五木寛之
水中花
〈日本人が楽しんでする水中花遊び、水を満たした陶器の鉢に、小さい紙切れをちょっとつけると、それまで何かわからなかったその紙切れがたちまち伸び、ふくらみ、色づき、分れ、ちゃんとした、紛れもない花となり家となり人となるあの水中花遊びに見るように――〉
[#地付き]M・プルースト「失われた時を求めて」(井上究一郎訳)より
第一章
「切られちゃったのよ」
圭子《けいこ》の声は、あきらかに動転していた。受話器を通してきこえてくる彼女の口調が、まるでいつもとちがう。ひどく困惑した気配がその声にはあった。
ふだんは、めったなことで狼狽《ろうばい》したりする女ではなかった。良くいえばおっとりタイプ、悪くいえばふてぶてしい性格の持ち主なのだ。
〈一体なにがあったんだろう?〉
西条裕一郎は煙草を消して、受話器を握りなおした。
「切られたって、誰がやられたんだ。おたくがかい?」
「そんなんじゃないわよ。わたしが切られたりするわけがないでしょう、こんなに真面目にやってるのに」
「じゃあ、どういうことなんだ」
「ほら、例の絵よ。あれが切られたの」
「例の絵って、あの竜崎謙之介の――」
「そう。あなたの紹介で、畑中さんのところから委託でうちの店に置かせていただいてる五百万円の人物画。あれがズタズタに切られちゃった」
最後のほうは涙声になりかけていた。三年前に銀座のクラブ勤めから足を洗って、画廊とコーヒー・ショップを兼ねたような店をはじめた彼女が、こんな声を出すのを、西条はこれまで一度も聞いたことがない。
その絵は、単なる委託商品として商売上の取引きで借りた品物ではないはずだった。そこに畑中の個人的な好意がからんでいるだけに、彼女の取り乱しようも納得がいく。
畑中というのは、銀座で〈ギャラリー・ハタナカ〉という画廊を経営している西条の古い友人である。圭子が四谷の上智大学の近くで自分の店をはじめるからと相談にきた時、西条がたまたま立ち寄った彼を紹介したのだ。画商として一応、その世界で名の通った畑中は、圭子を一目みて気に入った様子だった。
ただのコーヒー・ショップではなく、アンティークや絵なども置いた店をやりたいという圭子の話を聞くと、畑中は、それはいい、私にもお手伝いさせてください、と、言った。どんなお手伝いをする気かな、と、西条は苦笑したが、そのことに反対する理由はなかった。圭子は西条が見つけて育てた銀座の女たちの、いわばOBの一人にすぎない。困った時の相談にのってやることはあっても、彼女の生き方に指図をするつもりはなかったからである。
西条は、畑中が、自分の好みで集めている竜崎謙之介の作品の一点を、圭子の店に貸してやっていることを知ってはいた。それは十号ほどの母と娘を描いた竜崎の後期の人物画だったはずだ。
竜崎謙之介というのは、戦後の一時期、モダニズム系の作家や詩人たちと〈深夜集団〉というグループを作って活動し、やがて佐江陽造、山中祥三などの人気作家とトリオを組んで精力的な仕事をした物故画家である。
生前はそれほど認められていなかったが、死後、彼について数多くの作家や詩人たちが様々な文章を書き、そのことで特異な人気画家となった。彼が今から十五年ほど前に、中南米を旅行中、ボリビアの山中で射殺死体となって発見されたことも、当時、大きな話題になったものだった。
反政府ゲリラと間違えられたのだという説もあったし、山賊におそわれたらしいというニュースもあった。だが、いずれにしても彼の死のくわしい事情は判らないままになっている。そしてまた、そのことが彼に一種伝説中の人物のようなイメージをあたえ、最近でもしばしば彼について書かれたり、語られたりする遠因の一つになっていた。
亡くなった時が四十五歳だから、もしいま生きていたら六十歳、円熟した大家の中に数えられていたかもしれない。
ただ竜崎謙之介の作品は、人気がある割りに市場に出回ることが少ないといわれていた。それは彼が生前、画商とほとんどかかわりあわず、独力で創作活動を続けたことと、もう一つ、彼の遺作の大部分を、未亡人が買いもどして竜崎美術館を設立し、そこに所蔵していることが理由であるらしい。
銀座七丁目にあるウエストビルの一階で画廊を経営している畑中は、竜崎謙之介の生前から彼の絵を集めていたという。それらの作品はほとんど市場に流通しておらず、友人の作家や詩人に竜崎自身が贈った作品を強引にゆずってもらったたぐいのものだったらしい。その中の一点を大した資本もかけずにスタートした圭子の店に置かせてやっているということは、畑中の彼女に対する好意が単なる好奇心以上のものであることの証拠だろう。
その大切な絵を切られたというのである。圭子としては、どうしていいか見当もつかずに西条のところへ電話をしてきたにちがいない。
「畑中のところへは知らせたのか」
「ううん、まだなの。だって、どう言えばいいのよ。こっちの立場にもなってみてちょうだい」
「警察へは?」
「それがねえ――」
圭子の声が少し低くなって、
「やった相手が、竜崎謙之介の娘だって言うんだもん」
「ほう」
西条は思わず首をひねった。
「本当かい、その話」
「ね、とにかくすぐ来てちょうだい。お願い。あたしがこんなに本気になって頼んでるんじゃないの。最近あなた、すこし冷たいわよ」
「なに言ってやがる」
西条は苦笑して時計を見た。午後三時を少し過ぎたところだった。自分の車で行っても二十分もあればつくだろう。
「四時にドール・シップの瑛子《えいこ》と会うことになってるんだがね」
「いいわよ、あんなの。どうせ会長のことで愚痴をきかせられる位のものでしょ」
「いや、会長のほうとはうまく行ってるらしいんだが、店の女の子の中でスター格のジュリーって娘が、芸能プロにスカウトされちまったらしいんだ。金も手間もかけて育てて、人気も出てきたところで引っこぬかれたんじゃ、瑛子も頭にくるだろうさ。ちょっと気の毒になってね」
「いいから瑛子ママのことなんかほっといて、すぐに来て。あたしが後で待ち合わせの場所に電話かけて、謝っといてあげるから。とにかく困ってるのよ」
「わかった。すぐに出る。畑中にはまだ内緒だな」
「うん。おねがい。待ってるわ」
「その竜崎家の娘とやらは、まだそこに居るのか」
「いるわよ。警察でも何でも呼べばいいじゃない、なんてふてくされちゃって、可愛くないの。とにかく早くね」
「わかった」
電話は向うから切れた。勝手な女だ、と西条は思ったが、腹は立たなかった。彼の手がけた女たちは、みんなそんなふうだった。だが、それは西条を甘く見て利用しようというのではなく、彼に対する一種の甘えからだろう。すくなくとも彼自身は、そう考えている。そしてそんなふうに事あるごとに頼られることが、西条裕一郎という男にとっては、決して不快ではない。いや、むしろ、そういう日常の中で生きていることが、彼にとっては楽しみであるのかもしれなかった。
西条裕一郎は四十代の後半にさしかかっていながら、いまだに家庭を持たない男である。兄弟もいず、父親もいなかった。父親に当る人物は、名古屋の有名な建築会社の経営者だったという。彼はその実業家が東京出張の際の愛人役をつとめる小料理屋の女主人の一人息子として育った。
運動が得意で、しかも成績のほうも格別な努力もせずにトップグループにいたから、私生児という劣等感もそれほど彼を苦しませはしなかった。
ただ、幼い頃から、彼は得体のしれない脱力感のようなものを自分の中に自覚していたようだ。それはどうにも他人に説明しようのないあやふやな感覚だった。
〈まあ、どうでもいいけどさ〉
と、いうのが彼の子供の頃からの口ぐせである。彼はその構内のたたずまいが気に入っているというだけの理由で、さして有名でもない私立大学にはいり、ひと通りいろんな学生生活を体験した。彼の高校の成績からすれば、どんな一流校でも合格できただろう。だが、彼は気楽に、波間にただよう海月《くらげ》のような生き方がしたかっただけだった。
大学を卒業して、四、五年間、ヨーロッパに出かけて、遊び半分の生活を送った。ブリュッセルでチョコレート作りの職人の見習いになったり、リヨンでレストランのコックの勉強をしたり、ミラノで皮製品のデザイン工房に籍をおいたり、ル・マンの耐久レースに出るスポーツカー・チームのメカニックの手伝いなどもやった。そして結局、どの仕事にもあきて、東京へもどってきた。
その後、父親に当る名古屋の実業家が亡くなり、しばらくたって銀座の七丁目にある小さなビルが一つ、彼の母親の名義になっていることが知らされた。そのビルが今のウエストビルである。七十歳を過ぎた母親はまったく健在で、自分の店の指揮をとって働いている。彼は父親から残されたビルの三階に住み、他の階を貸して、貸しビル経営者という肩書きがついた。一階には、学生時代の友人の畑中が入居して画廊をやっている。二階には小さな酒場と、喫茶店がはいっていた。
二年ほど前に、畑中の提案で、建物の内外を改装し、見た目にはかなり小綺麗《こぎれい》なビルになったものの、西条自身の生活は一向に変る気配がない。
彼は二階に入居している酒場や喫茶店の経営者と親しくしているうちに、なぜか入居者たちから妙に信用されて、女の子の相談や、店の経営について頼まれることがしばしばあった。
時間があって、仕事らしい仕事がなく、金銭的にも性的にも淡泊な彼が、生き馬の目を抜く夜の世界の住人たちには、めずらしい人物のようにうつったのだろう。
やがて、何年かたつ内に、彼は酒場や、クラブや、喫茶店などの業界で、次第に大切に扱われる存在になっている自分を発見した。
ホステスや、酒場のママたちが、なにかと相談を持ちかけてくるようになってきたのである。友人の紹介だといって、アルバイトをしたいという女子大生が電話をかけてくることもあったし、店をかわりたいという話を持って訪ねてくる女たちもいた。中には新しく小さな店を持つためのアドバイスを求めてくる女たちもいる。暴力団にからんだ男に追われて逃げ込んできた少女もいた。良心的な整形美容の医師を紹介してほしい、という頼みも何度かあった。
そんな相手に、西条裕一郎はひとつひとつ真面目に相談にのってやった。それが彼には少しも苦痛ではなかったし、その事で報酬を期待する気もなかった。彼はただそんなふうに銀座の夜の世界で生きている女たちと、親しい間柄になることが、本心から楽しかっただけである。家族や兄弟の味を知らない彼にとって、それは新しい家族のようなものだった。
女たちは変ってゆく。西条の助力を受けて一人立ちした女たちの中には、何年かたって道ですれちがっても目礼ひとつしない女もいた。また、彼を金銭的に利用しようとかかってくる女もいたし、世話になりながら陰で彼を悪く言う女たちも少くなかった。
だが、そのことを彼は一度も不愉快に思ったことはない。彼は自分が本当の親切心からでも、愛情からでもなく、つきつめて考えれば一つの道楽として彼女らの相手をしていることを自分で知っていたからである。
一階の画廊の畑中が、彼にこう言ったことがあった。
〈おれは絵が好きで、それを集めたり、売ったりする。お前さんは好きで銀座の女たちの相談にのったり、店に紹介をしたりする。ちょっと見は同じようだが、本当はちがうんだ。こっちはビジネスだが、そちらさんは趣味。それで稼《かせ》いでないだけ綺麗なように思えるが、実はちがうんだな。金がからんでない趣味だから、いうなれば、情が薄いんだ。まあ、銀座という池にいろんな魚を泳がせて楽しんでいるようなもんさ。親身になって面倒みてるようで、つまりは銀座水族館か水中花壇の見物客といったところだろう。まあ、ただの貸しビル経営者というより、水中花壇のオーナーのほうが、格好はいいがね〉
森下|梨絵《りえ》は二階の自分の部屋の机の上で、小型の黒い録音機に往復百二十分のカセット・テープを挿入《そうにゆう》すると、茶色い布地のランセールのバッグの底に録音機をおさめた。白い原文帖《げんぶんちよう》と青色のシャープペンシルが間違いなく揃《そろ》っていることを確かめ、腕時計に目をやった。五時に家を出るつもりなのだ。それまでまだ十五分ほど時間がある。
〈なんだか空模様が変だわ〉
窓ガラスを通して見える四月の空に、ダーク・グレイの雲が低く飛んでゆく。テレビの天気予報では、関東地方、所によっては一時にわか雨の降ることもあると言っていた。
今夜の仕事は六時半からである。場所はホテル・ニューオータニの裏手にある清水谷公園に近い料亭だ。渋谷までバスで行き、そこから地下鉄銀座線で赤坂|見附《みつけ》へ出れば、あとは歩いても十分とかかるまい。
バスの時間を考えても、家から一時間見ておけば充分だろう。彼女はいつも仕事のはじまる三十分前には、会場へ着くことにしているのだ。
どうやら風が出てきたらしい。窓ガラスにビシッと鋭い音をたてて大粒の雨がはじけた。
〈雨靴と傘も用意しなきゃ〉
彼女はバッグに腕を通して、部屋を出る前に、一応、姿見の中の自分の姿を眺めた。
〈ちょっとネクタイが浮いちゃったみたい〉
深い紺のベルベットのブレザーにブルー・グレイのフラノのスカートが鏡の中に写っている。それには問題はない。だが、襟元《えりもと》に高島屋のバーゲンセールで買った男物のネクタイを結んでみたのが、どうしてもしっくりこないのだ。
〈すこし派手派手しいかな?〉
今夜の客は初老の男たちのはずである。これが同性のゲストが登場する場なら、当然もっと控え目な格好をするところだ。客より目立つ服装で同席したりするのは、職業上のタブーだと先輩たちから教えられていた。
〈かまやしないわ。お天気の悪い時こそ、うんと陽気な服装でいかなきゃ〉
梨絵は自分で勝手にうなずくと、姿見の前で爪先立ち、くるりと一回転して微笑した。
「梨絵ちゃん――」
下から母親の呼ぶ声がきこえた。
「どなたか玄関におみえになったようだけど」
「いま行きまーす」
梨絵ははっきりした声で答えると、急いで階段を降りた。
「家の前に車がとまったみたいな音がしたの。でも、まちがいだったかしら」
母親の和江は、地味な和服姿で梨絵を見あげた。四十五歳になって間もない彼女は、いつも娘の梨絵に対して、母親というよりむしろ姉妹《きようだい》のような態度で接していた。世間知らずの少女が、そのまま大人になったような頼りなさが和江の表情にはあって、それが梨絵をいつも、わたしがしっかりしなきゃ、という気分にさせるのである。
この森下家の形式上の戸主は母親の和江だが、実際にこの一家を支えているのはわたしだ、という気負いが、二十五歳の梨絵にはあった。十九歳の妹の美絵と、長女の梨絵と、それに母親の和江の三人が、この家の家族である。父親の記憶は、梨絵の中にもかすかな遠景としてしかない。
「やっぱりお客さまだわ」
玄関のブザーが、ゆっくりと二度鳴るのがきこえた。
「美絵ちゃんがこんなに早く帰ってくるはずはないもの」
十九歳の妹の美絵は、広告関係のスタイリストになるのだと言って、高校を卒業後、青山のテレビCMの制作プロダクションに出入りしている。仕事がある時だけスタッフに加えてもらう、いわばアルバイトのような立場らしい。決った収入もない遊びのような仕事だが、それでも梨絵は、妹が自分のやりたい仕事を決めたらしい事にほっとしていた。
子供の頃からしっかりもので努力家の梨絵に対して、妹の美絵はいつも反対の立場にいた。中学時代に二度ほどトラブルをおこしており、高校に入ってからも何度か警察に補導されたことがある。十七歳の夏には、男友達のモトクロス用のバイクで歩道橋を登ろうとして事故をやらかし、新聞の記事にもなった。
無断外泊もめずらしくなく、深夜ひどく酔って帰ってきて梨絵や和江に悪態をついたりすることもある。だが、梨絵は、この自分を持てあましているような妹が好きだった。若い野生の動物の体臭が美絵の言動には感じられ、梨絵はふと自分が木で作った人形のように思えて淋しくなる時があるのだ。
ブザーの音は、ふたたび間をおいて二度きこえた。
「わたしが出るわ」
梨絵はバッグを置いて、玄関に行き、どなたでしょうか、と、インターフォンに向ってたずねた。
「森下さんのお宅ですね」
穏やかな男の声だった。
「はい、そうです」
「私、西条という者ですが、お宅の美絵さんをお連れしておりまして」
美絵がどうかしたのかしら、と、背後で母親の和江が不安そうにつぶやいた。梨絵はいそいで内鍵《うちかぎ》をはずし、ドアをあけた。
「どうも」
入口に枯葉色のツイードの替上衣《かえうわぎ》を着て、こげ茶のシャツを着た中年の男が立っている。彼は会釈しながら、まぶしそうに梨絵をみつめた。
「美絵がなにか――」
「ええ、まあ、ちょっとしたトラブルをおこされましてね」
男は丁重な口調で言い、うしろをふり返った。道路の端に青い蛙《かえる》を思わせる変った形の乗用車がとまっている。その運転席に美絵のこわばった横顔が見えた。
〈怪我したりしたわけじゃなかったんだわ〉
梨絵は母親にうなずいて見せると、サンダルをつっかけ、車のそばへ行った。
「美絵ちゃん、どうしたのよ」
「…………」
美絵は口を固く結んだまま、ウインドゥごしに姉を眺めた。彼女の顔は、怒っているように見えた。
「降りていらっしゃい。かあさんが心配してるわ」
美絵は黙ってそっぽを向いた。てこでも動きそうにない目つきだった。
「じゃあいいわ。そのまま坐ってなさい」
梨絵はこういう時の妹の扱い方を心得ていた。無理にしたがわせようとすればするほど言うことを聞かなくなる性格なのだ。
「わがままな子なんです。すみません」
梨絵は困惑したような顔で玄関に立っている中年男に言った。
「なにがあったのか、お話をうかがわせてください。こんな所じゃなんですから、どうぞおはいりになって」
その時、不意に叩きつけるような雨脚が、道路に水しぶきをあげはじめた。
「降り出しましたね」
男はふと放心したような目付きで雨脚を眺めると、四月の雨か、と、つぶやくような小さな声で言った。
「どうぞおあがりください。汚ない家ですけど」
「失礼します」
男は靴をぬぐと、落ちついた動作で梨絵の後にしたがった。
ダイニング・キチンの椅子に腰をおろした男は、私、こういう者です、と、一枚の名刺を和江と梨絵の前にさし出した。
肩書きも何もない、名前と住所だけの名刺である。西条裕一郎というその名前に、記憶はなかった。
「娘がなにか――」
と、和江はおびえた表情で、
「きっとまた、どなたか人様にご迷惑をおかけするようなことをしたんでしょうね。根は正直ないい子ですのに」
「絵を切ったんです」
西条という中年男は、率直な口調で言った。その声には、淡々とした透明なひびきがあり、彼が美絵を責めたり、悪意を抱いたりはしていない事を感じさせた。
〈この男の人は、きっといい人にちがいないわ〉
と、梨絵は一瞬、そう思い、いや、そんなふうに第一印象が好人物に見える相手こそ警戒しなければ、と考えなおした。
「絵、と申しますと?」
和江は西条の言葉の意味がのみこめない顔つきできき返した。
「ええ、つまり或るお店に飾ってあった油絵を、ナイフでずたずたに切り裂いてしまわれたわけですね。あのお嬢さんが」
「ナイフで、絵を――」
和江は紙のように白い顔になった。貧血性で、何かショックを受けるとすぐに倒れるくせのある母親なのだ。
「かあさんは席をはずしてらしたほうがいいわ。わたしが伺いますから。ね」
「ええ」
和江はテーブルの端に手をついて体を支えながら立ちあがり、申訳ございません、と男に会釈して居間のほうへ姿を消した。
「すこしくわしくお話しいただけませんか」
「そうします。煙草、吸っていいでしょうか」
「ごめんなさい、気がつきませんで」
梨絵は灰皿を西条の前におき、ポットから湯を注いで手早く茶を入れた。
「お番茶ですけど」
「どうぞおかまいなく」
西条は煙草の煙を手で払うと、感情を表にあらわさない穏やかな口調で話し出した。
「四谷にキュリオという小さな喫茶店があるんです。山路圭子という女性がひとりでやってる店なんですが、ご存知ないでしょうね」
「知りません」
「キュリオは喫茶店と趣味の店とを一緒にしたような、最近はやりのコーヒー・ショップでしてね。ほら、画廊喫茶だとか、アンティーク・ティーハウスだとか、あちこちに出来てるでしょう、版画や絵を飾ったり、西洋|骨董《こつとう》なんかを並べて即売もやってる気障《きざ》な道楽の店が」
「はい。わかります。飯倉のナンシーみたいなお店ですね」
「そう、そう。あそこはガレやドームの割りと初期のいいものを結構そろえてる。でも、商売になってるとは思えませんが」
西条は微笑して番茶をうまそうにすすった。
「キュリオは、以前、銀座のクラブでホステスをやってた女性が、こつこつ資金をためて、独力で持った店なんです。自己資本だけではじめたわけですから、商品も展示品も揃わない。それであちこちのギャラリーや、画廊や、個人のコレクターなどから絵を借り出して並べてるわけ。まあ、大したものはありませんが、一点だけ目玉の絵がありましてね。銀座のギャラリー・ハタナカという店から、借り出した十号ほどの人物画なんですが、それをお宅のお嬢さんが切っちゃった」
梨絵は眉をひそめて相手の言葉を待った。
「私もその場に居合わせたわけじゃないんです。経営者の圭子という女性から電話がかかってきて、すぐに店に来てくれという。彼女は私の古い友人なんです。で、行ってみるとその絵がね、ひどいことになっていました」
「間違いなくうちの美絵がやったんでしょうか」
「ええ。ご本人もその店に待っておられましてね。たしかにあたしがやったんだと、こうおっしゃるわけです。警察へでもどこへでも突き出したらいいでしょう、って」
「でも、どうして、そんなことを妹が――」
「わかりません。経営者の圭子の話では、ふらっとお店にはいってこられて、最初は別冊マーガレットかなんか読みながら、アメリカン・コーヒーを飲んでられたんだそうです。そのうちに、ふと自分の席の真上にかかっている油絵に気がついて、ずいぶん長い間、じーっとその絵をみつめてられたらしいんですが、突然、カウンターのところへ立ってきて、ちょっとナイフ貸してくださる? っておっしゃるんだそうです。で、圭子は鉛筆でも削るのかと思って、たまたま学生の客が忘れて行った登山ナイフを渡してあげたんですね。妹さん、ありがとう、って礼を言うと、席のところへもどって、落ち着いた動作で壁にかかっている絵を、ザクザクザクと切り裂きはじめたんだそうです。たまたまほかに客もいなかったらしいんですが、彼女、ずたずたにその絵を切り裂いてしまうと、ナイフをちゃんとたたんで、返してから、カウンターに坐っちゃって、警察でも何でも呼んでいいわよ、って、まあ、こういうわけらしいんです」
「高価な絵なんでしょうか」
「ええ、まあ。店の経営者にしてみれば、一時的によその画廊からあずかっている品物ですからね。それに、その絵がかなり好きだったらしくて、私が駆けつけた時には、いつもは気丈な女が、めそめそ泣いているんです。その横でお宅の妹さんが煙草をふかしながら、少女コミック誌を読んでおられました」
西条は、そこまで話すと、ちょっと苦笑して、
「いや、どうも妙な話で、私にもよく事情がのみこめないんです。それでとにかくお嬢さんにそんな事をされたわけをうかがったんですが、何もおっしゃらない。警察へ持ち込んだところでその絵が元通りになるわけじゃなし、一応、お所とお名前をうかがいますと、すらすらとお答えになった。そこで、まあ、私がそれを確かめる意味もあって、こちらまでお連れしたわけです」
「ほんとに申訳ございませんでした。いずれにせよ、わたくしどもの家族のしでかしたことですから、責任は取らせていただきます。で、その絵は一体どれくらいのお値段の作品なんでしょうか」
西条はちょっと目を伏せて、言いにくそうに口ごもった。
「そうですねえ。まあ、その、キュリオの経営者の話では、委託で出してた時の価格が、号五十万というところだったそうです」
