乃木坂春香の秘密(7)
五十嵐雄策
イラスト◎しゃあ
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《テキスト中に現れる記号について》
《》:ルビ
(例)乃木坂春香《のぎざかはるか》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)完全|無欠《むけつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「みなさん」に傍点]
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乃木坂《のぎざか》春香《はるか》の秘密《ひみつ》(7[#丸に7])
容姿端麗で才色兼備、『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』という二つ名まで持つ超お嬢様、乃木坂春香。彼女と一緒に過ごした大晦日から年明けの世界で一番長い一日は……色々な出来事がありすぎて記憶もあやふやなのだが、二人にとっての秘密がまた一つ増えたということだけは確かだった。
そして、新学期。俺と春香は椎菜の誘いを受けて、仲の良いクラスメイト達と三泊四日の温泉旅行に参加することに。友達同士の旅行は初めてという春香も心持ちテンション高く、浴衣の春香が卓球したりする姿を眺めていたりしたら、気づけばなぜか俺は女湯にいて、湯気の向こうからは聞き覚えのある声が響き――!?
お嬢様のシークレットラブコメ第七弾V[#中黒のハートマーク]
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急がば回れという言葉《ことば》がある。
それの意味するところは、急いでいる時には近道をするよりも回り道をした方が意外と早く目的地に到着《とうちゃく》するということであり、それが転じて物事を進める際《さい》には目先の安易《あんい》な手段《しゅだん》に焦《あせ》って飛びつくよりもゆっくりと考えて多少遠回りでも慎重《しんちよう》に行動した方が結果《けっか》としてうまくいく場合が多いということだ。
「……」
さて何だって突然《とつぜん》こんなことを言い出したのかというと、それにはいちおうワケがある。
俺と春香《はるか》との関係。
関係というか立《た》ち位置《いち》。
それはまさに急がば回れの典型例《てんけいれい》である。
いや急がば回れどころかほとんど一周がやたらと長い螺旋階段《らせんかいだん》(十メートルくらい)をひたすらに駆《か》け上《のぼ》っている感じか。グルグルグルグルとハツカネズミの横回転のようにやたらと回る必要があるんだがなかなか上には進んでいかない、みたいな。
ある意味|牛歩《ぎゅうほ》の極《きわ》みとも言える。
「……」
……自分で言ってて少しだけ虚《むな》しくなってきたが。
それはともあれ、だがそのことは必ずしもマイナスに働くばかりではない。
確かに螺旋階段ということはある程度《ていど》同じ場所を周り続けることを余儀《よぎ》なくされるわけなんだが、道が繋《つな》がっている以上、裏返《うらがえ》せば回り続ける限り確実に上昇《じょうしょう》はしていくのである。
エッシャーのだまし絵のように、いつまでも同じ階層《かいそう》をループし続けるだけというわけではない。
遅《おそ》いながらも確実な前進。
それはこういったことにおいて地味《じみ》に重要なファクターである。
「……」
いやまあいつものごとくワケノワカランことがゴチャゴチャと長くなっちまったが。
結局《けっきょく》何が言いたいのかというと。
今回の一月上旬から中旬にかけての四連休の出来事《できごと》で、螺旋階段の階層を少しだけ(五十センチくらいは)上がることができたかもしれん……ってことなんだがね。
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「――ねえ裕人《ゆうと》、いっしょに温泉《おんせん》に行かない?」
始まりは、椎菜《しいな》のその一言だった。
「温泉?」
「そう。長野の方にある温泉旅館。ちょっと前にお父さんが会社でたまたま割引券をもらってきてさ、せっかくだから使わないともったいないと思って。今週末の土日と成人の日&創立記念日を使って三拍四日とか予定してるんだけど」
一月十日火曜日。
あらゆる意味で一生の思い出に残るだろう一期一会《いちごいちえ》(?)な展開だった年末年始も終わりを告《つ》げ、新学期が始まってから早数日が経った日の放課後。何となくボーっと教室を眺《なが》めながら帰《かえ》り支度《じたく》をしていた俺に隣《となり》の椎菜がそう言ってきたのだった。
「温泉か……」
割と急な話だが、悪くなかった。温泉だとかそういったものにはもうずいぶんと縁《えん》がない。最後に行ったのは確か中学に入ったばかりの頃《ころ》で、あの時はどこぞのアホ社長|秘書《ひしょ》とセクハラ音楽教師(当時はアホ大学生とセクハラ音大生)が酔《よ》って暴《あば》れて野球拳《やきゅうけん》を始めた挙句《あげく》に、勢《いきお》いでそのまま男湯を覗《のぞ》きに来ようとして大変《たいへん》だった。止めようとして逆にこっちが息の根を止められそうになったし……。いやしかしあの二人、昔から全然進歩がないんだな……
シーラカンス並《なみ》の進化速度な年長者二人を思い起こし複雑な気分で沈黙《ちんもく》していると、
「あ、な、なんか迷ってるみたいだけど、もちろん二人でじゃないよ? 麻衣《まい》と良子《りょうこ》が来ることになってるし、割引券は十人まで有効《ゆうこう》だから裕人にもだれか誘ってもらいたいと思うし……」
「ん、ああ、そうだな」
なぜか椎菜が焦《あせ》ったようにそう言った。いや別に初めから二人だとはこれっぽっちも思ってなかったんだが……
そのことを伝えると、
「あ、そ、そうだよね、あ、あたし何言ってんだろ……」
「?」
「あー、うん、何でもないの。それでどうかな? 行かない?」
顔の前で手をぶんぶんと振《ふ》った後、そう改《あらた》めて訊《き》き直《なお》してくる。
まあ週末からの四連休には特に予定も入ってないし、さっきも言った通りここ最近は温泉なんてもんにはすっかりご無沙汰《ぶさた》である。断《ことわ》る理由もなかったため、
「ああ、いいかもしれんな」
「え、ほんと?」
「ん、たぶん大丈夫《だいじょうぶ》だ」
そう答えると椎菜《しいな》はその場でぴょんぴょんと飛《と》び跳《は》ねて、
「やった、これで裕人《ゆうと》は確保! あとは――」
くるりと後ろを振《ふ》り向《む》いたかと思うと
「乃木坂《のぎざか》さんもどうかな? 今度の土日とか空いてる?」
「はい?」
自分の席でのんびりぽやぽやと明日の予定を連絡帳に書き写していた春香《はるか》(楽しそう)に向かって呼びかけた。
「あのね、今度のお休みにみんなで温泉《おんせん》に行こうと思ってるんだけど、乃木坂さんもどうかな? いっしょに行こうよ」
「わあ、温泉ですか? 楽しそうですね」
ぱあっと表情を輝《かがや》かせて胸《むね》の前で手を合わせる。
「うん、女子は今のところあたしの他に麻衣《まい》と良子《りょうこ》が行くことになってるの。今裕人が参加するのも決定したし、乃木坂さんも来てくれればきっともっと楽しくなると思うよ。だからどう?」
その言葉《ことば》に春香は少しの間ちょこんと首をかたむけながら考えこんでいたようだったが、
「えと……私でいいのですか?」
「もちろん! ていうかむしろ来てって感じかな」
「ありがとうございます。でしたら私も参加させていただきますね」
そう言って、にっこりと嬉《うれ》しそうに笑った。
「うん、じゃあ決まりね! それじゃ裕人、悪いけどあと何人か男子を誘っておいてくれるかな? やっぱりこういうのは男女混合で行った方が面白《おもしろ》いって良子が言ってて……。朝倉《あさくら》くんとか永井《ながい》くんとか、裕人と仲がいい男子でいいからさ」
「あ、おう」
「よろしくねっ! じゃあちょっとあたし、このこと麻衣たちに報告してくる。ばいばーい!」
そう言って、椎菜はたたたっと走って行ってしまった。
ちなみに朝倉が信長《のぶなが》の名字だってことには今さら説明はいらんだろうが、永井ってのは三馬鹿の一人の名前である。他の二人は小川《おがわ》と竹浪《たけなみ》。いやまあこの期《ご》に及《およ》んではどうでもいいっちゃいい事実なんだが、いちおうな。
「えへへ、楽しみですね、裕人さん♪」
そんなよく分からん確認をしていた俺に、にこにこ笑顔《えがお》の春香がとてとてと近づいてきた。
「ああ、そうだな」
「温泉……とっても魅惑《みわく》的《てき》でろまんてぃっくな響《ひび》きです。『ノクターン女学院』の春琉奈《はるな》様も冬合宿で部活のみなさんといっしょに入っていましたし……」
そんなことを言いながら目をきらきらと輝《かがや》かせてくる。
まあ春琉奈《はるな》様やら何やらはともあれ、楽しみであることには変わりなかった。
椎菜《しいな》を始めとしたクラスメイトたちとの温泉《おんせん》旅行。
気の合ったやつらだけで集まって何かをするってのは、それだけで楽しいもんだ。
加えてよく考えてみりゃあこれは春香《はるか》との初旅行でもある。英語にするとファーストトリップか。二人だけでないってのは残念といえば残念ではあるものの、それでも期待《きたい》で胸《むね》がトムボーイのようにボトボトと弾《はず》むくらいのエキサイティングイベントであることだけは確実だった。
「――楽しい旅行になるといいな」
「はいっ♪」
満面《まんめん》の笑《え》みで大きくうなずく春香。
その見ているだけで心が和《なご》む人間マイナスイオン発生器(エコ機能《きのう》付き)みたいなイノセントスマイルに思わずとろけたチョコレートのような気分になっていると
「あ――そうです。裕人《ゆうと》さん、一ついいでしょうか?」
「ん?」
ふいに真剣《しんけん》な顔をしてそんなことを訊《き》いてきた。
「裕人さん、私、こういった旅行でのしきたり≠ノついて、昔から一つだけ疑問に思っていることがあるんです。とっても知りたくて、でも訊くに訊けなかったこと……」
「しきたり=H」
「はい。しきたり=Aです」
こくりとうなずく春香。
何だそれは? やたらと古風な言い回しだが、乃木坂《のぎざか》家《け》にはそんなもんがあるのか?
