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「大菩薩峠」を読む
―― 峠の旅人 ――
今村仁司
目 次
第一章[#「第一章」はゴシック体] 漂泊の旅人
1 漂泊の旅人
2 峠とは何か
3 峠、みなと、交易空間
4 人間論
第二章[#「第二章」はゴシック体] 傷ついた身体
1 傷ついた身体
2 顔のない身体
第三章[#「第三章」はゴシック体] 分身たち
1 欲望
2 群衆
@リンチ群衆
A祝祭群衆
3 兄弟にして敵
@駒井グループ/神尾グループの分身図式
A竜之助/弁信の分身図式
第四章[#「第四章」はゴシック体] ユートピアの挫折
1 駒井のユートピア
2 お銀のユートピア
第五章[#「第五章」はゴシック体] 冷静なる愚者
1 宇治山田の米友のために
2 武州沢井の与八のために
3 清澄の弁信のために
エピローグ [#「エピローグ 」はゴシック体]開かれた物語
1 中心なき物語
2 なつかしさの感情
あとがき
主な登場人物
[#改ページ]
【第一章】 漂泊の旅人
[#改ページ]
[#この行4字下げ] 「舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老《おい》をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖《すみか》とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲《へんうん》の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」
[#地付き](芭蕉『おくのほそ道』)
[#ここで字下げ終わり]
1 漂泊の旅人
『大菩薩峠』(以下では『峠』と略記する)の物語の全体をつきうごかす力とは何であろうか。この物語を細部にわたって読んでいく前に、物語の根底にあり、登場人物たちの意図をこえて、彼らをつき動かしていく根本的な動力とそのイメージを、あらかじめ洗いだしておきたいと思う。それは物語の目に見えない雰囲気的な枠組みになっていて、それがなければ物語のしまりもなくなるといったものである。この雰囲気的な枠組みは、個々の人物たちの身振りはもとより、見たところどうでもいいような背景的事物のなかにも染み込んでいて、人物の行動や事物に意味あいや情あいを与えている。
ここには、単に人間がいるのではなく、旅人がいる。その旅人は普通の旅行者ではない。この「旅」のテーマに触れるにあたって、「漂泊の旅人」という言葉を使いたいと思う。これは同時に「峠」のイメージともつながるからである。
『峠』中の登場人物たちは例外なく漂泊の旅人である。この言葉は、単に巡礼的な旅人とか、名所旧跡を訪ねる人のことではない。ここでは「漂泊の旅人」を人生の根本を指し示す用語として一般化させて使いたいと思う。
†故郷喪失者[#「故郷喪失者」はゴシック体]
漂泊の旅人は、とりあえずの「出発点」をもつ。出発点とは、生誕の地であり、故郷である。出発点にとどまり続ける人は定住者である。しかし『峠』の人物たちは、それぞれの理由から出発点を放棄する。彼らは生まれ故郷を捨てて、目的地もなく、ただひたすら放浪していく。したがって彼らはすべて故郷喪失者なのである。普通は、旅とはどこかの目的地を設定し、そこへ出向いていきながらも、必ず再び故郷としての出発点に帰ってくる。普通の旅は目的地と出発点が明確に決定されている。
ところが『峠』では、主要人物たちは、仮の出発点をもつとしても、けっしてそこへは戻らず、目的地をもたず、また自分の放浪の状態を自分で決定することもできないで、いわば永遠の旅人として大地を放浪していく。彼らは永遠の亡命者であり、永遠の故郷逃亡者である。この意味では、『峠』の旅の形は、ホメロスのオデュッセイア・タイプでも、ゲーテのマイスター・タイプでもない。起源と目的のある旅を、精神においては自己形成と自己意識の確立と呼ぶならば、オデュッセイアやマイスターはヘーゲルの『精神現象学』の円環的旅になる。しかし『峠』の旅は、これらのいずれでもない。人物たちは、二度と帰らぬ死出の旅をするのである。
伊勢の被差別部落出身のお君がうたう「間《あい》の山《やま》節」がリフレーンのように繰り返されるのは象徴的である。お君のうたう唄は、次のようになっている。
[#ここから1字下げ]
夕べあしたの鐘の声
寂滅為楽《じやくめついらく》と響けども
聞いて驚く人もなし
[#1字下げ]…………
花は散りても春は咲く
鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](「間の山の巻」五)
中里介山は、人生を「行きて帰らぬ死出の旅」として捉え、各人の人生の諸相を仏教的観点から描くつもりであったと思われるが、それは『峠』(「甲源一刀流の巻」)冒頭のエピグラフに宣言されている。
[#この行2字下げ] この小説「大菩薩峠」全編の主意とする処は、人間界の諸相を曲尽《きよくじん》して、大乗遊戯《だいじようゆげ》の境に参入するカルマ曼陀羅《まんだら》の面影を大凡下《だいぼんげ》の筆にうつし見んとするにあり。この着想前古に無きものなれば、その画面絶後の輪郭を要すること是非無かるべきなり。読者、一染《いつせん》の好憎に執し給うこと勿《なか》れ。至嘱《ししよく》。
しかし、漂泊者的人間の構想は、仏教的観点に限る必要はない。「漂泊者としての人間」あるいは「人間の漂泊性」は人間の基礎的条件である。それは仏教的に理解することもできようし、キリスト教的に理解することもできる。たとえば、ガブリエル・マルセルはこう述べている――「おそらく安定した地上の秩序は、旅する人 (homo viator) としての人間の条件と呼びうるものについての鋭い意識を、人間が失わないでいるとき……はじめて建設されることができるのだ」(マルセル「価値と不滅性」、『旅する人間』春秋社、一九九ページ)。とはいえ、人間の漂泊性または遍歴性という人間の条件は、なんらかの宗教的ないし文化的な伝統をこえて理解できるはずだ。そして鋭い宗教的センスをもった思索者が直観的に洞察した人間認識を、社会科学や人間科学が明らかにしてきた事実と組み合わせて、さらに深めていくこともできるのである。ここでは、現代の学問が与えてくれる社会的人間に関するいくつかの成果から貴重な示唆を得て、人間の漂泊性がもつ意味あいをいくつか引き出しておきたいと思う。
†不在の欠如への欲望――別の自己の探求[#「不在の欠如への欲望――別の自己の探求」はゴシック体]
『峠』の人物たちは、自分の旅の決定者ではありえないが、しかし単なる故郷を捨てる流れ者でもない。彼らはそれぞれの流儀で、自己のユートピアを求めて漂泊の旅人になっていく。彼らなりの希望と期待がある。それらは必ずしも高貴な希望でも期待でもないかもしれないし、なかにはおよそ高貴ではない欲望も含まれている。ともあれ、彼らは「今の自己」とは違う「別の自己」を求める探求の旅に出て行く。それはどこかの聖地を訪問して精神の満足を得ることとは違う。介山的漂泊者は、西欧の聖地巡礼的人間ですらなく、自分の期待と希望すらはっきりしないで、いわば「欠如」に促されて動くのである。
彼らのなかにあるユートピアは、明確な青写真などではなく、茫漠たる空虚と欠如なのであるが、彼らの終りなき旅は明らかにこの欠如の方に向かっている。何かわからない不在のXに向かって前に傾く[#「前に傾く」に傍点]姿勢で全力疾走していく、その姿勢は「現存の世界」の「外」へと踏み越えていく姿勢である。こちらとあちらとの境界線を越え出ること、ここに漂泊の旅人と「峠」のイメージが重なる。
したがって漂泊者は、いまの自分とは違う自己を求めて、こちらとあちらを分かつ境界線を越えていくという意味での旅人なのである。登場人物の数だけのさまざまな境界線の形態がある。『大菩薩峠』とは境界線の越え方の物語とも言えるのである。
†境界線を越えて――顔の変容[#「境界線を越えて――顔の変容」はゴシック体]
漂泊の旅人たちは、境界線を越え出るたびに、そのつど変容を繰り返す。そのつど、彼らが向かう欠如空間が埋められるが、それは何度も放棄され、また何度も探求されなおす。何度も希望のイメージが書き改められる。変容とは「顔」の変化である。各人が、それぞれの境界線を越え出るたびに、彼らの「顔」もまた変動する。一種の転身物語とも言えようか。そのなかで「顔」というものが、そのさまざまな形態をふくめて、欠くことのできない主題としてひそかに鳴り響いている。なぜなら「顔」は個々人の「人格」のことであって、顔の変容は人格の変容の現われなのである。ある人物が何者であるかを知りたければ、その人の顔をつぶさに観察すればよい。顔は表情である。傷ついた顔もまた表情であり、その表情は個人の内面の表現というよりも、彼が巻き込まれている社会関係のなかでの彼の位置を、人間関係が彼に押す印を、つまり社会的刻印を表出しているのである。顔の表情を分析することで、特定の人物の社会的性質を明らかにできる。本書が顔とその変容を問題にするのは、峠の旅人の生き方が彼らの「顔」と「表情」のなかに人間のあり方についての大切な何かを伝えているからである。
さまざまな旅がある。個人の数だけの旅がある。彼らは旅をすることで、狭い空間から外へと飛び出す。自分の「部族的」慣習や伝統が厳格に定める境界線を越えるたびに、彼らは新しい空間を、新しい別の自己あるいは別の顔を見出していく。首尾よく別の自己の顔を見出せないことが多いのだが、その失敗も含めて、彼らの人生は、境界を不断に越える旅なのである。
人生の旅の出発点は選べない。しかし、この選択をすることの不可能はどうでもいいことではない。どこから出発するかは偶然であるが、偶然に出会われる「始まり」は、いったん出会ってしまえば、その人の旅の方向を決定するほどの強制力をもつようになる。出会いの後では、出発点の出来事は必然になり、一種の宿命になる。各人は、出発点を選べないがゆえに、出発点が押しつける宿命を背負って生きていかなくてはならないのである。
†偶然の出発[#「偶然の出発」はゴシック体]
個人の旅の「始まり」の特異な性質を、物語の「始まり」の場面を使って語ってみると、次のようになるだろう。
『峠』の冒頭で、机竜之助《つくえりゆうのすけ》は動機なき殺人を犯す。彼の旅の出発点は殺人である。彼は殺人者としてしか出発できない。年老いた巡礼を殺すことは竜之助の運命を決定する。一方、御岳《みたけ》の御前試合での宇津木文之丞《うつぎぶんのじよう》殺しは、その必然的結果であると言える。最初の殺しは偶然であるかもしれないが、その殺人行為は竜之助という人物の生き方を厳格に方向づける。方向とは意味である。彼の人生の意味/方向は、人を殺すことである。竜之助だけが特別なのではない。竜之助の人生は、世の中にいる「竜之助類型」の人間のすべての人生であって、その意味で竜之助は一個の代表または象徴である。
一方において、人を殺せば、必ず復讐と仇討《あだう》ちが生まれる。こうして今度は仇討ちを余儀なく出発点にせざるをえない人間類型が生まれる。それが文之丞の弟宇津木|兵馬《ひようま》である。彼の人生は、竜之助の殺人によって「与えられる」。この天から降ったような偶然の与件が兵馬の人生の方向と意味を決定する。彼には別の人生もありえたであろう。竜之助が、そして竜之助と兄の決闘がなければ、たとえ剣道家の家に生まれたにせよ、兵馬は漂泊者になる理由などはなかったのだ。しかし諸般の事情は彼を余儀なく峠の旅人に仕立てあげていく。
物語の冒頭で、祖父を殺されたお松の人生もまた、偶然に出発点を与えられる。祖父と孫娘の旅は、漂泊の旅ではなくて、江戸に定住するための旅であった。しかし突然の降って湧いた出来事のゆえに、お松は天涯孤独になり、漂泊者の宿命を背負うことになる。最初の七兵衛との出会いから、神尾主膳《かみおしゆぜん》とお絹、お君や米友《よねとも》との出会い、兵馬や与八との出会いを経て、最後の駒井甚三郎《こまいじんざぶろう》との婚約にいたるまでに、お松は実に多くの人間群の間を通り抜けて行く。そのなかで彼女は、平凡な小間使いから理知的な精神の持ち主にまで上昇していく。顔の変容があり、人格の変容がある。
竜之助の父である机|弾正《だんじよう》は人格者であって、彼に拾われ育てられた与八は、竜之助が普通の跡取り息子であったなら、そのまま水車小屋の番人として机家の奉公人の人生を送れたかもしれない。ところが竜之助の人殺しの事件によって、さらにまた文之丞の妻お浜の登場によって、お松と同様に、別の人生を強制的に押しつけられ、峠の旅人の運命を被ることになる。純粋無垢の人である与八もまた、人生の最初の出足で傷がついている。竜之助の命令とはいえ、お浜を誘拐し、竜之助の欲望の餌食にする共犯者の役割を演じてしまう。この宿命のゆえに、与八は竜之助とお浜の遺児|郁太郎《いくたろう》を育てつつ、自分自身も罪滅ぼしのための漂泊者になる覚悟をしなくてはならない。たとえばこんな形で各人の人生は決められていく。これはさしあたりは竜之助の生活圏での「因果」のつながりである。
別の生活圏がある。伊勢は宇治山田のお君と米友の被差別民としての人生があり、神尾主膳とお絹の自堕落な人生があり、駒井甚三郎やお銀、弁信《べんしん》や茂太郎《しげたろう》の人生もまたある。すべては自ら選んだのではない人生である。それぞれに偶然の出発点があり、出発点には独自の性格があり、それが各人の方向と意味になる。こうしてできあがる独自の人生が絡まり合うなかで、事件の渦巻が作られていく。渦巻のような出会いがあり、出会いのなかで個人の変容があるとすると、そうした経験をたまさかの体験にとどめず、理念にまで上昇させる人間が出てきても不思議ではない。願望がユートピアを生む。後の章で詳細に扱うように、それは海上移民のユートピアであったり、山岳割拠のユートピアであったりするだろう。
無数の、よりよき何かを求める、終りなき漂泊の旅がある。それらはいずれも挫折を抱え込んだ旅であるかもしれない。そうした峠の旅の数々を包みながら、なおそれらを越えて一種の消尽点のごとき「世界」がありうる。これへの瞥見《べつけん》を許さないのであれば、無数の挫折の人生を知らされるだけの物語に何の意味があろう。『峠』には、この消尽点への瞥見がある。それはあからさまな形では見えてこない。それはかすかに姿を現わすのだ。そこで生きるなら何と喜ばしいかと感じられる境地がかすかに、物語の地平線上に浮かびあがってくる。これもまた本書のなかで語らなくてはならない主題のひとつである。
さて、物語の冒頭が、現実の大菩薩峠の描写から始まるのは象徴的である。そこでは、まさに象徴としての峠と漂泊の旅人がすでに顔を出している――現実の峠の描写と老人と孫娘の巡礼の姿。そしてそこでこまごまと書き込まれている事実には、なんらかの象徴が込められている。
2 峠とは何か
†象徴としての峠[#「象徴としての峠」はゴシック体]
中里介山は個人雑誌の名前として「峠」という言葉を選んだほどであるから、彼が「峠」の象徴的意味を自覚していたことは確かであろう。彼はこう述べている。
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山があり上があり下があり、その中間に立つ地点を峠と呼ぶことに於て、さまざまの象徴が見出される、上通下達の聖賢の要路であり、上求菩提下化衆生の菩薩《ぼさつ》の地位であり、また天上と地獄との間の人間の立場でもある、人生は旅である、旅は無限である、行けども行けども涯《かぎ》りというものは無いのである、されば旅を旅するだけの人生は倦怠と疲労と困憊と結句行倒れの外何物もあるまいではないか、「峠」というものがあって、そこに回顧があり、※[#「ぎょうにんべん+低のつくり」、unicode5f7d]徊があり、希望があり、オアシスがあり、中心があり、要軸がある、人生の旅ははじめてその荒涼索寞から救われる。
「峠」は人生そのものの表徴である、従って人生そのものを通して過去世、未来世との中間の一つの道標である、上る人も下る人もこの地点には立たなければならないのである。ここは菩薩が遊化に来る処であって、外道が迷宮を作るの処でもある。慈悲と忍辱《にんにく》の道場であって、業風と悪雨の交錯地でもある、有漏路《うろじ》より無漏路に通ずる休み場所である。
凡《およ》そ、この六道四生の旅路に於て「峠」を以て表現し摂取し得られざる現われというのは一つもあるまい。
[#地付き](「「峠」という字」、中里介山全集第二十巻、筑摩書房、四八ページ)
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ここに描かれているのは、第一巻のエピグラフで仏教的人生観を述べているのと同じ思想である。種々の人生模様が描かれるところとしての「峠」のイメージが著者自身によって解説されている。おそらくそうであるにちがいないが、これに私は漂泊者の旅のイメージを重ねてみたい。単なる人生模様あるいはさまざまな人生があるというのではなく、人間の生存自体が故郷喪失的な、終りなき「脱出」過程であることが、著者の自己解釈以上に強調されてよいと考える。「多くの人生があります」といって済ますのではなく、無数に引かれた、あちらとこちらとの分断線、切断線、境界線を不断に踏み越えていく宿命を、「峠」の基本イメージに見立てることができる。この基本イメージの上に、「峠」の多義的イメージが重層的に積み重なる。
以下に、簡単ながら、「峠」についてのいくつかのイメージを解釈してみたい。もちろんこれはありうべき解釈の可能性の一端にすぎない。
†交換の場所としての峠[#「交換の場所としての峠」はゴシック体]
第一巻の冒頭は有名であるが、そこで著者は比喩ではない現実の大菩薩峠を描写している。そしてそこに社会科学的に見ても看過できない重要な記述がある。妙見《みようけん》の社《やしろ》の話があり、そこで山里の人々が話をしている。峠に神社があること、そしてそこで人々が独特の経済行為をすること、これが重要である。介山はこう述べている。
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これらの人は、この妙見の社を市場として一種の奇妙なる物々交換を行う。
萩原から米を持って来て、妙見の社へ置いて帰ると、数日を経て小菅《こすげ》から炭を持って来て、そこに置き、さきに置いてあった萩原の米を持って帰る。萩原は甲斐を代表し、小菅は武蔵を代表する。小菅が海を代表して魚塩《ぎよえん》を運ぶことがあっても、萩原はいつでも山のものです。もしもそれらの荷物を置きばなしにして冬を越すことがあっても、なくなる気づかいはない――大菩薩峠は甲斐と武蔵の事実上の国境であります。
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大菩薩峠だけが峠ではない。峠のあるところ、どこでも基本的にはこうした交換行為が行われるとみたほうがいい。大菩薩だからではなく、大菩薩が峠であるから、そこで交換が行われるのである。だからここでは、原則的には峠一般が問題になっていると言える。
なぜ峠においてこうした交換が行われるのか。
†奇妙な交換[#「奇妙な交換」はゴシック体]
介山が適切に指摘しているように、この交換は「奇妙な交換」なのである。ここが重要である。それは同じ交換であっても、普通の市場での交換とは異なる。介山の記述は学問的に見ても極めて正確である。
まず第一に、交換の場所が「妙見の社」で行われる。第二に、交換当事者は互いにけっして顔を合わせない。だから第三に、甲斐または武蔵の産物を社の境内に置いておくだけである。理論的可能性としては、交換が成立するまでに、顔を合わせないで交換比率の決定過程、つまり一方の産物の量と他方の量とが妥当だと判断される「値下げ交渉」が行われるはずである。この事実を介山は示唆してもいる――すなわち境内の産物がそのまま放置されると彼が書いているのがそれである。産物が放置されて冬を越すのは、交渉が成立していなかったからである。放置された産物が一方から他方に移動するには、それぞれの側に産物の量が増加される、あるいは他の産物が付加されて産物複合になるか、いずれかの操作が当事者によって行われるはずである。「冬を越す」とは、当事者双方が交換比率を決定するまでの熟慮期間なのである。
「顔を合わせない交換」――これが峠の交換である。なぜ顔を合わせることを人は嫌うのか。峠ないし境界のこちらとあちらでは、世界が違うからである。世界が異なる人間たちが、顔を合わせるときに行う行為はひとつしかない、それは闘争または小さい戦争である。二つの世界の住民たちは、互いに敵であるが、しかし他方では、一つの世界ないし共同体だけで孤立する閉鎖経済は、事実上、不可能であるから、両者は互いに相手を必要としている。相手から当方にないものを獲得するためには、そして互いに闘争することを回避するためには、互いの顔を合わせないようにするほかはない。「奇妙な交換」の前提にはこうした条件があった。これは日本だけではなく世界中にあった。顔を合わせない交換は、戦争と闘争を回避する交通の方法である。戦争と闘争があるときには、この交換が挫折したときである。こうして次の命題を得る――戦争は失敗した交換である。これはすでにレヴィ=ストロースが指摘していた。「商業的交換は、平和的に決着のつけられた潜在的戦争を表現し、戦争は不成功に終わった取引の結末である」(「南アメリカ・インディアンにおける戦争と交易」、一九四三年)。してみると、介山は正確な人類学的記述をしているのではないか。
†沈黙交易[#「沈黙交易」はゴシック体]
南米でもアフリカでも大菩薩峠と同じ現象が見られることが報告されている。人類学では介山の言う「奇妙な交換」は、普通、「沈黙交易」(サイレント・トレイド)と命名されている。「沈黙」交易とは顔を合わせない交易なのである。アフリカの西海岸でかつて観察されたことだが、この交易は土着人とヨーロッパ人とが海岸で交換するときにした行為である。西アフリカの「貿易港」について、こんな記述がある。
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その原理は、商人に、財産と同様にその生命や身体の安全を供することであった。古代の貿易はすべて、外国の海岸で見知らぬ人びととの会見を伴ったし、これらの会見から切り離すことができない危険が伴った。ここから、ヘロドトスが現代より二千年ほど昔に、北部ギニア海岸で金と塩を物々交換したフェニキア人について述べているような、人の住まない海浜で行われた沈黙の物々交換とか沈黙交易とかよばれる古代的方法が生じたのであった。
[#地付き](カール・ポランニー『経済と文明』、栗本慎一郎、端信行訳、サイマル出版会、一二九ページ)
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これと寸分違わない形で同じ交易を、甲斐と武蔵の住民が大菩薩峠でやった。ちなみに、理論的には、「物々交換」という表現は正しくない。ひとたび取引が成立すれば、一方の産物の特定量が他方の産物量の決定基準になる、つまり互いに他方の産物が自分の産物量つまり交換価値の尺度になるから、すでに原初の貨幣形式が成立している。産物をもってする沈黙交易といえども、原理的には商品交換である。そして価値を測定するのは労働ではなく、必要度、需要である。ここに近代以前の交換の独特の性格がある。
†なぜ「妙見の社」か[#「なぜ「妙見の社」か」はゴシック体]
もうひとつ、小説では妙見の社という神社の存在が書き込まれているが、介山は事実を書き留めたにすぎないだろう。しかし本当はこの神社の境内の存在の意味は大きいと言える。峠の交換では、交換の場所はどうでもいいことではない。一般に、昔の交換の場所ないし空間は「聖なる空間」でなくてはならない。これも近代以前の局所的市場の特徴である。そしてこれも日本だけでなく、西欧でもどこでも同じである。交易の空間は聖なる空間であり、そこでは物の取引があるだけでなく、人と人のつきあいがある。この空間は神々を証人とする祝祭空間になる。沈黙交易では、顔を合わさないから祝祭があるとは思えないが、しかし神々を証人とする「聖なる空間」で交易が行われたことは明らかである。
†原初の「市」[#「原初の「市」」はゴシック体]
峠はこうして互いに異質の世界の人間たちが交易する場所である。この峠と交易の関係を追求していくと、峠は、現実の峠から、抽象的な峠に変貌を遂げる。
交換が峠で行われる(原初的交換は沈黙交易であった)。この事実をどう解釈すればよいだろうか。峠でしか交換が行われないのではない。峠が共同体と共同体の境界であるから交易が行われるのである。マーケットとは、峠の本質つまり境界ではじめて現われる。峠つまり境界は、あちらとこちらを切断する特異な空間であるから、交換が行われ、したがって市場と聖なる空間になる。そうなると、境界という空間は、現実の峠だけでなく、他の場所でも可能になる。共同体と共同体の境界は、峠以外に「みなと」がある。境界空間は、山地では「峠」と呼ばれ、川または海の地域では「みなと」と呼ばれる。西欧では「ポート」である。
こうして境界は、峠と「みなと」の二つの名前をもつが、両者はまったく同じ空間である。「市《いち》」は、日本でも西欧でも、アフリカでも新大陸でも、共同体と共同体の境界にある。峠も「市」であり、「みなと」も「市」である。「市」とはマーケットである。それは定期的に開かれた。定期市は、かつて一日、四日、五日、八日、等々の名前をもっていた。これらは例外なく、海か川のほとり、つまり「みなと」にあった。
†峠的なもの、みなと的なもの[#「峠的なもの、みなと的なもの」はゴシック体]
小説『峠』をこの観点から読むならば、随所に、峠的なところ、「みなと」的なところが実にたくさん登場することがわかる。その典型が、伊勢のみなとである。そして伊勢は、伊勢神社の門前市から発展したことからわかるように典型的な祝祭空間であり、聖なるものと汚れたものが同時に共存する空間である。汚れた空間の記述は小説では、悪処と被差別部落である。伊勢の部落出身の「お君」と「米友」が重要な登場人物になるが、これも峠的な人物、つまり境界で生きる人間の典型である。伊勢だけではなく、小説で描かれる場所はすべて峠的な、境界的な、みなと的な性質を備えている。おそらくこれは作者が自覚するしないにかかわらず、峠の論理がそうさせるのであろう。
この観点から『峠』を読んでいくと、意外なほど多く、「みなと」(港、湊)、「さかい」(境、堺、坂)、「さき」(崎、埼)、「つ」(津)、「はま」(浜)が、さらには「わん」(湾)や「うら」(浦)までが、地名や人名で登場することに気づかされる(大部分は地名で人名は「浜」のみ。また物語の途中から、神尾主膳の相棒役のお絹が「浜[#「浜」に傍点]松」出身であるとついでのように指摘しているのを見ると、なかなか芸が細かい)。名前のシンボリズムがたしかにある。たとえば、駒井甚三郎は、房州の「洲崎《すのさき》」で和製黒船を作り、初航海の目的地は仙台「湾」ないし「月の浦」であった。女|軽業《かるわざ》の興行師お角《かく》は、江戸から房州に船で渡るとき、暴風にあって難破し、洲崎の「浜」に打ち上げられる。田山白雲は「九十九里浜」で荒海を絵画にすることに熱中する。お銀が胆吹《いぶき》山の麓で「王国」を建設するとき、物資は「長浜」の町で調達する。この長浜でお銀や竜之助が逗留する旅館は「浜屋」という。その女将《おかみ》の名前は「お浜」であり、それはかつての竜之助の妻の名前でもあった。
「浜」があれば、そこには「うみ」がある。それが房州の「海」であり、「琵琶湖」である。「うみ」があれば「船」が縁語として登場する。駒井の黒船はもとより、琵琶湖に舟を浮かべて風流を楽しむ連中もいれば(甲州の藤原伊太夫の一行)、舟の難破で苦しむものもいるし(お角)、野宿のときに川舟を宿の代わりにすることもある(竜之助とお雪)。そして舟と浜を縁語関係を巧みに利用したケースがある。竜之助の妻と名前も顔もそっくりのお浜[#「浜」に傍点]さんが経営する長浜[#「浜」に傍点]の浜[#「浜」に傍点]宿の浜[#「浜」に傍点]屋の裏口から、小舟にのって琵琶湖に漕ぎ出た竜之助とお雪が、風流を楽しむうちに、心中を試みる場面がそれである。みなと、はま、さかい、とうげといった境界の空間は、悲劇の生まれる場所であり、ユートピアが構想されるところでもあり、さらには弁信法師が言うように、この世の地獄からあちらの浄土に「渡る舟」の出るところでもある。
たまたま筆の勢いからこうなったのであろうか。あるいは言葉の遊びなのであろうか。どうやらそうではないようだ。作者は意識して、はま、うみ、さかい、みなと、わたし、ふね、といった境界的な場所を選んでいるのであり、そこに万感の思いを託しているにちがいない。境界の境地でこそ人間の如実《によじつ》の相が出るだけでなく、そこを通して人間にとっての希望が出現するとも考えていたのではないか。それを証す言葉を引いておこう。宇治山田の米友を船頭にして竹生島《ちくぶじま》に向かう弁信は、こう述べている。
[#この行2字下げ] ねえ、米友さん、この舟は、下関や、玄海灘へ漕ぎつけていただくのではございません、ほんの、この目と鼻の先の、竹生島まで渡していただけばそれでよいのです、そのことは米友さんもよく御承知の上で……特にこのわたくしを小舟で、竹生島まで送って下さるという頼もしいお言葉でございましたから、わたくしは、これぞまことに渡りに舟の思いを致さずにはおられませんでしたのでございます。仏の教えでは『到彼岸《とうひがん》』ということを申しまして、人を救うてこちらからあちらの岸に渡すのを舟に譬《たと》えてございます、善巧方便《ぜんぎようほうべん》を以て弘誓《ぐぜい》の舟にたとえているのでございます……すべて舟というものはめでたいものでございますが、特に到彼岸の意味に用いられます場合に、果報この上もなくめでたいのでございます……
[#地付き](「恐山の巻」百三十二)
作者が弁信の口に語らせたこの言葉は、『峠』のモチーフをあらわす最奥の言葉であるかもしれない。
3 峠、みなと、交易空間
†貨幣問題[#「貨幣問題」はゴシック体]
峠が「みなと」であり交易空間であり、しかも古くは聖なる空間であったとすれば、ここに貨幣現象の問題が重なる。具体的に商品や貨幣が実在しないとしても、事実上は貨幣形式が登場している。なぜなら、原初的には、交換当事者が互いに媒介者の役割をしながら、貨幣の姿を取らない貨幣形式を演じているからである。歴史的には、こうした素朴な交換のなかから専門的な交換の媒介者つまり商人が登場する。そうした歴史の奥底に、人間が他者とつき合うときの基礎的な論理が働いている。媒介なき交通はない。そして媒介形式は、商人がかつてそうであったように、共同体と共同体の外部で生きる存在である。峠あるいはみなとに登場する人間は、交換する人に加えて、交換を媒介する独特の人間である。
『峠』には脇役であるが、興味深い商人的人間が登場する。
甲州の田舎から出てきた「忠作」少年は、お絹(神尾主膳の父の妾にしてお松のお花の師匠)と組んで、江戸で両替商を営み、お絹の手づるで西洋人相手の貿易商人にまでのし上がっていく。彼もまた、駒井甚三郎と同様に、西洋の合理精神を学ぼうとする。駒井が科学と技術を中心に西洋から合理精神を学ぶのに対して、忠作少年は西洋の経済合理性を学ぶのである。彼は、経済における駒井甚三郎だと言ってよい。彼は経済計算に合わないものを断固として拒否する。経済合理性を守るためなら、群衆の暴力にも屈しないほどの勇気もある。たしかに彼の立場は、すべてを金勘定に還元することにあるが、まさにそうであるからこそ、彼は伝統的規範と手を切り、新しい経済倫理を体現する人間になることができる。忠作という人物は、自分の腕と頭脳だけをたよりにのし上がってきた最初の自生的な資本家である(忠作の経済論に関しては、とくに「不破の関の巻」三十を参照)。
忠作以上に脇役であるが、「のろまの清次《せいじ》」なる飛騨高山の屑拾いが出てくる。この人物もまた、忠作ほどではないが目はしの利く男で、金目のものなら何でも収集し、金になることなら物であれ情報であれ利用してのし上がっていく。彼は一介の田舎屑屋から、情報を売る「広告」事業の先駆者になる。
商人として最大の人物は、甲州|有野《ありの》村の藤原伊太夫である。この人の娘がお銀であり、名前が象徴するように、彼女は一介の田舎の馬商人の限界を軽々とのり越えて、商人というよりも、父親から譲り受けた財産を元手に、生産的事業に着手する。それが、後でも見るように彼女のユートピア構想につながる。彼女はまだ濃厚に商人的体質を残しているが、『峠』のなかではいち早くインダストリーの意義を見抜いた人物である。彼女は近代日本の発展の方向を、産業資本主義的発展として展望する洞察力をもっている(「山科の巻」十八)。しかしお銀はやや例外的である。
さて、こういう人間たちを、商人と呼ぶ前に、その存在の特質に着眼して、貨幣的存在と呼んでおこう。なぜなら、境界線上で活躍する貨幣的人間は、経済だけでなく、あらゆる領域に出没するからである。
†貨幣的人間[#「貨幣的人間」はゴシック体]
貨幣的人間とは、峠的、みなと的人間、つまりは境界でのみ生きる人間である。あちらとこちらとの境界を踏み越えつつ、しかしけっして「内」の共同体には定着しない人間、それが峠的人間である。貨幣がけっして流通から出ないように、峠的人間は、境界空間から出ることはないし、境界ではない場所、定住空間では生きることができない、あるいは生きる欲望もない。故郷を回顧することもあるが、けっして故郷=共同体には回帰しない。そういう人間たちこそ小説『大菩薩峠』の人物たちである。なかでも、竜之助と弁信は、境界で生きていくだけでなく、人間の集団のすぐ傍にいながら、けっしてそれに帰属しないで、人間の群れのなかを、いわば貨幣のように「流通」していく。比喩的に言って、竜之助と弁信は、外の誰よりも、貨幣的人間なのである。
机竜之助はもとより、彼に近づく女性たち(浜、豊、銀、雪、等々)、道庵《どうあん》と取り巻き、神尾主膳とお絹と悪党(折助)たち、盗賊七兵衛とお松、与八、駒井能登守、お君と米友、といった印象深い人間は、善人であれ悪人であれ、すべてが何らかの因果の糸に結ばれて、自分の「故郷」を捨て、二度と帰らぬ目的地のない旅に出ていくだけでなく、峠ないし境界線を越えるたびに、「現にある自分」とは異なる自分へと変容していく。
4 人間論
漂泊と峠のイメージに託されて、ひとつの明快な人間論が顔を出す。『峠』は、文学的形象をもって独自の人間論を描いていくが、それは現在の理論的用語をもって言い換えることもできる。
以下では、抽象的用語を使いながら、『峠』の人間論を言いなおしてみるが、それは当世風の言葉に翻訳することで満足しようとするのではなくて、『峠』がはらんでいる思想的含蓄に一般的な形式を与えて引き伸ばしてみる手掛かりを得るためであり、さらに出来うべくんばこの稀有の小説のアクチュアリティをより一層理解するためである。
†非同一な存在[#「非同一な存在」はゴシック体]
アイデンティティという用語を使うなら、彼らはすべて、自己同一性を求める人間であるのではなく、反対に自己同一性をたえず破壊し、別の存在に変化する過程で、複数の自己を生きることになる。彼らの人生の種々相から見るならば、同一性に固執する個人と集団のあり方が、その虚妄性も含めて照らしだされる。社会思想の観点から言えば、共同体の自己同一性や政治権力の同一性に根拠をおく一切の思想と観念が全面的に批判されているとも言える。実際に、『峠』においては、ナショナリズム批判や西欧と日本のファシズム批判なども書き込まれているが、それは偶然ではない。
同一性は、囲い込みの思想である。線をひき、その境界内に割拠することが同一性の精神と実践である。小説『大菩薩峠』の思想から言えば、同一性と囲い込みとか割拠とおぼしいいっさいの思想と行動は、根本から批判される。現実批判的なユートピア思想とその実践といえども、どこかの空間に割拠し、そのなかに自己と集団を囲い込むとすれば、そうしたやり方は、人生の真実に反するがゆえに挫折の宿命にあることも、小説では描かれている。ここに『峠』における「政治的なもの」の問題がある。それは、国家とは民族主義に対する態度のとり方、政治的人間関係をどう組み立てるかに関する示唆があるばかりでなく、自己を喪失し、ひたすら付和雷同する人間たちの悲惨な傾向を批判していく洞察もまた与えられているのだ。
†漂泊としての人間の生[#「漂泊としての人間の生」はゴシック体]
してみると、『大菩薩峠』は、ひとつならずの意味で、きわめて現代的であると言えるだろう。戦後の世界に登場した西欧と日本のいくつかの同一性中心の思想は、あらかじめ批判されているばかりではない。一九三〇年代と四〇年代にドイツのフランクフルト学派の第一世代(ホルクハイマー、アドルノ、ベンヤミンなど)が着手していた西欧哲学の同一性中心批判の試みは、第二次大戦後にアドルノによって「非同一なもの」を救いだす思想として一層発展させられていく。このアドルノの言葉を借用して言えば、『峠』の思想はまさに「非同一なもの」を重視し、そこから人間の別種のあり方を構想する方向に向かっている。一個の人間、ひとつの行動、ひとつの出来事は、等質的な同一物ではなく、同一性の図式に全面的に吸収されることは原理的にありえない。思想であれ行動であれ、あるいは集団的行動であれ、人間はそれらを同一性をもって考えあるいは組織していくものだ。しかし、個々の行動や事物はいつもそうした同一性図式あるいは同一化傾向から免れていく。このように同一化傾向から逃れていくもののなかに、個人や出来事の本来のあり方、それらに内在している未来の可能性があること、これは二十世紀の思想的共有財産である。じつにこれをこそ『峠』は、文学的想像力をもって先駆けて語ろうとしていたのである。
