところで、地球全体が全面的に共同管理的な社会になろうとしている現在、かつて以上に個人の影は薄くなっている印象を否めない。政治共同体の本来の課題は個人の法(権利)と自由(両者はほぼ同義である)を守ることにあるということ、これは少なくとも近代思想のポジティヴな遺産である。
ところが管理と統制の機能がぼうだいに膨張する現在の国家状態では、個人の権利保護はますます縮小しているようにみえる。どれほど国家(ここではリパブリックの理念にある共同体ではなく、管理機能を担当する国家装置のこと)が肥大しようと、その装置は原理的には個人を保護する責務をもつのであり、社会生活の主人公は昔も今も具体的な個人である。転倒が激烈に進行しているとはいえ、思想はこの転倒を指摘し批判し解剖しなくてはならない。理念としてのリパブリックの思想は、いまの現実に対しては批判主義的であるほかはない。
個人の社会的意義をとりもどし、具体的で自由な個人のゆずりえない内的・外的生活を復権させるひとつの思想的手段として、法と権利の理念をかつて以上に高くかかげる必要があるのではないだろうか。さらに法の基礎にある「正しさ」の理念(just であること)、つまりは正義(justice) を何度でも思考することが重要ではないだろうか。現実の場面では実定法の運用は不可欠であろう。その運用は法曹界の人びとの職務である。法律(法の規則)は正義の理念にもとづき、人間の相互行為を公平無私の第三者(現実には裁判官)が判断し、その決定を司法警察を通じて執行するときの(司法的意味での)実践の規則である。
しかし、思想の観点からみて決定的に重要なことは、法の規則を運用する以前に法と正義の理念があることである。逆ではない。そしてその理念は、結局のところ、「公正の理念」である。
「公正」と「公平」[#「「公正」と「公平」」はゴシック体]
ここで少し言葉についての注意事項を記しておきたい。「公正(equity)」と「公平(fairness)」は混同されやすいからである。日常的には二つの言葉が似たようなものだとみなしてもかまわないが、公正[#「公正」はゴシック体]は本来は共同体全体からみた正義の実現、つまりは社会の「平衡(衡平)」の意味での正義を現実のものにすることであり、公平[#「公平」はゴシック体]は紛争当事者の利害状況のどちら側からも距離をとる意味で没利害であることを意味する。
古来、人類は日常生活のなかで、原則的には任意の誰もが公平な審判者になり、共同体の観点から公正な判断をくだすことができた。社会的判断の論理の筋としてはそうなのだが、実際には長老または一種のカリスマをもつ人が公平な第三者の役割を演じてきたであろうし(事実、エヴァンズ・プリチャードが教えるようにヌエル族では長老の審判がふつうである)、社会の法は慣習法に基づいていただろう。人は法の精神を内面化し、公正の理念にのっとり、第三者としての公平の観点から他者を処遇する経験を重ねてきた。国家制度としての司法組織がなくても、人は法の精神を実行することができたし、いまも可能である。
人間個人が唯一無比の価値[#「唯一無比の価値」はゴシック体]をもつものとして他者たちによって評価されることが「正しい」人間関係であり、個人は社会的に公平に処遇され、公正に価値評価される「権利」をもつ。そのような評価態度は基本的には公正の精神を社会のなかに浸透させて、いまや弱者となった人間的個人を守る重要な手段である。このようにして個人の価値を守ることもまた、管理時代の思想的課題になる。
[#改ページ]
2 経済[#「経済」はゴシック体]
資本主義と社会主義[#「資本主義と社会主義」はゴシック体]
かえりみれば、十九世紀後半から二十世紀の末まで、世界をゆり動かした思想は、哲学的思想というよりも、それと無関係ではないが、より多く社会的・経済的思想であった。圧縮していえば、地球人類を二分した社会思想は、資本主義と社会主義であった。
資本主義という用語は、由来からいえば経済的現実に関するマルクス主義の用語であったが、それは経済の領分をこえてひとつの時代を表現する思想の言葉になった。資本主義体制を肯定する社会思想は、自由主義または個人主義を選択的に強調し、社会主義の「社会」中心の思想を「全体主義的」であると批判する。自由主義的社会思想は、近代の経済体制を「自由競争にもとづく市場社会」とよび、それに対応する政治体制を「民主主義」とよぶ。自由主義者は、けっして「資本主義」という用語を口にしない。なぜなら「資本主義」はマルクス主義に固有の用語であるからである。
他方、社会主義という言葉は、元来は現存社会体制を批判する政治運動を意味し、同時に未来の解放的な経済・社会体制を意味する思想用語であったが、「哲学的」含蓄をもつ言葉でもあった(歴史的唯物論、唯物論的弁証法などは社会主義の別名である)。社会主義思想は、自由主義や個人主義を「ブルジョア的」で資本主義的な「虚偽イデオロギー」として断罪し、個人‐自由‐資本の複合を支える「私的所有(私有財産)」の全面的支配が個人と社会の双方を「疎外」や「物象化」を深刻にし、現代の人類の生存を不幸にするのだとくりかえし論難してきた。
こうして、主として経済思想から出てきた対語――マルクス主義からいえば「資本主義」と「社会主義」、個人的自由主義からいえば「自由主義」と「全体主義」――は、内容が漠然としているが、いやむしろそうであるがゆえに、これらの用語にあらゆる意味を読みこみ、人びとは生きるための方向や位置どりをみつけようと苦労してきた。それはけっして単なる観念の遊戯や心の煩悶といったものではなく、しばしば政治とからんで生死を決定するほどの重大さをおびた試練でもあった。ドイツのナチズム、イタリアのファシズム、ソ連のスターリニズムの体制の下で生きること(日本の経験では戦前の軍事帝国主義体制を考えればよい)は、どの社会思想を選ぶかを決めることであり、批判主義[#「批判主義」はゴシック体]を選ぶことは死を選ぶに等しいことでもあった。
これは極限の経験であるが、少し条件を変えれば、「自由な」と形容される「民主主義的」体制のなかでも類似の苦難があった(自由も民主主義も実際には権力掌握者の看板でしかなく、しばしばその裏で陰惨な弾圧体制をしくことがある)。いまでも実情にそれほど変化はない。
地に落ちた社会主義[#「地に落ちた社会主義」はゴシック体]