まああの乃木坂家には今さら何があっても驚《おどろ》くことじゃないが……だがいずれにせよ春香がこんな思いつめた様子《ようす》で訊いてくるなんてただごとではあるまい。いったいどんな内容なのか……
心して身構《みがま》える俺に、
「あの、ですね……」
「ああ」
「その……」
しばしの沈黙《ちんもく》。
やがて少しの躊躇《ちゅうちょ》を挟《はさ》んで、春香はこう言ったのだった。
「こういった場合……バナナは、おやつに入るのでしょうか?」
一月十四日土曜日。
その日は朝からまぶしいくらいに太陽が照り付ける、西高東低冬型の気圧《きあつ》配置《はいち》を絵に描いたかのような見事《みごと》な冬晴れの一日だった。
「おはようございます、裕人《ゆうと》さん♪」
「おう、おはよう、春香《はるか》」
東京駅のJR線のホーム。
ぱたぱたとチェック柄《がら》のマフラーとコートの裾《すそ》を揺《ゆ》らしながら小ぶりのバッグとともに階段《かいだん》を上って来た春香(むう、今日もまた可憐《かれん》だな……)と挨拶《あいさつ》を交《か》わす。
「いいお天気でよかったですね。絶好《ぜっこう》の温泉日和《おんせんびより》です。きっとおサルさんたちも気持ちよく湯船に浸《つ》かってらっしゃると思いますよ」
「ああ、そうだな」
駅のホームは、三連休頭の土曜ということもあってそれなりに人で混み合っていた。
辺りを見回せばそこかしこに人の姿《すがた》。種類も老若男女《ろうにゃくなんにょ》様々で、くたびれた中年のおっさんもいれば元気な親子連れもいる。大きな荷物を二人で持ちながらイチャイチャと仲良さげに笑い合ういかにもなカップルの姿もあった。
「でも東京駅って、とっても広いんですね。初めて来たのですけれど、ちょっと迷っちゃいました」
周《まわ》りをきょろきょろと見ながら春香が少し恥《は》ずかしそうに笑う。
「ん、そうか?」
「はい、動く床《ゆか》とかもありましたし、最初は間違《まちが》えて地下のホームへと行ってしまって……。裕人さんはけっこう利用されるのですか?」
「どうだろうな、そこそこってところじゃないか? 迷うことがないってくらいで」
まあ用事がある時に普通《ふつう》に利用する程度なんだが。
だけど春香は、
「わあ、すごいです。さすが裕人さん、東京駅ますたーです……」
本当に感心した面持《おもも》ちでじ〜っと見上げてくる。
飼《か》い主《ぬし》を前にしてぱたぱたとシッポを振《ふ》るワンコみたいな表情。
その顔には、旅行前の高揚感《こうようかん》もあってか、不思議《ふしぎ》といつもとは違《ちが》った打《う》ち解《と》けた雰囲気《ふんいき》があった。どこか親密感《しんみつかん》があるというか……おそらくは初日の出での、その、メテオストライクフルな出来事《できごと》も影響《えいきょう》してるんだろうね。何か辺りを漂《ただよ》う空気が違う感じだった。
その心安い空気を何となく肌《はだ》で感じていると
「――ん?」
と、そこでふとあるモノを見つけた。
にこにことこっちを見る春香《はるか》の首元で光る小さなリングのような物体。確かこれは――
「春香、それ……」
「え?」
「その、首に着けているやつ……」
「あ、はい」
訊《き》いてみると春香はちょっと恥ずかしそうに下を向いて、
「これは『月の光』です。その、クリスマスに裕人《ゆうと》さんにいただいた……」
「ああ」
やっぱりそうか。道理で見覚えがあるはずである。でも何だってこんなネックレス状態《じょうたい》に変態《へんたい》(アブノーマルではなく)してるんだ?
少しばかり首を捻《ひね》る俺に、
「あ、えと、これは自分でやっちゃったんです。信州は寒いので手袋《てぶくろ》をすることが多くてなかなか指輪を着けることができないと思って……。でもやっぱり裕人さんにいただいた大切な指輪です。できるだけ身に着けておきたくてどうしたらいいか考えて、その結果《けっか》こうしてペンダントみたいに通しておくのがいいかなって……」
「……」
ナルホドそういうわけか。確かに手袋をしながらの指輪はなかなかに幸《つら》いもんがあるからな。
「あ、も、もしかしていけなかったですか? 指輪をこういう風にしてしまうのはマナー違反《いはん》とか……」
「あ、いや」
そんなことあるはずがない。むしろそうまでしてあの『月の光』を大切に身に着けてくれている春香の気持ちに心がブートキャンプしそうなくらいである。
「そ、そうですか、よかったです……」
安心したかのように胸《むね》を撫《な》で下《お》ろす。
そんな感じに和《なご》やかに話をしていると、
「おはよ、裕人、乃木坂《のぎざか》さん!」
ふいに後ろから声がした。
「二人とも早いね! 集会時間までまだ十五分くらいあるのに、もう来てたんだ」
「おはようございます、乃木坂さん、綾瀬《あやせ》さん」
「いよいよエックスデーだねー。楽しみだなっ♪」
やって来たのは私服|姿《すがた》の椎菜《しいな》、朝比奈《あさひな》さん、澤村《さわむら》さんだった。
それぞれ手に荷物を持って、楽しげな笑頃《えがお》てこちらへと歩いてくる。
「あ、おはようございます、天宮《あまみや》さん、朝比奈《あさひな》さん、澤村《さわむら》さん」
「うん、おはよう乃木坂《のぎざか》さん」
「お二人とも、今日はよろしくお願いしますね」
「元気マックスクライマックスではりきっていこーねー!」
わいわいとそんな会話が交わされる。
さらにもう少しして、
「今日はスマンな、綾瀬《あやせ》。まさか男女混合の温泉《おんせん》旅行だなんてこんな妄想のようなイベントに俺たちを誘ってくれるとは……知り合って初めてお前のことがいいやつに思えたかもしれん」
「愚鈍《ぐどん》に見えてそれなりの甲斐性は《かいしょう》あるということですね、いちおうお礼を言っておきますよ」
「もう俺は今日死んでもいい……」
今度は三馬鹿たちがやって来た。
それぞれ背《せ》にバカでかいリュックサックを担《かつ》いで、へンな方向に感極《かんきわ》まった顔でこちらへ歩いてくる。
これで参加者は全員だった。
俺、春香《はるか》、椎菜《しいな》、朝比奈さん、澤村さん、三馬鹿の八人。
男子四人と女子四人のバランスの取れた編成ながら、なかなかの大所帯《おおじょたい》である。
ちなみに信長《のぶなが》も誘いはしたんだが、何でもその週末にはどうしても外《はず》せない大事なイベントがあるとか何とかで、行き先さえも聞かずに「ごめんねー、その日だけは何があっても空けられないからー」と断《ことわ》ってきたのだった。
「――あ、それじゃみんな集まったみたいだし、これからの大まかな予定を確認しとくね」
全員が集まったのを確認して、椎菜がそう口を開いた。
「ええと、いいかな? まずは今から十時四十四分発の新幹線に乗って長野の方に向かうから。だいたい乗車時間は二時間くらいかな。で、そこからまたローカル線に乗《の》り換《か》えて一時間ちょっとで下車。駅を出たところに旅館のマイクロバスが迎えに来てくれるみたいだから、それに乗って旅館まで一直線。たぶん旅館に到着するのは三時過ぎくらいになると思う。――えっと、ここまでで何か質問あるかな?」
「はーい、椎菜センセー」
即座《そくざ》に澤村さんが手を上げる。
「ん、なに、良子?」
「バナナはオヤツに入るんですかー? 砂糖入り麦茶はー?」
きゃっきゃっとはしゃぐような声てそんなことを言ってくる。
「あのね良子……」
「私としてはー、バナナはオヤツじゃなくてデザートに入ると思うんですけどー。やっぱり果物《くだもの》だしー」
イタズラっぼく笑いながらさらに続けてくる滞村《さわむら》さん。
そのノリノリな発言に椎菜《しいな》がしょうがないなもうって顔で苦笑する。
すると、
「――あ、あの、バナナはおやつに入ると思います」
「え?」
なぜかそこで春香《はるか》がおずおずと手を上げた。
「バナナは消化もよく高い栄養がありますので、デザートというよりは本来|補助的《ほじょてき》な栄養|補給《ほきゅう》のために考えられたおやつに含《ふく》めるのが正しい判断《はんだん》だと……。え、えと、裕人《ゆうと》さんもそう仰《おっしゃ》っていましたし……」
「……」
「……」
その唐突《とうとつ》なバナナ=おやつ発言に、ぽかんとした空気で静まり返る椎菜たち。
「あ、あの、わ、私、何か間違《まちが》ったことを……」
皆の顔を見回しながら不安げな表情になる春香に、
「もー、かわいいんだから乃木坂《のぎざか》さんはー♪」
「え?」
澤村さんが毛並みのいい高級お嬢様犬を見つけたトリマーのごとくがばっと抱《だ》きついた。
「うんうん、そうだよね、バナナはおやつに入るよねっ。私が間違ってた。ごめんねー」
「え、あ、あの……」
目をシロクロとさせながら春香がじたばたとするものの、
「いいからいいからっ。うーん、柔《やわ》らかくっていい匂《にお》いー。落ち着くなー♪」
構《かま》わずに追撃《ついげき》(?)を加えてくる澤村さん。普段《ふだん》から基本的にハイテンションな彼女だが、今日はいつにも増してスタートから浅草《あさくさ》のようにノリノリのようである。
やはりこれからイベントということで皆浮き立ってるんだろうね。いつもは控《ひか》えめな朝比奈さんも少しだけ声を上げて笑ってたり、三馬鹿たちも通常の二倍速で恒例《こうれい》のアホ話を繰《く》り広《ひろ》げたりで、全体的にハイテンションな空気になっていた。
そんな中、
「……『裕人さんもそう仰っていましたし』か……」
「?」
椎菜だけが少しだけいつもとは違《ちが》う様子《ようす》で、ぽつりと何かをつぶやいていた。
「どうかしたのか椎菜。なんか元気がないみたいだが……」
怪訝《けげん》に思い訊《き》いてみるものの、
「え? あ、う、ううん、別に何でもないよ!」
「そうか?」
この普段《ふだん》から元気|指数《しすう》一二〇パーセントで常《つね》にエンジンフルスロットルしているようなフレンドリー娘が大人しいと、こっちとしても何となく気になるんだが。
「ほんとに大丈夫《だいじょうぶ》だって。ちょっとぼーっとしてただけだから。あ、それよりそろそろ新幹線に乗っちゃおう。自由席だから、バラバラにならないように早めに座《すわ》っちゃった方がいいと思うし」
そう言って椎菜《しいな》が一歩前に出る。
「ん、ああ」
「はい、良子もいつまでも乃木坂《のぎざか》さんにじゃれついてないで、移動する」
「はーい」
椎菜の言葉《ことば》に従《したが》い澤村《さわむら》さんがぴょこんと春香《はるか》から離《はな》れる。
「ほら、裕人《ゆうと》も行こう。永井《ながい》くんたちも」
「え、ああ、今行く」
「うん、急いでね」
にっこりとうなずく椎菜。
その笑顔《えがお》にはさっきまでの微妙《びみょう》な物憂《ものう》さ加減《かげん》はなく、すっかりいつも通りのフレンドリーなものになっていた。
「……」
うーむ。
今覚えた微妙な違和感《いわかん》は俺の気のせいだったのか?