「非同一なもの」は、同一性図式が厳格に築きあげる閉鎖的輪郭を突破するものである。閉鎖空間がつくる境界線を越え出ていくことが、漂泊の旅人や峠の旅人のメタファーで表現される事態であった。われわれが特定の閉鎖空間のなかで定住し、その空間の同一性に同一化して生きているにせよ、われわれひとりひとりは、その境界線をいつでも突破していく可能性を内部に秘めている。何度も境界を越えるなかで、自己を変容させ、別の自己を見出す。それもまた当たり前の人生である。しかしそれはしばしば集団の強烈な同一化によって覆い隠されてしまう。この覆いを引き裂いてみる行動が、漂泊、遍歴、放浪といった言葉で示唆される。漂泊や遍歴を西欧の言葉で言えば、「ノマド」あるいは「ノマディスム」が最もふさわしい。そうだとすれば、六〇年代以降にフランスを中心に登場し、世界に伝播した「ノマディスム」の思想(たとえば、ドゥルーズとガタリの『アンチ・オイディプス』など)もまたすでに介山によって先取りされてしまっている。これを裏から言えば、われわれは、ここ半世紀間に出てきた思想の世界的趨勢を踏まえて、ようやく『大菩薩峠』を一層深刻に読むことができるようになったとも言えるのだ。
固定的体系があるのではなく、つねに開いた生活がある。ところが、イデオロギーは閉鎖空間を好み、閉じた体系をつねに選択する。無数の方向に開いた生活の可能な道を塞ぎ止め、ただひとつの等質的で閉鎖的な生活空間のなかに人々を追い込んでいくのが、つねに現存秩序を弁明し正当化するイデオロギーである。人々の自前の「思想」と言われるものは、たいていは、外から注入される閉鎖空間のイデオロギーである。われわれは、特定の社会のなかで生きているかぎり、いつもこうした「正当化のイデオロギー」を空気のように吸って生きている。人々が生きている社会とは、個人にとっては大文字の「他者」であり、その大きい他者の「考え」がいつのまにか個々人の無意識の体質にまでなっている。自己の「独自の思想」なるものが、実は大きい他者(社会、共同体)のイデオロギーであると自覚する契機は、個人がなんらかのきっかけで、閉鎖空間の境界線に立ち、さらにはその境界線を越え出てみるときに、はじめて得られる。一度だけでなく、何度もそれを繰り返す。繰り返しの経験が「漂泊の旅」と言ってもよい。この境界線越えの漂泊の旅は、他方では、おのれの内部にあって社会のイデオロギーと呼応する神話的想像力に対面し、その魔力から解放される旅でもなくてはならない。神話的想像力は、人々を群衆につくりかえる。群衆なくして閉鎖空間はできない。現存の秩序(思想の秩序、政治の秩序、等々)を正当化する種々のイデオロギーは、個々人の個別的差異、その非同一性を削り取り、そうして彼らを等質的な存在に転換して、どこをとっても金太郎飴のような人間群をつくる。こうした群衆的存在から抜け出す旅が、漂泊の旅であった。そしてその旅は、おのれの可能性を発見する「目覚め」の旅でもある。
閉じた生活が真実でないのは、本来的に開放的な人間の生を無理に閉じようとする欲望をひそかに働かせるからである。閉じた体系は、現実でも思想でも、外部に無限に開く穴を制度ないしは観念で封鎖する。真実のあり方である「開放性」の穴埋めをするとき思想は生の真実から乖離する。批判的認識があるとすれば、その批判のめざすところは、閉じられ、穴埋めされた開口部を、それを覆うベールを剥ぎ取ることで再び見出すことである。目覚めとはそういうことだ。それは、いささかも神秘的な行為ではなくて、じつに理性的な行為である。
こうした思想は、現にある思想体系や社会制度に地滑りを起こすことである。地滑りとか「ずらし」というのは、位置の移動、配置替えの理性的な操作であり、西欧語ではd姿lacement をあてるのが適当である。こうした場所を移動させる作業は、現にある位置や場所から逃れることであり、消された境界線を再発見し、境界線を越え出ていくことである。それは戻らぬ旅だ。漂泊の旅人とはそうした人間の生の真実を語るものである。そしてそれこそが小説『大菩薩峠』の人間論である。それは、文学的形象をもって把握された人間に関する認識である。
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【第二章】 傷ついた身体
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†記号としての身体[#「記号としての身体」はゴシック体]
何かしらえもいわれぬ宿命を背に負いながら行方も定めぬ道を旅人は行く。
『峠』のなかの漂泊の旅人たちとは、それぞれどのような人間たちであろうか。人間のあり方を決める尺度を身体に見出すことができるだろうか。
『峠』を読んでいると、奇妙な事実に気づく。登場する人間群像のすべてではないが、少なくとも主要な人物たちは、身体に傷をもっているのだ。この傷は喩《たと》えではなく、文字通りの傷なのである。傷と言って悪ければ、彼らの身体のどこかが欠如しているのである。部分の欠如あるいは傷を中心に眺めると、傷のない身体や欠如のない身体もまた、傷の観点から光を当てて、考えなおして見ることもできるのではなかろうか。
傷や欠陥一般ではなくて、傷や欠如と言われるものがどのような状態であるかが重要である。どの傷も同じとはいかない。身体のどの部分がどのように傷ついているのか、また欠如しているのかが、いつしか身体の持ち主の性格を決めていく。
傷や欠如は、身体に刻み込まれた記号であり、記号の位置や、記号と記号の関係の性質によって、記号を担う身体もおのずから性質を変える。傷や欠如は一般にマイナスの記号である。けれどもマイナス一般などは意味をなさない。同じマイナス記号でも、他のマイナスの記号との関係でマイナスの意味内容が変動する。同時に、マイナス記号とプラス記号との関係からも、特定のマイナスの記号の意味あいも変化する。身体の場合、傷や欠如がマイナス記号であるなら、プラス記号は、傷のない身体、欠如のない身体である。
傷のある身体と傷のない身体の観点から、登場人物を眺めてみるとどうなるか。
†奇妙な身体[#「奇妙な身体」はゴシック体]
漂泊者たちは、当然のことながら身体をもっている。当たり前にすぎて問題にもならないくらいである。しかし本当に彼らの身体は当たり前の身体なのであろうか。人間であるから身体をもつのが当然すぎることで、それをわざわざ問題にするにはおよばないといってすますことができるのだろうか。普通なら、人間であることと一体の身体などは無視してもいい。ところが『峠』の物語を仔細に観察すると、彼らの身体は、人間が呼吸する空気を自明とするほどの自明さはない。彼らの身体はどこか奇妙なのである。その奇妙さと異様さが、とくに『峠』では目につく。言い換えれば、人間の身体は、人間の精神と同様に、この物語では決定的に重要な役割を果たしているのである。身体もまた物語の重要なキャラクターであり、決定的なファクターなのである。どうして無視してすますことができようか。
もちろん、おびただしい人物が登場する小説のなかで、ありふれた身体も多々ある。論じるまでもなく分析の必要もない身体が存在する。すべての身体が奇妙だとここで主張しているのではない。そうではなくて、主要人物たちのすべてではないが、かなりの多数の重要人物たちの身体はどこかぎくしゃくしているのである。他方では、正常な身体をもつ主要人物のほうは、身体が正常であるに比例して精神のほうも、プラスとマイナスの記号がどちらであるかは別にして、どこかぎくしゃくしている。正常な身体といえども自明なものとして扱っていいかどうかはわからない。傷ついた身体が、人間関係のなかで、正常な身体と精神に反作用することもありうるのである。重要なことは、正常でない身体、欠損のある身体の現象であり、それがすべてを測定する尺度にすらなっていると予測することができる。作者自身が意図的に正常ならざる身体を登場させたかどうかは、確定することができないし、またそれを確かめる必要もない。ともかく傷ついた身体が厳然たる事実として実在し、それが物語のなかで死活を制する役割を果たしていることに注目することが肝心なのである。
傷ついた身体が現実に存在していることに気づいてはじめて、傷のない身体一般が当たり前でない意味をもっていることが見えてくる。傷のない身体にあえて注目するときには、単に健康であるというのではなく、傷も欠如もなく健康でありながら、どこか膨らんだりへこんだりしている身体のほうに視線が向かう。過剰な身体(たとえば普通ではない肥満の身体)、過小な身体(たとえば、普通の標準からは異常に小さい身体)なども、傷や欠如ではないが、やはりどこか奇妙な身体であると言えよう。
一度はこうした視線の変更を施した上で、『峠』の人物たちの身体を眺めながら、それらの身体をグループにわけてみよう。
1 傷ついた身体
『大菩薩峠』の主要な人物たちは身体障害者である。彼らは自分の身体のどこかに傷をもっていたり、どこかの身体部位を欠如している。
†眼の傷、視覚の不在[#「眼の傷、視覚の不在」はゴシック体]
机竜之助[#「机竜之助」はゴシック体] 彼は最初は眼が見えていた。彼は大和での勤王《きんのう》派の蜂起にいきがかりに参加し、戦闘のなかで爆薬によって失明する。これを境に彼は盲目の状態で日本列島をさまよい歩く。その後の竜之助が巻き起こす事件は、この盲目である事実が重要な役割を果たす。彼は失明を一時の病とみなして、失明を癒すための努力も重ねる。高尾山の蛇滝にこもったり、白骨《しらほね》温泉にこもって眼の病気の治療にはげむ。眼の病気を癒す行為は、竜之助の意志から出ることでもあるが、そこには必ず女性が介添人として登場する。高尾の蛇滝では、小名路の宿の娘お若と山の娘お徳が世話をし、白骨温泉ではお雪が世話をする。竜之助の盲目は女性を引きつける。富豪の娘お銀は、竜之助が盲目であるからこそ魅惑されていく。竜之助は美男子であるから女性を魅惑するばかりでなく、眼の欠如のゆえに女性をひきつけ、彼女たちを保護者に仕立てあげてしまうのである。
他方、竜之助が盲目になってはじめて、彼の音無しの剣法は、単に強い剣法から魔剣に変質していく。彼の殺人剣はますます冴える。盲目のゆえに彼にとって世界はつねに闇の世界であり、闇の世界だけが彼の真実の人生になる。竜之助は夜の人間になる。眼が見えているときにも竜之助は人殺しをしていたが、盲目になってからのほうが彼による殺人回数は多くなる。
視覚の欠如が他の感覚を研ぎすましたかのように、竜之助は盲目になると人間の殺しかたに一段の進歩をみせ、ほとんど芸術的な殺人の域に達していく。五感は研ぎすまされ、忍者のようにすばやく行動し、盗賊のようにどこからでも出入りする。剣で殺人をおこなうばかりか、腕による首しめの術にも熟達していく。夜行動物のように昼間はごろごろと寝てすごし、夜になるとあたかも異常な視力をもつかのようにどこにでも出没し、男女の区別なく殺人を犯していく。血を見たり、なま暖かい人の首を絞めてみないと生きている実感がないようになるのだ。
物語では竜之助が食事をする場面はほとんどない。飛騨の高山でお雪が竜之助に尾頭つきの魚を料理する場面ぐらいが例外である。竜之助にとって、お雪が親切からつくってくれるおいしい料理よりも、暗黒の闇のなかで人間に血を流させたり、人間の首を絞めて断末魔のうめき声を聞くほうがはるかに上等の食事に見える。温かくてぬるぬるした血に触れたり、殺人による苦悶の声を聞くことだけが、咽喉《のど》の渇きを癒し、身体の栄養分になるとなれば、竜之助はもはや人間というよりも妖怪か亡霊に近い。こうして竜之助は、無明の闇をさまよう魑魅魍魎《ちみもうりよう》のひとつになっていく。
そのような彼でさえもどこかで自己の救済を求めている。彼が忘れ形見の郁太郎と故郷の青梅沢井を想い起こすときには、激しい望郷の気持ちにとらえられ、いてもたってもいられなくなる。彼は自分が生きているのか死んでいるのかわからないと語るほどには、自分の悲惨な状態を自覚してもいる。お銀と一緒にいるときや、白骨温泉でお雪と暮らすときには、殺人から遠ざかるのを見れば、彼にも人並みに生活を楽しむ期待はあるのだ。殺人と束の間の平和のあいだを往復しながら、竜之助には彼なりの脱出をひたすら求めているといえよう。いかにして妖怪か亡霊のごとき存在から逃れるか。これが竜之助の個人的な願望夢になる。竜之助はよくいわれるようなニヒルに徹した剣士などではない。
弁信[#「弁信」はゴシック体] 「オヤ、どなたか私をお呼びになりましたか」と、誰もいないのに突如として言葉の洪水をばらまく希代の饒舌家弁信法師は、眼が見えない。弁信の眼の傷もいわくがありそうである。
弁信は弱視に生まれついて、十七歳頃から完全に失明する。同じ盲目と言ってもそこが竜之助との違いである。弁信は視覚を除くすべての感覚が異常に発達している。眼が見えないからと言って、彼が日常生活で困難を感じることはまったくない。聴覚はとうてい人間とは思えないほどの鋭さをもち、通常の人には聞こえない音をも聞き分け、音を通して音の発生源の何ものであるかを判断できる。それどころか、彼の聴覚は空間をどこまでも飛び越えて、たとえば甲州の上野原にいて、信濃と飛騨の境にある白骨温泉の人物の動きすら聞き分けてしまう。普通の意味ではありえない能力を弁信はもっているように物語では設定されている。これを超能力者のごとく神秘めかして理解するには及ばない。小説のなかではあたかもそのように描かれているが、そうではなくて弁信は人の心を読むと見たほうがいい。つまりその人物が特定の状況のなかでこうむるであろう可能性を読み取り、人がどこにいても彼または彼女の状況からその心の動きを遠くから正確に判断することができるのである。
弁信は、誰かに会えばただちにその人物のなんたるかを把握し、その人物の心の隅々までを言い当てることができる。弁信は盲目であり視覚の欠如に悩むかに見えるが、けっしてそうではなく、彼の世界は竜之助と違って無明の闇ではない。むしろ反対に、弁信にとって世界は無限の光に満たされており、暗闇も影もいっさいないと言えるだろう。弁信の心の眼はいっさいを見通す。彼の洞察力から免れるものはない。弁信はたしかに視覚障害者であるが、彼は肉眼をもたないがゆえに、すべてを見ることができる。
こうして竜之助と弁信を、眼の傷または眼の欠如の観点から比較すると、二人は形式的には類似しているが、内容はまったく別ものである。竜之助が無明の闇の住人であり、夜行性の怪物であり、死と悪の権化であるとすれば、弁信はあますところない光明の世界の住人にして、完全な無垢の人である。
視覚の欠如という点では同じであっても、二つの身体的欠損は記号論的に対称的である。一方はプラスであり(弁信)、他方はマイナスである(竜之助)。弁信と竜之助は、物語の構成上、不可分のカップルになる。『峠』について、人はしばしば竜之助と駒井甚三郎を対比させて語るが、その対比は妥当ではない。竜之助に対比される人物は、その異常と異例さにおいても、身体的欠損に関しても、光のあり方に関しても、あるいはさらに言葉の過剰(弁信の異常なおしゃべり)と過小(竜之助の寡黙)に関しても、弁信以外にはありえない。
物語の展開の基礎的な対称軸は、竜之助対弁信に設定されていると見ることができる。竜之助がどういう人物であるかは、竜之助だけに注目して読むだけでは一面しかわからない。竜之助の物語に限定して彼を判断すると、しばしば、ニヒリストの天才剣士だとか、剣の道に一生を捧げる求道者だとかといったロマンティックな解釈が生まれる。竜之助の人間的本質は、弁信が竜之助について語ることを参照してはじめて明らかになる。弁信は竜之助の無明性を暴きだし解読させる基本コードになる。他方、弁信という奇妙な人物を知るには、弁信の行動だけではなく、竜之助の行動との対比から一層明らかになる。もっとも弁信は、竜之助とだけかかわるのではなく、後でも見るように神尾主膳やお銀ともかかわり、彼らの内面を暴きだしてみせる。その点では弁信は、すべての人物に関してではないが、少なくとも身体と精神に傷をもつ主要人物の内面の歪みを写しだす鏡になっている。他者の鏡になり、他者の内面の正常と異常を写しだす鏡面の役割をする人物は弁信以外にもあるが、それについては後で語ることにする。ここでは、最も主要な人物である竜之助と弁信の関係を、眼の傷あるいは視覚欠如を中心に、対比的に把握することの重要性を強調しておきたいのである。
†傷ついた顔[#「傷ついた顔」はゴシック体]
感覚器官のいずれかが傷つけられるのではなくて、顔の全体が傷ついているか、顔の一部が傷ついているものがいる。部分であれ全体であれ、傷のある顔は異様である。尼さんばかりを犯す顔面に刀傷をもつ強盗の親分(あじまの小鉄)を除けば、顔面に傷をもつ主要人物は二人いる。お銀と神尾主膳である。
お銀[#「お銀」はゴシック体] 甲州有野村の富豪の娘であるお銀は、火傷で爛《ただ》れた顔をもっている。彼女は、幼くして母をなくし、父親が後妻をもらったことに腹を立て、不幸な家族関係から家族だけでなく、人間全体を憎悪で呪う。彼女は化け物じみた自分の顔を人前にさらすのを恐れて、つねに御高祖頭巾《おこそずきん》で覆っている。頭巾で顔を覆うという身振り自身が、すでに彼女を昼間の人間から夜の人間に変えている。
顔の喪失は、精神の喪失を伴う。精神は歪み、自分以外の他人をすべて憎んでやまない。自分だけが不幸だと感じ、幸福そうに見える人間をあらゆる手管をもって、自分と同じ不幸を味わわせたいとひそかに願うようになる。憎しみだけが、生きている証になる。お銀は、傷ついた顔のゆえに、そうした人生を余儀なく送ることになる。
まだうら若いお銀には、男を愛する道がふさがれている。自分が愛を感じても、相手から愛される見込みは、その爛れた顔のゆえにまったくない。人が眼をもち、視線をかわすかぎりは、お銀には愛の成立する余地は残されていない。しかしもし男が盲目で視覚を奪われているなら、お銀にも男女の愛の可能性が生まれてくる。お銀の愛の対象は、盲目の男である。盲目の男は、お銀の顔には関係なく、お銀の肉体と精神をまるごと受けいれてくれるにちがいない。お銀の顔の喪失は、もうひとつの盲目という身体の欠如をもってして埋め合わせられる。傷ついた身体が、別の同じ傷ついた身体を追い求める。こうしてお銀は、偶然のきっかけから、盲目の竜之助を愛するようになり、竜之助が彼女から去っても、その後をひたすら追いかける。お銀の人生は、不可能な愛の成就と自分だけの王国という個人的願望の実現を目指した、行方定めぬ旅となる。
神尾主膳[#「神尾主膳」はゴシック体] 神尾は人生の倦怠《けんたい》につきまとわれたぐうたらな旗本である。倦怠から逃れるために、ただひたすら悪事をたくらむしか、人生の生きがいを見出せない。あるとき、ふとした偶然から神尾は弁信法師と出会い、酒乱のうえで弁信をつるべ井戸に投げ入れて殺害しようとする。そしてこれまた偶然から神尾は、弁信を殺すはずであった井戸のつるべによって顔からまんなかの肉をそぎ落とされる。神尾の顔の中心に大きな眼のような穴があく。神尾は「三ツ目の化け物」になる。彼は顔を剥《む》きだしにして外を歩くことができない身の上になる。これも身から出た錆であるが、本性から悪人にできている神尾は、三ツ目になることでますます悪人らしくなる。彼もまたお銀と同様に、頭巾で顔を隠すようになる。彼は精神において悪人であるが、顔の傷によって悪人の相貌を一層完成させる。
†傷ついた足[#「傷ついた足」はゴシック体]
スネに傷をもつというのであれば、ほとんどの登場人物はスネに傷をもっている。そして比喩的に言えば、例の竜之助は、あるときから夜の闇をあたかも足がないかのように、大地をすべるように、あるいは空中を浮遊するかのように、歩くようになる。これは所詮喩えの話でしかない。そうではなく、けっして比喩ではない足の傷を問題にするとなれば、なんといっても宇治山田の米友をあげなくてはならない。
米友[#「米友」はゴシック体] 米友は片足に傷をもつ男であり、びっこをひいて歩くと描写されている。彼は、びっこでがにまたという典型的な不具者として登場する。それだけではない。米友はいっぱしの大人であるが、その身体は四、五歳の子供の大きさでしかない。米友を眺める人はたいていは子供がやってきたと思う。子供たちは、米友を大人だと知りつつも子供として受け入れている。米友のまわりにはいつも子供たちが群がる。子供たちは米友をけっして不具者としてあつかわず、友人として遇する。子供たちには偏見がない。米友は、身体においてだけでなく精神においても、最も良い意味で子供のような大人である。
米友は、足に傷をもつ人であるばかりか、身体自身もまた傷つけられている。身体の大きさが小さいだけではない。彼の顔は老翁のような顔だと描写されている。四、五歳の幼児の顔を老爺の顔にすげかえると、宇治山田の米友ができあがる。西欧には「せむしのこびと」がいるが、日本の米友はせむしではなく、「びっこのこびと」である。とはいえ、米友が背中に荷物を負って歩くときは荷物が歩いているかのように見える。荷物を背に負う姿は、あたかも「せむしの侏儒」になる。しわだらけの老爺の顔をもち、足が悪く、こびとのような身体をしているとなれば、米友は神話や民話のなかでしかお目にかかれない人物なのである。
事実、米友は神話的な力をもっている。身体は小さいが、槍をもたせたら第一級の達人に変身する。彼は熊と格闘しても勝つことができるほどの怪力の持ち主でもあり、米友にかかれば、横綱や大関級の相撲取りもふっとぶ。天才剣士の竜之助ですら米友の槍に打ち勝つことができないことからも、米友の武術の凄みが知れる。米友というキャラクターのなかに、日本の民話的人物である「一寸法師」が引用されていると見てよい。不具の身体と奇跡的な力とのアンバランス。そこに解放的な笑いが生まれ、一瞬の和解の境地が生まれる。知的な駒井甚三郎とか魔剣の竜之助といったうっとうしい人物にくらべると、なんと米友は解放的人物であることか。この人物が『峠』のなかできわめて重要な役割を果たすのは当然のなりゆきである。
七兵衛[#「七兵衛」はゴシック体] 青梅の百姓でありながら、大盗賊として登場する。七兵衛はどこといって身体に欠陥はない。普通の意味では七兵衛はけっして不具者ではなく、まっとうすぎるくらいに健全な身体をもっている。しかし七兵衛の物語には足がつねに問題になる。彼の足は普通の足ではない。見たところどうということもない並みの足でしかないが、彼の足は大地を飛ぶように歩く。竜之助はすれ違いざまに七兵衛を斬ろうとするが、きわどいところで七兵衛は竜之助の剣先をかわすほどに、彼の足はすばやい。
並みはずれた足をもつことは、普通ならプラスの価値をもつのだが、七兵衛はその早足のために百姓に満足できず、希代の盗賊になることを宿命づけられる。彼の早足は、足の傷ではないが、やはり足の欠陥であり、独特な意味での足の不具なのである。極端な早足という身体的欠陥のゆえに、七兵衛の運命が狂う。この運命の狂いを七兵衛は一生かかって訂正しようとする。彼は、早足の盗賊であるがゆえに、いつも追手を警戒しながら生きていくほかはない。それは不安な人生である。なんとかしてこの人生を清算したい。七兵衛が大地を見捨て、海洋のなかに新天地を求める駒井の植民計画に希望を託すことになるが、それもすべては彼の足の欠陥からきたことである。
†手の欠如[#「手の欠如」はゴシック体]
『峠』のなかでは、手に傷をもつというよりも片手の欠如した人物は、「がんりき[#「がんりき」に傍点]の百」しかいない。この男は、七兵衛の相棒の盗賊であり、脇役でありながら、なかなか興味深い舞台回しをやってのける。彼はもともとは両手があり、五体満足の健全な身体をもっていた。かなりの色男で女たらしである。いい女と見れば、一度は口説いてみたくなるのが彼の性分であり、それはしばしば成功する。あるとき、ふとしたことから(がんりき[#「がんりき」に傍点]の百の場合には、たいていは女たらしが原因で事件が展開する)竜之助に片腕を斬り落とされる。普通ならこれで盗賊商売から足を洗ってかたぎの商売人に転身するところであるが、この「がんりき[#「がんりき」に傍点]」は片手の一本がないくらいで、盗賊を引退するような男ではない。彼は片手一本を器用にあやつって、身の回りのことも屋敷に忍び込むことも楽々とやってのける。甲州のお城の天守閣や江戸城に忍び込むくらいは朝飯前なのである。
がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は七兵衛の相棒となり、一緒に行動することがしばしばある。姿かたちからすれば、七兵衛から片手を差し引けば、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百になるが、二人の精神は相当に違う。七兵衛は自分の並みはずれた足がつくりだす宿命を苦にして悩み、それからの解脱を期待し、そしてそれゆえに七兵衛は根っからの悪党にはなれない。彼はあくまで義賊に徹する。ところが、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、生まれついての盗賊であり、いい女とうまいものの快楽があれば結構満足して生きることができる。がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は現状で満足する。つまり彼は、片手を失うことで罰をうけたのだが、その罰を苦にしない快楽主義者なのである。物語のなかでは所詮は脇役でしかないが、彼はそれなりの愛すべきいたずらをもって、小さな渦を巻きおこしていく。彼は大きな渦の周辺にある飛沫なのである。しかし飛沫とはいえ、それが物語の展開を助けるのであって、どうでもいいわけではない。
†傷ついた耳[#「傷ついた耳」はゴシック体]
耳に欠陥のある人物として明快な描写があるのは、『峠』では、中国人のコック金椎《キンツイ》だけである。彼は、駒井甚三郎の家で料理人をつとめるが、どうやら生まれつきの聾唖者である。彼は耳が聞こえず、口もきけない。対話は紙の上に文字を書くことで行われる。中国人にしてキリスト教を信仰する人物という設定からしてすでに異例の人物であるが、加えて聾唖者であるから二重に異例のキャラクターである。おそらく物語の展開のなかで重要な役目を帯びることになっていたのかもしれない。彼の活躍は、海洋植民国家の建設のなかに予定されているはずであるが、作者の死による作品の未完のために、われわれはその活躍を見ることはできなくなった。
金椎だけをみるなら、たまたまひとりの聾唖者がいるというにすぎない。しかし耳の傷の不在を中心にして、耳のもうひとつの「傷」、すなわち聴覚の異常が浮かびあがってくる。七兵衛が異常な足をもっている事実が、足の欠陥をもつ人物から照らしだされるように、耳の機能の欠如は耳の機能過剰を照らしだす。聴覚の異常発達が一種の傷であるなら、そうした耳をもつ人物もまた、独特な意味で不具あるいは身体障害者に見えてくる。聴覚の欠如が、聴覚の横溢に健全であること以上の意味を付与するのである。
耳あるいは聴覚を軸にして人物対比をするならば、金椎に対比されるのは、まずは弁信法師であろう。弁信は、視覚機能の欠如をおぎなう聴覚の異常発達をとげた人物である。論理的には金椎と弁信はどこかで、現実的な接触関係があってよいはずであるが、実際にはない。しかし弁信の聴覚異常にごく近い人物がいる。それが清澄《きよずみ》の茂太郎である。茂太郎は、人間のなかにいるよりも動物のなかにいるほうが安心できるという「野生の人間」である。彼は動物と対話できるほどの、独自の感性をもっているし、弁信の聴覚に似た聴覚をもっている。茂太郎もまた、どこといって身体の欠陥はないのだが、「自然の子」、「野生の人間」という点で、普通の意味では異常であり、一種の身体感覚の不具者でもある。事実、駒井は茂太郎を精神的に「未熟なもの」と呼んで憐れんでいる。しかしそれは駒井という常識人からそう見えるだけで、茂太郎が本質的に未熟なのではない。彼は、自然に最も近い意味では完全な人間ですらある。
とはいえ、普通の意味では、茂太郎は弁信と同様に異常人間である。彼は金椎との対比関係の位置を、弁信に代わって占める。事実、金椎と茂太郎は、駒井の海洋共和国のメンバーとして行動を共にする。ここには、聴覚の過剰(充実)と過小(欠如)の対称が見られる。
†語る口の欠如[#「語る口の欠如」はゴシック体]
器官としての口はあるのだが、言語を発する口の機能に傷のついた例がある。前項で指摘した中国人のコック金椎が、耳も聞こえず口もきけない人物であった。さらにもう一人の人物がいる。この人物は、もともとは五体満足な人間であったのに、他人の暴力によって口に傷を負わされて、口がきけなくなる。それが、お銀の最初の恋人である「幸内」である。彼は神尾主膳に誘拐され、毒をもられ、身体拷問をうける。毒のゆえに、彼は発語機能を奪われる。明示的に発語機能を欠如した人間としては、『峠』ではこの二人しかいない。いずれも主要な人物ではないが、それなりに印象深い。
死者たち[#「死者たち」はゴシック体] しかし発語機能が欠如した存在者は、彼らだけであろうか。かつて普通に口をききながら、あるときから口をきけなくなった人間がいる。その種の存在は物語ではかなり多数いる。それが死者たちである。死者は、生きている間はまっとうにしゃべっていたのだが、しばしばたいていは、非業の死をとげた後で、冥界にはいる。しかし彼らは、それで役割を終えるのではない。彼らは、夜の世界で活動する。彼らは、かかわりのあった人物の夢のなかで雄弁にしゃべりまくる。非業の死をとげるとは、『峠』ではたいていは、竜之助の剣で殺されたものたちである。彼らは、竜之助の夢のなかに登場し、うらみつらみをのべる。とくに竜之助の妻であったお浜の登場回数が最も多い。
死者たちは、この世ではもう口をきくことはない。しかし死者は、生き残った生者の精神のなかで雄弁に語る。生者が、悪夢を見るときに、あるいは死者を追悼するときに、死者は対話の相手として登場する。竜之助の犠牲になった数多くの女性たちは、『峠』の重要なキャラクターとみなすべきである。彼らは口を傷つけられたばかりでなく、身体全体を傷つけられたのである。彼らは傷をつけた生者にたえずつきまとう。そうすることで、彼らを傷つけた生者を、死者の世界の住人にしてしまうのである。竜之助が、いつのまにか生きながらに亡霊に変身するのは、死者という傷つけられた身体なしには考えられない。
眼の欠如という比較基準を立てるときには、前に述べたように、竜之助と弁信は、盲目の内容の根本的差異によって対比関係におかれるが、存在の全体を比較するならば、竜之助との対称関係の位置にあるのは、竜之助の犠牲者としての死者たちである。竜之助と死者たちは、本来の同行者であり、カップルである。
動物たち[#「動物たち」はゴシック体] 口をきけない(きかない)存在がいる。それが動物たちである。動物は、器官としての口はあるが、口で語らない。彼らは、さえずり、吠えるが、語りはしない。『峠』のなかに無視しえない活躍をするのは、動物たちである。これらの動物をとりさると物語の面白さが半減するほどに、彼らは『峠』ではかなり重要な役割を演じている。
犬、熊、牛、オオカミ、鳥、鯨などが登場する。
犬とは、伊勢以来、お君と米友につきしたがってきたムクである。熊のように大きな犬で、どのような難関をも突破できるスーパードッグである。熊は、米友が別れたムクを偲んで可愛がるみなしごの子熊である。牛や小鳥やオオカミは清澄の茂太郎の相棒である。とりわけムク犬が小説では大活躍する。彼は脇役のように見えるが、おそらくは準主要キャラクターである。
ここに注意すべき事実がある。『峠』の特色のひとつは、人間と並んで動物たちが大切な演技をすることである。たとえばムク犬は、動物の代表であるというにとどまらず、人間と同様の、そしてしばしば人間以上の活躍をする。ムクは、当然ながら人間のように主人にはなれないが、人間の従者以上の従者であり、人間ではとうていできないほどの保護者である。人間なら従者役をつとめれば、それ相応の報酬を要求する。しかしムク犬はけっして報酬を求めない。彼はひたすら主人に奉仕する。彼は、反対給付を期待しないでもてる力を贈与する。
ムク犬の活躍ばかりに目を奪われるとつい忘れることだが、ムク犬のふるまいの描写は、あの、口と耳に障害をもつ金椎のふるまいにそっくりである。金椎は、けっして自己主張せずに、命じられたことを忠実に実行するばかりでなく、人が求める以上のことを進んでやってしまう。金椎はお返しを期待しない贈与者なのである。行動の仕方において、金椎とムク犬はほとんど同じである。金椎が動物と同じだと言うと彼をおとしめるかに聞こえるがそうではない。むしろ反対であって、ムク犬も金椎も、あくまで脇役に甘んじ、ひそかに善をなす「義人」である。犬を義人と言うのも変だが、しかしムクはひょっとすると、動物の形をした口のきけない人間の比喩ではないかとすら思われる。
ムク犬も、口(発語機能)の欠如という点では、申し分のない傷ついた身体の所有者ではないか。まさにそうであるからこそ、もの言わぬ生き物としてのムク犬は、ありうべき共同体の不可欠のメンバーになるだろう。事実、ムク犬は、金椎と同様に駒井の海洋共和国に参加するだろう。偶然にそうなるのではなく、彼らの参加は理由があってのことである。その理由とは、傷のある身体にある。傷のある身体をどのように受容するかが、新たなる共同体の建設の試金石になるのだから。たとえこのユートピア建設が失敗に終ろうとも、その失敗の原因は、ムク犬や金椎の身体にあるのではく、別のところにあるだろう(これついては別に論じる)。
雑種的存在[#「雑種的存在」はゴシック体] きわめて些細なことだが、『峠』にはまことに奇妙な存在が登場する。それは生き物と言っていいのか、架空の想像物と言っていいのか判断に苦しむ。それを雑種的存在と命名しておこう。小さくて醜い点では、この雑種的生き物は、身体に傷のある存在だというべきである。それは存在からして最も手の込んだ不具者である。
雑種とは、一般的にはいろいろと思いつくことができるが、少なくとも『峠』の描写にそくして言えば、人間の生者と死者と動物との雑種である。それは人間とも死者の亡霊とも動物とも形容できないが、言葉を操る点ではまさに人間的であり、おぼろな夜の世界を徘徊する点では亡霊的であり、行動の面では動物的である。そのふるまいを見ると、彼の役割は、生者の世界と死者の世界とをつなぐことになっている。奇怪であり不可思議である。『峠』では、この雑種的存在は「ピグミー」と呼ばれている。
「ピグミー」は、アフリカの背の低い種族のことではない。小さい身体だけが彼らから引用されているにすぎない。それは、極小の鼠ともヤモリとも区別できない生き物であり、口をきくかぎりは侏儒であるが、ローソクと油を食う点では猫か鼠の同類である。何度切られても再生する点では、それは下等動物に似ているが、所詮は化け物である。『峠』のなかの話では、この「ピグミー」は、不思議なことに、竜之助と弁信にしか姿を見せない。言い換えれば、目の見えない人間にのみ姿を見せ、彼らとしか交流しない。生者については盲人にとってのみ登場するが、死者とも話をする。盲人にしか見えない奇妙な存在が、この「ピグミー」なる雑種的存在である。彼は、盲人と死者に献身的に奉仕する。ここにも、ひそかな贈与者がいる。その献身ぶりは、典型的な「従者」であり「助手」である。それはある種のサンチョ・パンサである。
この雑種的存在が竜之助と弁信にのみ現われると述べたが、これは重要なことを示唆している。竜之助と弁信が雑種的存在と対話できるという事実は、彼らもまた雑種的存在であることを裏から指示している。雑種的存在がこの世とあの世とを媒介するものであるのだとすれば、竜之助も弁信も、人間と非人間との境界(峠、みなと、さかい)を踏み越えて、両世界を往来できる異常な存在であることを証明しているのである。
弁信は無限の光のなかですべての存在と対話する。「オヤ、どなたか私をお呼びになりましたか」と言って登場する途端に彼は猛烈にしゃべりまくるが、彼は人間の誰かに話しかけているのではない。彼は誰もいなくても、話しかけるのである。彼は全自然に呼びかける。生きとし生けるものに、人間にも死者にも、太陽や星にも話しかける。他方、竜之助は無明の闇のなかで死者や亡霊と対話する。彼は人間であって、もはや人間ではない。「ピグミー」が弁信と竜之助としか対話しないということは、この二人がともに盲目であることでは同じ身体障害者でありながら、内容は正反対であること、つまり二人は敵対的分身であることを、ひそかに暗示しているのである。
竜之助と弁信。この両人の対称的関係は、『峠』の最も下層の対構造をなしている。それは「峠の旅人たち」が行き着くであろう二つの極限を示している。
2 傷のない身体
すでに示唆しておいたように、傷ついた身体に注目することで、はじめて傷のない身体に光があたる。傷のない身体は、傷ついた身体と対比関係におかれることによって、その当たり前の姿からは予想できなかった意味をもつようになる。五体満足は普通のことである。しかし身体が健全であり、満足な五体をもつことは、そもそもどういうことなのか。傷ついた身体を念頭におきながら、傷のない身体をいくつかの具体例に即してもっと考察してみなくてはならない。