「号、五十万円……」
梨絵は思わず睡を飲み込んだ。さっき西条はたしか十号の絵だと言っていた。号当り五十万とすれば、五百万円ということになる。それは、一家三人を支えて彼女が一カ月に稼ぎ出す金額の、約二年分の全収入に相当する金額なのだ。
梨絵はしばらく黙ってテーブルの上に組んだ自分の手を眺めていた。この手。この右手の指をきしみ音が出るほど酷使して、いま月に約二十万ちょっとの金銭をかせいでいる。そうしてこの森下家を背負ってきたのだ。四年前までは大学で語学を専攻し、それで将来身を立てるつもりでいた。それまでは、梨絵の実の父親の弟に当る病院経営者が、彼女たち三人家族の生活を援助してくれていたのだが、その人物が四年前の夏に心不全で急死すると、一家はたちまち困窮した。梨絵が大学を二年で中退し、家庭用健康機器セールスの会社にはいったのも、外商の仕事は大変だが、頑張ればそれに見合った高い収入が得られたためである。
「その絵は、どんな絵ですの?」
背後でかすれた声がきこえた。ふり返ると、母親の和江が、泣きそうな顔で柱につかまって立っていた。
「かあさん、心配しなくったっていいのよ。いま、西条さんとご相談してるところなんだから」
「どんな絵でしたの? その絵――」
と、和江はかさねてきいた。
「まあ、やや幻想的なタッチの具象画ですね。たしか〈母子像〉という題がついていたと思います。私もそんなに美術にくわしいわけじゃありませんが、以前、画廊でその作品を見た記憶があるんです。マントルピースに火が燃えていて、その前に大きな犬、たぶんコリーでしょうか、その犬と四、五歳くらいの女の子が仲よく床に坐っている。画面、右手に揺り椅子に腰をかけた美しい中年の夫人が、大型の本をひろげて朗読をしていたはずです。たぶん幼い娘のために、外国の童話集でも読んでやってる光景を描いたんでしょう。その画家のほとんど最後の頃の作品で、その絵を完成した翌年ぐらいに、彼は外国で原因不明の死にかたをしました。まだ四十代の後半にさしかかったばかりで、これからという時に亡くなったわけですが」
雨の音が急に激しくなった。梨絵は、目を閉じて、その絵の図柄を頭の奥に思い描いた。熱いものが体の深いところからこみあげてくるのを彼女は感じた。
長い沈黙をやぶって、母親の和江の声がきこえた。かすかな、つぶやくような声だったが、梨絵にはその声が森の中のエコーのように、尾をひいてこだましたように感じた。
「その絵を描いた画家の名は――」
と、和江は言った。
「竜崎謙之介。そうでしょう?」
「ええ。その通りです。でも、どうしてそのことをご存知なんですか」
「かわいそうな美絵――」
母親の和江は、かすれた声でつぶやくと、のろのろと居間のほうへ姿を消した。
「また、あらためておうかがいしたほうが良さそうだ」
西条が立ちあがりながら言った。
「いろいろとお宅様にも、こみ入った御事情がおありのようですから」
「いいえ、お待ちになってください」
梨絵は西条を手で制して、
「やっと事情がわかりかけてきましたわ。西条さん、ここだけの話として、この話、忘れてくださいますか」
「ええ。口は固いつもりです」
梨絵はうなずいた。彼女はまっすぐ西条をみつめると、努力して平静を保とうとする口調で言った。
「妹が切り裂いたという絵の作者、竜崎謙之介は、わたしたち姉妹《きようだい》の、父親なんです」
西条は黙っていた。その顔色には、ほとんど何の変化もあらわれなかった。
「おわかりでしょうか。今、わたしの申しあげた言葉の意味が」
西条は何も答えなかった。梨絵は言葉を続けた。
「わたしには妹の気持ちがわかるんです。でも、わたしはあの子のように純粋じゃないの。もっと昔、女学生の頃から、わたし、世の中ってこういうものだと割り切って考えるようにつとめてきましたから。わたしは幼な心に父のことを憶《おぼ》えています。父は率直で、やさしい人でした。ちゃんとした家庭を別に持ちながら、それでも母や、わたしたちを本気で愛してくれていたんです。そのことをわたしは知っています。だから、たとえ竜崎の名前を名乗れなくとも、画家、竜崎謙之介の娘だと世間に認めてもらえなくても、悲しくもないし、口惜《くや》しく思ったこともありません。でも、妹はちがうんです。父が亡くなったのは、彼女が物心つく以前のことですから。あの子は、父を憎んでいるんです。父の絵も、そして〈母子像〉という絵の中に描かれている竜崎家の人たちのことも。それだけじゃありません。そういう立場に甘んじて、ひとことも恨みごとや愚痴をこぼしたことのない母や、醒《さ》めた気持ちで自分たちの境遇を眺めているこのわたしのことも、どうしても許せないんです。だから、だから――」
梨絵は、くすんと鼻を鳴らして、せき払いをすると、西条の目をみつめてかすかに微笑した。
「ごめんなさい。こんなお涙ちょうだいの話をして、今度の問題の責任をごまかそうなんて思ってるんじゃないんです。ただ、これまで人に話したりしたことが一度もなかったものですから。でも、不思議だわ。どうして初対面の西条さんに、こんなに平気で打ち明けられたのかしら。たぶん、わたし、きょうは少し変なんですね」
「それは、つまり――」
と、西条は梨絵から目をそらせて、口ごもりながら言った。
「要するに、私がどうでもいい人間だからでしょうね。オブローモフ、っていうの、知ってますか。ロシアのゴンチャロフの小説の主人公なんですが」
「いいえ。知りません」
「私とそっくりの人物なんです。居たって居なくったってかまわない男。余計者っていうのかな。まあ、そんなこと、どうだっていいことだけど」
梨絵は、ちらと腕時計に目をやった。
「大変。あと三十分しかないわ。どうしよう」
「お出かけになる所だったんですね」
「ええ。六時半までに紀尾井町の〈とき津〉というお店に着いてなきゃならないんです。ごめんなさい。妹が破損した絵のお金のことは、明日にでもわたしがそのお店へ御相談にあがりますから」
「お送りしましょう。この雨じゃタクシーも拾えないだろうし」
西条は素早い身のこなしで立ち上った。
「じゃあ、先に車で待ってますから。お母様によろしく」
「すみません。それじゃ――」
梨絵が居間をのぞくと、母親が立ったまま、壁にかけた一枚の絵をじっと眺めているうしろ姿が見えた。
「梨絵ちゃん」
と、和江が向うをむいたまま言った。
「この絵をはずして、さっきのおかたにお渡ししてちょうだい」
「なにを言うの、かあさん」
それはこの家に残された竜崎謙之介のただ一枚の作品だった。彼が十九歳の森下和江という娘と出会って恋におち、やがて梨絵をみごもった和江と一カ月ちかい駆け落ち同様の旅に出た時に、九州の宿で描いた肖像画である。そこにいるのは、二十歳の和江だけではなかった。やがて生れてくる梨絵もそこにはいた。画面に描かれてなくとも、梨絵にはそれがわかった。彼女は、その絵を見るたびに父親の彼女らに対する気持ちに手で触れるような感じがする。
「この絵もちょうど十号よ。これをお渡しすれば、相手のかたもきっと美絵を許してくださるわ」
「その話は後にして」
梨絵は母親の肩に両手をおいて、やさしくゆさぶった。
「わたし、仕事におくれそうなの。西条さんに車で送っていただくわ。美絵ちゃんが帰ってきたら、もう何も言わないでおいてね」
「ごめんね、梨絵ちゃん」
「だめよ、泣いたりしちゃ」
梨絵は母親の肩をもう一度つよく叩いて、居間を飛び出した。目の端ににじんでくるものを手の甲でぬぐい、彼女は雨靴に足をつっ込むと、雨の中にドアを開けて待っている青い車に駆け寄った。
「妹は?」
「いや、それが見当らないんです。どうしたんだろう」
「仕方のない子」
たぶんどこか近くの友達の所へでも行ったにちがいない。
「あと何分ありますか、約束の時間まで」
西条がワイパーのスイッチを入れながらきいた。
「二十五分たらずね」
「よし。このシートベルトを締めて。すこし急ぎますから」
「お願いします。もしおくれたら、わたしたち一家の死活の問題なんです」
「わかりました」
雨の中をライトを点滅させながら、二人を乗せた車は猛然と加速した。オレンジ色の信号をいくつも突っ切り、時には赤信号さえ無視して走り抜けた。
「渋谷だ。高速に乗ったほうがいいな」
「混《こ》んでないかしら」
「渋滞の標示は出てないです」
車はロールしながら首都高速へ飛び込み、車の流れを蛇行《だこう》してぬいながら走り続けた。
「あと何分です」
「十分くらい」
「十分か。ちょっとヤバいかもしれない」
「どうしよう、わたし」
梨絵は、シートベルトに押さえられている心臓が、エンジン音と同じくらい大きな音を立てて高鳴るのを感じた。
〈もし、おくれたら――〉
今のオフィスを辞めただけで済む問題ではあるまい。今後の仕事がシャットアウトされる事だってないとは言えないだろう。
「霞が関の出口だ。降りますよ」
西条はこれまで梨絵が経験したことのないような運転をした。タイヤのきしむ音と、制動のショック、左右に揺れる車体と、ほとんど役に立たないワイパー。西条はほとんど動物的な勘だけで運転しているように見えた。
「議事堂の裏を赤坂プリンスの前へ抜けて、文春のビルの前を左折してください」
「わかっています」
西条は両膝《りようひざ》を車体に押しつけ、背中をぴったりとシートに密着させてハンドルを操作している。都市センター・ホテルの前を過ぎたあたりで、背後から甲高いサイレンがきこえた。
「どうやら追われてるようですな」
と、西条は微笑し、いっそう強くアクセルを踏み込んで文春ビルの前の赤信号を強引に左折した。
「どうせ捕《つかま》るんなら、間に合ったほうがいいですから」
と、彼は言い、下り坂を加速してタイヤを鳴らしながら左へ曲った。
「あの建物よ!」
「間に合ったようですね」
「ええ。ぴったり六時三十分だわ」
西条は宏壮な門構えの料亭の正面に車を突っ込んだ。ほとんど同時に、赤いランプを点滅させてパトカーが横に並んだ。
「じゃあ、ここで。急いで行きなさい」
「すみません。今夜おそくでもお電話します」
パトロールカーから降りてくる警官の姿を視界の端にとらえながら、梨絵は料亭の玄関に駆け込んだ。
「きみか、オフィス・ゼロの速記者は!」
靴を脱いでスリッパにはきかえようとしているところに、頭の上から激しい怒声が降ってきた。梨絵は、ぴくりと身をすくめた。
「そうです。すみません、おそくなりました」
「すみませんで済むと思うのか。対談のゲストのかたたちは、三十分前に着かれて待ってられるんだぞ。なんだと思ってるんだ。業界紙の仕事だと思って、なめた真似しやがって!」
「申訳ありません」
「早く行け! まずゲストのかたがたに丁重におわびしろ。それから即座にスタートする。もたもたするなよ」
「はい」
梨絵はおそろしくて顔をあげられなかった。目を伏せて、その声の主の足もとだけを見ながら、後にしたがった。
〈いけないのはわたしなのだ〉
と、自分に言いきかせながらも、かすかな吐き気がした。人間をあんなふうに頭ごなしに怒鳴りつけることのできる男なんて、信じられない。対談が終った後で、きっともう一度ねちねちからまれるのだろう。
「先生! お許しください。この通り主催者側として伏しておわび申上げます。こんな大事な対談の席に、お客様がたよりおくれて悠々と現れました非常識な女速記者が、この者でございます。どのような事でもして、おわび申上げたいと言っておりますが、先生、いかがいたしましょうか」
芝居がかった男の声が、うつむいている梨絵の横でひびいた。建物の奥まった一室には、すでに酒と煙草の匂いが充満している。梨絵は、おそるおそる顔をあげた。二人の男がこちらを眺めている。梨絵は目を伏せて小さくつぶやいた。
「大切なお仕事におくれて参りまして、本当に申しわけございません。どうぞお許しくださいませ」
「ほう、この人が速記者かの。なかなかええ女じゃないか。こりゃ、この店の女たちよりよっぽど美形じゃ。よし、よし。待たせたことは水に流そう。どうかね、鍋沢《なべさわ》くん」
大声を張りあげたのは、海坊主のように頭をすっかりそりあげた血色のいい老人だった。床の間を背に坐っているその老人に向きあって、日本人離れのした彫りの深い横顔の銀髪の紳士が坐っている。その二人が今夜の対談者なのだ。すでに芸者がそれぞれの両脇に寄りそって、冷ややかな目で梨絵を眺めていた。
「水に流すのはいいが、編集長――」
と、銀髪の紳士が皮肉な口調で言った。
「はい。なんでしょうか鍋沢先生」
梨絵の横に膝をそろえて正座している青年をはじめてちゃんと見て、彼女は、おや、と思った。さっきの玄関での下品な罵声《ばせい》の主が、その青年だとは一瞬、信じられなかったからだ。
三十歳にはまだなっていないだろう。やや軽くウエーヴのかかった長髪が、肉のそげた横顔にどこか甘さの残った繊細さを感じさせる。青白い顔色にくらべて、眉は男っぽく、尖《とが》った顎《あご》の線と、引きしまった浅黒い唇には一見して露骨な野心の気配がにじみ出ていた。
弱い獲物を狙ったらはなさない狼《おおかみ》、それも飢えて目をギラギラさせている狼みたいだ、と、梨絵は思った。
「武士に二言は――いや、ジャーナリストに二言はないだろうな今野くん」
銀髪の紳士は、いやにねばっこい口調で念を押した。梨絵は、バッグから小型の録音機をとり出してスイッチを押し、テーブルの上に置いた。そして速記のためのノート、半紙の四分の一の大きさの和紙を重ねた原文帖を出し、速記専用のブルーの細いペンシルに軽く指をそえた。もういつでも対談者の会話を速記《と》ることができる。速記者のプロは、十分間で約三千字の音を原文帖に記録するのが普通なのだ。一分間に三百字といえば、かなりの早口でも取材が可能である。
梨絵が速記を勉強しはじめたのは、大学をやめて健康機器のセールスをはじめたのと同時だった。日本の速記界には、田鎖式、中根式、早稲田式、毛利式、などと、いくつものグループがあるが、彼女が選んだのは渋谷の長嶋速記事務所の養成所だった。そこは早稲田式の系列に属し、夜間も教えていた。セールスの仕事を終えてから、夜二時間、週六日の授業はそれほど辛くはなかったが、梨絵には一日も早く一級速記士の資格をとってプロになり、一家の生計を支えなければ、という心理的重圧がのしかかっていたのだ。
彼女は二年間で五級から二級まで進み、速記事務所の見習生としてさらに一年間がんばって、目的の一級の検定に合格した。当時の梨絵は、ほとんど一日に四時間あまりしか睡眠をとっていない。二十代前半の若さが、そんな無理にも耐え抜かせたのだろうか。
速記のトレーニングをはじめてから、すでに五年ちかくたっている。今では、一時間に二百字詰原稿用紙で八十枚から百枚程度をこなせる一人前の速記者として、オフィス・ゼロというグループに所属して働いていた。健康機器セールスの仕事は、二年前にやめている。
「わたくしに何をおっしゃりたいのですか、鍋沢先生」
と、今野と呼ばれた青年が、かすかに媚《こ》びた口調で言った。
「不肖、今野達也、若輩ではありますが〈運輸観光タイムズ〉の編集責任者です。二枚舌は生れてこのかた使ったことがありません」
「ほう。それは立派だ」
卓上の小型録音機はすでに回っている。
〈もう対談ははじまっているのだろうか?〉
梨絵は無意識に男たちの会話を速記しながら、編集長と称する青年の顔を盗み見た。
「よろしい。それでは言おう。さっきこの部屋におくれてはいってきたとき、きみはこの速記者が、どんなことでもして謝罪すると言っている、と、そう確言したな。おぼえているかね」
「はい。たしかに」
「そうか。それを聞いて安心した。では、ひとつ、そこの速記のお嬢さんに、きちんとこっちの納得のいく謝り方をしてもらおうか」
芸者たちが押さえた声で笑った。
「おい、きみ」
銀髪の紳士は、すでにかなり酒の回った目の色で、梨絵の顔を正面から指さした。
「こっちへ来たまえ」
「え?」
梨絵は驚いて今野という編集長の顔を見た。
「どうしたんだ。さっさと鍋沢先生のおっしゃる通りにしたまえ」
「でも、わたしは速記者ですから」
「速記者というのは、対談の席に出席客よりおくれて来て、ろくに謝りもせずにふんぞり返っていてよい職業かね」
鍋沢の言葉は痛烈だった。梨絵は、手が震えて、ペンが動かなくなってしまった。
「はい。ですからさきほど、重々おわび申上げたつもりですけど」
「その時に編集長が何と言った?」
「…………」
「おい、きみ」
と、今野編集長が梨絵の肩を叩いて、うむをいわせぬ口調で言った。
「悪いのはきみだ。鍋沢先生も、鬼島会長も、きみが素直に謝りさえすれば、水に流してやろうとおっしゃってるんだ。さあ、ぐずぐずしないで先生のおそばへ行きたまえ」
「でも――」
「でもじゃない。おそばへ行って、ビールの一杯でも注がせて頂きなさい。そうすれば、鍋沢先生も天下のサムライだ。気持ちよく許して下さるだろう。さあ」
「はい」
梨絵は覚悟を決めた。とにもかくにも、一分でも時間におくれたのは、自分の落度だった。少々の屈辱は、耐えなければ。
「よし、よし。これは近くで見ると、ますますいい女だ。おい、お前はあっちへ行け」
追い立てられた芸者が、不快そうに席を立った。
「さあ、ではひとつ、このビールを持って鬼島会長に注いでさしあげなさい。ちゃんとこぼさんように両手で持ってな」
梨絵は言われるままに、鍋沢という男の隣りに坐ったまま、両手でビールびんを捧《ささ》げ持つようにして体をのばした。
「もっと腕をのばさんと、届かんぞ」
海坊主のような老人が笑顔でグラスを持ちあげた。梨絵は、両手をできるだけ遠くへさし出して、ビールをつごうとした。
隣りに坐っていた銀髪の紳士の両手が、意外な素早さで梨絵の両方の乳房をぎゅっとつかんだのは、その時だった。
「…………」
梨絵はとっさのことに、声が出なかった。
「おう、ええ胸をしとる。こりゃ逸物だ。ほうら、ほうら、この子は着痩《きや》せするタイプらしいぞ。張りがあって、柔らかくて、こいつは見事なおっぱいだ。いや、指が吸い込まれるようだわい」
梨絵はビールびんを両手で抱えたまま、体をひねった。そのはずみに彼女はテーブルの脚のところに横倒しになった。銀髪の紳士の手がすかさず梨絵のスカートをまくりあげた。
「やめてください」
梨絵は肩で息をしながら、やっとそれだけを言った。心臓が苦しく、抵抗する力も抜けていた。膝を固く合わせて、胸を両手でかばうのが精一杯だった。
「さすが鍋沢先生、電光石火の早業《はやわざ》ですな。ヒットラー顔負けの電撃作戦、お見事でした。では、ひとつ、これで主催者側のおわびは済んだということにして頂きまして、〈運輸観光タイムズ〉の一面のトップ対談ということに。写真のほうはすでにさきほど撮らせていただきましたから、後はもうご自由にご快談ください」
今野という編集長が芸者の一人に目くばせをして、タイミングよく梨絵を鍋沢から引きはなした。
「速記をたのむ」
と、彼はきびきびした口調で喋《しやべ》り出した。
「本日はこのような異色の組み合わせで、政界と財界の、それぞれ怪物といわれるおふたかたに御越しいただきました。米中の急速な接近と、中近東諸国の政情不安を二つの中心として、今や世界は楕円《だえん》的構造の形成を余儀なくされていると見られますが、そういう時代に、アジアのリーダーシップを握るわが国が、いかなるヴィジョンをもって物的流通、人的流通の方向を見定めるか、その辺からひとつ御高説をうかがいたいと思います。まず鍋沢先生から、ひとつお願いします」
「その問題についてはだね、私はすでに先月号の政経公論誌にまとまった論文を書いておるんだが、まず、ここではっきり言えることは、今世紀後半のマルクス史観の完全な破産と、ケインズ理論の硬直化の現実をありのままに直視する必要がある、と。そういうことです。すなわち――」
梨絵はいつの間にか速記者の定位置に坐って、ペンを動かしはじめていた。泣こうにも涙も出ない状態だった。
このまま非礼をなじって席を立てばいい、そう思いながらも、彼女には何か得体のしれぬ重圧が肩にのしかかってきて、どうしてもそれが出来ないのである。
それは仕事の場に一分でもおくれて来たというプロの引け目かもしれなかったし、また妹の美絵が切り裂いたという五百万円の絵のことかもしれなかった。
〈もう二度とこんな席には来なければいいのだ〉
と、彼女は機械的に手を動かしながら思った。こういう人間たちも世の中にはいるのだ。これくらいの屈辱で泣いたり、わめいたりするのは、もっと差別された底辺の女性たちに対して恥ずかしいことではないか。梨絵は、自分をはげます様々な言葉を胸のうちで呟《つぶや》きながら、目まぐるしく速記の線を原文帖の上に走らせ続けた。
型どおりの対談が一時間足らずで終ると、二人のゲストはそそくさと席を立って帰って行った。どうやら、揃《そろ》って赤坂の料亭へでも行こうという話になったらしい。
録音機のカセットに、対談の会話がちゃんとはいっていることを一応たしかめ、梨絵はバッグに筆記用具と録音機を入れて席を立った。
「あ、きみ」
と、今野という編集長が手招きして梨絵を呼んだ。
「なんでしょうか」
「今夜の対談、|おこし《ヽヽヽ》を急いでほしいんだ。どれくらいかかるかね」
「料金によりますけど」
「と言うことは、早くあげれば高くなるというわけか」
「はい。東京速記士会の協定で、特急料金の額も決っておりますから」
「普通でいくらだったっけ」
「一時間、二万八千円です」
「なるほど。で、明日の朝までに原稿にしてくれと言ったら?」
「そうですね。十割増しで五万六千円になると思います」
「そいつは痛いな」
今野編集長は、眉をひそめて、
「うちは大した新聞じゃないんでね。原稿は早く欲しいんだが、ギャラはそんなに払えない。ひとつ、協会に内緒で、五割増しぐらいに安くならないか。最近は速記者も増えて、マーケットがかなりせまくなってきてるらしいじゃないか」
「おことわりします。規定は規定ですから」
「きみは今夜、対談者よりもおくれてきたんだぜ。その事をきみのオフィスに報告すると君の立場は不利になるんじゃないのか」
「対談の席で速記者に痴漢的行為をなさった人たちのことを新聞社に投書したら、あなたの社の立場はどうなるんでしょう」
「どうにもなるものか」
今野編集長は、頭をかいて苦笑した。
「もうこれ以上後へは引けない立場の強さってものが、きみにはわかってないようだ。おれは大学を途中で追い出された。公務執行妨害と、名誉|毀損《きそん》、それに傷害の前科がある。内ゲバで敵をパイプで叩きのめしたのさ。親は両方とも死んでいる。女はいるが結婚はしていない。社会的名誉もなけりゃ、失うべき財産もない。なにせ〈運輸観光タイムズ〉だって、一人で作ってくばってる新聞だからな。こっちは何があったって、へっちゃらさ。ところがきみは、そうじゃない。ワイセツ行為を訴えでもしたら、きみのほうがいいさらし者だ。アメリカじゃ強姦《レイプ》を訴えない女が増えてきてるんだそうだぜ。裁判で恥ずかしい思いをするより、自衛の方法を研究すべきだ、という考え方だな」
「わたし、あなたたちのこと、嫌いです。それに軽蔑《けいべつ》もしています。仕事は仕事ですからこの原稿はおこしてお届けしますが、料金は規定どおり払ってください。もう二度とあなたの社の仕事はしません。仲間たちにもそう言っておきます」
「頼りなさそうで、案外気が強いところがあるんだな、きみは」
「原稿の|おこし《ヽヽヽ》は、普通になさいますか。それとも、特急に――」
「普通でいい。実はここの料亭や、ハイヤー代まで向う持ちのPR対談なんだ。こっちの出費は出来る限り押さえたいんでね」
「わかりました。反訳《はんやく》が終りましたら御連絡します。わたしもこんな不愉快な仕事、いつまでも抱えておきたくはありませんから」