いまいちよく分からんな……
新幹線内は、ホームと同じようにやはり人で混《こ》み合《あ》っていた。
「んー、やっぱりけっこう混んでるね」
「そうですね、連休の初日ですし……」
「早く席取っちやおうよー。急がないといいとこがなくなっちゃいそう」
椎菜たちがそんな会話をしていて、
「わあ、私、新幹線って初めてです……」
その隣《となり》では、春香が車内に入るなりきょろきょろと辺《あた》りを見回しながら子供みたいなきらきらとした目でそう声をもらしていた。
「? そうなのか?」
てっきり春香ならいつでもグリーン車に乗車|可能《かのう》な特別|優待《ゆうたい》フリーパスくらいは持ってるものかと思ったんだが。
「はい。どこかに行く時はいつも飛行機か自動車でしたから……。他に乗ったことがあるのはりんかい線≠ニ総武線《そうぶせん》≠ュらいだったりします」
「……」
それはまた偏《かたよ》りに偏りまくっているラインナップだな……
「だからとっても新鮮《しんせん》です。長野新幹線さん、かっこいいですし……」
「ナルホド……」
で、まあそんなことを話しながら八人で通路を進んでいき、何とか三人がけの対面席とその周辺を確保する。
「えっと、この辺でいいよね? 日当たりもいいし、デッキとかにも近いし」
「あ、はい」
「うん、いいと思うよー。あ、私|窓際《まどぎわ》ねー、そこのA席がいい!」
椎菜《しいな》の言葉《ことば》に朝比奈《あさひな》さんたちがうなずく。
「じゃあ良子《りょうこ》はこっちの一番窓[#―]際[#「窓際」が3つ?(椎菜・澤村・春香)誰かは通路側になるはずだけどね〜]の席ね。麻衣《まい》はその隣《となり》でいいかな?」
「あ、うん。大丈夫《だいじょうぶ》です」
「ん、だったらあたしはその隣で…。えっと、裕人《ゆうと》たちはどうする?」
「お?」
「座《すわ》る席。あたしたちの対面か、それとも永井くんたちの方か、どっちにする? あ、隣の二人席っていう選択肢《せんたくし》もあるけど……」
ちらりと横を見ながら言う。
ちなみに三馬鹿たちはすでに一つ前の三人席を確保して、『新幹線における売り子さんのお辞儀の角度とスリットの因果律《いんがりつ》』についてムダに熱《あつ》く議論をしていた。
「そうだな……」
まあ三馬鹿たちの対面はないとして、どうせならわざわざ離《はな》れたところに座るよりも椎菜たちといっしょの方がいいだろう。なので、
「ならここで。春香《はるか》もそれでいいか?」
「あ、はい。だいじょぶです」
こっくりと春香がうなずく。
「ん、りょうかい。だったら早く座っちゃお。裕人、そっちに詰《つ》めちゃってくれる?」
「ああ、分かった」
特に深く考えずに窓際の席に座ろうとして、
「あ……」
と、そこで春香が小さく声を上げた。
「? どうした?」
「あ、い、いえ……」
「?」
「べ、別に何でもないです。き、気にしないでください」
とは言うものの明らかに挙動不審《きょどうふしん》である。
見ればその視線《しせん》が、自覚《じかく》はないようだが、ちらちらと俺の前にある窓際《まどぎわ》の席に注がれていた。
「……」
どうやら進行方向の窓際に座《すわ》りたいらしいな……
新幹線は初めてだと言ってたし、その気持ちは分からんでもない。だがそんな何でもないことも言い出せないのが実に春香《はるか》らしく微笑《ほほえ》ましいというか……
俺は心の中で苦笑して、
「あー、春香。悪いが席を替わってくれるか?」
「え?」
「俺は通路側の席の方が好きなんだ。出やすいし。いいか?」
「あ、え……」
その言葉《ことば》に春香は少しの間目をぱちぱちとしていたが、
「あ――は、はいっ」
直後にものすげぇ嬉《うれ》しそうな顔をして、そうぶんぶんと首を縦《たて》に振《ふ》ってうなずいた。
むう、実に分かりやすいリアクションだ……
まあそういうわけで座席順も決まり、
『それではこれより当新幹線は長野へ向けて発車いたします』
こうして、新幹線は長野へ向けてブイブイと走り出したのだった。
新幹線が東京駅を発車して三十分ほどが経とうとしていた。
窓の外では次第《しだい》に高いビルの数が少なくなっていき、対照的に少しずつ緑がデコレートされた風景が多くなってきている。心なしか道路を走る車の量も減ってきているようだ。段々と都心から離《はな》れてきているのが、俺のメガネ越しの視覚《しかく》でもバッチリと実感できるナイスビューだった。
で、車内では、
「ね、『山科庵《やましなあん》』とか行ってみたいよね? どう思う?」
「あ、いいですね。確か手打ちのおソバで有名なところで……」
「やっぱりソバは絶対《ぜったい》に外《はず》せないよねー。乃木坂《のぎざか》さんはどう思うー?」
「あ、えとですね……」
ガイドブックを広げながらのそんな楽しげな会話が繰《く》り広《ひろ》げられていた。
「これはどうかな? 『ソバ処《どころ》風林火山』。ソバもだけど、ここの塩イカがおいしいんだって」
「そうなんですか、椎菜《しいな》ちゃん?」
「うん、使ってるイカが日本海直送アオリイカで、身の締《し》まりが違《ちが》うらしいよ。前に読んだ雑誌にそう書いてあった」
「へ−、そうなんだ。すごいんだねー」
「わあ、アオリイカさん……」
話題の中心になっているのは主にこれから向かう先の名物料理である。
ちなみに一人だけやたらとイカにご執心《しゅうしん》しているテンタクル娘の姿《すがた》があったが、それがだれかはまあ説明するまでもあるまい。
「裕人《ゆうと》はどう? どこか行きたいソバ処とかある? 塩イカのお店でもいいよ」
と、椎菜がこっちを見ながらそんなことを訊《き》いてきた。
「ん? いや」
「ここの『高砂屋《たかさごや》信州店』とかもいいらしいよ? こっちの『更科亭《さらしなてい》』は名前の通り更科ソバとかが有名で……」
「あー、まあどこでもいいというか……」
てかいきなりソバとイカ限定《げんてい》じゃな……
「んー、だめだって、そんな消極的じゃ。せっかく信州まで行くんだからイカとかソバとかイカとかイカとかを堪能《たんのう》しなきゃ」
「……」
だから何でイカが七割五分で残り二割五分がソバだけなんだよ……
他にもせめて普通《ふつう》の郷土料理屋だとかご当地|喫茶店《きっさてん》だとか、というか食事処以外にも観光|施設《しせつ》くらいは選択肢《せんたくし》として欲しいお年頃《としごろ》である。
「えー、だって信州といえばソバと塩イカじゃない。もうほとんど代名詞っていうか。ね、麻衣たちもそう思うよね?」
「あ、はい。おソバは有名だと思います」
「手打ちとか平打ちとか色々あるよねー。他にも山菜《さんさい》のとかもおいしいって話だしー」
「そうなのですか? 早く食べてみたいです、信州のおソバ……」
そう答える朝比奈《あさひな》さん、澤村《さわむら》さん、春香《はるか》。
つーか三人とも見事《みごと》にイカについては一言も言及《げんきゅう》してないってのがポイントだな。
まあそんな感じに、のんびりと車中での時間は過ぎていった。
くつろぎでブレイクタイムなひと時。
ほっこりまったりとした空気の中、今は春香が持参《じさん》してきたミカン(春香|曰《いわ》く「旅行といえばみかんです♪」なのだそうだ)をにこにこ顔で皆に配っている。
「うん、分かる分かる。冬の電車といったらみかんだよね」
「私もみかん、好きなんです。ありがたくいただきますね」
「もー、こんなとこもかわいいんだから乃木坂《のぎざか》さんはー♪」
聞こえてくるのはそんな声。
「……」
――やっぱりこういうのはいいもんだね。
辺《あた》りの和《なご》やかな雰囲気《ふんいき》をかみ締めながら思う。
車窓《しゃそう》を流れる穏《おだ》やかな景色。
楽しげに笑い合う春香《はるか》たち。
初めは緊張《きんちょう》していたのか少しだけぎこちなかった春香も、すでにすっかりリラックスした様子《ようす》で朝比奈《あさひな》さん、澤村《さわむら》さんたちとも笑顔《えがお》で喋《しゃべ》っている。
それらを見ていると、それだけでどこか自然に口元が綻《ほころ》んでくるような気がする。心安らぐアットホームな光景っつーか……
そんな風なことを何となく思いながらボーっと眺《なが》めていると、
「……お弁当はいかがですか?」
ふいに通路からそんな声が聞こえてきた。
同時に台車のようなものがガラガラと押されてくる音。
どうやら巡回中《じゅんかいちゅう》の売り子さんらしいな。
まあちょうど少し小腹が空《す》いてきたところだったのでナイスタイミングといえばナイスタイミングである。なので声をかけてようとして、
「あ、ええと、どんなのがあるんですか――ぶっ!?」