†完全な身体[#「完全な身体」はゴシック体]
身体が充実しきっていて、円満である状態を「完全な」あるいは「理想的な」身体と呼んでおこう。このような身体は、「円」の喩えで表現できる。完全な身体とは「円形の身体」なのである。円い身体はすべて完全な身体である。『峠』のなかで「丸い」という形容句が出てきたときには、それは完全な身体を指示していると見てよい。
円の比喩が使用される人間が少数ながらいる。ひとりずつ眺めていこう。
慢心和尚《まんしんおしよう》[#「慢心和尚《まんしんおしよう》」はゴシック体] この和尚は物語では、甲州を舞台として活躍するが、物語の後半では登場しなくなる。その意味では、彼は興味深い人物であるが、一時的な登場人物である。慢心和尚の「慢心」とは、彼が慢心しているのではなくて、人々の慢心をいさめるという意味での「慢心」和尚なのである。作者の説明では、彼は顔が円いだけでなく、身体全体が円い。彼の口と眼は、巨大な円に喩えられ、彼の握りしめた拳もまた巨大で円い塊であって、巨大な円い口に、巨大な円い拳がすっぽりとおさまる。この和尚の奇妙な癖は、大きな口を開けて、大きな拳をそこに入れてみせることである。和尚のこのしぐさとみぶりこそが、彼の円満身体を特徴づけている。
くりくりとした円い眼、まんまるの口、まるく肥えた手と拳、そして身体の全体がころころと肥っている。この巨大な身体は、当然ながら、怪力を発揮する。彼は、拳ひとつで多数の無頼漢をあっという間に叩き伏せてしまう。また彼は、駕籠《かご》のなかにひとりの人間をいれて、それを片棒で軽々と担いで、長距離を歩き抜いても疲れすらみせない。姿形はいささか滑稽な感じがするが、普通の身体であることに変わりない。彼の身体だけを見ているなら、単なる怪力坊主がいるというにすぎない。しかし数多くの傷ついた身体を念頭におき、それらと和尚の身体を対比してみると、和尚の身体は一挙に特別の意味をもちはじめる。教養があるのかないのかはっきりしない、まるまる肥った体の滑稽な坊主は、その丸々しさのゆえに、完全な円形身体の原型になる。そしてこの慢心和尚的身体は、物語のなかで、文脈を変えながらいくつかのヴァリエーションを生み出していく。
与八[#「与八」はゴシック体] 捨て子の与八は、偶然のきっかけから机竜之助の父弾正に拾われ養育される。机家の水車小屋の番人をしている。竜之助が宇津木文之丞の妻お浜を誘拐して犯すのに関与して、それを一生苦にして生きる。与八は、ほとんど罪とは思えない行為を罪と感じて、それの埋め合わせに田舎の妙好人として生きる決意をするほどの善人である。
与八の身体は、慢心和尚の系譜にはいる。彼の身体も完全な身体である。円満な身体、エネルギーに満ちた身体、それは、和尚の身体と同じように丸々とふとっている。当然にも与八は怪力の持ち主である。しかし彼はけっして人の目があるところでは、その怪力を発揮しない。彼は人知れず自分のありあまる力を他人のために贈与する。
与八の身体は、作者の表現によれば、相撲取りのようにでかいと言われている。江戸時代の有名な横綱|陣幕《じんまく》に匹敵する巨体だと描写されている。与八の身体は、慢心和尚の身体を一層肥大させたものである。こういう身体は、よくあることで、それほど異例ではないだろう。むしろ背の高さとバランスのとれたきわめて自然な身体だとも言えよう。与八の身体が特別の意味をもちはじめるのは、それが単に巨体であるからというのではなく、一群の傷ついた身体との対比のなかにおかれるときからである。傷ついた身体たちに比べると、彼の身体は、まったく自然な身体でありながら、普通の身体のもちうる可能性を極限までにひきのばした理想の身体に見えてくる。与八の身体から見ると、並みの健全な身体ですら、貧弱であるばかりでなく、欠陥のある身体に見える。
傷ついた身体と傷のない身体の対比は、重要であるがまだ外面的である。傷ついた身体や傷のない身体といった表現は、内面の指標でなくてはならない。身体の形状は、身体の所有者の精神の形を表現する。したがって、傷ついた身体と傷のない身体との対比関係は、傷ついた精神と傷のない精神との対比関係にひとしい。すでに慢心和尚の円い身体が示唆していたように、慢心和尚は慢心をいさめる人であった。彼は、ただそこにいるだけで、世人の傷ついた精神を癒す。円形身体が、精神の治癒効果を発揮する。それは与八において一層完全に現われる。
まろやかで穏やかな性質、けっして怒らない性質、一切の貪欲から解放された人格、それが与八である。怪力があれば、普通なら少しは自慢をしたり、自己の利益のために振り回すこともありそうだが、そうしたことは与八におきない。慢心和尚には、まだ怪力をふりまわして、人々をびっくりさせるいたずら心がある。与八には和尚のそうした小さい欠陥すらまったくない。与八が慢心和尚よりも完全である所以《ゆえん》である。円い大きな身体は、精神の円くてひろやかな性質を外的に表現しているのである。
慢心和尚と与八との関係を示す挿話がある。和尚が与八をお供にして甲州に帰るときに見られる奇妙な事件である。
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……慢心和尚が傲慢《ごうまん》な態度で与八に[草鞋の]紐を結ばせておりましたが、与八が丁寧に結び終って後、和尚の背後には、数多《あまた》の豪傑連が送りに出ているのに、和尚は容易に動こうともしないで、与八の姿をじっとながめていたが、
「あゝ」
と感嘆の声を洩らし、そのまま与八の手を取ると、自分の腰をかけていたところへ腰をかけさせて、自分はその前へ土下座をきり、三たび与八に向って礼拝《らいはい》して出かけましたから、見送るほどの者共が、和尚気がちがったのではないかと怪しみました。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](「無明の巻」三十八)
これは和尚が与八のなかに自分よりも卓越した何ものかを承認した証である。身体的にも精神的にも、与八は慢心和尚の完成形態であり、円満身体の理想型である。
ところが、小説では、与八は「少々足りない」と特徴づけられている。知恵が遅れている、知性が少ないとも言われている。世間では与八をそう見ている。与八を拾い育てた机弾正もまたそう見ていた。だから机弾正は彼が水車小屋の番人に適当だと判断したし、竜之助もまた父と同様に、与八を単なる召使いとしてだけ扱うのを当然としていた。「少々足りない」と言えば、欠陥人間ではないかと誰もが思う。しかし本当に与八は知恵遅れなのだろうか、知性がないのだろうか。そう見る世間の人間のほうが欠陥があるのではないか。竜之助のように傷ついた身体の持ち主や、父弾正のように五体満足な普通の人間が、与八を欠陥人間と思い間違うほうが、かえって精神の欠如を露呈してしまうのである。
一見したところ愚者に見える与八の存在に照らして見れば、与八と関係があろうとあるまいと、他のすべての人物たちのほうこそが愚人に見えてくる、少なくとも精神的に傷のある存在に見えてくるのだ。与八に近い存在があるとすれば、宇治山田の米友と弁信と茂太郎ぐらいである。与八の円形身体は、他者の身体の傷を明るみにだす鏡となる。
田山白雲[#「田山白雲」はゴシック体] 田山白雲は物語の中頃から登場する。彼は武士でありながら、絵師を志して、貧乏に苦しみながら美の世界に没頭する。偶然のきっかけから駒井甚三郎と知り合い、お互いに馴染みを深めるうちに、白雲は駒井の海洋共和国建設に共鳴し、黒船「無名丸」のメンバーになる。白雲の芸術理念を中心に展開される美的世界の物語は、『峠』のなかで最も興味深い一編の絵巻であるが、身体を問題にする文脈では、これを傍らにおいて、白雲の身体形状だけに関心を払わざるをえない。
作者によれば、白雲は、丸々とふとった肉体をもち、背は高く、怪力の持ち主である。白雲を見れば誰もが全国武者修行をする剣術使いと思う。内部に繊細きわまる美的感性をいだきながら、見かけはまったく恐ろしげな偉丈夫である。こうした特徴づけからもすでに、白雲が慢心和尚や与八のヴァリエーションであることがわかる。和尚が外見の豪傑らしさにもかかわらず心やさしい人物であり、与八が巨漢の見かけに反して、完全なる妙好人であるのと同様に、白雲もまた和尚/与八型の身体をもちながら、内面には芸術家魂が燃えたぎっている。与八は地蔵仏を彫り、白雲は絵を描く。完全身体としての円形身体だけが、美と祈りに通じている。
その白雲は、駒井のグループのなかで重要な役割を果たす。駒井にはおさえきれないわがままなメンバーを、その怪力と偉丈夫さによって威圧し、ともすれば結束を乱しがちな「無名丸」グループの危機をのり越えさせる。白雲は、秩序を安定させるバランス装置になる。与八が人を引きつけるやり方とは異なるが、白雲もまた一種の人格的威信をもって人を制圧する。威信による服従を獲得できる精神の傾向を、白雲の巨大で円い身体は表現しているのである。
†普通の身体[#「普通の身体」はゴシック体]
完全な身体とそれに照応する精神は、他の普通の身体たちの一種の理念的原型であって、普通の身体たちは、円形身体の一部分のみを現わしているにすぎないのである。普通の身体、つまり物語に登場する数々の普通の健全な身体の所有者たちは、二つの角度から照明をあびている。
ひとつは、傷ついた身体からの照明である。傷ついた身体と傷のない普通の身体が対照させられるとき、二つのタイプの身体は相互に鏡になり、他なくしては自己がないような関係におかれる。異なる二つの身体がなんらかのやり方で関係してはじめて、それぞれの意味あいが浮かびあがる。たとえば、神尾主膳の傷ついた身体と駒井の傷のない身体との関係は、神尾の傷ついた精神と駒井の理知的精神との関係に等しい。
もうひとつは、完全な身体からの照明である。普通の身体は、完全な円形身体から光を受けると、いかにも貧しい。慢心和尚や与八の円形身体にくらべると、他の普通の身体は、一部分の特徴がどれほど際立っていても、やはり貧しい。たとえば、白雲の円形身体に対比されると、駒井の身体はいかにも弱々しい。それは身体に照応する精神の脆弱を示唆する。駒井は科学的精神において際立っているが、新しい共同体の統率者としての風格と品格を欠いている。白雲の援助ではじめて組織が保たれる。白雲の身体と精神が駒井の普通であるが貧弱な身体や局所的に肥大した精神の欠陥を、否応なく露呈させてしまうのである。
『峠』には、主要人物と準主要人物あるいは一時的な脇役がたくさん登場する。ここで述べた傷ついた身体の所有者と傷のない身体の所有者以外にも、数々の男女が大小の演技をしている。彼らはたいていは普通の身体の持ち主であるが、以上の二つの参照軸を中心においてみると、すべてがどこか不均衡をはらむ身体ばかりである。注意するまでもない普通の身体をもちながら、精神はどこか逸脱している。峠の旅人ばかりだから、誰もがどこかずれているのはやむをえない。しかし同じ峠の旅人であっても、参照軸に照らして、人間関係の構図のなかに収めてみると、ひとりひとりがそれなりの人格的逸脱者であることに注目しないわけにはいかない。
その典型が「長者町の医師道庵」である。名医のほまれ高く、貧民のための赤髭《あかひげ》医者である点では、精神のどこかで与八に通じるところがある。しかしひとたび酒が入ると、とんでもない逸脱をして、はた迷惑な人物に変身してしまう。あくどくない一種の酒乱とも言えるし、その点では、あくどい方向にずれていく別の酒乱の神尾に似ている。道庵の人格のなかに一本の峠の境界線が走っており、一方の側は毒気のぬけた神尾主膳的な世界であり、他方の側は与八的世界である。道庵はこの二つの世界を状況に応じて行き来している。彼の人格自身が峠的なのである。多少の条件を変更すれば、他のあらゆる普通の人物たちは、道庵的な二重性をもっている。そのように見せてくれるのは、傷ついた身体の光源と完全な身体の光源である。二重の光源がつくり出す人間関係の構図を設定してはじめて、『峠』の人物模様がはっきりしてくる。それぞれの人物は、単独ではほとんど意味をなさない。
身体の対比関係の仕掛けが重要なのである。試みに、『峠』という長い物語のなかから、主要人物を抜きだして、竜之助の物語、神尾の物語、駒井の物語、お銀の物語、白雲の物語、米友の物語、弁信の物語、お雪の物語、等々を編み直すこともできなくはない。そうした人物たちの物語が同時平行的に展開しているのだから、そうした操作は容易にできるだろう。しかしそれでは『峠』の構造は死んでしまう。『峠』の物語の仕掛けは、傷の現前/傷の不在、完全/不完全、正/負といった対称的構造にある。しかもそれぞれの参照軸が二重の光源をもっているのである。作者がそう意図したかどうかは確かめようがない。しかしわれわれが読む作品は、たしかにそうなっている。この仕掛けこそが重要である。この仕掛けをあぶりだす観点のひとつが、身体の類型的差異なのである。
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【第三章】 分身たち
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†分身と鏡[#「分身と鏡」はゴシック体]
『峠』を仔細に読むと、ひとつの奇妙な事実に気づく。それは分身の現象である。平たく言えば、多くの人物が似たもの同士になるのが分身の現象である。しかし一口に分身と言っても、角度により、比較の基準によって、そのつどに分身の相が違っている。いわば分身の現象形態が変動するのである。この分身現象を分析することから、『峠』の基本的構成がさらに明らかになるはずである。結論を先取りして言えば、『峠』の組立ては、分身たちを無限に反射させる鏡の構成になっている。ひとつの鏡があるのではなく、複数の鏡があり、さらにひとつの鏡が他の鏡になるという重層的な構成になっている。分身とは、鏡のなかの像なのである。
分身を『峠』において論じることは、鏡の構造のなかに取り込まれた人物たちを論じることにひとしい。それぞれの人物がどうであるか、どういうふるまいをするのかを語らないでは、またそれらの人物たちの相互関係を細部に即して描かないでは、分身ならびに分身化を語ることはできない。したがってここでは、部分的で概略的であるが、一種の人物紹介のような書き方になるだろう。
さて、分身を語るためには、人間をして分身たらしめる原因あるいは原動力についてあらかじめ触れておかなくてはならない。人間の分身化は、複数の他者とともに生きる個人が余儀なく抱える欲望から生じる。まずは欲望について語ることから始めよう。
1 欲望
†虚栄心[#「虚栄心」はゴシック体]
複数の他人と一緒に生きるときに生じる欲望は、空腹を満たす生理的な欲求とは違って、観念的な欲望である。自分の体面を重んじるために他人からよい評判を得たいといった虚栄心が、そうした対人欲望の典型である。虚栄心の働きを裏から見ると、それは他人の欲望を欲望するという奇妙な仕組みをもっている。人間は他人と一緒にいる場合、他人が何かをもっていると、それを欲しがるだけでなく、他人がもっていないものを手に入れて見せびらかしたいと思う。とりわけ他人が、自分がもっていないものをもっていると、自分もそれを入手して他人に負けまいと競争心を発揮するし、時には他人の所有物を奪って満足したいとも思う。
こうした心理の動きは他人なしにはありえない。言い換えれば、他人による評判や他人の目を気にするから、そういう心の動きが出てくるのである。社会のなかで生きるということは、他人の評価の目と他人の欲望の動きをいつも気にしながら生きることである。しかし人はしばしば、その事実を忘れて、自分の欲望を自分の内発的な欲望だと取り違える。社会の中で発揮される欲望はほとんど例外なく、他人の欲望への欲望である。個人の自発的に見える欲望は、基本的には他人の欲望(とその対象)の模倣なのである。他人の所有物を欲望するときでも、その事物が問題ではなくて、事物に向かう他人の欲望の働きが問題になっている。
この純粋に観念的な欲望こそが、人間関係のなかに愚かなふるまいを誘いだす。愚かさだけにとどまらず、ときには殺しあいや、死んでも癒すことのできない悲しみをもたらしてしまう。『峠』の人物たちもまた、御多分に洩れずこの愚かさの原因になる欲望の虜になる例が多い。いくつかのタイプがある。ひとつひとつ見ていこう。
†嫉妬[#「嫉妬」はゴシック体]
『峠』のなかでとくに目につくのは「嫉妬《しつと》」である。本人が嫉妬するときもあれば、他人に嫉妬をうけて苦しむ場合もある。いくつかの例を挙げておこう。
お浜[#「お浜」はゴシック体] 彼女は、夫の宇津木文之丞の剣術が竜之助の剣術に劣ることから、青梅の御岳神社の御前試合で竜之助に負けてくれと懇願するために、竜之助の道場を訪問する。しかし、竜之助は拒絶する。竜之助はお浜の美しさに一目惚れして、腕力でお浜を犯す。文之丞はこれを知り、嫉妬から竜之助を殺すつもりで試合に望むが、あえなく竜之助に殺される。これは、お浜をめぐって竜之助と文之丞の間で生まれた嫉妬の三角関係である。お浜は、自分では夫によかれと思う一心からの善意だと確信しているが、さかしらな計算からでしゃばったことをしたことに気づかない。お浜にも、夫にはない竜之助の剣術の天才に対する嫉妬や憧れがあったにちがいない。こうしてお浜は竜之助の妻になり、江戸に出てから夫婦喧嘩のすえに竜之助によって殺される。これが竜之助の女殺しの最初のケースになる。お浜は、竜之助をめぐる女性たち(宿命の女)の運命の原型になる(「甲源一刀流の巻」)。
お豊[#「お豊」はゴシック体] 彼女は、許嫁《いいなずけ》の男と心中するために待ち合わせの場所に来たとき、雲助に脅かされたところを竜之助に助けられる。彼女は予定通り男と一緒に心中をしたのであったが、不幸にも生き返る。これが竜之助との巡りあいのはじめになる。日陰者になったお豊は、大和の親類の家に預けられていたとき、近所の金蔵《きんぞう》というしつこい男につけ回される。偶然に再会した竜之助と一緒に江戸へ逃れようとするが、失敗する。彼女は、結局は金蔵の妻になるのだが、機会を見て金蔵から逃亡する。金蔵はお豊が男と逃げたと勘違いして、嫉妬から狂い死ぬ。再びお豊が登場するのは、伊勢の遊廓においてである。彼女は、お君のうたう「間の山節」を聞いて自殺する決心をし、竜之助のために稼いだ金と手紙をお君に託して自殺する。お豊が心中して助けられたとき、竜之助がお豊の顔を見て、お浜とそっくりだと言ったが、これはお浜の運命の反復を暗示する(「鈴鹿山の巻」、「三輪の神杉の巻」、「竜神の巻」、「間の山の巻」)。
お若[#「お若」はゴシック体] 小名路の宿屋の娘お若は武家に嫁いで一子をもうけるが、別の男に惚れたことがばれて、集団制裁をうける。不倫の相手の男とお若は丸裸にされて路上でさらしものになる。それを見ていた夫は嫉妬から発狂する。お若は、偶然にいあわせた竜之助に助けられて、故郷に帰り、彼女は爆薬で傷ついた竜之助の眼を治すために手厚く看病する。彼女は再び江戸へ出るが、そこで殺される。これはお豊の運命の反復であり、したがってお浜の運命の二番目の反復である。他方、お若の夫は、金蔵の運命の反復である(「小名路の巻」)。
お銀[#「お銀」はゴシック体] お銀は『峠』の主要人物であるから、じつに多くのことが語られるべきであるが、ここでは嫉妬にかぎって触れる。駒井能登守が甲府|勤番《きんばん》支配として甲州に赴任したはじめ、馬を買うために、馬大尽でお銀の父藤原伊太夫の家を訪問する。そのとき駒井は、お銀の召使いとして滞在していたお君に一目惚れする。顔に傷のあるお銀は、恋愛が不可能であることの諦念と、若い娘の情熱から駒井とお君に激しい嫉妬を感じる。お銀はお君よりも先に駒井に恋をしたからである。ここに、駒井をめぐる二人の女の三角関係が生まれる。お銀は駒井への愛を感じながら、自分の不幸な顔のために駒井への愛を断念し、お君を代理にたてる。彼女はわざとお君を駒井に近づけて、お君が駒井を愛するように仕向ける。これをきっかけにしてお君もまた駒井を愛するようになる。お君が駒井に近づくほど、お銀もまた駒井を激しく愛して、今度はお君を「敵」と感じるようになる。嫉妬は深くなり、憎悪に高まる。ここにお君の不幸な未来が芽生える。お銀の嫉妬からくる憎悪は、まわりまわってお君の悲惨な運命にかかわることになる(「伯耆の安綱の巻」)。さらに、お銀は、別の機会に、竜之助をめぐってお雪に嫉妬し、その嫉妬の反動から米友を誘惑し、米友からきびしくはねつけられる経験をする(「胆吹の巻」)。
神尾主膳[#「神尾主膳」はゴシック体] 神尾は自分が中心にすべてが動いているときには、悪党でありながら子分に対しても周りのものに対しても鷹揚《おうよう》で寛大なところがある。また後には、書道に励んだり、自分の半生を回顧する自叙伝に取り組んだりして、幾分でも真人間になるきっかけをつくろうと努力することすらある。そうした状態では、彼は嫉妬を感じることはない。なぜなら彼と対等にはりあう人間がいないからである。ところが、神尾が甲州に左遷されて、その上司に駒井能登守を迎えるときから、神尾は嫉妬の感情にとらえられる。駒井と神尾は、ともに上級旗本の家格であり、両者の地位の差異はあってもささいなものである。この「ささいな差異」が嫉妬の感情にはなくてはならない原動力なのである。神尾は嫉妬から出る憎悪をもって、駒井に対してありとあらゆる政治的陰謀をたくらみ、駒井の失脚をもたらし、失脚した後の駒井をあくまでつけまわす。神尾と駒井の関係は、神尾の方からの一方的な嫉妬である。これは地位をめぐる嫉妬のケースである(「駒井能登守の巻」)。
もゆる子[#「もゆる子」はゴシック体] 「岡本兵部の娘」として登場する女性で、あとで「もゆる」の名前がつく。なぜ「もゆる」かといえば、彼女は性について解放的な考えをもっているからである。性愛に関して封建的束縛を免れている登場人物は、この「もゆる」とお銀のみである。しかしこの自由性愛論者の「もゆる」も、駒井の「無名丸」に乗り込むときから、駒井とお松の関係に嫉妬する。彼女の嫉妬からひと騒動(もゆるとマドロスの駈け落ち)がもちあがり、駒井のユートピア共和国の危機の原因のひとつにすらなる(「白雲の巻」)。
以上は、とりあえず目につく「嫉妬」のケースを列挙したにすぎない。細かくひろえば、もっとたくさんあるだろう。それほどに、対人関係で生まれる欲望の描写が『峠』では多いということだ。裏を返せば、『峠』には人間に関する重要な認識が、文学的形象をもって提示されていると言えよう。つまり、欲望する人間の理論がここにはひそかに働いていると見たい。
†欲望への欲望[#「欲望への欲望」はゴシック体]
「嫉妬」の欲望は、男女関係に限らず、社会のなかで生きる人間たちの関係の原理として、一般化することができる。『峠』のなかで描かれる「嫉妬」模様を分析してみると、二つの側面に分解できる。
第一に、嫉妬は他人が所有しているものを欲望する。第二に、嫉妬は物への欲望ではなくて、物が他人によって所有されていること自体が決定的であり、したがって他人が何かを「もつ」ふるまい、所有する意図から何かに「近づく」ふるまいへの欲望なのである。他人が何かを「もつ」あるいは何かに「近づく」ことは他人の欲望であり、その欲望を欲望することが嫉妬の基礎的な原理になっている。
してみると、対他関係における人間の欲望は、たとえそれを自分のまぎれもない欲望であると確信しているとしても、本質においては他人の欲望なのである。「私」が何かを欲望することは、その何か(「物」)を欲望することを媒介にして他人の欲望を「私」の内部に取り込むことである。他人の欲望を物を介して内面化することは、普通のことばで言えば、模倣である。模倣の側面を強調すると、他人の欲望への欲望は模倣の欲望である。
前に簡単に示唆しておいたことを繰り返すなら、次のようになる。
任意の誰かが対象Xを指さす(何かを「所有する」あるいはそれに「近づく」といったふるまいがこれにあたる)と、それまでそれに無関心であった「私」は突如としてそれを所有したいと熱望するようになる。たとえば、男性Aがひとりの女性Cを愛するふるまいを見ると、このふるまいが現実的であろうと錯覚であろうと、別の男性Bは、いままでふりむきもしなかったそのCに愛を感じるようになる。BとCは無関係であったが、Aの登場がBとCを近づけるのである。BのCに対する愛の感情は、けっして内発的でも自発的でもなくて、Aという他者によって媒介された結果として生まれる。BのCへの愛は他人に媒介された空虚な愛であるにもかかわらず、彼はその愛を自分の内部から出た真実の愛だと錯覚している。したがって、媒介する他人Aが場面から消えてしまうと、BのCへの愛は一挙に色褪せることがあるし、たいていはそうなる。
他方、媒介する他人AがいつまでもCに執着し続けるときには、Bは対象Cの存在を忘れるまでにAとの間で嫉妬の闘争を続ける。この場合には、Cは愛の対象ではなくて、AとBの敵対関係の単なる媒介者になる。Cはあってもなくてもどうでもよくなる。男に言えることは女にも言える。そして一般に、社会のなかで生じる他人の欲望への欲望は、社会関係を動かす最も重要な力になる。
†羨望[#「羨望」はゴシック体]
嫉妬感情と羨望《せんぼう》感情は基本的には同じである。あえて区別するなら、嫉妬の感情は、物を介して他人の欲望に向かう傾向が強く、羨望は他人を介してもっぱらその所有物に向かって流れる。嫉妬感情は、人間と人間との衝突として現われ、羨望は物を所有する努力として現われる。Bの所有欲をかきたてるのが、Aの所有物であるとき、Bにおいて羨望の感情が生じる。
羨望の対象は何でもよい。羨望は、自分のまわりにあるもので、自分の手の届かない事物について感じる心の動きである。対象が何でもいいのだから、手の届かない対象が人間であるときには、それを「嫉妬」と名づけてもいい。その意味では嫉妬は羨望の特殊なケースであるとも言えよう。この区別を立てることで、嫉妬を参照軸にして観察される人間関係以外の人間の関係や行動に視線を向けることができる。『峠』のなかに登場する人間たちの描写を欲望の観点から見れば、前述の嫉妬的行動ばかりでなく、羨望的行動もまた視野に入ってくるだろう。
理知的人間として登場する駒井甚三郎は、西洋が所有する科学と技術を羨望しているからこそ、自分でもそれを手に入れたいと欲望する。田山白雲は、繊細な画家であるが、彼の心は狩野永徳《かのうえいとく》の才能を羨望して、わざわざそれを学ぶために仙台まで出かけていく。新撰組や勤王派は自分にはない権力を羨望し、それを獲得したいとねがって陰謀活動をする。淫乱のお絹は、日本の色男では満足しないで、西洋の色男を羨望する。七兵衛と「がんりき」は他人の財産を羨望し、盗みを芸術の域にまで高める。軽業の女興行師お角は、嫉妬もするが、とくに興行師としての名声を羨望し、それに命をかける。お君は、米友の批判にもかかわらず、駒井の「お部屋様」(妾の地位)を羨望し、真実の仲間を裏切ることになる。竜之助を兄の仇としてつけ狙う宇津木兵馬は武士の面目を羨望し、古い道徳に凝り固まった人生をおくる。これらは、すぐに目につくところを挙げたにすぎない。丹念に見ていけば、もっとたくさんの人物を挙げることができよう。
こうして『峠』の人物たちは、ほぼ例外なく、嫉妬であれ羨望であれ、他人の欲望を欲望しながら生きる人間たちである。
†分身の出現[#「分身の出現」はゴシック体]
他人の欲望を欲望しはじめると、人間は互いに同じ欲望をもつようになり、そうすることで互いに等質的になる。各人は、自分では独自の何ものかであると自負しながら、実際には知らないうちに他人の欲望に左右されて生きている。社会のなかで生きることは、多くの他人と接触しながら生きることであるから、複数の他人とのかかわりのなかで、人間についても物についても、さまざまな模倣の形式を経験することになる。こうした模倣の経験のなかで、そのつど、人間たちは欲望を媒体にして互いに類似した存在になっていく。つまり、彼らは互いに分身状態にはいるのである。そのつどの対物関係やそのつどの対人関係に応じた分身のあり方がある。
†「そっくりさん」[#「「そっくりさん」」はゴシック体]
この観点から『峠』を読むと、予想をこえるほど多くの分身現象に出会うことができる。『峠』には、かなり多くの「そっくりさん」が登場する。顔の「そっくりさん」、顔ではないが身体の形あるいは衣装から見た「そっくりさん」、宿命の「そっくりさん」などがある。まったく別の個体でありながら、これほど多くの類似体が登場するには、それなりの意味があるだろう。「そっくり」を「双子《ふたご》性」と呼ぶなら、分身状態は双子状態である。そして双子状態は、一般に不吉な現象である。人類は昔から分身または双子状態を忌避してきたが、それはおそらく社会の秩序の崩壊を示唆するからであった。
秩序とは、個体と個体の差異の組織化であるが、分身/双子状態はこの差異のシステムを渾沌の状態に戻すと人は想像してきた。そこに不吉の印象が生まれる。事実、『峠』においても、「そっくりさん」の描写はつねに不吉な印象を与えるし、「そっくり」になる参照軸が何であれ、「そっくり」の状態にとらえられた人間たちの運命はたいていは悲劇的である。その不吉な状態から免れる人物があるとすれば、別の要素が介入しなくてはならない。この問題はまた後で論じるとして、とりあえず「そっくりさん」の具体例を挙げておこう。
顔の「そっくりさん」の例としては、お浜とお豊、お銀と「赤松の息女」、お君と駒井の妻、浅吉と政吉がある。
甲府に単身赴任した駒井能登守は、江戸に残した妻とそっくりの顔をしたお君に惚れて、彼女を「現地妻」にする。お君は駒井にとって妻の代理であり、身代わりである。お君はここでは妻の分身である。
竜之助は旅の途中で、自分が殺した妻お浜とそっくりのお豊にであって、お浜の再来と思う。お豊はお浜の分身であるが、それは顔の双子性ばかりでなく、宿命の双子性を示唆している。お豊は、お浜のように竜之助の手で殺されることはないが、悲惨な宿命は同じである。
慢心和尚の寺のとなりに向岳寺という尼寺がある。それを開いたのは、南北朝時代の播磨の武将赤松入道円心の息女だという。その息女の顔はあたかもお銀にそっくりである。「そこで花のように美しい面《かお》へ、無惨にも我れと焼鏝《やきごて》を当てて焼いてしまいました」(「慢心和尚の巻」八)。昔の女性の生まれ変わりがお銀になる。お銀は赤松の息女の分身である。さらに奇妙なことは、このお銀の前身である赤松の息女が開いた尼寺に、お銀が自分とそっくりに仕立てて駒井の「お部屋様」に送り込んだお君がかくまわれることになる。さらにそこからお君は、お浜の生まれた小泉家に移される。この筋書きは、お浜とお銀とお君がなんらかの因縁で結ばれていることを暗示する。それは宿命による分身的反復とも言える。
浅吉と政吉は、飛騨の高山の生まれで、ふたりは兄弟である(多分、双子の兄弟)。浅吉は、高山の穀物問屋の金持ちの淫乱後家(「イヤなおばさん」として登場)の男妾であるが、この後家と一緒に竜之助によって殺される。同じく貸本屋の政吉は竜之助によって殺される。顔のそっくりは宿命のそっくりになる。その点で浅吉/政吉のカップルはお浜/お豊のカップルに等しい。
顔ではなく肉体と姿形の「そっくりさん」の例としては、何度も出てくるように、お銀とお君の関係がそれである。小説のなかでは二回ほど言及される。第一は、すでに途中で触れたように、お銀は甲州でお君を自分とそっくりに仕立て、自分の分身としてお君を駒井に送り込んだケースである、第二に、米友が、お銀が風呂に入っている後ろ姿を見て、お君と間違えるケースである。前のケースでは、お君はお銀の分身であった。後のケースではお銀がお君の分身である。なぜなら米友はお銀をお君のある種の分身として親近感をもち、かつてのお君/米友カップルにかえて、お銀/米友カップルが出来上がるからである。
ついでにつけ加えておくと、『峠』の主要人物のひとりお雪もまた、分身状態のなかにある。偶然のきっかけから「小名路の宿」の姉娘のお若は竜之助に助けられ、お返しに彼女は竜之助の眼の病気を癒す世話をする。お若の死後に、妹のお雪が竜之助の眼病の治療の世話をすることになる。ここでは宿命の因縁によってお雪は、お若と姉妹であるだけでなく、お若の分身である。お雪は、お若、お浜、お豊の運命を共有してもいいのだが、そうはならない。つまり竜之助にかかわる女性はたいていは悲惨な最後を遂げることになっているが、お銀とお雪だけがこの運命を免れる。ここが『峠』の物語のなかで重要なところである。しかしここではこの問題は宙吊りにしておこう。
分身であることは、必ずしも双子性ないし「そっくり」である必要はないが、なんらかの形で「そっくり」であることは、やはり分身状態のひとつの特質である。別の言葉でいえば、異質な個体が特定の状態ないし文脈に入ると、等質的になる状態を、双子性とか「そっくりさん」で表現することはできるし、またそれが正当な処理の仕方である。『峠』のなかに頻出する「そっくりさん」物語は、作者の筆のなぐさみでもなければ、勇み足でもない。それは『峠』の物語の構成がそのような語り口を要求するのである。おそらく作者は「そっくりさん」を仏教的な輪廻転生の思想で描いているのかもしれない。いやきっとそうであろう。しかし作者とおなじ立場で「そっくり」現象を受けとめる必要はない。作者が輪廻転生の観念で解釈した現象は、社会的人間の欲望が生み出す人間の分身化の論理に置き換えて読むことができるのである。そこに、作者の意図をこえて、作品としての『峠』がわれわれに与える人間認識がある。それは作者の思想を論じるだけでは把握することはできない。作品の内容に即してはじめて理解できる何かがあるのだ。それを読み取ることが、テクストとしての作品を読むことであり、そのためには読み取りの構図を読み手が設定しなくてはならない。ここでは、それをひきうける読みの構図が分身論になる。
2 群衆
†群衆の不気味さ[#「群衆の不気味さ」はゴシック体]
『峠』のなかで、分身現象とならんで群衆が登場することは重要である。群衆という現象は、分身の現象と密接不可分である。群衆は、それに巻き込まれた人間たちを、当人の意図がどうあれ、ことごとく等質化し、各人の個体的特質を消去して、マッス(群衆・塊)につくりかえてしまう。「そっくりさん」、双子的な存在を個々別々に見ていると、群衆などはどこにも現われないが、実は、「そっくりさん」現象がそれを包む群衆的構図のひとつの現われであり、あるいは徴候になっている。分身現象のなかの等質化傾向は、群衆の傾向なのである。だから分身や「そっくりさん」が出てきたときには、その背景に、たとえ直接的ではないにせよ、群衆が存在すると予測してもまちがいはない。
『峠』では、その背景はぼんやりと描写されるのが普通である。作者は群衆の存在を、それとして指摘するのではなく、間接的に、世間の「うわさ話」として、あるいは流言蜚語《りゆうげんひご》として提示する。「世間ではこう言っております」とか、「いまどこそこの町ではかくかくのようになっていると人は申しております」といったように、かすかに群衆の飛沫だけが話題にのぼせられていく。人間たちは、こうした「うわさ話」や流言蜚語に惑わされたり、引き回されたりして、右往左往する。それだけなら問題はない。まちがった情報でまちがった判断をして、自己を欺き、他人を断罪したりする。そうして、群衆化した人間たちは、罪なき他人に罪を押しつけ、しばしば殺害にまで直進してしまう。ここにこそ群衆の本質が露骨に現われてくる。分身化はそっくりになるというだけでなく、人間たちが一個の等質的な団塊になることでもあり、それが不吉なのは、異質な存在を踏み殺していくからである。
†多数性[#「多数性」はゴシック体]
群衆の外面は人間の数が多いということである。竜之助の認識もそれにとどまる。
「一体、人間が多過ぎるのだ。」
だから竜之助は結論する――そんな連中は斬り殺してしまえばいいと。いくら殺しても、斬って捨てても、あとからあとから生まれ、うごめいてくる人間に対する憎悪心が、潮のようにこみ上げてくるのを押さえることができない。竜之助がなぜ人を斬るのか、という疑問へのひとつの解答がここには与えられている。『峠』冒頭において、竜之助が老巡礼を斬り殺す場面があるが、それは唐突であるだけに不条理な殺人に見える。それは理不尽ではあるが、竜之助なりの理屈をもっていたことがわかる。竜之助の殺人は、人間の群衆化への反逆であり、群衆への憎悪からそれは出ているのであった。とはいえ、竜之助の群衆認識はまちがっている。それはまったく皮相な把握である。それを完膚なきまでに批判し、竜之助の反抗的行為がいかにまちがっているかを教えさとすのは、ほかならぬ若き弁信法師である。
†驕り[#「驕り」はゴシック体]
弁信は、竜之助の夢のなかで、こう演説する。
[#この行2字下げ] 「みんな一つの増上慢心から起るのでございます――すべての罪のうちの罪、悪のうちの悪の源は、増上慢心でございます。この世に戦いより男子を救い、罪の淵《ふち》から女人を無くするためには、何を措《お》いてもまず、この目に見えぬ一切の悪の源である増上慢心を亡ぼさなければなりません――三千人の人を殺すより、一点の増上慢心の芽ばえが悪いのでございます。あの修羅の巷の人と人との殺し合いも、この底知れない血の池の深さも、もとはといえば、その隣りの人に示す人間の誇りが、芽ばえでないということはございません、一人に誇る優越が、万人の羨《うらや》みとなり、嫉《ねた》みとなる時に、早や千業万悪の種が蒔《ま》かれたのでございます」
[#地付き](「弁信の巻」六十)