「いいだろう。きみの気のすむようにするさ。おれだって、こんな仕事、よろこんでやってるわけじゃない」
「向いてらっしゃるように見えますけど」
「きみのほうは速記者向きじゃない」
「なにに向いてるとお思いですか」
「日劇ミュージック・ホールで、ヌードにでもなれば人気が出そうだ。いい体をしてた」
「失礼します」
梨絵はバッグを抱えてその青年のそばを離れた。さっき、あの銀髪の男に思いきりつかまれた乳房がまだ痛かった。今夜、妹の美絵の件で西条という人物に電話をしなければ、と彼女は思った。彼のゆったりと投げやりな微笑を思い出すと、なぜか心がなごむような気がする。交通警官にずいぶん脂《あぶら》をしぼられたにちがいない、そのことも謝らなければ、と梨絵は雨あがりの夜の赤坂見附の光の下を歩きながら考えた。
梨絵は地下鉄のドアの開く音で、ふっとわれに返った。赤坂見附から、渋谷までの短い時間を思わず眠りこんでいたらしい。
〈きょうは疲れたわ〉
梨絵は渋谷の街に出ると、タクシーの空車に手をあげた。とてもバスを待つ元気がなかったのだった。
タクシーに乗っている間も、梨絵はうつらうつらしていたような気がする。料金を払って、タクシーを降り、玄関のブザーを押したあたりで、ようやく意識がはっきりしてきた。明日あたりから生理が訪れてくる予定だった。そんな時には、よくこういうおかしな状態になることがあるのだ。対談の席でつかまれた乳房が、まだ痛いのもそのせいかもしれない。
「おかえりなさい」
ドアをあけたのは、妹の美絵だった。彼女は、無表情に梨絵を眺めて、どうしたの、と大人びた口調で言った。
「なにが?」
「きょうは手ぶらで出かけたの? それとも荷物をどこかにあずけて帰ってきたの?」
「荷物って?」
「バッグよ」
「え?」
梨絵は一瞬ぽかんとして、自分の両手を眺めた。片手にレインコート、そしてもう片方の手には折りたたみ式の洋傘。
「あ、バッグがない――」
梨絵は夢の続きを見ているような気分で、頭をふった。
「バッグがないわ。対談のテープと、原文帖を一緒に入れてあったのに」
「ちょっと、冗談じゃないわよ」
美絵は急に真剣な表情になって玄関の外に飛び出した。
「落ちてはいないわ」
「わたし、どうしたのかしら」
「ちゃんと持って出てきたの?」
「うん。地下鉄の中で大事に膝の上に抱えてたんですもの」
「だったら、タクシーだわ、きっと。降りる時に置き忘れちゃったのよ」
「大変だわ。どうしよう」
「タクシー会社の名前、おぼえてる?」
「ううん」
「車のナンバーは?」
「知らない」
「色は?」
「なんだかベージュっぽい色だったと思うけど。ちがうかな?」
「たよりない人」
美絵は呆《あき》れたように首を左右にふると、
「おねえさん、すごく疲れてるんでしょ、今」
「うん」
「じゃあ、わたしが手配してみるわ。部屋でしばらく横にでもなってなさい」
「そうする」
梨絵は正直いって、もう倒れてしまいそうな気分だった。全身の力が抜けて、立っているのもおっくうなのだ。
「ただいま」
彼女は階段を一段ずつ登り、自分の部屋にはいると、ベッドに倒れ込んだ。ふと、何の意味もなく、雨の中を赤信号を突っ切って送ってくれた西条という中年の男のことが頭にうかんだ。
彼女はジャケットの胸のポケットから、彼の名刺を取り出した。電話を自分の部屋に切りかえて、ダイヤルを回した。
「もしもし」
「はい」
「西条さんですか」
「そう。あなたは森下梨絵さん――」
「どうしてわかりました? 声で?」
「まあね。たぶんかかってくると思って待ってたんです。仕事、間に合いましたか」
「ええ。一分おくれたぐらい。本当にありがとう。後で大変だったでしょう」
「まあ、当分、車に乗らないようにしますよ」
「ごめんなさい」
「いや、ひさしぶりに車を振り回して面白かったです」
しばらく黙っていた後で、不意に梨絵が言った。
「わたし速記の仕事してるんです」
「ええ、存じていますよ」
「わたしの職業を、どうしてご存知なんですか」
「お宅へ伺う途中、妹さんから聞いたんです」
「西条さん、わたし、速記者には向いてないんでしょうか」
「どうして急にそんなこと言い出すんです」
「今夜、ある業界紙の生意気な編集長に言われたんです。お前さんは日劇ミュージック・ホールで踊ったほうが人気が出そうだ、って」
「なるほど」
「嘘でしょう? そんなこと」
「ぼくの正直な感想を言いますとね――」
「ええ」
「あなたは水に浸されたことのない水中花だと思う。水中花って、知ってますか」
「ええ。子供の頃、縁日なんかで買ってきてコップに入れて――」
「日劇ミュージック・ホールはともかく、あなたは自分の頭脳労働だけで生きて行くのは、もったいない人だと思いますよ。べつに今のお仕事が向いてないと言うわけじゃありませんがね」
「水中花か」
梨絵は自分でも変だな、と思うような高い声で笑った。笑いがおさまった後、彼女は突然、自分でも思いがけない言葉を口にした。
「西条さん、突然でびっくりなさるでしょうけど、わたしを買っていただけませんか。代金は五百万円。それを回収したと思われる時まで、わたしを自由に使ってくだすっていいわ」
「わたしがあなたを買ってどう使うんです」
「頭から水に浸すなりどうなりと、お好きなように」
しばらく西条は黙っていた。やがて淡々とした口調で、彼は言った。
「いいです。買わせていただきましょう。そのかわり、そうなったらあなたは、わたしの言う通りにやってもらいますよ。それでもいいですか?」
「ええ。いいわ」
梨絵はそう答えた後で、自分は正気だろうか、と考えた。なぜ突然、初対面の男なんかに、こんなとっぴょうしもない申出をしたりしているのだろう。どうかしている、と、梨絵は大声で笑いたい気分だった。どこかで猫のなまなましい鳴き声がきこえた。乳房の痛みが再びよみがえってきた。
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第二章
その部屋は、巨大なビルが建ち並ぶ日本経済の心臓部ともいえる街の裏側にへばりついた、貧弱な木造ビルの二階にあった。そもそもそんな戦前の木造の建物が、この一劃《いつかく》に存在することすら不自然に思われるような場所なのだ。
ペンキのはげ落ちた牡蠣《かき》色の建物の窓際に、〈運輸観光タイムズ〉という字体だけは堂々たる看板がかかっている。まるでその建物全体が〈運輸観光タイムズ〉とやらの社屋と勘ちがいしかねないような看板だが、実際には二階の最も日当りの悪い一室を借りているだけなのだ。
森下梨絵は、その部屋の前に立った時、なにか理由のない不快感をおぼえてたじろいだ。その室内から彼女がこれまでにかいだことのない一種の腐臭のようなものが匂ってくるような気がしたからである。
「はいれよ」
上衣《うわぎ》を脱ぎ、ネクタイをゆるめて、どこか崩れた感じで煙草を横ぐわえにした若い男が顎《あご》をしゃくって梨絵に言った。横柄な口調だった。
室内にはほかに人影もなく、薄暗い雑然とした机や資料棚の間に、白っぽい蛍光灯の光が落ちている。机の上にはコーヒーポットや、ラーメンの丼《どんぶり》などが、だらしなく置かれていて、壁に張られた洋画のポスターが半分ずり落ちかかったまま揺れていた。
「はいれって言ってるだろう」
若い男は苛立《いらだ》った口調でふたたび梨絵をうながした。
「そっちのほうから、おわびにお伺いします、と、電話をかけてきたんだぜ」
「はい」
男は昨夜、清水谷公園に近い料亭で行われた対談の席ではじめて会った〈運輸観光タイムズ〉の今野達也という編集長である。梨絵は最初の出会いから、この若い男との間にいやなトラブルが起こりそうな予感があったのだ。
梨絵は頭をさげて、その荒廃した感じの室内にはいった。ジャーナリズム、とか、マスコミ、とかいった華やかで近代的なイメージとは全く裏腹の、どこか陰惨な空気がそこにはよどんでいる。
「どこでも勝手に坐れよ」
今野は煙草を灰皿に押しつけた。机の上に腰をおろし、靴を破れたソファーの上にのせると腕を組んで梨絵を眺めた。憎悪を隠さない露骨な目付きだった。
「さっき電話で聞いたこと、あれは、本当かい」
「はい」
梨絵はかすれた声で答え、うつむいて言葉をさがした。
「申訳ありません。どんなふうにおわびしていいのか――。すべてわたくしの責任ですから。とにかくありのままを正直にご説明して、どう責任を取ればいいか、教えていただこうと思いまして」
「責任、ね――」
今野は鼻先で笑った。
「おれは責任なんてあんたに取ってもらう気なんか、さらさらないのさ。問題はテープと速記のノートだ。プロの速記者が、大切な対談の記録を失くしてしまいました、なんて、電話で聞いたって信用できる話じゃない。タクシーの中に忘れたってのは、本当なのかい、え?」
「はい。本当です」
「それで?」
「ゆうべ一睡もしないで心当りのタクシー会社を調べて回ったんですけど」
「出てこなかったわけか」
「ええ。警察にも行きましたし、知り合いのラジオ局の方にもお願いして、深夜放送の中でタクシーの運転手さんたちに呼びかけてもらったりもしました。ですけど、結局――」
「それできょうになって電話をかけてきて、責任、責任とさわぎ立ててるってわけだ」
梨絵は目を伏せて深く頭をさげた。単なるミスで済まされない問題だとは、彼女にも判っている。先輩の速記者たちの話の中に、以前、大切な速記ノートを紛失して大騒ぎになったエピソードを耳にしたことがあった。だが、それがこんな形で自分の上に起ころうとは、夢にも考えてみなかったことだった。
所属している速記グループの事務所のほうには、まだ報告していない。なんとか自分と新聞社との間で話をつけて、オフィスの信用を傷つけないようにしたい、というのが、せめてもの梨絵の考えだった。
「そんなところに立ってられると目ざわりだ」
と、今野が斬りつけるような口調で言った。
「でかい女が目の前に突っ立ってるのは、うっとうしいんだよ」
「すみません」
梨絵は薄汚れてしみのついた椅子の一つに浅く腰をおろした。
「で、どうする?」
「覚悟は決めてきました」
「どういう覚悟だい」
「わたくしが昨夜のお二人の対談者のかたのところへうかがって、謝ります。そして、もう一度なんとかお話を――」
「ばかなことを言うんじゃない!」
今野は梨絵がびくっとするような大声を出した。どこか凄味《すごみ》のある声だった。
「お前さん、世の中がそんなに甘いもんだと思ってるのか、え?」
「…………」
「あの鍋沢という全経協の専務理事は金に目がない。鬼島という右翼団体の会長は女に甘い。もしもあの二人を口説くとすれば、一千万も包んで鍋沢を口説くか、それとも鬼島会長の前で裸になって股《また》でもひろげるか、そのどっちかしかないことがお前さんにはわかってるのか」
梨絵は唇を噛《か》んで震える自分の膝《ひざ》をみつめた。泣いてはいけない。ここで泣くくらいなら、行方不明にでもなってしまったほうが良かったのだ。
「責任はどうでもいいんだよ」
急に今野の声が弱々しくなった。
「それより、失くなっちまった大物の対談をどう新聞に拾いあげるかだ。次号は、その対談をのせて五万部刷ることになっていた。買いあげてくれるのは鬼島さんだが、ただ新聞が売れるというだけのことじゃない。あの対談には、或る政治的なネタが仕込んであるんだ。そいつが口火になって、一つの波が政財界の裏側にひろがってゆく。おれの立場が、そこではじめて皆に知られることになる。いいかい、あの対談は、このおれの、陽の当る場所への最初の階段だったんだぜ。来月はこの小汚ないビルを出て、赤坂に事務所を構える計画もたててたんだ。こんな内輪の話をあんたなんかにする気じゃなかったんだが、おれは今、怒るよりも弱ってるのさ。そうだ、まったく弱り切っちまってるんだ。責任なんてくそくらえだ。なんとかしなきゃならない。なんとか――」
梨絵はうなだれたまま、思わず不用意な涙をこぼした。
〈このいやな男にも、彼なりの人生というものがあるのだ〉
その人生の計画を、梨絵の失態が大きく狂わせてしまおうとしているらしい。相手の声の調子に嘘はなかった。今野の言葉は、どこか追いつめられた動物の悲鳴のようにきこえた。
「仕方がない、やるか」
と、今野がしばらくして独り言のようにつぶやいた。
「それしかないな。とにかくやってみよう」
「どうなさるんですか」
梨絵は覚悟をきめてたずねた。こうなればただ謝ってばかりいるわけにはいかない。とにかく当面は相手の仕事をなんとか切り抜けさせるように、自分の小さな力でもさし出す以外に方法はないのだ。
「でっちあげさ」
「でっちあげ?」
「そうだ。ゆうべの話を、なんとか記憶をたぐってでっちあげるのさ。だって、それしかないだろ。このままテープとノートが出てくるのを二日も三日も待っちゃいられない。入稿日と校了はもう決ってるんだ。前に一度やったことがある。メモなしで相手の話を思い出しながら作りあげたんだ。それしかないだろ。度胸を決めて、一丁、やってみるか」
「わたし、お手伝いします」
「ああ。おたくにも思い出してもらうさ。どうせ専門的な話だから、大した役には立たんだろうが、とにかく一緒にやってみてくれ。どんな記憶の断片でもいい。ノートにメモするんだ。順序に関係なく、くだらん冗談などはなお大切に思い出してな。よし、早速かかろう。あんた、時間はいいのか」
「はい」
梨絵は顔をあげて相手の目をみつめた。ねちねち責められることを覚悟してきただけに、この業界紙の編集長の出方が意外にも思われた。
〈案外あっさりした男なのかもしれないわ〉
梨絵はメモ帖《ちよう》をとり出しながら、心の中でつぶやいた。
記憶をたどるということの難しさを、梨絵は改めて認識させられた。その日、夜までかかって二人で集めた単語や会話の断片は、意外なほど貧弱なものだった。
「速記者ってのは、もっといろいろ憶《おぼ》えているもんかと思ってたがね」
と、今野はげっそりした表情で言った。
「案外、機械的に手先を動かしてると、内容には関心がないのかもしれんなあ」
「すみません」
「いや、おれだってきみを責められるほどの成績じゃない。司会ってのは、その席の雰囲気《ふんいき》を盛りあげることにばかり気を使うんでね。ことにああいった大物同士ともなれば、こっちは冷汗ものだ。そのせいで、大切なことはほとんど頭の中から消え失せちまってる。これじゃ、でっちあげも、ちょいと無理かな」
うすら寒い編集室で、二人は向い合って顔を見合わせた。
「もう少しがんばりましょう。お茶でも入れますわ」
「ガスが止ってるんだ。そういえば腹がへったな。きみ、外へ出て一緒に焼肉でも食わんか」
「はい。でも――」
「この部屋で徹夜するわけにもいかんしね。おれはどこかのホテルに部屋をとって朝までがんばる。きみは飯食ったら、帰りたまえ。ききたいことがあれば、電話をするから」
今野は立ちあがると、上衣をはおって、茶色のズックのバッグに、筆箱や、ノートや、原稿用紙、鉛筆削り器、などを手早くつめ込みはじめた。
「名前、なんって言ったっけ」
「わたしですか」
「ああ」
「森下梨絵、です。梨の木の梨に、絵描きの絵」
「おれは今野達也という。この編集室のボス兼、掃除夫だ。要するに一人で新聞をやってるってことさ。いわゆるブラック・ジャーナリストの端くれだが、その世界の連中はまだ一人前には見てくれていない。青臭い駆け出し野郎扱いされている。だから、今度のあの対談は――」
今野は舌打ちして苦笑した。
「もうやめよう。とにかく飯だ。さあ、そこのスイッチを切ってくれ」
室内が暗くなった。今野はドアに鍵《かぎ》をかけると、梨絵をしたがえて、きしむ階段を降りて行った。
「よう」
すれちがった長髪の青年が片手をあげて、
「今ちゃん、凄《すげ》え美人とどこへお出かけですかね。ブンやさんは、持ててうらやましいよ」
「なにを言ってやがる」
今野達也は階段を上ってゆく男のうしろ姿に顎をしゃくって、
「あいつ、あれでも弁護士なんだ。いわゆる新左翼の救援運動組織のメンバーでね。むかしはおれも世話になったことがあるが、今は反対の世界の住人さ」
「今野さんは、おひとりなんですか?」
と、梨絵はたずねた。|お前さん《ヽヽヽヽ》、から、|おたく《ヽヽヽ》、|あんた《ヽヽヽ》、そして、|きみ《ヽヽ》、と、今野の梨絵に対する呼び方が変ってゆく間に、彼女の側にも少しずつ相手に対する感情の変化が出てきているのだった。
「ああ。去年まで、銀座のホステスと同棲《どうせい》してたんだが、今は切れた。きみは?」
「母と妹を抱えてますから」
「ふうん」
今野は建物の裏手へ回ると、
「きみ、バイクに乗ってこわくないか」
「オートバイですか」
「ああ。あいつだ。ベンツのSLCを乗り回してる同業者もいるが、おれはまだあの程度でね。うしろに乗る勇気、あるかい」
「妹がときどき乗せてくれます。運転はできませんが、同乗するだけなら」
「本当はヘルメットが必要なんだが、まあ、いいだろう」
今野は黒い自動二輪にまたがり、エンジンをスタートさせた。
「さあ、ここへ。おれの腰にしっかりつかまるんだ」
「大丈夫です」
梨絵はバッグを肩から胸へ斜めにかけなおし、後部の座席にまたがった。
「新宿にうまくて安い焼肉屋がある。そこへ行こう」
ライトをつけると、今野は意外に巧みな動作で梨絵をうしろに乗せたカワサキをスタートさせた。梨絵の回した腕の中の今野の胴体は、確かにまだぜい肉のついていない青年の硬さを残していた。
その晩、梨絵は家に帰らなかった。焼肉屋で食事をすませ、それからどこかホテルを取って徹夜で原稿を作りあげるという今野に、最後までお手伝いさせてください、と、梨絵のほうから申出たのだった。
二人は普通のホテルと、ビジネスホテルの中間ぐらいの渋谷のホテルのツインの部屋で、朝まで働いた。
お互いにその晩の記憶を必死で拾い集めながら、手さぐりで二百字詰め五十枚あまりの対談の原稿を創作する作業である。
朝方になると、少しずつ今野が冴《さ》えてきた。彼の頭の中で、大まかなゲスト二人の対話の流れがつかめてきたらしく、彼は鬼島や鍋沢の声色を真似ては、猛烈な勢いで原稿用紙を会話で埋ずめていった。
「疲れたら、そっちのベッドで横になりたまえ。手は出さないから、安心していい」
「いいえ、大丈夫です」
梨絵は、顔全体に脂《あぶら》が浮いてきて、無精ひげがうっすらと目立ってきた今野の尖《とが》った横顔を眺めながら、次第に一種の同情に似た親愛感のようなものが心に芽生えてくるのを感じていた。
〈この人も裏通りに生きている――〉
梨絵が親しみをおぼえる相手は、なぜか陽の当る場所を明かるく闊歩《かつぽ》している人々ではない。竜崎謙之介の、世間に知られていない私生活の陰に生きてきた彼女の生い立ちがそうさせるのだろうか、梨絵はいつもどこか翳《かげ》のある男や女たちに惹《ひ》かれてきた。
昨日、妹を連れて訪れてきた西条という男にもそれがあった。
唐突に自分を買ってくれ、などと突飛な申出をしたのも、妹の事件と大切な対談記録の紛失という二重のショックに取り乱したための発作的な行為ではなかったと思う。
そこには、どこか一種の甘えがあった。父を持たない梨絵は、あの西条という奇妙な中年男に、いわば理由もなく甘えてみせたのだ。そんな感情が自分の中にあることを、最近、梨絵はうすうす自分でも感じはじめている。
「よし、これで何とかなりそうだ」
今野が勢いよく立ちあがって原稿の束を机に叩きつけたのは、夜明けの光が窓から赤くさし込みはじめた時間だった。
彼はひどく憔悴《しようすい》した顔をしていた。頬がこけ、目がくぼんで、顔がひと回り小さく見える感じだった。
「本当にごめんなさい。こんなご無理をさせちゃって」
梨絵は、頭をさげた。今野がベッドに横になって服を脱ぎたまえ、と言えば、ひょっとすると梨絵は素直にその言葉にしたがったかもしれない。彼女は、何とかして相手に自分の気持ちを伝えたかったのだった。
「いや、うまく行くかどうかはまだわからん。だが、とにかくこいつを入稿してゲラにするんだ。ちょっとヤバいが、時間がなかったとか何とか理由をつけて、鬼島さんと鍋沢には目を通させずに活字にしてしまう。大筋は間違ってないはずだから、なんとか頬っかむりして通せるだろう」
「今野さんは、ライターとしての才能がおありなんですね。もっと自由な書き手のお仕事をなすっても、ちゃんとやって行けるかただと思うんですけど」
今野がまとめた原稿にざっと目を通して梨絵は言った。それはお世辞ではなかった。二人の老人たちの会話は、梨絵には判らない世界のものだったが、語り合っている二人の男たちの息づかいや、談笑する雰囲気のようなものはとてもよく出ているようだった。
「一時、フリーのライター稼業《かぎよう》もやったことがあるんだよ」
「週刊誌ですか」
「ああ。そこで書いた記事が告訴されてね。責任を取らされてやめたんだ。思い切って書け書けと尻を叩かれてても、結局は最後のツケはこっちに回ってくる。名誉|毀損《きそん》で訴えられて、示談にできず、しばらくは臭い飯も食わされたんだ。こう見えても、学生時代の公務執行妨害にはじまって、傷害や、名誉毀損にいたるまで、いくつかの前科があるんじゃ、まともなライターの仕事はやって行けない。もう今じゃ、その気もないがね」
「最初お会いした時は、てっきりヤクザにちがいないと思いましたわ」
「そんなことを言うとちゃんとしたヤクザが怒るぜ。おれなんか、しょせんチンピラさ」
今野は窓際に立って、東の空を指さした。
「見ろよ。あんなに朝日が大きく見える――」
公園の森の向うに、橙《だいだい》色の朝日がゆっくりせりあがってくるのが見えた。二人は肩を並べてあたりのビルの壁面がバラ色に染まって行くのを眺めた。
「電車はもう動いてる。おれはここで昼まで寝て印刷工場へ回るから、きみは帰りたまえ」
「ええ。そうします。今日の午後でも、またお電話してみますわ」
「きみの家の電話、おしえておいてもらおうか」
梨絵は自宅の住所と電話番号を、今野のさし出した手帖に丹念な字で書きつけた。オフィス名の入った名刺は、わざと渡さなかった。
「じゃあ、失礼します。本当に申訳ありませんでした。今度のことは、あらためておわびをする積りですから」
「相手が相手だから、ちょいとおっかないが、とにかくやってみる。もし、何かあって元の記録を見せろ、なんて騒ぎになった時は、お互いに口裏を合わせて記録は原稿の上った段階で消却したことにしよう。テープは消去し、メモ帖は焼却した、と」
「はい。必ず責任をもってそう言います」
「じゃあ」
「おやすみなさい」
今野はドアを閉める時に、ふと何か言いかけたが、うなずいて手を振った。梨絵はもう一度、頭をさげて廊下へ出た。
疲労感が肩に鉛のように重く感じられる。
〈とにかく一つだけは、何とか切り抜けることが出来たみたいだ〉
梨絵は大きなため息をついて、人気のない夜明けの舗道を歩きはじめた。
もう一つ解決しなければならない問題がある。妹の美絵が破損した例の絵の件だ。きょうはいったん帰宅して、できるだけ午前中に西条という例の男を訪ねなければ、と、梨絵は思った。
梨絵が合い鍵を使って玄関のドアをあけようとしていると、内側からノブを回す音がして、妹の美絵の顔がのぞいた。
「おかえんなさい。おねえさんの朝帰りははじめてね。母さん、心配して、ゆうべ眠りゃしないんだもん。まいっちゃった」
「だからちゃんと電話で説明したじゃない。例の対談の件で徹夜になりますから、って」
「うん、それは聞いたけど。でも、結局、どうなったの、その件は」
「なんとかね」
「へえ。世の中って、思ったよりうまく運ぶもんね。あたし、また、おねえさんが責任とって自殺未遂かなんかやらかすんじゃないかと心配してたんだけど」
「あんたじゃあるまいし、そんな人騒がせなことするもんですか」
美絵は首をすくめて、ぺろりと舌を出した。