次の瞬間《しゅんかん》、思わず口に入っていたミカンを吹き出してそのまま目の前の朝比奈さんにミカンインパクトを食らわせそうになった。
そこにいた売り子さんの顔。
「……私の顔に何か付いているでしょうか?」
それはもはやこの上なく見慣《みな》れているメガネ着用メイド服|標準《ひょうじゅん》装備《そうび》の無口メイド長さんだった。
「な、何で……」
葉月《はづき》さんがここに? 副業としてたまたま長野新幹線で売り子さんのバイト中……なんてことはあるわけねえし。いや待て、この人がいるということはまさか……
俺の中にテキサス原産大型トルネードのごとく渦巻《うずま》いたイヤな予感は、およそ三秒後に現実のものとなった。
「やっほ〜、おに〜さん♪」
「!?」
俺たちから五つほど離《はな》れた席。
ちょうどシートの配置の関係でこちらからは死角《しかく》になっていた場所。
そこにいたのは――
「元気してる〜? ぷりてぃ〜美夏《みか》ちゃんだよ〜♪」
「那波《ななみ》さんもいますよ〜」
「――(こくこく)」
「なっ……」
こっちに[#誤植? 底本では「の」]向かって実に楽しそうに手を振《ふ》るツインテール娘とにっこりメイドさん、ちびっこメイドだった。
「ん、ど〜したのおに〜さん、そんなトイプードルだと思って買った犬が実はヒツジだってことが判明《はんめい》した時の愛犬家みたいな顔しちゃって?」
口元に指を当てた美夏がツインテールを揺《ゆ》らして尋《たず》ねてくる。
「どうしたってな……」
何だって葉月《はづき》さんが売り子のマネゴトをしてるんだとかそもそもいつからあそこに座《すわ》ってたんだとか、突っ込みたいことはそれこそチョモランマほどあるんだが……とりあえず早急に訊《き》いておきたいことは一つだ。
「……何でここに?」
「ん〜?」
「……何で美夏たちがここにいるんだよ。何だってまたよりによって同じ電車に……」
すると美夏はにぱっと笑って、
「何でって、わたしたちもおに〜さんたちと同じでたまたま信州まで行くことになったの♪ 三泊四日の温泉《おんせん》慰安《いあん》旅行ってやつかな。で、たまたま同じ新幹線になったって感じ? ちなみに泊まる先もたまたまおに〜さんたちといっしょのところ。だから旅は道連《みちづ》れ世は情《なさ》け?」
「……」
何だそのあり得ないたまたま祭りは。
とりあえずお嬢様(妹)を問い詰めてみてもまったくもってもラチがあかなそうだったためお嬢様(姉)の顔を見るも、姉の方も「何が何だか全然分かりません……」って顔で呆気《あっけ》にとられたチワワみたいに首をふるふると振っている。
「ま、細かいことはい〜じゃん。それよりせっかくおんなじ新幹線なんだからいっしょに遊ぼうよ♪ 人生ゲームとかトランプとか持ってきたんだ〜。大富豪《だいふごう》でもする、する?」
そんなことを言いながら隣《となり》に強引《ごういん》に座《すわ》ってこようとして、
「わー、なになに。この子、もしかして乃木坂《のぎざか》さんの妹? かわいー♪」
「え?」
それを遮《さえぎ》るような勢《いきお》いで、澤村《さわむら》さんが目をきらーんと光らせて席から立ち上がった。
「美夏《みか》ちゃんっていうんだ? 名前もかわいーねー! 私もおんなじツインテールだよ。触《さわ》ってもいい? いいよね?」
「え、え〜と……」
思わぬ積極アピールにたじろぐ美夏に、しかし澤村さんは構《かま》わずにがばっと抱《だ》き付《つ》き、
「!?」
「んー、やっぱりナイスな抱《だ》き心地《ごこち》! 大きすぎもせず小さすぎもしない絶妙《ぜつみょう》なサイズというかー」
「ちょ、ちょ、ちょっと、おね〜さん!?」
目をシロクロとさせながら美夏がじたばたとするものの、
「いいからいいからっ、うーん、柔《やわ》らかくっていい匂《にお》い。落ち着くなー♪」
「にゃ、にゃ〜!」
マイペースで抱き付きを続ける澤村さんに押されっぱなしの美夏。
どうやらいつかのアキハバラでのネコミミメイドさんしかり、この天下無敵《てんかむてき》天上天下唯我独尊《てんじょうてんげゆいがどくそん》に見えたツインテール娘も、押しの強いタイプには意外に弱いようだった。
「うーん、美夏《みか》様はああ見えて実のところ攻《せ》められ慣《な》れてないですからね〜。プッシュプッシュには弱いのですよ〜」
「那波《ななみ》さん」
と、いつの間《ま》に隣《となり》にやって来ていたのかにっこりメイドさん(脇《わき》にちびっこメイド付属《ふぞく》)がそんなことを言った。
「自分と同じタイプにはマイナス補正《ほせい》がかかると言いますか〜、攻撃力《こうげきりょく》が高い半面|守備力《しゅびりょく》は弱い負け知らずのケンカ番長みたいなものなんですよね〜」
「――(こくこく)」
ちびっこメイドまでもがうなずく。いまいちよく分からんたとえだがそういうことらしい。
で、しばしの間猫好きの子供に捕《つか》まった気まぐれ仔猫《こねこ》のようになるツインテール娘を眺《なが》めていて、
「――と、とにかく」
ようやく澤村《さわむら》さんのバグ攻撃《こうげき》から逃《のが》れた美夏がこほんと咳払《せきばら》いをする。
「せっかくなんだから、みんなで何かして遊ぼ〜よ。大富豪《だいふごう》とかどう、罰《ばつ》ゲーム付きで♪」
「トランプか……」
まあ特にやることもなかったし俺としては別に構《かま》わんのだが。
「あ、いいね、トランプ。やろうよ。あたしは椎菜《しいな》、天宮《あまみや》椎菜っていうの、よろしくね、美夏ちゃん」
「ええと、私は朝比奈麻衣《あさひなまい》です。よろしくお願いしますね」
「もちろん私は美夏ちゃんの提案《ていあん》なら何でもありだよー。ちなみに私は澤村良子《りょうこ》。良子ちゃんって呼《よ》んでくれればいいからー」
椎菜たちもそう言ってくる。
「は〜い、乃木坂《のぎざか》美夏で〜す♪ 十四歳の中学二年で、趣味《しゅみ》はインパラの餌付《えづ》けとフィーエルヤッペン。いつもお姉ちゃんがお世話《せわ》になってます。――ね、おね〜さんたちって文化祭の時にコスプレ喫茶《きっさ》に出てた人たちだよね? それにそっちの天宮おね〜さんは確かロンドンでピアノのコンクールにも……」
「え、美夏ちゃん、来てたの?」
「うん、お姉ちゃんが出てるコンクールだったからね。おに〜さんといっしょに来てたんだよ。ね、おに〜さん♪」
「ん、ああ」
なぜか意味ありげにちらりとこっちを見ながら同意を求める美夏。
まあそこで初めて椎菜と会ったわけだから、椎菜にとってそれ(俺がいたこと)は周知《しゅうち》の事実なわけだが。
「――というわけで、さ、それじゃ始めよっか。全十回勝負で、罰ゲームとしてビリの人は一位の人の命令を一つだけ聞くっていうのでどう? 葉月《はづき》さんたちももちろんやるよね?」
「……はい」
「美夏《みか》様のお頼《たの》みとあれば〜」
「――(こくり)」
無口メイド長さんたちがうなずく。
「それじゃあ第十三回長野新幹線杯|大富豪《だいふごう》大会の始まり〜♪」
そして総勢《そうぜい》九人にトランプが配られ、
長野駅に到着《とうちゃく》するまでの、全十回の大富豪大会が始まったのだったが――
――やめときゃよかった。
長野駅のホーム。
新幹線から降りた俺は背《せ》に荷物とツインテール娘とを[#「ツインテール娘とを」に傍点]抱《かか》えてモソモソと歩きながら、心の底《そこ》からそう思っていた。
「ほらほらおに〜さん、もっと優《やさ》しくエスコートする♪」
「優しくったってな……」
「あ〜、なんか不満そうな顔。だめだよ、女の子をちゃんとおんぶできない男の子は男の器《うつわ》が北海道|生息《せいそく》ナキウサギの鳴き声(プチー♪)みたいなんだから〜」
楽しそうにそんなことを語りながらきゅ〜っと抱《だ》きついてくる美夏。
言うまでもなくこれは大富豪大会の罰《ばつ》ゲームによるものだった。俺が大貧民《だいひんみん》(ダントツビリ)でツインテール娘が大富豪(ダントツトップ)。その結果《けっか》美夏から下された指令は――
『この三泊四日の旅行中に、おに〜さんは一日一つわたしのお願いを聞くこと♪』
というものだった。
ある意味|反則《はんそく》に近い内容なのだが、ツインテール娘の「え〜、それくらいい〜じゃん。せっかくの楽しい旅行なんだし〜」の一言とそれを後押しする澤村《さわむら》さんの援護《えんご》(美夏ちゃんかわいー♪)とで、見事《みごと》に承認《しょうにん》されやがったのである。
「あ、それじゃみんな聞いてー。ここからはちょっと歩きで移動《いどう》してローカル線に来るから。――えっと、美夏ちゃんたちも行き先は同じでいいの?」
「は〜い、おんなじで〜す♪」