弁信のいう他人に対する「誇り」とは矜持ではなくて、虚栄心である。この虚栄心が増上慢心(ヒュブリス)を生み、嫉みと羨やみを際限もなく繰り広げる。弁信は、虚栄心が、人と人との争いと殺し合いの原因であることを見抜いている。虚栄心とは、自尊心とひとつであることも、ここでは完全に見抜かれている。そうして、すでに見たように、虚栄心とは、他人の目と評価を気にすることであり、他人の持ち物を嫉むことであり、他人が持たないものをひけらかすことである。それは、畢竟するに、他人の欲望を欲望することである。前に述べた欲望の原理を弁信の演説は正確にとらえている。罪と悪の源泉は、虚栄心、つまり他人の欲望への欲望から生まれる。ここに社会のなかで生きる人間の修羅の巷を明晰に洞察する精神がある。そしてこれこそが、作者が作品の冒頭に掲げた人生マンダラの理念よりも、ずっとよく『峠』の根本的構想を照らしだす。弁信の発言は『峠』を解読する最良の鍵である。
†弁信か竜之助か[#「弁信か竜之助か」はゴシック体]
まことに正鵠を射た弁信の欲望の理論も、罪業からの目覚めと知恵にいたる人間の可能性を前提にしてはじめて意味をもつ。もし人間が覚醒も知恵にもいたりえないとすれば、どうだろうか。これもなかなかに否定できない厳然たる事実である。そうなると、今度は竜之助の立場が重くのしかかってくる。罪業からも目覚めず、知恵などを虚仮《こけ》にしている「多過ぎる人間」としての群衆に対して、竜之助は斬り殺しを提言しているのである。竜之助は夜な夜なの殺人行為をもって、おのれの「理論」を実証しているかのごとくである。弁信か竜之助か。この対立図式は『峠』の世界を最後まで貫いていく。『峠』における文学的認識があるとすれば、それは欲望的人間論である。作者は、欲望(虚栄心)が生み出す罪業に対する実践的態度に関して、弁信的なものと竜之助的なもののうちどちらを選ぶのかを、読者に委ねている。軽率に結論を出すことはできない。なぜなら、現在でもわれわれは、弁信の路線にひかれながらも、実際には竜之助の路線を実現しているのであるから。
さて、『峠』のなかに登場する群衆の具体的姿には二種類ある。ひとつは、リンチ群衆であり、もうひとつは祝祭群衆である。
@リンチ群衆
リンチ(私刑)を実行しないでは集団の秩序を維持できないと妄想する群衆がいる。いやむしろ、群衆はリンチを必ず内在させていて、いつでも必要に応じて発動すると言ったほうがよい。ひとりひとりを見ると、平生は誰もが温和でやさしい。ところが、ひとたび彼らが群衆のメンバーになると、態度を一変させて獰猛なリンチ群衆の一端をになうようになる。他人の欲望を自分の欲望と取り違えるのが人間の通常の姿であるが、それは、弁信風に言えば、虚栄心による深い罪業を生みだす。罪業の典型のひとつが集団リンチである。リンチの形式にはいろいろある。単なるいじめから脅迫や打ち壊しまで程度の差は多様である。その最後の極めつきが殺害であり、その殺害にはたいていはいつも正当化の弁明がくっつく。
†排除[#「排除」はゴシック体]
『峠』のなかで最初に出てくるリンチ群衆は、「貧窮組」の脅しである。貧民たちが近所の人々から食料または金品をゆすりとり、共同飲食を街角で行う。共同飲食をすることでは、このリンチ群衆はお祭りの群衆でもある。もしゆすりの要求を拒むものがあれば、群衆は暴力をもって家屋を打ち壊し、住民を追放する。「貧窮組」は外面は、貧しい連中が暴徒になり、暴動を起こしているだけに見える。しかし暴徒の暴動はたいていはリンチ群衆のなせる業なのである。そして暴徒の心理の動きは、他人の所有物への羨望と嫉妬である。目端のきく物持ちは、群衆の圧力に抵抗しないで、自分もまた貧民であるかのごとくよそおい、嵐をのりきる。反対に、群衆の不合理な要求を断固としてはねのける人間は、徹底的なリンチにあう。
『峠』では、貧窮組の犠牲者は、天才的経済人間である忠作少年である。忠作は経済合理性に徹する知的な人間であり、いわば駒井能登守の経済版である。失脚した後で房州の洲崎で近代的船舶を建造している駒井が、近隣の封建的な武士たちやそれに煽動された住民から暴力をもって追われるように、希代の計算合理的人間である忠作少年もまた、近隣の群衆人間から追放される。
†犠牲者作り[#「犠牲者作り」はゴシック体]
駒井や忠作は、合理的人間であるがゆえに、群衆に抵抗する。彼らもまたそれなりに犠牲者であるが、それはいわば自分からそうなることを選択したとも言える。そうではなくて、ふつうの人間が犠牲になる例がある。思想や理念のゆえに犠牲になるのではなくて、ただそこにいるだけで、群衆化した人間の群れの犠牲になるのだ。危機があり、群衆化が生じるとき、誰もが何の罪|咎《とが》なしに犠牲者に仕立てられることがある。任意の誰かに人身御供の嵐がおそう。これが最もおそろしい。
軽業の女興行師お角が房州へ船でわたるとき、嵐にあう。船頭は、船の転覆を避けるために、荷物を海に投げ捨て、帆柱を切り落とし、やるべきことをすべてやり尽したが、どうしても船の転覆はさけられない。神仏に祈るだけでは嵐はやみそうもない。そのとき船頭は船の客たちにこう提案する。
[#ここから2字下げ]
「まあまあ、皆さん、まだ脈はあるんだからお静かになせえまし、気を鎮《しず》めておいでなさいよ……ここでひとつ、一世一代の御相談が始まるんだ。というのはね、今いう通り、どうもこりゃあ人間業じゃあござんせんよ、たしかに海の神様に見込まれたものがあるんだ、それで、海の神様が、いたずらをなさるんだから、海の神様をお鎮め申さなけりゃ、この難を逃《のが》れっこなし。……どうです皆さん、気を揃えて、ひとつその相談に乗っておくんなさいまし」
…………
「それぢゃ、どうすればいいんだ」
「この船でいちばん大切なものを、たった一つ投げ込めばそれでいいでさあ」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](「安房の国の巻」四)
こうして船頭はお角の顔をみながら、彼女が「人身御供」になることを全員に提案する。船頭の理屈では海神が女のお客を嫉んでいたずらをするのだから、暴風を鎮めるには女客を犠牲にすればいいという。「たった一人」を犠牲にすれば、残る全員は助かる。これが典型的な神話的思考であり、犠牲者作りの普遍的論理である。『峠』は、嵐のときの海上の船を舞台にとって、人間が恐怖と動揺のなかで群衆化する事態を描いている。それは、なんらかの危機から生まれる人間の集団の一般傾向を、具体的描写をもって指摘している。犠牲者(人身御供)という太古の神話的観念が噴出してくるのは、いつも危機のときであり、その危機を回避する手段は、たいていは「たったひとり」を「気を揃えて」(全員一致して)犠牲者にすることである。白羽の矢がたつのは、いつも女か弱者である。
これと類似のケースがある。前にも触れた「小名路の宿」の長女お若が江戸で姦通の罪を着せられて私刑にあう場面がある。
[#ここから2字下げ]
……この制裁は、単純なる意味の喧嘩や口論とは違って、これは土地の風儀で、重《おも》なる人が先に立ってやらないまでも、その為すことを黙許しなければならない制裁ですから、立って見ている者のうちにも、必ずやかわいそうだと思う人も、一人や二人ではあるまいけれど、それを、どうとも口出しの出来ない性質《たち》のものでした。たとえ、役人たちが通りかかっても、それと聞いては、見て見ぬふりをするよりほかはない種類の制裁に属するものでありました。
……その道ならぬ恋を重ねて露《あら》われた時に加えらるる制裁は、時によりところによっては、非常な惨酷な私刑となって現われて来ることがあります。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](「小名路の巻」十五)
私刑をする人間たちはリンチ群衆である。しかしまわりにいる見物たちもまたリンチ群衆の参加者である。「可哀相だと思う人」でも見て見ぬふりをする以上はリンチ群衆のメンバーになっているのである。またそうした沈黙の参加者の応援をもってしてはじめて、リンチ群衆はリンチ群衆の実質を倍加させる。この群衆は見物人をも群衆のなかに巻き込む迫力がある。というのは、同情者が同情を口と行動で表現する時には、それは犠牲者と同類とされ、これもまたリンチにあうからである。だからとりなしをするものは一人としてない。彼らは「同情を表すことが自分の弱みになることを恐れる」(同前)からである。
ついでに言えば、このお若の私刑の場面に弁信がたちあっている。弁信だけが、ただひとりお若のために弁明し、救済を提案している。弁信は、いつも決定的なところで重要な役割をする。人々が群衆化し、私刑を実行するとき、弁信だけが、群衆の欲望から遠く離れて目覚めた人になっている。彼だけが、たとえはねつけられても、犠牲者のためにおのれの命を投げだす勇気をもっている。他人の欲望などいっさい関係のない人、つまり他者の欲望を欲望しない人、そのゆえに群衆の心のうちまでも洞察できる人、それを冷静で覚めた人という。後に弁信は、姉のお若と同じ宿命を辿る危険を冒す妹お雪のよき相談相手になるだろう。お雪は、弁信のおかげで、お若の悲惨な運命を共有することを免れることになる。弁信は癒しと救いの人である。
A祝祭群衆
†「えいじゃないか」[#「「えいじゃないか」」はゴシック体]
下総国小金ヶ原で奇妙なものが流行する。唄に合わせて夜通し踊りつづける群衆がいる。お札が降り、世直しの噂がひろまる。噂が拡大するにつれて集まる人々の数も増大する。物売りの店が多数生まれ、神を祀《まつ》る社までできる始末である。制御できないほどの人数が、小金ヶ原に向けて押し寄せてくる。「えいじゃないか」の群衆のうごめきは、社会の秩序の箍《たが》がゆるんだときに生じた。周知のように、この群衆運動を倒幕運動に利用する陰謀があった。しかし群衆が出現するにはどのきっかけでもかまわない。だれが音頭をとっても、集まる口実があればいいし、天から札が降ってもよい。世直しが近い気分に浸ることができればなんだってよいのだ。人々は日常を抜け出して、非日常のお祭り気分になればいい。
『峠』では、「えいじゃないか」の中心に「清澄の茂太郎」がいる。彼は「えいじゃないか」の唄と踊りの音頭とりに祭りあげられる。
[#この行2字下げ] ……その何百人が声を合わせて歌う声は、いつも茂太郎が口笛一つに支配されている。彼等の声がいかに高くなり、いかに雑多になろうとも、馬を曳いて真中に立つ茂太郎の口笛だけは高々として、すべての声と動揺との中に聳《そび》えています。その口笛によって音頭があり、音頭があって初めて身ぶりがあるのでした。
[#地付き](「禹門三級の巻」四)
小金ヶ原の評判が高くなると、噂がひろまり江戸まで響いてくる。末法の世の中になり、救われるためには信心が肝心だというわけで、人々は歌い踊るだけでなく、信仰のために小金ヶ原まで出かけるようになる。これを利用して金儲けに精だすものまである始末だ。噂と流言蜚語は群衆のなかに神話的妄想を逞しくさせ、これが一歩間違うと祝祭群衆から私刑群衆に転換することは、事柄からして当然の成り行きである。事実、音頭とりをしていた茂太郎は、最初は単なる音頭とりであり、それなりに楽しめるものであったが、最後には群衆の囚人のごときものになり、一種の人身御供になる。茂太郎は群衆によって祭り上げられると同時に、群衆の犠牲者になる。彼は殺されることはなかったが、弁信のおかげで(またもや弁信!)無事に群衆の犠牲者の運命から逃げることができた。
「えいじゃないか」の現象に出会った青梅の盗賊七兵衛は、こんな感慨を漏らしている。「どうも人間てやつは、ああして集まって人気が立つと、逆上《のぼ》せあがって人間が別になってしまうんですね」(「禹門三級の巻」六)。七兵衛も弁信と同じく醒めている。人間が別になること、これこそ人間の群衆化の真実である。馬上の茂太郎を見て、七兵衛は「人身御供」だと評するのも、まことにしかりである。祝祭群衆が根本ではリンチ群衆であることが明白になる。「誰かが裏にいて、煽りたてる奴があるんだよ」。そのように、群衆は、祝祭群衆であれリンチ群衆であれ、神話的妄想の虜《とりこ》になるだけでなく、いつも上の権力に利用される運命にある。群衆は、誰かを犠牲にしつつ、おのれもまた他のより大きい勢力に同一化し、そうされることに満足しつつ、利用される。
†群衆の寄生者[#「群衆の寄生者」はゴシック体]
群衆は裏で操られもするが、寄生者をもついでに生み出す。『峠』ではこの寄生虫族は、道庵のまわりにいる「プロ亀」と「デモ倉」に代表される。医師道庵とこの連中は敵対する。その限りで道庵は、群衆の祝祭的側面にいかれるところがあるけれども、群衆の寄生者ではけっしてない。『峠』のなかで平和的なお祭り人間があるとすれば、それは道庵だけである。道庵は、祭りは好きでも、群衆に同化することはできない。彼は、アルコールには酔っ払うが、群衆には酔わない醒めた人間のひとりである。ところが、「デモ」と「プロ」は違う。彼らは群衆の脇にいて、それを食い物にする。これに対するあてこすりは、作者が生きていた時代の政治勢力への風刺であると思われるが、それをこえる一般的な意味を持つようだ。肯綮《こうけい》にあたる批評であるから、引用しておこう。
[#ここから2字下げ]
あいつらは平民の味方でも何でもないのだ。飯の種に新しいことを饒舌《しやべ》り廻るだけで、たとえば大塩平八郎みたように、イザといえば、身を投げ出してかかる代物《しろもの》ではなく、佐藤|信淵《しんえん》のように、経済論から割り出そうという代物でもない。デモの調子のいいときにはデモ、プロの風向きのよかりそうな時はプロ、つまり時の運気につれて飛び廻る蠅だ。あんな奴等の存在することは、本当の平民社会の信用を害し、その実際精神をさまたげ、かえって、人間に貴重な忍耐とか、奉公心とかいう方面の徳をすり減らすだけが能だ。
[#地付き](「他生の巻」二十三。なお用語に注釈をつけておくと、デモ倉はデモクラットを、プロ亀は「プロレタリア革命派」をもじっている。)
[#ここで字下げ終わり]
このように政治的ワイワイ連、作者の造語で言えば「ファッショイ」連もまた群衆社会の共犯的形成者である。あらゆる要素が共同して、人間を群衆につくりかえていこうとしている。この点では、作者が生きた時代も現在の時代も、本質的に変わりはない。
3 兄弟にして敵
†対抗の構図[#「対抗の構図」はゴシック体]
分身の構図の観点から『峠』を読むと、何かが見えてくる。登場人物たちがなんらかの形で他人の欲望に囚われた人間たちであり、そうであるがゆえに互いに分身になる。そういった分身の光を物語の深部まで届かせてみるなら、そこにゆくりなくも分身たちの対抗的構図が浮かびあがってくる。
分身たちの対抗関係は、単に対比の関係ではない。対比なしには対抗はないという意味では、前に見た傷ついた身体/傷のない身体の対比構図は、対抗的関係を理解するための基礎的な条件である。傷の現前/不在の対比という身体図式に、人物たちの対抗という分身図式が加わる。
登場人物の数だけの分身図式があると言える。大小の分身たちが乱舞し、それらの分身たちの対抗的行動が他の分身たちの対抗的行動とからみあう。分身図式のグループが形成される。それぞれのグループが渦巻をつくり、グループとグループがさらに一層大きい渦巻をつくりだしていく。細部の関係が徐々に大きい関係を、しばしば「偶然のハズミ」からつくりだすプロセスを追跡するのも、大切な仕事である。しかしここではそれをつぶさに書き留める余裕はない。そこで基本的な構図にのみ注意を集中することで満足しよう。
二つの大きな分身図式が並存している。二つの基礎的な分身図式は『峠』の物語の展開の背景ないし機軸になっている。
@駒井グループ/神尾グループの分身図式
†兄弟/敵[#「兄弟/敵」はゴシック体]
個人としての駒井甚三郎と神尾主膳の対抗ないし競《せ》り合いは、小説のなかでは種々の話柄によって描写されるし、それがまた読書の醍醐味にもなっている。彼らの対抗関係を構図として把握するには、間接的には前に見た身体図式から光を当てることができるし、神尾の欲望の動きからも照明を当てることができる。同じ旗本でほぼ同格の身分にあり、同じ職場(甲府勤番)のなかで二人が生きるとき、役職上のごく小さな違いは下に立つものにとって嫉妬の原因になる。距離が小さいだけに、嫉妬から生まれる憎悪は大きい。神尾の駒井に対する憎しみはしつこく深い。二人が無関係になっているときですら、神尾の憎悪はけっして消え去らず、駒井の名前が出るたびに、神尾は怒りから悪口雑言をあびせかける。軽業の女興行師お角にはその神尾の行状が不思議に思われる――「神尾が、ひとたび駒井能登守の噂《うわさ》になると、酔っているとは言いながら、口を極めて悪く言うことが、お角には不服でもあり、不快でもあるのであります」(「安房の国の巻」六)。
神尾の方から一方的に駒井を理不尽に憎悪しているのではない。駒井の方も、たとえば神尾とお銀の婚姻話が出たときに、旗本の結婚の伝統的作法をもちだして、身分違いの婚姻が伝統にもとると言って、この結婚をぶちこわしてしまう。駒井の行動には神尾から憎まれても仕方のないものがあった。こうして二人は、いくつかの機縁がむすぼれあって、似たもの同士の敵対関係に入る。似たもの同士(兄弟)を分身という。そして分身はかならず敵対する。駒井と神尾は「兄弟にして敵」である。
†運命の相同性[#「運命の相同性」はゴシック体]
この兄弟/敵の関係をさらに象徴的に示唆する事件がある。それは、駒井と神尾の「失脚」をめぐる原因の相同性である。駒井はお君を愛し、彼女を「お部屋様」にする。駒井は彼女の出身身分を知らないで、「現地妻」にするが、神尾はお君が伊勢の被差別部落(エタ・非人の身分)の出であることを知り、これを武器にして駒井の失脚を画策し、成功する。それは駒井が神尾の結婚話を壊したことへの復讐であると同時に、神尾の地位|簒奪《さんだつ》の野望でもあった。
他方、神尾は、お君の従者であるムク犬を殺そうとして、甲州の「犬殺し」の長吉と長太(エタ・非人の身分)を雇うが、彼らはムク殺しに失敗する。神尾は激怒から長吉と長太を「エタ・非人の分際で」とののしり、槍で突き殺してしまう。長吉と長太を殺された被差別部落の住民は、神尾の屋敷におしかけて抗議するが埒《らち》があかず、ついには神尾の手下と武闘を演じる。この事件をきっかけにして、神尾もまた失脚する。理不尽に人を殺したばかりでなく、旗本がエタ・非人とかかわりあったことが処分の理由である(「黒業白業の巻」)。
してみると、駒井も神尾も、被差別部落の人々との関わりで失脚したのである。失脚の理由が正当であると否とはここでは問題ではない。彼らの没落の原因の相同性が重要である。駒井と神尾は、出身においても、人生の経路においても同じであるばかりか、世間からの追放の原因まで同じである。その限りで彼らはまさに宿命的な敵対的分身同士なのである。
さて『峠』では、駒井/神尾の個人的対抗関係があるばかりでなく、両者の集団が存在する。駒井と神尾は、二つのグループの象徴的人物であり、それぞれの中心である。各グループのメンバーもまた、駒井/神尾の対抗に類似した対比と対抗を行動において示す(その典型がお松/お絹である)。そして二つのグループの中間を行き来する人物もいる(たとえば、お角、七兵衛、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵)。
A竜之助/弁信の分身図式
†光と闇[#「光と闇」はゴシック体]
竜之助と弁信は、盲目(傷ついた眼)である点で同型であるが、盲目を生きる仕方、両者の盲目の世界の内容の面では、正反対であり、対称的である。彼らは、同じ傷ついた身体(身体の部分)をもちながらも、人生の旅路をたどる精神において、単に対称的であるばかりか、敵対的でもある。一方は光であり、他方は闇である。
彼らが敵対的である運命は、『峠』ではなまなましく描かれている。竜之助は弁信を斬る。弁信の身体には、その切り傷が残り、その傷から痛みもなくいつまでも血がにじみでてくる。弁信は先天的に弱視(若年で失明)として生まれた不具の身の上に加えて、竜之助の刀によって身体全体が傷だらけになっている。弁信の身体に深く切り刻まれた一本の長い傷跡は、竜之助と弁信の敵対関係を象徴するだけでなく、その傷を通して竜之助は弁信の生きるかぎり弁信にしばりつけられたことをも暗示する。二人は、空間的に遠くかけ離れていても、弁信の傷によって、離れることができない。弁信の身体の傷は、弁信の身体に抱え込まれた竜之助なのである。二人は、どこまでも、人生の同伴者なのである。この意味で竜之助と弁信は、互いに分身でありながら、同時に、対抗的で敵対的ですらある。
†癒しの弁信、魔力の竜之助[#「癒しの弁信、魔力の竜之助」はゴシック体]
駒井/神尾の対抗する集団があるのと同様に、竜之助のグループと弁信のグループとでも言うべきものがある。『峠』のなかで竜之助のグループに当たるものは、竜之助を中心に結集する女性群像である。お浜、お豊、お若、お雪、お銀などがこれに入る。弁信にはグループに当たるものはないかに見える。弁信と人間的に関係するのは、ひとり清澄の茂太郎だけであるからだ。しかし物語のなかで、弁信のまわりに、少なくとも二人の女性が引きつけられてくる。それが竜之助を慕うお銀とお雪である。
竜之助に魅惑される女性は、原則的にはお浜と同じ悲惨な運命をこうむるはずであった。前に、お雪が姉のお若とそっくりな運命のなかにいながら、お浜的な運命から免れるのはなぜかという問いを立て、それを宙吊りにしておいた。ここにいたってようやくこの問いに答えを出すことができる。お雪は、竜之助に魅惑されながらも、他方で弁信を保護者にすることができた。お雪は竜之助にかぎりなく近づいていく。彼女は竜之助の眼の治療につきそう看護者の位置から、竜之助を恋する女に変身していく。しかし彼女は、竜之助に接近すればするほど弁信に助言を乞うようにもなる(「白骨の巻」)。これを別の形で言えば、お雪は、弁信のおかげで竜之助の魔力から離脱することができるのである。彼女は決定的に竜之助と切れるわけではないが、少なくともお浜の運命は免れる。
お雪が竜之助の魔力から本当に離脱するのかどうかを知るには、外見的にはお雪がお浜の運命に近づくケースを吟味するのがよい。お雪は、近江の長浜に来て竜之助の世話をしながら、二人で夜の琵琶湖に船を浮かべる。船上でお雪は竜之助に向かって、自分が姉のお若と同様の運命になることを自覚しているのだと告白する。そうして、お若あるいはお浜の運命を共有するべく、お雪は竜之助に心中を強要する。そして実際に、二人は心中するのであるが、お銀の父伊太夫とお角によって救われる(「農奴の巻」六十一、「京の夢おう坂の夢の巻」六)。
ここでのお雪のふるまいは、一見すると、竜之助に殺されたお浜と心中の失敗者お豊の運命を同時に実現しているかのようであるが、そうではない。お雪は、竜之助に振り回されるのではなくて、竜之助に対して指導権を発揮して、自主的に心中を提案している。竜之助はお雪の言うままになっている。竜之助にはもやはかつての魔力はない。お雪は竜之助を道づれにするほどに自立している。お雪のなかで、竜之助の無明が弁信の光明に敗北したのである。
同じことはお銀にも言える。顔面にも心にも傷をもつお銀は、竜之助と弁信には心を開く。お雪と同様に、お銀は、竜之助と弁信がつくる深い溝の淵にたっている。お銀は、一方では竜之助の無明の世界を共有しながら、他方で弁信の無限の光明の世界をも共有する。お銀の精神のなかで、相反する二つの力が綱引きをしているとも言えよう。お銀もまたお雪と同様に、弁信のおかげで竜之助の魔力から解放される。そしてついには、彼女は竜之助を自分の支配力のなかに封じ込めることができるようにすらなる(「胆吹の巻」)。こうなればお銀がお浜の運命に陥ることはありえない。それかあらぬか、お銀は、同じく竜之助を慕うお雪にすら嫉妬を感じることもだんだんとなくしていくし、憤怒にとらえられることもなくなる。まさに弁信の勝利である。
弁信はお銀の隠れた真実の姿を見抜いた最初の人である。後に宇治山田の米友がお銀の最良の性質を見抜くだろう。弁信と同様に、世間の掟と幻想から離脱したこの米友にしてはじめて可能な洞察力である。お銀は、弁信と対面するときには、故意に自分の悪いところを露悪趣味的に言いつのるが、そうしたこけおどしは弁信には通用しない。
[#ここから2字下げ]
弁信は、お銀様というものには少しも悪意を持っていないのです。悪意を持つべきいわれもありませんけれど、親しく生活して、たがいに打ちとけ合ってゆくうちに、お銀様という女の人の性格に、非常にいいところのあるのを、何人よりも多く発見しているのが弁信であります。家の者全体が、その父親でさえが、腫物《はれもの》にさわるようにあしらっているお銀様という人を、弁信のみが、寛宏《かんこう》な、鷹揚《おうよう》な、そうして、趣味と、教養の、まことに広くして、豊かな、稀れに見る良き女性だと信じ、且つ親しむの念を加えてゆくことができるというのが、不思議です。
…………
弁信の前にのみ、傷つけられざるお銀様の、少女としての、処女としての、大家の令嬢としての品性が、美しくえがき出さるることがあるのであります。弁信のみが、彼女の僻《ひが》めるすべての性格を忘れて、本然《ほんねん》の、春のように融和な、妙麗なお銀様の本色を知ることができるらしくあります。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](「めいろの巻」三十)
竜之助と弁信の分身図式は、基本的には、四人の主要人物をもって構成される。すなわち、竜之助――(お銀、お雪)――弁信。弁信は光明の世界を、竜之助は闇と無明の世界を象徴する。お銀とお雪は、両世界の切断線上に位置し、両方向からの呼びかけに応答しながら生きていく。
†物語の「下部構造」[#「物語の「下部構造」」はゴシック体]
竜之助と弁信の対抗図式は、前の駒井/神尾の対抗図式と並んで、『峠』の展開を支える基本条件であると前に述べた。両者が単に並存するというよりも、竜之助/弁信の構図がいわば「下部構造」であり、駒井/神尾の構図は「上部構造」である。なぜなら、竜之助も弁信も、ふつうの世間的な欲望と虚栄心が作り出す葛藤から抜け出しているからであり、この二人はいわば、この世のものともあの世のものとも知れず、「上部構造」を横断していくからである。
弁信はすでにこの世を離脱している。彼は仏教風に言えば、存在自体において浄土の化身である。無量不可思議光が弁信の姿をとってこの世に現出したとすら言えよう。弁信は、「弁信」という名前をもつにしても、すでにして現実の生身の人間ではない。彼はすでに「覚者」なのである。
竜之助は、弁信とは意味が違うが、やはりこの世の人ではない。無明の世界の住人であり、その意味ですでにこの世を抜け出している。他人の生血をすすって生きるほかはない迷妄の人間であるが、すでに存分に死を吸い込んだ亡者《もうじや》である。亡者は現実の人間と同じようには生きていくことはできない。そのことを誰よりも自覚しているのは、やはり竜之助である。
[#この行2字下げ] 「……拙者というものは、もう疾《と》うの昔に死んでいるのだ、今、こうやっている拙者は、ぬけ殻だ、幽霊だ、影法師だ。幽霊の食物は、世間並みのものではいけない、人間の生命《いのち》を食わなけりゃあ生きてゆけないのだ、だから、無暗に人が斬ってみたい、人を殺してみたいのだ……辻斬が嫌になったら、その時こそ、この幽霊も消えてなくなるだろう、まあ、それまでは辛棒《しんぼう》していてくれ」
[#地付き](「安房の国の巻」十九)
竜之助と弁信は、多くの人物たちが境界線を歩く「峠の旅人」であるなかで、最も峠的人間である。この二人はどの旅人よりも漂泊者である。なぜなら彼らは、境界線をすら踏み越えて、世間からすっかり足を洗ってしまっているからである。二人の世間離脱の方向は違う。弁信は人を救い、竜之助は人を殺す。この両極の間を、他の人物たちは右往左往しているにすぎない。竜之助/弁信の分身図式が『峠』の基礎になる所以である。
†分身からの離脱[#「分身からの離脱」はゴシック体]
『峠』のなかで、他人の欲望にはまったく無関心な人物がたしかにいる。言い換えれば、他人の欲望を欲望したり、虚栄心を満足させたりすることで分身になっていく回路から完全に抜け出している人物がいる。それが、宇治山田の米友であり、与八であり、弁信である。彼らは、分身図式のなかで動くどれかの集団にかかわり、ときには複数の集団を出入りする。米友は、駒井のグループの物語にも神尾のグループの物語にも登場し、他方では竜之助や道庵と一緒に行動することもある。与八は最初は竜之助の物語に登場し、お松を媒介にして駒井グループとも重なる。弁信は、竜之助とも神尾とも関係するだけでなく、彼は貨幣のように現実の人間たちの間を流通していく。
(画像省略)
にもかかわらず、彼ら三人は、どのグループにも属さない。彼らは帰属する集団をもたない一個の自立した人間なのである。この事実が示唆することは、彼らが虚栄心の欲望と分身的構造を超越しているということである。世間的人間たちが「かしこい」と言われるのは、彼らが虚栄心に囚われているにもかかわらず、それをあたかもそうでないように処理できるからである。いわば無意識の偽善者であることに安住する人間が世間的な意味で「かしこい」のである。他人の欲望を自分の欲望であるかのごとく行動できる人間、それが分身としての人間である。こうした目はしのきく人間が「かしこい」人間であれば、そうした「はしこさ」をもたない人間は「愚者」である。その意味では、米友、与八、弁信は、「愚者」である。米友と与八は、寡黙な愚者であり、弁信は能弁な愚者である。
この三人は、分身図式の外部に立っている。彼らは、欲望の渦巻く世界を、行動においてひそかに(米友と与八)、過剰な言葉をもって公然と(弁信)、批判することができる。彼らこそ、峠の旅人の極限なのである。おぞましい人間の欲望の渦巻から脱出することを「希望」と呼ぶとすれば、おそらく彼ら三人のなかにこそ希望がある。
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【第四章】 ユートピアの挫折
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多くの「峠の旅人」がいるなかで、理想の共同体を建設しようとするものが出てくる。終りなき漂泊を意図的に終らせて、安住の土地を求めるものがいる。
『峠』のなかでは、二人の理想主義者が登場する。それが駒井能登守(甚三郎)とお銀である。作者は、二つのユートピア的理想を共感的に描いているが、同時に理想の不可能性をも描いている。高貴な理想をあくまでも求めるのは、人間の真実のひとつであるが、理想の高貴さがしばしば独断と偏見に満ちていることも真実である。理想の高貴さを共感して称賛しながらも、その内部矛盾を指摘し、理想の実現しがたさを描くこともまた、人間の真実を描く文学者の仕事である。おそらくはここに、『峠』の現在的な意義があると言えよう。
二つのユートピアの理念がどうであり、その理念と実行する人間集団との不均衡がどうであるかを、それぞれのグループに即して基本的なところを素描しておこう。
1 駒井のユートピア
†抱負[#「抱負」はゴシック体]
かつて竜之助によって理由もなく殺害された老巡礼の孫であり、いまや駒井にとってなくてはならない有能な秘書になっているお松に向かって、駒井甚三郎は自分の願望を語ってみせる。「椰子林の巻」(二十二)を私の言葉で言い直してみよう。
[#この行2字下げ] 年ごとに人口が増えていくが、大地は増えない。いまはまだ世界には人のすまない土地があるが、人口増加の勢いは激しいので、いつかはきっと土地をめぐる争いが起きるだろうし、国と国との争いが一層険しくなるだろう。それは是非とも避けたい、いやむしろわれわれはどうかして戦争のない国を作りたい。世界にはまだ沃野があるのだから、他人から土地を奪う戦争という手段ではなくて、耕作という平和な手段で理想の国を作りたい。まったく人のいない土地にいけばいい。そこで鍬と犂をもって開拓するのだ。われわれは無人の荒野を鍬入れすることで、平和の国が作れるに違いない。かつて北アメリカはそうして建設されて、いまの繁栄の基礎を築いた。それと同じことを大洋のどこかの無人島で実験してみたい。われわれは新しい共和国の建国の祖先になるのだ……。
白紙状態から理想の共和国を建設するときにぶつかるいくつかの課題がある。ひとつは、集団のなかで世代の継続をどう保証するかである。これは何よりも家族をつくり、子孫をつくる問題である。駒井グループはこれをどう処理するのか。第二の問題は、集団を組織し管理する理念は何であるか。これは建国の理念である。
†家族[#「家族」はゴシック体]
偶然に集まった男女を家族に構成していくときに、理念的には二つの方針がありうる。大家族主義と一夫一婦の小家族主義との二つだ。駒井は当然にも後の方向を選ぶ。
[#この行2字下げ] 一人一家主義がよい。一人が独立の生計を立てるならば、必ず独立した家族を持たなくてはならない。飛騨の大家族主義は自然的生活には向いているかもしれないが、個人の確立のためには、小家族主義がよい。結婚するものは、ひとつの家庭をいとなむのであるが、しかしつねに一緒という必要はない。男と女は、結婚した後でも、独立して生活していくほうがよい。男女が結婚しながら、どちらかに従属するのを避けるには、両者の個人的独立を保証するのが合理的だ。
この考えは、これを聞いた田山白雲も首をかしげているように、少々特異である。駒井は、単純に核家族主義を主張しているのではない。彼の家族論は、個性の確立を基準に構想されているので、結婚することと、空間的に同一の家に住居することを切断している。男女ともに、独立の生活空間を確保しながら、それとは別個に生殖と世代の繁殖の努めをも果たすのである。この結論にいたるには、駒井はそれなりの研究を積んでいる。プラトンの家族論から近代西欧の家族論まで、さらには人類学の研究まで追跡して、彼なりにそれらの難点を克服する努力をしている。それが前記の結論である。それはある意味では最も急進的な近代主義的家族論であろう。しかし、頭でこしらえた「理論」がそうであっても、これが実現できるかどうかは、おのずから別の問題である。
†統治の原則[#「統治の原則」はゴシック体]
駒井の「無名丸」グループが孤島に到達したとき、駒井は全員を前にして施政方針演説をする。
[#ここから2字下げ]
われわれは、今後ずっとこの島の主人になるのであるから、この島に骨を埋める覚悟をしなくてはならない。ここには古い世界の掟も習慣もないから、それに背くこともない。この島に嫌気がさした人はいつでも出ていってよろしい。しかし共同生活をするかぎりは、相互の約束は守らなくてはならない。お互いに害を与えないという一点だけを倫理原則にして生きていこう〔相互信頼〕。
法律を設けないし、法律を命じる人間の特別の位置も設けない。駒井はとりあえずあれこれの「指導」をしたり発議することがあっても、それは命令者や支配者の意味でそうするのではない。駒井は相談相手の役割をするにすぎない。この島には、統治者も被統治者もいないし、あってはならない〔統治/被統治、支配/隷属の不在〕。
生きていくためには、まずは雨露をしのぐ住居をつくり、食物を得るために土地を耕作しなくてはならない。さてこの共同事業をなしとげるために、各人は「それぞれの力に応じて」努力してほしい。働く場合、全員が同じ能力をもっているわけではないから、誰もが同等に荒仕事ができわけではない。子供は子供なりに、女は女なりに、力のないものも経験の乏しいものも、見よう見まねで、「仕事の成績には関係せずに」努力するのでよろしい〔各人の能力に応じた労働〕。
お互いに過大な労力を浪費することを慎まなくてはならない。人間は、食って生きるだけの人生に満足するわけにはいかない。食うために生きるのではなく、天分をよりよく発揮するために食うのである。余裕の生活が大事である。「そこで、当分は半日働いて、半日は各々の思うままのことをしてよろしい、本を読みたいものは本を読む、絵をかきたいものは絵を描く、歌をうたいたいものは歌をうたう、大工をしたい、細工をしたい、という各々の好み好みのことを、存分におやりなさい、半日は食物のために働き、半日は趣味のために生くるということ、これをこの島のおきてと致しましょう」(「椰子林の巻」二十三)。
[#ここで字下げ終わり]
†指導者の器量[#「指導者の器量」はゴシック体]
いくつかの困難がある。
統治者と被統治者がなく、法律と命令と強制がない社会ははたして実現できるのだろうか。現在ある少数の人間たちならいざ知らず、将来に人口が増加したときに同じ原則が通用するのかどうか。いやその前に、この少数の集団のなかですら、その多くが本心から駒井の理念に同意しているのであろうか。駒井の学識に尊敬を払っているにしても、本当の共鳴者は、お松を除いて、いないのではないか。有力なメンバーである田山白雲すら、駒井の理念に同感していないし、彼の統率力にいささか疑念をすでに抱いていた。そのことをどうやら駒井も気づかないわけではないようだ。それに何より、駒井自身に組織管理能力がはたしてあるのかどうか、そのことからしてあやしい。
駒井の器量に限界がある。もともとから駒井グループは危機に晒されていた。房州を追われて、仙台に移動していくとき、グループは解体の危機をすでに経験していた。グループのなかに秩序をみだすものが出ても、駒井にはそれを抑える力はない。秩序の乱れを抑えて安定させる人物は豪傑絵師田山白雲しかいない。その彼が留守をするとたちまち、集団の混乱が生じる。駒井には、集団を統率する器量と人徳が欠けているのだ(「白雲の巻」二十八)。自分でもそれを自覚するところに、駒井の「近代人」らしさがあるが、自覚したところで、知識人にはなれても、理想の共和国の指導者にはなれない。
