骸谷温泉殺人事件   (五百香ノエル)
プロローグ
車から降りて冷たい空気を肺に吸い込む。
二人並んでここからこうして眼下の景色を一望することも、あと数年はないだろう。
「泣くながや」
そう言われて初めて泣いていることに気がついた。雪山に囲まれた低地に軒を連ねた川沿いの集落が、涙でぼんやりとにじむ。
山と山の隙間、えぐれた谷からは白煙が立ちのぼり、そこが温泉地であることも見て取れた。
北側に位置した山をゆるやかな螺旋で貫いた県道が、この谷を一望できる一番のポイントである。
「あなたが帰るまでに、この場所がもっと拓けたらよかのに」
彼女は穏やかな、だが悲壮な響きを帯びた声音でつぶやいた。
「あなたがすぐに帰ってこられるように、たくさんの灯りが点るようになればよかのに」
毛糸の手袋で涙を拭ってみたが、うまく拭き取れずに思わず苦笑が込み上げる。
「焦っちゃいかんよ」
彼は静かに彼女の肩を抱いてやった。
たった数年が、数十年にも及ぶ距離にも思われて胸が痛い。
この不景気に、彼女以外の家族全員の反対を押し切って海外研修を決めてしまったのだ。途中でおいそれと帰郷もできないことは、彼もよくわかっている。渡航費用だけでも充分ぜいたく金なのだ。
「大丈夫、きっとうまくいくがね」
「……そうならよかのに」
彼女は彼の肩に身を預け、はなをすすってもう一度言う。
「そのためなら、わたし、なんだってするのに……」
冷たい風に乗り、その言葉は呪詛となり谷を撫でていく。
湯煙がたなびく温泉村、六久路谷《むくろだに》を鮮血で塗り込めながら──。
1  のぼる湯煙、浮名との再会
六久路谷《むくろだに》温泉は僕にとって非常に思い入れのある、なつかしい場所の一つだった。
──この際くわしい地理についてははぶくけれど、三陸の寒い場所、もしくは九州のはずれ、とだけ説明しておこう。
六久路谷はいかにもメジャーな温泉地ではない。この地にいたるまでの交通は不便だし、昼どころか、温泉地につきものの夜の遊びの名所すらない。
かと言って静かというほど静かな寒村とも言い難いのは、ここが温泉だけが食いぶちの村ではないからである。
六久路谷の名物は、温泉よりもむしろ山葵《わさび》にあった。
六久路谷、古くは骸渓《むくろだに》、つまり遺体のある谷と呼ばれた不吉なこの村は、六つもの谷に囲まれて閉鎖された特殊な地理的要素から、大昔は谷に遺体を放置する風習があった。
もちろんいまではそんな風習は残っていないし、谷底に放置された遺体は、硫黄泉から噴出する亜硫酸ガスの効果で跡形もない。
時代と共に風習はすたれ、廃藩置県後には漢字地名も変えられたが、昔から変わらないのが、美しい渓流で育てられた名産山葵の産出である。
六久路谷の山葵はまろやかで味が濃く、ほのかな甘みが特徴だった。ワサビ漬けの美味しさは知る人ぞ知る評判で、全国に出荷されている。
食い道楽のない僕でさえ、学生時代からふうっと思い出しては、顔見知りになった旅館の女将さんに取り寄せをお願いしているほどだった。
「ふぅん、じゃあ天音《あまね》先生、学生のときからのお馴染みさんってわけだ。さすがに作家さんだけあって見識が広いねぇ」
「や、や、よしてください、平野さん」
目尻に皺は寄っているものの、とても五十を過ぎているようには見えない大物俳優、平野源平氏に向かった僕は、大慌てで手を振った。
「学生のときだから、せいぜい覚えている限りでは三回きりですよ。お馴染みさんなんて言えるようなお付き合いじゃありません。それに、卒業してからはただの一回も来てないんですから、そう、かれこれ四年は御無沙汰してるんです」
「温泉楽しみだなぁ」
平野さんは聞いているのかいないのか、嬉しそうに小型バスの外を眺めて言った。
平野さんの言う通り、僕は作家だ。それもいまや掃いて捨てるほどたくさんいるミステリー作家の一人。
本名もペンネームも、同じ宮古《みやこ》天音。一応“本格ミステリー”なんて言われているジャンルでお世話になっている、今年で二十七歳になる若造だ。
「今更ぶるのはナシにしなさいよ、天音。源ちゃんが釣れたのは君の推《お》した温泉があるからなんだからね」
「そんな……おどかさないでくださいよ、茱萸《ぐみ》さん」
鼻先で笑ったのは橘《たちばな》茱萸。そう、劇団<あおやぎ>の看板女優の茱萸ネエ様だ。
ふだんからまったりと白い、抜けるような透明な肌をして、唇はしっとりと赤い。
白髪一本見当たらない髪の毛は真っ黒で一筋の乱れもないが、これで平野さんと同じ五十を越えているのだから女優ってすごい。
「小物ぶるのは嫌味だよ、天音。お前はこのあたしが太鼓判押してる作家先生なんだから。胸張って堂々としてりゃあいいのさ」
「はぁ」
そうは言われても、僕はやっぱり気圧《けお》されてしまう。
茱萸ネエ様と僕が知り合ったのは、年末に行われた某出版社のパーティーだ。もちろんそんな機会でもなけりゃあ、自分の作品がドラマ化や映画化されることもない僕みたいに地味な作家が、天下の女優さんと知り合うことがあるわけない。
見た目が腺病質というか、ひょろっとして色白だったり──もちろんおもてなんかにはめったに出ないからね──、年よりも相当若く見えてしまう童顔だったりするおかげで、僕は随分とおとなしい甘ちゃんのメソメソ野郎だと思われがちだけれで、実はそんなこともない。気の合わない編集と喧嘩したことは一度や二度ではないし、無礼な人間は完膚なきまでに叩きつぶすのが信条である。
が、これが酔っぱらっているときにはエスカレートしてしまうのが悩みの種なのだった。
なさけないんだが、僕は酒の勢いを借りれば大胆なことでも平気でできてしまう二重人格的なところがある。
始末がよくないのは、まったくの別人になって本心とは違うことをしたり言ったりするわけではなくて、ふだん隠してる本音がボロボロ出てしまう点である。
たいていの人が僕みたいな色白ににーちゃんは酒に弱かろうと思い、いたずらに勧めるので、何度となくいらぬ騒ぎの種をつくってしまう。
僕もこれで酒好きで、ちゃっかり言いたい放題やっているときだって、意識だけはハッキリしてるんだから嫌になっちまう。いっそなにもかも忘れて知らぬ振りができれば、悩みもなくストレスだけ解消されただろうに。
──とにかく僕にとって、ただ酒が飲める絶好の機会でもある出版社のパーティーってのは、気乗りはしないが行かぬほど嫌いでもない、そこそこ魅力的なお誘いだったりするのだ。
茱萸ネエ様がこのパーティーに出席していたのは、出版社が配給した映画に出演したためで、ゲストとして招かれていたということである。
ちょっとした機会にならば一般の人よりは恵まれているおかげで、僕が女優やアイドルといった人たちと出会ったのはこれが初めてではなかったけれど、彼女のオーラときたら、それはもう、他の追随を許さない凄まじいものがあった。僕みたいな青二才、遠くから眺めるだけが精一杯だったのである。
華やかな橘茱萸と一次会、二次会で話す機会はなかった。直接口をきいたのは、確か三次会以降のことだった。
三次会以降とくれば、僕はもうほろ酔いもいいとこだったから、そろそろ発言に気をつけなければならないころである。だが間の悪いことに僕の担当がちょうど席を外していたところに、茱萸ネエ様を紹介してやろうと、親切にも編集長がやって来た。
忘れたくても忘れられない……。
僕はそれから夜が明けるまで、かの大女優、橘茱萸を口説きつづけ、僕の原作ドラマにぜひ出演してくださいと頭を下げまくっていたのである。
僕の書く小説は、本当に地味だ。売れ行きが地味なら内容も地味で、編集の理解がなかったら世に出ることなんて絶対なかっただろうという自覚もある。
いまどきはやはりライト・ミステリーが主流で、<本格>なんて冠がつけられたところで、だれもが時流に乗って売れっ子になれるわけじゃない。
それでも僕にはプライドがあって、安っぽいドラマをだらだらと垂れ流して制作されるのだけはご免だったから、テレビ局の人が菓子折持ってやってきて、『ドラマ化の許可をください』と挨拶に来ても、ずっと蹴飛ばしつづけていた。もちろん、若造が不遜にもっていう自覚はある。
ただちょっと前から、5ちゃんねるのプロデューサーからのオファーがあって、僕のデビュー当時からの大ファンだという女性ディレクターが、この六久路谷をモデルにした作品、『峠の殺人』をドラマ化したいと言ってきていたのだけは気にかかっていた。
それと言うのも、その女性ディレクターの名前が、確かにファンレターの中に見覚えのある名前だったからである。
『峠の殺人』の内容も、僕の作品の中ではもっとも人気のある探偵シリーズものの一作で、地味な中にもそこはかとない華があると自負していた作品だっただけに、なるほど、ドラマ化してもらうにはいい機会かもしれないと迷っていたところだった。
僕は初対面の茱萸ネエ様に、言わなくてもいい、この、ドラマ化に対するジレンマを語り、<本格もの>と<売れ線もの>の間でウロウロする自分のなさけなさを恥ずかしげもなく吐露していた。
結果的には気風《きっぷ》のいい、同じ酒好きの姉御肌の彼女にいたく気に入られたわけで、本来民放テレビの二時間枠においそれと出演してくれるはずもないあの橘茱萸が、むしろ原作者である僕をせかす形で、ドラマ化は決定してしまった。
共演の平野源平だって押しも押されもせぬ大スターで、大当たりした家電のCM出演以来、お茶の間の“お父さん”としての好感度が非常に高い人である。彼が出演をOKしてくれたのは、あくまでも茱萸ネエ様が旧友だからと声をかけてくれたおかげだった。
「あ、ほら、見えてきましたよ、六久路谷温泉です」
小型バスを運転してくれている5チャンネルのAD、赤城博之君が、ようやく落ち着きはじめたゆるやかな山道を下りながらそう言った。
バスの中には彼や僕たちのほかに、茱萸ネエ様のマネージャーの中尾さんと、付き人のイクエちゃんという女性が二人、さらに平野さんの付き人のヒデキ君が同乗している。
僕らは電車で一番近い駅までやって来て、赤城君に迎えに来てもらったのである。
「ああ、これは確かに秘境っちゃ秘境ねぇ」
おもてを眺めた茱萸ネエ様が、県道から一望できる六久路谷を見下ろしてそう評する。
「四方八方山に囲まれて、ここまで開拓して集落を築いたことの方がむしろ不思議だね」
「……あれ……?」
同じように車窓をのぞき込んだ僕は、思わず首を傾げてしまった。
「赤城君、あの大きなベージュの建物はなんだい?」
「ああ」
気のせいかガックリとした声音で、赤城君は運転席で首を傾ける。
「“六久路谷温泉ホテル”のことですか」
「六久路谷温泉ホテルって、私たちが宿泊するのは旅館じゃありませんでしたっけ?」
「あの建物は別ですよ。別のホテルなんです」
いつでもほんわかとしたムードをつくってくれるイクエちゃんの問いかけにも、赤城君の困った様子は消えなかった。
「どうしたんだい?なにか問題でも?」
僕の質問になかなか答えようとしない赤城君だったけれど、さすがに大御所、茱萸ネエ様が一言口を挟むと、口ごもりながらも話しはじめる。
「ほら、僕たちがベースにさせてもらう“六久路谷温泉旅館”とは同じ名前じゃないですか。どうやら地元の旅館組合と、あのホテルを巡ってはなにかともめごとがあるらしいんです」
「名前のことで?」
「それは六久路谷温泉ホテルと六久路谷温泉旅館の問題で、組合が二分してるのは、どうもホテルが進出したことで生じている弊害の件についてのようですね」
「観光客の取り合いってやつかい?」
各地の温泉を巡るのが趣味とあって、平野さんはすぐに反応した。
「どこの温泉地にもあるんだよね」
「小さい村ですからね、大規模なホテルの進出は、いまのところ賛否両論で、村中落ち着かない雰囲気が漂っちゃってますよ」
しかし赤城君の心配ごとはそれだけではなさそうだった。なおも問うと、『着けばわかりますから』
と、なんとも歯切れの悪い返事が返ってくる。
それ以上問い詰めるのもなんだったので、僕たちは谷底へと下っていく小型バスの中でおとなしく到着を待つことにした。
赤城君が言葉を濁した本当の意味に気がついたのは、六久路谷温泉郷に入ってすぐのことだった。
六久路谷村は観光温泉郷とは言っても本当に小さい。住宅や旅館の密集した箇所の端から端までならば、歩いて一時間しないで往復できる。
だから僕たちのバスが村に入ると、村の全体像はアッと言う間に掴めるし、村の人たちにもすぐに観光客がやって来たということがわかるはずなのだが、橘茱萸や平野源平という大スターを迎えての、予想していた大歓迎の波は起こらなかった。
「あぁ……っ?」
窓に張りついていたイクエちゃんが、僕たちみんなが目にしたものを同時に目にしてすっ頓狂な声をあげる。
「アレ、7テレビのロケバスじゃないですかぁっ!」
7テレビは5チャンネルはもちろん、ほかの民放テレビ局を含めたドラマ製作では、現在のところ一歩抜きん出ている制作局のことである。ハヤリの若手俳優を大勢ラインナップしたキャスティングや、人気マンガの原作付きで視聴率を伸ばしており、濃厚なドラマ作りを旨としている5チャンネルとは、長年ライバル関係にある。
いままでの僕にとっては、テレビ局同士の視聴率戦争なんて無縁だったのに、ここへ来ていきなりシビアな現実に直面させられたような気がした。
「あ、あ、しかもあの大がかりな道具類、同じドラマ班と見ましたよ」
イクエちゃんの隣で声をあげたのは、平野さんの付き人のヒデキ君である。
「ああっ!」
その声は二人同時だ。さすがに平野さんがたしなめて、二人はイケネという顔付きで舌を出す。
しかし僕にも二人が思わず声を出してしまった理由は納得できた。
「まったく騒がしいね。いったいだれがいるっていうの?」
「“咲屋ひびき”に“千葉リカコ”」
眉を顰《ひそ》めた茱萸ネエ様に、イクエちゃんが声のトーンを抑えて答える。
「最近ブレイクしているグラビア出身のアイドルたちです。咲屋ひびきは確か、この間はじめて出した歌がオリコン十位内初登場とかで、千葉リカコは先月出した二冊組の写真集にプレミア価格がついてすごいって聞いてます」
「あ、僕、その写真集持ってるんです」
ヒデキ君が手を挙げて、すべすべの頬を赤く染めながらウキウキと言った。
「サイン欲しいなぁ。持ってくればよかった」
「おい、帰ったらその写真集は私が没収するからな、ヒデキ」
ストイックなイメージの平野さんがなにげなく言うのがおかしくて、僕たちも緊張がほぐれて笑うことができた。
「まいったなぁ」
だが一人バスの運転をする赤城君だけが、前を見つめてシュンとした声になる。
「どうしたの?」
「狭い道なんで、ちょっと……」
赤城君がメインストリートでなく、川沿いの細い道を選んだのは、その道が旅館にまっすぐつづいているからというだけでなく、この道からの眺めがとても美しいからで、なんで狭い道を選ぶんだとは文句がつけられない。
しかしタイミングが悪かった。
村の北側を東西に貫いている支流、吉兵衛川《きちべえがわ》沿いの道は、この時間7テレビがドラマロケに使用して封鎖してしまっていたのだ。
「どうして7テレビとブッキングするなんてことになったの?同じ時期にこんな小さな村でロケをしようなんて、どう考えてもやりにくいじゃないですか?」
茱萸ネエ様のマネージャー、いかにも敏腕デスッという雰囲気がビシバシの中尾女史が、やんわりとした口調ながら独特の迫力をにじませて尋ねる。
「いやぁ、あちらさんがあとからねじ込んできた予定なんですよ。おかげで城ヶ根《しろがね》さんカッカきちゃってて」
頭を掻いた赤城君は、可哀相に、困り果ててノロノロと動かしていたバスをとうとう停めてしまった。
「すみません。ちょっとこれ以上は、しばらく進めそうもないんで……あのぉ……」
「じゃあ……降りて歩きます?」
まずいんじゃないかとは思いつつも、ここは僕が言わなかったらどうにもならないという気がして、バス内をぐるりと見回しながら先に立って言う。
「そうね。ここにいつまでもいたってしかたないし、幸いいい天気だものね」
最年長、大ベテランの茱萸ネエ様が立ち上がってくれたことで、僕はホッとした。
たぶん赤城君もホッとしたのだろう。一生懸命頭を下げている。
このことが知られたら、城ヶ根さん、今回のドラマの総監督であるディレクター、城ヶ根みどりにこてんぱんに叱られるに違いない。
平野さんが変にゴネることもなく、僕たちは赤城君を残し、そろってバスを降りた。
茱萸ネエ様が言ったように、おもてはいい天気で、車に乗ってガタゴト揺られていたときよりもはるかに心地よい。
季節は春。少し肌寒い風がかえって気持ちよかった。
「天音先生、お荷物持ちますよ」
平野さんの旅行バッグを持ったヒデキ君が、手を伸ばしてそう言うので、僕は慌てて首を振らねばならない。
「僕に気を遣わないでくれよ。ほんのおまけなんだから」
「またこの子は、なにを言ってるの」
ちょっと卑屈なことを口走ると、すぐに茱萸ネエ様にたしなめられる。
「お前さんはもっと偉そうに構えてていいんだよ。原作者様なんだからね」
「そういうわけにはいきませんよ」
そこまで言ってから、僕は吉兵衛川沿いに配置された7テレビ側のセットをこっそりと観察してみた。
なるほど、みどりがカリカリくるのもわからなくはない。大勢のスタッフがいるのはもちろんだけど、なによりすごいのが本当に出演者だ。
いったいどんなドラマなのかはわからないけれど、そこそこ顔と名前が一致する可愛い女の子たちであたりはごった返している。
湯気に混じって硫黄の香りが漂う川縁は、彼女たちの発散する華やいだ空気によって、しっとりとした温泉郷のイメージを払拭し、もっとずっと賑やかな温泉郷を連想させた。
「これはこれは、橘センセイに平野センセイ!」
旅館の場所を知る僕を先頭に全員でゾロゾロと歩き出してすぐ、ほがらかな声が後ろからかけられる。
「どうもどうも、7テレビの桑名、桑名晋平と申す者でございます」
口髭がいかにも業界人風の男は、素早く名刺を差し出してにっこりと愛想よく微笑んだ。
「このたびは5チャンネルのスペシャル枠にご出演だそうで、放映楽しみにしておりますよ」
「…………」
気むずかし屋で知られる茱萸ネエ様はもちろん、平野さんも無言で、かろうじて笑顔は返しながらも、まったく相手にしようとはしていない。もっとも桑名某はそんなこといっかなお構いなしで、ニコニコペラペラとよくしゃべる。
「次回はぜひ我が7テレビの連ドラ、よろしくお願いします」
「充分間に合ってるんじゃないの」
肩をすくめ、茱萸ネエ様はキャピキャピの小娘たちを顎で指し示した。
しかたなく一緒に立ち止まっていた僕が他人事だとのほほんとしていられたのはそこまでで、そこにありうべからざる人物を見つけたとき、驚愕はいっきに臨界に達した。
「やぁ、天音先生」
さわやかなよく通るバリトン。独特のオーラを持ったスターたちが集ったこの場所で、なぜか一際強い輝きを放つ存在。
「なんだ、ひょっとして5チャンネルの製作するドラマって、天音先生の原作か」
「う……う……」
みっともないのはわかっていたが、僕は口をパクパク開閉して新しい空気を吸い込み、なんとか声をあげることに成功した。
「う、浮名《うきな》っ!貴様なんでここにっ!」
「<制服探偵シリーズ>のロケ。記念すべきテレビドラマ化の十作品目なんで」
浮名聖、いや、僕にとっては樋尻《ひじり》浮名の名前の方が長いんだ。
柔らかなウエーブを描いた色素の薄い髪、色白の肌に形のいい鼻と唇。
たぶん僕が出会っただれよりも完成された美貌と、才能を持つ男。
恥を知らない、という意味でも彼は特有の才能を持っており、いまも一八〇を越える長身の彼の両サイドには、タイプは違うが同じ長い髪の艶やかな美人が二人、当然顔で寄り添っている。
学生時代からまるで変わっていない。僕は彼が高校一年生のときから知っているが、そのころから本当に少しも変わっていなかった。
「なるほど……このメンツなら、<峠の殺人>かな?」
茱萸ネエ様と平野さんを見やり、浮名はしたり顔で頷く。どうせ僕の作品など、もう読んではいないだろうと思っていたから、この発言にはちょっと驚かされた。
「ドラマ化を拒みつづけた本格派の新鋭も、ネームバリューには弱かったってことかな?」
「なんだとっ!?」
「あ、天音先生?」
桑名の相手で手いっぱいだった茱萸ネエ様たちがやって来て、僕の荒げた声に驚いたイクエちゃんが大きなまるい目を見開く。
「どうなさったんですか?
「やぁ、こんにちは。橘茱萸さんに平野源平さんご一行様ですね?」
浮名はなんとも魅力的な笑顔で茱萸ネエ様たちに向き直った。
「浮名聖です。こう見えても天音先生と同じミステリー作家の端くれなんですが、僕はもっぱらお手軽なライト級作家という奴でして、天音先生からは箸にも棒にも引っかからない駄文書きと、相手にされたことがないんですよ」
「勝手なことを言うな!」
なにが箸にも棒にも引っかからないんだか、ミステリー界ではどこの出版社からだって引っ張り凧の、若手ナンバーワン売れっ子作家のくせして、僕みたいな地味で売れない作家が相手にするもしないも、ありゃあしないじゃないか。
「この道を行くってことは、ははん、<六久路谷温泉旅館>に滞在というわけか。なつかしきミステリー研究会の思い出が充満してますからね」
「うるさいっ!」
「僕は新たなる思い出作りを目指して<六久路谷温泉ホテル>に滞在しています。ほら、この子たちはホテル専属の芸姑の千代紙とおぼろ」
「よろしくお願いします」
芸姑と言っても二人ともまだ全然若い。ニコニコ顔のおぼろはちょっと舌足らずな口調が可愛く、静かな微笑の千代紙はハスキーな声音が色っぽかった。
オフなのだろう、二人とも着物を着ていないせいで、ちょっと派手な普通のOLにしか見えない。ふだんはなんでもない普通の子でも、いつだって浮名が連れ歩いているときは特別キレイに見えるから不思議だ。
「みなさんでぜひとも遊びに来て欲しいですね。ホテルには水着で入れる変わり風呂が、なんと十個もあるんですよ」
なおも親しげにしゃべる浮名を無視した僕は、背中にかかる声に答えずずんずんと進む。
どす黒い靄《もや》が頭の中を満たし、踵《きびす》を返していまにも東京に帰りたい心境に駆られた。
同じ業界にいる以上、浮名と会わずに済むことは絶対にありえない。なにしろ僕なんかより圧倒的に作家友達の多い奴だし、大御所先生方にも可愛がられている。
完全な隠遁生活者にでもならなければ、浮名聖の名前も顔も知らずにはいられないのだ。
「いったいどうしたっていうんだい? 天音」
いつの間にかずいぶん一人で先に進んでしまっていた僕が途中で引き返すと、7テレビのロケ現場を遠くにして、茱萸ネエ様が呆れた声を出す。
「あの優男《やさおとこ》の作家先生は知り合いかい?」
「……はぁ」
注目を浴びた僕は、とても隠してはおけない雰囲気を感じ取った。特別秘密ごとというわけではないのだから、言ってしまうほかはない。
「奴とは高校時代からの、まぁ、知り合いで……」
「ライバルというやつですか?」
「とんでもない」
ヒデキ君の言葉に、僕は苦笑して首を振る。
本当に、胸を張って奴とはライバルだと言えるだけの自信が僕にあれば、あんなに過剰に反応して苛立つこともなかったのだ。
「高校も大学も違ったんですが、なんの因果か双方のミステリー研究会が代々交流会を持ってまして、腐れ縁的に、アマチュアのころからなにかと衝突してまして……。この六久路谷にも、学生のころみんなと一緒に来たことはあるんです。彼は彼でこの温泉郷を舞台にしたミステリーを書いてますし……」
その本は三年前のベストセラーだ。今年になって文庫化されて、また爆発的に売れまくっていると聞いている。
「僕なんて、彼の十分の一の部数しかはけないしがない地味作家で、ホント、ひねくれてるわけじゃなくて、ライバルなんて、とても言えやしないんです」
学生のときから浮名は自信家で、その自信を裏付けるだけの才能に満ち溢れていた。
売れっ子になり、特別な下準備をしたり、構想を練る余裕がなくなっても、彼は変わらずにハイセンスでユーモアたっぷりの、どこかペーソスのきいた作品を発表している。
彼は自分で<ライト級>なんて言ったけれど、それは表面上のことで、どんなに軽く読みやすく描かれてはいても、その根底にある作品世界はシビアなリアリティに満ちており、読む人が読めばその実力は簡単に知れた。
僕よりも一つ下の二十五歳。
若造、新米、世間知らずと、僕たち若すぎる学生デビュー作家への風当たりは厳しい。だが浮名はそんな風評をものともせず、飄々と新しい素晴らしい作品を量産している。
僕にはとてもそんな真似ができないし、ほかのだれにも真似はできないだろう。
僕だってそれなりに評価もされて、先輩たちには新星だの、十年に一人の逸材だなどとちやほやもされた。
だけどそれも浮名が現れるまでの話で、彼の才能は他校だろうと他県だろうと、轟いてやむことを知らなかった。
あのころから、彼だけが“本物”だったのである。
押し黙り、僕がなにも言わなくなってしまったころになって、ようやく通り抜けに成功した赤城君の運転するバスが追いついた。
僕のせいで気まずくなってしまったムードも、バスに乗り込んでからすぐに払拭される。
バスが走り出すと、じき目の前に、六久路谷温泉旅館のしっとりとしたたたずまいが見えてきたからである。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
千代紙とおぼろがおもしろがって撮影スタッフの間にまぎれ込んでしまうと、浮名は腰丈の土塀に背中を預けてぼんやりとなった。
「おいおい、あれが噂の宮古天音先生かい?」
口髭をいじりながらニヤニヤと笑い、近づいた桑名が揶揄を込めて問いかける。
「噂じゃあ若いくせに頑固で偏屈な小僧って話だったが、どうしてどうして、かーいらしい坊やじゃないか」
「見かけ通りの人じゃないよ」
桑名の指からくわえかけた煙草を奪い、浮名は眉を顰めた。親しい人々の間では、たいへんな嫌煙家であることが知られている彼である。
「俺なんか酒も煙草もやりゃあしない健全な男だってのに、見た目で損してるね」
「まあどう見ても天音ちゃんの方が真面目そうだからね。酒癖の悪い人だってのは有名だけど」
「“天音ちゃん”なんて呼んだらぶん殴られるぞ。あの人本当にプライドが高いんだから」
「へぇ、そうは見えなかったけどね」
「ほらね、これだよ」
肩をすくめた浮名は、魅力的な美貌に皮肉めいた微苦笑を浮かべた。
「学生のときから、あの人ってなんの根拠もなく温厚で柔和な人だって思われてたんだよね。作品読めばどういう人かわかるじゃない。ナルシズムの極致。耽美的な描写。緻密で完成度の高い構成と重厚な人物像。あの人って、結局は自分の世界だけが絶対なんだよね」
「俺としちゃあ、おゲージツのことなんてわかりゃしないからな、自信家で知られる浮名聖先生がそこまで意識する相手ってのが、興味津々なところなのよ」
手持ち無沙汰にキシシと笑った桑名は、再び煙草に火をつけようとしたところでスタッフに呼ばれ、未練ありげに立ち去る。
「セェンセ」
すぐに可愛らしく媚びた声がして、桑名と入れ違いに寄って来たのは、グラビア・クイーンの咲屋ひびきだった。
女子高校生が探偵をする<制服探偵シリーズ>最新作の主役を演ずる彼女は、すでに二十歳だったが、いまでも充分に制服が似合う。
あどけない口もと、パッチリと大きな瞳、制服の上からでもわかるグラマラスなボディが、童顔とあいまって魅力的な彼女は、腰をかがめて両手を後ろに回し、胸元を強調する仕草をしながら浮名の目の前に立つ。
「なぁに、ひびきちゃん」
他人からは女好きと称されるばかりだが、自分ではフェミニストと信じている浮名は、見え見えの媚びにも過剰反応することなく丁寧な口調で応えてやった。
「あのねぇ、ほら、あそこ、見えるでしょお?」
まだ三月で寒いというのに夏の放映に合わせて半袖のシャツを着たひびきは、鳥肌の浮いた腕を川の対岸に向けて伸ばす。
「公営の露天温泉なんだって」
「へぇ」
この村の地理はひびきよりもずっと詳しい。言われるまでもなく、茅葺《かやぶ》きの四阿《あずまや》の中が公営の露天風呂であることは浮名も知っていた。
「混浴なんですってよ。今夜一緒に入りましょ、ネ?」
「そういうわけにはいかないでしょう?」
ひびきが桑名のお手付きであることは周知の事実である。いまが盛りのアイドルのお誘いという旨味《うまみ》を差し引いても、浮名にはとても乗る気になれない。
とは言えヒロインの機嫌を損ねるわけにもいかず、さすがに苦笑するしかなくなった浮名が答えに窮していると、千代紙とおぼろが戻ってくる。
「お待たせ、センセ」
「おぅ、おもしろかったろ?」
「うふふ。やだわ、センセ、ここでだったら、千代がもっとおもしろいこと教えてあげる」
舌足らずな口調で大胆なことを言ってのけた若い芸姑は、ひびきにチラリと流し目を向ける。
「あ、センセェ……」
お目当ての浮名が両手に花で手を振ってさっさと行ってしまうと、ひびきは舌打ちして不機嫌な表情になった。
「こんなところでなにやってんだ? ひびき」
桑名が出番を告げるために戻ってくると、花のようなアイドルは無言で煙草を催促する。
「浮名にコナかけてんなら無駄だぞ。アイツ、あれでなかなか義理堅いところがあるからな。俺とお前の仲を知ってて誘いに乗るような奴じゃない」
「だったら晋平ちゃんがつき合ってよね、今夜」
女子高生姿の自覚もなく平気で煙草を吹かしながら、ひびきはつっけんどんに命じた。
「ほら、あそこの公営の露天風呂。せっかく混浴なんだから」
「ハイハイ、そりゃあもう、姫のお誘いとあっちゃ、僕は健全でも義理堅くもありませんからね。健康な男子として、せいぜいお付き合いさせていただきます」
「チェッ、浮名センセならメチャメチャ自慢できるのに……。センセのこと、あのクソ生意気なリカコも狙ってんだよね」
「ああ、リカちゃんもね」
あえて口には出さなかったが、桑名には千葉リカコが浮名の好みの顔ではないことはわかっている。逆にひびきのやや吊り気味の目もとこそ、浮名の好むポイントであることも知っている。
もっともそれを言えばひびきが喜ぶだろうから、桑名が口にするつもりはない。
「あ」
不意に煙草を取り落とし、ひびきが向きを変えた。
「どうした?」
「やだ、またアイツよ」
「ああ、例のカメラ小僧か」
ひびきがストーカーまがいのカメラ小僧に悩まされていることは、今回のロケにまでついて来ていることでスタッフの間にも知れ渡っている。
