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御前会議
五味川純平
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[#3字下げ]ま え が き
戦争時代の苦渋を経験した人びとの多くは、現在の日本に自由と民主主義が確実に保障されているとは信じていなくても、日本があの戦争で敗けてよかったという実感を抱いている。敗けなかったら、今日なお依然として軍人が威張り散らし、軍国主義の理不尽が横行して、言論思想の自由はおろか、個人生活のささやかな自由までもすべて奪われているであろうと思うからである。
敗けてよかったという表現には、しかし、若干の抵抗感を覚える人びとが少くないこともまた事実であろう。これは原初的なナショナリズムの問題であるのと同時に、高度の政治思想をもってしても容易には解消し難い問題を含んでいる。
国民自身の手には負えなかった軍国主義を、他国がその軍事力によって打ち負かしてくれたから、連合軍は解放軍であるといううわずった解釈が一時流行したのである。他国が日本の軍国主義を打倒したのは、しかし、日本国民の解放のためではなくて、日本軍国主義の存在が当時の世界秩序にとって有害かつ危険であると民主主義諸国が判断したからである。したがって、日本人の問題としては、手に負えなかった強権に屈伏し、盲従し、あるいは迎合した事実は、他力による「解放」によっては日本人の精神から一掃されなかった。それが敗けてよかったことの置きみやげとして残ったのである。
あの時代、日本軍国主義はドイツのそれに較べれば、はるかに未熟であったといえるであろうが、それでも、軍国主義固有の性格を貫かずにはおかなかったことは確かである。つまり、どうしても侵略的戦争に突入したであろうということである。戦争によってみずからを養う以外の途を選択する可能性を持たないのが、日本軍国主義の特質なのであったから。
けれども、選択の可能性が客観的に皆無であったかどうか、別の問題である。
軍国主義に圧しひしがれていた国民が敗けてよかったと言うことは、国民一般は勝てるはずがなかったという事情を知らなかったから言うのであって、問題は、やはり、戦うべきではなかったということに帰せられるであろう。性急で矮小な日本的軍国主義は、ほとんどいつも、政治的経済的必要を戦争の必要へと短絡したから、それを戦争するべきではないという決定に導くことが可能であるためには、かなり空想的な仮定を必要とする。その仮定の中心には、やはり、日本海軍が位置するであろう。
本文で再三触れることだが、日本海軍首脳部は米国を相手に戦いたくはなかったという事実が、歴史のなかに散見される。海軍が開戦決意へみずからを追い込むのは、昭和十六年十月末であった。それまでは、米国を相手には戦えないとは、公式の場で、特に陸軍に対して、面子上言えなかっただけである。面子意識が重大な意志決定を左右するというのも軍国主義の一つの特徴であるかもしれない。
海軍は戦争回避の明確な意思表示をすることなく、非戦の立場に立とうとしていた近衛首相の政治的指導力を期待して、その袖に隠れようとした時期がある。近衛は、しかし、政治的決断力には乏しく、日本の運命を負担するには脆弱《ぜいじやく》であった。内閣を投げ出すことによって責任の座から離脱したのである。もし海軍が明確な意思表示をして、主戦論の矢面に立ちはだかれば、近衛にも別の政治行動の可能性が与えられたかもしれなかった。
海軍首脳部の態度は首尾一貫せず、軟弱であったという謗《そし》りを免れない。本文にも引用するが、開戦決定後、保科海軍省兵備局長が嶋田海軍大臣に、東条首相は海軍の態度がはっきりしないので首相として開戦か否かを決定しかねると言っていたのだから、何故海軍は開戦に反対であるとはっきり意思表示をしなかったのかと尋ねたのに対して、嶋田海相は、
「海軍は日米戦争をやりたくないが、この段階で海軍が反対したとなると、国内に内乱が起るおそれすら十分ある。そうすれば元も子もなくなってしまう。二カ年は戦えるから、その間に手を打つ方法もあるのだから、陸海反目という最悪の事態を避けるために、やむをえず同調せざるをえなかったのだよ」と答えたという。
嶋田の説明には多分に問題が含まれている。第一に、海軍が日米戦争をやりたくないというのは、勝算が全く立たないことを自認しているのである。米国を仮想敵としてきた海軍が米国に歯が立たないのは、一にも二にも生産力のせいである。第二に、それにもかかわらず、海軍が開戦に反対したら、国内に内乱が起るおそれが十分あったかどうかである。第三に、仮りに内乱が起きるかもしれないとして、だから勝てない戦争をするのと、内乱を日本人みずからの手で困難にめげずに合理的に処理するのと、いずれが選ばれるべきであったかということである。内乱問題は暫くあとまわしとする。第四に、嶋田が言うように、二カ年は戦えるから、その間に手を打つ方法があったかどうかである。結果論ではなく、国力の比較からみて、仮りに二年間は外見上対等に戦えたとしても、ある期間以後は敗色濃厚となるのは自明であったと判断される。したがって、「手を打つ(和平を講ずる)方法」などは降伏以外には何一つなかったであろう。
嶋田海相の前任者及川海相時代の海軍首脳会議(十月六日)には、これも本文に記載することだが、次のような場面が見られる。
「海軍首脳部カ鳩首対策研究ノ結果『撤兵問題ノ為日米戦フハ愚ノ骨頂ナリ。(本文に詳しく経過を述べる通り、日米交渉の最大の障碍となったのは、日中戦争以来の日本軍の中国駐兵――逆にいえば撤兵問題であった)。外交ニヨリ事態ヲ解決スヘシ』ト結論ニ達シ、海軍大臣ハ『ソレデハ陸軍ト喧嘩スル気デ争フテモ良ウゴザイマスカ』ト半分ハ自己ノ所信ヲ示シ、半分ハ会議ノ主(主催者)トシテ総長(軍令部)ノ了解ヲ求メラレシニ対シ、総長ハ『ソレハドウカネ』ト述ベラレ、大臣ノ折角ノ決心ニブレーキヲカケラレ、意気昂揚セル場面ハ忽チシラケワタル。
此ノ際総長ノ阻止ナカリセハ結果ハ如何ナリシカ。海軍大臣辞職、内閣崩壊、陸海対立激化、戦争中止等々ノ事態起リシヤモ知レズ。然ルニ次官、次長、軍務局長モ発言セズ。暫時ノ沈黙ノ後解散ス」
撤兵問題のために日米戦うは愚の骨頂とまで考える海軍首脳部が、それでは陸軍と喧嘩するつもりで和戦の決を争うかとなると、軍令部総長が腰砕けとなるのは、海軍が虚勢にとらわれているからである。陸軍の手前、海軍が米国を怖れて戦意を失っていると見られるのが厭なのである。海相にもし戦うべからずという不抜の信念があれば、海相は人事権を握っているのであるから、総長を更迭してでも海軍の不戦の意志を貫くことが論理的には可能であった。
その場合、陸海対立が激化して、嶋田が言うように内乱となるおそれがあったかどうか。
内乱となれば、国内での武力衝突では、無論海軍に勝ち目はない。だが、対米英蘭戦争の主役は海軍であり、陸軍主戦派が如何に戦争を発起しようとしても、海軍なしには戦えない戦争であるから、陸軍が内乱にまで持ち込むということは、陸軍自身が推進してきた戦争国策を放棄することを意味する。したがって、海軍の不戦の意志|鞏固《きようこ》であれば、内乱となる可能性はまずなかったであろう。仮りに、内乱の危機が現実性をおびたとしても、天皇の意思が陸海いずれに傾くかが重要な転機を形成したであろうし、国民は自主的判断力に欠けた羊の群れに過ぎなかったとしても、混乱のなかに置かれたときには作動するであろう国民の理性が何を求めるかが、最後的な鍵となったはずである。いずれにしても、混乱が生ずれば、和戦の決定は遅延し、戦機は去り、世界における日本の立場は変化し、日本はその変化に対応することを余儀なくされ、国民は国民自身の力量によって日本内部の危機的状況を克服しなければならなかったであろう。日本の国民にとって必要であったのは、みずからの判断と努力によって危機的状況に対処するという経験だったのである。
日本人にはそれがなかった。
日本人の多くは官製教育と宣伝によって飼い馴らされていた。そうでない人びともいるにはいたが、その多くは弾圧を怖れて沈黙していた。日本人は、総じて、みずからの運命をみずからの手によって打開する気魄《きはく》を去勢され、国民的精気は侵略者的士気昂揚にすり替えられていた。対権力の関係において、日本人は自主独立の精神を封殺されて久しい時間が経過していたのである。
海軍もまた国民の自主性を封殺する軍国主義的作業の上では陸軍と同罪であったから、対米英蘭戦には否定的であっても、陸軍と決定的対立を冒してまで非戦を貫くには絶対に必要なはずの国民的支持を、期待出来なかったにちがいない。
それでも、もし海軍が、連合艦隊司令長官山本五十六が軍令部総長永野修身に言ったように(九月二十九日)「……日本が有利なる戦を続け居る限り米国は戦を止めざるべきを以て戦争数年に亘り、資材は蕩尽《とうじん》せられ、艦船兵器は傷き、補充は大困難を来し、遂に拮抗し得ざるに至るべし。のみならず戦争の結果として国民生活は非常に窮乏を来し(中略)収拾困難を来すこと想像に難からず。かかる成算小なる戦争は為すべきにあらず」と明確に認識し、陸海対立激化を覚悟してでも戦争回避の挙に出たならば、日本人全般は、史上はじめて、みずからのために選ぶべきものを選ぶ時を迎えたであろう。
右は、しかし、所詮空想に過ぎない。日本人の多くは「鬼畜」米英と戦うことを「聖戦」と呼ぶことに慣らされ、戦い敗れては一夜にして親米色に魂を塗りかえることを恥としなかったのである。米国は、米ソ冷戦構造のはざまに位置した日本を、その既往の罪を責めるより、対ソ戦略の一環として組み入れ、利用することに利益を見出したからである。
一九五一年(敗戦六年後)二月十日、対日平和条約打診のため東京を訪れたダレス米特使が夫人同伴で天皇に謁見した際、天皇は、対米開戦を妨げる力を持たなかったことはまことに遺憾である。だが、あの状況のもとでは、できることはほとんどなかった、と述懐したという。(一九五一年米国外交文書。――一九七八年四月三十日朝日新聞による。)
天皇にできることがほとんどなかったというのは、連合国による戦犯追及が終結してから後の、謂わば外交的遁辞に過ぎない。神聖不可侵の天皇にできることがなかったとすれば、誰に何ができたであろうか。
できることがなかったのか、あっても敢てなさなかったのか、御前会議の経過を辿り直してみればおのずから明らかとなることである。
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1
遠い過去のことである。三十六年前に国の指導者たちが寄り寄り協議して、その都度、国を誤る方向へ会議を進めた、ほとんど信じ難いような事実経過がある。
国民は何も知らず、知らされもしなかったが、また知る努力を欠いていたことも否めない。真相に直面しようとする努力を怠らなければ、報道管制下にあったとしても、かなりのことは知り得たはずなのである。
当時の国家的企図の運命は、結果論からいうのではなく、当時既に確かに存在していた判断材料からして、当初から予見できることであった。それにもかかわらず、わかりきったことが何故影をひそめ、破滅型の野心が跳梁《ちようりよう》したのか。
人はそれを軍ファシズムの特質と規定するかもしれない。もしそうなら、そこへ至る道をひらいたものは何であり、国民はいずれの時点で自己放棄して従順な羊の群れと化したのかが、改めて問い直される必要があるであろう。温故知新の作業は、歴史の運命的な分岐点において、特に必要であると考えられる。その運命的な分岐点の最も著しいものが、御前会議に集約されている。
御前会議は不思議な会議である。会議の内容があらかじめ申合せてあるという意味で、会議ではない会議であった。御前会議の直前に大本営政府連絡会議がひらかれ、議案についての説明、質疑応答が行われ、ほぼ合意に達した成案が出来上ってから、それが天皇に報告され、それから御前会議がひらかれる段取になる。謂《い》わばシナリオの決定稿が出来上り、それにもとづいて御前会議が演出されるのである。
この会議は、しかし、権威としては最高であった。天皇の前でひらかれるという理由によってである。
その天皇は一切の責任の外にあった。天皇は、政府や統帥部(陸海軍部)の決定を否認することはなかった。政治・軍事に関して天皇が責任を負わねばならなくなることを避けるためである。政治に関しては、国務大臣が天皇を輔弼《ほひつ》し、その責に任ずることになっていたし、統帥大権に関しては、参謀総長(陸軍)と軍令部総長(海軍)とが大権を代行することになっていた。
天皇は、しかし、聾桟敷に置かれていたわけではない。内大臣や侍従長や侍従武官長などから折りにふれて情報に接していたし、御前会議の前には、首相や参謀総長や軍令部総長の報告に接して、質問をしているのである。したがって、政治や軍事が天皇の全く知らないところで進行したわけではないし、天皇は予備知識と必要ならば周密な判断材料をもって御前会議に臨むことができたのである。
しかも、天皇は一切の責任の外にある。完全無責任者の臨席によって最高権威づけられる御前会議での決定は、誰の、如何なる責任に帰属するかが、全く明らかでない。不思議な制度というほかはないであろう。
こうした制度の無責任の側面に関して、半藤一利著『四つの御前会議』は次のように誌《しる》している。「そうしたしきたりがなぜ作られたのか、については、西園寺公望《さいおんじきんもち》の考え方と言動によるところが大きかった。昭和時代のたった一人の元老として、たえず天皇の大権を守りぬいてきた男の、必死の知恵がここに結集しているの感がある。御前会議そのことにすら、この人物は反対であった。しかし、やむなく御前会議をひらかねばならなかったとしても、天皇がみずから裁断することにはガンとして首をたてにふらなかった。理由は、もし天皇が裁断したとして、それが実際に守られないようなことが生じたら、君権にキズがつくことになり、皇祖皇宗に申しわけがないというものであった。それは立憲君主制にもとる、と彼は考えたのである」
こうして、重要国策が決定される御前会議で、天皇は発言しない慣習の人となる。何事に関しても責任を負わない天皇に対して輔弼の責に任ずる国務大臣や陸海軍統帥部の長が天皇の前に列席してひらかれる御前会議で、国家意志の決定がなされる。輔弼の責は各人所管事項によって分れていても、質的には同等であるから、列席者のなかには議事の進行係はいても、責任者はいないのである。
会議は内閣総理大臣の次のような口上からはじまる。
「之ヨリ会議ヲ開キマス。御許シヲ得タルニ依リマシテ、本日ノ議事ノ進行ハ私ガ之ニ当リマス」
総理は、しかし、この会議での責任者でもなく宰領者でもない。「御許シヲ得タルニ依リマシテ」というのは形式的な文句に過ぎないとしても、天皇の許可を得て、という意味は厳として存在する。一切の責任を負わない者が許可するもしないも、ないのである。御前会議の奇怪な性格は、この冒頭の口上に如実に現われている。
2
昭和十六年(一九四一年)という年は、波瀾の多かった昭和史のなかでも、日本がきわだって重大な選択をした年である。
この年だけで御前会議が四回ひらかれている。七月二日と、九月六日、十一月五日と、十二月一日である。その結果、日本は対米英蘭戦に突入したのである。
これら四回の御前会議では、既に述べた通り、それぞれその直前にひらかれた大本営政府連絡会議で決定された案件が、そのまま持ち込まれて正式に決定されたに過ぎない。
したがって、四回の御前会議を必要とした問題の経緯をみるには、それぞれの連絡会議の経緯をみなければならない。
これらの会議に投影されている当時の日本が置かれていた国際関係、当時の日本が抱えていた国内問題は、終末段階の様相を呈している。したがって、何故そうなったかが明らかにされなければならない。
事実経過を無限に遡及《そきゆう》することはできないから、ここでは少くとも次の諸点を観察するにとどめよう。
一つは、当時既に泥沼化した様相を呈して日本がもてあましていた日中戦争が、破局へ至る底流としてあること。一つは、その泥沼からの離脱の方向として日本が選んだ日独伊三国同盟が、日本の志と反して命取りとなったこと。もう一つは、好戦的姿勢を撤廃することなしに、昭和十六年四月にはじまった日米交渉を打開することによって、日本が生きる途を求めようとしたこと、である。
四回の御前会議は、右の試みの破滅へ至る日本の足跡を明瞭に印している。
日米交渉は煩雑《はんざつ》な経過を辿《たど》っている。その経緯を詳述するのはほとんど煩に耐えないほどだが、日本の運命を巻き込んで遂に大戦を惹起したのはこの日米交渉であるから、煩を厭《いと》うわけにはゆかない。その交渉の全経過を通じて、終始交渉の癌《がん》となっていたものが二つあった。一つは、日中戦争による戦果をあくまで維持しようとした日本の欲望と、他の一つは、米国側が空洞化を狙った日独伊三国同盟であった。
三国同盟の立役者は外相松岡|洋右《ようすけ》である。当時の歴史は英雄・豪傑・天才・奇人を世界の舞台に揃えていた。松岡洋右はみずからを英雄と考えていたが、既に歴史上の人物となったいま、彼の評価は奇人に落ちつくであろうと思われる。彼の外務大臣在任は昭和十五年(一九四〇年)七月から昭和十六年七月までの一年間、第二次近衛内閣のときである。
昭和十五年四月以降、ナチス・ドイツはノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、フランスを相次いで電撃的に征服した。この瞠目に値した戦果は、日本の軍部とその随伴者の間に日独伊軍事同盟締結の機運を激成した。ヨーロッパにある宗主国の敗戦によって謂わば空巣となったアジア諸国への日本の野心も俄かに顕著となった。
こうした機運の高まりにとって、当時の米内《よない》内閣は遅鈍にして不適当としか映らなかった。海軍大将米内光政の三国軍事同盟に対する姿勢は、「列国との協調をこそ望むなれ、|何 《いずくん》ぞこの際特殊国と特殊の協約を結ぶを要せんや……結局において馬鹿を見るのは日本|許《ばか》りといふ結論となるべし」(緒方竹虎『一軍人の生涯』)という言葉に現われている。結果的には、これはまさに正論であったが、当時のドイツの電撃戦の華々しさに酔った軍部やその同調者の眼には、米内の態度は遅鈍としか見えなかったのである。
米内内閣の良識的な現状維持の姿勢に対して公然と叛旗をひるがえし、政策転換を迫ったのは陸軍であり、陸軍に支持される近衛文麿を筆頭とする新体制運動であった。
陸軍は米内内閣打倒を決意した。軍部は、気に入らない内閣を倒そうと思えば、いつでも使える切札を持っていた。軍部大臣現役武官制を悪用することである。いまの人には馴染の薄い言葉だから、若干説明を必要とするかもしれない。つまり、こうである。軍部大臣は現役の将官でなければならないという制度がある。現内閣が軍部の気に入らないとする。すると、軍部は、現内閣に送っている陸軍あるいは海軍大臣を単独辞職させる。軍部大臣欠員のままでは内閣は成立しないから、総理は軍部に対して後任大臣の推薦を求めなければならない。これに対して、軍部は後任者を推薦しないのである。その結果、内閣は成立しないことになり、総辞職せざるを得ないことになる。陸軍は再々この手を使って内閣を流産させた不明朗な歴史を持っている。
天皇に信任された総理の組閣を、天皇の軍隊であることを表看板としている軍部が妨害して、恬《てん》として恥じなかったのである。
米内内閣に対してもそうであった。昭和十五年七月四日、参謀総長|閑院宮《かんいんのみや》から畑俊六陸軍大臣宛てに次の要望書が出された。
「(前段略)
然ルニ現内閣ノ施策スル所ヲ視ルニ消極|退嬰《たいえい》ニシテ到底現下ノ時局ヲ切抜ケ得ルトモ思ハレス進テ国軍ノ志気団結ニ悪影響ヲ及ホスノ惧《おそれ》ナシトセサルヲ以テ此際挙国強力ナル内閣ヲ組織シテ右顧左眄《うこさべん》スルコトナク断乎諸国策ヲ実行セシムルコト肝要ナリ
右ニ関シ此際陸軍大臣ノ善処ヲ切望ス」
善処を切望するというのは、早く単独辞職して内閣を潰してしまえ、ということである。
3
右の要望がなされた次の日、昭和十五年七月五日、米内首相をはじめとする親英米派と目される要人の暗殺を企図した神兵隊の一味が検挙された。暗殺決行はこの日午前七時ということであったらしい。検挙は五時半からである。
内大臣木戸幸一は、この日十一時四十分に天皇に拝謁して、次のように言上している。
「彼等の行動は悪《にく》むべきも、其心情については為政者も亦《また》大に反省せざるべからず」(『木戸幸一日記』下巻)
親英米派と目される巨頭たちを暗殺しようとする「心情」については、為政者も反省しなければならないというのは、独伊に対して為政者がもっと傾かなければいけないということになって、木戸の言上は奇怪というほかはない。
新聞は、連日、陸軍首脳の思わせぶりな動きと、枢府議長を辞任して天下の形勢を観望している近衛文麿の動向を追い、政変近しと書きつづけていた。
昭和十五年七月八日には、阿南惟幾《あなみこれちか》陸軍次官が木戸内府にあからさまに倒閣の意思表示をしている。
「最近四五日の中に政変を見るに至るやも知れず。軍は世界情勢の急激なる変化に対応し万|善《ママ》を期しつつあるところ、米内|々《ママ》閣の性格は独伊との話合ひを為すには極めて不便にして、兎もすれば手遅れとなる虞《おそれ》あり、此の重大時機に対処する為めには内閣の交《ママ》迭も不得止《やむをえず》との決意をなせる次第なり。而して陸軍は一致して近衛公の出馬を希望す。十日に近衛公帰京の上は陸相会見せらるゝこととなるべく、之を契機として米内首相に重大進言を為すこととなるべし」(木戸前掲書)
木戸がこのとき阿南次官に、外務大臣の人選が次期内閣で一番の問題だろう、と言うと、阿南は軍としては一切近衛公にお任せするつもりだと答えている。このころ既に近衛は、外務大臣として松岡洋右を予定していたのである。
同じころ、陸軍軍務局長・武藤章は、石渡荘太郎書記官長に「この内閣はすでに国民の信頼を失っている。すみやかに退陣したらよかろう」と再三にわたって申入れていた。(高宮太平『米内光政』)
七月十四日の新聞は露骨に米内内閣を見限って、「外交・今ぞ大転換の機 先決・国内体制刷新」と軍部の提灯持ちをした。要望される四大指標は、日独伊同盟の締結、英米依存政策の揚棄、国際連盟にかわる地域的連盟主義の確立、東亜経済圏の確保である、というのが、軍部の意を体した新聞の主張であった。
世は挙げてドイツ熱にうかされていたが、この同じ七月十四日、天皇は木戸に米内内閣信任の意向をもらしている。それも、しかし、何故か不徹底なのである。『木戸日記』によれば、こうである。
「陛下には米内|々《ママ》閣を今日も尚御信任あらせらるゝところ、内外の情勢により内閣の交《ママ》迭を見るは不得止とするも、自分の気持は米内に伝へる様にとの思召あり。|可 然《しかるべき》時期に難有思召を伝ふる様取計ふべき旨、奉答す」
このくだりは論理的には理解困難である。天皇が信任している内閣が更迭するのがやむを得ないとしたら、天皇の信任にはほとんど何の意味もない。内閣が輔弼の任に耐えているという評価が天皇の側にあるからこその信任であるはずなのである。さらにおかしいのは、木戸内府の応答の仕方である。天皇の気持を米内に伝えろと言われ、然るべき時期に伝えるように取計らうというのは、どういうことか。木戸は政変必至の情勢の下で、政変歓迎の立場に立っている。だからこそ、米内に対する天皇信任の意の伝達を、然るべき時期まで待とうというのである。然るべき時期とは、いつか。米内首相が閣議室に閣僚の参集を求めて、総辞職の決意を伝えてからであった。
七月十五日、畑陸相は軍部の筋書通り単独辞職した。米内首相は後任陸相の推薦を陸軍に求めたが、陸軍三長官(畑陸相、閑院宮参謀総長、山田乙三教育総監)会議は後任者を選定しなかった。予定の通りである。
七月十六日、米内内閣は総辞職へ追い込まれた。
米内内閣の退陣は、昭和史のなかで、僅かに残されていた気骨ある良識の歴史からの退場を意味した。政治への干与、政治支配の野望とともに肥大化してきた陸軍は、米内内閣を倒すことによって、国家意志形成の指導権を決定的に掌中に収めたのである。以後、日本は、軍事国家以外の何ものでもなくなったのだ。
後継首班の大命は公爵近衛文麿に降下した。昭和十五年七月十七日である。
近衛は、大命降下の前に、軽井沢で松岡洋右と会い、外相就任を懇請している。
「軍人の外交干与を押えうる人物は、君をおいて他にない」と語ったという。(斎藤良衛『欺かれた歴史』)
松岡の登場は、日ならずして、日独伊三国同盟条約の締結となり、日ソ中立条約の締結をもみることとなり、やがて日米交渉の混乱、独ソ戦の勃発、日米交渉の破綻へとつづくことになる。
米内光政は、三国同盟締結の報を聞いて、「われわれの三国同盟反対は、恰《あたか》もナイアガラ瀑布の一二町上手で、流れに逆らつて船を漕いでゐるやうなもので、今から見ると無駄な努力であつた」
と嘆息したという。(緒方前掲書)
運命論的にいえば、そうであろう。
歴史に「もし……したら」ということはあり得ないが、もし日本が三国同盟の道を選ばなかったら、昭和史が全く異った展開を見せたであろうことは間違いない。
4
米内内閣を倒して、予定通りに近衛内閣を実現させた軍部は、国家意志決定の政治指導権を完全に掌握した。近衛が総理として経綸《けいりん》を世に問う意欲が仮りにあったとしても、所詮は軍部が設定した路線の上を走ることしかできなかったのである。
第二次近衛内閣の基本国策ともいうべきものは、近衛登場以前に既に軍部の手によって準備済みであった。『世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱』がそれである。
陸軍は、昭和十五年(一九四〇年)七月三日、右の『要綱』を起案して、省部一致(陸軍省と参謀本部)の陸軍案としていた。七月三日といえば、陸軍が米内内閣倒閣の目的をもって、参謀総長から畑陸相に対して単独辞任を迫る要望書を送った前日に当る。
翌七月四日、陸軍は海軍と協議して、『要綱』に一部修正を施し、これが第二次近衛内閣の閣議に持ち込まれ、七月二十六日、閣議決定、翌二十七日、大本営政府連絡会議で基本国策として正式に決定されたのである。
この『世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱』の決定は、昭和史の流れのなかで重要な意味をもっている。本篇の課題である昭和十六年の四つの御前会議のうち、はじめの一つがひらかれる凡《およ》そ一年前に準備され決定されたこの『時局処理要綱』のなかに、日本が大戦に突入するに至ったすべての因子が含まれているからである。
主要な内容を略記すると、
一、独伊との政治的結束を強化すること。これは、ほどなく日独伊三国同盟条約の締結となる。
二、対ソ国交の飛躍的調整を図ること。これは、松岡外相の手によって日ソ中立条約の締結となって現われる。
三、南方諸地域への積極的進出の施策をする。特に仏印に対しては、援蒋行為(重慶援助)遮断の徹底を期するだけでなく、我が軍の補給担任、軍隊通過、飛行場使用を認めさせ、かつ、日本に必要な資源を獲得する。その場合、情況によっては武力を行使する。
蘭印に対しては暫く外交的措置に依って重要資源の確保に努める。
四、南方に進出し武力を行使することになっては、必ず英米との敵対関係を生ずる。その場合、戦争対手を極力英国一国に限りたいが、対米開戦を避けられない事態が予想されるから、その準備を整える。
以上が『時局処理要綱』の骨子である。戦争政策が国策の前面に露出したのは、これがはじめてであった。
近衛は、組閣前の七月十九日に、入閣予定の陸・海・外三相(東条英機陸軍中将、吉田善吾海軍中将―前内閣より留任、松岡洋右)を荻窪の私邸に招いて四柱会談を行なった。この四柱会談の申合せ事項は、近衛の政治的抱負に基づいたものではなくて、七月四日の陸海軍協議になる『時局処理要綱』を七月二十七日の大本営政府連絡会議での決定へ推進するためのものであった。つまり、第二次近衛内閣は、陸軍の政治的野心に迎合し、陸軍の政治意図を国策大綱として採用するという条件の下でのみ成立し得た内閣でしかなかったのである。
したがって、内閣発足後、松岡外相の手によって、三国同盟、日ソ中立条約、対南方施策等の一見華々しい「松岡外交」が展開されるが、それらは決して松岡の創意に発するものではなく、松岡登場以前に陸軍によって敷設された国策路線の上を、松岡がスター然として歩んだに過ぎなかったのである。
5
昭和十五年九月二十七日、日独伊三国条約がベルリンで調印された。日独伊枢軸三国による世界の新秩序をめざすファッショ連合戦線の結成である。その主眼は条約第三条にある軍事同盟である。
「三締約国中何レカノ一国カ現ニ欧洲戦争又ハ日支紛争ニ参入シ居ラサル一国ニ依テ攻撃セラレタルトキハ、三国ハ有ラユル政治的、経済的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキコトヲ約ス」
この条約での仮想敵国は、米国であり、ソ連なのである。枢軸三国の軍事同盟は、日本としては、昭和十三年(一九三八年)夏以来の懸案であった。陸軍は日独防共協定を強化して軍事同盟へ推進しようとしたのに対して、海軍は米英を敵とすることを嫌って反対した。昭和十四年に入ってから、平沼内閣は三国同盟問題に関して七十回を越える会議を重ねた。そのとき、ヨーロッパでは、突如として独ソ不可侵条約が締結された。昭和十四年八月二十三日のことである。日独防共協定を同盟条約にまで強化するか否かで揉みに揉んでいた平沼内閣は、ドイツに足もとをすくわれた形になった。平沼首相は「欧洲の情勢は複雑怪奇」と言って内閣を投げ出した。枢軸一辺倒で進もうとする政治感覚では、変転きわまりない世界情勢に対処しきれなくなったのである。
以来、ドイツ熱は下火となったが、昭和十五年春以降再び急速に再燃した。前述の通りヨーロッパでドイツの破竹の進撃がはじまったからである。
反対していた海軍では、九月五日に良識派の海相吉田善吾が辞任して、後任には陸軍の主張に協力的な及川古志郎がなった。
昭和十五年九月十四日、三国同盟問題に関して、大本営政府連絡会議の下打合せが行われた。出席者は、外相、外務次官、陸相、同次官、軍務局長(陸軍)、参謀次長、海相、同次官、軍務局長(海軍)、軍令部次長である。
席上、松岡外相が熱弁をふるった。
「今や日本は、独伊と結ぶか、独伊を蹴って米英の側に立つか、ハッキリした態度を決めねばならぬ時期に来ている。平沼内閣(昭和十四年一月五日〜同年八月三十日まで)の様に曖昧にしてドイツの提案を蹴った場合、ドイツは英国を降し、最悪の場合は欧洲連邦を作り、米国と妥協し、欧洲連邦の植民地には、日本に一指も染めさせぬであろう。しかし日独伊同盟を締結すれば、対米関係は悪化し、物資の面では戦争遂行にも国民生活にも非常な困難が来る。そこで独伊とも米英とも結ぶということも一つの手で、全然不可能とは思わないが、そのためには、支那事変は米国の言う通りに処理し、東亜新秩序などという望みを捨て、少くとも半世紀は米英に頭を下げる心算《つもり》でなければならぬ。
それで国民は承知するか。十万の英霊は満足出来るか。(米英と結ぶと)前大戦の後でアンナ目に会ったのだから、今度はドンナ目に会うか解らぬ。況《いわん》や蒋介石は抗日でなく侮日排日が一層強くなる。中ブラリンではいかぬ。即ち米と提携は考えられぬ。残された道は独伊との提携以外になし」(『近衛首相覚書』及び矢部貞治『近衛文麿』下)
松岡発言中ドイツが英国を降し云々について、同席者から異った見解が出された形跡は全くない。ドイツの電撃戦がめざましかったから、その猛攻にさらされている英国が風前の灯であると考えていた日本人がきわめて多かったことは事実である。だが、防空組織にレーダーをいちはやく組み入れたのは英国であったし、英国空軍が死力を尽して英本土を守り抜いたことは、首相ウインストン・チャーチルが激賞した通りであった。すべての情報から隔離されていた一般日本国民ならいざしらず、指導的立場にある政・軍の首脳部が手放しでドイツの圧勝に終ると信じていたことは、軽率でもあり、不勉強でもあった。ドイツがドーバー海峡を渡って英本土上陸作戦を実施することができるかできないかは、海空軍力の緻密な比較検討を行えば、当時でさえも正確に予見できたことである。
それを、一も二もなく、ドイツが英国を降しヨーロッパを掌中に収めると信じた松岡も松岡なら、並居る高級軍人たちが疑問さえもさしはさまなかったとは、驚くべきことであった。
松岡は「それで国民は承知するか。十万の英霊は満足出来るか」と大見得を切った。これは、のちに、日米交渉が打開の目途が立たなくなった際、開戦を主張する陸軍の、特に東条陸相の切札的表現となるが、松岡は一年前に軍人好みの論法を先取りしたのである。
だが、十万の英霊をふりかざした者、それを聞いている者たちが、その会議の行く末に百万の人間を殺すことになるかもしれぬと考えなかったとしたら、それこそまさに驚くべきことであった。
6
昭和十五年九月十九日、三国条約を審議するための御前会議がひらかれた。席上、枢密院議長・原嘉道《はらよしみち》が松岡外相に次のように質問している。
「(前段略)
此条約ノ発表ニヨリ日本ノ態度明白トナラハ(米国は)極力日本ニ対スル圧迫ヲ強化シ極力蒋ヲ援助シ日本ノ戦争遂行ヲ妨クヘク又独伊ニ対シ宣戦シアラサル米国ハ日本ニ対シテモ宣戦スル事ナク経済圧迫ヲ加フヘク日本ニ対シ石油、鉄ヲ禁輸シ又日本ヨリ物資ヲ購入セス長期ニ亘リ日本ヲ疲弊戦争ニ堪ヘサルニ至ラシムル如ク計フヘシト考フ。(後段略)」
これに対して、松岡は次のように答えた。
「(前段略)
(米国は)多分日本カ支那ノ全部少クモ半分ヲ放棄スレハ或ハ一時米国ト握手シ得ヘケンモ将来決シテ対日圧迫ハ已《や》ムモノニアラス。
(中略)
今や米国ノ対日感情ハ極端ニ悪化シアリテ僅カノ気《ママ》嫌取リシテ恢復スルモノニアラス只々我レノ毅然タル態度ノミカ戦争ヲ避クルヲ得ヘシ」(沢田参謀次長覚書)
この毅然たる態度によってのみ日米戦争は避けられるという考え方は、これから約一年、日米交渉が破局に至る寸前まで、審議をその根柢において主導する潮流であった。だが、その毅然たる態度は、相手国が政治原則として堅持しようとしている民主主義と真向から対立矛盾する枢軸新秩序=世界再分割のための「毅然たる態度」であったから、戦争を避けるというのは空疎な題目に過ぎず、幻想でしかなかったのである。
三国条約調印の前日、昭和十五年九月二十六日、三国条約問題は枢密院全員委員会の審議に付せられた。
席上、近衛首相は次のように述べている。
「欧洲戦争に参加せずして我が地位を強化する為めに、此の条約を締結せんとす。但し最悪の場合には之に対処すべき覚悟あり」(深井英五『枢密院重要議事覚書』)
近衛にどのような「対処すべき覚悟」があったか、明らかではない。最後まで主戦論の立場を採るでなく、さりとて平和意志を貫くでもなかった近衛に、政治の最高責任者として「覚悟」があったとは思えないのである。
この枢密院で、委員から発せられた質問に対して松岡外相は、
「(米英と協調するには)支那より手を引き、南進を止むることを覚悟せざるべからず。国が亡びんとする場合ならばそれも已むを得ざるべきが、今日支那より手を引き、南進を止むることは可能なりや。之を不可能とせば、日米戦争は不可避なり。本条約は之を阻止せんとするもの」
と答え、また、
「我が南洋発展の途上日米戦争の危険甚だ大なり。独力にて之を回避することは難し。故に独逸を我方に引付けて我が地歩を強固ならしめんとするなり。本条約の結果、日米の感情は一時一層悪化するならん。然れども日独提携して米に当るは日米戦争を阻止し得べき可能性を生ずる所以《ゆえん》なり」
とも答えている。
外見は華々しいが、日本より先に日本以上の困難を抱え込んでしまっているドイツを盟邦として提携して、日本はまさに迫りつつある困難を乗り切ろうというのである。持たざる国の思考の宿命といえばそれまでだが、軍部・近衛・松岡に共通した近視眼的思考と野心は、日本の転落に加速度をつける作用以外の何ものをももたらさなかった。
枢密院議員の面々は、必ずしも釈然とはしなかったはずである。それにもかかわらず、危惧表明を付する程度で、全員賛成へと妥協したのである。
九月二十六日、夜、枢密院本会議で、石井菊次郎顧問官は、後ろ髪をひかれるかのような賛成意見を述べている。
「外交の難かしきは同盟国に対する外交より甚だしきはなし。何となれば、一方は他の犠牲に於て条約を利用せんとすればなり。殊に独逸と同盟したるものは大概損失に了《おわ》れり。……一旦約束したることも都合が悪ければ之を破棄するを憚《はばか》らず。独ソ不可侵条約は其の一例として我国の体験せる所なり。伊太利は其の点に於て独逸よりも一層上手にして……伊太利の反覆常なき態度に就《つい》ては欧洲外交界に於て定評あり。今是等の国を相手として軍事同盟を結ばんとするは、頗《すこぶ》る警戒を要することなるに、之を賛成する理由如何。日独伊は何れも持たざる国にして現下利害の一致するものあればなり。政府当局は本条約の運用に付慎重戒心して|誤 《あやまり》なからんことを望む」(深井英五前掲書)
枢密顧問官の大多数は三国条約の前途に危惧の念を抱いていた。枢密顧問官といえば、謂わば天皇に代って審議を行う立場にある。それが危惧の念を抱きながらも三国同盟に賛成したのである。所詮は、最終責任の帰属が明瞭でないことに因《よ》るのであろう。
深井英五はその間の心理的経緯を覚書に次のように誌している。
「|相手方との内議既に妥結したる後に於て《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|之を覆すも其の結果を収拾すべき成算なきが故に《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|反対を敢てするものもなかりしなり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。……然れども本案を可決上奏したるの責任は固《もと》より枢密院の免かれ得べき所にあらず。……対支問題の膠着《こうちやく》に焦慮せる我が軍部及び政府は、独逸の迅速なる大興隆に信頼し、其の協力によりて局面の打開を図り、或は戦を待たずして、或は安易なる戦争によりて、米英を圧倒せんことを期せしならん。此《ママ》く言へば他力依存の暴露となる故、日独伊同盟の推進者は之を承認すること肯《がえん》ぜざるべしと|雖 《いえども》、政府側説明の含蓄として之を看取すベきものあり。……|其の基礎たる国際情勢の見透しに共鳴し得ざるものあるも《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|当時に於て之を争へば水掛論に終るの外なきが故に《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|誰も其の不愉快なる論議に入るを好まざりしならん《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点引用者)
深井が言うように、相手国との話が出来てしまってから、これを覆せば、収拾困難な事態が生じたであろう。事は、しかし、国の運命が懸っているのである。反対意見があれば、反対は貫かれるべきであった。事後収拾はおのずから別個の事柄である。
松岡が説明した国際情勢の見通しに、枢密顧問官たちが共鳴し得なかったのであれば、水掛論になるのが不愉快だから論議に入らなかったというのは、責任回避というほかはない。概して日本の政治の場では、暗黙の諒解とか肚芸《はらげい》が多過ぎる。きびしい論理的追及がなされない。その結果、権力や官僚の恣意《しい》が横行するのである。
三国同盟は枢密院での審議を最後として、調印の運びとなった。
日本は対米英戦に勝算はなかった。それは米内海軍大将に代表される日本海軍の判決であるばかりでなく、諸多のデータが明確に示している客観的事実であった。日本は、単独で世界戦争を遂行する国力はなく、その大義名分もなかった。したがって、東亜新秩序などという野望は捨てるべきであった。日中戦争をもてあましたならば、これを収束し、南進を中止し、国際協調による国力相応の国策を樹立することこそが、愛国なのであった。それにもかかわらず、日本は、ドイツを恃《たの》み、三国同盟を結び、世界再分割の旗揚げをしたのである。
三国条約締結後、近衛首相はラジオ放送で全国民に向って次のように告げた。
「米国は日本が三国同盟を締結して世界新秩序建設に邁進する真意を諒解し、且又新しい世界新秩序建設といふことに米国自身が従来の立場を反省し相携へて協力するといふならば、日独伊三国は喜んで米国とも協力することにならう。然し、米国がこの三国の立場を理解せず三国同盟を敵対行為として来るならば、三国は敢然之れと戦ふ覚悟はある」(木村鋭市『世界大戦と外交』)
7
枢密院で三国条約の審議が行われた昭和十五年九月二十六日、米国では鉄鋼・屑鉄輸出禁止の大統領命令が発せられた。松岡外相が意気軒昂として唱えた「毅然たる態度」に対する米国の痛烈な回答であった。
日本は戦略物資の圧倒的部分を米英に依存していた。特に石油・鉄においてそうであった。石油に関しては、のちに仏印進駐への報復として禁輸の痛打をくらうことになるが、今回の鉄鋼・屑鉄禁輸も日本にとって手痛い打撃であるにちがいなかった。日本の鉄鋼生産は主として屑鉄製鋼法に依っていて、屑鉄の供給先は米国だったのである。
これより先、松岡は外相就任直後の昭和十五年八月一日、三国条約交渉の打診と同時並行的に仏印進駐のための外交交渉に着手していた。その傍ら、八月二十二日、親英米派と目される在外外交官四十名に帰国命令を出し、霞ヶ関から追放した。ついで、二十八日には、親枢軸派として著名な前駐伊大使白鳥敏夫を外務省顧問に起用するなど、外務省の反英米・親枢軸の旗色を鮮明にしていたから、米国は対日制裁に着手する時機を測っていたものと考えられる。
松岡外交の暴走のもう一つの現われは、汪兆銘を首班とする南京国民政府の承認をめぐっての措置である。松岡は、その腹心の西義顕等民間ラインを通じて対重慶和平工作を進めていながら、『支那事変処理要綱』(重慶打倒)と日華基本条約締結(汪兆銘政権承認)を昭和十五年十一月十三日の御前会議にかけ、審議原案では日華基本条約締結の目途を十二月末としてあるにもかかわらず、松岡は十一月末に訂正するように強硬に主張した。ちょうどそのころ、西らの対重慶和平工作は、蒋介石による正式代表任命の通告電を受領するところまで運んでいたのである。もう暫く時日があれば、重慶工作は新たな局面の展開をみたかもしれなかった。実現の可能性が皆無だったとは必ずしもいいきれない日中和平への一つの希望は、松岡の主張による十一月三十日という期限によって時間切れに終った。日本は十一月三十日に汪兆銘政権承認に踏み切ったのである。一つの中国に重慶以外の他の政権を日本が承認しては、重慶がもはや如何なる工作にも応じられないのは当然である。勿論、南京承認の期限が延ばされ、重慶工作が続けられたとしても、それによって日中和平が成立したであろうというような甘い観察は薄弱な根拠をしか持っていない。ただ、日中戦争の泥沼に落ち込んでいた日本が、傀儡《かいらい》政権の樹立によって問題の解決を図ろうとしたことに、より強力な根拠があったとは決していえないのである。
汪兆銘政権擁立による日中戦争の解決は、前々からの陸軍の構想であり、幻想であった。したがって、外交が汪政権承認を延期することは、陸軍との間に摩擦を生ずる怖れがあった。松岡は、察するに、中国問題で陸軍と対立することを欲しなかったのである。松岡には、独伊と結び、ついでソ連をも抱き込み、その圧力で支那事変を「吹っ飛」ばそうという「気宇壮大」でまことに独善的な構想があった。中国問題などは彼の世界的規模の外交眼からみれば、次等以下でしかなかったのである。
昭和十五年末にはじまる泰《タイ》と仏印の国境紛争調停を契機に、日本は両国に軍事的・経済的地歩を固めようと企図した。昭和十六年(一九四一年)一月三十日の大本営政府連絡会議で決定をみた『対仏印泰施策要綱』がそれである。この要綱は二月一日に上奏され、允裁《いんさい》を得ている。つまり、天皇が承認したのである。この『要綱』の目的は、天皇に対する近衛首相の説明に明らかである。
「(前段略)
支那事変処理ヲ中心トスル外廓的施策、並帝国ノ必需資源確保ノ見地ヨリ、仏印及泰ト帝国トノ間ニ軍事、政治、経済ニ亘ル緊密ナル結合関係を設定致シマスコトハ、|帝国ノ自存自衛上ノ緊急《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|且重要ナル措置デ御座イマス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
此際、仏印泰ノ如キ強国依存、従テ変節常ナキ国ニ対シマシテハ、帝国ハ毅然タル決意ヲ以テ望ミ、|要スレバ所要ノ威圧ヲ加ヘ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、特ニ仏印ニ対シマシテハ、已ムヲ得ザルニ於テハ|武力ヲ行使スルモ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|目的ノ貫徹ヲ図ル《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ノ決意ヲ必要ト存ジマス(以下略)」(『杉山メモ』上)――(傍点引用者)
天皇は日本のこの独善的かつ侵略的な企図を承認したのである。
松岡外相はこの『要綱』の実施に当って、武力に訴えず、英米を刺戟せず、戦争を回避するという方針を採って、軍との対立を辞さなかったかに見える。その松岡が、他方では軍に対してしきりにシンガポール攻略をそそのかす発言を行なっているのである。
一見明らかに矛盾しているが、松岡の肚は、のちにドイツで底が割れることになる。
松岡の矛盾した発言には、陸軍も戸惑った感がある。昭和十六年三月七日の連絡懇談会のあとで、杉山参謀総長(閑院宮|載仁《ことひと》のあとを受けて昭和十五年十月三日就任、昭和十九年二月二十一日まで在任)は下僚にこう言っている。
「松岡外相渡欧ニ就テハ何ヲ言ヒ出スカ分ラナイカラ統帥部ノ考ヘカラ逸脱シナイ様ニ連絡会議テハツキリ統帥部ノ意見ヲ言ヒ渡ス様ニシタイ。早ク陸海軍ノ意見ヲ取纒《とりまと》メヨ」
松岡の渡欧というのは、二月三日の連絡懇談会で松岡が提案し、審議された対独・伊・蘇交渉に関してである。松岡は自信満々として次のように言っている。
「(前段略)
議会開会中ナルモ外務ハ総理ニ御願ヒシテ行キ度。大島(駐独大使)テハ瀬踏ミハ出来ヌ。俺カ行ツタラ(相手国が)相当ノ事ヲ言フト思フ(後略)」
松岡は昭和十六年三月十二日にヨーロッパ訪問の旅にのぼった。
東京駅で発車のベルが鳴り終った瞬間、松岡は杉山参謀総長に奇怪な一言を残したのである。「シンガポールはどうしてもやらないかね」
シンガポールをやるということは、英国のアジアにおける最大の拠点を攻略するということである。
8
昭和十六年三月二十七日、松岡洋右はベルリンでドイツ総統ヒトラーと会見した。
ヒトラーは、
「いまや戦争の勝負は決定され、枢軸国は支配的な結合体となってきた。枢軸国の意志に対して抵抗することは不可能となった」
と、ドイツの戦力・戦果の過大評価を基礎とする情勢分析を開陳した。
これに対して松岡は正直過ぎると思われる彼の個人的見解を述べている。
「ヨーロッパ戦争勃発後、自分は個人的見解として、日本はまずシンガポールを攻撃して、その地域におけるイギリス勢力を叩きつぶさねばならないと考えていた。というのは日本はイギリス崩壊に、何らかの貢献することなくして同盟に参加するのは自分の好まざるところだったからだ。ドイツは一年にわたりイギリスを相手に大きな戦争を続けているが、日本は同盟を締結するまでに何らの寄与もしていなかった。そこで自分は断乎シンガポール攻撃計画実行の急務を考えたのである。しかし四囲の形勢はまだ不利で、種々の事情も手伝い、計画とは逆にどうやらまずさきに、同盟参加にまで漕ぎつけることになったのである。
シンガポールを占領しなければ、日本は南洋問題を解決し得ないだろうというのは、自分の少しも疑わざるところだ。日本は虎穴に入り力を以て虎児を得なければならぬ。
日本がいつ攻撃に出るか、その時期だけが問題であるが、自分の考えによれば、攻撃はできるだけ早くしなければならない。不幸にして自分は日本を支配してはいないので、支配の地位にいる人々を自分の意見に近づけねばならない。しかしこれはいつか成功するだろう。しかし自分としては、現在ただ今このような環境の中では、日本が行動に出るであろうと、日本帝国を代表して誓言することはできない」(米国務省編纂『大戦の秘録』独外務省の機密文書による)
右文書によれば、松岡は次のようにも言っている。
「総統がその背後に完全に団結して立っているドイツ国民を、決断と権威を以て指導しつつある方式について全く驚嘆している。一国民がこのような総統を戴くのは、まさに千載一遇ともいうべきである。|日本国民はまだその総統を見出すことが出来ないでいる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|しかし自分は時が来れば必ず乗出し《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|断乎として国民の指導権を握るつもりである《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点引用者)
松岡が自分の野心を率直にヒトラーに語ったのは、両者の間によほどに肝胆相照らす思想心情の交換があったのか、あったと松岡が過信したのか、いずれかであろう。もし後者であるとすれば、松岡はヒトラーからなめられるようなことしか言わなかったのである。
ヒトラーは、松岡との会見に先立つ約三週間前、三月五日に『日本トノ協力ニ関スル訓令』を出している。
「三国条約ニ基ク協力ノ目的ハ、出来得ル限リ早ク、日本ヲ極東ニ於ケル積極作戦に引入レルコトデアラネバナラナイ。コレニヨリ、英ノ大軍ハ釘附ケトナリ、米国の関心ノ中心ハ、太平洋ニ転ゼラレルデアラウ。……日本側ノ成功ノ見込ハ、日本ガ早ク参加スレバスル程、大キクナルデアラウ。『バーバロッサ』工作(対ソ侵攻作戦の秘匿名称――引用者)ハ、コノタメニ特ニ好都合ナ政治的軍事的必要条件ヲ提供スルデアラウ(以下略)」(『極東国際軍事裁判速記録』第七七号)
対ソ侵攻を既に決意していたヒトラーにとって、松岡のシンガポール云々は、渋滞の見えはじめたドイツの対英作戦に願ってもない希望を与えるものであった。
昭和十六年三月二十八日、つまりヒトラー・松岡会見の翌日、松岡はリッベントロップ外相と会談した。
独外相は松岡をこう嗾《け》しかけている。
「大東亜新秩序は、日本が南方を掌握しさえすれば建設することができるのである。しかしこのためにはシンガポール占領が必要である。……若々しい、強い、恐れなき精神を把握しているこの世界最強の両国(ドイツと日本)は、いまや相応じて千載一遇の好機を、神より恵まれている……」
リッベントロップは松岡の論旨を巧みに逆用して、ドイツに奉仕させようというのである。
松岡はリッベントロップの意見に同意して、次のように言った。
「理論的にも直感的にも一九四一年(昭和十六年)は、宿命の年として歴史に現われてくるだろう。この年に最大の悲劇、英帝国の没落がなし遂げられるであろう。自分の感ずるところによれば、ドイツ国民はヨーロッパで、日本国民は東亜で、神の命により英帝国の崩壊と新秩序建設の事業に邁進《まいしん》しているのである」
松岡の予言のうちで、たった一つ正しかったのは、一九四一年(昭和十六年)が歴史的に宿命の年となったことであった。日本は後述する四回の御前会議の結果、みずから戦端をひらき、洋の東西を問わず世界中を戦乱が蔽《おお》うことになった。しかし、英帝国は崩壊しなかった。東亜新秩序も建設されなかった。松岡やヒトラーやリッベントロップの謂《い》う神は、いくばくもなくして枢軸三国を見捨てるのである。
リッベントロップは松岡との会談で、こうも語っている。
「もし日本がシンガポールを占領すれば、世界の大部分が三国同盟加盟国の支配下に入ることになり、アメリカは孤立に陥るであろう」
これに対して松岡は答えている。
「自分としてはもし日本がシンガポール占領という冒険を試みなければ、第三流国に転落するかもしれないと思っている。故にいつか機会をとらえてこの攻撃は断行しなければならないだろう。……このような根本的な国家の重要事にいつまでも逡巡している国民は、最も重大な決断力に不足していることを暴露するだけである」
冒険を試みなければ三流国に転落するのか、試みれば三流国に転落しなければならぬのかは、松岡が判決することではなくて、歴史の事実が決定することであった。
翌三月二十九日、松岡は日ソ不可侵条約に関して、リッベントロップの意見を求めた。
「深く突っ込んで行っていいだろうか、それともただ表面的にだけ取扱うべきものだろうか」
これは松岡がまだバーバロッサ作戦が近いことを知らなかったときのこととはいえ、驚くべき無邪気な質問である。これが「大島テハ瀬踏ミハ出来ヌ。俺カ行ツタラ(相手国が)相当ノ事ヲ言フト思フ」と連絡懇談会で見得を切った男の外交術なのである。
リッベントロップの方は、ヒトラーの『日本トノ協力ニ関スル訓令』のなかの「バーバロッサ工作ニ関シテハ、日本ニ対シ何ラノ暗示モ与ヘテハナラヌ」という指示から一歩もはみ出していない。松岡の質問に対しては、
「ただ形式的に表面的に扱った方がよいと思う」
と答えて、こう強調している。
「日本が共同理想にたいしてなし得る最大の寄与はシンガポール攻撃のための力を、他へ削がないようにすることにある」
ここで松岡は、大本営政府連絡会議での彼の矛盾した発言の肚の底を割って見せるのである。「仏領印度支那と、シャム(泰)に航空基地を設立したいというのが、日本将校の間に行われている考えである。しかし自分はシンガポールにたいする日本の意図を、敵に知らせるようなことは決してしたくないという見地から、この考えには反対している」
松岡が東京駅を発つときに杉山参謀総長に「シンガポールはどうしてもやらないかね」と言ったのは、ドイツと対等に交渉するには、それだけのみやげが必要と考えたのであろう。
四月四日、ヒトラーと再度会見した松岡は、対米戦争は早晩必至であり、「それは早く起った方がよい」と言い、日本国内で松岡が孤立していることを語り、
「ドイツには信頼するが、不幸にして日本には同じことが言えない」
と、訣別の挨拶の前に語ったと独外務省機密文書は記録している。
対米戦争が早く起った方がよいというのは、日本が消費する石油の供給は主として米国に仰いでおり、対米関係が悪化すれば当然に日本の石油事情に強い影響を及ぼすから、日本海軍の石油貯蔵量は日ごとに減る一方となるであろうこと、もう一つは、対米戦が先へ延びれば延びるほど、日米の艦艇建造能力の懸隔が著しくなって、遂には日本は戦えなくなるであろうことを、松岡も承知しているからである。
さらに、日本の対米戦発起が早ければ早いほど、米国の戦力を太平洋正面に割くことになり、その分だけドイツの負担が軽くなるであろうことを言外に匂わせ、松岡が如何に三国同盟に忠実であるかを示したのである。
松岡は、東条でさえ使いこなせなかった陸軍の切れ者武藤軍務局長を、会議の席上、「軍の属僚なんか引っ込んでいろ」(斎藤良衛前掲書)と叱りつけるほどの異色の外務大臣ではあった。彼は、しかし、天皇の外交大権の代行にあたっては、軍があらかじめ布石した路線上を、軍より先走ろうとしたに過ぎなかった。彼がヒトラーに対して述懐したように日本国内で「孤立」していたとすれば、そしてそれは事実だが、それは彼が良識に基づく国家百年の大計の先見性を持っていたからではなくて、持たざる国の指導者たちがほとんど例外なしに陥った思考の短絡を、性格の奇矯において表現したからであった。この傾向は、短い期間に急激に著しくなる。
近衛が彼を外務大臣として選び、国民は彼を船頭として、激浪逆巻く国際関係に翻弄されるのである。
9
ベルリンからの帰路、松岡はモスクワでスターリンとの直接交渉によって日ソ中立条約を締結した。昭和十六年(一九四一年)四月十三日のことである。
日本国民の眼には電撃外交と見えた。松岡外相ならではの凄腕とも見えた。
松岡の帰国にあたって、スターリンはモスクワ駅頭に松岡を見送り、発車時間を遅らせて、松岡と相擁した。
条約締結がよほどスターリンを満足させたかに見える光景であった。
この時点が松岡洋右の得意の絶頂であったであろう。
だが、この日ソ中立条約は、ソ連にとっても日本にとっても、一時の方便に過ぎなかった。南進を企図している日本としては、ソ満国境の静謐《せいひつ》が必要であったし、ソ連としても亦《また》、ほとんど全ヨーロッパを掌握したドイツとの間に常に危険を孕《はら》んでいる関係においては、ソ満国境の平穏無事が望ましかったのである。そのための日ソ中立条約なのであった。
日本は、この日ソ中立条約締結の約三カ月後、後述する次第で七月二日の御前会議の決定に基づいて、対ソ武力発動の準備にとりかかることになる。
日ソ中立条約は、必ずしも松岡外相の創意による功績ではなかった。外務省の記録によれば、東郷駐ソ大使、建川大使からも日ソ国交回復は既に提案されていたし、昭和十五年八月十四日に、モロトフ外務人民委員は日本提案の中立条約を受諾する代りに北樺太利権の解消を要求した事実がある。(『日本外交年表並主要文書』下)
当時の駐ソ大使であった東郷茂徳によれば、ソ連側は重慶政権非援助の日本からの要求に応じる意向を示し、直ぐにも条約成立をみる運びになっていた。そこへ前述の松岡人事による帰国命令の接到《せつとう》、条約成立寸前の状況で東郷は帰国しなければならなかった。
松岡の手に成った中立条約では、重慶政権非援助の項は消滅しているし、松岡は閣議の諒解のもとに北樺太利権を解消する意味の松岡・モロトフ間の交換文書を交している。
東郷の記述によれば、
「其時日本の動きは頗《すこぶ》る了解し難きものである」(『時代の一面』)
松岡は、しかし、凱旋将軍のように意気揚々と帰国した。
松岡の帰朝は昭和十六年四月二十二日である。得意の凱旋将軍を待っていたのは、不愉快な日米交渉問題――後述する駐米野村吉三郎大使がもたらした所謂《いわゆる》「日米諒解案」であった。
不愉快というのは、松岡を待っていた野村の請訓電が、松岡が播《ま》いた種子から発したものではなかったからである。松岡はモスクワ滞在中に駐ソ米大使スタインハートと会談した。その要旨は大体次の通りである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
松岡 日米ハオ互ニ戦フヲ欲セス。
大使 全然同感ナリ 然シ乍《なが》ラ独ハ米ニ宣戦シ日本ヲ戦争ニ引込ム様ニスルニ非スヤ。
松岡 独逸ハ米ト事ヲ構ヘルコトヲ欲セス。米ヲ刺戟スルカ如キコトヲセス。
大使 外相ノ訪独ハ三国同盟ヲ強化セントスルモノニアラスヤ。
松岡 現在以上強化ノ必要ナシ。
米大統領カ大バクチ打ナルコト一般カ充分認メアリ。付テハ大バクチ打ノ大統領ハ世界平和ノ為蒋介石ニ戦争ヲヤメル様|慫慂《しようよう》セサルヤ。
大使 其ノ件ニ関シテハ一度意見ヲ具申セルコトアリ。モウ一度電報スヘシ。
松岡 若《も》シ大統領ニ其ノ考アラハ小官帰国後一週後ニ話ヲ進メルコトトスヘシ。
[#ここで字下げ終わり]
大橋外務次官が連絡懇談会で報告した会議要旨は、『杉山メモ』に関する限り、これで尽きている。大橋は、松岡外相は、本件に関してモスクワ滞在中に米国大統領から好い返事が来るかも知れぬと考え、楽観している、と懇談会に伝えた。
会談がこの程度でしかなかったとしたら、松岡が楽観する根拠は何処にも見出されないのである。こんな茶話程度の会談で深刻な国際問題が解決の緒につくとしたら、外交ほど軽易な仕事はないことになるであろう。
松岡は、しかし、立川飛行場に近衛、大橋次官の出迎えを受けるまで、野村大使からの請訓電は、松岡―スタインハート―ルーズヴェルト―野村を経由したものと思っていた。そうではなかったのである。
立川からの自動車内で大橋次官から事情の説明を聞いた松岡は、機嫌が悪くなった。日米交渉に関してはドイツの充分な諒解を取付けねばならない、と言いだしたのである。その真意は、ドイツ首脳部との完全相互理解に立っているのは松岡ただ一人であるから、松岡の工作に成る対米交渉なれば別のこと、余人の工作にかかわる対米交渉は、三国条約の手前、問題が多いということである。
それが、松岡の帰国を待ちかねていた近衛首相や軍部首脳との懇談会の席上、松岡にこう言わせたのだ。
「此ノ問題ハ支那事変処理以外ニ相当重大ナ事カ含マレテ居ルカラ二週間カ一ケ月二ケ月位慎重ニ考ヘナケレハナラヌ」
松岡以外の列席者は、野村への訓令を一日でも急ごうとあせっていたときなのである。
以後、松岡は、近衛首相や軍首脳部に対して、対立的な言動を敢てするようになる。
松岡の奇矯は性格的なものだが、彼の訪独以前と以後とでは、傍若無人ともいえる態度の変化が看取される。その変化を支えているものは、オットー駐日ドイツ大使が本国政府への報告のなかで適確に看破している。
「(松岡)外相ハ独逸外務大臣トノ会談及ビ来ルベキ総統トノ接見ニ依リ、彼ノ政策並ニ彼自身ノ重要性ヲ高メント欲シ……」(『極東国際軍事裁判速記録』第七七号所収の昭和十五年十二月九日オットー発電文)
いまや日本はドイツと一蓮托生《いちれんたくしよう》なのである。そのドイツの最高首脳と会見し、真情を披瀝《ひれき》しあったと信じている彼松岡洋右、この重要人物を制御し得る日本の政治家も軍人もいないはずである。松岡はそう自己を過信していたにちがいなかった。
松岡を不愉快がらせた日米交渉の推移は、奇異ともいうべき発端をみせている。
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昭和十五年(一九四〇年)初冬、大橋外務次官は前駐仏大使沢田廉三から電話を受けた。ウォルシュ、ドラウトという二人の神父が日米国交調整に関して来日したいとシアトルから電信で問合せてきたが、何と返事をしたものだろうか、というのである。
大橋次官は、
「別に遅《ママ》いということもあるまいから来るよう返事を出したら如何」
と答えたという。(大橋忠一『太平洋戦争由来記』)
おそらくこれが、のちに難渋をきわめた日米交渉へと発展する発端である。
ドラウトはカトリック外国伝道協会の事務総長を務める神父であり、ウォルシュは同協会の会長であった。
この二人は、昭和十五年十一月来日してから、何故か、外務省関係の沢田や大橋に対しては積極的に働きかけず、大蔵官僚出身で産業組合中央金庫理事の井川忠雄ともっぱら接触をつづけた。
ウォルシュ、ドラウト両名の背後には、カトリック教徒でルーズヴェルト大統領の選挙事務総長を務めるウォーカー郵政長官がいるということが、両名の政治的背景といえばいえた。
井川については、矢部貞治によれば「はじめから近衛に連絡して瀬踏みをやったのである」(三代宰相列伝『近衛文麿』)
井川は、確かに、ドラウト等との接触の模様を詳細に近衛に文書で報告しているが、近衛と井川との政治的関係がどの程度のものであるかは、明瞭でない。
日米両国間には、険悪な空気が|蟠 《わだかま》っていたが、正規の外交関係が断絶していたわけではない。そこへ、日米双方から、資格も権限も全く不分明な民間人が登場して協議をはじめ、果ては大戦に至る日米交渉の発端に位置したのであるから、奇異というほかはないであろう。
ドラウトは滞日中に、「自己を仮りに日本人の立場に置きて執筆したるもの」という「特に米国との関係におけるわれわれ(日本)の地位と政策の実際的分析」なる長文の文書を、井川へ提出した。
井川が昭和十五年十二月十四日付近衛宛|書翰《しよかん》で述べているところによると、この文書は松岡外相にも提出されている。起案者の真意が奈辺にあるか捉え難い奇怪な文書である。
右文書には、たとえば次のような箇所が散見される。
日本は極東の急速且つ有利な開発によって自給自足を具現するために「資本を必要とする。我々は状況の切迫、我々自身の金融資本の欠如、欧洲人のかけ引の執拗さに鑑《かんが》みて、時機を失しないうちに、極東諸国に対する我々の政治的、経済的地位を確立するため、武力を使用せざるを得なかった」
また、政治上、経済上の手段が失敗に終ったら「軍事的手段によって、仏印、泰、マレー、蘭印における我々の地位の確立、強化を企図しなければならない」
「支那の『領土保全』というスチムソン流の合言葉は、支那及び極東のために、外交上の談話の中にのみ存在するところの全く名目的なもの」
「スチムソン氏は勿論、満洲国が支那の領土保全に関係ありという主張を放棄しなければならない」
右の引用文は、日本に対する機嫌とり以外の何ものでもない。満洲国不承認のスチムソン・ドクトリンは米国政府の対日基本方針の一部である。スチムソンは、共和党政府の閣僚であった人物だが、反対党のルーズヴェルト政府に陸軍長官として現に迎えられている。米国の一宗教人が、自国政府の政策を無視し、如何に「自己を仮りに日本人の立場に置きて執筆したるもの」とはいえ、日本の志向を忖度《そんたく》してこのような文書を提出したのか、その真の意図は謎に包まれている。
日本にとり入って、正規の外交ルートの裏にある日本の企図を探り出すために、米国の外交主流以外の筋によって動かされた人物ではなかったか、と思われる節もある。
同文書には、さらに次のような条《くだり》がある。
「……日本は米国の最もよい得意先であるばかりでなく、決してその義務を怠ったことのない唯一の国であることを強調することが出来る。米国の企業家と金融業者は、長い間追求して来た極東における経済的チャンスの夢を、日本を通じて、今度こそは実現することが出来る。……直ちに数十億ドルの資本が必要となるであろう。我々は、米国の企業家と金融業者が、現在米国政府によって行われている『施し物』の借款よりも、この取極めの方を好むであろうことを確信する」
右の引用文の背後には、ある種の米国実業家たちの意図が作用しているらしくも見える。日本の一実業家に過ぎない井川が交渉の窓口として選ばれた理由の一半は、そこにあったのかもしれない。
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ドラウト文書はさらにつづいている。
日米全権会談の場所として東京またはホノルルが考えられるが、東京を獲得できればわれわれ(日本人)の外交的勝利であり、「日本人の好意、桜花咲く時、立派なホテル、ゴルフ場、国民奉納の幔幕を背景として動くきものの華やかさ、これらは皆気を向けるのに役立つ環境となるであろう」
この軽薄で低級な記述はどうか。二人の米人宗教家は何をしに日本に来たのか、根本的に疑うに十分な文書である。
それにもかかわらず、これが糸口となって、戦争に至る外交交渉がはじめられたのである。
極東国際軍事裁判に提出されたジェームズ・エドワード・ウォルシュの宣誓口供書(『速記録』第三一二号)によれば、ウォルシュとドラウトが松岡外相に会見した際、松岡は「日本政府が和平条約の交渉をし度い旨の伝言をワシントンヘ持つて行つて貰へまいか」と尋ねたという。
彼らは、また、日本の官吏やスポークスマンたちから、日本政府の日米協商に関する基本的条件として、次の二項を聞いたというのである。
[#この行1字下げ]「一、日本政府の枢軸側三国条約参加を無効にすることの保証、但し公然たる絶縁でなくとも、少くとも効果的且完全である様な或る明確な方法に依ること。
[#この行1字下げ] 二、中国より全軍隊を撤収し、中国の地理的政治的保全を回復することの保証。」
在日中に彼らが会見したのは、松岡外相のほか、武藤章陸軍軍務局長、元首相若槻礼次郎などである。ウォルシュらが誰から右の二項を聞いたのか、判然としない。また、宣誓口供書であるからといって、常に真実のみが述べられているとは限らない。国際軍事法廷においては、被告人の罪状追及が目的であって、証人の証言の真偽の追及は目的ではなかったからである。
だが、ウォルシュが日本において諒解したと証言している二条件は、それこそが、日米交渉を破局へ導いた癌だったのである。
ウォルシュが軍事法廷に臨むにあたって、なんらの作為を授けられたこともなく、みずから作為を施したこともなく、交渉当時において日本人の誰かから右の二条件を聞いたのが事実であったとすれば、彼らの来日から起算すればほぼ一年にわたった日米交渉は、ウォルシュの証言とは全く逆の方向へ進行したことになる。
若槻礼次郎によれば、ウォルシュはニューヨークのクン・ローブ商会のストロースの紹介状を持って来た。クン・ローブ商会は日露戦争の折、高橋是清の公債募集に尽力した関係があり、井川は財務官としてニューヨーク駐在中に同商会との縁が出来たものであるという。
ウォルシュは若槻との会見で、次のように言っている。
「日本の実業家が米国の実業家を排して支那の市場を独占するであろうということを、アメリカの実業家は一番恐れている。だから日本は、アメリカが日本のいうことを肯《うなず》かないなら、われわれのみで支那市場を独占するからと宣言したらよかろう。そうすればアメリカの実業家はあわてて日本の言う通りになるであろう」
米国が当時の中国における各国の機会均等を強く主張していたことは、事実である。日本が中国における日本の特権を固執したから、日米国際関係がこじれたのである。その関係を目前に据えて、ウォルシュの発言の粗末さはどうであるか。元首相であった若槻はどのような顔をして聞いていたのであるか。
ウォルシュはさらに言っている。
「日米の交渉は外交官の間の話では容易に捗《はか》どるものではない。それよりも、両国から有能の委員を二十人位ずつ選び出して、その人たちが討議して、その決定には両国とも違反しないということにしたら、問題は直ちに解決するだろう」(以上『古風庵回顧録』)
大人が子供にいいかげんなことを言ってお茶を濁すような話である。
それでも、日本の要路の人物たちは、ウォルシュとドラウトの両名に、日米国交調整のいくばくかの可能性を期待していたらしい。井川は近衛首相にすすめられて、陸軍省軍務局軍事課長の岩畔豪雄《いわくろひでお》に会い、岩畔の紹介でウォルシュたちを武藤軍務局長にひきあわせた。これが機縁で、井川個人の動きに陸軍の有力な中堅幕僚が絡むことになるのである。
ウォルシュとドラウトは昭和十五年十二月二十八日、日本を去った。
その一カ月前、十一月二十七日、駐米大使に任命された野村吉三郎(海軍大将、阿部信行内閣の外相)は、当面の任務である日米国交調整の最大の問題が支那事変にあるとの認識から、阿南陸軍次官と杉山参謀総長に、陸軍内部の事変通の人物の人選を依頼した。その結果選ばれたのが、軍事課長岩畔豪雄である。彼は、昭和十六年二月五日付で、「陸軍省軍務局御用掛」として米国出張を命ぜられた。(岩畔「平和への戦い」『文藝春秋』昭和四十一年八月号)
野村大使は昭和十六年二月十一日ワシントン到着、ついで井川が二月十七日ニューヨーク着、岩畔は三月三十日にニューヨークに着いた。日本側の登場人物が出揃ったのである。
これと相前後して、三月十二日に松岡が訪独の旅に出ている。
日米交渉の糸が縺《もつ》れはじめる。
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ワシントンに着任した野村大使は、井川忠雄の役割に不審の念を抱いて、松岡外相宛てに照会電を発した。(三月一日発)
「同人ハ貴大臣ニ如何ナル連絡ヲ有スルヤ、又同人云フ所ノ近衛総理並陸海軍当局トノ関係如何ヲ本使心得迄ニ内報願度シ」
松岡からは明確な井川否認の返電が届いた。それにもかかわらず、野村大使は、ウォーカー郵政長官を後楯とするウォルシュ・ドラウト対井川・岩畔の民間協議に次第に踏み込むことになった。おそらく、野村自身が陸軍に人選を依頼して登場した岩畔が民間協議に関心を示したせいであろう。
米国政府筋では、ウォルシュ、ドラウトの帰国報告に対して、大統領と国務長官との間で、「純個人の資格で、今後も日本大使館と連絡させて、日本側が考えていることを文書の形にまとめさせてみようということに意見がまとまった」(コーデル・ハル『回想録』)
昭和十六年(一九四一年)三月十八日、大統領側近からの試案として、井川に「日米(原則的協定)案」が送付された。この試案は、ウォルシュとドラウトが日本で聞いて「諒解」した前記二条件の延長上に作成されたものである。たとえば、支那の完全な政治的独立、日本軍隊の撤収が日支和平条件として挙げられているし、三国枢軸同盟の実質の空洞化、ある時期までのドイツとの一切の通商関係の断絶などを含んでいる。
この米側三月十八日試案に対して、岩畔が、三国同盟厳守の建前で、大幅な手直しを加えたものが岩畔案ともいうべき四月九日案である。
「私人たる米国人および日本人の個人を通じて米国務省に提出せられたる提案」(『極東国際軍事裁判速記録』第一〇七号)として、ハル国務長官の手許に提出されたのは、この四月九日案(岩畔案)である。
ハル国務長官は、ウォーカー郵政長官を通じて届けられたこの草案について、三日間にわたって国務省の極東問題の専門家と一緒に綿密に検討した。その結果、「研究をすすめるにつれてわれわれは非常に失望した。それはわれわれが考えていたよりもはるかにくみしにくいもので、提案の大部分は血気の日本帝国主義者が望むようなものばかりであった。……私は一部には全然承諾出来ない点もあるけれど、そのまま受けいれることの出来る点もあり、また修正を加えて同意出来る点もあるという結論を下した。私は日本との間に幅の広い交渉を開始するいとぐちになるような機会を見逃してはならないと思った」
コーデル・ハルの『回想録』のこのくだりは、もう少しつづいている。日米交渉が齟齬《そご》を来す最初の段階であるから、引用をつづける。
「そこで私は最近移ったウォードマン・パーク・ホテルの部屋に野村の来訪を求めた。私は野村に、日米間の問題解決のための非公式の提案を受取ったことを伝え、『大使自身もこの提案に参与しているときいているが』と述べた。野村はすぐに『あの提案のことは全部自分も知っている。本国政府にはまだ送っていないが、政府もこれには賛成すると思う』といった。それから二日たって私は、私の部屋で、日米協定の基礎になるべき四つの基本原則を述べたステートメントを手渡した」
その四原則は、次の通りである。
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一、すべての国の領土と主権を尊重すること
二、他国の内政に干渉しないという原則を守ること
三、通商の平等をふくめて平等の原則を守ること
四、平和的手段によって変更される場合をのぞき、太平洋の現状を維持すること
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このハル「四原則」を前提として、先の日米民間案を基礎とする予備的交渉開始をハルが提議した。昭和十六年四月十六日のことである。松岡外相のヨーロッパからの帰国に先立つこと六日であった。
ハル国務長官は、四原則の前提の他に、基礎となる民間試案(四月九日案)には、同意できる部分もあるが、修正、拡大、全面削除を必要とする諸条項があることを、野村大使に対して周到に念を押した。(ハル『覚書』一九四一年六月十六日の項。『速記録』第一〇七号)
四月十六日のハル国務長官との会見を本国に報告した野村電は、叩き台となる試案が米側から提案されたかのような作為を含んでいた。しかも、四月九日案とは別個の、「四月十六日」案を請訓したのである。
野村の請訓電と、ハルが問題に取り上げた四月九日案との重要な相違点は、次の二点である。
四月九日案(岩畔案)には、支那事変に関する項の「若《も》シモ蒋介石政権ガルーズヴェルト大統領ノ要請ヲ拒否セル場合ニハ米国ハ中国ニ対スル援助ヲ停止スベシ」という条文と、太平洋に於ける政治的安定に関する項の「日本政府ハ英国ノ東亜ニ対スル是以上ノ政治的侵略ノ為ノ入口トシテノ香港及ビシンガポールヲ除去スルコトニ対シ米国政府ノ好意的且外交的援助ヲ要請スル」という条文があったにもかかわらず、野村の四月十六日請訓電からは、それらが完全に欠落していたのである。
不思議なことに、野村吉三郎『米国に使して』収録の同請訓電「日米諒解案」(英文)には、本国政府への報告から削除された部分が復元されていて、ハルが基礎的試案として取り上げたところの「四月九日案」とある。
重要な報告に何故重大な作為が施されたのか。
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誰がどの程度に作為にかかわったか、明らかではない。推測と想像の域を出ないが、蒋介石政権援助の停止と、香港・シンガポール除去の二項目を削除すれば、残りは岩畔案といえるほど内容的に日本の主張を多く盛り込んだ日米民間諒解案を、米国政府に採択させることができるであろうという安易な観測が、野村、岩畔、井川を支配していたのではなかったか。ウォルシュやドラウトが、この甘い判断に無責任な支持を与えていたであろうことも、想像されるのである。
この間の事情について、岩畔豪雄はこう書いている。
「外務省宛の暗号電報は若杉公使によって起案されたが、重要な一点が故意に改変せられた。それは『日米諒解案』が、米国政府の起案にかかるかのようにした点である。これは『真実のことを述べるよりもこのように改めるのが、本国政府の意見をまとめるために好都合であろう』との判断に基づいたものであった」(前掲『文藝春秋』稿)
誰の判断がそうさせたのか。不遜な猿知恵としかいいようがない。事実に文章上の改変を施しても、事実の好転は望めないのである。日本では、満洲事変(一九三一年)以来、外交は軍事の尻拭い以上のものではあり得なかった。いまや陸軍中堅幕僚の軍事優先の思想が、外交文書をさえ意のままにしている観がある。
日米関係の悪化は満洲事変にまでさかのぼるが、近い過去に限ってみても、日本が汪兆銘政府を樹立すれば、米国は重慶政府支持を言明する(昭和十五年三月三十日)。日本が北部仏印進駐を行えば、米国は即日、脅迫による仏印の状況変更不承認声明を出す(昭和十五年三月二十三日)。日本と米国とでは、政治思想が、したがって基本国策が全く相容れなかったのである。小細工でどうにかなることではなかった。
昭和十五年七月以降、日本はドイツと軍事同盟を結び「新秩序」という名の世界再分割を夢みて、南方進出の国策を強行推進してきた。それに対して、米国では、ルーズヴェルト大統領が三選直後の昭和十五年(一九四〇年)末、「われわれは民主主義の大兵器廠たらねばならぬ」と炉辺談話を行い、武器貸与法の通過を国会へ要請した。
ルーズヴェルト大統領の特使ハリー・ホプキンズは、ドイツ空軍によってまさに廃墟と化しつつあるかのように見える英国を、一九四一年(昭和十六年)一月に訪問し、挨拶のなかで聖書のルツ記を引用し、
「我は汝の往《ゆ》くところに往き……汝の死するところにて我は死して其処《そこ》に葬らるべし」
と述べて、英国民に深い感銘を与えた。(ロバート・シャーウッド『ルーズヴェルトとホプキンズ』)
米国と日本とでは、考え方において越えることのできなかった断層があった。のみならず、日本は、みずからの野心を養い膨脹させるために必要な資源、特に石油と鉄とを、考え方において敵対する米国に依存していたのである。小手先のごまかしが通用する関係ではなかった。
昭和十五年一月二十六日をもって、日米通商航海条約は失効(前年七月二十六日の廃棄通告の発効)し、無条約時代に入っていた。これは日本の武力による膨脹政策に対する米国の警告措置の一つであった。昭和十四年十一月初頭から日米国交調整の会談が開始されたのは、対米依存の日本経済の強い要請が作用していた。当時の外相が野村吉三郎である。
日本は、しかし、昭和十五年六月二十四日、駐日米大使グルーから、太平洋地域に於ける欧洲交戦国の属地・領土の現状維持に関して、公文交換の提案がなされたときに、不同意の回答をした。ときの政府は米内内閣、外相は有田八郎であった。
有田は、当時、木戸内府に語っている。
「之は甚《はなは》だデリケートにて、此際蘭印を含めて日本の行動を縛らるゝことは不得策にて、九国条約の復活の如き結果となるを以て、直に応じ難く」(『木戸幸一日記』下巻)
比較的に良識の保有程度が高かったと考えられる米内内閣の当時でさえ、日本の政治姿勢は右のくだりに見られる傾斜を示していたのである。
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日本は、国家的野心について他国から制限されることなしに、外交交渉の有利な成果を獲得することを望んでいた。持たざる国の論理的帰結であるとは言うことができても、それが奪うことを正当化する根拠とはなり得ない。日本の破綻はその正当化に由来したのである。
昭和十六年四月十八日、午前十一時頃、閣議開催中の近衛首相兼外相(外相兼任は松岡ヨーロッパ訪問のため)のもとへ、「日米諒解案」が接到《せつとう》中であるという報告が入った。
大橋外務次官は「世界の運命を左右する様なものだ」と、狼狽した喜びようを示した。東条陸相も武藤軍務局長も喜んではしゃいでいた。(矢部貞治『近衛文麿』下)
近衛は問題の重要性を考えて、十八日、夜八時から政府統帥部連絡会議を招集した。政府から首相、内相、陸相、海相のほかに大橋外務次官、統帥部から参謀総長、軍令部総長が出席し、陸海両軍務局長、内閣書記官長も臨席した。
みんなは、議題となった「諒解案」が米国の提案と思い込んでいた。出先の小細工によって、最高指導部に信じられないような錯誤を生じたのである。
野村大使の請訓電を補足する四月十八日東京着の岩畔電には、
「第二次試案即チ外務電所報ノモノハ『ルーズヴェルト』ノ同意ヲ得アリ寧ロ確実ナルモ若シ日本政府ニ於テ蹴ラレタル場合米国ハ立場ヲ失フコトトナルヲ以テ本日(四月十六日)ノ会談ニ際シ『ハル』ヨリ野村大使ニ対シ先ヅ東京政府ノ意見ヲ聴カレ度トノ提案アリタル次第……」
とある。これでは、どう読んでも米国側の提案ということになるであろう。
四月十八日夜の連絡会議では、大体の意見は次のようなもので、「米国案」受諾に傾いた。
「この米国案を受諾することは支那事変処理の最|捷径《しようけい》である。(以下略)」
「この提案に応じ日米両国の接近を図ることは日米戦争回避の絶好機会(以下略)」
「今日の我国力は相当消耗している。一日も速かに事変を解決して国力の恢復培養を図らねばならぬ。一部に主張されて居る南進論の如き、今では統帥部に於ても準備も自信も無いという位で、矢張り国力培養の上からも一時米と手を握り、物資等の充実を将来のため図る必要がある」(以上近衛文麿『平和への努力』)
米提案受諾には賛成だが、条件として次のような意見が出た。
「三国同盟と抵触しないということを明確にする。之は独逸に対する信義から当然である」
「|日米協同して世界平和に貢献せん《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》との趣旨をもつとはつきりしては如何。若し日米諒解の結果、|米国が太平洋から手が抜けるので《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|其の為対英援助が一層強化されるといふことになつては《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|日本としては独逸に対する信義に反する《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》(以下略)」(傍点引用者)
「内容が少し煩雑に過る」
「この原文は旧秩序に又復帰するといふ感じを与へる故、新秩序建設といふ積極面をもう少しはつきり出したい」
「迅速に事を運ばないと漏洩の虞《おそれ》がある。此意味からも外相の帰朝を督促する必要がある」(以上近衛文麿前掲書)
また、「諒解案」に関することをドイツに通報すべきかどうかについては、両論に分れた。
「これ程の重大問題を信義の上からも通知せぬ訳には行かぬ。少くとも米国に返答する前に独逸に通知すべきである」
「事前に通告すれば独逸は反対するかも知れぬ。即ち折角の話が出来るものも出来なくなる虞があるから、独逸には内密にして話を進めよう」(以上近衛前掲書)
傍点部分は一応もっともらしく聞えるが、日本の支配的思想に世界平和への貢献の意図などありはしなかった。また、米国の対英援助の増減が日本の国力・戦力によって左右されるというのは、日本の思い上りであった。米大統領特使ハリー・ホプキンズの英国での挨拶のなかのルツ記の引用「我は汝の往くところに往き……」は、単なる修飾語ではなく、ルーズヴェルトの炉辺談話の精神を承《う》けた、米国の断固たる決意の表明なのであった。日本の指導層には、世界の危機に直面しての米国の決意を読み取る思慮と心が欠けていた。
「諒解案」に対する日本要路の反応は天皇の木戸内府に対する発言に集約されていたといえる。
「米国大統領があれ迄突込みたる話を為したるは寧ろ意外とも云ふべき〔だ〕が、かう云ふ風になつて来たのも考へ様によれば我国が独伊と同盟を結んだからとも云へる。総ては忍耐だね、我慢だね」(『木戸幸一日記』下巻、昭和十六年四月二十一日の項)
総ては忍耐と我慢にちがいないが、忍耐しても我慢しても、虚像は実像とはならないのである。
『木戸日記』四月十九日の項に、野村請訓電に関して近衛と木戸が話し合ったことが誌されている。
「独伊に対し信義を失はず、又我国の国是たる大東亜共栄圏の新秩序建設に抵触せざる様、充分研究工夫の上、是が実現に努力するを可とすとの結論に一致す」
二人は出来ないことを出来ると思っていたようである。ドイツがナチズムを誇示する限り、イタリーがファシズムを謳歌する限り、日本が大東亜共栄圏を強制する限り、同盟三国は世界の平和とは対極に位置していたのである。
四月十八日の連絡会議後、寺崎アメリカ局長は武藤、岡両軍務局長と相談して、野村大使にとりあえず「主義上賛成」の電報を打とうとしたが、大橋次官が松岡外相の帰朝を待つべきであるとして押えた。
当の松岡は四月二十日ようやく大連に到着した。近衛は松岡に電話で日程繰上げを要請した。松岡は、そのとき、側近に語ったという。
「米国からの提案は恐らくモスクワに於て米国大使スタインハートに話したことが実現したのであろう」
松岡は、前述の通り、四月二十二日に立川飛行場に到着した。自分の思い違いを知った松岡は、とたんに機嫌が悪くなった。
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松岡外相が帰京した日の夜、九時二十分から連絡会議が開かれた。席上、松岡は滔々《とうとう》としてヨーロッパ訪問の気焔《きえん》を上げたが、問題が「諒解案」に移ると、昂奮の色を露わにしてドイツとの信義の問題を強調し、米国提案(実は米提案でないことは前述の通り)は悪意七分善意三分と見ると言った。米国が第一次大戦中、石井・ランシング協定を結んで太平洋の後顧の憂を除いておいて参戦し、日本に散々働かせながら、戦争が終結すると協定を破棄した例を挙げた。つまり、米国は信用できないということである。
「此ノ問題(諒解案)ハ支那事変処理以外ニ相当重大ナ事カ含マレテ居ルカラ二週間カ一ケ月二ケ月位慎重ニ考ヘナケレバナラヌ」(『杉山メモ』)と言って、十一時になると一人で先に帰ってしまった。明らかな審議拒否である。彼を待っていた「日米諒解案」が松岡・スタインハート会談から生れたものではなくて、人の手に成ったものであることが彼の矜持《きようじ》を傷つけたのである。
翌二十三日夜、近衛は松岡だけを招いて懇談したが、松岡の心境は、
「暫くヨーロッパのことを忘れてから判断させてもらいたい」
という域を出なかった。
陸海軍首脳部では松岡外相に対する反感が高まった。松岡外相を更迭しても「諒解案」に基づく交渉を進めようと言い出していた。
あいにく、次の日から、近衛は風邪のために床につき、五月一日まで荻窪に引籠った。松岡も旅の疲れで休養を必要とした。
陸海軍軍務局長の武藤と岡は、両人同道あるいは個別に松岡を訪問して、一日も早く米国に回答を送るようにすすめたが、松岡は動かなかった。
ようやく、五月三日になって連絡懇談会がひらかれた。松岡の帰国から十日も経っている。
松岡は、休養中に、「諒解案」に対して陸軍、海軍、外務の事務当局が修正を加えた修正案に、さらに大幅な修正を施していた。
その主要な点は「太平洋ニ於ケル海軍兵力及航空兵力並海運関係」の項を削除する、「欧洲戦争ニ対スル両国政府ノ態度」の項に、日米両国による英独調停の新しい条項を入れる、三国条約の義務を明確にさせる、支那事変の和平条件の公表を差控える、武力南進をしないという日本の確言を削除する、日米会談に関する取極めを削除する、等であった。
「諒解案」は既述の通り米国提案ではなかったのだが、仮りに、日本の首脳部が信じ込んだように米国提案だったとして、それに右のような修正を加えた日本からの回答を、米国が呑むはずはなかった。それを、懇談会列席者たちは、即刻米国に通達すべきだ、としたのである。
ところが、松岡は自分の手に成る修正案を送る前に、試みとして日米間の中立条約の締結を米国に提議することを主張して、譲らなかった。
次に、日米交渉の件をドイツに通告するか否かの問題について、松岡外相は自分の外交手腕に信頼せよと強く主張した結果、外相一任に決した。
最後の問題は、日米交渉とは別個に、シンガポール攻略問題であった。
松岡は、
「(攻略を)ヤル、ヤラヌハ日本ガキメルコトデアツテ(独逸に)ニ言質《げんち》ハ与ヘテナイ。自分ノ考ヘテハ今ヤツタ方カ好イト思フ」
と言い、参謀総長が、
「独伊カ英本土上陸ノ為北仏ニアレ程ニ基地ヲ造ツテモ尚ヤラヌ。馬来《マレー》作戦ハナカナカノ事テハナイ」
と言うと、松岡は事もなげにうそぶいた。
「独ハ『ロス』(ロシア)ヲ二ケ月デヤツツケルト云フテ居ル。『シンガポール』ナド大シタコトデハアルマイ」(以上『杉山メモ』)
松岡の発言をみると、日米交渉を纏《まと》め上げて国の安全を図ろうとする意志は、ほとんどないようである。
懇談会散会後、松岡外相は野村大使に宛てて二通の訓電を発した。
一つは、対米中間回答というべきもので、外相からハル国務長官宛てのオーラル・ステートメントの形式をとっていた。内容は、独伊の指導者は勝利を確信していること、米国の参戦は戦争を長びかせ文明の破壊をもたらすだけであること、日本は同盟国の立場を危くするようなことは出来ない、というものである。
この電報については、野村は、ハルに、「松岡から電報が来ているが、これらはいろいろよくないことも書いてある。おわたししますか」
ときいた。
ハルは、よくない事が書いてあるのだったら、そちらにとっておいてもらって結構だ、と答えた。(以上コーデル・ハル『回想録』)
ハルはその電報を見る必要はなかったのである。「マジック」と呼ばれる暗号解読技術によって、日本からの通信は解読されていたのだ。
松岡の二つ目の電報は、野村大使の即席の思いつきとして、日米中立条約の締結を提議してみよ、という訓令であった。
ハルは、即座にしりぞけた。
「それは四月九日の文書に述べてある提案とは全然別の問題だ。米国政府はいまは交渉の基礎になる基本原則のことだけを考えている」
松岡の策士ぶりもコーデル・ハルには通用しなかったのである。
五月八日にも連絡懇談会が開かれた。
松岡はこう言っている。
「米ヲ参戦(英独戦)セシメズ又之(米国)ヲシテ支那カラ手ヲ引カセルト云フノガ、今度ノ自分カ之(日米交渉)ヲヤルト云フ考ヘデアル。従ツテ急ガセズニオイテ呉レ」
さらに次のように意見を述べている。
「『ルーズヴェルト』ハ戦争ヲヤル気ニナツテ居ル、何シロ彼ハ大バクチ打ダカラ。予ハソノウチニ『プライベートメツセージ』ヲ出サウカトモ思フテ居ル。米カ参戦ノ一時間前ニ英カ降伏スルナラハ参戦セヌト思フ。又参戦一時間ニシテ英カ降伏シタ場合ハ続イテ戦争ヲ続行スルト思フ。而シテ後者ノ公算カ大ダト思フ。(中略)
米参戦スレバ戦争ハ長期トナリ、世界文明ハ破壊セラレ、若《モ》シ戦争ガ十年続クニ於テハ軍需品、食糧取得ノ為『ソ』ト戦ヒ、而シテ独ハ『アジヤ』ニ出テ来ルダラウ。此ノ時日本ハ如何ナル態度ヲ取ルガ宜シイト考ヘルカ」
右ニ対シテハ他の諸員ハ返事スル者ナシ、と『杉山メモ』は誌している。
松岡の論旨を簡略化すると、米国の参戦を阻止する捷径《しようけい》は英国を降伏せしめることであり、そのためにはシンガポール攻略こそが緊要事であって、日米交渉は次等である、ということになる。
同日、松岡外相は天皇に拝謁して奏上した。
「米国参戦の場合は、日本は当然独伊側に立って、シンガポールを撃たねばならぬ。又米国が参戦すれば長期戦となって、独ソ衝突の危険があるやも知れず、その場合は(日本は)、中立条約を棄てドイツ側に立ち、イルクーツク辺りまで行かねばならぬ。そういう事態になれば、日米国交調整も総て画餅に帰する。何れにせよ米国問題に専念するの余り、独伊に対し信義に悖《もと》る様なことがあっては、骸骨を乞うほかない」(矢部貞治『近衛文麿』下)
みずからフューラー(総統)たらんとする野心を抱いていた松岡は、ドイツの必勝を信じて疑わなかった。彼にとっては、目前の日米交渉の成否よりも、将来ドイツと対等の立場に立つことの方がはるかに重要だったのである。
国策遂行の手段として締結されたはずの三国条約が、いまや、松岡の頭脳においては、すべての国策が従属する最高の価値となった観がある。
16
五月十二日の連絡懇談会での松岡の発言を拾ってみる。
「我外交ノ集中ハ米ヲ参戦セシメズ、『コンボイ』(船団護送)ヲヤメサセル事、ニ指向スルニ在リ。(中略)
『ヒットラ』ヨリハ、未ダ返事ガ来ヌガ、『コンボイ』ハ重大ナル結果ヲ招来スルカラ、米ノ『コンボイ』ニ対スル独ノ行動ハ特ニ慎重善処スヘキ旨ヲ申送リ、其際米ノ不参戦、独米戦争セサルコトヲ外相親シク伊勢神宮ニ祈願シタ事ヲモ附加シタ」
米国の船団護送をドイツの潜水艦が襲って撃沈でもすれば、それが米国参戦のきっかけとなり得るから、松岡が心配するのは当然だが、滑稽なのは、そのことで外相親しく伊勢神宮に祈願したことを、ドイツヘ伝えた点である。神仏を信ずるか否かは個人の自由に属するが、仮りに神があるとしても、ドイツやアメリカのことまで持ち込まれては伊勢神宮もたいへんである。それを重要会議の席上で得々として言う松岡の神経は尋常ではない。
日米交渉と並行して蘭印交渉も進められていたが、これも捗々《はかばか》しくなかった。
その一つの現われとして、松岡外相は五月二十二日の連絡懇談会で次のように報告している。
「日『ソ』中立条約締結当時ハ、蘭印側カ一応折レタ様デアツタガ(中略)此ノ分デハ英米ト経済戦ニ入ラサルヲ得サルモノト思フ。有田外相ノ時ニ、十四品目ノ輸出禁止ハスルモ錫《すず》二万トン『ゴム』三千トンハ対日輸出スヘキ協定ヲ締結シタルニモ拘ラス、現在テハ右全額ヲ輸出セス、而モ馬来、仏印等ヨリ所得スルニ於テハ其ノ分ダケ差引クト云ヒ、目下ノ状況ヨリ見レバ錫、『ゴム』モ禁輸ノ決心ヲスルニ非ズヤト思考セラル」
「本日『オランダ』公使ヲ呼ビ反省ヲ促シ、又午後二時ニハ英大使ヲ呼ビ、此ノ様ナ状態デハ帝国ハ南方ニ兵力ヲ行使セザルヲ得ヌト云フコトヲ英ニ伝ヘル様話ス積リデアル」(以上『杉山メモ』)
松岡は、しかし、六月十二、十六日の連絡懇談会で、統帥部提出の『南方施策促進ニ関スル件』(仏印の軍事的利用、特に南部仏印進駐)をめぐって、統帥部に反対している。外交交渉でまとまらなければ、武力行使によって目的を貫徹するために、あらかじめ軍隊の派遣準備に着手するという軍部の提案に、松岡は抵抗するのである。
南部仏印進駐は軍事占領であって、英米をひどく刺戟するからいけない、というのが松岡の主張だが、松岡は対米交渉を成功させたいためにそう言うのではなくて、別の思惑からであったと推測される。
駐独大島大使から独ソ戦必至の報告に接していた松岡としては、盟邦ドイツに対する「忠誠」と相俟《あいま》って、日本からの対ソ開戦の好機と判断する思惑が、南進反対をさせたのであろう。
独ソ戦勃発に先立つこと六日、昭和十六年(一九四一年)六月十六日の連絡懇談会での、松岡外相を中心とする応酬は次の通りである。
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松岡 昨日一日朝三時迄考ヘタルモ、進駐ハ国際上不信ヲ免レヌト思フ。従来国際信義ナシト云ハルル帝国トシテハ此ノ点考ヘナケレバナラヌト思フ。独『ソ』情勢ノ緊迫スル今日、此ノ如キ進駐ハ如何カト再考スル必要アリ。此ノ進駐ガ不信ニアラズト外相トシテ説明出来ル迄再考致シ度。
(中略)
仏領カラ云ヘバ軍事占領トナルヲ以テ、九五パーセント迄ハ承知セント思フ。又之ニ依リ先日調印セル調停条約及経済協定等ノ取極モ廃棄トナリ、其影響ハ蘭印泰ニモ及ビ、蘭印ハ勿論泰カラモ予期シアル「ゴム」二万トン錫三千トン米等モ来ナクナルダラウ。
(中略)
大島ノ電報ニ依レバ独「ソ」ハ来週開戦スルト云フテ居リ、此ノ如キ場合ハ世界大戦争トナリ、「ソ」英ハ同盟シ、米ハ英側ニ立チテ参戦スヘシ、此ノ様ナ情勢モ充分考慮セネハナラヌト思フ。特ニ進駐ハ帝国トシテ一大不信行為ヲヤルコトニナル。
(中略)
武力ヲ行使スルモ進駐スルコトハ不信ナリ。日本ハ国際的ニ不信義ト云ハレテ居ル、外務大臣一人ニテモ此ノ信義ヲ通シ度。無理ニ進駐スルコトガ進駐ト云ハズシテスムヤ。
外務大臣トシテ率直ニ云ヘバ、陛下ニ之レハ不信ナリト申シ上ゲザルヲ得ズ。
進駐ノ準備ハ幾何カカルヤ、軍事基地ハ幾何ノ日数ヲ要スルヤ、軍事基地ハ何時迄ニ出来レバヨイカ。
参謀総長 準備ハ約二十日間、飛行場ハ二乃至三月(中略)
進駐ヲ七月中ニ終リ八、九、十月ヲ飛行場ノ整備ニ充当スルヲ要ス。
(中略)
彼ノ地ハヤガテ雨期ニ入ル故成ルヘク早クスルヲ要ス。
外相 独「ソ」開戦モアリ、之ヲ検討スル要ナキヤ。
参謀総長 独「ソ」開戦ニ方《あた》リテモ此ノ程度ノ施策ハ必要ナリ。
海相 英「ソ」ノ同盟ハ初耳ナリ、此ノ事ガアルト云フナラバ考ヘテモ好イ。而シ先日決ツタノヲ変更スルノハ悪イデハナイカ。
(中略)
陸相 本年中ニキマリヲツケネバ大東亜共栄圏ノ看板ヲハヅサネバナラヌ、準備ガ出来タラ決意ヲ要スル。
外相 準備ハ上奏ノ必要アリヤ。
参謀総長 ……兵力ノ移駐動員編制等ハ御|允裁《いんさい》ヲ仰ガナケレバ或程度シカ出来ヌ。
(中略)
海南島ニ陸兵ノ集合ガ完了スルト共ニ電撃外交ヲヤル様ニシタイ。
外相 何レニシテモ二、三日考ヘサシテ呉レ、不信ニアラズト云フテモ自分ハ不信ト思フ。此点陛下ニ上奏セザルヲ得ヌ。此ノ点判然セザレバ上奏出来ヌ。
昨年「シンガポール」ヲヤレト云フタノニヤラナカツタカラコンナ事ニナツタ。
[#ここで字下げ終わり]
結局、この日の会議は二、三日再考慮することにして、散会した。
松岡ならずとも右記したような予見と判断は出来たはずのものであった。(シンガポール云々は松岡特有の論旨の飛躍である)
松岡の予言通り、南部仏印進駐は米国の対日感情を決定的に悪化させ、在米日本資産の凍結、石油の対日全面禁輸等の報復措置をもたらすことになるが、不思議なのは、松岡の発言が珍しく正論だったとしても、以後の会議においてその正論が少しも前進しないことである。
それどころか、松岡自身が南部仏印進駐に妥協してしまうことになる。(六月二十五日の連絡懇談会)
松岡の変身にはそれなりの理由がある。
昭和十六年(一九四一年)六月二十二日、独ソ戦が勃発した。
その前日、米国務長官ハルは、日本修正案に対する米国提案を野村大使に手交した。それには、当然松岡を指していると考えられる親独派閣僚を非難するオーラル・ステートメントが付けられていた。
また、松岡は、南部仏印問題でドイツ政府からヴィシー政府(フランス降伏後の親独政府)に圧力をかけてもらって外交的に処理しようとしていたのが、「強圧を加えることは出来ぬ」というリッベントロップ独外相からの回答に接した。ドイツとしては独ソ戦という大事業が控えている手前、せっかく懐柔してあるヴィシー政府の感情をつまらぬことで害するのは、決して得策ではなかったのである。
松岡が失望したであろうことが想像される。
松岡は、独ソ開戦の報に接すると、即刻参内拝謁して、「独蘇開戦した今日、日本も独逸と協力して蘇聯を撃つべきである。この為には南方は一時手控へる方がよいが、早晩は戦はねばならぬ。結局日本は蘇聯、米、英を同時に敵として戦うこととなる」
という意味の上奏をした。(近衛『平和への努力』)
勿論他の閣僚と諮《はか》ったわけではなく、松岡外相単独の行動であった。
天皇はひどく驚いたようである。
「即刻総理の許《もと》へ参り相談せよ」(近衛前掲書)
と松岡に命じ、木戸内府を通じて近衛に松岡の奏上内容を伝えたという。
17
近衛首相は六月二十三日(昭和十六年)、拝謁して、前日天皇をひどく驚かせた松岡外相の単独上奏内容に関して、天皇に説明した。松岡の上奏は、日本をめぐる世界情勢の最悪の事態についての彼の見通しを述べたものであって、現実が必ずそうなるというものではない、という説明である。近衛は、しかし、その日の午後に予定されていた連絡懇談会が松岡のために紛糾することを怖れて、宮中から書記官長に電話をかけて、会議を中止させる処置をとった。
重要案件は近衛内閣に解決を迫っていた。南方施策の問題(南部仏印進駐)もそうなら、独ソ問題(『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』)もそうである。
近衛は陸海両相と相談の上、六月二十五日、二十六日、二十七日、二十八日、三十日、七月一日と連続して連絡懇談会をひらき、昭和十六年の四つの御前会議のうちの第一回目に当る七月二日の御前会議での決定をみることになる。
米英との衝突を回避するために南進に反対し、ドイツとの友誼《ゆうぎ》のために北進を主唱していたかに見えた松岡外相は、六月二十五日の懇談会で、突如として態度を豹変したのである。
「本件ハ急イダ方ガ宜シ、決定シタ以上今直グガ宜シイ」
と、『南方施策促進ニ関スル件』(南部仏印進駐)を積極的に容認した。
「実行ニ方《あた》リテハ統帥部ト充分連絡シ、外交ト軍事トノ緊密ナル連繋ヲ保持致シ度、軍隊集合セハ外交ハ電撃的ニヤル如ク統帥部ト連絡致シ度」(『杉山メモ』)
松岡豹変の理由は、前述の通り、南部仏印進駐に関してドイツからヴィシー政府に圧力をかけさせて、それによって外交的に処理しようとしていたのが、リッベントロップ独外相から圧力をかけることを拒否されたことにある。それならば、日本独力でやるほかはない、やって見せよう、ということである。
松岡外交は北に南に屈折して、論旨一貫しないのを最大の特徴としたが、松岡が南進に賛成してもしなくても、南進は決行されたにちがいない。昭和十六年六月二十三日、つまり独ソ開戦の翌日、大本営陸軍部と海軍部との共同作成にかかる『軍事上経済上政治上ノ見地ヨリ北部仏印ト共ニ南部仏印ニ速ニ所要兵力ヲ進駐セシムルノ絶対必要ナル理由ニ就テ』という、表題も長いが文章も長大な意見書ともいうべきものがある。一連の懇談会のために用意された陸海軍部の基礎的見解である。引用は煩に耐えないから、要点をつまむと、次のようなことになろう。
先ず仏印全域に軍事的地歩を固め、力を泰《タイ》へ及ぼし、軍事基地を推進して、南西支那から泰、ビルマ、馬来《マレー》半島に亘る大戦略上の要点を確保するための素地を作ることは、日本の最小限度の要求である。これによって、米英蘭支共同の戦略包囲態勢に対抗し得る態勢を強化することができる、という考え方が根柢にある。さらに、日満支を絶対自給圏と考えていた日本は、その不足分を補うために仏印・泰を第一補給圏として、どうしても取り込みたかったのである。特に日本の主食である米の不足額九百万石は、これを仏印・泰に依存しなければならない。次に、ゴムの補給源としての重要度である。一小節だけを引用してみよう。
「以上単ニ米及『ゴム』ノ問題ヨリ観察スルモ今ニシテ帝国カ対仏印泰施策ヲ強力ニ発動スルニアラスンハ帝国ハ経済的ニ自存ノ道ヲ喪失スルニ至ルヘシ」
六月二十五日、懇談会が『南方施策促進ニ関スル件』(南部仏印進駐)に関して合意に達したあと、議題が独ソ戦を含む『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』に移ると、松岡は次のように言った。「三国同盟ハ中立条約(日ソ)カ出来テモ之ニ依リ左右セラレ或ハ影響ヲ受クルモノニアラス。此ノ見解ニ就テハ外相(松岡自身)帰朝後発表セリ、而モ『ソ』ヨリ何等返電来アラス。
実ハ独《ヽ》『|ソ《ヽ》』|戦ハヌト思ツタカラ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》中立条約ヲ結ンダノデアツテ、独『ソ』戦フ様ナ状況ナラバ中立条約ナド結バズニモツト独ト仲好イ行動ヲ取リタカツタ」(傍点引用者)
後半の部分は松岡の本音かもしれない。ところが、同じ松岡が二日後の懇談会では、こう言うのである。
「我輩ハ夙《つと》ニ外交作戦計画ヲ立案シ、其後モ之ニ就キ想ヲ練ツテ居ツタノテアル。独《ヽ》『|ソ《ヽ》』|戦発生ノ公算ハ二分ノ一ト考ヘテ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》居ツタ所今日既ニ発生セリ」(傍点引用者)
いいかげんなものである。
六月二十五日の懇談会は、独ソ開戦(六月二十二日)後初の会議であるから、応酬には馬鹿げた部分があるが、辿《たど》ることにする。
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外相 「オットー」(駐日独逸大使)ニハ何モ正式ニハ云フテ居ラヌ。早ク国策ヲ決メタイ、「オットー」ハ盛ニ極東兵力ノ西送ヲ云フテ居ル。
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(右の早く国策を決めたいというのは、対ソ武力発動をするかしないか、早く決めたいということである。極東兵力の西送とは、ドイツ軍がヨーロッパ・ロシアヘ電撃進攻を開始したため、極東ソ連軍の兵力をヨーロッパヘ送っているから、日本はその虚に乗じてシベリアヘ進攻せよ、とオットーが嗾《そその》かしていることを意味している。)
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陸相 極東兵力西送ノ件ハ、独ニ取リ強クヒビクダラウガ日本ニ取ツテハ寧ロ小サク感ゼラレルノハ当然ナリ。独ノ事バカリ信用スルノハ不可ナリ。
海相 将来ノ外交上ノ参考ノ為海軍トシテ一言ス。
過去ハ問ハズ、国際情勢微妙ナル関係ニアル現在統帥部ニ無断デ遠イ先ノ事迄シヤベルナ。
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(これは、既述の松岡外相の単独上奏内容に対する抗議である。)
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海軍ハ対英米戦ニハ自信アレドモ、対英米「ソ」戦ニハ自信ナシ。米「ソ」結ンデ、米ガ極東「ソ」領ニ海軍基地航空基地無線測定所等ヲ造リ、或ハ「ウラジオ」ノ潜水艦ガ米ニ移譲セラルル様ナ事ニデモナレバ、海軍作戦トシテハ極メテ困ル。
此ノ如キ状態ニセヌ為ニハ「ソ」モ攻撃シロ南方モヤレト云フ様ナ事ハ言フナ。
海軍ハ「ソ」ヲ刺戟スルコトハ困ル。
外相 英米トヤルノハ辞セズト云フノニ「ソ」ガ入ツタトテドウシテ困ルノカ。
海相 「ソ」ガ入レバ一国フエルデハナイカ。何レニシテモアマリ先走ツタ事ヲ云フナ。
外相 今迄俺ガソンナ事ヲ云フタ事ガアルカ、ソレダカラ国策ノ大綱ヲ早ク決メヨト云フノダ。
(中略)
参謀総長 外相ハ積極論ヲ唱フルモ、陸軍ノ軍備充実未タ完全ニ出来居ラズ、支、北、南三方面ノ条件ニヨツテ始メテヤレルノデアル。例ヘハ極東ニ動乱勃発、極東兵力ノ西送、「ソ」聯政権ノ崩壊等ノ情勢ニナツタラヤリ得ルノデアル。
「ソ」ト過早ニ戦ヘバ米ガ之ニ加ハルコトアルヲ以テ気ヲツケネバナラヌ。
外相 独ガ勝チ、「ソ」ヲ処分スルトキ、何モセズニ取ルト云フ事ハ不可。血ヲ流スカ、外交ヲヤラネバナラヌ。而シテ血ヲ流スノガ一番宜シイ。「ソ」ヲ処分スルトキ日本ガ何ヲ望ムカカ問題ナリ。
独モ日本ハ何ヲスルカドウカト考ヘテ居ルダラウ。
「シベリヤ」ノ敵ガ西ヘ行ツテモヤラヌノカ。
牽制位ヤラネバナラヌデハナイカ。
陸、海相 牽制ニモ種々アリ、帝国ガ儼トシテ居ルコトガ既ニ牽制デハナイカ。コウ云フ風ニ応酬シナイノカ。(外交的に)
外相 兎ニ角ドウスルカ早クキメテ呉レ。
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18
独ソ戦の勃発は、松岡の対ソ進攻論を俟《ま》つまでもなく、ソ連を仮想敵としてきた日本陸軍にとって、対ソ一撃のための千載一遇の好機であった。けれども、南方へ進出して補給圏を確保するという大命題と、北へ向ってソ連を攻撃するという大事業とを、同時並行的に実行するのは至難の業であった。これが、数次の懇談会ののちに、七月二日の御前会議での決定を必要とした『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』が抱えている問題なのである。
前記の懇談会席上、松岡の発言にある「血を流すのが一番宜しい」というくだりは、当時の政治思想を端的に表わしている。松岡に限ったことではない。列席者の誰もが、国策遂行の名の下に国民(兵隊)の血を流すことは、毫《ごう》も意に介さない。ただ、野心のままに行動して成算があるかないかだけが、関心事なのである。ある段階で国民の血の犠牲において「国策」が遂行される。次の段階で、国際関係がさらに紛糾して深刻化する。それをまたもや血を流すことによって打開しようとする場合に、今度は「十万の英霊は満足出来るか」という表現へ短絡するのである。
古くは満洲事変(昭和六年)の前夜段階では、日清・日露両戦役の犠牲者が利用された。太平洋戦争(昭和十六年)の前夜段階では、日中戦争の英霊が会議の席上で利用されたのだ。
六月二十五日の連絡懇談会で合意に達した『南方施策促進ニ関スル件』は、同日、天皇に上奏された。総理、陸海両総長列席の上である。天皇が下問し、この場合は参謀総長が主として答えている。この前に上奏内容に関するかなり長い説明文を総理が朗読してから、「御下問」「奉答」の順序となる。下問と奉答も少々長いし、内容が充実しているとはとてもいえないが、国民は全く知らずにいたことであるから、列記してみる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
天皇 経費ハ何テ支払フカ、又幾何カ。
総理 金テ支払ヒマス。幾何カハ存シマセン。陸軍大臣ト話合ツテ居リマス。
天皇 最近ノ交渉ニ於テ仏国側ハ我ニ対シ好意ヲ寄セテ居ルト思フカ此ノ様ナ事ヲオシツケテドウカ。
総長 帝国ノ方針トシテ大東亜共栄圏ハ飽迄建設シナケレバナリマセン。今迄ニ既ニヤラナケレハナラナカツタ事テアリマシテ、最近ニ於テ英米蘭支等カ南方ニ於テ相提携シ日ヲ追ウテ我ヲ圧迫シテ参テ居リマスノテ、一日テモ早クヤル必要カアリマス。
万已ムヲ得サル場合例ヘハ対日全面禁輸或ハ米英カ戦略態勢ヲ強化シテ参リマシタル場合之ヲオサヘル為ニ早クヤル必要ガアリマス。
天皇 |仏ダケデ宜シイカ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
総長 泰ニ対シテハ後ニ続イテヤルノガ宜シイト存シマス。泰ハ馬来ト接続シテ居リマスル関係上大キイノヲ(大紛争の意)引キオコスカモ知レマセヌカラ、先ツ最初ハ仏印ニヤルノガ宜シイト存シマス。
天皇 独ソ戦ト之トノ関係如何。
総長 独ソ開戦ノミナラス、日米国交調整ノ進ミ方如何ニ拘ラス、何レニ致シテモ必要(であります)。
天皇 軍隊ハドノ位カ。
総長 一師団基幹テアリマス。
天皇 ドノ師団カ。
総長 近衛師団デス。
天皇 近衛?
