乃木坂春香の秘密(8)
五十嵐雄策
イラスト◎しゃあ
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《テキスト中に現れる記号について》
《》:ルビ
(例)乃木坂春香《のぎざかはるか》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)完全|無欠《むけつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「みなさん」に傍点]
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乃木坂《のぎざか》春香《はるか》の秘密《ひみつ》(8[#丸に8])
容姿端麗で才色兼備、『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』という二つ名まで持つ超お嬢様、乃木坂春香。温泉旅行で彼女と一緒に乗り切った最後の夜は一生忘れることのないもので、俺たちの関係をほんの少しだけ進めたというか気持ちが通じ合ったというか……。そんな面映ゆい気分で正式な初デートに誘われたからか、なぜか春香がいつもよりも可愛く見えてしまうのだった……。
チビっ子戦闘メイドとランデヴーなメイド的新年会や、美夏との密着@密室に戸惑ったお嬢様女子中学校潜入日記、果ては意外な一面を知ることになった椎菜のケガ見舞いなど、ある意味いつも通りの日常を過ごす俺は、その日常がいつまでも続くと思っていたのだが――。
お嬢様のシークレットラブコメ第八弾V[#中黒のハートマーク]
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嵐《あらし》の前の静けさという言葉がある。
それの意味するところは暴風雨《ぼうふうう》がやって来る前の天候《てんこう》は気圧《きあつ》の影響《えいきょう》などで意外に崩《くず》れないってことが転じて、変事が起こる際《さい》の前兆《ぜんちょう》ってのは思いのほか大きくないということだ。
簡単《かんたん》に言えば何かアクシデントが起こる時の前フリは意外に大人しく目立たないということ。
ある意味|蛇頭《だとう》竜尾《りゅうび》とも言う。
「……」
いや前回に引き続き何だって突然《とつぜん》こんなことを言い出したのかというと、それにはいちおうワケがあるのである。
ここ三週間の出来事。
まあ何というか、それはほとんど嵐の前の静けさみたいなもんだったんだよな。
もちろんそれに気付くのは少しばかり後――嵐本体がやって来てからのことになる上に、これら一連の出来事も単体で見てみれば静けさと呼《よ》べるほどそう大人しいものでもなかったんだが、それでも全体的に見てみればこれらの出来事《できごと》が幕間《まくあい》というかほんのプレリュードだったってことは間違《まちが》いない。
静けさというか前兆。
その後に起こることのある意味での発端《ほったん》の一つではある。
「……」
まあいつものごとくよくワカランことがごちゃごちゃと長くなっちまったが。
要するに何が言いたいのかというと。
この一月|終盤《しゅうばん》から二月初めにかけてのおよそ三週間が、俺が深海《しんかい》に横たわるニュウドウカジカ(見た目が死んでそうな深海魚)のようにノンビリまったりと事態《じたい》を静観《せいかん》していられる最後の機会になったってことなんだよ。
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それは色々とアクシデント満載《まんさい》で風雪吹きすさぶ(文字通り)行程《こうてい》だった三泊四日の信州|温泉《おんせん》旅行も何とか無事に終了し、ようやく家に帰りついたと思ったらアホ姉たちがそのままお疲《つか》れさま宴会《えんかい》とやらをおっ始めやがって、ツマミ作りやら酌《しゃく》の世話《せわ》やらで結局|深夜《しんや》の二時過ぎまで付き合わされることとなったナイトメアな後日談から一夜が明けた、一月|中旬《ちゅうじゅん》の水曜日のことだった。
いつも通りの学園へと向かう通学路。
その途中《とちゅう》の坂道。
「お」
「〜♪」
そこで他の生徒たちに紛《まぎ》れて少し前を歩くほんわかぽわぽわお嬢様の後《うし》ろ姿《すがた》を見つけた。
白いコートと同色のマフラーとに身を包んだ地上に舞《ま》い降《お》りた清楚《せいそ》と可憐《かれん》の化身《けしん》。
どこか気だるい朝の風景の中にあって燦然《さんぜん》と光《ひか》り輝《かがや》くそのオーロラのようなたたずまいはたとえ百メートル離《はな》れていてもすぐに分かる。うーむ、相変わらず全方位|攻撃《こうげき》可能《かのう》拡散《かくさん》対人|迎撃《げいげき》レーザー的(いい意味で)なかわいさっぷりだな……
………………
……はっ。
いかんいかん、声をかけようとして思わず見とれて十秒ほど意識《いしき》が遥《はる》か遠くまで飛んじまってた。別に交通|事故《じこ》で昏睡《こんすい》状態《じょうたい》だった恋人と一年ぶりに再会《さいかい》したってわけでもないのに、朝っぱらからこんな色ボケマックスでどうする。
ピンク色に染《そ》まった頭を振《ふ》りながら反省していると、
「あれ――裕人《ゆうと》さんですか?」
「え?」
「わ、やっぱり裕人さんです♪ えへへ」
こっちに気付いたのかくるりと振り返るとふにゃんと顔を綻《ほころ》ばせて、春香《はるか》がとてとてと人懐《ひとなつ》こいイワトビペンギンのように一生懸命《いっしょうけんめい》に駆《か》け寄《よ》ってきた。そのホワイトデンドロビウムが咲くような笑顔《えがお》に、
「お、おい、乃木坂《のぎざか》さんがあんなに心を許《ゆる》した顔をしてるぞ……」
「太陽みたいな笑顔だな。かわいい……」
「てかまたあいつかよ……」
周りを歩いていた他の生徒たちが一瞬《いっしゅん》だけざわめく。効果《こうか》音《おん》にすると「……ざわ……ざわ……」といった感じだ。
「おはようございます、裕人《ゆうと》さん。昨日ぶりですね♪」
「ん、ああ、おはよう春香《はるか》」
そんな周囲のざわめきをヨソに、弾《はず》んだ声で挨拶《あいさつ》をしてくる春香。
というか正確には十四時間ぶりくらいである。何だかんだで昨日別れたのは夕方過ぎであったわけだし。
まあそれは些細《ささい》な突《つ》っ込《こ》みで、
「今日もいいお天気ですね。ちょっと空気が乾燥《かんそう》気味《ぎみ》ですが空飛ぶ小鳥さんたちも元気で……」
「ああ、そうだな」
交《か》わされる挨拶代わりの会話。
それ自体はこれ以上ないってくらいのいつも通りのやり取り。
フランス料理で言えばオードブルみたいなそれは、普段《ふだん》ならばそのままさらに他愛《たあい》のない通常《つうじょう》会話へと進展《しんてん》していくはずなのだが――
「あ、え、えと……」
「ん、あー……」
今回は違《ちが》った。
次にやって来たのはどこか落ち着かないような気恥《きは》ずかしいような何ともいえない雰囲気《ふんいき》。
互《たが》いに顔を微妙《びみょう》に逸《そ》らしつつ明後日《あさって》の方向を見る。
「あ、な、なんか変ですね……」
「あ、ああ……」
いやこれは別に俺の顔面《がんめん》がナチュラルに周囲を気まずい雰囲気にさせるセクハラ面《づら》だとかそういうわけじゃないんだよ。
ただ今回の旅行では色々と予測外《よそくがい》なサプライズがあり――具体的に言えば二人でマフラー連結をしたり温泉《おんせん》に入ったり、ダグラス(特大着ぐるみ)の中で毛布《もうふ》一枚という微妙な状態《じょうたい》で一晩を過ごしたり、おまけにそういった深い意味ではないとはいえ、その、何だ、た、互《たが》いに好きだと言い合ったりしたわけである。リアルタイムでは旅行というある種|特殊《とくしゅ》というか独特な空気の中にあったせいかそれほど感じなかったんだが、一日|経《た》っていざこういった日常の空間の中で二人きりで思い起こしてみると何だか改めてこっ恥《ぱ》ずかしくなってくるっつーか……
春香もまったくもって同じような心境《しんきょう》なのか、
「え、えと……」
「あ、あー……」
道のど真ん中でお見合い(緒婚を前提《ぜんてい》としたものではなく)をする俺たち。
その周りを他の生徒たちがさらにざわめきながら「何やってんだ?」「あのメガネ、またなんかやらかしやがったんじゃないだろうな……」「どうする? 親衛隊《しんえいたい》に知らせとくか?」とか言いながら怪訝《けげん》な顔でひそひそと通り過ぎていく。
「……」
むう、我ながら本当に何をやってるんだろうね? 自分で自分の行動がよく分からん気分というか……
とにかくこんな往来《おうらい》で二人同時|停止《ていし》状態《じょうたい》を続けていても始まらん。
なので、
「あ、あー、春香《はるか》、とりあえず歩きながら――」
そう言いかけて、
「――あ、そ、そうです!」
「え?」
と、春香がふいに何かを思い出したかのようにぱふんと胸《むね》の前で両手を叩《たた》いた。
「あ、す、すみません、急に大声を出してしまって……。あの、えと、何だか胸がどきどきして熱っぽくなってしまってちょっとだけ忘《わす》れちゃっていましたが……実は裕人《ゆうと》さんにお話ししたいことがあったんです」
「お話?」
「は、はい。お話というかお願いというか……」
「?」
何だろうか。まあ春香のお願いならば目の前に最高級スルメを垂《た》らされたニホンザリガニのハサミアクションのごとく大抵《たいてい》は即答《そくとう》でオッケーなんだが。
「え、えとですね……」
「ああ」
「あの……」
「?」
「そ、その……」
「??」
春香は少しの間もじもじと胸の前で指を絡《から》めたまま下を向いていたが、
やがて改まったかのようにぱっと顔を上げて、
「あ、あの裕人さん、こ、今度の日曜日…………私と、その、デ、デ、デデデデートをしていただけないでしょうかっ?」
「――っ!?」
両手でぎゅっとグーを作りながらそんなことを言ってきた。
その顔はまるでほどよく熟《じゅく》した国産とちおとめ苺《いちご》のように真っ赤だった。
「……」
ど、どういうことだ?
あまりに突然《とつぜん》というか不意打《ふいう》ち的な告白《こくはく》に動揺《どうよう》する。
いや連日のこの寒さで俺の鼓膜《こまく》がフリーズドライしてるんでなければ今デートって言葉が聞こえたような気がしたんだが……。デ、デートってのはつまりその、あのデートで間違《まちが》ってないよな? いわゆる男子と女子が二人で仲良くどこかへ出かけて全身で青春をエンジョイする……
「……」
い、いやいや、まだそう決め付けるのは早計《そうけい》か。春香《はるか》のことだからまた何かのアキバ系のイベントに行きたいとか何かのグッズが発売になってそれを買いに行きたいとかそういうオチである可能性《かのうせい》も否定《ひてい》できん。大体今まではこういう場合は何か目的がある外出だったわけだし、それを今回はたまたまデートという呼称《こしょう》で言っているだけで……。……うむ、そうだ、それがファイナルアンサーに違《ちが》いない。世の中そうそうウマイ話なんてないしな。
俺は内心の動揺を抑《おさ》えつつ春香の方を見て、
「あ、あー、それで、それはどんなイベントなんだ?」
「え?」
「声優《せいゆう》のサイン会とかドジっ娘《こ》アキちゃんコンサートとか、そういうのがあるんだよな? そうなんだろ?」
そう訊《き》いてみたところ、
「…………(ふるふる)」
春香は小さく首を横に振《ふ》った。
「え、違うのか? じゃあ何か買いたいアニメグッズでもあるとか……」
「…………(ふ、ふるふる)」
再《ふたた》び横に振られる首。
気のせいか、さっきよりも強い調子である。
「だったら……」
何なんだろう。残るは何か雑誌で見た喫茶店《きっさてん》(ネコミミorメイド)関係もしくは俺の知らない新たな領域《りょういき》の探索《たんさく》とか……
すると春香はうつむきながら仔《こ》ヤギの鳴くような声を出して、
「そ、そういう目的があるものではないんです……」
「?」
「こ、今回は、その、そういう目的があるものではないんです。そ、そうではなくて純粋《じゅんすい》に……ゆ、裕人《ゆうと》さんと二人でお出かけがしたいと思って……」
「え?」
きゅっと目をつむりながら一生懸命《いっしょうけんめい》な顔でそう言った。
「デ、デートという言葉が適切《てきせつ》なのかどうかは分かりません。ですが美夏《みか》に相談してみたところ『お姉ちゃ〜ん、そうゆうのを世間ではデートってゆうんだよ〜。まがうことなき正真正銘《しょうしんしょうめい》ので・え・とV[#白抜きのハートマーク] またはちょっと違《ちが》った言い方すればランデヴ〜かな? いや〜ん、らんでぶ〜でらぶらぶ〜♪』と言われて……。だ、だからそうなのかなと……」
「……」
あの耳年増《みみどしま》ツインテール娘はまたそういうことを……
しかしそれはともかく、確《たし》かにそれはデート以外の何物でもない。まさか春香《はるか》が自分からこんなアクティブ(?)なことを言ってくれるとは……
「あ、ち、ちなみにお出かけしたい場所はこすもわーるど≠ニいうところなんです。横浜にあるというあみゅ〜ずめんとぱ〜くで……。えと、実は回数券のセットをいただきまして……」
「回数券?」
「は、はい、これです」
おずおずと差し出された春香の小さな手の上には、観覧車《かんらんしゃ》のイラストが描《か》かれたパスネットのようなものが数枚乗っていた。
「えと、詳《くわ》しい仕組みはよく分からないのですが、これがあればほとんどのアトラクションが利用できるみたいで……」
手の中のカードと俺の顔とをちらちら見比べながら言う。
ふむ、確かに遊園地用の回数券みたいだな。ぱっと見たところ三千五百円分が六枚も揃《そろ》っている。その横浜コスモワールドとやらのアトラクションの相場がいくらくらいなのかは知らんが、これならまず不自由することはないだろう。……ん、そういえば春香、この券をいただいたとか言ってたが、だれからもらったんだ? 三干五百円×六で二万千円。回数券だけあって多少割り引きはされているのかもしれんが、それでも決して安いもんじゃないし……
「なあ、春香、この回数券なんだが……」
なので疑問に思い訊《き》いてみたところ、
「あ、はい。実は……茅原《かやはら》さんからいただいたものなんです」
「茅原さん?」
そんな名前が出て来た。だれだ、それ?
「あ、えと、あの方です。初詣《はつもうで》の時に名刺《めいし》をいただいた……」
「初詣……」
記憶《きおく》を不器用なアズマモグラのように掘《ほ》り返《かえ》す。
……って、安産《あんざん》地蔵《じぞう》の近くで声をかけてきたやけにおどおどしたあの人か。なんか何とかプロダクションがどうとかいう……。あの時は他にインパクトがあることがあまりにも多すぎたんですっかり忘《わす》れてた。だけどそんな人が何だって今さら遊園地の回数券をくれるんだ?
「私にもよく分からないのですが……昨日|突然《とつぜん》お家《うち》にいらっしゃったんです。その時にこれをいただいて……。よければだれかお友達でも誘《さそ》ってゆっくり楽しんできてくださいと言われました。あとは世間話《せけんばなし》やおうちで飼《か》ってらっしゃるというジャンガリアンハムスターの話などをされてそのまま帰ってしまわれましたけど……」
「……」
ふむ、なんか本当に何しに来たのかいまいちよく分からんな。ハムスターのアンケートか何かだろうか?
「あ、あの、それで、どうでしょうか……? よ、よろしければごいっしょしていただけるととっても嬉《うれ》しくて……。あ、も、もちろん裕人《ゆうと》さんのご都合《つごう》が合えばのお話なのですが……」
不安そうな春香《はるか》の言葉に、
「いや、大丈夫《だいじょうぶ》だ。行く」
「え……」
「日曜日はヒマだ。今のところ特に用事も入ってない」
何度も言っているように、休日に俺がやるべきことなどどこぞのアホ姉とセクハラ音楽教師のエサの用意とその他|掃除《そうじ》洗濯《せんたく》の家政夫《かせいふ》ワークくらいしかない。そんなもんはこの際《さい》用事の内に入らん。それに……
「せっかくの春香の誘いだ。たとえ何か用事があったとしても絶対《ぜったい》に行くぞ」
それがメイン理由である。断《ことわ》るなんてウチのビッグガメラ(ミドリガメ)が二足歩行をして口から火を吐くくらいにあり得ない。
「ゆ、裕人さん……」
その言葉に少しだけ目を潤《うる》ませながら春香がじっと見上げてくる。
そのペットショップでのトリミングを終えて飼《か》い主《ぬし》の帰りを待っていた仔犬《こいぬ》みたいなつぶらな瞳《ひとみ》はあまりにけなげすぎて……うう、正視《せいし》するのが少しばかりためらわれちまうな。
なので気恥《きは》ずかしさを隠《かく》すために俺は、
「あ、あー、それじゃあとにかく、日曜に横浜だな」
「は、はいですっ。横浜さんです。よろしくお願いします♪」
「あ、ああ」
微妙《びみょう》に心臓の動作不良を感じつつそう答えて、
ともかく、こうして俺と春香の初デート≠ェ決まったのだった。
それからあっという間に四日が過ぎて。
いよいよというか何というか約束の日がやって来た。
一月二十二日、日曜日。
言ってみればXデーの、その午前十時三十分。
俺は待ち合わせ場所である横浜コスモワールド前に向かって歩いていた。
「……」
空は極限《きょくげん》まで薄く作ったカルピスの上澄み液のように透《す》き通《とお》っていて雲一つない快晴である。気温は少し低めだがそれでもほとんど平年並《な》み。コートを着込めばまず問題なしといったところだ。
どこかへ出かける気候《きこう》としては申し分ない。
というかむしろ絶好《ぜっこう》のデート日和《びより》であると言える。
言えるんだが……
「……むう……」
御歳《おんとし》百五十歳のゾウガメのごとく歩を進めながら、俺はどこぞの海に沈んだ古代|帝国《ていこく》のような声を漏《も》らしていた。
何だか落ち着かなかった。
落ち着かないというか、ほとんど緊張《きんちょう》に近いテンパった心地《ここち》だった。
「……」
理由は明白というか単純である。
春香《はるか》と二人での初デート=B
その言葉の醸《かも》し出《だ》すプレッシャーと緊張感とに負けて、俺の一枚三千円(税抜《ぜいぬ》き)の安ガラスのようなハートが勝手にリズムの狂いまくった三十二ビートを刻んでいるのである。
「……」
いやもちろん決して春香とのデートがイヤってわけじゃないし、そもそも春香と二人でどこかへ出かけるのは別にこれが初めてってわけじゃない。
初めてじゃないどころか今までアキハバラ(×二)、夏コミ、冬コミ、声優《せいゆう》イベント等々、片手《かたて》では数え切れないくらいに経験《けいけん》している。いわば春香とのお出かけ検定《けんてい》三級の取得者《しゅとくしゃ》レベルってやつだ。
だがしかし。
しかしである。
春香も言っていたが、そういった特定の目的なしで二人で出かけるのは実のところこれが初めてなんだよ。
ましてやそれが初デート≠フ名を冠《かん》しているとくれば、もはやハードルの跳《は》ね上《あ》がりっぷりが半端《はんぱ》じゃない。ヘタな姿《すがた》は見せられんというか、おかげで今日は朝から何だか発情期のシャイアー馬のように落ち着かず待ち合わせの二時間も前に家を出るハメになっちまったし……
「…………」
しかしもうここまで来たら今さらジタバタしても仕方がない。
こうなったら、とにかく当たって砕《くだ》けろだ。
まあ本当に当たって砕けて木《こ》っ端《ぱ》微塵《みじん》になっちゃあ元も子もないんだが、あくまでそういう意気込《いきご》みということで。豚《ぶた》も死ぬ気になれば空を飛ぶ……とも言うしな(少し違《ちが》う)。
で、そんなこんなをしている内に待ち合わせ場所に辿《たど》り着《つ》く。
海に面した遊園地入場口の前の少し開けたスペース。
そこの街灯《がいとう》の下が約束した待ち合わせ場所である。
とはいえまだ待ち合わせ時間までは一時間ほどある。
幸《さいわ》い座《すわ》るのにちょうどいい置き石もあることだしここはヒッヒッフーと深呼吸でもしながら心を落ち着けて、春香《はるか》がやって来るのを待とうと思いきや――
「……」
「……」
「あ、あれ、裕人《ゆうと》さん……?」
――その余裕《よゆう》は与《あた》えられなかった。
待ち合わせの街灯の下。
なぜかそこには……すでに両手を身体の前で揃《そろ》えながらちょこんと立っている春香がいた。
「は、春香……?」
「あ、は、はい」
「え、い、いや、何だって……」
もういるんだ? 待ち合わせ時間は確《たし》か十一時半だったはずである。まさか俺がベタに時間を一時間|間違《まちが》えてたとか……
すると春香は少し恥《は》ずかしそうに早口になって、
「あ、え、えとですね、今朝は何だか早く目が覚《さ》めてしまったんです。よ、よく分からないのですが胸《むね》がどきどきしてベッドにいても落ち着かないというか、キンググリズリーくんを抱《だ》きしめてもちっとも治《おさ》まらなくて……。なので少し早起きをして支度《したく》をしていたのですが、八時過ぎにはそれも終わってしまって、お家にいても何だかそわそわとして落ち着かないので、少し早かったんですが出てきてしまったんです」
「そ、そうなのか……」
「は、はい。あの、裕人さんはどうしてこんなに早く……?」
「え? あー、俺も似たようなもんだ」
うなずき返す。
そういえば旅行の時も春香は早起きだったな。それで旅館の中を散歩してたんだっけか……
ほんの一週間ほど前のことながらもう半年くらい昔のことのように感じられる出来事《できごと》に思いを馳《は》せる俺に、
「え、えへ、気が合っちゃいましたね♪」
ちょっとだけはにかんだようにそう言って笑いかけてくる春香《はるか》。
それはもうある種の兵器で、ほとんど有無《うむ》を言わさず反則的なほどに五臓六腑《ごぞうろっぷ》の奥底《おくそこ》にえぐりこんでくるような笑顔であり――
……う、か、かわいすぎるぞ……
しょっぱなからのイノセントスマイル・インパクトに思わず頬《ほお》が緩《ゆる》んで溶《と》けたバニラエッセンスみたいになっちまう。やべぇ、今日は本当に殺《や》られるかもしれん……
ちなみに今日の春香は暖《あたた》かそうなマフラーにスカート、ファー付きのコートという服装《ふくそう》だった。
冬のセレクトスタイル@お嬢様といった感じ。
本人の性格を映したかのように白と薄《うす》ピンク色とを基調《きちょう》とした柔《やわ》らかな色合いのそれらはもう鬼《おに》に金棒《かなぼう》どころか魔王《まおう》に血塗《ちぬ》られたギターくらいによく似合っていて、そのままディスプレイに展示《てんじ》されてもおかしくないレベルなのは当然なんだが……今日は何だかいつもより少し雰囲気《ふんいき》が大人っぽいような気がする。漂《ただよ》う空気が横浜にマッチングしているとでも言おうか……
「む、むう……」
何なんだろうね? みなとみらいなどという普段《ふだん》は来ないようなムーディーでロマンスフルな環境《かんきょう》が俺の交感|神経《しんけい》に特殊《とくしゅ》な働きかけをしてるんだろうか。それとも何か他に理由があるのか……
「あ、え、えと……」
そんな風にボーっと見惚《みと》れていると、春香がもじもじと恥《は》ずかしそうに下を向いていた。う、しまった、今の視線《しせん》は微妙《びみょう》にセクハラ入ってたか。
俺は慌《あわ》てて顔の前で手を振《ふ》って、
「ス、スマン! 別に変な意味があるわけじゃない。ただ、その、何だ、今日の春香はなんかいつもより大人っぽいと思っただけで……」
「え……」
「そ、それだけじゃなくて、かわいいとも思うし、に、似合ってるとも思うぞ。や、いや、これは他意《たい》があるってことじゃなくてだな……」
どう言えばいいのか説明に窮《きゅう》していると、
「……あ、ありがとうございます」
「え?」
「そ、そう言ってもらえるととっても嬉《うれ》しいです……。実はこれ、今日のために美夏《みか》といっしょにお買い物に行って選んだもので……。だ、だってせっかくのデート≠ナすから、ちょっとだけがんばっちゃいました……」
褒《ほ》められた小動物のように嬉《うれ》しそうにこっちを見上げながら両手をきゅっとグーにする。
その姿《すがた》もまた可憐《かれん》で愛らしく思わずそのまま小脇《こわき》に抱《かか》えて家までお持ち帰りしたくなるようなたたずまいで……って、なんかさっきから極《きわ》めて頭の悪そうなことしか言ってないな、俺。
「あ、そ、それに……」
「?」
「そ、それに、その、ゆ、裕人《ゆうと》さんも、今日は何だか普段《ふだん》と違《ちが》う感じです。何だかちょっと…………かっこいいです」
「え……」
春香《はるか》が少し声を小さくしてそんなことを言った。
「いつもよりも見ていてどきどきするというか……あ、わ、私、何を言ってるんでしょう! き、気にしないでくださいっ」
「あ、い、いや……」
「…………(真っ赤)」
恥《は》ずかしそうにきゅっと目をつむりながら下を向く春香。
「……」
「……」
そのまましばし二人して沈黙《ちんもく》。
やがて、
「あ、あー、じゃあ、予定より早いけどとりあえず行くか?」
「そ、そうですね。い、行きましょう」
どちらともなくそううなずき合って、
遊園地の入場口へと歩き始めようとした時だった。
「――あ、ぐ、偶然《ぐうぜん》ですね、乃木坂《のぎざか》さん」
「?」
ふいに背後《はいご》からそんな声がかけられた。
なんかどこかで聞いた覚えがあるような遠慮《えんりょ》がちな声。
振《ふ》り返《かえ》るとそこにいたのは――
「こ、こんにちは。お久しぶりです、乃木坂さん。こんなところで会えるなんて……」
「え、茅原《かやはら》さん……?」
そこにいたのは初詣《はつもうで》で見かけたあのメガネの女の人と、もう一人初めて見る女の人だった。
「か、回数券、利用してくれたんですね? あ、ありがとうございます。嬉しいです」
「あ、い、いえ、そんな。せっかくいただいたものですから……」
春香《はるか》がふるふると顔の前で手を振ると、
「あ、そ、それは気にしないでください。そういった何かとプッシュに役立ちそうなもの――い、いえ、そういうギフト的なものは事務所にたくさんありますから……」
「?」
「え、今のは、そ、その……。あ、え、ええと、そちらの男の子は確か大晦日《おおみそか》の日に乃木坂さんといっしょにいた方ですよね? 改めまして、茅原|弥生《やよい》と申します。こんにちは」
「え? あ、はい。綾瀬《あやせ》裕人《ゆうと》です」
突然の振りに慌《あわ》てて挨拶《あいさつ》をし返す。
「あ、綾瀬くんですね、よろしくお願いします。あ、それでこっちは同じ事務所でマネージャーをやっている後輩で……」
「小早川《こばやかわ》希美《のぞみ》っていいます。よろしくー」
ぴっと人さし指と中指をおでこに当てて笑いかけてくる。こっちはこっちで何だかやたらと軽い感じだった。
「あ、はい、よろしくお願いします。――えと、それでどうして茅原さんたちがここに……?」
春香がちょこんと首をかたむけながら尋《たず》ねる。
それは当然の疑問だった。いかに回数券をくれた張本人《ちょうほんにん》とはいえそれだけでここにいる理由にはならん。まさかこの二人で遊園地に遊びに来たわけでもあるまいし……
すると茅原《かやはら》さんはなぜか少し焦《あせ》ったような顔になって、
「そ、それはね、きょ、今日たまたますぐそこのランドマークタワーのクイーンズスクエアで開催《かいさい》されるイベントに事務所が参加することになっちゃって、それのお手伝いをするために来ることになったからなの。べ、別に怪《あや》しい理由とかではなくて……」
「いべんと……ですか?」
「う、うん、そう。三時から開催される予定なんだけど、その下見とか準備《じゅんび》とか色々とやることがあって、ちょっと早めに現地入りしたんです。ね、狙《ねら》ってここで待ってたとかいうわけじゃないですよ?」
そう一生懸命《いっしょうけんめい》に身振《みぶ》り手振《てぶ》りで説明してきた。
むう……なんか知らんがこの人たちはこの人たちで色々と忙《いそが》しいというか大変みたいだな。
春香《はるか》と二人で顔を見合わせていると、
「――あ、そ、そうだ。ね、ねぇ、もしよかったらあとで乃木坂《のぎざか》さんたちもちょっとだけイベントに来てみないかしら?」
と、そこで茅原《かやはら》さんが今思いついたかのようにそう言った。
「え?」
「え、ええと、べ、別に深い意味はないんですよ? ほ、ほら、だれでも気軽に参加できる雰囲気《ふんいき》のものだし、デ、デートにぴったりのコンセプトだから、きっと二人で楽しめると思って……」
「デ、デート……」
その言葉に春香がぴくっ! と反応した。
「あ、あれ、ち、違《ちが》った? 二人で仲良く楽しそうに話してたからてっきりそうだと思ってたんだけど……」
「あ、え、え、えと……」
慌《あわ》てたようにわたわたと両手をぱたつかせた後に春香は額《ひたい》で目玉焼きを焼けそうなほど顔を赤くして、「…………ち、違わない、と思います……と、というか、きっとそうだと…………」
仔羊《こひつじ》が鳴くような声でそう言った。
それはまるでデートという言葉自体に照れているかのようで……うーむ、そこまで意識《いしき》されるとこっちまで気恥《きは》ずかしくなってくるっつーか……
その感想(?)は周りで見ている茅原さんたちも同じなのか少し困《こま》った感じで、
「あ、あの、そこまでいっぱいいっぱいに考えなくてもいいような気も……。え、ええと、そ、それでどうかしら? ここからすぐのところだし、と、特にダメじゃなかったらぜひ来てほしいかなとか思ったり……」
「え、そ、その……」
胸《むね》の前で指回し体操《たいそう》(人さし指)をしながらちらちらとこっちを見る春香。
それは明らかに九時間以上じっくりと煮込《にこ》まれて臭《くさ》みが取れたスジ肉を前にして遠慮《えんりょ》がちにシッポを振《ふ》る仔犬《こいぬ》の顔だった。
「――あー、もしよかったら後で行ってみるか?」
「え?」
「そのイベント。けっこう面白《おもしろ》そうなんじゃないのか? すぐ近くでやるみたいだし、行ってみても損《そん》はないだろ」
「え、ほ、ほんとですか!」
「ああ」
実際《じっさい》楽しそうだしな。それにその、デートにぴったりだっつーんならむしろ俺の方から提案《ていあん》したいくらいである。
そう言うと春香《はるか》はぱあっと顔を輝《かがや》かせて、
「あ、ありがとうございますっ。あ、そ、それでは……その、よろしければ後ほど伺《うかが》わせてもらいたいと思いますです」
「あ、い、いえ、賑《にぎ》やかになってこちらとしても嬉《うれ》しい限《かぎ》りです!」
本当に嬉しそうに何度も何度もうなずく茅原《かやはら》さん。ふむ、そんなに喜ぶようなことなのかね。
で、それから簡単《かんたん》にイベントの開催《かいさい》場所などについて説明を受け、
「そ、それではお待ちしていますから……」
「またあとでお会いしましょうねー」
「は、はい、失礼いたします」
「あー、どうも」
ぶんぶんと手を振る茅原さんたちに別れを告《つ》げて、俺たちは遊園地の入場口へと向かったのだった。
「ねー、茅原せんぱーい。別にこんなまだろっこしいことしなくてもはっきり提案しちゃえばよかったんじゃないですかー?」
「え?」
俺たちが去った後、
二人だけになった後の入場口前で、小早川《こばやかわ》さんがそう口にした。
「乃木坂《のぎざか》さんのことですよー。もう金部ぶっちゃけちゃってストレートに言っちゃった方が早かったんじゃないかと思うんですけどー」
「だ、だめよ。彼女こういうことにはあんまり輿味《きょうみ》はないみたいだし、お家《うち》も大きくて厳格《げんかく》なところだから、ゆっくりじっくりと説得していかないと……」
「ふーん、そういうもんなんですか?」
「そ、そうなの。せっかくの逸材《いつざい》を逃《のが》す手はないもの……」
ぐっと手を握《にぎ》りしめながら横浜ベイブリッジを睨《にら》む茅原《かやはら》さん。
その瞳《ひとみ》の中には都市ガスで燃焼《ねんしょう》するガスコンロのような炎《ほのお》が燃《も》え盛《さか》っていた。
「わあ、ここが遊園地なのですね……」
入場口を通過《つうか》し敷地内《しきちない》に入るなり、春香《はるか》が感激《かんげき》したように声を上げた。
「オバケ屋敷《やしき》にめり〜ご〜らんどにじぇっとこ〜すた〜……時計付きの大きな観覧車《かんらんしゃ》もあります。すごい……」
目をきらきらとさせながら子供のようにきょろきょろと辺《あた》りを見回す。
その様子《ようす》はまるで初めて熱帯魚を見たゴマフアザラシの赤ちゃんのようである。いやこの反応《はんのう》からしてもしかして……
「春香、遊園地は……」
「あ、はい、初めてです。今まではお父様があまりいい顔をされなくて……。『あ、あのような男と女が二人きりで密会《みっかい》するいかがわしいところのことは知らなくてよい! さ、三半規管《さんはんきかん》を悪くする!』と……」
「……」
やっぱりそうか。まあ春香父のよく分からん理屈《りくつ》はともかく、新幹線もこの前が初乗りだったし、今さら驚《おどろ》くとこでもないだろう。
「お話では聞いていたのですが、実際《じっさい》に見てみるととっても感動です……。あっ、あれは何でしょう、裕人《ゆうと》さん。何だか不思議《ふしぎ》なカタチをしています……」
次から次へと視線《しせん》を躍《おど》らせる春香。
本当に心から楽しそうな笑顔《えがお》である。
「あー、それじゃいつまでも見てるだけなのもアレだし、適当《てきとう》に回ってみるか」
「あ、は、はいっ。ど、どれから行きましょうか? あっちのくりふどろっぷ? それともこっちのさいくるものれ〜るなどもありますし……(わくわく)」
案内パンフレットを胸《むね》の前でぎゅっと握《にぎ》りしめながら好奇心《こうきしん》いっぱいの表情をする。
「そうだな……」
こういった場合どういう順番で回るのが適切《てきせつ》なんだろうか。女子と二人で遊園地に来るのなんて当然ながら初体験《はつたいけん》なためさっぱり分からん。無難《ぶなん》なところではコーヒーカップ→メリーゴーランド辺《あた》りのファンシーコンボとかか。いやゴーカート→ジェットコースターのスクリーミングコンボってのもあるな。意表をついてオバケ屋敷→ホラーハウスのスプラッタコンボもありっちゃありだし……
「……」
むう、意外に難《むずか》しいな。ツインテール娘たちならこんな時きっと『こうゆう時は自分の心に素直になって本能《ほんのう》と欲望《よくぼう》のおもむくままが〜っとケダモノになっちゃえばい〜んだよ、おに〜さん♪』とかまたトンデモなことを言うんだろうが……
「……ん、ツインテール娘?」
と、そこに至って一つ思い出したことがあった。
――そういえばこういう時には必ず美夏《みか》たちの監視《かんし》というか尾行《びこう》が付いてるのが今までのパターンなんだよな……
「……」
バッと身を翻《ひるがえ》して辺《あた》りを見回す。
「? 裕人《ゆうと》さん?」
周囲に見えるのは取り立てて怪《あや》しいところのない男女二人組や親子連れの姿《すがた》。
今のところ不審《ふしん》な人影《ひとかげ》やレンズの反射光《はんしゃこう》はないようだが、油断《ゆだん》は禁物《きんもつ》だ。何せ気配《けはい》を消すのなんかは朝飯前なメイドさんたちだし、特にマスコット人形とかの被《かぶ》り物《もの》系は無口メイド長さんが変態《へんたい》している(趣味《しゅみ》で)恐《おそ》れがあるので気は抜《ぬ》けん……
ハンターに狙《ねら》われる湖上のマガモのような気分で周りの様子《ようす》を窺《うかが》っていると、
ジャジャジャジャーン ジャジャジャジャーン♪
「!?」
突然《とつぜん》ポケットから着信音が鳴《な》り響《ひび》いた。
腹にクる重苦しいメロディー。
これは……べートーヴェンの『運命』か?
ほとんど壊減的《かいめつてき》なレベルに音楽|音痴《おんち》な俺(シャープとフラットが何なんだかいまいち分からない)でも知っている有名曲であるが、とりあえずこんな着信音を設定《せってい》した覚えはこれっぽっちもない。いやこれはまさか……
「あの、裕人さん、『運命』が鳴って……」
「ん、ああ」
イヤな予感を覚えながら出てみると、
「はろはろ〜、おに〜さん、元気〜? 今日はとうとう決戦の日だね〜。ちゃんとお姉ちゃんとのらぶらぶいちゃいちゃで〜とを満喫《まんきつ》してるかな〜♪」
「……」
ピッ。
反射的《はんしゃてき》に切っちまった。
いや何となく本能が指を勝手に動かしたというか……
ジャジャジャジャーン ジャジャジャジャーン♪
即座《そくざ》に再《ふたた》び『運命』が鳴る。
「あの、裕人《ゆうと》さん……?」
「…………。スマン、美夏からみたいだ、ちょっと待っててくれ」
「あ、はい」
ちょこんと首をかたむける春香にそう言って、少し離れた場所で通話ボタンを押す。
すぐに受話口の向こうから元気な文句《もんく》が飛んできた。
「も〜、おに〜さん、何で切るの〜! せっかくのせくし〜美夏ちゃんからのえんじぇるぼいすこ〜るなのに〜!」
「いや悪い、何となくロクな予感がしなくてな……」
カブト虫の報《しら》せというかそういった類《たぐい》のものである(いや冬には幼虫《ようちゅう》だが)。
まああくまで勘《かん》ではあるとはいえ、おそらくそれは間違《まちが》ってないだろう。このツインテール娘のことだから、どうせまたどこからか監視《かんし》&盗聴《とうちょう》していてもっと積極的に行動しろだとかもっと男らしい言葉をささやけだとかそんなとこに違《ちが》いない。
だが次に受話口の向こうから聞こえてきたのは、
「あ、それはだいじょぶ。わたしたち、今九州だから♪」
「は?」
そんな実にあっほらかんとした言葉だった。
いや九州って……あの九州か? アップルマンゴーとか桜島大根《さくらじまだいこん》とかで有名な。
訊《き》き返《かえ》すと、
「うん、そ。実はこの前|餌付《えづ》けしたインパラがホームシックにかかっちゃったみたいでさ〜。ちょっと様《ようす》子を見に行かないとってことで、昨日から鞠愛《まりあ》さんといっしょに宮崎にある動物園に来てるんだよ。見学も兼《か》ねたお見舞《みま》いって感じかな? それで今から抜《ぬ》け落《お》ちた羽毛のように傷付《きずつ》いたエカテリーナちゃん(インパラの名前らしい)を優《やさ》しくメンタルケアしてあげるとこ。だから今回はおに〜さんたちのらぶらぶっぷりを観察――こほん、おに〜さんたちのことを陰《かげ》から生温《なまあたた》かく見守ったり、思い出をハイビジョン画質《がしつ》で録画《ろくが》したりすることはないから、安心してい〜よ♪」
「……」
医療《いりょう》メイドさん、アフリカ原産ウシ科|哺乳類《ほにゅうるい》もストライクゾーンなのか。てかインパラだとかホームシックだとか突《つ》っ込《こ》みどごろが満載《まんさい》どころか特盛《とくも》りなんだが、そこはもういつものことなので婚礼期のオス孔雀《くじゃく》の羽色のごとく鮮《あざ》やかに放《ほうち》置しておこう。
「分かった、それじゃあとりあえず美夏はそれをがんばってくれ。んじゃまた――」
速《すみ》やかに通話を終えようとして、
「わ〜、待った待った! だからその前におに〜さんの現状《げんじょう》を確認《かくにん》しとこうと思ってわざわざ電話したんだってば〜!」
「……」
やっぱりそれか。
心の中で深いため息を吐《つ》く俺に、
「それでそれでおに〜さん、お姉ちゃんとのデートはどんな感じ〜? 現在進行形で絶賛《ぜっさん》らぶらぶ中? それとも想い出いっぱいのシンデレラみたいに大人の階段《かいだん》を上っちゃうとこ? きゃっ♪」
この上なく明るい声でそう訊《き》いてきた。
「……別に、普通《ふつう》だ。今のところは特に何もないぞ」
「え〜、そなの? でもおに〜さんとしては初デートでどうすればいいかとか微妙《びみょう》に困《こま》ったりしてるんじゃない? アトラクションを回る順番で迷《まよ》ったりとかお姉ちゃんにどう接《せっ》したらいいのか困ったりとかどうやって秘宝館《ひほうかん》に連れ込もうか思案《しあん》に暮《く》れてたりとか〜」
「ぬ……」
最後の一つはまったくもって濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》だが前半は否定《ひてい》できんのが辛《つら》いところである。
「あ〜、やっぱりね〜。優柔不断《ゆうじゅうふだん》なおに〜さんのことだからきっとそうなんじゃないかと思ったんだよ、うんうん。――というわけで、らぶり〜な美夏《みか》ちゃん先生が手助けをしてあげることにしました」
「手助け?」
「そだよ。デートをする上でポイントになりそうな素敵《すてき》アトラクションをピックアップして、さらにそれに美夏ちゃん先生のワンポイントアドバイスも付けた完璧《かんぺき》なガイドを今さっきメールで送っといてあげたから。これを見れば丸まったアルマジロみたいに奥手《おくて》なおに〜さんでもばっちりだよ♪」
「……」
見ればいつの間にか携帯のディスプレイに受信メールの表示。
相変わらずホントに色んなことを毎回毎回考えつくな……
呆《あき》れ半分ある意味感心半分でディスプレイを見つめていると、
「――でもね、おに〜さん。こうゆう場合は基本的にはあんまり考えすぎない方がうまくいくもんなんだよ?」
「え?」
「だからさ、いつも通りでいいと思うよ。ヘンに気張《きば》ったってどうせいいことなんてないんだから。せっかくの初デートなんだし、自然体が一番なんじゃない?」
「む……」
それは美夏にしてはこの上なくまともな意見だった。
さっきまでの発言とは微妙に矛盾《むじゅん》してる気がせんでもないがそれでもまっとうな見解《けんかい》。うーむ、どういう心境《しんきょう》の変化か分からんが意外だな。このツインテール娘(身長一四七センチ)も内面的には少しは大人になったのかと少しだけ見直しかけて――
「ま、ほんとは自然体でいきつつインドマグロがエラ呼吸でもするかのようにさりげなくらぶらぶいちゃいちゃするのが理想的なカタチなんだけどね〜。歩いている途中《とちゅう》でなにげな〜く腰《こし》に手を回したりだとか、アイスクリームを食べてる時にお互《たが》いに交換《こうかん》して間接《かんせつ》キスをしたりだとか、夜景を見ながら『目の前にある景色よりも俺は春香《はるか》の瞳《ひとみ》の中に映る光の宝石を見ていたいんだ……』なんてのもありかな〜。それでそれで、二人はそのまま寄《よ》り添《そ》うように夜の街《まち》へと消えていくの。や〜ん、あだるてぃ〜♪」
「……」
――甘かった.