俺の背中でにこにこと手を上げながら美夏がうなずく。「てゆ〜かわたしたちもナチュラルにみんなの一員と思ってくれてい〜から。遠慮《えんりょ》はいらないよ。よろしくね、おね〜さんたち♪」
「あ、あの、すみません……こ、こら美夏」
そのあまりに悪びれない様子《ようす》に春香《はるか》が「めっ」とするものの、
「え、いいっていいって。別に謝《あやま》るようなことじゃないし、人数は多い方が楽しいし」
「はい、全然大歓迎です」
「美夏《みか》ちゃんぷりてぃーだしねー♪」
ちんまいツインテール娘は椎菜《しいな》たちには大人気だった。
ちなみに三馬鹿たちも美夏たちには肯定的《こうていてき》なのか、四人が現れてからはずっと『ツインテールと妹とメイドさんの黄金律《おうごんりつ》』について熱《あつ》く議論を交《か》わしていた。まあ目の前の実物よりもそれらが表すテーマに対してご執心《しゅうしん》なのは実にこの三人らしいというか……
「さ、それじゃ行こっか。乗《の》り換《か》え時間までもうあんまりないし。それにこの路線、本数が少ないみたいだから」
そんな椎菜《しいな》の言葉《ことば》を受けてローカル線のホームへと向かう。
新幹線の改札から歩いて少し行ったところ。
総勢《そうぜい》十二名となった大所帯《おおじょたい》でワイワイと駅|構内《こうない》を移動《いどう》していき、
「あ、電車来てるみたいですよ、椎菜ちゃん」
「え、ほんと? だったら乗っちゃおう! たぶん次の電車って一時間くらい後だと思うから」
「なんかもう今にも発車しちゃいそうだけどー」
「え、えと、あの電車に乗れば……」
「お姉ちゃん、そっちの電車じゃないよ、あっちのやつ」
ふらふらと反対側のホームに歩いていきそうになった春香に俺の背中《せなか》から美夏が声をかける。
「え、そ、そうなのですか? あ、きゃっ!」
「だ、大丈夫《だいじょうぶ》か、春香?」
「な、何でお姉ちゃんは何もないところで滑《すべ》るかな!……って、お姉ちゃん、バッグからバナナが出てる出てる!」
「あ、こ、これはおやつに用意した……」
「と、とにかく押し込め! バナナを中に押し込むんだ!」
「お、おに〜さん、早くしないと発車しちゃうよ!」
「あ、ああ、分かってる! まずはバナナを……」
そんな感じにバナナと格闘《かくとう》しつつ、椎菜たちから少し遅《おく》れて今にも発車しそうだった電車に慌《あわただ》しく乗り込んだ。
「つ、疲《つか》れた……」
乗車口に飛び込むなり動き出した電車の振動《しんどう》を背中に感じながら、息を吐《つ》く。
「お、お姉ちゃん、なかなかバナナが入らないんだもん。どうなるかと思っちゃったよ〜」
「バナナだけにイエローカードですね〜」
「……そんなバナナ」
「――(唖然《あぜん》とした表情)」
「す、すみません……」
ぺこぺこと頭を下げる春香《はるか》。
そんな俺たちを見て椎菜《しいな》は、
「だいじょうぶ、裕人《ゆうと》? なんかどたばたやってたみたいだけど……」
「ん、まあちょっとな……」
まさかバナナがカバンからはみ出していてそれを必死に押し込んでいたとは言えまい。
「? よく分かんないけど……でもあとはこのまま終点まで乗《の》り換《か》えとかはなしだから、ゆっくりできると思うよ」
「ああ、そうだな」
うなずき返しながら辺りを見回す。
電車の中は、新幹線と違《ちが》って閑散《かんさん》としていた。
もともと二両編成で乗れる人数は限《かぎ》られているとはいえこの時間は空《す》いているのか、俺たちの他には電車の振動《しんどう》に合わせてプルプルと震《ふる》える推定《すいてい》大正生まれだろうジイさんが一人乗っているだけで、あとはほとんと貸切|状態《じょうたい》である。
「わ〜、すご〜い。なんかプライベートスペースみたいだな〜」
俺の背中《せなか》から飛《と》び降《お》りた美夏《みか》が嬉《うれ》しそうに窓際《まどぎわ》に駆《か》け寄《よ》る。
「ほんとだねー。あ、しかもすっごいいい眺《なが》めだよー。鉄橋とかあるしー」
「きっとあれは千曲川《ちくまがわ》ですね。いよいよ本格的に信州に来たって感じです」
澤村《さわむら》さんと朝比奈《あさひな》さんも楽しげに外の景色を指差していて、
「椎菜も来なよー。キレイだよー」
「あ、うん。今行く」
それに返事をして椎菜がたたたっと駆けていく。
窓の外を見ながら楽しそうに喋《しゃべ》る美夏、椎菜、澤村さん、朝比奈さん。
それらの周《まわ》りで横一列に並《なら》ぶ葉月《はづき》さん、那波《ななみ》さん、アリス。
ついでに一番先頭の席でまだ『ツインテールと妹とメイドさんの黄金律《おうごんりつ》』を議論している三馬鹿たち。
そんな皆の喧騒《けんそう》から少し離《はな》れた座席《ざせき》で春香は、
「……(にこにこ)」
それらの光景を見つめながら、幸せそうにぽわぽわと微笑《ほほえ》んでいた。
さっきまでバナナを入れようとしてあたふたしていたとは思えないほどの牧歌的《ぼっかてき》な笑顔《えがお》である。
「――春香、楽しそうだな」
近づいて声をかけると春香はにっこりと顔を上げて、
「あ、はい。とっても楽しいです。私、こういう風にみなさんといっしょに旅行とかするの、初めてで……」
「ん、そうなのか?」
「はい。高校に上がってからはお稽古事《けいこごと》とかで忙《いそが》しくてなかなかこのような機会《きかい》はなかったですし、その、それより昔は色々とありましたし……」
「……」
「だからこういった雰囲気《ふんいき》の中にいっしょにいられるだけで嬉《うれ》しくって……ついつい、見入っちゃいました」
照れくさそうに言う。
「春香《はるか》……」
そういえば何だかんだで春香にはこういった普通《ふつう》のクラスメイトと何かをやるイベント経験《けいけん》が少ないんだよな。まあ今回は何とかなったんだろうが元々は超箱入りのお嬢様で多忙《たぼう》な毎日だし、中学の時とかはそもそもそういう状況じゃなかったんだろうし……
何となくしんみりとした気分になっていると、
「でもみなさんと来るのも楽しいですけど……」
「?」
「いつか裕人《ゆうと》さんと二人でも来られたらなあ、とかもちょっとだけ思って……」
「え!?」
思わずテンパったメガネザルのように春香の顔を凝視《ぎょうし》しちまう。
いやまあ似《に》たようなことは俺も考えてはいたんだがまさか春香の口からそんな言葉《ことば》が出て来てくれるとは……
「あ、わ、私、何を言ってるんだろう……え、えと、べ、別に特別な意味はないんです。ただつい口から出てしまって……」
「あ、ああ」
「そ、その、わ、忘《わす》れてください。は、恥ずかしいです……」
恥ずかしがり屋の金魚みたいに顔を真っ赤にしてそう言った。
「……」
「……」
そのまま何となくお互《たが》いに黙《だま》り込《こ》んでいると、
「あ、乃木坂《のぎざか》さーん、そんなところでのほほーんとしてないでこっちでいっしょに外の景色を見ようよー!」
と、澤村《さわむら》さんのそんな声が飛んできた。
「え、あ、は、はい」
春香が慌《あわ》てたようにびくんと顔を上げる。
それからうかがうようにちらりとこっちを見て、
「あ、あの、ちょっと行ってきますね。呼ばれちゃいました」
「お、おう。どんと行ってこい」
「は、はい。ではまた後で……」
ぺこぺこと頭を下げる春香《はるか》を送り出す。
「……」
……むう。
なんかまだ胸《むね》がドゴリドゴリと蠢《うごめ》いてるな。
その後も電車は順調に進んでいき、四十分ほど経《た》った現在は五つ目の駅で停車していた。
どうも時間調整の関係とかでここで五分間ほど待機《たいき》するらしい。
「ん〜、早く発車しないかな〜。あと少しで着くのに〜」
「まあまあ美夏《みか》様〜、こののんびり感がローカル線のいいところですよ〜」
「……スローライフなひと時を貴女に――」
「――(こくこく)」
座席《ざせき》でぱたぱたと足を揺《ゆ》らしながら美夏たちがそんなことを話している。
春香は椎菜《しいな》たちといっしょに車窓《しゃそう》をバックに写真を撮っていて、三馬鹿たちは相も変わらず『メイドさんのホワイトブリムとフリルエプロンと編み上げブーツの防御力《ぼうぎょりょく》』とやらについて議論していた。
で、俺はというと
「……」
――ノドが乾《かわ》いたな……
そんな風情《ふぜい》も何もないことを考えていたのだった。
考えてみれば新幹線内で春香からもらったミカン以外に水分|補給《ほきゅう》をしていない。冬場の乾燥《かんそう》した空気にあてられて咽頭《いんとう》がエボダイの干物《ひもの》みたいになっちまっていてもおかしくはないだろう。