総長 現在広東ニ居リマスル近衛デアリマス。其他軍直部隊(戦略単位兵団でない、派遣軍直轄部隊の意)ハ内地カラ持ツテ行キマス。
天皇 ア、アノ近衛カ。
軍隊ヲ如何ニ配置スルカ。
総長 軍隊進駐ノ目的ハ航空及海軍基地ヲ造リ且之ヲ維持スル為ト、泰及仏印ヲシテ日本ニ依存セシムルト共ニ南方ト支那ニ威圧ヲ加フルニ在ルノテアリマシテ、「サイゴン」附近ヲ中心トシテ配置致シマス。
天皇 飛行場ハドノ辺カ。
総長 大体海岸ノ近クテアリマス。
天皇 |国際信義上ドウカト思フガマア宜イ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。北仏ニゴタゴタ起キタ時ハドウスルカ。
総長 海南島附近ニ軍隊カ居リマスノテ之ヲ派遣スレハ直ニ間ニ合フト思ヒマス。北仏ハ現在兵力デ大丈夫デ御心配ニハ入《ママ》リマセン。(『杉山メモ』傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
杉山総長は上奏後「御上ノ御機嫌ハ御宜シカリシモノト拝察ス」と、所感を述べている。
天皇は、「国際信義上どうかと思うが」と言いながら、この国策遂行を是認したのである。最終責任を負わなくて済む天皇にとって、国際信義を深刻に考慮する必要はなかったのだ。
なお、この上奏と下問奉答は、七月二日の御前会議のリハーサルであって、本番の御前会議では、既述の通り天皇は何も発言しない慣習であった。それでも天皇は、御前会議で何が討議されるかを事前に知ることができたし、もっと知りたければ、所管大臣や陸海両総長を呼んで、いくらでも下問することができたのである。それを、たとえば『南方施策』に関しては右記の程度の下問で済ませているのは、その程度の関心しかなかったか、あるいは上奏内容の説明で十分に納得がいったか、いずれにしても大本営陸海軍部並びに政府の企図に対して允裁《いんさい》を下す意志があったということである。
『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』は、当然、右記の『南方施策』をも包含しており、六月二十五日から七月一日まで、二十九日を除いて、毎日連絡懇談会がひらかれた。その主題は、日本は自存自衛の基礎を確立するため南方進出を果し、片や情勢の推移に応じて北方問題(対ソ問題)を解決する、ということである。その要領は、日本の南方進出によって発生すると予想される英米との敵対関係については、目的達成のために対英米戦を辞さない。また、対ソ関係については、密かに対ソ武力発動の準備を整え、独ソ戦の推移が日本に有利に展開すれば、武力を行使してソ連を討つ、ということである。
『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』の主題の一つ、南進を実行して惹起される対英米戦を予想した場合、日本はフィリピン、マレー、蘭印等を作戦初期に攻略して持久戦略態勢を整える必要がある。だが、これらの攻略予定地域は防備を固めつつあるから、作戦を先へ延ばすほど攻略は困難となり、ひいては対英米戦の勝算も立ち難くなる。これに反して、いまのうちに南部仏印に軍事基地を設営し、兵力を進駐させておけば、南方諸作戦の第一段階を順調に進めることができる。これが陸海軍南進論の判決の主旨であった。
少し先走るが、七月二日の御前会議で決定をみた『……帝国国策要綱』の主題の一つ、南進は実行に移され、それが在米日本資産の凍結と石油禁輸をもって報復され、それがまた日本の武力政策を刺戟し、遂には「対英米戦ヲ辞セズ」の字句通りの成行きをみることになる。
主題の二つ目、北方問題は、対ソ戦備にかかりはしたが、武力発動には至らなかった。日本陸軍の対ソ戦構想では、次の条件が満される必要があった。ドイツの対ソ戦短期勝利の見通しが確実であること。極東ソ連軍がヨーロッパの対独戦のために戦力を西送し、その地上兵力が二分の一に、航空機と戦車が三分の一に減少すること。また、武力行使を二カ月間と概定し、十一月の結氷期までに作戦を終了するためには、九月初頭までに右の条件が満されなければならない。
結果的には、七月二日の御前会議の決定に基づいて、関東軍を八十五万にまで増強しようという関東軍特別演習、略して『関特演』と呼ぶ大動員が実行に移されたが、動員最中にアメリカからの石油禁輸が行われ、ドイツ軍の進撃速度が期待したほどにふるわず、極東ソ連軍の西送も日本の皮算用ほどには大規模に行われず、日本自体の兵員資材の集結・輸送速度が計画通りには進捗《しんちよく》しない等のことがあって、八月九日には対ソ作戦の企図は放棄されたのである。動員だけは継続されて、関東軍は七十万に増強、その史上最盛期を迎えた。
七月二日の御前会議まで、なお数回の連絡懇談会がひらかれ、松岡独りが盟邦ドイツに義理を立てて北進を唱えた。南進にせよ北進にせよ、虎の尾を踏むことに変りはなかったのである。それにもかかわらず、指導者たちが危険そのものについて如何に思慮をめぐらさなかったかは辿ってみる必要がある。
19
六月二十六日にひらかれた連絡懇談会で、松岡外相は即時北進論の立場から、『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』に盛られている南進と北方問題解決との軽重を問い、対ソ武力行使をドイツと相談せよと統帥部に迫って、以下のように主として参謀次長と議論した。議論の内容は空疎だが、その空疎さに、却《かえ》って、陸海軍部作成のペーパープランが文官は勿論のこと、国家さえ曳《ひ》き摺《ず》っているさまが窺える。
(前段略)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
外相 自主的トハ何カ、武力行使ヲ相談スルノカ否ヤ。
参謀次長 事政略ニ関シテハ別トシ、純統帥ニ関スル事項ハ相談スル必要ナク、又此ノ如キ状況ハオキテ来ナイ。相談スレバ引キ|ヅ《ママ》ラレルカラ、引キ|ヅ《ママ》ラレヌ様ニスル為自主的ニト決メタノデアル。
外相 同盟ニ入ツテ居ルノニ相談セヌト云フガ、参戦ト武力行使トハ不可分ナリ。
相談セヌト云フナラ混合委員会ハ不要ナラスヤ。
参謀次長 政略上ノ事ハ知ラヌガ、統帥ニ関シテハ独ハ何等相談スルコトナク勝手ニヤツテ居ルデハナイカ。相談ノ必要ナド更ニナシ。
統帥ノ機密迅速ト云フ点カラ相談ハ出来ヌ。
陸相 独逸ノ現在迄ノヤリ方ハ相談シテ居ラヌ。
参謀総長 独ハ事実適時適切ニ相談シテ居ラヌ。
外相 独ガ相談シテモシナクテモ、当方ハ誠心デヤラネバナラヌ。
誠心デ彼ヲツカム必要アリ。
参謀次長 政略上ノ事ハ相談可ナルモ、武力ハ敗ルルカ勝ツカノ問題ナリ。高等政策ハ可ナルモ統帥ハ不可ナリ。
外相 情勢極メテ有利ニ進展セサルトキハ如何。
[#ここで字下げ終わり]
情勢云々は独ソ戦の戦況を指している。日本が、松岡外相に限らず、前年以来のドイツのめざましい電撃戦の成果に便乗して、国策を推進しようとしたことは、既述の通りである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
参謀次長 極メテ有利ナリト観察セバヤリ、有利ナラズト観察セバヤラヌ、ダカラ極メテ有利ト書イテアル。
而《しか》モ此ノ観察ハ種々アリ。
独ガ極メテ有利ナリト観察シテモ当方ガ有利ナラズト観察スレバヤラヌ。独側ガ有利ナラズト観察スルモ当方ガ有利ナリト観察スレバヤル。
外相 南方ニ対スル基本態勢ノ維持ニ大ナル支障ナカラシムノ「大」トハ何カ。
[#ここで字下げ終わり]
これは、対ソ武力行使を決定する場合には、南方進出との関連で予想される対英米戦争に重大な支障を来さないようにする、という文章上の配慮に過ぎない。実際には、南で戦端をひらけば北に重大な支障を来さないはずがなく、逆の場合も全く同様である。両面作戦など出来る国力ではないのである。
外相の質問に対する塚田参謀次長の返答がふるっている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
参謀次長 大ハ大ト云フコトデ小ナル支障ハ当然アリ。統帥部ハ希望通リノ兵力ヲ持ツテ居ラヌ。
之レカ大ナル支障ナリヤ否ヤ其ノ時ニナラネハ分ラヌ。
[#ここで字下げ終わり]
大は大ということであるにちがいないが、想定する戦争で、どれだけの兵力、兵器、弾薬、資材、物資、輸送力等々があれば足りるか、なければならぬか、適時に集中集積し得るか否かを確実に策定することが作戦の基礎であって、そのときにならなければわからないような状態で戦争を想定することが、そもそもの間違いなのである。
日本はいつもそうであった。軍国主義的発想で威勢はいいが、実現過程における戦争事務は驚くばかりに粗漏であった。近い例は、昭和十四年五月から九月までのノモンハン事件である。二年後の昭和十六年、大本営は少しも反省がなく、少しの進歩もない。
六月二十六日の連絡懇談会は、次のようにして終っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
外相 陸海軍案ニ対シテハ|根本的ニ意見アルカ而シ大体ニ於テ同意《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》テアル。(傍点引用者)
武藤軍務局長 ソレナラソレヲ書イテ出シテ呉レ。(根本的意見をの意であろう)
外相 書イテハ出サヌ。
[#ここで字下げ終わり]
根本的に意見があるのに大体に於て同意できるものかどうか。
松岡の謂《い》う「根本的に意見ある」ところは、翌二十七日の連絡懇談会で開陳される。
20
六月二十七日の連絡懇談会も議題は『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』であった。席上松岡外相は彼独自の情勢判断に基づいて、南進優先の大本営側に再考を求めている。
この日の論議は、これまでの会議に較べれば密度が高いと思われる。
論議の概要は次の通りである。(『杉山メモ』による)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
外相 大島(駐独日本大使)ヨリ意見具申数回アリ。其ノ要旨ハ、帝国ノ方策ハ相当難シイト思フカ独「ソ」戦ハ短期ニ終ル、秋又ハ本年中ニハ独英戦ハ終ル。
過度ニ形勢ヲ観望スルハ不可ナリト云フニ在リ。
[#ここで字下げ終わり]
大島駐独大使からの情報は、大島がリッベントロップ独外相の筋から仕入れたものと推測されるが、鵜呑《うの》みにして本国へ中継した観がある。大島の力量をあまり買っていないはずの松岡が、ドイツのこととなると、また鵜呑みにするのである。独ソ戦勃発後まだ五日にしかならないから、ドイツ軍の電撃戦に眩惑《げんわく》されてのことであろうが、希望的観測を排除して軍事的・経済的判断を試みれば、ドイツの対英、対ソ両面作戦が順調に進捗《しんちよく》するという保証は見出せなかったはずである。たとえば、英国は、ゲーリングの恫喝《どうかつ》にもかかわらず、前年(一九四〇年)九月七日にはじまる六十五日間のロンドン大空襲にも耐え、空襲のみでは屈伏せしめ得ないことを実証していたし、ドーバー海峡を押し渡る英本土上陸作戦は英独の海軍力の差からみて、言うべくして実施し得ないことは明らかなはずであった。
松岡たちは希望的観測を排除するのではなく、希望的観測にそぐわない事実を排除したのである。
松岡の発言をつづけよう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
外相 昨日ノ大本営案ニハ概《おおむ》ネ同意ナルモ、外交ノ見地ヨリ若干意見アリ。左ニ従来ヨリ考ヘアル所ヲ述フヘシ。全面和平ノ為重慶(蒋介石政権)トノ直接交渉ハ見込ナシ、従ツテ大キク包囲シテヤル要アリト判断シ、「ソ」トモ中立条約ヲ造リ、独ニ対シテハ頼ミハシナカツタカ之レト手ヲ握リ唯残ルハ米国ノミトナツタ。ヨツテ米国ニ対シ滞欧中参戦阻止援蒋中止ヲ趣旨トスル個人「メッセージ」ヲ出シタ。帰京後米国ノ返事ヲ見タ所、本職ノ考ヘト違ツテ居ツタ。変ナモノニナツタノハ中間ニ人ガ入ツタカラダ。数日前米国カラ返事ガ来タガ実ニ妙ナモノダ。(これは後述する米国の六月二十一日案のことである。日本は『国策要綱』を御前会議にかけるために、右の米国案の審議を七月十日まで放置していた。)勿論支那事変ヲヤメレバウマク行クカモ知レヌガ夫《そ》レハ適当デハナイ。結局最後ニ米国ヲツカム事ニ狂ヲ生シタ。
今ヤ独「ソ」戦ガ惹起シタ。帝国ハ暫ク形勢ヲ観望スルトスルモ、何時カハ一大決意ヲ以テ難局ヲ打開セネハナラヌ。
独「ソ」戦ガ短期ニ終ルモノト判断スルナラハ、日本ハ南北何レニモ出ナイト云フ事ハ出来ナイ。
短期間ニ終ルト判断セハ北ヲ先キニヤルヘシ。独カ「ソ」ヲ料理シタル後ニ対「ソ」問題解決ト云フテモ外交上ハ問題ニナラヌ。
[#ここで字下げ終わり]
独ソ戦が短期間にドイツの勝利をもって終るという希望的観測に立てば、終ってから獲物の分け前を日本が要求しても通らないことは、松岡の言う通りである。ただ問題は、独ソ戦が短期間には終らないという判断が、この時点で全然なされていないことである。
松岡はさらにつづけている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
外相 「ソ」ヲ迅速ニヤレバ米ハ参加セサルヘシ。
米ハ「ソ」ヲ助ケルコトハ事実上出来ヌ。元来米ハ「ソ」ガ嫌ダ。米ハ大体ニ於テ参戦ハセヌ、一部判断違ガアルカモ知レヌガ。
故ニ先ツ北ヲヤリ南ニ出ヨ。
[#ここで字下げ終わり]
米国はソ連が嫌いだから参戦しないという論法は滑稽ではないか。なるほど米国はソ速が嫌いであったろう。だが、ナチ・ドイツの方をはるかに嫌っているとしたらどうか。
事実、民主主義国にとって、ナチ・ドイツこそは不倶戴天《ふぐたいてん》の敵だったのである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
南ニ出ルト英米ト戦フ、仏印ニ進出スル事ニ就テハ、トモスレバ英米ト戦フコトニナルカモ知レヌガ、二週間ニ亘ル軍側ノ説明ニ依リ仏印進出ノ必要性ハ能《よ》ク分ツタ。
「ヤケクソ」ニヤルワケデハナイ。
[#ここで字下げ終わり]
松岡の主張する対ソ武力発動は成算のないことではない、という意味であろう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
「ソ」ト戦フ場合、三、四月位ナラ米ヲ外交的ニオサヘル自信ヲ持ツテ居ル。
統帥部案ノ如ク形勢ヲ観望スルト英米「ソ」ニ包囲セラルヘシ。
宜シク先ツ北ヲヤリ次テ南ヲヤルヘシ。虎穴ニ入ラズンバ虎|子《ママ》ヲ得ズ。宜シク断行スヘシ。
[#ここで字下げ終わり]
松岡は軍事的認識が乏しかった。関東軍はまだ『関特演』が実施されていない段階だが、実施されたとしても、それに較べて圧倒的に優勢な火力・機動力・空軍力を持つ極東ソ連軍に対して、関東軍がそう簡単に「先づ北をやる」ことが出来るものかどうかを、松岡はまるで考えていないのである。それは論議が後段へ進むにしたがって明らかとなる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
陸相 支那事変トノ関係如何。
外相 昨年暮迄ハ南ヲ先キニ次テ北ト思ツテ居ツタ。南ヲヤレバ支那ハ片付クト思ツタガ駄目ニナツタ。北ニ進ミ「イルクーツク」迄行ケバ宜シカルベク、其ノ半分位テモ行ケバ蒋ニモ影響ヲ及ボシ全面和平ニナルカモ知レヌト思フ。
陸相 事変ヲ止メテモ北ヲヤルノヲ可ト思フカ。
外相 或ル程度迄止メテモ北ヲヤルヲ可トセン。
陸相 支那事変ハ続イテ解決セサルヘカラス。
[#ここで字下げ終わり]
支那事変(日中戦争)こそは日本が抱えていた諸問題の病巣だったのである。みずから手をつけ、みずから手を焼き、より大きな紛争のなかへ、解消ではなく、もたれ込もうとしていたに過ぎなかった。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
海相 世界戦争ハ十年ノ問題ダ。
此ノ間ニ支那事変ハフツトブ。
此ノ間ニ北ヲヤルガ宜シイ。
外相 我輩ハ道義外交ヲ主張スル。
三国同盟ハ止メラレヌ、中立条約ハ始メカラ止メテモ宜カツタ。三国同盟ヲ止メテ云々ナラ取ラヌ。利害打算ハイカン。独ノ戦況未タ不明ノ時ヤラナケレバナラヌ。
[#ここで字下げ終わり]
松岡の謂う道義外交とは、三国同盟に限って忠実であることを謂うらしい。他はどうでもよかったのである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
内相 松岡サン、当面ノ問題ヲ能クオ考ヘナサイ。アナタノ御話ハ直ニ「ソ」ヲ打テト云フノカ。
国策トシテ直ニ「ソ」ト開戦セヨト云フノカ。
外相 然リ。
内相 今日ハ事ヲ急イテヤラネハナラヌ、而シ備ヲ充分ヤラネハナラヌ。兵力使用ト云フモ準備ヲ要ス、国策実行ニモ準備ヲヤラネハナラヌ、即チ先ツ準備ヲヤル必要カアルノテハナイカ。
外相 我輩ハ北ヲ先キニヤルコトヲ決メ之ヲ独ニ通告シタイト思フ。
[#ここで字下げ終わり]
松岡は三国同盟一路である。他は眼中にないかのようである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
参謀総長 道義信義外交ハ尤《もつと》モナルモ現在支那ニ大兵ヲ用ヒツツアリ、正義一本モ宜シイガ実際ハ出来ヌ。統帥部トシテハ準備ヲ整ヘル、ヤル ヤラヌハ今決メラレヌ。
関東軍ダケデモ準備ニ四、五十日ヲ要スル、今ノ兵力ヲ戦時編制トシ更ニ攻勢ヲ取ルタメニハ又時日ヲ要スル。独「ソ」ノ状況ハソノ頃判明スヘシ。ソレテヨケレバ起ツノダ
外相 極メテ有利ノ「極メテ」ハ嫌ダ、「ソ」ヲ打ツト定メラレ度。
参謀総長 イカン。
軍令部総長 相当大キナ問題故統帥部モ考へ様。
外相 大体此ノ統帥部案ニ異存ナシ。但シ我輩ノ意見ヲ入レルカ入レヌカ。
参謀総長 外交ヲ之ニ加ヘ様。
外相 ソレテハ最後ニ、「之ニ即応スル様外交交渉ヲ行フ」ト入レレバ宜シイ。
外交ヲヤレト云フテモ|米トノ工作ハ之以上続カヌト思フ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。(傍点引用者)
(以下略)
[#ここで字下げ終わり]
傍点部分が松岡の本音であると思われる。
松岡外相は日米交渉に決して乗気ではなかったと見受けられる。
既述の通り、前年(昭和十五年)松岡が枢密院で説明した三国条約締結の目的は、対米戦の回避にあるはずであった。もしそれが食言でないならば、四月から曲折しながらも継続している日米交渉に、松岡は全力を尽すべき立場にあったはずである。
松岡は、しかし、三国同盟に忠実なあまり、日米交渉に関しては、悲観的というよりも否定的であった。その何よりも大きな理由は、ドイツが日米交渉に関して否定的であったからである。既述のヒトラーの『日本トノ協力ニ関スル訓令』(一九四一年三月五日)には「三国条約ニ基ク協力ノ目的ハ、出来得ル限リ早ク、日本ヲ極東ニ於ケル積極作戦ニ引入レルコトデアラネバナラナイ。コレニヨリ、英ノ大軍ハ釘附ケトナリ、米国ノ関心ノ中心ハ、太平洋ニ転ゼラレルデアラウ」とあった。つまりドイツの負担がそれだけ軽くなるということである。ドイツは外交戦略に関して、この姿勢を少しも崩していなかった。「ドイツと情死すべし」(深井前掲書)とまで言っていた松岡は、日本独自の立場で考えるよりも三国条約の立場で考えることに終始したのである。
次に、これも既述のことだが、日米交渉が余人の手によってはじめられたことが、松岡の矜持《きようじ》をいたく傷つけていた。
「(交渉が)変ナモノニナツタノハ中間ニ人ガ入ツタカラダ」と、連絡懇談会で臆面もなく言っている。
さらに加えて、もう一両日のちのことになるが、六月二十八日付のリッベントロップからオットー駐日大使宛大至急電の内容が、松岡にもたらされた。「日本は躊躇《ちゆうちよ》せずに対ソ軍事行動の決定をなすべきである」(『極東国際軍事裁判速記録』第七七号)というのである。松岡にとっては、日米交渉よりこちらの方がはるかに比重が重かった。
最後に、だが決して小さくないこととして、六月二十三日到着したハル国務長官の六月二十一日付オーラル・ステートメントと米国側からの対案がある。明らかに松岡を指して非難しているオーラル・ステートメントは、松岡を激怒させたのである。
米側対案(実は米国からの第一案)の審議は、『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』審議のために、ずっと後廻しにされた。事の軽重の測定を、松岡外相だけでなく、大本営も政府も誤ったのである。
21
六月二十八日(昭和十六年)の連絡懇談会でも、松岡外相は南進反対、北進(対ソ開戦)を主張した。
その要旨は、南進を決行することは火をもてあそぶようなもので、南進をやれば英米ソを相手として戦争することになる、というにあった。
南進の結果についての松岡の見通しは誤っていなかったが、北進に関しても彼が同様の見通しを立てなかったのは、三国同盟偏重のせいである。
松岡は、独外相リッベントロップから対南方武力行使を止めてくれと言って来るかもしれないから、その点を含んでおくようにと、出席者たちに念を押している。松岡の予想では、ドイツは日本が戦力を南方へ割くのを好まないだろう、というのである。この予想は確かにあたっていた。この会議の時点では松岡はまだ入手していなかったが、既述の通り、リッベントロップからオットー駐日大使宛ての至急電「日本は躊躇《ちゆうちよ》せずに対ソ軍事行動の決定をなすべきである」という要請が、二十八日付で打電されたのである。
会議は、次いで、ドイツに対して、日本の対ソ参戦を通告するか否かを論議した。まさに決定をみようとしている『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』では、前述の通り、独ソ戦の推移が日本にとって有利に展開すれば、対ソ武力行使をすることになっているのである。それを、松岡は統帥部に対して、こう迫っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
外相 参戦ノ決意ヲ何時カハ独ニ通告セネハナルマイ。自分モ全般ノ情勢上今日ハ未タ参戦ノ時機デハナイト思フ、従ツテ其ノ時機カ来タラ其ノ時ニ通告スレバヨイノデアル。然《しか》シ乍《なが》ラ独側ヨリ問合セガアツテ之ニ返事ヲスルノテハ適当デナイ。今云ハザルモ将来云ハナケレバナラヌ様ニナルト思フ。ソコテ帝国トシテ今日参戦ノ決意ヲ定メル必要アリ。
[#ここで字下げ終わり]
松岡は、どうしても国家意志を参戦決定まで運びたいのである。軍事的に成算が立つか立たないかは、考慮の外である。ドイツの戦勝を信じきっているから、少しでも早く参戦して、戦後の分け前を主張したいのである。
参謀総長は、さすがに、軍事的判断を抜きにはできない。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
参謀総長 独ニ云フコトハ出来ヌ、情勢有利ニ進展セバデアツテ、過早ニ参戦スルト云フモ有利カ来ナカツタラ変ナ事ニナル。
軍令部総長 参謀総長ニ同意見ナリ。
[#ここで字下げ終わり]
実は、この会議以前に、軍令部総長から参謀総長に対して、対ソ参戦は海軍としては絶対反対という強い意思表示があった。したがって、参謀総長も次長も、松岡外相の発言に対しては、当然海軍側から反対意見が出るものと思って、黙っていると、海軍側は何も言わなかった。松岡が参謀総長に返答を求めたので、杉山総長は右記のように答え、それに対して海軍側が同意を示したのである。
海軍側の態度には、会議を重ねるにしたがって明らかになることだが、表裏一貫しないところが屡々《しばしば》現われる。想像するに、海軍は大戦を惹起してそれに耐える自信はなかったのである。
松岡外相は一歩後退した。即時北進は会議の大勢を制し得なかった。
松岡は、大島駐独大使がリッベントロップに、対英攻撃(英本土上陸作戦)を行うかと質問すると、リッベントロップが現在は潜水艦による攻撃の効果を待っているが、ドイツは英国が無条件降伏するまで対英|媾和《こうわ》はしないと言明した、という大島情報を伝えて、最後にこう譲歩した。
「仏印ニ対スル施策ヲ止メテモラヘレバ結構ダガ、状況ニ変化アレバ止メラレ度」
状況に変化あれば、というのは、独ソ戦が急進展してドイツの勝勢が明白となった場合には、南進を控制《こうせい》して北進へ国策を転換してもらいたい、ということである。
これで、連絡懇談会での『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』は、決定をみた。
しかし、この後に、前記のリッベントロップからオットー駐日大使宛ての至急電を、松岡が知って、再び南進中止、北進を唱えるのは六月三十日の連絡懇談会においてである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
外相 今日迄独ハ独「ソ」戦争ニハ協力シテ呉レノ程度ナリシモ、本日「オットー」ハ本国ヨリノ訓令ヲ見セ参戦ヲ申込ミタリ。(中略)
何レニシテモ帝国ハ参戦ノ決意ヲセサルヘカラス。
南ニ火ヲツケルノヲ止メテハ如何。
北ニ出ル為ニハ南仏進駐ヲ中止シテハ如何。
約六月延期シテハ如何。
然シナカラ統帥部総理ニ於テ飽迄実行スル決心ナラハ、既ニ一度賛成セル自分故不同意ハナシ。
[#ここで字下げ終わり]
松岡がそう言うと、及川海軍大臣が杉山参謀総長に、六カ月ぐらい延期してはどうだろうかと意見を求め、近藤軍令部次長は塚田参謀次長に小声で延期するように考えようと言った。
この席上に限らず、いつも態度が最も強硬だったのは塚田次長であった。塚田次長は杉山総長に断乎として進駐を敢行するよう意見具申した。
今度は杉山総長と永野総長(軍令部)とが協議した結果、杉山が統帥部の総意として進駐決行を表明した。
近衛総理は、無気力なのか、無定見なのか、あるいは、たかが南部仏印進駐ぐらい大事に至らずに処理できると考えていたのか、統帥部がやるというのならばやりましょうと賛同した。
松岡外相は、他の大臣には異存はないのかと質《ただ》し、各大臣も異存なしと答え、これで『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』は原案通り実行と決った。
この決定までの途中、おそらく先の松岡の発言につづいてのことと思われるが、松岡はこう言っている。
「我輩ハ数年先ノ予言ヲシテ適中セヌコトハナイ。南ニ手ヲツケレハ大事ニナルト我輩ハ予言スル。ソレヲ総長ハナイト保証出来ルカ。
尚南仏ニ進駐セハ、石油、『ゴム』、錫、米等皆入手困難トナル。
英雄ハ頭ヲ転向スル、我輩ハ先般南進論ヲ述ヘタルモ今度ハ北方ニ転向スル次第ナリ」
これに対して、武藤軍務局長が、
「南仏ニ進駐シテコソ『ゴム』錫等カ取レルノデアル」
と言い、平沼内務大臣は、
「北ヲヤラネハナラヌト思フ。而シ出来ルカ出来ナイカガ問題デ、之ハ軍部ノ御考ニヨル外ナシ」
と述べ、永野軍令部総長は、
「北ニ手ヲ出スニハ、海軍トシテハ一切ヲ南ニ準備シテ居ルノヲ北ニ変更スル必要ヲ生シ、之カ為約五十日カカル」
と、単に技術論的な意見を述べるにとどまった。
この会議では、松岡の北進のための南進反対論以外には、意見らしい意見が出されていない。事は重大であったはずである。日本が戦争の危険を冒すか、戦争を回避する方向へ国策を樹てるかの、運命的岐路に指導者たちは立っていたはずであった。
昭和十五年七月二十七日、大本営政府連絡会議で決定した『世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱』(武力行使を伴う南方進出、対英米戦準備)から十一カ月、日本は掛声ばかりで国力の増大は認められず、日本をめぐる国際情勢は日本の態度次第で好転も悪化もしようというとき、日本の指導者たちは徹底した論議を尽すこともなく戦争国策を決定し、御前会議に持ち込むことになったのである。
同じ六月三十日、『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』に関して、軍事参議官会議がひらかれた。ここでの質疑応答も中途半端な感は免れない。しかし、連絡懇談会で決定をみた重要案件に対して、皇族を含む軍事参議官たちがどの程度の関心をしか抱いていなかったかは、注目に値するであろう。
会議は参謀総長の説明にはじまり、軍事参議官たちとの質疑応答に移る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東久邇宮 北方解決ノ目標如何。
総理 具体的ニハ政戦略上ノ見地ヨリ更ニ検討ヲ加ヘ決定スル必要アリ。
戦略的ニハ一応検討シアルモ政略上ノ要求ヲ加味シ又準備ト情勢ノ推移ノ見透ヲ定メ決定スル要アリ。
朝香宮 ホラガ峠ノ様ダガ、南北何レガ先キカ、北カ先キノ方カ好イ様ニ思フガ。
総長 (議案書の通りに返答する)
陸相 抽象論ナラハ誰デモ簡単ニ決メラレル。支那事変ヲヤリツツヤル所ニ難シイ所ガアルノデアツテ支那事変カナケレハ事ハ簡単デス。
東久邇宮 南方進出ノ目標如何。英米「ソ」来タラドウスル。
総長 南方進出ノ順序方法ハ種々アルガ自存自衛ノ為ニハ蘭印位迄考ヘテ居ル。而シ土地ハ目標デハナイ。
英米「ソ」ガ同時ニ来ル様ナ最悪ノ事態ガ来ヌ様手ヲ打ツテヤルノテアル。
而シ英米カ来タラ止メラレヌ。
総理 海軍ノ意嚮《いこう》ヲ聞クト一気ニ何処迄モヤルワケデハナイ。今ハ取リ敢ヘス仏印迄進出シ其後ハ逐次ニ進メテ行クノデアル。
朝香宮 独ノヤリ方ニ較ヘルト慎重ニ過ギハシナイカ。
総理 ソウ申サルルモ国運ニ関スル重大事テアリ原則論トハ異ナリ軽々ニハヤレヌ。
寺内大将 交戦権行使ニ就テハ海軍ニ奨メテ外国船ヲドシドシヤルヘシ。
[#ここで字下げ終わり]
この会議に限らず、これまでの累次の会議の経過を見て、読者は気づかれたであろう、近衛総理には何の見識もないかのようである。彼は見識がないのではなく、国政を指導する情熱も気力もない華族宰相なのである。
軍部の独走を押える必要を感じていたからこそ、組閣以前に松岡のような傍若無人な人物を外相に予定したりもしたのであるが、実際には軍部と松岡の双方を統制指導する困難を避けて、政治力学的に優位に立った軍部の飾り物として利用されることに甘んじたのである。彼は軍部と抗争することを怖れて、国を誤ることは怖れなかったのだ。
22
七月一日の連絡懇談会は『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』に関する最後の会議となった。この会議には、前日同様に大蔵大臣・河田烈、商工大臣・豊田貞次郎、企画院総裁・鈴木貞一が席に加わっている。現存している記録の欠陥に因《よ》るのかもしれないが、このときになってようやく実の入った発言が商工大臣によってなされている。明日はこの重要案件を御前会議に持ち込むというときになってである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
蔵相 陸軍ハ武力的準備ヲヤルノカ。(対ソ作戦に備えての意である。)
参謀総長 準備ヲヤル。先ツ在満部隊ヲ戦時編制トナシ、次テ攻勢ヲ取リ得ル様ニスル。衝動ヲ与ヘヌ様スルニハナカナカ苦心ヲ要スル。
[#ここで字下げ終わり]
これが翌七月二日の御前会議で決定をみる対ソ戦準備、関東軍特別演習という名称の大動員、略して『関特演』を指している。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
参謀次長 準備ハヤル。而シ乍ラヤリ得ル最小限ノ兵力ヲ整ヘテヤル積リナリ。ムチャクチャニ沢山ノ準備ヲヤル考ヘハナイ。
蔵相 海軍モヤルカ。
軍令部次長 潜水艦百隻ノ撃滅ヲ準備スル必要アリ。
陸相 在満部隊ヲ動員スル必要アリ。而シ密カニヤルト云フコトハ充分研究ノ要アリ。
商相 物ノ見地ヨリ申上ケル。陸海軍カ戦争ヲヤルコトニナレバ物ノ見地カラ国力ハナイモノト思フ。
陸海軍共ニ武力行使ヲヤラレルガ、両面戦争(対英米と対ソ)ヲヤルタメノ物ハ持タヌ。
陸軍ハ早速動員ヲヤラレルダラウシ又海軍モ準備ヲスルダラウ。
船ヲ徴発セラルルカラ物カ取レナクナリ、生産力拡充軍備充実等ニモ大ナル影響ヲ及ボス。英米「ソ」ニ対シ不敗ノ態|度《ママ》ヲ取ルト云フコトヲ研究スル必要アリト思フ。
南進カ北進カ慎重ニ研究セラレ度。帝国トシテハ物ハナイ。
不敗ノ態勢ト支那事変解決カ此ノ際必要ナノテハナイカ。
[#ここで字下げ終わり]
これにつづいて、企画院総裁が日満支自給圏以外の補給圏(仏印、泰《タイ》、蘭印)から期待する重要不可欠物資についての説明をして、統帥部にも研究を求めた。
豊田商工大臣がこの席で発言した程度のことは、実は、『南方施策促進ニ関スル件』や『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』が審議される以前の段階で、あるいは、遅くとも、審議の最初の段階で、政府統帥部を問わず、十分に考慮し、研究すべき事柄であった。明日は御前会議で最終決定をみるというときになって、「慎重ニ研究」するのでは、あまりにも遅きに失するのである。
日本は、残念ながら、いつもそうであった。政治は軍事に追随した。外交は軍事の尻拭いをやって奉仕した。軍事は経済を無視しがちであった。主戦派は言うであろう、軍事が経済を無視したのではなくて、軍事は経済の貧困から国家を立ち直らせようと努めたのだと。
それこそが問題だったのである。豊田商相がおくればせに指摘した、日本にモノはないということと、陸海軍が作戦準備をすれば船舶が徴発されるから、物資輸送力に不足を来し、したがって生産力拡充にも軍備充実にも支障を来すということは、最初から自明の理なのである。この問題は最初から最後まで濾過《ろか》しきれずに沈澱物として残り、やむを得ず、作文上どうにか処理し得ることとして最終会議を通過し、開戦に至ることになる。
作文上処理し得るのは、欠乏物資を外国から武力行使によってでも取得し、それを日本へ輸送して戦力化することが、紙の上では可能だからである。
この考え方は、石原莞爾流の戦争をもって戦争を養うという考え方と、軌を一にしている。石原が軍主流から脱落したのは三年前のことだが、持たざる国の思考の類型ともいうべき石原流の考え方が国事の正面を支配するには、必ずしも石原個人の存在など必要なかったのである。
モノがないから南方ヘモノを取りに行くということ(南方施策)と、満洲事変以来の日本の軍国主義的行動に神経を尖らせている米国との間の日米交渉とは、両立するはずがなかった。
日本は南方進出を急いだ。ちょうどそのとき独ソ戦が勃発したのである。これまで見てきた通り、『南方施策促進ニ関スル件』と『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』との審議過程で、日本は、たとい錯覚に因ったにもせよ『日米諒解案』接到《せつとう》のときには交渉促進に熱中したにもかかわらず、右の二案件との関連においては、日米交渉は棚上げされて、顧みられなかった。
他の国ならまだしものこと、日本は既述の通り、石油と鉄に関しては圧倒的に米国に依存していたのである。その米国との国交調整に関して、審議を放置したのは心得ないことと言わねばならない。六月二十五日の天皇の「下問」「奉答」においても、また後述する七月二日の御前会議での「御説明」においても、日米交渉問題は全く無視されているのである。
日本の指導者たちには、南部仏印進駐を敢行する「毅然たる」態度が、日米交渉を有利に展開するという錯覚があったのではないかとさえ思われる。少くとも、思考の表面では米国を甘く見ていたことは確かである。南部仏印進駐と日米交渉とは、別個のものとして両立し得るという甘い判断があったのでなければ、日米交渉を放置していた事実は、説明され得ないであろう。
日米交渉を棚上げにした『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』は、既述の通り、連日の連絡懇談会開催にもかかわらず審議を尽したとは言い難いままに、昭和十六年七月二日の御前会議に議題としてのぼったのである。
23
七月二日の御前会議は、昭和十六年(一九四一年)の四つの御前会議のうちでは第一回目、昭和時代に入ってからでは第五回目であった。
午前十時から二時間にわたって行われたこの会議には、政府側から近衛総理、平沼内相、松岡外相、東条陸相、及川海相、河田蔵相、鈴木企画院総裁が、統帥部からは杉山参謀総長、永野軍令部総長、塚田参謀次長、近藤軍令部次長が出席した。
このほかに、慣例によって、謂《い》わば天皇の質問代理人として枢密院議長原嘉道が出席し、幹事として富田内閣書記官長、岡海軍省軍務局長が列席した。武藤陸軍省軍務局長は病気のため列席していない。
議題は、前述の『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』である。
議事の進行経過は、総理、両総長、外相による議題についての説明から、原枢府議長と政府・統帥部との間の質疑応答となる。
説明は、説明者の職務によって表現角度が異っているが、主旨は誰のも当然のことながら同じである。近衛総理の説明の要点を誌すにとどめよう。
「(前段略)
帝国トシテハ大東亜共栄圏建設ノ為ニハ、依然トシテ当面ノ支那事変処理ニ邁進《まいしん》スルヲ要スルコト当然デアリマスガ、更ニ自存自衛ノ基礎ヲ確立スル為、南方進出ノ歩ヲ進ムル一方、北辺ニ於ケル憂患ヲ芟除《せんじよ》センガ為、世界情勢特ニ独『ソ』戦ノ推移ニ応シ、適時北方問題ヲ解決スルコトハ、帝国国防上ハ勿論東亜全局ノ安定上極メテ肝要デアルト存ズルノデアリマス。
以上ノ目的ヲ達成センガ為ニハ、帝国ガ各方面ヨリノ妨害抵抗ヲ受クルコトハ当然予想セラレマスガ、帝国トシテハ|何トシテモ此ノ目的ヲ達成セネバナリマセンノデ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、如何ナル障害ヲモ之ヲ排除スルノ鞏固《きようこ》ナル決意ヲ明カニセントスル次第デアリマス。
(後段略)」―(傍点引用者)
傍点部分、なんとしてもこの目的(南方武力進出と北方武力行使)を達成せねばならないかどうかこそが、御前会議で論議されるべき最重要事であるはずであったが、それらは決定事項として御前会議に持ち込まれ、天皇の代弁人である原枢府議長が、巨大な山にも譬《たと》えられる問題の表面を爪で掻く程度の質問をしたのである。
『杉山メモ』は質疑応答の経過を次のように記録している。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
原枢府議長 本日ノ議題ノ方針ハ総理ノ説明ニヨリ疑問モナケレハ異議モナイ。要領(『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』は、第一 方針と、第二 要領に分れている。)ニ就《つい》テ若干ノ質問ヲスル。
第一項敵性租界ノ接収(中国にある外国租界が、屡々《しばしば》、重慶援助の隠れ蓑となっていた)トハ実力ヲ行使シテモヤル意志ナノカ。英米トノ間ニ問題ヲ惹起スル虞《おそ》レハナキヤ。対仏印強硬施策ヲ実行スル以上、併セテ此ノ点懸念アルヘシ。接収ノ時機方法ハ如何ニ考ヘアルヤ。英米ト開戦ノ後ナレハ別ナレトモ、然ラサルトキハ平和的外交手段ニヨルノカ適当テハナイノカ。
『適時』トハ如何。租界接収ト対英米戦トノ関係ヲ伺ヒ度。
松岡外務大臣 (前略)此ノ問題ハ極メテ重要ニシテ、軽々ニハ出来ヌ。事変処理上願フトコロテ、何トカシテ租界ヲ抑ヘタイ。已《や》ムヲ得サレハ武力ヲ使ハネバナラヌ。元ヨリ外交ニヨルコトハ勿論テアル。
日本軍カ接収スルノハ成ルヘク避ケタイ。国民政府(汪兆銘政権)ヲシテ接収セシムルカヨロシイ。已ムヲ得ナイトキ一時日本軍カ抑ヘルヤウニシタイ。租界接収ハ仏印ヲヤルノヨリモ英米ヲ刺戟スルコトカ大テアルト思フ。
東条陸軍大臣 慎重ニヤルコトハ外相ノ言ハレタ通リテアル。租界カ事変処理ノ邪魔ニナツテヰルコトハ御承知ノ通リテ、天津、上海其ノ他ニ租界ハアルカ、何レモ邪魔ニナル。之ニ触レナイ為ニ皇軍ハ非常ニ損害ヲ蒙ツテヰル。事変四年ヲ経過シテ情勢ハ動イテ来タカ、租界処理ニハ外交実力行使何レモ必要テアルト思フ。然シ慎重ニヤル必要カアル。特ニ牢記《ろうき》サレ度キハ租界カ事変処理ニ非常ナル妨害ニナツテヰルコトテアル。
杉山参謀総長 特ニ作戦上支那ニ於ケル租界カ妨害ニナリ、四ケ年間ニ於ケル之カ犠牲ハ極メテ大テアル。事変ヲ急速ニ解決スル為ニハ先刻説明セル場合ニハ接収ヲ断行セナケレハナラヌ。
米カ参戦(対独)シタ場合、英米蘭カ禁輸(対日)シタ場合、又ハ近ク行フヘキ南仏出兵カ英米ヲ大シテ刺戟セスニ落着イタ時期等ニ処理スルノモヨロシカルヘシト考ヘアリ。
原枢府議長 第二項「対英米戦カ起ルモ辞セス」トアルカ、第一項ノ租界ヲヤルトキニモ辞セスト云フ考ヘナルヤ否ヤ疑問ナリシヲ以テオ伺ヒシタ訳テアル。参謀総長説明ノ如ク英米戦ト云フコト迄モ考ヘテカラヤルヘキテアルト思フノテアリマス。
次ニ要領二ノ「必要ナル外交交渉」トハ蘭印|対手《あいて》ノモノナリヤ。
松岡外務大臣 主トシテ仏印ニシテ又|泰《タイ》及蘭印モ考ヘテヰル。
原枢府議長 仏印ヲ含ムト云フカラ「南方施策促進ニ関スル件」ニ就テオ伺ヒシ度イ。第三項ニ武力行使ヲヤルトアルカ、事変処理ニモ関係カアルヘキモ、本施策ハ外交テヤルノカ主カ、武力テヤルノカ主カ。
[#ここで字下げ終わり]
この種の記録の難点は、文語調と口語調が混淆《こんこう》しているために、読む者の印象を一定の密度に保ちにくいことと、質疑応答者の感情や態度の表現が全く欠落しているために、論議の内容まで屡々空疎に見えることである。だからといって、統一文体に書き直すことも憚《はばか》られる。現存する資料としては『杉山メモ』が原本なのである。
質疑応答を辿《たど》ることにする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
松岡外務大臣 外交テ成功ノ見込ミナシ。独逸ニ斡旋ヲ頼ミタルモ未タニ返事ナシ。明日位オソラク返事アルヘシ。
[#ここで字下げ終わり]
松岡の御前会議でのこの発言は、六月二十五日の連絡懇談会での発言と全く異っている。後者では、松岡はこう言っているのである。
「独ニ『ヴイシイ』ヲ圧迫シ軍事基地設定ヲ容認スル様云フタ所、『リ』(リッベントロップ)ヨリ強迫ヲ加フルコトハ出来ヌ旨返アリ、従ツテ日本独力デヤルト大島(駐独大使)ニ伝ヘ置ケリ」
松岡の思惑はどうであれ、「返アリ」と「返事ナシ」を一致させることはできない。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
松岡外務大臣 独逸ハ「ヴイシイ」ニ手ヲ打ツテモ成功ノ見込ミナシト考ヘアルカ如シ。「ヴイシイ」ニ対シ確信ナケレハ独逸ニ頼マヌト言ヒヤリシカ、先方ヨリノ返ナシ。独カ斡旋スルヲ可トスルモ、然《しか》ラサレハ外交上成功ハ六《む》ツカ敷《し》イ。依ツテ武力行使ヲ決意シテ懸《かか》ラネバナラヌ。但シ本問題ハ最後ノ瞬間迄外交テ成功セシムル様考ヘテヰル。中《あた》ルカ中ラヌカハ不明テアル。昨年北部仏印ノトキモ外交上ノ成功ノ公算ハ十分ノ一ナリシモ、始メタラ上手ク行ツタ。今度ハ昨年ヨリ好イトハ思ハナイカラ出来ルカ出来ヌカ分ラヌ。統帥部モ武力行使ヲヤリタクナイ考ヘダカラ、外交上最善ヲ尽シテ見タイ。
原枢府議長 外交交渉テハ六ツカ敷イト思フ。シカシ武力行使ハ事重大ナリ。要領二ニアル対英米戦ハ大問題ナリト考ヘル。外相ハ八紘一宇ト言ヒ皇道外交ヲヤルコトヲ屡々声明シテヰルカ、仏印ニ対シ昨年領土保全ヲ約シ、今又明日ニモ日仏間条約ノ批准ヲシヤウト言フノニ、仏印ニ対シ武力進駐スルハ主旨カ合致セヌト思フカ如何。英米カ仏印ニ対シ武力ヲ行使セリト云フナラバ別ナルモ、武力進駐ハ皇道外交上不都合ナラスヤ。外相ハ武力行使ヲ避ケタシト云フ。武力ヲ背景トシテ仏印ヲ聴従セシメルハ可ナルモ、直接武力行使ヲ有無ヲ言ハセスヤツテ、侵略呼バハリヲサレル事ハヨクナイト思フ。之ヲ皆様ニ申シテ此ノ質問ヲ終ルコトニシタイ。
[#ここで字下げ終わり]
これでは感想を述べただけであって、反対意見の主張にはならない。御前会議とは、所詮、何事に対しても決して責任を負わない天皇の前で、臣下の者たちが、あれも考慮してある、これも研究してある、と、実は思慮周到でない問題を強引に既定方針通りに推進するための手続に過ぎなかったのである。
殊に、南部仏印進駐に関しては、六月二十五日の、『南方施策促進ニ関スル件』上奏の際、既述の通り天皇が、
「国際信義上ドウカト思フガマア宜イ」
と言ったあとであるから、枢密院議長原嘉道としては、右の程度以上の発言は必要なかったのである。
24
原の発言は次の段でやや熱をおびてきたように見受けられる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
原枢府議長 次ニ独「ソ」開戦ハ日本ノ為真ニ千載一遇ノ好機ナルヘキハ皆様モ異論ナカルヘシ。
「ソ」ハ共産主義ヲ世界ニ振リ蒔《ママ》キツツアル故、何時カハ打タネハナラヌ。現在支那事変遂行中ナル故「ソ」ヲ打ツノモ思フ様ニ行カヌト思フケレトモ、機ヲ見テ「ソ」ハ打ツヘキモノナリト思フ。帝国トシテハ対「ソ」戦争間英米トノ開戦ハ望マナイ。国民ハ「ソ」ヲ打ツコトヲ熱望シテヰル。此ノ際「ソ」ヲ打ツテモライ度イ。三国条約ノ精神ニヨリ少シデモ独逸ニ利益ヲ与ヘルヤウ努メテモライタイ。
「ソ」ヲ打タレ度ト独カラ何カ云フテ来テヰルカ。
[#ここで字下げ終わり]
原枢府議長は天皇制の番人をもって自認しているだけに、徹底したソ連嫌いである。しかし、彼が言うように国民が対ソ攻撃を熱望していたかどうかには、疑問がある。仮りにそうであったとすれば、長年にわたる徹底的な反共教育と反共宣伝に、その理由の大半が帰せられる。それでもなお体制矛盾にめざめがちな大衆に対しては、戦慄的な弾圧が加えられるのを、国民は目撃していたのである。当時の精神風土において、日本人が独立自我の形成に甚だしく欠けるところがあったのは事実である。その空隙に官製宣伝が容易に浸透した。国民の多数は、たとえば、「無敵皇軍」とか「無敵関東軍」という宣伝の虚像を信じた。正確な情報に接しなかった国民ばかりでなく、支配層までも多分に自己暗示にかかっていた観がある。
対ソ問題に関していえば、僅《わず》か二年前にゴビの砂漠の東端、ノモンハンで「無敵関東軍」がソ連軍に惨敗を喫した事実は、国民の前にひた隠しに隠されていた。おそらく、原枢府議長も、日ソ両軍は戦略も戦術も兵装も隔絶していた事実を、知らされてはいなかったであろう。だからソ連は「打ツヘキモノナリ」と簡単に言えたのであろう、と考えられる。
原に限らず、この御前会議に列席している者すべてが、ノモンハン戦の教訓――その戦闘経過、日ソ両軍の戦備と戦闘を組織するにあたっての配慮の密度の差、補給力の差、したがって当然に国力の差を、厳密に検討し、科学的判断の規準となし得ていたら、御前会議に至るすべての立案と審議はまるで異ったものとなっていたはずである。したがって、また、昭和十六年の四つの御前会議は、歴史が残した事実とは異った経過を辿ったはずであった。
列席者たちは、愚かにも、戦訓を戦訓としなかったのである。
御前会議は次のようにつづいている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
松岡外務大臣 御注意御意見拝聴セリ。此ノ度ノ日仏印協定ノ御批准ハ重要ナルコト故、不信行為ニナラサル様ヤラネバナラヌ。世界ニ対シ背信行為ニアラスト云フ様ナ注意ヲ喚起方処置スヘシ。尚独「ソ」戦争ニ伴フ対独協力ニ関シテハ、廿六日「リッ|ペ《ママ》ン」カラ協力方申シ来リ、廿八日ニモ来電アリタリ。
「南方施策促進ニ関スル件」ヲ検討シタルトキハ独「ソ」戦ハアルモノト思ヒタリ。従ツテ独ニ対シテハ、此ノ際日本トシテ逃ケヲ打ツタ様ニシタクハナイ。
原枢府議長 「ソ」ヨリ希望アリシヤ。
松岡外務大臣 独「ソ」開戦四日後、日「ソ」中立条約ニ対シ如何ニ考ヘラルルヤト問ヒタルヲ以テ(駐日ソ連大使から)、三国同盟ニ影響ナシト答ヘタルニ其後抗議ナシ。又此度ノ戦争ニ対スル態度如何ト問ヒタルヲ以テ、マダキマツテ居ラヌト返答シ置ケリ。
序《ついで》ニ一言附加致シマスカ、独「ソ」戦争ニ対シ帝国ハ参戦セサルモ、文面上ヨリスレハ不信行為ニアラス。之ヲ同盟成立ノ精神ヨリスルトキハ、参戦スルヲ至当トスヘシトスル意見ナリ。
原枢府議長 日「ソ」中立条約ノ為ニ日本カ「ソ」ヲ打タハ背信ナリト云フモノアルヘキモ、「ソ」ハ背信行為ノ常習者ナリ。日本カ「ソ」ヲ打チテ不信呼バ|リ《ママ》スルモノハナシ。私ハ「ソ」ヲ打ツノ好機到来ヲ念願シテ已マサルモノナリ。
米国トノ戦争ハ避ケタイ。「ソ」ヲ打ツモ米国ハ出ナイト思フ。
モウ一ツ伺ヒマス。
仏印施策実行ニ当リ英米戦ヲ辞セスト云ヒツツ、仏印ニ於テ対英米戦ヲ準備スル為ニ、近クヤル基地設定ハ之レカ為ノ準備タト云フテヰル。今迄ニ英米戦ノ準備ハ出来ナカツタノカ。
仏印ヲヤレバ英米戦ハ起ルト思フカ如何。
[#ここで字下げ終わり]
原枢府議長は対ソ武力発動にはきわめて積極的だが、対英米戦に関してはかなり慎重である。彼の発言中にある「英米戦ヲ辞セス」というのは、『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』の二にある「帝国ハ本号目的達成ノ為対英米戦ヲ辞セス」を指している。「本号目的」とは、その前段の「……仏印及泰ニ対スル諸方策ヲ完遂シ以テ南方進出ノ態勢ヲ強化ス」を受けている。
つまり、南方へ進出すれば、対英米戦を惹起する危険率が高いが、それでもかまわない、南方へ進出する、というのであるから、この七月二日の時点で、日本は対英米戦を決意していたはずのものである。
もしそうなら、開戦まであと三回の御前会議は、極端に言えば、必要なかったことになる。
実際には、しかし、これは作文に過ぎなかったと判断すべきもののようである。
前述の『南方施策促進ニ関スル件』の陸海軍事務当局案では、「英米ニ対シ武力ヲ行使ス」とあったものが、海軍側の意見によって「対英米戦ヲ賭スルモ辞セス」に変えられ、『帝国国策要綱』では「対英米戦ヲ辞セス」と修正されたのである。
日本では、特に軍部では、作文が決意に先行することが屡々であった。文章として定着すると、それが逆に当事者を心理的に拘束することも屡々であった。
軍人は勇ましく見えることが好きなのである。現実が規定している条件を、精神主義的に超越したがる性癖がある。軍事のプロでありながら、プロらしい合理主義を簡単に無視するのが、かつての日本の軍人の大多数に共通した欠陥であった。
「辞セス」に関する永野軍令部総長の天皇に対する説明は、些《いささ》か及び腰である。
「……現在英米蘭等ノ対日圧迫態勢ハ|益 《ますます》強化セラレツツアル情勢デ御座イマスルノテ、万一英米等カ飽ク迄モ妨害ヲ続ケ帝国トシテ之カ打開ノ途ナキ場合、遂ニハ対英米戦ニ立チ到ルコトアルヲ予期セラレマスノテ、之ヲモ辞セサル覚悟ヲ以テ……」
対英米戦はやりたくない。南方へは武力進出する。この矛盾には解決がない。
だから、原枢府議長は訊くのである。仏印ヲヤレバ対英米戦ハ起ルト思フカ如何、と。
25
『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』に「対英米戦ヲ辞セス」という字句を入れたのは誰か、現存する資料に依っては明らかでない。それが誰であったにせよ、国力の貧弱を承知の上で議決文書に虚《むな》しい強がりの字句を残した責任は、陸海軍両統帥部の総長、陸海軍両大臣、そしてそれを承認した総理大臣が負うべきであり、最終的にはそれを否認しなかった天皇に帰せられるべきものである。
当時の海軍次官であった沢本頼雄は、右の字句に関してこう言っている。
「私も驚いて及川大臣(海軍)にお尋ねしたところ、自分の考えは避《ママ》戦であるが、陸軍が北にも南にも進出することを主張し、あのくらいにしておかないと、とてもおさえ切れぬと答えられた。豊田商工大臣(貞次郎。海軍大将)にも、その間の事情をお尋ねしたが、『及川さんはそんな気はないから大丈夫』といわれた」(新名丈夫編『海軍戦争検討会議記録』)
海軍上層部には、対英米戦に関して明らかに否定的な者もいたのである。沢本次官が南部仏印進駐の決定を海軍省の局部長会議に事後報告したとき、井上成美・航空本部長が憤然として抗議した。
「このような、いくさになるかならぬかの重大問題に、海軍がどうしてそう簡単に同意したのか。航空戦備などろくろくできていない。なぜ事前にわれわれに聞かないのか。かかる重大事を、三日もたって披露しても、われわれは聞くわけにいかぬ」
艦政本部長の豊田|副武《そえむ》中将も、
「井上君のいった通りだ。艦政本部長は海軍省の番兵ではないのだ」
と怒号した。
それから数日後に、各鎮守府、各艦隊の司令長官が東京に招集され、海軍大臣官邸で海相が南部仏印進駐決定を伝えたとき、山本連合艦隊司令長官が、
「航空戦備はできているのか」
と質《ただ》し、第二艦隊司令長官・古賀峯一中将(山本長官戦死後の連合艦隊司令長官)は、
「かような重大事を艦隊長官の考えも聞かず、簡単に決め、万一いくさになって、さあやれといわれても、勝てぬ。いったい、こんどの事に対する軍令部の考えはどうなのか」
と詰め寄った。
これに対して、永野軍令部総長は、
「政府がそう決めたのだから、仕方ないだろう」
と答え、列席者みな唖然《あぜん》としたという。(新名丈夫編前掲書)
永野軍令部総長が、政府が決めたのだから仕方がない、と言ったとすれば、責任回避も甚だしいし、列席者たちが唖然としただけで責任追及をしなかったとすれば、それも甚だしく無責任と言わなければならない。
南部仏印進駐にせよ、対英米戦を辞せずにせよ、統帥にかかわる事項である。統帥部の意志決定なしに政府が決めるわけにはゆかないのだ。言った永野も永野なら、唖然としただけで決然とした態度に出なかった列席者たちもだらしがなかったというほかはない。
七月二日の御前会議はつづいている。
席上、原枢府議長の質問(南部仏印に進駐すれば、対英米戦を惹起《じやつき》すると思うが、どうか)に対して、松岡外相は次のように答えた。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
松岡外務大臣 此ノ答ヘハ六《む》ツカ敷《し》イ。第一線ノ将校カ武力ヲ使フモノト思ヒ込ミ、猛リ立ツテヤルモノダカラ困ル。周到ナル準備ヲ以テヤレバ英米戦ニナラヌ公算カ多イ。尤《もつと》モ将校ノ猛リ立ツノハ統帥部ニ信頼シテ同意シタ。
独「ソ」戦中ナルカ故ニ独ノ対英攻撃カ延ヒル。ソコデ英米側ハ独ハ対英上陸ヲヤラヌト思フカモ知レヌ。シカシ私ハ独ハ独「ソ」戦中ニ対英上陸ヲヤルコトアリト思フ。独「ソ」戦ハ「リッペン」(リッベントロップ独外相)サヘモ知ラナカツタ。独「ソ」戦中対英上陸ヲヤルカヤラヌカハ「ヒットラー」ノ胸三寸ニアル。
[#ここで字下げ終わり]
松岡外相はドイツを過大評価していたし、軍事的知識を欠いていた。海軍力の強大な、空軍も勇敢優秀な英国に対して、しかも独ソ戦の最中に、上陸作戦を遂行する可能性があるなどと言うところは、市井の戦略家と選ぶところがなかった。
彼の発言はまだつづいている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
独カ対英上陸ヲヤレハ「アメリカ」ハビツクリシテ参戦シナイカ。
又反対ニ積極的ニ北方ヨリ日本ニ対シ手ヲ出スカモシレヌ。之レ米国ノ気性ノ特質カラソーモ考ヘラレルノテ、此ノ判断ハ六ツカ敷イ。
原枢府議長 ハツキリ伺ヒタイノハ日本カ仏印ニ手ヲ出セハ、米カ参戦スルヤ否ヤノ見透シノ問題テアル。
松岡外務大臣 絶対ニナイトハ云ヘヌ。
杉山参謀総長 仏印進駐ニヨリ英米ヲ刺戟スルハ明ラカナルモ、本年始メ泰《タイ》仏印紛争調停成功以来、日本ノ威力ハ相当泰仏印ニ及ンテヰタ。然《しか》ルニ現在ニ於テハ泰仏印ニ英米ノ策動カ多クナル一方テ、将来ドウナルカワカラヌ。此ノ際日本ハ今考ヘテヰル施策ヲ断行セネバナラヌ。英米ノ策謀ヲ封殺スルニハ是非必要テアル。尚米国ニ対シテハ独「ソ」戦争ノ推移カ相当影響スル。「ソ」カ速カニヤラレタラ「スターリン」政権ハ崩壊スルテア|ロ《ママ》ウシ、又米国モ参戦スルマイ。独ノ計画カ一頓挫セハ、長期戦トナリ、米参戦ノ公算ハ増ステア|ロ《ママ》ウ。現在ハ独ノ戦況有利ナル故、日本カ仏印ニ出テモ米ハ参戦セヌト思フ。勿論平和的ニヤリタイ。泰ニモ施策シタイカ、馬来《マレー》ニ近イノテ大事ニナルカモ知レヌ。今回ハ仏印迄テアル。尚将来ノ南方施策ニ及ホス影響相当ニアルコト故、仏印ニ兵ヲ出スニ当リテハ慎重ニヤリタイト思フ。
原枢府議長 分ツタ。自分ノ考ヘト全然同シテアル。
即チ英米トノ衝突ハ出来ル丈《だ》ケ避ケル。此ノ点ニ就《つい》テハ政府ト統帥部トハ意見一致シテ居ルト思フ。予ハ今度ノ場合ハ少クトモ日本ヨリ進ンテ対米戦争行為ヲ避クヘキタト信スル。
第二ニ「ソ」ニ対シテハ出来得ヘクンハ早ク討ツト云フコトニ軍部政府ニ希望ヲ致シマス。
夫《そ》レ「ソ」ハ之ヲ壊滅セシムヘキモノナリ。故ニドウカ開戦期ヲ速カニスル様ニ準備シテ貰ヒタシ。方針ヲ立テルト同時ニ実行スル様ニ期待シテ已ミマセン。
以上ノ主旨ニヨリ本日提案ニ全然賛成テアル。
[#ここで字下げ終わり]
原枢府議長は北進論(対ソ攻撃)の急先鋒の観がある。皇室中心主義者の「国体観」がそうさせるのであろうが、戦時体制または臨戦体制下においては、軍人よりも文官の方が屡々《しばしば》好戦的に見えることがある。軍国主義は必ずしも軍人の制服を着て現われるとは限らない。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東条陸軍大臣 原枢府議長ト同シ考ヘナルモ、目下帝国ハ支那事変遂行中テアル。此ノ点御承知アリ度。
若イ将校ニ付松岡外務大臣ヨリ先程ノ発言アリタルモ、私ハ軍人軍属ヲ統督スル責任者トシテ、松岡外務大臣カ陛下ノ御前ニ於テ此クノ如キコトヲ云ハレタルニ対シ一言申述ヘタイ。松岡外務大臣ハ第一線ノ一部ニイキリ立ツモノガアル様ナ口吻《こうふん》ヲ漏ラサレタルモ、|軍隊ハ大命ニヨリ動クノテアル《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|絶対ニソンナコトハナイ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。此ノ前ノ仏印進駐ノトキモ断乎トシテ処分シタ。然シ武力ト外交トノ切換ハ非常ニ六ツカ敷イ。此ノ点統帥部ト協力シ遺憾ナキヲ期シタイ。(傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
傍点部分は、天皇の前だから東条はこう言わざるを得なかったのであろう。しかし、出先軍が中央の統制に服しなかった不名誉な歴史は、隠蔽《いんぺい》できない。兵馬の大権が天皇にあるということぐらい、有名無実なことはなかったのである。天皇の軍隊だから軍紀厳正なのではなくて、事実は逆であった。国民の軍隊でなかったから、軍紀厳正でなかったのだ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
杉山参謀総長 陸軍大臣ニ全然同意テアル。監督ヲ適切ニシ間違ヒナキ様致スヘキヲ以テ、御安心ヲ願フ。尚此ノ際関東軍ノ状況ヲ説明ス。「ソ」ノ三十師団中四ケ師団ハ已ニ西送(独ソ戦線へ増援)。「ソ」ハ尚絶対優勢(関東軍兵力に比較して)ノ兵力ヲ擁シ、戦略展開ノ態勢ニ在リ。然ルニ関東軍ハ今述ヘシ次第ナル故ニ、守ル為ニモ外交ノ後拠トナル為ニモ、又将来ノ攻勢ノ足場ニモ関東軍ヲ充実シテ、更ニ進ンテ好機ニ乗シ攻勢ヲ採ラセタイト思フ。五六十日|立《ママ》テハ独「ソ」戦ノ見透シハツクト思フ。ソレ迄ハ今暫ク支那事変ノ処理及英米トノ関係ヲ見合セル必要カアルノテ、提案ニ「暫ク介入スルコトナク」ト述ヘテアルノテアリマス。
[#ここで字下げ終わり]
これで、南部仏印進駐と対ソ武力発動準備を主題とする『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』が、御前会議の決定をみたのである。
『杉山メモ』は、「オ上ハ非常ニ御満足ノ様子ナリキ、オ昼食後一時半直チニ御裁可セラレタルモノナリ」と誌している。
26
翌七月三日、杉山参謀総長は参内上奏して、南部仏印進駐準備に関する大命の允裁《いんさい》を仰いだ。その際、次のような下問奉答があった。杉山総長の答が敬語になっていないのは、田中作戦部長の記録のせいであろう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
天皇 南部仏印進駐の見込に関する松岡外相の意見(外交による妥結の見込はほとんどないという意見――引用者)に就ては、統帥部としては如何に考えているか。
総長 松岡外相のいうようにむずかしいものではないように考えられる。即ち仏国仏軍は勿論敵にせず、又軍事占領でない平和進駐であることを明かにしたならば、勿論楽ではないが、話がつきはせぬかと期待しあり。武力進駐の場合にも応じ得なければならぬが、平和進駐を話合いでやるに就ては努力する積りなり。
天皇 いずれにしても努めて慎重にやることを望む。
総長 特に注意します。この件に就ては海軍及び外務側ともよく連絡し、万全を期する積りなり。(戦史叢書『大東亜戦争開戦経緯』(4)より)
[#ここで字下げ終わり]
同三日、南部仏印進駐準備の大命が発せられた。第二十五軍司令官・飯田祥二郎宛てに発せられた大陸命第五百二号がそれである。
この大陸命に基づいた参謀総長指示には、「仏印側カ我要求ニ応シタル場合ニ於テハ平和的ニ進駐シ之ニ応セサル場合ニ於テハ武力ヲ行使シテ進駐スルモノトス」と明示してあった。
進駐に関する日仏間の外交折衝は必ずしも円滑ではなかったが、七月二十一日、ダルラン副総理は加藤駐仏大使の来訪を求めて、日本の進駐申入れを正式に受諾した。
日本の「毅然たる態度」が無血進駐の功を収めたかに見えたが、実はこれが日本の転落のはじまりであった。
七月二十四日、ルーズヴェルト米大統領は野村大使に対して、仏印進駐の中止及び撤兵を前提として、各国が仏印の中立を保障し、自由かつ公平に仏印の物資を入手する「仏印中立化」の提案を行なった。
ルーズヴェルトはこの提案と同時に、日本軍が南部仏印に進駐すれば、米国国内の対日石油禁輸の輿論《よろん》を宥和《ゆうわ》することは困難になるであろうと述べている。これは、表現はさほどきびしくなくとも、日本がもし仏印において恣意的に利益を追求し、軍事拠点を確保するための実力行動を続行するつもりならば、アメリカとしては対抗措置をとらざるを得なくなるという重大警告であり、決意表明なのであった。
日本はルーズヴェルト提案を無視して、七月二日の御前会議決定の方針に基づき、七月二十八日に南部仏印へ上陸を開始した。
米国は七月二十五日に在米日本資産の凍結令を発した(二十六日発効)。つづいて、八月一日、対日石油輸出の全面禁止を行なった。
ルーズヴェルト政権は、これまで徐々に制限を加えてきていた対日経済関係に、最後の断を下したのである。
石油の全面禁輸という報復措置は、日本の政財界で予想し得ないことではなかった。それでいて、断行されて、愕然《がくぜん》としたのである。つまり、高を括《くく》っていたことになる。
日本が米英蘭等からの経済制裁を恐れながら、みずから経済封鎖を招くような国策を採用していたということは、相手方を甘く見ていたのである。対米英戦を辞せずと豪語する戦争国策を決定しながら、その戦争を養う石油と鉄とを、当の米国に依存していたことは既述の通りである。
米国の警告を無視して南部仏印進駐を実行すれば、どのような事態を予期せねばならぬか。予期せねばならぬことを予期せずして、野心を実行に移したときに、日本の運命は決ったのである。
この部分は、日米交渉を時間的順序を追って述べるときに、再び触れることにする。
七月二日の御前会議決定のもう一つの重大事項、対ソ戦準備は、『関特演』となって現われた。
独ソ開戦直前の極東ソ連軍の兵力は、狙撃三〇ケ師団、騎兵二ケ師団、戦車二七〇〇輛、飛行機二八〇〇機、潜水艦一〇〇隻、と日本側では推定していた。
先に述べた通り、対ソ武力発動は独ソ戦の推移如何に依ることで、極東兵力をヨーロッパヘ西送することによって、右の地上兵力が二分の一に、戦車と飛行機がそれぞれ三分の一に減少することが必要条件であった。
右のソ連兵力に対して、六月二十六日に参謀本部作戦課が立案した用兵規模は、第一段集中として一六ケ師団基幹態勢の整備、ひきつづいて、第二段第一次及び第二次集中として北支の二ケ師団及び内地の四ケ師団を満洲に集中し、二二ケ師団基幹、八十五万の兵力をもって対ソ作戦を遂行するというものであった。
極東ソ連領や満洲北部では、作戦に季節的制約がある。厳寒期に大軍団の作戦行動はほとんど不可能である。したがって、昭和十六年内に対ソ武力行使を行うとすれば、その作戦は結氷期の到来までに終了しなければならない。終了期限は概《おおむ》ね十月中旬である。
ソ満国境の重点地域、東部正面に作戦を発起するとして、ウスリー方面進攻作戦にどれだけの日数を要するかは、相手次第で決ることで、一方的には決められないが、参謀本部の希望的観測では、一カ月半乃至二カ月と見積られた。したがって、結氷期から逆算して、作戦開始は遅くとも九月初頭でなければならない。そこからまた、兵員・資材等の集中輸送に要する日数を逆算すると、開戦決意の最終期限は八月十日でなければならなかった。
八月十日に開戦を決意するには、七月五日に動員下令がなされねばならす、北方作戦専用の船腹八十万トンの徴傭が必要であった。
仮りに集中輸送のための諸条件が満されるとしても、開戦決意までに独ソ戦がドイツの早期勝利をもって終る見通しが確実でなければならず、先に述べた極東ソ連軍の兵力西送による減少が希望兵額に達しなければならなかった。
この他にも、日本が北方武力行使にあたって怖れていたことがあった。沿海州基地から発進するソ連爆撃隊による本土空襲である。用兵立案と同じ日、参謀本部第四課(防衛、防空)が出した判決によると、
「夜ナラハ十数機、昼ナラハ二、三十機ノ爆撃各数回ニテ東京ハ灰燼《かいじん》ニ帰ス」というのである。
これで対ソ作戦ができると作戦参謀たちは考えていたのかどうか。
事実は、陸軍は昭和十六年八月九日に、年内対ソ武力行使の中止を決定した。
独ソ戦の推移が日本の希望通りには進展しなかったし、極東ソ連軍の西送も日本が推測したほどには顕著でなかったし、大動員による兵員・物資の集中・輸送がペーパープランのようには円滑に捗《はかど》らなかったからであるし、米国から石油の全面禁輸をくらっては、大作戦による大消耗は躊躇《ちゆうちよ》せざるを得なかったからである。
27
日米交渉に関する審議は、『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』(南部仏印進駐と対ソ武力発動準備)のために中断していた。
既述の通り米国からの六月二十一日付提案とハル国務長官のオーラル・ステートメントは、六月二十三日に到着している。これが大本営政府連絡懇談会で審議されたのは、七月十日であった。
『国策要綱』が七月二日の御前会議で決定されるまでに数次の連絡懇談会を経てきたことは、既に見た通りである。南部仏印進駐の大命|允裁《いんさい》が七月三日、『関特演』の動員に関する允裁が七月七日である。その間、日米交渉に関しては全く触れられていない。
米国の六月二十一日案は、松岡外相がヨーロッパから帰国(四月二十二日)して、既に米国から到着していた「諒解案」(四月十六日付。四月十八日到着)の審議を忌避し、五月十二日になって正式な意思表示をした五月十二日案に対する対案であり、米国からの公式な第一案である。
両案を列記すべきかもしれないが、煩雑に過ぎるし、後述する七月十日の連絡懇談会での検討を引用すれば足りると考えられるので省略するが、日本側は米国の六月二十一日案を第一案とは思っていないところに問題がある。前にも述べたことだが、日本の最高指導部は、四月十六日案(「諒解案」)を、出先の作為によって、米側提案と思い込んでいたのである。国運にかかわる重大問題で、信じられないような錯誤が既にあった。
米側六月二十一日案は、のちに硬化することになる米案に較べると、防共駐兵問題や日支和平問題(満洲国問題を含む)について、かなり緩《ゆる》やかである。
松岡外相や斎藤良衛外務省顧問は、しかし、四月十六日案との比較において米側六月二十一日案の悪化と後退を咎《とが》めたのである。
七月十日の連絡懇談会は、外務省側の意見開陳に終始している。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
松岡外相 成ルヘク「ハル」ノ回答案ニ就《つい》テ取リ入レルヘキモノハ取リ入レテ見ヤウト考ヘテ見タカ、結局本案(六月二十一日案)ハ最初ノ案(日本側が米側提案と錯覚した四月十六日案)ヨリ悪イ。野村電ニヨレハ、仲々ニヤリニクイ故、何トカシテキマルモノナラ考ヘ直シテ成立テキルヤウニシテクレト言ツテヰルカ、ドウモ此案テハ六ツカ敷イ。
以下斎藤顧問ヲシテ説明サセル。
斎藤顧問 研究ヲシテ見ルト色々左記ノヤウナ点テ本案ハ受ケ入レラレナイトコロカ多イ。
第一 今世界ハ現状維持ト現状打破、民主主義ト全体主義カマンジ巴《どもえ》ニナリテ戦ウテヰル。
「ハル」ノ回答案ハ現状維持テアリ民主主義テアル。「アメリカ」カ英国及支那ト協議シテヤツタコトハ申ス迄モアルマイ。斯《か》クシテ現状維持国カ一致シテ日本圧迫ニ乗リ出スモノト思フ。日支間ノ交渉ニ就テモ「アメリカ」ノ考ヘテヰルコトハ事変前ノ形ニ返《か》ヘシテ交渉サセヤウトスルニアル。
[#ここで字下げ終わり]
日支問題についてのアメリカ案に関して、斎藤顧問は悪意の解釈をしているように見受けられる。米案では「合衆国大統領ハ支那国政府及日本国政府カ相互ニ有利ニシテ且受諾シ得ヘキ基礎ニ於テ戦闘行為ノ終結及平和関係ノ恢復《かいふく》ノタメ交渉ニ入ル様支那国政府ニ慫慂《しようよう》スヘシ」となっており、附属書の二の防共駐兵に関しては「今後更ニ討議決定スヘシ」とあり、同五では「出来得ル限リ速カニ且日支間ニ締結セラルヘキ協定ニ遵《したが》ヒ支那領土ヨリ日本ノ武力ヲ撤退スヘキコト」となっている。のちに日米交渉が難航してからは全面撤兵が正面に出て来るようになるが、少くともこの時点(六月二十一日案)では、斎藤の解釈は外交的には過早な気のまわし過ぎである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
此案中「支那政府」トイフ字句ヲ使ツテヰルカ「クセモノ」テアル。コレハ日支基本条約(汪兆銘の南京政府承認)ヲ取リ消セトイフノト同シタト思フ。南京政府承認ノ取消シハ、瀕死《ひんし》ノ重慶ヲ回生セシメルコトニナル。此ノ「支那政府」トイフ言葉ヲ克《よ》ク吟味《ぎんみ》シテ検討スルヲ要スル。
[#ここで字下げ終わり]
日本が戦争している相手は重慶政権下の中国であるから、それとの和平を論ずるときに米国が「支那政府」といえば、重慶政府を指すのは当然である。南京否認に関しては米側提案が一言も触れていないうちから、そのことをあげつらうのは、はじめから日米交渉をぶちこわそうとするにひとしい。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
第二 満洲ハ支那ニ復帰スヘキモノテアルト考ヘテヰル。
[#ここで字下げ終わり]
米案の附属書の八には「満洲国ニ関スル友誼《ゆうぎ》的交渉」とある。結果的にはどうなるにもせよ、この時点で「友誼的交渉」とあるものを悪意に解釈する必要はなかった。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
本案ハ要スルニ日満支ノ共同宣言ヲ白紙ニモトシテ日支交渉セヨトイフテヰル。
重慶カ失地回復ヲ目的トシテヰル際、コンナ考ヘテ交渉ヲ始メタラ始メカラ逆転スルニ決ツテヰル。
第三 治安駐兵ヲ認メテヰナイ。無条件撤兵ヲ目標トシテヰル。
[#ここで字下げ終わり]
長い日米交渉の過程で、日本側の頑強な既成事実の固執に対応して硬化した米側の主張は右の通りになるが、六月二十一日案の時点では、先に記した通り、字句表現の限りでは斎藤の解釈のようにはなっていないのである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
治安駐兵ハ帝国ノ国策トシテ最モ重大ナル要求テアル。無条件撤兵セハ事実問題トシテ、支那ハ共産党、国民党、国民政府、重慶側カ争闘シテ非常ニ紊乱《ぶんらん》シテクル。カクナレハ英米カ介入シテクルコトニナル。従ツテ無条件撤兵モ亦《また》交渉ノ行詰リヲ招来スル。
第四 防共駐兵ヲ非《ママ》認シテヰル。
日本案ハ今日迄ノ条約ヲ生カシテ行カウト努メテヰルニモ拘ラス、米国ハコレヲ削ツテカカロウト考ヘテヰル。防共駐兵ヲ「アメリカ」カ認メテヰナイコトハ「ハル」ノ「ステートメント」中ニアラハレテヰル。
[#ここで字下げ終わり]
ハルのオーラル・ステートメントに関しては、斎藤発言の末尾にあるので、そこで触れることにする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
第五 日本ハ日支ノ完全ナル提携ヲ企図スルニ対シ、米国側ハ無差別待遇ヲ主張シテヰル。
コレテハ東亜新秩序ノ建設ノ如キハ不可能テアル。英米ハ今日迄援蒋行為ヲ続ケ、支那ニ於テ将来有利ナル地位ヲ確立シヤウト考ヘテヰル。全面和平ノ時、今日ノ特権ヲ基礎トシ全支ニ亘リ全世界金ノ八割ヲ保有スル米国ノ「弗《ドル》」ノ力カ蔓《はびこ》ルコトトナル。
[#ここで字下げ終わり]
日本が日支の完全なる提携を企図していたか否かは、満洲事変の発端から日中戦争への全過程が証明を与えている。満洲国を造り、冀東《きとう》政府を作り、南京政府を樹てた一連の日本の工作は、日本と傀儡《かいらい》政権との「完全なる提携」を企図したものであった。
米国が主張する中国における機会均等に日本が反対するのは、日本が中国を独占したいからであり、それ故に日本は中国からの撤兵に頑強に反対し、それが最後的に日米交渉を破綻へ導くことになる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
第六 日支和平交渉解決ノ根本ヲ、日米両国間テ決メ、其範囲内テ日支直接交渉ヲサセヤウト考ヘテヰル。即チ東亜ノ指導権ヲ「アメリカ」ニ譲ルコトニナル。帝国ノ自主的国策ノ遂行ヲ妨害スルコトニナリ、支那問題ニ対シ口ヲ入レサセル権利ヲ米国ニ与ヘルコトニナル。
[#ここで字下げ終わり]
日本が満洲事変を陰謀によって発起したとき(昭和六年=一九三一年)、米国は深刻な経済恐慌の影響からまだ立ち直っていなかった。したがって、太平洋の彼岸の問題は、謂《い》わば対岸の火事であったのである。十年後、事情は全く異っていた。米国は反ファシズムのための「世界の兵器廠」たらんと決意するに至っていたのである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
第七 欧洲戦争ニ対スル日米両国ノ態度ニ就テハ大イニチカフ。
換言スレハ米国ハ参戦スルカ、日本ハ黙ツテ居ロトシカ見エヌ。「アメリカ」ハ自衛権ニ付テハ非常ニ広イ解釈ヲシテヰル。又日本ニ対シ三国条約ヨリ脱退セヨト云ハヌバカリノコトヲ述ヘテヰル。
コンナ考ヘハ当然否定セネハナラヌ。
第八 日米間ノ貿易ニ付テハ、事変(日中戦争)前ノ額ニ釘附ケシヤウト考ヘテヰル。
要スルニ現状維持(日本やドイツの謂う世界新秩序の反対概念)ノ頭カハツキリシテヰル。
(以下略)
第九 略
第十 略
第十一 日米移民問題ニツヰテハ、此前ノ案(日米諒解案)テハ他国ノモノト同シヤウニスルト言ツテヰルケレトモ、此度ノ案テハ削ツテヰル。
第十二 「フイリツピン」ノ独立ニ関シテ提議シタケレトモ、「フイリツピン」ハ未タトテモ独立サセル程度迄発達シテヰナイトアツサリ取扱ツテヰル。
殊ニ「ハル」ノ「ステートメント」ハ言語|同《ママ》断ノ言葉使ヒテアル。「防共駐兵ヲ考ヘル余地ナシ」トカ「日本政府内ニハイロイロト意見カ別《ママ》レテヰル。枢軸側ニ立チテ『ヒ』(ヒトラー)ト共ニ戦フヲ可トスル閣僚カヰルソウタカ、ソンナ日本政府ト協定ハ出来ヌ。日米国交調整ヲ計リタケレハ内閣ヲ改造セヨ」トイフカ如キ、日本ヲ馬鹿ニシタ態度テアル。自分モ長イ間外交官生活ヲシタカ、コンナ言ヒ分ハ対等ノ国ニ対スル言葉使ヒテナクシテ、保護国又ハ属領ニ対スル態度テアリ、不都合千万テアル。
[#ここで字下げ終わり]
ハルのオーラル・ステートメントが誰が見ても松岡とわかる人物を非難していることは事実だが、このオーラル・ステートメントと六月二十一日米国案に関して懇談会の席上でその問題点を列挙した斎藤顧問の表現方法は、明らかに感情的に過ぎるきらいがある。
ハルが交渉相手として松岡を忌避していたとしても、会議の席上斎藤顧問が「日米国交調整ヲ計リタケレハ内閣ヲ改造セヨ」というような披露の仕方をするのは、行き過ぎというものである(事実は、数日ならずして、第二次近衛内閣は松岡を排除するために総辞職するのだが)。
ステートメントは、次のように述べている。
「……斯《かか》ル指導者達カ公ノ地位ニ於テ斯ル態度ヲ維持シ、且公然ト日本ノ輿論《よろん》ヲ上述ノ方向ニ動カサント努ムル限リ、現在考究中ノ如キ提案(日米交渉)ノ採択カ希望セラルル方向ニ沿ヒ、実質的結果ヲ収ムルタメノ碁礎ヲ提供スヘシト期待スルハ、幻滅ヲ感セシムルコトトナルニ非スヤ」
さらに、斎藤顧問が「防共駐兵ノ余地ナシ」と表現している部分は、次のようになっている。
「日本側提案中疑惑ノ他ノ原因ハ、支那国政府トノ和平解決ノ条件中ニ共産運動ニ抗スルタメノ支那トノ協力措置トシテ、内蒙及北支ノ一定地域ニ於テ日本軍隊ノ駐屯ヲ認ムヘキ規定ヲ挿入セシメントスル日本国政府ノ要望ニ関スルモノナリ。
本政府ハ(中略)合衆国カ堅持スル自由主義的諸政策ハ、米国政府ヲシテ之等ノ政策ト矛盾スルカ如ク思ハルル如何ナル進路ニモ同調スルヲ許ササルモノト思惟ス。(以下略)」
斎藤が「言語同断ノ言葉使ヒ」という箇所は、外交的表現としては当然と思われる用語法である。
松岡と斎藤には、列席者に対米不快感を抱かせようとする意図があったのかもしれない。
斎藤につづいて、松岡外相が左記のように発言している。
28
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
松岡外相 斎藤顧問ノ報告ト大体同意見テアルカ、一、二ノ考ヘヲ申シ述ヘル。
第一「ハル」ノ「ステートメント」ハ乱暴千万テ、帝国カ対等ナル外交ヲ行フ様ニナツテ以来未タ嘗《かつ》テナイコトテアル。
野村ハ自分ト親シイ間柄テアルカ、コンナ無礼千万ナル「ステートメント」ヲ取継クカ如キハコレ亦不届千万テアル。
内閣改造ノ如キヲ、世界的ニ強大ナル日本ニ対シテ要求シタノヲ、黙ツテ聞イテヰルトハ実ニ驚キ入ツタ次第テアル。ソコテ早速自分カラ「君ハアンナ『ステートメント』ハ取継クヘキテハナカツタト思フカ、何カ錯覚ハナカリシヤ、当時ノ情況知ラセヨ」ト言ウテヤツタ次第タカ、何ノ返事モナイ。
[#ここで字下げ終わり]
野村大使から何の返事もないというのは、事実に反している。野村からは六月二十五日に松岡宛てに釈明電が打たれているし、松岡からも折り返し返電が打たれている。「何ノ返事モナイ」と会議の席上で言っているのは七月十日であるから、故意にそう言っているとしか考えられない。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
第二 三国同盟ノ抹殺ハ出来ヌ。
第三 「アメリカ」ノ案ヲ容レルコトハ大東亜新秩序建設ヲユスルコトテアリ、事極メテ重大テアル。
第四 日支間ノ解決ヲ英米カ手ヲ代ヘ品ヲ代ヘ口ハシヲ入レテヤラウト考ヘテヰルモノト思フ。尚不愉快ナノハ、国民中ニモ日清日露|媾和《こうわ》談判ノトキ「アメリカ」ハジメ第三国ノ世話ニナツタコトヲ例ニシテ、三十年後ノ帝国ノ地位ヲ忘レ、東亜ノ指導権ヲ確立セントシ四年間モ戦ヒ抜イテ来タ今日此ノ際、尚且第三国ノ世話ニヨリ媾和ヲシタ方カヨイト考ヘテヰルモノカアルコトテアル。俗ニ云ヘハ支那事変ヲ持テ余シテ、自分ノ理想ヲ打チ忘レ、「花ヨリ団子」トイフ考ヘヲ抱クモノカ相当アルノカ不愉快ニ思フ。
「アメリカ」ハ「アイスランド」ヲ占領シタ。当然参戦モ同様テアルニ拘ラス、目ヲ掩《おお》ウテ参戦ニアラスト云ツテヰル。貿易テモ現状ヲ維持シ事変前ノ形ニモトセハ、日本ノ経済的発展ヲ望メナイノハ眼ニ見エル。要スルニ「アメリカ」ハ日本ノ東亜ノ指導権ヲ抹殺シヤウト考ヘテヰル。コンナコトテグズグズシテヰルト、結局日本ノ云フコトヲ取リ上ケテ日本攻撃ノ材料ニ取入レサセルタケテアル。其中ニ上院アタリテ勝手ナ質問ヲ発スルコトトナリ、日本国内ヘノ影響モ亦大テアル。
右ノ次第テアル故、自分ハ「ハル」案ヲ受ケ入レルコトハ出来ナイ。何トカシテ話合ヲツケタイト思フカ、|到底成功ノ見込ナシ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。元来「アメリカ」ハ日本案ヲ四十日モ放置シタ。コンドノ案カ来タノハ六月二十二日タカラ、マタ二週間ニモナラヌノニ、野村ハ四五度モ催促シテ来ル。交渉ヲ此|儘《まま》ズルズルノバスノハノバシテモヨイカ、|先方ノ言分ヲ受ケ容レルコトハ絶対出来ナイ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
(以下略・傍点、句読点引用者)――(以上『杉山メモ』)
[#ここで字下げ終わり]
会議は、米側六月二十一日案とハルのオーラル・ステートメントをさらに七月十二日に検討することにして、散会した。
七月十日の懇談会で重要なことは、松岡外相が傍点部分のような断定的発言をしたことである。松岡は腹心の斎藤顧問を帯同して会議に臨み、日米交渉反対の態度を露骨に示したが、これが翌々十二日の連絡懇談会では、松岡からの日米交渉打切りの提議となる。
日米交渉の前途には俄《にわ》かに険しい気配が漂いはじめた。
政局もまた急激にゆらぎはじめた。野心的国策は実行したい、それと矛盾する日米交渉もなんとか纒《まと》めたい、というのがこの時点での日本の政治の願望であったから、日米交渉反対の松岡の存在は有害無益となったのである。
近衛首相は、松岡外相をもてあまして、七月十日の夜、陸海内三相と密かに松岡問題を凝議した。
29
昭和十六年(一九四一年)七月十二日の連絡懇談会は、松岡洋右が外相として出席した最後の会議となった。このあと、松岡更迭のための政局急変が起きるのである。
十二日懇談会での松岡外相の発言は、左記の通りだが、前々日の発言よりさらに感情的になっているだけで、論旨を深める努力は全然見られない。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
外相 前回云フタ事テ尽キテ居ルカ、更ニ附言スレハ、「ハル」長官ノ「オーラル・ステートメント」ハ、読ンダ時ニ実際ハ直ニ返スヘキモノデアル。実ニ言語|同《ママ》断ナリ。十日間考ヘタガアノ様ナ「ステートメント」ハ、米国ガ恰《あたか》モ日本ヲ保護国乃至ハ属領ト同一視シ居ルモノニシテ、帝国ガ之ヲ甘ンゼサル限リ受理スヘキニアラス。拒否ノ理由ハ明瞭ナリ。我輩ガ外相タル以上受理出来ヌ。「ステートメント」以外ハ考ヘルコトハ出来ルカ、「ステートメント」ノ受理ハ出来ヌ。米人ハ弱者ニハ横暴ノ性質アリ。此ノ「ステートメント」ハ帝国ヲ弱国属国扱ヒニシテ居ル。日本人ノ中ニハ我輩ニ反対シ、総理迄モ我輩ニ反対ナリナドト云フ者ガアル。此ノ様ナ事テ、米国ハ日本カ疲レ切ツテ居ルト考ヘテ居ルカラ、此ノ如キ「ステートメント」ヲヨコスノダ。我輩ハ「ステートメント」ヲ拒否スルコトト、|対米交渉ハ之レ以上継続出来ヌコトヲ茲ニ提議スル《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。(以下略・傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
松岡は癇癪玉を破裂させた。それと同時に、実質的には、彼の政治生命はこの瞬間に絶えたのである。
座はしらけて、沈黙がつづいた。
近衛総理は論議を進めようとしなかった。沈黙を破ったのは杉山参謀総長である。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
参謀総長 外相ノ意見ニハ自分モ同感ナリ。然《しか》レトモ軍部トシテハ南方ニハ近ク仏印ノ進駐アリ、北ニハ関東軍ノ戦備増強ト云フ重大ナル事態ヲ直後ニ控ヘテ居ル。此ノ際米ニ断絶ノ様ナ口吻ヲ洩ラスノハ適当デハナイ。交渉ノ余地ヲ残スヲ妥当トス。
外相 日本カ如何ナル態度ヲ取ツテモ米ノ態度ハ変ラヌト思フ。
米国民ノ性格ヨリ弱ク出ルトツケアガル。故ニ此ノ際強ク出ルノヲ可ト思フ。
内相 此ノ際帝国ハ何ントシテモ米ヲ参戦セシメヌコトガ大事ナノデアル。本来ナレハ日米共同シ、今日ノ戦争ヲ打切ルコトガ宜シイト思フ。然ルニ此ノ儘《まま》ドンドン進ンデ行ケバ、五十年百年モ戦争ハ続クカモ知レヌ。外相ノ常ニ云フ日本ノ大精神|八紘一宇カラ云フナレバ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|戦争ハセヌガ宜シイ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
日本ハ全体主義ニモアラス、自由主義ニモアラス、|理想カラ云ヘバ今ノ戦争ヲ世界カラ除クコトガ皇道主義テアルト思フ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
[#ここで字下げ終わり]
内相平沼騏一郎の発言は、右の傍点部分と後段の傍点部分とで、思想的に全然首尾一貫しない。都合次第で理想など弊履の如くに打ち捨てる。これは独り平沼に限らないことではある。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
米ニハ分ラヌカモ知レヌガ、戦争ヲ止メルコトガ日本ノ真ニ取ルヘキ事テアツテ、米ヲシテ其ノ様ニ仕向ケルコトガ日本ノ取ルヘキ態度デハナイカ。此ノ精神ノ下ニ米ヲ説イテハ如何。
[#ここで字下げ終わり]
戦争国策を御前会議で決定し、全面的に採用した国が、どのような論法で他国に戦争の非を説くというのであるか。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
外相ノ云フ如ク米ノ参戦カ必ス然リト云フナレバ、私ノ云フコトハ絶望ナルモ、外相ハ「ルーズヴェルト」ガ引パルカラ国民ガツイテ行クト云フガ、米人中ニハ戦争反対ノモノモ居ル。日本ノ皇道精神ノ様ニ持ツテ行キ度イ。外相ノ云フ様ニ「オーラル・ステートメント」ニ反撃ヲ加ヘルコトハ宜シイカ、交渉ニ就《つい》テハ望ミ薄カモ知レヌガ、右ノ考ノ下ニ努力シテモラヒ度イ。尤《もつと》モ大帝国ノ面目ヲ失セサル如ク骨ヲ折ツテモライ度イ。外交ハ外相ノ責任ナルコト申ス迄モナキコト乍《なが》ラ、之ヲ一筋ニスル必要アリ。之ヲ此ノ儘ニ投ゲウテハ腹背皆敵トナリ、物資ハ欠乏シ、大戦争ノ遂行ハ出来ヌダラウ。
「ソ」ヲ打タネバナラヌガ、現今ノ時勢テハ難シイ。他日ハヤラネバナラヌ。南方モヤラネバナラヌカ、一時ニ之ヲヤルワケニハ行カヌ。|日本ノ現在ノ状態テハ物ヲ取リ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|国力ヲツケル必要アリ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|国際信義ハ固ヨリナルモ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|帝国ノ生存上ヨリスレハ已ムヲ得ナイコトモ考ヘラレル《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。陛下ノ赤子トシテ輔弼《ほひつ》ノ為ニハ宸襟《しんきん》ヲ安ンジ奉ル必要アリ。今ノ人カ悪イノナレバ之ヲ代ヘテモ参戦ヲ止メサシテモ宜シイテハナイカ。(傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
内相が前段で言う皇道主義なるものは、後段では変幻自在である。国力をつけるためには外国から物を取る必要があり、これが国際信義上問題であるとしても、「帝国」の生存のためにはやむを得ない、これが「今ノ戦争ヲ世界カラ除クコトガ皇道主義テアル」ことの別の姿なのである。
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外相 全部内相ニ同感テアル。(中略)
「ルーズヴェルト」ハ非常ニ「デマゴーグ」ナリ。恐ラク米ノ参戦ヲ止メサセルコトハ到底出来ヌダラウ。帝国ハ三国同盟ヲ一貫シテ進ンデ来テ居ル。而《しか》シ最後迄努力ヲ続ケマセウ。(中略)日本ノ中ニハ分ラズ者ガ居ツテ、国家ノ為ニ尽ス積リナノカ自分ヲ誹謗シテ居ル。自分ハ若イ時カラソウ云フヤツダト思ツテ居ツタ。ソイツラハ総理以下モ俺ノコトヲ悪イヤツト思ツテ居ルト想像シテ居ルニ違イナイ。
[#ここで字下げ終わり]
松岡はいまや感情激して支離滅裂である。国策を論ずる席上で松岡個人の感情を持ち出すのは筋違いだが、そうせずにはいられない性分なのである。
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陸相 望カナクトモ最後迄ヤリ度イ。難シイコトハ知ツテ居ルカ、大東亜共栄圏建設、支那事変処理、之カ出来ナケレバ駄目テアツテ、三国同盟ノ関係カラモ米ノ参戦ノ表看板ヲ表ニ掲ケサセヌコトタケテモ出来ヌカ。勿論「ステートメント」ハ国体ノ尊厳ニ関スル事故、外相ノ判断通リ拒否スルハ已ムヲ得ヌト思フ。而シ乍ラ日本人トシテ正シイト思フ事ヲ真ニ伝ヘレバ、精神的ニ気持カ移ルノテハナイカ。
外相 日本ニ其ノ位ノ事ヲ平気デ云ウテ居ル位ダカラ、拒絶シテモ大シタコトハナイ。
海相 海軍情報ニ依レハ、「ハル」長官等ハ太平洋ノ戦争ニハ持ツテ行クマイト云フ考ヘガアルラシイ。日本ハ太平洋戦争ヲセヌ様ニ考ヘテ居ルカラ、ソコニ本施策ヲヤル余地ガアリハセヌカ。
外相 何カ余地ガアリマスカ。ドウ云フ余地ガアリマスカ。何ヲ入レマスカ。
海相 マー小サイ事ダ。
外相 南ニ兵ヲ使用セヌト云フナラバ聞クダラウカ、外ノ事テ何カアリマスカ。
海相 太平洋ノ保全、支那ノ門戸開放等テ入レルコトガアリハセヌカ。
外相 今度ノ案ハ第一案(日本側が米国側第一案と誤解した四月十六日「諒解案」を指す)ヨリ改悪故、之ヲ引キモドスコトハ困難テアル。日本組ミシ易シト思フカラ此ノ様ナ手紙ヲヨコシタノテアル。原案ヲ堅持シテ交渉ヲ続ケルナラバ、蹴ツテ蹴ツテ蹴リノメサレテカラ止メル様ニナルダラウ。
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引きつづいてのことと思われるが、松岡外相は寺崎アメリカ局長に、ハルのオーラル・ステートメント拒否の電文をうまく書けと命じた。寺崎アメリカ局長が、うまくは書けませんと答えると、松岡外相は、俺がちゃんと考えている、斎藤(顧問)の文案をうまく直して書くのだと指示した。
『杉山メモ』によれば、会議はこれで終り、以下の対話は会議後のことになっているが、列席者は全部揃っているようである。杉山参謀総長の言っていることが無視できない事柄なので、引用をつづける。
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参謀総長 仏印ノ話ハ十四日ニ交渉開始スルニアラスヤ。故ニ余リ早ク米ニ対シ拒否(オーラル・ステートメントを)スルコトハ、米ヲシテ興奮セシメルコトニナル。「ヴイシイ」(親独フランス政府)カ日本ノ交渉ニハ不同意デアラウ。此ノ様ナ事ニナレハ米カ仏印ヲ抱キ込ム余裕ヲ与ヘルコトニナル。早ク「ヴイシイ」ニ手ヲ打チ、最後通牒ノ交渉ニ移ツタ時《ママ》後ニ、米ニ返事ヲ出ス様ニシテハドウカ。
外相 アマリ不埒《ふらち》タカラ直ク拒絶シタイト思ヒ、又野村カラ何度モ催促シテ来テ居ルカ、マー考ヘマセウ。
軍令部総長 松岡《ママ》君(以下の文脈から判断すると、この呼びかたは杉山に対してであろう)、日本カ何ヲ云フテモ態度ヲ変ヘヌト云フノナレハ、外務大臣ノ云フ通リヤツテモ宜シイテハナイカ。
岡軍務局長 何ボカデモ努力スルト云フナラバ宜シイガ、総長閣下ノ様ニブツツリト止メルト云ハレテハ、下ノ者ハ仕事ヲヤル熱ガナクナルデハアリマセンカ。
軍令部総長 ソレモソウダ。
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岡局長は、永野総長が癇癪を起こしている松岡外相に同調するようなことを突然言い出したので、あわてて押えにかかったのである。前々日の陸海軍部局長会議では、対米交渉をつづけることに意見が一致し、共同意見の文案が出来ていたからであった。
近衛首相は、この十二日懇談会では、終始一言も発しなかった。察するに、逆上気味の松岡に手を焼き、松岡更迭の方法を考えていたのであろう。
30
会議後、富田書記官長、武藤、岡両軍務局長、寺崎外務省アメリカ局長、斎藤外務省顧問が、協議の結果、対米日本側第二次案を作成した。松岡外相の同意を得られれば直ぐにも発信の段取となったが、松岡は病気と称して成案を見ようとしなかった。
松岡の病気はまんざら嘘ではなかったであろうが、松岡を訪問した武藤軍務局長(十三日、日曜日のことと思われる。岡海軍軍務局長も同道したらしい)は、石井大佐に、「松岡外務大臣は病気だというのに、行ってみるとオットー(駐日ドイツ大使)とむつまじく話していたよ」
と語ったという。
武藤局長らは、松岡の病気見舞を兼ねて、対米第二次案の促進のために行ったのである。当然、松岡に対する陸海軍の感情は険悪になった。
結局、七月十四日になって、松岡の修正意見を織込んだ第二次対案が出来上った。
十二日の懇談会から僅《わず》か二日間のことだが、松岡の感情的でしかも不遜な態度は、彼の政治生命を決定的に縮め、そのあとの二日間で政局の急変を見ることになる。
ようやく出来上った日本側対案と六月二十一日米国案(米側第一次案)とは、次の諸点で異っていた。
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一、米国側に受入れられ易いように「適当なる時機至る時は」という条件付きで、日米共同して欧洲戦争の速かなる終結に努力する、という一項を復活させた点。
二、三国条約に関しては「若《も》し不幸にして欧洲戦争が拡大せらるる場合に於ては、日本国政府は条約上の義務を遂行し、且つ自国の福祉と安全を防衛する考慮に依りてのみ其態度を決すべし」と修正した点。
三、支那問題の項に於ても近衛原則を全体として謳い、米国の嫌う「南京政府」の名を挙げることは避けたが、「蒋政権」に米国が和平勧告することを明記した点。
四、日支和平条件は再び削除した点。
五、日米経済的協力を特に必要とするのは南西太平洋であるからという理由の下に、再び太平洋全域を「南西」太平洋と改めた点。(以上近衛文麿『平和への努力』より)
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松岡を除く首脳陣は、この日本側対案が速かに米国へ送られるものと思っていた。ところが松岡外相は、まずオーラル・ステートメント拒否の訓電を発してから、二、三日後にこの対案を送るべきである、と主張した。つまり、ハルのオーラル・ステートメントは無礼千万な文書であるから、米国政府がこれを撤回しない限り、日本は諒解案の審議を進められない、という建前論である。
近衛や陸海軍は、拒否の訓電だけを送ったのでは、今度はまた米国の悪感情を激発して決裂に導く虞《おそ》れがあるから、拒否訓電と同時に日本側対案をも発電する必要がある、と強硬に主張した。
斎藤顧問を除く対案作成者たちは、十四日終日、同時発電のために奔走した。
近衛は、十四日午後八時、松岡外相の使として来た斎藤顧問に、同時発電の必要を説き、斎藤は了承して辞去したことになっている。
近衛は肝腎な念の押し方が足らなかったのではあるまいか。それとも斎藤顧問の不諒解か、面従腹背か。十四日午後十一時半、オーラル・ステートメント拒否訓電だけが発電された。それも、牛場首相秘書官の記録に成るものと思われる覚書によれば「斎藤顧問ヨリノ命ニ依テ右野村大使宛訓令ノミ発電セル事実発見セラル」とある。
対案の方は、寺崎アメリカ局長が非常手段に訴えて、外相に無断で、十五日午前、アメリカ向け発電する処置をとったが、驚いたことに、松岡外相はそれ以前に、坂本欧亜局長に命じて、その対案をドイツヘ内報させていたのである。
松岡洋右はアクの強い個人プレーを好む人物ではあるが、このところ感情的になり過ぎて、気違いじみている。
七月十五日、外相欠席の閣議終了後、近衛首相は内務・陸・海三相と松岡問題で協議した。松岡罷免には誰も異論がなかったし、方法としては外相更迭か総辞職しかないわけであるが、松岡一人だけを辞職させることは、ハルのオーラル・ステートメントが日本にそれを強要したことになって好ましくないので、戦時態勢強化の名目で総辞職する方が良いという意見が出て、翌日再び協議することになった。