社会主義と資本主義という言葉は、つい先だってまでまぎれもない生きた現代思想であった。いまもその余韻はつづいているが、二十世紀最後の十年の間に、この思想的対語による時代判断が影響力を喪失したことは、すでに冒頭でのべたとおりである。ソ連体制の崩壊によってマルクス主義的「社会主義」への信頼は地に落ちた(ただし非マルクス主義的社会主義、つまり西欧型の社会民主主義はいまも元気である。西欧諸国における社会民主党政権の存続をみればよい。けれども社会民主主義が社会主義としてなお魅力があるとはとうていいえないだろう。それは政権の政策方針以上の意味が今はないからだ)。
批判勢力としての社会主義思想が没落するとき、小さいことだがおもしろいことが起きた。かつて自由主義者が頑固なまでに口にしなかったマルクス出自の「資本主義」を最近では平気で使うようになったし、新聞雑誌のジャーナリズムでもあたかも前からそうであったかのように資本主義という言葉が躍っている。いまや資本主義はその用語の批判主義の臭みを消去されてしまった。それは毒抜きされて、口当たりのよい中性的言葉となり、誰もが後ろめたい気分なしに使うことができる平板な通俗用語へと転落した。否定の対象を際立たせるための言葉であった「資本主義」は、無意識的なイデオロギー的強制によって「市場経済」と同義とされるようになったのである。
このような状況になってしまった後では、現実の経済体制をさし示すために「資本主義」を使ってみても、それほど思想的意味は出てこない。資本主義を別の角度から命名することによって、少しでも現代の本質を理解する思想用語にしてみる努力を各人が実験するほうがましである。まだ仮説の段階を抜けきらないが、それを以下でやってみよう。
[#改ページ]
技術=経済体制 (techno-economism)
資本主義と市場経済[#「資本主義と市場経済」はゴシック体]
西欧の歴史を参照していえば、資本主義と市場経済は互いに独立した別々の現象であった。市場経済にあたる事実があったとすれば、それは西欧中世都市であり、広大な農業圏のなかで共同体と共同体の間に定期的に開かれた「地域的(局地的)」市場である。ブローデルの名著『物質文明・経済・資本主義』(原本で全三巻、みすず書房版で全六巻)が教えているように、歴史的な現象としての地域的市場では、交換当事者の間で貧富の格差がなく、その意味で自立的な人びとの「自由な」交易空間であった。
「自由な」という形容句の意味は、金持ちの大商人による「独占」がほとんどなかったという事実をさして使用されている。島宇宙のように点々と孤立的に存在した局地的市場とちがって、中世都市はすでにミニ国家であって、歴史的経緯からみても大商人のつくった町であり、大商人の指導下で数々の職人、親方たちが協力して政治共同体をつくりあげてきた。ここの住民は商人と手工業者であり、かれらの下で働く徒弟もふくめて「ブルジョア」とよばれる。
都市の住民はすでにモダンであるが、まだ十分にモダンではない。中世都市のブルジョアたちは、定住農耕民の反商業的心性をもはやもたないし、生活そのものが商業であるのだから原則的に反古代的で反封建的であるが、にもかかわらずブルジョア=市民(職業人)は、後の時代のブルジョアとちがって、個人の職業生活から共同の交易空間までの社会全体を利潤原理で統一するまでにはいたっていない。むしろ精神のありようは、職業の実質と反するような古代・封建的道徳規律に服していた。
とはいえ、中世都市や地域市場の長い歴史的経験なしには、市場「経済」なるものは成立しなかったし、後の「資本主義的」といわれる経済体制もまた登場することはできなかったことも事実であろう。市場経済は、まずは都市のなかで、そして地方に散在する局所的な「自由な定期|市《いち》」で発展した。
「労働力」の出現[#「「労働力」の出現」はゴシック体]
しかしそれだけでは資本主義は発生しない。資本主義という経済体制は単に市場経済ではなく、単に商業経済(商品と貨幣の経済)でもない。いいかえれば、貨幣財産の蓄積があるだけでは、資本主義は発生しないのである。もうひとつの条件が不可欠である。それは、貨幣が購入できる「労働力」とよばれる人間群の出現である。
こうした人びとはいっさいの生産条件(農民であれば土地、商人であれば道具、さらに小さい菜園つき住居など)をもっていないとき、純粋に肉体[#「肉体」はゴシック体]だけが売り物になる。どこからかれらは出てきたか。歴史的事実としてだれもが知っているように、かれらは封建的な農村(領主)から追放されて(つまり土地をとりあげられて)都市へと流入してきた。
この「純粋な」肉体人間を、蓄積された貨幣によって雇用して生産をする人間たちが、資本家[#「資本家」はゴシック体]とよばれる。資本家にも歴史があるが、類型としては商人資本家と産業資本家にまとめられる。要するに、一方の側に種々の歴史的理由から都市に難民として流入してきた労働身体[#「労働身体」はゴシック体]が存在すること、他方の側に、貨幣を駆使して労働する身体を買い取ることができる資本家が存在すること、これが資本主義発生の基礎条件[#「資本主義発生の基礎条件」はゴシック体]であった。
とくに労働身体の出現の前提は、過去の種々の共同体(アルカイックなタイプ、古代的なタイプ、封建的なタイプ)のすべてが解体していなくてはならない。資本主義は、生産手段から強制的に分離させられた経済難民[#「経済難民」はゴシック体](のちにプロレタリアートとよばれる)なしには存在しえないし、難民の名前がどうあれいまでも原則的にそうである。こうして出現した貨幣所有者としての資本家たち(上昇したブルジョア的市民)が、それに先行する「自由な」市場を「独占的に支配する」とき、資本主義的市場経済が登場し、現在にいたる。
資本主義の特質は「生産者と生産手段の分離」の歴史的経緯によるだけでは尽きない。本来の資本主義は商業資本主義ではなく、生産と産業の資本主義である。近代資本主義のもっとも重要な特質は、労働と生産にある。ようするに、近代労働は技術的労働の体系であり、それに社会的関係(生産の社会関係、階級関係)が不可分に結合しているのである。これを歴史的に考察すれば、次のようにいえよう。
政治革命と産業革命[#「政治革命と産業革命」はゴシック体]
資本主義は産業革命によって歴史的に独自の体制になったが、産業革命がもつ歴史的意味は、職人的道具による生産体制を終焉させて、新しく機械にもとづく技術=経済体制[#「技術=経済体制」はゴシック体]を創造したことにある。洋の東西を問わず、古代以来久しい間、技術と技術者は社会的に抑圧されてきた。技術は呪術(魔術)の類であるとあらゆる階層の人たちから指弾され、排除されてきた。