桑名が見やるとなるほど、本人は植え込みの影に隠れているつもりなのだろうが、ご立派なカメラのレンズが陽光を反射してギラギラと光っていた。
売り込みに必死の駆け出しのころはともかく、ひびきはそろそろグラビアアイドルから卒業し、バラエティやドラマの世界に真剣に取り組もうとしている。まずい写真を撮られれば、いまのところ、いくらでもいる予備軍に取って代わられる位置でしかないことは、本人はもちろん、関係者一同が一番よくわかっていた。
俗に言う、“いまが一番大事なとき”なのである。
今回のアタリシリーズにひびきを抜擢して責任を自認する桑名としては、彼女と恋人関係にあるという理由以上に、問題を起こされる前になんとかしなければならない。
「じゃあね、今夜絶対だからね」
出番を急かされてスタッフの中に駆け戻るひびきの背中を見送りながら、桑名はなんと言ってストーカーを追い払おうか、しばらく頭を悩ませていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
六久路谷温泉旅館は、吉兵衛川が本流と重なる、谷の一番深い場所に位置している。
鬱蒼《うっそう》と生い茂った緑に覆われた崖を目前に、露天風呂は川沿いに崖を見上げる場所にあった。
車寄せのある高台から見下ろす格好となった、露天風呂をメインとした川沿いにより近い旅館は、僕がはじめて見る建物で、まだ新しくてピカピカしている。
新館が増築されたおかげで旧館となった旅館の門構えは変わらず、古いが味のある大門から車寄せまでの、侘びた雰囲気がなつかしい。
「ふぅん、なかなかじゃない」
派手でも華やかでもないが味わいだけはある六久路谷温泉旅館を見あげ、温泉通の平野さんが静かな声でつぶやいた。
「いらっしゃぁい!」
慌ただしい気配がして、女将よりも先に飛び出してきたのは5チャンネルの城ヶ根みどりディレクターである。
凛々しい眉、吊り上った一重の猫目に丸いフレームレスのメガネ。無造作に切った髪はボサボサで、ジャージ姿は色気のカケラもない。
しかし僕が彼女の誘いを引き受けた理由に色っぽい意味はまったく含まれていないのだから、色気のあるなしはこの際問題ない。
「どうも、みなさま、遠いところにご足労かけて申しわけありません! 赤城君、お荷物運んで、お部屋に案内しなきゃ。あ、天音センセェ! 嬉しいっ、ここでお会いできるなんてっ」
身もだえせんばかり、いや、実際もじもじと小さな体を揺すりながら、城ヶ根みどりは機関銃のごとき早口で指示を出しつづける。
「みどりちゃん、会ったわよ、7テレビ」
「ゲッ」
少しばかり嫌味のこもった茱萸ネエ様の言葉に、みどりは途端に気まずい表情になった。
「どうもすみません。手配ミスであとから急遽ねじ込まれちゃったようでして、町側も丁度温泉郷のイメージを全国展開でアピールする話題性が欲しかったそうなんで」
「まぁしかたないね、相手があの海千山千タイプの男じゃあ」
「うそっ、もう桑名にも会っちゃったんですか?」
「名刺もらったよ」
平野さんがおもしろそうに差し出すと、みどりは断りもなくビリビリと破り捨てる。
「あんな奴のことはもう無視しちゃって結構ですから!」
キッパリと言い、茱萸ネエ様の分も奪い取って破った。
「天音先生は?」
「いや、僕はもらってないよ」
ギッと睨まれて、なにも持っていないアピールをすると、激しく興奮していたみどりの様子がようやく落ち着く。
三十を越えているから、彼女は確実に年上なんだけれど、なんというか、僕の前にいるときは乙女みたいな雰囲気になるので、ついつい敬語で話すのを忘れてしまう。
打ち合わせをくり返して何度か飲みに行っているうちに、それが当たり前みたいになってるけど、僕って奴ははたから見たら結構無礼な男なんだろうな。
「まぁまぁみどりさん、こがいな軒先でお話していてはいけませんよ。皆さんにあがっていただかなくちゃ。お疲れでしょうに」
と、騒ぎを聞きつけたのかカランコロンという下駄の音がして、愛らしい和装の女性が玄関先に現れた。
濡れた唇と濡れた黒瞳、真っ白い肌が陶器みたいにしっとりした肌触りを連想させる美人だ。
「ああ、女将さん。ごめんなさい。ほら、本物の橘茱萸センセイと平野源平センセイよ。迫力あるでしょう?」
「皆様本当にようお越しくださいました。みどりさんたら、子供みたいに皆様がおいでになられるのをお待ちしておりました。私もお会いできるのを楽しみにしておりました」
僕が知る女将ではない美人は、深々と頭を下げて上品な仕草で一行を旅館内に導く。
「あの……失礼ですけど……いまは貴女が女将さんなんですか?」
「あ、ひょっとして宮古天音先生でございますね? 義母《はは》からお話はうかがっておりますきに」
一番あとからついていってこっそり尋ねると、美女は艶々《つやつや》の唇で優しく微笑んだ。
「私は若女将の六藁《ろくわら》和由《わゆ》と申します。義母は臥《ふ》せっておりますので、私が女将業を代行しておるんです」
「女将さん、病気なんですか?」
美人とは言えないが大柄で、いつもハキハキと意気軒昂《いきけんこう》だった女将の姿を思い出し、僕は思わず驚いてしまう。六久路谷温泉につかってワサビ漬けを食べていれば、絶対に病気なんかしないと豪語していた女将だったのだ。
「病気と言いましても、その、ヘルニア、ギックリ腰でして」
若女将は恥ずかしそうに顔を伏せ、色っぽい上目遣いで僕を見つめる。色っぽさはしたたるほどなのに、いやらしさは感じない。不思議な安心感は、たぶん女将業にとても向いているのだと思う。
「そうですか、あとでお見舞いにうかがってもかまいませんか?」
「ええ、ぜひそうしてやってつかぁさい。先生がいらっしゃると聞いて、義母もなんとか起き上がろうとしたのですけれど、なにしろ体重が……」
なるほど。
ではあの女将さんは、僕が数年前に訪れたときと大して代わりばえのしない大きさに違いなかった。
茱萸ネエ様たちとはまたあとでと言って別れてから、僕は北向きのひっそりとした<藍の間>に通された。
<藍の間>は本流ではなく支流の吉兵衛川を見下ろす川沿いに面しており、窓を開け放すと寒風とせせらぎがいっせいに押し寄せる。
ラタンチェアとテーブルのセットが置かれた板の間と、十畳敷きの日本間。床の間には風情豊かな季節の花が飾られて、いかにも日本の温泉宿といった情緒がにじんでいる。
僕は荷物を置いて上だけ着替え、仲居さんの用意してくれたお茶を飲みながら人心地ついた。
そうしてしばらくすると、浮名や7テレビのことについて考えを巡らせるよりも先に、浮かない顔のみどりが訪ねてくる。
「すみません、先生」
「どうしたの? 7テレビのこと?」
いつも元気なみどりの消沈ぶるに苦笑した僕は、笑いながら肩をすくめた。
「だってしかたないだろう? 向こうがあとからブッキングしてきたのに、みどりさんのせいじゃないよ」
「いえ。それでもこんな事態になっちゃったのはこっちの責任です」
「ははぁ、さては茱萸さんのとこの中尾さんあたりにやられたね?」
「桑名とは相性が悪いんです」
直接は答えず、みどりは不本意そうに首を振る。
「私、実は7テレビに在籍していたことがあって」
「へぇ」
「そのときアイツにセクハラされて会社辞めてるんですよ」
「ええっ?」
そんな経緯があったとは当然のことながら知らなかった。それでは名刺も破りたくなるだろう。
「向こうにしてみればちょっとしたことなんでしょうけど。あたしってばホント、女子高育ちで男の人に免疫がなかったもんですから、大げさにショック受けちゃって」
みどりはため息をつき、自分で茶をいれてすすった。
「いまとなっては、おかげで水の合う5チャンネルに移れたってのがあるから、恨んでるとかってことはないんですけど……。大体向こうはこっちのことなんか覚えてもいないですし」
「会ったの?」
「狭い町なんで、下見のときに」
「嫌な思いしちゃったんだね」
会いたくなかった奴に遭遇する感覚は、思いがけず浮名と会ったことで僕にもよくわかる。
「先生は……その、浮名聖……先生と、お会いになられたそうで……」
言いにくそうに、しかしその話題をこれから先避けて通ることもできないと判断してか、みどりはそっと口にした。
「ああ。聞いたなら言っちゃうけど、僕も彼との相性は最悪だから」
「はぁ」
「いいよ、みどりさんたちは気にしなくても」
「……すみません」
ご多分に漏れず、5チャンネルも浮名原作のドラマを制作したことがある。たぶんこれからだって制作するだろう。
視聴率を獲得するキャリアがあるわけだから、5チャンネルは僕に気を遣って浮名をないがしろに扱うような真似は絶対にできないのだ。
大体今回のドラマ制作だって、みどりの上司が快く思っていないことは僕も人づてに聞いている。
茱萸ネエ様と平野さんが出演するというだけで、あと十本も別のドラマが作れるだけのギャラが飛んでいると言うのだ。
いくら僕の原作が欲しかったとは言っても、あとランクを一つ二つ下げるか、もしくは片一方のランクを下げることで、ギャラの問題は片付いただろうに、スペシャルドラマが超スペシャルドラマになってしまったわけである。
「撮影は明日からだろう? 今夜はなにもかも忘れて飲もうよパーッとね」
「……はい」
飲むとなると人の変わる僕の誘いに、みどりは年上のお姉さんらしい表情を見せて笑った。
忙しいみどりと一緒に<藍の間>を出た僕は、女将さんのお見舞いに行くことにした。
みどりは途中でスタッフルームに利用している宴会場に向かい、僕は玄関まで行って若女将の姿を捜す。若女将はすぐには見つからなかったが、僕が事情を説明すると、代わりに古い仲居さんが、旅館に隣接した六藁家の自宅へと案内してくれた。
「おやおや、学生先生」
どこのものかもわからない土産品を含む雑多なもので溢れたリビングに陣取った太った女将さん、六藁節子は、リモコン片手にワイドショーを観ていたが、僕が現れると素早くテレビを消して笑った。
「久しぶりじゃないがか。いったい何年ぶりだね」
「御無沙汰しちゃって。いつもワサビ漬け送っていただいてるのに」
「そうだよ、薄情なんだから」
顔色もいいし起き上がれないだけらしい。女将は以前と変わらず豪快な女傑だった。
「あぁあ、悔しいがね。学生先生が来てくれたってのに、嫁の好きにさせるしかないがかよ」
「美人のお嫁さんですね」
「取り柄は器量だけだね。息子がいないからって好き放題やき。あたしも体が言うこと聞きゃあね、温泉郷発展派なんかに加わるまね、許しゃしなかったがよ」
ぶつぶつとぼやいていると、どことなく見覚えのある年かさの番頭さんがお茶の用意をしてやってくる。
「番頭さん、アンタ、あたしがいないがかって嫁の好きにさせてるから」
「したがね女将さん、若女将もようやってらっしゃるきに、実際のところ、もっとお客さんに来てもらわなけりゃあ」
黒く染めた髪やきびきびした動きはともかく、この番頭さんもそれほど若くはない。いずれにしてもこの女将さんに意見できる人物はそうはいないだろう。
「こうして馴染みの常連さんが来てくれるんやきに、うちの旅館は当分安泰だがね。嫁がしっかりあたしの跡を継いでくれさえすれば、代々そうやって旅館はつづけていられるんだ。いまさらあんなホテルがか、つぶれかけてるぼんくら共と一緒になって、六久路谷の名を世間に売ろうなんて、あさましいにもほどがあるがね」
プリプリと怒り出した女将さんの勢いに閉口した番頭さんは、苦笑している僕に丁寧に頭を下げて出ていった。
「あの、女将さん、息子さんは?」
「ああ、重幸はイタリーに研修中でね」
「イタリー? へぇ、イタリアに?」
「そうだよ。まったく、酔狂なもんでね。なんだっけ、パス? バス?」
「スパ?」
「そう、スパがどがいした、桑の家がどがいしたと」
「クアハウス?」
「そうだっけか?」
なんともあやしい理解度だが、気丈な女将さんもさすがに息子さんのことを案じて気弱な吐息を漏らす。
「うちの旅館をリニューアルしていくがか言うて、嫁と企ててね。あたしが死んだあとは好きにすりゃあいいって言ってるがね。それじゃあ遅いとかなんとかって」
「立派なことじゃないですか。旅館のことを心配してるんですよ。僕みたいに薄情な常連ばかりじゃあ、確かに心もとないですからね」
「そがいに思うてくれるんなら、一年にいっぺんは来てちょうだいよ」
僕は曖昧に頷いて女将の愚痴につき合った。
この町を二分している発展派と現状維持派との水面下での争いに心を痛めている女将の繰り言は、どこか不安な予感をはらんでいた。
平野さんの言った通り、過疎化していく地方にはよくあることと、僕はまるで気にも留めなかったのだが、その予感は悲しいことに当たってしまうのだ。
この会話の、ほんの数時間後には──。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
約束を反故にされたことで、咲屋ひびきは怒りのあまりホテルを飛び出していた。
元々大して興味があったわけでもなかったが、自分が言い出したことが通らないことだけは絶対に許せない。
なるほど桑名の言う通り、例のカメラ小僧がいる場所で露天風呂に入るのは危険だろう。ヌードを撮られたら致命的な痛手を受ける。だがそれでも、ひびきは思う通りにしなければ気が済まなかった。
つらつらと考えながらカラコロと音の鳴る下駄履きで夜道を歩きながら、ぞっとするほど冷たい屋外の空気に気がついたのは、スタッフたちとの宴会で飲んだアルコールも八割方醒めたころだった。
「うぅっ、寒っ」
細い肩を自分で抱くような姿勢を取ると、豊満な胸がギュッと押さえられる。
ディレクターの桑名が自分のこの体にしか興味がないということは承知していた。ひびき自身も桑名の肩書き以外には興味がなかったから、お互い様と考えている。
「そろそろ破局かなぁ」
ドラマの撮影が終わってしまえばちょくちょく顔を合わせる機会も減る。そうなれば風船より軽いという自覚のある自分たちのことだから、それぞれのフィールドで別の相手をまた見つけることになるだろう。虚しさが湧かないではなかったが、こういった世渡りは若いうちには必要だと、ひびきは割り切って考えている。
ホテルから吉兵衛川を見下ろす川縁の道に出ると、街灯の数が極端に減る。腕時計を見下ろすと時刻は零時をまわろうとしていた。
さすがにこの時間におもてを出歩いている人影はない。街灯があるだけでも増しだと言えた。
「……もどろっかな……」
そう思って橋の上でウロウロしていると、たったいま自分がやって来た道を、ホテルの方から歩いてくる人影が見えた。
心配した桑名が追ってきたに違いないと、ひびきは小さく笑って背中を向け、約束していた公営の露天風呂に向かって小走りに駆け出す。
ホテルにも露天はあるが混浴ではない。ちょっとしたスリルが楽しみたければ、公営の露天風呂がお勧めですと、教えてくれたのは旅館のはっぴを着た、この町の親切なおじさんだった。
川沿いにもっとも眺めのいい露天があるらしいが、そちらの旅館は5チャンネルが宿にしているらしくて、さすがに入りにはいけない。
川のせせらぎを聞きながら色っぽい気分で風情を味わえる場所としては、この露天が最適のはずだった。
ひびきは桑名らしき人物の影がそそくさと追ってきているのを確認し、女性用脱衣所に飛び込んだ。
脱衣所と言っても萱の仕切りで隔てられただけの小さなスペースに、編み上げの籠がいくつか転がっているだけという簾《す》の子敷きの岩場である。
「まったく、ときどき子供みたいな真似するんだから」
片隅に置かれた紙製の集金箱に百円玉を入れると、ひびきは寒さに震えながらも浴衣と丹前をまとめて脱ぎ捨てた。
「うわぁっ、サイコー」
ビニールのカーテンをくぐり、手拭いも持たず外に出ると、満天の星空の元、白い湯気がもうもうとあがっている。
ほんのりと浮かび上がった金色の照明の下で、ひびきは透明な湯の中に真っ白い体を沈める。
「わぁん、気持ちいいよぉ」
胴震いして寒さを払い、湯の中で何度か腕を揺らしたあとで、身をひるがえして脱衣所の方を見やった。
「桑名ちゃん、もう怒ってないから一緒に入ろ」
甘い声で誘い、岩の上に両手を乗せてバタ足をする。
「ねぇ、はやくぅ」
脱衣所に人の気配はあるのだが、いっかな入ってくる気配がなく、ひびきはようやく不審を抱きはじめた。
「……桑名ちゃんじゃないの?」
声に出さなければ不安で、声に出したせいで余計に不安で、ひびきは慌てて湯の中で体を引き寄せる。
「わかった……。アンタ、あのカメラ小僧でしょう……っ!」
そう思いついた途端ムッときて、猛然と声を荒げた。
「こんなとこまでついてきて、もし裸の写真とか流出させたら、一生許さないんだからねっ!」
と、そこまで言ったところで脱衣所のビニールがするりとめくりあげられた。
予想していたカメラ小僧の顔がなかったことで、ひびきは自分の間違いに頬を染めることになる。
ここは公営の露天風呂で、だれでも好きな時間に入浴できるのだ。
現れた顔に見覚えがあったことで、ひびきは少し安堵した。
だがその安堵はほんの数秒つづいたきり、見開いた瞳は真実を映すこともなく、半分開いた唇は『なぜ』の形に刻まれることもなく、やがて永遠に失われる。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
時計の針が頂点をまわったころ、僕はもうほろ酔いから泥酔に近い状態になっていたと思う。思う……、というのはもちろん記憶が曖昧だからであって、記憶が鮮明になったのは、茱萸ネエ様やイクエちゃんたちと同じ風呂に入るために、混浴の公営露天風呂にくり出すぞぉ、とのたまい、同じく酔っぱらったスタッフ数人を連れ出して旅館をあとにしたあと、歩き出してしばらくしてからのことだった。
「……寒い」
一緒に旅館を出たのは茱萸ネエ様とイクエちゃん、それに赤城君とヒデキ君のほかに男女取り混ぜたスタッフが数名、いずれも酔いどれ状態の一行だった。
「うわぁ、僕、酒が抜けてきちゃた」
「いまさらなに言ってんだい、天音。お前さん、大胆にもあたしと一緒に風呂に入るんだって息巻いておいて、いまさら待ったはナシだからね」
茱萸ネエ様の厳しい声に、僕は複雑な心境ながらも笑うしかなくなる。一緒に風呂に入れば、僕が茱萸ネエ様たちの裸を見るってのはもちろんなんだけど、茱萸ネエさまたちだって僕の裸を見るってことになるのだ。
ああ、途端に僕の足取りはノロノロとなってしまう。
僕はお世辞にも長身ではなかったし、男らしい見栄えのする肉体の持ち主というわけでもない。痩せ過ぎのガリガリという体型でもないが、服の上から見た通り、薄い胸では肋骨の二、三本は浮いている。
こんな貧相な裸を見られたら、茱萸ネエ様から撮影中ずっとからかわれることは必至だ。
うまく逃げる手も思い浮かばないまま川沿いの道を歩いていると、川向こうに公営の露天風呂が見えてくる。湯気の中、ぼんやりと人影があるのもわかった。
六久路谷にはこれといった遊興施設がほとんどない。飲み食いのできるパブも一軒きりだ。こんな時間に問題なく入れる公営の混浴風呂の存在は貴重だった。
「おやぁ」
吉兵衛川にかかった橋を渡ろうとして歩き出すと、背中から嫌味なほど透き通ったバリトンが聞こえる。
「奇遇ですね、同じ時間に同じ目的地なんて」
振り向くのも嫌だったが見やるしかない。
「アンタたちも露天風呂かい?」
茱萸ネエ様がほろ酔い気味の愛想よさで尋ねる。
こういうときの彼女はまったくもって“女優さん”であり、また同時に素晴らしく色っぽい熟女でもある。艶っぽい口調といい仕草といい、やっぱりこの人は特別な女性なんだと改めて思い知らされた。
「毎日毎日宴会で、僕はかなり食傷気味でして。この子たちが毛色の違う露天はどうかって誘ってくれましたんで」
唇に皮肉めいた微笑を浮かべてそこに立っていたのは、まぎれもなく浮名聖だった。
両腕に千代紙とおぼろを抱いているが、二人とも昼間とは違い、日本髪に和装である。白粉《おしろい》に紅を差した小ぶりの顔には、ほんのりと酒気が漂っていた。
「センセ、飲めないものねぇ」
同情的に言ったのは舌足らずな口調のおぼろの方である。
「あら、アンタ、イケそうな口なのに飲めないのかい?」
「不調法なもので、どうも」
茱萸ネエ様の呆れた風の問いかけに、愛想の良すぎる浮名は白々しくそう言って僕たちと合流した。
「なんだか寒いし、もう戻りませんか?」
コイツと一緒に風呂に入るくらいなら、毎日茱萸ネエ様にからかわれていた方がまだ増しである。いっそ泥酔したままだったら度胸も湧いただろうに、どんどん頭が冴えてくる。
「へえ、めずらしくアルコールが入ってないんですか? 天音センセイ」
「“センセイ”なんて嫌味たらしく呼ばないでくれ」
口を挟んできた浮名の顔を見ずに、僕は言い捨てた。
「だってつい先日、どこだかのパーティーで会ったとき“天音”と呼んだら、呼び捨てにするなと言ったのはあなたの方じゃないですか」
「だからってお前から“センセイ”なんて気色悪い呼ばれ方、したくないねっ」
「ほら、これだからまったく、扱いにくい人ですよねぇ?」
うろんな目付きになった浮名は、同意を求めてスタッフたちの顔つきをうかがう。
「学生時代からちっとも変わりゃあしない。この人は僕のすることがなんだって気に入らないんだから」
「それはお互い様だろうが!」
もはや無関係の連中がいようといまいとどうでもいい。ムッとした僕は感情に任せて浮名を怒鳴りつけた。
「猪原に聞いたからな! お前が二次会で人のこと『チビのくせに態度がでかい』って言ってまわってるって!」
「そんなこと俺が言うわけないでしょう? そういうことをアンタの耳に入れる猪原さんの方がどうかしてるって思わないの」
浮名は大声に耳をふさぐ仕草をして、いかにも酔っぱらいの相手は面倒という態度になる。
「大体人の噂が気になるなら、もう少し態度に気をつけたら?」
「なんだとっ!?」
いまにも殴り合いになりかねない勢いだったが、顔を合わせれば僕と浮名の会話はいつもこんなものだった。だからこのときが特別ということはない。
それでも周りにいるテレビ関係者たちはそんなこと知らないし、おぼろや千代紙といった、普段は酒の入った口調になれているような女の子たちまでびっくりした顔をしていたので、僕はさすがにばつが悪くなり、少し落ち着く努力をした。
からんでくる浮名に腹を立てて大騒ぎしたことは一度や二度じゃない。人に言わせればどっちもどっち、それは僕にもわかってる。
「行こうか」
どんな状況だろうと平然とした茱萸ネエ様にうながされて、僕たちはゆっくりと露天風呂に向かって歩き出した。
言い訳のように寒くなってきたと言ったのが、脱衣所に入ってからは現実に寒い。
水のそばというのは、やはり冷えるのだ。ここまで来たら恥を覚悟で暖まっていかないことには、季節はずれの風邪をひきかねない。
『あ、だれかいるみたいですね』
男女別に分かれた脱衣所で、萱の仕切り越しに声が聞こえる。
華やかな声に帯にかかった手が止まり、千代紙やおぼろといった娘たちの裸には、ちょっと興味があるなと思った。
「アンタと風呂に入るのは何年ぶりだろう?」
「え!?」
浮名の不気味な言い様に、ヒデキ君たち男性スタッフがギョッとしてやはり動きを止める。
「バカっ! 変な言い方するな!」
慌てて声をあげた僕は、一同の不審顔を見回して言い訳する。
「ミ、ミス研のみんなで一緒に入ったんだよ」
「アンタそのときから成長してないよね」
「うるさいっ」
「俺、十九まで身長伸びるの止まらなかったんだよねぇ」
「それはすごいですね」
「だろぉ?」
気が合ったのか、感心してるヒデキ君と浮名は顔を合わせて笑った。
チェッ、浮名の奴はこの天性の人好きのする魅力ってやつで、本当にアッという間に自分のフィールドを広げてしまうんだ。
僕の方が先にデビューしたけれど、浮名よりも先だったのはそこまでだ。最初の十万部突破も、原作付きのドラマ化も、みんな浮名の方が先だった……。
──キャアァァアアーッ
なんとなく落ち込んだ気分で再び帯を解きかけたとき、黒板を引っ掻いたような甲高い不吉な悲鳴が付近一帯にとどろいた。
「な……っ!?」
一瞬どこから声がしたのかわからなかったが、すでに裸になっていたスタッフの一人がビニールカーテンをめくって露天風呂の方をのぞき込み、やはり『ギャッ』と声をあげる。
「どうしたんだ?」
ほどいていた帯の端を揺らしていた浮名が、同じようにのぞき込んで固まった。
「…………」
僕とヒデキ君はゆずり合って浮名のあとにつづき、そうっと露天の中を見やる。
もうもうと立ちのぼった白い湯気が、いますぐ湯船に入りたい欲求をそそった。川のせせらぎが耳に心地好く、いったいなにをそれほど驚くようなことがあるのか、首を巡らせて僕は裸で尻もちをついている若き芸姑おぼろの姿を見つける。
唇を震わせたおぼろのうしろでは、千代紙がやはり凍りついていた。
「……な……?」
なにをしているのかと、聞こうとした僕の肩にぐうっと重みが押しつけられる。
「なんだよ、浮名」
「……みて……アレ、見てよ……」
いつものバリトンとは打って変わった頼りない声でささやいた浮名は、蒼白の顔を僕の肩に伏せてしまった。
長いまつ毛、素晴らしくキレイな形をした顎のライン。耳元からほんのりと漂う甘く清涼なオー・デ・コロンの香り。
悔しいが僕はコイツみたいには到底なれないし、茱萸ネエ様同様、こんな奴はそこらへんには絶対いない。
「なんだってんだ……」
なんとも言えない胸狂おしさみたいなものを払い、僕は忌ま忌ましくつぶやきながら浮名の示した方向に目を凝らす。
最初はものすごい湯気のベールで隠されていた。
うっすらとした人影、対岸からもだれかが入浴中であるようには見えていたが、この騒ぎの中、微動だにしないその固まりがあらわになると、僕の目にもハッキリと、それがすでに“人影”などではなくなっていることがわかった。
それは死体だった。哀れな死体だった。
しかもただの死体ではない。
だれかの暴力によって生の終わりを余儀なくされた無残な他殺死体、昼間噂していたグラビア・アイドル、咲屋ひびきの最期の姿だったのである。
2  殺人有りて、ワイドショー現る
こういうのは仕方ないんだろうとは思っても、何時間もつづけばウンザリとなる。
一時間もかけて車で山を越えた僕たち──咲屋ひびきの死体発見者は、某県警本部まで事情聴取に引っ張られ、そのまま昼過ぎまで六久路谷に戻ることはできなかった。
おまけに全員別々の部屋で待機させられていたから、暇つぶしに話し合うこともできない。
それが必要だということは頭ではわかっていても、なんの関係もないのに同じ話を何度も何度もしたせいで、僕はいい加減キレそうになっていた。
たぶん酒が入ってたら、その後のことも考えずに暴れ回っていただろう。
「だから言ってるでしょう?」
この日何度目になるんだ、このセリフ。
「彼女は7テレビのドラマの出演者なんです。僕は5チャンネルの関係者で、彼女とは面識もありません」
「しかし先生は、ええ……」
と、ここで善良そうな、しかしなにを考えているのやらさっぱりわからない壮年の刑事は書類を見下ろし確認する。
「昨日の午後三時前後、吉兵衛川沿いのロケ現場に現れたとありますが」
「だからっ、たまたまですよ。たまたま通りすがったんです。僕たちはその時間にようやく六久路谷にたどり着いて、旅館に向かっている途中だったんです。7テレビが来ていることも知りませんでしたし、そこでロケしてることだって知りようがありません」
「いや、すみません、先生を疑ってるわけじゃなくてね、これは決まりごとですんで、すんませんが協力してつかぁさい」
「だからしてるじゃないですか」
僕はあらぬ方向を見やり、テーブルの上をコツコツと指先で小突いた。
みんな同じことを聞かれているんだろうが、たぶん一番僕の態度が悪いだろう。まぁ自覚はある。
「ところで先生は浮名聖先生と古いお知り合いだそうですね」
「……古いと言っても高校時代からですから、ほんの七、八年ってとこですね」
「なかなかお盛んな方のようですな」
そこで僕はなんとなくピンときた。
「言っておきますけど、あの男に人を殺すような度胸はありませんよ」
死体を見つけて一番ビクビクしていたのは確かに浮名だ。
しかし僕は、アイツがスプラッタムービー嫌いの鮮血恐怖症男であることを知っている。奴のミステリーを読んだって、死体の描写はまったくないじゃないか。
「あまり仲がよろしくないが聞いちょりますが、かばわれるんですか?」
「それとこれとは別です」
いったいだれがそんな余計なことを警察に言ってくれたんだ。
「浮名は確かに紙の上では何度も殺人を犯していますが、現実には気の弱いただの色男に過ぎません。仮に彼女となにかの原因でもめていたとしても、金でカタのつかないタイプの女性には見えませんでしたね」
「辛辣ですな」
「……カワイイ顔してるのに」
目の前の刑事の声に、隅っこにいた別の刑事の声がかぶる。
僕はギロリとそっちを睨んでやった。僕よりも若いかもしれない刑事は、居心地悪そうにうつむいてしまう。
同じ時間の、同じ光景の説明をさせられたあとで、ようやく僕は解放された。
「長い時間すみませんでしたね」
取り調べ室を出ていきかけると、善良そうな壮年刑事が名刺を差し出して苦笑する。
名刺には“福島敬三、警部”、とあった。
「またなにかあったらよろしくお願いします」
若い方の刑事の名刺には“田畑厚生、巡査部長”とある。
「……もうご免です」
僕は名刺を無造作にジャケットのポケットに突っ込み、ベエと舌を出して身をひるがえしてやった。福島警部の方がプッと噴き出し、田畑の方が唖然とする気配が背中に伝わる。
そのまま廊下に出た僕は、薄暗い廊下に置かれた木製のベンチに腰かけてグッタリとなっている浮名と遭遇した。
「浮名、浮名」
「あ」
二回呼ぶとようやく顔があがる。
犬猿の仲ではあるが、さすがに同情してしまった。
僕よりもずっと苛烈な事情聴取を受けていたに違いない彼の顔はたった一晩でやつれ、唇からは血の気が引いたままである。
「大丈夫か?」
心配になった僕がかたわらに腰かけると、大きなため息と共に首が振られた。
「……ひびきの解剖が済んだらしいんだ」
浮名は唐突に言って僕の顔を見つめる。
「死亡推定時刻がわかったんで、解放されたらしいよ、俺」
その言葉で、僕はやはり彼が犯人扱いされていたことを知った。
「……恋人だったのか?」
「違うね」
僕の言葉に、浮名はようやくいつもの皮肉めいた微笑を浮かべる。