翌七月十六日、右の四相に企画院総裁が加わって、目白別邸で密議の結果、総辞職に意見が一致し、午後六時半、突然臨時閣議を召集し、辞表を取纒《とりまと》めた。病欠の松岡外相には富田書記官長が出向いて、辞表を受取った。松岡は寝首を掻かれたような気がしたであろう。大いに不満の色を示したというが、仕方なく印鑑を書記官長に預けて進退を一任した。
近衛は午後八時五十分、葉山で辞表奉呈した。第二次近衛内閣は終ったのである。
松岡は政治的には頓死したが、彼がスター然として拓《ひら》く運命を担った日本のコース、枢軸の側に立ち、新秩序を掲げて米英と対決する方向は残った。
松岡は、基本的には軍部の意志の執行人であるに過ぎなかった。近衛も同様である。近衛が公家然として担がれてそうなったのに対して、松岡はみずから演じてそうなった違いがあるだけである。
松岡が軍部が敷設した軌条の上を走る限りにおいて、彼が傲慢なスターを気取っても、軍部は彼の演技を忍耐して観ていたのである。彼が軍部の設計を無視して、ドイツヘの過度の信頼を己れの力倆と錯覚して、軍部が敷設した軌条の外を暴走しようとするに至っては、彼はもはや有害無益な存在なのであった。
松岡は、直観による、部分的には正確な予見能力を持っていた。だが、冷静に他国との、あるいは他国間の、力関係を計測し、目的と手段とを混淆《こんこう》することなく事態の推移を考究する能力には乏しかった。
ドイツ熱にうかされたのが、何よりのその証拠である。
彼は危機を予見しながら、破局へと国民をいざなう役割を演じた。彼は彼を花形役者として舞台へ押し上げた人びとによって、舞台から突き落されたのである。
昭和十六年七月十九日、松岡は「坊主めが行倒れたり梅雨の旅」の一句を残して、霞ヶ関を去った。
31
七月十七日(昭和十六年)、組閣の大命は再び近衛文麿に降下した。
組閣の完了は翌十八日夕刻。夜八時五十分親任式、第三次近衛内閣成立、同夜九時四十五分初閣議がひらかれた。
第三次近衛内閣の特徴は、松岡洋右の代りに外相の椅子に海軍大将豊田貞次郎を据えたことである。豊田は海軍次官を務めた前歴もあり、第二次近衛内閣では商工大臣の地位にあって、物資問題に明るかった。読者は記憶しておられるであろう、七月一日の連絡懇談会(七月二日御前会議のための最後の連絡会議)の席上、「陸海軍カ戦争ヲヤルコトニナレバ物ノ見地カラ国力ハナイモノト思フ」と発言した人物である。
近衛は豊田を外務大臣に据えて、日米の衝突を回避しようとしたのである。近衛のこの意図はよかったが、これ以前にも、この後においても、近衛が政局に対して指導力を発揮しようとする情熱は稀薄であった。
このときの政変の意味は、明らかに、松岡外相を排除して日米国交調整を促進しようとすることにあった。
それが、何故か、ワシントン駐在の野村大使には明瞭に反映しなかった。政変の意図を米国側に伝えることに関しては、無策であった。もっとも、野村がその意図をなんらかの手段によって米国側に伝えたとしても、米国の態度が軟化したであろうとは考えられないことである。近衛が考えたように、新内閣の成立と共にその好印象が直ちに米国に伝わり、交渉が従来の曖昧《あいまい》な空気を一掃して快適な歩調に移るであろう、というのは甘過ぎたと言わざるを得ない。何故といって、日本と米国とでは、政治思想と政治原則の根本的な対立を既に明らかにしていたからである。
米国側六月二十一日案に対する日本側対案が七月十五日に打電されたことには、既にふれたが、ワシントンの日本大使館がそれを米国側に提示していないことが、七月二十二日の野村大使からの電報で判明した。提示しなかった理由は、内閣更迭があったことと、日本側対案が米国側には受入れられないだろうと野村大使が判断したからであるという。
七月二十三日になって、野村大使は本国へ「至急新内閣の対米方針を御内示相成度」と請訓した。
何か重要事務の歯車が、本国でも、出先でも、本国と出先との間でも、狂っている感じがある。
その狂いは、重大な事態を惹起《じやつき》した。
七月二日の御前会議で決定した南部仏印進駐の時期が迫っていた。日本軍の動員によって、南西太平洋にはただならぬ戦雲が漂うかのようであった。米国がそれを諜知しないはずがなかった。米国政府当局の日本に対する態度の硬化は決定的となった。
七月二十四日東京着の野村大使の電報によると、米国では、従来の日米会談は東京側によって「トピードー」(破壊)されるであろう、また日本は同盟国に対して、日米国交調整の試みは南進準備完了までの謀略であると説明している、という説が支配的となっていた。(近衛前掲書)
日本では新聞が反米的風潮を煽《あお》り立てていた。ABCD包囲陣(Aはアメリカ、Bはブリテン、Cはチャイナ、Dはダッチ)という言葉が巷間意識的に多用されて、孤立した悲壮感をかもし出し、武力政策を正当化しようとしていた。
七月二十一日、病気中のハル長官に代ってウエルズ次官が、野村大使代理の若杉公使を招き、警告を発した。
「情報によれば日本は最近仏印を占領する模様であるが、かくては従来の会談は無用となる」
二十三日、ウエルズ次官は野村大使とも会談し、重大申入れをした。
「従来米国は能《あた》ふ限りの忍耐を以て日本と会談して来たが、今となつては最早会談の基調は失はれるに至つた」(以上近衛前掲書)。七月二十四日、野村大使はひそかにルーズヴェルト大統領と会談したが、大統領は仏印問題は致命的な重大事であるとして、次のような提議をした。
一、仏印より(もし進駐後ならば)日本軍の撤退を条件として
二、日、米、英、蘭、支による仏印中立化の共同保障
三、仏印の物資獲得保障
時間は日本側の対応を待っていなかった。
七月二十三日、日・仏印間に南部仏印進駐の細目協定成立。(仏印は屈伏したのである。七月二十八日、日本軍南部仏印上陸開始)
七月二十五日、米国、在米日本資産の凍結を発令。
二十六日英国、二十七日蘭印も日本資産を凍結した。
七月二十八日、蘭印、日蘭石油民間協定を停止。
八月一日、米国、対日石油全面禁輸。
事態は急速に絶望状態に近づいた。
近衛内閣は七月二十四日の米大統領の提案を唯一の手懸りとして、日米交渉再開のために連続的に連絡会議をひらくことになる。
だが、第三次近衛内閣成立後の初の大本営政府連絡会議で、永野軍令部総長が珍しく重大な発言をしているので、暦を七月二十一日に戻すことにする。
永野軍令部総長は連絡会議の席上こう言ったのである。
「米ニ対シテハ今ハ戦勝ノ算アルモ、時ヲ追ウテ此ノ公算ハ少ナクナル。明年後半期ハ最早歯カ立チカネル。其後ハ益々悪クナル。米ハ恐ラク軍備ノ整フ迄ハ問題ヲ引ヅリ、之ヲ整頓スルナラン。従ツテ時ヲ経レハ帝国ハ不利トナル。戦ハスシテ済メハ之ニコシタ事ハナシ。然《しか》シ到底衝突ハ避クヘカラストセハ、時ヲ経ルト共ニ不利トナルト云フ事ヲ承知セラレ度。尚比島(フィリピン)ヲ占領スレハ海軍ハ戦争カヤリヤスクナル。
南洋ノ防備ハ大丈夫相当ヤレルト思フ」
永野に代表されるこの考え方は、開戦に至るまで日本を曳きずった不吉な綱であった。
米国に対して今なら戦勝の算がある、ということがそもそも強がりでしかなかったのだ。日本海軍は一時的に米国太平洋艦隊に対して優位に立っていたに過ぎなかった。ただし、日本艦隊は遠く外征して作戦するようには出来ていなかった。米艦隊がはるばる出撃して来るのを待って、決戦を挑むというのが日本海軍の戦術であった。永野がいう今は戦勝の算がある、は、日米双方の全艦隊がただ一度の決戦を求めて遭遇すれば、一時的にはあり得たかもしれない。これは、しかし、日露戦争の際、東郷平八郎率いる日本の艦隊が、長途来攻したロシア艦隊を邀撃《ようげき》して撃破した、あの古い戦例に基づく古い兵術思想である。艦隊決戦がそのように展開する保証などありはしなかった。仮りに一時的に戦勝を収め得ても、それで米国が屈伏するという保証に至っては、なおのことなかったのである。
永野がいうように、時を経るとともに不利になるというのは、事実であった。日米の建艦能力、戦備能力の桁はずれの差、つまりは生産力の著しい差からみて、それは当然であった。
仮りに一局部的、あるいは一時的優勢に立ち得ても、それで相手が屈服しなければ長期戦となり、長期戦となれば勝算の成り立つ根拠は何処にもなかったのである。
結局、海軍は戦えなかったはずであった。「対米英戦ヲ辞セス」などという作文を弄《ろう》すべきではなかったのである。
32
七月二十九日の連絡会議は、一般情報の交換のためにひらかれたが、鈴木企画院総裁から同日閣議決定をみた『戦時下ニ於ケル施政上ノ態度』を提示して、統帥部の意見を求めている。精神訓話的なものであるから、統帥部に反対意見などはなかったが、関連して商工大臣と内務大臣から注目すべき、あるいは驚くべき発言がなされている。
まず、左近司政三商工大臣の驚くべき発言である。
「国民生活ノ不安ヲ除去スル(右記『施政上ノ態度』第三項にある字句)ト云フガ、国民ガ安心シテハ困ル。現下ノ情勢デハ国民ハ|褌 《ふんどし》一ツデ立ツテモ不平ヲ云ハスニ、如何ナル艱難《かんなん》辛苦ニモ之ニ堪ヘネハナラヌ」
こういう暴言を一国の大臣が得々と発して、誰も窘《たしな》める者はいなかった。
次は、田辺治通内務大臣の注目すべき発言である。
「(前段略)帰還兵(中国戦線からの)ノ中ニモ注意ヲ要スルモノガアル、特ニ中小商工業者テ、帰ツテ来タガ、就職ガ出来ズ、元ノ仕事モ留守中不振トナリ、今更手ヲ入レルコトモ出来ヌト云フ状態トナツテ、相当不平ガアル様デアル。一方金持ハ事変ノ為ニ益々金カ豊ニナリ、中小商工業者ハ戦地ニ行ツタカ故ニ困ルト云フ具合テ、之レハ云フテモ駄目タカラ、生活ノ安定ヲ与ヘテヤル必要カアル。
一般農民モ大体穏カダガ、農民運動ハ増シテ来タ様ニ思ハレル。(以下略)」
日本は大戦突入以前に既に疲弊していた。その困窮から脱出しようとして、無理の上に無理を重ねたのである。日中戦争開始が日本の国力にとってはそもそも過重負担であったが、戦争による消耗と生産とが、どうにか均衡がとれていたのは、せいぜい昭和十三年夏の武漢作戦までであったであろう。
七月二十九日か三十日、永野軍令部総長が南方作戦の経過と対米英戦の決意の必要について上奏したときと思われるが(曖昧な書き方をするのは、『杉山メモ』には以下に引用する部分が七月三十日のこととして、前後と何の関係もなく記録されていて、納得しかねるからである)、天皇と永野総長との間に次のような問答がある。
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天皇 伏見総長(軍令部総長として永野の前任者であった伏見宮)ハ英米ト戦争スルコトヲ避クル様ニ言ヒシモ、オ前ハ変ツタカ。
永野 主義ハ変リマセヌガ、物カ無クナリ逐次《ちくじ》貧シクナルノデ、ドウセイカヌナラ早イ方ガヨイト思ヒマス。
[#ここで字下げ終わり]
右の永野の答は、七月二十一日の連絡会議での永野の発言と同じ考え方である。日時が経過すればするほど、日米の戦力・生産力の差が著しくなるから、どうせ戦わなければならないのなら、早い方がよい、ということである。
八月一日、既に述べた通り、米国は対日石油全面禁輸に踏み切った。
八月二日の参謀本部二十班(戦争指導班)の『大本営機密戦争日誌』は次のように誌している。
「対米戦争ハ百年戦争ナリ。帝国ハ遂ニ之ヲ回避スルノ方法ナキヤ。同盟電ニ依レハ石油ヲ禁輸スルト云フ。事実ナリトセハ遂ニ百年戦争ハ避ケ難キ宿命ナリ。軍務課対英米戦争ヲ決意スヘキ御前会議ヲ提議シ来ル」
百年戦争と言い出したのは、戦争によって米国を屈伏させることはできないと、軍自体が認めているからである。勝てないから、せめて負けない戦をしなければならぬと考えているからである。本来なら短期決戦に持ち込みたいが、短期決戦で勝利を収める決め手がないから、否応なく長期戦争を覚悟して、双方痛み分けを期待するほかはない、ということである。
先に述べた米大統領からの仏印中立化提案(七月二十四日)に対する回答として、八月四日の連絡会議は対米申入れを決定した。日本としては、この申入れを糸口として日米交渉を再開させようという肚《はら》であった。
申入れの要旨は次のようなものである。
一、日本は仏印以上に進駐の意思なく、仏印からは支那事変(日中戦争)解決後撤兵すること。
二、比島(フィリピン)の中立を保障すること。
三、米国は南西太平洋の武装を撤廃すること。
四、米国は蘭印に於ける日本の資源獲得に協力すること。
五、米国は日支直接商議の橋渡しをし、又撤兵後にも仏印に於ける日本の特殊的地位を容認すること。(以上近衛前掲書)
この申入れは八月五日野村大使宛訓電された。野村大使はこれを翌六日ハル長官に伝達した。ハルは、しかし、これをほとんど問題にしなかった。米国としては、日本が武力政策を捨てない限り会談続行の意思がないというのである。
野村大使の本国への報告によれば、米国は既に如何なる事態にも対処する覚悟が出来ているように観測される、ということであった。
八月八日、野村大使はハル長官から回答を受け取った。ハルは、日本側の申入れはポイントが外れているとして、前回の大統領提案を逐語的に反復していた。日本側としては、俗に謂《い》うとりつくシマがなかったのである。
日本からの申入れが円滑に受け容れられるとは近衛も予想しなかったのであろう。彼は行き詰った交渉の打開を日米首脳会談に求めようと、申入れの以前に考えていたようである。
八月四日夕刻、近衛首相は陸海両相に米大統領と会見する決意を打明けている。
このときの近衛の考えを要約すると、次の四点になる。
一は、これまでの日米交渉には、誤解や感情の行き違いがあって、双方の真意が相互に徹底していない憾《うら》みがあるから、この際尽すべきを尽す必要があるということ。
二は、時局はまさに危機一髪のときであるから、野村大使等の出先を通じての交渉では時宜を失する虞《おそ》れがある。首脳会談で直接話し合って、妥協できるものか、できないものかを、決める必要があるということ。
三は、日本の主張は大東亜共栄圏の建設であり、米国の原則は九ケ国条約であるから、この両者は相容れないが、日本が大東亜共栄圏の確立をめざしても、現在の日本の国力ではこれを一挙に実現することは無理であり、米国も合法的な方法による九ケ国条約の改訂には話し合いに応ずる用意があると言っているから、双方の談合は不可能ではないと考えられること。
四は、日米首脳会談は急を要する。独ソ戦の山は九月いっぱいには見えるであろう。もし戦線が膠着《こうちやく》すれば、ドイツの前途は楽観を許さないであろうし、そうなれば米国は強腰となって、日本との談合などは一顧だに値しなくなるであろうから、そうならぬうちに会談を実現する必要があるということ。
海軍は首脳会談に全面的に賛成であった。
陸軍は条件つきであった。東条陸相は文書で回答した。
「(前段略)断乎対米一戦の決意を以て之に臨まるゝに於ては、陸軍としても敢て異存を唱ふる限りに非ず。
附言。(一)先方の内意を探り、大統領以外のハル長官以下との会見ならば不同意なり。(二)会見の結果、不成功の理由を以て辞職せられざること。否|寧《むし》ろ対米戦争の陣頭に立つの決意を固めらるゝこと」というのである。(近衛前掲書)
東条陸相は、会談失敗の公算大と見ていた。陸軍は、いつでもそうだが、強気であった。この場合は、四年間の日中戦争で損耗している陸軍は当然慎重であるべきなのだが、対英米戦に限っていえば、戦争の主役は海軍であるから、陸軍は強気の発言をためらう必要はなかったのである。
近衛は、八月六日朝、連絡会議の直後に首脳会談の件を上奏した。翌七日午後、近衛は天皇に呼ばれて「大統領との会見は|速 《すみやか》なるべし」と督促された。
野村大使に対するこの件での訓電は、七日午前に発電されている。
大使は、八月八日、ハル長官に近衛提案を伝達した。ルーズヴェルト大統領は英国首相チャーチルとの洋上会談のために、既にワシントンを発っていた。
ハル長官は「日本の政策に変更なき限りは話合の根拠なし」と答えただけであった。
野村は一旦引きさがり、東京でもグルー大使に働きかけるよう電報した。日米両国の間にある断絶は、先に述べたような近衛の考え、誤解や感情の行き違いにあったのではなかった。
中国を侵略し、三国枢軸を形成して米国を敵視し、いままた南方諸地域を奪おうとする日本の国策を、米国が容認できないところにあった。
33
昭和十六年(一九四一年)八月九日、陸軍は関東軍への動員(関特演)を続行しながら、秘かに年内対ソ武力発動の中止を決定した。理由は、既述の通り、満さるべき幾つかの条件がどれも満されなかったからである。
同じ日、陸軍は『帝国陸軍作戦要綱』を決定し、十一月末を目標に対米英戦争準備の促進を実施することにした。米国からの経済制裁への対抗措置である。
北方武力行使の中止は冷静な判断であったが、この場合は余儀ない判断でもあった。対米英戦の準備と同時並行的に北方に武力行使することは、国力が到底これを許さなかったからである。
国力は、対米英戦の準備にも耐え得なかったはずなのである。この時点では、七月二日の御前会議決定による戦争国策そのものが再検討され、転換が図られるべきであった。
日本はそうしなかった。米国の態度に反撥して、感情的に戦争へ傾斜したのである。
軍部にも、しかし、煩悶《はんもん》がなかったわけではない。
『大本営機密戦争日誌』八月八日の項に戦争指導班はこう誌している。
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「対英米戦ヲ如何ニスヘキヤ
対英米戦ヲ決意スヘキヤ
対英米屈伏スヘキヤ
戦争ヲセス而《しか》モ屈伏セス打開ノ道ナキヤ
此ノ苦悩連綿トシテ尽キス 班内二日間論議ス」
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苦悩はしても、軍人の思考の行方は、結局、戦争による「困難」の打開であった。軍事を指導する政治が存在しなかったからである。第三次近衛内閣は戦争を回避する具体的な方途を発案し得なかった。軍部が選択した対米英戦決意に追随したのである。
昭和十六年八月九日は、米英両首脳による洋上会談の第一日目でもあった。ルーズヴェルトとチャーチルは、のちに大西洋憲章と呼ばれる共同宣言を発するに至る談合を開始していた。
ルーズヴェルトは、旁《かたわ》ら、ホプキンズをロンドンに派遣し、さらにモスクワを訪問させて、ヒトラードイツと戦うソ連に対する物資援助を約束させた。
八月十三日、洋上会談中の米英両首脳は、スターリンに対して、「われわれは力を合せて、あなたが最も必要としている物資を最大限に供給しようとしている」と、無電で声明を送った。
チャーチルのような骨の髄まで反共主義である者をさえもソ連との連帯と協力へ駆り立てるほどに、この二大指導者とその国民たちのファシズムに対する怒りと対決の決意は激しく堅かったのである。
八月十五日の日本の新聞は、米英両首脳の共同宣言八項目を掲載している。次の通りである。
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一、英米両国は領土その他の拡張を求めざること。
二、関係国民の自由意思によつて表明された希望に背馳《はいち》するごとき領土的変更を行はざること。
三、大戦の結果政府ならびに主権を奪はれたるすべての国民に対して、彼等の意思に従つて政府を構成し、主権と独立を回復するの権利を尊重すること。
四、戦勝国の大小、または戦敗国の区別なく通商ならびに世界資源獲得の平等権について十分なる尊重をなす。
五、両国はすべての国が経済の分野において労働水準の改善、経済的発展および社会安定の確保を目的として全的に協力することを欲する。
六、ドイツ独裁を完全に破壊したる後に、両国はすべての国家に対し彼らが自己の領土内で安全に居住し得る方法を与へ、かつすべての土地においてすべての人間が恐怖および欠乏から解放されて生活し得る保障を与へるが如き平和の樹立されんことを欲する。
七、右のごとき平和はすべての人間が公海および大洋を何らの妨害なしに通航し得しむ。
八、現実的ならびに精神的理由の下に世界各国は武力行使を抛棄《ほうき》しなければならぬと信ずる。しかして陸海空軍が侵略者によつて使用される限り、将来の平和は維持されないから、恒久的、一般的安全保障体制樹立を前にしてまづ侵略国の軍備縮小は不可欠と信ずる。従つて平和愛好国家をして軍備の負担を軽減せしめるための一切の手段を助長することに努める。(以上『東京朝日新聞』)
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右の共同宣言では、名指しで非難されているのはドイツであって、極東への言及は回避されている。日本は既に三国同盟によってドイツに加担する意図を明らかにし、世界新秩序を標榜して米英の対極に位置してはいたが、まだ決定的な敵対関係に至ってはいなかったからである。
この時点で、日本には三つの選択の途があった。武力政策を放棄して、米英共同宣言が示唆する方向に新しく国策を樹て直すか、完全中立の途を模索するか、ドイツとともに米英陣営と戦火を交えるか、この三つである。
日本人は、自国の新聞で米英共同宣言を読んだ日から正確に四年後、自国の無条件降伏の日を迎えることになる。
米英共同宣言(大西洋憲章)の発表は、正確には一九四一年(昭和十六年)八月十二日である(九月二十四日、ソ連、自由フランスなど十五カ国が同憲章参加を声明した)。
八月十三日、ハル長官は在支米国権益|蹂躙《じゆうりん》を列挙した抗議書を野村大使に手交した。ハルの意図は、共同宣言では日本は直接には非難されていないけれども、日本の行為は同宣言第八項に該当するものであることを、時を移さず抗議したのである。
野村大使は、彼が接触している米国閣僚の間で、成功の見込のない首脳会談に米国が応ずるはずがないという悲観的観測が行われているのを知って、八月十六日、再度ハルと会談し、近衛の意図を説明した。
ハル長官の今度の答は、貴殿において十分の見込を持たれるのであれば、ホワイト・ハウスに取次いでもよい、ということであった。
時間差を無視してのことだが、同じ八月十六日、東京では、大本営政府連絡会議の席上、米英両首脳の共同宣言に関して、豊田外相と東条陸相との間に次元の低い議論が交されている。殊に東条陸相の発言に至っては、官僚主義と陸軍の権威主義まる出しであって、共同宣言の背後にある米英の決意に対する配慮など些《いささ》かも読みとれない。愚劣な印象しか与えられないが、これが日本最大の勢力を代表する人物であるから、引用しておく。
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外相 昨日ノ「ルーズヴェルト」「チャーチル」ノ共同声明ニ就《つい》テハ、外務省トシテハ事重大故此際慎重ニ処置シタク考ヘアリシニ、昨夕ヨリ新聞ニドンドン発表シアルヲ見ル。聞ク所ニ依ルト陸軍ノ情報部長ヨリ之レカ出テ居ルトノ事ナリ。然《しか》シ乍《なが》ラ本件ハ外務大臣ノ主務ナルヲ以テ陸軍カヤラレテハ困ル。御注意アリ度。
陸相 我輩ハ国務大臣ナリ。国務大臣トシテ民論ヲ指導ノ為報道部長ヲ指導スルノニ何カ悪イカ。情報局ニハ総裁アリ。其ノ下ニ外務陸海ノ部長アリ。国務大臣トシテ陸軍カラ述ヘルノニ何カ悪イカ。重要ナル事ナラバ何故総裁ニ|予 《あらかじ》メ連絡シテ処置セサリシヤ。我輩ハ責任ナシト思フ。結局俺ハ俺テ陸軍大臣トシテヤル。主務問題ナレバ能《よ》ク総裁ヲ教ヘロ。之レカラハ我輩ハドンドン云フ。(『杉山メモ』)
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東条陸相にとっては、共同宣言に如何に対処するかということよりも、陸軍の所為にケチをつけられたことの方が、はるかに重大であったらしい。『杉山メモ』に関する限り、この日の連絡会議で共同宣言に触れた箇所はここだけなのである。
34
八月十七日、洋上会談からワシントンヘ帰還したルーズヴェルト大統領は、日曜日であったが、野村大使に来訪を求めた。大統領から野村大使に手交されたのは、「現在以上の武力進出に対する警告」(『日本外交年表竝主要文書』下)という文書と、近衛首相からの首脳会談提案に対する回答であった。
「警告」の重要点は、これを手交された当人野村吉三郎『米国に使して』によれば、次の通りである。
「日本政府は極東に於て、種々の地点に於て兵力を用ひ、遂に印度支那をも占領した。若《も》しも日本政府が隣接諸国に武力を行使し、若しくは武力の脅迫に依り武力支配の政策を今以上に続けるならば、米国政府は直ちに米国及び米国民の正当なる権益を護《まも》り、且《かつ》米国の安全及び保安を保護するに必要なる凡《あら》ゆる手段 any and all steps を採るの已《や》むを得ざるに至るべし」
首脳会談に関しては、ルーズヴェルトはホノルルに行くことは地理的に困難だが、アラスカのジュノーはどうか、また時期は十月中旬はどうかと、希望を持たせるような発言をしたが、回答の内容は甘くはなかった。これも野村の『米国に使して』によれば、次のようである。
「……日本がその膨脹政策的活動を中止し、太平洋に於て米国政府が執《と》り来れる線に沿うて平和政策に出づる場合には、米国は七月中に中絶した非公式会談を再開し、なほ意見交換の為に適当なる時と場所を定むることを欣快《きんかい》とする。また米国政府は両国が非公式会談を再開し若《もし》くは両国首脳者の会見を計画する前に、日本政府が現在の態度及び計画について今一度明快なる声明を与へらるれば、それは両国政府に貢献するものと思ふ」
この回答は、日米首脳会談を実現するための前提として、日本にその基本国策の再検討を迫るものであったし、先の「警告」は日本に対する最後通牒的警告と解すべきものであった。
日本は、しかし、そのように深刻には受けとめなかった。近衛が記しているように、せいぜい、日本のこれ以上の武力南進に対する警告という程度にしか解さなかったのである。
八月二十六日の連絡会議では、近衛メッセージと、ルーズヴェルトが野村に手交した二つの文書のうち、「警告」でない方、つまり、近衛からの首脳会談提案に対する回答として、日本の態度及び計画に関する一層明快な声明を要求してきたことに対する回答とが、採択された。
肝腎の「警告」文書については、『杉山メモ』に見る限り、八月二十六日の連絡会議で討議された形跡は全くない。文書到着からこの日までに連絡会議がひらかれたのは、八月二十一日の一回だけであり、そのときには、岩畔豪雄《いわくろひでお》大佐の帰朝報告と、田辺内相から国内治安問題の説明が行われているに過ぎない。『大本営機密戦争日誌』も「警告」には触れていない。
重大なものが軽く見られたのである。もっとも、重大警告が米国から来たからといって、気負い立っている軍人たちが、せっかく七月二日の御前会議で決定した国策を検討し直すということは、考えられないことであったかもしれない。
野村大使は、しかし、まさにその再検討を促すべく、八月十八日、本国に対して意見具申をした。(着電は八月十九日)
「所見を率直に述ぶれば、今日和戦の分岐点に臨みつつあり……此の際責任者は真に国家百年の為に大勇猛心を発揮すべく一時の毀誉褒貶《きよほうへん》は忍んで之を度外視せざるべからず。(中略)ドイツに在りては赫々《かつかく》たる戦捷《せんしよう》の間にも軍と党との間に多少の扞格《かんかく》あり……今年は愚か明年も期待する如き戦果を得て平和が来るとは思はれず、最後の捷利は結局経済力、精神力、持久力多きものに帰するは前大戦の実証する所なり。(中略)我国としては余り一方に深入し国運を賭するが如き危険を冒すなく、自主独往の見地より自強の途を取り、二千六百年の国家を愈々《いよいよ》安泰ならしむるの途を進むべし。……我国が戦争圏外に立ち国力を充実する以上、交戦各国は皆疲弊するを以て戦後世界の再建には我国が最も有利の立場に立ち得べし。(中略)今米国の提案に協調的に出づるも大東亜共栄圏の建設及び我が自存自衛に大障害ありと認むるを得ず。……国家|未曾有《みぞう》の難局に際会し、沈黙を守るは不忠なりと信じ、敢て卑見を具陳す」(野村前掲書)
野村大使の任務の遂行ぶりには、これまで見てきた通り、若干の行き過ぎや不足があったが、右の意見具申は充分に愛国的であり、正論に基づいていた。本国政府と大本営が、しかし、彼の意見具申を尊重して国策の再検討に深い思慮をめぐらしたと認められる形跡は全く見当らない。
近衛メッセージと対米回答は、八月二十六日の連絡会議で採決され、同日中に発電された。
近衛メッセージの内容の主なものは、日米関係悪化の主因は両国政府間に意思の疎通を欠き、相互に疑惑誤解を重ねたことと、第三国の謀略策動に由《よ》るものであるとして、首脳会談の一日も速かな実現を希望し、会見場所はハワイ付近を適当と考える、ということであった。(『日本外交年表竝主要文書』下)
対米回答文は、「……日本国政府ハ自己ノ行動ガ日本国ノ国家的必要ノ充足及防護ニ悪影響アル環境的政治的障害ニ対応セントスル考慮ニ依リ支配セラレタルモノナリト思考ス……」と、日本の国策を正当化し、次の数点を骨子として、米国の日本に対する見解について抗議したものである。
主要点は、アメリカが自己の原則のみを基調として他国を判断するのは独善であるということ、ある事件が一つの事態の原因であるか結果であるかを認定するのは困難ではないかということ、一つの国が正当と信ずることでも相手国からは反対の見解が出るのはあり得ることであるということ、諸条件の優位にある国は劣悪条件下にある国に対して不断の脅威を与えるものであるということ、等である。
客観的な政治倫理が存在しないものとすれば、如何なる政治的主張も対等の権利を持つ。国家の存在と繁栄のためには国際関係などは無視さるべきものとすれば、如何なる武力政策でも自己主張の権利を持つ。
日本はこの立場をとり、この立場を捨てようとはしなかったのである。
右の回答と先の近衛メッセージとが同時に米国へ送られた。近衛メッセージが如何に熱心に首脳会談を希望しても、回答文と同時に表裏の関係にあって、どれだけ相手国を動かし得ると期待し得たであろうか。
八月二十六日、この二つの文書を米国に向けて打電することが決定されたあと、『杉山メモ』によれば、近衛首相と豊田外相との間に次のような会話が交されている。
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総理 三国同盟大東亜共栄圏建設ニフレテ居ラヌガ之レヲ決メル必要アリ。
外相 之レニフレタラ此ノ国交調整ハ出来ヌ。
総理 尻ノマクリ方ハ決メネハナラヌ。
右ニ関シ種々意見ノ交換アリタルモ特別ノ決定ヲ見ス。
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右のように近衛は、連絡会議の席上、軍部が言いそうなことを言っている。これは、書記官長富田健治が言っているように、近衛はルーズヴェルトとの会見地から直接天皇に電報で裁可を請い、調印してしまうという非常手段を考えていたというのが事実であるとすれば、豊田外相に対する右の発言は、故意のトリック・プレーではないかと考えられる。つまり、三国同盟の実質的廃棄と中国からの撤兵は、軍部の強硬派が絶対に承認するはずがないし、その二つを譲歩せずには、首脳会談は妥結しないことが目に見えているから、近衛は非常手段に訴える覚悟であった、というのが今日定説となっているが、果してそれだけの肚《はら》が近衛にあったかどうか、疑う余地がないわけではない。もしその覚悟があったとすれば、のちに述べる第三次近衛内閣|挂冠《けいかん》に至る経緯において、彼はもっと有効かつ勇敢な行動に出ることができたはずであると想像されるのである。
八月二十八日、近衛メッセージと対米回答との二文書は、野村大使を通じてルーズヴェルト大統領に手交された。
35
ルーズヴェルト大統領は正式回答は留保して(回答が行われたのは九月三日)、近衛メッセージを立派なものであると讃《ほ》めた。首脳会談については、三日間ぐらい会談したいと実現の可能性を仄《ほの》めかすような応対をしたという。会談場所に関しては、ジュノーならば往復二週間で済むが、ハワイだと三週間もワシントンを空けなければならないから不可能であるとのことであった。
野村大使はルーズヴェルトからは希望的印象を受け、その通りを本国へ報告した。
だが同日夜(八月二十七日)、野村が会談したハル国務長官の態度は冷やかであった。
ハルは、首脳会談の前に予め話を纒《まと》めておく必要があるとか、支那問題を離れて日米国交調整は困難であるとか言った。支那問題というのは、勿論、撤兵問題である。
野村が、近衛が首脳会談に乗り出す決心をしているからには、話を纒める成算があってのことと考える、と言うと、ハルは再び日本の確たる意向を知りたいと繰り返して、直接首脳会談の実現には否定的な様子であった。
野村は本国に、「……大綱ニ付双方ノ意見一致セサル限リ、首脳者会見ノ運ヒニ到ラサルヘシト思料ス」(防衛庁戦史室『大東亜戦争開戦経緯』4)と報告した。
先の希望的な報告と右の悲観的な報告は、それぞれ八月二十九、三十日に着電した。
『大本営機密戦争日誌』八月二十九日の項には、次のように誌されている。
「米武官ヨリ、米大統領宛近衛総理返電ヲ、米大統領上機嫌ニテ受理セリトノ電アリ。『ハワイ』ニ於ケル両巨頭ノ会談遂ニ実現スルヤ。実現セハ恐ラク決裂ハナカルヘク、一時ノ妥協調整ニ依ル交渉成立スヘシ。果シテ然《しか》ラハ遂ニ対米屈伏ノ第一歩ナリ。帝国国策ノ全面的後退ヲ辿《たど》ルヘシ。サレハトテ戦争ヲ欲セス。百年戦争ハ避ケ度。|茲ニ於テカ帝国カ力程モナキ大東亜新秩序建設ニ乗リ出セルカ抑々ノ誤リナラスヤ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|支那事変発足カ不可ナリシナラスヤ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(傍点引用者)
陸軍関係の記録で傍点部分のような記述はほとんど見られない。その意味では稀有の記録である。戦争指導班の特定個人が記録したせいもあるであろう。右のような反省が刹那的にではなく、常続的に、しかも軍の主流に存在し得たら、歴史はその赴くところを変えたにちがいなかった。
それはともかくとして、近衛が非常手段(天皇に裁可を求める電報を打つこと)に訴えてでも首脳会談の妥結を図ろうと極秘裡に決意するまでもなく、戦争指導班が、首脳会談が実現したら一時の妥協調整に依る交渉が成立して、国策が全面的に後退するであろう、と半ば観念しているところは、軍人心理の襞《ひだ》を見るようで興味深い。
事実経過は、残念なことに、そうはならなかったのである。
ルーズヴェルト大統領は、野村大使から二つの文書を受け取った時点で、既に、日米交渉には見切りをつけていたと思われる。ただ、彼は、民主主義陣営のために時間を稼ぎ出す必要があった。西半球でドイツの野望と軍事力を押え込む見通しが立つまで、太平洋で日本との紛争を惹起《じやつき》することは避ける方が賢明であった。いきり立っている日本をあやして、一カ月でも二カ月でも決裂を長びかせる方が得策であった。
日本では陸海軍の中枢的な事務当局者が次のような観測をしていた。
佐藤軍務課長(陸軍。東条内閣当時、武藤軍務局長の後任となる)は、八月三十日、野村大使電を読みながら、課員の石井中佐にこう言ったという。
「アメリカも間抜けだわい。無条件に(近衛に)会えば万事彼らの都合どおりいくのに」
近衛が妥協せざるを得なくなることを見越しているかのようである。さらに、
「おい、まあよく読め、野村大使はこんなことを言っておるぞ。近衛公が会えば話をまとめるって。これは今、紙には書けないが、会えばみな譲りますということだよ。これを子孫が読んだらなんというだろう」
と述懐したというのである。(戦史室前掲書)
また、岡軍務局長(海軍)も次のような趣旨の話をしたという。
「なかなか困難ではあるが、近衛総理がルーズベルト大統領と会ってしまえば、あとは近衛公がその場でなんとか始末をつけるだろうから、ともかく行けばそれでなんとかなると思う」(同前掲書)
右の二人も、首脳会談が実現すれば、近衛の譲歩によって会談は妥結に導かれるであろう、と予想していたようである。その予想は、また、軍人の胸のなかに、ためらいがちな期待と絡み合って共存していたにちがいない。軍部の、殊に陸軍の、「力程モナキ」うわべばかりの威勢のよさだけでは難局を乗り切れないことは、客観的事実を読む眼を持つ者ならば、好むと好まざるとにかかわりなく、認識せざるを得なかったはずである。
軍人としては好ましくない妥協が、その難局に幽《かす》かな光明をもたらすかに見えたのが、この一時期のことである。
だが、事態は急転直下する。
首脳会談の実現に和戦のすべてが賭けられ、戦争国策そのものの再検討は遂になされようとはしなかった。東京では、南方作戦兵棋が実施され、米英蘭に対する開戦決意を明確にする『帝国国策遂行要領』をめぐる論議が繰り返されていた。
主戦論者にとっては、首脳会談は首脳会談、開戦決意は開戦決意なのであった。首脳会談を実現させるか否かの条件は、まさに開戦決意に至るまでの従来の軍事国策にあったのだが、軍部の主流は彼らが積み重ねてきた既定国策の根本的な変更を、彼らみずからの発意によっては行いたくなかったのである。
第二次近衛内閣が軍部の敷設した路線の上を走ることしかできなかったことは既述の通りだが、第三次内閣も変りはなかった。近衛が独自の決意において積極的な行動に出ようとしたのは、結局は不発に終った日米首脳会談だけであったといってよい。
軍部に追随することだけに終った近衛の政治歴のなかで、最も決定的な失敗は、のちに述べる昭和十六年(一九四一年)九月六日御前会議での『帝国国策遂行要領』の採択である。
この「遂行要領」は、先に八月九日対ソ武力発動中止を決定した陸軍と、陸軍に反撥しながら競合した海軍の強硬派との合作である。
相互に立案し、修文し、改訂を加え、また修文して、最後的決定をみたのは九月二日の陸海軍部局長会議によってであった。
日米首脳会談に関して野村大使から楽観的と悲観的な電報が相次いで着電したころ、陸海省部の有力幹部たちは『帝国国策遂行要領』の詰めにかかっていた。
この「遂行要領」の重大な意味は、日米交渉に期限をつけ、その期限が切れたら直ちに対米英蘭開戦を決意する、という点にある。長いので前文を省略して引用する。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
一、帝国ハ自存自衛ヲ全ウスル為対米(英、蘭)戦争ヲ辞セサル決意ノ下ニ、概《おおむ》ネ十月下旬ヲ目途トシ戦争準備ヲ完整ス。
二、帝国ハ右ニ併行シテ米、英ニ対シ外交ノ手段ヲ尽シテ帝国ノ要求貫徹ニ努ム。対米(英)交渉ニ於テ帝国ノ達成スヘキ最小限度ノ要求事項|竝《ならび》ニ之ニ関聯シ帝国ノ約諾シ得ル限度ハ別紙ノ如シ。
三、前号外交交渉ニ依リ十月上旬頃ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得サル場合ニ於テハ、直チニ対米(英、蘭)開戦ヲ決意ス。
対南方以外ノ施策ハ既定国策ニ基キ之ヲ行ヒ、特ニ米「ソ」ノ対日連合戦線ヲ結成セシメサルニ努ム。
[#ここで字下げ終わり]
後述することだが、右のうち第三項の「我要求ヲ貫徹シ得サル場合」という字句が、翌九月三日の大本営政府連絡会議(九月六日の御前会議に提案するための最後の連絡会議)で、及川海相からの提議によって、「我要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合」に修正された。連絡会議への陸海軍共同提案が軍側からの提議によって修正されたのは、はじめてのことである。及川修正に依れば、一定期限に達したときに、要求貫徹の目途がつくのかつかないのか、再び議論が必要になってくる。この修正が意味するところは、軍令部は別として、海軍省首脳部は開戦決意も戦争決意も確固としてはいなかったということである。
「遂行要領」の「別紙」部分も重要であるので、列記する。
別紙
対米(英)交渉ニ於テ帝国ノ達成スヘキ最小限度ノ要求事項竝ニ之ニ関聯シ帝国ノ約諾シ得ル限度
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
第一 対米(英)交渉ニ於テ帝国ノ達成スヘキ最小限度ノ要求事項
[#ここで字下げ終わり]
一、米英ハ帝国ノ支那事変処理ニ容喙《ようかい》シ、又ハ之ヲ妨害セサルコト。
(細目略)
二、米英ハ極東ニ於テ帝国ノ国防ヲ脅威スルカ如キ行為ニ出テサルコト。
(細目略)
三、米英ハ帝国ノ所要物資獲得ニ協力スルコト。
(細目略)
省略した細目のうちの主要なものは、中国における日本軍の駐屯は固守すること、米英はビルマ・ルートを閉鎖して、政治的、軍事的、経済的援蒋行為をしてはならない、等のことである。
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
第二 帝国ノ約諾シ得ル限度
[#ここで字下げ終わり]
第一ニ示ス帝国ノ要求カ応諾セラルルニ於テハ、
一、帝国ハ仏印ヲ基地トシテ支那ヲ除ク其ノ近接地域ニ武力進出ヲナササルコト。
二、帝国ハ公正ナル極東平和確立後仏領印度支那ヨリ撤兵スル用意アルコト。
三、帝国ハ比島ノ中立ヲ保障スル用意アルコト。
なお註として、三国同盟に関して質疑されれば、日本の義務遂行にはなんら変更がないこと、ソ連に対する日本の態度に関して質疑されれば、日ソ中立条約をソ連が犯さない限り、日本は条約を遵守《じゆんしゆ》すると応答することを付記している。(以上、戦史室前掲書)
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同じく九月三日の連絡会議で、外務省起案の対米申入れが議題にのぼり、採択されている。
一、仏印以上に進駐せず。
二、三国条約に対する日本の解釈を自主的に行ふ。
三、日支協定に遵《したが》ひ支那より撤兵す。
四、支那に於ける米国の経済活動は公正なる基礎に於て行はるゝ限り之を制限せず。
五、南西太平洋に於て通商上の無差別待遇の原則を樹つ。
六、日米の正常なる通商関係の恢復《かいふく》に必要なる措置を講ず。(近衛『平和への努力』)
外務省が期待をかけたこの申入れは、東京では豊田外相からグルー大使へ、ワシントンでは野村大使からハル長官へと、二重伝達の形式をとった。
この申入れの内容は、六月二十一日付米国案に最も近づいている。だが、これには、在米日本資産凍結令の即時撤廃が条件として加えられていた。
同じ日付、九月三日、米大統領から野村大使へ、近衛メッセージに対する回答と、米国政府の覚書が手交された。
近衛メッセージヘの回答は、日米首脳会談を成功させるためには、基本的かつ枢要な諸問題についての予備的討議が必要であるとしてあった。
米政府覚書には、四月十六日の非公式会談のはじめに、国務長官はすべての国際関係に於て根本となるべき四原則について述べたことを指摘し、日本政府の態度の明確な表示をのぞんでいた。(野村『米国に使して』)
九月三日という同じ日付で、相互に関連し、かつ対立する、重要な決定と表示が往《ゆ》き交《か》ったことになる。
米大統領からの回答は、米国が既述の四原則に論点を絞っていることを明らかにしていた。譲歩の余地を残して外交交渉を継続する時機は、既に去ったのである。
日本は、日米首脳会談を実現させるためには、米国が示す原則問題を消化することが不可欠の課題となった。
日本が出した九月四日案(九月三日発)に対して、米国が冷淡であったのには理由がある。既に触れたことだが、米国は六月二十一日案を謂《い》わば最後案として日本に提示している。これに対する日本の回答は、既述の通り七月二十五日に発信したが、政変(松岡外相追放のための第二次近衛内閣総辞職と第三次近衛内閣の成立)に加えて、野村大使が日本側回答は米国を刺戟するという判断から、米国に取次いでいないのである。米国側からみれば、六月二十一日案に対する日本側対案を受け取らないうちに、九月四日案を手交されたことになる。つまり、日本側が一貫した折衝を避けて、別個の提案をしたものと解されたのである。
日本は相反した方策を同時に推進することを正当視していた。日米交渉の打開は首脳会談の実現に委《ゆだ》ねる。首脳会談の実現を阻害する戦争国策は、日限を切って外交交渉を打切る決意を固める。
日限を切る理由は、九月三日の『帝国国策遂行要領』に関する連絡会議での永野軍令部総長の説明に明らかである。
永野は『杉山メモ』によればこう言っている。
帝国ハ各般ノ方面ニ於テ特ニ物カ減リツツアリ。即チヤセ(痩せ)ツツアリ。之ニ反シ敵側ハ段々強クナリツツアリ。時ヲ経レハ愈々《いよいよ》ヤセテ足腰立タヌ。又外交ニ依ツテヤルノヲ忍フ限リハ忍フカ、適当ノ時機ニ見込ヲツケネハナラヌ。到底外交ノ見込ナキ時、戦ヲ避ケ得サル時ニナレハ早ク決意スルヲ要スル。今ナレハ戦勝ノ「チャンス」アルコトヲ確信スルモ、此ノ機ハ時ト共ニナクナルヲ虞《おそ》レル。戦争ニ就《つい》テハ海軍ハ長期短期二様ニ考ヘル。多分長期トナルト思フ。従ツテ長期ノ覚悟カ必要タ。敵カ速戦|速《ママ》決ニ来ルコトハ希望スル所ニシテ、其ノ場合ハ我近海ニ於テ決戦ヲヤリ、相当ノ勝算カアルト見込ンテ居ル。|而シ戦争ハソレテ終ルト思ハヌ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|長期戦トナルヘシ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。此ノ場合モ戦勝ノ成果ヲ利用シ長期戦ニ対応スルカ有利ト思フ。之ニ反シテ、決戦ナク長期戦トナレハ苦痛タ。特ニ物資カ欠乏スルノテ、之ヲ獲得セサレハ長期戦ハ成立セヌ。物資ヲ取ルコトト戦略要点ヲ取ルコトニ依リ、不敗ノ備ヲナスコトカ大切タ。|敵ニ王手テ行ク手段ハナイ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|而シ王手カナイトシテモ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|国際情勢ノ変化ニ依リ取ルヘキ手段ハアルダラウ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
要スルニ国軍トシテハ非常ニ窮境ニ陥ラヌ立場ニ立ツコト、又開戦時機ヲ我方テ定メ、先制ヲ占ムル外ナシ。之ニ依ツテ|勇往邁進スル以外ニ手カナイ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。(傍点引用者)
開戦後「大東亜戦争」と名づけられた戦争の行く末は、永野の説明によって既に示されていた。勇往邁進する以外に手がないのである。
永野軍令部総長につづいて、杉山参謀総長が次のように説明した。
十月下旬ヲ作戦準備完整ノ目途トナセルニ就テハ、今直ニ決心ヲシテモ、動員、船舶ノ徴傭、集中展開ナトヲヤレハ此ノ時機(十月下旬)迄カカルノテアル。
第三項(外交交渉の日限)ニ就テハ、十月上旬ニハ外交ノ目途ヲツケテ、出来ナケレハ邁進シナケレハナラヌ。ズルズル引摺ラレテ行クノハ不可ナリ。其ノワケハ二月迄ハ北ハ大作戦ハ出来ヌ。北ノ為ニハ南ノ作戦ハ早クヤル必要アリ。今直ニヤツテモ明春初メ迄カカル。遅クナレハソレダケ北ニ応セラレヌ。故ニ成ルヘク早クヤル必要アリ。
杉山は、永野が言う「王手で行く手段はない」対米戦を、春までに片づけて、対ソ作戦に備えようというのである。
この杉山、二日後に、後述する次第で天皇から叱られることになる。
杉山の説明後、及川海相から「要領」第三項の修文意見が出た。
「十月上旬頃ニ至ルモ尚我要求ヲ|貫徹シ得ル目途ナキ場合《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ハ自存自衛ノ為|最後的方策《ヽヽヽヽヽ》を遂行ス」というのである。(傍点引用者)
この真意は、対米(英、蘭)開戦ヲ決意ス、という決定的な表現を避けることに、海軍の開戦回避の意図を盛り込もうとしたのである。
だが、不徹底であるという異論が出て、論議の結果「十月上旬頃ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合ニ於テハ直チニ対米(英、蘭)開戦ヲ決意ス」ときまった。
「目途ナキ場合」という再審議を要するかもしれぬ表現に、海軍の消極性が表われていることは、既に述べた通りである。
37
昭和十六年(一九四一年)九月五日、近衛首相は翌六日の御前会議に提出される議案『帝国国策遂行要領』を内奏するため、天皇に拝謁した。
近衛手記『平和への努力』に誌されているそのときの状況は少からず劇的である。
天皇 之を見ると、一に戦争準備を記し、二に外交交渉を掲げてゐる。何だか戦争が主で外交が従であるかの如き感じを受ける。此点に就て明日の会議で統帥部の両総長に質問したいと思ふが……。
近衛 一二の順序は必ずしも軽重を示すものに非ず、政府としては飽まで外交交渉を行ひ、交渉がどうしても纏《まとま》らぬ場合に戦争の準備にとりかゝるといふ趣旨なり……此点につき統帥部に御質問の思召あらば、御前会議にては場所柄如何かと考へられますから、今直に両総長を御召になりましては如何。
天皇 直に呼べ。尚総理大臣も陪席せよ。
両総長は直に参内。天皇は両総長に近衛に対してしたのと同じ質問をし、両総長も近衛と同じように答えた。
そこで杉山参謀総長に対して、
天皇 日米|事《こと》起らば、陸軍としては幾許《いくばく》の期間に片付ける確信ありや。
杉山 南洋方面だけは三ケ月位にて片付けるつもりであります。
天皇 汝《なんじ》は支那事変勃発当時の陸相なり。其時陸相として、『事変は一ケ月位にて片付く』と申せしことを記憶す。然るに四ケ年の長きにわたり未だ片付かんではないか。
杉山参謀総長は恐懼《きようく》して、支那は奥地が開けて居り予定通り作戦し得ざりし事情をくどくどと弁明。
天皇(励声一番)支那の奥地が広いといふなら、太平洋はなほ広いではないか。如何なる確信があつて三月と申すか。
杉山参謀総長はただ頭を垂れて答えることができない。
永野軍令部総長が助け船を出し、
「統帥部として大局より申上げます。今日日米の関係を病人に例《ママ》へれば、手術をするかしかないかの瀬戸際に来て居ります。手術をしないでこの儘《まま》にしておけば段々衰弱してしまふ虞《おそれ》があります。手術をすれば非常な危険があるが助かる望みもないではない。その場合、思ひ切つて手術をするかどうかという段階であるかと考へられます。統帥部としてはあくまで外交交渉の成立を希望しますが、不成立の場合は思ひ切つて手術をしなければならんと存じます。此の意味でこの議案に賛成致して居るのであります」
天皇は重ねて念を押した。
「統帥部は今日の処外交に重点をおく主旨と解するが、其通りか」
両総長は其通りなる旨奉答した、とある。
近衛の記録は正確でないように思われる。近衛は天皇に対して、「交渉がどうしても纒らぬ場合に戦争の準備にとりかゝるといふ趣旨なり」と答え、両総長も近衛と同じように答えたと記しているが、『帝国国策遂行要領』では、その第一項に「……対米(英、蘭)戦争ヲ辞セサル決意ノ下ニ、概ネ十月下旬ヲ目途トシ戦争準備ヲ完整ス」とあり、第三項に「……十月上旬頃ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合ニ於テハ直チニ対米(英、蘭)開戦ヲ決意ス」となっている。交渉が纒らぬ場合に戦争の準備に取りかかる、というのではない。したがって、両総長が近衛と同じように答えるはずがないのである。もし、近衛も記録のように答え、両総長も同じように答えたとしたら、「要領」を読めば一目でわかるものを、天皇をたぶらかしたことになる。
天皇から叱られた杉山総長の「三ケ月位にて片付ける云々」も、戦史室前掲書によれば、田中新一中将(作戦部長)が「杉山総長が三カ月と答えるはずはない。当時陸海軍統帥部の研究では、南方要域の攻略作戦(緒戦)は五カ月ということであり、杉山総長も十分それは承知したのであるから、三カ月などと奉答するはずはない」というのである。
もっとも、このくだりは、三カ月が五カ月でも大した違いはなく、また、「支那事変は一ケ月位にて片付く」と杉山が昭和十二年に言ったというのが、事実は北支|戡定《かんてい》に三カ月と言ったのであるとしても、事変が片づかないで泥沼の様相を呈していることから見れば、ほとんど問題とするに足らぬことである。
天皇が両総長に「……外交に重点をおく主旨と解するが、其通りか」と念を押し、両総長がその通りであると答えたとしても、日本を蔽《おお》っていた空気はもはやそんなものではなかった。
右の天皇下問の日の四日前、九月一日夜、大本営陸軍報道部長馬淵逸雄大佐は関東大震災記念国民防空大会に名を籍《か》りて、神田共立講堂で国民を煽《あお》るような講演をした。その講演は、同夜、ラジオで全国に中継放送され、翌日の新聞でも大々的に報道された。
その一部は次のようである。
「……外交交渉を以て遂に平和的解決の途なきにおいては、帝国は実力に訴へて対日包囲陣を突破し、これにより事態の解決を計らねばならぬ。この場合戦争が如何に長期化し、如何に惨烈激化するも、この戦争が帝国の自存自衛上死活を決する絶体絶命的のものである以上、敵火の下たとへ国土を焦土と化し、国民が最後の一員となるも戦ひ抜き、以て我が万邦無比の国体と光輝ある歴史とを死守せねばならぬ……」(九月二日『東京朝日新聞』朝刊)
講演の宣伝意図は『帝国国策遂行要領』そのものにある。右の国策が決定をみるのは九月六日の御前会議においてである。御前会議決定以前に陸軍報道部長が焦土演説をもって国民に訴えているのである。外交に重点がおかれているような情勢ではなかった。
近衛首相は誰よりもその情勢をよく知っているはずであった。だから、彼は日米首脳会談によって事態の解決を図ろうとしたはずであった。その彼にとって、天皇が両総長に対して強く懸念を示したことは、彼の『平和への努力』を推進するためのまたとない好機となるはずであった。首脳会談が実現したら現地から直接天皇に電報して裁可を仰ぐという非常手段まで決意していた近衛なら、天皇が両総長を呼んで懸念を示したときにこそ、天皇の威光を利用してでも戦争国策を抑止する手を打つべきであった。
彼は首相として何もしなかった。杉山・永野両総長に代表される戦争国策が、最終決定をみるのはもはや慣習的に既定の事実となっている翌日の御前会議へ素通りするのを、近衛はなすところもなく見送ったのである。
38
昭和十六年九月六日、午前十時から十二時まで、『帝国国策遂行要領』に関する御前会議が行われた。
はじめに、首相、外相、企画院総裁、陸海両総長の説明があって、原枢府議長との間の質疑応答に移ったのは、前回七月二日の御前会議のときと同様である。
近衛首相をはじめとする各責任者の説明は『帝国国策遂行要領』を決定へ導くための各立場での説明に過ぎない。参謀本部が用意した「帝国国策遂行要領ニ関スル御前会議ニ於ケル質疑応答資料」という三十一項目にわたる文書があるから、必要に応じて、あとでその各項にふれることにすれば、「説明」は省略してよいであろう。原枢府議長と提案者側との質疑応答をみることにする。
原枢府議長
質問|竝《ならび》意見ヲ述ヘマス。
総理竝両総長其ノ他ノ方ノ説明ニ依リ本案大体ノ趣旨ハ諒承セリ。外相ノ説明ニ依ルト日米関係カカク迄緊迫セリト云フカ、尋常一様月並ノ外交テハヤレヌ。出来ルタケノ手段ヲ取ツテ難局ヲ打開スヘシ。
総理カ「ルーズヴェルト」ト会見シテ意見ヲ一致セシメントスル決意、其ノ国家ニ対スル忠誠心ト熱意トニ対シ感謝ス。
国民ハ日米関係ヲ眺メ最悪ノ場合ニ至ラスヤト思ヒ、之ニ至ラサルヲ願ツテ居ル。
[#この行1字下げ](一般国民が日米関係が最悪の場合に至りはせぬかと虞れていたかどうかは、疑わしい。一般国民は官製宣伝を信じていたし、官製宣伝を粉砕するに足る民間情報も政府批判も、苛酷な弾圧の前に存在を許されなかった。一般国民は、また、満洲事変以来日中戦争を経過しての「無敵皇軍」を信じ込んでいた。昭和十三年の張鼓峰事件、昭和十四年のノモンハン事件での惨敗を知らされていなかった。したがって、皇道主義的教育と官製宣伝とによって飼育された国民にとって、「自存自衛」のための「大東亜共栄圏」構想は、少くとも昭和十六年の時点では、一般的に悪夢ではなかったのである。)
原枢府議長の発言はつづいている。
自分ハ此ノ前ノ会議(七月二日の御前会議)ノ時ニ対英米戦ヲ辞セストアリシカ故ニ、出来ルダケ外交ヲヤルヨウ希望シ置ケリ。現在政府ノ考ヘモ其ノ様テアリ、両総長ノ考ヘモ同シ様ダ。而《しか》シ外交的手段駄目トナレハ好ムト好マサルトニ拘ラス、最悪ノ場合戦争トナルダラウ。而シテ之ハ適当ナ時ニ決意スルヲ要スル。ソコテ戦争準備ヲヤルノテアルト諒解スル。
次ニ案文中ノ一、二、三ヲ一瞥《いちべつ》通覧スルト、自存自衛ノ為ニ戦争準備ト外交トヲ併行シ、又開戦ノ決意等ノコトカアル。戦争開始モ已《や》ムヲ得ナイカ、出来ルナラハ外交ニ依ツテヤツテ見様ト見ラレル節モアル。即戦争カ主テ外交カ従テアルカノ如ク見エルカ、自分ハ外交手段ヲ取ツテ居ル間ヅツト今日カラ戦争準備ヲスルト云フ趣旨テアルト思フ。即チ今日ハ何処迄モ外交的打開ニ勉メ、ソレテ行カヌ時ハ戦争ヲヤラナケレハナラヌトノ意ト思フ。戦争カ主テ外交カ従ト見エルカ、外交ニ努力ヲシテ万已ムヲ得ナイ時ニ戦争ヲスルモノト解釈ヲスル。
『杉山メモ』によると、右の原枢府議長の発言に対して、杉山参謀総長が答弁のために椅子を立とうとしたときに、及川海軍大臣が起立答弁したらしい。これが、後述するように、統帥部長が答弁しなかったことを天皇が咎《とが》める理由となった。
及川海軍大臣
書イタ気持ト原議長ト同一テアリマス。
帝国政府トシテハ事実ニ於テ日米国交ハ今日迄勉メテ居ル所テアル。現在ノ事態ニ直面シ、已ムナキ時ハ辞セサル決意ヲ以テヤルト云フコトヲ取リアケテ書イタノテアル。
第一項ノ戦争準備ト第二項ノ外交トハ軽重ナシ。而シテ第三項ノ目途ナキ場合ニハ戦争ノ決意迄行フト云フノテアル。而シ之ヲ決意スルノハ廟議テ允裁《いんさい》ヲ載クコトトナル。重ネテ云ヘハ、書キ表ハシタ趣旨ハ原議長ト同様ニテ、出来得ル限リ外交交渉ヲヤル。
又近衛首相カ訪米ヲモ決意シタノハ左様ナ観点テアルト思フ。
原枢府議長
御話ニ依リ本案ノ趣旨ハ明カトナレリ。
本案ハ政府統帥部ノ連絡会議テ定マリシ事故、統帥部モ海軍大臣ノ答ト同シト信シテ自分ハ安心致シマシタ。尚近衛首相カ訪米ノ際ニハ、主旨トシテ、戦争準備ヲヤツテオクカ、出来ルタケ外交ヲヤルト云フ考ヘテ、何ントカシテ外交ニ依リ国交調整ヲヤルト云フ気持カ必要デアル。ドウカ本案ノ御裁定ニナツタラ首相ノ訪米使命ニ適スル様ニ、且日米最悪ノ事態ヲ免ルル様御協力ヲ願フ。
日米戦争ニ伴フ米「ソ」ノ関係ニ就キ承リ度。
原枢府議長の右の質問に対して、杉山参謀総長が極東ソ連軍の状況、ソ連の対日態度、日本軍(関東軍)の状況、米国の軍事的経済的対ソ援助、将来予想される事項、南方作戦と北方問題との関連等を説明した。
原枢府議長
「ソ」聯トノ関係ハ統帥部ノ御話ニ依リシツカリ承リマシタ。戦争決意ニ就キマシテハ慎重審議セラレルト云フ事テスカ、首相ノ努力カ遂ニ行ハレナカツタ時ニハ、愈々《いよいよ》戦争ト云フ最悪ノ場合トナル。サウナルト統帥部ノ云フ様ニ戦争決意ヲセサルヘカラス。此ノ戦争決意ハ慎重ニ審議スルト云フカラ之以上質問ヲセス。
別紙ノ条件(既述の「対米(英)交渉ニ於テ帝国ノ達成スヘキ最小限度ノ要求事項竝ニ之ニ関聯シ帝国ノ約諾シ得ル限度」を指す)テ外交交渉カ出来レハ結構ト存シ、本案ニ対シテハ満腔ノ賛意ヲ表ス。(以下略)
『帝国国策遂行要領』は可決された。日米交渉は期限(十月上旬頃)つきとなり、対米(英、蘭)開戦決意が国家意志として決定されたのである。
会議の終りに異例の現象が生じた。天皇が発言したことである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
天皇 私カラ事重大ダカラ両統帥部長ニ質問スル。
先刻原ガコン/\述ベタノニ対シ両統帥部長ハ一言モ答弁シナカツタガドウカ。
極メテ重大ナコトナリシニ、統帥部長ノ意|志《ママ》表示ナカリシハ自分ハ遺憾ニ思フ。私ハ毎日明治天皇御製ノ
[#ここで字下げ終わり]
[#この行4字下げ]四方《よも》の海皆|同胞《はらから》と思ふ代《ママ》になどあ|だ《ママ》波の立騒ぐらむ
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ヲ拝誦シテ居ル。
ドウカ。
[#ここで字下げ終わり]
近衛手記『平和への努力』では、このあと、天皇が「余は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せむと努めて居るものである」と発言をつづけたことになっている。満座粛然、暫くは一言も発する者なし、とある。
『杉山メモ』では、このあと、永野軍令部総長が立って、弁明している。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
永野 全ク原議長ノ言ツタ趣旨ト同シ考ヘデアリマシテ、御説明ノ時ニモ本文ニ二度此旨ヲ言ツテ居リマス。原議長カワカツタト言ハレマシタノデ改メテ申シ上ケマセンデシタ。
杉山 永野総長ノ申シマシタノト全然同シテ御座イマス。
[#ここで字下げ終わり]
『杉山メモ』は、「……直接『遺憾ナリ』トノオ言葉アリシハ恐懼ノ至ナリ。恐察スルニ極力外交ニヨリ目的達成ニ努力スヘキ御思召ナルコトハ明ナリ。又統帥部カ何カ戦争ヲ主トスルコトヲ考ヘ居ルニアラスヤトオ考ヘカトモ拝察セラルル節ナシトセス」と、九月六日の項の末尾に誌している。
発言しない建前の天皇が発言したのは異例のことである。つまり、天皇は意思表示せずにはいられなかったと解すべきであろう。もしそうなら、天皇は詩歌の朗読による表現などとるべきではなかった。詩歌は感傷的感懐の表現手段でしかない。事はまさに国運が決する瞬間だったのである。
近衛前掲書に「かくて御前会議は未曾有《みぞう》の緊張裡に散会した」とあるほど、緊迫した空気が漂っていたときであった。列席者の誰にも、天皇の意思が非戦に傾いていることは映っていたはずであった。御前会議から帰庁した東条陸相は、
「聖慮は平和にあらせられるぞ」
と語り、武藤軍務局長は、
「オイ戦争なんぞは駄目だぞっ。陛下はとてもお許しになりっこない」
と語ったという。(佐藤賢了『大東亜戦争回顧録』)
「四方の海」の御製の朗読の代りに、あるいは朗読のあとでもよかった、天皇がもし戦争は欲しなかったのなら、朕《ちん》は戦争を欲せず、とひとこと言ったらどうであったか。
詩歌に意思を托《たく》したりせずに、明確に直接表現をとったら、どうであったか。
沈黙の慣例は天皇みずからによって破られているのである。天皇の直接的意思表示が異例のこととして行われたとしても、行われてしまえば、それを輔弼《ほひつ》するのが列席者たちの任務なのである。
詩歌の朗読では、意思はどれほど明瞭に感取されても、手続上は忖度《そんたく》でしかないから決定力を持たない。
列席者は恐懼したが、それだけである。日米交渉に国運が懸っていたとすれば、その日米交渉妥結にとって最大の障害となる『帝国国策遂行要領』を、九月六日の御前会議は可決したのである。天皇は消極的感想を三十一文字に托しはしたが、最高権威者として否認はしなかった。沈黙の人が、決定的瞬間に沈黙を破る必要を感じ、しかも決定的なことは言わなかったのである。明らかな責任回避であった。
これ以後、国家は、奈落への急坂を加速して転落する。
39
近衛は、国家が開戦へ向って大きく踏み出すことになる『帝国国策遂行要領』の決定を、さほど重大には考えなかったように見える。あるいは、期限を切って開戦決意をするという条項を、そのときが来たら来たでどうにかできると考えていたのかもしれない。
彼は、「……遂行要領」が御前会議決定をみた九月六日、同じ日の夜、陸海外三相諒解のもとに、グルー駐日米大使と極秘裡に会食懇談して、日米首脳会談促進のための協力を要請した。
決定的ともいえる戦争国策を一方の手で採択し、その国策とは全面的対決姿勢にある米国に他方の手で握手を求めるにひとしい。
近衛によれば、現内閣が陸海軍も一致して日米交渉の成立を希望しており、この内閣を措《お》いては外に機会があるとは考えられず、この機会を逸すれば「我々の生涯の間には遂にその機会が来ないであろう」と語ったという。
グルー大使は、近衛のハル四原則(一、すべての国の領土と主権を尊重すること。二、他国の内政に干渉しないという原則を守ること。三、通商の平等をふくめて平等の原則を守ること。四、平和的手段によって変更される場合を除き、太平洋の現状を維持すること。)に対する見解を質した。
近衛の答は「原則的には結構であるが、実際適用の段となると種々問題が生じ、その問題を解決する為にこそ会見が必要になるのだ」ということであったという。
だが、奇怪なことに、グルーは近衛が「日本国政府は四原則に決定的|且《か》つ全面的に同意するものである」と答えたと諒解した。(グルー『滞日十年』)
この微妙でしかも大幅な食い違いは、通訳の介在に因るものか、当事者一方の表現不適切、あるいは他方の理解の過不足に因るものか、判然しない。
グルー大使は彼の外交官生活で「最も重要な電報」を本国政府へ打った。
時間的に少し先走るが、近衛・グルー会談の一つの結末を記しておこう。
グルー電は、十月二日付合衆国政府覚書の中に「九月六日日本国首相ハ在東京米国大使トノ会談ニ於テ上述四原則ニ賛同スル旨言明セラレタリ」と公電中に採用された。その結果、近衛首相は窮地に立たされることになった。日本はハル四原則に決定的且つ全面的に同意する立場をとっていないからである。近衛は「主義上は結構である」と述べたに過ぎないと釈明し、十月七日、豊田外相からグルー大使へこの旨申入れ、グルー大使は本国政府へ訂正電報を打った。
この出来事は、米国の対日不信を増幅させ、国内的には近衛の対米妥協に対する疑惑と反感を軍部に与えずにはおかなかった。
近衛に限らず、日本の為政当局の何処にも、一貫した平和思想があるでなく、相手が巨大かつ強力な米国であるために、平和的擬態をとっていたに過ぎないから、することなすこと裏目に出たと評しても過言ではない。
九月六日の御前会議のために参謀本部が用意した「帝国国策遂行要領ニ関スル御前会議に於ケル質疑応答資料」というのがある。
軍部だとて本音をいえば自信がないはずの対米英蘭開戦決意を正当化するための資料だが、それはまたこれまでの日本の政治の決算書ともいえるであろう。三十一項目に分れているが、本稿の進行に必要と思われる部分を拾ってみることにする。
一、対英米戦争ハ避ケラレヌカ。
……支那事変処理ヲ中心トスル東亜新秩序ノ建設ハ八紘一宇ノ国是ニ則《のつと》リタル帝国不動ノ国策ニシテ(中略)米国ノ対日政策ハ現状維持ノ世界観ニ立脚シ、世界制覇ト民主主義擁護ノ為帝国ノ東亜ニ於ケル興隆発展ヲ阻止セントスルニ在《あ》ルモノ(中略)日米ノ政策ハ根本的ニ背馳《はいち》シ、両者ノ衝突ハ一張一弛ヲ経テ遂ニ戦争ニ迄発展スヘキハ歴史的必然性ヲ持ツト云フヘキナリ。
現実ノ事態ハ米国カ其ノ対日政策ヲ変更セサル限り、帝国ハ自存自衛ノ為最後ノ手段タル戦争ニ訴ヘサルヲ得サル絶|対《ママ》絶命ノ境地ニ立到レルコト(中略)
今仮ニ一時ノ平和ノ為国策ノ一部後退ニ依リ米ニ一歩ヲ譲ランカ、米国ノ軍事的地位ノ強化ハ更ニ十歩百歩ノ後退ヲ要求スルニ至ルヘク、遂ニ帝国ハ米国ノ頤使《いし》ニ甘ンセサルヲ得サルニ至ルヘシ。
満洲事変(昭和六年)以来ちょうど十年つづいた日本の軍事的膨脹政策、後進国への侵略政策が、「八紘一宇の国是」であるというのなら、確かに対米英戦争は避けられない。日本が侵略を侵略と思わず、あるいはそれを正当化したのは、世界再分割をめざす新秩序建設を正当としたからである。新秩序論の根拠には、五十年、百年、二百年前には、英米だとて侵略国だったではないか、という歴史認識がある。だが、問題は、一九三〇―一九四〇年代において、どちらがより平和的であろうとしているかである。枢軸諸国か、反枢軸諸国か。一世紀も二世紀も前の事実をもって、現在の政治的・軍事的冒険を正当化しようとするのが無理なのであった。けれども、また、無理を通して道理をひっこめさせようとするのが、軍国主義の特徴でもあった。相手は、しかし、日本の武力的脅迫を恐れるような国ではなかったのである。
二、対米英蘭戦争目的如何。
対米英蘭戦争ノ目的ハ東亜ニ於ケル米英蘭ノ勢力ヲ駆逐《くちく》シテ、帝国ノ自存自衛圏ヲ確立シ、併セテ大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ。
(中略)
従ツテ之ヲ妨碍《ぼうがい》スヘキ米英蘭ノ敵性勢力ハ断乎之ヲ駆逐スヘキナリ。
三、対英米戦争ノ見透、特ニ如何ニシテ戦争ヲ終結セントスルヤ。
(前略)米国ノ屈伏ヲ求ムルハ先ツ不可能ト判断セラルルモ、我南方作戦ノ成果大ナルカ、英国ノ屈伏等ニ起因スル米国輿論ノ大転換ニ依リ、戦争終末ノ到来必スシモ絶無ニアラサルヘシ。
(中略)戦略上優位ノ態勢ヲ確立スルト共ニ(中略)長期自給自足ノ経済態勢ヲ整備シ、且独伊ト提携シ米英ノ結合ヲ破摧《はさい》シテ亜欧ヲ連絡スル等ニ依リ不敗ノ態勢ヲ確立シ得ヘク、此ノ間情勢ヲ利導シ戦争ヲ終熄《しゆうそく》ニ導キ得ルノ光明ヲ認メ得ヘシ。
この作文にどれだけの説得力を期待し得たであろうか。起案者自身この作文の意味するところを、どれだけ信じていたであろうか。確実なことは米国を屈伏させる手段がないということである。あとは全部不確定要素に蔽われている。
四、五、略
六、戦争準備ヲ十月下旬目途トセル理由如何。
目下ニ於ケル帝国国力及戦力ノ隘路《あいろ》カ油ナルハ多言ヲ要セス。而《しこう》シテ帝国ハ目下貯油ヲ逐次消費シツツアリテ、此ノ儘ノ姿勢ニテ推移スルトシテモ其ノ自給力ハ今後多クモ二年ヲ出テス。(中略)
一方米国ノ海空軍ハ時ヲ逐《お》フテ飛躍的ニ向上シ(中略)時ノ経過ト共ニ作戦的ニ益々困難ノ度ヲ加フルノミナラス、来年秋以後ハ米国海軍軍備ノ充実ハ帝国海軍力ヲ凌駕《りようが》シテ、遂ニ戦ハスシテ米英ニ屈従セサルヘカラサルニ至ルヘシ。
他方北方ハ気候ノ関係上冬期大ナル作戦ハ彼我共ニ至難ナルヲ以テ、此ノ期間ニ於テ速ニ南方ノ主ナル作戦ヲ終リ、明年春以降北方ニ対シ用兵上ノ自由ヲ保留スル為ニモ、成ルヘク速ニ戦争準備ヲ完整スルコト必要ナリ。
之レカ為今ヨリ直チニ戦争準備ニ着手スルモ、動員、船ノ徴傭《ちようよう》、艤装《ぎそう》等ヲ行ヒ且長遠ナル海上輸送ヲ以テ戦略要点ニ兵力ノ展開ヲ完了スルハ十月下旬ナリ。
日本は石油の欠乏に困窮していた。日本海軍は、何もしないでいても一日約一万トン、毎時約四百トンの油を消費していた。だから、貯油量が減らないうちに開戦し、南方の産油地帯を占領して、その油で戦争を継続しようというのであった。計算が粗雑であった。タンカーの消耗が十分に見込まれていなかった。海上護衛戦の戦術も当初から緻密に準備されていなかった。護衛を真剣に考えはじめたのは、船舶被害が予想をはるかに上廻ってからである。時既に遅かった。
右の引用資料で、冬の間に南方作戦を実施して、春になったら北方(対ソ)用兵を考えているのは、米国の反攻が早くとも昭和十八年まではないと予測しているからである。実際には、ガダルカナルを適例とするように、開戦約半年後に、米国は陸上兵力を使用する反攻を開始したのである。
七、十月上旬頃迄ノ作戦準備ト爾後十月下旬迄ノ作戦準備トノ差ハ何カ。之ト外交トノ関係如何。
十月上旬迄ノ作戦準備ハ編制動員、集中展開、基地ノ設定等ヲ含ムモノトス。……此ノ期間ニ於テハ外交交渉ニ最善ヲ尽シアル時期ナルヲ以テ……(作戦準備が)外交交渉に妨害ヲ及ホササル如クスヘキモノナリ。爾後(開戦決意後)十月下旬迄ノ作戦準備ハ十一月初メノ武力発動ヲ基準トシテ一切ノ作戦準備ヲ完整スルモノニシテ……外交ハ政戦略ノ転換ヲ有利ナラシムルヲ目標トシテ行ハルヘキモノナリ。
八、「外交上要求達成ノ目途ナキ場合直ニ開戦ヲ決意ス」トアルカ、武力発動ハ何時トナルヤ。
作戦準備ノ完整を待チテ武力ヲ発動スヘキモノニシテ、其ノ時機ハ十一月初トナルヘシ。
九月六日御前会議の時点で、統帥部の武力発動の希望的時機は十一月上旬であった。その後日米交渉に関する審議を重ね、政変を生ずるなどして、十二月八日開戦となった。
九以下十七まで略
一八、南方ニ関連シ北方ニ対シテハ如何ニ考フルヤ。
(前略)二正面作戦ヘノ拡大ヲ避クル如ク特ニ米蘇ノ対日共同戦線ノ結成ヲ防止スルニ勉ムヘキモノトス。(中略)
然レトモ独蘇戦ノ推移帝国ノ為有利ニ進展セルカ、米蘇提携ニヨル北方ヨリノ脅威極メテ大ナルカ、或ハ「ソ」ヨリ攻勢ヲトル等国防上忍フヘカラサルカ如キ事態到来セル場合ニ於テハ、南方武力行使間又ハ行使前ニ於テモ、武力ヲ行使シテ北方問題ヲ解決スルコトアリ。
一九以下二四まで略
二五、別紙第一ニ盛ラレタ条件全部カ容レラレネハ外交ハ決裂サセルノカ。
(別紙とは、『帝国国策遂行要領』中別紙として指定してある「対米≪英≫交渉ニ於テ帝国ノ達成スヘキ最小限度ノ要求事項竝ニ之ニ関聯シ帝国ノ約諾シ得ル限度」をいう)
(前段略)
我国トシテハ大陸資源ト米英蘭ノ資源ヲ利用シテ行クコトニナルノテアルカラ、条件ハ一歩モ譲ルコトハ出来ヌ。殊ニ南方武力行使セサルコトヲ約スル以上ハ、|支那ハ完全ニ我帝国ノ思フ様ニセネハナラヌ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。之レカ為ニハ何ト云フテモ必要ノ|駐兵ヲ絶対ノ要件トス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。全部|撤兵ナトシテハ支那ハ言フコトヲキカヌ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。日本ハ生存出来ヌ。(以下略)――(傍点引用者)
傍点部分に注意されたい。第一項の「八紘一宇ノ国是」は、みずからここで正体を暴露している。解説の必要はないであろう。東条陸相に代表される軍部が飽《あ》くまで固執して日米交渉を難破させ、第三次近衛内閣を総辞職(十月十六日)に追い込んだのはこの駐兵問題であった。
「遂行要領」決定による日米交渉の時間切れを目前にして、駐兵問題をめぐる和戦の激突は、日を追って明らかとなるはずである。
40
九月八日、杉山参謀総長は南方作戦構想について詳しく上奏し、天皇の質問に答えた。翌九日にも杉山総長は対南方動員に関して上奏した。
杉山総長の二日連続二度の上奏を通じて、天皇は同じことを二度質問している。南方作戦実施中に北方(ソ満国境)で事が起らないか、ということである。
杉山の答は、その心配が絶対にないとはいえないが、北方では冬期間は大作戦が困難なので、大事件は起らないと考えられるし、仮りに事が起れば、支那から兵を転用して対処できる、というのであった。
天皇は二度の上奏で南方作戦構想を諒解し、動員の許可を与えている。六日の御前会議では、近衛によれば、「……故大帝の平和愛好の御精神を紹述せむと努めて居るものである」と言った天皇が、日本軍の攻略範囲(第一段作戦)と順序が、香港、英領馬来、英領ボルネオ、フィリピン、グアム等が概《おおむ》ね同時、次で蘭印を占領という作戦構想であることを、「作戦構想ニ就テハヨク分ツタ」と言い、「動員ヲヤツテ宜シイ」と言ったのである。
天皇が心配したことは、南北二正面作戦を余儀なくされて、敗けはせぬかということであった。敗ける心配さえなければ、輔弼《ほひつ》の任を負っている臣下の者共が計画している戦争に異存はなかったのである。軍国主義の天皇は平和主義ではあり得ない。敗報|頻《しき》りに到る日まで平和を考える必要はない。
こうして、九月十日を手はじめに、十三日、十六日、二十四日、二十九日、十月三日と陸軍各部隊の動員または臨時編制が発令された。これらの部隊に対して、南支那、台湾、印度支那への派遣命令が発令されたのは、九月十八日、奇しくも満洲事変勃発からまる十年であった。
海軍では、九月三日|乃至《ないし》五日、軍令部が南方攻略作戦の図演(図上演習)を行い、九月十一日乃至二十日、海軍大学校で大規模な図演を行なった。このときは山本連合艦隊司令長官が統裁官となり、連合艦隊で既に概成していた作戦計画に基づいた図演であった。図演での開戦日は十一月十六日(米国時間)と想定されていたのである。
さらに、九月十六日には、ハワイ空襲のための特別図演が行われている。ハワイ空襲作戦は山本長官自身の創意にかかり、一月以来ひそかに研究が進められていたが、軍令部では危険が大きいとして、この図演が行われた段階ではまだ認可していなかったのである。
陸海軍が開戦へ向って準備を進めている旁《かたわ》ら、九月十八日、大本営政府連絡会議で杉山参謀総長と永野軍令部総長とが、「速ニN工作ニ関スル帝国ノ最後的態度ヲ決定シ米側ニ提示ス」ることを、政府側に迫り、決定をみた。N工作というのは駐米野村大使を接点とする日米国交調整のことである。
杉山、永野両総長の言い分は、九月六日の御前会議以来二週間近く経過しているのに、日米首脳会談が実現するかどうか依然として判然せず、このまま荏苒《じんぜん》時を過せば、御前会議決定による日限の十月上旬になっても外交交渉の成否の目途が立たない。そのようなことでは米国の遷延策《せんえんさく》に乗せられてしまうことになるから、日本の最後的態度を速やかに決定して米国に提示する必要がある、というのである。
二日後の九月二十日、連絡会議によって「日米諒解案の最後的決定ニ関スル件」が審議され、「日本国『アメリカ』合衆国間国交調整ニ関スル了解案」が決定された。これは、六月二十一日米国案を基礎とする日本側からの最終対案として決定されたものだが、参謀本部からの修正意見をすべて容《い》れてある。長文なので引用は避けるが、駐兵(「一定地域ニ於ケル日本国軍隊及艦船部隊ノ所要期間駐屯」)も、蒋政権と汪政府の合流も、満洲国承認も、すべて日支和平基礎条件として列記されてある。
この案を、豊田外相は何も新しい条項は含まれていないとして留保し、グルー大使に対しては、新しい提案を含まず一種の便利な参考書類であるという説明を付して、九月二十五日に伝達した。米国務省へそれが提出されたのは九月二十七日であった。
統帥部は開戦決意の時機について焦慮していた。九月二十五日の連絡会議で、陸海両総長は『政戦ノ転機ニ関連シ外交交渉成否ノ見透決定ノ時機ニ関スル要望』を出した。「……開戦決意ノ時機ニ関シテハ作戦上ノ要請ヲ重視スヘク之カ為日米外交交渉ハ一日モ速カニ其ノ成否ヲ判定シ遅クモ十月十五日迄ニ政戦ノ転機ヲ決スルヲ要ス」というのである。
九月六日の御前会議での決定では「十月上旬頃」であったのが、統帥部の要望では「十月十五日」と日限を切られたのである。
和戦の途を決しなければならない。
近衛首相は動揺した。
41
『大本営機密戦争日誌』九月二十六日の項に次のように誌されている。
「昨日ノ連絡会議ニ於ケル統帥部ノ要望(日米交渉の期限を十月十五日とすること)大ナル反響ナカリシガ如ク観察セルニ、真実ハ然《しか》ラズ、近衛総理ハ心境ニ大ナル変化アリシガ如シ。其事情別紙ノ如シ」
別紙とは、有末第二十班長(戦争指導班)が九月二十六日に記したもので、それによると、近衛総理は、連絡会議終了後、宮中大本営で用意した昼食もとらずに、会議列席閣僚を伴って首相官邸に帰り、十月十五日を期限とする統帥部からの要望は、強い要望だろうか、と、たぶん陸相に対してであろう、尋ねた、というのである。
九月六日の御前会議決定が十月上旬頃となっていたのであるから、十月十五日はぎりぎりの期限ということになる。
「強い要望」とは、譲歩を期待できない要望ということだが、御前会議で抵抗もなく決定したことを、いまさら強いも弱いもないのである。御前会議で「遂行要領」を素通りさせたのは、十月上旬頃という期限が来たら、なんとか引き延ばすことができると近衛が甘く考えていたにちがいない。統帥部から「作戦上ノ要請ヲ重視」して十月十五日という日限を切られて、日米首脳会談実現の見通しの立っていない近衛は困惑したのである。
九月二十六日、近衛は木戸内大臣に弱音を吐いている。
「……近衛首相と四時より五時十五分頃迄懇談す。軍部に於て十月十五日を期し是が非でも戦争開始と云ふことなれば、自分には自信なく、進退を考ふる外なしと苦衷を述べられし故、切に慎重なる考慮を希望す」(『本戸幸一日記』下巻)
近衛は早くも辞職によって責任を回避しようとしている。『木戸日記』の記述は綺麗ごとである。「切に慎重なる考慮」とは何か。
矢部貞治『近衛文麿』(下)によれば、そこはこうなっている。
「九月六日の御前会議をやったのは君ではないか。あれをそのままにして辞めるのは無責任だ。あの決定をやり直すことを提議し、それで軍部と不一致というなら兎も角、このままでは無責任だ」
木戸が右のように言ったとすれば、その通りである。簡単に辞めて済むことなら、総理大臣など要らないのである。
近衛は九月二十七日から十月二日朝まで鎌倉別邸にひきこもってしまった。
近衛総理を動揺させた陸海軍両総長からの強い要望は、実は海軍大臣をも当惑させたのである。両総長は右の要望を文書として政府に交付するつもりであったのを、及川海相が「此際機微ナル関係モアリテ差控へ度」と制《と》めている。
及川海相は政府が統帥部から要望を正式書類として突きつけられて、のっぴきならなくなるのを避けようとしたものと考えられるし、その根柢には、政府の一員としての海相自身が開戦決意(十月十五日期限)に自信を持てなかったという事情があったにちがいない。
参謀本部は及川海相の肚《はら》を疑った。九月二十六日、参謀本部でも終始強硬論を持してきた塚田次長は、木村陸軍次官に、御前会議決定を実行に移すよう陸軍大臣を鞭撻《べんたつ》せよ、海軍大臣の言行には不可解なことが多いから、陸軍大臣から海軍大臣を鞭撻させよ、と申入れた。
その結果とは必ずしも言いきれないが、『大本営機密戦争日誌』九月二十七日の項には次のように記録されている。
「……陸相ハ海相ト会談、御前会議決定ヲ変更スルノ意志アルガ如キモ如何ト質《ただ》セル処、変更ノ意志ナキモ、世界情勢刻々ト変化シツツアリ、日本ノミ過早ニ世界戦争ノ渦中ニ飛込ムノヲ恐レルニ在リト敢ヘテ詭弁ヲ弄セリ。右ハ御前会議決定ヲ変更セントスルモノニアラズシテ何ゾヤ。|御前会議決定ハ世界ノ情勢ヲ広ク深ク勘案シタル後ノ結果ナリ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。今更|右顧左眄《うこさべん》スルノ要アリヤ。又其ノ余裕アリヤ」(傍点引用者)
傍点部分、九月六日の御前会議決定が、世界の情勢を広く深く勘案した結果であったか否かは、読者も既に見られた通りである。約一カ月前、「……帝国カ力程モナキ大東亜新秩序建設ニ乗リ出セルカ、抑々ノ誤リナラスヤ。支那事変発足カ不可ナリシナラスヤ」(八月二十九日の項)と、同じ『日誌』が記していることを忘れてしまったかのようである。
及川海相は開戦は勿論のこと、開戦決意も確かに避けたがっていた。その事情は記述を進めるにしたがって明らかとなるはずであるし、彼が負うべき責任の部分が決して小さくなかったことも明らかとなるであろう。
同じく九月二十七日、豊田外相はグルー大使の来訪を求めて、日米首脳会談を実現させるよう本国政府へ意見具申することを強く懇請した。会合期日は日本としては十月十日乃至十月十五日を好都合とし、近衛総理及現内閣を措《お》いては「当分日米国交調整ヲ為ス機会ナカルベク」という豊田の懇請には、かなり激しい表現を用いた箇所もある。たとえばこうである。
「……日本ハ和平ヲ顧念スト|雖 《いえども》、敢テ他ノ威圧ニ屈スルモノニ非ズ、又何物ヲ犠牲トシテモ和平ヲ欲スルモノニ非ズ……」(戦史室前掲書5)
同文は同日夜、野村大使にも打電された。野村は、二十九日、ハル国務長官を訪れて、ルーズヴェルト大統領との会見を申入れたが、あいにく大統領はワシントンを離れていたので、帰還次第米国政府としての覚書を提示するであろうというハルの回答であった。
野村は日米交渉に関して深刻な危機感を抱いていた。九月二十四日の野村電のなかに「今ハ将《まさ》ニ最後ノ五分間」という字句が見られる。
その野村大使にとっては、九月二十日連絡会議決定、二十五日野村宛訓電の日本側からする最後的「日米諒解案」は、内容が日米交渉を妥結に導くという見地からは、全く不満であった。
彼は本国へ折返し電報している。そのなかの最も重要と思われる一項目だけ引用する。
「日支基本条約ヲ基礎トスル日支和平ハ困難、特ニ駐兵問題ニ依リ交渉決裂ニ向ヒツツアリ」
日本が駐兵問題を考え直さない限り、日米交渉の継続も首脳会談の実現も、望みはなかったのである。
参謀本部は考え直すどころか、交渉による打開の可能性はないものと決めて、開戦決意へ宮中、近衛、外務、海軍を牽引《けんいん》しようとしていた。
同じ陸軍でも、作戦優先の参謀本部とは異って、陸軍省、特に軍務局では悩みが深かった。佐藤賢了軍務課長のように東条陸相にひけをとらない主戦論者も無論いたが、武藤軍務局長以下中堅幹部たちは、解きようのない矛盾に悩んでいたようであった。
米国が要求するような撤兵はできない。だからといって、対米英戦のような危険を冒すことは避けたい。この二つは、相反する命題なのである。
九月二十九日、駐米武官から、駐兵問題に絡んで日米交渉成立の見込薄という電報が、参謀次長、陸軍次官宛てに入ると、軍務局の面々は局長室に集って、日本が譲歩して交渉が妥結した場合と、譲歩もせず、さりとて開戦もせず、重要物資欠乏のままに忍耐する場合とを検討してみたという。(戦史室前掲書)
その結論は、アメリカの主張に屈服して妥結した場合は、日支事変開始以前の状態へ退却することになり、それは重慶に対する屈服以外の何物でもなく、支那を侮日の風潮が蔽《おお》うこととなって、到底忍び難い。対米妥協せずにジリ貧に甘んずる場合は、最後的には対米無条件降伏することになる、というのであった。
右の予測的判断、特に後者の場合のそれは、あくまで対米敵対意識、あるいは対抗意識を保持したままでの判断であるから、首肯し難いが、このとき武藤軍務局長は悶《もだ》えるように言ったという。
「見透しとしては結局戦争ということかも知れぬ。だがねー、戦争は一歩を誤ると社稷《しやしよく》を危うからしめる。俺はどうしても戦争の決断はできない。俺は戦争は嫌だ。殊に先般の御前会議で陛下はあの通りおっしゃったからなあ。とにかくわれわれは外交にベストを尽くさねば相済まぬ」(戦史室前掲書)
武藤は軍務局長として日米生産力の差、軍事力の差、国力の差を弁《わきま》えずにはいられなかったのであろう。これが日中戦争勃発当時、参本作戦課長として事変拡大論者の急先鋒であり、その前年は関東軍参謀として綏遠《すいえん》事件を画策し、謀略制止のために東京から乗り込んで来た石原作戦部長に対し痛烈な揶揄《やゆ》を酬《むく》いた武藤章の後日の姿かと、目を疑わしめるものがある。武藤は敗戦後、マニラでの戦犯容疑は無罪となったが、東京での極東国際軍事裁判でA級戦犯の指定を受けた二十八被告中、絞首刑となった七人のうちの一人となるのである。
42
豊田外相から首脳会談実現に関する懇請を受けたグルー大使は、九月二十九日、ハル長官宛て長文の意見具申を打電した。
グルーは日本からの首脳会談の提案に米国は応ずるべきであるという立場に立っている。長文の意見具申のなかに、次のような箇所が見出される。
「……余はもし我々が予備会談において、我々が正式の最後的条約または仮条約の中に含めたいと思っている特定のはっきりした公約のようなものを、日本が与えるように主張し続けるならば、我々は我々の目標に達することはできないであろうと考える……」(『米国外交白書』一九四一年第四巻)
グルーの努力にもかかわらず、首脳会談開催に関する米国の否定的見解は既に決定的となっていた。
首脳会談に関する米国政府の回答がハルから野村へ手交されたのは、十月二日である。回答の体裁は日本の九月六日提案(九月三日決定の申入れ)に答える形になっているが、実質は、この日までの日米交渉を総括する米国政府の見解である。ハルは回答伝達にあたって、野村に「米国政府は|予 《あらかじ》め諒解成立するにあらざれば、両国首脳会見は危険であると考えて居ること、太平洋全局の平和維持の為には一時の間に合せに纒《まとま》った諒解では不可で、はっきりとした協定を欲する」と告げた。(野村『米国に使して』)
米国政府では、右の回答を出すまでに、国務省政治顧問ホーンベックに代表される正確な対日認識が、既に支配的であった。
ホーンベックは次のように述べている。
「日本が重大な決意をなす必要に直面していること以外には、今日『危機』は存在しない。現在の本当に『重大な危機』は日本国内の危機である」
「現在の重大問題は日米間の問題ではなく、日本の政治並びに軍事指導者の内部とそれらの間の問題である」
「最近数年間日本を支配して来た分子が依然として日本を支配する限り、日本が平和国家となり、極東に平和状態を作り出しそれを維持し、そして太平洋が真に安全となる見込みは少しもない……」(以上前掲『米国外交白書』)
ハーバート・ファイスが『真珠湾への道』で次のように書いているくだりは、公平で正確な事態認識に基づいていると評価され得るであろう。
「……賢明な米国の政策としては、日本側が政策を是正するのに対し、こちらも政策を是正する。すなわち、日本が少しずつ我が方の政策に同調するのに対して、米国も少しずつ経済抑制政策を緩和するということであったのであろう。これに反し、日本に対し直ちに明確な文書による形式で、米国のすべての要請を容《い》れることを強要することによって、米国の政策は近衛の活動を不可能にしてしまった、とグルー及び一部の人々はいうのである。
グルーの見解(中略)は正しかった、と思惟《しい》の上で考えることは常に可能である。米国政府が日本の失敗を軽減したり、その苦境を緩和するための緊急策を講じてやったりすることを、肯《がえ》んじなかったことも事実であった。しかし今日までに入手しえた諸記録によって判断する限りにおいては、太平洋における平和維持(中略)の真の機会が上述のような米国の政策のために失われた、とするグルーのような見解を裏づけていない。これらの記録は、近衛が何らの保留条件または謀略的考慮もなしに、ハルの主張する原則を容認しようとしていた、という見解を確証していない。同様に、近衛がもし時間の余裕を与えられ、日本の退却を平穏裡に実施することを許されたとしても、はたして彼がそれをなしえたか、という点についても、これらの記録はなんらの証明も与えない」
十月二日の米国覚書(回答)は、日本の外交措置の拙劣さ(あるいは日本の新秩序構想を正当化せんがための牽強附会の説)から生じた破綻を材料にしていた。覚書は次のように指摘している。大統領は九月三日に米国政府が基礎とする四原則を反覆叙述し、根本的意見の相違を生じた諸点について、日本政府の態度の表示を要請した。九月六日、日本国首相は在東京米国大使との会談で、四原則に全面的に賛同すると言明した。九月六日、日本政府が討議の具体的基礎として米国政府に提出した提案は、両国政府の見解に齟齬《そご》のあることを明らかにするもののように思われる……等等。
覚書が、日本の自衛権の解釈を疑い、支那駐兵を否認し、根本問題に関して原則上の合意を欠く両国首脳会談への疑義を表明するなど、懸案となつていた交渉上の全問題について異議を表明していたとしても、米国覚書にその根拠を提供したのは日本の武力による膨脹国策そのものであり、米国覚書に友好的語調による手きびしい表現を与えたのは、日本側の持続性のない、そのくせ依怙地《いこじ》な、外交精神と技術の結果であった。
米国覚書は何一つ具体的な希望を提示せず、しかも、根本的原則検討を継続の上で、両国首脳会談の実現することに希望を托す形で結ばれていたのである。
十月四日の連絡会議で、右の米国覚書が取り上げられた。審議らしい審議が行われなかったのは、以下に見る通りである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
外相 本日ハ重大ナル国策故、幹事ヲ経ス、直接主要大臣竝両総長ニ御参集ヲ願ヒ会談スル次第ナリ。(通例の内相、企画院総裁、内閣書記官長、陸海両軍務局長は出席せず)
昨夜米側回答到着セルカ、総数十二本ニ及ヒ、第八号カ先ニ来テ、第六号カ後ニ来タリシテ、唯今飜訳ヲ終了セリ。
[#ここで字下げ終わり]
ここで寺崎アメリカ局長が米案の要点を説明し、これに対する回答電文案を列席者に配布したが、回答案の審議は行われなかった。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
陸相 米ノ回答ハ「イエス」カ「ノー」カ又ハ其ノ中間ノ三テアルヘキ所、今次米回答ハ「イエス」ニアラス「ノー」ニアラス。
帝国ハ此ノ際外交ノ見透ヲツケネハナラヌ。事ハ極メテ重大ナルヲ以テ対米回答電文ハ暫ク措キ、慎重ニ研究スル必要アリ。
参謀総長 陸相ノ所見ニ同意ナリ。而《しこう》シテ時間ヲ延ハサレテハ統帥部トシテハ困ル。引キ延ハサレテハ南モ北モ中途半パトナル。本日ハ決定スルコトナク研究ノ結果決定スヘシ。
軍令部総長 最早「ヂスカツシヨン」ヲナスヘキ時ニアラス。早クヤツテモライタイモノタ。
[#ここで字下げ終わり]
(以上『杉山メモ』、以下、審議はなく、事務的取り決めだけであるから、省略)
問題は、永野軍令部総長の「ヂスカツシヨン」云々の発言である。事は国運を左右する重大事であるから、徹底的に論議されるべきときに、論議無用というのである。「早クヤツテモライタイモノタ」は、和戦の決は政府が採るべき事柄であるから、統帥部としては作戦上の必要から、何れかに早く決めてもらいたい、という意味として受け取れるが、論議無用では断じてない。九月六日の御前会議が論議未熟あるいは不徹底のままに決定へ導かれたから、問題は後述するように十一月五日の御前会議へかけて再検討を必要とするに至ったのである。永野の論議無用は、政府に屡々容喙《しばしばようかい》するのを常とした統帥部としては、無責任の誹《そしり》を免れない。
43
日付を数日後戻りさせることになるが、近衛首相は既述の通り、統帥部から対米交渉期限を十月十五日と切られ、木戸内府に内閣投げ出しの弱音を吐いて、九月二十七日夕から十月二日朝まで鎌倉別邸にひきこもっていた。そのときのことである。
十月一日夕、及川海相は近衛に呼ばれ、密談した。当時海軍次官であった沢本頼雄によれば次のような経緯があったという。(戦史室前掲書)
及川海相はこう言ったというのである。
「総理は絶対非戦主義なりと言はるるも、それ丈《だ》けにては陸軍を引つ張つて行けませぬ。又此の儘《まま》緊張状態を続けて行けば、資源の消耗大(中略)にして到底永続し行けず、速やかに国交を調整して自給し得る様|為《な》さざるべからず、それには米国案を鵜呑《うの》みにする丈の覚悟にて進まなければならぬ。総理が覚悟を決めて邁進《まいしん》せらるるならば、海軍は充分援助すべく、陸軍もついて来るものと信じます」
すると近衛は、
「それなら安心した。自分の考へもそこにある。……」
と、非常に喜んだという。
翌十月二日、及川海相は永野軍令部総長に会って、近衛との会談の模様を話し、永野の賛成を得、さらに及川海相は豊田外相を官邸に招いて同様の話をし、米国覚書の取扱いは慎重にして、妥協成立に専念するよう要望すると、豊田外相も全然同感であると答えたという。
及川海相は東条陸相には、総理から海軍の情勢を聞かれた、とだけ話すと、東条は鈴木企画院総裁から「総理は国交調整出来ざる時は栄爵等|凡《すべ》て辞退して、一平民として下野する決心なり」と聞いたので、これを思いとどまらせるように忠告した、と語ったというのである。
右のうち、及川海相が永野軍令部総長に近衛首相との会談の件を話し、永野の賛成を得たというくだりは、なかなか納得し難い。永野は、二日後の十月四日の連絡会議で「最早『ヂスカツシヨン』ヲナスヘキ時ニアラス」と言っているし、さらに二日後の十月六日、海軍首脳会議で、後述するように、会議の結論が避戦に傾いて、及川がその線に沿って決心しようとしたときに、会議の空気をぶちこわしたのも永野なのである。
もっとも、永野は及川から鎌倉での近衛との話を聞く三日前に連合艦隊司令長官山本五十六から、具体的な数字をあげての避戦論を聞かされたばかりであったから、温厚で生真面目な及川の話に調子を合わせたのかもしれないし、逆に、累次の会議を開戦へ導く上で少からぬ比重を占めた永野の強気な発言は、実は海軍統帥部の責任者としての建前に過ぎず、本音は及川と大差はなかったのかもしれない。
鎌倉での近衛・及川会談に関連して、当時の海軍将官佐官たちが戦後(昭和二十一年一月二十二日)に行なった座談会での興味深い発言の応酬がある。(新名丈夫編『海軍戦争検討会議記録』)
沢本頼雄(当時海軍次官。十九年三月大将)
「近衛手記に、海軍は和戦の決を首相に一任(後述)せりとありしが、当時の空気は現在とは全く異り、『海軍は戦えない』などといい得る情勢にあらざりき。その理由は、
一、海軍存在の意義を失う。
二、艦隊の士気に影響す。
三、陸海軍の物資争奪、陸軍は『戦えざる海軍に物資をやる必要なし』といえり。
四、統帥部としては、両軍分かれるは不可。表面のみにても、一致せざるべからずという空気ありき。
ただし『海軍は戦えぬといってくれないか』と、陸軍よりいわれしことあり」
井上成美(当時第四艦隊長官。二十年五月大将)