これほどまでに近代以前の反技術的アレルギーは強烈であったが、この自然発生的なイデオロギーのベールを破ったのが、政治革命(イギリス革命やフランス革命)と産業革命(十八世紀後半にイギリスで始まり、十九世紀にフランスやドイツなどの諸国で波状的に展開した)であった。これ以降、技術は労働とともに肯定的評価を獲得し、経済と社会のなかに妨害なく包摂されて、資本主義経済の大黒柱になる。
これ以降、拡大再生産(経済成長)と技術の高度発展はとどまることを知らない。あらゆるものが資本の生産物になる。万物は商品になり、自然と人間をふくめて宇宙全体が技術=経済体制としての資本主義の資源(原料)に転換させられ、この資源から無数の商品が生まれ、市場にあふれかえるようになった。
[#改ページ]
所有 (property)
共同所有と私的所有[#「共同所有と私的所有」はゴシック体]
現在では所有といえば、私的所有ばかりが念頭に浮かぶ。たしかに近代社会は私的所有(私有財産)を基本にして成り立っている。資本主義経済を所有の観点からいいなおすなら、それは生産手段の私的所有にもとづいて、労働身体しかもたない労働人間を酷使して、労働する人間の生命的努力(生きた労働)からたえず「より多くの」労働とその生産物を、当事者すら知らないうちに「搾りだす」生産システムである。
とはいえ近代的私的所有は、歴史的にみても、人間学の基礎論からみても、複数の所有類型のひとつにすぎない。所有(とくに生産手段の所有)のあり方を深く知ることは、一方では社会の仕組みを知るために役立つが、他方では社会をつくって生きる人間のあり方、つまり社会的人間の構造を知るために役立つ。だから、所有は経済的・法的現象であるだけでなく、それは昔と同様にいまも思想の重要な課題なのである。
初期近代では、個人の自立を獲得することが最優先の課題であったから、イギリスのホッブズやロックにみられるように、私的所有と個人の生命の保全が何よりも大事であった。この点では、日本の海保青陵《かいほせいりよう》(一七五五―一八一七 江戸後期の漢学者)や山片蟠桃《やまがたばんとう》(一七四八―一八二一 江戸後期の町人学者)においても、ほぼ同じ事情にあった。
しかし所有問題は、近代的所有にかぎることのできない広がりをもっている。歴史的には種々の所有類型があり、人類の社会的経験の歴史的展望を得るための重要な手がかりになる。
アルカイックな所有形態[#「アルカイックな所有形態」はゴシック体]は、贈与の観念にもとづく「人格的」所有(フランスの人類学者マルセル・モースの言葉)であり、そこでは「個人的」所有と共同所有とが不可分一体であった(むしろ個人的所有はかぎりなくゼロに近い)。民衆を統治する国家の組織が複雑になると、共同所有から個人所有が相対的に自立しはじめる。個人の活動の許容範囲が拡大する程度には交易と商品経済が発展しはじめる。古代のギリシアとローマ[#「古代のギリシアとローマ」はゴシック体]の社会はある程度の個人的自由が発展した社会であったが、個人的所有に対する共同所有(共同体)の拘束は依然としてつよい。
西欧中世の封建的所有類型[#「封建的所有類型」はゴシック体]では、「上からの」一種の私的所有化(領主の所有地を家臣が個人的に所有するようにして)がはじまる。封建的=ゲルマン的所有形態では、共同所有の拘束がゆるくなり、個人的所有の優位がだんだんと強化されるにしても、なお共同所有の拘束から解放されることはない(今村仁司『マルクス入門』第三章)。
共同体的拘束が解体しはじめるのは初期近代になってからである。共同所有の拘束がほぼ完全に撤廃されるとき、つまり共同所有と個人所有の結合体制のすべての類型が廃棄される[#「すべての類型が廃棄される」はゴシック体]とき、まさにその時期こそ厳密な意味での私的所有体制にもとづく資本主義近代が確立する(今村仁司『交易する人間』第八章)。
[#改ページ]
3 苛酷な現実と倫理の再建[#「苛酷な現実と倫理の再建」はゴシック体]
倫理は人間の具体的生活のなかで生きて活動する精神的態度である。個人の内面で個人の行動を規制する観念は道徳であり、道徳という言葉はここでは個人道徳とみなす。社会関係のなかで働く社会的理念は倫理[#「倫理」はゴシック体]としてとりあえず規定しておきたい。では倫理は何を相手にし、何ごとをめざすのだろうか。
倫理は人と人の間で働くのだから、社会的現実を前提にしている。では複雑な要素からなる現実のなかでも、とくに何を念頭において理想的な倫理的行為を語るのであろうか。人間が常に平和であれば、おそらく個人の道徳も社会的な倫理も不要であろう。しかし社会の現実は平和ではなく、むしろ闘争に満ちている。
闘争は個人と個人、集団と集団、国家と国家の間で展開するから、社会の現実はしばしば血が流れる暴力的現実というほうが実情に近い。社会的現実、あるいは社会的人間[#「社会的人間」はゴシック体]とは暴力的現実であり、暴力的人間[#「暴力的人間」はゴシック体]である。社会のなかで生きることは、たとえ一人ひとりが平和的であろうとしても、その意図に反して暴力的で抑圧的な行動をとることを個々人に強制するものだ。それが社会とよばれる人間の集まりの真実の姿であろう。
そうだとすれば倫理は暴力と闘争、あるいは抑圧と差別を念頭において、それらを抑止し、可能なら社会から消去しようとする精神的努力というべきであろう。したがって、まずは倫理が要請される現実的な事象を論じておかなくてはならない。
[#改ページ]
暴力 (violence)
人間存在に内在するもの[#「人間存在に内在するもの」はゴシック体]
思想はひりひりと心身に突き刺さる現実と格闘するときにこそ、生きた思想になる。そうだとすれば、人間の生死に関わる暴力(広い意味での)こそ現代思想のキイ・ワードのひとつになるべきだ。
暴力は長い間、思想の言葉ではなかった。これまで暴力は付随的現象や瑣末で野蛮な現象とみなされてきた。それは合理的精神が浸透すればおのずと消滅すると思われていた。現実はむしろ反対で、消滅どころか地球上のあらゆる地域で種々の暴力が激発している。個人への攻撃、少数民族への弾圧と差別、抑圧されたものの対抗暴力、加えて国家と国家の戦争が多くの地域で頻発している。してみれば、暴力は付随的どころか、人間存在に内在するものであり、条件しだいでどこまでも拡大するといわねばならない。