†人格の分裂[#「人格の分裂」はゴシック体]
統率力の限界があるばかりではない。駒井は孤島における家族の理想を語っていたが、それはいかにも近代の個性主義を尊重するように聞こえる。しかし現実の駒井は、本当に近代的な「性愛論」をもっていたかと言えば、けっしてそうではない。房州の洲崎にいたとき、駒井グループに参加している西洋人(マドロス)が酒に酔って「兵部の娘」=「もゆる子」(この名前は情熱的女性を示す)を犯す事件が起きる。この出来事の解釈は、当事者の「もゆる子」と駒井ではまったく違う。「もゆる子」は被害者でありながら、こう言うのだ。
[#この行2字下げ] 「何不自由のない人が、力づくや、金の力で、幾人の女を弄んでいる世の中に、情に飢《かつ》えた外国生れのマドロスさんが、これを欲しがったって、それほどに悪い事でありますか知ら、どちらかといえば、かわいそうなものと言ってもいいのぢゃないでしょうか」
[#地付き](「年魚市《あいち》の巻」四十)
これに対して、駒井はこう批判する。「お前の考えは無茶だ、まあ、深く考えないで、静かにしていたまえ」。
明らかに「もゆる子」は近代的な性愛論者であり、彼女のこれまでの行動を見れば、気まぐれでない決意からする性の解放論者である。めずらしいことだが、『峠』のなかで真実の性を考えつめ実行にうつしたのは、「もゆる子」(およびお銀)のみである。ところが駒井は、「もゆる子」のこうした急進的な思想を「狂っている」としか評価できない。そして「もゆる子」と茂太郎が楽しそうに遊ぶのを見て、こんな感想しかもてないのだ――「ああ観念というものに鈍い彼ら、やはり浅ましく憐れなものだ」。彼らは無知と無恥の区別がつかないのだと、学者ぶった印象をもつ。
いったい駒井は本当に近代人なのであろうか。物語では、駒井は文武に秀でた俊才として描かれてきた。西洋の科学技術に通じていて、英学でも当代随一と称賛されていた。しかも西洋から学んだ科学的知識を駆使して、西洋人の模倣ではない「黒船」を自前で建造することさえできた。その側面だけを見れば、たしかに駒井は誰よりも進んだ近代的知識人である。けれども駒井の精神の構造、とくに男女関係の倫理に関してはどうなのか。前にも触れたように、神尾とお銀の婚約にめぐって旗本の伝統を守れといったり、お君を愛しながら、お君の被差別部落出身を口実にした神尾の陰謀で失脚したあとでは、お君を引き取ることすらしないで、他人の世話にまかせっぱなしという自己中心的な行動ばかりする。知性ではなく、その人格と精神において、駒井は近代人どころか、半封建的人間である。あるいは近代人と封建人の間を右往左往する中途半端な人格である。科学者駒井と旗本駒井とは分裂している。理念と現実が均衡を欠いているとき、そうした人物のユートピアは相当にあやういものになろう。
†田山白雲の経済帝国主義[#「田山白雲の経済帝国主義」はゴシック体]
田山白雲は、絵師として駒井グループに参加するのではない。彼は、彼なりに駒井の新世界建設に同意して参加し、グループの取りまとめ役として重要な役割を演じる。駒井の海洋植民論に啓発を受けて、彼もまたそうした種類の読書を重ね、思索の研鑽を積む。陸奥地方を旅するなかで田山白雲は、佐藤信淵の経国策に出会い、感激の印象を旅の途中で駒井に書き送る。田山の書簡は、駒井の海洋植民の行き着く先を予感しているかに見える。
[#この行2字下げ] 「……秋田の佐藤信淵の人物及抱負については、特に感激するもの有之候。聞くところによれば、佐藤信淵の経国策はかねて貴下より伺ひ候渡辺崋山の無人島説どころのものにあらず、規模雄大を極めたるものにて、特に『宇内《うだい》混同秘策』なる論説の如きは、日本が世界を経綸《けいりん》すべき方策を論じたるものにして、その論旨としては第一の順序として日本は北|樺太《カラフト》と黒竜洲を有として満洲に南下し、それより朝鮮を占め、満洲と相応じ、一は台湾を以て南方|亜細亜《アジア》大陸に発展するの根拠地とし、更に一方は比律賓《ヒリツピン》を策源として南洋を鎮め、斯《か》く南北相応じて亜細亜大陸を抱き、支那民族を誘導して終に世界統一の政策を実行すべしといふ事にある由、その論旨も、軍国主義或は侵略手段によるにあらずして、経済と開拓とを主とする穏健説の由」
[#地付き](「弁信の巻」六十九)
経済的植民が軍国主義や侵略でない「穏健」策だと信じているところが、素朴であり、また相当に危険である。田山の見解からすれば、駒井の無人島植民などは子供だましにすぎない。とりあえず駒井の無人島植民についていくにしても、将来は是非にも雄飛して、大陸制覇ぐらいはしてみたいとひそかに考えているらしい。こんなところが駒井の「殿様」知識人的理想論に田山が最後までついていけない理由であろう。小説は途中で頓挫しているので、駒井グループのその後の行方ははっきりしないけれども、早晩は駒井と田山の激突もありうるのである。これは駒井グループの思想的|軋轢《あつれき》であって、とうてい和解できるものではありえまい。こうした克服しがたい難点を、駒井の「無名丸」は抱えているが、ありうる展望は駒井が田山的な経済植民地主義に転換することかもしれない。そして小説とは別個に、日本近代史の現実は田山白雲の方向を選択した。
†嫉妬と羨望[#「嫉妬と羨望」はゴシック体]
駒井は理想的な結婚制度を構想していたはずだ。しかし現実の駒井グループの内部はどうなのか。大洋にのりだす以前から、駒井の「無名丸」のなかには、嫉妬と羨望が渦巻きはじめていた。「黒船」の自力での建設はたしかに成功した。処女航海もまずまずうまくいった。それでも航海士は、西洋人の「マドロス」を頼みとしなくてはならない。ところがこの「マドロス」は、アル中気味で、酔っ払うとすぐに女に手を出すし、暴れて他人に迷惑をかける。それで他のメンバーが怒り狂い、彼をリンチにしかねない。すでに駒井グループは、人事管理において失敗している。そればかりではない。「マドロス」は性に開放的な「もゆる子」といい仲になり、それが他の男性メンバーの嫉妬をあおる。他方で、「もゆる子」は、駒井がお松を高く評価して秘書と助手につかうために、そのお松に対して嫉妬を感じ、駒井とお松に対して反抗の態度をとりはじめる。その嫉妬と羨望から「もゆる子」は必ずしも心から愛していない「マドロス」との仲を深めていく(「不破の関の巻」三十六)。
それも当然のことだ。孤島植民をして、新しい共同体をつくるなら、男女のバランスを合理的に計算し、参加メンバーの資質を吟味するくらいの周到さがなくてはならない。それなのに駒井は、いきあたりばったりの出入り自由の放任主義で、来るものは拒まずの方針をとっている。こうして出来た集団の男女の比率をながめてみると、茂太郎が言うように、事態はこうなる――「この無名丸の中には/男と名のつく者が/都合十三人/それなのに女というものは/登さんのばあやさん/お松さん/それからもゆるさん/その三人きりなんです/十三人の男に/三人の女……そうなりますと/女を奪い合わない限り/その割りふりがむづかしい……早晩この間に/もんちゃくが起らなければ/起らないのが不思議です/いや、不思議ではない/もう起っているのです……」(「農奴の巻」六十八)。
†混成集団の末路[#「混成集団の末路」はゴシック体]
明らかに、駒井のグループは誓約集団ではない。アメリカに移住したメイ・フラワー号の人々は、すべてのメンバーが平民で同じ宗教を奉じていた点で、成功の見込みがあった。それに比べると、駒井グループはバラバラの寄せ集めに見える。殿様貴族がいるし、武士出身の芸術家もいれば、漁師、大工、乳母、子供それに「盗人」から、支那人の料理人と流れものの異人といったものまでいる(最後には、元盗賊七兵衛が連れてきたお喜久と、田山がみつけてきた居合い抜きの柳田平治が参加する)。この烏合の衆の集団を、駒井のいささか限界のある器量ないし「カリスマ」でまとめていくところに、あるいは理想の実験の醍醐味があるかもしれない。駒井の語りを見ていると、偶然の所与を可能なかぎりよい方向へ組織していくことに、彼の理想主義を賭けていたとも推察できる。そうだとすれば、たしかに、実験にふさわしい壮図である。その理想主義の情熱と大胆を高く評価できるにしても、現実はその理想を打ち砕くだけの苛酷さをもっている。最後に参加した武士の柳田平治にいたっては、何のために参加したのかわからない人物であり、駒井や田山のなかにひそかに巣喰っている伝統主義的な倫理の野蛮な実践者であり、その彼がイエスに祈る支那人の金椎をみて、吐きだすように「キリシタン!」というとき、駒井の集団の精神的崩壊は歴然としてくる(「椰子林の巻」七十七)。
†ユートピアの挫折[#「ユートピアの挫折」はゴシック体]
駒井の「無名丸」が到着した孤島は、無人ではなかった。そこにはすでに先住者がいた。この先住者は、西洋文明の堕落に絶望して、ただひとり孤島で平和な生活を営んでいた。そこへ駒井のグループが到来した。駒井と先住者は、どうやら英語で会話をするらしいが、その先住民の議論は、駒井の理想を完膚なきまでに粉砕する。
駒井は仲好く一緒にやっていこうと提案するが、にべもなく拒否される。先住者は「新たなる征服者が来たときには、先住民は逃げださなくてはならない」という原則をもっている。駒井としては征服者の自覚はなく、自分たちは紳士だと言う。そこが甘いと先住者は断言する。「歴史の原則の前には、海賊も紳士もないです、あなた方は平和を求めているつもりで、この島へ来ても、それがために、私の平和が奪われます」と彼は言う。この西洋人の先住者は、駒井グループが内在させていた難点、すなわち前に紹介した田山白雲の「経済帝国主義」を先取りして批判しているのである。
駒井はしきりに抗弁するが、ことごとく論駁される。先住者は、相当の知識人であって、駒井の実験の先例を西洋の歴史から引用して、議論を運ぶ。プラトンから最近のロバート・オーエンまで、理想の国家の提案と実験があったが、ことごとく失敗してきた。その限りない実例を考えてみれば、「駒井サン、アナタノ理想モ、事業モ、ソノ轍《てつ》ヲ踏ムニ定マッテイマス、失敗シマスヨ」(「椰子林の巻」五十四)。
駒井は、西洋の科学技術を信奉する人間であるが、その科学技術(その実現としての「産業革命」)が西洋の帝国主義的侵略のエネルギー源泉であったことを知らない。先住者は、西洋に生まれ西洋を内部から批判する人間であるから、駒井が信奉する「進歩」が侵略と裏腹であることを認識している。これから西洋のたどった道を経験しようとする日本の知識人としての駒井にそんな認識がありえようもない。オーエンのような傑出した社会思想家にして経営者ですら失敗した試みを、およそ社会思想に深く通じたことのない技術的知識人である駒井が成功させる見込みはまずない。作者があえて西洋人の亡命者の口をかりて駒井批判を語らせたことは、エコノ=テクノロジスム(経済=技術中心主義)の陥穽を指摘することにあったと思われる。味読するに値する箇所である。
2 お銀のユートピア
†金力の人工国家[#「金力の人工国家」はゴシック体]
峠の旅人たちは何度も変身する。駒井が、駒井能登守から市巷に隠れ棲む学者になり、最後には海洋「王国」の指導者になるように、お銀は甲州の馬大尽の娘に生まれ、ふとした偶然から竜之助とのただれるような愛欲に溺れる生活を送ったあとで、胆吹《いぶき》山麓に理想の「王土」を建設する指導者に変身する。西美濃の大地主から広大な土地を莫大な金額で購入し、そこを自分の「領土」と宣言する(「不破の関の巻」八十六)。
土地をやすやすと購入できるところに、お銀の王国建設の特質がある。それは金力でできた人工国家である。お銀の理想的理念の背景には金の支えがある。お銀は自分の力で理想の王土をつくりたいと願う。この世で人間が人間を互いに犯さない世界をつくりたい、何をしようとも自分の領域が犯されないかぎり、他人の自由を妨げてはならない、そういう領土をつくりたい、と彼女は希望するのだが、そのためにこそ先祖から受け継いだ金銀の財産の力を存分に利用するのだと断言する。
†建国の理念[#「建国の理念」はゴシック体]
金がすべてを解決するという感覚は、お銀の生まれと育ちから身についたものである。彼女にとってはそれがむしろ自然な考え方なのである。その意味では彼女の立場と思想は、「町人的」であり、学術的な用語で言えば「ブルジョワ的」である。彼女は、理想の王土の素材、物質的材料だけでなく人的素材をもふくめて、貨幣で処理できると確信している。その点ではお銀は徹底した計算合理性の体現者である。
自分は領土を獲得した。しかしそれを支配し管理するのは自分ではなく、別の人間を雇用してそれに管理を任せる。金を出せば人は喜んで彼女のために働いてくれるだろう。自分は計画を立て、その通りに動いているかどうかを監視したり指図したりしておればいい。上にいて権威を誇示しているだけで、万事がうまくいくはずである。お銀は「暴女王」と言われるほどの権威と威信をもっているし、沈黙しているが、その恐ろしげな威信は誰をも震えあがらせる。そうでありながら、彼女は制限のない自由だとか、愛は報酬や権力の関係であってはならないと、自由主義的な議論を吐いている。自由に行動し、自由に愛して、微塵《みじん》も嫉妬などを介在させてはならないというのだ。
[#この行2字下げ]「……有形にも、無形にも、人間のすることに人間が決して干渉してはならないのですよ、圧迫してはならないのですよ。そこには、服従の卑屈があってはならないように、勝利の快感もあってはならないのです」
[#地付き](「不破の関の巻」五十五)
たしかにお銀はいちいち介入も干渉もしない。けれども彼女の命令は絶対的であるし、反抗は許されないことになっている。そこが矛盾に見えるが、彼女はそれを意識しない。なぜなら、お銀は上に立つものが本当に知識があり、理知的で教養があれば、必ず人間は不合理を克服できると信じているからである。お銀は思う――世間では私を暴女王などと言うけれども、私はけっして暴君ではない。物惜しみしないどころか、あるものは何でも人にやってしまうのだ。所有欲などは私にはない。所有欲は悪魔のこしらえた罠であって、これを克服するためにこそ、理想の王土を建設するのだ云々。
所有によって人間は浅ましくなる。所有がけっして富も幸福ももたらさないのみならず、かえってその反対と裏切りとをつとめていることは、物事をじっと観察すればすぐにわかることだ。この新しい領土では、一物をも所有することをけっして許さない。形式的に所有を許さないだけでなく、所有を思うことすら許さない。この所有の迷妄から醒めることをこそ、新しい王土の理念にしなくてはならない。無所有の領土、それが理想だ。金はそのための手段にすぎないし、そのために捨てるように投入すればいいのだ……。
たしかに、議論は高邁《こうまい》である。所有欲からの解放は、人類の悲願かもしれない。けれども、どうやら、この理想的理念はお銀一個の個人的な思い込みを一般化したのではないかと疑われる。無際限の財産をもつ富豪の家に生まれ、財産ゆえに家族の悲劇と不和を実際に体験したお銀の個人的な苦悩が、こうした理想的語り口によく表現されている。それをトップダウン方式で万人に強制して、はたして、他人が所有から解放されると期待できるのだろうか。お銀の理念は、一人の人間の個人的願望を拡大したものである。そこにおしつけがましい性格がにじみでてしまう。人は金をもらえるかぎりはお銀についてくる。しかしお銀の理想には同意しないだろう。駒井がおちいった境遇とどこか似ている。お銀のカリスマ性が駒井以上に強烈であるからこそ、かえって理想と現実は分裂していく。
†お銀の財務管理能力[#「お銀の財務管理能力」はゴシック体]
小説では、お銀は文学と歴史の両面での教養が傑出している人物として描かれてきた。お金持ちのお嬢さんだから、当然そのくらいのたしなみぐらいもっているだろうと言われかねないが、お銀の場合には、そうした教養はたしなみどころではなく、個人的願望を実現し、理想の現実を作り出すために動員される。それだけではない。彼女は、組織の行政管理を自分ではできないから人を金で雇うのだと言っていたのだが、それは実は謙遜であって、彼女自身もまた相当の財務管理能力をもっている。彼女が自分の計算能力を隠したのは、教養人的恥じらいからだろう。
お銀はけっして金持ちのお嬢様が金の価値も知らずに浪費するといった人物ではない。お銀のユートピアが挫折するしないにかかわらず、お銀の計算合理的管理能力に注目しておくことは重要である。お銀の「王国」建設は、お嬢さん仕事ではなく、厳密に計算された「近代的」実験なのである。この建国事業に参加したお雪がお銀の計算能力を知って驚く場面がある。お銀がお雪に向かって小判の両替計算法を教えてやるところだ。
[#この行2字下げ] ……一両の享保小判の全体の重さは四匁七分あって、混ぜ物が六分三毛あるから差引そのうち正味の純金が四匁九厘七毛だから、これを銀にかえ、小粒《こつぶ》に替え、銭にかえたら幾ら……今更、お雪ちゃんも、この人の実家というものが、底の知れないほどの長者であることを思わせられずにはいないと共に、そうかといって、それを湯水、塵芥《ちりあくた》の如く扱うわけでもなく、量目の存するところは量目として説明し、換算の目算は換算の目算としての相当の常識――むしろ、富に於てはこれと比較にならない自分たちの頭よりも、遙かに細かい計算力を持っている様子に於て、お雪ちゃんは、このお嬢様は金銀の中に生れて来たが、金銀そのものの価値を知らないお姫様育ちの娘ではないということの、頭の働きを見て取ることができました。
[#地付き](「胆吹の巻」五)
そうだとすれば、お銀は実は彼女単独でも「胆吹王国」を楽々と管理し統制するだけの力量をもっているはずである。それを教養人風の恥じらいから、彼女は、わざわざ同じ教養人の「不破の関守」氏と軍略家の「青嵐居士《せいらんこじ》」を雇い入れて、彼らに「王国」管理を委ねる。二人の男性の能吏がお銀にかしずいているのは、けっしてお銀の資本力のゆえではなくて、お銀自身の卓越した管理の能力を信頼し、その理念の高邁さに共感してのことである。
駒井グループと比較して見れば、お銀のグループがどれほど優れているかがわかる。駒井は技術者的知識人であるが、管理能力はまるでないし、他人をひきつける力もない。精々のところ田山の豪傑ぶりでメンバーを押さえつけて、難を切り抜けているにすぎない。ところがお銀のグループは、お銀自身が文学的教養と財務管理能力を兼ね備えていて、その洞察力と実行力も抜群である。加えて、二人の傑出した助言者にして能吏をかかえている。お銀の「胆吹王国」は、原則的には崩壊する条件がかなり少ないのである。駒井の海洋共和国が、その理想的理念にもかかわらず、その組織管理やメンバーの精神的散漫さによって、あるいは理念の甘さによって崩壊する必然性があるのに対して、お銀の「王国」は内的必然性から崩壊するのではなくて、発起人のお銀の意志で解体させられるにすぎない。それも理念の挫折には違いないが、駒井の場合とはまったく事情が違う。「専制君主」の国は、専制君主の意志で解消するが、それはお銀自身が理念の限界に気づいたか、それとも別の構想に興味を移したかのどちらかによる。
†「胆吹王国」の限界と挫折[#「「胆吹王国」の限界と挫折」はゴシック体]
お銀は自分の理想の限界に気づくことになる。それに気づく機縁をつくるのは竜之助の批判である。お銀はかつては竜之助に服従するほどに惚れぬいていたのだが、いまや竜之助を封じ込めて意のままにするほどの優位を占めている。しかしその竜之助がお銀の理想をこっぴどく批判する。お銀と竜之助の対話は、ちょうど駒井と異人との対話に等しい。異人の亡命者が駒井の理想の行き着く先を予言して去るように、竜之助もまたお銀の理想の限界ないし挫折を予告する。お銀と竜之助の論争を再現してみよう。
[#ここから2字下げ]
お銀――現在の社会では、農民以外の衣食を作らない人間たちが、農民の成果を奪っている。農民はようやく生きていけるだけの少量しか与えられていない。だからこの「胆吹王国」では、そうした搾取と収奪のない社会にしたい。正当に衣食を作る人には、正当な分け前が与えられる。衣食のために人間が人間に服従することもない。天の恵みを得て、人間はおたがいに人間としての体面を保って生きていこうというのが、この領土建設の目的である。
竜之助――人間が生きていくために互いに屈従することもないし、自由も進展し、豊かさが増し、いわゆる王道楽土が地上に実現したとしよう。しかし、隣に悪い奴がいて、理想国を羨望嫉妬して、お宝を奪いにやってこないだろうか。そういう侵略者に対する用意が必要になるだろう。素手で戦うわけにはいくまいから、つねに武器を備えておかなくてはならないだろう。それをどうするのか。
お銀――もちろん、事業が大規模になれば、自然にその備えもできるだろう。災害にも備えなくてはならないし、侵略者にも備えなくてならない。当然のことだ。
竜之助――侵略者に対する不断の備えがなければ、王国建設が不可能であるとすれば、ゆくゆくは、この王国は軍事設備のために生産の大部分を奪われて、しだいに衰退していくだろう。きっとそうなる。その上に、王国内の人間たちは、たとえ楽土に住んでいるとしても、わがままでありつづけるだろうし、そこから数々の内紛が生じるだろう。そこからも王国はつぶれていくだろう。
お銀――私の理想国では、わがままはありえない。なぜなら、誰にもわがままが許されているからだ。無制限にわがままが許されるなら、人はおのずから自重するようになるものだ。まったく心配ない。
竜之助――男女の愛情関係はどうなるのか。一方が愛しながら、他方がそれを拒否するとしたら、きっと暴力沙汰が生まれるにちがいない。それをうまく処理できるのか。性愛にかかわる羨望と嫉妬はおそるべき暴力を伝染させるはずだ。はたして乗り切れるかな。
お銀――本来、自然であるべき愛情を、強いて追い求めるから、そんな馬鹿馬鹿しいことがおきるのだ。好きである間は夫婦であってよろしい。いやになれば、夫婦なんぞという形式を放りだせばいいのだ。夫婦関係を友人関係に切り替えれば、何ということはない。私の王国では、未練や嫉妬を厳重に禁止する。あるいは、性と愛に関して、子供のうちから自由|恬淡《てんたん》になるように教育するつもりである。
竜之助――すべては力(金の力、武器の力)で乗り切れるかのようにきこえるが、それでいいのか。
お銀――力こそが道徳なのだ。各人に力いっぱい仕事をさせれば、きっと人間はこの世を楽土にすることができるだろう。器量の小さい人間が、強者の力の発揮を妨げるからいけないのだ。力あるものが力のないものを、よりよい方向に導いていくのがよいのだ。器量と才能と功績、これがこの王国の根幹にある。
竜之助――私の考えでは、理想郷だの、楽土だのといったものは夢幻だね。人間の力なんてタカが知れたものさ。人間が地上に繁殖しているが、ろくでもない奴ばかりだ。理想の世の中だの、楽土なんていうものは、人間の理知やたくらみでできるものではない。人間というやつは、生むよりも滅ぼしたほうがいいのだ。
お銀――そんな絶滅の哲学などをものともせずに、人間はどんどん増え続けているのだ。地上には人の要求する何十倍もの食料を与える穀物がはえる。膨大な人口を養うだけの土地の生産力があるのだ。我々は生きて、栄えて、繁殖して、防御して、それで済まなければ討滅して、力の権威をもって自分に従わないものを、どしどし征服していくのだ。そういう意味で、絶対の暴虐は許されるのである。
竜之助――多くの有象無象が生きるために、他人を犠牲にしたり、他人をダシにして使っているのだ。英雄豪傑なんていう連中と愚民愚衆の関係が人間のいつもの姿なのだ。要するに、人間という奴は、自分の無用にして愚劣なる生活を貪りたいために、土地を濫費し、草木を消耗させていくしかないのだ。結局は、天然自然を破壊し、人情を滅ぼすだけのことなのだ。開墾事業というといかにも聞こえはいいが、そんなものは人間どもの得手勝手な名目でしかなく、天然自然の方から言うならば、破壊にすぎない。人間たちのする仕事はタカが知れている。あまりに増長すると、天然自然も黙ってはいないだろう。今にきっと人間が絶滅するときが来る。山に生きる獣も、海に棲む魚貝も、芽生えから卵にいたるまで、生きとし生けるものの種が、すっかり氷に張りつめられて絶滅してしまうだろう。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](「胆吹の巻」十三)
この対話では、竜之助は徹底してペシミストとしての立場を崩さない。お銀は、楽天的な生産力主義者にして、サン=シモン主義的なテクノクラート主義者として登場している。「わがまま」を放任しておけば人間は進んで自重して、おのずから予定調和が実現するという点では、ほとんどアダム・スミス流の自由主義路線をお銀は採用している。スミスとの違いがあるとすれば、お銀が上からの技術的知識人の統制と計画を主張することにある。矛盾するにはちがいないが、自由と統制が両立すると信じることで、お銀はオーギュスト・コント的な「進歩と秩序」の社会改革論者として特徴づけることができる。駒井がほとんど社会建設の図面をもっていないのに対して、お銀はじつに明晰な建設計画をもっている。もし社会改造のモダニストを『峠』のなかに探すとすれば、それは駒井甚三郎ではなくて、藤原銀子(お銀)でなくてはならない。
この世に生きているのかあの世に片足をつっこんでいるのかどうとも判定しようのない竜之助が絶滅の思想を開陳するのも当然である。そんな竜之助が理論家にして指導者に変身した藤原銀子の立場を受け入れるはずはないし、銀子のほうも竜之助の思想に納得するはずはない。どうせすれちがいになるのだが、しかし銀子はこの論戦から何ごとかを感じ取ったのであろう、いつしか王国建設を放棄していく。
†方向転換[#「方向転換」はゴシック体]
竜之助との理念論争のなかでお銀の構想が批判されたとしても、それで彼女の方針が否定されるわけではない。彼女の理念は、細部では矛盾することはあっても、それなりに厳密な構想になっている。理念は論争で解体することはない。しかし現実はしばしば理念に復讐する。「胆吹王国」の構成メンバーを吟味してみれば、それがいかにあやうい共同体であるかがはっきりする。お銀の忠実で有能な行政官である「青嵐居士」の観察では、この王国のメンバーは五種類の類型から成っている。
[#ここから2字下げ]
甲種――胆吹王国の主義理想に共鳴して、これと終始を共にせんとする真剣の同志
乙種――現在は、まだ充分の理解者とは言い難いが、やがてその可能性ある、いわば準同志
丙種――主義理想には無頓著、ただ開墾労働者として日給をもらって働いている人
丁種――食い詰めて、ころがり込んで、働かせられている人
戊種《ぼしゆ》――好奇で腰をかけている人
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](「京の夢おう坂の夢の巻」二十三)
『峠』では「胆吹王国」の実情がどうなのかはそれほどはっきりしないが、ともかく開墾事業を開始している。出入り自由の原則は、駒井グループと同様であるから、つぎつぎに食い詰めものが流入してくるのは阻止しがたい。そうなると、甲種と乙種の人間は少なく、早晩、丙種と丁種と戊種の人間たちばかりになるのは目に見えている。今すでにそうなのだから、将来は単なる貧乏人の救済事業ぐらいにはなりえても、とうてい、理想の王土の実験とは言えない。新しい領土の建設のはじめから、お銀の計画は相当に理想からずれはじめているのだ。現実の方から「胆吹王国」は空洞化し、計画の変更を迫られている。
お銀が山科の光悦屋敷を買い取る場面がある。これが方針転換のしるしである。理想の王国は、最初は、胆吹山麓で生産力主義的共同体を樹立するはずであったが、いまや胆吹山を放棄して、京都に拠点を移す。その拠点が光悦屋敷である。そこでお銀は何をしようとするのかと言えば、彼女はどうやら生産共同体をあきらめて、芸術の王国をつくろうとするらしい。名づけて「光仙林王国」という。ここに、文化の精髄を収集するのである。美術、建築、文学、工芸その他なんであれ貴重な遺産をことごとく収蔵して、将来のために保護することが、この「光仙林王国」という名の芸術王国の目的になった(「山科の巻」十八、十九)。
それは、もともと文学と歴史に造詣の深い藤原銀子の趣味にあっていることだ。これもまたひとつの理想ではあろう。しかしそれはもはや「ユートピア」ではない。それは単なる高級趣味人の美術館建設にすぎない。こうしてお銀のユートピア建設の夢は消えていく。竜之助の解体的批判は正しかった。すべてが竜之助の予告通りになった。竜之助の批判は、お銀の構想に当てはまるだけでなく、遠くにいる駒井甚三郎にもまっすぐに突き刺さる。
『峠』の物語の重要な内容が、二つのユートピア建設にあることは確かである。この章では、二つのユートピアの理念に焦点を当てて議論を組み立ててきたけれども、小説のなかでは、そうした理念よりも、二つの集団に参加した人々の経験と苦労話のほうがずっと重要である。理想の共同体に参加する人々の意図や経過は、けっして一様でなく、ときには偶然のはずみで参加することもある。そうしたことも含めて、人間たちの苦しみと願望を詳細に描いてみせることが、おそらくは作者の意図であっただろう。とくに二人の指導者が世間的常識から脱出して、どうにかしてこの世で理想を実現したいという苦労と努力の物語は、理想が可能かどうか以上に、読むものをして感動させる。そのことを承知しつつ、物語の素材を使ってユートピアの挫折の意味をも考えることは、『峠』の現在的意味を評価することにも通じていくにちがいない。
理念と現実との食い違いや、理念のなかに無自覚なままに抱えている難点についてはすでに語っておいた。最後に簡単に、理想の挫折というよりも、理想主義の実験者が盲目になっているひとつの事実に注意を向けておこう。
それは、複数の人間たちのなかで生きるかぎり避けることができない独特の欲望の問題である。「分身」を主題にした章で論じておいたことだが、社会関係のなかで必ず台頭する「他人の欲望を欲望する」という社会的心理の動き、一言で言えば虚栄心と自尊心の激しい力、そしてそれが人間たちを連れていく分身化と群衆化の傾向を徹底分析して、それと対決すること、これこそがこれまでのユートピア論者に欠けていたことである。それは駒井にもお銀にもあてはまる。それどころか、理想主義の「指導者」自身が自分の内面にかかえるこうした欲望に無自覚ですらある。この社会的欲望の屈折した変形物が、理想の名で表現されていることに気づくことからすべてが始まるのでなくてはならない。おのれの内部のある「他者の欲望」を取り違えて自己固有の欲望と錯覚するところに、あらゆる「建国」理念の妄想的側面がある。まずはこの欲望の力学の虜であるおのれに目覚めて、それからの離脱と脱出を試みることが、おそらくは「ユートピア」なるものの真実の内容になるべきであろう。そんなことを『峠』の挫折したユートピア物語は考えさせてくれるのだ。言い換えれば、制度論的ユートピアではどうにもならないものが人間のなかにはあるのだ。
ところで、『峠』のなかでこの目覚めにかかわる物語はあるのだろうか。たしかにある。それが「愚者」たちの物語である。次の章でそれを考察してみよう。
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【第五章】 冷静なる愚者
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†片隅で生きる人間[#「片隅で生きる人間」はゴシック体]
世の片隅で生きることで満足するものがいる。群れから離れて、孤影悄然《こえいしようぜん》として生きる者がいる。駒井甚三郎のような理知的な学者でもなく、お銀のような教養あふれる指導者でもなく、はたまた神尾主膳のように悪の道で中心的役割を果たすのでもない。その意味ではけっして事件の中核に登場しない人間は、従者とか助手の役割がふさわしい。まことに地味な存在であり、ある意味ではいつも損な役回りを受けもたせられる。しかしそうした人物こそが、しみじみとした感動を与える。ここで片隅の人間たちを語っておかなくてはならないようだ。前にも触れたように、どうやらこの種の人間のふるまいのなかに、人生の真実があるからである。
1 宇治山田の米友のために
宇治山田の米友は、まことに愛すべき人物である。かりに彼のような人物がいなかったとすれば、『峠』の面白さのかなり重要な部分が失われてしまうであろう。
†米友の人生[#「米友の人生」はゴシック体]
米友は伊勢の被差別部落の出身の貧しい孤児であり、子供のときから大道芸人をなりわいとしてきた。彼は伊勢にいた時分に、伊勢神宮の前の宇治橋の下で、客が投げる銭を拾う「網受け」をして生きていた。彼はどこで学んだというわけでもないが、槍にかけては一種の天才であり、棒を使うのも堂にいっている。その才能のおかげで、「網受け」から得る収入も、他の子供たちに比べると多かった。しかしこうした天気と気候に左右される商売であるから、雨がふったり雪がつもったりすれば、たちまち商売はあがったりになる。それに気まぐれな参詣客は投げ銭をはずむときもあれば、わずかしか投げてくれないときもある。特殊な技能をもつ米友ですらあぶれて帰るときも多かった。
米友があぶれるくらいのときは、他の「網受け」の子供たちは一層あぶれるわけで、彼らはみじめなものであった。彼らは、一日につき決められた稼ぎを親方にもって帰ることができないときには、親方から折檻されたり、締めだされたり、食事を禁止されたりする。そういう時には、米友は自分の稼ぎを友達に分けてやり、彼らの代わりに折檻を受けてやるのを常としていた。
[#この行2字下げ] そういう時に米友は、しみじみと、銭というものの魔力を思い知らせられたことでありました。僅か幾文《いくもん》の銭がありさえすれば、自分たちはこの虐待と飢餓から救われることだ――銭があればいいなあ、と米友は、夜の寒空に軒端の縁に腰かけて尾上山《おべやま》つづきの星を数え、間《あい》の山《やま》の灯《ひ》の赤いのを恨みわびながら明かしたことも、一晩や二晩ではなかったのであります。
[#地付き](「新月の巻」二十一)
米友には親友のお君がいた。お君もまた天涯孤児である。彼女は「間の山節」を歌わせたら並ぶものがなく、毎晩のように高級|旅籠《はたご》の泊まり客からおよびがかかり、実入りも多い。彼女に頼めば、きっと助けてくれるのだが、米友はけっしてお君には相談しない。頼めばお君は必ず米友の身代わりになるにきまっているからだ。
[#ここから2字下げ]
……他の苦しみを自分が背負うのはやむを得ないが、それをまた背負いきれないで他に転嫁するということは、結局苦しみの盥廻《たらいまわ》しをするだけのことで、苦しみそのものの救いにもならないし、解消にもならないということを、米友はよく知っておりました。
そこで米友はガッチリと歯噛みをして飢えと寒さに顫《ふる》えながら、曾《かつ》て一度も苦痛の声を漏らしませんでした。しかしながら、そういう場合に大楼の店先などを通って、銭金を湯水の如くつかう人や、物売りの店棚でおいしい御馳走のにおいをプンプン嗅がせられた時など、彼もクラクラと眼がくらんで、フラフラと足が顫えることがありました。それにも拘らずついにこの男の正義心が、ビタを一枚盗むこと、物を一つちょろまかすことを、絶対に許しませんでした。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同前)
金銭に苦しむ経験をしたからこそ金銭の有難みも深く知っているにもかかわらず、米友は金銭への欲望はほとんどなく、むしろ反対に彼は金銭にとりつかれる人間たちに対して深刻な反発を感じている。この反発は、けっして恨みや羨望からくる反発ではなく、上流階級や金持ちの堕落に対する怒りである。米友には、金銭はもとより財産や地位あるいは綺羅を飾る虚栄心などは無縁なのである。彼は世間からかぎりなく遠いところに位置している。米友と貧しい子供仲間とのつきあいを見ればわかるように、彼は天性において献身と贈与の人なのである。まさにこの点で、米友は与八や弁信に酷似している。
こういう人物はたいていは世間では受難の人生をたどる。とくに米友は、被差別部落出身であること、不具の身体の所有者というだけでも差別を受けやすい上に、しばしば正義心から理屈抜きに怒りを爆発させるために、曲解を受けることが多い。彼は世間からの曲解や誤解を受けることを習い性にしてさえいる。彼は弁解しない。タンカを切るか沈黙する。伊勢では盗みの罪を被せられて、谷落としの刑を受けたし(この時に道庵から助けられて一生恩にきることになる)、近江の長浜では農民一揆の一味と間違われて、処刑の危険にさらされもした(今度は、お銀やお角に助けられる)。そうしたときに、彼は、できるかぎりの正当な陳弁をするけれども、それが無駄だと知れば沈黙して、慫慂《しようよう》として運命に身をまかせる。
彼は自分の受難を呪いはしない。この世界の理不尽に対して彼は万感込めた批判の言葉を一言発するのみである、「馬鹿にしてやがら」と。ひとりの個人を外見と噂で判断して恥じない世間の群衆的人間たちは、たしかに米友の言うように「馬鹿」である。
†他人の視線の不在[#「他人の視線の不在」はゴシック体]