アンデス原産チェリモヤ(森のアイスクリームと呼《よ》ばれている果物)くらいに甘かった。
電話の向こうできゃっきゃっと黄色い声を上げる美夏《みか》。てかこのツインテール娘、段々《だんだん》思考《しこう》経路《けいろ》がどこぞのセクハラ音楽教師に似《に》てきてないか? そういえばあの人も中学の頃《ころ》は一時期ツインテールだったし、同様の進化の系図《けいず》(ダメな意味で)を辿《たど》ってるんじゃないだろうな……
耳年増《みみどしま》な妹お嬢様(十四歳)の将来についてそこはかとなく不安になる俺に、
「じゃおに〜さん、とにかくそうゆうことでがっつりがんばってね。わたしたちとしてはステキで無敵《むてき》なお義兄《にい》さん的|展開《てんかい》を期待してるから〜♪」
「あ、おい――」
「ばいば〜い♪」
そう言って電話は切れた。
「……」
はあ……
なんか、一気に疲労《ひろう》した気分だな……
ともあれ美夏の言うことには一理あった。
色々考えたって思考の泥沼《どろぬま》スパイラルにハマるだけだし、緊張《きんちょう》やらプレッシャーやらでおそらく自滅《じめつ》するだけだ。あまり難《むずか》しいことは考えずに肩《かた》の力を抜《ぬ》いて普段《ふだん》のままの自分で行動するのが現状《げんじょう》では一番かもしれん。
「あ、裕人《ゆうと》さん、お帰りなさいです。あの、美夏は何と……?」
「ん、あー、いや、大したことじゃない。それよりどこから回るかだがな……」
「え? あ、はい」
なのでとりあえず順番などは決めずに面白《おもしろ》そうなところを適当《てきとう》に回ってみようと提案《ていあん》してみた。それはともすれば投げっぱなしジャーマンとも取れる微妙《びみょう》な提案だったが、春香《はるか》は何のためらいもなく無邪気《むじゃき》な笑顔《えがお》でにっこりとうなずいてくれて、
「あ、はい。賛成です。その方がのんびりと回れますし、なんだかわくわくします♪」
そう快《こころよ》く了解《りょうかい》してくれた。うう、ホントに素直ないい娘《こ》だ……
「あー、それじゃ、行くか」
「はい♪」
というわけで、改めて園内を回ってみることになった。
二人して並《なら》んでカラフルに舖装《ほそう》された道を歩き出す。
「でもほんとうに色々なあとらくしょんがありますね。目移《めうつ》りしてしまいそうです……」
「ああ、意外に多いんだな……」
春香の言う通り、園内には思った以上に多くのアトラクションがあるようだった。
ジェットコースターなどの定番の屋外型《おくがいがた》のものからゲーセン調の屋内型《おくないがた》のものまで。
入園口付近からは敷地《しきち》がそこまで広いようには見えなかったんだが、見かけよりも案外《あんがい》奥行《おくゆ》きがあるというかあちこちにムダなくアトラクションが配置《はいち》してあるみたいである。
そんな中で春香が最初に興味《きょうみ》を示したのは、
「あ、裕人《ゆうと》さん、あそこに大きなマグカップがありますよ!」
「ん、みたいだな。乗ってみるか?」
「は、はい、ぜひ!」
コーヒーカップだった。
嬉《うれ》しそうに声を上げながら俺の手を引いてとてとてと色|鮮《あざ》やかな巨大《きょだい》陶器《とうき》製《せい》西洋《せいよう》茶碗《ぢゃわん》へと乗り込んでいく。
「わあ……これがくるくると回るのですよね?」
「ああ、すぐに動き出すと思うぞ」
「はいです。わくわく……」
やがて軽快《けいかい》な音楽とともにゆっくりとカップが回り出した。
「す、すごいです、本当に回ってます!」
「ああ」
「素敵《すてき》……。ゆらゆらでふわふわで、まるでベニスでゴンドラに乗っているみたいです……」
少しだけ身を乗り出しながらうっとりと周りを見渡《みわた》す。
まあそれはいいんだが、
「春香、楽しいのも分かるけどちゃんと掴《つか》まってないと危《あぶ》ないぞ」
「え?」
「ただ回ってるだけに見えて意外と揺《ゆ》れるもんだからな。油断《ゆだん》してるとコケたりする」
「あ、はい。気を付けま――きゃ、きゃっ」
と言った傍《そば》から、遠心力《えんしんりょく》にそのタンポポの綿毛《わたげ》のように軽い身体が負けたのか春香《はるか》がふらりと上半身をよろめかせた。
「――っと」
とはいえいつもの空中四回転半の大回転とかに比べれば全然かわいいレベルのもんである。
バランスを崩《くず》して倒《たお》れこむ前に肩《かた》を支えて無事キャッチすることに成功した。
「大丈夫《だいじょうぶ》か? ケガとかは?」
「あ、は、はい。おかげさまで……」
「だから言ったろ。一見ファンシーな乗り物だが意外にプチデンジャラスなんだ」
俺自身子供の頃《ころ》にハデにすっ転《ころ》んで顔面《がんめん》からカップ中央のハンドル部分に突《つ》っ込《こ》んだ(そしてメガネにヒビが入った)というのを体験《たいけん》済《ず》みである。
「あ、ありがとうございます。やっぱり裕人《ゆうと》さんは頼《たよ》りになりますね」
「あー、いや」
「こ〜ひ〜かっぷだけに救《すく》って(掬《すく》って)いただきました♪」
にっこりと微笑《ほほえ》みかけてくる。
むう、台詞《せりふ》はいまいち微妙《びみょう》だが(というか葉月《はづき》さんレベルだが)、それを忘《わす》れさせるほどの癒《いや》しの極致《きょくち》な笑顔《えがお》だね。
で、まあそんな感じに初めてのコーヒーカップタイムを終えて、
「えへへ、面白《おもしろ》かったですね、こ〜ひ〜かっぷさん♪ 思っていたよりもずっと動きがあったというか、えきさいてぃんぐだったです」
「ああ、そうだな。それじゃあ次に行くか。まだアトラクションはたくさんあるし」
「はいっ」
うなずいた春香とともに、順々に色々なアトラクションを巡《めぐ》っていく。
「あ、見てください、このパンダさんの乗り物、とってもかわいらしい鳴き声を上げてます」
「……ワンとは鳴いてないみたいだな」
サファリペットというパンダ型をした乗り物(対象《たいしよう》年齢三歳以上)でパンダライダー体験をしたり、
「あっ、あちらにあるあれは何でしょう? 雪だるまさんの置物がありますが……」
「なんか氷点下の世界が体験できるアトラクションらしいぞ。寒そうだ……」
アイスワールドで擬似《ぎじ》北極体験をしたり、
「あそこに見えるのってアザラシさんでしょうか? つんと立ったお鼻がぷりてぃ〜です」
「どれどれ……ああ、ノースポールっていうアザラシ型コースターらしいな」
反《そ》り返《かえ》ったアザラシ型アトラクションでアザラシマスター体験をしたりと、
色々とバリエーション溢《あふ》れるひと時だった。
「裕人さん、遊園地ってとってもとっても楽しいですね♪」
「ああ、そうだな」
「こんなに素敵《すてき》なところならもっと早く来てみればよかったです。どうしてお父様は反対だったのかな……」
にこにこと笑いながらちょっとだけ首をかたむける春香《はるか》。
その顔は本当に無邪《むじゃき》気で活《い》き活《い》きと楽しそうで……うむ、やはり余計《よけい》なことは考えずに自然体で行くのが正解《せいかい》だったみたいだな。
そんな風に改めて確認《かくにん》しつつさらに歩を進めていく。
そして最初のコーヒーカップから数えて七つ目に訪れたアトラクション。
それは『新・幽霊堂《ゆうれいどう》』というオバケ屋敷《やしき》だった。
「な、何だか不気味《ぶきみ》な感じですね……」
入り口のおどろおどろしい看板《かんばん》を見上げながら春香が心細げにつぶやいてくる。
「まあ、オバケ屋敷だからな」
オバケ屋敷が不気味じゃなかったら羊頭《ようとう》狗肉《くにく》もいいところである。あるいはぬいぐるみのないファンシーショップってところか。
「こ、ここ、入るのですよね……?」
春香が恐《おそ》る恐《おそ》るといった感じに訊《き》いてくる。あんまり気が進みませんって顔だ。
「いや、まあ入りたくないんならムリにとは言わんが……」
「い、いえ、は、入ります。ゆ、遊園地といえばオバケ屋敷、オバケ屋敷といえば遊園地です。二つは切っても切れないロミオとジュリエットな関係で『……オバケ屋敷でムンクの絵のように絶叫《ぜっきょう》せずして遊園地をスペアリブの髄《ずい》まで堪能《たんのう》したとは言えません』、と葉月《はづき》さんも仰《おっしゃ》っていましたし……」
「……」
それは微妙《びみょう》に間違《まちが》った知識《ちしき》な気がせんでもないが。
ちなみにここは美夏《みか》がピックアップしたというらぶらぶポイントとやらの一つに入っていた。
受け取ったメールによると、
『らぶらぶポイント(1[#底本では丸に1]):オバケ屋敷。こうゆうのにからっきし弱いお姉ちゃんはきっと崖《がけ》っぷちに一匹だけ取り残されて切なく鳴き声を上げる仔鹿《こじか》みたいに怖《こわ》がると思うから、そのケアとフォローをちゃんとしてあげるよ〜に。男らしく頼《たよ》りになるところを見せるチャンスだよ♪』
とのことらしい。
まあいつかの文化祭で銃声《じゅうせい》を聞いたバンビちゃんのように怖がっていたのはむしろ当のツインテール娘の方だが、ここでそれに触《ふ》れるのは野暮《やぼ》ってもんだろう。
「それじゃあ、入るか」
「は、はい……」
回数券を受付に通して、不安げな春香《はるか》とともに中へと入る。
建物の中は基本的には真っ暗だった。
四方を金網《かなあみ》に覆《おお》われた乗り物に乗って進んでいく、いわゆるライド系のオバケ屋敷《やしき》らしい。
何でも手元のスイッチで恐怖度《きょうふど》をレベル一から三まで調整できるシステムのようだ。
「く、暗いですね……」
ライドに乗るや否《いな》や、春香が緊張《きんちょう》したような声を上げてきゅっと服の袖《そで》を掴《つか》んできた。
「な、何だかこういう真《ま》っ暗闇《くらやみ》だと、あの時を思い出します……イノセントスマイルを返却《へんきゃく》するために裕人《ゆうと》さんと二人で夜の学園に行った日のことを……」
「あー」
あの夜の図書室|侵入《しんにゅう》事件か。
もはや今から八ヶ月も前の出来事《できごと》だが、思えばあれが春香と仲良くなる最初のきっかけだったんだよな。あれ以来、俺は春香のことを春香と呼《よ》ぶようになり春香は俺のことを裕人さんと呼ぶようになったわけだし……
「でも懐《なつ》かしいな。確《たし》かあの時は春香が腰《こし》を抜《ぬ》かして大変だったっけか」
「あ、え……? そ、それは……」
「本当に怯《おび》えてる感じだったよな。確か五分くらい立ち上がれなかったような……」
「も、もう、裕人さん、いぢわるです……」
そんなやり取りをしていると、
ゴトリ。
鈍《にぶ》い音を立ててライドが動き出した。
「う、うご、動きました……」
「ん、本当だ」
暗闇の中ゆっくりと疾走《しっそう》していく四面金網張りのライド。
なかなかに不気味《ぶきみ》な感じである。
「で、でも何だか……あの時よりも安心できるような気がします」
「え?」
「こ、怖《こわ》いには違《ちが》いないんですけど、それでもどこか心の奥底《おくそこ》ではだいじょうぶだと感じているというか……。裕人さんが頼《たよ》りになるって、分かってるからなのかな……」
そう言いながらささやかにぴとりと身を寄せてくる。
「春香………」
同時に柔《やわ》らかな感触《かんしょく》とそこはかとなく甘やかな香《かお》りがふんわりと漂《ただよ》ってきて……ぬ、ぬう、何やら色んな意味で緊張《きんちょう》するな。
迷《まよ》いつつも春香の肩《かた》に手をかけようとしたところで、
〜〜〜〜!
「きゃ、きゃあっ!」
不気味《ぶきみ》な効果音《こうかおん》とともに目の前に礫《はりつけ》にされた人間のようなモノが出現した。
春香《はるか》が絶叫《ぜっきょう》を上げて全身でしがみついてくる。
「は、春香、大丈夫《だいじょうぶ》だから――」
「や、いやですっ! こ、来ないで……っ!」
「は、春香……」
「や、やああっ! 裕人《ゆうと》さんの目が、裕人さんの目が無機質《むきしつ》な宇宙人さんみたいに……っ!」
「そ、それはメガネだ、春香……」
ていうか安心できてるんじゃなかったのか? むしろあの時よりも怯《おび》え方《かた》&パニック具合が三割増しなんだが……。今回はニセモノとはいえリアルな形で目の前に幽霊《ゆうれい》が蠢《うごめ》いているわけだからある程度《ていど》は仕方がないとして、それにしたって春香の言うところの安心|効果《こうか》が全然感じられん。
「……」
……ま、まあそれ(俺の存在《そんざい》価値《かち》)について深く考えるとブルーになることこの上ないのでこの場はスルーしとくとして、とはいえ現状《げんじょう》はそう悪いもんでもなかったりする。
何だかんだ言いつつも春香はぴったりとくっ付いたまま離《はな》れないでいてくれてるし、春香がくっ付いてくれるということは腕《うで》の辺《あた》りにむにゅっとソフトランディングな感触《かんしょく》が発生したりもして……むう、なんかオバケ屋敷《やしき》の中でプチパラダイスな気分だな……
そんなことを考えている内に、ライドはゴールまで辿《たど》り着《つ》いたみたいだった。
「着いたみたいだぞ、春香」
「……」
「……春香?」
「……」
呼《よ》びかけるも返事がない。
不審《ふしん》に思って見るとそこには春香の姿《すがた》はなく代わりにびっしょりと濡《ぬ》れたシートだけが残されて……ってなわけではなく、
ライドに座《すわ》ったまま固《かた》まったかのようにうつむいている春香の姿があった。
「? どうしたんだ? 降《お》りないともう一周することになるぞ」
首を捻《ひね》る俺に、
「あ、あの……」
「?」
春香は今にも泣きそうなうるうるした瞳《ひとみ》でこう訴《うった》えかけてきたのだった。
「あ、あの、降りられないんです。こ、腰《こし》が抜《ぬ》けてしまったみたいで……」
「お、面白《おもしろ》かったですね、オバケ屋敷《やしき》」
春香《はるか》があせあせとした顔で見上げてくる。
「ちょ、ちょっとすりりんぐでしたけれど、とっても楽しいひと時でした。ぜ、全然|怖《こわ》くなんかなかったですよ? ほ、ほんとですから」
「……」
と言いつつも、その右手はしっかりと俺の腕《うで》を握《にぎ》っているわけだが。
まあいまだにちょっと涙目《なみだめ》だし、春香の名誉《めいよ》のためにもこれ以上突《つ》っ込《こ》むのはやめておこう。さりげなく腕組み状態《じょうたい》になってるのは俺にとってもウェルカムだしな、うむ。
そんな具合に腕組み要素《ようそ》がプラスされた状況《じょうきょう》で、さらにいくつかアトラクションを回っていく。
メリーゴーランドや鏡の館《やかた》、遊園地の定番とも言えるジェットコースターや占《うらな》いの館など。
特に後半二つは美夏《みか》のワンポイントアドバイスにも掲載《けいさい》されていたもので、
『らぶらぶポイント(2[#丸に2]):ジェットコースター。高所《こうしょ》での生命|危機《きき》のどきどきを恋のどきどきだと勘違《かんちが》いする場合があるんだって。吊《つ》り橋効果《ばしこうか》ってやつで、うまく利用すれば二人の仲はいっきに三段階《だんかい》くらいステップアップだよ♪』
『らぶらぶポイント(3[#丸に3]):占い。女の子は占いが好きなものだから、らぶりぃ〜な結果が出ればきっと二人の仲もぎゅ〜んと深まるかも♪ なおいい結果は気合いで何とか出すよ〜に』
その謳《うた》い文句《もんく》(?)に違《たが》わずどちらも色々とインパクトというかハプニング満載《まんさい》だった。
具体的には春香は意外にジェットコースターには強かったものの落下時《らっかじ》の遠心力《えんしんりょく》でおやつに持ってきていたバナナがバッグから飛び出しそうになりむしろ違う意味でドキドキだったり、占いでは気合いの甲斐《かい》もあってかそれなりに良好《りょうこう》な結果が出たもののその後にプリントアウトされた紙を風で飛ばされて拾おうとした春香が海に落ちそうになったりして、ハラハラだった。
で、それらを回り終えた時点で時間はおよそ一時過ぎ。
そろそろ小腹も空いたということで、俺たちは昼食をとるために遊園地内にある屋内《おくない》フードコートに来ていた。
「けっこう種類があるみたいだな……」
広めに作られたフードコートはラインナップがそれなりに充実《じゅうじつ》していて、主にファーストフード系の店舗《てんぽ》が色々と集まっているようである。座席もたくさんあって、なかなかに快適そうな感じだった。
「どれにする? 和食系も洋食系もあるみたいだが……」
個人的にはどれでもアリというか。
そう尋《たず》ねると春香《はるか》はちょっと控《ひか》えめにこっちを見て、
「え、えと、できれば裕人《ゆうと》さんにお任《まか》せできたらと思います。私、こういうのはあまりよく分からなくて……」
「ん、分かった。んじゃ適当《てきとう》に買ってくるから、春香はそこの席を取っといてくれるか?」
「あ、はいです」
春香に席の確保《かくほ》を頼《たの》み、販売《はんばい》コーナーへ向かう。ふむ、どれにするか。色々と候補《こうほ》はあるが、まあとりあえずハンバーガーやポテト、チキンナゲットにウーロン茶などの無難《ぶなん》なところを買っておけば間違《まちが》いはないだろう。確か春香は肉よりも魚の方が好きだったはずだからメインはフィッシュ系なんかを押《お》さえておけばまず大丈夫《だいじょうぶ》なはずだ。
「あー、すみません」
「はい、いらっしゃいませ」
「ええと、照り焼きバーガーとフィレオフィッシュ、あとポテトのMと……」
というわけで目ぼしいラインナップをいくつか注文し、
「ありがとうございました〜」
店員さんから品物とスマイル〇円を受け取りトレイに載《の》せて席へと戻ると、春香はナプキンなどを用意して待っていてくれた。
「あ、おかえりなさい、裕人さん」
「ん、ただいま。こんなんでよかったか? 適当に選んだんだが。照り焼きバーガーとフィレオフィッシュ、春香はどっちががいい?」
ハンバーガー二つを差し出すと春香は少し戸惑《とまど》うような顔をして、
「あ、えと……」
「?」
「あ、で、でしたら……そちらのお魚さんのをお願いします」
「ん、了解《りょうかい》」
予想通り魚類の方に手を伸ばした。
フィレオフィッシュの包み紙とウーロン茶の入った紙コップとを渡《わた》し、ポテトとチキンナゲットは二人で食べられるようにテーブルの真ん中に置いた。
「それじゃあ食うか」
「あ、はい、いただきます」
そう手を合わせてお互《たが》いに照り焼きバーガーとフィレオフィッシュの包み紙を開く。
立《た》ち昇《のぼ》る照り焼きバーガーと白身魚の香《かお》り。
だが春香に食べようとする様子《ようす》はない。
ただじ〜っと戸惑ったような視線《しせん》で俺の手元とフィレオフィッシュの間から垣間《かいま》見《み》える魚くん@タルタルソースまみれとを見比べている。何だ? 実は照り焼きバーガーの方が気になるとか……
「? どうした、食べないのか?」
不思議《ふしぎ》に思って声をかけると春香《はるか》はきょろきょろと困《こま》ったように顔を上げて、
「あ、いえ……」
「? あ、もしかしてあんまり好きじゃないのか? だったら別のやつを買ってくるが……」
トレイを手に立ち上がろうとすると、
「あ、そ、そういうわけじゃないんです。ただ……」
「ただ?」
「そ、その……」
そこで春香はちょっと恥《は》ずかしそうにこっちを見て、
「あの、え、えと……これはどのようにして食べるものなのでしょうか?」
「え?」
ものすごく真剣《しんけん》な声でそう訊《き》いてきた。
「上からはがして一枚ずつ取っていくのですか? それとも食べやすいように切り分けてソースとともに食べるとか……?でもナイフもフォークもないですし、う、う〜ん……」
「……」
ハンバーガーを前にして首をひねらせる春香。
これはもはや改めて訊いてみるまでもなく初めて……なんだろうな。まあ春香とハンバーガーってのもまた純和風庭園とアメリカ製|芝刈《しばか》り機《き》みたいな組み合わせではあるし。
なので、
「あー、春香、ハンバーガーはこうやって手で持ってだな……」
「はい?」
「こう、一気にえぐりこむようにして食べるといいぞ」
食べ方を図解して説明する。
「あ、な、なるほどです。そうやってパンと中のおかずをいっしょに食べていくのですね」
「ああ」
オカズって表現が正しいのかは分からんが。
「わ、分かりました。ええと、こうして……」
こくこくとうなずくと、春香は慣《な》れない手付きで遠慮《えんりょ》がちにフィレオフイッシュを持ち上げてそのままかぷっとかわいらしくかぶりついた。
「あ、おいしいです」
「お、そうか?」
「はい、今までにない組み合わせというかとっても新鮮《しんせん》な味で……。こんなものがあったなんて、目からうろこが落ちた気分です。裕人《ゆうと》さん、ありがとうございます」
そう言ってハムスターがヒマワリのタネを食べるようにもむもむと一生懸命《いっしょうけんめい》に小さな口を動かしながらフィレオフィッシュを食べ進めていく。まあ手づかみは慣《な》れていないようなのでいまいち動きはぎこちないが、何とか無事に食べられてるみたいで良かった。何だかんだで割とハンバーガーも気に入ってるみたいだし……
紆余曲折《うよきょくせつ》の末に砂場デビューを果たした愛娘《まなむすめ》(三歳)を見届《みとど》けた親みたいな心境《しんきょう》で自分も照り焼きバーガーを口にしようとして、
「……」
と、そこで気付いた.
気付いたというか目に入った。
目の前にあるかわいらしい春香《はるか》のほっぺた。そこに……小さくちょこんとタルタルソースが乗っているのを。
「……」
これはあれか、春香の赤ちゃんシジミのように慎《つつ》ましい口のサイズに比べてハンバーガーが西表島《いりおもてじま》原産《げんさん》の巨大《きょだい》シジミサイズすぎたのか。あるいはカラリといい色に揚《あ》げられた魚くんの最後の悪あがきとか……
まあ真偽《しんぎ》は分からんが、何にせよ放っておくわけにはいくまい。春香はハンバーガーと格闘《かくとう》するのに精一杯《せいいっぱい》で気付いてないようだし。
「あー、春香、ほっぺたにタルタルソースがついてるぞ」
「え?」
「ほら、そこの右のところだ」
「え、ほ、ほんとですか? え、えと、えと……」
慌《あわ》てて自分で拭《ふ》き取《と》ろうとするが、なかなかうまくいかない。
「春香、そっちじゃなくて向かって右でな……」
「こ、こっちですか?」
「いやそこじゃなくてもう少し下で……」
「え、ぇぇと、この辺で……」
「それは下すぎだ……。……あー、もう取ってやるから動くなって」
「え……?」
もうその方が早い。
俺はテーブルにあったナプキンを手に取るとそのまま春香の顔へと伸ばした。
「あ、あう……」
恥《は》ずかしそうに少し目を伏《ふ》せながらもされるがままになる春香。
ナプキンの動きに合わせてその小さな頭がこくこくと揺《ゆ》れていた。
「ほら、取れたぞ」
「あ、ありがとうございます。お手数をおかけしてしまって……」
もじもじと申《もう》し訳《わけ》なさそうにお礼を言ってくる。
「いやお手数なんてことはない[#底本にはないが、あると違和感が少なくなる。本当は「いぞ」くらいがいいかもしれない]。ただ拭《ふ》き取《と》っただけだし」
「そ、そんなことないです、すごく助かりました。自分では取れませんでしたし……。それに裕人《ゆうと》さんの手、とっても優《やさ》しい感じがして……」
「え?」
「や、優しいというかあったかいというか、まるで春琉奈《はるな》様の愛犬シャルルローズ(マルチーズ)の肉球《にくきゅう》に包まれているみたいで……」
「そ、そうか?」
「はい。え、えヘへ♪」
ふにゃんと微笑《ほほえ》む。
む、むう、たとえがよく分からん上にそこまで言われるほどのことでもない気はするんだが、言われて悪い気はせんのでここは素直《すなお》にありがたく受け取っておこう。にしてもこんなやり取りはなんかすげぇこそばゆいな。まるで二人でデートでもしているみたいな――
「…………」
……って、みたいも何もデートの真っ最中だろ!
思わず自分に突《つ》っ込《こ》んじまった。そうだ、春香《はるか》の無邪気《むじゃき》なはしゃぎっぷりやらまったりとした昼メシ風景やらでいつの間にか脳《のう》の海馬《かいば》から蒸発《じょうはつ》しかけていたが、今はまさにリアルタイムでデートの真《ま》っ只中《ただなか》である。それも記念すべき初めての。
「……」
うーむ。
そう考えると急にこっ恥《ぱ》ずかしくなってきた。徹夜《てつや》カラオケでナチュラルハイになってた途中《とちゅう》でふと我に返った気分っつーか……
恥《は》ずかしさに春香の顔を正面から見られずにうつむいていると、
「あ、え、えと、その……」
その妙《みょう》な意識《いしき》が伝染《でんせん》したのか、春香もツツ……と視線《しせん》を逸《そ》らした。
「あ、ど、どうしたんでしょう。な、何かヘンですね。何だか照れくさいというか……」
「ん、あ、ああ……」
「……」
「……」
二人して微妙に目を逸らし合ったまま黙《だま》り込《こ》んでしまう。
う、ううむ、何なんだろうね、この触《ふ》れれば溶《と》けてしまいそうなフルーティーというかスゥイーティーというか、リリカルでボーイズビーな雰囲気《ふんいき》は……
「た、食べちゃいましょうか? さ、冷めてしまうと作ってくださった方に悪いですし……」
「そ、そうだな」
まあファーストフード系についてはほぼ機械を介《かい》して作られているんじゃないかって突《つ》っ込《こ》みはさておき。
結局照り焼きバーガーとフィレオフィッシュを食べ終わるまでの間、その妙《みょう》な空気は続いたのだった。
昼食を終えた後、俺たちは次に茅原《かやはら》さんの言っていたイベントとやらに向かうことにした。
クイーンズスクエアとやらで三時からやっているというイベント。
時間的にそろそろ向かわないと間に合わないという結論に達したのだ。
「えと、こっちですよね」
周辺の地図をくるくると回して見ながら春香《はるか》が確認《かくにん》してくる。
茅原さんの言っていたように、イベント会場は本当に遊園地から目と鼻の先にあった。
来た時に利用した入場口とは反対側にあるゲートを出て、橋を渡《わた》って五分ばかり進んだところにあるちょっとした広場のような場所。
そこがクイーンズスクエアとやららしい。
「確かこの辺《あた》りのはずなのですが……。茅原さんたち、どこにおられるのでしょう? 人がたくさんいらっしゃるのでよく分からないです……」
春香がきょろきょろと周りを見渡す。
ちなみに横浜コスモパークには入場料というものがなく、出入り自体はいつでも自由にできるため、入退場《にゅうたいじょう》の度《たび》に余計《よけい》な手続きなどをする必要はないのである。ううむ、世の中便利になったもんだな。
「分からんがあっちの開《ひら》けてる方じゃないのか? イベントってくらいだからある程度《ていど》スペースがないとできんだろうし」
「あ、そうですね。行ってみましょうか?」
「ああ」
二人でそう話し合っていると、
「あ、の、乃木坂《のぎざか》さ〜ん」
「?」
どこからか声が聞こえてきた。
見ると二十メートルほど離《はな》れた少し開けたスポットで茅原さんがぶんぶんと手を振《ふ》りまくっていた。
「こ、こっち、こっちです! き、来ていただけたんですね! か、感激《かんげき》です!」
「あ、はい」
「い、今そっちに行きますから! すぐに、一秒で行きます!」
茅原《かやはら》さんはそのままやたらとテンパった様子で駆け寄ってくると、
「あ、ありがとうございます! さ、さあ、イベントはこっちでやっていますので、ぜひどうぞどうぞ!」
春香《はるか》の腕《うで》をぐいぐいと引《ひ》っ張《ぱ》りながらハァハァと興奮《こうふん》気味《ぎみ》にそう言ってくる。
「あ、あの……」
困《こま》ったようにこっちを見ながらおろおろとする春香。
そのヒマワリのタネの山盛《やまも》りを前にした空腹時のハムスターのごときハイテンションに完全に気圧《けお》されている様子である。まあムリもないがとりあえず放っておくわけにもいかん。
俺は半歩前に出て、
「あー、それでイベントって、何をやってるんですか?」
「え?」
「イベント、どういうものなのかまだ聞かされてないんですが……」
困惑《こんわく》気味の春香に代わり尋《たず》ねてみると、
「あ、は、はい。ご、ごめんなさい、そうでした。え、ええとですね、実は今日はある雑誌の特集で、カップルでみなとみらいに来ている人たちのファッションチェック&アンケート、それと横浜の風景をバックに写真を撮《と》らせてもらおうっていうイベントなんです。『Vozue 』って雑誌なんだけど、し、知ってるかな?」
そう言いながら茅原さんがごそごそとバッグから出してきたのは何やらハイソな雰囲気《ふんいき》のファッション雑誌のようなものだった。
表紙でオシャレな金髪《きんぱつ》碧眼《へきがん》の男女が前歯をキラリと光らせながら上品に笑い合っているようなやつで、普段《ふだん》から読む維誌といえば『ザ・テレビジャン』やら『東京 Moon Walker』などの情報誌がせいぜいな俺には、当然ながらまったくもって縁《えん》も由香里《ゆかり》さんもない代物《しろもの》である。
だが春香は、
「え、『Vozue 』ですか? し、知ってます。よくおうちのリビングのラックに置いてあって……え、えと、時々読んだりもしてます。とっても素敵《すてき》なご本ですよね」
「あ、ほ、ほんと? 実はそこの編集部とは懇意《こんい》にしていてよくいっしょにイベントとかをやったりしてるんです。し、紙面作りにも少しだけ協力したりして……」
「そ、そうなんですか? わあ……」
尊敬《そんけい》の眼差《まなざ》しで小さく声をもらす。
何やら俺にはよく分からん信頼《しんらい》関係が築《きず》かれたようだった。
「あ、そ、それで、今回もその一環《いっかん》なの。ここに来ているカップルの人たちを何人か読者モデルとして撮影《さつえい》させてもらったり、他にはモデルの子を使ってお店やスポットの紹介《しょうかい》とかをしたりするっていうコンセプトなんです。うちの事務所からも何人かモデルの子が来てたりして、それで私たちも随行《ずいこう》してきたというわけで……」
「……」
確《たし》かに周囲ではカメラマンらしき人たちとカップルらしき人たちやモデルらしき人たちが写真を撮《と》ったり撮られたりしている。あれはこのイベントに参加している人たちなんだろう。
「あ、そ、そういうわけで、の、乃木坂《のぎざか》さんたちもよかったらどうですか?」
「え?」
「よ、よかったらいっしょにイベントに参加してファッションチェックを受けたりだとかアンケートに答えたりだとかをしていってくれませんか? お、お時間は取らせませんから……」
ぐっと身を乗り出しながらそう誘《さそ》ってくる。
「あ、え、えと……」
「せ、せっかくの機会ですし、こ、これも何かの縁ですから。あ、個人情報とかを心配してるなら大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。その辺は厳重《げんじゅう》に管理《かんり》しますし、お名前とかも必要なら匿名《とくめい》にするのもありです。そ、それにここに来ている人たちみんなを撮るので実際《じっさい》に載《の》るかどうかは分からないですから……」
「え、で、ですが……」
「お、お願いします! わざわざこちらまで足を伸ばしてくれたんですし絶対《ぜったい》にイヤとかでないならぜひぜひ……っ! ほ、ほら、せっかくのデートのメモリアルにもなると思いますし……」
「え、め、めもりある……っ」
その言葉に春香《はるか》がぴくんっ! と反応《はんのう》した。
明らかに興味《きょうみ》津々《しんしん》って顔である。
それを見た茅原《かやはら》さんはここぞとばかりにぎゅっと春香の両手を握《にぎ》って、
「う、うん、そうですそうです、メモリアルです! き、記念品として撮影後にお二人の写真をプレゼントしますから。デ、デートの思い出をカタチに残せるチャンスなんてなかなかないじゃないですか! す、素敵《すてき》ですよ?」
「そ、それは確《たし》かに……」
「ね、ね、そ、そうですよね?」
「……」
しばらくの間春香は迷《まよ》っているようだったが、
やがて、
「あ、あの、裕人《ゆうと》さん、もしよろしければごいっしょに……」
こっちを窺《うかが》うような顔でそう見上げてきた。
まあ俺としては元々イベントとやらに参加するつもりで来たんだし、春香《はるか》がやりたいっていうんならそれに反対する理由などこれっぽっちもない。
「ああ、了解《りょうかい》だ。やってみるか」
「あ――」
そううなずくと春香はすげぇ嬉《うれ》しそうな顔になって、
「は、はい! え、えと、でしたらちょっとだけ参加させていただけると……」
「ほ、ほんとですか! そ、それじゃあこちらに来てください! カ、カメラや機材を用意していますので……」
「は、はいです」
「分かりました」
茅原《かやはら》さんの指示に従《したが》って開《ひら》けたスペースへと移動《いどう》する。
そういう次第《しだい》で、イベント撮影《さつえい》とやらが始まった。
「あー、じゃあどうしたらいいですか? 適当《てきとう》に二人でその辺に立ってれば……」
「あ、ご、ごめんなさい。それでもいいんですけれど、まずは一人ずつ撮《と》らせてもらってもいいかしら?」
「え?」
と、茅原さんがそんなことを言ってきた。
「え、ええと、その最終的には二人で撮るんですけど、ひ、ひとまずは練習というか準備《じゅんび》も兼《か》ねて一人ずつ個々に撮影した方がいいかなって。よ、よろしいでしょうか?」
「はあ……」
なんかよく分からんが別にそういうことなら俺は構《かま》わないが。
春香もそれについては特に異論《いろん》はないようで「あ、はい。裕人《ゆうと》さんがよろしいのなら……」とこくこくとうなずいていた。
「あ、ありがとうございます。だ、だったらまずは綾瀬《あやせ》くんからお願いできますか?」
「あー、はい。分かりました」
うなずき、茅原さんとカメラマンらしき女の人との後を追って撮影場所らしい見通しのいいスペースへと移動する。後ろからは春香が、「ゆ、裕人さん、ふぁいとです」と、声援《せいえん》を送ってくれていた。
「そ、それじゃあ適当にその辺に立ってポーズを取ってもらえますか? 海の方でも見つめる感じで」
「あ、はい」
言われた通りに近くにあった碇留《いかりど》めに右足を乗せてその上にアゴを乗せた右ヒジを置く。
「で、では撮ります。カメラさん、お、お願いします」
「ハイ、一足す一はー?」
「え、に、二ー?」
パシャパシャ。
カメラマンさんのそんなかけ声と俺のマヌケな返答とポラロイドカメラの音とが響《ひび》いて、
「は、はい、おしまいです」
「え、もうですか?」
「え、ええ。あくまで練習ですから……」
「はあ……」
そういうもんなんだろうか。
いまいち拍子抜《ひようしぬ》けというかフタを開けたまま一日|放置《ほうち》した炭酸水《たんさんすい》のような気分になる俺をヨソに、
「そ、それじゃあ次は乃木坂《のぎざか》さん、お願いします」
「あ、は、はい」
春香《はるか》が緊張《きんちょう》した面持《おもも》ちで前に出る。
と、同時に周りが途端《とたん》に慌《あわただ》しくなった。
レフ板やらよく分からん機材やらを持ったアシスタントらしき人たちが慌しく動き始め、それに茅原さんの指示が飛ぶ。
「あ、そ、そこ、ちゃんと光の方向を調整してください」
「あ、ハイ」
「だ、だめですよ、そこにいたら乃木坂さんのつま先に三ミリ影ができてしまって……」
「ス、スミマセン」
「……」
なんか扱いが天空《てんくう》の城《しろ》と地底《ちてい》帝国《ていこく》ほど違《ちが》う気がするのは気のせいだろうか。
前《まえ》段階《だんかい》での準備からして段違いだし何やらカメラマンが抱《かか》えてるのは小型|機関銃《きかんじゅう》みたいなやたらとどでかいカメラだし……。うーむ、まあ春香と俺とじゃ被写体《ひしゃたい》としてのレベルが桁《けた》にして五つくらいかけ離《はな》れてるからな。同じ扱いをされようなんて考えること自体おこがましいのかもしれんが。
そうしている内に撮影《さつえい》準備が整ったようで、
「それじゃあ撮《と》りまーす」
「わ、は、はい」
そんな声とともにバシャバシャバシャ! とハデなシャッター音や「こっちに目線くださーい」などのカメラマンのリクエストが飛ぶ。
だが――
「あ、え、ええと乃木坂《のぎざか》さん……もう少しリラックスした表情でいてくれると……」
「は、はい。え、こ、こうですか?(かちこち)」
「う、う〜ん、な、何ていうかもっとナチュラルに微笑《ほほえ》んでもらえると助かるんですけど……」
「し、自然な感じで、ですか? え、ええと……(ぎくしゃく)」
「……」
そこにあったのは半ばアルカイック気味《ぎみ》な春香《はるか》の笑顔《えがお》だった。
ああ、そういえば何だかんだで春香は人前ではめちゃくちゃ上がりやすかったんだっけな。いつかのロンドンでのピアノコンクールの時も最後までガチガチでどうなることかと思ったわけだし。
「こ、これはどうしたもんかしら……元の素材《そざい》がいいから多少表情が硬《かた》くても全然問題はないけど、でもやっぱり一人でも多くの人にアピールするためにはできる限《かぎ》りいい笑顔を撮《と》るに越したことはないし……ぶつぶつ……」
「あ、あの……」
「! あ、ご、ごめんなさい。ちょ、ちょっと休憩《きゅうけい》でいいかしら? 少し考えたいことがあって……」
「あ、は、はい」
慌《あわ》てたようにそう答える茅原《かやはら》さんに少しばかり首をひねりながらうなずいて、春香がとことことこっちへと戻《もど》ってきた。
「お疲《つか》れ、春香。大変だったな」
「は、はいです。な、何だかとっても緊張《きんちょう》してしまいました……」
「あー、うん」
「ああいう風に目の前でカメラマンさんにカメラを向けられることって、七五三とかの時以来あまりなくて……どこか落ち着かない感じです」
胸《むね》に手を当てながら小さく息を吐《つ》く。
どうやら少しだけ気疲れ気味のようである。
まああんな大仰《おおぎょう》なカメラを向けられていつもと同じ精神状態《せいしんじょうたい》でいろってのがムリな話か。そもそも撮影《さつえい》なんてもの自体|普通《ふつう》に生活してればそうあるもんじゃないし、春香はどう見てもそういった目立つことが得意なタイプじゃない。疲れて当然である。
ただせっかく初デートに来てるってのにわざわざ気疲れするのもどうかと思うんだが……
「――大丈夫《だいじょうぶ》なのか、春香」
「え?」
「もしあんまりしんどいようならムリしてがんばらんでも……」
イベント参加の話はナシになるが、別にそこまでこだわるようなことでもあるまい。もともとついでというかオマケみたいなもんだし。
だけどその言葉に春香《はるか》はふるふると首を振《ふ》って、
「だいじょぶです。無理をしているなんて、そんなことないです。楽しいですよ」
「だがな……」
「確《たし》かに緊張《きんちょう》はしてますけど、でもこういったことはめったに経験《けいけん》できないですし、いい機会です。それに――」
「?」
「そ、それにその、これはめったにないチャンスだと思います。こんなロマンティックな場所で裕《ゆうと》人さんと二人で写真を撮《と》っていただけるなんて……。これ以上ないくらいの、裕人さんとの、その、は、初デートの、めもりあるになると……」
「春香……」
「だから私、楽しいんです。無理をしているとは、思ってないです」
そう言ってにっこりと笑った。
それは心からの輝くような笑顔だった。
「――そっか。春香がそう言うなら……」
「はい。素敵《すてき》なめもりあるを作りましょうね♪」
きゅっと握《にぎ》った両手を胸《むね》の前に持ち上げながら、力強くうなずいたのだった。
そんな俺たちから二十メートルほど離《はな》れたところで、
「ちょ、ちょっと、カメラマンさん!」
「はい?」
「い、今がチャンスよ! シャ、シャッターチャンス! の、乃木坂《のぎざか》さん、ものすごくいい笑顔をしてるから」
「え、でもなんか話し込んじゃってますよ? それにこの構図《こうず》からだとどうしてもあっちの男の子も入っちゃいますが……いいんですか?」
「い、いいの! そ、そんなのは後で加工するなりモザイクをかけるなりどうとでもなりますから。そ、それはできれば乃木坂さん単独がよかったですけど、こ、この際《さい》賛沢《ぜいたく》は言ってられないわ……。だ、だからとにかく撮っちゃってください。あ、ふ、二人には気付かれないようにしてくださいね。意識《いしき》されるとたぶん台無《だいな》しになっちゃいますから……」
「は、はあ、でしたら……」
バシャバシャバシャ。
小さく響《ひび》くカメラの音。
「う、うん……うん……やっぱりいいわ。こ、これが乃木坂さんの本当の表情なのよ……大晦日《おおみそか》の時に見た輝《かがや》くような表情……」
それを見ながらうっとり胸《むね》の前で両手を合わせる。
やがてひと通り撮影《さつえい》を終えて、
「で、でも、乃木坂《のぎざか》さんは綾瀬《あやせ》くんの傍《そば》にいる時が一番いい笑顔《えがお》なのね……。そこがちょっと気になるところだけど……で、でも大丈夫、人前なんて経験《けいけん》を重ねればその内に慣《な》れてくるものですもの、う、うん」
一人|納得《なっとく》したようにうなずきつつ、そうつぶやいていたのだった。
「あ、ありがとうございました。お、おかげさまでイベントも盛《も》り上《あ》がって、雑誌の特集の方もうまくいきそうです」
「あ、いえ、そんなこと……。こちらこそ素敵《すてき》な写真をいただいてしまいましたし……」
手元にある写真に目を落としながら春香《はるか》がふるふると首を振《ふ》る。
そこに大切そうに乗せられているのはランドマークタワーをバックに二人で撮《と》ってもらった写真である。キレイに仕上げられたプロ仕様《しよう》のもので、イベント参加記念としてもらったものだった。
「これ、大切にしますね。お気に入りの写真立てに入れて、お部屋《へや》の一番明るいところに飾《かざ》っちゃいます」
「そ、そうですか。そ、そこまで喜んでもらえると私たちとしても嬉《うれ》しいです」
茅原《かやはら》さんがぺこぺこと頭を下げる。
「あ、えと、それでは私たちはこれで……」
「あー、色々とお世話《せわ》になりました」
「あ、う、うん。今日は本当にありがとう。ま、またね、乃木坂さん、綾瀬くん」
ぶんぶんと手を振《ふ》る茅原さんに会釈《えしゃく》して、俺たちはその場から離《はな》れた。
「面白《おもしろ》かったですね、イベント」
クイーンズスクエアから少し離れた歩道で春香がそう言ってきた。
「とっても新鮮《しんせん》で、とってもいい経験《けいけん》でした。思い切って参加《さんか》してよかったです」
「ああ、そうかもな」
何だかんだでそれなりに楽しい時間ではあった。
新しい体験はできたし写真ももらえたし。まあ撮影の後も春香はファッションチェックやらアンケートやらで色々と大変そうではあったが。
「さ、それじゃそろそろ遊園地の方に戻《もど》るか。もう時間もけっこう遅《おそ》くなってきてるしな」
「そうですね。はい、行きましょう」
にっこりと春香《はるか》がうなずき、
そして出て来た時と同じ入場口を通り再《ふたた》び遊園地の中へと戻《もど》る。
午後四時半を少し回り夕方の風景となったみなとみらい。
「わあ、夕日があちこちに反射《はんしゃ》してきらきらしてます……」
「……」
「何だかさっきまでとは違《ちが》う場所みたいで……ほれぼれとしてしまいます」
口元に手を当てたまま周りを見渡《みわた》しながら春香がそう声を漏《も》らす。
確《たし》かに辺《あた》り一面がオレンジ色に包まれた光景は、少し前までの人で溢《あふ》れたアミューズメントパークとはまったく違って見えた。
「――残念だけど次のアトラクションで最後くらいだな。あんまり遅《おそ》くなると葉月《はづき》さんたちが心配するだろ」
「はいです。残念ですが……」
「何か乗りたいものはあるか? といっても大抵《たいてい》は回ったと思うが……」
午前中から来ているだけあって、ざっと園内マップを見る限《かぎ》りほとんどのアトラクションは制覇《せいは》済《ず》みである。
すると春香はちょこんと小さく手をあげて、
「あ、はい。一つ、あります」
「ん、どれだ?」
まだ何かあっただろうか?
