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ガダルカナル
五味川純平
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1
一九四二年(昭和十七年)八月七日、約二〇〇〇の兵を乗せてグァム島を出発、宇品へ向って帰国の途についた二隻の輸送船『ぼすとん丸』と『大福丸』は、その日夕刻、反転してグァム島へ引き返すことになった。
乗船していた兵隊たちにとっては、それが残酷な運命のはじまりであった。
もっとも、一木支隊と呼ばれたこの兵隊たちは、ちょうど二カ月前に凄惨な銃火の試練を浴びるはずであったのが、作戦予定が思いがけぬことから中止になって、そのときには幸運にも死の|顎《あぎと》から逃れ得たのである。
中止になった作戦は、ミッドウェー環礁のサンド島とイースタン島に対する上陸作戦である。この作戦は日本海軍の惨敗に終ったミッドウェー海戦として知られているが、作戦の目的の一つは、ミッドウェーに上陸作戦を行なってこれを占領し、アリューシャン列島西部とミッドウェーを結ぶ哨戒線を形成して「帝都」を米軍の空襲から守ろうとするものであった。さらに、この作戦を敢行すれば、米国の太平洋艦隊が救援に出動して来るであろうから、これに決戦を強いて一挙に米海軍戦力を覆滅しようという狙いがあった。この狙いの方が連合艦隊司令長官山本五十六にとっては重大であったかもしれない。ミッドウェー遠征の大艦隊の編成を見ると、そう思えるのである。
このミッドウェー占領作戦に充当されたのが一木支隊である。上陸作戦は六月七日の予定であった。
その二日前、六月五日、日本海軍機動部隊(南雲部隊)のミッドウェー島空襲から悪夢の如きミッドウェー海戦がはじまった。圧倒的に優勢なはずの日本海軍は、この海戦で主戦力の一級空母四隻と、多数の飛行機、多数の練度の高い搭乗員を失ってしまったのである。
ために、上陸作戦は中止となり、一木支隊の輸送船団は反転して、グァム島(当時は日本軍が占領していて、大宮島と呼んでいた)へ向った。
一木支隊の兵隊にとっては、このときの反転は好運であった。もし予定通りに上陸作戦が行なわれたとしたら、一木支隊は、二カ月半後ガダルカナル島で経験しなければならなかった惨烈な戦闘を、ミッドウェーで経験したはずであった。
一木支隊は、当時、ミッドウェー作戦用に縮小編成されていて、歩兵第二十八連隊(旭川)の歩兵一個大隊──歩兵四中隊、機関銃一中隊、歩兵砲一小隊──連隊砲一中隊、速射砲一中隊、通信隊、衛生隊三分の一から成り、支隊長は歩二八の連隊長一木清直大佐、兵力約二〇〇〇であった。
ミッドウェー作戦時の一木支隊の歩兵部隊は、当時の護衛部隊指揮官であった田中頼三海軍少将の回想では、小銃弾薬各自に五発となっているが(戦史室『南太平洋陸軍作戦』(1))、これは記憶の誤りであろう。ミッドウェー作戦当時一木支隊本部兵器掛将校であった山本一氏(のちに一木支隊第二梯団としてガダルカナルに上陸、中尉に任官、ガ島撤収時には山本筑郎参謀を補佐して、最終次に生還、現在横浜市在住)から筆者に寄せられた書簡で、歩兵の携帯弾薬は前盒二個で六〇発、後盒一個で六〇発、計一二〇発、携行食糧は占領目的の島が狭い関係から二日分であったと記憶している、とのことである。いずれにしても、上陸戦闘を安易に考えた軽装であった。ミッドウェー上陸は夜間の計画で、輸送船から大発動艇で発進して、珊瑚礁に達したら携帯折畳舟によって上陸する。上陸してから飛行場占領までは|遮二無二《しやにむに》銃剣で突入する。占領してからはじめて発砲を許す、というのは残敵を射殺するという意味であろう。驚くべき独善的な計画であった。
これに対して米軍は、日本軍の企図を察知して、その進攻のおそくも半月ほど前までに、ミッドウェー環礁のサンド島とイースタン島を各種要塞砲、対空砲、対上陸舟艇砲をもって針鼠のように武装し、鉄条網を張りめぐらし、機雷と水中障碍物を敷設していた。
ミッドウェーには、六月四日までに、飛行機一二一機、士官一四一名、下士官二八八六名が、豊富な資材弾薬を用意して配置についていたのである。
士気も旺盛であった。日本軍がもし上陸しようとしたら、「珊瑚礁の上でやっつけろ!」というのが、守備の海兵隊の合言葉であった。日本軍が、予定通り、手漕ぎの折畳舟などで珊瑚礁内を渡ろうとしたら、潰滅的な砲火の乱打を浴びたにちがいなかった。
したがって、一木支隊の兵隊たちは、上陸作戦が中止になって、|生命《いのち》拾いしたことになるであろう。その上、彼らは、八月六日乗船、七日グァム島を出発、宇品へ向って帰国の途についた。いくら強がりを言っても、帰国を喜ばない兵隊はない。戦わずに帰るのを残念がるのは、手柄を立てたい一心の指揮官ぐらいのものである。
一木支隊には、しかし、悪運がつきまとっていた。帰国するはずの船に乗り込んだ一木支隊は、出港したその日のうちに、直ちにグァム島に引き返し乗船のまま待機せよ、使用予定は東部ニューギニア、という参謀総長指示を受けて、またもや反転したのである。
この急変は、その日の日の出前、米軍がガダルカナル島と対岸のツラギに来襲して上陸を開始したからであった。この時点で、一木支隊の使用予定が東部ニューギニアという総長指示の用兵意図には、明確な根拠が見出されない。
けれども、使用予定がニューギニアであろうと、ガダルカナルであろうと、兵たちの運命には大した変りはなかったのである。
2
ガダルカナル島はソロモン諸島の南端部に位置している。ソロモン諸島というのは、東経一五五度から一六二度の間に、南緯五度から一一度にわたって、ブーゲンビル島を北西端とし、サンクリストバル島を東南端とする南北約一一〇〇キロメートルの長さに点在する|概《おおむ》ね平行した二条の列島群である。
ガダルカナルはその南西側列島の南端部に近い。東経一六〇度線と南緯一〇度線の交叉点を求めれば直ぐに見出される、太い甘藷のような形をした、あるいは肥った芋虫が這っているような形の島である。
島長は東西に一三七キロメートル、島幅南北に四五キロメートル、同梯尺の地図で見る限りでは、房総半島とほぼ同じくらいの大きさに見える。
緯度経度を言っても所在をおぼろな地図の形として捉えがたい向きには、オーストリアの北にある巨島ニューギニアの東端から東ヘ一〇〇〇キロの位置と想像されたい。
そんな位置にある大部分はジャングルに蔽われた未開の島だが、日本海軍はここに、五月、飛行場適地を見出して、七月初旬、第十三設営隊一三五〇名と第十一設営隊一二二一名を送り込んでいた。(先遣隊七月一日上陸、本隊七月六日上陸、七月十六日設営開始)
日本海軍はまた、ソロモン諸島政庁のあるツラギ(ガダルカナルの対岸)とその隣小島ガブツを早くも五月三日以降占領して、小艦艇の基地とし、第八十四警備隊を編成配置していた。(本隊約二〇〇名がツラギに、約五〇名がガブツに、約一五〇名がガダルカナル島ルンガ岬付近に配置されていた。)
ガダルカナルでは、飛行場の第一期工事(滑走路の長さ八〇〇メートル、幅六〇メートル)が八月五日に完成したばかりであった。
米軍の来攻はその矢先のことである。
設営隊は工事中から米軍飛行機の爆撃を受ける状況にあったので、工事完成と同時に戦闘機隊が進出することを要望したが、戦闘機隊を即時推進する用意が日本海軍にはなかった。
一つには、ミッドウェーで受けた損害があまりに大きくて、その補充がまだ出来ていなかったのと、もう一つには、日本側では、七月下旬からガダルカナルとツラギに対する連合軍の爆撃が頻繁になっていることは認めていたが、それは米豪連合軍が日本車のポートモレスビー(ニューギニア南東岸)攻略を阻止するために日本軍の前進基地に対する制圧攻撃を行なっているに過ぎない、と判断していて、米軍の本格的反攻がそんなに早く行なわれるとは予想していなかったからである。
日本は、米国の本格的反攻開始は早くても翌十八年(一九四三年)以降のことと考えていた。精密な情報蒐集からの推論ではなくて、緒戦の成功に|傲《おご》った希望的観測であった。
米国は、しかし、日本軍が既述のように五月初めにツラギを占領したことを、米豪連絡線にとっての重大な脅威として、敏感に反応していた。五月二十八日には、早くもニミッツ提督が海兵隊を用いてツラギを奪回することを提案しているし、六月八日にはマッカーサー将軍が師団一個と空母二隻、大型爆撃機数十機を用いて、日本軍の最尖端根拠地ラバウルを奪回する作戦案を提案している。
そのいずれも採用されなかったが、第一海兵師団と空母二隻とを基幹とする兵力をもって、八月初めごろツラギとガダルカナル島を攻撃することが統合幕僚長会議で決定をみたのは、六月二十六日のことである。
当初、ガダルカナルとツラギに対する反攻作戦開始は八月一日の予定であったが、第一線部隊の準備時間の不足から、八月七日に延期されたのである。
日本は米国の対日反攻準備に対して敏感な対応を示していなかった。
ガダルカナルとその対岸のツラギに日本海軍が基地を設営したのは、アメリカが脅威を覚えた通り、アメリカとオーストラリアとの連繋を遮断するために、一つにはニューギニア南東岸の要衝ポートモレスビー攻略作戦に航空基地が必要であり、二つにはフィジー、サモア、ニューカレドニア方面(後述)に力を及ぼすための前進基地としての必要からであった。
ガダルカナルに関する数多い戦史・戦記・資料の類のほとんどすべてが、大本営陸軍部の首脳や幕僚の大部分は、ガダルカナルに海軍の飛行場があることは勿論、ガダルカナルという名前や位置さえも知らなかった、それは、陸軍部としてはソロモン方面に対する関心が薄かったせいである、と書いている。
はじめ、関心が薄かったのは事実である。しかし、関心が薄かったというよりも、甚だしく不注意であったというべきである。
当時大本営陸軍部作戦課長であった服部卓四郎はこう書いている。(『実録太平洋戦争』第二巻──中央公論社刊)
「……不思議なことに、大本営陸軍部では、この島に敵が上陸するまで、海軍がガダルカナルに飛行場を建設し、また、一部兵力をこの方面に派遣してあった、ということは、|海軍部から何ひとつ聞かされてなく《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|従ってまったく知らなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のである。」(傍点引用者)
陸軍部作戦課長ともあろう者がこう言うのは全くおかしい。
七月七日(米軍反攻開始のちょうど一カ月前)、大本営海軍部作戦課はFS作戦(フィジー、サモア、ニューカレドニア作戦──後述)を一時中止せざるを得ないことを陸軍部作戦課に申し入れた。その際、理由として提出された文書に次のくだりがある。長文のものなので、該当部分だけを引用する。(戦史室『南太平洋陸軍作戦』(1))
「NK作戦(ニューカレドニア作戦──引用者)ニ於テハ先ヅ『ツラギ』水上基地及『|ガダルカナル《ヽヽヽヽヽヽ》』|陸上飛行基地《ヽヽヽヽヽヽ》(|最近造成ニ着手八月末完成ノ見込《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》)ヨリスル基地飛行機ヲ以テ『エフェート島』(『ガダルカナル』ヨリ七〇〇|浬《カイリ》)『ニューカレドニア』方面敵航空兵力ヲ撃破シテ『エフェート』島航空基地ヲ急襲攻略シ同地ニ我航空部隊ヲ推進シテ『ニューカレドニア』所在航空兵力ヲ撃滅スルノ要アリ(以下略)」(傍点引用者)
ガダルカナルを知らなかったとすれば、一つの作戦中止に関する(しかも陸軍も研究していた作戦の中止に関する)海軍作戦課から陸軍作戦課への文書を、作戦課長も参謀たちもまるで見ていなかったことになる。
もしそうなら、関心が薄いどころではない。明らかな不注意であり、怠慢である。
3
緒戦の戦勝気分がまだぬけきれない開戦まる八カ月でガダルカナルは惨劇の島となるが、それまで陸軍が名前も所在も「知らなかった」というような南海の島が戦争の中心点となるまでの作戦展開の推移を概観しておかなければ、何故そんな島一つが、という疑問はいつまでも解けないであろう。
要約すれば次のようなことになる。
日本海軍の見解は、ハワイ空襲等による緒戦の圧倒的優勢を確保したからには、長期戦のために守勢に立つのは不利であって、攻勢的に作戦を推進して敵を守勢一方に立たせる必要がある、そのためには、米国が対日反攻作戦を発起する際の最大の拠点となるオーストラリアを攻略すべきであるというのであった。開戦前の構想には全然なかったことである。
陸軍は反対した。反対理由は、オーストラリアを攻略するとなれば、陸軍としては少くとも一二個師団を基幹とする大兵力を必要とし、これに要する船舶は少くとも一五〇万トンにのぼる、戦況によってはさらに兵力を投入する必要を生ずるかもしれず、その兵力を捻出するには満洲にある対ソ戦備と中国の戦線を縮小しなければならないから、全般的戦略態勢を損うこととなって不可である、というにあった。
開戦時に南方作戦に使用した陸軍の全兵力以上の兵力を新たに編成して、しかも海上四〇〇〇浬を隔てたオーストラリアに送ることには、いくら進攻好きな陸軍でも反対せざるを得なかったのである。
陸軍は、しかし、オーストラリアが米国が対日反攻作戦を展開する際の最大の拠点となるであろうことには異議はなかったから、米豪を遮断することの必要については、海軍と意見が一致した。
結局、オーストラリア攻略案に代って作戦日程に上ってきたのが米豪遮断作戦である。その一つがニューギニアの東南岸にある豪軍海空基地ポートモレスビーの攻略作戦(MO作戦)であり、もう一つがさらに海上を遠く東南へ伸びてニューカレドニア、フィジー、サモアを攻略する作戦(FS作戦)であった。
右の諸作戦のペーパープランとしての時期とガダルカナルの基地設営との間には時間的なずれがあるが、ガダルカナルが基地として有効に機能出来れば、前記二方面の作戦のいずれに対してもガダルカナルは有用度の高い位置にあった。
米軍がガダルカナルを放置しておかなかったのも、右の事情の裏返しである。サモア、フィジー、ニューカレドニアは米豪連絡線上の拠点として欠かすことの出来ないものであり、ポートモレスビー確保はオーストラリアの安全のために不可欠なのであった。
日本は、開戦時の計画では、経済的必要と戦略的必要から、攻略範囲を概ねビルマ、マレー、スマトラ、ジャワ、セレベス、ボルネオ、フィリピン、グァム、ウェーキ、香港等の諸地域とし、これらを内懐に抱くマーシャル群島以西の海域を確保することで長期持久を策するはずであった。それが、緒戦の成功で調子づいて、マーシャル群島の線を遥かに超越した線へまで構想が放漫に膨脹したのである。
別の表現を用いれば、一旦戦争に火をつければ、何処まで燃えひろがるか、何処を終末線として限定出来るかについて、正確な計測が行なわれなかったといえる。
日本は、内南洋最大の根拠地であるトラック島を護るための前進根拠地として、昭和十七年(一九四二年)一月二十三日、ビスマルク諸島ニューブリテン島のラバウルを占領した。攻勢的発想を裏返せば、同じ論法で、ラバウルを護るためと称してガダルカナル、ツラギの占領となるのである。
日本軍のラバウル進出はオーストラリアにとっては脅威であった。翌日の夜からラバウルに対する空襲がはじまり、それは前記のポートモレスビーからであった。こうして、彼我の航空消耗戦がはじまり、ポートモレスビーは日本陸海軍にとって撃滅占領すべき対象となった。大本営は、一月末、南海支隊(陸軍)と第四艦隊を基幹とする兵力で「なし得ればモレスビーを攻略」することを命令している。
サモア、フィジー、ニューカレドニアに対する作戦が陸海軍作戦事務当局の間で協議されたのも右とほぼ同じころである。
米豪遮断作戦としてポートモレスビー攻略とは別にサモア・フィジー・ニューカレドニア作戦(FS作戦)の実施を海軍から求められた陸軍は、検討の結果、所要兵力は歩兵三個大隊を基幹とする支隊三個を編成すれば足りるという成算を得たので、FS作戦に同意して準備に着手した。
作戦の順序としては、ポートモレスビー攻略作戦が五月上旬で、FS作戦は六月以降の予定であった。
ところが、海軍は、FS作戦の前にミッドウェー・アリューシャン攻略作戦を実施することを提案し、この作戦の所要陸軍兵力として歩兵一個連隊を基幹とする部隊の協力を陸軍に求めたのである。
ミッドウェー作戦は連合艦隊司令長官山本五十六の強硬な主張に軍令部が引摺られた結果である。艦隊と軍令部との間に数次の折衝が行なわれて、山本の主張を軍令部総長が呑んだのが四月五日、ミッドウェー・アリューシャン作戦に関する大本営海軍部指示が発令されたのは四月十六日である。
陸軍としては、ミッドウェーには関心を持たなかったが、北方防衛と米ソ遮断の目的から、アリューシャン作戦には意味を認めていたから、ミッドウェーに関して陸軍不同意なら海軍だけでも実施すると聞いて、陸軍は海軍との協同作戦に同意に踏み切った。こうして、ミッドウェー上陸作戦に充当されたのが、先の一木支隊なのである。
ミッドウェー作戦の予定が六月上旬となって、先に六月以降実施を予定されたFS作戦は七月へ順延されることになった。
四月十八日に陸海軍部の間で概定した作戦予定は次の通りである。(戦史室前掲書)
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五月 七日 ポートモレスビー攻略。攻略後使用した兵力南海支隊は六月中旬までにラバウル集結。ニューカレドニア攻略を準備する。
六月 七日 ミッドウェー攻略。
六月一八日 ミッドウェー作戦部隊トラック集結。FS作戦準備。
七月 一日 機動部隊(空母六隻基幹)トラック出撃。
七月 八日 ニューカレドニア攻略。
七月一八日 フィジー攻略。
七月二一日 サモア攻略。
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右の予定は、後述する次第で全部狂ってしまった。
五月上旬のポートモレスビー攻略作戦は、攻略部隊の輸送船団の航行途中で珊瑚海海戦を惹起したために、作戦は延期となった。
ミッドウェー攻略作戦は、前述の通り、六月五日の海戦で日本海軍は主力空母四隻を一挙に失い、攻略部隊一木支隊はグァム島へ引き返した。
FS作戦は、ミッドウェー海戦での空母、飛行機、搭乗員の損失があまりに甚大であったので、予定作戦の実施を一時中止せざるを得なくなったのである。
4
FS作戦の一時中止が決るより先に、太平洋南東方面の現地海軍部隊では、ソロモン諸島に陸上航空基地を設ける必要を認めていた。攻勢的見地からいえば、その基地航空兵力の掩護下に、さらに遠く南東方ニューヘブライズ諸島のエファテ、次いでニューカレドニアを攻略したいということである。
この目的で飛行場適地を発見されたのがガダルカナル島であった。第二十五航空戦隊(以下二十五航戦と略称する。司令官山田定義少将──当時)と第八根拠地隊(ビスマルク方面防備部隊。司令官金沢正夫少将)の幕僚や技術者によって航空偵察が行なわれたのが五月二十五日である。(山田定義日記)
適地は、ガダルカナル北西部ルンガ川東方、海岸線から約二〇〇〇メートルの地域であった。山田二十五航戦司令官は上級司令部である第十一航空艦隊(以下十一航艦と略称)参謀長に偵察報告|旁々《かたがた》飛行場の急速設営の必要を意見具申した。(六月一日)
改めて、六月十九日、第四艦隊(南洋担当)、二十五航戦、第八根拠地隊の幕僚たちによってガダルカナル飛行場適地の航空偵察が行なわれた。その結果として、既述の第十一設営隊(長・門前大佐)と第十三設営隊(長・岡村少佐)とがガダルカナルに送り込まれたのである。
ガダルカナルで飛行場の設営がはじまるころまで、この南東方面の海域の担任は、中部太平洋方面(南洋委任統治地域)同様に第四艦隊(司令長官井上成美中将)であったが、第四艦隊の担任区域が何分にも広大に過ぎるのと、ミッドウェー海戦以後の作戦展開の必要から、七月十四日、新たに第八艦隊の編成が発令され、第八艦隊(司令長官三川軍一中将)が南太平洋方面の作戦に任ずることになった。第八艦隊の統帥発動は七月二十七日零時である。第八艦隊司令部は七月三十日ラバウルに進出した。
第八艦隊司令部のラバウル進出前後から、ガダルカナルとツラギに対する連合軍大型機の空襲が激しくなった。先に述べた米軍の対日反攻開始の前奏曲ともいうべきものであった。
第八艦隊司令部では、しかし、これを、連合軍の対日反攻の前兆とは見ず、連合軍が日本軍のポートモレスビー攻略の阻止に全力を挙げ、ガダルカナル飛行場に対して制圧攻撃をかけているに過ぎないと観察していた。
第八艦隊は、ガダルカナル飛行場の概成と同時に戦闘機隊が進出するように十一航艦に要請したというが(戦史室前掲書)、十一航艦にはその余裕も準備もなく、第八艦隊自身もその本属の第二航空隊をガダルカナルに推進しようとはしなかった。ポートモレスビー攻略に充当する航空戦力だったからである。
また、右の公刊戦史によれば、七月末からの通信状況の変化から、第八艦隊参謀長は「敵の反攻近かるべきを予知し、その地点がガダルカナル島なるべしと判断した」とあるが、参謀長の判断が艦隊の措置としてなんら講ぜられなかったのは、如何なる有効な判断もなされなかったのと同じであった。
第八艦隊では、八月五日、ガダルカナル島の原住民が山中へ逃避したという情報を得たが、これにも重きを置かなかった。連合軍進攻の前触れかもしれぬと疑うものさえいなかったのである。連合軍側は、ガダルカナルに限らず、かねてから、有用とおぼしい島々にコースト・ウォッチャー(海岸監視員)を配置して日本軍の動静に対する触角としていた。コースト・ウォッチャーは原住民との信頼関係がなければ長期滞留はつとまらないから、八月五日のガダルカナルの場合は、原住民はコースト・ウォッチャーからの情報によって行動したものと思われる。
日本軍側でも連合軍の動静に関して航空偵察を行なわなかったわけではない。二十五航戦では、四月二十五日以降、日施哨戒を重要な任務としていた。
八月四日、二式大艇二機がツラギからフィジー、ニューカレドニア方面の偵察に飛んだ。このころ、米海兵第一師団を基幹とするガダルカナル・ツラギ攻略部隊は、S・E・モリソンによれば、八二隻の艦船群をもってニューカレドニア北方海面をガダルカナルヘ向って航行中であった。
二式大艇は、しかし、これを発見出来なかった。
同じく八月四日、飛行艇三機がツラギからF甲区(ほぼ南方。東経一六〇度をほぼ中央線とする扇形区域)に出動しているが、第一第二索敵機は天候不良のため進出僅かに六五浬、第三索敵機は四〇〇浬にとどまった。しかも視界は五浬しかなかった。
八月五日、同じく三機が同区域に哨戒出動したが、悪天候のため一〇〇浬圏内しか飛べなかった。
そして八月六日、米軍ガダルカナル・ツラギ来攻の前日、右と同じ哨戒区域を第一索敵機(敵方に対して右端)は三七〇浬、第二第三索敵機は四〇〇浬圏内を飛んだ。
先の米軍大艦船団は、第二索敵機の哨戒圏を、索敵機の往航午前六時過ぎごろに発見され得る位置を進行中であったと思われる。
しかし、付近一帯、曇ったり晴れたり、所々スコールあり、視界は一〇|乃至《ないし》二〇浬、敵影は発見されなかった。
仮りにこのとき進攻して来る米軍の大艦船団を哨戒機が発見したとしても、米軍の上陸を撃退または阻止し得たか否か疑わしい。
外南洋部隊(第八艦隊)は八月五日または六日に米艦船団を知り得たとしたら、七日当日事実がそうであったように、主力の一部を西北方(ガダルカナルとは反対方向)のカビエン(ニューアイルランド島北端)やさらに西北方アドミラルティ諸島へ向わせることなく、全艦ラバウルに集結し得ていたかもしれないが、空母を持たない同艦隊が空母三隻を伴う米遠征部隊に拮抗し得たとは考えられない。
日本側の空母は三隻は行動可能であったが、他の三隻は未完成であり、いずれにしても日本内地にあって間に合わず、機材の補充、訓練に努めている状態であった。
ガダルカナル飛行場は既述の通りまだ飛行隊が進出していなかったし、頼むは二十五航戦だけであるが、八月六日現在の二十五航戦の使用可能機数は僅かに陸攻三二機、零戦一八機、陸偵二機、二式大艇二機、九七式大艇一〇機、水戦六機に過ぎず、他にこの日二十五航戦の指揮下に入った第八艦隊麾下の航空隊の零戦一五機、艦爆一六機があったが、これらの飛行機は、ツラギの水上機を除いては、ラバウルからガダルカナルあるいはツラギまでの五六〇浬(約一〇〇〇キロ強)という長遠な距離を飛ばなければ米軍来攻部隊に接触出来なかった。したがって、有効な攻撃を加え得る時間はきわめて短くならざるを得なかった。この距離の問題はのちのちまで禍の因となるのである。
ガダルカナル飛行場の設営計画では、第一次工事として、零戦、陸攻各二七機を、第二次工事として零戦四五機、陸攻六〇機の使用を目途とし、航空隊の進出予定は九月上旬であった。
そのころの土木工事の装備は、スコップ、鶴嘴、鍬、鉈、鋸などが主で、機械化装備としてはロードローラー、ミキサー、トラック、それに手押しの土砂運搬車があったに過ぎなかった。米軍が使用していたブルドーザー、パワーショベル、トラクター、キャリオール等に較べれば、工事能力の劣勢は比較のほかである。この工事能率の劣悪は随所で基地設営の遅延をもたらし、そのことが作戦展開の上で彼我の優劣の差をもたらしたことは測り知れない。
しかし、ガダルカナルでは、設営隊の努力によって既述の通り、ともかくも、八〇〇メートル×六〇メートルの滑走路と兵舎、無線設備、戦闘機用掩体等が八月五日には出来上った。
第十三設営隊長からは戦闘機隊の進出の要請があり、その一部進出は八月十六日と予定されていた。
十一航艦ではガダルカナル視察のため先任参謀と補給参謀をラバウルに派遣し、この両参謀は八月六日現地へ飛ぶ予定を、第八艦隊及び第十七軍(陸軍)とポートモレスビー作戦に関する打合せのため、出発を一日延期した。
その翌日、八月七日、米軍が大挙来襲したのである。
5
八月七日、日の出と前後してツラギ通信基地とガブツ島の横浜空(横浜海軍航空隊の略称)は続々と緊急電を発した。
「敵猛爆中」
「敵機動部隊見ユ」
「敵機動部隊二〇隻ツラギニ来襲空爆中、上陸準備中、救助頼ム」
「〇四三〇空襲ニ依リ大艇全機火災」
「巡洋艦四空母一見ユ」
「敵ハツラギニ上陸開始」
「状況ニ依り今直ク装備(暗号書のことであろう──引用者)ヲ焼ク」
「我艦砲射撃ヲ受ク」
「敵各艦艦砲射撃、揚陸開始」
「至近弾電信所付近。戦艦一巡洋艦三駆逐艦一五其ノ他輸送船」
「爆弾艦砲射撃銃撃未タ衰ヘス」
「敵兵力大、最後ノ一兵迄守ル、武運長久ヲ祈ル」(以上『山田日記』──二十五航戦)
右記最後の電文をもって通信は絶えた。午前六時十分ごろと思われる。
ガダルカナル所在部隊からの緊急電はなかった。前記『山田日記』には「ガダルカナルハ〇二〇〇頃ヨリ通信杜絶」とあるが、理由は明らかでない。午前二時ごろには米軍の攻撃はまだはじまっていなかったから、通信がなかったのは他の事情によってのことであろう。
米軍上陸時のガダルカナルには、先に述べた通り、第十一設営隊(門前大佐以下一二二一名)と第十三設営隊(岡村少佐以下一三五〇名)が居り、その大部分は工員で、小銃または拳銃を装備して陸戦能力のある者は、第十一設営隊約一八〇名、第十三設営隊約一〇〇名に過ぎなかった。他に、第八十四警備隊としてガダルカナルにはルンガ岬付近に約一五〇名、ガブツ島(ツラギの隣島)に約五〇名、ツラギに約二〇〇名配置されていたに過ぎない。八二隻の大艦船団を組んで遠征して来た米軍に立ち向うことは到底出来なかった。
右の緊急電を受信した第八艦隊司令部は、米軍来攻には意表を衝かれたが、事態の認識と状況判断は楽観的であった。まず、敵のガダルカナル来攻は、本格的反攻の開始であるよりは、強行偵察程度のものであると判断した。現地からの緊急電は敵兵力を過大視しているのではないかとさえ疑っていた。理由は、大本営以下各級司令部の参謀たちの間では、米軍の反攻開始は早くても昭和十八年(翌年)以降であるという希望的観測が一般であったことである。ミッドウェーの痛烈な敗北があったにもかかわらず、緒戦の戦果の過大評価と、敵の戦力と戦意を下算する悪弊がまだ十分に反省されていなかったし、その心理的土壌では希望的観測が発芽しやすかったのである。
第八艦隊司令部は、この時点では何の根拠もなしに、一個大隊程度の陸戦兵力を投入すれば奪回は可能であると考え、第八艦隊の海上決戦兵力で敵艦隊を撃破し、十一航艦の航空兵力で敵母艦群を撃滅してガダルカナル近辺の制海制空権を確保することは困難ではない、という楽観的判断に傾いていた。
第八艦隊(外南洋部隊)司令長官三川軍一中将は、緊急電接到中の七日午前五時三十五分、早くも、ラバウル所在の麾下艦艇に出撃準備の完成を命じ、またこの朝早くブナ輸送作戦(ニューギニア)支援のためにカビエンからアドミラルティ諸島に向っていた旗艦鳥海と第六戦隊(青葉、衣笠、加古、古鷹)に南下を命じた。
さらに、第八艦隊では、二十五航戦の要請に応じて第十八戦隊の駆逐艦一隻をショートランドに急派した。ラバウルを出撃してツラギとガダルカナルに向った二十五航戦の飛行隊(特に艦爆隊)が、帰途に航続力が尽きて洋上着水しなければならないのを、その搭乗員を救助するためである。
今後も再々触れることになるであろうが、ラバウル─ガダルカナル間五六〇浬という長遠な距離は、航空作戦にとって致命的な欠陥となった。当時の航空機の性能からすれば、陸上航空基地の推進は三〇〇浬が標準の上限といってよかった。それを、海軍は、ガダルカナル基地を設けるにあたっては、いきなり五六〇浬にも伸長したのである。五六〇浬では、航続力の大きいことを誇っていた零戦でも、敵地上空での滞空時間はせいぜい十五分しかなく、それを越えれば帰投はできないことになる。艦爆に至っては攻撃半径は二五〇浬しかなかった。したがって、零戦も艦爆も出撃のためには中継基地が必要であったが、敵の早期反攻を全然計算に入れていなかった海軍は、基地推進にあたって中継の配慮がなかったのである。
八月七日早朝の突然の緊急事態発生に際して、山田二十五航戦司令官は、来攻した敵艦船群に対して艦爆隊の片道攻撃敢行を決意し、搭乗員の救助のために水上機母艦と二式大艇を予定海域に配備し、第八艦隊に対して駆逐艦の急派を要請した。
こうして、二十五航戦は全力を挙げ、機種によっては帰途には洋上着水という非常措置までとって攻撃したにもかかわらず、ガダルカナルとツラギ沖にあった米軍攻略部隊は無傷のまま上陸を行なっていた。
その理由の第一は、先に述べたラバウルから目的地までの距離が長遠なために、効果的な攻撃時間を十分に持てなかったことである。第二は、これも既述のことだが、連合軍がブーゲンビル島に配置してあったコースト・ウォッチャー(沿岸監視員)が、日本軍飛行隊の発進をその目的地到着の一時間半前に通報していたことである。第三は、米重巡シカゴのレーダーが日本軍攻撃隊の殺到をおそくも五分前に探知して、米空母ワスプ、エンタープライズ、サラトガから六〇機に及ぶ戦闘機群が飛び立ち、|邀撃《ようげき》したことである。第四は、雲量多く視界不良であったことである。
日本側攻撃隊の戦果報告は過大であり、米側の邀撃戦果の報告も適正とは思えないので、彼我の戦果を比較することにはあまり意味がない。ただ、二十五航戦の敵来攻初動の時期の果敢な反撃によって、米空母を中核とする来攻艦隊が早期撤退の必要を覚えたことは事実であろう。
初動第一撃で、しかし、敵の上陸作戦に重大な打撃を加え得なかったことは、結果から見て、その後半年に及ぶガダルカナル戦の趨勢を予告するかのようであった。この日以後、日本軍の揚陸と補給は、ほとんどその都度米軍航空機によってしたたかに損害を蒙り、反対に米軍の増強補給に対する日本軍航空部隊の攻撃はもどかしいばかりに効果をあげ得ない事態が反復するのである。
その理由は、基地推進にあたっての浅慮と並んで、基地設営能力と補給能力が彼我の間で比較を絶していたこと、その認識が全く不足していたことである。空を飛んで戦うことだけが航空戦ではなかった。日本は格闘戦だけを重視して、基地の設営や補給を甚だしく等閑視していた。また、設営能力や補給能力の貧弱は、帰するところは生産力の貧困であった。それにもかかわらず、日本は、周到な注意力をもって早期に時間をかけて準備することを怠っていた。あるいは、生産力が貧困であるからこそ、敵の早期反攻はないものと希望的判断を下したがったというべきかもしれない。
航空戦に関してさらに言えば、操縦者の練成に関しても、彼我は全く隔絶していた。日本が誇っていた少数精鋭主義は、激甚をきわめた消耗戦に耐え得なかった。ミッドウェーで熟練飛行士を半数近く失い、その後補充した平均練度の低い搭乗員も半歳にわたるガダルカナル航空戦で逐次失われた。米軍は、そのころ、多数の母艦群の建造を急ぐとともに、一〇万二〇万という規模で搭乗員を練成していたのである。
太平洋上では航空戦がすべてを決定したといってよい。制空権のないところに艦船の行動の安全はない。艦船行動の自由がなければ、地上兵力の輸送も物資の補給も至難の業である。ソロモンの海には|夥《おびただ》しい艦船が沈んで、そこは鉄底海峡と呼ばれ、ガ島(ガダルカナル)は餓島と呼ばれる相貌を呈することになるのである。
6
外南洋を担当していた第八艦隊は、先に述べた通り、ツラギからの緊急電に接しても、米軍上陸を本格的反攻のはじまりとは判断せず、一個大隊程度の地上兵力をさし向ければ奪回できると考え、艦隊出撃の準備を急ぐとともに、第十七軍(在ラバウル陸軍。司令官百武中将)に陸軍兵力の派遣を要請した。十七軍には作戦日程にのぼっているポートモレスビー攻略に充当を予定している南海支隊以外の兵力はなかったので、ガダルカナルヘの転用には応じなかった。
十七軍は──十七軍に限らないが──ガダルカナルが全戦局を左右する焦点になろうなどとは想像もしていなかった。当初は、ガダルカナルをもツラギという名称のうちに含めて呼ぶ程度の認識しかなかったのである。
第八艦隊は前記のように事態を楽観視する傾向にあったから、陸軍部隊の応急派遣が出来なくても、所在の海軍陸戦隊の投入で間に合せようと考え、佐世保鎮守府第五特別陸戦隊(以下佐五特と略記)、呉鎮守府第三、第五特別陸戦隊(以下呉三特、呉五特と略記)から計五一九名を抽出(指揮官遠藤海軍大尉)してガダルカナルへの派遣を部署し、艦隊自体は七日午後二時半ラバウルを出撃した。遠藤部隊のラバウル出港は七日午後九時であった。この部隊には後述する次第で、思いがけぬ不運が待ちかまえていたのである。
第十七軍はポートモレスビー作戦を重視して第八艦隊の要求には応じなかったが、ポートモレスビー攻略のためにも、ガダルカナル基地が米軍の手中に陥ることは不利なので、第八艦隊の出撃に際しては、軍司令官以下が艦隊出陣を見送りがてらに敵輸送船団撃滅の希望を伝えるつもりであったという。ところが、艦隊は出撃準備に忙しく、十七軍の方ではポートモレスビー作戦の図上演習を行なっているうちに、艦隊は出撃してしまったというのである。連絡事務に類することさえ確実には行なわれなかったのだ。
第十七軍は、この時点では、ガダルカナル戦を必ずしも緊急重要とは見ていなかった。ラバウルに位置する十七軍司令部の正面には、敵が占拠している三つの拠点があった。ポートモレスビー(ニューギニア南東岸)、ラビ(ニューギニア東端)、ツラギ(ガダルカナルを合む)の三つである。このうち、十七軍はポートモレスビーを最重要視していた。戦略上果してどれが最も重要といえたのかは多分に疑義のあるところである。オーストラリアからの前進基地としてなら、ポートモレスビーあるいはラビが価値が高かったし、米海軍の前進根拠地としてのサモア、フィジー、ニューカレドニアの延長線として考えれば、ガダルカナルあるいはツラギが重要度が高いといってよい。
十七軍がポートモレスビーを重要視するのは、事実において戦略上最重要であるからというよりも、それが重要だと早くから考えていて、ニューギニアの北岸からオーエン・スタンレー山脈を踏破して南岸のポートモレスビーを陥すという陸路攻略(後述)のために、既に独立工兵第十五連隊長横山大佐を長とする横山先遣隊を七月二十一日北岸のゴナに上陸させ、スタンレー山系へ突進させていたから、この作戦を継続拡大したがったのである。
ガダルカナル戦の実相は東部ニューギニア作戦と切り離して独立に考えることは出来ない。陸軍はガダルカナルが決戦的死闘の様相をおびるようになるまでポートモレスビー重点主義の思考を変えず、|徒《いたず》らに二正面で中途半端な兵力の逐次投入を行ない、二正面とも惨澹たる失敗を重ねることになるのである。
7
ガダルカナル同様凄惨をきわめたニューギニア作戦は、昭和十七年(一九四二年)三月、海軍陸戦隊と陸軍南海支隊の一部をもって東部ニューギニアのラエ、サラモアを占領したことに端を発する。ラエ、サラモアの占領は、その後陸海協同してポートモレスビーを攻略してオーストラリアからの敵の反攻を制圧しようという含みを持っていた。
このポートモレスビー作戦がガダルカナル戦と時間的に前後し並行し、かてて加えて全く無意味な作戦に終るので、ニューギニアの作戦はすべて惨澹たるものだが、特にポートモレスビー作戦だけをここで取り上げて、略記することにする。
ポートモレスビーの攻略は順当に考えれば当然海路からである。
大本営は、五月十日ごろにポートモレスビーを攻略することを決定した。それに従って、上陸作戦を行なう陸軍の南海支隊(歩兵三個大隊基幹)は、海軍護衛のもとに五月四日ラバウルを出港した。
この方面の日本の海上兵力は、空母二、補助空母一、重巡六、軽巡三、駆逐艦一五というかなりの兵力であったが、海路からポートモレスビーを攻略するには、ラバウルからポートモレスビーまで低速輸送船団一四隻を、三昼夜も敵の航空攻撃圏内を航行させる危険を冒さなければならなかった。
この海域に行動中の米海軍は、空母二、重巡四、軽巡四、駆逐艦一七であった。
米艦隊(フレッチャー少将)は、日本の輸送船団がラバウルから南下するのを、ポートモレスビーヘの上陸作戦と看破して、船団の予想航路に待伏せた。五月六日のことである。
ここに、ポートモレスビー攻略作戦をめぐって珊瑚海海戦が起こり、南海支隊の輸送船団は反転北上した。珊瑚海海戦の結果、低速船団による海路からのポートモレスビー作戦は、延期され、遂には放棄されることになる。
代って登場するのが陸路攻略案である。ニューギニアの北岸に上陸して、オーエン・スタンレー山系を踏破して南岸のポートモレスビーに殺到しようというのである。
大本営は陸路進攻の可能性を確かめるために「リ号」研究と名づける偵察作戦を十七軍に求め、十七軍はこれを南海支隊に命じた。
これより先、南海支隊長は十七軍司令官から陸路進攻の能否について意見を求められていたので、六月三十日、ダバオ(十七軍司令部は当時まだダバオにあり、ラバウルに進出していなかった)で、意見を述べた。それによれば、陸路進攻はほとんど不可能であった。
理由は左の通りである。
予定進攻路は北東岸のブナ─山系中のココダ─ポートモレスビーを最適とするが、ブナ─ココダ間の推定距離一六〇キロメートル、ココダ─ポートモレスビー間は二〇〇キロメートルとして、合計三六〇キロメートルを踏破しなければならない。その間の補給の確保を如何にするか。道もない未踏の山岳地帯である。人力による担送以外に方法はない。どれだけの担送兵力を必要とするかが問題である。
第一線の給養兵員を五〇〇〇名とする。主食の一人一日量を六〇〇グラムとする。支隊の補給日量は三トンとなる。
担送兵一名が運搬できる主食の量は、最大限二五キログラムとみなければならず、一日の担送距離は山岳地帯であるから最大限二〇キロメートルまでと考えなければならない。
ブナから二〇〇キロの地点に攻略部隊が達した場合、担送兵員はその往復に二〇日を要し、担送兵自身の消費食糧は六〇〇グラムの二〇倍つまり一二キログラム、したがって、二〇〇キロ地点に集積される主食は担送一人|当《あたり》二五キログラム─(マイナス)一二キログラム、つまり一三キログラムでしかない。
したがって、支隊の消費日量三トンを確保するには、二〇〇キロ地点に毎日二三〇名の担送者が到着しなければならない。二〇日行程となれば四六〇〇名の担送兵力を必要とする。攻略部隊五〇〇〇名がブナから三六〇キロメートル離れたポートモレスビー付近に達した場合を計算すれば、所要の担送人員は主食だけでも三万二〇〇〇名となる。
これに弾薬その他の補給物資を加えれば、担送兵力は厖大な数を必要とし、人力搬送によっては陸路進攻は不可能である。
以上が、南海支隊司令部の机上の計算から導かれた結論であった。
南海支隊長は机上の計算だからといって上級司令部に対して遠慮することはなかったのである。計算は少くとも経験的根拠(兵の担送重量とか担送距離等)に基づく推定値を表わしており、もしこの計算が無視されるならば、その禍にさらされるのは南海支隊の兵員であって、上級司令部ではない。
南海支隊長は、しかし、強く否定的意見を主張しなかった。実戦部隊は命令に従うのみである。結局この自殺的作戦は実施に移されたが、南海支隊長が前記の根拠をもってあくまで否定的見解を主張すれば、抗命の罪に問われたであろう。
実戦部隊が安んじて命令のままに行動するには、上級機関に科学的な思考、周到な配慮、充分な準備の確算がなければならないのだが、日本軍の場合はほとんど常にこれを欠いていた。作戦は実戦部隊将兵の悲劇的なまでの忍耐力に皺寄せされるのが常であった。
七月一日、十七軍司令官は「リ号」研究の命令を発した。独立工兵第十五連隊主力と南海支隊の歩兵一個大隊をもって横山先遣隊を編成し、ブナ─ココダを経てオーエン・スタンレー山系に挑み、ポートモレスビーへの進攻路を偵察するのである。
大本営はその研究の結果を待つこととなっていた。
横山先遣隊は七月二十一日、上陸予定地のバサブア近くのゴナに上陸、オーエン・スタンレー山系の踏破行を開始した。
この横山先遣隊による「リ号」研究の結果を待って大本営が陸路進攻の可否を決するという順序は、次の事情によって狂いを生じた。
七月十五日、大本営参謀辻政信がダバオの第十七軍司令部に出張して来て、大本営は陸路攻略を決定したと言ったのである。
辻中佐は七月十一日発令の大命(印刷物)を示して、FS作戦中止の経緯を説明した上で、大本営は「リ号」研究の結果を待たず、この大命によって第十七軍にモレスビー攻略を命じたのである、「リ号」研究はもはや研究ではなくて、実行である、十七軍は速かにモレスビー攻略に着手されたい、と伝えた。(この項、戦史室『南太平洋陸軍作戦』(1))
横山先遣隊のゴナ上陸さえまだ一週間先というときのことである。
十七軍では、辻が到着した十五日に作戦要領を策定し、十八日、ポートモレスビー攻略に関する軍命令を下達した。辻の言ったことを大本営の意図と解したからである。
これは、しかし、辻の独断であり、越権行為なのであった。辻到着からちょうど十日後の七月二十五日、大本営陸軍部作戦課長服部大佐から十七軍の「リ号」研究の結果報告を待っているという電報が入って、辻参謀の越権が暴露した。
軍隊は奇妙ででたらめな社会である。瑣末にいたるまで規則ずくめでありながら、国運にかかわるかもしれない重大事項では一野心家の暴走の余地があり、周囲がこれを黙認し、上級機関がこれを追認するような弛みきったところがある。
ポートモレスビー作戦に関して、陸路進攻案が大本営での支配的傾向となっていたのは事実であろう。それなくしては、辻と|雖《いえど》も十七軍に対して独断指導の挙には出られなかったであろうと思われる。問題は、まだ充分に検討されていない冒険的作戦が一野心家によって引きずられ、非違と越権は咎められず、実施に移された、ということである。
十七軍司令官はさすがに辻の越権に不快を覚え内地へ帰そうと考えたらしいが、参謀長の取りなしで何事もなかったようである。
大本営がまた権威がない。「リ号」研究の結果を待って作戦を決定すると決めているのなら、そうすべきであって、派遣参謀の独断に引きずられるのは醜態である。辻参謀が半年前のマレー作戦の作戦主任参謀であり、「戦の神様」と尊称を奉られた人物であるから、その判断を尊重して容認したというのなら、三年前に惨敗したノモンハン事件当時の関東軍の作戦主任参謀もまた彼であったことは、忘れられてはならなかったはずである。もっとも、ポートモレスビー作戦の時点での大本営作戦課長服部卓四郎は、奇しくも、ノモンハン事件当時も関東軍の辻の直属上官であったことからみて、辻の独断はこの上官の下でなら問題なく通過する、と辻は計算済みであったと考えられる。
第十七軍としては、陸路進攻と決したからには、横山先遣隊行動開始から支隊主力の投入まで、できる限り時間的間隔をおくべきでないと判断したのは当然であった。
ここからはガダルカナルの現在時点八月七日を超越することになる。
南海支隊主力は、八月十八日、バサブア付近に上陸した。後述する一木支隊第一梯団がガダルカナルに上陸したのと同じ日である。
南海支隊は糧食一六日分を各自で背負い、ココダ─イスラバ─エフオギと所在のオーストラリア軍と小戦闘を重ねつつ、ポートモレスビーめざしてオーエン・スタンレー山系に踏み入った。はじめは順調に見えたが、それは恐るべき終末への導入部であった。
九月十六日、南海支隊の第一線はイオリバイワを占領した。そこから先きオーエン・スタンレー山系は次第に低い樹海となって、海岸に至っている。そこからはまた、ポートモレスビーの灯が遥かに望見された。
だが、そこまで来て、支隊はスタンレー山系以北に集結という決定がなされた。つまり、いままで来た道を引き返すのである。
食糧が尽きようとしていた。一日定量を四分の一に減らして食いのばしてきたが、|糧秣《りようまつ》の前送が間に合わなかった。これ以上の前進は全員の餓死を意味した。先きに支隊司令部で出した計算上の結論は誤りではなかったのである。
退却に移った南海支隊に対してマッカーサー指揮する米豪連合軍が急追撃を開始した。支隊のブナヘの退却は、飢餓と敵の追撃によって地獄の様相を呈することになった。
結果的に、日本軍は、ガダルカナルからもそうであったように、東部ニューギニアからも撤収するのだが、撤収までもちこたえられず、北岸の諸要域で玉砕部隊を出すところまでいった。
陸路進攻を独断推進した大本営参謀辻政信は、十一月十日、ラバウルから服部作戦課長宛てに次のように打電している。
「『モ』攻略(モレスビー攻略)ニ関シテハ『スタンレー』ヲ経由スル大兵力ノ使用ハ南海支隊ノ苦キ経験ニ依リ極メテ至難ナルモノアルヲ痛感セラレ……」
算術的に予測し得ることを冒して、多大の犠牲を払って、ようやく「極メテ至難ナルモノアルヲ痛感」するのが参謀なら、戦に参謀などは要らない。出たとこ勝負でやればよいことになる。
先の南海支隊司令部の試算を想起されたい。ブナからモレスビーまでの直距離を三六〇キロメートル、兵員一日の歩行距離を二〇キロメートルとしてあったから、十八日で踏破出来るという単純な計算が一応成り立つ。したがって、兵員各自が糧食十六日分を背負って歩けばどうにか足りると計算したのであろう。兵要地誌もない、地形もろくにわからない山岳地帯、しかも随所で敵と小戦闘を交えつつ踏破する道程が、危険のない平坦地の歩行のような単純な計算を許さないぐらいのことは、あらかじめ明白でなければならなかった。
ガダルカナルのジャングル内を前進する際にも、所要時間を過少に見積って失敗するのである。
辻参謀の電文はこうつづいている。
「海上ヨリスル作戦ハ『ガ』島以上ノ犠牲ヲ覚悟セサルヘカラサルノミナラス『モ』周辺ノ直接防衛モ亦極メテ堅固ナルヲ予期セサルヘカラス……海軍ハ航空兵力ニ余力ナク『モ』作戦ノ為ニハ陸軍航空ノ担任ヲ要望シアルカ如シ 果シテ然リトセハ『モ』作戦ハ絶対ニ成功ノ希望ナシ(後略)」
軽率かつ独善的に作戦指導したあとでの右の電文は無責任≠フ標本のようである。この電文の背景は死屍累々としている。南海支隊の内地出発人員五五八六、補充人員一七九七、損耗五四三二、残存人員一九五一であった。(但し、数字は昭和十六年十一月から十八年八月まで。)
南海支隊のオーエン・スタンレー山系越えの悲劇は、教訓とはならなかった。日本軍の指導者たちにとって、兵隊の生命などものの数ではなかったのである。二年後、ニューギニアの悲劇はインパール作戦でさらに拡大された。軍人の思考の独善的な愚かしさは遂に反省されることがなかった。
8
時間を八月七日に戻すことにする。
連合艦隊主力は瀬戸内海にあり、旗艦大和は柱島泊地にあった。
参謀長宇垣纒の日記『戦藻録』には米軍来攻の日のことが次のように記されている。
「五時三十分当直参謀ツラギに敵大挙来襲の報告を致す。本早朝出港呉回航の大和行動を延期し、専ら之が対策に当る。
日出午前四時の処同時刻空襲と共に戦艦巡洋艦の砲撃を受け、敵上陸を為すと云ふに在り。敵情判明迄相当の時間を要したるが、空母一、戦艦一、巡洋艦三、駆逐艦十五隻、之に運送船四十隻余ツラギ及ガダルカナルに同時に来襲せるが如く、|本《ママ》ツラギ飛行艇は七機共爆焼せられ七百人の守備隊関係奮戦し、通信隊の最後の電波は悲壮なるものあり。ガダルカナルは昨日頃を以て飛行場完成せるばかりにして、|守備兵は千二百人余《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。之に加ふるに人夫約二千人在り。
易々と敵の奪取に委せざるべきも同方面の電波一向に傍受出来ず情況不明なり。二十五航戦は七時五十五分中攻二十七機零戦十八機艦爆九機を発進攻撃せしむ。一方六戦隊は直に出港八艦隊長官は午後鳥海に乗艦、十八戦隊を合して同方面に向へり。
|此敵は正に同方面に居据りの腹にて思切つた主力兵を使用せり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。之を被攻撃迄発見探知せざりしは誠に迂濶千万と思ふ──前々日来相当の警告ありしに関らず、何としても後の祭りなり。之を速にやつつけざればモレスビ作戦処かラボールも奪回せんとし、同方面の作戦は著しく態勢不利となるを以て、印度洋方面は後廻しとしても先づ之を片附くる事に全力を払ふべし。(以下略)」(傍点引用者)
先の傍点部分「守備兵は千二百人」だから易々と敵に奪取されはしないであろうというのは、連合艦隊参謀長ののんきな記憶違いである。ガダルカナルには、先に述べたように、小銃または拳銃を装備した者は、第十一設営隊に約一八〇名、第十三設営隊に約一〇〇名、他に警備専任として第八十四警備隊に約一五〇名がいたに過ぎない。砲爆撃をともなった米軍の大挙上陸の前では、混乱を避けられなかった。多くの工員は指揮官の掌握から脱して密林に逃げ込んだ。部分的には小規模ながら組織的抵抗をしたが、友軍大部隊の来援がなければ、全滅は時間の問題であった。
後の傍点部分「敵は正に居据りの腹にて……」は、後述する大本営のこの日の情勢判断とかなり違っている。「居据りの腹にて思切つた主兵力を使用せり」という判断には、希望的観測や根拠のない楽観は含まれていない。
連合艦隊は大本営に対して陸軍兵力の急派を要請した。海軍の発意において推進した基地が、敵の意外に早い進攻によって占領されたことに驚きもし、情勢を重大視したのである。連合艦隊がこの米軍の来攻を本格的反攻の開始と判断した形跡は見当らないが、少くとも地域としては米軍の来攻あるべしと予想された正面であったので、事態の楽観は許されず、連合艦隊司令長官の決心において、予定されていた印度洋作戦を取り止め、ソロモンに敵を撃滅する作戦方針を立てたのであった。
連合艦隊としては、陸兵派遣に関しては、当時パラオにいた歩兵第三十五旅団(長・川口清健少将。後の川口支隊)が迅速にガダルカナルヘ派遣されることを希望していた。
大本営陸軍部では、しかし、派遣部隊を決定していなかった。とりあえず、七日、グァムから宇品へ向って出航した一木支隊に前述の反転待機の総長指示を発したが、使用予定は、この時点では東部ニューギニアとされていた。
大本営陸軍部としては、既定のポートモレスビーヘの陸路進攻作戦以外に南西太平洋方面での用兵をあまり歓迎していなかったのである。それというのも、陸軍の戦局全般にわたる構想のなかでは、重慶攻略作戦が戦争の終末を促進する方策として優先順位を占めていたからである。ガダルカナルの奪回作戦は、したがって、当初、用兵上のまわり道の感があった。
大本営海軍部では、八月七日早朝からのツラギ緊急電、二十五航戦や第八艦隊からの報告電を受けて、七日午前、敵情を次のように判定した。
ツラギ方面には、戦艦一、空母一、巡洋艦三、駆逐艦一五、輸送船若干。
ガダルカナルには、巡洋艦三、駆逐艦七、輸送船二七隻が飛行場東方の泊地に進入、空母はツラギ北方にあるものの如し、と判定された。(戦史室前掲書『陸軍作戦』)
この敵情は直ちに大本営陸軍部にも通報され、七日午前から午後にかけて陸海両作戦課幕僚の連絡研究が行なわれた。
その結論は、@推測される敵海軍の戦備から判断して、また現有空母勢力から推して、ガダルカナルとツラギに対する来攻は偵察上陸の程度であろう、A仮りにそれが占領を企図する反攻であるとしても、我が陸海軍部隊がこれを奪回することは容易であるが、ガダルカナルの飛行場が敵手に陥ちると爾後の作戦に不都合を来たすから、奪回作戦は即時行なわなければならない、というのであった。
二七隻もの輸送船をもってする揚陸作戦を何故偵察上陸の程度と断定するのかが問題である。仮りに、輸送船の平均トン数を三〇〇〇乃至五〇〇〇トンとし、輸送兵員一人当所要船腹を日本流に三トンとすれば、二万七〇〇〇乃至四万五〇〇〇の兵力を揚陸し得る計算になる。米軍は装備が豊富だし贅沢だからとして、一人当所要船腹を日本の三倍とみても、九〇〇〇乃至一万五〇〇〇の兵力を上陸させ得る推定が成り立つ。それを、何故、偵察上陸の程度と判定するのか。
ミッドウェー敗戦後二カ月、考慮の時間だけは十分にあったはずであるのに、依然として敵を下算する性癖を克服し得ていなかったか、あるいは、敵勢力を希望的に縮小見積りしたかったのか。
事実は、米側資料によれば、X輸送船団(ガダルカナル)輸送船一五、Y輸送船団(ツラギ)輸送船八、輸送船団にはA・A・バンデグリフト海兵少将以下一万九一〇五名が乗船していて、ガダルカナルには七日日没までに約一万一〇〇〇の兵力が上陸したのである。
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ガダルカナルでは、宿営地が海岸に近かった第十一設営隊(以下十一設と略称)は、米軍来襲の衝撃が大きかったとみえる。混乱状態に陥って指揮官の掌握下から離れ、ジャングル内へ逃げ込んだ者が多かった。
第十三設営隊(以下十三設と略称)の宿営地からは海岸は見えず、したがって来襲した敵艦船団も見えなかった。たまたまその日は起床時間を早め、作業にとりかかろうとしているときに砲爆撃がはじまった。敵大挙来襲の報は四時三十分ころ警備隊からもたらされたらしい。
岡村十三設隊長は、はじめ、ルンガ川(飛行場付近)の線で抵抗するつもりであったが、十一設や警備隊とも連絡がとれず、独力で長期抵抗は不可能と考えて、西方へ撤退することにした。
七日夜になって、門前十一設隊長以下十数名が十三設に合流し、西方マタニカウ川を渡って、クルツ岬西方に後に海軍本部と呼ぶことになる指揮所を置き、事態の推移を待った。
第八十四警備隊ガダルカナル派遣隊は前記の通り少人数であり、火砲も高角砲六門と山砲二門しか持たず、圧倒的に優勢な米軍に敵し得ないので、これも西方へ退避、設営隊と合流して門前十一設隊長(大佐)の指揮下に入った。
八日夜半、彼らは陸上から、後述するツラギ海峡夜戦を望見して、友軍の来援上陸を信じた。
十一、十三両設営隊の米軍来襲時の被害は判然しない。一説には、十一設五五%、十三設三五%であったという。
ツラギ方面(ガブツ島、タナンボコ島を含む)では、ガダルカナルとちがって、日本軍は洞窟陣地に拠って激しく抵抗したらしい。らしいというのは、この方面の戦闘経過は米軍側資料にしか記録されていないからである。在島の日本軍は、少数の脱出者と捕虜になった者を除いて、いずれも玉砕した。
ツラギでの抵抗は、一部少数のゲリラ的抗戦を別とすれば、八日夕刻ごろまでに終った。
横浜海軍航空隊約四〇〇名と八十四警約五〇名がいたガブツとタナンボコでの抵抗は激しくて、タナンボコに上陸した米軍は、七日夜、一時ガブツ島方面へ退去している。しかし、八日夕刻ごろまでにガブツ・タナンボコの大部分は米軍の手中に陥ち、一部の抗戦は翌九日遅くまでつづいたという。
米軍の本格的反攻がはじまることを全然予想出来ず、諸々の島々に原住民制圧用程度の少数兵力を分散配置してあっただけであるから、よしんば飛行機の日施哨戒によって敵の来襲を偵知し得たとしても、敵手に陥ちるのを防ぐことは出来なかったはずである。
既述のように七日午後二時半ラバウルを出撃、洋上を南下中の第八艦隊は、七日午後から八日午前にかけて得た情報で、敵の上陸部隊は予想以上の大兵力で一個師団程度はあるらしいと判断するようになり、また敵空母の所在は味方索敵機によって確認されていないが、ガダルカナル上空付近に敵の艦載機が認められることから、敵空母が近海を行動していることも確実と|看做《みな》さざるを得なかった。
七日夕刻ラバウルに帰投した艦爆隊員は、「戦艦一、大巡二、軽巡八、駆逐艦四、輸送船約三〇、小型艇無数輸送船ト陸岸トヲ往復シアリ」と、ツラギとガダルカナル沖の敵情を報告したのである。
また、八日午前九時ごろまでの索敵機の報告によって、ガダルカナル北方海域に少くとも巡洋艦四、駆逐艦九、輸送船一五が確認されたし、ガダルカナル上空で多数の艦載機が認められた。二十五航戦は米軍がガダルカナルの東方乃至北方から来攻したものと考え、その方向に索敵線を伸ばしていたが、空母を発見出来ずに艦載機多数を認めたということは、別方向に空母がいたことになる。事実、米軍空母はガダルカナルの南方、レンネル島とサンクリストバル島の間の海域を行動していたのであった。
敵の上陸兵力が予想以上に大きいとすれば、先にガダルカナル地上戦闘増援のために抽出派遣した海軍陸戦隊五一九名(遠藤隊)は、兵力過少で増援の用をなさない。第八艦隊は八日正午前、前夜九時に既に『津軽』艦長指揮のもとにラバウルを出撃南下中の増援部隊にラバウルヘの反転を命じた。
命を受けて反転帰投の途についた部隊は、八日夜八時ごろ、セントジョージ岬西方約一五浬で敵潜水艦の雷撃を受け明陽丸が沈没、三七三名を失った。ガダルカナルとツラギの設営隊と警備隊の交戦被害を別とすれば、遠藤隊の損害は、その後再三繰り返された空しい犠牲を予言するような事件であった。
第八艦隊は八日午前八時過ぎから約一時間敵偵察機の接触を受け、一時的に偽航路をとったが、やがて敵機は去り、その後、不思議なことに何事もなく、ブーゲンビル島東方海域を南下、午後四時ごろにはチョイセル島とコロンバンガラ島の中間を東南へ走った。
午後九時、ラッセル島北方約三五浬で艦隊は哨戒機四機を射出した。偵察と戦闘時の照明のためである。依然として何事もなく、夜更けになってガダルカナル島とフロリダ島(ツラギ)の西端部がその中間に挟んでいるサボ島に近づいた。
先に接触していた敵機が即刻通報していたら、事態は全く異っていたであろうと思われる。
その飛行機はオーストラリア空軍所属であったが、飛行中に無線封止を破ることを欲しなかったのか、ミルン湾基地(ニューギニア東端)帰投後に日本軍第八艦隊の行動を報告した。しかもその通報がガダルカナル方面水陸両用部隊指揮官ターナー少将に届いたのは、電報がタウンスビル、ブリスベーンと一旦南へ送られてからハワイヘ転電され、ハワイからの通報は午後四時四十五分になってからであった。その上、さらに、ターナーは、この通報を重要視しなかった。ガダルカナル泊地への日本艦隊の襲撃とは思わずに、日本海軍がイサベル島北西端のレガタに水上機を推進するもの(電文に水上機母艦又は砲艦二隻云々とあったから)と判断したらしいのである。
ターナーがもっと緻密な神経の持主であったら、事態は変っていたかもしれない。というのは、第八艦隊の行動はもっと早くに捉えられていたのである。前日、七日の午後六時、第八艦隊がラバウルを出港してセントジョージ海峡を通過したころ、米潜水艦S38がこれを発見して「駆逐艦二、艦種不詳の大型艦三南東に向け高速航行中」と通報している。この通報は翌八日朝ターナーの許に達しているのである。ガダルカナルはセントジョージ海峡からまさしく南東方にあたる。ただ、何分にもまだ距離が遠かった。五五〇浬も離れていたので、水陸両用部隊指揮官としては、日本艦隊に関するその後の情報を待つつもりであったと考えられる。
その後の情報が、先に述べた豪軍偵察機からの不正確かつ遅延した電文であった。
10
敵側の過失に幸されて、第八艦隊はサボ島南側へ単縦陣、開距離一二〇〇メートル、二六ノットの高速で突入した。旗艦の鳥海を先頭に、第六戦隊の青葉、衣笠、加古、古鷹、第十八戦隊の天竜、夕張、夕凪の順である。
米豪連合軍は巡洋艦七隻を主力として、サボ島の北と南に配備についていた。連合軍は日本艦隊の襲撃を全然考慮しなかったわけではあるまい、サボ島南北の両水道には本隊から離れてそれぞれ駆逐艦が警戒にあたっていたのである。
その駆逐艦が艦尾方向を通過する日本艦隊に気がつかなかったというのは、どうにも|解《げ》せない。第八艦隊では、この駆逐艦は|囮《おとり》なのかもしれないと疑いつつ、速力を一二ノットに落して艦尾方向をすり抜けたという。第八艦隊は信じられないような僥倖に恵まれていたとしかいいようがない。ガダルカナルとツラギの上陸占領が米軍が予想していたのより遥かに簡単であったので、ターナー以下が日本軍の戦備がととのっていないと判断し、いくらか緊張を欠いていたのかもしれない。
米側資料(S・E・モリソン)によれば、サボ島の南と北の水道には駆逐艦ブルーとラルフ・タルボットがそれぞれ哨戒していて、両艦には旧式のレーダーが装備されていたが、哨戒区域は島の陸地が近かったためレーダーの能力が落ちていたのと、乗組員は三十六時間以上も戦闘配備についたままであったため、極度に疲労していて日本艦隊を発見出来なかったというのである。
三川長官は旗艦鳥海から八日午後十一時二十六分、「単独指揮」を艦隊各艦に下令した。狭い海面で、しかも暗夜、八〇〇〇メートルに及ぶ長い単縦陣で高速突入しての夜戦であるから、各艦ごとに独立して艦長が戦闘指揮をとれという下令である。
「全軍突撃セヨ」が下令されたのは午後十一時三十一分であった。
先に射出された飛行機から吊光弾が投下され、その鮮やかな背景照明のうちに第八艦隊はサボ島南側の敵艦隊に雷撃砲撃を加え、多数の命中弾が認められた。
第六戦隊の|殿艦《しんがりかん》古鷹(先頭鳥海から算えて第五番艦)は、午後十一時四十四分、左舷に進出して来た敵駆逐艦を雷撃し、前続艦に続行中、火焔に包まれた敵巡洋艦が隊列に突入して来そうになったので、これを避けるため左に転舵し、以後前続艦と分離してしまい、後続の第十八戦隊の天竜と夕張の二艦が古鷹に続行する形となった。
第八艦隊はサボ島南側の敵艦隊を|屠《ほふ》って、左に変針、サボ島北側の敵に襲いかかったが、今度は鳥海以下第六戦隊(古鷹欠)は敵艦隊の東側に、古鷹以下三艦は西側に、敵を挟む形で突進した。この襲撃がまた不思議に奇襲としての効果をあげたのである。米豪軍ははじめのうちは高角砲と機銃だけで応戦したという。サボ島南側での砲雷撃戦に北側にいた米艦が警戒を深めなかったのも解せないことである。
この第二次戦闘で旗艦鳥海は海図室を吹き飛ばされ、探照灯と作戦室を損傷したが、戦果は一方的で、第八艦隊の完勝であった。
九日零時十五分ごろには、敵の目標もなくなった。戦果は、日本側が重巡二隻の損傷に過ぎなかったのに対して、米豪連合軍は重巡四隻沈没、重巡一隻・駆逐艦一隻の損傷であった。
長官三川中将は九日午前零時二十三分、全軍引揚げを下令した。
このとき、旗艦鳥海の艦長早川大佐は、艦が艦橋後部に被弾して、海図室を失い、探照灯と作戦室を損傷していたにもかかわらず、三川長官に、
「もう帰るのですか」
と反問したという。その意味は、揚陸中と思われる敵輸送船団を泊地に攻撃しないのか、ということである。
サボ島付近で海戦が行なわれている間、輸送船団は混乱した状態にあった。日本軍飛行機からの吊光弾はルンガ沖輸送船団泊地上空と、つづいてツラギ輸送船団上空に投下され、船団を鮮やかに照らし出した。船団は灯火を消し、誘導する艦もなく、荷役を中止して、泊地付近海面を右往左往していた。
三川長官は、しかし、船団を泊地に攻撃しなかった。三川中将の考えはこうである。艦隊はまず何よりも天明までに敵空母搭戦機の追撃圏外に出なければならない。あのとき敵の泊地を襲撃すれば、敵の上陸部隊や輸送船団に多大の損害を与え得たかもしれない。それは、しかし、後になっていえることである。また、後からいえば、敵の空母群は八日午後十一時にはサンクリストバル島南西端を南下中であったのだから、第八艦隊が泊地に突入してから引き揚げても、敵航空部隊の攻撃は受けずに済んだかもしれないが、それは後になって判明したことに過ぎない。
三川中将は何よりも艦隊の温存を重視したのである。
第八艦隊戦闘詳報には次の通り記されている。
「(前段略)〇一三〇頃『サボ』ノ北西ニ於テ鳥海ノ外全軍損傷皆無ノ状態ニテ集結セリ 此ノ際再度突入ヲ考慮セラレタルモ之ガ為ニ時間ヲ要シ旁々魚雷ハ殆ド消耗シアリシ事情モアリ 日出(〇四四〇)迄ニ敵母艦機ノ攻撃圏(『サボ』島ヨリ少クトモ一二〇浬)外ヘノ離脱困難(再度突入セバ日出時『サボ』島僅ニ三〇浬離脱シ得ルノミ)トナルヲ以テ其ノ儘引揚ニ決ル」
しかし、鳥海戦闘詳報の戦訓所見には次のように記されている。(戦史室『南東方面海軍作戦』(1))
一 「ツラギ」海峡夜戦ニ於テ敵艦隊ヲ撃滅シ得タル際再ビ泊地ニ進入敵輸送船団全滅スベカリシモノト認ム
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(イ) 一般ニ小成ニ安ンジ易シ
「ツラギ」海峡夜戦ニ於テ我艦隊ハ敵艦隊ヲ撃滅シタル際尚残弾ハ六割以上ヲ有シ被害亦軽微ナリキ、宜シク勇気ヲ振ヒ起シ再ビ泊地ニ進入輸送船ヲ全滅スベキモノナリト確信ス
(ロ) 同輸送船ニハ「ガダルカナル」基地ヲ強化スベキ人員資材ヲ搭載セルヤ瞭ナリ、又之ヲ全滅セル場合敵国側ニ及ボスベキ心的影響ノ大ナルベキハ察スルニ余リアル所ナリ
[#ここで字下げ終わり]
夜戦のあとで陣形が乱れ、これを整えてから再突入すれば、時間がかかって、翌朝敵機の攻撃圏外に離脱することが困難になるというのは一応の理窟だが、引揚げ下令時に鳥海、青葉、加古、衣笠が単縦陣を形成していたことは記録によって明らかだから、この四艦だけでも即座に泊地へ再突入するのであれば陣容をととのえるのに時間(二時間を要したであろうという参謀の説がある)は要らなかったし、敵側は既に無力化していたのであるから、泊地突入は、敢行しようと思えば前記四艦だけでも十分であったと思われる。
ただ、敵空母群の所在が不明で、ガダルカナルの近海にあるものという推定がなされるのは当然だし、空母群が夜戦の発生を知って日本艦隊を追及するかもしれないと予想するのも当然であった。
引揚げの理由として魚雷を殆ど消耗していたというのは、事実に反している。各艦搭載雷数のほぼ半数は残っていたはずなのである。
連合艦隊司令長官は、三川中将が引揚げを命じたことを電信で知り、ショートランドで補給の上再突入するものと考えた、という。それがそうではなくてラバウルヘ帰投したので、作戦目的を達成しなかったとして、大いに不満であった、という。
ラバウルにある陸軍の第十七軍も、三川第八艦隊長官のこの措置をいたく不満とした。
「第八艦隊甲巡五を撃沈して帰途に就けるが如し。敵空母を恐れたるか。今一息と言ふ処、遺憾至極なり。斯くてツラギ(前述の通りガダルカナルを含めての呼称──引用者)は遂に敵の蹂躪に委したるか。果して然らば之が恢復は容易に非ず。(以下略)」(二見第十七軍参謀長の日記──前掲戦史室『南太平洋陸軍作戦』(1)より)
というのである。
地域担当の陸軍である第十七軍としては、ガダルカナルの失陥は海軍が独自に行なった基地設定の失態であるから、陸兵派遣を要請してくるからには、当然地上戦闘を有利に展開するように敵の上陸阻止、輸送船団の撃滅が優先しなければならない、と言いたい気持がある。
海軍としては陸軍からそう言われても仕方がないことなのである。第八艦隊出撃の目的には確かにガダルカナル泊地襲撃があった。だが、その泊地襲撃の内容が問題である。
第八艦隊司令部は七日早朝のツラギからの急報に接すると、二十五航戦司令部と打合せを行なって、艦隊主力をもって敵輸送船団を攻撃する企図を伝え、二十五航戦に敵空母の索敵攻撃を要望している。この時点では船団攻撃の意図は明らかである。
けれども、泊地突入を決意した三川中将は、八日午前九時十分(艦隊は既に航行中)南東方面部隊指揮官(十一航艦長官のこと)、連合艦隊司令長官、軍令部総長宛てに突入決意を次のように打電している。
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「一 (敵情略)
二 主隊ハ飛行機(偵察用──引用者)収容次第(〇九三〇頃ノ予定)『ボーゲンビル』海峡ヲ南下『イサベラ』島、『ニュージョージヤ』島間ヲ高速ニ突破二〇三〇頃『|ガダルカナル《ヽヽヽヽヽヽ》』|泊地ニ殺到《ヽヽヽヽヽ》、|奇襲ヲ加ヘタル後急速避退セントス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》
三 〇八二〇敵『ロッキード』一機我ニ触接中」(傍点引用者)
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傍点部分は簡略に過ぎて、解釈は如何様にも出来る。船団撃滅が主目的なのか、敵艦隊撃滅が主目的なのか、不明である。
第八艦隊司令部は、次いで、以下のような戦闘要領を決定している。少し長いが、八艦司令部の考え方が表われているので、引用する。
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一 突入はサボ島南側から、まずルンガ沖の主敵を雷撃して左に転じ、ツラギ前方の敵を砲雷撃したのち、サボ島北方を避退する。(戦闘経過は大体右の通りになった。──引用者)
二 |突入は一航過とし《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、できる限りすみやかに敵空母から離脱する。このため突入時刻を二三三〇以前とし、翌朝日出時(〇四四〇)には、サボ島の一二〇浬圏外に離脱する。(突入時から日出時まで約五時間にサボ島の一二〇浬圏外に出るということは毎時平均二四ノットで走っていることになる。──引用者)
三 狭隘な水道における戦闘であり、かつ烏合の衆である(艦隊編成後間もないことであり、合同訓練も回転整合(速力統一のために各艦推進器の回転数を編隊航行して測定すること)も行なったことのない新編部隊であるの意──引用者)ので、混乱の防止、個艦戦闘力発揮の見地から、各艦の距離を一二〇〇米の単縦陣とする。これがため艦隊の全長が八〇〇〇米を越え、運動性を殺減するがやむをえない。|反転突入は全く考慮しない。《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》
四、五、略(前掲戦史室『海軍作戦』より。──傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
二と三の傍点部分に注目されたい。予定された夜戦は一航過戦であった。反転突入は全く考慮しないと決めていたのである。サボ島の南側から突入し、左に変針してサボ島北方へ廻り、避退することにしていたのである。八日深夜の夜戦はその通りに行なわれた。南方水道で先に輸送船団を発見すれば事態は別の展開を見せたであろうが、事実経過は、南方水道の敵艦隊を発見、これを襲い、左に変針して北方水道の敵艦隊と交戦した。その後は「反転突入は全く考慮しない」と戦闘要領を決定していたのである。
夜戦があまりに順調効果的に展開し、約一時間後には目標となる敵艦もいなくなるほどであったから、再突入が問題となったのではないか。南北両水道での艦隊同士の戦闘がもっと苦戦であれば、船団問題は後日どのように考えられたであろうか。
三川中将は八日午後二時四十二分麾下艦隊に突入に関し次のように下令している。先の戦闘要領と重複してくどいようだが、再突入論議は|得隴望蜀《とくろうぼうしよく》の感がないでもないので、下令信号を引用して麾下各艦がどのように心得ていたのであろうかを|忖度《そんたく》する材料とする。
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一 夜間索敵配備 第六戦隊(青葉、衣笠、加古、古鷹──引用者)ハ鳥海ノ後方一〇〇〇米に続行、前衛ハ鳥海ノ前方三〇〇〇米に於テ左側列天竜、夕凪、右側列夕張トシ間隔六〇〇〇米
二 突入発令前敵哨艦ト会敵ノ際、前衛ハ極力之ヲ阻止シ、主隊ハ脱退南下ス
三 突入時ノ隊形ハ単縦陣鳥海ノ第六戦隊、天竜、夕張、夕凪ノ順トシ開距離一二〇〇米(事実の通り──引用者)
四 突入ハ「サボ」島南方ヨリ先ヅ「ガダルカナル」基地前面ノ敵ヲ雷撃シタル後、取舵ニテ反転「ツラギ」前面ノ敵ヲ砲雷撃シ「サボ」島北方ヨリ避退ス、砲雷撃ノ実施要領ハ各指揮官ノ所信ニ一任ス
五、六、略(以上前掲戦史室『海軍作戦』)
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右の突入要頷下令では、各艦指揮官は夜戦の目的が泊地に輸送船団を撃滅することとは諒解していなかったはずである。
出撃前の予想では、敵は空母群を有しているはずであり、敵の海上兵力は第八艦隊よりはるかに優勢であるから、事実経過のような完勝は考えられなかったにちがいない。
八日夜の第一次ソロモン海戦(ツラギ海峡夜戦)では、大敵に対して予想外の完勝を果した。ならば、何故、右往左往していたはずの輸送船団を撃滅しなかったか、と考えるか、米艦隊撃滅の任はほぼ完全に果した、船団撃沈のために再突入に時間を費やして、敵母艦機の攻撃圏外への離脱困難という危険を冒すのは賢明でない、と考えるか。三川長官の脳裡では、艦隊温存の重要度が爾後の作戦展開の見通しに基づく冒険の選択より優先したにちがいないのである。
米側戦史によれば、三川長官が懸念した米空母部隊は、ガダルカナル付近から避退のため、九日午前一時(八艦隊全軍引揚下令の三十分後)、サンクリストバル(ソロモン諸島の南端島)の南西端沖を南下中であったが、南太平洋部隊指揮官ゴームレー中将からの避退許可が来ないので、一旦ガダルカナル方向へ引き返した。空母部隊の避退に関しては、遠征作戦打合せのとき、空母部隊指揮官であり現地作戦部隊指揮官でもあったフレッチャー中将は、上陸作戦の支援に二日以上支援距離内にとどまらないと主張し、水陸両用部隊指揮官ターナー少将は、荷役等の全揚陸作業は四日以内には終らないので、揚陸全期間の空母による支援を要請して譲らず、南太平洋部隊指揮官ゴームレー中将が会議の席に不在のため、問題は未解決のままで作戦実施となった。
フレッチャーは八日午後四時過ぎ空母部隊避退の意見具申をして、ゴームレーから回答が来ないうちに南下を開始した。米機動部隊はミッドウェーで大勝したとはいうものの、その前の珊瑚海海戦ではレキシントンを、ミッドウェーではヨークタウンを失っていたから、やはりそれ以上を失う危険を冒したくはなかったのである。
ゴームレーからの避退許可がなかなか来ないので、空母部隊はガダルカナル方向へ引き返している途中、九日午前三時、ツラギ海峡夜戦の急報に接した。このとき、日本艦隊の三川長官と鳥海の早川艦長との間にあったのと似たようなことが、フレッチャー中将とワスプ艦長シャーマン大佐との間に生じている。シャーマン艦長は、乗艦中のノイズ少将を通じて、空母群が燃料を多量に残している駆逐艦を選んで高速で取って返し、飛行機を発進させて日本艦隊を追撃しよう、と意見具申をした。
しかし、九日午前三時三十分には、フレッチャーの避退進言に対するゴームレー南太平洋部隊指揮官からの許可電が到達した。フレッチャーはガダルカナル付近での水上戦闘の経過と結果に関する新しい情報を求めようともせず、再び針路を反転して南下をはじめ、ソロモン海域から完全に離脱したのである。(モリソン『合衆国海軍作戦史』巻5)
したがって、もし、日本側では早川艦長の意見通り艦隊がサボ島をもう一まわりしてルンガ泊地に突入を敢行し、米国側ではシャーマン艦長の意見通りに空母群が高速反転して飛行機を発進させていたとしたら、戦史は全く異った展開を残したかもしれない。
三川長官が内地出発の際、軍令部総長から「無理な注文かも知れないが、日本は工業力が少いから艦を|毀《こわ》さないようにして貰いたい」と注意を受けたというが(戦史室前掲書)、それが三川長官の心理に影響を及ぼしたにしろ、及ぼさなかったにせよ、もし事実なら、不見識なことを言う総長があったものである。第一次ソロモン海戦のように味方はほとんど無傷、敵方はほとんど全滅というような一方的な海戦があるものではない。艦を毀されて困るのなら、戦争をしないがいいのである。実戦部隊指揮官に艦を毀すなと注文をつけるより、艦を毀さないで済むように戦争を避ける方向へ海軍を導くのが、最高責任者としての最も重要な仕事だったはずなのである。永野軍令部総長はちょうど反対のことをした。艦を毀すなと注文をつけながら、工業力の乏しいのを承知で、無理な開戦へ海軍を導いたことの小さからぬ責任は彼にある。(拙著『御前会議』参照)
ともかくも、第一次ソロモン海戦は第八艦隊の一方的勝利に終った。
泊地付近に右往左往していた輸送船団に一指も触れなかったことが批判の対象となったが、米側戦史によれば、夜戦で米豪連合軍は大損害を蒙り、輸送船団は九日午後には物資資材揚陸を終らぬままで泊地から避退せざるを得なかった。揚陸の済んだものは、人員の大部、糧食六十日分中の二十五日分、弾薬一〇単位中の約四単位、有刺鉄線一八巻だけであった。人員一三九〇人、重砲、レーダー、その他重装備は全く揚陸出来なかったし、師団連絡用の飛行機も巡洋艦に搭載したままで破壊され、ガダルカナル上空も偵察出来なくなっていた、という。
こう見てくると、ガダルカナル戦初動の時に日本軍が大艦隊、大航空部隊、大陸軍部隊の戦力を統合発揮して一挙に圧倒する作戦に出ることが出来れば、ガダルカナルの奪回も可能であったであろう。これから詳しく見てゆくことになるが、一挙大兵使用以外では何の望みもなかったと言ってよい。ガダルカナル奪回作戦の成功によって戦争勝敗の帰趨が逆転したであろうなどと言うつもりは微塵もない。ただ、それ以後の戦局の推移が異ったものになったではあろうし、少くとも、日本軍が戦い方の最善を尽したことにはなったであろう。
事実は、日本軍は凄絶なまでに死力は尽したが、決して戦理の最善を尽しはしなかった。何故といって、米軍は、常に、徹底的に大兵力、大火力、大物量主義をとり、日本軍はいつも後手にまわって兵力逐次投入の誤りを反復し、補給難に陥ることは目に見えていながら敢て冒し、望みなき死力を尽すことに終ったのである。
それは必ずしも国の裕福と貧困の差に帰せられるべきことではなかった。統帥の巧拙にかかわること多分であった。
時間を第八艦隊がサボ島付近の戦場から引揚げた時点に戻そう。
第八艦隊のうち、第六戦隊はカビエン回航のため、九日午前八時、ベララベラ島北方で分離し、第十八戦隊の夕張は修理のため、夕凪は燃料補給のため、ショートランドに向け分離した。鳥海と天竜はブーゲンビル島南方を通って、十日早朝ラバウルに帰投した。
問題はサボ島付近の夜戦では無傷だった第六戦隊である。ブーゲンビル水道を北上し、ニューアイルランド島東方をカビエンに向う途中、十日午前七時十分、青葉に続行していた加古が、突然魚雷二発を受けて、五分後には沈没した。襲ったのは米潜S44で、約六五〇メートルの距離から魚雷四本を発射したという。
当時、天候は晴れ、視界は約四〇キロ、海上は平穏、対潜哨戒機一機が全程を哨戒中であったが、戦隊は回避の之字運動は行なっていなかった。不運といえば不運、|合戦《かつせん》後の油断といえば油断といえよう。
11
第八艦隊の行動と時間的に前後あるいは重複することになるが、八月七日(第一日)は艦爆の片道攻撃(帰路は洋上着水)まで決意して全力を挙げてガダルカナルとツラギ泊地に対して二十五航戦は攻撃をかけたが、敵の輸送船団が無傷のまま揚陸作業をつづけていたことは、既述の通りである。
翌八日も二十五航戦は陸攻二三機、零戦一五機をもってガダルカナル泊地を強襲した。
戦果の報告は大きかった。大巡一撃沈、軽巡二火災沈没確実、軽巡一大破、駆逐艦一轟沈、輸送船九撃沈二火災。空中戦でグラマン戦闘機一、艦爆三撃墜。
日本軍は陸攻一八、零戦二(一機自爆、一機未帰還)を失った。陸攻の損害は米軍艦艇の防禦砲火によるものが多かった。(山田日記)
ところが、米側の資料によると、この日の攻撃ではそんなに戦果はあがっていないのである。米側資料が常に正しいわけではないが、この夜の第八艦隊の夜戦の状況との関係からみて、この場合は米側資料(F・O・HOUGH)の記録が真相に近いと思われる。
それによると、米軍は、前日同様日本飛行隊の来襲をブーゲンビル島の監視員によって八十分前に知り、輸送船団に警戒艦をつけて高速一斉回頭による回避運動を行なわせていたという。上空直掩機は、このときには、エンタープライズからの三機があったに過ぎなかった。二十五航戦の陸攻隊は二〇フィートという超低空飛行で雷撃を行ない駆逐艦ジャービスに一本を命中させ、被弾した陸攻一機が輸送船エリオットに体当りを敢行。ジャービスが起こした火災が夜空を明るくしていたのを、その夜ツラギ海峡に突入した第八艦隊が視認している。輸送船エリオットは八日の夜まで燃えつづけて沈没した。米側の損害はこの二隻だけなのである。
二十五航戦は七日と八日の僅か二日間の攻撃で陸攻二三機を失った。戦隊固有の攻撃力の大部分を喪失した勘定になる。
上級司令部の十一航艦は二十五航戦が連日長途を飛んで戦力を消耗してしまうことを惧れ、翌日からの攻撃目標を空母または戦艦に絞るように命令した。輸送船攻撃も実際には戦果はあがっていなかったのだが、戦果報告通りだとしても、攻撃した輸送船が揚陸を既に終った空船だとしたら、飛行機の消耗が得失相償わないと考えたからである。実際には三〇隻に及ぶ輸送船の揚陸がそんなに早く終り得るものではないはずだが、司令部はそうは計算しなかったようである。
それはこういうことであろう。船団はルンガ泊地にいる。長途を飛んでそれを攻撃しても、天候が悪くて敵を捕捉出来なかったり、対空砲火が激しかったりして、戦力消耗の割に実効のある戦果があがらないような攻撃をつづけるより、空母とか戦艦を索敵してから集中攻撃する方が得策である、という考え方である。
この考え方の底には、輸送船撃沈よりも戦艦空母を重視する古い兵術思想が沈澱していたように思われる。
二十五航戦は、七日三機、八日に五機の索敵機を飛ばしたが、敵の空母も戦艦も発見出来なかった。先にも述べたように、敵の来攻は東方または北東方からという先入主的誤判があって、索敵方向としてはガダルカナルの東方及び北東方に重点が置かれていたからである。実際には、敵空母はサンクリストバル島(ガダルカナルの南東)とレンネル島(ガダルカナルの南方)との間の海面を行動していた。もっとも、七日八日の両日とも、索敵機の一機は敵空母の行動海域の上空を飛んでいたが、発見するに至らなかった。天候不良に原因を帰するよりも、索敵機数が少いために一機の担当区域が広過ぎることに原因を求めるべきであると思われる。
飛行機による索敵では空母を発見出来なかったが、ガダルカナル島周辺に設けてあった五カ所の見張所の一つ、南西岸のハンター岬見張所では、七日午前八時三十五分、敵艦隊戦艦二、空母二、巡洋艦五、其の他一〇(輸送船を伴わず)が南方に現われ、午前十一時十分南方に去るのを目撃している。
ハンター岬と反対側にあるルンガ岬の本部との通信は、七日午前五時三十分以後絶えていたし、見張所の通信機ではラバウルに直接連絡することは不可能で、ルンガ本部か近海を行動中の潜水艦によって中継する以外に方法はなかった。
ハンター岬と潜水艦との連絡がとれたのは八月十二日午前十時のことであった。潜水艦は第七潜水戦隊の呂号第三十三潜である。
各見張所の後日の運命は不明で、おそらく餓死したものと推測せざるを得ないので、山田日記八月十二日の項を引用する。ハンター岬が敵艦隊(空母)を視認したことを即時通報出来ていれば、二十五航戦索敵攻撃はもっと有効に展開されていたかもしれないし、その後の索敵線がガダルカナル南方海域に重点を置かれたにちがいない。
「呂三三潜一二日一〇〇〇ハンター見張所長ヲ招致シ得タル情況左ノ通
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一、当見張所ハ九名ニシテ全員健在。|七日夜以後糧食ナク付近果物ヲ食シアリ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。一一日一三〇〇迄各見張所(エスペランス、タイボ、アルパ、バンカ)ト無電連絡可能ニシテ、同時刻迄ハ各所共異状ナシ(但シアルパハ七日敵七機ノ空襲ヲ受ケ短艇二隻撃沈サレタルモ人員異状ナシ)
二、ハンターハ七日〇四二五敵機ノ爆音ヲ、〇五一五砲声ヲ聞キ、〇五三〇本部トノ連絡絶エ、〇八三五敵艦隊(戦艦二空母二巡洋艦五隻ノ他一〇輸送船ナシ)南方ニ現ハレ南西ニ向ヒ、一一一〇南方ニ去ルヲ目撃セリ
三、ハンターニ於ケル敵機発見状況
七日午前爆音ノ外一五、午後七二、日本飛行機午前二四午後二〇、九日二、一〇日大艇一、一一日一(七日八日ハ全部小型飛行機、九日以後大型陸上機)
四、各見張所共本部ト連絡不能ノ為情勢ヲ案ジツツアリ
五、本艦ハ尚ハンター見張前面ニ浮上シ連絡中ニシテ所長ヲシテ無線通信ニ依リ各見張所トノ連絡方促進中ナリ
六、〇九三〇敵大型攻撃機一来襲セルモ我被害ナシ」(傍点引用者)
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傍点部分の「七日夜以後糧食ナク」というくだりは、食糧補給の日がおくれていたか、近かったことを意味するのであろう。いずれにしても、ハンター岬はガダルカナル戦の舞台となった北岸とは正反対の南岸西部である。戦況繁忙となれば忘れられる運命は免れなかったであろう。
同じく山田日記の八月十四日の項に、呂号第三十三潜水艦の十三日午後十時までの情報として、
「只今迄ニ判明セル各見張所ノ糧食飲料水ノ残額ハ最少七日最大一七日分ニシテ、衛生状況ハホーン見張所ノマラリヤ患者一名ノ外良好ナリ」とある。
単純な計算をすれば、早いところで八月二十日、遅いところでも八月三十日には食糧が切れてしまう。八月の二十日からは一木支隊の攻撃がはじまるし、それ以後陸戦、空戦、海戦相次いで、見張所への食糧輸送どころではなくなったであろう。筆者の見落しがないとすれば、のちのちまで見張所へ補給が行なわれた事実は発見出来ない。
八月九日、二十五航戦は索敵機七機を午前四時二十分発進させ、午前七時陸攻一七機、零戦一五機を敵空母または戦艦状況により航行中の輸送船を求めて出撃させた。
索敵機は、八時ごろ、ガダルカナルとツラギの沖に大巡一、軽巡または駆逐艦二、駆逐艦または掃海艇七、輸送船一九の在泊を報じ、次いで戦艦一隻の発見を報じた。空母は発見できなかった。既述の通り、空母群は九日未明までにガダルカナル海域から離脱していたのである。艦船団が揚陸未済のまま撤退したのは、この日午後のことである。
戦艦発見の報に攻撃機隊は目標に殺到して魚雷二本を命中させ、十一時半その沈没を確認した。ところが、それは戦艦でも巡洋艦でもなくて、前日八日攻撃機隊が雷撃して損傷を与え避退中の駆逐艦ジャービスなのであった。
駆逐艦を戦艦と見間違えるのは、索敵機にせよ攻撃機にせよ、識別力が、つまりは練度が一般に低下していた証拠といえる。したがって、戦果報告がいつでも過大となるのは自然であったかもしれない。
傷ついた駆逐艦ジャービスを戦艦と誤認してその撃沈を報じたのと前後して、索敵機は敵巡洋艦一、駆逐艦六が南東方向へ航行するのをツラギの南西一〇〇浬に発見、報告した。
この索敵報告を聞いて、二十五航戦司令部では判断に狂いを生じた。七日朝来偵察した敵兵力から自隊の連日の戦果といまの索敵報告による敵兵力を差引くと、八日深夜に第八艦隊がツラギ海峡夜戦でほとんど懐滅的な打撃を与えた敵艦隊の数は出て来ない勘定になる。つまり、第八艦隊が|屠《ほふ》った敵艦隊は、二十五航戦が確認した敵兵力以外の別働部隊であるにちがいない、と判断したのである。
山田二十五航戦司令官はその旨を上級司令部に報告し、十日、次のような総合戦果を報告した。
「当部隊七日ヨリ一〇日迄ノソロモン海戦戦果並ニ被害左ノ通
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一、戦果、英甲巡一隻轟沈、ウイチタ型(旗艦旗掲揚)一隻撃沈、英甲巡一隻大破傾斜火災、アキリーズ型(実は駆逐艦ジャービス。はじめ戦艦と間違え、次いでアキリーズ型巡洋艦に訂正した。──引用者)一隻撃沈、軽巡二隻撃沈、駆逐艦三隻撃沈一隻大破、商船一〇隻撃沈一隻大破、計撃沈二一隻。撃墜G戦闘機四五機(内八機不確実)、BSC八機、中型機一機、計五八機。
二、被害(ツラギ兵力ヲ含マズ)自爆(未帰還ヲ含ム)零戦四機、一式陸攻二四機、艦爆六機、大破零戦一機、陸攻三機、艦爆三機計四一機」(山田日記)
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実際には、既述の通り、二十五航戦が七日朝以来長駆しての果敢な攻撃にもかかわらず、僅かに輸送船及び駆逐艦各一隻を撃沈し得たに過ぎなかったのである。
戦果は出撃各機の報告を基礎として算出されるから、搭乗員のよほど冷静かつ練達した観察と判断がなければ、報告が実数より過大となるのは避けられないことであるかもしれなかった。