「もっとも警察はそう思ったようだけど」
「どうして?」
「ドラマさ。あの原作、ひびきを主演に最初からドラマ化することが決められたうえで書いたんだ」
僕は浮名の作品は一つ残らず読んでいた。“制服探偵シリーズ”も全部読んでいる。
なるほど、最新作のヒロインはグラマラスで、ちょっと間抜けだがそこが可愛い猫目の女子高校生だった。彼女をイメージにしたと言われればそんな気がする。
「どうせバレるのは時間の問題だと思ったが、警察には言わなかった」
「なにを」
「ひびきの本当の恋人だよ」
「スタッフの中にいるのか?」
「桑名だよ。アンタも会っただろう? ディレクターの」
「あ」
僕の脳裏に、みどりがセクハラされたと怒っていた顔と、口髭の業界人面がすぐに浮かんだ。
「桑名には俺の作品のドラマ化では昔から世話になってる。気も合うし、女のことなんて別に大したことじゃない。アイツがひびきを殺したりするはずないんだ」
それは僕にもわかる。
別れる別れないでモメたとしても、金でなく命をかけるほどの恋愛をするような連中ではないだろう。浮名を含めて。
キレイに別れるために金を使うことに、僕は否定的ではない。そういう意味であの刑事たちは僕が辛辣だと言ったが、事件が起こる前にカタがつくんだったら、金で解決するのは平和的手段の一つだと思っている。
「でもお前、言っておいた方がいいぞ、そういうことは。へたな疑いでもかけられたらどうするんだ?」
「……アンタってそういうとこ、ほんとシビアっていうか、冷たいよね。友達を売れっての?」
うんざりした調子で言われ、僕はムッとしてしまった。めずらしく人が親切に忠告してやったというのに、なんて言いぐさだろう。
「売るとか売らないとかの問題じゃないだろう? ホントにあの男が無実だって信じてるなら、恋人だったことを話すのはただの捜査協力のうちじゃないか」
「“捜査協力”って……。アンタにそんな殊勝な正義感がないことは知ってるよ」
「失礼なこと言うな!」
馬鹿にした口調で言われたが、本当のことだけに、思わず声が大きくなってしまった。
「いいか、浮名。これは親切で言ってやってるんだ。いまから戻って桑名のことを言ってこい。いずれバレたとき、お前が黙っていたことが致命傷になりかねないんだから」
「イ・ヤ・だね」
ふんっと鼻を鳴らし、浮名はすくっと立ち上がった。おぼつかない足取りにハラハラさせられたが、すぐにまっすぐな姿勢を取り戻す。
僕も立ち上がり、しかたなく一緒に廊下に向かった。
学生のころから、僕たちの関係はこんな口論のくり返しだ。
僕の考え方と浮名の考え方はまるで違う。死刑制度一つにしたって、それこそお互い殺し合いかねない勢いで口論してきた。
ミステリー研究会なんかに所属している連中は、インドア派の変わり者が多かったから、いつだって口論の種は尽きなかったけれど、それにしたって僕と浮名は異常だった。
なんでこうも気の合わない奴と、何年にも渡って同じ世界で顔を合わせなければならないのか。
いっそデビューなんてしなければ、僕はただ浮名の新刊を待つだけの批評家で済んだのかもしれない。
そうなのだ──。
僕には学生のときから、浮名の一番のファンであり理解者である自負がある。
こんなにもこんなにも考え方が違いながら、僕はどうしても浮名の描く世界に惹かれずにはいられない。
お人好しや世間知らず、生意気だけど憎めない女子高生に、バカみたいに純粋なサラリーマン。人間臭いキャラクターたちが織り成す物語は、僕みたいに冷たい人間にとっては嘘でしかない。
それなのに惹かれる。嘘だと思いながら引き込まれる。
登場人物と一緒に笑って、怒って、ときには社会の不条理に涙したりもしてしまう。
はじめて浮名聖の描く世界に触れたとき、僕はどれだけ自分がちっぽけな存在であるか知った。
学生のときの僕は、作品が理解されないとき、自分ではなく読み手の責任にしていた。浮名は他人の目を意識しながら、なおその意識を自分だけの世界に引き付けるだけの実力を高校生のときすでに持っていたのである。
“緻密で丁寧だけれど体温がない”と評される僕みたいな、ちっぽけな技巧に振り回される作家にとって、才能に輝く浮名は、まさに憧れの存在なのだ。
学生のころから、彼が特別な作家であることはわかっていた。だれもがそれを知っていて、僕だけが反発していたのである。
「あ、センセイ!」
階下のロビーでたまっていた一行の中、半分泣き顔のおぼろが一番に僕たちに気がついた。
全員寝不足の顔を突き合わせた僕たちは、警察の用意したパトカーで、また一時間かけて六久路谷に戻ることになったのである。
「ライバルチャンネルとは言っても、大変なことになりましたね」
ヒデキ君とイクエちゃんと同乗したパトカーの中で、まず口を開いたのが、迎えに来てくれたみどりだった。
「主役がいなくなっちゃったんじゃ、撮影の続行はまず無理でしょうけど」
「お巡りさん、犯人のめどはついてるんですか?」
屈託ないイクエちゃんの質問に、運転していた制服警官は苦笑して答えない。
「そんなこと言えるわけないだろう、イクエちゃん」
「だってあたしたちは目撃者なんだもの、捜査の最前線を知る権利くらいありそうじゃない?」
「そんな権利はないと思うよ」
「なによ、じゃあヒデキ君は知りたくないの?」
「そりゃあ俺だって知りたいけど……」
たった一日ですっかり仲良くなっている若い二人は、ああでもないこうでもないと犯行について語り合う。
「天音先生はどう思われますか?」
「えっ? 僕?」
「あ、そうだよ、言うなれば先生は本職みたいなもんだものな」
「なに言ってるんだい」
殺人事件が本職なんて思われてるとはいい迷惑だ。
「死んだ彼女は気の毒だとは思うけど、そこまでだね、僕の考えてることなんて」
「確かに、あの悩殺ボディは惜しかったですよ」
「やらしいっ」
「男はみんなやらしいんだよ」
どうやら可愛らしいカップルになりそうな二人の会話は、長い取り調べで沈んでいた気持ちを少し浮上させてくれる。
「先生、本当におわかりになりません?」
「みどりさんまで」
ミステリー小説を書いているからって探偵にはなれっこない。僕は呆れて助手席からこちらを見やっているみどりに首を振った。
「僕は彼女がグラビア・アイドルだってことも知らなかったんだよ? せいぜい最近よく顔を見る女の子って程度の認識だよ。浮名のドラマの主役に抜擢されたことを知ったのは今日のことだし、人間関係についてなんてまったく知らないもの。だれがどうして殺したか探るのは、警察に任せるね」
「あっちのドラマはもう終わりですかね?」
「まぁ、まず撮影再開は見込めないわね。いずれ撮り直すにしたって、犯人が逮捕されるまでは、脚本もお蔵入りってとこじゃないかしら」
めずらしくついてない浮名に同情してしまう。
なんでもとんとん拍子で進んで当たり前の奴のことである。こんなことでつまずくのは不本意だろう。
それにしても、せっかく友人とその彼女のために書き下ろした原作も脚本もナシしなってしまうなんて、いったいこれからどうなるのか、他人事ながら僕は不安だった。
車の中で小一時間眠った僕たちが六久路谷に戻ると、昼下がりの温泉郷は大騒ぎになっており、先行していたパトカーがちょっとした人垣のできたホテルの前で停車するのが見えた。
「ちょっと、こっちは私たちの宿じゃありませんよ」
「え? そうでしたか?」
ホテルの車寄せまで入ったところで、警官は間違えた事実を知らされて頭を掻いた。
「あ、待ってください……!」
方向を変えようとして動き出した車内から、僕はホテルの玄関口から連行される知った顔を見つけて声をあげる。
「桑名だわ……」
みどりも気がついて声を漏らした。
私服刑事に挟まれて、桑名晋平がパトカーに乗り込もうとしている。そこに到着した浮名が駆け寄り、刑事との間で口論になっているのが見て取れた。
「天音先生?」
呼び止めようとする不審げな声にも動きを止めず、僕はパトカーから飛び出している。
「浮名っ」
「彼はドラマ制作の実質的な責任者です。なにも連れていかないでくれって言ってるわけじゃない。制作会議をする時間を少しくださいと言っているだけです」
名前を呼んでも浮名は僕に返事もせず、私服の刑事に向かって厳しい声をぶつけていた。
「そがいな時間はつくれないがかよ、ウキナ? ヒジリセンセイ?」
目付きの悪い刑事はジロジロと浮名を観察し、刑事ではなくヤクザのような口調で言い捨てる。
「別に芸術大作を撮ろうってわけじゃないがかよ? B級だかC級の原作をドラマ制作するのに、お上相手にキャンキャン騒いじゃいかんがね。ドラマ制作は現状維持と勧告したが、即時解散制作中止という勧告にしても構わないがよ?」
B級C級という言葉に、浮名の唇が悔しげに震えるのを見つめた僕の頭に血がのぼった。
彼がB級やC級といわれる程度の作家でないことは、この僕が一番よく知っている。
描いている世界がライトテイストに富んでいるからって、作家本来の力が軽いわけじゃないということを、わかっていない奴がとにかく多すぎるのだ。
そもそもこんな、本と分類されるものは絵本だって読みはしなさそうな中年オヤジなんかに、くやしいが僕が認める最高峰のミステリー作家の一人である浮名の批評をしてもらいたくない。
「失礼な刑事だな! それほど官憲風を吹かせたいってなら名刺を置いていけっ! 僕が世話になってる雑誌のすべてに、実名入りで官憲横暴の実録記事を掲載してやるから!」
突然間に割って入った僕の怒鳴り声に、刑事たちはもちろん、桑名も浮名もギョッとするのがわかる。
「お上の嵩《かさ》を借りなければ大きな口も叩けない奴に、浮名の作品のなにがわかるっ!」
「ア……アンタはだれかね?」
「天音」
目付きの悪い刑事に食ってかかる僕の肩は、困惑した浮名に掴んで引き止められた。
「天音、落ち着けよ」
「馬鹿野郎っ! お前が馬鹿にされたんだぞ!? どいつもこいつも見る目のない! 読者はアホだ! だれがライトミステリーなんてジャンルをつくりやがったんだ!」
我ながら支離滅裂なことを言っている。
「……わかりました。確かにここで桑名を引き止めてもいいことはなさそうだ」
僕を押さえつけたまま、浮名は桑名と充血した目を合わせる。
「安心してくれ。戻ったときにはすぐに撮影できるようにしておくから」
「悪いね、浮名ちゃん」
昨日会ったときと同じように飄々としていた桑名は、拝む仕草をして言った。
「すんません、天音先生、浮名先生のこと、頼みますわ」
どうやら容疑者としていまから警察署に連行されるところだろうに、ウインクしてみせる男のずうずうしさに、僕は浮名のせいでみっともない真似をさらしてしまったことをようやく自覚する。
肩を抱かれたまま桑名を見送り、僕は深く吐息した。
「……浮名」
くるりと踵を返し、ホテルの中に入ろうとする浮名の背中を、僕は思わず呼び止めている。
「大丈夫か?」
「なにが?」
浮名は生真面目な顔つきで振り返った。
ああ、嫌だ。僕は浮名のこんな顔は見たくなかった。
たぶん浮名だってこんな顔、僕に見られたくはなかっただろう。
切迫した瞳。まるで雨の中に一人ぼっち打ち捨てられた迷子のように、いまにも感情が溢れ出しそうな唇。
追い詰められて行き場をなくした浮名のプライドが、キシキシと音を立てて軋んでいるのがよくわかった。
「アンタにそんな顔で見られるのはご免だ」
そうとわかっていた通り、浮名は皮肉めいた痛ましい笑顔になって苦い声を絞り出す。
「同情されるのは嫌いなんだ。三流でも、虫けらくらいのプライドはあるんでね」
「お前は三流なんかじゃないよ、浮名」
僕の言葉に、浮名の顔は余計に歪んだ。
「うき……」
「三流なんかね? 三流なんかとはアンタらしい言い方だよ」
「…………」
せせら笑う浮名の言い様に、僕はせっかくの同情心を汚す穢《けが》された心地になる。
僕だってたぶんこんな形で浮名に同情される立場だったら、激高して彼を責めたに違いない。だけどたまには素直に人の気持ちを受け入れてもいいじゃないか。
現にいま、まるでそのささくれた気持ちを覆うようにして、千代紙とおぼろがかたわらにそっと寄り添うのを許しているんだから。
「アンタには悪いけど、ドラマの制作は中止したりしない」
「別にそれを願ってたわけじゃない」
「どうだかね」
「……なんだと?」
またこれでケンカになってしまう。そう覚悟したときだった。まるで津波みたいにワッという声の群れが押し寄せて、僕たちの周囲を取り囲む。
『浮名聖先生ですねっ?』
『恋人の咲屋ひびきさんを失われたということですが?』
『こちらはどなたですか? お名前は? 浮名先生とのご関係は?』
『桑名晋平氏は容疑を認めたんでしょうか?』
『あ、第一発見者の芸者さんというのは、あなたですか?』
『ひびきさんは全裸だったそうですが、お心当たりは?』
『ドラマの制作はどうなりますか?』
『東京のご自宅に同棲中の恋人がおありだそうですが、その方はひびきさんとの関係はご存じだったんでしょうか?』
『先生は桑名氏とひびきさんとの関係はご存じだったんですか?』
あれよあれよと言う間に、僕と浮名は波にさらわれ、一方はホテルの方へ、一方は車寄せの方へ、質問責めにあいながら別々に流されていくことになった。
「先生っ」
なんとかパトカーにたどり着いた僕は、イクエちゃんがドアを開けた後部シートへと飛び込んで息をつく。
「なんだ? アレ?」
「アレがワイドショーの威力ってやつですよ」
助手席でみどりが振り向いた。
「まいったな、どうやら当分はこの騒ぎにつきまとわれそうですね」
「…………」
無言になった僕はパトカーの中で後ろを振り返る。
こちらに向かってレンズを向ける連中もいたが、ほとんどがホテルの玄関口に殺到していた。
刑事たちがいたときは、おとなしく生け垣の手前で集まっていたやじ馬連中も一緒になって、怒濤《どとう》のごとくホテルへと押し寄せている。
ざっと見渡しただけでも三、四十人は下らないワイドショースタッフたちの中には、もちろん7テレビの取材班も混じっていた。こんなときには同局のピンチも無関係らしい。まさにハイエナのように精力的な取材活動である。
結局僕は人垣の中に浮名の姿を見つけられず、前に向き直って目を伏せた。
みどりたちも気を遣ってくれているのだろう。興味はあるだろうに浮名聖のことをなにも聞かないでくれる。
なんだか本当に津波に飲み込まれてしまったようだ。
予想もつかないこれから先のことなんて、流れに任せてしまうしかないのかと、僕はなぜだかひどく頼りない気持ちになったのだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
疲れきっているおぼろと千代紙を帰した浮名がホテルのロビーに入ると、ようやくうるさいリポーターたちから解放された。
ホテルの従業員がガラス張りのロビーに仕切りを用意してくれているのもありがたい。
騒ぎ立てるスタッフととりあえずの話し合いを終えた浮名は、寝不足と精神的苦痛で疲労の固まりと化した肉体を休ませるため、最上階十四階の、一泊五十万円のロイヤルスイートにエレベーターであがる。
一泊五十万円といっても、ホテル側はドラマ制作のスポンサーである。宣伝も兼ねているため、制作への請求書にはスタンダードルームと変わりない価格が記されることは決まっていた。
そもそも一泊五十万円の部屋は単なる話のタネの提供価格に過ぎず、ホテル側はそれなりのお客であれば半額でも宿泊させるだろう。
広いリビングに客間と寝室、専用の露天風呂にジャグジー、カウンターバーと書斎がついたこの部屋を借りた人間は、まだほんの数えるほどだと言っていた。
どちらにしても人目を気にせずくつろぐには充分すぎる施設が整っている。浮名は一刻も早く一人になりたかった。
十四階の廊下は上品なロイヤルブルーの絨毯が敷かれ、途中から扉で仕切られている。その先からは赤い絨毯が敷かれ、突き当たりを曲がった場所には観音開きの白い大きな扉があった。
「あ、センセェ」
「……リカちゃん?」
ドラマの中ではひびきの妹役としてキャスティングされていたグラビア・アイドルの千葉リカコが、ロイヤルスイートルームの白い扉の前に立って涙目でこちらをみつめている。
「どうしたの?」
「だってセンセイ、ひびきちゃんが死んじゃったなんて、リカコ信じられなくて」
しゃくりあげる仕草が堂にいっている。猫目で、少しヤンチャ風だったひびきと比べると、リカコはロリータが入った童顔が人気だった。
まっすぐな黒髪を耳にかけ、小首を傾げてこちらを見上げるポーズは、キャスティングに入る前に借りたビデオの中とまるで変わらない。
太股《ふともも》を半分むき出しにしたデニム地のミニスカート、童顔の割に大きな胸を強調するぴったりした白いシャツ。ひびきとはまったくタイプは違うが、彼女もまたカメラを通してギラギラ輝くオーラを持った人間ではある。
「センセ、センセとひびきちゃんがつき合ってたってホント?」
「そんなことないよ」
桑名とひびきのことを知らないはずがない。十八歳のリカコは、充分成熟した色香を放ち、自分がここにいることの意味も、相手がその意味を承知していることもわかっていて、あくまでも見え見えの質問をしているのだ。
浮名は媚びる相手には興味がない。あからさまな女の魅力を振りまくタイプにも、まるで興味が持てなかった。
精神的にはマゾだと自認している浮名にとって、プライドの高い、こちらを見向きもしないような女にこそ興味が惹かれる。
「センセ、リカコ寂しいよ」
「うん、みんなと一緒にいなさい。僕はこれから眠るから」
「リカコも一緒に寝ちゃダメ?」
両腕をそろえて胸の両脇を挟んですぼめ、リカコは背中をまげて浮名の顔をのぞき込んだ。シャツ越しに胸の谷間がくっきりと浮かび、その首筋から甘ったるい香りが匂い立つ。
「ダメだよ。一眠りしたら脚本を書き換えるから。そうしたらリカコちゃんが主役になってるよ」
「え?」
思いがけない言葉に、リカコの目は涙を散らして爛々と輝く。
「ウソ? ホントに?」
「ああ。だからしばらく一人にしてね」
浮名が頷くと、リカコは跳びはねる足取りでようやく立ち去った。
なにをするにも手軽だろう。
もしかして、そんなところはあの男に似ているかもしれない……。
聡明で冷徹、愛らしくて小憎らしい横顔を思い出した浮名は、一つ首を振って面影を捨てると、カードキーで部屋のドアを開けた。
警察署で染みついたタバコの臭気がたまらずに、疲れていたがシャワーを浴びずにはおれなくなる。頭から湯を浴びれば、二十四時間わいている専用の露天温泉風呂にも、入らずにはいられなかった。
「……あぁあ……」
シンプルな白いタイルと透明ガラスで囲まれた丸い形の湯船に沈むと、傾きはじめた日差しが頭上から降りそそぐ。
咲屋ひびきが死んでしまったことなど嘘のようだった。ここが六久路谷で、また宮古天音と口論したことも、現実にあったことには思えない。
ホテルの車寄せで自分に向けられた天音の表情を思い出すと、浮名はそのまま湯の中に頭まで沈み込んでしまいたい衝動に駆られる。
学生のときからいつだって、なにをするにも自分のことを認めようとはしない天音を、なんとかして組み伏すことが浮名の目標だった。
極端な話、学生時代に一度でも天音が自分を認める発言をしてさえいたら、いまごろ作家なぞにはなっていなかったかもしれない。
くやしいが浮名は、それだけ宮古天音という作家の価値を認めているのである。
だからこそ、いつまでたっても同じ土俵の上に乗ろうとせず、孤高を気取って一人高みを目指す彼に認めてほしい。よきライバルでありたい。
同情は真っ平だった。
ともすれば湯の中で眠ってしまいそうになりながら、浮名は夢現《ゆめうつつ》、新しい脚本について構想を巡らせる。
明日になったら、あの、人を哀れむ眼差しで自分を見た天音の瞳を、崇拝と羨望で染め変えてやる、そんな想像だけが、疲れ切った浮名の気持ちを奮い立たせていた。
弾む足取りで吹き抜け二階のアトリウム喫茶にやって来たリカコは、マネージャーの姿を探して見つけられず、しかたなく一人で席についた。
カプチーノを注文してから、東京の友人たちに携帯でショートメールを打ちはじめる。
ひびきが殺されたと聞いたときは、これでドラマもおしまいだと思っていたが、まさか自分が主役に格上げしてもらえるとは思わなかった。
浮名と一晩寝るつもりだったのは、それでこれからもなにかと重用してもらえばよかったからである。今回に関してはあきらめていたから、まさに棚ぼた。
思いがけない収穫に、リカコの胸はワクワクした。
「こんにちは、リカコちゃん」
「あ?」
メールを打つのに夢中になっていると、白いテーブルに影が落ちる。見上げるとテレビの中だけで顔を知っている7テレビの芸能レポーター、長ノ江正文の張りついた笑顔があった。
「長ノ江さん?」
「わぁ、僕のこと知っててくれてるんだね?」
長ノ江は白々しく言いながらリカコの写真集を差し出してサインを求める。
「大変だったでしょう?」
「ああ、ええ、まぁ」
顔を知っているほどの芸能レポーターにサインを求められ、コメントを取られているのだという得も言われぬ心地に、リカコは陶然と酔った。それでも、こういう時期にニヤニヤしているようなアイドルと思われないように心がけるのが精一杯で、嬉しい気持ちは止まらない。
「だけど、ドラマの撮りはまだ終わったわけじゃないし」
「え? 制作続行決定したの?」
「やだ、長ノ江さん。リカコなんかよりずっとくわしいくせに」
リカコは親しげに長ノ江の肩口を押す。カメラマンの姿はない。アトリウムにいるのは一般客と、あとは疲れた顔のスタッフばかりである。
「なんだか様子がおかしいなぁ。なにかあったの?」
ドラマのヒロインが殺されたのだから、なにかあったもなにもないものだが、二人の会話の中には、すでに咲屋ひびきというアイドルの存在は過去のものになっていた。
「ちょっとね。まだ言えないんだけど……。そうね、明日にはたぶん言えることがあるんじゃないかな」
「へえ?」
まだ十八歳のリカコには怖いものなどないのだろう。長ノ江にとっては渡りに船の口の軽さである。
「いや、正式な発表は明日でもさ、僕みたいなリカコちゃんファンには事情通を気取らせてよ」
「ダメよ、ダメ」
口ではそう言いながらも、リカコの表情は話したくてたまらないと語っている。
「大丈夫。絶対に言わないよ。明日、ちゃんと発表されるまでおじさんの胸の中に収めておくから、ねっ?」
「うぅん……。しかたないなぁ。リカコも長ノ江さんのこと好きだから、言っちゃおうかなぁ」
「嬉しいなぁ、言って言って」
ここまでくれば聞き出したも同然である。長ノ江は東京を出るとき写真集に自腹を切ったことなど屁でもなくなった。
「あのねぇ、ドラマはリカコを主役にして撮り直しするのよ」
「へぇ?」
半ば予想していた答えに、しかし長ノ江は確信が得られない。
「だけどそんなこと、桑名ちゃんがいない間に勝手に決定できないだろう?」
「だってリカコ、さっき浮名センセに直接聞いたんだもの。センセ、脚本を書き直ししてるのよ。今度はリカコをヒロインにして、リカコのために」
「ふぅん……」
なおもペラペラと自分のことをしゃべり出したリカコに適当に相槌《あいづち》を打ってやりながら、長ノ江はどの週刊誌にこのネタを流したものか考えていた。
記事を書くための時間を考えると、明日の発表を待ってからでは遅い。もちろんまったく、長ノ江にはリカコとの約束を守る気持ちなどなかった。どちらにしても明日には発表される話なのだから、どこから話が漏れたかなど、この、脳みその容量が半分は胸にいってしまった女の子にはどうでもいいことに違いない。
長ノ江にとっても、この話が嘘になろうと本当になろうと、どちらでもかまわないのだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
テレビをつければ朝のワイドショーから、咲屋ひびきの殺人事件は大きなニュースとして報じられていた。
六久路谷も当然テレビ画面に大映しされ、5チャンネルのスタッフたちは旅館の宴会場で同じテレビに釘付けになっていたらしい。
昨夜妙な時間に寝起きしてたおかげで、僕が床をあげたのは午後もいい時間になってからのことである。
遅すぎる朝昼兼用の食事の膳は、若女将が運んでくれた。
「すみません、忙しいでしょうに。おもては大変な騒ぎなんでしょう?」
「こっちはそがいでもないんですがか、あちらは大変だと思います」
お茶を新しくしてくれたり、ご飯をよそってくれたり、若女将は寝込んでいる女将さんが心配している以上にしっかりやっているように見える。
若いのに和装もしっかり着こなしているし、なによりしっとりと落ち着いた雰囲気がこの旅館にはピッタリだった。
女将さんにはお世話になっているけれど、僕は決してこの若女将が嫌いじゃない。
旅人の勝手な言い分で、この温泉地があまりにも栄えて荒らされてしまうのは見たくなかったけれど、山葵《わさび》農家の人たちはともかく、旅館の人たちにとってはこれから先の死活問題がかかっている。若女将夫婦が旅館の将来を案じて試行錯誤することは、むしろいいことだと思う。
「嫌な形で全国的に有名になっちゃいましたね」
「ええ」
テレビに映っている公営露天風呂の遠景に僕が言い差すと、若女将は白い顔にうっすらと翳《かげ》りを見せた。
「今度のドラマの撮影で、きっとお客さんも増えると思っていましたけど、こがいな形で報道されてしまったら、どがい悪い影響があるがか……」
「そうですねぇ」
ドラマの中でいくら人殺しが起こったって、それは現実じゃない。
どこかのバカな評論家は、若い殺人犯が現れるたびに、テレビや小説、マンガやゲームの影響だと言うが、それじゃあ凶器として使われた包丁を作った奴が悪いと言っているのと同じ屁理屈になってしまう。
現実と仮想の区別のつかない受け手側の人間の病気を治せず、いたずらに規制が流行《はや》れば、また新しく利用される凶器が生まれるだけのことだと僕は考えている。
「でも大丈夫だと思いますよ。殺されたのは有名なアイドルですし、事件がうやむやになってしまうことはないでしょうから。犯人が捕まればアッと言う間に風化しますから、この場所も一種の名所になって、怖いイメージはすぐにすたれますよ。ほら、この村の名前が、字面《じづら》を変えただけでもずいぶんいい方のイメージに変わったように」
「犯人、捕まりますがか?」
一人でする食事を味気ないものと思って話し相手になってくれているのだろう。若女将は僕に茶を差し出したあとでも腰をあげない。
「捕まると思いますよ」
桑名が犯人かどうかはわからないが、それにしてもあんな目立つ場所で目立つ人間を殺しておいて、捜査が進展しないということは考えがたかった。
「義母には叱られてしまいました。六久路谷を有名にしようなんて野心を持つきに、心根のよくない連中がやって来て悪さをしでかしたんだって。悪い心が悪い心を呼ぶと言うがです」
「若女将のせいじゃないですよ」
「それはもちろん、義母も本気で責めているわけではないんですがかね」
なんとも色っぽい微苦笑を浮かべた若女将は、別の遠い場所を見る目付きでテレビを見つめる。
「でも私が、こん六久路谷をなんとしても有名にしたい思うたんは、本当のことですきに」
その言葉は淡々としていたが、同時に背筋をゾワリと逆撫でするような凄みをも含んでいた。
「なぜそこまで六久路谷を有名にしたいんです?」
「それは……」
言いかけて、若女将は恥ずかしそうに頬を染めてうつむく。
だが僕はそれ以上若女将の話を聞くことはできなかった。中継画面に現れた千葉リカコが、明るい声で浮名の名前を口にしたからである。
『そうなんです。死んだひびきちゃんには申しわけないんですけど、浮名センセイがリカコのために脚本を書き換えてくれて……。ラッキーだったかな、なんて』
銀色のクリップで長い髪をまとめた千葉リカコは、なんの違和感もなくカメラの前で笑っていた。突きつけられるマイクをものともせず、あろうことか写真集と同じ、指をくわえた悩殺ポーズまで取ってみせている。
咲屋ひびきが死んだことを、せめて気に留めている素振りを見せればいいのに、これはただでさえ大騒ぎになっている芸能ニュースを、更にヒートアップさせること請合《うけあ》いである。
すぐにリカコの後ろからマネージャーらしき人物が現れて、慌ただしく引き上げていこうとする。追いすがるリポーターたちにリカコ共々頭を下げ、青ざめた顔のマネージャーは咲屋ひびきへの形ばかりのお悔みの言葉を述べた。
「あがいなおざなりな態度では、いかにもいまさらですきにねぇ」
呆れ口調で若女将がつぶやく。
全国ネットのワイドショーであれだけハッキリと『ラッキーだった』と言ってしまったのである。確かにいまさらだ。
きっといまごろ各局の、とりわけ7テレビの苦情処理窓口はパンク寸前になっているに違いない。
それにしても浮名もどういうつもりなんだか……。
起死回生で彼女を主役に変更したのかもしれないが、ヒロインの彼女があんな調子では悪循環にしかならないだろう。
「先生?」
「ごちそうさまでした。ちょっと出かけてきます」
箸を置き、僕はそそくさと立ち上がって洗面所に向かった。歯を磨いている間に若女将は膳を片付けて出ていく。
────このとき僕は浮名に気を取られ、自分が彼女の話を中途半端で聞いたままだったということをケロリと忘れていた。
あとでいらぬ恥をかき、とても後悔することになるのだが、そんなことはついぞ知らない僕は、財布も持たずに六久路谷温泉ホテルへ向かうことにする。
幸い廊下の途中で、ドラマ撮影のスケジュールが変更になって中断しているため、すっかり手の空いているADの赤城君と遭遇したので、ホテルまで送ってもらうことにした。
大した距離ではないが、ワイドショーの連中に巻き込まれたくない。
赤城君は心得たもので、なにも尋ねたりはしてこなかった。呼んでくれれば迎えに来ますと言い残し、彼は素早く車を玄関口につける。
僕は礼を言い、小走りでホテルの中に駆け込んだ。ホテルの敷地ギリギリの生け垣からフラッシュが焚かれたが、どうせ顔が映っていたってなにも使えないだろう。
もしなにかに使いやがったら、どんな手を使ってでも、自分たちがどれほど下劣な真似をしたか思い知らせてやる。
「浮名聖様のお部屋は最上階ロイヤルスイートでございます。ただいまご連絡をお取りしますので、少々お待ちください」
ホテルのフロントでそう言い渡されたとき、僕は思わず目を剥いた。
ろいやるすいーとぉ?