「コーヒーでも入れるわ」
ダイニング・キチンで新聞に目を通していると、母親の和江が姿をあらわした。
「おかえり。大変だったわね」
「かあさん、眠らなかったんですって?」
「そういうわけじゃないけど。でも、あれこれ考えることが多くって」
「駄目よ、かあさん、心臓が弱いんだから、ちゃんと睡眠とらなくっちゃ」
「竜崎家の奥さまから、お電話があったわ」
和江はできるだけ平静をよそおった口調で言ったが、語尾が震えていた。竜崎家とはこれまで何の交渉もなく過ごしてきている。竜崎謙之介の死後、告別式が盛大に行われた際も森下一家には何の連絡もなかったのだ。
「電話が?」
「ええ。きょう、午前十時にご本宅のほうへうかがうように、って」
「誰がかけてきたの? 奥様ご本人?」
「いいえ、代理の秘書みたいな男の人。たぶん、竜崎美術館のかたかもしれない」
「突然いったい何かしら」
「ね、梨絵ちゃんも一緒にきてくれる?」
母親はすがるような口調で言った。
「もちろん。かあさん一人だけを竜崎家へなんかやれるもんですか」
「あたしも行くわよ」
美絵が言った。
「まさか、あんたは来ちゃいけない、なんてことは言わないでしょうね」
「そんなことは言わないけど――」
「おとなしくするわよ、ちゃんと」
美絵はコーヒーを二つ入れて、テーブルの上においた。
「でも、一体どういうことだと思う? おねえさんの推理は」
「あなたが切った絵のことと関係があると思うわ」
「…………」
美絵は首をすくめてコーヒーをすすった。
「たぶんそうよ。なにか面倒なこと言われなきゃいいけど」
「体の具合いが悪いから、って、お断りしたほうがよかったかしら」
和江は心細そうにつぶやいた。
「なに言ってるのよ。べつにやましいことなんかないんですもの。堂々とご招待に応じようじゃないの」
美絵が胸を張って言った。一体なんだろう、と、梨絵は竜崎家からの突然の呼出しの真意をはかりかねて、考え込んだ。
竜崎家は門の入口から玄関まで、木立ちの間をぬって歩くほどの宏大な構えだった。本館は私立の竜崎美術館になっており、別棟に未亡人たち一族が暮しているらしい。
森下和江とその娘二人は、本館の応接間に通されて、しばらく待たされた。天井の高い洋間で、壁には何点か竜崎謙之介の風景画がかかっている。
「きちんとしなきゃ駄目よ」
梨絵は煙草をとり出してマッチを探している美絵の手をおさえて言った。
「かあさんの立場をいつも考えてね」
「わかってるわよ」
美絵が不承ぶしょうに煙草をポケットにしまい込んだとき、ドアが開いて、二人の女性が姿をあらわした。
眼鏡をかけた大柄の初老の婦人が、写真でも見知っている竜崎未亡人だった。その横に梨絵と同じ年輩かと思われる若い娘がつきそっている。
〈似てる――〉
一瞬、梨絵は目まいに似た感覚におそわれた。その娘が誰に似ているのかは、よくわからない。竜崎謙之介に似通っているようでもあり、また、いつも鏡の中に見慣れている自分の顔に似ているようでもあった。
ひと通りの挨拶を終えた後、竜崎未亡人は感情を表に現わさない口調で言った。
「竜崎の人物画をナイフでお切りになったというのは、こちらのお嬢さんですの?」
「申訳ございません」
和江は青白い顔をうつむかせて、小さな声で言った。
「わたくしが行きとどかないものですから、こんな不始末を――」
「どうしてそのことをご存知なの? おばさま」
と、美絵が煙草に火をつけながら、脚を組んできいた。梨絵は黙っていた。彼女をたしなめるより、むしろ応援したいくらいの気分だったのだ。
「マスコミが動いているのです」
と、未亡人は眼鏡の奥から光る目で梨絵を見て言った。どうやら森下家の代表は梨絵と見てとっての言葉のようだった。
「マスコミ、と申しますと?」
梨絵がたずねた。
「例の事件がマスコミにもれているのですよ」
と、未亡人が言った。
「どなたが表ざたになさろうと考えられたのかは存じませんが」
「わたしたち、何ひとつ外部にはもらしておりませんわ。自慢になる話じゃございませんし」
梨絵はまっすぐ未亡人の目をみつめて言った。
「どこから噂《うわさ》がもれたかは問題じゃございません。とにかくマスコミが動いているのです」
未亡人は機械のように同じ言葉をくり返した。
「竜崎謙之介の隠し児が、父親の名作を切った、それに対して両家がどう出るか、などと恥ずかしい記事が雑誌や週刊誌に出ることだけはさけねばなりません。竜崎はマスコミが嫌いでございましたし」
「それに、偉大な画家に愛人がいて、隠し児が二人までもいたなんてことが世間に知れわたることも恥ずかしいんでしょ」
と、美絵が嘲笑《ちようしよう》するように言った。
「それは私どもや故人の名誉ということもございます。ですから、この問題を、何とか私どもの手で処理してさしあげようと考えまして、それで来ていただいたのです」
「どういうことでしょうか」
「まず、この娘さんが破損なさった時価五百万円とかの絵の弁償の件ですが、それは私ども竜崎家が相手方の画廊と話合って、きちんとします。たしか銀座の〈ギャラリー・ハタナカ〉とかいうお店でしたね。もちろん二流の画廊でしょうから、お金で解決のつく問題だと思います」
「でも……」
「ちゃんと最後までお聞きください。次はマスコミ対策のことですが、こちらはさる有名なおかた、政界や財界にもにらみのきく偉い先生ですが、そのかたを通じて押さえてもらうつもりです。以前から竜崎の絵に興味をお持ちで、ご自分でも何点かお集めになっておられる方ですから。そちらへお願いして、この竜崎美術館の名誉運営委員になっていただこうと思います。運営委員の方々には、毎月一点ずつ、竜崎の作品をお貸しして見て頂くことにしておりますので、いろんな方が、委員になりたいと申出になられますの。鬼島先生も、そのようなご希望がおありと聞きましたから」
「鬼島先生――」
その名前にきき覚えがあるような気がして、梨絵は首をかしげた。
「いえ、どの方というわけではございません。とにかく、偉い先生にお願いして、私どものほうで、マスコミは押さえてもらうようにいたします」
「何から何まで本当に申訳ございません。でも――」
と、母親の和江が口ごもった。
「マスコミのほうは、わたくしどもの手のおよぶところじゃございませんが、破損した絵の件は、実はわたくしが一点だけ持っております竜崎の絵を――」
「あなた、竜崎の作品をお持ちになってらっしゃるの」
未亡人は平静な口調でたずねた。だがその口調の奥には、何か油断のならないものがあるのを梨絵は感じた。
「はい。むかし、わたくしを描いてくれた十号ほどの――」
「それは竜崎が亡くなった際に、もちろんちゃんと税務署のほうへお届けになった作品でしょうね」
「え?」
和江は目を見張って、子供のように首をふった。
「いいえ、べつに税務署にはとどけておりませんけど」
「では、その絵を竜崎から贈られたという証拠は?」
「母の思い違いかもしれませんわ」
梨絵が口をはさんだ。
「その絵の件については、後日、きちんと御報告いたします。でも、とにかく妹が破損した絵については、わたくしどもで何としてでも弁済いたすつもりですから」
「そんなにお金に余裕がおありなのね」
「いいえ。家はわたしが速記者をして食べているんです。でも、妹のしたことですから、わたしたちの手で何とか――」
「こちらで処理させて頂くと、申し上げてるのですよ」
未亡人はびしりと斬りつけるような口調で言った。
「万事そのほうがうまく行くのです。五百万円の絵といったところで、画商の言う値段ですもの。それをそのまま引っかぶる理由はないわ。とにかく、この件は、私どものほうで処理させて頂きますから」
「…………」
「但し、一つ条件がありますの」
未亡人は手を叩いて廊下に立っていた男を呼んだ。
「例の書類を」
「はい」
男が一通の書類を持ってきてテーブルの上にひろげた。
「これに、あなたがた三人のお名前で署名、捺印《なついん》なさってください」
「なんでしょう? これ」
「今後、一切、あなたがたが竜崎家と関係がないという覚え書きです。それに、他《ほか》に対して、自分たちが竜崎の愛人であったとか、竜崎の遺児であるとか、そういった意味のことを決して発言したり、マスコミに公表したりしないという約束の文章ですわ」
梨絵と和江は、思わず顔を見合わせた。
「さあ、どうぞ。拇印《ぼいん》で結構ですから」
未亡人がうながした。
そのとき、横から美絵が手をのばしてその書類をつまみあげた。
「なにさ、こんなもの」
と、彼女は言い、ピリッと音を立ててそれを引き裂き、丸めて部屋のくずかごの中へ投げ込んだ。
「帰ろうよ、ばかばかしい」
と、彼女は母親と梨絵の腕をとって立ちあがった。
「だれがなんって言ったって、あたしたちが竜崎って絵描きの子供だってことは本当だもん。仕方ないじゃん。あたしたちはね、なにもマスコミにペラペラ喋《しやべ》ったり、人に自慢したりする気なんかこれっぽっちもないんだから。だから今まで、世間も知らなかったんじゃないの。それを、なにさ。偉そうに、誓約書だなんて。馬鹿にしないでよ。さあ、帰ろう、かあさん。切った絵のお金ぐらい、売春してでもトルコに勤めてでも返してみせるわよ。冗談じゃないわ」
「このお嬢さん、すこし変ってらっしゃるみたいだけど」
と、未亡人は息をととのえながら梨絵に言った。
「あなたは、どうですの、梨絵さん」
「わたくしも妹と同意見ですわ、奥さま。では、失礼します」
梨絵は母親の腕をとって立ちあがった。美絵の笑い声が部屋にひろがった。未亡人は黙ったまま、身動きもせず、三人が部屋を出て行くのを見送った。
西条裕一郎は、梨絵の話をきき終えると、なるほど、と独りごとのようにつぶやき、それからテーブルの上の梨絵の茶碗に湯気の立つ茶を注ぎ足した。
「このお茶、うまいでしょう」
「ええ。おいしいわ」
「棒茶、っていうんです。気に入って毎月、送ってもらってるんですがね。お茶の葉っぱのほうでなくて、なんだろう、幹かな、いや、とにかく棒みたいなお茶でね」
西条裕一郎の部屋は、ちょっと見ただけではその部屋の主の職業の判定がつきかねるような感じだった。
銀座の小さなビルの三階にあるその部屋は、独身の学生の下宿の部屋のようでもあり、またひとくせある遊び人の部屋のようでもある。
テーブルの上には時代がかった乾山《けんざん》ふうの角皿が灰皿がわりに置かれ、壁にはヘンリー・ミラーのややエロチックな水彩画が掛けてあった。
本棚にはフランス文学系の洋書と、古典落語全集が同居しており、床にはかなりいいものらしいイスファハンのカーペットが無造作に敷かれている。タンノイのスピーカーと、ベーターマックスのヴィデオのセット。窓からは隣りのビルの非常階段が見えた。
雑然としていて、それでいて居心地の良さそうな部屋だった。梨絵は、その部屋にはいった瞬間から、ひどくリラックスした気分になっている自分に気づいた。西条という男自身が、まるで体臭のない動物のように、人をくつろがせる雰囲気を持っているせいかもしれない。
「なかなかきつい未亡人ですな」
と、西条は煙草に火をつけながら言った。
「それにしても、妹さんはやりますね」
「ええ。わたし、あの子のこと大好きなんです」
「私も好きですよ」
西条は淡々と喋った。
「しかし、そうなると、問題は例の絵の件だけということになりますね。マスコミ云々《うんぬん》というのは、かなりあちらさんの心配が先走ってるようだから」
「鬼島、っていう人は、一体どういう人ですの」
「鬼島? 鬼島六造のことかな?」
「わたし、よく知らないんです。でも、ひょっとしたら、海坊主みたいに頭をそりあげた、血色のいいお年寄りの――」
「それが鬼島六造です。まあ、政財界の裏でにらみをきかせている、一種のフィクサーの親玉みたいな男でね。何をやってるんだか、私たちにはわかりませんが、時々、酒場で会ったりすることがあります。女に囲まれて遊んでいる時は、面白そうなご老人ですが、相手によっては身震いするほど怖い存在かもしれない。まあ、私はあまり関心はありませんが」
西条は、その件に関しては、余り語りたがらない様子で、ぼんやり煙草の煙の行方を目で追いながら、
「あの絵、このビルの下の画廊の持物なんですが、実際には四百万だそうです」
「四百万円ですか」
「そう。それも、もし私が買うと言えば、三百五十万の一年払いぐらいになるんじゃないのかな。毎月払っていくとすれば、月三十万で一年か」
月三十万で一年間――と、梨絵は口の中でつぶやいた。
「一昨日の晩、電話で五百万、とおっしゃったのは、その絵を弁償するお金が必要だという意味でしょう?」
と、西条がきいた。梨絵はうなずいた。
「ええ。でも、あの時、わたし、どうかしてたんです。何しろ妹は五百万円の絵を切り裂いちゃうし、わたしはわたしで大切な速記の記録を失くしちゃうし、もう、どうにでもなれという心境でしたから」
「それじゃ、あの話はなしですね」
「いいえ」
梨絵は首をふった。
「やっぱり、絵のほうのことは、きちんとわたしが片をつけたいと思うんです。たとえ西条さんがどんなに好意的に間にはいってくださったとしても、月三十万で一年間というのは、今のわたしには考えられないお金ですもの。それに、速記の仕事は、ちょっと自信をなくしかけてるところなんです。なんだかこの辺で、がらっと気分を変えて、自分とちがう自分になってみたいような、そんな気がして」
「なるほど。でも、なぜわたしにその相談を持ちかけてこられたんですか」
「匂いね」
「匂い?」
「ええ。なんとなく西条さんって、そんな相談に乗ってくださりそうな雰囲気があったから。それに信用できそうだったし」
「危険な狼《おおかみ》ほど信用できそうなふりをするもんですよ」
「だったら、なおさら面白いわ。わたし、本当は妹以上に冒険好きのお転婆娘なんです。でも、長女でしたし、一家をしょって行かなきゃという責任感みたいなものに、小学生の頃からがんじがらめになってしまってて、ずうっと優等生のふりし続けてきたんですね。わたし、疲れちゃったわ、そんな生活。危険な娘ほど、いい子ぶってるものなのよ」
「そうですか」
西条は苦笑した。
「煙草、吸いますか」
と、彼はラークの袋をさし出しながら梨絵に言った。
「たしかに梨絵さんには、隠されたもう一つの側面がある。それは私の勘でわかるんですよ。だから言ったでしょう、まだ水にひたされたことのない水中花だって」
「ええ」
「私は梨絵さんを見たときに思ったんです。この人を銀座の夜の世界という水槽《すいそう》の中に頭からひたしてみたら、どんなになるだろう、ってね。ひょっとしたら、あの水中花が水の中ですうっと鮮かに開いて行く時のような、そんな瞬間が見られるのかもしれない、と」
西条は本棚から一冊の本を取り出して、ページをめくり、苦笑してまた棚にもどした。
「プルーストって、ご存知でしょう?」
「ええ。名前だけは。〈失われた時を求めて〉って小説を書いた人ね。読んだことはありませんけど、速記者って職業、やたらと固有名詞を知ってる必要があるんです」
「なるほど」
西条は微笑した。
「プルーストはどうでもいいけど、ひとつ、やってみますか。そうすれば、あの絵を一年間で弁償するに充分なだけ、いや、ひょっとしたら半年位で返済できるくらいのお金は、あなたの手にはいるんじゃないかな」
「水に体をひたすのね」
梨絵は首をすくめて舌を出した。
「私は夜咲く酒場の花よ、って感じでもないけど」
「バーに勤めてもらう気はないんです」
「じゃあ、何をすればいいんですか」
「ドール・シップって店がある。私の古いつきあいの、というか、私がかつて面倒を見たというか、そういう仲の瑛子という女が経営しているクラブですがね。小さいが、客筋はしっかりした店です。そこにはホステスのほかにレディ・ドールという女の子たちが五、六人いましてね。例のプレイボーイ・クラブ風のバニーガールの格好で、ちょっとしたショウをやったり、ショウの合間には|お運びさん《ヽヽヽヽヽ》をやったりしてる。客席には坐らなくてもいい。まあ、鑑賞用ってところかな」
「ちょっとしたショウなんて、そんなのわたしには無理だわ」
「大丈夫ですよ。ショウったって、まあ、|振り《ヽヽ》のあるコーラスみたいなもんです。そのかわり体の線のきれいな子でなくちゃならない。なにしろここまで食い込んだ網タイツはかなきゃなんないんですから」
「自信ありません、わたし。バニーガール・スタイルなんて」
「ちょっと、脚、見せてごらんなさい」
西条はあっさりした口調で言った。少しもいや味のない口調だったので、梨絵はごく自然にブーツをはいた脚を、椅子に腰かけたままテーブルの横にさし出した。
「ブーツは脱いだほうがいい」
「そうですね。でも、わたし、脚は自信ないんですよ」
「見なきゃわからないでしょう」
「はい」
梨絵は、くすくす笑いながら、ブーツを脱いだ。
「両脚とも脱いで、そこに立ってごらんなさい」
「こうですか」
「そのスカート、ずっと上までたくしあげてみてください」
「西条さんって、おかしなかたね」
梨絵は少し赤くなりながら言った。
「いつもそんなふうに、ヌードダンサーの面接みたいなことを仕事にしてらっしゃるんですか」
「そんなことないですよ」
「だって、あんまり慣れてらっしゃるんですもの」
梨絵は、思いきってスカートを両手でたくしあげた。膝頭をぴっちりそろえて立ち、目をつぶった。
「もういいですか――」
「うん。ありがとう」
西条は真面目な顔で、うなずいた。
「きれいな脚の線してる。まず、まっすぐなのがいいし、太腿《ふともも》が貧弱じゃないのもいいし、それに足首がきゅっとしまってて、とてもいいですよ」
「ありがとうございます。でも、男の人の前でこんな格好したの、これが生れてはじめてよ」
「週に五日働いて、手取りで月四十万くらいになればいいですか」
「月四十万円ですって?」
「ええ」
「お金って、そんなに簡単に手にはいるものなんですか、西条さん」
「そんなふうに言われると困るけど、まあ、水商売ですから」
「でも、体を売るわけじゃないでしょう?」
「もちろん」
「速記者として一応通用するようになるまでには、とっても大変なんですよ」
梨絵は、自分の手の指をみつめながら、ぽつんと言った。
「五級から三級までぐらいは、比較的楽に行けるんです。そこでちょっとした一つの壁があります。それを越えて二級。そこから一級までが厄介なんです。十分間に約三千字の音を記録できるようになるまでに、わたしの場合、二千六百字ぐらいで一つの壁にぶつかったの。どうじたばたしてもそこを越えられなくって、投げ出そうと思いはじめた頃、ふっとそこが抜けられたんですね。そして、今年で五年目。なんとか一人前の速記者として働いて、それでも月に二十万円稼ぐのがやっとなんです」
西条はうなずきながら梨絵の話をきいていた。梨絵はこれまで余りそんな苦労話のようなことを他人にしたことがなかったので、なんとなく自分で自分の話に瞼《まぶた》の裏が熱くなるような感じをあじわった。
〈あの頃は、本当によくがんばったものだった――〉
一日平均四時間程度の睡眠で頑張った二十代の前半。
「水商売も、あれでなかなか大変なんですよ」
西条が、なにげない口調で喋りだした。
「いま、あなたのおっしゃったような、壁もあればスランプもある。それは一人前になるまでには、本人の努力が必要です。しかも、その努力や頑張りが、表ににじみ出してくると良くないんだから難しいもんですね。本当は歯を食いしばって頑張ってても、顔や風情は春風さんみたいじゃなくっちゃね」
「じゃあ、わたしには無理だわ」
「あなたをホステスにする気はないって言ったでしょう。とびきりチャーミングな|お運びさん《ヽヽヽヽヽ》、それが一晩に何回かのショウ・タイムに素人っぽく踊って歌う。そこがドール・シップのママの瑛子の狙い目なんですね。梨絵さんは、その狙いにぴったりの人だと思うんですよ。いつも瑛子ママから頼まれながら、これまで人を紹介しなかったのは、そんなぴったりの娘さんがみつからなかったからなんです。だから、今度は大威張りであなたを連れて行ける。楽しみですな、あなたがどんなふうに変身してゆくか外から眺めているのはね」
「西条さんは、いつもそんなふうに外から見物なさってるだけなんですか」
梨絵の言葉に、西条は戸惑ったような苦《にが》笑いをうかべた。
「まあ、そうですねえ。いつか申しあげたでしょう、私は余計者だって。人生を、まともにこう、頑張って生き抜くタイプじゃないんです。ふわふわ夜光虫みたいに波間に漂いながら一生を過ごすんじゃないのかしら」
「でも、そうとも言い切れないみたい」
梨絵は首をかしげて西条を眺めた。
「だって、あの雨の日に対談の席まで車で送っていただいた時は、すごい運転なさったわ。あんなふうに車を走らせる人が、人生の余計者だなんて、ちょっとおかしいと思うけど。西条さんって、余計者を気どるのがお好きなだけなんじゃないのかしら」
「そう分析されると参りますなあ」
西条は頭をかいて立ちあがった。
「とにかくドール・シップの店だけでもご覧になっておかれたらいかがですか。木曜日はレッスンがあるから、三時頃にはレディ・ドールのお嬢ちゃんたちも来てるはずです。ひとつのぞいてみましょうや」
「こんな格好でいいかしら」
「外側はどうでもいいんです。店に行けば、お店の衣裳《いしよう》もあるし」
「わぁ、きょう早速バニーの格好なんかするんですか」
「一応そのほうがいいです。明日になると、ほら、気が変ったりすることもあるから。やる気になったら、すぐ飛び込んだほうがいいです。鉄は熱い内に打て、ってね」
西条はテーブルの上の茶碗を流しに運ぶと、ガスの元栓《もとせん》をしめ、灰皿をたしかめた。
「さて、それでは行きますか」
梨絵は西条と並んで薄暗いビルの階段を降りて行きながら、自分がフラメンコかなにかの踊り子になって、髪をなびかせながら道を行くイメージを思い描いた。
〈竜崎謙之介の遺児がタイツ姿で踊ってるなんて、あの未亡人が見たらさぞびっくりするにちがいないわ〉
そう思うと、なぜか愉快な気がした。梨絵は西条と並んで、さわやかな四月の風の吹き抜ける午後の街を軽い足どりで歩いて行った。
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第三章
運輸観光タイムズ社の電話番号をたしかめると、森下梨絵は電話のダイヤルを口でつぶやきながらためらいがちに回した。
「はい、運輸観光タイムズ」
吐き捨てるような男の声だった。梨絵は思わず受話器をにぎったまま苦笑した。どうして新聞や、週刊誌の編集部の男たちは、みんなこんなふうに気負った電話の受け方をするのだろう、と、おかしかったのだった。
速記者という仕事の性質上、梨絵は時々、有名な新聞社や、週刊誌の編集部へ電話をすることがある。そんな時、相手はかならずぶっきらぼうに、
「はい、社会部」
とか
「はい、週刊サンデー」
とかいった具合いに語尾をはぶいた無愛想な声を出すのだ。ことに若い記者や、編集者たちがそうだった。いまの今野の口調が、そんな一流紙の記者の応対と、あまりにもそっくりなので、彼女は思わず笑ってしまったのである。
「だれですか、あんた」
と、今野の声が、やや警戒する感じになった。梨絵はあわてて名前を名乗った。
「森下梨絵です。あの、オフィス・ゼロの速記者の――」
「なんだ、きみか。おどかすなよ」
今野は、ほっとした口調で、
「きょう、例の新聞が刷り上ってね。いま、ひとりで発送の仕事をやってるところさ。いきなり聞きなれない声で電話がかかってきたんで、ちょっとぎくっとしただけだ。呑み屋の借金のことかと思ったのさ。ところで、なにか用かい」
「いいえ。別に用事ってわけじゃありませんけど、ただ、例の対談のことがとても気になってたものですから。あれ、なんとかうまく記事になりました?」