翌十日も二十五航戦は全力をあげてガダルカナル海域へ出撃したが、既述のように敵艦船は前日午後から同海面から撤退してしまっていた。
山田日記はこう誌している。
陸攻二一機零戦一五機ガダルカナル泊地敵艦攻撃ニ向ヒタルモ敵ヲ見ズ。ツラギノ南東一〇浬ニ沈没ニ瀕セル炎上中ノ大型商船一隻及ツラギ、ガダルカナル各舟艇(内火艇)約二〇隻ヲ認メ、ツラギヨリ高角砲ノ射撃ヲ受ク。当時高(度)七〇〇〇米陸攻一機被弾、零戦三機ハガダルカナル低空(一〇〇米)ニテ偵察、敵味方不明ノ人員約三〇〇名ヲ我飛行場内ニ認ム。密林中ヨリ七・七ミリ機銃射撃ヲ受ケ零戦一機被弾。(以下略)
十一航艦司令長官塚原中将は、右の報告を受けて、二十五航戦の攻撃を敵のいなくなったガダルカナルからニューギニアのラビ攻撃に切り替える命令を出した。
陸海空の作戦に間然するところがなければ、敵が撤退した数日間こそ本格的奪回作戦にはまたとない好機だったはずだが、日本軍にはその着意も準備もなかった。
12
陸兵派遣に関する海軍の要請に基づいて一木支隊のガダルカナル投入が決定されたのは八月九日である。七日以来八日九日と大本営陸海軍部の連絡研究は連日行なわれ、ソロモン方面に指向する陸軍兵力は一木支隊の外に歩兵第四十一連隊か、または歩兵第三十五旅団が予定された。八日の段階では、四十一連隊にするか、第三十五旅団にするか未定であったが、事実経過の示す通り、後には三十五旅団がガダルカナルに投入されることになる。
大本営はガダルカナル作戦が孕んでいる問題の深刻さを予見する能力に欠けていたから、ガダルカナルヘ陸兵を派遣するのと同時並行的にポートモレスビー作戦を既定計画通りに遂行することに、何のためらいも覚えなかった。したがって、十日の航空偵察でガダルカナルに敵艦隊がいなくなったとわかると、その虚に乗じて反撃奪回の手を打つのではなくて、ソロモン方面航空攻撃のためにラエ(ニューギニア)からラバウルに移動させていた戦闘機隊をまたラエに復帰させ、先に横山先遣隊をニューギニアのオーエン・スタンレー山系へ突入させている南海支隊のブナ上陸を強行するように陸海で申合せた。
乏しい兵力機材で敢えて二正面作戦をやろうというのである。
もっとも、九日までの情報を検討した結果、ガダルカナルに来攻上陸した敵兵力は一個師団位あるかもしれぬと判断されるようになり、陸軍中央にも一木支隊程度の小兵力投入に危惧の念を抱く意見を生じた(たとえば陸軍省西浦軍事課長)が、統帥部一般には敵の戦意と戦力を下算する傾向が強くて、臆病と思われるのが厭なのか、慎重な再検討は行なわれなかった。
陸兵派遣を要請した連合艦隊でも、投入兵力の過少に対する不安があったが、陸軍部からの説明では一木支隊は精兵揃いであるから心配はないということであった。
ガダルカナル揚陸敵兵約一個師団という判断がほぼ形成されていて、そこへ約二〇〇〇の一木支隊を投入して心配はないという根拠が「精兵揃い」ということで、なんらかの答えになり得ているのか。敵の海兵師団が「精兵」でないという証拠を大本営は持ってはいなかったのである。
七日・八日・九日の二十五航戦の誇大戦果報告と九日未明(八日深夜)の第八艦隊の奇蹟的戦果は、喜ぶべき戦果にはそぐわない現象を生じた。大本営では、戦果報告に惑わされたこともあって、米艦隊がガダルカナル近海から姿を消したことを、敵が海空にわたる痛打を蒙って敗退したのではないか、という希望的判断を下したことである。
八月十日以降三日間の飛行機、潜水艦、駆逐艦による偵察の結果を綜合すると、大本営の希望的観測も正当であるかのようにみえる。つまり、ガダルカナル海域に敵艦船は影もなく、敵飛行機も後方基地から飛来するB17の日施哨戒が視認されるだけであって、日本軍艦船の行動は安全である。敵上陸部隊の兵力は不明だが、ツラギとガダルカナルのルンガ岬以外には進出していない。
日本艦船の行動が安全な期間こそ、日本は大兵を使用して一挙に奪回し、補給確保の途を図るべきであったが、楽観が先行して実効ある行動は伴わなかった。
八月十二日に二十五航戦が陸攻三機で行なった爆撃兼偵察に同乗した第八根拠地隊(ラバウル)の先任参謀は、次のような趣旨の報告をした。
ガダルカナル飛行場付近には若干の敵兵があるが、その動作は萎縮していて元気がない。海岸付近の舟艇は盛んに運航しているが、敵の主力は既に撤退したか、撤退しようとしているかに見える。残存敵兵や舟艇は取り残されたもののようである、というのであった。
敵が何故萎縮して見えたかについては、亀井宏『望郷の島』(雑誌『丸』連載)に、右の偵察を行なった元参謀に同書の著者が照会したことに対する回答が記載されている。私信なので引用は避けなければならないが、大略次のようなことであったらしい。
ガダルカナルの見張所員宛ての報告球を投下するためにきわめて低空飛行をしたが、高射砲の砲撃を受けるでもなく、敵機が飛び立って来るでもなく、往来している舟艇からも何の反撃も受けなかったからである、と。
大輸送船団が揚陸未済のまま九日午後には撤退したから、このころガダルカナルの上陸米軍がある程度の耐乏を強いられていたことは事実だが、せっかく上陸した主力が撤退したりしたのではなかった。米軍状況の一例をあげると、八月十二日ゴームレー中将は、利用出来る限りの輸送駆逐艦(古くなった駆逐艦を改装して高速輸送船に仕立てた船)に航空ガソリン、潤滑油、爆弾、爆薬、地上整備員を乗せて、エスピリサント(ガダルカナルの南東、経度にして約七度、南緯にして約五度離れている)からガダルカナルに運ぶよう第六三特別編成部隊指揮官マッケーン少将に命じている。この輸送艦隊は昼間は日本航空機の攻撃を避けるために、適時エスピリサントを出発して夜になってガダルカナルに着き、翌早朝ガダルカナルを出発し、第六三隊の飛行機が掩護に当った。(米公刊戦史『ガダルカナル作戦』──ジョン・ミラー)。
米軍も作戦初期の暫くの間、のちに日本側が「鼠輸送」または「東京急行」と呼ばれるようになった駆逐艦輸送を行なわねばならなかったのと同じように、駆逐艦輸送を行なっていたのである。
先の偵察報告は第八艦隊と十一航艦を経由して連合艦隊にも大本営にも報告された。根拠地隊の先任参謀自身が行なった飛行偵察であるから、それなりの重みをもって評価されるのは当然であった。
右の報告は、十三日に永野軍令部総長が行なった次のような上奏の要旨にそっくり移植されている。
ガダルカナルに上陸した敵はその兵力未詳であるが、行動は活溌でない。七日八日我方の攻撃によって受けた甚大な損害と、十日には既に全艦船が引揚げている状況に|鑑《かんが》み、陸上残存兵力の戦力は大きくないものと判断している、というのである。
同じ十三日、杉山参謀総長は前日陸海軍で協定した作戦要領を上奏した。
「(前段略)
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一 ポートモレスビー作戦ハ既定計画ニ基キマシテ速ニ之ヲ遂行致シマス
二 ソロモン群島方面ニ対シマシテハ速ニ出発シ得ル第十七軍ノ一部ヲシテ海軍ト協同致シガダルカナル島所在ノ敵ヲ撃滅シテ同島ノ要地特ニ飛行場ヲ奪回致シ又努メテ速ニツラギヲ攻略奪回致シマス
三 (前段略)
ソロモン群島要地奪回ノ為ニ使用スル陸軍兵力ハ一ツニ敵情ニ依リマシテ第十七軍司令長官カ決定スルコトトナルノテ御座イマスカ一応考慮セラレマス部隊ハ一木支隊(歩兵一大隊強基幹)、歩兵第三十五旅団(歩兵三大隊)、青葉支隊(歩兵三大隊基幹)等テ御座イマス、然シテ一木支隊ハ既ニ昨夕トラックニ到着致シテ居リマスノテ若シ残存シテ居ル敵力微弱テアリマシテ一木支隊ト海軍陸戦隊ノミテ奪回ヲ企図シ得ル様ナ状況テアリマスレハ十五日頃ニハトラックヲ出発シ二十二、三日頃ガダルカナル島ニ上陸シ得ル様ニナルト存シマス、然シ若シ有力ナル敵カソロモン群島ヲ確保シテ居ル場合ニハ歩兵第三十五旅団ヲモ使用スルヲ要シマスル関係上作戦開始ハ二十五日頃トナリガダルカナル上陸ハ今月末又ハ来月初メニナルカト存シマス(以下略)」
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これでソロモン諸島奪回作戦は陸海軍協同の方針として上奏裁可され、確定したのである。
右の陸海両総長の上奏に既に窺えることだが、情況把握が甘くて、敵の戦力を下算しており、用兵が緩慢である。簡略化すれば、こうである。敵は既に敗退して、残存兵力は微弱であると思われる。だから一木支隊と海軍陸戦隊だけで奪回出来るだろう。もし有力な敵がいれば、歩三十五旅団(のちの川口支隊)をさし向けよう、というのである。兵力の逐次投入はしてはならないという兵法禁忌は、最初から犯されている。つまり、敵を知らず、己れを知らず、大敵を無謀にも侮っていたのである。
13
杉山総長の上奏にあるように「ソロモン群島要地奪回ノ為ニ使用スル陸軍兵力ハ一ツニ敵情ニ依リマシテ第十七軍司令長官カ決定スルコトトナル……」ので、第十七軍司令部では八月十二、十三日の両日にわたって一木支隊のガダルカナル派遣についての検討を行なった。
二見参謀長の見解は、敵は遠からずガダルカナル飛行場を利用するであろうから、海軍の掩護が十分でないときに一木支隊のような小兵力を派遣しても価値はないであろう。むしろモレスビー攻略作戦を強行し、八月下旬スタンレー山系以南に進出(オーエン・スタンレー山系の頂上を越えてモレスビー側の南麓に進出することを意味する)して、敵の航空勢力を牽制し、この間に川口支隊(第三十五旅団)と一木支隊を併せて、空母二隻の間接掩護によってガダルカナルを奪回する策をとる方がよい、海軍に対する徳義と先制的積極性からすれば、即時陸兵派遣をしたい気持だが、一木支隊の先遣は不安である、というのであった。
これに対して軍参謀たち(松本、越次、大曾根参謀)の意見は、次のように即時派遣であった。
敵がガダルカナル飛行場に飛行機をまだ進出させていないのは確実である。一刻も早く一部兵力を先遣して敵の飛行場使用を封殺するか、少くとも飛行機の使用に対し地上からの攻撃によって不安を感ぜしめることが必要である。時機を遷延して、敵が地上兵力を増加し、飛行隊をして確固たる地歩を得させれば、爾後のガダルカナル上陸は極めて困難に陥るであろう。目下ガダルカナル島ルンガ付近以外には敵はなく、タイボ岬付近の上陸は可能だが、敵の地上兵力が増加して逐次海岸を固める|虞《おそ》れがある。
一木支隊が各個に撃破される危険については、目下敵は八日の海戦の打撃により陸兵を撤退しあらざるかの懸念さえもあり、という海軍の情報もあるくらいだから、地上兵力は必ずしも大きくないと考えられ、さらに川口支隊も一木支隊の十日後には上陸する予定であるから、やむを得ない場合でもガダルカナルの一角を占拠して持久を策することは困難でないと判断される。要するに、軍は、一を以て戦機を捕捉し、一は以て海軍非常の場合にこれを救援すべき徳義上の見地から、速かに一木支隊の派遣を必要とする。(戦史室前掲書『陸軍作戦』)
参謀たちの右の見解は、もし希望的楽観的観測と敵戦力に対する下算に基づいているのでなければ、一応筋は通っていた。
二見参謀長は、十二日までの時点ではガダルカナル奪回を安易と考えていなかった。敵兵力を七〇〇〇乃至八〇〇〇と推測し(それでも実際より少かったのだが)部下参謀たちの強硬論には納得しなかった。そこで彼は、十三日、十一航艦参謀長酒巻少将を訪れて、意見を質した。
酒巻少将の意見は次の通りであった。(戦史室前掲書)
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1、敵は巡洋艦の大部が潰滅したので爾後の増援補給は困難である。敵戦闘機の陸上からの飛来は不可能である。空母によって来攻するのは危険な仕事である。
2、敵が毎朝飛行機偵察を実施しているのは不思議である。ガダルカナル島を占拠しているなら無線報告があるはずだが、目下無線使用の模様はない。
ガダルカナルにはあまり大きな兵力はないのではないか。あるいは土人部隊を残して、白人は大部分引揚げたのではないか。
3、敵は我が飛行場の完成の近いのを狙って来襲したが、既完成の滑走路は八〇〇米で大型機使用のためには尚四〇〇米不足である。
4、敵の戦闘機が陸上機なら島を見なければ飛べない。艦載機を使うには、空母の速度を一六ノットと見ても、全く一日間我が哨戒圏内に在ることになるから、之を捕捉撃滅することは容易である。
5、大型機は戦闘機がガダルカナルに進出した後でなければ、空輸しないものと判断する。しかもガダルカナル飛行場はまだ整備に着手していない。
6、敵航空攻撃の心配は一木支隊の派遣が早ければ早いだけ少くなる。またガダルカナルの敵地上部隊は活気に乏しい。その兵力は七、八〇〇〇以下と判断される。
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酒巻十一航艦参謀長の意見を聞いて、十七軍参謀長二見少将も強気になったようである。
そこへ、大本営から次のような意図を通報してきた。
「カ」号作戦(ガダルカナル作戦の略号──引用者)ノ規模ハ一ツニ敵情ニ依リ第十七軍司令官ニ於テ決定セラルヘキモノトシ、中央トシテハ要スレハ第三十五旅団及青葉支隊ヲモ使用シ得ル如ク配船ヲ考慮シアルモ、現情ニ於テハ寧ロ戦機ヲ重視シ得レハ一木支隊ト海軍陸戦隊ノミヲ以テ速ニ奪回スルヲ可トセサルヤト考ヘアリ。
右依命。
この参謀次長からの依命電を見れば、大本営陸軍部がどのように状況判断をしていたかが|瞭《あき》らかである。
二見参謀長のような慎重派は常に少数派であったとみえる。出先から中央に至るまで都合のよい状況判断が支配的であった。はじめは偵察上陸の程度と看做し、次には一個師団ぐらいあるらしいと驚き、やがて、戦果の決定的確認も出来ないままに敵は敗退したであろうと希望的観測を下し、残存兵力は萎縮しているから一木支隊と陸戦隊だけで早く奪回出来るだろうと考える。大兵を一挙投入して勝利を確実にする兵法の正道は埒外に置かれている。
八月十三日午前十時三十分、十七軍司令部では参謀長以下一木支隊先遣に決定し、参謀長同様に懸念していた第十七軍司令官百武中将もこれに同意した。
八月十四日、大本営はそれまでの「総合戦果」を発表した。それによれば、甲巡九隻、乙巡四隻、駆逐艦九隻、潜水艦三隻、輸送船一〇隻の撃沈となっていた。これは二十五航戦と八艦隊の戦果報告を合計したもので、事実との差異は無視されていた。
連合艦隊の宇垣参謀長は、第一ソロモン海戦までの戦果報告をみて、日記『戦藻録』に記している。
「以上両者(二十五航戦と八艦隊の戦果──引用者)を合すれば艦艇は全部輸送船は半数撃破し得て|大勢を決したる如き観《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を催す。
(中略)
珊瑚海海戦ミッドウェー海戦を以て極上の勝利と見做しつけ上れる英米茲に顔色なかるべし。」(八月九日。傍点引用者)
「……敵の奴昨夜の攻撃に依り到底居たたまらず、昨日の内に総退却を為せるか。水上艦艇特に巡洋艦は大部を葬り得たるも、駆逐艦の半数、輸送船の三分の二は之を逸したり遺憾なり。
而も潜水艦も飛行機も陸上の情況を皆目調査報告せず、我作戦の重要資料たるに気附かず。(以下略)」(八月十日)
戦果報告の鵜呑みは怖ろしい。ガダルカナルとツラギの上陸占領を目的として来攻した米軍は、上陸作戦そのものから言えば、既述の通り、輸送船一隻を失ったに過ぎなかった。九日午後までに全艦船を撤退させたのは、甲巡四隻、駆逐艦一隻、輸送船一隻の犠牲と既述の揚陸未済物資を残しはしたものの、日本軍の推測をはるかに上廻る陸戦兵力を揚陸し、作戦目的をほぼ達成したからである。
宇垣連合艦隊参謀長が書いている「大勢を決したる如き観」というのは過早な楽観の典型であった。
ツラギ海峡夜戦の惨敗をもって米軍は敗退したのではないかという希望的観測が、東京中央から出先に至るまでひろがろうとしているとき、さらに日本軍の誤判を促進する情報が仕組まれたかのように入って来た。八月十五日ごろ駐ソ武官から大本営に届いたと謂われる情報電報である。
それによると、「米軍のガダルカナル島方面作戦の目的は日本軍の飛行基地破壊であって、この目的を達成した米軍は目下日本海空軍の勢力下にある同島よりの脱出に腐心している」というのである。(戦史室前掲書『陸軍作戦』(1))
右書によれば、当事者と目される人は記憶がないということであるが、右のような情報電報がなんらかの経路を経て入ったことは事実である。
この情報は現地部隊に通報され、ガダルカナルに向う(後述)一木支隊にも届いている。
また、この情報に基づいてのこととしか考えられないが、十六日、「ソロモンの敵は撤退に決したる一部長情報あり」と宇垣連合艦隊参謀長の日記にある。一部長とは海軍部第一部長のことである。確認出来もしないことを通報するとは軽率としかいいようがないが、希望的判断に陥りやすい軍人の気質を端的に表わしている。
未確認情報でも希望的色彩の濃いものは、|屡々《しばしば》根拠のない楽観を形成して、現実的処理を誤らせる毒性を含むことがある。ガダルカナルヘ向う一木支隊は、まさに、誤判の路線上を猪突猛進しようとしていたのである。
14
ガダルカナル飛行場奪回に派遣される部隊は、一木支隊約二〇〇〇と横須賀鎮守府第五特別陸戦隊(以下横五特と略称)の六一六名である。
一木支隊の編成については前に述べた。横五特もミッドウェー攻略作戦用の兵力であったが、一木支隊同様グァムに引き返していた。ガダルカナル方面に米軍の反攻がはじまった八月七日、第八艦隊に編入され、その一部高橋中隊(長・高橋大尉以下一一三名)だけは八月十二日ラバウルに進出していた。
グァム島へ引き返した一木支隊は、さらに南下して、八月十二日トラック島へ入った。
百武十七軍司令官は一木支隊をラバウルに呼んで確実に掌握した上で戦地へ送りたかったが、敵機や敵潜の哨戒圈をなるべく避ける方がよいという海軍側の意見に従って、一木支隊をトラックからガダルカナルヘ直行させることにした。
一木支隊はグァム島を出たとき以来トラック島でも「ぼすとん」丸と大福丸の二隻の輸送船に乗っていたが、これらの輸送船は最高速度を出しても僅かに九・五ノットという低速であったから、敵航空兵力の配備に先んじて飛行場を奪取しようとする作戦目的には全く不適当であった。そこで、数日前まで兵力寡少を憂えられた一木支隊を、さらに二つの梯団に分けて、第一梯団約九〇〇名を駆逐艦六隻に分乗させて、ガダルカナルヘ高速輸送することになった。
この段階では、早くも、先に二見第十七軍参謀長が小兵力投入の無意味を懸念したことなど忘れ去られたかのように、第十七軍では一木支隊の第一梯団だけで飛行場を奪取出来るという希望的判断に立っていたのである。
繰り返しになるが、はじめは米軍の上陸を偵察上陸の程度と考え、次いで一個師団ぐらいあるかもしれぬと計算し、またもや楽観に戻って、敵は敗退して残存兵力は微弱であると誤判し、米軍が実は一万一〇〇〇名の兵力を擁して全周砲撃可能な放列を|布《し》いている陣地へ、一木支隊第一梯団約九〇〇名を突入させようというのである。
兵力投入は早い方がいいからというので駆逐艦輸送の策が採られたが、投入の机上決定(十三日)まで五日経ち、実際に投入が行なわれる(後述)までに十日も経っている。
駆逐艦輸送はその後も再々行なわれるが、駆逐艦には高速の利点はあっても、本来輸送用には出来ていないから、重火器等の重装備を輸送揚陸することが出来ない。軽装の一木支隊第一梯団はともかくとして、その後数次にわたる増援に、日本軍は、速度を重んずれば重装備を犠牲にせねばならず、したがって戦力著しく低下して増援の目的を果せず、重装備を輸送すれば低速船団が敵航空機の攻撃圏内を長時間航行して、目的地にさえ到達し得ないというもどかしい悲劇を繰り返すことになる。
駆逐艦輸送には上陸方法に問題があった。艦自体を接岸は出来ないから、接岸上陸用の舟艇が必要であったが、大発動艇(以下大発と略称)を艦に搭載して行って上陸地点沖で泛水することや、遠路大発を曳航して行くことは、困難というより不可能であった。海軍側はソロモン諸島に沿って大発を先行させ、上陸点付近で駆逐艦と会合させる方法を提案したが、適時適所での会合を保証する何物もなかった。
一木支隊はミッドウェー上陸作戦用の折畳舟を約四〇隻持っていた。珊瑚礁内を手漕ぎで渡る目的の舟艇である。手漕ぎは、しかし、速度が遅いばかりでなく、耐波性が乏しくて、不適当であった。窮余の策として、折畳舟三隻をつなぎ合せて、それを艦載の内火艇で曳航する実験が行なわれ、上陸はその方法に依ることに決った。
上陸地点はガダルカナル島北岸中央よりやや東寄りのタイボ岬付近。
一木支隊第一梯団のタイボ岬上陸は八月十八日夜と決定した。
一木支隊の投入が決定されたころ、ガダルカナルでは、ジャングルヘ逃げ込んだ者は別として、行動を共にしていた設営隊員と警備隊員は、ルンガ川の西方約八キロのマタニカウ川左岸に避退していたが、第十七軍司令部にも第八艦隊司令部にも判明していなかった。
一木支隊の上陸地点をタイボ岬付近としたのは、ルンガ川に近い飛行場を西方から攻撃することは地形が錯雑していて困難であるのに較べて、東方タイボ岬付近はトラック島から直行する場合には進入しやすいのと、東方は地形が比較的平坦であると考えられ、かつ、敵陣地の背後を衝くことが出来ると推測されていたからである。
地形はともかくとして、敵陣の背後を衝くという予想はたいへんな誤りであった。一木支隊は、後述する次第で、敵が守りを固めている陣地正面に衝突することになるのである。
一木支隊第一梯団は、前述の通り駆逐艦で、第二梯団と横五特陸戦隊(高橋中隊欠)は船団輸送でガダルカナルヘ行くことになった。
第二梯団の方は「ぼすとん」丸と大福丸で行き、途中でグァム島を十三日に出発している横五特と合流、第一梯団より四日遅れて八月二十二日夜にタイボ岬に上陸する予定であった。
一木支隊をガダルカナルまで直接護衛するのは、田中頼三少将を司令官とする第二水雷戦隊(第二艦隊麾下・以下二水戦と略称)である。
二水戦は八月十一日横須賀を出発し、十四日第八艦隊の指揮下に入ってガダルカナル増援部隊となり、十五日トラック島に入泊したが、その時点では、固有の駆逐艦の大部は他方面に転用されていて、トラック入泊は旗艦神通(軽巡)と駆逐艦陽炎の二隻だけしかなかった。それで、一木支隊はグァムからトラックヘ護衛して来た第四駆逐隊(第三艦隊麾下──嵐、萩風の二駆逐艦)と、第十七駆逐隊(第八艦隊麾下──谷風、浦風、浜風の三駆逐艦)及び哨戒艇四隻が二水戦に増加された。つまり旗艦神通の他駆逐艦六隻、哨戒艇四隻となったのである。
田中司令官の護衛計画は、六隻の駆逐艦で一木支隊第一梯団を急送し、第一梯団が上陸したら、第十七駆逐隊はラバウル(第八艦隊)に帰投し、第四駆逐隊の二駆逐艦と陽炎は現地に残留警戒に当り、その間に田中司令官が旗艦神通と哨戒艇を直率して輸送船団を護衛、ガダルカナル島タイボ岬に向う、というのであった。
二水戦はあわただしかったようである。俗悪な譬えが許されれば、泥棒を見て縄を|綯《な》うの観がある。戦史室前掲『南太平洋陸軍作戦(1)』に田中頼三少将の回想録が引用されているが、いかにもあわただしい情景が如実に表われているので、敢えて孫引する。
「八月十五日『神通』、『陽炎』を率い無事トラックに入泊した。直ちに補給を開始すると同時に、待ちかまえていた第八艦隊及び第十七軍から派遣された参謀が乗艦、重要艦隊命令を手渡した。通読して驚いた。(中略)出撃は既に明朝に迫っている。寸刻の余裕もない。|作戦の中でも特に周到綿密を要する上陸護衛作戦に於て《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|事前研究も打合協議も実施する余裕もなく《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|指揮官として指揮掌握すべき艦艇の性能も訓練の程度も《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|その艦艇長の姓名さえも知らぬ艦艇を加えられ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、果たして最も複雑な作戦を完遂し得るか、甚だ不安である。
しかし既に矢は弦を放れている。一刻の猶予も許されない。直ちに各艦艇長以上及び一木支隊長以下陸軍幹部を旗艦に招集、作戦計画及び陸海軍協定を行なった。既に夜に入っている。協定の進むにつれ、信号命令により陸兵の分乗を実施すると共に、司令部員を総動員して徹宵、命令作製に従事、|読み合せをする暇もなく直ちに配付《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、兎に角十六日五時出港ぎりぎりに間に合せた。」(傍点引用者)
一木支隊第一梯団は既述の通り極端なまでの軽装で、次の通りの兵力編組を行なった。
支隊本部、一六三名。大隊本部 二三名。第一〜第四中隊 各一〇五名。機関銃中隊(機関銃八)一一〇名。大隊砲小隊(歩兵砲二)五〇名。工兵中隊 一五〇名。合計九一六名。
歩兵の携帯弾薬各自一五〇発、糧食七日分、徹頭徹尾銃剣突撃主義である。敵に水陸両用戦車があることは、このころまでの偵察で判明していたが、第一梯団には折畳舟以外の上陸用舟艇がないので、対戦車火器の速射砲中隊を編組の中に入れていないのである。
こうして、一木支隊第一梯団は六隻の駆逐艦に分乗、八月十六日午前五時、第二梯団の輸送船団と前後してトラックを出港した。
駆逐艦は二二ノット、船団は八・五ノットだから、第一梯団は忽ち後続部隊の視界から消えた。
これより先、その前日、十五日十二時、第八艦隊は、十二日にラバウルに進出して来た横五特の高橋中隊一一三名を駆逐艦追風でガダルカナルヘ連絡隊として出発させた。高橋中隊は、十六日夜、ガダルカナル島タサファロング(ルンガ岬西方約一七キロ)付近に上陸し、直ちに東進を開始、十七日夕刻設営隊主力と合流した。これがガダルカナルヘの最初の増援部隊である。
そのころ、米軍がガダルカナル撤退に決したという大本営海軍部第一部長からの虚報に接した第八艦隊では、高橋中隊の増加を得たガダルカナル守備隊が、十八日上陸することになっている一木支隊第一梯団と呼応すれば、浮き足立った米軍が占拠している飛行場の奪回は困難ではない、と楽観的見通しを立てていた。
孤立無援の十日間を過ごした守備隊(設営隊を含む)は、高橋中隊との合同によって、一木支隊が一両日中に上陸して飛行場を奪回することを知り、蘇生の思いであった。
一方低速の第二梯団船団は、十八日昼ごろ、横五特(高橋中隊欠)を乗せてグァムから出発した金竜丸と、それを護衛した第二十四駆逐隊(海風、江風、涼風。十七日二水戦に増加発令)及び哨戒艇二隻と洋上合流した。
(地図省略)
15
一木支隊長・一木清直大佐は実兵指揮に練達した武人とされていた。彼は陸軍歩兵学校の教官を数次にわたって勤めたことがあり、蘆溝橋事件当夜(昭和十二年七月七日。一九三七年)の現地軍大隊長でもあった。彼は「帝国陸軍」伝統の──というよりは伝説化している──白兵による夜襲を得意の戦法としていた。白兵の突入をもってすれば米軍撃破は簡単であると信じていた。
日本陸軍が白兵戦を重視したのは、厖大な重装備と火力重点主義には莫大な経費がかかるが、白兵主義は素材は人間であるから相対的に費用が少くてすむからにほかならなかった。兵隊ははがき一枚でいくらでも集めることが出来る。粗衣粗食をあてがってきびしい軍律の中に拘束することが出来る。国のためにいくら殺してもかまわない。この人命軽視の戦法が長い間通用してきたのである。火力の貧弱を白兵の「威力」をもって補う。それで事足りた相手と戦って戦勝を収めてきた歴史に、軍みずからが酔ってしまって、世界のどの敵に対しても白兵が勝利を保証する最も有効な日本軍独特の戦法であるかのような伝説を、みずからこしらえてしまったのである。
一木大佐はその戦法にかけては出色の人物であったにちがいない。それだからこそ、洋上遥かミッドウェー敵前上陸作戦の実戦部隊指揮官に選ばれたのにちがいないし、その作戦が取り止めになって内地帰還の途中、ガダルカナル島飛行場奪回の地上戦闘指揮官にまた任ぜられたのにちがいない。
彼は「ミッドウェーを取るべく郷土を出陣して来たが、作戦が中止となり、このままおめおめ帰れぬと思っていたところである」と、ガダルカナル出陣に喜び勇んでいたという。
彼は自信満々としていた。彼が指揮する精鋭部隊の白兵突入によって奪取出来ないような米軍陣地などないと信じていた。その自信のほどは、彼が出撃に際して第十七軍参謀に、
「ツラギもうちの部隊で取ってよいか」
と尋ねたことに最もよく表われている。白刃一閃ガダルカナルを攻略し、直ちにツラギ海峡を押し渡ってツラギの米兵を一刀両断にしようというのである。
陸軍は最も帝国陸軍軍人らしい軍人を指揮官に選んだといえるし、戦慄すべき時代錯誤を一木大佐自身も、第十七軍も、大本営も犯したのである。
一木大佐流の銃剣突撃至上主義が昭和十七年八月という時点で、つまり、大戦開始まだ八カ月という時点で、決戦手段として疑われないというのは驚くべきことと言わねばならない。ちょうど三年前、ノモンハン事件で、熾烈な火力に対しては、旺盛な敢闘精神も肉弾突撃も所詮は|蟷螂《とうろう》の斧でしかないという悲劇的な経験が、日本軍指導層の骨身にしみていなければならないはずであった。
日本軍指導層は、しかし、敗北の経験に学ぶことをせず、敗北の事実を隠すことにのみ真剣であった。その結果、日本軍は自分に都合のよい推測によって敵を評価するという悪癖を、いつまでも|匡正《きようせい》し得なかったのである。
前記の駐ソ武官情報がいつ一木支隊長に伝わったかは不明だが、一木支隊長は、海上で、それまでの各種情報を綜合して、ガダルカナルの敵兵力は凡そ二〇〇〇で、戦意は旺盛でない、目下退避しつつあるものと判断した。
二〇〇〇という敵兵力推定の根拠も明らかでない。関連した記録として戦史室前掲書は、田中陸軍作戦部長日記の「ガ島上陸の敵は約二千にして戦意旺盛ならずと現地より報告あり」という記述と、第八艦隊か十一航艦からの八月十八日の報告と推測される「ガ島基地通信隊及第八根拠地隊よりの報告を綜合すると敵は高射砲、戦車若干及機関銃多数を有し、内約二〇〇〇は飛行場西側附近にあり」という記録を記載している。
これらの記録が一木支隊長に伝わったか否か、伝わるだけの時間があったか否か、明らかでない。いずれにしても、一木支隊長にせよ、情報記録者にせよ、二〇〇〇という数字が日本軍側の希望的推定値であったであろう。
もし二〇〇〇なら、一木支隊を出撃させても、投入兵力が少な過ぎないかという不安感はなくなるであろう。一木支隊も約二〇〇〇、内約九〇〇の第一梯団がとりあえず駈けつけるのである。
八月十七日午前七時三十分ごろ、一木支隊第一梯団を乗せた駆逐艦隊は赤道を通過した。艦隊は一路ガダルカナルヘ向っている。接触する敵機もなく、平穏であった。幸先よいかのようである。精強の誉れ高い、だが実戦経験のない兵隊たちは甲板で碁や将棋に興じていた。
時間が多少前後するが、横五特の高橋中隊が派遣される以前の在ガ島守備隊(設営隊員をも含む)は、八日─九日のツラギ海峡夜戦を望見して、友軍の来援を信じていた。
九日以後、第十一設営隊長門前大佐が指揮官、第十三設の岡村少佐が副指揮官となっていたが、兵力は定かでない。警備隊員約一〇〇名、設営隊員三二八名、計四二八名、他に設営隊員約一〇〇〇がジャングル中にあって、連絡もとれなかったらしい。この記録もどれだけ確実性があるかは判然しない。警備隊員が「約」一〇〇名で、設営隊員が端数まで明らかなのも納得しがたいが、いずれにしても、かなりの数の人員が四散したのであろうことは想像される。
在ガ島守備隊と米軍との間には、一木支隊第一梯団の上陸まで、小ぜり合いが行なわれていたが、その情況はラバウルには判明していなかった。
呂号第三十三潜からの報告によってガダルカナルの各見張所がまだ健在であることがわかったのは、八月十四日である。
潜水艦からの報告や、既述の第八根拠地隊参謀による飛行偵察の報告などから判断して、第八艦隊は十四日に「ルンガ岬東方において彼我陸戦隊交戦中にして第十三潜水隊は救援に向いつつあり」と報告した。
だが、ルンガ岬東方で、という状況把握は納得しかねる。門前大佐を指揮官とする守備隊が西から東へ、ルンガ方向へ行動を起こした(九日)ことは事実だが、敵に発見され、攻撃を受けて、西方マタニカウ川左岸陣地へ戻っていたはずなのである。
そうであるとすれば、二十五航戦が陸攻三機をもって、糧食弾薬計約一トンを、十五日、ルンガ岬東方約六キロの草原に投下したのは、無駄になったはずであった。
山田日記に次の記述がある。のちの一木支隊第一梯団の行動とかかわりがあるので、引用する。八月十五日の項である。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
「1略
2、陸攻三機糧食弾薬約一屯ヲルンガ岬ノ東方六〇〇〇米草原ニ投下セリ。約半数ルンガ岬西方約四浬ノマタニカウ川西岸に投下スル予定ナリシモ敵ノ防禦銃砲火熾烈目的ヲ達シ得ス。
3、糧食投下隊ハ高度二〇〇米ニテタイボ岬ヨリクルツ岬(マタニカウ河口より西へ約一・五キロ──引用者)間ヲ行動セシモ、敵及味方兵力陣地ヲ発見スルニ至ラス。敵防禦砲火ヨリ判断セハ|敵ハルンガ岬附近及飛行場ヲ主力トシ海岸沿ヒニルンガ岬ノ東方約三〇〇〇米《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|西方約二〇〇〇米間ニ拠リアリト認メラル《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
(以下略)」(傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
後で記述することだが、一木支隊第一梯団は、東方から、海岸伝いに攻撃するのが敵の背後を衝くことになるという判断の下に行動するのである。右に引用した偵察報告は一木支隊長の判断が適切でないことを示している。一木支隊のトラック島出発は八月十六日午前五時、ガダルカナル泊地投錨は十八日午後九時ごろ、右の偵察報告は十五日である。時間的には一木支隊長が右の偵察結果を承知する余裕はあったはずである。
陸軍中央では、先の十四日の第八艦隊の報告を、参謀竹田宮が田中作戦部長に次のように報告している。
「潜水艦の報告によればルンガ東方地区に於て彼我交戦中なるが如く、飛行場は尚我が手に確保しありとのことである」(戦史室前掲書)
これも致命的な判断誤謬を生んだ楽観的虚報の一つであったかもしれない。
第八艦隊は、先の食糧弾薬投下のほかに、駆逐艦によって連絡部隊をガダルカナルに送る措置をとった。それが先に述べた横五特の高橋中隊である。
高橋中隊を加えて守備隊を編成した在ガ島日本軍が一木支隊の来援を待っているとき、八月十五日早朝、米軍は三個中隊の兵力で、うち一個中隊が発動艇によって日本軍陣地の西方コカンボナ(クルツ岬西方五キロ強)に上陸、二個中隊が海岸を東からマタニカウヘ、日本軍を挟撃して来た。十九日早朝といえば、後述する通り前夜十一時タイボ岬付近に上陸した一木支隊第一梯団が東進を開始し、テテレ付近のジャングルで大休止をとったころであろうと、想像される。
守備隊と米軍の衝突地点と一木支隊が大休止をとったテテレ付近とは、直線距離で三〇キロ以上隔っていたであろう。
この小戦闘は彼我の記録が全然異っている。米側資料(グレイム・ケント『ガダルカナル』)によれば、日本兵は白兵戦をいどんできたが、海兵たちは日本兵六五人を倒した、残りは退却した、となっている。また、別の米公刊戦史(ジョン・ミラー『ガダルカナル作戦』)によれば、米軍各中隊がルンガ岬に引揚げるまでに、日本兵六五名を斃し、味方は僅かに死者四名負傷者一一名を出したに過ぎなかった、とある。
高橋中隊の無線報告には「十九日早朝西方海上より守備隊を包囲せる敵約三〇〇名をコカンボナに邀撃し、これを海上に撃退せり。敵に相当の損害を与う。大発三、機銃一を捕獲せり。|我に被害なし《ヽヽヽヽヽヽ》。|食糧あと二日分《ヽヽヽヽヽヽヽ》」とあるという。(戦史室前掲書。傍点引用者)
決戦段階でないから勝敗の帰趨が相反していても大したことがないと言えば言えるが、記録がこうまで異る理由は理解に苦しむところである。
実際のところ、一木支隊第一梯団を輸送して来た駆逐艦隊は、支隊が上陸(十八日夜)すると、第十七駆逐隊はラバウルに帰投し、第四駆逐隊と「陽炎」がガ島沖に残留して警戒にあたって何事もなかったことから見て、陸上はともかく、制海権はまだ日本軍が握っていたのである。
しかし、米軍は日本軍のなすにまかせていたわけではなかった。翌十九日、B17一機が飛来し、その爆撃によって駆逐艦「萩風」が損壊し、僚艦「嵐」の護衛の下にトラック島へ引揚げ、ガ島沖には「陽炎」だけが残ることになった。日本軍飛行機の水平爆撃はほとんど命中しないのに、B17のそれはよく命中した。またB17は零戦の機銃弾を受けても墜落せず、零戦の王座は既に失われようとし、制海権も制空権もこの後短期間で日本軍の手中から奪われるのである。
第十七軍司令部は、一木支隊第一梯団を急送することによって、飛行場奪回可能という甘い観測をしていたが、さすがにそれで十分と考えていたわけではなかった。一木支隊派遣につづいて、歩兵第三十五旅団(長・川口少将)をガダルカナルに増派して、ツラギの奪回を図ろうとした。
歩兵第三十五旅団は八月十六日パラオを出発して、二十日ごろトラック島に到着することになっていた。既述の通り、一木支隊は同じ八月十六日にトラックを出て、二十日には第一梯団がガダルカナルで攻撃前進(後述)に移っている。一木支隊だけで不十分と考えるから、川口旅団を送る。小出しに、逐次投入することへの懸念は、少くとも資料の上では見当らない。後世の人間が歴史を追体験し、事実を知っても、もはや間に合わないのである。
第十七軍司令部は、南海支隊主力を十六日ブナ(ニューギニア北東岸)へ送り、同十六日ラバウル到着の歩兵第四十一連隊(はじめのうち、ガ島投入が予定されていた)もブナヘ追及させる計画であったから、近日中にトラックを出発する川口旅団の一部兵力を軍予備としてラバウルに控置したい考えであった。
それは、しかし、ガダルカナルにどれだけの兵力を必要とするかによって、予備兵力を抽出出来るか否かが決ることである。歩三十五旅団は、旅団といったところで、歩第百二十四連隊の三個大隊だけなのである。
二見十七軍参謀長は、ニューギニアのラビ攻略のために海軍(第八艦隊)から陸兵派遣を求められても、手許に一兵もなく、兵力捻出に苦慮していたが、第八艦隊の神先任参謀は二見参謀長に、ガ島は簡単である、一木支隊のほかに一大隊増加すれば十分である、と事もなげに言った。ガ島では陸戦隊はいまも交戦中であって、敵兵力は大したことはない、と。二見参謀長は、この分なら一個大隊ぐらいの予備兵力はとれそうであると胸算したらしい。八月十六日のことである。
神参謀の楽観説が何を根拠にしていたか、第八艦隊がそのとき正確な判断材料を持っていたか、すべて疑わしい。想像するに、予想外の大勝利に終ったツラギ海峡夜戦の作戦主務者としての同参謀に、米軍の戦力を下算する傲りがあったのかもしれない。
八月十八日になって十七軍、十一航艦、八艦の三者の間に出来た協定によって、ガダルカナルに派遣される歩三十五旅団は二個大隊と決った。もう少し詳しく言えば、歩三十五旅団長の川口少将が指揮する歩兵第百二十四連隊(一大隊欠──十七軍予備)とガダルカナルに在る一木支隊及び海軍陸戦隊を合せて、川口支隊とする、ということである。
百武第十七軍司令官は歩兵第三十五旅団長川口清健少将をラバウルに招致し、八月十九日、ガダルカナルとツラギ及びその付近の|島嶼《とうしよ》の奪回を命令した。
右記の三者協定によって定められた川口支隊のガダルカナル上陸予定日は、八月二十八日である。
16
一木支隊第一梯団は八月十八日午後九時ごろ、ガダルカナル島ルンガ岬(米軍泊地)から東方直線距離で三五キロのタイボ岬西方に到着し、直ちに上陸を開始した。
月の明るい夜であったが、何の抵抗も受けることもなく、午後十一時ごろに上陸集結を完了した。
既述の通り、この上陸作戦には上陸用舟艇の準備が間に合わず、一木支隊手持ちの折畳舟を内火艇で曳くことによって上陸しなければならなかったので、支隊編成に速射砲中隊を入れることが出来ず、大隊砲小隊として歩兵砲が僅かに二門あるだけであった。したがって、敵の戦車が出現すれば、支隊は無力にひとしい。
一木大佐は、しかし、火砲の乏しいことなど意に介さなかった。彼が信頼するものは銃剣突撃である。逡巡することなく勇猛果敢に白兵戦を挑めば、米兵は狼狽して逃げまどうであろう。飛行場は既に掌中にあるかのようであった。
一木支隊長は、支隊の到着を待ち望んでいる在ガ島守備隊との連絡に一顧も払わなかった。連絡などは飛行場を奪取してからでいいと考えたのであろう。第二梯団の到着を待たずに、支隊を直ちに海岸に沿って西へ前進させた。四日も到着が遅れる第二梯団を待つのでは、高速輸送の意味がなくなる。先遣部隊だけで敵を蹂躪するのだ。
八月十九日、午前二時ごろ、胸まで没するベランデ川を渡河した。抵抗はなかった。敵はルンガ岬周辺以外には進出していないように思われた。
午前四時半ごろ、海峡の彼方、ツラギとおぼしい方向から遠雷のような砲声が聞えた。十九日の早朝には、一木支隊第一梯団を輸送して来た駆逐艦のうち「陽炎」が、ツラギ沖六〇〇〇メートルの距離から艦砲射撃を行なっているから、支隊が聞いたのはその砲声であったであろう。
部隊は出発地点から西方へ約一五キロ、テテレに達して、ジャングルのなかで大休止をとった。夜が明けかけていたから、行動秘匿のためである。
めざす地点まで直線距離であと約二〇キロ。将兵の意気は旺んであった。
十九日午前八時三十分、支隊長は西へ約一七キロのイル川(日本名中川)付近に情報所設置の目的をもって渋谷大尉以下の情報班を、さらにイル川を越えて飛行場付近(イル川から約四キロ)へ館中尉以下将校斥候四組を出した。
午後二時三十分になって、右の情報所要員と将校斥候群がナリムビュー川コリ岬(テテレから西へ直線距離で約七キロ)付近で約一個中隊の敵と交戦中であることが判った。
支隊長は、午後三時、一個中隊を救援に向わせ、主力は四時にテテレを出発した。約一時間後、情報所要員も将校斥候群も全滅したという悲報が届いた。
斥候群は大胆過ぎたか、油断があったのか、戦闘隊形もとらずに前進していたらしい。あるいは椰子林のつづいた地形で視界が狭かったのかもしれない。突然急襲され、約一時間の戦闘を交えて、全滅した。生き残ったのはジャングルに逃げ込んだ三名だけであったという。
これは、タイボ岬付近にいるらしい日本軍を捜索するために出された海兵隊の一個中隊が、途中で先に日本軍斥候を発見して、機先を制したのである。謂わば斥候部隊同士の遭遇戦であるから、不期遭遇の条件は同じであったはずである。海兵隊斥候は、日本兵の死体から、日本陸軍兵が上陸していることを確認したし、通信連絡用の暗号書を手に入れたという。
斥候群全滅を一木支隊は慎重な作戦を促す警報として受け取らねばならなかった。
一木支隊長が、しかし、警戒色を深めた形跡はほとんど見当らない。
この日、ルンガ地区米軍陣地からさらに西へ、マタニカウ川(ルンガから約八キロ)方向へ、盛んに砲声がつづいた。残存している警備隊と設営隊の抵抗陣を砲撃しているものと思われた。ここまで来ても、一木支隊長は、警備隊や設営隊との合流、あるいは協同作戦をとることに留意している様子も全くなかった。敵陣地を挟んで東西に分れていることであるから、合流は不可能だとしても、通信連絡ぐらいは出来たかもしれないのである。すれば、マタニカウ方向からの|佯動《ようどう》作戦もあり得たかもしれない。
一木支隊長は、しかし、歯牙にもかけなかったようである。
八月二十日午前二時半、支隊はテテレから西へ約八キロのレンゴに達し、大休止した。この地点で、前日午後三時に斥候群の救援に派遣した一個中隊(第一中隊)を本隊に合流させたようである。第一中隊は斥候群を全滅させた敵を追撃したが、捕捉出来なかった。
レンゴからめざす飛行場は直線距離であと一〇キロである。
八月二十日午前十時、支隊長は次のような攻撃命令を下達した。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、敵斥候四名ハ第四中隊前方ニ進出 中隊ハ直ニ之ヲ撃退セリ(撃退というのは、射殺でも捕虜としたのでもないから、支隊の状況は敵指揮官に明白となったものと考えるのが順当であった。一木支隊長がその点にどれだけ留意したか、不明である。──引用者)
二、支隊ハ一八〇〇現在地出発夜暗ヲ利用シ 行軍即捜索即戦闘ノ主義ヲ以テ先ツ第十一設営隊付近(飛行場北側──引用者)ヲ攻撃シ 爾後ノ飛行場方向ニ対スル攻撃ヲ準備セントス
三、工兵隊長ハ下士官斥候一組(土人三名通訳一名ヲ附ス)ヲ出発ト同時ニ先遣シ蛇川(テナル川)ノ渡河点ヲ偵察セシムヘシ
[#ここで字下げ終わり]
四、五、略
一木支隊長は、飛行場の手前、イル川(中川)西岸に米軍が主戦闘陣地を構成していることを知らなかった。先に引用した十五日の二十五航戦の偵察報告を一木支隊長は知っていたかどうか。また、前日の斥候群の全滅という事実から、さらに冷静綿密な偵察を実施すれば、敵の陣容はほぼ推定出来たはずなのである。
一木支隊の攻撃は、事前に海軍航空隊や艦隊の協力を取りつけず、単独に「まるで演習でもやるかのように」(淵田・奥宮『機動部隊』)、レンゴから一挙に突入するという、意気旺んだが、単純で、独善的な計画であった。
何よりも、敵に既に知られていることに対する配慮が、全く欠けていた。
二十日は、この日も、ルンガ地区からマタニカウ方向へ米軍の砲声しきりであった。
午後六時、支隊はレンゴを出発した。行軍即捜索即戦闘である。
午後八時ごろ、出発地点から約七キロのテナル川に達した。先行した下士官斥候から、道案内の土民一名が逃亡しかけたのを射殺すると、イル川の方角から信号弾が上った、という報告があった。銃声と信号弾には関連があったにちがいない。支隊は、しかし、イル川へ向って前進をつづけた。
敵情は皆目わかっていないのである。一木支隊長以下功を急いで慎重を欠いていたことは否めない。
当時、米軍第一海兵師団は、一個大隊を予備にとり、三個野戦砲兵大隊の掩護の下に、四個歩兵大隊を並列してルンガ岬を保持していた。米軍陣地の東翼、つまり、一木支隊がまさに接近しつつある方面は、イル川(中川)の西岸に沿って奥地へと強固な抵抗線を伸していたのである。(ジョン・ミラー前掲書)
午後十時半ごろ、尖兵がイル川東岸に近づいて、はじめて敵と接触した。少数の米兵から射撃を受けたのである。尖兵は後退する米兵に追尾して、東岸に達し、いったん停止した。
支隊長は蔵本大隊長とともに尖兵中隊の位置まで進出して、擲弾筒の集中援護射撃をもって尖兵に対岸への突入を命じたが、敵の火力は突入を許すほど微弱ではなかった。
この部分は、先の米公刊戦史では次のようになっている。
ガダルカナル上陸(米軍)後最初の大きな地上戦闘は、八月二十日夕、イル川東岸の聴音哨が密林に隠れた日本兵に向って行なった射撃からはじまった。聴音哨兵は敵軍が東から襲撃して来たことを報告するため西岸に退き、小銃弾がなお暫くつづいて飛んで来たが、やがておさまった。
二十日夕という表現は漠然としていて、時刻が定かでないが、密林にマイクを仕掛けてあって、日本兵が接近する音を捉えて射撃を浴びせたのである。
東岸での接触は謂わば小手調べの前哨戦であったが、支隊としては、この時点で作戦の立て直しを図るべきであったろう。支援砲火の圧倒的な破壊力なしには、歩兵が如何に勇敢であったとしても、敵の銃火の壁に対して肉弾をもって突入することは無理なのである。
一木支隊長は、しかし、まだ、白兵の威力に対する信念を失わなかった。あるいは困難とわかっても、信念変更を潔しとしなかったか、いずれかであろう。
一木支隊長は渡河地点を探して、河口近くに高さ約一〇フィートの砂洲を発見すると、兵力の一部に現在正面からの攻撃を続行させ、主力が砂洲を横断して西岸の米軍陣地を強襲するように指揮した。(一木支隊長がイル川河口近くに高さ約一〇フィートの砂洲を発見云々と書いたことについて、前掲山本一氏から手紙を頂戴した。それによると「イル河は海に流れ込んではおりません。砂洲はイル川の河口そのもので、干満に応じて出たりかくれたりします。干潮時は普通の砂浜とお考え下さい。この砂洲にさえぎられてイル川下流は沼状にふくれ上っており、現在これをアリゲータークリークと呼んでおります。〈引用者中略〉ほんの数百メートルさかのぼると所謂イル川なる細流です。」〈原文のまま〉海に流れ込まない川というものは常識的に想像困難なので、失礼をかえりみず再度問い合せをしたら、「確信を以てお書き下さい」という返書に接したし、イル川河口付近を空から撮った写真の複写を頂戴した。それを見ると、なるほど、海とイル川下流とは帯状の砂洲で明らかにさえぎられている。大潮の満潮時には砂洲を越えてつながるのかもしれないが、一木支隊長が突撃路として選んだのは、この砂洲だったのである。砂洲といえば、普通、水面に露出している砂地を想像しがちだが、一木支隊第一梯団の突撃路は、海と川を分離している砂地であった。それなら突撃しやすいから、敵方も当然防禦砲火を準備しているはずであった。)
突撃発起は八月二十一日未明であった。
砂洲を横断するとき、西岸の台上から猛烈な銃砲火を浴びせられた。砂洲を越えて敵陣に躍りかかった者もあったが、それらの日本兵は米軍守備兵のいう「地獄岬」の鉄条網によって躍進を阻止され、銃火で薙ぎ倒された。大部分は砂洲の前後で火力に捕捉され、死屍累々となった。
突撃は無謀というほかはなかった。この局面に関する限り、日本軍の戦闘は勇敢ではあったが、拙劣をきわめた。日本兵は絶望的に勇敢であるより仕方がなかった。
支隊長は予備隊として控置してあった機関銃中隊と大隊砲小隊を戦闘に加入させたが、もはや形勢逆転は出来なかった。日本軍は米軍の集中火力に乱打されて、混乱し、毎秒ごとに戦力を減耗した。敵情を知らずに夜襲を企て、幾つかの留意すべき兆候があったにもかかわらず、己れの白兵による衝力を過信して突撃を発起したことが誤りであった。
前掲の米公刊戦史はこれまでの戦闘経過を次のように誌している。
イル川正面は八月二十一日午前三時十分ごろまでは静かだったが、一木支隊の歩兵約二〇〇名が第一海兵隊第二大隊の占拠している陣地を蹂躪しようとして、銃剣突撃でイル河口の砂洲の突破を試みた。
防禦大隊は四五ヤード幅の砂洲を守るために、機銃と小銃で護衛した三七ミリ砲を備え、日本軍が近づいたときにこれらの銃砲全部で猛射を浴びせた。一木支隊の僅かの兵が砂洲を越えて、有刺鉄線を張ってなかった第二大隊陣地を突破したが、大部分は防禦砲火で斃された。突破した少数の兵も他の陣地からの射撃のために態勢の立て直しも戦果の拡張も出来なかった。そのとき第二大隊の一個中隊が逆襲に出て、一木支隊の残存兵力を川向うに追い返した。
第十一海兵隊の第三大隊は、午前四時三分、先に一木支隊が攻撃を開始した海岸の狭い三角地に曲射砲を据え、五時十五分、七時二十二分、七時四十二分、八時五十一分に反復集中射撃を加えた。一木支隊は最初の突撃に失敗すると、砂洲の端の海兵隊陣地に大砲(大隊砲であろう)臼砲(擲弾筒の誤りであろう)機関銃射撃を集中したので、海兵隊はあらゆる火器を用いて西岸陣地から砂洲と海浜の日本兵に射撃を浴びせかけ、朝までに流れの穏やかな河口は日本兵の死体で埋った。
第一海兵隊の第一大隊は師団予備隊から出てイル川上流を渡り日本軍の左翼及び後方を攻撃する命を受けて、縦隊で川を渡り、重火器一個小隊を日本軍の退路を遮断する位置に配置した。(ジョン・ミラー前掲書)
つまり、一木支隊の突撃が挫折すると、支隊の左側背から米軍の組織的な反撃がはじまったのである。
前述の通り、一木支隊長は、当然にまた十七軍司令部の責任に属することでもあるのだが、攻撃に際して、海軍航空部隊と艦艇による戦闘協力を取りつけていなかった。自信過剰のなせる業か、準備時間不足のなせる業か、おそらくいずれでもあるであろうが、虚しく拙戦して戦況の好転を望める道理がなかったのである。
午後一時ごろ、米軍戦車四輛が支隊の背後から強圧を加え、椰子林を通って河口の砂洲へ驀進した。砂洲を横断した戦車群は、支隊の残存兵力が遮蔽している椰子と|棕櫚《しゆろ》の林に突入して、蹂躪した。自在に旋回し、黄色い火焔を放射し、椰子の木を踏み倒し、日本兵を追い立て、急追して銃火を浴びせかけた。
支隊の残存兵力は統制を失い、手榴弾をもって各個に戦車と戦うほかはなかった。はじめに集中的な銃砲火で大打撃を蒙り、終末段階で対戦車火器もないままに戦車の蹂躪に任せては、支隊の潰滅は避けられない。敵に戦車があるとわかっていて、上陸用舟艇の都合で、速射砲を第一梯団編組の中に加えなかったことで、とどめを刺されたようなものであった。
自信満々としていた一木支隊長は、急転直下、絶望状態に陥った。午後三時ごろには、もはや戦闘続行の手段もなくなった。
一木支隊長の最期を、生存者は誰も見ていない。軍旗の行方もわからない。
彼の予定通りに戦闘が展開したのならば、おそくも夕刻までには飛行場を奪回し、ルンガ岬方向へ戦果を拡大し、「ツラギもうちの部隊で取ってよいか」と旺盛な功名心を示したそのツラギを海峡の彼方に望見しているはずであった。
支隊は、戦死七七七名、戦傷約三〇名、生存者は死闘から離脱し得た者、上陸地点に監視として残置された者、合せて一二八名であった。
米公刊戦史によると、二十一日午後の戦況は次のようである。
十二時三十分までに二個中隊が二〇〇〇ヤード前進し、右翼の一個中隊が日本軍の後方に到着した。午後二時、包囲網が完成したところで攻撃を開始した。日本兵のある者は海中に逃れ、奥地へ遁走しようとした者は迂回した中隊に阻まれ、東方へ走った者は戦闘機によって掃射された。
日没前に戦闘を終らせるために、歩兵に支援された軽戦車一個小隊が砂洲を渡り、三七ミリ砲を射ちまくった。戦闘は五時ごろに終った。一木大佐は自害した。日本軍の戦死者は約八〇〇名にのぼり、生存者は僅かに一三〇名に過ぎなかった。米軍は海兵隊三五名の戦死、一七五名の負傷者を出したにとどまった。(ジョン・ミラー前掲書)
こうして日本陸軍は救い難い誤りを犯して惨敗した。敵の戦意と戦力をみくびり、味方の陸海空戦力の連繋を怠り、独善に陥っていることに気づかない誤りをである。
先の米公刊戦史は次のように書いている。
一木支隊が飛行場に脅威を与えたことは一度もなかった。驚くばかりの少数兵力で海兵隊を攻撃したことは、情報機関の欠陥か、然らずんば敵側の過大な自信を示したものである。もし一木大佐が八月二十日までに彼が向っている米軍兵数に気づいていたとするならば、彼は海兵隊の武勇に対して全く軽蔑してかかったものにちがいない、と。
正常な神経と合理性の持主なら、誰がみても、同じことが言えるであろう。
一木支隊第一梯団の敗北は、たかだか九〇〇名の小部隊の敗北でしかなかったが、広大な海洋の彼方の彼我の接点としての地理的条件、日本陸海軍の緊密でない協力関係、彼我の作戦の巧拙などの諸点からみて、重大な意味を含んでいたし、その後の全戦局に深刻な影響を与える一連の戦闘の運命を、このとき既に示していたのである。
惨烈な戦闘の翌日、砂洲と『地獄岬』に散乱した日本兵の死体は、早くも強烈な腐臭を放った。汀に倒れている死体は、勝ち誇った米兵の眼には「つやつやしたソーセージの様に膨張し、ぬるぬる光って」見えた。(R・トレガスキス『ガダルカナル日記』)
だが、ラバウルに在る第十七軍司令部が一木支隊第一梯団の全滅を確認したのは、戦闘から四日後の八月二十五日のことであった。それまでは第十七軍も大本営も希望的観測にしがみついていた。
希望的観測が砕かれるまでの経過の概略を辿ってみる。
一木支隊第一梯団の無血上陸成功の報を、第十七軍司令部は、八月十九日(上陸の翌日)、海軍から受けていた。同じ日、ニューギニアヘ向った南海支隊もブナ上陸に成功していた。
翌二十日、午後二時、ガダルカナル守備隊長は、
「一四一五敵艦上機ラシキモノ一五機現ハル敵空母附近ニ在リト推定ス」
つづいて、二時二十分、
「敵艦上機二〇機内戦闘機五機一四二五飛行場に着陸セルモノノ如シ」
と報じてきた。
前電が発信が一四〇〇で、飛行機を認めたのが一四一五になっているのも、後電の時間の逆のずれもおかしいが、訂正する方法もないのでそのままとした。
米機動部隊がガ島海域を去ったのが八日午後のことであり、二十日には新たな目的をもってガ島海域に再び現われたのである。
二十一日、ガ島守備隊長は情況を続々と報告した。
「敵機離陸並ニ飛行スルモノヲ認メス。先遣隊ノ飛行場攻撃ハ我軍ニ有利ニ進展中ト推定ス」〇六三〇
「一木支隊及同先遣部隊ニ伝ヘラレタシ。味方工員多数飛行場周辺ノ密林中ニ統制ナク避退シアリ御了承ヲ乞フ」〇六三〇
「〇七〇〇敵戦闘機四機飛行場ヨリ離陸上空哨戒ヲ為シツヽアリ」〇七二〇
「〇八〇〇敵戦闘機四機飛行場ニ着陸」〇八一〇
「二一日〇二〇〇ヨリ引続キ飛行場附近ニ盛ニ銃声ヲ聞ク。敵小型陸上機四機離陸旋回シアリ」〇九〇〇
「〇四〇〇離陸セル敵戦闘機五機ハ〇五〇〇乃至〇五三〇ノ間ニ着陸。其ノ後離陸セス。統砲声ハ引続飛行場附近ニアリ」〇九三五
「今朝来活動セル敵戦闘機一二機中六機ハ一〇〇〇飛行場ニ着陸、六機上空哨戒中」一〇二〇(山田日記)
守備隊長には上空の敵飛行機は見えたが、同じ島にいても、密林に蔽われ、中央を敵に遮断された状態では、友軍の運命はわからなかった。したがって、来援を待つ身としては希望的判断を下したくもなるであろう。
関係各司令部にとって信じられないような悲電は、二十一日の夜になって届いた。
右に列記した電文はガ島守備隊長発だが、左の電文はガダルカナル基地発となっている。
「一木先遣隊ハ今朝飛行場ニ到達セサル位置ニテ殆ント全滅ニ瀕ス 東見張所ヨリ通知アリタリ 『ぼすとん』丸ニ伝ヘラレタシ」一七四五
『ぼすとん』丸には一木支隊第二梯団が乗っていて、『大福』丸とともにガダルカナルヘ航行中である。誰か、戦線から派遣されたか離脱した者が、タイボ岬見張所に依頼して、『ぼすとん』丸の第二梯団に報告しようとしたものと考えられはしたが、受信した第八艦隊でも十一航艦でも、発信者が単にガダルカナル基地となっているだけなので、この電報に信憑性を認めなかった。内実は、誤報であってほしいと|希《ねが》っていたのであろう。
十一航艦は、二十二日、右電文に関して連合艦隊に次のように報告した。
「二十一日『ガダルカナル』ヨリ一木支隊先遣隊ハ飛行場突入前全滅ニ瀕セリトノ電アリ 再調査要求中ナルモ 右情報ハ出所(発令者)ニ多大ノ疑問アリ」〇八五二
同じく二十二日、十一航艦参謀長からの電報は次の通りである。
「一木支隊先遣隊ハ二一日〇二〇〇東方ヨリ東飛行場(ルンガ河ノ東)ニ迫ルモノノ如キモ其後ノ情況未詳」一二四八(以上『山田日記』)
しかし、連合艦隊宇垣参謀長は日記にこう誌している。
「一木支隊先遣隊の消息不明より全滅の電多少の疑義あるも真なりと認めらる」
第十七軍司令部は、二十三日、一木支隊が大損害を受けた、という米本国の放送を聞いたが、敵の放送は誇大又は虚偽であろう、と判断した。(戦史室前掲書『陸軍作戦』)
それでも不安ではあったとみえて、同じ二十三日、十七軍では先に軍予備に取ることにしていた川口支隊の一個大隊をラバウルに招致することを取り止めにし、川口支隊全力の三個大隊をガダルカナルに投入することに決定、一木支隊第一梯団に対する弾薬糧秣の空輸補給を海軍に要請した。
第一梯団上陸の十八日から算えて二十三日は六日目に当る。弾薬は一名一五〇発、糧食は七日分しか持って行かなかったから、第一梯団がもし生きていれば、糧食も弾薬も切れるころである。殊に弾薬は戦況如何では一日か二日でも足りなかったかもしれない。
十一航艦では、二十三日、陸攻二四機に直掩零戦一三機を配してラバウルを発進させ、補給物資の投下を行なおうとしたが、ガダルカナル周辺は雲が低く垂れこめていて、なんらなすところなく引き返した。
二十四日午前六時、ガダルカナル守備隊長は次のような電報を送った。
「昨夕敵ニ異状アリシカ如シ。敵戦闘機二二機一五三〇一旦着陸セル処、当時飛行場附近盛ニ銃声アリ、敵戦闘機ハ一六二〇頃一斉ニ離陸シ航空灯ヲ点シ右往左往ス。海岸附近ニモ銃声アリ」 (山田日記)
この電文の背景にある事実経過は判然しない。希望的に読めば、米軍があわてふためいているようである。第十七軍司令部では、一木支隊第一梯団が態勢を立て直して、飛行場に対する|擾乱《じようらん》を行なっているものと希望的に解釈し、そのように大本営に報告した。
だが、翌八月二十五日、先の二十一日夜の「……一木支隊全滅ニ瀕ス」という電報は、一木支隊先遣隊の通信掛将校榊原中尉が発信を依頼したものであることが判明し、一木支隊第一梯団の攻撃が惨敗に終ったことが確認された。
同日、十一航艦参謀長は、榊原中尉の報告に基づいて、左の電文を関係方面に発している。
「一木支隊先遣隊トノ連絡本日初メテ成リ、同隊榊原|少《ママ》尉ヨリ第一七軍司令官へ左ノ報告セリ
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、一木支隊ハ損害相当大ナルモ尚タイボ岬附近ヲ確保シアリ
二、弾薬糧秣ハ後続部隊予定上陸日迄考慮ヲ要セス
三、後続部隊ヲ速カニタイボ岬附近ニ上陸セシメラレタシ。タイボ岬ハ上陸点トシテ最適ナリ。上陸日時通知アラバ同時刻海岸ニテ信号ス」一六四〇
[#ここで字下げ終わり]
右電の第二項と、左に引用する同じ十一航艦(参謀)から一八二〇に出された電報の第二項とは、撞着して実情認識の混乱を示している。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、ガダルカナル基地ニ敵大型機等航空兵力増強前ニ尠クトモ|陸軍砲力ヲ以テ飛行場ノ使用ヲ阻止スルヲ要ス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》
二、ガダルカナル所在陸軍部隊ハ弾薬糧食欠乏シ時日遷延ヲ極メテ苦痛トシアリ
三以下略(山田日記。傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
傍点部分は、米軍機がガダルカナル飛行場を使用しはじめて(八月二十日)から、最後までつきまとった問題であった。
とにかく、一木支隊第一梯団の惨敗は、もはや希望的判断によっては救えない事実であることが判明したのである。
17
一木支隊第一梯団と同時に、だが第一梯団とはちがって低速船団に乗ってトラックを出発した第二梯団と横須賀第五特別陸戦隊は、第一梯団がめざすルンガ飛行場へ直線距離であと約一〇キロのレンゴに達して、支隊長が自信満々とした攻撃命令を下達したころ、まだ遠い洋上、チョイセル島北方約三〇〇浬のあたりを南下していた。ガダルカナル上陸は八月二十二日夜の予定であった。
第二梯団の輸送が予定通りに運んだとしても、第一梯団の破局には間に合わなかったのである。したがって、第二梯団は第一梯団のようなあっけない潰滅は免れたが、その後幾変転して結局は飢餓と死に陥ち込んでゆく運命を避けることはできなかった。
八月二十日午前九時四十分ごろ、索敵機がショートランド南東約五二〇浬に米軍機動部隊を発見した。これは、米軍が日本軍のガダルカナル増援部隊を発見してこれに攻撃を加えるためか、ガダルカナルを直接に攻撃するため(一木第一梯団はまだ敵と交戦していない時期)と判断された。いずれにしても、低速船団は危険に近づいているわけである。船団は十一航艦からの命令によって、変針、反転した。
これが、その後の全作戦期間を通じて困難をきわめた海上輸送の前途を予告する最初の兆候であった。
同二十日午後二時二十分、先に引用したガダルカナル守備隊長から十一航艦宛ての報告が入った。「敵艦上機二〇機、内戦闘機五機一四二五飛行場ニ着陸セルモノノ如シ」(時間の逆ずれは前述の通り)。この報告が意味するところは重大であった。先の索敵報告で近海に敵機動部隊が行動していることが判明したばかりでなく、ガダルカナルに日本海軍設営隊が建設した飛行場に敵の航空兵力が進出して、これを基地として航空作戦を展開することが現実の問題となったのである。
第二梯団の上陸は八月二十四日夜に延期された。そのころまでには連合艦隊の機動部隊がソロモン海域に進出して来るはずであったから、その掩護の下に上陸作戦を実施しようというのである。
この時点で、ガダルカナル争奪をめぐる決戦の構想を、日本陸海軍が間に合せの拙速主義でなく、また自信過剰で短兵急な肉弾主義でもなく、正攻法として慎重かつ雄渾に描き得ていたら、あるいは、それとは正反対に、彼我の国力、戦力諸元を冷静に比較して、維持能力を超えた地域に推進された戦略拠点での作戦を、一木支隊第一梯団の悲劇を限度として果断に打ち切っていたら、その後の戦局の展開は全然異った様相を呈したであろうと想像される。
事実は、国力の綿密な比較に依拠しようとする冷静な努力など、開戦前にさえ効力を持ち得なかったのが、緒戦の瞬間的な成功で|増上慢《ぞうじようまん》に陥っては、ミッドウェーの痛烈な実物教育を経過してからでさえ、正当に評価されなかった。
それどころか、敵を侮ることによって自らの|矮小《わいしよう》を糊塗し、矮小の規模において敵を測定し、確実に敵を圧倒するだけの陸海空綜合戦力の組織化と集中を怠り、謂わば鶏を割くに牛刀を用いる作戦が初動においてこそ必要であることを、遂に認識しようとしなかったのである。
日本軍の作戦遂行の特徴的な欠陥が、この時期に端的に表われていたといえる。兵力の集中と補給の確保なしに、同時に複数の作戦正面を構えることに疑いを持たないということである。
既に触れたことだが、この場合では、ポートモレスビー(ニューギニア南東岸)攻略作戦、ラビ(ニューギニア東端)攻略作戦、ガダルカナル奪回作戦の三つである。
ポートモレスビーは米豪遮断の要の一つとして早くから考えられ、ラビはその助攻手段として前者と並行的に日程にのぼったが、ガダルカナル失陥を機として、この三者からする米豪連合軍の攻勢の焦点に、日本軍の前進根拠地として最尖端にあるラバウルが置かれるという不安が増大したのは事実である。それだからといって、この三者に対する作戦を同時並行的に遂行するのに必要にして十分な用兵計画、それを保障するに足る空軍力、輸送力、補給力の万全の備えもなくて作戦を開始するのは、軽率無謀の誹りを免れないであろう。
その酬いはたちどころにふりかかって来た。その犠牲とならねばならなかったのは、数万の前線将兵であった。それでなくてさえ薄弱な国力は、僅か半年の間に急激に消耗してしまうことになるのである。
一木支隊第二梯団のガダルカナル上陸は延期に延期を重ねた。それを跡づけることは煩雑だが、それに関連して第二次ソロモン海戦(東部ソロモンの戦)が起きているし、その後ガダルカナルヘの日本軍兵力投入のたびごとにつきまとった輸送の困難は、八月二十日以降数日間の出来事の延長・反復・悪化といってよいので、概略を辿ってみよう。
敵機動部隊を避けて反転北上していた一木支隊第二梯団の輸送船団は、八月二十四日夜の上陸のために、二十一日、再び変針、南下を開始した。
一木支隊第一梯団の戦闘状況が不明であったので、第二梯団といっしょに陸戦隊(横五特)を送り込もうとしている海軍関係各部隊では、低速船団から快速艦艇へ洋上で移乗させてでも、第二次揚陸を急がせたいところであった。その処置について十一航艦が十七軍と協議すると、十七軍は次の理由で同意しなかった。
一つは、第二梯団は速射砲隊が主力であるから、洋上での移乗は困難である。
二つは、一木支隊第一梯団は精兵であるから、飛行場占領に不安はない。
しかし、この協議が行なわれたころには、一木支隊第一梯団は支隊長以下全滅していたのである。
八月二十二日、船団がガダルカナルからの航空攻撃圏へ近づくのに合せて、二十五航戦はガダルカナルを空襲する手筈になっていたが、この日は天候不良で出来なかった。
船団護衛の第二水雷戦隊司令官田中頼三少将は、船団が敵機の攻撃にさらされることを予想して、船団上空に直衛戦闘機の部署を要請したが、要請を受けた十一航艦では直衛機を飛ばす余裕がなかった。米軍のガダルカナル上陸後数日の間の空戦での消耗が意外に激しかったのと、一木支隊第一梯団ガダルカナル上陸とほとんど同時に行なわれたニューギニアヘの南海支隊上陸のために、連日のように飛行機はニューギニアに使われていたのである。この日は、零戦二号の全力をもってラビ攻撃が行なわれていた。
もともと豊富ではない飛行機の使用計画は早くも変調を来したのである。一つにはこの時点ではまだニューギニア作戦の方に重点が置かれていたせいでもあるが、ミッドウェー敗戦の後遺症が歴然としてきた。多数の飛行機と練達した搭乗員を一日にして失った海軍航空隊は、この局面で、船団直衛を行なうべきか、敵航空基地を攻撃すべきか、限られことは出来なかった。同様にまた、奪回作戦成就のために船団輸送を|完《まつと》うすべきか、船団を狙って近海を行動中の敵機動部隊の撃滅を主目的にすべきか、これも双方の必要を同時に満たすことは出来なかった。
十一航艦は南雲部隊(第三艦隊)にガダルカナル飛行場への空襲を要請した。
第三艦隊(機動部隊)の方では、しかし、敵の機動部隊の出現を懸念していた。その裏にはミッドウェーのにがい経験がこびりついていたのである。
二カ月前のミッドウェー作戦で、南雲部隊は、敵機動部隊の所在を発見出来ないままに、基地攻撃に第一次攻撃隊を発進させ、第二次攻撃隊を敵機動部隊出現に備えて艦船攻撃兵装で待機させていた。そこへ、第一次攻撃隊から第二次攻撃必要の打電があったのと、敵機動部隊をまだ発見出来なかったのとが重なって、南雲部隊は重大な失策を犯した。第二次攻撃隊の艦船攻撃兵装を地上攻撃用に転換したのである。その途中で、索敵機から敵機動部隊の発見を報じて来た。
索敵機は往航で敵の上空を飛びながら発見出来ず、復航のときに発見したのである。それだけ時間のおくれがあった。二段索敵を行なっていれば、発見はもっと早かったはずであった。母艦群ではあわててまた艦船攻撃兵装への再転換がはじまった。雷撃に切り換えずに陸用爆弾のままでも発進させればよかったものを、敵を軽く見ていたともいえようし、戦の型にとらわれていたともいえよう。折りあしく第一次攻撃隊が帰って来た。その収容と兵装転換で各空母は繁忙をきわめた。ようやく出撃準備がととのって、これから発艦という瞬間に、敵機動部隊から飛来した急降下爆撃機群の攻撃を受けて、あえなく|潰《つい》えてしまったのである。瞬時にして戦力はゼロになった。惨敗であった。その悪夢のような経験から、ガダルカナル基地攻撃を躊躇したのである。不覚の惨敗は、索敵機数の不十分と索敵方法の粗雑さが直接の原因であった。
八月二十二日、基地航空隊が朝来哨戒機を飛ばしたが、午前九時十分ごろ、ショートランド南東方約四八〇浬付近に敵巡洋艦二、駆逐艦二を発見しただけで、敵機動部隊の所在は捕捉出来なかった。二段三段の索敵が行なわれたことを示す資料は見当らない。したがって、もし二段三段索敵が行なわれていないとすれば、午前九時十分ごろ以降、付近海面に敵機動部隊が行動していなかったという証拠もない。
連合艦隊がこのときにガダルカナルに対する航空攻撃に関してとった方針は、こうであった。
敵機動部隊の所在が不明であるから、これに備えるために、当方の所在を秘匿する必要がある。したがって、ガダルカナル飛行場は基地(ラバウル)航空隊が二十三日に攻撃せよ。もしその攻撃の効果不十分な場合には、二十四日に機動部隊(南雲部隊)から攻撃隊を発進させる、というのである。
結局、船団護衛指揮官の田中少将が要請した船団上空の直衛戦闘機は派遣されなかった。
八月二十三日、船団はガダルカナルめざして早朝からの雨に煙る洋上を南下していた。
午前七時三十分ごろ、船団はオントンジャワ島(ブーゲンビル島の東方)の東方約四〇浬の地点で、敵飛行艇に発見され、接触をつづけられた。
その朝は、この他にも、味方潜水艦が敵艦載機の攻撃を受けたという報告を傍受していたので、護衛の二水戦司令官は敵機動部隊がガダルカナル南東海域を行動していると判断した。彼が要請した直衛戦闘機は一機も飛んでいないのである。敵機の来襲を避けられないであろう。
しかし、午前八時ごろ、敵情を察知した第八艦隊からの命令で、船団はまた反転、避退に移った。
ところが、指揮系統として第八艦隊の上にある十一航艦司令部では、第三艦隊(南雲機動部隊)その他の支援部隊が大挙進出して来ている機会を逃さずに予定通り第二梯団の揚陸を決行する方がよいと判断したようである。午後二時半ごろ、二十四日夜の揚陸を第八艦隊に命令した。
この二十三日には、既述の通り、十七軍の要請を受けて基地航空隊はガダルカナルの一木支隊第一梯団に対する補給物資投下のために飛んだが、密雲が垂れこめていて、虚しく引き返した。敵機はスコールのなかでも日本軍の船団を発見し、日本機は天候不良で引き返す。偶然の結果かもしれない。米軍機も天候不良で引き返すことがなくはなかった。しかし、ガダルカナルやニューギニアでの航空作戦の経過をみると、日本機の天候不良による引き返しや発見不能は頻度がもどかしいまでに高く、米軍機による発見・接触維持・攻撃の確率は驚くほどに高い。探知の機械的性能の差とばかりは言えないようである。ミッドウェー以前に較べて、搭乗員の平均的練度が著しく低下していたことは否めない。
十一航艦から二十四日夜の揚陸の命令を受けたときには、既に反転避退の行動に移ってからかなりの時間を費やしている船団は、その低速をもってしては二十四日夜のガダルカナル泊地への進入は困難であった。
命令はやむなく変更され、揚陸は八月二十五日に延期された。
二十五日船団突入のためには、二十四日のうちにガダルカナル飛行場に痛打を加えておく必要があったが、第三艦隊の機動部隊はいつ遭遇するかわからない敵機動部隊の出現を憂慮して、ガダルカナル基地攻撃に艦上機を使いたがらなかった。せいぜい、二十四日午前中に敵機動部隊を発見出来なければ、適宜の兵力をガダルカナルにさし向ける、という程度であった。したがって、ガダルカナル航空攻撃は在ラバウル航空隊の負担となるが、ここには僅かに陸攻一九機、零戦一四機しかなく、これが片道五六〇浬の遠距離を飛ばなければならないのである。
この日現在、機動部隊の空母三艦(翔鶴・瑞鶴・竜驤)が保有していた航空兵力は、零戦七八機、艦爆五四機、艦攻四五機、計一七七機であった。
この日夜半、駆逐艦「陽炎」以下二隻が、ルンガ泊地の敵増援艦船に夜襲を試みたが、敵影はなく、同艦はルンガ岬沖一・五浬から飛行場を砲撃したが、射弾僅かに三〇発では火焔が夜空に映える眺めほどには破壊力を及ぼさなかったようである。
一木支隊第二梯団の船団は、二十五日夜上陸のために、二十三日夜半、また南下に転じた。
八月二十四日午前二時、南雲機動部隊は空母竜驤・重巡「利根」を基幹とする支隊を本隊の東方約六〇浬に分派して、本支隊ともそれぞれ索敵を行ないながら南下したが、敵を発見しなかった。
敵機動部隊を発見し得なかっただけでなく、支隊の方は午前七時過ぎ、敵の飛行艇に接触され、取り逃した。本隊の方も午前八時半ごろと午前十一時ごろ、やはり敵飛行艇に接触され、直掩機が追撃したがこれも取り逃した。
それまで、基地航空隊からも、本支隊いずれの索敵機からも敵発見の報はなかった。本隊からの索敵は艦攻一九機で午前四時十五分から一九〇度にわたる索敵線を張り、母艦収容は午前九時十七分であったというから、敵がいるとおぼしい、あるいは進入して来ると考えられる海面は蔽っていたはずであった。
もしこれらの索敵機が前程に達するころに第二段索敵機が発進していたら、もっと早く敵情をつかみ得ていたであろうと想像される。
事実は次のように進展した。
午前九時ごろ、前記索敵機群収容と前後して、機動部隊の前衛から発進した水偵群の一機が、十二時五分、
「敵大部隊見ユ 我敵戦闘機ノ|追躡《ついじよう》ヲ受ク」
と打電して来て、消息が絶えた。
それによって敵位置を推定して、第一次攻撃隊(艦爆二七機、零戦一〇機)が十二時五十五分発進した。
午後二時二十分、第一次攻撃隊は二群に分れた敵機動部隊を発見した。スチュワート島(ソロモン諸島南端部位のマライタ島北端から東へ約二〇〇キロ)の南東一六浬と二七浬であった。空母エンタープライズとサラトガをそれぞれ基幹とする機動部隊である。
翔鶴隊がエンタープライズに、瑞鶴隊がサラトガに、戦闘機群の邀撃と熾烈な防禦砲火を冒して突入した。
エンタープライズは被弾三発、至近弾二発、大火災を起こし、傾斜三度となったが、間もなく鎮火し、穴のあいた飛行甲板には鉄板を張って、一時間以内に飛行機の収容が出来るようになり、二四ノットで走航した。
サラトガには命中弾がなかった。
米機動部隊はレーダーによって日本軍攻撃隊を八八浬の彼方に探知し、戦闘機五三機を上空に配置していたのである。
日本軍の第一次攻撃隊は一三機が母艦に帰投し得たにすぎなかった。
第二次攻撃隊は、午後二時、艦爆二七、零戦九をもって発進した。午後三時四十分過ぎ、予定地点に達したが敵影を見ず、日没まで探しても遂に発見出来ず、虚しく帰途についた。
原因は、指揮官機の通信機不良にあったという。不運というべきか、不注意というべきか。旗艦からの重要通信を、列機はほとんど完全に受信していたにもかかわらず、翔鶴隊指揮官機は受信洩れが多く、瑞鶴隊指揮官機は敵所在地点を誤受信した。列機がまた疑念を持たずに、指揮官機に中継あるいは受信有無の確認もしなかった。各機とも無線電話を装備してあったが、雑音が多くてほとんど実用の域に達していなかった。
第二次攻撃隊の発進後、機動部隊は変針して、東進した。東方約六〇浬を平行して南下している前進部隊が敵機の攻撃を受けたので、その上空直衛を行なうためであったと考えられる。だが、機動部隊はその変針通知を第二次攻撃隊に出すのがおくれた。攻撃隊の帰投は夜になり、今度は母艦を探す困難を生じた。結局、艦爆四機が行方不明、一機が不時着という損害を戦わずして出した。
戦は錯誤の連続というが、一定の緊張度の持続と注意力集中の維持があれば避けられる事務的な失態が、屡々禍根の最大のものとなる。ミッドウェーがそうであった。ガダルカナル戦やニューギニア作戦についても同様のことが言える。
空母「翔鶴」は、第一次攻撃隊を発進させて間もなく、突如として敵の急降下爆撃機の攻撃を受けた。回避運動によって被害はなかったが、この敵機は翔鶴のレーダーが探知し、あらかじめ艦橋に報告されていたにもかかわらず、艦橋の混乱喧噪のために、せっかくの探知が通じていなかった。危うくミッドウェーの二の舞を演ずるところであった。来襲機がもっと多ければ、回避しきれなかったのではないか。前述の通信不調といい、母艦行動変更の通知遅延といい、レーダーの件といい、さらには索敵・接触の不首尾といい、隙間だらけである。これでは、仮りに戦意旺盛であるとしても、全力発揮は妨げられるであろう。
第二次攻撃隊が帰投したころには、敵に接触を保っている飛行機は一機もなかった。したがって、夜戦を挑もうにもその可能性はきわめて薄かった。加えて、第一次攻撃隊の被害も甚大であったので、機動部隊指揮官は第三次攻撃(夜間雷撃)を諦め、艦隊は戦場から反転北上した。
機動部隊の東方を警戒航行していた前進部隊は、早朝と昼前に発進させた水偵が敵情を得ないうちに、敵飛行機に接触された。
二十四日、午前四時、水上機母艦「千歳」に敵急降下爆撃機一二機が襲いかかり、至近弾二発によって左舷に浸水、機械使用不能となった。人力操舵では戦闘に耐えられないので、指揮官はトラック島への回航を命じた。
先に、午前二時、機動部隊から分離した支隊では、午前十時ごろまで敵機動部隊の情報に接しなかったので、空母竜驤から、十時二十分、ガダルカナル島へ向けて攻撃隊(艦攻・零戦各六機)を発進させ、約三十分後にさらに零戦九機を発艦させてから、一時北方へ避退した。
十一時半過ぎ、竜驤は反転して攻撃隊収容のために発進位置へ戻ろうとした。その途中で悲運に見舞われたのである。
午後二時若干前、竜驤は急降下爆撃機十数機と電撃機数機に襲われ、直衛機の奮戦も及ばなかった。魚雷一発が竜驤に命中、機械と罐が使用不能となり、浸水して傾斜が二〇度を超えた。
そのころガダルカナル攻撃から帰投して来た攻撃隊は母艦に着艦出来ず、一部がブカ島にまわったほかは、大部分が不時着水した。
竜驤は、乗員は救助されたが、午後六時、ガダルカナル島北方約二〇〇浬の地点に沈没した。
この八月二十四日の海戦(第二次ソロモン海戦──米側呼称東部ソロモンの戦)で喪失した飛行機は、零戦三〇、艦爆二三、艦攻六、計五九である。二十五日現在残存使用可能機数、零戦四一、艦爆二五、艦攻三四、計一〇〇、前日の機動部隊保有機数一七七に較べて六割に満たなかった。
艦船被害は、空母竜驤沈没、水上機母艦千歳損傷。米空母はエンタープライズが中破した。
基地航空部隊では、二十四日早朝、ラバウルから四機、ショートランドから四機の索敵機を出したが、未帰還二機を出して、敵影は見なかった。
米軍機は、同じ日、未明から戦闘開始に至るまで、日本軍艦艇の行動するところ、ほとんど常に接触を保っていた。
敵機動部隊の撃滅と船団輸送の間接支援のために進出して来た第三艦隊(機動部隊)は、索敵に関しては基地航空部隊に期待をかけていた。基地航空部隊の方はまた、船団直掩とガダルカナル飛行場攻撃を機動部隊に依存したがっていた。結果は、相互に、どれも充分でなかった。特に索敵に関しては、米軍に較べて著しく見劣りがした。ミッドウェーで命取りとなった欠陥が、面目一新したとはとても見えなかった。
基地航空部隊の活動が不活溌に見えたことについて、十一航艦ではそれなりの理由を構えている。
ラバウル西飛行場は整備が不完全であって、一機離陸すると舞い上る砂塵のために煙幕を張ったようになり、夜間飛行施設も貧弱だから、飛行機の使用時間が限定される。この地方は天候の変化が激しいので、飛行予定地点の天候が一〜二時間で急変して、飛行困難になることが再々ある。以上の理由で活溌な活動が妨げられる、というのである。
これは十一航艦の責任というよりも、日本軍全体の兵術思想、近代化の未熟にかかわることであった。
滑走路に重油を|撒《ま》いて砂塵の防止を図り、雨が降れば泥濘となり、晴天がつづけばまた砂塵濛々となるようなことの繰り返しでは、制空権の確保などおぼつかないのは当然である。既に述べたことだが、ラバウルから五六〇浬も離れたガダルカナルにいきなり基地を推進して、中間の地歩を固めることを怠ったのが、索敵にも攻撃にも飛行時間の窮屈な制約をもたらしたばかりでなく、変化しやすい気象の影響をことさら強く蒙る原因となった。
そうはいうものの、基地航空隊が天候不良のため出撃を見合せる、あるいは途中から引き返す、または予定地点に達しても目標を捉えることが出来ずに帰投するというようなことが頻発しているときに、敵機はほとんど常にわが艦船に接触を保ち、攻撃を仕掛けて来ていた。そこには、単純に天候不良に理由を帰することが妥当であるかどうかを疑わせるほどの相違があった。
敵機の制圧下を航行するものにとっては、それが船団輸送であれ、後に述べる鼠輸送(駆逐艦輸送)であれ、毎回が決死行の反復であったから、味方の基地航空隊の支援が乏しいことに関して、それが真にやむを得ない事情によるものか否かを疑うのは、無理からぬことであったと思われる。
史料で跡づける限りでは、消極的に見えるのは基地航空隊だけではない。ガダルカナル争奪をめぐって後述するような補給の死闘が行なわれているときに、機動部隊はいつも圏外にあって母艦そのものの温存を図っているのではないかと疑えば疑えるような行動をとっていた。ミッドウェーでの大損害が否応なく機動部隊の作戦を制約したにちがいない。
公平にみて、陸・海・空の協同作戦は米軍の方が遥かに巧妙であった。ガダルカナル戦に関しては、初動の時期には、日本海軍及び航空戦力は量的に決して劣勢ではなかった。敵を侮って過少な陸兵を送り込んだことが躓きの因であった。失敗に気づくまでに、敵が強大な増援補給を完了するだけの時間が経ってしまったのである。
八月二十四日の海戦・空戦は一木支隊第二梯団と横須賀鎮守府第五特別陸戦隊のガダルカナルヘの船団輸送をめぐって生起した。
船団は二十四日昼ごろ、オントンジャワ島南東三〇浬付近に達していた。
午後二時ごろ、船団は南東方向空高く火焔と黒煙が噴き上るのを望見した。前記の空母竜驤が被爆したのである。
午後六時ごろ、船団は第八艦隊から一時西北方への避退を命ぜられた。第八艦隊としては、その日の海空戦の戦果を判定出来ず、船団護衛に自信を持てなかったのであろう。
間もなく、連合艦隊から第二梯団の二十五日揚陸決行が電令され、船団はまたもや変針南下した。
連合艦隊では戦果を我に有利と判定していた。近海の敵空母は潰滅したはずである、ガダルカナル所在の敵飛行機は守備隊長の通報に徴しても減少している上に、竜驤から行なった航空攻撃と今夜行なう駆逐艦と水偵による攻撃で、明二十五日ガダルカナルに残存する敵航空兵力は微弱であると認める、というものである。
その夜、駆逐艦四隻による砲撃と水偵五機をもってする爆撃を、ガダルカナル飛行場に加えた。連合艦隊の推測では、ガダルカナルに在る米軍機は大打撃を蒙っているはずである。
船団は低速ながらガダルカナルに近づいていた。二十五日零時二十三分、船団は敵飛行艇一機に接触されていることを知った。当夜は月明鮮やかで、視界良好、海面は夜光虫の輝きに満ちていた。
二十五日午前五時、船団はガダルカナルヘ一五〇浬にあった。船団速力は九ノット。
午前六時、二水戦司令官は入泊隊形や揚陸時の警戒配備について護衛の各艦に長い信号を発した。
突如、敵戦闘機三機が雲の切れ目から現われ、旗艦神通に銃撃を加え、つづいて僅か一機の艦上機が急降下爆撃を行なった。
見張は敵機を友軍機と見間違えていた。識別の未熟によるものか、前日来の攻撃でガダルカナル周辺に敵機の活躍はないという過早な楽観的判断に禍されたものか。完全な奇襲となって、応戦の暇もなかった。爆弾は一、二番砲の間に命中、神通は火災を起こし、弾薬庫に引火の虞れがあって漲水した。
その間に、別の敵機群が船団に襲いかかった。最も大きい金竜丸が被弾して大火災となり、ガダルカナルに揚陸するはずの弾薬が誘爆して、航行不能に陥った。
来襲したのは八機で、連合艦隊の推測によれば機能衰弱しているはずのガダルカナル飛行場からであった。小艦艇群による十分間や十五分間の、しかも夜間の艦砲射撃では、さしたる破壊力を及ぼさなかったのである。
二水戦司令官は駆逐艦睦月と哨戒艇二隻に金竜丸の陸戦隊員や乗員の救助に当らせ、他の輸送船と駆逐艦に北西方へ避退を命じた。
直掩戦闘機もなくてこのまま前進をつづければ全滅のほかなしと判断される状況であった。
金竜丸救助に当った駆逐艦睦月は、つづいて来襲したB17機の餌食となって沈没した。金竜丸はその少し前、睦月の魚雷によって処分された。睦月の救助に引き返した駆逐艦弥生と金竜丸乗船者の収容を終った哨戒艇二隻は、ラバウルヘ回航を命ぜられた。
二水戦司令官は洋上で旗艦を神通から陽炎に移し、神通は修理のためトラック島へ、船団は八・五ノットの低速でショートランドヘ向った。
連合艦隊司令長官は船団被爆の状況を知り、二十五日の揚陸は中止して北西へ避退を命令することで、護衛指揮官の処置を容認し、空母瑞鶴と駆逐艦三隻を派遣して避退中の第二梯団の上空を警戒させた。(戦史室前掲書『海軍作戦』)
転ばぬ先の杖ということがある。船団輸送が挫折してから直掩を配置するのなら、前進時に直掩を配したらどうであったか。被害はもっと大きくなったかもしれないという見方もなくはないが、来襲機が史実の示す程度ならば、この攻防に関する限り結果ははるかによかったと見る方が有力であろう。
基地航空部隊では、二十五日の揚陸に合せてガダルカナル飛行場を制圧するために、ラバウルに在る全力(陸攻二二、零戦一号一三)を午前六時──船団が攻撃を受けはじめたころ──発進させ、九時五十分ごろ──金竜丸は沈没し、救助の駆逐艦睦月も沈没、船団輸送は既に失敗していた時刻──ガダルカナル飛行場を攻撃したが、戦果は芳しくなかった。日本機来襲の十分ほど前に米機は飛行場を飛び立ち、攻撃隊が引揚げてしまうと続々と帰投着陸して、地上に在って爆撃されるとか、空戦によって撃墜されるとかの危険は極力避け、ガダルカナルヘの増援だけは確実に阻止するという戦法に徹しているようであった。
連合艦隊司令部では、二十五日の船団輸送の失敗に照らして、ガダルカナル飛行場を攻略するまでは、船団輸送をやめて、快速艦艇による輸送、俗称「鼠輸送」または「東京急行」による輸送方針を採ることに決めた。米軍上陸から二週間と五日目のことである。
これには、しかし、克服しがたい悪循環があった。戦備不十分で後手をひいて立ちおくれた日本軍としては、ガダルカナル飛行場を攻略するためには強力な増援部隊と重火器と大量の補給物資が必要であり、それを送るためには、|就中《なかんずく》、重器材の輸送のためには輸送船が必要であり、船団輸送を確保するためにはガダルカナル飛行場の攻略が必要である、ということである。
この悪循環を断つには、なるべく早期に思いきった処置が必要であった。思いきった処置には、決戦思想が必要となる。決戦は、彼我の国力の比較からみて、せいぜいよくて局部的な勝利か、悪ければ全局的な敗北を覚悟しなければならないことである。
十一航艦と十七軍は協議して、空母の直接協力の下に一木支隊第二梯団の船団輸送を強行するよう、二十五日夕刻、意見を連合艦隊司令部に打電した。
連合艦隊司令部では、しかし、第二梯団の船団輸送、機動部隊によるその上空直掩、機動部隊によるガダルカナル飛行場攻撃、いずれに対しても同意しなかった。