首を捻《ひね》る俺に、
「えと、観覧車《かんらんしゃ》……です」
遠慮《えんりょ》がちにこっちを見上げながらそう言った。
「一番上のポジションから見える景色がとっても素敵《すてき》だというお話で、前々から乗ってみたいと思っていたんです。なのでよろしければ行ってみたくて……」
「観覧車か……」
確かにそれはいいアイデアだった。
園内の最も目立つ位置《いち》にあって下界《げかい》をドン! と見下ろしている世界最大の時計付き観覧車。
高さ百十二・五メートルのその絶景《ぜっけい》な見晴《みは》らしはこの上なく良好で、訪《おとず》れる人全てに大好評《だいこうひょう》らしい(とマップに書いてあった)。
美夏《みか》のアドバイスにも、
『らぶらぶポイントエクストリーム☆:観覧車。絶対《ぜったい》外《はず》せないクライマックスポイント。きれいな夜景を見ながら二人の気持ちも目の前に広がる光の宝石のごとく輝《かがや》き合《あ》って、そのまま初めてのキ、キスとかも……きゃっ♪』
だとか書いてあったしな……
「ん、分かった、行こう。今くらいからならちょうどいいタイミングで、夜景とかも見えるはずだ」
「あ、はいっ」
本当に嬉《うれ》しそうに顔を輝《かがや》かせる春香《はるか》。
そんな顔を見ているだけで何だかこっちまで幸せになったような気がするから不思議《ふしぎ》だね。
「わあ……きれいです……」
窓から眼下《がんか》の景色を見下ろしながら春香が感動したような声を上げる。
「考えていたものよりもずっと素敵《すてき》で……。あそこに見えるのは何でしょう? 海がとてもきらきらです」
「たぶん横浜ベイブリッジじゃないか? 位置《いち》的《てき》にそうだと思うが」
「そうなんですか? べいぶりっじさん……」
さらにうっとりと目を細める春香。
春香の言う通り、観覧車《かんらんしゃ》から見える夜景は絶品《ぜっぴん》だった。
さすがに高さ百十二・五メートルだけあって見晴《みは》らしは最高な上に、あちこちで建物や車などの明かりがチカチカと光り輝いていてまるでイルミネーションのようになっている。まさに幻想的《げんそうてき》という言葉がズッポリ当てはまる光景と言えよう。本来ならば目が釘付《くぎづ》けになるようなシチュエーションなはずである。
「……」
だが実際《じっさい》のところ俺には夜景よりも気になっていることがあった。
気になっているというかどうしても意識《いしき》がそっちに向いてしまうもの。
それは――
「見てください、裕人《ゆうと》さん。あれ、きっと先ほどのくい〜んずすくえあですよ」
「ん、ああ」
「ここから見るととっても小さいです。さっきはあんなに広く感じたのに……」
「………」
――一メートルほどの距離《きょり》を挟《はさ》んで、窓にぴったりと張《は》り付《つ》く春香の姿《すがた》だった。
いや別に春香が何か特別なことをしているというわけじゃない。
ただなんつーか現状《げんじょう》は観覧車の中であるとはいえそれはある意味での密室《みっしつ》であるわけだし、目の前にはロマンティックな夜景がこれでもかとばかりに広がっている。美夏の少しばかりアレなワンポイントアドバイスじゃないんだが、どうしても色々と意識せざるを得ないんだよ。
「……」
……うーむ。
我ながらアレだな……
そんなことを悶々《もんもん》と考えながら対面《たいめん》に座《すわ》っていると、
「――さん、裕人《ゆうと》さん?」
「うおっ!?」
いきなり春香《はるか》の顔が真ん前にあった。
僅《わず》か三十センチほどの至近《しきん》距離《きょり》。
「ど、どうしたんだ、春香?」
「え? いえ、あの、さっきから呼《よ》びかけていたのですがお返事がなかったので……」
ちょっと困惑《こんわく》したように春香が首をかたむけてくる。
どうやら自分でも気付かぬ内にすっかり精神《せいしん》があっちの世界にトリップしちまってたらしい。
「あ、あー、そうか。スマンかった」
「?」
「や、何でもない。それよりどうかしたか?」
頭を振《ふ》ってそう訊《き》き返《かえ》してみると、
「あ、いえ、あそこに大きなお船が見えたので裕人さんにもお知らせしようと――あれ、裕人さん、その唇《くちびる》……」
と、そこで春香がさらに半歩ほど身を乗り出してきた。
「血が出てます。どうしたんですか?」
「え……」
指で触《ふ》れて確《たし》かめてみると確かに少し血が出ていた。おそらくは乾燥《かんそう》して切れちまったんだろう。ただでさえ乾《かわ》きやすい気候《きこう》&さっきから微妙《びみょう》な緊張《きんちょう》状態《じょうたい》だからな。ビタミンEの欠乏《けつぼう》した皮膚《ひふ》粘膜《ねんまく》が水分を過剰《かじょう》放出していてもムリはない。まあこんなもんは適当《てきとう》に拭《ぬぐ》っとけば何とかなるだろ……と指を当てようとして、
「あ、だ、だめですよ。ちゃんと手当てしないと――」
止められた。
拭おうとした手をやんわりとつかむと春香は小さく首を振って、
「えと、唇はとってもデリケートな場所ですから、手荒《てあら》に扱《あつか》ってはいけないです。なので……ちょっと動かないでくださいね」
「お――」
コートのポケットから真っ白なハンカチを取り出すと、ふきふきと丁寧《ていねい》な手付きで俺の唇を拭ってくれた。作りの良さそうな布地《ぬのじ》のなめらかな感触《かんしょく》が唇に触れる。
「さっきは裕人さんに拭き取ってもらっちゃいましたから、これでおあいこですね♪」
ちょこちょこと手を動かしながらにっこりと笑う。
「ここをこうして――はい、取れました。あとはリップクリームを塗っておいた方がいいです。乾燥《かんそう》したままにしておくとまた割れちゃいますから」
「あ、サ、サンキュ」
少しばかり動揺《どうよう》しながらうなずく。
とはいえリップクリームなんてコスメ的なもんは当然のごとく所持《しょじ》してないわけだが。
すると春香《はるか》はちょこんと口元に指を当てて、
「そうなのですか? あ、ではよろしかったらどうぞです。こちらを使ってください」
今度は傍《かたわ》らのポーチからリップクリームを取り出してきた。
『潤《うるお》いリップ・ピュアウォーター 120%』と書かれたオレンジ色のかわいらしいリップ。
「え、あー、いや」
「?」
どうぞと言われても困《こま》るんだが。
何せ春香のポーチから出て来たということは春香が普段《ふだん》使っているものだということである。そして春香が普段使っているということはその先端《せんたん》部分が定期的に春香の唇《くちびる》に接触《せっしょく》しているということであり、それはすなわちその先端部分のクリームが間接的《かんせつてき》に春香の唇とニアイコールであるというを意味し……
「…………」
一人|狼狽《ろうばい》しまくっていると春香は何かと勘違《かんちが》いしたのかぱふんと手を叩《たた》いて、
「あ、そうですよね。鏡とかがないと自分では塗りにくいですよね。すみません、そんなことにも気付かなくて……」
「お……」
「えと、それではちょっとだけ失礼します」
リップのキャップを外《はず》すとそのままその手を俺の唇へと伸ばしてきた。
「ちょ、は、春香――」
「あ、動いちゃだめです。はみ出しちゃいます」
「い、いや、だから……」
ぬりぬり。
俺の言葉を待たずに『潤いリップ・ピュアウォーター 120%』を割れた粘膜《ねんまく》にあてがってくる。
唇の先に触《ふ》れるクリーミーな感触《かんしょく》。
先端が少し丸まった潤いリップは上質の生クリームのようになめらかでしっとりとしていてどこか春香と同じ香りがして……ああ、もう俺は明日アメリカンバッファローの大群《たいぐん》に踏《ふ》み潰《つぶ》されてボロ雑巾《ぞうきん》のように昇天《しょうてん》しても後悔《こうかい》はないかもしれん……と夢見心地《ゆめみごこち》な気分になっていた時のことだった。
グラリ。
ふいに、観覧車《かんらんしゃ》が少しだけ揺《ゆ》れた。
「お?」
「あっ……」
おそらくは風かなんかで煽《あお》られたんだろう。それは普通《ふつう》にしていれば何ともないほどのよくあるレベルの揺れだったが、俺の唇《くちびる》へのリップ塗《ぬ》り作業中で前のめりになっていた春香《はるか》には大きな衝撃《しょうげき》のようだった。
「きゃ、きゃっ」
小さな悲鳴とともに上体をよろめかせる。
わたわたと宙を掴《つか》むようにして両手をばたつがせた後バランスを崩《くず》して……そのまま座《すわ》っている俺の上に覆《おお》いかぶさるようにして倒《たお》れこんできた。
「お……」
「あ……」
結果、馬乗られ状態《じょうたい》の着席版というかカップルたちがベンチとかでよくやっている対面座りに近い姿勢《しせい》になる。
ちょうど俺の腰《こし》の上に春香がぺたりと座り込んでいてそのまま腕《うで》が首もとに絡《から》み付《つ》いているような感じ。腰骨《こしぼね》の部分に太モモが押《お》し付《つ》けられ、フローラルな香《かお》りのするさらさらの髪《かみ》が頬《ほお》に少しだけ流れかかってくる。
ちなみにリップは今の拍子《ひょうし》に春香の手から飛んでいき俺の頭頂部《とうちょうぶ》に突《つ》き刺《さ》さっていたのだがそれについてはひとまずは置いておこう。
「あ、す、すすすみませんっ!」
「あ、い、いや……」
「そ、その、ご、ごめんなさいっ! い、今すぐにどきますから……」
両手をわたわたとさせながら慌《あわ》てて立ち上がろうとするものの、狭《せま》い観覧車内でもつれ合うようにして倒れこんでいるためうまくいかない。
「は、春香、そんなに慌てなくても大丈夫《だいじょうぶ》だ」
「え、で、ですが、こ、このままだと裕人《ゆうと》さんの腰に負担《ふたん》が……」
「お、俺の腰は平気だから……」
まあ腰のところに何だか柔《やわ》らかく心地《ここち》いい感触《かんしょく》が触《ふ》れてたりしてある意味別の方面では負担がかかってるかもしれんが、少なくとも春香が心配しているような重さ的問題は皆無《かいむ》である。
「で、でも、そういうわけには……」
春香が再度《さいど》身体を動かそうとして、
と、そこで目が合った。
某《ぼう》宇宙人映画の指先のようなばっちりとした交錯《こうさく》。
「……」
「……」
思わず互《たが》いに赤面《せきめん》して沈黙《ちんもく》しちまった。
何せ現状《げんじょう》が現状である。
場所:日も落ちてすっかり暗くなった観覧車《かんらんしゃ》(密室《みっしつ》)。
状態:その中でもつれ合ったまま対面カップル座《ずわ》りになっている春香《はるか》と俺。
状況:観覧軍の位置《いち》はちょうど今は頂上部分で、あと数分は地上に降《お》りる様子《ようす》はない。
「…………」
こ、これは……もしかしてかなり青春|真《ま》っ盛《さか》りな状況《じょうきょう》なんじゃないのか?
というかそれ以外の何でもない。
その時だった。
きゅっ、と。
何かを決意したかのように、真っ赤な顔の春香が目をつむった。
そのまま少しだけ顔を上向けてこっちに近づけてくる。
「!?」
こ、これは……っ!?
思わず胸《むね》がビクビクンッ! と鳴動《めいどう》した(心臓《しんぞう》発作《ほっさ》的《てき》な意味で)。
突然《とつぜん》の春香の行動。
いや今までならよく意味も分からずに何となく漂《ただよ》う雰囲気《ふんいき》に耐《た》え切《き》れずにただ目をつむっているだけという可能性《かのうせい》もあった。てか実際《じっさい》にそうだった。だがしかし、今の春香《はるか》は多少なりとも好き≠ニいうものの概念《がいねん》を理解《りかい》し始めている状態《じょうたい》である。とすればこの行為《こうい》にもそれなりの意味があるってことに――?
――だ、だとしたらここは……
吸血衝動《きゅうけつしょうどう》をもよおしたチュパカブラのごとく行くべきなんだろうか。
シチュエーション的にはこれ以上ないくらいの最上級のものだし、もしかしたら互《たが》いの唇《くちびる》に塗《ぬ》られることで引《ひ》き離《はな》されたリップのクリームとクリームが再会《さいかい》を求めて引き付け合ってるのかもしれんし。
「……」
――よ、よし。
――ここは行かなきゃ漢《おとこ》じゃない。
覚悟《かくご》を決める。
色々な意味で複雑な現状進展《げんじょうしんてん》とリップクリームの再会のために思い切って身を乗り出そうとして――
ジャジャジャジャーン ジャジャジャジャーン♪
「!?」
春香の顔があと十センチというところにまで迫《せま》ったところで、突然《とつぜん》ポケットからそんな音が鳴《な》り響《ひび》いた。
腹にクる重苦しいメロディー。
改めて確認《かくにん》するまでもなく……べートーヴェンの『運命』だった。
「……」
「……あ、あの裕人《ゆうと》さん、『運命』が鳴って……」
いつの間にかぱっちりと目を開いていた春香がそう言ってくる。
「……。ん、あ、ああ……」
何だかゴール寸前《すんぜん》で目の前のニンジンを没収《ぼっしゅう》されたロバのような気分で携帯《けいたい》を取り出し耳に当てる。
受話口の向こうからすぐにムダに元気なことこの上ない声が飛び込んできた。
「いえ〜い、おに〜さん、お姉ちゃんとうまくやってる? 観覧車《かんらんしゃ》はもう行った? 美夏《みか》ちゃんのナイスなアドバイス通りにキスとかもしちゃったりして〜、きゃっ♪」
「……」
相変わらずゴーイングマイウェイなツインテール娘だった。
心の底《そこ》から疲《つか》れた気分になる俺に、
「あれ、もしかしてその反応《はんのう》からしてやってないの〜? 不発? 誤爆《ごばく》? も〜、甲斐性《かいしょう》なしだな〜。お姉ちゃん、ちゃんと目をつむって顔を近づけてきたでしょ[#「ちゃんと目をつむって顔を近づけてきたでしょ」に傍点]?」
「いやそれはそうだが……」
チャンスがあれば物事が必ずうまくいくってんなら今の格差《かくさ》社会なんてもんは生まれてない。それにそもそもこの電話がなければもしかしたら今頃《いまごろ》は引《ひ》き離《はな》されたリップクリームたちが感動の再会《さいかい》を果たしていた可能性《かのうせい》も……ってちょっと待て。
直前の美夏《みか》の台訶《せりふ》。
いや甲斐性《かいしょう》なしうんぬんはともかく、何でこのツインテール娘が春香《はるか》が目をつむって顔を接近《せっきん》させてきたことを知ってやがるんだ!?
すると、
「ん〜、だってわたしがお姉ちゃんに教えてあげたんだも〜ん♪ 『観覧車《かんらんしゃ》の中で二人きりになったら、目をつむっておに〜さんの方にちょ〜っとだけ顔を近づけるときっとイイコトがあるよ〜♪』って」
「……は?」
「だから〜、らぶらぶポイントの総仕上げとしてわたしが教えといてあげたの。おに〜さんがお義兄《にい》さんになりやすいようにって♪ でもおっかし〜な〜、普通《ふつう》の男の子ならアレで陥落《おち》ないはずないんだけどな〜」
「…………」
……そういうことか。
どうりで春香があんなことをするはずだ。ツインテール娘たちの今までの行動|傾向《けいこう》は知っていたはずなのに、そういった余計《よけい》な知識《ちしき》を吹き込んでいた可能性をすっかり忘《わす》れちまってた俺が迂闊《うかつ》だった……
「ね〜ね〜、それでどうだったの? やっぱり実はうまくいってたとか?」
「……」
一気に全身から力が抜《ぬ》ける。
とりあえずその後も美夏は何か言っていたようだったが、あまり記憶に残らないまま通話を終えた。
「……」
「あの裕人《ゆうと》さん、美夏は何を……」
「……。いや……」
言えるわけがない。
だがひとまずもう目はつむらなくてもいい旨《むね》だけを伝えておく。
「え、そうなのですか? でも、美夏は絶対《ぜったい》にやった方がいいと言っていたのですが……」
「……」
春香は不思議《ふしぎ》そうというかキタキツネに頬《ほお》を甘噛《あまが》みされたような顔をしていたが、またアレをやられてはこっちの身がもたんからな。まさにイラブウミヘビの生《なま》袋詰《ふくろづ》めってやつである。
ガックリと肩《かた》を落としながら重いため息を吐《つ》いていると、
「だけど――美夏《みか》の言ったことも少しだけ分かるような気もします」
「え?」
ちょっとだけ声を小さくして春香《はるか》がぽつりとそう言った。
「二人きりの時に目をつむった方がいい理由、です。い、いいことというのはよく分かりませんが……。で、でも二人きりでこんな近くに裕《ゆうと》人さんのお顔がありますと……め、目を開けていては、恥《は》ずかしいです」
「春香……」
そういえば何だかんだでまだ俺たちの体勢《たいせい》は対面カップル座《ずわ》りのままなんだよな。
俺のヒザの上で少しだけ顔を赤らめた春香がちょこんと鎮座《ちんざ》して至近《しきん》距離《きょり》からこっちを見上げている状態《じょうたい》。
さすがにこれ以上これを続行するのはマズイだろう……と体勢を立て直そうとした俺に、
「あ、あの裕人さん、お願いがあるのですが……」
「ん?」
「も、もうちょっとだけ……こ、このままでもいいですか?」
「え!?」
春香がそんなことを言ってきた。
「あ、ご、ごめんなさい。そ、その、わ、わがままというか不躾《ぶしつけ》なお願いなのは分かってます。で、でも、もう少しだけこのままで、裕人さんに触《ふ》れていたいなあって……」
「……」
「な、何だかとっても落ち着くというか気持ちが良くて……あ、も、もちろん裕人さんがよろしければのお話で……。だ、だめなら――」
「あ、い、いや……」
まかり間違《まちが》ってもダメだなんてことがあるはずがない。てか個人的にはむしろかなりウェルカムな要望である。
「ほ、本当ですか?」
「ん、あ、ああ」
「あ、ありがとう……ございます」
俺の返答に春香はぱあっと輝《かがや》くような笑顔《えがお》を見せると、
「え、えへへ♪ 裕人さんの匂いです……」
そう耳元でささやきながら甘えるようにきゅっとさらに身を寄せてきた。
「……」
まあ何だかんだで色々あったが……春香のそんな甘えた仕草(あとリップを介《かい》した、その、間接《かんせつ》接触《せっしょく》)を堪能《たんのう》できただけで有意義《ゆういぎ》な一日だったと思うことにしよう。
窓《まど》の向こうでは、みなとみらいの夜景がキラキラと光《ひか》り輝《かがや》いていた。
こうして。
俺たちの横浜でみなとみらいな初デートは終わりを告《つ》げたのだった。
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チュンチュンチュン。
スズメの声が庭先でのどかに響《ひび》き渡《わた》る日曜日の朝。
「……おはようございます、裕人《ゆうと》様」
目を開けたら、いきなりそこに無口メイド長さんの顔があった。
「のおあっ!?」
距離《きょり》にして僅《わず》か十センチくらいの接近《せっきん》具合。
思わずどこぞの洪水《こうずい》後《ご》の方舟《はこぶね》みたいな声が出る。
「……私の顔は、そんなに驚《おどろ》かれるような造作《ぞうさく》をしておりますでしょうか」
返ってきたのはそんな少ししょんぼりとしたようなリアクション。
夢であってほしかったが、その反応は間違《まちが》いなく無口メイド長さんのそれである。
さらには、
「あらあら〜、起《お》き抜《ぬ》けにそんな大声を出されては血圧《けつあつ》によろしくないですよ〜。とりあえず深呼吸でもされてみてはいかがですか〜?」
「な、那波《ななみ》さん……?」
「――(こくこく)」
「あ、アリスも……?」
その横で楽しそうに手を振《ふ》るにっこりメイドさんと、いつものごとく無表情でうなずくちびっこメイドの姿もあった。
「……」
いや何でこの三人がここに……
突然《とつぜん》のメイドパニックに混乱状態《こんらんじょうたい》になる。
いちおう周りを見渡《みわた》してみるもここは間違いなく俺の部屋《へや》の俺のベッドの上である。別に寝ぼけた俺が夢遊病《むゆうびょう》者《しゃ》のように徘徊《はいかい》して無意識《むいしき》の内に乃木坂《のぎざか》邸《てい》のメイド部屋にもぐりこんじまったなんてことはない。なのにどうしてこんな人口のメイドさん比率《ひりつ》が七十五パーセントになっているのか……
ワケが分からずただ口を開けて呆然《ぼうぜん》とするしかない俺に、
「……実は本日、裕人様|宛《あて》に招待状《しょうたいじょう》が届《とど》いておりまして、それをお渡《わた》しするために参《まい》りました次第《しだい》です」
「招待状?」
何だそれは?
とりあえずまったく身に覚えがないんだが。
「ええとですね〜、詳《くわ》しくはこちらをどうぞです〜」
「?」
那波《ななみ》さんから一枚の便箋《びんせん》が手渡《てわた》される。目を落とすとそこにはやたらと流麗《りゅうれい》な書体で、
『新春メイド×執事《しつじ》合同|親睦会《しんぼくかい》招待状《しょうたいじょう》  世界メイド執事連合協会東日本支部』
と書かれていた。
「……」
何だこの珍奇《ちんき》なインチキNPO団体みたいなのは?
何かの必要に迫《せま》られなければあまり積極的に関《かか》わりたくないような胡散《うさん》臭《くさ》い名称《めいしょう》である。
すると、
「こちらは世界メイド執事連合協会からの招待状になります〜。世界メイド執事連合協会――略してWMBOと言いまして、全国のメイドや執事たちが所属《しょぞく》している互助《ごじょ》組織《そしき》のようなものでして〜」
「……その親睦会として、年に一度全国のメイドと執事を集めて行われるパーティーがあるのです。私たちにも届《とど》きましたが、これはその招待状になっております」
「――(こっくり)」
三人|揃《そろ》ってそう説明してくれる。
「…………」
なんかよく分からんがとりあえずそういった怪《あや》しい団体が存在するらしい。そしてそこが主催《しゅさい》するパーティーがあるってことも。
まあひとまずそれは分かった。
いや別に納得《なっとく》したわけじゃないんだが、そこにこだわると話が進まなくなりそうなのでここはあえて気にしないことにしておこう。
だがそこで疑問が一つ。
「――話は分かりました。でも……」
「?」
「……何でその招待状が俺に来るんですか?」
それである。
葉月《はづき》さんや那波さん、アリスたちに来るならともかくとして、別に俺はメイドでも執事でも何でもない。なのにどうしてこんなもんが――
「何を言っているんですか〜、裕人様にはもう執事|経験《けいけん》がおありではありませんか〜」
「へ?」
「ほら、去年のクリスマス前のあれですよ〜。春香《はるか》様へのプレゼントを買うためのアルバイトでやられた〜。その時から裕《ゆうと》人様のお名前は協会にばっちりと登録されているのですよ〜」
「……」
……ああ、アレか。
脳裏《のうり》に浮《う》かぶのはシツジというより生贄《いけにえ》のヒツジな思い出。
確《たし》かにアレはいちおう名目上《めいもくじょう》は執事《しつじ》だが、実際《じっさい》はほんの一週間ほどのバイト雑用係|兼《けん》下僕《げぼく》である。その世界メイド執事何たらとやらはそんな簡単《かんたん》に登録されちまっていいものなのか?
「……何も驚《おどろ》くことではありません。裕人様が執事としてお仕えになったのはあの天王寺《てんのうじ》家《け》です。そこで一週間も働けばもう立派《りっぱ》な執事といえましょう」
「言ってみればプロ執事|初段《しょだん》というところですかね〜」
「――(こくこく)」
そういうことのようだ。
どうやら天王寺家での執事|体験《たいけん》(エリマキトカゲとか暴《あば》れ馬《うま》スキンシップとか牛乳パシリとか)は思っていたよりもずっと経歴《けいれき》として重要視《じゅうようし》されているらしい。完全|従属《じゅうぞく》という一点を除《のぞ》けば何一つとして執事とは関係なかったような気がしないでもないが。
「というわけでして――さ、それではいっしょに参《まい》りましょうか〜?」
と、那波《ななみ》さんがおもむろにそう言った。
「は?」
「パーティーは今日の十二時から始まるのですよ〜。なので移動《いどう》時間も考えるともう出発しないと間に合いません〜」
「きょ、今日? ていうかまだパジャマ――」
「……お着替えの方はこちらで用意してあります。お車の中でお着替えになっていただければと」
「――(こくん)」
「あ、ちょ、いや自分で着替えられますから……っ」
そのままパジャマを脱《ぬ》がされつつ半ば両脇[#底本のまま。「腕」なのか「わき」なのか…]《りょううで》をアームロックされた宇宙人@ロズウェルのように玄関《げんかん》へと運んでいかれる。
いやなんかいつかのロンドンのパターンを思い出すというか。まああの時ほど問答《もんどう》無用《むよう》でないだけまだマシなのかもしれんが。
さて、家の前の道路のど真ん中に停《と》めてあった車(特注リムジン・長さ二十メートルほど)に乗せられて、さらにその中で葉月《はづき》さんと那波《ななみ》さんの介助《かいじょ》のもとなぜかサイズも丈《たけ》もぴったりな執事《しつじ》服《ふく》に着替えさせられて、そのまま連れて行かれた先は――見慣《みな》れない巨大《きょだい》な屋敷《やしき》だった。
ウチから車で一時間ほど走った都内|某所《ぼうしょ》にある、乃木坂《のぎざか》家《け》とはまた違《ちが》った趣《おもむき》の地中海風洋館。
どうもここが目的地であるらしい。
「……こちらは鹿王院《ろくおういん》家《け》の白鷺《しらさぎ》別館になります」
「ろくおういん?」
後部|座席《ざせき》のドアを開けながらそう説明してくれる葉月さんに尋《たず》ね返《かえ》す。
「……はい、鹿王院です。古くから続く華族《かぞく》の家柄《いえがら》で、乃木坂家や天王寺《てんのうじ》家《け》、|塔ヶ崎《とうがさき》家《け》と並《なら》ぶ四大名家の一つでして」
「パーティーの会場は毎年の持ち回り制になっているのです〜。今年はこの鹿王院家のメイドたちが幹事《かんじ》をやっていることから、この鹿王院のお屋敷《やしき》が開催《かいさい》場所となっているのですよ〜。だから私たちも今日は招待客《しょうたいきゃく》の一人です〜」
「――(こくこく)」
にっこりメイドさんとちびっこメイドがそう補足《ほそく》してくれる。
むう、この三人が迎えに来たわけだからてっきりまた乃木坂|邸《てい》でやるのかと思っていたが、どうも違うみたいだな。
「……ではこちらへどうぞ、裕人《ゆうと》様」
そんなことを話しながら葉月さんたちに先導《せんどう》されて屋敷の中へと入っていく。
入りロのドアの向こうにあったのは人が十人くらいは余裕《よゆう》で入れそうな玄関《げんかん》。バカみたいに風通しのいい吹《ふ》き抜《ぬ》け付きだが、乃木坂邸やら天王寺邸やらでこういったブルジョワな光景には慣《な》れていたのでそこまでは驚《おどろ》かない。
玄関を入ってすぐのところに、メイドさん数人が待機《たいき》するフロントのような場所があった。
「いらっしゃいませ。こちらにご記帳《きちょう》と招待状の提示《ていじ》をお願いできますか?」
「あー、はい」
どうやらここで受付を済《す》ませるようだ。
言われた通りに名前等を書いて招待状を見せる。
するとメイドさんはにっこりと笑顔を見せて、
「ありがとうございます。乃木坂家メイドの桜坂《さくらざか》様、七城《ななしろ》様、アリスティア様それに天王寺家|執事《しつじ》の綾瀬《あやせ》様ですね。こちらはビンゴカードになります。後の抽選時《ちゅうせんじ》まで大事にお持ちください。また皆様のネームプレートをご用意させていただきましたので、どうぞお胸《むね》に着けてくださいませ」
人数分手渡されたのはそれぞれの名前と所属《しょぞく》家《け》が書かれたネームプレートとどこにでもあるようなパーティー用のビンゴカードだった。
全国のメイドさんや執事が集結する一大フェスティバル(?)にしては意外に普通《ふつう》の新年会ライクな趣向《しゅこう》である。
「では会場はこちらの白鷺《しらさぎ》の間《ま》になります。どうぞお入りください」
深々としたう礼とともに、受付の横にあった厚い扉《とびら》が開かれる。
その向こうにあったのは――
「おお……」
ホールの中は、まさに別世界――いや異世界《いせかい》だった。
一見《いっけん》するとどこにでもよくあるような立食パーティーの会場。
広々としたホールの各所には真っ白なクロスがかけられたテーブルがいくつもあって、その上にいかにも高価《こうか》そうな数々の料理が載《の》せられている。
だけどそこにいるのは右を見ても左を見てもメイドさんメイドさんメイドさんメイドさん執事《しつじ》メイドさんメイドさん執事メイドさんメイドさんメイドさん。
やって来ている招待客《しょうたいきゃく》もそれをもてなすホストの方も、全てメイドさんと執事のみ。
文字通りのメイド天国(執事の沙羅双樹《さらそうじゅ》付き)といった感じである。
「……」
すげぇな……
思わずため息が出る。
集まっている人数はざっと見積もっても五百人以上。
日本にこれだけのメイドさんや執事がいたってだけでも驚《おどろ》きだが、それがこのひとところに集まってわいわいと歓談《かんだん》に興《きょう》じているってのもまた壮観《そうかん》である。ミヤコタナゴ(天然記念物)が魚群《ぎょぐん》を作ってオラオラ営業をしているのを見る気分というか……
少しの間言葉を失う俺に、
「驚かれましたか〜? 毎年だいたいこれくらいの人数は集まるんですよ〜」
「そうなんですか?」
「はい〜。むしろ今年は例年に比べれば少しばかり集まりが悪いくらいで〜。今年はちょっと時期が遅《おそ》くにずれこんでしまったのでその影響《えいきょう》かと思われますが〜」
「へえ……」
そんなに大規模《だいきぼ》なもんなのか。これでも十七分に世界ビックリ仰天《ぎょうてん》ビューだってのに。
「ちなみに今日は乃木坂家《うち》のメイド隊の他のみなさんもやって来ています〜。確《たし》か序列《じょれつ》持ちのメンバーは全員招待されているはずです〜。ほら、あそことかに〜」
「お?」
那波さんの指差した先に視線《しせん》をやる。
確かにそこには他のメイドさんや執事たちに紛《まぎ》れて見慣《みな》れた顔があった。
奥《おく》のテーブルで飲み物を飲んでいるのはクリスマスイブにお世話《せわ》になった医療《いりょう》メイドの雪野原《ゆきのはら》鞠愛《まりあ》さん(序列第五位)だし、そこでいっしょに談笑《だんしょう》しているのは運転三姉妹の六条《ろくじょう》菖蒲《あやめ》さんと沙羅《さら》さん、樹里《じゅり》さん(序列《じょれつ》七位)だ。その後ろでは前髪《まえがみ》で顔を隠《かく》した小柄《こがら》なメイドさんがちょこちょことローストビーフを皿に切り分けている。おそらくあれは話で聞いた料理担当の凪川《なぎかわ》小鮎《こあゆ》さん(序列六位)なんだろう。……むう、ホントに序列持ちメイドさんが勢揃《せいぞろ》いなんだな。
と、
「……ん?」
その中に見慣《みな》れない姿《すがた》を見つけた。
沙羅さんたちの横で鞠愛《まりあ》さんに話しかけている切れ長の目をしたメイドさん。
身に着けているのは乃木坂《のぎざか》家《け》メイド隊|公認《こうにん》のオフィシャルメイド服(シリアルナンバー入り)のようだが、なんか今までに見たことのない顔である。あの人も乃木坂家の関係者なのか……?
そっちに目をやりながら首を捻《ひね》っていると、
「あら〜、あれは水面《みなも》ちゃんですね〜」
「水面ちゃん?」
「はい〜。あ、裕人《ゆうと》様はまだお会いしたことがありませんでしたっけ〜?楠本《くすもと》水面ちゃん、メイド隊序列第四位で、財務《ざいむ》、法務《ほうむ》、渉外《しょうがい》などを担当《たんとう》しているんです〜。とっても優秀《ゆうしゅう》な子で、基本的な仕事は一人でみんなこなしてくれちゃうんです〜」
「……非常時《ひじょうじ》には序列五位以下のみなさんを指揮《しき》する権限《けんげん》もお任《まか》せしていますし、メイド侍従長《じじゅうちょう》のような役割をこなしてくれています」
「――(こくこく)」
「……」
メイドで侍従長ってのがいまいちよく分からんのだが、とにかくすごい人のようだ。確《たし》かにここから見た感じでも見るからに仕事ができそうなクールビューティーキャリアメイドさん(?)って印象《いんしょう》である。葉月さんからお茶目さを抜《ぬ》いた感じというか。
「付け加えますとその隣《となり》にいる二人が宗像《むなかた》理緒《りお》ちゃんと雛咲《ひなさき》祝《いわい》ちゃんですよ〜。それぞれ序列第九位と第十位で、化学部門と祭事《さいじ》部門の担当なのです〜」
さらに那波さんがそう言ってくる。
理知的な感じのメイドさんとどこか神秘的《しんぴてき》な感じのメイドさん。
どうやらその二人も初出の序列持ちメイドさんであるらしい。
「以上で全員になりますね〜。おめでとうございます〜、これで裕人様もメイド隊上位序列持ちメンバーをフルコンプですね〜。ぱちぱちぱち〜」
楽しげに拍手《はくしゅ》をしてくれる那波さん。
しかし本当に色々なメイドさんたちがいるもんだな。序列第一位から十位までそれぞれバラエティ豊かなラインナップが揃《そろ》って……
「……む?」
と、そこであることに気付いた。
今教えてもらったニューカマーメイドさんが序列《じょれつ》第四位、九位、十位の三人。
今まで顔見知りなメイドさんが葉月《はづき》さんたち序列第一位、三位、五位、六位、七位、八位の六人。
全部で九人(組?)である。
そういえば、序列持ちのメイドさんが全員|揃《そろ》ってるって話なのに第二位の人がまだ出てきてないような……
何となくいつも副メイド長的なポジションにいた那波《ななみ》さんが第二位のような気もしていたが、あくまであの人は第三位である。メイド長|補佐《ほさ》ではあっても副メイド長ではない。だとするとこれは一体――
「あの……」
「……はい?」
なので疑問に思い訊《き》いてみたところ、
「……第二位、ですか」
「……」
「――」
シン――
なんか微妙《びみょう》な雰囲気《ふんいき》になった。
自称《じしょう》食通の芸能人が自信たっぷりの顔で真鯛《まだい》の刺身《さしみ》とティラピアの刺身を間違《まちが》えた時みたいな沈黙《ちんもく》。
那波さんとアリスは困惑《こんわく》するように顔を見合わせて、葉月さんも何か思うところがあるのかいつもより無表情さがレベルアップしている。
うーむ、これは何か触《ふ》れてはいけないオニカサゴの背《せ》びれに触っちまったのか……と気まずく思っていると、
「……。……序列第二位は、現在欠番となっております」
「え?」
「……五年ほど前まではある者が務《つと》めていたのですが、現在その人物は乃木坂《のぎざか》家《け》に所属《しょぞく》していないのです。なので今のところ第二位は空席となっています。ゆえに申《もう》し訳《わけ》ありませんが、この場にはおりません」
「……」
厳《おごそ》かにそう告《つ》げてきた。
どうもそういうことらしい。
何だって欠番なんだとかその人は今どうしてるんだろうかだとか、色々と疑間に思うことはあったものの、何となくそれ以上はこの話題について追及《ついきゅう》しない方がいいような雰囲気だったので、ここはひとまずスルーすることにした。
「……ご理解《りかい》いただけたでしょうか?」
「あ、あー、はい。すみません、ヘンなこと訊《き》いて……」
「……いえ。全然|構《かま》いまヘン」
「……」
いつもの雰囲気《ふんいき》(寒いギャグ付き)に戻《もど》って小さく首を振《ふ》る葉月《はづき》さん。
それを見た那波《ななみ》さんとアリスが何やらほっとしたような表情で胸《むね》に手を当てていた。まあその辺《あた》りにはなんか色々と複雑な事情があるみたいなんだが……それは少なくとも今回の一件で明らかになることではなかった。
「それではこれより新春メイド×執事《しつじ》合同|親睦会《しんぼくかい》を始めたいと思います!」
ホール前方に設《もう》けられたステージから発せられたメイドさんのそんな声とともに、周りから数百人分の盛大《せいだい》な拍手《はくしゅ》と歓声《かんせい》が沸《わ》きあがった。
「本日は皆様もお忙《いそが》しい中、わざわざご足労《そくろう》いただきましてありがとうございます。このたび司会を務《つと》めさせていただくのは鹿王院《ろくおういん》家《け》筆頭《ひっとう》メイド、高天原《たかまがはら》小夜《さよ》でございます。どうぞよろしくお願いいたします」
ステージ上のメイドさん――高天原さんというらしい――がぺこりと頭を下げる。
それは自已|紹介《しょうかい》でもあり、パーティー開始を告《つ》げる合図でもあった。
「さて恒例《こうれい》となっておりますこの新春親睦会も喜ばしいことに今年で三十五回目……おめでたい席を記念するにあたり、ここで乾杯《かんぱい》の音頭《おんど》をとらせていただきたいと思います。今年は乃木坂《のぎざか》家《け》よりメイド長である桜坂《さくらざか》葉月さんにお願いすることとなりました。準備《じゅんび》はよろしいでしょうか、桜坂さん」
「お」
そこで聞き覚えのある名前が呼《よ》ばれた。
見ればいつの間に移動《いどう》していたのか、なぜかネズミのバニーガールの格好《かっこう》をした葉月さん(ネズミーガール……?)が壇上《だんじょう》でもぞもぞとシッポを動かしている。
葉月さんはこほんと咳払《せきばら》いをしつつおもむろにぽんぽんとマイクを叩《たた》いて、
「……あ〜、あ〜、てすてす、本日もダグラスは男前なり……」
「……」
「……隣《となり》のダグラスはよく客食うダグラスだ、ワンツースリーフォー、ヘイヘイ、ハッハッ、チェックチェックチェック……」
「あ、あの、桜坂《さくらざか》さん……?」
さすがに見かねたのか高天原《たかまがはら》さんが声をかける。
すると葉月《はづき》さんはネズミ姿《すがた》のままハッ! と顔を上げた後きょろきょろと周囲を見渡《みわた》して、
「……。……え、もしかして、もうオンステージになっているのですか?」
「は、はい」
「……。……それは大変失礼いたしました。それでは――」
何事もなかったかのように挨拶《あいさつ》を始めようとして、
ぽろり。
肉球《にくきゅう》付きの手からマイクを思いっきり床《ゆか》に落としていた。
見た目はこの上なく平静そうだが、実は動揺《どうよう》しているようだった。
「……」
てかこの人、この前の信州旅行の『のざわなくん』ぶちまけ事件のように、意外にドジっ娘《こ》なんだよな。さすが専属《せんぞく》メイドさんだけあって春香《はるか》の属性を継承《けいしょう》しているというか……
「……重ね重ね失礼いたしました。こほん、それではただ今より乾杯《かんぱい》の音頭《おんど》を取らせていただきたいと――」
とはいえ伊達《だて》に乃木坂《のぎざか》家《け》でメイド三百人を束《たば》ねるメイド長さんをやってはいない。
若干《じゃっかん》ぎこちない動作ではあるものの手早くマイクを拾い上げると、その後は落ち着いた素振《そぶ》りで危《あぶ》なげなく挨拶《あいさつ》をこなしていた。
「以上が乃木坂《のぎざか》家《け》の桜坂《さくらざか》さんによる乾杯《かんぱい》の音頭《おんど》でした。桜坂さん、ありがとうございました。
ではこれよりフリータイムといたします。後にビンゴ大会と隠し芸大会がございますが、それまでは日頃《ひごろ》の主従《しゅじゅう》関係を忘れ、仕《つか》える者同士で自由気ままにご歓談《かんだん》をお楽しみください」
そんな声とともに、しばしの自由時間となった。
それまで少し抑《おさ》えがちだった照明が明るく点《とも》され、上品なクラシック音楽がバックミュージックとして流され始める。
それに伴《ともな》い周りではメイドさんや執事《しつじ》たちがそれぞれ思い思いに動き始めた。
戻《もど》ってくるざわめきと喧騒《けんそう》。
いかにもパーティーといった雰囲気《ふんいき》である。
そんな中で俺はというと、
「…………」
「――(こく?)」
なぜかちびっこメイドと二人、ホールの隅《すみ》っこで所在《しょざい》なくたたずんでいた。
メイドさんと執事の話し声で賑《にぎ》わうほとんど東京ドーム並《な》みに広いホールの中で、取《と》り壊《こわ》し予定の神社の境内《けいだい》に打ち捨てられた狛犬《こまいぬ》のようにぽつんと立ち尽くしている俺たち。
ちなみに周りに那波《ななみ》さんたちはいない。
正真正銘《しょうしんしょうめい》、俺とアリスの二人きりである。
「……」
いやまあ何だってこんなこと(忘れられた狛犬)になっているのかというと理由はしごく簡単《かんたん》で、
先ほどの序列《じょれつ》持ちメイドさんの紹介《しょうかい》の後に那波さんが、
「さてさて、それではそろそろ私たちは行かないとなりません〜」
「は?」
「ええと、色々と巡回《じゅんかい》みたいなものです〜。本日は一年ぶりの再会《さいかい》なので挨拶回り等たくさんやらなければならないことがありまして〜。なので残念ですが裕人《ゆうと》様とごいっしょできないのです〜。すみませんが裕人様は執事心の赴《おもむ》くままにパーティーを楽しんでいただければと〜。何かあった時のためにアリスちゃんを置いていきますので〜。ではでは〜」
「……申《もう》し訳《わけ》ありません。よろしくお願いいたします」
とか言い残して、葉月《はづき》さんともどもいそいそとどこかへ行ってしまったからである。
朝起こすなり有無《うむ》を言わせずに連れて来た割にはだいぶ放任《ほうにん》主義というか……。まあ別に孤島《ことう》に身ぐるみはがされて置き去りにされたわけじゃないし、やることがあるってんなら仕方ないんだが……
ともあれ文句《もんく》を言っていても現状《げんじょう》は変わらん。
他の知り合いのメイドさんたちも皆《みな》忙《いそが》しそうだし、こっちはこっちで適当《てきとう》にやっているしかあるまい。
俺は隣《となり》にちょこんと置物のように置かれたちびっこメイドの方を見ると、
「あー、せっかくだからなんか料理でも食べるか?」
「――?」
「どうせ他にやることもないし、ウマそうなのがたくさんあるし、もったいないだろ」
そう声をかけると、
「――(こくこく)」
アリスは何かを納得《なっとく》したかのように小さくうなずいた後、とことこと料理の載《の》っているテーブルの方へと歩いていって、
「?」
かちゃかちゃ。
おもむろにトレイの上に料理を取り分けようとし始めた。
どこかおっかなびっくりな手付き。
どうも俺の分を取ってくれようとしているみたいなんだが、いかんせん拠点《きょてん》破壊《はかい》や要人《ようじん》警護《けいご》が主任務《しゅにんむ》の半ば傭兵《ようへい》みたいなちびっこメイドである。日常《にちじょう》のそういった家事的ワークには明らかに慣《な》れていない様子《ようす》であり――
がちゃん。
「――っ」
切り分けた熊肉《くまにく》を皿《さら》に移《うつ》す前にヴィシソワーズ(冷製クリームスープ)の中に落としたり、
ばしゃっ。
「――!?」
ドリアンジュースをコップに注《つ》ごうとして盛大《せいだい》に溢《あふ》れさせたり、
ざくっ。
「――っ!?」
サラダになっていたアシュワガンダ(アジア産の新野菜)を取り分けようとしてフォークで穴だらけにしたりと散々《さんざん》で、
結局、持ってきたトレイの上にはヴィシソワーズまみれの熊肉、半分以上がこぼれてコップの縁《ふち》がビショビショになったドリアンジュース、無惨《むぎん》に切《き》り刻《きざ》まれてその辺に生えてる雑草《ざつそう》みたいになったアシュワガンダが並《なら》んでいた。
「――(しょんぼり)」
「あ、あー、いいって、気にするな」
結果は完膚《かんぷ》なきまでに付いてきていないが、少なくとも俺のために一生懸命《いっしょうけんめい》にがんばってくれたことだけは分かる。
せめてもの感謝《かんしゃ》の気持ちを込めてアリスの頭をなでなでと撫《な》でると、
「――(こく)」
少しだけ頬《ほお》を赤く染《そ》めながら、ちょこんと小さくうなずいていた。
「しかし本当にメイドさんと執事《しつじ》ばっかりだな……」
アリスが取ってきてくれたヴィシソワーズまみれの熊肉を食べながら改めて辺《あた》りを見回してみても、どこにもかしこにもメイドさんがよりどりみどり(?)である。
乃木坂《のぎざか》家《け》のメイドさんはもとより(序列《じょれつ》持ち以外の人も何人か来ているらしい)、それとはまた違《ちが》った他家のメイドさんや執事たちもわんさか列席している。二十代くらいの若い人から仙人《せんにん》のような老人まで老若男女《ろうにゃくなんにょ》多種多様で、あちこちで「聞きました? 今度発売される新作のプリムがすごく素敵《すてき》なデザインで……」「まあ、いいですね。ぜび買わないと……」やら「ほう、あそこの花器《かき》、見事ですな」「ええ、ぜひウチの茶室でも使いたいところで……」やらの専門(?)会話が繰《く》り広《ひろ》げられている。
ちなみにメイドさん、執事以外の参加者《さんかしゃ》の姿《すがた》は一人として見当たらなかった。
何でもこのパーティーはメイドさん(執事)のメイドさん(執事)によるメイドさん(執事)のためのパーティーで、メイドさんや執事以外の者はたとえそれがその主――春香《はるか》や美夏《みか》たちであっても、参加することはできないらしい。そこは仕える者たちの楽園≠コンセプトとするこの集まりにおいては譲《ゆず》れない一線だとか。いやまったくどこのゲティスバーグ演説かって感じだな……
そんなことをそこはかとなく考えながら壁《かべ》を背《せ》に立っていると、
「――失礼ですが、そこのあなたはもしや天王寺《てんのうじ》家《け》の執事でしょうか?」
「え?」
ふと近くを歩いていた一人の青年執事が話しかけてきた。
「ああ、やっぱり! そのネームプレートからしてもしかしてと思ったのですが……。それに隣《となり》のあなたはひょっとして乃木坂家のメイドですか。これはこれは有名どころが揃《そろ》い踏《ぶ》みで!」
「あー、いや」
「――(こくん?)」
突然《とつぜん》の喝采《かっさい》に若干《じゃつかん》戸惑《とまど》いながら返事をする。
「見たところお二人ともお若いのに、ご立派《りっぱ》なことで……。ああ、失礼、僕は|吉野ヶ里《よしのがり》家《け》にお仕《つか》えさせていただいている執事の浜松《はままつ》と申します。どうぞお見知りおきを」
「あ、は、はい、綾瀬裕《あやせゆうと》人です。こっちがアリス、アリスティア・レインで……」
「――(こくこく)」
慌《あわ》てつつも自己|紹介《しょうかい》をしていると、
「おお、天王寺《てんのうじ》家《け》の執事《しつじ》と乃木坂《のぎざか》家《け》のメイドがいらっしゃっていると?」
「どこですかな? ぜひ一度ご挨拶《あいさつ》をしたいものだ」
「もしかして序列《じょれつ》持ちの方ですか? いいなあ、私、葉月《はづき》さんのファンなんですよ♪」
「あら、ずいぶんかわいいお二人なのね」
周りから続々と人(執事&メイドさん)が集まってきた。どうやら天王寺、乃木坂ブランドはメイドさんや執事の中でも特別なものらしい。
あっという間に周りを取り囲まれる。
「それで綾瀬《あやせ》殿はどう思われますか? やはり執事のタイはアスコットタイに限《かぎ》るのではないかと僕は思うのですが……」
「え、あ、あー」
「ご主人様にお出しする紅茶はどこのブランドのものを使っているのでしょうか。よろしければぜひ参考にさせていただきたいと」
「最近|巷《ちまた》では執事|喫茶《きっさ》というものが流行《はや》っているそうですな。その中でも何でも女性が男装《だんそう》をするものが人気だとか……」
「い、いや、その、俺は……」
「乃木坂家では家事のやり方に何か秘訣《ひけつ》などあるのですか?」
「何でもお掃除《そうじ》ではチェーンソー付きのハタキを使用されていると聞きましたけれど……」
「お料理には主にどこの産地のお野菜を使っているんですか?」
「――(こ、こくこく)」
繰《く》り広《ひろ》げられるそんな執事&メイドさんトーク。
普段《ふだん》は遭遇《そうぐう》することのないイレギュラーな事態《じたい》にタジタジである。
特にアリスは、
「わあ、かわいいリボンですね。どこでお買いになられたのですか?」
「乃木坂家の指定なのかな? とっても似合《にあ》ってて素敵《すてき》。そうだ、どうせなら髪《かみ》の毛もリボンに合わせてアップにしてみたらもっといいかも」
「あ、このウイッグとかを着けてみたらどう? うんうん、いい感じ」
「かわいー♪」
同じメイドさん仲間に大人気だった。
まあ見た目は本職《ほんしょく》(戦闘《せんとう》メイド)とはほど遠い金髪《きんぱつ》碧眼《へきがん》のフランス人形みたいなちびっこメイドである。周りのメイドさんたちのお世話《せわ》魂《だましい》に火を点《つ》けまくって半ば等身大着せ替え人形みたいになってるってのも分かるってもんだ。
「――(お、おろおろ)」
次から次へと迫《せま》り来《く》るおしゃれ攻勢《こうせい》に目をシロクロとさせるアリス。
メイドさんたちが色々と手を加える度《たび》にどんどんとかわいくなっていくのだが、本人は喜びよりもむしろ戸惑《とまど》いの方が大きいようである。ほとんど何が何だか分からない状態《じょうたい》というか。基本的に入見知りだしなあ……
何とかしてやりたいとは思うものの、
「で、綾瀬殿。お嬢様を朝お起こしする時のコツですが……」
「よろしければ私が愛用している手袋を見ていただけないでしょうか? ここのデザインが実に秀逸《しゅういつ》で……」
「やはり執事《しつじ》生活にマイ手袋は必須《ひっす》でしょう。世界大執事|宣言《せんげん》第六章第二節にも『執事たる者|常《つね》にマイ手袋は墓場《はかば》まで手放すべからず……』とありますし……」
「あ、あー、いや……」
こっちもこっちで怒湊《どとう》のように押《お》し寄《よ》せてくる執事卜ークを前にしてこれっぽっちも身動きが取れなかった。てか世界大執事宣言なんざ俺にはサッパリ分からんのだが……
そんな感じに台風|接近中《せっきんちゅう》の南西|諸島《しょとう》の荒波《あらなみ》のように打ち寄せてくるメイドさん&執事ウェーブに飲み込まれて二人して窒息《ちっそく》しかけていた俺たちに、
「――何かあったのですか、アリス」
ふいに声がかけられた。
函館《はこだて》名産のガラス工芸のように透《す》き通《とお》った声。
振《ふ》り返《かえ》るとそこにいたのは……先ほど見たあの序列《じょれつ》第四位のクールビューティーメイドさん――楠本《くすもと》水面《みなも》さんだった。
水面さんはゆっくりと近づいてくるとそのダイヤモンドダストな目で辺《あた》りを一瞥《いちべつ》して、
「皆《みな》様、アリスが何かご迷惑《めいわく》でもおかけしましたでしょうか? もしもそのようなら乃木坂《のぎざか》家《け》メイド隊を代表して謝罪《しゃざい》させていただきます。申《もう》し訳《わけ》ありません」
「え? い、いいえ、そういうわけでは……」
「ただちょっと色々とお話をしていただけで……」
「め、迷惑なんてとんでもないですよ!」
慌《あわ》てたようにメイドさんたちが首を振る。
「そうですか。それならばよろしいのですが」
「……」
「……」
「……。そ、それでは私たちはこれで……」
「し、失礼させてもらいますね」
「あ、綾瀬殿も、また」
水面さんのそのアラスカの氷原に吹く北風みたいな雰囲気《ふんいき》に気圧《けお》されたのか、そそくさと波が引くようにメイドさんと執事《しつじ》たちは去っていった。
後には俺とアリス(等身大フランス人形化)と水面《みなも》さんの三人だけが残る。
「あ、あー……」
何となく気まずい沈黙《ちんもく》。
とりあえず場の雰囲気《ふんいき》を繕《つくろ》うために何か話しかけようとして、
「大丈夫《だいじょうぶ》でしたか、アリス」
先に水面さんがそう口を開いた。
「あなたはまだ日本語が未熟ゆえ、こういった場での単独行動は向かないでしょう。必ず音声付の日独用電子辞書を携帯しなさいと言ったはずですが」
「――(こ、こくん)」
アリスが小さくうなずく。もしかして怒《おこ》っているようで助けてくれたんだろうか……?