「陸海軍相争うも、全陸海軍を失うより可なり。なぜ男らしく処置せざりしや。如何にも残念なり」
及川古志郎(当時海軍大臣。十四年十一月大将)
「私の全責任なり。
海軍が戦えぬといわざりし理由、二つあり。
第一は、情況異なるも、谷口〈尚真〉大将、軍令部長の時〈五年六月加藤寛治大将にかわり、軍令部長に就任、七年二月まで〉満洲事変を起こすべからずといい、大臣室にて東郷〈平八郎〉元帥より面罵せられしことあり。(中略)谷口大将の反対理由は、満洲事変は結局対英米戦となるおそれあり、これに備うるため軍備に三五億を要するところ、わが国力にては、これは不可能なりというにありしが、(中略)『軍令部は毎年作戦計画を陛下に奉っておるではないか。いまさら対米戦できぬといわば、陛下に嘘を申し上げたことになる。また東郷も毎年この計画に対し、よろしいと奏上しているが、自分も嘘を申し上げたことになる。今さらそんなことがいえるか?』とて面罵せられたりと。
このことが、自分の頭を支配せり。
[#この行1字下げ](奇妙なことが海軍大臣の頭を支配したものである。東郷平八郎は日本海海戦の英雄。生ける軍神的存在であった。退役しても、東郷が怒鳴れば海軍部内が震憾したといわれる。だが、右の東郷の発言は、こじつけというものである。毎年度の作戦計画は軍備の前提であって、戦争計画ではない。また、日露戦争当時と太平洋戦争前夜段階とでは、戦略も戦術も兵装もまるで変っている。それにもかかわらず、バルチック艦隊を撃滅した英雄には誰も頭が上らなかったらしいのである。)
第二には、沢本君のいわれし、近衛さんに下駄をはかせられるなという言葉あり。当時、海軍にて非常に警戒せしものにして、軍令部よりも、軍務〈局〉よりも注意せられたり。
この二者により、今より考えれば不可なりしならんも、近衛首相に『海軍にて陸軍を押さえうると思わるるか知れざるも、閣内いっしょになり、押さえざれば駄目なり。総理が陣頭に立たざれば駄目なり』といいたり。荻外《てきがい》荘(荻窪の近衛私邸)会見の二日前、鎌倉の別荘に呼ばれし折のことなり。
さような関係にて、東条より申し込み(後述)ありし際も、海軍として返事するべきにあらず、首相解決すべきものなりといえり。即ち海軍としては、近衛に一任せしにあらずして、近衛を陣頭に立てんとせしものなり」
井上
「近衛さんがやられるべきなるが故にやらざりしか。近衛さんはやる気ありしや。また出来ると思われしや」
及川
「首相が押さえ得ざるものを、海軍がおさえ得るや」
井上
「内閣を引けば可なり。伝家の宝刀なり。また作戦計画と戦争計画は別なり。なお不可なれば、総長をかえれば可なり」
[#この行1字下げ](井上が伝家の宝刀と言っていることは、軍部大臣現役武官制のことである。先に陸軍がこの制度を悪用して、気に入らない内閣を倒し、あるいは組閣不能に陥らせたことを述べたが、ここでは、井上は、戦争反対のためにこの手を活用すべきであった、と言っているのである。海軍大臣が辞める。後任を送らない。内閣は総辞職せざるを得ない。後継内閣が非戦内閣であることが明らかとなるまで、この手を使う。状況からは困難ではあるが、確かに見識である。海軍が避戦に徹底し団結すれば、できないことではなかった。)
沢本
「撤兵問題に関し、六人会議〈大臣、総長、次官、次長、軍務局長、第一部長の会議〉にて、及川大臣が『いよいよとならば陸軍と喧嘩する心算なり』といわれしに、永野総長は『それはどうかな』(後述)といわれるため、大臣の決心鈍りたり。海軍も必ずしも団結しおらざりき」
井上
「大臣は人事権を有す。総長をかえれば可なり」
及川
「内閣を投げ出せり。(近衛がの意)」
井上
「戦争反対と明確にされしや。その手を出すべきなりき」
及川
「東条に組閣の命下り、陛下より東条内閣に協力すべしとの御諚《ごじよう》ありしを以て、嶋田を出せり」(以下略)
要するに、戦えないとわかっていたはずの海軍が、陸軍の手前、戦えないと言えなかったところに禍根があった。現有海軍兵力対米七割五分で、艦艇建造能力、補給能力、物資等の格段の差を考えれば、戦えないと言い切ることは、臆病でも不名誉でもなく、不敗の態勢などと作文することより、はるかに勇気あることであった。
有事の際の実戦の最高指揮官となる山本連合艦隊司令長官は、九月二十九日、永野軍令部総長に対してこう言っているのである。(『沢本手記』戦史室前掲書)
「十一月半ばに至らば南進作戦の戦闘力は整備すべし。邀撃《ようげき》作戦の準備はまだ出来ざるも之は致し方無かるべし。戦闘機一、〇〇〇機、中攻一、〇〇〇機を必要とすることは、予《かね》て所信を述べたる通りなるが、今艦隊には戦闘機三〇〇機あるのみ。(開戦時の海軍機総数は三、二〇二機、うち各種練習機九二八機。なお、及川海相の後任嶋田海相の『覚』には、現編成ノ第一線機数ハ約千八百機ニシテ、戦争一年間ニ補充ヲ要スル機数ハ約四千機ノ見込ナリ、とある)。内地防禦用に二〇〇機は必要なるべく、スペアも二〇〇機位を要す。図上演習の結果によれば、南方作戦は四ケ月にて一通り片附くべく、此の間の消耗は六五〇機なり。其他戦闘に依らざる相当多数の破損あるべく、充分の補充を得ざれば継続し難し。但現状の兵力にて戦へとならば、初期戦闘に相当なる戦をなし得べし。次に一大将として第三者の立場として一言せば、日米戦は長期戦となること明なり。|日本が有利なる戦を続け居る限り米国は戦を止めざるべきを以て戦争数年に亘り《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|資材は蕩尽せられ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|艦船兵器は傷き《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|補充は大困難を来し《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|遂に拮抗し得ざるに至るべし《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。のみならず戦争の結果として国民生活は非常に窮乏を来し、内地人は兎も角として、朝鮮、満洲、台湾は不平を生じ、反乱常なく、収拾困難を来すこと想像に難からず。|かかる成算小なる戦争は為すべきにあらず《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点引用者)
実戦部隊の最高責任者が軍令部の最高責任者にこう言っているのである。軍令部総長永野修身は、この三日後に及川海相から近衛・及川会談の内容を聞き、「米国案を鵜呑みにするだけの覚悟」で国交調整に当ることに「賛成」し、それから二日後の連絡会議(十月四日)では、既述の通り「最早『ヂスカツシヨン』ヲナスヘキ時ニアラス」と言ったのである。
先に引用した座談会記録で井上成美が言っているように、もし及川海相が避戦を決意し、職権を完全に活用して軍令部総長の更迭を断行し得たとしたら、と考えることは、決して死児の齢を算《かぞ》えるに似た徒事ではない。面子や建前を本音より重んじ、あるいは事なかれ主義に終始することが、却《かえ》って大事を惹き起す。日本陸海軍はその実例を歴史に多数残しているのである。
44
十月五日、陸軍では省部(陸軍省と参謀本部)の部局長会議を午前十一時からひらいた。議題は外交交渉妥結の目途があるかないか、である。『大本営機密戦争日誌』は簡単な記述で、検討の経緯を示していないのが、事実を知ろうとする者にとっては満ち足りないが、次のように誌されている。
「(前段略)
午後七時ニ至リ、外交ノ目途ナシ、速ニ開戦決意ノ御前会議ヲ奏請スルヲ要ストノ結論ニ到達ス。
右目途ナシノ理由特ニ連絡会議に於ケル応答要領ニ就《つい》テモ研究シ余ス所ナシ。
情報ニ依レハ総理ハ開戦ヲ決意セルガ如シト。夜、主要大臣ト個別ニ会談シアリトイフ。
俄然部内色メキ心中|駘蕩《たいとう》タルモノアリ。敵ハ海相ノミ。
(以下略)」
この会議には部局長から中佐級まで出席していた。つまり、陸軍省部の事務当局の働き手ばかりである。その面々は米英の戦力ぐらい知っていなければならない。彼我の戦力比較も知っていなければならない。総理が開戦決意をしたらしいという虚報に接して、どうして「心中駘蕩」たり得るのか。何故「敵ハ海相ノミ」なのであるか。敵は、軽挙妄動する汝みずからではなかったのか。
同じく十月五日、午後六時から、近衛首相は荻窪私邸(荻外荘)に東条陸相を招いて会談した。内容は次のようであったらしい。(『石井覚』戦史室前掲書)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東条 米国ノ態度ハ同盟離脱、四原則無条件実行、駐兵拒否。右ハ日本ハ譲ルベカラズ。
近衛 駐兵ガ焦点。撤兵ヲ趣旨トシ、資源保護等ノ名デ若干駐兵シテハ如何。
東条 ソレハ謀略ナリ。
近衛 慎重ニヤリ度イ。御前会議ノ空気モアリ、米ハ遷延策トハ見ラレズ。
東条 御前会議ハ形式的デハ不可。
近衛 可。研究シ度シ。米英可分ナラズヤ。
東条 コレハ研究ノ結晶ナリ。海軍ノ戦略上不可能、今ハ不可分ヲ基礎トス。
[#ここで字下げ終わり]
会談記録がこれだけでは、想像を加えるほかはないが、近衛は、日米交渉の癌が駐兵問題であるから、表面上は米国の撤兵要求を容《い》れて、局部的に理由を構えて駐兵を残すことで陸軍を説得できると考えていたようである。近衛方式では、しかし、陸軍は納得せず、米国も容認しなかったであろう。日本が中国に対する勝利者的特権を固執する限り、日中和平も日米交渉も成立する可能性は全くなかったのである。
海軍でも、十月五日午前十一時から、海軍首脳会議をひらいたが、何故か永野軍令部総長だけは出席していない。
会議の結論は、『沢本手記』(前掲)によれば、「首相の堅き決意の下に明六日首相陸相会談、交渉(日米)の余地ありとして時期の遷延、条件の緩和につき談合することとす」となった。
沢本次官が、首相陸相の二人だけでは会談が進展しないであろうから、首相・陸相・海相・外相の四者会談にすべきだと主張したが、海相が賛成せず、陸相との会談は首相に一任することに決した、という。これは前記の近衛・東条会談ではなく、後述する十月七日の両者会談となって現われる。
海軍首脳会議は右のような結論となったが、強硬論を持してきた永野総長不在の会議の結論に、果してどれだけの権力があり得たか。(永野欠席の理由が残念ながら判然しないのである。)
翌六日、参謀本部の部長会報での杉山の話では、永野は杉山に、海軍は省部(海軍省と軍令部)の意見が一致していない、対米交渉問題に関しては陸海一致の態度をとるべきである。海軍省は消極的である、と語ったという。永野の態度は不透明である。
十月六日、今度は陸海軍部局長会議がひらかれた。『大本営機密戦争日誌』は次のように述べている。
「果然陸海意見対立ス。
陸軍ハ目途ナシ、海軍ハ目途アリト。
海軍ハ駐兵ニ関シ考慮セバ目途アリト云フニ在リ。
軍令部ノ決心如何、軍令部総長は一昨日連絡会議席上『ヂスカツシヨン』ノ余地ナシト強硬発言セルニ、右目途アリノ海軍正式意見ハ之レ如何。
分ラヌモノハ海軍ナリ。海軍トハソモソモ如何ナルモノナリヤ、憤激ニ堪ヘズ。
海軍第一部長、南方戦争ニ自信ナシト云フ。船舶ノ損耗ニ就キ戦争第一年ニ一四〇万トン撃沈セラレ自信ナシト云フ。
岡軍務局長比島ヲヤラズニヤル方法ヲ考ヘ様デハナイカト云フ。今頃何事ゾヤ。御前会議ニ於テ御聖断下リタルモノヲ海軍ハ勝手ニ変更セントスルモノナリヤ。
洵《まこと》ニ言語|同《ママ》断、海軍ノ無責任、不信、マサニ国家ヲ亡ボスモノハ海軍ナリ。(以下略)」
海軍が旗色を鮮明にしなかったために事態を混乱させたことは事実である。戦えないという判断があったのだから、言動はその判断に基づいて一貫すべきであった。海軍が日和を見過ぎたことは事実である。だが、冷静な戦力分析を避けて、猪突猛進を好み、「国家ヲ亡ボスモノハ海軍ナリ」と罵った陸軍が、国家を亡ぼすものは陸軍ならずや、という反省を全く欠いていたことも紛れもない事実であった。
45
前記の陸海軍部局長会議(十月六日午後)で、軍令部福留第一部長が戦争第一年で船舶一四〇万トン撃沈せられ自信なしと言ったり、また、三年目で民需用船舶がゼロとなるかもしれぬという計算が海軍にあるということは、要するに対米英戦の勝利の確算が海軍にないということである。それならば、その時点で、陸海四首脳(両大臣、両総長)が徹底的に討論して結論を出すべきであった。
実際には、究明されるべきことが究明されずに、陸海双方が個別に首脳会議をひらいている。
陸軍では、十月六日夜、杉山参謀総長と東条陸相が陸軍の方針を申合せた。『機密戦争日誌』によれば、和戦の検討ではなくて、意志の確認である。
大臣総長会談シ左記陸軍ノ方針ヲ確定シ、海軍及総理ヲ説得スルニ決ス。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
1、陸軍ハ日米交渉の目途ナシト判断ス。
2、何レニシテモ日本ハ四原則ヲ承認セサルモノナルヲ闡明《せんめい》ス。
又駐兵ニ関シテハ一切(表現法ヲモ含ム)変更セス。
3、若《も》シ政府ニ於テ見込アリト云フナラハ、十五日(十月)ヲ限度トシ外交ヲ行フモ差支ナシ。
尚統帥部トシテハ海軍統帥部ニ左記ニ就キ駄目ヲオスコトトス。
1、南方戦争ニ自信ナキヤ。
2、御前会議(九月六日)決定ヲ変更セントスルヤ。
[#ここで字下げ終わり]
こういう追及の仕方で、日本にのしかかっている問題は、解決されも、軽減されもするはずがなかったのである。
これに対して、海軍でも、同じ十月六日夕刻から、省部首脳会議をひらいている。
海軍次官沢本頼雄の手記(戦史室『大本営陸軍部』(2))によれば次のようである。
「十月六日海軍首脳部カ鳩首《きゆうしゆ》対策研究ノ結果『撤兵問題ノ為日米戦フハ愚ノ骨頂ナリ。外交ニヨリ事態ヲ解決スヘシ』ト結論ニ達シ、海軍大臣ハ『ソレデハ陸軍ト喧嘩スル気デ争フテモ良ウゴザイマスカ』ト半分ハ自己ノ所信ヲ示シ、半分ハ会議ノ主トシテ総長ノ了解ヲ求メラレシニ対シ、総長ハ『ソレハドウカネ』ト述ベラレ、大臣ノ折角ノ決心ニブレーキヲカケラレ、意気昂揚セル場面ハ忽チシラケワタル。
此ノ際|総長ノ阻止ナカリセハ結果ハ如何ナリシカ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。海軍大臣辞職《ヽヽヽヽヽヽ》、内閣崩壊《ヽヽヽヽ》、陸海対立激化《ヽヽヽヽヽヽ》、|戦争中止等々ノ事態起リシヤモ知レズ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。然ルニ次官、次長、軍務局長モ発言セズ。暫時ノ沈黙ノ後解散ス」(傍点引用者)
及川海相には良識はあったが、不抜の信念はなかった。永野総長には戦争の行く末よりも陸海軍相剋の方が重大であった。列席者の沈黙は、国家の運命の転落とそのなかに虚《むな》しく散るであろう|夥 《おびただ》しい同胞の生命を見送ってしまったのである。
永野修身の一言によって、一つの決定的瞬間が潰《つい》え去った。
十月七日、永野軍令部総長と杉山参謀総長が会談した内容は、田中参本第一部長の記録によれば次のようである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
永野 交渉の見込はないと思う。しかし交渉の目途があると外務側でみるなら交渉をやってもよい。(中略)十月十五日は和戦決意の時だという考えはかえないのだから、交渉がずるずる延びて戦機を失うことは相成らぬ。交渉はやったができなかった、あとは統帥部にたのむといわれては手のつけようがなくなる。そんな無責任なことは引受けられぬ。(以下略)
杉山 海軍側では戦争に自信がないということだが……
永野 戦争に自信がないって、そんなことはない。戦争にきっと勝てるとは今までも言っていない。これは陛下にも申上げてあるのだが、今なら算がある。先のことは勝敗は物心の総力で決せられる。(中略)
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](読者は山本連合艦隊司令長官が、九月二十九日に永野軍令部総長に語ったことを想起されたい。山本は「……日本が有利なる戦を続け居る限り米国は戦争を止めざるべきを以て、戦争は数年に亘り、資材は蕩尽《とうじん》せられ、艦船兵器は傷き、補充は大困難を来し、遂に拮抗し得ざるに至るべし。……かかる成算小なる戦争は為すべきにあらず」と言ったのである。永野は肝に銘ずべきことを早くも軽んじているようである。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
海軍大臣のようにむずかしいと言っていては、軍備不要論も起きてこよう。(中略)和戦決定の期日は、海軍だけのことを考えれば少し位のびても差支えはない。(中略)陸軍はどんどんやって行くように見えるがどうか。
杉山 いやそうでない。慎重にやっている。殊に企画|秘匿《ひとく》を第一として作戦準備をやっている。
永野 九月六日の御決定で「戦を辞せざる決意の下に十月下旬を目途とし戦争準備をする」ようおきめになったのは、語弊や美文ではないぞ。南部仏印に兵力を入れるのももう遠慮はできないぞ。
杉山 全然同感である。
[#ここで字下げ終わり]
永野が右のように突如として強硬発言をする根拠は、海軍が置かれている事情の内部には見出されない。陸軍の手前としか考えられない。もしそうだとすれば、愚の骨頂である。陸軍は海軍の戦略戦術は知らないのだし、海軍の戦争遂行上の不安や懸念も知らないのであるから、陸海両首脳会談のときこそ、永野は率直に説明すべきであった。向う意気の強さを見せれば戦に勝てるというものではない。
永野にせよ杉山にせよ、九月六日の御前会議で天皇が行なった「四方の海……」一首の朗読が、感傷的詠歎に過ぎなかったとしても、天皇の意思が奈辺《なへん》にあったか、十分に承知していなければならなかった。統帥部が軽忽《けいこつ》に作文した国策があのようにして決定されるに至った会議の形式そのものが、問題だったのである。
御前会議からちょうど一カ月後、海軍首脳部会議は「撤兵問題ノ為日米戦フハ愚ノ骨頂ナリ」と結論しながら、それを海軍の総意としては主張せず、海軍統帥部の長として永野は陸軍の杉山に対して右記のように虚勢の発言をする、海軍には全く自主性がなかったと言ってよい。海軍のこの態度は陸軍の暴走に追随するものにほかならない。
十月七日、定例閣議のはじまる前に、東条陸相と及川海相とが会談した内容を、田中参本第一部長が次のように記録している。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
陸相 今日重大問題の一つとしては、まず国策遂行上における陸海軍の地位を確認することである。今日和戦の決意に就て陸海軍の間に……一致点をどうしても求めなければならぬ。……申すまでもなく国策の中心は今は軍部にある。もし陸海軍が割れたら亡国である。必ず一致を欠くことがあってはならぬ。……陸海軍の意見は必ず纏まらなければならぬ。
海相 それは全く同感である。
陸相 そこで米覚書に対する陸軍としての見解を述べたい。(中略)覚書の要点は三つある。即ち、
(イ)対欧洲戦態度に就ては、米国は日本が三国同盟から離脱することを要求する意が表明されている。(略)
(ロ)四原則の実行を強要している。四原則は九ケ国条約の再確立である。……大東亜共栄圏の前提は九ケ国条約の破壊にある。四原則は主義として認めるべきでないし、それを認めることは既に大譲歩である。……この原則を局地的に支那に適用せられることは正に日本の死活問題である。聖戦の意義は全く没却せられる。
(ハ)駐兵権の問題であるが、日本は支那に対して非併合、非賠償の方針を声明している。事変以来の日本の厖大なる犠牲、一億国民の千辛万苦のことを考えれば、領土割譲の要求でさえ当然であると考えられるのに、これらは全部譲歩しているのである。この点からみても日本が駐兵して事変の目的達成に努めることは当然であり……駐兵は東亜安定勢力たるべき日本の当然の義務であり、大東亜政策の骨幹を確立するためのものである。……駐兵問題に関しては主義も適用もまげることはできない。駐兵は最小限度の絶対的要求である。……右三点に就いてはあくまで堅持されなければならない。
右様の見地でみて外交上果して交渉に見込があるといえようか。一方統帥上の要望である十五日までの和戦決定のことも尊重されなければならない。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](右の東条陸相の見解のうち、特に(ハ)項、駐兵問題に関して東条が言っていることは、歴史的事実を無視した牽強附会の説である。蘆溝橋事件〈昭和十二年七月七日〉を局地的に解決しようともせず、派兵して日中戦争にまで拡大し、中国の民族的抵抗に遭って戦況が泥沼化し、そのなかで進退両難に陥ったのは日本自身の所業の結果である。日中和平を画策しながら駐兵に固執するのは、また、事変勃発当初の野望の目算が全くはずれ、戦争の長期化にしたがって国力が疲弊した結果、余儀なく和平を図り、しかも勝利的面子と特権を保持しようという最後のあがきに過ぎなかったのである。)
東条陸相の見解に対して及川海相は次のように答えている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
海相 米国の覚書には幅がある。そのように読まなければならない。神経質に悪意で解釈すべきではない。……米国の態度は必ずしも敵意に充ちたものとは認められない。……外交上の見込はあると思う。……望みはある。外交は続けるのが宜しい。統帥関係は十月十五日を目標にしているが、必ずしも限定的のものではない。余裕がある筈である。
陸相 自分は外交上の目途はないと思う。それは見解の相違だとするが、一方四原則竝に撤兵の件については、今の考えを譲ることはできない。又統帥上の要望期日は尊重さるべく、譲り得ぬものと見解している。(中略)別の問題は、九月六日御前会議決定の際の考えは、いまも変っていないかどうかということである。
海相 それは変っていない。戦争の決意ということについても別に異論はない。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](及川海相は右のように言うべきではなかったであろう。海軍としては、戦争の決意そのものに問題があったはずなのである。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
陸相 |戦争の勝利の自信はどうであるか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
海相 |それはない《ヽヽヽヽヽ》。但し統帥部は緒戦の作戦のことを主としていっていただけである。|二年三年となると果してどうなるかは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|今研究中である《ヽヽヽヽヽヽヽ》。戦争の責任は政府にある。以上はこの場限りにしておいてくれ。
陸相 九月六日の決定は、政府統帥部の共同責任で決定されたものである。|かりに海軍に自信がないというならば考え直さねばならない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。勿論重大な責任(辞職の意)において変更すべきものは変更しなければならない。(傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
及川海相が東条陸相の質問に答えて、九月六日御前会議決定の際の考えは変っていないと言ったことと、そのあとの、戦争の自信について今研究中であると言ったこととは、相互に重大な矛盾を含んでいる。今研究中であるということは、九月六日御前会議の時点では、予想される戦争全般について明確な見通しがなかったということであり、見通しのない時点で考えていたことが、いまも変っていないということではないはずだからである。
つまり、海軍が本音を隠して建前で陸軍に応接していたことに、悲劇の大きな素因が存在していたのである。
46
及川海相は和戦の決意に関して陸海軍の間に大きな隔りがあることを、意識していたはずであった。対米英戦の主役を、否応なく海軍が担当しなければならぬことも自明であった。それにもかかわらず、及川海相は陸海軍の間の意見調整を自ら行おうとはしなかった。和戦の決定を近衛首相に一任しようとしたのである。
十月七日夜、首相官邸で近衛・東条会談が行われた。その会談内容も田中参本第一部長の記録では、次のようになっている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東条 交渉は見込があれば今後交渉を続行することに異存はない。しかしずるずる何時までもやるのではなく、統帥部要請通り十月十五日を期限としなければならない。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](実のところ、記述が進むにしたがって明らかとなることだが、統帥部の要請期限は絶対のように見えて、絶対ではなく、ずるずると引き延ばされ得たのである。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
近衛 交渉は続行するとして、駐兵に関しては撤兵を原則とすることにし、その運用によって駐兵の実質をとることにできないか。
東条 絶対にできない。(略)
近衛 四原則については支那における機会均等は認むべきであり、ただ日支間の地理的特殊関係を米国に認めさせればよいと考えている。三国条約については文書として残すことは問題であるが、大統領と会見すれば何とか折合いがつくものと思っている。残るは駐兵問題一つだけである。駐兵を緩和するよう何とか看板をかえることはできないか。外がみなまとまり、駐兵だけ残ったらどうするか。撤兵を原則として駐兵の実質だけをとる方法があるのではないか。
東条 四原則は一歩譲るとしても、……十月二日の米覚書では、日支間の特殊緊密関係を否認している。野村大使の想像にたよってこの問題を甘くみることは危険至極である。一方駐兵問題については絶対に譲歩いたしかねる。また外のすべてが解決して駐兵だけが残る場合はといわれるが、そんな仮定では困る。(略)
近衛 御前会議の、十月上旬に至るもなおわが要求を貫徹し得る目途なきときは、直ちに対米英蘭開戦を決意す、とあるがこの直ちにが困難である。再検討が必要である。
東条 再検討といわれるが、検討の目的は何か。御前会議の決定を崩すつもりならば事は重大である。何か不審があり不安があるのか。これを崩さねばならぬ何かの疑念があるのか。もし明かな疑問があるというならそれは大問題である。今まで戦争も作戦も含めて十二分に検討して来たのだ。そしてみんなで輔弼《ほひつ》を全うしているのだ。今重大疑念があるというなら、九月六日御前会議の重大責任となる。(略)
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](東条は御前会議を楯にとり、形式論理で押しまくっているが、前述の通り御前会議から帰庁した東条が「聖慮は平和にあらせられるぞ」と語った〈佐藤賢了『大東亜戦争回顧録』〉というのが事実なら、『帝国国策遂行要領』を決定にまで導いた御前会議そのものに問題があったことを、メモの東条と謂《い》われたほどの人物が、忘れているはずはなかったのである。もしそうなら、以後の東条は「聖慮」を敢えて無視したことになるであろう。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
近衛 戦争の決意に心配がある。作戦について十分の自信がもてないと考える。
東条 戦争、作戦といわれるが、九月六日の決定は政府と作戦当局である統帥部の共同責任でできたのである。戦争も作戦も考えての上のことである。
近衛 戦争の大義名分についても、もっと考えてみなければならぬ。
東条 大義名分は勿論重大である。よく考えてみることは結構である。しかし時機を失ってはならぬ。殊に対米戦では当初の奇襲作戦に多くの期待がかけられている。
近衛 軍人はとにかく戦争をたやすく考えるようだ。
東条 対米交渉に見込があればおやりになるが宜しい。但し期限は統帥部要望の十月十五日である。十五日には和戦の決定をとらなければならない。
近衛 奇襲奇襲というが、奇襲は成り立たないのではないか。私はそう思う。
東条 いやまだそのチャンスはある。……軍人は戦争をたやすく考えるといわれるが、国家存亡の場合には目をつぶって飛びおりることもやらねばならぬこともある。
[#ここで字下げ終わり]
以上が近衛首相と東条陸相の会談内容だが、近衛の軟弱な態度では東条の形式主義を突き崩すことはできなかった。近衛には、海軍の戦争に対する不安を抽き出して陸軍を押える術策もなく、天皇の支持を取りつけて陸軍主戦派を退ける勇断もなかった。右以外に近衛として考えられる手段は、陸海四首脳(両大臣、両総長)を道連れに引責辞職に追い込んで、九月六日御前会議の決定を覆すことであった。近衛はそれもしなかった。彼を待っていたのは単なる内閣総辞職でしかなかった。
47
十月十二日、有名な荻外《てきがい》荘会談(五相会議)がひらかれた。出席者は近衛首相、東条陸相、及川海相、豊田外相、鈴木企画院総裁の五人であった。対米交渉期限の十月十五日まで、あと三日である。
『杉山メモ』は会談内容を次のように記録している。発言の応酬はかなり熱をおびているが、論旨が深まっているとは見受けられない。つまり、日本は戦争をするべきなのか、いかなる根拠によって戦争が出来ると判断され、あるいは出来ないと判断されるかを、誰も改めて掘り下げてみようとはしていない。東条において特に著しい傾向だが、九月六日御前会議の決定そのものに問題があると皆が意識していながら、敢えて見直そうとしないのである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
豊田 日米交渉妥結ノ余地アリ。ソレハ駐兵問題ニ多少ノアヤヲツケルト見込カアルト思フ。北仏ノ兵力増加ハ妥結ノ妨害ヲシテヰル。之ヲ止メレハ妥結ノ余地アル。
近衛 九月六日ノ日本側提案ト九月二十日ノ提案トノ間ニハ相当ノ開キカアル。米側カ誤解シテ居ルニアラスヤト思ハル。之ヲ検討セハ妥結ノ道アラム。
東条 判断ハ妥結ノ見込ナシト思フ。凡《およ》ソ交渉ハ互譲ノ精神カナケレハ成立スルモノテナイ。日本ハ今日迄譲歩ニ譲歩シ四原則モ主義トシテハ之ヲ認メタリ。然《しか》ルニ米ノ現在ノ態度ハ自ラ妥協スル意志ナシ。(略)
及川 外交テ進ムカ戦争ノ手段ニヨルカノ岐路ニ立ツ。期日ハ切迫シテ居ル。|其決ハ総理カ判断シテナスヘキモノナリ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。若《も》シ外交テヤリ戦争ヲヤメルナラソレモヨロシ。(傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](及川海相は右のような説得力のない発言をするべきではなかった。戦争に対する海軍としての所信を明確に打ち出すべきであった。撤兵問題で日米戦うのは愚の骨頂という見解があるのなら、海軍としては交渉継続を強硬に主張すべきであった。そのために陸海軍の対立がどれほど険しくなっても、海軍は陸軍のために戦うのではないのである。海軍として戦争を引受け得るか得ないかを明らかにすることが、海軍大臣として輔弼《ほひつ》の任を全うすることなのであった。)
及川海相は先輩である永野総長に気がねをしていた傾向が感じられる。海軍大臣は、しかし、先に引用した海軍軍人の座談会で井上成美が言っていたように、軍令部総長をも含めての人事権を持っている。国家の大事の前に気がねなどするべきではなかった。海軍の意志統一のために、必要なら、権限を最大限に活用すべきであった。
荻外荘会談での及川海相発言の部分――俗に謂《い》う和戦決定の「首相一任」論――は、事実経過の上からも、制度上からも、微妙な問題を含んでいるので、会議の進行を暫く停止して、ふりかえってみる必要がある。まず、事実経過の、人によって異る幾つかの側面である。
近衛は、『失はれし政治』に次のように誌している。
「会議前に海軍の軍務局長より書記官長に『海軍は交渉の破裂を欲しない。即ち戦争は出来るだけ回避したい。然し海軍としては表面に出して之を言ふことは出来ない。今日の会議に於ては海軍大臣から、和戦の決は首相に一任する、といふことを述べる筈《はず》になつて居るから、そのお含みで願ひたい』といふ報告があつた」
これだと、近衛は、後述する制度上の問題を別にすれば、海軍の意向を含んでいて、及川発言の機を捉えて、海軍の本音を引出して会議をリードすればよかったのである。会議は、しかし、あとで見るように、そういう経過を辿《たど》っていない。
佐藤賢了(当時軍務課長、のち軍務局長)の『東條英機と太平洋戦争』によれば、こうなっている。荻外荘会談の前日、十月十一日中に、富田書記官長を通じて海軍の総理一任の意図が伝えられた。それで、武藤軍務局長が富田書記官長に対して、
「海軍が戦争をするのがいやなら、はっきりそれを海軍の口から言ってもらいたい。そしたら陸軍部内の主戦論をおさえる」と言うと、暫くして富田書記官長から、
「岡(海軍軍務)局長とは話がつかぬ。陸海軍で直接話合ってくれ」
という電話があり、武藤軍務局長は直ちに岡軍務局長を訪ねたというのである。武藤と岡との間で交換された会話は、おそらく、あとで引用する柴海軍大佐の話にある通りであろうと想像される。
次は、当時奔走に終始したと想像される書記官長富田健治の記録『敗戦日本の内側』から、である。当時の雰囲気が伝わって来るように思えるので、少し長いが引用する。
「十月十一日の夜のことであった。この夜こそ私にとっては生涯忘れられない夜である。
午後十時半頃私は青山一丁目に在る海軍官舎に岡軍務局長を訪ねた。そして私から『日米交渉はもはや最後の関頭に来たと思う。そして問題は支那から我軍が撤兵する原則を認めるや否やにかかっている。陸軍がこれを絶対に譲らないというなら戦争を避けることはできない。(中略)実は明十二日近衛総理は陸、海、外相を荻窪の私邸に招いて、最後の会談をすることになっている。ついてはこの会談において、海軍として総理大臣を助けて、戦争回避、交渉継続の意志をはっきり表明してもらえないだろうか。若し海軍の意志表示がなければ、近衛公は辞職するかも知れないと思う』と説いた。これに対し岡局長は『近衛公が辞めるなんてことになれば、必ず日米戦争に突入してしまう、それは大変なことだ。これは重大問題だから、君から直接海軍大臣に話をしてくれ給え。僕も付いて行こう』ということで、かれこれ夜十二時半近くに日比谷の海相官邸を二人で訪れた。(中略)応接間で待っていると、パジャマ姿のままで海相も出てきて、二人してこの夜更けに何事ぞというわけである。来意を私から告げると及川海相は『あなたの言われる所は能《よ》く解ります。併《しか》し|軍として戦争できる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|できぬなどと言うことはできない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|戦争をする《ヽヽヽヽヽ》、|せぬは政治家《ヽヽヽヽヽヽ》、|政府の決定することです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。戦争をすると決定されたなら如何に不利でも戦うというのが軍の立《ママ》て前だと思います。そこで明日の会議では海軍大臣としては、外交交渉を継続するかどうかを総理大臣の決定に委《まか》すということを表明しますから、それで近衛公は交渉継続ということに裁断してもらいたいと思います』ということになったのである。(以下略)」――(傍点引用者)
及川海相が富田書記官長に右の通りに言ったとすれば、傍点部分は心得ないことである。戦争できる、できぬなどと、軍部大臣が言えないとしたら、誰が言うことができるのか。毎年予算を取って国防に専念しているはずの軍が、いざというときに戦えないとは言えないという気持はわかるが、戦えるか戦えないかを判決しなければならないのは、軍である。また、戦争をする、せぬは政治家、政府の決定することだとしても、及川海軍大臣は政府の有力な一員なのである。戦争する、せぬに関して、海軍大臣は陸軍大臣同様、大いに発言しなければならぬ立場にあったはずである。
総理に一任といったところで、和戦の決を総理が裁断することは、制度的には出来ないことであった。伊藤博文の『憲法義解』ではこうなっていた。「若シ夫《そ》レ国ノ内外ノ大事ニ至テハ……各大臣ヲ挙ゲテ全体責任ノ位置ヲ取ラザルベカラザルハ固《もと》ヨリ其ノ本分ナリ」というのである。つまり、和戦の決というような重大事では、閣議の全会一致を必要とし、一員の反対でもあれば総辞職するほかはない制度なのである。
荻外荘会談は閣議ではないが、この五相会議で一致を見られない場合に、閣議で一致に到達するはずがない。ただ、近衛としては、裁断はできないまでも、海相や外相に大いに発言するように仕向け、陸相説得のための途を拓《ひら》く努力は、するべきであったし、できないことではなかった。また、最後的には、既に触れたことだが、天皇から陸軍への優諚《ゆうじよう》を仰いででも戦争回避を図るべきであったし、これも敢えて行えばできないことではなかった。
近衛は、しかし、後に引用するように、五相会議ではほとんど無策にひとしかったのである。
最後に、及川発言に関する柴海軍大佐の意見である。(戦史室前掲書5)
「……近衛首相は荻窪会議の前『陸軍の意見はこう、海軍の意見はこうだから、海軍から戦争は出来ないと会談の席上云って呉れ』と云い、武藤陸軍軍務局長からも同様のことを云って来た。私は岡局長と相談したが、|そんな馬鹿なことが云えるか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|問題の性質は全面的に政治問題で当然総理の裁断すべきことだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、海軍大臣としての立場上のことは、既に凡有《あらゆる》機会に意見を述べており、永野総長からも一年か一年半は充分にやれるが、それ以後のことは判らぬ、と明言し、又及川海相からも米国と戦争するようなことにならぬよう陸軍を押えて何とか日米交渉をまとめて貰いたいとの意向は充分に伝えている。|海軍がわざわざそんなことを云わないでも《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|総理も陸軍も《ヽヽヽヽヽヽ》、|海軍の考えは充分解っているではないか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。よってこの際総理から交渉継続を述べて貰えば海軍は全幅総理を支援する。海軍としてはこの際『首相にこれを一任する』ことで行けばよいとの結論で、私からも岡局長からも、富田書記官長にも武藤局長にもその意味のことを返答し、及川海相は荻窪会談でもその通り発言したのである。
このときの近衛首相の態度は実に不可解無責任で憤慨に堪えなかった。陸軍も正直なところ戦争をやりたいのではなく、武藤局長も海軍が戦争しないと云ってくれれば、支那からの撤兵にも応ずると公言していたので、一に近衛首相の裁断にかかっていたのである。(以下略)」――(傍点引用者)
和戦の決定というような重大事項は、制度的には首相が裁断できないことは、既に見た通りである。したがって、右の引用文からすれば、柴大佐も岡軍務局長も当時の閣議や内閣官制の制度的理解が乏しかったことになる。そうはいっても、繰り返しになるが、近衛の首班としての、目的達成のための努力、気魄、術策の甚だしい不足は見逃し難い。
次に柴の謂う「海軍がわざわざそんなことを云わないでも」は、無責任な遁辞《とんじ》でしかない。度々海軍としての意向を総理や陸軍に「充分伝えている」のなら、正式な会議の席上で、含みや肚《はら》芸でなく、正確に意思表示すべきではないか。制度的理解が乏しかったにせよ、首相に判断を一任して尻押しをするなどという姑息《こそく》な態度をとらずに、正式に、帝国海軍は米英蘭を相手として一年は戦えるが、それ以上戦える確信がないから、開戦反対である、と明言すべきであった。
[#この行1字下げ](国家の運命という最重要事を後景に押しやって、軍としての面子を徒《いたず》らに前面に押し出す。己れの責任を他に委ねる。唾棄すべき軍人精神というべきである。)
荻外荘会談(五相会議)ははじまったばかりである。席上に戻ることにする。
48
及川海相の発言に即座に反撃したのは東条陸相であった。近衛は機先を制せられた。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東条 問題ハソウ簡単ニハユカナイ。現ニ陸軍ハ兵ヲ動カシツツアリ、御前会議決定ニヨリ兵ヲ動カシツツアルモノニシテ、今ノ外交ハ普通ノ外交ト違フ。ヤツテ見ルト言フ外交テハ困ル。
日本ノ条件ノ線ニソツテ統帥部ノ要望スル期日内ニ解決スル確信カモテルナレハ、戦争準備ヲ打切リ外交ヲヤルモヨロシイ。其確信ハアヤフヤナ事カ基礎テハイカヌ。此ノ様ナコトテ此大問題ハ決セラレヌ。日本テハ統帥ハ国務ノ圏外ニ在ル。総理カ決心シテモ統帥部トノ意見カ合ハナケレハ不可ナリ。政府統帥部ノ意見カ合ヒ、御聖断ヲ要ス。
|総理カ決心シテモ陸軍大臣トシテハ之ニ盲従ハ出来ナイ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|我輩カ納得スル確信テナケレハナラナイ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。納得出来ル確信カアルナラ戦争準備ハ止メル。|確信ヲモタナケレハ総理カ決断ヲシテモ同意ハ出来ヌ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](東条の言い分は制度的には妥当なのである。だが、傍点部分は制度に依拠しての無理難題というものである。東条はすべて九月六日御前会議決定を不可変の出発点としている。東条が納得する確信がなければ交渉継続に同意できないと言っているが、東条だとて、対米英蘭戦に勝利するという最重要事に関して「我輩カ納得スル確信」を持ち得たはずがない。それを追及すれば、御前会議で既に検討済みである、と逃げることしかできないのである。実はその御前会議決定〈九月六日〉こそが、根本的に厳密な検討もなしに作文が先行して人間を牽引した奇怪な決定だったのである。いまや、人間の理性と感情が作文を疑いはじめたのだ。したがって、既にふれた通り近衛は首班として、これまでに、九月六日御前会議決定の非を大胆率直に認め、引責を覚悟して陸海四首脳〈両大臣、両総長〉の連袂《れんべい》辞職を迫るべきであった。
[#この行1字下げ]彼がこの会談の四日後に採った措置は、彼自身が追いつめられて総辞職〈統帥部両総長は含まれない〉することであって、彼から攻勢的に陸海四首脳を道連れに辞職することではなかった。近衛の優柔不断の責任は大きいのである。)
東条の発言がつづいている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
現ニ作戦準備ヲヤツテ居ルノテ、之ヲヤメテ外交タケヤルコトハ大問題タ。少クトモ陸軍トシテハ大問題タ。充分ナル確信ナケレハ困ル。
外相ニ確信カアリマスカ。北部仏印ノコトナトハ些《ママ》末ノ問題タ(北部仏印兵力増加を米国側が咎《とが》めている件)。外交カ延ビルカラアノヤウナ問題カ起キルノタ。陸軍カヤルカラ外交カ困ルト言ハレルノハ迷惑タ。軍ノヤツトル基準ハ御前会議決定ニヨツテオルノタ。
豊田 遠慮ナイ話ヲ許サレルナラハ、|御前会議決定ハ軽率タツタ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。前々日ニ書類ヲモラツテヤツタ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](傍点部分こそは、戦争を不可と考える者、戦争に不安を覚える者すべてが、もっと早くに公の場で言うべきことであった。不安や懸念は|悉 《ことごと》く検討過程での軽率にもとづいたものである。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東条 ソンナコトハ困ル。重大ノ責任テヤツタノタ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](東条のいう重大責任とは、九月六日御前会議決定を軽率だったということは、関係者が重大責任をとって辞めなければならない、それを承知で言っているのか、と豊田外相に詰め寄っているのである。東条的感覚からは、輔弼の責に任ずる者には軽率な決定はあり得ないということになる。
[#この行1字下げ] 近衛がその場で直ちに豊田に同調したら、事態は紛糾して、意外な展開をみせたかもしれなかった。近衛には、しかし、どんでんがえしを打つような肚はなかった。僅《わず》かに次のように言ったに過ぎない。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
近衛 戦争ハ一年二年ノ見込ハアルカ、三、四年トナルト自信ハナイ。不安カアル。
東条 ソンナ問題ハ此前ノ御前会議ノ時ニ決ツテ居ル。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](実は何も明らかになってはいないのである。開戦が先へ延びるほど石油が減り、日米の戦備の差が大きくなるばかりだから、戦うなら早い方がいいということと、戦争が長期化した場合、「米国ノ屈伏ヲ求ムルハ先ツ不可能ト判断セラルルモ、我南方作戦ノ成果大ナルカ、英国ノ屈伏等ニ起因スル米国|輿論《よろん》ノ大転換ニ依リ、戦争終末ノ到来必スシモ絶無ニアラサルヘシ……」というようなあやふやな説明に対して、列席者の誰もが鋭く切り込むことを憚《はばか》ったに過ぎないのである。それを東条は次のようにぬけぬけと言いくるめようとし、その薄弱な根拠を、またもや誰も衝こうとしない。所詮、閣内不一致で総辞職すれば、誰かが収束してくれると思っているのであろう。責任を追及すれば、誰の責任でもなく、連帯責任で総辞職すれば、それで済む仕組なのである。内閣などはいくらでも替えることができるが、国民は替ることができない。国民に皺寄せされるすべての負担に対して、為政者は誰も責任を負わない。為政者の責任は絶対無責任者である天皇に対する輔弼の任だけである。軽率に事を決めてもよかったのだ、天皇が認めさえすれば。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東条 七月二日ノ御決定ニ南方ニ地歩ヲ進メ、北方ハ解決スト練リニネツテキメラレタノタ。各角度カラ責任者カ研究シ、其責任ノ上ニタツタモノテ、ソンナ無責任ナモノテハナイ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](誰がどれだけ研究し、戦争の結果の責任を誰が負えるというのか、その意味では、列席者はみな同じ穴の狢《むじな》であった。)
五相会議進行中の東条陸相の感想らしいものが、『杉山メモ』に挿入されている。
[#この行1字下げ](及川ノ態度ハ東条ニ同意スルト称シ、何レニカ〈交渉継続か開戦決意か〉決セサルヘカラス、而シテ之ハ総理カ決スヘキナリト言ヒ、我方ノ条件ニハフレス、又武力テヤレトモ言ハス、総理ニ定メサセテ責任ヲ総理ニトラセル一方、ナルヘク外交テヤル様ニ促ス様ナ風ニ観察セラル)というのである。
近衛首相は、東条陸相が前述の通り各角度から責任者が研究しその責任の上に立って御前会議決定をみたのだと言った瞬間に、及川海相を捉えて、海軍の研究が戦争に耐えるという結論を導き出し得ていたか、現在出し得ているかについて発言を求めた上で、近衛自身の感想を述べる方が、説得力において数段まさったであろう。近衛は単にこう言ったに過ぎなかった。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
近衛 今トチラカテヤレト言ハレレハ、外交テヤルト言ハサルヲ得ス。戦争ニ私ハ自信ナイ。|自信アル人ニヤツテ貰ハネハナラヌ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](傍点部分は、もしその通りだとすれば、拙劣きまわる。一国の総理が言うことではない。この場は下級軍人や官僚の論争の場ではない。戦争回避が正しいという判断があり、外交妥結も困難であろうという判断もあるのなら、戦争を回避しなければならぬ理由を論理的に展開して、せめて外相、海相を同調させるだけの努力を尽すべきであった。論拠薄弱な発言をするから、直ちに東条陸相から次のように言われるのである。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東条 コレハ意外タ。戦争ニ自信カナイトハ何テスカ。ソレハ「国策遂行要領」ヲ決定スル時ニ論スヘキ問題テセウ。外交ニ見透シアリト言フ態度テハイケナイ。確信カナケレハイケナイ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](理屈では東条の言う通りである。九月六日御前会議で『帝国国策遂行要領』を素通りさせたのが間違いなのである。天皇の「四方の海……」の朗読があったにもかかわらず、東条は御前会議決定を楯にとって押しまくっているのである。近衛は、及川、豊田をも含めて、大胆率直に九月六日決定の軽率、不注意、怠慢の非を認め、根本的再検討を主張し、東条が近衛に外交の「確信」を迫るなら、近衛は東条により重大な戦争の「確信」を迫る必要があった。近衛らの態度が柔弱だから、以下のように東条の発言だけが横行するのである。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東条 皆ノ話ハ結局次ノ様ニナル。
[#ここで字下げ終わり]
[#2字下げ](イ)日米交渉問題ハ駐兵問題ヲ中心トスル主要政策ヲ変更セス。
[#2字下げ](ロ)支那事変ノ成果ニ動揺ヲ与フルコトナシ。
[#2字下げ]右ノ条件ニテ略々統帥部ノ所望スル期日迄ニ外交ヲ以テ妥結スル方針ヲ以テ進ム。而シテ作戦準備ハ打切ル。右ノ確信ヲ外相トシテ持チ得ルヤ否ヤヲ研究スルノ要アリ。而シテ私ハ外相総理ノ此ノ|確信ノ具体的根拠ヲ伺ヒ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、真ニ作戦準備ヲ打切ルモ、|外交ニテ打開スル確信アリト納得スルノテナケレハ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|陸相トシテハ外交テヤルコトニ賛意ヲ表スルワケニハユカヌ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
[#この行1字下げ](再び傍点部分に注目されたい。東条陸相と同じ論法を近衛首相なり豊田外相なりが用いて反諭したらどうなるか。「戦争にて打開する確信ありと納得するのでなければ、総理としては戦争でやることに賛意を表するわけにはゆかぬ」と。今日に残っている記録が不備なのかもしれないが、近衛の側はあまりにも無気力に過ぎる観がある。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東条 尚細部ニ就テ言ヘハ、駐兵問題ハ陸軍トシテハ一歩モ譲レナイ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](これも、海軍が戦う自信がないことを明確に打ち出していたら、東条もこうまで強硬に主張はできなかったはずである。前記の柴海軍大佐の話にも、「陸軍も正直なところ戦争をやりたいのではなく、武藤局長も海軍が戦争しないと云ってくれれば、支那からの撤兵にも応ずると公言していた」とある。本心は|悉 《ことごと》くしりぞいて、勇ましげな言葉ばかりが跳梁する。軍国主義国家の宿命だと言ってしまえば、それまでである。軍事は合理主義を骨幹としなければ潰滅を運命づけられるにもかかわらず、日本の軍事プロフェッショナルたちは全く合理主義をないがしろにしていたのである。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東条 所要期間(駐兵の)ハ二年三年テハ問題ニナラヌ。第一撤兵ヲ主体トスルコトカ間違ヒテアル。退却ヲ基礎トスルコトハ出来ヌ。陸軍ハガタガタニナル。支那事変ノ終末ヲ駐兵ニ求メル必要カアルノタ。日支条約(日華基本条約のこと)ノ通リヤル必要カアルノタ。所要期間(駐兵所要期間)トハ永久ノ考ヘナリ。作戦準備ヲ打切ツテモ(交渉妥結が)出来ルト言フ確信カナケレハイカヌ。ヤツテ見テ出来ヌカラ統帥部ニ(戦争を)ヤレト言フノテハ支離滅裂トナル。吾輩ハ今日迄軍人軍属ヲ統督スルノニ苦労ヲシテ来タ。輿論モ青年将校ノ指導モドウヤレバドウナルカ位ハ知ツテ居ル。下ノモノヲオサエテ居ルノテ軍ノ意図スル処ハ主張スル。
御前テテモ主張スル考ヘナリ。
鈴木 欧洲情勢ヲ検討セネハイカヌ。独伊カ単独媾和ヲヤルコトハ困ル。(鈴木総裁ハ直ニ外交打切リ開戦決意トハ考ヘアラス)
[#ここで字下げ終わり]
『杉山メモ』に見る鈴木の発言は唐突の感がある。富田書記官長によれば、鈴木企画院総裁が、会議の終るころ、「作戦の諸準備を打切る決定ありたる場合、部内を抑え得るや」と尋ねると、陸海両相とも、「苟《いやし》くも決定すればそれは大丈夫である」と答えたという。
荻外《てきがい》荘会談は二時から六時に及んだが、結局一致した結論に達せず、散会した。
49
十月十四日午前十時からの定例閣議は近衛内閣としての最後の閣議となった。
閣議前、午前九時、近衛首相は官邸に東条陸相の来邸を求めて対談した。近衛としては最後の努力であったと考えられる。
近衛はこう言った。
「余は支那事変に重大責任があり、此事変が四年に亘《わた》つて未だに決着を見ない今日、更に前途の見通しのつかない大戦争に入ることは何としても同意し難い。この際、一時屈して撤兵の形式を彼(米国)に与へ、日米戦争の危機を救ふべきである。又此機会に支那事変に結末をつけることは国力の上から考へても、国民思想の上から考へても必要であると考へる。国家の進展はもとより望む所であるが、大いに伸びる為には時に屈して国力を培養する必要もある」
これに対して、東条は次のように答えた。
「此際米に屈すれば彼は益々高圧に出てとゞまる処がないであらう。撤兵の問題は、名を捨てゝ実を採ると言はれるが、これは軍の士気維持の上から到底同意し難い」(以上近衛文麿『失はれし政治』)
東条陸相の所論は、依然として、国軍あって国家なし、であった。政治と統帥が完全無責任者である天皇の下で明確に分立していて、統合責任を負う者が存在しないから、救いがなかったのだ。軍隊士気の維持のためには国家を危地に投ずることも辞さないという常識的には明らかに倒錯した論理には、外交交渉継続にも安全の保障はないという弁解理由が絶えず付随しているが、外交交渉には譲歩して忍耐するという途が残されている。東条を筆頭とする陸軍主流は、しかし、十年にわたって傍若無人に推進してきた武力政策を、譲歩と忍耐によって終結することは、己れの積悪を認めることとなるから、承服しないのである。
東条陸相は最後に、
「これは性格の相違ですなァ」
と感慨深げに言ったという。(矢部前掲書)
二人は合意に達することなく閣議に臨んだ。
閣議では、東条陸相と豊田外相の意見が対立したが、『杉山メモ』に見る限りでは、東条陸相の独り舞台である。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東条 国交調整ハ四月カラ六ケ月間継続シ、此間外相ハ相当ニ努力苦心セラレタ事ハ敬意ヲ表スルトコロナリ。然シモウドンツマリト思フ。此以上外交ヲ続ケル為ニハ成功ノ確信ヲ要ス。
ソシテ作戦準備モヤメル必要カアル。(中略)陸軍ノ行動ハ九月六日御前会議ニ於テ各閣僚カ十分ニ夫々審議シ研究シタ結果御決定ニナツタコトヲ基礎トシテヰル。其御決定ニハ「外交交渉ニヨリ十月上旬頃ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合ニ於テハ直チニ対米英蘭開戦ヲ決意ス」トアル。而シテ本日ハ十月十四日テ御座ル。
十月上旬ト言フノニ既ニ十四日テ御座ル。条件モ最低限度トシテ決ツテヰル。此基礎ニ立ツテ外交モ作戦準備モヤツテ居ルノタ。
陸軍ハ十月下旬ヲ目標トシ数十万ノ兵力ヲ動員シ、支那満洲カラモ動カシツツアル。船モ二百万トンモ徴傭シテ皆様ニ御迷惑モカケテ居ルカ、之ヲ以テ此兵ヲ移動シテ居ル。(中略)外交上打開ノ方法カアルナレハ之ヲ止メテ宜シイ。止メナケレハナラナイ。
此ノ処ヲヨク御了解願ヒ度イ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](東条発言はあくまで九月六日御前会議決定を絶対条件としている。「各閣僚が十分に夫々審議し研究した結果」である、としている。現存する資料が示す限りでは、しかし、十分に審議し研究した跡は見られない。殊に、物資と生産力に関して徹底した検討が加えられた形跡は発見されない。七月二日御前会議の場合もそうであった。僅かに、その前日の連絡会議で豊田商相〈現外相〉が、陸海軍が作戦をすれば、それに耐えるだけの物はない、と発言しているに過ぎない。それとても、戦争国策決定の大勢に押し流された観がある。好戦的な国策が先行する、戦力を維持培養する諸条件は戦争国策に合致するように作文上按配されたに過ぎないのである)。
閣議は次のように進行した。
近衛総理ハ外相ニ何カ言フコトナキヤト促シ、外相ハ左ノ如ク述フ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
豊田 確信ヲモテト言ハレルカ、米側ト話ノツカナイノハ駐兵、三国同盟ノ自衛、支那ノ近接特種緊密関係ノ三点カ主テ、其他ニモ若干アル。
米国ハ支那及仏印カラノ撤兵ニ関シ日本ノ明確ナ返事ヲクレト要求シテ居リ、又北部仏印我軍事行動ニ関シテモ言及シテ居ル。然モ矢張リ重点ハ撤兵タ。之ヲヤレハ見込ハアルト思フ。
又昨日カラ新聞ノ論調カ変ツタ。アレハ何処テ指導シテ居ルノカ。(伊藤情報局総裁ハ最近閣議決定ノ輿論指導要綱テ情報局カ指導シテ居ル旨述ブ)
[#ここで字下げ終わり]
右ニ対シ陸相ハ左記|反駁《はんぱく》説明ス
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東条 北仏ニ於ケル陸軍ノ行動カ外交ヲ阻害スルト言ハレタカラ、ソノ実相ヲ話シマス。
事実北仏ニハ陸軍軍隊ハ一部入ツテ居ル、戦術上ノ必要モアルシ、又今後ノ企図秘匿ノ為昆明作戦ヲヤル様ニ見セルタメテモアル。之ハ大命ニ依リ行動シテ居ルモノテアリ(中略)外交上ノ根拠モアル。(中略)日仏印協定ノ中ニモ駐屯兵力六千、通過兵力二万五千トノ根拠カ立派ニアル。ソシテモ一ツハ之ハ御前会議決定ヲ基礎トシテ居ルモノテ、外交カオクレテ軍事上ノ作戦準備行動カ普通ニ進ンテオルノタ。軍事カ外交ヲ阻害シテ居ルニアラスシテ、外交カ軍事ヲ妨ケテ居ルノタ。何故外交ハ約束通リヤラヌカ。外交カ遅レテ居ルカラ此様ナコトカ起リ、仏印ハ米国ノ力ヲカリテヤラウトシテ(日本に)申入レタノタ。以上ヨク御承知願ヒ度イ。(中略)
次ニ撤兵問題ハ心臓タ。撤兵ヲ何ト考ヘルカ。陸軍トシテハ之ハ重大視シテ居ルモノタ。|米国ノ主張ニ其儘服シタラ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|支那事変ノ成果ヲ壊滅スルモノタ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|満洲国ヲモ危クスル《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|更ニ朝鮮統治モ危クナル《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](傍点部分は、期せずして、敗戦後に日本が置かれた状態を予告しているようである。東条に代表される陸軍は、その状態に陥ることを避けようとして、駐兵に固執した。その結果、米国の態度をいっそう硬化させ、それに反撥して日本は開戦へ暴走し、遂に避けようとした状態へみずから陥った。この閣議の時点で、もし、外交継続、作戦準備打切りに一決していたら、事態がどのように進展したであろうかを想像することは、全く困難である。ただ、少くとも、この時点で敗戦と同じ結果を招来したとは考えられない。この種の想像は、しかし、病人の夢にひとしい。問題は他にある。昭和六年九月十八日柳条溝鉄道爆破の陰謀によって開始した侵略の一連の成果が、ここでは完全に正当化されてしまっていることである。その成果の維持がさながら正義であるかのように論じられていることである。その所論には、軍人は勿論のこと、文官さえも些《いささ》かの反省の必要も後ろめたさも感じていないことである。
[#この行1字下げ] 政治はもはや政治の資格を失っている。切り取り強盗武士の習いである。)
東条の雄弁はさらにつづいている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東条 帝国ハ聖戦目的ニ鑑《かんが》ミ非併合、無賠償トシテオル。
支那事変ハ数十万ノ戦死者、之ニ数倍スル遺家族、数十万ノ負傷兵、数百万ノ軍隊ト一億国民ヲ戦場及内地テ辛苦ヲツマシテ居リ、尚数百億ノ国帑《こくど》ヲ費シテ居ルモノテアリ、普通世界列国ナレハ領土割譲ノ要求ヲヤルノハ寧ロ当然ナノテアル。然ルニ帝国ハ寛容ナ態度ヲ以テ臨ンテ居ルノテアル。駐兵ニヨリ事変ノ成果ヲ結果ツケルコトハ当然テアツテ、世界ニ対シ何等遠慮スル必要ハナイ。巧妙ナル米ノ圧迫ニ服スル必要ハナイノテアル。
北支|蒙疆《もうきよう》ニ不動ノ態勢ヲトルコトヲ遠慮セハ如何ナリマスカ。満洲建設ノ基礎ハ如何ナリマスカ。将来子孫ニ対シ責任ノ禍根ヲ貽《のこ》スコトトナリ、之ヲ回復スル為又々戦争トナルノテアリマス。|満洲事変前ノ小日本ニ還元スルナラ又何ヲカ言ハンヤ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》テアリマス。撤兵ヲ看板ニスル(これは近衛案)ト言フカ、之ハイケマセヌ。撤兵ハ退却テス。帝国ハ駐兵ヲ明瞭ニスル必要カアリマス。(中略)撤兵を看板トセハ軍ハ志《ママ》気ヲ失フ。志気ヲ失ツタ軍ハ無イモ等シイノテス。(中略)駐兵ハ心臓テアル。主張スヘキハ主張スヘキテ、譲歩々々々々ヲ加ヘ其上ニ此基本ヲナス心臓迄譲ル必要カアリマスカ。コレ迄譲リソレカ外交トハ何カ。降伏テス。益々彼ヲシテ図ニノラセルノテ何処迄ユクカワカラヌ。青史ノ上ニ汚点ヲ貽スコトトナル。国策ノ大切ナ処ハ譲ラス、仮令《たとい》他ハユツツテモ之ハユツレヌ。
此様ナヤリ方テナク、三国同盟ヲ堅メテ彼ヲ衝クモ宜シ。作戦準備テ脅威スルナラコレモヨシ。独「ソ」ノ和平ヲ米ハ気ニシテルカラ、此弱点ヲツキ之ヲ成功セシメテ、米ノ軍備拡張ヲ脅威シテ我主張ヲ通スモヨロシイ。
彼ノ弱点ヲツキ之ヲ以テ外交上自信アリト言ハルノナレハワカルカ、譲ルコトノミヲ以テ自信アリト言ハレテモ、私ハ之ヲ承《う》ケ容《い》ルルコトハ出来ヌ。
[#ここで字下げ終わり]
閣議は東条陸相の独演会に終った。
近衛は『失はれし政治』に、
「陸相の発言は余りに突然だったので、他の閣僚はいささかあっけにとられ、これにたいして発言するものがいなかった。閣議は他の議題を決定した後、この問題には触れず散会した」
と書いている。
だらしがないとしか言いようがない。あっけにとられて発言する者がなく、肝腎の問題に触れずに散会すれば、それだけ時間切れが迫って来るのである。
駐兵に固執して日米戦うのは愚の骨頂と考えているはずの及川海相は、何も言わなかった。海軍の面子にこだわっているのである。戦後の海軍将校の座談会(前掲新名丈夫編)で、及川が「私の全責任なり」と言ったところで間に合わないことであった。
臆測すれば、及川海相は、近衛首相が陸軍の強大な発言力にまかせての無理押しに厭気がさして、内閣を投げ出すと読んでいたのかもしれない。内閣が更迭して閣僚が替れば、和戦決定の責任は新閣僚陣に移ることになるからである。
近衛首相は及川海相の発言を求めることもしなかった。及川が首相一任と言ったところで、制度的に首相の裁断で決められないことは、列席閣僚全部が知っていたはずである。
したがって、戦いたくない海軍の見解を及川から引き出すことは、必ずしも困難ではなかったであろう。問題は海軍にあったから、近衛は及川の発言を誘い出すべきであった。
近衛は何もしなかった。心中既に骸骨を乞う決心であったと推測される。
50
閣議後、東条陸相は本戸内大臣に会っている。『木戸幸一日記』の十月十四日の項には、「二時半、東条陸相来室、陸軍の日米国交調整問題に関する意向を詳細説明せらる」と簡単に記されているだけだが、東条陸相が杉山参謀総長室で語ったところによると、木戸・東条の間には次のような会話が交されている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
木戸 次ノ内閣ハ六《む》ツカシイ。
陸軍ハ九月六日ノ御前会議ヲ基礎トシテ戦争出来ルト言フテ居ルカ海軍ニハ不安カアル。此点カ総理カ踏切レヌ処タト思フ。政治家トシテハ考ヘサセラレルノタラウ。
[#ここで字下げ終わり]
早くも次の内閣が話題にのぼっている。木戸と近衛がこの日までに次期内閣について話し合った事実を資料の上に発見することは困難だが、なんらかの形で話合があったのかもしれない。木戸は、もはや、近衛に些《いささ》かの望みも托していないようである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東条 海軍大臣ニ「海軍ハ九月六日ニ定メラレタ決心ニ何カ変化カ出来タノカ。若《も》シ之カ変化シタノナラ、ソレニヨツテ進マウ」ト問フタカ、海軍ハ「変化ナシ」ト言フタ。
木戸 次ノ総理ノ時ハ此点ヲモツトヨク考ヘル様ニ近衛公ニ話シテオイタ。
陸軍トシテハ海軍トモツト打チ開ケテヤツテ貰エヌカ。陸海軍カ中心タカラ何トカ融合スルコトハ出来ヌカ。此陸海ノ合一カ出来テカラ内閣カ交代スルノナラヨイカ、現在ニ於テハ纒《まと》マツテ居ラヌカラ困ル。
東条 従来ノ事ニ対スル責任問題ノコトナトハ打チ切ツテ、|既ニ定マツタ国策カ其儘ヤレルカヤレヌカヲ考ヘルヨリ外ハナイ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。(傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
閣議では九月六日御前会議決定を絶対条件としての既述のように強硬論を主張した東条が、木戸に対しては傍点部分のように言うのである。後述する東条・杉山対談をも含めて考えると、東条も九月六日の決定に根本的な再検討を加える必要を感じはじめていたようである。
東条・杉山対談の前に、内閣交代劇の演出をする木戸内大臣が、このころ、時局をどのように判断していたかは、一見に値するであろう。
『木戸幸一日記』十月九日の項に次のような記述がある。
「……首相も大いに心配し居られし故、余は大様左の如き意見を述べ、参考に資す。(以下、各項頭記の番号は原本では|悉 《ことごと》く一となっているが、各項の関連の都合から順数番号とする)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
一、九月六日の御前会議の決定は、余より見れば聊《いささ》か唐突にして、議の熟せざるものあるやに思はる。
二、内外の諸情勢より判断するに、対米戦の結論は容易に逆賭《ぎやくと》し難く、再検討を要するものと思ふ。
三、政府は此際直に対米開戦を決意することなく、
四、寧《むし》ろ支那事変の完遂を第一義とすることを闡明《せんめい》し、
五、米国の経済圧迫を顧慮することなく、我国は自主的立場を堅持し、
六、十年乃至十五年の臥薪嘗胆《がしんしようたん》を国民に宣明し、高度国防国家の樹立、国力の培養に専念努力すること。
七、支那事変完遂の為には、要すれば交戦権の発動も辞せず、陸軍の動員兵力は之を支那に使用し、重慶、昆明等の作戦を敢行し、独力実力を以て解決することを決意すること。
[#ここで字下げ終わり]
右の七項目のうち、一、二、三は、冷静な判断力を優先させれば、誰が考えても異論のないところであろう。四は問題である。日米交渉の縺《もつ》れも因《もと》はといえば支那事変からである。支那事変(日中戦争)の長期化で国力が疲弊し、完遂がおぼつかなくなったことから、「自給圏」(日満支)から「第一補給圏」(仏印、泰《タイ》)へと侵略構想が膨らんだのである。したがって、日本が支那事変の完遂を企図する限り、和平意思はないものとして列強諸国から各種制約を受け、摩擦衝突は早晩避けられない。支那事変の完遂ではなくて、収束をこそ第一義とすることが、五の自主的立場の堅持として表われるのでなければ、日本が世界の孤児となることは免れない。五の米国の経済圧迫を顧慮することなくは、情勢の推移から見てやむを得ないことであるし、それが六の長期にわたる臥薪嘗胆につながるが、いつまでも日本が孤立して生きられるものではない。孤立から脱するためには、七の政策を全面的に転換する必要がある。
木戸の見解のようには事態は展開しないはずである。臥薪嘗胆し、経済圧迫をも忍耐して、如何にして「高度国防国家」の樹立ができるか。物資欠乏のなかで、如何にして支那事変を「完遂」できるか。経済封鎖を受けつつ、対重慶作戦を続行しつつ、如何にして六の「国力の培養」ができるか。
木戸は、所詮、軍国の内大臣であった。良識と軍国主義の混在に矛盾を感じなかったもののようである。
東条陸相は木戸内府との対談内容を杉山参謀総長に伝えたあと、杉山と次のような会話を交している。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東条 海軍大臣ハ自信カナイトハ言ハヌカ、何カ自信ノナイ様ナ口ノキキ方ヲスル。
判然言ハヌノテ物カ定マラヌ。
海軍カ踏ミ切レナイノナラ、ソレヲ基礎トシテ別ノヤリ方ヲ考ヘネハナラヌ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](ここでも東条は閣議のときのようではない。はっきり言わない海軍の態度は明らかに卑怯だが、海軍首脳が考えていることがわかっていながら、はっきり言わないことを理由にして、開戦決意へ国運を賭けようとする陸軍の態度は偏狭そのものである。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
杉山 宮中大本営テ永野カ次ノコトヲ言フテ居ツタ。富田(書記官長)カ海軍ニ、海軍カラ戦争ハ出来ヌト言フテクレンカ、ト言フテ来タ。ソレニ対シ永野ハ、ソンナコトカ言ヘルモノカ、ト言フタ由。
東条 三国同盟ノ時モ同シ筆法タツタ。七十何回モ(会議を)ヤツテ出来ナカツタモノカ、及川カ大臣ニナツテ直ク出来タ。之ニ関シ某氏(不明)ハ次ノ様ニ言フタ由。
「及川ハ国内問題トシテ(対陸軍関係を考慮しての意)三国同盟ハツクルカヨイト思フタカラ、ツクツタノタト言フテ居ルトノ事タカ、無責任ナコトタ」
[#ここで字下げ終わり]
杉山の話に出て来る永野の海軍が云々は、既述の、武藤陸軍軍務局長が富田書記官長に海軍の口から海軍は戦争を欲しないと言わせるように、仕向けさせようとしたことを指していると思われる。
同じく十月十四日夜、鈴木企画院総裁が東条陸相の伝言を携えて、近衛首相を荻窪に訪れた。近衛はこう書いている。
「段々その後探る処によると、海軍が戦争を欲しないやうである。それなら何故海軍大臣は自分にそれらをはつきりいふてくれないのか。海軍大臣からはつきり話があれば自分としても亦考へなければならんのである。然るに海軍大臣は全部責任を総理にしてゐる形がある。之は洵《まこと》に遺憾である。|海軍がさういふやうに肚がきまらないならば《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|九月六日の御前会議は根本的に覆へるのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。随《したが》つて御前会議に列席した首相初め陸海軍大臣も統帥府の総長も皆|輔弼《ほひつ》の責を十分に尽さなかつたといふことになるのであるから、此際は全部辞職して今までのことを御破算にして、もう一度案を練り直すといふこと以外にないと思ふ。それには陸海軍を抑へてもう一度この案を練り直すといふ力のあるものは、今臣下にはない。だから、どうしても後継内閣の首班には今度は宮様に出て頂くより以外に途はないと思ふ。その宮様は先づ東久邇宮殿下が最も適任と思ふ。それで自分としては総理に辞めてくれとは甚だいひにくいけれども事こゝに至つては已《や》むを得ず。どうか東久邇宮殿下を後継首相に奏請することに御尽力を願ひたい」(『平和への努力』傍点引用者)
近衛内閣もいよいよ最期である。近衛としては、しかし、渡りに舟であったかもしれない。
翌十月十五日、近衛は参内して、経過を報告した。
天皇は「東久邇宮殿下は参謀総長としては実は適任であると思つて居た。然し皇族が政治の局に立つことは之は余程考へなければならんと思ふ。殊に平和の時ならば好いけれども、|戦争にでもなるといふ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》虞《おそれ》|のある場合には尚更皇室の為から考へても皇族の出ることはどうかと思ふ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」という意見であった。(近衛前掲書。傍点引用者)
皇室の責任回避の意思は明らかである。
近衛は、帰途、木戸内府に会って東久邇宮問題を持出したが、皇室の番人である木戸は気乗りを示さなかった。
同夜、近衛は東久邇宮の「奮起を促した」が「こと余りに重大であるから二三日考へさせてほしい」という返事であった。
翌十六日朝、木戸内府は近衛に電話で「宮殿下の問題は、宮中方面に於ても到底行はれ難い」と伝えた。
『木戸日記』十月十六日の項にはこう誌されている。
「……万一皇族内閣にて日米戦に突入するが如き場合には之は重大にて、即ち近衛首相が御前会議にて決定したる方針を敢て実行し能《あた》はざりし程重要なる何等かの理由ある此の問題を、皇室の一員たる皇族をして実行せしめられ、|万一予期の結果《ヽヽヽヽヽヽヽ》(戦勝の意―引用者)|を得られざるときは皇室は国民の怨府となるの虞あり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点引用者)
国破れて山河在りは悠久の史観だが、日本では国破れても皇室あればよかったのである。
51
近衛は秘書官に「陸軍は敗けるに決まっている戦争をやりたがっている。対米戦争は海軍が主なので、その海軍が自信がないというのに、陸軍だけが戦争を主張している。陛下が戦争をやれと言われれば仕方がないが、陛下も戦争に反対していられる。それをどんなに話しても陸軍には判らない。実に馬鹿げたことだ」と鬱憤を洩らした。(矢部前掲書)
九月六日の御前会議で、繰り返しになるが、天皇が「四方の海……」などと詠嘆する代りに「朕《ちん》は戦争を欲しない」と明確に意思表示をしたら、どうなっていたか。
近衛は陸軍を非難したが、そして陸軍は確かに非難に値したが、その陸軍の野心に追随し、戦争志向の道を選んだのが昭和十五年(一九四〇年)七月以降の近衛の政治であった。近衛は戦争への布石を打ち、末期には平和を願望するという自己矛盾の果てに、政治的に破産したのである。この破産は、しかし、金銭的破産のように債鬼に責められることはなかった。総辞職で投げ出せば、国民が責任を追及する手段はないのであるから。
近衛が日米交渉解決の夢を托していた日米両国首脳会談は、歴史に残らずにはかなく消えた。
米国側から見れば、ルーズヴェルト大統領との会談を熱望した近衛という人物は、
「日本が中国を攻撃し、日本軍の大部隊が中国に侵入して中国の主要都市と工業地域を占領した一九三七年の日本内閣の首相」
であり、
「日本軍が一九三七年十二月十二日に揚子江上の米艦『パナイ』を攻撃した時の首相」
であり、
「日本軍が一九三七年に南京で悪名高い暴虐を行なった当時の首相」
であり、
「南京の中国|傀儡《かいらい》政権と一九四〇年に……中国の自由を押える諸原則を締結した当時の首相」
であり、
「われわれは近衛公との会談は、日本が平和の方向に進むという一部のはっきりした証拠を示さない限り、第二のミュンヘン会談(一九三八年九月二十九日、英・仏・独・伊四国のミュンヘン会談。ズデーテン地方のドイツヘの割譲を決定した対独|宥和《ゆうわ》協定は、ヒトラーの野心を増長させるだけの結果に終った。)となるか、または、なんら意味のないことに終わるにすぎない、と充分観察していたのであった」(戦後の真珠湾攻撃調査委員会でのコーデル・ハルの証言。『現代史資料・太平洋戦争3』)
右のような悪材料が揃っていた近衛が、日米首脳会談の実現にみずからの政治生命と国運とを賭けなければならなかったとは、皮肉な運命であった。
十月十六日夕刻、近衛首相は全閣僚の辞表を取纒めて参内し、総辞職した。
近衛の辞表には、九月六日の御前会議決定をめぐって東条陸相と意見対立、「熟々惟《つらつらおもん》ミルニ対米交渉ハ仮《か》スニ時日ヲ以テスレバ尚其ノ成立ノ望ミナシトハ断ズベカラザルト共ニ最モ難関ナリト思考セラルル撤兵問題モ名ヲ捨テ実ヲ取ルノ主旨ニ依リ形式ハ彼ニ譲ルノ態度ヲ採ラバ今尚妥結ノ望アリ……」として対米交渉を成立させようとする近衛に対して、東条陸軍大臣は同意せず、「此際開戦ヲ同意スベキコトヲ主張シテ已マズ、懇談四度ニ及ビタルモ終《つい》ニ同意セシムルニ至ラズ」総辞職を余儀なくされた事情が述べられている。
十月十七日午後、後継内閣の首班を選ぶための重臣会議が開かれた。
若槻元首相から宇垣大将を、林元首相(大将)から皇族内閣を推した他には意見がなく、木戸内大臣が、現時点で何より必要なのは陸海軍の一致を図ることと、九月六日御前会議の再検討を必要とするという見地から、東条陸相に大命降下を主張し、広田、阿部両元首相と原枢府議長の賛成があった他には反対意見もなく、東条推挙に決った。東条は現役のままで陸相をも兼任する含みである。
東条は同日午後五時前、参内、組閣の大命を受けた。天皇からの特別の注意事項は陸海軍はその協力を一層密にせよ、ということである。
東条に引続いて及川海相にも天皇から陸海軍協力の注意が与えられた。木戸の筋書きであろう。
木戸内大臣は、東条、及川両大臣に、控室で「聖旨」の伝達をした。
「……国策の大本を決定せられますに就《つい》ては、|九月六日の御前会議の決定にとらはるゝ処なく《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、内外の情勢を更に広く深く検討し、慎重なる考究を加ふることを要すとの思召《おぼしめし》であります。命に依り其旨申上置きます」(『木戸幸一日記』傍点引用者)
白紙還元の優諚《ゆうじよう》というのがこれである。天皇が直接に言えばはるかに効果的であろうに、面倒な因習ではある。
悪名高い東条内閣が誕生した。
木戸は東条首班を「功罪共に余が一身に引受け善処するの決意を以て奏請したのであつた」と、日記に誌している。(『日記』、十一月、日付なし)
木戸が東条を首相に推した理由は、一つには、既に見てきたように政変直前の数日間、東条が海軍の思惑をしきりに気にしていたから、海軍が戦争反対の態度を示せば、東条も必ずしも開戦を主張はしないであろう、と木戸が観察したこと、二つには、東条は天皇を尊崇する気持が人一倍強いから、天皇が白紙還元を命ずれば、東条は忠実に方針の変更を図るであろうこと、三つには、東条は陸軍に対する統制力がきわめて強いから、国策転換などの場合にも陸軍を押え得るであろうこと、四つには、木戸の脳裡には、当時、日本の外交政策は首相や外相に聞いても駄目で、参謀本部へ行って聴かなければ判らないという皮肉な批評の横行のことがあり、「陸軍に国政を担当させ、而して其の内閣が真剣に日米国交調整に当るとすれば、|却つて米国側の疑ひを解き得るやも知れないと考へた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」からである。(『木戸幸一関係文書』傍点引用者)
四は理性的な判断の体をまるでなしていない。いままで強硬に武断主義を主張していた者が、ある日突然に協調外交に転じたとして、対手《あいて》国が反感と疑いを解く可能性が何処にあるか。
木戸から「白紙還元の優諚」を伝達された東条は、新内閣の外相候補の東郷茂徳にこう語っている。強硬意見を持した自分に大命が降下したのであるから、駐兵問題(これによって近衛は下野しなければならなくなったのである)については、自分はどこまでも強硬な態度を持続していいはず、と。(東郷『時代の一面』)
浅薄だが、論理的にはそういうことになる。近衛から東条への政権移動については、もう少しつけ加える必要がある。
木戸内大臣が辞表奉呈後に立ち寄った近衛に語ったところによると、東条推挙には次のような状況を顧慮しなければならなかったという。
現在の政治情勢を見ると、陸海軍は右翼と連携して日に日に戦争熱を煽っており、軍の宣伝操作もあってA・B・C・D包囲陣の圧迫をひしひしと感ずる空気がみなぎっている。殊に御前会議の決定を楯とする陸海軍中堅将校の推進力があるので、この異常に緊迫した情勢のなかで一気に政策変更を示すような内閣の構成はほとんど不可能である。また政局裏面の事情を知らない者が大命を拝しても、組閣すらおぼつかない。往年の宇垣内閣の流産のときのように陸相の人選ができずに、組閣不成功に終る虞《おそ》れがある。一方、国外では、南部仏印にまで兵を出しているのであるから、陸軍の統制が乱れでもすれば、出先で如何なる事態が起るかもしれず、自衛権の発動などという暴挙に出ないとも限らない。国内的には、組閣に手間どるようなことがあり、組閣の大命を受けた人物如何では(軍が好ましくないと考える人物では)、国内は大混乱となり、あるいは内乱状態にまで立ち至るかもしれない。したがって、この際、首班奏請に適当な人物は、政局の経緯を充分に承知している及川海軍大将か東条陸軍中将しかいないと思われる。及川が首班となれば、海軍は政府一任などと言うことは出来ず、海軍自身の責任において方策を立てなければならない。また東条首班なら、彼の統制力をもって海外での不測の事態を未然に防止し、天皇から御前会議決定の白紙還元の命令があれば、事態の再検討も可能であろう。
木戸の右の話に、近衛も同感、ただ近衛の意見としては、この際は陸軍の統制が先決問題で、これが紊《みだ》れたら日米交渉も何も滅茶苦茶となる、したがって東条に首班を担当させるのがよかろう、ということであったという。(『木戸幸一関係文書』)
右によると、東条推挙は木戸の一存ではなかったようである。木戸も近衛も陸軍の国内外での暴走を怖れて、統制者として東条を推し、それを最善策と信じたようである。撤兵は降伏であるとまで言って頑強に駐兵を主張しつづけた東条を、首相の座に据えれば、撤兵を絶対条件として対日態度の中心に置いている米国との間の国交調整が好転するかもしれないと判断され得る根拠は、木戸と近衛の思考のなかには見出されない。東条が天皇には忠実であるからという材料は、重要会議のすべてに関して天皇が明確な意思表示をするときにのみ、有効材料であるに過ぎない。
木戸は、しかし、東条内閣の成立によって一つの重大危機を回避し得たと信じたらしい。
『木戸日記』十月二十日の項に、次のくだりがある。
「内閣|交《ママ》迭につき余の尽力に対し優渥《ゆうあく》な御言葉を拝し、真に恐懼《きようく》す。今回の内閣の交《ママ》迭は真に一歩を誤れば不用意に戦争に突入することとなる虞れあり、熟慮の結果、之が唯一の打開策と信じたるが故に奏請したる旨を詳細言上す。極めて宜く御諒解あり、所謂《いわゆる》虎穴に入らずんば虎児を得ずと云ふことだねと仰せあり、感激す」
木乃伊《ミイラ》取りが木乃伊になる心配は、天皇も木戸もしていなかった。
木戸は、東条内閣成立後の回想として、次のようにも誌している。
「東条内閣は熱心に日米交渉の妥結に努めて居たが、一面軍部の戦争準備も着々進められて居る様子だつた。此の点は米国を知る人々の等しく心配して居つたところで、米国に対しては恫喝《どうかつ》的の手はいけない、真に纒《まと》める積りなれば誠意を以てするの外なしとの話を余も聞かされて居つたので、東条首相と会つた時に其の話をして注意したところ、東条首相は其の点については見解を異にせるものの如く、否こちらに断乎たる決意あることを示してこそ始めて交渉は纒まると思ふ、其の意味では和戦両様の備は必要だとの意味の話あり。之が軍人の考へ方だと痛感した……」(『木戸幸一関係文書』)
この会話は十一月五日の御前会議以前のことらしい。虎はやはり牙を研ぐことに忙しかったのである。
木戸は近衛の退場と東条の登場を演出した。その手記に「功罪共に余が一身に引受け善処すの決意……」と書いたが、この後の歴史がもたらした事実の全重量は、「一身に引受け善処」できるものではなかった。
52
東条内閣は昭和十六年(一九四一年)十月十八日成立。東条は大将に昇進、特に現役に列せられて、陸軍大臣、内務大臣の三役を兼任した。
閣僚人事の特色の一つは、海軍が海相として豊田副武大将を推したのを、陸軍が忌避したことである。東条は、「豊田ハ陸軍デハ声ヲキクノモイヤダト言フ程ニテ、彼ノ海相就任ハ反対」(『杉山メモ』)と言い、また「豊田は困る。陸軍の空気が悪く、協調精神なし。強いて固執せらるるなら自分も固辞の外なし」(『沢本手記』)と言った。
海軍としては豊田のように陸軍に対して押しの強い、かつ、海軍事務に精通している人物を海相に推したくて、陸軍の反対を容れては悪例を残すことになるから、強硬に主張したいという空気であったが、東条も辞めるというのでは問題だとして、及川の留任を求めた。及川は受けなかった。近衛退陣の焦点も及川海相にあったことは、既に見てきた通りである、結局、海相は、のちに東条に迎合し過ぎるという悪評を買った嶋田繁太郎に決った。
沢本頼雄(海軍次官)は「東条内閣成立の際、海軍大臣として豊田副武氏を推薦することを頑強に主張せば形勢転換せしに非ざりしか」と言っている。
特色の二は、外相の東郷茂徳である。東郷の就任は「……陸軍側では駐兵問題に付て充分の余裕を考慮し、且其他の諸問題に付ても再検討を加へ相当の譲歩を為すの覚悟があり、合理的基礎の上に交渉を成立せしむることを真に協力する……」という条件つきであった。東条はこれに対して、「諸問題に付再検討を加ふるに何等異存ない」と言質を与えた。(東郷前掲書)
特色の三は、蔵相の賀屋興宣である。賀屋と東郷は、のちに見るであろうように、騒然として戦時色に包まれるなかで、硬骨の文官としてかなりの程度まで開戦に反対したといえる二人の人物である。
昭和十六年十月二十三日の新内閣と統帥部との初の連絡会議から十一月一日までの十日間に、八回の連絡会議が開かれ、九月六日御前会議決定の「帝国国策遂行要領」の再検討が行われた。新閣僚のうち、新たに連絡会議に出席するのは、東郷外相、嶋田海相、賀屋蔵相の三人である。あとは九月六日御前会議当時の顔触れである。
天皇の前で決定したことを覆すことはできないとして揉めたのであるから、形式を重んずる彼らの責任論からいえば、全員が更迭すべきであったし、逆に、同じ顔触れで再検討をするくらいなら、形式にこだわらずに、時間を浪費することなく、前内閣で再検討に協力すべきであったといえるであろう。
国策再検討要目は十一項目から成っている。列記するのは煩雑だが、それらの「再検討」を経て、十一月五日の御前会議で最終的に『帝国国策遂行要領』が決定し、開戦決意が定まるのであるから、項目を列記して、以下、審議の進行に伴って内容を摘録する。
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一、欧洲戦局ノ見透如何
二、対米英蘭戦争ニ於ケル初期及数年ニ亘《わた》ル作戦的見透如何
三、今秋南方ニ対シ開戦スルモノトシテ北方ニ如何ナル関連的現象生ズルヤ
四、対米英蘭戦争ニ於ケル開戦後三年ニ亘ル船舶徴傭量及損耗見込如何
五、右ニ関連シ国内民需用船舶輸送力竝主要物資ノ需給見込如何
六、対米英蘭戦争ニ伴フ帝国予算ノ規模金融的持久力判断
七、対米英蘭開戦ニ関シ独伊ニ如何ナル程度ノ協力ヲ約諾セシメ得ルヤ
八、戦争相手ヲ蘭ノミ又ハ英蘭ノミニ限定シ得ルヤ
九、戦争発起ヲ明年三月頃トセル場合
対外関係ノ利害
主要物資ノ需給見込
作戦上ノ利害如何
右ヲ考慮シ開戦時期ヲ何時ニ定ムヘキヤ
右ニ関連シ対米英蘭戦争企図ヲ抛棄シ人造石油ノ増産等ニ依リ現状ヲ維持スルノ能否及利害判断
一〇、対米交渉ヲ続行シテ九月六日御前会議決定ノ我最小限度要求ヲ至短期間内ニ貫徹シ得ル見込アリヤ
我最小限度要求ヲ如何ナル程度ニ緩和セハ妥協ノ見込アリヤ。右ハ帝国トシテ許容シ得ルヤ
十月二日米覚書ヲ全的ニ容認セル場合帝国ノ国際的地位|就 《なかんずく》中対支地位ハ事変前ニ比シ如何ニ変化スルヤ
一一、対米英蘭開戦ハ重慶側ノ決意ニ如何ナル影響ヲ与フヘキヤ
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[#この行1字下げ](以上の十一項目は、再検討以前に検討し尽されていなければならなかったものばかりである。つまり、九月六日御前会議には三十一項目にわたる質疑応答資料が用意されたにもかかわらず、ほとんど審議が深められることもなく、いかに軽率に提出原案が可決されたかを物語っている。)
再検討要目の起案者である石井大佐が述べていること(戦史室前掲書)を要約すれば、十一項目の趣旨は次のようである。
第一項から八項までは、戦争に訴えたらどうなるかということ。
第九項前半は、開戦時期を翌年三月として対米交渉期間を引き延ばそうとするもの。
第九項後半は、じり貧経済に甘んじた方が得策ではなかろうか、ということ。
第十項は、日米交渉を見直し、条件緩和の方策を期待するもの、である。
53
十月二十三日、東条内閣発足以来初の大本営政府連絡会議がひらかれた。「国策遂行要領」再検討の第一回目である。まず再検討要目第一項の「欧洲戦局ノ見透如何」だが、困ったことに、これまで多用してきた『杉山メモ』の記述と、当日確かに出されたはずの陸海軍統帥部案と、やはり当日出されたはずの外務省案とが、それぞれかなり異っているのである。討議の結果どれかが採択決定されたということにはなっていないらしい。いずれも説明されたにちがいないのであるから、今日の時点からみて比較的実相に近い判断と、重大な結果につながり得たかもしれないと考えられる誤判とを、筆者が選んで列記する。したがって、その通りに説明が進行したわけではない。
欧洲戦局ノ見透。
長期持久、対英「ソ」媾和《こうわ》少シ、但早期媾和ヲ独乙ハ欲シアリ。
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外相 独乙内部ハ結束シテ進ムベシ。
英ハ独「ソ」戦間ニ余裕ヲ得タリ、来年ハ五分五分、サ来年ハ英ノ勝利ト考ヘアリ。
独ハ和平ヲ早期ニ望ミアリ。
和平ヲ本トシテ日本ノ政策ヲ立ツルハ危険ナリ。(平和実現性ハ少シ)
軍令部 英国打倒ハ海ト港トノ始末ナリ、英本土上陸作戦ハ独乙ノ準備ニテハ不可能ニ近シト思フ。(至難寧ロ不可能)
陸軍 困難ナルモ不可能ニアラズ。
(以上は『田中日記』戦史室前掲書から)
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前田軍令部第三部長の説明には、次のくだりがある。(『杉山メモ』)
米ハ十七年末両洋作戦(大西洋・太平洋)ヲ許ス戦備ノ整フ迄ハ日本ヲ戦争ニ参加セシメサル如ク努ムルナラム。
歴史が既に証明を下した今日からみれば、先の外務案は卓見と評価してよく、右の『杉山メモ』の記述は当時の日本の陸海軍統帥部の楽観的・希望的誤判を示していると言ってよいであろう。
米国が十一月末乃至十二月上旬開戦必至と判断して、最初の一撃を日本から手出しさせようとしていたことは、今日既に明らかであるし、米国の「真面目なる」反抗は昭和十八年(一九四三年)からと日本が予測していたのに反して、珊瑚海海戦(十七年五月)、ミッドウェー海戦(十七年六月)を経て、米軍がガダルカナル島へ本格的反攻を開始したのは昭和十七年八月七日であった。
連絡会議の席へ戻ろう。
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永野 (海軍の現況を説明し、強い調子で)十月ノカ今トナツタノテ(十月上旬和戦決定が今まで延びたから)、研究会議モ簡明ニヤラレ度。一時間ニ四百トンノ油ヲ減耗シツツアリ。事ハ急ナリ。
急速ニドチラカニ定メラレ度。
杉山 (南部仏印進駐以来の陸軍の状況を述べ、強調する)既ニ一ケ月延引セラル。研究ニ四日モ五日モカケルノハ不可。早クヤレ。
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[#この行1字下げ](両統帥部が急ぐのは、開戦が延びればそれだけ相手の戦備が整い、奇襲が成功し難くなるのと、海軍の場合には貯油量の減耗が最大の制約条件となるからだが、それにしても両統帥部長が相手国との緻密な戦力比較検討をしようとしない態度は、九月六日と少しも変らない。統帥部長の更迭なしに再検討することには、ほとんど意味がなかったのである。)
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東条 統帥部ノ急クヘキコトニ就テノ力説ハヨク承知シアリ。政府トシテハ海軍、大蔵、外務等新大臣モアリ、十分ニ検討シテ責任ヲトレル様ニシ度イ。
九月六日決定ヲ其儘ニテ政府カ責任トレルカ、又ハ新シキ立場ニテ考ヘネハナラヌカヲ検討シ度イ。統帥部異論ナキヤ。
統 異存ナシ。
東条 然ラハ方法如何。幹事カ一案ツクツテハ如何。
武藤 幹事ノ一案ハナカナカ纒マラヌ。大体今迄研究シタ問題ハカリタ。
岡 然ラハ此席上担当ノ各省ニテ見解ヲ述ヘテ、アトテ主務ノ幹事カ之ヲマトメテ綴ル様ニセハ如何。
全員 右ニ同意ス。
賀屋 自分ノ納得ユク様ニ教ヘテ貰ヒ度イ。戦争遂行シテ物資カ如何ニナルカ。戦争セスニ現在ノママナレハ如何ニナルカ。米トノ交渉不成立ノ場合ハ如何ニナルカ等ヲ研究スレハヨロシカルヘク、予算ハ物資ノ需給関係サヘ定マレハ之ニテ決セラルヘク、予算其モノハ大シタ問題テナイト思フ。
○ 此十一ノ研究問題ヲ逐次研究スレハ其辺ハ判然トスル。
(以下略)
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右の○印は、記録者が誰の発言であったかを失念したものと思われる。『杉山メモ』には、ときどき、某という発言者があるが、これもその類であろう。
この日は靖国神社秋季例大祭の二日目で、東条首相兼陸相と嶋田海相は同日午前参拝し、同神社に皇后を迎えた。
その折りのことを、『嶋田日記』は「午前八時五分、靖国神社に参集。東条首相と懇談。十時二十分。皇后陛下御親拝云々」と簡単に記しているが、同行していたと思われる沢本海軍次官の手記(前掲)によれば、嶋田のいう懇談のときであろう、東条が嶋田にこう述懐したという。
「今更後退しては支那事変二十万の精霊に対し誠に申訳なし。されども日米戦ともなれば更に多数の貔貅《ひきゆう》(つわものの意――引用者)を犠牲とするを要し、誠に思案に暮れて居る」と。
会議の席上、十万あるいは二十万の英霊が戦争国策推進のために利用されたことは、再々ある。松岡然り、東条然りであった。会議の席上、新たなる多数の英霊が生ずるであろうことが論ぜられたことはなかった。
東条の右の述懐は、靖国社頭の雰囲気がそう言わせたものか、それとも、及川海相が「海軍は戦えない」と遂に言えなかったことを、東条は嶋田に打診含みに洩らしたものであろうか。
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十月二十四日と二十五日の連絡会議で、再検討要目の第二項以下が審議された。
第二問題(第二項)は、「対米英蘭戦争ニ於ケル初期及数年ニ亘《わた》ル作戦的見透如何」である。
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海軍 初期ハ大丈夫。長クナレハ国際情勢ト国民ノ覚悟ニヨル。海軍ニ対シ所要ノ物資ヲクレト再三述フ。(発言者が誰かは不明。永野軍令部総長か伊藤軍令部次長か?)