米友のふるまいには独特のものがある。彼は暗夜ひそかに自分だけの楽しみのために、自分が編み出した槍と棒を振り回してみる。『峠』のなかで、槍の型を見せる米友の遊戯を語る場面がいくつかある。そのひとつで作者はこう描いている。
[#ここから2字下げ]
……この男には特に何流何派の型というのは無いのです。幼少の頃、淡路流を少し学んだということのほかには師に就いたことはないが、その後、おのづから独流の型は出来ているのです。本人はそれを型とは気がつかないで、ひとり自己陶酔で、舞いつ踊りつしているようなものだが、見る人が見ると、その奇妙きてれつなる、型にあらずしておのづから型に合っている。ただ惜しいことには、見る人に見せる場合にのみ、この男の芸術的昴奮が起らないことです。無心したところで見ようとしては見られず、無心しなくても突発的に、川の中であれ、山の下であれ、起るべき時に起るその芸術的昴奮と自己陶酔――当人が見せようと思ってやるわけではないから、周囲が見ようと願っても見られない代物《しろもの》。
…………
米友としては、前人の型を追わない如く、前人の説を知らないのだから、独得の武器そのものも、暗合はあるかも知れないが、模倣は断じてない。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](「新月の巻」二十六)
模倣は断じてない。これが米友の特徴である。それは彼の槍の武芸について言えるだけではない。それ以上に、米友の人間的特質が模倣を許さないのである。引用文にあるように、米友は、他人に見せることはできるだけ避ける。彼は物語の中で、槍遣いの名手を演じる。しかし余儀ない戦いで槍を遣うのは、他人に見せるためではない。むしろ他人の視線が不在であるときに、米友の真実の武芸者のよさがでる。「他人が見ていないとき」というのが重要である。他人の視線を気にして業を見せることは虚栄心である。それは、他人が受けている高い評価を自分も受けたいという欲望のなせるわざである。ところが米友にはそうした欲望が完全に欠如している。それが「模倣の欠如」である。ほかならぬこの特質が、米友を分身図式から免れさせたと言えよう。
†差別への怒り[#「差別への怒り」はゴシック体]
米友は理不尽な横車に対して身をふるわせて怒る。理不尽と言えば、江戸時代では身分社会が生む種々の理不尽である。これに彼が腹を立てるのは、単に彼が被差別部落出身者だからと言うのではない。差別されるものが必ず身分社会に激怒し抵抗するとはかぎらない。むしろ反対に、弱い地位におかれたものは「長いものにまかれろ」式に現存の社会に従順になり、差別を容認することで、上のものにすりよることすらある。米友の憤激は、彼の出自とは直接には関係はない。彼はすでに身分社会の枠を越えているからこそ、それを外部から批判できると言ったほうがよいだろう。
米友が既存社会の枠を越えている証拠は、彼の大道芸人性にある。大道芸人たちは、社会の底辺にいるにちがいはないが、事実上は社会の構造的枠組みの外部にいる。米友は伊勢から逃亡し、江戸に出てくると、大道芸人の一群と一緒に住む。そこが彼の本当の住みかになる。そこ以外に彼が安堵する宿はないからだ。
『峠』のなかで登場する「鐘撞堂新道《かねつきどうしんみち》」にある木賃宿とあるのは、大道芸人の巣である。
[#この行2字下げ] ……そこに集まった面々は御免の勧化《かんげ》であり、縄衣裳《なわいしよう》の乞食芝居であり、阿房陀羅経《あほだらきよう》であり、仮声《こわいろ》使いであり、どっこいどっこいであり、猫八であり、砂文字《すなもじ》であり、鎌倉節の飴売《あめう》りであり、一人相撲であり、籠抜けであり、デロレン左衛門であり、丹波の国から生捕りました荒熊であり、唐人《とうじん》飴のホニホロであり、墓場の幽霊であり、淡島《あわしま》の大明神であり、そうしてまた宇治山田の米友であります。
[#地付き](「黒業白業の巻」九)
この巣穴のなかに生息する人間たちは、がっちりとした身分の上下関係で固められた社会の枠組みの外部で生きている。彼らの事実存在《エグジステンツ》によって、彼らはこの社会の境界線を越えて、その底辺あるいは外部にはみだしていく。宇治山田の米友がこうした連中と仲良しになるということは、彼もまた境界的人間または外部的人間であることを示す。
はみだし者が必ず批判的意見をもつとは限らないが、少なくとも米友は批判的意見の持ち主である。彼には、現存社会への義理などは露ほどもない。彼は社会に同一化する理由はないし、身分社会のなかで安住する連中にへいこらすることもない。彼はあらゆる偏見から免れていると言ってよい。
たとえば、大名行列があるとする。そうして大名の家来が民衆に対して偉そうな行動をし、理不尽なふるまいに出るとする。そのとき米友は、狼藉を働く侍を心から憎む。彼は癇癪玉を破裂させる。彼は、殿様とか大名などというものを心底憎悪する。多くの殿様などという連中は、米友から見ると薄馬鹿であって、そんな馬鹿どもを守りたて、その扶持をおしいただいて、士農工商の上にいると自慢する武士という奴らが癪にさわるのである。彼にはぞろぞろと家来を行列させて歩く大名のふるまいの理由が理解できない。民衆の日常生活に乱暴に押し入り、攪乱する理由もわからない。わからないから腹がたつ。わからないとは、そうした行動の正当な理由がないからである。米友が理性的なのであって、大名がそうであるのではない。米友は完全に醒めた人であり、まさに冷静な理性人である。
侍が理不尽であるばかりではない。そうした武士階級の不当な行動に恐れ入ってしまう世間一般の連中も同じほどに理不尽である。「……この我儘と乱暴狼藉とを加えられながら、平生は人混みで足を踏まれてさえも命がけで争うほどの弥次馬が、意気地なくも、それお通りだ、鍋島様だ、三十五万石だ、池田様だ、三十一万石だと言って、恐れ入ってしまうことが分らないのであります」(同前)。
身分の階段の上部にいる武士たちだけが悪いのではなく、この身分制度に苦しめられながらも制度にすりより、制度の観念を従順に受け入れて服従する民衆なるものもまた不合理の共犯者なのである。米友を含む大道芸人たちは、民衆ですらない。農民、商人(町人)、職人たちは、ともかくも身分社会のメンバーの資格をもっている。米友にはその資格がない。はみだしとは社会的資格のない存在をいう。身分社会のあらゆるメンバーは、こころをひとつにして、つまり彼らの上下の差別をいつしか忘れて、資格なき存在を、はみだしものを、境界的あるいは外部的人間を差別し、排除する。米友が憤激するのは、まさにそうした人間とその所業である。
†偏見の不在[#「偏見の不在」はゴシック体]
人は、なにものにも囚われないときに、あらゆる事態に対して偏見のない洞察と批評を行うことができる。米友は、理知的に、偏見からの解放を実践するのではない。彼は、そのあるがままの生存そのものにおいて、いっさいの偏見から解放されているのである。もって生まれた性質もあろうが、それ以上に彼の社会的あり方に素直に従うことから、彼の偏見なき洞察が生じてくる。洞察する人を賢者と呼ぶならば、米友は冷静なる賢者である。世間から見れば愚者であるかもしれないが、この冷静にして沈着なる愚者は、真実には、賢者なのである。こうした米友のスタンスを理解するためには、彼と他の人物を比較するといい。
米友と駒井甚三郎を比べてみよう。駒井は、『峠』ではいかにも理知の権化として描かれている。駒井は、封建的な制度の不合理を嫌い、自分を理知的な人間だと自覚しているし、たしかにそう行動する。彼は、西洋学者であり、書斎を西洋の書物で満たし、西洋からきた望遠鏡とか羅針儀といった科学と技術の成果を揃えている。そうした知識をもって彼は、輸入品ではない自前の黒船を建造することさえする近代的な技術者でもある。ところが、駒井は、日常生活ではどっぷりと封建的慣例にひたっている。彼は侍の倫理からけっして解放されていない。前にも触れたが、駒井は、旗本のなすべき伝統的約束事を建前にして神尾とお銀の結婚を阻止したことがある。そればかりではない。彼は、お君を伝統的な「妾」として、「囲われもの」扱いする。お君はそれを喜ぶにしても、米友から見れば、お君は所詮は駒井のなぐさみものでしかない。米友は、こうした駒井の理不尽な男女関係を徹底的に批判する。ところが駒井は、米友がなぜ彼を憎むのかをまったく理解できない。奇妙な下層民がおかしな嫉妬から腹を立てているぐらいの観念しか駒井にはないのである。米友と駒井を比較するとき、どちらが本当の近代人であろうか。生活のエトスと倫理的精神において、米友のほうが格段に近代的人間であるのは、否定しようもない。駒井は、頭では近代的な理知の人であるが、下半身はまだずぶずぶの封建的人間である。
米友とお銀とを比較してみよう。お銀もまた、駒井とは違った意味で理知の人であり、どちらかと言えば深い文学的教養をもつ理性人である。彼女も駒井と同様に人の上に立つ資格をもつ人間である。しかし彼女は、駒井のような五体満足の人間ではなく、顔の爛《ただ》れた不幸な女性である。この身体的不幸が同時に精神の不幸をもたらす。ここに米友は満腔の同情を寄せる。米友は悲しみをもつ人間に自然になつくし、なつかれたほうもそれを喜ぶ。お銀はけっして人に寛容ではないが、米友と弁信には心を開くことができる。
[#この行2字下げ] ……何というか、米友自身では名状のできない哀れな感情が働いていて、おたがいにそぐわない会話をしながらも、魂のどこかとけ合って行くような親しみを加えて行くのは、お銀様も知らないし、米友も知らないながら、おたがいに好きだというような感情があらわれて行くのです。……おたがいにどうしても衷心《ちゆうしん》から憎み合えないような何物かがあることを、おたがいに気がつきません。
[#地付き](「不破の関の巻」四十七)
米友はお銀に同情を寄せるし、彼女の卓越した精神に敬意を表す。しかし米友は同時に、お銀の欠陥を鋭く指摘してはばからない。「胆吹山」の山麓でお銀が「王国」を建設するときに、米友も奇妙な風の吹きまわしから参加することになる。同じくそこに参加したお雪との対話のなかで、米友は鋭いお銀批判を展開してみせる。
[#ここから2字下げ]
「うむ、ありゃあね、心が傷ついているんだ。あれで、もとはいい娘だったんだってな、姿だってお前、いいだろう、あの通り姿もいいし、心持も鷹揚《おうよう》で、品格があって、女っぷりとしても、さすが大家に生れただけによ、上々の女っぷりだったんだそうだがな、面《かお》を傷つけられてから、それから心が傷ついてしまったんだよ」
…………
「うむ、かわいそうと言えばかわいそうに違えねえかも知れねえが――かわいそうというよりは、我儘《わがまま》の分子が多いね、あれぢゃあかわいそうだと思っても、本当に憫《あわれ》んでやる気にゃなれめえ」
…………
「ところがね、あのお嬢さんのは、ただ傷ついたんぢゃねえ、傷ついてから、それから僻《ひが》んだんだ、僻んでから、それから、そうさなあ、呪《のろ》いだなあ、呪いになって、憎しみになって、復讐になって……もう今となっては、誰が何と言ったって、どうにも手がつけられねえ」
…………
「……お気に入りさえすりゃあ、どこまでもよくしてくれるし、悪い段になると、人を取殺さずにゃ置かねえ。で、みんな腫物《はれもの》のように、おっかながっているが、おいらなんぞは、ちっとも怖《こわ》いと思わねえ」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](「胆吹の巻」一)
かつて弁信はお銀に向かって、人を憎むな、憎めば一層自分をも他人をも不幸にすると言った。言い回しは違うが、米友のお銀への態度もまた同じだろう。お銀に対する米友の態度は、同情し理解はするが、けっしてなびかないといったところだ。それは自由人の態度である。虚栄心とも憎悪にもかかわりない米友にして可能な身の処し方である。米友から見れば、駒井もお銀も、まだまだ何かに囚われた愚者なのである。彼らは冷静のようでいて、けっして真実の冷静なる賢者ではない。そのことを米友の存在が証明している。
†野生の人[#「野生の人」はゴシック体]
米友と動物とのつきあい方は、彼の本性をよく照らしだしている。動物と沈黙の会話ができるのは、『峠』では米友と清澄の茂太郎だけである。茂太郎は、人間のなかに生きるよりも、動物たちのなかで生きるほうがはるかに適している。茂太郎は人間以外の生きとし生けるものと語り合い、睦みあう才能をもつ点では、まさに野生の人である。この茂太郎ほどではないが、米友もまた、人間よりも動物のほうがウマがあうわけで、彼もまた野生の人である。
小説では、米友と動物との交流の場面はいくつかある。何よりも、伊勢以来の仲間であるムク犬とのつきあいがある。ムク犬なしの米友の人生はない。名古屋では、米友は、親をなくした子熊に同情し、それをムク犬の代わりに育てようとしてみる。また大津では、お銀が購入した外国種の猛犬をあたかもムク犬の生まれ変わりのように育てる(「山科の巻」十四)。米友にとって、ムク犬に似る生き物との出会いは、彼の人生にとって最良の瞬間なのである。彼にとっての動物の原型はつねにムク犬である。ムク犬は、米友にとっては人間以上の存在である。
[#この行2字下げ] 物心を覚えてから、ムク犬は主人のお君に向っても、米友に向っても、かつて食事の催促をした覚えがない、まして不平がましい挙動を示したこともない。それは長い間には、自分たちも苦労をしたり、ムクにもずいぶん苦労をさせたが、ムクそのものがかえって我々に苦労をかけたことは一度もない。我々に苦労をかけないのみならず、我々が憂うる時は、我々と共に憂えたが、我々が喜ぶべき時に、彼を喜ばせなかったことが幾度あるか知れない。
[#地付き](「不破の関の巻」十一)
米友が犬を愛し、犬が米友になつく。人に許さざる犬が、米友には許す。これは米友が野生の人であることの証拠である。すでに彼は、現存社会の枠を突破していた。その意味でも彼は野生の人であるが、動物とのかかわりにおいて彼の野生が露わになる。野生の人にとって、世間尋常の考え方は無縁である。彼には、死の表象も不死の表象もない。あの世なる観念は、普通の人間にとっては信心や不安の対象になるにしても、野生の人間にはおよそ理解をこえている。米友も同じである。彼には、いささか人間くさいところがあるにしても、原則的には、あの世とか死なんぞは思案の外である。誰かが死んでも、それでその人が永遠に消滅したとは考えられない。一時姿を消しただけで、いつかはまた相まみえることができると、彼には信じられるのだ。最愛の女性お君が死んだとき、米友は普通の意味での死を感じない。「墓はこの世からあの世に通じる道の蓋である」と考える米友は、蓋を取りのけてお君に会いに行こうとする。傍から見れば、お君の死に動転した米友が取り乱しているとしか思えない。そうでもあるが、それ以上のことが彼の行動には含まれている。
彼は、精神においても事実存在においても、いっさいの日常的な普通の表象から限りなく遠くにいる。ムク犬とのかかわりは、象徴的に米友の自然的性質を表す。彼の野生は、彼をして世間的掟を超越させる。
2 武州沢井の与八のために
†育ち[#「育ち」はゴシック体]
与八は捨て子である。青梅街道のどこかの脇に捨てられていた赤ん坊は、沢井道場の主人机弾正に拾われて育てられるが、生まれつきのろまで、物覚えが悪く、弾正の親切から粉ひきの水車小屋の番人としてともかくも成長してきた。彼の体は例外的なまでに大きくて、背丈も高い。世間の大人は与八の馬鹿力を利用して苛酷な仕事をおしつけるし、ときには礼すらくれないのだが、彼はそれで不平や苦情を言うこともない。このようにして与八の青春は過ぎていく。
しかし、駒井グループに参加したお松が、駒井の忘れ形見をつれて沢井に来てから、与八の人生も変化しはじめる。お松と一緒に、道場を寺子屋に変えて、近所の子供たちを教育する事業を始めた。お松も与八も子供たちばかりか、親たちからも感謝され、このまま人生を武州沢井でしあわせに送ることができるかに見えた。与八も、一時は、自分を捨てた親が慕わしく、地蔵の祠をつくって、ひょっとしたら親にまみえる機会もあるかと徒らな期待もしてみるのだが、七兵衛(与八はついに知ることはないが、七兵衛は与八が自分の捨てた子だと気づく)にさとされたり、近くの和尚の教えを受けたりして、自分の人生を自分で切り開くことを決意する。与八が自立するとき、それはお松との袂別になる。
†自立[#「自立」はゴシック体]
七兵衛が房州から駒井の伝言をもって沢井にやってくる。与八も郁太郎をつれて、七兵衛とお松と一緒に房州にいき、駒井の海洋共和国に参加するように誘われる。お松は駒井の理念に心から共鳴しているから、駒井からの呼びかけに応えてさっそくにも沢井の寺子屋をひき払って、旅の用意をはじめる。お松から見ると、与八もまた当然喜んでついてくると信じていた。ところが、与八は断固としてお松の提案を拒否する。駒井の殿様のところにいくことはお松には福音かもしれないが、与八にはそうではない。彼はその理由を説明する。自分はひとつの願をかけた。日本中を腰に鉈《なた》一本さげて、地蔵を彫りながら、各地の霊場を巡礼して歩きたいと(「勿来の巻」七十二)。
与八は、所有物のすべてを整理して、人に分かち与えたり、そうでないものは穴をほって、そこに焼いて埋める。彼にかかわりのあるすべてを焼き捨てる彼の決意は、彼がこれまでの人生をすべて清算して、新たに生まれ変わる覚悟を示している。いまや彼には、捨てた親への慕情も、捨て子であった記憶も必要ではない。与八の前半生は終了したのである。
かくて、与八もまた峠の旅人になる。郁太郎を背負った与八が大菩薩峠を越えていく。峠にはまだ雪があり、そこに自分が立てた地蔵菩薩像にかかる雪を払い、台座のまわりに植えた撫子《なでしこ》の花を雪の下からかき起こして、あたりを箒で掃除し、もってきた線香と花を添える。いまやこの峠ともお別れであると思うと、与八はそぞろ郷愁を感じる。立ち去りがたく、来しかたの武州沢井のほうを、しばしの間ながめやる。諸国修行が無事に済んだなら、再びここに帰ってきて、地蔵尊を守りながら一生を送ることができるなら送りたいものだと、ひそかに心のうちで彼は思うのであった。どこといって故郷がないのだから、ここらあたりが故郷にするのに最良の地なのかもしれない。しかし、彼には別の人生が待っている。無からの出発である。
†絶対受動態[#「絶対受動態」はゴシック体]
旅立ちにあたって、昔から因縁のある恵林寺の慢心和尚にお別れの挨拶をしにいくと、和尚は与八に合掌の仕方を教えて、次のような餞別《せんべつ》の言葉をくれる。
[#この行2字下げ] 「……道中、いかなる難儀があろうとも、その合掌一つで切り払え。およそいかなる賊であろうとも、その合掌で退治られぬ賊というものはない、いかなる魔であろうとも、その合掌で切り払えない魔というものはあるものではない。一寸なりとも刃物を持つな、一指たりとも力を現わすなよ、われと我が胸へ合わするこの合掌が、十方世界縦横|無礙《むげ》天下太平海陸安穏の護符《ごふ》だよ」
[#地付き](「弁信の巻」二十四)
すべての所有物を焼き捨て、もてるものと言えば祈りと仕事を兼ねた地蔵彫りのための一本の鉈しかなく、身につけるのはただ襤褸《ぼろ》しかない人間が、苛酷な世間を渡るには、たしかに和尚の忠告の通りに生きていくのがいいと、与八は確信する。合掌の姿は、祈りの姿であり、また対人関係における絶対受動態の姿でもある。刃物も力も使わないで、ひたすら合掌をもって切り抜けるという姿勢は、与八の絶対非暴力の覚悟を示すものである。米友のように正義の権化である人間ですら、ときにはやむなく槍にすがるほかはないこともある。しかし与八は、ありあまる力をもちながらけっして力に訴えない。弁信が過剰な言葉の奔流をもって困難に立ち向かい、言葉の渦巻でもって人の心をなだめるのに対して、与八はひたすら寡黙である。過剰なまでに膨張した身体をもち、横綱相撲でもとれそうな過剰な力をもつ与八は、ひたすら唖のごとく、小児や侏儒のごとく、あるいは乙女のごとく、合掌ひとつで世に処していく。受け身の姿勢は必ずしも消極的ではない。それは、欲望が渦巻く世間から決断して積極的に退くことである。このような絶対的な受け身の生き方こそが、与八を他人の欲望を欲望する分身図式から解放してくれるのである。それは欲望的世界と分身化の流れを切断する与八的形態なのである。
†陰徳[#「陰徳」はゴシック体]
与八は慢心和尚の紹介で甲州有野村の馬大尽藤原伊太夫の屋敷で働くことになる。そこでの与八の働きぶりは、あの合掌をもってする生き方の通りである。
世間の常識では、少なく働いて多くを得ることが経済的である。欲が出て来ると、最も少なく労働して最も多くの収益を獲得することに世人は狂奔する。それが普通の人間のすることである。反対に、最も多く労働して、最も少なく得ることで満足する人があるとすれば、彼は世間的には「馬鹿」ないし「愚者」と呼ばれるだろう。世人は彼を指さして、表では奇特なことだといい、裏では虚仮《こけ》あつかいにして、利用しようとするものだ。
この反経済原則を実行するのが与八の働きぶりである。彼は自分の労働の量をけっして計算しない。賃金が支払われるときになると、それを受け取るのを避けるがごとく現場からいなくなる。与八の手に入る分が他人に分配されることが、彼の行動によってひそかに期待されている。他人もそれを知らぬまに受け取って満足する。彼は、「さあ皆さんにわけてあげましょう」などと、どこかのでしゃばりがやるようには宣言しない。彼は隠れてそうする。再分配は誰にも気づかれないうちに行われることが望ましい。与八が報酬支払いの現場から姿を消すのは、そういう理由からである。これを陰徳という。
[#ここから2字下げ]
それにしても、一人や二人は、与八という特種人物の力量が抜群であって、仕事ぶりに蔭日向《かげひなた》というものがないという点ぐらいは認めてやる者があってもよかろうと思われるが、それすら無いというのは、証跡がかくれてしまっているのです。
つまり、与八はその非凡な力量を以て、常人の幾倍に当る仕事をしていることは確実なのですが、その仕事は、蔭日向がないというよりは、蔭ばかりで日向が無い、日向ばかりで蔭が無い、というような仕事ぶりになっているからでありましょう。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](「不破の関の巻」一)
†与八の共同体[#「与八の共同体」はゴシック体]
陰徳はおのずから人を魅惑しひきつけていく。与八の陰徳に魅惑された最初の人は、彼を使っている主人の伊太夫である。伊太夫は、いつまでも与八が屋敷に居つくことを期待し、それを勧めるばかりか、いつしかお銀なき跡取りとして与八と郁太郎を迎えたいと考えるまでになる。与八自身は、伊太夫の屋敷での滞在は一時的なもので、いつかは諸国巡礼の願を実現したいと考えている。跡取りはともかく、伊太夫の引き止めを拒否するわけにもいかず、とりあえず甲州有野村で彼なりのユートピアあるいは「共同体」をつくり始める。
まずはじめに彼は、伊太夫の屋敷にこもる憎悪の雰囲気を消し去ろうとする。屋敷内には、お銀が憎悪を込めてつくった「悪女塚」がある。ここには、伊太夫すら手を触れることができないお銀の聖域がある。この悪の聖域を与八はなんなく解体して、塚のあった場所の上に、自分と郁太郎の粗末な小屋を立てる。そしてそこに、塚の代わりに地蔵を据える。このふるまいの意味は、与八の陰徳ないし合掌的人生をもって、虚栄心の欲望と憎悪を大地のなかに埋め込むことであった。悪女塚の上に与八の庵をつくることそのことが、与八の合掌なのである。この与八の憎悪封じの祈りは、まだ会ったことのないお銀の精神にも遠くから影響を与えるだろう。お銀は、いつしか憎悪の人生から離脱しはじめる。お銀の変身には、直接的には弁信と米友の感化があると言えるが、間接的には(伊太夫を通じてお銀に与八の情報が伝わる)与八の効果もまたあると見るべきであろう。こうした悪の魔力を合掌で切り払う行動のおかげで、伊太夫の屋敷は徐々に平和を取り戻しはじめる。与八は「浄化」の力なのである(「胆吹の巻」二十四)。
与八が地蔵を彫っていると、いつのまにか子供たちが集まってくる。自然に集まるのだ。与八は人工的に人集めなどしない。彼がそこに実在するだけで、まずは子供たちがおのずから集まってくる。それは武州沢井でもそうであった。子供があつまれば、与八の人格の感化で一種の教育が行われる。沢井では、お松という理知的な女性のおかげで寺子屋ができた。甲州ではもはやお松はいない。与八一人ですべてをこなしていかなくてはならない。集まった子供たちを自然に感化することを越えて、彼はお松から学んだ教育法を試してみる。人倫の教えを与えるばかりでなく、貧しい山村の子供たちの将来を考えて、読み書きと算術をも自ら手をとって教える。与八の共同体はまずは、地蔵彫りをめぐる感化と知的教育の学校建設からはじまる。
子供が集まれば、その親たちが集まる。与八は、自然に親の教育もしはじめる。親の子供に対する態度の変革を試みるのである。こうして子供と親たちをひっくるめて、教育の実をあげていく。いまでは有野村近辺は与八を中心に動きだす。「こうして与八の家は、おのずから説教の壇上となり、教育の学校となっていきました」(「胆吹の巻」二十六)。
†与八、聖者になる[#「与八、聖者になる」はゴシック体]
与八の人徳は伊太夫の屋敷や有野村を越えて、近隣の村々に響き渡り、遠くから与八の感化を得たいと会いにくるものが続出する。与八は、いまでは拝まれる存在になった。それはけっして与八の望むところではないが、人気の勢いがそうさせる。作者は、与八の状態のそうした変化を木喰《もくじき》上人の生まれ代わりとして描いている。
[#ここから2字下げ]
そのうちに、誰言うとなく、こんどお大尽様へ来たデカ者は、あれは只者ではござらねえ、まさしくあれは木喰五行上人《もくじきごぎようしようにん》のお生れかわりに相違ない、五行上人が生れかわって有野村のお大尽の邸《やしき》へお出ましになった――
と、こういう噂《うわさ》が立ちました。
そうすると、善男善女《ぜんなんぜんによ》が木喰五行上人の再来のお姿を拝みたいというので、与八のこの新屋へお詣りに押しかけて来ました。そうして仏像をきざんでいる与八の姿を拝む者が続出して来たのには、当人の与八がわけがわからなくなってしまいました。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](「胆吹の巻」二十七)
陰徳の人は自分から進んで「聖者」になることはない。彼を木喰上人の生まれ代わりとするのは、世間の噂であり、世人の想像力である。そのまま放置すれば、与八は、さまざまな聖人の生まれ代わりにさせられてしまう。与八には迷惑至極にちがいないが、とはいえ彼について世間の人々が聖者扱いするには、それなりの理由もある。それが与八の献身的で、自分を投げだす祈りの生き方である。
こういう人物を何と特徴づければいいのだろうか。柳宗悦《やなぎむねよし》は、浄土真宗系統のなかで生まれた田舎の「妙好人」のひとりの言葉を引用している。「微塵ほどよき事あらば迷ふのに、丸で悪ふてわしが仕合せ」(寿岳文章編『柳宗悦 妙好人論集』、岩波文庫、一三八ページ)。与八の生き方もまたこれに等しい。絶対無所有であるがゆえに、そして自分が悪に満ちていることを自覚するがゆえに、人一倍の労苦をも感謝の念をもって行うことができる。献身と贈与は、利益計算をこえたところで行われる。これが妙好人と呼ばれるのであれば、与八はまぎれもなく妙好人である。
『峠』のなかで、巧まざる成り行きによって、自然発生的な「理想的」共同体があるとすれば、それは、こうして一瞬なりとも甲州に出現した与八の共同体であろう。海上にユートピアを求める駒井の「無名丸」共同体も、胆吹山麓に割拠するお銀の山岳共同体も、それぞれ高度な知識人に率いられた理想社会の実験であるが、それぞれに難点をかかえ、いつかは挫折する宿命にあるかに見える。ところが与八の共同体は、そのまま存続すると仮定しての話であるが、他の二つの理知的共同体よりもはるかに成功の見込みがある。そうだとすれば、与八は『峠』ではいかにも脇役に見えているが、実際には小説のなかの最重要人物のひとりと言ってもいいだろう。日向ではなく、影のごとき人物のふるまいのなかに、ある希望が託されていると見ることができるのである。
陰徳の人は、聖者に祭り上げられてはならず、しかし当人の意図にかかわらず聖者にさせられる。このジレンマを与八が切り抜けるには、再び、峠の旅人、漂泊者になるほかはないだろう。その意味で与八もまた、宿命的に漂泊者、峠の旅人である。
3 清澄の弁信のために
†純粋の漂泊者[#「純粋の漂泊者」はゴシック体]
『峠』のなかに登場する主要人物たちは、例外なく漂泊者である。一見したところでは漂泊者に見えない人物ですら、なんらかの機縁から漂泊するのを余儀なくされる。たとえば、神尾主膳のような人物は定住者的であるが、その彼ですら、甲州に流され、また江戸に戻り、江戸では一種の「内地亡命者」のごとき生活を送り、再び京都へと流れていく。書き割り的人物は別として、作者が力を込めて描く人物たちは、どうしても漂泊者でなくてはならないことになっている。彼らは、自分の意図に反してさえ、境界線と峠を越えて、あてのない旅人になる。
そのなかで、自覚的に漂泊する人物がいる。それが弁信である。彼は、駒井やお銀のように、どこかに理想の終着地を設定することすらしないし、運命にまかせて漂うわけでもない。おのれの存在が境界線であり峠であるとはっきり自覚し、それに徹するのである。その意味で、弁信は「完全な漂泊者」であり、純粋の「峠の旅人」である。弁信はおのれの存在をこう述べる。
[#この行2字下げ] 「……旅に慣れたと申しますよりは、生涯そのものを旅と致しておる身でございます、生れたところはいずことも存じませぬように、終るところのいずれなるやを、想像をだに許されていないわたしの身の上でございます」
[#地付き](「年魚市《あいち》の巻」十三)
彼もまたどこかを出発点にしたのであろう。彼も人の子であったはずで、親を知らずとも大地のある断片の上に出生したにちがいない。しかし彼は、出家になるときからすでに、この世的な生き方を放棄させられた。彼がどこかの寺に定住するなら、それはそれで人生の終りである。それに甘んじえない宿命が彼にはある。そういう宿命があるだけではない。彼はその宿命を率先して、自覚的に引き受けていく。弁信は、いわば「先駆的覚悟性」をもって、自己の「本来性」に目覚めてしまっているのである。それは人間の本来性とも言える。弁信の告白は、弁信だけのものではなく、原則的には他の人物たちの本来的姿でもあるのだ。
では弁信の旅の人生とはどういうものか。それについても、弁信ははっきりした自覚をもっている。
[#この行2字下げ] 「……事実、私は御覧の通りの瘠《や》せ法師で、大きな胆力も無ければ、勇気のほども微塵《みじん》あるのではございません、ただ人生を旅と心得ていることだけを存じておりますものですから、到り尽すところが、すなわち私の浄土と、こう観念を致しておりますものでございますから、旅を旅とは致しません、旅が常住でございます。陸に住む人は、水へ行くとあぶないと子供を叱ります、水に住む人は、陸は怪我をし易《やす》いからといって子供を叱ります、旅を常住とする私が、旅を恐れないのは、死がすなわち人生の旅宿《はたご》だとこう信じておるからでございます――私風情は取るにたりません――古来、大いなる旅行家は皆、大いなる信仰の人でございました」
[#地付き](同前)
人生を旅と心得ていること、そしてその旅の人生が「浄土」であると自覚すること、それが弁信法師の覚悟なのである。人生が旅であるとは、足を踏み出す一歩一歩が「境界線」であり「峠」であることを意味する。峠と境界そのものは、弁信にとっては「浄土」なのである。定住者の世界、世間の人々の世界は、虚栄心の欲望が渦巻く世界であり、怒りと無知と貪欲に引き回される「無明」の世界である。旅の人生が浄土であるなら、そこにこそ欲望から生じる分身世界からの解放の境地がある。悪と罪からの目覚めを、弁信は浄土と称しているのである。弁信が、米友と与八を除いて、他のあらゆる人物の鏡になるのは、彼が「覚者」であるからだ。
漂泊者弁信を「完全な」とか「純粋の」と形容するのは、ニュアンスをつけるためではない。そうした形容句をもって言い当てたいことは、弁信の漂泊性が、他の種々の形態をとる漂泊者たちのあり方の極限になっているという事実である。完全で純粋の漂泊者とは、漂泊者の理念型とも言ってよいだろう。別の言葉で言えば、『峠』のなかに登場する峠の旅人たちの行き着く先は、弁信的なあり方なのである。もし弁信が、漂泊者の極限であるとすれば、他の漂泊者たちもまた、傾向としては、弁信の方向に向かっているのである。その意味で弁信は、他のいっさいの旅人たちの本質を写しだす鏡である。
不純で不完全な漂泊者たちは、そのなかに反漂泊的なものを抱えているだろうし、漂泊傾向と反漂泊傾向との間で彷徨《ほうこう》している。そうした右往左往のなかにあっては、それぞれの漂泊者は自己の本当の姿を真実には自覚できない。彼らが、偶然であれ何であれ、何らかの機縁で弁信に出会うとき、弁信の見えざる眼のなかに、彼らの真実の姿が浮かび上がる。弁信はそれを、過剰な言葉で指摘する。しかし多くのものは、弁信の饒舌に辟易《へきえき》して、おしゃべり坊主が何を言っているのかぐらいに聞き流すことがある。ところが、弁信の過剰な言葉は、いつのまにか、彼らの心のなかに食い入り、彼らの精神を内部から変えていく。弁信の言葉には、直接の効き目はない。それはじわじわと効いてくる。弁信の放つ言葉の弾丸は深く他者の心のなかに浸透し、少しずつ弁信的な「光明」の世界へと導いていくのである。
†弁信の治癒力[#「弁信の治癒力」はゴシック体]
前に述べたように、弁信は竜之助に向かってこう言ったことがある。みんな一つの増上慢心から起こる、一点の増上慢心の芽生えが悪い、一人に誇る優越が万人の羨みとなり、嫉みとなるとき、千業万悪の種が蒔《ま》かれたのだ、悪の源である慢心を亡ぼさなくてはならないと。増上慢心をなくすためにはどうするのか。事は簡単である。言うは簡単であるが、実行は極めて難しいことだが、弁信によれば、それは「求めざるの心」をもつことである。「この世にこの求めざるの心ほど強いものはございません」(「農奴の巻」四十二)。
弁信が「求める心」として批判していることは、生理的身体的欲求ではない。身体が自然の必然から求めることには何らの悪は含まれていない。むしろこの身体的欲求を満足させない社会組織のほうこそが咎められるべきである。弁信が、誰に向かっても繰り返し言うことは、「求める心」とは他人に優越する「誇りの心」であり、驕《おご》りの心である。これが当世風の言葉で言い直せば、虚栄心であることは、すでに幾度も指摘したところである。複数の他人がいるからこそ、悲しいかな、人間たちは、他人に向かって見栄を張る。見栄とは、自分が他人の誰よりも抜きんでていることを、他人に評価してもらいたい、そのように承認してほしいと願う心の傾きである。求める心が求めるのは、虚栄であり、名声であり、威信である。他人もまた同様に、このような「求める心」をもっており、同じ要求をする。万人が互いに見栄を張り虚栄を求めて、いつしか他人の欲望を模倣的に求めるようになる。貪欲も怒りも所詮はこの「求める心」から生じてくる。
虚栄の巷《ちまた》に向かって、弁信は徒労で無力な言葉の批判を投げ放つ。彼の言葉の多くは、空中に雲散霧消していくのだが、彼の言葉のなかには、けっして消滅しない癒しの力があって、それが彼の言葉を聞くものの心のなかに、いつしか沈殿していく。弁信の言葉を存分に吸収した人間は、彼の言葉を再び思い起こすときがくる。そのとき、弁信の言葉が癒しの言葉であったことに気づく。たとえば、憎悪にのみ生きがいを感じていたお銀が弁信と出会う経験がそうだ。彼女は、弁信をこしゃくな小坊主としてしか最初は扱わない。しかし弁信が去り、彼の言葉の数々を想起してみると、いかに自分がまちがっていたかをしみじみと思い知らされる。
お銀は回想する。思い起こせば、彼の存在が不思議でならない。弁信のように、自分に抗弁したような人間はかつてひとりもない。目上のものであろうと、親であろうと、この自分に対する批判を許したことがないのに、弁信だけは堂々と私を批判する。弁信は、自分に論争をいどみながら、彼は自分に敵意を抱いたとは微塵も思えない。そこが不思議だ。彼の議論に屈服したとはとうてい感じないが、そうかと言って彼の抗弁に自分が反感を感じないのも、まことに不思議な経験である。自分は弁信の存在をできるだけ小さく見積り、自分のほうをできるだけ大きく評価しようとしてきたが、それはまちがいではなかったか。
[#ここから2字下げ]
彼が無制限に喋り捨てをした冗言漫語の中には、思い返せば、幾多の明珠があったのではないか。いやいや、その全部が、或は及びもつかぬ偉大なる説教になっていたのではないか。自分はそれを極めて無雑作に取り扱っていたまでではないか。極楽世界に棲《す》む子供には瑠璃宝珠《るりほうじゆ》が門前の砂となっている。
…………
偉大なる徳は忘れられるところに存する――というようなことを、あのお喋りが喋って聞かせたことがある。
……忘れなければいけない、忘れられなければいけない、忘れるところに総《すべ》ての徳が育ち、忘れられるところにすべての徳が実るのだ……
もしそうだとすれば、今までわたしに、一別来の安否をも存亡をも忘れさせていたあのお喋り坊主の存在は、わたしの触れてきた人間のうちの、最も偉大なるものではなかったか?