このとき連合艦隊としてとり得た処置としては、ブカ島(ブーゲンビル島北端に近接する島)基地の整備を急いで、そこに沈没した竜驤の残存機を揚げ、機動部隊から若干の戦闘機を補強して、ラバウルとブカからガダルカナルの敵機を捕捉撃滅するという策であった。ブカは、ガダルカナルに対して、ラバウルよりはかなり近い位置にあるが、それでも腰を引いて小手先で戦うに似た感じは拭えない。連合艦隊としては、明らかに、なけなしの空母を温存したかったのである。ミッドウェーで一線級空母四隻を一挙に失って、連合艦隊の作戦は萎縮しがちであった。
陸軍は海軍のこの側面をみて、空母三隻を持った連合艦隊が、敵大型機の発着もまだ出来ないガダルカナルに対する友軍の上陸を援護出来ないとは腑甲斐ない、と不信の念を抱いた。
海軍は作戦遂行より艦艇の安全保持に|汲 々《きゆうきゆう》としているではないか。海軍は敵の空母や戦艦以外を攻撃しようともしないではないか。海軍は敵の輸送船団を撃滅して基地奪回を容易ならしめようとはしないではないか。これらが、ガダルカナルヘ増援しようとして思うにまかせない陸軍の海軍に対する不満であった。それもしかし、奪回作戦の初動において一木支隊第一梯団僅かに約九〇〇名を送って足りるとした陸軍の軽率さが招いた一連の経過とも言えるのである。
18
一木支隊第二梯団は、既述の通り、輸送途中で敵の攻撃を避けて洋上の南下北上を繰り返し、三転四転して遂にガダルカナル上陸を一時延期して、八月二十六日夜、ショートランドに入泊した。
したがって、一木支隊の次にガダルカナルヘの投入を予定されていた川口支隊は、一木第二梯団と同時にガダルカナル上陸を行なうことになった。
川口少将がラバウルでガダルカナル奪回に関する第十七軍命令を受領したのは、八月十九日、一木第一梯団がガダルカナルに上陸した次の日である。
川口少将は翌二十日、飛行機で部隊集結地のトラックヘ飛んだ。麾下の歩兵第三十五旅団は輸送船浅香山丸と佐渡丸に乗って八月十六日朝パラオを出発、二十日朝トラックに入った。
歩兵第三十五旅団は、旅団といっても、歩兵第百十四連隊が欠けていて、旅団司令部と歩兵第百二十四連隊(長・岡明之助大佐)だけなのである。一個連隊に連隊長とその上に旅団長がいるという変則編成の支隊であった。欠けた百十四連隊の方は、シンガポールで牟田口兵団に編入されていたのである。
百二十四連隊はダバオで待機中に初年兵を受領して、定員を約一〇〇〇名も超過する部隊になっていた。編組は、連隊本部、三個大隊、歩兵砲中隊、通信隊、速射砲中隊一個、機関銃中隊一個、歩兵大隊は各四個中隊であった。
川口少将は、八月二十三日、川口支隊をガダルカナルヘ護衛する第三水雷戦隊(以下三水戦と略称)がトラックに到着すると、その司令官橋本信太郎海軍少将と作戦協定を行なった。三水戦の固有編成は、軽巡川内を旗艦として第十一、第十九、第二十の三駆逐隊(各隊四駆逐艦)から成っていたが、このときには他方面に派出されていて揃わず、旗艦川内と第二十駆逐隊(夕霧、朝霧、天霧、白雲)だけであった。
この協定が行なわれた二十三日は、まだ連合艦隊が船団輸送打切を考える(二十五日)以前であったから、川口支隊は船団輸送によってガダルカナル上陸の予定になっていた。
その航路計画は、一木支隊の場合と同じく、トラックから南東へ走航して、ソロモン諸島のイサベル、マライタ両島の中間を抜けてガダルカナルに達する予定であった。
川口支隊長の意見は異っていた。航路をトラックからグリニッチ島、ショートランド島付近を経て、ソロモン諸島の内海に採り、ガダルカナル北西約三〇浬のパブブ島に一旦上陸、そこからガダルカナルまで舟艇機動(大小発動艇)によって上陸する、という案を強硬に主張した。
その理由は、ガダルカナル飛行場は敵に占領されており、敵機が既に活動している、そこへ輸送船で上陸するというのは自殺行為にひとしい、また敵潜水艦の跳梁も考慮に入れなければならない、だから、輸送船でガダルカナルの近くまで行き、そこから舟艇機動で、昼はソロモン群島の島蔭に隠れ、夜間だけ航行すれば上陸は成功するであろう、川口支隊は、前に、英領ボルネオから蘭領ボルネオに進攻する際、この方法で成功した経験がある、というのであった。
この協議には、十七軍から越次参謀、第八艦隊から神参謀が同席していて、神参謀は、今度の上陸作戦には海軍航空隊が参加して、ガダルカナルに対して航空撃滅戦を行なうことになっているから、川口支隊到着のころには、ガダルカナルの敵飛行機は一機もいないであろう(川口清健『ガダルカナルに於ける川口支隊の作戦』)と言い、越次参謀は、軍と艦隊との間で決定したことであるから、いまさら変更など出来ない、と言った。
川口少将は容易に納得せず、橋本少将を顧みて、こう言った。
「閣下は私の部隊を護衛してガ島に無事到着する自信がありますか。あれば之に従いましょう」
温厚な橋本少将は答えた。
「マアやって見ましょう」
これで川口少将も同意せざるを得なかったという。(川口前掲書)
こうして川口支隊は八月二十四日午前十時、浅香山丸と佐渡丸に乗船したままで、三水戦護衛のもとにトラック島を出発した。ガダルカナル上陸は八月二十八日夜を予定していた。
ところが、既に述べたように、連合艦隊司令部が、ガダルカナルの敵航空兵力を掃滅し得ない限り船団輸送は困難であるから、高速艦艇輸送に方針を転換する、と二十五日に決めたことによって、一木支隊第二梯団も川口支隊も、二十五日夜、船団輸送から艦艇輸送に切り換えられることになった。
川口支隊長は、二十六日朝発せられた第十七軍司令官の命令に従って、同日夜半、歩兵第百二十四連隊第二大隊(長・鷹松少佐。第六中隊欠、連隊無線一部属)を、輸送船から駆逐艦(夕霧、朝霧、天霧、白雲の四艦)に洋上で移乗させた。はじめての経験であったが移乗作業は順調に終了、駆逐艦隊は二十七日夜上陸の予定でガダルカナルヘ向け南下、支隊主力が乗っている船団はラバウルヘ向った。
一木支隊第二梯団は、二十六日夜ショートランドに入泊したが、二水戦司令官は第二十四駆逐隊(海風、江風と配属されている磯風)に支隊人員三五〇名、速射砲四門、糧秣一三〇〇名一週間分を急遽搭載して、二十七日午前五時三十分ショートランドを出発させた。揚陸は同日夜の予定であった。
ところが、第八艦隊司令部は、二十七日の朝七時十分、右の両隊(一木第二梯団と川口支隊の一部)の揚陸を、二十七日夜から二十八日夜へ一日延期するように発令した。
その理由は、ガダルカナル飛行場には依然として敵機約三〇機が存在していることと、二十八日から二日間、第三艦隊(南雲機動部隊)からブカ島基地へ戦闘機約三〇機を進出させることになったので、その掩護を受けられるからである。
一木第二梯団を乗せた第二十四駆逐隊は、命令によって反転し、二十七日午後五時三十分、ショートランドに帰投した。問題は川口支隊第二大隊を洋上で移乗させてガダルカナルヘ向った第二十駆逐隊(三水戦)の方であった。
第二十駆逐隊が揚陸一日延期の命令を受信したのは二十七日午前九時五十分であった。そのときには、同隊は既にイサベル島北方海域に達していて、ショートランドに引き返せば燃料補給を必要とし、二十八日夜の揚陸には間に合わない事情にあった。それで、第二十駆逐隊司令はイサベル島北側海域を適当に行動しながら、二十八日早朝にショートランドを出航して来る第二十四駆逐隊(一木第二梯団搭乗)と、二十八日午後フロリダ島付近で合同したいと、増援部隊(二水戦)に申し入れた。第二十駆逐隊は、もともと航続力が少いうえに、トラック出発の際に燃料を満載する時間の余裕がなかった。このため、高速航行が出来なくて、揚陸時に間に合せるには昼間過早に敵機の攻撃圏内に入らねばならなかった。
この二十八日、基地航空部隊(二十五航戦と八月二十一日以降ラバウルに進出した二十六航戦)の陸攻一八機は、午前八時四十分、ラバウルから発進してガダルカナル攻撃に向ったが、ブカ島に揚陸した第三艦隊(南雲部隊)の戦闘機三〇機が協同することになっていたのが、進出が遅れたのと、天候が悪化したため、攻撃を中止して引き返した。
米軍機は、しかし、飛んでいたのである。第二十駆逐隊は午後二時三十分から四時十分ごろまでの間に、ラモス島付近(イサベル島東南端とマライタ島北西端との中間の小島)で、ガダルカナルから飛来した艦爆約二〇機の痛烈な攻撃を受けた。
第二十駆逐隊四艦のうち、被害がなかったのは天霧だけであった。
天霧艦長は午後四時二十分、次のように急報した。
[#1字下げ]南緯八度一三分、東経一六〇度七分ニ於テ十数機ノ爆撃ヲ受け司令(山田雄二大佐──引用者)重傷、朝霧沈没、夕霧白雲被害甚大只今救助ニ従事中。
朝霧は第一弾が右舷に命中、暗室に入って大火災となり、第二弾が前部魚雷発射管に命中、魚雷が誘爆して船体が二つに折れ、瞬時に沈没した。
白雲は罐室浸水で航行不能となった。
夕霧は至近弾によって使用不能の罐もあったが、自力航行は可能であった。
朝霧沈没による川口支隊の被害は、戦死六二名、大隊砲二門と弾薬全部が沈没した。
天霧が白雲を曳航、夕霧がこれを護衛して六ノットという低速でショートランドに向った。
同二十八日午後六時四十分、二水戦司令官は第八艦隊司令部に打電した。
「敵飛行機ノ跳梁スル現状ニ於テ駆逐艦ヲ以テスル陸兵増援ハ成功ノ算少キモノト認ム」(山田日記)
右の電信を傍受してのことかどうか明らかでないが、第二十四駆逐隊司令は、午後七時二十五分、「本日ノ揚陸ヲ断念シ引返ス」と打電して、独断で反転した。その理由は、午後七時四十分の電信によれば、「第二十駆逐隊ノ被害ニ鑑ミ敵航空兵力撃滅後ニ非ザレバ損害大ナルノミニシテ成功ノ算尠キモノト認ム」というのであった。
第二十四駆逐隊は、このとき、敵機によって発見されてはいなかった。機宜に投ずるという見方からすれば、敵機の攻撃が第二十駆逐隊に集中している時期が、第二十四駆逐隊としては突入強行の好機であったと言える。
第八艦隊司令部は、午後八時三十五分、「其ノ隊異状ナケレバ全速突入揚陸ヲ決行セヨ」と電命したが、もはや二十八日夜の上陸は困難とみて、十五分後に突入命令を取り消した。
こうして、八月二十八日のガダルカナル揚陸は失敗に終った。
19
駆逐艦による輸送の失敗は二つの問題を誘発した。一つは、十七軍司令部にほんの一時的にもせよガダルカナル放棄論が生じたこと、もう一つは、川口支隊長が舟艇機動説を固執したことである。
第十七軍司令部にとっては、駆逐艦輸送の失敗は衝撃であった。船団輸送では成功の見込みがないから、ほとんど唯一の手段と信じて行なったのが駆逐艦輸送なのである。それが失敗したとあっては、兵力輸送の方法がなくなり、ガダルカナル奪回作戦は成り立たない。引きつづいて補給問題も起こってくる。だから、いっそのこと、ガダルカナルを放棄して、一木支隊の生存者を撤収し、十七軍としてはポートモレスビー攻略に専念する方が賢明ではないかという、これは主として百武軍司令官の意見であった。
これに対して、参謀の一人は、先の駆逐艦輸送の失敗は、昼間過早に敵航空攻撃圏内に入ったのと、味方空母の協力がなかったからである、海軍も今後は空母をもって掩護すると言明しているから、駆逐艦輸送は有望である、という説であった。
海軍が空母をもって掩護すると言明したという事実は、資料の上では見当らない。
ただ、席上、第八艦隊参謀がこう言っている。次もまた不成功ならば、作戦を考え直さなければならない。海軍としてはブーゲンビル島南端に飛行場を設置して輸送掩護に協力する。それまでは、一木支隊先遣隊に補給だけをつづけることにする、と。
軍司令官がガダルカナルからの撤収を|諮《はか》ると、先の参謀は、海軍を残して一木支隊だけを引揚げるわけにはゆかない、放棄を十七軍から言い出すようなことは出来ない、と述べ、また別の参謀は、今度の輸送(八月二十九日)も不成功に終ったり、ブーゲンビル島の飛行場設置に長日月を要するようなら、撤収するか否かを、そのときに考えてはどうか、という意見であった。
結局、後述するように、八月二十九日の駆逐艦輸送は成功したので、問題の本質はなんら解決したわけでもないのに、放棄論は沙汰やみとなった。事実は、輸送問題はこの後深刻となるばかりであったが、放棄論のような弱気と見える説を主張しつづける軍人は、ほんとうはそれが賢明な策であるかもしれないとしても、ほとんどいないのである。
次は川口支隊長の舟艇機動問題である。
川口支隊長乗船の佐渡丸はラバウルから八月二十九日午前十時ごろショートランドに到着したが、その途中、七時ごろ、既述の第二十駆逐隊によって輸送された川口支隊第二大隊の被害を知った川口支隊長は、午前九時、十七軍司令部に意見具申を打電した。
状況ニ鑑ミ駆逐艦ニヨル上陸ヲ中止シ 夜間舟艇機動ニヨリ「ギゾ」(ソロモン諸島南西側列島のベララベラ島とコロンバンガラ島との中間の小島。ガダルカナル島エスペランス岬まで直線距離で約三二〇キロ──引用者)ヨリ列島ヲ躍進シツツ「ガ」島西北端附近ニ上陸ヲ敢行スルヲ有利ト認ム
右敢ヘテ意見ヲ具申ス
これが川口少将の舟艇機動説再燃のはじまりだが、既にラバウルで第十一駆逐隊に移乗していた川口支隊第一大隊主力(四五〇名)は、二十九日午前十時ショートランドを出発、ガダルカナルに向った。前夜敵機に発見されないのに反転した第二十四駆逐隊(一木支隊第二梯団の一部三〇〇名と速射砲四門)も、故障の駆逐艦磯風を除いて、第十一駆逐隊と行動を共にした(先任の第二十四駆逐隊司令指揮)。一木支隊第二梯団残部を乗せた哨戒艇四隻も午前二時ごろショートランドを出港したが、これは速度が遅いので、上陸は一日遅れの三十日夜の予定であった。
第十一駆逐隊と第二十四駆逐隊は、同二十九日午後十時三十分、タイボ岬に無事上陸した。(前記のガダルカナル放棄論はこれで沙汰やみとなったのである。)
タイボ岬から西方八キロあたりまで、一木支隊第一梯団の生き残りが確保しており、折畳舟三五隻が役に立ったという。
同じ二十九日午後一時三十分、ガダルカナル守備隊長は、米軍のルンガ泊地への増援を報告したので、第八艦隊司令部は第二十四駆逐隊司令に対して泊地攻撃を命令したが、第二十四駆逐隊司令は敵機の在空を理由として、攻撃を行なわず、陸兵揚陸後速かに撤退してしまった。前夜の反転といい、この夜の撤退といい、第二十四駆逐隊司令の行動は、上級司令部の怒りを買わずには済まなかった。
先の川口支隊長の舟艇機動意見具申を百武十七軍司令官は容認しなかったが、軍司令官側に峻厳さに欠けるところがあってか、川口支隊長は自説を固持した。
八月三十日は支隊長以下主力が上陸する予定日であったが、支隊長は艦艇輸送の準備に応じなかった。
三十日早朝、佐渡丸乗船中の川口支隊長は、前夜の艦艇輸送による上陸が成功したことを知っても、なお舟艇機動を固執して、十七軍司令部に次のように意見具申した。
舟艇機動ノ不利ナルハ「タイボ」岬附近ニ上陸シ得サルニアリ(舟艇機動は走航距離を短くする必要からガダルカナル西端部に上陸することになり、タイボ岬のように島の中央以東では距離が遠くなり過ぎる。──引用者)然ルニ国生部隊(第一大隊。二十九日艦艇輸送──引用者)ハ同地ニ上陸成功セルヲ以テ益々舟艇機動ノ必要度を増加セルモノト認ム
右の意見具申には説得力が乏しいように思われる。どうして舟艇機動の必要度が増加するのか。
同三十日、二十八日に大打撃を蒙った第二十駆逐隊がショートランドに辿りついた。部下の被害を出した第二大隊長鷹松少佐と、同行した大曾根支隊参謀から遭難状況を聞いた川口少将は、いよいよ自説を固持した。
重ねて十七軍司令部へ次のように強硬な意見具申をしたのである。
舟艇機動ニ関シテハ|田中海軍少将《ヽヽヽヽヽヽ》(二水戦司令官──引用者)|モ全然同意ナリ《ヽヽヽヽヽヽヽ》、艦艇ヲ以テスル上陸ハ途中徒ラニ貴重ナル艦ヲ失ヒ 忠良ナル部下ヲ犠牲ニシ 且大小発ナキ為上陸困難ナリ 小官「ボルネオ」ニテ五〇〇浬舟艇機動ノ経験ニ鑑ミ成功ヲ確信シアリ 実戦ハ第一線部隊長ノ意見ヲ尊重スルコト勝利ノ一因ナラスヤ 厳ニ再考ヲ要望ス
本電ニ対スル確答アル迄 支隊ハ軍ノ正式命令アル迄現在地ヲ動カス 一九四五(傍点引用者)
傍点部分の田中海軍少将云々は、二十九日、第八艦隊、十一航艦各参謀長宛ての増援部隊指揮官としての次の電文に表われている。
川口支隊長ヨリ十七軍ニ意見具申ノアリシ通駆逐隊又ハ哨戒艇ヲ以テスル同一地点ニ対スル連続的揚陸ハ敵ノ陥穽ニ陥ルノ算尠カラサルヲ以テ「ギゾ」附近迄海軍艦艇運送船ニ依リ輸送、爾後ハ舟艇機動ヲ以テスル奇襲作戦ヲ実施スルヲ可ト認ム 一九〇五
少し横路にそれる嫌いがあるが、田中海軍少将の川口支隊長への同調も一つの理由となって、田中二水戦司令官は増援部隊指揮官を橋本三水戦司令官と更迭させられるので、その経緯を略記しておく。
二十八、九の両日、ショートランド泊地はB17によって偵察され、二十八日夜、伊十五潜はサンクリストバル島南東一二〇浬に敵機動部隊を発見、二十九日午前二時三十分には、伊百二十一潜がマライタ島東方一一〇浬に機動部隊発見を報じた。
ショートランドには艦艇と輸送船が集中している折りでもあり、田中増援部隊指揮官は敵機動部隊のショートランド襲撃を懸念して、二十九日午前十一時二十分、第八艦隊及び十一航艦参謀長宛てに、増援輸送基地をショートランドからラバウルヘ移動するよう次の要望を打電した。
彼我機動部隊ノ位置並ニ敵機連日の偵察ニ鑑ミ「ショートランド」泊地ハ被空襲ノ虞極メテ大ニシテ重巡輸送船ノ在泊ハ適当ナラズ、多少遠距離ナルモ「ラバウル」方面ニ移動セシムルヲ可ト認ム(戦史室『南東方面海軍作戦』(2))
この要望にせよ、川口支隊長の舟艇機動案への同調にせよ、ガダルカナルヘの急速増援を企図している第八艦隊司令部の意図とは相反するものであった。この他にも、田中少将は、弱気と見られる慎重な意見具申を幾度か行なっていたらしい。田中二水戦司令官は、二十九日夜の外南洋部隊電令によって増援部隊の指揮を解かれた。
舟艇機動を固執する川口支隊長は、三十日午前十時ショートランド出港予定の駆逐艦移乗を拒否した。上級司令部の態度が鮮明と峻厳を欠くから、無駄な時間を費やすのである。二水戦司令官(橋本三水戦司令官到着まで増援部隊の指揮官)は川口支隊が乗艦しないので、予定の陽炎と天霧は取り止め、一木支隊の残部を乗せた夕立だけを出港させた。
この夕立と、前日同じく一木支隊の残部を乗せて出撃した四隻の哨戒艇は、三十日夜、無事タイボ岬の上陸に成功した。
十七軍司令部では川口支隊長の態度を決して快くは思わなかったが、第一線指揮官の意見であることと、現地海軍指揮官も同意している点を考慮して、軍司令官名で「艦艇と併用する一部兵力ならば(舟艇機動も)可なり」と、条件つきで認可した。
川口支隊長は、しかし、まだ釈然としなかった。軍参謀長宛てに再び電報したのである。
舟艇機動ヲ本職ニ一任セラレタルヤ 又艦艇ニヨリ上陸スヘキヤ 陸海軍約束ニ矛盾アリ 軍司令官ノ正式命令到着迄支隊ノ動カサルコト前電ノ如シ
先の条件つきの内容が明確でないから、こじれるのである。
やむなく、十七軍司令部と第八艦隊司令部は川口支隊の舟艇機動に関する覚書を協定して、それぞれ川口支隊長と田中二水戦司令官に指令した。
その内容は、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、本舟艇機動作戦ハ艦艇ニヨル上陸作戦ノ補助トス
二、上陸点ハタイボ岬附近トシ、止ムヲ得サレハ「ガ」島西北端附近トス
三、|兵力ハ最少限トシ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》為シ得ル限リ多クノ弾薬糧秣ヲ携行スルモノトス
四、使用舟艇ハ将来哨戒艇ニ積載スヘキ大発一二隻ヲ除ク陸軍舟艇トス(傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
傍点部分の「兵力ハ最少限トシ」というあいまいな表現が命令として示達されたりするから、後述するように無用の|齟齬《そご》を来したりするのである。
右の命令を川口支隊長が受領したのは、三十日午後二時三十分であった。支隊長は、ようやく行動を開始した。
十七軍司令部では、舟艇機動の「兵力ハ最少限トシ」て、歩兵一個中隊、機関銃若干程度とするように高級参謀が手紙に書いて、船舶工兵第一連隊長脇谷中佐に托して川口支隊長に伝えさせたが、川口支隊長は歩兵第百二十四連隊長岡明之助大佐の指揮する一個大隊基幹一〇〇〇名に及ぶ兵力に舟艇機動を実施させたのである。
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川口支隊長は舟艇機動に執着するのあまり、軍司令部の意図に反して、岡連隊長以下支隊兵力の三分の一に及ぶ人員を低速の舟艇に委ね、惨澹たる機動の結果(後述)、ガダルカナルの北西端に主力と遠く分離して上陸させることになった。
軍司令部では川口少将を軍紀心なき将軍として不快感を深め、のちに支隊長罷免につながることになる。
艦艇輸送と舟艇機動の結果、日本軍は求めてルンガ地区の米軍によって東西に分断される形となるため、十七軍司令部は川口支隊主力の攻撃力の著しい低下を懸念して、ラビ方面へ増援を予定していた青葉支隊の一部(歩兵第四連隊第二大隊と野砲一中隊基幹)を、海軍諒解のもとにガダルカナルに転用、タイボ岬に上陸させて川口支隊の増強を図ることにした。
これで、川口少将がガダルカナルで掌握する兵力は、約五個大隊六〇〇〇になる。
大本営では、この兵力でガダルカナルにある米軍を圧倒|殲滅《せんめつ》することが出来ると考えていたようである。所在敵兵力の測定については、一木支隊が呆気ないほどの潰滅をしたにもかかわらず、まだ根本的な再検討が加えられず、二〇〇〇乃至三〇〇〇という過小評価が先入主となっていたことは、中央出先を問わず一般であった。不思議としか言いようがない。
八月三十日午後七時三十分、川口少将は支隊命令を発したが、その第一項に「ガ島ノ敵兵力ハ戦車約三十輛、十五糎級砲四門、迫撃砲、機関銃多数ヲ有スル約二〇〇〇ニシテ 其ノ第一線ハ中川(イル川)右岸ニ 一部ハコリ岬附近を占領シアルモノノ如ク 飛行場ニハ十数台ノ攻撃機ヲ有シ 国生部隊(第一大隊。二十九日夜タイボ岬に上陸──引用者)ノ上陸ヲ妨害セル外東方洋上ノ航空母艦ヨリ中型爆撃機時々飛来シアリ(以下略)」とある。川口少将も当面の敵兵力を下算していたことでは、二十一日に全滅した一木支隊の場合と異るところがない。
川口支隊主力は八月三十日午後八時ころから駆逐艦に移乗し、三十一日午前八時ショートランド泊地を出発した。輸送人員は支隊長以下約一二〇〇名、駆逐艦は八隻であった。
この艦艇輸送は敵の攻撃を受けることなく、八月三十一日午後九時三十分、タシンボコ(タイボ岬西方約二キロ)上陸に成功した。川口支隊長は直ちに先着の第一大隊(前出の国生部隊)と一木支隊を指揮下に掌握した。
艦艇輸送は第一次(八月二十八日)が大失敗に終っただけで、舟艇輸送を固執した川口支隊の艦艇輸送は皮肉にもその後順調に進捗した。舟艇輸送の方は、後述する通り、決して成功とは言えない結果に終るのである。
九月一日夜、駆逐艦四隻で川口支隊第一大隊残部四六五名が、九月二日夜には、敷設艦津軽と駆逐艦二隻、哨戒艇二隻で、野砲、高射砲、人員(約一五〇名)と弾薬糧秣が輸送され、揚陸に成功した。
先にふれたニューギニアのラビヘ充当を予定されていて、急遽ガダルカナルヘ転用と決った青葉支隊の一部、歩兵第四連隊第二大隊(長・田村昌雄少佐)は、九月四日、一木支隊残部とともに、駆逐艦各三隻から成る二輸送隊によってタイボ岬へ送られ、これも無事上陸した。
輸送駆逐隊は、揚陸後、ガダルカナル飛行場を砲撃して、飛行場は約一時間燃えつづけていたが、敵機の活動を封ずることは出来なかった。
九月五日夜には、駆逐艦五隻で、人員三七〇名と弾薬糧秣をタイボ岬に揚陸した。
九月七日夜には、駆逐艦三隻が野砲兵第二連隊第一中隊をタイボ岬に、別の駆逐艦二隻が海軍通信部隊をガダルカナル北西端のカミンボに揚陸した。
このころ、米軍は、日本軍とはちょうど反対の方法によって増援を図っているようであった。少数の輸送船が駆逐艦に護衛されて、白昼入泊、荷役を完了して、明るいうちに出港してしまい、日本海軍の夜襲を避けていた。日本艦艇は、白昼ガダルカナルに接近出来なかったのである。
九月七日の輸送で、一木支隊の残部と青葉支隊の一部を含む川口支隊の艦艇輸送は終了した。舟艇機動は別記するが、ガダルカナル作戦開始以来、輸送人員は陸軍約五四〇〇名、海軍約二〇〇名、使用艦艇は各種延べ五〇隻に達していた。
川口支隊の兵員の艦艇輸送は第一次を除けば順調に進捗したが、九月七日までにガダルカナルに輸送出来た主要兵器は、高射砲二門、野砲四門、連隊砲(山砲)六門、速射砲一四門、糧秣は一木・川口両支隊の給養兵額の約二週間分に過ぎなかった。(戦史室前掲書『陸軍作戦』)
この輸送問題には、川口支隊以後ひきつづいて第二師団、第三十八師団と増援兵力の逐次投入を行なうにしたがって、人員・艦船・航空機・器材・物資のすべてにわたる損耗の度を深め、日本全体としての戦力の根幹にまで深刻な影響を及ぼすことになった禍因を、そもそもの当初から含んでいた。
前にも触れたことだが、海上輸送は制空権の確保なしには失敗は必至といってよかった。低速の船団輸送では敵の航空機攻撃圏内の航行時間が長いから、全滅的な打撃を蒙る公算が大である。ガダルカナルが米軍に占領され、その飛行場を米軍が使用し得る限り、低速船によるガダルカナルヘの接近は、船舶・人員・資材を海底に葬ることにひとしかった。したがって「鼠輸送」と称せられる高速艦艇(駆逐艦)によって夜間に敵機の攻撃圏内に入り、泊地に進入・揚陸して、天明までになるべく遠くへ離脱する方法をとらざるを得なかったが、駆逐艦の輸送力には狭い制限があった。駆逐艦一隻につき、人員一五〇人、物資は一〇〇トンが基準であり、人員に関しては体重と装備を合わせて一人当り一〇〇キログラム以内である。これは、輸送中に海戦となった場合高速で走る艦の復原力にかかわる制約なのである。さらに、これも既に触れたことだが、駆逐艦は輸送用に出来てはいないから、搭載にも揚陸にも重機材を扱う手段がなく、せいぜい山砲以下の歩兵用重火器に限られる。前記の野砲、高射砲の輸送と揚陸は敷設艦津軽によって行なわれたのである。
輸送艦艇が幸い泊地に進入し得たとしても、揚陸作業はほとんど敵機の接触の下で行なわねばならないから、泊地に待機している発動艇(大発・小発)の数によって作業の成否が左右されることになる。その発動艇は昼間は泛水しておくわけにはゆかない。敵機に発見されれば銃撃され、破壊されてしまうからである。昼間は陸上に引き上げて匿すように努力しても、大小発の被害は甚大だったのである。
こういう悪条件の下での艦艇輸送では、どうしても揚陸しやすい歩兵部隊中心の人員輸送に限定されがちであった。火力を構成する砲とか戦車、弾薬糧秣の大量輸送は船団輸送に頼らなければならない。
だが、輸送船は敵機に捕捉される。敵機の活動を封ずるための日本軍航空基地からの攻撃は、距離の遠大と天候の不良に妨げられて、戦果の報告ほどには実効が上らない。海軍機動部隊は敵機動部隊の出現を常に懸念して、敵基地攻撃に関しては活溌でない。むしろ、敵基地からの攻撃圏に近づくことは避けている。ガダルカナル飛行場に対する地上攻撃は大量の増援補給なしには兵力火力が乏しくて、如何ともし難いという既述の悪循環に陥るのである。
少し先走るが、輸送補給は、やがて、十を送って三を揚げ、僅かにその二を利用し得るに過ぎないという状況がつづくことになる。
問題は論理的には簡単であった。ガダルカナルを中心とするソロモン戦局を決するのは航空戦力であった。大本営ではソロモン戦域での航空兵力の優越を信じていた。敵を過小評価するのは日本軍の思考の習慣的な欠陥だが、ガダルカナル基地にはせいぜい小型機三〇|乃至《ないし》四〇機の敵機しかいないと推定していた。この他に基地支援可能な態勢にある米空母がサンタクルーズ諸島付近に一隻乃至三隻、もし三隻ならばそのうち二隻は第二次ソロモン海戦によって損傷しているであろう。さらに、八月末、サンクリストバル島付近に空母二隻発見を潜水艦が報じていた。
ガダルカナル奪回のための増援補給にとって最も警戒を要するのは、ガダルカナル飛行場(ヘンダースン飛行場)に在る米軍現有機数だが、日本軍は八月三十一日のそれを、二三機、補充予想を約三〇機と見積っていた。実際には、同日の在ガダルカナル作戦可能機数は六四機であったのである。
日本軍側はどうかといえば、八月二十九日で基地現有機数八五、三月中旬ごろまでに補充集中可能なものとの合計は二三六機。川口支隊の攻撃開始予定(九月十二日ごろ)には、戦闘機一〇〇、陸攻約六〇が作戦可能であると見込んでいた。(実際には空地協同作戦など綿密周到な配慮と準備がなされた形跡がない)この他に機動部隊には大型空母瑞鶴・翔鶴が健在で、その搭載機数合計七九、九月中旬補充予定二七機であった。
これだけあれば、ソロモンの空で米空軍を圧倒出来ないはずがない、そう考えていた。
事実は、しかし、そのようには進展しなかったのである。
問題は何処にあったか。最低限、次のようには言えるであろう。基地と戦場との距離に問題があり、基地推進の際の設営能力に関して事前の考慮も準備もなされなかった点に、空戦の敗因が既にひそんでいた。
日本軍の使用し得る飛行場はラバウル(東と西の二つ)とカビエンのほか、ブカ島に一部の戦闘機基地(既述の通り艦載機を揚げていた)があるだけで、ブーゲンビル島のブイン飛行場設営が発令されたのが九月八日、その一部がようやく使用可能になったのが十月八日のことである。すべてが後手にまわっている。
これも前に再三触れたことだが、ラバウルからガダルカナルまでは五六〇浬、ブカやブインからは三〇〇浬離れている。ために、米機は戦場上空に数時間滞空して活動出来るのに、日本機は十五分しか戦場にとどまれないのである。その上、距離遠大のため、変りやすい南方の天候の影響を受けることが多く、せっかく基地を発進しても空しく引き返すことが、これは無気力なのではないかと疑いたくなるほどの頻度であった。
輸送揚陸を完うするには上空直掩機の配置が必要である。仮りに、ガダルカナル揚陸作戦の際、その上空に一八機内外の直掩機を終日配置するとすれば、三〇〇浬離れたブカまたはブインからでさえ、延べ二〇〇機を休みなしに操作しなければならない勘定になる。それだけの機数を常時揃える余力はなかったのである。まして、五六〇浬離れたラバウルからでは全然問題にならない。
要するに、尖端根拠地ラバウルから五六〇浬という飛行機の航続性能上限いっぱいの距離にあるガダルカナルに、基地を設営しようとした作戦の発想に悲劇の発端があった。次いで、奪回のため中間基地をガダルカナル近くに推進したくても、設営手段が原始的で、航空消耗戦の速度に到底追いつけなかったことが、悲劇をどれほど深刻にしたか測り知れない。
広大な飛行場の建設など人力の手に負えるものではない。設営の速度を決するのは設営用の重機械である。ブルドーザー、パワーショベル、スクレーパーなど、必要な重機械はそれを最も必要とする前線にはほとんどなかった。日本の土木は手の土木であった。失業救済の次元で考えられ、そこにとどまって、設営機械に関する研究と開発が等閑視されていた。一朝有事となっても、技術の準備と研究の甚だしい不足を早急に補うことは出来なかった。
したがって、必要な場所に必要期限内に飛行場を建設して作戦に間に合わせることが出来ず、みすみす敵機の跳梁に任せることになるのである。
大本営が信じた日本空軍の優越は夢でしかなかったのだ。当然である。天皇制下に、その絶対性に依拠し、合理性を排除してはびこった軍部官僚主義に、現実的な認識も、柔軟迅速な対応処置も、可能であるはずがなかったのである。
日本海軍の前進基地ショートランドからガダルカナルのタイボ岬まで約三〇〇浬、ここを航行する日本艦艇は、ほとんどいつもB17の哨戒圏を航行することになり、一度接触されると、ガダルカナル基地へ通報され、基地からの攻撃機が有効に襲いかかってきた。
一方、米軍は、ガダルカナルの泊地に輸送船が随時入泊して、白昼堂々と揚陸作業を行ない、終了すると遅滞なく出港して、日本海軍の夜襲を回避した。
彼の補給は自在であり、我は補給に難儀をきわめる。同時並行的に作戦が行なわれていた東部ニューギニアでも、事態は同じであった。
補給難に苦しんだ日本軍に関して、次のような記録がある。
「現地の兵隊の人相が変っていた。弾薬など見向きもしないのだ。暗いハッチのなかで、米はどこだ! 味噌はどこだ! と目の色をかえて、上積みの弾薬をはねのけている」(海上の友編集部編『武器なき海』──日本商船の戦時記録)
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時間が多少あともどりすることになるが、歩兵第百二十四連隊長岡大佐が指揮する舟艇機動部隊の経過を辿ることにする。この部隊がガダルカナルに無事上陸することによって、川口支隊の兵力は勢揃いすることになるのである。
岡大佐は、八月三十一日午後五時、ショートランドに碇泊中の佐渡丸で、舟艇機動に関する計画と部署を発令した。
川口支隊長の舟艇機動の航路計画は、ソロモン諸島の南側列島沿いに、まず、ショートランドからギゾ島(ベララベラ島とコロンバンガラ島の中間の小島)まで輸送船で行き、そこで舟艇に移乗する。ギゾからニュージョージア島北岸モンゴウ通路を通り、ガッカイ島に至り、ラッセル諸島を経てガダルカナルに到達する、仮泊地五カ所の予定である。
岡大佐は、しかし、この航路計画を採らなかった。彼は第三水雷戦隊と協定の結果、ソロモン諸島の北側列島の内懐に航路を選んだ。ショートランドからイサベル島西端に近いロング島付近まで輸送船で行き、そこで舟艇に移乗、イサベル島南岸に沿って、セントジョージ島北側水道を通り、そこからガダルカナル北西角のカミンボに上陸するという計画である。この計画では、仮泊地は三カ所であった。
結果を先に言えば、岡大佐の舟艇機動は大損害を蒙った。それを、川口少将は次のように言っている。
「舟艇機動は初めはうまくいったが残念なことに最後のコースで失敗した。私はラッセル島から|ガダルの西北端に向う様指示しておいた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。之なら夜のうちにガダルにとりつくことができる。又汐の関係もよい。然るにどういうわけか未だに分らぬのだが岡大佐はイサベル島を経て来た。その結果最後の日の夜明け迄にガダルに着くことが出来なくて日出以後航海した為、敵飛行機に発見せられ、その攻撃を受け、損害を受け(以下略)」(川口清健『真書ガダルカナル戦』──〈特集文藝春秋〉昭和二十九年七月号──傍点引用者)
傍点部分の「ガダルの西北端に向う様指示しておいた」というのは誤りである。支隊命令では、上陸点を「タイボ岬止むを得ざればガ島北西端付近」と定めてあった。しかし、列島の南側と北側のいずれのコースをとるにしても、鈍足の舟艇でルンガ沖を通過してタイボ岬に向うことは、はじめから至難の業とわかっていたから、岡大佐は上陸点を北西端と定めていたのである。
川口支隊長がソロモン諸島南側列島沿いの舟艇航路を計画したのは、最終コースのラッセル島からガダルカナル島までの距離が、北側航路の最終コースであるイサベル島からガダルカナルまでの距離よりはるかに短くて、ラッセル島を夕刻出発すれば舟艇の鈍足をもってしても翌払暁までにはガダルカナルに達着出来ると考えられたからであった。
だが、岡大佐が選んだ北方航路は、南方航路の五日の仮泊に較べて三日の仮泊で事足り、それだけ敵哨戒機に発見される危険度が少い、と地図の上では考えられたし、南方航路の第四日目仮泊地のガッカイ島から最終仮泊地のラッセル島までの距離は、北方航路の最終コースであるイサベル島からガダルカナル島までの距離とほぼ同じくらいであるから、イサベル─ガダルカナル間が発見される危険度が高いとすれば、ガッカイ─ラッセル間も同様であって、ガダルカナルからの航空攻撃圏に入ってしまっているのである。
したがって、川口少将のいう南方航路をとれば、舟艇機動は成功したであろうとは言えないことになる。
どの航路をとるにしても、また舟艇機動がガダルカナル北西端までは成功するとしても、支隊主力が上陸集結するタイボ岬付近へ、支隊兵力の三分の一に達する舟艇部隊が米軍泊地のルンガ沖を敵前機動して行くことはほとんど不可能である。つまり、舟艇機動を行なえば兵力を東と西に分断される結果となることは、はじめから明瞭なはずであった。それにもかかわらず、川口支隊長は舟艇機動に兵力の三分の一を割いたのである。十七軍司令部がこれを諒とするはずがなかった。
岡大佐指揮する舟艇機動部隊は佐渡丸と浅香山丸で、駆逐艦二隻に護られ、九月一日午前六時、ショートランドを出港、夕刻、ロング島(イサベル島西方端に近い小島)南方海上で舟艇移乗を開始し、九月二日午前四時三十分までに第一仮泊地ロング島南岸に舟艇群を集結した。
使用舟艇は、高速艇甲乙各一隻、大発二八隻、小発三一隻、搭載人員約一〇〇〇名であった。
機動は夜間機動、昼間は島蔭に潜伏するのである。せいぜい一四、五キロしか速度の出ない、耐波性にも問題がある大小発で、長時間をかけて機動することは、急速増援を必要とするガダルカナルの状況には全く合わないことであるのは明らかであるのに、それを固執した川口支隊長と、渋々ながらそれを認めた十七軍司令部の認識と判断はおかしかったと言わなければならない。
舟艇部隊は九月二日午後三時ロング島南岸を出発、第二仮泊地へ向った。水路|嚮導《きようどう》のために川元海軍中尉がこの陸軍部隊に特派されていた。九月二日の午後は強風と豪雨で舟艇群は荒れ狂う海に翻弄された。
第二仮泊地であるフィンナナ島(イサベル島中央部南岸に近い小島)の北岸に到着したのは、九月三日午前四時ごろであった。
同島を三日午後二時出発、第三仮泊地をセントジョージ島(イサベル島東南端部に近い島)の北岸から南岸へ予定変更して、九月四日午前四時ごろ同地に到着した。
ここまでは、海は荒れたが、無事であった。問題は最終コース、セントジョージからガダルカナルまでである。
九月四日、午前九時十分ごろ、北方から飛来した飛行機が、所在を秘匿している舟艇群の上空を旋回して、南方へ去った。敵偵察機に発見されたのである。
三十分後、戦闘機と軽爆撃機計一三機が襲いかかり、銃爆撃を加えた。避退することも出来ない。舟艇部隊は機関銃で応戦したが、舟艇の損害は三分の一にも及んだ。
岡大佐は、しかし、機動続行の決意はゆるがず、ガダルカナル島カミンボ湾(エスペランス岬の北西方約六・五キロ)上陸の部署を、九月四日午後四時十五分発令した。
舟艇の損傷は応急修理を施して、午後六時最終コースヘ乗り出す予定であった。
午後五時舟艇移乗を開始したが、折り悪しく干潮のため珊瑚礁が障碍物となって、離礁も発進も出来ず、午後七時半ごろようやく出発準備を終った。
部隊がセントジョージ島南端から暗黒の海洋へ乗り出したころ、風浪は次第に激しくなった。波は高く、舟艇の舷を越えて海水が落ち込み、応急修理をした弾痕からも容赦なく浸水した。海水を掻き出すことが必死の戦いであった。
エンジン故障が多発した。方位も失った。浸水は休みなくつづいた。六〇隻に近い舟艇群は支離滅裂となった。岡大佐の乗艇も故障を起こして、はぐれてしまった。
ガダルカナルのカミンボ湾への上陸予定は九月五日午前三時であった。そのころ、東の空が白みかけてきたが、舟艇群は散り散りになり、目的地の島影も見えなかった。
午前四時二十分、水平線上に幽かに山頂が見えた。めざすガダルカナルであった。
明るくなってきた。天明までに上陸することは出来なかったのである。午前四時四十分、二機の敵機が現われ、高度約一〇〇〇メートルで舟艇上空を旋回した。
十分後、戦爆連合の編隊が襲いかかった。舟艇部隊の尖兵梯隊に位置していた第二大隊長鷹松少佐は各種銃火器で対空戦闘を命じ、各舟艇は対空射撃をしながら陸地へ急いだ。鷹松少佐はこの戦闘間に頭部に命中弾を受けて戦死したが、苦闘約一時間、船舶工兵第一連隊長脇谷中佐の舟艇がまずマルボボ(カミンボから南西へ約四・五キロ)に辿り着いたのは、九月五日午前五時四十分ごろであった。各舟艇も脇谷中佐の指揮艇につづいたが、このときマルボボに達着した舟艇が何隻であったか、明らかでない。
故障のため落伍した岡大佐の舟艇は、浸水と戦いながら天明を迎え、午前九時二十分ごろ、カミンボから南西ヘ一一キロも隔ったガバンガに到着した。
舟艇部隊の主力(第二大隊)は逐次マルボボに集結していた。岡大佐の一行がガバンガから舟艇で移動してマルボボに到ったのは五日午後六時ごろであった。
敵機は九月六日朝から、終日、マルボボ付近のジャングルに退避集結した岡部隊の舟艇に対して攻撃を加えたが、舟艇以外の損害は軽少であった。
十三設の岡村隊長が連絡に来て岡大佐に会ったらしいから、川口支隊が東西に遠く分離上陸した状況もほぼ判明したであろうと想像される。
九月六日午前九時ごろ、カミンボ東北東約三キロのピザレに上陸した通信隊から、舟艇部隊の一部が前日(五日)の天明後、サボ島に上陸しているという報告があった。
部隊主力から、六日夜、大発をサボ島へ派遣したが発見出来ず、翌七日再び行なって救出し、マルボボに合流した。
舟艇機動が完了したと思われる九月六日、七日ごろ、岡大佐が果してどれだけの兵力を掌握出来たか、逆に言えば、舟艇機動による人員損失がどれだけであったか、記録は残っていないようである。
舟艇機動は、客観的にみて、失敗であったと言えるであろう。辛労多く、危険を冒し、時間を費やし、支離滅裂となってガダルカナル海岸各地点に辿り着いて、得たところはほとんどなく、その後の作戦にも支障を来すことになったのである。
舟艇機動を実施した部隊のうち、セントジョージ島を出発して、風浪に翻弄され、かろうじて陸地に辿り着いたら、そこは出発したはずのセントジョージ島であり、航行中に舟艇が破損し、装具等を海中に投棄したため、余儀なくブーゲンビル島まで引き返して再挙を期した部隊もある。このとき、破損した舟艇に乗りきれずに、二八名(連隊砲中隊)をセントジョージに残して、遂にそのままになってしまったという出来事もある。
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川口支隊の各部隊が相次いでガダルカナルに上陸集結していたころ、九月五日、第十七軍と連合艦隊との間で作戦協定が行なわれ、ガダルカナルの米軍兵力に関して改めて検討が行なわれた。
米軍来攻当初の戦闘員が二〇〇〇乃至三〇〇〇という推定は依然として大した変りはなかったが、八月三十一日以降ルンガ泊地に入泊した敵艦船は、駆逐艦等二〇隻、輸送船六隻で、戦闘員は約五〇〇〇がガダルカナルにいるものと判断された(ツラギは別)。重装備は戦車二〇乃至三〇輛、十五センチ砲数門という推定であった。(戦史室前掲書)
右の評価も事実と較べれば過少であるが、十七軍司令部が右の推定に基づく敵兵力に対して、川口支隊の兵力では、ガダルカナル奪回には不十分ではないか、という疑念を抱くようになったことは、とかく敵を軽視しがちな日本軍として珍重すべきことであった。
十七軍司令部は川口支隊長に宛てて、
「現兵力ニテ十分ナリヤ 青葉支隊ノ一部及中央ヨリ送附ノ特殊資材ヲ十六日『タイボ』岬ニ送ル用意アリ」
と照会電報を打った。
これに対する九月六日の川口支隊長の返電は次の通りであった。
「現兵力ニテ任務完遂ノ確信アリ 御安心ヲ乞フ 予定ノ如ク十二日攻撃ヲ行フ 十二日ハ月ナク夜襲ニ適ス 攻撃日時ノ遷延ハ最モ不利ナリ」
と、自信満々としていた。敵情を熟知した上での自信ならよかったが、そうではなかったのである。
川口少将は、後日、次のように書いている。
「敵の海兵一師団以上の優勢に対してこちらは僅に五個大隊、砲とは云え、それは名のみの御軽少なものが十二門しかない。(中略)
然し今更泣言を言うべきではない。敵に勝つ途は何か? 正攻法では勝目はない。一木支隊の真似をしては駄目だ。
そこで私は敵の背後に潜入して夜襲に依って一夜の中に雌雄を決しよう、戦闘が翌日昼に及べば優勢な敵の火力でこちらが潰されると考えたのである。(以下略)」(川口前掲書)
前記十七軍司令部への川口支隊長の返電中にある「確信」は、敵情を知らず、知る努力も払わぬうちの自己過信でしかなかったのである。
九月六日、川口支隊長は十七軍司令部に威勢のいい攻撃計画を報告している。少し長いが、敵情が全くわからぬうちから如何に楽観していたかがよく窺えるので、引用する。
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一、支隊ハ九日夜ヨリ南方ジャングルヲ迂回シ 十二日十二時迄ニ攻撃準備ヲ完了 十六時ヨリ攻撃ヲ開始シ十七時一斉ニ夜襲 翌十三日払暁迄ニ全陣地ヲ蹂躙ス
主攻撃方向ヲ南方ジャングルヨリ北方飛行場ニ指向ス
二、熊大隊(一木支隊残部ヲ以テ編成)ヲシテ飛行場東方中川左岸敵陣地ノ背後ヲ攻撃セシム
三、主力(歩兵三大隊基幹)ハ南方ジャングルヲ迂回シテ飛行場南方二粁ニ攻撃ヲ準備シ 飛行場附近ノ要地ヲ奪取後設営隊宿舎方向ニ突進ス
四、岡部隊(舟艇機動部隊)ハ海岸方面ヨリ飛行場西側ノ橋梁方向ニ攻撃ス
[#ここで字下げ終わり]
川口支隊長はジャングルを迂回して夜襲する作戦の成功を疑わなかった。迂回作戦をとることにしたのは、海岸道を西進してイル川の敵陣地を東から渡河攻撃するのは、一木支隊同様の打撃を蒙ることになると判断したからである。だが、ジャングル迂回がどれほどの難事業であるかについての認識は浅かったと言わねばならない。
さらに指摘しておかなければならない重要なことは、戦術思想的にみて、迂回や夜襲という日本軍の常套的戦法の次元に思考がとどまっていて、海・空・陸三者の立体的協同作戦が全く考えられていなかったことである。八月七日の米軍上陸には既にその戦法が採られていたにもかかわらず、日本軍の奪回作戦には、艦砲射撃と空襲、それに連繋する上陸作戦という方式は考慮の外にあった。
川口支隊の攻撃に関しては、支隊の一夜の夜襲によって飛行場の奪回が可能であるという前提に、陸海軍共に立っていた。川口支隊が夜襲で飛行場を奪取する。それにつづいて第八艦隊が泊地に突入する。第二、第三艦隊は来援するであろう米艦隊主力と決戦する、という構想である。
その決戦には、海軍根拠地のトラック島から決戦海面までの距離が長いために、燃料補給の必要という時間的制約があった。
したがって、川口支隊の攻撃開始をいつにするかが重要な問題となった。
川口支隊長は先に記した攻撃計画では攻撃開始を九月十二日夜と報告したが、前進行動を起こしてみると、連日の降雨で河川は氾濫し、地面は泥濘と化し、前進が意のままにならず、弾薬糧秣の集積が難渋した。
支隊長は、前進に予想外の時間を費やすことを知って、九月七日午前六時過ぎ、攻撃開始を先の十二日から十三日に予定変更するよう十七軍司令部に報告した。
川口支隊長は各部隊長をテテレ(タイボ岬から西へ直線距離で約一五キロ)に集合させ、九月七日午後一時、飛行場を主目的とする敵陣地攻撃計画を示達し、攻撃準備位置へ進出する各部隊の機動を部署した。
各部隊の行動要領は「十日未明ヨリ『コリ』岬(先のテテレよりさらに西へ約七キロ)附近ヲ基点トシテ南方『ジャングル』内ノ迂回ヲ開始 十三日十二時迄ニ攻撃準備ヲ完了シ十六時攻撃開始 十七時一斉ニ夜襲ヲ行ヒ翌十四日払暁迄ニ全地ヲ蹂躙ス」るというものである。
右翼隊は熊大隊(一木支隊残部)
中央隊
右第一線攻撃部隊 歩一二四の第三大隊
左第一線攻撃部隊 歩一二四の第一大隊
第二線攻撃部隊 青葉大隊(歩四)
左翼隊 歩一二四の第二大隊(舟艇機動部隊)
砲兵隊 熊連隊砲中隊、熊速射砲中隊、独立速射砲中隊、歩兵一中隊(機関銃一小隊属)
支隊主力とは反対のガ島西北端部に辿り着いた岡部隊(舟艇機動部隊)へは無線連絡をとったほか、中山中尉以下四名の伝令が中央部の敵地を突破して連絡に赴き、マタニカウ川西方地域を東進しつつあった岡連隊長との連絡に成功した。攻撃開始を予定されていた日のことである。
川口支隊は攻撃開始を九月十三日として動き出そうとしていた。
その七日、第十七軍司令部に大本営から次の参謀次長電が入った。
海軍ノ通報(特情、確度甲)ニ依レハ八月二十八日頃「ハワイ」ヲ出発セル敵海兵搭載ノ有力ナル輸送船団ハ九月五日「フィジー」島ニ到着セル由 右ニ鑑ミ川口支隊ノ攻撃開始時期ノ繰上ケニ付更ニ検討相成度為念
十七軍司令部は直ちにこの情報を川口支隊に通報し、「軍ハ為シ得ル限り速カニ攻撃ヲ開始シ度希望ナリ 支隊ノ攻撃日次繰上ノ能否至急返アリ度」と打電した。
この電報が川口支隊司令部に届いたのは、七日午後九時ごろのことであった。
これについて川口少将はこう言っている。
「之は後から考えると大変な影響、それも最も悪い結果を齎らした運命の電報であった。
この軍の電報に対し一日繰上げ十二日夜、夜襲するという返事をせざるを得なかったが、之がいけなかったのである。夜襲失敗直接の原因となったのだ。大きく言えば日本に大変な不幸を招いた戦いになった。」(川口前掲書)
実際には、川口支隊長は、八日、軍司令部に対して次のように回答している。
「攻撃実施ヲ十二日ニ繰上ケ 尚密林通過第一日ノ状況ニ依リ更ニ一日繰上クルコトアルヘク、支隊主力ハ明九日朝ヨリ密林ヲ迂回スル」
右は、十七軍司令部の要望に渋々応じたようには見えない。功にはやっている指揮官の姿が窺われるようである。
密林の状況次第では遅れることもあり得るという点についての配慮は全くなされていない。遅れるかもしれないということへの配慮などを表わしたら、忽ち消極的だとして声価を落すのが、日本軍にはよくあることなのであった。
九月八日午前四時、川口支隊長は、各隊の攻撃準備位置への前進開始を一日繰り上げる命令を下達した。
各隊の行動開始は八日薄暮からである。中央隊の前進順序は、右第一線攻撃部隊(第三大隊)、左第一線攻撃部隊(第一大隊)、第二線攻撃部隊(青葉大隊)、各部隊間の距離は五〇〇米とし、コリ岬付近からナリムビュー川に沿って南下、ジャングル内を迂回する要領である。
川口支隊長は八日午前十一時テテレを出発する予定であった。
そのとき、予期せぬ事態が発生した。川口少将自身がこう誌している。
「愈々テテレ出発という日、上陸地点に残してある糧食の監守等の為に居った大澤主計少尉が息せききって駈けつけて来た。その報告に依ると『昨夜、何の予告もなく仙台師団の野砲兵第二聯隊の一中隊が上陸して来ました。爾後暫くして軍艦と輸送船が同じ所に来ました。始めは友軍か知らと思っていましたが、それは敵であったので、基地に居た患者や其他の者も応戦しました。上陸したばかりの野砲兵中隊も射撃しましたが、敵兵力が数倍である為、野砲四門は敵に奪われ、チリヂリになって退却しました。今後どうしたらよろしいか、御指示を願います』というのである。(中略)大澤少尉の報告で腹背に敵を受けたことを知った。
が、この際どうすることも出来ない。この敵を放っておいて予定通り敵の背後に向って進むあるのみである。」(川口前掲書)
支隊長は、野砲兵第一中隊長萩原大尉に歩一二四の第七中隊半部と、独立工兵第二十八連隊の一小隊、その他タシンボコ付近の残置部隊を併せ指揮して、敵の前進を拒止させ、支隊主力の前進を急がせた。
先の大澤報告にある野砲四門というのは、実は、駆逐艦による揚陸の際、時間がなくて、二門しか揚げてなかったらしい。弾薬も一〇〇発ぐらいしか揚陸出来ず、野砲兵中隊は機関銃で応戦したが、戦力的に全く拮抗出来なかった。
川口支隊長は、午前十時三十分、タイボ岬方向の銃砲声が激しくなったので、第三大隊長に、歩兵一個中隊(第十中隊)と機関銃一小隊をパレスマ川(タシンボコから西へ直線距離で約七・五キロ)に派遣し、支隊主力の背後を掩護するように命令した。
この敵は、川口少将の記述によると、第三大隊の一部兵力を「約二時間(パレスマ川に)残置して敵の来攻に備えしめたが、敵はタイボ岬附近より敢て前進して来なかった」という。
この敵は、輸送用に改造された駆逐艦二隻と特設哨戒艇二隻に分乗した海兵二個大隊で、八日夕方再び艦艇によってタイボ岬から去っている。
第十七軍司令部は、八日、川口支隊長からの報告によって、支隊背後に敵が上陸したことを知って、直ちに対策を協議したという。五六〇浬も離れているラバウルで討議しても急場の間に合わないわけだが、次のようなことであったようである。
参謀の大部分は、各個撃破の原則によって、まずタイボ岬方面の敵を撃破すべしという意見であったが、松本参謀は飛行場攻撃案を主張した。理由は次の通りである。
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一、飛行場を一刻も速かに奪取する必要がある。今後の日米両軍の対ガ島増援競争で、飛行場を確保しなければ成算が立たない。止むを得ない場合でも、敵の飛行場使用を不能にしなければ、今後の作戦に大きな支障を来す。
二、川口支隊の現有糧秣では、タイボ方面の敵を撃破してから、反転して飛行場を攻撃する余裕はない。
三、川口少将の性格からみて、その決心変更を要求しても好結果は考えられず、作戦の勢を削ぐことになりかねない。
四、タイボ方面の敵を撃つのも一案というような意見を軍から出すことは、徒らに支隊長を迷わせるだけである。
[#ここで字下げ終わり]
二見参謀長はタイボ岬の敵を討つ意見であったが、現地の事情は川口支隊長が最もよく知っているはずであるのと、その性格を考えて松本参謀案に同意したという。(戦史室前掲書)
十七軍司令部は川口支隊長に激励電を打ち、十一航艦に対して即時爆撃を要求した。十一航艦は航空機の整備中で、十七軍の要求に困惑の色を示したが、出来るだけ出すという返事であった。
結果的には、午後になって、一機も出せないということに終った。
川口支隊は背後を敵に脅かされながら前進を開始したが、十七軍司令部は先に川口支隊長が「攻撃実施ヲ十二日ニ繰上ケ 尚密林通過第一日ノ状況ニ依リ更ニ一日繰上クルコトアルヘク……」と報告したのを、過早に楽観的に攻撃開始を十一日と判断し、連合艦隊司令部にそのように通報した。現地事情を知らない、知ろうともしない、司令部参謀の軽率としか言いようがない。
軍艦は積載燃料の時間的制約を負っているので、連合艦隊司令部では、川口支隊の総攻撃を十三日から十二日に改め、それに合わせて南東方面全麾下艦隊に対して、既定の作戦方針に基づく作戦行動の開始を発令したのである。
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第十七軍司令部は、米軍が川口支隊の背後に上陸したことと、岡部隊の舟艇機動が必ずしも成功とは言えない結果に終ったらしいことから、川口支隊が兵力に不足を来すのを懸念して、既に川口少将の指揮下に入っている田村大隊につづいて、第二師団歩兵第四連隊第三大隊(一中隊欠)と連隊砲一小隊を基幹とする部隊を、九日ラバウルからショートランドに前進させ、艦艇輸送でガダルカナルヘ送るように部署した。
第二師団が第十七軍戦闘序列に編入されたのは、八月二十八日参謀総長の決裁を得た「ソロモン方面の状況に応ずる『カ』号(ソロモン諸島要地奪回)及び『レ』号(ポートモレスビー攻略)作戦緊急処置案」に基づいてのことで、青葉支隊長(歩兵第二旅団長)那須弓雄少将は九月四日既に飛行機でラバウルに到着していた。
歩四(青葉支隊)第三大隊は九月十一日午後十時半、ガダルカナル西北角のカミンボに上陸したから、川口支隊の攻撃開始には間に合わなかった。十七軍司令部としては、出来れば攻撃に参加させたかったのである。現地の状況の推移と後方での措置との間にいつももどかしいずれがあるが、今回は、第三大隊の上陸点をカミンボとしたのは、攻撃参加には間に合わないとしても、万一川口支隊の攻撃が失敗した場合、タイボ岬付近を米軍が占拠しているという推定から、爾後の連絡拠点としてガダルカナル西北地域を確保しておく必要があると判断されたからであった。
右の増援兵力の追送と前後して、八日夜、連合艦隊司令部は、ガダルカナル方面作戦の予備兵力として、第二師団の一部兵員をバタビア(現在のジャカルタ)から軽巡三隻でラバウルに急送すると十七軍に通報した。これを受けて、十七軍司令部は歩兵連隊を基幹とする可及的多数の兵員、なし得れば師団司令部を合む輸送を要望した。
その結果、第十六戦隊(五十鈴、鬼怒、名取)の三艦によって、歩兵二個大隊基幹の兵員約一五〇〇の急送が行なわれることとなった。
十七軍司令部はガダルカナルヘの兵力増援を図るのと並んで、九月十日、松本参謀を作戦指導のためにガダルカナルヘ送ることにした。参謀派遣の必要は前々から感じていたことであったが、参謀陣が手薄なため実現出来なかったものである。このころには、既に、田中航空主任参謀、家村船舶主任参謀が着任しており、大本営派遣参謀の井本、林の両作戦参謀、山内情報参謀の援助があり、山本後方主任参謀も近々に派遣されることになっていて、首席参謀松本中佐のガダルカナル派遣が決ったのである。
松本参謀を送るにあたって、二見参謀長は次のような指示を与えた。
川口支隊の攻撃成功の場合は速かに飛行場を整備して友軍飛行隊の進出を図るとともに、ツラギ奪回の準備をすること。もし攻撃不成功の場合は爾後の補給路はカミンボ方向とするから、川口支隊は退路を西方にとるように部隊を整備し、マタニカウ川左岸(西岸)高地を占領して、その以西に兵力を集結させること。
二見参謀長のこの指示に対して、松本参謀が、不成功の場合はマタニカウ川右岸(東岸)高地の占領を命ずる方がよいのではないか、と述べると、二見参謀長は、不成功の場合は部隊が当然混乱しているであろうし、敵の妨害も予想されるから、右岸の占領は困難であろう、と答えた。
二見参謀長の思慮はもっともであったが、マタニカウの右岸にするか左岸にするかは、反攻に転ずる際の砲の射程距離にかかわる問題を含んでいるのであった。
松本参謀出発の日、二見参謀長は井本大本営派遣参謀を自室に招いて懇談した。
川口支隊の攻撃が不成功の場合、如何にするか。さらに奪回作戦を強行するか。それとも縮小して持久作戦をとるか。研究を要するところである、というのであった。
これを聞いた井本参謀は、二見参謀長の意見は後者に傾いていると感じ取った。
井本参謀は次のように書き誌している。(戦史室前掲書『陸軍作戦』(1)による。)
「爾後の作戦に関し大本営として如何にすべきやは、昨日来、林少佐と研究せし所、一応参謀長意見の如くも考えたり(林少佐も同様の意見)。然れども今の勢を捨てて後に退く時は、遂に進出の機を失するに到らんことを|虞《おそ》れ、日米戦争攻守処を異にするに到るべきを以て依然強行するを要す。特に夜間は勢我に利也(艦艇を以てする上陸可能)。航空兵力も九月二十日頃より我兵力充実。故に結論として意見を本日第一部長に出す。」
大本営の田中作戦部長は、翌十日、井本中佐に返電を寄越した。
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(前段略)
一、貴官ノ報告電中ノ「万一ノ場合」ニ於ケル爾後ノ攻撃要領ニ就テハ現地ノ意見ノ如ク飽ク迄攻撃ノ手ヲ弛ムルコトナク逐次加入ノ方式ニヨリ作戦目的ヲ達成スルヲ絶対必要トスル中央部ノ所見ニシテ軍令部ニ於テモ同様ニ考へ在リ
[#ここで字下げ終わり]
(二以下略)
結果論に過ぎるきらいがあるが、敵情認識がもっと正確であれば、一木支隊第一梯団全滅の時点で作戦の進退がもっと慎重に考慮され得たかもしれず、仮りに奪回作戦を続行するとしても、田中第一部長の返電中にある「逐次加入ノ方式ニヨリ」作戦を遂行するのではなくて、大兵の一挙使用がもっと真剣に考慮されたかもしれない。
孫子の兵法がもし合理的であるとすれば、次のくだりは日本軍の用兵にとって重大な警告となったはずのものである。
「故用兵之法、十則囲之、五則攻之、倍則分之、敵則能戦之、少則能逃之、不若則能避之。故小敵之堅、大敵之擒也。」
右は次のように読まれ、解釈されている。
「故に用兵の法、十なればこれを囲み、五なればこれを攻め、倍すればこれを分ち、敵すればよくこれと戦い、少なければよくこれを逃れ、|若《し》かざればよくこれを避く。故に小敵の堅は大敵の擒なり。」
その意味は、
「戦争に際しては次の原則を守らなければならない。すなわち、(敵に較べて)十倍の兵力があるときには敵軍を包囲する。五倍の兵力があるときには敵軍を攻めまくる。二倍の兵力があるときには敵軍を分断する。互角の兵力であるときには全力を尽して戦う。兵力劣勢であるときには退却する。勝算がないときには戦わない。もしこの原則を無視し、自軍が弱小であるにもかかわらず強気一点ばりで戦うとすれば、むざむざ強大な敵の餌食になるだけである。」
というのである。(徳間書店刊、村山孚訳『孫子・呉子』より。)
ガダルカナルでは、作戦初期から日本軍は敵兵力を下算し、その後兵力の逐次投入を行なったが、敵の兵力増援、物資の補給は日本軍のそれをはるかに上廻り、常に日本軍は孫子の|曰《い》う「小敵之堅、大敵之擒也」を敢て犯したことになる。
ガダルカナルに限ったことではない。ほとんどすべての戦場で、日本軍は合理性を無視した精神主義を振りかざして、無謀な戦いを戦った。そのほとんどが兵隊の忍耐の極限を超えるまでの負担と犠牲において戦われたといってよい。先人の|訓《おし》えを到るところで無視しては、ただただ先人の訓えの正当性を証明する結果となったのである。
24
川口支隊長は支隊の背後タイボ岬方面に上陸した敵に対する処置を終ると、テテレを出発して、九月八日午後一時ごろレンゴ(テテレから直線距離で西へ約八キロ)に達した。
支隊長の最初の計画では八日薄暮から行動を開始することになっていたが、背後に敵が出現しては、薄暮を待たずに昼から行動を開始せざるを得なかったが、白昼行動のために特に不都合が生じたと思われる節はない。
駐軍時にタイボ岬方面の敵に最も近く位置していたのは、中央隊右第一線攻撃隊となるべき第三大隊であるから、背後の敵の脅威を最も受けたのはこの大隊である。
当初の第三大隊の前進計画は、コリ岬(ナリムビュー川)付近まで海岸に沿って進み、ナリムビュー川に沿って南下、ジャングルに潜入する予定であったが、実際にはパレスマ川(タイボ岬から直線距離で西へ約九キロ)河口から南下し、草原とジャングル地帯に入った。予定変更の理由は明らかでないが、想像するのに、背後の敵がその日のうちに上陸点から退去しているとは知らないから、なるべく早く部隊の所在を秘匿しようとしたのではないか。
ジャングルに潜入迂回した川口支隊の各部隊は同じような困難に遭遇しているから、まず支隊長の手記に沿って状況の概要を記してから、各隊の行動を見ることにする。
支隊長によれば、はじめは海岸を進み、レンゴを過ぎて西へ数キロの地点(M地点とする)まで来たら、そこに連隊砲、大隊砲、速射砲全部を残し、歩兵一中隊でこれを掩護させ、主力は南下、密林に潜入する。南下数キロ、距離の記述がないので不明だが、その地点から進路を西にとり、飛行場の真南密林中に達し、その地点から北へ飛行場へ殺到するのである。
ところが、思いがけない障碍があった。磁針偏差があるということである。ガダルカナルに関しては、兵要地誌はおろか、ろくな地図もなかった。川口支隊が持っていたのは海図であって、陸上のことに関しては無いにひとしかった。したがって、磁石を頼りに歩くしかないのである。その肝腎の磁石が磁針偏差を起こしていた。真南に針路をとって歩いていると、実際は少し西に偏していた。真西に向って歩いているつもりでいると、少し北に偏して、いつの間にか海岸に近づいたりしていた。したがって、針路修正をたびたび行なって、ジグザグに歩いたことになり、予想外の時間を費やした。
時間を費やしたのは磁針偏差のせいばかりではない。奇襲の企図からすれば、迂回してジャングルに潜入するしか手はないわけだが、各隊ともジャングルを啓開しつつ進むのに多大の体力と時間を消耗した。二時間かかってやっと一キロしか進めないような困難を各隊が経験しなければならなかった。作戦立案には、その時間の消耗が十分に見込まれていなかったのである。
暫く川口少将が語るところを聞くことにする。
「私の下した命令には各隊は十二日正午迄に攻撃準備の位置に展開し、夕刻迄半日の間、|窃《ひそ》かに前面の敵情、地形を偵察して|夫々《それぞれ》夜襲の目標を見定める。M点(前記)に残した砲八門は夜八時になると敵陣地に向って一斉に射撃を開始し、護衛の一中隊は攻撃をやって、その方面の敵を牽制する。第一線の歩兵各大隊はこの砲撃を合図に夫々目標に白刃を振って夜襲する。各大隊及び岡部隊(舟艇機動部隊──引用者)は目標に向って突入し、敵を蹴散らし、刺し殺し夜明け迄に北方海岸に進出せよというのが私の命令である。」
これによると川口少将は、夜襲なら敵の火力が如何に旺盛でも問題とするに足りないと信じているかのようである。日本軍はちょうど三年前、地理的条件は全く異るノモンハンでだが、毎夜夜襲を繰り返し、その都度敵の熾烈な火力に阻まれて、天明までに攻撃発起地点まで退去せざるを得なかったにがい経験が骨身にしみているはずであった。多大な人命と鮮血をもって|購《あがな》った教訓も、軍隊という硬直した官僚主義社会では何の役にも立たなかったのである。
川口手記はつづいている。
「第一線各大隊の順序を右からいうと、一木支隊の集成大隊(第一梯団の生き残りと第二梯団のものを以て、やっと一大隊を作り、水野少佐を大隊長として──原文のまま)、仙台の田村大隊(第二師団・青葉支隊──引用者)、第三大隊、第一大隊の四大隊、岡大佐の指揮する第二大隊と連隊砲中隊は少し離れて西方海岸方面から、夫々攻撃する。
一木支隊は前面の敵を突破した後、中川左岸にある敵陣地を攻撃、田村大隊は敵飛行場東端附近を突破して、北方海岸迄突進、第三大隊は飛行場北側にある15高地を占領したる後、北方海岸に突進、第一大隊は30高地(15高地の稍々西)を占領後北方海岸に突進、支隊の全部は先ず15高地に到る。岡部隊は西方海岸方面の敵陣地を突破した後、ルンガ川河口に突進。
以上が各隊に与えた任務である。」
川口少将の戦闘の想定図はまことに勇壮だが、支隊各隊は後述するように少将の想定図のようにはほとんど行動出来なかったのである。理由の最大のものはジャングル迂回を軽視したことであった。
川口支隊長はこの攻撃に一兵の予備隊もとらなかった。理由は、夜間ジャングル内を通過して戦闘開始に至るまで、随時各隊の情況を支隊長が知ることは到底出来ない、したがって、予備兵力を控置して適時適切に応援することは出来ないからである。各隊は独自の判断に依り、戦況に応じて戦闘しなければならない。
天明までに勝負をつけなければ、優勢な敵火力によってこちらが潰される惧れがある。(夜襲時における敵火力を問題視していないことは前述の通りである。)
一気に殺到して勝敗を決する。それには予備隊をとる必要はない、というのが少将の考え方であった。
既述の通り、進路がジグザグになったりして、支隊の行軍は予定より遅れていた。
支隊長は、十二日朝、露営地を出発するとき、近くにいた第一大隊長国生少佐を呼んで言った。
「予定より大分おくれて居るが、正午迄に攻撃準備の位置につけると思うかい? 君の大隊が一番遠い処迄行って展開することになって居る。君が出来るのなら他の大隊は無論出来るのだが……」
第一大隊長は暫く考えて、答えた。
「出来るでしょう、マアやって見ましょう」
川口手記はこうつづけている。
「軍からの通報に依ると、今夜の川口支隊の夜襲に呼応して海軍の艦船がルンガ沖に来て、所謂殴りこみをかけることになって居る、今になって一日延期ということを軍に報告して了解を求めることは困難である。殴りこみの海軍はもうトックに出航して居るだろう。M点にある砲兵隊、岡部隊に対し命令変更も仲々伝達がむつかしい。|国生少佐が出来ませんと云えば困難を排除しても延期するが《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|マアやって見ましょうというのだから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|延期はしなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(傍点引用者)
国生少佐が「まあやってみましょう」と言ったかどうか、いまとなっては明らかにする術もない。事は、しかし、支隊長の判断に属する事柄なのである。国生少佐は諸般の情況から推して生きては還れないと覚悟していたらしいから、「まあやってみましょう」と言ったのかもしれない。
川口手記からも断固決行という大隊長の意気ごみは感じられない。十分な時間をかけて敵に近づき、十分に偵察してから襲撃するという方針を、そもそもの初めに立てておかなかったのは、最高指揮官の責任に帰せられるべきことである。
海軍との協同作戦が行なわれるのなら、突撃発起の日時の決定はもっと慎重厳密に測定されるべきであった。海軍には、先に述べたように燃料による時間的制約がある。反面、陸軍には、携行した糧食による制約があった。それらは、作戦開始以前に十分に計算されねばならなかったことであった。
川口手記をもう暫くつづける。
「支隊は北に向って前進を急ぐが正午迄に予定の攻撃準備につけない。第一地図がないので、果して自分は何処に達したのかということを測定することは困難だが、兎も角敵飛行場には大分遠いらしい。遂々夜になった。ジャングルを夜歩くということは仲々むつかしい。むつかしいどころか、|予め偵察して道しるべでも造っておけば兎も角も《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|始めてのジャングルを歩くことは不可能に近い《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。昼尚お暗いジャングル、それが|夜になると全く鼻をつままれても分らぬ真暗闇である《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|前を進む兵隊の姿が見えない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。だから隊列はプツンプツンと切れて了う。戦友を見失って自分一人になってしまう。半日間、|敵情《ヽヽ》、|地形偵察も何もあったものじゃァない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(傍点引用者)
偵察し警戒しながら行軍するのが軍隊の常識なのである。それを、やみくもにジャングルに踏み込んで、一夜の夜襲で敵陣を蹂躪しようというのである。如何に急を要したとはいえ、信じられないような軽率さであった。
夜のジャングルの暗さは言語に絶していた。そこを、もっぱら夜行軍をするのであるから、よほど慎重な計算がなければ、予定など狂うのが当然であった。
ジャングルでは腐木に燐光のような光を放つものが付着していて、兵たちはそれを千切って前を行く兵の背嚢や帽子につけて目印にした。樹木や蔓の錯雑した密林を啓開しながら墨汁のような闇の中を歩くということは、甚だしい肉体的疲労をもたらすばかりでなく、自分の位置の標定が出来なくて、行軍目的そのものさえ疑わしくなる。
「敵情、地形偵察も何もあったものじゃァない」と最高指揮官が言うようでは、その作戦は、はじまらぬうちから失敗に終っていたも同様である。
川口手記のその先を見ることにする。
「八時になるとM点に残した砲兵が射撃を始めた。各隊この砲声を合図に突入だが、各隊はジャングル内でバラバラになって了った。私も司令部のものを連れてやみ雲に北に向って歩いた。フト見ると私について来るのは山本高級副官と書記と忠実な野口当番兵と四、五人しか居ない。他のものは何処に行ったのか分らぬ。
大声出して呼べば答えもあろうが敵前近く窃かに迫るのだからそれは禁物である。15高地に早く行き度いがとあせるがどうにもならぬ。ヒョットすると吾々だけが部隊より先に進んで居るかも知れない。
昨十一日ジャングル行進間、彼我空中戦で撃墜された敵飛行機のパイロットがパラシュートで降りて来たのを捕え、訊問すると敵は川口支隊の潜行を知らない。だから東方と北方、西方には配兵してあるが、支隊夜襲の方面たる南方には別に陣地もないことが分った。これなら支隊の夜襲は成功するだろうと喜んで居たのに、魔のジャングルの為、支隊は五里霧散し、指揮も掌握も出来ない。私の生涯を通じ、こんな失望感に襲われたことはない。」
右の敵パイロットを捕え尋問すると云々は、戦史室前掲書によれば、十二日午前九時ごろ、砲兵隊から捕虜尋問の結果を次のように報告してきたことになっている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、敵陣地は飛行場周辺に設けられ、東方及び北方正面が最も堅固で、南方正面は薄弱である。
中川(イル川)と飛行場の間に三線の陣地がある 東方及び北方正面には三乃至四条の鉄条網、更に飛行場の四周には直接掩護の鉄条網、電流の有無に関しては不明。(したがって、南側から襲撃しても直掩鉄条網に衝突し、当然側防火器の配備が予想されるから、それを突破するということは、川口少将が考えていたほど簡単なことではなかったはずである。──引用者)
二、戦車は小型及中型(水陸両用)である。
三、飛行場には現在一五機程度常置してあるだけで、ソロモン群島には他に飛行場なし。
四、上空からする密林内の行動偵察はきわめて困難で、尋問した米軍飛行将校も支隊主力をまだ発見していない。
[#ここで字下げ終わり]
この情報に接した支隊長は、早速各大隊に情報を伝達して、夜襲の成功を確信した、というのである。
だが、「魔のジャングルの為、支隊は五里霧散し、指揮も掌握も出来ない」ことになった。敵の戦力を下算していたばかりでなく、未知の戦場の地勢地形を侮っていたからである。攻撃精神さえ旺盛なら何事でも可能であるという精神至上主義の思い上りと、非科学的で、しかもろくな準備をしていない軽率な行動を、千古の密林が頑として拒否したのである。
「本当に惜しいことをした。」
と、支隊長はくやんでいる。
「若し軍の要求がなくて十三日に夜襲して居たら、よもやこんな失敗はなかっただろう。タッタ一日のことでこの始末である。」
軍のせいにするのは当らない。既に見てきた通り、十七軍は、大本営からの通報によって、新手の米軍増援の兆があるから、川口支隊のなるべく早い攻撃開始を希望し、その能否を問い合せただけである。繰り上げを命令したわけではない。
支隊長が功を急いで、十三日の予定を十二日に繰り上げ、さらに一日繰り上げられるかもしれないと答えたのである。舟艇機動に関しては十七軍司令部にあれほどまでに自説を固持して譲らなかった川口支隊長が、もし慎重に作戦遂行を考慮したのなら、如何に十七軍の希望とはいえ、十三日の日時を譲る必要はなかったのである。
(地図省略)
25
川口支隊主力はテナル川(東川)上流を渡河して密林の中を進んだ。第一大隊(左第一線攻撃部隊)、第三大隊(右第一線攻撃部隊)、青葉大隊(第二線攻撃部隊)の順序の縦隊行進である。支隊司令部は第三大隊の後方、右翼隊の熊大隊(一木支隊)は主力(中央隊)の右側(北側)である。これがいよいよ夜襲開始となれば、北方へ向いての行動となるから、東側から西側へ、つまり右から左へ、熊大隊、第三大隊、青葉大隊、第一大隊の順となるはずであった。
密林のところどころで幽鬼のように痩せ衰えた人影が認められた。一カ月前米軍の上陸に驚いて密林に逃げ込み、本隊とはぐれてしまって密林のなかをさまよいつづけた設営隊員たちであった。
川口支隊の兵隊たちは、遠からず自分たちもそうなる運命とは知らずに、敵飛行場めざして密林のなかへ分け入っていた。
九月十二日午前十時半ごろ、右翼隊(熊大隊)から支隊へ、「本夜夜襲決行」の報告が入った。
同じころ、左翼隊(岡部隊──舟艇機動部隊)から、「青葉支隊及舟艇機動部隊ノ後続部隊ハ敵機ノ爆撃ニ依リ舟艇ノ使用不能トナルヲ以テ十二日ノ夜襲ニハ間ニ合ハサルモ 所命ノ如ク歩兵二中隊ヲ以テ夜襲ヲ決行ス」と報告してきた。
報告中の青葉支隊というのは、中央隊の田村大隊(青葉大隊)とは別の、青葉支隊第三大隊(長・佐々木少佐)のことで、ショートランドから駆逐艦輸送で十七軍の松本参謀といっしょに十一日午後十時半カミンボに上陸したのである。
舟艇機動部隊の遅れた残部もこのとき同時に上陸している。ガ島北西端角のカミンボ上陸であるから、当然、十二日の行動には間に合わなかった。
砲兵隊からは「正午頃攻撃準備ヲ完了スル筈」と報告してきた。
十二日午後三時半、左翼隊から再び、「左翼隊ハ十六時迄ニ滑走路南端ヨリ西南方約二粁の密林内ニ攻撃ヲ準備シ日没ト共ニ発進シ『ルンガ』河左岸ニ沿フ地区ヲ突進シ 飛行場西南方橋梁及其ノ北西五〇〇米旧第十三設営隊本部宿舎ヲ急襲スル筈」と報告があった。
事実は、すべて、後述するように、全く順調には進まなかったのだが、支隊長は夜襲の必成を確信して、予定通り夜襲実施を命令し、各隊は攻撃準備位置へ向って分進を開始した。
以下、各隊別に行動の概要を辿ってみる。
まず熊大隊である。編成は既述の部分と重複するが、一木支隊第一梯団の生き残りと第二梯団で歩兵二中隊、連隊砲一中隊(四門)、速射砲二中隊(各四門)と工兵小隊から成る混成大隊で、大隊長は一木支隊本部附であった水野少佐である。
この大隊はコリ岬付近まで最も海岸に近い進路を西進し、支隊主力の前進と迂回を掩護した。コリ岬付近から南下迂回をはじめたのは九月九日夜の八時半ごろであった。
十日の昼ごろ、進路を誤って北西進して来た青葉大隊及び支隊司令部と遭遇した。川口少将の手記にある磁針偏差によるものであろう。
熊大隊は西進をつづけ、十一日午前三時ごろ、テナル川(東川)上流約五キロと思われるあたりで大休止した。その日の午後二時ごろ、大隊の歩哨線前方に敵の斥候が出没したというから、大隊の所在は偵知されたかもしれない。
夕方四時、前進を再開、十二日天明のころから進路を北に転じた。午前十時ごろ、攻撃準備位置と予定された中川上流約八キロ付近と思われる地点に到達した。実際には、この地点は西進距離が足りなくて、予定地点から東の方へ偏っていたのである。
十二日正午、攻撃決行の支隊命令を受領し、斥候を出して敵情偵察に努めたが、敵陣地の位置を確認出来なかった。大隊の位置が東に偏していたからである。
大隊は、しかし、携行した糧食を全部炊いて食事をとり、午後六時、密林のなかを攻撃前進に移った。
夜間と密林に阻まれて歩度が伸びず、突入予定時刻の午後八時になっても敵前進出を果せなかった。
主力中央隊の方向にも攻撃開始の気配さえ感じられなかったという。暗中模索の前進をつづけているうちに、十三日の天明となった。夜襲をしようにも、遂に敵と接触出来なかったのである。
中央隊の右第一線攻撃部隊である第三大隊(長・渡辺中佐)は、既述の通り、コリ岬付近まで海岸に沿って行く予定を変更して、パレスマ川河口から南下、草原とジャングル地帯に潜入し、八日夜九時半過ぎ、パレスマ河口南西約一〇キロに達した。
ジャングルを啓開しつつ困難な前進を開始したのは十日午前五時からである。午後四時ごろ、飛行場南東約一三キロと推定される地点に達して露営した。
十一日午前四時過ぎ、再びジャングルと格闘しつつ前進を開始した。テナル川(東川)上流に達したのは、その日の真夜中であった。テナル川の線から言えば、第三大隊は中央隊の中では行軍距離が一番短くて済む位置に在ったから、十二日午後八時、どうにか攻撃準備位置に到達し得た。
しかし、重火器部隊の進出はかなり遅れていた。大隊長は、遅れている重火器部隊を待たずに、暗夜の草原に大隊を展開して攻撃前進に移った。飛行場南方約三キロと推定される位置であった。地形は意外に錯雑していた。明るいうちに偵察する余裕がなかったから、暗夜の前進と部隊の掌握に難渋をきわめた。
午後十一時ごろ、敵の警戒陣地らしい鉄条網に衝突し、それを突破したころには夜が明けてしまった。敵の熾烈な砲撃がはじまった。第九、第十一中隊長が早くも戦死した。大隊がいつごろ攻撃準備位置まで後退したか、判然しない。
第三大隊は、十二日の支隊各隊のうちで敵陣地と接触するところまで行った唯一の部隊であったと思われる。その第三大隊が、翌十三日には、後述するように意外な成り行きをみることになるのである。
中央隊左第一線攻撃部隊である第一大隊(長・国生少佐)は、川口手記によれば、この部隊が一番遠くまで行って展開するのだから、この部隊が十二日の夜襲をやれると言えば、支隊の夜襲は出来ることになると考えた部隊である。
第一大隊の八日夜の位置はコリ岬東方約一キロであった。コリ岬南西方に幅約一五〇〇メートルに及ぶ草原を発見して、夜のうちにこれを通過するべく(草原の昼間通過は敵機の攻撃の的となる)、午後九時前進開始、九日午前三時、草原を通過して、コリ岬南方一キロに達した。
九日午後六時前進再開。ジャングルの啓開は想像を絶する難事業であった。ところどころにある草原の突破や水流渡渉は、敵機の哨戒の切れ目を狙って行なわなければならなかった。
十日、十一日はこうして費やされた。
十二日午前八時ごろ、攻撃準備位置の前方約四キロ付近とおぼしい地点に達した。
八時過ぎ、高地のジャングルを啓開中に敵の監視兵から射撃を受け、応戦して撃退したから、日本軍の接近は既に敵に知られたものと考えなければならなかった。
この高地は飛行場南方に横たわる、日本軍があとで「ムカデ高地」と名づけた高地であった。国生大隊長は一中隊をもってこの高地を占領させ、大隊主力は高地を迂回西進した。
十二日午後三時半、ルンガ川東方約五〇〇メートルの攻撃準備位置に達し、午後四時攻撃準備を完了した。
日没を待って前方の草原を通過、ルンガ川に沿って前進した。暗夜の密林は、ここでも頑強に大隊の前進を阻んだ。
時間が虚しく去っていた。大隊長は突入の機を逸することを虞れて、重火器部隊の遅れるのをかまわず、ルンガ川に沿って北進した。深い急流を徒渉して前進をつづけていると、右第一線部隊(第三大隊)の一部が左に偏して混入してきた。第一大隊長は混乱を避けるために部隊をルンガ川左岸に集結を図った。時刻は既に十三日の午前二時になっていた。天明まで僅かに一時間しかなかった。突入予定時刻はとっくに過ぎていたのである。
大隊長は夜襲の中止を余儀なく決心し、部隊を反転させて、午前三時半ごろ、先の攻撃準備位置に復帰した。
第二線攻撃部隊である青葉大隊(長・田村少佐)は、九日未明レンゴ付近から南下、ナリムビュー川に沿ってジャングル迂回を開始した。
九日から十二日までジャングル内の難行軍がつづいたことは、他の部隊と同様である。途中、十日の昼ごろ、左第一線となる第一大隊と会合し、その後方を進み、十二日午後九時ごろようやく攻撃準備位置に到達した。
第一線との連絡と敵情把握に努めたが、夜闇と密林はそれを許さなかった。
準備位置とおぼしい地点に達しただけで、虚しく天明を迎えた。
砲兵隊はテナル川(東川)右岸にあって、十二日午後八時に予定通り砲撃を開始したが、それを合図に突入を開始し得た部隊は一つもなかった。ジャングル潜入と迂回のための所要時間の見積りが全く甘かったのである。攻撃準備位置に辿り着いたとしても、辿り着くのが精いっぱいで、敵情、地形の偵察など全然出来なかった。
支隊主力から遠く西へ離れ、支離滅裂の状態となって上陸した岡部隊(左翼隊──舟艇機動部隊)では、岡連隊長はその実情を第十七軍司令部に報告せず、現地限りで事態の収拾を図ったらしく見える。
九月七日夜までに岡大佐が掌握した兵力は約六五〇名といわれる。
川口支隊主力の行動開始に呼応して、岡大佐指揮する左翼隊は、八日正午マルボボ(西北海岸)出発、敵機の攻撃と地形の|嶮《けわ》しさに苦しみながら、午後二時カミンボ着、そこに上陸していた連隊通信隊を吸収し、午後四時ビサレ到着、十日朝まで同地で前進準備をした。
十日午後六時ボネギ川(コカンボナから北西へ約七キロ)に達し、大休止、同夜半出発、海軍ガダルカナル守備隊の位置(コカンボナのやや東)へ向った。守備隊位置到着は十一日朝五時四十分ごろであった。同地で岡連隊長は門前大佐(元十一設営隊長)と会い情報交換を行なっている。
十二日午前二時、左翼隊は東へ向って出発した。行くてをジャングルが阻んだことは他の部隊の場合と変りはなかった。十二日の午前十時半ごろには、先に記したように、青葉支隊や舟艇機動の後続部隊は総攻撃に間に合わないが、岡大佐は歩兵二個中隊をもって夜襲を決行する、と支隊長に報告している。この左翼隊の守備隊位置出発予定は十一日の日没時となっていたのに、十二日の午前二時まで遅延した理由は明らかでない。
結果として、出発遅延は行軍里程に表われた。午後八時、砲兵隊の砲撃開始を遥か東方に聞いた。左翼隊は前進を急いだが、意のままにならなかった。目的地に到達しないうちに、ここでも、天明を迎えることになったのである。
舟艇機動は連隊の兵力の約三分の一を分割、減少させただけでなく、作戦的にもほとんど何の効果ももたらさなかった。
先に引用した川口手記にあったように、十二日夜の支隊司令部は、各大隊と全然連絡がとれていなかった。各隊は暗夜の密林のなかで、各個に行動していたに過ぎない。
支隊長は僅か数名の司令部要員を伴って、飛行場北側の15高地(第三大隊の攻略目標)に向って前進しようとしたが、行くてを密林が頑強に塞いでいた。
司令部一行はルンガ川の中に入って前進をつづけたが、下流に向うにしたがって水深と流速を増し、水中の前進も出来なくなった。
余儀なく、右岸に上って密林のなかを暗中模索しているうちに、九月十三日の天明となった。
支隊長からしてこれでは、各部隊が突入開始時刻に間に合わず、いずれも虚しく天明を迎えたとしても督励のしようがない。
川口支隊長は九月十三日午前三時五十分、十三日夜の夜襲再興を決意して、中央隊各大隊に、現在地での兵力集結と隣接大隊との連絡を確保するよう、命令を下した。
夜が明けると敵機が直ちに活動を開始した。重砲、迫撃砲の射撃が日本軍の集結地に集中しはじめた。
砲撃によって支隊の通信機が破壊され、十七軍司令部と直接無線連絡をとれなくなった。辛うじて旅団無線機で左翼隊と海軍守備隊の無線機と連絡し、その中継によって十七軍司令部と連絡し得たという。
川口支隊長が各大隊の右記したような経過概況を知ったのは、十三日の朝になってからであった。それでも、まだ、各大隊の正確な現在位置もわからなければ、各隊正面の敵情や地形も明らかではなかった。
川口支隊五個大隊約六〇〇〇は、敵に接触する以前に、密林によってしたたかに打ちのめされたのである。川口支隊長は十三日夜の攻撃再興を決意したが、その前に十分に準備する余裕が、またしてもなかった。食糧が既に尽きかけていた。何処まで退れば糧食弾薬を十分に集積してあるというわけではなかった。したがって、どうしても十三日の夜襲に支隊の命運を賭けなければならなかった。
川口支隊の食糧の準備が十分でなかったということは、いかなる理由を構えても正当化出来ない。一木支隊惨敗のあとをうけての川口支隊の攻撃である。計算上の日数ぎりぎりの食糧を携行し、一気に飛行場を奪取して、あとはルーズヴェルト給与で満腹するというのでは、ムシがよすぎるというものである。
攻撃開始までに準備の時間がなかったわけではない。殊に、舟艇機動の可否をめぐって時間が空費されたことは、既に見てきた通りである。
要するに日本軍は、一木支隊の失敗にもかかわらず、計画も準備も甚だしく不十分であった。戦闘以前の、謂わば戦争事務の段階で、戦争が綿密周到に組織されていなかったのである。この傾向は、ガダルカナル戦が拡大深刻化するに及んでも、改善されることがなかった。
また孫子を引き合いに出すことになるが、彼に次のようなくだりがある。「帝国軍人」たちも読んでいたはずだが、少しも生かされた形跡がない。
「それ地形は兵の助けなり。敵を|料《はか》って勝を制し、|険阨《けんやく》、遠近を計るは、上将の道なり。これを知りて戦いを用うる者は必ず勝ち、これを知らずして戦いを用うる者は必ず敗る。
故に戦道必ず勝たば、主は戦うなかれというとも必ず戦いて可なり。戦道勝たずんば、主は必ず戦えというとも戦うなくして可なり。故に進んで名を求めず、退いて罪を避けず、ただ民をこれ保ちて利の主に合うは、国の宝なり。」
その意味はこうなっている。
「地の利は、戦争の有力な補助手段である。したがって、|上将《ヽヽ》──|最高指揮者たるの道は敵の力を評価して勝を制する計をたて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|その地形が険しいか平らか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|遠いか近いかということを明らかにして戦いに臨むことである《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
|これを知ったうえで戦う者は必ず勝ち《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|これを知らずに戦う者は必ず敗れる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
そこで、必ず勝つという見通しがついたならば、主君が戦うなといっても、戦うべきである。逆に、勝てないという見通しがついたならば、主君が戦えといっても、戦うべきでない。
このようにすれば、当然、主君の機嫌を損ねることもあるだろうが、それはやむをえない。将たるものは、功績があっても名誉を求めず、敗北したときは責任を回避してはならぬ。ただ一途に、人民の生活を保ち、主君の利益をはかることを目的とする。だからこそ、将は国の宝なのである。」(前掲村山孚訳書による。傍点引用者)
|軽忽《けいこつ》に戦いに臨み、一木支隊はあっけなく潰滅した。同じく川口支隊も、孫子の曰う「料敵制勝、計険阨遠近、上将之道也。」を|弁《わきま》えずに密林に踏み込み、敵情はおろか、己れの所在さえも確認し得ず、第一次夜襲は無為に終ったのである。
川口支隊長が九月十三日午前十時二十分、夜襲再興に関して下した命令の第二項に、次の文句がある。
「支隊ハ本夜死力ヲ尽シテ夜襲ヲ決行シ敵ヲ|殲滅《せんめつ》セントス」
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川口支隊長の十三日夜襲再興の命令は、遠く離れている砲兵隊や右翼隊(熊大隊)と左翼隊 (岡部隊=舞鶴大隊)には電信で伝えられ、中央隊には各隊命令受領者を集めて口達筆記によって与えられた。