あの若造、たった二十五歳でそんな部屋に泊まっていいと思ってるのか? 世の中を舐めくさって……。
「お待たせいたしました、宮古様。浮名様はお部屋にいらっしゃいます。ただいま客室係がご案内いたしますので、あちらへ」
丁寧な言葉のあと、指が振られ、都心のホテルとなんら変わるところのない洗練されたベルボーイが、糊のきいた制服に包まれた腕をピッと伸ばして僕をうながした。
「……どうも」
六久路谷温泉旅館とはまったく毛色の違った対応に、僕はいささか以上複雑な気持ちを味わってベルボーイのあとにつづく。
僕だってホテルという形式は嫌いじゃない。むしろしっかりと管理されているならば、ウエットな旅館よりはクールなビジネスホテルの方が全然肌に合う。
しかしこんなひなびた温泉地にまでやって来て、都心と同じサービスを受ける必要が果たしてあるものなんだろうか?
複雑な心境でベルボーイについて十四階にあがると、上品なカーペットが途中で青から朱に変わった。
「こちらでございます」
ベルボーイが頭を下げながら観音開きの二枚扉の脇に控える。インターフォンを押すと、扉は内側からそっと開かれ、落ち着いた様子の千代紙が顔を出した。
「……どうも」
無言で頭を下げて去っていくベルボーイにもう一度礼を言い、僕はどこか揶揄するような視線の持ち主である千代紙に従ってロイヤルスイートルームとやらに招かれてやった。
一歩踏み入れただけで部屋の中は別世界である。前室にはクローゼットルームが設けられ、布張りのベンチには靴置き場までついていた。
新しいホテル特有の、華美とは一線を画したヨーロピアンスタイル。その奥のもう一枚のドアの向こうに、素晴らしい眺望の広々とした居間があった。
山々の連なりを背に、浮名は幼い印象のおぼろと並んでソファーに腰かけている。
「いらっしゃい? どういう風の吹き回しなのかな?」
きざったらしいバリトンでそう問われ、僕は突然この訪問の意味を失った。
浮名の頬には血の色が戻り、その唇にはすでにいつものいやらしい微笑がにじんでいる。昨日のあの、雨の中に一人で打ち捨てられた迷子のような様子は、一夜明けた今日は微塵《みじん》も見られなかった。
「俺が落ち込んでるとでも思ったの? お生憎様、ご覧の通りピンピンしてるよ」
そこで浮名はなにごとか──恐らくは下品なシモネタを、おぼろの耳元に吹き込む。おぼろはクスクスと笑い、近づいた千代紙にも耳打ちしてやった。
「脚本はできたし、ヒロインもいる。容疑が晴れれば桑名は戻ってくるし、そうなったら撮影再開だ。天才はやることが早いだろう?」
「なにが天才だ」
あまりにも尊大な態度に、僕は思わず言い捨てる。
「いいご身分だな。こんな豪勢な部屋で女の子をはべらせていい気になって。たった一夜で書き下ろした脚本の出来なんてたかが知れてる」
「わざわざ罵倒しに来たのかい? 天音」
「呼び捨てにするなっ」
「…………」
浮名は無言で『これだよ』と言いたげに肩をすくめた。
「お前は元々咲屋ひびきをヒロインとして原作を書き下ろしてる。脚本もひびき主演のものだったはずだ。いきなりまったくイメージの違うあのノーテンキなアイドルを主人公にすげ替えて、そんな付け焼き刃がうまくいくと思ってるのか?」
僕は確かに忠告に来たつもりだったが、こんな風に喧嘩腰になるつもりはなかった。
もう少しちゃんと、穏やかに忠告して、少しでも浮名の負担が軽くならないものか、そんな風に考えていたのである。
それもすべて、あくまでも親切心からだったはずだ。
それがなんでこんな喧嘩口調になっちまうんだか……。
「ベースは元のまま、心配しなくてもリカコのために手を加えたんだ。脚本はもうリカコのものになってる」
浮名はおもしろくなさそうに言い捨てて僕を睨む。
「アンタいったい何様のつもりなんだ? 天音。ご丁寧に人の陣地に乗り込んで、人を見下して、俺を三流扱いすることでまた優越感に浸りたかったのか?」
「馬鹿かッ!?」
僕は思い切り声をあげてそばにあったフロアライトを殴りつけた。
ガチャンと音がして電球が割れる。
「お前はオレのことをそういう風に思ってたわけだな! わかった! もういいっ!」
「あま……」
「そいつの請求書は5チャンネルじゃなくてオレに直接よこせよっ!」
ひっくり返っているライトを指差し、僕は立ち上がりかけた浮名を見ずに部屋を出た。
まったく本当に、僕は自分がなぜこのホテルに来ようと思ったんだか、さっぱりわけがわからない。
ポケットに突っ込んだ携帯電話で赤城君を呼び出しながら、自分のことを天才だなどと抜かしたにっくき浮名の自慢げな顔を、僕は必死で忘れようとしていた。
それで本当に忘れられたら、どんなに楽だっただろう。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
『僕はすべて知っているんですよ』
脅迫者からの電話は突然だった。
「なんのことですが」
乾いた声で答えても、自分がなにをしたかは当然わかっている。
『シラを切ってもらっては困ります。あなたは僕の大切なひびきを殺したんだから』
「……それはなにかの誤解ですきに」
『僕はすべてを写真に撮ったんだ』
脅迫者の声はせつなくにじんでいた。咲屋ひびきを失った悲しみに暮れている。
『許さないぞ』
「……どがいしたらよかですか……」
相手の真剣さが伝わり、観念するしかなくなった。
『どうせ一人も二人も一緒だろう? 千葉リカコを殺せよ』
「……そがいなこつ……」
昼間のワイドショーを思い出す。可愛らしいが、まるでTPOを考えなかったコメントに、自分の中のモラルが否定的だったことを。
だが人を一人殺した自分には、すでにモラルを語る資格などないという気もした。
『リカコは僕のひびきが死んでラッキーだと言った。ひびきのやるはずだったヒロインを、あんな女にやらせるものか』
「しかし……」
『できないなら警察に写真を見せる。アンタの顔もきちんと映っているし、言い逃れはできませんよ』
脅迫者の言っていることがどこまで本当なのかはわからない。だが嘘だとしても、自分が犯人であることを相手が知っているということだけは間違いなかった。
真実犯人であることは、自分が一番よくわかっているのだから。
『あのいい加減な三流作家の名前で呼び出すんだ』
「ど、どこへですが?」
『そんなこと自分で考えろよ。ひびきを殺したときは自分で全部考えてやったんだろう? 同じようにやればいいんだよ。ひびきは殺せたんだ、できないとは言わさないぞ』
「…………」
油の底に落ちていくような無力感に、受話器を握りしめた手が震える。
どうすることもできないのか……。
警察に捕まりたくないと思っている以上、脅迫者の言いなりになるしかないことは明白だった。
どちらにしろ、ひびき殺しはすべての始まりにすぎなかったのである。目的のためには一人も二人も変わらない。確かにその通りだという気がした。
受話器を戻したあとには、咲屋ひびきを殺したときと同じように、頭の中は新しい計画のことでいっぱいになっていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
その晩も僕はへべれけになってやるつもりだった。
警察が目を瞠《みは》る活躍でも見せてくれない限り、どうせ明日も撮影に進展はあるまいし、どっちにしたって僕が演技をするわけでもない。日本酒のうまいのがあれば、僕はいくらだって明日のことは後回しに酔える。
茱萸ネエ様たちとの夕飯のあと、小宴会ホールでスタッフたちとの飲み会がはじまった。
昨夜は殺人事件のおかげで、丁度真夜中の佳境に入ったところで水を差されている。
本当だったらこんなときに不謹慎なのかもしれなかったが、僕たちはみんな咲屋ひびきとは無関係なのだ。撮影がはじまらず苛々しているんだから、好きなときに酔っぱらうくらい許されるだろう。
イクエちゃんとヒデキ君が芸達者なところを見せてカラオケデュエットを披露する。特にイクエちゃんの歌は女優ではなく歌手を目指したらいいのにと思えるうまさだった。
「天音先生」
「へ?」
ヘタクソなヒデキ君のヘタクソな西城秀樹のモノマネに大笑いしていると、後ろからひっそりとやって来た若女将に呼びかけられる。
「なんでしょう?」
染み入る美味さの大吟醸を喉に流し込み、僕は首を傾げて座椅子の上で向きを変えた。
「お客様がいらっしゃってますきに」
「客?」
壁にかかった時計を見やると深夜零時をまわったところだ。昨夜のことを思い出し、ああ、嫌な時間だなぁという感想を持つ。
「だれです?」
「浮名聖先生なんですがかね」
「浮名?」
なんで浮名がいまごろノコノコやって来たのか、僕は眉を顰《ひそ》めて酒気を飛ばした。
「どがいいたしましょう? おやすみになられているとお伝えしておきましょうか?」
若女将は膝立ちして小首を傾げる。大音量のカラオケにも、突然裸踊りをはじめる酔っぱらいにもビクともしないのはさすがだ。
「……玄関ですか?」
「ええ」
僕はしばらく考えてみる。浮名と話すことなんてなにもない。少なくとも僕は昼間の会見で、言うべきことも言われるべきこともすべて終わったという気になっていた。
「追い返してください。寝てるなんて言わなくても、僕は『会わない』と言っていたと伝えてくれてかまいません」
「……かしこまりました」
なにか言いたげに顔を曇らせたものの、酔っぱらった僕の強気の発言に余計な口はなに一つ挟まず、若女将は音も立てずに席を離れる。
僕は手酌で酒を継ぎ足し、悪酔いしそうな気持ちでグラスを空にした。
「天音先生? 大丈夫なんですか?」
「へーき」
お酌をして廻っている赤城君の言葉に、僕は手を振って更に酒を要求する。
腹の底がポカポカと暖かく、喉はカラカラに乾いていた。なめらかな大吟醸の喉ごしにすっかり味をしめ、僕は仲居さんに一升瓶ごと持ってきてくれと頼む。
「アンタ、飲みすぎ」
「あっ」
空っぽになった透明のデカンタをいじましく逆さにして振っていた僕は、そのデカンタを奪われて顔を向けた。
「……浮名……」
「学生時代から大概ザルだったけど、アンタってホントに軟弱な見た目を裏切る中身だよね。コレ、アンタ一人で空けたわけ?」
酒の入っている連中はともかく、まだ飲み会はほんの入口付近である。僕のそばに立った浮名の存在は、あまりにも目立ちすぎた。
「バカッ!」
さざめきがざわめきにならないうちに、僕はよろめきそうな膝に力を込め、立ち上がって浮名をホールから連れ出す。
「どういうつもりだ……っ!? なにしに来やがった!」
「なんて声出すんだよ」
浮名はいかにもうるさいと言いたげに耳を塞いで見せた。
大声を出したおかげで僕の頭はグラグラと揺れ、廊下を進もうとすると千鳥足になってしまう。この状態なら記憶も曖昧になってくれればいいのにというていたらくだ。
「大丈夫?」
本気で心配している浮名の声が、いまは逆に鬱陶《うっとう》しい。
「なにしに来たんだよ? お前にバカにされて飲んだくれてるって笑いに来たのか?」
腕を払う素振りをしてなんとか歩き出した。玄関に向かっているつもりだったけれど、物凄い目眩《めまい》がしてまっすぐに歩けない。
「違うよ」
後ろをついてくる気配がして、浮名は言いよどむ。
「……昼間、言い過ぎたと思って」
「言い過ぎた?」
そんな生易しいものか。
「別にいいさ、あれが本音だったんだろう? 天才作家サマ」
「アンタにそんな風に言われたくなかったから、言い訳に来たんじゃないか」
「馬鹿らしい。お前がオレのことをああいう風に考えていたように、オレがお前のことをどう思おうと勝手だろう?」
鼻で笑い捨て、僕は砂壁に手をついて廊下を曲がる。玄関に向かうのに小宴会場から曲がり角があったかどうか、この際そんなこと知るもんかと思う。
「心配しなくても心の底から天才サマだと思ってるよ。ああ、かなわないですよ、オレなんてね。なにもかも、お前は凄いよ」
「天音……」
「酒もやらない、タバコもノー。女遊びだってせいぜい自分の責任が取れる範囲なんだろう? お前はホンっトに、軟派な見かけと違って、生真面目で誠実な天才だよ」
嘘をつくのも億劫で、僕は本音を暴露してやる。
嫌味のつもりなんてまるでない。僕が切なるあこがれを抱いた“浮名聖”のファンであることは、僕自身が一番よく知っているのだ。
「おかしいだろうさ、先輩面してホテルまで顔を見に行って、わかってる忠告を言いに行くことしかできないオレみたいな三流作家の酔っぱらいぶりを見るのはね」
「そういうつもりじゃないってば。ねぇ、危ないからちょっと止まってよ」
オロオロした浮名の声が楽しくて、僕はゲラゲラと笑ってやった。
「危ないことなんてありゃしない。オレはな、どんなに酔っ払ったって、自分の家に帰れなかったことはないんだぞ」
「ここからアンタの家までどれだけあると思ってるのさ」
呆れ果てた浮名の声は、なんとなく学生時代を思い出させてなつかしい。
コイツも学生のときはまだもう少し可愛げがあったように覚えている。
高校一年生のときなんて、いまより頭一つ分身長が低くて、可愛い聡明な瞳でまっすぐ僕を見つめていたものだ。
僕が先にひねくれたのか、浮名が先にひねくれたのか。たぶんどっちもどっちなんだろうけど、気がつけばいつだってケンカばかりだったから、なんだか普通に会話したりしていた日々がひどく大昔のように思える。
「天音」
「ッ!」
力強い手に肩を掴まれて、僕は火に触れたように飛び跳ねた。
「天音……!」
そのまま駆け出そうとして、グラリとよろめき前のめりになる僕の体を、浮名はガッチリと支えて引き起こしてくれる。
「なにやってんだよ」
「…………」
心配そうな声と顔を前にして、僕は凍りついた。
なぜこういう風になってしまったのかお互い知らない振りをしているだけで、心の底ではちゃんと知っているのではないかという思い。そんな僕の考えを知られているのではないかという不安。
思考がより鮮明によみがえるのが怖くて、僕は乱暴に浮名の手から逃げ出した。
「天音!」
驚いたことに浮名は追いかけてくる。
僕はガンガン痛み出した頭を押さえ、おぼつかない足取りで中庭にかけられた新館と本館をつなぐ太鼓橋を越えた。
超えるときに、この先の階段を下ったら露天風呂で、玄関とはまるで正反対の方向に来ていたことに気がつくが戻るに戻れない。
「来るなよ!」
ともすればひっくり返りそうになりながら、僕は裸足でリノリウムの床を蹴る。
二段、三段と段差を抜かして駈け降りると、本当に下まで吹っ飛んで行きそうな勢いがついた。このまま転倒してケガでもしたらひどい恥だとは思いつつも、走り出した勢いを抑えることはできそうにない。
「天音っ!」
これじゃあ子供の鬼ごっこだ。
吉兵衛川に面した露天風呂のある地階に降りると、僕は痛む頭を振り上げてまだ階段の途中にいる浮名を睨みつける。
「うるさいな! オレはこれから風呂に入るんだよ! お前はホテルに戻れよ!」
「ちょうどいいじゃないか、昨日はゴタついて一緒に入り損ねたからな。この旅館の露天は六久路谷一なんだ。立場上利用しにくかったけど、アンタが一緒だったらかまわないだろう」
「なに言ってるんだ、図々しい!」
荒い息を整えながら、浮名はゆっくりと階段を降りてきた。その悪びれない態度が、僕にとてつもない不安を抱かせる。コイツは大きな図体をして意外に小心者のくせに、一度キレるとまともな神経がどこかへいってしまうところがあるのだ。
「……帰れよ」
浮名が目の前で止まると、僕はようやく落ち着いた声を出せた。
なにもケンカがしたいわけじゃない。ただ少し、お互いいつもと状況が違っていて、いつものケンカよりもひどいケンカになりそうだっていうだけのことだ。
こんなときは顔を見ずに冷却期間を置いた方がいい。どちらにしたって、お互い作家業をやめない限りは、これから先気に入らなくてもまた遭遇してしまうんだから。
「帰れよ。もうわかったから帰れ」
「……なにがわかったって言うの?」
不満げな浮名の声は、高い天井に響く。
露天風呂に向かって降りる階段は、昔は崖にむき出しのままだった。数年前に屋根と、風よけに壁をつけ、いまでは新館とくっついているし電気もついていて利用しやすくなっている。
学生時代ここを利用したときは、怪談に興じながらだった。おっかなびっくり足もとを気にしていた僕は、浮名があげた恐怖の悲鳴のおかげで、驚いて段差を踏み違えたのである。
美しさだけはそのまま、おとなっぽい顔つきになったいまの浮名は、淡いピンクベージュのシャツの上に、上品な生成り色のトレーナーを重ね着していた。陽光の下では淡い色に見える茶色い瞳が、いまは影が落ちて黒く見える。
こいつがオバケに驚いて悲鳴をあげたことを知ったら、取り巻きと化しているおぼろや千代紙はどんな顔をするだろう?
……いや、大体想像はつくか。きっと『可愛いv』で終わってしまうんだ。
だって僕だって不覚にも可愛い奴と思ってしまったんだから。
「天音……、その……、俺が悪かったよ」
あんまりジロジロ見つめていると、居心地悪そうに身じろぎしながら浮名がつぶやく。
「改訂に夢中で仮眠したきりだったから、それで苛々してあんな風に言っちゃったんだ。アンタにだけは、泣き言なんか言えないから」
「どうせオレは、お前にとっては先輩とも呼べなければライバルにもなりゃしない程度の男だからね」
その言い方になぜかムッときて、僕は言い捨てて踵を返してしまう。
ミス研のOBたちはみんな浮名を可愛がっている。僕以外の人間の前でなら、浮名は決して不遜《ふそん》ではないし、生意気でもないからだ。
僕だって浮名がそういう態度に出てくれさえすれば、可愛い後輩として喜んで後背《こうばい》に期しただろう。
だけど浮名は僕にだけは泣き言を言いたくないと言い、一つ年上の差が十年にも相当する学生時代から決して立ててくれようとはしない。
形だけでも甘えてくれれば、僕はいくらだってだまされただろうし、彼のためならばほかのみんなと同じように、なんでもして力になってやっただろうに……。
「アンタも素直じゃないな」
「どっちが!?」
あんなにうまい酒だったのにもう抜けてしまった。頭は冴えるし体は寒い。
「いいから帰れって、浮名。オレは風呂に入りたいんだから」
「俺も入るんです」
「あの豪勢な部屋で千代紙でもおぼろでも呼んで、いつまででも入りゃいいだろう?」
男湯と記されたのれんをくぐり、脱衣所の簀《す》の子の上で裸足の足の裏を見ると真っ黒になっていた。
「来るなよ」
「イヤ」
素知らぬ顔でつづく浮名の肩を子供のように押し返すと、やはり子供のように押し返される。
「アンタの温泉じゃないじゃない。ちゃんと入浴料払うもん」
「だったらあとで来ればいいだろうが」
「いま入りたいの」
ああ言えばこう言うだ。それなら僕がやめてしまえばいいのだが、ここまで来て風情たっぷりの露天を味わわないのも癪《しゃく》に障る。
なにしろ昨夜はどさくさまぎれで公営露天風呂に入れなかったし、温泉地に来たっていうのに味気ない部屋風呂しか堪能していないのだ。
僕が宿泊している旅館なのに、なんで僕がやめにする必要があるだろうと、僕はただ深呼吸するにとどめた。
酒気が再燃したみたいに、頬が燃えるように熱かった。手足もしびれたみたいで、動きがノロノロしてしまう。
ファンの人からもらったブランド物のブリーフパンツをそそくさと脱ぎながら、棚の上に備えつけられた手拭いを素早く引き抜く。
骨ばった腰に手早くそれを巻いた僕は、背中を向けて服を脱いでいる浮名をチラリと見やった。
僕と同じ男性でありながら、浮名は違う生き物のように美しい。
伸びやかな手足は不格好なほど長いが、胸から腰のバランスは計算され尽くされた厚みを保ち、トレーナーからくぐらせて抜けた頭を振ると、金色の光に照らされた柔らかな髪がキラキラと光る。
服の上から見ると、彼もあばらが浮いてそうに痩せて見えたのに、白い腕についた筋肉は、僕のやわやわすじすじの感触をなさけなくさせるには充分なたくましさを備えていた。
ベルトを引き抜きジッパーを下ろし、腰を曲げてグレーのパンツを脱ぎかけたところで、今度は浮名が振り返る。
「……ッ……」
途端に首筋まで熱くなった僕は、人形のようにぎこちない足取りで露天風呂に向かう。
浮名の着替えに見入っていただけでも恥ずかしくてたまらないのに、それを浮名本人に知られてしまったなんて、目眩を起こしそうにショックだ。
ふらつきながら川縁に出ると、せせらぎの音がすぐ目の前に迫る。
ほんのりとライトアップされた対岸の崖ではそろそろ緑が萌えはじめ、露天の周囲はなんとも言えない野趣に包まれていた。やっぱり温泉って素晴らしい。
女湯との仕切りは、ごく背の低い木製のパーテーションだけである。
透明の湯の中は女湯とつながっており、向こうに人がいれば簡単に混浴みたいな雰囲気になってしまうだろう。
もうもうたる湯気に、僕は昨日見た悲劇の光景を思い出したが、所詮は赤の他人である。すぐに忘れて湯のぬくみに集中した。
ややあって無言の浮名が入ってくるのがわかったが、僕は山の方を見つめたまま、今度は目を向けようとしなかった。
僕たちはもう学生じゃない。十代の子供でもない。
だけどそのおかげで、いろいろな規制から解き放たれてしまった。
時間も、お金も、大人になると融通がきいてしまう。ときには人の心まで。
だからいつだって学生気分を引きずってしまう僕と浮名は、うまく距離が掴めないんだと思う。寂しいけれど、歩み寄る日が来ないなら、僕らの関係は一生このまま変わらない。
「ねぇ、なにか言ってよ」
豊かな川の流れる音に混じり、浮名のバリトンは密やかに響く。
「俺が悪いってだけで済むなら、気が済むまで謝るから」
「……別に」
そんな風に言われたって答えようがない。
幸福な湯の暖かさが、僕の中でふくらんだつまらない苛立ちを静めてくれたようだ。
「あの……」
言いかけて向きを変えた僕は、思ったよりずっとそばまで浮名が近づいていたことに気づき、驚いて立ち上がり、激しい水音と共に後退して全裸であることに気づき、またすぐ湯の中に入り直すという間抜けたことをやってしまった。
「なに?」
僕が一人で出たり入ったりしたので浮名も驚いている。
「もう少し離れてろよ……っ!」
あまりにも説得力のない、なんというか、意味のないセリフを吐きつけると、浮名は案の定ムッとした表情になった。まるで汚いものみたいな言われようをしたのだから、怒るのも無理はない。
「どういう意味?」
わざとらしく首を突き出した浮名は、ざぶざぶと音を立てて近づいてくる。手拭いは持たず、まったく無防備なままな姿をして、僕は見てはいけないと思う側から下へ下へと視線を落としてしまった。
「男同士でいまさら恥ずかしがるような年かよ?」
「いいから来るなって!」
僕はいじましく手拭いで前を隠し、湯の中で妙な格好をして逃げ回る。
さすがにこんな追いかけっこはアホらしいと思いはじめたときだった。湯の中でゆらりと影が動き、足もとに妙な感触が当たる。
「?」
眉を顰め、僕は思わず下を見た。
見てから見なければよかったと死ぬほど後悔したけれど、無論後悔は先には立たない。
「あま……」
立ち止まった僕のすぐそばで、浮名も不審な存在に気がついた。
しばらくして凄い耳鳴りがしていると思ったら、それは浮名の悲鳴だった。
「わわわっ」
つられて声をあげると、胸の中にたまった悪夢が逃げていくようでつかの間は爽快な気分になる。
だがそれも本当に一瞬で、僕たちの悪夢は終わらない。
僕と浮名が湯の中で見つけてしまった悪夢は、髪の長い白い女の姿をしていた。
ゆらゆらと揺れる髪の毛が僕と浮名の足にくっつき、僕たちの激しい動きのおかげで流動している湯の中で、クルリと体が反転すると、カッと目を見開いたままの白い顔があらわになる。
「……リカちゃん……」
浮名が悲痛な涙声を漏らしたので、僕にもやっとその変わり果てた姿がだれのものかわかる。
千葉リカコ。新しい浮名のドラマのヒロインだった浅はかな少女。
だが浅はかであることは、殺されてもいいという理由にはならない。
僕たちは震える手で支え合い、可哀相なリカコの死体を湯の中から引き上げてやった。
手拭いで申し訳程度に体を覆い、着替えて人を呼びに行くまでの数分、浮名が僕の前で死んだ少女を憐れんでこぼした涙が忘れられない。
彼の苦しみも悲しみも、その作品同様に繕われることがなかった。
少女たちに対する気持ちがどういった種類のものだったにしても、浮名が真剣にその死を嘆いていることに間違いはない。
清潔な少年のまま、彼は僕の前で透明な涙を流す。
今度もきっと彼が疑われるだろう。警察にとっては、浮名が犯人であればなんといっても都合がいい。
だが僕にはわかっていた。浮名はだれも殺せない。だれかを殺せるような男じゃない。
僕は浮名のためになんでもしようと思った。たとえ浮名が僕をうとましいだけの存在だと考えていたとしてもかまわない。
僕は浮名のためになんでもする──。
3  死体だらけ、作家探偵ふたり
二回目の事情聴取は一度目の二倍かかった。
つまり夜中から翌日の夜中である。
仮眠も取ったし短い休憩も挟んだけれど、僕の頭はクラクラしっ放しだったし、苛々は秒単位で高まっていった。
それでも僕なんていい方で、浮名は今回僕と一緒に帰ることもできなかったのである。
警察が浮名を疑っていることは間違いなさそうだった。一度目のときも、二度目の今回も、浮名は無関係とは言い難いわけだからしかたない。
だけど僕は浮名に殺人ができるわけがないことを知っていたし、絶対にありえないことは自分の命にかけても保証できたから、とうとう顔見知りになってしまった壮年警部の福島にも、若い刑事の田畑にも、食ってかかって浮名を解放してくれるように頼んだ。
しかしそれでホイホイと容疑者を解き放していたのでは、警察が役立たずと言われるのを促進するようなものである。
もちろん僕は浮名と一緒には帰れなかった。
代わりというわけではなかったが、一緒に帰ることになったのは7テレビのディレクター、口髭の桑名晋平である。
「いやぁ、いい経験になりましたよぉ」
桑名は隣のリアシートで足を組み、さっそく一服はじめた。
夜中のために、前は迎えに来てくれていたみどりの姿はなく、パトカーに乗車したのは僕と彼の二人きりである。
もっともみどりがここで現れていたら、たぶん起こらなくていい騒動がもう一つ起こっていただろうから、不幸中の幸いというところだ。
「なかなか美味いメシでしたよ。ちっとも臭くなんかなくてね」
「当たり前ですがね」
運転中の田畑刑事が、桑名の吹かしたタバコの煙にむせながらムッとして反応した。
「いまどき警察で臭いメシなんて食わせたりするもんですがか」
「じゃあ昔は臭いのを食わしてたんですかねぇ? ねぇ、先生、どうなんでしょうねぇ?」
「……さぁ」
馴れ馴れしい呼びかけと共にずいっと身を寄せられて、僕は薄く笑いながら首を傾げてみせる。
浮名とは友人らしいが僕は無関係だ。あんまり親しげにされても困る。どう考えても、彼があのみどりの人生に少なからざる影響を与えたと思うと、仲良くなりたい気持ちになんかなれっこない。
「それにしても困ったなぁ。ねぇ、先生、こういう場合はどういうパターンが一番キマリってやつになるんでしょう?」
「はぁ?」
なにを言われているのかわからず、僕は本気で首を傾げた。
「どういう意味です?」
「だからね、ほら、浮名が犯人だったらおもしろくないじゃないですか」
「おい、アンタ、不謹慎じゃないがね」
短気な田畑刑事が怖い表情になるのが、ミラーに映り込んで見える。
「だれだったらおもしろいと思いますか? 桑名さん」
のんびりと口を挟んだのは田畑刑事の隣、助手席に腰かけた福島警部だった。
「そうねぇ」
そこで桑名は腕を組み、真面目な顔つきで考えはじめる。
「こういう場合は女性が犯人なら視聴者も食いつきいいんですよねぇ」
「ほほぉ」
「次々に殺される怪しい容疑者。どんでん返しの末に浮かぶ真犯人が語る悲しい女のサガ! 愛情にバラード、ラストは自殺でキマリ!」
「なるほど、確かに私もつい最後まで見てしまうパターンですな」
「でしょう?」
馬鹿らしい会話についていけず、僕は目を閉じて眠ることにした。
「あ、先生、目を閉じてると幼さに拍車がかかるんですねぇ」
「ッ!?」
寝顔を見られていることに気づいてパッと目を開けると、桑名の脂下《やにさが》った髭面がそこにある。
「ちょ……ちょっと……!」
「浮名もそうだけど、宮古先生も、ちっさいころから容姿で苦労したことないんでしょうねぇ」
「なに言ってるんですか」
脈絡のないセリフに、僕は赤面するしかない。
「浮名と一緒にしないでください。苦労したことないのはあっちです。僕はチビだし童顔で、子供のころからこの見かけで得したことなんて一つもありません」
「やっぱりホモのチカンに遭ったりしちゃいます?」
「はぁ!?」
なんて失礼な男なのか。確かに浮名の友人らしい図々しさだ。ほとんど初対面でしかない他人に言うようなセリフとは思えない。
「どうして僕がホモのチカンに遭ったりするんですか?」
「だって可愛いんですもの」
桑名は少女のような物言いをし、今度は前のシートの背中に抱きついた。
「ねぇ、刑事さんたちもそう思うでしょう? 宮古先生って、ちょっといないキュートな青年ですよね」
「やめてください……!」
僕は真っ赤になって首を振り、ニヤニヤしている桑名を睨む。
「あ、怒ると三割増し美人になりますね」
なんというか……。
僕はもう呆れてしまってなにも言えなくなった。
「その猫目、ひびきと一緒なんだなぁ」
黙り込んだ僕の横顔を見つめた桑名の声は、突然トーンが落ちる。
「アイツもでかい目がキュッと吊り上がっててね。浮名なんて最初から、目がイイ、目が吊ってるのが可愛いって絶賛してくれてたんですよ。そう言われてアイツ、ひびきの奴も、浮名の前じゃあ殊更《ことさら》でかい目を見開いてましたっけねぇ」
「桑名さん……」
まさかこの図々しい男が泣いているわけではあるまいと思いつつ首を向けると、桑名は車内の暗がりで寂しそうに目を伏せた。
「リカコも別に、殺されるほど悪いことなんてしてやしなかっただろうに……」
つぶやいた桑名の声は淡々としていたが、心からの憂いに沈んでいる。
「なんで死んじゃうかなぁ」
どうして死んでしまったのか。なぜ殺されなければならなかったのか。
それは現実の世界で僕たちが考えなければならないことではなかったはずである。
だが連日で二人も殺されてしまった女の子たちの無念は、すでに他人のものではない。
このままなにもわからずに終わらせることは、絶対にできなかった。
「うわぁっ、凄いことになっちょるの」
福島警部の声でハッとして、僕は自分が眠っていたことに気がつく。
「これはいい宣伝になるなぁ」
「アンタまだドラマ撮る気でいるがかね?」
桑名がノンキな声を漏らしたので、田畑刑事がげんなりと言う。
「そこんところは浮名が戻ったらぼちぼち考えますよ。なんたってあの先生なくして、僕のテレビ屋人生に栄光はナシなんだから」
それなりに浮名のことを考えているのやらいないのやら、桑名は車の外にそうとハッキリわかるほどたくさんいる報道関係者たちの姿にウンウン頷いてみせていた。
いまや六久路谷は、どうやら本当に全国の興味を集めているようだった。
たった二日で連続して二人のアイドルが殺害されれば、それは大騒ぎにもなるだろうが、それにしてもこれは改めて尋常な事件ではない。