嶋田海相 賀屋蔵相 支那ノ戦面ヲ整理スル考アリヤ。
塚田参謀次長 ナルヘク戦面ハ保持シ度ク考ヘアルモ、情勢ニヨリ整理ス。特ニ北方起レハ整理セサルヲ得サルコトアルヘシ。
杉山 南方作戦ノ大部ハ四―五ケ月ヲ要ス。
伊藤軍令部次長 海軍ハ六―八ケ月ヲ要ス。(本件陸・海軍間ニ作戦的見解ニ相異アリシ如キ印象ヲ全般ニ与ヘタリ)
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『杉山メモ』に記されている発言はこれだけである。末尾に、記録者の感想としてであろう、次のように付記されている。
「第二問題戦争ノ見透シニ就《つい》テハ第一段戦ハ勝ツモ、敵ヲ屈伏セシムル方法如何トノ問答ニ於テハ、左ノ如キコトアリ。|武力ノミニテハ之ヲ許サス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|外交ニヨルヲ要ス《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。又英カ屈伏セル後ニ英ノ艦隊カ極東ニ活躍スルコトナトハ出来ス。又独ノ力ハ信用スヘク、独ノ国力ニ対スル信頼ハ之ヲ強ク考ヘアルモノ多シ。但独ニ対スル帝国トノ協力ニ就テハ、我施策カ独ノ利害ニ大ナル関聯ヲ生シタル場合彼ノ出方ハ警戒ヲ要スヘク、独ハ信頼シ難シトスルモノ多シ」(傍点引用者)
日独同床異夢なのである。
傍点部分は、これまでのところでは外交では駄目だから戦争に訴える。だが、戦争ではケリがつかないから外交的に戦争終結を図るという奇妙な論理である。つまり、米英に痛打をくらわせてから、外交で握手の方法を考えよう、という一方的な独善的な構想である。
作戦の見透如何については、結局、陸海軍作戦当局がまとめた「作戦的見透シ」が連絡会議で採択された。それによると、
陸軍作戦は、
「南方ニ対スル初期陸軍作戦ハ、相当ノ困難アルモ必成ノ確算アリ。爾後ハ海軍ノ海上交通確保ト相|俟《ま》チ所要地域ヲ確保シ得ベシ」
海軍作戦は、
「初期作戦ノ遂行及現兵力関係ヲ以テスル邀撃《ようvげき》作戦ニハ勝算アリ。
初期作戦ニシテ適当ニ実施セラルルニ於テハ、我ハ南西太平洋ニ於ケル戦略要点ヲ確保シ、長期作戦ニ対応スル態勢ヲ確立スルコト可能ナリ。
而シテ|対米作戦ハ武力的屈敵手段ナク《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》長期戦トナル覚悟ヲ要シ、|長期戦ハ米ノ軍備拡張ニ対応シ我海軍戦力ヲ適当ニ維持シ得ルヤニ懸リ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(以下略。傍点引用者)
傍点部分についての解答は用意されていないのである。日本とは桁《けた》違いの生産力を駆使して米国が軍備拡張をするのに対応して、日本が戦力を「適当に」維持し得るか否かに、長期持久戦の行方が懸っているとしか、作文の上でさえも言えないのである。
参謀本部第一部が十月二十日に作成した「対米英蘭戦争ニ於ケル初期及数年ニ亘ル作戦的見透シニ就テ」は、先の数行に要約されている陸軍作戦の基礎となっている検討文案だが、このなかの「作戦的見地ニ基ク対米英蘭作戦確算ノ基礎ニ就テ」に、見逃せない部分がある。「海軍竝航空作戦ノ確算」という項目である。そこには、こう書かれている。
「南方作戦ハ海軍竝航空部隊ノ活躍ニ期待スル処大ニシテ、彼我ノ海軍竝航空部隊ノ関係ハ現在ニ於テハ帝国ニ確算アリ。|日ヲ経ルニ伴ヒ其地位ハ逐次逆転シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|終ニハ戦勝ノ目途ヲ失フニ至ルモノト判断シアリ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点引用者)
緒戦は勝つ。しかし、前述の海軍作戦の項にあるように、対米作戦には武力的屈敵手段はなく、戦争長期化は必至である。そして、右の傍点部分のように、参謀本部では海軍及び航空作戦は「終ニハ戦勝ノ目途ヲ失フニ至ルモノト判断シ」ているのである。
後述の部分との関係から、便宜上、右の傍点部分をAとする。
次に「陸上作戦ニ就テ」は、こうなっている。
「上陸後ニ於ケル陸上作戦ニ就テハ、彼我ノ編制装備、素質、兵力等ヨリ考案シ国軍ニ絶対的確算アリ」
これをBとする。つづいて、
「要スルニ速ニ決意シ、|断乎トシテ決行スルニ於テハ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|対米英蘭作戦ハ作戦的ニハ十分ナル確信ヲ有ス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点引用者)
とある。これをCとする。
Aは不吉な、だが正確な予測である。
Bは独善的な希望的観測である。Bの記述が実戦にほぼ適当であったのは、奇襲による開戦から僅《わず》かに数ケ月間に過ぎなかった。
Cは根拠がない。東条流にいえば、「十分なる確信」だけではいけない。人を納得させる「確信」でなければならないはずである。
AとBから、何故Cの結論に達し得るか、殊にAにおいて「終ニハ戦勝ノ目途ヲ失フニ至ルモノト判断シ」ているのに、陸軍だけが何故「十分ナル確信ヲ有ス」るのか。
角度を変えて言えば、陸軍は、海軍竝航空作戦が「日ヲ経ルニ伴ヒ其地位ハ逐次逆転」せざるを得ないと彼我の実力測定をしており、「終ニハ戦勝ノ目途ヲ失フニ至ルモノ」という判断に達していたのなら、海軍が「戦えない」と言わなかったとしても、戦争は出来ないと結論しなければならぬはずのものであった。
論旨が矛盾しているのである。先に述べた陸軍作戦の項に「……初期陸軍作戦ハ……必成ノ確算アリ。|爾後ハ海軍ノ海上交通確保ト相俟チ所要地域ヲ確保シ得ベシ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」となっている。(傍点引用者)
この傍点部分に先のAを重ねると、陸軍の所論は全く成り立たない。杉山参謀総長は度々天皇に奏上しているが、右のような説明もしなければ、文書を呈出もしなかったであろう。仮りに天皇がこの参本第一部作成の文案を見たとしたら、どのような反応を示したであろうか。
次に、Bについてつけ加えておけば、日本軍の編制装備、素質、兵力等の見地から日本軍が香港、馬来《マレー》、フィリピン等に駐屯する英米軍に対して相対的に優勢であり、したがって緒戦において各局部的勝利をおさめたのは、算術的に当然であった。日本軍の指揮官や作戦参謀たちは、しかし、算術的帰結を非科学的盲信にすり換えた。劣勢な戦力でも優勢な戦力に勝てると「確信」したことである。その最も適切で痛烈な戦例は、開戦まる八カ月後の米軍のガダルカナル島上陸にはじまった。戦史の解説が目的ではないから、結論だけを簡単に述べれば、大本営は敵の戦力と兵力を下算し、日本軍の実力を過大評価して、劣勢兵力を逐次投入し、その都度惨敗し、多数の海軍艦艇、輸送船、飛行機、練度の高い搭乗員のほとんどを失い、陸兵のすべてを飢餓へ追いやり、多数を餓死せしめ、国力の致命的な消耗を招いたのである。
勇ましがり屋で、冷厳な数字が示すところを無視したがる作戦家たちが、慎重な熟慮に基づく国力判断を避けて描いた「陸上作戦の絶対的確算」と「対米英蘭作戦の十分なる確信」とは、蜃気楼《しんきろう》に過ぎなかった。
戦争の長期化は必至であるから、参本第一部作成の前記文案の後半で「数年ニ亘ル作戦的見透シ」が考案され、「物的戦力ノ見透シ」が記述されている。こうである。
「帝国ノ所期スル満洲、支那竝南方資源地域ヲ確保シタル以上、軍官民一致協力シテ|各種資源ノ開発運用ニ全幅ノ努力ヲ捧クルコトニヨリ自給自足可能ノ状態《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》トナリ、茲《ここ》ニ経済的不敗ノ態勢ヲ概成スルコトヲ得ヘク、又東亜ニ於ケル凡有《ヽヽ》(あらゆる)|軍事根拠ヲ占拠スルコトニ依リ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|英米本土ト濠洲其ノ他ノ極東方面竝印度洋《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|西南太平洋方面ノ交通連絡ヲ遮断シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|敵ノ実勢力ヲ漸減セシムルヲ得テ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|帝国ハ戦略的ニモ不敗ノ態勢ヲ確立スルヲ得ヘク《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、大持久戦遂行ニ対スル基礎態形ハ概整シタリト観ルヲ得ヘシ」(傍点引用者)
これもまた作文に過ぎない。資料的根拠として、飛行機、戦車、爆弾、地上弾薬、液体燃料、船腹等についての簡単な(しかも希望的な)数字を列記してあるが、問題は傍点部分である。右記前半の傍点部分にあるように資源地帯を占領しても、その産出資源を戦力化するには、海上輸送が確保されなければならない。後半の傍点部分に書かれているように南方諸地域の軍事根拠を占拠して、米英本国との連絡を遮断することの実効を期待するには、日本本土から根拠地へ、根拠地から前進基地への海上交通が確保されなければならず、敵勢力の海上遮断が保証されなければならない。これらはすべて、前記のAに直接かかわる問題である。Aのような判断をしておきながら、何故、右記の「見透シ」を立てられるのか、説明はなんらなされていない。
それにもかかわらず、作文は次のように展開されている。
「此間米英等ノ企図スヘキ通商破壊戦、航空戦等ニ対シテハ、当初ハ物的ニ相当ノ困難ヲ伴フコトヲ覚悟セサルヘカラスト|雖 《いえども》、逐次|此事態ヲ恢復シテ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|終局ニ於テハ何等ノ不安ナク戦ヒツツ自己ノ力ヲ培養スルコト可能ナリト信ス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。(以下略)」(傍点引用者)
連絡会議にこの資料文書は出されていないが、列席者たちは、少くとも、そこに書かれてあるのとは逆の事態に立ち到りはせぬかということを綿密に討議するのでなければ、九月六日御前会議決定事項を再検討する意味はなかったのである。
連絡会議は、しかし、またもや軽率に、またもや不注意に、この「作戦的見透シ」を採択したのだ。
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連絡会議は前記の第二問題に基本的な疑問点を残したまま、第三問題に入った。
「今秋南方ニ対シ開戦スルモノトシテ北方ニ如何ナル関聯的現象生ズルヤ」である。
これは陸海軍共に意見の差はなく、次の通りの結論を採択している。
「『ソ』聯ハ開戦当初対日積極的行動ニ出ツル算少キモ、米ハ極東『ソ』領ヲ軍事的基地ニ強用スル算多ク『ソ』聯亦我ニ対シ各種ノ策動ヲナスヲ覚悟アルヲ要ス。
尚爾後ノ情況ニヨリテハ日『ソ』開戦ヲ誘発スルノ可能性アリ。」(戦史室前掲書)
第四問題「対米英蘭戦争ニ於ケル開戦後三年ニ亘ル船舶徴傭量及損耗見込如何」は、次の第五問題と共に戦争継続にとっては最も重要な問題だが、第四問題が深刻に討論された形跡は『杉山メモ』には見出されない。説明資料も記録されてない。
開戦直前からの陸軍船舶徴傭量は、「再検討」時には既に確定していた。陸軍二一〇万トン、海軍一八〇万トンである。右のうち陸軍は、南方作戦が終了すれば、つまり、開戦五カ月乃至八カ月の間に一一〇万トンを解傭して、民需へ戻すことになっていた。民需というのは軍需生産用物資や国民生活用物資の輸送に必要な船腹を謂《い》う。大井篤『海上護衛戦』によれば、開戦前の計算では、船腹五九〇万トンあれば戦争遂行が出来る見込であったという。その内訳は、民需三〇〇万トン、陸軍徴傭一一〇万トン、海軍徴傭一八〇万トンである。前記陸軍解傭後の常傭トン数との間に一〇万トンの差があるが、船舶事情がやがて見舞われることになる大問題の前では、ほとんどものの数ではない。
船舶損耗見込について、海軍は戦争第一年八〇万トン乃至一一〇万トンと予測していたが、いつの間にか八〇万トン乃至一〇〇万トンという数字に落ちついた。連絡会議では造船能力については述べられているが、何故か船舶損耗に関する検討が行われた形跡がない。年間八〇万トンから一〇〇万トンも見込んでおけば十分と考えられていたのかもしれない。
実は船舶喪失と建造力との著しい差が、日本の戦力を急速に衰弱へ追い込んだのである。
米国戦略爆撃調査団の調査による日本船舶(五〇〇総トン以上)の喪失は、
戦争第一年(十六年十二月から十七年十二月までの十三カ月)
一、〇〇三、八九五トン
第二年(十八年)
一、七九三、四二九トン
第三年(十九年)
三、七〇五、三七七トン
第一年だけが予測の上限と合っていただけで、第二年、第三年と損失が激増しているのである。
これに対して建造予測(実績は後述)はどうかというと、連絡会議で海軍艦政本部総務部長が次のように説明している。
新造ハ左ノ見込ナリ。
第一年 四〇万トン
第二年 六〇万トン
第三年 ハ〇万トン
但次ノ条件ヲ必要トス。
1 所要資材ノ優先取得
2 工作施設ノ損害確実補填
3 輸送力労力ノ優先取得
4 造船造機施設ノ充実
5 陸軍ハ九〇万トン常続使用ニ低下スルコト
6 船舶行政機構ノ一元化
7 三千トン十二|節《ノツト》標準型トシ多量生産ヲ可能ナラシムルコト
例ヘハ六〇万トンノ船新造ノ為三六万トンノ鋼材ヲ要スヘク、海軍モ別ニ相当量ノ鋼ヲ所要トス。果シテ之ヲ許スヤ。其他施設製造所ノ拡張、工作機械ノ割当、輸送力労働力ノ確保等モ希望ノ通リ之ヲ許スヤ。
[#この行1字下げ](これらの海軍側からの疑念は、当然、九月六日御前会議以前の段階で表明されなければならぬものであった。海軍は戦えないという意思表示の代りに、経済的難問題を提出した観がないでもない。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東条 大体ノ造船能力如何。
細谷総務部長 大体第一年 四〇万トン
第二年 六〇万トン位
嶋田海相 若イモノハ楽観ニ過ク。海軍艦船ノ修理モアリ、造船ハ総務部長ノ述ヘシ半分二〇万トン―三〇万トンナラム。
[#ここで字下げ終わり]
嶋田は内輪に見積ったが、造船能力予定は三カ年一八〇万トン、年平均六〇万トンに落ちついた。
ところが、造船実績は三カ年通算では右の予定をはるかに上廻った。船舶運営会調べによると(タンカーを含む。五〇〇トン以上の船舶)、
第一年 二六五、九六三トン
第二年 七六九、〇八五トン
第三年 一、六九八、九〇三トン
累 計 二、七三三、九五一トン
右を見ても、如何に造船に重点指向されたかがうかがえる。それでも、前掲の船舶喪失と較べると、同じ三カ年で三、八六八、七五〇トンの損耗超過となる。開戦前の保有船舶がそれだけ大量に減り、したがって国力・戦力の維持能力は急激に衰弱したのである。この件は再検討第五問題「主要物資ノ需給見込如何」との関連で再びふれることにするが、十月二十四日、二十五日の連絡会議で船舶問題が深刻に討議されなかったとは、驚くほかはない。所詮は戦争だから、どれだけやられるか、やってみなければわからない、ということであろうか。
第五問題「国内民需用船舶輸送力竝主要物資ノ需給見込如何」について討議は次の十月二十七日の連絡会議に持越されて、賀屋蔵相が第六問題「対米英蘭戦争ニ伴フ帝国予算ノ規模金融的持久力判断」についての大蔵当局案を提示し、次のように説明した。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
賀屋 予算ハ物ト労力カ出来レハドウテモナル。戦争遂行上国民生活ヲ維持シ、且第二代国民ノ育英ヲヤルコトカ出来レハ心配ナイ。占領地ハ銀行ヲツブシテ軍票テヤレハ可ナリ。支那ト異リ案外安イ。(易しいの意であろう。)
嶋田 海軍トシテハ
十七年 九四憶
十八年 九五億
以後 毎年一〇〇億
ノ予算ヲ要スカヨロシイカ。
[#ここで字下げ終わり]
嶋田の発言は、米国が当然軍備拡張を急ぐのに対応して、日本も艦艇と航空兵力の充実を必要とし、それには予算が要るというのである。
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嶋田海相につづいて、永野軍令部総長が発言を行なった。
「米国の建艦能力と航空拡充能力が最も重大な関心事である。南方作戦は戦略要点を確保しておれば、来攻兵力に対して有利に戦うことができる。殊に航空及び潜水艦の邀撃《ようげき》によって長期にわたって対抗することが可能である。濠洲方面からする敵の来攻、なかんずく潜水艦戦、小海戦が起こることは明らかである。これらに対し長期にわたり海戦を続けるためには、海軍力に対する補給が必要であり、物資の獲得が重要問題となる。南方要域確保のため海軍としては、爆撃機一、〇〇〇機、戦闘機一、〇〇〇機、外に海軍要地防衛のため一、〇〇〇機を常続的に必要とする。この戦力を常時維持するため補給が必要である。南方地域における航空兵力の展開は二、〇〇〇機は可能である。これに対し敵としては十分な展開地域を持ち得ない不利がある」(戦史室前掲書)
永野の所説は、先に記した「海軍作戦ノ見透シ」が「長期戦ハ米国ノ軍備拡張ニ対応シ我海軍戦力ヲ適当ニ維持シ得ルヤニ懸リ」となっているのを、やや具体的に説明したものである。
それにしても、戦争による損耗に耐えながら常続的に海軍機三千機を確保することは、生産力からも物資の面から言っても難事業であるはずであった。(開戦時の海軍機総数は三、二〇二機である。そのうち九二八機は各種の練習機である。)もし機材の損耗が多くなれば、当然、搭乗員の損耗も多くなることを意味する。常続的に三千機を保有するということは、一定練度に達した搭乗員を常続的に多数練成しておかなければならないということであり、豊富な練習量の維持は同時に大量の航空燃料の消費を必要とする。
日本海軍航空隊は少数精鋭主義を採っていた。採らざるを得なかったという方が当っていよう。開戦後一年ならずして、少数精鋭主義は米国の平均的大量主義に敵し得ないことが実証されることになる。(昭和十七年六月五日、日本海軍はミッドウェー海戦で虎の子の一級空母四隻を失い、多数の人機をともに失った。つづいてガダルカナルの奪回作戦で精鋭のほとんどを失ったのである。)
対する米国では、開戦直後の一九四二年(昭和十七年)一月、ルーズヴェルト大統領は一般教書で、一九四二年度飛行機生産六万機、一九四三年度一一万五〇〇〇機と述べている。米国が負担する戦域はヨーロッパと太平洋であるから、右の数字が全部日本に対する威圧となるわけではないが、開戦前の統帥部が米国の力量を正確に評価し得ていた証拠は見当らない。
十月二十七日の連絡会議では、第五問題の後半「主要物資ノ需給見込如何」が討議された。口火を切ったのは賀屋蔵相である。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
賀屋 南方作戦の場合国家需要物資ニ関シ左記承リ度。
1所要数量ヲ全部(軍、官、民)ヲ含メアリヤ。特ニ軍需ハ数年先ヲ見透シタル数量ナリヤ。
2右ニ対スル国家ノ供給力ヲ考ヘアリヤ。(生産力、ストック等ヲ含ム)
鈴木企画院総裁 日本ニハ国防国家態勢整ハス、物的関係ノ永年計画ナク、年度年度毎ニ国ノ供給力ト各方面ノ所要量ヲニラミ、年々配分シアルカ現状也。十七年ノ為ノ所要資源供給力ハ十六年度ノ九割ヲ見込ミアリテ、供給力カラセハ「ストック」全部ヲ尽スコトトナル。但綿花ノミハ「ストック」ノ残リト支那カラノ購入ニヨリ十八年迄ハツナクコトヲ得。
生産ノ細部ニ就《つい》テハ官民需ノ圧迫ハ現在ヲ以テ絶頂トス。之以上圧縮セハ国ノ生産力ハ減スヘシ。
船三〇〇万トン常続使用(民需用として)ヲ許スナレハ、現在程度ノ物的国力ノ維持可能ナルモ、|三〇〇万トンノ船舶維持ノ為ニハ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|十七年四〇万トン《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|十八年六〇万トンノ造船ヲ必要トス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。然《しか》ルニ若《も》シ嶋田海相ノ言ノ如ク(前回連絡会議で)造船能力カ半減スルニ於テハ、第三年ニハ総動員民需ノ為(の船腹が)一九〇万トントナリ、国力ノ維持ニ不安アリ。(以上『杉山メモ』。傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
鈴木企画院総裁の説明には不可解な部分がある。傍点部分に注目されたい。海軍が船舶の年間損耗を一〇〇万トン乃至八〇万トンと見積ったことは先に述べた。新造船舶に関しては前回の連絡会議での結論のように、三カ年一八〇万トン、年平均六〇万トンとしても、右の損耗量との差引を行えば、年平均四〇万トン乃至二〇万トンずつ減少することになる。したがって、国力維持上必要な民需船舶三〇〇万トンを確保することは不可能となる。実際には、既述の通りの被害状況で、船舶事情は急激に悪化したが、それは問わないとしても、鈴木企画院総裁が年平均六〇万トンの造船で三〇〇万トンの船腹維持が可能であると説明した根拠は何処にも見当らないし、列席者が疑問を抱いたらしくも見えないのは不可解である。
鈴木は、開戦決定に至るまで、国力に関する数字をもって戦争不可を唱えたことはない。
前掲の海軍将校たちの戦後の座談会で、吉田善吾元海軍大臣(及川の前任者)がこう言っている。
「嶋田(繁太郎・海相)は、鈴木(貞一・企画院総裁)はどんな数字でも出して来るといいしことあり」と。
つまり、開戦論の主導権が動かないと見れば、開戦に都合のよい数字を出して来る、ということである。
しかし、鈴木は当然次のデータを知っていたはずである。戦略重要物資の昭和十五年度(開戦前年)の生産高の日米比較は、
石油 一対五一三
銑鉄 一対一二
鋼塊 一対九
銅 一対九
アルミニウム 一対七
その他石炭・亜鉛・水銀・燐鉱石・鉛などの算術平均値の比較をとると、日本とアメリカは、一対七四・二であった。(企画院調べ)
算術平均値は品種別重要度を示さないから、それが直ちに基礎戦力比を表わすとはいえないが、それにしても一と七四とでは問題にならないことは既に明らかなはずであった。日本は、その比較を絶した差を、精神力とか「作戦の妙」とかで補填《ほてん》し得ると考えていたのである。
会議では鈴木につづいて東条首相兼陸相が発言している。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東条 陸軍トシテハ対「ソ」戦備ニ重点ヲオキテ準備セリ。南方用資材ハ其一部ニ過キス。陸軍ハ従来ノ予算ノ中約六割ヲ軍需品トシテ蓄積シ来レリ。十七、十八年度分迄ハ従来通リノ配当アレハ何トカ賄ヒ得ヘシ。但右ハ統帥部ノ要求ニハ満タサルモノニテ、此点統帥部ニ我慢ヲシテ貰ツテ居ル次第ナリ。十九年度以後ノ如キ先キノコトハワカラヌ。
杉山 陸軍ハ「ソ」ノ一七〇師ノ相当数カ極東ニ来ル積リテ準備ヲススメ来リ、未タソノ途中ニアルノテ不十分タ。然シ物ノ不足ハ情況ノ推移ヲ見テ機ヲ捉ヘ且|作戦ノ妙《ヽヽヽヽ》トヲ以テ補フコトカ出来ル。|算盤通リ物カ無イカラトテ戦争カ出来ヌト言フコトハナイ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。(傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
杉山の発言中、傍点部分は日本の軍人好みの発想法であった。潔いように見えて、実はこれが国を誤る因《もと》である。空疎な精神主義が肥大化し、わけても陸戦において人命軽視の戦術が過大評価されたのも、思考的に右と同根なのである。
賀屋蔵相に対する海軍次官や岡軍務局長や整備局長らの応答や押問答を、『杉山メモ』は次のように要約している。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
海軍ハ南方ヲヤル以上ハ|米国ノDE軍拡計画ニ対応出来ネハナラヌ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》故ニ鉄量ハ到底(昭和)十六年度程度テハ困ル。(傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
右の傍点部分は不正確で紛らわしい。右の文脈は次のように記録されなければ意味をなさないと思われる。
「(日本海軍は)DE計画を遂行して米国の軍拡計画に対応出来ねばならぬ」
Dは第五次、Eは第六次軍備拡充計画のことである。第五次計画は、一九三九年(昭和十四年)末以来の米国の第三次ヴィンソン案に対抗するものとして、第六次計画は、一九四〇年(昭和十五年)夏以来の米国のスターク案(両洋艦隊法案)に対抗するものとして、立案されたが、この連絡会議の時点では、両計画ともまだ机上案に過ぎなかったのである。
席上、海軍側は次の数字を列挙して、鉄の配当増量を要求している。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
海軍艦船ノ新造予定案ハ(十七年 一八万トン)、(十八年 二五万トン)、(十九年 二七万トン)、(二十年 三〇万トン)、(二十一年 三七万トン)、(二十二年 三四万トン)、(二十三年 三三万トン)ナリ。
岡局長曰ク、之ハ軍令部案ニシテ、海軍省トシテハ必スシモ同意出来ヌカ、鉄ハ十六年度分ナトテハ足ラス。
[#ここで字下げ終わり]
先に述べた再検討要目第二問題の「作戦的見透シ如何」の海軍作戦に関して、
「初期作戦ノ遂行及現兵力関係ヲ以テスル邀撃《ようげき》作戦ニハ勝算アリ」と言っていることのなかの「現兵力関係」というのは、軍縮会議以来の対米七割五分の兵力比を指している。対米七割五分を保持出来るとすれば、「邀撃作戦」には勝つ見込がある、ということであって、主導的に戦えるということではない。
日米双方が軍拡を実行すれば、日米海軍兵力比は、昭和十八年には対米五割、昭和十九年には対米三割となって、戦えないという計算があった。したがって、「長期戦ハ米ノ軍備拡張ニ対応シ我海軍戦力ヲ|適当ニ維持シ得ルヤニ懸リ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」と海軍は言い(傍点引用者)、陸軍は海軍作戦の確算について「……終《つい》ニハ戦勝ノ目途ヲ失フニ至ルモノト判断シアリ」と言うことになるのである。
したがって、また、米国の軍拡に対応するためには、先の第五次、第六次拡充計画を実施することが必要であり、そのためには鉄鋼の配当増量が必要である、というのである。その配当を保証するためには、生産用必要船腹(民需船腹三〇〇万トンの常続使用で米国の軍拡に対抗出来るとはとても考えられないが)の確保が絶対条件であり、その確保を保証するためには日本の海空軍戦力が米国の軍拡に対応し得なければならず、その対応を保証するためには、必要鉄量の配当が絶対条件であるという悪循環のなかに日本は置かれていたのである。
57
会議では、保科善四郎海軍省兵備局長と山田清一陸軍省整備局長が他の事情を説明した。まず保科兵備局長から。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
保科 油ハ現状デハ二ケ年ノ自給ガ可能デアル。海陸民需ノ年額ヲ海軍二八〇万トン、陸軍九〇万トン、民需一八〇万トン、計五五〇万トントシテアル。
南方ノ油取得量ソノ他条件ガ、爾後ノ供給関係ヲ決定スルコトニナル。航空揮発油ニ関シテハ、南方取得ヲ十分胸算シテモ、戦争第三年以後ニ於テ難点ガ生ズル。ストックノ欠乏、油槽船ノ不足、飛行機ノ増加、全般消費量ノ増大等ニ起因スル。
山田 陸軍ノ航空揮発油ハ南方から取得スルモノヲ含メテ、十一月開戦ノ場合ハ三〇ケ月、明年三月開戦ノ場合ハ二一ケ月デ「ストック」ハ零トナル。爾後ハ専ラ南方取得ノモノニ依存シナケレバナラヌ。従ツテソノ間一五ケ月間位ハ所要量ヲ満タシ得ナイ期間ヲ生ズル。現状維持ノ場合(開戦しない場合)ニハ、飛行機用燃料ハ三四ケ月、自動車燃料ハ昭和十八年十二月(二六ケ月)デ全クナクナル。(以上戦史室前掲書)
賀屋 私カ質問スルノハ、海相ノ言ニヨレハ海軍予算ハ九〇億トノ事故《ことゆえ》、陸軍モ約一五〇億位ヲ要求セラルヘク、陸海軍ノ既定経常費以外ニ一五〇―二〇〇億ノ大予算トナリ、物資ガ二倍以上無ケレハ駄目ト言フコトニナルノテ、物ノ事ヲ質《ただ》ササルヲ得ス。物カ無ケレハ予算ハ出来ヌ。(『杉山メモ』)
[#ここで字下げ終わり]
会議がこの重要問題をさらに深刻に検討した形跡は見当らない。列席者の各発言からどのような結論が導かれるかを、誰も見きわめることなしに、会議は次の問題を取り上げた。
第七問題は「対米英蘭開戦ニ関シ独伊ニ如何ナル程度ノ協力ヲ約諾セシメ得ルヤ」である。
外務省は大なる期待をかけ得ないという見解であったが、会議は参謀本部案を主として取り入れて、次のように判決した。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
判決 大ナル期待ヲカケ得サルモ、我決意ヲ知ラシメ、作戦協定ヲ提議スル場合ニハ差シ当リ左ノ事項ヲ約諾セシメ得ヘシ。
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
(イ)対米宣戦
(ロ)単独不媾和
(ハ)近東作戦ノ強化ニヨリ対日呼応
(ニ)通商破壊戦ニ対スル協力
[#ここで字下げ終わり]
尚「ソ」ニ打撃ヲ与フルコトハ現ニヤリツツアル(独が)ヲ以テ、之ヲ強ク要求セハ却《かえつ》テ我方ニモ要求セラルルコトモ多カルヘク、之ハ省クヲ可トス。|英本土攻略ニ就テハ将来約諾セシムルコトトシ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、差シ当リハ之ヲ省クコトトナレリ。
海軍側ノ言ニヨレハ、日本ト独トノ海上ノ担任境界ハ「コロンボ」南北ト黙諾セラレアル趣ナリ。(傍点引用者)
[#この行1字下げ](英本土攻略を約束させるということは、甚だしい幻想に過ぎないし筋違いである。日本がシンガポールや香港を攻略することは、ドイツの英本土攻略作戦の次元から見れば、ドイツに対してほとんど何の寄与ともならないからである。)
第八問題の「戦争相手ヲ蘭ノミ又ハ英蘭ノミニ限定シ得ルヤ」に関しては、海軍側の判決が採択された。
「米英ハ不可分ニシテ、戦争相手ヲ蘭ノミ又ハ英蘭ノミニ限定スルコトハ不可能ナリ」
当然のことである。日本の武力進出地域は、米英蘭の日本に対する経済的政治的敵対激化を必至ならしめる地域なのである。
この日(十月二十七日)、杉山参謀総長は、「統帥上ノ見地カラハ時日切迫シアルヲ以テ検討ヲ急カレ度」と申入れ、東条首相は「政府トシテ統帥部ノ急カルル要望ハ承知シアルモ、政府トシテモ十分ニ検討シテ責任ヲモチ度故此点ヲ諒セラレ度」と答えている。
再検討のための連絡会議についての杉山総長の観測を、『杉山メモ』は次のように記している。
(イ)総理ノ(開戦)決意ハ不変ナル如シ
(ロ)海相ハ依然判然トセス、発言ハ大体消極的ノコト多シ
(ハ)海軍全般ニ物資取得ノ宣伝ヲヤル節アリ
(ニ)外相ハ率直簡明ニシテ、相当自信モアリ、大体論議モ一貫シアルモノト見ラル
この日の連絡会議の前のことか後のことかわからないが、嶋田海相は元の上司であり前の軍令部総長であった元帥伏見宮に会って、伏見宮が天皇に拝謁したとき(十月九日)の話を聞いている。
伏見宮、そのとき天皇に、
「米国とは一戦避け難く存ず。戦うとせば早き程有利に之有り。即刻にも御前会議を開かれ度」と言うと、天皇はこう答えた。
「今は其の時機にあらず。尚外交交渉により尽すべき段あり。然し、結局一戦避け難からんか」(「嶋田備忘録」『文藝春秋』昭和五十一年十二月号)
十月九日は、近衛がその優柔不断な政治姿勢に決着を迫られていたころである。
天皇は、半ばは近衛の政治的決断に期待し、半ばは既に開戦決意へ傾いていたと見える。
伏見宮は早期開戦論者で、この日、嶋田海相にこう勧告している。
「速に開戦せざれば戦機を失す。此戦争は長期戦となるべく、我より和平を希求するとも米は応ぜざるべし。結局、如何にして最小限の犠牲にて和平を行い得べきかが問題なり」
開戦決意を渋っている海軍に、皇族筋から早期開戦を嗾《け》しかけているのである。
58
十月二十八日の連絡会議は、第九問題「戦争発起ヲ明年三月頃トセル場合」の検討に入った。この問題は次の五項目に分けて検討された。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(イ)対外関係ノ利害
(ロ)主要物資ノ需給見込
(ハ)作戦上ノ利害如何
(ニ)右ヲ考慮シ開戦時期ヲ何時ニ定ムヘキヤ
(ホ)右ニ関連シ対米英蘭戦争企図ヲ抛棄シ人造石油ノ増産等ニ依リ現状ヲ維持スルノ能否及利害判断
[#ここで字下げ終わり]
再検討は、必要があってするのであるから、するからには徹底的にしなければならないのに、陸軍統帥部の中堅は論議が遅々として進まないのに焦慮していた。『大本営機密戦争日誌』には十月二十七日次のように誌されている。
「……議事いつこうに進捗《しんちよく》せず。……作戦的好機を逸しつつあり、統帥部としては焦慮に堪へず。
|まず決心して然る後国力的能否に関し検討し《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|出来るやうに国家の方向を定むべき時期《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》にあるにもかかはらず、決心を確立することなく、できるかできぬかで小田原評定をなしあるが現状なり。(以下略)」(傍点引用者)
傍点部分は恐るべき倒錯である。戦争をやると決めてから国力の検討をし、戦争できるように方向を定めよ、というのである。戦争指導班ともあろうものが、敵を知らず己れを知らずして戦うことの愚かさを知らぬもののようである。
前掲(イ)項の「三月頃戦争発起ノ場合対外関係ノ利害」については、外務省案と参謀本部案を勘案して、次のような判決を連絡会議は採択した。
「帝国ノ国際環境ヨリスレハ明年三月頃トスルヲ有利トス」
理由は、主としてドイツの作戦状況に懸っている。
つまり、明春までのドイツの冬期作戦は、アフリカ、中近東方面に展開されるであろうから、英国はその方面の防戦に忙殺され、それだけ東亜に関してはドイツに依る牽制的効果が大となるであろうということと、米国が三月頃までに対独参戦をしないとしても、参戦的雰囲気は濃厚となるであろうから、米国の関心と勢力はより多くヨーロッパに割かれるであろう。その分だけ、国際環境的には日本に有利となる。ただし、経済的、軍事的には、時間が経過するだけ不利となることは避けられない。
右の事情を要約して、席上、参本側はこう言っている。
「……害ハ益々大トナルヘシ。即対日包囲陣ハ強クナリ、又『ソ』ニ対スル日本ノ関係ハ不安大トナル。油其他ノ物資ハ減シ、対手ノ軍事的整備ハ強化ス」(『杉山メモ』)
(ロ)項「主要物資ノ需給見込」については、前日の会議でも駄目を詰めなかったが、この日は素通りして次の会議へ見送った。(ハ)項「三月開戦ノ場合作戦上ノ利害如何」は、(ニ)項「開戦時期ヲ何時ニ定ムヘキヤ」と一括して討議されたらしいが、(ニ)項の判決がどうなったか、記録の上では明らかでない。
「開戦ハ十一月ナルヲ要ス。即本十月三十一日迄ニハ開戦ヲ決意スルヲ要ス。
海軍ハ物ノ関係上致命的ナリトテ、参本、軍令部強調ス。右ノ如クシテ参本軍令部案ヲ殆ント無修正可決」
と、『杉山メモ』は記しているが、連絡会議での再検討とは無関係に、陸海両統帥部の間で、開戦時機は十一月二十四日から十二月八日迄の最適の日取りを選ぶことに内定していたようである。前掲の『機密日誌』ではないが、統帥部にとっては、長期戦となるに決っている戦争を国力が許すかどうかは問題でなくて、戦えるうちに開戦しよう、開戦するならいつからいつまでの間がよい、開戦して要所を押えて長期戦に備えよう、という考え方しか気に入らないのである。
政治と統帥が完全に分立していて、この両者が帰属し、この両者を統裁すべき立場にある天皇が、政治的にも統帥上も何の責任をも負わずに済むという制度が、信じ難いほどの誤りを生む因であった。
順序が逆になったが、(ハ)項の「作戦上ノ利害如何」については、統帥部案が可決されている。こうである。
「作戦ヨリスレハ明年三月頃トスル場合ハ極メテ不利ニシテ積極的作戦ハ不可能トナルヘシ」
理由は、日本の侵攻予定地域の戦備が増強されることと、日米軍事力の懸隔が日を追って著しくなることが明らかだからである。
(ホ)項の「対米英蘭戦争企図ヲ抛棄シ人造石油ノ増産等ニ依リ現状ヲ維持スルノ能否及利害判断」は、日本が戦争をするかしないかの根本にかかわる問題であった。人造石油の増産によって天然石油の絶対的不足を完全に補うことができれば、日本は米英蘭に対して戦争を仕掛ける必要は全くなく、諸他の欠乏物資は通商|恢復《かいふく》の努力に俟《ま》てばよいのである。
会議の応酬は次のように記録されている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
鈴木企画院総裁 結論トシテ言ヘハ、
四百万竏(キロリットル)生産ノ計画ニヨレハ、設備ノ為鉄一〇〇万トン、石炭二五〇〇万トン、費用二一億、三年間ニテ工場設備ヲ終ル。此ノ如キヲ以テ国家トシテハ強力権力非常手段ヲトラサルヘカラス。生産ハ「十六年三四万竏、十七年五五万竏、十八年一六一万竏、十九年四〇〇万竏」トナル計画ナルモ、実行ニハ大ナル難点アリ。
保科海軍兵備局長 右人石ヲヤラレルト、海軍ハ戦備軍備ハ半分オクレル。国際関係ヲ無視シテコンナコトヲヤラレテハ困ル。実行上困ル。又油ハ人石ノミヲ以テ解決セサルモノアリ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](保科局長が人造石油の増産に着手されると海軍の戦備軍備が半分遅れると言ったのは、人造石油生産設備としての高圧反応筒を製作するに必要な大型プレスは、当時は室蘭に一つしかなくて、これを人石にまわされると、海軍としては大口径砲の製作や魚雷製造に支障を来すことを指している。それにしても、大型プレス一基しかなくて大戦争を発起するとは、無謀というほかはないであろう。
[#この行1字下げ] また、油は人石のみをもっては解決しないと言っているのは、石炭液化による人石では軍艦用燃料の重油の代用品たり得ないというのである。)
つづいて、賀屋蔵相が発言した。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
賀屋 戦争ヤツタ場合トヤラヌ場合ノ物資需給関係ハ何レカヨイノカ、数量的ニ知リ度イ。
[#ここで字下げ終わり]
これに対して、企画院側からの返答は記録されていない。『杉山メモ』は、賀屋の右の発言につづいて、第十一問題「(開戦が)重慶ニ与フル影響」を掲げ、その項にまた賀屋の物資に関する発言が入っている。会議の実際の進行がそうであったのか、記録が何かの都合でそうなったのか、判然しない。賀屋の発言は当然前の問題に含まれるべきものである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
賀屋 南方ニ出テ所要ノモノハ軍ニ取ツテ貰フカ、物的ニ陸海軍ノ戦力ヲ補給シ得ルカ否カカ問題タ。概念論テナク、大体此辺トノ判定ヲシ度イ。
[#ここで字下げ終わり]
賀屋の発言に対しては、これまた返答が記録されていない。察するに、最も重要で、かつ、具体的に明確な解答を出すことが最も困難な物資問題は持越しとなったのであろう。
実は、これこそが、最初から徹底的に論議されて、和戦の行方を決すべき基本的な問題であった。
第十一問題「対米英蘭開戦ハ重慶側ノ戦意ニ如何ナル影響ヲ与フヘキヤ」については、参本、陸軍省、外務省の案を綜合して判決した。要約すれば、日本の対米英蘭開戦は、蒋介石に、ABCD包囲陣の団結による対日長期戦の決意を固めさせ、日支の全面和平は全戦局の終結まで到底望み得ない、ということである。ただ、南方作戦の成功によって、重慶の抗戦力は間接的に漸減し、重慶将領のうち、南京(汪政権)に寝返る者が出て、蒋政権は逐次微弱化するであろう、と希望的予測が行われている。事実は、しかし、逆であった。開戦後、日を経るにしたがって、勢力微弱化したのは南京政権であった。日本が南京政権の正式承認を急いだことが躓《つまず》きの石であったことは、既に述べた通りである。
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これまで見てきたところでは、和戦決定の鍵は海軍の判断確定にあり、判断確定を支配するものは物的国力に対する信頼度である。開戦後二年三年と経過する間に、米国がその巨大な生産力と豊富な資源を駆使して実行するであろう大軍拡に、日本の国力が対応し得る確算が海軍としては立たなかったのである。それなら、戦争回避の主張に終始すればよいものを、陸軍の手前と、軍人としての面子と、さらには戦争を回避した結果、歳月の経過とともに貯油量が皆無となって艦隊が動けなくなったらどうするかという不安が、戦争回避を貫く勇気を与えなかったと考えられる。
嶋田繁太郎は海相就任間もない十月二十二日、沢本海軍次官に対してこう言っている。
「外交交渉には相当の時間の余裕を要すべき処、若《も》し軍令部総長が之を肯《がえん》ぜざる時は、自分は職責を尽すこと能《あた》はざるにつき、自分が辞職するか、総長に止《ママ》めて貰ふ外なし。之は是非実行したい」(沢本手記――戦史室前掲書)
嶋田海相は、また、十月二十四日、東条首相が嶋田に対して、
「九月六日の御前会議決定事項は新なる立場に於て再検討し、全閣僚の責任を負ひ得るものと為さざるべからず」
と言ったのに答えて、
「海軍としては統帥部も共に出来る丈け戦争を避けたし」と語ったという。(沢本前掲書)
この嶋田海相が、僅か六日後の十月三十日には、後述するように戦争決意へ急変するのである。嶋田の元の上官で、前の軍令部総長であった伏見宮の開戦勧告が強く作用したらしく見受けられる。
だが、その二日前の十月二十八日(右記した連絡会議の日)の段階では、海相と軍令部総長を除く海軍首脳(沢本次官、岡軍務局長、伊藤軍令部次長、福留第一部長の四人)は、軍令部次長室で次のように意見を交している。(戦史室前掲書)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
次長 大臣は一方に於て対米交渉を続けつつ重慶総攻撃を為すを可とする意見を有せらるるが如し。外交の為に戦否決定の時機が遷延《せんえん》するは已《や》むなしと考へ居らるる様子なる処、この点総長と充分よく談合せられ度し。
次官 大臣にその気持あるは承知す。大局より観察すれば、私としてはどうしても此の際戦争を可とする意見とならず。
|結局長期戦は国力に拠る次第にして《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|海軍としては自信なし《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。従つてこの際極力|外交解決の道を取る外なしと表明するを可とせずや《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
第一部長 それは結局外交大転換、三国同盟脱退にまで進むこととなるべきも、それでは米英陣に投合することとなり、支那の侮蔑を受け国威の失墜大なるべし。それまで覚悟すべきや。
又総理、陸軍と衝突し海軍が引き受けることとなる際確乎たる対案なかるべからず。この点如何。
次官 これ迄の成り行に委せば戦争となることは略《ほぼ》自然の経路なり。故に此の際大観して従前の方途に進むを可とするや、又は心《ヽ》気《ママ》|一転して数年来の国策より考へ直すを可とするやの問題なり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|今迄間違つて居たから之を続行すると云ふことは承服出来ず《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、間違つたものは改めざるべからず。当今国家総力戦と云ふも、日本は先づ外交戦に敗れ五国(米、英、蘭、支、ソ連の五ケ国――引用者)を敵とせざるべからず。経済戦|亦《また》不利にして今日既に其苦杯を嘗《な》めつつあり。宣伝戦亦然り。之を独り武力に依り挽回せんとするものなるも、これまた資源、工業力等の戦にて短期間に勝を定むべからず。事実国内はまだ臨戦体制になり居らず、飛行機のマスプロダクション、生産力拡充未完、暫く時期を待たざるべからず。是此の際隠忍を必要とする所以《ゆえん》なり。外交打開|邁進《まいしん》も海軍が一致せばまた行くべき道もあるべきも、現在の如き状にては海軍も一致の行動は出来ざるに非ずや。この際個人問題の如きはどうでもよし、差当り海相と総理と懇談して見ては如何。――(傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
沢本次官の所説が実際に右の通りであったとすれば、全くの正論である。傍点部分にある「心|気《ママ》一転して数年来の国策より考へ直すを可とするやの問題なり」と考えていた軍人が居り、それを口に出して言った軍人が実在したわけである。客観的に冷静な判断に基づく正論が通らないのは、邪道の時代である。
沢本の正論は通らなかった。十月三十日、嶋田海相は沢本次官と岡軍務局長を呼んで、戦争決意を表明した。嶋田と沢本との間に次のような意見の交換があったという。(前掲沢本手記)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
海相 (前段略)数日来の空気より綜合すれば、この大勢は容易に挽回すべくも非ず。無理に下手をやれば大害を為すに至るべし。故に此の際戦争の決意を為し、今後の外交は大義名分の立つ如くし、国民一般が正義の戦なりと納得する様導く要あり。
次官 何度考へて見ても大局上戦争を避くるを可とする意見なるも、然らば如何に処理すべきかとなると、直接良き方法は見つかりませぬ。兎も角再考したし。
海相 現状を以てすれば、米国は何時立つて先制の利を占むるやも知れず。さうなれば日本の作戦は根本的に破れ、勝味は無くなる。此の際|海軍大臣一人が戦争に反対した為に時機を失したとなつては申訳がない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。無論自決御詫びはするが、そんなものは何の役にも立たぬ。|適時決心すべきである《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
次官 想像は如何様にも出来ますし、万般の考慮が必要であると思ひますが、米国の国情として議会にも諮《はか》らずして戦争することは、有り得ないのではありますまいか。それまで心配しては限りもありませぬ。
海相 (稍《やや》色をなし)
次官の保証が幾らあつても何の役にも立たぬ。時機(戦機の意――引用者)を失せぬ様にすることが大切である。
次官 よく考へます。
[#ここで字下げ終わり]
右の通り、十月三十日には嶋田海相は開戦決意へ踏み切っている。
『嶋田日記』の同日の項には「一時三十分、次官、軍務局長の連絡会議に於る結論(後述)に就き話し、研究せしむ」とあるだけで、同日の連絡会議では、後述するように再検討の継続審議が行われただけであって、結論は出ていない。
実質的に和戦の鍵を握っていて、これまで態度を鮮明にしなかった海軍の責任者が、いつ、何を契機に開戦決意へ踏み切ったか、残念ながら明らかでない。『嶋田日記』を一日ずつさかのぼってみよう。
十月二十九日
「豊田貞次郎君(前外相)来訪、前内閣時代の政情を聴く。海軍の態度明瞭を欠きたる話あり。
(中略)高松宮殿下大臣室に来らる、連絡会議の模様を言上す」
豊田は近衛内閣当時の経過からして、嶋田に戦争決意を勧告したとは到底考えられない。
十月二十八日
「軍令部次長来訪。GF(連合艦隊)長官山本(五十六)長官よりの来翰に就き、話す」
山本長官の書翰はハワイ攻撃決定(作戦として)までの心境を述べたもので、実戦最高指揮官の決意が海軍大臣になんらかの感作《かんさ》を及ぼしたかもしれないとは考えられる。
十月二十七日は、先に述べた通り、嶋田が伏見宮と逢って、「|速 《すみやか》に開戦せざれば戦機を失す」と、開戦決意を勧告された日である。
嶋田は伏見宮の下で五年間勤務し、信頼が篤《あつ》かった関係がある。
日記には誌されていないが、十月二十四日は、前記の通り、嶋田は東条首相に「海軍としては統帥部も共に出来る丈け戦争は避けたし」と言っているのである。
伏見宮の勧告が強く作用したと考えるのが妥当ではあるまいか。
開戦を決意するか否かの再検討は、十月二十九日と三十日の連絡会議で行われ、いよいよ大詰めを迎えることになる。
60
十月二十九日と三十日、連絡会議は再検討持越しとなっていた第五問題の物資関係(第九問題関連)と、審議をあとまわしにしていた第十問題の外交の見通しについて論議した。設定されていた十一項の問題のうち、核心をなす部分である。
第五問題「国内民需用船舶輸送力竝ニ主要物資ノ需給見込如何」について、鈴木企画院総裁が次のように最終的結論を説明した。(『杉山メモ』の記録はこの部分が簡略に過ぎるので、戦史室前掲書から引用する。)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
一 民需用トシテ常続的ニ最低三〇〇万|総トン《ヽヽヽ》ノ船腹ヲ保有シ得ルニ於テハ、一部ノ物資ヲ除キ、概《おおむ》ネ昭和十六年度物資動員計画ノ供給量ヲ確保シ得ベシ。
但シ昭和十七年度ニ於ケル鋼材ハ最大見込四三〇万トン程度トス。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](船舶のトン数表示はいろいろあって、紛らわしい。傍点を付した総トンは、船の囲われている部分の容積を百立方|呎 《フイート》――約二・八立方米――を一トンとして計算するトン数である。大井篤前掲書によれば、囲われた部分のうちでも、上甲板以上にあって、乗客や貨物を収容するためでなく、船の運転や保安等のために用いられる場所は計算から除かれる。たとえば一万総トンの貨物船は、重量トンで表わせば約一万五〇〇〇トン、載貨重量トンでは約一万三五〇〇トンである。)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
二 消耗船舶ヲ年間一〇〇万総トン乃至八〇万総トンと推定スル場合、年平均六〇万総トン内外ノ新造船ヲ確保シ得ルニ於テハ、前項三〇〇万総トンノ船腹保有ハ可能ナリ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](右は計算上不可解であることは、十月二十七日の項でふれた通りである。年間消耗船舶八〇万総トン乃至一〇〇万総トンとして、新造船年平均六〇万総トンなら、一年につき二〇万乃至四〇万総トンの減少となって、民需用三〇〇万総トンの維持は出来なくなる道理である。列席者の誰もその疑問を質《ただ》さなかったことも不可解である。)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
三 前項六〇万総トンノ新造船ノ為三十余万トンノ鋼材及鋼其他ノ附属資材ヲ必要トスルモ、陸海軍所要ノ鋼材其他附属資材ニシテ、昭和十六年度物資動員計画ノ配当比ヲ以テ、其年度総供給量ヨリノ配当比ト為《な》スニ於テハ之ガ供給可能ナルベシ。
四 南方作戦ノ為特別ニ必要トスル船腹量及其期間ハ、陸海軍ト企画院トノ間に協定スル計画ヲ遂行スルコト必要ナリ。
[#ここで字下げ終わり]
右の陸海軍と企画院との協定というのは、陸海軍の船腹徴傭に関する協定である。これも既述のことだが、海軍は戦争間常時一八〇万トン、陸軍は開戦時に二一〇万トンを徴傭するが、第五ケ月から第八ケ月までに一一〇万トンを解傭して一〇〇万トンにする、という協定である。陸海軍の船舶徴傭がこの枠を超えると、民需用船腹三〇〇万トンの維持は出来なくなり、昭和十六年程度の物的国力再生産が不可能となる、という計算を企画院が出していたのである。昭和十六年程度の国力維持で対米英蘭戦争の持久が可能であるという根拠は示されていなかった。仮りに船舶事情の推移が予想の通りであったとしても、当時既に推定され得ていた米国の大軍拡に対抗するのに、昭和十六年程度の物的国力の維持では甚だしく不十分であることも、当然予想され得たはずのものである。それにもかかわらず、賀屋蔵相(後述)を除いて、列席者の誰も深刻な不安を表明した形跡がない。現在残っている記録が不完全なのか、記録者の取捨選択に問題があるのか、判然しないが、戦争をするかしないかというときに、それを決める立場にある人びとが、和戦の行方を決する重要問題に対して示す関心が稀薄としか見えないのは、不思議としかいいようがない。
鈴木企画院総裁は、日本が直面している最大の悩みの種である液体燃料問題に関しては、次のような結論を提示した。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
一 国防安全感ヲ確保スルニ必要ナル液体燃料ノ品種及数量ハ、人造石油工業ノミニヨリ之ヲ生産スルコト殆《ほと》ント不可能ナリ(戦争ヲ挑マレタル場合ニハ)。
[#ここで字下げ終わり]
括弧内の意味は、戦争がなければ人石生産に必要な資材原料を投入できるから、天然石油の不足を人石生産によって補うことは必ずしも不可能ではない、というように解釈され得るであろう。技術的には、しかし、まだ大量生産を望める段階ではなかった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
二 南方作戦実施ノ場合石油ノ総供給量ハ
第一年度 八五万トン
第二年度 二六〇万トン
第三年度 五三〇万トン
ニシテ、之ニ対シ国内貯油八四〇万トンヲ加へ需給ノ見透ヲ付クレバ、
第一年度末 二五五万トン
第二年度末 一五〇万トン
第三年度末 七〇万トン
ノ残額ヲ存シ、辛ウシテ自給態勢ヲ保持シ得ヘシ。
三 航空燃料ニ就《つい》テハ、其消耗状況ニヨリテハ第二年|若《もし》クハ第三年ニ於テ危険状態ニ陥ルコトアルヲ予想セラル。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](戦争の長期化が必至であると考えられているときに、航空燃料が二年目若くは三年目に危険状態に陥ることが予想されたら、それだけでも開戦不可の危急信号と見るべきであるのに、列席者の誰かがその点を憂慮したと見られる発言は見当らない。会議の大勢は、人造石油に多くを望めないのなら、貯油量が減らないうちに開戦決意をした方がよいという考えに傾いたようである。)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
四 鉄
十七年需要ハ十六年物動ヲ基礎トシ賄《まかな》ヘル。但船三〇〇万トンヲ要ス。而《しこう》シテ三〇〇万トンノ船舶維持スル為ニハ、毎年六〇万トンノ船ヲ新造スルヲ要シ、之カ為三〇万トンノ鉄ヲ必要トス。
[#ここで字下げ終わり]
このあと、列席者の誰かが海軍の第五次軍備拡充計画について質問した。
それに対して、細谷艦政本部総務部長がこう答えている。
海軍トシテハ造艦ハ逐次増加スルコト次ノ如ク、鉄ニ対スル不安アリ。又造艦ヲ六〇万トン行ハムトセハ七ツノ条件ヲ要ス。
[#2字下げ]十七年 九五万トン
[#2字下げ]十八年 一〇〇万トン
[#2字下げ]十九年 一二〇万トン
[#2字下げ]二十年 一〇〇万トン
[#2字下げ]二十一年 一〇〇万トン
[#この行1字下げ](右の七つの条件というのは、所要資材の優先取得とか船舶行政機構の一元化とかを含む、既述の二十五日の連絡会議で艦政本部側が主張した条件である。)
ここで賀屋蔵相が次のように発言した。
鉄ト船ニ就テハ不安アリ。尚考ヘル必要アリ。
賀屋の不安の表明は、常識的な人間なら当然のことだが、会議の大勢を動かすには至らなかった。僅かに、鋼材の配当を一元的に運営する必要が認められて、民間の造船も艦政本部の所管事項とすることが定められたにとどまった。
会議がうわ滑りしている観は免れない。物がないのを、ないから開戦を断念しようというのではなくて、開戦出来るようになんとか都合をつけようというように大勢が動くから、会議がうわ滑りするのである。
『大本営機密戦争日誌』には陸軍の対海軍感情が露骨に次のように誌されている。
「海軍、鉄ヲクレ、予算ヲクレノ発言多ク醜キキハミナリ」
戦争の物的基礎の精密な検討もなしに開戦決意に逸《はや》る陸軍は、軽率のきわみなりという誹《そし》りを免れないことを全然意識していなかったようである。
61
残っている再検討課題は、第十問題の対米交渉に関する諸点である。
その一の、「対米交渉ヲ続行シテ九月六日御前会議決定ノ我最小限度要求ヲ至短期間内ニ貫徹シ得ル見込アリヤ」については、「何レモ(列席者全員)短期間ニ成功ノ見込ナシ。海軍省ハ二週間テモ見込ナシト言フ」結論であった。
当然のことである。米国側はハル四原則を基礎として日本に臨んでいる。日本側はハル四原則の事実上の否認の上に国策を推進しようとしている。両者の最も非妥協的な対立点は、支那及び仏印における日本の駐兵問題(したがって撤兵問題)なのである。この問題に妥協が成立しない限り、対米交渉が妥結しないことは日本もよく承知しているのである。
その二の、「我最小限度要求ヲ如何ナル程度ニ緩和セハ妥協ノ見込アリヤ。右ハ帝国トシテ許容シ得ルヤ」は、論議の結果「幾何《いくばく》迄ニ譲リ得ルヤ」という議題に変更された。前者は設問自体が矛盾を孕《はら》んでいるからである。
論議の結果
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
イ 三国条約――従来通リ、変更セス。
ロ 四原則ノ適用ハ、今迄米側ニ述ヘシコトハ已《や》ムナシトスルモ、東郷(外相)ハ「条件附ニテ主義上同意」ト言フコトモ不可ト考ヘアル旨述フ。
ハ 支那通商無差別待遇ハ「無差別原則カ全世界ニ適用セラルルニ於テハ」トノ条件ヲ附シテ、「南西」ノ字句ヲ省《はぶ》クモ可ト定マレリ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](「南西」ノ字句ヲ省クモ可、ということは、日米交渉における対象地域を日本は南西太平洋に限定しようとし、米国は太平洋全域に及ぼそうとして、相互に応酬する文書に「南西」の字句を入れたり、削除したりした経緯がある。米国側が日米両国間の軍事的政治的経済的紛争発生を顧慮して、交渉における制限を太平洋全域に及ぼしたがったのは、従来の歴史的経過からみて、それだけ日本を信頼していなかったのである。)
右のハ項はさらにつづいている。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
本件(通商無差別待遇)ニ就テハ参本ハ猛烈ニ、変更セサル如ク頑張リタルモ、総理ヨリ、政府側ノ反対強ク此妥協案ヲ申シ出ツ。
永野総長ハ突然「通商無差別ナトヤツタラドウダ。太ツ腹ヲ見セテハドウカ」ト言ヘリ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](参本が支那通商無差別に「猛烈」に反対したのは、日支事変の成果が失われるに等しいと考えたからである。日支事変こそは日本に災厄をもたらした根本原因であったが、陸軍は決してそうは考えなかった。南京に傀儡《かいらい》政権を作って、あくまで支那を日本の特殊権益地域として固執したのである。)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
ニ 仏印撤兵問題ハ今迄通リ。
ホ 駐兵撤兵
今迄通リ。但シ外交上ノ応接トシテハ所要期間(駐兵の)ヲ概ネ二十五年ト応酬スルモ可、ト定マレリ。
本件ニ関シテハ杉山(参謀総長)、塚田(参謀次長)ハ強硬ニ不同意ヲ繰リ返シ、東郷(外相)ハ「撤兵スルモ経済ハヤレル。否|寧《むし》ロ早ク撤兵スル方可ナリ」等現実ヲ忘レタルコトヲ主張セリ。|海軍モ駐兵ニ熱意ナク《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、参本カ極力主張シ論議沸騰ス。
[#ここで字下げ終わり]
(傍点引用者。『杉山メモ』の傍点部分は後述するように外相東郷茂徳の所感と著しく異っている)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
総理ハ「永久ニ近イ言ヒ表ハシ方」ニヨリ年数ヲ入ルルコトヲ提議シ、九十九年、五十年、三十年、二十五年等ノ外交上ノ表現法ニ付二十五年ヲ採用スル如ク提議シ、次長ハ二十五年ナトト年数ニ触レル弱気ヲ見セルコトニ特ニ不同意ヲ表明セリ。(米ハ二十五年、二十年、十年デモ恐ラク受諾セサルヘシトノ観測多シ。)
[#ここで字下げ終わり]
駐兵を期限つきとしたことについては、東郷外相と統帥部との間に激しい応酬があった。
東郷茂徳によれば経過は次のようである。
「……参謀本部側では駐兵を期限付とする時は支那事変の成果を沮喪《そそう》せしむるから到底期限付撤兵は承諾し難しと強硬なる反対があり、(中略)激論数刻に渉《わた》り尽くる所なき状況であつた。
此時一幹事(おそらく武藤軍務局長であろう――引用者)から然《しか》らば九十九年間駐兵することとせば如何との案を持ち出したから、自分は九十九年は永久を意味することともなるので到底同意は出来ぬと撥《は》ね付け(中略)五年説を固持した。大勢は|漸 《ようやく》く二十五年迄に折れたが、其れ以下は断然容認すべからずとの主張が絶対的であつた。自分はそこで八年及十年説を持出したが、他の者は二十五年説を固持し、今度は自分に譲歩を求める訳合であつたから、自分としては二十五年と云ふ長期とすることは、交渉の成立も疑はるる訳で甚だ遺憾に思つたが、会議の状勢は差当り此れ以上短縮することは不可能と認められたので、一旦有期限と定めて置けば、他日米国側より長期に失するとの異議ある場合には之に対処すべき方法もあるべしと考へた。此点は後に十一月二日に於て東条首相に対し特に了解を求めた点の一である」(東郷前掲書)
ついでに、先に『杉山メモ』が「海軍モ駐兵ニ熱意ナク」と誌した部分に関して、東郷が全く異った感じを抱いたことに触れておく。
「……陸軍の強硬態度は予期した所であるが、海軍は穏健な態度を採るものとの予想を有して諸方策を按じ来つたのである。然るに連絡会議席上に於ける駐兵問題其他に関する海軍の態度が甚だ強硬であるので、自分は意外の感に撃たれたが、其緩和につき出来得る限りの方法を尽したいので、当時予が海軍方面に大なる勢力を有すると考へて居た元総理岡田大将の許に同大将も熟知の総領事加藤伝次郎を派して事情を説明し、同大将の尽力により海軍の態度を緩和せしめんことを申入れた。同大将は直ちに吉田善吾大将、堀悌吉中将等に旨を含め海軍当局に接触せしめたが、当局側に於ては部外よりの容喙《ようかい》は控へて貰ひ度いと耳を傾けなかつたとのことである」
駐兵問題に関する海軍の態度が東郷の言った通りであったとすれば、及川海相時代に和戦の決定を「首相一任」と言った態度とは首尾一貫しない。もっとも、嶋田海相は、前述の通り、この三十日には開戦決意に踏み切って次官と軍務局長に決意を告げている(会議後)が、駐兵問題に関する態度としては、陸軍に追随しただけではなくて、海南島や南支沿岸要点の駐兵は必要と考えていてのことである。海南島は良質鉄鉱石の埋蔵量が多く、鉄の欲しい海軍としては確保しておきたい島であるばかりでなく、海南島を含む南支沿岸は南進基地としても重要なのであった。
そのことは、裏返せば、南支沿岸駐兵は米国をいたく刺戟する意味を持っているということでもある。戦争の長期化には耐えられないという不安のある海軍としては、当然、その意味を熟慮すべきであった。
海軍の思考は遂に分裂したまま国策再検討の最終段階まで来てしまったのである。
第十問題その三の「十月二日米覚書ヲ全的ニ容認セル場合帝国ノ国際的地位|就中《なかんずく》対支地位ハ事変前ニ比シ如何ニ変化スルヤ」は、再検討のために設定された問題としては最後のものであった。
右問題に関して『杉山メモ』はこう記している。
「外務省ヲ除ク全員ハ帝国ハ三等国トナルヘシト判決セルモ、外相ハ条件ヲ少シ低下シテ容認セハ何テモ好転スルト判決シ、一同ニ奇異ノ感ヲ抱カシメタリ」
『大本営機密戦争日誌』は右の外相の見解を口を極めて罵倒している。
「……外務省ノ答解ニ至リテハ、何モカモヨクナルノ判決ニテ、国賊的存在ナリトイフヘシ。大イニ糾弾ヲ必要トスヘシ」
いずれが国賊的であり、いずれが愛国的であるかは、見解の相違に属する。歴史の審判が下った今日でも、なお見解の相違が存在するもののようである。
これで各項目の再検討は不十分ながら終った。統帥部は結論を急いで、翌三十一日の会議開催を迫ったが、賀屋蔵相は「一日考ヘサセテクレ」と言い、東郷外相は「頭ヲ整理シ度シ」と一日延期を希望、両総長は急ぐことを強調した。
東条首相は、一日延期して、十一月一日には徹夜してでも決定することとして、次の三案を研究してはどうか、と締め括《くく》った。
第一案 戦争スルコトナク臥薪嘗胆《がしんしようたん》ス。
第二案 直ニ開戦ヲ決意シ戦争ニヨリ解決ス。
第三案 戦争決意ノ下ニ作戦準備ト外交ヲ併行セシム(外交ヲ成功セシムル様ニヤツテ見タイ)。
日本は刻々迫る最終決定の重圧にきしむかのようである。
『大本営機密戦争日誌』十月三十一日の項は、冒頭に次のように記している。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
「正ニ嵐ノ前夜、戦争カ平和カ最後ノ決ハ明日ニ於テ判明スヘシ。少クモ海軍ノ態度ハ判明スヘシ。各方面一日ヲ費シ腹ヲ決メルニ営々タリ。」
[#ここで字下げ終わり]
62
参謀本部はひたすらに開戦決意へ急いでいた。開戦決意を渋り、あるいは反対する海軍や外務省に対して、陸軍省に対してすら、憤りと苛立ちを覚えていた。
大本営政府連絡会議が和戦の最終決定を下すのは、十一月一日である。その前日、参謀本部では午後から夜に至るまで、部長会議をひらいて、参本としての結論を出した。
「即時対米交渉断念、開戦決意シ十二月初頭戦争発起、今後ノ対米交渉ハ偽装外交トス」
参本第二十班(戦争指導班)では、最強硬案から妥協を含む案に至るまでの七案を起案し、参本としては第一案(右掲)を絶対案として、明日の連絡会議で他の案が大勢を占めるようなら会議を決裂に導くべきであるという判決を具申した。
同じ陸軍でも、陸軍省は、参謀本部の見るところ、一面戦争一面外交案であった。「これ絶対に不可、参謀本部の第六案なり。右は局長(武藤章)及び石井大佐案なり。海外(海軍、外務)を引摺《ひきず》り戦争へと誘導する為のダラカン案なり。参謀本部右に全面的に不同意、本格的作戦準備と外交両立せずの一本槍を以て右を拒否す」と、『大本営機密戦争日誌』は記している。
右に名指しで出てくる石井大佐によれば、十月三十一日、彼が作戦を主とし外交交渉もやるという二本建ての案を作成して第二十班に話しかけると、第二十班の種村中佐はこの際予想され得る六個の案(実際には七案)を印刷して居って、石井案はそのうちの最劣等、最軟弱案だと哄笑《こうしよう》し、かつ怒気を表わした。種村たちの希望する案は、戦争一本で進み、外交は打切るべきであるという案で、ただ欺騙《ぎへん》外交はやっても悪くないという主張であった、という。(戦史室前掲書)
態度の鮮明を欠いていた海軍、特に海軍省でも、嶋田海相が遂に戦争決意を固める(十月三十日)に至ったことは、前述の通りである。ただし、これは条件付きといってもよかった。
『嶋田日記』十月三十一日の項に、「午後四時三十分より同五時、永野総長に現下の情勢を覚として手交し、対策に就《つ》き懇談、意見一致す」とある。
嶋田の「覚」は長文のものだが日本の戦力基礎にメスを入れた重要な文献と考えられる。物的条件の見通しとしては悲観的な「覚」だが、それにもかかわらず嶋田が戦争決意をしたのは、海軍としての開戦必須条件を政府と統帥部に認めさせた上で、やはり石油が減耗してからではどうにもならないということと、緒戦の成功の必要は絶対であると考えたからであろう。
「覚」を部分的に引用すれば次の通りである。
「(前略)
戦争ヲ実施シツツD計画(第五次軍備拡充計画)ヲ軍令部希望ノ年度割ヲ以テ実行スル為ニハ、例ヘバ普通鋼材ニ於テ昭和十六年度百三十五万トン、同十七年度百四十五万トンヲ要スベキ見透シナル所、十六年度物動計画ニ依ル海軍配当額ハ九十五万二千トンニ過ギズ、十七年度以降ニ関シ最大限ヲ見積ルトスルモ、|現在予想シ得ル所ヲ以テシテハ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|毎年百万トン以上ヲ期待スルコト恐ラクハ至難ナルベシ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
而シテ戦争実施中の資材供給及消費ノ内容ハ、戦争推移情況ノ如何ニ依リテ左右セラルルコト大ナルベク、|最悪ノ場合ニ於テハ供給激減而モ被害甚大ノ如キ事態ヲ生ジ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、軍備拡充ノ実行極メテ困難トナルコトアルベシ。
(中略)
現編制ノ第一線機数ハ約千八百機ニシテ、戦争一年間ニ補充ヲ要スル機数ハ約四千機ノ見込ナリ。現在ノ生産予定ハ第一年三千機、第二年四千機、第三年五千機ナルモ、最近ノ生産状況及戦時資材、労力ノ窮屈ナル状況ヲ考慮スルトキハ|右実現ハ至難ニシテ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、少クモ第一年一割、第二年以後二割ノ生産減ヲ見積ルヲ妥当トスベク(以下略)
航空燃料ニ関スル件
航空揮発油ニ関シ戦争中ノ陸海軍合計消費額毎年平均六十万| 竏 《キロリツトル》、被害ニ依ル消耗第一年十万竏、第二年五万竏、第三年二万竏ト仮定シ、生産額第一年七万竏、第二年三十三万竏、第三年五十四万竏(南方産油精製による生産予想額である)ト見込ムトキ、戦争中ノ保有量ハ戦争開始第一年後四十八万竏、第二年後十六万竏、第三年後八万竏トナルベキ所、右消費額見積リハ決シテ過大ニアラズ、又各基地等ニ分散準備スル等ノ為陸海軍併セテ約二十万竏ハ実際上使用不可能トナルベキコト等ヲ考慮スルトキハ、|戦争開始第二年ノ終期以後ニ於テハ相当不安ナル情況トナル《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ベキ見透シナルヲ以テ右含ミノ上作戦指導相成度。(以下略)」(傍点引用者)
嶋田海相の予想は正確に近かったといえるであろう。その予想を立てた嶋田が戦争を決意するには、陸軍大臣及び企画院総裁との間に、次のような海軍用資材優先配給に関する覚書の取り交しが必要であった。
「戦時海軍用資材優先配給ニ関スル件覚
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
一 南方作戦実施ノ場合海軍ハ戦力維持及対米軍備整備ノ為、例ヘバ昭和十七年度ニ於テ
[#ここで字下げ終わり]
[#2字下げ]鋼材 一、四五〇、〇〇〇トン
[#2字下げ]特殊鋼 一八七、〇〇〇トン
[#2字下げ]ニッケル 九、〇〇〇トン
[#2字下げ]電気鋼 九〇、〇〇〇トン
[#2字下げ]鉛 四二、〇〇〇トン
[#2字下げ]亜鉛 四五、〇〇〇トン
[#2字下げ]アルミニウム 七四、〇〇〇トン
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
其他之ニ相当スル附属資材ヲ必要トスル所、右ニ対シ国トシテ優先的ニ配当スルモノトシ、若《も》シ供給力ノ関係上例ヘバ陸海軍軍需普通鋼鋼材合計百七十五万トンヲ出ヅル能《あた》ハザル如キ場合ニ於テモ同鋼材少クトモ百十万トン其ノ他之ニ相当スル附属資材ハ之ヲ海軍ニ優先配当スル等ノ措置ヲ講ズルモノトス。尚右に関聯シ現陸軍利用ノ部外工業力中其ノ四分ノ一程度ヲ海軍ニ譲渡スルモノトス。
二 航空燃料ノ配当ニ関シテハ、海軍航空機ガ洋上遠距離且広区域ノ作戦ニ対シ多額ノ燃料ヲ必要トスルノ実情ニ即シ、国全体ノ現保有燃料及将来占領地ヨリ取得スベキ燃料ノ配当ヲ適当ナラシムルモノトス。」
[#ここで字下げ終わり]
先の「覚」の前半傍点部分にあるように、鋼材配当に関して「毎年百万トン以上ヲ期待スルコト恐ラクハ至難ナルベシ」と予想している嶋田海相が、陸相と企画院総裁に対して一四五万トンを要求するのは自家|撞着《どうちやく》とも観られるが、従来物資取得に関して陸軍の下風に立たされてきた海軍が、対米戦の主役を引受けるにあたっては、当然の要求でもあり、決意であったとも考えられる。
嶋田海相は、これを十月三十一日夜、東条首相と四相(海・外・大蔵・企画院)との懇談の際に、提示している。
海軍としては、戦争決意へ追い込まれての最後的提示条件であった。
陸軍中堅幹部たちは、しかし、そうは見なかったようである。『大本営機密戦争日誌』の十一月一日の項で、戦争指導班(参本第二十班)は口を極めて海軍を罵倒している。
「昨夜大臣(陸軍)、海相ト会談セル結果ニヨレバ、果然海軍ハ鉄ヲクレ、『アルミ』ヲクレ、『ニッケル』ヲクレ、クレナケレバ戦争デキヌトイハンバカリナリ。
而モ『ニッケル』ノ如キ、国内総供給量僅カ二七六〇トンナルニ九〇〇〇トンクレトイフ。鉄一七〇万トンノウチ海軍ニ一一〇万トン、陸軍ニ六〇万トントセヨ、コレニ印ヲ捺セトイフ。
ソノ心事ノ陋劣《ろうれつ》、唾棄スベキヤ言語ニ絶ス。洵《まこと》ニ『海軍ハ海軍アルヲ知リテ国家アルヲ知ラザル』ノ言至言ナルカナ。
国内生産ニテ到底充足シ得ザルコト明瞭ナル量ヲ要求スルトハソモソモ如何。『戦争ハデキヌノ責任ヲ政府ガ物ヲクレナイカラ』ト云フニ他ナラズシテ何ゾ。
陸軍憤激ノ極ニ達ス。海軍ハ武士ナルカ、軍人ナルヤ。コノ重大ナル国家ノ運命ヲ決スル秋《とき》ニ於テ、乞食ノ如キ物乞ヒスルトハ何ゾヤ。ドサクサニ物ヲ取ルトハ何ゾヤ。而シテ物ヲ取レバ必ズ戦争ヤルト云フナラバ格別、物ハ取ルモ決意ハセザルガ海軍ノ常套戦法ナリ。(中略)連絡会議ヲ七回開キ最後ノドンヅマリノ前夜、国家ノ重大決意直前ニ於テコノ提議ヲナスハ如何ナル真意ゾ。(以下略)」
右を見ると、戦争指導班にとっては、戦力の物質的基礎などどうでもよいことのようであった。海軍が所要物資の莫大な数量を並べ立てたことには、そうすることによって戦争回避の雰囲気を醸成することができるかもしれないという思惑が、あったかもしれないとしても、戦争となれば前記の数量は必要最低限であることも事実であった。既に幾度か触れたように、開戦となれば戦争長期化は必至であり、長期化すればするほど日米生産力の桁違いの差に基づく海軍力の懸隔が著しくなることは明らかであった。それは陸軍も承知しているはずのことであり、理解していなければならぬことであった。仮りに嶋田の要求額が全部満されたとしても、各種重要物資の生産高の平均比が彼の七四・二に対して我の一(既述。昭和十五年度の数量比)では、所詮戦力の懸隔を埋めることはできなかったのである。
ただ、少くとも、開戦決意の前夜段階として、陸軍は罵倒すべきではなく、海軍は弁解すべきではなく、両者は協力して更に徹底した検討を加えて、国民と国家の運命の行方を按《あん》ずべきであった。
右に引用した日誌の部分には、軍事プロフェッショナルの必須要素である合理性は、片鱗《へんりん》もない。
時間が前後するが、東条首相は十月三十一日午後四時四十分、参内して、七回に及んだ連絡会議での再検討の経過を天皇に報告している。「上奏」内容は明らかではないが、天皇は知ろうと思えば、われわれがこれまで見てきたよりもはるかに詳しいことを、知り得たはずであった。
東条が翌日の最終討議に備えて四相(嶋田海相、東郷外相、賀屋蔵相、鈴木企画院総裁)を招いて懇談したのは、その夜のことであり、嶋田海相が前述の「覚」に沿って海軍所要物資の要求額を提示したのも、その席でのことであった。
63
十一月一日、東条首相兼陸相は、最終討議の連絡会議が開かれる前に、杉山参謀総長と会談した。会談は前日からの約束であったが、東条は陸相を兼任している立場上、前夜の嶋田海相からの重大申入れに関しては、特に杉山総長に話をしておく必要があったであろう。
会談では東条が次のように切り出している。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
一 本日ハ結論トシテ
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
第一案 戦争セス、臥薪嘗胆《がしんしようたん》ス
第二案 直ニ開戦ヲ決意シテ作戦準備ヲグングン進メ、外交ヲ従トスルモノ
第三案 戦争決意ノ下ニ作戦準備ヲススメルガ、外交交渉ハアノ最小限度(の要求)ニテ之ヲ進メル
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
ノ案ニ就テ研究スルガ、総理トシテハ第三案ヲ採リ度イト思フ。
二 関係各大臣ト会談セシカ、一番問題トナツタノハ、鉄デ海相ハ次ノ如ク主張セリ。来年度ハ四三〇万トンシカナイ。其中海軍八五(万トン)、陸軍ハ八一(万トン)、残余民需ト予定シテ居リシトコロ、海軍ハ十六年一三五万トン、十七年一四五万トン、十八――二十年各々一三八万トンヲ要ス。十六年ノ一三五万トンハ一一〇万トン迄ハ圧縮デキルガ、此増加分(配当不足額のこと)ハ陸軍ヨリ出サレ度。尚海軍ハ此外ニ特殊鋼一八万トン、(アルミニューム七万トン――括弧内『田中回想録』)必要。(鉄に関しては)民需ヨリ九万トン、陸軍ヨリ八万トン海軍に譲ルコトトシ、海軍ハ一〇二万トンニテ我慢出来ヌカ研究セラレ度イト述ヘタリ。
[#ここで字下げ終わり]
『杉山メモ』には、これにつづいて、次のような所感が記されている。杉山総長の所感か、記録した有末第二十班長の見解か明らかでないが、前述の『機密戦争日誌』の文脈から推して、後者ではないかと思われる。
[#この行1字下げ]〈右ノ如ク海軍ノ鉄其ノ他に対する主張ハ突如最近ニナリテ強キモノアリ。其真意ハ奈辺ニアリヤ疑ハサルヲ得ス。大量ノ物ヲ海軍ノ希望通リ取得シ得ストシテ非戦ノ責ヲ国力即政府に帰セシメントスルカ、或ハ陸軍カ開戦ヲ急ク此機会ニ海軍用物資(就中《なかんずく》)鉄ヲ奪取スル如ク、(陸軍をして)容認セシメントスルカノ何《いず》レトスルモ、海軍アリテ国家アルヲ知ラサルモノト言ハサルヲ得ス。若シ釈明ノ如ク政府ニ海軍ノ(物資)必要ノ重大性ヲ認識セシメムトスルナレハ、大決心ノ直前ニ之ヲ提出セルハ不可ナリ〉
陸軍は他を責めることに甚だ急で、自ら省みることに甚だ緩であった。海軍が戦争決意を渋っていた理由が、長期戦における戦備の不安にあったことは、既に明らかであった。その海軍が陸軍に引き摺られて戦争を決意するに及んだこと自体は責められるべきだが、戦備に必要な物資の配当を最終段階で要求したことには、なんら責められるべき筋はない。海軍を非難する陸軍自身が、既述の通り十月二十日に参本第一部で作成した『対米英蘭戦争ニ於ケル初期及数年ニ亘ル作戦的見透シニ就テ』のなかの「海軍竝航空作戦ノ確算」の項で、「……彼我ノ海軍竝航空部隊ノ関係ハ現在ニ於テハ帝国ニ確算アリ。|日ヲ経ルニ伴ヒ其ノ地位ハ逐次逆転シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|終ニハ戦勝ノ目途ヲ失フニ至ルモノト判断シアリ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」と書いているのである。(傍点引用者)
陸軍が海軍の戦力が終には戦勝の目途を失うに至るものと判断しているということは、海軍戦備が米国のそれに到底対抗しきれなくなるものと予想しているということである。その理由は、戦力の基礎的物資の欠乏と生産力の対米劣勢にあることを、陸軍も承知しているからである。したがって、所要物資の配当要求を出すことは必要不可欠であることも陸軍は承知していなければならぬことであったし、長期戦にあたっては同じ問題が陸軍自身にも迫ってくることを見通していなければならなかったのである。
東条・杉山会談に戻ろう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東条 各大臣ノ案(三個の案)ニ対スル意見左ノ如シ。
海軍、大蔵、企総、トモニ第三案、外務ハ判然セス。オ上ノ御心ヲ考ヘネハナラヌ。日露戦争ヨリモ遙カニ大ナル戦争ナルカ故ニ御軫念《ごしんねん》ノコトハ十分推察出来ル。又オ上ハ正々堂々トヤルコトヲオ好ミニナルコトモ考ヘルト、今開戦ヲ決意シ其後偽騙外交ヲヤルコトハ、御聞キ届ケニナラヌト思フ。然《しか》シ此案ヲ統帥部トシテ成功セシメル自信アルナラヤラレテモヨロシイ。
杉山 統帥部ノ考ヘハ軍務課長ヨリ通ジタ通リデス。
東条 右ヲ通ス自信ハアリマスカ。
杉山 然シ今日第三案デ進ムト言フコトハ九月六日ノ御前会議ヲモウ一度繰リ返スコトニナルニアラスヤ。
東条 之トハ戦争準備ヲ進メルト言フ点ニ於テ差異カアル。
杉山 若シ外交ウマクユケハ準備シタ兵ヲ下ケルコトトナルカ、之ハ困ル。内地カラ二〇万、支那カラモヤルヘキ作戦ヲヤメテ兵ヲ送ツテオル。兵ヲ南洋迄出シテ戦争シナイテ退ケタラ士気ニ関ス。統帥部トシテハ「(イ)国交調整ハ断念スル。(ロ)戦争決意ヲスル。(ハ)戦争発起ハ十二月初旬トス。(ニ)作戦準備ヲスル。(ホ)外交ハ戦争有利ニナル様ニ行フ」ヲ主張シ度イト思フ。
東条 統帥部ノ主張ハ止メハシナイガ、オ上ニ御納得シテイタタクノニハ容易テナイト思フ。
杉山 オ上ニ御納得ヲ願フコトノ困難ハ知ツテ居ル。第三案ハ万已ムナイ時ニヤルモノタト考ヘル。
東条 オ上ハオキキニナラヌト思フ。
杉山 対米交渉ノ時ノ最後要求ハ之以上低下スルコトハナイカ。
東条 之ハ低下スルコトハナイ。軍及国民ハ承知シナイ。尚本日ハ大義名分ニ就テモ研究シタイト思フテ居ル。(以上『杉山メモ』)
[#ここで字下げ終わり]
東条・杉山会談は終り、国策再検討の結論を出すための大本営政府連絡会議が十一月一日午前九時からはじまった。この会議は翌二日午前一時半まで、十七時間近く連続したのである。
64
十一月一日、この日の連絡会議は夜を徹してでも結論を出すことになっていた。
会議のはじめに海軍から鉄その他の物資の配分増加の要望が出て、陸海軍と企画院三者の間で南方作戦実行の場合の昭和十七年(一九四二年)度の割当額を次のように定めた。
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
(イ)鉄 海軍 一一〇万トン
[#ここで字下げ終わり]
[#5字下げ]陸軍 七九万トン
[#5字下げ]民需 二六一万トン