左翼隊長の岡大佐は、夜襲を十四日夜に延期するように意見具申をした。理由は、舟艇機動部隊の残部と青葉支隊の第三大隊(長・佐々木少佐)が十三日夕刻マタニカウ川河口に到着する予定であったから、夜襲にはこの部隊をも加えて、準備を周到にととのえたいということである。理由としてはもっともなことであったが、支隊長は採用しなかった。周到な準備をしたくても、支隊主力が携行した食糧が十三、四日で尽きてしまうし、タイボ方面に残置した食糧は、上陸した米軍に押えられてしまったから、夜襲を急ぐ必要があったものと考えられる。
夜襲は決行された。
はじめに、川口手記はこう綴られている。
「十三日夜の各隊の夜襲は命令の通り決行されたらしい。けれども報告は仲々出来ない。青い火、赤い火の曳光弾は煙火の様にキレイである、盛んに来る。|我が砲兵は実弾が尽きたのか一向射撃しない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。昨夜は支隊司令部が歩き廻って指揮が少しもとれなかった。今夜は樹のない一寸した高地の反対斜面に司令部を進めた、初めに来る報告はドレもコレも悲観的報告ばかりである。
『大隊長戦死部隊全滅』『大隊長行方不明』等々である。」(傍点引用者)
傍点部分の「砲兵は実弾が尽きたのか一向射撃しない」というのは、揚陸した砲弾の数量も少なかったから前夜で撃ちつくしていたかもしれないが、この場合は、実弾の有無よりも、命令が次のようになっていたからである。
[#1字下げ]「四、砲兵隊ハ明十四日払暁以後中川陣地及敵機戦車ニ対シ射撃スル場合ヲ考慮シ逐次陣地ヲ西南方ニ移動スヘシ
|夜襲ニ際シテハ射撃ヲ行ハス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点引用者)
川口少将は手記を誌した時点では、自分が出した命令の細目を忘れていたらしい。
以下、各部隊の夜襲状況を概観してみる。
右翼隊(旧一木支隊)は敵情と自隊の進路をほぼ把握して、十三日午後五時、中川上流約八キロの地点を縦隊で出発した。
午後八時ごろ、中川左岸の草原地帯に出ようとしたとき、右前方約一〇〇メートルの近距離から軽機による射撃を受けた。
そのとき既に草原に進出していたのは大隊本部と第一中隊指揮班だけであったが、それだけの兵力で直ちに突入して敵火線を撃退した。
水野大隊長は進出の遅れている重火器部隊に追及を命じ、みずから第一、第二中隊を率いて海岸線ヘ一挙に進出しようとしたが、今度は左方森林内から射撃を受け、間もなく鉄条網をもって防護した陣地に衝突し、攻撃は頓挫、大隊長水野少佐は戦死した。
指揮官を失って、右翼隊は攻撃続行の気力を失ったようである。
第一大隊(中央隊左第一線攻撃部隊。長・国生少佐)は、十三日午後三時、攻撃準備位置を出発。前日の経験があるのでジャングル内の行進にさほど難渋しなかったらしく、予定の午後八時より早く夜襲を開始した。
第一大隊に指示されている突進目標は飛行場北西の三五高地であるが、第一次夜襲のくだりで記したように、目標に達する以前に、ムカデ高地西側に鉄条網を施した二条の陣地があって、これを突破しなければならなかった。
国生大隊長は白刃を振るって陣頭に立ち、敵陣地の第一線を抜いたが、第二線は突破出来なかった。米軍火力の烈しさは、川口支隊長以下の想像を絶していたのである。日本軍得意の夜襲白兵も濃密な火網には通用しなかった。
大隊長以下多数の戦死者が出て、戦力激減した。
やがて天明を迎え、砲爆撃は激しさを加え、せっかく抜いた陣地も保持出来なくなり、撤退を余儀なくされた。
米側資料によると、第一大隊の攻撃によって、米軍挺進大隊の二個中隊が後退し、師団予備の一個大隊が午前二時ごろ投入されたという。(F・O・HOUGH前掲書)
第二線攻撃部隊である青葉大隊(田村大隊)は、午後四時、第一線左右両大隊(第一、第三大隊)の中央後方にあたる攻撃準備位置につき、薄暮を利してさらに間合をつめた。
突入時刻の午後八時になると、敵の砲火は第一線両大隊の位置に集中し、次第に青葉大隊の位置にまで弾着が延伸してきた。
大隊長田村少佐は支隊長の命令を待たず、独自の判断において第一線中隊(第五、第七中隊)に攻撃前進を命じた。
左第一線の第五中隊は第一線陣地を突破して、果敢に第二線陣地に肉薄、突撃を敢行して第二線陣地(ムカデ高地陣地線)をも奪取したが、小隊長以下損害が多く、突進が鈍った。中隊長は第一線小隊の残兵を集め、予備隊(一個小隊)を加えて突進を続行させたが、中隊長が倒れたため第五中隊の突進は頓挫した。
右第一線の第七中隊も第五中隊と前後して敵陣に突入、ムカデ高地を越えてその北東側地域に進出したが、天明を迎えるに及んで前進困難に陥った。
田村大隊長は第一線両中隊の攻撃停頓を知ると、予備隊の第六中隊に攻撃前進を命じた。
第六中隊は第五中隊を超越して敵陣に近迫した。そのころ戦線は既に全く混乱していて、日本軍の後方で米軍が電話連絡をとっている声が聞えるほどであったという。
第六中隊では、中隊長が負傷し、兵力の半数が損害を受けたが、中隊長は残兵を掌握して突入を続行、ムカデ高地を越え、天明ごろ、飛行場南東地区に進出した。その付近に敵の幕舎群があり、米側戦史によれば、それは第一海兵師団司令部と工兵部隊の宿営地であった。
第六中隊はそこを蹂躪突破しようとしたが、敵の防禦火力は激烈をきわめ、遂に突進を阻止された。
当時の新聞に、握り飯がもう二つあれば夜襲は成功していたであろうという趣旨の記事が出ている。つまり、飲まず食わずで力尽きたわけだが、敵の心臓部にまで達しかけて、僅かに届かなかったのは事実なのであろう。
この夜、米軍はこの戦闘で一夜に一九九二発の十糎砲弾を射ち、しかも一六〇〇ヤードの至近距離射撃を行なったという。(戦史室前掲『陸軍作戦』)
田村大隊長は天明となっても攻撃を続行しようとしたが、敵の熾烈な砲火の下、部下中隊の掌握は困難をきわめた。
支隊長の攻撃中止の命令が伝わったのは、十四日昼過ぎのことである。敵中各地に分散した残兵が集結地へ戦場を離脱するには二日を要した。
川口支隊長は次のように手記に書いている。
「最も花々しく戦ったのは、田村大隊である。(中略)十三日夜田村大隊は白兵攻撃、敵線を突破し、飛行場を乗り越えて敵キャンプのある処迄進出し、天幕内にあった敵の糧食や水迄ソックリ頂戴したというのである。田村大隊は孤立し敵の反撃を撃退した。しかし不死身ではないので死傷続出し、十四日夜、退却して来たのである。」
のちに大本営派遣参謀として十七軍に赴き、ガダルカナルヘ行く参謀辻政信は、こう書いている。
「勇敢な田村大隊も遂に食を絶たれ、水を絶たれて、後援続かず、怨みを呑んで引上げねばならなかった。川口少将が自ら陣頭に立ち、田村大隊の戦果を、夜襲で拡大したら、或は|一縷《いちる》の望みがあったかも知れぬ。」(辻政信『ガダルカナル』)
これに対して川口手記はこう答えている。
「遺憾ながら田村大隊のこの情況は大隊が帰ってから後、始めて聞いたことである。仮りに適時に聞いて居たとしても前記の様に、私は一兵の予備隊も持っていなかったのである。」
田村大隊に関しては次のような記述もある。
「田村少佐は……『支隊全部が一緒に固まって夜襲していたら、きっととれたのになァ』とも言っている。この全部≠ニいう意味は、渡辺大隊の|蹉跌《さてつ》(第三大隊──後述)などを言うのではなく、オーステン山の占領に奮闘した岡部隊主力(左翼隊──後述)と、たぶん、カミンボ付近へ上陸した青葉支隊の他の一個大隊をも、含んでいるのだろう。」(越智春海『ガダルカナル』)
暗夜のジャングルという悪条件があったにしても、その中を行進し、接敵し、入念な偵察を行なうに足るだけの十分な時間を見込み、その難作業を持続するに足るだけの食糧の準備をもって、一斉に夜襲を行なえば、全く異った結果を生じたであろう。
最初に用兵規模の測定を誤り、つづいて緩慢な兵力の逐次投入を行ない、十分な糧秣弾薬の集積もなく、兵力の集結を待つ暇もなくて攻撃前進に移り、おまけに敵情不明とあっては、成功しない方が当然だったのである。
左翼隊では、岡大佐が歩兵二個中隊と機関銃一中隊を率いて、九月十三日午後四時十五分、マタニカウ川の線を出発、日本軍がトラと名づけた高地(ルンガ川とマタニカウ川の中間、アウステン山の北東、海岸に近い高地)へ向って前進した。ルンガ下流までまだかなりの距離があるのに出発時刻が遅いのが不審であるし、先に支隊長へ報告したところによれば、日没までに発電所(十三設がルンガ川橋梁付近に施設してあったもの)の南西約一キロの高地端に進出して夜襲を決行することになっていたはずだが、実際の行動がそれとも異っている理由が明らかでない。四時過ぎにマタニカウ川の線を出発して、命令通り飛行場西方の敵に対して夜襲をするのに間に合うはずがないのである。
午後八時十五分、トラ高地南端の草原に進出したころ、東方から銃声砲声がしきりにした。中央隊の夜襲がはじまったのである。
八時四十分、左翼隊長岡大佐は舞鶴大隊(歩兵百二十四連隊第二大隊──舟艇機動部隊)に対して、西川(ルンガ川の西、ククムの東側を流れている川)南東の高射砲陣地の攻撃を命じ、青葉大隊(歩兵第四連隊第三大隊──十一日夜カミンボ上陸)に対しては、海岸道方向から西川付近の敵を攻撃するよう命令した。
舞鶴大隊が前記の草原を出発したのが午後九時三十分であったというから、夜襲予定時刻はとっくに過ぎている。中央隊や右翼隊と東西呼応する気は全くなかったように見える。
同大隊がトラ高地の北端に達したとき、前方から猛射を受けたが、それが既に明け方の三時半ごろであった。
大隊長は第一線中隊に攻撃を命じ、敵陣地の一角にとりついたが、次第に集中砲火を浴び、前進困難に陥り、天明を迎えて左翼隊命令によって後退した。
青葉大隊は一個中隊で西川方向の敵情捜索にあたらせ、主力は海岸道を進んだ。マタニカウ川右岸に進出して前進すると、尖兵が敵と遭遇、交戦した。既に十四日朝、四時三十分ごろであった。
米軍は正面の小川に沿って展開し、海上の舟艇と連繋して挟撃の形で猛射を加え、青葉大隊の前進を阻んだ。
要するに左翼隊の行動は、十三日の夜襲としての組織的な戦闘を成さなかった。この時点までの行動に見る限り、川口支隊長があれほど頑強に主張して実施した舟艇機動は、何の意味も効果ももたらさなかったのである。
最後は中央隊右第一線攻撃部隊の第三大隊である。本来なら、第一大隊と並んで第一線を形成しているから、既にその部分で述べておくべきであったが、この部隊には特殊な事情が発生したので、あとまわしとした。
川口手記はこう述べている。
「ここに一つ遺憾に堪えぬことがあり、言うに忍びないが、真相を明かにするという主旨から敢てこの恥を記述せねばならぬ。
之は第三大隊のことである。この大隊には飛行場を突き進み、先ず15高地という最も大事な高地を占領せよと命じてあった。然るに十三日昼間の敵大射撃におびえた為か、大隊長は副官其他を連れ、安全な処に隠れて出て来ない。
取り残された大隊は古参中隊長が代理を勤めて大隊を指揮して夜襲すべきであるが、特別志願のB大尉はそれをしなかった。結局全大隊が遂に十三日夜無為に過したのである。一番大事にし、望みをかけて居た有力大隊がこの始末になった。
私は之を知り、|惘然《もうぜん》たると共に無念の涙が流れる。十五日大隊長を呼び、怒り心頭に発し『卑怯者腹を切れ』と怒号した。(以下略)」(川口前掲書)
全然事実無根のことをこうは書けない。しかし、第三大隊長が心臆して「安全な処に隠れて出て来」なかったのかどうかもわからない。この大隊は、前記したように、前夜の夜襲では敵と接触した唯一の部隊であり、夜が明けると(十三日)、猛烈な砲撃を受けて、第九、第十一中隊長を失っている。
第三大隊長は支隊長に呼ばれる前に、支隊の山本高級副官に、この間の事情について手紙を書いている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
「一、昨十三日支隊司令部ヘ赴カントシ果サズ残念ナリ、第一線ニモ復帰シ得ズ、連続ノ砲撃ヲ受ク、連日ノ激動ノタメ小官先年在満中ノ外傷(左脚)再発、昨日頃ヨリ激化遂ニ支隊司令部ニモ行ケズ、第一線ヘモ帰り得ズ、数名ノ大隊本部ノ者ト後方ニアリ。各方面ト連絡中ナリ。暫時休養セバ恢復スルモノト思ハレマス、
二、閣下以下司令部各位ノ御心痛御苦労如何バカリカト思フ」
[#ここで字下げ終わり]
大隊長の行動の詮索は無益と思われる。仮りに第三大隊が夜襲を実施していても、川口支隊長が期待したような成功をおさめ得たとは考えられない。
既に再三にわたって述べたように、十分な準備と十分な敵情把握を行なった上で、各隊全兵力同時一斉に突入するのでなければ、敵の濃密な火力の壁を突破し、本陣を蹂躪する機会は百に一つもなかったであろう。
27
川口支隊長は「樹のない一寸した高地の反対斜面に司令部を」置いて、各部隊の状況把握に努めていたが、九月十四日午前十一時前には夜襲の失敗を認めざるを得なくなった。
敵から一時離脱してルンガ川左岸(南西地区)に兵力を集結整頓し、後図を策する決心をしたのが午前十一時五分であって、第十七軍司令部に攻撃失敗の経緯と支隊長の決心を打電したというが、何処の無線の経路に依ったか明らかでない。というのは、既述の通り、支隊配属の軍無線は米軍の砲撃によって不通となっており、その後は旅団無線でマタニカウ左岸の海軍ガダルカナル守備隊を中継して十七軍に辛うじて連絡していたが、海軍守備隊とラバウルの間も十二日から不通となり、川口支隊と軍司令部との間の通信は全く絶えてしまっていたのである。
通信杜絶のためラバウルでは十五日まで確実なことがわからなかったが、川口支隊の十二日、十三日と二夜をかけた夜襲は、既述の経過で失敗に終り、それと同時に川口支隊には飢餓の危険が迫りはじめていた。元々、タイボ岬付近を出発するときから、九月の十三日、十四日以後は飛行場を奪取してルーズヴェルト給与をあてにしていたのであった。川口支隊に限ったことではないが、日本軍においては|屡々《しばしば》、用意周到は臆病と思われがちであり、軽率な不用意があまりに屡々勇敢と錯覚されていたのである。
こののち、後述するように、一木支隊の生き残りは勿論のこと、川口支隊の残兵も、飢餓に迫られ、急速に体力衰弱し、戦力を減耗することになる。ガダルカナルにおいては、ニューギニアにおいてもそうだが、兵士の戦いは、敵との戦いであるよりも、飢餓との戦いであり、大量の餓死を見るに至るのである。
ガダルカナル─ラバウル間の通信が絶えてから、九月十三日、午前四時十五分、神川丸水上戦闘機が、ガダルカナル飛行場滑走路の南方端に、間隔約五〇メートルの篝火二個を認めたことと、敵の戦闘機三機が上空に在ったほかは飛行場に敵機を見ず、付近に戦火も認められない、と報告してきた。(山田日記)
海軍側はこの篝火を飛行場占領の合図ではないかと希望的に判断した。海軍部隊としては、川口支隊との間に、ガ島占領の場合、無電通信のほか、次の手段で連絡する約束をしてあったからである。
敵飛行場を使用不能に陥らしめた場合は、大松明をもって上空に対し連続円を描く。飛行場を完全占領した場合には、松明信号二個を五〇メートル間隔で同時に行なう、というのである。
十三日午前四時三十分、海軍二式陸偵二機に戦闘機九機の護衛をつけて、ラバウルを出発させた。この二機は別々に行動する飛行計画で飛び、二号機には十七軍の航空主任田中参謀が搭乗していた。田中参謀は、ガ島飛行場付近の状況が許せば、着陸して川口支隊と連絡をとることになっていたという。
午前八時四十五分、陸偵二号機(田中参謀搭乗)から「敵飛行場ニ大型小型共ニ四〇機味方戦闘機空戦中」と連絡が入り、午前十時十五分、今度は陸偵一号機から「敵ハ飛行場ヲ使用セズ」と入った。右の二つの入電は明らかに矛盾している。つづいて十時二十分、二号機から「敵機約四〇機着陸不能帰途ニ就ク」と報告して来た。
二つの偵察機からの報告が予盾しているので、十一航艦では判断に苦しんだらしいが、大体占領したものと判断して、午前十一時八分、十一航艦参謀長名で次のような電報を発したというから、それこそ判断に苦しむところである。
「川口支隊長ヨリ報告ナキモ陸偵並ニ水偵(先に篝火を報告した)ノ偵察ヲ綜合シ飛行場占領セルコト概ネ確実ト認ム(以下略)」
希望的判断の典型というより、類型化したものといえよう。田中参謀搭乗機から着陸不能帰途に就く、と報告して来ても、敢て無視しようというのである。
第八艦隊も午前十一時四十五分、「一〇三〇ガダルカナル飛行場ヲ占領セリ」と発信した。(以上各電『山田日記』)
「然るに一四〇〇偵察隊帰着し直接其の報告を聞くに」
と、連合艦隊宇垣参謀長の『戦藻録』に記されている。
「敵戦闘機と空戦あり、敵機の儼存疑の余地無く茲に於て先電を取消し未だ占領しあらざるものと通告す。(中略)
川口支隊は十一日の電を最後とし梨の|礫《つぶて》なり、恐らくジャングル内の進出意の如くならず、攻撃開始を延期せるものと認む。(以下略)」(九月十三日の項)
希望的観測は泡沫の如く消えたのである。
十七軍司令部では、二見参謀長も、右の宇垣連合艦隊参謀長同様に、川口支隊はジャングル内の進出が予定通りに捗らず、攻撃を十三日夜に延期したものと判断して、大本営の参謀次長宛てに報告した。
九月十四日零時、第十九駆逐隊司令から次の報告が入った。
「一三日二二三〇ルンガ沖ニ進入敵艦艇及飛行機ヲ認メズ、陸岸ニ接|艦《ママ》シ陸戦情況ヲ偵察セルニ飛行場東方約三Kmノ線上ニ於テ盛ニ照明弾ヲ利用シツヽ交戦中ナルヲ認ム、海岸線砲火ヲ認メズ、二四〇〇帰途ニツク」
この電報を、十四日朝、十七軍司令部では検討したが、「交戦中」という字句から味方砲兵隊が活動しているという判断が得られるほかには、楽観材料は見出せなかった。支隊主力が「飛行場東方」で交戦しているはずがないのである。
この日、十一航艦では、朝の七時から会報が開かれたが、ラバウルに出張して来ていた連合艦隊参謀長宇垣少将も列席した。席上十一航艦長官の塚原中将は、青葉支隊(第三大隊)は昨日十三日ガダルカナルの西方から岡部隊に合同したはずであるから、東西同時攻撃を企図して夜襲を今夜に延期したにちがいない、と主張した。
それに対して、宇垣少将は「それは希望的に然らん、然れ共予定の期日を経過する事已に二日なり。青葉支隊と川口支隊との連繋とれありとは認められず。従つてジャングル内にては思はざる災厄に際会せるか又は我移動を探知せられ背面敵の警戒防禦厳重なるものに衝突し不成功に終れるものと判断す。楽観を止め速に失敗の場合に応ず対策を講ずべしとなす。
本件陸軍にも通ぜしめたるも両者共希望に捕はれて頭に映ぜず。」(宇垣前掲書)
この日、昼過ぎ、先に歩四第三大隊とガダルカナルヘ同行した十七軍松本参謀から次の電報が入った。これは十二日から不通になっていた海軍ガ島守備隊の無線機を経由して入電したのである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、川口支隊ハ十四日概ネ左ノ態勢ニ在ルモノゝ如シ
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(1)支隊主力飛行場南方ノジャングル内
(2)岡部隊飛行場南方??草原内ノ高サ二三〇m高地南方ジャングル内
(3)佐々木大隊(青葉第三大隊──引用者)ハ南方密林内
(4)海軍陸戦隊、岡、佐々木部隊ノ中間ナル如キモ不明
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
二、川口支隊攻撃開始ハジャングル内前進意ノ如クナラザル為一二日ヲ一三日ニ、一三日ヲ一四日ニ延期ノ止ムナキニ至レリ
一四日ハ二〇〇〇攻撃前進ノ予定
(以下略)──(山田日記)
[#ここで字下げ終わり]
発信者は川口支隊主力の動向をほとんど把握し得ていなかったのである。十三日夜から十四日朝へかけて、川口支隊全五個大隊のうち、少くとも旧一木支隊(熊大隊)と田村大隊(青葉大隊)と歩一二四の第一大隊は突入を敢行したのだが、青葉支隊佐々木大隊と行を共にしていた松本参謀には、その戦況も全くわかっていなかったのである。
松本参謀電によれば、川口支隊はまだ失敗していないのだ。(事実は、松本電がラバウルに届く前に、川口支隊長は改撃失敗を確認し、ルンガ川西方に兵力を集結し後図を策する決心をしている。)
ラバウルでは十四日夜の攻撃成功を祈っていた。十一航艦参謀長は午後一時十五分、次のような電報を打っている。
「第一七軍司令部ヨリ川口支隊ハ今夜敵陣ニ突入ノ算アルニ付今夜ノルンガ砲撃ハ取止メラレ度旨申入レアリタルニ付可然取計ハレタク但タイボ砲撃ハ差支ナシ」(山田日記)
事実経過を知ってしまえば、希望的観測は歯痒いばかりだが、元々希望的観測とはそうしたものであろう。
十五日朝、ラバウルの希望的観測は微塵に粉砕された。川口支隊長から決定的な電報が十七軍司令部に入ったのである。
「十二日夕刻東方陣地ノ砲兵隊ハ予定ノ如ク攻撃ヲ開始セルモ 主力ハジャングルノ進出意ノ如クナラス 十三日二二〇〇攻撃ヲ行ヒタルモ|敵ノ抵抗意外ニ大ニシテ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 大隊長以下多数ノ損害ヲ蒙リ 已ムナク大川(ルンガ川──引用者)左岸ニ兵力ラ集結 後図ヲ策セントス
将兵ノ健闘ニ拘ラス不明ノ致ス処 失敗申訳ナシ」(傍点引用者)
敵の抵抗意外に大にして、というのはほとんど何の説明にもなっていないと思われる。意外というからには、夜襲には火力の抵抗はほとんどないか、あっても微弱でしかないと独善的に予想していたことになる。敵の火力と戦意の旺盛は一木支隊の失敗に徴しても明らかなはずであった。白兵を拒止する陣地の構築と火線の構成は、ノモンハンの教訓に明らかなはずであった。米軍がソ連軍より劣ると判断し得る根拠を、日本軍は持っていないはずであった。
第十七軍百武司令官は、九月十五日朝、川口支隊の失敗を知り、爾後の指針として次の命令を下した。
「|マタニカウ河河盂《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》(含ム)|以西ニ於テ成ルヘク敵飛行場ニ近ク攻勢ノ拠点ヲ占領シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》敵情ヲ捜索スルト共ニ為シ得ル限リ敵航空勢力ノ活動ヲ妨害スルニ努メ 又カミンボ湾附近ニ上陸拠点ヲ占領シ 同拠点ト支隊主力間ノ交通ヲ確保ス」(傍点引用者)
これから、後述するように、川口支隊の飢餓の彷徨がはじまるのである。
28
川口支隊の夜襲失敗を十七軍司令部が確認した九月十五日、大本営派遣参謀井本中佐は事態に関する観察と見解を次の通り参本第一部長に電報した。(戦史室前掲書による。傍点引用者)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、川口支隊ノ戦況尚詳細ニ承知シ得サルモ、予期ノ如クナラサリシ原因ハ、|敵情不明《ヽヽヽヽ》、|分散上陸《ヽヽヽヽ》、|舟艇機動等ノ為《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|戦力ノ統合発揮十分ナル能ハス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|兵力装備十分ナラス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、且制空権敵手ニ在リ、夜間強襲ノ外方法ナカリシコト、敵ノ防禦組織ハ上陸以来一ケ月余ノ準備ヲ以テ相当ニ強化セラレ、此ノ間平均一日一隻ノ輸送船ヲ以テ補給輸送ヲ実施シアルモノノ如キヲ以テ、|予想セシヨリモ強靭ニシテ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|且我肉弾的夜襲ト対蹠的ニ物的組織相当ニ整備セラレアリシ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》等ナルヘシ
[#ここで字下げ終わり]
(右の意見はまさにその通りだが、作戦の前にこそ考慮されるべきことばかりであった。敵情不明のまま攻撃を開始した無謀さも、分散上陸等のため戦力の統合発揮が出来なかったことも、兵力装備が十分でなかったことも、既に指摘してきた通りである。問題は、そういう状態で攻撃を強行して、失敗しなければ反省出来ないのか、予測は出来ないのかということである。敵が「予想セシヨリモ強靭ニシテ」とは、敵をどの程度と判断し、その判断の根拠は何であったのか、ということを軍人自身が反省し、認識しなければ、軍事専門家の名に値しないであろう。敵が日本軍の肉弾的夜襲とは対蹠的に物的戦力を組織化していることは、衝突してみなければわからないことではなかった。軍の上から下まで、不遜にも慢心しているから、予測し得べきことを予測せず、惨敗という形の実物教育を敵から施されるのである。三年前のノモンハンの苦杯は何のためであったのか。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
二、敵ハ更ニ引続キ航空地上ノ兵力ヲ増強ノ徴明カナルモノアリ、|当方面ノ戦局ハ彼我兵力ノ増強競争並ニ彼我決戦的作戦ノ容相ヲ益々明瞭ニ具現シ来レル感アリ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、右ノ状況ニ処シ、|飽ク迄《ヽヽヽ》「|カ《ヽ》」(ガダルカナル奪回作戦──引用者)、「|レ《ヽ》」(ポートモレスビー攻略作戦──引用者)|号作戦ノ目的ヲ完遂スルコトハ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、本戦争指導ニ一転機ヲ劃スルモノニシテ|中央現地共ニ目下抱懐セラレアル右方針ヲ堅持強行スルヲ要スト確信《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》シアルコト前電ノ如シ
然レトモ今後ノ攻撃ハ前記敵情ニ鑑ミ|之ヲ簡単ニ考フルトキハ三度蹉跌ノ苦杯ヲナムル虞アルヲ以テ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、今後敵ノ増強ヲ見越シ確信アル準備ヲ成ルヘク速カニ整ヘ、必勝ノ構ヘヲ以テ臨ムコト恰モ「バタアン」本陣地攻略戦闘ノ経緯ノ如クナルヲ要ス
[#ここで字下げ終わり]
(後段略)
(彼我の兵力の増強競争に果して成算があるのか、ないのか。あるとすれば、その根拠は何であったか。彼我生産力の桁違いの差は、開戦以前の数次の御前会議と、それぞれ御前会議に先立つ大本営政府連絡会議で問題となり、否定的結論が導かれるのを恐れていつもうやむやに回避された事柄であった。もし、増強競争に確信を持てないとすれば、カ号、レ号作戦の完遂など思いも寄らないことなのであった。八月二十八日の艦艇輸送の失敗で十七軍司令部にガ島放棄論が起こり、二十九日以後の艦艇輸送の成功で放棄論が、立ち消えになったことこそ、実は、日本陸軍統帥の基礎の不堅確を示す重大な現象であった。放棄論を立ち消えにするべきではなく、レ号作戦の能否をも併せて徹底的に検討すべき段階に立ち至っていたのである。
「三度蹉跌ノ苦杯ヲナムル虞」があると考えたのは、さすがであった。ただ、その後の事実経過は、今後の記述が明らかにするように「三度蹉跌ノ苦杯」を嘗めるようにしか進展しないのである。理由は簡単であった。作戦遂行が国力の上限を超えているという冷厳な事実を、軍がいっかな認識しようとしなかったからである。)
三、略
四、(前段略)
[#2字下げ]海軍ハ航空消耗戦ヲ避クル為、攻撃再興ノ期日ハ成ルヘク速カナルヲ切望シアリ、目下我航空総力活動ノ隘路ハ、一ニ飛行場ノ数及広サニアルヲ以テ陸軍航空部隊ヲ更ニ増強スルノ要ハナキモノト認ム
五、略
(海軍が航空消耗戦を避けるためになるべく早期の攻撃再興を望むのは当然であるが、攻撃再興を急ぐためには、兵力増強、補給の確保を急ぐ必要があり。それは制空権の確保なしには望み得ないことであった。我が制空権下に兵力増強と補給の円滑化を図るためには、ガダルカナルヘなるべく近く航空基地を推進することと、我が機動部隊による輸送船団あるいは艦艇の掩護とガダルカナル飛行場を反復攻撃して無力化することが、不可欠の要件であった。海軍は、しかし、敵機動部隊の出現を常に懸念して、味方機動部隊の対ガ島使用を回避し、依然として基地航空隊が遠路を飛んで悪天候に左右され、あるいは敵地上空の滞空時間が短くて戦力の最大発揮を妨げられるという、わかりきった事実を繰り返していた。これでは、先に記した第二項の彼我の増強競争で優位に立つことが出来る道理がなかったのである。)
第十七軍司令部では、川口支隊攻撃失敗の原因として次の諸点を挙げているという。
一、川口支隊の背後、タイボ岬付近に上陸(既述)した米軍のために、上陸点に残置した糧秣を押えられ、且つ攻撃準備のため十分な時間をとれなかったこと。
(敵に背後に上陸されたのは、敵の戦術であるから仕方がないが、攻撃準備の時間的余裕がなかったというのは言訳にならない。既述の経過において時間の消費は随所にあった。川口支隊に限らないが、日本軍には一般に、出たとこ勝負の傾向が強かった。十分に時間をかけ、慎重に準備することなど、ほとんどいつもあり得なかった。あとに述べる第三項にかかわることだが、兵力が完全に揃うまで満を持するということを日本軍はしなかった。あとからあとから兵力を小出しに送って、それらが攻撃開始所定時刻に間に合うかどうかが、事前に正確に計算されていなかったのである。)
二、敵の火力(殊に砲兵)が優越していたこと。
(はじめて気がついたような表現は奇怪である。既にふれたことだが、一木支隊第一梯団の全滅で、敵の火力の旺盛は予想のうちに入っていなければならなかった。一木第一梯団の突撃発起は八月二十一日未明であった。川口支隊の遅れた夜襲と時間的に大した差はない。川口支隊の場合はジャングル迂回の奇襲だから、敵火力の痛打を浴びることはないと、何故楽観出来たのかが不思議である。再々ノモンハンを引合に出すが、日本軍の肉弾による夜襲の神話は、三年前のノモンハンで完全に地に堕ちたのである。)
三、ジャングルのため部隊の連絡が十分とれず、支隊長の命令のように突撃したのは、支隊兵力五個大隊のうち、歩兵第百二十四連隊第一大隊(国生大隊)と歩兵第四連隊第二大隊(田村大隊)の二個大隊に過ぎず、結局突撃兵力が不足したこと。(この第三項は十七軍司令部の記述が明らかに誤っている。後出するカッコ内の筆者の所論に留意ありたい。)
一木支隊残部をもって編成した水野大隊(熊大隊)は、十三日攻撃準備位置に就くことが出来なくて攻撃していない(水野大隊長は十四日戦死)。歩兵第百二十四連隊第三大隊は突撃しなかった。(既述)
歩兵第百二十四連隊主力はルンガ左岸地区から策応する予定だったが、舟艇機動の際の損害が多かったのと、ガダルカナル西端部から東方への地形が錯雑しており、かつ支隊主力と隔絶していて、連絡がとれなかったため攻撃しない。(実際には、岡大佐から川口支隊長へ攻撃計画の報告は届いていた。岡部隊は、しかし、既述の通り、予定通りの行動をしなかったのである。──引用者)
歩兵第四連隊の第三大隊(佐々木大隊。十七軍松本参謀が同行した。──引用者)は、上陸後戦場に急行したが間に合わず海岸道方面からするその攻撃は翌朝となったこと。
(攻撃準備位置につくことが出来なかったのは密林中の前進所要時間を甘く見積っていたからである。しかし、水野大隊が攻撃しなかったというのは、事実に反している。水野大隊は既述の通り攻撃を行なった。
各隊一斉に夜襲を開始出来なかったのは、要するに準備不足のせいであり、それは計画段階で見積りが安易であったからである。
突撃兵力の不足を言うのなら、兵力の逐次投入が厳に反省されなければならない。
予定日時の十二日が十三日になっても、歩四第三大隊は間に合わなかったし、舟艇機動の岡部隊も東西呼応出来なかった。もし、十七軍司令部が希望し、期待したように、十二日が十一日に実際に繰り上ったとしたら、あとから投入した兵力は、なおさら間に合わなかったはずであった。
百二十四連隊の三分の一にも及ぶ兵力を舟艇機動に委ねたのは、川口支隊長の自信過剰に責任を帰すべきことだが、むざむざとそれを追認した十七軍司令部の統帥の権威はどうなるのか。
各隊一斉に夜襲をしても、成功したかどうかは疑わしい。だが、それは別問題である。各隊行動不整の物的理由は、ジャングルであった。ジャングル通過の所要時間を十分に見込まなかった理由は、日本人の軽率な気質に求められるべきことであったかもしれない。ジャングル通過という未経験の、しかも困難をきわめる作業に要する時間の見積りの甘さは、このときばかりでなく、翌十月の第二師団の攻撃のときにも繰り返されるのである。)
四、支隊長が支隊の根幹たる歩兵第百二十四連隊主力を舟艇機動により手裡から脱し、他の建制でない諸部隊を人員の少い司令部で指揮し、所謂非建制部隊の掌握不十分、協同不十分の弊に陥った虞があること。
(建制・非建制の別がもし重大問題なら、支隊の編成など行なわない方がいい。郷土意識や縄張意識があって排他的傾向が出るのなら、その部隊は到底高度の戦略戦術に基づく作戦には使えない。資質劣悪の部隊と言わねばならない。川口支隊の場合、川口手記にもあるように、最も自主的に勇敢に戦ったのは、非建制の田村大隊であったし、支隊長が最も期待していた建制の第三大隊は不可解な不首尾に終っている。)
五、密林内でしかも地図は極めて不完全で用をなさない為、方向の維持が困難であったこと。──(以上各項戦史室前掲書)
(ジャングル通過に要する時間の見積りと携行食糧が十分であれば、攻撃準備位置への進出が出来ないことも、各部隊が所定期日に各所定地点へ達し得ないということも、避けられたはずのものである。不用意でいいかげんであったから、自然の障碍の前に屈したのである。)
川口支隊の攻撃失敗は第十七軍司令部にとってはよほどの衝撃であったらしく、連合艦隊宇垣参謀長は次のように書き残している。
「軍司令部はあの奇襲に全生命をかけ自信強かりし大失敗の打撃は甚大にして全く顔色なしと云ふ外無し。(中略)軍司令部の強化を必要とし、要すれば其の更迭も一法と感じたり。但し参謀本部自ら軽視(ガダルカナル奪回作戦を──引用者)せる程なれば軍司令部のみを責むるも過酷なるべし。(中略)只々夜襲一点張りを以て必成を自信せるは大に研究の余地ありと云ふべきなり。
今回の失敗の原因は左に在りと推断す。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
一、敵の決意〈最初の攻撃作戦、今秋の中間選挙戦に対する大統領の名誉を賭く。損害又損害に不拘兵力の注入使用〉牢固にして、其の防備、対抗手段に万全を期しあるを軽視し、第一段作戦の我実力を過信し、軽装備の同数〈或は以下〉の兵力を以て一挙奇襲に依りて成算を求めたる事。〈参謀本部、十七軍、川口支隊等全部楽観的に経過せり。〉
[#ここで字下げ終わり]
(海軍も、たとえば第八艦隊が、陸兵の一個大隊も投入すればガダルカナルの奪回は容易と考えていたように楽観的に過ぎた事実はあるが、宇垣参謀長の右の見解はほぼ正解であると考えられるし、この手記が川口支隊攻撃失敗直後の九月十五日の項であることは注目に値するであろう。)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
二、敵の制空権下に於て天候の障害多く、我航空機の活用並に輸送困難なりしに対し、敵は損害を顧みず相当に増強を継続し防禦を固くせる事。
[#ここで字下げ終わり]
(根本的な問題は、日本海軍の航空基地推進の仕方にあったことを、連合艦隊参謀長が認識していないはずはないが、その欠陥を補うために、機動部隊の活用にはもっと工夫の余地があったと思われる。生産力的にみて元々が無理な戦なのであった。空母温存主義でいつまでも対等に渡り合えることではなかったのである。)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
三、奇襲以外火砲の利用等考慮少く〈津軽にて輸送せる十二糎野戦高角砲一門は揚陸の際照準器破損持ち帰り、他の一門はタイボ岬附近に陸揚げ林中に隠匿し、何等使用せざりしが如く〉又軍の統率連繋全からず。〈川口支隊長引率は直接の部下は二ケ大隊にして、他の一ケ大隊及一木支隊残兵は他の建制部隊たり。岡連隊長は西方に占位し、両者の間に何等通信連絡をとり得ざりしが如く〉支離個々の戦闘をなせる事。〈十三日に延期せる事をも通知出来ず一部は十二日攻撃開始〉
[#ここで字下げ終わり]
(先に述べた通り、建制・非建制が本質的な問題なのではない。それが問題化するとすれば、訓練精到ならざる弱兵部隊の場合と、指揮統率能力を欠いた場合である。川口支隊の場合は、指揮統制が十分であったとは到底言えないが、各隊の行動不整は、既に触れた通り、ジャングル踏破をあまりにも軽視したことと、兵力輸送を逐次に多地点へ行ない、攻撃開始日時との調節が綿密でなかったことに最大の欠陥を見出すべきである。
火砲利用を軽視するのは、肉弾夜襲を重視することの裏返しである。白兵の威力が通用したのは、相対的に火力の劣弱な蒋介石軍などを相手とした場合に限ったのだということを、帝国陸軍は遂に認識しなかったか、認識することを怖れて避けようとしたかの、いずれかであった。)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
四、主隊の進出位置適当ならず。〈天日|晦《くら》き天然のジャングルを進出するの困難〉進撃容易ならず。加ふるに各大隊毎の左右連繋に欠け協同突撃不能に陥りたる事。
[#ここで字下げ終わり]
(右は既に述べたことである。改めて触れるまでもない。ただ、ジャングル内の進出困難については、先に見た十七軍司令部でも指摘しているにもかかわらず、後述する十月下旬の第二師団による総攻撃のときにも、全く同じ問題に同じ悩み方をするということを、記憶せられたい。)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
五、奇襲は敵の意表に出でて初めて成功すべきに拘らず、聴音機等の活用により早期被発見、予期せざる銃砲火の集中を受け、先頭部隊の損害と相俟ちて精神的にも挫折せし事。〈戦死二百余、戦傷を合し六五四なり。一割程度に過ぎず〉
[#ここで字下げ終わり]
等なるべし。|要するに敵をあまく見過ぎたり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|火器を重用する防禦は敵の本領なり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。今後陸海軍共第一段作戦の成果に陶酔する事なく、頭を洗って最も理屈詰めに成算ある作戦を確立し、機に臨んで正攻奇襲の妙用を期する事最も肝要なりとす。海軍自体のみにて実施せるラビ攻略戦の失敗亦略其の軌を一にす。深く心すべきなり。」(宇垣纒『戦藻録』──傍点引用者)
右の第五項の末尾、戦死二百余云々の根拠は判然しない。要するに、攻撃失敗の割りには、損害が少なかったことを宇垣参謀長は指摘したかったのであろう。
川口支隊の八月十三日から十月二日までの間の人員死傷は次の通りである。(戦史室前掲書による)
戦闘参加
将校 二一二
准士官以下 六〇〇五
死
将校 二八
准士官以下 六〇五
傷
将校 一三
准士官以下 四九二
生死不明
将校 一
准士官以下 七四
右表によれば、戦闘参加総数六二一七に対して、死者六三三は一〇・一%、傷者五〇五は八・二%、死傷合計一一三八は一八・三%に相当する。歴史上の激戦例と比較すると、意外に低いのである。ガダルカナル戦の特徴は、右の死傷調査期間の末期ごろから終局まで絶えることなく将兵を襲った飢餓状況にある。戦闘による死傷の数字は将兵の運命の一面を物語るに過ぎない。
部隊別の数字の羅列は煩雑なので割愛するが、大隊では、歩一二四の第一大隊(国生大隊)の戦闘参加一〇三四に対して、死者二〇八、傷者一九二がきわだって多く、敵陣中最も深く突入した歩四第二大隊(田村大隊)の参加総数六五八に対する、死者六二、傷七九、他に生死不明(のち戦死確認)四五というのは、判明している戦況から考えると、意外に少い損耗率である。大小各部隊のうち、戦死の占める率が最も高いのは、野戦高射砲第四十五大隊の一中隊で、参加総数五七に対して死者は三五であった。
川口支隊の攻撃失敗後、第十七軍司令部では参謀陣の交替と増強が行なわれたが、第二師団に転出した松本参謀の後任として発令(九月十五日)された小沼大佐が東京を出発する(九月十八日)までに、川口支隊の攻撃失敗に関して上司から与えられた注意事項がある。それらは、日本軍の信じがたい欠陥を告白しているようなもので、一読唖然とするが、敢て引用する。(戦史室『南太平洋陸軍作戦』(2)より)
田中新一大本営陸軍部第一(作戦)部長の注意。
「前三項目略
4、作戦の基礎
今までは敵情、地形、敵の戦法等不明のまま作戦せり。
まずこれを知りこれを制するの策案を樹立するを要する。」
田辺盛武参謀次長の注意。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
「1、兵力の逐次使用は不可。
2、攻撃開始期日は具体的根拠に立脚せよ。
3、爾他のことこれを許せば物資力を考慮せよ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行2字下げ]攻撃に当り敵情捜索せず、機関銃鉄条網に対する処置を講ぜずして攻撃するは不可。一般に近代戦に関する観念不足の感あり。」
右の諸点は戦闘のいろはでしかない。学校教練でさえ、少し熱心な配属将校ならやかましく学生に教えたことばかりである。こんなことが参謀次長や作戦部長の注意となって現われねばならぬような軍隊と、その骨幹をなす職業軍人の仕事とは、一体何であったのか。
先に、ガダルカナルにおいて日本軍は凄絶なまでに死力を尽しはしたが(その実相は今後記述が進むに従って明らかとなるはずだが)、戦理の最善を尽しはしなかったと述べたのは、右のような初歩的なことが、大本営首脳部の地位にある中将少将の口から、戦地へ赴任する高級参謀に注意事項として托されねばならぬような事態の集約的表現なのである。
29
攻撃失敗後の川口支隊の困難をきわめた撤退行動を述べる前に、支隊の攻撃に連繋して大作戦を展開する予定であった連合艦隊の行動にふれてみる。
連合艦隊では、このころ、南東方面に集中し得る敵の海上兵力を、戦艦二、空母約四、巡洋艦約七、駆逐艦約二〇、潜水艦約一〇と見積っていた。
九月六日、連合艦隊は、川口支隊の攻撃開始は九月十二日という予定の下に作戦命令を発した。その命令に基づいて出された「ガ島奪回の総攻撃実施予定行動要領」には、
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
一、第八艦隊基幹の外南洋部隊及び基地航空部隊の大部で陸軍の攻撃に策応し「ガ」島所在の敵攻撃及び敵増援阻止退路遮断を行なう。
二、囮船団(陸軍輸送船〈空船〉十隻駆逐艦二)を十二、十三両日「ガ」島の北方二〇〇浬附近に機宜行動せしめ、敵空母機動部隊に好餌を示し誘出を図り、敵が之にかかる際我機動部隊で撃滅する。
三、前進部隊(第二艦隊──近藤部隊)は之等に応じ、十二日早朝「ガ」島の北方六〇〇浬附近まで進出して索敵、十三日早朝「ガ」島の北東三〇〇浬附近まで南下
四、機動部隊(第三艦隊──南雲部隊)は概ね前進部隊の後方一五〇浬附近を機宜行動(以下略)
[#ここで字下げ終わり]
等のことが示されている。宇垣参謀長によれば「相当練りたる揚句」の行動要領であった。
『要領』によれば、囮船団は十二、三日の両日ガダルカナル北方二〇〇浬を行動し、前進部隊は同じく北方六〇〇浬というから、囮船団と前進部隊の距離は四〇〇浬、我が機動部隊は前進部隊のさらに後方一五〇浬に在るから、囮船団との距離は五五〇浬あることになる。したがって、ほぼラバウル─ガダルカナル間の距離にひとしい。もし、囮船団を敵機動部隊が襲撃した場合、五五〇浬も離れている我機動部隊が囮を利用して敵機動部隊を捕捉し得るという計算的根拠が如何にして成り立つのか、この限りでは判然していない。いつもの通り、機動部隊は虎の子のように温存されているようであった。
それはともかくとして、川口支隊の攻撃に連繋する連合艦隊の作戦思想は、ガダルカナル飛行場の奪回は、川口支隊による地上攻撃と基地航空部隊による航空攻撃によって成功するという前提に立っており、ガダルカナルの奪回直後に当然敵機動部隊が反撃に出て来るものと予想し、これを捕捉撃滅してソロモン付近の制海権を握ろうというのである。
九月七日、十七軍司令部から川口支隊の攻撃は十三日に延期と通報された。これは、既述の通り、川口支隊が行動を開始してみると、部隊の前進も弾薬糧秣の集積も捗らないために、支隊長が当初大事をとった結果である。
翌九月八日、十七軍司令部から、攻撃開始を繰り上げるよう川口支隊に要望中と連絡があり、次いで攻撃開始は十一日の予定という電報が来た。これも既述の経過である。
艦隊は十三日を十一日に繰り上げた。機動部隊は十日午前六時、前進部隊(第二艦隊)は同日午後、トラックを出撃した。
川口支隊長は、前日八日、十七軍司令部に対して攻撃一日繰上げ可能と思わせるような報告をしたが、九日朝には、攻撃を十二日と確定して司令部に報告した。連合艦隊もそれに従って、十一日をまた十二日に改め、各艦隊は予定通り行動を展開した。
外南洋方面部隊は囮船団から所定の距離をとった。基地航空部隊はガダルカナル飛行場に進攻した。三水戦司令官指揮する外南洋方面奇襲隊は巡洋艦一隻、駆逐艦三隻をもって、十二日夜ルンガ泊地に突入、飛行場を砲撃し、駆逐艦一隻は兵器弾薬をカミンボに揚陸した。
川口支隊の攻撃は、しかし、十二日夜には既述の通り行なえなかったのである。陸海軍の協同作戦ははじめから齟齬を来した。
十三日の朝になっても、川口支隊の攻撃の有無成否はわからなかった。
同日午前九時二十分、哨戒機が、ツラギの南東方三四五浬に、空母一、戦艦二、駆逐艦二を報じた。
連合艦隊司令部では、距離が遠いので、十四日朝これを捕捉することとして、機動部隊と前進部隊を一時反転北上させた。
翌朝、予定通り再反転南下したが、敵情を得ず、補給の必要も生じて、また反転北上した。
川口支隊の状況は依然として不明であった。陸海軍の作戦行動は遂に食いちがったまま時間が経過したのである。
十五日早朝、ラバウルの十一航艦司令部から、ようやく、川口支隊の攻撃失敗の通報があった。
連合艦隊は川口支隊のガダルカナル飛行場攻撃を中軸とした大規模な海軍作戦を、ここに中止し、トラックヘ引揚げざるを得なかった。宇垣参謀長の曰う「相当練りたる」作戦も空振りに終ったのである。
ただ、大作戦の幕切れに、みやげのような戦果があった。
十五日午前八時十五分ころ、ソロモン諸島の東方海面を行動中の基地航空部隊の哨戒機が、空母一、水上機母艦一、駆逐艦三を発見し、約一時間後、輸送船九、駆逐艦六をガダルカナルの南東に発見した。
連合艦隊は先遣部隊(潜水艦部隊)に船団攻撃を命じた。船団は十六日にはガダルカナルに入泊するものと考えられた。
第一潜水部隊の伊十九潜は、十時五十分、ワスプ型空母を発見し、攻撃の機を窺った。魚雷四本の命中音を聞いたのは、約一時間後の十一時四十五分であったが、伊十九潜自身が爆雷攻撃を受けていて潜水中であったので、戦果の確認が出来なかった。
午後三時三十五分、伊十五潜がワスプ型空母その他が炎上中であるのを発見した。
ワスプは午後六時沈没を確認された。
米側戦史によれば、ワスプ沈没のほかに、戦艦ノースカロライナと駆逐艦オブライエンに魚雷が一発ずつ命中しているという。
敵空母の撃滅を主目的として、ガダルカナル飛行場への攻撃は基地航空部隊に任せきりの第三艦隊(機動部隊)は、いっこうに会敵せず、遠く敵の行動圏内へ潜入した潜水部隊が敵空母を|屠《ほふ》ったのである。
先に発見された米船団は、ガダルカナル増援のための第七海兵隊約四〇〇〇名を輸送中で、伊十九潜が攻撃した機動部隊は船団を間接掩護していたものであった。船団は十八日にガダルカナルに揚陸を果した。
日本海軍の機動部隊は囮を使って敵をおびき寄せようとはしたが、敵の来攻を邀撃するべく危険海域へ踏み込もうとはしなかった。
米軍はガダルカナルに着々と増強し、日本軍はガダルカナルで日に日に苦境が深刻化する。
30
夜襲失敗後、戦場を離脱する川口支隊の行動を、支隊長自身は回想で次のように述べている。
「支隊は軍命令に依りマタニカウ川左岸に撤退し後図を策することとなり、各隊に対し兵力を集結し、アウステン山南麓を経て、マタニカウ川谷を同河河口に向い退却すべきを命じた。この際患者は各隊に於て搬送し、一兵たりとも遺棄するが如きことなき様、厳に要求した。
十五日以後少数の敵は支隊の退却に追尾して来た。第三大隊(歩兵第百二十四連隊──引用者)をして各隊の退却を収容させた。
各大隊は携帯天幕を以て担架を急造した。一担架を四名にて担ぎ搬送する。その交代兵四人、担送中の兵の武器を運搬する者一名とせば、一担送患者に九名を要する。結局、全員が患者輸送隊になった。幸い敵が追撃して来なかったので、退却が出来た。
糧食は各人概ね九月十三、四日に喰い尽し、一粒の米もなく、全員絶食の状態で五、六日を行軍した。
海岸には椰子の木があるからこの実を以て飢を凌ぐことが出来るが、支隊退却に於ては山地で椰子がない。住居は奥地には一軒もなく、万古|斧鉞《ふえつ》を入れたことない人跡未踏の地である為、喰えるものは何もない。唯々檳椰子の若芽は唯一の食糧であったが、全員に対しては九牛の一毛に過ぎない。時としてマタニカウ川の深い処に手榴弾を投じ少数の川魚を獲って喰うものもあった。実に惨澹たるものであった。
幸い敵の進出が十五日に少しあっただけで、其後なかったので助かったが、若し本格的追撃を受けたなら、全滅の悲運に際会して居ただろう。
主力がマタニカウ川右岸に達したのは、岡部隊から出された部隊により誘導された。同地にて始めて糧食を与えられた。全員概ね五日間絶食であった。マタニカウ川に達したのは九月十八日であった。
M点(既述。夜襲開始以前に推進した砲兵位置──引用者)に残置した一木支隊の砲兵及び歩兵一中隊は大曾祖参謀の指揮に依って、概ね三週間を費やして主力の位置に合したが、全員栄養失調となり、死亡者も続出した。
本退却間、重き兵器は全部、小銃も半数はジャングル内に放棄した。体力衰え、携帯不可能となったからである。但し各人銃剣と飯盒だけは決して捨てない。之は退却行に於て、何処でも生ずる現象である。」
兵器が点々とジャングル内に捨てられていく光景は、敗軍の実情を何よりも雄弁に物語っている。兵役に服したことのある者なら、誰でも記憶にあるはずである。初年兵教育期間中に兵器の取扱いに些細な粗相でもあると、兵隊は天皇の名において肉体的制裁を加えられたのだ。その兵器がジャングルに捨てられたのである。天皇制の神話も飢餓には遠く及ばない。帯剣と飯盒だけは決して手放さないのも当然である。帯剣はもはや唯一の生活の工具であり、飯盒は兵隊を飢えた野獣から分つ唯一の食器なのである。餓えは野獣も人間も同じでも、野獣は食器を必要としない。
ガダルカナルで川口支隊の攻撃が失敗した日、ニューギニアではオーエン・スタンレー山系越えに悪戦苦闘した南海支隊が、めざすポートモレスビーを遥かに望見する地点イオリバイワに達し、その陣地を攻撃中に、攻撃を中止してスタンレー山系以北に撤退する決定がなされた。
理由は、ガダルカナルの戦況が深刻化して、ニューギニアヘの充当を予定していた兵力までガダルカナルに転用しなければならないような状況が生じたからでもあるが、より端的には南海支隊の糧秣が尽きたのである。一日定量を一合として食いのばし、激務に耐えながら、敵の糧秣を期待し、あるいは食糧の前送に儚い望みをつないできたが、もはや絶望となった。退却する敵は食料を残さなかったし、味方は補給を確保する態勢になかった。たまに糧秣を北岸に揚陸し得ても、それを重畳とした山系を越えて前線に搬送する手段がない。人力搬送では、先に記した南海支隊司令部での試算にあったように、搬送する人員の消費を差引いて前方に蓄積するには、厖大な兵員を必要とする。絶望であった。作戦自体が自殺的であったのである。
南海支隊は後退行動に移り、敵の追撃と飢餓に挟撃され、惨澹たる末路へ追い込まれることになる。
この支隊は、一木支隊第一梯団が意気揚々とガダルカナルに上陸したのと同じ日、昭和十七年八月十八日、ニューギニア北岸に上陸して、山系踏破を開始した。そして、一木支隊全滅のあとを受けた川口支隊がガダルカナルの夜襲に敗れたのと同じ日、九月十四日、敵に敗れず、飢餓に敗れて退却を余儀なくされたのである。
日付の一致は偶然でしかないが、この偶然が強烈に意味するところは、日本車が粗雑な作戦を立て、寡弱な補給力をもってしてはそれを保障し得ないにもかかわらず、驕慢な自信過剰のおもむくままに二正面作戦を敢てしたことである。
南溟に果てた兵は、敵に殺されたのならまだよかった。統帥の拙劣と無責任によって殺されたのである。
川口支隊のマタニカウ河畔への撤退は、支隊長手記にもあるように各隊悲惨をきわめたが、歩兵第四連隊第二大隊(田村大隊)は敵陣地に最も深く突入して各所に散在していたので、戦場からの離脱は他の諸隊に比べていっそう困難であった。敵陣突入の最尖端にあった第六中隊に退却命令が伝わったのは、十六日になってからであった。飛行場南東方地区を占拠していたが、食糧既に全く尽き、活動はほとんど出来ない状態であった。
十六日夕、中隊は退却に移った。
歩兵第四連隊歴史には、「敵ノ重囲ノ一角ヲ突破シ、大ナル危険ヲ冒シツツ集結地ニ到ル、此ノ間二日ヲ費セシモ大隊ノ集結セルハ僅カニ二百名ニシテ他ハ戦場ニ其ノ英姿ヲ歿ス、激戦偲フニ余リアリ」とある。
先に記した死傷調査表(自八月十三日至十月二日)にある数字と、右の連隊歴史の語るところとの間には、かなりの隔りが見えるが、相違の理由は判然しない。田村大隊の死傷が、もし意外に少なかったとすれば、それは田村大隊が敵と彼我入り乱れて持久していて、敵が砲火を浴びせにくい状態にあったからとしか考えられない。
右翼隊の熊大隊との連絡は二十三日早朝までとれなかった。通信杜絶は九月十六日以来のことである。通信部隊の努力によって二十三日早朝判明した熊大隊の状況は、同部隊が撤退行動中に進路を誤り、ルンガ川上流付近で餓死寸前の状態にあるということであった。岡連隊長(歩一二四)は救援のために第五中隊に工兵一小隊と五号無線一機をつけて派遣した。
ところが、九月二十四日午後三時ごろ、機関銃と迫撃砲を持った約二〇〇の米軍が、岡部隊がマタニカウ川とルンガ川の間に啓開した「舞鶴道」を遮断し、敵機の活動が活溌となった。状況は敵の上陸企図を示すもののようであった。岡連隊長は、熊大隊と砲兵隊の撤退誘導を断念して、マタニカウ川右岸(東側)に点在する部隊に、速かに左岸(西側)に撤退集結を命じた。
これによって、熊大隊と連絡中であった第五中隊(既述)はアウステン山麓に集結、ルンガ川付近にあった第八中隊は、舞鶴道上の敵の間隙を突破して、二十六日午前四時ごろ、マタニカウ川に到着した。
第二大隊主力(元の舟艇機動部隊主力)は敵を避けて南方を迂回、後退。熊大隊主力はアウステン山南麓に停止、その一部はマタニカウ川付近に到着しつつあった。
第三大隊十二中隊は、連隊長命令によって、後退して来る第二大隊と熊大隊を掩護するため前進し、午前十一時ごろ、マタニカウ川一本橋右岸で、約一〇〇名の敵が南進して来るのと遭遇、十二時半ごろ敵を撃退して、渡河点右岸を占拠した。
同二十六日、午前十時ごろ、マタニカウ川河口付近では、重火器の火力に掩護された約三〇〇名の米軍が、マタニカウ川を渡河しようとした。左岸にあった第九中隊がこれと交戦、撃退した。
米軍の攻撃は、さして大規模ではなかったが、執拗であった。
二十七日も、夜が明けると、飛行機と砲兵の掩護の下に約一〇〇名が河口付近に来攻、午前十時四十分ごろには、約八〇名が一本橋付近を東方から攻撃して来たが、いずれも撃退した。
ところが、その半時間後、駆逐艦に支援された大発九隻が海上を機動して来て、クルツ岬(マタニカウ川の西側)に艦砲射撃を加え、上陸した敵がマタニカウ川付近の日本軍の後方を遮断した。
危険な状況となりつつあった。
岡連隊長は、この敵に対して、クルツ岬西方約二キロにあった第二大隊主力に攻撃を命じた。第二大隊は、この敵を北方から圧迫して、南方密林内へ逃走させた。
午後三時ごろ、先の上陸点付近に艦砲射撃と飛行機の銃爆撃を伴って、大発七隻で約七〇〇名の米軍が上陸して来た。先に密林内へ逃走した友軍の救援のためであったであろう。
そのころ、先に交戦した第二大隊主力は西方に移動して部隊を整頓中で、上陸点付近にはルンガ川付近から舞鶴道を引き揚げた第八中隊が集結中であった。
米軍は新たに上陸した部隊と、前に密体内に逃走した部隊とが呼応して、第八中隊に攻撃を加えてきた。
第八中隊は白兵戦を挑んで、この敵を撃退した。
岡連隊長はクルツ岬の西方約二キロに兵力の集結を命じた。
同二十七日夜、第二大隊は海岸南側約一キロの高地に突入したが、米軍は既にマタニカウ川右岸(東側)に撤退していた。
岡部隊は、既述の通り、舟艇機動のため兵力減耗の上、分散上陸し、かつ、ガ島西北端の上陸地点からルンガ川付近の戦場までの距離が遠く、地形も錯雑していたため、行進が遅れ、支隊の夜襲に連繋出来なかったが、支隊の夜襲失敗後、マタニカウ川への撤退にあたっては、岡部隊の存在が事態の収拾に偉効を発揮したといってよい。もっとも、舟艇機動のはじめから、そのような効果が予測されていたわけではなかったのである。
31
日時が多少前後するが、川口支隊がマタニカウ川左岸(西側)に撤退したことについて、九月十六日、大本営の田中第一部長は十七軍司令部に出張中の井本中佐に、次の電報を打った。
川口支隊ハ爾後ノ攻撃再興ノ為ニモマタニカウ河ノ線ヨリ後退セシムヘカラサルモノト思考セラル
元々、川口支隊長は独断でマタニカウ左岸へ撤退したのではなかった。
十七軍が、九月十日松本参謀をガダルカナルに派遣すると決めたとき(ガ島上陸は九月十一日夜)、二見参謀長が同参謀に与えた指示(既述)に、攻略不成功の場合は爾後の補給路はカミンボ方面とするから、川口支隊は退路を西方に振り、マタニカウ左岸高地を占領し、その以西に兵力を集結させよ、というのがある。
十七軍司令部は、しかし、中央の意図を反映して、九月二十八日午前十時十五分、川口支隊長に対して、
「最モ速カニマタニカウ河右岸地区ニ攻勢ノ拠点ヲ占領シ 十月八日頃ヨリノ砲兵ヲ以テスル飛行場砲撃ヲ準備スヘク 砲兵三中隊ヲ近ク支隊長ノ指揮下ニ入ラシム」
と命令した。
この命令の作戦的背景は、第二師団を投入しての本格的総攻撃が十月に予定されていたのである。
右の命令を受領したころの川口支隊の実情は、ラバウルの十七軍司令部も知らなければ、大本営はなおのこと知らなかった。
岡部隊と青葉大隊は、飛行場攻撃の失敗と、九月二十六、七日のマタニカウ川の戦闘で人員減耗し、戦力は著しく低下していた。
熊大隊(一木支隊)、砲兵隊、|兵站《へいたん》病院、防疫給水部等も、兵器、器材を撤退間に放棄してしまっていて、使用に堪える状態にはなかった。(戦史室前掲『陸軍作戦』(1))
支隊全般に給養は一日三分一定量に満たなかった。戦力の回復など思いも寄らない。衰弱するばかりである。支隊の患者は一千名を越え、栄養不良のため死亡者が続出した。マラリアも多発した。栄養失調に伴う下痢の発生はほとんど全員に及んだといってもよかった。
砲兵を推進するといっても、そのために必要な道路工事が思うにまかせなかった。工兵中隊が器具器材を持っていないのである。弾薬集積も出来なければ、敵飛行機に対して砲兵陣地を掩護する対空火器も甚だしく不十分であった。
軍隊では命令は絶対だが、右記した命令は川口支隊の実情認識の欠如から発していると考えられた。
そこで川口支隊長は十七軍司令部に意見具申した。その趣旨は次のようなものであった。
軍のいう砲兵(重砲)が何月何日に揚陸され、弾薬も何日までに準備され、何日から射撃開始ということがわかったら、その前に川口支隊は必ずマタニカウ川右岸の要地を責任をもって占領する。だが、右のことは未定である。
いまやマタニカウ川右岸は敵の警戒陣地となっている。支隊が一時攻略しても、敵は必ず奪回に来るものと考えられる。少くとも、支隊は砲爆撃を受け、無用の損害を蒙り、時として我が欲しない時機に局部的決戦を強いられ、支隊の大部は消耗し、全般的にみて不利である。また、もしマタニカウ右岸を攻撃中に、敵がマタニカウ川とカミンボの間に上陸して来ると、これに対応する兵力がないから、後続部隊の上陸が不可能になる。要するに、右岸要地の占領は砲兵射撃開始直前に行なうのを適当と考える、という意見具申であった。
川口支隊長は、右の意見具申と同一趣旨のことを、九月二十一日に連絡と次期作戦準備資料の収集のためにラバウルから川口支隊長の下に来ていた越次、山内両参謀にも主張した。
川口支隊長が、意見具申の中で、砲兵射撃開始直前の必要な時機に「責任をもって」マタニカウ川右岸を占領する、と言っても、夜襲をろくに戦わずして不首尾に終らせた指揮官の言葉としては、説得力がなかったであろう。
また、右岸攻撃中に背後に、つまり、マタニカウ川とカミンボの間に敵に上陸される場合のことを川口支隊は危惧しているが、そしてそれも一応もっともなことではあるが、十七軍司令部としては、中熊連隊(歩兵第四連隊)を川口支隊長の指揮下に入らせたから、これが川口支隊主力以西の地域に在る限り、川口支隊長の背後への懸念に重きを置かなかったであろう。
青葉支隊(歩兵第四連隊)は、既に述べた通り、はじめはポートモレスビー作戦に、次いでラビ作戦に充当を予定されていたが、ガダルカナルの戦況の深刻化によって、第二大隊(田村大隊)が九月四日に、第三大隊(佐々木大隊)が九月十一日にカミンボに上陸し、川口支隊長の指揮下に入った。次いで、九月十五日夜、歩兵第四連隊長中熊直正大佐指揮する第一大隊基幹の約一一〇〇名がカミンボに上陸し、川口支隊長の指揮下に入っていた。
川口支隊長は中熊連隊長に対して、連隊の一部をもってカミンボ上陸基地の確保に当らせ、主力でコカンボナ(マタニカウ河口から西へ約七キロ)以西の地区に兵力を集結して、後方連絡線を確保するよう命じてあったのである。
したがって、川口支隊長のマタニカウ川右岸攻撃に関する意見具申は、後方の兵力配備についての不安よりも、川口支隊将兵の衰弱し戦力を極度に低下させている実情を内容とした方が説得力があったのではないかと思われる。軍人は、屡々、虚勢を張りたがるから、真相が後景に押しやられてしまう。十七軍司令部がガダルカナルの惨状を実際に認識するのは、十月、第二師団の攻撃がはじまる前、軍司令部をガダルカナルに推進してからである。
川口支隊長の意見具申は採用されなかった。九月三十日午前六時三十分、支隊に軍司令部から命令が届いた。
支隊ノ「マ」河右岸要地奪取ハ刻下ノ急務ナルニツキ即時実施シ、ソノ結果ヲ報告スヘシ
再度の命令とあっては、仕方がなかった。川口支隊長は歩兵第百二十四連隊にマタニカウ川右岸占領を命じた。岡連隊長は、十月三日、歩兵一中隊をもってマタニカウ川一本橋(渡河点)東岸と、河口右岸高地を占領させた。
右岸の敵勢力はよほど微弱であったとみえる。占領に任じた岡部隊では、後述するように半定量一日分の食糧しかなく、将兵の体力は衰弱の一途にあったのである。
当時、川口支隊は悲惨な状況にあった。先に述べたように、マラリアと下痢が多発していたが、野戦病院はセギロウ川付近(コカンボナから北西へ約一二キロ)のジャングル内に設けられてはいても、名のみであった。軍医はいても、病舎もベッドもない。患者がジャングルのあちこちに横たわっているだけである。雨が降れば、患者は地面で水びたしになった。野戦病院には患者用の食糧もなかった。患者が原隊から給与を受けるのだが、弱い患者の手に渡るほど糧食が多量にあるわけではない。薬品その他の医療品も海没その他の事故で、切れてしまっていた。軍医がいても手の施しようがなかった。
支隊長は、駆逐艦が来るごとに患者を乗せて後方へ送ろうとした。駆逐艦の方では、揚陸を済ませると、なるべく早くガダルカナルから離れたがって、手間のかかる患者後送を喜ばなかった。
兵員各自の糧食は半定量にも足りず、体力は日々低下するばかりであった。兵隊は閑さえあれば海岸の椰子の実を取って、帯剣で孔をこじあけ、その汁を飲むのが日課になっていた。椰子の実は、地に落ちて、日数が経つと、中の汁が固形化し、兵隊は椰子リンゴと称して貪り食った。固まった椰子油は、無煙の青い焔を出して燃え、敵中で用いるには最適の燃料にもなったという。
先に記したマタニカウ川右岸占領を九月三十日に命ぜられた岡連隊長が、支隊の高級副官にあてた手紙がある。食糧の窮状を訴えたものである。
「昨日帰途小山田副官ヨリ本日以降糧秣補給ハ当分中絶ノ由貴司令部ヨリ承知セシ旨報告ヲ受ケ驚キ入レリ
愈々昨日ノ作命(マ川右岸占領の作戦命令──引用者)ノ実行至難トナレリ
支隊司令部ハ軍命令ヲ右ヨリ左ヘ伝達シ自己ノ責任ハ免レシヤニ見ユルモ部下ヲ死地ニ投ズベキ連隊本部ニ|言《ママ》ハバ責任転|架《ママ》シテ涼シキ顔ニ似タルハ甚ダ遺憾ナリ
就テハ小官ノ立場上軍紀ノ厳然タル存在ノ前ニ絶対ニ之ニ服従スベキハ当然ナルベキヲ以テ之ガ万|善《ママ》ノ策トシ弾ヲ有スル青葉部隊ヲ利用スベキモ糧秣ハ何トカセザルヲ得ズ
(右の一節の意味は明瞭を欠くが青葉大隊には弾があるから、右岸占領には同隊を使用すべきだが、食糧だけはなんとかしてやらなければならない、という意味であろう。──引用者)
承ル処ニヨレバ支隊司令部各隊ハ本日並ニ明一日分ノ糧秣ヲ有スル由、小官ノ部下二千ハ半定量ニテ本日一日分ニテ何等ノ貯蔵ナシ就テハ右青葉部隊ヨリ五〇人小隊ヲ先遣ノ命ヲ下達セシニ付貴隊ノ明一日分ノ糧秣ヲ右五〇人五日分半定量ニ支給シ度キニ付協力アリ度
尚清水中尉ヨリ聞ク処ニ依レバ昨日亀甲万醤油三樽司令部ニ到着セシ由、第一線デハ海水ニテ辛|棒《ママ》シアル今日先ヅ活動セザル支隊司令部ハ此ノ如キ事ニ聊カ|謹《ママ》マレ度就テハ一樽ニテモ御寄贈ニ預ラバ幸甚ナリ」(前掲川口手記より)
敵を甘く見て、九月十三、四日以降は「糧は敵に依る」などと安易に考え、十分な準備を怠った結果が、このていたらくであった。
兵たちは食うことばかり考えるようになった。当然である。椰子の実を取ることが日課になった兵隊の姿は、想像に難くない。
こういう状態に置かれた兵隊は、いくら軍国主義的教育を施されていても、必然的に懐疑的になる。まず、こんな遠くまで来て、食う物もなく、支援砲火もなしに戦えるものかどうかである。外国はみんな邪悪で、日本だけが正しいと教え込まれているが、邪悪の国の利益を護るのに、ふんだんな補給、雷雨のような砲火、生命を保護するように出来た縦深陣地があって、正義を行使するのに肉弾しかないということが、あってよいものかどうかである。
兵隊が戦って死ぬのは仕方がない。だが、何故、戦えるようにして戦わせないのか。
兵隊を激戦に投入するのは仕方がない。だが、飢餓が忠誠の必須条件であるのかどうか。給養兵額の計算ぐらいは、はじめから立っていたはずである。定量給養ぐらいは確保して兵を奮戦させるのが、後方の高等司令部ではないのか。
日本軍は強いと言われてきたが、ほんとうにそうなのか。得意の白兵で突入しても、鉄条網でさえぎられる。手間どっているところを砲弾で叩かれる。これでは命が幾つあっても足りない。夜襲の効果は照明弾で半減する。一斉に突入するのでなければ、白兵は無意味に近い。一斉突入のためには、徹底した制圧砲撃と防禦施設の破壊が必要なのだ。そうした理詰めの戦法はまるでとられなかった。
兵隊は、ただやみくもに密林を歩き、部隊によっては突撃さえも出来ずに、退却し、虚しく飢えていた。
32
大本営では、第十七軍への兵力増強のため、九月十七日、杉山参謀総長が上奏を行なった。
これより先、八月二十九日の上奏で第二師団の第十七軍への配属が発令されていたが、この時点では、先に述べたように、第二師団の増加はガダルカナル奪回に充当するというよりも、ポートモレスビー作戦を目的としていたのである。それが川口支隊の攻撃失敗の結果、九月十七日の上奏では第二師団の使用目的は明らかにガダルカナルとなった。
九月十七日の上奏内容は、大体次のようなものであった。
川口支隊の攻撃失敗の主な原因は、我はジャングルを利用する奇襲に主眼を置いたため、連絡が十分にとれず、兵力分散し、戦力の統合発揮が出来なかったのに対し、敵の防禦組織、物的威力が予想以上に整備されていたことにあると判断される。したがって、今後の戦闘は奇襲ではなく、全くの力押しに依る外ない状態である、という認識の下に、増強兵力として、
青葉支隊(歩兵第四連隊)の残部、第二師団主力及び戦車中隊、重砲のほか自動砲(一〇)、重擲弾筒(三〇)、火焔放射機(一〇)、各種兵器資材を増加し、陸海軍戦力を統合発揮して一挙に飛行場を奪回する。攻撃時機は十月。
さらに、敵が兵力増強を行なっていることからみて、今後右記以上の兵力を増加する必要が生ずる場合も予想されるばかりでなく、ラビ作戦、ポートモレスビー作戦もあることであるから、この際、第三十八師団、速射砲二大隊、戦車一連隊、十五榴一連隊、十加一中隊、野戦高射砲二大隊、三十糎臼砲一大隊、独立工兵一連隊、揚陸団一個及び所要の後方部隊を第十七軍に増加する、というのであった。
この上奏に基づいて、九月十七日発令された大陸命第六八八号によって、関東軍、支那派遣軍、南方軍等から約二〇単位に近い部隊が第十七軍に編入されたが、この兵力増強の一部が無理であることが、その日のうちに判明していた。
同じ九月十七日、大本営陸軍部の田中第一部長名で、井本派遣参謀に打たれた電報の中に、次のくだりがある。(戦史室前掲書)
左記兵力ハ十月上旬迄ニ現地ニ到着スル如ク緊急ニ輸送ヲ処理シツツアリ
十五榴一大隊
十加一中隊
戦車一連隊
野戦高射砲一大隊
沖電六〇一号貴電ニヨル|緊急輸送兵力ノ希望ハ船舶ノ関係上目下ノ処右ノ程度以上ニ如何トモ為シ難キ状況《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ニアリ(傍点引用者)
つまり、船舶事情が既に|逼迫《ひつぱく》していて、大兵力とそれに伴う資材の転用が困難になっていたのである。
それにしても、大陸命六八八号による兵力増強は、これまで用兵規模が過小であった日本軍としては、かなり思いきった規模で、これが、もし、遅くとも川口支隊投入の時点で実施に移されていれば、ガダルカナル戦の様相は全く異っていたであろう。
第十七軍への兵力増強だけでなく、軍司令部の強化も行なわれた。これまで軍参謀が三名しかいなかったのが、十一名に増員された。小沼高級参謀の赴任(松本参謀は第二師団へ転出)のほか、大本営派遣参謀井本中佐と交代に大本営作戦班長の辻政信中佐と、情報参謀として杉田一次中佐が赴任した。
青葉支隊(第二師団・歩兵第四連隊)のカミンボ上陸は既に記したが、第二歩兵団長那須弓雄少将以下の支隊司令部も十月一日夜、カミンボに上陸した。
ガダルカナルヘの推進を急がれていた野戦重砲兵第二十一大隊第二中隊(九六式十五榴四門)は十月三日夜、迫撃第三大隊(迫撃砲三六門)は十月八日夜、いずれもタサファロング(コカンボナから北西へ直線距離で約八キロ)に上陸、独立戦車第一中隊は輸送手段の都合で遅れ、十月十四日夜の船団輸送(後述)で揚陸された。
第二師団の輸送は、敵の制空権下での大事業であった。
第十七軍では、正攻法によるガダルカナル奪回作戦のために、総兵力として、
歩兵約一三個大隊
火砲約二〇〇門
戦車、軽装甲車約七五輛
人員 総計約二万八〇〇〇名
別に第三十八師団の歩兵一連隊基幹を上陸点付近に集結しておく。海軍航空部隊は約二〇〇機を予定していた。
敵兵力としては、兵員七〇〇〇乃至八〇〇〇、(既に一万に達しているかもしれない。)戦車約二〇乃至三〇輛、火砲約一五〇門、飛行機約六〇機、高射砲約二〇門、を見込んでいた。(戦史室『南太平洋陸軍作戦』(2))
敵兵力を下算する悪癖はまだ矯正されていない。日本側が能力の上限いっぱいの増強を実施するというのに、敵がそれを上廻る兵力を保持していては困るから下算するかのようである。
右記の所要兵力をガダルカナルに送るために、十七軍は、十月十五日までに、兵員二万五〇〇〇名の二十日分の糧食(攻撃開始までにさらに十日分)と、〇・八会戦分の弾薬をガダルカナルに集積しようとしていた。
「会戦分」というのは、軍需品の消費・補給の単位量で、必ずしも確定数量を表わさない。一会戦は三乃至四カ月の作戦期間と概定し、一個師団一会戦の軍需品は約一万トン、弾薬は、たとえば重機関銃一梃当二万三〇〇〇発、野砲一門当二〇〇〇発、十榴一門当一五〇〇発等である。
十七軍では、海軍との打合せによって、鼠輸送(駆逐艦輸送)と蟻輸送(大発によって基地伝いに前送する方法)との併用によって、十月十三、四日ごろまでに兵員・軍需品の輸送を完了し、二十日には攻撃開始という計画を立てていた。
十月二十日攻撃開始のために、在ガ島陸軍は十月初めから飛行場砲撃を実施し、海軍航空隊は九月二十六日ころからはブイン飛行場を使用してガダルカナル攻撃を行なうという計画であった。
日本軍の計画は、いつものことだが、甘かった。計画を保障する手段と条件がいつも整わないのである。官僚主義に侵蝕された組織の仕事はいつもそうしたものである。
ブイン飛行場の建設は、先に述べたような技術上の問題から完成が遅延し、したがって輸送時の航空掩護は期待できず、鼠輸送は月明の関係で九月二十三、四日から月末まで中止しなければならなくなり、したがって、全攻略部隊の十月十五日ガダルカナル集結は不可能になった。次の夜闇を待つとすれば、攻撃を一カ月のばさなければならない。その間に米軍の増援と陣地強化はさらに進むはずである。
十月総攻撃を行なうとすれば、結局、危険を冒してでも大輸送船団を組んで輸送を敢行するほかはなかった。
大船団輸送は海軍の護衛なしには行なえない。
九月二十六日、小沼、辻の両参謀が第八艦隊を訪れて船団護衛を要望したが、第八艦隊独自の力量で宰領し得ることではなかった。
九月二十七日、辻、林両参謀と大前海軍参謀はトラックの連合艦隊司令部に飛んだ。辻によれば「連合艦隊司令長官に会って、直接決裁を受ける」ためである。山本連合艦隊司令長官にしてみれば、ガダルカナルは元来海軍の責任に属する所であり、そこで陸軍が苦戦を強いられているのは、補給難、つまりは制海権と制空権に帰することであるし、それはまた海軍が不用意に基地を延伸した結果であったから、陸軍が戦略単位の兵団を投入して奪回作戦を行なうのにどうしても大船団輸送が必要ということであれば、海軍は全力を挙げてその護衛に任じなければならないことであった。
後述する船団輸送は、山本元帥の決断によって実施されることになったのである。
第二師団の第一梯団(師団司令部、歩兵第二十九連隊、野砲兵第二連隊の一中隊、工兵第二連隊主力)は、九月十九日スラバヤを発って、二十九日ラバウルに到着した。第二師団の先遣隊(歩兵第十六連隊本部、同第三大隊、速射砲半中隊、連隊砲半中隊)は九月二十日既にラバウルに到着していた。同師団第二梯団のラバウル到着は十月六、七日の両日であった。(福島県在住の滝沢市郎氏──当時第二師団歩兵第二十九連隊本部員、電報班主任下士官で、昭和十七年十月六日ガ島上陸、翌十八年二月四日ガ島から撤退した人──から、筆者宛ての書簡によれば、第二師団第一梯団のジャワ出発は、九月十七日タンジョンブリオク港出発、九月二十七日ラバウル着である、という訂正注意があった。)
前記した大陸命六八八号によって十七軍に編入された三十八師団も、第二師団につづいてラバウルに到着している。第一梯団十月六日、第二梯団十月十九日、第三梯団十月三十日、東方支隊十月八日、十三日である。
第三十八師団については後で述べる。いまは第二師団である。
この師団、二見十七軍参謀長には、幕僚、各部長等が充実していて頼もしい感じを与えたらしいが、辻大本営派遣参謀による評価はひどく低い。第二師団はジャワ攻略の基幹兵団だが、辻はこう書いている。
「早速その部隊を一巡した。精鋭兵団の名に背かぬものとばかり、大きな期待を以て臨んだのに、上も下も一向に元気がない。さっぱり気勢が上っていない。要求するものは家屋であり、御馳走である。兵隊に至るまで金側の恐らく鍍金であろうが腕時計を持っている。将校の軍用行李に至っては、部隊の弾薬箱の数倍である。一人三、四個の大きな行李を携行し、それには、故郷へのお土産がぎっしり詰まっている。これではとても実戦の、激戦の役に立ちそうもない。困った事だ。将校全員を集めて、ガ島戦場の実相を話したがさっぱり反応がない。」
辻参謀自身、この時点では、まだ、「ガ島戦場の実相」にふれてはいないのである。
彼はつづいてこう書いている。
「大本営がこの師団を、ガ島に使ったことは大きな黒星であった。併し、当時、素早く抜き得るものは、これ以外になかった。元来が素質のよい兵団である。何とか指導し、援助して、使わねばならない。それ以外に手はなかった。」(辻政信『ガダルカナル』)
第二師団に対する採点が辛いのは辻参謀だけではない。小沼高級参謀の印象が公刊戦史に載せられている。こうである。
「予の飛行場攻撃強調に対し、師団長(丸山政男中将──引用者)は『努力するも至難のことと思われるので出来ねば止むなし』と称し、飽くまで行なう意志表われず、これがひいて海軍の輸送掩護を鈍らし、集中遅延の因となることを説明したのに、かかる態度をとるは実に心外なり。田中耕二軍参謀の波止場における状況視察から観るも、各隊長中に意気あがらざるものある模様。軍司令官、参謀長は第二師団の戦力を優秀と認めていた模様なるも、この点から観て日露戦争当時の第二師団に比し、不安を感ぜざるを得ない。」(戦史室前掲書より)
日露戦争当時などという古い時代との対比にどれだけの現代的な意味があるのかわからないが、暫くジャワで安穏な日々を送っていた第二師団将兵の態度は、ガダルカナルとニューギニアという困難な二正面作戦を抱えているラバウルでは、緊張の欠けたものと見えたのかもしれない。
第二師団長丸山中将は、九月二十九日、ラバウルで、「速ニガ島ニ前進シガ島攻略ノ目的ヲ以テ十月十七日頃迄ニ飛行場附近ノ敵ニ対シ攻撃ヲ準備スヘシ」という任務を受領して、十月三日午後十時、タサファロングに上陸した。翌四日早朝ママラ川(タサファロングから南東へ約五キロ)上流に進出、戦闘司令所を設けた。
川口支隊長は、ここで、第二師団長に対して状況報告を行なった。その報告によれば、第二師団上陸以前の在ガダルカナル日本軍兵力は、海軍をも含めて約九〇〇〇名、うち戦病死等約二〇〇〇、健在のもの約五〇〇〇だが、戦力回復にはかなりの日時を要するから、攻撃兵力としては期待出来ない、というのである。
「健在」といったところで、独歩出来れば健在の部類であった。林間を兵たちが、手ぶらで、銃剣を軍袴の紐の間にさし込み、飯盒を腰にさげて、ふらふら、ぞろぞろ、黙々と西へ歩いていた。糧秣の補給を受けに行くのである。これが「健在」の部類に属する男たちであった。
そのころの米軍兵力は、第二師団命令(十月四日正午)では「ルンガ飛行場附近ニ在ル敵ハ米海兵約一万」とあるが、実際には一万九〇〇〇以上であった。これだけの兵力が、山や丘を利用した主抵抗線を構築し、豊富な有刺鉄線で二重の前垂れのついた囲いを二条にめぐらし、死角のない強力な連続火線を構成して、日本軍の白兵突撃に備えていたのである。
33
川口少将はラバウルの軍司令部から出頭命令を受けて、第二師団長の許可を得て、十月四日夜駆逐艦でショートランド経由、ラバウルへ出向いた。少将によれば、軍がガダルカナルでの体験談を聞きたいから、というのであった。
ラバウルでは、十月一日付で第十七軍参謀長は二見少将から宮崎少将に替った。(宮崎少将着任は十月六日)
川口手記によれば、軍司令官が川口少将を招致したのは、少将の体験談を聞くためではなくて、一つは舟艇機動に関して軍司令部の意思に反して何度も意見具申をしたこと、もう一つはマタニカウ川右岸占領の命令を直ちに実行せず意見具申をしたこと、以上の二点について軍司令官から詰問的叱責を受けるためにラバウルに呼ばれたのであるという。
ところが、辻参謀の記述によれば、事情は甚だしく異っている。こう書かれている。
「沈欝な空気であった。その空気の中に突然鬚ボウボウの少将が、痩せ衰えた中尉を帯同して軍司令部に出頭した。
よく見ると、K少将であり、中尉は、半年前、一木支隊の通信掛将校として勇躍出動したS中尉であった。
悪戦苦闘の俤がボロボロの軍服にも、痩せこけた顔にも現われている。
それにしても、|ガ島の戦場に部下を残置して《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|どうして唯二人帰ったのであろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。その報告を綜合すると、敵の兵力特に火力は圧倒的であり、我は全く糧道を絶たれ、草根木皮を齧り、辛うじて余命を保っているらしい。
困ったものだ。この悲観的観察は、これから進攻する第二師団に悪い影響を与えるのではなかろうか。」(辻前掲書──傍点引用者)
傍点部分には明らかに悪意がのぞき出ている。辻参謀はラバウルに到着してから(九月二十五日)、舟艇機動に関する川口少将の自説固執を聞いたであろうし、マタニカウ右岸占領に関する反対的意見具申は実際に見もしたであろう。この二人の間の隠微な|縺《もつ》れは、川口少将の罷免までつづくのである。
川口少将は、百武軍司令官の詰問的叱責のあと、次期作戦に関して口頭で意見を述べた。
その一は、九月の川口支隊の攻撃のときは、敵の新手の兵力を搭載した輸送船団が背後基地に来たという理由で、飛行場攻撃を急がせられたから失敗した。この次には第一線部隊に十分時間の余裕を与え、弾薬糧秣を十分蓄積し、敵情地形を偵察した上で攻撃開始せしめられたい。このため、十一月三日の明治節を目途に実施せしめられたい、ということ。
その二は、前回作戦では地図がなくて困った。あっても不正確なもので、自分の位置を標定出来なかった。次のときには、敵飛行場付近から我が攻撃準備位置に至る間の航空写真をとり、これを少くとも各中隊に一枚ずつ配布せられたい、ということであった。
百武軍司令官以下司令部の参謀たちが川口少将の意見にどのような反応を示したか、明らかでない。
百武中将は、十月中旬を予定している第二師団を主力とする総攻撃を直接指揮するため、軍戦闘司令所をガダルカナルに推進する決定を下し、小沼、辻、杉田、越次、平岡、林の六参謀を従えて、十月八日正午、駆逐艦でラバウルを出発した。
出発のとき、ラバウルに残留する新任の宮崎参謀長以下が見送ったが、その際、宮崎参謀長は小沼高級参謀に「攻撃期日の十月二十日には決して拘泥するな。攻撃準備の周到を期せ」と、至極妥当な注意を与えた。宮崎少将はラバウルヘの赴任の途中、十月五日、トラックで山本連合艦隊司令長官に対する表敬訪問のため戦艦大和を訪れた際、宇垣参謀長から、海軍側の第一義の希望として、総攻撃開始を十月二十日より遅延させないことを強く求められたはずだが、八日には既に、二十日の攻撃開始に間に合わないと予感していたかのようである。
軍司令官の一行と同じ駆逐艦で川口少将もガダルカナルヘ戻った。
一行は十月九日午後八時四十分、タサファロングに上陸した。上陸点には第二師団の平間参謀が来ていて、暗闇の中にひときわ椰子林が黒々と見える波打際で、衝撃的な報告をした。
「第二師団の第一線は敵の攻撃を受け、マタニカウ川西方に後退し、歩兵第四連隊は全滅しました」というのである。
軍司令官以下声もなかったが、辻参謀ひとり、
「全滅とは何事か」
と怒声を発した。
辻参謀は、こういうときは、千両役者なのである。ノモンハンのときもそうであった。敗走して来る兵隊たちを一喝して任務に戻らせている。
この全滅云々に関しては、後述する。
軍司令部の一行は、上陸早々に悲報に接したばかりでなく、|椿事《ちんじ》に遭遇するのである。
これがまた、辻参謀と川口少将の絡みがある。まず、辻はこう書いている。
「その林の中に暫く腰を下してボートに積まれた糧秣や日用品を荷揚げしているとき、予期しない人足がどこからともなく現われて来た。
髪はボウボウと伸び放題で、顔には雲助のような無精髯が生え、ボロボロの軍服だけで、腰に剣もなければ、足に靴もない。|跣足《はだし》の青ざめた兵隊である。所属を聞くと、一木支隊の生き残りの凡そ四五十人であった。
『お手伝いします』
殊勝なことだ。疲れ切った姿であるのに。頼みもしない作業に、進んで荷揚げを助けようとは|遉《さすが》に痩せても枯れても日本の軍隊だ。と、無暗にこの兵達の心が嬉しかった。(中略)
沿道はどこにも、かしこにも餓え衰えた兵が、三々五々腰を下して、今上陸したばかりの新しい将兵に、訴えるが如く、嫉むが如く見送っている。可愛そうで堪らない。(中略)」
軍司令部の一行はその夜のうちにコカンボナ西方約三キロの無名川の谷地に至って、戦闘司令所を開設した。十月十日午前二時ごろであった。
辻の記述をつづける。
「朝飯の準備に取りかかった。不思議な噂が、当番兵たちの口から漏れる。
『米が盗まれた。軍司令部官閣下の弁当もない。どうしようか……』と。
『おや怪しいぞ。まだ上陸したばかりだのに誰に、何時、何処で盗まれたのだろう。』
その内、上陸地で、荷物宰領に残して来た下士官が、悄然として参謀部に現われた。
『誠に申訳ありません。司令部の糧食は上陸点で殆ど全部盗まれました。一木、川口支隊の兵隊に。閣下の弁当も盗まれました。』
唖然として一同暫し口が塞がらなかった。
あの痩せ衰えた兵隊が殊勝にも手伝いに出てくれたのを心から感謝していたのに、それは全く泥棒の集団であった。
銃を捨て、剣を捨て、唯一心に餓えを凌ごうと、この上陸点で稼いでいたのである。
第二師団は自力で荷揚げしたため、盗む隙がなかったところ、手不足の軍司令部を迎えて、心ゆくばかり盗んだのである。(以下略)」(辻前掲書)
これに対して、川口少将の手記は次のように反論している。
「之は小説的に面白く読ませる為のフィクションではあろうが、現に私が軍司令官、辻参謀と一緒に上陸したが、私の部下は一人も居なかったと断言する。私の部下は上陸点から二キロも隔ったジャングルの中に居り、無論糧食は十分でなかったが、泥棒しなければ餓死する程でもなく、米の配給もあったのである。海岸に出ることは当時厳禁してあった。それは敵の艦船、飛行機に姿を見せぬ為である。夜おそく糧食盗みに行くなぞ、考えられぬ。(以下略)」(川口前掲書)
川口少将はムキになって弁解する必要はなかったのである。ムキになるから、説得力がない。髯ぼうぼうの男たちが一木支隊であろうと、川口支隊であろうと、それ以前から飢餓の苦痛をなめ尽していた設営隊員たちであろうと、かまわないではないか。戦わせて、飢えさせて、半定量の給養さえ保障してやらなかったのは、誰の責任なのか。その日まで将校食を食っていた司令部参謀に、彼らの不用意のために飢餓地獄に突き落された兵隊たちを、泥棒呼ばわりする資格などない。
兵隊は、戦争の善悪を問わないとすれば、戦士であるから、戦って死ぬのは仕方がない。だが、何十日も飢える義務など、国家に対しても、天皇に対しても、ましてや将軍や参謀などに対して、負ってはいないのである。
川口支隊の破綻から十七軍司令部上陸までは二十五日間、一木支隊の全滅からは四十九日間、米軍が上陸して設営隊が支離滅裂となってからは六十三日間が経過している。その間、生き残りは満足に食ってはいなかったのである。これまでに述べてきた通り、ガダルカナルでは、餓死と衰弱死が既にはじまっていたのである。後方司令部の参謀たちは、先遣部隊の生き残りたちと同じ日数だけ飢えてみるとよかったのだ。そうすれば、自分たちの無能なくせに思い上った作戦指導の罪が、自分自身の骨身にしみたはずであった。
先の第四連隊全滅云々の件は、軍司令部が調べてみると、次のような状況であった。
十月七日、第二師団が、マタニカウ川右岸の部隊を増強交代させようとしたとき、猛烈な砲爆撃を伴った敵の攻撃を受け、日本軍はマタニカウ川左岸(西方)二、三キロの線まで後退を余儀なくされた。このことは、攻勢に転移する際の拠点と、飛行場砲撃のための砲兵陣地を失ったことを意味していた。
第二師団上陸以後のガダルカナルにある日本軍の現在兵力は、川口支隊、一木支隊を合せて戦力としては歩兵約一大隊くらい、第二師団の歩兵五個大隊のうち、歩兵第四連隊は既に三分の二の損傷を受けている、砲兵力としては、野山砲六門、十榴二門、十五榴四門、迫撃砲一大隊三六門のうち、現在射撃し得る大砲は、野山砲各二門、十五榴四門、迫撃砲一大隊であるが、弾薬は少量しかない。
ガダルカナルに対する海上輸送は成績芳しくない。予定の二分の一に過ぎない。各隊の上陸人員は二分の一乃至三分の二に過ぎず、軍需品の揚陸は憂うべき状態にあって、食糧は二分の一定量を摂取し得ているに過ぎない。
敵が攻撃にあたって使用した砲爆撃による火力は激甚をきわめ、小銃をもってこれに立ち向った日本軍は、瞬間的に大損害を蒙っている。
要するに、火力があるのとないのとの相違、補給が十分なのと不十分なのとの相違が、歴然としていたのである。
百武十七軍司令官は戦力補強のための処置を行なった。その大要は次の通りである。
一応マタニカウ右岸進出は控えて、第二師団に左岸に軍主力の集中掩護陣地を占領させ、飛行場射撃は一時これを延期する。
戦力補充のため、ショートランドに残留待機している各隊の残留兵力と資材を急ぎガダルカナルに追及させる。
第三十八師団司令部、歩兵第二百二十八連隊と独立工兵第十九連隊を速かにガダルカナルに進出させる。
ガダルカナル進出が既に決っている歩兵八第二百三十連隊長(第三十八師団)の指揮する部隊は、ガダルカナル上陸と同時に第二師団長の指揮下に入らせる。