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](「弁信の巻」十)
これこそが、弁信の言葉の治癒力である。弁信は、産卵する魚が無数の卵を水中に放出するように、際限のない数の言葉を相手に向かって、時には誰もいない自然のなかに放出する。それらの言葉は、耳を傾ける者の心に沁みいる。そして心の奥底に堆積した言葉は想起される機会をもっている。というよりも、弁信の言葉は、必ず時をおいて想起されるような圧力をもっている。想起がなければ癒しはない。弁信の言葉を想起するものだけが、その言葉によって「求める心」、虚栄心、倨傲《きよごう》を癒され、そしてそれらから解放される見込みがある。お銀が弁信の存在を、時を隔てて思い起こすとき、彼女はすでに癒しの効果を受けているのであり、いつかはきっとあの増上慢心と憎悪の人格を少しずつ解消していくであろう。弁信によると救いと浄土の実現とは、このような言葉による癒しと、癒されるものの目覚めなのである。
†自然の人[#「自然の人」はゴシック体]
弁信とは何者であろうか。彼のような存在を何と形容すればいいのだろうか。僧侶の姿をした弁信を、禁欲の僧と見るのは容易である。彼は無人の孤島のなかで幾日も生存することができる。彼は自力を頼んで禁欲による救済を実行する人間なのか。どうやらそうではない。彼は、自己の力を頼むところは微塵もない。彼はひたすらあるがままに、与えられた境遇におのれを放下している。これを抹香《まつこう》くさく解釈するのではなくて、社会関係の文脈で語るなら、彼ははじめから、この世間的文脈から、つまり虚栄の欲望と人間の分身化の構造から、抜け出していると言えよう。
弁信は、かつての友である清澄の茂太郎と同様に、自然の生き物と一緒にいるほうが生きている実感をもてる人間である。二人とも自然の人、野生の人であり、そうであるからこそ、世間的な人間のあさましさを誰よりも鋭く指摘することができる。たとえば、駒井グループに参加する茂太郎は、弁信の役割を演じる。茂太郎は、知識ばった頭でっかちの連中のなかで、そうした大人には見えない人間の矛盾と歪みを洞察し、しばしば駒井グループの困難を助ける。弁信が、お銀、お雪、竜之助の精神のなかに食い入り、彼らの「求める心」を治癒するのと等しい役割を、茂太郎もまた別のところで果たすのである。こういってよければ、茂太郎は、弁信が駒井グループに与えた贈り物であり、自分の代理なのである。
弁信は自然の声を「なつかしい」と感じる。
[#この行2字下げ] 「……わたくしがあの雪の大野ケ原の中に立ちすくんでおりました時に、ふと、わたくしの耳許で私語《ささや》く声がいたしました。それは人間の声であろうはずがございませんが、人間同様のなつかしさを伝えてくれる、小鳥の声でありました……」
[#地付き](「勿来の巻」百)
小鳥の声でも、他の生き物の声でもなんでもいい、弁信には自然の声が「なつかしい」のだ。なつかしいとはどういう感情なのか。それは、その声に導かれて諸悪の根源から、つまり世間的人間の愛憎の葛藤から解放された喜びなのであろう。弁信的浄土はそこにある。
茂太郎は、あらゆる種類の鳥たち、オオカミ、子牛、鯨等々に出会うたびに、なつかしさと喜びを感じている。弁信はいっさいの自然の声に、米友はムク犬や西洋渡来の豪犬あるいは子熊になつかしさと喜びを感じる。与八は、自然に近い子供たちと接触することになつかしさと喜びを感じる。彼らだけが、自然の人で野生の人である。
自然と野生の人、それは普通は「愚者」と呼ばれる。自然にして野生の人は、虚栄と慢心に酔っ払う他の誰よりも醒めている人であり、誰よりも冷静な人である。弁信、与八、米友、茂太郎の四人は、「冷静なる愚者」であり、そして真の意味での賢者である。
†冷静な従者[#「冷静な従者」はゴシック体]
スペインのサンチョ・パンサ(セルバンテスの長編小説『ドン・キホーテ』の登場人物)は、冷静なる愚者にして気のきかない従者であり、ぶつくさ言いながらも主人の騎士の後についていく。彼は主人ドン・キホーテの世迷い事や妄想などとは無縁である。彼は主人の世界(世間的な常識、幻想と妄想、虚栄と欲望)を共有しない。だからこそ従者サンチョは、そうした世迷いから醒めているのであり、醒めた眼で主人的世界を忌憚なく批判できる。目覚めた愚者であるからこそ、彼は主人を批判しつつも、彼を保護することもできる。
冷静なる愚者は、「主人」にはならない。彼は、はじめから「主人」(世間)の領域からはみだしているからだ。彼はいつも周辺にいて、頼まれもしないで陰徳から、あるいは醒めた正義心から、すべてに心を開く態度から、憎悪と怒りと妄想に気づかない「主人」たちをひそかに保護している。『峠』でも、冷静なる従者の構図がいくつか見られる。
宇治山田の米友[#「宇治山田の米友」はゴシック体] 彼は人生の旅路で、何人かの「主人」ないし保護すべき人をもつ。最初に彼は、幼な馴染のお君の従者にして保護者であった。ついで竜之助の保護者になり、女軽業師の親方お角の従者をつとめたり、道庵の従者になったりする。最後には、お銀の従者の位置に立つことになる。ときには、彼は、一揆に起ちあがった農民の身代わりになって処刑の危険にさらされることすらある。なかでも道庵と米友のカップルの物語は、スペインの先輩たち(ドン・キホーテとサンチョ・パンサ)とそっくりである。「長者町」という名前をもつ江戸の貧民街の赤髭医者である道庵は、酒で酔っ払うばかりでなく、なにかというとお祭り騒ぎが好きでとんでもない逸脱をするし、世間の流行に弱く、すぐに当世風の真似をしたがる。道庵はこれでも名医と言われ、その道では冷静な技術者であるが、他方では先輩のドン・キホーテにも劣らないほどに幻想に酔うところがある。馬鹿騒ぎが過ぎてにっちもさっちもいかなくなると、彼は必ず米友に助けを求めるし、米友もまた道庵への親愛から文句を言いながらも助けてやる。道庵という人物は、それだけでも興味深い人格であるが、それをこえて、彼は理知的な人間でありながらも、所詮は虚栄心の虜であることの実物証明になっている。米友は、そうした道庵的人間を蔭で助けながら、彼の愚を批判できる。
武州沢井の与八[#「武州沢井の与八」はゴシック体] 彼も典型的な従者である。彼は、最初は、竜之助の父弾正の下僕であり、したがって竜之助の従者であった。後には、お松の助手にして保護者になり、最後には、竜之助の遺児郁太郎の従者にして保護者になる。不幸にも知恵遅れに生まれた郁太郎を自分の文字通りの主人として使える与八の行動は、おそらくは道庵/米友のカップル以上に、冷静なる愚者の実質を表現している。なぜなら郁太郎は、かつて与八がそうであったのと同じ愚者であり、その愚者の従者の役を務めるには、冷静であるばかりか、にじみだす陰徳がなければならないからだ。
清澄の弁信[#「清澄の弁信」はゴシック体] 彼は言うまでもなく普通の意味での「愚者」ではなく、ある意味では誰よりも「知者」であるかもしれない。しかし彼は世間の常識を越えている点で、米友や与八と同じ「冷静なる愚者」の系譜に入る。そして彼もまた、かつては茂太郎の従者にして保護者であったし、お銀の従者にして助言者でもあった。しかし弁信は、本当は誰かの従者や保護者ではなく、完全なる漂泊者にして純粋なる境界人であるがゆえに、万人にとっての冷静なる従者にして助言者なのである。
要するに、蔭にひかえているもの、周辺にいるもの、前景にでしゃばらないもの、そうした存在を従者や助手と言う。こういった控えめな存在のなかに、物語の真実の意味が託されている。すでに何度も指摘したように、冷静なる愚者たちのみが、人間の悪業の泥沼に咲く蓮華の花であり、そこにかすかな希望がある。
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【エピローグ】 開かれた物語
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1 中心なき物語
†主人公の問題[#「主人公の問題」はゴシック体]
近代小説には必ず中心になる主人公が存在する。ひとつの小説にはひとりの主人公がいる。『暗夜行路』の主人公は時任謙作であり、彼を中心に物語は展開するように、内外の近代小説は、ごく少数の例外を除いて(たとえば、バルザックの『人間喜劇』)、ほぼすべてが一個の人物の行動と経験の物語であり、他の人物は中心人物の視野から眺められた風景であり、せいぜい二次的登場人物である。主役があり脇役がある。脇役は主役に従属している。主役は物語の自我であり、この自我が語り、自我の語りを通して世界が自我にとっての現象として描かれる。すべては主人公に収斂し、彼にとっての他人や事物や出来事は、彼の意識の内容になる。そして自我としての主人公は同時に著者の自我であり、著者の分身である。したがって近代小説は、作品を構成する著者という作品の裏側にいる隠れた中心と、物語の主人公という表面の中心によって、二重に中心化された構造をもつことになる。
これを形式化して言うとこうなる――主人公が主体であり、彼以外の人物と事物あるいは事件は客体である。近代小説の構造は主体/客体の構造をもっている。さらにこの主体/客体の構造が、著者という主体にとっての客体になる。それは二重の主体/客体構造になっている。だから作品は、著者の思想、経験、情念を語りによって外部化したものであるから、作品を理解するためには、作品を構成した著者を理解することが先決条件になる。こうして作品の研究とは、著者たる特定の作家の研究と等しい。ここから作品の研究にかえて、作家の伝記的研究が重視されることになる。
こうした考えの前提には、作品が作家の精神から流出した結果であり、そのかぎりで作品は起源と源泉としての作家に比べて、二次的でしかない身分が割り振られる。作品と作家は切っても切り離せない関係にあると言いながらも、実際には作品は作家の二次的随伴物なのである。著者である作家の人生と考え方を知らなければ、作品は理解できないという牢固として抜きがたい暗黙の前提がある。作品自体の自律した生命も独自の作用も原理的には許されない。
このような読み方がうまくいく作品のほうが、近代では圧倒的に多いはずだ。なぜなら、著者自身が作品の生みの親であり、作品が著者の人生の表現であると確信して書いているからである。芸術作品は芸術家の内面を外化したものであり、したがって作家としての芸術家は自己の作品のなかに自分の本質を認め、作品と自己との和解(矛盾や亀裂のない調和の状態)を遂げる。この和解は、客体(作品)と著者(主体)との一致または適合であり、それが作品の真理と呼ばれる。してみると、作品の本質ないし真理は主体としての作家にあることは自明である。作品研究は作家研究と同一であるから、前者は後者に置き換えられる。
†中心をもつ構造[#「中心をもつ構造」はゴシック体]
こうした仕組みを中心化された構造、中心をもつ構造と呼ぶのである。これを別の言葉でいうと、起源(著者)があり、目的(結果としての作品)がある構造である。近代小説は、近代の意識哲学の芸術面での実現である。近代の自我の意識が「世界」の能動的創造者であるように、作家は物語世界の創造者であり、作品の主人公は物語の能動的創造者である。ひとりの神のごとき世界創造者があり、その分身が作品の主人公であり、さらに物語の他の事件や他の人物は主人公によって構成された影になる。ひとつの中心があり、そしてすべてがこの中心に還元される。
†作者の宙吊り[#「作者の宙吊り」はゴシック体]
『大菩薩峠』には中里介山というれっきとした著者がいるのだから、近代小説の作法にしたがってこの小説を読もうと思えば読むことができる。そして作法通りに、『大菩薩峠』の中心的主人公を探そうとすれば、それも簡単に探すこともできる。誰も知っているように、とくに内田吐夢の映画に見られるように、普通はこの小説の主人公は机竜之助だとされている。したがって、『大菩薩峠』もまた、近代小説と近代の意識哲学の作法通りに書かれていると誰もが思うだろう。そして読者はこう心に納得する――それは中里介山という作家が書いた小説で、その主人公は机竜之助という剣豪であると。しかも、この小説は剣豪小説だから、きっと大衆小説にちがいないとも想像することだろう。
たしかに『大菩薩峠』は、机竜之助がいないと面白みの大半を失うにちがいない。机竜之助のいない『大菩薩峠』はありえないのは確かである。そのことに疑いはない。しかし映画にそそのかされて、机竜之助がニヒルな剣士だとか、かの宮本武蔵のように剣の道を極めるために一生を捧げる求道者のような人物だと考えるのは大いに問題である。剣の道一筋に生きる竜之助といったイメージは、ひとりの人物を中心に構成された小説として『大菩薩峠』を読むことであり、小説を特定の主人公の物語として、はなから前提してかかることである。ときどき見られることだが、竜之助が途中からあまり登場しなくなると、『峠』の後半はおもしろくないとか、作者は失敗したのだ、あるいは作者は収拾がつかなくなったのだ、といった批評をする人も出てくる始末だ。こうした批評は、「主人公」中心の読み方を当然の前提としているのだ。
このような剣豪小説的理解は、おそらくは『大菩薩峠』を最初の数巻しか読まないことからくる思い込みにすぎない。本当のところは最初の数巻を読んでも、竜之助中心の小説と見ることも、彼を剣豪に見立てることも、不可能なのである。ついでに触れておくならば、剣豪小説(チャンバラ小説)論は、ちょうどメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』がアメリカ映画に影響されて、映画のイメージから逆に妖怪小説に見立てられたのと同じような、本末転倒が生じたのであろう。剣豪小説などは大衆小説であって、だから『大菩薩峠』などは本来の文学ではないという一種の暗黙の「常識」が固定したのではあるまいか。こうして多くの人は、『大菩薩峠』全巻を読まずに、常識的な分類図式に従って軽視しつづけたのではなかったのか。
一度はこうした思い込みをすべて清算する必要があるのではないだろうか。著者/作品、ひとりの主人公を中心とする物語といった小説観を放棄する必要がある。事実、『大菩薩峠』はそうした中心的構造をもっていないのである。
†作品の自立[#「作品の自立」はゴシック体]
作品を理解するときに、著者を過度に重視すると、著者の分身である中心的人物を要求することになる。そうでない読み方が可能であるのではないか。言い換えれば、いったんは著者=作品という考え方を放棄することだ、つまりあたかも著者が存在しないかのように作品を読むことを実行してみるのである。著者には彼なりの思い込みがあろうし、作品のなかに自己の思想や情念と経験を盛り込みたいと考えるだろう。それは当然のことである。
しかしそれは著者自身による作品の解釈であり、最初の読者としての著者の解釈であり、重要ではあっても多くの解釈のひとつにすぎない。たとえば、著者中里介山が仏教的見地を高らかに作品の冒頭に掲げているからといって、それに囚われる必要はない。それも作品のひとつの要素であるが、そうした著者の思想でもって作品が全面的に支配されているわけではない。著者はそうしたいと願ったではあろう。けれども一般に著者といえども、自分の作品を完全にコントロールすることなどは出来ない相談であるし、事実、作品の内容を著者が完全に制御した例はほとんどない。作品は著者の構想と意図と解釈をつねに越え出てしまう。それが作品の生産過程の本来の姿なのである。
あたかも著者が存在しないように作品を読むとは、作品を著者の思念から独立させて読むことである。そうは言っても、『大菩薩峠』にはしばしば著者が顔を出す。数々の人物の言葉や行動を通して間接的に顔を出すばかりではなく、直接に著者の素顔が出てくることがある。時代背景を無視して、著者が現在の心境を語ったり、登場人物の時代ではとうてい知りえない歴史的事実、たとえば大塩平八郎の乱を語るついでに、レーニンやトロツキーを語ったり、物語の進行中にヴィクトル・ユゴーやトルストイについての演説が入るとか、ルネッサンス絵画論が展開されることなどは、著者が素顔を出す典型的な例である。他方では、物語の展開のなかで日付や季節を間違えたり、混同したりするような単純ミスにも著者の手付きが見える。しかしそうしたことは著者の遊戯である。日付のミスは、作品が歴史小説ではまったくないのだから、どうでもいいことだ。著者をあたかも存在しないと仮定して読むことに決めるなら、そうしたこともご愛敬として無視することができる。そこに肝心なことはないからである。
†中心なき物語[#「中心なき物語」はゴシック体]
『峠』には「中心」はない。
第一に、伝統的な意味での主役、すべての事件がそこへと収斂し、物語の意味がそこから発するところの起源としての中心人物は存在しない。たとえば、机竜之助は普通の意味での主人公ではない。彼は物語のなかでの主要な人物ではあるが、いわゆるヒーローではない。彼は、『峠』のなかの重要ではあるが数多くの登場人物の一人でしかない。彼は物語の中心でも主人公でもない。彼は、物語の発端を作るが、いわば舞台回しの役割を演じるのである。その点では他の人物たちも同様である。
第二に、主題としての中心がない。著者が作品の制作者としての主体として語りたい私的な内面性を体現する主題は存在しない。著者の内面的思想が作品の主題となり、それが作品の「意味」の体系を支え、物語のなかで展開する出来事の意味と方向を采配するのが、通常のあり方であるのかもしれない。しかし『峠』にはそうした意味での主題/中心はない。著者が主張したいことがあるときには、『峠』では著者自身が物語とは独立して勝手にしゃべりだすが、それは作品の主要な仕組みとは無関係な脇ゼリフである。
第三に、『峠』では、核になる出来事と人物が同心円的に反復するようにはできていない。どこをとっても同じ経験、同じ語り、同じ人物が顔を出すといった単純な構造がここにはない。たとえば、同一の名前をもつ人物が多数あり、その名前が何度でも登場する。しかしよく見ると、同じ名前の下で、特定の人物は物語の展開のなかで内容を変質させている。机竜之助は、いつも同じ内容の人物ではなく、そのつど変容していくのである。それは主人公の経験の深まりのなかで、主人公の内容が充実していく意味で変容するのではない。ある意味では、まったく異なる内容をもつに至るのである。極端に言えば、同じ名前でありながら、その名前を担う人間が別の人間にすり代わるとすら言えよう。
『峠』では人物についても、物語の構成についても、中心をもつようにはできていない。それは脱中心化の構造である。したがって、厳密には「始まり」もなく「終り」もない。人物も出来事もたえず外に開き、形を変え、新しい人物や事件を呼び込み、そうすることでさらに変容していく。『峠』は、その構造によって、「完結」というものはありえない。それは本質的に「未完成」の宿命にある。
登場人物たちはそれぞれの思い、期待、怒り、情念をあふれるばかりに語り、しゃべる。そのかぎりでは彼らは、人間的な主体である。また著者が彼らを腹話術のように操り、著者自身の思想を彼らの口を通してしゃべらしている。しかし、とくと見ると、登場人物たちは、おのれの思念や幻想あるいは情念を自分でコントロールすることはけっしてできないし、著者の腹話術的人物操作も完全ではない。人物たちはおのれの論理で動いていく。人物たちも著者も自己を完全に制御することができない。その理由は、物語を書く技法のゆるみといったことにあるのではなく、物語の脱中心化の傾向がそうさせるのである。
人物に即して言えば、それぞれの人間たちは、最初は自分の思い込みを頑固なまでに確信している。未来永劫それはけっして変化しないとまで堅く信じてすらいる。しかし彼らは、出来事にぶつかり新しい現実にぶつかるたびに、最初の確信が揺らぐのを経験する。そのことだけを取り出せば、彼らの足取りは自己発見の歩みのように見える。しかし『峠』ではそうではない。彼らは現実にぶつかるたびに、これまでの小さい世界を捨てさり、その「境界」を乗り越えて別の世界をもとめて、新たな一歩を踏み出す。彼らは自覚的にそうするのではない。彼らは余儀なくそうする。彼らは、自己発見のために既存の世界を放棄し、新世界へと進むのではない。彼らは知らぬまにそうするのである。彼らを背後で導く超越的絶対者があるのではない。彼はただそうするようにできているにすぎない。彼らは永遠に境界の越境者、不断の変身者なのである。途中で死ぬものも、最後まで生き抜くものも、すべてがそうである。それほどかわりばえのしない連中もいる。とくに端役の連中がそうだ。しかしそうした連中ですら、同じ顔をしているように見えて、たえず変化している。彼らには、戻るべき自己なるものはないし、帰るべき故郷もない。それはたえざる脱出である。
†登場人物たちの三層構造[#「登場人物たちの三層構造」はゴシック体]
人物の配置からこの物語の構成を眺めてみると、およそ次のような三層構造になるだろう。
[#ここから2字下げ]
1 基本層――物語の骨格をなすキャクラクター。これには複数の主要人物がいる。竜之助、米友、道庵、与八、兵馬、お松、七兵衛、駒井、神尾、弁信、茂太郎、ムク犬、田山白雲。
2 中間層――準主要人物たち。お浜、お君、お雪、お豊、金椎、お角、お絹、がんりきの百。
3 表層――一時的人物たちと端役たち。冒頭の老巡礼、金蔵、お若、飛騨の内儀と浅吉、神主、新選組、天誅組、勤王派の浪士。その他に、殺されたりするためだけに、あるいは物語の進行のなかで話題のみを提供する一時的人物は多数いる。
[#ここで字下げ終わり]
『峠』の筋書きは、人物の絡まり方からすれば、基本的には前記の二つの層、基本層と中間層の人物たちをめぐって展開する。「何々の巻」と称する「巻」は、それぞれ独立した物語であるが、それらで活躍するのは主要人物と準主要人物である。その間をぬって表層の一時的な人物たちが無数に登場し、物語の奥行きを深くしている。
†脇役[#「脇役」はゴシック体]
ところで物語と物語をつないでいく役割は、実際には、表層の一時的人物たちである。彼らは脇役でしかないが、だからといって重要でないわけではない。彼らは、しばしば、出来事の「発端」を作る。より正確に言うと、偶然に出来事が降ってわくのであるが、その出来事の一方の極を主要人物が担当し、他方の極を一時的な脇役が演じるのである。脇役なしには出来事が存在しない。脇役の一時的人物は、その都度の出来事の構成要素をなし、いわばそれと一体をなしている。
たとえば、冒頭のところで、机竜之助が老巡礼を殺す場面がある。殺しはひとつの偶然的出来事である。殺すのは竜之助であり、殺されるのは老巡礼である。竜之助が人を殺す場面を読むと、つい彼の行為ばかりに視線が集まってしまう。しかし老巡礼なしには竜之助の殺人は生起しない。老巡礼がたまたま大菩薩峠を通りかかったからこそ、竜之助の殺人もありえた。出来事を構成するのは、主要人物と同等の資格をもつ脇役の一時的人物である。ちなみに、老巡礼は一回かぎりの、殺されるためだけに登場するのだが、殺されても不在の形で最後まで特殊な効果を及ぼす。第一に、竜之助は老巡礼を殺すことで、内なる殺人傾向を潜在から顕在へと移す。第二に、老巡礼と一緒にいた孫娘のお松は、この老人を失うことで人生を狂わせられるし、新たな運命を身に帯びることになる。第三に、竜之助の巡礼殺しは、『峠』の通奏低音になり、さまざまなヴァリエーションを生み出す。それはすべての人間にとりつく死の存在を象徴することになる。
†ささいな事実の役割[#「ささいな事実の役割」はゴシック体]
脇役を軽視してはならない。それは、「出来事の発端」の制作者であるばかりか、別の文脈では出来事と出来事とのつなぎをつくる。『峠』では、おそらくは意図的であろうが、物語が突如として起きる。前後の連絡の必然性は実際にはない。そのとき、必然性に代わって、つなぎをつけるのが脇役たちである。彼らは、物語と物語とのいわば「縁」を結ばせるのである。偶然の出会いがこの物語をつくっていくのであるが、著者の言い草では、もののハズミでそうなるのである。出来事はハズミで起こり、ハズミで互いにからまりあっていく。このハズミのきっかけをつくってくれるのが、脇役たちである。
偶然に降ってわく事件は、渦巻になり、ひとつの渦が他の渦をつくりだしていく。渦と渦の「縁結び」をするのも脇役である。ひとつの渦の周辺にある渦の切れ端がもう一つの渦の周辺の切れ端とつながり、別の新しい渦を物語として生成させる。このような渦の周辺の切れ端こそ、脇役の努めなのである。
前に、著者がいないと仮定して『峠』を読んでみると言った。しかしここであえて著者の意図を問題にするなら、著者の意図は、主要人物よりも脇役たちのほうにはっきりと表現されているとすら言える。脇役のふるまい、脇役の運命や災難などの叙述を注意深く読んでいくと、そこにはまぎれもなく著者介山の感情の動きや社会的批評ないし文明批評があからさまに表出していることがわかる。その典型が被差別部落の人々の記述である。主要人物になる米友と中間的人物のお君は被差別部落出身であり、彼らへの著者の共感はまぎれもない。しかしそれだけでなく、神尾に殺される被差別民の「長吉、長太」および彼らを救おうとする被差別部落の人々は、まったくの一時的人物であるが、著者はこれを登場させることで、時代への批判と文明への批判をひそかにもらしている。さらに「えいじゃないか」運動の群衆もまた脇役であるし、お角の女軽業興行の成功を見て金を無心する与太者たちも脇役であるが、それを批判的に記述するときの著者の態度はほとんど物語作者の立場を忘れて、社会批判家の立場をまるごと露出させる。道庵の取り巻きである「デモ倉」と「プロ亀」は、介山の生きていた時代のデモクラットやプロレタリア派を揶揄《やゆ》したものである。神尾の取り巻きについても同じことが言える。神尾の取り巻き連中は、遊び人とか詐欺師まがいの旗本であり、彼らは神尾を小指導者に祭りあげる「みこしかつぎ」である。これは草の根のファシストとして批判的に描写されている。このような意味でも、脇役の人物たちは無視することはできない。
†書物か巻物か[#「書物か巻物か」はゴシック体]
書物(本)は表と裏の二つの表紙で外枠を作り、扉のページに表題があり、次に第一章から最終章までが並び、そして最後のページには著者と出版社の名前が印刷されている。これが今では最も合理的な書物の作り方なのであろう。そうすると今度は、この書物の形式が、書かれたもの、書き方をも方向づける。書物とは「始め」があり「終り」があるもので、書き手もまた「始め」と「終り」、出発点と終局点、起源と目的をもつように書き物を書いていくべきだとする観念が固定されていくだろう。書物形式とは、著者という主体があり、主役と主題という中心的起源をもち、そこから出来事が発生的に展開し、終りと目的に向かって進行する構造をもつ。これが前に指摘した「中心化の構造」である。書物の形式は完全に閉じている。
『峠』は一見すると書物の形式をとっている。印刷物であるかぎりは、『峠』も他の書物も変わりはないように見える。そうだとすると『峠』は書物形式の書き物なのであろうか。
『峠』の構成をじっと眺めてみよう。そうすると普通とは少し変わった事実に気づかされる。
書き物の構成が、第一章から最終章へと展開する編成にはなっていない。「何とかの巻」という表題をもつ「巻」が並んでいる。この「巻」は「章」と同じであろうか。日本語の「巻」は、西欧語の「チャプター(章)」と同じなのか、そうでないのか、という疑問が出てくる。同じだと言ってすますことができないわけではない。そうすると『峠』は、「始め」があり「終り」がある伝統的な書物形式をもつ書き物になるだろう。しかし本当にそうであろうか。あるいはこうした問いはどうでもいいことだろうか。ささいなことにこだわる詰まらぬ詮索なのであろうか。
喩えて言えば、『峠』は「巻物」である。それぞれの「巻物」が独立し、自律しており、「巻」と「巻」とのつながりは不連続である。それぞれの「巻物」の間には深い断絶線が走っている。主人公と主題の等質的な連続性は存在しない。登場人物たちはそれぞれの運命を抱えて、いわば勝手に走り回る。話題も等質的ではなく、異質混在的である。それぞれの「巻物」自身が、複数の人物の形をとった複数の物語の「渦巻」を異質混在的に抱えた「渦の渦」になっている。これらの大小の「渦巻」は、旋風のように曲線の形をとって多方向に転がっていく。それは線状でなく、曲線状であり、重層的に重なり合った螺旋《らせん》形である。人物たちの行動と発話がひとつの「渦巻」をつくり出し、渦の周辺に飛沫や波頭を撒き散らしていく。それらの飛沫や波頭が他の渦巻の飛沫と波頭とぶつかり合い、絡み合いして、いつのまにか別の渦巻をつくりあげていく。
†開かれた物語[#「開かれた物語」はゴシック体]
「渦巻」と「渦巻」との間を「つなぐ」ものは、主要人物のような渦の中心ではなくて、渦の周辺にいる脇役たちであり、あるいは主要人物のささいな行動であり発話であることを、われわれはすでに知っている。出来事は論理的で線状的に展開するのではないのだから、「渦巻」と「渦巻」とのつながりもまた論理的でも線状的でもない。物語のつながりは、「ふとしたはずみ」から生まれる。それは偶然に生じてくる機縁である。人生とはそうしたことのほうが多いわけで、こうした記述のほうが論理的で線状的な記述よりもずっと現実性がある。おそらくここには原因と結果の機械論的な組織ではない別の組織のあり方が暗示されている。著者介山は、多分意識的にであろうが、「縁」とか「因縁」の用語を多用しているのも、きっと深い意味をもっているだろう。