[#2字下げ]但し生産量が四五〇万トン以上となる場合は、陸軍割当を九〇万トンまで増加する。
(ロ)鉄以外の物資も配当を考慮する。
(ハ)民需用機帆船の油は海軍から供給する。
既定の物動計画での海軍の鉄割当は八五万トンであったから、右の決定で海軍は二五万トンの割当増加となったわけである。
右の決定に関しても陸軍中堅は憤懣《ふんまん》やるかたなかったらしい。『大本営機密戦争日誌』(十一月二日)に次のくだりが見られる。
「会議席上、海軍ハ鉄一一〇万トン(コレニ対シ陸軍七九万トンナリ)貰ウコトヲ条件トシテ、開戦決意ヲ表明セルガ如シ。総長(杉山)『鉄ヲ貰エバ嶋田サン決意シマスカ』ト尋ネ、海相ウナヅケリ。海軍ノ決意ハ鉄三〇万トンノ代償ナリ。哀レムベキ海軍ノ姿カナ。コレ永久ニ吾人ハ銘記スルヲ要ス」
開戦決意という重大事を前にして、陸海軍の感情的対立、相互不信は抜き難いものがある。
会議は再検討の結論討議に入った。
第一案 戦争スルコトナク臥薪嘗胆《がしんしようたん》ス
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
賀屋 此儘《このまま》戦争セスニ推移シ、三年後ニ米艦隊カ攻勢ヲトツテ来ル場合、海軍トシテ戦争ノ勝算アリヤ、否ヤ。
永野 ソレハ不明ナリ。
賀屋 米艦隊カ進攻シテ来ルカ来ヌカ。
永野 不明タ。五分五分ト思ヘ。
賀屋 来ヌト思フ。来タ場合ニ海ノ上ノ戦争ハ勝ツカドウカ。
永野 今戦争ヲヤラスニ三年後ニヤルヨリモ、今ヤツテ三年後ノ状態ヲ考ヘルト、今ヤル方カ戦争ハヤリヤスイト言ヘル。ソレハ必要ナ地盤カトツテアルカラタ。
賀屋 勝算カ戦争第三年ニアルノナラ戦争ヤルノモ宜シイカ、永野(総長)ノ説明ニヨレハ此点不明瞭タ。然《しか》モ自分ハ米カ戦争シカケテ来ル公算ハ少イト判断スルカラ、結論トシテ今戦争スルノカ良イトハ思ハヌ。
東郷 私モ米艦隊カ攻勢ニ来ルト思ハヌ。今戦争スル必要ハナイト思フ。
永野 「来ラサルヲ恃《たの》ム勿《なか》レ」ト言フコトモアル。先ハ不明。安心ハ出来ヌ。三年タテハ南ノ防備カ強クナル。敵艦モ増エル。
賀屋 然ラハ何時戦争シタラ勝テルカ。
永野 今! 戦機ハアトニハ来ヌ。(強キ語調ニテ)
鈴木 賀屋(蔵相)ハ物ノ観点カラ不安ヲモツテ居リ、戦争ヤレハ十六、十七年ハ物的ニ不利ノ様ニ考ヘテル様タカ、心配ハナイ。十八年ニハ物ノ関係ハ戦争シタ方カヨクナル。一方統帥部ノ戦略関係ハ時日ヲ経過セハダンダン悪クナルト言フノタカラ、此際ハ戦争シタ方カヨイコトトナル。(ト再度賀屋、東郷ノ説得ニ努メタ)
賀屋 未タ疑問アリ。
[#ここで字下げ終わり]
賀屋蔵相がまだ疑問があるというのは当然である。鈴木企画院総裁が戦争をした方が物の関係はよくなるというのは、合理的な根拠を全く欠いた独善というほかはない。長期戦となることが明らかであり、米国を屈伏させる手段がないことも明らかであり、戦争による消耗によって物資の需給関係が逼迫《ひつぱく》することも明らかであるのに、物の関係がよくなるというのは、南方資源地帯の占領に過大な期待をかけて、彼我の戦力比を下算しているからである。
「企画院が出来、物動計画にて……開戦直前までのものは、数字で一年以上戦争不可能なることを示しあり」(井上成美大将)
「企画院は相当希望的なりき。参謀本部の御用機関の観ありき」(竹内馨少将)
「嶋田は、鈴木はどんな数字でも出して来るといいしことあり」(吉田善吾大将)
「強き参謀本部バックせしため、企画院は種々その数字をメイク・アップせりと思わる」(沢本頼雄大将。――以上何れも戦後の特別座談会。前掲新名丈夫編『海軍戦争検討会議記録』)
鈴木企画院総裁は次第に慎重となることを必要としたときに、陸軍主戦派におもねって、数字に希望的観測を加味し、独善的に操作した観がある。企画院が冷厳な数字の示すところに忠実でありつづけたならば、参謀本部が如何にいきり立っても、国策再検討の行方は大幅に軌道修正を余儀なくされたにちがいなかった。
連絡会議の進行は第一案の討議を打切り、第二案に移った。
第二案 直ニ開戦ヲ決意シ戦争ニヨリ解決ス
参謀本部ははじめから第二案を主張していたから、討議に先立って次の案文を提示説明した。
「対南方国策遂行ニ関スル件
帝国ハ対米国交調整ヲ断念シ、国防弾撥力並戦略的地位ノ低下シツツアル危局ヲ打開シテ、自存自衛ヲ全ウシ、大東亜ノ新秩序ヲ建設スル為、直ニ対米英蘭開戦ヲ決意ス。其戦争発起ハ十二月初頭トス。
右ヲ目途トシテ戦政諸般ノ準備ヲ完整ス。
|対米交渉ハ前記ノ趣旨ニ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》遵《したが》|ヒ《ヽ》、|開戦企図ヲ秘匿シ戦争遂行ヲ容易ナラシムル如ク行フ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
即時独伊トノ提携強化ヲ図ル。
万|已《や》ムヲ得ザル場合ニ於テハ対米交渉以下ヲ左ノ如ク修正ス。(右の傍点部分を修正することを指す)
戦争発起直前迄対米交渉ヲ継続ス。
其交渉ニ方《あた》リテハ開戦企図ノ秘匿ト開戦名目ノ把握ニ勉ム。即時独伊トノ提携強化ヲ図ル。」(傍点引用者)
要するに、即時開戦決意をして、外交をやるなら偽騙外交をやれ、ということである。
右に関して論議は次のように行われた。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
賀屋、東郷 只左様ニ決心スル前ニ二千六百年ノ青史ヲモツ皇国ノ一大転機テ国運ヲ賭スルモノタカラ、何トカ最後ノ交渉ヲヤル様ニシ度イ。外交ヲ誤魔化シテヤレト言フノハ余リヒドイ。
乃公《だいこう》(東郷)ニハ出来ヌ。
塚田参謀次長 先ツ以テ決スヘキモノハ、今度ノ問題ノ重点タル「開戦ヲ直ニ決意ス」「戦争発起ヲ十二月初頭トス」ノ二ツヲ定メナケレハ、統帥部トシテハ何モ出来ヌ。外交ナトハ右カ定マツテカラ研究シテ貰ヒ度イ。外交ヤルトシテモ右ヲ先ツ定メヨ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](塚田の発言はあくまで統帥優先である。戦争すると決めてから外交などは考えろというのである。陸軍には、満洲事変以来、外交などは軍事の尻拭いとしか考えない風潮があった。塚田の言い分はその風潮から遠くないところに位置している。参謀次長にしてからが敵を知らず己れを知らずして息巻いているのである。下僚の態度は推して知るべきものがある。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
伊藤軍令部次長 (此時突如トシテ)海軍トシテハ十一月二十日迄外交ヲヤツテモヨイ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](右の意味は、海軍は十一月二十一日以降に連合艦隊を作戦海域へ進出させる含みである。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
塚田 陸軍トシテハ十一月十三日迄ハヨロシイカ、ソレ以上ハ困ル。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](十一月十三日という日限は、開戦日を十二月八日として、作戦発起下令、作戦任務下令、作戦準備下令、作戦軍司令部編成、戦闘序列の下令、作戦計画の上奏裁可と順に日数を逆算してゆくと、開戦決意は十一月十五日頃、外交打切りは十一月十三日頃になるということであって、必ずしも絶対的期限ではなかった。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東郷 外交ニハ期日ヲ必要トス。外相トシテ出来サウナ見込カ無ケレハ外交ハヤレヌ。期日モ条件モソレテ外交カ成功ノ見込カナケレハ外交ハヤレヌ。而シテ戦争ハ当然ヤメネハナラヌ。
(此クシテ東郷ハ時々非戦、現状維持ヲ言フ)
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](東郷は、日本の物的戦力に関する企画院や軍部の所論を信頼していなかったし、戦争全局の見通しに関しても軍部の見解に同意しかねていたのである。それは理性的な思考の訓練を積んだものなら、誰しもそうなるはずのものであった。)
東郷外相が所信を強く主張するので、外交を継続する期日、条件等を討議する必要が生じて、東条首相は第三案(戦争決意ノ下ニ作戦準備ト外交ヲ併合セシム)と併せて論議することを提議した。
すると、塚田参謀次長が参謀本部の意見を強硬に押し出して、こう言ったのである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
塚田 外交ハ作戦ヲ妨害セサルコト。外交ノ情況ニ左右サレテ期限(開戦決意)ヲ変更セヌコト。
ソノ期限ハ十一月十三日テアル。
東郷 十一月十三日ハ余リ酷イテハナイカ。海軍ハ十一月二十日ト言フテハナイカ。
塚田 作戦準備カ作戦行動其モノタ。飛行機ヤ水上水中艦船等ハ衝突ヲ起コスゾ。
従テ外交打切リノ時機ハ此作戦準備ノ中テ殆ント作戦行動ト見做《みな》スヘキ活撥ナル準備の前日迄ナルヲ要ス。之カ十一月十三日ナノタ。
永野 小衝突ハ局部的衝突テ、戦争テハナイ。
東条、東郷 外交ト作戦ト併行シテヤルノテアルカラ、外交カ成功シタラ戦争発起ヲ止メルコトヲ請合ツテクレネハ困ル。
塚田 ソレハ不可ナリ。十一月十三日迄ナレハヨロシイガ、其以後ハ統帥ヲ紊《みだ》ス。
杉山、永野 之ハ統帥ヲ危クスルモノタ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](右統帥部三人の言うことは、十一月十三日以後に外交が妥結しても、統帥行動が紊れるから、戦争は止められぬという暴論であった。統帥を紊さないためには、十三日以後に政治的解決が得られても、戦争に入ってしまうというのである。脅迫にひとしかった。)
嶋田海相が、見かねたのであろう、口を入れた。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
嶋田 (伊藤軍令部次長ニ向ヒ)発起ノ二昼夜位前迄ハ良イタラウ。
[#ここで字下げ終わり]
すると、塚田が怒鳴りつける。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
塚田 タマツテ居テ下サイ。ソンナコトハ駄目デス。外相ノ所要期日トハ何日カ。
[#ここで字下げ終わり]
こうして外交打切りの期日をめぐって大激論となり、武藤軍務局長の計らいで二十分間休憩をとることとなった。
休憩間に参謀本部首脳は田中第一部長を呼び寄せ協議の結果、外交交渉は開戦日の五日前まではよいということになり、「十一月三十日迄外交ヲ行フモ可」という参本の最終態度を決定した。五日前までというのは、馬来《マレー》上陸作戦を行う兵団が海南島三亜港を出発するのが開戦四日前であるということからの計算だが、十二月八日開戦を概定していたことから勘定すれば、十一月三十日という期限は開戦七日前になる。
軍令部も休憩間に福留第一部長を呼んで協議した。
この休憩のときのことと思われるが、海軍省兵備局長保科善四郎によれば、永野軍令部総長は便所へ行く途中、外務省の山本アメリカ局長に「何とか対米交渉をまとめる方向に努力を頼む」と言って肩を叩いたという。(『保科回想記』)保科はこれを聞いて、永野総長は対米戦を回避したがっていると思った、というのである。それにしては、永野のこれまでの発言が強硬であったのが解せない。海軍省が態度不鮮明であったのを補うための強硬発言であったとすれば、百害あって一利なしであったと言わなければならない。
会議が再開された。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東条 十二月一日(外交期限)ニハナラヌカ。一日テモヨイカラ永ク外交ヲヤラセルコトハ出来ヌカ。
塚田 絶対ニイケナイ。十一月三十日以上ハ絶対イカン。イカン。
嶋田 塚田君、十一月三十日ハ何時迄タ。夜十二時迄ハ良イタラウ。
塚田 夜十二時迄ハヨロシイ。
[#ここで字下げ終わり]
これで外交打切りの期限は十二月一日午前零時(東京時間)に決った。
会議のこの段階での決定事項は次の通りである。
[#この行1字下げ](イ)戦争ヲ決意ス
[#この行1字下げ](ロ)戦争発起ハ十二月初頭トス
[#この行1字下げ](ハ)外交ハ十二月一日零時迄トシ、之迄ニ外交成功セハ戦争発起ヲ中止ス
65
会議はつづいて外交条件の討議に入った。外務省提案の甲案、乙案についてである。
甲案は、既述の再検討項目第十問題の(ニ)で検討済み(支那駐兵期間を二十五年とすることを含む諸条項)のものだが、乙案はこの日(十一月一日)午後十時に連絡会議に外務省が提出したもので、内容は南方関係だけに限定し、南部仏印進駐あるいは在米日本資産凍結以前の状態に復帰しようとするものであった。つまり、支那関係を含んでいないのである。参謀本部は次のように乙案に強硬に反対した。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
杉山、塚田 乙案ハ支那問題ニ触ルルコトナク仏印ノ兵ヲ撤スルモノニシテ、国防的見地カラ国ヲアヤマルコトニナル。仏印ニ兵ヲ駐ムルコトハ、支那ヲシテ日本ノ思フ様ニナラシメ、南方ニ対シテハ之ニヨリ五分五分(日米対等の意)ニ物ヲトルコトヲ可能ナラシム。又戦略態勢ハ対米政策上、又支那事変解決上、之ニヨリ強クナルノタ。米ト約束シテモ物ヲクレヌカモ知レヌ。乙案ニハ不同意。又日次モ少イカラ新案タル乙案テヤルヨリ甲案テヤレ。
東郷 自分ハ先ツ従来ノ交渉ノヤリ方カマツイカラ、条件ノ場面ヲ狭クシテ南ノ方ノ事タケヲ片ツケ、支那ノ方ハ日本自身テヤル様ニシタイ。支那問題ニ米ノ口ヲ容レサセルコトハ不可也。
此ノ見地カラスレハ従来ノ対米交渉ハ九ケ国条約ノ復活ヲ多分ニ包蔵シヲルモノテ、殊ニ不味《まず》イコトヲヤツタモノタ。度々言フ様ニ四原則ノ主義上同意ナト丸デナツテ居ナイ。依テ自分ハ乙案テヤリ度イ。甲案ハ短時日ニ望ミナシト思フ。出来ヌモノヲヤレト言ハルルハ困ル。
塚田 南部仏印ノ兵ヲ撤スルハ絶対ニ不可ナリ。乙案外務原案ニヨレハ、支那ノ事ニハ一言モフレス、現状ノ儘ナリ。又南方カラ物ヲトルコトモ仏印カラ兵ヲ撤スレハ完全ニ米ノ思フ通リニナラサルヲ得スシテ、何時テモ米ノ妨害ヲ受ケル。然モ米ノ援蒋(蒋介石援助)ハ中止セス、資金凍結解除タケテハ通商モモトノ通リ殆ント出来ナイ。特ニ油ハ入ツテ来ナイ。此様ニシテ半年後トモナレハ戦機ハ既ニ去ツテ居ル。帝国トシテハ支那カ思フ様ニナラナケレハナラナイ。故ニ乙案ハ不可。甲案テヤレ。
[#ここで字下げ終わり]
討論の結果、外務原案第三項「米国ハ年百万トンノ航空揮発油ノ対日供給ヲ確約ス」を、「資金凍結前ノ通商状態ヲ回復シ且油ノ輸入ヲ加フル」ように改め、原案にはない第四項「支那事変解決ヲ妨害セス」を新たに加えることにしたが、南部仏印撤兵問題では参本と東郷外相とが折合わなかった。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東郷 通商ヲ改メ、第四項ニ支那事変解決ヲ妨害セスヲ加ヘ、而モ南仏撤兵ヲ省ク条件ナレハ外交ハ出来ヌ。之テハ駄目タ。外交ハヤレヌ。戦争ハヤラヌ方宜シ。
塚田 タカラ甲案テヤレ。
永野 此案テ外交ヤルコト結構タ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](永野軍令部総長が突如としてこう言ったことの真意が定かでない。前掲石井大佐回想録に、永野が「どうせだめだ戦争だ。小さい問題は男らしく譲っちゃえ」と言ったとあるが、それが右の永野の発言の別の表現なのであろうか。)
会議では、杉山総長と塚田次長が大声を出して、東郷外相と激論になった。東郷は頑強であった。『杉山メモ』は、「東郷ハ之ニ同意セス、時ニ非戦ヲ以テ脅威シツツ自説ヲ固持シ、此儘議論ヲ進ムルトキハ東郷ノ退却(辞職)即倒閣ノオソレアリ、武藤局長休憩ヲ提議シ、十分間休ム」と記している。
前記の休憩時間中に、杉山参謀総長、東条首相兼陸相、塚田参謀次長、武藤軍務局長は別室で協議した。内容は大体次の通りである。「支那事変解決ヲ妨害セス」という条件を東郷外相の乙案に加えることにしたからには、乙案による外交交渉は成立しないであろうと判断される。しかし、外相が主張する南部仏印から北部仏印への兵力移駐を統帥部が拒否すれば、外相は辞職し政変となることは考えなければならない。政変となれば、次期内閣の性格は非戦内閣の公算大であり、そうでなくても開戦決意までにまた時日を必要とすることになるであろう。この際、政変と時日の遅延は許されないことである。
要約すれば、次の通りとなる。
[#この行1字下げ](イ)此審議ヲ此上数日延スコトヲ許サス(統帥上十二月初旬ハ絶対也)
[#この行1字下げ](ロ)倒閣ヲ許サス(此結果非戦内閣出現シ又検討ニ時日ヲ要ス)
[#この行1字下げ](ハ)条件ヲ緩和スルヤ否ヤ
(イ)(ロ)ハ許サレス。(ハ)ヲ如何ニスヘキカカ問題ノ鍵ニシテ、陸軍トシテ已ムナク折レテ緩和スルカ(兵力移駐を認めるか)、スヘテガコハレテモカマハス拒否スルカヲ熟慮シ、其結果緩和ニ同意セサルヲ得サルコトトナレリ。然ラサレハ外務トノ意見不一致ニテ政変ヲ予期セサルヘカラス。又非戦現状維持ニ後退セサルヘカラス。
統帥部トシテ参謀総長及次長ハ不承々々ニ之ニ同意セリ。(『杉山メモ』)
統帥部と対立した東郷は次のように述べている。
「……一同は激烈なる勢を以て交渉不成立の場合は開戦の決意を為すことの決定を即座に行ふことを迫つて来て、海相の如きは自分を別室に誘つて迄説得に努めた次第で、ある出席者の一人の如きは其際在室せる西次官(外務)に対し外務大臣が戦争に反対なら取り替へる迄のことだと云つたといふことである。しかし自分は出席者の殆ど全部が戦争の惨禍を軽視し居るが如きに危惧の念を有し、且従来検討し来つた日本の物的戦力に関する企画院及軍部の調査にも全幅の信頼は置き難き感じを有して居た計《ばか》りでなく、戦争の見透しに関する軍当局の意見にも俄かに賛成し兼ねる感がしたので、慎重の態度を持せる賀屋蔵相と共に即時決定をなすことを応諾せず、深思熟慮を加ふる為め一夜の延期を可とすべきことを主張し、漸く之に決して散会した。(以下略)」(『東郷茂徳外交手記』)
東郷の謂《い》う「一夜の延期」について、当日の会議に陪席していた海軍省兵備局長保科善四郎は、次のように書いている。
「東郷外相と賀屋蔵相の決定保留の申し出は、当時の雰囲気では誠に勇気ある提言であったと思う。私は二日午前二時、会議終了後賀屋蔵相から官邸に招かれ、
『物の面から見て、一体この戦争を始めることはどうか、見込を聞かしてもらいたい』
とのことであった。そこで私は私の所掌である物動の面からその要点を委細説明し、
『とても長期戦にはたえられませんから、この際大臣が大局的立場に立って考え直し、戦争をしない方向に持って行ってほしいものです。大臣がせっかく決定を保留されたのですから』
と国家のため最後の勇気ある意見を開陳されることを要望」したという。(『保科回想記』)
事実は、しかし、賀屋も東郷も、後述するように開戦決意の大勢に屈したのである。
先に引用した東郷外相の記述に「海相の如きは自分を別室に誘つて迄説得に努めた」とある嶋田海相は、保科兵備局長が、東条首相は海軍の態度がはっきりしないと首相として決めかねると言っていたのだから、何故海軍が反対であるとはっきり意思表示をしなかったのかと尋ねたのに対して、
「海軍としては日米戦争をやりたくないが、この段階で海軍が反対したとなると、国内に内乱が起るおそれすら十分ある。そうすれば元も子もなくなってしまう。二ケ年は戦えるから、その間に手を打つ方法もあるのだから、陸海軍反目という最悪の事態を避けるために、やむをえず同調せざるをえなかったのだよ」と答えたというのである。(保科前掲書)
二カ年は戦えるから、その間に手を打つ方法があるというのが何を予想してのことか、わからない。おそらく、二年間は勝ちまくって、和平の機運を掴み得るかもしれないということであろうが、もしそうだとすれば甘い判断と言わなければならない。戦力的にふんだんに余力を残しているはずの米国が、国力消耗の一途にある日本からの、降伏以外の提案も工作も受け容れる道理がなかったのである。
嶋田海相は、先に記したように、会議の席上、杉山総長から「鉄をもらえば嶋田さん決意しますか」と尋ねられ、うなずいた(『大本営機密戦争日誌』)というが、会議での海相の発言は『杉山メモ』等の記録の上ではきわめて少い。『海軍大臣口述覚』というのがあって(戦史室前掲書)、嶋田の開戦決意の見解が示されている。長文なので、摘録する。
「開戦ノ場合海軍トシテハ(中略)戦争第三年トモナリ長期戦ノ場合ニハ……軍需資材工業力等ニ於テ毫末ノ余裕ナク、凡テガ不足勝ナル状況デアリマスノデ、戦力維持上相当大ナル不安ガアリ、且長期戦終局ノ確算ガナイノデアリマシテ、此処ニ大ナル『リスク』ガアルノデアリマス。
他方臥薪嘗胆ニ就テハ、当然外交交渉ヲ伴ヒ、(中略)此ノ場合作戦開始ヲ延期スルコトハ作戦上非常ナル不利ヲ招来スルノデ、最後ノ外交見透ヲ今日直ニ着ケルコトガ必要デアツテ、之レヲ正確ニ着ケルコトハ不可能デアリマスカラ、其処ニ大ナル『リスク』ガアルト思フノデアリマス。
臥薪嘗胆カ開戦カ、両者何レニ於テモ大ナル困難ト『リスク』ノ比較考量ガ問題トナルノデアリマスガ、然シ臥薪嘗胆ニモ名案ナク、外交手段ニモ見込ミ立タズトナラバ、残サレタ途ハ開戦ト云フコトニナルノハ止ムヲ得ナイト思ヒマス。
偖《さ》テ開戦トナルト、前ニ申シタ通リ不安ト大ナル『リスク』ガアルノデ、(中略)海軍トシマシテハ別ニ御相談申シ上グルガ如キ御配慮ヲ御願ヒスルコトガ必要デアリマシテ(鉄その他の重要物資優先割当を指す――引用者)――以下略」
連絡会議は蜿蜒《えんえん》十七時間に及び、第三案「戦争決意ノ下ニ作戦準備ト外交ヲ併行セシム」と、その外交方針の甲案(再検討時に決定のもの)と乙案(外務省新規案)とが採択された形で、十一月二日午前一時過ぎ、散会となった。東郷外相と賀屋蔵相はその場での同意を避け、二日午前十一時に確答することにして「一夜の延期」を求めたのである。
会議の席上最も強硬であった塚田参謀次長は、会議終了後、田中第一部長、岡本第二部長、有末第二十班(戦争指導班)長を次長室に呼んで、次のような所感を述べている。
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一 今戦争ヲヤラネハナラヌトノ意志ハ永野ハ強ク明カナリ。然シ将来ノ戦争見透シハ不明ト言フ。嶋田ハ永野ノ言フ如ク今ヤルヨリ外ニナシト考ヘ居ル様子ナルモ、積極的ニ言ハヌ。
杉山総長ハ戦機ハ今ナリ、陸軍作戦ハ海軍ノ海上交通確保ト共ニ占領地確保ニ自信アリト強ク 言フ。賀屋、東郷ハ最後迄数年先ノ戦争ノ事ハ不明ナルニ付決心シ兼ネルトテ、大体臥薪嘗胆ノ人ラシク看取セラル。鈴木ハ賀屋、東郷ニ対シ種々心配アランモ、今戦争ヲ決意スル以外ニ手段ナシ。又物的関係ヨリモ今戦争スル方ヨロシト説ク。
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[#この行1字下げ](数次に及んだ会議の経過を見ても、「今戦争ヲヤラネハナラヌ」「戦機ハ今ナリ」「物的関係ヨリモ今戦争スル方ヨロシ」という結論は出なかったのである。戦うとすれば、いまのうちに戦わねばならぬ、戦うならば即刻開戦決意をしなければならぬ、という統帥部の強硬論が会議を曳きずったに過ぎなかった。最後まで抵抗した東郷外相も後述する次第で抵抗を諦めたのである。)
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二 一般ニ前途ニ戦争ノ光明ナシトスルコト、及何トカ平和ニテユク方法ナキヤト考フル為ニ、「長期戦ニナルモ大丈夫戦争ヲ引キ受ケル」ト言フ者ナク、サリトテ現状維持ハ不可、故ニ已ムナク戦争ストノ結論ニ落|付《ママ》キタリ。
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[#この行1字下げ](主戦派でさえ「大丈夫戦争ヲ引キ受ケル」と言えない状況で和戦の選択をするときに、なお主戦派が戦争を選ぶのは、理性的には到底納得し難い。考えられる唯一の理由は、彼らが意識しているといないとにかかわりなく、彼らは開戦決意の段階でのみ責任を負うべき地位にあって、時間の経過とともに彼ら悉くが責任の地位から去るであろうような組織上の無責任制度があるからである。塚田次長は彼自身の見解を次の項で述べている)
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三 塚田トシテハ、今度ノ戦争ハ避ケラレヌ、時機ハ今、今ヤラサルモ来年カ再来年ノ問題タ。時ハ今タ。神州ノ正気ハ此場合ニ光ヲ放ツ。戦争ヲヤリ南ヲトル方カ国防国策遂行上光明アリ。而シテ戦争ノ終結ニ就テハ、日本ノ南進ニヨリ独伊ヲシテ英ヲ屈伏セシムル公算大トナル。支那ヲ屈セシムル公算ハ現在ヨリモ大トナル。次ニ「ソ」ヲ屈セシムルコトモ出来ル。南ヲトレハ米ノ国防資源ニモ大打撃ヲ与フルコトヲ得。即鉄壁ヲ築キ其中ニテ亜細亜ノ敵性国家群ヲ各個ニ撃破シ、他面米英ヲ倒スヘキナリ。英カ倒ルレハ米モ考ヘルコトアルヘシ。五年先キハト問ハルレハ、作戦、政治、外交何レモ皆ワカラヌノハ当然タ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](「神州ノ正気」などというものが出て来るようでは、もはや期待すべき何物もないということである。日本だけが何故「神州」なのか。分別盛りの、而も中将の位にある者が、こんなことを言い出すようでは、以下に何を並べ立てても、すべて根拠のないものとなってしまう。本音は「五年先キハト問ハルレハ、作戦、政治、外交何レモ皆ワカラヌノハ当然タ」ということでしかなかったのである。)
塚田参謀次長は連絡会議で配付された国力判断資料を持ち帰り、下僚に「ヨク判ラナカツタカラ研究シテ置ケ」と命じたという。(種村佐孝『大本営機密日誌』。これまで度々引用してきた『大本営機密戦争日誌』と原本は同じだが、前者は第二十班に属していた種村の取捨選択に成っている。)
塚田は国力判断のデータの重要度を理解できなかったか、理解したくなかったかの、いずれかであろう。その人物が最も強硬に開戦決意への会議を推進したのである。
大本営政府連絡会議は連絡懇談会と呼ばれた時期もあり、本稿でも両様の呼称を用いたが、それの設置が決定されたのは、昭和十五年十一月二十六日、第二次近衛内閣のときであり、以来、懇談会決定事項は閣議決定以上の効力を持ち、重要国策は連絡懇談会と御前会議で決定されたのである。そのことは、政治の軍事への追随にほかならなかったし、この制度化を陸軍内部で推進したのは参謀次長塚田|攻《おさむ》であった。その人物が重要データを「ヨク判ラナカツタカラ」では、無責任を通り越している。近衛の政治家としての柔弱さは、政治の権威を軍によつて次々に侵蝕されるのを傍観したことに表われている。
軍人は巨大な武装集団の組織力によって政治を略取したが、軍人の頭脳は、極く少数の例外を除いて、政治的に貧困であった。国策決定に際しては、野望と幻想(大東亜新秩序)を優先させ、精密な国力判断を軽視した。国力などは強権をもって国民を働かせればどうにかなると高を括《くく》っていたのである。
66
東郷、賀屋両相以外の関係者の署名済みの再検討終了国策案は、再び『帝国国策遂行要領』と名づけられた。
東郷外相は十一月二日正午ころ東条首相を訪れて、右国策案に署名したが、それまでの経緯を次のように述べている。
「……(日米)交渉成立は楽観出来ないが、これが不成立となつた暁に日本が石油飢饉となるのは明瞭であり、之に乗じて米が圧迫を加へ来るだらうとの軍の懸念は全然杞憂とは言へないものがあつた。尚又戦争の見透しに関する軍部の保証は信用し難き観があつたが、予の手許には日本の兵力量並に軍隊及軍事科学に関する状勢は軍機に属するので何等資料はないのであるから、戦争の見透しに関する軍部の意見を反駁することも出来ない状態であつた。他方国際状況よりの議論は既に出し尽された。即ち予は米英の強大なる生産力及精神力を指摘し独逸よりの援助を期待し得ないことを指摘した。即ち戦争の見透しに対する軍部の見解に就ては此れ以上反駁し否認し得る状況にないので之を信用するより仕方がないとの結論に達した。
只此際残された問題は自分が辞職することにより事態を変化せしめ得るやと云ふことであつたが……」(東郷前掲書)
東郷外相は、辞職することによって、既に開戦へ向けて始動している政局を引き戻すことが出来るか否か、考えたようである。既述のように、軍部は前夜の激論のさなか、東郷の辞職によって内閣が瓦解するか、あるいは開戦決意までにさらに時日を要することになるのを怖れていたから、東郷外相単独でか、あるいは賀屋蔵相ともども辞職を決行すれば、主戦派を動揺させ、事態の変化を惹起することも不可能ではなかったと思われる。
東郷は、十一月二日早朝、元首相広田弘毅(昭和十一年三月九日〜十二年二月二日)を訪れて相談した。東郷は広田が外務省欧米局長から総理に至るまでの間、部下として務めた密接な関係がある。
広田は、東郷が辞職すれば、直ちに戦争を支持する人が外務大臣に任命されることになるのは明らかであるから、職に止まって日米交渉成立のために全力を尽すべきである、と説いたという。広田のは常識論であった。東郷の相手は、しかし、米国というよりも、日本の軍部なのであった。常識的努力が通用する相手ではなかった。屈敵の手段がないとわかっている米国に戦争を挑もうというのである。東郷は戦争の見通しに関して軍部に対する反駁材料がないから、軍の言うことを信用するより仕方がないと述べているが、基礎的国力が比較を絶していることを示す資料は幾らでもあったのである。東郷は常識的努力をもって狂気の道に殉ずるよりも、辞職を敢行して波紋を投ずるべきであったと思われる。
東郷は、しかし、辞職の決意を固めなかった。西次官を賀屋蔵相の許へ使いに出して、賀屋の決意を尋ねさせたが、そのとき賀屋は既に東条総理に対して多数者の意見に同意すると伝えたあとであった。
東郷外相は前記の通り、十一月二日正午、東条首相を訪れて、前夜来の連絡会議決定に同意の署名をした。これで、反対者も回答保留者もなくなったのである。
十一月二日午後五時、東条首相は、杉山、永野陸海両統帥部長とともに参内、列立して再検討の結果を上奏した。
東条の上奏は声涙共に下り、天皇は納得の様子であったという。
上奏につづいて次のような下問があった。
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天皇 (戦争の)大義名分ヲ如何ニ考フルヤ。
東条 目下研究中テアリマシテ、何レ奏上致シマス。
天皇 時局収拾(戦争終結の意)ニ「ローマ」法皇ヲ考ヘテ見テハ如何カト思フ。
海軍ハ鉄一一〇万トンアレハ損害カアツテモヨイカ。
損害ハドノ位アル見込カ。
永野 戦艦一、甲巡二、乙巡四、飛行機一八〇〇機位カト考ヘマス。
天皇 陸軍モ相当ニ損害カアルト思フガ、運送船ノ損害等モ考ヘテ居ルダラウナ。防空ハヨイカ。朝鮮ノ「ダム」カ壊レタラドウスルカ。
杉山 防空ハ全国的ニヤリマスガ、東京、大阪、北九州ニ重点ヲオキ、其他ハ監視、連絡、燈火管制、地方消防ヲヤル程度テアリマス。
[#ここで字下げ終わり]
『杉山メモ』の記録が示す限り、天皇は戦争となった場合の国民生活に関して、防空以外には何の関心も示さなかった。
東条ら三名の列立上奏に際して用意された上奏資料にも、長期戦となった場合の国民精神作興の必要は書かれてあるが、民生安定に対する配慮は全く欠落している。
67
十一月三日、陸海両統帥部長は列立して作戦計画を上奏した。そのあと、例によって、次のように天皇の下問が行われた。
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天皇 香港ハ「マレー」作戦ヲ確認シテカラヤルコトハ解ツタ。支那の租界ヲドウスルカ。
杉山 租界接収及交戦権ノ発動ハ目下研究シテ居リマス。
天皇 租界ハ香港ノ後デヤルダラウナ。
杉山 サウデ御座イマス。他ノ方面デヤルト「マレー」ノ奇襲ハ駄目ニナリマス。
天皇 租界ハ何時頃ヤルカ。
杉山 外交トモ関係アリ何レ改メテ申上ケマス。然《しか》シ先キニヤルコトハナイ様十分注意致シマス。
天皇 オ前ハ「モンスーン」デ上陸カ困難ニナルト言フテ居タガ、十二月ニナツタガ上陸ハ出来ルカ。
杉山 段々悪クナリマス。又最近従来申上ケシヨリハ更ニ困難ナルコトモ判明致シマシタガ、未ダ至難ト迄ハユカナイト思ヒマスガ、日ガ延ビレバ害ハ増スノデ、一日デモ早イ方ガヨイト思ヒマス。
天皇 「マレー」ハ天候ノ関係カラハドウカ。
杉山 「マレー」ハ機先ヲ制シテ空襲ヤル様ニ考ヘテ居リマシタガ、気象上カラハ雨ガ三、四日連続降ルノデ奇襲ヲ主ト致シマシタ。比島(フィリピン)ハ大丈夫ト思ヒマス。
両案ヲ考ヘテ適当ニ律スルコトヲ考ヘテ居リマス。
(気象統計を天皇に呈出)
天皇 総理ハ航空ノ命令ヲ早ク出スコトヲ話シテ居タ。アレハドウカ。
杉山 航空関係ハ大連、青島、上海等テ出発出来ル様ニシテ待ツテ居リマス。然シ出発日次カ延ビルコトノ不利ニ就《つい》テノ対策ハ、種々研究ノ結果、大命ヲ御前会議終了後ニ発セラレテモ、何トカ間ニ合フ様ニナリマシタ。又其方ガ筋ガ通ツテ居ルト思ヒマス。
天皇 筋ノ通ツタ方カヨロシイ。泰《タイ》ニ対スル外交交渉ハ大義名分カラ言ヘバ早クスルヲ可トシ、又軍ノ奇襲カラハ遅イ方ガヨイト思フガ、ドウカネ。
杉山 仰セノ遅リテアリマス。然シ決意致シマセヌト、企図カ暴露シ、又現在ハ相当ニ切迫シテ居ルノデ、気ヲツケル必要ガアリマス。ヨク外務側ト相談シテ研究致シマス。
天皇 海軍ノ日次ハ何日カ。
永野 八日ト予定シテ居リマス。
天皇 八日ハ月曜日テハナイカ。
永野 休ミノ翌日ノ疲レタ日カ良イト思ヒマス。
天皇 他ノ方面モ同シ日カ。
杉山 距離カ相当ニハナレテ来ルノデ、同時ニハナリ得ナイト思ヒマス。
(以上『杉山メモ』)
[#ここで字下げ終わり]
この日の陸海両統帥部長の列立上奏は、十月末までに完成していた陸海軍の対米英蘭作戦計画の説明であって、直ちに允裁《いんさい》を仰ぐためではなく、翌々五日の御前会議での国家意志決定の際の天皇の判断と決心に資するためであった。
天皇は陸海両総長から上奏文案に沿っての詳しい説明を聞いたが、それらは初期作戦に関する説明であって、当然予想しなければならない長期戦については、海上交通確保とか通商破壊戦以外には触れていなかった。戦争長期化は必至であり、長期化すれば彼我の生産力の隔絶、したがって当然に著しく不均衡となる戦力比が最大の問題となるが、上奏説明はそこを回避し、天皇の下問もまた、右に見た通り、少しも問題としていなかったのである。
十一月四日午後二時から、陸海軍合同の軍事参議院参議会が天皇臨席の下に開かれた。
軍事参議院は重要軍務の諮詢《しじゆん》に応ずるところであって、国策に関与する機関ではなかった。
したがって、陸軍統帥部では、開戦決意か外交継続かという政戦両略にわたる国策を軍事参議官に諮詢するのは筋違いであるとして、陸軍省に対して反対したが、国家の決意をますます固めるためにあらゆる手段を講じたいという東条総理の念願によって、「帝国国策遂行要領中の国防用兵に関する件」を諮詢するという建前で開かれた。
会議の議長は参議官中高級古参の者として元帥閉院宮、幹事長は慣例によって陸軍省軍務局長、参議官は元帥、陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長、軍令部総長及び特に軍事参議官に親補せられた陸海軍将官である。この日の参議官としての出席者は、陸軍は閑院宮以下十名、海軍は元帥伏見宮以下九名であった。
会議は永野軍令部総長と杉山参謀総長の説明からはじまり、各参議官の質疑、統帥部または政府側の応答がつづくが、ときとしてあまりに観念的で虚しい感を拭えない。だが天皇臨席の下で戦争反対論は全く出ず、翌十一月五日の御前会議を迎えることになるのであるから、説明及び質疑応答の概要を摘録することにする。(傍点引用者)
永野軍令部総長
海軍ト致シマシテハ、彼我現兵力関係ヲ以テ、開戦時機ヲ十二月上旬ト致シマスナラバ、第一段作戦及|邀撃《ようげき》作戦ニハ勝利ノ算我ニ多シト確信致シテ居リマス。|第一段作戦トハ在極東敵兵力ヲ撃滅シ西南太平洋要域ヲ攻略致ス迄ノ作戦ヲ申ス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ノテ御座イマス。……第一段作戦ノ必成ヲ期スル見地ヨリ、主トシテ次ノ三項ヲ考慮シ慎重周密ニ計画準備致シテ居リマス。即第一ニハ彼我戦力ノ実情ヨリ見マシテ開戦ヲ速カニ決定致シマスコト、第二ニハ敵ヨリ先制セラルルコトナク我ヨリ先制スルコト、第三ニハ作戦地域ノ気象ニ対スル考慮デアリマス。
第一段作戦ニシテ適当ニ実施セラレマスナラハ、帝国ハ|南西太平洋ニ於ケル戦略要点ヲ確保シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|長期作戦ニ対応スル態勢ヲ確立シ得ル《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》コトトナリマス。而シテ|対米英戦ハ確実ナル屈敵手段ナキヲ以テ結局長期戦トナル《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》算多ク、(中略)長期戦トナリタル場合ノ見透シハ、|形而上下ノ各種要素ヲ含ム国家総力ノ如何《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、及世界情勢ノ推移如何ニ因《よ》リテ決セラルル処大テアリマシテ、|今日ニ於テ数年後ノ確算ノ有無ヲ断スルコトハ困難テアリマス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。(以下略)
[#この行1字下げ](永野の説明は、あくまで、「彼我現兵力関係ヲ以テ」という条件つきである。現兵力関係を前提とすれば第一段作戦も邀撃作戦にも自信があるということであって、戦争長期化によって、当然予想される彼我の軍事力の懸隔が著しく増大した場合に、来攻するであろう敵に対する邀撃作戦については、一言も触れていないのである。
[#この行1字下げ] また、第一段作戦が成功すれば、日本は南西太平洋上の戦略要点を「確保」して、長期作戦に対応する態勢を「確立」し得ると言っているが、これは主観的、希望的観測であるに過ぎない。日本の軍人の予想とは桁違いの物量戦を展開するであろう米国(日本は二年半前、ノモンハンで、ソ連軍の圧倒的な物量戦の前に惨敗した記憶が、まだ生々しく残っていたはずだが)に対して、要点を「確保」し、態勢を「確立」するには、どれだけの物量の準備とその前送が必要か、そのためには広大な海域の交通確保にどれだけ周到な海上護衛戦力、したがってまた制空力が必要か、また要点確保にはどれだけ持久力のある築城と、火砲、弾薬、糧秣《りようまつ》の蓄積が必要であるかについて、十分な配慮と準備がなされていたとうなずける事実は見出されないのである。そうだとすれば、「確保」とか「確立」とかは、単なる言葉であるに過ぎない。
[#この行1字下げ] さらに、長期戦の見通しは「形而上下ノ各種要素ヲ含ム国家総力ノ如何……ニ因リテ決セラルル処大テ」あるから、「今日ニ於テ数年後ノ確算ノ有無ヲ断スルコトハ困難」であるというのは、要するに、一年二年は戦えるが、三年以後となると自信がないということを、ことさらにもっともらしく表現したに過ぎない。形而上下の各種要素、言い換えれば無形有形の各種要素、さらに言い換えれば精神的物的各種要素を含む国家総力の如何こそが、まさに問題なのである。物的条件の甚だしい不利は歴然としている。精神は敵にもある。塚田参謀次長流の「神州ノ正気」などは決戦要素としては一文の値打もない。もし日本に「神州ノ正気」があるとすれば、米英にもそれに相当する「ガッツ」があるはずである。精神状況が我れにのみ有利であるとする根拠は何処にもない。すれば、戦を決するのは、たとえて言えば平米当り何発の砲弾を有効に射ち込むかということであり、戦力維持増強のためにどれだけ豊富な物量を後方が戦線に前送し得るかということである。
[#この行1字下げ]「数年後ノ確算ノ有無ヲ断」じ得ないのは、戦争遂行の物的確算がないからである。したがって、形而上下の各種要素とか、世界情勢の推移如何とかを空頼みするのである。)
永野軍令部総長につづいて、杉山参謀総長が陸軍作戦の概貌を説明した。
(前段略)
帝国陸軍ハ五十一師団ヲ基幹トシ、其総兵力約二百万テ御座イマス。而シテ約十五師団ハ対北方兵力トシテ関東軍司令官統率ノ下ニ満洲、朝鮮ニ、約二十四師団ハ対支兵力トシテ支那派遣軍総司令官統率ノ下ニ支那ニ在リマス。
南方作戦兵力ト致シマシテハ仏印ニ在ル一師団、内地、台湾ニ待機訓練中ノ約五師団、及支那ヨリ転用セラレマスル五師団ヲ併セマシテ約十一師団ト予定シ、大命一下随時行動ノ発起シ得ルノ態勢ニ在リマス。
(中略)
帝国ノ米英蘭ニ対スル開戦ノ時機ハ、明春頃迄延期致シマシテモ差支ナシト考ヘラレマスル点モ御座イマスカ、他面作戦上ヨリ致シマスレハ極メテ不利テアリマシテ、積極作戦ハ不可能トナル虞《おそれ》カ多イノテ御座イマス。即チ時日ノ経過ト共ニ、第一ニ日米軍備ノ比率ハ益々不利トナリ、特ニ航空軍備ノ懸隔ハ急速ニ増大致シマス。第二ニ比島ノ防備其他米ノ戦備ハ急速ニ進捗致シマス。第三ニ米英蘭支ノ共同防衛関係ハ益々緊密トナリ、南方ノ綜合的防備力ハ急速ニ強化致シマス。(中略)第四ニ明春以降ニナリマスレハ、季節上北方ニ於キマスル作戦行動可能トナリ、帝国ハ南北両方面同時作戦(米ソ二正面作戦――引用者)ニ直面シナケレハナラヌ公算増大致シマスル等極メテ不利ナル関係ニアルノデ御座イマス。(中略)
作戦ノ見透ニ就テ
陸軍ハ……南方軍(約九師団基幹)ヲ以テ、聯合艦隊ト協同シ、比律賓《フイリピン》及|馬来《マレー》に対スル先制急襲ヲ以テ同時ニ作戦ヲ開始シ、速カニ南方要域ヲ攻略スルノテアリマシテ、攻略スル範囲ハ比律賓、英領馬来、「ビルマ」、蘭領印度、「チモール」島等テ御座イマス。
尚別ニ支那派遣軍ノ一部ヲ以テ香港ヲ攻略致シマス。(中略)
[#この行1字下げ](陸海軍省部事務当局間で十月初めころまで概定していた「対米英蘭戦指導要綱」では、攻略範囲はビルマ、マレー、東印度諸島、フィリピン、グアム、ニューギニア、ビスマルク諸島〈ニューブリテン島ラバウル〉と限定してあり、右の杉山総長の説明よりさらに長遠広範囲にわたっている。)
南方要域に対スル攻略作戦一段落シマシタル後ニ於キマシテハ、政戦両略ノ活用ニ依リ敵ノ戦意ヲ喪失セシメ、極力戦争ヲ短期ニ終結スル如ク勉メマスルカ、戦争ハ恐ラク長期ニ亘ルコトト予期シナケレハナリマセヌ。然シ乍《なが》ラ|敵ノ軍事根拠或ハ航空基地等ヲ占領シテ飽迄之ヲ確保シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|海上交通ノ確保ト相俟チマシテ戦略上不敗ノ態勢ヲ占メ得マスノテ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、諸般ノ手段ヲ尽シ敵ノ企図ヲ挫折セシメ得ルモノト存シマス。(以下略)
[#この行1字下げ](当然のことながら、陸軍も海軍と同じことを言っている。初期作戦には自信満々としているが、戦争が長期化し、米軍の本格的総反攻を予想する段階では、「海上交通ノ確保ト相俟」って「戦略上不敗ノ態勢ヲ占メ得」るという希望的観測を一歩も出ていない。而も陸軍は海軍戦力に満幅の信頼を置きかねているのである。これまでにも再三引用指摘してきたことだが、参謀本部第一部が十月二十日の日付で作成した『対米英蘭戦争ニ於ケル初期及数年ニ亘ル作戦的見透シニ就テ』の中で陸軍は、「南方作戦ハ海軍竝航空部隊ノ活躍ニ期待スル処大ニシテ、彼我ノ海軍竝航空部隊ノ関係ハ現在ニ於テハ帝国ニ確算アリ。日ヲ経ルニ伴ヒ其地位ハ逐次逆転シ、終ニハ戦勝ノ目途ヲ失フニ至ルモノト判断シアリ」と言っている。これは田中第一部長までの決裁書類だから、総長は関知しないと言えば言えなくはないが、本来この資料は上奏資料または奉答資料として第一部が起草し、手直しを加えたものであるという。右の引用部分はその一部なのである。)
陸軍が海軍を右のように見ていたのならば、そしてそれは珍しく冷静で客観的な判断であったといえるが、如何にして「海上交通ノ確保ト相俟」って「戦略上不敗ノ態勢ヲ占メ得」ると判断出来るのか。戦力基礎の物的条件が満されなければ、「不敗ノ態勢」は主戦派が描いた虚構でしかない。
68
両総長の説明のあと、質疑応答が行われた。全部の引用は煩に耐えないから、要点だけを拾ってみる。
朝香宮|鳩彦《やすひこ》王陸軍大将質問
(前略)
米海軍カ年月ノ経過ト共ニ我レニ比シ優勢トナルヘキヲ予想シテ尚且軍令部総長ハ之ニ対シ十分ナル勝算アリヤ、所見如何。又長期戦ヲ覚悟スルモ適時媾和ノ緒ヲ捕捉スルナラン。作戦上如何ナル点ニ緒ヲ見出サントスルヤ、其可能性如何。(以下略)
永野軍令部総長答弁
長期戦ニ於テハ各種ノ原因ヨリ予見シ難キ要素ヲ包含ス。先ツ米ニ比シ我レハ諸種ノ材料、資源少ク、工業力ニ於テモ格段ノ差アリ。且開戦後ニ於ケル米ノ兵力補備ニツキテハ今日以上ノ能率ヲ現ハスヘキヲ予見シ得ヘク、(中略)之等ノ点ニ関シテノミ考フルモ、数年後ノ長期ニ亘リ確信ヲ以テ戦局ノ帰結ニ関シ述フルコト困難ナリ。況《いわ》ンヤ此間ニ起ルヘキ世界状勢ノ変化|逆賭《ぎやくと》シ難キモノアルヲヤ。|日本海軍トシテハ開戦二ケ年ノ間ハ必勝ノ確信ヲ有スルモ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|遺憾ナカラ各種不明ノ要因ヲ含ム将来ノ長期ニ亘ル戦局ニツキテハ予見シ得ス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。又媾和ノ緒ニツキテ一言ス。(中略)
英米聯合軍ノ弱点ハ英国ニアリト考ヘラル。即海上交通絶ユレハ英カ衰弱シ継戦困難トナルヘシ。英ヲ餓死セシメテ屈伏セシムルコト最モ捷径《しようけい》ナリ。之レニ先《さきだ》チ独逸ノ英本土上陸成功スレハ更ニ有利ナリ。英ヲ屈伏ノ余儀ナキニ至ラシメ一蓮托生ノ英米ヲ圧スルコト吾人ノ着意スヘキ点ニシテ(以下略)
[#この行1字下げ](永野の答弁は甚だ悲観的に聞えたであろう。本来なら戦争不可の結論を出すべき現実的状況であったことは、再三述べた通りである。東条首相は、永野総長の答弁が列席者に与えた印象を憂慮したのであろう、次のように補足答弁をした。)
東条首相兼陸相答弁
軍令部総長ノ長期ニオケル見透シニ於テ、二ケ年後ノ戦局ニ就テハ不明ナリトノ点ニツキ補足セントス。本事項ハ連絡会議ニ於テモ論点トナリシ所ナリ。二年後ニ於ケル戦局ノ見透不明ナルニ拘ラス開戦ノ決意ニ到達セシ所以《ゆえん》次ノ如シ。
現在我レノ採ルヘキ方策トシテハ、四年ニ亘ル対支戦果ヲ以テ動カズ、隠忍自重シアルヘキ途アルヘシ。此ノ場合二年後ノ状況ヲ予想セハ如何。油ハ不足スヘシ。又米ノ国力戦力ハ整ヒ、殊ニ航空勢力ハ著シク我レト隔絶シ、南方要域ハ難攻不落ノ状態トナリ、我対南方作戦ハ極メテ不自由且困難トナル。此際米ノ対日態度ハ攻守|素《もと》ヨリ予測シ難キモ、若《も》シ積極的ニ挑戦シ来ラハ我レハ屈伏ノ他ナカラン。(中略)
吾人ハ|二年後ノ見透シ不明ナルカ為ニ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|無為ニシテ自滅ニ終ランヨリ難局ヲ打開シテ将来ノ光明ヲ求メント欲スル《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》モノナリ。二年間ニハ南方ノ要域ヲ確保シ得ヘク、全力ヲ尽シテ努力セハ将来戦勝ノ基ハ之レニ因リ作為シ得ルヲ確信ス。
[#この行1字下げ](東条は、陸相としては主戦派の筆頭として、首相としては逸《はや》る統帥部を押えて、ともかくも九月六日の御前会議決定に再検討を加えた実績に立って右のように言ったのである。戦争手段に訴えず、あくまで平和的手段を模索することを、「無為ニシテ自滅ニ終」ることと同一視するのは、満洲事変以来十年の軍国主義の論理的帰結であった。)
次の質問は東久邇宮|稔彦《なるひこ》王陸軍大将である。
東久邇宮稔彦王陸軍大将質問
(質問前半及びそれに対する東条陸相答弁略)
我武力発動ノ理由ヲ明示スルコト必要ナリ。大義名分ヲ明カニシ、聖戦ノ趣旨ヲ中外ニ示シ、且ツ国民ヲシテ感奮困難ニ殉《じゆん》セシムルコトニ関シ所信ヲ問フ。
[#この行1字下げ](物資取得のために他国へ兵を出すことに大義名分があると信ぜられていた時代なのである。「聖戦ノ趣旨」とは、武力を発動してでも日本がその謂《い》うところの「東亜新秩序」の盟主となるという野望をその内容としていたことは、今日既に明らかである。国民も、しかし、国民であった。おしなべて、緒戦の戦勝気分に浮かれたことは事実であった。)
東条陸相答弁
(前略)戦争目的ノ顕現ニ関シテハ具体的ニ如何ニ示スヘキヤニ関シ研究中ナルモ、唯今御前ニ於テ確信ヲ以テ申ス迄ニ至リアラス。
[#この行1字下げ](「戦争目的ノ顕現」は、のちに、十二月六日の連絡会議で採択された宣戦詔書、「天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚《こうそ》ヲ践《ふ》メル大日本帝国天皇ハ」にはじまり「……速ニ禍根ヲ芟除《せんじよ》シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス」に終る作文のなかに独善的に謳われることになる。)
東久邇大将宮質問
長期戦ヲ予期スルコトハ勿論ナルモ、適当ナル時機ニ終結セシムル如ク今ヨリ考ヘ置クコト必要ナリ。(以下略)
東条陸相答弁
戦争ノ短期終結ハ希望スル所ニシテ、種々考慮スル所アルモ名案ナシ。敵ノ死命ヲ制スル手段ナキヲ遺憾トス。長期戦トナル公算八分ナリト考フルモ、尚《な》ホ左ノ如キ行動成功スルニ於テハ、短期終結ニ導クコト不可能ナリトセス。
(イ)米主力艦ノ撃滅。我レカ比島ヲ占領スル際彼カ之レヲ奪回セントスル際ニハ成功ノ公算アリ。
[#この行1字下げ](右は、日本海軍が比島に限らず作戦全般に関して抱懐していた構想であった。随時作戦を起して敵艦隊をおびき寄せ、これを邀撃《ようげき》して、撃滅する、というのである。顕著な例が、昭和十七年六月に日本海軍が決定的な打撃を蒙ったミッドウェー海戦である。ミッドウェー島を占領する。これを奪回に来るであろう米艦隊主力を捕捉撃滅するという構想は、無残にも裏をかかれた。ミッドウェー島上陸作戦がはじまらぬうちに、待ち受けていた米機動部隊によって南雲部隊の一級空母四隻が全滅させられたのである。)
(ロ)米ノ対日戦意喪失ヲ図ル。(独ノ対米宣戦、英本土上陸等ノ場合)
[#この行1字下げ](日本は、連合軍の弱点と考えていた英国に対してドイツが上陸作戦を敢行して、これを粉砕してくれることを望んでいたが、これはドイツの戦力に対する過大評価に過ぎなかった。英海軍はドイツ海軍に対して圧倒的優勢を保持していたし、既述の通り、ゲーリング自慢の英本土連続爆撃も決定打とはならなかった。)
(ハ)通商破壊戦ニ依リ英ノ死命ヲ制シ米ノ態度ヲ変ヘシム。
[#この行1字下げ](対英通商破壊に関しては、日本海軍はほとんどなすところがなかった。船団輸送が恢復不能なまでに損害を蒙ったのは、日本の方であった。通商破壊に活躍すべき日本の潜水艦群は、昭和十七年八月以降のガダルカナル攻防戦をめぐって、能率の低い物資輸送に辛労しなければならぬ破目になった。)
(ニ)米ノ主要軍需資源ヲ絶ツ。
[#この行1字下げ](米国の重要物資備蓄量は、日本の戦力が消尽するまでの期間を維持するに十分であった。物的条件の成算なしに米国は強硬な外交姿勢を維持したのではなかったのである。)
百武海軍大将質問
対米作戦上内地大陸間ノ交通保持ハ絶対必要ナリ。若《も》シ「ソ」聯カ開戦直後起ツコトアラハ之カ対策如何。
永野軍令部総長答弁
海軍トシテハ当初対北方作戦ハ守勢ヲトラサルヲ得ス。然《しか》レトモ南方第一期作戦ノ進展ニ応シ余リ遅カラヌ時期ニ攻勢ニ出ツルコト得ヘシ。
[#この行1字下げ](右の南方第一期作戦というのは、会議の記録の上で第一段作戦と混同されたのではないか、と思われる。海軍は、南方要域攻略作戦の終了までを、第一段作戦と呼んでいた。連合艦隊では、その第一段作戦を、さらに第一期作戦から第三期作戦まで区分していて、第一期作戦を開戦から概《おおむ》ねフィリピン攻略陸軍主力部隊上陸完了までとしていた。したがって、第一期作戦の進展の度に応じて遅からぬ時期に対北方攻勢に出るというのは、いくら強気にしても早過ぎるのである。第一段作戦完了には、早くても春までかかるから、対北方作戦の季節的条件からみても、永野が言ったのは第一段作戦のことであって、記録がそれを第一期作戦と誤記したのであろう。)
東条首相兼陸相は、百武大将に対する永野の答弁では不十分と見て、次のように説明した。
東条陸相答弁
連絡会議ニ於ケル結論トシテハ、状況判断上「ソ」聯ハ此ノ如キ行動ニ出ツル公算少シトナス。即チ「ソ」聯ハ独「ソ」戦ノ結果国力ハ戦前ノ二割五分ニ減ジアリテ、英米ノ援助ニ依リ之カ恢復ヲ企図シアル状況ニアリ。従ツテ日米開戦ノ当初ニ於テハ復活スル余裕ナシ。現ニ極東ヨリ兵力ヲ西送シツツアリ。但シ籍《か》スニ時日ヲ以テセハ漸次戦力ヲ恢復シ、且英米ヘノ協力ノ見地ヨリ起ツコトナキヲ保シ難シ。又米トシテハ対日圧迫ノタメ極東「ソ」領ヲ軍事基地ニ利用方強要スヘク、「ソ」聯ハ之レニ応セサルヲ得サル状況ナルヲ以テ、対「ソ」戦惹起ノ場合アルヘシ。陸ニ関シテハ参謀総長説明ノ如ク、関東軍ノ厳存スル限リ顧慮ノ要ナク、海ニ関シテハ軍令部総長説明ノ如シ。
百武海軍大将質問
(前略)防空ノ見地ヨリ開戦後間モナク帝都、軍需工業地帯ノ空襲ニ依ル被害大ナルトキハ由々シキ大事ナリト考フ。之カ見込並ニ対策如何。又敵ノ空襲ニ対シ軍需工業ノ受クヘキ予想被害程度如何。
東条陸相答弁
防空ハ陸海軍殊ニ航空部隊ノ積極進攻作戦ヲ基礎トシテ考ヘサルヘカラズ。即チ国土防空ハ軍ノ積極作戦を妨害セサル範囲ニ準備セラル。我防空兵力ハ陸軍約百機、海軍約二百機ノ空中兵力ト、要地直接防禦ノ為高射砲陸軍約五百門、海軍約二百門トヲ有シ、微弱ナカラ最近其整備ヲ終リ訓練中ナリ。
敵ノ空襲ハ開戦直後ニアラスシテ若干ノ余裕アルモノト考ヘアリ。時々空襲ヲ受クル程度ニアラサルカ(先ツ航空母艦ヲ進メテ空襲ス。敵カ「ソ」領ヲ基地トシテ空襲ヲ行フニ至レハ相当危険ナルモ開戦初頭ニハ起ラスト考フ。)
杉山参謀総長答弁
(前略)防空配置ハ重点主義ヲトリ、生産地点(東京、名古屋、大阪、北九州等)、交通要点(青森、広島、下関、釜山、新義州等)、及油田地帯(秋田、新潟、柏崎等)ニ高射砲等ヲ配置シ防衛スルコトトナシアリ。防空ハ絶対ニアラス。空襲ハ受クルコトハ覚悟セサルヘカラス。(以下略)
[#この行1字下げ](防空は確かに絶対ではない。殊にレーダー未開発の日本においては、甚大な被害を覚悟しなければならなかった。それにしても、防空専用飛行機と高射砲の量的不足は恐るべきものであった。戦争末期、米空軍戦略爆撃団の爆撃のみによっても、日本は潰滅に瀕したのである。)
百武海軍大将質問
(前略)海軍ニテ鉄ノ配当カ要求量以下トナル如キトキ支障ヲ生セサルヤ。
東条陸相答弁
鉄ハ国家全体トシテ生産量落ツヘシ。十六年度四七六万トンナルモ、南方作戦トモナレハ企画院ノ計算ニ依レハ四三二万トンノ確保ヲ期待シ得ルノミ。然レトモ義務貯鉱二〇〇万トンノ使用竝ニ機帆船ニ依ル石炭輸送等ノ手段ヲ講スレハ、四五〇万トン迄ハ可能ナルヘシ。従テ十七年度海軍所要量一一〇万トンノ要求ニ対シテハ、他ノ要求ヲ抑ヘテ要求通リ配当スル考ナリ。必勝ヲ期セラレ度。
[#この行1字下げ](海軍に対する鉄の配当一一〇万トンを確保すれば、必勝を期することが出来るという根拠はない。海軍は、既述の通り、米国の軍拡に対応するつもりで、十六年一三五万トン、十七年一四五万トンの所要量見通しを立てたが、仮りにそれが保証されても、時日の経過とともに米国の軍拡には拮抗し得なくなることは予想されていたのである。その数字さえも一一〇万トンに圧縮されて、如何にして「必勝ヲ期」するのか、百武大将はせっかく質問しておきながら、追及しようとはしなかった。他の列席者も不安な物的条件に触れるのは恥ずべきことと心得ているのか、誰も何も質《ただ》そうとしなかったのである。)
山田陸軍大将質問
南方作戦間一面我レヨリ求メテ対「ソ」戦発動ニ導カサル如クシ、他面米ノ「ソ」領利用等ニ依リ対「ソ」戦ノ惹起ヲ招来スルカ如キ場合ヲ考フルトキ、強制的受動作戦ニ陥ラサル如クスルヲ要スト考フルカ如何。
永野総長答弁(略)
杉山参謀総長答弁
今夏以来関東軍戦備ノ増強ヲナシ、「ソ」ノ攻撃ニ対シ不敗ノ態勢ヲ堅持シ得ル如クシアリ。今後万一「ソ」聯ノ起ツコトアルモ十分之レニ対シ得ヘシ。
[#この行1字下げ](右は、既述の通り七月二日御前会議の決定をみて実施に移された『関特演』を指している。『関特演』の戦備で「不敗ノ態勢ヲ堅持」したと言えるか否かは疑わしいが、関東軍が史上最高の強度に達したことは事実であった。しかし、対ソ戦備としてのその軍団も、やがて、米軍の猛反攻によって南方戦線が急を告げるに及んで、南方への兵力供給源となり、遂には見る影もないカカシの軍団になってしまう運命に置かれた。)
対米開戦直後「ソ」聯ノ起ツ公算ハ考ヘ得ス。殊ニ冬季酷寒期ニ於テ然リ。然レトモ春季以後作戦行動容易トナルニ至リテハ、「ソ」聯又ハ「ソ」米提携シテ挑戦シ来ルコトアルヘシ。此ノ如キハ努メテ避クヘキヲ要スルヲ以テ、冬季中ニ南方ノ解決ヲ図リ、爾後《じご》随時北方ニ対シ得ル如ク今次作戦ヲ指導セントシアル所以《ゆえん》ナリ。(以下略)
土肥原陸軍大将質問
本作戦カ支那事変処理上及ホス影響ニ関スル見込如何。(中略)英米ノ援蒋強化、支那ニ於ケル軍事基地設定ノ促進等、英米支ノ軍事的合作ハ如何ナル状況トナルヤ。
東条陸相答弁
(前段略)
日本ノ対英米蘭戦ハ、重慶側ヲシテ英米支蘭ヲ以テスル包囲陣ノ団結ニ依リ対日抗戦ノ決意ヲ固カラシメ、開戦当初ニ於テハ却《かえつ》テ其志気ヲ昂揚セシムルコトアルヘシ。従テ戦争終結迄日支全面和平ハ求メ難カルヘシ。然レトモ我南進作戦ニ依リ「ビルマ・ルート」ノ遮断トナリ、又上海、香港等ノ沿海基地断絶セラレテ英米等ヨリノ直接援助ノ路ヲ失ヒ、南洋華僑ノ支援モ期待シ難キニ至リ、重慶ノ実質的抗戦要素ハ弱体化スヘシ。之レヲ要スルニ、我南方武力行使ニ依リ当初ハ蒋政権ノ昂揚スヘキモ、実質的ニハ時ヲ逐《お》ヒ其勢力弱化シ、西南派、共産党ノ分裂ヲ来スヘク、之レニ加フルニ南京政府(汪政権)ノ育成強化ト積極的作戦行為トハ、直接間接ニ支那民衆ニ作用シ、支那事変ノ有利ナル帰結ヲ招来シ得ヘシト信ス。(以上『杉山メモ』)
軍事参議院参議会の質疑応答は終った。誰も戦争反対あるいは戦争に対する懐疑的な意見を表明する者はいなかった。
参議官全員は、「曩《さき》ニ参謀総長、軍令部総長ノ上リタル帝国国策遂行要領中国防用兵ニ関スル件ハ適当ナルモノト認ム」という奉答書に、署名花押した。
列席参議官のうち、敗戦時、責を負って自決したのは元帥杉山元、陸軍中将篠塚義男の二人である。東京裁判で絞首刑に処せられたのは東条、土肥原両大将。元帥永野修身は獄中に病没した。
69
昭和十六年(一九四一年)十一月五日、この年の四回の御前会議の三回目に当る会議が開かれた。これは既に見てきた通り九月六日の御前会議の決定を白紙に還して再検討を加えた結果の御前会議である。再検討が十分に綿密周到であったとは考えられないが、九月六日から十一月五日までの二カ月の間に、和戦の選択をめぐる政変をはさんで、日本が野望と現実的状況との間の背馳に苦悩を重ねたことは事実であった。
会議は東条首相の説明にはじまり、各大臣、陸海両統帥部長の説明へとつづくが、ここでは鈴木企画院総裁の物的国力判断についての説明を採り上げるにとどめ、つづいて原枢府議長と政府及統帥部との質疑応答をみることにする。
企画院総裁説明事項
(前略)第一ニ、民需用トシテ常続的ニ最低三〇〇万総トンノ船腹保有ガ可能ノ場合ニ於キマシテハ、一部ノ物資ヲ除キ概ネ昭和十六年度物資動員計画ノ供給量ヲ確保スルコトハ可能ト存ジマス。
[#この行1字下げ](昭和十六年度物動計画による物資供給量の確保を、戦争年間の基準として考えている点に問題があることは、既にみてきた通りである。その第一は、米国が生産力を飛躍的に増大させるであろうときに、それに対応する日本の生産力は昭和十六年度をほぼ上限としていることである。その第二は、戦争による消費消耗の異常な増大がほとんど考慮に入っていないことである。もし何かが考えられていたとすれば、国民の人間的生活を動物的生存にまで圧迫し強制するところの耐乏だけであったと言えるであろう。)
即チ一部ノ物資ヲ除キ、十六年度物資動員計画中ニ織込ミマシタ程度ノ、自給圏(日満支)及第一補給圏(仏印、泰《タイ》)物資ノ確保ヲ致シマス為ニハ、最低三〇〇万総トンノ船舶ヲ必要トスルノデアリマス。此ノ船舶ヲ以テ戦時稼行率ノ低下ヲ一五%乃至二〇%ト見マスルトキハ、月平均五〇〇万トン乃至四八〇万トン程度ノ物資輸送ガ可能ト認メラレルノデアリマシテ、右輸送可能量ハ十六年度物資動員計画ノ上半期平均輸送実績約五〇〇万トンニ相当スルノデ御座イマス。
[#この行1字下げ](右は数字合せに過ぎない感がある。十六年度上半期平均輸送実績五〇〇万トンに近似する数値を出すために、戦時稼行率の低下を一五%乃至二〇%に押えたのであって、最大危険率を見込んであるとは思われない。)
第二ニ、消耗船舶ヲ年間一〇〇万総トン乃至八〇万総トント推定致シマス場合、年平均六〇万トン内外ノ新造船ヲ確保出来マスナラバ、前申上ゲマシタ三〇〇万総トンノ船腹保有量ハ可能ト存ジマス。
[#この行1字下げ](右の計算要領が不可解であることは、既に再三述べたところである。右の計算によって示される年間二〇万乃至四〇万総トンずつの減少が、何によって補填されるのかを、企画院総裁は一度も説明していないのである。)
(中略)右六〇万総トンノ造船ハ、規格ノ統一低下、造船作業ノ海軍ニ依ル一貫的統制、労務ノ確保等、各般ノ強力ナル施策ヲ講ジマスルト共ニ、鋼材約三十数万トン及銅其ノ他ノ必要資材ヲ適正ニ配給致シマスナラバ、現下ノ民間造船能力七〇万総トン、造機鍛造能力六〇万総トン内外ノ能力ヲ、合理的ニ活用スルコトニ依リ可能ト認メラレルノデアリマス。
[#この行1字下げ](造船計画三カ年一八〇万総トン、年平均六〇万総トンであったのに対して、造船実績が三カ年二七三万総トンに達したことは先に述べたが、船舶喪失が年間八〇万乃至一〇〇万総トン、三カ年最大三〇〇万総トンという推定をはるかに超えて、三カ年六六〇万総トンにのぼったから、企画院が戦争可能を基礎づけるために割り出した数字は根柢から覆ったのである。)
鈴木企画院総裁の説明はさらにつづいている。
鈴木企画院総裁は民需用船舶として常続的に三〇〇万総トンの船腹を維持できれば、昭和十六年物動計画に依る物資供給と同量の供給を戦争中にも維持できるとして、そのためには年平均六〇万総トンの新造船が必要であり、その新造船は次のようにして確保できるというのである。
第三ニ、六〇万総トンノ新造船ノ為三十数万トンノ普通鋼材ヲ必要トスルノデアリマスガ、該鋼材ハ民需用鋼材二六一万トンヲ確保致シマス場合、民需ノ重点的局限配当ニ依リ之レガ配当可能デアルノデアリマス。
而シテ二六一万トンノ民需用鋼材ヲ確保致シマス為ニハ大体次ノ如キ鋼材計画ヲ必要トシ、之レガ遂行ハ概ネ可能ト認メラレマス。
[#この行1字下げ](その鋼材計画というのは、年間生産目標を四五〇万トン〈十六年度は四七六万トン〉として、海軍配当を一一〇万トン〈十六年度は九五万二〇〇〇トン〉、陸軍配当を七九万トン〈十六年度は九〇万トン強〉、民需を二六一万トン〈十六年度は二九五万トン強〉とする。但し、生産額が目標の四五〇万トンを超過する場合には、陸軍に対する配当が九〇万トンに達するまで増加する。開戦第一年の十七年度は、作戦のために船舶事情が窮屈になり、したがって生産にも影響が及ぶので、義務貯鉱の使用を増加し、遊休機帆船を活用して石炭〈原料炭〉輸送を図り、機帆船用の燃料油は海軍から補助するというのである。しかし、鈴木企画院総裁の説明には鋼材生産目標超過の場合の割当増加はあっても、目標額に達しない場合のことは述べられていない。先に記した十月三十一日付の嶋田海相の「覚」にもあるように、「十七年度以降ニ関シ最大限ヲ見積ルトスルモ、現在予想シ得ル所ヲ以テシテハ、毎年百万トン〈海軍割当のみ〉以上ヲ期待スルコト恐ラクハ至難ナルベシ」という鉄鋼事情は、鈴木総裁の説明によっては補完されていないのである。鋼材一四五万トン欲しい海軍は一一〇万トンで我慢させられ、而もその保証はおぼつかなかったのと同様に、民需用鋼材二六一万トンの保証も確実とは言えなかった。)
第四ニ、生産ニ必要ナル船腹確保ノ為ニハ、南方作戦ノ為特別ニ必要ト致シマス船腹量及其ノ期間は、陸海軍ト企画院トノ間ニ協定致シテ居リマスル計画ヲ遂行スルコトヲ必要トスルノデアリマス。
[#この行1字下げ](右の協定では、陸海軍に対する配船は次のようになっている。
[#この行1字下げ] 陸軍は、開戦第一月から第四月まで二一〇万総トン、第五月以降漸減して、第八月以後は一〇〇万総トンまで解傭する。他に小型船各月一・五万総トン。
[#この行1字下げ] 海軍は、毎月一八〇万総トン。内訳は、
[#3字下げ]タンカー 二七・〇万総トン
[#3字下げ]漁船 九・四万〃〃
[#3字下げ]貨客船 三三・六万〃〃
[#3字下げ]貨物船 一一〇・〇万〃〃
而シテ十七年度ニ於テハ、南方作戦ノ間一定期間ノ民需用船腹ハ最低一六〇万総トン弱、輸送量ハ二六〇万総トン程度トナル見込デアリマスカラ、鋼材ハ其ノ期間ハ年換算トシテ三八〇万トン程度ニ低下シ、其ノ他重要物資ハ一割五分程度減ズルモノト予想サレルノデアリマス。
従テ十六年度ノ鋼材生産量ハ計画額四七六万トンニ対シ、約四五〇万トン程度ト相成ルノデアリマス。(以下略)
[#この行1字下げ](右の計算は次のように行われている。十六年度上半期の鋼材生産は計画に対して実績九五・六%、数量でいえば九・六万トンの減産であった。作戦開始とともに民需用輸送量が激減することは当然である。したがって、第四・四半期の減産に対しては、機帆船の動員、石炭の鉄道輸送、義務貯鉱の使用増加、屑鉄の回収強化〈日本は当時主として屑鉄製鋼法をとっていた〉等の強行によって、減産を一五万トン程度に食い止め、先の減産約一〇万トンと合せて、年度計画に対しては約二五万トンの減産、つまり、計画四七六万トンが約四五〇万トンになるというのである。)
第五ニ、米ニ付キマシテハ、十七米穀年度(十六年十月から十七年九月まで)ノ計画ガ、南方作戦ニ依リ泰、仏印期待ノモノガ減ジマシタ場合ハ、大豆、雑穀、甘藷等ノ代用食ヲ考慮シ、多少ノ規正ヲ要スルモノト存ジマス。即チ泰、仏印ヨリ期待量の五〇%減ノ場合ハ(必要量に対して)九三%ト相成リ、七五%減ノ場合ハ九一%ト相成ルノデアリマス。但シ作戦一段落後ノ船腹利用ニ依リ泰、仏印ヨリノ輸入ヲ促進致シマスレバ、或ル程度低下率ヲ緩和致スコトガ可能トナルモノト存ジマス。(概案トシテ、台湾ヨリ約三一〇万石、朝鮮ヨリ約六二八万石、内地ニ於テ五、九一三万石ノ外、泰ヨリ約三〇〇万石、仏印ヨリ約七〇〇万石ヲ輸入致シ、需給ヲ計画致シテ居ルノデアリマス。)
[#この行1字下げ](仏印、泰に手を伸してこれを第一補給圏とすることの真意は、おのずから明らかであろう。東亜新秩序建設という武力膨脹政策を実施するには、食糧の確保が絶対条件なのである。仏印進駐は米七〇〇万石のためであったと言っても過言でない。)
第六ニ、蘭印諸地域ノ要地ヲ短期間ニ我ガ占有ニ帰シマスルナレバ、各月平均取得可能ト認メラレマスル重ナル物資、数量ハ次ノ通デアリマス。
石油ハ後段液体燃料ニ於テ御説明申上ゲマス。
[#この行1字下げ]ニッケル鉱(純分三・五%)ハ
[#4字下げ]六、〇〇〇トン(十六年度物動月平均ニ対シ六二%)
[#この行1字下げ]錫(減磨合金、鍍金用)ハ
[#4字下げ]一、二〇〇トン(〃一四四%)
[#この行1字下げ]ボーキサイト(アルミニューム原料)ハ
[#4字下げ]一七、〇〇〇トン(〃四二%)
[#この行1字下げ]生ゴムハ
[#4字下げ]一七、〇〇〇トン(〃四〇〇%)
[#この行1字下げ]カッサバルート、糖蜜(工業用アルコール用)ハ
[#4字下げ]一五、〇〇〇トン(十六年度ハ極メテ少額ノ輸入ヲ見込ミアリ)
[#この行1字下げ]コプラ、パーム油(グリセリン、代用機械油)ハ
[#4字下げ]一三、〇〇〇トン(〃)
[#この行1字下げ]サイザル(マニラ麻代用)ハ
[#4字下げ]三、〇〇〇トン(〃)
[#この行1字下げ]玉蜀黍《とうもろこし》(飼料、食糧)ハ
[#4字下げ]二〇、〇〇〇トン(〃二六%)
[#この行1字下げ]工業塩ハ
[#4字下げ]七、〇〇〇トン(〃八%)
[#この行1字下げ]砂糖ハ
[#4字下げ]二〇、〇〇〇トン(〃二五%)
右ノ中生ゴム、錫、ボーキサイトハ米国ニトリ極メテ痛手トナル物資ト存ゼラレマス。
[#この行1字下げ](右に加えて次に述べる石油を考えると、日本にとっては垂涎の物資ばかりである。持たざる国日本は他国の物資を取得して富強を図ることを、正当化した。それが東亜新秩序論であり、大東亜共栄圏構想であった。共栄などは、しかし、あり得なかった。植民地的収奪がその目的であった。収奪を観念的に美化し、自己催眠をかけるために八紘一宇が唱えられたのである。)
第七ニ、南方作戦実施ノ場合ニ於キマスル石油ノ総供給量ハ、第一年八五万| 竏 《キロリットル》、第二年二六〇万竏、第三年五三〇万竏デアリマシテ、之ニ国内貯油八四〇万竏ヲ加ヘ需給ノ見透ヲ付ケマスレバ、第一年二五五万竏、第二年一五万竏、第三年七〇万竏ノ残額ヲ有スルコトトナリ、辛ウジテ自給態勢ヲ保持シ得ルモノト存ジマス。
航空燃料ニ就キマシテハ其ノ消費状況ニ依リマシテ、|第二年若クハ第三年ニ於テ若干危険ヲ感ズル《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》コトト予想セラレルノデアリマス。
即チ大本営連絡会議ニ於キマスル陸海軍協同研究ノ蘭印占領ニ伴フ石油ノ需給ニ依リマスト、
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(一)蘭印ヨリノ取得見込量ハ、
第一年三〇万竏、第二年二〇〇万竏、第三年四五〇万竏デアリマシテ、其ノ内訳ハ次ノ通リデアリマス。
[#ここで字下げ終わり]
ボルネオ
第一年 第二年 第三年
海軍 二〇万竏 六〇万竏 一五〇万竏
陸軍 一〇万〃 四〇万〃 一〇〇万〃
スマトラ
南部 ―― 七五万竏 一四〇万竏
北部 ―― 二五万〃 六〇万〃
合計三〇万竏 二〇〇万竏 四五〇万竏
(二)航空揮発油ニ関シマシテハ、
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
(イ) 生産見込ハ、
第一年七・五万竏、第二年三三万竏、第三年五四万竏。(内訳略)
(ロ) 十六年十二月一日現在ノ貯油量ハ、陸海民ヲ合セ一一一万竏デアリマス。
(ハ) 所要量及各年ノ残ハ、
損害ヲ第一年一〇万竏、第二年五万竏、第三年二万竏ト仮定セルモノヲ含ミ、所要量ヲ推定シマシタモノハ、
[#ここで字下げ終わり]
第一案 第二案
第一年 八〇万竏 七〇万竏
第二年 七五万〃 六五万〃
第三年 六二万〃 六二万〃
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
デアリマス。
従ヒマシテ各年共二ケ月程度ノ保有、二〇万竏ヲ考慮致シマスト、需給ハ次ノ通ニ相成ルノデアリマス。
[#ここで字下げ終わり]
第一案 第二案
第一年 残一八万竏 残二八万竏
第二年 不足四四万〃 不足二四万〃
第三年 不足二八万〃 不足二八万〃
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(三)液体燃料全般ト致シマシテハ、
民需各年一四〇万竏トシ、之ニ軍需ヲ加味シマシタモノハ、第一年五二〇万竏、第二年五〇〇万竏、第三年四七五万竏デアリマス。
之ニ対シ供給可能量ハ、貯油及生産竝ニ蘭印取得見込ノモノヲ加ヘ、最|少《ママ》保有量一五〇万竏ヲ控除致シマシタモノハ、
第一年七七五万竏トナリ差引残二五五万竏、
第二年五一五万竏トナリ差引一五万竏、
第三年五四五万竏トナリ差引残七〇万竏ト相成ルノデアリマス。
右ノ場合国産ハ第一年二五万竏、第二年二〇万竏、第三年三〇万竏トシ、人造石油ハ第一年三〇万竏、第二年四〇万竏、第三年五〇万竏ト見込ンダノデアリマス。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](読者は煩雑な数字の羅列に辟易《へきえき》されたであろう。けれども、各種重要品目中、石油は日本が開戦するか否かを決めた最大の要素であった。右の煩雑な数字の羅列の涯に、日本は開戦を選び、数百万の人命が失われ、国内各地の中枢的都市は灰燼《かいじん》に帰したのである。当時、日本が必要とした石油の供給先は、主として米国であった。米国は、既述の通り、日本の南部仏印進駐への報復として、石油の全面禁輸を断行した。日本は、しかし、武力政策の転換を図ろうとしなかった。貯蔵石油を消費してしまわないうちに蘭印を占領して石油を取得し、それによって対米英蘭支戦争を継続しようとしたのである。鈴木企画院総裁が右に述べた各種数字は、長期戦敢行のための薄弱な基礎なのであった。)
鈴木は、開戦の場合の物的国力判断について、次のように要約している。
之ヲ要シマスルニ、支那事変ヲ戦ヒツツ更ニ長期戦ノ性格ヲ有シマスル対米英蘭戦争ヲ行ヒ、長期ニ亘リ戦争ノ遂行ニ必要ナル国力ヲ維持増強致シマスコトハ中々容易ナコトデナク、万一天災等不慮ノ出来事デモ起リマスレバ、益々其ノ困難ノ度ヲ増シマスコトハ明ラカデアリマス。|然シ緒戦ニ於ケル勝利ノ確算ガ充分デアリマスル故《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、此ノ確実ナル戦果ヲ活用シ、他方一死以テ困難ニ赴カントスル国民志気ノ昂揚ヲ、生産各部面ハ勿論、消費其ノ他各般ノ国民生活ノ部面ニ展開致シマスルナレハ、|座シテ相手ノ圧迫ヲ待ツニ比シマシテ国力ノ保持増強上有利デアルコトト確信致ス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ノデアリマス。
御前会議列席者たちは、開戦を有利とする主観的楽観的な物的国力判断を聞かされた上で、次には戦争に訴えず臥薪嘗胆《がしんしようたん》をする場合の重要物資並に内外情勢の見通しに関する悲観的な判断を聞かされるのである。
70
鈴木企画院総裁の説明
第一ニ、自給圏(日・満・支)物資ハ社会情勢ヲ政府ノ企図スル処ニ誘導スルニ於キマシテハ相当程度有利トナルモノト存ジマス。
即チ海上輸送力ハ必然的ニ増大(作戦による陸海軍徴傭船舶を必要としないから)シ、徴用船ヲ常時二一五万総トント仮定致シ、造船ヲ第一年五〇万総トン、第二年七〇万総トン、第三年九〇万総トン(開戦の場合の三ケ年一八〇万総トンに対し、ここでは三ケ年二一〇万総トンとなっている)ト想定シマスレバ、民需月平均輸送量ハ第一年五七七万トン程度、第二年七七七万トン程度、第三年八九七万トン程度ト相成ルノデアリマス。
之ノ輸送量ヲ基礎ト致シマスレバ、鋼材ハ第一年四八二万トン程度、第二年四九七万トン程度、第三年五二〇万トン程度ト予想サレルノデアリマス。
之ト同様ニ其ノ他物資モ相当良好トナルノデアリマス。
第二ニ、第一補給圏物資(仏印、泰)ノ取得ハ、英米「ブロック」ノ策動圧迫ニ依リ取得ニ困難ヲ加重スル公算ガ大トナルモノト存ジマスガ、其レニモ拘ラズ、第一補給圏ニ期待シマス所要物資、数量ハ必ズ獲得スル必要ガアルノデアリマス。
茲《ここ》|ニ戦ヲ避ケントスルモ戦ニ進ムノ危険ガ包蔵セラル《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ルモノト存ゼラルルノデアリマス。
即チ「タングステン」鉱、錫鉱、生「ゴム」、米、玉蜀黍、燐鉱石、松脂《まつやに》、生漆、牛皮、植物油脂等ハ、国内需給上必ズ獲得ヲ要スルモノデアリマスガ、|英米ノ圧迫ニヨリ取得困難トナル惧レ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽおそヽ》ガアルノデアリマス。(傍点引用者)
[#この行1字下げ](臥薪嘗胆していては英米の圧迫を蒙って南方資源を取得できなくなるから、戦争手段に訴えて「国難」を打開するという考え方が、当時の日本人の多数によって支持されていたことは事実である。国民は官製の教育宣伝によってその考え方へ馴致《じゆんち》されていたのである。
[#この行1字下げ] 英米は、しかし、日本の経済的必要を経済的理由によって圧迫したのではなかった。日本が昭和六年〈一九三一年〉の満洲事変以来経済的必要の充足を武力侵略によって図ってきたことを、英米が決して正当とは見なかったに過ぎない。前にも触れたことだが、日本には、英米と雖《いえど》も二百年、百年、五十年前には他国を侵略したではないかと非難する権利がある、と考えていた。それは確かに非難に値することであった。それは、しかし、それはそれ、これはこれなのである。
[#この行1字下げ] 昭和十六年〈一九四一年〉の時点では、英米の既往は謂《い》わば歴史的時効に属していた。英米の既往の悪事を以て日本の現在の悪事と交換することは、日独伊同盟三国以外の諸国によっては認められることでなかった。
[#この行1字下げ] 先に引用した十月二十八日の海軍首脳〈沢本次官、岡軍務局長、伊藤軍令部次長、福留第一部長〉の会談で、沢本次官が言ったことは想起されるに値するであろう。
[#この行1字下げ] 彼はこう言っている。
[#この行1字下げ]「……従前の方途〈開戦を指す〉に進むを可とするや、又は心|気《ママ》一転して|数年来の国策より考ヘ直すを可とするやの問題なり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|今迄間違って居たから之を続行する《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と云ふことは承服出来ず……」(傍点引用者)
[#この行1字下げ] 惜しむらくは沢本流の良識は支配的勢力たり得なかった。いつの場合でもそうであるのかもしれない。大事を決する際、慎重論は退嬰|怯懦《きようだ》に聞え、勇ましげな発言が大勢を主導する。特に軍人の場合においてそうであった。
[#この行1字下げ] 十一月五日の御前会議に至るまでの経過において、企画院に代表される物的国力判断が和戦の決定に占める役割は、きわめて大きかったと言わなければならない。開戦への経緯を跡づけてみて、企画院総裁の匙《さじ》加減一つではなかったかという観さえある。
[#この行1字下げ] 先に引用した戦後の海軍将官の座談会では、死児の齢を算《かぞ》えるに似ているが、その辺のところに触れている。
[#この行1字下げ]「企画院は……参謀本部の御用機関の観ありき」〈竹内馨少将〉
[#この行1字下げ]「嶋田(海相)は、鈴木(企画院総裁)はどんな数字でも出して来るといいしことあり」〈吉田善吾大将〉
[#この行1字下げ]「……強き参謀本部バックせしため、企画院は種々その数字をメイク・アップせりと思わる」〈沢本頼雄総大将〉
[#この行1字下げ] 御前会議の席上、鈴木企画院総裁の説明を聞いた人びとは、鈴木の説明以前に厳然と実在する数字が物語るところに関して、甚だ晦《くら》かったか、さして関心を抱かなかったかの、いずれかであったと思われる。)
鈴木の説明はつづいている。次は、臥薪嘗胆する場合の最も重要な液体燃料に関してである。
石油の問題は常に和戦決定の核心をなしていた。石油がないから、貯蔵があるうちに戦争を発起して、産油地帯の占領を図るべきなのか、戦争に訴えずに平和的手段によって石油を取得するためには、日本は何をしなければならないか。
問題の後者はいつも考慮の外に置かれてきた。日本は、十年前から、世界の孤児となる途を敢て選んできたのである。したがって、「座シテ相手ノ圧迫ヲ待ツ」ことはできないという考え方が、軍部・政界の先入主となっていた。
十一月五日の御前会議では、鈴木企画院総裁が臥薪嘗胆する場合の石油問題に関して、次のように説明した。
第三ニ、国内「ストック」特ニ液体燃料ニ重大ナル欠陥ヲ生ジ、一方国防安全感ヲ確保スルニ必要ナル液体燃料ノ品種及数量ハ、人造石油ノミニヨリマシテハ之ガ生産|殆《ほと》ンド不可能ト存ズルノデアリマス。
即チ原油トシテ之ヲ見マスルトキ、国産ヲ第一年三六万| 竏 《キロリットル》。第二年四〇万竏、第三年四四万竏程度トシ、人造石油ヲ各種条件可能ノ限度ヲ勘案致シマシテ合理的建設ヲ為《な》シマス時、第一年三〇万竏、第二年五〇万竏、第三年七〇万竏ト推定致サルルノデアリマス。(軍備増強ヲ為シツツ進ムル関係上資材労務等ノ配給上及技術上)
[#この行1字下げ](右の括弧内に見られるように、この場合の臥薪嘗胆は故事に倣《なら》って他日の対米報復を期してのことであるから、軍備増強が主題となっている。戦争国策に替えて平和国策を採ろうというのではなかった。)
鈴木総裁の説明がつづいている。
民需ヲ一八〇万竏ト見積リ、民需不足分ヲ軍ヨリノ支援ニ俟《ま》ツモノト致シマスレバ、第三年迄ハ辛ウジテ民需ヲ保チ得ルモノト考ヘラレマス。此ノ場合軍ニ於テモ第三年末ニハ需給困難トナルモノト想像サレルノデアリマス。
右ハ原油ノ概念的数量トシテ見タ場合ノモノデアリマスガ、更ニ之ガ品種ニ就《つい》テ検討致シマスト、其ノ不均衡ヲ来シ、民ノ灯油、普通機械油、高級機械油、「ディーゼル」重油ハ需給困難トナリマス。
之等ノ不足ヲ人造石油工業ニ依リ解決致シマスコトハ(技術的現状に鑑《かんが》み)、極メテ至難デアリマシテ殆ンド不可能ニ近ク、第四年ニ至リマスレバ施ス術ナキニ至リマスノヲ惧《おそ》レルノデアリマス。
[#この行1字下げ](戦争政策を平和政策に転換することなく、ただ臥薪嘗胆して世界に孤立することをつづけるならば、右のように「施ス術ナキニ至」るのは当然であった。鈴木はそれを戦争必要の已《や》むなき理由として挙げたのである。)
今人造石油工業ヲ五二〇万竏増設致シマス場合ニハ、鋼材二二五万トン、「コバルト」一、〇〇〇トン、石炭三、〇〇〇万トン、資金三八億円(仮りに当時の一円を現在の千円とすれば、三兆八千億円となる)、石炭労務者三八万人、最短建設期間トシテ低温乾溜工場約六ケ月、合成、水添工場約二ケ年ヲ要スルノデアリマスカラ、全工場ノ完成迄ニハ三ケ年以上ヲ要スルノデアリマス。
[#この行1字下げ](科学技術の立ち遅れは、日本の軍国主義に特徴的なことであった。政治・経済・軍事のすべてにわたってそうである。石油産出量のきわめて少い日本では、石炭液化の必要は早くから注目されていたが、その工業化は遅々として進まなかった。軍事的に直ぐ役に立つことしか重要視されなかった。時間と費用のかかる研究などは政治的配慮の片隅にしか置かれなかった。それが俄《にわ》かに焦眉の急務となっても、間に合うはずがないのである。)