記述が進むにしたがってますます明らかとなることだが、大兵使用の場合でも、一挙投入、一挙集結が出来なくて、逐次投入の影は拭えない。輸送手段の貧困もさることながら、攻撃開始の予定を過早の時機に置き、準備時間がまたもや足りないのである。
ラバウルに残った十七軍宮崎参謀長のもとへ、ガダルカナルヘ軍司令官といっしょに渡った小沼、林両参謀から、十日、逼迫した戦況を訴える電報が相次いで入った。米軍は、上陸早々の第二師団の前線へ強襲を加えたのである。
まず、軍司令部の上陸直後第二師団へ派遣された林参謀の電報に戦況を見る。
「十日午後三時五十五分発信
敵ハ『マ』川右岸地帯ニ対シ強力ナル飛行機、砲兵協力ノ下ニ全面的ニ出撃、河口附近両岸ノ高地一帯敵手ニ帰シ、歩兵第四連隊ハ苦戦中ナリ、師団ハ歩二九ノ一大(隊)ヲ該方面戦闘ニ急行セシメタリ 歩四ノ戦力ハ損害続出、糧秣弾薬ノ状況ヨリ半減ニ近キ状態ナリ 本状況ニ於テハ|遺憾乍ラ予定計画ノ飛行場射撃ハ再検討ヲ要スルモ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|輸送ノ現況ヲ以テシテハ既定計画ノ攻撃亦覚束ナシ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》
右状況ナルヲ以テ若干危険ヲ冒スモ飛行場射撃ニ依存スルコトナク船団輸送ヲ断行スル(第二師団総攻撃の計画では、地上からする陸軍の砲撃によって敵飛行場を破壊し、飛行機の活動不能に陥らしめ、その間に船団輸送を行なう予定であったが、マタニカウ川付近の砲兵陣地を奪われたから、飛行場砲撃が出来なくなった。──引用者)ト共ニ、歩兵部隊(三八師ノ歩一連隊ヲ含ム)及、歩兵団司令部(三八ノ一連隊ヲ含ム)迫撃砲大隊、山砲、工兵隊ノ緊急輸送ニ関シ、飛躍的処置ヲ講セラルルヲ緊要トス 航空攻撃、艦砲射撃等敵艦艇飛行機ノ跳梁ハ我攻撃準備ヲ妨害スルコト甚シ」(前掲滝沢氏よりの書簡によれば、林参謀の電報中にある、師団は歩二九の一大隊を『マ』川方面に急行せしめた、という事実はないそうである。)
次は、宮崎参謀長宛ての小沼高級参謀電である。
「十日午後五時三十五分発信
第二師団ノ第一線ハ敵ノ逆襲ヲ受ケ『マ』川西方二、三キロノ線ニ於テ戦闘中ナリ 目下ノ状況ニ於テハ十三日頃ノ飛行場射撃(註 海軍トノ協定ニ基ク計画)及二十日頃ノ本攻撃ハ其ノ実行困難ナルモ、|戦況ハ予期以上ニ逼迫シアルヲ以テ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|船団輸送《ヽヽヽヽ》(註 十四日ノ予定、其前提ハ陸上ヨリスル飛行場制圧ノ成果ニ期待ス、海軍トノ協定)|ハ是非決行セラレ度努力相成度《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》
艦砲射撃ニ依ル飛行場制圧ハ有効ナルヲ以テ実施相成度、歩兵第四連隊ノ戦力ハ目下三分ノ一ニ減耗、糧食弾薬モ不足シアリ 鼠輸送(駆逐艦による輸送)ハ是非強化セラレ度師団ノ現況上歩二三〇連隊、独立自動車中隊、工兵第三八連隊ヲ『ガ』島ニ輸送スル如ク手配相成度」(以上電報二通は宮崎周一『残骸録』による。傍点引用者)
宮崎十七軍参謀長は、十一航艦の大前参謀と第八艦隊の神参謀を軍司令部に招いて、飛行場砲撃は望み薄となったことを告げ、それにもかかわらず船団輸送は決行したい旨を要望した。
十月十二日午前、十一航艦司令部で、関係海軍側と宮崎参謀長が会合し、船団輸送の可能性について検討した結果、陸海軍共飛行場砲撃の成否を問わず船団輸送を決行することに意見の一致をみた。
この結果を連合艦隊に連絡するため、宮崎参謀長は海軍側の大前、源田両参謀と、急遽、トラックヘ飛んだ。大和艦上の連合艦隊司令部では、既に宇垣参謀長以下が集っていて、まず大前参謀が説明し、次いで宮崎参謀長が要請すると、連合艦隊でも船団輸送決行に決していて、この日午後二時、それに関して発令したということであった。
この船団輸送をめぐって、ガダルカナルの戦局はいっそう深刻化することになるが、宮崎十七軍参謀長が連合艦隊司令部を訪れた十月十二日、宇垣連合艦隊参謀長は日記にこう誌している。
「ガ島敵機の制圧に対し航空戦の効果僅少、要望せる陸軍砲を以てする砲撃又未に実施を見ざるも、輸送船団は今夜ラボールより四隻、ショートランドより二隻進発の筈、其進入も陸軍の要望は遅延を許さざるを以てX日(船団突入日──引用者)を十五日と決定し、明十三日の全力航空攻撃引続く第三戦隊の夜間砲撃決行を下令し、断乎たる決意を表示す。」
前記二通の電報と同じ十月十日、大本営派遣参謀辻中佐は、大本営第一部長宛てに次の電報を送っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一 敵ノ七日朝ヨリノ攻撃ニ依リ第二師団ノ歩兵第四連隊ノ如キハ戦力既ニ三分ノ一ニ減耗シタリ
(前夜、海辺で「全滅とは何事か」と第二師団参謀を叱咤した辻参謀も、歩四の惨状は認めざるを得なかったのである。──引用者)
二 飛行場制圧射撃及総攻撃ノ開始ハ著シク遅延スルモノト判断セラル
三 駆逐艦ニ依ル兵力及弾薬、糧秣ノ輸送ハ敵機ノ揚陸妨害ニ依リ計画ノ概ネ二分ノ一程度ナルト、揚陸点ヨリ第一線迄ノ補給ハ夜間人力ノミニ依リ辛ウシテ三分ノ一前後ヲ前送シ得ル状態ニ在リ
四 |右戦況ヲ打開スルノ方策ハ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|万難ヲ排シ輸送船団及艦艇ニ依ル強行上陸ヲ断行スルニ在ル《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ヲ以テ目下海軍ニ要求中ナリ
五 海軍航空撃滅戦ノ成果ハ現状ヲ以テハ到底期待スル能ハス(『ブイン』飛行場ハ今尚使用不能ナル状態ナリ)従ツテ全力ヲ船団ノ護衛ニ使用スルヲ可トスル実情ニ在リ(傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
以上で明らかなように、マタニカウ川付近の戦闘で歩兵第四連隊は大打撃を蒙って後退したが、ルンガ飛行場を制圧するための砲兵陣地を確保出来なければ、以後兵力と軍需品の揚陸が甚だしい困難に陥ることは避けられなかった。
米軍は日本軍の飛行場砲撃の企図を察知していたかのようである。砲兵と飛行機による強力な支援を与えられた歩兵五個大隊をもって、マタニカウ川西岸を攻撃したという。五個大隊といえば、上陸したばかりの第二師団の歩兵の全力に匹敵する兵力であった。
第十七軍司令部は十月九日夜タサファロングに上陸早々に、マタニカウ川の攻撃拠点と砲兵陣地を失ったという衝撃的な事態に直面したが、それよりも重大なことは、軍需品の輸送状況が甚だしく悪く、さらに陸上搬送が困難なために、第一線部隊が餓死の危険に迫られているという深刻な事態を、上陸するまで知らなかったという、とても信じられないような事実である。
連合艦隊参謀長の日記の十月十日の項に次のような記述が見られる。
「ガ島に昨夜進駐せる第十七軍司令部戦闘司令所は|川口支隊の餓死に瀕しつつあるを告げ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|人員を止めて糧秣及飛行場制圧用弾薬のみを急送すべしとショートランドに命ず《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。左もあらん。本件はラボール辞去の際、連絡参謀に注意し置きたる処なるが、派遣軍隊は行く所迄行かざれば落着かず。輸送する機関も人員の方楽にして、其頭数を気にして実際即時必要なる機材糧食弾薬をなほざりにし易き弊あり。今後に於ても注意を要する所なり。」(傍点引用者)
同じころ、ニューギニアでは、ガダルカナルでの状況逼迫のせいもあって、悲劇が急速に進行していた。能力を超えた二正面作戦の無理がいちどきに救い難い様相を呈したのである。宮崎十七軍参謀長は十月六日の手記にこう書いている。
「ニューギニア方面作戦中ノ南海支隊連絡者ノ状況報告(九月二十日スタンレー山脈出発)アリ、該支隊ノ困窮特ニ補給ノ不如意ハ既ニ極度ニ達シアルモノノ如ク、|行倒レ患者ノ続出ヲ見ルニ至リ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、敵ノ圧迫日ニ加ハリ、其兵力漸時強化シ、状況楽観ヲ許ササルヲ察セシム、万事ハガ島一段落ヲ告ゲタル後、十一月初頭ヨリ一挙解決ノ意向ニシテ、当分忍フノ外ナシ」(傍点引用者)
同じく宮崎手記の十月十三日の項に次の記述がある。
「ガ島ニ於ケル糧秣弾薬欠乏ニ関シ、状況ヲ伝ヘ之カ|神速ナル補給ニ関シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|昨日ヨリ本日ニ亘リ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|軍司令官及第二師団長ヨリ矢ノ催促アリ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、其原因ハショートランドヨリノ前送(駆逐艦ニ依ル)及ガ島揚陸ノ困難性ニ依ル」(傍点引用者)
現地に乗り込むまで第一線部隊の悲惨な状況を知らなかったという洞察力の乏しい軍司令部の、周章狼狽ぶりがうかがわれる。
要するに、航空基地を整備して、軽快かつ重厚な補給能力を備えた敵が|蟠踞《ばんきよ》している|島嶼《とうしよ》に対して、徹底した航空撃滅戦を実施し得ずに上陸作戦を行なえば、どういうことになるか、ガダルカナル島はその答えを出していたのである。
前記手記は正直に十月十三日の項を結んでいる。
「唯々天佑神助ヲ祈念スルノミ」
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陸海軍は、第二師団による十月攻勢を成立させるためには、大量の軍需物資、重器材等を大輸送船団をもってガダルカナルに輸送する以外に方法はないという結論に達したことは、前述の通りである。
その船団輸送の実施は、連合艦隊のほとんどが全力をもってする護衛と支援を必要とすることであったが、連合艦隊司令長官の決断によって実施と決った経緯も、既に述べた。
既述の部分と時間的に若干前後するが、海軍側と第十七軍とは、輸送計画の協同検討を行なった結果、次のように計画を概定した。
艦艇及び舟艇輸送は十月一日から再開、艦艇は毎日六隻の予定。
『日進』(水上機母艦)による重器材輸送は十月三日と六日の予定。(日進の戦闘詳報によれば、十月三日、八日、十一日の三回行なった。詳細後述)
高速船団による輸送は十月十一日ころ行なう。
船団輸送の成功は、米軍航空兵力の制圧を前提条件とするので、航空撃滅戦、陸軍による飛行場砲撃の他に、高速戦艦の主砲をもってする艦砲射撃も計画された。
陸軍砲による飛行場の制圧射撃は、マタニカウ川右岸の砲兵陣地が米軍の攻撃によって奪われたので望めなくなったが、ガダルカナル戦況逼迫のため、飛行場制圧の有無にかかわらず船団輸送を必要とする事情にあることは、先に引用した三人の参謀(小沼、林、辻)の電報が訴えている通りであった。
高速船団輸送にも、そのあとの第十七軍の総攻撃(第二師団)のときも、連合艦隊は全力を挙げて支援配備に展開することに決していたが、艦隊には積載燃料の関係から、行動日数に制約があった。トラック出撃からトラック帰着までを二週間とする、ということである。仮りに高速船団突入を十月十一日とすれば、それから二週間目の二十五日までには、総攻撃が終って、支援艦隊はトラックに引揚げていなければならない、ということである。よほど陸海軍の計画が緻密に組合わされ、かつ、地上部隊の行動と支援艦隊の行動とが現実的に|吻合《ふんごう》していなければならない。
果してそのような緻密な関係を保持し得るか否かが問題であった。
駆逐艦による増援輸送(鼠輸送)は十月一日再開され、一日に三隻、二日五隻、三日『日進』(後述)と駆逐艦九隻、五日三隻、六日六隻と揚陸に成功したが、舟艇輸送(蟻輸送)の方は天候不良と水路の事前調査不良に加えて、大発が耐波性に乏しく、羅針儀も不良であったりした上に、さらに中継基地を敵に発見され攻撃を受けたため、成績全く不良であった。水路の事前調査もろくに行なわないで輸送を実施するなどということは、急を要したということでは弁解にならない。関係者に限らず、日本人一般のいいかげんさを証明するだけのことである。蟻輸送による輸送物件は、重火器、弾薬、糧食が主であったが、重火器を計画通り輸送出来なかったことは、ガダルカナルの陸上戦闘に重大な支障を及ぼした。輸送に失敗すれば重大な支障を来すぐらいのことは、事前に明らかなはずであった。それにもかかわらず、重火器輸送が蟻輸送で可能か否か、入念な調査もしないようでは、戦闘以前に既に負けていたと言っても過言でない。まして、川口支隊の舟艇機動の惨澹たる失敗の直後ではないか。日本軍は、何故か、前の失敗の深刻な検討の上に次の行動を計画するという、当然のことをしないのである。
十七軍は、十月八日までにガダルカナルに到着する見込みのない蟻輸送物件は、ショートランドヘ逆送を希望した。それほど蟻輸送は期待出来ない情況にあったのである。
日進の十月三日の輸送物件と人員は、十五榴四門、野砲二門、同上弾薬牽引車三、トラック二、特大発二、大発四と、人員として丸山第二師団長以下二三一名であった。十月三日午後八時五十分タサファロング到着、揚陸開始したが、午後十時四十五分、敵機の妨害が甚だしいため、一部揚陸未済のまま作業を中止、帰途についた。揚陸出来なかったのは、自動車一、野砲二、野砲弾薬の大部と、野砲中隊八〇名であった。
十月三日の輸送は、日進戦闘詳報によれば、往復ともに安全ではなかったようである。往航三日の午後三時三十五分には、早くも艦爆一〇機の攻撃を受け、投弾七、至近弾のため重傷二名、軽傷四名を出し、船体に僅少の損傷を受けた。翌四日、復航のとき、午前四時五十分、雷撃機四、B17五の来襲があり、魚雷四発を発射されたが命中しなかった。
蟻輸送の成績が全く不振のため、増援部隊指揮官(三水戦司令官)は、六日夜、次のように報告している。
「ガダルカナル方面ノ情況ハ諸種ノ障害アルモ各艦ノ異常ナル努力ニ依リ一〇日迄ノ予想輸送量ハ、人員約一〇、〇〇〇其他重要兵器之ニ準ズル額ニ達スヘシ 然ルニY日ノ輸送船団に依ル(Y日はX日の誤りではないかと思われる。連合艦隊命令に使用されている記号Y日は総攻撃開始日のことであり、高速船団揚陸はX日となっている。──引用者)輸送量(人員四五〇〇及重兵器)ヲ除ク一〇日ノ残員ハ兵六〇〇〇、戦車一二、野砲一〇、高射砲六、高射機銃一二門アルヲ以テ一二日、一四日川内(三水戦旗艦──引用者)以下全力ヲ挙ゲ輸送シ尚残員三〇〇〇及重兵器若干ヲ生スヘシ」(山田日記)
という状態であった。
この六日までの間、先の日進も艦載機に攻撃されているし、五日早朝には米艦載機がショートランドを空襲したことからみて、近海に米機動部隊が行動しているにちがいなかったが、日本海軍の機動部隊はまだ遠くトラック島にあって、十一日早朝まで出撃しなかった。
先に引用した三水戦司令官(増援部隊指揮官)の報告電に基づいて、外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官)は、水上機母艦竜田と千歳を増援部隊に編入し、輸送計画の再検討を行なった。
連合艦隊司令部では、ブイン飛行場の完成遅延を考慮して、高速船団突入予定のX日を一日延し、十月十五日とした。
『竜田』『千歳』を加えて再検討された輸送計画は次の通りであった。
九日 竜田、駆逐艦九
十日 駆逐艦五
十一日 日進、千歳、駆逐艦五
十二日 竜田、駆逐艦三
十三日 川内、由良(巡洋艦)、駆四
十四日 日進、千歳、駆逐艦五
十五日 川内、由良、竜田、駆一〇
右による輸送の概量は、人員五〇〇〇名、高射砲六門、野砲一〇門、牽引車二、十五榴八門(陸軍新要求)、糧秣一三〇トン(残量戦車一二、人員二三〇〇名)で、十一日以後の駆逐艦使用数は一一隻として計算されていた。(『南東方面海軍作戦』(2))
日を追って輸送の概況を見ることにする。ガダルカナルでの軍事的失敗と悲劇の理由の大半は輸送難にあったが、このころはまだ比較的に順調な方だったのである。
十月七日は、日進と駆逐艦一隻は上空直掩機の配備がないため、途中から引き返し、駆逐艦五隻だけ揚陸に成功した。
十月八日は、日進と駆逐艦五隻は往復ともに多数敵機の攻撃を受けたが、直衛水上機の活躍に救われて、輸送は成功した。
日進は、十榴二門、高角砲(海軍)四門、高射砲(陸軍)二門、トラック二、牽引車二、榴弾砲弾薬車二、特大発二、大発二、各種弾薬、糧食、燃料、人員一七六名を輸送した。
十月九日は、改訂計画通り竜田と駆逐艦九隻が揚陸に成功した。復航時、敵機三五機の激しい攻撃を受けたが、直掩水戦の奮戦によって艦艇は無事であった。その代り、直掩水戦四機は全機失われた。
この九日の夜、十七軍司令部はタサファロングに上陸し、コカンボナ西方に戦闘司令所を置いたが、既述の通り、兵站輸送は予定の約二分の一しか達成されておらず、第一線部隊が飢餓に瀕していることを、はじめて知ったというのである。
十月十日は、駆逐艦三隻が陸兵二九三名と弾薬、糧食をタサファロングに揚陸した。直掩機の配備はなかったが、敵機の攻撃もなかった。この日、予定の五隻が三隻となった理由は明らかでない。翌十一日に日進、千歳の輸送があるので、不足がちな駆逐艦を確保するためではないかと考えられる。
十月十一日は、高速船団突入揚陸のX日を十月十五日とすれば、連合艦隊の支援部隊がトラックを出撃する日である。
十一日には、日進、千歳に四隻の駆逐艦が重兵器、軍需品、兵員を輸送してタサファロングに揚陸することになっていたほか、支援隊としての第六戦隊(青葉、古鷹、衣笠の三巡洋艦)がガ島飛行場を砲撃する計画であった。
日進(十五榴二門、トラック一輛、牽引車三輛、野砲二門、弾薬車八、野砲弾薬八〇箱、特大発二、大発四、人員一三〇名)と千歳(十五榴二門、トラック三輛、牽引車一輛、弾薬車六、高射砲一門、固定無線機一基、人員一五〇名)は、駆逐艦二隻(秋月、夏雲)に護衛され、他に駆逐艦四隻(朝雲、白雪、叢雲、綾波)が連隊砲一、大隊砲二、速射砲、陸兵四一〇名、糧食弾薬を搭載して、午前六時、ショートランドを出撃、二条のソロモン諸島の中央航路をとってタサファロングに向った。
支援隊(飛行場砲撃を目的とする青葉以下の第六戦隊)は、輸送隊より六時間遅れて、十一日正午、ショートランドを出撃、中央航路を二四ノットで南下した。
輸送隊は、午前八時二十分、ショートランドの南東三〇浬で、早くも敵大型機に発見されたが、午前十時には味方戦闘機が直掩配備についた。被発見から午前十時までの間に攻撃を受けなかったのは幸運であった。
十時以後も、この日は敵機の来襲がなかったのは、米側資料(モリソン)によれば、基地航空部隊がガダルカナル攻撃を実施したからであるというが、戦果の僅少から考えると|肯《うなず》けない。
直掩機は日没まで四直に分けて延べ二一機が飛んだが、最終直では着水時に搭乗員二名が犠牲となり、飛行機は六機とも放棄しなければならなかった。
輸送隊は幸運に恵まれていたというべきであろう。午後八時十分、タサファロングに到着して、揚陸を開始した。
日進隊の揚陸が終了する前に、青葉以下の支援隊と敵水上部隊との間に戦闘が勃発したが、日進、千歳は午後十時五十分揚陸終了、出港、輸送駆逐艦も午後十一時五分揚陸作業を終り、戦闘用意を整えて、十一時十分戦闘海面に向った。
支援隊(第六戦隊)司令部は、出撃当時から一つの先入主に支配されていたようである。それは第六戦隊に限ったことではなかったであろう。つまり、次のような判断である。ガダルカナル周辺では敵の航空勢力は日本側に較べて明らかに優位にあって、昼夜の別なく日本軍の増援輸送に攻撃妨害を加え、反面、その航空勢力の掩護下に米軍は白昼でも随時補給増援を行なっている情況にあるが、水上部隊に関していえば、敵は、夜間は遠く南東海域に退避するか、ツラギ港内に遁入するかして、日本軍艦艇に対しては僅かに魚雷艇数隻をもって反撃を試みる程度に過ぎない。したがって、飛行場砲撃を目的とする支援隊が深夜ガダルカナルに近接しても、敵が水上大部隊をもって邀撃の挙に出ることなどはほとんどあり得ない、という独善的な判断であった。これは、八月八日深夜のルンガ沖夜戦の奇蹟的な大勝利以来、海軍軍人の深層心理にこびりついた、夜戦なら我がもの、という錯誤の結果かもしれない。
支援隊は十一日日没時ガダルカナルの北西二〇〇浬の地点に達していた。この日、基地航空部隊の陸攻五機がガダルカナル南方海域の索敵を行なったはずだが、なんら敵情を得なかった。午後四時以後、支援隊は速力三〇ノット、青葉、古鷹、衣笠の順の単縦陣、開距離一二〇〇メートル、護衛駆逐艦の初雪と吹雪は青葉の左右前方七〇度、三〇〇〇メートルを走航していた。
サボ島が見えるまでの約二時間、艦隊は猛烈なスコールの中を走っていた。午後九時半、スコールを抜けると、サボ島は左三度一〇浬にあった。
午後九時四十三分、青葉は左舷一五度約一粁に、艦影三個を発見した。それらは、時間と場所からみて、日進などの輸送隊かもしれぬと考えられた。
旗艦青葉は味方識別信号を送りながら直進した。
約七〇〇〇メートルに近づいたとき、青葉見張員が敵と識別した。だが、支援隊指揮官は如何なる根拠によってか、見張員の報告を疑問視し、左一〇度味方識別一〇秒と下令し、同時に「総員戦闘配置ニ就ケ」と、同航戦の意図をもって「|面舵《おもかじ》」(右折)を下令した。その直後であった。青葉は強烈な照明を浴び、敵水上部隊からの集中砲火を蒙った。
青葉は不運としか言いようがなく、米艦隊は射撃技術が卓越していたと言えるかもしれない。初弾は不発弾でありながら、青葉の艦橋正面に命中、五藤司令官以下幹部多数が死傷した。(司令官は翌朝死亡。)通信装置が破壊されて、艦内外の連絡は不能となった。主砲射撃指揮所方位盤も破壊、二、三番砲も命中弾によって射撃不能に陥った。すべて一瞬のことであった。
米艦隊は、軽巡ボイズとヘレナ両艦のレーダーで日本艦隊の近接を探知していて、T字戦法をとり、全艦で単縦陣の日本軍の先頭艦に斉射を浴びせたのである。
サボ島北西約八浬のことであった。
青葉は右反転し、最大戦速としたが、回頭中も集中砲火を見舞われ、火災を起こし、ほとんど戦闘力を失っていて、僅かに一番砲塔だけが使用に耐えた。青葉は煙幕を展張し、離脱に努めた。青葉の主砲射弾数は七発に過ぎなかった。
二番艦古鷹は、青葉の後方一五〇〇米を走航していたが、青葉の変針によって、敵の砲火は古鷹に集中した。
米艦隊は重巡サンフランシスコ、ソルト・レイク・シティ、軽巡ボイズ、ヘレナ、駆逐艦ファーレンホルト、ブキャナン、ラフェイ、ダンカン、マッカーラの計九隻であったが、古鷹は、青葉の回頭によって、上記九艦の発砲を認め、急いで青葉方向に変針した。応戦開始は午後九時四十八分となっている。応戦早々に被弾が多くなり、二分後には発射用意をした魚雷発射管が被弾して、大火災となった。
午後十時十四分ごろ、敵から離隔し、砲戦が|熄《や》むまでに、大被害を蒙りつつも、敵三番艦に大損害を与えたが、十時四十分ごろ航行不能に陥った。駆逐艦初雪が救助に来たときには傾斜が急で、艦を横付けすることが出来ず、十二日午前零時二十八分、サボ島の三一〇度二二浬の地点に沈没した。
三番艦衣笠は砲火を認めると態勢不利と判断して取舵反転した。前二艦が面舵(右折)であったのに対して、衣笠は左折したため、敵砲火を浴びることなく同航戦の態勢をとり、午後九時五十二分から十時十五分まで、有効な砲戦魚雷戦を実施、敵大巡一隻撃沈、一隻大破の戦果を報じ、敵をして追撃を躊躇せしめたが、戦果は戦後の調査によれば、米側には重巡の沈没も大破もない。沈没は駆逐艦一隻だけであった。
護衛駆逐艦吹雪は、青葉の右前方に位置していたが、青葉の右回頭に随って反転し、同航中に被弾した。午後十時十三分大火災となり、やがて沈没した。
戦況から見ても損害から見ても、このサボ島沖海戦は日本側の明らかな失敗である。その原因は、既に記したように、敵艦隊は日本艦隊の夜戦を回避して邀撃することなどあり得ないという傲った先入主があったこと、その先入主に禍されて、いつものことながら索敵が不十分であったこと、日進隊とは事前の打合せがあってその行動を承知しており、通信も確保していたにもかかわらず、艦影を敵と疑わず、味方識別信号に機微な時間を空費したこと、等である。
ために、第六戦隊によるガダルカナル飛行場砲撃計画は画餅に帰した。
宇垣連合艦隊参謀長は歯ぎしりする思いで日誌に次のように記している。
「……当時の戦況を仄聞するに無用心の限り、人を見たら泥棒と思へと同じく夜間に於て物を見たら敵と思への考なく一、二番艦集中砲弾を蒙るに至れるもの、殆んど衣笠一艦の戦闘と云ふべし。」(宇垣『戦藻録』)
先のルンガ沖夜戦(米側呼称サボ島沖海戦)は日本艦隊の完勝であったが、米軍輸送船は無事であった。それとちょうど逆に、十月十一日夜のサボ島沖海戦(米側呼称エスペランス岬沖海戦)は米艦隊の快勝であったが、日本軍の日進以下の増援部隊は目的を達した。
日進以下は揚陸を終り、帰途につき、無事危険水域を離脱したかと見えたが、第六戦隊二番艦古鷹の救援に向った駆逐艦白雲と叢雲は引き揚げが遅れ、十二日午前六時二十分、敵機一一機の攻撃を受け、つづいて、八時二十五分、サボ島北西約一四〇浬のニュージョージア島沖で敵艦爆二〇機に捕捉され、叢雲はただの一弾の命中で航行不能となった。午後二時、三回目の空襲を受け、大火災となった。僚艦白雲は生存者を救出し、いったん引き揚げたが、日没後、朝雲とともに反転して、曳航不能の叢雲を魚雷で処分した。
それより先、第九駆逐隊の朝雲と夏雲は、叢雲救助中の十二時五十分と午後一時四十五分に、敵艦爆一一機に襲われ、夏雲は至近弾のために浸水が甚だしく、朝雲が乗員を収容した後、午後二時二十七分沈没した。
結局、日進千歳による重砲をはじめとする重器材の輸送を主目的と考えれば、この夜の作戦は目的を達したと言えるが、日本海軍が十八番としていた夜戦が通用しなくなったという意味では重要な海戦であった。
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第十七軍のガダルカナル総攻撃の準備に必要な緊急輸送のために、速力の早い輸送船六隻が選ばれて、高速船団が編成された。陸軍輸送船から笹子丸、崎戸丸、佐渡丸、九州丸、海軍輸送船から吾妻山丸、南海丸、以上の六隻である。最大九二五八トンの笹子丸から最小七六二二トンの吾妻山丸まで、選りすぐりであった。各船とも高射砲、機関砲、阻塞弾、機関銃等を装備していた。
輸送される部隊は、歩兵第十六連隊主力、歩兵第二百三十連隊(一大隊欠)、十加一中隊、十五榴一中隊、高射砲一大隊、独立戦車第一中隊、兵站部隊の一部、舞鶴鎮守府特別陸戦隊八二四名で、各船とも弾薬、糧秣八〇〇立方米を積載し、大発六乃至八隻を携行することになっていた。
この船団輸送を成功させるために、連合艦隊は、十月九日、次の通りの計画を立てた。
十月十三日第三戦隊(戦艦二隻)、十四日第八艦隊の巡洋艦二隻、十五日第五戦隊(巡洋艦二隻)をもってガダルカナル飛行場に艦砲射撃を加える。
第二艦隊、第三艦隊(機動部隊)は十一日トラックを出撃して、ソロモン北方海域で船団輸送の支援配備に展開、敵の増援を阻止し、敵艦隊を捕捉撃滅する。
十一航艦は高速船団の輸送間、上空直掩を行ない、かつ、ガダルカナルの敵航空兵力の撃滅作戦を実施する。
他に、既に記述した通り、十一日夜の海戦の結果、飛行場砲撃は行なわれなかったが、第六戦隊(重巡青葉、古鷹、衣笠)による砲撃が計画されていた。
艦砲射撃に関しては、第三戦隊司令官の栗田健男少将は消極的であったようである。理由は、戦艦を長時間敵前にさらすことは危険のみ多くて、陸上施設に対する艦砲射撃の効果は少い、というのであった。山本連合艦隊司令長官は、しかし、積極的で、戦艦大和を先頭に戦艦戦隊、大巡戦隊、水雷戦隊を総動員する案もあったが、行動海面、行動時間に制約があるので、少数艦による多数弾射撃の方が安全かつ有効という結論になって、第三戦隊に依る実施が決ったのであるという。(戦史室前掲『海軍作戦』(2))
戦局の指導権が航空機に握られて、大艦巨砲は遊兵化する時代が既にはじまりつつあったときに、米軍は日本軍が占領する島嶼に対して、圧倒的な艦砲射撃を加えて上陸作戦を開始する戦法をとった。これはきわめて有効であった。戦艦大和以下の大艦隊をルンガ沖に並べて、一斉に艦砲射撃の火蓋を切る作戦は、この時点で、兵術的価値が高かったと考えられる。米軍は八月七日には八十余隻の大艦船団をルンガ沖とツラギ沖に並べて、ガダルカナルを占領したのである。この十月、米軍は既にかなりの航空力をガダルカナルに持ち、近海に機動部隊を行動させていたらしいが、それらと対決するためにこそ連合艦隊には第三艦隊があるのであり、徒らに温存するために持っていたのではなかったはずなのである。
十月十二日、高速船団輸送に関してトラックに出張した宮崎十七軍参謀長は、連合艦隊との協議の結果を十七軍司令部へ打電した。
「ガ島攻撃ニ関シGF(連合艦隊──引用者)ト協議ノ結果左ノ通決定セルニ付実現方取計ハレ度
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、主力艦ノ砲撃(一三日二三〇〇ヨリ約三〇分間発射弾数一〇〇〇発)及輸送船団ノガ島進入ハ予定通実施セラルルニ付、|其ノ砲撃戦果ヲ利用シ万難ヲ排シテマタニカウ河右岸ニ砲兵陣地ヲ推進《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|速カニ制圧砲撃ヲ強化シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|爾後間断ナク之ヲ持続《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、特ニ十五日黎明時ニハ火力ヲ盛ンニシ敵飛行機ノガ島飛行場使用ヲ不能ナラシム
二、輸送船団ノ入泊揚陸ヲ容易ナラシムル為十四十五日ニハ積極的行動ヲ行ヒ敵飛行機ノ船団攻撃を牽制
三、海軍艦艇ハ十三日夜間ノ3S(第三戦隊)砲撃ニ引続キ十四日夜間鳥海、衣笠、十五日以降駆逐艦ヲ以テ砲撃セシメラルル予定ナルニ付右弾着観測可能地点ヲ確保急報ニ努ム
四、輸送ハ十六日モ実施ノ予定ナルニ付総攻撃開始時機ハ成ルヘク遷延セサル如クス」(傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
傍点部分は戦況の深刻な変化の結果である。はじめは、陸軍砲による砲撃を主役として、それに協同する攻撃としての艦砲射撃が考えられていたのである。いまや、戦艦主砲による砲撃効果に便乗して、マタニカウ川右岸に砲兵陣地を確保せよ、ということになった。
ガダルカナル飛行場砲撃の任務を持った第三戦隊(戦艦金剛と榛名)は十月十一日(サボ島沖海戦が勃発した日。また、日進、千歳の輸送隊が揚陸した日)トラックを出撃した。護衛部隊は二水戦である。
第三戦隊(攻撃隊)は、十三日午前三時三十分、支援部隊(高速船団輸送支援のために、攻撃隊と同じ日トラックを出撃していた)から分離、速力二四ノットでガダルカナルに向った。分離してから午後三時まで、二航戦が攻撃隊の上空直掩を行なった。
この日、午前八時十分、基地航空部隊の哨戒機が、レンネル高(ガダルカナル南方約二〇〇キロ)の南西七〇浬に空母一、巡洋艦二、駆逐艦二が南東航しているのを発見、同じく十二時五分、スチュワート島(ソロモン諸島北東側列島南端部のマライタ島から東へ約二〇〇キロ)の南方八〇浬に戦艦一、巡洋艦一、駆逐艦二が西航しているのを発見報告した。後者についての報告には空母は含まれていなかったが、もし近海に空母がいるとすれば、金剛榛名の第三戦隊は夕刻ごろ敵機に捕捉されるかもしれなかった。
第三戦隊はその夜の会敵の公算大として警戒しつつ進んだが、敵機に発見されることもなく、マライタ島とラモス島との間を通過してサボ島北方に進出した。
一方、陸軍砲による飛行場砲撃は、マタニカウ川右岸砲兵陣地を敵に奪われて以来、困難視されていたが、十二日、午後二時三十五分、十七軍参謀長は次のような電報を打っている。
「陸軍ハ十三日日没ヨリ十五糎砲二門ヲ以テ飛行場制圧射撃ヲ実行」
そうかと思うと、十二日午後三時三十分、在ガ島島田十一航艦参謀は、次のように報告している。
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一、(イ) 略
(ロ) マタニコ右岸地区ヲ奪回セントセバ現揚陸予定ノ重砲弾薬及第二師団ノ大部ヲ要ス
(ハ) 前項作戦ヲ実施セバ多大ノ消耗ヲ予期セラレ、飛行場奪回ハ別個ノ師団ヲ要スルヲ以テ、迂回作戦ニ変更セリ
(ニ) 迂回作戦ニ依ルガ島飛行場突入ハ二一日ニ繰上可能ノ見込
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
二、陸軍ハタサファロング及コカンボナニ高角砲装備完了セリ、十四日早朝ヨリツセル島ニ対シ砲兵全力(六門)ヲ以テ牽制射撃実施ノ予定
[#ここで字下げ終わり]
実際には、しかし、十三日午前十時五十七分の十一航艦参謀長の電報が、事実に最も近いようである。
「在ガ島第十七軍小沼参謀ヨリ在ラバウル同軍参謀長宛左ノ電アリ 船団輸送掩護ノ為十三日夕ヨリ十五榴二門ヲ以テ飛行場ヲ射撃ス高角砲二門ヲ以テコカンボナ 四門ヲ以テタサファロングノ上空ヲ火制ス 今ヤ第一線ヲ偵察ノ結果可能ヲ確信スルニ至リ師団命令下達セラレシヲ以テ取急キ報告ス」
同じく、午後四時五十分、
「陸軍砲ニ依リ飛行場北側一ケ所火災炎上中」(以上各電、『山田日記』)
この十三日午後四時から、重砲兵一個中隊(十五榴二門)で飛行場を、別の一個中隊(同じく二門)でトラ高地を制圧し、桟橋付近で揚陸中の敵輸送船に対して妨害射撃を行ない、大発三隻を撃沈したが、僅か二門の射撃では、密度稀薄で実効はあがらなかったと思われる。
金剛榛名の攻撃隊は、十三日午後十時三十八分、サボ島南方水道に進入、午後十一時三十一分、飛行場に対して平行に第一射撃コースをとった。
十一時三十五分、計画通り照明機が吊光弾を投下した。十一時三十六分、金剛が、十一時三十八分、榛名が射撃を開始した。
敵も手を拱いていたわけではなかった。午後十一時四十六分ごろから、ルンガ岬方向から照明砲撃を行なったが、弾丸が届かず、戦艦群は副砲(十四糎砲)で応戦した。
午後十一時四十八分ごろから敵飛行場に火災が起こった。第三戦隊は午前零時十三分反転して第二射撃コースをとった。そのころ、飛行場一面は火の海と化しているらしく認められた。金剛は零時二十二分に、榛名は零時二十四分に射撃を再開した。
砲撃終了は零時五十六分であった。五十八分、第三戦隊は最大戦速二九ノットで北上避退に移り、午前四時四十八分から二航戦の上空直掩下に入り、十四日正午前進部隊本隊に合同した。
この砲撃で、戦艦金剛の主砲(三十六糎砲)は三式弾一〇四発、一式弾三三一発、副砲(十四糎砲)二七発を、榛名は零式弾一八九発、一式弾弾二九四発、副砲二一発を発射した。(戦史室前掲『海軍作戦』)
三式弾というのは主砲による対空射撃用に考案された焼夷弾、一式弾は堅固な施設を破壊するための徹甲弾である。
この砲撃の効果は大きかったらしい。第十七軍司令部は野砲一〇〇〇門に匹敵すると欣喜雀躍したという。
金剛榛名による砲撃を、米公刊戦史は次のように述べている。
「これは本会戦中最大の砲撃であって両戦艦から射ち出した三六糎砲弾は、徹甲弾六二五、榴散弾二九三計九一八発に及び、これらが飛行場全域を蔽い、炸裂光と炎焼するガソリンで夜空を焦がし、敵の報告文の言葉を借りて言えば、到るところに炸裂して飛行場は炎の海となり、死者四一名多数飛行機の損傷があった。(中略)味方は十四日には僅に降下爆撃機七機、F4F二九機、P400四機、P39二機計四二機しか飛んでいない。(中略)
飛行場は敵の艦砲射撃のため重爆撃機の基地としては役立たなくなったのみならず、敵の航空機及艦隊がシーラーク水道内及上空にいるため燃料輸送を阻まれて、ガダルカナルに於ける航空用ガソリンの欠乏は深刻となり、その結果B17機はもはやヘンダーソン飛行場を中継基地として活躍することは出来なくなった。
飛行場は十月十四日午後には全く使用出来なくなったが、幸にしてその南東方に建設大隊が粗末な草生滑走路を造っておいたので、戦闘機用滑走路として軽飛行機なら使用出来、これが一週間主飛行場となった。」(ジョン・ミラー『ガダルカナル作戦』)
モリソン戦史にも同じようなことが書かれている。
「九〇機のうち僅かに四二機(戦闘機三五機、急降下爆撃機七機)だけが作戦可能の状態で残った。航空ガソリンの手持ちは、以前から、危機をもたらすほど低調であったが、ほとんど全く消え失せてしまった。(中略)ヘンダーソン飛行場は当分の間お手あげである。飛行しようとするものは、新造の草の生えた戦闘機の滑走路を使用しなくてはならない。
師団司令部から海兵大佐が飛行場にやって来て、陸軍航空隊員に次のような短い令達を交付した。われわれは飛行場を保持し得るや否やを期しがたい。駆逐艦、巡洋艦及び輸送船より成る日本軍部隊がわれわれの方に向って来ている。われわれはまだ一回の戦闘には充分のガソリンを持っている。飛行場に爆弾を装備し、急降下爆撃機とともに行って敵を撃て。ガソリンがなくなった後は、われわれは地上部隊に後を引受けさせなくてはならない。その時には貴隊将兵は歩兵先遣隊に所属することとなるであろう。幸運を祈る。さらば。=i中略)
栗田提督(第三戦隊司令官──引用者)の報復的な来襲は、海兵隊員の士気に重圧を加えた。マタニカウ河畔とエスペランス岬沖における戦闘に引続く熾烈なものであったので、敵軍の資源は無限であることがわかったように思えて、なおさらのことであった。兵隊たちは、もうこんな打撃にはこれ以上堪えられないことを知っていた。戦争の残りの期間、ガダルカナル戦の古強者たちは栗田の砲撃を単に砲撃≠ニ、まるで他には砲撃がなかったように語るのであった。」(モリソン『第二次世界大戦──合衆国海軍作戦史』巻5(ガダルカナル争奪戦))
36
高速輸送船団に選ばれた六隻のうち四隻(吾妻山丸、南海丸、九州丸、佐渡丸)は、第二駆逐隊(駆逐艦三隻)の護衛のもとに、十月十二日午後六時五十分から七時五十分の間にラバウルを出港した。
残る二隻(笹子丸、崎戸丸)は第二十七駆逐隊の護衛を受けて十三日午後五時ショートランドを出た。
この両者はチョイセル島の東方海上で合同して、ガダルカナルのタサファロングヘ向うのである。
外南洋部隊(第八艦隊)指揮官は、鳥海、衣笠、望月、天霧から成る主隊を率いて、十三日午後九時三十分ショートランドを出撃、船団を支援しつつ、十四日夜ガダルカナル飛行場を艦砲射撃する。
増援部隊(三水戦)の川内、由良、朝雲、白雪、暁、雷は陸兵一一〇〇名、弾薬糧食を搭載、十四日午前四時ショートランドを出撃、エスペランス岬に揚陸する。
連合艦隊司令部は、十四日午前三時、前夜の戦艦二隻による砲撃によって、ガダルカナルの敵機は|概《おおむ》ね制圧し得たものと認めると報じた。
高速船団群は十四日午前四時四十分、予定地点で合同、予定航路を南下した。
基地航空部隊は、十四日午前六時、陸攻二六、零戦一八をもってラバウルを発進、十時過ぎ、ガダルカナル飛行場を襲い、地上にあった約五〇機のうち三〇機を弾幕で覆ったと報じた。つづいて午前十一時、第二次攻撃隊が飛行場を爆撃したが、敵戦闘機約二〇機の攻撃を受けたという。第一次攻撃が報告通りの戦果をあげていれば、第二次のときに右記のような抵抗力は残っていないはずだが、不審である。
この日、天明後の飛行索敵は、前日の敵空母を含む艦隊の所在を発見出来なかった。
反対に、|索《もと》めて敵に近づくことを避けようとしているかに見える日本軍機動部隊(第三艦隊)は、敵飛行艇に接触され、早速北西に変針した。
輸送船団は、十四日午前五時と十時二十分、B17一機に接触され、午後一時四十五分、艦爆と戦闘機約三〇機の銃爆撃を受けた。船団は計画通り散開し、回避に努めた結果、船団にも護衛隊にも被害はなかった。
それにしても米軍は、早朝から日本軍の大量増援を知ったのである。
午後四時五分から五十分間、艦撃及び戦闘機二六機が襲いかかり、執拗な銃爆撃を反復したが、直掩機の奮戦と船団の回避運動、対空砲火によって、被害は軽微で切り抜けることが出来た。軽微な損傷を受けたのは護衛にあたっていた第二駆逐隊の五月雨である。
連合艦隊司令長官は、午後一時四十分、敵機約三〇船団に来襲の報告を受けると、ガダルカナル航空兵力の制圧不十分と認め、明十五日早朝二航戦の戦闘機半数をもって基地航空部隊に協力、ガダルカナル敵機の制圧と船団上空警戒に任ずるよう命令した。
船団は、敵機の来襲にもかかわらず、無傷でサボ島南側を通過して、十四日午後十時、タサファロングに入泊した。
巡洋艦川内以下の増援部隊も無事エスペランス岬に到着した。この部隊は往復とも敵機の攻撃は受けなかった。
鳥海以下の外南洋部隊主隊は、高速船団輸送を間接支援したのち、ルンガ沖に突入、ガダルカナル飛行場を砲撃し、十五日零時十七分、射撃を終了した。発射弾数は七五二発であった。
船団の揚陸状況を述べる前に、十四日から十五日朝へかけて、米側公刊戦史が記しているところを見てみよう。
「十月十四日百武将軍の最後尾の梯団は、六隻の輸送船に乗り、海上は駆逐艦に、上空はゼロ戦に護衛されてスロットを南下しつつあった。四機のドーントレス急降下爆撃機(その当時では飛行し得るものの全部──モリソン)と七機の陸軍戦闘機は、爆弾を携行してこの増援を阻止せんものと熱情的な努力を傾けて飛び立った。彼らは最善を尽したが、唯一の被害を受けた艦──それも軽微な──は駆逐艦五月雨であった。夕暗がとざすとき、同艦はまだ南に向いつつあった。
(先に記した日本側の資料による空襲状況と、右のモリソン記述とでは、飛行機の数にかなりの相違がある。いずれが正しいとも誤っているとも判断する根拠がない。モリソンの記述を暫くつづける。)
十月十四日から十五日にかけての夜は、海兵隊にとってはこれまた有難くない連続であった。三川提督は幸運な衣笠=i十一日夜の夜戦で僚艦青葉傷つき、古鷹沈没にもかかわらず、衣笠は孤艦で戦って無事であった。──引用者)を後続艦として巡洋艦鳥海≠ノ乗艦して眠られぬ潟=iルンガ・ラグーンをいう。海兵隊はスリープレス・ラグーンと呼びはじめていた。──引用者)に乗り込み、ヘンダーソン飛行場界隈を七五二発の八|吋《インチ》砲弾でひっかきまわした。(中略)
十五日払暁になると、それを見た海兵隊にとっても、見なかった海軍部隊にとっても、きわめて屈辱的な光景を現出した。視野いっぱいに敵輸送船団がタサファロング沖に横たわり、まるで東京湾にでもいるかのように悠々として兵員と軍需品を揚陸していた。その周囲と上空には、駆逐艦と飛行機が徘徊していた。
海兵隊航空部隊指揮官ガイガー将軍は、ヘンダーソン飛行場にはガソリンは少しもないとの報告を受けた。では、何でもかんでも少しなりとも探し出せ≠ニ彼は命令した。兵隊たちは疎開地区を探し、彼らが隠匿場所にしていた沼沢地や茂みから約四〇〇のドラム缶の航空ガソリンを集めて、飛行場にころがして行った。飛行不能になった二機のB17からさえも、そのタンクからサィフォンで汲み干された、この一升買いのような方法でも、飛行機を目標まで一〇マイルを飛んで往復させるに足る燃料が得られた。そして午前の半ばごろには、海兵隊と陸軍輸送機がエスピリッサントからガソリンを空輸しはじめた。」(モリソン前掲書)
入泊した船団の揚陸作業は順調に|進捗《しんちよく》していた。上空直掩は、未明に水上機、つづいて二航戦の戦闘機半数(前日の連合艦隊司令長官命令による)、それから基地航空部隊戦闘機という順序であった。
揚陸順調といっても、敵機の妨害がなかったわけではない。午前三時四十分から六時ごろまで、敵艦戦艦爆計一八機が上空直掩の間隙を衝いて来襲、銃撃を反復した。揚陸作業は、ために、甚だしく妨げられたが、船団も護衛隊にも被害はなかった。
十五日午前八時四十五分ころまでには、各船とも人員と重火器のほとんど全部、糧食弾薬の約八割を揚陸し得たという。実のところ、この数量は、後述するように、はっきりしないのである。
南海丸は訓練と経験によって作業が迅速で、午前七時五分には荷役を完了していた。
午前七時三十分から八時四十五分の間に、敵艦戦艦爆延べ約二五機が来襲し、銃爆撃を加えた。米側資料に見る限り、この日は米軍の新手の航空兵力が来援してはいないから、艦砲射撃で生き残った少数機が反復飛行して獅子奮迅の活躍をしたものと思われる。
午前八時四十二分、笹子元が被爆炎上しはじめた。
第三波の空襲は午前九時四十分から十時三十分にかけて、B17が船団と護衛駆逐艦を爆撃した。B17の飛行場使用は出来なくなっていたはずだが、このB17が、何処から、どうやって飛来したのか、明らかでない。
その爆撃のさ中、九時四十五分、荷役の終了した南海丸と護衛駆逐艦有明が出港した。
九時五十分、吾妻山丸に爆弾命中、炎上した。
佐渡丸と九州丸は一時抜錨し、泊地前面で回避運動を行ない、護衛隊が警戒にあたった。船団が再び泊地に進入すると、午前十一時十五分から四十五分にかけて、戦爆約二〇機による第四次攻撃があり、九州丸に爆弾が命中し、大火災となったので、船体を海岸に|擱坐《かくざ》させた。今度は揚陸点付近も攻撃目標となった。
十三日夜の金剛榛名による三十六糎主砲の砲撃は、有効ではあったが、まだ不十分であった。十四日夜の鳥海以下の巡洋艦による砲撃は、敵に決定的な損害を与えなかった。結果論になるが、既に見てきた通り、この時期には第三戦隊(金剛・榛名)の進入は敵航空兵力によって妨げられはしなかったのだから、仮りに航空攻撃を予想されたとしても、それは第三艦隊(機動部隊)に任せて、もっと多数の戦艦・巡洋艦群をもってルンガ地区を滅多打ちにすることは、戦理に叶っていたと考えられる。戦史が示す経過では、不徹底だったのである。決定的な戦果を期待するには、大兵の一挙投入が必要であることは、海陸の別を問わなかった。それにしても、飛行場、機材ともに大打撃を蒙ったはずの在ガ島米航空兵力の戦意には怖るべきものがあった。
数次にわたって空襲が反復されている間に海岸では大発が四散して、揚陸作業が捗らない上に揚陸点も敵機の銃爆撃で被害を生じ、混乱を来した。
このままで推移すれば、揚陸困難となるばかりでなく、まだ被害を受けていない輸送船も被爆するのは必至であった。護衛隊指揮官は昼間の揚陸を中止して避退することを第一船舶団長と協議しようとしたが、団長は協定に反し、陸上に移動してしまっていたので、連絡がとれなかった。護衛隊指揮官は船団の一時避退を決心し、午後二時反転、午後五時再度入泊、荷役完了の方針のもとに、佐渡丸、崎戸丸を護衛して正午出港、全速力でサボ島北方に向った。
午後三時、船団は反転して三度目の入泊を果そうとした。そのとき、佐渡丸に第一船舶団長から「月明アリ、来ルナ」という電報が入った。このため、午後三時四十五分、船団と護衛隊はまた反転してショートランドに向った。
船団のショートランド帰着は十月十六日午前八時三十分であった。先にタサファロングを離れた南海丸と駆逐艦有明は、その三時間前にショートランドに着いていた。
結果を見ると、この船団輸送は、作戦全体として竜頭蛇尾の感がある。船団六隻全部を無傷で入泊させ、人員と重火器の全部と、弾薬糧食の約八割を揚陸したが、巧緻な作戦を樹てて制圧したはずのガダルカナル飛行場からは延べ一二九機に及ぶ敵機(戦史室前掲『海軍作戦』(2))の来襲があり、船団は笹子丸、九州丸、吾妻山丸を失った。
船団の揚陸中は、十五日午前三時四十分から午後三時二十五分まで、R方面航空部隊(十一航艦水上機部隊)の水戦一六機と零戦一六機が五直の上空警戒、基地航空部隊は午前五時から六直、零戦延べ四二機で、二航戦も午前五時から二直、零戦延べ三六機で、計延べ一一〇機が上空警戒にあたったというが(戦史室前掲書)、敵機の攻撃を阻止出来なかった。大打撃を受けたはずの、日本側では制圧し得たと思っていたガダルカナル飛行場から、乏しいガソリンを探し出して飛んで来た米軍飛行機の延べ数の方が、大作戦を敢行した日本軍輸送団の上空直掩機の延べ数よりも多いのである。
護衛隊指揮官は次のように報告している。
「敵機ハ地ノ利ヲ極度ニ利用シ味方上空直衛機ノ行動ヲ終始観測シ其ノ間隙ニ乗ジ来襲スルモノノ如ク、又味方基地航空部隊ノ攻撃時ニハ大部上空ニ逃避シアルヲ認メタリ(以下略)」
味方の機動部隊が近海に来ていて、その艦載機が敵飛行場の飛行機のように活動を反復したとしたら、戦況は全く異っていたはずであった。
第十七軍司令部は、越次参謀が揚陸点を実地調査した結果、揚陸し得たのは兵員の全部、弾薬の一乃至二割、糧秣の半量に過ぎないことを知った。
軍司令部はラバウルに在る宮崎軍参謀長に次の電報を打った。
「本日揚陸シ得タルハ弾薬ハ積込ノ約五分ノ一、糧秣ハ約半数ニ過ギズ、十七日ニハ第二次輸送部隊ノ外十五榴及十加弾、機関銃弾、重|擲弾筒《てきだんとう》並糧秣ヲ輸送セラレ度」
宮崎参謀長は軍司令部からの要求に基づいて、最後の増加部隊である歩兵第二百二十八連隊(一大隊欠)と揚陸未済物件を、十八日、船団輸送するように海軍側に要望したが、海軍側は、伊藤第一船舶団長が高速輸送船団を揚陸途中で引揚げさせたことを快く思っていなかったのと、艦隊のほとんど全力を展開して支援するような船団輸送は、そう軽々には出来ないことから、船団輸送を拒否して、艦艇輸送を提案した。
他方、宮崎参謀長は、十八日朝、ラバウルに帰還した佐渡丸、崎戸丸、南海丸の船倉を調べさせた結果、状況は先の電報とは異って、軍需品の大部は揚陸済みであることがわかった。(宮崎前掲書)
果してどれだけの物件が揚陸され得たのか正確な資料はないが、揚陸点は既述の通り、敵機の銃爆撃を受け、モリソン資料によれば十六日朝には米空母ホーネットの艦上機も揚陸点攻撃に加わっている。日本海軍の機動部隊はとっくに北上してしまっているときにである。事この時期の日本海軍機動部隊の行動に関する限り、常に隔靴掻痒の感を禁じ得ない。
揚陸点は、さらに十七日朝、飛行機による爆撃だけでなく、敵駆逐艦からの旺盛な艦砲射撃を受けた。
こうして、多大の犠牲を払ったうえに辛うじて揚陸し得た軍需物資の大部は、それを渇望していた日本軍将兵の手に入る前に、焼尽してしまったのである。
時間が少し|溯《さかのぼ》るが、高速船団揚陸中の敵機の妨害が予想以上に頻繁かつ激しいことを知った連合艦隊司令長官は、十五日午前九時三十一分、第五戦隊の妙高及び摩耶に二水戦と共に十五日夜ルンガ泊地に突入、飛行場とその南東の新設飛行機置場に艦砲射撃を加えるよう電令した。
午後十時二十七分から十一時二十分まで、妙高が四七六発、摩耶が四五〇発、第三十一駆逐隊が二五三発を射撃し、大火災、誘爆を起こした。
既に述べたことの繰り返しになるが、見てきた通り、十三、十四、十五日と連夜、少数艦による多数弾を射ち込んで、一応の効果はあったが、制圧効果十分ではなかったのである。連合艦隊の大兵力をもって、米軍なら実施するであろうように、ルンガ沖を埋め尽すばかりに殺到し、一斉に猛砲撃を加える方法だけが完全制圧につながる途であったであろう。
十月十五日、ニミッツ提督は事態を次のように表現した。
「現在、われわれはガダルカナル地域の海上を支配することは不可能のように思われる。わが陣地への補給はわれわれの非常に大きな損失によってのみ果されるであろう。事態は絶望であるわけではないが、それは確かに危機に瀕している。」(モリソン前掲書)
米軍もこの時期は補給の危機であったことが窺われる。
日本軍のガダルカナル輸送は、先に述べた高速船団輸送をもって完了する計画であったが、蟻輸送は既述の通り全くの不成績で中止になり、十月十四日に予定されていた日進、千歳による重器材等の輸送は、近海に敵機動部隊を発見したため取り止めとなったりしたので、輸送量は計画量に達していなかった。
そこで、連合艦隊司令部は、十五日、増援部隊の全艦艇をもってする輸送を十七日に実施し、その輸送をもって第二師団総攻撃開始までの輸送を打切る方針を関係箇所に通知した。
これを知った第十七軍宮崎参謀長は、連合艦隊宇垣参謀長に対して、二百二十八連隊と軍需物資、重資材等を輸送船三隻によってタサファロングに十八日揚陸するよう要望した。海軍側は、しかし、船団輸送には艦隊のほとんど全力をもって支援展開しなければならないから、再度実施は行ない難いこと、輸送には増援部隊艦艇をもってすると答えたことは、先に記した通りである。
陸軍側は了承せざるを得なかったが、宮崎参謀長はこう記している。
「之ガ為弾薬糧秣等前送不能トナリ将来ノ作戦上ニ重大ナ影響ヲ及スニ至レリ」
増援部隊は日進、千歳、川内、由良、竜田と駆逐艦一五隻をもって十七日の輸送を行なう準備をし、同時に甲標的(特殊潜航艇)設置のために千代田を同行させる計画を立てた。
ところが、十五日以来、哨戒機は、ガダルカナル南方海域に、ガダルカナル増援に向うと考えられる輸送船団を数群発見したし、十六日朝には、やはりガダルカナル南方海域に空母、戦艦を含む機動部隊を発見した。
連合艦隊司令部は、十六日午後、第八艦隊(外南洋部隊)司令部に対して、十七日の輸送には、敵情右の通りであるから、鈍足の日進、千歳を使用しないこと、千代田の進出も見合せるよう命令した。
このため、増援部隊は、十七日、重火器輸送艦を伴わないで、快速艦艇だけで第二師団総攻撃開始前の最後の輸送を行なうこととなった。
使用艦艇は軽巡三隻、駆逐艦一五隻、搭載物件は陸兵二一五九名、野砲六門、速射砲一二門、弾薬及び糧食であった。
この輸送隊はタサファロングとエスペランスの二隊に分れ、その日のガダルカナル守備隊長からの連絡では、タサファロング揚陸点は敵駆逐艦による砲撃と飛行機による爆撃で火災誘爆を起こしているということであったが、輸送隊は二隊とも妨害を受けることなく揚陸を終り、帰途についた。
総攻撃開始前の増援は十七日の輸送で打ち切りとなったが、十九日、第十九駆逐隊(駆逐艦三隻)が宮崎十七軍参謀長をガダルカナルに送るついでに、弾薬輸送と飛行場砲撃を兼ねることになった。
宮崎十七軍参謀長は、しかし、海軍側の要望によって、ラバウル残留を余儀なくされ、代りに山内参謀が宮崎参謀長の意図を口達筆記して、ガダルカナルヘ渡った。
海軍側が宮崎参謀長の残留を要望したのは、作戦予定にのぼっているポートモレスビー作戦の困難な問題について、協議する相手として宮崎参謀長を必要とするということであった。
十七軍参謀長がガダルカナルに渡る必要を感じたのは、航空偵察写真によると、敵飛行場南側面の防備が強化されているのが判然としているので、陣地攻撃準備にあたって、その点を十分考慮したいからであった。確かに、飛行場南側面は、川口支隊の攻撃のときよりもはるかに強化されていたのである。
宮崎参謀長は山内参謀を通じて注意事項を戦闘司令所へ申送ったが、宮崎手記によれば、現地に在った小沼高級参謀は、この処置に不快を感じたらしい。「司令官ニ対シ司令官在島ナルニ拘ラス之ヲ云フハ僭越ナリトノ言ヲ為セリト」と誌されている。「果シテ然ルヤ、更ニ思へ後ノ結果ヲ、|当部ノ注意ハ実ハ時機ヲ失シアリ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、且空中写真モ師団司令所迄ハ到着セルモ、|時既ニ作戦指導ノ先入観ニ依リ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|大ナル注意ヲ喚起スルニ至ラサリシモノノ如シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、之天命ナリ」(傍点引用者)
確かに、宮崎参謀長の注意は時機を失していた。後述するように、現地では、第二師団が迂回作戦をとって、強化された敵陣地正面に衝突しようとしていたのである。
37
時間が多少前後するが、先の高速船団の突入と揚陸のために、ガダルカナルに在る第二師団は、米軍に較べれば微弱としか言いようがない砲兵力によって、十三日夜、十四日夜と十五日午前、砲兵戦を実施した。
第二師団の総攻撃によって飛行場を奪回するという作戦の当初の発想時には、本格的正攻法が主眼であって、圧倒的な砲兵戦を展開するはずであった。
実際には、火砲の数量も計画数量に遠く及ばなかったし、弾薬量も熾烈な火力をもって敵陣を蔽う現代戦としては、全く微々たるものであった。住吉砲兵団司令部が十月十三日朝に指令した射撃計画の弾薬使用標準はこうなっている。
|極力節約ニ勉メ《ヽヽヽヽヽヽヽ》且ツ各部隊集積ノ状況及敵情ニ依リ異ナルモ標準左ノ如シ
十三日夜 野戦重砲兵第四連隊約六〇
其ノ他各中隊約三〇
十四日夜 野重四 約八〇
其ノ他各中隊約五〇
十五日午前 野重四 約八二
其ノ他各中隊約八〇(傍点引用者)
これでは弾幕をもって敵陣を蔽うことなど出来ないどころか、短時間集中射撃を加えることも意に任せない。
日本軍が砲撃を開始すると、米軍は|忽《たちま》ち数十倍する報復砲撃を日本軍に浴びせ、日本軍の十五榴放列陣地は至るところ弾痕をもって蔽われた。
これ以後、米軍の砲兵火力は強大になるばかりで、ガ島戦終末まで、日本軍歩兵は、友軍砲兵の密度稀薄な射撃を好まなくなった。
一発でも撃てば、その返答が凄まじかったからである。
先に第十七軍司令官が、速かにガダルカナルに前進して第二師団長の指揮下に入るよう命令してあった(十月十日)第三十八歩兵団司令部(長・伊東少将)と歩兵第二百二十八連隊は、輸送船三隻で、十月十五日午後三時ラバウル出港、十七日午前四時ショートランドに入港したが、既述の海軍側の最後の対ガ島輸送に間に合わなくて、ショートランドで待機しなければならなくなった。
十月十日の時点で、十七軍司令部は在ガ島日本軍の戦力の不足を認識したから、右の兵力追送の下令をしたのである。それが輸送に間に合わないなどということは、現状把握と兵力部署の間のずれ、準備と前送の間のずれ、陸海軍間の現実的事務的連絡の|齟齬《そご》があるからである。要するに、戦争のための重要な目的一点に、陸海双方の綿密な注意力が集中していないことから生ずる手違いである。
兵力の逐次投入そのものが、計画の度量なる変更を意味するから、事務的作文のみが巧妙で、その実行には疎漏の多い軍という官僚組織が兵員武器等の積残しや不整合を来すのは当然であった。
第十七軍司令部は、十月八日(司令部のガダルカナル進出の前日)、敵情判断についての参謀次長からの電報を受領した。
それによると、ソロモン方面の敵は海兵約一個師団で、その主力約一万はガダルカナルに在る模様であり、近く一個師団が増加せられるもののようである、というのであった。
いままでのような二〇〇〇とか、五〇〇〇乃至六〇〇〇という敵兵力の過小評価が、ようやく約一万に上ってきたが、それでもまだ実情にははるかに及ばなかった。
十月十一日朝、第二師団の玉置参謀長と松本参謀は勇川(コカンボナの東約一キロ)の左岸高地から敵方に至る地形を観察した。
その観察によると、アウステン山南西麓のところどころに林空が見えた。松本参謀は直ちに軍の戦闘司令部に出頭して「山地の森林は密度大ならず」と報告した。密林通過は可能である、という意味である。遠くから望見して、諸所に林空が見えた程度でジャングルの密度が大でないと判断するのは、迂回作戦が希望的選択肢として、あらかじめ思考の中にあっての軽率な判断であったと考えられる。(前掲滝沢氏の書簡には、「勇川左岸にはアウステン山を望見出来る高地はない。あったとしてもこれは903及990高地にさえぎられて望見不可能である。また十月十三日小生は石井将校斥候と共に990高地で飛行場及アウステン山を望見しましたが、両参謀の云うアウステン山南西麓など望見することが出来なかった。」とある。──原文のまま)
同参謀は飛行場南方に敵が一連の陣地を構築しているとは考えていなかったらしいが、ラバウルの宮崎参謀長は、既述の通り、防衛の強化状況の判然としている空中写真を山内参謀に托し、同参謀は十九日夜ガダルカナルに上陸したが、現地師団は後述するように既に機動を開始していて、宮崎参謀長の注意も写真もほとんど重要視されなかった。
松本参謀の観察報告を受けた軍司令部の小沼高級参謀は、早速自ら視察を行なったが、森林に空隙が見えることは確かであった。
軍戦闘司令所では、参謀間で討議が行なわれた。海岸正面からの力攻による一挙突破をとるか、密林中の迂回策をとるかに関してである。
九月三十日ごろの研究懇談では、次のように一挙突破が優勢であった。
第二師団の松本参謀案は、海岸方面から一夜、やむを得ざれば二夜をかけて攻略する。
辻大本営派遣参謀案は、中央台地方面から遮二無二一挙攻略する。やむを得なければ二夜をかける。正面からの力攻の理由は、大兵のジャングル通過は不可能であるからである。林参謀はこれに同意していた。
田中十七軍参謀(航空)案は、一挙突破を必要とするというにあった。巧緻な案や二段攻略案は不可としていた。
小沼高級参謀の見解は、攻撃兵力の集結状態、河川、森林の状況を調査しなければ攻撃地区の決定は出来ないが、@総合戦力発揮に遺憾なき準備を整えること、A大なる縦長区分をもって穿貫的一点突破を行なうこと、B一挙に飛行場、砲兵陣地までを攻略すること、というのであった。(前掲戦史室『陸軍作戦』(2))
この時点での第二師団による総攻撃は、大なる火力をもってする正攻法が重点的に考えられていたのである。
だが、戦闘司令所をガダルカナルに推進してみて、第一線の戦力が驚くばかりに低下していること、特に砲兵火力に至っては比較にならぬほど劣勢であることから考えて、海岸正面からの力攻突破は覚束ない状況にあると認めなければならなかった。
よって、十月十一日の参謀たちの合議の結果は、正攻法を不可能とし、ジャングル迂回案に一致した。
川口支隊の攻撃失敗に鑑み、十分に兵力火力を整えて、正面から力攻するはずであった作戦計画は、こうして簡単に変更された。
『第十七軍迂回作戦決心ノ経緯』を見ると次のように記されている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
1「ガ」島ノ後方状況並2D(第二師団、特に第四連隊──引用者)ノ現況ニ依リ正攻法ハ不適当ナリト判断ス
2 先ツ|海図《ヽヽ》ニ依リ迂回路ヲ研究スルニ勇川河谷──「アウステン」山南側隘路──「ルンガ」川河谷ヲ|迂回セハ比較的容易ニ且敵飛行場ノ直前ニ進出シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 |敵ノ虚ヲ衝キ得《ヽヽヽヽヽヽヽ》
3 参謀ヲ903高地ニ派遣シ地形ヲ見ルニ部隊ノ正面ヨリ前進(正攻法)スルヨリ迂回路ノ方カハルカニ通過容易ノ如ク見ラル
[#ここで字下げ終わり]
「海図」で迂回路を研究したり、遠方から望見して林空を発見したぐらいで、ジャングル内迂回を容易だと判断する参謀たちの頭脳は、何か先入主に支配されていたのでなければ、異常としか考えようがない。危険を冒してでも航空写真を撮ってから判断しようとするぐらいの配慮が、現地参謀たちの間に全く見られないのは驚くべきことである。
先に述べたことだが、ラバウルに在る宮崎十七軍参謀長は、ルンガ飛行場南側面の防備の強化状況は航空写真を見ても明らかであるので、参謀長の見解と航空写真とを、山内参謀に托してガ島に送ったが、同参謀のガ島上陸は十月十九日夜で、第二師団は既に迂回機動を開始しており、十七軍は迂回奇襲作戦に決していたのである。航空写真は問題にもされなかった。謂わば、海図による机上判断と、展望点からの望遠観察が、科学的判断材料よりも優位を占めていたし、どの頭脳もそのことに疑いを抱きもしなかったのである。
第二師団長は第十七軍司令部の意図を体して、十月十一日午前十時、工兵第二連隊に、集結地のコカンボナ付近から東南の高地帯(九〇九、九九〇、九八六各高地)、アウステン山を経てルンガ川河畔に到る通路をジャングル内に啓開する準備を命じた。戦闘司令所付近の展望点からどれほど具眼の士が右の経路を望遠観察したとしても、また所々に林空を発見し得たとしても、右の経路の全容が視察出来るはずがないのである。
第二師団長は、右の通路啓開のために、歩兵第三十五旅団(川口支隊)から挺身作業隊約六〇名を工兵第二連隊長の指揮下に入れた。
この啓開作業は、工兵の一部をもって十二日から、工兵全力をもって十三日朝から開始された。
作業当初は十七軍杉田参謀が作業隊の先頭に立って督励し、十四日には早くも全長の半ばを啓開したという。辻参謀は、十四日、大本営陸軍部第一部長宛てに、「密林障碍ノ度ハ予想以上ニ軽易ナリ」と報告した。調子がよすぎると思われるが、啓開作業のこの時点での反対資料がないので、右の参謀の見透しが事実によって粉砕されるのに任せるが、少くとも参謀たるもの、百里の道は九十九里をもって半ばとすると考えるぐらいの慎重さと、それに対応する策をもっていなければ、参謀飾緒はコケ脅かしの飾りに過ぎない。(前掲滝沢氏の書簡には次のように書かれている。「十四日には先頭の歩兵第二十九連隊は、まだ九〇三高地西側にあって、啓開作業の工兵は九九〇高地西側にあった。丸山道全長の十分の一も進んでいない。密林の度は濃く難行苦行をしていた。何を見、何を考えてこのような文(辻の報告を指す──引用者)になったか不思議である」原文のまま)
第二師団は十月十六日正午、密林内機動を開始した。十七軍では、大本営から派遣されている参謀辻中佐と、十七軍参謀林少佐を師団司令部と同行させた。
出発にあたって、小沼高級参謀は辻参謀に次のような指示を与えている。
一、遅くも十月中旬末にガ島飛行場を攻略することは大本営の切なる要求であり、またこれと連繋して連合艦隊主力が行動するため、その機を遅らせないことは海軍側の切なる希望でもある。然し、過去の戦例は攻撃準備殊に攻撃実行部隊の必勝を自信する周密なる準備を絶対必要とするから、長遠な密林通過後行われる本攻撃では、予定の攻撃期日を延期する必要を生ずる状況も予期せられる。|この際は後者に主眼を置き《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、必勝の攻撃を行わなければならないから、攻撃開始日に関しては忌憚なき意見具申をされたい。但し機動間に於ては師団の努力を消磨させないため、右の件は師団に秘するを要する。
二、(略) (傍点引用者──戦史室前掲書)
攻撃準備は周到を要するから、そのために攻撃開始が遅れるようなことがあっても、その場合には準備の周到に主眼を置け、という注意は全く正しい。だが、第二師団の総攻撃開始時期が後述するように実際に遅延したのは、決して準備の周到を図ったがためではなく、密林内行軍所要時間の測定が全く甘かったのと、兵隊の体力消耗にあらかじめ思いを至す参謀がいなかったからである。
第十七軍は、十月十四日ごろまでに、第二師団を主力とする次のような攻撃計画を概定していた。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一 軍ハ×日薄暮主力ヲ以テ飛行場南側地区ヨリ敵ヲ急襲シテ之ヲ撃滅ス
[#ここで字下げ終わり]
(これでは、川口支隊の攻撃のときと作戦の質は全く異っていない。)
×日 二十二日ト予定ス
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
二 第二師団長ノ指揮スル歩兵約三連隊ヲ以テ「アウステン」山南方ヨリ「ルンガ」河上流地区ニ迂回シ×日日没後飛行場ノ敵ヲ急襲シ 引続キ「ルンガ」河附近ノ敵ヲ南方ヨリ攻撃シテ「ガ」島ノ敵ヲ|殲滅《せんめつ》ス
[#ここで字下げ終わり]
(第二師団長の指揮する歩兵約三連隊というのは、体力充実した新鋭の三個連隊ではなくて、既に疲労困憊した元一木支隊や元川口支隊を含んでいるのである。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三 右ニ基ク第二師団攻撃部署ノ概要次ノ如シ
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
1 右翼隊川口少将ノ指揮スル歩兵三大隊基幹
2 左翼隊第二歩兵団長(那須少将──引用者)ノ指揮スル歩兵一連隊基幹
3 両翼隊ノ戦闘地境ハ「ルンガ」東側ヲ南北ニ通スル草原、「ルンガ」河東部河口ヲ連ヌル線トス
4 予備隊歩兵一連隊(歩兵第十六連隊──引用者)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
四 住吉支隊(歩兵第四連隊──実力約一個大隊と砲兵の殆ど全力)ヲ以テ海岸道方面ヨリ牽制攻撃ヲ行ヒ爾後東方ニ向ヒ攻撃ス
五(略)
[#ここで字下げ終わり]
第二師団は、工兵隊によってジャングル内に啓開された道、師団長の名をとって一般に丸山道と称せられる道を、十月十六日正午、機動を開始した。
先頭は左翼隊となる那須部隊(これまで青葉支隊と呼ばれた部隊)、師団司令部と右翼隊となる川口部隊が那須部隊につづき、十七日早朝、それぞれ集結地を出発した。
十七軍司令部は、大本営派遣参謀の辻中佐と十七軍参謀林少佐を、第二師団司令部に同行させた。
第二師団司令部では、各部隊の指導と展開線を決定させるために、玉置参謀長と平間参謀を先発させた。
予備隊となる歩兵第十六連隊と師団直轄部隊は、十月十八日朝、勇川(コカンボナの東約一・五キロ)河口付近から前進を開始した。
第十七軍戦闘司令所は、十七日、コカンボナ南東約二キロの、第二師団司令部があった位置へ進出した。
丸山道は、攻撃部隊のジャングル内への潜入迂回行動を空から発見されないように、樹木の伐採はせず、徒歩部隊がようやく通過出来る程度に、五〇センチか六〇センチ幅にジャングルの枝を啓開したに過ぎなかった。元々が海図からの出発であるから、密林が急峻な坂を蔽っていたことなどわかりはしなかった。
磁石によって直線的に通路を啓開せざるを得なかったから、図面にはない急坂が随所にあり、将兵はジャングル内に縦横にはびこっている蔓にすがりながら登らねばならぬことも数知れなかった。
将兵は十二日分の糧秣と持てるだけの弾薬を背負い、密林内の狭い一本道を師団各隊が一列側面縦隊で前進しなければならなかった。したがって、行軍長径は当然次第に長くなる。先頭が早朝出発を開始しても、後尾の部隊の前進開始は午後となった。
既述の通り、辻参謀は、大本営第一部長宛てに、十四日、「密林障碍ノ度ハ予想以上ニ軽易ナリ」と打電している。師団が行動を開始する前にである。辻に限らないが、軍隊の指導的立場にある者の大部分は、物事を軽易に考え、過早に楽観視し、予想される困難を敢て無視することが、勇敢、積極的であるという錯誤に陥っていたようである。裏返せば、用心深く、慎重である者は臆病者とされたのである。
丸山道は狭いので、重火器、火砲は分解して、|臂力《ひりよく》搬送によって部隊の後尾を前進したが、当然歩度は伸びず、遅れがちであった。
分解搬送というのがどのくらい重いものか、参考までに左に列記してみる。(単位キログラム)
九二式重機 銃身二八・〇 脚二七・五
九四式軽迫撃砲 砲身三四・二 砲架四八・五
九二式歩兵砲 砲身三七・六 砲架三五・〇
四一式山砲 砲身九〇・八 揺架九三・〇
こんな途方もない重量を、しかもジャングルのなかを臂力搬送して、参謀たちが軽易に算出した予定時間内に展開線に達して、組み立てて、放列、段列を整備して、予定通りに攻撃開始が出来るものかどうか。
次のような資料がある。これも参考までに列記する。(戦史室前掲書)
十八日第二師団ノ最先頭部隊ハ「ルンガ」|河峪《かよく》ニ達ス 但シ最後尾ハ三十粁位後方ナリ(一列乃至二列縦隊ニテ前進スルノ|已《や》ムナキナリ)
「ルンガ」河上流ト「マタニカウ」河上流トノ間地形錯雑シアリテ前進困難ヲ極ム
「ルンガ」河峪ハ更ニ困難ナリキ
「アウステン」山ハ附近ニ同様ノ峰多ク何レガ該山カ不明ナリキ
さもあったろうと思われる。未知の地形の密林河峪でどれだけ将兵の体力が消耗されたか測り知れないし、似たような峰々でアウステン山の標定に困惑しなかったはずがない。山には名前は書かれてなく、密林樹木には方角指示は記されてないのである。
十月十八日午前五時、第二師団の後方を既に前進移動を開始していた第十七軍戦闘司令所は、ラバウルに在る宮崎十七軍参謀長から電報を受領した。この電報は、十月十三、十四日にガダルカナル飛行場の航空写真偵察を行なった結果についての要旨報告である。電文は長過ぎるので引用は避けるが、要点は、七月二十三日撮影写真と比較してみると、飛行場を中心とする各河川の河岸や、高地帯には、防禦施設がかなり増設されているらしく観測される、というものである。無論、第二師団が迂回して背後から衝こうとしている南側面も同様である。
この写真は、十月十七日夜にガダルカナル上陸予定の第三十八歩兵団司令部が携行するのと、海軍機による投下の二つの手段によってガ島へ送られた。
海軍機によって十七日コカンボナに投下された空中写真を、十七軍司令部は直ちに所要部隊に配付した。
しかし、既述の通り、第二師団の迂回機動は十六日に開始されており、十七軍司令部も第二師団司令部も、既に開始した行動を積極的に支持しないような情報は、重視したくなかったらしいのである。
ただ一人、例外があった。右翼隊長川口少将である。
彼は、十月十五日、第二師団命令を受領すると、『右翼隊の信念』と題する印刷物を部下に配布した。いかにも「帝国陸軍」らしいので、左に列記する。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
「第一 天皇陛下の御為に日米大決戦の勇士として一命を捧げまつるは今なるぞ
第二 歩兵の銃剣突撃は日本国軍の精華である 敵は之が一番怖いのだ
第三 敵の長所は火力の優勢に在る 之を封ずるの途は夜暗と密林の利用にある
第四 |愈々《いよいよ》総攻撃が始まつたなら、各隊長は部下を|克《よ》く掌握し予定の時刻に一度にドツと突入し 第一線を素早く奪取して怨み重なる敵を蹴散し刺殺し必ず夜明け迄に海岸に突進して敵を殲滅せよ
第五 斯くして皇軍の大勝利疑ひなし」
[#ここで字下げ終わり]
というのである。この、今日からみれば、苦笑を禁じ得ない時代錯誤的兵術思想は、川口少将独りのものではない。川口支隊総攻撃のとき「夜暗と密林」を利用するどころか、徹底的にそれ故に悩まされた経験があるにもかかわらず、その克服手段を語らずに、依然として「夜暗と密林の利用」を強調している点は、第二師団の総攻撃の運命を暗示しているかのようである。
この川口右翼隊長が、配付されてきた航空写真を見て、自軍の攻撃正面に重大な危惧の念を抱き、それが、後述する経過を辿って、右翼隊長罷免にまで至る原因の一つとなるのである。
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記述の時間的順序は多少前後するが、宮崎十七軍参謀長から送られた航空写真と、それを見た右翼隊長川口少将のことにふれたついでに、川口少将の右翼隊長罷免に至る経緯を記しておこう。
事は、第二師団長指揮下の全軍が、密林内の細い丸山道を|気息奄々《きそくえんえん》として敵へ向って接近中の出来事である。
川口の手記によれば、「一日歩いた時に、伝令が軍から四枚の航空写真を持って来た」とある。川口右翼隊の機動開始は十七日早朝、海軍機による写真のコカンボナへの投下も十七日(時間不詳)だから、川口右翼隊長が伝令から写真を受け取ったのも、おそらく同日中のことにちがいない。(別の川口手記によれば、「翌十七日朝軍から四枚の航空写真を配付せられた」とあり、この手記では、川口右翼隊は十月十六日機動を開始したことになっているが、師団の機動開始は十六日正午、川口右翼隊は那須左翼隊に後続して、十七日早朝集結地を出発したはずである。)
川口少将は写真を見て驚いたらしい。川口支隊総攻撃の九月十二、三日ごろには、飛行場南方には陣地らしいものはなかったが、写真には明らかに工事の跡が現われている。その正面へ攻撃をかけようとしているのである。
「之では金城鉄壁に向って卵をぶっつけるようなもので、失敗は戦わなくても一目瞭然だ。私は悩んだ。私はこの陣地を避け、遠く敵の左側背に迂回攻撃をしなければならんと思った」
と川口手記は語っている。
十八日、川口少将は前方を前進中の那須左翼隊長と歩兵第二十九連隊長古宮大佐に追及して、川口少将の懸念と判断を話した。川口手記によれば、両名とも川口少将の左側背攻撃に賛成した、という。ただ、那須、古宮の両部隊長は、川口少将のような前回のにがい経験がないので、川口案には賛成したものの、割りにのんきで、楽観的であったらしい。
川口右翼隊長は「困ったことは之を師団長に報告する|術《すべ》がない」と手記に書いている。困難なジャングル内行軍のことだから、時間の経過とともに行軍長径は長く伸びて、師団司令部は右翼隊のずっと後方になっていたかもしれないが、那須部隊長にまで追及して話をせずにはいられないほど写真判読の結果を重要事と考えていたのであるから、たとい時間はかかっても、川口少将自身が師団司令部まで行けば、どういうことになったであろうか。
どうせ丸山道の行軍は難儀をきわめ、参謀たちの安易な計算を遥かに超えて、十月二十日突入などとはとても実行不可能であることはわかっていたのである。
十月二十二日午後、右翼隊長川口少将は、第二師団工兵隊が啓開した丸山道の端末に到達した。その地点から、左右両翼隊が各隊それぞれに進路を啓開しつつ予定の攻撃準備位置につくことになっている分岐点である。
川口手記によれば、その地点に、丸山道啓開指導にあたってきた大本営派遣参謀辻中佐が立っていた。川口少将は敵左側背への迂回意見を伝える機会がなくて焦慮していたときであったので、辻参謀との|邂逅《かいこう》を「天与の好機」として喜んで、意見を|縷述《るじゆつ》し、第二師団長への伝達を依頼した。必要とあれば左右両翼隊長その他を招集し、攻撃計画を再検討して、師団命令の一部を変更するよう力説した。二人が立話をしている間にスコールが降ったが、川口少将が地図を取り出して説明しようとすると、辻中佐は「地図は全部頭に入って居るから、地図を見る必要はない」と言い、敵左側迂回攻撃に大賛成で、「必ず第二師団長に連絡して、この案の実行を(師団命令の変更)する様取計います。是非やって下さい。之で我が軍の大勝利疑いなしです。面白くなって来ました」と堅く約束してくれたように、川口少将には見えたらしい。
冒頭にも述べたように、機動開始からこの二十二、三日までの行軍状況と突入予定を延期せざるを得ない事情は後述するとして、いまは川口右翼隊長罷免事件に集中する。
川口少将は、辻参謀に話したことによって第二師団長の認可を得られると信じた。これがまた、軍という巨大な官僚組織のでたらめな性格を、軍人自身が鵜呑みにしているところでもある。たかが中佐参謀でも、大本営の枢要な位置にあり、出色の誉れ高い辻参謀が同意してくれれば、師団長も同意してくれるにきまっている、と川口少将は信じていたらしい。辻参謀が真実同意であったか否かを見抜く眼力は、川口少将にはなかったようである。
十月二十三日夕刻、川口少将は右翼隊を敵左側背へ迂回させるための指揮をとろうとしていた。(後述するが、右翼隊は、この日、東海林部隊の進出が著しく遅れ、その前方を前進中の一色部隊(元の川口支隊第三大隊で、大隊長が交替していた)との間の連絡も切れ、現在東海林部隊が何処まで来ているかもわからず、その夜の夜襲はおぼつかなかったのである。)
そこへ、師団通信隊が水流に沿って電話線を架設しに来たが、電話線が不足で、右翼隊長の後方三〇〇米までしか引くことが出来ず、川口少将に電話のあるところまで来てほしいということであった。電話線さえ十分な準備がなく、密林内の往来も意のままにならぬ戦場で、後方司令部は前線部隊をどうやって指揮するつもりであったのか。
川口右翼隊長は電話位置へ行った。|対手《あいて》は第二師団参謀長玉置大佐であった。
以下は川口手記による両者の会話である。
「昨日辻参謀に申されたそうですが、右翼隊が敵の左側背に迂回攻撃することは止めて貰いたい。矢張り、最初の師団命令の通り、右翼隊は攻撃の重点を左に保持しつつ正面攻撃をやって頂きたい」
という意味であった。
川口少将は自説を力説した。
「航空写真を見ると、師団正面の敵は何か重大な工事でもやり、堅固に陣地をとって居るらしい。こんな敵に対し正面攻撃しても勝つ見込はない。部隊長として責任を負い難い。何卒もう一度師団長に私の案を申上げて御許しを願いたい。私は昨日辻参謀に申し、認可になったものと思って、万事そのつもりで処置して居るのだ……」
電話は一応切れた。川口右翼隊長は電話のそばに待機した。
約三十分後、再び電話がかかり、玉置参謀長が出ていた。
「師団命令をお伝えします。閣下は右翼隊長を免ぜられました。後任は東海林大佐です。閣下は師団司令部の位置に来て下さい」
川口少将にとっては青天の|霹靂《へきれき》であったであろう。
考えてみれば、前線部隊長としての川口少将と後方の高等司令部との間には、幾度か問題があった。最初は、まず、ガダルカナル出動の際に、舟艇機動案に固執したことである。次は、川口支隊総攻撃失敗後、砲兵陣地占拠のためにマタニカウ川右岸の陣地占領を命ぜられた際、攻撃期日の不確定やそれまでに|蒙《こうむ》るであろう損害を理由に、反対意見の具申をして、明らかに軍司令官の不興を買っている。しかし、それらは、十七軍司令部と川口少将との間の問題であって、直接に第二師団司令部との間の問題ではなかった。
最後の敵左側背への迂回問題に関しては、大本営から十七軍に派遣されていた辻参謀が、十七軍司令部から第二師団の指導に派遣されていて、この辻が川口少将と直接接触したのである。辻は、おそらく、川口少将の舟艇機動問題以来の経緯を、聞き知っていたであろう。また、作戦は参謀が立て、軍司令官なり師団長なりが決裁するものであって、それを、実戦部隊長如きが、尋ねられもせぬのにとやかく論評し、命令変更を求めるなどとはもってのほか、という傲りが参謀にないはずがない。
辻が第二師団司令部で、玉置参謀長に、川口意見をどのように伝え、どのように論評したかは資料の上では明らかでない。
辻は、『ガダルカナル』を書いていながら、川口少将罷免に関しては、ジャングル内の丸山道の分岐点で川口少将と会い、会話を交したことにひとことも触れていないのである。
両者が話をした事実は、玉置参謀長の第一回目の電話で証明されているから、この点で川口少将に嘘はない。
辻手記にはこう書かれている。
「午后三時頃になって突然、K少将(川口少将──引用者)から電話がかかった。曰く、第一線の攻撃準備不十分で今夜は到底夜襲出来ません、明日に延ばして下さい
と、二十一日の予定を延期したのもK少将の意見であった。既に全師団に下し終った今夜の夜襲を、その直前にまたもや出来ないと、半ば脅迫的な電話である。」
攻撃延期の経緯は後述するが、川口右翼隊のために延期になったのではない。ジャングル内の迂回前進に全部隊の時間消費が多大であったからである。
辻手記をつづける前に、川口少将から電話がかかったという十月二十二日午後には、辻参謀は丸山道の末端部で、そこから左右両翼隊の進路が分岐する地点に在って、指導に当っていたはずである。
「温良な師団参謀長玉置大佐の声が、さすがに怒りを帯び、電話器を握る右手がブルブル慄えている。側で聞いていた丸山師団長は、白髪を逆立てるかのように、自ら参謀長に代った。
K少将は、今直に師団司令部に出頭せよ。自今右翼隊の指揮は東海林大佐に譲れ
遂に温容慈顔の丸山師団長も堪忍袋の緒を切ったのである。」
師団長直き直きの電話というのも、史実に反している。辻手記が、読者に対して、史実に近づこうとする努力を怠っている証拠を、もう暫くつづけなければならない。
「田村大隊が第一回総攻撃のとき(川口支隊総攻撃のときー─引用者)、深く敵陣地に斬込み、正に飛行場を占領しようとしたとき、支隊主力を以て、之を支援しないでジャングル内に時機を失い……」
川口支隊の総攻撃が全く不首尾に終ったことは既に詳述した。準備時間不足で攻撃が攻撃にならなかったことも既に指摘した。(第二師団だとて、同じ誤りをこれから繰り返すのである。)同時に、支隊主力が田村大隊の戦果を拡張し得るような展開状況になかったことも既に述べた。辻参謀は、川口少将の悪口を言うより、川口支隊攻撃失敗を他山の石として、自らが作戦指導に参与した第二師団の総攻撃を成功に導く努力をするべきだったのである。
「部下をガ島に置去りにして、単身、ラボールに戦況報告に帰還した等々……」
これも忠実を故意に歪めている。川口少将が榊原中尉を伴ってラバウル第十七軍司令部に帰還したのは、既述の通り、司令部からの命令によってであった。
川口少将が、軍隊流の表現を用いれば、何かと「文句が多」かったのは事実である。殊に、ボルネオでの経験を楯にとって、ガ島への舟艇機動を固執したのは、度を過ぎていたと考えられる。したがって、辻手記が、つづいて、「師団長も軍司令官も誰一人この少将に対し信頼感を持つものはなかった」というのは、事実の一つの側面を表わしているとはいえるかもしれない。
だが、辻手記は、次のくだりで悪意を丸出しにしている。
「腐木は遂に腐木である。指揮権を剥奪された少将は、その後師団司令部でも誰一人相手にするものもなく、ジャングル内で孤独を楽しんでいた。」
他人を腐木とまで罵倒するには、十分に説得的な根拠がなければならない。事実経過を十分に述べず、あるいは曲げ、罵倒し放題にすることが許されるのならば、辻参謀を含め在ガ島参謀たちは、幾度も相似た判断誤謬を犯し、勝てない戦に固執した理由だけをもって、すべて「腐木は遂に腐木」であったということも許されなければならないであろう。
権勢欲と功名心の旺盛な一人のエリート参謀の|恣意《しい》によって、師団参謀長が動かされ、師団長も動かされ、既に接敵行動中にある前線部隊長が|馘《くび》になるようでは、その軍勢の前途に光明があったとは到底考えられない。
川口罷免問題は、史料の示す限りでは、辻参謀─玉置師団参謀長─丸山師団長の三者限りで扱われたようで、十七軍司令部は事前に関知していなかったようである。
第二師団の夜襲失敗(後述)後、従兵一人だけを連れてガダルカナルを去ってゆく川口少将に住吉少将(砲兵団長)が出会っている。そのときの記憶に基づく住吉少将の話は次の通りである。
「(前段略)私の記憶では十一月四日、川口少将が従兵一人連れて私の幕舎に立ち寄ったのです。その時、私はまだ川口少将が免職させられたことを知らない。なんだ貴さま≠ニ言うと(住吉と川口は陸大同期)、川口少将は内地へ帰れと言われたんだが、シンガポールの寺内大将(南方総軍司令官)のところへ行こうと思う≠ニ言うんですね。変なことを言うと思って、いろいろと尋ねると辻にやられたんだよ≠ニ事情を語ってくれました。」(御田重宝『ガダルカナル戦』)
川口少将がとかく意見具申癖のある文句の多い将軍だという悪評があったにしても、問題の航空写真による敵陣には、明らかに以前とは異る地形影像が映っていたのだから、第二師団司令部では慎重に検討すべきであった。問題を提起したのは、師団長に次ぐ位階の少将だったのである。中佐参謀如きが、問題の本質を少将の性癖とか中佐個人が内包していたにちがいない悪感情とすり替えるべきではなかった。検討しても、失敗の結果は同じであったかもしれない。だが、検討したのと、しなかったのとでは、戦の仕方は根本的に異ったかもしれない。残念なことに、参謀たちは官僚主義者であった。有能と思われた者ほどそうであった。作戦は参謀が策案する。参謀長がそれを取り纒める。司令官がそれを決裁する。したがって、その作戦案に誤りがあろうはずがない。実戦部隊は将棋の駒である。作戦通りに動けばよい。部隊長と|雖《いえど》もつべこべ言わずに命令通りに動けばよい。動かなければ、馘である。
こうして、川口少将は、前進途中で、右翼隊長を罷免されたのである。
39
川口少将罷免問題で日時が少し先走ったから、引き戻すことにする。
十月十八日夕刻、第二師団司令部と同行している大本営派遣参謀中佐から、第十七軍戦闘司令所に電話報告が入った。内容は次の通りであった。
「十八日午後四時ルンガ河右岸の第二師団集合地に到着しある部隊は師団司令部、那須部隊(左翼隊──引用者)本部、川口部隊(右翼隊──引用者)本部、歩兵第二十九連隊(左翼隊──引用者)である。
集合に四日、攻撃準備に二日を要するゆえ、二十二日に攻撃開始を至当と認める。敵は未だ師団の迂回行動を察知しあらざるものの如し」というのである。(戦史室前掲書)
二十二日が攻撃開始に「至当」であるかないかは、ジャングル内を一列側面縦隊で行動する大部隊の速度をもって、攻撃準備位置に達するまでの所要時間を、辻参謀が機械的・楽観的に測定しはしなかったかどうかにかかっていた。
十八日夜、十七軍戦闘司令部は東京の大本営とラバウルの留守司令部に長文の報告を電報した。長いが、問題を多分に含んでいると思われるので引用する。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一 敵ハ我友軍機出動ノ間隙ヲ利用シ依然揚陸点 高射砲陣地 我第一線ヲ爆撃シアルモ 我企図ヲ察知シアラサル如ク |我飛行場射撃ハ効力アルモ弾数僅少ノ為敵活動ヲ封殺シ得ス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》
[#ここで字下げ終わり]
第二師団による総攻撃は、十分に準備した本格的正攻法によるもので、殊に火砲は二〇〇門をもって射ちまくるのが、当初の計画であった。実際には、十八、九日の段階では、十七軍戦闘司令所は住吉支隊(砲兵団)に対して、弾薬使用標準を示して、弾薬使用を制限した。火砲二〇〇門は幻想に過ぎない。
(地図省略)
十九日の住吉支隊の砲種、砲数、弾薬は次の通りだが、各砲種の弾薬は十九日から二十三日までの五日分である。
野砲 七門 一三七〇発
山砲 三門 一五〇発
十榴 四門 ?