「そちらのあなたも大事はありませんでしたか……。――? もしかしてあなたが綾瀬《あやせ》裕人《ゆうと》様……ですか?」
ネームプレートを見て少しだけ驚《おどろ》いたようにそう言う。
「そ、そうですが、何か……?」
「いえ……」
水面さんは静かに頭を振《ふ》ると、
「――失礼いたしました。執事のご格好をされているので気付くのが遅れてしまいまして。お初にお目にかかります、綾瀬裕人様。私はメイド隊で序列第四位を務めさせていただいている楠本《くすもと》水面と申します。以後お見知りおきを」
「あ、い、いや、こちらこそ」
慌《あわ》てて頭を下げ返す。
「本来ならばもっときちんとした形でご挨拶を申し上げたいところなのですが、本日は非公務《ひこうむ》であるゆえ、今日のところはこれで失礼させてもらいます。正式なご挨拶はまた改めて。アリス、しっかりと綾瀬様のお世話《せわ》をするのですよ」
「――(こくり)」
「それでは私はこれで」
そう深々と丁重《ていちょう》に一礼すると、水面さんは去って行った。
……なんつーか。
ホントに隙《すき》のないパーフェクトメイドさんって感じだな……
そんな水面《みなも》さんとの第三種|接近遭遇《せっきんそうぐう》から程《ほど》なくして、
『――ご来場の皆様にお知らせします。ご歓談中のところ恐縮ですが、ただ今よりビンゴ大会及び隠し芸大会を始めたいと思います。よろしければ入場時に受付でお配りしたお手持ちのビンゴカードとともにステージの方へとお集まりください』
「お」
ステージからそんなアナウンスが響《ひび》き渡《わた》った。
どうやら本日のメインイベントである、ビンゴ大会と隠し芸大会が始まるようだ。
「ビンゴ、始まるみたいだな。行ってみるか?」
「――(こくこく)」
うなずき返してきたアリスとともにステージ近くへと向かう。
ステージの前にはすでに大勢の人だかりができていた。
『さあ今年もやってまいりました、全国三千人のメイド、執事《しつじ》が待ち望んだ大ビンゴ大会! 本年もまた豪華《ごうか》景品をご用意いたしましたので、どうぞ皆様|遠慮《えんりょ》なくどんどん持っていってください!』
スピーカーから響《ひび》いたドーン! という効果音とともにスポットライトが当てられた先。
そこにあったのは……その言葉通りにデラックスな品々だった。
電気店でしか見たことのないような百インチハイビジョンテレビ(ご主人様といっしよに高画質を楽しみましょう!)やマイセンやロイヤルコペンハーゲンなどの高級食器(ご主人様といっしょに午後の華《はな》やかなティータイムに興《きょう》じましょう!)、バウリンガルDX(ご主人様といっしょにわんわんわふわふいたしましょう!)なんてのもある。
「……」
すげえな……
さすがにメイドさんと執事のためのビンゴ大会だけあって基本的には全てご主人様への奉仕を第一に考えられたものだが、それでも景品が豪華であることには何ら変わりはない。
中でも俺のメガネ越しの視線《しせん》を強く惹《ひ》き付《つ》けまくったのは、
「あれは……」
ステージの右端《みぎはし》の方に置かれた最新型の電子ジャーだった。
『炊飯《すいはん》革命《かくめい》nice rice!』(これでご主人様といっしょに美味しい十二穀米《じゅうにこくまい》を食べましょう!)
ご飯が通常の一・二倍ふっくら炊ける遠赤外線《えんせきがいせん》機能《きのう》が付いているというこの冬話題の新製品。
どこぞのアホ姉とセクハラ音楽教師の食欲がここのところ野生のメガプレデター(オーストラリアに生息《せいそく》する巨大《きょだい》肉食ワニ)のごとく増大している今日この頃《ごろ》、まさに欲しいと思っていた代物《しろもの》である。
むう、まさかこれが出品されているとは……。思わずビンゴカードを握る手にも力が入っちまうってもんだ。
「それではこれより数字の読み上げを開始いたします! お手持ちのカードにご注目ください!」
そしてビンゴ大会が始まった。
「はい、気になる最初の番号は……三十二番、三十二番になりま〜す。三十二番がおありになる方はカードに穴を開けてくださ〜い」
箱の中から番号の書かれた球を取り出しメイドさんが読み上げる。
「三十二番……お、あった」
カードの右|斜《なな》め上にあった三十二の数字。
初《しょ》っ端《ぱな》からなかなかに幸先《さいさき》のいいスタートである。
「皆様よろしいですか〜? よろしければ次に行きたいと思います。続いては……七十三で〜す。七と三で七十三で〜す」
「七十三は……ないか」
さすがに連続ヒットはないようだった。
「さあここまで数字が二つ出ましたが皆様のカードの様子《ようす》はいかがでしょうか? 二つともヒットされた方もいらっしゃれば、まだ一つも出ていない方もいらっしゃるかもしれません。しかしまだまだ抽選《ちゅうせん》は始まったばかり。お楽しみはこれからです。さあ、それでは次の番号を――」
そういった感じに次々と番号が読み上げられていった。
七十三の次は十一、二十、その次は六十六……
挙《あ》げられる番号が増《ふ》えていくにつれ、絶好調《ぜっこうちょう》とまでは言えないものの俺の手の中のカードはそこそこ順調にビンゴへと向かい穴《あな》を増やしていく。
そんな中、
「――……(ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!)」
ビクッ!?
何やら隣《となり》から殺気を感じた。
今までに感じたことのないほどの肌《はだ》に刺《さ》さるような鋭《するど》い空気。
これは何だと横を見ると……なんか背中《せなか》に炎《ほのお》を纏《まと》ったちびっこメイドがビンゴカードに目を落としてその小さな身体を震《ふる》わせていた。な、何だ? 何かあったのか?
「ど、どうしたんだ、アリス?」
「――……」
思わず尋ねてみるも、うつむいたまま返事は戻《もど》ってこない。
いやいつも返事といえばうなずきのみで音声はないんだがそういうことではなく、反応《はんのう》がないってことである。
怪訝《けげん》に思いそっとその手元を見てみると……真ん中にあるフリーナンバーだけがぽつりと空いたのみのビンゴカードがそこにあった。
「……」
……あー。
これはあれか。もしや何か狙《ねら》っている景品があるんだがそれにも関《かか》わらずいまだに一つもナンバーヒットがないっていう……。まあそれならこんな状態《じょうたい》になってるってのも分かるってもんだが……
「あー、アリス、もしかしてどれか欲しいものでもあるのか?」
多少|気後《きおく》れしつつも訊《き》いてみると、
「――(こくこくこくっ!)」
ものすごい勢《いきお》いでうなずき返してきた。その目にはこれまで見たことのないような情熱の光がぎらぎらと輝《かがや》いている。むう、本気だな、これは……
「そ、そうか。それで、ちなみにどれが欲しいんだ?」
「――(こくっ!)」
力強くうなずきながらアリスがびしっ! と指差した先。
そこには『ご主人様といっしょにお風呂《ふろ》で遊ぼう! ゲロリアンX』と書かれた緑色の物体があった。
「……」
おそらくは子供の頃《ころ》などによく湯船に浮《う》かべて遊んでいたカエルのオモチャとかの亜種《あしゅ》なんだろう。
だが今|現在《げんざい》ステージ上にあるそれは……なんかやたらとリアルな姿《すがた》をしていた。
適度《てきど》な湿度《しつど》とぬめつく触感《しょっかん》を再現《さいげん》した表皮《ひょうひ》部分。今にも膨《ふく》らみ出《だ》しそうな白っぽい浮《う》き袋《ぶくろ》。見事な水かき付きの後《うし》ろ脚《あし》。まるで本物のトノサマガエルをそのまま七・五倍スケールにしてさらにかわいげをなくしたかのような素敵《すてき》ヴィジュアルである。
「……。あ、あれが、欲しいのか……?」
「――(こくんこくんこくんこくんっ!)」
壊《こわ》れた振《ふ》り子《こ》みたいに反応するちびっこメイド。ま、まあ好みは人それぞれだからあまり口出しする気はないんだが……てかあんなもんフロに浮かべられた日には春香《はるか》、ショックでぶっ倒《たお》れるんじゃないのか……?
内心でそこはかとない不安を抱《いだ》きながらも、とりあえずは今すぐにどうこうできるもんでもないのでひとまずは棚上《たなあ》げにしておく。
で、ビンゴはさらに進んでいくものの――
「はい、続いての番号は十三となりま〜す。十三ですよ、十三」
「――……」
「今度は五十一になります。五十番の次で五十一。ビンゴの方はいらっしゃいますか〜?」
「――……」
「次の番号は八になります。末広がりで縁起《えんぎ》のいい番号で――あ、ビンゴですか? おめでとうございます! では景品の方をお選びください!」
「――……」
アリスのカードはさっぱりだった。
ステージ上ではすでに何人かが当選の名乗りを上げそれとともに景品がその数を減《ヘ》らしていく中で、アリスのカードには相変わらず一つも数字がヒットしない。ここまでノーヒットノーランだと逆《ぎゃく》にすごいというか……
ちなみに俺のカードにもこの段階《だんかい》でダブルリーチがかかっていて(ビンゴナンバーは三十八と四十四)、『炊飯《すいはん》革命《かくめい》nice rice!』は間近《まぢか》だった。
「――……」
「ま、まあ大丈夫《だいじょうぶ》だろ。何とかなるさ、勝負は時の運っていうし……」
「――……(どよーん)」
どんよりと背後《はいご》に暗《くら》い影《かげ》が落ちたアリスを励《はげ》ますものの、
その傍《かたわ》らで新たな番号(アリスのカードにはなし)がコールされ、また一人ビンゴの当選者がステージから景品を持ち去っていった。
「あ、あー……」
「――…………」
それがダメ押《お》しだったようだ。
「――…………」
ちびっこメイドは全身に黒雲のような負《ふ》のオーラをまとってふらふらと後退《こうたい》すると、そのままホールの隅《すみ》っこにしゃがみ込んでしまった。
「ア、アリス……?」
「――…………(息も絶《た》え絶《だ》えになった深海魚《しんかいぎょ》みたいな目)」
呼《よ》びかけるも壁《かべ》に向かって座《すわ》り込《こ》んだまま顔を上げようともしない。
うーむ、まあしっかりしているように見えてもやっぱり子供だからな。こういうところは実に歳《とし》相応《そうおう》というか……
とりあえず何とかフォローしようと言葉を選んでいると、
その時だった。
「は〜い、皆様、それでは次の番号に行きま〜す。二十三個目になる今度の番号は――はい、四十四となります! 四十四です! ビンゴの方はいらっしゃいましたら名乗り出てくださ〜い!」
「あ」
ステージ上の進行役メイドさんによって読み上げられた数字。
それは見事に俺のビンゴナンバーを示していた。
「ビンゴみたい、だな……」
だれに言うともなしにつぶやく。
念願《ねんがん》だった『炊飯《すいはん》革命《かくめい》nice rice!』が現実に入手可能になった瞬間。
本来ならば諸手《もろて》を上げて喜ぶべきワンシーンなはずである。
だが……
「……」
手の中のビンゴカードと隣《となり》のアリスとを見比べる。
……まあ、しようがないか。
正直『炊飯革命nice rice!』は惜《お》しいが、目の前で壁《かべ》だけがお友達のメランコリーな座敷童《ざしきわらし》みたいになっているちびっこメイドを放っておく方がよっぽど後味が悪い。こればっかりは物に代えられないもんだしな。
俺はアリスの頭にポンと手を置いて、
「……ちょっと待ってろ、アリス」
「――…………?」
斜《なな》め一列に穴《あな》の開いたビンゴカードとともに、ステージへと向かったのだった。
「――♪」
不気味《ぶきみ》なこと極《きわ》まりないゲロリアンXを手に、アリスがとても嬉《うれ》しそうな顔をしていた。
近くでよく見てみれば実は味のあるファンキーフェイスで長く見ていれば見ているほど不思議《ふしぎ》と愛着が湧いてくる……ということはまったくない緑色のカエル面《づら》。
もちろんそれは俺の当たりビンゴカードと引《ひ》き換《か》えになったものである。
ステージから降《お》りてこれを渡《わた》そうとした時、最初ちびっこメイドは驚《おどろ》いた顔をしてふるふると首を横に振《ふ》っていたのだが、それでもやっぱり心の中では喉《のど》から手が出るくらい欲しかったんだったんだろう。最後には申《もう》し訳《わけ》なさそうにしつつも笑顔《えがお》で受け取ってくれた。
「――ぴょん♪」
ソフビ製のゲロリアンXを愛《いと》しそうに両手でぎゅっと抱《だ》きしめつつなぜか嬉しそうにそんな言葉を口ずさむアリス。見た目はフランス人形なちびっこメイドが見た目そのまま巨大《きょだい》両生類な『ゲロリアンX』を抱きかかえてぴょんぴょん言っている姿《すがた》は、何と言うかとてもシュールである。おまけにある意味|台詞《せりふ》が合ってるのがアレなところだが……
まあそんなウサギだかカエルだかよく分からんぴょん≠フ解釈《かいしゃく》は置いておいて、ともかくちびっこメイドが喜んでくれているみたいだからよかった。
そこはかとない満足感を覚えつつステージに目を戻《もど》す。
ステージ上ではビンゴ大会はすでに終わり、現在はそれに引き続いてそのまま隠《かく》し芸《げい》大会が行われていた。
隠し芸大会――英語で言うとシークレットタレントコンテスト。
パーティーの二つめのメインとして行われるそれは文字通り一大イベントで、各々の家のメイドさん(執事《しつじ》)たちから何名かが代表で出場して、それぞれの得意分野や特技を披露《ひろう》するものらしい。
「――はい、ありがとうございました! ただ今の演目《えんもく》は藤林《ふじばやし》家《け》メイドの舞浜《まいはま》さんによるものでした! 次は|塔ヶ崎《とうがさき》家《け》主席執事の神楽坂《かぐらざか》さんによる演目です。皆《みな》様、期待《きたい》してご覧《らん》になってください!」
ステージ上で繰《く》り広《ひろ》げられる華《はな》やかな演目の数々。
それはもうどれもがこの上なく目を惹《ひ》くもので、様々なパフォーマンスが目白押《めじろお》しだった。
一度に三十枚の皿《さら》を高速で洗いまくるメイドさんや同時に十人分の紅茶を絶妙《ぜつみょう》な味加減《あじかげん》で淹《い》れる執事、ホウキに隠《かく》された仕込《しこ》み刃《ば》で見事な居合《いあ》いを見せるメイドさん、中には素手《すで》で石製の仁王像《におうぞう》を叩《たた》き割《わ》る執事なんかもいたりした。
まさに圧巻《あっかん》のアトラクション。
さすがにだれもかれも一流の名家に仕《つか》えている執事やメイドさんだけあってその全てがハイスペックである。もはやほとんどエンターテインメントの領域《りょういき》というか……
そのあまりのすごさに圧倒《あっとう》されていると、
「では次は、乃木坂《のぎざか》家《け》のメイド長|補佐《ほさ》、七城《ななしろ》那波《ななみ》さんの演目《えんもく》です。七城さん、よろしくお願いします」
「お、那波さんだ」
聞《き》き慣《な》れたにっこりメイドさんの名前が呼《よ》ばれた。
どうやら乃木坂家からは那波さんが参加するらしい。
一体何をやるんだろうか。あのにっこりメイドさんのことだから得意のハンマーで巨大《きょだい》ダルマ落としとかあるいはハンマーを肉叩《にくたた》きとして使って巨大ハンバーグ作りとか……
様々なハンマーアクションビジュアルが浮かぶ。
だがそれらの予想は、直後に那波さんの姿《すがた》を見た途端《とたん》に脳天《のうてん》に釘《くぎ》バットの一撃《いちげき》をくらったかのごとく全て吹き飛んでいった。
「お……」
屏風《びょうぶ》で区分けされたステージ袖《そで》から現れた那波さん。その身にまとわれていたのは……さっきまでの乃木坂《のぎざか》家《け》指定のメイド服ではなく、色|鮮《あざ》やかな着物だった。
薄《うす》いピンク色の下地に春を思わせる真っ白な梅の花びらを散らした意匠《いしょう》。淡《あわ》い藍色《あいいろ》の帯《おび》。さらにその手には小型の琴《こと》がたずさえられている。
琴《こと》、である。
まかり間違《まちが》っても琴型に偽装《ぎそう》した例の巨大《きょだい》ハンマーではない。
ステージ中央までやって来た那波さんは容席に向かってぺこりと一礼して、持っていた琴を静かにコトリと(シャレにあらず)床《ゆか》に置いた。そして軽く息を吐《つ》くと……おもむろにその弦《げん》に演奏用《えんそうよう》のツメを付けた指を乗せ始めた。
――ポロン♪
流れ出す澄《す》み切《き》った音色。
それは、どこかで聴《き》いた覚えのある耳に懐《なつ》かしい旋律《せんりつ》だった。
――これは確か『春の海』……か?
小学校|辺《あた》りの音楽の時間に一度は聴かされる定番中の定番曲。だが今聴こえてくるその音色は、その時聴いたものとは全く異《こと》なる柔《やわ》らかで温《あたた》かい音質である。響《ひび》きの心地好《ここちよ》さがまったくもって段違《だんちが》いというか……。とにかく、音楽に関しては前にも言った通り念仏《ねんぶつ》を聴かされたケンタウロス並《な》みの俺にも分かるレベルなんだよ。
「那波さん、こんな特技があったのか……」
普段《ふだん》のお気楽にこにこメイドさんなイメージからは意外すぎるコト(しつこいがシャレにあらず)この上ない。
驚《おどろ》きにそこはかとなく言葉を失っていると、
「……お琴は、那波さんの得意分野なのです」
「うおあっ!?」
突然《とつぜん》耳元で囁《ささや》かれた声とふ〜っと吹きかけられた吐息《といき》。
振《ふ》り返《かえ》るといまだにネズミーガール姿《すがた》の無口メイド長さんが音も気配《けはい》もなく背後《はいご》にいた。
――い、いつからいたんだ!? こ、この人は本当に……
そんな俺の内心の抗議《こうぎ》をヨソに、
「……ほとんどプロ級の腕前《うでまえ》で、数ある特技の中でも最も得意なものの一つです。物心がついたばかりの頃《ころ》から習っていたらしく、中学生の頃には最年少で賞を取ったこともあるそうです。何でも神童《しんどう》と呼《よ》ばれていたとか……」
「そうなんですか?」
「……はい。本人から聞きましたので」
「……」
うーむ。
意外な事実だ……
いつもフランクなにっこりメイドさん。そのどこまでも陽気《ようき》なキャラは、お琴《こと》だとか着物だとかのしっとりとした和テイストのものからは対極《たいきょく》な位置《いち》にあるような印象《いんしょう》を持っていたんだが……
考え込む俺に、葉月《はづき》さんはさらに予想外な言葉を口にした。
「……実は那波《ななみ》さんは、もともと京都にある旅館の跡継《あとつ》ぎなのです」
「え?」
「……あちらに行けばだれでも知っているような伝統《でんとう》ある老舖《しにせ》旅館です。もともとはそこの女将《おかみ》になるための英才教育として色々な訓練を受けてきたと言っていました。琴や着物の着付けなどもその一環《いっかん》であるとのことで……」
「女将……」
……ってアレだよな? 旅館の一番|偉《えら》い人で着物とか着てはんなりとおもてなしする……
それはメイドさんとはかなりほど遠い職業というか、にっこりメイドさんのキャラからもさらにかけ離《はな》れて一次元くらい次元がずれてしまってる気がしてならないんだが。いやしかし考えようによっては西洋風給仕であるメイドさんと和風給仕である女将ってのは給仕って点においては共通してるのか? むう、分からん……
想定外な事実の連続に半ば混乱《こんらん》していると、
ふと壇上《だんじょう》の那波さんと目が合った。
すると演奏中《えんそうちゅう》にも関《かか》わらず那波さんはいつもと変わらない様子《ようす》でぱちりとこっちに向かってウインクをしながら、空いている手をぴっとおでこに当てて「あら〜、裕人様〜♪」と応対してくれた。
「……」
これが女将さん、ねぇ……
どう見ても何かの間違《まちが》いとしか思えんのだが。
しかし那波さんといいさっきのクールビューティー水面《みなも》さんといい序列《じょれつ》第二位の人の件といい、本当にメイド隊は謎《なぞ》ばっかりだ……
そんなこんなで隠《かく》し芸《げい》大会も終わりを告《つ》げた。
かなり賑《にぎ》やかではあったものの特にアクシデントなどが起こることもなく、だいたいのところは平穏《へいおん》な進行具合だった。
もっとも俺はあの後、なぜかにっこりメイドさんにステージまで呼《よ》ばれた挙句《あげく》に特別ゲストとして隠し芸をやらされることになってしまい――仕方がないので天王寺《てんのうじ》家《け》で学んだ唯一《ゆいいつ》の執事《しつじ》芸《げい》、エリマキトカゲの鳴《な》き真似《まね》をやったところなぜかこれが意外にウケまくるという予想外な事態《じたい》に陥《おちい》り、三度のアンコールまで受けるという始末《しまつ》だった。世の中分からんもんだ……
とはいえそれがきっかけで、意外な人物との再会《さいかい》があったりもした。
「――綾瀬《あやせ》殿、綾瀬殿ではないですか?」
「?」
エリマキトカゲを終えてステージを降《お》りた時にふとかけられた声。
その先にいたのはいつぞやの天王寺家の小犬川《こいぬがわ》無道《むどう》さんだった。
「無道さん」
「あなたも来ていたのですか! 今のステージ、拝見《はいけん》させていただきましたぞ。相変わらずのロドリゲスっぷり……素晴《すば》らしい。お久しぶりでしたが、お元気にされているようで何よりですな」
「あー、はい。おかげさまで」
「おお、それはよかった。なにぶん十分に給金を支払《しはら》うことができなかったですからな。心配していたのですよ」
「いやあれはあれでこっちもアレですし……。そういえば冬華《とうか》はどうしてます? また無茶《むちゃ》言って無道さんたちに迷惑《めいわく》をかけたりしてるんじゃ――」
「はあ、それは……」
交《か》わされた会話のほとんどはそんな何でもない世間話《せけんばなし》。
まあその中でなんか冬華は現在天王寺本家にはおらずどこかに引きこもって何やら怪《あや》しい計画を実行しようとしているとか何とか言っていたような気がしたが……あまり興味《きょうみ》を持つとまた巻《ま》き込《こ》まれそうな予感だったのでそこは爽《さわ》やかに受け流しておいた。
で、しばらく話をした後に無道さんと別れて。
現在の俺は、ホールの隅《すみ》にあったソファに腰掛《こしか》けて一人ノンビリとくつろいでいる状態《じょうたい》だった。
周りにはだれもいない。
葉月《はづき》さんと那波《ななみ》さんは再《ふたた》び挨拶回《あいさつまわ》りに出てしまっていたし、アリスはアリスで飲み物やらデザートやらを取りにテーブルの方に行ってしまっている。何でもゲロリアンXのお礼と先ほどのリベンジ(ヴィシソワーズまみれ熊肉《くまにく》とかの)を兼《か》ねての再《さい》チャレンジ中らしい。
「ふう……」
行《い》き交《か》う見知らぬメイドさんたちを何となく目で追いながらひと息つく。
しかし見れば見るほど本当にたくさんのメイドさん(執事)がいるもんである。
まあこれだけ人がいればもしかしたらあと一人二人くらいだれか知っている人がいてもおかしくはないかもしれん……などと思っていたら、
「――HAN.相変わらず貧乏《びんぼう》臭《くさ》い匂《にお》いがするね」
ふいに今度はどこからかそんな言葉が飛んできた。
「定価三干五百円くらいの安っぽい下民《げみん》の匂いだよ。ああ、臭《くさ》い臭い。こんなんじゃこのパーティーとやらの程度《ていど》も知れるってもんだ」
人を小馬鹿にしたようなキザったらしい台詞《せりふ》。
言葉のもとはソファから少し離《はな》れたところに立っていたセンスの悪いスーツ姿《すがた》の金髪《きんぱつ》の男だった。
周りに何人かの執事《しつじ》を従《したが》えながらこっちを不躾《ぶしつけ》にジロジロと見ている。
「……」
……だれだ、これ?
思わず首を捻《ひね》る。こんな性格の悪そうなパツキンのキザ男(推定《すいてい》)に知り合いなんていないんだが。
訝《いぶか》しく思う俺にその金髪は芝居《しばい》がかった仕草《しぐさ》で髪《かみ》をかき上げながら近づいてきて、
「久しぶりだね、貧乏人《びんぼうにん》。まさかこんなところで会うとは思わなかったよ、HA」
なんか話しかけてきやがった。いや久しぶりと言われてもこっちにはまったく身に覚えがないというか……
「あー、すみませんがどちらさまですか?」
なのでそう訊《き》き返《かえ》したところ目の前のパツキンはピクッ! とこめかみを動かして、
「ボ、ボクの顔を忘《わす》れたっていうのかい? ひ、貧民《ひんみん》で下層《かそう》市民でエリマキトカゲなキミごときが、ボ、ボクの名前を……? ボクはシュート、シュート・サザーランドだよ!」
「シュート……」
そこでようやく思い出した。
ああ、もしかしてこいつ、あの春香《はるか》の誕生会の時に絡《から》んできた……
かなり鬱陶《うっとう》しい絡み方をしてきた割には印象《いんしょう》が薄《うす》かったため、脳ミソの記憶《きおく》領域《りょういき》の片隅にもほとんど残っておらずすっかりさっぱり忘れていた。まあこれっぽっちも積極的に覚えていたいようなモノじゃないんだが……
ともあれ目の前のパツキンがだれかは分かった。
だがそれでもうつ疑問に思うことがある。
それは――
「……何であんたがここにいるんですか?」
今日のこのパーティーはメイドさんと執事オンリーのイベントなはずだ。腐《くさ》ってもゾンビになってもいちおうサザーランド家の御曹司《おんぞうし》であるこいつは参加|不可《ふか》のはずなんだが。
するとなぜかパツキンことサザーランドはさらにピクピクッ! とこめかみをひくつかせて、
「く、よ、よりによってお前がそれを言うか……? だ、だれのせいでこのボクがこんなメイドや執事ごときが主催《しゅさい》する下賤《げせん》な集まりに参加するハメになったと思ってやがる……。ぜ、全部お前のせいだろうが……」
「?」
何言ってんだ、こいつ?
とうとう性格だけでなく頭までワケが分からなくなったか……と首を捻《ひね》っていると周りにいた取《と》り巻《ま》き執事《しつじ》たちが、
「シュ、シュートさん、落ち着いて。あんまり興奮《こうふん》すると履《は》いているシークレットシューズ(特注二十五センチ)のカカトが折れますから……」
「そ、そうですよ、例の誕生日パーティーでの一件でお父様のお怒《いか》りを買って『お前のようなバカは一度執事に身を落として勉強し直してこい! 反省して生まれ変わるまで私の前に顔を出すな!』と言われて半年間強制執事|修行《しゅぎょう》をしているなんてわざわざ言う必要はないんですから……」
「し、執事|姿《すがた》もなかなかお似合《にあ》いですって!」
「……」
ナルホド、そういうことか。
そういった事情《じじょう》ならまあ文句《もんく》の一つも言いたくなる気持ちは分かるが、それにしたってあれはほぼこいつの自業自得《じごうじとく》である。そこまで責任を押《お》し付《つ》けられる筋合《すじあい》はない。
俺が黙《だま》っているとサザーランドはハアハアと肩《かた》で息をして、
「ふ、ふん、まあいいさ。どうせこんなチンケな生活もあと少しだ。今日はせいぜいお前のみじめな貧乏《びんぼう》ったらしいツラでも見て気を晴らすことにするよ、HAN!」
「あ、シュ、シュートさん」
「ま、待ってください!」
そう言い捨てて怒《いか》り足《あし》で立ち去ろうとした時のことだった。
「ん?」
テーブルの向こうの方から、アリスがこちらへ向かってたたたっと走ってくるのが見えた。
ちょうど取り分け終えたところなんだろう。その手にはさっきの惨状《さんじょう》とは異《こと》なりちゃんと盛《も》り付《つ》けられたデザートのパイナップルの輪切りと飲み物が載《の》ったトレイ。どうやら今回は無事に取り分けることに成功したようで、とても嬉《うれ》しそうな顔でうきうききらきらと目を輝《かがや》かせながら近づいてくる。
だがその進路上には前なんざまともに見ていないサザーランドの姿があり――
「アリス!」
ガシャン!
声をかけるも一歩|遅《おそ》く。
ホールのほば中央部分で、二人は正面からもつれ合うように激突《げきとつ》した。
「――AAAN! 何やってんだよ、このガキ!」
「――!?」
サザーランドが顔を真っ赤にして大声を上げる。
見れば今の衝突《しょうとつ》の弾みでトレイからハデに飲み物(ちなみにドラゴンフルーツジュース)がこぼれ、サザーランドのスーツに大きなシミを作ってしまっていた。
「ど、どこ見て歩いてんだ! ああ、シミがついちゃったじゃないか! ふざけんな、この特注スーツがいくらしたと思ってんだよ!」
そのムダに甲高《かんだか》い金切《かなき》り声《ごえ》に、周《まわ》りのメイドさんや執事《しつじ》たちが一斉《いっせい》に視線《しせん》を向けてくる。
「――(ぺ、ぺこぺこ)」
不測《ふそく》の事態《じたい》に慌《あわ》てながら必死に謝《あやま》るアリス。頭を下げつつ不慣《ふな》れな手付きでポケットからハンカチを取り出し、一生懸命《いっしょうけんめい》にサザーランドのスーツのシミになった部分を拭《ふ》き取《と》ろうとするものの、
だがダイレクトに付着《ふちゃく》したシミはその程度《ていど》では取れるものではなく……
「ちっ、な、何やってるんだよ! そんなんでこのヘンな色の汚《よご》れが取れるわけないだろ! まったく、使えないガキだな! いいからもうどけよ!」
ドン! と、
アリスの小さな身体を手で払《はら》ってサザーランドが鬱陶《うっとう》しそうに立ち上がった。強引《ごういん》に押《お》しのけられたアリスは床《ゆか》にしりもちをつき、その反動でポケットから何かがでろりと床に転《ころ》がった。
「――っ」
仰《あお》向けになって白い腹を見せた、ゲロリアンXだった。
サザーランドが顔をしかめる。
「AN? 何だそりゃあ、気持ち悪いイキモノだな。ボクの洗練《せんれん》された美意識《びいしき》に反する……ていうかそんな不気味なもんを大事に持ったりしてるから高貴なボクにぶつかったりするんだよ!」
そしてその特注二十五センチシークレットシューズを履いた短めの足を上げたかと思うと……そのままゲロリアンXへと向け思い切り踏《ふ》み下《お》ろした。
「――!?」
ぐしゃり、という無情な音。
音声|機能《きのう》が内蔵されていたのか、緑色のソフビ製両生類は「ぐえぇろぉ」と断末魔《だんまつま》のような悲鳴を上げてくたりと床にへたばった。
アリスが慌てた顔で拾い上げる。
だがその腹部にはクッキリと足型が付き、全体の形は無惨《むざん》にひしゃげてしまっていた。
「――……」
言葉を失うアリス。
よほどショックだったのか、その両目からは大粒《おおつぶ》の涙《なみだ》がぽろぽろとこぼれ落ちる。
さすがにこれは目に余《あま》る行為《こうい》だったようで、周りで見ていたメイドさんや執事《しつじ》たちからもザワザワと非難の声が飛んでくるものの――
「ANN.何だお前らその目は! たかが執事やメイドの分際《ぶんざい》でボクに意見しようってのか!」
それらはさらにサザーランドの嗜虐心《しぎゃくしん》に火を点《つ》けただけのようだった。
「ボクはお前らなんかとは違《ちが》うんだよ! ボクをだれだと思っている、あのサザーランドグループの後継者《こうけいしゃ》だぞ? いわば使う側《がわ》と使われる側の、華《はな》やかな使う側だ。本来ボクはこんなところにいる人間じゃない――言ってみればお前らなんかとはハナから生きてる世界が違うんだよ! そのボクにお前らごときが文句《もんく》を言う権利《けんり》があると思ってるのか?」
「……」
「……」
明らかに理不尽《りふじん》なことを言っていると分かっていても、メイドさんや執事というポジションから強く反論することができないようだ。
それをサザーランドは自論の勝利だと受け取ったのか、
「――ふん、分かればいいさ。まあとりあえずお前は、パパに頼《たの》んでクビね」
「――!?」
アリスに向かってぞんざいにそう言い放った。
「当たり前だろ? このボクに対してあんな無礼を働いたんだ。お前のクビごときで済むんなら安い話ってもんだよ」
吐《は》き捨《す》てるようにそう一方的に宣告《せんこく》する。
「――……」
「NN〜? なんか不満でもあるのか? 一山いくらのメイドの分際《ぶんざい》で。お前の代えなんていくらでもいるんだよ。それとも何だ、お前のクビはボクの特注スーツ以上に価値《かち》があるとでもそう言いたいのかい? ええ?」
「――……」
さらに強い調子で責《せ》め立《た》ててくる。
その剣幕《けんまく》に何も言えずに床《ゆか》にしゃがみこんだままただゲロリアンXを抱きしめて肩《かた》を震《ふる》わせるだけのアリス。
「……」
――このヘンが、いいかげんに限界《げんかい》だった。
ぶつかったこと自体にはアリスにもまったく非《ひ》がないとは言えない。それにメイドという立場上、多少相手が人格《じんかく》破綻者《はたんしゃ》でも立てなければいけない場合もあるんだろう。ヘタに手出しをすると乃木坂《のぎざか》家《け》にも迷惑《めいわく》をかけると思って何とかガマンしていたんだが……さすがにここまで心無いことをされて黙《だま》っていろってのはムリがある。
俺は一歩前に出ると、
「……それくらいに、しておいたらどうですか」
「AAN? 何だお前?」
「……それくらいにしておいたらどうだって言ったんですよ。女の子一人相手に、いくら何でもやりすぎだ」
ゲロリアンXを握《にぎ》りしめたままのアリスのもとに歩み寄り、その肩《かた》に手を置いた。
「大丈夫《だいじようぶ》か、アリス。もう平気だからな」
「――……」
涙《なみだ》に濡《ぬ》れた目で心許《こころもと》なげに見上げてくる。
「おい、ちょっと待てよ。何をお前が勝手に仕切ってるんだ。まだ話は終わっちゃいない。ていうかそいつはクビだって言ったはずだ」
「いくら何だってそれは極端《きょくたん》すぎだろう。他にもっと別の解決法《かいけつほう》が……」
そう抗論《こうろん》しようとして、
「HAN? 格好《かっこう》つけたこと言ってんじゃねえよ」
サザーランドに即座《そくざ》に遮《さえぎ》られた。
「そのガキはボクの特注のスーツを台無《だいな》しにしたんだぞ? この一着二百五十万円で、世界で一つだけのシュート様|仕様《しよう》の特別スーツを! クビで償《つぐな》うくらいのことは当然で、むしろそれだって軽すぎるくらい――いや、待てよ」
だがそこでサザーランドは何かを思い付いたかのようにニヤリと笑って、
「――そうだな、だったらお前が代わりに土下座《どげざ》して床《ゆか》に頭を擦《こす》りつけて謝《あやま》ったら許《ゆる》してやるよ」
「なっ……」
そんなことを言い出しやがった。
「偉《えら》そうな口を叩《たた》くんだからそれくらいできるだろ? なーに、ちょっとここで這《は》いつくばって床に頭を擦りつけるだけでいいんだよ。簡単《かんたん》なことじゃないか。ほらさっさとやれ。そうすればクビは撤回《てっかい》してやってもいい。あの時ボクが味わった屈辱《くつじょく》……そのままお前に返してやるよ」
ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべながら足でトントンと床を叩くサザーランド。
だがその目は完全に本気である。
「…………」
目の前にはふるふると首を横に振《ふ》りながら袖《そで》を引《ひ》っ張《ぱ》ってくるアリス。
周りには事の推移《すいい》を心配そうに見つめているたくさんのメイドさんや執事《しつじ》たち。
――まあ、他に手段《しゅだん》はない、か……
こんなアホパツキン相手に土下座するのは屈辱だが、俺の屈辱|程度《ていど》でアリスが助けられるのならためらう理由はないってもんである。
「……分かったよ。俺が土下座すれば満足なんだな」
「ああ、もっともただの土下座じゃなくて、床に頭を擦りつける土下座だけどな」
「……」
俺はシュートの顔面を一度|睨《にら》みつけると黙《だま》って床にヒザを着いて、
そのままメガネごと頭を下に押《お》し付《つ》けた。
「HAHAHA! こいつ本当にやりやがったよ! まさかマジでやるとは思わなかった! HEY.見ろよみんな、こいつまるで潰《つぶ》れたカエルみたいだぜ! HA. いい気味《きみ》だ! これで少しは溜飲《りゅういん》も下がるってもんだね。でもね――」
「?」
「これで終わりなんて甘いんだよ。下民《げみん》風情《ふぜい》のお前の土下座と高責《こうき》で気高《けだか》いボクの土下座が釣《つ》り合うわけないだろ? だからさ……」
そう言ってにやりと笑うと、
サザーランドは近くのテーブルに置いてあった赤ワインを手に取り……それを俺の頭にドボドボとぶっかけた。
「ほら、これで洗浄《せんじょう》してやるよ。お前ごとき貧乏人《びんぼうにん》にはメッタに飲めない高価《こうか》なワインだ。これで少しはキレイになって貧乏もマシになるんじゃないのか? HAHAHAHAHA! 」
「くっ……」
髪の毛を伝ってメガネのレンズにまで赤い液体《えきたい》がしたたってくる。
ここまでやりやがるかこのパツキン……って感じだが、ここはアリスのためにも耐《た》えるしかない。
それを見ていたサザーランドはハッと鼻で笑って、
「本当にいいザマだね! ブザマというか滑稽《こっけい》というか。ていうかさ、何だってそんなメイドごときにこだわるんだかボクにはさっぱり分かんないけどね」
「……」
「メイドなんてただの使用人じゃないか。ただの便用人で、いくらでも代えがきく消耗品《しょうもうひん》だろ。何もこいつに限《かぎ》ったことじゃない。メイドや執事《しつじ》なんてみんなそうさ。人間の言葉を理解する便利なお掃除《そうじ》マシーンみたいなもんだ」
横柄《おうへい》な視線《しせん》で周りを見渡《みわた》すと、
「そんな消耗品にかばわせるならともかく、まさか自分からかばってこんなことまでするなんてね。生まれついてのご主人様のボクにはまったく気が知れないっていうか。お前、頭が沸《わ》いてんじゃないのか? HAHAHAHA! 」
心底《しんそこ》バカにしたかのように哄笑《こうしょう》する。
「……あんたには分かんないかもしれないけどな、俺にとってアリスはただの使用人なんかじゃないんだよ」
「AN?」
……基本的には反論などしないつもりだった。
自分のことに関する限《かぎ》りは何をされてもとりあえずはガマンするつもりだった。
だが……今のこいつの発言にはどうしても聞き流せない部分がある。
俺はワインの雫《しずく》を振《ふ》り払《はら》い立ち上がって、
「アリスはただの使用人なんかじゃない、ましてや便利なモノや消耗品なんかじゃない……。それはアリスだけに限らなくて、他のメイドさん――葉月《はづき》さんや那波《ななみ》さん、沙羅《さら》さんたちだって同じだ!」
いつだって周りの様々なことに心を砕《くだ》いてくれている葉月さんらメイドさんたち。
一見《いっけん》お気楽そうに見えて、本当はその裏《うら》で色々と細《こま》やかな心遣《こころづか》いをしてくれている。
自分たちのことなんて二の次で周りの笑顔《えがお》と幸せを何よりも大切にしていることを、俺は知っている。
「あの人たちは皆《みな》いつだって優《やさ》しくて温《あたた》かくて、いつも人のことを気遣ってくれてる! それは間違《まちが》いなくあの人たちの本質で変わらない好ましい部分で……そんなあの人たちは、俺にとってかけがけのない大事な人たちだ!」
その優《やさ》しい気持ちや思いやりを、ただのモノだと切って捨てるのだけは……どうしても許《ゆる》すことができない。
だから――
「だから俺は自分がやってるのはバカなことなんかじゃないと思ってる。……いや、たとえバカだったとしても、あんたみたいにそんなツマラン考え方をするくらいだったら、バカ呼《よ》ばわりされた方がよっぽどマシだ! かけがえのない人のことを想って行動することの何が悪い! あんたの方こそ……そんなことも分からなくてご主人様だなんてよく言えるな!」
そう腹の奥《おく》から叫《さけ》んだ。
それは言葉にすると陳腐《ちんぷ》かもしれないが、俺の心の底《そこ》からの本当の気持ちだ。
「なっ……」
こっちからの反抗《はんこう》などまったく想定していなかったのか一瞬《いっしゅん》絶句《ぜっく》するサザーランド。
だがすぐに我に返ったのか腕《うで》を振《ふ》りかざして、
「ウ、ウルナイ! 何をワケの分からないことを言ってやがる! お前ごときがボクに説教する気か? 貧乏人《びんぼうにん》のお前ごときが……いいからお前は今まで通りさっさと這《は》いつくばって床《ゆか》でも舐《な》めてればいいんだよ! おい、お前ら、やれ!」
「あ、は、はい!」
「え、ええと、気は進まないんですがこれも命令で……」
「悪く思わないでくださいね!」
取《と》り巻《ま》きに命じて再《ふたた》び土下座《どげざ》させようとする。
両脇《りょうわき》と後ろから身体を押さえつけられて床に再度《さいど》倒《たお》されかけた瞬間《しゅんかん》、
「はい〜、そこまでです〜」
そこで、ピタリと取り巻きたちの動きが止まった。
いや正確に言うと……強制的に止められた。
場にそぐわない明るい声とともに牽制《けんせい》するかのように取り巻きたちの喉元《のどもと》に突《つ》きつけられた巨大《きょだい》チェーンソー&巨大ハンマー。
「葉月《はづき》さん、那波《ななみ》さん……」
そこには……メイド服に戻《もど》った無口メイド長さんとにっこりメイドさんの姿《すがた》があった。
「裕人《ゆうと》様、お待たせいたしました〜」
「……救援《きゅうえん》参上《さんじょう》です」
メイドさん二人はこっちを見ながらにっこりと微笑《ほほえ》みかけると、
「遅《おそ》くなってしまいましたがもうご心配はいりません〜。アリスちゃんも大変でしたね〜」
「……あとは私たちにお任《まか》せください」
そう言ってチェーンソーとハンマーを一振《ひとふ》りする。取り巻きたちが「ひっ」と怯《おび》えたように俺の身体から離《はな》れた。
「お、お前らっ! な、何のつもりだ!」
サザーランドが顔を真っ赤にして大声を上げる。
「何と言われましてもメイドとしてのお務《つと》めを果たしたまでですが〜」
「……当然の義務《ぎむ》です」
「お、お務めだぁ? 意味分かんないんだよ! いいからお前ら、構《かま》わずにやっちまえ!」
「で、ですが……」
「乃木坂《のぎざか》家《け》メイド長とその補佐《ほさ》じゃ……」
「あ、相手が悪いですよ……」
野生のライオンとトラに同時|遭遇《そうぐう》したシマウマのように尻込《しりご》みする取《と》り巻《ま》き執事《しつじ》たち。
「く……や、役に立たないクソ執事どもめ……。だいたいメイドごときが何を調子に乗ってでしゃばってきてやがるんだよ! そこをどけっ、ボクの邪魔をするんじゃねぇ!」
禁煙席《きんえんせき》での喫煙《きつえん》を注意されて逆《ぎゃく》ギレした四十代のおっさん(キれる中高年)みたいに逆上《ぎゃくじょう》した顔面で二人に掴《つか》みかかってきて、
「あら〜、女性に暴力《ぼうりょく》を振《ふ》るうのはいただけませんね〜」
「……マナー違反です」
「!?」
次の瞬間、そのシークレットシューズで水増《みずま》しされた身体がハデに宙に浮《う》いていた。
まるで竜巻《たつまき》に巻き込まれたかのような盛大《せいだい》な回転。
そして壊《こわ》れたタコのように不格好《ぶかっこう》に落下《らっか》してきたところで、
「これはあなたに侮辱《ぶじょく》されたメイド&執事たち全員の怒《いか》りと〜」
「……それとアリスちゃん、そして……私たちのことを大事だと言ってくださった裕人《ゆうと》様へのご無礼《ぶれい》の、応報《おうほう》です」
めきょっ!