近代は、一方では生産手段(とくに基幹産業)の少数者による私的所有体制(資本主義と称する)から生まれる、同じく少数者による富の独占体制、他方では国民=国家という近代特有の政治形態がくりだす領土拡張主義とナショナリズムの両面で種々の悲惨を拡大再生産してきた。その意味で近代という時代は暴力が突出するのに好適な環境を提供した。まさにそれゆえに暴力は、経済的であれ政治的であれ、現代社会の主要な社会現象なのである。
フランス革命のジャコバン派の「大恐怖」(テルール terreur 仏 一七九三―九四年)から由来する政治的テロリズムは、元来は国家テロル[#「国家テロル」はゴシック体]である。国家こそがテロリズムの源泉であり、国家に抑圧された民衆が自由を失うときに対抗テロリズムが生まれる。上からの暴力と下からの暴力が種々の地域において、解きほぐしがたいからみあいの光景を呈しているのが世界史の現在であろう。
そして暴力の極限は国家間戦争となる。
[#改ページ]
戦争(war 英 guerre 仏)
国家という恐怖[#「国家という恐怖」はゴシック体]
これまでのあらゆる国家は、政体または統治形態の性格の差異をこえて、仮想敵[#「仮想敵」はゴシック体]を暗黙のうちに想定している。国家の性格が民主的だから戦争はしないが、専制国家は戦争する、という考えには根拠がない。だからこそ、国家という存在は、その性質のちがいをこえて、人間にとって恐怖の的である。統治なしには社会のまとまりはないが、統治する国家は個人をふみにじるものだ。
どの国家も例外なく危機に瀕すれば全民衆を兵士として動員する。人が国家メンバーであるという事実は、自己の生命を国家のために犠牲にする絶対的義務をひそかに要請している。一般論として、国家があるかぎり戦争は常に潜在している(いつでも可能である)が、現実に戦争が勃発する原因は一義的ではない。「戦争は別の手段による政治の継続である」(クラウゼヴィッツ)といおうと、それを反転して「戦争は別の手段による経済の継続である」(レーニンのテーゼ)といおうと、それらは戦争の別々の側面を語るにすぎない。
歴史的にも現実の国家はほぼ例外なくクーデタ[#「クーデタ」はゴシック体](coup d'etat「国家への一撃」の意味で非合法的な政権奪取)から生まれる政治権力である。その維持のために現実的または象徴的な暴力を行使するというひそかな内戦圧力を外部に放出するとき、国家は外部の「弱い」諸国家と民衆を支配しようとするし、その支配欲に限界はなく、際限のない膨張[#「際限のない膨張」はゴシック体]を開始する。この経験的な一般規則に関して、古代と現代に違いはない。戦争の極限は国家と国家の間で起きるが、戦争へと人間を導く筋道は、社会的に生きる人間の存在のなかにはらまれている。
[#改ページ]
差別 (discrimination)
国家権力の生み落とすもの[#「国家権力の生み落とすもの」はゴシック体]
ごく近年まで、差別は階級的区別の派生態であるとみなされてきた。しかし差別は近代社会の階級的区別ではとうてい把握できないほど根深い。差別は社会が国家として組織されるときに必ず発生する[#「差別は社会が国家として組織されるときに必ず発生する」はゴシック体]。国家をもつ社会は、王政、貴族政、民主政を問わず、国家権力を樹立するときには必ず暴力を行使するし、暴力は必ず差別を生む。暴力と差別は同根である。人びとは内部の区分をつくり、それを上下関係に秩序づけて、各階層の支配欲望をヒエラルキーとして配分するが、その最下層にもっとも弱い少数派が位置づけられる。もし適当な最下層が身近にいないなら、暴力的に無理にでも最下層を創造する。その典型がインド的カーストであるが、原理的にはあらゆる国家と社会に共通である。
時代によって社会構造と政治的条件が異なるに応じて、差別される集団と階層は異なるとはいえ、人間集団が単なる集団であることをふみこえて、政治共同体という国家的組織をつくるときには、必ず差別構造をつくりだす。差別を生みだす一種の無意識的欲望がひそかにうごめいているのである。この人間学的事実をもっと重視しなくてはならない。テロリズムと対抗テロリズムの複合と敵対する暴力の連鎖反応の根は社会形成の過程にあり、それは必ず暴力的差別として出現する。
[#改ページ]
難民 (refugee)
国家間戦争の犠牲者[#「国家間戦争の犠牲者」はゴシック体]
資本主義発生の歴史的背景をのべたときに、すでに経済的難民にふれておいた。近代の経済難民だけが難民ではない。難民の歴史は古い。記録にあるかぎりでは、古代のギリシアとローマは難民であふれていた。難民はどの都市国家にも帰属しないから、公民権がなく、不法に居住するしかない。多くの難民は陸の盗賊か海の盗賊になるしかない。西洋の社会にはつねに難民出身の盗賊集団が海陸のいたるところに広がっていた。おそらくアジアでも事情は同じであろう。
どの国家も武装する盗賊集団をいかに制圧するかは領域支配を確立するために決定的に重要な課題であった。現在では昔のような軍事力をもつ盗賊集団に類似する集団は、ゲリラ戦士をのぞいてほかにない。現代のゲリラ戦士もまた昔と同様に多くは難民出身である。
難民発生の原因[#「難民発生の原因」はゴシック体]は昔もいまも戦争である。民族紛争であれ国家間戦争であれ、すべての戦争は民衆を犠牲者にする。難民化した民衆は不法居住者として諸国の境界を流浪するしかない。この場合に、経済難民か政治難民かの区別を立てることは不可能である。難民は古来つねに経済難民であり政治難民であった。これと出稼ぎ労働者とを区別しなくてはならない。出稼ぎ労働者は合法的居住者である(フランスのアルジェリア人、ドイツのトルコ人など)。ところが現在、合法的な出稼ぎ労働者ではない難民が地球上のいたるところで出現し、悲惨な人生を強制されている。国家的暴力の結果は種々の段階をへて、とくに無数の子供と女性たちにまでおよんでいる。
二十世紀は二つの世界大戦によってぼうだいな死者と難民を生産し、数のうえでも歴史上まれなほど多数の難民を次々と生みだし、国連等々の国際組織の努力にもかかわらず、かれらの救済に希望はないありさまである。いまも難民の悲惨は持続しているが、二十一世紀もまた難民の世紀として開始した。
経済政策や政治の方便ではどうにもならないほど人類の社会的生態系は狂いはじめているのではないか、と一度は自問してみるときではあるまいか。倫理の思想はおそらくこの苛酷な現実との対面からはじまるのであろう。
[#改ページ]
倫理(ethics 英 ethique 仏)