5チャンネルにしても7テレビにしても、ドラマの撮影を続行することは不可能だろう。
せっかく協力してくれた茱萸ネエ様や平野さんたち俳優さん方にはもちろん、頑固な僕を説き伏せてドラマ化を一番喜んでくれたみどりに対する申しわけなさが不意に高まる。
このままでは終わらせたくなかったが、とは言えつづけられるとはとても思えなかった。
どうしても正面から戻りたいと言う桑名の言葉で、遠回りになるが旅館の方に先につけてもらった。
こちらも寝ずのリポーターが張っていたが、僕は無視して玄関に駆け込んだ。
「先生、今度はぜひ僕とも一緒にお仕事させてくださいね」
パトカーを降りる際に桑名がついでのように言ったが、それも無視する。
「おかえりなさいませ」
夜中だというのに起きて待っていてくれたらしい若女将が、さすがに憔悴した素振りで僕を迎えてくれた。
旅館の従業員たちも全員事情聴取は受けている。僕や浮名のように警察署まで引っ張られはしなかったが、それでも恐らくしつこくいろいろ尋ねられたには違いない。
「彼女、なんでこっちの露天を利用したんでしょうね」
自分の部屋に戻る間、ずっと気になっていたがだれにも聞けなかったことを、僕はうずうずしながら若女将に問いかけてみた。
「なんでもどなたかと待ち合わせをしていたとかで。入浴料をお支払いになられて、ほら、先生を訪ねられて浮名聖先生が見えられたじゃないですがか。あの三十分前くらいでした。私が承ったんですきに」
「じゃあホントに……」
ホントにギリギリだったんだ。
僕たちが露天風呂に向かったのは偶然で、まったく思いがけない時間帯での入浴だった。
旅館の中には撮影隊以外には一般客は数組いただけだから、ほかの女性があの時間に露天を利用することはまず考えられない。だって前日にあんなことがあったんだし、なんの躊躇《ちゅうちょ》も違和感もなく同じような時間帯に一人で入浴できるのは、相当の神経だろう。
まぁ、死んでしまった千葉リカコは、あれだけのことをテレビで言えてしまったんだから、その数少ない“相当の神経”の持ち主だったんだと言える。
「露天の方は、警察からしばらく開けないで欲しいということですきに利用はできないんですがか、お部屋のお風呂、沸かしておきましたんで、よろしかったら……」
「ああ、ありがとうございます」
恐縮して頭を下げ、僕は暖かな湯のぬくもりを思い出してホッとした。
あんなことがあったというのに、やっぱり温泉の魅力は捨てがたい。
「お食事はどうなさいます?」
「そうですねぇ……」
「軽食でしたら、私が用意できますけれど」
「じゃあ、お願いします」
僕はサンドイッチをお願いして部屋に戻った。
風呂からあがるとサンドイッチとホットミルクが用意されており、若女将ではなくみどりと赤城君が待っていた。
「起きてたの?」
「はい。すみません、お疲れでしょうに」
僕なんかよりよほど疲労しきった顔つきのみどりの隣で、赤城君も神妙な面持ちで頭を下げて見せる。
時計を見ると夜中といってもまだ一時をまわったところで、ふだんなら僕だって起きている時間帯だった。
「橘センセイと平野センセイには、明日帰京していただくことにしました」
「ああ、そう」
桑名の話を少ししてから切り出され、僕はやっぱりなとは思ったけれど、上品な味付けのサンドイッチを頬ばって淡々と頷くにとどめる。
「こんな調子ではいつ撮影が開始できるかわかりませんし、スタッフも三分の一を残して明日引き上げさせます。今週中に開始のめどが立たない場合は、予定を建て直して仕切り直させてもらうということになりそうです」
今度はなにも言えなかった。寂しくなっちゃうんだとは思ったけれど、それがしかたのないことだということもわかっている。
「それで、先生はどうなさるか、お聞きしておこうと思いまして」
「僕?」
みんな帰ってしまうとなれば、僕がいる意味もない。
どちらにしても撮影中は僕なんていてもいなくても関係なかったんだけど……。ただ監修役という名の見物人として撮影に招かれた部外者に過ぎなかったから。
「どうしようか。みどりさんは戻るの?」
「私は撤収まで居残ります」
みどりは断固たる口調で言った。
「もしお帰りになられるようでしたら、赤城が明日、みなさんを車でお送りします。平野センセイは京都入りしたいそうですので駅まで送りますけど、ご希望でしたら東京まで車で」
「東京まで車で行ったら何時間かかるの?」
「混み具合にもよりますけど、六時間から十時間の間くらいですか?」
赤城君の言葉に僕はぶるぶると首を振った。
「そんなのかえって疲れちゃうよ。帰るときは電車にするから」
「じゃあ明日……?」
「いや……。僕も最後まで残るよ」
不安げなみどりの声に、僕は笑顔を向けた。
「少なくとも気が済むまでは残りたいんだ。みんなにも迷惑かけちゃって、申しわけなかったとは思うけど」
「先生は迷惑なんてかけてませんよ」
「そうですよ、迷惑なのは前途ある若者を二人も抹殺した憎き犯人です」
赤城君もみどりも、鼻息荒く顔を見合わせる。
「先生、私たち、それを聞いて少し勇気が出ました」
「なんのこと?」
「言おうかどうしようか、凄く迷ったんです」
「だからなにが?」
お互いに言わせようとして二人はいじいじと迷っていたが、結局は責任のある立場としてみどりが押し出されることになった。
「先生に、この事件の探偵をしていただいてはどうかって」
「はぁ!?」
ぬるくなったミルクを飲み込み、僕は思わず声をあげてしまう。
「なんだって?」
「いえ、その、あの、私はちょっと、失礼じゃないかとは思ったんですけど……」
「なに言ってるんですか! 城ヶ根さんがこの事件を解決できるのは先生しかいないって息巻いてたんじゃないですか!」
「だ……だって、それはほら! やっぱり先生のファンなんだもの! 士狼三郎ばりの名推理でスカッとしめて欲しいじゃないのよ!」
士狼三郎というのは、不肖、僕の書いたシリーズものの探偵の名前である。今回の原作には登場しないが、一応地味な僕の作品の中では、一番売れているシリーズの登場人物ということになっている。
地味な作品ばかりのラインナップの中で、唯一このシリーズだけが華やかな雰囲気を持っているのは、実はちょっとばかり、いわゆる“売れ線”の作品を意識したせいだった。
肩の力を抜いて、自分ではないだれかが書いているのだと思えば、僕にも多少は軽めの読み物が書けるのだと開眼はしたものの、やっぱりなかなかあとがつづかない。
浮名のことを心から凄いと思えるのは、こういった作品を心から楽しめる味付けが絶妙にうまいからである。
「先生、こんな小さい村に変質者がいて、いきなり立てつづけに人を殺すとは思えません。それならきっと前兆があったはずでしょう? 痴漢が出るとか、襲われた人がいるとか」
みどりは前に乗り出し、ギラギラ光る目で僕を見つめた。
「旅館の人に聞いてみたけど、そんなことはいままでにいっぺんもなかったそうなんです。ふざけた泊まり客がときどきノゾキをしたりするような騒ぎは起こるけど、大事になったりはしないそうなんです。それにそもそも、一人であんな時間におもての露天に入るようなお客さん、特に女性はいないんですって」
「僕ら絶対に7テレビのスタッフだと思うんですよ」
赤城君までしたり顔の探偵顔になっている。
「おかしいですよ、あちらのヒロインばかり立てつづけに」
「これはドラマの撮影を中止させたいなにものかのしわざじゃないんでしょうか?」
「そんなこと言ってたら、君たちがまず怪しいってことになっちゃうだろう」
呆れた顔の僕の言葉に、二人はまたも顔を見合わせた。
「私は桑名を陥《おとしい》れたいなにものかの犯行だと思ってたんですけど、それって私になっちゃいますか?」
「まぁいまのところはそうなるだろうね」
正直に言って肩をすくめると、みどりはガクリと首を垂れる。
「僕は最初からアイドルを狙って入り込んだマニアックなスタッフじゃないかと思うんですが」
今度は赤城君が身を乗り出した。
「噂では咲屋ひびきはストーカーに悩まされていたそうですし」
「だって、そういういかにも問題起こしそうなスタッフをロケ先まで連れてくる? それに千葉リカコさんはだれかに呼び出されたから、それでわざわざ自分の泊まっているホテルとは別の旅館の露天に、あんな時間に一人で入浴してたらしいんだよ。失礼だけど、ああいう売れっ子アイドルの女の子が、大した決定権もないようなスタッフの呼び出しに応じるだろうか」
「まぁ、まずないでしょうね。例外がないとは言いませんが」
立ち直ったみどりが赤城君の推理をふふんと鼻で笑う。
「それにしても先生、さすがですね、もうそんな情報を仕入れていたとは」
「たまたまのことだよ」
自分で言いながら、その言い方がいかにも探偵みたいで僕は赤面した。
「先生、私たちじゃあ聞けない話も、先生だったら聞き出せます。私たち、犯人がだれでも真実が知りたいだけなんです。だって、こんな風に巻き込まれたのに、知らされるのがニュースの結果だけなんて悲しすぎますから」
みどりの言葉は僕の疑問点もついていた。
そうだ、僕もずっと考えていたんだ。警察で拘束されて、浮名なんてきっと犯人扱いされているだろうに、僕たちが知らされるのは結果だけに違いない。
警察から聞かされる結果なんかで黙らされたりしていたら、僕やみどりたちのような仕事をしている人間の好奇心は殺されてしまう。
僕は他人の手によって目や耳や口を塞がれるのは大嫌いだった。
「わかったよ」
残りのサンドイッチをたいらげて、僕は吐息と共に返事をしていた。
「この事件は僕にとっても簡単には済まされそうもない。どこまでやれるかわからないけど、できる限り部外者にさせられないように、事件のことを探ってみる」
「先生っ!」
みどりと赤城君はパーッと明るい表情になり、明日の予定を言い置いて部屋から出ていった。
なんだかおかしなことを引き受けてしまった気もしたけれど、さすがに眠くてたまらず、浮名はいったいいつ帰ってくるのか、桑名に帰ってきたら連絡してくれとでも言づけておけばよかったと悔やみつつ、結局その夜は歯も磨かずにぐうぐう眠ってしまった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ロビーで軽く手を振っている桑名の、いつも通り飄々とした髭面を見つけた途端、頼りない気分になっていた浮名は屈託ない笑顔を浮かべてしまった。
「よっ、浮名センセ、おかえり」
「おかえりじゃないよ、まったく」
疲れて痛む後頭部と首の根っこをもみながら、浮名は溜め息をつく。
「空想の中じゃさんざっぱら書いてきた警察だけど、長いこといてこんなに楽しくない場所だとは思わなかったね」
「まぁまぁ、ほら、こっち」
シンと静まったホテルのロビーから、微かな音楽が聞こえるアトリウムへと桑名は誘う。
地方のホテルとは言え温泉地らしく、六久路谷温泉ホテルのアトリウム喫茶は二十四時間営業していた。夜になるとカクテルも楽しめるラウンジとして、いまもあちこちに人の姿がある。そのほとんどが7テレビのスタッフで、浮名と桑名の姿に近づきたい素振りを見せたが、さすがに寄ってはこない。
「お前さんもアレだろう、“祖父江良一”のおかげで出てこれたんだろう?」
「祖父江良一?」
「ひびきのストーカーだよ」
桑名はタバコをくわえようとして禁煙の文字を見つけ、しかたなくしまい込みながら顎を突き出した。
「例のカメラ小僧、おとといひびきの後をつけてホテルを出るとこを見られてたらしいからな」
「……これから殺人をしようって奴が、ホテルの正面からひびきのあとにくっついて堂々と出ていったわけか?」
「そうだよなぁ?」
浮名の言葉にわが意を得たりという表情になった桑名は、注文を聞きにきたボーイにジントニックを頼む。浮名は下戸のうえ甘党なので、ホットチョコとミルクレープのセットにした。
「新しい脚本見たよ」
不意に優しい声音になった桑名は、疲れて目を閉じている浮名の前に、プリントアウト用紙を留めただけの改訂脚本を置く。
「……リカちゃんが死んじまったんじゃ、それもナシだよ」
薄く目を開き、浮名は力なく言った。
「今回はもう撤退だろう?」
「馬鹿、そう簡単にもったいない真似ができるか」
これは重症だなと、桑名は浮名の憔悴した美貌をのぞき込む。
青白い隈《くま》の浮いた目もと。血の気は失せても変わらないその美貌は、いつも桑名に悪い虫を疼かせた。
そのケがないつもりでも、浮名のように生々しい“男”を感じさせない同性とならば、怪しい関係になってもかまわないと思えてしまう。
もっとも浮名の好みは承知していたので、するなら無理やりしかない。無理やりは性に合わないので、妄想はいつもここまでで停止する。
どちらにしても桑名は、この若くて美しい才能の固まりを個人的にもとても愛していたのである。
「もったいないとか、そんなことより、俺はもうだれの死体も見たくないよ」
「わかってるって」
軟派な見かけと言動の割に、浮名がどれほど繊細で傷つきやすい青年か、桑名は長い付き合いからよく知っていた。可哀相に、警察でよほど痛めつけられたらしい。
「なぁ、浮名、頼みのリカコが死んじまった以上、確かにこの脚本は使えないかもしれん。だが原作は原作だ」
「もうひびきもいないんだよ?」
わずかに潤んだ目をあげた浮名は、首を振って視線をそらす。
「引き上げようよ」
「ああ、確かに今回はもう引き上げだ。悔しいが7テレビは撤収するしかない。だが5チャンネルはまだ粘るだろう」
「そんなの……、もう今更考えたってしかたないだろう? こっちだって迷惑かけちゃったんだ。せめて向こうだけでも最後まで撮影させてあげたいよ」
「浮名」
なにを甘っちょろいことをとは思ったが、そこが浮名のいいところで、それは桑名も知っているから言い差しはしない。
「浮名、俺たちは東京に引き上げる。警察のお達しで、すぐに全員撤収することはできんだろうが、俺は直接上とやり合わなきゃならないんでな」
「俺だって帰るよ」
「いやいや、お前にはまだやってもらいたいことがあるんだ」
「なにを?」
眉を顰め、浮名は嫌な予感を抱いて桑名を見つめた。
「事件を解決しなきゃ」
桑名はケロリとした調子でハッキリそう言ったが、浮名はまばたきしたきり答えない。
「お前なら5チャンネル側の情報も聞き出せる。なんたって天音センセイがいらっしゃるんだからな」
「そんなの自分でやればいいだろう」
「いいチャンスじゃないか」
立ち上がろうとする浮名を押しとどめ、桑名は真摯《しんし》な口調になった。
「天音チャンとイイ関係になりたいんだろう?」
「いやらしい言い方するなよ」
「じゃあほかになんて言えばいいんだ? どんな言い方をしようと、お前さんがあのカワイ子ちゃんと仲良くなりたいのは事実だろう?」
「……こっちはそうでも、向こうは……」
口ごもり、浮名は改めて桑名を睨んだ。
「とにかくそんなスパイみたいな真似はしたくないよ。探偵ゴッコがしたけりゃ自分でどうぞ。俺は東京に帰るんだから」
「あ、そういう言い方していいの? 悪いけど俺は口も手も早いからね。天音チャンとどうなったって、あとから文句はナシにしてよ」
「……アンタって人は……」
どこまで本気かわからない桑名の言い様が癪《しゃく》にさわる。
天音が桑名のような男にどうにかされるほど簡単な男だとは思わないが、免疫がないだけにコロリとだまされることは考えられた。自分が心配してやることではないが、こうまで言われてあとで知らぬではすまされない。
「それに俺が上とやり合うのはお前のためでもあるんだぜ? 浮名センセ」
「なにが」
「俺は前から考えてたんだよ。お前には小説もだが、脚本の才能もある。いや、軽妙なタッチはむしろ、お固い小説よりも脚本に向いてると思うね」
「余計なお世話だよ」
「この際だからな、ケチが染みつかないうちに、制服シリーズは映画化しちゃあどうかと思う」
声を潜めた桑名は、あんぐりと口を開けた浮名をおもしろそうに眺めた。
「いいアイディアだろう?」
「……ノーコメント」
浮名はやっと運ばれてきたホットチョコとミルクレープに手をつけて、しばらく押し黙っていたが、ややあってから小さく『いいよ』と言った。
「なにが? 映画化の話か?」
ジントニックの入ったグラスを揺らしながら、桑名が小首を傾げる。
「そうじゃなくて、残ってもいい。天音に話を聞いてみる」
溜め息混じりにそう言うと、浮名はいつもの通りの桑名の口車に、今回も乗ってしまったのではないかという不安を表情に出した。
「だけど俺が聞くのは事件の進行のことまでで、ドラマの制作に関してまでは知らないからな」
「いい、いい、そうこなくっちゃ!」
浮名の返事に途端にホクホク顔になった桑名は、ホットチョコのカップにグラスをぶつけて乾杯の真似をする。
「お前は絶対にこの経験を無駄にはしないよ、浮名センセイ。俺だってそうさ」
「…………」
眉を顰めたまま、浮名は遠い目になった。
警察の訊問途中もそうだったが、天音のことを考えると憂いばかりがつのってしまう。
あの小さな頭の中でなにを考えているのか、想像すると怖い。
これ以上悪い関係にはなりたくなかったが、だからと言って安泰な関係に落ち着く日があるものなのかどうかも怪しい。
本当のところ、自分がこだわりを捨てたくらいでは収まりはつかないような気がしていた。
こだわりを抱きつづけているのは、自分ではなく天音なのではないかと、浮名は気づきはじめていたのである。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
翌日の九時にはもう、六久路谷温泉旅館の中はなんとなくガランとした印象になっていた。
茱萸ネエ様たちと一緒に朝ゴハンを食べるためにあちらの部屋に行くと、すでに帰宅の準備が済んでいて寂しさがつのる。
「じゃあ、お前さんはこんなゲンの悪いところに残るつもりなのかい? 天音」
「はぁ」
茱萸ネエ様の辛辣な表現に、僕は苦笑せざるを得ない。
「貧乏クジ引くねぇ」
「そんな言い方はないよ、茱萸ネエ」
そこにいるだけでいかにもこの旅館にピッタリの風情を醸し出す平野さんは、朝から大浴場に入ってきたらしくまだ浴衣姿だった。露天風呂を気に入っていたらしいから、あんな事件があってさぞや残念に思っていることだろう。
「先生の仕事から言ったら、こういう事件が身近で起こって放っておけるわけはないよね」
「まぁ、そうです」
わざわざみどりに依頼された件は言わないでおく。一夜明けてしまうと僕だって、なんであんなことを引き受けてしまったのか、少し後悔しているくらいなのだ。
なにしろ事件は警察がきちんと解決してくれるだろうから、僕がしゃしゃり出てすることなどなんにもない。
あの若くて陽気な田畑刑事あたりも、僕が素人探偵に立候補したことを知れば、さぞや怒り狂うに違いない。
いや……、むしろ大笑いされることの方が僕は怖かった。
「とにかくあたしはこんなことで降りたりしないよ。ねぇ、アンタもだろう? ゲンちゃん」
「ここの温泉は最高だったからね」
平野さんは茱萸ネエ様の凄みの利いた眼差しに微笑を返し、僕にも笑顔を向ける。
「今回は残念だったけれど、城ヶ根君のやる気があれば、またすぐに機会は巡ってくるさ」
「はい」
恐縮して頭を下げ、僕は朝早くから立ち働くみどりの姿を思い起こした。
遺族をのぞけば、今回の事件でもっとも思いがけないダメージを食らってしまったのは彼女に違いない。昔の因縁相手には再会してしまうし、殺人事件のおかげで暖めていた大仕事はポシャりかけているし。こんな形でドラマがうやむやになってしまったら、恐らく立ち直れないほどのショックを受けるだろう。
もちろん彼女はそんな弱虫ではない。どんな向かい風にも立ち向かって行こうとはする。
だが物事には、ただやる気があれば済むというわけにはいかないことが確かにあるのだ。
ドラマの撮影がこのまま中止したままになってしまったとしても、みどりがくじけぬことを祈るばかりである。
結局、この村に訪れたときのメンツの中では、唯一僕だけが居残り組になってしまった。
送迎係になった赤城君は戻ってくるが、それにしても旅館がテレビスタッフの声で満ち溢れていたときのことを考えると、いかにも寂しい人数になってしまうのはわかっている。
また必ず会いましょうという約束をして、僕たちは別れた。イクエちゃんとヒデキ君の関係が進展するかどうかも曖昧なまま、僕の創作したキャラクターを演じる茱萸ネエ様や平野さんの勇姿を見ることもなく……。
この場合、悪夢の現場を離れる彼らが幸運なのか、好んで残った僕はやっぱり馬鹿なのか、この地に訪れてからの何度目かの複雑な心境に陥ってしまった。
「元気な人たちばかりだったから、いっぺんにいなくなってしまうと寂しいですね」
車寄せで一緒にみんなを見送った若女将に、人恋しさからなんとはなし話しかけてしまった僕は、彼女にとっては客を送り出すこともまた仕事のうちだということに気づいて恥ずかしくなった。
「すみません、考えてみたら、若女将にとってはいつものことでしたね」
「いいえ、やっぱりテレビ局のみなさんは華やかでしたきに、一度にお見送りするとなれば、寂しくなりますがか」
朝から一分の隙もない若女将のしっとりとおだやかな微笑に、僕はホッとすると共に改めてあの言葉を思い出している。
考えてみれば、若女将の望み通り、いまこの六久路谷は全国規模で名前を知られる温泉地になったではないか。
確かにマイナスイメージは強いが、それでもこれだけ人々の耳に浸透させることだけを考えれば、殺人事件はどんな宣伝よりも勝る効果があったのではなかろうか。
ゾワッとした悪寒が背筋を走り、僕はなんとも言えない嫌な想像をしてしまった。
いくらなんでもこの村を有名にしたいために、若女将が年若いなんの関係もない女の子を二人も殺すはずがない。
……と、思う。
「これからしばらくはお客様の足も遠のいてしまうでしょうし……」
遠い目をしていた若女将が、つぶやくようにしてつづける。
植え込みの向こうには警察が張ったテープが見えた。バンが出ていくとスタッフの一人がポールを元に戻していたが、なんの関係もない彼も、旅館の敷地の外に締め出されたワイドショーのリポーターたちに捕まってあれこれと質問されている。
お客さんに迷惑がかかるからと、六久路谷旅館組合はワイドショー関係者を追い出して欲しいと警察に陳情しているらしいが、当局でもそう簡単に報道機関を統制することはできないだろう。
「あの可哀相なお嬢さんにも申しわけないことをしてしまって、女将にも、留守をしている主人にも、本当に顔向けできません」
「申しわけないことをしたって……それは……」
まさかいきなり殺人の告白をされているのかと、僕は思わず四肢に緊張を走らせた。
「最後に会って口をきいたのは、どうやら犯人をのぞいては私のようですきに」
若女将は僕の緊張など知らず、気の毒そうに目を伏せる。演技をしているとは思えなかった。
「あのとき、一人で入浴することをやめさせておれば、あがいなことにはならんかったかもしれんと思うと……」
「いくら止めたって、あの彼女がとどまったとは思えませんよ」
「だけどもしかしてって、思ってしまうでしょう?」
それはそうだった。
僕だって殺される人と最後に会ったのが自分だと知れば、もしかしたらなにかできたかもと思って後悔しただろうから。
僕たちはしばらく無言になり、車の去った方角をじっと見つめていたが、すぐに同じ人影を見つけて顔を見合わせることになった。
「こんなところでお出迎え?」
たぶんホテルからだろう。背後に数人のワイドショー関係者を背負った、それは浮名だった。
「浮名……っ!?」
切迫した僕は口ごもってむせてしまい、深呼吸しなければならないほどうろたえてしまう。
「い、いつ帰ってきたんだ!?」
「昨夜、遅くに」
テープを越えてやってきたスカイブルーのスプリングセーターにジーンズという浮名のカジュアルな格好を見て、僕は学生時代にスリップした気持ちになった。
「お互いひどい目に遭ったよな」
目前で肩をすくめた浮名は、若女将に視線を移す。
「一昨日から大変だったでしょう?」
「先生方ほどではありません」
若女将は微笑しつつ一瞬躊躇していったん伏せた顔をあげた。
「あの、中上支配人がどうなさってるか、ご存じありませんか?」
「支配人? ホテルのですか」
どうしてそんなことを尋ねられるのかわからないという顔をしながらも、浮名は優しく首を振る。
「到着したときに挨拶があったきりで、ちょっとどうしているかまではわかりませんね」
「そうですわよね。私ったら、失礼をいたしました」
わずかに頬を染めた若女将の顔つきに、僕は思ったよりも彼女がずっと若いことに気づいた。
いつも和装で大人っぽい素振りを見せる若女将だが、そうしてかいま見せる表情の女らしさは、彼女がまだ二十代の女性であることを思い起こさせる。
「先生」
「はい」
若女将の呼びかけに、僕と浮名はついつい同時に返事をした。
「あら、また私ったら。すみません、天音先生をお呼びしたんですの」
「なんです?」
「よろしかったら浮名先生におあがりになっていただいたらどがいですか? お二人が揃われてお部屋にあがられるのは、ずいぶんとお久しぶりでしょう?」
「はぁ」
僕と浮名の確執などまったく知らない若女将の屈託ない提案に、僕はなんと応えたものか窮する。
「少し散歩しない?」
浮名の気軽な呼びかけが自分に対して言われているものだとは思わず、僕はしばらく黙り込んだのち首を巡らせた。
「なに、いま、僕に言ったのか?」
「そうだよ」
肩をすくめた浮名は、どんな思惑があるのか知らないが、目をそらして吉兵衛川の方に誘う。
「冗談じゃない。真っ平だね、あんな連中引き連れて散歩なんて」
首を振った僕は、うろんな眼差しをワイドショーの連中に向けた。
「それなら大丈夫ですわ、天音先生。あちらの川沿いの道は組合の私道ですきに、橋から封鎖してます」
若女将がニッコリと請け合い、僕と浮名の顔を交互に見つめる。
「いいお天気ですきに、お帰りになられる頃にあがれるよう、お茶を点てておきますわ。気晴らしにぜひいってらっしゃいまし」
「……そうですねぇ」
堅固に拒絶するのも大人としてどうかと考え、僕もまた、浮名には尋ねたいことがたくさんあるのだということを思い出した。
確かに荒《すさ》んだこの空気を変えるにはいい機会かもしれない。
浮名と一緒に散歩というシチュエーションはともかくとして……。
吉兵衛川沿いの道は、最初に訪れた日に僕たちが遭遇したあの場所である。
車が一台ようやく通れるこの道も、橋まで進めばあの公営露天風呂が見えてくるから、僕としてはあまり先まで進みたくはない。自然と足は遅くなった。
「大丈夫なのか?」
自分で散歩しようなどと言ったくせして、一言も発しようとしない浮名に業を煮やし、僕から先に話しかける。
「大丈夫だと思う?」
「……まぁな」
そんなわけないことはわかりきっていた。僕だって警察の事情聴取というやつにはほとほとうんざりきている。
同じことのくり返し、知らないと言ったことを何度も聞かれ、そのうちなんだかこれが犯人に対する取り調べというやつなのではないかと疑心暗鬼にかかってくる。
自分が疑われるような要素などなに一つないとわかっているのに、それでも不安な気持ちになってしまうのだから、浮名のように顔見知りであればなおのこと、しつこく厳しい警察側の態度にうんざりきていることだろう。
僕たちは並んで川をのぞき込み、しばらく無言になった。
「こっちのドラマはもう中止が決まったよ」
「……そうか」
こっちだって風前の灯だ。こんな状況でもし撮影を強行すれば、世間の反発を食らって大失敗ということになりかねない。
「せっかく脚本、書き直したのにな」
「いいんだ。殺されるより全然増しだよ」
悲しみのこもった声に視線を向けると、浮名の横顔は痛みをこらえて唇を噛み締めていた。
「よく出てこれたな。あのひと……桑名さんが出てこれたから、僕はてっきり警察が犯人だと思ってるのはお前だとばかり考えてた」
浮名が疑われているだろうと思ったからこそ、自分のできることだったらなんでもしてやると決めたのだということは黙っておく。
「ああ、俺だってアンタたちが開放されたあとには帰ったんだよ。ただまぁ、容疑者の一人であることに変わりはないみたいだ。桑名もね。もっともアイツ、今朝東京に戻ったけど」
「戻れたのか? よく警察が許したな」
「言い訳の天才だからね」
小さく吐息し、浮名がこちらを見やったので、僕は慌てて視線をそらした。
「あのさ、協力してほしいんだけど」
「協力?」
突然切り出されて、僕は浮名がそれを言うために会いに来たことを知る。
「なんの協力だよ」
「その……」
浮名が言いづらそうに口ごもって首の向きを変え、僕たちは代わり番こに視線をそらし合うことになった。
「事件の事情をさ、くわしく知りたいと思わないか?」
みどりと交わした約束を知られているのではないかと、疑いたくなるような質問だった。
「そりゃあ……」
ここで意地を張っては話し合うキッカケを失うと、僕はなんとかうまい言葉を絞り出そうとしてみる。
「……僕だって、知りたいことはたくさんあるけど」
「だから協力しないか?」
もう一度、今度こそ僕たちは視線をちゃんと合わせた。
浮名の言葉の中に僕を引っかけたがっている悪戯《いたずら》の要素はないか探してみたが、とりあえず見当たらない。向こうもそうと察したのか、表情がやわらいだ。
「アンタの知ってることと俺の知ってること、協力して話を合わせてみればそれなりに真相が見えてくるような気がするんだ」
それは警察がやっていると、言うのは簡単だった。が、それでは僕たちが真相を知るのはずっと先ということになる。
「……いいよ」
頷いた僕はぎこちないながらも微笑を浮かべてみせた。
「なんだよ」
「いや……。なんだか久しぶりだから、俺に向けられたアンタの笑顔なんて見たの」
変な顔をすると思ったらつまらないことを言われ、僕はたちまち不機嫌になる。
「桑名が開放されたのは、祖父江良一が引っ張られたからだよ」
浮名は僕の不機嫌を濁すようにして言った。
「ひびきのストーカーだった」
「ああ、今朝ニュースでそんなようなこと言ってたな」
もっともニュースではまだ“ファンの男性”ということになっていたっけ。
「千葉リカコにもつきまとっていたのか?」
「ひびきのファンだったんだよ。だから警察では、例の件でリカコを殺したんじゃないかって」
「……例の件って、アレか? テレビで盛大にやってた“ヒロイン宣言”」
「そう」
浮名はせせらぎに耳を傾けつつ、大きくのびをして鉄柵にもたれかかる。
「桑名は祖父江のことを警察には言わなかった。でもひびきが祖父江につきまとわれていたことはスタッフの間でも有名だった。だからだれかの証言の中から祖父江の存在が浮かんだんだろう」
「千葉リカコを殺した動機はわかるけど、咲屋ひびきを殺した動機は?」
僕の問いかけに浮名は首を傾げた。
「自分だけのものにしたかったとか」
「それで頭をかち割るのか?」
僕は露天風呂中に散った赤い血飛沫の痕跡と、ざっくりと頭を割られていたひびきの哀れな遺体の映像を脳裏から振り払う。
「殺したいほど好きなのに、無防備な裸のまま遺体を放置するか? 好きな女の顔に傷をつけるような殺し方なんか選ぶか?」
「わからないよ」
立てつづけに反論されて、浮名は嫌な表情になった。
「ストーカーの気持ちなんて俺にはわからない」
「……僕はわかる」