「ぶごっ!?」
乃木坂家メイド隊ナンバーワンとナンバースリーの左右からの同時|回《まわ》し蹴《げ》りが、見事にサザーランドの顔面《がんめん》に炸裂《さくれつ》した。
「A.AUOOOOOOO!?」
ヘンな声を上げながら強風の日の路上ゴミのように吹っ飛んでいくサザーランド。
その進路上に周りで見ていたメイドさんたちやテーブルなどの障害物《しょうがいぶつ》が一つもなかったのは両メイドさんの実力ゆえだろう。
「あら〜、痛《いた》そうですが先に手を出したのはそちらですので、悪く思わないでくださいね〜」
「……世界メイド安全|保障《ほしょう》条約第二十九条による正当|防衛《ぼうえい》です」
遅《おく》れてひらりと舞《ま》い上《あ》がったスカートの裾《すそ》を手で押《お》さえながら、にこやかにそう告《つ》げる。
やがてサザーランドはホール隅《すみ》の壁《かべ》に激突《げきとつ》してようやく停止《ていし》した。
「お、お前ら……いくら乃木坂《のぎざか》家《け》のメイドだからって、こ、このボクにこんなことをしてタダで済《す》むと思うなよ……」
「……」
「み、見てろ……パパに頼《たの》んでお前らなんか全員めちゃくちゃにして――」
「――サザーランド様」
と、そこでボロ雑巾《ぞうきん》のような状態《じょうたい》で言いかけたサザーランドの目の前に、すっと携帯《けいたい》電話が差し出された。
「A.AN?」
差し出していたのはいつの間にやって来ていたのか、冒頭《ぼうとう》の挨拶《あいさつ》で見た鹿王院《ろくおういん》家《け》の筆頭《ひっとう》メイドさん――高天原《たかまがはら》さんだった。
「こちらをどうぞ、サザーランド様」
「HA? 何だってんだよ、別にボクは電話なんか……」
「いいからどうぞ。お父様と繋《つな》がっておりますゆえ……」
「え、パパ?」
サザーランドの表情がパッと一変《いっぺん》する。
「な、何だよ、それを早く言え。いいところに来たじゃないか。か、貸せっ!」
ひったくるように携帯をふんだくって耳にあて、「あ、パパ、あのねあのね――」
だが直後に、その顔が蒼白《そうはく》になった。
『……シュート、この大バカが!』
「え、パ、パパ!?」
『話は聞いたぞ。本当にお前というやつは……。まさかあの由緒《ゆいしょ》正しい新春メイド×執事《しつじ》合同|親睦会《しんぼくかい》でまでこんな騒《さわ》ぎを起こすとはな……。何かあった場合はすぐに私に連絡《れんらく》を入れてもらうよう念のため鹿王院家に要請《ようせい》しておいて正解だったわ。あの乃木坂家での失態《しったい》から半年、心を入れ替えたのなら今回で執事|修行《しゅぎょう》も終わりにしてやろうかと思ったが、どうやらまったくもってその兆《きざ》しは見られんようだな』
「え、で、でも、これは……」
『黙《だま》れ、言《い》い訳《わけ》は後で聞いてやる。――そんなことよりも鹿王院家の高天原殿に乃木坂《のぎざか》家《け》のメイドの方々』
受話口からの声がこっちに向けられる。
『うちのバカが迷惑《めいわく》をおかけした。本当にすまなかった。正式な謝罪《しゃざい》は後日私自身で改めてさせていただく。シュートのやつはどうぞそちらの好きにしていただいて構《かま》わない。サザーランド家の者とは思わずに煮《に》るなり焼くなり厳粛《げんしゅく》に処罰《しょばつ》してくれて結構《けっこう》。――それでは、これで失礼させていただく』
そう言い放って電話は切れた。
「パ、パパ、そ、そんな……」
情《なさ》けない声を上げながら茫然自失《ぼうぜんじしつ》の表情になるサザーランド。
まあ何ていうか……こいつに関しては本当に自業《じごう》自得《じとく》もいいところだな。
「大丈夫《だいじょうぶ》だったか、アリス」
抜《ぬ》け殻《がら》になったサザーランドが取《と》り巻《ま》きに連れられて退出《たいしゅつ》していったのを確認《かくにん》して、いまだ床《ゆか》に倒《たお》れこんだままだったアリスに声をかけた。
「本当に災難《さいなん》だったな。せっかくのゲロリアンXもこんなにされて……」
「――……」
ボロボロになったソフビ製緑色両生類に目をやる。ちびっこメイドの腕《うで》の中にしっかりと抱《かか》えられたゲロリアンXは、今もその形がべっこりと歪《ゆが》んだままだった。
「ったく、ひどいことしやがる。何もここまでしなくてもいいだろうに……。――そうだ、こうなったら事情を話して新しいのに代えてもらうってのはどうだ? 景品だから一個くらい予備《よび》のやつとかがあるかもしれないだろ」
そう提案《ていあん》してみたところ、
「――(ふるふる)」
アリスは即座《そくざ》に首を横に振《ふ》った。
「? どうしてだ。訊《き》くだけでも訊いてみれば……」
「――(ふるふる)」
なおも首を振り続けるアリス。
何か理由でもあるのかと不思議《ふしぎ》に思っていると、
「――……| 《これ》……| 《が》…………| 《いい》……」
「え?」
ふいに、そんなたどたどしい声が聞こえてきた。
「――…………| 《これ》……|     《が、いい。ゆうとさま》……|     《に、とってもらった》……|  《これ、が》……」
「アリス、日本語……」
喋《しゃべ》れたのか……?
というかそもそもぴょん∴ネ外で初めて聞くちびっこメイドの声なんだが……
どう反応《はんのう》していいものやら戸惑《とまど》っていると隣《となり》にいた那波《ななみ》さんがちょっと驚《おどろ》いたような顔で口元に手を当てた。
「あらあら〜、アリスちゃんにお喋《しゃべ》りをさせるなんて、裕人《ゆうと》様、やりますね〜」
「? どういうことですか?」
「言葉通りですよ〜。アリスちゃんが自分からお話をするのはとっても珍《めずら》しいんです。もちろんまだまだ日本語に不慣《ふな》れなところもあるんですけれど、それ以前に人見知りなところが影響《えいきょう》していまして〜」
「……私たちでも、お話をしてくれるまで半年ほどかかりました」
そうなのか? まあ確《たし》かに今までの人見知りっぷりを見ていれば納得《なっとく》できる話ではあるが……
首を稔《ひね》りながらそんなことを考えていると、
「え?」
「――|Bruder《お兄ちゃん》……」
アリスがこっちをちらりと見て何かぽそりと言った。
なんか聞《き》き慣《な》れない呪文《じゅもん》みたいな単語。
? 何て言ったんだ? あまりに小さい声でよく聞き取れなかったため訊《き》き返《かえ》そうとすると、なぜかちびっこメイドは恥ずかしそうにちょこんと那波さんの後ろに隠れてしまった。
「あらー、ほんとに懐《なつ》かれてますね〜、裕人様。うふふ、いいことです〜」
「?」
「いえいえ、こちらのことで〜。――それより裕人様」
「……裕人様」
「はい?」
と、そこでふいに那波さんと葉月《はづき》さんが真面目《まじめ》な顔になった。
いつにない真剣《しんけん》な目でこっちを真《ま》っ直《す》ぐに見ながら居住《いず》まいを正すと、
「裕人様――先ほどはありがとうございました」
「……ありがとう、ございました」
「え?」
二人そろって深々と頭を下げてきた。
「先ほどの裕人様のお言葉です。私たちのことを、裕人様がどう考えていらっしゃられたかをお聞きすることができました。裕人様の飾《かざ》らないお気持ち。とても心に響《ひび》いて……」
「……本当に、嬉《うれ》しかったです。裕人様が私たちを想《おも》って言ってくださったそのお言葉。それが私たちにとって何よりの労《ねぎら》いで……」
二人して両ナイドから柔《やわ》らかく腕《うで》をぎゅっと組んでくる。
う、聞かれてたのか、アレ。さっきは微妙《びみょう》に興奮《こうふん》というか頭に血が昇《のぼ》っていて気にならなかったが、改めてそれについて言及《げんきゅう》されるとこっ恥《ぱ》ずかしいっつーか。そもそもあれは思ってたことを言っただけで別に感謝《かんしゃ》されるような大層《たいそう》なもんじゃない気もするんだが……
微妙《びみょう》に面映《おもは》ゆい気分になる俺に、
「おかげで裕人《ゆうと》様への想いを再確認《さいかくにん》することができました〜。これを励《はげ》みにこれからも全身全霊《ぜんしんぜんれい》で裕人様にお仕えさせていただきますね〜。私たちも裕人様のことをとても大事に思って――いえ、むしろ大好きだと思っていますから〜♪」
「……らぶらぶです(ぽっ)」
そんなことを言いながら那波さんと葉月さんはさらに身体を寄せてくる。
「――(こくっこくっ!)」
ゲロリアンXを抱きしめたアリスもそれに同意するように正面からきゅっと抱きついてきた。
メイドさん三人に左右前方から挟《はさ》まれたメイドフルな光景。
と、
パチパチパチパチ……
それを見ていた周りのメイドさんor執事《しつじ》のだれかが手を小さく打ち鳴らした。
パチパチ……
パチパチパチパチパチパチパチパチ……
パチパチパチパチパチ……
最初はまばらだったそれらは互《たが》いに連動するかのように一つまた一つと増《ふ》えていき――
パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ――!!
最後には拍手《はくしゅ》の大合唱となった。
同時に「いいぞー!」「それこそメイドと主のあるべき姿《すがた》です!」「執事&メイド万歳《ばんざい》!」「葉月さ〜ん、好きです〜!」などの歓声《かんせい》もホールいっぱいに響《ひび》き渡《わた》る。
「あ、あー……」
予想外の大反応《だいはんのう》に呆然《ぼうぜん》とするしかない俺に、
「うふふ〜、裕人様、大人気ですね〜♪」
「……よいことです」
「――(こくこく)」
そう言いながら三人とも楽しげに笑う。
割れんばかりの拍手とメイドさん×三の温もりに包まれて、
俺はもうどうしていいか分からずにその場で立《た》ち尽《つ》くすだけなのだった。
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目の前にそびえていたのは城壁《じょうへき》のような巨大《きょだい》な門だった。
まるで来る者全てを威圧《いあつ》するかのようにドン! と屹立《きつりつ》する西洋風の門。
それは乃木坂《のぎざか》家《け》の凱旋門《がいせんもん》ライクなレベルではないにしろ、門というものの一般的な見地《けんち》からすれば十分にXLと言っていいほどのどでかいたたずまいである。奥行きにしておよそ一メートル、高さにして軽く三メートルはあるだろう。おまけに門を取《と》り巻《ま》く壁《かべ》の上端《じょうたん》には鉄条綱《てつじょうもう》のようなものがびっしりと張《は》られていて、『高電圧注意! マリア様のもとへ召《め》されます!』と書かれたイラスト付き看板《かんばん》が立てられている。
「……」
いやここは何なんだ? どこかのヴェルサイユ宮殿《きゅうでん》か?
思わずそう錯覚《さっかく》しちまいそうなほどの厳重《げんじゅう》装備《そうび》である。
だがしかし、門脇《もんわき》の表札にはその内心の突《つ》っ込《こ》みを真《ま》っ向《こう》から否定《ひてい》するかのような名称《めいしょう》が掲《かか》げられていた。
『学校法人私立|双葉《ふたば》女学院中等学校』
これこそが、この似非《えせ》ヴェルサイユの名前である。
約八十年の伝統《でんとう》があるという由緒《ゆいしょ》正しいミッション系の超お嬢様学校。
この辺《あた》りでは聖樹館《せいじゅかん》女学院と並《なら》んで名門として名高く、石を投げれば財閥《ざいばつ》令嬢やら旧華族《きゅうかぞく》令嬢、資産家《しさんか》令嬢に当たると言われている。まさに世俗《せぞく》からかけ離《はな》れた別世界で、本来|一庶民《いちしょみん》を地で行く俺なんかとはおよそ一生|縁《えん》のない秘密《ひみつ》の花園スポットのはずであった。
あったんだが――
「……。うーむ……」
半分ほど開かれた通学カバンの片隅《かたすみ》を見てそう息を吐《つ》く。
そこに入っているのは『銘菓《めいか》銀果堂《ぎんかどう》』と書かれた紙袋《かみぶくろ》。
それはつい先ほどここに来る途中《とちゅう》一二八〇円(税込み)で購入《こうにゅう》したものであり、そして俺は今からこの紙袋を持って校内にいるはずのツインテール娘のもとまで[#「校内にいるはずのツインテール娘のもとまで」に傍点]向かわんとならんのである。
いやまあ何だってそんなことをしなけりゃあならんのかってのは、実のところ俺自身よく分かっていない。
なんつーか流れというか成り行きで気付けばこうなってたというか、そんな感じなのだ。
「……」
いちおう事の起こりとなるような事象《じしょう》はある。
事の起こりというか、俺がここに来させられることになった原因《げんいん》。
それは少しばかり時間を遡《さかのぼ》るのであり――
「ねぇねえおに〜さん、今日これからヒマ?」
「は?」
今からちょうど一時間前。
土曜日で半ドンであるところの四時間目の授業&ホームルームが終わりモソモソと帰り支度《じたく》を済《す》ませ教室を出ようとしていた俺に、突然《とつぜん》ツインテール娘からかかってきた電話(ちなみに着信音はまた入力した覚えのない『おに〜さん、ぷりてい〜美夏《みか》ちゃんからのらぶらぶこ〜るだよ♪ おに〜さん、ぷりてい〜美夏ちゃんからのらぶらぶこ〜るだよ♪』とかいう着ボイス。周りからの救《すく》いようのない変態《へんたい》を見るような視線《しせん》が痛《いた》かった……)がそれだった。
「てゆうかヒマだよね?ヒマでヒマでエリマキをなくしたエリマキトカゲさんみたいに地面をのた打ち回りそうなほどだよね? うんうん、みなまで言わなくても分かってるよ。ただでさえアンニュイな土曜の午後だしお姉ちゃんも今日はなんか用事があるとかで放課後はいないはずだし、おに〜さんは一人ロンリーにヒマを持《も》て余《あま》してるに違《ちが》いないんだよ」
「……」
いやいきなりご挨拶《あいさつ》だな。人をそんなヒマとエリマキトカゲの化身(いや確《たし》かに先日やったばかりだが……)みたいに………
携帯《けいたい》を持ったまま思わず憮然《ぶぜん》とした顔になる俺に、
「で、そ〜んなヒマヒマおに〜さんに朗報《ろうほう》があります。今からちょ〜っとわたしが言うところまで来てくれないかな〜」
「? どこにだ?」
いきなりそんなことを言い出した。
「へへ〜、それは来てみてのお楽しみ。地図ってゆうか行き方はメールで送るからさ〜。おに〜さん今学校だよね? そこからならそんなに時間はかかんないと思うし、二時くらいまでに来てくれれば問題ないから。あとでちゃんとお礼もするし、い〜よね? けって〜い♪」
「いやまだ行くとはー」
「じゃ待ってるから〜。すっごくいいもの見せてあげるから楽しみにしててい〜よ♪ あ、そだ、ついでに途中《とちゅう》にある銀果堂《ぎんかどう》でマロングラッセを買ってきてくれるかな?今日は月に一度のスーパークリクリフェスティバルでセールになってるはずだからさ〜」
「あ、おい」
「し〜ゆ〜れいた〜♪」
プツッ、ツー、ツー、ツー……
言いたいことだけ言って電話は一方的に切れた。
ったく、相変わらずマイペース極《きわ》まりないな……
「……」
まあさっきも言った通りこの後は何も予定はない。特に部活やバイトをしているわけではないし、春香《はるか》も授業が終わるなり何やら用事があると言って帰ってしまった。どこぞのアホ姉とセクハラ音楽教師も今日は二人で冬の珍味《ちんみ》クエ鍋《なべ》を食べに行くとか言ってたからエサの用意は不要だろう。ゆえに美夏《みか》の頼《たの》みを聞くこと自体に支障《ししょう》はないわけなんだが……
「……」
なんかロクな予感がしないんだよな……
とはいえここで何事もなかったかのようにスルーすると後々どんなクレームを付けられるか分からんだろう。ヘタすればいつかのようにメイドさん(×二)を伴《ともな》って軍用ヘリで乗り込んでくる可能性《かのうせい》もある。
まあ……仕方ない、か。
ため息を吐《つ》きながら隕鉄《いんてつ》のように重い腰《こし》を上げる。
というわけで学園を出て――
――そして今、俺は件のクリクリフェスティバルとやらの成果《せいか》の製菓《せいか》を小脇《こわき》にこの秘密《ひみつ》の花園の前にいるわけである。
電話後すぐに送られてきたメールに添付《てんぷ》されていた美夏ちゃんマップとやら。
その目的地とされていたのがこの似非《えせ》ヴェルサイユこと私立|双葉《ふたば》女学院の二年|紫陽花《あじさい》組――美夏の教室だったのだ。
いや何だって学校前とかじゃなくわざわざ教室にまで行かなきゃならんのだとかよく考えてみれば今の俺の状態はまさにパシリそのものなんじゃないのかだとか、突《つ》っ込《こ》みたいことはそれこそ冬の定置網《ていちあみ》に引っかかるエチゼンクラグの数ほどあるんだが、それも全てツインテール娘に会わなけりゃあ始まらない。
「……行くか」
覚悟《かくご》を決めて似非ヴェルサイユに向かって足を踏《ふ》み出《だ》す。
だがここで一つばかり問題があった。
問題というかそこはかとない障書《しょうがい》。
それはこの双葉《ふたば》女学院の対《たい》訪問者《ほうもんしゃ》用《よう》の迎撃《げいげき》(?)環境《かんきょう》だった。
伝統《でんとう》あるがゆえにある意味で排他的《はいたてき》なお嬢様学校であるという特殊《とくしゅ》環境。具体的には外部からの訪問者に対しては常《つね》に最大限《さいだいげん》の警戒《けいかい》と疑いとをもって対応《たいおう》するというスタンスである。
どういうことかと言うと――
「そこのキミ、ちょっと待ちなさい!」
「!」
門をくぐり抜けようと足を敷地《しきち》に三センチ踏《ふ》み入《い》れた途端《とたん》にかけられた声。
見れば警棒《けいぼう》片手《かたて》の屈強《くっきよう》なスパルタ戦士みたいな警備員《けいびいん》(×二)が不審者《ふしんしゃ》を見るような目でジロジロとこっちを見ていた。
「何を何食わぬ顔で通り過ぎようとしているんだ。ここは女子校だぞ。お前、男だろう」
「あ、あー、いや……」
「怪《あや》しいヤツだな。ひとまずこっちまで来てもらおうか」
「え? や、そうじゃなくて俺は知り合いに呼《よ》ばれて――」
「分かった分かった。不審者は皆《みな》そう言うんだ。話は事務所でゆっくり聞いてやる。いいから来い」
「だ、だから――」
そんな具合に半ば逮捕《たいほ》されるように近くにあった詰《つ》め所《しょ》まで連行され、
そのまま個窒で白色|電灯《でんとう》を顔に当てられて尋問《じんもん》されたり金属《きんぞく》探知機《たんちき》で全身をくまなく身体|検査《けんさ》されたりするハメになった。緒局は乃木坂《のぎざか》家《け》の関係者であることを説明して何とか解放《かいほう》してもらったものの、それまで三十分近くも拘束《こうそく》された。長かった……
とはいえそれはまだよかった。
いやまあ単体で見ればこれはこれでこれっぽっちもよくはないんだが、全体で見ればまだ許容範囲《きょようはんい》であったと言えよう。
本当の意味で試練《しれん》だったのは……むしろ敷地内に入ってからのことだった。
なぜなら女学院ということは当然生徒は女子しかいないわけであり、男である俺はどこからどう見ても明らかな異分子《いぶんし》であり、
門を抜け辺《あた》りに真っ赤なバラが咲《さ》き誇《ほこ》る中庭(さすが名門お嬢様校……)に入るなりマロングラッセ片手《かたて》の俺を出迎えてくれたのは――
「……」
ひそひそ、ひそひそ。
そういった近世ヨーロッパでよく毒殺《どくさつ》に使われた化学物質みたいな反応《はんのう》だった。
(ね、ねえねえ、あの人、何ですの?}
(どうして殿方《とのがた》がここに……)
(あれって白城《はくじょう》学園の制服だよね? せ、先生|呼《よ》んできた方がいいのかなあ? あ、さ、さすまたってどこにあったっけ?)
周りから遠巻《とおま》きにささやかれるそんな声。
不信感|満載《まんさい》で、ほとんど動物園の珍獣《ちんじゅう》(キンカジューとか)を相手にするような扱《あつか》いである。
「……」
――うう、肩《かた》身《み》が狭《せま》い……
小学生の時にジャンケンで負けて自分以外が全員女子の保健委員に半ばムリヤリ選ばれた時のようなこの上なくいたたまれない感じである。それらを全身で味わいながらも、何とか昇降《しょうこう》口を抜け校舎内へと進んでいく。
だが中庭から校舎の中へ入っていけばそれだけ人口|密度《みつど》は高くなるわけであり、それに比例してこちらに向けられる対珍獣|視線《しせん》も増えていくわけであり――
(や、やだ、なんかこっち見てない?)
(だ、だめっ。殿方《とのがた》と十秒以上目を合わせたら結膜炎《けつまくえん》になると大奥《おおおく》先生が……)
(こ、怖《こわ》い……)
「……」
(お、お姉さま……)
(だ、大丈夫《だいじょうぶ》よ、泣いちゃだめ。こ、怖くないから)
(え、えぐっ……えぐっ……)
「…………」
――いや俺が何したっていうんだよ……
辺りには怯《おび》えたり物陰《ものかげ》に隠《かく》れたりあからさまに逃《に》げ出《だ》したり、しまいには俺と目が合っただけで泣き出す女子までいる有様《ありさま》。
もはや限界《げんかい》だった。
その場にいるだけで半ば以上|酸素《さんそ》欠乏《けつぼう》状態《じょうたい》。
こうなったらせめてとっとと届《とど》け物《もの》を済《す》ませてこの海水魚にとっての淡水《たんすい》みたいな空間から脱出《だっしゅつ》を図ろうとは思うものの、
「……。美夏《みか》の教室はどこにあるんだ……」
そこからして足止めをくらうのである。
そのヴェルサイユ風味《ふうみ》な門に引けを取らずに、双葉《ふたば》女学院は校舎もまたどこぞの古城《こじょう》のごとく広かった。
バロック様式(?)のような六階建ての校舎、入り組んだ階段《かいだん》、無数に並《なら》んだ教室や待別教室の数々。
廊下《ろうか》に至《いた》ってはそのまま百メートル走のトラックとして使えそうなほどである。
おかげでどこへ行けばいいのかさっぱり分からん。てかすでにどういう経路《けいろ》を通ってここまで来たのかも不明だったりもする。
「……」
どうすりゃあいいんだよ……
周りからは相変わらず犯罪者《はんざいしゃ》に対するようなひそひそ声。
助けを求めようにもだれ一人として目すら合わせてくれない状況《じょうきょう》である。
あまりに八方ふさがりな状況にヒザに両手をついてうつむきながら途方《とほう》に暮《く》れていたその時だった。
ふと目の前に影《かげ》が落ちた。
「――あの、もしかしてだれかお探《さが》しですか?」
「え……」
続いてかけられたのはそんな声。
相変わらず心ないささやきが辺《あた》りを貫通《かんつう》する中でもよく通る澄《す》んだ声である。
軽い戸惑《とまど》いとともに顔を上げてみると……
「違《ちが》っていたのならすみません。ですがお困《こま》りになられていたように見えたので……。生徒のご家族の方でしょうか?」
そこにいたのは一人のすらりとした女子だった。
さらさらなロングの髪《かみ》、整った顔立ち、女子にしては背《せ》が高めでおそらく百七十くらいはあるだろう。意思《いし》の強そうな瞳《ひとみ》で真《ま》っ直《す》ぐにこっちを見ながらしっかりとした物言いでそう尋《たず》ねてくる。
「あ、いや……」
一瞬《いっしゅん》その凛《りん》とした空気に気圧《けお》される。いやこの女子、中学生なんだよな? 落ち着いた物腰《ものごし》といい大人びた雰囲気《ふんいき》といいとてもそうは見えんというか……
「? どうなされました?」
「ん、あ、ああ、スマン。何でもない」
「?」
まさか年下の中学生に見とれてたとも言えん。
「や、ホントに気にせんでくれ。ちょっとボーっとしてただけでな……。あー、それより俺は生徒の家族ってわけじゃないんだが……」
「ご家族ではないんですか? でしたら……」
女子の顔に僅《わず》かに警戒《けいかい》の色が浮《う》かぶ。
「あー、いや、だからって別に怪《あや》しいもんじゃない。家族じゃないんだが、その、ここの生徒に来るように言われてな……」
「うちの生徒に、ですか?」
「ああ。知ってるかどうかは分からんが、二年の乃木坂《のぎざか》っていうツインテール娘なんだが……」
「え、乃木坂?」
その言葉を聞いた女子がぴくりと反応《はんのう》した。「乃木坂《のぎざか》って……乃木坂|美夏《みか》ですよね?」
「知ってるのか? あの、何だ、ちんまい感じの……」
「あ、はい。知っているも何も美夏とはクラスメイトで……。あの、あなたは美夏と一体どういったご関係なんですか?」
首をかたむけながら訊《き》いてくる。
「ん、ああ、美夏の姉が俺のクラスメイトなんだよ。白城《はくじょう》学園の同じクラスでな」
「え、じゃあもしかしてあのおに〜さん=\―」
はっとしたかのように女子が口元に手を当てた。
「ん?」
「い、いえ、何でもないです。あ、ということはあなたが美夏の言っていた特別ゲスト≠フ方なんですね? まさか高校生の方がいらっしゃるとは思いませんでしたので、最初は分かりませんでしたけど……」
気を取り直したようにもう一度こっちに顔を向けて、
「ええと、美夏のところに行くんですよね? よろしければご案内いたします」
「おお、いいのか?」
「はい、私もちょうど教室に戻《もど》るところでしたから」
軽く髪《かみ》を後ろに流しながらにこりと笑う。
「それじゃスマンが頼《たの》む。さっきからさっぱり道が分からなくてな……」
「分かりました、行きましょう。こちらです」
女子の先導《せんどう》に従って歩き出す。
こうして何とか珍獣《ちんじゅう》&迷子状態《まいごじょうたい》から抜《ぬ》け出《だ》すことができたのだった。
声をかけてくれた女子は|塔ヶ崎《とうがさき》エリと名乗った。
美夏とは一年の時から同じクラスで、普段《ふだん》からいっしょに登下校をしたりお弁当を食べたり、休日には遊びに行ったりする仲であるらしい。
「入学して最初のホームルームで席が隣《となり》だったんです。あの子が『の』で私が『と』だから、ちょうど列が一巡《いちじゅん》する感じで……」
「へぇ……」
「美夏ったら、面白《おもしろ》いんですよ。最初にかけてきた声が『わ〜、背《せ》、高いんだね〜。高いとこにあるものを取りやすそうでい〜な〜』で……」
「……」
それはまあいかにもあのツインテール娘らしいな。その時の情景《じょうけい》が目に浮かぶというか。
そんなことを話しながら天井《てんじょう》をステンドグラスに覆《おお》われた廊下《ろうか》を歩いていく。
美夏《みか》のクラスである二年|紫陽花《あじさい》組の教室は、階段《かいだん》を上った二階の一番|奥《おく》まった場所にあった。
「ここです。たぶん美夏はまだ中にいると……」
エリが中に入って教室を見回す。
はたして俺をここまで召喚《しょうかん》した張本人《ちょうほんにん》であるツインテール娘は、窓際《まどぎわ》の机の上に座《すわ》って足をぶらぶらとさせながら楽しそうに数人の女子とお喋《しゃべ》りをしていた。
「……美夏、来たぞ」
「ん〜?」
近づいて声をかけると美夏はオンザ机のまま首だけでこっちを振《ふ》り返《かえ》って、
「あ、おに〜さん、やっと来た〜! 遅《おそ》いよ〜、二時までには来ると思ってたのにもう二時十五分過ぎじゃ〜ん――って、あれ、エリちゃんもいっしょだったの?」
「ええ。職員室からの帰りに廊下《ろうか》でたまたま会ったんです」
「へ〜、そなんだ。奇遇《きぐう》だね〜」
手に持った紙パックをちゅ〜っと吸いつつお気楽|笑顔《えがお》でぴょんと机から飛《と》び降《お》りる。ちなみに飲んでいるのは『モーモーミルクスーパー。カルシウム含有率《がんゆうりつ》一・五倍(当社比)。大きくなる! 色々なところが!』だった。いやこれって冬華《とうか》がやたらとお気に入りだったやつだよな。ちんまい者同士、何か相通ずるところがあるのか……
「あ、おに〜さん、ちゃんとマロングラッセも買ってきてくれたんだ〜。うんうんこれこれ。さすがはおに〜さん、そうゆうマメなとこ、好きだな〜♪」
マロングラッセの紙袋《かみぶくろ》を受け取りながら嬉《うれ》しそうにぴょこぴょこと飛《と》び跳《は》ねる。
まあそれはいいんだが。
「で、何の用事なんだ? いきなりこんなところまで呼《よ》びつけて……」
まさかとは思うがマロングラッセをデリバリーさせるためだけに電車と歩きで四十五分ほどの距離《きょり》をやって来させたわけではあるまい。
すると美夏は飛び跳ねるのをやめて、
「ん〜、まあちょっとね〜。さっきも言ったけど用事ってゆうかちょっとおに〜さんに見てもらいたいことがあるってゆうか〜」
「? なんかハッキリせんな」
「ま、あせんないあせんない。それより最近あんまり会えなかったでしょ。おに〜さんもそろそろぷりてぃ〜美夏ちゃん分が切れて禁断症状《きんだんしょうじょう》に陥《おちい》るところなんじゃない? 手足のふるえとか幻覚《げんかく》とか。ほらほら、たっぷり美夏ちゃん分を補充《ほじゅう》してくれてい〜よ。えへ♪」
「……」
いや「えへ♪」じゃねぇだろ……
しかもそのほとんどアルコール中毒《ちゅうどく》みたいな症状は何だ。
限《かぎ》りなくアレなツインテール娘のリアクションに半ば呆《あき》れていると、
「――あ、あの、乃木坂《のぎざか》さん、その方は……」
「ん?」
と、さっきまで美夏《みか》とお喋《しゃべ》りをしていた女子たち数人が、何やら神妙《しんみょう》な様子《ようす》でこっちを窺《うかが》っているのが見えた。
「そ、そちらの方は男性ですよね? ど、どうして男性の方がここに……」
「あ、あの、その、み、美夏さんのお知り合いなのですか……?」
「こ、こんな間近《まぢか》で殿方《とのがた》をお見かけしたのは初めてです……」
ひとところに身を寄せ合うようにしておずおずとグループでそう尋《たず》ねてくる。
「あ、そっかそっか。まだみんなに紹介《しょうかい》してなかったね。えっとね、この人はわたしの知り合いで〜……ほらおに〜さん、自己紹介自己紹介」
「……え? ああ、俺は綾瀬《あやせ》裕人《ゆうと》。白城《はくじょう》学園の二年で、美夏の友達だ。よろしくな」
美夏に脇腹《わきばら》を突《つ》っつかれてそう挨拶《あいさつ》をすると、
「あ、は、はい、え、えと、ええと……」
「あ、あの、わ、私は、その……あ、貴女《あなた》から行ってくださいな」
「で、でも、男の人となんてどうやってお話をしたらいいのか……」
返ってきたのはそんな戸惑《とまど》ったような照れたような反応《はんのう》。
お互いに顔を見合わせながら、初めて毛皮を刈られる仔ヒツジたちのようにもじもじと遠慮《えんりょ》がちに自己紹介を譲《ゆず》り合《あ》っている。うーむ、さすがはお嬢様学校だね。初々《ういうい》しいというか春の若草のように瑞々《みずみず》しいというか実に新鮮《しんせん》な反応だ……
さっきまでの対珍獣《たいちんじゅう》反応とは違《ちが》う初めての秘密《ひみつ》の花園的空気に軽い感動を覚えていると、
「あー、もーだめだって、みんなこういう時は積極的に行かないとー」
「うんうん〜、行け行けご〜ご〜なのぉ」
そんな二つの声が響いた。
もじもじグルーピーの中では少し毛色の違う感じの声。
見れば他の女子たちと比べてどこか人懐《ひとなつ》こそうな女子が二人、ちょこんと前に出ていた。
二人はこっちに向かってにっこりと笑いかけると、
「あたしは美夏の友達で初瀬《はつせ》光《ひかり》っていいまーす。よろしくお願いしますね、綾瀬せんぱい。普通《ふつう》に光って呼んでくれればいいですからー☆」
「えっと〜、美羽《みう》は|藤ノ宮《ふじのみや》美羽っていいますぅ。美羽っちとかみゅ〜とか呼んでください〜」
そう言ってぺこりと頭を下げてきた。
「ん、ああ、よろしくな」
どうやら元気な方が初瀬光、のんびりとした方が藤ノ宮美羽というらしい。
どちらもキャラのタイプは違うとはいえノリはツインテール娘に近い感じである。いい意味であまりお嬢様らしくないというか、フレンドリーさが前面に押《お》し出《だ》されてるというか。
「ねえねえ綾瀬《あやせ》せんぱい、ところで綾瀬せんぱいがあのおに〜さん≠ネんですか?」
「え?」
二人組の元気な方――光《ひかり》がいきなりそんなことを訊《き》いてきた。
「そうですよねそうですよ? だってさっきからずっと美夏《みか》がおに〜さんおに〜さんって呼《よ》んでますもん! うわー、本物のおに〜さん≠ネんだー☆ すごいすごい!」
「うん〜、美羽《みう》も聞いてたよぉ。あのおに〜さん≠ネんだな〜って」
二人してきゃっきゃっ♪と黄色い声を上げる。
それに呼応《こおう》して周りの女子たちからも「き、聞きました? あの方がおに〜さん≠セそうですよ……」「あの、お話にあった……」「ほ、本物なのですね……」などのささやきが聞こえてきた。
むう、何の話だ? いやまあおに〜さんってのはおそらく間違《まちが》ってないんだろうがあの≠チてのは一体……
自らの呼称《こしょう》に付けられた妙《みょう》な枕詞《まくらことば》に首を捻《ひね》っていると、
「ちょ、ちょっと二人とも! ヘンなこと言わないでよ〜」
美夏が慌《あわ》てたような顔で間に入ってきた。
「えー、別にヘンなことじゃないと思うけどー。だって美夏、いっつもあんなに楽しそうに話してるじゃん。おに〜さんが頭なでてくれて嬉《うれ》しかったとかー」
「わ、わ〜わ〜わ〜!!」
なんか美夏が壊《こわ》れかけのラジオみたいになった。
「?」
「な、なななな何言ってんのかな〜! も、もう、光は適当《てきとう》なこと〜」
「うんうん〜、美羽もぉ、それは聞いたよ〜。おに〜さんのひざの上はあったかくて気持ちよかったとかぁ」
「み、美羽っちまで!」
さらにツインテールをぴょこんと動かして反応《はんのう》する。
「?」
「あ〜、な、何でもないの! い、いいからおに〜さんは気にしない!」
両手をぱたぱたと振《ふ》り回《まわ》したままわたわたと焦《あせ》りまくる美夏。
いまいちよく分からんが……まあこれについては深く突《つ》っ込《こ》まん方がいいらしい。
だがそれを見ていた二人は、
「ははーん、なるほど、そういうわけかー」
「そういうわけですな〜」
「う、な、な〜に」
にやにやと顔を見合って、
「べっつにー。あ、そうだ。どうせだからあたしたちも美夏《みか》にならっておにーさんって呼《よ》ばせてもらおー。ね、美羽《みう》」
「うん〜、おに〜さんなのぉ〜」
二人|揃《そろ》ってそううなずいた。
周りでもじもじしていた他の女子たちも「え、ええと、お、おに〜さんとお呼びすればいいのですね?」「わ、分かりました」「お、おに〜さん……きゃっ、お、おに〜さんだなんて……」
などとうなずいていた。
なんか知らんがそう決まったらしい。
「あ、あ〜、も〜、光《ひかり》と美羽っちは……。え、ええと、エリちゃんはもう自已|紹介《しょうかい》済《ず》みなんだっけ?」
「ええ、大丈夫《だいじょうぶ》です。先ほど無事に済ませました」
美夏の言葉にエリはにっこりと笑って、
「それより綾瀬《あやせ》さんが来てくださったんだし、そろそろ移動《いどう》しませんか? 教室だと落ち着いてお話もできないですし……」
「あ、さんせーさんせー。こうして男子がいるところを大奥《おおおく》センセとかに見られたらうるさいもんねー」
「緊急《きんきゅう》ひな〜ん」
光と美羽もそう同意した。
「あ、うん、そだね。行こっか」
「? どこかへ行くのか?」
この教室が最終目的地点じゃないんだろうか。
すると美夏はぱちりと片目《かため》をつむって、
「へへ〜、わたしたちの秘密の場所、だよ♪」
そう言って意味ありげに笑ったのだった。
そういうわけで他のもじもじ女子たちとは教室で別れ、五人(美夏、エリ、光、美羽、俺)でどこかへ向かうことになったのだったが。
その目的地に向かう途中《とちゅう》で、いくつかレアハプニングな場面に遭遇《そうぐう》したりもした。
「あ、こんにちは、美夏センパイ」
「センパイも今から部活ですか?」
「今日も美夏センパイのツインテール、きまってます!」
廊下《ろうか》で通り過ぎる度《たび》に声をかけてくる後輩らしき女子たち。
美夏《みか》の姿《すがた》を見る度にセンパイセンパイ言いながら慕《した》わしげに笑顔《えがお》を向けてくる。
いや別にそれ自体は普通《ふつう》のことなんだよ。
いちおうこれ(身長一四七センチ)でも二年生である美夏が後輩にセンパイと呼《よ》ばれるのは何ひとつおかしなことじゃない。ただいつもは俺たち(春香《はるか》、葉月《はづき》さん、那波《ななみ》さんとか)の中で一番年下だったツインテール娘が先輩とか呼ばれてる姿を見ると……なんか違和感《いわかん》があるというか調子が狂うんだよな。普段は大人しく縁側で昼寝をしているだけだった三毛猫が実は近所でも有名なボスネコだったことが判明《はんめい》した時の気分というか……(かなり違《ちが》うか)
まあそれもそれで驚《おどろ》きだったわけだが、
さらに衝撃的《しょうげきてき》だったのは。
「カイチョー! 美夏カイチョー!」
「カイチョー……?」
四階の廊下《ろうか》を歩いていた時にいきなりかけられた言葉。
カイチョーって……怪鳥《かいちょう》? または開帳《かいちょう》とか回腸《かいちょう》とか……
頭に浮かんだ聞き慣れない単語に首を捻《ひね》る俺の前で、
「ん、な〜に、どしたの? なんかあった?」
「は、はい。来年度の運動部系予算なんですけど、どうしても計算が合わないところが出てきてしまって……」
「ほんと? ふんふん、どれどれ……」
この上なく真面目《まじめ》な顔でプリントに目を落とす。いやまさかカイチョウって……
「あ、美夏は生徒会長なんですよー」
俺の疑念を肯定《こうてい》するかのように光《ひかり》がそう言った。
「それもウチの学院初の一年生から連続二期の就任《しゅうにん》ですー。このままいけば三期連続も確実《かくじつ》だってもっぱらの評判《ひょうばん》ですよー」
「そうなのか?」
「はい、美夏はすっごいすっごい人気がありますから! 先輩後輩同級生問わずみんなから好かれてて、先生たちからも信頼《しんらい》されてるんですよ。まあ容姿端麗《ようしたんれい》、才色兼備《さいしょくけんび》で、しかも性格もあんな感じになじみやすいってきてますからねー。ある意味さもありなんっていう気もしますけどー。でも一部ではファンクラブみたいなのまであって『|月下の苺姫《ムーンライト・ストロベリー》』とか呼《よ》ば[#底本にはなし。脱字か?]れてるっていうのには驚きですよねー」
「……」
なんかどっかで聞いたようなフレーズのオンパレードだな。
それはともあれ……生徒会長か。
生徒会長といえば固《かた》くて真面目な印象《いんしょう》の役職。
正直|普段《ふだん》のはっちゃけまくって指向性《しこうせい》をなくしたねずみ花火みたいなツインテール娘のイメージからはほど遠いというか月とカミツキガメくらい遠めな感じではあるが……だがプリント片手《かたて》に真剣《しんけん》な様子《ようす》で質問に答えている美夏《みか》の姿《すがた》を見ていると、それはそれでアリなんじゃないかって気にもなってくる。これが慣《な》れってやつか……
やがて相談事《そうだんごと》も終わったようで、
「ん、これでだいじょぶだと思う。またなんかあったらいつでもわたしのところに来てくれてい〜からね」
「は、はい。ありがとうございました!」
何度も何度も頭を下げて、女子は嬉《うれ》しそうに去って行った。
それを温《あたた》かい目で見送る美夏。
その様子はいつも見ている賑《にぎ》やかでどたばたな姿よりも少しばかり大人っぽいような気がして……ふむ、ちんまいだけのかしましツインテール娘かと思っていたがこれは少し認識《にんしき》を改める必要があるかもしれんな……
……などと考えていたら美夏がこっちをじ〜っと見て、
「……おに〜さん、な〜んか失礼なこと考えてない?」
「! い、いや」
「ん〜、ほんとに? 目が何となくそんな感じだったんだけど……」
疑わしげに両手を腰《こし》に当てる美夏。
いい勘《かん》してやがる……
とまあそんな感じにツインテール娘の意外な一面を発見しつつも校舎の中を進んでいき、
そして教室から五分ほど歩いたところで、
「じゃじゃ〜ん、着いたよ、おに〜さん」
「ここは……」
「何てゆうか、今日の最終目的地。わたしたちの秘密《ひみつ》の集合場所だよ♪」
美夏の小さな指によって指し示された先にあったクリーム色のプレート。
そこには可愛《かわい》らしい丸文字で、『現代|舞台《ぶたい》芸術文化研究部V[#白抜きのハートマーク]』と書かれていた。
「『現代舞台芸術文化研究部』ってゆうのはね、現代の舞台芸術を文化として研究するところなの」
制服のポケットから取り出した鍵で部室のドアを開けつつ美夏が言った。
「具体的には劇場でやってる舞台とか演劇《えんげき》とかを観《み》にいったり、図書館で資料を調べたりするのが主な活動内容かな〜。あ、もちろん自分たちでも演技《えんぎ》をするよ。あとは時々映画のDVDを借りてきたりだとか〜」
「私たちはみんな部員なんです。といっても私たちの他には今日は欠席している一人を合わせて全部で五人しかいないんですけど……」
「部長はエリなんだよー。で、副部長が美夏《みか》であたしたちは平部員」
「ええとねぇ、とっても楽しいのぉ。いっつもみんなでいっしょにお茶を飲んだり〜、お菓子《かし》を食べたりしてね〜」
エリ、光《ひかり》、美羽《みう》がそれぞれ補足《ほそく》説明をしてくれる。
いやなんか色々と難《むずか》しく言ってるがそれって要するに……
「演劇部《えんげきぶ》……だろ?」
しかも割とゆるい感じの。
というかそれ以外の何物でもない。
部室の中を見回してみてもそれを裏付《うらづ》ける要素《ようそ》が山《やまも》盛りだった。
普通《ふつう》の教室よりは少し広い特別教室一つ分ほどの部屋《へや》。
そのあちこちに演劇で使われるような様々な衣装《いしょう》やカチンコなどの小道具、背景《はいけい》が描《えが》かれたベニヤ板などが置かれている。さらに奥《おく》に目をやってみると昔どこかで見たバッハの外巻《そとま》きウィッグが、信楽焼《しがらきや》きの巨大《きょだい》タヌキの頭の上に無造作《むぞうさ》に乗せられているのが見えた(……ああ、あれはここから持ってきてたのか)。
だが美夏はツインテールをふるふると振《ふ》って、
「違《ちが》う違う、全然違うよ! 演劇部は演劇部、現代|舞台《ぶたい》芸術文化研究部は現代舞台芸術研究部なんだから〜」
「いやだけどな……」
「だけどもマケドニアもないの。おに〜さんもまだまだ分かってないな〜。いいかげんな認識《にんしき》で混同《こんどう》したら演劇部にもうちの部にも失礼なんだよ?」
「……」
とりあえず妙なところに妙なこだわりがあるらしい。まあ俺としては極《きわ》めてどっちでもいいんだがさ。
「とにかく、うちの部は演劇部じゃなくて現代舞台芸術文化研究部。そこんとこ忘《わす》れないよ〜に。おっけ?」
人さし指をぴっと立てながらそう強調してくる。
「ん、ああ」
「うん、分かればよろしい。んじゃとりあえずお茶でも飲む? せっかくおに〜さんがマロングラッセを買ってきてくれたことだし、少しブレイクしよ〜よ。梅コブ茶とかプーアル茶とかがあるよ?」
「いやそれもいいんだがいいかげん何をしにここに来たのかを――」
「だからそれはお茶飲んだら話すって。も〜、おに〜さんは気が早いんだから。色々早い男の子は女の子にもてないんだよ?」
肩《かた》をすくめて諭《さと》すように言ってくる美夏《みか》。
いや、色々早いってな……
「……。……だったら梅コブ茶を頼《たの》めるか?」
「りょ〜かい。ちょっと待っててね♪」
笑顔でウインクをすると、美夏は部室の隅にあるポットへと歩いていった。やれやれ……
と、今度は、
「ほらほら、綾瀬《あやせ》おにーさんもいつまでも立ってないで座《すわ》って座って」
「こっちこっち〜、ここに座るのぉ」
光《ひかり》と美羽《みう》が窓際《まどぎわ》にあったソファの脇《わき》から手招《てまね》きをしながらそう言ってきた。
「ん、あ、おう」
どうやらこの部室、ソファまであるらしい。
とりあえず言われるがままにソファのところまで行き腰《こし》を下ろすと、両側から挟《はさ》み込《こ》むようにして二人もぴょこんと座ってきた。む、近いな……
「ねえねぇ綾瀬おにーさん。おにーさんって共学なんですよね。共学ってどんな感じなんですかー?」
「え?」
「あたしたち、小学生の頃《ころ》からずっと双葉《ここ》だから分かんないんですよー。やっぱり毎日色々と刺激的《しげきてき》なんですか? それとも過激的《かげきてき》? きゃっ☆」
「男の子がいっしょってどういう雰囲気《ふんいき》なのかなぁ? ぽわぽわでふわふわで、白馬の王子様がインドゾウに乗ってマハラジャみたいに歩いてる感じかなぁ?」
目をきらきらとさせながら二人とも興味津々《きょうみしんしん》な顔で尋《たず》ねてくる。
「むう、そう言われてもな……」
美羽が何を言っているのかいまいち分からんのは置いておき、特に話して面白《おもしろ》いようなことはないんだが。というか逆《ぎゃく》に小学校からずっと共学の俺にはその特殊性《とくしゅせい》(?)がサッパリ分からない。
どう答えるべきか困《こま》っていると、
「あ、それわたしも聞きたいな〜。おに〜さん、普段《ふだん》学校ではどんな風にしてるの?」
梅コブ茶を運んできた美夏が、そんなことを言いながらさらに俺のヒザの上にぱふんとダイレクトダイブしてきた。
「あー、美夏だけずるいずるい!」
「ずるっこ〜」
「へへ〜、い〜の。ここはわたしの特等席だって決まってるんだもーん♪」
ツインテールをふりふりしながらちょっとだけ得意げな顔になる美夏。
「あー、そういうこと言うんだったらあたしも乗ってやるからー。えいっ☆」
「美羽《みう》も美羽も〜」
「あ、お、おい」
二人とも競《きそ》うようにしてヒザの上に割り込んでこようとする。
本来なら一つのヒザ(俺のな)の上に人三人なんてのはまずムリなはずなんだが、ツインテール娘(身長一四七センチ)を筆頭《ひっとう》にして基本的には比較的《ひかくてき》ちっちゃめな女子中学生軍団である。乗車率一八○パーセントな雰囲気《ふんいき》ながらもギリギリ収《おさ》まってしまった。
「な、なんか狭《せま》いよ〜。三人はさすがに多すぎってゆうか〜」
「えー、あたしはこれくらいの方がお互《たが》いの体温が感じられてくっ付いてる感じがしていいと思うけど」
「お〜、なかなかいい座《すわ》り心地《ごこち》ですな〜」
それぞれ勝手なことを言う三人。
その全身からそこはかとなく甘いお菓子《かし》のような香《かお》りが漂《ただよ》ってくる。
しかもソファの上でじたばたと動いているということもあり、短めのスカートが僅《わず》かに乱れてその裾《すそ》が微妙《びみょう》にめくれかけてたりかけてなかったり……うう、いかに相手がまだまだ二年前までランドセルを背負《せお》ってた中学二年生(×三)とはいえ目のやり場に困《こま》るというか何というか……
傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な十四歳インパクトに困惑《こんわく》していると、
「あれ、綾瀬《あやせ》おにーさん、なんか顔が赤くないですか?」
「! い、いや……」
「そうなんですか? ふーん、赤く見えるけど光の加減《かげん》かなー。あ、それで共学の話ですよー。共学はどうなんですかー? 楽しいですかー?」
「あー、だからそれはだな……」
「そういえばおにーさんにはカノジョとかっているんですかー?」
「へ?」
矢継《やつ》ぎ早《ばや》に今度はいきなりそんな質間を投げかけてきた。
「だからー、カノジョですよカノジョー。違《ちが》う風に言うとスイートハニーですか? 共学に通ってる人って、その八割はカップルだって聞きましたけどー」
「そ、それは確実《かくじつ》に都市伝説だ……」
少なくとも俺の周りにいるやつら(信長《のぶなが》とか三馬鹿とか由香里《ゆかり》さんとか)にはこれっぽっちも当てはまらん。
だが俺のその言葉を違う意味で取ったのか、
「あちゃー、てことは綾瀬おにーさんは世間《せけん》でウワサの甲斐性《かいしょう》なしってやつですか? うわー」
「む……」
「え〜、そ〜なんだぁ、おに〜さんって〜、甲斐性《かいしょう》なしなんだ〜。かわいそ〜」
「うっ……」
「まあおに〜さんといえば甲斐性なし、甲斐性なしといえばおに〜さんってくらいだからね〜。がんばってはいるんだけどあと一歩が足りない忠犬《ちゅうけん》ハチ公見習いみたいな〜」
「ぐ……」
三連続で胸《むね》をえぐるアリゲーターのデスロールのような言葉。
さすがにこれにはヘコまざるを得んぞ……
「あ、おにーさん、なんか落ち込んじゃった」
「ちょっと言い過ぎたかな〜。おに〜さん打たれ弱いし、よしよし」
「だいじょうぶだよ〜。もし三十路《みそじ》になるまでだ〜れにも相手にされなかったら〜、美羽《みう》がおよめさんになってあげるから〜」
そんなことを言いながら今度は三人して頭をなでなでと撫《な》でたりさわさわと頬《ほお》に手を添《そ》えたりしてくる。
まさにイバラのムチとメロン味のアメの応酬《おうしゅう》である。
てか完全に弄《もてあそ》ばれてないか……? さ、最近の中学生は……っ……!