倫理(学)は、時代の要求を反映する。どの時代にも通用する倫理などはない。初期近代の倫理的主題は、経済的市民社会の興隆を反映して、古い封建的制度に対抗するために個人の「生命と財産」を法的にも倫理的にも保全することにあった。ロック的な「生命と財産」は社会契約の基本条項であり、これを国家に要求すると同時に、国法を遵守する道徳が生命と財産を保護し、ひいては個人の生活全体を保護することになる。
生命と財産(これは一体不可分)をベンサムのように「幸福」とよび、幸福計算を倫理の課題にすえるのも、初期近代の倫理的課題の延長であると同時にその帰結である。ベンサム主義倫理は近代経済学のひそかな前提であることからわかるように、ロック的な「生命と財産」の倫理は近代の支配的理念(私的所有)であり続けてきた。しかし交換主義体制(つまりは資本主義社会の原理)がほころびをみせている現在、倫理も新しい理念を模索しなくてはならない。
倫理あるいは倫理的行為は、個人の内面にこもるのではなく、必ず他者[#「他者」はゴシック体]を前提にし、他者という外部へと進み出る、そして複数の、間接的には際限なく多数の他者たちとの「社会的」関係を結ぶなかで、経済的意味での市民社会や国家あるいは家族などから自然発生的に生まれ、人を拘束する「道徳規範」と異なる、むしろこれらをのりこえる原理を求める。
それは既存の規範を拒否し、それにとって代わる社会的行為の規準をみいだそうとする。倫理は人間の相互行為の規準であるから、それはすでに使用した用語でいえば、相互の紛争関係を調停する正義の理念[#「正義の理念」はゴシック体]を前提にし、正義の理想を法として社会のなかに現実化する。その意味で、倫理は、学問である以前に、人類の歴史的経験のなかで少しずつ蓄積されてきたといえるだろう。倫理はまずは歴史のなかで生まれた。これを図式的にのべておこう。
互酬制[#「互酬制」はゴシック体]
歴史の結果から遡及してみれば、人類は相互行為の倫理原則を贈与[#「贈与」はゴシック体]と交換[#「交換」はゴシック体]の二つの形式で処理してきたといえる。贈与原理は人類学の用語を借りていえば互酬性(reciprocity) ともよぶことができる。互酬性としての贈与的人間関係は、物を他人に提供するという側面よりも、提供する事物を一種の象徴として駆使しながら、他の集団に挑戦[#「挑戦」はゴシック体]し、挑戦を通じて相手集団の信義を確かめ、確かめられたあかつきにはその集団と同盟[#「同盟」はゴシック体]を結ぶという事実こそが重要である。その意味で互酬とは挑戦の互酬性[#「挑戦の互酬性」はゴシック体]であった。
要約していえば、贈与と対抗贈与の相関という贈与原理は、挑戦の契機[#「挑戦の契機」はゴシック体]と友好の契機[#「友好の契機」はゴシック体]を不可欠の構成要素としているのである。その社会哲学的含蓄をとりだすなら、互酬性の社会(贈与原理の社会)は、他者が「いつでも敵になりうる」相手としてリアリスティックに認識し、人間どうしがかかえる敵対的性格を同時に平和作成的要素に変換する絶妙なメカニズムをもっていたといえる。
マルセル・モース(『贈与論』)は「与える義務/受け取る義務/返す義務」の循環を語ったが、この贈与循環はむしろひとつの結果である。敵対意識が象徴的挑戦に変換され、さらに挑戦の契機が平和をつくる。自立した社会構造が生まれた結果として、はじめて贈与循環が開始するのである。これはアルカイックな(「未開の」)社会を例にして語っているのだが、けっして「未開」社会に限定される必要はない。
贈与原理は、敵対する人間関係を友好関係に変換できる倫理でもあるからである。かつて友好平和を日々実現できていた時代は遠く去ったようにみえる。
贈与原理もまた、個人の自立が拡大していくのに応じて、虚栄心をともなう寄付行為になり、寄付と気前のよさで民衆から歓迎されることを基軸に社会関係をつくるようにもなる(古代ギリシアの強制的贈与、ローマ時代のパトロン/クライアント関係など)。
贈与原理は共同体的所有が優位な社会では、ともかくも社会的倫理規制でありえたから、それは近代開始直前まで存続してきた。その後で市場的交換一元論が生まれたのである(交換と交易は未開社会にもあり、当然ながら古代にもあったが、共同社会の人びとの意識にとってはあくまで周辺的現象であった)。
交換原理の浸透[#「交換原理の浸透」はゴシック体]
ところが、近代社会はすでに経済の項で述べたように交換を支配的原理に仕上げることに成功した。交換の原理が社会のなかに浸透することができた背景には、万物を効率的に生産し管理できる[#「効率的に生産し管理できる」はゴシック体]とする一種の哲学的想定がある。自立的主体が世界を構成し、主体によって構成された事物を物体として処理するという近代思想の原理は、計算と効率と功利の合理主義的精神であり、その精神は交換原理と無理なく調和する。近代思想の支えなしには交換一元論が地球人類を巻き込むことはできなかったであろう。
交換原理の全面的支配は同時に交換原理の挫折をみずからつくりだす。万物を交換対象物とみなす思想は、自然も人間も「つくりうるもの、つくられるもの」であると無意識的に想定している。しかし、自然を人間がつくることはできない。生きている人間の身体は人間がつくったものではない。大地と人間は人間の作為でどうこうできるものではけっしてない。交換原理は作為で処理できない事物を作為的なものに変換する装置をつくりだした。
たとえば自然の大地を動かすことはできないから、所有権を動かすことによって間接的に大地をあたかも人工物が一方から他方へ動くかのように虚構した。人間の身体についても同様で、労働する生きた身体をあたかも人間がつくったかのように、一個の「商品」であるかのように処理するのである。自然と人間の生きた身体の「商品化」メカニズムを万人が「信頼する」かぎりで、交換一元論はかろうじて動くことができる。
この虚構への不信が生まれるとき、交換主義の思想の現実性はうしなわれる。十九世紀以降に陸続と登場した近代資本主義批判は、種々の形態をとるにせよ、ようするに交換主義への批判であった。人びとは何かを恐れたのである。その何かとは、古来人間の共同性を保証してきた互酬と贈与の原理、いいかえれば相互扶助の原理[#「相互扶助の原理」はゴシック体]が交換によって死滅しようとしているという現実であった。