「ああ。心配しなくともいい。ちゃんとやったさ。一面から二面へ流して、でっかい写真入りの派手な扱いだから、みんな目をむくだろう。中身のほうも、なんとかさまになってる。きみにも心配かけたが、とにかくうまく行ったよ。鬼島会長にも、約束通りキャッシュで五万部買いあげてもらったし、鍋沢さんからも対談記事としてはよくまとまってて面白かったと、おほめの電話をもらったばかりさ。万事順調だ。安心してくれ」
「よかったですね、ほんとうに」
梨絵はほっとして、思わずため息をもらした。速記者として取りかえしのつかない失敗をしでかしたのに、なんとか切り抜けることができたのだ。もし、これが一流の媒体だったら、こうはいかなかっただろう。得体の知れない赤新聞だったことが、かえって幸いだったとも考えられる。梨絵はため息をつくと、少し改まった口調で続けた。
「それにしても、本当にありがとうございました。今野さんみたいなかたが依頼主でなかったなら、わたし、当分は速記者の仕事をつづけることが出来なくなっていたかもしれません。どうお礼を申上げたらいいか――」
「お礼はいいから、ちょっと手伝いに来てくんねえかなあ」
と、今野が言った。
「宛名を書いて発送する仕事まで編集長がやってたんじゃ、体がもたない。ちょっとよそを回って今度の記事の反応も確かめてみたいし、きみに時間があったら仕事を手伝ってくれないか。二、三時間でもいい。それで、例の失敗の件は、帳消しということにしよう。どうだい」
「わかりました」
梨絵は頭の中で、〈ドール・シップ〉の女経営者との約束の時間をたしかめ、腕時計を眺めた。
午後の四時に西銀座の店へ行く約束なのだ。まだ正午だから、時間はたっぷりある。
「すぐうかがいます。でも、わたしに出来る仕事でしょうか」
「新聞を折って、宛名を書いたオビを巻くだけさ。子供にだって出来る。手伝ってくれれば大助かりだが」
「じゃあ、一時頃までにそちらへまいります」
「うん。待ってる」
今野は電話を切らずに、ちょっと間をおいて、
「きみの顔も見たいし」
と、ややぎこちなくつけ加えた。
「失礼します」
梨絵は電話を切ると、今野の最後の言葉を、頭の中でくり返し、なんとなく首をすくめた。男の月並みな口説き文句には慣れているつもりだが、今の相手の口調にはちょっとした真実味が感じられたのだ。悪《わる》ぶってはいるけれども、根はかなり陽性で率直な性格の持ち主らしい今野達也という青年の、ふと、つっかえたような物の言い方が可愛いと思った。
梨絵は、自分では男性に対して、かなり惚《ほ》れっぽいほうだと思っている。ちょっと親切にされたり、キザでない厚意を示されたりすると、なんとなくその相手を好きになってしまう傾向があるのである。そのくせ、臆病で、用心深い性質のために、自分の感情を表に出すことがあまりなく、いつの間にか好意を抱いた相手と離れてしまう結果になることが多かった。今野という青年に関しても、最初の印象が極端に悪かった分だけ、その後の相手の変りようが心にひっかかっているのかもしれない。
自分のほうから運輸観光タイムズへ電話をしたのも、かならずしも対談の記事がどうなったかを気づかったせいばかりではなかったような気もする。
「ねえさん」
受話器をおいたまま、ぼんやり考え込んでいる梨絵の背後から、妹の美絵の声がした。
「なによ、美絵ちゃん」
「だれに電話してたの?」
「新聞社」
「へえ。そんな顔じゃないみたい」
「そんな顔じゃないって、それじゃ、どんな顔なのよ」
「デイトの約束でもしてたみたいな顔――」
「ばかね。仕事よ。あなた、姉さんをからかう気?」
「電話はどうでもいいけど、ねえさん、西条さんの部屋へ訪ねて行ったんですって?」
美絵はチョコレートのとけかかったエクレアを手づかみで頬ばりながら、柱によりかかっていたずらっぽい上目づかいで梨絵を眺めた。
「だれから聞いたの」
「だれだっていいじゃない。あたしの情報網はカンペキなんですからね。ねえさんの行動に関しては、何から何まで、手に取るようにわかってるの」
「生意気ばかり言って」
梨絵は妹の手からエクレアの切れはしを取りあげて口に押しこんだ。
「ふとるわよ。二十五過ぎた女は大根の葉っぱ食べてもふとるんですって」
美絵は梨絵の腰のくぼみを素早く指でつついて笑った。梨絵は思わず身をよじって悲鳴をあげた。
「いやね。くすぐったいじゃないの」
「いちおう性感も年相応に発達してるみたいですな」
「ばか」
「ね、西条さんって、素敵じゃない? あたし、ちょっと口説いてみようと思うんだけど、どう思う?」
「無理ね」
梨絵は手を振って妹に笑ってみせると、
「だいたいあの人は若い小娘なんかに興味はないみたいよ。だって、あの年で、経済的な余裕もあり、健康で、何不自由のない立場だのにまだ独身だなんて、変り者としか考えようないじゃないの。美絵ちゃんあたりだと、そうねえ、あの吉野くんっていったっけ、マクドナルドの渋谷店でバイトしてる多摩美の学生さん、あの辺あたりがお似合いじゃないのかな」
「言うわね。ねえさん、最近ちょっと態度がでかいみたいだなあ。なにかあると思うんだ、あたし」
「今夜、ちょっとおそくなるかもしれないから、かあさんに心配しないようにって言っておいてちょうだい。わたし、今から出かけるわ」
「そうだ、いいことがある」
美絵は立去りかけた姉の耳もとに口を近づけて、ささやいた。
「ねえ、いま思いついたんだけど、こんな計画はどう?」
「なによ」
「あの西条さんに、うちのかあさんをくっつけるのよ」
「なに言ってるの。いいかげんにしなさい」
「だって、こないだ竜崎家へかあさんと一緒に行ったでしょう? あの時、かあさん、わりかしきちんとした着物きてて、お化粧もして、客観的に見ても、かなりいい線いってたみたいじゃない。そりゃ年は隠せないけどさ。でも、結構、あたしたちにはない女っぽさもあったりして、案外いけると思うんだけど、どう?」
「どうにでもしたら。わたし、出かけるわ」
「気どり屋さん。まあ、せいぜい肩をいからせてがんばってちょうだい」
美絵は二階への階段をのぼって行く梨絵のうしろ姿に、屈託のない声を投げかけた。
梨絵が運輸観光タイムズで今野からあたえられた仕事は、単調なものだった。定期購読者リストのほうは、ガリ版で宛名が帯に刷り込んであり、それを折った新聞に巻いて切手を貼《は》るだけである。
その分は二百部もなかった。別口として今野から指示されたのは、政財界人紳士録という分厚い本の中から、運輸、観光事業に関係のある人名を拾いあげて、その分は手書きで宛名を書き、新聞に巻く仕事である。
字を書くのが商売の梨絵の能力では、二時間もかからずに終りそうだった。今野は梨絵を残してあわただしく外へ出て行き、彼女はひとりで黙々と発送の仕事を続けた。
二時半頃、電話が鳴った。梨絵はどうしようかと迷ったが、あまりしつこくベルが鳴り続けるので、受話器を取りあげた。
「はい。運輸観光タイムズ社でございますけど」
「編集長を出したまえ」
と、鋭い声が言った。
「今野はただいま取材でちょっと外出しておりますが――」
「きみは誰だ」
相手は苛立《いらだ》った口調で詰問した。
「あの、アルバイトの者ですけど」
「今野は何時に帰ってくるんだ」
「はい。三時迄にはもどってくる予定になっております」
「こっちは鍋沢だ」
と、舌打ちしながら鋭い声は言った。
「今野が帰ってきたら、すぐにこちらへ電話をするようにと言うんだ。例の記事の件で至急話し合いたいことがある、と」
「はい。鍋沢様でいらっしゃいますね。今野はそちらのお電話番号を存じておりますでしょうか」
「あたり前だ」
電話は勢いよく切れた。梨絵はふと、その相手の声と、名前を思い出して、眉をひそめた。
〈鍋沢――というと、あの例の不愉快な男だわ〉
赤坂の料亭での対談の席で、いきなり梨絵の乳房をつかんだ銀髪の学者ふうの男の名前が、たしか鍋沢だったと思う。鍋沢先生、と呼ばれていたその初老の男が、財界団体の実力者であることは、目の前の新聞の記事を見ればわかる。
〈いったい何が起こったのかしら〉
相手の口調には、あきらかに怒りと苛立ちと、そして動揺の気配があった。
「よう、お疲れさん」
ドアを乱暴にあけて、今野達也が部屋にはいってきたのは、ちょうどその時だった。
「ほう。ずいぶん進んだな。さすが速記者だ。もうあとわずかで終りじゃないか。こいつを片づけ終ったら、どこかでうまいコーヒーでもおごるよ」
「鍋沢という人から電話がありました。たった今です」
「ふーん。先生みずからお電話とはめずらしい。やはりこの記事の威力かな。思い切って、やっこさんの言外に匂わせた部分までずばり記事にしたのが成功だったわけだ。で、なんて言ってた?」
「お電話をなさってください。向うはかなり急いでいるみたいです」
「よし」
気軽にダイヤルを回しはじめた今野に、梨絵は口ごもって言った。
「何か厄介な問題が起こったみたいな気配だったけど――」
「問題って? どういうことだい」
「わかりません。でも、とても腹を立ててるような口調でした」
「へえ」
今野は首をかしげて、ダイヤルを回す手をとめ、受話器をもどした。
「腹を立ててるようだったって?」
「ええ。苛々して、すぐに今野に電話をするように言え、って言うなりがしゃんと切ってしまったんです。何か、この記事のことじゃないでしょうか」
「そうか」
今野はしばらく考えていたが、手帖を出して、別なところへ電話をかけはじめた。
「よう、おれだ。原田いるかい」
今野は相手が出ると、少し声を抑えて喋り出した。
「こんどのおれの新聞の記事、読んだか。うん、そうだ。鬼島さんから話を持ちこまれたんで、ちょっと思い切って対談形式でぶっつけてみたんだが。そう、例の東商ジャパンの堀越副社長追い落し作戦の片棒かついだわけよ。うん。もちろん、かなりの部数は買いあげてもらった。その対談記事の中で、ちょっと脚色して、そのものずばりの名前を出した部分があるんだが、実は対談の席では出なかった言葉だ。そいつを出したのは、おれの賭《か》けだがね。鬼島氏は面白がってくれたし、鍋沢センセイもさっきは電話でご機嫌だった。きみも意外に骨っぽいところがあるな、なんて、笑ってたんだが、実はたった今、また鍋沢から電話があって――。うん、そうだ。なにかまずいことでも起こる可能性があると思うかね。おたくの判断を聞きたいんだが――」
今野はしばらく相手の声に耳を傾けていたが、彼の表情が次第にこわばってくるのが梨絵にはわかった。
〈やっぱり――〉
と、彼女は思った。
〈なにか、あの対談のことで問題がおこってるんだわ〉
今野はしばらく、ひそひそ声で話し合っていたが、やがて電話を切り、梨絵のほうを向いて、微笑した。無理につくった固い笑顔だった。
「ごくろうさん」
と、彼は言った。
「きみをこんな雑用に使ってすまなかった。あとはおれがやるから、帰っていい。夕方に約束があるとか言ってたみたいだし」
「ええ」
梨絵は今野をみつめて何か言おうとしたが、思いなおして立ちあがった。彼は彼の世界で生きているのだ。世間知らずの自分などが口をさしはさむ余地のない激烈な闘争の世界がそこにはあるのだろう。
「もし、わたしにお手伝いできることがありましたら、自宅へお電話ください。午前中はだいたいおりますから」
「うん。わかった」
今野はやや青ざめた顔で、小さくうなずいた。
「それじゃ」
「気をつけて。こんどは一緒に飯でも食いたいね」
「ええ。誘ってくだされば、いつでも」
梨絵は今野のどこかおびえたような落着かない表情をみつめながら、うなずいた。ドアをあけて廊下に出るとき、彼女は背中に今野の強い視線を感じた。
〈この人をひとりで放っておくのはかわいそうだ――〉
と梨絵は思った。だが、彼女はそのまま暗い陰気な廊下を、階段のほうへ黙って歩いて行った。
〈ドール・シップ〉は、昼間見るとかなり殺風景な構えのビルの地下一階にあった。
アール・ヌーボーふうの彎曲《わんきよく》したカウンターと、初期のドームの古風な照明器具が、まず目をひく。壁面は鏡張りで、思いきり華やかな盛り花が店のあちこちに飾ってある。こぢんまりとした店だが、かなり金をかけた趣味的な内装だった。
店の左奥に一段高くなった半円型の台があり、その横にグランドピアノが置かれている。夜の八時から一時間おきに十五分程度の歌のステージが行われて、〈レディ・ドール〉と店で呼ばれている網タイツ姿の若い娘たちが、交互にコーラスやソロの歌をきかせるのが売物だった。
ドール・シップには、ウエイターはいない。ステージの合間に、レディ・ドールたちが、小さな飾りエプロンをつけて|お運びさん《ヽヽヽヽヽ》のかわりをつとめるからだ。専門のホステスは客席について、客の相手をする。レディ・ドールたちは、水割りや、氷や、オードブルや、おしぼりを運んで、甲斐甲斐《かいがい》しく客席の間を動き回っているだけで、ボックス席に腰をおろしてのサービスはしない。精々カウンターの客たちと立ったまま控え目な会話をかわす程度である。
ドール・シップの経営者は、柳沢瑛子という、この世界ではかなりのキャリアを持つ四十代のマダムだった。以前は日劇ダンシングチームにいたこともあるという、ボーイッシュな髪型のさっぱりした女である。
彼女が踊りをやめて、銀座の酒場に働き出したのは、西条裕一郎の紹介だった。その時はスポーツ紙に、二、三、ちいさなゴシップ記事が出た程度には知られた踊り手だったらしい。
レディ・ドールの娘たちを店に採用していることには、たぶんに彼女の好みが反映していた。舞台を退《ひ》いても、歌や、踊りが好きで、時には客の求めに応じて、自分で一曲うたったりもした。四十代の後半とはいえ、以前、日劇のダンシングチームでも目立った脚線美は、まだそれほどおとろえてはいない。
タレント志望の娘や、劇団の研究生、歌うことが好きで無理に頼んで働かせてもらっている女子大生など、レディ・ドールのメンバーは、いわゆる銀座のホステスたちとは一味ちがう雰囲気《ふんいき》を持った娘たちばかりだった。
それぞれに見事な肢体を持っていたし、ステージ度胸もあった。歌そのもので客をよろこばせるよりも、ぴちぴちした若々しい体の線で年配の客たちの目を楽しませようというのが、そもそものアイディアだったから、制服はいわゆるバニーガールふうの大胆なものである。
左右三メートルたらずのせまい半円型のコーナーでは、ショウというほどの工夫もこらせない。精々、振りをつけて歌うか、モンローや、ライザ・ミネリの真似をしてみせるか、その程度のものである。中には歌に自信がなくて、ディスコ風の激しい踊りをおどって見せるのが唯一の芸、という娘もいた。総数、六人ほどのレディ・ドールだったが、それでも経営者の柳沢瑛子にとっては、大切な店の看板だった。べらぼうな金をはらって一流の指名客を握っている高級ホステスを集めるより、このほうが商売もやりやすかったし、それに、いつも歌や音楽で店内が沸いているのが楽しかったのである。
その日、瑛子は西条裕一郎が連れてきて紹介したレディ・ドールの新入生、森下梨絵という娘が店にやってくるのを、約束の時間より少し早目に来て待っていた。
西条には、会うたびに新しい娘を紹介してくれるように頼んでいたのだ。レディ・ドールたちの中で、いちばん光るものを持っていて、客たちにも人気のあった娘が、芸能プロダクションに引き抜かれて、テレビに出るという。そのことで頭を悩ましていたところへ、運よく西条のほうから一人の娘を連れてきてくれたのである。
森下梨絵という、その娘を最初に見たとき、瑛子はちょっと首をかしげた。どうして西条ほどのうるさい男が、わざわざこんな固い感じの娘を紹介しようとするのか、理解できなかったからである。
その娘は、たしかにきれいな顔立ちをしていた。体つきも立派だった。だが、瑛子の目から見ると、もう一つ、レディ・ドールにとって大切なものが欠けているように思われたのだ。
レディ・ドールは、知的である必要はなかった。むしろ、白痴美ともいえるような、女としての可愛らしさ、官能的な魅力が大切なのだ。要するにセクシーでなければならないのである。
だが、西条の連れてきた娘は、どういう家庭に育ち、どんな経歴をへた娘かはわからないが、どこかおずおずとしたところがあり、人前では何となく後ずさりしそうな雰囲気を持っていた。カラッとした明かるさ、陽気さが欲しいのに、どこかその美しい娘には翳《かげ》がありすぎると感じられたのである。
だが、西条は、そんな瑛子の無言の問いかけの目つきを、黙殺して微笑していただけだった。
〈まあ、おれの目を信じて使ってみろよ〉
と、彼の表情は言っていた。西条のそんな態度に乗せられて、瑛子は月に四十万という破格のギャラでその娘を店にやとうことに決めたのだった。
きょうは、その森下梨絵という娘が、ドール・シップに出勤する最初の日なのだ。
衣裳合わせも必要だし、それに、どんな芸を彼女にやらせるかも相談しなければならない。最初はもちろん、使いものにはなるまいと瑛子は思っていた。しばらく、レッスンをさせながら、ウエイトレスがわりに使うつもりなのだ。せめてバニーガールの格好が似合ってくれればいいが、と、瑛子は願っていた。歌や踊りは、下手でも何とかなる。レディ・ドールは、あくまでプロではなく、その素人っぽさも一つの売り物だからである。ただ、やはり陽気で、のびのびとしていてもらわなければならない。客席の間を熱帯魚のように、あくまでぴちぴちと楽しげに遊泳して客たちの目をたのしませるのが彼女らの役割りなのである。その中に一人でも陰気な娘がいたのでは、ぶちこわしだ。瑛子が心配しているのは、そのことだった。
「ママ、きましたよ、例の子」
と、がらんとした店のカウンターで煙草をふかしていた瑛子のところへ、バーテンダーの早見がやってきて言った。
「そう。時間きっかりね。あんまりきちょうめんなのも、本当は扱いにくいんだけど」
「でも、例のジュリーみたいにルーズすぎるのもちょっとねえ」
「彼女の話はもうしっこなし。思い出すだけでも腹が立つわ」
「すみません」
「ここへ連れてきてちょうだい」
「はい」
早見は苦笑しながらクロークのほうへ行った。妙なもので、日常生活がきちんとしている娘に限って、客席やステージに出ると面白味のない子が多いのだ。少しすっとぼけているくらいの娘のほうが、向いている面もあった。
「こんにちは」
と、早見が連れてきた娘は小さな声で挨拶し、両手をきちんと前にそろえて、カウンターの瑛子を見あげた。
「四時ですもんねえ、こんばんはって時間でもないけどさ」
瑛子は煙草を灰皿にもみ消しながら椅子から降りた。
「森下梨絵さん、って言ったわね」
「はい」
「まあ、ここへお坐りなさいな」
「はい」
「いいお返事ね」
「すみません」
「謝ることはないわ」
瑛子はきちんと膝頭をそろえて腰かけた娘を、丹念に眺めた。
「今夜から、お願いするわね」
娘は、はい、と答えかけて、こくんとうなずいた。眼に光りのある、整った顔立ちである。化粧はひどく控え目だが、服装は決して野暮ではない。むしろ普通のOLなどとはちょっとちがった、いい服を着ており、バッグや、アクセサリーなども、ちゃんとしたものを身につけている。靴もかなり上等の靴を大切にはきこなしている、といった感じなのだ。
「森下っていうのは、本名なの?」
「はい」
「いままでどんな仕事を――っていうのは聞かない約束だったわね」
西条が保証人になって、一切の責任をおうと約束したのだ。住所と姓名だけ、その他は一切、聞かないでくれ、と、彼は言っていた。西条がそこまで肩入れするというのは、かなりのことである。瑛子はそのことでちょっと面白くない部分もあったのだが、それは今は関係がない。
「うちのお店で、どんな服を着るのか、このあいだの晩に教えたから判ってるわね」
「ええ、わかってます」
「じゃあ、いろんなことはあとで説明するとして、衣裳だけ合わせてみましょう。それに化粧も、髪型も変えなくちゃ」
「はい」
その娘は観念したように素直にうなずいた。
〈さて、どんなことになりますやら〉
以前、バニーのタイツ姿にさせられたとき、突然、泣き出した娘がいたことを思い出しながら、瑛子は心の中でつぶやいた。
西条裕一郎は、ギャルリー・キャフェ〈キュリオ〉と、横文字の看板の出ている圭子の店の前で車を止めると、隣りの席に坐っている若い女の子の肘《ひじ》をつついて声をかけた。
「ほら、着いたぜ。どうする?」
「いるかしら、あのひと」
「いるさ。ひとりでやってる店だもの」
西条が車に乗せて連れてきたのは、いつかこのキュリオで、竜崎謙之介の人物画をナイフで切り裂いた、森下美絵という元気のいい少女だった。
その日の午後、自分の部屋で新しいフランスのミステリーを読んでいたところへ、突然、電話をかけてきて、時間があまっているからつきあえ、というのである。
〈おじさんのシトロエンでドライヴしましょうよ〉
と、彼女は言い、強引に西条を引っぱり出したのだ。そのあげく、いつかの店へ行ってみたい、と言ったのである。
西条はその森下美絵という、ちょっと手のつけられないはねっ返りの少女のことが、妙に気になっていた。姉の梨絵に対する気持ちとはちょっとちがう、保護者の感じなのだ。
「先に行ってなさい。ぼくは車をその辺においてくる。ここらは駐車違反のうるさいところでね」
「一緒にいく」
「どうぞご自由に」
西条は、近くの駐車場に車をあずけ、その少女と肩を並べてキュリオのドアを押した。
店はがらんとして、学生らしい客が窓際で雑誌を読んでいるだけだ。圭子は、カウンターの中で、編みものに熱中していた。
「よう」
「あら、裕さん、めずらしいわね」
圭子は西条が連れてきた少女を見て、一瞬、大きな目を見張った。
「こんにちは」
と、森下美絵は明かるい声で挨拶して、
「いつかはごめんなさい。謝りにきたの」
「それはどうも」
圭子の前に並んで腰をおろすと、西条は壁をふり返って、
「あの絵、どうしたんだい。買ったのか」
「だって、前のがあんなことになっちゃったでしょう? 何か飾っとかなきゃ淋しいから、当座の穴埋めにね」
「悪くないじゃないか。畑中が持ってきたのかい」
「まあね」
圭子はうなずいて、
「お嬢ちゃんは、コーヒー? それとも紅茶?」
「森下美絵っていうの。名前を呼んでいただけない?」
「いいわ。美絵ちゃんね。いつかはびっくりしたわよ」
「すみませんでした」
美絵はしおらしく頭をさげ、西条の袖を引っぱって、
「おじさんからも謝ってよ」
「ぼくは何も悪いことはしてないもの。逆にいろいろ世話をやいたほうじゃないか。礼を言われてしかるべきだと思うね」
「あ、そうか」
美絵は素直にうなずいて、
「で、例の件、どう片付いたんだっけ」
「まあ、心配しなくてもいい。話はついたんだから」
「要するに、お金の問題でしょ?」
「ああ」
「西条さんが、肩がわりしてくれたわけ?」
「そういうわけじゃないけど」
「でも、なんとなくそんな気配ね。姉や母にきいても、ちっともはっきり説明してくれないし」
「政治的解決がなされたと思いなさい。大人の世界には、いろんなことがあるんでね」
「あなたは心配しなくていいのよ、美絵ちゃん」
圭子がコーヒーのカップを差出しながら美絵に言った。
「問題はとにかく円満に片づいたんだから」
「でも、納得がいかないんだもん」
「じゃあ、どうするの」
「あたし、西条さんのお妾《めかけ》さんになろうと思うんだけど」
圭子はあきれたように首をふった。
「ねえ、本気なんだ、あたし。一年じゃ高くつきすぎるから、二年間はどうかしら。これから二年間、あたしがおじさんの欲望のいけにえになってあげる。十代の若い娘を気ままにおもちゃにできるんですもの。それであの絵の件、なしにしちゃわない?」
「ご免こうむります」
「だめ?」
「西条さんはだめなの。この人は昔から女に関心がないんだから」
「そう。じゃあ、ホモ?」