驚いた表情を浮かべた浮名から目をそらし、僕は暖かな光を反射する川の流れを見つめる。
「僕なら殺したいほど独占したい相手の遺体を放置したりしない。絶対に持ち帰る。もしも重くて全部持ち帰れないなら、部分だけでも取ろうとして遺体を切り刻むかもしれない」
「天音」
浮名の呼びかけには恐怖が含まれていた。僕は顔を向け、苦笑する。
「どんなに好きでも死んじゃったらただの物だ。僕はちゃんとわかってるよ。生きて動いている相手でなけりゃ、愛することなんてできない」
「……そう、そうだよね」
柵にかけた浮名の手が揺れて、何度も握ったり開かれたりした。僕の言葉に動揺して戸惑っているんだろう。
僕自身戸惑っている。自分の中の危なっかしい激情について、あんな風に浮名に言うつもりなかったのに。
「だけど祖父江じゃないなら、奴もすぐに戻ってくるな……」
「まだわからないだろう。あっさり納得するなよ」
「だって……」
「まぁ、祖父江が千葉リカコを殺す動機に関してだったらわかるよ」
「例の件?」
「そうだよ」
そこで僕たちはそろってフラッシュを浴び、ギョッとして川の対岸に目をやる。カメラマンの姿を数人見つけ、旅館に戻ることにした。
あの人たちも仕事なんだろうが、それにしても他人事でなくなったときは、確かにそれで許そうという気にはとてもなれない。
浮名はこう見えて他人に怒りをぶつけたりすることは滅多にない男だが、僕は自分でも呆れるくらい乱暴者だったから、ぶつからないように気をつけなければと思う。
どちらにしても、切り出しにくい本題が終わった以上、あとはお互い協力するだけなので、お茶を濁してのんびり散歩することもない。
旅館に戻ると若女将が笑顔で迎え、お茶のしたくをすると張り切って新館の和室に案内された。
入口に〈竹の間〉と記された和室は、新館の中でも別格のしつらえということで、十五畳の部屋に茶室のコーナーがある。
開け放した広い窓からは日当たりのいい日本庭園が臨め、きれいに配された竹林を渡る風が心地好かった。
若女将は丁寧に点てた抹茶を僕らの前にそっと置いてから静かに退室した。
「あの豪快な女将よりもいいじゃない」
甘党の浮名は、さっそく茶菓子のもなかを頬ばって評する。
「美人だし色気もあって。まだ若いけど、未亡人?」
「旦那さんはイタリアに研修中なんだってさ」
なんとなく忌ま忌ましい気持ちになった僕は、吐き捨てるように言って苦くて温かい抹茶を口に含んだ。
気持ちのいい部屋でくつろいでいると、ここが六久路谷で、いま連続殺人事件で騒がれている場所だとは思えなくなる。
隣にいる浮名の存在だけが、これはいまだけの特別な時間なんだということを教えてくれた。
「あの若女将もちょっと怪しいんだよな」
「ええっ?」
なんとなく口にしてしまった一言に、浮名は過剰反応して声をあげる。
「静かにしろよ」
「なんであの美人が犯人なんだよ?」
「犯人なんて言ってない。怪しいって言っただけだ」
言うんじゃなかったとすぐに僕は後悔した。
「それよりここにいても話を聞き出せる人間はいないんだ。お前のホテルに移動しよう。祖父江良一が戻ってるなら、部屋を引き払われる前にさっさと話を聞きたいし」
「あの美人女将の話は?」
「僕がそれとなく聞いたよ」
僕は自分が知っている若女将についての情報を一通り浮名の耳に入れる。
若女将が、六久路谷を全国的に有名な温泉郷にするためならなんでもすると言っていたこと。旦那さんがイタリアにいて、組合や女将とは反目しているということ。それから千葉リカコと、どうやら犯人以外で最後に会った人物らしいということ。
「でもあの人、俺が来たときも入口にいたんだし、リカコを殺す時間なんて……」
「だから犯人だなんて一言も言ってないだろう」
相手が美人だと思って、どうもかばう口調なのが気に入らない。僕はさっさと立ち上がって豪勢な和室をあとにした。
若女将に一言言っていこうとしたが姿が見えず、帳場にいる番頭さんを見つけて声をかける。
「わかりました。ホテルへお出かけですね」
電話中だった番頭さんは受話器を置いてからニコニコとそう言った。
「すみませんでした。お電話中断させてしまったんじゃ……」
「大丈夫ですよ。今夜町から野菜を運んでもらう予定だった業者さんにキャンセル入れただけですきに」
「ああ、そうですね」
ロケの日程はちょうど一週間だった。スタッフの人数が三分の一に減ってしまった以上、余分に仕入れるわけにはいくまい。
なんとなく、間接的に申しわけないような気持ちになって頭を下げると、手を振って恐縮される。それで彼にも若女将の話を少し聞いてみる気持ちになった。
「え? 若女将ですがか?」
「うん、がんばってて、すごいですよね」
こんな風に話を聞くことなど、日常の生活ではありえない。まるで噂好きのオバチャンにでもなってしまったような気がする。
「旅館組合と仲たがいしてるって本当なんですか?」
美人のこととなると興味津々の浮名が、平気な顔をして問いかけると、さすがに番頭さんも変な表情になった。
「組合の中にはいろんな人がいますき。古い考えの方にしてみれば、中上さんと若女将が協力していこうという姿勢は、都合がいいようにしかみえないのでしょう」
「中上さんって、ホテルの支配人とかっていう?」
声を潜めて問いかけると、浮名が小さく頷く。
「若女将は本当にしっかりした方ですきに。お若いのに浮ついたところの一つもない、若旦那さんには、よくぞ見つけてきてつかぁさったとしか言い様のないお嫁さんですがか。女将さんがあれこれ言うのは期待が大きいからでして、本気で若女将を信頼していないわけじゃありませんよ。組合の連中も、六久路谷で生まれたわけでもないまだ未熟な若女将には、やはり余計に肩肘張ってしまうんでしょう……。しかし仲たがいとまでは」
番頭さんは苦笑して首を振り、僕たちを交互に見つめた。
「六久路谷をようしていこうという気持ちは、女将を含めたどの方にも変わりなくありますきに。ただいまはその気持ちがバラバラで、一つにまとまっていないだけのことですがか。目ざすところが一緒であれば、いずれきっとよくなりますき」
「そうですね」
そうとしか言い様がない。
真摯な顔つきをした番頭さんは、心の底から若女将を信じている。まさか村を有名にしたくて人を殺すようなところのある女の人だと思うかとは聞けない。
茱萸ネエさんたちを駅まで送っていった赤城君が戻ってきたのを機に、僕らは番頭さんと別れた。
「ホテルですか? いいですよ」
駐車場にバンを入れる前に送迎を頼むと、赤城君は気安くOKしてくれる。
「ごめんね、戻ったばかりで、近い距離なのに」
「いいんですよ。たぶんリポーター連中もそろそろ引くと思いますよ。町の方の取材と分散しなきゃならないし、こっちでただのスタッフの俺らを映してもしょうもないですからね」
なるほど赤城君の言う通り、車がホテルに近づくと、例の植え込みの外側には、もううるさいほどの人だかりはできていない。たぶん茱萸ネエ様や桑名たちが東京に戻ったことを知っているのだろう。
赤城君にお茶でもごちそうしようかと誘ったが、みどりに叱られると帰ってしまった。
「あ」
と、車寄せからホテルの玄関に入ろうとした僕らは、若女将とバッタリ遭遇する。
「まぁ、奇遇ですわね」
驚いた次にはすぐ笑みを浮かべた若女将とは、短く挨拶を交わして別れる。
「……なにしに来てたんだ?」
「支配人に会いに来たんじゃないの。気にしていただろう?」
まったく疑問を持っていない浮名の返答に、僕は眉を顰めた。
「だからさ、支配人に会いに来たとしても、なんでわざわざこんな時期に?」
「こんな時期だからなんじゃないの? 仲いいんだろう?」
なにを言っても無駄らしい。
僕は祖父江のことを尋ねるためにも、先刻からこちらをチラチラ観察している、口の軽そうなベルボーイに近づいた。
「ねぇ」
「はい、なんでございますか?」
胸元に“葛西”というネームプレートをつけ、ベージュのトーク帽をかぶったベルボーイは、なぜか頬を真っ赤にして緊張した声で反応する。
「あのね、ちょっと聞きたいことが……」
「祖父江良一、もう戻ってる?」
こっそりと聞こうとして僕が彼に近づくと、浮名が図々しく間に割って入ってそう問うた。
「あ、はい」
ベルボーイの葛西君は、察するところがあったのだろう。不意に表情を改めた。
「部屋がどこだかわかるかな?」
「それは……」
浮名の更なる問いかけに、葛西君は困惑した様子でカウンターの方を見やる。
「君があとで困った立場になったりはしないように、必ず僕たちがフォローするから、いまは時間もない。教えてくれないか?」
邪魔な浮名を横に押しやり、僕はまっすぐ葛西君を見つめて頼んだ。
葛西君はまた頬を赤く染め、小さくコクリと頷いて僕らをエレベーターホールに誘う。
決して大きいホテルではないが、天井を高くして光を取り入れるために窓を増やし、仕切りをはぶいているために、全体的には実物大よりも広々として感じる。緑を取り入れたアトリウム喫茶もいい感じだ。
やっぱり六久路谷に造る必要性はないように思えるけれど、それでもこういうホテルが一つあるのとないのとでは、確かに温泉地として訴えるインパクトが違う。
「あの……大丈夫ですか?」
金色の縁がついた立派なエレベーターの前で、祖父江の部屋番号を教えてくれた葛西君が心配そうに尋ねる。
「それよりちょっと聞きたいんだけど」
なにを心配しているのかは聞かず、僕はうずうずしていた質問を持ち出した。
「六久路谷温泉旅館の若女将とここの支配人って、とても仲がいいの?」
「それは……」
僕の聞こうとしている意味合いを悟り、浅はかそうだが頭の回転の早い葛西君は目をそらす。そりゃあ自分の上司の噂話をそうそうペラペラはしゃべれまい。
と言って、彼はチップをもらえばしゃべるようなタイプにも見えなかった。
「……君さ、天音のファンだろう?」
「へ?」
突然憮然とした浮名が言い差したので、僕はギョッとする。
「なに言ってるの、お前」
「東京に戻ったら天音にサイン入りの新刊を送ってもらえよ、嬉しいだろう?」
「は……はいっ」
もっと驚いたことに、浮名の言葉に首筋まで真っ赤にした、葛西君が、こくこくと頷いている。
思いがけないファンとの遭遇に居心地悪くなったものの、僕はサイン入りの新刊を送ることを約束した。
「支配人と旅館の若女将との噂は確かにあります」
葛西君は結構あっさりとしゃべり出した。
「旅館の旦那さんが研修に出かける前から、ちょっとした噂はあったんですけど」
「ちょっとした噂って?」
「六久路谷のホテルの進出は、若女将の口添えがあったからだというもので」
「じゃあ旅館側からホテルを建ててくれって言ったってこと?」
「そういうことになります。ライバルになるのがわかっててそういう風に口添えしたりしたんだったら、私情が混じっていたんじゃないかって」
僕の耳に若女将の言葉が何度もよみがえる。
この六久路谷を有名にするためなら、なんでもすると言った。
「組合の会合でも、なにかと支配人を擁護するんで、不倫の噂が……」
ここで葛西君は改めて口を閉ざしたので、行ってもいいと言うとそそくさと持ち場に戻った。
「疑ってるのか?」
エレベーターの上昇ボタンを押した僕に向かって、浮名が不機嫌な声音で言う。
「変質者の線以外では、いまのところ無関係の二人を殺す理由があるのは、若女将だけだ」
「この村を有名にするために? だったら支配人の方かもしれないじゃないか」
「僕は支配人は知らない」
「……いい加減だな」
僕自身そう思うが、浮名には言われたくなかった。
忌ま忌ましくなって長い足を蹴ってやり、やって来たエレベーターに逃げ込んだ。
情けない顔をして大げさに痛がっている浮名を置き去りにして、先に祖父江の部屋がある階に向かうことにする。
本気で痛かったのかもしれないが、それは知らない。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
警察から戻ってホッとした祖父江良一は、ほてった顔を何度も拭い洗った。
洗面所の鏡にうつった彼の顔はすっかり憔悴していたが、怒りのために真っ赤である。
彼は苛立っていた。
なぜ自分が犯人扱いされなければならないのか。現実にやっていないものはやっていないのだし、やるつもりがあればもっとうまくやっているというのに。
いつもの癖で胸元に手をやって、ポケットの中に入れていた咲屋ひびきの生写真を取り出した彼は、生前の彼女の輝く笑顔を見つめて涙した。
可哀相なひびき。敵《かたき》をとってやるまでは、絶対に負けるものかと決意を固める。
電話が入ったので相手を迎える準備をしたあと、ひびきのために隠し撮りした千葉リカコのヌード写真を投稿写真誌の編集部に匿名で送付する封筒を探した。
ホテルの封筒ではまずいかとも思ったが、どちらにしても編集部がこの写真の出所を詮索するとは思えなかった。
殺される前、旅館に向かう以前にホテルの露天風呂で盗み撮りしたものである。ホテルはのぞきには神経質だったが、経験豊富な祖父江はホテル以上にポイントを心得ていた。
バレッタ一つで器用に髪を結いあげたリカコは無防備で扇情的で、我ながら淫靡な雰囲気がよく出ていると思う。
祖父江は迷いながら、結局風呂場でリカコの写真を見ながらオナニーした。
射精する瞬間、密生した下生えからのぞいた赤黒い陰部に涙がこぼれる。彼女ももういない。
ひびきも可愛かった。特別な存在だった。
いまやリカコもまた、死んでその付加価値を上げた。
祖父江にとって“女性”とは、写真の中だけに存在するもの、ブラウン管の向こうだけにいるものなのである。
ファインダーの向こうでこちらの視線に気がつかない、その瞬間にこそ彼女たちはシンボルとして昇華する無垢な存在だった。
いままでは咲屋ひびきこそ、その最たる存在だった。いまや写真の中にしかいない千葉リカコの存在は、ある意味無限の可能性を秘めている。
憎かったアイドルの存在が急に近しく思えて、祖父江は彼女の敵も必ず取ってやらなければと思う。
始末をしている最中、頭上でチャイムの音が鳴ったのでギョッとした。
昨日警察が来たときもこの音が鳴ったのである。
先刻電話で訪問を予告した奴が来るには早すぎた。
気乗りしなかったが警察相手に面倒を起こすのは嫌で、一応だれが来たのか確認するため、レンズのはまった小穴をのぞく。
向こうからのぞき込む相手の顔がアップになって、祖父江はカーッと頭に血が上った。
あとはもう、発作的にドアを開けて訪問者を迎え入れている。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
二つ並んだエレベーターの両脇に伸びた廊下の左手、突き当たりの角が祖父江の部屋だった。
さすがに一人で乗り込む気にはなれずベージュのドアの前で待っていると、浮名が不機嫌な顔つきでやってくる。
「アンタね……!」
「押すぞ」
文句を垂れようとする奴の目の前で、新聞ホルダーの下の小さなインターフォンを押した。
一度押しても応えがないのでもう一度押す。
「なにやってんだ」
出てくる気配はないが部屋にはいるはずだった。浮名がレンズ穴をのぞき込むようにすると、たちまちガチャガチャと音がしてドアが開く。
「……よく来たな」
祖父江良一は繊細な面立ちをした、一見普通の青年だった。
けれど疲れて落ちくぼんだ目がギラギラと浮名を睨みつけている様子が恐ろしくて、僕はちょっと、というかかなり、体が自然と引き気味になってしまう。
「とっくに逃げ出してると思ったんだ。オマエたちは卑怯で最低だから、なんの責任も取らず、きっとひびきやリカコの代わりをすぐに見つけるんだろう」
「……君に言われることじゃない」
固い口調で浮名は言った。自己紹介をしあう間もないが、たぶんこいつらはお互いだれだかわかっていてこういう会話になるんだろう。
「よければ中に入れて話を聞かせてくれないか、祖父江君」
「嫌だね。これからお客がくるんだ。第一オマエたちのように最低の人間と話すことなんかなにもない。口をきいただけでもひびきやリカコに申しわけない気がしてくる」
彼がリカコに同情的だとは思わなかった。ちょっと意外で、僕は部外者のままチラリと部屋の奥をのぞき込んだ。
たった数日の滞在だろうに、薄汚くちらかった室内の様子がパッと見でわかる。カーペットの上に散っている着替えや、なにを撮ったのかまでは見えないものの写真の束も、普通まとめておくだけでもかなり増しに見えるはずなのに。
「中には入れてくれなくて結構だけど、少し話をするくらいいいだろう」
僕の言葉に、祖父江はようやくうろんげな眼差しをこちらに向ける。
「……アンタ、だれ」
「宮古天音です」
名刺なんか出したくなかったから、僕はそれだけ言ってちょっとだけ視線を落として挨拶に変えた。
「君もいろいろ巻き込まれて大変なんだろうけど、そんなに彼を敵視する必要があるの?」
「ふんっ」
祖父江は浮名に目を戻し、ジロジロとその顔を眺めて笑う。
「アンタ、男でも女でもいいんだろう。こういう猫目の顔が好きなのか」
「祖父江君っ」
無視された格好の僕は、苛々しながらきつく名を呼んだ。
「君がひびき君を好きだった気持ちはわからなくはないけど、彼女は浮名と恋人同士だったわけじゃない。なぜそんなに失礼な真似をするんだろう」
「うるさいな。アンタはなんにも知らないだけなんだよ。引っ込んでな」
言い捨てられてムッとくる。どうしてこんなに失礼な奴なのか、どういう風に生きてくるとこうなるのか、いっそ不思議だった。
「この男は薄汚い欲望でひびきを穢《けが》したんだ。あの桑名って奴と一緒になって、ひびきを食い物にした。それだけじゃ足りなくてリカコまで……」
涙ぐんだ祖父江の訴えに、僕が振り向いて確認すると、浮名は眉を顰めたまま首を振ってみせる。
「根も葉もない誤解だ」
「オマエたちのように穢れた人間の言うことなんて嘘に決まってる」
「決めつけないでくれないか」
「ひびきがオマエを誘ってたことは知ってるんだぞ!」
「そういうことはあったかもしれないが、彼女は本気じゃなかった」
浮名の言葉に僕は愕然とした。はじめて聞いたぞ、そんな話は。
咲屋ひびきが浮名とそういう関係だったということになると、やっぱりコイツにも動機があったということになるのか?
「信じるなよ、天音」
「どっちを?」
「……ひびきやリカコは打算で男と寝れるだけのたくましいオンナだった。桑名はそういうオンナを可愛いと思える男だけど、俺は違う。リカコやひびきは朝飯を誘うように気軽に俺を誘った。それは恋愛感情からじゃない。わかっていて関係を結ぶことは、俺にはできない」
苦々しく語るいまの浮名の心の中には、きっと死んでしまったアイドルの姿がよみがえっているんだろう。沈んだ瞳によぎった翳《かげ》りが、僕の中のなにかも締めつけて苦しい。
「どちらにしても君に恨まれるのは筋違いだ、祖父江君」
ふいっと目をそらし、浮名は祖父江を睨みつけて強い口調で言った。
「ひびきやリカコの代弁者のように語る資格、君にはないだろう」
「うるさいうるさいっ!」
怒鳴った祖父江は地団駄を踏んで不満を表す。まるっきり子供じみたその態度を、無邪気と笑える状況ではない。
「オマエみたいな人間のクズ、いまに天罰を受けるからな!」
最初はごく普通の青年に見えた祖父江の唇が、悪魔のように引き歪んでニヤリと笑みの形に変わる。
「ちょうどいいや、オマエには警告しておこうと思ったんだ! 次はきっとオマエだぞ!」
「な……っ!?」
犯行予告とも取れる発言に、僕は眉を顰めてかばうように浮名の前に出た。
「やっぱりこれまでもお前がやったのか!?」
「オマエのように最低の人間にが、きっと鉄槌《てっつい》が下る! そうさ……、俺が望めばその通りになるんだから……」
祖父江はしかし僕のことなんかまったく無視して、長身の浮名を笑って見上げたまま不気味に言いつづける。
「言っとくけど俺がやったんじゃない。俺にはちゃんとアリバイがあるんだ。警察だってそれを確認したからこそ、こうして戻してくれたんだからな。オマエたちの方がよっぽど処刑にふさわしい。次はオマエだよ、三流のエセ作家」
「なんだとっ!?」
その言いぐさに腹が立ち、僕は思わず目の前にあった祖父江の胸元を両手で突いてしまった。
「ゲホッ!」
見た目以上に弱い祖父江が抵抗もせず押されて咳き込む。
「なにするんだよっ!」
「人が二人も死んでるっていうのに、いくら気に入らないからってな、言っていいことと悪いこともわからないのか!?」
怒鳴りつけてやってから僕を見た祖父江の表情は、いじめられた子供そのものだった。いまにも泣き出しそうで頼りなく、しかし彼は表面的には立派な大人の男なのである。
「オマエも死んじゃえ」
ゾッとするような低い声で祖父江は言い、僕たちの目の前で勢いよくドアを閉じてしまった。
なにも聞けず、結局は嫌な思いをしただけで対面は終わる。だが僕はそれで終わりにできるほどお人好しではない。
「アッタマきたぞ……!」
「真面目に相手にするなよ」
「お前っ、自分が殺されるかもしれないってのに、よく平気なカオしてられるなっ!」
「……俺が殺されるかもしれないからって、そんなに怒ってくれてるのか?」
そう言われてはじめてギクリとした感覚が訪れ、僕は冷静さを取り戻す。
「天音……そんなに俺のこと心配して……?」
「畜生っ、圏外になっちまった」
呼びかけを無視して乱暴にぼやいた僕は、携帯を持ったままエレベーターに向かった。
「天音、アンタ、俺が死んだら悲しんでくれるのか?」
背後からなにげなく問いかけられた内容に、震えた指先から小さな電話機が落ちる。
「天音?」
「馬鹿なこと言うなっ!」
動揺を隠して慌てて拾い、親のカタキのごとく強くボタンを押してエレベーターを呼んだ。
「し、死ぬとか、卑怯だぞ!」
なにが卑怯なんだか、そういう理由を頭で考えるよりも先に口に出していた。
だけど卑怯じゃないか? こんなときに死んだらどうするかなんてこと、生きているうちに聞かれたら、嘘でも死ねとは言えないじゃないか。
唇を噛み締めて昇降表示を見つめた僕の目の端に、磨かれたエレベーターの外扉に映り込んだ浮名の姿が入った。
怒鳴りつけてやろうかと振り向いた僕の肩が強く掴まれ、一瞬後には顎が取られている。
「う……きな……っ!?」
驚いた声が消える前に、僕は浮名とキスをしていた。
柔らかな、びっくりするほどしなやかな感触が、唇の上をビロードみたいに撫でていく。
ほんの一瞬の出来事だった。本当にあったことだとは思えない一瞬である。
驚きのあまりなにがなんだかよくわからない。ケロリとした顔をしている浮名の気持ちもわからない。
どうしてこんなことをしてなにもなかったみたいな顔ができるのか、僕はグルグルと目を回しそうになっている。
わからない。本当にわからない。
よろめいた勢いのまま茫然《ぼうぜん》として後ろに後退すると、いつの間にか来ていたエレベーターの箱の中に自然と入っていた。
「おま……おま……お前っ!? なっ、な、なにするんだよっ!」
つづいて乗り込んできた浮名がシレッとしてロイヤルスイートのある階を押しているのを見て、僕はがなり立てた。
「電話かけるなら、俺の部屋からかければいいでしょう」
「そうじゃなくて……っ!」
背中を向けているから浮名の表情がわからない。淡々とした態度には悪びれた素振りも、後悔している様子も見られなかった。
どういうつもりで僕にキスをしたのか、なおも訴えようとした僕だったが、あえてやめる。
意味を知ろうとすればなにかが終わるような気がした。終わったらもう立ち直れない。やり直すこともできないだろう。
死んだも同然になるくらいなら、なにも知らないままの方がいい。
いまのままの方がいい。
なにごともなかったかのような浮名に合わせた僕は、ロイヤルスイートルームから県警の福島警部に電話を入れた。
もちろん祖父江のあの態度とあの言葉を通報してやったのである。
昨日の今日で向こうさんも大わらわだろうけど、そんなことは関係ないはずである。どんな理由にしたって、もう一度祖父江を引っ張っていけるんだから。
福島警部に言い含められた田畑刑事がほかの同僚と一緒にやって来たのは、その一時間後のことだった。
そして更にその数分後に、僕たちは三度死体を発見することになったのである。
つい一時間ちょっと前には生きて動いてしゃべってて、僕にとてつもない不快を与えた主である、祖父江良一の他殺死体を──。
4  そして僕たちは終わりを告げる
警察署での事情聴取とやらにも、パトカーでの送迎にもいっそ慣れたような気持ちになった僕が、すっかり意気消沈している浮名と共に六久路谷温泉ホテルのロイヤルスイートルームに戻ることになったのは、その日の真夜中のことだった。
今度も前二件と似たようなことを聞かれたのだが、浮名や僕に『死んじゃえ』などという暴言を吐いた失礼の報いにしては、刺殺は重すぎる罰と言えるだろう。
僕はさすがにちょっとばかり同情したものの、沈んだ気持ちには到底なれなかった。
あれだけ嫌な男だから、いずれにしてもろくな死に方はするまいと思ったのである。
「なにどんよりしてるんだよ」
豪勢な部屋の豪勢な冷蔵庫からさっさと大吟醸を取り出した僕は、一見なんの入れ物かわからない小箱からツマミを物色し、甘いものしかないと知るやルームサービスのメニューを手にしてソファーに腰を落ち着けた。
このソファーは最初に僕がこの部屋にやって来たとき、千代紙とおぼろを両手に抱えた浮名が偉そうにふんぞりかえっていたやつで、なるほど素晴らしく心地いい沈み具合である。
「海老は美味そうだけど、やっぱり生肉系かなぁ」
冷えた大吟醸をグラスに注ぎながら、僕は“海老とホタテのカクテル、アボカドディップ添え”と“オニオン風味のローストビーフ”を注文することにした。それと追加の日本酒も。
「お前どうする?」
「…………」
なにか言いたげな顔つきをしたものの、浮名はおとなしく向かい側に腰かけてメニューを手にする。僕の注文するものを聞いてから、一緒に“ホットチョコレート”と“フルーツの盛り合わせ”なんて頼んでいる。
「酒飲んで忘れちゃえばいいんだよ」
アッと言う間に冷酒の小瓶を空にした僕は、つまらない奴だと思いつつ言ってやった。
茱萸ネエ様がいればさんざん飲み散らしてなにもかも終わりにできるのに。
コイツはたぶん一晩中むずかしいことを考えて暗い顔をしつづけるんだろう。
「ワインとかシャンパンとか飲めよ」
僕はメニューを奪い取って洋酒のラインナップを確認する。もっぱら日本酒党の僕には、高そうな酒しか知った名前はない。
「この際ドンペリとか、ほら、このシャトーなんとかロートなんとか」
「いいよ。どうせアンタが空けることになるんだから」
「そりゃあせっかくの高い酒を無駄にすることもないし、残すんだったらありがたくもらうけどね」
「とにかく俺はいらないから」
むずかしい表情で言った浮名は、着替えて来ると言って別室に消えた。
ほどなくルームサービスが来て、酒やつまみを並べていく。白いテーブルにセッティングされた真っ赤な薔薇の花を見て苦笑が漏れた。
浮名を呼んだが現れないので、しかたなく僕がサインしてまた一人になる。
新しい酒のデカンタを半分空けてもまだ来ないので、苛々して広すぎる部屋の中を探索することにした。
「うきなー」
おっと、少々呂律が回っていない。どうやらこんな状況でも少しは酔うことができるらしい。
「うきなー、てめー、逃げる気かー」
そりゃあだれでも酔っぱらいの相手は嫌だろうが、それにしたって僕は奴にとってただの酔っぱらいではないはずである。
────ああ、まずいな。まずいことがわかる。
こんな状態で蒸し返したりしたら、僕だって絶対にまずいことになるのに。
広々としたクイーンサイズのベッドが置かれた主寝室で、僕はしばらく立ち止まった。
上品なベージュの壁紙、重厚な木製の調度品。優雅な寝台で眠りについて、浮名はこの村でいったいなにを考えていたんだろう。
もやもやとした想像を追い払ってリビングとは方向の違う扉に向かった。
「あ、いた」
口に出して言ったが、外の露天風呂にいる浮名はまるで気がついていない。
ガラス張りのサニタリーは、透明なガラスと銀の調和が美しかった。広い洗面台には二つの洗面ボールがしつらえてあり、ほかもすべて二つセットで設置されている。
白いトイレに白いバスタブ。透明なガラスで覆われたシャワーブース。装飾はすべて銀のオブジェで、唯一色みがあるのは模様が描かれたタイルだけだった。
この空間だけで、僕が寝泊まりしている“藍の間”くらいの広さがあるのじゃないだろうか。
月の輝きで切り取られた窓の向こうは数段高くなっており、ガラス扉を開閉して出入りする専用の露天風呂がある。浮名はそこで物思いに沈んでいた。
「……つまんない奴……」
酔っぱらったせいで熱い目尻をこすりながら、僕はつや消しされたタイルの段差を上り、予告せずに扉を開けた。
「あ……天音……っ?」
おもてに出るとさすがに浮名も気がついて、こちらに視線を向ける。
当たり前だが風呂に入っていた浮名は裸で、あばら一つ浮いていない頭にくるような男っぽい体型をさらしていた。
「なーに風呂入ってんだよ」
「……もうあがるよ」
「やーらしい気持ちだったんじゃないのかぁ?」
自分でも制御できないもやついた気分で、僕はまるい浴槽の縁にしゃがみ込む。
泡立った湯が靴下に染み、ズボンの裾まで濡らしたので面倒になり、そのまますわると今度は尻が暖かくなった。
「なにやってんだよ……!」
服を着たまま半分風呂に入ったので、浮名が驚いて声をあげる。
「そっちこそなーにを考えながらお風呂に入ってたのかなぁ?」
布地に湯が染み込む感触が気色いいやら悪いやら、もうどうでもかまわなくなった僕はざぶざぶと湯船に入り込んで浮名に近づいた。
「あわよくば天音センパイを食ってしまおうと思ってたのかなぁ?」
「……センパイってアンタ、酔っぱらっていったいどこまで退行しちゃってるんだよ」
呆れ口調の浮名がなにを言っているのか、僕にはあまりよくわからない。
「なんで服着たまま酔っぱらって風呂に入ってくるような大人、俺が食わなきゃならないんだ」
「おや? じゃあ昼間のアレはなんだったのかなぁ?」
端っこで固まっている浮名の肩に手をかけて押すと、奴はあっさり湯船の中の段差にすわり込んでしまう。
眼下で見上げる浮名の美貌に目眩がした。
だれがどれだけ束になってかかってきても、僕にとってこの顔はやっぱり世界一なんだと感心する。よくぞ誘惑の多い学生時代を経て歪みも腐りもせず、昔のまま、キレイなキレイなこの容姿を保ちつづけたものだ。
いや──、僕は黙って浮名の頬に手を当てるとなおもしげしげと間近でその顔を観察して思う。
学生のときよりもずっとキレイで完成されていた。
ニキビも染みも一つもない。色白だからソバカスがちょっとばかり浮いた頬が可愛い。
すんなり通った鼻筋の芸術性、栗色の瞳の甘い色合い。
唇……。
その唇の優しさを、僕はとうとう知ってしまったのである。
「あま……っ」
抵抗しそうになる頭を固定して口づけた。
なんだよ、自分は勝手に奪っていったくせして、僕の好きにはさせないなんてずるすぎる。
ああ、キスなんてどのくらいぶりだろう。他人の舌の感触なんてすっかり忘れてた。
「天音……っ!」
人が夢中になっているというのに、無理やりに後頭部を押さえつけられて引きはがされる。
「酔っぱらって人を襲うのは卑怯だぞっ!」