『峠』は、複数の「渦巻」の「渦巻」である。これらの「渦巻」の端と端がハズミと偶然によって触れる。そのとき出来事が生まれ、それが渦になり別の事件を生み出していく。それは巻物が一方向に開いていくのではなくて(絵巻物のように)、多方向に渦巻きながら開いていくのである。二次元的空間形式を採用せざるをえない現在の本づくりでは、こうした多方向的渦巻展開を実物的に制作することはできないが、書き物の精神としては、多方向の渦巻曲線的展開として受けとめることができる。
中心のない「構造」とはそうしたことだ。「構造」という言葉は閉じた構成を意味しがちであるから、実際には適切ではない。渦巻の「構造」とは、実際には、渦巻の流れにほかならない。
†すれちがい[#「すれちがい」はゴシック体]
『峠』は言ってみれば「すれちがい」の物語である。例として、机竜之助と宇津木兵馬の「仇討ち」をとりあげてみよう。二人は、追うものと追われるものとの関係にある。二人は、しばしば近いところにいながら、そして時にはすぐ隣りに立っていながら(同じ旅館とか暗闇の道で)、けっして出会わない。このようなすれちがいが頻出する。彼らだけでなく、他の人物たちの間でも見られる。これは二人の恋人が出会うようで出会わないメロドラマ風の筋立てのようにも見える。そうすると、竜之助と兵馬の関係はメロドラマ的と言っていいのだろうか。
竜之助と兵馬は仇同士であるから、一方の竜之助は仇もちの罪を負っており、「罰せられる人」である。他方の兵馬は「罰する人」である。しかし小説では、罰する人による罰せられる人の処罰が永遠に延期されていく。彼らに限らず、罰する人が誰であれ、その人による処罰の実行は無限に繰り延べられる。この観点から言えば、『峠』は、罰の延期と宙吊りの小説だと言えそうだ。なぜそうなるのだろうか。
それは罰する人もまた罰せられるに値する人間であるからだ。兵馬は、竜之助にとっては罰する人にちがいないが、お松や芸妓の福松にとっては罰せられる人になる。たとえば、兵馬はお松が彼に差し向ける愛に似た好意を感じていながら、手練手管の女に対する報いのない惑溺《わくでき》と迷路におちこみ、自分の宿命的義務の仇討ちをすら忘れる。飛騨の高山で、兵馬はせっかく助けた女を自分のふとしたミスから、竜之助の殺人の餌食にしてしまう。兵馬は主観的にはすべてを善意でやっているつもりなのだが、その善意がことごとく裏目にでて、罪作りになってしまう。兵馬は、伝統的な倫理の規範からすれば、仇討ちという正義を主張できる資格をもっているのだが、他の人間とのかかわりでは、竜之助と同様に罰せられる人間でしかない。だから、兵馬が竜之助を討ち取って、両者の仇討ち物語が「完結する」わけにはいかないのである。
主観的意図ではなく、行動や身振りが重要である。それらは単独では意味をもたない。ひとりの人物の身振りと他の人物の身振りとの対比と比較のなかではじめて、それぞれの身振りの意味が現われ出る。だから「すれちがい」とは複数の身振りの関係なのである。複数の身振りの対称的関係のなかに、罪と罰の関係があり、そしてとくに、処罰の延期と猶予がある。
したがって『峠』では、ひとつの出来事の決着は原則的にはない。竜之助と兵馬のすれちがいは典型的ではあるが、多くのケースのひとつでしかない。さらに、主観的意図に即して見ても、ある人物が自分の行動を意志的に決断することすらない。彼には行動を選択することが許されていない。彼の行動は、前に述べたように、偶然のハズミで起きる。ここにも意図と行動との「すれちがい」がある。あらゆるところに亀裂が走っていて、そこでズレが生じるし、そこから決着の「繰り延べ」が生まれる。行動なり出来事なりの「未完結」が存在するということは、物語が中心をもたないで「開かれて」いることを意味する。
†恥辱[#「恥辱」はゴシック体]
罪が罰せられずに延期されるということは、罪が永続することを意味する。これを別の形で言えば、恥辱が永遠に生き残るのである。『峠』の人物たちの行動のひとつひとつのなかに、恥辱が満ちている。恥を恥としらずに行動するばかりか、その恥を別の形で正当化する。男らしさだの、女らしさだの、伝統的規範の遵守《じゆんしゆ》だの、あるいは理性的な行為だのといった形で、自分を納得させて生きている。主観の内面に即するかぎりでは、そういう納得の仕方でいいのかもしれない。けれども、無数の身振りの間のなかに組み込まれると、そうした正当化による納得は通用しなくなり、ひとつの身振りのまやかしが他の身振りによってあばかれてしまう。たとえば、駒井は、一方では自分を理性的であると確信していながらも、他方では旗本の伝統的規範を当然のように遵守しているし、愛人のお君が「ほいと」のお君であることをあばかれて失脚すると、その彼女を引き取らないで、突き放してしまう。ときどき彼は反省するところに愛嬌があるが、所詮それは児戯に等しい。駒井の客観的身振り(伝統的倫理の体現)は、彼の主観的思い込みの空虚を否定しようもなく露呈させてしまう。駒井は理知を看板にするだけに、彼の行動がもたらす無自覚の「恥辱」は深い。
おのれが恥辱に満ちていることを自覚しないで、その恥辱に別の衣裳を被せて錯覚する人間がいる(駒井や兵馬がそうだ)。おのれの恥辱を自覚しながら、それに居直る人間がいる(竜之助と神尾主膳がそうだ)。そうした二つの極の間にいくつかの段階がある。そして、それが人間の具体的で現実的な姿なのだ。「すれちがい」の概念は、そうした現実を照らしだす装置のひとつである。
†恥辱の批判[#「恥辱の批判」はゴシック体]
こうした恥辱に対処する別の生き方がありうる。それは、他人の恥辱を恥じること、他人の恥を自分の恥と感じる生き方である。この生き方に照らされるとき、恥辱の自覚的居直りであれ恥辱の無自覚による自己正当化であれ、そうした行動をする人間たちは、ただ無明の闇をさすらう存在でしかないことが一層はっきりする。
『峠』のなかで、他人になりかわってその恥辱を知る人物が登場する理由がそこにある。忘れられる人、世間の蔭で生きる人、それを「冷静なる愚者」と定義しておいた。米友が、臆病な庶民になりかわり、あるいは農民が被るべき不正を身代わりに引き受けるとき、あるいは世間の理不尽に対して「馬鹿にしてやがら」の憤激を発するとき、そこには他人の恥辱を感じる存在がいる。与八が地蔵を彫る行為は、他人の恥を知り、そしてそそぐ行為である。弁信は虚栄心の迷妄を指摘する。そこには他人に恥辱を自覚させ、敵意の刺《とげ》を抜きさる人間がいる。冷静なる愚者だけが、罪と罰の永遠の循環、恥辱のきりのない存続を切り裂いて、別の世界の可能性へと身を開くことができる。彼らを通して、『峠』もまた「開かれた」物語になる。
さて、この物語は、ハズミと偶然によって開始され、けっして終ることはない。永遠の未完結が『峠』の構成の原則である。書物形式は、「終り」から「始め」に戻ることができるし、戻らなくてはならない。しかし巻物形式には「始め」がないのだから「終り」もないし、したがって起源と出発点に戻ることもありえない。作品は永遠に「新しきもの」に向かって開いたままである。
『峠』の物語は、別の方向にも開かれている。新しいものへの開きと並んで、逆方向のいわば「古いもの」にも開かれている。ところで、この「古いもの」に開くとはどういうことであろうか。この問いは、物語の形式ではなく、その内容と意味にかかわる。
2 なつかしさの感情
†なつかしさとは何か[#「なつかしさとは何か」はゴシック体]
『峠』は、なんとも形容しがたいある種の「なつかしさ」の感じをかき立てる。
ここでいう「なつかしさ」とは、どこかで経験した事件とか場所とか人物を想起するときに感じるなつかしさではない。この種のなつかしさは、ノスタルジア(懐古の情)であって、ときどきに思い起こしては楽しむことができるが、いつしか再び消えていく。こういう懐古趣味的感じではないものをそそる何かが『峠』にはある。登場人物の一人一人を別個に取り上げると、それぞれはまことに興味深いのだが、けっしてなつかしいとは感じられない。なつかしさは人物の存在や行動から出るのではない。駒井や神尾、お銀や竜之助といった人物がかつてどこかに実在したとしても不思議ではない。彼らは大いにありうる人間たちの形象化だと言うにしても、それは現実らしさの感じになるが、なつかしさの感じにはならない。
独特のなつかしさは、『峠』の物語全体から滲《にじ》み出てくるものであるようだ。喩えて言えば、弁信が山中で小鳥の声を聞いて「なつかしいと感じた」と言うときの心の傾きが、ここで言う「なつかしさ」をなんとか言い当てている。
†忘れられたもの[#「忘れられたもの」はゴシック体]
弁信のいう「小鳥の声」、それは忘れられた何ものかである。より正確に言えば、現実の小鳥の声を通してわれわれに伝わってくるものが、なつかしさの源である。小鳥の声、自然の生き物の声を伝声管にして、何ものかがなつかしくわれわれに呼びかけてくる。それはいわば太古の声であり、じつに遠い昔から忘れられてきたものである。それは「何か」としか言いようがないし、しかと手に取ることも、はっきりと目で見ることもできないからこそ、なつかしい。人物や出来事は、この何かを指さし、その方向に人の注意や視線をいざなう役割をするにすぎない。
ヴァルター・ベンヤミンはカフカの小説を論じて、注目すべきことを書きとめている。
[#ここから2字下げ]
この忘れさられたこと……それはけっして単なる個人的なことがらではない。すべて忘れさられたことは、太古の世界に忘れさられたこととまじりあって、それとのあいだに無数の不安定な、変わりやすい化合をおこなっては、たえず新たな産物をうみ出す。この忘却という倉庫のなかで、カフカのものがたりのなかの無尽蔵な媒介の世界が、そとへ出て陽の目をあびようとひしめいている。
[#地付き](ベンヤミン「カフカ」、『文学の危機』著作集7、晶文社、一二四ページ)
[#ここで字下げ終わり]
文中の「カフカのものがたり」を『峠』の物語にそっくり置き換えてもいいだろう。それほどにベンヤミンの言葉は、『峠』の本質を言い当てている。忘れさられている何ものかが、けっしてまだ外には出ていかないで、ひたすら陽の目を見ようとひしめいている状態、それがなつかしさの感じを生み出す。そしてこの「なつかしさ」は、悦《よろこ》びの感情でもある。もう一度ベンヤミンの言葉を借りてみる。彼はカフカの描くねずみの「歌姫ヨゼフィーネ」の歌いかたについて、つぎのように説明している。
[#この行2字下げ] ここには、あわれな、はかない幼い日々の何かがある。失われて二度とふたたび訪れぬ幸福の何かがある。しかしまた、現在の毎日の生活の何かがここにはある。あのささやかな、とらえにくいけれどもつねに存続して、決して滅ぼすことのできない、いきいきとした悦びがある。
[#地付き](同前書、一〇四ページ)
カフカにとって、動物は忘れさられた世界を保存する倉庫であった。『峠』に登場する動物たちもまた、そうした忘れさられた世界の収蔵庫である。ムク犬、オオカミ、子牛、鷲の親子、子熊、鯨の親子等々は、けっしてどうでもいい書き割りではなくて、忘れられたなつかしいもの、悦びをもたらすものである。作者がこれらの生き物に、ときには人間以上の活躍と役割を割り振っている理由も、これではっきりするだろう。
これらの生き物に反応する人間たち、とくに弁信、米友、与八の三人(茂太郎を含めてもいいが)は、動物たちと語りあえるだけでなく、心に傷のある人間たちを「友」として迎えいれ、彼らの心から敵意を取り除く稀有の能力をもっている。なつかしさとは、友になりうる可能性への希望の感情である。友の共同体は、このなつかしさの感情に基礎をおくのでなくてはならない。弁信、米友、与八たちは、人間でありながら、ほとんど動物にちかい。ある意味では未熟であり同時にありふれた、慰めを与えると同時に愚かな存在である彼らのふるまいこそが、なつかしい悦びと希望をかきたてる。それが「冷静なる愚者」という名の賢者であった。冷静にして「愚かな」少数の人間のなかに、われわれは、あのなつかしさの感情の源を理解することができる。
『大菩薩峠』は、欲望がもたらす痴愚にまみれた人間の行状を描きながら、またそれを通して、いかにして人は冷静なる愚者になりうるのか、いかにして賢者になれるのかの問いを立て、追求した文学作品である。
[#改ページ]
あとがき
『大菩薩峠』は、世界一長い小説である。長ったらしくて、ときには冗漫とも感じられるにしても、読んでいておもしろい、何度読み返してもおもしろい。気楽に読めるし、デスマス調の文体も、読者をリラックスした気分にさせてくれる。読むたびに大小の発見がある。そんな風に気楽に楽しく読める小説なのだが、読んでいてわれわれの足をとどめさせ、いつしか深く考えこませてしまうところが不思議だ。気楽でもあれば、けっこう深刻な小説なのだ。私は、深刻な印象を与えるところに力点をおいて、本書を書いてみた。
複数の物語が同時平行的に進行していく。複数の個人と集団の物語が幾重にも絡まりあいながら、異質混在的な人間模様をつくり上げている。読む者は、同時に進行する物語の流れを記憶に留める緊張を欠くと、なにかしら迷路に入り込む気分におちいる。小説全体の構成など気にしなくてもいいようなものだが、あえて構成を把握してみたいと考えだすと、気楽ではなくなり、けっこう緊張を強いられる。小説の仕掛けをしっかりと捉えようとするとき、大きな物語の筋を想起し続けるだけでなく、作者がなにげないふりをしてちりばめておいた細部の描写にも気を配っていなくてはならない。このように両極に精神を集中するようにして読んでみたとき、何かが見えてくるように思われた。そのことを私は、いくつかの論点にしぼって書いてみたのである。言うまでもなく、私が読み取ったことがらはわずかでしかないが、なんらかの仕方で読者の参考になれば幸いである。
幸いにも、現在、筑摩書房は『大菩薩峠』の愛蔵版と文庫版を同時に刊行しつつある。これによって新しい読者が増えることを期待したい。多くの読者がそれぞれの観点から自由に、そして鋭く、『峠』を読み進むなかで、これまでの読み方とは異なる新鮮な理解が生まれ、旧来の『峠』像が塗り替えられていくにちがいない。及ばずながら、私もまた、見られるように少々強引なところはあるにしても、新しい読解の方向を模索してみた次第である。
筑摩書房編集部の井崎正敏さんと山本克俊さんのおさそいがなければ、本書は書かれなかっただろう。前に私は断片的ながら、『大菩薩峠』を論じたことがある(拙著『現代思想のキイワード』講談社現代新書)が、小説の全体を論じる一冊の本を書くなどというつもりはなかったからである。ともかく、これを好機として、私が現在考えている『峠』論をすべて吐き出すことができたことに満足を覚えている。きっかけをつくってくださった御両氏に心から感謝する次第である。なお、本書を書く過程で討論相手になってくださった長沼弘太郎さんにも感謝したい。
一九九六年二月
[#地付き]今村仁司
[#改ページ]
主な登場人物
机竜之助
元甲源一刀流の天才剣士。武州沢井村の剣道場主机弾正を父にもつ。竜之助は大菩薩峠の頂上、妙見の社において、偶然に通りかかった年老いた巡礼を斬り殺す。動機なき殺人を犯したことが、その後の彼の運命を決定する。
御岳山の御前試合において宇津木文之丞を一撃のもとに打ち倒した竜之助は、自らの欲望の餌食とした文之丞の内妻お浜とともに江戸に逃れる。以後、宇津木兵馬から兄の敵とつけ狙われる身となる。
お浜との間に一子郁太郎をもうけるが、絶えざる諍いの果てに、竜之助はお浜を刺し殺してしまう。
大和での勤王派天誅組の蜂起に参加した竜之助は、戦いの渦中に爆薬によって失明する。盲目になることによって、彼の音無しの剣法は人の血を吸う魔剣に変容する。無明の闇をさすらう亡霊となって、行方知れない旅をすることが、竜之助の人生となる。
米友
宇治山田の米友。伊勢間の山の大道芸人。老翁の顔をもつが、その身体は四、五歳の子どもの大きさでしかない。伊勢で盗みの罪を着せられて谷落としの刑を受け、町医師道庵によって助けられるが、その際片足に傷を負う。だが、槍をもたせれば、一種の天才である。音無しの剣法の達人の竜之助でさえ、米友の槍に打ち勝つことができない。また、彼の常軌を逸した怪力の前には、荒々しい熊も歯がたたない。このように、彼は神話的な力の持ち主である。不具の身体と奇跡的な力とのアンバランス。そこに解放的な笑いと運命を切り開く力が生まれる。
近江の農民一揆では一味と間違えられて処刑の危機にさらされるが、お銀やお角に助けられる。全巻を通じてきわめて重要な役割を果たす人物。
道庵
道庵先生。江戸の下谷長者町の町医者。名医の誉れが高いが、一風変わった人物。貧しい人々のために尽力を惜しまず、患者からは薬礼を十八文しか受け取らない。大酒のみで、ひとたび酒が入ると、はた迷惑な人物に変身する。貧窮組の音頭をとったり、喧嘩の仲裁をしたり、本業の医者の他にも結構お忙しいが、のち米友を連れに、中山道を西に下る旅に出る。
与八
青梅沢井村の水車小屋の番人。竜之助の父弾正によって拾われ、養育されたのち、机家の奉公人となる。「少々足りない」が、相撲取りのように巨大で怪力の持ち主。純粋無垢の人。宇津木文之丞の内妻お浜を誘拐し、竜之助の欲望の餌食にする共犯者としての役割を演じてしまう。その罪滅ぼしのため、竜之助とお浜の遺児郁太郎を育てながら、田舎の妙好人として生きる決意をする。ともに寺子屋をやっていたお松の安房行きには従わず、郁太郎とともに全国各地の霊場巡礼の旅に向かう。
宇津木兵馬
文之丞の弟。御前試合において兄を殺した竜之助を仇討ちのために追う。剣の腕を磨きながら各地を旅する美青年剣士。
大菩薩峠で竜之助に祖父を殺されたお松から思慕されるが、兵馬は優柔不断さのゆえにその誠意に応えることができない。また、敵と狙う竜之助とも、ことごとく今一歩というところで遭遇できず、仇討ちを果たして武家の家格を全うすることができない。彼もまた、竜之助と同じように、運命に翻弄されるかのように行方定めぬ旅の人となる。
お松
江戸に向かう旅の途上、大菩薩峠の頂上で竜之助によって斬り殺された老巡礼の孫娘。天涯孤独となったお松は、盗賊七兵衛に助けられて江戸に出る。神尾家の奉公人となった彼女は、主膳やお絹との出会いをかわきりに、お君や米友、兵馬や与八など数多くの人間の間を生き抜いていく。お浜、お君の遺児を抱え、青梅で与八とともに寺子屋を始めた彼女は、あとを与八に託して安房の駒井甚三郎の船に乗り込む。お松は駒井の有能な助手として、また最愛の婚約者として、理想の海洋共和国建設のために献身する。
七兵衛
裏宿の七兵衛。早足の大盗賊。本来は青梅の百姓でありながら、一夜に何十里も走る並外れた早足をもつために、希代の盗賊として世を送る。彼の足は竜之助の剣先をかわすほどにすばやい。
彼は、竜之助に殺された老巡礼の孫娘お松を陰ひなたに助け、実の娘のように可愛がる。追手から逃げ込んだ与八の水車小屋で、与八をかつて自分が捨てた子であると知る。ついに彼は、盗賊という不安な人生を清算するために、大地を見捨て、海洋の中に理想の新天地を求める駒井の植民計画に希望を託すことになる。
駒井能登守
本名甚三郎。旗本。砲術、造船などの西洋の科学技術に秀でた俊才。若くして甲府勤番の役職に抜擢される。病弱の妻を江戸に残したまま、駒井はお君を愛し、お部屋様にする。だが、お君の出身身分を知った神尾主膳の画策によって、甲府勤番の地位を失脚。市井に隠れ棲む洋学者となった彼は、のちにお松を秘書とし、海洋共和国の構想に打ち込む。房州の洲崎で黒船「無名丸」の建造に自力で成功し、無事行き着いた孤島でのユートピアの建設に夢を託す駒井だが、孤島に棲むただ一人の先住民は、駒井の理想を完膚なきまでに論破する。
神尾主膳
悪行酒乱の元旗本。甲府勤番時代に駒井甚三郎を差し違えで失脚に追い込む。また、甲府の馬大尽の娘お銀様の恋人である幸内に毒を盛り、拷問の末口がきけない体にし、挙げ句の果てに絞め殺してしまう。さらに酒乱の上で、弁信を投げ入れようとしたつるべ井戸によって、自分の額の真ん中の肉をそぎ落とす。その傷で三ツ目の化け物となった彼は、お銀と同じように頭巾で顔を隠すようになる。倦怠と退廃につきまとわれた彼は、悪事と酒乱によってしか人生の生きがいを見出すことができない。だが、その彼も、やがて書の道と子どもの世界への関心によって平穏の境地に安らぎを覚えはじめる。
お銀
甲州有野村の馬大尽藤原伊太夫の娘。幼くして母を亡くし、父親が後妻をもらったことに腹をたて、顔に大火傷を負う。つねに御高祖頭巾で顔を覆う。偶然のきっかけから、盲目の竜之助と出会い、運命的な絆で結ばれる。竜之助が彼女から去っても、ひたすらその後を追いかける。不幸な人間関係から家族だけでなく、人間全体を憎悪で呪った彼女であったが、父親から譲り受けた莫大な財産を元手に、生産的事業に着手する。これがのちの彼女のユートピア構想につながる。彼女は西美濃の胆吹山麓に広大な土地を購入し、理想の王土を建設する。やがて、自らの意志で王国も放棄し、最後には山科の光悦屋敷を買い取り、そこに美術の粋を集めた光仙林王国を築こうとする。お銀の人生も、不可能な愛の成就と自分だけの王国という個人的願望の実現をめざした行方定めぬもうひとつの旅となる。
弁信
安房の国清澄山で修行に励む青年僧。幼いときから目が不自由だったが、十七歳のときに完全に失明。茂太郎を山から逃がした後、自らも琵琶を背負い旅に出る。盲目ではあるが、聴覚が鋭く、通常の人間には聞こえないような音をも聞き分ける。直観力にすぐれた希代のおしゃべり坊主。
竜之助が無明の闇の住人であり、死と悪の権化であるとすれば、弁信は光明の世界の住人にして、完全な無垢の人である。
茂太郎
清澄の茂太郎。安房の国生まれの少年。鳥や獣に親しみ、即興の歌や踊りに特殊な能力をもつ。悪戯がすぎて清澄の寺に送られ、のち山から逃走する。お角の軽業一座に加わる。見せ物小屋で山神奇童を演じ、人気者となるが、弁信に連れ出される。のち、田山白雲に連れられて房州に戻り、駒井の船の乗組員となる。駒井から西洋の天文の知識を学びつつ、森羅万象を即興の歌にのせずにはいられない。
ムク
伊勢以来、お君と米友に随き従ってきたムク犬。お君や米友の窮地を救い、しばしば人間以上の活躍を見せる。熊のように大きな犬で、どのような難関も突破できるスーパー・ドッグである。ムクは動物の姿形をした口のきけない人間の比喩ではないだろうか。準主要キャラクター。
田山白雲
足利の武士出身の貧乏絵師。彼は、西洋の知識にすぐれた駒井に心酔し、彼の海洋共和国の構想に共鳴する。六尺豊かな堂々とした体格と怪力の持ち主だが、内面は貧窮に耐え忍び、純粋に美の世界を追求する芸術精神の人である。黒船「無名丸」のメンバーの絆をしっかりとつなぎとめる役割はけっして小さくはない。
お浜
甲州八幡村の出身。宇津木文之丞の内妻。夫の剣術が竜之助の剣術に劣るのではないかと確信したお浜は、青梅の御岳神社の御前試合に負けてくれと竜之助に懇願する。だが、彼女は竜之助によって貞操を奪われたあげく、夫をも殺されてしまう。竜之助とともに江戸に出て、二人の間の子郁太郎を生み落とした後、言い争いの果てに竜之助によって殺される。お浜は、竜之助をめぐる女性たちの運命の原型になる。
お雪
浅川宿小名路の花屋の養女お若の妹。甲州上野原の月見寺の娘。姉お若の後を受けて、眼の治療のために竜之助を白骨温泉に連れていき、手厚く世話をする。
お豊
許嫁の男との心中の待ち合わせ場所で、雲助に襲われたところを竜之助に助けられる。予定通り男と心中した彼女は、運悪く一人生き返る。日陰者として生きる彼女は、親類の家がある大和で、金蔵という男にしつこくつけまわされる。偶然に再会した竜之助とともに江戸へ逃げようとするが失敗。結局金蔵の妻となるのだが、機会を見て逃亡。金蔵はお豊が男と逃げたと勘違いして、嫉妬のために狂い死ぬ。流れ着いた伊勢の遊廓で、お君のうたう「間の山節」を聞いて、稼いだ金と竜之助あての手紙をお君に託し、お豊は自殺する。
お絹
旗本神尾家の先代の妾にして、お松のお花の師匠。神尾主膳とともに、伊勢、甲府を渡り歩き、竜之助や百蔵など、男たちをつぎつぎに誘惑する多情な女である。主膳とともに江戸に戻り、築地の異人館に出入りするようになる。
金椎《キンツイ》
房州洲崎の駒井甚三郎の家で、コック兼助手として働く中国人の少年。耳と口が不自由であり、紙の上で文字を書くことによって対話を行う。熱心なキリスト教信者。駒井のキリスト教への理解とは反対に、金椎の祈りの姿を見る「無名丸」の乗組員の眼は厳しい。
がんりきの百蔵
七兵衛のライバルとして、また時には相棒として活躍する盗賊。かなりの色男であり、いい女と見れば、一度は口説いてみたくなるのが彼の性分である。それが禍いして、竜之助に片腕を斬り落とされる。だが、片手がないくらいで、盗賊を引退するような男ではない。彼は生まれついての盗賊であり、いい女とうまいものがあれば、結構満足して生きることができる、いたずら好きの快楽主義者である。彼は、忘れた頃にやってきて、いたずらの種をまき、物語の展開を助ける役回りを演ずる。
ピグミー
アフリカの背の低い種族のことではない。鼠ともヤモリとも区別できない小さな生き物。しつこいことと、こうるさいことにかけては他に類例がなく、赤い舌を吐き、にったりと笑う。ローソクと油を食らい、何度切られても再生する化け物。不思議なことに、眼の見えない人間である竜之助と弁信にしか姿を見せない。生者の世界と死者の世界をつなぐ雑種的存在である。
幸内
甲州有野村の馬大尽藤原家の使用人。お銀の最初の恋人。彼は神尾主膳によって誘拐され、毒を盛られ、口がきけなくなる。やがて救出され、藤原家の屋敷に運び込まれて、お銀の看護を受けるが、忍び込んだ主膳によって首を絞められ、無残な最期を遂げる。
マドロス
オランダ生まれの西洋人水夫。密漁船で日本近海に漂着。房州の駒井の屋敷に侵入するが、田山白雲に見つかり、こらしめられる。船乗りとしての能力を見込まれて、無名丸のメンバーとなる。もゆるを二度も襲い、周りの者から糾弾されるが、しだいにもゆる自身の歓心を得ていく。
机弾正
青梅沢井村の名門剣道場主。竜之助の父。捨て子であった与八を拾い育て、水車小屋の番人として机家の奉公人とする人格者。
慢心和尚
甲州恵林寺の僧。物語では甲州を舞台に活躍するが、後半では登場しなくなる。彼は顔が円いだけでなく、身体全体も円い。この和尚の奇妙な癖は、大きな口の中に、大きな拳を入れてみせることである。人々の慢心をいさめる怪力坊主。拳ひとつで、多数の無頼漢をあっという間に叩き伏せてしまうのだ。
もゆる
里見もゆる。房州保田の岡本兵部の娘。性愛について開放的な考えをもつ。駒井の洲崎の屋敷に入り込み、居着いてしまう。安房に帰ってきた茂太郎と再会し、一緒に無名丸に乗り込む。外国人マドロスとの駆け落ちなど、周囲に騒動を巻き起こす。
お角
女軽業の興行師。両国に小屋をかまえる一座の親方。負けず嫌いのしたたかさが持ち前の女盛り。江戸から房州に渡る船が暴風に遭って難破し、危うく人身御供にされるところ、命からがら洲崎の浜に打ち上げられ、駒井に助けられる。清澄の茂太郎を人気者として売り出したり、切支丹大魔術の大興行を打ったりなど、威勢のよさでは天下一品。いったんは引退するが、興行師の虫は収まりそうにない。
忠作
甲州山中の砂金掘りだった少年。お絹の手引きで江戸へ出て、両替商を営む。築地の異人館に出入りするようになり、西洋人相手の貿易商人にまでのし上がっていく。西洋の経済合理性を学び、自分の腕と頭脳だけをたよりに世間を渡る最初の自生的な資本家である。
金助
甲府の折助。金に目がなく、欲深い幇間。神尾主膳につかえ悪事をはたらく小悪党。
のろまの清次
飛騨高山の屑拾い。目はしの利く男。金目のものなら、何でも収集し、墓さらいまでする。のちに一介の田舎屑屋から、情報を売る広告事業の先駆者になる。
藤原伊太夫
甲州有野村の大富豪藤原家の当主。無数の財宝を有する馬大尽。お銀は先妻の子である。
お若
小名路の宿屋の娘。武家に嫁いで一子をもうけるが、姦通が発覚し、集団制裁をうける。男とお若は丸裸にされ、路上でさらし者にされる。夫は嫉妬から発狂する。お若は、偶然に居合わせた竜之助に助けられ、故郷に帰る。彼女は爆薬で傷ついた竜之助の眼を治すために手厚く看病する。再び江戸へ出るが、そこで何ものかに殺される。
不破の関守
諸国修行の武士。荒廃した不破の関にたどりつき関守となる。彼が吹く尺八の音が竜之助やお銀を呼び寄せてしまうが、そこでお銀の理想の王国の構想を聞き、のち建設の手助けをする。胆吹王国の総理兼参謀総長として、女王お銀をささえる、知能にすぐれた後見役である。悠然とした物腰で難事に対処し、何なくくぐりぬける策略家でもある。野心的でなくはないが、破壊と復讐に一命を賭ける革命家ではなく、詩人もしくは空想家であり、いわば一種の芸術家と言えよう。
青嵐居士
話し好きの自由人であり、好きな釣りの道に遊興する風流人。だが一方、胆吹王国の女王と総理の留守を預かり、女王代理・臨時総理としてその有能ぶりを発揮する。王国内の人事面での鋭い分析と洞察において、卓越した才能を示す行政官。
[#地付き](順不同)
今村仁司(いまむら・ひとし)
一九四二年、岐阜県に生まれる。一九七五年、京都大学経済学部大学院博士課程修了。現在、東京経済大学経済学部教授。社会哲学・社会思想史の領域の第一人者として、長年にわたって新しい思考の枠組みの構築に意欲的に取り組む。著書に『歴史と認識』『労働のオントロギー』『暴力のオントロギー』『批判への意志』『社会科学批評』『排除の構造』『現代思想のキイ・ワード』『現代思想の系譜学』『思想の現在』『労働』『精神の政治学』『理性と権力』『作ると考える』『格闘する現代思想』『近代性の構造』『貨幣とは何だろうか』『群集』『近代の思想構造』『近代の労働観』『交易する人間』、訳書にバリバール『史的唯物論研究』、ゴドリエ『経済人類学序説』『経済における合理性と非合理性』、アルチュセール『哲学について』『資本論を読む』など、多数の著作を発し続けている。
本書は一九九六年九月、ちくま新書として刊行された。