十九世紀には人間の悲惨ばかりが目についたが、現在では自然の悲惨がついに目を射るようになった(環境破壊、自然の汚染など)。元来、贈与原理はそれと意識しないで自然や環境を人間による破壊から保護してきたのだが、「自然を支配するのが人間の解放である」というフランシス・ベーコンに由来する近代思想はこの自然保護のみえないヴェールを引き裂いてしまったのである。
交換原理の限界[#「交換原理の限界」はゴシック体]
現在、近代社会は、経済面でも政治面でも、経済合理主義[#「経済合理主義」はゴシック体](効率主義と功利主義)が圧倒的影響力をふるっている。自然と人間、モノもヒトも例外なく、制作可能な物体であるかのように日々処理されている。世界は巨大な殺人現場に変質してしまった。いまや明らかなように、交換一元論で処理できない、あるいは人為または作為ではどうにもならない貴重なものがある。
制作・作為中心主義[#「制作・作為中心主義」はゴシック体]にはおのずから限界がある。その限界を知らしめることは、現代思想の務めである。交換と市場の万能を信じるのはまことに危険である(いわゆるなんでも規制緩和、なんでも民営化というスローガンは、作為的なイデオロギーでしかない)。
相互扶助は、倫理や道徳である前に、社会の安定維持にとって不可欠の自明の精神である。これはどうころんでも交換原理にはのらない。自然と大地(陸と海を含む)は宇宙の塵にすぎない人類が手をふれることのできない絶対与件である。人間の生きている身体が、その部類に属することもまた真実である。
この前提にふれないかぎりで、交換社会もまた生き延びることがゆるされるはずだが、傲慢にも交換イデオロギーは自己を絶対化し、自己の権能にないものまで生産可能なものと錯覚した。ついに交換主義は破綻した。もはやそれは社会形成の原理であることができなくなった。ではどうするのか。
交換という現象自体は悪ではない。交換は「未開」社会でも存在した。交換もまた社会形成の重要な構成要素なのである。問題は交換が絶対主義的イデオロギーになり、それ以外の社会原理を死滅させるまでに膨張するときに問題が生まれる。交換原理が無効になろうとしている現在、打つ手はあるのか、と自問しなくてはならない。交換「だけ」ではすまないなら、すでに人類が歴史的に存分に経験してきたところの贈与原理に助けをもとめなくてはなるまい。
ふたたび贈与倫理へ[#「ふたたび贈与倫理へ」はゴシック体]
こうして現代倫理思想は、一見古そうにみえる贈与原理を倫理内容にしようとしている。これはけっして先祖返りではない。本来、倫理は贈与倫理であったし、いまもそうである。他人との「正当な(ジャストな)」関係を構築することが倫理とよばれる。弱いものを助けること、異邦人を歓待すること、相互に扶助すること、まとめていえばホスピタリティー[#「ホスピタリティー」はゴシック体](あるがままに他人を迎えること)、これらは現代の倫理の内容になる。贈与倫理は、日常生活から社会政策をへて難民問題にいたるまでカバーする射程をもつだろう。
かつて人類は互酬(reciprocity) を柱とする共同社会を経験した。物の交易は贈与原理で動き、精神面ではホスピタルな態度で他人を迎えるという人間関係が長く続いてきた。近代では互酬原理はほぼ完全に崩壊した。
私的所有を社会体制の法的基礎とする市場的交換の社会は、分業を拡大し、生活財の多様化をうながし、個別的利益増加のための競争による生産力の上昇をうながした。人類は物質的生活財の未曾有の豊かさを得たのに対して、資本主義的交換体制のゆえに階級分解、あるいは富と貧困の二極分解を克服できない。私的所有と交換の原理にたつかぎり、弱者(内外の膨大な貧困者層)を救済することはできない。
しかし弱者の存在を放置することはできない。弱者の存在は思想以前に「我を救え」とよびかけている。弱者のよびかけ[#「弱者のよびかけ」はゴシック体]は、人が思考する以前に人の心にしみ込む力をもっている。倫理があるとすれば、このよび声に応答することである。古来、無数の難民と弱者が、抑圧されたものと差別されたものが、あるいは非業の死を遂げたものたちが、しきりに「我を見捨てるな」と叫びつづけている。これをやや抽象的な言葉に翻訳するなら、弱者の存在に「無関心でいるな」となるだろう。倫理の最初の態度は「無関心ではいられない」である。人はときどき弱者のよび声に応じることがある。
たとえば何かの大事件があるときには、事件や災害の被害者にたいして手をさしのべることもある。それが大切な手がかりであるが、その自然発生的態度(孟子の「惻隠心」)が倫理の出発点になるが、それが思想に高められるには、持続することが重要である。困難であるが、思想としての倫理は「無関心でいられない」態度を持続させ、その理由を自己と他者に向かって首尾一貫して語ることである。
現代は交換一元論を抑制する互酬原理をたえず要求している。それも当然であって、人類の社会は相互扶助なしには立ちゆかないからである。贈与と互酬は交換を排除しないが、交換の肥大化をおさえて、しかるべき場所を与えうる原理なのである。人類はふたたび互酬社会[#「互酬社会」はゴシック体]へ向かって進化しようとしている。
[#改ページ]
ホスピタリティー (hospitality)
異質な他者の受容・歓待[#「異質な他者の受容・歓待」はゴシック体]
近代以前の諸社会には異邦人や旅人を、その身分や資格を問わない[#「その身分や資格を問わない」はゴシック体]で、食事を提供し、ときには路銀を渡してねぎらう慣行が長くつづいてきた。近代にはいると、異邦人歓待[#「異邦人歓待」はゴシック体]は国際法的意味をもちはじめ、外国人の訪問権となる。異邦人は訪問する国で不法な行為をしないかぎり滞在することができる。それは政治的亡命の権利ともなった。政治的であろうと経済的であろうと、莫大な数の難民が発生している現在では、身分と資格を問わないで難民を受けいれることをホスピタリティーという。
昔の自然発生的慣習は、いまや不可欠の国際法的意味をもちはじめているし、それなしに難民を救済するみちはない。ホスピタリティーは、歴史的にはアルカイック社会にみられた互酬性の構成要素であり、どの地域でも近代までは慣習法的規範として働いていた。近代では国際関係を処理する法的理念にまで発展し、それは辛うじて現代の法的精神として機能している。
他方で、倫理は歴史的経験としてのホスピタルな態度から学ばなくてはならない。自然発生的に生きられてきた異邦人歓待の経験のなかには、現代の倫理思想にまで展開させられるべき貴重な教えがある。それを圧縮していえば、「異邦の他者を、その資格・身分・出身等々を問題にせず、かれをあるがままに受け入れること」である。身分や資格等々は、特定の社会が貼りつける人間の分類法であって、倫理にとってはどうでもいい。