「そうでもないみたい」
圭子は西条の顔をのぞき込んで、
「どうしたのよ。女の扱いにかけちゃ大ベテランの銀座の裕さんも、時代の流れに呆然としてなすすべもなし、って感じね。例の、ドール・シップの瑛子ママに紹介したとかいう、きれいな娘さんの世代ぐらいまでは何とかこなせるみたいだけど」
「その話はよせよ」
西条は圭子に目くばせをして煙草に火をつけた。
「そうだ、忘れてた」
美絵がコーヒーを一口飲んで、突然、大きな声をあげた。
「ねえ、おじさん」
「なんだい」
「おじさん、お見合いする気ないかしら」
「見合い?」
「女のひとが面倒だってのは、結局、あれでしょ。情事にまつわるもろもろのわずらわしさが気が重いんでしょ? だったら結婚して世帯をもてばいいじゃない。いい年して独身ってのも、妙なものよ」
「だれと結婚するのかね」
「うちのかあさん。森下和江っていうの。かつての竜崎謙之介の若き日の愛人で、今はひっそりと世間の隅っこで生きているひと。気だてはいいし、それにまだちゃんと化粧すれば顔だって見られるわ。おっぱいなんかも、あたしたちよりふっくらしてセクシーだし」
「やめとくれよ、冗談は」
「冗談じゃないの。本気よ。あたし、西条さんのこと、本当は好きなのね。だから、情婦でだめなら、お父さんでもいいわ。なんとでもして、身内になりたいの。不愉快? こんなこと言って」
「いや」
西条は、煙草の煙ごしに、早口で勢いよく喋《しやべ》りまくる少女を眺めた。彼女の言葉は、あながち冗談ではあるまい。父親を知らない若い娘が、自分のような中年男に或る種の親近感を持つというのは、わからなくはなかった。だが、この美絵という少女の話は、あまりにも飛躍しすぎる。
「コーヒーを飲んだら、帰りなさい。夕方からまた仕事があるんだろう?」
「うん」
「ほら、タクシー代」
西条はカウンターの下で五千円札を一枚、少女のジーパンのポケットに押し込んだ。
「ありがとう」
少女はうなずいて、はずかしそうに微笑した。
「あたし、目上の人から一度おこづかいっていうもの、もらってみたかったんだ」
彼女は立ちあがると、圭子の腕に手をかけて言った。
「ねえ、あたし、夜とか、仕事のない時とか、このお店の手伝いに来ていいでしょう? お金はいらないから」
「結構よ。ひとりでやってる店ですから」
「そんなこと言わないでよ。冷たいわね」
「そうじゃないの。あたしより若い子をおくと、こっちの年が目立つでしょ。女ごころってものも少しは判ってくれなくちゃ」
「そうね。おねえさんも、見かけより年いってるみたいだもんね」
「よく言うわ、この子」
圭子はうんざりした顔で、西条に言った。
「裕さん、あんまり変ったレパートリーに手を出したりすると、ろくなことないかもよ。気をつけなさい」
「じゃあね」
美絵は西条に手を振って、軽くスキップしながら店から出て行った。
「あの子の姉さんなんでしょ? ドール・シップに入れたのは」
「うん」
「すてきな子だっていうじゃない? 瑛子ママが、あんまり肩入れするんで、ほかの子たちがぶつぶつ言ってるって噂《うわさ》よ。そんなに美人?」
「いや、そうじゃないんだ」
「どういうこと?」
「つまりだな、最初、瑛子のほうは余り乗ってなかったのさ。なんだかこう、甘さがない子ね、なんて」
「ふんふん」
「ところが、二、三日したら電話よこしやがってね。さすが裕さん、お目が高い、こんどばかりはカブトを脱いだわ、なんて」
「へえ」
「おれもちょいとのぞいてみたがね。しばらくはあれが自分の紹介した子だと気がつかない位だった。まるで昼間と感じが一変してしまってるんでね。ああも、変る娘はめずらしいな」
「女は変るわよ、化粧とか、服とか、男とかで」
圭子は自分も西条の煙草を一本ぬくと、唇にくわえて目で笑った。
「髪型も変えて、もちろんメイキャップも変えてるんだが、それだけじゃない。なんだか別な人間みたいにぱあっとこう派手なんだなあ。ほかの女の子二人とチームになって、コーラスをやってるんだが、断然、目立つんだよ。瑛子のやつ、昔の自分を見るみたいだなんて言いやがってね。大輪の花って感じなんだ。まるで彼女ひとりの存在で、ドール・シップ全体が華やいだみたいでね」
「まるで昔のあたしみたい」
圭子は煙を天井に吹きあげながら、派手にウインクしてみせた。
森下梨絵がドール・シップに勤めてから、ひと月あまり過ぎた日の午後、今野達也からひさしぶりに電話がかかってきた。
「どうしてる? 元気かい」
と、彼は言った。その声には、どこか虚勢を張っている気配があった。何かうまくいっていないのだ、と、梨絵は感じた。いつかの新聞の対談のことは、彼女にとってずっと気にかかっていた問題だった。だが、ドール・シップで生れてはじめての仕事についたことの緊張と、昼間、速記の仕事をこなし、夜は店に出るという二重生活の疲れのために、彼女は今野達也の私生活にすすんで踏み込んでゆくゆとりがなかったのだった。そのことを気にかけながら、いつの間にかひと月あまりが過ぎ去っていた。
「今野さんのほうは、いかがですか」
「ああ。いろいろあって、ちょっと参ってるが、まあ、なんとかね」
「わたしも少し疲れてますけど、どうにか頑張ってます」
「そうだよな。人間、頑張らなきゃ。少々のことでバンザイしてたんじゃ、生きて行けねえもんなあ」
今野の声は、自分自身に言いきかせているようでもあり、また、思わずもらした嘆声のようにもきこえた。
「そのうちに一度、会おう。また連絡するよ」
「こちらから社へお電話しましょうか」
「いや、ちょっと事情があって、あのビルからは出たんだ。今はちょっと住所不定って感じなんだが、まあ、いずれまた」
「今野さん」
梨絵は思わず早口で言った。
「わたし、いま、夜は銀座のドール・シップってお店に出てるんです。バニーガールの格好して、網タイツはいて、歌うたったりしてます。いつでもいらしてください。片仮名でエリって名前ですから、ママにエリの客だと言ってくだされば大丈夫です。びっくりされるかも知れませんけど、ちょっと事情があってのことですから。お待ちしてます」
「ドール・シップだって?」
今野は戸惑ったような声を出した。
「そうか。ふーん。人生ってやつは、いろんなことがあるもんだな。いつかきみに、速記者よりミュージック・ホールのほうが向いてる、なんて憎まれ口をきいて怒らせたことがあったけど、そういうことになってるとは知らなかった。でも、どうしておれにそんなことを教えるんだ。きみは――」
「わかりません。家にも、妹にも、まだ内緒なんですけど」
「ありがとう。いつか会えると思うよ。また連絡する」
「お元気で」
電話が切れたあと、梨絵はしばらくその場に立っていた。たぶんあの対談の記事のことで、何かトラブルが起きたにちがいない。そうだとすれば、それは自分にも責任の一端はあることなのだ。
梨絵は、いつか徹夜で対談の原稿を作りあげた時の、無精ひげののびた今野の顔を思い描いた。ネクタイをゆるめ、額に脂《あぶら》を浮かせ、目のふちに隈《くま》を作って朝の街を見おろしていた尖《とが》った顔の青年。
〈なんとかしなければ――〉
と、彼女は思った。だが、何をどうすればいいのか、彼女には見当もつかなかった。
その夜は、ドール・シップの開店何周年とかいう特別な晩だった。
早いうちから店は混《こ》んでいて、梨絵たちレディ・ドールは、息つくひまもないいそがしさだった。
最初のショウが終って、梨絵がオードブルの皿を運んだり、おしぼりを配ったりしている間に、四人連れの年配の客のグループが、店の奥まったコーナーの席に案内されてきた。
その席は特別な客のためにいつも空けてある場所で、〈予約席〉のカードが立ててあり、店にとって大切な客が現われると、そこへ案内される仕組みになっている。
その客の中の一人とふと目が会ったとき、梨絵は思わず息をのんだ。黒っぽいスーツを着て、細い葉巻きを指にはさんだ銀髪の男は、いつか対談の席で梨絵の乳房を強引につかんだ鍋沢という財界の世話役だったからである。
梨絵は素早く視線をそらせた。カウンターの端に回りこみ、その席から身を隠すように突っ立っている梨絵に、ママの瑛子が近づいてきて、どうしたのよ、と、ささやいた。ひどく敏感な女なのだ。
「なんでもないんです」
「奥の席に大切なお客さまがいらっしゃってるのよ。早く手伝ってちょうだい」
「はい」
「最近すこし気がゆるんでるみたいよ。仕事に慣れてきて緊張感をなくしてるんじゃないの」
瑛子は釘《くぎ》をさすように梨絵の目をみつめると、たちまち華やかな笑顔に返って、奥の席のほうへすり寄って行った。
梨絵は、バーテンダーに断わって、トイレに行き、それまでよりももっとどぎつい化粧をした。ふだんでも仮面をかぶるようなつもりで強いメイクをしているのだ。濃く化粧すると、自分が隠れて、まるで別な女になってしまう。そのことで梨絵はいつもの自分から解放されるような気がしていた。それまでしたことのない強烈なメイキャップは、梨絵の変身へのパスポートのようなものなのだ。
「なにしてるの?」
いつも一緒に組んでコーラスをやっている仲間のマギーという娘が、背後から陽気な声をかけてきた。
「お化粧なおしてるのよ」
「いやになっちゃうわね、ばかみたいに混んできて。もう疲れちゃって死にそう」
アメリカ人との混血児のくせに全く英語が喋れないというマギーは、アイラインを引きなおしながら、赤い唇を不服そうに突き出してみせた。
「さっき奥の席に坐った四人連れのお客がいたでしょう」
梨絵がたずねた。
「うん。VIPのボックスにいる連中ね」
「あれ、どういう人たち?」
「よく知らないわ。先生、先生って言ってるけど、なんの先生かしらね。ママ、もうべったりよ。かなり大切なお客なんじゃない」
「わたし、ああいう人たち苦手なのよ。マギーちゃん、何かのときはうまく手伝ってね」
「うん。わかった」
トイレットから出ると、バーテンダーの早見が梨絵を待っていた。
「なにしてるんだい。VIPのテーブルでお呼びだ。すぐに行ってくれ」
「でも――」
「いいか。あの中にうちのママの大事な人がいるんだ。心得てそつのないようにな。少しぐらいからかわれても、逃げたりするんじゃないぞ」
「…………」
梨絵は煙草の煙をすかして、奥の薄暗い席を眺めた。どうしよう、と、迷いながら立っていると、うしろから早見に、とん、と肩を突かれて、梨絵はつんのめるように前へ歩き出した。
「エリちゃん、こっちへいらっしゃい」
瑛子が手招きして呼んだ。
「ほう、これはいい子だ。ニューフェイスかい、ママ」
客の一人が言った。
「そうなの。素敵な子でしょう? またどこかのプロダクションから引き抜かれるんじゃないかと、神経をとがらせてるところなのよ」
「鍋沢先生、いかがです、こういうタイプの子は?」
「わるくないね」
鍋沢は梨絵をじっくりとなめ回すように見ながら言った。
「しかし、なんだな、この手のグラマーは私のレパートリーじゃない。むしろ鬼島さんの好みとちがうかな」
「さすがね。鍋沢先生はお目が高いわ。きっと会長さんが一目みて気に入られるタイプだとかねがね思ってたの。今夜はいらっしゃらなくって残念だけど」
「いや、間もなくここで合流することになっとるんだ。よし、鬼島さんが見えるまで、この子をここへつないでおけ。よそへやるんじゃないぞ」
「レディ・ドールはお席にはつけられないシステムなんですよ、先生」
「横に坐れとは言っとらん。そこへ立ってじっと動かなければよろしい。いわば、生きた装飾品だ。それなら文句なかろう」
「ええ、どうぞ。エリちゃん、わかった? 鍋沢先生のおそばに、ちゃーんと立って鑑賞していただくのよ。勝手に動いたりしたら、あたしが許しませんからね」
瑛子は笑顔で言いながら、一瞬、鋭い目つきで梨絵に合図を送った。梨絵はじっとりとタイツの下の肌が汗ばんでくるのを覚えながら、唇をかんだ。
どうやら鍋沢は、梨絵のことに気づいていないらしい。あの対談の席で出会った速記者が、こんな場所に、こんな姿で働いていようとは考えてもみないのだろう。
「あら、鬼島会長がお見えになったわ」
海坊主のような巨大な頭をした老人が、ゆったりした足どりで近づいてくるのが見えた。梨絵は思わず体を固くした。
「お待ちしておりました、会長」
鍋沢が立ちあがって、鬼島の手を両手で握った。
「あなたがお見えになる前に、下調べをしておこうと、先にまいりましてね。ほれ、この通り――」
鍋沢は梨絵の腰に手をあてて強く鬼島のほうへ押しやりながら言った。
「私が会長の絶対にお気に入りそうな子を、あらかじめキープしておきました。いかがですかな」
「それはどうも」
坊主頭の老人は、響きのある声で礼を言い、うしろから押されてぶつかりそうになった梨絵の腰を肉の厚い手で抱きよせた。
「おう、これはまさにわし好みのボリュームじゃ。鍋沢さんも、ええところを見ておられる」
「おほめにあずかって光栄です」
「ママもしばらくじゃった」
「会長、おひさしぶりでございます」
瑛子はうやうやしく頭をさげると、
「あいかわらずお元気そうなお顔の色ですのね。おさかんなご様子は、噂にもれきいておりますけど」
「なにを言うとる。最近はこれといって食慾をそそる相手がおらんでのう。だが、今夜はこの店へ来てよかった。ほれ、この娘だ。名前はなんというかな」
「エリちゃん、鬼島会長よ。ちゃんとご挨拶なさい」
「はじめまして」
梨絵は、顔を伏せながら頭をさげた。鍋沢が気づかなかったのだから、この老人にさとられるはずがない、と思いながらも、やはり顔をそむけがちになった。
「はじめまして、か――」
鬼島会長と呼ばれる老人が、梨絵の口調を真似て、低い声で笑った。
「あんた、なんという名前だったかな?」
「エリです」
「ふむ。エリか。ところで、わしは前にあんたにおうたことがあると思うが、まちごうとるかな」
老人は目を細めながら、梨絵の腰を太い指で強くまさぐった。
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第四章
その年の夏は、はやく過ぎた。冷夏という新聞の見出しがしばしば見られ、十月にはいると霧のような雨が何日も降り続いた。
夏の間、ちょっと淋しかった銀座の夜も、秋風が立ちはじめる頃には、ふたたび日頃の活気を取りもどして、ドール・シップも例年より一層、客が立て混みはじめた。
エリとその店で呼ばれている森下梨絵も、レディ・ドールのタイツ姿がすっかり板について、彼女を目当てにドール・シップに通ってくる客も少くない。
そんな或る日、西条裕一郎は、ドール・シップのママの瑛子と、並木通りの喫茶店で久しぶりに仕事に関係のない雑談をしていた。
まだ銀座の女たちが着飾って出勤してくる時間には早く、たそがれの空はビロードのような紫がかった色で、街灯がその空に青白く点灯しはじめる時間だった。
「最近、つくづくいやになったわ、こんな暮しが」
と、瑛子がミルク・ティを一口すすると、ため息まじりでつぶやいた。
「この道、三十年というあんたがそんな弱音を吐くとはね」
西条が笑うと、瑛子は軽く彼の膝《ひざ》をぶって、
「ひどいわね。三十年はないでしょ」
「二十年か」
「約十数年ってことにしておいてちょうだい」
「でも、おたくの会長とは、うまく行ってるんだろ」
「まあね」
「ドール・シップは大繁昌だし、スポンサー関係も順調で、おまけに噂《うわさ》じゃ土地や株にまで手を出して、そっちの方も好調だとかいうあんたが、なにを今さら――」
「と、思うでしょう」
「思うね」
「裕さんはいいわよ。気楽で」
「何かあったのか」
「べつに」
「まあ、いろんな人の内側にまで立ち入らないのが、おれの主義だから」
「ああ、いやだ、いやだ。いっそこんな商売からきっぱり足を洗って、アメリカの西海岸へでも渡って暮そうかしら」
「サンタ・モニカあたりへ移住しますか。どうせ半年もたてば、向うで日本人相手のバーでも開店することになるだろうけど」
「案外そうかもね」
瑛子は唇にくわえた煙草の煙を、うるさそうに手ではらいながら、
「ところで、あの子のこと、裕さん、好きなんじゃない?」
「どの子ですかな」
「とぼけないでよ」
瑛子は、ふうっと煙草の煙を西条の顔に吹きかけると、鼻の先にしわを寄せて笑った。
「エリちゃんよ。最近ドール・シップは、あの子で持ってる、なんていやなこという同業者もいるんだけど、案外、本当かもね。最初、裕さんが連れてきた時は、はたしてこれでつとまるのかと心配だったんだけど」
「結構つとまってるようじゃないか」
「ええ。大つとまりよ。歌も、踊りも、まだぎこちないけど、なんだかこの一、二カ月でアッと息をのむほど綺麗《きれい》になったわね。以前のあの野暮ったい姿が想像できないくらい。愛敬もよくなったし、客をうまくあしらうコツも覚えてきたし、いまや昔のジュリー以上の働き手だわ。さすがは裕さんのおめがねにかなった子だと、ひそかに感心してるんだけど、それにしても、本当のところはどうなのよ。案外、どこかで同棲《どうせい》したりしてるなんてことはないでしょうね」
「同棲って、だれと」
「あなたとよ」
「それはないさ。おれの部屋へ来てみるとわかるだろ。夜はいつも、ちゃんと例のねぐらで読書なぞいたしております。殺風景なもんさ」
「ふーん」
瑛子は、ちょっと安心した顔にもどって続けた。
「だったら、裕さん、彼女に関しては直接あれこれ文句いったりはしないわね、あたしがどんなふうに扱おうと」
「煮て食おうと、焼いて食おうと、そちらの勝手さ。もっとも本人がノーって言えば、無理にというわけにはいかんだろうけど」
「そこなのね」
瑛子は首をかしげた。西条は、ふと真顔になってたずねた。
「なんだい、あの子のことで何か問題があるのかい」
「だから言ってるでしょ。こんな商売、つくづくいやになった、って」
「どういう意味かね?」
「裕さん、もうわかってるくせに」
「誰か店の大切な客に、あの子を世話しろと迫られてるんだろう」
「図星《ずぼし》」
瑛子は煙草を灰皿に押しつけて、唇を歪《ゆが》めると、
「あたし、店の子を客に世話するのって、昔から嫌いなのよ。裕さんも知ってるでしょ。十年前に、可愛がってたルミって子を、どうしても何とかしなきゃなんない破目に追いこまれたとき――」
「きみが自分の体を張って、その場をしのいだことがあったな。知ってるよ」
「あの頃はまだ、あたしも若かったし、無鉄砲だったから何でもやれたのね。でも今はもう、そんなこと出来ないわ」
「だれだい、御執心の主は」
「言いたくない」
「あんたがそんなに困ってるところを見ると、かなりの大物らしいな。当ててみようか」
「だれだと思う?」
「鬼島だろ。鬼島六造――」
「さすが裕さんね。もう噂が耳にはいってるの」
「いや、ただの当てずっぽうに言ってみたまでさ。そうか、あの男がね。なるほど」
「気になるでしょ」
「まあね。相手が悪い。瑛子ママがうまくさばけないのも無理がないな。あの男に腹を立てられたら、ドール・シップもきついことになるんだろ」
「そう。それもヤクザや変な男たちを使って圧力かけたり、そんな野暮なことはしない相手よ。銀行筋から手を回して、礼儀正しくしめつけてきたりとか」
「そんなにお気に入りなのか」
「ええ。毎晩、顔を出さない日はないくらい。うちのレディ・ドールは、お席にはつかせないやり方でしょ。だから、そばへ呼んで立ち話したり、プレゼントを渡したり、その位のことだけど、逆に看板になってからのおつきあいが、必要なのよ」
「プレゼントなんて、受取るのかい、あの娘」
「だって大勢の前で恥をかかすわけにもいかないじゃないの。あたしが無理に言って、受けとらせてるのよ。でも、あの子、もらったものは全部、あたしに渡して何ひとつ自分で持ち帰ろうとはしないの」
「ふーん」
「だから、うちの金庫にいろいろたまっちゃったわよ。アクアマリーンのこんな大きな石や、ピアジェの時計や、バレクストラのバッグや、ちょっとしたお店がやれるくらい」
「まずいじゃないか、そんなところまで放っておくなんて」
「ごめんなさい」
瑛子は、いつもに似合わず、素直に謝ると、もう一本の煙草を抜き出して、せかせかと火をつけた。
「最初は、あたし、あの子の気持ちもつかみかねたしさ、つい、ずるずる適当にあしらってきたんだけど、彼女、実際にはてこでも言うこときかない性格の娘さんなのね。それこそ、あたしがどんなに口説いても、すみません、の一点張りで」
「当り前だ。品物もらってすぐに寝るような女の子を、おれが一度でも紹介したことがあるか」
「怒らないでよ。どうしたの、そんな真剣な顔して」
「きちんと始末つけるんだな。鬼島に手をついて謝ってでも、あの子だけには変な真似をさせるんじゃないぜ」
「ところが、相手があの鬼島でしょう? こっちのほうも頑固なことじゃ右に出る男がいないくらいのおじいちゃんだし」
「それで?」
「わかってるくせに。だから、なんとか裕さんの腕でうまく話を――」
「きょうは仕事抜きの雑談ということだったんじゃないのか。冗談じゃない。おれは帰るぜ。このコーヒー代、払っといてくれ」
「待って」
瑛子は西条の腕をつかんで哀願する目になった。
「わかったわ。ごめんなさい。もう、裕さんにこんなこと頼んだりはしない。あたしのほうで、何とかやってみる。だから、気分なおして坐ってちょうだい。でも今夜あたり、一度うちの店にも顔出してよ。あの子も、きっとよろこぶわ」
「いやな商売だってこぼしてたのは、そのことだったのか」
西条は坐り直して、冷えたコーヒーをすすった。どうも厄介なことになってきた、と彼は腕組みして考えた。鬼島六造という男の執念深さと、その陰の実力を、それとなく知っているだけに問題の重さが気になるのだった。
その日の午後、梨絵が自分の部屋で本を読んでいるところへ妹の美絵がはいってきて、お客さまよ、と好奇心たっぷりの顔で囁《ささや》いた。
「だれかしら。西条さん?」
「残念でした。でも、わりかしいい男。若くって、痩《や》せてて、ちょっとデカダンな感じで、悪くない青年。姉さんも、なかなかのもんね。西条さんみたいな中年男と、あんな若い子と、両てんびんかけてあやつってるんだから」
「ばかね」
だれだろう、と、梨絵は髪を手早くなおして階段を降りて行った。
「あら」
玄関に立っている若い男は、今野達也だった。
「どうも。突然お邪魔して失礼しました」
彼は改まった口調で言い、弁解がましく頭をかきながら、
「日曜日だから、きっと家にいるんじゃないかと思ってね」
「しばらくでした。どうぞ、おあがりになってください。母は外出してますし、妹と二人きりですから」
「でも、こんな格好だからなあ」
今野達也はよれよれのGパンに、薄いスウェードのシャツを着、無精ひげをのばして、いかにもくたびれ果てた様子だった。ブーツも泥まみれで、ひどくやつれた表情をしていた。目の下に紫色の隈《くま》があり、唇はひび割れて血がにじんでいる。
「かまいません。どうぞ」
「じゃあ、ちょっとだけ――」
ダイニング・キチンに通された今野は、かしこまって椅子に腰をおろした。
「なるほど。こんなふうに暮してるのか」
「女三人ですから。まあなんとかやってます、って感じでしょう?」
「いらっしゃい。コーヒーになさいますか。それとも、お紅茶?」
妹の美絵が出てきて、陽気な声でたずねた。
「これ、妹ですの」
「どうも」
「美絵です。よろしく」
彼女は今野の前に灰皿をおくと、
「あの道路の端に止めてあるオートバイ、おたくの?」
「ええ。そうです」
「ちょっと借りていいかしら。ここんとこ、ずっと走ってないの。家の付近をちょっとひと回りしてくるだけだから。ね?」
「いいですよ。どうぞ」
今野はキーを美絵に渡しながら、まぶしそうに顔をしかめた。
「美絵ちゃん――」
梨絵が制止するまもなく、美絵は素早い身のこなしで玄関のほうへ姿を消した。
「あれが妹さん?」