四年式十五榴 四門 四二〇発
九六式十五榴 一一門 七〇九発
十加 三門 七四二発
(野砲弾は他に揚陸点に六二四発あった。(戦史前掲書))
これでは、火力で敵を制圧することなど思いも寄らない。日本軍の砲兵が敵陣に向って一発でも試射しようものなら、敵は忽ち百発の返報をしたという。砲兵力の差は比較を絶していたのである。
軍戦闘司令所からの電報に戻る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
二 軍攻撃準備ハ概ネ予定ノ如ク進捗シ 第二師団ハ地形ノ嶮難ヲ克服シ十八日夕迄ニ「ルンガ」上流河谷ニ 師団ノ両歩兵団長(一ハ那須、一ハ川口少将)歩兵第二十九連隊ヲ集結セリ
三 助攻正面タル住吉支隊(砲兵団──引用者)ハ十九日ヨリ歩戦砲ノ行動ヲ統一シ且之ヲ組織的ニ律シ ナルヘク当面ノ敵ヲ該方面ニ牽制スル如ク部署ス
四 軍後方ニ関シテハ各方面共必死ノ努力ヲ傾注セルモ十四日夜揚陸セル糧秣弾薬ヲ敵機ノ銃爆撃ト艦砲射撃トニヨリ約三分ノ一ヲ炎焼スルノ已ムナキニ至レルト「エスペランス」附近ノ上陸及揚陸部隊ノ前進及糧秣ノ前送ニハ多大ノ困難ヲ伴ヒ 歩兵第十六連隊ノ如キ全兵力ヲ集結シ得ス 第二大隊ハ本十八日当地出発追及セリ 十七日「エスペランス」ニ上陸セル部隊ハ歩一六ノ二中、独立一中及道路隊ナリ
我「ガ」島攻略ニ関スル海軍ノ協力ハ真ニ涙クマシキモノアリ
軍ハ以上ノ状況ニ鑑ミ|敵ノ弱点ニ乗スルト共ニ国軍ノ特性ヲ最高度ニ発揮シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》敵軍ヲ一挙ニ|殲滅《せんめつ》スル事ニ関シ軍司令官以下畢生ノ努力ヲ傾注シアリ |戦捷既ニ我ニ在リ御安心ヲ乞フ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》(電文宮崎周一『残骸録』──傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
電文第四項の前半部のような状況にあって、末尾の「戦捷既ニ我ニ在リ御安心ヲ乞フ」と何故言えるのか。その理由を、電文起案者は「敵ノ弱点に乗スルト共ニ」「国軍ノ特性ヲ最高度ニ発揮」することに求めている。敵の弱点というのは、ジャングル内への日本軍の迂回を米軍はまだ気がついていない、と日本軍側が信じていることと、日本軍の白兵突入を米軍が怖れている、ということである。国軍の特性を最高度に発揮するというのも、それである。暗夜、密林のなかから忍び寄って、一挙に殺到、白兵戦を挑めば、「戦捷既ニ我ニ在リ」というのである。
右の電文は、現実的物的条件の厳密な点検とその確信の上に精神力を燃焼させているのではなくて、軍人好みの外見上威勢のいい作文であるに過ぎない。軍人は、特に幕僚は、何処ででも、何故か、作文が得意である。作文上なら、如何様にも勇敢であり得る。現実を無視した作文が、怖るべきことに、人間を支配して、困難と無理を強制するのである。実戦部隊は、その作文によって、死へ追いつめられること|屡々《しばしば》であった。
ラバウルに在った宮崎十七軍参謀長も、右の電文に関して独自の感想を誌している。
「攻撃準備ノ進捗ニ関シ戦闘司令所ヨリ電来ル 修辞上ニ主観的傾向アリ(註、当時ノ此主観的観察及其報告ハ事実ニ於テ之ニ反スルモノアリ)注意スベキナリ」として、次のように批判している。
「右電ハ冗長且説明的且幾分ノ誇張性ヲ感セスンハアラス 事前ニ如此愁訴的ト云ハンカ或ハ自己ノ意気ヲ他ニ強調表顕セント欲スルカ 何レニセヨ余リ香シキ報告ト云フ能ハス 文辞ハ人ヲ表ハス 統帥ハ人ナリ」
まさしく、統帥は人次第である。
十月十九日、杉田参謀が九九〇高地に登って観察したところによると、敵は自動車で住吉支隊正面に兵力を増加し、盛んに陣地を構築中で、アウステン山方面に陣地を延長しつつあった。(戦史室前掲書)
住吉支隊は、既述部分と重複する箇所があるが、砲兵と歩兵(岡部隊と中熊部隊)を統合し、第二師団主力の迂回攻撃に伴う助攻正面として、コカンボナ東方から発進、アウステン山方面へ攻撃して、敵を牽制するのが作戦主目的であった。砲兵隊は勇川(コカンボナ東方)付近に砲兵陣地を占領する。岡部隊はアウステン山を占領し、マタニカウ川右岸敵陣地を攻撃する。中熊部隊は海岸方面に重点を保持しつつ、マタニカウ川の線へ進出する。
岡部隊も中熊部隊も、既述の通り、九月以来の交戦で戦力が著しく低下しており、主力の迂回攻撃に関して敵を牽制するのが目的であったが、米軍はこの方面の日本軍の動向に対しても敏感に反応して、防禦陣地を増強していたのである。
百武第十七軍司令官は、十八日夕刻の辻参謀からの電話報告や、第二師団主力の進出状況などから、十月二十日朝、攻撃開始日を十月二十二日と決定し、指揮下部隊に命令を下達すると同時に、大本営、ラバウルの留守司令部、連合艦隊に対して、決定を報告通報した。
連合艦隊では、十七軍からの決定の通報を受ける前日、つまり十九日夕刻に、攻撃開始日を二十二日と予定して関係部隊に下令している。基地航空部隊に対する哨戒圈の指示を別とすれば、海空兵力に対して、ガ島飛行場の陸軍による奪回を前提として、敵兵力の脱出阻止と、飛行場への航空隊の速かな進出と近海索敵開始を指示しているのが特徴で、第二師団総攻撃時の陸海協同作戦は指示されていない。
もっとも、それより先、十七日に、第十七軍戦闘司令所は海軍南東方面部隊に対して、次のような艦砲射撃の要望をした。@飛行場北側椰子林内の敵砲兵及その北方海岸。A西川(ルンガ泊地付近)左岸砲兵。B飛行場施設。Cルンガ河口の砲兵。
翌十八日、ガダルカナルに派遣されている十一航艦島田参謀から、陸軍の艦砲射撃についての要望を伝えてきた。それによれば、艦砲射撃は、二十日は飛行場方面、二十一日はルンガ陣地、二十二日(攻撃開始日)夜間は射撃を行なわないように、というのであった。二十二日夕刻某時までに攻撃発起地点に全軍勢揃い出来るという確算が立たないから、その直前まで艦砲射撃をもって乱打するという最も強力有効な攻撃手段を採用出来なかったのである。
前後するが、前日十七日に、ラバウルに在る十七軍参謀長は、海軍南東方面部隊指揮官草鹿中将との間に、ガダルカナル飛行場占領時の空地規約信号を協定していた。着陸支障なしとか、占領せるも未だ着陸不能とか、飛行場内で戦闘中とか、味方第一線の表示とか、飛行機からの対地射撃要求とかの規約信号である。宮崎参謀長はこれを戦闘司令所に報告したが、現地軍ではこれの利用をほとんど考慮しなかった。はじめは、そんなものは必要ないと考えたのであろう。のちには、事態の展開はそれどころではなくなったのである。
丸山第二師団長は、十月二十日午前十時、攻撃のための命令を下達した。軍隊区分を列記するのは煩雑だから、簡略に区分を記すと、右翼隊(長・歩兵第三十五旅団長川口少将)歩兵三個大隊と各種重火器部隊、左翼隊(長・第二歩兵団長那須少将)歩兵第二十九連隊の三個大隊と各種重火器部隊、予備隊(長・歩兵第十六連隊長広安大佐)、工兵隊(長・工兵第二連隊長高橋大佐)、|輜重《しちよう》隊(長・輜重兵第二連隊長新村大佐)、師団直轄部隊(通信隊、衛生隊、野戦病院、防疫給水部等)である。
命令の骨子は、
攻撃の重点はルンガ川右岸に沿い飛行場西北地区に指向し、突入の時機は十月二十二日午後四時と予定する。
右翼隊は重点を左に保持し、飛行場南側の敵陣地を急襲突破し、飛行場北側林縁の敵陣地及砲兵陣地を奪取し、海岸の線に進出する。
左翼隊は飛行場南端付近の敵陣地を急襲突破し、飛行場北方自動車道に進出後、一部を引続きルンガ河口に突進、河口を迂回して西川南方に進出、主力の攻撃を容易ならしめる。主力は機を失せずルンガ川を渡河し、払暁までにルンガ左岸地区の掃討を完成する。
予備隊は左翼隊の後方を続行する。(以下省略)というものである。
第二師団の戦力は、歩兵九個大隊(兵員約五六〇〇)で、当初正攻法案が考えられていたころより実戦兵力は大幅に減少していただけでなく、左右両翼隊には軍隊区分によって多数の迫撃砲、速射砲、山砲が配属されていたが、密林内迂回の難行軍のために、これらの火器部隊の前進は主力から甚だしく遅れていたのである。
したがって、先に記したように辻参謀が二十二日攻撃開始を至当と認めると、軍戦闘司令所へ電話報告したことも、戦闘司令所が二十二日を至当と判断したことも、実情認識と前途についての推測が甘きに過ぎたと言わなければならない。
第二師団主力が集結地の清水谷を出発したのは、十月二十一日早朝であった。順序は左翼隊、右翼隊、予備隊の順である。
|嶮《けわ》しい地形が前途に錯綜していて、前進は渋滞を余儀なくされた。
清水谷での集結そのものが、師団各部隊が整然と纒って集結したのではなくて、行軍序列のまま狭い丸山道に縦隊が長く伸びて露営したのである。左右両翼隊と予備隊配属の重火器部隊は営々として追及中であった。
第二師団参謀玉置大佐は、二十日から、工兵隊の道路啓開の作業頭に出ていたが、地形の錯雑と作業の困難の上に地点の標定を誤って、師団展開線の決定が出来ず、二十一日になっても予定展開線にいつ到達するか予測出来なかった。
この状況から、師団参謀長は、攻撃開始の一日延期を師団長に意見具申した。延期の意見具申は当然だが、延期が一日で足りるとした根拠があったようには思われない。海軍との関係もあって、なるべく延期したくないのはわかるが、密林は意のままにならず、必要なのは十分に準備を整えて決戦し、勝利することなのである。先を急いで準備が中途半端になることは、厳に戒められなければならなかった。
師団長は十七軍司令官に一日延期の意見具申をし、軍司令官は認可を与えた。
軍戦闘司令所は延期理由を関係箇所に電報した。
大本営と十七軍留守司令部に対する電文は次の通りである。
第一線兵団ノ意見ニ依レハ地形嶮難、密林啓開ノ為尚数日ヲ要スト 以上ハ師団参謀長、辻中佐、平間参謀等ノ第一線実視踏査ニ基ク報告ニシテ師団爾後ノ攻撃準備ニハ懸念ナシ
連合艦隊と南東方面部隊(海軍)に対しては、攻撃開始の延期の已むを得ない事情と、延期のために時間的制約のある海軍の協力を得られなくなるとしても仕方がない、と打電した。
これに対して、連合艦隊参謀長の日誌は次のように書かれている。
「之以上の延期は海上主作戦上忍び得ずと返電し一本釘を打込めり。同時に全作戦部隊に二十三日に改変の旨急電す。
あれ位強き昨日の電に対し今日は既に改変を要す。何ぞ信頼性の少き。(以下略)」(宇垣前掲書)
第一線では、二十二日朝、ようやく、第二師団工兵隊が予定展開線に達した。左翼隊の先頭が後続していた。(前掲滝沢氏の書簡によれば、左翼隊の先頭である歩兵第二十九連隊はこの二十二日、展開線の位置には達していないそうである。滝沢氏は右の根拠として次の命令文を挙げている。
勇若作命甲第二十二号 十月二十二日午後八時二十五分下達。その前段の文に、明二十三日現在地を出発、連隊は予定の展開戦に向い前進す、とあるという。)
師団参謀長は両翼隊の攻撃準備位置を決定したが、その位置に就くべき部隊は、ジャングルのなかの細い一本道を、数十粁の長い縦隊に伸びきっているのである。命令や号令で簡単に縮まるものではない。
地形が嶮しいだけではなく、連日の雨で、|啓《ひら》いた道路はぬかるみとなり、各隊の行進は遅れこそすれ、縦隊が縮まることはなかった。左翼隊につづく右翼隊では、歩兵第二百三十連隊が遅れ、さらに、両翼隊の重火器、砲兵部隊はずっと後方に遅れていた。悪路を分解搬送する際の疲労の累積を予見し、計算に入れるだけの配慮をする参謀はいなかった。牛馬なら、精根尽き果てて斃れてしまえばそれまでだが、兵隊は簡単に斃れるわけにはゆかなかった。自分以外の誰かが決定した行動要領を、それが如何に非科学的、非合理的であるとしても、忠節の名において遂行しなければならないのである。
第二師団戦闘司令所は、十月二十二日夕刻、予定展開線の後方に進出した。その位置は、不確実だが、飛行場南方約六キロぐらいの地点であろうとおぼろに判断された。
二十二日夕刻の時点での状況判断からすると、よしんば翌二十三日夕刻までに左右両翼隊が展開線に到達し得るとしても、その夜の攻撃発起には歩兵部隊の準備も間に合わないであろうし、予備隊も、重火器も、砲兵部隊もその時刻までに展開線に進出することはきわめて困難であろうと推測せざるを得なかった。
右の状況判断を基にして、第二師団戦闘司令所では、二つの意見が対立論議された。一つは、攻撃準備の周到と戦力の集結のために攻撃開始をさらに一日延期すべきであるという意見である。他の一つは、さらに一日の延期は海軍との行動の連繋に支障を来すばかりでなく、敵陣付近に長時間滞留して企画を暴露する虞れがあるから、延期すべきではないという意見である。
大敵に対して、拙速を重んじての攻撃を仕掛けて失敗したのは、二度までも経験済みのはずであった。十分に準備して、一挙に決戦を強いるのが今回の大方針であるはずであった。準備は、しかし、自然の障害を軽視したために、またも敵陣前において整い難い不備を暴露していた。
第二師団長丸山中将は、右の両案を比較検討して、予定通り二十三日夜襲決行案を採択した。準備不足のまま、どれだけの自信と根拠があってのことか、わからない。事実経過は、しかし、後述するように、さらに一日延期することになるのである。
各部隊は夜となってもジャングルのなかを喘ぎながら前進をつづけた。
40
十月二十二日、第十七軍戦闘司令所では、第二師団の攻撃が予定通り二十三日に決行されるという報告を受けて、コリ支隊に対して、二十三日正午ごろ海軍艦艇に乗ってショートランドを出発し、ガ島よりの無電の飛行場占領信号「バンザイ」を合図として直ちにコリ岬付近に上陸、所命の任務を遂行するように命じた。
コリ支隊というのはいままで触れていないから、ここで簡単に説明しておく必要がある。十七軍では、十月二日に、海軍からの通報で、コリ岬(ルンガ岬から東へ直線距離で約一四キロ)付近に新しい飛行場が造られていることを知り、ルンガ飛行場(ヘンダースン飛行場)攻略と同時にコリ飛行場をも攻略することとして、コリ支隊を派遣する準備をした。
コリ支隊は、歩兵第二百二十八連隊第一大隊、工兵第三十八連隊の一中隊、第三十八師団通信隊の一小隊が、右記第一大隊長の指揮をもってコリ支隊となり、ショートランドで待機することになっていたのである。
二十三日、第二師団各部隊は展開線とおぼしい地点で準備を整え、そこからまた各部隊ごとに密林を啓開しながら、必ずしも明瞭に標定出来ているわけではない攻撃準備位置へ向って分進した。
右翼隊は左翼隊の後尾を行進していた。右翼隊は左翼隊より遠く右方に展開しなければならないのだから、行軍序列の定め方が逆なのである。右翼隊長川口少将は部隊の最先頭を尖兵小隊長と同行し、歩兵一二四の第三大隊が続行した。(大隊長は九月攻撃の際に問題を起こした渡辺中佐から一色少佐に替っていた。)川口手記によると、一色大隊長からの報告では、第三大隊の後方を行軍中の歩兵第二百三十連隊は前進が遅れ、第三大隊との連絡も切れ、現在何処まで来ているか全然不明ということであった。
川口少将は第二師団長に対して、十二時四十五分発「至急」の報告を出した。封書であったから、伝令が持って走ったものであろう。師団長が受け取ったのは二十三日午後二時であった。内容は次の通りである。(このあと数時間で、既述の通り川口少将は右翼隊長を罷免されるのである。)
「右翼隊主力ヲ以テ二十三日夜ノ夜襲ハ困難ト認ム
理由
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一 東海林部隊ノ前進遅延シアリ(同隊ハ 一〇〇〇〈午前十時──引用者〉昨夜ノ右翼隊司令部ノ宿営地ヲ先頭ヲ以テ通過シ得ルノ距離ニアリ 重火器ハ本夜ニアラサレハ右地点ニ達セス)
二 一二三〇ニ至ルモ未タ我カ作業頭(密林啓開作業の意──引用者)ノ地点ヲ確認シ得ルニ至ラス 従ツテ部隊集結地タル中川右岸大草原南端ニ達スル時刻ヲ予定シ得ス(敵砲兵ハ北方概ネ六キロニ聞ユ)
三 昨日師団参謀長ト別レタル地点以後ノ地形ハ急傾斜ノ山地連続ナリ 一二三〇頃初メテ平地ニ出ツ
四 右翼隊ノ地形偵察者鹿中中尉ハ昨日来行方不明ナリ
[#ここで字下げ終わり]
処置
[#この行1字下げ]東海林部隊ヲ極力急カセアルモ主力ハ恐ラク間ニ合ハサルヘシ
[#この行1字下げ]大草原南端ニサヘ進出シ得ハ一色部隊ノミヲ率ヰ突撃スル予定」
左翼隊は、二十三日午後三時ごろ、ムカデ高地南東約一キロ(きわめて不確実)に集結して、攻撃準備中であり、二十三日夜の攻撃は可能であるという報告が第二師団に入ったという。何故そういう報告を入れたか、入れることが出来たか、明らかでない。左翼隊も右翼隊同様五里霧中の状態にあったはずなのである。斥候を幾組出してもほとんど帰還せず、たまたま戻った斥候の報告は、ただ一面のジャングルで、何もわからない、という正直なものであった。
(前掲滝沢氏の書簡は、次のように言っている。「左翼隊の先頭を進んでいた歩二十九では、敵情不明という報告はしたが、それ以外のことは報告していない」──原文のまま)
事実、敵情も地形も皆目判明せず、部隊の現在地の正確な標定など出来るはずがなかった。二十三日攻撃可能、と、誰が何を根拠として判断したのか、これも史実の密林のなかに行方を失っているようである。
左右両翼隊の実情とはまるで別個のように、二十三日午前十時、第十七軍戦闘司令所は第二師団戦闘司令所にいる辻参謀から、次の報告を受けた。(戦史室前掲書)
一 敵陣地は|右翼隊正面軽易なるも《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》左翼隊正面は堅固なり
二 師団は予備隊(歩兵第十六連隊)を右翼隊後方に進めるに決せられる。師団長も右翼隊後方に移動の予定。(傍点引用者)
辻参謀が何を根拠に傍点部分のように、右翼隊正面の敵陣地は軽易で、左陣隊正面は堅固である、と断定し得たのか、明らかでない。第一、辻参謀自身は工兵隊の作業頭である両翼隊の分岐点までしか行っていない。第二に各隊は斥候を何組も出したが、ほとんど帰還せず、たまたま帰還した斥候も、既述の通り、ただ一面のジャングルで、何もわかりません、と報告せざるを得ないほど、敵情も地勢も一切不明であった。第三に、したがって、判断材料は航空写真しかないことになる。航空写真では、川口右翼隊長は、九月の夜襲時とは異った陣地工事の形跡を発見し、「之では金城鉄壁に向って卵をぶっつけるようなもの」と判断して、先に述べた通り、辻参謀に分岐点で会った際、敵陣地左側背への迂回を必要と考えることを伝えたのである。辻参謀が、それを、何故、右翼隊正面の敵陣地は軽易であると判断し、軍戦闘司令所へ報告するほどに確信を持ち得たのか、理解し難い。
いずれにしても、斥候の綿密な偵察もなしに下された判断であり、謂わば勘に過ぎないし、参謀の立案した作戦計画に対して異議申立てをした川口右翼隊長に対する個人的な反感が混入してはいなかった、と、客観的に判定出来るか否かは疑わしい。
二十三日夕刻、同じく辻参謀(在第二師団戦闘司令所)から、十七軍戦闘司令所に重大な連絡が入った。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一 川口部隊長の報告によれば、地形嶮峻錯雑のため部隊の進出遅れ攻撃準備出来ず今夜の攻撃は不可能なり。
[#ここで字下げ終わり]
(これは、川口少将が二十三日午後第二師団長に届けた報告を元としたものだが、川口少将は不可能とは言っていない。先に引用した通り、東海林部隊の進出が遅れているから、右翼隊主力を以てする夜襲は困難と認む、予定位置たる草原南端に進出し得さえしたら、一色部隊──歩一二四第三大隊──のみを率いて突撃する予定、と申送ったのである。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
二 師団の第一線は飛行場前約三粁の線に進出中なるも落伍者多し。
歩兵第十六連隊(予備隊──引用者)は一部到着しおるのみ。
三 いまだ敵に発見せられあらず、敵は飛行場の側でテニスを行ないつつあり。
[#ここで字下げ終わり]
十七軍戦闘司令所では、前線の状況が右の報告の通りであるならば、攻撃開始をさらに一日延期して準備をする必要があると考えた。この再延期のために、積載燃料の制約を負っている艦隊主力が引き揚げてしまうとしても、やむを得ないこととしなければならなかった。
「至近の距離相当の偵察も為し得る筈なるに行あたりばったりにて、艦隊の迷惑之に過ぐるものなし。」
と、再延期通告を受けた連合艦隊側では、宇垣参謀長が書いている。海軍は迷惑にちがいないが、偵察隊が帰還出来ないほどのジャングルの恐ろしさは、海軍もまた知らないのである。日誌はこうつづいている。
「然し陸上戦も戦闘なれば敵の出様阻止にして意外に強靭なれば、進出も遅滞するは当然とも考ふるが、敵の抵抗にあらず概ね地形によりて左右せられあり。|茲《ここ》に余輩の遺憾とし|事前の準備の不足と為す所以の存する処あり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。(以下略)」(宇垣前掲書。傍点引用者)
事前の準備は、確かに、計画段階から安易に考えられ、不足していたのである。
第十七軍司令官は攻撃を二十四日に再延期する件を決裁し、直ちに第二師団長に伝達するとともに、待機中のコリ支隊に対しても出発の一日延期を発令した。
第二師団長は軍命令を受けて、攻撃開始を十月二十四日午後五時とし、両翼隊に対して、企図の秘匿と、敵と過早に接触しないように注意することを命令した。
時間的には、たぶん右の処置と前後するころと思われるが、川口右翼隊は所定の大草原南端から、敵の左側背への迂回行動を起こそうとしていた。そこへ師団参謀長からの電話がかかってきて、既述の経過となり、一気に右翼隊長罷免に至ってしまうのである。
41
第二師団の接敵前進は次のようにしてはじまった。
師団長は、二十四日午前五時出発、予備隊と行を共にして左翼隊の後方を約四キロ前進した。前日二十三日午前十時、辻参謀から十七軍戦闘司令所への報告では、既述の通り、予備隊は右翼隊後方に進めることに決し、師団長も右翼隊後方に移動する予定となっていたのが、二十四日の行動はそうなっていない。理由は明らかでない。
正午、師団長は攻撃開始に関する最後の命令を発した。
命令の第一、第二項は軍隊特有の修飾語が多いから省略する。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三 両翼隊ハ一七〇〇ヲ期シ突撃ヲ決行シ敵線深ク殺到スヘシ
四 予ハ一四〇〇迄現在地ニ在リ 爾後左翼隊後方ヲ飛行場ニ向ヒ前進ス
[#ここで字下げ終わり]
この第二師団命令が伝達されるのと前後して、軍戦闘司令所に辻参謀からの報告が入った。
「第二師団の第一線は敵に察知せられることなく飛行場南方約二粁附近に進出し、両翼隊は各々四条のジャングル道により前進中。
歩兵第十六連隊は『ムカデ』草原南側に集結しあり。
師団司令部は今より『ムカデ』南側地区出発、前方に進出す。電話線の余力なき故、爾後軍戦闘司令所との連絡はきれるも、|本夜は確実故《ヽヽヽヽヽヽ》次回に無電にて『バンザイ』を送る」(戦史室前掲書。傍点引用者)
誰も敵陣前まで忍び寄って敵情を確認したわけではない。それを、本夜は確実だから、次の通信は飛行場占領信号の「バンザイ」を送るというのである。十七軍戦闘司令所では、この楽観的な報告に対し、誰も懸念を抱かなかったらしい。十七軍は、十二時二十分、大本営とラバウルの司令部と連合艦隊に対して、次のように電報を打った。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一 第二師団ハ敵ニ発見セラルルコトナク一二〇〇頃飛行場南方約二キロ附近ニ達シ数条ノ「ジャングル」道ヲ続イテ敵ニ近迫中ナリ
二 第一線ヨリノ報告ニ依レハ予定時刻ニ突入シ得ル状態ニ在リ
[#ここで字下げ終わり]
大本営でも、ラバウルの留守司令部でも、トラックの連合艦隊でも、楽観的報告を希望的に受け取って、次に来るはずの飛行場占領の報告をひたすらに待った。
右の報告通りに戦局が展開するか否かは、敵との交戦状況如何にかかるよりも先に、まず、敵と接触するまでのジャングルとの戦い如何にかかっていたのである。
米軍は日本軍の動きを知らなかったわけではない。マタニカウ川東方に住吉部隊関係(岡部隊、中熊部隊──後述)の動きを発見していたばかりでなく(住吉部隊正面は牽制作戦の意図があるから発見されてもいいのだが)、米陸軍公刊戦史によれば、第七海兵隊巡邏隊の一落伍兵が、二十四日午後遅く陣地に帰って来て、双眼鏡でブラディ峰(ムカデ高地)を観察している一人の日本軍将校がいたと報告した。同時にまた、分派偵察狙撃隊の一海兵から、ブラディ峰の南斜面の南方約一哩四分の三、ルンガ川のU型屈曲部付近の密林に沢山の炊煙が昇るのを見たと報じて来た。しかし、もう日も暮れていたので防禦強化の工事を施すことが出来ず、長い戦線に薄く配備された第七海兵隊第一大隊で敵の攻撃を待ち受けた、となっている。(ジョン・ミラー前掲書)
助攻正面である住吉支隊(砲兵部隊、岡部隊、中熊部隊)の行動は、主力である第二師団がジャングルに潜入している間も、敵にはある程度の脅威を感じさせたらしく、右掲米公刊戦史によれば、米軍は陣地間の間隙を補填するための兵力の配置移動を行ない、そのために縦深が薄くなった部分が出来たようである。
第二師団の攻撃開始まで、助攻正面の住吉支隊の行動を概観しておく。
住吉支隊砲兵隊は、当初の二十二日総攻撃の計画に基づき、十月二十一日、午後二時半から四時まで、第一砲兵群をもって飛行場滑走路、第二砲兵群によって「サル」「トラ」高地、マタニカウ川右岸陣地、砲兵陣地を砲撃したが、既述の通り使用弾薬に制限があって、砲兵火力をもって敵を打ちのめすという本来の砲兵戦効果からは程遠かった。
総攻撃が二十三日に延期されても、住吉支隊は攻撃を続行し、岡部隊は支隊長から、二十二日夕、アウステン山とマタニカウ川右岸の敵陣地の攻撃を、二十三日以後は「ネコ」「シシ」の高地陣地の攻撃を命ぜられた。
岡部隊は、二十二日夜、その一中隊がマタニカウ川一本橋南東約一キロのアウステン山北西端に辿り着いたが、主力はジャングルに前進を阻まれ、二十二日は一日かかって一キロしか前進出来なかったという。
攻撃延期となった二十二日夜、十七軍司令官は、住吉支隊を単に海岸方面の助攻正面としてでなく、住吉支隊に独自の決戦任務を与える必要を認めた。理由は明らかでないが、主力攻撃のための牽制任務では不十分と判断したのであろうと思われる。
住吉支隊は次のような軍命令を受けた。
住吉支隊ハ二十三日ナルヘク早ク「マタニカウ」河右岸ノ陣地ヲ攻略シ爾後ノ攻撃ヲ準備スヘシ(爾後の攻撃というのは、飛行場周辺主陣地をさしている。──引用者)
住吉支隊ニ独立戦車第一中隊及独立速射砲第二大隊(一中隊欠)ヲ増加配属ス
住吉支隊長はこの命令を受けて、二十二日午後十時、アウステン山西麓で、岡部隊と中熊部隊(歩一二四と歩四)に、それぞれ次の命令を下した。
岡部隊に対しては、
岡部隊ハ万難ヲ排シ速ニ一本橋附近草原ニ進出シ「マ」河右岸ノ敵陣地ニ対シ攻撃ヲ準備スヘシ(攻撃開始は砲兵協力のもとに二十三日午後一時)
中熊部隊に対しては、
中熊部隊ハ岡部隊ノ「マ」河右岸陣地突入後機ヲ失セス「マ」河ヲ渡河シ「マ」河右岸敵陣地ヲ攻略スヘシ
岡部隊は、二十三日午前十時、アウステン山北端で攻撃準備を整え、午後一時三十分攻撃前進を開始したが、地形は依然として錯雑していて、敵の間隙への潜入進出を図った部隊の企図は|捗《はかど》らなかった。ために、二十三日の攻撃は二十四日払暁になって、第一線の歩兵第四連隊第三大隊と岡連隊第二大隊の先頭がようやく「イヌ」高地東方の草原地帯に進出し、先頭中隊は敵陣地攻撃をはじめたはずだが、密林が深くて相互に連絡がとれず、状況不明という状態であった。
中熊部隊(歩四)は、配属された独立戦車第一中隊を第二大隊に配属し、二十三日午前十一時二十分、直ちに行動開始を命じた。第一大隊(第三大隊は右記の通り同部隊に配属)は、第二大隊がマタニカウ川右岸に進出すれば、第一大隊の主力でクルツ岬南西地区に進出する予定であった。
中熊連隊第二大隊は何故か遅れた。十一時二十分に命令を受けていて、機動開始は午後三時であった。四時三十分、各中隊に攻撃前進命令が出されている。
第一線が渡河点付近に達するまで、米軍の第一線は沈黙を守っていたが、突如、砲兵とともに熾烈きわまる射撃を開始し、後方から兵力を増強した。中熊部隊は損害続出し、前進を阻止された。
中熊部隊第二大隊に配属された独立戦車第一中隊は、午後二時ごろ、マタニカウ河口方向に前進したが、結果からみて、この前進は過早であったようである。歩兵の進出は先に記したように遅れたので、戦車隊は歩戦協同のために、敵陣前約二〇〇メートルで停止して、歩兵の進出を待った。歩兵が追及して来たのは五時ごろであった。戦車隊は、各車各個にマタニカウ川の渡河攻撃を開始した。味方砲兵の援護射撃はなかった。米軍は三十七ミリ砲を並べて対戦車戦の用意をしていた。これが一斉に火蓋を切ったばかりでなく、ルンガ岬方向の砲兵陣地から、十五榴、迫撃砲の濃密な集中射撃を加えてきた。
戦車隊は進退の自由がきかなかったのか、その時間的余裕さえなかったのか、一〇輛全部が破壊された。
歩兵の方も、敵第十一海兵隊がマタニカウ川とクルツ岬間の六〇〇乃至八〇〇ヤード幅の地域に絶え間なしに浴びせた弾幕に遮られて、一人も渡河し得なかったという。(ジョン・ミラー前掲書)
住吉支隊長はアウステン山西麓にあって、第一線両連隊と砲兵隊に対する連絡は無線によっていたが、地形は谷あり崖あり、密林ありで、統一的指揮をとることが出来ず、各大隊、各中隊は分離して相互連絡がとれないままに戦況が推移した。
支隊長も第一線連隊長も二十四日の朝まで部下部隊を掌握出来なかったという。
単に助攻正面としてでなく、決戦任務を与えられた住吉支隊の攻撃は、こうして不首尾のうちに時間が経過した。
42
十月二十四日、第二師団総攻撃の日である。あいにく、午後二時ごろから土砂降りの豪雨となった。
命令による左右両翼隊の突入時刻は午後五時である。両翼隊は豪雨のなかを死力を尽して前進を急いだ。密林は、しかし、頑として日本軍の前進を阻んでいた。密林の密度は増すばかり、部隊は地点の標定が出来なかった。
雨は激しさを増す一方であった。日没時には密林のなかは暗黒の闇となった。正確な方向維持など出来るものではない。前を歩く兵の姿さえ見失いがちである。いくら急いでも歩度は伸びない。
ようやく雨がやんで、密林の天蓋の切れ目から月が見えはじめたときには、午後七時を過ぎていた。突入時刻はとっくに過ぎている。第一線は、どの地点でも、まだ米軍と接触していなかった。
予備隊の十六連隊は、主力に追及するために、後方からの行進を急いでいた。両翼隊配属の砲兵部隊は、まだ遥か後方にあって、前進に喘いでいた。
この日昼ごろ、辻参謀が軍戦闘司令所に送った威勢のよい報告「本夜は確実故次回(報告)に無電にて『バンザイ』を送る」は、既に怪しくなっていた。
右翼隊第一線の歩兵第二百三十連隊(長・東海林大佐。第二大隊欠)は、右第一線を第一隊(長・関谷少佐)、左第一線を第三大隊(長・大根田少佐)とし、各大隊から一個中隊を抽出して連隊予備としていた。東海林大佐が、先に記した川口少将の右翼隊長罷免後、右翼隊長に任ぜられたのは、前日二十三日夕方のことである。東海林部隊は行進が遅れていたし、右翼隊には歩兵部隊として本来川口少将に直属していた一色大隊(歩一二四の第三大隊。一色少佐は前大隊長渡辺中佐の後任)があり、東海林大佐としては、密林内を難行軍中の右翼隊を、新任右翼隊長として掌握しきれなかったであろう。
攻撃直前に部隊長を罷免、更迭して、良好な結果が得られるとは、到底考えられない。これは結果論からではなく、組織運営の常識から言って、そうである。
十月二十四日、総攻撃が行なわれたはずの夜の右翼隊の行動に関しては、戦史資料が三通りもあって、筆者は選択に迷わざるを得ないし、判断停止に近い状態に立たされる。
第一は、当夜、右翼隊は攻撃していない、というのである。
参謀本部編の『南太平洋作戦』には、漠然と書かれている。「戦場一帯ニ大雨アリ|剰《あまつさ》ヘ地形困難且密林深ク|各部隊ノ攻撃ハ統一ヲ失シ其ノ一部ハ敵陣地内ニ突入セルモ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》二十五日払暁以後敵ノ猛火ヲ受ケ」(以下略。傍点引用者)左翼隊は後述するように突入したから、「其ノ一部」は左翼隊を指すと考えられる。「攻撃ハ統一ヲ失シ」というのは、文脈からみて、攻撃しなかったことの迂遠な表現と思われる。
辻参謀は「右翼隊、東海林連隊は、準備不十分のため、昨夜遂に突撃に至らず、敵陣地前に接触して攻撃を準備しているとのこと」と書いている。(辻前掲書)
戦史室の公刊戦史には、春本第四部編『南太平洋方面作戦経過ノ概要』から次のように引用されている。「歩兵第二百三十連隊長(川口少将に)代リシ為、部隊ノ掌握出来ス、攻撃セサリキ」(戦史室前掲書)
これまでに再々引用してきた米公刊戦史『ガダルカナル作戦』(ジョン・ミラー)も、二十四日夜の日本軍の攻撃としては、歩兵二十九連隊の攻撃だけを認めている。該当部分だけを引用すると、こうである。
「〇一〇〇突然敵の歩兵が小銃を射ち、手榴弾を投じ、喊声を挙げて(後述)密林から飛び出して来てブラッディ峰(ムカデ高地)の東方第七海兵隊第一大隊の左地区を横切ろうとした。これは歩兵第二十九連隊の攻撃で、|当夜敵の行なった唯一のものであって《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》(以下略)」(傍点引用者)
右翼隊の攻撃があれば、米側が書き洩らすはずもないであろう。
ところが、第二に、右翼隊も攻撃したが、一部が突入し、主力が遅滞した、というのがある。戦史室公刊戦史は参本編の『大東亜戦史』から次のように引用している。
「右翼隊方面ニ於テハ両第一線大隊共ニ予定時刻タル十七時ニ突入シ得ス 右第一線大隊タル第一大隊ハ二十一時十五分其ノ一部ヲ以テ敵陣地ニ突入セルモ 大隊全力ヲ之ニ加入セシムルニ至ラス 又左第一線大隊タル第三大隊ハ部隊ノ掌握及方向ヲ失シ |左翼隊右第一線部隊ノ後方ニ進出シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 |此ノ夜敵陣地ニ突入スルニ至ラス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(戦史室前掲書。傍点引用者)
先に記した米側戦史にも、東海林部隊が第二十九連隊の後方に出て、「夜間に間に合わなかった」と書いている。
第三には、右翼隊に配属されていた独立山砲兵第二十大隊の『戦闘詳報』のように、右翼隊は突入したという立場からの記録である。
「敵ノ警戒陣地ヲ突破セルモ爾後大ナル戦果ヲ挙クルヲ得ス、特ニ右翼隊ニ於テハ一部飛行場ニ進出セルモ亦後援続カスシテ止ム」
これは、後述する「バンザイ」誤報と軌を一にする記録ではなかろうかと思われる。
三様の記録のうち、どれに信をおくかは、俄かに定め難いが、右翼隊では接触前進間に部隊長の更迭事件があり、したがって部隊掌握の不備は当然に想像されるのと、敵側が右翼隊の攻撃を認めていないことを合せ考えると、東海林右翼隊長の戦後の回想(戦史室前掲書所載)が、右翼隊情況全般の真相にかなり近いものと思われる。
「右翼隊は草原(暗夜では飛行場と誤認されがちであった。──引用者)を北進し、零時敵陣地に接近したが、猛烈な敵火のため前進は頓挫し、敵陣地前において敵と近く相対したまま二十五日天明を迎えた」
敵とどのくらい近く対峙していたかは、二十五日の右翼隊の行動(後述)を関連させて推測しようとしても、いっこうに明らかとならない。
次は左翼隊である。左翼隊では歩兵第二十九連隊(長・古宮大佐)主力を第一線とし、第二大隊(第七中隊欠)を左翼隊予備としていた。左翼隊も暗夜と豪雨と密林に悩まされたことは他の場合と異ならなかった。
第二十九連隊の『戦闘詳報』によると、はじめ、第一大隊は連隊進路の右方凹地を北進していたが、右に偏したらしく、連隊長との連絡を失った。その間に、第三大隊の第十中隊(一小隊欠)も第三大隊長との連絡を失い、第十中隊が第一大隊と行動を共にしている状態となった。
連隊長は、そこで、はじめに下達した軍隊区分と任務を変更し、第一大隊を右第一線、第三大隊を左第一線(それぞれ混入した中、小隊をそのまま配属として)とし、連隊の攻撃重点を第三大隊正面とした、とある。
第一大隊は、結局この二十四日夜には敵陣に突入しなかった。『戦闘詳報』にはこう誌している。「(前段略)漸ク二十四日二時三十分頃敵陣地前ノ林縁ニ達セリ、然レ共地形意外ニ錯雑シ準備ノ為ニ時間ヲ要シ突入ノ機ヲ失シ天明トナリ、而モ敵前ナリシ為メ敵火ノ爆撃ノ為ニ損害続出スルニ至リ、已ムナク一時密林中ニ兵力ヲ集結シ爾後ノ攻撃ヲ準備ス」
第三大隊では、尖兵中隊である第十一中隊の路上斥候が、午後十時三十分ごろ、米軍陣地の鉄条網に衝突した。忽ち激しい火力を浴びて、中隊長以下決死の突撃も挫折した。この尖兵中隊長の回想(戦史室前掲書所載)は二十四日夜の戦闘経過をなまなましく再現していると思われるので、後に引用する。
左翼隊長那須少将は、手裡にあった予備隊の第二大隊(歩二九)を連隊に復帰させた。左第一線の増加のためである。
歩二九連隊長古宮大佐は、第一線の突撃頓挫を見ると、付近に進出していた第三機関銃中隊(重機四、自動砲一)に火力発揮を命じ、その間に第三大隊と連隊予備隊の第七中隊を自ら率いて突撃を敢行した。
軍旗を奉じた連隊長以下は敵陣地内に突入したが(細部後述)、敵火力は熾烈をきわめ、戦線は前後に分断され、突入した連隊長以下の一群は連絡が絶えてしまった。
そのころ、師団予備隊の歩兵第十六連隊は、まだ左翼隊の後方約一粁の密林内に集結中で、戦闘加入の準備をしていた。時間は経ち、戦機は過ぎ、またも兵力は整わない。
『歩兵第二十九連隊戦闘詳報』は古宮連隊長以下の運命を次のように「推定」している。
「……連隊長ハ軍旗ヲ奉シ十数名ノ残存兵ト共ニ敵飛行場近キ森林中ニ在リテ十月二十九日夕ニ至ル迄軍旗ト共ニ孤軍奮闘シ敵ニ多大ノ損害ト恐慌ヲ与ヘ、三十日遂ニ軍旗ヲ完全ニ処置シ(推定)タル後戦死セリ」
この『戦闘詳報』には、他の戦闘詳報類にはほとんど見られないような性格の記述がある。
「優勢ニシテ而モ組織的縦深火網ヲ有スル堅陣飛行機絶対ト各種ノ近接察知ヲ講シアル敵ニ対シ 三週日ニ亘ル疲労ト餓ノ為メ其ノ|困憊《こんぱい》極度ニ達シアル軍隊カ 敵前錯雑不明ノ密林ヲ溢過シ敵情捜索其ノ準備ナスノ余裕殆トナク所謂夜襲必勝ノ信念ニ到達セスシテ勇敢無比|白兵ノミヲ以テ猪突セサルヘカラサルニ至リタルハ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|寔《まこと》ニ|遺憾ノ極ミニシテ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》 |ソモ何ノ誤リソヤ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》 |第一線軍隊ノミノ失敗ナリヤ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 |飜ツテ作戦計画ヨリ其適否ヲ検討セハ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 |其ノ禍根ノ何レニ在リヤ明瞭ニ断シ得ヘシ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点引用者)
右の記述は、二十四日夜の戦闘と、これから述べることになる二十五日夜、二十六日未明にかけての戦闘の全般に関して書かれたものだが、作戦計画の適否に関してまで批判を向けている点で、実戦部隊の記録としてはきわめて珍しいものである。
第二師団戦闘司令所は左翼隊の後方約三キロを前進し、高地に達したが、通信状態不良で第一線の状況が全く不明であった。
午後三時、師団長は状況を知るため平間参謀を第一線に派遣した。突入を予定していた時刻を一時間も過ぎても、戦闘がはじまったらしい気配はなかった。
ところが、午後八時ごろ、右翼隊から後方通信所を経て、「右翼隊ハ敵線ヲ突破シ 目下飛行場東方ノ草原地帯ヲ北方ニ向ヒ前進中」という朗報が入った。この通信、実は誰が打ったかわからないのである。
左翼隊とも有線無線で連絡がとれるようになり、「左翼隊ハ第一線部隊ヲ以テ攻撃中ナルモ細部不明、目下連絡中」と報告が来た。
午後十時を過ぎると、左翼隊方面の銃砲声が激しくなり、左翼隊長から「第一線ハ攻撃中 本夜中ニ誓ツテ飛行場ヲ攻略スル」と希望的な連絡があった。
後半夜になって銃砲声は激しさを増すばかりであった。米軍の猛火を浴びていることが想像された。右翼隊からは「前回ノ報告ハ誤リニシテ、右翼隊ハ二十一時頃依然方向地点ヲ判定シ得ス、飛行場方向ヲ求メツツ前進中」と報告して来た。報告を誤った理由なども歴史の密林の中に溶暗しているようである。
二十五日午前一時、玉置師団参謀長が左翼隊前線へ出発した。夜明け近く、「左翼隊ノ一部ハ攻撃奏功セサルモ 歩兵第二十九連隊長以下主力敵陣地ヲ突破シ敵陣地内ニ突入セリ 其ノ後連絡遮断セラレ目下同連隊ノ状況不明ナリ」と師団参謀長の電話報告があった。既述の戦況にかなり近い報告である。
第十七軍戦闘司令所では、第二師団からの朗報を待ちわびていた。
真夜中、第二師団参謀から飛行場占領の報告が入った。軍戦闘司令所は喚声をあげ、有頂天になった。直ちに「二一〇〇バンザイ」が発信された。飛行場占領成功の信号である。つづいて、各方面に電報が打たれた。
「二一〇〇稍前 第二師団右翼隊ハ飛行場ヲ占領セリ 同時頃左翼隊ハ飛行場附近ノ敵ト交戦中」
各方面とも、ようやく労苦が報いられた喜びに沸いていた。
ところが、後夜半になって、第二師団から「唯今の飛行場占領は飛行場付近で激戦中の誤りなり。歩兵第二百三十連隊の突撃は成功せず」という電話報告が来た。
軍戦闘司令所は有頂天の喜びから、急転直下、憂色の底へ突き落された。
午前二時三十分、各方面に訂正電が打たれた。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一 両翼隊共飛行場附近ニ於テ激戦中ナリ
二 飛行場ハ未タ占領シアラス
[#ここで字下げ終わり]
朝になった。敵飛行機が舞い上った。続々と離陸し、第一線上空を獲物を狙うかのように旋回した。飛行場は占領どころか、些かも機能に障害を来していないのだ。第二師団第一線部隊は敵陣に突入した部隊もあったが、肝腎の飛行場には全く届かなかったのである。
第二師団戦闘司令所では、十月二十四日夜の攻撃の失敗を確認せざるを得なかった。
43
十月二十五日朝、第二師団長は、前夜の攻撃は失敗したが、歩兵第二十九連隊長が部下の一部を率い軍旗とともに敵陣内に突入したままになっているので、攻撃を続行し戦果の拡張を図ることが必要であると考えた。十七軍司令部も同様の意図であったので、第二師団長は、二十五日午前十一時、全力をあげてのその夜の夜襲再行に関する命令を下達した。
他方、第十七軍司令官は、コリ支隊に対して、二十六日朝までにコリ岬付近に強行上陸し、東川河口付近に兵力を集結して第二師団の指揮下に入るよう命令し、同時にまた、第三十八師団長に対して、歩兵第二百二十八連隊(第一大隊欠)と三十八師団通信隊の一分隊を、海軍艦艇によって迅速にガダルカナルに前進、コリ岬付近に上陸すること、また、歩兵第二百三十連隊第二大隊をタサファロングに強行上陸させるよう、命令した。
これもまた、兵力の逐次投入の|誹《そし》りを免がれないであろう。
二十四日の総攻撃が失敗したころ、第三十八歩兵団司令部と第二百二十八連隊(第一大隊欠)及びコリ支隊(歩二百二十八連隊第一大隊基幹)はブインで待機、第三十八師団司令部と歩兵第二百三十連隊の第二大隊はラバウルに位置していた。
右の兵力のガダルカナル投入は、第二師団の機動開始以前に決定されていながら、第二師団の攻撃開始時機に即応出来るようには部署されていないのである。
十月二十日の参謀総長の上奏には、次のような陸軍の考え方が盛られていた。
「第十七軍ハ『ガ』島ノ敵ニ対シ必勝ヲ期スルタメ 第二師団ノ外第三十八師団ノ大部ヲモ同方面ニ使用スル計画テアル 然ルニ第十七軍ハ『ソロモン』群島奪回ノ外ニ 東部『ニューギニア』攻略ノ任務ヲモ有スルヲ以テ之カ為ノ所要兵力ノ大部ハ『ソロモン』方面ニ使用セル兵力ノ転用ニ期待スルコトナク 速同作戦ヲ実施シ得ルヤウニスルヲ至当トスルヲ以テ 目下広東ニ集結中ノ第五十一師団ヲ第十七軍ニ増加スルヲ適当トス(以下略)」
ガダルカナルに限っていえば、一木支隊の投入で足りると考えながら、川口支隊の投入を用意し、川口支隊の攻撃前には第二師団主力をモレスビー作戦に充当を予定し、川口支隊の失敗をみると、第二師団のガ島投入に転換し、代りにモレスビーに三十八師団の充当を計画し、第二師団の攻撃が不首尾に終ると、今度はまた第三十八師団のガ島投入を部署し、ニューギニアに対しては第五十一師団を充当することにした。臨機応変といえば聞えはいいが、用兵計画が三転四転したのである。
十七軍司令官からガ島への進出を命ぜられた第三十八師団は、まだ集結し終っていなかった。第三十八師団の第二梯団(山砲兵第三十八連隊、工兵第三十八連隊)は、十月十九日、ラバウルに入港したばかりであったし、第三梯団(歩兵第二百二十九連隊、山砲一大隊)はスマトラからラバウルヘ向けて航行中であった。
歴史に「もし」はあり得ないが、第二師団の攻撃時に、もし、第三十八師団の全力が増加されていたら、ガ島戦のみに限って言えば、異った結果が見られたかもしれない。
二十四日夜の戦闘経過に関しては、左翼隊の左第一線大隊の尖兵中隊(歩兵第二十九連隊第三大隊第十一中隊)として米軍陣地の鉄条網に衝突し交戦した中隊長勝股治郎大尉の回想が、具体的で臨場感に満ちているので、引用または要約してみる。(戦史室前掲書より)
二十四日午後十時半ごろ、尖兵中隊がジャングル内を前進していると、路上斥候(兵長以下五名)が鉄条網に衝き当り、前方から小銃の射撃を受けた。
鉄条網は林端から二〇メートルほど離れた草地にあった。尖兵長が銃声を聞いて、林端まで出ると、右前方から機関銃の射撃がはじまった。間もなく、左前方からも機関銃が射ちだした。尖兵長は草地の縦深は一〇〇メートル程度と判断した。銃火を浴びながら躍進することは到底出来ない深さである。機銃掃射が林端にまで及んできたので、尖兵はジャングル内に若干後退した。
尖兵中隊長、大隊長、大隊副官、配属工兵小隊長が林縁に急行した。機関銃は草原一帯を掃射していた。工兵は特火点攻撃用の資材を持っていなかった。(何故特火点攻撃の準備がなかったのか、判断に苦しむところである。)夜襲の企図秘匿の見地から、一切の射撃は禁止されていた。敵砲兵の射撃がはじまらないうちに、火点の間隙を強行突破しようという大隊副官の案が採用された。(前掲滝沢氏の書簡によれば、工兵隊は爆破用資材は携行していたそうである。──工兵第二連隊上遠野武雄軍曹の証言)
第一小隊は右火点を右方から迂回突入、中隊主力は右から第三、第二小隊を並列、両火点の間隙を突進する。工兵小隊は各小隊前面の鉄条網に隠密作業で破壊口を開設するという部署が採られた。
午後十時四十五分、中隊は攻撃隊形を整えて、前進を開始した。視界は約一〇メートル。草は短く、三〇センチ前後で、地形は大体平坦であった。
米軍の機銃射撃が何故か|熄《や》んだ。中隊は十数メートル草原内に躍進して、全員伏姿で突入の機を窺った。物音は絶えていた。
暫くすると、極度の疲労と緊張のため錯覚を起こしたのか、あるいは何か幻影でも見たのか、中隊主力がいきなりむくむくと立ち上り、斜左の方へ歩き出した。(戦闘時の緊張と疲労とで戦場心理が異状を来すことは、わからないではないが、指揮官の掌握下にある部隊の行動としては、ほとんど理解しかねる。これが、つづいて、次の信じ難い行動へつながるのである。)
誰か敵影でも見たのであろうか、「わあ」と|喊声《かんせい》が湧き上った。中隊長の制止に先頭は黙ったが、後方の者たちはわからず、前に習って喊声をあげた。(隠密を必要とする夜襲である。先に記したように、一切の射撃を禁止されていた夜襲である。隠密裡に肉薄し、一斉に殺到してこそ夜襲の効果がある。夜襲に喊声をあげることなど、当時の軍事教練を受けた者には到底信じられない愚行である。未教育補充兵ばかりをいきなり戦闘に投入したわけではないであろう。)
果然、敵機関銃は喊声へ向けて猛射を開始した。
中隊は突撃発起した。それとほとんど同時に、陣前の地雷が連続爆発して、右第二小隊の前半部は瞬間に吹き飛んだ。
中隊は幅の広い屋根型鉄条網に直ぐ衝突した。側防火器が左右から乱射してくる。極度の疲労と空腹で意識さえ朦朧となって、文字通りよろよろと突撃に移行した将兵は、鉄条網と側防火器に前進を阻まれた。
中隊長以下四名だけが鉄条網を乗り越えて、右火点の側面へ進入したが、中隊主力は鉄条網の前後で潰滅した。二十四日午後十一時ごろのことである。
十一中隊に続行していた第九中隊は、十一中隊の突入地点からかなり左に寄って、十時十五分ごろ突撃を開始したが、これがまたしても喊声をあげて、米軍の機銃火の集中を招き、鉄条網の手前でほとんどが斃れた。(歩二十九が夜襲の訓練をしていなかったとは思えないのに、理解し難いことである。先の十一中隊の突撃に関して、前掲滝沢氏の書簡──五十五年四月十二日付──には次のように書かれている。「この勝股大尉は二十四日夜自ら『カン声』をあげて突撃を命じている。しかも同大尉は二十五日午前七時ごろ、無断で戦場を離脱して後方に退ったのであります。これは小生が目撃していますし──以下引用者略」──原文のまま。また、四月二十九日付書簡には次のように記されている。「この第十一中隊の突撃は只今から第十一中隊は突撃します≠ニいう伝令が本部に来て、間もなく突撃、突込め≠ニいう号令の叫び声があがってわあ≠ニいう喊声があがったのである。当時連隊本部の位置は第一線のすぐ近くにあった。」──原文のまま。突撃、突込め≠ニいう号令は、突撃に進め、突っ込め≠滝沢氏が簡略化したものと思われるが、夜襲に白昼のような号令は用いないのが普通である。滝沢氏の書簡の通りであったとすれば、理解に苦しむとしか言いようがない。)
午後十一時二十五分ごろ、米軍の砲撃が開始された。弾着は連隊主力の進出路を正確に覆った。立っている者は吹き飛ばされ、側方に退避した者はジャングルの闇夜に方向を失った。
砲撃の僅かの間隙を縫って第一線に到着した連隊長古宮大佐に続行し得たものは、連隊本部と軍旗中隊だけであった。
既に夜明けが近かった。連隊長が黎明に強襲する決心をしたところへ、ジャングル内を踏み迷った第十中隊が到着した。連隊長は、第三大隊長に第三中隊と第十中隊を指揮させ、負傷しながら敵線を突破して帰還した第十一中隊長の意見具申を容れ、火力に依る制圧を図るため、第三機関銃中隊に掩護射撃を命じた。
四挺の機関銃と一門の自動砲が敵弾をくぐって射撃位置につき、その射撃開始と同時に、第三大隊主力は右火点右側鉄条網に向って殺到した。四箱二四〇〇発の携行弾薬は忽ち射ち尽した。敵の射ち返しは無尽蔵かと思えた。敵の弾幕が密集して、草原を走る第三大隊主力を完全に覆った。弾丸を射ち尽した機関銃中隊も帯剣を抜いて突撃に移った。
折からようやく林縁まで進出し得た第二大隊長に、古宮連隊長は第二大隊主力を至急とりまとめて追及するよう命じ、連隊長自身は軍旗中隊と第七中隊を率いて、敵火力が第三大隊正面に集中している隙を捉え、右火点左方の工兵小隊が作った破壊口から一挙に敵陣に突入して行った。
連隊長突人後約三十分たっても、敵の集中弾幕に遮られて第二大隊主力は半数ほどしか集まらなかった。既に午前四時ごろになっていた。ジャングルは白々と明け、敵火点群からの射撃は一段と激しさを増し、日本軍の正面は弾幕をもって厚い壁が出来ているようであった。
第二大隊長は第六中隊、第二機関銃中隊、第五中隊を指揮して突撃に移ろうとしたが、天明後の敵火力は激しさと精確さを増し、損害続出、遂に林端に釘づけになった。
午前五時半(二十五日)、第二大隊長と第五中隊長は左翼隊司令部に出頭して状況を報告するよう命ぜられた。
左翼隊はとりあえず後方ジャングル内に部隊を集結して、再度の夜襲を準備することになった、というのである。(前掲滝沢氏書簡によれば、前記した四挺の機関銃と一門の自動砲が射撃位置についたというところでは、自動砲は到着していなかったそうである。また機関銃に関しては「弾丸は四箱二、四〇〇発携行していたが、射ったのはその半分だけである。」─原文のまま──とある。)
以上が歩兵第二十九連隊第十一中隊長の回想による戦況である。この回想によって明らかなことは、彼我の火力が比較を絶しているということ、敵が濃密な火力をもって覆っている火制地帯は、如何に勇敢な肉薄攻撃をもってしても突破出来ないということ、日本軍は突撃に移行する前に既に疲労困憊していたこと、つまり周到な準備をする時間をまたしても持ち得なかったということなどである。
44
十月二十五日、右翼隊は態勢を整えてその夜の攻撃の準備をしていた。右翼隊がその日与えられた任務は、新飛行場(ルンガ飛行場の東方約一五〇〇メートル、中川東岸に近く米軍が新たに設けたもの)を攻略したのち、飛行場北側林縁の敵陣を奪取して、海岸線に進出することである。
右翼隊は右側方から米軍の激しい射撃を受けたので、第二線攻撃部隊の歩兵第百二十四連隊第三大隊(元の川口支隊第三大隊)を右側面警戒に配置した。
午後になると、米軍が右側方から日本車を包囲しようとしているらしい、という報告が入ったという(戦史室前掲書)。何処から入ったか、どれだけ確度のある報告であったか、わからない。右翼隊長は左第一線に充当していた歩兵第二百三十連隊第三大隊を右側に移動させ、側方掩護の態勢をとった。しかし、米側の資料に見る限りでは、日本軍の右翼を包囲しようとした企図は見出せない。第七海兵隊第一大隊正面に、二十四日夜、中川正面の第百六十四連隊から予備隊の第三大隊を増加したにとどまっている。
右翼隊に入ったという報告と、それに対応しての右翼隊の兵力の移動配置を納得させるに足る資料が見出せないので、右翼隊がこの二十五日夜の攻撃再行を中止しなければならなかった経緯も判然しない。歩兵第二百三十連隊は突入しようとしたとき、右側背に約二個大隊の敵の逆襲を受ける態勢となったため、突入し得なかった、という記録もあるが、前後の脈絡が不整で、|信憑性《しんぴようせい》に欠けるところがある。
師団戦闘司令所と右翼隊との電話連絡がついたのは、夜半であった。師団長は右翼隊の措置を認可して、左翼隊の右側方を掩護する任務を与えたというから、攻撃中止を余儀なくするだけの状況が、右翼隊正面にか右側方にか、あることはあったのであろう。
左翼隊は、二十五日夜、師団予備から新しく増加された歩兵第十六連隊及び工兵第二連隊主力を右翼に増加し、重点を正面に保持、左翼隊長那須少将自ら陣頭に立って夜襲を行なった。
那須少将は、歩兵第二十九連隊長古宮大佐以下一部の兵力が、前夜敵陣に突入したまま孤立し、その後の状況が不明なので、非常に焦慮していた。
左翼隊正面の米軍は前夜よりさらに火力の激しさを増していた。歩二十九では、第一大隊が密林内で集中火を蒙り、敵の第一線に接触し得たのは二十六日の午前三時半ごろになっていた。熾烈な火網に遮られ、死傷続出し、天明とともに突撃は頓挫した。第二大隊の夜襲地点は飛行場に通ずる本道に沿っていたため、突入開始と同時に敵の猛火に覆われ、まず大隊長鉄条網内で戦死、つづいて第一線中隊の幹部以下ほとんど死傷、これもまた突撃頓挫した。
午前二時ごろ、歩兵第十六連隊の一部が鉄条網を破壊して、敵陣地に突入したが、天明までにその陣地の縦深を突破することが出来なかった。
天明に及ぶと、米軍の自動火器、迫撃砲等の火力は激烈をきわめ、左翼隊全線にわたって死傷続出、攻撃は再び失敗に終った。
この夜襲で、左陣隊長那須少将は重傷を負い、のち死亡、歩兵第十六連隊長広安大佐は戦死した。前日の夜襲で敵陣内に突入した歩兵第二十九連隊長古宮大佐以下の消息は依然として不明であった。
各隊、大隊長以下各級幹部の大半が負傷もしくは戦死した。
歩二十九を例にとると、十月二十四日夜から二十六日朝までの損害は、戦闘参加人員二五五四名に対して、戦死五五二名、戦傷四七九名、生死不明一名で、損耗率四三%であった。将校の場合は、総数一〇一に対して、戦死三三、戦傷一六、不明一で、損耗率は全体平均よりかなり高い。(『歩兵第二十九連隊戦闘詳報』)
第二師団戦闘司令所は左翼隊の夜襲成果を待っていた。報告は来なかった。後夜半になって、田口参謀を左翼隊の状況視察に派遣した。同参謀は黎明前左翼隊の位置に達し、二十六日中に敵陣突破を完成することは所詮不可能と観察し、師団戦闘司令所に電話報告した。
この時点で、第二師団長の手裡には予備兵力が一兵もなく、如何なる手も打ちようがなかった。糧秣も、いつものことながら、追送の方法がなく、切れていた。
周到な準備をして、正面から力攻するはずであった第二師団の総攻撃は、既述の通り、重資材、弾薬、糧秣等の輸送及び揚陸を計画通りに遂行し得ず、その結果密林迂回の奇道に成功を求めざるを得なくなり、夜襲実施失敗の時点で実質的には既に破局を迎えていたのである。
二十六日早朝、第二師団長は、第十七軍戦闘司令所に天明迄の攻撃頓挫の状況を報告した。作戦間第二師団へ派遣されていた辻参謀も、損耗多大な上に疲労困憊している師団の現兵力をもって、敵陣突破を図ることは不可能と判断し、軍戦闘司令所へ攻撃中止を意見具申した。
一方、助攻正面である住吉支隊方面では、十月二十三日から二十六日までマタニカウ川右岸陣地を攻略しようとして、一部では、たとえば岡部隊は「ネコ」「シシ」高地陣地を攻撃し、一部を奪取したが、戦力の懸隔が著しく、ルンガ方向への突進は敵火力によって阻まれ、支隊全般に攻撃は停頓した。
コリ支隊は、二十四日夜の「バンザイ」受信後、その誤報であった旨を受信したので、コリ上陸を取り止め、ショートランドに帰還していた。
百武第十七軍司令官は、諸般の状況を綜合して、十月二十六日午前六時、攻撃中止の命令を下した。
既に見てきた通り、十七軍のガダルカナル攻撃では、航空部隊による攻撃や海軍の艦砲射撃を陸戦に統合して最大効果をあげるという現代的着想に欠けていた。夜襲突入の時刻に確信を持てない状況であったから、友軍の砲爆撃によって損害を生ずることを懸念しなければならない事情もあったのであろう。
海軍側は、連合艦隊主力が支援部隊となって、これを前進部隊(第二艦隊)、機動部隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳の三空母を中核とする第三艦隊)、前衛(第三艦隊司令長官の指揮下にある第一戦隊以下三個の戦隊と二個の駆逐隊)に区分し、ソロモン諸島の東方海域で、十七軍のガダルカナル攻撃に策応するべく行動していた。
これらの日本艦隊がガダルカナルに近接するのを阻止するために、サンタクルーズ諸島方面に米機動部隊が進出して来て、両者の間で海戦が勃発した。この海戦は、十七軍の総攻撃の失敗が明らかとなった十月二十六日黎明時から、同日夜にかけて行なわれた南太平洋海戦と呼ばれるものである。
ガダルカナル近海へ向けて南下中の機動部隊は、二十五日午前零時二十分、飛行場占領の誤報(既述の「バンザイ」電)に接し、午前三時、所定の計画に基づいて索敵機を発進させ、南下をつづけた。
午前五時になって、飛行場占領は誤報であることがわかり、機動部隊本隊は反転北上し、前衛は南下を継続、本隊との距離を開いた。
午前七時四十分、機動部隊本隊は敵飛行艇に接触され、零戦が追撃したが捕捉出来なかった。前衛の方は、それより前、午前七時八分に敵飛行艇に接触されていることを報じていた。
機動部隊指揮官は、午前八時五分、前衛にも反転北上し索敵機を収容するよう下令した。敵信を傍受したところによると、午前八時十五分ごろには、敵飛行艇は日本海軍機動部隊の全容を発見報告したようであった。
昼過ぎ、B17六機が前衛に来襲、戦艦霧島を爆撃したが、被害はなかった。
これより前、午前十一時十五分、基地航空部隊の哨戒機は、レンネル島の東約三〇浬に、戦艦二、巡洋艦一二隻から成る敵大部隊が北上中であることを発見、報告した。支援部隊指揮官(近藤中将)は、十一時三十分、なし得ればこの敵を攻撃するよう機動部隊に下令したが、機動部隊指揮官(南雲中将)は「本日攻撃ノ見込ナシ」と回答して、攻撃を行なわなかった。機動部隊から敵までの距離は三四〇浬あって、遠いことも遠かったが、敵空母の出現は必至と思われる情況下で、空母以外の敵に対して攻撃隊を発進させることは危険であると第三艦隊司令部は判断したのにちがいない。
北上をつづけていた機動部隊は、二十五日午後四時、再び反転南下し、翌日の索敵機発進予定地点へ向った。
午後九時半ごろ、敵信傍受によって、敵機が夜の月明を利用して接触しているのを感知したが、第三艦隊司令部では、それが本隊に接触を保っているのか、前衛に接触中であるのか、判別出来なかった。
機動部隊は南下中、敵の哨戒機の行動や、味方基地航空部隊の索敵状況等から、米機動部隊が進路の東方にいるのではないかと懸念して、やや西寄りに航路を保っていた。機動部隊の本隊と前衛の距離は五〇乃至六〇浬、前進部隊(第二艦隊)は機動部隊の西方一〇〇乃至一二〇浬付近を行動中であった。
十月二十六日午前零時五十分、機動部隊本隊の空母瑞鶴が突如爆撃された。月明下、高度約一〇〇〇メートルから投弾され、右舷約三〇〇メートルの海面に四発弾着したので、本隊が接触されていたことが、はじめてわかった。被害はなかったが、このまま南下をつづければ危険な状況に陥る虞れがあるとして、二十六日午前一時三十分、二四ノットで反転北上した。
機動部隊は北上しながら、黎明二段索敵を行なった。前衛から水偵七機が二十六日午前二時十五分に、本隊から艦攻十三機が午前二時四十五分に発進した。
午前四時五十分、翔鶴索敵機から入電した。
「敵大部隊見ユ 地点八度二二分南 一六六度四二分東 空母一 他一五 空母ハサラトガ」
実際には、この索敵機は、午前四時十二分にこの敵の大部隊を太陽方向に発見していたが、視認不良であったので北方に迂回して確認した後、四時五十分になってはじめて第一報を発信した。もし最初の発見時に発信出来ていたら、戦局の展開は一層有利であったであろう。(戦史室前掲『海軍作戦』(2))
第一次攻撃隊は、二十六日午前五時二十五分(ガ島陸上では第二師団の夜襲失敗が既に確認されていたころ)、翔鶴、瑞鶴、瑞鳳の三艦から甲板待機中の零戦二一機(翔鶴四、瑞鶴八、瑞鳳九)、艦爆二一機(瑞鶴──爆装)、艦攻二〇機(翔鶴──雷装)計六二機が発進した。指揮官は翔鶴飛行隊長村田重治少佐であった。
ほぼ同じころ、米機動部隊の索敵機も日本海軍機動部隊を発見して、午前五時三十分から六時十五分の間に三次に亘る攻撃隊を発進させている。
村田少佐指揮する第一次攻撃隊は、午前六時三十分、敵艦爆一五機とすれちがったが、戦闘横隊指揮官がこれに気づかず、行き違ったままになった。後に、七時二十分前後、翔鶴を襲った艦爆隊は、この敵機群と思われる。
第一次攻撃隊は、さらに、午前六時四十分、敵戦闘機六、艦爆八と遭遇し、瑞鳳零戦隊九機がこれを攻撃、敵の全機を撃墜したが、機銃弾を射耗したので進撃を断念、母艦に帰投した。この空戦によって、瑞鳳零戦隊は二機自爆、二機行方不明、一機被弾大破の損害を出したから、帰投後使用に耐えるのは四機だけである。
午前六時五十五分、攻撃隊は航行中の敵第一集団を発見した。空母ホーネット、重巡二隻、防空巡洋艦二、駆逐艦六から成る大部隊である。
このホーネット隊の北西一〇浬に同様の輪型陣のエンタープライズ隊があったが、午前七時ごろスコールの中に入って、見えなかった。
ホーネット隊は上空に約三〇機の戦闘機を配備していた。攻撃隊は、午前七時十分、艦爆隊の空母に対する急降下爆撃から攻撃を開始した。艦爆隊の先頭中隊は敵戦闘機との交戦で隊形が乱れ、後続の第二中隊が先に突入し、艦攻隊はその途中敵空母の両側から雷撃を敢行した。
ホーネット隊の防禦砲火は熾烈をきわめ、輪型陣を成している全艦が一斉に回避運動をしつつ、砲火の指向が統一指揮されているかのようであった。
攻撃隊は敵空母に二五〇キロ爆弾六発以上、魚雷二本を命中させ、艦攻一機は魚雷装着のまま敵駆逐艦に突入自爆し、これを撃沈、艦爆一機は損傷を受けて駆逐艦に激突自爆した。
攻撃隊は、午前九時四十分から十一時三十分までの間に、空母瑞鶴または隼鷹(前進部隊配属の第二航空戦隊)に帰投した。損失は零戦九、艦爆一七、艦攻一七であった。
敵母艦からの攻撃は、午前四時五十二分ごろ、わが機動部隊本隊の視界に敵艦上機群が入ったが、雲間に出没して捕捉困難であった。
午前五時四十五分、二機の艦爆が突如として瑞鳳めがけて急降下した。一弾が後部を直撃、発着甲板に直径一五メートルもの穴をあけ、火災を起こしたが、火災の方は間もなく鎮火した。
瑞鳳は、しかし、着発艦が不能となったので、戦場を離脱してトラック島へ向けて北上退避した。
第二次攻撃隊は、翔鶴隊(零戦五、艦爆一九)が午前六時十分、瑞鶴隊(零戦四、艦攻一六)が六時四十五分発進した。この第二次攻撃隊は第一次が攻撃した空母の北方約二〇浬にいた別の空母と戦艦(サウスダコタ型)を攻撃した。
結果は、敵空母に魚雷二本以上、戦艦に二本以上、重巡に一本を命中させ、空母は大破して速力が落ち、戦艦は間もなく沈没、重巡も大破した、と報じた。第二次攻撃隊の損害は、自爆、不時着を含めて、戦闘機二、艦爆一二、艦攻一〇であった。
機動部隊本隊とは別に、前進部隊本隊に配属されていた二航戦の隼鷹からも、午前七時過ぎの第一次から日没までに三回の攻撃隊が発進している。
空母翔鶴は、午前六時四十分、レーダーで来攻する敵機群を探知した。七時十八分、レーダーの指示方向に、敵艦爆一五機が直掩戦闘機と交戦しつつ接近するのが見られた。直掩戦闘機は、当時、翔鶴一〇、瑞鶴五、計一五機であったという。
敵機群は積乱雲を巧みに利用して突入態勢に入った。午前七時二十七分、急降下。直掩機一機が敵機に激突、空中に飛散した。残りの艦爆一四機が翔鶴を爆撃した。回避運動と対空砲火で、はじめのうちは爆撃の命中弾がなかったが、敵艦爆が高度二〇〇〜三〇〇メートルで艦首方向から侵入投弾するようになってから、避けきれなくなった。四発が中部発着甲板と高角砲台に命中、艦は飛行機の着発不能に陥り、火災を起こした。火災は十二時三十分ごろようやく鎮火した。
先に被爆した瑞鳳は最大速力を出し得る状態にあり、翔鶴も三一ノットの高速を出し得たので、直衛艦を伴って北西方に避退し、敵機の攻撃圏外へ出た。
翔鶴が戦場を離脱するとき、艦長有馬正文大佐は、機動部隊指揮官に翔鶴の現場残留を強く意見具申したという。理由は、翔鶴は傷ついて飛行機の着発は出来ないけれども、無傷の瑞鶴の近くにいれば、敵の攻撃を吸収して瑞鶴を助けることが出来るというのであった。
午後五時三十分、機動部隊指揮官南雲中将は将旗を一時「嵐」に移し、戦場へ引き返した。
傷ついた翔鶴、瑞鳳の両空母は、二隻の駆逐艦に守られてトラック島へ向った。
十月二十七日午後八時三十分、大本営は二十六日の戦果を発表した。
敵空母四隻、戦艦一隻、艦型未詳一隻いずれも撃沈、戦艦一隻、巡洋艦三隻、駆逐艦一隻を中破、敵機二〇〇機以上を撃墜その他により喪失せしめ、我方の損害は空母二隻、巡洋艦一隻中破せるも何れも戦闘航海に支障なく、未帰還機四十数機、というのである。
戦果の誇大発表はいつものことだが、南太平洋海戦に限ってみれば、大本営は大戦果を信じていたようである。
戦後の調査によれば、彼我の損害は左表の通りであった。(戦史室前掲書による)
日本側
(沈没喪失)
艦船 なし
飛行機 一〇〇
(損傷)
空母 二
重巡 一
駆逐艦 二
米国側
(沈没喪失)
空母 一
駆逐艦 一
飛行機 七四
(損傷)
空母 一
戦艦 一
防空巡 一
大勝利とはとても言えない。戦果においてやや優勢であったかもしれないが、日本側はこの海戦で、翔鶴飛行隊長村田重治少佐(艦攻)、同飛行隊長関衛少佐(艦爆)、瑞鶴飛行隊長今宿滋一郎大尉(艦攻)等の翔鶴、瑞鶴の艦攻艦爆隊のかけがえのない主要幹部を失ったし、戦果の確認の不確実もこれら練度の高い幹部の戦死自爆に因るところが大きかったと思われる。
45
第二師団の攻撃挫折は手痛い失望材料であったが、それにつづいた南太平洋海戦での「大戦果」に大本営陸軍部は強く勇気づけられ、ガ島戦も「今一押し」(後述)すれば戦局は好転する、と、依然として希望的判断を持していた。
十月二十六日(第十七軍司令官が改撃失敗を確認して、攻撃中止を命令した日)、大本営は参謀総長名で第十七軍司令官に次の通り電報した。
諸情報ヲ綜合スルニ「ガ」島ノ敵ハ孤立包囲セラレ極メテ窮境ニ陥リアルモノノ如ク正ニ連続力攻 一挙撃滅ノ好機ナリ 軍ニ於テハ要スレハ更ニ所要ノ戦力ヲ至急投入シ 形而上下ノ全力ヲ発揮シ 飽ク迄目的ノ貫徹ニ邁進セラルルモノト確信シアリ 切ニ御健闘ヲ祈ル
大本営はガ島前線の惨澹たる実情を知らないから、「連続力攻」「一挙撃滅」が出来るとまだ思っている。
その大本営へ、二十六日、十七軍から爾後の企図に関する報告(沖戦参電第九四号)が入った。
軍ハ「ガ」島ニ於ケル兵力ヲ増強シ爾後ノ攻略ヲ準備スル目的ヲ以テ先ツ左ノ如ク部署ス
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
一 第二師団ハ戦線ヲ整理シ先ツ一部(歩二三〇ノ二大隊及コリ支隊)ヲ以テ「コリ」附近 主力ヲ以テ「ルンガ」上流河谷ニ兵力ヲ集結シ爾後ノ攻略ヲ準備ス
二 住吉支隊ハ主力ヲ以テ「アウステン」山巓頂ヨリ一本橋東側高地ヲ経テ一本橋附近ニ亘リ攻勢拠点ヲ構成スルト共ニ 一部ヲ以テ「マ」河(マタニカウ河──引用者)左岸ノ線ヲ占領シテ爾後ノ攻略ヲ準備ス
三 第三十八師団(在ガ島部隊欠)ハ「コリ」附近ニ上陸ヲ準備ス
[#ここで字下げ終わり]
右の十七軍の企図は、大本営にとってはやや消極的に感じられたようである。大本営は、二十七日、作戦部長名で次のような趣旨の指導電を発した。
ガダルカナル爾後の攻撃法に関する大本営の見解は左の通りである。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
一、本二十六日の南太平洋海戦の海軍の戦果は極めて大きい。米国側の放送等からみても、敵は苦悩している状況であるから「今一押し」の感が少くない。
二、今後の攻撃要領は、従来のように白兵奇襲方式によることなく、各種戦力、|就中《なかんずく》、砲兵火力を組織的に敵陣地に集中して、敵陣地を突破しなければならない。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行2字下げ](砲兵火力の組織的集中が必要であることは、現地軍もそう考え、第二師団の攻撃は、まさにその方式によって行なわれるはずであったのが、主として輸送力の関係から正攻法を採れなくなった事情は、既述の通りである。大本営の指導電は、輸送問題の隘路打開に関しては、何の「指導」も行なっていない。)
作戦目的達成のためには、敵飛行場の使用を封殺することが緊要であって、その見地からすれば「クマ」高地一帯は正に「二〇三」高地である。
[#この行2字下げ](二〇三高地は、日露戦争当時、旅順攻略のための最も緊要な敵陣地であった。乃木軍は何回も攻撃して、その都度撃退され、最後には大口径砲を日本内地から運び、その威力によって攻略に成功したが、ガダルカナルにおいては、敵火力を制圧し、飛行場を無力化するに足るだけの重砲と弾薬を揚陸することが、そもそも至難な状況にあった。)
したがって、第十七軍爾後の攻撃部署に於ては、第三十八師団主力をコリ付近に使用することなく、歩砲戦力を統合し易いマタニカウ川方面から攻撃させる必要があると考える。
この点に関して、大本営では、とりあえず、次のように処置する。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
1 独立混成第二十一旅団主力(歩二大隊基幹)をなるべく速にラバウルに到着し第十七軍司令官の隷下に入るように命令を仰ぐ予定である。ラバウル着は十一月上旬の予定。
2 第五十一師団の輸送はあらゆる手段を尽して迅速に行なうよう処置する。
3 以上の外さらに所要の兵力資材を十七軍に増加する。
4 海軍中央部も第十七軍爾後の企図達成に極力協力する。
[#ここで字下げ終わり]
指導電の概要は右の通りであった。大本営は爾後の作戦連絡のため、服部第二(作戦)課長をガダルカナルに派遣することにした。
前記した第十七軍の『沖戦参第九四号』にある第二師団の一部をコリ岬方面に向けるのは、第三十八師団主力の上陸を掩護させ、かつ、同方面の飛行場適地を占領させる意図が含まれていた。
コリ支隊は、既述の通り、「バンザイ」信号取り消しの結果、コリには上陸せず、ショートランドに引き返していたのである。
第十七軍高級参謀は、二十六日、ラバウルに在る宮崎軍参謀長とコリ支隊長にあてて、コリ支隊の上陸を督促する電報を打った。
当時ガダルカナルでは、軍司令官も幕僚も、ほとんど第一線同様の苦境にあった。ジャングル内に壕を掘り、降りつづく雨をマントをかぶってしのいでいた。食事も、菜などはほとんどなく、たまに味噌がつく程度で、一日量一合から二合の飯か、少量の|乾麺包《かんパン》を食い、体力が衰えて、歩行には杖をつくという状態であったという。
しかし、軍司令部では、第二師団の攻撃失敗を、負けるべくして負けたとは考えていなかったようである。
軍司令部内の感想は次のようであった。(戦史室前掲書)
第二師団の失敗は、米軍兵が強かったからではなくて、我が軍が次のような制約された条件下に攻撃を行なった結果である。航空戦力を強化し、輸送を予定計画通りに行なって攻撃すれば、必ず奏功するという信念は微動もしていない。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
1 航空戦力不十分で海上輸送が至難であった。
2 そのため、|攻撃戦力が集結出来ないままに予定の攻撃日の拘束を受け《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》(|上奏日次と遊軍出動の関係《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》)奏功を奇道の僥倖に求めざるを得なかった。
3 以上の関係から、直接攻撃に任じた第一線諸隊は戦力特に体力損耗の極限において|攻撃準備不十分のまま精神力だけで突撃した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。(傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
軍司令部が、「攻撃準備不十分のまま精神力だけで突撃した」などと、批評家のようなことを言っては困るのである。上奏日次と海軍出動の日程から攻撃日の拘束を受けたというのは、問題が逆立ちしている。東京で上奏日が決って、それに合せて現地軍が無理をしてでも攻撃を開始するというのは、本末転倒である。戦は、勝つために、勝てるように現地軍がするものであって、東京中央がするのではない。中央の上奏日が早過ぎたとすれば、中央が甘い状況認識をするような、現地軍からの報告に接していたからである。最後に、冒頭の第二師団の失敗は、米軍が強かったからではない、というくだりは、まるで未熟な青年の負け惜しみのようである。戦闘における強弱の差は、あらゆる戦力諸元の相乗作用と綜合力によって決るのである。仮りに、制約された条件下で攻撃をしなければならなかったとすれば、制約条件を排除する力量がなかったことを意味するに過ぎない。
前に記した大本営からの作戦部長名の指導電(二十七日発)を受けた第十七軍戦闘司令所では、折り返し、高級参謀名で実情報告を打電(沖戦参第一一三号)した。
長文だが、その要点を記せば次の通りである。(戦史室前掲書)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
一、マタニカウ河陣地の正面攻撃は強力な砲兵力を必要とするが、地形は砲兵の展開を著しく制限し(最初十五榴一門しか展開出来なかった)、砲兵特に弾薬の揚陸は海軍艦艇の輸送能力、敵機の跳梁のため、十分でなかった。(大小発は約一五〇隻あったのが僅か二隻になってしまった。)また揚陸点付近で敵機の銃爆撃によって焼却されたものが多く、砲兵力に期待する攻撃は、攻撃時機の関係から、断念しなければならなかった。たとえば、月明の関係は、敵は輸送を継続し得るのに、我は中止しなければならず、連合艦隊の行動時間の制約もあった。要するに、当時の状況では、アウステン山方面からの迂回作戦にしか成功を期待出来なかった。
二、敵飛行場の制圧は、当初から最も重要視し、実施に関する努力をしたが、前項の理由(砲兵力不足──引用者)に依り十分な効果をあげ得なかった。
三、クマ高地の攻撃は考慮したが、堅固なクマ陣地攻撃は砲兵力を基礎としなければならないので、いままで実現出来なかったもので、次期攻撃にはこれを実施するよう考慮しているところである。
四、ガ島に対する兵力集中は、甚大な日数を要することであって、絶大な努力に拘らず机上の計算とは著しく異るものである。特に資材糧秣関係では、十を計画して六を送り、六を送って三を揚陸し、僅かにその二を使用し得るような困難性を御諒承あり度い。
五、指揮の動脈ともいうべき通信器材が、揚陸時間に制限があるため、揚陸半ばで輸送艦船が帰還したり、揚陸した器材が海岸付近で敵機のために焼かれる等のことがあって、甚だ不足を来した。有線器材皆無の連隊もあり、軍、師団間の有線連絡不能の時期もあったほどである。
六、(引用者略)
七、二十六日の攻撃中止に関しては、その実情は「最後の五分間」の問題とは異るものありと信じている。(つまり、二十六日の攻撃中止は、末期的状況とは考えないというのであろう。)
[#ここで字下げ終わり]
右の趣旨の実情報告電が、十月下旬の第十七軍としての見解の大要であったが、それならば次回の攻撃には如何にして必勝を期し得るかということには触れず、失敗の弁明に終始している観がある。
日次は少し後のことになるが、第二師団の攻撃失敗によってガ島奪回はいよいよ困難になると考えた十一航艦司令部は、宮崎第十七軍参謀長のガ島進出(後述)の際、大前参謀を同行させ、同参謀は実情視察の結果を連合艦隊司令部に出頭して報告した(十一月八日)。その報告に基づいた宇垣参謀長の「陸軍総攻撃失敗の原因」という記述が日記に残されている。先に記した十七軍自身の感想と対比してみる価値があるであろう。
一、地形の困難、揚陸兵力物資移動困難、ジャングル内の進攻難渋。
二、兵力資材は可、船団輸送揚陸は八割なりしが敵機及敵駆の攻撃により相当数焼失せるも、兵力に不足なし。
[#この行1字下げ](兵力に不足なしと判断した根拠は不明である。十七軍戦闘司令所が把握した兵力は川口支隊残部、一木支隊残部、第二師団の歩兵五個大隊、野山砲各六門、十榴四門、迫撃砲一大隊であったが、実戦力としては一木、川口両支隊残部を合せてかろうじて歩兵一個大隊、第二師団の歩兵五個大隊のうち歩兵第四連隊は、軍戦闘司令所がガ島に推進されるまでに三分の二の損傷を受けており、射撃し得る火砲は野山砲各二門、十五榴四門、迫撃砲一個大隊〈定数三十六門〉で、弾薬僅少であったから、兵力に不足なしというのは納得がゆかない。)
三、統率指揮の不良。
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
(イ) 軍参謀長進出しあらず、幕僚の掌握不良。
(ロ) 軍は全ての部隊を二師団長の指揮下に入れ任せたが、後は握り過ぎる位迄管掌。
(ハ) 参謀本部員、師団参謀各部に分れ、統一なき干渉をなす。
(ニ) 二師団長持病神経痛、師団参謀不良。
(ホ) 敵情偵察の不充分、情況判断の不良。2D上陸時敵機跳梁し、西方より押す事不可能なりとして大迂回奇襲重点作戦に変更、軍司令部同意、飛行写真により飛行場南部敵陣地の情況等を打電せるも、師団参謀之を握り潰せり。
(ヘ) 川口支隊長の指揮放棄、命令による攻撃正面幅を不当とし意見具申より不服従となり、軍司令部附と為し聯隊長をして指揮せしむ(二十三日)。
(川口支隊長の支隊長罷免は既に述べたから、反復しないが、攻撃正面幅が不当であるとして意見具申したのではなかった、為念。)
(ト) 岡部隊長の命令違反、西方海岸よりの進出命令に遵はず、独断南部寄りに進出。避退命令アウステン山北部よりを同南方迂回に独断実施す。
(ト項の実情は理解困難である。岡部隊の行動が住吉支隊に不利を招いたといわれる節は見当らない。海軍側の誤解ではなかろうか。)
四、戦力不充分。
(イ) 敵機に対する過度の恐怖。
(ロ) 十六聯隊進出時に於けるだらしなさ。
(ハ) 二師団は|爪哇《ジヤワ》戦のみにて実戦苦難の経験なし。元気はあるも戦上手にあらず。殊に左翼隊たる那須部隊は突撃以外の手なし。
(ニ) 攻撃開始前兵の疲労大。
(再々述べた通り、ジャングル内通過の所要時間の見積りが甘かったから、所定日時に攻撃開始地点に達するために、兵は疲労困憊した。)
(ホ) 幹部も三分の一位病人なり。
(ヘ) 前線程食料医薬等なし。(盗難多し)
[#ここで字下げ終わり]
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右記した海軍側所見のうち、第三項の(イ)、「軍参謀長進出しあらず、幕僚の掌握不良」とあるのは、簡略に過ぎて具体性に乏しいが、現地の軍戦闘司令所とラバウルに在る宮崎参謀長との間が、距離的にも時間的にも噛み合わないことが多かったのは事実である。宮崎参謀長は早くからガ島へ進出しようとしていたが、海軍側がニューギニア作戦の相談相手として宮崎参謀長のラバウル残留を強く求めたことは先に述べた。
二十六日の十七軍司令官の攻撃中止命令以後、第三十八師団をコリ岬方面に揚陸させようとする軍戦闘司令所の意図に対して、軍参謀長は反対であった。反対理由は、コリ方面は揚陸の際の難度が高く、爾後の補給が困難であり、加えて、兵力が西と東に分離するので指揮が困難になるということである。
軍戦闘司令所からは、コリ支隊と第三十八師団を早くコリ岬方面へ輸送するよう、依頼する電報(沖戦参第一一六号)が入って来た。
軍参謀長はガ島への進出を決心し、その準備を急いだ。
十月二十九日午前四時、宮崎参謀長、大前参謀(海軍。この参謀の視察結果によって、前記の連合艦隊参謀長の日記に第二師団攻撃失敗の原因が記された)、堺吉嗣大佐(のちに広安大佐の後任として第十六連隊長となる)の一行は飛行艇でラバウル発、七時ショートランド着、七時三十分駆逐艦時雨に移乗して出港、午後九時ガダルカナルに上陸した。
三十日、朝から軍戦闘司令所で作戦会議が行なわれた。出席者は、宮崎参謀長、大前参謀、小沼、杉田、越次、平岡、山内各参謀であった。
席上、宮崎参謀長の意見は、海軍主力は内地に帰還して整備しなければならないから、海軍は当分弱化して、海上輸送はますます困難となるであろう、したがって、第三十八師団をコリ岬方面に上陸させることは困難であり、今後の攻撃の主目標はルンガ西正面としなければならない、コリ方面の作戦は輸送及び補給の面からみて甚だ不確実である、ということであった。
しかし、高級参謀以下他の参謀は、第三十八師団のコリ方面揚陸を主張して、参謀長案には容易に同意しなかった。
午前九時ごろ、辻参謀が第一線から帰還した。マラリアの高熱を冒して、往きには一週間かかった行程を二日半の強行帰還であったという。第二師団の攻撃とその後の状況を|具《つぶさ》に報告し、「生れて四十年幾度か戦場に立ち此度程の辛苦はなかった」と、その顔色相貌は苦難を物語っていた。(前掲宮崎手記)
宮崎参謀長がコリ問題について意見を求めると、辻参謀は「極めて簡単率直に」変更(コリ揚陸を)する方がいいと答えた。参謀たちの間では一番第一線の状況に明るい辻参謀の意見で、事は忽ち決した。
第三十八師団主力のコリ岬上陸は中止となり、コリ支隊の山砲兵中隊(砲二門)、無線一分隊、歩兵第二百三十連隊の歩兵一中隊(糧秣二〇〇〇人一〇日分)、弾薬(主として山砲及び歩兵砲)を、海軍艦艇によって十一月一日夜コリ付近に揚陸し、歩兵第二百三十連隊長の指揮下に入れることが発令された。
この三十日、朝から、勇川河谷に対する米側の艦砲射撃と飛行機による爆撃が激しかった。敵が攻撃に出て来ることが予感された。
宮崎参謀長は小沼高級参謀、山内参謀に案内されて九〇三高地観測所へ行ったが、ルンガ飛行場が指呼の間に望まれ、直観は「眼前に在る飛行場が取れなくてどうする」という感じであったという。