以上ノ条件|竝《ならび》ニ之ガ完成ニ必要デアリマスル国内工作力、特ニ高圧反応筒、管等ノ製造能力等ヲ仔細ニ検討致シマスナラバ、短期間人造石油ノミニヨリ液体燃料ノ自給自足ヲ確定致シマスコトハ、殆ンド不可能ニ近ク、強権ニ依リマス場合デモ少クトモ七年程度ヲ要スル見込ト相成リマス。
従テ人造石油ニノミ依存シテ国策ヲ進メマス場合ニハ、其時期ニ於テ国防上ノ重大欠陥ヲ来スコトトナリマシテ、今日ノ如キ世界戦乱時代ニ於キマシテ而《しか》モ支那事変ノ遂行ニ進ミツツアル以上、頗《すこぶ》ル危険ト存ズルモノデアリマス。
第四ニ、重要戦略物資ニ不均衡ヲ来シ、未完成ノ軍備、生産拡充ノ状態ヲ累加スルモノト認メラレマス。
[#この行1字下げ](これは、南方諸地域を侵略占領すれば解消する問題である、ということの裏返した表現である。その昔、満洲を取れば、人口|稠密《ちゆうみつ》、資源欠乏の日本の問題は解決するという「満洲生命線論」が日本全土にみなぎったことにきわめて近似している。)
第五ニ、国防力ノ維持増強ニ必要ナル生産確保ノ為《た》メニハ、人心ノ統一ヲ期シマスガ為ニ異常ノ努力ヲ要シマスルガ、一歩ヲ誤レバ国論ノ分裂ヲ来ス惧レアルコトヲ憂慮致サルルノデアリマス。
[#この行1字下げ](開戦に踏み切って国民の「愛国心」を煽れば「人心ノ統一ヲ期」することは、確かに容易である。だが、「一歩ヲ誤レバ」国を破る公算が大であるということの「憂慮」は故意に蔽《おお》い隠されている。「国論ノ分裂」というのは、主戦論の陸軍が、戦争回避の場合には何をするかわからないという脅迫と受け取れなくはないことである。)
第六ニ、米国ノ戦備充実ニ必要ナル資源ノ獲得ヲ自由ニ委《まか》スル結果、彼我ノ国防力ニ格段ノ差等ヲ生ズル事ト相成ルコト明カデアリマス。
[#この行1字下げ](この第六は、第五と入れ替って、第四に対置されるべきことであろう。日本の指導層は米英に対する被害妄想が痼疾《こしつ》化していた。それというのも、日本は十年来、武力政策を固執しつづけて、世界の反感と憎悪の前に孤立していることを意識していたからである。そもそもは、十年前の陰謀による満洲占領の成功に端を発している。当時〈一九三一年〉、米国は世界恐慌による深刻な不況から脱しきれていなかった。国内事情の恢復が急務で、太平洋彼岸の出来事に強い関心を示す余裕はなかった。石原莞爾を主役とする日本の陰謀はタイミングがよかったのである。日本は、俗語でいえば、味をしめたのである。以来、日本は武力膨脹政策が国策の本命となった。しかし、十年前に通用したことは、十年後には通用しなくなったのである。それを無理にも適用させようとして抱え込んだ悩みが、列国を相手に開戦するか否かの問題であった。)
鈴木企画院総裁は、締め括りとして次のように言っている。
之ヲ要スルニ現状ヲ以テ進ミマスコト(開戦しない場合のこと)ハ、国力ノ物的部面の増強ノミニ就テ見マスルモ、頗ル不利ナルモノアルヤニ察セラルルノデアリマス。(以上『杉山メモ』)
物がないから戦争を起して物資を取得するという考え方に立てば、鈴木の説明は完璧に近かったといえるかもしれない。ここでは、破壊的なことが建設的に聞え、無謀な企てが積極策に見えるのである。
鈴木総裁のあと、賀屋大蔵大臣、杉山参謀総長、永野軍令部総長と説明がつづいてから、恒例による原枢密院議長と政府・統帥部との間の質疑応答に移った。
質疑応答を見る前に、十一月二日朝まで開戦同意を留保していた賀屋大蔵大臣の説明のなかに見逃せない部分があるので、そこだけ引用記録しておく。
「南方作戦地域ハ従来各種ノ物資ヲ相当ニ輸入シ居ル処、我方ニ於テ之ヲ占領シタル場合、之等ノ輸入ハ杜絶《とぜつ》スベク、従テ其ノ経済ヲ円滑ニ維持スルガ為ニハ我方ニ於テ物資ノ供給ヲ為スヲ要スベキモ、我国ハ其ノ為ニ充分ノ余力ナキヲ以テ、|相当長期ノ間現地一般民衆ノ生活ヲ顧慮スルノ暇無ク《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|当分ハ《ヽヽヽ》所謂《いわゆる》|搾取的方針ニ出ヅルコト已ムヲ得ザルベシ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ト考ヘラル」(傍点引用者)
日本の謂《い》う「東亜新秩序」「大東亜共栄圏」「聖戦」の実質は、あらかじめ右のようなものとして予定されていたし、その予定状況のプログラムはなんら準備されていなかったのである。人あるいは言うであろう。国の存亡を賭けての戦争であるから、右のような事態はやむを得ないことである、と。これは、しかし、自己の存在のみあって、他者の存在を認めぬ者の弁である。
71
十一月五日、御前会議の質疑応答。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
原枢相 本日ノ御前会議ノ議題ハ九月六日ノ御前会議決定ノ延長デアリ、其ノ実行デアル。
九月六日ノ決定ハ第一ニ日米交渉ノ進展ニ関スルコトデアツタガ、之カ妥結ヲ見ザルハ遺憾ナリ。交渉ノ内容ニ就テハ予ハ全然承知シアラス。本日|茲《ここ》ニ提示サレアル此ノ文書タケデハ分ラヌ。先ツ以テドウイフ点カ本案ノ成立前迄ニ出来タカト云フコトヲ外相ニ伺ヒ度イ。
東郷外相 日米交渉ハ四月ニ提案アリ。其後六月二十一日ノ修正案カ出来タ。其内容ハ各国ノ前例ニ見サル文字ヲ使用シアリテ、普通ノ条約ト異ナル所多々アリ。茲ニ詳細ハ省略スルガ……
枢相 外交上ノ技術ハ除外シテ、ドウイフ点カ重要デ、ドウイフ点ハハツキリ話合カツイタカツカヌカ、其現況ヲ知リ度。
外相 理論的ノコトハ略ス。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
1 欧洲戦争ニ対スル両国ノ態度ニ関シ拡大防止ノ点ハ大体一致シアリ。尚之レニ就キ米ハ自衛権トシテ独ニ対シ武力ヲ発動シ、日本ニ対シテハ太平洋方面ニ武力行使ヲセサルコトノ約束ヲ希望シアルカ如シ。
2 日支間ノ和平問題ニ関シ
本件ニ就テハ駐兵撤兵問題ニ於テ一致セズ。日本ハ所要地域ニ所要ノ期間駐兵スルノテアル。其他ハ其条件ノ下ニ其期間内ニ撤兵スルノテアル。然《しか》ルニ米側ハ全面撤兵ノ声明ヲナスベシト主張シ、我ハ之ニ応ゼラレヌ。
[#ここで字下げ終わり]
(駐兵問題に関しては、十一月五日前後の外交事情を説明しておく必要があるように思われる。)
東郷外相は、日米交渉打開のために、十一月三日夜半、来栖《くるす》三郎前駐独大使に特使としての渡米を依頼した。来栖特使は十一月五日〈御前会議の日〉に出発、十五日ワシントンに到着した。
それより先、十一月四日、駐米野村大使に対して既述の日米交渉甲乙両案が送られたが、米国側はその案文の暗号解読をした。その段階で、誤訳とまでは言いきれないが、文脈に微妙な変化を生じて、米側の心証を害する一因を作った。
東郷外相の野村大使に対する訓電はこうであった。(甲案)
「……駐兵所要期間ヲ明示スルニ於テハ却《かえ》ツテ事態ヲ紛糾セシムル惧アルニ付、此ノ際ハ飽ク迄所要期間ナル抽象的字句ニヨリ折衝セラレ、無期限駐兵ニ非ザル旨ヲ印象ヅクル様御努力相成度シ」
右が、米側の暗号解読では、次のようになった。
「貴大使は、無期限駐兵は永久駐兵を意味しないと先方に印象づけるよう、婉曲《えんきよく》な言いまわしで、できるだけどっちつかずの巧みな言葉を使用するよう希望する」
乙案については、「本案ヲ提出スル時期ニ付テハ予メ請訓アリタシ」と但し書きつきで打電されたが、十一月四日東郷外相発電中には、乙案備考にある南部仏印より撤兵の項は地域を明記していなかった。(外務省『日本外交年表竝主要文書』下)したがって、米側の乙案解読にもその部分が欠落している。東郷外相としては野村大使の独断提案を警戒しての処置であったが、解読によって日本側の手のうちを読んでしまっている米国にとっては、日本が小策を弄《ろう》したとしか見えなかったのである。
十一月五日、御前会議の当日、東郷外相は野村大使に対して、甲案による交渉調印を遅くも十一月二十五日までに完了することが絶対必要であると訓電した。
駐兵撤兵問題は日米交渉における癌であった。早期に切除しない限り、症状は悪くなるばかりであった。
東郷外相の原枢相に対する説明がつづいている。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
3 太平洋地域ニ於ケル両国ノ活動ニ関シテハ、米側トシテハ支那ヲモ含メテ太平洋全体ニ於ケル無差別通商ヲ要求スルニ対シ、日本トシテハ支那ニ於ケル資源獲得等ノコトモアリ、無条件テハ受ケ入レラレヌ。而シテ米側ハ本原則ハ世界一般ニ行ハルベキモノトナシアルカ故ニ、之カ出来ルナラト云フ前提デ話ヲ進メテ居ル。
4 太平洋政治問題ハ双方共ニ武力進出ヲセザルコトニシアリ。之ニ就テハ仏印ノ撤兵ガ問題デアツテ、之ハ話ハツキアラス。
以上ハ日米間交渉ノ大体ナリ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東条総理 外相ハ前内閣時代ノコトニツキ不明ノコトモアルヘキカ故ニ総理トシテ補足ス。
十月二日受取ツタ米側ノ回答ハ、要スルニ四原則((1)領土保全主権尊重(2)内政不干渉(3)無差別通商(4)武力的現状打破不承認)ヲ日本ニ強要セントス。四原則ハ九ケ国条約ノ集約デアル。(1)ヲ容認セバ、支那事変ハ固《もと》ヨリ満洲国ヲ承認シアラザルガ故ニ之レ迄触レテ来ル。(2)ヲ認ムレバ、支那南京政府トノ取極例ヘハ通商通信等ノ日華間ノ条約等モ廃サレル危険性アリ。(3)ハ一般通念トシテハ当然ト見ラレルカ如キモ、帝国ノ自存自衛ニ触レテ来ルナラハ之ヲ許スコトハ出来ヌ。英米ダツテサウダ。之ニ依リ日支条約第六条ノ隣接地帯ノ権利ヲ変更セシメラレルコトニナル。(4)ニ就テハ南西太平洋デハマー認メテモヨイト思フガ、支那ノ如キ国防上竝資源ノ獲得上緊要ナル地域ハマケラレヌ。米ハ之ヲ認メロト云フノデアル。日本ハ之ヲ認メ得ズ。何ントナレバ|満洲事変及支那事変ハ本主旨ニ基ク《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》覊絆《きはん》|ヲ脱スル為ニヤツテ来タノダ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。新外相蔵相ノ如キハ此原則ヲ認ムルコトハ大変ダト云フテ居ル。前内閣ハ日米交渉妥結ノ為ニ譲ルヘカラサルヲ譲ツテ来タノデアル。十月二日ノ米提案ハ言辞ハ美ナルモ其精神及態度ニハ変化ナク、一歩モ譲ラヌ。唯日本ニ対シテハ強要シアルノミナリ。扨《さて》具体的ノ重要点ハ何処カト云ヘバ、外相ノ述ベタ如ク(一)欧洲戦態度ニ対シ彼ハ「日本ノ態度ヲ多トス」、且《かつ》附加シテ「……日本側ガ更ニ検討スルナラハ更ニ有益ナルヘシ」、即チ日本ノ三国条約ノ態度ヲ明ニセヨトノ注文ナリ。(二)四原則ノ容認ト局地的適用ハ重大問題ナリ。(三)更ニ重大問題ハ駐兵撤兵ノ問題ナリ。彼ノ云フノハ撤兵本位デ之ヲ中外ニ宣明シ、駐兵ハ蔭ノ約束デハトノコトナリ。惟《おも》フニ|撤兵ハ退却ナリ《ヽヽヽヽヽヽヽ》。|百万ノ大兵ヲ出シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|十数万ノ戦死者《ヽヽヽヽヽヽヽ》、遺家族《ヽヽヽ》、負傷者《ヽヽヽ》、|四年間ノ忍苦《ヽヽヽヽヽヽ》、|数百億ノ《ヽヽヽヽ》国帑《こくど》|ヲ費シタリ《ヽヽヽヽヽ》。|此ノ結果ハドウシテモ之ヲ結実セサルヘカラス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。若《も》シ日支条約ニアル|駐兵ヲヤメレバ《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|撤兵ノ翌日ヨリ事変前ノ支那ヨリ悪クナル《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|満洲朝鮮台湾ノ統治ニ及フニ至ルヘシ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。駐兵ニヨリ始メテ日本ノ発展ヲ期スルコトヲ得ルノテアル。之レハ米側トシテハ望マザルトコロナリ。而シテ帝国ノ云フテ居ル駐兵ニハ万々無理ナル所ナシ。両国(日米)巨頭会談ニ就テハ、米側トシテハ大キナ問題ニ関シ話ガツイテカラヤラウデハナイカ、日本ハ大筋ヲ巨頭デキメ様デハナイカトテ、意見一致セズ。(傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
東条は雄弁であった。だが、彼が所信を正当化しようとすればするほど、日本軍国主義の積悪は弁護の余地のないものとなる。
「百万ノ大兵ヲ出シ」云々は、日本が余儀なく行なったことではない。日中戦争発端からの経過を見ればわかることである。明らかに侵略の目的をもって日本がみずから事変を拡大した結果であった。
「四年間ノ忍苦」というが、それとは比較にならぬ苦痛と損害を、みずからの母国において外国である日本から蒙ったのは、中国民衆であった。日本の謂う東亜新秩序とは、米英の勢力を東亜から駆逐して、東亜の支配権を日本が独占するということにほかならなかった。「満洲事変」「支那事変」を重ねてきた結果、「支那」だけはどうあっても日本の自由にする、これが駐兵に固執する理由であり、それがまた破局をもたらす因であった。
十一月五日の御前会議での質疑応答がつづいている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
枢相 唯今ノ説明デ甲案乙案ノ内容ニ就《つい》テ予備知識ヲ得タ。以下細部ニ就キ質問スヘシ。
駐兵問題ノ(ロ)「平和解決条件中ニ之ヲ包含セシムルコトニ異議ヲ有シ」トハ、日支和平条約中ニ駐兵ヲ入レルコトハ不可ト云フノカ。
総理 然《しか》リ。ツマリ撤兵本位主義デアリ、条件中ニ駐兵ヲ入レルコトハ不同意ナノテアル。
枢相 撤兵ヲ書イテ、駐兵ハ支那ト話セヨト云フノカ。
総理 米側トシテハ駐兵ハ蔭ノモノトシテ、支那ト話シロト云フ位ニ考ヘテ居ルラシイ。
枢相 南京(汪政権)ト結ンデアル条約ハ米ハ知ツテ居ルト思フノダガ、米ハ知ラナイデ日本ニ云フテ来テ居ルカ。ソレトモ知ツテ日本ヲ妨害スル積リカ。
総理 予ノ判断トシテハ米ハ知ツテ居ルト思フ。駐米ノ胡、宋子文等カ躍動シアレバナリ。先年|桐工作《ヽヽヽ》ノ場合ノコトニ鑑《かんが》ミルモ此ノ二人ハ知ツテ居タ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](右の傍点を付した桐工作というのは、御前会議の本題からは少し外れるが、日支事変を拡大しておきながら、これをもてあました日本が、秘かに対重慶和平を図ろうとした一例である。このときも、問題の難点は満洲国の承認と内蒙・華北の駐兵問題であった。
[#この行1字下げ] 桐工作は、自称宋子良〈宋子文の弟〉を重慶への窓口とする和平工作の秘匿名称で、一九四〇年〈昭和十五年〉はじめから秋までかかって、結局失敗に終った。
[#この行1字下げ] 少し長くなるが、解説の概要を加えることは無益ではないと思われる。
[#この行1字下げ] 日支事変の武力的解決に行きづまった日本軍部は、中央でも、出先の総軍〈支那派遣総軍〉でも、昭和十五年中に、解決に持ち込みたいと念願する点では一致していた。激動する世界情勢に対応するためには、徒《いたず》らに中国大陸で戦力を消耗するの愚をつづけるべきではなかった。矛《ほこ》を収めて国力の培養を急がなければならぬ時期に来ていたからである。
[#この行1字下げ] 日本は重慶に対抗する勢力として汪兆銘一派を担ぎ出したが、それが意外に無力だとわかっても、担ぎ出した手前捨て去ることもできず、多くを期待することはなおのことできず、日支事変早期解決の必要は刻々に深刻になり、日本は重慶との直接和平工作を交戦しつつ考えざるを得なくなっていた。
[#この行1字下げ] そうしたときに現われたのが、自称宋子良である。
[#この行1字下げ] この宋子良、実は贋物だったのだが、宋子良として通用する限りでは、宋子文の弟で、元広東省財政庁長であり、このときには西南運輸公司主任として香港に駐在していた。地位は高くないが、蒋介石夫人宋美齢や駐米大使宋子文につながるだけでも日本側からすれば接触に値する人物であった。
[#この行1字下げ] 香港駐在の鈴木卓爾中佐が、香港大学教授張治平を介して宋子良に会見を申込んだのが昭和十四年十二月初旬である。このときには、宋子文の承認を必要とするという理由で断わられたが、同月下旬、会見は成立した。これが接触のはじまりである。以後、日本側では総軍の今井大佐、参謀本部の臼井大佐が折衝に加わり、この工作は桐工作と名づけられた。
[#この行1字下げ] 宋子良は、和平討議の予備会談として日中双方三名ずつの代表による円卓会議を提案し、重慶政府がこの会談に期待を寄せており、代表には委任状を携行させると云うので、日本側はこれこそ対重慶直接交渉の本命と考えるに至った。
[#この行1字下げ] 事実、中国側代表として出て来た陳超霖と章友三は張群の証明書を携帯していたが、宋子良には委任状などなかった。
[#この行1字下げ] 予備会談の最終日になって、中国側は蒋介石からの訓令が到着したからと称して、会談の覚書を重慶に持帰って報告することとして会談を終った。終ったのは三月十日〈昭和十五年〉である。中国側代表は重慶に帰還した。日本側はその回答を待った。
[#この行1字下げ] 一方、汪兆銘の一党は、三月十七日、新政権組織のために上海から南京へ乗り込んだ。
[#この行1字下げ] 汪政府の成立は三月二十六日の予定であった。汪政権が成立してしまっては、重慶との直接交渉はきわめて困難になる。重慶からの回答は、しかし、間に合いそうもなかった。
[#この行1字下げ] 日本側は、やむなく、周仏海を説いて、新政府樹立を三月三十一日まで延期させた。
[#この行1字下げ] 三月二十四日、重慶から鈴木中佐に連絡が届き、正式会談を四月十五日以後に延期したいと申入れてきた。
[#この行1字下げ] 重慶は日本と汪政権との間に混乱を策したのかもしれなかった。
[#この行1字下げ] 日本は、汪政権樹立をこれ以上延期することは出来ないとして、三月三十日に汪政権を発足させた。
[#この行1字下げ] 汪政府成立後、四月十一日になって宋子良が重慶から香港に出て来て、再び予備会談の開催を提案した。
[#この行1字下げ] 第二次予備会談は六月四日からマカオでひらかれた。代表は双方とも前回同様だが、宋子良は今度は宋子傑という名に変っていた。
[#この行1字下げ] 第二次においても、やはり、満洲国承認問題と駐兵問題が交渉の焦点になった。
[#この行1字下げ] このマカオ会談は、ちょうど、ヨーロッパで英仏軍三十万が独軍に撃破されて、ダンケルクからドーバー海峡を渡る惨澹たる撤退が行われたばかりのときにひらかれていた。
[#この行1字下げ] 日本では、この年の四月にはじまったドイツの電撃作戦の驚嘆すべき成果に見惚れて、強烈な親独熱が再燃していた。盲目的な強硬論がこれ以後主導権を握るのである。
[#この行1字下げ] マカオ会談では、日本は駐兵権に頑強に固執した。
[#この行1字下げ] 中国側代表は会談行きづまりを打開するために、蒋介石派遣の代表と汪兆銘が会見して汪の処遇問題を解決し、ついで蒋介石と板垣総参謀長〈総軍〉との会談をひらくことを提案した。双方協議の結果、蒋・汪・板垣の三者会談を行なって問題を一挙に解決しようということになった。
[#この行1字下げ] 重慶側は、しかし、日本が和平交渉に熱意を示せば示すほど、態度が不鮮明になった。
[#この行1字下げ] この期間を別の側面から見ると、七月十七日にビルマルートが英国の手によって封鎖されてから、重慶は抗戦物資の輸送が中絶して、一時的にもせよきわめて困難な時期に逢着していたのである。対日和平のかけひきは、この時期、重慶にとって必要であったであろう。
[#この行1字下げ] ビルマルートの再開は十月十八日。中国側はそれを予定していたかのように、九月十九日、香港の鈴木中佐に宋子良が回答を伝えた。
[#この行1字下げ]「……重慶の重要幹部会議で、満洲問題及び日本軍の一部駐兵問題に関し、日華双方の合意が遂げられぬ限り、当分長沙会談を見送ることに決定された」というのである。
[#この行1字下げ] 宋の意見は、右の二問題が和平実現の癌であるから、日本側が譲歩する以外和平実現の見込みなし、であった。
[#この行1字下げ] 同じころ、東京では、ドイツ公使スターマーと松岡外相が急速に日独伊三国同盟を締結へ導いていた。三国同盟成立は九月二十七日のことである。
[#この行1字下げ] 米英に支援されている中国に対して日本が和平の議を成立させることと、英米と敵対するドイツに対して日本が軍事同盟を締結することが、同時並行的に行われて両方とも矛盾なく成立するとしたら、世界に道理は不要なのである。
[#この行1字下げ] 中国大陸にある総軍は、三国同盟締結の翌日、九月二十八日、桐工作を打切った。
[#この行1字下げ] 宋子良工作は、重慶にある蒋介石と藍衣社の首領・戴笠が指導した対日謀略工作であったが、日本が満洲国承認問題と駐兵問題を固執しなかったならば、重慶は引延しと攪乱《かくらん》を図る手に窮したかもしれなかった。)
桐工作の説明が長くなった。
御前会議の席に戻ろう。
72
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
枢相 (三)ノ無差別通商問題(米側四原則の三項の意)ノ九月二十五日案(既述)ニテ到底妥結ノ見込ナキ場合トハ。
外相 九月二十五日案デハ支那ヲ包含シアラズ。日本ノ特殊関係ニ鑑ミ支那ヲ包含サセルノハ困ル。処ガ米側トシテハ譲歩セズ。ソコデ最後案トシテ無差別ガ全世界ニ適用セラルルト云フ条件ノモトニ認メヨウトスルノデアル。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](東郷外相は既に見てきた通り、対米非戦論だが、対支権益の日本による独占の立場は失いたくないのである。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
枢相 (四)ノ三国条約ニ関シ
米ハ自衛権ニツキ勝手ダ。茲《ここ》ニ「自衛権ノ解釈ヲ濫《みだ》リニ拡大シ」トアル意義如何。
外相 案文ハ変ナ所モアルガ、ソレハ米国ノ態度ニ関スルコトデアル。
枢相 乙案ノ第三項ノ資金凍結(在米日本資産凍結)前ノ状態ニ復帰ストアルガ、資金凍結前ニ出シタモノハドウナルカ。
外相 資金凍結ノ発布ノ理由ニ就テハ日本ノ仏印出兵ガ直接ノ原因トナリアリ。之レハ事変前ノ状態ニ持ツテ行クノガヨイノデアツテ、日本トシテハ通商条約廃棄〈米側一九三九年七月二十六日廃棄通告、一九四〇年一月二十六日失効〉前ニ復スルノガ希望ダガ、不取敢《とりあえず》緩和スルノガヨカラウト思フ。備考1〈乙案の備考一――後述〉ニ在ルガ如ク条件付ナル故、米トシテモ十分ノ満足ヲ得ラレヌノデ、一先《ひとま》ツ資金凍結前迄ニ進ムト云フコトニシ、此ノコトガ出来タ後各種ニ亘リ対米交渉ヲヤラウト考ヘテ居ル。唯石油ニ就テハ凍結令前カラ出サヌコトニナツテ居タノデ、凍結前ノ量デナク、日本ガ欲スル量ヲ取ルコトニ約束シ度イ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](乙案第三項では、通商関係を資金凍結前の状態に復帰することと、米国は日本に所要の石油を供給することが記されており、備考の1には、乙案取極が成立したら、〈南部仏印駐屯中ノ日本軍ハ仏国政府ノ諒解ヲ得テ北部仏印ニ移駐スルノ用意アルコト竝支那事変解決スルカ、又ハ太平洋地域ニ於ケル公正ナル平和確立ノ上ハ前記日本国軍隊ヲ仏印ヨリ撤退スベキコトヲ約束〉することになっている。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
枢相 米国ガ通商ノ制限ヲ加ヘタノハ支那事変ノ結果デアル。凍結令ハ仏印進駐ニヨル。然ルニ日支事変ノ解決ハヤリタイノダカラ、此ノ際支那事変ヲ含メテ米ト交渉解決スヘキモノデアルト思フ。本案ノ程度デハ要求ガ低クハナイカ。尚甲、乙案デヤリ然ル後他ノ問題ヲヤルト云フノデアルカ。米側ノ本案ニ対スル態度ノ見込ハ如何。
外相 乙案ノ第三項ニアル様ナコトニナツタ当方ノ心持ヲ申上ゲル。御説ノ如ク通商条約廃棄前迄一挙ニ復帰スルノハ希望スル所ナルガ、米側ガ応ゼヌ場合ハ戦争ト云フ一大事トナル故ニ譲リ得ル限度デヤリ、之レサヘキカナイノナラバ米ハ戦争ヲヤル積リダト云フコトモ分リ、内外ニ対シ公明ナル大義名分モ立ツ。
尚全体ニ就テ質問ガアツタガ、甲案ヲ以テシテハ急速ニ話ガ出来ルコトハ見込ガツキ兼ネル。
乙案ニ就テモ話ハツキ兼ネルト思フ。例ヘバ仏印ノ撤兵ノコトデアル。又第四ノ支那問題〈乙案第四項――米国政府ハ日支両国ノ和平ニ関スル努力ニ支障ヲ与フルガ如キ行動ニ出デザルベシ〉ニ就テモ、米ハ従来承知セヌコトナノデ、承諾シナイノデハナイカト思フ。尚備考ノ2〈乙案備考の二――「尚必要ニ応ジテハ従来ノ提案(最終案)中ニアリタル通商無差別待遇ニ関スル規定及三国条約ノ解釈及履行ニ関スル規定ヲ追加挿入スルモノトス」を指す〉ニ就テモ、米国ハ日本ノ履行ヲ求メテ居ル訳ナル故中々承知セヌト思フ。|唯日本ノ言分ハ無理トハ思ハヌ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。米ガ太平洋ノ平和ヲ望ムナラバ、又日本ニ決意アルコトガ反映スレバ、米モ考フル所アルベシト思フ。唯米ニ対シ日本ヨリ武力デ強圧スルト云フコトニナルカラ、反撥スルコトニナラントモ限ラヌ。又時間ノ関係ハ短イノデアル。御決定後ニ訓電シテ交渉スルノデアツテ、十一月中ト云フコトデアル故交渉スル時間ハ二週間デアル。之レモ他方面ノ必要(統帥部の作戦的必要を指す)カラシテ已《や》ムヲ得ヌ。従テ交渉トシテハ成功ヲ期待スルコトハ少イ。望ミハ薄イト考ヘテ居ル。唯外相トシテハ万全ノ努力ヲ尽スベク考ヘテ居ル。遺憾ナガラ交渉ノ成立ハ望ミ薄デアリマス。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](東郷外相は開戦内閣閣僚中最も良識的な人物であったと思われるが、それでも日本の言分は無理とは思わぬと言ったのは、おそらく本音であったであろう。日本の十年来の武力侵略の延長上に日米国交調整の必要が生じたことは、これまで見てきた通りであるし、武力政策を全面廃棄することなく、部分的修正を施すぐらいでは交渉妥結の可能性がないことは、東郷の予見の通りであった。それでも東郷は日本の言分は無理とは思わぬ、と言うのである。
[#この行1字下げ] 東郷はこの時点でも本心は対米非戦論者であったと推測される。東郷においては、しかし、対米非戦と対支強硬とは両立し得ていたようである。日本の言分を無理と思う人物では、この時期の政局担当の椅子はまわって来なかったはずであった。東郷や賀屋の抵抗が一貫し得なかったのも、基本的にはその対中国観に理由がある。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
枢相 日米交渉ガ破裂シタ場合ノコトニツキ両統帥部ヨリ常識的ニ分ル範囲デ説明ヲ願フ。南方作戦ト云フテ戦場ハ机上ノ図面ガ全部デアルカ。作戦範囲作戦推移ノ見込如何。
杉山参謀総長 此度ノ作戦ノ目標ハ「ガム」、香港、英領|馬来《マレー》、「ビルマ」、英領「ボルネオ」、蘭領「ボルネオ」、「スマトラ」、「セレベス」、「ビスマーク」諸島、其西南ノ小島ノ航空基地デアリマス。之等地域ノ兵力ハ二十数万、飛行機八〇〇、其他印度、濠洲、|新 西 蘭《ニユージーランド》ガアリマスガ、其時機ニハ参加シテ来ルト思フ。此情況下ニ於テ海軍ト協同シテ作戦スルノデアツテ、重点ハ馬来、|比 島《フイリツピン》デアリマス。作戦ハ馬来ト比島ニ同時作戦デアリマシテ、次ニ蘭印ニ移ルノデアリマス。此ノ考ヘノ下ニ比島ハ五〇日、馬来一〇〇日、蘭印一五〇日、以上約五ケ月デ解決セントスルモノデアリマス。然シ米国艦隊ノ来攻アリシ場合、海軍ガ之ニ向フ場合、又公算ハ少シトスルモ北方ニ於テ米「ソ」ノ起ツ場合ニハ、此ノ時日ハ多少延ビルト思フ。而《しか》シ重要軍事根拠タル香港、「マニラ」、新嘉坡《シンガポール》ヲ押ヘ、更ニ蘭印ノ重点ヲ押ヘレバ、長期戦ニ堪ヘ得ルト存ジテ居リマス。
枢相 図面ニハ印度濠洲ヲ除イテアル。サウシテ此ノ地域ハ兵力二十数万、飛行機若干ト云フ事デアルガ、軍艦モアル。此ノ艦隊ヲ短期ニ撃破シ得ルカ。
軍令部総長 米ノ艦隊ヲ一〇トシ日本ハ七・五デアル。米ノ艦隊ハ四割ハ大西洋ニ、六割ハ太平洋ニアリ。英ハ非常ニ大キナモノデ来ルコトハ出来ヌト思フ。戦艦一、巡洋艦十数隻、航空若干ト思フ。戦サノヤリ方トシテハ、米ガ大西洋ヲ引キ上ゲテ来攻スル場合相当ノ日数ヲ要ス。但日本ガ南方作戦中一部ガ之ヲ邪魔スルト思フガ、決戦スルニハ少シ兵力足ラヌ。従テ大西洋兵力ヲ招致セザルベカラズ。英国トシテハ新嘉坡ヲ取ラレテハ困ルカラ、英ノ一部ガ来ルカモ知レヌ。此場合英米連合デ来ル等ノ場合モアリ。日本海軍トシテ之ニ対スルヤリ方ハ違フガ、計画ハ有スル。英米連合ニハ弱点アリ。故ニ之ニ対シ成算アリ。彼ガ決戦ヲ望ムナラバ、撃滅スルヲ得。撃滅ハスルガ、トニカク南洋作戦後長期トナルベシ。
[#ここで字下げ終わり]
日本海軍は、敵艦隊をおびき出して、これに決戦を強要し、撃滅することを作戦の基礎と考えていた。航空決戦が戦局の行方を決定すると考える者は少かった。真珠湾攻撃にせよマレー沖海戦(英戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、レパルスの撃沈)にせよ日本海軍航空隊の働きであって、海戦の様相を一変させることで先鞭《せんべん》をつけたのは日本海軍でありながら、海軍部内の大勢は依然として大艦巨砲による海上決戦に重点を置いていたのである。
原枢密院議長の質問がつづいている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
枢相 参謀総長ノ述ベタ所デハ(作戦期間が)五十日、百日ト云フコトデアルガ、現在南洋ニ居ル敵艦隊ニ対処スルニアラザレバ上陸作戦ハ出来ナイト思フガ、此点ハ如何。
軍令部総長 敵ノ艦隊中我艦隊ノ近クニ行動スル水上艦隊ハ、一時逃避スルト思フ。南洋作戦中撃滅シ得レバ撃滅シ、撃滅シ得ザルトモ大シタコトハナカルベシ。唯|潜水艦ノ如キハ制圧シヨウト思フ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|太平洋ニ現存スル敵艦隊ノ制圧ハ六ケシクナイト思フ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](傍点部分は永野軍令部総長がハワイ奇襲の成功を信じての発言であったかどうかは、はっきりしない。いずれにしても、緒戦の兵力量からみれば、日本海軍の方が優勢であるという判断は成立し得た。だが、ハワイ奇襲の成功〈成功と見るか見ないかは、戦術眼の相違に帰せられる。艦艇に多大の損害を与えはしたが、米空母を捕捉しそこねたことや、地上設備を徹底的に覆滅し得なかったことを重視すれば、真珠湾の艦艇群の損害は米国の生産力をもってすれば恢復は容易だったのである。〉があっても、「太平洋ニ現存スル敵艦隊ノ制圧」は困難であった。半年後には、圧倒的に優勢なはずの日本艦隊が、決定的な劣勢に立たされたのである。また「潜水艦ノ如キハ制圧シヨウト思フ」というのも、事実は期待はずれに終った。米潜水艦が日本沿岸に接近するには多くの日月を必要としなかったし、やがては米国が「天皇の浴槽」と呼んだ日本海においてさえ、米潜水艦群は活溌に行動するに至ったのである。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
枢相 「ソ」聯ニ就《つい》テ伺ヒマスガ、南洋ノ大部ハ百日位ニ占拠スルトノ事ナルガ、予想ニ反スルヲ一般ノ状態トス。日露戦争ノ旅順ノ攻略モ三十七年(明治)ノ夏期ニハ出来ルトノコトナリシガ、翌年一月一日に開城トナツタ。又独「ソ」戦ニ於ケル独逸ノ計画モ然《しか》リダ。我国ノ統帥部ノ計画ハ違算ナカラント思フガ、長ビイテ「ソ」聯ガ立ツタ場合ニハ、南方ノ兵力ヲ引キヌクノカ。又支那方面ハドウナルカ、此ノ点ヲ念ノ為伺ヒ度イ。
参謀総長 「ソ」ハ冬ノ間ハ大作戦ハヤリニクイ。又「ソ」現在ノ状態(独ソ戦の状態)カラ見テモ、立チ得ル公算ハ少イト思フ。米「ソ」提携シテモ冬ノ間ニ大仕事ハ出来ヌ。万一アリトスルモ「ソ」トシテハ申訳的ノ策動位ニ止マルナルベシ。之ニ対シテ冬ニ応ジ得ル準備アリ。吾人ノ最モ心配シテ居ルノハ、馬来《マレー》百日蘭印五ケ月ト考ヘテ居ルガ、之レガ長引イタ時米「ソ」聯合ノ場合ガ危険デアル。之ニ対シテハ内地ニ現存スル兵団、支那ヨリ転用スル兵力ヲ以テ善処シ得ルト思フ。
枢相 「ソ」聯ガスグ来ナイダラウト云フコトハ明瞭ダト思フ。米「ソ」聯合ノコトモ御説ノ通リト存ズ。尚伺ヒ度イコトハ「ソ」聯海軍ノ蠢動《しゆんどう》竝南洋現存ノ敵艦隊ノ為、海洋上ノ通商航海ガ妨害セラレルコトハ無視シテ可ナリヤ。「ソ」聯ノ妨害及南洋ノ敵艦ノ為ニ物資輸送等ニ影響ナキモノト考ヘテ可ナリヤ。
軍令部総長 南洋作戦中ニ「ソ」聯ガ立チ潜水艦ガ活動スルト、日本海軍ハ南洋ニ使ツテ居ルノデ、「ソ」ニ対シテ十分ナル兵力ヲ向ケルコトハ出来マセン。努メテ守勢ヲ以テ之ニ対抗シ、南洋作戦進捗ニ伴ヒ、之ニ対応シ且積極的ニ行動スル積リナリ。而シテ南洋デハ敵ノ軍艦潜水艦航空隊アリ。因《よつ》テ作戦スル以上ハ相当ノ損害ヲ受クルコトハ覚悟ノ前ナリ。而シテ南方作戦ガ主デアルカラ、之ニ力ヲ注グ。従テ相当ノ損害ヲ予想シアリ。|航空ナドハ三分ノ一乃至二分ノ一ノ損害アルナラン《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。従テ商船モ相当損害アルベシ。然シ乍《なが》ラ|海上ノ交通ハ日本ノ生命ニ関スルカラ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|保護ノ方法ハ手段ヲ尽スガ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、被害ハ年ニ相当アルト思フ。之ヲ|防護シ増補スルトシテ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|日本ノ海運ニハ差支ナシト思フ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。――(傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](緒戦の航空兵力の損害は、永野総長が予想したのよりはるかに少かった。問題は、しかし、三分の一乃至二分の一の損害を予想していて、果してそれを直ちに補充するだけの用意があったのかということである。なかったとすれば、永野の言ったことは単なる言葉でしかなかったことになる。もし損害が二分の一にも達したら、飛行機の生産はともかくとして、練度の高い搭乗員の補充は容易なことではない。戦争継続は忽《たちま》ち困難となるはずであった。
[#この行1字下げ] 開戦六カ月後、ミッドウェー海戦で日本海軍は惨敗を喫した。一級空母四隻と、機材の多数と、優秀な搭乗員の多数を一挙に失った。その甚大な損害は、それから二カ月後、八月にはじまったガダルカナル島奪回作戦に深刻な影響を及ぼさずにはおかなかった。情報の不足と、それに因る判断の不適切、日本陸軍の敵戦力に対する下算、海軍航空基地の杜撰《ずさん》な展開、兵力を逐次投入するような拙劣な作戦等のことがガダルカナル戦を日毎に惨澹たる戦況へ陥れたが、航空兵力に関していえば、日本海軍はこの作戦で人機ともに致命的な損害を蒙ったのである。永野総長が開戦前に緒戦において「航空ナドハ三分ノ一乃至二分ノ一損害アルナラン」と予想していたことに対して、これを補充するだけの用意がなかったことは明らかである。
[#この行1字下げ] 次に、永野が「海上ノ交通ハ……之ヲ防護シ増補スルトシテ、日本ノ海運ニハ差支ナシト思フ」と言ったことも、甚だしく予測が甘かったと言わねばならない。船舶被害が予想をはるかに超えたことは既述の通りで、永野総長が言っている「保護ノ方法ハ手段ヲ尽ス」という配慮は、決して十分に実施されなかったし、したがって効果をあげなかった。
[#この行1字下げ] 昭和十八年八〜九月ごろから日本の船舶被害は急増した。〈十七年月平均約七七、二〇〇トン、十八年月平均一四九、四〇〇トン、十九年月平均三〇八、八〇〇トンである。〉急増の理由は、ヨーロッパ戦局殊に大西洋上の連合軍の対独制圧効果の安定に因るものと思われるが、そのころになってから日本海軍はあわてだした。
[#この行1字下げ] 海上交通護衛を専門とする海上護衛総司令部が発足したのは、昭和十八年十一月十五日である。元海相及川古志郎大将を司令長官として形は出来たが、内容は貧弱であった。北は千島から南はシンガポールに至る広大な海洋の資源航路とか物資輸送航路を担当する護衛総司令部は、その海面に航行する大小約二千七百隻の船舶を護衛するのに、遠く洋上千数百|浬《カイリ》に行動出来る艦艇として、海防艦十八隻、旧式駆逐艦十五隻、水雷艇七隻、特設砲艦四隻、計四十四隻しか持っていなかったという。〈大井前掲書〉
[#この行1字下げ] 日本は、陸軍もそうだが、海軍も、戦闘そのものだけを重視して、戦闘の基礎を形成しその維持を保障する物的諸条件、「後方」を軽視する欠陥があった。俗に言えば、華々しい手柄を欲して、地味な縁の下の力持ちを軽んじたのである。
[#この行1字下げ] 後方に十分な兵力を割《さ》けなかったのは、無い袖は振れなかったのだ、と言えるかもしれない。それなら、無い袖は振れなくなる事態は、当然予測されなければならなかったのだ。「三年先キハワカラヌ」と言った永野は、「日本ノ海運ニ差支ナシ」と言う根拠を全く持っていなかったはずであった。)
御前会議の質疑応答に戻ろう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
枢相 「ソ」ノ艦隊、英米蘭ノ海軍ヨリ妨害ヲ受ケテモ、日本ノ物資ハ差支ナイト了解シテヨイカ。
企画院総裁 船舶ノ損害ハ陸海軍デ研究ノ結果ナリ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](鈴木総裁の答は答になっていなかったが、原枢相は追及しなかった。船舶被害は年平均八〇万乃至一〇〇万トンと見積られていたが、海軍が和戦の選択に迷っていたころ、陸海軍部局長会議〈十月六日〉の席で、海軍福留第一部長は「戦争第一年船舶一四〇万トン撃沈セラレ自信ナシ」〈既述〉と言ったのである。陸軍がこの件を追及すると〈十月七日〉、海軍は「船舶損害一四〇万トンハ、サウ云フコトモアルトイフコトヲ政府ニモ述ベ、政府ノ覚悟ヲ促スニ在リ」と遁辞《とんじ》を弄している。
[#この行1字下げ] 八〇万乃至一〇〇万トンという船舶被害の予想数字は、とても陸海軍の研究の結果などといえたものではなかったのである。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
枢相 「遂行要領」一ノ(四)ニ泰《タイ》トノ間ニ武力発動ノ直前云々トアルガ、直前デハ泰ニ対シテ相談ニハナリ相《そう》ニモナイガ、此点ハドウ考ヘアリヤ。若《も》シ交渉ニ時日ヲ与ヘル様ニスルト、之ハ英国ニ分ル。然ルトキハ統帥部ノ企図ガ敵側ニ分ル。直前トハドウイフコトカ。若シ強行スルノナラ樹立スル(武力発動の直前泰との間に軍事的緊密関係を樹立す、とあるのを指している)デハナク強行ダ。此ノヤリ方ハ将来ノ対泰関係ニ影響スル。
総理 本件ハ外交軍事緊密ナル関係ニアルカラ私カラ答ヘル。南仏印進駐時カラ既ニ泰ヲ抱キ込ム考ヘデ、軍事的緊密関係ヲ作ルベク「ピブン」ニ工作ヲシテ居ル。目下御説ノ通リ機微ナルモノガアル。作戦上ノ必要カラスレバ泰国ニ上陸スルノ要ガアル。之ヲ過早ニ知ラシメルコトハ不可ダ。ソコデ直前ニ云フテ、キカナケレバ力ヲ加ヘテ行クヨリ仕方ナシ。
枢相 (泰の項略)
日米交渉不成立ハ望マシカラザルナリ。二千六百年ノ皇室ヲ戴ク国民ナルガ故ニ一心トナツテ今日迄四ケ年コタヘテ来テ居ル。英ノ如キハ既ニ厭戦ノ気アルガ如シ。独逸ノ如キモドウカト思フ。伊国ノ如キモ反戦運動モアルガ如シ。我国ニ於テハ皇室ヲ戴ク国体ニ淵源スル結果ナリト思フ。サレバトテ国民トシテハ|速 《すみやか》ニ支那事変ヲ解決シ度イ。之ガ見込ツカズニ大国タル米国ト戦争スルト云フコトハ、為政者トシテハ考ヘナクテハナラヌ。前回ノ御前会議デ交渉シテモ出来ヌナラ戦サトナルノダト云フノデアツタ。本日ノ御説明ニヨルト前回ト今日ト米国ノ態度ハ何等変化ナク、今日ハ却《かえ》ツテ益益横暴ヲ極メテ居ル。従テ本交渉モ望ミ薄ト見テ甚ダ遺憾ニ存ズ。然シ乍ラ米ノ云フコトヲ其|儘《まま》ニ受ケ入レルコトハ、国内事情カラ見テモ亦国ノ自存カラ見テモ不可デアツテ、日本ノ立場ハ之ヲ固守セネバナラヌ。|承 《うけたまわ》レバ日支問題ガ交渉ノ重点デ、恰《あたか》モ米ハ重慶ノ代弁ナルヤノ疑アリ。蒋ガ米ノ力ヲ頼ミテ日本ト交渉スルトスレバ、到底二、三月デ出来ルトハ思ハヌ。日本ノ決意ヲ見テ屈スレバ結構ダガ、然シ絶望ト思フ。甚ダ已《や》ムコトヲ得ヌト思フ。然ラバトテ此儘ニ行クコトハ出来ヌ。今ヲ措《お》イテ戦機ヲ逸シテハ米ノ頤使《いし》ニ屈スルモ已ムナイコトニナル。従テ米ニ対シ開戦ノ決意ヲスルモ已ムナキモノト認ム。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](天皇に代って質問し、あるいは意見を述べる原枢府議長にも、歴史的反省の視点は皆無である。天皇は終始黙っている。原の所見に異存はないらしいのである。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
枢相 初期作戦ハヨイノデアルガ、先キニナルト困難モ増スガ、何ントカ見込アルト云フノデ之ニ信頼ス。此ノ際政府当局ニ一言スレバ、日米英戦フト云フコトハ、支那事変モ其一ツノ原因ダガ、他ノ一ツハ独英戦トノ関係カラデアル。支那|丈《だ》ケナラコーハナラナカツタト思フ。然ルニ独英戦《ヽヽヽ》ノ結果|茲《ここ》ニ至ツタ。茲ニ牢記スベキハ、白人トシテ、日本ガ参戦シタ場合独英独米ノ関係ガ果シテドウナルカ。「ヒトラー」モ日本人ヲ二流人種ダト云フテ居ル様ナ次第デ、独トシテハ米ニ対シテ直接戦ヲ宣シテ居ラヌ。日本ハ実行ニヨリテ米国ヲタタク。此場合米国民ノ心理ハ対英態度ハ同一デアラウカ。「ヒトラー」ヲ悪《にく》ムヨリ日本ニ対スル憤慨ハ大ナルベシ。在米独人ハ米独ノ平和ヲ招来セシメント考ヘアリ。ソコデ日本ガ米ト戦サヲヤリ出スト、独英独米間ノ話ガツキ、日本丈ケ取リ残サレルコトニナルコトヲ恐レル。即黄色人種ヲ悪ム心ガ独逸ヨリ日本ニ転用サレ、英独戦争ガ日本ニ向ケラレル結果トナルコトヲ覚悟セザルベカラズ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](枢相の所論は、彼自身の民族的人種的偏見に由来している。戦争の危機は人種問題にあったのではなく、現状維持の民主主義国家群と現状破壊のファシズム国家群との相剋にあった。したがって、前者からの敵意と憎悪の強度は、ファシズム国家が振るう破壊力に比例したといえる。当然、前者の最大の攻撃目標はドイツであった。)
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枢相 米トノ交渉ハ成立セズ。然シ日本ノ自存上対米英戦争モ已ムヲ得ナイガ、人種的関係ヲ深ク考慮シ、「アリアン」人種全体ヨリ包囲サレ日本帝国独リ取リ残サレヌ様ニ警戒ヲ怠ラズ、今ヨリ独伊トノ間ノ関係ヲ強化セヨ。紙上ノ約束デハ駄目デアル。「ヒトラー」ヨリ日本憎シト云フコトニナリ、名実共ニフクロタタキニナラヌ様ニ、此点ニツキ当局者ニ注意ヲ喚起シ、今後ノ国際情勢ニ善処サルルコトヲ切望ス。
総理 枢府議長ノ御説ハ御|尤《もつと》モナリ。政府ハ前会議以来何トカシテ日米交渉ヲ打開シタイ切ナル希望ハ捨テマセヌ。統帥カラスレバ、交渉殆ド見込ナシトノコトナル故、一途ニ作戦ニ入ルノガ当然デアル。然シ何トカ交渉打開ノ途アレバト思フテ、作戦ノ不自由ヲ忍ンデモヤラウトシタ。是レ外交ト作戦ノ二本建トシタノデアル。若干ノ見込アリ。日米交渉ニ米ガ乗ツテ来タノハ弱点ガアルカラデアル。即チ(1)両洋作戦準備未完、(2)国内体制ノ強化未完、(3)国防資源ノ不足(一年位シカナシ)等デアル。此案ニ依ツテ兵力ガ展開位置ニツクコトニ依リ、日本ノ決意ハ分ル。彼ハ元来日本ハ経済的降伏スルト思ツテ居ルノデアラウガ、日本ガ決意シタト認メレバ、其時機コソ外交的ノ手段ヲ打ツベキ時ダト思フ。私ハ此ノ方法ダケガ残ツテ居ルト思フ。之レガ本案ナリ。之ガ原議長ノ申サレタ外交デ行クト云フ最後ノ処置デアリマス。此事態トナリテハ本案ヨリ仕方ナシト思フ。長期戦ニ入ルニ於テハ唯今ノ話ノ通リ困難ナル場合アリ。緒戦ハ然ラン。(枢相の「初期作戦ハヨイノデアルガ」を受けているものと思われる。)長期ニハ若干ノ不安アリ。然シ此ノ不安アリトテ現在ノ如ク米ガ為《な》スガ儘ノコトヲサセテドウナルカ。二年後ニ軍事上ノ油ガナクナル。船ハ動カズ、南西太平洋ノ防備強化、米艦隊ノ増加、支那事変未完等ニ思ヲ及ボセバ思|半《なかば》ニ過グルモノアリ。国内亦臥薪嘗胆ト称シテモ長年月之ガ出来ルカ。日清戦役トハ趣ヲ異ニスル。座シテ二、三年ヲ過セバ三等国トナルコトヲ懸念ス。之レト此案トヲ比較シタ場合ニ就キ慎重ナル研究ノ結果、本案ニナツタノデアリマス。之レニ就テハ議長ノ考モ同様ナルベシ。
次ニ開戦ノ結果人種戦ニハナラヌ様ニ施策シヨウト考ヘテ居ル。南方武力戦ノ成果ヲ利導シテ、独伊ヲ利用シテ独英独米ノ媾和等ヲ避ケル様ニシタイト思フ。米国民ノ感情モ御説ノ通リト存ズルノデ、大イニ注意ヲ加ヘ度。大義名分戦争名義ヲ何処ニ求ムルカニ就テハ、英米ガ日本ノ生存ヲ強力ニ脅威シテ居ル等ヲ闡明《せんめい》スルコトニヨリ若干ノキキメハアルベシ。又占領地ノ統治ニ就テ公明ニスレバ又緩和ハ出来ルナラン。一時ハ激昂(被占領民族が)シテモ後ニハナホルト思フ。何レニシテモ人種戦ニナラヌ様ニ十分注意シマス。
何カ外ニ御意見アリマセンカ。
御意見ナケレバ原案可決ト認メマス。
[#ここで字下げ終わり]
これで十二月一日午前零時までに日米交渉が妥結しなければ、日本は米英蘭に対して開戦すると決定したのである。
十二月八日の開戦まで、十二月一日の御前会議をはさんで、なおかなりの曲折がある。
73
十一月五日の御前会議決定後、外務省筋は本庁も出先(在米)も残された時間内ではほとんど絶望的とみられる日米交渉の妥結に、最後の努力を傾けた。
十一月七日午前、野村大使はハル長官に「我方ニ於テハ最大ノ友誼的精神ト互譲ノ誠意ヲ披瀝《ひれき》セル次第ナリ」として、甲案(既述)を提出し、米国側が大局的見地から考慮してこれに同意することを求めた。
時差を無視してのことだが、同じ十一月七日、連合艦隊命令「第一開戦準備ヲナセ Y日ヲ十二月八日ト予定ス」が、九州佐伯湾長門艦上の山本五十六連合艦隊司令長官から発令された。
十一月十日付(米国時間)の野村電は、米上院外交委員トーマスの「米国ハ『ブラフ』スルニアラズ、日本ガ更ニ侵略ヲ為スナラバ日本ト戦フベシ。米国民ハ精神的ニ準備成リ、海軍モ準備成レリト言フニ帰着ス」という意見と、ウォーカー郵政長官と思われる某閣僚が野村大使に「米政府ハ日本ハ近日発動スル確実ナル情報ヲ握リ居リ、明十日ノ貴使ノ大統領訪問乃至来栖大使ノ来米ノ如キ、何等大局ニ影響スルモノニアラズト言フガ如ク米政府ハ認メツツアル」と語ったことを、本省に伝えた。
十一月十日、野村大使はルーズヴェルト大統領に「甲案」を説明、「……平和ヲ維持スル唯一ノ途ハ日米間ニ遅滞ナク或種ノ友好的且満足ノ了解ヲ遂グルニ在リ」と強調したが、大統領は「……吾人ハ本件予備的会談ガ交渉ノ基礎トナルベキ良好ノ結果ヲ挙ゲンコトヲ希望ス。吾人ハ日本政府ノ希望セラルル如ク本会談ヲ促進スルニ最善ヲ尽スベシ。……」と答えたにとどまった。撤兵についての明確な譲歩を示していない甲案の提出は、交渉に何の進展ももたらさず、徒に外交的辞令が返って来るのは当然であった。米国は日本との妥協を取付ける必要はなかった。時間を稼ぎさえすれば、事態は反枢軸連合国に有利に展開するに決っているのであった。
十一月十一日、東郷外相は野村大使に折返し訓電した。
「往電第七三六号ノ期日(交渉期限を十一月二十五日としてあった)ハ現下ノ情勢上絶対ニ動カシ得ザル『デッドライン』ニシテ、交渉ハ是非共右期日迄ニ妥結セシムルコト必要ナリ。(以下略)」
米国はほとんどの電報を解読していたから、日本の焦慮は手に取るように見えていたはずである。
同じ日、英国首相チャーチルはギルドホールで次のように演説した。
「……米国が日本との戦争に入るならば、英国の宣戦が一時間以内にそれに続くであろう、……」(チャーチル『第二次大戦回顧録』)
同じ十一月十一日、日本海軍の潜水部隊は内地を出港した。これが日本海軍最初の出陣である。ハワイ奇襲をめざす機動部隊(南雲部隊)の待機地点は択捉《エトロフ》島の単冠《ヒトカツプ》湾であった。南雲部隊の各艦は十一月十七日から十九日にかけて、九州の佐伯湾を抜錨《ばつびよう》、各個に単冠湾へ向った。
十一月十二日、野村・ハル会談が行われ、野村大使が「甲案」に対する米側回答を求めたのに対して、ハルは二つの文書を提示した。一つは、「……日本国ニ於テハ新内閣成立スルヲ以テ、本政府ハ何等誤解ノ生ズルコトヲ避クル為、日本国政府ニ於テ其ノ立場ハ変更セラレ居ラザル(八月十七日付米国覚書に対する日本側回答と、近衛メッセージに見られる平和政策的見解が変っていないということ)旨ヲ、茲ニ確信セラルルニ於テハ有益ナリト信ズ」という、時機のずれを敢て無視した文書であった。他の一つは、「支那政府ニシテ、(中略)日本国ト協同スル為メ合理的ニ為シ得ベキ凡《あら》ユル措置ヲ講ズベキ旨言明スルニ於テハ、日本ニ於テモ相互的友好関係の政策ニ遵《したが》ヒテ、支那国トノ間ニ何等協調ヲ『レシプロケート』スルコト可能ナリトセラルルヤ」というものである。いまさら、という感がしないでもない。米国は日本があせればあせるほど悠然と構えているかのようであった。
十一月十四日、東郷外相は右の二つの文書に関して、野村大使に回訓した。前者に関しては、「……現内閣ニ於テモ其趣旨ニ於テ之ヲ確認スルニ何等異存ナシ。但シ右ハ日米交渉ノ成立ヲ前提トスルモノニシテ、万一交渉不調ニ終ルガ如キ際、我方ノミ右諸点ニ付拘束ヲ受クルコトナキハ当然ノ儀ナルモ、此点|為念《ねんのため》明確ニシ置クモノナリ」とあり、後者の日支和平に関する打診については、「之ガ為却テ交渉遷延ヲ来スガ如キコト万一ニモ無之様」と駄目押しをしてあった。
十一月十四日(米国時間)、野村大使は東郷外相に次のような意見具申電を送った。
「(前段略)
一 既ニ累次報告ノ通リ、米国政府ノ太平洋政策ハ日本ノ之レ以上ノ南進、北進ヲ阻止スルニ在リ。而シテ経済圧迫ヲ以テ其ノ目的ヲ達成セントスルモ、戦争ニ対スル準備ハ著々《ちやくちやく》進メ居レリ。
二以下六まで略。
七 米国ハ一歩、一歩大西洋ニ深入シツツアルガ如キモ、該方面ハ要スルニ『コンボイ』(船団護衛)ニ関連スル作戦ニ止マリ、今日ノ形勢ニテハ何日ニテモ主力ヲ太平洋ニ集中シ得ベシ。(後略)
八 (前略)
本使ハ国情許スナラバ、一、二ケ月ノ遅速ヲ争フヨリモ今少シ世界戦ノ全局ニ於テ、前途ノ見透シ判明スル時迄辛抱スルコト得策ナリト愚考ス。(以下略)」
この野村電に対して、東郷外相は折返し訓電した。
「貴見ノ如ク世界戦争全局ノ見透判明スル迄隠忍自制スルコトハ、諸般ノ事情ヨリ遺憾乍ラ不可能ニシテ、往電第七三六号所載期日(十一月二十五日を指す)頃迄ニ交渉ノ急速妥結ヲ必要トスルコトハ絶対ニ変更ヲ許サザルモノナルニ付右御承知アリ度。(以下略)」
十一月十五日、野村・ハル会談が行われ、ハルはまた二つの文書を提出した。いずれも「甲案」第一項の「通商無差別問題」に限っての回答で、一つは、日本が「無差別原則ガ全世界ニ適用セラルルモノナルニ於テハ」日本も太平洋地域(主眼は中国)に於ても無差別原則を認めるとしていたことに対して、但書は除外できないか、というのである。その理由として、米国は「米国政府ノ主権ノ及バザル諸地域ニ於ケル差別的措置ニ対スル責任」は負えないというのであった。
他の一つは、非公式、予備的且拘束力なしとして「経済政策ニ関スル合衆国及日本国ノ共同宣言」案であった。
野村は政府に請訓して回答すると応じ、「三国条約の解釈及履行問題」と「撤兵問題」に関する米側の回答を求めると、ハルは既述の日本新内閣による平和的政策の再確認と、右記「共同宣言」案についての日本側の回答を待って返答する、と野村の追及をかわした。野村は、この時点では、まだ、日本政府の平和政策再確認に関する東郷外相の十四日の回訓電に接していなかったのである。時間切れが迫っているにしては、東京・ワシントン間の日本側の事務処理が敏活、正確を欠いていた感は拭えない。
この日の会談で、ハルは、日本政府による平和的政策の再確認に関連して、次のように言った。
「日本ハ日米間ニ協定成立セバ、同時ニ三国同盟ヲ保持スルノ要ナカルベシ」
「日本ハ一方ニ於テハ独逸ト戦ヒ居ル英及蘭ニ対シ、日米間ノ平和的協定ニ参加ヲ求メ乍ラ、同時ニ英蘭ノ敵タル独逸トハ軍事同盟ヲ高唱スルハ矛盾スル」
これに対して野村大使が平和協定と同盟条約とは必ずしも予盾しないと説明すると、ハルは米側従来の見解を一層明確に打出した。
「日米協定成立ノ上モ日本ガ独ト軍事同盟ヲ固執スルトアリテハ、他国ニ説明出来ズ。要スルニ米国ハ日『ソ』間ニ中立条約締結サレタルニ拘ラズ、日『ソ』国境ニ大兵ヲ対立セシムルガ如キ関係ヲ欲セズ。日米間平和的協定成立ト同時ニ、三国同盟ノ条約ハ消滅又ハ死文トセンコトヲ欲スル」
同席した若杉公使が、これに対して、
「右ハ米国ニ於テハ日本ガ三国同盟ヨリ脱退セザル限リ、日米間ノ妥結ハ不可能ナリトノ御趣旨ナリヤ」
と反問すると、ハル長官は、
「平和的合意ト軍事的同盟トハ矛盾スルヲ以テ、日米間ノ合意成立ノ上ハ同盟条約ハ死文トナランコトヲ望ム」
と繰り返すにとどまった。
だが、米国側の意思は明瞭であった。日本が通商無差別の原則を容認し、支那から撤兵することによって平和的意図を明らかにし、三国同盟条約を消滅または死文化することによって米英蘭との敵対関係を解消しない限り、日米交渉を妥結に導く必要はなかったのである。
この日、十一月十五日、来栖特派大使がワシントンに到着した。
同じ十一月十五日、宮中|東溜《ひがしだま》りで、陸海軍両統帥部長以下の作戦関係者によって御前兵棋が行われた。
74
御前兵棋は天皇に作戦計画を具体的に説明するためのものである。陪席者は元帥、陸海軍大臣、蓮沼侍従武官長である。
御前兵棋といっても、機密保持のため肝腎のハワイ空襲作戦の兵棋は行われなかった。不思議な国である。統帥大権の保持者である天皇さえも、作戦当局の判断によって機密から疎外されるのである。
次のような「御下問奉答」が行われた。
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天皇 輸送船団ノ航行ニ対シ水上艦艇ト航空トノ何レガ妨害、損傷ヲ与フルヤ。
永野 水上艦艇ハ大シタルコトナク、航空機ガ問題デアリマス。之ニ対シテハ十分力ヲ尽シ安全ニ護衛スルコトニ関シ努力致シマス。
天皇 支那軍ノ北部仏印ニ対スル動キ如何。
杉山 大シタルコトナキモノト考ヘテ居リマス。地形ノ嶮等大ナル兵力ノ行動ヲ許シマセヌ。第二十一師団ヲ進駐セシメテ対処セシメマスルヲ以テ、之ニ対シテハ安全デアリマス。
天皇 英領|馬来《マレー》ヲ南下中我主力ノ過ギ去リシ後ニ印度方面ヨリスル敵ノ上陸ナキヤ。
杉山 アリ得ルト考ヘマス。之ニ対シテハ第二十五軍ノ兵力当初ヨリ十分ナルト、大本営予備ヲ保持シアル等ニ依リ十分対処シ得ルモノト考ヘマス。(『井本日記』)
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南方軍の統帥発動はこの十一月十五日であった。
御前兵棋終了直後、杉山参謀総長は南方軍に対する南方要域攻略命令発令の允裁を仰いだ。その際の「御下問奉答」は次のようである。
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天皇 南方軍総司令官ハ何処ニ行クカ。
杉山 西貢《サイゴン》ニ行キマス。
天皇 馬来ノ護謨《ゴム》林ヲ荒ラス事ハナイカ。
杉山 荒ラス様ニナル事モアルト思ヒマス。然シ「ケダー」州附近以外ハ隘路《あいろ》デアリマシテ、軍ノ戦闘指導モ歩兵一大隊ニ戦車若干ヲ附シタルモノヲ、数個進メル様ナ戦闘法ガ多イト思ヒマスノデ、護謨林ヲ傷メルコトハ少イト思ヒマス。
天皇 対米外交ノ成立シタ場合ニハ、軍ノ進発スル事ハ取止メルダラウナ。
杉山 外交ガ成立シマシタラ行動ヲ中止シ、大命ニ依ツテ軍隊ヲ退ゲマス。作戦準備ノ途中デ敵側ガ攻撃ヲシテ来テモ、開戦ノ御許シガアル迄ハ局地ニ止メル様ニシ、又武力ノ背景ニヨツテ外交ガ成立シタナラバ、ソレダケ軍隊ノ力ガ役立ツ次第故退ツテモ宜シイトノ旨ヲ、寺内軍司令官以下ノ各軍司令官ニ良ク申述ベテアリマス。
天皇 ソレハ良カツタ。
杉山 伊勢、熱田、畝傍、桃山ニ御参リヲ致シ度イト思ヒマス。御許シヲ御願ヒ致シマス。
天皇 宜シイ。
[#ここで字下げ終わり]
多忙のときの神社参拝は苦しいときの神頼みの観がある。
ワシントンに到着した来栖大使は、本国からの新しい提案は持っていなかった。来栖到着後に「乙案」を提出する手筈が東郷外相と打合せ済みであった。
しかし、現地の膠着《こうちやく》状態を実感した来栖は、「乙案」をさらに狭めて譲歩した野村大使の提案に、同意し連帯した。
ことの次第はこうである。十一月十八日、両大使はハル長官と会談した。ハルの主張は三国同盟に向けられているようであった。
「米国ノ国策ハ平和維持ニ終始ス。従テ武力ニ依ル拡大ヲ計ルコトヲ信条トスル『ヒトラー』主義トハ両立シ難シ。又日本ガ三国同盟条約ニ依リ『ヒトラー』ニ結著キ居ル限リ、日米関係ノ調整ニハ至大ノ困難アリ」
「今仮リニ日米間ニ妥結成ルトスルモ、米国民ヲシテ独逸ハ欧洲ニ於テ力ニ依リ膨脹政策ヲ取リ、日本モ東亜ニ於テ同様ノ政策ヲ行フモノナリトノ考ヲ拭ハシムルコト不可能ナルベシ」
「此ノ根本問題ヲ除去スルニアラザレバ、日米間ノ話合ヲ進行セシムルコトハ不可能ナリ」
ハルの言い分は、会談の都度、時には通商無差別原則を、時には駐兵撤兵問題を、時には三国同盟問題を重点としたが、全体として見れば常に同心円を描いており、米国の対日態度の原則には微塵も妥協がなかった。
この日の会談で、野村大使が「乙案」をさらに狭めた提案を行なったのである。
「斯カル根本的問題ハ限ラレタ時間内ニ解決スルコトハ困難ナリ」として、
「……先ヅ差当リ斯カル緊張ヲ緩和スルコト必要ナルベク、夫《ソ》レニハ凍結令実施前ノ事態ニ復帰スルコトトシ、即チ日本ハ仏印南部ヨリ撤兵スルニ対シ、米国ハ凍結令ヲ撤去ス。斯クシテ兎ニ角空気ヲ緩和スレバ(英国は)新嘉坡《シンガポール》ニ軍艦ヲ送リ、又(米国は)比島ニ軍事施設ヲ強化スルノ必要ナカルベク、其ノ上ニテ更ニ話ヲ進ムルコトト致シ度シ」(以上『日米外交関係雑纂』第五巻(6))というのであった。野村・来栖の意図は、まず米国からの一定量の石油供給を確保するために、相当程度の譲歩をし、硬直した日米関係を緩和することから出直そうというのである。
来栖は、野村提案を「出先としては思ひ切つた提案であるが、自分もかねてから同意見であるし、現地の空気及び野村大使の立場及び心境としては寧ろ当然といひ得る……」(来栖『日米外交秘話』)と書いている。
ハルは、野村提案に対して「根本ノ問題ニ付話ガ付カザルコト明瞭ナル間ニ、一時的手段トシテ御説ノ如キコトヲ行フモ無駄ナリ」
と強硬態度を崩さなかったが、談合の結果、
「日本政府ノ首脳ガ日本ハ何処迄モ平和的政策ヲ遂行スルモノナルコトヲ明カニスルナラバ、夫レヲ機縁トシテ自分ハ英国、和蘭ヲ説キ、凍結令実施前ノ状態ニ復帰スルコトヲ考慮シ差支ナシ。但シ夫レニ依リ日本ノ政情ガ益々平和ノ傾向ニ向フ様ニナルコト肝要ナリ」
というところまで歩み寄りを見せた。
米国側としては、しかし、日本がハルが言うような平和的意図と実行を示すようになるとは、信じていなかったであろう。日米交渉全期間を通じての米国の態度には、日本に対して、むずかる乳幼児をあやしたり叱ったりするに似たものがあった。ただ、そのいずれの場合でも、ファシズムに対しては決して妥協しないという原則が堅持されていたことは確かである。
野村大使は、十一月十八日(米国時間)、独断提案に関して次のように東郷外相に報告した。
「……此ノ際直ニ乙案ヲ提出スルコトハ、連日当方ニ於テ熟議ノ結果ニ依ルモ、反ツテ甲案ヨリモ成立困難ノ見込ナルニ付、実際的見地ヨリ乙案提出ニ先ダチ差当リ同案中ノ凍結令解除及物資獲得ヲ主眼トスル実質的妥結ヲ試ミ、之ヲ手順トシテ他問題ノ解決ニ進ム方得策ニシテ、又然ラズンバ急速妥結頗ル困難ト思考ス。(中略)此ノ際新内閣ノ何等但書ナキ平和政策ノ声明ヲ与ヘ、直接簡明ニ我方ノ平和的意図ヲ表明シ、以テ我方提唱ノ如キ妥結ヲ計ル様致シ度シ。尤モ先方ニ於テハ単ニ約束ノミニテハ承服セズ、之ガ実行ヲ強ク主張スルヲ以テ、凍結令解除ト物資供給ノ実行ト同時ニ、我方撤兵実行ノ決意ヲ要スル次第ニ付、右御含ミ相成リ何分ノ儀折返シ御回電アリタシ。(以下略)」
この請訓電は十一月十九日午前から午後へかけて東京に到着した。
そのころ既に、ハワイ空襲機動部隊は集結地点エトロフ島ヒトカップ湾へ向けて航行中であった。
75
十一月二十日、野村大使から東京へ電報が入った。その内容は、ビショップ・ウォルシュ(日米交渉の発端に現われた米人神父)が米国政府某閣僚(ウォーカー郵政長官と思われる)の旨を受けて、十九日朝、野村・来栖両大使を訪れ、大統領以下米国側は日米交渉妥結の決意を固め、日本が今日にも仏印撤兵の意図を表明すれば、ハル長官は即座に石油の対日輸出を約束して、これをきっかけとして日米間の問題を急速に解決に導きたい意向であるから、撤兵意志の表明をしてはどうか、というのである。
その前夜、野村と来栖はウォーカー郵政長官を訪問している。そのときウォーカーは次のように語った。
「大統領ハ日米了解ニ熱意ヲ有シ居リ(中略)、閣僚ノ大多数(二人ヲ除ク)ハ主義ニ於テ日米了解ニ賛成ナリ。日本ガコノ際仏印ヨリ撤兵スル等現実ノ行動ヲ以テ平和的意図ヲ示サバ、米国ハ油モ提供スベク、一度此ノ道ガ開カルレバ正常ナル貿易関係モ回復セラルルニ至ルナラン。国務長官(ハル)トシテモ斯クノ如キ現実ノ行動ナキ限リ輿論ヲ宥《なだ》ムルコト困難ナルベシ」
ウォーカーとウォルシュの話を聞く限りでは、野村の独断提案(十一月十八日)が功を奏して、大統領以下が日米交渉妥結へ傾いたかに見える。野村は使命達成の希望を抱いたかもしれない。
米国側は、しかし、「マジック」と呼ばれる暗号解読技術によって、東京から野村へ送られた「甲案」「乙案」ばかりでなく、東京と出先(ワシントン)との通信のほとんどを解読し、日本の対米交渉の肚《はら》のうちを読み取っていたのである。米国側に必要なのは、日米交渉で時間を稼ぐことであった。その意味ではウォーカーやウォルシュを使っての対日|宥和《ゆうわ》的ジェスチュアは、一時的にもせよ有効であったといえる。日本は米国という巨人の掌の上で右往左往する小人のようであった。
東郷外相は、十一月二十日午前零時三十分、野村大使宛てに次のように訓電を発した。
「(前略)我国内情勢ハ南部仏印撤兵ヲ条件トシテ、単ニ凍結前ノ状態ニ復帰スト云フガ如キ保障ノミニテハ、到底現下ノ切迫セル局面ヲ収拾シ難ク、尠《すくな》クトモ乙案程度ノ解決案ヲ必要トスル次第ナリ。(中略)貴電私案ノ如キ程度ノ案ヲ以テ情勢緩和ノ手ヲ打チタル上、更ニ話合ヲ進ムルガ如キ余裕ハ絶無ナリ。旁々《かたがた》貴大使ガ当方ト事前ノ打合セナク貴殿腹案ヲ提示セラレタルハ、国内ノ機微ナル事情ニ顧ミ遺憾トスル所ニシテ、却《かえつ》テ交渉ノ遷延乃至不成立ニ導クモノト云フノ外ナシ。(中略)次回会見ニ於テ乙案ヲ御提示相成度。尚|右ハ帝国政府ノ最終案ニシテ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|絶対ニ此上譲歩ノ余地ナク《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|右ニテ米側ノ応諾ヲ得ザル限リ交渉決裂スルモ致方ナキ次第《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ニ付、右|篤《とく》ト御含ミノ上|可然《しかるべく》御措置アリ度シ。(以下略)」――(傍点引用者)
東郷外相から見れば、現地での野村大使の独断措置は「交渉技術より見れば滅茶」なのであった。東郷の強腰は彼の外交信念にも由来するであろうが、十一月五日の御前会議の決定に結局は署名連帯した立場からも、出先の野村大使のような柔軟な態度はとれなかったものと思われる。
東郷外相の強腰を軍部は高く評価した。『大本営機密戦争日誌』十一月二十日の項にこう誌されている。
「(前略)
外相ノ措置ハ大イニ可、好評ヲ博セリ。東郷外相ノ態度ハ豊田前外相ノ哀訴的ナルニ比シテ毅然タルモノアリ。万《ママ》腔ノ敬意ヲ表ス。(以下略)」
だが、乙案を提出して、それで交渉が纏《まと》まらなければ、決裂即戦争もやむを得ないという態度が、国家の浮沈にかかわる重大時機に政務を担当する責任者の覚悟として、妥当であるか否かは問題であった。何故といって、過去十年来の日本の武力一辺倒の政策に対して、文官としての東郷に不満と批判がなかったわけではなく、まさにそれ故に米国は日本を非難して、日米交渉は決裂の危機に瀕しているのであるから、問題の基本的部分で譲歩すべきは日本であって、米国ではなかったのである。
東郷が最終案という「乙案」をめぐる日米交渉は後述するが、乙案の字句がどのように選ばれていたにせよ、乙案は日本が武力進出を全面的に放棄することを約束するものではなかった。日本軍部は勿論のこと、東郷外相もまた、米国の国力は怖れたが、中国を属領とみなすかのような独善と侮蔑感を拭い得ていなかったのである。
東郷外相からのきびしい訓電に接した野村・来栖両大使は、十一月二十日(米国時間)、「乙案」をハル長官に提出したが、その際の応酬を見る前に、時間を少し戻して、日本国内の状況に触れておこう。
十一月十六日から二十日まで、第七十七臨時国会が召集された。臨時軍事費第六次追加予算三八億円の可決承認を必要としたのである。
十七日、東条首相が施政方針演説を行なったが、そのなかに「政府は肇国《ちようこく》以来の国是たる平和愛好の精神に基き」とあるのは、政治演説というものが如何にぬけぬけとしたものであるかの見本のようなものである。
彼は「帝国の期するところは」として三点を挙げた。一は、第三国が日本の企図する支那事変の完遂を妨害することを許さない。二は、日本を囲繞《いによう》する諸国家が、日本に対する直接軍事的脅威を行わないことは勿論、経済封鎖のような敵性行為を解除して、経済的正常関係を回復すること。三は、欧洲戦が拡大して禍乱が東亜に波及することを極力防止すること、である。
東郷外相は「対米協調限度あり。交渉、長時間を要せず」と語り、賀屋蔵相は「不法排除に足る経済力を築かん」と呼びかけた。
この二人の大臣が十一月五日の御前会議決定に至る最後の段階で開戦決意に妥協したことは、既に見てきた通りである。
陸海両相は「重大時局、言語に絶す。即応準備完了せり」と述べて拍手を浴びたが、予想される長期戦に勝算がないことも、既に見てきた通りである。
十一月十八日、衆議院は安達謙蔵外一〇一名提出による次の「国策完遂ニ関スル決議案」を全会一致で可決した。
「世界ノ動乱|愈々《いよいよ》拡大ス。敵性諸国ハ帝国ノ真意ヲ曲解シ、其ノ言動|倍々《ますます》激越ヲ加フ。隠忍度アリ、自重限アリ。我ガ国策|夙《つと》ニ定マリ、国民ノ用意亦既ニ成ル。政府ハ宜シク不動ノ国是ニ則リ、不抜ノ民意ニ信頼シ、敢然起ツテ帝国ノ存立ト権威トヲ保持シ、以テ大東亜共栄圏ヲ建設シ、進ンデ世界永遠ノ平和ヲ確立スベシ。」
軍国主義下の衆議院においては、南方へ武力進出して植民地的収奪を行い、対米英蘭戦を挑むことが、世界永遠の平和の確立へいとも簡単に短絡したのである。
右の提案の説明に起ったかつての政友会の長老島田俊雄は、「政府ハコノ際唯一最大ノ重点ヲ戦争完遂ノ一点ニオイテ一切脇目ヲフラズ王手一点張リデヤツテモライタイ」と政府を激励した。島田の演説は、満洲事変以来軍国主義に馴致《じゆんち》された国民感情を表現していると思われるので、少部分を拾ってみる。
「……抑々《そもそも》民族ノ自給自足、大東亜共栄圈ノ確立、平和的ニ経済的ニ東亜ノ諸民族諸国家ガ有無相通ジ、連絡結合シテ共栄圏、共存共栄ノ平和境ヲ打樹《うちた》テ、仍《よつ》テ以テ世界ノ平和ニ貢献セントスル所ノ我ガ国ノ正シキ主張ノ何処ニ侵略的ノ意図ガアルト言フコトガ出来ルデアラウカ」
右の論旨は、当時の日本人の少からぬ部分が抱懐していた思考と軌を一にしている。武力進出も東亜の平和のためである、というのである。共栄圏思想にとり憑《つ》かれた侵略者は、みずからを決して侵略者とは思わない。
「……正義ヲ蹂躙《じゆうりん》シ、好意ヲ無視シ、独立ヲ脅威シ、更ニ正当ナル進歩ヲ遮断セントスルヤウナ態度ニ対シテ、之ヲ其ノ儘《まま》受入レテ、侮辱、威嚇ニ屈シテ自滅ヲ待ツガ如キコトハ、吾々ノ正義観、吾々ノ愛国心ガ絶対ニ之ヲ許サナイト云フコトヲ言ツテ置キタイノデアル。(拍手)」
多数の日本人は、当時、確かに右のように思っていたし、言ってもいたのである。それは、しかし、右の論旨が正しいからではなくて、ほとんどの日本人が過去十年間日本が何を行なってきたか、その真相を知らず、官製宣伝を鵜呑みにしてきたからであった。ほとんどの日本人は、たとえば、昭和六年(一九三一年)九月十八日の「満洲事変」が日本軍の謀略による鉄道爆破(柳条溝)によって惹起されたことを知らず、張学良軍の挑発に因《よ》るものと信じていた。日本人が真相を知ったのは、敗戦後、東京裁判の経過においてである。
「……此ノ上更ニ如何ナル苦労|艱難《かんなん》ガ重ナリ来ツテモ、何処々々マデモ此ノ戦争ヲ戦ヒ抜キ、此ノ戦争ニ勝抜クニアラザレバ、和平モ幸福モ栄光モ望ミ得ル所デナイト云フノガ、即チ国民ノ共通ノ心理デアル。(拍手)」(「第七十七回帝国議会衆議院議事速記録第三号」)
戦時中「欲しがりません勝つまでは」という標語があったが、島田に代表される論旨の集約的表現であったと見ることができる。だが、島田が言うようにそれが「国民ノ共通ノ心理」であったとしても、国民の大多数は政府が言うようにこの戦争は正義の戦であり、日本は正義の戦争に勝利するものと盲目的に信ずることが愛国心であるという、錯覚に陥っていたことは否めない。
したがって、戦後今日に至るまで、屡々《しばしば》、一部の旧軍人が、あの戦争は国民大多数が支持したのであって、軍のみが暴走したのではないという既往の正当化を試みる根拠を、右の事実が提供していることも否めない。けれども、それは、軍国主義の支配に屈した国民自身がみずからの反省として言うべきことであって、支配の側にあった者が自己正当化のために利用すべきことではないであろう。軍国主義は実在したのである。東亜の諸民族がそれによって迫害された事実も存在したのである。日本の国民は他国民に対しては加害者でありながら、自国の権力との関係においては軍国主義の消耗品でしかなかった事実も存在したのである。
76
米国時間で十一月二十日、野村・来栖両大使は東郷外相からの強い指示に従って、「乙案」をハル長官に提示した。
ハルは乙案の第四項に対してきびしく批判的であった。
第四項は、「米国政府ハ日支両国ノ和平ニ関スル努力ニ支障ヲ与フルガ如キ行動ニ出デザルベシ」となっている。
ハルの言い分は「御承知ノ通リ現在米国ノ取リ居ル建前ハ、独逸ノ止マル所ヲ知ラザル武力拡張政策ニ対抗シテ、一面英国ヲ援《たす》ケ一面蒋介石ヲ助クルニ在リ。従テ日本ノ政策ガ確然ト平和政策ニ向ヒ居ルコトガ明確ニ了解セラルルニ至ラザル限リ、援蒋政策ヲ変更スルコト困難ナルコト宛《あたか》モ英国援助ノ政策ヲ打切ルコトノ困難ナルト全然同一ナリ」というのである。ハルの建前論は論理的に筋が通っていた。
これに対して来栖大使が反駁した。
「過日大統領ニ面接ノ際(十一月十七日)、日支間ノ和平ノ問題ニ関シ、大統領ハ米国ハ introducer トナルベシトノ御話アリタルガ、一方和平実現ノ為仲介ノ労ヲ取ラレ乍《なが》ラ、他方ニ於テ和平実現ヲ妨害スルガ如キ援蒋行為ヲ継続セラルルコトハ両立シ難キ儀ニテ、大統領ガ introducer タラント言ハルル以上、援蒋打切ヲ我方ヨリ申出ヅルコトハ当然……」
すると、ハルはこう答えている。
「大統領ト雖《いえど》モ日本ノ根本政策ガ平和的ナルコト明カトナルベキコトヲ前提トシテ右ヲ申シタ次第」(以上『日米外交関係雑纂』第五巻(7))
結局は日本が武力政策を撤廃しない限り、日米交渉妥結の可能性はないことを、会談は示していたのである。
ハルは、しかし、まだ日本の両大使に交渉を断念させる態度はとらなかった。
「……特ニ御申出ノ点ニ付テハ充分同情的ニ研究ノ上更ニ御相談スルコトト致度シ」
と含みを残して会談を終った。
十四時間の時間差を勘定すれば、右の会談は日本では十一月二十一日になっていたであろう。この日、永野軍令部総長は山本連合艦隊司令長官に宛てて、進攻部隊の作戦海面への進発を下令した。
日本時間十一月二十二日、午後一時十分、東郷外相は野村大使に先に交渉期限を十一月二十五日までと指示してあったのを、二十九日まで延期する訓電を発した。
「(前段略)茲《ここ》三、四日中ニ日米間ノ話合ヲ完了シ、二十九日迄ニ調印ヲ了スルノミナラズ、公文交換等ニ依リ英蘭両国ノ確約ヲ取付ケ、以テ一切ノ手続完了ヲ見得ルニ於テハ夫《それ》迄待ツコトニ取計ヒタク、就《つい》テハ右期日ハ此以上ノ変更ハ絶対不可能ニシテ其後ノ情勢ハ自動的ニ進展スルノ他ナキニ付キ(以下略)」
この訓電も米国側は解読していた。
米国時間十一月二十二日夜、野村・来栖両大使はハル長官と会見して、「乙案」に対する回答を求めた。
ハル長官は、この日、英・濠・蘭・支の大公使と会見して日本側提案を示し、意見を求めたことを日本大使に告げ、二十四日(月曜日)までに各国政府の回訓が到着するはずであるから、それを待って回答すると応じた。
野村が、米国自身の見解はどうかと「逐条諾否ヲ質《ただ》サントシタル処」「長官ハ……極メテ不興ニテ、要求セラルル理由ナク自分ハ斯ク迄モ努力シツツアルニ拘ラズ、遮二無ニ当方諾否ノ決定ヲノミ迫ラルルガ如キ只今ノオ話ニハ失望スル」と答えたという。
この会談で、ハルは、過日ルーズヴェルト大統領が来栖大使に日支和平の仲介をしてもよいと言ったことを、「今日ハ時機未ダ熟スルニ至ラザル」こととして訂正している。これは、米国がこれまで外交技術的に日本をあやすようにしてきた態度から、最終的な硬化ヘ一歩踏み出したものと看取すべきものであったであろう。
野村大使がこの日までに得ていた情報では、米国側は日本が主張する「所要期間ノ駐兵ハ要スルニ無期限駐兵ニシテ、四、五年ヲ一期トシテ更ニ其ノ後ノ情勢ニ依ルコトトスルナラバ、別段異議ノ理由ナカランモ、無期限ニテハ非併合及主権尊重ノ主義ニ背馳スルモノト見アルガ如」と判断される状況であった。
十一月二十四日(米国時間)に予定されていた野村・来栖両大使とハル長官との会談は、関係諸国の訓電が到着していないという理由で、翌日に延期され、翌日午前の予定がまたもや午後となっても、米・英・蘭・濠・支間で成案が纒まっていないとして日延べになった。
米国政府は、しかし、故意に遷延を図ったのではなかった。十一月二十二日から二十六日まで、日本に対する暫定協定が討議されていた。三カ月間有効のこの案は、南部仏印からの日本軍の撤兵、仏印駐屯兵力を一九四一年(昭和十六年)七月二十六日現在の兵力に削減するなどの条件の見返りとして、石油の対日輸出を民需用の限度内で許可する、という内容であった。
時をほぼ同じくして二十二日、東京では「乙案妥結ニ伴フ保障措置」が連絡会議で審議され、二十六日、石油取得量を米国から四〇〇万トン、蘭印から二〇〇万トンと希望額数量を決めていた。
米国の対日暫定協定案は英・濠・蘭・支の諸政府に提示されたが、蒋介石総統の米国顧問オーエン・ラチモアは次のように報告した。
「小生、総統が今度ほど動揺したるを見たることなし。経済的圧力の緩和もしくは凍結解除措置は中国における日本の軍事的優位を危険なほど増大する恐れがあり」(『ハル証言』)
中国の反応に英国も同調した。その結果、米国は対日暫定協定案を廃案とした。
右に代って日本に提示されることになる別の覚書が、決定的な所謂『ハル・ノート』である。
77
十一月二十六日午後六時、東郷外相は連絡会議決定に基づき「乙案」妥結の場合の石油希望額を、野村大使宛てに訓電した。
その訓電は、野村・来栖両大使からの重要な請訓電と行き違いになった。
東京も交渉妥結の可能性を信じたわけではなかったが、先に述べたように、交渉打切り期限を二十五日から二十九日まで延ばして一|縷《る》の望みを托したのである。行き違いになった両大使からの電報は、交渉妥結の見込なしとして、最後の打開策を窮余の一策に求めていた。それは、次の電文に見られるように、ルーズヴェルト大統領と天皇との間に親電を交換して打開の糸口を見出そうというものであった。
「累次往電ノ通リ乙案全部ヲ容認セシムル見込殆ド無ク、一方時日ハ切迫此ノ儘《まま》ニテハ遺憾|乍《なが》ラ交渉打切リノ外ナク、微力|慙愧《ざんき》ニ堪ヘズ。此ノ際唯一ノ打開策トシテハ甚ダ恐懼《きようく》ニ堪ヘザルモ、先ヅ『ル』大統領ヨリ至尊ニ対シ奉リ、太平洋平和維持ヲ目的トスル日米両国協力ノ希望ヲ電信セシメ(御内意ヲ俟《ま》チテ極力交渉ス)、之ニ対シ御親電ヲ仰ギ奉リ、以テ空気ヲ一新スルト同時ニ、今少シク時機ノ御猶予ヲ得(以下略)」
この案は、後日、半分実行に移されるが、時間切れによって破綻することになる。
日米交渉妥結のために最終的な努力が傾注されていたとき、十一月二十五日、日独伊防共協定の五カ年延長が決定され、ベルリンで署名調印が行われた。日米交渉の妥結が日本にとって喫緊の最重要事であったとすれば、それにとっては有害な印象をしかもたらさない方向へ進むことを、日本は躊躇《ちゆうちよ》しなかったのである。
十一月二十六日午前六時、南千島エトロフ島ヒトカップ湾に集結していたハワイ奇襲機動部隊(南雲部隊)は出撃した。十二月一日午前零時までに日米交渉が妥結すれば、奇襲部隊は反転帰投することになっている。
十一月二十六日(米国時間)、野村・来栖両大使は午後四時四十五分からハル長官と会見して、延引されていた「乙案」に対する回答を手交された。
ハル長官は「茲《ここ》数日間本月二十日日本側提出ノ暫定案ニ付、米国政府ニ於テ各方面ヨリ検討スルト共ニ、関係諸国ト慎重協議セルモ、遺憾乍ラ之ニ同意出来ズ、結局米側六月二十一日案ト日本側九月二十五日案ノ懸隔ヲ調節セル新案ヲ一案トシテ提出スルノ已《や》ムヲ得ザルニ至レリ」として、オーラル・ステートメントを添えて『合衆国及日本国間協定の基礎概略』という文書を両大使に手交した。これが所謂《いわゆる》『ハル・ノート』である。
ハル・ノートは長文なので、全文の引用は避けて要点を記すと、第一項の「政策ニ関スル相互宣言案」のなかで米国が主張しつづけてきた四原則(@一切ノ国家ノ領土保全及主権ノ不可侵原則。A他ノ諸国ノ国内問題ニ対スル不干与ノ原則。B通商上ノ機会及待遇ノ平等ヲ含ム平等原則。C紛争ノ防止及平和的解決並ニ平和的方法及手続ニ依ル国際情勢改善ノ為メ国際協力及国際調停|遵拠《じゆんきよ》ノ原則。)の確認が求められている。
次に第二項「合衆国政府及日本国政府ノ採ルベキ措置」は十項目の提案を含んでおり、これが日本にとって問題だったのである。
十項目のおもなものは、日米両国の英・支・蘭・ソ・泰《タイ》との多辺的不可侵条約締結、仏印の領土保全に関し米・英・日・蘭・泰政府間で協定、支那・印度支那からの日本の一切の軍事力警察力の撤収、日米両国政府は重慶の中華民国政府以外の政府・政権を支持せず、支那に於ける一切の治外法権を抛棄《ほうき》、日米通商協定締結の商議開始、資金凍結措置廃止等である。
ハル・ノートは、グルー駐日米大使によれば「……広範囲の、客観的にしてかつ政治道にかなった文書であり、|もし日本がその侵略的政策を中止さえすれば《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、日本がそのために戦いつつありと称するものをほとんど残らず与えることを提議している」覚書であった。(グルー『滞日十年』――傍点引用者)
日本は、しかし、そうは受けとらなかった。「侵略的政策」の中止はこれまでの日本の存在をみずから否定することにひとしかった。満洲事変以来、国際連盟の制裁決議は実効性がなかったから、日本は慢心していた。中国本土への侵略は、満洲事変の延長であり、拡大であった。日本はその「成果」の維持に固執した。侵略の名分が必要であったから、日本はみずからを盟主とする「大東亜共栄圏」の確立にその名分を求め、それを米国にも認知させようとしたのである。
米国は日米交渉の過程で日本の侵略的政策を否認する意思を示しつづけてきた。六月二十一日の米国提案に較べて、十一月二十六日のハル・ノートの提案内容がきびしいのは、日本が米国の警告を無視して、日米交渉中に南部仏印進駐を行なったりしたからである。
野村・来栖両大使がハル・ノートを受けとって大使館へ戻ったのは、日本時間で言えば、十一月二十七日の午前九時ころであろう。
両大使はハル長官に対して逐条的に日本の見解を述べている。
多辺的不可侵条約案に関しては、「……本案ガ九ケ国条約的機構ヲ復活セントスルモノナルニ於テハ、我国トシテハ四年間ノ今次事変ガ全ク無益ニ帰スルコトトナル次第ニシテ、到底容認シ得ザル」ものであり、支那及び仏印からの全面撤兵と、支那における蒋政権以外の一切の政府または政権を認めないことに関しては、「全ク出来ナイ相談ニシテ、……重慶政府承認ノ如キ、米国ガ恰《あたか》モ支那即チ蒋政権ヲ見殺シニスルヲ得ズト称セラルルガ如ク、我国トシテハ断ジテ南京政府ヲ見殺シニスルヲ得ズ」ときっぱり言い切っている。
ハルは、これに対して、「……撤兵ハ要スルニ交渉ニ依ル次第ニシテ、必ズシモ即時実現ヲ主張シ居ル次第ニアラズ。南京政府ニ関シテハ米国ノ有スル情報ニ依レバ到底支那ヲ統治スル能力ナシト見ルノ外ナシ」と応じたが、両大使が「三国条約ノ問題ニ至リテハ米国ハ日本ヲシテ出来得ル限リノ譲歩ヲ為サシメンコトヲ希望セラレツツアル一方、支那問題ニ対シテハ殆ンド当方ヲシテ重慶ニ謝罪セヨト称セラルルニ等シク、苛《いやし》クモ米国大統領ガ過般『紹介』ヲ云々セラレタルハ、マサカ右ノ如キ趣旨ニ出デラレタル次第ニハアラザルベシ」と詰め寄ったことに対しては、応答しなかった。返答に窮したのではなくて、米国の肚《はら》は既に決っていたから、弁解の必要など認めなかったのであろう。
野村大使は最後にこう言った。
「米国トシテハ本案ノ外考慮ノ余地ナシトセラルル意ナリヤ。過般大統領ガ友人間ニ『最後ノ言葉ナシ』ト称セラレタル経緯ニモ鑑《かんが》ミ、会見方ヲ取計フヲ得ベキヤ」
これに対してハル長官は、ハル・ノートは要するに一案である、と答え、大統領との会見に関しては「余リ進マザル様子ナリシモ取計ヒ方承認」したという。(以上『日米外交関係雑纂』第六巻(1))
大統領と両大使との会見が残っているとしても、日米交渉はもはや実質的には終ったとみるべきであった。
十一月二十七日(米国時間)、両大使は大統領との会見前に、本国へ交渉打切りの意思表示をするように打電した。