「そうなんです。あたしとちがって、好き勝手に生きてるところがうらやましいわ」
「きみだって、最近、いろいろとがんばってるみたいじゃないか」
「ええ。昼は速記者、夜はタイツ姿のレディ・ドール。最初は絶対に無理だと思ったけど、やってみればやれるもんね。あたし、どっちが本当の自分の顔だか最近わからなくなってしまいました。案外、夜の花のほうが性《しよう》に合ってるのかもしれない、なんて考えたりして」
「それはちがうと思うな」
今野は梨絵が入れた紅茶を一口すすると、
「実は、ちょっと頼みがあって来たんだけど」
「はい」
「そう改まられると、言い出しにくいなあ」
「なんでもおっしゃってください。今野さん、いま、仕事のことで困ってらっしゃるんでしょう? それにその原因は、あたしが例の対談の速記録を失くしたことから始まってるんですもの。どんなことでもお手伝いします。お顔を見た時に、すぐわかりましたわ。いよいよ、あたしの出番かな、って」
「きみは――」
今野はまじまじと梨絵の顔をみつめた。彼はちょっと口ごもり、それからやがて、やめておこう、と、小声でつぶやいた。
「やはり駄目だ。きみには頼めない。きょうはこのまま帰ろう。やはり何もきかなかったことにしてくれないか」
「今野さん――」
梨絵は、立ちあがりかけた今野の腕をつかんで、早口で言った。
「あたし、何かしなければ気がすまないんです。責任はあたしにあるんですから。このまま帰ってしまわれたら、ずっと眠れないくらい後悔して、自分を責めることになるわ。お願いだから、話を聞かせてください」
今野達也は、しばらく黙っていた。それから、力のぬけたような表情で、再び椅子に腰をおろした。
「実を言うとね、例の鬼島会長と、鍋沢氏の対談、あの中でぼくが少し先走りすぎた発言を勝手に書いちまった事で意外な問題が表面化してしまった。その辺は、梨絵さんも知ってるはずだ。思いがけない形でリアクションが来てね。例の最近さわがれている東商ジャパンの黒い霧事件が表ざたになってから、或る筋からこっちに圧力がかかってきた。実を言うと、この一、二カ月、表へ出ないで、ずっと地下にもぐってたんだけど、いつまでもドブネズミみたいに逃げ回ってるのもいやになってきてね。なんとか鬼島や鍋沢との間を正常化したいと思うんだが、まるで相手にされないんだ。ところが、つまらない雑談から、きみがドール・シップで鬼島さんの大のお気に入りだという噂を耳にはさんだもので、もし、ひょっとして何かの話のはずみにでも、きみの口からぼくのことを鬼島に――」
「…………」
梨絵は、黙ってうなずいた。ふと、なぜか理由のない熱いものが鼻の奥にこみあげてきて、彼女はさりげなく顔をそむけた。
「やっぱり喋《しやべ》るんじゃなかった――」
と、今野が言った。彼は手をのばして、梨絵のコーヒーカップを持った指に、そっと触れた。
「すまなかった。こんなことを男が口にすべきじゃないこと位、ぼくだってわかってる。許してくれたまえ」
「気にしないでください」
と、梨絵は今野の顔を目をあげてみつめて言った。
「わたし、最初、今野さんに会った時から、なぜか自分たちはおんなじ世界に住んでいる人間だなって感じたんです。べつにこれといって理由があるわけじゃありませんが、今でもそう思ってます。家庭の事情をお話ししてもしかたがないけど、一生懸命がんばって生きていながら、二人ともどうしても這《は》いあがれない深い水の中にいる、そんな気がしているんです。ですから、わたしにできることだったら、何でもおっしゃってください。わたし、本当は今野さんのこと、好きなのかもしれません」
「きみは――」
今野達也はちょっと泣きべそをかいたような表情で、梨絵をみつめた。
最初に会った時の、あの挑みかかるような、野心に燃えた青年の強い表情は、その顔にはなかった、自分よりもはるかに巨大なものに打ちひしがれて、どうすればいいかと子供のように悩んでいる、たよりない若い男のすがるような目の色だった。
そんな今野の目の色が、梨絵にはとても耐えられない気分だった。この人のために自分のできることならなんでもしなければ、と、梨絵は考えた。
いつもそうなのだ。子供の時は、妹の美絵のために、そして物心ついてからは母の和江のために、そして現在はこの森下家のために、梨絵はいつも、自分がなにかしなければ、あたしがそれをやらなければ、と、常に自分自身をはげましながら今日まで生きてきたのである。
あの西条裕一郎という不思議な中年男に会った時、梨絵ははじめて、自分がくつろいだ気分で甘えられる対象をみつけたような気がしたものだった。そしてあのドール・シップという店で、これまで考えもしなかったようなタイツ姿になり、酔客のあいだを熱帯魚のように泳ぎ回ってはたらいている間、梨絵はなぜか、自分でも予想しなかった自由な、生き生きした気分をあじわっていたのである。
今のわたしは昔の自分とはちがう、と、梨絵は思う。ここであの鬼島六造という不思議な老人に今野達也のことを口添えするぐらい、自分にできないことではない。
鬼島という老人が自分に対して露骨な興味をしめしていることは、梨絵は最初から感じていた。そして鬼島はそのことをすこしも隠そうとはしなかった。むしろ子供のように率直に、彼は梨絵を愛玩物《あいがんぶつ》として求めているのである。
回りくどい手練手管を弄《ろう》したりすることのない、その率直な求め方が、不思議なことに梨絵にはそれほど不愉快ではなかった。
ただ、彼がどんな高価な贈り物をあたえ、またさまざまなかたちで梨絵を熱心に誘ったとしても、彼女が相手に応ずる気持ちのないことだけは、はっきりしていた。
それだけに梨絵は気持ちの上で、今野のことを鬼島に口ぞえすることに対して、それほどうしろめたい気はしなかったのだ。
「本当に今の話はもういいんだ。ぼくは帰る。そのうちにまたなんとか立ちなおって連絡するよ」
今野が椅子から腰をうかせて、無理につくったような笑顔を見せた時、梨絵は自分でも思いがけない動作で彼の肩に手をさしのべた。彼女は上体をのばして、今野の頬に自分の頬をおしつけた。それは梨絵自身にさえ意外な行為だった。
「きみ――」
今野は喉《のど》につかえたような声を出した。無精ひげが梨絵の頬に痛かった。
「なにも言わないで」
と、梨絵は言い、今野の唇に、一瞬、短かいキスをした。
「ごめんなさい。びっくりしたでしょう」
梨絵はかすれた声で言い、顔を伏せた。
「いや、嬉しかった。これでぼくはまたしばらく、生きていく気が起きたみたいだ」
今野はかすかに笑って、梨絵にうなずき、部屋を出て行こうとした。
ちょうどその時、玄関の外でエンジンの音が聞こえ、今野がドアをあけると入れ違いに、美絵が入ってきた。
「だめね。エンジンの調整がまるでなってないわ。ぜんぜん加速がきかないんだもん、ズッコケちゃった」
「そのうちに凄《すご》い車に乗せてあげるよ」
今野は美絵にうなずいて、梨絵にかるく手をあげると、それじゃ失礼、と言って、玄関を出ていった。
やがてエンジンの始動する音が聞こえ、ゆっくりとオートバイが遠ざかっていく音が聞こえた。
「どうしたの、ねえさん」
美絵が聞いた。
「どうしたって、なにが?」
「だって、お酒に酔ったような真っ赤な顔してるんだもん」
美絵はいたずらっぽく上目《うわめ》で梨絵を眺めた。
「なにかしたんでしょう、わかるわよ」
「キスしただけ」
「そうだろうと思った。だから気をきかせて二人だけにしてあげたんじゃない。でも、ずいぶんヨレヨレだったわね、あの子」
美絵は、聞こえなくなったエンジンの音に耳をすますようにして、そう言った。
その日は、午後から冷たい雨がふりつづいて、夜になると風も加わってき、街路樹の落ち葉が追われるような感じで舗道に踊っていた。
ドール・シップは、その晩もやはり宵の口から客がたてこんでいた。
梨絵は仲間のレディ・ドールたちと、振付けのある短かいショウをおわったあと、煙草の煙の渦巻くせまい店内で額に汗をうかべながら忙しく立ちはたらいていた。
悪天候のせいもあって、客がしだいに引きあげはじめると、やがて店内には二組か三組の客が残っただけとなり、なんとなくほっとした、穏やかな気分が店の中にただよいはじめた。
「このぐらいがちょうどいいわね。あんまりガサガサしてると、うちの店らしくないもの」
と、ママの瑛子が梨絵のそばへやって来て言った。
「あなた、汗をふいていらっしゃい。そんなにはりきらなくったっていいわよ」
「はい」
梨絵は素直に言われたとおりに化粧室へ行き、化粧をなおした。鏡の中の自分は、半年前にはまるで予想もしなかったような、はなやかな気配に輝いている。
〈これがあたしか。結構きれいじゃないの〉
そう心の中でつぶやきながら、自分で自分のことを美しいと思うなんて、ずいぶん破廉恥《はれんち》なことだわ、と、梨絵は苦笑してそう思った。だが、実際、濃いめに化粧をし、髪を強く縮らせた梨絵の姿は、まるで他人のように生き生きとし、自分が二十数年考えていた自分の姿とはまったく別な、動物的な精気のようなものを発散している。
「エリちゃん、お客さまがお呼びよ」
と、同僚のレディ・ドールの一人が化粧室のドアをあけて、声をかけた。
「だれかしら?」
「例の会長さんよ。ほら、鬼島先生。今夜はエリちゃんになにをプレゼントしてくれるつもりかしらね。あたしたちも、いつもおこぼれをいただけてうれしゅうございますわ」
まんざら皮肉でもない口調でそう言いながら、彼女は梨絵にウインクした。
「いま行きますから」
梨絵は答えて、もう一度、鏡の前で化粧をなおした。口紅をすこし濃いめに塗り、あらためて自分の顔をながめてみる。
〈今夜は今までみたいに子供っぽくばかりはしてられないわ〉
梨絵は自分にそう呟《つぶや》きながら、鏡の前を離れた。そして化粧室を出ると、胸をはってカウンターの横を抜け、鬼島六造のグループがいつも坐ることになっている奥のVIPの席へ歩いていった。
「よう、今夜はまたいちだんと色っぽいな。どうだ、みんな、そうは思わんか」
血色のいい鬼島六造の陽気な声がひびき、とりまきの男たちの笑い声が一斉にわきあがった。
「こんばんは。いらっしゃいませ」
梨絵は上機嫌の鬼島六造に目をあわせて会釈した。横から瑛子ママが梨絵のお尻をぴしゃりとたたいて、
「こんばんは、いらっしゃいませ、なんて挨拶があるもんですか。あなただってもうアマチュアじゃないんですからね。もっとちゃんとご挨拶なさい」
「すみません」
「ほら、また。これだからいやになっちゃう。いつまでも素人っ気が抜けないんだから、この子は」
「そこがいいんだよ。わしが気に入っとるのは、この子のそういうところだ。物の言い方は素人じみてるが、体はママなんかの及びもつかんほどセクシーじゃないか。なあ、みんな、そうだろう」
「ひどい言いかた。じゃ、あたしなんか、もうそろそろお褥《しとね》すべりね」
「おやおや、まだ現役のつもりでいるのかい。ママも相当なもんだな」
と、常連の一人がくだらない冗談を言い、瑛子がまたそれに答えて、お定まりの言葉を返し、テーブルが再びどっとわいた。
「ちょっとエリちゃん――」
と、瑛子がさりげなく立ちあがって手まねきした。
「はい」
「あなた、今晩、鬼島先生とお食事つきあってさしあげてもらえない? ほんとはあたしがお供するはずだったんだけど、ここ二、三日、なんだか風邪ぎみで熱がさがらないのよ。今夜はこんな天気だから、お店もすこし早めに閉めるつもりだし、一時間ぐらいお願いできないかしら。ほら、このとおり」
瑛子は手をあわせて、ね、と、梨絵にウインクした。
「はい、わかりました」
「え、ほんと? 一体どうしたっていうの、今夜は」
はじめから断わられるつもりで、鬼島の手前、かたちだけ頼んでみたらしい瑛子は、素直にうなずいた梨絵の言葉に、目をみはって、
「エリちゃん、ほんとにいいの?」
「はい。お食事だけでしたらお供します」
「おどろいたわ。でも、ありがとう。恩にきるわよ」
瑛子はすばやく鬼島の席へ行って、つやつやと血色のいい生ハムのような顔の鬼島に何か耳うちをした。
梨絵はそれをながめながら、意外に冷静な自分に驚いていた。これまで鬼島にいやというほど誘われながら、お茶一杯つきあったことがなかった自分である。それが今夜はこんなふうにあっさりと、閉店後の食事に応じたということは、ママの瑛子ならずとも意外なことにちがいない。
鬼島も、ほう、と驚いたような表情で、瑛子へ何かたずねている。
〈さあ、今夜はしっかりしなくちゃ〉
梨絵は両手を固くにぎりしめて、自分に言いきかせた。
その晩、ドール・シップが看板になったあと、梨絵は鬼島六造とそのとりまき数人と共に、六本木の裏通りにあるビルの地階の小さなレストランに連れていかれた。
そのビルは表通りに面しているけばけばしいビルなどとちがって、およそひっそりとした造りで、外見から見るとさりげない構えだが、内部は驚くほど金のかかった造作だった。
李朝《りちよう》の高価そうな壼などが無造作に飾ってあり、階段をおりていくと迷路のように入り組んだ中で、いくつもの個室が、まるでホテルの内部のようにつらなっているのである。
その奥まった一室に、鬼島と隣りあわせに梨絵は坐っていた。ドール・シップのママの瑛子は、すこし気分が悪いからと、途中で帰り、その席には鬼島と、ボディ・ガード役らしい屈強な青年二人が付きそって残った。もう一人、背の低い、秘書のような男が一緒にいた。
そんなかたちで、深夜、得体の知れない場所で食事を共にするなどということは、梨絵にとってまったくはじめての経験だったし、ドール・シップに入ってからも、これまでそういったことが一度もなかったので、梨絵は緊張で体を固くして鬼島の隣りに坐っていた。
「この店へ来たのは、はじめてかね」
と、鬼島は思いがけぬ穏やかな声で言った。ドール・シップで傍若無人《ぼうじやくぶじん》の大声で笑い興じている時とはいささかちがった、やわらかい、深みのある声だった。
「はい、はじめてです」
「あんたの、その、|はい《ヽヽ》という返事がわしは好きなんじゃ」
と、鬼島は微笑しながら言った。
「酒は飲むかの」
「はい、すこしならいただきます」
「それはよかった」
鬼島は、中年の蝶ネクタイの店の男に何かこまかく注文をつけて、一本のワインを持ってこさせた。
「この店の地下蔵には、フランスにもめずらしいような大きなワインの貯蔵庫があってのう」
と、鬼島は言った。
「十年や二十年、ワインの輸入が止まっても、ここに来ればいくらでもうまいワインを飲むことができる。わしも昔は、ただ強い酒をがぶ飲みするばかりだったんだが、今ではむしろその日の気分や、相手に合わせて酒を選ぶほうに面白味を感じるようになってしもうた。やはり年なんじゃろ。ところで、このワインは――」
鬼島は思いがけぬ流暢《りゆうちよう》なフランス語の発音で、梨絵の知らないワインの名前を言った。
「この酒はあんたによく似合うと思って、特別に選んだんだが、どうかな」
「わたし、ワインのことなどよくわかりません。父親のいない家にそだちましたから、お酒を飲む機会もあんまりなかったんです」
「うん、わかっとる。あんたのお父さんは、有名な絵描きさんだったそうじゃの」
「どうしてそのことを御存知なんでしょうか」
梨絵は驚いて、鬼島の顔を見た。鬼島はワインをあけさせると、やや大ぶりのワイングラスにそそぎ、手の中でいつくしむようにゆすり、香りをかいで、ゆっくりと一口飲み、それから小首をかしげるようにして、うなずいた。
「まあ、ええじゃろう。今夜の酒は気分で酔えそうだ」
「鬼島さんはなんでも御存知なんですね」
「いや、自分の知らんことがいかに多いかということを、最近、ようやくわかりはじめたばかりじゃよ」
鬼島は苦笑するように言って、梨絵にワインをすすめた。梨絵は、注がれたワインを一口飲んだ。ワインというのは酸っぱいものだと、頭から思いこんでいた梨絵にとって、その葡萄酒の舌ざわりは思いがけないものだった。
「どうかの」
「わたしには、ワインのよしあしなど、わかりません。でも、とてもおいしく感じます」
「それはよかった」
鬼島は目を細めてうなずいた。そんな彼は、ドール・シップで梨絵の腰に手をふれて、脂ぎった高笑いを響かせる鬼島とは、まるでちがった感じの、優しい老人だった。梨絵はグラスをおいてたずねた。
「さっきの話にこだわるようですけど、どなたからわたしの個人的なことを、お聞きになったんでしょうか」
「べつに聞かなくとも、自然に耳に入ってくることはいくつかある。たまたま、あんたの家庭の事情を聞く機会があって、なるほどと思っただけだ」
「そのことは、ドール・シップのママには内緒にしておいていただきたいんですけど」
「わかっとる。わしはいろんなことを聞いて、全部それを自分の肚《はら》の中にしまってしまうんじゃ。この建物の地下貯蔵庫で眠っているワインのように、何十年もわしの肚の中でねむっていることが沢山ある。この肚を断ち割って、中に眠っている|もの《ヽヽ》をおてんとさまの下にあばき出したならば、日本がひっくり返るようなことも沢山あるが、まず一生こいつを肚におさめたまま、わしは死んでいくのじゃろう」
鬼島は淡々とした口調で言った。
「おまえたち、ちょっと席をはずしなさい」
鬼島に言われて、同席していた男たちが黙礼して立ちあがった。
「二人だけで、すこし話をしようじゃないか」
「はい」
梨絵は、覚悟を決めてうなずいた。男たちが姿を消してしまうと、鬼島は、ふたたび穏和な表情にもどって、梨絵に言った。
「あんたは今夜、なにを考えておるのかの」
「鬼島さんには、もうおわかりでしょう?」
「いや、わかってはおらん。ただ、あんたのような女が、これまでいやというほど誘っても一度も応じなかったのに、今夜、急にわしについてくる気になったからには、そこになにかあるにちがいないと思うとるだけじゃ。どうかな? 間違っとるかの」
「いいえ。会長さんは、全部お見通しなんですね。わたし、会長さんに正直にあることをお話ししたいと思って、今夜、思い切ってここへつれて来ていただいたんです」
「よかろう。わしのほうも正直に話をする。わしは、最初、あの料亭で対談をやった時から、あんたを見て、なんとしてでもこの名品を自分のものにしたいと思うたんじゃ。わしは多少、焼き物や美術品に趣味があっての。いろんなものを集めてきたが、結局、最後にはそういうものはむなしいという気持ちになってしもうた。李朝の壼も美しい。西洋の名画もすばらしい。古代の玉《ぎよく》も魅力がある。だが、人間、自分の生涯のおわりになってやっと気づくことは、やはり生き生きと五月の若葉のように輝いている若い娘ほど、美しいものはないという、そういう結論にたどりついてしもうたんじゃ。だが、ただそれを、遠くからながめているだけでは、コレクターとは言えん。やはりそれを自分のものとして、撫《な》で、さすり、思うようにいじくりまわしてこそ納得がいく。玩物喪志《がんぶつそうし》という言葉があるが、あんた知っとるかの」
「はい。速記の仕事をしておりますと、いろいろ、本当の意味はわからなくっても、言葉や字だけは覚えますから」
「そうか。いや、あの対談の時のあんたの速記者ぶりは、わしにとって実に新鮮な魅力じゃった。わしはあの時、なんとでもして、このみごとな美術品を手に入れようと思ったのだよ。今でもその気持ちは変わらん。ドール・シップで思いがけず、バニーガール・スタイルのあんたに会うた時、わしは驚いた。驚いたが、うれしくもあった。そしてきょう、やっとこんなふうに二人で、身近にあんたを観賞することができてうれしくてのう。それで、このとっておきの葡萄酒をあけたというわけだ。わしはあんたが欲しい。あんたを自分の所有物にしたい。あんたをコレクションとして自由にながめ、自由にさわり、あんたの美しさを全部、この掌や目で確かめたい。これがわしの正直な願いじゃ。そのためには金も惜しまん。どんなことでもしてやろう。ただ、あんたが物や金で動く娘でないことはよくわかっているから、そこが困った問題ではあるがのう」
「わたしには好きな人がいるんです」
と、梨絵は思い切って言った。
「鬼島会長さんは、どんなことでもできる、不思議な陰の力をもった政財界の実力者だとうかがっています。ですから、なんとかそのお力をお借りしたいのです。わたしの好きな或る人のために――」
「なるほど。すこしずつわかってきた。で、その相手は?」
「いつか、あの対談の席で司会をしていた今野という業界紙の編集長です。もちろん、おぼえていらっしゃるでしょうが」
「そうか、そういうことか」
鬼島は腕を組んで目をつぶり、深く二、三度うなずいた。
「たしかにいまあの男は、昼間街を歩けないような厄介な立場にいる。わしのところはもちろん、裏街道にさえ顔を出せないような、危険な瀬戸際に立っているらしい。それはあの男が自分で、あまりにも事を急ぎすぎたために起こした、自らまねいた災厄だ。あんなでたらめな対談を記事にして、赤新聞をばらまいたために、どれほど面倒な事件の引き金をひいたことか、本人にはまだわかっとらんらしい。彼とて決して悪質なチンピラではないが、なぜあんなことをしたのか、わしにはその思慮の足りなさが惜しまれてならんのじゃよ」
「わたし、あの人が好きなんです」
と、梨絵は言った。
「ですから、なんとか会長さんのお力で、あの人がもう一度立ち直れるように、お取りはからい願えないでしょうか」
「それがあんたの条件かな」
「いいえ、条件ではありません。これは一方的なお願いなんです」
「一方的なお願い、か」
鬼島はうなずいた。だが彼は笑わなかった。そして静かな口調で喋りはじめた。
「わしは正直に、自分のことをあんたに話した。あんたも正直に自分のことを話した。さて、ここで若い美しい娘と、年老いたみにくい老人とが二人で向きあって、お互いに自分の要求を正直に出し合ったのだ。はっきり言おう。わしは、確かにあの今野達也という男を立ち直らせることができる、それだけの力はもっている。だが、|ただ《ヽヽ》でそれをする気はない。あんたも、|ただ《ヽヽ》で自分の要求をわしに押しつける気はあるまい。どうかの」
「じゃ、わたしに、どうしろとおっしゃるんでしょうか」
「あんたに好きな男がいると、その口からはっきり言われた以上、わしはあんたを自分のコレクションに入れることはあきらめよう。物はその人間に所有されたいと思った時に、本当にその美しさを見せるのだ。物がさからっているかぎり、力ずくでその物を自分のものにはできん。だが、一時的に、その物の魅力を味わうことはできる」
「わたしを物としてごらんになっているのですね」
「それが老いるということなんじゃよ」
老人は、暗い穴のような目で、梨絵をながめた。
「あんたがいくら若くて、美しい娘でも、わしはちがう。わしの手にあんたが抱かれたとしても、自分の手が若返るわけではない。わしにとってあんたは、物としか見えない。美しい物だ。しかし、そうしか見えないということが、わしの悲しみだということが、あんたにはわからんだろう」
「はっきりおっしゃってください。わたしにどうしろと――」
「今夜、これから一緒に箱根のわしの別荘に行って、ひと晩、わしのものにならんか。ひと晩でいい。いずれあんたも、いくつかの恋や、遊びをくり返したあとに、ひょっとして、わしの所有物になりたいという気が起こる日がくるかもしれん。それまでわしは待ってよい。ただ、一度だけはわしの手に抱かれてほしい。それがわしの条件じゃ」
「出来ません、そんなこと」
と、梨絵は言った。彼女はワインを素早く一口飲んだ。熱いものが胸にこみあげてきて、なにか突拍子もない、無茶なことを言いだしそうな気分だった。
「わたしは、ただお願いをしているだけです。取り引きを申し込んでいるわけではありません」
「だが、わしは、一方的な願い事というものは決して受け付けぬ主義での」