九〇三に至る沿道では、飢餓に苛まれ疲労困憊した旧一木支隊の残兵の惨状に接し、ガ島に来たばかりの参謀長は「一面同情と共に一面憤慨を禁じ得なかった」(前掲宮崎手記)。歩武堂々としていたはずの精鋭が、餓えた亡者のように変り果てているのが、新来者にはほとんど信じ難いほどの衝撃なのであった。
十一月一日、マタニカウ河畔と勇川河口に近い河谷に対する敵の爆撃と艦砲射撃は|頓《とみ》に激しさを増した。軍戦闘司令所も早朝来二回にわたって爆撃を受け、敵の砲爆撃は計画的組織的なものと判断された。
正午ごろ、司令所は爆撃の近弾で挟撃され、司令所を九〇三高地西南の丸山道に沿う谷地に移した。その移動間の心理は、「沿道ニ眼ニ映スル諸兵痛廃ノ状|転々《うたた》感深シ」であった。(前掲宮崎手記)
夕刻、マタニカウ河畔の第一線は急迫を告げた。司令所は予備兵を一兵も握っていなかった。急遽道路構築隊の数十名、海軍陸戦隊の約一〇〇名を海岸道方面に掻き集めて、対処した。
海岸方面の敵の攻撃は、戦車と多数の火砲を伴った約一個師団以上と判断された。(米側資料によれば、二個連隊)
敵の一部がクルツ岬に上陸し、中熊部隊(歩兵第四連隊)の背後に進出したため、マタニカウ左岸の第一線は崩れはじめた。
軍は、施す術もなく、一木支隊の残兵約六、七十全員罹病伏臥中なのを駆り出し、増援に当て、第一船舶団長に沖川(マタニカウ河口から西へ約三キロ)の線に予備陣地の構築を命じた。
歩兵第四連隊では、この日の戦闘で、第七中隊は長以下十数名、第五中隊は一五名となり、連隊砲中隊は長以下ほとんど戦死傷、砲も破壊された。
第十七軍司令官は発熱臥床中の杉田参謀を第四連隊に派遣し、死守を命じた。
十一月二日、第一線大隊は攻撃を続行する米軍に対して奮戦したが、米軍は次第に兵力を増加し、戦車、装甲車も加わって強襲して来た。兵力火力ともに比較を絶し、敵は陣地の間隙から逐次浸透して、包囲する形勢となった。歩四第一線中隊は、弾薬、糧食全く絶え、肉弾突撃を敢行して玉砕した。
小川(クルツ岬西側)付近に布陣していた独立速射砲第二大隊は、海岸方面から攻撃して来た敵戦車と対戦し、隊長以下全員戦死した。
中熊部隊(歩四)は連日の苦戦で、将兵約五〇〇に減耗、弾薬も尽き、十一月三日、沖川(クルツ岬と勇川の中間)左岸台地に後退した。沖川の線を敵が突破するようなことになれば、そこから西へかけて抵抗線を布く適地がなく、一挙に勇川河口まで敵手に委ねることとなる。そうなれば、第二師団方面に対する補給路は遮断され、タサファロングの揚陸点が直接脅威にさらされることになる。
軍司令部は憂色濃かった。
十一月三日夕、第一線の状況に関して杉田参謀が報告に来たときの情景を、宮崎参謀長は次のように書き記している。(『残骸録』)
「杉田悲愴ノ態度、相貌見ル目モ悲惨、顔面ハ熱ノ為紅潮シ気息奄々トシテ曰ク
第一線ノ保持危シ、増援諸部隊ハ指揮官ノミ先行、到着セル部隊ハ未タ何レニ在ルヤ不明、中熊部隊長ハ軍旗ヲ捧シテ突撃セントス、如何<g、予以下各参謀此ヲ聞ク。
辻言下ニ曰ク決シテ突撃セシムル勿レ、突撃セハ万事了ル<g。予亦之ニ和シ、兎モ角最後迄隠忍を強調ス。杉田直ニ第一線ニ向ハントス、心身疲労ノ状ハ果シテ能クスルヤ否ヤ疑ハシ、杉田既ニ意中ニ決死ヲ覚悟シアルヲ察ス、蓋シ過般ノ攻撃頓挫ニ方リ責任ノ重大ヲ感シアレハナリ。予ハ幕舎ヨリ携帯口糧一袋ヲ携ヘ来リ、杉田ノ杖ツキテ出発スルヲ見送ル。海岸方面ノ砲声熾ン、将ニ暮色迫ラントス」
大本営陸軍部第二(作戦)課長服部卓四郎大佐は近藤少佐を伴って、十一月二日夜駆逐艦でタサファロングに上陸、三日朝、九〇三高地西麓の軍戦闘司令所に到着した。当時は海岸方面の戦況が急を告げている最中で、補給も途絶えがち、司令所での食事も掛盒に平らに一盛りし、副食は塩もない状態であった。
近藤少佐起案の大本営宛第一信は、「戦況逼迫困窮ノ状ハ予想外ニ甚シク 将兵ノ相貌ハ武漢作戦当時ノ第百六師団ノ夫ニ髣髴タルモノアリ」というのであった。
服部大佐の同日の報告電は次の通りである。
「制空権ヲ確保セサル限リ正攻法ノ採用ハ困難ナリ」
「第二師団ノ某大隊ノ如キ一、二時間ノ砲爆撃ヲ以テ潰エタリ」
「一日モ速カニ飛行場ヲ推進シ強力ナル航空兵力ヲ以テ制圧スルノ外ナキ結論ヲ得タリ」
翌四日、宮崎参謀長、服部、小沼、辻、近藤各参謀凝議の上、爾後の作戦指導として、新に混成第二十一旅団(二大隊)を増加し、第三十八師団主力を十一月上旬、第五十一師団を十二月上旬に揚陸し、さらに精強な一連隊(第六師団)を特殊船によって直接ルンガに強行上陸させ、十二月中、下旬に総攻撃を再興する、陸軍飛行隊の進出を促進決定する、攻撃兵団として特に三十八師団の戦力保持に着意する等を決定し、服部大佐は大本営第一部長宛て打電した。
「昨日小官到着後ノ激戦ニ於テ一回モ海軍機ノ協力ナク完全ナル敵ノ制空下ニアリ 航空作戦強化ノ為陸軍航空部隊ノ増加ノ絶対必要ナル前電ノ如シ」
「丸山兵団(第二師団──引用者)ハ次ノ作戦兵力トシテ殆ント胸算シ得サルヲ以テ佐野兵団(第三十八師団──引用者)ノ外ニ更ニ一兵団ヲ直接作戦ノ為 別ニ一兵団ヲ大本営ノ後詰トシテ準備ヲ要スヘシ」
右の通りに実現するしないは別として、大本営の作戦課長が戦場に来てみて、はじめて、本格的用兵──大兵の一挙使用の必要が切実に認識されたらしいのである。ただ、そのときには既に、後述するように、乏しい国力が極度の消耗戦に追いつかなくなっていたのであった。
服部課長は十一月五日午後帰途につき、十一日東京帰還、十二日上司に対して報告、十四日戦況上奏を行なった。その結びの言葉はこうなっている。
「ガダルカナル島ニ関スル限リ、凡テノ条件カ今日迄ハ我ニ不利テアリマシタ。今後異常ノ覚悟ト努力ヲ以テ先ツ敵航空勢力ヲ制圧シ次イテ飽ク迄之カ奪回ヲ策スヘキモノト存シマス」(戦史室前掲書)
同じことが、一木支隊第一梯団全滅の時点では無理だったとしても、川口支隊総攻撃失敗の時点では切実に認識されなければならず、国力に照らして作戦続行の可否が厳密に問われなければならなかったであろう。
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軍戦闘司令所が九〇三高地西麓に移ってから、海岸方面の戦況急迫のため、夜間業務や連絡が必要であるのに、司令部には蝋燭が乏しく、灯火遮蔽の設備もなかった。暗夜の着発信や連絡者の往復のため、司令部付近は深夜まで騒がしかったし、食糧不足で気が苛立ち、参謀たちが副官や書記に対して欝憤を爆発させる声も聞えた。宮崎参謀長手記によれば、小沼高級参謀や辻大本営派遣参謀らは、屡々、第一練連隊長や大隊長が意気地がないと評して、憤慨していたという。
食糧もなく、戦況が悪化して、みなの気が立ってくる様子が目に見えるようである。
先に軍戦闘司令所からコリ岬方面への転進を命ぜられていた東海林支隊は、攻撃中止が発令された十月二十六日、傷病兵の後送と配属部隊(歩一二四の第三大隊、独立速射砲中隊、迫撃第三大隊第三中隊その他)を第二師団展開線方向へ後退させ、歩兵第二百三十連隊主力をもって、二十六日夕、米軍から離脱、密林内をコリ岬方向へ出発した。
弾薬も糧秣もほとんど尽きていたから、この転進には絶望的ともいえる苦難がつきまとった。二十四、五日の総攻撃にひきつづき、絶食と密林突破の困難を冒し、疲労の極にあって敵機の攻撃を受けつつ、十一月三日、コリ南東飛行場適地にようやく達した。
コリ岬付近には一木、川口支隊の一部が残存していて、大半は病人であったが、東海林支隊はその一三一名を収容すると同時に、その残存部隊の手持ちの糧食によって、辛うじて飢えを凌いだ。十日ぶりのことであった。
東海林支隊と十一月二日夜にコリに上陸したコリ支隊とは、五日朝になって、危うく友軍相撃せんばかりの状況下で合流したが、米軍の妨害が激しくて、新上陸部隊が揚陸した糧秣は、全員に一人当米七合二勺の分配量に過ぎなかったという。
東海林支隊のコリ転進は、労多くして功少く、ほとんど無意味であったといってよい。疲労した兵力を分離して、補給を遮断されに行ったようなものである。強いてコリ転進の効果を求めれば、若干時日敵の側背に脅威を与え得たかもしれないことだけであって、数日後、十一月十一日夜には、東海林支隊は九〇三高地方向に呼び戻されることになる。理由は海上補給の困難と、軍の全力をルンガ以西に集結するためである。先のコリへの転進は、敵を東西から挟撃するという配兵上の独善的な形式主義に過ぎなかった。
東海林支隊は俗にいう貧乏籤をひいたのである。コリからの西への転進で、出発時に三〇〇〇名いた兵力は、十一月二十一日ルンガ川渡河点に達したときには一三〇〇名に減耗していた。飢餓と疲労で行き倒れ、餓死したのである。
東海林支隊主力はさらに西進をつづけ、先頭が九〇三高地麓に達したのは十一月二十四日である。その後逐次集結した兵力は七、八〇〇名に過ぎず、それも、毎日十数名ずつ死亡していた。支隊全部で、戦闘行動に耐え得る者は、僅か二、三〇名に過ぎず、もはや戦力としては全く期待できない状態であった。
何のためにコリヘ行き、何のために九〇三高地へ戻ったのか、ただただ、三〇〇〇の壮丁が無力化し、密林に屍となって朽ちるためでしかなかった。
海岸方面の戦況は、十一月四日朝から米軍機による攻撃が激しく、勇川や歩兵第四連隊(中熊部隊)の第一線には、午前六時ごろから艦砲射撃が加えられた。
アウステン山方面では、岡部隊(歩一二四)が西方高地を保持していた。岡部隊から原隊復帰を命ぜられた歩兵第四連隊第三大隊は、九〇三高地北方で米軍と衝突したが、撃退しつつ、苦戦をつづけている原隊へ急行した。
十一月一日以降マタニカウ川上流河谷へ後退を開始していた第二師団主力では、傷病兵の後送に難渋していた。師団では、はじめのうちは、衛生隊と第一野戦病院に傷病兵の収容後送に当らせたが、ほとんど全員が衰弱している状況では、とても間に合わず、後送は各隊が行なうこととして、歩兵第二十九連隊を後退支援に充当した。
四日、第二師団先頭は、ようやく軍戦闘司令所の位置に到着しつつあった。
五日、歩兵第四連隊では、午後四時過ぎ、勇川東側高地で戦闘指揮をとっていた中熊連隊長が、米機の銃撃で左大腿部に重傷を負ったが、指揮をとりつづけた。
この方面の戦況の不安は、その夜新鋭部隊が上陸するまで、解消しなかった。
五日夜、伊東少将指揮する歩兵第二百二十八連隊主力が、駆逐艦一五隻でタサファロングに上陸した。同部隊は、直ちに、海岸に沿ってコカンボナに向い前進した。これによって海岸方面の戦況は危機を脱したが、中熊連隊長は七日夜敵砲弾のため戦死、第二大隊長田村少佐が連隊指揮をとった。
十月下旬から十一月上旬までの歩兵第四連隊の損害は、戦死四一〇名、戦傷二九九名であったという。(戦史室前掲書)
この間の米軍の攻撃は、マタニカウ川とコカンボナ間の日本軍を一掃するという目的をもった作戦であったから、その正面に立った中熊部隊の戦況はきびしいものであった。
十月下旬から十一月へかけて、十七軍としても大本営としても、作戦上の重大問題は、輸送船舶と揚陸のために必要な大小発動艇の問題であった。
第十七軍当初の配当船腹は、三三隻二〇万トンであったが、九州丸、笹子丸、能登丸、靖川丸、相模丸、住吉丸の六隻四万トンを喪失し、二七隻一六万トンとなり、他に特殊船、海上トラック五隻があった。
三万人の在ガ島兵力に対する補給及び弾薬その他の輸送は、最小限に見積っても一日二〇〇トンを必要とする。
三万人分常続補給を行なうには、駆逐艦ならば毎日五隻、一カ月一五〇隻を要するのに、現在使用可能延べ数は六〇隻しかない。
駆逐艦九〇隻分の不足を輸送船によるものとすれば、輸送船一五隻(五隻船団三回)を要する。
攻撃再興を予定している十一月末ごろまでに約二〇日分の糧秣及び軍需品を集積するとすれば、四二隻の輸送船と一〇〇隻の駆逐艦を併用しなければならない。(七隻船団六回と駆逐艦三日ごとに六隻)
輸送船の輸送能率が問題である。一夜の揚陸時間を午後八時から午前三時までとし(敵機の制空権下であるから、夜間作業しか出来ない)、うち実働時間を四時間とすれば、大発六隻の四往復とみて、一輸送船からの揚陸量は二四〇トンに過ぎない。船がいくら大きくて多量に積載していても、揚陸量は右のように制約される。
以上の見積りは、損傷が全くない場合の計算であって、実際には、海軍懸命の護衛の下でも、二分の一乃至三分の一の損傷があるものと考えなければならない。
揚陸に不可欠の大発の損耗は予想以上であって、既に一五〇隻損壊、目下使用し得るもの、逐次前送されたものを合して約一五〇隻あるが、これもガダルカナルで全部消耗することが予想される。したがって、今後の作戦に備えるには、実に大発一〇〇隻の補給が必要であり、駆逐艦輸送の関係からは、さらに折畳舟一〇〇隻も必要である。(数字は戦史室前掲書及宮崎前掲手記)
ガダルカナル作戦だけでも右のような|夥《おびただ》しい消耗戦であるのに、国力がいつまでそれに耐え得るかが問題であったが、輸送の確保には、艦船船腹の数量が仮りに調達され得るとしても、それだけでは不十分であった。航空基地が推進され、航空兵力が強化整備されて、輸送艦船の航行と入泊の安全、揚陸の完了が我が航空兵力の傘下で保障されるのでなければ、兵力をガダルカナルに送ることは、徒らに餓死者を作るに過ぎなかったのである。
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十月下旬の第二師団の総攻撃失敗後、在ガ島日本軍が直面しなければならなかった問題は、既述の通り、海岸道方面からする米軍の激しい攻撃を凌ぐことと、補給を如何にして確保するかということであった。
問題の前者は、既に記したように、十一月五日に伊東少将の指揮する二二八連隊主力(二個大隊)が到着したことによって、危機を一応脱することが出来たが、補給の方は常に危機的状況にあった。
少数船団による反復輸送という計画があったが、火砲による飛行場制圧が思うに任せないので、船団輸送は延期され、海軍は、夜闇を利用しての鼠輸送を行なった。延べ軍艦二隻、駆逐艦六五隻が使用されたが、前にも触れておいた通り、駆逐艦による輸送量は少量である。一隻の積載量を四〇トンとすれば、一〇隻の輸送が成功しても四〇〇トンに過ぎない。それは、在ガ島日本軍に対する補給量としては二日分に過ぎなかったのである。
その鼠輸送に対してさえも、米軍は昼夜を問わず遮断を強化してきた。昼間は優勢な航空兵力で、夜間は軽快艦艇や魚雷艇で、日本軍の増援補給を妨害するのである。制空権を掌握しない限り、ガ島奪回の攻撃再興のために必要にして十分な戦力を、ガ島に送り、集積することはおぼつかなかった。
海軍の異常な努力による、しかし、細々とした駆逐艦輸送で、糧秣はどうにか十一月十四日ごろまでの分を揚陸したが、蝋燭、マッチ、乾電池、電報用紙、通信紙等が切れて、緊急事務にも|支障《さしつか》えるようになった。殊に乾電池の補給がないことは、通信兵の疲労や罹病と重なって、通信の渋滞、遅延をもたらした。
何等かの方法によって補給の道が確保されない限り、いまや、すべての面で手づまりとなり、窮迫しつつあった。
第二師団の戦力が衰弱して、決戦兵力として期待出来なくなってから、攻撃再興のために陸軍がガ島に投入を必要と考えたのは、第三十八師団主力、混成第二十一旅団、さらに第五十一師団である。
右の兵力とその装備及び軍需品は、輸送作戦の担当責任者としての第八艦隊司令部(外南洋部隊)の計算によれば、総兵力三万、火砲三〇〇、軍需品三〇〇〇トンにのぼり、その輸送の所要船腹は、輸送船五〇隻であった。これを海軍艦艇で輸送するとすれば、駆逐艦実に延べ八〇〇隻と日進級軍艦二〇隻を要するというのである。
しかも、敵の制空権下であるから、揚陸時間は夜間に限られることを考えれば、所要船腹は右の三倍となり、損害の見積りはその三分の一、護衛駆逐艦の損害も相当多数にのぼることを考えると、ほとんど不可能に近い輸送量であるといっても過言ではなかった。
それでも、あくまで奪回作戦を継続するとなれば、兵力資材をなんとしてでも輸送しなければならない。
第三十八師団主力は、十一月一日の第十七軍命令によってガダルカナルへの進出を命ぜられ、師団戦闘司令所と第一梯団(歩二二九連隊──第二第三大隊欠──基幹)は六日正午輸送船九隻でラバウル発、八日午前十時エレベンタ泊地に達した。
辻大本営派遣参謀は、ちょうどそのころ東京帰還を命ぜられていて、九日朝ショートランドに到着し、第三十八師団長佐野中将を輸送船に訪れ、戦況の説明、意見の開陳をしたという。辻参謀という人物は、よくよく幸運に恵まれた人である。いつも激戦地の最前線へ出て行って、後方での会議のときなど前線へ出かけない参謀たちを尻目にかける勢いのよさを示すが、戦局いよいよ非というときには、きまって後方へ引き揚げていて、最前線の断末魔にはそこにはいないように出来ている。今度の場合もそうである。大本営からの帰還命令を受けて、それを、彼自身こう書いている。
「数日前に作戦課長、服部大佐が直接戦場を視察して帰京したばかりであり、軍の実情と、全般戦況の見透しについては十分お話申上げて置いた筈だ。
にも拘らず、その直後に帰還命令が出された真意は殺してはならぬ≠ニの親心であろう」(辻前掲書)
第三十八師団長が辻参謀からどのような所見を聞いたか、判然しない。辻も書き残してはいない。この時点で大本営派遣参謀が如何なる見透しを持っていたかこそが重要なことなのだが。
佐野中将以下の師団戦闘司令所と陸兵、糧秣、弾薬を搭載した駆逐艦五隻は、十一月十日午前九時ショートランドを出発、途中で敵機と魚雷艇の攻撃を受けたが、十日午後十時ガ島到着、師団長は幕僚を伴って十一日午前五時、九〇三高地西麓の十七軍戦闘司令所に着いた。
第十七軍司令官は、十一日、第三十八師団長に、伊東支隊を指揮してマタニカウ川以西の敵を撃滅すべき任務を与えた。
第三十八師団長は、右の任務に基づく攻撃準備を伊東支隊に命じ、傍ら、アウステン山の歩兵第百二十四連隊(岡部隊)を師団直轄とした。
十一月十二日、歩兵第十六連隊(堺部隊)正面に強圧を加えていた米軍は、あとで述べる理由によって、沖川河口付近に後退し、つづいて翌十三日にはマタニカウ川の線まで後退した。
伊東支隊は敵の後退に対応して、逐次前進し、十六日朝までに支隊主力を沖川右岸まで推進した。
三十八師団長は、十四日、歩兵第二百二十八連隊第二大隊(二中隊欠)を岡連隊長(歩一二四)の指揮下に入れ、アウステン山の守備を強化した。
各部隊は進出地点の死守を命ぜられ、その態勢で、後続が予定されている主力兵団の揚陸を待つことになった。
米軍は、十一月上旬ごろまでに、海兵隊、陸軍部隊合せて歩兵六個連隊、砲兵二個連隊に増強されていて、十一月十日からのコカンボナ方向への攻撃には、歩兵三個連隊砲兵三個大隊が使用されたが、歩四の死闘による頑強な抵抗に加えて、五日伊東支隊がタサファロングに上陸し、山地方面からの米軍の左翼背後を衝きそうな形勢になり、その上、日本軍有力兵団が大船団で増援するという情報に接した第一海兵師団長は、伊東支隊の攻撃開始前に、攻撃作戦を中止して周辺陣地に撤収したのである。(ジョン・ミラー前掲書)
第三十八師団主力の輸送はガ島戦全局を通じての重大な節をなすものであったから、あとで詳しく観ることとして、三十八師団につづいて後続投入を予定されていた兵団について先に簡単に触れておく。
前に、大本営の服部作戦課長がガ島へ赴いた際に、十七軍参謀長以下と凝議して増加投入を決めた独立混成第二十一旅団(十七軍の戦闘序列編入は十月二十八日)は、輸送船四隻で十月二十一日サイゴンを出発、十一月五日大宮島入泊、十一月八日ラバウルに向った。
十一月十六日、パラオ付近で『ぼすとん』丸が雷撃されて沈没、乗船部隊四九九名は救助されたが、二二八名が行方不明となった。
残りの輸送船は十一月二十二日ラバウルに到着した。後述することだが、このころ既に、第三十八師団の大船団輸送は惨澹たる失敗に終っていたのである。
右の事情もあってのことと思われるが、それに加えて、そのころニューギニアではブナ方面の戦況が急を告げていて、独立混成第二十一旅団(歩兵第百七十連隊の二個大隊基幹)はブナの増援に充当されることになった。
また、必勝戦力として投入を予定されていた第五十一師団は、ジャングル作戦や上陸作戦の訓練を実施して、広東に集結、ガ島方面の制空権奪回後に一挙に輸送揚陸する計画であった。その攻撃開始時期を、十七軍では十二月末ごろと予定して、五十一師団の各船団は香港から航行途中無事に、第一船団が十二月十二日ラバウル到着、第二、第三船団もつづいてラバウルに入港した。ガ島戦の状況は、しかし、そのころはもはや挽回不可能な破断界の様相を呈するに至っていたのである。
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第三十八師団のガダルカナル輸送については、第十七軍は、比較的少数船団による反復輸送を有利とする考え方であったが、海軍側はこの方針に反対であった。護衛能力を分散することになるのが否定的理由の主なもので、海軍側としては大船団輸送を集中的に護衛する方が得策であると考えていたのである。
しかし、大船団輸送を成功させるためには、ガ島の敵飛行場制圧が必須条件であり、それは在ガ島日本陸軍の火砲をもってしては効果を期待出来ないことは証明済みといってよかった。そこで、連合艦隊としては、先に十月中旬の船団輸送の際、第三戦隊の戦艦金剛、榛名をもって飛行場に艦砲射撃を加えたのと同じように、戦艦の艦砲によって飛行場を制圧し、大船団輸送を決行することに決めた。
十一月七日、連合艦隊参謀長名で次の指示が出された。
「船団揚陸ハ左ニ依リ実施セシメラルル予定
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
一、進入ハ一回ニ限リZ日(十一月十三日ト予定)二二〇〇頃トシ成ルヘク多数ノ輸送船ヲ使用(要スレハ上陸点ヲ異ニス)
二、Z-1 日夜十一戦隊ノ制圧射撃ヲ行フ(四水戦ヲ警戒隊トシZ-3日以降前進部隊ニ復帰)外 Z日大巡ノ射撃ヲ行フ
三、前進部隊ハZ-1日迄ニガ島北方ニ進出支援
四、概ネZ-3日以降航空撃滅戦ヲ強化
五、ソノ他前回ニ準ス」
[#ここで字下げ終わり]
右のうち、第四項の航空撃滅戦の強化というのは、ほとんど期待出来ないことであった。ガダルカナル上空付近の制圧権は完全に米軍に握られていたのである。十一月初頭の米軍機は各種合わせて約一〇〇機だが、密林内の微かな炊煙に対しても、また単独兵の行動さえも見逃すことなく銃爆撃を加えるほど徹底していた。
これに対して、日本海軍航空部隊は主力がラバウルに、一部がブインに展開していて、十月末現在で総機数こそ米軍のそれとほぼ互角であったが、既に述べたように優秀な搭乗員多数を失って操縦士の平均練度が著しく低下していた上に、依然として遠距離を飛ばなければ戦場に達しなかったから、戦場上空にとどまる時間が大幅に制約される問題を解決し得ていなかった。
大本営の服部作戦課長の現地での感想は「わが海軍航空部隊が大挙飛行場を襲い将兵を喜ばせましたが、その制空効果たるや、全く瞬間的なものの様に感ぜられました」というのである。(戦史室前掲書)
とにかく、第三十八師団のガダルカナルへの増援輸送に関しては、連合艦隊前進部隊の第十一戦隊(戦艦比叡と霧島)が十一月十二日夜にガダルカナル飛行場に対して実施する艦砲射撃に一切の期待が寄せられることになった。
連合艦隊命令に基づいて、今回はただ一隻の空母隼鷹(後述)は、十一月九日午前十一時、トラック島を出撃、前進部隊は午後三時四十五分出撃した。第十一戦隊司令官(阿部中将)指揮する挺身攻撃隊(比叡、霧島の二戦艦、軽巡一隻、駆逐艦一四隻)は、十二日午前三時三十分、前進部隊から分離して南下した。ガ島砲撃に向うのである。
今回の大船団輸送を掩護する連合艦隊の作戦の弱点は、基地航空部隊の兵力技倆ともに低下していることと、空母群が先の南太平洋海戦で損傷を受けて内地に回航、整備中であって、作戦に参加出来るのは空母隼鷹ただ一隻だけ、僚艦の飛鷹はトラックに在って待機していることである。ガダルカナルの航空撃滅戦と船団の上空直掩にどれだけの期待が出来るか、心もとなかった。
十一月三日から九日までの間、ラバウルの艦戦とブインの艦戦及び艦爆はガ島とルンガ沖の艦船攻撃を企図したが、五日以外は悪天候に阻まれて実現しなかった。
十日、十一日、十二日と連日艦戦、艦爆、陸攻が出撃し多大の戦果を報じたが、我方の損害も大きく、特に陸攻のそれは多大であった。戦果報告の過大はいつものことだが、米側資料(戦略爆撃調査団)によれば、この攻撃で巡洋艦一、駆逐艦一、輸送船三が損傷を受けたに過ぎないことになっている。
前進部隊本隊から分離してガ島へ向けて南下した挺身攻撃隊(第十一戦隊、第十戦隊)は、十二日午前八時三十分、B17一機に接触された。直掩戦闘機がこれを撃退したが、艦隊の行動企図は偵知されたのである。
午後三時ごろからスコールが降り、視界不良となった。ときどき晴れ間があり、艦隊はマライタ島などを確認してインディスペンサブル海峡に進入した。
午後八時ごろから激しい雷雨となった。視界は閉されて、比叡から直衛駆逐艦の航跡がときどきしか見えなかったという。
挺身攻撃隊主隊(比叡、霧島)はサボ島の変針点に近づいたが、サボ島を視認出来ないほどスコールが激しかった。
十一航艦水上機部隊から「天候回復ノ見込ナク今夜ノ飛行観測至難ト認ム」と通知があった。
挺身攻撃隊指揮官は射撃も射撃位置への進入も不可能と判断して、午後九時五十分、反転を下令した。当時、通信状態が不良で、特に主隊と護衛の四水戦との間が不調であった。
四水戦は反転発動時刻(午後十時五分)を確認していなくて、サボ島に近づき過ぎる懸念から、指揮官の反転下令と同時に列向変換を行ない、午後九時五十五分反転した。このため、主隊と四水戦との関係位置が大きく変ってしまうことになった。
主隊の反転直後、午後十時十三分、視界が恢復し、比叡はサボ島を視認した。ガ島の陸上観測所からも天候良好の報告があった。
攻撃隊指揮官は飛行場砲撃を決意し、再び反転発動を下令した。
攻撃隊指揮官は、午後十時四十六分、ルンガ沖への進入と、四水戦に先行を下令した。予定より四十分遅れての進撃であった。
長時間の視界不良と二度の反転で艦隊の隊形は乱れ、前路掃討の位置にあるはずの四水戦が後落していたことに十一戦隊司令部は気づいていなかったという。
主隊はエスペランス岬の灯火を確認してから、午後十時三十分、射撃準備を下令、比叡、霧島は飛行場砲撃用の三式弾の装填準備を完了して、射撃開始を待った。
攻撃隊指揮官は、それまでに接した敵情報告に、ルンガ泊地に敵艦船多数が在泊しているとあったので、会敵の算大であると考えていたが、午後十一時三十分になっても、前方約一〇キロに位置しているはずの前路掃討隊(四水戦)から敵情報告がなく(後落していた四水戦は、主隊との関係位置の恢復に努力中で、まだ十分な前程に達していなかった)、また陸上観測所からも敵影を見ない、という報告が入っていたので、いよいよ飛行場射撃実施に移ろうとして、「砲戦目標飛行場」を下令した。ほぼ午後十一時三十分であった。
第三十八師団の輸送のためには不可欠の、そしてこの際は唯一の手段と考えられた戦艦主砲による敵飛行場制圧射撃が、まさにはじまろうとしたとき、攻撃隊は会敵したのである。
まず、主隊の前路を走航中の夕立がルンガ岬方向に敵を発見、次いで比叡も敵艦影を認めた。このころ視認し得た敵艦隊は、ルンガ沖に巡洋艦六隻、駆逐艦七隻、ツラギ寄りに巡洋艦三隻があるらしかった。
米艦隊は、夕立が敵を発見するより十八分早く、レーダーで日本艦隊を探知していたという。
視界は狭く、距離は近く、彼我入り乱れての混戦乱戦となった。彼我合せて多数の艦艇が、それぞれに個艦対個艦の戦闘を展開した。両軍とも、味方艦から砲撃されるような混乱を生じていた。
艦別の戦闘経過を記述することは、煩雑に過ぎて、主目的の第三十八師団の輸送問題と、そのための飛行場射撃から遠ざかることになるであろう。十二日夜から十三日朝にかけて、最もめざましく奮戦して遂に海底に姿を没したのは、第二駆逐隊の夕立と、第六駆連隊の暁であった。
結果的に、戦果として、米艦隊の大巡五隻、防空巡洋艦二隻、駆逐艦八隻、魚雷艇一隻を撃沈、大巡二隻大破、駆逐艦一隻中破と報じたが、米側資料(前掲戦略爆撃調査団)によれば、防巡二隻、駆逐艦四隻沈没、重巡二、駆逐艦三損傷となっている。
日本側は、十二日深夜から十三日未明へかけての海戦で、飛行場砲撃を主目的としていた戦艦比叡を失い、駆逐艦二隻(暁、夕立)も沈没し、駆逐艦四隻が中小破した。
海戦は、後述するように、十五日まで断続するが、戦艦二隻の主砲による飛行場砲撃は、遂に目的を達しなかったのである。
比叡、霧島(霧島については後述)の挺身攻撃隊とは別に、ガダルカナル増援部隊支援とガ島飛行場砲撃の目的を持った外南洋部隊は、十一月十三日午前四時三十分ショートランドを出撃、ソロモン諸島の北方航路をガダルカナルに向った。主隊は鳥海以下四艦、支援隊は鈴谷以下七艦である。
午後十時三十分ごろから視界がよくなったので、サボ島北西方で支援隊は主隊と分離、射撃針路に入った。飛行場射撃要領は十月中旬の金剛、榛名の場合に準じていた。午後十一時三十分、水偵が照明弾を投下、鈴谷、摩耶は新飛行場に対して砲撃開始、午後十一時四十六分、反転して旧飛行場を砲撃した。発射弾数は、鈴谷五〇四発、摩耶四八五発であった。
新旧飛行場とも火災を起こし、約一時間にわたって誘爆が認められた。
米側資料によれば、この砲撃で、急降下爆撃機一、戦闘機一七が破壊され、戦闘機三二機以上が損傷を受けたが、飛行場は作戦可能であったという。(モリソン)
十月の金剛、榛名の戦艦主砲の猛撃を受けても、米機は翌日活動したくらいだから、鈴谷、摩耶級の二十糎主砲の砲撃では、日本海軍が期待した効果はあげられないのが当然かもしれなかった。右の二艦の砲撃は、比叡、霧島の三十六糎主砲による砲撃の補助として計画されていたのである。
砲撃を終った支援隊は、十四日午前五時五十分、ニュージョージア島南方で主隊に合流し、ショートランドに向った。
途中、午前六時三十分から四十五分までと、八時四十五分から九時までの二回にわたって敵艦上機十数機ずつに襲われ、大小被害続出した。上空直衛機は配置されていなかったから、敵機は存分に活動出来たわけである。
前月中旬、サボ島沖の夜戦で、僚艦の青葉、古鷹が待ちかまえていた敵に猛襲され戦闘不能に陥ったとき、孤艦奮戦した衣笠は、一カ月後のこの朝、敵機の第一回目の空襲で火災を起こし、ようやく鎮火したところへ第二回目の空襲を受け、機関及び舵が使用不能となり、浸水甚だしく、総員退去の後午前九時二十二分沈没した。
旗艦鳥海も罐室に火災を起こしたが、間もなく鎮火、五十鈴も罐室が満水し、舵も故障し、朝潮に護衛されてショートランドに引揚げた。砲撃をした摩耶も小破した。艦隊がショートランドに帰投したのは午後一時であった。
外南洋部隊支援隊は、結果として、ルンガ岬飛行場の砲撃は予定通り実施出来たが、ガダルカナル増援部隊(船団輸送)の支援目的は果せなかった。
外南洋部隊の主隊と支援隊が敵機の空襲に苦戦していたのとほぼ同じころから、陸海軍の期待を担って南下していた輸送船団も敵機の攻撃を受けはじめていたのである。
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第三十八師団主力と糧秣弾薬を搭載した輸送船は一一隻であった。これを二つの分隊に区分し第一分隊(長良丸、宏川丸、佐渡丸、かんべら丸、那古丸)はタサファロングに、第二分隊(山月丸、山浦丸、鬼怒川丸、信濃丸、ぶりすべん丸、ありぞな丸)はエスペランスに揚陸する予定になっていた。航路は、往航はソロモン諸島の中央航路、復航は北方航路と定められた。
この船団輸送は、全軍の希望が満たされるか無に帰するかの分岐点であったと言えようから、少々煩雑だが、乗船部隊と搭載軍需品を次に列記する。
歩兵第二百二十九連隊本部
同右第一大隊
歩兵第二百三十連隊第二大隊
工兵第三十八連隊
輜重兵第三十八連隊
第三十八師団衛生隊
第二師団の一部(衛生隊、野戦病院三個)
独立工兵第十九連隊
独立無線第五十三、第八十小隊
第三野戦輸送司令部
独立自動車第二百十二中隊
独立輜重第五十二中隊
第十七防疫給水部
第十七軍司令部の一部(軍司令部各部長)
糧秣 在ガ島兵力三万人の二〇日分
主要弾薬 山砲 七〇〇〇発
十榴 四〇〇〇発
十五榴 三〇〇〇発
十加 一五〇〇発
高射砲 一万五〇〇〇発
その他 歩兵各種弾薬
右のほか、揚陸作業のために、第二船舶団長田辺少将指揮する第二船舶団──司令部、船舶工兵第二連隊、第二揚陸隊──が各船に分乗し、大発七六隻、小発七隻を一一隻の輸送船に分載していた。(戦史室前掲書)
輸送船一一隻を護衛するのは、田中頼三海軍少将指揮する二水戦(駆逐艦一二隻)で、上空掩護は基地航空部隊である。のるかそるかの輸送作戦のときに、またしても連合艦隊の機動部隊は、船団直掩もガ島飛行場制圧にも出動出来なかったのである。
輸送船団一一隻(合計七七、六〇六総トン)は、駆逐艦(増援部隊)一二隻に護衛されて、十一月十二日午前八時、ショートランドを出港して中央航路をガダルカナルに向った。
その途中で、前記の海戦が勃発した。
連合艦隊は十三日午前二時三十分、航行中の増援部隊に電令した。
「揚陸十四日ニ延期、反転セヨ」
船団は、十三日午前三時、コロンバンガラ島(ニュージョージア島西北端に近い小島)の東方で反転し、午前十一時、ショートランドに帰着した。
しかし、十四日夜のガダルカナル揚陸を行なうために、十三日午後三時三十分、再びショートランドを出港した。
十四日午前零時二十四分、船団は、先の鈴谷、摩耶の飛行場砲撃を知って、前途に光明を認め、中央航路を南下した。
十四日は運命の決する日である。夜が明けた。空は概ね快晴、所々に断雲があった。
午前五時四十分、ニュージョージア島東方海域で敵機に発見され、以後二時間にわたって接触をつづけられた。
敵の第一次攻撃は十四日午前五時五十五分、艦爆三機が船団を爆撃したが、被害はなかった。
このころから、先に述べた外南洋部隊主隊と支援隊は、ニュージョージア島南方海域で敵機群に襲われていたのである。
輸送船団は第一次空襲以後、午前午後にわたって延べ一〇〇機以上の敵機の執拗な攻撃を受けた。
基地航空部隊は零戦延べ三六機、R方面航空部隊(十一航艦水上機部隊)が零観一四機をもって船団上空を護ったが、敵機群を阻止しきれなかった。
船団は南進をつづけた。速力は八ノットの鈍足であった。
第二次攻撃 午前七時八分。艦爆二機が来襲したが、被害はなかった。このころ、南西方角遠距離に敵機の大編隊が認められた。船団は最高速度に上げ、駆逐艦全部が煙幕を展張した。この敵機群は外南洋部隊の攻撃に向い、船団の方へは来なかった。(公刊戦史では、船団が最高速度一五ノットとしたとあるが、この船団は速力差が大きかったはずである。たとえば、宏川丸、佐渡丸、かんべら丸などは一六ノットを出せたが、ぶりすべん丸は一〇ノットしか出せなかった。)
第三次攻撃 午前十時五十分、B17八機、戦闘機八機、雷撃機七機、艦爆一七機、計四〇機が、銃撃、爆撃、雷撃を行ない、かんべら丸が火災を起こし、長良丸が浸水して傾斜し、佐渡丸が航行の自由を奪われた。駆逐艦二隻が救助に当り、佐渡丸を護ってショートランドに向った。かんべら丸と長良丸は沈没した。このとき、味方上空直掩機は飛んでいなかった。
第四次攻撃 午後十二時三十分から五十分まで、敵艦爆二四、B17八機が船団を爆撃、ぶりすべん丸が火災を起こして沈没した。このときも上空直掩機は飛んでいなかった。
第五次攻撃 午後一時二十八分、B17八機が船団を爆撃、三十二分、艦爆三機が爆撃に加わった。信濃丸、ありぞな丸が被弾して火災を起こし、駆逐艦二隻が人員を救助した。このときには直掩機が飛んで、敵艦爆を三機とも撃墜したが、船団の被害を免れることは出来なかった。
第六次攻撃 午後二時十分、敵艦爆三機が来襲したが、被害はなかった。哨戒機からの通報で、敵水上部隊が北上中と知って、増援部隊指揮官は船団を一時北西方に反転させた。
第七次攻撃 艦爆一七機が来襲して、那古丸が被爆、火災を起こし、駆逐艦が人員救助に当った。
第八次攻撃 午後三時三十分、艦爆三機来襲、被害はなかった。(八次にわたる被爆状況は戦史室『南東方面海軍作戦』(2)より)
結果として、輸送船六隻が沈没、一隻が航行不能に陥り駆逐艦に嚮導されてショートランドに引き返した。沈没船の乗船者及び乗組員合計四八〇二名は駆逐艦六隻に収容されたが、戦死者も約四五〇名に及んだ。
船団の残るは四隻(鬼怒川丸、宏川丸、山浦丸、山月丸)だけである。この四隻の輸送船は、四隻の駆逐艦に護られて、前進をつづけた。
この四隻、士気は高かったが、待ちかまえている運命に光明はさしていなかった。
前進部隊主隊が挺身攻撃隊の比叡の被害状況を知ったのは十三日午前になってからであった。前進部隊指揮官(第二艦隊司令長官・近藤信竹中将)は挺身攻撃隊に主隊への合流を命じた。十三日夕刻までに集結補給を終り、第二艦隊を基幹とするガ島攻撃隊を編成して、ルンガ沖の敵水上兵力の掃討と飛行場砲撃を企図した。
ガ島攻撃隊は、十四日午前八時三十四分、掃討隊を主隊の前程七キロに配置して、ガ島へ向けて南下を開始した。このころ、先に述べた外南洋部隊の主隊と支援隊が敵機の攻撃を受け、輸送船団もまた攻撃を受け|危殆《きたい》に瀕しつつあることを知ったのである。
午後二時二十九分、攻撃隊の愛宕は、哨戒機を射出しようとしているときに、右後方から敵潜の魚雷攻撃を受けたが、辛うじて回避した。霧島の直衛として前程を南下中の朝雲も、午後三時三十五分、雷撃されたが事なきを得た。それにしても、ガ島攻撃隊の行動は敵潜によって察知されたのである。
前進部隊指揮官は入手していた情報から、敵の巡洋艦と駆逐艦から成る艦隊が、船団攻撃または攻撃隊の企図妨害に出るものと判断していた。
十四日午後七時三十分、ガ島攻撃隊は、哨戒機から「敵味方不明の巡洋艦二駆逐艦四見ゆ」という通報に接した。前進部隊指揮官は、位置から考えて、予想通りの巡洋艦部隊が出現したものと判断した。
午後八時三十分、掃討隊がこの敵と接触、九時十五分からサボ島東方海面で砲戦を交した。
主隊はルンガ沖へ進入の途中で、午後九時、サボ島西方で西航中の敵戦艦二隻を含む艦隊と遭遇し、直ちに交戦開始した。前進部隊指揮官は、敵を巡洋艦隊と思い込んでいた先入観のために、我が方の軽巡と駆逐艦による九三式魚雷によって敵を容易に撃滅出来ると考えていた。
ガ島攻撃隊が敵を戦艦と認めたのは、午後十時、距離六キロで戦闘を開始してからである。
砲戦、魚雷戦の結果、この夜戦の戦果は、敵大巡二、駆逐艦二撃沈、大巡一、駆逐艦一大破、戦艦一に魚雷二本命中、別に戦艦一に魚雷三本命中と報ぜられたが、米側資料(戦略爆撃調査団)によれば、この夜戦参加兵力は戦艦二、駆逐艦四で、損害は駆逐艦三隻沈没、戦艦一及駆逐艦一損傷となっている。
日本側は戦艦霧島と駆逐艦綾波を失った。戦死二四九名、戦傷八四名であった。(戦史室前掲書)
先の比叡とこの霧島と、敵飛行場砲撃のために出撃して来た高速戦艦二隻は、共に目的を果さずに海底に沈んだのである。
飛行場制圧の目的を達成出来なかった代りに、艦隊が敵の攻撃を吸収して、残存輸送船団四隻の前進を続行させる結果となった。この前進続行は、しかし、制圧すべき飛行場が制圧されなかったために、敵機群が猛威をふるうにちがいないガ島へ向けての、ほとんど絶望的な突入を意味していた。
ガダルカナルでは、第十七軍は、西へ進出圧迫を加えていた米軍が既述の経過で後退したのに伴って、第一線をマタニカウ川左岸まで失地恢復をしていた。重砲隊も困難を押して陣地を推進し、十三、十四日と飛行場を砲撃したが、弾薬不足のため米軍は痛痒を感じなかった。独立山砲兵第二十大隊はルンガ川上流に占位して、山砲二門で新飛行場を射撃したが、山砲二門ではあまりにも火力微弱、密度稀薄で、有効打とはならなかった。
ガ島増援部隊(二水戦)は残存輸送船団四隻を護衛して南下をつづけていたが、十四日夕刻、索敵機から「敵大巡四、駆逐艦二、ガ島西方を北上中」という通報を受けた。増援部隊指揮官は、しかし、前進を続行した。輸送船団は既に三分の二が失われている。
午後五時、前記のガ島攻撃隊との間に連絡がつき、攻撃隊は敵大巡攻撃のために進撃中であると承知した。その前後から、先の船団被爆の際に陸兵救助に活動した駆逐艦が逐次追及して来たが、何れの艦も六〇〇名から一一〇〇名を収容していて、戦闘航海には堪えられない状況にあった。
増援部隊はガ鳥攻撃隊の後方に入り、午後十時ごろサボ島北西方に達した。サボ島西方では、ガ島攻撃隊と敵艦隊とが前記のように交戦中であった。
午後十一時、増援部隊はガ島揚陸点へ向けて速度をあげた。
海戦のために船団のガ島入泊が遅れ、したがって、揚陸時間が少くなっていた。増援部隊指揮官は、船団は十五日午前一時タサファロング到着、擱坐揚陸させる予定である、と、ガ島守備隊その他関係部隊に通知した。
前進部隊指揮官はこれを承認し、連合艦隊司令部もその処置の妥当性を認めていたが、外南洋部隊指揮官(第八艦隊)は承認しなかった。前の船団輸送の経験から、輸送船を擱坐させれば揚陸能率がかえって上らなくなるので、なるべく接岸して、漂泊あるいは錨泊し、午前五時ごろまで揚陸作業を行ない、その後の状況によって擱坐させて昼間作業を続行する方がよい、と通知して来たのである。
増援部隊指揮官は、しかし、右の外南洋部隊(第八艦隊)の指導は、現場の状況を知らないことから出たものであると判断し、擱坐揚陸の決心を変えなかった。
輸送船団四隻(宏川丸、山浦丸、鬼怒川丸、山月丸)は十一月十五日午前一時三十六分、タサファロング泊地に入り、午前二時擱坐、揚陸を開始した。
護衛駆逐艦は、一部は泊地警戒に、他はサボ島付近の警戒に当り、涼風は乗艦中の一部陸兵を揚陸させ、午前二時三十分、集結してサボ島東方から北方航路をとって全速でガダルカナルから離脱した。(陸兵を救助して乗せていた駆逐艦は涼風の他にもあったはずだが、ガ島離脱までに陸兵を揚陸させたという資料が見当らない。)
四隻の輸送船は擱坐後直ちに揚陸作業を開始したが、やがて天明を迎えた。待ちかまえていたかのように、ルンガ岬西方の米軍海岸砲が砲撃をはじめ、午前六時(十五日)以後敵機延べ三〇機の爆撃と、巡洋艦駆逐艦各一隻の砲撃を受け、午前八時には四船とも火災を起こした。
擱坐後の船団上空を、基地航空部隊の零戦延べ二二機、R方面航空部隊の零観八機が警戒に当ったが、敵の攻撃を阻止出来なかった。
船員と船舶部隊は砲爆撃下に猛炎を冒して揚陸作業に奮闘した。結果は、しかし、船団一一隻の輸送の末路としては惨めであった。
四隻の乗船部隊、歩二二九連隊本部、同連隊第一大隊の一部、歩二三〇連隊第二大隊主力、工兵第三十八連隊主力、輜重兵第三十八連隊主力等の人員約二〇〇〇名が上陸したが、肝腎の糧秣一五〇〇俵、山砲弾薬三六〇箱を揚陸し得たに過ぎなかった。弾薬はほとんど全部米軍の砲爆撃で焼失したのである。
糧秣一五〇〇俵というのは、十七軍所要の約四日分に過ぎず、揚陸が十一月十五日だから、十一月十八日ころまでの飢えを凌ぐ量でしかない。(戦史室前掲『陸軍作戦』(2))
船団一一隻は、ショートランドに引き返した佐渡丸以外は全部失われた。佐渡丸もガ島にとってはなかったも同じであった。この船団輸送をめぐって、戦艦二隻、重巡一隻、駆逐艦三隻が海底に眠った。
全軍の期待を担った大船団輸送は莫大な損失を伴って失敗に終った。
第三十八師団主力の到着を待って一挙に戦勢の挽回を図り飛行場を奪回しようとした第十七軍の計画は、雲散霧消したのである。
これ以後、ガ島戦の日本軍の前途には、客観的にみて、何の希望もなくなったといってよいであろう。
一一隻の船団輸送に関連して、十一月十二日から十五日まで断続して起きた海戦を、大本営は第三次ソロモン海戦と名づけた。米軍側の呼称はガダルカナル海戦という。
宮崎十七軍参謀長は次のように誌している。
「実ニ十二日夜十三日夜及十四日ヨリ十五日ニ亘ル時間ハ刻々ノ状況推移ニ全神経ヲ集中セリ 即チ其成否ハ直ニ次期作戦ノ能否ヲ決スル唯一絶対ノ条件ナルヲ以テナリ 海戦ノ熾烈ナル砲声 密林ニパット反映スル轟沈火災ノ火炎 船団進行間ニガ島ヲ飛立ツ飛行機編隊ノ頻繁ナル 擱坐船舶ニ対スル敵機 砲撃ノ集中 就中十五日黎明ルンガヨリスル敵重砲弾ノ逐次射程ヲ延伸シ遂ニ命中大火災ヲ発セル状ノ如キ真ニ身ヲ削ラルル思ナリ」(宮崎前掲手記)
51
大本営は、十一月上旬、第八方面軍司令部と第十八軍司令部の編成を下令した。
従来は東部ニューギニアの作戦指揮も第十七軍が行なっていたが、その第十七軍が司令官以下、十月九日以後はガダルカナルに前進してしまい、ガ島の戦況だけでも手いっぱいとなり、東部ニューギニアの作戦指揮、二正面に対する輸送、補給の問題、海軍との連絡調整等を、第十七軍司令部だけで行なうのは無理であり、東部ニューギニア作戦のために別個に一軍を新設し、それと第十七軍との両者を統轄するために、一つの方面軍新設を必要としたからである。
十一月十六日、第八方面軍と第十八軍の戦闘序列が下令された。各隷下部隊を列記するのは煩雑だから省略するが、第八方面軍司令官は今村均中将(のち大将)、方面軍には十七軍十八軍の他に第六師団が予備兵力として編入され、海軍航空兵力の低下を補うために陸軍航空部隊が編入された。その戦力は、司偵一中隊、戦闘機二戦隊、軽爆一戦隊を基準とし、飛行機数は約一三〇機である。第八方面軍の総兵力は約一一万を算えた。
第十八軍は、軍司令官安達二十三中将、所属部隊は東部ニューギニアで作戦中の南海支隊、歩兵第四十一連隊、その他である。
今村第八方面軍司令官は、十一月十六日、天皇から「南東太平洋方面よりする敵の反攻は、国家の興廃に甚大の関係を有する。すみやかに苦戦中の軍を救援し、戦勢を挽回せよ」と言われた。(今村回想録)これは、しかし、難題中の難題であった。戦備、配兵、補給、いずれも敵に較べて甚だしく立ち遅れてしまったのである。
十八日、今村中将は、杉山参謀総長と田中作戦部長に会ったが、二人とも僅か四日前の十一月十四日に一一隻の輸送船団が全滅して、第三十八師団主力は戦わずして潰滅的被害を蒙ったことは言わなかった。姑息なことである。今村中将がラバウルヘ進出すれば、厭でもわかることなのである。
第二師団の攻撃失敗(十月下旬)があっても、第三十八師団の輸送船団潰滅(十一月中旬)があっても、大本営の戦略構想は、本音はともかくとして、表面に表われる建前に根本的な変化はなかった。ただ、後述するように、輸送失敗後は否応なしに確保持久が前面に押し出されてきただけである。
船団輸送失敗のちょうど一週間前、十一月七日の参謀総長と軍令部総長列立の上奏で、次のように述べている部分がある。
南太平洋方面ノ作戦ノ推移如何ハ大東亜戦争ノ勝敗ヲ賭スルコトトナルトモ考ヘラレマスノテ此際此方面ノ作戦ヲ最モ重視スルコトカ肝要ト存シマス 之カ為陸海軍ノ綜合戦力ヲ発揮シテ「ソロモン」群島及東部「ニューギニア」ノ全域ヲ確保スルコトノ絶対必要ナルコトハ 陸海軍統帥部間ノ完全ニ一致セル判決テ御座イマス
右の上奏の基礎となったと考えられる「爾後の作戦指導」の説明会が十一月四日省部の九名の幹部によって、陸相官邸でひらかれたが、その際田中作戦部長がソロモン─ニューギニア方面の作戦に関して、次のように言っている。(戦史室前掲書)
「ガダルカナルはこれを奪回せねばならぬ。又東部ニューギニアを確保せざれば、ラバウルはもたぬ。|これが崩れれば持久態勢は崩れることとなる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。(中略)
|ソロモン方面においては連続大反攻を撃破して優位を保たねばならぬ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|特に十八年後半期の作戦指導はきわめて重要なり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
つづいて田中作戦部長の発言を拾ってみる。
「ガ島不成功の原因(弾薬、資材、兵器が十分に上らないことが主)今後ガ島攻略のためには十分に自信をうるまで準備せねばならぬ。〈当然のことを今更らしく言うのは奇怪である〉
攻撃準備は一〜二月ころとなるべし。(中略)
海軍航空いたみたるため、陸軍航空隊を出す必要が生ずべし。(中略)
|要するにガ島は奪回す《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|ポートモレスビーは取ることを前提として準備することと致したし《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点引用者)
右を見れば明らかなように、戦争全般の持久態勢、別の表現を用いれば不敗の態勢を確立するためには、ラバウル保持が必要であり、ラバウル確保のためにはガダルカナルを奪回しなければならないという考え方は、既にガ島戦初期のころの記述においても指摘したことであって、それは変っていないのである。ただ、初期には、何の根拠もなく敵を軽視し、いまやもてあまし気味になっていることは客観的に隠せない。
前記した陸相官邸での説明会と同じころ、大本営陸軍部作戦課長服部大佐は、既述の通り、ガダルカナル視察と連絡を兼ねて、現地に上陸している。そのとき辻参謀は服部課長にこう言っている。
「課長はガ島をこのままやる自信があるのですか。この際、大転換をしたらどうでしょうか」
強硬派の随一と目され、無理な作戦でも強行させることを得意とした辻参謀が、そう言うのである。
服部課長は次のように答えている。
「ガ島を退ると、ラバウルがもてるかどうか疑わしい。それに撤退自体できるかどうか確信がないが……。この問題はしばらく考えてみよう」
服部の答え方は、同じころ東京で発言していた田中作戦部長との間に、かなり大きな隔りがある。
辻参謀が「転換」を言い出したのは、相手が親しい直属上司であったからかもしれないが、ひょっとすると、辻自身の発意ではなくて、他からの触発によるのかもしれない。何故かといえば、辻自身次のように書いているのである。
「山本筑郎少佐参謀は、大本営の兵站班から、援助のために派遣されていた。この若い参謀が、皆|眦 《まなじり》を決して作戦の継続を議論しているとき、
この作戦は到底勝味がありません。大本営は思い切って、転換しなければなりません
と、大胆率直に進言してくれた。
心の中をずばり、看破されたように感ずる。(以下略)」(辻前掲書)
この山本参謀の発言がいつのことか辻手記では明らかにされていないが、他資料(伊藤正徳『帝国陸軍の最後』(決戦篇))によれば、九月下旬、ラバウルにおける参謀会議でのことである。
辻参謀は東京に帰還して、十一月二十四日には陸軍部で二十五日には海軍部作戦関係者にガ島戦の実相を率直に報告した。
「路傍には、からっぽの飯盒を手にしたまま斃れた兵が腐って|蛆《うじ》がわいている」
と、東京にいる者にとっては衝撃的な状況を述べたという。(真田日記)
辻より先に東京に帰った服部課長も状況報告で撤退の必要など一言も述べなかったし、辻参謀ほど押しの強い、現地滞留期間の長かった人物でも、戦略転換や撤退を、東京中央の公開の席で言い出すわけにはゆかなかったようである。
ガダルカナルでは、確かに、ジャングル内の小路に沿って無数の兵たちが点々と行き倒れ、嘔吐をもよおすような強烈な腐臭を放ち、蛆がわき、眼や鼻や口や傷口などから白い蛆の群れがぞろぞろと出入りし、生きながら蝿がたかり、その蝿を追う気力もなくなり、刻々に兵たちは死んでいったのである。
これからは、ガ島戦の記述も、否応なしに、屡々、惨澹たる飢餓と餓死者と、重く漂う腐臭と、蛆に侵蝕される人間と、蛆を食った|蜥蜴《とかげ》を目の色を変えて捕えて食う人間たちと、雨に洗われ白骨と化した兵たちの間を、終局へ向って這いずりまわらなければならなくなるであろう。
52
輸送船団が潰滅した翌日、十一月十五日、大本営は第十七軍の作戦指導について、次のように指示した。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、「ガダルカナル」島ニ於テハ概ネ現在地附近ノ要地ヲ 又「ニューギニア」方面ニ於テハ 少クトモ「ラエ」「サラモア」及「ブナ」附近ノ要地ヲ確保ス
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ](つまり、補給もままならぬ飢えた兵をもって、現在地を確保持久せよ、攻撃作戦準備が進捗したら、一挙に攻勢に転ずるから、というのである。この時点でも、まだ、確保持久から攻勢へ転移し、奪回を可能ならしめるだけの兵力、航空機の集中、兵器、弾薬、資材、糧秣の十分な輸送、揚陸、集積を国力が許すかどうかという、冷静で綿密な検討は行なわれていなかった。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
二、前項ノ為必要ナル軍需品及緊要已ムヲ得サル一部ノ兵力ハ各種ノ手段ヲ尽シテ輸送シ 爾余ノ兵力、軍需品ハ当分「ラバウル」附近ニ待機セシム
三、特ニ「ソロモン」群島方面ニ於ケル航空基地ヲ万難ヲ排シテ急速ニ設定ス
[#ここで字下げ終わり]
同じ十一月十五日、参謀次長から十七軍参謀長宛てに、参謀本部の企図を説明する電報が打たれている。それによると、
航空基地の設定に伴う航空作戦の開始は、概ね十二月下旬以降。(発信時から一カ月余しかないのに、可能と考える根拠は見出せない。)
兵力、軍需品のガ島への大量輸送は概ね翌昭和十八年一月上中旬。(それまでに敵の航空兵力を圧倒撃滅出来るだけの航空機の集中は、前項の航空基地の推進と同様に、保障条件を見出せない。)
攻勢開始は概ね一月下旬と予想する。
兵力及び軍需品の輸送は概ね次のように予想する。
[#ここから1字下げ]
第五十一師団全力 十二月下旬ラバウル
第六師団の一個連隊を基幹とする支隊及軍直大部 一二月下旬〜一月上旬ラバウル
第六師団主力 一月中旬ラバウル
[#ここで字下げ終わり]
(要するに、やれてもやれなくてもやるのだという建前に、検討を加える余地はないかのようである。)
十一月十八日、大本営は編成されたばかりの第八方面軍に基本任務を命令した(大陸命第七一五号)。五項目あるが重要なのは次の第二項である。
第八方面軍司令官ハ海軍ト協同シ先ツ「ソロモン」群島ヲ攻略スルト共ニ「ニューギニア」ノ要地ヲ確保シテ同方面ニ於ケル爾後ノ作戦ヲ準備スヘシ(一、三、四、五略)
大本営も第十七軍も、十七軍の上に設置されたばかりの第八方面軍も、ガダルカナル奪回の不可能に近い困難が意識を掠めなかったはずはないと想像されるが、いまやガダルカナル奪回が「大東亜戦争」全戦局の中心的課題であるかの観を呈していた。
大本営が右の基本任務命令に基づいて第八方面軍に与えた作戦要領の指示を、次にかいつまんで述べるが、それらは従来成そうと欲して成し得なかったことばかりであると言ってよい。
まず、ガダルカナルに於ける攻勢拠点を確保し、戦力の強化を図り、各種の手段に依って敵機の活動封止に努め、十二月中旬末を目途に所要の飛行場を設定する。
飛行場整備に伴って、一挙に攻撃兵力及軍需品を強行輸送して、一月中旬末を目途に攻撃準備の完成を期する。
飛行場設定に関しては、海軍はショートランド付近に、陸海協同してイサベル島、ニュージョージア島付近に少くとも三箇の作戦飛行場を急速に造成する。さらに、なし得ればガダルカナル西部。これらは十二月中旬末を目途とする。(指示は十一月十八日だから、あと一カ月しかない。)
陸海軍飛行部隊を右の飛行場に推進して、敵航空勢力を制圧する。(陸軍機の進出予定は約一三〇機である。敵がそれに対応して空軍力を増強しないという前提に立っているかのようである。)
航空作戦進展の機に投じて、一月前半期頃、第五十一師団及軍直部隊、軍需品等を一挙にガ島へ強行輸送する。
一月中旬末までにマタニカウ川以西の敵を撃攘して、東方へ地歩を拡大する。(実戦兵力はどの部隊を予定しているのか不明である。五十一師団を計画通りに輸送しないと、一月中旬在ガ島日本兵は餓死に瀕している公算が強い。)
次に補給の問題である。
敵航空勢力制圧の機に投じて、概ね二十日間で左記の物件を輸送する。
弾薬 三個師団会戦分
武器資材 二個師団分
糧秣其他常続補給資材 努めて二カ月分の予備を保有させる。
右は、敵航空勢力を制圧し得たらの話である。相手が手を拱いているはずがないから、もし制圧出来ないとしたら(出来ないことがやがて判明するのだが)、在ガ島日本兵は大量に餓死に迫られる。
さらに、右に列記した厖大な量の物件及兵力を何に依って輸送するかが問題である。
少し先走ることになるが、ガダルカナル作戦を結局は打切りに導いたのは、冷静な戦略眼ではなくて、船舶だったのである。この点に関しては後述する。
十一月十八日、参謀総長と軍令部総長は、爾後の作戦指導、航空作戦及び補給に関して上奏した。その要点だけを左記する。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、作戦目的達成のためには、ガダルカナルその他ソロモンの要地を攻略するほか、ニューギニアではポートモレスビー及びラビの攻略を必要とする判断に変化はない。
二、しかし、とりあえずはソロモン方面を重点として態勢を建て直す必要がある。
三、ソロモン作戦で第一に着手を要することは、十二月中旬末を目途に、飛行場を急速造成することである。ショートランド付近、イサベル島(レガタ)、又はニュージョージア島(ムンダ)、少くも三個の飛行場とガダルカナル西部。
四、敵航空勢力制圧の機に投じて、一挙に第五十一師団、軍直部隊、軍需品等をガ島に強行輸送、十八年一月中旬を目途に攻撃準備を完成する。
五、ガ島及びニューギニアに対する所要の兵力、軍需品の輸送については、万難を排して継続し、作戦拠点を確保する。
[#ここで字下げ終わり]
以上の上奏要旨は、第八方面軍に与えた指示の作戦要領とほとんど同じものである。この時点で、天皇が、在ガ島及び在東部ニューギニアの日本兵が飢餓に苛まれて廃兵に近い状態にまで衰弱し、餓死の危険に迫られていたことを知っていたのかどうかを示す資料は、見当らない。
大本営が第八方面軍に与えた指示にしても、上記の上奏内容にしても、敵航空勢力の制圧が眼目となっており、そのためには飛行場の急速造成と、損害を蒙った海軍航空兵力を補うために、いままで出し渋っていた陸軍から航空兵力を出すこと以外に、急場を凌ぐ方法はなかった。
十一月二十七日、大本営は第六飛行師団の編合を令し、第八方面軍戦闘序列に編入した。各飛行部隊を列記することは省略するが、これで第八方面軍の航空兵力は、司偵一中(百式司偵九機)、戦闘飛行団(一式戦七四機)、軽爆飛行団(九九式双発軽五六機)、合計一三九機である。
陸軍航空部隊を南東太平洋に派遣する机上の処置は終ったが、これらが、大本営が目途としている一月中旬までに作戦地に展開を終るかどうか、陸軍飛行隊が海の上を飛んで作戦を遂行し得るかどうかが、問題であった。
53
第二師団の攻撃失敗、第三十八師団の輸送失敗後、日本軍の面目にかけて捲土重来を期するには、大兵力の集中、莫大な量の軍需物資の集積が必要であり、それは厖大な船腹の必要を意味した。
船腹問題には煩雑なまでの経緯があるが、概要を辿ることにする。
戦争指導の大局的見地からみれば、急を告げる戦場への輸送もさることながら、南方の資源地帯から日本内地への重要物資の輸送を確保して、戦力再生産を図ることが基本的重要問題であった。つまり、そのために必要なだけの船腹は、どうしても確保しなければならぬのである。
ガ島戦が深刻の度を加えつつあった九月下旬から十月中旬にかけて、企画院と陸海両省の事務当局者が検討を重ねた結果、民需用船腹(生産用船腹)を必要最低限度に維持するには、AB船(陸海軍徴傭船)を解傭して民需に戻す以外に方法はない、というのが結論であった。
そこで、十月二十二日、陸海軍局部長会同で、海軍は即時九万トンを、陸軍はソロモン作戦一段落後一三万トンを解傭するという合意に達した。
読者は想起されたい。十月二十二日は、第二師団総攻撃失敗の直前である。二十四、五日に第二師団は攻撃に失敗し、疲労困憊して後退に移ったのだ。東京では、船舶解傭はけし飛んでしまった。それどころか、反対に、増徴必要論が強硬となった。
大本営では、ガダルカナル奪回のために兵力の増強を行なわなければならず、莫大な軍需品輸送も含めると、約七〇万トンの船腹が必要となってきた。陸軍手持ちの徴傭船で右の所要船腹を急速に調達することは困難であった。その上、先に記述した十一月十四日の第三十八師団主力の船団輸送の際、一一隻の船団が潰滅した。八万トンに近い輸送船を失ったのである。
十一月十六日、陸軍統帥部は、当面の作戦遂行のために、不足船腹三七万トンの増徴を陸軍省に申入れた。陸軍省軍務局は反対したが、企画院の検討にまわすことにした。
ところが、十八日、海軍からも企画院に対して二五万トンの徴傭を申出た。陸海合計六二万トンの増徴である。夥しい船舶消耗の過程でこれだけの増徴分を捻出することは、戦力生産の民需用船腹に極度の圧迫を加え、生産を著しく減退させることになる。
海軍側の要求は、陸軍の要求に対抗した観がないでもなかったが、昭和十八年三月(四カ月後)には重油が皆無となるから、早々にタンカーを作らなければ危機を脱し得ない、という深刻な問題も内在していたのである。
統帥部が船舶増徴に強硬であるのは、つまり、ガ島戦に固執しているのである。それはガ島の確保が米豪遮断という最初からの目的にとって必要であり、同時に、南太平洋上の唯一の重要作戦拠点であるラバウルを確保するためにも必要なのである、ということを理由としている、また、現在在ガ島三万の第十七軍を撤退させることは、攻撃を続行するよりも困難であるから、ガ島攻撃は必要なのである、という意地と面子も絡んでいる。
陸軍省側は戦争を大局的に観なければならない立場にある。現在重要にして必要なことは、国力戦力の維持造成である。国力の急速な低下をきたすことが明白な船舶増徴に応じることは出来ない。
この省部の見解の対立は深刻であった。戦争に突入したことが最初から内包していた矛盾が、ガ島戦の破局的様相によっていちどきに噴出したのである。
政府は、十一月二十日の閣議で、とりあえず陸海合計二七万トンの増徴を認める。第一次増徴は二十一日、一七万五〇〇〇トン(陸軍一四万五〇〇〇、海軍三万トン)、第二次分は十二月五日陸軍九万五〇〇〇トンとすることに決定した。
だが、第二次分は、政府としては一時逃れの決定で、自信はなかったようである。
理由を、東条総理は次のように述べている。
「この船舶増徴二七万トンによって、明十八年度の鋼材生産は三〇〇万トンに低下する。もし統帥部の要求の如くすれば、二〇〇万トンに減少する。鋼材生産は来年度最小限三五〇万トン確保する必要がある」というのである。(戦史室前掲書)
十二月五日になった。統帥部は第二次分を要求した。
政府はその夜八時、臨時閣議をひらいて次の決定を打出した。
既定の第二次増徴九万五〇〇〇トンは認める。明年一、二、三月分の損耗補填として陸軍統帥部が要求する一六万五〇〇〇トンには応じられない。八万五〇〇〇トンだけは認めるが、それは明年四月中に一八万トンを解傭することを条件とする、というものであった。
田中新一作戦部長は、明年四月の一八万トン解傭を陸軍に要求するのは統帥干渉である、と激怒した。
田中は、この件で、大臣、次官に面会を強要したが、各課長級のはからいで佐藤軍務局長と田中作戦部長が会うことになった。
席上、佐藤が、
「田中さんは大変怒っておられるそうだが、何を怒っておられるのですか、不足量はとれたではないですか」
と言うと、田中は、
「ナニッ! 一八万トン解傭を陸軍に要求するとは統帥干渉だ。生意気だ」
と怒鳴り、一言二言やり合って、鉄拳を飛ばした。
佐藤も血の気が多い。負けてはいなかった。
「|撲《なぐ》ったな」
と反撃に出た。陸軍省部の要職にあって閣下と尊称される二人がである。
この二人は陸軍次官の仲介で和解したが、問題は残った。
先の損耗補填八万五〇〇〇トンは、田辺参謀次長と鈴木企画院総裁の間で、損耗が著しく超過した場合には改めて協議するという妥協案つきで統帥部が同意したが、東条総理は「閣議決定の通り。いかなる場合でも八・五万トンを超えてはならぬ」ときめつけた。十二月六日のことである。
陸軍統帥部にとっては、東条のこの決定はガ島作戦の中止を命ずるにひとしいものと受け取られた。田中作戦部長は参謀次長の反対を押し切って、十二月六日夜半、総理官邸へ押しかけた。折衝が成るにしても成らぬにしても、田中部長限りの責任において問題を処理する決心であったと考えられる。
東条の見解は、こんなに予定外に船を消耗されては、物動計画が崩れ、戦争経済が破綻する、統帥部は閣議決定の範囲内で作戦をやれ、ということである。決定以外には一トンも出すことはできない。
田中は喰い下ったが、東条は受けつけなかった。
田中は怒りを爆発させた。
「馬鹿野郎」
「何事を言いますか」
東条はこの瞬間に田中の|馘《くび》を考えたであろうし、田中も覚悟の前であったろう。
翌七日早朝、東条は杉山参謀総長に田中新一部長の更迭を要求した。陸軍大臣は軍人軍属統督の立場にある。
田中は重謹慎十五日の処罰を受け、南方軍総司令部附に転出した。
田中の後任には綾部橘樹少将が発令され、つづいて十四日、作戦課長服部大佐が転出して、後任に真田穣一郎大佐が発令された。
田中追放の代償であるかのように、東条は、統帥部に対して、一月から三月までの船舶損耗量が予定より増加した場合には、改めて大本営政府間で協議決定することを承諾した。
陸軍統帥部首脳陣の強硬派の随一、田中作戦部長の転出がガダルカナル作戦打切りの転機となったのは事実である。別の表現を用いれば、硬派の作戦部長がその職にとどまり得なくなるように、戦勢が露呈した諸条件が既に一つの契機を求めていたのである。
もう一つの重要な転機は、海軍から来た。十二月九日、開戦満一年を経過した翌日、現地海軍が今後駆逐艦による輸送を中止したい、と第八方面軍に申入れしたことである。後述するように、駆逐艦輸送も成功率が低くなったばかりでなく、これ以上駆逐艦を失っては、連合艦隊としての機能に致命的な支障を生ずる、というのであった。
こうして、ガダルカナル撤退問題は、遅きに失したが、中央では急速に煮つまりはじめていた。(決定までの経過は後述する。)知らないのは現地軍ばかりである。
船舶問題で中央が紛糾していた数十日間、ガダルカナルでは飢餓と疾病が急速に進行した。毎日四、五〇名が死んでいった。十二月末までに大部分が消滅しかねない計算が立つほどであった。
船舶増徴に戻るが、増徴した船舶には兵装が必要であり、これがまた小さからぬ問題であった。兵装し、所要弾薬を用意し、兵器の操作要員をととのえるなど、問題は次から次へと出てきた。
さらに、大きな問題があった。船が出来、兵員を乗せ、軍需品を積んだとしても、従来等閑視されてきた海上護衛力の欠如が|祟《たた》って、船舶稼働の効率は著しく低下していた。行先地の海運施設は貧弱をきわめ、ために、滞船の増加が机上の予定をはるかに上廻った。
内地ラバウル間の一航海が五〇日から六〇日もかかるほどであったという。(戦史室前掲書)
これでは、統帥部が要求通りの増徴船を取得したとしても、先に記述した大本営指示に盛られていたような大兵力、厖大な軍需品を、能率の低い輸送組織で、危険海域を通って、十分な余裕を見込まれていない予定期日までに、輸送、揚陸、集積することは、ほとんど不可能といってよかったのである。
第八方面軍司令部は、統帥発動以来、作戦研究を進めていたが、ガダルカナル攻略作戦に関しては、十二月の月の出ない期間中に糧秣一カ月分を集積し、一月上旬に第二、第三十八師団の兵力補充を行ない、二月上旬に一挙大船団輸送を決行するという腹案で研究を進めてみても、船団輸送に確信が持てるという結論は出なかったようである。
十二月九日、十七軍参謀長から第八方面軍参謀長に宛てた電報に、補給輸送の努力と実績との懸隔が数字によって示された部分がある。
十一月三十日ヨリ本月九日迄ニ計画セラレタル輸送駆逐艦数ハ三二隻(四回)ニシテ、内揚陸セシメ得タルハ七隻(一回)ノミ 而モ其ノ七隻カ海中ニ投シタル「ドラム」缶ト実際揚陸セシメ得タル「ドラム」缶トノ比ハ五対一ナリ
七日夜ノ如キモ我カ一〇隻ノ駆逐艦ハ敵ノ魚雷艇六ノ攻撃ヲ受ケ軽戦後揚陸セスシテ帰還セリ(戦史室前掲書)
このころは、駆逐艦輸送も大小発による揚陸はほとんど出来なくなり、ドラム缶に補給品を詰めて海中に投じ、陸兵が曳き網を曳いてドラム缶を陸に揚げる方法をとっていた。先に大本営が第十七軍の作戦指導について指示(十一月十五日)した中に、「各種ノ手段ヲ尽シテ輸送シ云々」とあったことの、右は一つの表われなのである。
手段はどうであれ、輸送した補給物資が五対一の割りでしか陸岸に達しないということは、まるまる揚陸してさえ不足な補給が、もはや救い難い破局に瀕しているということである。兵たちの生命の灯は、次から次へと消えてゆきつつあった。
十二月中旬、第八方面軍司令部は、ガ島をめぐる一月末の状況を予想して、航空作戦と船団輸送の細部を検討するための兵棋演習を行なった。海軍側からも大本営からも各参謀が立会った。
この兵棋演習では、彼我の航空勢力を次のように想定していた。(戦史室前掲書)
米豪側
モレスビー B17四〇 戦一〇〇
ラビ B17二〇
ブナ B17一〇
エスピリサント島 B17六〇
ガダルカナル B17三〇 外一〇〇
日本側
ムンダ 九〇
バラレ 四〇
ブイン 二〇 中攻一七
ラバウル 二〇
ブカ 二〇
右を見て推定し得ることは、ガダルカナルに対して他方面からの航空兵力の増援がないものとすれば、戦闘機に限れば一時的に制圧を予想することは不可能ではない。だが、B17に対しては零戦の攻撃もほとんど決定打とはなり得なくなっている。もし、エスピリサント等の後方基地から増援補給があったり、敵機動部隊から大挙して発進して来たりすれば、戦闘機の制圧さえ確実とは言えない。結論として、大本営の机上作戦案に謳われている航空撃滅戦──実はそれがガ島奪回のための基本的前提条件となっているのだが──その航空撃滅戦に成算は立たないというのであった。
次に、船団輸送に関しては、輸送船一五隻ずつ三回ぐらいに分けて実施する方法が研究されたが、ガダルカナル泊地に到着するまでに全部沈没することが予想される兵棋演習の結果であったという。よしんば、五〇隻の船団を編成して、その半数が泊地に入り得たとしても、翌朝までに全部火災を起こし、沈没は免れないという絶望的な状況を予測しなければならないことを、兵棋演習は示した。航空撃滅戦の成否と船団輸送の成否とは、二者不可分なのである。
東京中央も方面軍も、客観的現実的条件からすれば、一日も早く発想の転換を必要とする時期に来ていた。
ガダルカナルでは、十一月中旬以後、第十七軍は、第一線戦闘員、患者を合計しても六個大隊にも満たない兵力で、敵の制空制海権下という悪条件の下に、後方を敵に遮断され、圧倒的に優勢な敵と対峙していた。
第一線陣地では、歩行出来ない傷病兵が陣地の守備に任じ、杖に|縋《すが》ってでも歩行し得る者は後方の糧秣運搬に当っていた。
米軍は、マタニカウ右岸に後退して以後、ククム付近に新たな滑走路を造成し、十一月十七日から、再び連日砲爆撃を伴う攻撃を開始した。日本軍をマタニカウ左岸地帯からポハ川(コカンボナの西)方向へ圧迫する企図であったようである。二十六日にこの一連の攻撃はやんだが、二十三日には十七軍戦闘司令所が二回も爆撃され、軍司令官、参謀長は軽傷を負い、専属副官と護衛憲兵が即死した。謄写器具一切、情報書類、事務用品などが破砕飛散し、事務処理にも事欠くようになった。司令所は同日夜、丸山道をさらに一五キロ南東に入り、九〇三高地南側に移動した。
軍に対する補給は駆逐艦輸送も困難となり、十一月二十四日以降潜水艦が連日カミンボに入泊したが、それも十二月九日、入泊予定の伊第三号潜水艦が米魚雷艇によって撃沈されてから、海軍は潜水艦輸送を当分中止と決定した。(宮崎前掲手記)
糧秣の陸上搬送力が乏しいため、第一線部隊は、場所によっては絶食六日というところもあった。
何十日も半定量以下で凌ぎ、その上六日も絶食して戦闘に耐えなければならないのである。生ける|屍《しかばね》が陣地を死守していたといっても過言でない。
最悪の給養状況で、十二月三日の十七軍命令による第二師団の任務は、ポハ川以東の海岸線防禦と小川の線付近の現防禦線を確保すること、第三十八師団の任務は、アウステン山の攻勢拠点を強化し、東部見晴台と西部堺台を結ぶ現防禦線を確保することであった。
十二月三日以来ガ島の実情視察に来ていた方面軍参謀副長佐藤傑少将が、方面軍司令部に打った電文中に次のくだりがある。
「第二師団ノ大部ハ戦意喪失シ其一部分カ辛シテ現線ヲ保持シアル現況ニシテ(以下略)」
「第三十八師団モ現在ノ如キ補給ノ状態ヲ以テセハ其大部ノ防禦戦闘能力ハ概ネ本年末迄ヲ以テ限度ト判断セラル」
反面、大量補給と増援によって戦力を増している米軍は、十二月中旬以降、アウステン山正面に向って自動車道を構築、大挙来襲の気配を見せ、ルンガ上流の丸山道方向にも近迫して来て、最後の時がじりじりと迫りつつあった。
十二月二十四日の在ガ島日本軍の電信は、糧秣事情の急迫を告げて悲鳴に近いものがある。
「今ヤガ島ノ運命ヲ決スルモノハ糧秣トナリ而モ其ノ機ハ刻々ニ迫リツツアリ」
「打続ク糧秣ノ不足殊ニ二十日以後僅カニ木ノ芽、椰子実、川草等ノミニ依ル生存ハ 第一線ノ大部ヲシテ戦闘ヲ不能ニ陥ラシメ 歩行サヘ困難ナルモノ多ク 一斥候ノ派遣モ至難トナレリ」(電文──戦史室前掲書)
十二月中にガ島に輸送揚陸した糧秣は十分の一定量に過ぎなかった。それさえも十七日には絶えてしまったのである。
54
田中作戦部長と東条首相との激突から、作戦部長が更迭(十二月七日)になり、そのことがガ島戦を打切りへ導く契機となったことは事実だが、現地は勿論のこと、東京中央でもガ島撤収を正面から持ち出すことは、まだ暫く誰もしなかった。
けれども、言わず語らず、ガ島戦打切りへ統帥部の空気は動いていた。
後任作戦部長がまだ着任していない十二月十二日、ラバウルの第八方面軍司令部は参謀次長からの次の要旨の電報(参電第一一九号)を受け取った。
その要旨は、第一項ではガ島に対しては既定方針を堅持し、このため補給路を堅固に設定する、となっていたが、第二項で、ニューギニアを固めることを重視する、このため第五十一師団を速かに指向する、となっていた。(第三、第四項略)
先にガダルカナルヘ充当を予定されていた独立混成第二十一旅団が、東部ニューギニアのブナ方面の増援に使用されたことは述べたが、第五十一師団に関しては、十一月十八日の上奏の際、「……機に投じて一挙に第五十一師団及び軍直轄部隊、軍需品等をガ島に強行輸送、作戦準備の促進拡充、十八年一月中旬を目途とする攻撃準備の完成……」と言ったばかりである。
その第五十一師団を速かにニューギニアに指向するというのは、東部ニューギニア北岸の要地が危殆に瀕しているという事情もあるが、ガ島奪回のための大兵力の集中という意気ごみが俄かに薄れて、戦略転換の必要が統師部の意識を浸しはじめていた証拠の一つと見ることが出来るであろう。
日時が多少前後するが、戦線では、歩行不能の傷病兵が陣地を守り、杖に縋ってでも歩ける兵隊は糧秣の搬送にあたるという状態であったから、米軍が徐々に圧力を強めて攻勢に出る気配が寄せられると、このまま攻勢を強化されれば陣地保持はほとんど不可能になると思われた。したがって、敵の攻撃力を高地陣地地帯で分散させる必要があり、さらに、日本軍側からの攻勢を示して、米軍に危惧感を生ぜしめ、みずからの攻勢企図を疑わせる必要があった。
第三十八歩兵団長伊東少将は師団命令によって、機をみてイヌ高地の敵を急襲して同高地及び堺台の線に捜索拠点を推進するという任務を与えられていたが、この任務の実施には、岡部隊長(歩一二四)の指揮下にあった歩兵第二百二十八連隊第八中隊(長・藤田巌中尉)があたった。
藤田中隊は、十一月三十日、折りからの豪雨を衝いて、薄暮、敵陣奇襲に出発した。友軍砲兵は弾薬僅少ながら支援射撃をした。
藤田中隊はイヌ高地陣地の北部台上を東から西へ向って突破し、一本木付近を通過してマタニカウ川河谷に沿って帰還した。藤田中隊長は敵陣鉄条網を破壊する際に、側防火器の射撃によって戦死した。
この出撃は、イヌ高地から堺台を結ぶ線に捜索拠点を推進するという目的は果さなかったが、本格的攻勢をとるだけの物的戦力を失った日本軍が、優勢な米軍の神経を撹乱する効果はあったようである。
十二月六日には、工兵第三十八連隊から、第二中隊の中沢少尉、第三中隊の寺沢少尉が、それぞれ部下四名を率いて挺身斥候となり、敵の後方施設の破壊撹乱のためアウステン山を出発し、寺沢隊は十四日に、中沢隊は十五日に無事帰還した。中沢隊は飛行機二、給油車二、照空灯一を爆破、寺沢隊は砲兵陣地一カ所、幕舎二を爆破したという。
十二月十五日、第三十八師団司令部附大野中尉以下三名が、米軍の指揮中枢を撹乱の目的をもって出発したが、この挺身隊は遂に一名も帰還しなかった。
十二月十三日から、米軍の砲兵、飛行機の活動が再び激しくなり、第三十八歩兵団正面では米軍が陣地を逐次推進して、アウステン山攻略の気勢を示しはじめた。
右記したような小部隊による挺身攻撃は、ほとんど絶食に近い状態を強いられていた日本軍将兵の肉体的衰弱を思えば、その勇敢と闘志には驚嘆すべきものがあるが、作戦的には、所詮、局部的、散発的な、微々たるゲリラ的活動に過ぎなかった。
十二月二十五日ごろの第三十八師団の給養兵額は、約六〇〇〇、うち戦闘に耐えるものは二五〇〇を割っていた。戦闘に耐える、という表現は、既に再々触れてきた通り、決して健兵を意味しない。動けない傷病兵でも壕内にあって銃の|引鉄《ひきがね》を引ければ、戦闘に耐えるものなのである。どうにか歩行出来るものの三割は、十二月下旬に揚陸を予想されていた糧秣の前送のために配置されていた。
第二師団は、既述のように、十月下旬の攻撃失敗後、飢餓と戦いつつ消耗した体力をもって、マタニカウ川上流河谷方面からコカンボナ付近に集結しつつあった。コカンボナ、タサファロング間に集結をほぼ終ったのは、十一月末のことである。
第二師団では、歩兵団長、各歩兵連隊長は、先の総攻撃と十一月上旬の米軍の攻撃によって、全部戦死し、後任各部隊長に交替していた。
第二師団戦闘司令所は、十二月五日にはポハ川右岸に、六日には勇川右岸に推進したが、師団正面の敵は、師団第一線に絶えず砲撃を浴びせ、一〇〇名内外の部隊が出撃して来て、至近距離で手榴弾戦を交えた。
敵の砲撃による第二師団各連隊の死傷は毎日十数名、多いときには二、三〇名にのぼり、戦力は目に見えて減耗していった。
十二月中旬ごろの第一線の戦闘員は、歩兵第四連隊が約四五〇名、歩兵第十六連隊が約六〇〇名であったが、その約三分の二は戦病または後方勤務で、実際に第一線で戦闘に従事出来るのは一〇〇乃至二〇〇名に過ぎなかった。(戦史室前掲書)
給養状態は悪化する一方であった。師団全体として、各人一日四分の一乃至六分の一定量で、月明のために駆逐艦輸送が出来なくなると、各部隊ほとんど絶食状態となった。
弾薬も欠乏して存分な交戦には堪えられず、薬品や衛生材料も補給がなく、給養の極度の不足と重なって、十二月中旬以降は師団合計で一日に四〇名内外の死者が出るようになっていた。
「月のうち七日ある闇夜は、熊部隊(元一木支隊──引用者)のみならず、二万の将兵の待ち焦れる日であり、月の出る夜は飢える日となりました。」(山本一『鎮魂ガダルカナル島』)
右書には、「前線への米を背負ったまま飢え疲れて死んでいった者のあることを郷土の人々に知らせるのは生き残った者の任務だと思っております。」とある。
衰弱した体で糧秣運搬に出て、背負っている米を食えば死なずにすんだかもしれないのを、戦友が待ち焦れている米を前線へ持ち帰ろうとして力尽きて死んだ兵隊も沢山いれば、また、次のようなのもいた。
「ある日この憲兵長が発言した。
このごろ、殺人事件が頻発している模様である。糧秣受領の帰途がねらわれる。疲れてどこでも構わず寝ているところを殺して、その米を奪うのである。残念ながら働ける憲兵が一人もいないので、各部隊が十分に注意して、一人では行動させぬよう、野宿の時も看視をおいて、みなで寝ないようにして貰いたい
味方が、本当に、味方を殺すようになったのか。日本兵が日本兵を殺すのだ。共に敵にむかうべき剣を、戦友の胸にむけはじめたのだ。恐るべき事であった。」(吉田嘉七『ガダルカナル戦詩集』)
軍隊は、それを生んだ社会の縮図である。社会にあるものは軍隊に全部ある。社会にないものは、その軍隊にもない。軍隊が極限状況に置かれれば、善悪ともに、最高度に濃縮された形で現われてくるのは当然であるといえる。
右書の著者もガ島で辛酸をなめ尽したと想像されるが、死と背なか合せでいてよく観察している。なまなかな創作などとても及ばない実在感がある。飢えとマラリアと過労とで死んでゆく兵隊の末路を次のように記している。
「三里か四里の道を、食糧もなく、熱を出しては倒れ、熱を出しては倒れして、十日もかかって辿りつく。(中略)
死なないうちに蝿がたかる。追っても追ってもよってくる。とうとう追いきれなくなる。と、蝿は群をなして、露出されている皮膚にたかる。顔面は一本の|皺《しわ》も見えないまでに、蝿がまっ黒にたかり、皮膚を噛み、肉をむさぼる。
そのわきを通ると、一時にぶーんと蝿は飛び立つ。飛び立ったあとの、食いあらされた顔の醜さ、恐しさ。鼻もなく、口もなく、眼もない。白くむき出された骨と、ところどころに紫色にくっついている肉塊。それらに固りついて黒くなった血痕。
これが忠勇な、天皇陛下の|股肱《ここう》の最後の姿。われわれの戦友の、兄弟の、国家にすべてを捧げきった姿。(以下略)」
敗軍は哀れである。ものの数にも入らない兵隊の死は、簡単に忘れられるか、はじめから関心さえも寄せられないという意味で、これほどむごたらしいものはない。
くどいようだが、死者の存在証明としてはくど過ぎることはあるまい。もう少し引用をつづける。
「ひどい所では、三尺幅の道の両側に一間おきぐらいにつながって死臭を放っていた。みながみな一度に斃れたのではない。もう綺麗に白骨になってしまったのもおれば、蝿のたかっているのもいるし、まだかすかに息のある者もある。けれどそれは単に時間の相違でしかなかった。そしてそれらの死体はほとんど例外なしに、ズボンをすっかりぬいでいたり、半ばはずしていたりした。
(中略)
あるとき道に迷った。ふと見るとむこうのボサのところに、兵隊が腰をおろしている。声をかけたが返事がない。へんだなと思い、前にまわってみる。
なんと、戦闘帽の下に顔がない。白くかわいた頭蓋骨が、黒くポッカリと|眼窩《がんか》をあけて戦闘帽をかぶっているのだ。被服はそっくりそのまま腐りもせず、巻脚絆をまいた足などは軍靴の中に収まっている。(以下略)」(吉田嘉七前掲書)
55
十二月に入ると、米軍の航空勢力の優勢はいっそう顕著になった。ソロモン諸島もビスマーク諸島も、ほとんどいつでもB17の哨戒圈下にあった。ラバウルやショートランドからの艦艇輸送は、出港すると直ぐに哨戒機に発見されるようになった。
既述の通り第八方面軍司令部が兵棋演習を行なって(十二月中旬)、悲観的な結論が出される前までの段階では、十二月中旬末までに所要飛行基地を推進して、航空撃滅戦が展開されるはずであった。事実は、残念なことに、そのようには進展しなかった。予定通り戦力を増大し得たのは敵方であった。
十二月下旬、日本側の航空戦力は、陸軍の一式戦闘機四四、海軍機は五五の戦闘機を含めて一〇六機に過ぎず、敵方飛行機の活動は「傍若無人」としかいいようがなかった。我方は機数の劣勢もさることながら、長期間の航空消耗戦で優秀な搭乗員の多数を失ったことが、補いのつかない痛手であった。
十一航艦参謀長酒巻少将が、退任に際して、連合艦隊宇垣参謀長を訪れ、次のような主旨の話をしている。
今日のような戦況不利に陥ったのは、因はといえば航空技倆の低下である。天候不良とか何とか言うが、結局はそこに帰着する。現在の技倆は、従前の三分の一に低下している。新しく到着した戦闘機隊の現状を見ると、搭乗員六〇名のうち、零戦の搭乗経験のない者が四四名である。つまり、九六式戦闘機の経験者だけが多いから、到着後に改めて訓練をし直さなければならない状態である。今日このままでは局面打開の方法はない。ガ島に対しては成算がない。ただ、諸島基地を連綴する輸送及後方遮断は、実施してみる方がよい、どれだけの確実性があるかは、別問題であるが、というのであった。(宇垣前掲書)
増援に来ることになっている陸軍航空部隊は、十二月下旬になっても、まだ輸送途上にあり、陸軍機は当然のこととして洋上飛行には慣熟していないから、基地に展開と同時に戦力となることは期待出来なかった。基地推進も、ムンダ、コロンバンガラなどの飛行場設定は、敵機の連日の攻撃を受けて、作業が予定計画より著しく遅れていた。