チラリと座席から窓の外を見ると、長さにして十メートルほどのホームの隅《すみ》に自動販売機が置いてあるのが目に入った。
古びてはいるが、ランプは点灯しているのでいちおう稼動《かどう》はしているようである。
……ちょっと行ってくるか。
まだ発車までは少し時間がある。ハシボソカラスの行水《ぎょうずい》のようにサッと行ってサッと戻ってくれば大丈夫《だいじょうぶ》だろう。立ち上がって歩き出そうとして、
「あれ、おに〜さん、どこ行くの?」
美夏《みか》がくりんと首をかたむけて訊《き》いてきた。
「ん、ちょっと飲み物を買いにな」
「そうなの? あ、だったらわたしホットレモンティーがいい♪」
「は?」
いきなりそんなことを言い出しやがった。
「ん、綾瀬《あやせ》っち、何か買いに行くんだー? じゃあ私はさんぴん茶ー」
「俺はドクターペッパーでいいぞ」
「タブクリアをお願いします。ああ、釣《つ》りは取っておいていいですよ」
「スコールを頼む」
次々と追加《ついか》されるリクエスト。
どいつもこいつも俺がハヤテのごとくパシってくるのが当然って顔をしてやがる。
「……」
……仕方ねえ。
何となく釈然《しゃくぜん》としないが、こうなれば毒を食らわば備前焼《びぜんや》きの大皿までってやつだろう。
「……ついでだから全員の分を買ってくる」
「わ〜、さすがおに〜さん、忠犬ハチ公みたいなそうゆうところが好き〜♪」
きゃっきゃっと手を叩《たた》く美夏。
それにこれ以上ないってくらいの大きなため息を吐《つ》きつつ自販機へと向かおうとして、
「――あ、待ってください、裕人《ゆうと》さん」
「――裕人、ちょっと待って」
「お?」
二つの声が重なった。
「えと、裕人さんだけじゃそんなにたくさん持ってくるのは大変《たいへん》ですし、私も――」
「裕人だけだと全員分は大変じゃないかな? だからあたしも――」
春香《はるか》と椎菜《しいな》だった。
それぞれ言い方こそ違《ちが》うものの、言っている内容はほぼ同じである。
「あ……」
「え……」
驚《おどろ》いたように顔を見合わせる二人。
「え、えと……」
「あー、んー……」
何やら微妙《びみょう》な空気。
そんな二人を見た美夏《みか》が何やらツインテールにぴ〜んと釆たかのようにきらりと目を光らせる。
「はは〜ん、よく分かんないけどもしかして……。ああ、そっか、どっかで聞いたことがあるなと思ったらひょっとして椎菜《しいな》おね〜さんって文化祭の時の…………だとするとこうゆう時は…………あ、でもあからさますぎるのもまずいし……。――うん、こうなったらここは」
「?」
何やらぶつぶつとつぶやいていたかと思うと、
「ん、決めた。ここは葉月《はづき》さんに行ってもらうのがいいと思うな。お手伝いはメイドさんの本分だし。い〜よね、葉月さん?」
なぜかそんなことを言い出した。
「……はい」
「お姉ちゃんたちもそれでいい? 異議《いぎ》なし?」
「あ、は、はい」
「あ、あたしは、別に……」
春香《はるか》と椎菜がうなずく。
「よし、じゃあ決まりね。れっつご〜、おに〜さん♪」
「……」
ぱちりとウインクをしながら号令をかける美夏。
というか当事者である俺にはまったく意見を述《の》べる機会が与えられないってのがまた理不尽《りふじん》極《きわ》まりないっつーか……いや別に葉月さんが付いてきてくれることにはこれっぽっちも異議はないんだが。
そんなわけで二人で車外へと出て、自販機へと歩いていく。
ホームの端《はし》っこに忘れられた電柱のようにボーっと[#文字抜け? 底本にはなし]たたずむ自販機。
「あー、すみません、付き合ってもらって」
「……いえ、お気になさらずに」
悟り切った仏像《ぶつぞう》のようにひっそりと横に立つ葉月さんにそう話しかけながらレモンティー(ホット)のボタンをポチリと押す。ガタンという音とともにアルミ缶が落ちてきた。
「――よし、これで全部か」
最後のドクターペッパー(タブクリア、スコールとともになぜか普通《ふつう》に置いてあった)を取り出し口から拾い上げ、数を確認する。
ちなみに全十二個もの大量のアルミ缶は、葉月さんがメイド服のエプロン部分を広げてそこに収納《しゅうのう》(?)してくれていた。
「じゃあ戻《もど》りましょうか」
「……はい」
うなずいた葉月《はづき》さんとともに電車へと向かおうとする。
その時だった。
ぽてり。
「?」
目の前で何かが落ちた。
大きさ二十センチくらいの緑っぽいぬいぐるみ。
見ると胸《むね》の部分に大きく『信州名物のざわなくん』と書かれている。
落ちてきた元は、無口メイド長さんのエプロンドレスのポケットだった。
「……」
「……」
「あの……落ちましたよ、葉月さん」
「……」
「葉月さん……?」
そう声をかけるも無口メイド長さんはつつーと目を逸《そ》らして、
「……知りません」
「は?」
「…………それは、私のものではありません。なのでお気になさらず、捨て置いてください」
「え、だけど……」
「…………身に覚えが、ありません。まったくありません。知らない子です。ここに来るまでにこっそりと長野駅で買ったなどということは絶対《ぜったい》にないですから」
そんなことを言う。
ああ、そういえばこの人、ぬいぐるみだとかかわいいものが好きなことは皆には隠《かく》してるつもりだったんだっけか。しかしまったく隠せてないところや口ではそう言いつつも目ではちらちらと顔面が緑ばしったぬいぐるみ(『のざわなくん』……微妙《びみょう》にかわいくない)を追《お》っているところなんかはさすがに春香《はるか》付《づ》きのメイドさんってとこか……
ともあれこんな押《お》し問答《もんどう》を続けていても仕方がない。
「ええと……とりあえず見なかったことにしますから、サクっと袷っちやいましょう」
「…………いえ、ですから、それは私のものでは…………あっ」
なおもかたくなに否定していた葉月さんが小さな声を上げた。
続いて葉月さんのエプロンドレスの中からアルミ缶(×十二)がガランガランと次々に地面へと落ちた。
「……」
「……」
「…………申し訳ありません」
やはり動揺しているのか、いつもよりワンテンポ遅《おく》れた動作《どうさ》で拾い集めようとする。
「あー、手伝いますよ」
「……いいえ、こんなことで裕人《ゆうと》様の手を煩《わずら》わせるわけには」
「煩わせるって……別に大丈夫《だいじょうぶ》ですから」
「…………すみません」
申し訳なさそうな葉月《はづき》さんとともにホームに転《ころ》がったアルミ缶(×十二)を給い集め始める。
これはちょうどいいチャンスだ。
この機に『のざわなくん』もいっしょにエプロンドレスの中に放り込んで穏便《おんびん》にすませちまおう。そう思い、抜《ぬ》かれたマンドラゴラのように地面にデロンと転がる『のざわなくん』(やはりかわいくない)に手を伸ばそうとして、
「おに〜さ〜ん!」
「ん?」
と、何やら美夏《みか》が窓から顔とツインテールを出してこっちに向かって手を振《ふ》っているのが見えた。何だ? なんか慌《あわ》てた顔をしてるが……
「どうしたんだ、何かあったのか? ああ、もしかして追加《ついか》注文でもあるとか……」
「そんなのんびりしてる場合じゃないって〜! 早くしないと電車が――」
「え?」
だが次の瞬間《しゅんかん》に、それが何を意味していたのか明らかになった。
プシュー。
響《ひび》いてきたそんな音。
同時に警笛《けいてき》のようなものが鳴《な》り、電車のドアがパタリと閉まる。
「あ――」
「…………」
そしてゆっくりと動き出す車輪。
アルミ缶に手をかけたまま屈《かが》んだ姿勢《しせい》で固《かた》まる俺たちの前で、
「……」
「……」
「お、おに〜さ〜ん、葉月さ〜ん!」
そんな美夏の声をドップラー効果《こうか》で残しつつ、ガタンゴトンと電車は走り去っていってしまった。
置き去りになった、瞬間《しゅんかん》だった。
時刻表で確認したところ、次の電車がやって来るのはおよそ二時間後だとのことである。
正確に言うと一時間四十八分後。
それまでは貨物列車一つやっては来ないらしい。
「……」
「……」
絶望《ぜつぼう》した。
いやその間こんな駅舎《えきしゃ》も何もない吹きっさらしなホームで過ごせってのか? どこまでも続くような平地に申し訳程度《ていど》の土台と屋根を建てただけの無人駅であるため休憩《きゅうけい》できる場所もありゃあしないし、何か身体を温めようとしても手元にあるのはレモンティー(ホット)と『のざわなくん』だけである。春香《はるか》たちと連絡《れんらく》を取ろうにも山に囲まれているせいか携帯《けいたい》も見事《みごと》に圏外《けんがい》だし……
「……」
本当にどうしろっていうんだろうね?