「では、しかたがありませんわ」
「わかった。それでは帰りなさい。そのかわり、言っておくが、あの今野達也という青年はたぶん生きたまま枯れてゆく。ひょっとすると一週間以内に、鶴見か川崎あたりのどぶ川に死体となって浮かんでいることになるかもしれぬ。これはわしのおどしではない。あの男を探して、いろんな筋の男たちが走り回っているらしい。この世の中とはそういうふうなものなんじゃよ」
「わたしを脅迫なさるんですか。会長さんらしくありませんわ」
「おどしではない、と言っているじゃろう。わしは本当のことしか言わん。そういう例がいくらでもあるんじゃ。あの男は、自分の住んでいる世界から脱け出して、もっと別な世界へ、一挙に陽の当る場所へ行こうと、あせりすぎた。いったん汚れた人間が浮かびあがることは難しい。それを忘れて無茶をしたのじゃ」
梨絵はもう一口ワインを飲んだ。彼女は鬼島の暗い穴のような目をまっすぐみつめた。
「会長さんがその気になれば、今野さんは本当に安全になれるんでしょうか」
「それは約束できる。しかし、たった一つ、条件がある。それは、あの男がこういった世界から足を洗って、少くとも五年ぐらいは、東京でない、別な地方の街で暮すことじゃ。それも地道に、正業についての。そうすればなんとかなるじゃろう。わしに今、言えることはそれだけじゃ」
「もう一杯いただくわ」
梨絵はグラスをさしだした。鬼島は首をふって、
「いかん。酒の勢いで答を出そうとするのは、よくないことだ。ゆっくり考えて、それから答えなさい。時間はいくらでもある。わしは若い男のように短気ではない」
「もう一杯ください」
梨絵はだだっ子のように言った。鬼島は、梨絵のグラスにばら色のワインを注いだ。
「もっと沢山注いでほしいんです」
「こう、か」
「はい」
なみなみと注がれたワインを、梨絵は息を止めて、水でも飲むように勢いよく飲みほした。大きくため息をつくと、彼女は胸をはって、かすれた声で鬼島に言った。
「わたし、今夜、箱根にご一緒します。そのかわり、今野さんのことをお約束してください」
「本気かのう」
「はい、本気です」
「あんたはこれまでに、男を知っておるのか」
「はい。以前、二十歳をすこし過ぎた頃に、年上の男の人と短かい恋愛をしました。その方には家庭がおありになって、わたしのほうから身をひいたんです。ですから、なにも知らない小娘ではありません」
「わかった。あんたはどうやら覚悟を決めたようだ。よろしい。今野という男のことは、さっそくに手配しよう」
「今すぐ、この場で指示をしていただけますか」
「いいとも」
鬼島はブザーを押して、小柄な秘書を呼んだ。そしてひそひそと、何事か耳うちすると、早く行け、というように手をふった。秘書はちらと梨絵をうかがうと小声で答えた。
「かしこまりました。鍋沢先生にもその旨《むね》、ご連絡いたしておきます。それから例の連中にも、至急、連絡をとるようにいたします」
「間違いのないようにな。いろいろ面倒だがおまえにまかせる。今夜のうちに飛び回って、きちんとカタをつけておいてくれ。金はいくら使っても構わん」
秘書が一礼して部屋を出ていくと、鬼島はため息をついて、梨絵をながめた。
「あんたも、見かけによらず、気の強い娘じゃのう。後悔することはないだろうが、もう一度、自分の心に、決心が変わらんかどうか、たしかめてみるといい」
「はい」
梨絵は目をつぶった。と、なぜか理由もなく、西条裕一郎という中年男の顔がまぶたの裏にうかんだ。それから母の和江の泣きべそをかいた表情が見え、それから妹の美絵の顔がストロボのように頭の奥に点滅し、やがて、静かな青いスクリーンが梨絵の頭の奥に静かに広がってきた。
その青いスクリーンの中に、今野達也がこちらを向いて立っている。彼は無精ひげを生やし、やつれはてた顔で、それでもかすかに微笑しながら梨絵をみつめていた。梨絵は首をふって、目をあけた。
「大丈夫です。変わりません。今からお供いたします」
「よし。では、乾盃《かんぱい》だ」
鬼島はグラスをあげて、梨絵のグラスにあてた。澄んだ、鋭い音が鳴り、赤い液体が光を反射してばら色にかがやいた。
「ちょっと、うちに電話を入れておきます」
「うん。それがええ」
梨絵は立ちあがって部屋を出、廊下の公衆電話のところへ行った。十円玉を入れて、ちょっと震える指でダイヤルを回した。
「おねえさん、どうしたの?」
出てきたのは、妹の美絵だった。梨絵は出来るだけ快活な口調で言った。
「わたし、今夜、帰らないかもしれない。お母さんに、心配しないように言っておいてちょうだい」
「へえ。でも、なんだか納得がいかないな」
美絵の声は怪訝《けげん》そうだった。
「どうして?」
「つい今しがた、こないだ家へ訪ねてきたボーイ・フレンドから電話がかかってきたわ。今野さん、とか言ったわね。ドール・シップに電話して、おねえさんのことを探したらしいけど、つかまらなかったんですって。なんだか、とてもあわててたみたい。至急、ここに電話をくれって、電話番号を知らせてきたの。どうする?」
「その番号、おしえてちょうだい」
美絵が読みあげた番号を、梨絵は手ばやくメモした。
「どうもありがとう。それじゃ」
「おねえさん、気をつけてね。おねえさんはあたしとちがうんだから、あんまり無茶は駄目よ」
「大丈夫。おやすみなさい」
梨絵は電話を切ると、もう一度、十円玉を入れ、メモした電話番号を回した。
「もしもし――」
男の声がかえってきた。聞いたことのない声だった。
「あの、そちらに今野達也さんというかた、いらっしゃいますでしょうか」
「タッちゃんなら二階にいます。いま呼んできますから待ってください」
しばらくして、今野達也のせきこんだ声が受話器から流れてきた。
「ぼくだ。今野だ。梨絵さん?」
「はい、そうです。さっき家のほうにお電話くださったんですってね」
「一体、きみはなにをやったんだ。もしかしたらきみは――」
「なにも聞かないでください。わたしが自分の意志でやっていることですから、あなたには関係がないんです」
「実は、ついさっき、ある筋の男から連絡があった。情勢が急に変化したんだ。今までのように逃げ回らなくてもいいという話だった。きみは一体なにをした。誰と、今どこにいる?」
「今、六本木のお店にいます。これからある方と一緒に箱根へ行きます。今野さん、いますぐ東京を離れて、どこか別な土地へ行って暮してください。わたしのことは心配ありませんから」
「鬼島といっしょなんだな」
と、今野は叫ぶように言った。
「そこにいたまえ。今すぐ迎えに行く。早まったことはするな」
「失礼します。お元気で」
なにか必死で叫んでいる今野の声を聞きながら、梨絵は受話器をおいた。しばらくそのまま、電話の前に立っていた梨絵は、やがて思いなおしたように、鬼島の待っている部屋のほうへ肩をおとして迷路のような廊下を歩いていった。
車は雨の中を走っていた。
東名高速を厚木でおりて対向車のライトと交錯しながら、黒いベンツは低いうなりをあげ、安定した走り方で夜の道路を疾走していく。
車の中には、奇妙な静けさがただよっていた。小柄な秘書は助手席に坐り、うしろのシートには鬼島と梨絵がならんで腰をおろしている。
「ひどい降りようだ」
と、鬼島が半ば目をとじたままつぶやいた。彼の部厚いてのひらは、さっきからずっと梨絵の膝から太腿《ふともも》のあたりに置かれたままだ。
「あんたの考えは、変わらんかな」
「はい」
「竜崎謙之介という画家、つまり、あんたの父親にあたる画家も、ずいぶんと変わった人物のようだったが、あんたもその血をひいているとみえる。いい度胸だ」
「父のことは、どの程度御存知なのでしょうか」
「竜崎家の未亡人に頼まれて、あそこの美術館の世話をみているだけだよ。税金の関係やなんやかやで、いろいろと頼みにくるんでね」
「会長さんは、あの事件のことを、御存知でした?」
「あの事件とは?」
「わたしの妹が、竜崎謙之介の絵をナイフで切ったんです。号五十万円とかいう人物画を――」
「ほう。これは初耳だ」
「そうですか」
梨絵は口をつぐんだ。よけいなことを喋った、と、後悔する気持ちがあった。
「それで、どういうことになったのかね」
鬼島がたずねた。梨絵は答えた。
「わたしがお金を借りて、月々弁償することになりました。そのためにドール・シップに勤めたのです」
「なるほど。そういうことだったのか」
鬼島は大きくうなずいて、
「どうもよくわけがわからん部分があったのだが、なるほど、そこまでは瑛子も話してはくれなかったよ」
「でも、今のお仕事、わたし、決していやじゃないんです。案外、わたしみたいな人間には向いているのかな、と、最近、思うようになってきました」
「そうか」
鬼島はちょっと微笑すると、部厚いてのひらで、静かに梨絵の太腿を撫であげ、撫でおろした。梨絵は体を固くして、じっと耐えていた。
「竜崎の未亡人が、わしのところへ来て、夫の作品で正式に届け出がなされていない絵があるのだが、どうすればそれを相続できるかと、たずねてきよったよ」
「それは、なんの話でしょう?」
「わしはよく知らん。だが竜崎の未亡人が、竜崎の昔の愛人が不当に所有している絵があって、それをどう取りあげるかというような話だったと思う」
「あんまりだわ」
梨絵は体がかっとほてるのを感じた。
「家には母が若いころにモデルになった絵が、一点だけあるんです。あれは母のたった一つの青春時代の記念なのに。それを取りあげようなんて――」
「そういうもんさ、世の中というのは」
「それで、どうなされるおつもりですか」
「放っておいたほうが、あんたのほうもいろいろと都合がいいんじゃないのか、と、向うに伝えておいたよ」
「そうですか、ありがとうございました」
「いや、大体わしは前からあの未亡人は、あんまり好かんのでね」
そのとき車が急にスピードを落とした。
「どうした?」
と、鬼島がたずねた。
「いや、ちょっと妙な車が、ずっと尾行しているような気配がありますもので」
助手席の秘書が、サイドミラーをながめながらやや緊張した声で答えた。
「ライトが一つですから、オートバイだと思います。気のせいかもしれませんが、後を|つけ《ヽヽ》られてるような感じなので、いったん追い越させてみましょう」
「それは考えすぎだろう。この雨の中を尾行するやつもおるまい」
「ええ、そうは思いますけど」
ベンツは道路の左に寄り、スピードを落とした。爆音が近付いてきて、車の右側を銀色のヘルメットが、かなりのスピードで駆け抜けるのを梨絵は見た。
〈ひょっとしたら――〉
梨絵は胸をときめかせながら、車の窓から前方に蛇行する赤い単車のテールランプを見つめた。
「進路を妨害しています。おかしな奴だ」
秘書がいらだった声で言った。
「スピードを落としなさい」
鬼島が言った。ベンツはさらにスピードを落として徐行すると、左の路肩に接近した。ライトの中にオートバイが見え、そのブレーキ・ランプが赤く点滅した。
「白バイじゃないのか」
「いや、ちがいます。会長、気をつけてください」
秘書は、車のシートの下からなにか黒いものをとりだした。銃身を短かく切った猟銃のようだった。梨絵は体を固くした。
「とめなさい。相手の出かたを見よう」
鬼島が言った。運転手はブレーキを踏み、ベンツは雨の中に音もなく停止した。
赤い尾灯が向きを変え、Uターンすると近づいてきた。
「こっちへきます。ぶっ飛ばしてやりましょうか」
と、秘書が言った。
「雨の中の事故ですと、手がかりも残りませんし――」
「いや、ちょっと待て。いったい何者だろう。それを確かめたい」
鬼島は運転手に顎《あご》をしゃくって、
「窓をあけてみろ。相手を確かめるんだ」
「危険です、会長」
「構わん。ウインドゥをあけろ」
「気をつけてください」
秘書は、右側の窓をあけた。ヘッドライトがゆっくりと近づいて横に停止すると、ヘルメットをかぶった男がオートバイをとめて降り、近づいてきた。
「会長、座席にふせていてください」
と、秘書がせきこんだ声で言った。
「心配するな。相手はなにも持っとらんじゃないか。おまえこそ、早まったことはするなよ」
「わかっています」
秘書は上衣《うわぎ》を脱ぎ、猟銃の銃身に手をかけて腰だめにかまえたまま、近づいてくる男の影に、だれだ、と、怒鳴るような声で呼びかけた。ヘルメットの男の声が聞こえた。
「鬼島さんの車ですね」
「なんだよ、てめえは」
「鬼島さんの車のナンバーはおなじみですから、間違いないでしょう。会長の御存知の者です。べつに妙なまねをする気はありません。どうぞご心配なく」
ヘルメットの男の声には聞きおぼえがあった。梨絵は口の中で、今野さん、と、小さく叫んだ。
「名前を言え! なめた真似をしやがると、ぶっ飛ばすぞ。おどしだと思うなよ」
秘書がうなった。ヘルメットをかぶった男はあけられた助手席の窓から上体をわりこませて、秘書の膝の上の銃身を手でおさえた。
「鬼島さん、わたしです。お忘れじゃないでしょうね」
「思い出した。おまえか」
鬼島は苦々しげにうめいた。
「いったい何事だ。せっかく助けてやったのに、どうしようというんだ。わしはおまえみたいなチンピラに用はないぞ」
「わたしもあんたみたいな大物に用はないんです。ただ、お隣りの娘さんをわたしに返していただけば、それでいいんですが」
「なんだと――」
今野ははっきりした声で言った。
「梨絵さん、ぼくだ。さあ、出てきたまえ。一緒に帰ろう」
「今野さん!」
梨絵が思わず叫んだ。鬼島はしばらく黙っていたが、急に低い声でかすかな笑い声を発した。
「ばかな男だ。そうか、この娘をうばいかえしにオートバイでわしの車を追ってきたのか。命が惜しくないのかの、おまえは」
「ええ、わたしも結構これで世間の泥水をくぐってきた人間ですから。さあ、そこの娘さんを返していただけませんか」
「そうしないと、どうする気かね」
「わたしが明朝までに帰らない時には、例の東商ジャパンに関する、あなたや鍋沢さんの実態の資料を、新聞記者と週刊誌記者、それに野党の代議士たちにも送るように手配をつけてきました。もちろん、それが表ざたになればあなた自身も厄介なことになるし、それよりもなによりもいろんな関係者の方にさまざまな影響が出てくるでしょう。マスコミも大騒ぎするにちがいありません。でも、ここで、その娘さんをだまって返してくだされば、その書類はいっさい表には出しません。二度とあなたがたの目の前には、私もあらわれません。それでいかがですか」
「貴様、わしをゆする気かの」
鬼島の指が、おそろしい力で、ぎゅっと、梨絵の膝をつかみ、梨絵は思わず小さな叫び声をあげた。
「そうです。わたしはあなたを脅迫しているんです。あなたもすこしお考えになったらどうですか。たかが若い娘ひとりと、政財界のごたごたに巻きこまれて、国会の喚問などに悩まされたりするのと、どちらがお得でしょうか。そのお年で証人台に立ったりされるのは、さぞご迷惑なんじゃないかと思いますが」
「会長、こいつをどうします?」
秘書が、今野の首筋に銃身をつきつけながらうなった。
「ここでぶち殺してしまえば、それまでですよ。こいつの言ってることは、はったりに決っています」
「だったら、撃てよ」
と、今野が言った。
「こっちは死ぬ気で来たんだ。てめえらみたいな連中がこわくって生きていけるか。これでも学生のころは、殺《や》るか殺られるかの内ゲバの中をくぐり抜けてきたんだぞ。甘くみないでほしいな」
「この野郎!」
秘書が叫び声をあげた。
「やめろ。やめるんだ」
鬼島が梨絵の膝から手をはなし、震える手で煙草を一本抜き口にくわえると、かすれた声で言った。
「おまえの言うことはわかった。わしは構わんが、いろんな関係者の方々にマスコミの連中がつきまとったりするのは、好ましくない。といって、この娘をここまで連れてきて、おめおめ返したくはないし、さて、どうするかな」
「ゆっくりお考えください」
と、今野は言った。
「よく考えて、どっちが得か判断なさることですね。あんたたちは、最後のところは損得で動く人種だ。だが、わたしたちはそうじゃありません。命はべつに惜しくないんです。何も持ってない人間の強味ですかね。そこのところを忘れてほしくありませんな」
鬼島はしばらく目をつぶって黙っていた。だが、やがてあいた片手をのばして梨絵の胸を強くつかんだ。彼は二度、三度と、梨絵の乳房を強くにぎりしめた。
「惜しいことをした。この手の中にようやくつかんだものを。だが、まあ、無理をせんのも老人の知恵だ。よろしい。この娘はつれて行くがいい。そのかわり、さっきの約束は必ず守るように。資料は焼いてしまえ。今後いっさい世間に出たりしないように処分するのだ。もし万一のことがあって、そのニュースがもれたりした時は――」
「どうなさいますか」
鬼島は乾いた声で笑った。
「この娘さんの家族に困った事が起こると思ってもらいたい。わかるな、わしの言う意味が」
「汚ないですね」
「汚ないのはそっちだろうが」
鬼島はしずかに梨絵の胸から手をはなすと、ため息をついた。
「しかたがない。あんたは、厄介な男に惚《ほ》れこまれたものだ。こういう青年は若いあいだはいいが、あとで必ずあんたに飽きてくる。その時はまた、わしのところへやってきなさい。生きている限り気長に待っていてあげるから」
「梨絵さん、はやく」
と、今野が体をのばして梨絵の腕をつかんだ。
「さあ、降りてこっちへ来るんだ」
「ごめんなさい」
梨絵は、鬼島に会釈すると、手をのばして車のドアをあけた。雨と風が勢いよくふきこんできて、梨絵の体をぬらした。
「申訳ありません。こんなことになるとは考えていませんでした。本当です」
「嘘をつけ。六本木を出る時、一ぺん、電話でこいつに連絡したんだろう。てめえら、計画的にやったんだ。いまに見ていろ」
と、秘書は叫んだ。
「ちがいます。信じてください。わたしは自分の意志で会長さんの自由になって、きちんと約束を守るつもりでした。でも――」
「もういい。この男についていきたまえ」
鬼島は穏やかな口調で言い、梨絵の腰を押しやった。
「それから、もうあの店には出ないほうがいいかもしれん。ドール・シップも先が見えてきたようだから、な」
「それでは失礼します」
と、今野が言い、雨風の中へ飛び出してきた梨絵をだきとめた。
「さあ、しっかりつかまっていろよ」
「無茶な人ね。あきれたわ」
「ここに跨《また》がるんだ。スカートは端折《はしよ》ったほうがいい」
梨絵は思いっきり両膝をひろげてオートバイのうしろに跨がると、しっかりと今野の腰を両手でかかえこんだ。
「行くぞ」
エンジンがかん高いうなり声をあげた。今野は雨の中をたくみにオートバイをターンさせ、片手をあげて、止まっているベンツに挨拶をおくった。
「お互いに安全運転で行こうぜ」
オートバイは走りだした。梨絵は両手で思いきり今野の脇腹をしめつけた。耳元で風が鳴り、雨粒がむきだしの太腿をたたいた。
二人は、白い水しぶきをあげながら、東名へ向う道路をひとつの黒い影になって疾走していた。
西条裕一郎は、いつものように正午ちかく目を覚ました。
カーテンのすきまから、透明な日差しが縞をつくって、ベッドの毛布の上に淡くおちている。
〈こんなふうにして、一日一日が過ぎていくのか〉
なんとなく年寄りじみた感慨にふけりながら、彼は枕元のチェスタートンの小説集を机の上にほうり投げ、ベッドの上で大きく背のびをした。
その時、電話が鳴った。
「はい」
西条はいつものように無精な声をだした。
「あたし。美絵よ」
若い、弾んだ声だった。
「ああ。どうも」
「なにしてるの? いま」
「ちょうど起きたところさ」
「遊び人ね、西条さんって。世間の人たちはあくせく働いているのに、お昼近くまで惰眠をむさぼっているんだから。さあ、さっさと起きなさい。今日はお昼ご飯をつきあってあげるわ」
「つきあってあげるって、こっちにおごらせる気だろう」
「いいえ。今日はおごってあげる。ちょっと仕事のギャラが入ったの。でも、車でうちまで迎えに来てね」
「ガソリン代のほうが高くつきそうだな、昼飯よりも」
「そんなことより、ニュースがあるの」
「なんだい」
「ゆうべ、梨絵ねえさんが帰ってこなかったのよ」
「へえ」
「さっき電話があってね、ゆうべのこと、なんやかやと弁解してたわ。相手、どこの誰だと思う?」
西条は、ちょっと眉をひそめて受話器を握りなおした。
「ねえさん、どこからかけてきたんだい。まさか箱根あたりじゃないだろうな」
「残念でした。上野駅からよ」
「上野駅だって?」
「そうなの。あの今野とかいう若い人が上野駅から北へ旅立ったの。ちょっと格好いいじゃない。ねえさん、ゆうべその人と一夜を共に|なさった《ヽヽヽヽ》んですってさ」
「へえ、それはまた、意外なことですな」
西条は、ほっとして煙草を抜き出し、口にくわえた。
「びっくりしたでしょう」
「いや、それほどでも」
正直いって西条は、くやしいような、ほっとしたような、不思議な心境だった。前に瑛子の言っていた鬼島という男のことが、ずっと気になっていたからである。だが、どうやら事態は違った方向へ発展していったらしい。
「彼氏、上野駅からどこへ発ったんだい」
「山形へ向ったらしいわ」
「山形へ?」
「うん。そこに昔の学生の頃のセクトの仲間が、果樹園かなにか経営しているらしいの。ねえさんの話だと、今野さんはそこで働きながら、小説だか、シナリオだかを勉強するんですって。信じられる? まるでテレビドラマみたい。あの年ごろの人たちって、てんで子供っぽいんだから。いやになっちゃうよ」
「そうか。梨絵さん、その青年と別れたのか」
「なんだか、西条さん、うれしそうね」
「大人をからかうんじゃないぜ」
「まあ、とにもかくにも、ねえさんと三人でお昼を食べましょう。正午に圭子さんとこのキュリオで待合わせたの。早く用意して迎えにきてちょうだい」
「なんだ、キュリオで待合わせたのか」
「そう。圭子さん、最近すっかりあたしのこと、気に入ってるんだから。お小遣いまでくれるの。本当よ」
「よし。じゃあ、キュリオで圭子を誘って、四人で紀尾井町の田崎屋の鰻《うなぎ》でもごちそうになろうか。ねえさんは、ぼくが行ってもいやがらないだろうな」
「大丈夫。なんだかいろんなこと、西条さんにご相談したいんですって。お店のこととか、例の絵の支払いのこととか。ねえさん、結構、ファザー・コンプレックスが強いから、西条さんに甘えてみたいのよ、ほんとうは」
「甘えてみたいのはそっちだろ」
「いいえ。あたしに甘えてるのは、西条さんのほうよ。じゃあね、待ってるわ」
切れた受話器を置いて、西条はカーテンを一気にあけた。気が遠くなるような晴れた秋の空だった。
〈さて、おれは今年いくつになったんだっけ〉
と、彼は煙草の煙を目で追いながら、いつもは考えてもみないようなことを考えた。
あの梨絵という娘は、たぶんドール・シップをやめるだろう、と、彼は思った。そもそもドール・シップの店そのものが、今年いっぱいもつかどうか怪しいもののような気がする。店のほうはあれほど繁昌していても、経営者の瑛子自身がいろんな方面に手をのばしすぎて、最近ちょっと経営に不安があるという噂を耳にしていた。
〈ひとつ、今夜あたり瑛子を呼んで、厳しく忠告してやる必要があるかな〉
西条はそんなことを考えながら、ぼんやり窓の外の銀座のこみあったビルの谷間をながめた。頭の中に、昔おぼえた映画の主題歌のメロディーがふとうかんで消えた。その曲名を思い出そうとしたが、なかなか、思い出せなかった。しばらくして、それが、アマリア・ロドリゲスの〈水に咲く花〉という曲だったと気がついた。
〈最近いやに物忘れがひどくなってきた――〉
この街でこのままいつまでこういう暮しをつづけていくのだろう、と、物悲しいような、甘酸っぱいような気分にひたりながら、西条は秋の日差しの中に立ちつくしていた。
[#地付き]――完――
昭和五十七年十二月新潮文庫版が刊行された。