「せいぜい五合ってとこでこのオレが酔っぱらうものか」
しかし確かに湯に入ったおかげでちょっとクラクラはしてるんだけど。
「言っとくけどなぁ、お前自分一人が被害者みたいなカオして、ガキのころからオレだけが悪いみたいに思ってんだろうけど、お前だって相当凶悪なんだぞ」
「なんのことだよ」
ムッとした口調の浮名は、のぼせているのか怒っているのか、頬が赤く染まっていた。
「お前みたいな奴にキスされて、なにも感じないだろうとでも思ってるのか? オレは不感症じゃないんだぞ」
ああ、酒のせいで貧血起こしたみたいに、生々しい記憶がいっきに僕の神経を尖らせる。
思い出に時効なんかない。忘れた振りはできても、忘れることなんてできない。
認めるしかないじゃないか。
出会ったときから、自分がこの男に魅せられていたことを。
「なにもなかったことにしたがってるのはアンタだ。俺たち……何度だってそういう風になりそうになってきたけど、いつだってかわしてたのはアンタの方じゃないか」
睨まれて言葉をなくす。
「酔っぱらって大きなこと言って、どうせまた今度も、なにもなかった振りするのはアンタの方なんだろうが」
「僕は……僕はあのときまだ子供だったんだ」
少しずつ酔いが醒めてきて、僕の理性は嫌なときに戻ってきた。
学生のころ、僕は酔っぱらって確かに何度か悪ふざけをしたことがある。酒の席での余興だと言い訳して、キレイな浮名の唇に吸いついたのは僕の方が先だった。
そうでもしなければ僕が浮名に親しげに触れる機会なんてなかったからだ。
浮名は毛虫のように僕を避けて、それがわかっていたから、僕は余計にムキになっていたんだと思う。酔いが醒めればなにもなかったように、そうするしかないじゃないか。
男同士なんだから、それ以外にやりようもない。
「じゃあ、じゃあお前だって、さっきのあのキスは……じゃあなんだったんだよ」
「……可愛いと思っちゃったんだから、しかたないだろう」
たちまち目をそらし、浮名は苦くささやいて答える。
うつむいた額に前髪が垂れ、消せるはずのない学生のころの面影と鮮明に重なった。
軽薄な容姿や行動の裏で、生真面目で誠実な素振りを見せる不思議な後輩。
だれよりも近づきたくてこのときを待ち望んでいたくせに、彼から注がれる無能者を見る冷たい視線に耐えられずいつも逃げてきた。
キスされたとき、だから本当は、僕は嬉しかった。
「天音?」
「……帰るよ」
悪ふざけが過ぎた。僕は夜風に震え出した肩を抱え、小さく言って踵を返す。
「帰るって……」
浮名が立ち上がる水音に、恥ずかしい連想が脳裏に焼きついた。裸の浮名と向き合ったら、今度こそ羨望の眼差しになって、見つめる僕の赤裸々な欲望がさらされてしまうだろう。
同性に欲望を抱くなんて……。致命的だ。
「天音」
声にきつい調子が混じった。そりゃあ僕がはじめたゲームだから、勝手に降りれば叱られてもしかたない。
だけどこのままつづけてはいけないのだ。絶対にいけない。
「天音……! ずるいぞ!」
「ッ!」
声に応えずまっすぐ歩こうとした僕は、間抜けなことにガラス扉の存在を忘れて突進し、透明な壁に思い切り激突してしまった。
「イツツッ」
「天音」
裸の浮名が追いついて、掴まれた僕の肩はクルリと反転させられる。
「さっき気がついたわけじゃない。本当はずっと……ずっと、アンタを前にすると、俺は心がおかしくなって、ごまかしてきたんだ。だけどアンタもその気だったなら、もうなにも……」
見下ろす浮名の眼差しが真剣で怖い。
逃げようとしても無駄なことはもうわかっていた。僕だって本当は待っていたんだから。
なにか応えようとした唇が激しい口づけに飲まれたとき、僕は六久路谷に訪れてはじめて、この地の思い出を薔薇色に染めることになった。
僕はこういうことには慣れていない。
いや、ハッキリ言ってしまえば経験なんて、たった一人との三回こっきりなのである。
そのたった一人というのは女性で、大学時代につきあって別れた。つき合った理由はお察しだろうが酒で、別れたキッカケも酒である。
酒に酔っていたから交際がはじまり、酒に酔っていたから言わなくていいことをペラペラとしゃべって失敗した。
思い出すといまでも赤面して地団駄を踏みたくなるような、そんな激しい居心地の悪さを感じるのだが、たぶん恋愛というのは、その地団駄をくり返さなければうまくなれないゲームの一種なんだと思う。
僕は一度の失敗で懲りており、以降二度とは失敗すまいと臆病になってしまった。
薄暗い寝室で言葉もなく折り重なって寝台の上に倒れたとき、僕はまた失敗をくり返すのではないかとひどい後悔をした。
浮名とは駄目だ。浮名とは失敗したくなかった。
暗がりの中でもわかる美しい浮名の肌に手を添えて、そのぬくもりを感じていると、泣きたいようなせつなさが込み上げて、自分がどれほどこの男が好きだったのか思い知る。
「ずっと……ずっと好きだったんだ」
付け足しみたいに浮名が言う。なんだが茫然としたような声だった。
「わからなかったんだ」
ああ、その気持ちならわかるなと思う。だって男同士だったんだから。
暗くてわかりにくい裸の浮名の素顔が子供じみて可愛らしい。だから僕も素直になりたくなっている。
「オレもだよ」
うなされたようにささやきを返した。言った途端に例の居心地の悪さが襲ってきて、しなやかなシーツの上で身もだえする。聞こえなければいいのに、そう思いながら、だけど言わずにはおれなかった。
僕はとてもとても、この美しい男のことが昔から好きだったんだから。
浮名は僕の唇を貪《むさぼ》り、酒のにおいに眉を顰める。その嫌そうな表情がまた可愛くて、僕はつい無理やりに頭を押さえてキスを奪った。
暖かな浮名の唇。その美しい形が歪むまで甘噛みして舌をからめる。
嫌がる浮名がいとしくて、よけいに執着した。
そのうち重なった体の重みに苦しくなって僕が先に音をあげる。
「ア……」
あげた声の細さに自分で驚き、僕は思わず赤くなった。暗がりではきっと知られまいが、薄ぼんやりと浮かんだ浮名の美貌が、一瞬嬉しそうに笑うのが見える。
なにが可笑《おか》しいんだと、責めるつもりで拳を握り、固い肩口を殴りつけた。
「だって……」
痛がって身をよじりながらも、浮名は笑ったまま僕の首筋に吸いついてくる。
「だって、アンタのそういう声に、結構感じたりしてる自分が、なんか感動」
そんなことでいちいち感動するなんて嫌な奴。いや、ここは可愛い奴と思わなきゃいけないんだな。
サービスしてやるのはしゃくだけど、押し殺しても漏れる呻き声がかえっていやらしくて、僕はもうなにがなんだかわからなくなってしまう。
情けない僕とくらべれば、浮名は結構な経験があるんだろう。こういうときに照れもせずに裸をさらして、布団もかぶらずよく愛撫なんてできるもんだ。
たくましい肩のラインや、その二の腕のしなやかな動きなんかに見惚れるばかりの僕は、せいぜいが剥き出しになったなめらかな首筋に歯を立てることしかできない。
舐めなぞった首筋からうなじの暖かな舌触りが、肌の上を優しく這う手指の動きと連動する。
脇腹、腹筋、太股、内股、的確に、確実に、その愛撫は中心を目ざしていた。
僕がたまらなくなったのは臍《へそ》のあたりをくすぐられたときである。
「や……ッア、ア、バカ……ッ、ア……ア……ッ」
腹を抱えてまるまりそうになった僕の背中を、浮名は優しく開いて拡げる。
シーツの上、まるで実験動物のように大の字にさせられて、僕はたまらない声をあげながら浮名の前で無防備な腹をさらしつづけた。
「ここがスキなんだ」
好きなわけじゃない。苦手なんだと、言おうとした声がただの喘ぎになってしまう。
僕は涙をこぼして首を振った。
もう駄目だと、なんとか降参の意図を告げようとして夢中になって僕の腹を吸っている浮名の髪に噛みついて引っ張る。
「イテ、イテテッ」
ようやくあげた顔にぶるぶると首を振った。
「ダ……ダメ……も、オレ、で、……出る」
なんとも言い様がなくて直接的になってしまったが、繕っているゆとりがない。
こんな格好で射精したら恥ずかしくてどうにかなってしまう。なによりも浮名がまだ全然へっちゃらそうなのが腹の立つ。
「……一回、イッとく?」
揶揄する口調ではなかった。真摯な眼差しを僕にそそいで、浮名は限り無く優しい手つきで僕の髪を撫でてくれる。
僕はたちまちせつなくなって、ついつい涙をこぼしてしまった。
「どうしたの?」
優しいから。
「泣かないでよ、天音」
どうしてこんなに優しいのか、僕の涙腺もどうかしてしまったのか。こんなに涙もろくなってるなんておかしい。
「お前は……?」
しゃくりあげてなんとか涙を飲んだ僕は、目の前にある浮名の美貌を両手で固定してきつく問うた。
「お前は、なにも感じないのか?」
「感じてるよ」
浮名の頬はさっきから赤らんでいる。夢中なのはわかってる。だけど“もっと”感じて欲しいというのは、はじめての関係で欲張りすぎなんだろうか。
「わ……っ!?」
僕が直接股間に手を伸ばすと、浮名はさすがに妙な声をあげて腰をあげる。
「なっ? なに……っ?」
「……なんだよ、コレ」
竿の部分を握った僕は、頭に来てこすり立てた。
「お前、コレで半勃ちなの?」
「やめ……っ」
浮名は腰のあたりでもだえながら、真っ赤になって半身起こしてしまった。
「集中できなくなるからやめてくれ」
「そんなのオレだって一緒だ」
自分だけ冷静でいるなんてずるい。僕も身を起こし、裸の体を真正面にして向き合う格好になった。
たぶん僕がこのでかいナニを受け入れる方になるんだろう。でかいったって、バケモノみたいに凄くでかいってわけじゃないけど、少なくとも僕よりはでかいし、完全に勃起するとまだもう少し固くてふくらんだりするに違いない。
ふだんは気にならなかった部分が、いやに切実に気になりはじめる。
「……今夜はアンタが気持ちよくなってくれれば、それでいいんだよ」
「なんだそれ」
「それで俺も気持ちいいんだし」
「ふざけんな」
なんだか舐められてるみたいな気持ちになって、僕は酔いが残っているのか、またも大の字に転がった。
「そんなにオレを気持ちよくしてくれるってならどっからでも来いよ。その代わりすることしないんだったら、オレのこと好きだとかもう言うなよ」
「なにそれ」
「オレだけ気持ちいいんだったら風俗と一緒じゃないか」
首だけ向けて挑戦的な目で見てやると、ようやく火がついたのか、浮名の瞳にギラギラした欲望が入り混じる。
「……また泣くなよ」
「泣かないよ」
「やめないからな」
そう言って浮名は僕の両足首を掴む。
それから、たぶんそうされるんだろうなと思っていたことはすべてされた。
肛門も舐められたし、そこに舌も差し入れられた。そういうのがあるのは知っていたが、前の恋人のときには使わなかったローションも使った。
蜂蜜みたいにドロドロしているものだと思っていたが、もっとずっとなめらかでスルスルした感触のする粘液は、僕の肛門をベトベトにした。
なにがなんだか、強がって好きにしろなんて言うんじゃなかったと、幾度もやめろという言葉が喉をついて出そうになったけれど、そうしたら本当にやめてしまうだろうと、僕は最後まで意地を通した。
最後──。
その言葉がふさわしいかどうかはわからないけれど、僕はもう、そのとき本当に“コレが最後だ”と思った。
浮名の奴も何度も何度も、なだめるみたいに『もうちょっと、もうちょっとだから』とくり返していたし。
実際その作業はひと苦労だった。まさに肉体労働である。
こういう関係で強姦なんてされたら、きっと男は死ぬんじゃないかと思ったほど、挿入には困難と互いの協力が必要だった。
そもそも“好き”という気持ちがなかったら、こんな格好、だれが好き好んでできるんだろう?
ああ、まぁ、こういうのが好きっていう人に文句を言うつもりはないのだけれど……。
少なくとも僕には向かないと思った。
浮名の分身が自分の中に落ち着いて動き出してからなんて、あれだけ強がったっていうのにその甲斐もなく、ひぃひぃ泣いてしまったし。
僕はもう、とにかく浮名が早くイッちゃってくれないかと、こんな行為それだけでしかないと、途中まで物凄い被害者意識を持って揺さぶられていた。
浮名もまた、歯を食いしばって耐えている僕の表情を見て気の毒に思ったんだろう。快楽を追求しながらも口では謝罪の言葉を紡ぎつづけていたから。
その苦闘が別のなにかに変じたのがどのあたりだったのかは、自分ではわからない。
“別のなにか”っていうのは、言ってしまえば快楽なんだけれども。
拒絶感が慣れてくると、体の奥からそれがふくれあがって、僕は臍を舐められたときよりももっと身もだえして、狂ったみたいに跳ね出してしまった。
浮名なんて僕がおかしくなってしまったんじゃないかと思ったらしいが、本当にそんな感じの体の反応だった。
だってその感覚は、僕は生まれてこの方、さすがに何回したかわからない自慰行為のどのときにだって感じたことはないけれど、確かに“快感”で、それも凄まじくて、凄すぎてなにがなんだかわからなくなってしまったくらいの強い悦びだったのである。
僕はひぃひぃどころかぎゃあぎゃあ泣いて、泣きながら夢うつつ、浮名に向かって何度も何度も『イイ』と訴えつづけてしまった。
泥酔しているときの方がまだ増しってくらいの酩酊ぶりだった。
僕はすっかり快楽に酔ってしまって、恥ずかしさや理性をふっ飛ばしてしまったのである。
体の芯をえぐり出される苦痛が、なにか別の、熱くて激しい甘いものを注ぎ込まれる感覚に、僕自身が別のものに変わってしまったような感じだった。
激しい律動の断末魔、浮名が僕の中で射精して、僕が夢中でその感覚を追いかけて一緒に射精して、そうして満足の吐息を漏らしたとき、はじめてセックスが好きになった。
浮名聖こと樋尻浮名って男のことも、“好きな男”ってどころか、“アイしてる男”ってことに気がついたのは、実はこのときだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ベッドの上でものを食べることなんてご免だけれど、自分が掃除するわけでもないとなると、結構平気なものだということがわかった。
金色の光でいっぱいのゴージャスなロイヤルスイートルームのシーツの上、僕たちは一寝入りしたあとで深夜食を広げていた。
もしかして“たち”という言い方はふさわしくないのかもしれない。飲み食いしていたのは、なぜかもっぱら僕の方であったから。
「食わないの?」
「いい」
赤い色した芳醇なローストビーフのサンドイッチを頬ばったままの僕の問いかけに、枕に突っ伏した浮名がぼんやりと答える。
神経質で繊細な奴。そうと知っていたけれど、こういう関係になって余計に強くそれを感じる。
「……アンタってホント……」
充血して潤んだ瞳を僕に向け、浮名は信じられないという表情になった。
「なんだよ」
そこで止まると気分が悪い。
「いい」
しかし浮名はそれ以上は言おうとはしない。
「どうせ無神経とか、情緒がないとかそういうことなんだろう?」
「怒らないでよ」
ムッとして言い指すと、浮名は寝返りを打ってあぐらをかいている僕の腰を抱いた。
さすがに二人とも浴衣は着ていたけれど下着はつけていない。少しばかりの羞恥が、むずむずとした居心地の悪さを腰のあたりに伝える。
「……ねぇ、アンタまだあの美人女将を疑っているの?」
「そりゃあ、だってほかには考えられないんだから」
もちろん村中の人間や、僕らの知らない変質的な温泉客が潜んでいる可能性はまったく否定はできないけれど、そういうところは警察に任せたい。
「むしろ僕があの人を怪しいと思う原因って、こうも先々でタイミングよく死体が見つかっちゃう点なんだよね」
「俺たちが第一発見者になってることが変だって言うの?」
「おかしくないか?」
「偶然だと思いたいけど」
「オレだってそう思いたいよ」
なにしろお前のことまで犯人かもしれないなんて思ったんだ、というところまでは口にしない。
「だけど偶然で三回もつづくか?」
「少なくともひびきのときは、計画していた行動とは思えないけど」
僕の腰を抱いたまま、浮名は眠そうな口調で言った。
シーツの上に載った銀盆を見下ろし、僕は冷たいままのフレッシュオレンジジュースを口に含む。
「一回目はだれでもよかったからだよ」
「だれでもいいなんてことがあるか?」
「だから、犯人が若女将ってことならありえるだろう?」
「つまり、村を有名にするためにだれかを殺して生けにえにでもしようってこと?」
微笑した浮名は身を起こして僕の太股に頭を乗せた。
「突飛だな。桑名が好きそうな展開」
「納得できないか?」
「それが本当なら、ひびきが死んだ理由は虚しすぎるね」
「……好きだったのか?」
手を伸ばし、僕はしなやかな亜麻色の髪を撫でる。
優しい彼の性格はわかってた。どんなあばずれだろうと、コイツは相手が女性であれば、限り無く寛容になれるのである。
「可哀相だ。だれでもよくって殺されたなら……可哀相」
僕はしばらく彼の感傷につき合った。
浮名の女々しいところも可愛いと思う。男らしいとか、そうでないとか、僕には別段なんの支障もない。
そもそもこの同性愛関係自体が、世間で言うところの醜聞であり禁忌なんだから。
「咲屋ひびきの殺害された原因が六久路谷の売名にあったなら、千葉リカコの殺害された理由も見えてくる」
「リカコもアイドルだから?」
「それはこの際付随だったんだと思う。例の一件の」
「……なんとかワイドとか、サスペンスなんとかの世界だ」
ため息をつかれる気持ちはわからなくはなかったけれど、それでもやっぱりそれ以外には思いつかなかった。
「だけどこのラインなら点と線が結ばれるだろう?」
僕はひびきをサンドイッチに、ジュースをリカコに、そしてフォークを祖父江に見立てる。
「若女将は売名のためにまずだれか有名人を殺そうと思い立った。その対象はたとえば茱萸ネエ様や平野さんでもよかったんだと思う。もちろんそっちの陣営のだれかでもね」
「騒ぎが大きくなりそうなときをねらったわけ?」
「一番重要なのは、あのとき咲屋ひびきがタイミングよくたった一人であの時間あそこにいたことだったと思う。なぜそのことを若女将が知ったのかはわからない。あるいはだれか一人で来ないものかと張っていたのかも」
「ずいぶん当てにならない計画だね」
「でもあのとき、ひびきが一人であそこにいたことを知っていた人物はほかにもいた」
水を差す浮名の言葉を無視して、僕は残りのサンドイッチの一かけを口にした。これで見立てた咲屋ひびきはいなくなってしまう。代わりにフォークを空になった皿の上に載せた。
「それが祖父江だ」
「アイツはリカコのときのアリバイが固い」
「だから違うって。奴はきっと見てたんだよ」
「……まさかひびきが殺されるところを?」
「それしか考えられない」
なんだかこうして口にすると不安感が込み上げてくる。というか、いくらそうじゃないかと思っているからって、この推理が本当ってことがあるんだろうか?
推理なんて呼べるような代物でもなく、稚拙極まりない動機という気がするし、なにより大事なことを二つ、三つ忘れてしまっているという気がするんだけど……。
「祖父江はひびきが殺されるところを目撃していた。そして例のリカコ発言を聞いて、若女将を脅し、リカコを殺すように命じた」
「それで若女将がアッサリと言うことを聞いたって?」
「彼女は六久路谷を有名にするためならなんでもすると言ったんだ。一人殺していれば、あとはもう何人殺そうと躊躇しないだろう」
「そんな大ざっぱな殺し方ってあるかな」
半信半疑の浮名の声をまた無視して、僕はリカコに見立てたジュースを飲み干した。さすがにもう嫌な気分になった僕は、浮名の頭を横にどけて銀盆をベッドサイドに片付ける。
「祖父江の言うなりにリカコを呼び出して殺した若女将は、共犯か、もしくはそれに類する関係にあった中上支配人から祖父江の動向を知り、僕たちと入れ違いに訪問した部屋で彼を殺害した」
「口封じに?」
「うん」
頷いて浮名の顔つきをうかがった。
どうなんだろうか? やっぱり弱い動機なんだろうか?
「理屈は通るんだけど、やっぱりそれで人殺しをするっていうのが……」
浮名はすっかり暗い表情になってしまっている。
「それに祖父江は痩せていたけど一応は男だよな。あの若女将に殺せるものかな?」
「凶器さえあれば隙をうかがうことは簡単だよ。逆に女性だからこそ、祖父江は油断して背中を向けたってこともありえる」
祖父江良一の死因はまだハッキリしていない。僕たちが部屋に入ったときの状況から判断すれば、部屋にいたなにものかによって鋭利な凶器で背中を突き刺され、昏倒したところを更に何度か刺されて絶命したってところだろう。
咲屋ひびきは凶器で殴られて死んだ。千葉リカコの殺害方法は絞殺だった……。
「あ、ほら、千葉リカコだけは首を絞めて殺してるってことは、やっぱり若女将が怪しいんじゃないかな」
「どういう意味?」
「だから、殴ったり刺したりすれば出血して風呂が汚れるじゃないか」
「……殺した死体は湯船の中にそのままだったじゃないか」
なんだかことごとく反論されているという気になってきた。
「じゃあお前はだれが怪しいと思うんだよ」
「別に無理やり俺たちの知っている人たちの中に犯人を当てはめなくてもいいんじゃないの」
僕は危うく『それじゃあおもしろくないじゃないか』と言ってしまうところだった。
自分では結構そういう不謹慎さとは無縁のつもりでいたんだけど、やっぱり人間って土壇場では勝手なものになってしまうものなんだなと思う。
「天音?」
「歯ぁ磨いてくる」
自己嫌悪の気持ちが湧いて、僕は一人で広いベッドを降りた。
派手な洗面所できれいに整えられたグッズの中から、歯ブラシと磨き粉を取り出し、言った通りに歯を磨いていると、長身のために丈の合っていない浴衣を羽織っただけの浮名がふらりとやって来る。
「天音」
「……あに……」
口の中が泡だらけでうまく言葉が返せない。
「なんだよ?」
鏡の中で黙ったまま突っ立っている浮名に業を煮やし、僕はたっぷりの水で口をゆすいで振り向いた。
「俺、アンタとゆっくり二人だけで過ごしたい」
「あぁ?」
眉を顰めながらも、浮名の言いたいことはわからないではなかった。
僕だってもうこの六久路谷には長居なんてしたくない。僕よりも繊細な浮名にしてみれば、この状況でメイクラブしたりするのは相当に異常なんだろう。
「これ、ここだけのことじゃないよな?」
「そんな簡単にここだけのことにできるなら、最初から体つながない」
「だってアンタ、結構その場限りのことあるから」
ひどい言われようだ。だけどあながち否定しきれないから悲しい。
「その場限りなんかにしないよ」
ガラスの壁と白いタイルに囲まれたサニタリーで、僕は自分よりもずっと経験豊富なはずの浮名を相手に、なぜかなだめるみたいな口調になっている。
「……学生のときは……お前のことを意識しすぎてたんだ」
言いたくなかったけれど、僕は情けない表情をしている浮名を安心させるために告白した。
「いまだって、そうだけど、お前の才能、一番買ってるのはオレだから」
「それは……」
「言わせろよ」
複雑そうな顔をした浮名に、僕はたぶん赤面しているだろう顔を向ける。
「ほかの奴がお前のことをわかってるみたいな口をきくのが嫌だったんだ。だからわざと酷評もした。お前にとっては嫌な先輩だっただろうけど、それでも十把一からげの存在にはなりたくなかったんだ……。天才のお前の、ライバルにはなれないとしても、せめて目の上のたんこぶくらいの存在にはなりたかった」
「天音」
「子供っぽい真似だったってわかってる。だけど、しかたないだろう、こういう気持ちが好きだなんてこと、知らなかったんだから……」
「天音」
両手を差し伸べてきた浮名に肩を抱かれ、愛玩動物にされるみたいに頬擦りされてキスされて、僕は浮名がくり返し『俺も』とくり返すのを聞いた。
幸福な気分だった。
血生臭い村にいることはわかっていても、その渦中に巻き込まれていることは承知していても、それでも幸福な気持ちでその夜は過ぎていったのである。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
翌朝僕はまったく気乗りのしない顔をした浮名を連れて六久路谷温泉旅館に向かった。
気持ちの上では緊張していたけれど、ある種の確信が僕をつき動かしていた。
なんというか、もし自分が刑事だったならポンッと一つ手を叩いて、“間違いない!”っという感じだったのである。
「やめようよ」
朝まだ早い時間だというのに懲りもせずに張っているワイドショーのリポーターやカメラの連中を蹴散らして、ようやく旅館にたどり着いたというのに、浮名はすっかりやる気をなくしている。
目の下に浮いた荒淫のための隈は、ひょっとしたら僕のせいなんだろうか?
まぁ、確かに初心者にしてはノリがよすぎたかもしれないが、それにしたって経験値は僕よりも絶対に上だろうに、つくづく情けなくて可愛い男。
「ここまで来たら確かめなきゃ帰れない」
僕は昨夜──というか今朝方──から何度目かわからない答えを返すと、早朝の旅館の玄関をくぐる。
「あ?」
打ち水をしていた番頭さんが、突然現れた僕と浮名に気がついて顔をあげた。
「どがいしたがですか? こがいに朝早ように」
「若女将は?」
「いらっしますがね。お帳場の方ですがの……」
僕はお礼もそこそこにスリッパに履き替えて帳場に向かう。
ぶつぶつ言いながら浮名がついてきているのはわかったが、その後ろから心配そうな番頭さんまでついて来ているのにも気がついた。
そんなに僕は暴れ出しそうな顔つきをしていただろうか?
「おはようございます」
さわやかな朝の空気に満ちた帳場に入ると、若女将は一人で予定の記された白板の前に立っていた。
番頭さん同様、突然やって来た僕の顔を見て驚いた表情を浮かべたものの、すぐに笑顔を浮かべてみせる。
「おはようございます、先生方。おかえりなさいませ」
朝の若女将ははじめて見る洋装だった。若くて可愛らしい。色白で色っぽくて清純そうで、なんというか、それこそドラマの中の犯人役のようである。
「昨夜はご苦労さまでした。こがいに事件つづきでは、気の休まる間もありませんでしょう」
若女将はどうしてここに僕たちが来たのかは問わず、小さな木製スツールを勧めてくれた。
「お部屋にご朝食運びましょうか? それとも皆様と召し上がられますか?」
「食事はいいんです」
僕はいささか気づまりな感覚を覚えて咳き込む。
「それより若女将に聞きたいことがあって来たんです」
「私に聞きたいこと?」
きょとんとした若女将は、まさに例の、犯人がしらを切るあの雰囲気を漂わせていた。
「なんでしょうか?」
「咲屋ひびきさん、千葉リカコさん、祖父江良一君を殺害したのは、貴女ですね、若女将」
僕はここが肝心とばかりに静かに切り出した。
頭の中ではまさにクライマックスの『ドドォン』という効果音が奏でられていたが、現実にはシーンとした気配だけが漂っている。
「あのぉ……」
青ざめるでもなくとぼけるでもなく、若女将は所在なげに僕たちの顔を順番に見つめた。
「それはそのぉ、先生、本気でおっしゃられておるのでしょうか?」
「本気です」
こんなこと冗談では言えない。なんとなく僕も面接に失敗してしまったような焦りが生まれたけれど、ここでなにも言ってない振りをするわけにはいかなかった。
「あなたはこの六久路谷のためならばなんでもすると言いましたね」
「はい、でも……」
「あのときの貴女からは、旅館の若女将という立場を越えた超人的なパワーを感じた。この人ならば本当になんでもしてみせるだろうという気迫です」
「それは……」
「かねてから六久路谷の名前を全国に売る機会をうかがっていた貴女は、二つのテレビ局が同時にドラマを制作することを知り、この機会を利用することにした。いや、組合にテコ入れすることのできる貴女なら、恋人関係にある中上さんと協力して、わざと二つのテレビ局の日程をブッキングするように操作したのかもしれない」
「あの……」
若女将は口をもぐもぐさせてなにごとか言いかけていたが、僕はそのどれも聞かずに無理やりに話を進める。そうでもしなければとてもこんな推理、最後まで述べられそうもない。
「綿密な計画を立てる必要はなかった。なぜなら貴女の目的にとっては、だれが死のうと結果的には問題などなかったからだ」
断定的に言ってやると、もはや若女将はおとなしく口を閉ざし、なにも言おうとはしなくなる。
ついでに黙り込んだ浮名は、なぜかリラックスしてスツールにすわり込み、事務机の上に肘をついて眠そうな顔をしている。番頭さんだけが青くなってオロオロしている。
居心地悪いったらありゃしないけれど、それでもここまで来たらやめられないのが僕だってつらい。
「貴女は公営露天風呂で殺害に丁度いいタイミングを待ちつづけ、ほどなく咲屋ひびきが単独でやってくるところと遭遇した。あとのことを考えると、彼女が一人でいられた時間はそれほど長くはなかっただろうから運がよかった。貴女はひびきさんを凶器で殴り殺し、やって来た僕たちに隠れて旅館に戻った。それですべては終わるはずだったが、タイミングの悪いことに犯行は祖父江良一に目撃されていた。写真を撮られていたんでしょう」
僕は周囲の冷たい反応を無視して一息ついた。
「祖父江良一はファンだった咲屋ひびきを殺害された恨みがあり、そのひびきを軽んじる発言をした千葉リカコが許せなかった。だから写真を盾に貴女を脅し、リカコ殺害を命じた。せっかく六久路谷が全国区になろうとしているというのに、いま逮捕されるわけにはいかないと、貴女は理性を取り戻す間もなく、千葉リカコさんを殺害してしまった。たぶん中上さんに協力を依頼して彼女を呼び出したんだろう。貴女は自分の旅館で流血することは我慢できず、殺害方法を変えた。どちらにしても彼女をこの旅館に迎え入れた貴女なら、タイミングをはかることは簡単だったはずだ」
頭に来ることに浮名はあくびまでしている。横殴りにその頭を叩き、ムッとしているのを無視して更に話をつづけることにする。
「警察に疑われていることを自覚していた祖父江は、貴女を利用してリカコ殺害の鉄壁のアリバイを作り釈放されたが、人を使って気に入らない人物を殺害する術を覚えた彼は、更に貴女に殺人命令を下した。浮名聖の殺害を」
「えっ?」
自分の名前が出て今度こそ驚いたんだろう。浮名はようやく眠気を覚ました。
「アイツが本気で俺を殺すつもりだったって?」
「だから若女将は祖父江を殺したんだよ。理性を取り戻し、写真を取り戻して二度と言うなりにはならないつもりで」
「なるほどね」
なるほどって……。ようやく感心されたんだとしても嬉しくない。
「違いますか? 若女将、六藁和由さん」
「違います」
最後の最後でまたあっさりと否定された。
若女将の表情は怒ってはいない。どちらかというと微笑ましげに呆れているといった風だろうか。
「感心いたしましたが……、そのぉ、私はひびきさんが殺されたとき、5チャンネルの皆様と一緒にカラオケをしておりましたきに」
「抜け出したこともありえるんじゃ……」
「私はずっと舞台におりましたき。平野さんに放していただけなかったですきに……。そのことは警察の方にも説明いたしまして、それが一応アリバイということになっておるようで、あれ以来それらしいことはなにも……」
若女将は恥ずかしそうに頬を染めた。
平野っ、あのオヤジ! 色っぽいことなんて無縁そうな顔して……!