梅コブ茶の入った湯飲《ゆの》み(ちなみに表画に忍耐《にんたい》≠ニ書いてある)を握《にぎ》り締《し》めながらやるせなさに打《う》ち震《ふる》える俺に、
「ほらみんな……それくらいにしておかないと」
「お……」
救《すく》いの手が差《さ》し伸《の》べられた。
それまで向かいのソファに静かに座《すわ》っていたエリだった。
「綾瀬《あやせ》さん、困《こま》ってます。せっかくここまで来てくださったのですから、失礼のないようにしないと……。すみません、綾瀬さん」
美夏《みか》たちの顔を見回しながら言い聞かせるようにそう言う。
むう、この色んな意味で小悪魔《こあくま》なメンバーの中で唯一《ゆいいつ》の良心的|存在《そんざい》だな。何というか一番お嬢様然とした常識人《じょうしきじん》で、春香《はるか》から天然ぽわぽわっぷりを抜《ぬ》いてさらにしっかりさせた感じというか……
その気配りっぷりに感心していると、
「えー、これくらい別にいいと思うんだけどなー。ていうかエリも座ればー?」
「え?」
「ほら、まだちょっとだけスペースはあるからさー。どうせなら皆《みな》で制覇《せいは》しちゃおうよー」
「うんうん〜、エリちゃんもおいでませ〜」
「え、わ、私も、ですか……?」
その誘《さそ》いにエリは戸惑《とまど》っている様子《ようす》だったが、
やがてちらちらとこっちを見て、
「す、すみません。で、では少しだけ、失礼、します……」
ものすごく遠慮《えんりょ》がちに空《あ》いているヒザスペース(俺のな)にちょこんと座り込んだ。
一つのヒザに四人座りという通常《つうじょう》ではあり得ないオーバーライドの完成だった。てか結局全員座るんだな……
で、しばしその状態《じょうたい》(四人座り)を続けて、
「ん〜、それじゃおに〜さんのヒザも堪能《たんのう》したことだし、そろそろ本題に入ろっか」
美夏がヒザの上からぴょこんと飛《と》び降《お》りながらそう言った。
「本題?」
「うん、そ。おに〜さんにここまで来てもらった本来の目的〜」
ああ、やっとそれか。さっきから無関係な脇道《わきみち》イベントが目白押《めじろお》しだったんですっかり頭から消えちまってた。
「えっとね、おに〜さんに来てもらったのはね〜……じゃじゃ〜ん、これのためなんだよ〜!」
「ん……?」
美夏が効果《こうか》音《おん》とともに背中《せなか》から取り出したもの。
それは――
「『ロミ×ジュリ2008』……? 何だこれ、台本かなんかか?」
「ぴんぽ〜ん♪ これ、今度の定期|公演《こうえん》でわたしたちがやるやつなんだ〜。だからおに〜さんに見てもらって感想とかもらえたらなって思って」
「定期公演……」
「すみません。初めての恋愛ものだったので、できれば男の人の感想が欲しかったんです。そうしたら美夏《みか》からいい人がいると聞いて……」
「どうせおに〜さんはヒマしてると思ったからさ。だったらそのヒマな時間をムダに使うよりは特別ゲストとして呼《よ》んじゃえーって思って。おに〜さんのヒマも解消《かいしょう》されるし一石二鳥《いっせきにちょう》って感じで♪」
「……」
だからそうヒマヒマ言うなっての。
とはいえ思っていたよりも遥《はる》かにまともな理由である。
そういうことならまあ、尋問体験《じんもんたいけん》やら珍獣《ちんじゅう》体験やらをしてまでここに来た甲斐《かい》もそれなりにあるってもんだ。
「で、どうかな? やってくれる、おに〜さん?」
「ん、ああ。構《かま》わんぞ。といっても演劇《えんげき》は素人《しろうと》だから大した感想は言えんかもしれんが……」
「あ、それは気にしないでください。別にコンクールに出るわけではないので、むしろあまり偏《かたよ》っていない意見の方がありがたいです」
エリがそう言ってくる。
「要するにおに〜さんはあんま難《むずか》しく考えなくてもい〜ってこと。――じゃあちょっと着替えたりして準備《じゅんび》するから少しだけ待っててね♪」
そう言って、着替えスペースなのかカーテンで仕切られた部屋《へや》の一角へと四人でとことこと歩いていく。
と、その途中《とちゅう》でくるんと振《ふ》り返《かえ》って、
「……あ、いちお言っとくけど、覗《のぞ》いちゃだめだからね♪」
「……んなこと、するか」
この場合それはれっきとした犯罪《はんざい》である。
つーか相変わらず耳年増《みみどしま》だな……
『ロミ×ジュリ2008』とやらは、美夏たちによるオリジナル作品のようだった。
古典文学の名作である『ロミオとジュリエット』を現代日本風にアレンジして再構成《さいこうせい》したもので、何でも高校生である主人公とヒロインが許《ゆる》されない恋に翻弄《ほんろう》されてすれ違《ちが》ったりすれ違わなかったり離《はな》れたり離れなかったりする内容らしい。
ぱっと聞いた感じはどこぞの少女マンガみたいだが、美夏たちの着替えを待っている間にザッと台本に目を通してみたところその中身は意外としっかりした作りになっていて驚《おどろ》きだった。演劇《えんげき》のことはよく分からんが中学生の部活でこれだけまとまってりゃあすごい方なんじゃないかと思う。
だがその中でも特に印象的《いんしょうてき》だったのは、
脚本《きゃくほん》:Mika☆Nogizaka
とあったことだった。
「……」
ツインテール娘、こんなことまでできたのか。まあ考えてみれば今までもトンデモ実技《じつぎ》指導《しどう》やらでなんか妙な演出(アンパン牛乳とか採《と》れたてワサビとか)を提案していたが……それもこういった下地《したじ》があってのものなのか。……いやそれを考えると逆《ぎゃく》に今回のこれも不安になってくるんだがな。
と、そこで着替え室のカーテンがシャッと開かれ、その向こうから美夏たちが姿《すがた》を現した。
「お待たせ、おに〜さん。着替え終わったよ」
「お……」
十四歳四人は、それぞれ自分たちの役柄《やくがら》に合わせた衣装《いしょう》に身を包んでいた。
美夏がそれまでの双葉《ふたば》女学院のものとは違《ちが》うセーラー系の制服、エリが紺色《こんいろ》の男物のブレザー、光《ひかり》と美羽《みう》はカジュアルな感じの私服姿。舞台《ぶたい》が現代の高校だけにほとんどが制服と私服である。
「へへ〜、どうどう? 似合《にあ》ってるかな〜? このかっこ、おに〜さんの前で見せるのは初めてだよね〜」
「お、男の人に見られるのはちょっと恥ずかしいのですけれど……」
「綾瀬《あやせ》おにーさんの感想とか聞かせてほしいところですよねー☆」
「どうかな〜? 美羽、せくし〜?」
どうやら配役として主人公の男子役にエリが、またヒロインの女子役を美夏、他の役は光と美羽、それと今日は欠席しているという部員の三人でカバーするらしい。意外性はないがなかなかに妥当《だとう》なチョイスなんじゃないか――と俺は思ったんだが、
「ん〜、ほんとは最初エリちゃんをヒロインに想定して脚本《きゃくほん》を書いたんだけどね〜」
「そしたら主人公の男子役をやれる人がいなくなっちゃったんですよー。ほら、あんま言いたくないですけどあたしたち、背《せ》がちっちゃいですから。それで急遽《きゅうきょ》エリが主人公をやることになってー」
「エリちゃん〜、背が高くてかっこいいもんね〜」
ふむ、そういう事情《じじょう》があるのか。
まあ確かに髪をアップにしてブレザーを着込んだエリはいい感じに美形男子になっていた。元の素材《そざい》がいいだけにどんな格好《かっこう》をしてもオパールのように光《ひか》り輝《かがや》くというか、男装《だんそう》の麗人《れいじん》って単語がよく合いそうなたたずまいで……
「……ちょっとおに〜さん。な〜に鼻の下伸ばしてるの〜?」
「え? いやそういうわけじゃ……」
「そういうわけも何も夏場の熱中症《ねっちゅうしょう》対策《たいさく》で水分を摂《と》り過《す》ぎた泥田坊《どろたぼう》みたいだったんだけど……。――ま〜、い〜けどさ〜。それじゃこれから始めるから、ちゃんと見ててね」
「あ、おう」
「じゃみんな、やるよ〜!」
そう声をかけ合って、
そしてツインテール娘たち現代|舞台《ぶたい》芸術文化研究部による演劇《えんげき》が始まり――。
「――は〜、だいたいこんな感じかな〜。疲《つか》れた〜」
三十分後。
演技《えんぎ》を終えて大きく息を吐《は》いた美夏《みか》が身体を投げ出すようにぱふっとソファに倒《たお》れ込《こ》んだ。
「やっぱり何だかんだでだれかに見られてると緊張《きんちょう》しちゃうね〜。普段《ふだん》の倍くらいカロリーを消費《しょうひ》した感じ〜」
「うん、美夏、いつもよりちょっと演技が硬《かた》かったよー。意識《いしき》してるのが身体に出てたっていうかー」
「やっぱりやっぱりぃ、おに〜さんに見られてると緊張するのかな〜?」
「も、もうそれはいいって……。で、どうだったおに〜さん。おに〜さんから見てどんな感じだったかな?」
ソファから上体を起こしてそう訊《き》いてくる。
「ん、良かったんじゃないか?」
「え、ほんと?」
「ああ。細かい技術とかについては分からんが、少なくとも俺は見てて面白《おもしろ》かったと思ったぞ」
それは別にお世辞でも何でもなかった。
全体を通して安定した演技と構成《こうせい》で、思わず引き込まれそうになるシーンも多々あった。緊張していてこれだけの出来《でき》なら大したもんだろう。
「わ〜、そう言ってもらえると見てもらった甲斐《かい》があったな〜♪」
「ねえねえ綾瀬《あやせ》おにーさん、あたしの演技はどうでした?」
「美羽《みう》もがんばったんだよぉ。ほめてほめて〜」
光《ひかり》と美羽も笑顔《えがお》でそう言ってくる。
だがそんな中、
「…………」
エリだけがいまいち浮《う》かない顔をしていた。
皆《みな》の輪《わ》から一人|外《はず》れて、台本をぎゅっと手に握《にぎ》りしめたまま下を向いている。
「?」
どうかしたんだろうか。何か気になるごとでもあるのか?
首をひねっていると、
「あれ、エリちゃん、どうかした?」
美夏《みか》も同じように思ったのか、不思議《ふしぎ》そうな顔でそう声をかけた。
「あ、はい……」
「?」
「ええと、ですね……」
エリはしばらく何かためらっているようだったが、やがて思い切ったかのように話し始めた。
「……あの綾瀬《あやせ》さん、私の演技《えんぎ》、どうでした?」
「え? 良かったと思うが……」
エリの演技は他の三人と同様に特に問題はなかった。
むしろ一番|難《むずか》しいだろう主人公の役をよくこなしていたと思うが。強《し》いて言えば少し表情が硬《かた》かったような気はしたが、それだって微々《びび》たるもんだろう。
だがエリは首をふるふると横に振《ふ》って、
「……本当に、そうでしょうか? 私、分からなくて……」
「分からない?」
って、何がだ?
「……主人公の男の子の気持ちが、いまいち分からないんです。そうまでして人を好きになるというのがどういうことなのかが掴《つか》みきれないというか……。私、その、男の人とはお話ししたことがほとんどないですから……」
ちょっとだけ下を見ながらそう言う。
「そこに何だか違和感《いわかん》を覚えてしまったんです。実は今日美夏に頼《たの》んで男の人を呼《よ》んでもらったのも、ずっとそこが気になっていたからで……。恋をする男の人の気持ちというのがどういったものなのか、実際《じっさい》に男の人の意見を伺《うかが》ってみたいと思ったんです」
実感のこもった言葉。
むう、まあ言われてみれば女子が男子の細《こま》やかな心情を推《お》し量《はか》って演技しろってのは確《たし》かに難しいかもしれん。逆《ぎゃく》をやれと言われたら俺だって困《こま》るだろう。
しかし特に演技上問題があるようには見えなかったのにそこまで気にかけるってのは、どうやら見た目通りエリはかなり真面目《まじめ》な性格みたいだな。
「綾瀬《あやせ》さんはどう思われますか? 男の人がだれかを好きになってその人しか見えなくなるような気持ちって、一体どういったものなのでしょうか?」
「あ、いや……」
一瞬《いっしゅん》返答に詰《つ》まる。
それはある意味|極論《きよくろん》というか突《つ》っ込《こ》みまくった問いかけである。
何と答えたらいいか分からずに困《こま》っていると、
「あ、だったらさー、せっかく綾瀬おにーさんが来てるんだから、ここは模範《もはん》でも見せてもらったら?」
「え?」
光《ひかり》が突然《とつぜん》そんなことを言った。
「だからさー、エリが引っかかってるシーンを綾瀬おにーさんに模範演技をやってもらうってのはどうかな? それを見てエリが参考《さんこう》にすればいいと思うんだけどー」
「あ〜、それいいかもぉ。美羽《みう》もさんせ〜」
美羽ものほほ〜んと手を上げる。
「ほらほら、美羽もこう言ってるし、どうですか綾瀬おにーさん? 模範演技、やってくださいよー」
「え、いや……」
さっきも言ったが俺は演劇《えんげき》は見るのもやるのも完膚《かんぷ》なきまでに素人《しろうと》である。唯一の経験と言えば幼稚園のお遊戯《ゆうぎ》会《かい》でクヌギの木の役をやったくらいか。そんな俺が模範を示したところで何かの足《た》しになるとも思えんのだが……
しかしエリはぐっと身を乗り出してきて、
「あ、あの、もしよろしければお願いできないでしょうか?」
「お?」
「模範演技、もしもご迷惑《めいわく》でなければぜひ私からもお願いしたいです。本当に、今は助けになるものには何でもすがりたくて……」
「え、あー……」
その表憤はこの上なく真剣《しんけん》なものだった。
よっぽど悩んでいるのか、真っ直ぐにこっちを見る目から切実《せつじつ》さがにじみ出ている。う〜む、そこまで言われてはやらんわけにはいかんか。
「わ、分かった。とりあえずやってみるだけなら」
「本当ですか!」
「ああ、だけど期待はしないでくれ。本当に素人だからな」
「ありがとうございます!」
エリが深々と頭を下げる。
こうしてなぜか模範《もはん》演技《えんぎ》とやらをやることになったわけだが……しかし俺は女子校くんだり(しかも中学校)まで来て一体何をやってるんだろうね。
「あー、準備《じゅんび》はいいのか?」
「あ、う、うん。わたしはおっけ」
五分後。
エリから借り受けたブレザーを装着《そうちゃく》した俺の前で、なぜかセーラー服|姿《すがた》の美夏《みか》が緊張《きんちょう》した面持《おもも》ちでうなずいていた。
「こ、こっちはいつでもだいじょぶだよ。れでい〜とうすぱ〜く? って感じ?」
「ん、ここのシーンを初めから通してやるってことでいいんだよな? 終わりの部分までひと通りって感じで……」
「はい、お願いします」
エリが気になっているというシーンの再現《さいげん》。
それは主人公とヒロインの二人が降《ふ》りしきる雨の中お互《たが》いの想《おも》いを確《たし》かめ合《あ》うというシーンであり、お互いの想いである以上当然相手役がいなければ成り立たず、ゆえに相手役のヒロインとしてツインテール娘がリクエストされたのだった。そのことを聞いた当初、美夏はなぜか「え、わ、わたしがやるの? あのシーンを? お、おに〜さんと……?」と少し慌《あわ》てた様子《ようす》だったが、すぐに気を取り直したようにツインテールを振《ふ》りつつうなずいてくれた。
「それじゃ始めるよー。美夏も綾瀬《あやせ》おにーさんも準備《じゅんび》はいい? ――三、二、一……キュー!」
光《ひかり》がカチンとカチンコを鳴らす。
一瞬《いっしゅん》だけ部室内に静寂《せいじゃく》が降《お》り、
やがて、
『わたし……分からないの』
美夏がおもむろにシーン最初の台詞《せりふ》を口にした。
『分からない……?』
『うん、分からない……。わたし……』
『……』
『わたし………わたし……あなたのことを好きになってもいいの?』
胸《むね》の前で手を握《にぎ》りしめながら真《ま》っ直《す》ぐにこっちを見つめてくる。
『ごめんね……こんなところまで来て、今さらこんなことを言って。でも、でも、わたし不安なの。不安で心許《こころもと》なくて……だって……』
『……』
『だって……だってまだあなたの口から聞いていない。あなたの気持ちを、言葉にして、聞いてない……』
そう口に出すなり全身を投げ出すようにして抱《だ》きついてくる美夏《みか》。
いやそれは台本に書かれた進行通りのものなんだが……むう、なんかいつもこの上なく軽いノリで抱きついてくるツインテール娘が真剣《しんけん》な表情で同じことをしてくるってのは、どこか妙《みょう》な気分がするな。
『本当は許《ゆる》されないことだっていうのは分かってる。あの人が好きなあなたを好きになるのはルール違反《いはん》なのも……。でもお願い……聞かせて。そうでないとわたし……どこかへ行ってしまいそうで……』
『……。分かった』
美夏の顔を見下ろしながらうなずき返す。
そこでワンテンポ置いて、
台本に書かれていた主人公の次の台詞《せりふ》を口にする。
このシーンのクライマックスとなる、言葉。
『……俺もお前のことが……好きだ。心の底《そこ》からそう思っている。だから……これからもずっといっしょにいたい』
『……』
『それが俺の……偽《いつわ》らざる気持ちだ』
『……(こくり)』
無言でうなずく美夏。
背中《せなか》に回されていたその小さな手にさらにきゅっと力が込められる。
そしてそのまま二人が見つめ合うシーンへと入っていき……
…………
……
さて、この後に待っているのは……実はその、キスシーンだったりするのである。
台本には濃厚な接吻《せっぷん》シーン。接吻……せっぷん……きゃっ♪≠ニか書かれている少しばかりアレなページ。
まあこの脚本《きゃくほん》にまで表れているツインテール娘のどうしようもない耳年増《みみどしま》っぷりはともかくとして、さすがに模範演校《もはんえんぎ》でここまでやりはせんだろう。キスといっても当然フリだろうがそれにしたってこんなところ(白昼《はくちゅう》の中学校)でやるようなもんじゃないしな。
なので速《すみ》やかに模範演技とやらを終了しようとして、
じー……
「!」
とそこで、エリが何やら真剣な目でこっちを見ているのに気付いた。
こちらの動きを一挙手《いっきょしゅ》一投足《いっとうそく》を見逃《みのが》すまいとしている視線《しせん》。それはもうこれ以上ないってくらいの熱心な眼差《まなざ》しで、明らかにここ(キスシーン手前)で模範《もはん》演技《えんぎ》が終わるだろうとは思っていない目である。
――う、これはまさか……
微妙《びみょう》にイヤな予感がして隣《となり》を見ると、さらにそこでも光《ひかり》と美羽《みう》が(こっちはこっちで違《ちが》った好奇心《こうきしん》からだろうが)目を興奮《こうふん》気味《ぎみ》に渾《かがや》かせながら「そのままいっちゃえいっちゃえ☆」的な視線《しせん》を送ってきたりしていた。
「……」
後方斜《こうほうなな》め四十五度から飛んでくる三つの視線。
それらはそれぞれ意図《いと》しているものは違えど、どれも模範演技を次のステップまで続行する方向に促《うなが》しまくっている。
そしてトドメとして、
「じ、じ〜……」
なんか……目の前のツインテール娘までもが先を促すような目でこっちを見ていた。
少しだけ赤らめた小さな顔をちょこんと上げて、その目の奥でだ、だってそうゆうシーンなんだから、ちゃ、ちゃんとやらないとエリちゃんに悪いでしょ? べ、別にこれはただの演技で、深い意味なんてないんだからね……っ≠ニ言っている――ような気がする。いや俺の気の迷《まよ》いかもしれんが。
「…………」
とりあえず状況的《じょうきょうてき》には四面楚歌《しめんそか》だった。
もはやこの先をやらずに済《す》ませられる状況ではないような気がする。
まあ……何とかなるか。
いかにキスとはいえしょせんフリだけである。その字面《じづら》だけに惑《まど》わされてヘンに意識《いしき》すると逆《ぎゃく》にロクなことにならんだろう。よし、ここは揚《あ》げたてフライドポテトのようにサクッと済ませちまおう。
そう決めて、おもむろに美夏《みか》の肩《かた》に手をかける。
「!」
びくん、とその身体が釣《つ》られたイワシのように小さく震《ふる》えた感触《かんしょく》を腕《うで》の先に感じ。
ゆっくりと顔面《がんめん》を近づけようとしたところで――
ピンポンパンポーン♪
と、壁《かベ》にあったスピーカーが鳴った。
『お知らせします。二年|紫陽花《あじさい》組の乃木坂《のぎざか》美夏さん……二年紫陽花組の乃木坂美夏さん……まだ残っていましたら職貝室まで来てください。繰《く》り返《かえ》します……二年紫陽花組の――』
続いて流れたのはそんな放送だった。
「……」
「……」
「……あ、な、何だろ? さっきの生徒会関係とかかな」
数秒の沈黙《ちんもく》を挟《はさ》んで美夏が思い出したかのように言った。
「分からんが……とりあえず行ってみた方がいいんじゃないのか?」
「あ、う、うん、そだね。そ、それじゃわたし、ちょっと行ってくるから。エリちゃん、あとはお願い!」
「あ、はい」
そういい残して慌《あわ》てたように部室を飛び出していった。
なんか妙《みょう》に焦《あせ》った感じだった。
「あーあ、いーところだったのに惜《お》しかったねー」
周りで見ていた光たちが残念そうに集まってくる。
「もうちょっとでキスシーン完了だったのにー。綾瀬《あやせ》おにーさん、もったいないことしましたねー」
「でもでもぉ、美羽《みう》はどきどきだったよぉ。ほんとにキスしちゃうのかと思った〜。エリちゃんはどうだったぁ?」
「あ、はい。何というか、とても新鮮《しんせん》でした。男の人のだれかを想う時の空気というか、そういったものが少しだけ分かったような気がします」
「あー、そうか?」
「はい、とっても参考《さんこう》になりました」
嬉《うれ》しそうな顔で大きくうなずく。
まあ……あんなんでも何かの足《た》しになってくれたなら幸《さいわ》いだ。
その後は特に何かアクシデントが起こることなく演劇《えんげき》は続けられた。
美夏が職員室から戻《もど》ってくるのを待って、再《ふたた》びの現代|舞台《ぶたい》芸術文化研究部四人による演技《えんぎ》。
先ほどの模範《もはん》実技が少しは役に立ってくれたらしく、エリもその後の演技では前よりも少しだけ迷《まよ》いが晴れたような表情で主人公役をこなしていた。
そしてそうこうしている内に時間は経過《けいか》し――
『全校生徒にお伝えします。下校|時刻《じこく》が迫《せま》っています。まだ校舎内に残っている生徒は速《すみ》やかに帰《かえ》り支度《じたく》をすませて下校しましょう。繰《く》り返《かえ》します。下校時刻が追っています――』
いつの間にか下校時間になっていた。
「あ、もうこんな時間か〜」
美夏《みか》が壁《かべ》にかけられた時計を見上げて声を上げる。
「ん〜、残念だな〜。まだおに〜さんに色々見せたいこととか話したいこととかあったのに〜」
「楽しいと時間が経《た》つのが早いってほんとだねー。まだ綾瀬《あやせ》おにーさんが来てから三十分くらいしか経ってないみたいな気分だよー」
「美羽《みう》も〜、もっとおに〜さんと遊んでたかったなぁ」
光《ひかり》と美羽も名残《なごり》惜《お》しそうにそう言っていて、
それをなだめるようにエリが、
「ええ、気持ちは分かりますけど、でも今日のところはもうおしまいにしないと。先生たちに注意される前に後片付《あとかたづ》けをやってしまいましょう」
「は〜い」
というわけで後片付けを始める。
演技で使った小道具を元の位置《いち》に戻《もど》したり着ていた衣装《いしょう》をクローゼットに収納《しゅうのう》したり。
手分けして役割を分担《ぶんたん》しつつ、共同して作業を進めていく。
「あ、光、そこのジンギスカン用鍋は棚の上に置いてもらえますか?」
「りょーかい、エリちゃん!」
「美羽はぁ、あっちのトカレフを片付けるねぇ」
「おに〜さん、ちょっとこっちのこれ手伝ってくれるかな〜?」
「ん、おう」
そんなほぼ九割が肉体労働の片付け作業。
で、最後に残った信楽《しがらき》焼《や》きのタヌキ(なぜか演劇《えんげき》のクライマックス部分で使ったんだよ……)を美夏と二人で部室の隣《となり》にある準備室《じゅんびしつ》にまで戻して帰ってきてみると、
「――あれ、エリちゃん? みんな?」
「む?」
エリたちがいなくなっていた。
すっかり人の気配《けはい》のなくなった現代|舞台《ぶたい》芸術文化研究部室。
見ればテーブルの上に一枚のメモ用紙。
そこには、
『ちょこっと用事を思い出したのであたしたちは先に帰りまーす。美夏は綾瀬おにーさんと二人で戸締《とじま》りとかをよろしくね☆』
と書かれていた。
ふむ、何か急用でもできたんだろうか? 慌《あわただ》しいことこの上ないが、まあ片付け自体は今のタスキでほとんど終わってるから間題ないといえば問題はないが。
だが美夏は、
「も、も〜、光たち、余計《よけい》なことするんだから……」
「?」
「こ、こうゆうことばっかり率先《そっせん》して積極的に動いてさ〜。もっと他にやることがあるってゆうか……ぶ、ぶつぶつ……」
メモ用紙に目を落としながらなんか渋《しぶ》い顔をしていた。どうかしたんだろうか?
「どうした、何かあったのか?」
不思議《ふしぎ》に思って訊《き》いてみると、
「え? あ、な、何でもないよっ。そ、それより後は戸締《とじま》りと簡単《かんたん》な掃除《そうじ》だけだから、ぱぱっとやっちゃお、ぱぱっと」
「ん、おお、そうだな」
うなずき返して、
二人で床《ゆか》をホウキで掃《は》いたり窓《まど》を閉めたりしていく。
残っていたのは本当に何てことのない作業だけだったので、十分もかからずにそれらは全て終わった。
「は〜、これで終わりだね」
「そうだな。んじゃ時間も時間だしさっさと帰るか――」
テーブルの上に置いてあったカバンを持ち上げてそう言いかけたその時だった。
コンコン!
いきなり部室のドアが強い調子で叩《たた》かれた。
む、何だ? もしかしてとは思うが何か忘《わす》れ物《もの》でもしてエリたちが戻ってきたのか? しかしそれにしては叩き方が乱暴《らんぼう》だが……などと考えていると「おに〜さん、こっち!」と腕《うで》がぐいっと横に引《ひ》っ張《ぱ》られた。
そして次の瞬間《しゅんかん》、
「まだ残ってる人がいるのですか!」
バタン! と強烈《きょうれつ》な勢《いきお》いでドアが開かれた。
ドアの向こうから鼻息の荒《あら》い闘牛《とうぎゅう》のように勢い込んで現れたのは……三十歳くらいのメガネをかけた女の人。見回り役の先生なのか、メガネをギラギラと光らせながら厳《きび》しい眼差《まなざ》しで部室内を見回している。
(あちゃ〜……よりによって大奥《おおおく》センセイだ……)
さっきの一瞬《いっしゅん》で俺を引っ張り込んだ掃除ロッカー上部の隙間《すきま》から部室内を見て、美夏《みか》がため息を漏らす。
(大奥先生?)
(うん、大奥まどかセンセイ。三十二歳独身で趣味《しゅみ》は月一のヨガ教室と通販《つうはん》、教職と神様に人生を全部|捧《ささ》げてる感じの超おカタイ性格で、規則《きそく》とか道徳《どうとく》とかにすっごくうるさいんだよね〜)
それはまた典型的《てんけいてき》なお局《つぼね》様タイプだな。実にお嬢様学校らしいというか……
(おまけにあのセンセイ、あんまこっちの言うことに聞く耳もたないんだよ。だからおに〜さん、見つかったら色々と面倒《めんどう》だと思う。いなくなるまでここでやりすごすしかないかも)
(そうだな……)
確《たし》かにそれが無難《ぶなん》か。
わざわざ飛んで火にいる夏の虫(いや何度も言うが今は冬だが)になることもあるまい。
そう決めて息をひそめながら大奥《おおおく》先生とやらが立ち去るのを待つことに決めたものの、
そこで一つ問題があった。
俺たちが隠れている場所。
そもそもロッカーというモノは人が二人同時に入るようには作られておらず、高さ百八十センチ奥行《おくゆ》き五十センチほどの空間の中は明らかに定員オーバーであり――
(ちょ、ちょっとおに〜さん!今足|踏《ふ》んだよ……)
(しょ、しょうがないだろ、狭《せま》いんだから)
ロッカー内はバッテラのスシ詰《づ》め状態《じょうたい》だった。
状況《じょうきょう》としては美夏がヒザを立てるようにして片足を上げていて、その間に俺の腰《こし》を含《ふく》めた身体がずっぽりと挟《はさ》まって(?)いるカタチである。状態の割に意外に密着《みっちゃく》しているというか……ぬ、ぬう、なんか前にもアキハバラのコスプレショップの試着室で春香《はるか》と似《に》たようなやり取りをやったような覚えがあるな。こういう狭い場所での密着プレイに縁《えん》がありやがるのか……
(だ、だからヘンな風に動かないでってば〜)
(わ、悪い、だけどどうしようもなくてだな……)
(わ、分かってるけどさ……あ、な、何か硬《かた》いものが腰のところに当たって――え、お、おに〜さん、まさか!?)
(ち、違《ちが》う! それはベルトだ! そ、そういったモノじゃない!)
(? そういったものって? 携帯とかじゃないの?)
(え、あー、い、いや……)
そんな感じでロッカーの中でもぞもぞと少しばかり頭が悪そうなやり取りをしていて、
その間大奥先生は試着スペースの中を調べたりソファの後ろを覗《のぞ》き込《こ》んだり色々と小姑的《こじゅうとてき》チェックをしていたが。
やがて、
「……だれもいないみたいですね。物音が聞こえたような気がしましたけれど、気のせいだったのでしょうか。それにしても電気は点《つ》けっ放《ぱな》しだし鍵《かぎ》まで置きっぱなしでそのまま帰ってしまうなんて……まったく、なってません。これだから学院内の規律《きりつ》が乱れてひいては日本の教育現場が崩壊して私の婚期《こんき》も遅《おく》れて……くどくどくどくどくどくどくどくど……」
そうメガネのフレームを何度も指で直しながらう人ぶつぶつと愚痴《ぐち》を言って、部室から立ち去っていった。
「ふう……」
廊下《ろうか》を叩《たた》くヒールの音が遠ざかるのを確認《かくにん》して、ロッカーから二人|崩《くず》れるようにして這《は》い出《だ》した。なんかすげぇ疲《つか》れたな……
とりあえずこの場はしのげたが、あの調子ではいつまた戻《もど》ってくるか分からないだろう。
まただれかと道遇《そうぐう》しない内に早々にこの場から退散《たいさん》した方がよさそうだ。
「美夏《みか》、とっとと帰ろう」
ツインテール娘を促《うなが》してドアから外に出ようとして、
「……ん?」
ガチャガチャ。
ドアノブがうまく回らないことに気付いた。
「これは……」
なんか……鍵がかかっているみたいだった。
「げ、大奥《おおおく》センセイ、ご丁寧《ていねい》に鍵かけていっちゃったの!?」
美夏が慌《あわ》てたような様子《ようす》でぱたぱたと駆《か》け寄《よ》ってくる。
「ここの部屋《へや》、外から鍵をかけられたら中からは開けられないんだよ。だからエリちゃんたちも鍵を置いていったのに……」
「そうなのか?」
「う、うん……」
まあそういうタイプの部屋はたまにあるっちゃあるが。
「あ〜、まずいな〜。ここ、ドア以外に出口がないからこうなるとどうしようもないんだよ……。四階だから窓《まど》から出るのもムリだし、カバンも教室に置きっぱなしだから携帯《けいたい》もないし……ど、どうしよ、おに〜さん……?」
ツインテールを震《ふる》わせながら不安げに見上げてくる美夏。
むう、確《たし》かに割と手詰《てづ》まりな感じだな。部室内に電話や内線等はないし、俺の携帯もカメラが付いているものは盗撮《とうさつ》防止《ぼうし》のため部外者は持ち込み不可《ふか》だという理由で入校時に警備員《けいびいん》に一時|預《あず》け状態《じょうたい》にされている。外部への連絡《れんらく》手段《しゅだん》はほぼ断《た》たれたと言っていいだろう。
とはいえ、
「まあ……何とかなるだろ」
「え……?」
「まただれか見回りに来るかもしれんし、それにここに来る時に門のところで名簿《めいぼ》に記帳《きちょう》してるから、いつまでも出て来なかったらそっちが見に来るかもしれんしな」
「で、でも……」
「心配するなって。それでもダメなら最悪、ドアをぶち破るなりなんなりすればいいさ」
多少バイオレンスというかイリーガルなやり方だが、それでも俺がやったことにすればツインテール娘が怒《おこ》られることはあるまい。
いずれにせよその気になれば手段《しゅだん》はいくらだってある。
不安がるツインテール娘の頭をぽんぽんと叩《たた》いてそう言うと、
「おに〜さん……落ち着いてるね」
「ん、そうか?」
「うん、なんか、大人〜って感じ」
まあ何だかんだでこれまで色々とアレな状況《じょうきょう》には遭遇《そうぐう》してきたからな。似《に》たようなクローズドシチュエーションならこの前の冬山|遭難《そうなん》の方が生命に直結していた(と主観的《しゅかんてき》には感じていた)分だけ遥《はる》かに切羽《せっぱ》詰《つ》まってたわけだし。
「……ん、でもそだね。確かに慌《あわ》てたってしょうがないし、おに〜さんを信じてだいじょぶだって思うことにするよ」
「ああ、そうしてくれ」
「だめだったら責任とってもらうんだから♪」
えへへ〜といたずらっぽく笑ってちょこんと身を寄せてくる。
そういった次第《しだい》で、ひとまず様子《ようす》を見てみることにした。
二人|並《なら》んでソファに座《すわ》って、窓の外で薄《う》っすらと白《しら》み始《はじ》めた月を見上げる。
「でもなんかこうしておに〜さんと二人だけになるのって、ずいぶん久しぶりな気がするな〜」
と、美夏《みか》がそんなことを言った。
「ん、そうだっけか?」
「うん。たぶんお姉ちゃんの誕生日プレゼントを買いに行った時以来くらいじゃないかな。あれってもうけっこう前のことだよね〜」
「もうそんなになるのか……」
春香《はるか》の誕生日といえば十月――今から四ヶ月近く前のことである。
確《たし》かにあれから美夏と二人で何かをするってことはなかった。色々と忙《いそが》しかったし、何だかんだでこのツインテール娘はメイドさんたちといっしょにいることが多かったため、二人だけというシチュエーションは意外になかったのだ。
「だからこうゆうのもたまにはいいかも。おに〜さんをひとりじめできた感じで、なんか得した気分ってゆうか。大奥《おおおく》センセイに少しだけ感謝《かんしゃ》しなきゃかな♪」
ちょっとだけ照れたように笑う。
ふむ、それについては少しだけ同感かもな。コトの発端《ほったん》自体はイレギュラーによるものだが、たまにはこうしてツインテール娘と二人でゆっくりと時間を過ごすってのは悪くないかもしれん。何だかんだで美夏《みか》との会話は楽しいわけだし。
そんなことを思っていると、
「でさでさ、そうゆうわけで今って二人きりなんだよね〜」
「ん?」
「だ・か・ら、今ここにいるのはわたしとおに〜さんの二人だけなんだよ? おんり〜ゆ〜あんどみ〜?」
「? いやそれは分かってるが……」
二人で閉じ込められてるんだから二人だけなのは当然である。
すると美夏は両手を自分の頬《ほお》に当てて恥《は》じらったように身をよじらせて、
「も〜、ノリ悪いな〜。夜の学校でいたいけで儚《はかな》げな美少女と二人だけ……男の子なら一度は夢見る素敵《すてき》シチュエーションでしょ? ほらほらおに〜さん、どきどきとかしない?それともむらむら? きゃっ♪」
そんなアレなことを言い出した。
「……いや、せんが」
てかそれ以前にいたいけで儚げな美少女ってのはだれだ。
「え〜、何それ? てゆうかこ〜んなかわいい美夏ちゃんを前にして無反応《むはんのう》なんて、おに〜さん、どっかおかし〜んじゃないの?」
むす〜っとした顔になる美夏。
「そう言われてもな……」
「む〜、じゃあこんなのはどう? ほらほら、せくし〜でしょ」
両手を頭の上で組み、ぱちぱちと片目《かため》をつむりながら胸《むね》を突《つ》き出《だ》すようなポーズをしてくる。
「他にもこれなんてすごくない? 女豹《めひょう》のポーズだよ? がおー♪」
「……」
いや女豹というか、いいとこ仔猫《こねこ》が寝起《ねお》きの伸びをしてるようにしか見えんのだが……
思わずそんな冷静な突《つ》っ込《こ》みを入れちまう俺に、
「こ、これでもだめなの? だ、だったら……」
ツインテール娘なりに何か譲《ゆず》れないものがあるのかスカートのすそをちらちらさせたり机の上で足を組み替えたり色々とやってくる。だが――
「……うーむ……」
なんかいまいちピンと来ないんだよな。
ツインテール娘がそれをやってもなんかちぐはぐ感があるというか、行動と外見が合ってないって感じだ。
そんなことをしていると、とうとう美夏《みか》がキれた。
「こ、これは屈辱《くつじょく》だよ! 女として、一人の人間として負けた気分だよ!」
「いやそんな大げさに考えんでも……」
「ん〜ん、これはもう戦いなの! わたしとおに〜さんの意地とプライドを賭けた戦い! こうなったら――」
「?」
きゅっと目をつむると、
「こ、こうなったらもう――最後の手段《しゅだん》。えいやっ!」
「!?」
妙《みょう》なかけ声を発しながらツインテール娘が次に採《と》ったのは……ツインテールをぶんぶんと振《ふ》り回《まわ》しての正面からの特攻だった。
「ぬおあっ!?」
いかにツインテール娘がちんまくて超軽量級とはいえまったく予期《よき》していなかったところの一撃《いちげき》である。俺は胸の辺《あた》りにプチソフトな衝撃《しょうげき》をダイレクトにくらって……そのまま後ろに押《お》し倒《たお》される格好《かっこう》でソファの上に軟着陸《なんちゃくりく》した。
「な、何すんだ、いきなり!」
今の拍子《ひょうし》でズレたメガネを直しながらちょうど腹の上に馬乗りになる姿勢《しせい》で乗っかったツインテール娘を見上げて抗議《こうぎ》するも、
「な、何するもなにも、最終手段だよ。どうしてもわたしのことを意識《いしき》してくれないおに〜さんへの最後の対抗《たいこう》措置《そち》。お、お母さんも言ってたもん、『あら、どうしても殿方《とのがた》がこちらを意識してくれない時? そうね、そういう時はいいから黙《だま》って押し倒してしまいなさいな、うふふ♪』って……」
「……」
いや秋穂《あきほ》さん、またそういう色々と物議《ぶつぎ》をかもし出しそうなことを……
乃木坂《のぎざか》家《け》二児の母の無邪気《むじゃき》な笑顔《えがお》を思い出して心の中でため息を吐《つ》く俺に、
「ど、どう、す、少しはどきどきしてる?」
「は?」
「だ、だから、ど、どきどきしてる? って訊《き》いたの。さ、さっきから色々やってるのにおに〜さん、全然|涼《すず》しい顔でさ……。も、模範《もはん》演技《えんぎ》の時もそうだよ、な〜んかあっさりってゆうかすっごく淡白《たんぱく》だったんだもん。わ、わたしは何だかいっぱいいっぱいだったのに、おに〜さんだけ何ともないなんて……」
そこで美夏はちょっとだけ顔を横に逸《そ》らして、
「そんなの……ずるい、じゃん」
そうぽつりとつぶやいた。
その表情は何だか今までにないくらい大人びたというか思わずハッと息を飲んでしまうようなもので……む、少しだけ心臓が不正|挙動《きょどう》するのを感じるな。
おまけに考えてみれば今は体勢《たいせい》も体勢である。
ヒザから先をハの字にして制服のスカート姿《すがた》のままぺたりと俺の腹の上に座《すわ》り込《こ》んだ騎乗《きじょう》型《がた》逆《ぎゃく》エロマウントポジション状態《じょうたい》。加えて窓《まど》からのかすかな月の光に照らされて少し瞳《ひとみ》が潤《うる》んだ美夏《みか》の顔はどこか色っぽく見えたりして……
さすがに……これはまったく何かを感じていないとは言えんかもしれん。
「だ、だから……」
「ぬ、ぬ?」
「だ、だから、お、おに〜さんも同じくらいどきどきさせてやることにしたの。胸がどきどきばくばくして、心拍数《しんぱくすう》が心配なことになっちゃうくらい。そ、それで――」
そう言うと、
美夏は両手で俺の顔を両側からがしっと挟《はさ》んでぐいっと強引《ごういん》に自分に近づけて、
「そ、それで……それはもう寝《ね》ても覚《さ》めてもわたしのことを忘《わす》れられないように……おに〜さんの中がわたしでいっぱいになるように……み、みっかみかにしてあげるんだから……っ」
そう顔を真っ赤にしながら大きな声で宣言《せんげん》した。
それはもう、部室内に反響《はんきょう》してエコーを残すほどのものだった。
「……」
い、いや、これはどうしたらいいんだろうか。
顔をほどよく熟《う》れた国産姫イチゴみたいに赤くして一生懸命《いっしょうけんめい》な美夏《みか》の様子《ようす》は何だか新鮮《しんせん》で視線《しせん》が離《はな》せない感じなんだがそもそもみっかみかにしてやると言われても何が何だかよく分からんというかだいたいそれ以前に何だって俺はこんなところでツインテール娘に顔を万力《まんりき》のように挟《はさ》まれているのかってことからして意味不明であり己《おのれ》のレゾンデートルがよく分からなくなる状況《じょうきょう》で……
半ば混乱状態《こんらんじょうたい》に陥《おちい》る。
その時だった。
「ええと〜、良い雰囲気《ふんいき》のところを申《もう》し訳《わけ》ありませんが〜」
「!?」「!!」
突然背後《とつぜんはいご》から響《ひび》いたそんな声。
どこか間延《まの》びしていてのんびりとしたこの声は、まさか……
驚《おどろ》きとともに振《ふ》り返《かえ》るとそこには予想通りというか何というか……見慣《みな》れたメイド服|姿《すがた》のにっこりメイドさんとちびっこメイドが並《なら》んで立っていた。
「な、那波《ななみ》さん、アリスちゃん!?」
美夏がバッ! と俺の顔から手を離し立ち上がる。「な、何で? 何で二人が、こ、ここに……?」
美夏の問いに、
「はい〜、夕食のお時間になっても美夏様がお帰りになられないので様子を見に参《まい》ったのですが〜。あの〜、もしかして私たちものすごくお邪魔《じゃま》でしたか〜?」
「――(こく?)」
いつも通りのにっこり笑顔《えがお》で楽しげに首をかたむける。
いやまったくもって気配《けはい》というかドアを開けた音すら聞こえなかったんだが。てか鍵《かぎ》がかかってたドアをどうやって開けたんだこの人たち……
メイド長さんのみにとどまらない相変わらずの乃木坂《のぎざか》家《け》メイド隊の超スキルに呆然《ぼうぜん》となる俺たちに、
「ええと〜、それでしたら私たちのことはお気になさらず結構《けっこう》ですので、どうぞ続きをやってくださいな〜。美夏様の思うまま、みっかみかにしてさし上げてくださって結構ですから〜♪」
「――(こくこく)」
「な、な……」
完全|停止《ていし》したまま言葉を失う美夏。
その顔が圧力式《あつりょくしき》急速|湯《ゆ》沸《わ》かし器のようにか〜っと超高速で真っ赤になっていき……
「美夏様〜?」
「――(こく?)」
「に……に……」
「に? 肉球《にくきゅう》……ですか〜?」
「――(こくこく?)」
「に……に……に……」
そして、
「にゃあ〜〜〜〜!! !!」
ほとんど半泣きのような絶叫《ぜっきょう》が、校舎中に響《ひび》き渡《わた》ったのだった。
「も、もう、那波《ななみ》さんなんか知らないんだからっ」
学校からの帰り道。
顔を赤くしたままの美夏《みか》がぷんぷんと頬《ほお》を膨《ふく》らませながら隣《となり》を歩いていた。
「そ、それは心配して迎えに来てくれたのは嬉《うれ》しいし、助かったと思うよ? で、でもあんな脅《おど》かすみたいに唐突《とうとつ》に出て来てさ〜。い、いるならいるってちゃんと言ってくれればわたしだって……」
「あらら〜、いちおうノックはしたのですが〜」
「――(こくん)」
頬に手を当てながらやんわりと小首をかたむける。
それを見た美夏は疲《つか》れたようにため息を吐《つ》いて、
「は〜……お姉ちゃんの気持ちが少しだけ分かった気がするよ……」
「あー、で、でもまあ結果的にはよかっただろ。無事《ぶじ》に脱出《だっしゅつ》もできたし……」
がっくりと肩《かた》を落とす美夏をフォローする。
あの後にっこりメイドさんとちびっこメイドの先導《せんどう》で、大奥《おおおく》先生やら他の教師たちに見つかることなく(門も素通《すどお》りで)俺たちは平穏《へいおん》に下校することに成功していた。
「う〜、それはそうなんだけどさ〜……」
複雑な表情になる美夏。いまいち納得《なっとく》がいってないって顔である。その気持ちは分かるっちゃ分かるんだが……
「とにかく細かいことは忘《わす》れてだ、今日はもう家に帰ってのんびりとメシでも食べてだな――」
もう少しだけフォローしようとして、
「――じゃあおに〜さん、抱《だ》っこして」
「は?」
いきなりそんなことを言い出した。
「だから抱《だ》っこだよ。ここからお家《うち》に帰るまでの間でい〜から。おに〜さんだって男の子なんだから、それくらいできるでしょ?」
いや何が「じゃあ」なのかさっぱり分からんのだが。
戸惑《とまど》う俺に美夏は「ほらほらいいから早く〜」とぴょこんと飛びついてきた。振《ふ》り払《はら》うわけにもいかず、結果として半強制的に抱っこ状態《じょうたい》となる。
「お、おい……」
「え、えへへ〜、抱っこ、抱っこ〜♪」
ツインテールを揺《ゆ》らしながらそんなことを口ずさむ。
まあこういった甘えっぷりはいつも通りっちゃあいつも通りなんだが……
何となく釈然《しゃくぜん》としない気分でいると、
「わたし、まだ諦《あきら》めたわけじゃないんだからね〜」
「え?」
「おに〜さんをどきどきむらむらさせるの。いつかほんとにわたしのす〜ぱ〜&ぐれ〜とな魅力《みりょく》で、骨《ほね》のズイまでおに〜さんをみっかみかにしてあげるんだから♪」
俺の腕《うで》の中に収《おさ》まりながら手でピストルの形を作って、
こっちに向かってば〜ん♪ とそれを発射《はっしゃ》すると、楽しげににっこりと笑ったのだった。
何かがおかしい。
そのことに気付いたのは、一月もほとんど終わりになってのことだった。
いや何がおかしいって、別にうちのアホ姉が突然《とつぜん》カバディに目覚《めざ》めて朝から晩《ばん》までカバディカバディ連呼《れんこ》し始めたり、幼馴染《おさななじ》みの信長《のぶなが》が女装《じょそう》に目覚めて真尋《まひろ》ちゃんと姉妹になったとかってわけじゃない。まあそれらもそれらでまったくあり得ない話じゃないってのが怖《こわ》いところなんだが、とりあえず今のところ(心からありがたいことに)そういう兆候《ちょうこう》は見られない。
なのでそれは置いておくとして。
おかしいのは……椎菜《しいな》である。
今も隣《となり》の席で四時間目の教科書やノートを片付《かたづ》けているフレンドリーテンタクル娘。
その様子《ようす》がここ最近いつもと少し違《ちが》うのである。
どこかよそよそしいというか雰囲気《ふんいき》が違うというか、話しかけても何となく上《うわ》の空《そら》のことが多い。挨拶《あいさつ》とかも微妙《びみょう》に硬《かた》い感じだし、普段《ふだん》の会話もなんかぎこちないような気がする。
「……」
うーむ、これはもしやとは思うが例の信州旅行での露天《ろてん》風呂《ぶろ》遭遇《そうぐう》イベントの一件が尾《お》を引いてるんだろうか。だがあれはもう二週間も前のことだし湯煙《ゆけむり》やら何やらで結局ダイレクトには、その、アタックポイントは見てはいないわけだし、俺的にはすでに解決《かいけつ》したもんだとばかり思っていたんだが……。しかしもしもそれが原因《げんいん》だとしたら、近々機会を見てもう一度ちゃんと謝《あやま》っておいた方がいいのかもしれんな……
などと考えていたら、
「お……」
「あ……」
ふと椎菜[#たぶん誤植。底本では「葉」]と目が合った。
それは別に普通《ふつう》のよくある視線《しせん》の交差《こうさ》に過ぎなかったのだが、
「!」
しかしなぜか椎菜は焦《あせ》ったようにガタッ! と机を揺《ゆ》らして、
「あ、ど、どうしたの、裕人《ゆうと》」
「え、いや別にたまたまそっちを見ただけなんだが……」
「そ、そう……」
微妙に目を泳がせながらは〜っと息を吐《つ》いた。
その様子は明らかに挙動不審《きょどうふしん》だった。
――今日は朝からなんかずっとこんな感じなのである。
うーむ、ここのところ様子《ようす》が変なのは確《たし》かなんだが、それも今日は輪《わ》にかけておかしい気がするな。予防接種《よぼうせっしゅ》を直前に控《ひか》えた仔猫《こねこ》みたいというか……
どう対応《たいおう》していいものやら微妙《びみょう》に困惑《こんわく》していると、
「――あ、あのさ、裕人《ゆうと》」
「ん?」
と、椎菜《しいな》の方から遠慮《えんりょ》がちにそう声をかけてきた。
「えっと、その、これからお昼だよね? てことはお昼ご飯、だよね……?」
「? ああ、そうだが……」
まあ四時間目の後は昼に決まっていて、そして昼にやることといえば昼食に決まっている。まかり間違《まちが》ってもリンボーダンスをやったりはせんだろう。
「う、うん、そうだよね.それは分かってる、分かってるんだよ……」
「?」
一体何が言いたいんだろうか。
するとそこで椎菜は思い切ったかのようにぐっと身を乗り出してきて、
「あ、あの、だ、だったらさ!」
「ん?」
「だ、だったらさ、今日はあたしといっしょに――」
何かを言おうとしたところで、
「椎菜ー、いっしょにお昼食べようよー!」
「!」
澤村《さわむら》さんの声が教室に響《ひび》き渡《わた》った。
「今日は学食でイカリング付きのA定食が半額《はんがく》セールなんだってー。麻衣《まい》が先に行って席取ってるから椎菜も早く行こうよ――あ、もしかしてなんか取り込み中だったー?」
「あ、う、ううん、何でもないの!」
椎菜が慌《あわ》てて首をぶんぶんと振《ふ》る。
「そうー? なんか綾瀬《あやせ》っちに用があったみたいだけどー」
「りょ、良子《りょうこ》の気のせいじゃない? う、うん。きっとそうだよ、そうに違《ちが》いないよ。じゃ、じゃあ裕人、あたし行くからっ!」
「ん、ああ……」
そう言って椎菜は大きめの紙袋を抱えて逃げるように澤村さんと行ってしまった。
やっぱり何をどう考えてもヘンだよな……?