あまりにどん《づ》詰まりな状況に心の中でグリコポーズ(お手上げ)になる俺に、
「…………申し訳、ございません」
「え?」
葉月《はづき》さんがぽつりとつぶやいた。
「…………私はメイド失格です。本来お護《まも》りすべき方であられる裕人《ゆうと》様を自らの過失《かしつ》でこんな状況に追い込んでしまうなんて。本当に、言葉《ことば》もありません……」
その翡翠色《ひすいいろ》の目の奥《おく》に深い後悔《こうかい》と申し訳なさとをにじませて深々と頭を下げてくる。
「あー、いいですって」
ブンブンと手を振《ふ》る。もともと飲み物を調達《ちょうたつ》しょうなんて考えたのは俺なわけだし、別に葉月さんだけのせいじゃない。
「少しばかり運が悪かっただけでこんなのはよくあることです。だから気にしないでください」
「……裕人様……」
それよりも問題はこれからどうするかだ。
さっきも言ったように移動手段《いどうしゅだん》もなければ連絡手段もない。次の電車を待とうにも防寒施設《ぼうかんしせつ》もないときている。まさに八方塞《はっぽうふさ》がりもいいところだ。
頭を捻《ひね》らせながら悩《なや》んでいると、
「…あの、裕人様」
「? 何ですか?」
「……裕人《ゆうと》様、もしもよろしければですが、徒歩《とほ》による目的地|到達《とうたつ》を提案《ていあん》したいと思うのですが……」
と、葉月《はづき》さんが少しばかり遠慮《えんりょ》がちにそう言った。
「歩いて……?」
「……はい。実のところここから本日裕人様たちがお泊まりになられる旅館までそう距離《きょり》は離《はな》れていないのです。だいたい徒歩で一時間ほどでしょうか。歩いた方が身体も温まりますし、お嫌《いや》でなければこのまま電車を待つよりはそちらの方が得策かと思われますが」
「……」
歩く、か……
それは考えもしなかった。
基本的に体力には湿気《しけ》かけたマッチ棒《ぼう》ほども自信がない俺だが、もはや選択肢《せんたくし》としてはそれが一番マシなような気もしないでもない。追いつくのが遅《おく》れて春香《はるか》たちに余計《よけい》な心配《しんぱい》もかけたくないしな。
なので、
「――分かりました。そうしましょう」
そう言った。しんどそうだがこの際《さい》仕方がない。
「……了解いたしました。それでは参《まい》りましょう」
葉月さんがうなずき駅の出口へと歩き始めようとする。
と、そこで一つ疑問に思ったことがあった。
「――そういえば葉月さん」
「……はい?」
「道は分かるんですか? なんか周《まわ》りは山ばっかりみたいなんですが……」
それが問題である。いかに歩いていける距離とはいえ具体的な道が分からなきゃどうしようもない。
すると葉月さんはくるりと振《ふ》り向《む》いて、
「……それは大丈夫《だいじょうぶ》です。これがありますから」
「え?」
そう言いながら差し出された右手。
そこには『わくわく信州ガイドブック〜ワサビーナちゃんと行く楽しい北アルプス〜』と書かれた本がちょこんと載《の》せられていた。
「……これがあれば何も恐《おそ》れるものはありません。一騎当千《いっきとうせん》、天下無敵《てんかむてき》です」
「……」
メガネをきらーん、と輝《かがや》かせながらそんなことを言ってくる。
……いや。
さっきの『のざわなくん』といい、実はこの人ものすげぇ今回の旅行を楽しみにしてたんじゃねえのか?
また一つ、目の前の無口メイド長さんに対する認識《にんしき》が改《あらた》まったのだった。
さてそういった次第《しだい》で歩いて旅館まで向かうことにしたわけだが、色々と障害《しょうがい》はあった。
まず、
「さみぃ……」
駅|構内《こうない》でもすでにその兆候はあったが、外に出てみると思いのほかに気温の低さが身に染《し》みた。
何と言っても一月の信州である。確かに歩いていれば全身の血行が促進《そくしん》されてそれなりに発熱はするんだが、それに勝る寒風《かんぷう》が吹きすさびまくっているというか。
おまけにコートは電車の中に置きっぱなしであるため、今の俺はシャツにセーターを着込んだだけの部屋着《へやぎ》仕様《しよう》である。
せめて少しでも自家発熟するために壊《こわ》れたダンシングフラワーのように小刻《こきざ》みに身体を動かしながら歩いていると、
「……裕人《ゆうと》様、お寒いのですか?」
「あ、ええ、まあ……」
見ての通りである。というか逆に何でこの人はいつも通りのメイド服|姿《すがた》で平然としているのか訊《き》きたいんだが。
すると葉月《はづき》さんは何かを考え込むように少し目を伏せて、
「……そうですか。了解いたしました」
「?」
「……では私でよろしければ、身体でお温めいたしますが?」
「!?」
いきなりそんなことを言ってきた。
「……何でもこういった場面では体温と体温とを分け合って温め合うのが一番だとか。人の身体を温めるには同じく人の体温が最も有効《ゆうこう》なのだそうです。なので私の身体を使えば裕人様のお身体も温まると思いますが?」
「あ、なっ……」
な、何をいきなりどこぞのツインテール娘みたいなことを言い出すんだ、この人は!? またいつかの実技指導か何かなのか!?
思わず道端《みちばた》に立つ道祖神《どうそじん》のように固《かた》まる俺に、
「……くすっ」
「……え?」
「……冗談《じょうだん》です」
「……は?」
「……今のはほんの冗談です。いっつ・あめりかん・じょーく」
「…………」
しれっとそんなことを言いやがった。いや、アメリカンとか言ってる場合じゃねえだろ……
「……と、冗談はさておきまして、裕人《ゆうと》様、よろしければこれをどうぞ」
「え?」
「……温まります」
そう言って、葉月《はづき》さんが何かを差し出してきた。
一体どこにしまってあったのか白くてモコモコとした毛皮のようなモノ。
「これは……」
そこにあったのは、いつかのクリスマス会で見かけたシロクマの着ぐるみだった。
「……ダグラスです」
「は?」
「……ダグラス。この子の名前です」
名前付きだった。しかもセンスが微妙《びみょう》だ……
「……大切に着てください。だれかにダグラスをお任《まか》せするのは、初めてなのですから」
「……」
「……初体験《はつたいけん》(ぽっ)」
いやそれ絶対《ぜったい》言葉《ことば》の偉い方を間違《まちが》ってるだろ……
まあそれはともかく、受け取ったシロクマ(ダグラス)を着込む。
見た目的にも精神的にも少々アレだが、どうせひとっこ一人いないしこの際《さい》背《せ》に腹は替えられない。
「……裕人様、とてもよく似合《にあ》っておられます」
「……」
「……まるでダグラスがそのまま人間になったかのよう――感無量です」
……それは褒《ほ》めてるのか?