「(前略)我方ガ何等本交渉打切ノ意志表示ヲ為サズシテ突如自由行動ニ出ヅルコトハ……大国トシテノ信義上ヨリモ考慮ヲ要スル次第ナルガ、而《しか》モ此ノ如キ意志表示ハ我軍機ト緊密ナル関係アルベキヲ以テ、政府ノ御裁量ニ依リ東京ニ於テ米国大使ニ対スル通告又ハ中外ニ対スル声明等然ルベキ方法ニ依リ、今次交渉ノ区切リヲ明カニセラルルコト得策ナルヤニ存ゼラル」
ハル・ノートの全文と、それをめぐる会談の詳報と、交渉打切り意思表示の進言電は、二十七日午後本省に着電した。
東郷外相にとってハル・ノートは「戦争を避ける為めに眼をつむつて鵜飲みにしようとして見たが喉につかへて迚《とて》も通らなかつた」のである。(東郷『時代の一面』)
78
米国では、ハル回答の前日、十一月二十五日、ルーズヴェルト、ハル、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、マーシャル参謀総長、スターク海軍作戦部長がホワイト・ハウスに集り、協議した。大統領は「日本人は元来警告せずに奇襲をやることで悪名高いから、米国はおそらくつぎの月曜日――十二月一日――ごろに攻撃される可能性がある」と対処策を諮《はか》った。
日本の攻撃をほぼ正確に予想していた米国首脳陣の、このときの基本的な態度をスチムソンは次のように、『日記』に誌している。
「当面の問題は、われわれがあまり大きな危険にさらされることなしに、いかにして日本側に最初の攻撃の火蓋を切らせるような立場に彼らを追いこむか、ということであった」
コーデル・ハルによれば、十カ条の平和的解決案は、この最後の段階になっても、日本の軍部が少しは常識をとりもどすことがあるかも知れない、という儚《はかな》い希望をつないで交渉を継続しようとした誠実な努力であった、という(ハル『回想録』)。ハルにしても、しかし、ハル・ノートによって日本が冷静な常識を取戻すことがあり得るとは考えなかったであろう。
十一月二十七日の朝(米国時間)、ハルはスチムソンから「暫定協定(日本の仏印撤兵と引き換えに米国が日本の民需用石油を輸出する案)はどうなったのか」ときかれて、「私は問題をすっかり御破算にしたよ。私はもう日米交渉から手を引いたよ。今やこれからは君とノックス君、つまり陸海軍の出る幕だ」と答えている。(『スチムソン日記』)
同じく十一月二十七日、スターク海軍作戦部長は、「本電は戦争警告とみなさるべし。太平洋に於ける情勢の安定化を目途とする対日交渉は終了した。日本の侵略的行動がここ数日中に予期せらる」と、アジア艦隊司令長官、太平洋艦隊司令長官宛てに警告を発した。攻撃を予想された幾つかの地点に、何故か、真珠湾は含まれていなかった。
真珠湾を故意に無警戒状態に置いた、という説がある。真偽のほどは判然しないが、米国としては最初の一撃を日本から手出しさせることが必要なだけであって、無用の損害を招く必要はなかったはずである。
東京へは、前記のように十一月二十七日午後、ハル・ノートに関する電報が相次いで着電した。
軍部は在米武官電によって知った。『大本営機密戦争日誌』同日の項には次のように書かれている。
「果然米武官ヨリ来電。米文書ヲ以テ回答ス。全ク絶望ナリト。曰ク
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1 四原則ノ無条件承認
2 支那及仏印ヨリノ全面撤兵
3 国民政府(南京の汪精衛政府を指す)否認
4 三国同盟ノ空文化
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米ノ回答全ク高圧的ナリ。而シテ意図極メテ明確。九ケ国条約ノ再確認是ナリ。対極東政策ニ何等変更ヲ加フルノ誠意全クナシ。
交渉ハ勿論決裂ナリ。之ニテ帝国ノ開戦決意ハ踏切リ容易トナレリ。芽出度《ヽヽヽ》、芽出度《ヽヽヽ》。是《ヽ》、|天佑トモイフベシ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
之ニ依リ、国民ノ腹モ堅マルベシ。国論モ一致シ易カルベシ。」(傍点引用者)
傍点部分は驚くに値するであろう。軍部指導層の好戦的意思を百万言を用いて隠蔽しようとしても、右の一行にみずからを暴露する。
日本がハル回答に接する前日、十一月二十六日、天皇は木戸内大臣に次のような意思表示をした。
「(日米会談は)見透としては遺憾ながら最悪なる場面に逢着するにあらずやと恐れらるゝところ、愈々《いよいよ》最後の決意をなすに就《つい》ては、尚一度広く重臣を会して意見を徴しては如何かと思ふ。就ては右の気持を東条に話て見たいと思ふが、どうであらうか」
木戸の答は次のようであった。
「今度御決意|被 遊《あそばされし》は真に後へは引かれぬ最後の御決定でありますので、御不審の点其の他かうもして見よう、あゝもして見ようと云ふ様な御気持がある様であれば、御遠慮なく仰せ戴き、御上としても後に省みて悔のない丈《だけ》の御処置が願はしいと存じます。其の意味で御遠慮なく首相に御申付相成りまして宜しいと存じます。」(以上『木戸日記』)
東条首相は、しかし、天皇の意向に必ずしも賛成ではなかった。それは彼が二十六日午後、「南方占領地行政実施要領」と「対泰措置要領」に関して上奏した際の、下問奉答に表われている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
天皇 開戦スレバ何処迄モ挙国一致デヤリ度イ。重臣ハヨク納得シテヰルカ。政府ハドウ考ヘテ居ルカ。重臣ヲ御前会議ニ出席セシメテハドウカ。
東条 御前会議ハ政務|輔弼《ほひつ》ノ責アル政府ト統帥扶翼ノ責アル両統帥部長ガ責任ノ上ニ立ツテ意見ヲ申上ゲ、御決意ヲ願フモノデアリマス。重臣ニハ責任無ク、此ノ重大問題ヲ責任ノ無イ者ヲ入レテ審議決定スルコトハ適当デナイト思ヒマス。此ノ無責任ナルモノガ参加シテ愈々帝国ガ立上ルトナレバ、責任アル者ノ責任ガ軽クナル様ナコトニモナリマス。勿論其ノ様ナコトガアツテハナラヌノデアリマスガ、先般軍事参議官会議ヲ御前デ開キマシタノハ、念ニハ念ヲ入レテ重要軍務ニ責任ノアル軍事参議官ニ軍務ノ見地カラ御|諮詢《しじゆん》ニナルトイフ意味デアリマシテ、責任ノ無イ重臣ヲ御前会議ニ出席サセルノハイケナイト思ヒマス。
天皇 分ツタ。ソレデハ俺《ママ》ノ前デ懇談ヲサセテハドウカ。
東条 御前デ懇談デアリマスカ。
天皇 サウダ。
東条 之ハ考ヘマスガ、懇談ト申シマシテモ、御前デヤレバ矢張リ責任ヲ以テ懇談ヲスルトイフコトニナルト思ヒマス。私ハ重臣ニ対シマシテ今迄意識的ニ日米交渉ヤ国策ニ関シテハ言ハズニ居リマシタ。之ハ極メテ機微ナルモノデアリマシテ、此ノ国家ノ機密ガ洩レレバ大変ダト考ヘ、意識的ニ何等伝ヘナカツタノデアリマス。然シ尚ヨク考ヘマス。(『杉山メモ』)
[#ここで字下げ終わり]
十一月二十七日午後の連絡会議で、東条総理は、重臣たちを御前会議に出席させるか、あるいは他に適当な方法がないかを諮った。
『杉山メモ』が記している協議の概要は次の通りである。
重臣を御前会議に出席させることは、「無責任ノモノヲ責任者ト共ニ審議セシムルコト」になるから、不可である。また天皇の前で懇談させることも「責任ヲ生ジ」るから不可である。日露戦争のときは閣議で開戦を決定し、天皇がそれについて五人の元勲に下問した。「伊藤、松方等ノ五元勲ハ真ノ元勲デアツテ、今ノ重臣トハ趣ガ違フ。今ノ重臣ハ総理大臣ヲ経験セル経歴ガアルト言フダケデ、質カラ言ヘバ必ズシモ良イワケデハナイ」(重臣は軽んじられていた。質の良否は、軍部の、もしくは軍事政策の判断規準からいって、それに対して批判的な重臣は質が悪いことになるのである。)
「秘密保持ノ点ニ就テハ、過般東条内閣成立ノ時ノ重臣会議ノ内容ガ全部洩レテ居ル等ノ点カラ観テ、極メテ不良デアル」
「又今日迄ノ実情ヲ知ラヌ抽象的ナ考ヘカラ、政府統帥部ガ慎重審議シタ国策ニ対シ、之ヲ覆ヘス如キコトトモナレバ大変ナコトダ」
結論として、重臣たちは総理大臣のところに集めて、説明納得させればよい。期日は十一月二十九日、重臣たちを宮中に参集を求め、総理から説明する。その際、天皇は臨席しない。会議後、宮中の都合によっては「午餐ヲ賜ハルコトトスルヲ最モ適当トス」ということになった。
右の協議中、東郷外相だけは重臣たちの御前懇談がよい、と主張したが、孤立意見であった。
時間的順序から言えば、東条首相と重臣たちとの説明懇談会の前に、ワシントンで野村・来栖両大使とルーズヴェルト大統領との最後の会見が行われている。野村大使の要請に応じてハル長官が取計らったことであった。
79
野村・来栖両大使とルーズヴェルト大統領との最後の会見は、米国時間で十一月二十七日の夜行われた。談話の応酬は野村大使から本国へ電報で報告されたが、長文なので要点だけを拾ってみる。注意すべきことは、先に述べた通り、この時点では米国は既に対日戦争を決意しており、如何にして日本からの最初の一撃の手出しをさせようかと考えていたことである。
「(前段略)
大統領ハ(中略)自分ハ今|猶《なお》日米関係ガ平和的妥結ニ達スルコトニ付、大ナル希望ヲ有スト述ベタリ。本使ヨリ今回ノ御提案(ハル・ノート)ハ日本政府ヲ痛ク失望セシムベシト言ヒタルニ対シ、大統領ハ(中略)本会談開始以来数ヶ月間ニ於テ、日本ノ仏印南部進駐ニ依リ第一回ノ冷水ヲ浴セラレ、最近モ情報ニ依レバ第二回ノ冷水ヲ浴セラルル懸念モアルヤニ考ヘラルト述ベ(右ハ仏印ヘノ増兵ト泰《タイ》進駐ヲ意味セルガ如シ)、更ニ(中略)『ハル』長官ト貴大使等トノ会談中、日本ノ指導者側ヨリ何等平和的言辞ヲ聞キ得ザリシハ本件交渉ヲ頗《すこぶ》ル困難ナラシメタル次第ニシテ、一体『モダスビベンジ』( modus vivendi =暫定協定の意)ニ依リ現状ヲ打開セントスル案モ、若《も》シ終局ニ於テ国際関係処理ニ開スル日米両国ノ根本的主義方針ガ一致セザレバ、一時的解決モ結局無効ニ帰スル如ク思ハル。(中略)
本使等ヨリ大統領ノ『紹介』云々《うんぬん》ニ言セルニ対シ、大統領ヨリ自分ハ今猶右ノ考ヘヲ棄テ居ラズ、但シ右ハ日支双方ヨリ同時ニ希望セラルルコトヲ必要トスト……(中略)本使ヨリ今回ノ御提案ニ付テハ東京ヨリ未ダ何等訓令ニ接セザルモ、自分トシテハ三十年来ノ交誼《こうぎ》ニ依リ多大ノ尊敬ヲ有シ居ル貴大統領ノ『ステーツマンシップ』ニ依リ、何等カ打開ノ途ガ見出サレンコトヲ希望シ居ル旨述ベタルニ対シ、大統領ハ……(中略)明金曜日午後出発田舎ニ赴キ静養(過労ノ如ク見受ケタリ)ノ上来週水曜日帰華スル(ワシントンに帰来する)ヲ以テ、其ノ上ニテ貴使等ト面接ノ機会ヲ得度キ希望ナルガ、其ノ間若シ何等局面打開ニ資スルガ如キ事態ノ発生ヲ見バ結構ナリト述ベタリ。
尚会談途中ニテ『ハル』ヨリ『モダスビベンジ』ガ不成功ニ終リタル理由ニ言及シ、(中略)日本ガ大兵ヲ仏印ニ増駐シ(中略)片手ニハ三国同盟条約、他ノ片手ニハ防共協定ヲ提ケツツ、米国ニ石油ノ供給ヲ求メラルルニ対シ、日本ノ希望ニ応ズルハ到底米国民衆ヲ承服セシメ得ル所ニアラズ、(中略)折角我々ガ日米交渉ノ平和的解決ヲ論議シ居ルニ対シ、日本側首相、外相、其他ノ要人ヨリ之ガ促進ヲ容易ナラシムルガ如キ言辞ナク、却《かえ》ツテ力ニ依ル所謂《いわゆる》新秩序建設ヲ主張セラルルガ如キ言論ノミアリタルハ頗《すこぶ》ル遺憾《いかん》ナリト繰返シ述ベ居タリ。」(前掲『日米外交関係雑纂』)
会談は交渉経過の相互復習のようなもので、野村・来栖両大使の最後の努力も虚《むな》しかったのである。
十一月二十八日、日本ではハル・ノート全文が必要関係者に配られた。この日の『大本営機密戦争日誌』はこう書かれた。
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一、米ノ回答全文接受。
内容ハ満洲事変前ヘノ後退ヲ徹底的ニ要求シアリ。其ノ言辞誠ニ至レリ尽セリト云フベシ。
二、米ノ世界政策、対極東政策何等変化ナシ。現状維持世界観ニ依ル世界制覇之ナリ。
三、今ヤ戦争ノ一途アルノミ。
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前日の同『日誌』のように「芽出度、芽出度」などとうわついた記述はないが、ハル・ノートを米国の最後通牒であるかのように受取って、他の如何なる角度からの考慮も加えられた形跡がない。
当時は勿論のこと、現在でもなお、ハル・ノートを米国の最後通牒であるとして、日本の開戦を正当化する見方があるが、それならハル・ノートの内容がどの程度に緩和されていたら日本が受諾出来たかとなると、乙案に対する米国の全面的妥協以外に、既に進撃を開始していた奇襲部隊を反転させ得る効果的対案があったとは考えられない。
ハル・ノートに対する日本の指導者たちの感想は、次の嶋田大将(当時海相)の言葉にほぼ包括されていると思われる。
「之では将来日本は大陸における特|種《ママ》地位を失い、満洲、支那においての投資開発はその根拠がなくなり、更に朝鮮の現状維持も困難となるだろう。日満支経済ブロックの確保も不可能となる。之は政府も国民も到底受諾し得る条件ではない。又当時米国の強硬な輿論並に米英の戦争準備の促進や、東亜への兵力増派に見て、或は先方から積極的行動に出る危険も考慮せねばならず、我国としてはこの米国のノートを実質上には最後通牒と諒解するの外なかった」というのである。(戦史室前掲書)
東郷外相は十一月二十八日の定例閣議でハル・ノートに至るまでの日米交渉の経過を報告し、東郷によれば、全閣僚は戦うの外なしという結論に一致した。(東郷前掲書)しかし、開戦決議はまだこの閣議では行われていない。
閣議直前、東郷外相は東条首相と、先に述べた二十六日(米国時間)の野村・来栖両大使からの意見具申電報――天皇とルーズヴェルト大統領との親電交換によって日米交渉の行き詰りを打開しようという案――について協議した。その結果、ハル・ノートが来てしまってからでは、その意見具申は考慮に値しないとして、東郷から野村へ返電した。
交渉は事実上終ったのである。
80
十一月二十九日午前九時半から、宮中で政府と重臣との懇談会が開かれた。重臣は、若槻、岡田、広田、林、近衛、平沼、阿部、米内のいずれも元あるいは前総理と、原枢密院議長である。政府側からは、東条首相兼陸相、嶋田海相、東郷外相、賀屋蔵相、鈴木企画院総裁が出席した。
席上、政府側が開戦決意を述べたのに対して、若槻礼次郎(大正十五年一月三十日〜昭和二年四月二十日までと、昭和六年四月十四日〜同年十二月十三日まで総理大臣)が次のように問うた。
「戦争をするにはまず第一に資材が必要である。資材中石油が今日の戦争では最も必要である。日本内地の石油産出はいうに足らない。今日米国はすでに日本へ石油を送ることを禁じており、いよいよ開戦となれば、それは絶対に求められない。……ストックには限りがあり、戦争が永びけば欠乏することは明らかである。戦争半ばに、石油が不足するというようなことがあったら、どうして戦争を遂行することが出来るか」
東条首相が答えている。
「石油は決して不足していない。心配するに及ばない」(以上若槻『古風庵回顧録』)
重臣と政府側との応酬のなかで、海軍の長老岡田啓介(昭和九年七月八日〜同十一年三月九日まで総理)の質問は、政府が戦争決定に当って検討を回避し、あるいは希望的観測で処理した国力の問題を衡《つ》いて、核心に迫った。山本熊一が論議の要点の記録を残している。(『大東亜戦争秘史』)
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岡田「物の増産が南方進出で出来るとの御意見であるが、自分は疑念を有する。即資源はある、原料も得られようが、然《しか》し長い戦では労力もなくなる、船舶はどうなるか。差当り三百万トン必要であり、今は止むを得ずとするも、民需に返し得るか。日本の造船力にも限りがある。物の輸送も窮屈になり、三年後には物の生産は夢にも考へ得られまい。資源山を並べて赤貧洗ふが如き情態にならぬか」
東条「船舶は三百万トン確保切り切りの予定である。危険性はあるが、国家の強力な政治力で国民を引締める決意なくては目的は達成し得ぬ。……造船能力は六〇万トンはある。資源の点に付ても非常に心配であるが、検討の結果は何とかやつて行けると思ふ。信頼を請ふ」
岡田「どうも疑が増す許《ばか》りだ。今船腹が六百万トンある、造船能力も相当あると言ふが、果して其の通りに行くものか」
鈴木企画院総裁「支那事変を一般に深刻に考へる為に色々の心配が出て来るのではないか」
(中略)
岡田「日本海軍は米国を押へる力があるか」
東条「此の点は重大である。二年後勝算確実なりと云ふを得ないが、然し要域を確保して長期戦の基礎を作り得る」
岡田「其の見透無くば日米戦争は不可である。今迄の説明によれば未知数の点が余り多い。米国が現在の様な勢力を続けて行く限り危険性が多いではないか」
東条「万事は十分検討の上である。若し戦はない場合を仮定し、其の結果はどうなるだらう。英米側の言ひなりに甘んずることは出来るものではない。今日迄支那事変で十六万の精霊を失つてゐる。今日二百万以上の者が艱苦をなめて居る。此の上我慢は出来ぬ。今の儘《まま》進んで一両年後に戦端を開かざるを得ない様な立場に押し込められたとしたら、最早作戦は不能である」
岡田「日米交渉を纒《まと》めんとする努力は現在刻々流して居る血を生さんが為である。|大東亜共栄圏の建設は全く之が破壊である《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。日本は南方諸地域の輸入を片《ママ》替することになる。仏印、泰、ジャバ以外は米の輸入国である。仏印にも其の日、其の日の生活に窮するものが多い。此等南方住民迄幸福を与へてやることは不可能と思ふ。軍票の如き無償同様に発行の結果となり、之に依つて物資を獲得することは不当の措置となる」
東条「遣《や》り方如何によつては人心把握も必しも困難ではない。……」
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岡田の発言は、米内内閣退陣(昭和十五年七月)以来陸軍に追随して独自の見識を失った海軍の姿勢を建直し、東条内閣の戦争企図に重大な警告を発するものであったが、政府側の対応は若槻の表現によれば「取らぬ狸の皮算用」を繰り返すに過ぎなかった。
午後一時、会議は休憩となって、天皇の陪食に列席した重臣たちは二時から一時間にわたって天皇と懇談の機会を得た。以下は『木戸幸一日記』によるその概要である。
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天皇「大変難しい時代になつたね」
若槻「我国民は精神力に於ては心配なきも、物資の方面に於て果して長期戦に堪へ得るや否や、慎重に研究するの要あり。午前中政府の説明もありたるが、之を心配す」
岡田「今日は真に非常の事態に直面せるものと思ふ。物資の補給能力につき充分成算ありや甚だ心配なり。先刻来政府の説明ありたるも、|未だ納得するに至らず《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
平沼(騏一郎。昭和十四年一月五日〜同年八月三十日まで総理。)「……既に四年の戦争を遂行して居ります今日、更に長期の戦となれば困苦欠乏に堪へなければなりませんので、民心を引締て行きます点については充分の施策と努力が必要と存じます」
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[#この行1字下げ](平沼内閣当時、日本は三国同盟締結に関して会議に会議を重ねた。その最中にドイツは日本を出し抜いて、独ソ不可侵条約を結んだので、平沼は「欧洲の情勢は複雑怪奇」と声明して内閣を投げ出したのである。以来日本の親独熱は一時的に下火になったが、翌年ドイツの破竹の進撃がはじまるに及んで、親独熱が急激に再燃したことは既述の通りである。)
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近衛「四月以来自分は日米国交調整に努力し来りたるが、遂に其の成果を挙ぐることを得ざりしは殊に遺憾とするところなるが、(中略)午前中政府の説明により、乍遺憾《いかんながら》外交々渉の継続は此上見込なしと判断する外なきが、外交々渉決裂するも直に戦争に訴ふるを要するや、此の儘の状態、即ち臥薪嘗胆《がしんしようたん》の状態にて推移する中又打開の途を見出すにあらざるかとも思はれ、此の点は尚後刻当局に質《ただ》したいと思つて居ります」
米内(光政。海軍大将。昭和十五年一月十六日〜同年七月二十二日まで総理。陸軍の策謀によって陸相畑俊六辞任、陸軍は故意に後任陸相を送らず、倒閣に成功した。)「資料は持ちませんので具体的の意見は申上られませんが、俗語を使ひまして恐れ入りますが、ヂリ貧を避けんとしてドカ貧にならない様に充分の御注意を願ひたいと思ひます」
広田(弘毅。昭和十一年三月九日〜同十二年二月二日まで総理。外交官出身。東郷外相の先輩。二・二六事件直後に組閣。軍部は二・二六事件を梃《てこ》として公然と政治の主導権を握った。)「……政府の説明によれば今日は外交上の危|期《ママ》に立てる様には思はるゝが、之は所謂戦機との関係もあるところ、由来外交談判の危機は二度三度繰り返して始めて双方の真意が判るものと思ふ。今回危機に直面して直に戦争に突入するは如何なるものにや。仮りに不得止《やむをえぬ》とするも、仮令《たとい》打ち合ひたる後と雖《いえど》も、常に細心の注意を以て機会を捉へて外交々渉にて解決の途をとるべきなりと思ふ」
林(銑十郎。陸軍大将。広田内閣のあとを承《う》けて、昭和十二年二月二日〜同年六月四日まで総理。)「資料を持たざるが、大体政府が大本営と充分協力研究せられたる結論に信頼する外なしと思ふ」
阿部(信行。陸軍大将。平沼内閣のあとを承けて昭和十四年八月三十日〜同十五年一月十六日まで総理。)「政府の説明によれば外交々渉の継続は困難なるべく、今や真に重大なる関頭に立てるものと思ふ。政府は非常に周密にあらゆる角度より研究せられたる様に思はれ、是以上のことは望めぬと思ふ。只《ただ》、支那人心の動向については慎重に対処せらるゝことを要すべく、一度誤らば今日迄得たる成果も失ふに至る虞《おそれ》ありと思ふ」
若槻「……爰《ここ》に一言申上たきは、帝国の自存自衛の必要とあれば仮令敗戦を予見し得る場合と雖も国を焦土となしても立たなければなりませんが、只理想を描いて国策を御進めになること、例へば大東亜共栄圏の確立とか東亜の安定勢力とかの理想にとらはれて国力を使はるゝことは誠に危険でありますから、之は御考へを願はなければならないと存じます」
[#ここで字下げ終わり]
若槻の回想録によれば、若槻が天皇の前で話している間、東条が屡々《しばしば》口を出し、心配に及ばないと言い、「陸軍では十分調査して、戦争資材には不足のないという公算を得ている。ただ若槻をしてこれを諒解せしむるためには、三四時間も時間が要ります」と暗に若槻の発言を食い止めようとする態度を示した。若槻は「これは始末にいかんと思って、陳述を中止した。そこで陛下は、列席しておった他の重臣一人々々に意見を述べさせ、それをお聴きになって入御遊ばされた」というのである。
若槻は「これは始末にいかん」などと思って陳述を中止すべきではなかったであろう。良識派の退却はほとんどいつでもそういうところからはじまるのである。抵抗が抵抗にならず、抵抗しなかったのと同じ結果になる。若槻に限らず、無謀な戦争に反対する正当な理由と意志を持った一部重臣たちも、せっかく御前で意見|開陳《かいちん》の機会を得ながら、諌死《かんし》するほどの気魄《きはく》を見せることはなかった。
天皇がまた、自ら希望した重臣との懇談で、開戦賛成から反対までの重臣たちの意見を、ただ黙って聞きおくにとどめ、「入御」してしまったのである。法制上、至高にして無責任者の沈黙の退場は、現為政当局の決定に暗黙の諒解を与えたことになる。
午前につづく重臣懇談会では、岡田が政府見解を「承服出来ぬ」と批判し、若槻も「不面目でも冒険はすべきでない」と主張したが、山本熊一によれば、時間も遅くなり、重臣連も一、二を除けば政府が責任を以て善処するという以上、信頼する外あるまいという考えが一般的であり、「此の未曾有の重大時局を篤《とく》と認識|輔弼《ほひつ》の責任上万全を期す」旨の東条首相の発言を最後に散会した。
81
重臣懇談会終了後、ひきつづいて大本営政府連絡会議がひらかれた。翌々十二月一日の御前会議のための連絡会議である。
議題の主なものはハル・ノート以後の「米ニ対スル外交ヲ如何ニスルヤニ就《つい》テ」である。
『杉山メモ』が記すところでは、論議の進行は次のようになっている。
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外相 仕方ガナイデハナイカ。
○ 戦争ニ勝テル様ニ外交ヲヤラレ度イ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](○印は氏名不詳である。この議題で○印は七回出て来るが、何名分に相当するのか判然しない。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
外相 外交ヲヤル様ナ時間ノ余|猶《ママ》ガアルノカ。
永野 未ダ余猶ハアル。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](期限は既述の通り十二月一日午前零時だが、永野の含みは以下の文脈からすれは、もう少し幅があるように思われる。)
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外相 ○日ヲ知ラセロ。之ヲ知ラセナケレバ外交ハ出来ナイ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](○日とは攻撃開始の日である。つまり、十二月八日である。)
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永野 ソレデハ言フ。○日ダ。未ダ余猶ガアルカラ、戦ニ勝ツノニ都合ノヨイ様ニ外交ヲヤツテクレ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](永野の言い分は、欺騙《ぎへん》外交をやれということである。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
○ 国民ハ最高潮ニ達シテヰル。此ノ上更ニ此ノ気勢ヲ高メルコトハ、米ヲシテ戦争準備ヲ益々ヤラセルコトニナルノデ、此ノ上高メナイ様ニスル必要ガアル。
○ ソレハイカヌ。ソンナコトヲシタラ国民ハ分裂スル。
○ 分裂セヌ程度ニヤレ。特ニ政府当局ガ気勢ヲ低メル様ナコトヲ言フノハ悪イ。
○ 外電ヲ利用シテヤルノガ最モ良イ方法ト思フ。
[#ここで字下げ終わり]
永野軍令部総長、嶋田海相、岡軍務局長等海軍側は「戦ニ勝ツ為ニ外交ヲ犠牲的ニヤレ」と強く主張した。
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外相 ヨク分リマシタ。出先ニ帝国ハ決心シテヰルト言フテヤツテハイカヌカ。武官(暗ニ海軍ナルコトヲ仄《ほの》メカシツツ)ニ帝国ハ決心シテ居ルトイフコトヲ言ツテ居ルデハナイカ。
永野 武官ニハ言フテナイ。
外相 外交官ヲ此ノ儘《まま》ニシテモ置ケヌデハナイカ。
○ ソレハイカヌ。外交官モ犠牲ニナツテモラハナケレバ困ル。最後ノ時迄米側ニ反省ヲ促シ、又質問シ、我ガ企図ヲ秘匿スル様ニ外交スルコトヲ希望スル。
外相 形勢ハ危殆《きたい》ニ瀕シ、打開ノ道ハ無イト思フガ、外交上努力シテ米国ガ反省スル様ニ、又彼ニ質問スル様ニ措置スル様出先ニ言ハウ。
○ |国民全部ガ此際ハ大石《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》蔵之助《ママ》|ヲヤルノダ《ヽヽヽヽヽ》。(――傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
桶狭間《おけはざま》とか大石蔵之助とかいうのは、当時の日本の軍人好みの表現だが、日本は奇襲の成功にすべてを賭けていた。勝てないまでも敗けない戦をする、それには緒戦の奇襲に成功して、敵に大打撃を与え、我は戦略的要点を確保する以外の途はない、という考え方に尽きている。
『大本営機密戦争日誌』はこの日の項に次のように誌している。
「(前略)御前ニ於テ重臣ト懇談ス。非戦論少ナカラズ。(中略)
国家興亡ノ歴史ヲ見ルニ、国ヲ興スモノハ青年、国ヲ亡ボスモノハ老年ナリ。重臣連ノ事、コレ心理モ已《や》ムナシ。若槻、平沼連ノ老衰者ニ、皇国永遠ノ生命ヲ托スル能《あた》ハズ。
我ハ孫子ノ代マデ戦ヒ抜カンノミ。
(中略)重臣懇談終了。御上モ充分納得遊バサレタルガ如シ。引続キ連絡会議開催。
全員異議ナク対米英蘭戦争開戦ニ決ス。(中略)七月二十六日資産凍結以来、苦悩ニ苦悩ヲ重ネテ、事遂ニ茲《ここ》ニ至ル、噫《ああ》。
開戦企図秘匿ヲ如何ニスベキヤヲ研究セルモ、現状維持ノ外、名案ナシ。米、未ダ戦争準備全クナシ。独ノ対『ソ』戦争急襲以上ノ、対米戦争急襲正ニ成就セントス。先入主観ノ禍害、茲ニ最タリ。『ヤンキー』ノ対日軽侮モ旬日ヲ出デズシテ、思ヒ知ラシメラルベシ。(以下略)」
右に見られる軽薄とも言える気負いは、独り戦争指導班に限ったことではなかった。政策と世論を戦争へ推進した人びとには、たとえば重臣懇談会での岡田海軍大将の苦言に代表される良識の声など、ものの数ではなかったのである。
十一月三十日午前、高松宮が天皇に拝謁した。そのときの会話の模様が天皇から木戸内大臣に伝えられた。木戸は次のように記している。
「三時半、御召により拝謁す。
今日午前、高松宮殿下御上りになりたるが、其時の話に、どうも海軍は手一杯で、出来るなれば日米の戦争は避けたい様な気持だが、一体どうなのだらうかね、との御尋ねあり。
依つて、今度の御決意は一度聖断|被遊《あそばさ》るれば後へは引けぬ重大なものであります故、少しでも御不安があれば充分念には念を入れて御納得行く様に被遊ねばいけないと存じます、就ては直に海軍大臣、軍令部総長を御召になり、海軍の直の腹をたしかめ相成度、此の事は首相にも隔意なく御話置き願ひ度いと存じますと奉答す」
木戸の進言によって、東条首相が三時半過ぎ、参内拝謁した。
東条はこう言っている。
「この戦争は避けたきことは政府は勿論統帥部も皆感を同じうする所でありますが、連絡会議において慎重研究の結果は既に内奏申上げた如く、事茲に至つては自存自衛上開戦止むを得ずと存じます。又統帥部においては戦勝に相当の確信を有すると承知致して居ります。然《しか》し海軍作戦が基礎をなすことであります故、少しにても御懸念を有せられるるならば、軍令部総長、海軍大臣を御召しの上十分御確め願ひます」(『東条尋問録』)
嶋田海相と永野総長の拝謁の次第を嶋田は次のように述べている。
「午後六時十分大臣、総長同列で御学問所にて拝謁し(中略)総長に対せられて『愈々《いよいよ》時機は切迫して矢は弓を離れんとしておるが、一旦矢が離れると長期の戦争となるのだが、予定通りやるかね』とお尋ねあつた。(中略)総長は『いずれ明日(十二月一日御前会議の折を指す――引用者)委細奏上すべきも、大命降下あらば予定の通りに進撃いたします』と奉答した。
次に私に対せられて『大臣としても総てよいかね』との御尋ねあり。私は『物も人も共に十分の準備を整へて、大命降下を御待ちしております』と奉答した処、更に私に対して『独逸が欧洲で戦争を止めたときはどうするかね』との御尋ねがあつたので、私は『独逸は真から頼りになる国とは思つておりませぬ。仮令《たとい》、独逸が手を引きましても差支ない積りで御座います』と奉答した。
御尋ねは以上であつたが、大御心を安じ奉らんために、両人から艦隊の様子を申上げ、司令長官は訓練が行届き、士気旺盛なることに十分の自信を存しておることや、此の戦争はどうしても勝たねばならぬと一同覚悟しておることなどを申上げて退下した。陛下には御安心の御様子に拝した」(戦史室前掲書)
再び『木戸日記』によれば、「六時三十五分、御召により拝謁、海軍大臣、総長に先程の件を尋ねたるに、何《いず》れも相当の確信を以て奉答せる故、予定の通り進むる様首相に伝へよとの御下命あり。
直に右の趣を首相に電話を以て伝達す」とある。
開戦か否かの期限まであと約五時間半を残し、翌十二月一日の御前会議を待つことなく、開戦は事実上これで確定したのである。
82
十二月一日、午後二時から四時まで、宮中東一の間で御前会議がひらかれた。この年(昭和十六年。一九四一年)最後の御前会議であり、昭和に入ってからは通算八度目である。
このときの御前会議には全閣僚が出席した。異例のことであった。
会議は「御許シヲ得タルニ依リマシテ、本日ノ議事ノ進行ハ私ガ之ニ当リマス」という東条首相の口上にはじまる説明から開始された。
東条の説明内容には目新しいものは何もないが、従来の経過を概括する意味で前半部を引用する。
「十一月五日御前会議決定ニ基キマシテ、陸海軍ニ於テハ作戦準備ノ完整ニ勉メマスル一方、政府ニ於キマシテハ凡有《あらゆる》手段ヲ尽シ、全力ヲ傾注シテ、対米国交調整ノ成立ニ努力シテ参リマシタガ、米国ハ従来ノ主張ヲ一歩モ譲ラザルノミナラズ、更ニ米英蘭支聯合ノ下ニ、支那ヨリ無条件全面撤兵、南京政府(汪政権を指す)ノ否認、日独伊三国条約ノ死文化ヲ要求スル等、新ナル条件ヲ追加シ帝国ノ一方的譲歩ヲ要求シテ参リマシタ。若《も》シ帝国ニシテ之ニ屈従センカ、帝国ノ権威ヲ失墜シ支那事変ノ完遂ヲ期シ得ザルノミナラズ、遂ニハ帝国ノ存立ヲモ危殆ニ陥ラシムル結果ト相成ル次第デアリマシテ、外交手段ニ依リテハ到底帝国ノ主張ヲ貫徹シ得ザルコトガ明トナリマシタ。」(以下略)
だから「自存自衛ヲ全ウスル為、米英蘭ニ対シ開戦ノ已ムナキニ立チ至リマシタル次第デアリマス」というのである。
既に再三触れたことだが、日本が満洲事変から日中戦争へかけて行なった謀略と侵略に関する反省は、累次の連絡会議においても、遂に片鱗《へんりん》も見られない。侵略の成果を既得権益として正当化し、それを維持することが対米英蘭戦開始の大義名分なのである。
次に、兼任内務大臣としての東条の説明を部分的に見てみよう。
「(前段略)
特ニ所謂《いわゆる》国家主義団体ノ方面ニ於キマシテハ、概《おおむ》ネ我国ノ対外強硬政策断行ヲ主張致シマシテ、若シ交渉不成立ト云フ様ナコトニナリマスレバ、恐ラク即時武力南進ヲ断行スベシトノ強硬ナル要請ヲ致スモノト思ハレルノデアリマス。一般ノ労働者、農民等ノ部層ニ於キマシテハ固《もと》ヨリデ御座イマスガ、近来統制ノ強化ニ依リマシテ生活上ニモ尠《すくな》カラヌ影響ヲ受ケテ居リマス中小商工業者方面ニ於キマシテスラ、今日ノ我国ノ立場ヲ充分ニ理解致シマシテ其ノ志気ハ相当旺盛ナルモノガアリ、|政府ガ明瞭ナル指標ノ下ニ強硬政策ヲ遂行致シマスコトヲ要望スル向ガ多イ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》様デ御座イマス。併《しか》シ乍《なが》ラ多数ノ国民中ノ一部ニハ、此ノ際出来ルダケ戦争ヲ回避スベキデアルト云フ風ナ考ヘノ者モ無シトシナイノデアリマスルガ、此等ノ者モ米国ガ|我国ノ正当ナル立場《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ヲ理解シ経済封鎖ヲ解除シテ、対日圧迫ノ政策ヲ抛棄スルト云フ様ナコトガアリマセヌ限リ、|我国ノ南進政策断行ハ当然ノコト《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》デアツテ、之ガ為日米衝突ト云フ様ナ事態ニ立到リマスコトモ亦《また》止ムヲ得ナイコトデアルト決意シテ居ル様デ御座イマス。(以下略)」――(傍点引用者)
開戦直前の国民一般の風潮が内務大臣の観察に近かったことは否めない。それは、しかし、長年月にわたる言論思想の弾圧統制と軍国主義体制による教育宣伝の結果である。国民はみずからの感覚において考え独自の意志を形成する訓練を放棄した。戦争を回避したがった良識的な人びとのなかにも、対米戦回避の理由は国力的に無理と思われるからであって、もし国力がこれを許すという十分な保証があったらどうするかという問いに対して、明快な答えを持ち得ていた者は少かったであろう。つまり、勝ち戦ならお前はどうしたか、ということである。国民個人レベルでの戦争責任の問題は、これを抜きにしては意味がなくなるであろう。
次に、十一月五日御前会議の直前まで東郷外相とともに開戦決意へ踏み切ることに躊躇《ちゆうちよ》した賀屋大蔵大臣の説明を見てみる。彼の説明は、十一月五日のときとほとんどそっくりそのままである。特徴的な部分だけ引用する。
「支那事変勃発後我国歳計ハ逐次増加シ、本年度予算ハ一般会計七十九億九千余万円、臨時軍事費五十八億八千万円、合計|純《ママ》額百三十八億余万円ニ達シタルガ、(中略)今次南方ニ作戦ヲ開始スルニ於テハ、之ガ為更ニ多額ノ国費ノ追加ヲ要スルコトハ明ニシテ、果シテ我ガ国民経済ガ斯《か》クノ如キ巨額ノ戦費調達ニ堪ヘ得ルヤ(中略)之ガ金融上ニ及ボス影響特ニ悪性『インフレーション』ヲ起スノ危険ナキヤハ憂慮セラルル所ナリ。
(中略)
租税又ハ国民貯蓄ノ増加ニ依ル資金ノ吸収ハ、政府ノ国民経済ニ関スル施策ガ適当ニシテ、且《か》ツ国民ガ国家ノ興亡ノ岐《わか》ルル所ナルコトヲ自覚シ、極度ノ忍耐努力ヲ為《な》スニ於テハ之ヲ可能トス。(中略)畢竟《ひつきよう》スルニ軍事行動ヲ遂行シ且国民生活ヲ維持スルニ必要ナル物的方面充足シ得ザルトキハ、政府ノ財政金融上ノ施策如何ニ完全ナリトスルモ国民経済ハ破綻セザルヲ得ザルナリ。(中略)
南方作戦地域ハ従来各種ノ物資ヲ相当ニ輸入シ居ル処、我方ニ於テ之ヲ占領シタル場合、之等ノ輸入ハ杜絶《とぜつ》スベク、従テ其ノ経済ヲ円滑ニ維持スルガ為ニハ我方ニ於テ物資ノ供給ヲ為スヲ要スベキモ、我国ハ其ノ為ニ充分ノ余力ナキヲ以テ、|相当長期ノ間現地一般民衆ノ生活ヲ顧慮スルノ暇殆ド無シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。従テ現地ノ物資労力等ヲ獲得スル為、軍票其ノ他通貨的性質ノモノヲ我方ニ於テ発行スルモ、其ノ価値維持ハ困難ナリト謂《い》ハザルベカラズ。即チ我方ハ努メテ現地自給ノ方針ヲ取リ、我方ヨリノ追送物資ハ現地治安ノ維持及現地労力ノ使用上必要ノ最小限度ニ止メ、|通貨価値ノ下落等及之ヨリ来タル現地経済ノ混乱ハ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|一応之ヲ度外視シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》テ飽ク迄モ邁進スルコト必要ナリ。尤《もつと》モ現地ハ住民ノ文化低ク且天産比較的豊富ナルヲ以テ、其ノ民生ノ維持ハ支那等ニ比スレバ容易ナルモノト認メラル。(以下略)」――(傍点引用者)
占領地の収奪行政の不可避を賀屋は予見している。それとほぼ同じことを、重臣懇談会で既述の通り岡田大将が指摘したが、そのときの東条首相の答は「遣り方如何によつては人心把握も必しも困難ではない」というのであった。収奪と人心|収攬《しゆうらん》は両立しないであろう。両者の隔りを埋める策について解説はなされなかった。出来るわけがなかったのである。大東亜共栄圏とはそのような矛盾を「共栄」と牽強附会したに過ぎなかった。
次に井野農林大臣の説明である。農林大臣が御前会議に出席して説明するのははじめてであった。
「(前段略)……現下ノ食糧事情ハ、先ヅ第一ニ主要食糧タル米麦ニ付之ヲ観ルニ、昭和十七年米穀年度(自昭和十六年十一月一日至十七年十月三十一日)ノ米穀需給推算ハ、供給ニ於テ約七千三百九十万石(持越八百三十九万石、収穫予想高五千五百四十五万石、朝鮮台湾移入見込高一千万石)ナルモ、需要ニ於テ約八千五百万石ナルヲ以テ、約一千百十万石ノ不足ヲ生ズル実情ニ至リ、仍《よつ》テ之ガ対策トシテハ外国米ニ依リ之ガ補給ヲ要スベキヲ以テ、目下其ノ具体的手段ヲ講ジツツアリト雖《いえど》モ、国際情勢ノ緊迫化ニ伴ヒ外米輸入ノ困難ナル場合モ予想セラルルヲ以テ、国内ニ於テ自給自足ノ対策ヲ講ズルノ要アルヲ認メ(中略)之ガ具体的施策トシテ麦及甘藷、馬鈴薯ノ増産ヲ図ルト共ニ、酒米ノ節約其ノ他ノ消費規|正《ママ》ヲ強化シ、以テ右不足数量ヲ補フコトトセルモ、之ガ為ニハ朝鮮及台湾産米ノ移入ヲ確保スルコト絶対的ニ必要……」
右に見られるように主食糧の不足は当初から明らかであった。主食(澱粉質)だけでなく、蛋白質及脂肪食糧に関しても、その給源である水産物及畜産物は、石油事情の逼迫、漁船の徴用、あるいは輸送船腹の不足のための満支からの輸入困難等によって、供給の著しい減退は避けられない実情にあった。
井野農相が「既ニ確立セル食糧自給強化施策、並ニ目下画策中ノ日満支ヲ通ズル綜合食糧対策、並ニ水畜産増産計画等ニ依リ、政府部内各方面ノ協力ヲ得テ之ガ実施ニ遺漏ナキヲ期サバ、国民生活ニ必要ナル最小限度ノ食糧ニ付テハ長期ニ亘リ之ガ供給確保ヲ図リ得ルモノトス」と説明を結んだとしても、数字に表われる現実的食糧事情は、希望的幻想を許しはしなかった。開戦後、戦線も銃後も慢性的半飢餓状態に陥るのは、時間の問題であった。
各大臣の説明後、御前会議は原枢密院議長と、政府統帥部との質疑応答に移ることになる。
83
十二月一日御前会議の質疑応答
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
原枢密院議長 本題ハ重大問題デアリマスルガ、既ニ一度ノ御前会議ヲ経テ、為《な》スベキコトヲ総テノ経路ヲ辿《たど》リテナサレテ居ルモノデアリマスカラ、特ニ申上ゲルコトモアリマセヌガ、事重大問題デアリマスルカラ若干ノ御質問ヲ致シマス。其ノ一ツハ米国務長官カラ両大使ニ寄セラレタル回答ハ誠ニ不当ナモノデアリマシテ、之ヲ両大使ハ共々其ノ不当ノ点ヲ論難セラレタ由デアリマスルガ、特ニ米ガ重慶政権ヲ盛立テテ全支那カラ撤兵セヨトイフ点ニ於テ、米ガ支那トイフ字句ノ中ニ満洲国ヲ含ム意味ナリヤ否ヤ、此事ヲ両大使ハ確カメラレタカドウカ、両大使ハ如何ニ了解シテ居ラレルカヲ伺ヒ度イ。
東郷外相 二十六日(十一月)ノ会議デハ唯今ノ御質問事項ニハ触レテ居リマセヌ。然《しか》シ支那ニ満洲国ヲ含ムヤ否ヤニツキマシテハ、モトモト四月十六日米提案《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》中ニハ満洲国ヲ承認スルトイフコトガアリマスノデ、支那ニハ之ヲ含マヌワケデアリマスガ、話ガ今度ノ様ニ逆転シテ重慶政権ヲ唯一ノ政権ト認メ、汪政権(南京)ヲ潰ストイフ様ニ進ンデ来タコトカラ考ヘマスト、前言ヲ否認スルカモ知レヌト思ヒマス。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](傍点を付した「四月十六日米提案」というのは、日米交渉の四月段階で既に述べたことだが、日本側出先〈野村、井川、岩畔《いわくろ》ら〉によって恰《あたか》も米側提案であるかのように作為されたものである。誰がどの程度にかかわったか、断定は出来ないが、それから七カ月半後の最後の御前会議で東郷外相が原枢相に説明しているような米側公式見解ではなかったのだ。作為に関して、陸軍からワシントンヘ特派されていた岩畔は、これも既に引用済みだが、再録すれば「外務省宛の暗号電報は若杉公使によって起案されたが、|重要な一点が故意に改変せられた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。それは『日米諒解案《ヽヽヽヽヽ》』|が《ヽ》、|米国政府の起案にかかるようにした点である《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。これは『|真実のことを述べるよりも《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|このように改めるのが《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|本国政府の意見をまとめるために好都合であろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》』|との判断に《ヽヽヽヽ》基づいたものであった」と書いている。〈前掲『文藝春秋』稿。傍点引用者〉米国が重慶政権をしか認めないという原則は、文書の表現にその都度強弱はあったとしても、一貫していたのである。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
原 「ラジオ」ノ放送ニヨレバ両大使ハ更ニ「ハル」ト今日会談スルコトニナツテオル様デスガ、果シテ之ガ事実トシマスレバ、何《いず》レカラ発意シテ其ノ交渉ヲシタモノデスカ、当方カラ会議ヲ求メタトスレバ、何ノ為ニ此ノ様ナコトヲシタノデスカ。
外相 会談ノ日取ハ言フテ来テ居リマセヌ。米ノ提案ヲ審査シテ此ノ儘《まま》受諾スルコトハ不可能デアリマスノデ、「日本側ノ十一月二十五日ノ提案ハ正当ニシテ米ノ従来ノ態度ハ理解ニ苦シム処デアル、米ノ反省ヲ米側ニ申出ヨ」ト大使ニ命ジテヤリマシタカラ、之ニヨツテ当方ヨリ会見ヲ求メタト云フコトモアリ得ルト想像セラレマス。
原 統帥部ニ承リ度イガ、開戦準備ガ完了セラレタコトハ誠ニ結構デアリマスガ、英米ノ其ノ後ノ情報ニヨレバ極東軍備ノ増強ヲヤツテヰルトイフコトガアリマスカ。軍艦ヲ増加シテ居ル様デアリマスガ、増加シテヰルトスレバ如何程《いかほど》ニ増加シテヰマスカ。作戦行動ニ支障ハアリマセヌカ。
永野軍令部総長 米ノ兵力ハ、大西洋四、太平洋六トナツテ居リマスガ、近来活動シテヰルノハ英国デアリマス。目下印度洋附近ニ於ケル英海軍ノ勢力ハ次ノ通リデアリマス。
[#ここで字下げ終わり]
[#2字下げ]香港 乙巡一、駆逐艦三
[#2字下げ]|星 港《シンガポール》 乙巡四、駆逐艦六、潜水艦一
[#2字下げ]濠洲 甲巡一、乙巡五、駆逐艦四
[#2字下げ]コロンボ 航空母艦一、甲巡三、乙巡四、駆逐艦四
[#2字下げ]ボンベイ 戦艦一、甲巡三、乙巡一、駆逐艦二
[#2字下げ]モンパサ(アフリカ東海岸)戦艦三―四、航空母艦一、
[#5字下げ]甲巡一、乙巡五、駆逐艦五
[#2字下げ]紅海 戦艦一―二、駆逐艦一、潜水艦一
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
英ハ独伊ノ活動ガ稍々《やや》不活溌トナリ、特ニ伊太利海軍ガ消極的トナツタ為、近来海軍ニハ余力ガ出来、東洋ニハ逐次増加スル傾向ニアリマス。目下主力艦ノ印度洋方面ニ対スル増派集中ハ次ノ通リデアリマス。
確実ナルモノ 戦艦二
稍々確実ナルモノ 戦艦四
此ノ増加ノ目的ハ印度洋通商保護、対日戦備、独伊ノ潜水艦ヨリノ避難ノ為デアリマス。特ニ戦艦ノ増加ハ独ノ飛行機ニ対スル損害ヲ避ケル為ニ此ノ方面ニ移ツテ居ルトイフ説モアリマス。陸上兵力ノ増加ハ「カナダ」兵ガ二千名香港ニ上陸シタトイフコトハ確実ノ様デアリマス。
以上ノ様ニ若干増加ハ致シマシタガ、当方デハ兵力配備等ニ就《つい》テハ考慮ヲ置ク必要ハアリマスガ、何等作戦ニハ影響アリマセヌ。
原 陸兵ノ情況ハ如何デスカ。右ハ統帥部ニハ予定ノ軍備増強ノ範囲内ト考ヘテヨイノデスカ。
杉山参謀総長 香港ニ二千名増シタコトハ永野総長ノ言フタ通リデアリマス。此ノ前ノ御前会議以後ニ於キマシテ星港ニ約六千|乃至《ないし》七千名上陸シ、又「ビルマ」方面ニ於テハ種々ノ情報ハアリマスガ、纒マツタモノハナイ様デアリマス。今日迄ノ計画ニハ此ノ様ナコトハアルト判断シ、此等敵兵ノ増強ガアリマシテモ支障ノナイコトヲ基礎トシテ居リマスカラ、作戦実行ニハ支障アリマセヌ。
原 泰《タイ》国ガ日本ニツクカ、英国ニツクカ、其ノ辺ノ見透シハドウデスカ。泰ガ反対シタトキハドウデスカ。
東条総理 泰ニ対シテハ十一月五日御前会議ノ方針決定セル通リ、進駐直前ニ処置スル考ヘデ居リマス。泰ガ何レニツクカノ見透シハ中間デアリマス。泰自身モ迷ツテ居リマス。日本トシマシテハ平和裡ニ抱込ム希望ヲ持チマスノデ、之ガ為ニハ余リ早イモイケナイシ遅イノモ害ガアリマス。
故ニ発動ノ直前ニ切リ出シテ要求ヲ貫徹スル考ヘデアリマス。万一武力ヲ行使スルノ場合デモ、努メテ抵抗セシメザル如ク施策ヲシテ居リマス。
原 内地ニ及ボス影響ニツイテハ先程内務大臣ヨリ|詳 《つまびら》カニ承ツタ次第デアルガ、一ツ腑《ふ》ニ落チナイ点ハ、空爆ノ場合ノコトデアリマス。此ノ損害ヲ努メテ避ケル為ニ防空演習等予備的訓練ヲ盛ンニヤツテ居ラレルコトハ誠ニ結構デアルガ、火災ノ場合ニ其ノ場ニ踏ミ止ツテ火ヲ消シテモ、東京ノ様ナ建築物デ火ヲ消止メルコトガ出来ルモノデスカ。万一東京ニ大規模ノ火災ガ起キタ場合ニハ如何ニサレルカ。対策ハ講ジテアルカドウカ承リ度イ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](原の質問のうちで急所に触れたのは右の箇所だけである。これに対する鈴木企画院総裁の応答はお粗末としか言いようがない。とても真剣な考慮があらかじめめぐらされていたとは考えられない。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
鈴木 唯今考ヘテ居リマスルコトノ若干ヲ述ベルト次ノ通リデアリマス。第一食糧ハ充分ニ準備シテアリマス。次ニ焼ケ出サレタ住民ハ一部他ニ避難サセル様ニ考ヘテ居リマス。是非トモ踏止マラネバナラヌモノニハ簡易ナ建築ヲ準備シテ居リマス。
原 考ヘダケデハ適当デハアリマセヌ。準備ハ不完全ダト考ヘマス。之ニ付充分ナル御準備ヲ願ヒマス。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](原は具体的な返答を求めなかった。念を押すことだけは押しておいたぞ、という言い方である。重大問題を決定する御前会議がほとんどいつも緊迫感を伴わないのは、それが決定のための手続きに過ぎないからであり、論議が既に完了したことから出発するからである。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
原 之デ質問ヲ打切リマス。
次ニ所見ヲ述ベマス。
帝国ハ対米交渉ニ就テハ譲歩ニ次グニ譲歩ヲ以テシ、平和維持ヲ希望シタ次第デアリマスガ、意外ニモ米ノ態度ハ徹頭徹尾蒋介石ノ言ハントスル所ヲ言ヒ、従来高調シタ理想論ヲ述ベテヰルノデアリマシテ、其ノ態度ハ唯我独尊頑迷|不《ママ》礼デアリマシテ、甚ダ遺憾トスル所デアリマス。斯《か》クノ如キ態度ハ我国トシテハ何《ど》ウシテモ忍ブベカラザルモノデアリマス。
若《も》シ之ヲシモ忍ブト致シマシタラ、日清、日露ノ成果ヲモ一擲《いつてき》スルコトニナルバカリデナク、満洲事変ノ結果ヲモ放棄シナケレバナラヌコトトナリ、之ハ何トシテモ忍ブベカラザル処デアリマス。特ニ丸四年以上ノ支那事変ヲ克服シテ来タ国民ニ対シ、更ニ此上相当ノ苦難ニ堪ヘシムルコトハ誠ニ忍ビナイコトト考ヘマス。然シナガラ帝国ノ存立ヲモ脅カサレ、明治天皇御事蹟ヲモ全ク失フコトニナリマシテ、此ノ上手ヲ尽スモ無駄デアルコトハ明カデアリマス。従ツテ米トノ交渉ガ不成立デアルトシマスレバ、先ノ御前会議決定ノ通リ開戦モ止ムナキ次第ト存ジマス。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](原枢密院議長の論拠は、政府統帥部の主戦論者のそれとなんら変りはない。満洲事変から日中戦争へ至る既成事実の維持とその成果の拡大、それが金科玉条であって、それを妨げるものと戦うことは正義である、という考え方である。原には、この日の前日、高松宮が天皇に洩らしたような海軍に関する懸念さえも働いていないように見える。もし懸念があったとすれば、この日こそはそれを述べる最後の機会だったのである。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
最後ニ一言致シ度イコトハ、当初ノ作戦ハ我国ノ勝利ハ疑ハヌ処デアリマスガ、長期戦ノ場合ニハ一方ニ勝利ヲ得ツツ他方ニハ民心ノ安定ヲ得ルコトガ必要デアリマス。誠ニ開国以来ノ大事業デアリマス。今回ノハドウシテモ長期戦ハ止ムヲ得ナイ所デアリマスガ、之ヲ克服シテナルベク早期ニ解決スルコトガ必要ダト存ジマス。此ガ為ニハ只今カラ何ウシテ結末ヲツケルカトイフコトヲ考ヘテオク必要ガアリマス。国民ハ此ノ立派ナ国体ノ下ニアリマシテ、精神的ニハ他ニ比類ノ無イ優秀サデアルコトハ疑ハナイ処デアリマスガ、長期ニ亘ルトキハ時トシテ考ヘ違ヒノモノモアリ、又他国ノ策動モ絶エズ行ハレ内部的崩壊ヲ企図スルコトアルベク、又愛国心ニ燃エテヰルモノデモ時トシテ此ノ内部的崩壊ヲ企図スルコトガナイトモ限リマセヌ。此ノ者共ノ始末ハ誠ニヤリニクイ。内部的結束ニツイテ警戒サレルコトガ特ニ大切ト考ヘマス。此ノ点|尤《もつと》モ憂フベキコトト存ジマス。民心ノ攪乱ニツイテハ失敗ノナイ様ニ願ヒ度イ。
次ニ本案ハ今日ノ状況上止ムヲ得ナイコトト信ジマシテ、誠忠無比ナ我将兵ニ信頼シマス。長期ニ亘ル戦争ノ為国内人心ノ安定ニ関シ一層御骨折リヲ願ヒ度イト存ジマス。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](予想される国民生活窮迫に関する配慮は国体護持の前でかすんでしまい、もっぱら民心統制にすり替えられている。農林大臣の説明にあった主食一千百万石の不足は、老若男女平均一人一年所要量一石とすれば一千百万人の主食が無いということなのである。そんなことは、しかし、耐乏の強制によって凌ぎ得ることとして、天皇の代理質問者の口からひとことも聞かれなかった。)
原枢相のあとを受けて、東条首相が締め括りをした。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
東条 政府ト致シマシテモ右ノ御意見、御所見ニ対スル事柄ハ重大ナルコトヲ自覚シ、万全ノ策ヲ致シテ居リマス。長期戦ノ為ノ万般ノ準備モ致シテ居リ、今後戦争ヲ早期ニ終結スルコトニ関スル努力モ充分ニ尽シタイト考ヘマス。又長期戦ノ場合ニ人心ノ安定特ニ秩序維持、動揺防止、外国ノ謀略防止等ニ関シ充分ニ努力ヲ尽シ度イト存ジマス。
御質問又ハ御意見ハ以上ヲ以テ終了シタルモノト存ジマス。別紙本日ノ議題ニ就キマシテハ、御異議ナキモノト認メマス。
就キマシテハ最後ニ私ヨリ一言申述ベタイト存ジマス。今ヤ皇国ハ隆替《りゆうたい》ノ関頭ニ立ツテ居ルノデアリマス。聖慮ヲ拝察シ奉リ、只々|恐懼《きようく》ノ極ミデアリマシテ、臣等ノ責任ノ今日ヨリ大ナルハナキコトヲ、痛感致ス次第デ御座イマス。一度開戦ト御決意相成リマスレバ、私共一同ハ今後一層報効ノ誠ヲ致シ、愈々《いよいよ》政戦一致施策ヲ周密ニシ、益々挙国一体必勝ノ確信ヲ持シ、飽ク迄モ全力ヲ傾倒シテ速ニ戦争目的ヲ完遂シ、誓ツテ聖慮ヲ安ンジ奉ランコトヲ期スル次第デアリマス。
之ヲ以テ本日ノ会議ヲ終了致シマス。
[#ここで字下げ終わり]
これで御前会議は終った。『杉山メモ』は次のように記している。
「本日ノ会議ニ於テ、オ上ハ説明ニ対シ一々|頷《うなず》カレ何等御不安ノ御様子ヲ拝セズ、御気色麗シキヤニ拝シ恐懼感激ノ至リナリ」
天皇は納得したようである。ひとことの感想を洩らすでもなく「入御」した。九月六日「四方の海……」を詠《よ》んだときの心境は、もはや雲散霧消したかのようである。しかし、勝利の確算の立たない戦争の行末を考えれば、納得出来るはずはないから、天皇は輔弼の臣たちの「輔弼」に依存して、みずからは判断を停止したのである。慣習通り、天皇は、輔弼の臣たちが慎重に審議した結果を容認すれば足りたのだ。黙って「入御」したのは「よきに計らへ」ということである。天皇は心を労する必要はなかった。何故なら、東条が輔弼の臣たちを代表して締め括りの口上に述べたように、輔弼の臣たちが「聖慮ヲ拝察シ奉リ」……「誓ツテ聖慮ヲ安ンジ奉ランコトヲ期」している限り、皇室は安泰であると思われるからである。もし逆に、開戦決定までの審議過程で、皇室存続が危ぶまれるような問題提起がなされたとしたら、天皇は決して黙って「入御」したりはしなかったにちがいない。
幹事を除く出席者全員が『対米英蘭開戦ニ関スル件』に花押《かおう》した。東条首相兼内相兼陸相、東郷外相兼拓相、賀屋蔵相、嶋田海相、岩村法相、橋田文相、井野農相、岸商相、寺島逓相兼鉄相、小泉厚相、鈴木企画院総裁(国務相)、杉山参謀総長、田辺参謀次長、永野軍令部総長、伊藤軍令部次長、原枢密院議長の十六名である。
開戦は決定された。この決定の果てに、数百万の人びとが戦死、戦傷病死、餓死、あるいは焼死し、廃疾者となり、あらゆる種類の悲劇が作られ、国は焦土と化した。
右の十六名のうち、敗戦時に責を負って自決したのは杉山参謀総長、橋田文相、小泉厚相の三名であった。
84
十二月一日の御前会議直後、陸海両統帥部長は列立して作戦実施に関する大命の允裁《いんさい》を仰いだ。この日の開戦決定以後は、陸海の作戦部隊は外交交渉が妥結したならば反転帰投しなければならぬという考慮からは解放されていた。つまり、実質的に作戦は既にはじまったのである。X日(開戦日)の最終決定は、しかし、なお翌日二日まで持越されていた。
十二月二日、陸海両総長は再び列立して開戦日の最終決定を仰いだ。仰いだといっても、決定は統帥部が行い、天皇がこれを承認するだけのことである。
開戦は十二月八日と確定した。
八日と決定した主な理由は、陸海軍共航空第一撃を重視し、その攻撃効果を期待するためには、夜半から日の出ごろまでの月明のある月齢二十日前後の月夜を適当とし、ハワイ空襲のためには真珠湾在泊艦艇が多く、かつ、休養日である日曜日を適当とするから、月齢二十日に近く、ハワイ方面が日曜日である日を選べば、月齢十九日の十二月八日(日本時間)となる、ということである。
陸軍では、十二月二日午後二時、杉山参謀総長から寺内南方軍総司令官にあてて「『ヒノデ』ハ『ヤマガタ』トス」の暗号電が発せられた。前からの申合せによって「X日ハ十二月八日トス」と定められていたのである。
海軍では、山本連合艦隊司令長官は同二日の大海令第十二号による武力発動命令に基づいて、十二月二日午後五時三十分、真珠湾へ向けて航行中の南雲機動部隊をはじめとする麾下《きか》艦隊にあてて「新高山登レ 一二〇八」を発信した。これは「開戦日は十二月八日ト決定セラル。予定通リ攻撃ヲ決行セヨ」ということである。
もう修正はきかない。戦争が答を出すだけであった。
開戦が決定された後に残った主要な問題は、外交的には対米交渉打切りの方法である。
東郷外相がX日は十二月八日と知ったのは、既述の通り十一月二十九日の連絡会議においてであった。それまでは、十二月一日午前零時を過ぎれば、直ぐにも武力発動が行われるかもしれないと思っていた。X日が八日となれば、それまで間を持たせる措置を講じなければならなかった。過早に交渉打切りを通告することは、軍が作戦的見地からこれを許さないのである。
ワシントンの野村・来栖両大使は、十二月一日の御前会議で開戦が決定したことさえ知らなかった。両大使は米国時間で十二月一日、東京へ意見具申電を送った。内容は「大局的見地ヨリ政治的打開ノ道ヲ講ズル為」両国首脳の会談が困難ならば、それに代るべき人物の会談をホノルルのような中間地点で行なって、「最終的妥結ノ努力ヲ試ミルコト、和戦|何《いず》レカニ決スル為ニモ有利ナル一案ト存ゼラル」というのである。
十二月四日、連絡会議で「対米最後通牒」に関する件が論議された。『杉山メモ』は次のように記録している。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
外相 米本国ニ送ル外交最後ノ文書トシテ「米ノ態度、之ニ対スル日本ノ対応|並 《ならびに》宣戦ノ内容ヲ敷衍《ふえん》シテ述べ、見切ヲツケテ外交ヲ打切ル」趣旨ヲ以テシ度イ。
○ 右ニ対シ最後的ノモノトセズ、若干余裕アル様ニヤレ。(○が誰であるか不明。)
永野 其ノ暇ハナイ。
外相 モウ一度言フダケ。其ノ後更ニ言フダケ余裕ハナイ。外交打切トシテ此案文ヲ練リ、明五日午後発電、六日翻訳トナレバ、手交スルノハ丁度ヨイ日トナル。
○ 案文ハ原案ノ趣旨デ外相ニ一任スルガ、先方ニ渡ス時機ハ過早ナレバ彼ニ準備ヲヤラセルコトトナリ、又遅キニ過ギレバ手交スル意味ガ薄ラグ。シカシ今トナツテハ戦勝ガ第一ダカラ、渡ス日時ハ統帥部ノ要求ニ合致サセナケレバナラヌ。
右ノ如クシテ文章ハ外相ニ一任、打電並ニ先方ニ手交スル日時ハ統帥部ト外相ト相談シテ決定スルコトトナレリ。
[#ここで字下げ終わり]
『杉山メモ』では右のようになっているが、『大本営機密戦争日誌』では少し違っている。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
「外相、対米最後通牒提出ヲ提議シ来ル。軍令部不同意、当部(参謀本部)マタ然《しか》リ。
外相、戦争終末期捕捉ノ為、外交打切リヲ正式表明スルノ要アルヲ強調ス。
両総長已ムナク右ヲ容レ、武力発動直前ニ外交打切リノ申入ヲナスニ決ス。(以下略)」とある。
[#ここで字下げ終わり]
外相ははじめ明確な最後通牒の提出を主張し、奇襲効果を重視する軍の反対によって、単なる交渉打切通告となったものと解すべきかもしれない。東郷手記(『時代の一面』)では次のようになっている。
「御前会議直後の連絡会議(東郷の記述が正しいとすれば、これは十二月四日になる)で、(中略)伊藤軍令部次長から開戦の効果を大ならしむる為交渉は戦闘開始迄打切らないで欲しいとの申入れがあった(中略――東郷は拒否した)。其の次の連絡会議(十二月六日になる)の劈頭《へきとう》伊藤次長は華府《ワシントン》で交渉打切りの通告を為《な》すことに海軍軍令部は異存ないことを述べ、通告が華府時間十二月七日午後零時半に為さるべきことを申出た。之に一同賛意を表したので、自分は其時刻は攻撃開始前に充分の余裕があるのかと尋ねた処、次長は其の通りであることを確言したので、自分も右申出に同意し、之に決定したのである。」
東郷はX日は知らされたが、開戦時刻までは知らされていなかった。作戦至上主義は後述の次第で外交上卑劣の汚名を残すことになる。
外交打切通告の発信日時と手交日時に関して、東郷外相は陸海両統帥部次長と十二月五日から六日にかけて協議した。(田辺参謀次長は、五日、戦勝祈願のため西下したから、田中第一部長が次長の代理をした。)
東京発信開始は、十二月七日午後四時(ワシントン時間七日午前二時)。
送信完了は、七日午後十時(ワシントン時間七日午前八時)。
国務省手交は、八日午前三時(ワシントン時間七日午後一時)。
右のように決定した。
東郷外相はハワイ空襲のことなど知らされていない。
ハワイ空襲時刻は
東京時間 十二月八日午前三時三十分
ワシントン 七日午後一時三十分
ハワイ時間 七日午前八時
したがって、国務省手交時刻は空襲開始の僅《わず》か三十分前である。先の東郷・伊藤次長間の話合(東郷記述の日付と合わないが)では、空襲開始一時間前に手交することになっていたのが、三十分前に変更されたのである。東郷は、しかし、通告と攻撃開始までの間に三十分しかないということも知らされていなかった。
三十分しか時間がなくても前は前であるから筋は通る理屈だが、手違いが生じたら間に合わなくなる惧《おそ》れは十分にある。そして事実、手違いが生じたのだ。
外務当局によって作成された対米外交打切通告は、七項から成る長文のものだが、その最後の部分はこうなっている。
「(前略)……斯《か》クテ日米国交ヲ調整シ合衆国政府ト相携ヘテ太平洋ノ平和ヲ維持確立セントスル帝国政府ノ希望ハ遂ニ失ハレタリ。
仍《よつ》テ帝国政府ハ茲《ここ》ニ合衆国政府ノ態度ニ鑑《かんが》ミ、今後交渉ヲ継続スルモ妥結ニ達スルヲ得ズト認ムル外ナキ旨ヲ、合衆国政府ニ通告スルヲ遺憾トスルモノナリ。」
この通告文は、最後通牒として戦争手段に訴える意味を含む「行動ノ自由ヲ留保スル」という表現がない。単なる交渉打切通告になっている。外務当局者としては、おそらく、最後の公文として甚だ不本意であったであろうと思われる。
打切通告に関しては、東郷外相から野村大使に宛てて、三つの電報が打たれた。第九〇一号と第九〇二号と第九〇七号である。九〇一号は、対米覚書(打切通告)を出すという予告と注意である。九〇二号が通告文の本文で、これは十四通に区分されていた。その第十四通が右に引用した文言を含む最後の部分(第七項)であった。九〇七号は通告文の手交時刻を指示したもので、次の通りである。
「本件対米覚書貴地時刻七日午後一時ヲ期シ米側ニ(成ルベク国務長官ニ)貴大使ヨリ直接御手交アリ度シ。」
発信開始時間は十二月七日午後四時からの予定であったが、六日午後八時三十分からに繰り上げられた。
前記九〇一号と九〇二号のうち第十三通までは、外務省内電信分局から東京中央電信局に、六日午後八時三十分から七日午前零時二十分までに送られ、中央はそれらを六日午後九時十分から七日午前一時五十分までに米国へ発信した。
九〇二号の第十四通(通告文最後の部分)は、確実を期して米国のMKYとRCAの二つの路線を通じ、一時間の間隔をおいて同文が発信された。中央電信局のMKY経由は七日午後五時、他の一つは同日午後六時発信である。
九〇七号は、MKY経由が七日午後六時三十分、RCAが同午後六時二十八分であった。
電信専門家の判断によれば、右の各電報は、ワシントン時間で次の通り日本大使館に到着していたはずであるという。(戦史室前掲書)
第九〇一号 十二月六日午前十時ごろ
第九〇二号(十三通) 同日午前十一時乃至午後三時ごろ
第九〇二号(第十四通) 十二月七日午前六時乃至七時
第九〇七号 七日午前七時半ごろ
東京の外務当局は発信にあたって周到な注意をもってした。指示した手交時刻には間に合うはずであった。手違いは生じないはずであった。それが生じたのである。
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通告手交に関する手違いは暫く措《お》く。
時間的順序からいえば、日本の対米外交打切通告の発信と前後して、もう一つ重要なことが行われていた。
ワシントン時間十二月六日午後九時(日本時間七日午前十一時)、ハル国務長官はルーズヴェルト大統領の天皇宛ての親電を、グルー駐日米大使に打電した。
米国では、そのことを、発信の一時間二十分も前に新聞発表している。
日本では、十二月七日午前十時過ぎごろには、同盟通信社がAPとUP通信から大統領親電発信を知って、関係筋に知らせた。
それによって東郷外相が野村大使に照会電を打ったのが同日午後二時である。
奇怪なことに、米国大使館が本国政府からの予告電を受領したのは七日午後九時半ごろであり、親電受領は午後十時半ごろであった。しかも、日本の電信局が受信した時刻は午後零時(正午)であることが記されていたという。(ジョセフ・C・グルー宣誓供述書)
グルー大使は、同日午後三時ごろ、大統領親電が天皇宛てに送られたということを、米国放送で聞いていた。(同右)
中央電信局は、大統領親電を受信してから、十時間も配達を遅らせたのである。これは、しかし、電信局の怠慢ではなかった。陸軍省防衛課と参謀本部通信課が協議して、逓信省の電務局外国電信課に外国電報を遅らせるように要請し、十一月二十九日以来行なってきたことの一つなのであった。開戦企図を秘匿するための措置であったというのである。
事の次第は次の通りであった。(戦史室前掲書による)
参謀本部通信課の戸村少佐は、逓信省検閲室の監督者白尾電信官に、外国電報をすべて五時間ずつ配達を遅らせるように要請した。白尾電信官は中央電信局に外国電報は送受信共五時間差止めを命じた。勿論、日本政府の電報は例外である。十二月六日、差止め時間は一日おきに五時間と十時間に変更された。十二月七日、白尾電信官は米国大統領親電到着を知った。それと前後して、戸村少佐から今後は電報は全部十五時間遅らせるように要請され、それに応ずる措置をとったという。
戸村少佐の十五時間電報遅配工作は、米大統領親電の時間切れを企図したものである。
戸村は「……作戦課の瀬島少佐から、前日|馬来《マレー》上陸船団に接触して来た敵機を友軍機が邀撃《ようげき》し、既に戦闘が開始されたこと、そしてそのことは杉山参謀総長から陛下に上奏済みであることを聞いた。今更米国大統領から親電が来てもどうにもなるものではない。かえって混乱の因《もと》となると思って、右親電をおさえる措置をとった」と述べたという。(戦史室前掲書)
一読唖然とはこのことである。一少佐が、他国元首の天皇宛ての親電を、独自の判断において時間切れに導いたのである。左に部分的に引用する親電は、東郷外相が言うように、「此危局を救い得るものとは認め難い」(東郷前掲書)ものであったとしても、また、即時に配達されれば有効に働いたか、混乱の因となったか、断言の限りではないとしても、一中堅官僚の越権行為に委ねられるべき性質の事柄でなかったことだけは確かである。
大統領親電の末尾はこう書かれていた。
「余ガ陛下ニ書ヲ致スハ、此ノ危局ニ際シ陛下ニ於カレテモ同様暗雲ヲ一掃スルノ方法ニ関シ考慮セラレンコトヲ希望スルガ為ナリ。余ハ陛下ト共ニ、日米両国民ノミナラズ隣接諸国ノ住民ノ為、両国民間ノ伝統的友誼ヲ恢復シ、世界ニ於ケル此ノ上ノ死滅ト破壊トヲ防止スル神聖ナル責務ヲ有スルコトヲ確信スルモノナリ。」
グルー大使が大統領親電を受領したのは十二月七日午後十時半ごろ(電信局受信は既述の通り同日正午)である。同大使は、重要緊急訓令が接到《せつとう》し電文解読中であるから、解読終り次第面会したいと東郷外相に申入れた。グルー大使は十二月八日午前零時十五分、東郷外相を官邸に訪問、親電写しを外相に手交して、本国から直接天皇に拝謁奉呈するように訓令を受けているからと、外相に拝謁の斡旋を求めて辞去した。
東郷外相の見解では、右親電は「仏印の中立化以外には何等日米交渉に触るる所なく、且又保障も譲歩もないので、此危局を救い得るものとは認め難い」ものであったが、直ちに木戸内大臣に電話で相談した。これが八日午前零時四十分である。
その時刻、馬来上陸部隊は上陸用舟艇に移乗を開始し、ハワイ空襲の南雲機動部隊では空母艦上に飛行部隊が発進準備を整えていた。空襲時刻は日本時間十二月八日午前三時三十分である。
東郷外相は木戸内府の勧めに従って、親電の仮翻訳を持って東条首相を官邸に訪ねた。
東条は親電を評して「そういうものは何にも役立たぬではないか」と言い、東郷外相に謁見上奏を勧めた。
「遅く電報がついたからよかったよ、一、二日早くついていたら、又一騒ぎあったかも知れぬ」と、外相に語ったのが東条の本音であったであろう。
東郷外相が参内したのは八日午前二時四十分ごろであった。木戸内府も既に宮中に来ていて、外相から親電内容を聞くと、「そんなものでは駄目だね」と語ったという。(以上東郷前掲書)
東郷外相は天皇に拝謁、親電全文を読上げて退下、八日午前三時半過ぎ帰宅した。四時半ごろ、東郷は、海軍省からのハワイ奇襲成功を報らせる電話に接することになる。
大編隊のハワイ空襲は予定通り決行された。それと前後して、日本軍は、マレー半島のシンゴラ、コタバル上陸他、全面的武力発動に踏みきっていたのである。
先の外交打切通告電に関して、ワシントンの日本大使館は信じられないような事務処理上の遅滞を犯した。
大使館では、本国からの訓電九〇一号(打切通告を発出するという予告電)を十二月六日(土曜日。以下ワシントン時間)正午までに解読した。ひきつづいて到着した訓電九〇二号(打切通告本文)のはじめの第八―九通も午後七時ごろまでに解読を終った。その間に訓電九〇四号が来て、機密保持のために通告文の浄書にあたっては絶対にタイピストを使ってはならないという、本国からの指示があった。これが事務処理遅延の大きな理由の一つとなった。
六日夜には、大使館員の一人が転勤するため、その送別会が催され、訓電処理の作業は一時中断した。送別会散会後、電信課員は大使館に戻り、九〇二号電(通告本文)の第十三通までの解読を夜半までに終了した。
問題はタイピストによる浄書が許されないということであった。大使館の高等官職員中タイプライターを一応打てるのは一人しかいなかった。その人物は、同夜友人との約束があったという。したがって、浄書作業は翌日まで全く放置された。
電信課員たちは、六日夕刻、上司から自由行動の許可があったので、前記九〇二号電第十三通までの解読を終ると、七日早暁当直一名を残して帰ってしまった。そのあとへ、第九〇二号電の第十四通(通告文最後の部分)と第九〇七号電(七日午後一時に最後通告を手交せよと指示した電文)が到着したのである。
ワシントン時間七日午後一時三十分は、ハワイ空襲がはじまる時刻である。大使館員たちは、無論、そのことは知らない。しかし、日米間が最後的緊迫状態にあることだけは、知っているはずであった。送別会といい、友人との約束といい、自由行動の許可といい、すべて緊張した待機姿勢になかったことを物語っている。
十二月七日(日曜日。ワシントン時間で運命の日)午前九時ごろ、海軍武官補佐官が出勤すると、大使館には誰もいなかった。当直者は教会のミサに行っていたという。郵便受はいっぱい詰っていた。
電信課員が出勤して、電報解読にとりかかったのは午前十時ごろである。ハワイ奇襲まで、あと三時間半、指示された通告手交時間まで三時間しかない。
九〇七号電解読終了は午前十一時。
九〇二号電第十四通の解読終了は午後零時三十分。
タイプ浄書が手間どった。本職でないからやむを得ないが、十分な時間を見込まなかったのが失態であった。
九〇二号電(対米通告)全文のタイプ浄書が完了したのは、七日午後一時五十分であった。(以上戦史室前掲書)ハワイ空襲は二十分前にはじまっていた。
野村大使は、午前十一時ごろ、第九〇七号電解読完了のときに、ハル国務長官との午後一時の会見予約を取りつけたが、浄書遅延にともなって、ハル訪問が遅れることの了解は得ていた。
米側の作業は、日本大使館とは比較にならぬほど迅速であった。七日午前十時三十分までに第九〇一号、第九〇二号(本文)、第九〇七号(手交時刻指定)電の全部を、暗号解読し、関係筋へ写しの配布を終っていたのである。
野村・来栖両大使は対米覚書を持って国務省へ急行した。到着は午後二時ごろである。
ハル国務長官との会見が二時二十分ごろになったのは、ハルが日本軍のハワイ奇襲が行われたことを確認するために、両大使を待たせたのである。
野村大使が本国訓令の手交時刻午後一時を過ぎたことを詫びると、ハルは「何故一時か」と詰問した。野村は「何故なるを知らず」と答えた。(野村前掲書)
野村はハワイ空襲のことなどは知らないのである。それを、ハルの方は知っていたのだ。
ハルは野村に向い、目を据えて「五十年の公職生活を通じて、これほど恥知らずないつわりとこじつけだらけの文書を見たことがない。こんな大がかりなうそとこじつけをいい出す国がこの世にあろうとは、いまのいままで夢にも思わなかった」と言った。野村が何か言い出そうとしたのをハルは抑え、顎でドアの方をさした。二人は何も言わないで頭を垂れたまま出て行った。(ハル『回想録』)
両大使の屈辱は余儀ないことであった。彼らが誠実であったとしても、彼らが属する国は最後通告の手交以前に奇襲を開始した結果となったのである。
真珠湾奇襲とその経緯は、米国の戦意を爆発させ、米国民を対日戦争へ結集させる上できわめて効果的であった。
十二月八日、日本は米英両国に宣戦布告した。同日の『木戸日記』は次のように誌している。「七時半、首相と両総長に面会、布哇《ハワイ》奇襲大成功の吉報(戦艦二撃沈、同四大破、大巡四大破――引用者)を耳にし、神助の有難さをつく/″\感じたり。
十一時四十分より十二時迄、拝謁す。国運を賭しての戦争に入るに当りても、恐れながら、聖上の御態度は誠に自若として|些 《いささか》の御動揺を拝せざりしは真に有難き極《きわみ》なりき。
宣戦の大詔は渙発せられたり。」
戦争第一日、真珠湾奇襲が、もし、六カ月後のミッドウェー海戦のように裏をかかれて一級空母四隻を一挙に失う惨敗に帰していたら、「聖上」は「自若」としていられたかどうか。
その夜八時四十五分の大戦果発表に、日本は戦勝気分に沸き返った。
十二月八日、この日、ドイツ軍は東部戦線休止を発表した。日本の親独熱をあれほどまでに煽り立てたドイツ軍の電撃戦の威力も、ソビエト市民の熾烈な抗戦意欲と厳冬には通用せず、モスクワ攻略に挫折して敗退したのである。酷寒の雪原をよろめきつつ退却するドイツ軍の姿は、ドイツの運命だけでなく、他日の日本の運命をも予定していたが、戦勝気分に傲《おご》った日本人の多くは不吉な予告に耳をかさなかった。
勝つと信じた人びとは、信ずるに足る根拠を持っていなかった。開戦を決定した御前会議が、なんら信ずべき根拠を持たなかったようにである。
余話。
昭和四十五年(一九七〇年)七月十日、北京放送は「米国のスパイ」ジェームズ・エドワード・ウォルシュを老齢と病弱を考慮して釈放した旨発表した。一九五八年十月の逮捕から十二年ぶりである。(昭和四十五年七月十一日『朝日新聞』)読者は日米交渉の開幕時に登場した奇怪な神父の存在を思い出されるであろう。あの神父の戦後の行動を想像させるに足る報道であった。中国は、米中関係の新段階に対応して「スパイ」を釈放したのである。この報道から、日米交渉の発端においてウォルシュとその背景が何を画策していたかを、忖度《そんたく》することも可能であると思われる。
けれども、過ぐる年、世界の再分割を企図して戦争手段に訴えたのは日本であって、その事実は動かすことが出来ないのである。また、国家の名において民族的野望を遂げるべく戦争を企てた者、それを認可した者、それを支持した者は、裁かれたと否とにかかわりなく、邪悪を犯した事実から逃れることは出来ない。
まことに、愛国心とは、あまりに屡々《しばしば》、邪悪の隠れ蓑なのであった。
[#地付き]〈了〉
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[#3字下げ]あ と が き
日米交渉のころを思い出してみると、一般国民は危機の切迫をあまり痛切には感じていなかったように思われる。そのころ私は巨大な製鉄会社の青年社員であったが、私の周囲では対米強硬外交を期待する声が強かったことを記憶している。当時の製鋼法は屑鉄製鋼法が主であったし、その屑鉄の輸入先はほとんどが米国であったから、米国から屑鉄の輸出規制をやられると、日本の製鋼業が受ける打撃は甚大であった。したがって、日米交渉は妥結してほしいが、そのためには強い態度が望ましい、場合によっては一戦を賭してでも要求を貫徹すべきだというのが一般の空気であったようである。
私自身に関していえば、調査関係の職務上、私の机にはほぼ一年遅れで列国の戦略重要物資の生産高に関する数字が集っていた。それによると、本文にも記したように、石油、銑鉄、鋼塊、銅、アルミニウム、その他十数品目の日米生産高の比較は、算術平均値をとると、米国の七四に対して日本の一であった。比較にならない数字である。戦争など出来る数字ではなかった。だから、私は、一青年社員に過ぎない私にさえ基礎的判断材料があるくらいだから、企画院、陸海両省、商工省などには精密な資料があって、それらは戦争など出来ないことを示しているはずである、したがって、日米交渉で日本がどのように強硬な態度を見せるにしても、最後的には妥協して戦争は回避されるはずである、と考えていた。
事実は一青年の予想を完全に覆した。私がファシズムの論理に晦《くら》かったのだといえば、それまでのことである。私は、如何に軍国主義と雖も、少くとも危機に際して下す政治的判断は、もっと客観的であり、冷静であると思っていたから、十二月八日朝の開戦のラジオ放送は、私にとって全く驚天動地の衝撃であった。
緒戦の華々しい戦果は、軍艦マーチ入りで会社内に報道され、社内は戦勝気分で沸き返っていた。そういう空気のなかで、私は、机を並べる同僚たちに、先の数字を挙げて、戦争の前途の悲観的見透しを話した。戦勝気分に反撥したのである。戦局が非勢に陥れば、私たち青年の運命も谷《きわ》まることになるからであったかもしれない。
私は早速上司に呼ばれて、説諭をくらった。いまでもはっきり憶えている。こう言われたのだ。
「君は学校出の知識人だろう。戦時下の知識人の任務は徒らに悲観的流言を撒いて国民の戦意を沮喪させることにあるのではなくて、むしろ楽観的流言を撒いて戦意を昂揚させることにあるのではないか」
奇妙な論理ではあったが、それが国民感情に適合する時代であった。私は、いまでも思うのだが、そのとき、もしその上司と私と一対一であったら、私は資料的論拠を持っていたから反駁することは容易であったろう。数字が示す事理は明白であったのだ。それにもかかわらず私は沈黙した。その部屋には五十人ほど執務していたが、私はそれらの人びとからのとげとげしい白い視線に包囲されて、憎悪と敵意が突き刺さってくるのを意識した。真相を知らない、真相に近づこうともしない「愛国者」たちの無責任な白眼視に、私は意気地なく屈伏したのである。
後になって回想してみると、たとえば海軍が陸軍に対して開戦反対を貫けなかったのも、心理的には私の経験のような次元の低いことであったのかもしれないとも思う。
それとは別に、私には一つの問題が残った。私が対米戦争に否定的であったのは、彼我の生産力があまりにも比較を絶していたからではないか。もしその数字の示すところがかなりの程度に拮抗し得ていたとしたら、私自身開戦に対してどのような態度をとったか、ということである。もし数字が明確に敗戦を予告していなかったとしたら、ファシズムに反撥する私の意識は、私のなかに潜在するナショナリズムに対して確実に優位を占め得たか、という問題でもある。簡単に言えば、勝ち戦ならお前はどうしたか? ということである。その問いに率直明快に答え得ない私が、戦争時代のある時期を批判的に書くのは、おこがましいことであったかもしれない。
日本が敗れてすべてを失ったとき、それは当初から予想された結末に過ぎなかったが、植民地を持っていた国の革新的あるいは進歩的分子というものは、決定的瞬間においてさえ、せいぜい感傷的人道主義的存在であるに過ぎなくて、ほとんど信頼に値しないのだという実感を抱かざるを得なかった。みんな、なにがしかの程度において植民地利潤に寄生していた事実を、漂白し難いシミとして持っていたことは否めないであろう。
本書は『週刊文春』に四十五回にわたって連載したものである。参考資料は多量にあったが、質的にはどれも狭い限界内にしかなかった。一つには、当事者たちの感情がどの資料にも欠落していること、他の一つには、記録に残っている当事者たちの発言が、その時点で発言内容と相剋していたかもしれない思考内容をふるい落していることである。実録記述の困難ともどかしさは常にそこにあるように思われる。
昭和十六年(一九四一年)の御前会議とその都度の大本営政府連絡会議に関する記録は、開戦に至る経緯を示しているのと同時に、従来の国策に対する反省が全くなされなかったことを示している。反省などが行われては、好戦的、侵略的軍国主義は自己貫徹をなし得ない道理である。けれども、日本が取った政治路線の上をほとんど有効な反省を伴わずに走った国民は、強権の統制下に置かれていたことを理由に、自分自身の在り方に正当性を与えることは出来ないのである。
[#2字下げ]一九七八年五月
[#地付き]五味川純平
単行本 「御前会議」昭和五十三年八月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和五十九年八月二十五日刊