昼休みが終わっても、椎菜《しいな》はおかしいままだった。
どことなくそわそわしているというか、落ち着かない感じ。
見るからに普通《ふつう》でないんだが、訊《き》いてみても「う、ううん、何でもないって。あ、あたしはいつも通りのあたしだよ?」みたいな答えが返ってくるだけで、いまいち要領《ようりょう》を得ない。むう、気にはなるものの椎菜本人がそう言う以上は俺があれこれ気を揉《も》んでも仕方がないか。まあこのフレンドリー娘もフレンドリー娘で色々あるんだろう……と思い、なるべく気にしないことにした。
そして放課後。
「あ、裕人《ゆうと》さん、すみませんが今日はお先に失礼しますね」
「ん、またな、春香《はるか》」
「はい、ごきげんよう、です♪」
これから乗馬のレッスンだという春香と教室で別れ、
特にやることのなかった俺も支度《したく》をしてとっとと帰ることにした。
「じゃあな、椎菜」
「あ、う、うん、ばいばい」
やはりどこか浮《うわ》ついた感じのままの椎菜にも挨拶《あいさつ》をして教室を出る。
相変わらず特にやることはないし、今日は(も)由香里《ゆかり》さんが家に来るとか言っていた。早く帰って酒とツマミを用意しておかないとまたダダをこねて「裕くんが最近冷たい……やっぱり春香ちゃんみたいないい娘《こ》が傍《そば》にいるとおねいさんみたいな過去のオンナは用済《ようず》みなのね……しくしく……」みたいなめんどくさいことになるだろう。
少しだけ早足で廊下《ろうか》を抜《ぬ》け、昇降口《しょうこうぐち》で上履《うわば》きを履《は》き替《か》えて校舎の外へ。
運動部の「だりゃあああ!」だの「チェストおおお!」だのの微妙に間違った気合いの声を何となく聞きつつ校門を抜ける。
学園近くの河川敷《かせんしき》の道をダラダラと歩いていき、途中《とちゅう》にある公園に差しかかった辺《あた》りで、
「お」
と、そこであるものを見つけた。
『タコタコ☆パラダイス』と書かれたハデな色のカンバン。
これはこの辺りに時々やって来る移動屋台《いどうやたい》なんだが、ウマい上に値段《ねだん》の割にタコがたくさん入っているとクラスの中で評判なのである。ちょうど焼き上がったところのようだし、とりあえずワン公二人に持って帰る手土産にはいいかもしれん。
そう思いカバンの中から財布《さいふ》を取り出そうとした時のことだった。
「ゆ、裕人!」
「?」
ふいに後ろから声をかけられた。
つい先ほど聞いたばかりの声。
見ればそこには制服の上にコートを着込んだ椎菜《しいな》の姿《すがた》があった。
「椎菜……?」
学園からここまで走ってきたのか椎菜は肩《かた》ではあはあと息をしていて、その手には昼に見かけた大きめの紙袋《かみぶくろ》が握《にぎ》られている。? どうかしたんだろうか。椎菜の帰り道はこっちじゃなかったと思うんだが。
「どうしたんだ? こっちに何か用事でもあったのか?」
「あ、う、うん、ちょっと……」
そう小さくうなずくと椎菜は、少しためらうような素振《そぶ》りを見せつつもこちらに向かってゆっくりと近づいてこようとする。
だが俺の後ろにあるタコヤキ屋のカンバンを見てぴたりと足を止めた。
「え、ゆ、裕人《ゆうと》、もしかしてタコが好きなの……?」
「え?」
「だ、だって、そこにあるお店ってタコヤキ屋さんだよね……? タコヤキ屋さんはタコを焼くお店で、イカを焼くお店じゃない……。それってつまり裕人は実はタコが好きで好きでしょうがないってことに……」
何やらショックを受けたような表情になる。
「え、いや、別にそこまでタコ好きなわけじゃ」
否定《ひてい》しようとするものの、
「う、ううん、いいよ、そんな気を遣《つか》ってくれなくても。そ、そっか、裕人はタコ派なんだ。てっきり今までイカ派だと思ってたのに……」
「気を遣うとかじゃなくてだな……」
根本的に何か勘違《かんちが》いをしてるみたいである。てかそもそも何の話だ、これは。
ラチがあかなかったのでとりあえず話題を変えようとして、
「あー、それより何か用事があるんじゃないのか?」
「え?」
「そのためにわざわざこんなところまで来たんだろ? どうしたんだ」
「あ、え、えっとそれは……」
そう言った途端《とたん》に椎菜の表情が一変した。
ちらちらと手の中の紙袋に目を落としたかと思うと、
「な、何でもないの! あ、あたし、知らなかったから。ゆ、裕人がイカよりタコを好きだなんて思わなくって……ごめんっ!」
「あ、おい」
くるりと背《せ》を向けて一目散《いちもくさん》に走り出した。
いやもう何が何だかさっぱり分からんのだが。
ともあれ放っておくわけにもいかん。俺も追いかけて走り出そうとして、
椎菜の走るその先に、小さな段差《だんさ》があるのが見えた。
正面の位置《いち》からは死角になっていて、知らなければまず引っかかってしまうような段差。
そして走るのに必死な椎菜には当然それが見えていないようであり、
「椎菜、危《あぶ》ない!」
大声を出して呼《よ》びかけるも――
「え――」
次の瞬間《しゅんかん》。
段差に足を取られた椎菜が、大きくバランスを崩《くず》したのだった。
「――というわけで、今日の欠席者は天宮《あきみや》椎菜ちゃん一人です……」
教壇《きょうだん》の由香里《ゆかり》さんが二日酔《ふつかよ》いでクリオネみたいになった顔色でそう教室内を見渡《みわた》す。
「ええと……何でも昨日の帰りに段差で足を踏《ふ》み外《はず》してネンザしちゃったみたいで、全治《ぜんち》二週間だそうです。踏み外したのが人生でなくてよかったけど、けっこう大変みたい……みんなもケガには気を付けましょう……。…………ああ、というか私が欠席したい……ワインが、昨日の赤ワインがすぐ喉元《のどもと》にまで……っ」
最後の方の戯言《ざれごと》はだれも聞いていなかったが、前半の椎菜欠席の報告《ほうこく》にはクラス全体がザワザワとざわめいた。皆《みな》「椎莱ちゃん、どうしたんだろう……?」「天宮さんがケガなんて、珍《めずら》しいよな?」「ぜ、全治二週間なんて、だ、大丈夫《だいじょうぶ》なのかな……?」など椎菜のことを心配している様子だ。
それを見たセクハラ音楽教師@二日酔いは、
「……ううっ、だれも先生のことは心配してくれないのね……これも私が悪いんじゃなくてボルドーとカルベネソーヴィニョンとボジョレーが悪いのに……。いいわよいいわよ、こうなったらもう職員用の談話《だんわ》スペースに置いてあるまりもっこり人形(阿寒湖《あかんこ》特産)≠ノでも慰《なぐさ》めてもらうことにするから……しくしく……」
そう言いながらホームルームを終えると、蘇生《そせい》一日目の新米リビングデッドのようにふらふらと教室を出て行った。
まあこの人が二日酔いでグダグダなのは珍しいことでも何でもない上に、昨日もルコと二人でボウリングが二フレームできるほどのワイン瓶《びん》を空《あ》けてた酔《よ》っ払《ぱら》い相手にヘタな同情など無用ってもんである。
「天宮《あまみや》さん、だいじょうぶでしょうか……?」
こっちの席までやって来た春香《はるか》が心配そうな声で目を向けてくる。「天宮さんがケガなんて、今までなかったのに……」
同じように集まってきていた澤村《さわむら》さんと朝比奈《あさひな》さんも、
「ほんと、あの運動神経のカタマリみたいな椎菜が段差で足を踏み外してネンザだなんて、世も末だよー。なんかよっぽど真剣《しんけん》な考え事でもしてたのかなー」
「でも心配だな。大丈夫《だいじょうぶ》かな、椎菜ちゃん……」
そう話しながら顔を見合わせる。
「……」
というか全治二週間だなんてそこまで大変なことになっているとは、俺にも初耳だった。
昨日の公園でのアクシデント。
確《たし》かに椎菜は段差で足を踏み外して転《ころ》んだんだが、その後は特に変わった様子《ようす》はなかった。
すぐに何事もなかったかのように立ち上がり「あ、あいたたた、やっちゃった、あ、あはは……」と苦笑いをしていた。痛《いた》がるだとか足を引きずるだとかそういう素振《そぶ》りはまったく見せずそのまま帰っていったため、それ以上はあまり印象《いんしょう》に残らなかったのだ。なのでてっきり大したことがないもんだと思い込んでいたんだが……
それが全治二週間でしかも欠席とは、あの時は俺に遠慮《えんりょ》して隠《かく》してたんだろうか。それとも後になってひどくなってきたのか……
いずれにせよ現場にいてまったく気付けなかった俺はアホの子もいいところである。
昨日の自分の鈍《にぶ》さ加減《かげん》に自己|嫌悪《けんお》していると、
「――やせっち、綾瀬《あやせ》っち、聞いてるー?」
澤村さんが俺の顔の前で右手をぶんぶんと振《ふ》っていた。
「え、あ、悪い、何だっけ?」
「何だじゃないよー。今みんなで、今日授業が終わったら椎菜のお見舞いに行こうって話してたんじゃーん」
腰《こし》に片手《かたて》を当ててぴっと指を立ててくる。
「私と麻衣、春香ちゃんはもう行くってことで決定済みだよ。当然綾瀬っちも行くよねー?」
「ん、ああ」
もちろん行くに決まっている。
「よし、決まりー.それじゃ四人全員参加ってことでおっけーだねー。帰りのホームルームが終わったら私の席に集合! 忘《わす》れて帰ったりしたらあとでオシオキだからねー」
「それじゃあまたあとでですね、春香ちゃん、綾瀬くん」
そう言って澤村さんと朝比奈さんは自分の席へと戻って行った。
「天宮《あまみや》さん……大したことがないといいですね」
春香《はるか》がだれも座っていない俺の隣の席を見ながらぽつりとつぶやく。
「ああ、そうだな……」
こうして、放課後に皆で椎菜《しいな》の家にお見舞いに行くことになった。
ちなみにこれはかなーりどうでもいい話だが。
朝のホームルームが終わって三十分後。職員用談話スペースにあるまりもっこり人形(阿寒湖《あかんこ》特産)≠フ前でどこぞのセクハラ音楽教師が真っ赤な血だまりのような液体の中で倒れているのを、たまたま通りかかった教師の一人が発見した。
まるで血の海の中で溺れているかのような惨状《さんじょう》。
発見された当初はその周辺|情況《じょうきょう》からやれ殺人事件だのまりもっこり人形≠フ呪いだのと大騒《おおさわ》ぎになったんだが……およそ五分後に、駆けつけた校医の斉藤《さいとう》先生により実は単に赤ワインをリバースしてその中で寝《ね》ていただけとのことが判明《はんめい》し、騒ぎは一瞬《いっしゅん》で収束《しゅうそく》した。
人騒がせなことこの上ないセクハラ音楽教師はそのまま保健室に搬送《はんそう》され点滴を受けた後に、職員室まで呼《よ》び戻《もど》されて学年主任の教師からきついお叱《しか》りを受けたとか。
……いや深層《しんそう》無意識《むいしき》の底《そこ》からどうでもいい話なんだがな。
「えーと、確《たし》かこの辺だったと思ったんだけどー」
澤村《さわむら》さんがそう言いながら辺《あた》りをきょろきょろと見回す。
「うーん、前に来た時はほとんど椎菜に案内してもらったからなー。いまいち覚えてないっていうかー。麻衣《まい》はー?」
「あ、う、うん、私もあんまり……」
朝比奈《あさひな》さんもちょっと困《こま》ったような顔を見せる。
と、
「えと、あちらではないでしょうか? ここにあるこのお店がさっき言われていたこんびにえんすすとあ≠ウんですから……」
「あ、そうだそうだー。うんうん、さすが春香ちゃんー」
「ほんと、すごいです」
「え、そ、そんな……」
澤村さんと朝比奈《あさひな》さんに同時にそう言われて、春香が恐縮《きょうしゅく》したように顔の前で手を振《ふ》る。
放課後。
俺たちは朝に約束した通り、見舞品《みまいひん》を持って椎菜《しいな》の家へと向かっていた。
メンバーは澤村《さわむら》さん、朝比奈《あさひな》さん、春香《はるか》、俺の四人。
三馬鹿を除《のぞ》く信州旅行のメンバーである。
他にもクラスメイトたちが男子女子を問わずに何人も(三馬鹿含む)名乗りを上げていたのだが、あくまで見舞いである以上あまり大人数で行くのもどうかということで、代表のような形で俺たちが行くことになったのだ。
で、その椎菜の家だが、学園から電車で二駅ほどの距離《きょり》にあった。
街の中心部からは少し離《はな》れた閑静《かんせい》な感じの、比較的《ひかくてき》新興《しんこう》の住宅地が集まっている地域《ちいき》である。
「あ、ここだここだー。うん、前に見たのと同じだから間違《まちが》いないよー」
澤村さんが指差していたのは十字路に面した高台にある六階建てのマンション。
そこの五階の角部屋《かどべや》――五〇一号室で、椎菜は単身《たんしん》赴任《ふにん》中《ちゅう》の父親と二人|暮《ぐ》らしをしているらしい。
少し広めのエントランスを抜《ぬ》けエレベーターで五階へと上がっていく。
共用|廊下《ろうか》を二人ずつ並《なら》んで歩いていき、『天宮《あまみや》好幸《よしゆき》・椎菜』と書かれた表札の前へ。
ピンポーンと呼《よ》び鈴《りん》を鳴らすと少しして中から反応《はんのう》があった。
『はい、どちらさまですか?』
インターホンから返ってきたのは椎菜の声だった。
「あ、椎菜? 私、私だよー」
『え、その声……良子《りょうこ》?』
「そうだよ、私ー。開けてくれるかなー?」
『あ、うん、ちょっと待ってて』
半ば一昔前に流行《はや》ったオレオレ詐欺《さぎ》みたいな澤村さんの呼《よ》びかけにも理解《りかい》を示して、
それからすぐにドアは開かれた。
「やっぱり良子だ。どうしたの、突然《とつぜん》? あ、もしかして何か届《とど》け物《もの》でも頼《たの》まれてくれたとか――あれ、麻衣《まい》に乃木坂《のぎぎか》さん、裕人《ゆうと》も……」
びっくりしたような顔になる。
「どうしたのって、みんなでお見舞いに来たんだよー。椎菜がケガするなんて珍《めずら》しいじゃん」
「椎菜ちゃん、大丈夫《だいじょうぶ》?」
「お怪我《けが》の具合はどうでしょうか……?」
「あ……」
その言葉に椎菜は少し目をぱちぱちとさせて、
「そうなんだ……みんな、ありがとね」
ちょっとだけ感《かん》極《きわ》まったように目の下をこすりながらあははと笑った。
照れたような喜んでいるような笑顔《えがお》だった。
「――あ、せっかく来てもらったのにこんなところで立ち話もなんだよね。ひとまず上がってくれるかな? ちょっと散らかってるんだけど……」
「はーい、ささ、みんな遠慮《えんりょ》しないでー!」
「りょ、良子《りようこ》ちゃん。自分のお家《うち》じゃないんだから……」
「失礼しますです」
「あー、オジャマします」
それぞれがそれぞれの挨拶《あいさつ》の言葉を口にして、
椎菜《しいな》宅《たく》の玄関《げんかん》をくぐったのだった。
マンションの部屋の中は外から見るよりも意外に広かった。
間取《まど》り的《てき》には2LDKの簡素《かんそ》な造りで、ロフトとベランダ付き。
俺たちが通されたのはその中の客間|兼《けん》リビングだった。
「ごめんね、あんまり片付《かたづ》いてなくて。お父さん、新聞とか全部読んだままにして行っちゃうから……」
コタツの上に広げられていた新聞紙をどかしながら椎菜がちょっとバツが悪そうに言う。
「あ、いいっていいってー。気を遣《つか》わないでってたらー」
「そうだよ、椎菜ちゃんは座《すわ》ってて」
「お怪我《けが》をなさってるんですから……」
「え、そ、そう?」
澤村《さわむら》さんたち女子三人に言われて椎菜が動きを止める。
ちなみに稚菜は俺たちが来るまで寝《ね》ていたのか、パジャマに薄《うす》いカーディガンを羽織っただけの姿《すがた》だった。右足に包帯《ほうたい》を巻《ま》いている以外は普通《ふつう》の部屋着《へやぎ》(お休みバージョン)って感じである。ただパジャマがイカのキャラクターもの(『テンタクルーン♪』というらしい)の柄物《がらもの》なのは実にイカ好き娘ならではというか。
「あ、だったらお茶を淹《い》れるね。この前|美味《おい》しい焙《ほう》じ茶《ちゃ》の葉っぱが手に入って――」
立ち上がってひょこひょこと台所へ向かおうとして、
「あー、もうだから椎菜は何もしなくていいってー」
「お、お茶なら私たちが淹れるから……」
「そ、そうです、天宮《あまみや》さんは安静にしていてください」
再《ふたた》び皆《みな》に止められていた。
「う、うーん、でもお客さんがいるのに何もしないって逆《ぎゃく》にヘンな感じがする……」
そわそわと複雑な表情になる椎菜。
どうも身体を動かしてないと落ち着かないタイプみたいだな。
で、まあ朝比奈《あさひな》さんと春香《はるか》の手によって焙《ほう》じ茶《ちゃ》が庵《い》れられて、
「それで椎菜《しいな》ー、ケガってどんな感じなのー? ネンザだって由香里《ゆかり》先生は言ってたけどー」
澤村《さわむら》さんが湯飲みを口に運びながらそう切り出した。
「あ、そんなに大したことはないんだよ。包帯《ほうたい》があるから大げさに見えるけど要は軽い打撲《だぼく》だし、今日はちょっとだけ歩きにくかったから念のために休んだだけで……」
「そうなんですか?」
「うん、たぶん明日からは学校にも行くと思う。お医者さんに言われたから、いちおう松葉杖《まつばづえ》付きだとは思うけどね」
部屋《へや》の隅《すみ》に置いてあった杖《つえ》を手に取りながら苦笑気味に笑う。
ふむ、その様子《ようす》からして本当にそんな深刻《しんこく》なもんじゃないのか? 全治《ぜんち》二週間っていうからそれこそベッドの上から動けないほどのものかとも思ったんだが、それならひとまずは心配いらんのかもしれん。
「そうですか、大事がなくてよかったです……」
「うん、やっぱり椎菜ちゃんがいないと寂《さび》しいですから……」
春香たちもその報告《ほうこく》に安堵《あんど》しているようだった。
そんな中で澤村さんが、
「ふっふっふー、そっかそっか、椎菜、そこまで大したケガじゃないんだねー」
「? 良子《りょうこ》?」
「うんうん、安心したよー。さすがにあんまりひどいようだったら気が引けたけどー、だったらやることは一つしかないよねー」
「え?」
「こういう時にやること……そう、それはガサ入れだー!」
ぐっと手を天井《てんじょう》に向けて突《つ》き上《あ》げて楽しそうに笑った。
「部屋を抜《ぬ》き打《う》ち検査《けんさ》だよー。好きな男子の写真とか飾《かざ》ってないのかなー」
「え、ちょ、ちょっと、良子!」
慌《あわ》てたような椎菜の言葉をスルーして澤村さんは椎菜の部屋へと走っていって、
「わー、相変わらずふかふかなベッドだねー。うんうん、椎菜の匂《にお》いがするなー」
「りょ、良子!」
「あれ、なんか指輪《ゆびわ》みたいなのが飾ってある。んー、前に来た時はこんなのなかったよね?どうしたの、だれかからもらったとかー?」
「そ、それはだめだって!」
「あ、このブラかわいー。ていうか意外に大きい……これは綾瀬《あやせ》っちに報告だー!」
「な、何で裕人に……ていうかタンスを勝手に開けないで!」
そんな声とともにバタバタと物音が聞こえてくる。それだけでどんなやり取りがされているのか九十八パーセント想像《そうぞう》がつくのが怖《こわ》いところだな……
「あ、あの、だいじょうぶなのでしょうか、天宮さん……?」
春香《はるか》が心配そうにこっちを見上げてくる。
「いや、とめた方がいいと思うぞ……」
「そ、そうですよね? 何だか大変そうですし……」
「あ、わ、私も行ってきます」
春香と朝比奈《あさひな》さんがぱたぱたと部屋《へや》へと向かい、
解《と》き放《はな》たれたケルベロスのような澤村《さわむら》さんが二人の手によって連《つ》れ戻《もど》されたのはそれから五分後のことだった。
「んー、残念だなー、もう少し色々と見てみたかったんだけどー」
「あ、あれ以上やったら犯罪《はんざい》だよ、良子《りょうこ》ちゃん……」
やけにつやつやとした感じの澤村さんとぐったりと疲《つか》れた感じの朝比奈さん。
春香もその隣《となり》で少し困《こま》ったように笑っていた。
まあそんな感じに五人で過ごした。
その後もお代わりの焙《ほう》じ茶《ちゃ》(今度は俺と澤村さんとで淹《い》れた)を飲みながら話をしていたらいつの間にかイノブタはイノシシなのかブタなのかについての話になっていたり、澤村さんが第二次ガサ入れを始めようとして大騒《おおさわ》ぎだったり、リビングの隅《すみ》に置いてあったピアノを椎菜のリクエストに応じて春香《はるか》が弾いたり(シューベルト作曲の『即興曲《そっきょうきょく》OP90-3』とかいうやつらしい)して、
お見舞《みま》いにしては少しテンションが高すぎるんじゃないかと思うほどの大賑《おおにぎ》わいだった。
そして。
「――んー、それじゃそろそろ帰ろっか」
澤村《さわむら》さん(ガサ入れができて満足)がうーんと伸びをしながらそう言った。
「椎菜がだいじょぶそうってのは確認《かくにん》できたし、あんま長居《ながい》して迷惑《めいわく》だもんねー」
「そうですね、椎菜ちゃん、疲《つか》れちゃうかもしれません」
「はい、それがいいと思います」
朝比奈《あさひな》さんと春香もうなずき合う。
それには俺も同意見だった。お見舞いに来て余計《よけい》に相手に負担《ふたん》をかけちまったなんてのは本末転倒《ほんまつてんとう》である。
「それじゃ椎菜、また明日学校でねー」
「椎菜ちゃんが来るの、待ってますから」
「えと、おじゃましましたです」
玄関先《げんかんさき》で澤村さんたちがそう言って手を振《ふ》る。
「あ、うん。今日は本当にありがとね。みんなが来てくれて、すっごく嬉《うれ》しかったよ」
それに椎菜はにっこりと笑顔で返して、
「あ、ゆ、裕人《ゆうと》もありがと。わざわざごめんね、こっち、裕人の家とは反対方向なのに……」
「あー、いや」
別に大した距離《きょり》じゃないしな。
そううなずき返して、春香たちとともに玄関を出たのだった。
気が付いたのは椎菜の家から最寄《もよ》り駅までの道を半分ほど来た辺《あた》りでだった。
「ん、あれ?」
「? 裕人さん、どうしました?」
「いや、携帯《けいたい》がな……」
電車の時間を確認《かくにん》しようとしたところ、ポケットに入れていたはずの携帯が見当たらない。コートのポケットにも入ってないし、カバンの中にもないようだった。
「けいたいでんわ、ですか? えと、確《たし》か裕人さん、先ほどめ〜るをしていましたよね?」
「あ」
そうだった。
澤村《さわむら》さんによるガサ入れとやらの途中《とちゅう》でルコからメールが入ってきてそれに返信したんだった(ちなみに内容は『今日の夕食はエビがいい。天丼《てんどん》かエビフリャーかどちらかにしろ。決定だ』)。そういえばあれから携帯《けいたい》に触《さわ》った覚えがない。てことはそのまま……
「……悪い、忘《わす》れてきたみたいだ。ちょっと取ってくる」
「あ、でしたら私たちもいっしょに――」
「ん、いや大丈夫《だいじょうぶ》だ。者香《はるか》たちは先に帰ってくれてていいから」
わざわざいっしょに歩かせるのも悪いしな。
「ん、綾瀬《あやせ》っちどうしたのー?」
「どうも椎菜《しいな》のところに携帯を置きっぱなしにしてきたみたいなんだ。ちょっと取りに戻ってくる」
「あ、そうなんだー。道は分かるー?」
「ああ、さすがに今行って来たばっかりだから大丈夫《だいじょうぶ》だ」
これで迷子《まいご》になるようならどんだけ方向|音痴《おんち》かって話である。
というわけで春香たちと別れやって来た道を戻《もど》っていく。
コンビニ前の国道を抜《ぬ》けていき十字路へ。少し進むとすぐについ十分ほど前まで滞在《たいざい》していたマンションが見えてくる。
再《ふたた》びエレベーターでその五階まで上がり、一番|奥《おく》の角部屋《かどべや》へ。
「ここだったよな……」
いちおう表札を確認しつつ呼《よ》び鈴《りん》を押《お》す。
ピンポーン。
鳴《な》り響《ひび》く温泉《おんせん》卓球のようなチャイム音。
だが返事がなかった。
「?」
もう一度押してみる。
ピンポーン、ピンポーン。
だがやはり反応《はんのう》はない。
む、どうしたんだ? ほんの少し前に出て来たばかりだし、あの身体で椎菜が外に出るとも思えんのだが……
ドアの前で訝《いぶか》しく思っていると、
ガタン。
中から何かが倒《たお》れるような音が聞こえてきた。
「?」
今のは何の音だ?
不審《ふしん》に思って何となくドアノブに手をかけてみたところ、鍵《かぎ》がかかっていなかった。これは……
「椎菜《しいな》、いるのか……?」
ドアから顔だけ中に入れてそう呼《よ》びかけてみる。
だがパッと見る限《かぎ》り椎菜の姿《すがた》は見当たらない。
うーむ、もしかしてとは思うがフロに入ったりしてるとかか? それで今の音は突然《とつぜん》の来客(俺な)に慌《あわ》ててタライでも落としたとか……。だとしたらあまりしつこく呼びかけたりするのも悪いかもしれん。そう思いひとまず顔を引っ込めようとした時のことだった。
「……ん?」
視界《しかい》の端《はし》に何か白っぽいものが見えた。
廊下《ろうか》の隅《すみ》でうずくまる人影《ひとかげ》のようなシルエット。あの特徴的《とくちょうてき》なイカのキャラクターのパジャマは……
「……椎菜?」
「……」
「椎菜!」
「……」
うずくまっていたのは……椎菜だった。
慌《あわ》てて靴《くつ》を脱《ぬ》ぎ、駆《か》け寄《よ》って抱《だ》き起《お》こす。
「椎菜、大丈夫《だいじょうぶ》か!?」
「あ、あれ、ゆ、裕人《ゆうと》……? あ、あはは、ヘンなとこ見られちゃったね……」
「いやそんなこと言ってる場合じゃないだろ!」
口では軽い感じでそう言いつつも椎菜は右足を押《お》さえて苦しそうな表情をしている。確認《かくにん》するまでもなくネンザした足が痛んでいることは明らかだった。
「足が痛むんだな? とにかくどこか横になれるところを探《さが》さんと……。ちょっと悪い!」
「あっ――」
驚《おどろ》いたように小さく声を上げる椎菜を抱《だ》きかかえて、
一直線に部屋《へや》の奥《おく》へと走ったのだった。
「ご、ごめんね、なんか迷惑《めいわく》かけちゃって……」
毛布《もうふ》で半分ほど顔を隠《かく》しながら椎菜が申《もう》し訳《わけ》なさそうにそう声を出す。
「ま、まさかあんなとこ見られちゃうなんて思わなかったから……。お、重かったでしょ? その、抱っことかさせちゃって……」
「いいから、そんなこと気にするなって」
椎菜《しいな》が寝《ね》ているのは、自室のベッドだった。
とりあえず勢いのままに椎菜を抱き上げたもののどこに運ぶべきなのか分からず、リビングのソファに寝かせるわけにもいかなかったので、本人の許可《きょか》をとって椎菜の部屋《へや》にまでやって来たのだった。
「――それより、大丈夫《だいじょうぶ》なのか?」
「え?」
「調子、だいぶ悪そうに見えるんだが……。もしかしてお見舞《みま》いの時からずっと痛《いた》んでたのか?」
「あ、や、それは……」
一瞬《いっしゅん》口ごもる椎菜。
だがすぐに観念《かんねん》したように、
「う、うん、少しだけ……。ほんとはまだ動かすとちょっと痛い……かな」
微妙《びみょう》に気まずそうな声でそうぽそりとつぶやいた。
むう、おそらく椎菜のことだから澤村《さわむら》さんたちに心配かけまいとして黙《だま》ってたんだろう。そういう周りに迷惑《めいわく》をかけまいとするところは実にこのフレンドリー娘らしいんだが……
「あ、で、でももうだいじょうぶなんだよ。確《たし》かに痛いには痛いんだけど身動きできないほどじゃないし、それにこれでも朝に比べればだいぶよくなった感じなの。だからそんなに心配してくれなくても……」
「そうなのか?」
「う、うん」
「でもさっきは……」
まったくもって大丈夫そうに見えなかったんだが。
「あ、あれは、その……」
「?」
「そ、その、ちょっとお腹《なか》が空《す》いたから戸棚《とだな》に置いてあったコーンフレークでも食べようと思ったの。そうしたら足にカが入らなくて、ちょっと滑《すべ》っちゃっただけで……」
そう言いかけて、
そこで、
ぐ〜……
ジャンケンのパーに負ける握《にぎ》り拳《こぶし》のような音が鳴った。
「……あっ……」
「……」
椎菜の顔がみるみる真っ赤になる。
「……」
「……」
「……もしかして、何も食べてないのか?」
訊《き》いてみると椎菜《しいな》はさらに顔を赤くして、
「……う、うん。朝はあんまり食欲なくて、お昼はずっと寝《ね》てたから……」
小声でそうもにょもにょとする。
どうやらビンゴのようだ。ふむ、だったら――
「……鍋焼《なべや》きウドンとかなら、食べられるか?」
「え?」
「ウドン、別に嫌《きら》いとかじゃないよな? よければパパッと作るからそれでも食わないか?」
さっき焙《ほう》じ茶《ちゃ》のお代わりを淹《い》れた時に台所にウドンのパックがあるのをたまたま見かけていたのである。
なのでそう提案《ていあん》してみたところ椎菜はぶんぶんと顔の前で両手を振《ふ》って、
「そ、そんなの悪いって! へ、平気だよ、ご飯くらい自分で何とか……」
「その足じゃ色々大変だろ。実際《じっさい》今だって何とかなってなかったわけだし」
「う、それは、そう、だけど……」
椎菜はしばらく悩《なや》んでいるようだったが、
やがて毛布《もうふ》で顔を半分|隠《かく》しながら遠慮《えんりょ》がちに、
「…………だ、だったらお願いしても、いいかな? や、やっぱりお腹《なか》空《す》いちゃって……」
「ああ、任《まか》せてくれ」
ドンと胸《むぬ》を叩《たた》いてうなずき返す。
こういう時はお互《たが》い様だしな。
材料は一通り揃《そろ》っていたため、すぐに鍋焼きウドンはできた。
普通《ふつう》の素《す》ウドンにシイタケとかの野菜を混《ま》ぜただけの簡単《かんたん》なカツオダシ風味《ふうみ》のウドン。
味付けを関東風と関西風のどっちにしようか少し迷《まよ》ったんだが、結局|後者《こうしゃ》にした。一日何も食べていない時にはこういったあっさりしたものの方が受け付けやすいはずだ。
「できたぞ、椎菜」
完成した鍋に一度フタをして、取り皿やらレンゲ、付け合わせのキンピラゴボウとともにトレイに載《の》せて椎菜の前まで運んでいく。
もわもわと湯気《ゆげ》を上げる鍋を見ると椎菜は歓声《かんせい》を上げた。
「うわ、おいしそー! これ、裕人《ゆうと》が作ってくれたんだよね?」
「ああ、あり合わせなんで多少|適当《てきとう》な部分もあるんだが……」
「えー、全然そんな風に見えないよ! うちの冷蔵庫の中身からここまでできるんだー。すごいなー、裕人《ゆうと》って料理がうまかったんだね!」
「いやそんな大げさなもんじゃ……」
ただのウドンだしな。作り方さえ知っていれば保育園児にだってできる代物《しろもの》である。
「それよりせっかくだからあったかい内に食べてくれ。――ほら」
いちおう食べやすい量にまとめて取り分けながらウドンをレンゲの上に載《の》せて椎菜《しいな》の口元へと差し出す。
「え……」
「? どうした、食べないのか?」
と、椎菜はちょっと困《こま》ったような顔で、
「う、うん、た、食べるけど……」
「?」
「そ、その、自分で食べられるかなー、って……」
「あ……」
そう言われればそうだ。
いかんな。いつかのクリスマスのおかゆ体験《たいけん》の影響《えいきょう》で、こういう看病食《かんびょうしょく》(?)といえば「あーん」をして食べさせてもらうもんだっていう微妙《びみょう》に間違《まちが》った知識《ちしき》がすっかり脳にインプットされちまってた。
「あ、あー、悪い。そうだよな、何やってんだ、俺」
照《て》れ隠《かく》しにメガネの位置《いち》を直しつつレンゲを椎菜に手渡《てわた》そうとして、
「……」
「椎菜?」
「…………し、して、いいかな」
「お?」
「…………あ、や、やっぱりお願いしても、いいかな。その、た、食べさせてもらうの……。せ、せっかくだし、こんな機会ってそんなにないし……あ、う、ううん、もちろんだめなら、い、いいんだけど……」
最後の方はかなり小さな声で椎菜がそう言った。
「ん、あ、いや、問題ないぞ」
「え?」
「全然|大丈夫《だいじょうぶ》だ。ていうかもともとそうしようとしたわけだしな」
「ほ、ほんと?じゃ、じゃあ……」
ちょこんとこっちに顔を向けて遠慮《えんりょ》がちに小さく口を開けてくる。「お、お願いします……」
「ん、じゃあいくぞ」
「う、うん」
うなずく椎菜《しいな》を確認《かくにん》して、
レンゲに載《の》せたカツオブシまみれのウドンを口元に運んだ。
「……すっごくおいしい」
「お、ホントか?」
「うん、カツオブシの旨《うま》みにシイタケのほのかなダシとかがマッチして、とってもいい味だよ♪」
満面《まんめん》の笑《え》みでそう言ってくれる。
その表情は社交|辞令《じれい》とかでなく本当においしく食べてくれているようで……むう、そんな風に喜んでもらえれば作った甲斐《かい》があったってもんだ。
「なら遠慮《えんりょ》せずにどんどん食べてくれ。まだたくさんあるからな」
「うんっ、もらうねっ」
そんな感じに逆「あーん」体験(いや別に「あーん」とは言ってないんだが)を進めていく。
そしてウドンが半分ほどなくなったところで、
「でもまさか裕人《ゆうと》にウドンを食べさせてもらうなんて思わなかったなー」
鍋《なべ》に浮《う》かんだナルトに目をやりながら椎菜がそんなことを言った。
「ていうかだれかにこんな風に食べさせてもらうのって初めてかも。小さい頃《ころ》はお父さんとかがやってくれることはあったけど」
「いやそれは俺もだ」
まあ面倒《めんどう》くさがりのアホ姉とセクハラ音楽教師にカユの身を全部|殻《から》から出して口に押し込んでやったことはあったが、それはまたまったくもって別の話だろう。
「なんかいいね……こういうのって」
「ん?」
椎菜がぽつりと言った。
「ご飯の時に一人じゃなくてだれかがいっしょにいるのって。あたし、いつも一人だから」
「そうなのか?」
一人って、家族といっしょに食べたりしないんだろうか。
というかどうにも椎菜には常にだれかとわいわい楽しく笑いながら過ごしてるってイメージがあるんだが。
「うん。お父さんはだいたい仕事で帰ってくるのが遅《おそ》いから夕ご飯は一人で済《す》ませることがほとんどかな。休日とかもあんまり時間が合わないし……。だからこっちに来てからはこうやってだれかとご飯を食べるのは久しぶりなんだけど、やっぱり一人で食べるよりずっとおいしいね、へへ」
本当に嬉《うれ》しそうに笑う。
「椎菜……」
「あ、なんかちょっと湿《しめ》っぽくなっちゃったかな。ごめんね、食べよ食べよ。ほら裕人、そこのカマボコがおいしそうだよー」
「ん、ああ」
レンゲで半円型のカマボコを拾いながらうなずき返す。むう、普段《ふだん》はどこまでも屈託《くったく》なく見えるフレンドリー娘にも色々とあるんだな……
そんなことを思いつつ再《ふたた》びウドンを椎菜《しいな》の口へと運んでいき、
やがて、
「――ごちそうさまでした」
時間にして十五分ほどの鍋焼きウドンタイムは終了した。
付け合わせのキンピラゴボウも含《ふく》めて、椎菜は全部きれいに食べてくれた。
「あー、ほんとにおいしかったー! こんなにおいしいご飯を食べたのって久しぶりだよ!
おかげでだいぶ元気が出た感じ。ありがとね、裕人《ゆうと》」
「いや、気に入ってくれたんならよかった」
そこまで満足してもらえれば作った者|冥利《みょうり》に尽《つ》きるってもんである。
「――んじゃ片付《かたづ》けちまうか。スポンジとか、流し台にあるやつを適当《てきとう》に使っても大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「あ、いいよ。その辺に置いておいてくれれば。それくらいあとであたしが片付けるから」
椎菜が手をぶんぶんと振《ふ》りながらそう口にする。
「ん? いや、こんなのはすぐだからパパッとやっとくって」
「え、ほんといいっていいって。ご飯を作ってもらって食べさせてもらって、さらに後片付けまでしてもらうなんて、そんなの過保護《かほご》すぎだよ、いたれりつくせりすぎだよ」
「でもな……」
ネンザした右足じゃ流し台に立つのも難儀《なんぎ》だろう。
それに俺自身、普段《ふだん》の常習的《じょうしゅうてき》な家事ルーチンのせいで目の前に未洗浄《みせんじょう》の食器があると洗いたくなるんだよ……(ある意味|貧乏性《びんぼうしょう》)
「とにかくあたしが片付けるから、裕人はゆっくりしててくれればいいって」
「いやここはやっぱり俺がやった方が」
「あたしが――」
「俺が――」
そう言って同時に鍋に手を伸ばそうとして、
「おっ……」
「あっ……」
ぴたっ。
鍋の取っ手の上で重なる感じで、手と手が触《ふ》れ合《あ》った。
手の先から伝わるほんのり温《あたた》かくて柔《やわ》らかい感触《かんしょく》。
それはシンクロニシティでダイレクトな接触《せっしょく》だった。
「あ、ス、スマン!」
熱湯《ねっとう》に手を突っ込んだチンパンジーのごとく慌《あわ》てて椎菜《しいな》の手から手を離す。
「あー、いや、何と言うか、これはたまたまで、わざととかじゃなくてだな……」
焦《あせ》りつつも何とか説明しようと試みるものの。
とはいえ今までのパターンからおそらくフレンドリー娘はそこまで気に留《と》めていないはずだ。
こういったことには実にあっさりとしているし、いつものごとく軽いノリで「あはは、裕人《ゆうと》何そんなに慌ててるの? あたしは別に気にしてないって」みたいな反応《はんのう》が返ってくると思ったんだが――
だがしかし、
「あ、え、えっと……」
俺の言葉に椎菜はなぜか動揺《どうよう》したようにふるふると首を振《ふ》って、
「う、うん、わ、分かってるよ。た、たまたまなんだよね? たまたまぶつかっただけで……。べ、別に気にしてないからさっ」
微妙《びみょう》に顔を赤くしながらそう言った。
そこにはいつかのようなあっけらかんとしたノリはなかった。
「そ、そうか……」
いつもと違《ちが》うフレンドリー娘の雰囲気《ふんいき》に戸惑《とまど》いつつもそう答える。
「う、うん……」
「……」
「……」
そしてそのままなぜか沈黙《ちんもく》。
二人して空になった鍋を挟《はさ》んだ状態《じょうたい》で黙《だま》り込《こ》んでしまう。
う、な、何だ、この空気は……?