倫理は、いっさいの社会的規定をはぎとり、万人を、どこから来たひとであれ、同等に処遇し、迎えるものと迎えられるものとが同じ人間であるとみなす態度である。それは、既存の階層分類的思考から自己を解放することを要求する。まずは自己が既存のものの見方の外部に出ているのでなければならない。倫理はその意味で一種の自己鍛錬を要求する。なぜなら、訓練なしには、ふつうのひとが異邦の他者を「あるがままに受けいれる」ことはありえないからである。そのかぎりで倫理の要請は厳格である。
「あるがままに他者を受けいれる」あるいは「苦難のなかの弱者に無関心でいられない」という命題は、自己の徳目を実現するための命題ではなく、自己の浄化は異邦の他者との「正しい関係」を結ぶことではじめて可能であることを意味している。個人道徳は他者なしでも可能である。しかし倫理は異質の他者[#「異質の他者」はゴシック体](同じ共同体の他人ではない)の存在と、その他者とのジャストなかかわり、つまりは相互扶助と贈与の互酬性とを絶対条件とする。
おそらくホスピタルな倫理は、現代の人類の行く手をみちびくにちがいない。だからこそ倫理思想はまさに現代思想なのである。
[#改ページ]
[#2段階大きい文字]
まとめ[#「まとめ」はゴシック体]
二十世紀の現代思想の絶頂期では、有名な思想家たちがつくりだした数々のキイ・ワードが話題になった。たとえば、レヴィ=ストロースや、ジャック・ラカンなどの「構造主義的方法」、アルチュセールの「認識論的断絶」や「重層的決定」、ミシェル・フーコーの「知の考古学」や「ビオ‐ポリティク」または「脱中心化」、ジャック・デリダの「脱構築(デコンストリュクシオン)」、ジル・ドゥルーズの「ノマドロジー」等々がそうである(これらについては本書第T部から第W部までを参照)。
ところがこれらの思想家たちは、必ずしも全員ではないが、世界史の現実の動きに応じて、徐々に、政治哲学または法の哲学へ、さらには倫理学へと軸足を移動させていく傾向がすでにみられた。
たとえば、後期のフーコーは古代ヘレニズムとローマにおける性道徳を論じながら、近代とは異なる自己への視線を倫理的問題としてあつかおうとしていた。かれがとりあげる倫理は主としてストア派の倫理であり、それの読みなおしは現代の生き方にたいするひとつの批判であり、「生き方を変更しよう」(ルソー、ランボー)の提案のフーコー的解答であった。
デリダは一貫して伝統的形而上学の数々のタームを脱構築する仕事をつづけたが、あるときから脱構築の主題と対象を法思想と倫理思想に移動させていった。かれは、政治権力と暴力に関してはとくにベンヤミンから刺激を受け、倫理に関してはレヴィナスから学びつつ、歴史に関してはマルクスに共感して、現実の国家状況と世界史の現実に立ち向かおうとしてきた。
フーコーやデリダの仕事のなかに社会と歴史が提起する深刻な諸問題が反映している。あきらかに二十世紀の末に現代思想の中心が移動しはじめていたのだ。だから、本書第X部は「政治・法・経済・倫理」の諸問題を現代思想としてあつかうのだが、この視点はけっして著者の偏見から出たものではない。
しかし本書第X部では、海外の思想家たちの個性的な思想をあつかうのではなく、著者なりの構想の下に、現代の思想的課題を、いくつかの論点に絞って、若干の思想史的考察を交えながら、われわれが銘記しておくべき主要な主題を可能なかぎりあきらかにしようとしてみた。
[#改ページ]
あとがき
本書がとりあげた現代思想の言葉の数は少ない。言葉の数が多ければよいというものではない。現代思想の大きな見取図を描くことが目的なのだから、ごくわずかの主要な言葉があれば十分なのである。極端にいうと、たったひとつの言葉で現代思想のエッセンスを語ることだってできるのである。言葉は少なく、しかし思想の動きは大きく、というのが本書の狙いである。
本書は用語集ではない。中性的な用語解説も時には必要だが、そうした仕事は当面私の関心事ではない。その種の用語集はすでにいくつか出版されているので、必要があれば読者はいつでも利用できるはずである。とりわけ流行語の解説を求める人は、他の用語解説書をみられたい。本書でも、流行語らしきもの、流行語になりそうなものもとりあげたが、ごく少数であって、本書の中の「キイ・ワード」はおよそ流行からかけ離れていると思う。流行《モード》語が現代思想の一端を体現するのは確かであるが、同時にそれは現代思想の他のより重要な側面を歪めたり、隠したりする。現代思想のエッセンスは、むしろ人目にふれにくいところにある。私は、できるだけ地味な言葉と人物を、キイ・ワード、キイ・パーソンとしてとりあげるべく努力した。
私は、序文でも触れたように、クセのある思想の言葉を語りたかった。中和される以前の、棘々《とげとげ》しく、毒を含んだ、それだけいっそう生き生きした思想の言葉を集めたかった。やり終えてみて不十分であることは承知しているが、著者の意図を汲んでいただければ幸いである。
クセのある言葉について語る本書は、結局、語る著者のクセを出してしまったようである。どの言葉も相互につながっているが、どちらかといえば、現代生活の暗い側面を照らす言葉が多い。「ノマド」や「希望」のように明るそうな言葉もあるが、それらもつねに暴力や権力との対比の中で眺められている。こういう現代思想論も、今の日本では無意味ではないと私は考える。
本書の主要部分は、かつて『経済セミナー』(日本評論社)誌上で「社会思想の眼」と題して二年間(一九八三年四月―一九八五年三月)連載したものに基づいている。連載エッセイを勧めて下さった『経済セミナー』編集部の堀岡さんと守屋さんに心からお礼申し上げたい。このエッセイに強い関心を持たれて書物に仕上げる機会をつくって下さった講談社の鷲尾賢也さんと鈴木理さんと林辺光慶さんに、深い感謝の気持を述べさせていただきたい。
一九八五年四月六日
[#地付き]今村 仁司
[#改ページ]
文庫版あとがき
初版『現代思想のキイ・ワード』(講談社現代新書)は、二十世紀の六〇年代から八〇年代の半ばまでの思想家とかれらの個性的な言葉である。そのときからすでに二十年ばかりが過ぎ去った。この間に、いくつかの重要な世界史的事件が起きた。それにいたる局所的事件もまた、大小とりまぜて起きていた。思想は思想家の孤立的な内面のなかでこねあげられるのではない。思想は現実との格闘から生まれる。現代に生きる思想家たちは歴史がうみだす出来事のなかに考えるべき主題をみいだし、それらを思想言語へと上昇させる。本書のなかの第W部までは、有名な思想家とその固有言語が主題として語られ、かれらの言葉のなかに映し出される時代の諸問題もまた簡単ながらふれておいた。