僕は自分で勝手にかいた恥のあまりに真っ赤になってしまった。
「あの、でもその、素晴らしい推理でしたきに、先生。私も思わず自分が犯人のような心地になってしまいました……」
若女将に慰められるのがまた情けないやら恥ずかしいやら。
「すみませんでした。貴女には動機があったから、つい……」
「私が……六久路谷が有名になるためならどがいなことでもと決意したがは……恥ずかしいんですけれど、イタリアにいる夫が、少しでも早よう戻ってくれる気持ちになってはくれないがかいう、恋しさからですきに」
言った途端、若女将は乙女のように恥じらってうつむく。
「中上さんとは、とても親しくさせてはいただいておりますけれど、あの、でもちょっと恋愛感情を持つにはお年が……。それに私、本当に夫を愛してるんですがか。夫がいないと寂しくて、こういう事件がつづいてつらいんですけど、でもそれで夫が心配して帰ってきてくれるならとも思うてしまって……。殺された方たちには、とても不謹慎な考え方なんですけれど……」
それは僕もわかる。
人の死が関わっているんだからと、わかっていて不謹慎でも、自分本位に物事を考えてしまうのが恋する人間ってやつなんだと思う。
僕もそうだから……。
この話が出たときに彼女にここまできちんとしゃべらせていれば、僕はこんな推理を展開しようとは思わなかったに違いない。
この推理は、彼女にとってのナンバーワンが“六久路谷の売名”にかかっていてはじめて成立するものだったのだ。旦那さんが恋しいだけならば、殺人を犯すよりも先にイタリアに渡っているだろう。
「ごめんなさい、若女将」
立ち上がり、なぜか浮名が頭を下げる。
「この人そうは見えなくても猪突猛進なところがあって、走り出したら激突するまで止まらないものだから」
「はぁ、本当に。おだやかな先生が怖い刑事さんに見えましたきに」
それでも若女将は優しく笑ってくれて助かった。
「番頭さん、そがいに青うなって」
「……ハイ、驚いて」
若女将に指摘されて、番頭さんは額の脂汗を拭っている。確かにひどい顔色だった。
「まさか若女将に限ってとは思いましたが……」
「あの人がいてくれれば一番なのにねぇ」
まだ旦那のことを言っている若女将の顔は、たったいま犯人扱いされたことなど本当にどうでもいいようである。器が広いというか、恋は盲目というか。
「……本当にすみませんでした」
僕は平謝りに謝って、浮名と一緒に帳場をあとにした。
「ごめん」
「いいよ」
浮名にも謝ると、彼もまた馬鹿にすることなく笑ってくれる。
「それよりこれで気が済んだだろう? 俺たちにできることなんてやっぱりもうないんだよ。これ以上嫌なことが起こる前に、東京に戻ろう」
「うん」
気がかりは残っていたけれど、実際問題として祖父江の死は駄目押しだった。もうこれ以上一人の死体も見たくはない。
「じゃあ俺、荷物取ってくるから」
「えっ?」
「ホテル、引き払ってくるよ。昼前に一緒に帰るだろう?」
「……うん」
旅館を出ていく浮名の背中を見送って、僕も踵を返した。
いつまでもつまらない墓穴に落ち込んでいてもしかたない。あの推理を警察の前でやらなかっただけでも増しだと思わなきゃ……。
「ふぅ」
大きく息を吐いて気持ちを改め、僕は“藍の間”へと向かう。
「先生、先生……!」
と、薄暗い廊下を進んでいく僕の耳に、聞き慣れない切迫した声が届いた。
「大変ですがな、先生……!」
「どうしたんですか?」
あんまり緊張した声だったので、一瞬嫌な予感がした僕は、暗がりから現れた人影を見て安堵しながら首を傾げる。
「城ヶ根さんが殺されて……」
「ええっ!?」
その言葉を聞いた瞬間、僕は全身の毛が逆立つような恐怖に襲われた。
「ど、どこで……」
「こっちです……!」
慌てて踵を返したその人のあとを追いかける。
考えてみれば、いままで殺害された人たちはみんな赤の他人だった。ちょっと、いやかなり不謹慎ではあるが、祖父江なんて死んでも特別ショックということもない。
だがみどりは違う。みどりが殺されたなんて信じられない。
若女将が犯人ではなかった以上、僕にはもう犯人がだれかということはおろか、動機もわからなかった。
六久路谷に集まった人たちを無差別に殺しまくっている残虐な犯人がどこかにいるということなのか、それとも僕の知らないなんらかの事情があって、あの人たちを全員殺さなければならなかったのか。
どちらにしてもみどりが死ぬなんて……。
「先生、足もとに気ぃつけて……」
本館から新館に移動する太鼓橋を渡るとき、その人はそう言って僕を先行させる。
僕は人影のない新館へと向かいながら、こっちには露天風呂があるということを思い出した。
こんな早朝にあの仕事熱心なみどりが露天風呂を利用することなんてあるだろうか?
食事の前の一風呂にしても……。
いや、そもそも露天風呂はまだ開放されるどころではないんじゃないか?
「あの……」
いったいみどりはどこにいるのか、露天風呂を示す矢印の前まで来た僕は、不安になって振り向いた。
──そのときのその人の表情を見て、僕はすべてを知る。
人間の顔を見ただけで、いったいなにが起こったのか知る術があるだなんて僕は思いもよらなかった。
だけど間違いない。
僕はすべての殺人の犯人が目の前にいる人であることに気がついてしまったのである。
「先生……先生は若女将の味方だと思っていたよ」
静かな声は思い詰めた厳しさと同時に、抑え切れない怒りにも似た感情で震えていた。
「あなたが……」
背中には露天風呂へとつづく長い階段がある。新館へと逃げるためには、その人の背後の廊下を折れなければならない。
気づくのが遅すぎた僕は、いつの間にか追い詰められていた。
「あなたが犯人だったんですね」
ため息にも似た力ない自分の声を、僕は遠くで聞く。
「番頭さん」
本名も知らない六久路谷温泉旅館の実直な番頭さんは、青ざめた唇をぶるぶると震わせながら言うべき言葉もなく佇んでいた。
考えてみれば動機もタイミングも、僕が若女将に当てはめた推理はすべてこの人にも通用する。むしろなにをするにも目立つ若女将よりも確実に殺人の機会を得られたのは、この人だけだったに違いない。
「……若女将のためですか? 若女将の気持ちを察して、三人も手にかけたんですか?」
「先生はもう知らなくていいんだよ」
「理由を知らずには死にたくない」
じりじりと後ろに下がっていく僕との間合いを、番頭さんはゆっくりとつめていく。
「あなたは若女将を愛してるんですか?」
「先生になにがわかるがだね? 女将や若女将の苦しみがわかるなら、なぜあがいなホテルができる前に、この村に来て有名にしてはくれなかったがだね?」
彼は決して大柄ではなかったが、その気迫たるやすさまじいものがあり、僕はとても対抗できるという気がしない。詰め寄られれば後退するしかなくて、少しでも時間を稼がなければ本当に殺されるだろうと覚悟した。
「若女将があがいな男に尾を振らねばならなくなった原因は、この村がようけ知られておらんからやき」
「男って……中上支配人のこと? でも若女将は彼との仲を否定していたじゃないか」
「創業百年の六久路谷温泉旅館の若女将が、どがいな氏素性かもわからないよそ者とあがいに破廉恥な噂を立てられて、先生みたいに都合のいいときしかやって来ない薄情者のお客にまで人殺し呼ばわりされて、こがいな仕打ちがあるがかね」
唇を噛みしめた番頭さんは、いよいよ興奮した態度でにじり寄ってくる。
「これ以上だれもあやめたくなかったがか、もうええが。先生を殺さねば若女将に疑いがかかる。死んでもらわねば」
「……僕を殺したあと、浮名も殺すつもりなのか?」
「しかたないがね」
恐ろしい……。
まったく単純なものだ。人殺しをすると一人も二人も一緒になってしまうという通説はやはり本当らしい。
しだいに狂気の色を帯びてきた番頭さんの眼差しに身震いした直後、彼はすうっと伸ばした手で僕の肩を押そうとした。
「うわ……っ!?」
声をあげて後退し、段差につまずいて心臓がヒヤリとなる。つづけて襲ってくる番頭さんに背中を向け、行き止まりを承知で僕は階段を下った。
女湯と男湯と記されたのれんが見え、警察が立ち入り禁止のために張ったテープが見える。
「ええいっ!」
ハードルの要領でテープを飛び越し、僕は男湯ののれんをくぐって脱衣所に飛び込んだ。
こうなっては浮名の心配をしているどころではない。
いまや僕の生命は、まさに風前の灯といった状況だったのである。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
浮名聖という作家は、もともと“いつもニヤニヤしている軟派なオトコ”というイメージが定着していた。
浮名本人はなんとなく馬鹿らしい気持ちでそれを受け入れてきたが、ワイドショーの連中がなにか事件は起きないかとあちこちを徘徊している六久路谷で、さすがにこの時期にニヤニヤしながら歩く危険性は承知している。
それで必然的にうつむいて歩いていたわけだが、最近突然見慣れた派手な色の点滅に気がついて笑みを消した。
見上げると旅館に向かって数台のパトカーが、サイレンは消しているもののランプを点滅させながらこちらに走ってくる。
物々しい雰囲気に、旅館とホテルの道筋を点々と埋めていたワイドショー関係者が砂糖に群がる蟻のごとくわらわらと集まっていった。
「……なんだ……?」
思わずつぶやいたのは、パトカーのテールがまっすぐに旅館の車寄せ目がけて並んだからである。
浮名は迷ったものの好奇心には勝てず、結局ホテルへ戻るのをやめて顔見知りの刑事を見つけて駆け寄った。
「福島警部」
「ああ、どうも先生」
優しげな面立ちをした福島警部は、相変わらずいまにも弾丸のように旅館目がけて飛び出しそうに気を高ぶらせている田畑刑事と一緒にいる。
「なにかあったんですか?」
嫌な予感がして浮名の顔はサッと青ざめた。
「まさかまた……」
「いやいや、祖父江良一の解剖結果が出ただけですがね」
田畑が小突くのを無視して、福島は浮名の質問にペラペラとしゃべり出す。
「どうやら事件も解決しそうですわ」
「じゃあ犯人がわかったんですね?」
「さて、そがいなことはこれから……」
「警部っ!」
田畑はそれ以上福島に発言させるのを許さず、キッと浮名を睨みつけた。
「先生、あなたにもまだ聞くことが山ほどあるがですき。連絡先や居所は、常に警察にお知らせつかぁさいね」
「はぁ」
肩をすくめ、浮名はなんの気なしに刑事たちのあとをついていく。
「なんでついて来るがね」
「別に見てたっていいでしょう? 僕だって当事者なんだから」
不機嫌な田畑にそう言うと、利かん気な彼はまだなにか言いたそうだったが、福島にうながされてうやむやになった。
「どがいしたんですか? まぁ、大勢で……」
玄関先に出てきた若女将六藁和由は、私服、制服を含めた大勢の警官たちの姿にスリッパを出したものか出さなくてもよいものか、おろおろとあたりを見回す。
「こがいなときに番頭さんはどこへ行ったがね」
「さぁ」
バタバタとやって来た仲居は、慌ただしい調子で和由に問われて首を振った。
「ああ、ああ、そがいに慌てんでもよかですよ」
福島警部が前に出て、やはりあたりを見回して低い声になる。
「番頭さん、小林久吾さんはどこへ行ったがね?」
「さぁ、それが……」
「そう言えばさっき先生と一緒に新館の方に急いでたのが番頭さんだったがね」
遅れて現れた仲居の一人が、はたと手を叩いた。
「先生って……天音と?」
前にいた田畑を横に押しやり、浮名は思わず強く問う。
「はぁ」
青ざめた美貌に問いつめられた中年の仲居は頬を染め、コクリと頷いた。
「ついいましがたのことですがね、なにをあがいに急いでと、声をかけようかと思ったんですが、あんまり番頭さんが怖い顔しとるもんで」
「……ッ……!」
理性が飛び、浮名は靴のまま簾《す》の子を駆けあがっている。
勝手知ったる旅館の新館へと向かう背中に無数の声がかかったが、いまの彼の耳には届かなかった。
「田畑君、急いで新館に」
「はいっ!」
浮名につづいていち早く反応した福島の声に、田畑はまさに犬のごとく忠実に警官たちに指示を下す。
若女将が新館への案内に先頭を歩き、一同は怒濤のごとき川の流れにも似て一つの終着へ向けて流れていった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
わかっているとは思うが一応述べておくと、僕はあくまでも文系の人間だ。
つまり“非力で頼りない”のが当たり前と思ってもらった方がいいような人種である。
これはもちろん同じ男でも体育会系の男と比べたらの話であって、たとえば女性なんかと比べれば、それは少しは増しな方だったのではないかとは思う。
「……ば、番頭さん……僕を殺してもっ、決してすべてがうまくいくとは思えませんよ……っ」
ゼェゼェと荒い息をつきながら、僕は必死で迫る番頭さんの手から逃れる。
反撃するにもどうすればいいやらわからない。なにしろ自棄《やけ》になった番頭さんの目は血走り、脱衣所で籠やドライヤーを投げた僕の反撃などまったく意に介していないからである。
いや、それどころかこのドライヤーのおかげで大失敗をしてしまった。
「殺してみなきゃわからん……! 死んでくれっ! 先生っ!」
ぶぅんっと空気を鳴らして振り回されたドライヤーが僕の頬をかすめる。
まるで冗談のようだが、彼はドライヤーを新種の武器として使用して僕を殺しにかかっているのだ。
ごつごつした岩風呂は、入っていたときは天国だったが、こうして逃げ回るには地獄である。
湯はすべて排水されており、穴の空いた部分に落ちまいと逃げる僕の足はもつれがちだった。
湯船を囲んだ岩の奥は吉兵衛川へとつづく崖になっている。向かい側にそそり立った崖に比べればほんの二、三メートルといった高さだったが、ここから落ちて動けなくなれば、到底逃げおおせることはできないだろう。
「先生、先生だって六久路谷を好いとうてくれたがやろう!? この村のために死んでくれ!」
「そ、そんなっ!」
そんな理由でいくらなんでも死ぬ気にはなれない。これでも学生時代からの恋をようやく実らせたばかりの身なんだから、ここで死んでは人生がいっきに色あせてしまうじゃないか。
しかし気の張った抵抗もそこまでだった。
所詮僕は軟弱な文学青年なのである。
「イタタッ」
岩の段差を逃げ回っていた僕は、とうとう湯船の中に足を踏み外し、五十センチほどの高さを落下した。
腰と足の裏が痛い。痛いが痛がっている暇のないことはわかっている。
「アゥ……ッ!」
慌てて立ち上がろうとした後ろから、黒いコードが首に回った。
「ぐっ!」
咳き込もうとした喉が急速に狭まり、僕は最悪の選択だが最後の選択でもある吉兵衛川に向かって逃げようとしてあがいた。
「先生……っ! すまないぃっ!」
耳元でがなり立てる番頭さんの力は半端ではない。いくら僕よりはるかに年を取っているとは言っても、彼は毎日肉体労働をしている現役なのである。考えてみたら腕力でかなうはずがなかった。
火事場の馬鹿力でも出ないものかと神に祈ってみたが、それで思い通りになるなら、ひびきたちも殺されずに済んだだろう。
無我夢中でコードを引きはがそうと、僕は必死で喉元をかきむしった。
苦しくて涙が溢れても、口からはもう涎《よだれ》さえ出ない。
持久力のない僕はものの数分としないうちに降参して脱力してしまう。
全身から力が抜けたが、失禁したら恥ずかしいという場違いな羞恥心が湧いて笑いたくなる。
ああ、せめて最後に浮名と結ばれたことだけが救いだったかもしれない。もしも幽霊になることができたなら、絶対に浮名にこのことを知らせに行かなくては……。
だけど、彼も一緒に死ぬことと、果たしてどちらが嬉しいだろう。
「……う……な……」
僕は彼の笑顔を思い浮かべる。
そうだった……。
彼に死はふさわしくない。僕が死んでも、たとえ幽霊になれず消えてしまったとしても、彼には日の当たる世界の真ん中をいつも堂々と歩いていてほしい。
一緒には死ねない。浮名はだれにも殺させない。
「グ……ッウ!」
僕はなんとか最後の最後の力を振り絞り、全力で吉兵衛川の川縁に向かってジャンプした。
「わわわぁぁっ!?」
驚愕と恐怖であげた番頭さんの声は、僕の体を覆いながら一緒に落下して響く。
「ゲェッ!」
僕は砂利の中に嘔吐して自分の吐瀉物の中でのたうちまわった。
全身が痛い。喉が苦しい。
心臓を吐き出しそうな動悸に目眩を起こしながら、足を引きずってユラリと立ち上がった番頭さんが、また僕に近づくのを見つめる。
今度こそおしまいかもしれない。だけどコイツがこのケガで襲っても、長身の上摂生して体を鍛えている浮名には絶対にかなわないだろう。
それだけでもこの苦しみを味わった意味がある。
おだやかな、いつの日とも変わらない川のせせらぎを聞きながら、僕は目前に迫った死を覚悟した。
「天音……ぇ!」
遠くで浮名の声がしたかと思ったときだった。驚いてあたりを見回した番頭さんの真上に、突然浮名が落下し押しつぶしている。
「この野郎っ! よくも俺の宝物を……っ!」
叫んだ浮名がひっくり返ってひるんでいる番頭さんを殴りつけた。絶対平和主義の浮名が人を殴っているのを見るのははじめてのことだった。
「宮古せんせーい!」
頭上の露天の縁から福島警部が見下ろしている。どやどやと刑事たちが崖を飛び降りてくるのも見えた。
まるで犯人みたいに取り押さえられた浮名が、警官たちを振り払い、半泣きで僕に駆け寄ってくる。
「う……な……」
声が出ない。
僕は汚れた手を伸ばし、浮名を抱いた。
「天音……天音……」
大きな体を小さく小さくすぼめた浮名は、僕の胸に顔を埋めてわんわんと泣き出してしまった。
茫然としている若女将が福島警部と並んでこちらを見下ろしている姿に気づいた僕は、番頭さんに視線を移してみる。
だが僕を襲った連続殺人犯の姿は、大勢の警官たちの中に埋もれてしまって、引きずった足の先しか見えない。
「……おまえ……いきてて……よか……た」
かすれ声でささやいた僕は、みずからの手で守った浮名の存在を力一杯抱きしめつつ、グルグルと回りながら沈んでいく意識の底に落ちていった。
エピローグ
全身打撲や擦過傷、異常らしい異常は出なかったものの、絞められて痛む首と喉の疼痛に悩まされながら、一日の入院で済んだ僕の元に、帰宅の準備を終えてやって来たのは、まずみどりと赤城君だった。
二人ともこれに懲りずに絶対に次のチャンスを待ってほしいと頭を下げて先に東京に発った。
二人が去るのを見計らってか、パジャマから外出着に着替えている最中にやって来たのは、晴れ晴れとした表情の浮名だった。
「これでようやく血生臭い一件と離れられる」
淡いピンクのシャツにスモーキーブルーのスプリングセーターを重ねた浮名は、白々しいほど、いままで通りの軟派な印象が強い。
「千代紙とおぼろのことは気に入ってたくせに」
「言っとくけどなにもなかったぞ?」
焦った口調の浮名を無視し、僕は肩をすくめた。
浮名が話をそらそうとアレコレ言ってると、ノックの音がして三番目の見舞い客が現れる。
「先生、もうお具合よかとですか?」
大きな花束を抱えたその人は、六久路谷温泉旅館の若女将、六藁和由だった。
派手な花束に比べて彼女の憔悴した地味な様子は、痛々しくて見ている方もつらい。マスコミに追い回され、あんな事件があったあとでは旅館のキャンセルも相次いでいることだろう。
彼女のこれからを思うと同情を禁じえない。
「僕の心配なんか結構ですよ、若女将」
それでも花束を受け取って、僕は彼女にスツールを示す。
「すわってください。なんだか顔色もよくないし」
「ごめんなさい……」
若女将は丁寧に頭を下げてスツールに腰かけた。
若くて美人な彼女の全身から、悲痛なオーラが立ちのぼっている。
なんとなく気づまりな雰囲気がピークに達する前に、またもノックの音がした。
愛想よく現れた福島警部と田畑刑事の姿を見た若女将が、大きく体を揺らして反応する。
「ああ、若女将もいたなら丁度いいですがね」
「……丁度いいって……」
いつでも笑顔で明るかった若女将の表情が固まり、黙っている田畑刑事と福島警部の顔を交互に見つめた。
僕も緊張して固まる。
「先生方には直接お知らせしようと思うてね」
福島警部の穏やかな語り口調が、窓から入り込むさわやかな春風と共に耳にすべり込んだ。
いつもはなにかと福島警部にストップをかける田畑刑事も、今日はなぜだかおとなしい。
「小林久吾が自白をしてくれました。事件は今度こそ、解決したとですよ」
「……ああ……っ」
顔を覆い、若女将が静かに泣き崩れてスツールに身を寄せる。
「若女将……」
思わず慰めようとして僕が差し出した手を、浮名が黙って制止しだ。
「私のせいですが……っ! 私が、私が番頭さんをいつの間にか追い詰めたがです……」
若女将は興奮して首を振り、ガバッと身を起こして福島警部のスラックスにすがりつく。
「刑事さん、私も逮捕してつかあさい! 番頭さんが私のためを思うてみなさんを殺《あや》めたなら、私も同罪ですがね!」
「それは違うがよ、若女将」
神妙な顔つきで首を振り、福島警部が若女将を立ち上がらせてスツールに落ち着かせた。
「小林はあんたのために、無我の志から殺人を犯したわけじゃなかです」
「……え……?」
泣き濡れた若女将の驚きはもっともだけど、その言葉は僕のことも少なからず驚かせてくれる。
「どういうことですか? 警部」
「小林は若女将に横恋慕しておったのですよ」
難しい顔つきをしながら、福島警部は語ってくれた。
──番頭さん、小林久吾は、長年勤めた六久路谷旅館に対して、もともとさしたる愛着があったわけではなかった。
彼が旅館で生真面目に働いていた理由は、あくまでもほかにすることがなかったからである。
仕事に生き甲斐が持てるわけでもなく、職場で恋人を見つけることもなく、彼の人生はゆっくりと過ぎていった。
和由が旅館の長男の嫁として嫁いできたとき、小林ははじめて仕事の楽しさを覚えた。それは同時に、惰性でなく生きていくことの喜びを彼に教えてくれたのである。
当然彼女が主人の嫁であることはわかっており、邪《よこしま》な想いを抱きながらも、成就のときが来ないことは承知していたと思う。
だがほどなくして若主人がイタリアに留学してしまうと、小林はほんのりとした期待を抱くようになっていった。
もしも若女将のための粉骨砕身の働きが認められることがあれば、そのときには果たせなかった一夜の夢もかなうかもしれない。そんな期待である。
前後して六久路谷にホテルが建設され、村は一種騒然とした空気に満たされた。
ほかの村人たちと同様に、おだやかで閉鎖された生活に慣れていた小林にとって、この空気こそ転機の予感だった。
若女将が女将と対立すると、小林は影になり日向《ひなた》になり彼女を擁護した。それは組合の中にあっても同じである。
小林はこのとき、自分がいなければ駄目になりそうな若女将のか弱さに、益々《ますます》女を感じていったと言う。
だが皮肉なことに、老いた番頭とまだ青い若女将というポジションに不倫の臭気を感じ取る人はおらず、組合の中で孤立した形の和由と、よそ者であるホテル支配人中上との間を疑う醜聞の方が面白おかしく噂され、広まってしまった。
根も葉もないこと、そう信じる振りをしながらも、小林は和由と中上の関係を完全に疑っていた。だからこそ、彼女のために働けば必ず褒美が頂けると信じたのである。
小林にとっての褒美とは、和由との不倫関係だった。
小林は“和由のために”という、自分の中だけで有効な言い訳に後押しされ、タイミングをはかりつづけた。
5チャンネルと7テレビのブッキングは偶然だったが、その偶然こそが小林にいまが最高のタイミングであることを教えてくれた。
小林は最終的には中上になんらかの責任が押しつけられることを願い、ホテルの宿泊客であり、またタレントであった咲屋ひびきをねらい、数年前から用意していた金槌で殺害した。
かねてから単独で行動しそうな隙のあるタイプの客には、小林はなにかにつけこの公営露天風呂を紹介していた。旅館のあるメインストリートからはずれたこの場所であれば、殺害の機会は増大する。
特にひびきは小林が陥れようとしていたホテルの客であり、隙があるという意味では最高のターゲットだった。
これを祖父江良一に目撃され、あまつさえ写真を撮影したという脅迫に遭い、一件目の殺害の興奮冷めやらぬうちに、小林は千葉リカコを殺害することになる。
祖父江の指示によって、リカコを呼び出したあて名は浮名の名前になっていた。殺害のタイミングも、祖父江がアリバイを作るために指定したもので、小林は綱渡り的な危機的状況の中で犯行を行った。
露天風呂に向かったリカコのあとを追って清掃中の札を貼り、女湯から彼女の様子をうかがい、浮名の訪れを待って男湯をのぞいている彼女の背後から、用意していた荷造りロープで首を絞めた。
このとき彼がロープを使った理由は、やはり旅館を血で汚したくなかったゆえらしい。
死体を川原に捨てようとしていたところ、人声を聞き、慌ててそのまま放置した彼は、清掃中の札を剥がし、人声から客は男性と判断して女性側の脱衣所に隠れていた。
このときやって来たのが僕と浮名である。つまり小林はあのとき女湯にいて、僕らの会話を聞いていたのだ。息を殺し、まさに滑り込みセーフの綱渡りをやってのけて────。
二件めの殺人はともかく、犯罪を犯してまで若女将の願いをかなえたはずの小林の予想に反し、彼女の憂いは色濃くなるばかりだった。
おまけに宿泊客が殺されたというのに、ホテルの外で殺害したばかりに、中上がなんらかの責任を取る気配もない。苛立っていた小林に、調子に乗った祖父江が更なる殺人を依頼した。
浮名聖の殺害である。
引き受けた小林は写真とネガの返却を希望し、祖父江の部屋を訪れる。しかしこのときすでに彼は祖父江の殺害を決意していた。
今度こそホテルの中で殺人が起これば、支配人の中上が責任を免れられることはない。証拠の写真は祖父江を殺害してから探すつもりだった。
僕や浮名との口論で興奮していた祖父江は、小林を自分の下僕だとでも思っていたのか、すっかり油断して背中を向けた。小林は旅館から持ち出した包丁で祖父江の命を奪い、写真を探した。
このとき見つかったのは写真だけで、ネガはとうとう見つけられなかった。
あとから警察がネガを見つけたが、それはなんと祖父江の胃袋の中にあったそうである。
なんらかの危機感を抱いていた祖父江が事前に飲み込んだものだろう。
警察はこのネガをプリントし、ひびきを殺害している小林の姿を認めて逮捕に踏み切ったわけである──。
「それで奴はなぜ天音を?」
暗い声で浮名が問う。
「先生の推理を聞いて、いずれ自分が告発されるのではと脅えたのですな。実際先生の推理はホシが違ってただけで、ほとんどツボはついとりましたきにの」
にんまりと笑った福島警部の顔つきに、僕は無言で赤面した。
警察の人に“推理”なんて言われることがこんなに恥ずかしいことだとは思わなかった。やっぱり僕には探偵なんてできない。
「いっそ色に狂えれば、こういった事件を起こさずに済んだものを。まっすぐ若女将に求愛せんがため、おのれの中で遠回りに回ってしまったんですな。大胆な犯行をやってのけられたのも運が良かっただけ、本来は小心者です」
「……だけど……」
スツールに腰かけて力なくつぶやいた若女将の白い頬を、透明な涙がすうっとこぼれ落ちる。
「だけど……悪い人じゃなかったのに……」
悪い人だから人を殺すのか、人を殺したから悪いのか。
僕にわかっているのは、死んだ連中はもう帰ってこないということだけである。
こうして六久路谷で起こった陰惨《いんさん》な連続殺人事件は幕を下ろした。
7テレビで製作される予定だった例の『制服探偵シリーズ』は、桑名の奔走の甲斐あってか、来年にはロードショー公開されるらしい。
5チャンネルの方はそうとんとん拍子にもいかず、いまのところみどりの頑張りにかかっているというところか。
あ、でも一つだけいいことと言えば、やっぱりイクエちゃんとヒデキ君は交際をはじめた。しかも来年早々にはゴールインするらしい。
まぁ男女のことだから、理由は明白かも。
茱萸ネエ様や平野さんの顔は、もっぱらテレビでしか見ないけど、ときどきメールが入っている。
六久路谷温泉旅館には、若女将が待ち望んでいた若旦那さんが戻ってきたらしい。
桃色のハガキが、関係者一同の元に届いている。
もちろん傷ついた心や村の空気は一朝一夕には立ち直らないだろうけれど、僕にはあの若女将ならば、きっとやれるだろうとわかっていた。
なにしろあの女は、恋しい旦那さんのためには“なんでもする”と言っていたのだから──。
え? 僕らがそれからどうしたかって?
もちろん仲良く東京に帰ったけどね、浮名の奴、帰りの電車の中でさっそく美人を見つけて鼻の下をダラリと伸ばしていたんで、僕は太股に万年筆を突き刺してやったよ。
電車から降りたあと僕らがどうしたかについては、ご想像に任せるのが一番イキな終劇じゃないかな?
それじゃあ、ここでお別れ──。