今までにないアレな雰囲気である。どこか据《す》わりの悪い感じで、強《し》いて言えばあの温泉《おんせん》での気まずさに近い感じというか……。しかし現状は温泉で二人きりとかではなく、状況《じょうきょう》だけ見れば部屋の中で単に少しばかり手が接触しただけってのに、何だってこんなに二人してマングースとお見合いさせられたアマミノクロウナギみたいになってるんだ……
「……」
「……」
そのままどれくらい経《た》っただろうね。
「――あ、あのさ」
「ん、な、何だ?」
「あ、か、片付《かたづ》けなんだけどさ、や、やっぱり、裕人に任《まか》せても、い、いいかな」
「え?」
「そ、その、こ、このお鍋《なべ》の……」
気付けばすっかり耳まで赤くなっていた椎菜《しいな》が鍋の取っ手に目を落としながらもじもじと言った。
「あ、お、おう。ど、ドンと来い。任《まか》せとけって感じだ」
「う、うん。ご、ごめんね、迷惑《めいわく》かけて……」
「い、いや。――じゃ、じゃあ洗ってくるからな!」
そう首を振って鍋を掴むと、俺はその場の妙《みょう》な空気を振《ふ》り払《はら》うかのように早足で部屋《へや》を出て台所へ向かったのだった。
「あ、裕人《ゆうと》、ご、ごくろうさま」
台所から戻《もど》った俺を迎えてくれたのは、椎菜のそんな言葉だった。
「流し台、けっこう狭《せま》かったと思うけどお鍋とか平気だった? 洗いにくかったりとかしなかったかな?」
「ん、あ、いや別に大丈夫だったぞ。ウチのもあれくらいだしな。それより乾燥機《かんそうき》を一時間でセットしておいたが、よかったか?」
「え、そこまでしてくれたんだ? 洗ってくれるだけでも十分だったのに……さすがっていうか、ホント気が利《き》くよね。ありがとっ」
それはいつもと変わらぬ最上級にフレンドリーなノリで、さっきまでのアマミノクロウサギな様子《ようす》は見当たらない。
むう、よく分からんがあの妙な空気というか雰囲気《ふんいき》は一時的|偶発的《ぐうはつてき》な現象《げんしょう》だったんだろうか。熱帯雨林《ねったいうりん》地方のスコール(飲料の方ではなく)みたいなもんで、発生時のインパクトは強烈《きょうれつ》だが長くは続かないとかで……
真偽《しんぎ》は不明だが、ともあれ事態《じたい》が解決《かいけつ》(?)したのならあまり深く考えても仕方がない。
なので俺もなるべく意識《いしき》せずに普段《ふだん》通りに接《せっ》することにした。
「――それでさ、そこで良子《りょうこ》が突然《とつぜん》カラオケに行こうって言い出してねー」
「ほうほう」
「マイマイク片手《かたて》に大変だったんだよ。麻衣《まい》といっしょに止めたんだけど『急に演歌《えんか》が歌いたくなったんだよー、歌えないと泣いてやるー』って……」
「澤村《さわむら》さん、相変わらず自由だな……」
交《か》わされるそんな何でもない会話。
それは他愛《たあい》のない日常話《にちじょうばなし》で、この上なくいつも通りの気安いものである。
「あ、そうだ。カラオケといえばさ、この前出た『Chocolate Rockers』の新譜《しんぷ》ってもう聴《き》いた?」
と、椎菜《しいな》が胸《むね》の前でぱふんと手を合わせて言った。
「ん、いやまだだが。出てるのか?」
「うん、『とまどいビターチューン』。先週の水曜日だったかな。すごくいい曲だよ。今回は割とハードっていうか激《はげ》しい系な感じなんだけど、それはそれでまた新しい方向性っていうか……よかったら聴いてみる?」
「お、いいのか?」
「うん。えっとコンポに入ってるはずだから、リモコンリモコンっと……」
ベッド横のリビングボードに置いてあったリモコンらしきものを椎菜がぽちっと操作《そうさ》する。
カシャカシャという音とともにコンポが起動して、スピーカーからスピーディーなメロディーが流れ出した。
「お……」
「どうどう? いい感じじゃない?」
心地《ここち》よく響《ひび》く姫宮《ひめみや》みらんの歌声。
今までの『Chocolate Rockers』の曲風とは少し違《ちが》った感じだがそれでも根底《こんてい》に流れているものは共通しているようで、すんなりと耳に入ってくる。
「確《たし》かにいいノリだな……」
「でしょ? 裕人《ゆうと》なら絶対《ぜったい》気に入ると思ったんだー」
嬉《うれ》しそうに椎菜が笑顔《えがお》を見せる。
「やっば裕人とは曲の趣味《しゅみ》が合うのかもね。好きなアーティストとかもかなり被《かぶ》ってるし、考えてみれば裕人と初めて寄り道したのも『Chocolate Rockers 』のCDを買いに行った時だったんだよねー」
「ああ、そういえば……」
少し前に文化祭の実行委員会をいっしょにやっていた頃《ころ》。
その帰り道でたまたま好きなアーティストの話とかになって、その流れでCDショップに行くことにしたんだっけか。
「確かあれってあたしがこっちに転校してきてすぐだったかな? てことはあれからもう半年か、早いなー」
ちょっと遠くを見るような目になる椎菜。
「考えてみると色々あったよねー。文化祭もそうだしクリスマス前の買い物とか初詣《はつもうで》とかこの前の温泉《おんせん》旅行とか。ていうかそもそも裕人と初めて会ったのなんてロンドンだしね」
「そうだな……」
確かにその通りだった。
椎菜《しいな》と知り合ってからのこの半年は、本当に様々な出来事《できごと》が満載《まんさい》だった。次から次へと色々なイベントが押し寄せてきた感じで、ある意味|忘《わす》れられない六ヶ月間だっただろう。
「――でもほんとはね、最初はけっこう不安だったんだよ?」
「ん?」
と、椎菜がぽつりと言った。
「こっちに転校してきた時。あたし転校っていうか北海道から出るの自体初めてだったし、ましてや東京なんて想像《そうぞう》もしてなかったからさ。内地の人ってどうなんだろうとか色々考えちゃって。だから初めて登校した日、裕人《ゆうと》がたまたま同じクラスにいてちょっとほっとしたりもしたんだよ?」
「そうなのか?」
「うん、おかげでやっと自分らしくなれたっていうか、安心できた感じかな」
そんな裏事情《うらじじょう》があったのか。あのフレンドリーマックス百二十パーセントというかこれっぽっちもアウェー感を匂わせない雰囲気《ふんいき》からはそういった様子《ようす》は微塵《みじん》も感じられなかったんだが……
すると椎菜はじ〜っとこっちを見て、
「あー、なんか疑ってる? そんなことあるかーって目してるよ」
「! い、いや、そういうわけじゃ」
なくもないんだが……
「えー、怪《あや》しいなー。どうせあたしはどんなとこでもホームなノリでやっていける能天気なお気楽娘とか思ってたんじゃないのー?」
からかうように俺の額《ひたい》を指でつんつんと突《つ》きつつ、見事に図星も突いてくる。
むう、この前の美夏《みか》といい今の椎菜といい女子はそういった勘《かん》が鋭《するど》いな。まあ俺が顔に出すぎてるだけなのかもしれんが。
俺はゴホンと咳払《せきばら》いをすると少し話題を変えて、
「あー、転校といえば、そういえば椎菜はこっちに来る前はどうだったんだ?」
「え?」
「小樽《おたる》に住んでたって言ってたよな? 向こうではどんな感じだったんだ?」
それは話題|転換《てんかん》のために何となく訊《き》いてみたことだが、実際《じっさい》興味《きょうみ》のある話だった。
考えてみれば俺はこっちに転校してくる前の椎菜のことはほとんど知らない。分かっていることと言えばピアノをやっていてロンドンのコンクールに出場してたってことくらい。後は確実《かくじつ》にその頃《ころ》からイカ好きだっただろうってことか。
その質問に椎菜もうなずいて、
「そっか、そう言われてみればあんまりあっちのことって話したことなかったよね。別に隠《かく》してたってわけじゃないんだけど改めて話す機会もなかったからなー。んー、何から話したらいいんだろ……あ、そうだ、写真とかあるけど見る?」
「お、ホントか?」
「うん、そんなにたくさんはないんだけど。――えっと、確《たし》かこの辺に……」
そう言って椎菜《しいな》がベッドのすぐ脇《わき》にある小棚《こだな》の引き出しから取り出したのは――
「んー、今あるのだとだいたいこれくらいかな」
「おお」
――小さな箱に入った数冊のミニアルバムとプリクラ手帳だった。
「大きなアルバムとか卒業アルバムとかはさすがに実家に置いてきちゃったから、そんなにたくさんはないんだけど……」
そうは言うものの、それでもけっこうな量である。
「見てもいいか?」
「うん、だいじょうぶだよ」
椎菜がうなずくのを確認《かくにん》してまずはミニアルバムの方をめくっていく。
「お、これ椎菜か?」
と、最初のページでさっそくフレンドリー娘を発見した。
今よりも少しだけ子供っぽい表情でピースサインとともににっこりと笑いかけている姿《すがた》。
その活発かつフレンドリーな雰囲気《ふんいき》は現在の椎菜のままだが……今と一つだけ違うところがあった。
それは――
「椎菜……昔は髪長かったのか?」
「あ、うん、そうだよ」
写真の中の椎菜はロングだった。
それも今の春香《はるか》に近いくらいのけっこうなロング。もちろん椎菜は椎菜なんだが、だいぶ見た目の印象《いんしょう》が違《ちが》うというか。
「高校入学前の春休みに切ったんだー。三月の下旬《げじゅん》くらいだったかな。それからはちょこちょこアレンジしてもらったりはしてるけど、基本はずっと同じくらいの長さかな」
「へえ……」
そうなのか。
今の椎菜を知っている身としてはいまいち見慣《みな》れないものの、ロングもロングでまた違《ちが》った雰囲気があってなかなかにいい感じである。しかし何だってまたそこまでばっさり切ったんだろうか? 何かそうするような特別な理由でもあったとか……
すると椎菜はふいに慌《あわ》てたような様子《ようす》になって、
「あ、べ、別に失恋とかそういうんじゃないんだよ?」
「え?」
「た、ただちょっと高校入学で気分を変えたいなーってそこはかとなく思っただけで、特に深い意味はなくて……」
なぜか焦《あせ》ったようにそうばたばたと両手を動かす。いや別にそんなこと(失恋とか)は一言も言ってないんだが……
「………………だって、こんな気持ちになったのは裕人《ゆうと》が初めて、なんだもん……」
「?」
何か言ったようだが、声が小さくてよく聞こえなかった。
「と、とにかく大したことじゃないんだよ。き、気にしないでったら」
「ん、あ、ああ……」
よく分からんがそういうことらしい。
俺としては特にこだわるようなところでもなかったので、そういうもんだと納得《なっとく》してとりあえず写真|閲覧《えつらん》を続行していく。
「お、これは中学の頃《ころ》のプリクラか?」
「あ、そだね。中二の秋くらいのやつだ。懐《なつ》かしいなー」
「こっちのブレザーを着てるのは……」
「それは向こうの高校の頃のかな。小樽《おたる》にある公立校だったんだよ。ちなみにいっしょに写ってるのは友達の舞葉《まいは》と華《はな》ちゃんっていうんだー」
「む、なんかイカといっしょに写ってるのがあるんだが……」
「あ、それはね、友達でお父さんが漁師《りょうし》をやってる子がいておすそ分けしてもらったの。生ヤリイカだよ、ヤリイカ!」
そんな感じにアルバムや手帳を見ていった。
写真やプリクラはだいたい中学入学からこっちに転校してくる直前までのもので、それぞれ多彩《たさい》なラインナップが揃《そろ》っていたため、見ていて飽《あ》きなかった。
「あ、それでこっちの写真は中三の頃に家族でお花見に行った時のでねー」
「ふむふむ」
「うん、弟たちが桜に登ったりしちゃって大変だったんだよ。そっちには妹も写ってるかな」
「へぇ、さすがに姉妹だけあって椎菜《しいな》に似《に》てる感じだな」
繰《く》り広《ひろ》げられるそういった楽しげな会話。
で、気付けば、
「ん? おお、もうこんな時間か……」
鍋焼《なべや》きウドンを終えてからずいぶんと時間が経過《けいか》していた。
窓《まど》の外ではとっぷりと日が落ちて、ホタルイカのイカスミのような暗闇《くらやみ》に(……椎菜の影響《えいきょう》を受けたか)包まれている。
「あー、ついつい長居《ながい》しちまったな。さすがにそろそろ帰らんとマズイか」
「え、そう……なの?」
「ああ、いいかげん時間も時間だしな」
「そっ、か……」
椎菜《しいな》の声がちょっとだけ沈《しず》んだ感じになる。
「あ、で、でもしょうがないよね、裕人《ゆうと》にだって何か用事とかあったりとかもするだろうし……」
「ん? いや俺は全然ヒマなんだが……」
どうせやることと言えばアホ姉たちへのエサやり(エビフリャー)くらいである。だがさっきも言ったが、そもそもが見舞《みま》い目的で来た以上ヘタにダラダラと居座《いすわ》って逆《ぎゃく》に椎菜に迷惑《めいわく》をかけることになっては何をしに来たんだか分からなくなっちまう。
それを告《つ》げると、しかし椎菜はぶんぶんと首を振《ふ》って、
「あ、あたしはだいじょうぶだよ!」
「え?」
「あたしは全然だいじょうぶ! 迷惑なんてことはこれっぽっちもないって! そ、それどころかむしろまだいっしょにいてほしいっていうか――」
「え……?」
と、そこで何かに気付いたかのようにはっとした顔になって、
「あ、ご、ごめん、何言ってるんだろ、あたし。裕人にだって都合《つごう》があるのに……」
「……」
「え、えっと、ごめん、今のは忘《わす》れてくれるかな、あ、あはは……」
頭の後ろに手を当てながら笑う。
そのどこか寂《さび》しそうな様子《ようす》に少し前の椎菜の言葉が思い出された。
『なんかいいね……こういうのって』
『ご飯の時に一人じゃなくてだれかがいっしょにいるのって。あたし、いつも一人だから』
『だからこっちに来てからはこうやってだれかとご飯を食べるのは久しぶりなんだけど、やっ
ぱり一人で食べるよりずっとおいしいね、へへ』
本人は何ともなしに言っていたそれらの言葉。
普段《ふだん》の明るくフレンドリーな面からはまったくもって伺《うかが》い知《し》れんのだが、もしかしたら心の内では本当は椎菜は寂《さび》しい思いをしてるのかもしれん。
だったら――
「――もう少し、いても大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「え……?」
「あー、やっぱり帰るのはもう少し後にしようと思うんだが、いいか? 今日は何となくまだ話してたい気分なんだ」
俺のその言葉に椎菜《しいな》は少しの間ぱちぱちと瞬《まばた》きをしていたが、
「あ、う、うんっ! もちろんだよっ!」
すぐに満面《まんめん》の笑《え》みを浮《う》かべて、大きくうなずいた。
そういうわけでもう少しだけ椎菜|宅《たく》に滞在《たいざい》することになった。
それからも色々と話をしながらさっきまでの続きで色々と写真やプリクラを見たり、椎菜お勧《すす》めのクラシック音楽を聴《き》いたり、またなぜか置いてあった囲碁《いご》セットで五目並《ごもくなら》べやリバーシをしたりもした。
のんびりまったりとしたひと時。
それはこれといって特別なものではなかったが、穏《おだ》やかで楽しい時間だった。
そして
「――さすがにそろそろお暇《いとま》せんとな」
「え?」
「かなり遅《おそ》くなっちまった。いくら何でもこれ以上は……」
壁にかかっている時計で時間を確認すると、八時をもうすでに三十分ほど回ったところだった。いいかげんタイムリミットだろう。
「あ、で、でもうちはまだだいじょうぶだよ? あたしはいつも寝るのは十二時過ぎだし……」
「いやそういう問題じゃなくてだな」
一股的に考えても他所様《よそさま》の家にオジャマしているのには遅い時間であるのに加え、その、椎菜は何だかんだで女の子であるわけだ。他にだれもいない女子の部屋《へや》(夜)にいちおうはお年頃《としごろ》なメガネ男子である俺が一人で居座《いすわ》るのは問題がありすぎる。
「だからスマンがそろそろ帰るな」
「う、うん……」
沈《しず》んだ声でうつむく椎菜。
その姿《すがた》はお留守番《るすばん》を任《まか》されて落ち込み気味《ぎみ》のチワワのようで少しばかり心苦しくなるが……仕方がない。
俺は床《ゆか》に置いてあったカバンを手に立ち上がって、
「んじゃまた明日な。あ、送るのはこごでいいぞ。玄関《げんかん》まで歩いたりしてまた足に負担《ふたん》がかかったりしたらコトだからな」
「……」
返事はない。
「じゃあ俺は行くから――」
そう言ってまさに部屋《へや》のドアへと足を向けかけた時のことだった。
ぱふん……
背中《せなか》に、何か柔《やわ》らかい衝撃《しょうげき》が着弾《ちゃくだん》するのを感じられた。
柔らかくて軽い、どこか心地好《ここちよ》ささえ感じるソフトタッチな衝撃。
「?」
何だろうか? まさかどうしようもない俺の背中に天使が舞《ま》い降《お》りたってわけじゃあるまいし……と振《ふ》り返《かえ》ると、
「……」
「!?」
そこには……ベッドから上半身を起こすようにして背中に抱《だ》きついている、椎菜《しいな》の姿があった。
「し、椎菜………?」
「……」
背中一面に椎菜の身体の感触《かんしょく》が広がっていた。
柔《やわ》らかいような温《あたた》かいような、それでいて背中が包み込まれるような不思議《ふしぎ》な感触。
一瞬《いっしゅん》状況《じょうきょう》が認識《にんしき》できずに頭の中がパンダの体毛の黒地でない部分のように真っ白になる。
「あ、あー……」
何と言っていいか声が出ない。
背中に埋《うず》められた椎菜の顔、後ろから腰《こし》の辺《あた》りに回された腕《うで》、もたれかかるようにして預《あず》けて[#「て」は底本にはあるが、いらないのでは?]られた上半身。
それらの諸要素《しょようそ》に思考《しこう》機能《きのう》及び言語機能が完全にパラライズしてる感じである。
「……」
――い、いやこれはいったいどういう状況なんだ?
事態《じたい》がまったくもって掴《つか》めんというか先行きが昨今の日本の政局|並《な》みに不透明《ふとうめい》というか……。もしかしてとは思うが俺を玄関《げんかん》まで送ってくれようとして立ち上がりかけたところバランスを崩《くず》して寄りかかってきた……ってわけじゃないよな、いくら何でも。
考えてもその意図《いと》は分からず、結果として客観的《きゃっかんてき》にあるのは背中に椎菜がもたれかかってきているという現状だけである。
ともあれこのまま状況|停止《ていし》していても何も始まらん。
俺は一度深呼吸をして動揺《どうよう》を落ち着かせて、
「あー、し、椎菜《しいな》、その、だな、これはいったい……」
何とかノドの奥《おく》から声を捻《ひね》り出《だ》す。
「!?」
と、そこで椎菜がぴくっと身体を震《ふる》わせた。そのまま我に返ったかのようにもたれかからせていた顔を上げて、
「あ、え、えっと、こ、これは……」
「……」
「こ、これは違うの、そ、その、あの、何ていうか……そ、そう、ちょっとバックドロップをしようとして……」
「……」
「し、しようとして……」
その声がどんどんと小さくなっていく。
やがて、
「…………う、ううん、違わない」
「え?」
「何にも………違わないよ。あたしの気持ちは、今のこの通り。あ、あたし、まだ裕人《ゆうと》に帰ってほしくなかった。一人はやっぱり寂《さび》しいし、心細いし、それに……」
そこで一度言葉をとめて、
「そ、それに……もっと裕人といっしょに……いたい……」
しぼり出すようにそう言うと、再《ふたた》び顔を背中に埋めて回した手にさらに強くきゅっと力を込めてきた。
その手は思った以上にずっと華奢《きゃしゃ》で小さくて……かすかに震えていた。
「椎菜……」
「ご、ごめんね、勝手なこと言って……でも、でも、もう言いたいことを、伝えたいことをちゃんと伝えることができないで後悔《こうかい》するのはイヤだったの。き、昨日だって……」
「――昨日?」
「……あっ……」
俺のその言葉に椎菜はしまったって声を出した。慌《あわ》てたように顔を上げて「あ、そ、その、い、今のは何でもなくて……」
「昨日って何のことだ? もしかして様子《ようす》がおかしかったのと何か関係があるのか?」
真っ直ぐに顔を見て訊《き》き返《かえ》す。
すると椎菜は観念《かんねん》したかのようにきゅっと目をつむって、
「……き、昨日も、ほんとは同じだったの……」
「え?」
「き、昨日の放課後……う、ううん、ほんとは昼休みから……裕人《ゆうと》に話したいことがあった、渡《わた》したいものがあったの。で、でも、なんかあの温泉《おんせん》旅行からうまく喋《しゃべ》れなくて……」
「……」
「あの時以来、裕人の顔を見ると何だかそわそわして落ち着かない気持ちになって、う、うまく接《せっ》することができなかったの。しばらくすれば元に戻るかと思ったんだけど、全然だめで……。昨日も結局昼休みには言えなくて、放課後に追いかけまでしちゃったのに、それでもやっぱり最後はごまかして逃《に》げちゃって……」
そう言って再《ふたた》び顔をうつむかせる。
やっぱり椎菜《しいな》、あの温泉|遭遇《そうぐう》事件を気にしてたのか……
それもそんなに思《おも》い詰《つ》めるくらいまで。そこまで悩《なや》んでいるんだったなら、やはりもっと早くキチンと話しておくべきだったかもしれん……
「……スマン」
「え……?」
思わず俺はそう口にしていた。
「椎菜がそんなことで悩んでたなんて金然分からなかった。様子《ようす》がおかしいのには気付いてたんだが、それ以上のことは全然……たぶん俺は色々と気付けてないことがあるんじゃないかと思う。それで椎菜《しいな》にイヤな思いをさせたりして……」
温泉遭遇《おんせんそうぐう》事件のことだけじゃない。
足のケガのことだってそうだし、そもそも昨日追いかけてきてくれた時点で椎菜が何かを話したがってたなんてことにはこれっぽっちも気が付けなかった。きっとそういうものが積もり積もって、今の状況《じょうきょう》を作り出しているんだろう。
だったら、せめて今の俺にできることは――
「……遅いかもしれんが、今、訊《き》いてもいいか?」
「え?」
「昨日、話したかったことって何だったんだ? それに渡したいものってのは……」
「あ、そ、それは………」
椎菜の戸惑《とまど》ったような声が返ってくる。
「イヤじゃなかったら教えてくれ。できるなら、聞いておきたいんだ」
椎菜の目を真《ま》っ直《す》ぐに見ながら言う。
それは俺の心からの気持ちだった。
「……」
椎菜は少しの間うつむいて沈黙《ちんもく》していた。
戸惑《とまど》うような迷《まよ》うような沈黙。
だがやがて、
「…………イ、イカメシ…………」
「え?」
少しだけ顔を上げながらぽつりとそう言った。
「……わ、渡《わた》したかったもの、だよ。イカメシ……なの。ゆ、裕人《ゆうと》ほとんど学食とか購買《こうばい》だから、お、お弁当にどうかなと思って。その、迷惑《めいわく》かとも思ったんだけど……」
「イカメシ……」
そんなものを作ってくれてたのか。てことは、それじゃあ昨日のあの大きな紙袋《かみぶくろ》はもしかして――
「――それ、もらってもいいか?」
「え……?」
「昨日ってことはまだあるよな? だったら……食わせてくれ。今日はまだ夕食を食ってないから、ちょうど腹が減《へ》ってたところだったんだ」
だが俺のその言葉に椎菜はぶんぶんと首を振《ふ》って、
「え、だ、だめだよ! た、確《たし》かにあるにはあるけど、でも作ったの昨日なんだよ? イカメシは保存食《ほぞんしょく》っていっても、でもあたしあんまりうまくできなかったし……。そ、それに一日|経《た》ったあとじゃきっと味だって落ちちゃってて……」
「いいから、それでも食べたいんだ」
「あ――」
正面から顔を見ながらそう言うと椎菜《しいな》は少し戸惑《とまど》ったように視線《しせん》を逸《そ》らして、
「う、うん……」
そう小さくうなずくと、
枕元の小棚《こだな》に置いてあった紙袋《かみぶくろ》をおずおずと前に出してきた。
「こ、これ……だよ。で、でも、ほんとにやめといた方がいいって。ゆ、裕人《ゆうと》の気持ちは嬉《うれ》しいけど、きっとそんなにおいしくないし食べてもきっといいことなんてな――」
「大丈夫《だいじょうぶ》だ」
「あっ……」
なおも迷《まよ》う素振《そぶ》りを見せる椎菜の手から紙袋を半ば強引《ごういん》に受け取って、
包みの中から出て来た一口サイズのイカメシを手に取ると、そのまま口に入れた。
「――うん、ウマイぞ」
「え……」
「ちょっと固いがこれくらいの方が歯ごたえがあって俺は好みだ。うん、いける。全部食っても大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「ゆ、裕人……」
椎菜が口元に手を当てながらそう声を漏らす。
「ば、ばかだよ……そんな、そんなのおいしいわけないのに……」
「そんなことない。本当にウマイんだ」
実際《じっさい》それは俺の本当の感想だった。
椎菜がわざわざ作ってくれたというイカメシ。
多少見た目が不格好だろうと作ってから一日経過していようと……それがウマくないわけがない。
「……ほ、ほんとに、裕人って……。でも……でも……嬉《うれ》しいよ……そんな裕人だから、きっと、あたし……」
「?」
「あ、あたし、あたし……裕人のこと――」
潤《うる》んだ目でベッドから身を乗り出した椎菜が何かを言いかける。
まさにその時のことだった。
ガチャガチャ、バタン!
玄関《げんかん》の方で何やらそんな音がした。
「? 今のは……」
よく分からんが玄関の鍵《かぎ》が開いた音だろうか。
首を捻《ひね》っているとそれとほぼ同時に部屋《へや》のドアがバタリ! と勢《いきお》いよく開かれ、
「い、今帰ったよ、椎菜《しいな》!」
「!?」「!」
そんな声とともに、メガネをかけた人の好さそうな中年男性が飛び込んできた。
「ど、どうだい、げ、元気にしてたかな椎菜、お父さんもう心配で心配で……」
「お、お父さん!」
椎菜が驚《おどろ》いたように声を上げる。
お父さん……ってことは、この人が椎菜父なのか?
「ど、どうしたのこんな時間に! い、いつもは十時より早く帰ってくることなんてなかったのに……」
椎菜のその言葉に、
「ど、どうしたもこうしたも椎菜がこんな状態《じょうたい》で仕事なんてできるわけないじゃないか。仕事は持ち帰りにしてもらってタクシーで帰ってきたんだよ。そ、それよりちゃんと安静にしてたかな? ご飯とかはどうしてた? 赤まむしとか栄養ドリンクとかもたくさん買ってきたからこれを飲んで早く元気に――ん?」
と、そこで言葉が[#このほうがしっくり。底本では「で」]止まった。
レンズ越しに不審《ふしん》がるような視線《しせん》が俺の方に注《そそ》がれる。
「あ、あー……」
これはどう説明したもんだろうか。
夜《よる》遅《おそ》くの高校生の娘の都屋《へや》でイカメシを食べている男。しかも目の前には両手を胸《むね》に当てながら少し目を潤《うる》ませた娘の姿《すがた》。
客観的《きゃっかんてき》には明らかに害虫だとか間男《まおとこ》だとかの類《たぐい》である。怒鳴《どな》られて叩《たた》き出《だ》されても文旬《もんく》は言えない。
だが椎菜父の反応《はんのう》は――
「え、ええと、キミは……。あ、も、もしかして、椎菜の恋人とかかな? は、初めまして、私は椎菜の父で天宮《あまみや》好幸《よしゆき》です。い、いやあ椎菜にそんな人がいたとは知らなかったなあ。あ、だ、だったら今晩はお赤飯《せきはん》を炊《た》かないと……あ、あれ、こういう場合はお寿司《すし》とかの方がいいんだったっけ?」
「お、お父さん!?」
「そ、それならそうと言ってくれればいいのになあ……。あ、ひょ、ひょっとしてお父さん、邪魔《じゃま》だったかな? ご、ごめんごめん、すぐに退散《たいさん》するから。だ、だめだな、ついつい出しゃばっちゃって……。お父さん、KYだから。あ、KYって言っても今年もよろしくってことじゃなくてね……」
ペコペコと頭を下げながらそんなことを早口でまくしたてる。
「ち、違《ちが》うの! ゆ、裕人《ゆうと》はそういうのじゃなくて、その、あ、あの……」
「あ、だ、大丈夫《だいじょうぶ》だよ、お父さんのことは気にしなくていいから。そ、そうかそうか、でも椎菜ももうそういう年頃《としごろ》かあ。月日が経《た》つのは早いっていうけれど、お父さんも歳《とし》を取るわけだねぇ。ちょっとだけ寂《さび》しい気分だなあ」
「だ、だから……」
「そ、それじゃあ二人でゆっくりね。お父さんはベランダでタバコでも吸ってるから何かあったら呼《よ》んでくれれば――」
「だ、だから違うって言ってるのっ! ちょ、ちょっとお父さんは黙《だま》ってて!」
「ぶもっ!?」
ベッドの上の椎菜《しいな》からマクラを勢《いきお》いよく顔面《がんめん》に投げつけられ、
椎菜父はようやく(物理的に)沈黙《ちんもく》した。
「ご、ごめんね、なんか最後の方にヘンなことになっちゃって……」
玄関先《げんかんさき》で椎菜が顔を赤くしたままでそう言った。
「も、もう、ほんとに恥《は》ずかしいんだから。お父さん、あたしたち姉妹のことになるといっつもあんな感じに周りがあんまり見えなくなっちゃうんだよ。それで……」
「あー、いや、大丈夫《だいじょうぶ》だ。何ていうか、娘思いのいいオヤジさんというか……」
俺の言葉に椎菜は苦笑いをして、
「気を遣《つか》ってくれなくっていいって。ああいうのを親バカって言うんだから」
肩《かた》をすくめながらそう言った。
あの後、椎菜が状況《じょうきょう》を説明してようやく椎菜父は分かってくれた。「あ、ああ、なるほど、娘のクラスメイトなんだね? それでお見舞《みま》いと看病《かんびょう》をしてくれていたと……。そうなんだ、ど、どうもありがとうね。いい友達がいてくれて椎菜は幸せだなあ。どうかこれからも仲良くしてやってください」とこっちが恐縮《きょうしゅく》するくらい何度も何度も頭を下げてきたのだった。
で、その後にも「あ、ど、どうせなら夕食を食べていったらどうかな?何なら寿司《すし》の出前でも取るのもありだし……」との誘《さそ》いを受けたんだが、さすがに時間も時間だったので丁重《ていちょう》にお断《ことわ》りした。
そして今は見送りのために椎菜が玄関まで来てくれているのである。
「それより足は大丈夫《だいじょうぶ》なのか? ここまで送ってくれなくてもよかったんだが……」
「あ、うん。さっきよりももうだいぶいい感じだよ。もともとそこまで大げさなものじゃなかったのもホントだし、裕人《ゆうと》の看病《かんびょう》のおかげでかなりよくなった感じかな♪」
ぱちりとウィンクしてあははと笑う。
その見ているだけでこっちの気持ちも明るくなってくるような笑顔《えがお》はいつものフレンドリー娘(温泉《おんせん》前)のもので……ふむ、どうやらわだかまりはだいぶ消えてくれたみたいだな。
少しだけ安心していると、
「でも……裕人でよかった」
「え?」
「さっきのこととか……嬉《うれ》しかったよ。裕人の気持ちっていうか心が伝わってきて……ヘンに意識《いしき》してたのがバカみたいになっちゃった。きっと裕人なら、そんな風に構《かま》えたりしなくても普通《ふつう》に接《せっ》していればちゃんと応《こた》えてくれる。そう思えたから……」
「??」
「あ、い、いいのいいの、それはこっちのことだから……」
顔の前でふるふると両手を振《ふ》る。
まあそう言うならいいんだが……
「んじゃ、そろそろ帰るか。今度こそまたな」
「うん、また明日、学校でね」
ちょこんと立つ椎菜《しいな》に手を振ってドアへと足を向けようとして、
「あ、待って裕人、ほっぺたにご飯がついてるよ?」
そう呼び止められた。
「ん、どこだ?」
「その右の辺《あた》り。イカメシのお米かな。あ、よ、よかったら取ってあげるからちょっとしゃがんでくれるかな?」
「悪い、頼《たの》む」
そう言って少しだけ身をかがめる。
そういえば一口サイズのイカメシなのに頬《ほお》に米粒が付くなんてことがあるのかと思いかけた、
その瞬間《しゅんかん》、
ちゅっ。
何か、指でないものすごく滑《なめ》らかで柔《やわ》らかな感触《かんしょく》のモノがタッチしたような気がした。
「……」
「……」
「し、椎菜?」
「と、取れたよ、も、もう何も付いてないから」
「あ、あー、サンキュ。だけど今のは……」
何が何だかよく分からん俺に、
椎菜は少し目を逸《そ》らしつつ頬を赤くしてこう言ったのだった。
「だ、だいじょうぶ、これは……二回目だから[#「二回目だから」に傍点]」
[#改ページ]
[#改ページ]
二月の頭のとある土曜日の午後。
俺は学校から帰るその足で直接|春香《はるか》の部屋《へや》へと来ていた。
「そ、それでは裕人《ゆうと》さん、開きますよ?」
「ああ」
緊張《きんちょう》した面《おもも》持ちで隣《となり》の春香がそう確認《かくにん》を取ってくる。
その目の前にあるのは『Vozue 三月号』と書かれた一冊の雑誌。
表紙にはでかい観覧車《かんらんしゃ》の下で小酒落《こじゃれ》た感じの外国人カップルがさわやかに笑い合っている写真が使われている。
「な、何だか緊張《きんちょう》しますね。どこのページに載《の》っているんでしょう?」
「目次を見るといいんじゃないか? 特集がどうとか言ってた気もするしな」
「あ、そ、そうですね」
これは言うまでもなくつい先日みなとみらいでイベントに参加した時のナンバーである。
何でも昨日見本誌が届《とど》いたとのことで、いっしょに見ないかと春香に誘《さそ》われてここ(春香の部屋)までやって来たというわけなのだ。
「え、えと、目次、目次……あ、ありました! 『今月の特集 デートで行く横浜みなとみらい』。こ、ここですよね?」
「ああ、たぶんな」
「ど、どうなっているんでしょう? どきどき……」
宝くじの当選発表を見るような表情で春香がゆっくりとページをめくろうとして、
「あれ〜、おに〜さん、来てたんだ〜」
「!」「!?」
そんな声が背後《はいご》からいきなり響《ひび》き渡《わた》った。
見ればそこにはツインテール娘とメイドさん×三(葉月《はづき》さん、那波《ななみ》さん、アリス)が並《なら》んで立っていた。
「いつから来てたの? 来てるならわたしにも声かけてくれればい〜のに。ん〜、二人でなんかおしゃれな感じの雑誌なんて読んじゃって何してるの〜? あ〜、もしかして次のデートコースのチェックとか〜?」
にんまりと笑《え》みを浮《う》かべる。
「あー、いや、これはだな」
「え、えとですね……」
意味ありげな目を向けてくる美夏《みか》からさりげなく雑誌を隠《かく》す。
イベントに参加して写真とかを撮《と》ってもらったことはいちおう二人だけの秘密にしておこうということになっていたのだ。その、あれだ、まがりなりにも初デートのメモリアル≠ナあるわけだしな。
幸《さいわ》いというか美夏《みか》はそれには気付かなかったようで、
「うんうん、ようやくおに〜さんも少しは甲斐性《かいしょう》ってものが分かるようになったか〜。でももうちょっとかな〜。前も言ったと思うけど、こうゆうのを二人で見る時はベッドの上で見なきゃだめなんだよ。ほらほら、座《すわ》った座った♪」
「お、おい」
「え、えと……」
そんなことを言いながら俺と春香《はるか》の背中《せなか》を押《お》してベッドの端《はし》に座らせる。
そしてなぜかそのまま、気まぐれな仔猫《こねこ》のように俺のヒザの上[#「俺のヒザの上」に傍点]にごろんと仰向《あおむ》けに寝転《ねころ》がってきた。
「えへへ〜、おに〜さんのおひざ〜♪」
「お、おい」
いきなり[#底本にはなし。脱字?]何するんだこのツインテール娘は。
突然《とつぜん》の行動に困惑《こんわく》するも、
「え〜、これくらい別にい〜じゃ〜ん。おに〜さんとは夜の学校で二人きりで逢引《あいびき》した仲なんだから♪」
いたずらっぽく笑いながらそんなことを言ってくる。
「あれは明らかに違《ちが》うだろ……」
というか単なるロックアウトである。
「まあまあ、細かいことは気にしない。わ〜、お姉ちゃんのおひざもふわふわだな〜。あったかくていい匂《にお》い〜」
「み、美夏」
そんなことを言いながら楽しげに俺と春香のヒザの上をごろごろと行ったり来たりする。
縦横《じゅうおう》無尽《むじん》なごろごろアクション。
と、
「――(じ〜)」
「?」
そこでなんか、ちびっこメイドが那波《ななみ》さんの陰《かげ》に隠《かく》れながらもじもじとこっちを見つめているのに気付いた。
何かを訴《うった》えかける小動物みたいな目。むう、何か言いたいことでもあるんだろうか? と首を捻《ひね》っていると、
「あら〜、もしかしてアリスちゃんもごろごろしたいんですか?」
「え?」
那波さんがそんなことを言ってきた。
「裕人《ゆうと》様、アリスちゃんも裕人様のおひざの上でごろごろしたいみたいですよ〜」
「ゴ、ゴロゴロ……?」
って、このちびっこメイドが?
確認《かくにん》するようにアリスの顔を見ると、
「――(こく)」
遠慮《えんりょ》がちながらもしっかりとうなずいてきた。
どうやら本当のようだ。いやツインテール娘にしろちびっこメイドにしろ、俺のヒザの上を休憩用《きゅうけいよう》シートか何かと勘違《かんちが》いしてるんじゃないのか……?
ものすごく疲《つか》れた気分になる俺に、
「へ〜、そなんだ? アリスちゃんがそんなことゆうなんて珍《めずら》しいね〜。でもい〜よ、まだスペース余《あま》ってるし、おいで〜♪」
なぜかそんなことを言いながら美夏《みか》が着席|許可《きょか》を出した。
「わ〜い、ごろごろ〜♪」
「――(こくこく♪)」
ツインテール娘とちびっこメイドというWちんまいコンビによるごろごろ攻勢《こうせい》だった。
「あらアリスちゃん、よかったですね〜」
「……とても幸せそうです」
「……」
……いや。
別に構《かま》わんのだがさ……
「はあ……」
ツインテール娘たちがお茶を淹《い》れるために部屋《へや》から出て行ったのを確認して、俺は深く息を吐《は》いた。
「す、すみませんでした、美夏ったらいつも裕人さんがいらっしゃると甘えてしまって……」
「あー、いや、大丈夫《だいじょうぶ》だ」
すまなそうに頭を下げてくる春香に首を振《ふ》る。
さんざん遊ばれた感があるが、まあ結局のところヒザの上でゴロゴロされただけだし、何だかんだで懐《なつ》いてくれての行動だから悪い気はせんのも事実だしな。
「それより今のうちに雑誌を見ないか? また美夏たちが戻《もど》ってくると色々と忙《いそが》しいだろうし……」
「あ、そうですね。そ、それでは……」
こくこくとうなずいて、春香がおもむろに雑誌をヒザの上に広げた。
「そ、それじゃあ、開きますよ?」
「ああ」
一瞬《いっしゅん》の静寂《せいじゃく》。
そして次の瞬間《しゅんかん》思い切ったかのように「え、えい」というかけ声とともに件《くだん》の特集ページを開く。
そこにあったのは――
「お――」
「あ……」
輝《かがや》くような――春香《はるか》の笑顔《えがお》だった。
『本日のベストショット』と銘打《めいう》たれた、ページの中でも一番目立つ場所に配置《はいち》されているとびきりの笑顔。
それがいつ撮《と》られたものであるのかはいまいち思いあたるフシがないんだが、間違《まちが》いなく春香の魅力《みりょく》を最高に引き出している一枚である。
ちなみに同じ写真の中で俺の顔面は見事に端《はし》っこで見切れていた上にメガネのレンズに光が反射《はんしゃ》して目が四角い発光体みたいになっていたりもしたが……それはまあ気にせんようにしておこう。
「すごいな。なんつーか、その、キレイだ……」
思わずそう漏《も》らしちまうと春香はふるふると首を振《ふ》って、
「い、いえ、そんな……。でもこんなに素敵《すてき》に撮っていただいていたなんて思わなくて……」
胸《むね》に手を当てて感激《かんげき》したようには〜っと息を吐《つ》く。
「と、とっても感動です。茅原《かやはら》さんに感諭《かんしゃ》しませんと……」
「茅原さんか……」
あの人もなんだかいまいちよく分からん人だった。
大晦日《おおみそか》や遊園地と接触《せっしょく》回数は多いが、結局何がしたかったんだかも不明だし。
そんなことを考えていると、
「あ、そういえば茅原さんといえば、あれからも何回かお会いしたんですよ」
「え?」
「ここ最近のことなのですが、お稽古先《けいこさき》によくいらしてました。乗馬やピアノ、お華《はな》にもいらしていたような……。何でもまた取材をしているとのことで、お馬さんや楽譜《がくふ》、剣山《けんざん》等の写真などを撮ってらしたみたいです。偶然《ぐうぜん》ってあるんですね」
「……」
そんなもん(馬とか)を撮って一体どうしようってんだろうか。
本当によく分からん人だ……とさらに頭を捻《ひね》らせていると、
「――でも、こんなに笑えているのは……裕人《ゆうと》さんがいてくれたからだと思います」
と、春香《はるか》がぽつりとそう言った。
「え?」
「私が笑えている……理由です。もちろん茅原《かやはら》さんやカメラマンさんたちのお力もあると思います。で、でも一番大きいのは………裕人《ゆうと》さんが傍《そば》にいてくれたこと、です。裕人さんが近くに立っていてくれたから、隣《となり》で優《やさ》しく見守っていてくれたから、私はこうやって笑えていたんです。そ、それはもう九ヶ月前のあの時から――初めて出会った日から変わりません」
「春香……」
「だ、だから――」
そこで春香はそっとこっちの手を握《にぎ》ってきて、
「だ、だから、そ、その、あの……私は、これからも、裕人さんがいいです。で、できればでいいんですけど、こ、これからも、私を笑わせてください……」
最後の方はほとんど消えて蒸発《じょうはつ》してしまいそうな声でそう言った。
「春香……」
思わず握《にぎ》られた手を握り返しちまう。
細くて小さな手。そしてその先には頬《ほお》を赤くして少しだけ目を潤《うる》ませた春香の整った顔があり――
その時だった。
「お、お姉ちゃん、大変だよ!」
「!」「!?」
バタン! とドアが開いて、
転《ころ》がるように美夏《みか》が飛び込んできた。
電磁石の同極のように慌《あわ》てて二人ばっと手を離《はな》す。
「ど、どうした?」
「な、何があったんですか、美夏? そんなに慌てて……」
「ど、どうしたもこうしたもないよ! い、い〜からこれ見て! おに〜さんも!」
「ん?」
美夏の手に握られていたのは封筒《ふうとう》と紙のようなもの。
そこに書かれていたのは――
「……オーディション合格通知?」
「え?」
「オーディション合格通知って書いてあるんだが。こ、これってまさか……春香がアイドルになるってことなのか!?」
あとがき
こんにちは、五十嵐雄策です。『乃木坂春香《のぎざかはるか》の秘密《ひみつ》』第八巻をお届《とど》けいたします。
さてさて本巻はいつも通りの四話|構成《こうせい》でありながら、短編集にも近い構成になっております。
四話でひと続きの話となっていつつも一話一話は完結していますので、基本的にはどの話から読んでも問題のない作りになっているのではないかと思います。
ちなみに第二十九話が「電撃文庫MAGAZINE vol.2」にも掲載《けいさい》された春香メインの話、第三十話がメイドさんたちメインの話、第三十一話が美夏《みか》メインの話、第三十二話が椎菜《しいな》メインの話となっています。
本来ならばこれらに加えてルコと由香里《ゆかり》の出会いを書いたエピソードなども考えていたのですが、ページの都合《つごう》上《じょう》泣く泣くカットせざるを得なくなりました。これについてはまたいつか機会がありましたらどこかでお目見えできれば……と考えております。
話は変わりますが、この本が発売される頃《ころ》にはいよいよアニメの放映がスタートしていると思います。このあとがきを書いている現段階《げんだんかい》ではまだアフレコ前で、ドラマCDを聴《き》き返《かえ》したりいただいたコンテを見たりして色々と妄想《もうそう》(?)しているのですが、きっと素晴《すば》らしいものに仕上がっていると勝手に確信《かくしん》しております。地域《ちいき》にもよるのですが、よろしければ見ていただけると原作者としては嬉《うれ》しい限《かぎ》りです。また夏|以降《いこう》には色々とイベントもあり、DVDも発売予定なので、そちらも少しでも気に留《と》めていただければと……(ぺこり)
以下はお世話《せわ》になった方々に感謝の言葉を。
担当編集の和田様と三木様。毎回毎回著者校での修正が多くてすみません。密《ひそ》かに電撃最多なのではないかとそこはかとなく危惧《きぐ》しております。
イラストのしゃあ様。ここまで来られたのもしゃあ様の素敵《すてき》なイラストの力が大きかったと思います。これからもよろしくお願いいたします。
またいつも多方面で力になってくれている両親。特にデビュー決定時からずっと応援《おうえん》してくれていた父には本当に感謝《かんしゃ》しています。この場を借《か》りてお礼を言わせてください。
そして最後になりましたがこの本を手に取ってくださった読者の方々に深い感謝を。それではまた再《ふたた》び会えることを願って――
二〇〇八年五月某日 五十嵐雄策
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