しかし第X部では有名人も有名な思想語も登場しない。むしろ古典的な用語が登場する。ここでは、政治と法の哲学の用語や倫理学の用語あるいは歴史的経験を指示する用語ばかりをとりあげるから、有名な著者たちはほとんど登場しない。著者なき言葉ばかりが登場するからといって、それらが現代思想でないとはいえない。むしろそれらは万人が共有すべき言葉である。少なくとも本書はそうみなす。
ところで、初版の言葉使いと新版第X部の語り口はかなりちがう。初版が出たときからすでに二十年をへているように、著者もまた馬齢を重ねている。年齢相応の語り口があるものだ。著者は二十年前の語り口をいますることができない。以前には軽い調子で書くこともできたが、いまはそれができない。だから第X部の言葉使いはいささか重いかもしれない。くどい説明をつらねたようにも感じる。世界史の現実、日本の現実に対して著者が暗鬱な気分で反応している事情が言葉の使い方に反映しているかもしれない。一人の著者のなかに異なる二人の語り手がいるともいえる。それは著者が生きた時代のひとつの証言になっているとすれば望外の幸せである。
筑摩書房の山野浩一さんが学生時代に本書初版を手にとり、共感をもって読んでくださったことを二人の会話のなかで知り、私は大いに驚くと同時に、書物の役割の重要さを改めて感じたものである。そのご縁で今回のちくま文庫版『現代思想のキイ・ワード』が生まれることにもなった。まことにありがたく思い、山野さんに対して深く感謝するしだいである。これを機会に本書が新しい読者を獲得できるなら、増補新版を出した意味もあるし、また実際にそうなってほしいと願う。
二〇〇五年十二月二十五日
[#地付き]今村 仁司
[#改ページ]
参考文献[#「参考文献」はゴシック体]
『アンチ・オイディプス』ドゥルーズ、ガタリ 市倉宏祐訳 河出書房新社
『千のプラトー』ドゥルーズ、ガタリ 宇野邦一ほか訳 河出書房新社
『リゾーム』ドゥルーズ、ガタリ 豊崎光一訳 朝日出版社
『構造と力』浅田彰 勁草書房
『夜・夜明け・昼』エリ・ヴィーゼル 村上光彦訳 みすず書房
『幸運の町』エリ・ヴィーゼル 村上光彦訳 みすず書房
『精神現象学』ヘーゲル 牧野道場訳 鶏鳴出版
『狂気の歴史』フーコー 田村俶訳 新潮社
『言葉と物』フーコー 渡辺一民、佐々木明訳 新潮社
『監獄の誕生』フーコー 田村俶訳 新潮社
『呪われた部分』バタイユ 生田耕作訳 二見書房
『エロティシズム』バタイユ 酒井健訳 ちくま学芸文庫
『ラスコーの壁画』バタイユ 出口裕弘訳 二見書房
『歴史と階級意識』ルカーチ 城塚登、古田光訳 白水社 平井俊彦訳 未来社
『弁証法的理性批判T、U、V』サルトル T竹内芳郎、矢内原伊作ほか訳 U平井啓之、森本和夫訳 V平井啓之・足立和浩訳 人文書院
『資本論を読む』(上・中・下)アルチュセール,バリバールほか 今村仁司訳 ちくま学芸文庫
『グラマトロジーについて―根源の彼方に―』デリダ 足立和浩訳 現代思潮社
『資本論』マルクス 今村仁司、三島憲一、鈴木直訳 筑摩書房 向坂逸郎訳 岩波文庫
『エチカ』スピノザ 畠中尚志訳 岩波文庫
『暴力のオントロギー』今村仁司 勁草書房
『群衆と権力』カネッティ 岩田行一訳 法政大学出版局
『大衆の反逆』オルテガ・イ・ガセット 神吉敬三訳 ちくま学芸文庫
『支配の社会学』ウェーバー 創文社
『市民革命と産業革命』ホブズボーム 安川悦子、水田洋訳 岩波書店
『ボードレール』ベンヤミン 川村二郎、野村修編・解説 晶文社 『ベンヤミン・コレクション1』浅井健二郎編訳・久保哲司訳 ちくま学芸文庫
『暴力批判論』ベンヤミン 高原宏平、野村修編・解説 晶文社 岩波文庫
『暴力について』アレント 山田正行訳 みすず書房
『生成』セール 及川馥訳 法政大学出版局
『野生の思考』レヴィ=ストロース 大橋保夫訳 みすず書房
『人類学とはなにか』スペルベル 菅野盾樹訳 紀伊國屋書店
『物神性の解読』高橋洋児 勁草書房
『社会科学批評』今村仁司 国文社
『ガザに盲いて』オルダス・ハクスレー 本多顕彰訳 新潮社
『全体主義の起原』アレント 大島通義、大島かおりほか訳 みすず書房
『魔の山』(上・下)トーマス・マン 関泰祐、望月市恵訳 岩波文庫
『ミニマ・モラリア』アドルノ 三光長浩訳 法政大学出版局
『希望の原理』ブロッホ 山下肇、瀬戸鞏吉ほか訳 白水社
『大菩薩峠』中里介山 筑摩書房
『自由論』バーリン 小川晃一、小池_ほか訳 みすず書房
『群衆の時代』モスコヴィシ 古田幸男訳 法政大学出版局
『フッサール現象学の直観理論』レヴィナス 佐藤真理人ほか訳 法政大学出版局
『実存から実存者へ』レヴィナス 西谷修訳 ちくま学芸文庫
『全体性と無限』(上・下)レヴィナス 熊野純彦訳 岩波文庫
『抗争する人間』今村仁司 講談社選書メチエ
『社会契約論』ルソー 桑原武夫ほか訳 岩波文庫
『永遠平和のために』カント 宇都宮芳明訳 岩波文庫
『物質文明・経済・資本主義』ブローデル 村上光彦、山本淳一訳 みすず書房
『マルクス入門』今村仁司 ちくま新書
『交易する人間』今村仁司 講談社選書メチエ
『贈与論』モース 有地享、伊藤昌司、山口俊夫訳 勁草書房
今村仁司(いまむら・ひとし)
一九四二年、岐阜県に生まれる。一九七五年、京都大学経済学部大学院博士課程修了。現在、東京経済大学経済学部教授。社会哲学・社会思想史の領域の第一人者として、長年にわたって新しい思考の枠組みの構築に意欲的に取り組む。著書に『歴史と認識』『労働のオントロギー』『暴力のオントロギー』『批判への意志』『社会科学批評』『排除の構造』『現代思想の系譜学』『思想の現在』『労働』『精神の政治学』『理性と権力』『作ると考える』『格闘する現代思想』『近代性の構造』『貨幣とは何だろうか』『群集』『近代の思想構造』『近代の労働観』『交易する人間』『抗争する人間』、訳書にバリバール『史的唯物論研究』、ゴドリエ『経済人類学序説』『経済における合理性と非合理性』、アルチュセール『哲学について』『資本論を読む』など、多数の著作を発し続けている。
本作品は一九八五年九月、講談社より刊行され、二〇〇六年五月、ちくま文庫に収録された。