総括していえば、航空撃滅戦は作戦に関する作文のようには進展せず、したがって、ガ島に対する輸送難は日々深刻の度を増しつつあった。
十一月の船団輸送潰滅後、現地も中央も補給方法に苦心を凝らした。ガ島戦は、いまや、敵と銃砲火を交える戦であるよりも、在ガ島日本軍将兵の露命を如何にしてつなぐかという、餓死との戦となっていた。
従来の駆逐艦輸送(鼠輸送)は、敵の哨戒と妨害が激しくなったため、駆逐艦の入泊が困難となり、既述のドラム缶を海中に投入するドラム缶輸送、防水ゴム袋を投入する方法、潜水艦による輸送が考えられ、逐次実施されたが、これらの成功率も決して高くはなかった。
連合艦隊としては、潜水艦を輸送に使用することは堪え難い苦痛であったが、在ガ島日本軍の餓死を救うためには余儀ない措置であった。第一回目の潜水艦輸送は十一月二十四日夜に行なわれたが、陸上との連絡不備のため徒労に終った。第二回目、十一月二十五日、伊十七潜による輸送がはじめて成功した。
この方法は十二月上旬まで反復されたが、既述の通り、十二月九日夜、伊三潜がカミンボ泊地で敵魚雷艇の攻撃を受けて沈没してからは、下旬まで中止となった。
再開されたのは十二月二十六日で、一月五日までに二五トン入りの米俵一五〇〇俵がカミンボに集積されたが、この苦心の結果の集積も、十七軍全軍にとってはほんの一時凌ぎに過ぎなかった。
ドラム缶輸送の第一回目は、十一月三十日、駆逐艦六隻に各艦ドラム缶二〇〇個を積み、二水戦司令官指揮のもとに警戒艦二隻と共に出撃したが、サボ島付近で海戦(後述)となったため、輸送は中止された。
二回目は十二月三日、駆逐艦一一隻をもって行なわれた。途中敵機に捕捉されたが、駆逐艦隊は突進を続行し、タサファロング沖に一五〇〇個のドラム缶を投入した。しかし、陸上に回収し得たのは僅かに二一〇個に過ぎず、大部分は天明後敵機の銃爆撃によって沈められてしまった。
三回目の十二月七日は駆逐艦一一隻によって実施されたが、敵機の襲撃が激しく、野分が航行不能に陥り、嵐も被爆し、野分は長波が曳航、嵐と有明が護衛して帰途についた。残りの七隻は前進をつづけたが、ガ島付近で敵魚雷艇八隻の攻撃を受け、輸送目的を果さずに反転帰投せざるを得なかった。
翌十二月八日、既に一度触れたことだが、現地海軍は駆逐艦をもってする輸送を行なわないと、陸軍側に通告した。その詳細は後述するが、現地陸海軍の協議で、あと一回だけ実施することになり、第四回目として、十二月十一日、二水戦司令官指揮のもとに九隻がショートランドを出撃し、敵機の攻撃と魚雷艇の襲撃下に、ドラム缶一二〇〇個を投入した。その間、駆逐艦照月(旗艦)は魚雷一本の命中によって爆発炎上、沈没した。投入されたドラム缶は二二〇本が陸上に回収された。これは半定量として僅かに約三日分である。
海軍は毎回のように駆逐艦の犠牲を出しながら、補給に努力を傾けたが、ガ島の陸上では飢餓が破局へ向って進行していた。
こういう詩がある。(吉田前掲書)
「 米
一月を食わずにありて
一月め米は届きぬ
ゴム製の袋に入りて
見なれざる梱包なりき。
(中略)
われらかく食わずにありと、
心こめ送り来りし。
おろがみて押し頂けば、
はらはらと涙こぼれぬ。
されどせめて一日早く
なぜなれば届かざりしぞ。
一握の米をつかみて、
つつしみて墓前に供う。」
この飢餓と疾病の地獄から生還したとき、この詩人はそのころのことを次のように書いている。
「(前節略)
俺達は昨日まで
発熱激しい時は
一人で退いて
一人でふるえ
一人でうなっていた。
そして最後に自分で自分を始末した、
戦いの邪魔にならぬようにと。
大勢の戦友たちが、
自分で自分を始末しながら
つぎつぎ冷たくなって行くのを
俺達は見て来た。
俺も亦その日が来たら
そのようにするつもりで。」
航空撃滅戦を唱えながら、彼我の航空戦力の差はひらくばかりであった。優秀な搭乗員がいてさえ、零戦でB17を撃墜することは困難であったのに、我方の技倆は日毎に低下し、敵はB17の活動範囲が目立って広くなり、我方は手も足も出なくなった。
在ガ島日本将兵の眼に日本機の姿が映ずることはほとんどなくなったと言ってよい。
完全な敵の制空権下へ輸送のために艦艇が出動することは、毎回が決死行であった。それも毎回の揚陸が成功すればいいが、そうではなかった。海軍は、駆逐艦の損耗に次第に耐えられなくなった。十月下旬の第二師団の総攻撃失敗以後、駆逐艦輸送のたびごとに、敵機と魚雷艇によって、平均二隻ずつの損害を出し、僅かの期間に十数隻の駆逐艦が消えてしまったのである。造艦計画では、昭和十八年度一一隻、十九年度一〇隻であるから、造艦が順調に行くとしても、消耗に追いつかない。
駆逐艦の損耗を忍びながら輸送に使用するとすれば、連合艦隊としては、敵の有力艦隊が出現しても、決戦のためにその海面へ出撃出来ないことになる。これ以上、輸送のために駆逐艦を減らすことは耐えられない、というのが海軍の見解であった。
十二月八日、開戦まる一年目、十一航艦と第八艦隊の参謀が、軍令部の山本部員と連合艦隊の渡辺参謀と共に、第八方面軍司令部を訪れ、方面軍参謀に次のように告げたのは、右記した事情の結果である。
「駆逐艦輸送は行き詰まって、これ以上継続出来ない。これ以上駆逐艦を失うことは、連合艦隊の作戦を危険に陥入れることになる。したがって、今日限り駆逐艦輸送は実施せず、ガ島に対しては潜水艦輸送を行なう。(ニューギニア関係引用者省略)」
由々しい問題であった。幕僚相互の談合で解決すべき問題ではないとして、同日夕刻から、今村第八方面軍司令官、加藤参謀長、草鹿十一航艦司令長官、酒巻同参謀長の四者会談に委ねられた。
四者会談の結果は、ガダルカナルに対してはもう一度だけ駆逐艦輸送を行ない、その後は潜水艦輸送によって月末までの糧食を輸送する、ということになった。(ニューギニア関係略)
第八方面軍参謀長は東京の参謀次長宛てに、十二月十六日、右の艦艇輸送中止案に関連する電報を打っているが、長文なので、一部分だけを引用する。
「ガ島ノ糧食保有量ハ半定量トシテ沖(第十七軍の通称名)ノ報告ニテハ十二月十六日迄ニシテ今ヤ殆ト完全ニ敵ノ為ニ糧道ヲ断タレントスル状態ニ陥レリ(中略)|今後ニ於ケル作戦上ノ如何ナル施策モ先ツ補給ノ確保ヲ根基トセサルヘカラサル所《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、之カ確保ニ関シ極メテ憂慮スヘキ状態ニ陥レルヲ遺憾トス(以下略)」(傍点引用者)
傍点部分が事ここに至ってはじめて言われるような「帝国陸軍」の体質を奇異としなければならない。飛行機や軍艦の燃料ははじめから気にしたが、人間の食糧はさして気にもしなかった。欠乏しはじめてきて周章狼狽したが、もう遅かった。それが、ガダルカナルたるとニューギニアたるとを問わず、日本軍の用兵の本質的な欠陥であった。
艦艇輸送中止の件は東京中央でも論議されて、そのころ後述するようにガ島攻略か放棄かを内々で検討しはじめていた海軍部は、陸軍部からの強い要望を容れて、十二月二十日、連合艦隊に対して左の指示を出した。
連合艦隊司令長官ハ差当リ艦艇等ノ多少ノ損耗ヲ忍フモ為シ得ル限リノ手段ヲ尽シテガダルカナル所在部隊ノ生存ニ必要ナル糧食補給ハ之ヲ継続スヘシ
これでガ島に対する艦艇輸送が再開されることになったが、それでガ島の飢餓が解決されたわけではなく、苦痛を忍んで決死行を反復する現地海軍の問題が解決されたわけでもなかった。
56
十一月中旬の船団輸送の惨澹たる潰滅後、在ガ島将兵に糧食、弾薬を補給して占拠地点を確保させることが、連合艦隊にとっての緊急課題であった。在ガ島米軍は、しかし、航空兵力を増強し、月明期には日本側としてはほとんどなす術がなかった。
洗浄したドラム缶に糧秣を容れ(浮力を保つ程度に)、二〇〇個乃至二四〇個のドラム缶を索で連結し、駆逐艦の甲板上から海中に投入し、索の端末を小発が陸上に渡して、陸上に引き寄せるという方法は、敵の制空権下での苦しまぎれの考案であった。
十一月三十日、第一回目のドラム缶輸送が前述の通り行なわれた。駆逐艦を使用する輸送としては、十一月十日の五隻以来二〇日目であった。
今回は二水戦司令官田中頼三少将の指揮する駆逐艦八隻で、うち旗艦の長波と高波の二隻は警戒艦、他の六隻が搭載艦としてそれぞれドラム缶約二〇〇個を積んでいた。ドラム缶を積んだ艦は安定性保持のため予備魚雷八本をブインに揚陸し、二十九日午後十時三十分ショートランドを出撃、北方航路をとってガダルカナルへ向った。
揚陸点としては、海軍は敵の魚雷艇を避けるためになるべく西方を希望したが、陸軍は陸上輸送の困難から、なるべくタサファロング付近を希望したので、結局、タサファロングとセギロウ川河口付近とした。
輸送隊は三十日早朝から敵機に接触された。午後三時ごろから敵機の爆撃圏内に入ったが、折りからの猛烈なスコールのせいか、敵機の来襲はなかった。
友軍索敵機から「本日昼間ルンガ沖に敵駆逐艦一二隻、輸送船九隻を認む」と電信があり、田中司令官は「今夜会敵の算大なり。会敵せば揚陸に拘泥することなく敵撃滅に努めよ」と信号した。
午後八時ごろ、輸送隊はサボ島南西方に進出、「高波」は前路警戒のため先行した。
八時半ごろ、揚陸予定に従って、第十五駆逐隊三隻(親潮、黒潮、陽炎)はタサファロングへ、第二十四駆逐隊三隻(江風、涼風、巻波)はセギロウ海岸へ向った。八時四十分ごろ、敵機三乃至四機が航空灯をつけて低空哨戒しているのが認められたが、発見されたか否かは不明であった。
午後九時十二分、「高波」から敵らしき艦影の発見を報じ、次いで「敵駆逐艦七隻見ゆ」と急報した。
ドラム缶搭戦艦は投入準備をしているときであった。二水戦司令官は直ちに「揚陸止メ、戦闘配置ニ就ケ」と下令した。
間もなく、米軍機が吊光弾多数を陸と輸送隊との間に投下し、敵艦隊の方が先に一斉砲撃を「高波」に集中した。
水雷戦隊の全軍突撃が開始された。
「高波」は敵の二、三番艦に命中弾を与え、火災を起こさせ、その火災が期せずして背景照明となったため僚艦の戦闘を有利に導いたが、「高波」自身は敵の集中砲火と魚雷を受け、サボ島南方五浬の地点に沈んだ。
米艦の火災の後方を通過する艦影からして、敵艦の数が意外に多く、しかも大型艦であることを知った旗艦長波は、反航対勢で照射射撃を行ない、|面舵《おもかじ》反転して約四〇〇〇米の距離から敵巡洋鑑列中央鑑に対して魚雷八本を発射した。敵からの集中射を受けたが、被害はなかった。
各隊駆逐艦それぞれに魚雷を発射し、砲撃を加え、敵艦が相次いで火災を起こすのを確認している。
夜戦は三十分あまりで終了した。
午後十一時ごろ、高波が沈没しかけているのを発見して、親潮がカッターを下ろし、黒潮が横づけしようとしているところへ、敵巡二、駆逐艦二が近距離に現われたので、駆逐艦二隻(親潮と黒潮)は避退せざるを得なかった。各艦は魚雷を全部発射してしまっていたから、突入も出来なかったのである。
二水戦司令官は分散した各艦にサボ島南西方への離脱を命じ、十二月一日午前一時三十分ころ、集結を終った七隻は、中央航路をショートランドヘ向った。ドラム缶輸送の目的は果せなかった。
海戦の結果(戦後の調査)は、我は駆逐艦一隻を失っただけであるのに対して、米側は重巡一隻沈没、重巡三隻大破であった。
このルンガ沖夜戦(米側呼称はタサファロング海戦)は、圧勝といってもよいほどの二水戦の勝利に終ったが、二水戦司令官に対する評価は、日本側では芳しくない。戦闘前の午後四時四十五分からの単縦陣制形のときに、旗艦長波が中央に位置したことは、日本海軍の伝統を破るものであり、夜戦開始の際長波は一撃を加えただけで避退してしまい、全軍の適切な戦闘指導を行なわず、夜戦は各駆逐隊、各艦ごとの戦闘になってしまった、というのである。(戦史室前掲『海軍作戦』(2))
ルンガ沖夜戦合戦図を綿密に辿ってみると、「長波」が他の駆逐艦たとえば親潮、黒潮などに較べれば、戦闘海面にあまり複雑な航跡を印していないことは事実である。だが、まっ先に避退してしまうことが出来たものかどうか、断定を急ぐことには疑問がある。
不思議なことに、戦後周到な調査をした米側の評価はまるで違うのである。
「ニミッツは……日本の砲火、魚雷戦の技術、エネルギーと忍耐と勇気を賞讃した。……田中(二水戦司令官──引用者)は飛び切り素晴らしかった。……駆逐艦一隻を代価として重巡一隻を撃沈、他の三隻をほとんど一年にわたって戦闘不能とした。戦争における多くの作戦について、アメリカ側の過誤は、敵側のそれによって帳消しにされてきたが、田中は、その駆逐艦隊の短時間の混乱はあったにしても、タサファロングでは誤りを犯さなかった。」(モリソン『合衆国海軍作戦史』5)
旗艦長波が勇敢な高波同様の行動をとっていたとしたら、海戦全体が如何なる結果をもたらしたかは想像できない。
二水戦司令官の評価がどうであるにせよ、駆逐艦隊が重巡戦隊を混戦に陥れて勝利を得たのは奇異のことであると言ってよい。
この海戦は、ガダルカナル争奪をめぐって起きた海戦の最後のものとなった。
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ガ島戦の前途に希望を認め難いこと、作戦転換の必要のあること、あるいは、作戦打切りの必要のあることを、いつ、誰が考えはじめたかはわからないし、詮索してもあまり意味がない。既述の山本筑郎参謀が転換の必要を議論の席上で進言したのが、いつであったか、どのように公式に受けとめられたかについては、辻参謀は書いていない。しかし、度重なる攻撃失敗、輸送失敗、いまや幽鬼と化しつつある十七軍将兵の実情を見て、誰も考えなかったはずはない。大胆に作戦の打切りや撤退を公式の場で言い出す勇気がなかっただけのことであるにちがいない。
陸軍では、十一月十九日、大本営参謀岩越少佐のラバウル出張報告が作戦課内で行なわれ、その際、現地の辻、杉田両参謀の「勝算はきわめて少い」という意見が伝えられている。作戦課内という狭い範囲ではあるが、重要な場で、攻勢再興に対して否定的な響きのある発言がなされた最初のことではなかろうか。
海軍でも、ほぼそのころと思われるが、十一月十七日にトラック島を出発した連合艦隊の三和、渡辺両参謀が、軍令部首脳に戦略転換の意見具申をひそかに行なった。この戦略転換がどの程度までを言ったのかは判然しない。宇垣参謀長の日誌(十一月二十日)に、「……ガダル方面は維持程度に止めざるべからず、即ち作戦方針の大転換なり……」とあるから、とても撤収の必要までが進言されたとは思えない。
先に述べたように、ガダルカナル作戦を結局は打切りに導いたのは、船舶問題である。東京中央は、十二月上旬末まで、船舶問題で既述のようにもめにもめた。その間、現地では、毎日数十人ずつ餓死、病死しつづけたのである。
それまでに、十一月下旬、辻参謀が東京に帰還して、既に記したように悲惨なガ島の状況を述べたりしているが、ガ島放棄という重大問題が、公式機関で公式に議題にのぼったことはない。
強硬派の筆頭と目されていた田中作戦部長が東条首相(兼陸相)と衝突して、南方総軍へ転出となるのが十二月七日である。田中部長がすべてに関係し、すべてを決定したのではなくて、解決を求めていたすべての問題が、田中部長転出を時機的にちょうど大きな曲り角としていた感じがある。
海軍は、作戦の重点をガ島からニューギニアへ転換するにしても、あるいは撤収まで行くにしても、戦略転換としては陸軍よりはるかに容易であった。陸軍のようにほとんど不可能とも思える兵員の撤退問題はなく、艦隊の移動で事は足りるからである。したがって、撤収か否かの重大問題にも比較的柔軟な思考を維持することが出来たが、海軍側から撤退論を言い出すことは出来なかった。第一に、ガ島問題は海軍側の作為と不注意から起きたことであり、第二に、三回の攻撃失敗は陸軍の責任だが、作戦に必要な輸送補給を完うし得なかったのは海軍の責任である。第三に、このまま、もし撤退の余儀ない結果となれば、よしんばそれが大本営の命令であっても、現地陸軍は海軍に恨みを抱いて釈然としないであろう。
田中陸軍作戦部長転出の翌日、十二月八日、連合艦隊の黒島先任参謀が上京するに際して、宇垣参謀長は右のような含みで注意を与えたようである。
黒島先任参謀は十二月九日東京着、軍令部首脳と意見を交換し、服部陸軍部作戦課長とも談合して、服部課長はニューギニアへの重点移行には同意した。(服部課長はその職を去る直前であったから、撤退か否かのような重大事には触れなかったであろうと想像される。)
このころ、ガ島戦を如何にするかについて、陸海軍部双方の作戦課の少数の者が極秘裡に討議をはじめたようである。その討議のなかで海軍側の一部に「ガ島見殺し案」があるのを、陸軍側の辻参謀が聞いて激怒し、問題が大きくなりそうになって、陸海軍の交渉を部長以上に移すことになったという。(戦史室前掲書)
十二月十二日、東京出張中の連合艦隊黒島先任参謀は、東京での交渉経過を連合艦隊司令部に打電した。宇垣参謀長日記には「先任参謀より東京に於ける交渉状況を電報し来る。軍令部は全然同意、陸軍も一応了解、真剣なる研究を開始せり」とある。少し補足説明の必要があるであろう。三回の攻撃失敗のあとのガ島の状況は、奪回必成の可能性はほとんどなく、ただガ島にある十七軍将兵を細々と食わせるだけで、その補給を続けること自体が連合艦隊の艦艇を喪失しつづける現状である。したがって、大局的見地から、ここらで撤収を考える汐時である。ただ、撤退の方法が大問題であった。敵の航空基地の眼前で撤退するのは難事中の難事である。黒島先任参謀の感想では、このころは、まだ、陸海軍部双方の作戦課では、意見の一致をみていないようであった。
田中作戦部長転出の一週間後、十二月十四日、服部作戦課長が陸軍大臣秘書官に転出し、後任には陸軍省軍務課長真田穣一郎大佐が任命された。
真田新作戦課長は、転出する服部大佐から事務の引き継ぎを受けたが、ガ島に関しては困惑しきっていたようである。真田少将日記に、日付ははっきりしないが、前課長から受け継いで間もないころと思われるところに、次のように判読される走り書きがある。
「イクラ考ヘテモ正直ノ処十分ナル確信ハナイ 船ノ関係モアリ抜キ差シナラス
三万ミコロシハ不可ナルモ不確|信《ママ》ナ事ヲヤリ物動ヲコハシテハ国家ノ前途ヲ……
第八方面軍ハ今日迄自信ナシ
軍司令官ハ湊川ノ楠公
自信ハナイカラヤラサルヲ得ス コレカ真ノ心境ラシイ
杉田(参謀──引用者)ナトハヤレハ破メツト考ヘアリ(以下略)」
十二月十五日、新作戦部長として綾部橘樹少将が満洲(第一方面軍)から羽田に到着した。
翌十六日、南東方面の主任参謀の瀬島少佐(前月下旬竹田宮中佐から担任引き継ぎ)が、真田課長に作戦経緯や現状を報告したが、この時点では、まだ、ガ島撤退に関して、主任幕僚が作戦課長に公式報告としては行なっていない。
真田作戦課長は、十二月十七日、作戦班の瀬島少佐、航空班の首藤少佐を帯同して南太平洋方面に出張した。目的は勿論第八方面軍と連絡して、ガ高戦に関する中央の策案を固めるためである。
ガ島戦が戦略転換を必要とする時期に来ていたことは確かだが、転換といっても、その内容には深刻に異ったものがあった。まず、作戦重点をガダルカナルから東部ニューギニアに移行する。その間、ガ島での攻勢を維持する。あるいは、最低限の補給を行なって在ガ島将兵に玉砕するまで持久戦をやらせる。もしくは、危険を冒して一挙に撤退させる、等である。
詮じつめれば、三万の在ガ島将兵を餓死させるか玉砕させるか、それとも、敵の眼の前からかき消したように一挙撤退させることが出来るか否か、である。
真田作戦課長がラバウル方面出張に際して、ガ島戦の転換をどのように考えていたかを、正確に測定することは困難である。推測するのに、彼は、ガ島三万の将兵を撤退させることは技術的にほとんど不可能と考えていたのではあるまいか。とすれば、玉砕に至るまでの持久戦が余儀ないこととなる。
作戦課長の一行は十二月十七日横浜─サイパン、十八日サイパン─トラック、十九日トラック─ラバウルという旅程で飛んだ。往復ともに一行は連合艦隊司令部(トラック)に立ち寄っているが、問題の核心に関しては互に触れていない。
往路、サイパンで(十七日)、真田課長は出張から東京へ帰還途中の|兵站《へいたん》班長高山中佐、馬淵参謀と会い、高山中佐から現地状況の深刻な報告に接している。これは新作戦課長に強烈な影響を及ぼしたらしく、走り書きされた日誌の処々に次のような字句が判読される。
「ガ島輸送ノ困難性、成功ノ困難性 ガ島ニ対スル航空撃滅戦ノ見込確信ナシ(中略)
ニューギニアニ対スル事ヲ考ヘルトガ島ニ対スル丈ケノ航空撃滅戦ハ無意味(中略)
我海軍ノ無力 我制空権制海権アルハラボールノ近辺丈ケナリ 実ニ貧弱ナリ 補給ノ時ノ潜水艦 駆逐艦ノ勢力到底問題トナラス(中略)
鼠輸送ヲコツコツ手当ヲシテ強行スル意志ハ毛頭ナシ(中略)
軍需品丈ケテモ六〇隻使ツテ進入シテ1/2〜2/3ヤラレル(中略)
ガ島ニ対スル自信ハ海軍ハ既ニナイ 陸軍ノ口ヲ通シテ止メサセヨウトカカツテヰル(中略) ガハ止メタ方カ可」(真田日記)
ラバウルでは、十二月十二日、第八艦隊参謀神大佐が、第八方面軍井本参謀に対して、海軍側は自信がなくなった、大本営からも近く命令が来ると思うが、攻撃計画と引く計画の二本建てで立案する必要がある、という申し入れがあった。(戦史室前掲書)
ガ島戦の初期、ガ島には一個大隊も投入すれば十分であると敵を軽く見ていた神参謀が、変れば変るものである。
神参謀のこの申し入れの背景には、輸送の苦肉の策として駆逐艦によるドラム缶輸送がはじまり、十二月八日にはそれすらも中止の申し入れをしなければならぬ事態となり、一方、ニューギニアでは、同じ日、バサブア守備隊が遂に玉砕するに至っていたのである。
十二月十四日、連合艦隊の渡辺安次参謀から第八方面軍に対して、ガ島撤退の場合は如何にするか、陸海軍幕僚間で研究したい、という提案があった。
撤退という問題が問題だけに、この時点ではまだ表立って研究するのは軍としては憚られ、井本参謀が個人的に研究の相手となることにしたという。(戦史室前掲書)
十二月十九日午前、第八方面軍司令官、同参謀長、参謀全員が会同して、その日午後到着が予定されている大本営作戦課長に対する説明事項を協議した。
真田作戦課長一行のラバウル西飛行場着陸は、十二月十九日午前九時三十分であった。
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真田作戦課長はラバウル到着早々に公式に各種事情聴取を行なったが、それとは別に、二十三日にラバウルを発つまでに、今村軍司令官以下の各参謀から、個別に、ガ島戦に関する腹蔵ない意見を聴取した。それらが、真田日記に|夥《おびただ》しい諸々の事項と入り混って走り書きされている。意見聴取をした相手の数も多いし、記録も長いので、完全引用ではなく、引用もしくは要約して以下に述べる。それぞれの見解が真田課長に深刻な影響を及ぼしたと考えられるからである。順序は日記に誌された順であって、位階には関係ない。
加藤道雄参謀
誰レモ自分ノ面目トカ悪者ニナラヌ様ニシテ国家ヲ危クセヌ事。一切ノ私ヲ去リ、大局ヲ見テ善処アリ度。ガ島ニ於テハ悲痛ナルモノアリ。今ノ海軍ノ状態、実力カラスレバ、今奪回ハ至難ナリ。(中略)此際ガ島ノ急速ナル奪回ハ断念スベキナリ。
草鹿十一航艦司令長官
海軍トシテハ何ントカガ島ニ喰ハサネバナラヌ。然ルニ飛行機ハ殆ドツブレ、駆逐艦ハ一八隻ノミトナツタ。コレ以上潰レタナラバ国防ハ担任出来ナイカモ知レヌ。ソコニ実ニ苦シイ点アリ。(中略)補給路ノ設定コレガナカナカ大変ナリ。
井本参謀
個人ノ気持トシテハ(ガ島奪回は)相当|六《ママ》ツカシイ。中央トシテハ大決心ノ必要アルヘシ。(中略)確算ナキコトヲ実行シテソノ結果ヲ思ヘバ、更ニガ島ノ頭数ヲ増加シテ失敗トイフコトトナリハセヌカ。
今村第八方面軍司令官
海軍ハ陸軍ノ航空ニ頼リタイトイフ気持ニアリ。実ニ意外。ガ島ハ何レニシテモ至難。ヨリテ死中ニ活ヲ求ムルノ策ナキヤヲ研究中。転換ハコチラ丈ケデ言ヘルモノニ非ズ。中央ハ海軍トノ関係ヲモ考ヘ大局的ニ策ヲ定メルヘキモノ。唯如何ナル場合ニ於テモ、ガ島ノモノハ捨テテシマウノダトイフ考ヲ持タレズニ、或ル時機ニ於テ出来ル丈ケノ人々ヲ救出出来ル様ニ考ヘテ貰ヒ度。之レガ漏レタナラハガ島ノ人々ハ一度ニ腹ヲ切ルテアラウ
加藤方面軍参謀長
空元気丈ケデモ行カヌ。一歩誤レハ国ノ大事ナレハヨク考ヘテヤツテクレ。海軍ノ空軍ト潜水艦ト駆逐艦ノ実勢力ガコンナ実力ニ低下シテヰルトイフ事ハ初メテ知リ、実ニ意外デアツタ。
神第八艦隊参謀
海軍ノ航空ハ士官以下素質ノ低下実ニ著シ。飛行機ハ出来テ逐次補給セラレルガ、人員ノ方ハ下手クソバカリデ夜間飛ベルモノ極メテ僅少、戦技モ著シク下手、随ツテミスミス潰シテシマフ。敵ニハ少シモ痛イ目ニ遭ハスコトハ出来ナイ。
駆逐艦ノ方モ士気沮喪シアリ艦長以下士官、要点ノ下士官マデ配置ヲ換ヘナケレバ使ヒモノニナラヌモノ相当アリ。(中略)
ガ島モ一時引クトイフコトモ考案ノ一ツ。(中略)ガ島ノ引方ハ駆逐艦(一八隻)ヲ以テシ、最初一六隻デ引キ、第二回一四隻デ引キ、第三回ハ補助舟艇デルツセル島東西ノ線ニ退キテ、之カラ艦艇ニ拾ツテ来ル。此方法ナラバ算アリ。(以上『真田日記』)
右の六人の見解の他に、真田課長がラバウルに飛来する直前ごろと思われる時期の杉田一次参謀の見解は注目に値する。
「……第一線将兵が毎日消えて行きつつある現況に、|荏苒《じんぜん》日を|空《むなしゆ》うし、徒らに大命の蔭にかくれて、真相に対する処置を為さないのは、不真面目、責任回避である。大楠公の精神を其儘受売りして、第一線を犠牲にし、事態の急迫を顧みざる態度は最も不可なり。」(戦史室前掲書)
これは全くの正論だが、当時はまだ孤立意見であったらしい。杉田参謀は今村軍司令官の部屋まで行って、「新しく二コ師団も出して、ガ島奪回作戦をやっても、決していい結果を生みません」(同右書)と言ったそうだが、奪回の大命を受けて赴任して来ている今村軍司令官は、杉田参謀の意見具申を却下した。
真田課長一行は十二月二十三日ラバウルを発ち、途中連合艦隊司令部を訪れたが、往路同様に儀礼的であったという。
二十四日夜、一行はサイパンの航空宿舎に泊った。明日は東京である。瀬島参謀は最終案の纒めに取り組んだ。攻撃再興か断念か。
攻撃再興に関しては、陸海軍の実戦部隊がほとんど確信を持っていない。ガ島で消耗をつづけている間にニューギニアまで崩れてくる。海軍の海空戦力の消耗はもはや限度に来ている。
よって、攻撃再興は断念するほかない。
ならば、ガダルカナルはどうするか。
在ガ島部隊の補給を従来のように継続し、敵に対する抵抗妨害を行なわしめ、その間にソロモン防禦の主戦を後方に構築する(A案)か、在ガ島部隊を思いきって撤収し、後方に防禦主線を設ける(B案)か。瀬島参謀の判断は、A案は所詮一時的なものであり、補給継続困難となれば、結局B案に帰する運命にあるから、この際B案を判決として採る、という結論に達した。この時点では、まだ、東北部ニューギニアもガダルカナルと同じ運命に陥ることは予想されていなかったようである。したがって、ガ島は放棄しても、ラバウルを中心とするソロモン及び東北部ニューギニアを占拠する方針は変っていないのである。
その日、深夜、真田作戦課長は瀬島、首藤の両参謀を部屋に呼んで、二人の意見を質した。二人は、前記のB案が最終意見であった。
真田課長も全く同意見であった。
瀬島参謀は「南東方面爾後の作戦指導要領案」を起案した。内容の要点は、在ガ島部隊は撤収すること、ソロモン方面の確保すべき第一線はニューブリテン─ニューアイルランドの線とすること、東北部ニューギニアの要域を強化して将来のモレスビー攻略作戦を準備すること、である。この時点で、なおまだモレスビー作戦が謳われていることは、単に作文上の建前に過ぎないのか、陸軍部としてはまだその幻想が幻想に過ぎないとは思わなかったのか。
十二月二十五日夜、帰京した真田作戦課長は、参謀総長官邸で、総長、次長、第一部長に出張報告をし、戦略転換の決意の必要を述べた。統帥部首脳は全員が同意した。田中部長の転出は、やはり、巨きな出来事だったのである。
瀬島、首藤両参謀は辻作戦班長に報告し、つづいて作戦課全員に報告した。誰も異議は唱えなかった。
海軍統帥部には、二十六日、真田大佐が方針転換に関する申し入れをした。海軍側は、むしろ、陸軍側のその申し入れを待っていたというべきであろう。
撤収をめぐる陸海軍作戦課幕僚の合同研究は、その年も押しつまった十二月二十七日から二十九日まで、連日連夜行なわれた。陸軍側の主任者は瀬島少佐と首藤少佐、海軍側は山本裕二中佐と源田実中佐であった。
ソロモン方面の戦略転換は全戦局の重大問題なので、大本営会議を開いて審議の上、天皇の裁可を仰ぐ必要があった。
真田作戦課長は、十二月二十八日、杉山総長から次のように聞かされた。
「陛下は侍従武官長に対して次のやうに言はれたさうである。
本日(二十八日──引用者)両総長から本年度の状況について一括して上奏があつたが、両総長とも、ソロモン方面の情勢について自信を持つてゐないやうである。参謀総長は明後三十日ころ退くか否かについて上奏すると申してゐたが、|そんな上奏だけでは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|満足できない《ヽヽヽヽヽヽ》。
|如何にして敵を屈伏させるかの方途如何が知りたい点である《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。事態はまことに重大である。ついては、この問題は大本営会議を開くべきであると考へる。
このためには年末も年始もない。自分は何時でも出席するつもりである」(『真田日記』──傍点引用者)
天皇がどれだけ真相を知らされていたか、知ろうとしていたかは、窺う由もないが、本格的な攻撃再興の見込がもはやなくなった時点でも、まだ、如何にして敵を屈伏させるかの方途を知りたいというのである。天皇は、ガダルカナルやニューギニアの前線で、「陛下の|赤子《せきし》」が日に日に何十人となく餓死してゆくことなど、想像出来ないかのようである。
昭和十七年最後の日、十二月三十一日午後二時から、宮中大広間で御前会議が開かれた。
永野軍令部総長と杉山参謀総長の上奏内容を抄録すれば次のようなものである。
「(前段略)……南太平洋方面今後ノ作戦ハ遺憾ナカラ左ノ如ク変換スルヲ至当ト認メマス
ソロモン方面ニ於キマシテハガ島奪回作戦ヲ中止シ、|概ネ一月下旬乃至二月上旬ニ亘ル期間ニ於キマシテ在ガ島部隊ヲ撤収致シマス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。爾後ニュージョージヤ島及イサベル島以北ノソロモン群島ヲ確保致シマシテ、速ニ各要地ノ防備ヲ強化シ攻勢防守ノ態勢ヲ保持シ(中略)
(ニューギニアに関する部分省略。ポートモレスビーに対する作戦は、観念的にはまだ消滅していない。)
|南太平洋方面作戦カ当初ノ見透ヲ誤リマシテ事茲ニ到リマシタルコトハ洵ニ恐懼ノ至リニ堪ヘサル所《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》テ御座居マスカ、今後共陸海軍緊密ニ協同致シマシテ万難ヲ排シテ戦局ヲ打開シ誓ツテ聖慮ヲ安シ奉ランコトヲ期シテ居リマス
右ヲ以テ奏上ヲ終リマス」(戦史室前掲書より──傍点引用者)
作戦の見透を誤ったと、軍最高首脳が公式に、しかも天皇の前で言ったことは、はじめてである。
審議約二時間ののち、天皇の決裁は下りた。
ガダルカナルからの撤退は、正式に決定したのである。
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昭和十八年一月四日付で、撤退に関する大命が発せられた。のちに、世間一般には、撤退とも、撤収とも、退却とも言わず、「転進」という言葉で粉飾されたガダルカナル作戦の終末段階のはじまりである。
同じ一月四日午後一時三十分、大本営陸軍部第一部長綾部少将が、高瀬中佐、白井少佐を帯同し、大命案を携行して、第八方面軍司令部に到着した。同日、第一部長携行案と同一の、前記四日発令の大命を方面軍司令官は受電した。
連合艦隊司令部に対しては、海軍部第一部長福留中将が、一月三日、大命案の伝達をした。
奪回作戦から撤退作戦への転換措置を大本営が終るころ、ガダルカナル第一線は補給杜絶のためほとんど仮死の状態で、敵と対峙していた。
第三十八師団正面では、一月二日朝から、アウステン山方面の米軍の攻勢が活溌になった。右翼に位置する歩兵第百二十四連隊の右第一線として充当されていた歩兵第二百二十八連隊第二大隊(稲垣大隊)は、その陣地丸山高地(二七高地)を右側背から攻撃され、やがて、同連隊全線にわたって強圧が加えられてきた。その後間もなく、見晴台方面にある歩二二八第三大隊(西山大隊)の陣地に対しても、攻撃がはじまった。
守備の日本軍は年末来の絶食と連日の交戦で疲労困憊その極に達していた。反撃に転じようにも、兵力は著しく不足している上に、満足に戦える状態の者はほとんどいなかった。
米軍は兵力を交替しては攻撃を反復した。じりじりと圧縮され、右翼拠点の丸山高地は遂に米軍の手中に陥ちた。
三日以降、アウステン山に対する米軍の攻勢は俄かに圧力を増し、陣地全滅はもはや時間の問題であった。
歩一二四連隊旗手小尾少尉の日記によると、このころアウステン山を死守していた日本兵の間では不思議な生命判断が流行したという。
立つことの出来る人間は 寿命三十日間
身体を起して坐れる人間は 三週間
寝たきり起きられない人間は 一週間
寝たまま小便をするものは 三日間
もの言わなくなったものは 二日間
またたきしなくなったものは 明日
(小尾靖夫『人間の限界』十二月二十七日の項)
同右一月一日
生き残りの将兵全員に、最後の食糧が分配された。
乾パン二粒と、コンペイ糖一粒だけ。
全員、北方を望んで祖国の空を仰ぎながら拝んでたべた。
同右一月三日
敵の作業兵が歩兵に掩護されながら、俺たちの陣地を四方から取り囲んでグルグル巻きに障碍物を張りめぐらしている。(中略)
アウステン山の守兵は腐木のように動かない。屍体は足の踏み場もない。生きているものと、それから腐ったものと、白骨になったものが、枕を並べて寝たまま動かないのだ。(以下略)
米軍の攻撃はアウステン山だけでなく、見晴台にも向けられ、一月十日から攻撃が猛烈になった。その攻撃によって、第三十八歩兵団(長・伊東少将)と歩二二八(陶村部隊)との陣地の間隙に、敵兵約六〇〇の|楔《くさび》が打ち込まれ、陶村部隊正面は各拠点の間を、それぞれ四、五〇〇名の米軍によって突破されるに至った。
一月十三日、アウステン山方面の歩一二四第三大隊(一色大隊)の陣地に米軍が侵入、この日以後、歩一二四(岡部隊)に対する連絡補給は絶望的となった。
翌一月十四日には、第三十八歩兵団と歩二二八第三大隊(西山大隊)への連絡路が断たれた。
最期が近づいていた。三八歩兵団と歩二二八では機秘密書類の後送処置をはじめた。
十四日、第三十八師団長は十七軍の命令によって、十五日現在拠点を撤し、沖川左岸の線で第二師団に連係するよう部署した。
第二師団正面も第三十八師団同様一月早々から米軍の本格的攻勢を受けはじめ、一月一日、師団長は、予備隊の戦闘に堪え得ない患者をセギロウ方面に移動させた。
一月十日から米軍の砲撃が熾烈となった。十五日には、第三十八師団正面に侵入した米軍が、歩兵第四連隊陣地の後方に進出、迫撃砲を推進して歩四の陣地を背後から射撃しはじめた。第十六連隊正面では、その日朝から、二、三〇〇の米軍が戦車数輛をもって来襲して、陣地を破り、侵入した。
小川河口付近では、侵入した米軍が陣地を構築しはじめたのに対して、第一線部隊が逆襲を試みたが、成功せず、死傷が増加するだけであった。
第二師団長は独断をもって第一線各隊を沖川の線に後退させる処置をとった。
十七軍司令部では、一月十一日午前零時ころ、九〇三高地にあった司令部の参謀室に砲弾が命中した。第一線の状況は司令部では全く把握出来ない状態となった。
十七軍司令部としては、玉砕か持久かの選択の岐路に立つ時機が近づいていた。宮崎参謀長と小沼高級参謀とは玉砕の方法について話し合っていたようである。
玉砕にしても、持久にしても、第八方面軍との連絡の確保がまず必要であった。このころには、タサファロングの海軍通信所だけがラバウルとの連絡を維持し得ていた。タサファロングと十七軍司令部間の有線連絡は既に切れていた。このため、十七軍司令部はタサファロングに移動して、第八方面軍との連絡をとることにした。一月十四日朝、十七軍司令部は九〇三高地を出発し、途中、餓死、病死した兵たちの死屍が沿道のそこかしこに横たわる惨状を目のあたりにしながら、タサファロングに向った。
当時、既に記したように、第三十八師団、第二師団、いずれも、各個に包囲され、あるいは強圧下に独断後退を余儀なくされ、在ガ島日本軍はまさに命|旦夕《たんせき》に迫っていた。
第八方面軍では、在ガ島部隊の撤収を掩護する目的で、歩兵一個大隊を新たに投入することを決定した。その任務を背負わされたのは矢野大隊である。大隊は三十八師団の補充要員で臨時に編成された矢野桂二少佐以下約七五〇名であった。小銃三中隊、機関銃一中隊(三個小隊、機銃六)、山砲一中隊(三門)の編成であったが、年齢三〇歳前後の未教育補充兵で、実包射撃の経験もなかった。
この部隊が謂わば捨て駒となって米軍に対抗し、その間に既存部隊を撤収させようというのである。任務の真相は、無論、矢野大隊長以下誰にも知らされなかった。命令受領が一月七日、軍装検査が一月十日、出発が十二日というあわただしさである。
矢野少佐は、自分たちがまさか捨て駒の運命とは思わないが、最初から少し変な気持がしたらしい。こう書いている。「軍司令部で何でも請求するものをくれるのみならず、軍の方からあれもこれもと気を使ってのサービス、軍直部隊にならなければいかん、それにしても様子が一寸おかしい位だ。」(矢野『ガ島後衛戦闘回想録』)
撤収作戦(ケ号作戦)の連絡に行く井本参謀と矢野大隊及び通信部隊は、ラバウルで駆逐艦五隻に乗り、午後五時出港、十三日午前八時ショートランドに入泊した。井本参謀と佐藤参謀は同じ書類をそれぞれ携行して、別々の駆逐艦に乗り込んでいた。いずれか一方に事故があっても、目的が達せられるためである。
十四日正午、護衛駆逐艦とも九隻の輸送隊がショートランド出撃、午後十時ごろ、無事エスペランスに入泊した。折りから、猛烈なスコールであった。
矢野大隊は上陸集結を終ると、歩二三〇からの連絡将校に誘導されて、夜行軍を開始した。
井本参謀の一行は、十五日午前三時半ころ、九〇三高地南麓へ向った。九〇三高地にあった十七軍司令部は、先に記した通り、敵の砲撃を受けたため、前日、タサファロングヘ移動したのだが、井本参謀たちはまだ知らなかったのである。
完全軍装の上に糧食、みやげ等の携行品を多量に背負った井本参謀の一行は、道が捗らなかった。午後八時(十五日)ころ、タサファロングのボネギ川を渡った地点で一人の兵に出会い、川の上流の密林の中に十七軍司令部が移動して来ているらしい、と知らされた。
兵の言ったことは間違いなかった。元船舶団司令部の仮小屋に軍司令部があった。
井本参謀は、軍参謀長の天幕で、宮崎参謀長と小沼高級参謀に、作戦転換の経緯を説明し、勅語と作戦転換に関する方面軍命令を伝達した。
宮崎参謀長も小沼参謀も反対した。要するに、今撤退の軍命令を下しても、敵と混淆して戦っている全員が、栄養失調、マラリア等の病人または負傷者であって、撤退そのものがほとんど不可能である、というのであった。生ける屍を救うために貴重な艦船、飛行機を潰すことは出来ぬ、というのも理窟であった。所詮は、撤退しては第十七軍の面目が立たないのである。十五日夜は、結論は出なかった。
明けて一月十六日早朝、井本参謀は第十七軍司令官の洞窟へ行き、命令を伝達し、附帯する連絡事項を詳細に説明した。
軍司令官は即答は出来かねるから、暫くの時間的猶予を要求した。井本参謀は参謀長天幕で待った。その間、参謀長は二度司令官のところへ出向いた。参謀長が二度目に呼ばれるまでに二時間ほど経っていたという。
軍司令官の決心は「大命を万難を排して遂行することに尽す」というのであった。
井本参謀が呼ばれて、軍司令官の決断を聞いた。「現状は各方面より考察して、軍を撤収することは難事中の難事なり。然れども、大命に基づく方面事の命令は飽く迄之を実行せざるべからず。但し、之が完全に出来るや否やは予測は出来ぬ」(戦史室前掲書)
撤退命令を出しても、撤退出来るのは各級司令部と一部の兵力に過ぎないかもしれないのだ。だが、撤退しなければ、全軍玉砕は必至であった。
軍司令官の撤退決意は一月十六日正午ごろのことである。
その十六日、戦況は深刻であった。第三十八師団正面では、見晴台南端に進出した米軍に対抗していた陶村部隊(歩二二八)は、残存兵力僅少で、第一線も連隊本部も全周包囲下にあった。アウステン山正面は、十三日までの抵抗は確実であったが、その後の状況は全く不明であった。(実際には、十三日に無電機が破壊され、十五日に歩一二四(岡部隊)が包囲を突破下山した。)独立山砲兵第十連隊(北山部隊)は十二日、歩兵司令部と見晴台占拠部隊は十三日、それぞれ全滅したものと判断された。(実際には、北山部隊は陣地を奪われ、丸山道上マタニカウ川合流点に後退して別命を待っていたことが、十七日に判明した。)
第二師団は、十五日朝から戦車を伴った米軍に圧迫され、沖川河畔に後退していった。
右のような戦況下で、もしガ島撤退の企図が洩れたら、全軍が潰乱状態に陥って敗走に移り収拾がつかなくなることは明らかであった。したがって、軍としては、新鋭増援部隊が逐次到着中で、近い将来捲き返しの大攻勢をとるかのような擬態を、真実と思わせる必要があった。その新鋭部隊の先陣が矢野大隊で、実は、悪くすると、矢野大隊が東進して、米兵五万(一月七日現在ガ島米兵力総計五万七八)の圧力に圧し潰されるまでに、第三十八師団、第二師団、その他の日本軍を撤収出来るだけ撤収しようというのである。
矢野大隊長は、第三十八師団が後方に集結して改編するまで、一時第二師団の指揮下に入れとの命令を受け、第二師団司令部をジャングル内にようやく探し当てた。参謀長は病気とみえて、横になったまま矢野少佐にこう言ったという。
「君達は今迄米の飯を食っていただろう。我々は三度の食事がなかったのだ。たらふく食っていたお前達はしっかりやれ」(前掲矢野回想録)
これが師団参謀長の言うことか、と、矢野少佐は内心穏やかでなかったらしい。矢野手記のこの部分には日時の明記がないが、後続の節が「翌二十一日」ではじまっているから、右は二十日のことであろう。そうであるとすれば、軍から各師団へ撤退命令が下達されたのが、後述するように十七日であるから、師団参謀長は矢野大隊の任務とそれが置かれた運命を知っていたと思われる。それにしては確かに心ないものの言い方であるし、よしんば知らなかったにしても、師団参謀長の見識にかかわるであろう。飢餓は人間の地金をまる出しにしてしまうのだ。
一万十七日夕刻、小沼高級参謀は第一線の両師団へ撤退命令の伝達に出かけた。両師団の司令部は勇川河畔にあって、軍司令部位置からいえば、奥が第三十八師団、手前が第二師団であった。小沼参謀はまず第三十八師団司令部へ行った。雨のなかを、午後十一時ごろ到着した。第三十八師団ではもはや戦力消尽の限界にあると考え、一月二十一日を期して師団全力の玉砕攻撃を敢行するため、第一線各隊長を召致して訣別の辞を述べたところであったという。
師団側と小沼参謀との間には、ちょうど十七軍側と井本参謀との間に交されたのと全く同質の論議があったが、結局、佐野師団長が「大命とあらば、何処で死ぬのも同じこと。軍司令官の御意図に従おう」と決断した。
小沼参謀は、次いで第二師団司令部へ行った。丸山師団長も熟慮ののち、同様の決断を下した。
これで、残るは、敵の追尾をかわしながら後退行動が順調に捗るかということと、第一線各部隊へ後退命令が洩れなく伝達されるかということが問題であった。
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第三十八師団では、見晴台の一角で第三十八歩兵団長が西山大隊(歩二二八第三大隊)と全滅寸前の死闘を続行し、最後の斬り込みを決行しようとしていた一月十九日、師団長から師団司令部の位置まで後退するよう命令が届いた。アウステン山方面の消息は十三、四日以後不明であったが、先に述べたように全滅が予想された独立山砲第十連隊(兵力約五〇)の存在も判明し、九〇三高地付近に集結を命じた。歩二二八(陶村部隊兵力約二五〇)は、宮崎台西側に後退、陣地を占領していた。工兵第三十八連隊(岩淵部隊兵力約一七〇)は、九九〇高地と九〇三高地を十六日以来確保していた。これらを、徐々に西へ|退《さ》げるのである。
アウステン山の岡部隊(歩一二四)は、右第一線の同連隊第二大隊と歩二二八第二大隊(稲垣大隊)を丸山北側陣地に残置して、十五日夜ア山を降りたが、軍旗をめぐって諸説紛々としている。結果的には、旗手の小尾少尉が腹に巻いて海岸に近い友軍(松田部隊)に辿り着いたのだが、その経緯が鮮明でないのである。十五日下山のとき、岡部隊長以下敵の包囲を突破するため、軍旗をア山に埋めて下山したらしいが、前掲小尾手記『人間の限界』にはそうは書かれてない。戦史室前掲書にも、滝利郎編著『静岡連隊のガ島戦』にも、同じく滝編著『アナの三十八師団』にも、杉江勇『福岡連隊史』にも、それぞれ微妙な表現の相違はあるが、軍旗を埋めて下山したことになっている。それを歩兵団長に咎められて、山へ取りに戻ったらしい。再び下山する途中で、岡部隊長以下(員数不明)が戦死し、小尾少尉だけが辛うじて友軍陣地に辿り着き、しかも撤収にも間に合ったという。(この経緯の真偽及び詳細を、筆者は知人を介して小尾氏本人に説明を願ったが、聞き容れられなかった。あの件には、もう一切触れたくないという返事があったそうである。真実の究明に価値を認める者、真実を隠蔽してでも何かの都合の方を大切にする者、人さまざまであるから、仕方がない。)
筆者自身は、旧軍の軍旗絶対視には批判的である。岡部隊の独断下山を問題にするのならわかるが、敵の包囲を突破するために、軍旗をア山に埋めた処置は、安全策の一つとして認めるべきではなかったか。歩二九の古宮連隊長のように軍旗と共に敵陣に斬り込んで遂に還らなかった勇敢な突撃は、勇敢は十二分に認めるとしても、軍旗が敵兵の土足に踏みにじられなかったという保証はない。岡部隊の場合、軍旗を掘り出すために、高等司令部は岡部隊長以下を死地へ追い返した。途中で、小尾少尉以外は戦死してしまった。幸い小尾少尉が軍旗を腹に巻いて帰還したからいいが、彼が生き残ったのは僥倖に過ぎず、生き残っても最後の撤収艦艇に間に合わなかったら、どうであったか。部下を軍旗のために死地へ追い返し、司令部は撤収艦艇で撤退してしまう。そうならなかったという保証もなかったのである。それで軍の統帥は|完《まつと》うされたことになるのか。
第二師団正面では、十七日朝から、砲兵の支援のもとに戦車を伴った米軍が攻勢を開始し、沖川の線に進出して来た。第二師団長は、現陣地線で敵を拒否出来ないと判断し、第二歩兵団長に後方の抵抗線によって敵を阻止することを命じた。第二歩兵団は、十八日、勇川右岸陣地に後退した。そのころに小沼参謀が撤収命令を伝えに来たのである。第三十八師団との連接地域を米軍に突破されていたので、第二師団は右翼を包囲される懸念があったが、撤退行動を開始するまで、第二師団の抵抗線は百武台から海岸にわたる陣地線であった。十八日朝の百武台の兵力は、歩一六と歩四がそれぞれ約八〇名の僅少な兵力に過ぎなかった。この日の師団の給養人員は三七〇〇名と報告されているが、何処にどれだけ存在したのか、明らかでない。
第十七軍司令部が立てたガ島撤退の構想は次の通りである。
第一次 二月一日 第三十八師団、軍直部隊の一部、海軍及患者の大部
第二次 二月四日 第二師団、軍司令部以下軍直部隊の大部
第三次 二月七日 残余の部隊
後から来た三十八師団を第二師団より先に撤退させるのは、退路は海岸道一本だけであって、両師団の占領陣地の関係位置から、第二師団を先に退げると、米軍に退路を遮断される虞れがあったからだが、実際には計画通り斉整と必ずしも行動が律せられたわけではなかったし、いくら撤収の企図を秘匿しても、後退行動がはじまると、兵隊はほとんど動物的本能とでもいうべき能力によって、その企図の真相を感じ取っていた。
一月二十日午前十時、撤収機動に関する軍命令がタサファロング戦闘司令所で下達された。軍命令の第二項に「軍ハ『エスペランス』方面ニ機動シ後図ヲ策セントス」とあったが、命令下達以前に宮崎参謀長が特に述べた注意事項の第三項は、まさに地獄の沙汰である。
「新企図実行ノ為|行動不如意ニアル将兵ニ対シテハ皇国伝統ノ武士道的道義ヲ以テ万遺憾ナキヲ期スルコト《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点引用者)
撤退するとき独歩出来ない傷病者は置き去りにするほかはないが、置き去りに際しては「武士道」的に自決を覚悟強要せよ、というのである。捕虜となることは許さない国なのであった、日本は。強壮な兵であったものを衰弱させて、動けなくしたのは、その国なのである。しかも、独歩出来ない者は軍の撤収行動の邪魔になるから、死ねというのである。
ガ島からの撤退は、後述するように、ほとんど奇蹟的に成功するが、それは、企図の隠密保持が徹底していたのと、軍の行動の統制が|紊《みだ》れなかったからであるが、独歩出来ない数多くの傷病者が、小銃で、手榴弾で、あるいは部隊によっては|昇汞錠《しようこうじよう》の服毒で、覚悟の自決をし、あるいはさせられ、友軍部隊の足手纒いとならなかったからである。
第三十八師団の機動のための命令に、厳守すべき注意事項の一つとして、こうある。
「独歩シ得サル者ヲ敵手ニ委セサルタメ武士道的見地ヨリ非常処置ヲ講スヘシ」
まだ生きてはいても、動けない者は、捕虜となる虞れがあるから、「武士道的見地」から自殺させてしまえというのである。軍司令官や師団長、それ以下の各級指揮官が、部下に自決を強要する権限は、何によって保障されているのか。
第二師団では、一月二十日午前四時、機動のための命令を発したが、その中では新米の矢野大隊が軸になっている。矢野大隊は二十三日以後、ポハ川西側高地から海岸に亘る堅固な陣地を占領して、第二師団主力が後退して水無川付近に集結するのを掩護し、なお、なるべく長くその陣地を保持して師団主力の爾後の行動を容易ならしめよ、というのである。米軍が砲兵、迫撃砲を牽引車や自動車で推進して、猛射を加えてくるようになったこの段階で、矢野大隊はみずからの不運な運命を認識しはじめたであろうと想像される。
タサファロングにあった脇谷部隊(船舶工兵第一連隊)の主力は、二十日夜、エスペランスに向って出発したが、病気と衰弱のために起つことの出来ない者が、ジャングル内のあちこちで、自殺したり、させられたりした。
第十七軍の撤退行動計画では、一月二十二日から、第三十八師団、第二師団の順に後退行動に移ることになっていた。第二師団の第一線は、歩四が約八〇名、歩一六が約一〇〇名の僅少な兵力で敵と対峙していた。野戦病院や戦闘に耐えない患者は、十八日ごろからセギロウ川左岸に後退させていたのである。
軍としては、第三十八師団を先ず退げ、一日の間をおいて第二師団を後退させ、第二師団にセギロウの線で最後まで抵抗させる計画であったが、タサファロングの線を過早に後退通過すれば、敵に企図を暴露するかもしれず、また、セギロウの線は撤収乗艦地点に近すぎるので、第二師団をなるべくゆっくり後退させることに計画を変更した。
ところが、すべて、相手のあることである。第三十八師団の撤退と前後して、米軍が両師団の間隙から、第二師団の右翼線を突破する形勢となった。ために、第二師団は、即時第一線を撤退させ、コカンボナの線で敵の進出を拒止する決心をし、軍の計画より一日早く撤退を開始したのである。第二師団各隊は、二十三日払暁、敵の砲撃下を撤退を開始し、午前八時ころまでに水無川河口付近に集結した。しかし、歩兵第四連隊左第一線の内藤大隊には、撤退命令が届かなかった。大隊長以下歩二九の集成大隊約五〇名は、守備陣地で全滅した。
百武軍司令官以下約二〇名の第十七軍戦闘司令所は、二十二日午後五時三十分、タサファロングを出発してエスペランスに向った。
途中、夜半、セギロウの線で、ガ島上陸最初の連隊長であった一木大佐(歩二八)の後任として来島した松田教寛大佐と遭遇したが、この松田大佐が、第二次撤退で十七軍司令部が撤退してからは、総後衛部隊指揮官となるのである。
軍司令官の一行は、二十三日天明前、エスペランスに到着したが、夜が明けると、米軍約一五〇が第三十八師団の撤退に追尾して勇川左岸に早くも侵入したことと、第二師団が予定より早く夜半から撤退を開始したことを知った。
軍は、第三十八師団の一部を第二師団長の指揮下に入れ、一本しかない撤退路の海岸道を掩護させ、歩一二四の残留混成大隊の石堂部隊を、セギロウ第一海岸警備隊に増加して強化措置をとった。
軍は第二師団の早期撤退に憤慨した。だが、米軍の侵出状況から考えると、第二師団の状況判断の方が現実的であったらしい。第二師団側には、その状況判断の的確さの自信があるから、軍がそれを咎めたりするのは、第二師団の犠牲において第三十八師団を救う方針が軍にあったのではないか、と不満を抱いたらしいのである。
一月二十四日、矢野大隊はコカンボナで約二〇〇〇の敵と交戦し、後方(西方)に逐次集結中の友軍を掩護していた。タサファロングに残留していた小沼参謀は、乗艦期日までまだ一週間あるので、エスペランス方向へ過早に撤退するのは危険であるとして、第二師団主力でボネギ川(タサファロングから東へ約一・五キロ)両側で米軍の前進を阻止する策を採った。そのころ、第三十八師団はセギロウ(タサファロングから西北方へ約五キロ。距離はいずれも地図上の直線距離)に集結していた。
この日の第二師団の戦闘員は、前線約四〇〇(師団戦闘司令所に歩工兵約三〇〇と海軍陸戦隊約二五〇)。第三十八師団は約四〇〇であった。第一線の矢野大隊と第二師団司令部との間の通信は不通であったので、矢野大隊の連絡将校が夜中に司令部に到着して、矢野大隊は日没後に現陣地を撤して、ママラ川(コカンボナから西方約二・五キロ)の線に撤退する、と報告した。師団長はこれを承認した。
日本軍の正面で勇川を通過し、追撃に移ろうとした米軍は、まだ疲労困憊していない矢野大隊の抵抗に遭遇すると、行動が俄に慎重になった。
矢野大隊は二十五、六日とママラ川左岸を確保していた。第二師団司令部は、その間に、二十五日早朝、セギロウ左岸まで後退していた。
一月二十八日、第三十八師団はエスペランスとカミンボ地区に集結を終った。極秘裡に乗船準備を進め、三十日夜、乗船位置に進入して、翌日夜の乗船を待った。二十八日正午に十七軍司令官が下達した「乗船に関する命令」では、「第一回揚陸実施ヲ一月三十一日トス」となっていたのである。「揚陸」というのは企図秘匿のための用語で、撤収艦艇への乗り込みのことである。
二十九日早朝、海軍索敵機がガダルカナル南方に敵有力部隊を発見した。第八方面軍司令部は、近辺の敵情と天候の判断から、ケ号作戦(撤収作戦)を一日繰り下げとし、第一次輸送決行は二月一日となった。
この間、西進して来る米地上軍に対する懸念はともかくとして、米艦艇の砲撃と飛行機の活動が盛んなので、集結状況から撤退企図が暴露することが憂慮された。
矢野大隊は、二十八日、依然としてママラ川西方約一キロの陣地を確保していたが、四〇〇を越える有力部隊が砲兵支援のもとに、矢野大隊の右側背に進出して来た。大隊は、二十九日午前三時、夜暗に紛れて陣地を撤し、ボネギ川右岸の第二歩兵団(第二師団)陣地の左翼に後退した。
三十日、正面の米軍の砲兵射撃は旺盛となり、糧秣弾薬の大発による前送と、迫撃砲の推進、海岸道への装甲車の進出が見られた。米軍はタサファロング攻略を意図しているものと判断された。
三十一日朝から、第二師団正面に歩砲戦協同の本格的攻撃がはじまり、日本軍第一線にかなりの損害を生じるようになった。
三十一日夕、第二歩兵団長はボネギ川右岸陣地撤退を師団長に報告し、師団長はこれを承認したが、同時にボネギ左岸陣地は最後の一兵に至るまで死守すべきを命じた。
米軍主力は、何故か、ボネギ右岸で停止し、日本軍の後退を追撃しなかった。
三十一日、十七軍司令官は、第二次撤退のための命令を出した。第二次は軍司令部以下第二師団である。
ボネギ川の左岸にある第二師団に対して、二月一日(第一次撤退)の日没後、秘かに戦線を離脱し、主力を二日朝までにアルリゴ川(ボネギ川から西北約一三粁)右岸地区に、一部を三日朝までにカミンボ(アルリゴ──エスペランス間約六キロ、エスペランス──カミンボ間約六キロ、いずれも直線距離)付近に集結せよ、というのである。
第二次撤退で軍司令部がガ島を去ることになっていたから、その後の処置は、歩兵第二十八連隊松田教寛大佐が総後衛部隊指揮官に任じ、軍参謀山本筑郎少佐が松田部隊に配属された。松田部隊はセギロウ河畔で各部隊の撤収掩護中であったが、ガ島戦は奇しくも歩二八の一木清直大佐にはじまり、松田教寛大佐を|殿《しんがり》軍指揮官として終ろうとしている。
撤退実施間際となって、通信状況が甚だしく不良であった。ラバウルとの交信はカミンボだけが可能で、カミンボとエスペランス(軍司令部所在)間の電話は不通であった。
二月一日夜十一時、第二師団の乗船についての命令が下達された。乗船予定の部隊は疲労し尽していても、いまは希望が見えているが、心理的にも苦しいのは総後衛の松田部隊である。松田部隊は次のように命じられている。松田部隊長の指揮する部隊(矢野部隊、北尾部隊(旧一木部隊)、石堂部隊(歩一二四)及在セギロウ野戦重砲兵並に高射砲第四十五大隊の一部)は、二月二日午後五時以後別命あるまでセギロウ以東でなるべく遠く敵を阻止し、第二次揚陸(乗船)を掩護せよ、午後五時以後軍参謀山本少佐を配属する、というのである。第三次撤収艦隊が来なければ、後衛部隊は置き去りになるし、第三次は舟艇機動によって撤退しなければならなくなるかもしれない懸念があった。
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二月一日、第一次撤収の日である。軍司令部では、第一次撤収の成功率はかなり高く見込めても、第二次、第三次は困難なものとなると予想していた。米軍は既にボネギ川以西に進出しているのである。
一日夕、宮崎参謀長は佐野師団長(三十八師)とエスペランス揚陸点へ行った。宮崎参謀長は準備状況を点検したが「確実性と意気の点で不十分と感じた。さっそく、参謀長から関係将校に痛烈な注意が与えられた。」(戦史室前掲書)この「痛烈な注意」を与えられたのは、京都新聞社刊、久津間保治執筆の『防人の詩』によれば、船舶工兵第一連隊計画主任中岡重成中尉で、事は船舶工兵の職責として参謀長の注意を聞き容れるわけにはゆかなかったらしいのである。四カ所の舟艇移乗予定地点のうち、最左翼の一カ所だけが珊瑚礁のために発着不能であることを中岡中尉が発見して、標識灯の位置を変えた。軍参謀長はそれを見咎めたのである。中岡中尉の事実理由の説明に、参謀長は何故か納得しなかった。元の位置に戻せと命じたが、今度は中岡中尉が聞かなかった。参謀長は中尉の頬に一発見舞ったが、船舶工兵としての操舵責任のある中尉は、「命令は、聞けません」と返した。参謀長はよほど疲れて昂奮していたとみえる。「ぶった斬る!」と怒声を発して白刃を抜いたのである。
事は、さすがに、それ以上には大きくならず、軍参謀長は刀を納めて水際から去ったという。敗軍の参謀長の神経は、いつか、どこかで、爆発点を求めていたのかもしれない。
刻々と時間がたつにつれて、乗船位置付近に部隊が集合してきた。
海岸の方向に一発の銃声がした。調べてみると、歩二二九の兵が一人、戦友の肩につかまってエスペランスまで来は来たが、遂に動けなくなって自決した銃声であった。
撤収部隊は午後七時には乗船準備を終ったが、駆逐艦入泊予定の九時になっても、到着の信号はなかった。海上では突然砲声が起こった。サボ島付近で敵の魚雷艇と日本軍の駆逐艦が交戦している砲声であった。
エスペランスでは午後九時四十分ごろ、カミンボでは午後十時、駆逐艦から発進した大小発や折畳舟が海岸に着き、直ちに乗船がはじまり、佐野師団長以下の第三十八師団、第八方面軍の井本、佐藤両参謀も乗艦した。
エスペランスは午後十一時三十分、カミンボは正十二時、後者に飛行機による若干の妨害があっただけで、第一次撤収艦隊はガ島を去った。ただし、エスペランス地区では、密林中で集結が遅れたため一二七〇名もの残置兵があったし、カミンボでは大発の顛覆で所定時間に間に合わず、約三〇〇名が乗り遅れた。(戦史室前掲書)
第一次撤収部隊は、ニュージョージア東方海域で、二月二日午前五時半ごろ敵機約三〇の攻撃をうけたが、損害はなく、二日午前十時三十分、ブーゲンビル島エレベンタに上陸した。撤収艦の甲板まで這い上がってからこと切れた者もいれば、ブーゲンビルに上陸してから死亡した者もいる。だが、餓えの島からの第一次の脱出は成功したのである。
第二次撤退に計画されている第二師団では、第二歩兵団が陣地の守備を松田部隊(後衛)と交替し、二月二日午後五時エスペランスに向って後退を開始し、三日朝までにエスペランスとカミンボに集結を完了した。師団司令部は三日午前四時にエスペランスに到着している。
この時点で、後衛は、矢野部隊約三五〇名と千々岩部隊(岡部隊の残留者約六〇)は、まだ遠くボネギ川左岸約一キロの線に、松田部隊主力として歩兵第二十八連隊、歩兵第百二十四連隊主力、野重砲兵一個小隊が、セギロウ川右岸にあって、去り行く友軍を掩護していた。松田部隊は、第二次撤収が終ってから、もはや掩護兵力としては組織的戦闘力のない、自殺するために残置された戦友たちを残して、独力で第三次撤収を行なうのである。
二月四日、第二次撤退の準備は日没までに完了した。撤退各部隊は日没とともに行動を開始して、乗船場に集結した。
この夜は月がなくて全くの暗闇で、海上は波がやや高かったという。午後八時五十分、予定通り駆逐艦隊が入泊して、各部隊は「斉整」と乗艦を開始した、と公刊戦史にあるが、必ずしもそうではなかったらしい。海岸に達着した大小発に群がって混乱があったそうである。
「誰もその時の事は話したがらぬので私もくわしくは知りません。只一人胸を張って話せる人を知っていますので後記しておきます。残兵あり≠ニして中隊長命令で一たん乗った大発から降り、彼等をまとめて殿軍である私たちと共に最終回に撤退した、一木支隊配属独立速射砲中隊の|乾《イヌイ》中尉です」(前掲山本一氏より筆者宛ての書簡より。原文のまま)
乾中尉のように見事な人ばかりではなかったであろう。
必死の思いで海岸に辿りつき、大小発にしがみついて助かろうとする情景は想像に難くない。
第二次撤収部隊は約二時間で乗艦を完了、百武司令官以下軍司令部は「磯風」に、第二師団司令部は「浜風」に乗り、米軍の妨害もなく、午後十一時過ぎ全艦が島を出発、二月五日午前十時四十五分、エレベンタに入陸した。ラバウル出張中であった田辺参謀次長は第八方面軍参謀長らと十七軍司令官の一行を出迎えたが、翌六日夜参謀次長が東京へ発信した電報の第二項に、こう報告されている。
「両兵団ニ於テ帰還セルモノハ全艦ヲ通シガ島上陸人員ノ二五乃至三〇%ニシテ各部隊ニ依リ其ノ状況ヲ異ニス
損耗最モ大ナルハ歩兵部隊ニシテ帰還セルモノ各連隊共ガ島上陸人員ノ一五乃至二〇%程度ナリ」
第二次撤退輸送によって十七軍司令部がガダルカナルを去ったあとは、先にも述べたように歩二八連隊長松田教寛大佐が在ガ島陸海軍全部隊を指揮することになった。
山本筑郎十七軍参謀は、二月三日午後三時、セギロウの松田部隊本部で大佐の指揮下に入った。山本参謀が軍司令官の意図として松田大佐に伝えた数項目のなかに、次のものがある。
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一、患者は絶対に処置すること
二、残留者は機密書類を残さないようにして、敵が来たら自決すること(三以下七まで略)
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総後衛部隊撤退計画の撤退要領として、たとえばセギロウ川陣地の撤退は、次のように決められていた。
石堂少佐ヲシテ予(松田大佐)ニ代リテ依然現地ヲ確保セシメ、爾後比較的強健者将校以下少クモ五〇名及単独歩行不可能者ヲ残置シ、自ラ爾余ヲ率イテ五日夜出発六日午前中ニカミンボニ集結セシム。|単独歩行不可能者ハ各隊共最後迄現地ニ残置シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|射撃可能者ハ射撃ヲ以テ敵ヲ拒止シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|敵至近距離ニ進撃セバ自決スル如ク各人昇汞錠二錠宛ヲ分配ス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。(傍点引用者)
置き去りにする者に最後まで抵抗させ、然るのちに自殺させるのである。
松田大佐の日誌(四日)にこう書かれている。「セギロウ附近に残置すべき歩行困難な人員は歩兵第百二十四連隊は一二八名なるが如し」
二月四日早朝、松田大佐は第一線から矢野大隊長を召致し、約八〇名を現陣地に残し、その掩護下に撤退せよ、これは矢野部隊の撤退のためばかりでなく、全体のためだから、是非実施するように、と命令した。矢野大隊長は、部下を残して撤退は出来ない、それが許されないなら矢野部隊全部を残してほしいと意見具申したが、容れられず、議論を繰り返しても時間が経つばかりなので、矢野少佐は全部で残留して敵の攻撃を拒止し、最後は全員で玉砕しようと決心し、松田大佐の命令に従う形にした。(前掲矢野回想録)
右の命令は、第二次撤退によって敵が日本軍の動向を察知した場合、セギロウ付近からの日本軍の後退(第三次)を、米軍が猛追撃すると察せられるので、傷病兵でない健兵の抵抗線を必要とするという考えから出たのである。残されれば、無論、犠牲となるための部隊である。
後刻、松田大佐は、矢野少佐に対する先の命令を変更した。ボネギ左岸地区の矢野隊約七〇名の残置部隊は、一部の特殊人員(独歩不能の傷病者)を除き、セギロウ付近に後退してよいことになった。矢野回想録では八〇名、『総後衛部隊戦闘詳報』では七〇名となっている。『詳報』には、「ボネギ左岸ニ残置セル矢野部隊約七〇名ソノ精兵ニ鑑ミ残置スルニ忍ビズ」とある。
哀れなのは、やはり、動けない傷病兵である。お前らは動けないのだ、連れて行けないから、気の毒だがここで死んでくれ、ということである。
米軍はボネギ川以東地域からエスペランス方向へ西進して来るのと、ガ島西北角を海上迂回してバビ付近に上陸し、やや東北方向にあたるマルボボ方面に二時間ごとに三十分間ずつの砲撃をする部隊があって、エスペランス泊地はセギロウ方向からの来攻が憂慮され、カミンボ泊地はマルボボ方向からの攻撃によって危険に陥る虞れがあった。
さらに第三次撤退は、それまでにどれだけの大小発を保全し得るかにかかっていた。その上、第三次の撤収駆逐艦隊は、状況如何では来ないかもしれなかった。第八艦隊参謀長は十七軍司令部に対して「第三次はなし得たら実施するようになっている」というのである。
現状がそれほどきびしかったのか、恩着せがましい厭がらせの気味があるのか、定かでない。第三次輸送指揮官の橋本三水戦司令官は「……参謀長の指示の如何に拘わらず、その根本任務(撤収)に向って邁進する故安心せられたし」と、小沼高級参謀に言ったという。(戦史室前掲書)
二月七日、ガ島撤収最後の日である。この日は、朝から、米軍のマルボボに対する砲撃が|熾《さか》んであった。当日の泊地カミンボは安心ならない状態であった。午前十時四十分ごろ、マルボボ守備の部隊が独断退却して来た。命令は、日没後撤退となっていたのを、乗船に遅れまいとする不安に駆られたのである。松田大佐は第一線に追い帰した。(戦史室前掲書)
撤退部隊が最も懸念していた七日夜までの大小発の保有数は、大発一五隻、小発一一隻があって、全員を一挙に収容するに足りた。これは前掲の総後衛部隊戦闘詳報によれば、独立工兵第三連隊の精兵が第二次撤収時に新たにガ島に上陸し、懸命の努力によって大小発の秘匿に成功したのであるという。もし大小発が不足で、工兵未熟のため舟艇機動の自信もなく、しかも駆逐艦隊が来ない場合には、総後衛部隊は全員斬り込みを覚悟しなければならなかった。
二月七日、午後七時三十分、撤退部隊は舟艇に移乗を開始、八時過ぎ終了、海岸の闇に待機した。
山本筑郎参謀は、大小発の配乗は、それぞれ部隊混乗の形をとって、特定大小発が救出できなかったとき、特定部隊が置き去り、あるいは全滅とならぬ配慮をして、移乗は整々と行なわれた。(前掲山本一氏よりの書簡)
駆逐艦の入泊を待つ間、遠くセギロウ陣地が砲撃を受けているのが聞えた。午後八時三十分ごろ、泊地西側海面で激しい射撃がはじまった。泊地の沖合二キロを敵魚雷艇二隻が駈けまわっていたのである。
やがて海は静穏に帰した。午後九時過ぎ、駆逐艦の入泊が確認された。青煙二個が海上で点滅した。合図である。待機していた各舟艇は一斉に発進した。
午後十時やや過ぎ、全員乗艦終了が確認された。昭和十八年二月七日午後十時二十分であった。
第三次撤収部隊は三〇ノットの高速で暗黒の海を走った。多数の戦友の死屍と、まだ生きてはいるが、動けない、やがて自殺するか、捕虜となるしかない男たちを、餓えの島に残して。
第三次撤収部隊のエレベンタ到着は二月八日午前八時であった。
第十七軍参謀長の二月二十二日発電によれば、ガ島撤収人員は次の通りである。(戦史室前掲書)
第一次 四九三五(含海軍四四一)
第二次 三九二一(含海軍三三二)
第三次 一七九六(含海軍七五)
計一万六五二(含海軍八四八)
この海軍のうちに設営隊の生き残りを含んでいるかどうか、判然しない。もし何処にも含んでいないとすれば、ひどい差別待遇である。筆者の手持ちの資料では明らかに出来なかった。
昭和十七年八月以降、第十七軍のガ島上陸総人員は三万一四〇四名。交戦中に後送した患者は七四〇名。ガ島における損耗は二万八〇〇名。上陸人員の六六%である。ただし右は海軍や設営隊や船員を含まないので、不完全な数字である。
戦死は五〇〇〇乃至六〇〇〇と推定され、内輪にみても一万五〇〇〇前後が戦病で斃れたと思われる。死因は、栄養失調、マラリア、下痢、脚気等に因るが、そのほとんどは補給の甚だしい不足に責を帰すべきである。筆者に宮城県成人病センター院長・二階堂昇氏から送られて来た第二師団防疫給水部の『屍体解剖実施所見報告』というのがある。ブーゲンビル島に上陸してから第二野戦病院で死亡した四〇体に関する所見である。紙幅に余裕がないので「結言」だけを引用する。「剖検四十例ノ所検断定ハ更ニ組織的検査ヲ俟チテ行フベキモノナルモ、肉眼的検査上ヨリ之ヲ考察スルニ其ノ大部分ハマラリア及栄養失調症両者ノ合併セルモノト判定スルヲ至当ナリト認ム」
解剖実施者 陸軍軍医中佐太田幸衛 陸軍軍医中尉二階堂昇。
米軍側は、作戦参加総数は陸軍と海兵隊合計で約六万、うち戦死約一千、負傷四二四五と算えられている。(前掲ジョン・ミラー二世)
撤収した日本軍は、暫しの休養ののち、再び苛酷な戦争の運命の中に投入されることになる。だが、それは、別個の物語である。
稿を結ぶにあたって、もう一度前掲吉田嘉七『ガダルカナル戦詩集』から引用したい。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
「国の為だと信じ込み
ジャングルの落葉の下で朽ちてゆく
米も食わずに戦って
ぼろぼろになって死んだ仲間達
遠い遠い雲の涯に
たばにして捨てられた青春よ
今尚大洋を彷徨する魂よ
俺達の永遠に癒えない傷あと」
[#ここで字下げ終わり]
死地にあった身を生きながらえた者が語りつがねば、米も食わずに戦ってぼろぼろになって死んだ男たちの死は、その理不尽とむごたらしさを、みずから語ることはない。だが、生きながらえた者が、何故そのような経験を強いられたかを詮索しきれないうちに、ぼちぼちと人生を終る順番がめぐって来る。
ガダルカナルに限らない、どれだけ夥しい青春がむざむざと使い捨てにされたか。けれども、時が経ち、人は遂に知る必要を覚えないかのようである。
過去のことは過去の人間がしたことでしかない。所詮は見知らぬ他人事なのである。昔、青春がいくら使い捨てにされようが、いまの自分には関係はない。そう思っているかのようである。
過去が現在に関係がなければ、歴史も戦史も、その醜いはらわたを暴く必要はないのである。
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あ と が き
[#地付き]五味川純平
最近防衛論議が盛んになっている。いままで防衛問題そのものが選挙の争点になることなどほとんどなかったのに、今年はそれが重要テーマになっている。アメリカから日本の軍事費の増額、したがって当然に軍事力の増強を公然と求められてから、さながらお墨付きを頂戴したかのようなはしゃぎぶりである。私はここで防衛問題を論ずるつもりはないが、たまたまいままでに行なわれている防衛論が、三十八年前のガダルカナル作戦と根本的に同質の欠陥を含んでいるので、ひどく気になるのである。
自分の国を自分で護るのは当然だからといって、徒らに仮想敵を想定し、その仮想敵からの侵略の可能性を宣伝して、防衛意識を煽るのは危険であり、有害である。日本が想定する仮想敵は、昔も今も変りはなく、いまでは世界の二つの軍事的超大国と謂われる国の一つである。私は日本が平和政策に徹していて、紛争解決を武力に依存しようとしたり、他国間の紛争にしても何れか一方に軍事的にくみすることがない限り、外国から侵攻されることはないと判断しているが、防衛力増強論者が使いたがる論法、もし万一侵攻されたら、ということが、現実的にではなく、想像的・論理的にはあり得るので、次のように言っておく必要がある。侵攻があり得るとして、その場合、日本がどれだけの軍備をすれば、軍事的超大国からの想像的・論理的にはあり得る侵攻に対して、自分の国を自分で護ることが出来るというのであろうか。それが出来ないから日米安保体制を堅持するのだという論法に自主防衛は直ぐ席を譲ってしまうが、何処の国が他国のために莫大な軍事費を使い、血を流してくれると信じられるか。それが信じられないから、際限もない軍備拡張を行なって、軍事大国への道を歩むのだとは、いまのところ防衛力増強論者も言いかねているのが本音であろう。
だが、私がここでガダルカナルとの関連において言いたいのは、そのことではない。他国からの侵攻に対する防衛戦争が想像的・論理的にあり得ると想定するのなら、日本を構成する四つの島全体がガダルカナルと同様の運命に陥ることがあり得ることも、想像的・論理的に想定されなければならない、ということである。
周知の通り、日本はエネルギー政策一つ満足には立っていない。所要石油のほとんど全部に近い量を海外に依存している。食糧も所要量の約六〇%を輸入に依存している。それでいて稲作の減反など、食糧自給とは逆行する農業政策をとりつづけている。家畜(禽)飼料までを食糧に含めれば、全所要量の八〇%を海外に依存しなければ、日本は生存出来なくなっているのである。食糧と石油は、日本にとっては、核兵器同様に、致命的な戦略兵器になってしまっていると言っても過言でない。
食糧がなく、燃料もなく、軍備だけがあって、どれだけ自分の国を自分で護るというのであるか。他国からの侵攻が想像的・論理的にあり得るとしたら、そのときには、食糧の輸入も燃料の輸入も断たれていることが、想像的・論理的に予想されなければならない。厖大な輸入物資を運ぶ船舶のための海上護衛戦など、これは想像的・論理的にさえ不可能である。輸送船の上空直掩などなおさら出来ない。斯くして、日本列島は、本文に述べたガ島戦の惨状を量質ともに拡大深刻化して再現することにならざるを得ない。
日本の軍事専門家は、昔も今も、局部的戦闘だけを問題にして、戦争を組織する後方一般に周密な思慮をめぐらすことをほとんどしない。後方を考えたら、戦争などとても出来ない条件が、あまりに沢山あるからかもしれない。
かつて日本車は、ノモンハン(昭和十四年)でも、ガダルカナルやニューギニアその他太平洋戦域の各地でも、戦闘に際しては、確かに勇猛果敢であり得たが、戦争を組織する作戦家たちや、彼らを支持する政治家たちは、戦争組織の事務段階で粗雑であり、希望的予断に陥って思考的に未熟であった。戦力諸元の調整と準備と集中がほとんどいつも不十分であり、いつも|齟齬《そご》を生じ、不足を来し、ために戦闘を不如意に陥らしめた。自国の矮小の規模においてしか敵の力量を測定せず、将兵の武勇のみを過大評価して、敵の戦意と戦力を下算し、結果として惨澹たる敗北を喫した適例が、ガダルカナルでありニューギニアであった。敵の強靭な戦意と戦力に気づいたときには、もはや火砲も弾薬も、食糧さえも揚陸不如意に陥っていたことは、本文で再三指摘した通りである。端的に言って、戦争を科学的に構想し得る軍人も政治家も、かつての日本には必要額だけ育っていなかった。現在もそうとしか思えない。何故なら、防衛問題が軍事的側面においてしか捉えられていないからである。現在の自衛隊も思考においては本質的に昔の日本軍の欠陥を、ほとんどそっくりそのまま受けついでいる。たとえば、自衛隊は、日本の備蓄石油の半分をまわしてくれれば一年半ほど戦えるなどと言っているそうである。これなど自衛隊のみあって国民生活など全く度外視していることの表われであり、自衛隊は国民のものではないことをみずから暴露したものである。自衛隊が計算上は一年や一年半ほど戦えるとしても、国民生活と生産は、燃料や原料の補給の保障がなく、僅少な石油備蓄の半分だけで如何にして成り立つのか。つまり、国民生活の破綻は自衛隊の破綻でもあることを、自衛隊は考えたくないから考えないのである。食糧事情からも、救い難い破綻が、もっと陰惨な形をとって表われることになる。昔の国軍も、開戦の前夜段階から、日本の国力に関して、悲観的な結論が導き出されることを嫌って、考えたくないことは考えなかった。そのことは、開戦決定までの御前会議を辿ってみれば明らかである。
ガダルカナルやニューギニアの戦訓は、四十年近く経っても生きている。日本は職業的軍隊を作って、それが武器をとって戦えるような国には出来ていないのだ。軍隊が重武装したからといって護れるような国ではないのである。今日日本人は日本が経済大国にのし上ったことを誇っている。実はこの経済大国、先に述べたように石油の面からいっても、食糧の面からみても、|膨《ふく》らむだけ膨らませた風船玉のような「経済大国」でしかないのだが、形の上だけのことにもせよ、ともかくここまで来たのも、敗戦後軍備に金を使わず、もっぱら経済再建にいそしんできたからにほかならない。それが、重要資源も食糧も自給率のきわめて高い真の経済大国であるかのような尊大な錯覚を起こして、軍備による防衛などと主張しだすと、日本四島はガダルカナルの悲劇をみずから拡大する途を選択するにひとしいことになる。
軍備が強大であるからといって、国家も民族も尊敬されはしない。まして、愛されることはない。「万一」犯されれば、民衆がこぞって抵抗に起ち上る。その決意と気概が民族の威厳を保つのである。
現在の防衛力増強論者は、斯く斯くの施策をもってすれば、日本がガダルカナルの戦史が遺した悲劇を繰り返す|懼《おそ》れはないという物的根拠を明示した上で、増強論を唱えるべきである。先のオイル・ショックのとき、たかがトイレット・ペーパーで大騒ぎをした日本人の醜態は、まだ世人の記憶に残っているはずである。食糧の輸入や石油の輸入を、謂わば累卵の危きに置いたままにして、防衛力増強論者は彼らが好んで言う「万一」のときに、破滅的事態を如何にするつもりなのか。補給を断たれた場合には備蓄に依存し得る期間など僅少であることは明白であるにもかかわらず、それには一切触れずに、防衛力の増強を煽って国民を惑わすのは、無責任である。
同時に、一定の戦力(一定という概念はきわめて不確定だが)を持つことが、他国の侵攻に対する抑止力になるという論法は、四十年前の日本自身の行動に鑑みれば、虚しい迷信に過ぎないと知るべきである。当時、日本は、世界の兵器廠をもって自認していた米国に対して戦争を仕掛けた。あのころ、石油備蓄が六百万瓲しかなく、仏印(ベトナム)産米七百万石を取らなければ食糧の需給調整が出来ず、戦略重要物資の生産高の比較が米日の間で七四対一でしかなかった、国力寡弱が誰の目にも明らかであった日本がである。つまり、戦力を持つことは、それ自身では侵攻に対する抑止力にはならないことを、日本はみずから証明したのである。
日本人は、よくよく、失敗の教訓を教訓とはしたがらないらしく見える。軍人や政治家が特にそうである。ノモンハンからガダルカナルまでちょうど三年、ノモンハンでしたたかな実物教育をくらいながら、ガダルカナルではより深刻な用兵の失敗を繰り返した。四十年近く経って、まだその認識と反省がないのはどうしたことであろうか。ガダルカナルやニューギニアで餓死した夥しい壮丁は、四十年後、祖国の進路の選択に関して、何も言うことは出来ない。実際には、彼らを餓死せしめた罪の一端を負うべき者が、現在の日本の進路の決定にあずかっていたにもかかわらず、死者は永遠の沈黙を強いられたままである。
本書は『文藝春秋』に連載したものである。ノモンハンのときもそうであったが、連載の期間中、ガ島戦経験者から、そのほとんどが幸い好意的なものではあったが、寸毫も誤りを見逃すまいという、その意味ではきびしい視線をそそがれているのを意識せざるを得なかった。
本文中に引用を許された当時一木支隊の山本一氏、歩二九の滝沢市郎氏からは、度々の注意や訂正の申入れを頂戴した。記して感謝を表したい。
私事で恐縮だが、一昨年夏、私は喉頭摘出手術を受けなければならなくなった。声帯も切除されるので声を失うのである。つらいにはちがいないが、明日は全滅とわかっていた三十三年前の戦闘前夜の心境に較べれば、観念するのはさほど困難ではなかった。入院中、文春の中井勝氏がガダルカナルに関する資料を次から次へと山ほど持ち込んで来てくれた。これは私にとって、社会復帰を促す励ましとして、何よりもありがたかった。おかげで、ガダルカナルは、私が声を失ってからの最初の作品になった。食道発声といって、喉摘者が習得する発声法があるが、これは容量の少い食道に空気を取り込んで、腹筋の圧力でその空気を押し出し、食道粘膜を振動させて音声を作る方法だが、空気の容量は少いし、習熟するのも容易ではないから、複雑な話や微妙な表現はなかなか思うようには出来ない。ガダルカナルを書きながら、一番困ったのは、声のために取材が思うにまかせなかったことである。資料は随分読みもし、比較検討もしたが、人に会って微妙なニュアンスをとらえるための生の質問をすることが出来なかった。書き終って、悔いが残るのはそのことである。声が自由にならない分だけ、思考や感覚が鋭く働くという境地には、まだ達していないらしい。
追記
あとがきを書き終ったとき、選挙史上初の衆参同時選挙の開票の最中であった。結果として、自民党が衆参両院で圧倒的多数の議席を獲得した。選挙戦最中の大平首相の突然の死が劇的な作用を及ぼしたという側面はあったにしても、あれだけ自民党の金権腐敗体質が批判の対象となっていたにもかかわらず、選挙民の意志表示は、政治が汚れていようが腐っていようがかまわない、ということを数字で示したのである。これで、八〇年代初頭からの数年間に日本が著しく右偏向することが明らかとなったといえるであろう。
それと符節を合せるかのように、六月二十五日の新聞(毎日新聞夕刊)は、米国政府専門家グループによって作成された報告書が、日本の今後の防衛力拡大で「核武装選択ありうる」と明記していると報じた。日本の軍事力拡大論者は、これでますます勢いづいて、国民が軽率に自民党に圧倒的多数の議席を与えて一党独裁を許した期間に、日本を「軍事大国」の道へ意気揚々と推進することになるであろう。その過程で負担と犠牲を強いられるのは、ほかならぬ国民だが、具体的にそうなるまで、国民の過半数は、一九八〇年六月の自分たちの政治的選択の意味を知ることはないのかもしれない。
一九八〇年六月
初出誌 「文藝春秋」昭和五十四年八月号〜五十五年八月号
単行本 「ガダルカナル」昭和五十五年十一月一日文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和五十八年八月二十五日刊