甚《はなは》だ疑問だったが今はそこに突っ込んでも仕方がない。
とりあえずはもうそういうもんだと納得《なっとく》して、シロクマ姿《すがた》にチェンジして歩みを進めていく。
「何もないですね……」
駅を出てしばらくは、基本的に何もない平地が続いた。
延々《えんえん》と続く見晴《みは》らしのいいだだっ広い道。周囲《しゅうい》にはところどころ雪で薄《うす》く化粧《けしょう》された何もない土地が広がっている。おそらく他の季節《きせつ》には畑かなんかに使われているんだろう。ビニールハウスやら作業小屋らしきものやらが時折《ときおり》目に付いた。
「……ここの辺《あた》りは夏には葡萄《ぶどう》や洋ナシなどの栽培《さいばい》も盛《さか》んなのです」
と、葉月《はづき》さんがそう言った。
「そうなんですか?」
「……はい。ゆえに今の季節は休耕地《きゅうこうち》となっている場所が多いようですね。中にはリンゴの栽培をやっているところもありますが、どうやらここは違《ちが》うようです」
「へえ……」
そんな葉月さんの解説を受けつつさらに歩いていくと、やがて辺りの景色《けしき》が少しずつ様変《さまが》わりしていき、道は傾斜《けいしや》のある山道へと変わっていった。
あまり人の手が入っていないと思われる道。
周囲《しゅうい》には針葉樹《しんようじゅ》や岩肌《いわはだ》の露出《ろしゅつ》した部分が多くなっていき、ほとんど山道というよりも獣道《けものみち》といった様相である。雪があるせいか基本的に滑《すべ》りやすく、場所によっては歩くのにも稚儀《なんぎ》するような険《けわ》しさだった。
「……裕人《ゆうと》様、足下にお気を付けください」
「あ、はい」
葉月さんがそう声をかけてくる。
「……もう少しです。この山を越えてさらにその先にある沢を通り抜ければ旅館のある区画へと辿《たど》り着《つ》くはずです。がんばりましょう」
「越えるって……この山をですか?」
思わず訊《き》いちまった。
「……そうですが、何か?」
「いえ……」
すでに入り口付近の現地点で音《ね》が上がりそうなんだが。しかもあちこちに倒木《とうぼく》だとか凍《こお》った雪だとかがあって見るからに通行|困難《こんなん》である。
「……大丈夫《だいじょうぶ》です。何かありましたらこれで切《き》り拓《ひら》きますので」
そう言い切った葉月さんの手にはいつの間《ま》にか怪《あや》しく輝《かがや》く木目|模様《もよう》のチェーンソーが握《にぎ》られていた。ああ、そういやあ他のインパクトが強すぎてすっかり忘《わす》れてたが、この人は元祖《がんそ》チェーンソー使いメイドさん(商標《しょうひょう》登録《とうろく》申請中《しんせいちゅう》?)だったんだっけな……
「……何か?」
「…………。いや、何でもないです……」
まあそんな感じに進んでいった。
シロクマな俺とメイドさんな葉月さんの客観的に見ればかなり怪しい二人連れの道中。
さすがに冬の獣道だけあってその道程《どうてい》はけして楽なものではなかったものの、全て葉月さんの活躍《かつやく》によって(具体的にはチェーンソーをスノボ代わりにして雪の急斜面《きゅうしゃめん》を滑《すべ》り降《お》りたりチェーンソーをロープに吊《つ》るして方位|磁石《じしゃく》代わりにしたりチェーンソーを鉄板代わりにして非常用の干し肉を灸《あぶ》ったり)何とか乗り越えることができていた。
「……」
「……」
で、早くも駅を出てから四十分ほどが経過《けいか》。
ようやく俺の軟弱《なんじゃく》な身体もウインターフォールな山道に少しずつ慣《な》れ始《はじ》め肉球越しの雪の感触《かんしょく》にも足が馴染《なじ》み始《はじ》めてきたところで、ふと頭に浮かんだことがあった。
――そういえば、春香《はるか》は今頃《いまごろ》どうしてるんだろうな……
つい先はと駅で離《はな》れ離《ばな》れ(強制的に)になった春香たち。
時間から考えて、順調に進んでいればおそらくはもう旅館に着いている頃のはずだ。
「……」
春香はうまくやっているだろうか。何だかんだでドジだからまた何もないところで足を滑らせてバナナをぶちまけたりしてないだろうか。あるいは道を歩くミニチュアホースに見とれていつの間《ま》にか迷子《まいご》になってるとか。まあ美夏たちが付いてるからそうなったとしてもフォローは大丈夫《だいじょうぶ》だとは思うんだが……
そういったことを考えていると、
「……裕人《ゆうと》様」
「はい?」
「……春香様のことが、気がかりですか?」
「え?」
いきなりど真ん中ズバリなことを突っ込まれた。
「……春香様のことを考えていたのですよね? 春香様は無事《ぶじ》にやっておられるか、またバナナをおこぼしになられたりミニチュアラクダに見とれて迷子になられたりされていないかとか……」
「……」
……いやこの人、読心術《どくしんじゅつ》でも使えるのか?
思わず訝《いぶか》しげな顔になる俺に、さらに葉月さんは、
「……ではそんな心配性な裕人様のために、今から春香様クイズを開催《かいさい》いたします」
「は?」
何の脈絡《みゃくらく》もなくそんなワケノワカランことを付け加えた。
「……春香様が気がかりな時は春香様のことをお考えになるのが一番です。この場に春香様はおられませんが常に心に春香様を……という感じでしょうか。ちなみに春香様クイズとは、裕人様の春香様に対する知識の習熟度《しゅうじゅくど》をチェックする一問一答です。好成績でしたら花丸と春香様検定三級合格の証明書を進呈《しんてい》いたしますが、あまりにも目を覆《おお》うような結果《けっか》でしたらその時は玄冬《げんとう》様にご報告《ほうこく》させていただきますので、あしからず」
「……」
もはやどこから突っ込めばいいんだか分からんのだが。
ほとんどどうしていいか分からん俺をヨソに、
「……それでは第一問。春香《はるか》様の身長は百五十五センチである。○か×か」
どうやら開始したようだった。人さし指を立てながらずいと迫《せま》ってくる。
「あー、ええと……」
信長《のぶなが》じゃあるまいし、そんなもん分かるわけもないんだが。
ここはもう二択《にたく》にかけるしかあるまい。フィフティフィフティだ。
「○です。確か春香はそれくらいだったはず……」
歩きながらそう答えると、
「……正解です」
当たっていたらしい。僅《わず》かな微笑《ほほえ》みとともになでなでと頭を撫《な》でてくれた。
「……では次です。春香様の誕生日は十一月十一日である。○か×か」
む、これは分かるぞ。いくら俺の記憶力が《きおくりょく》カピバラ並《なみ》でもあのハッピースプリング島に連れていかれた鮮烈《せんれつ》な出来事《できこと》は忘《わす》れようもない。
「×です。春香の誕生日は十月二十日のはずです」
「……正解です」
なでり。再《ふたた》び頭を撫でてくれる。
「……続いて第三問。春香様の所持しているテディ・ベアの数は全部で十八体である」
「×です。そこまでたくさんは持ってなかったと……」
「……不正解です。実は出窓のカーテンの裏《うら》などの目立たないところにも置いてあるので、十八体で正しいのです」
ぺちり。今度はデコピンが飛んでくる。
こんな具合に進行していった。
正解の時は頭をなでなで、間違《まちが》えた時は代わりにデコピン。
そんなアメとムチローテーションを繰《く》り返《かえ》し――
「……では続きまして――あ、裕人《ゆうと》様、あと少しで旅館に到着《とうちゃく》いたします」
「え、もうそんなに進んだんですか?」
いつの間にやら長かった道のりも終盤《しゅうばん》を迎えていた。キッイ山道もクイズのやり取りをしながらだとあっという間だったというか……。もしかして葉月《はづき》さんはそのためにわざわざこんなことをやってくれてたのか……?
思わず目の前の無口メイド長さんの顔を見直しちまったその時だった。
ガサリ。
「?」
何やら後ろの方から音が聞こえたような気がした。
何かが枯れ枝を踏《ふ》んだみたいな音。
「葉月《はづき》さん、今何か物音がしませんでしたか?」
こんな山の中だし、気のせいだろうか。確認のために葉月さんに尋《たず》ねてみるものの、
「……」
「葉月さん?」
返答がない。
ただ五メートルほど先にある木の陰《かげ》を厳《きび》しい目でじっと見つめたまま、その場を動かずにいる。
「あの葉月さん、何か……」
「……裕人《ゆうと》様、ゆっくりと私の後ろに下がってください」
「え?」
「……ゆっくりと、です。大きな声などは出さずに……」
「だから、どうして……」
「……早く!」
珍し《めずら》く差《さ》し迫《せま》った声。
一体何が……と思った次の瞬間《しゅんかん》、
「フシュルルル!」
「!?」
そんな聞き慣れない音とともに、針葉樹《しんようじゅ》の陰から黒い影《かげ》がいきなり飛び出してきた。
「……裕人様!」
「えっ」
葉月さんの緊迫《きんぱく》した声が響いた。
続いてドン、と横へ押される衝撃《しょうげき》。
そのまま勢《いきお》いで倒立《とうりつ》前転《ぜんてん》をして積もった雪の上に倒《たお》れこむ。ぐ、関節《かんせつ》からヘンな音が出やがったぞ……
「な、何が……」
背中《せなか》に冷たい雪の感触《かんしょく》を受けながら目を開く。
するとそこには、
「フシュー、フシュー……」
「……く……」
何やら剣呑《けんのん》な声を上げる生き物と、それを阻《はば》むように俺の前に立《た》ち塞《ふさ》がる無口メイド長さんの姿が《すがた》あった。
「こ、こいつは……」
でかい犬みたいな四足の体躯《たいく》、ゴワゴワとした灰色《はいいろ》の体毛《たいもう》、その頭頂部に短く生《は》えた尖《とが》ったツノ。
犬と言ったが、サイズ的にはほとんど小型の牛と言ってもおかしくないような様相《ようそう》である。
「…………カモシカ、です」
「え?」
「……おそらくは野生《やせい》のニホンカモシカでしょう。気付かない内に、私たちは彼の縄張《なわば》りに入ってしまっていたようです。かなり怒《おこ》っていて……く……」
苦しげに息をもらしながら言う葉月《はづき》さん。見れば正面からその太いツノをがっつり掴《つか》んで、力ずくで突進《とっしん》を阻止《そし》していた。
「は、葉月さん!?」
な、何をしてるんだこの人!? そんな牛と闘《たたか》うヘラクレスみたいなマネ……
だが俺の言葉に、
「……大丈夫《だいじょうぶ》です」
「え?」
「ニホンカモシカは確かに国の特別天然記念物ですが、正当|防衛《ぼうえい》ならば戦うことも許《ゆる》されるのです」(注:本当です)
「……」
そういうことを言ってるんじゃないんだが。
色々な意味で呆然《ぼうぜん》とする俺の前で、だがしかし葉月さんは真剣《しんけん》な眼差《まなざ》しでカモシカを見据《みす》え直した。どうやら本気でニホンカモシカとガチ勝負をやる気みたいだ。
「……貴方に恨《うら》みはありませんが、これも運命です」
「フシュー!」
葉月さんが厳《おごそ》かにそう言い放ちカモシカが宣戦《せんせん》布告《ふこく》をするかのように高らかに威嚇《いかく》の声を上げる。
そして始まった無口メイド長さんVSニホンカモシカ。
「…………」
「シュー……シュー……」
立ち上がりは互角《ごかく》だった。
葉月《はづき》さんが押せばカモシカが押し返し、カモシカが押せば葉月さんが押し返す。
まさに文字通り異種《いしゅ》格闘技《かくとうぎ》戦《せん》。
手に汗《あせ》握《にぎ》る一進一退《いっしんいったい》の攻防が続く。
「ブシュルルル! フシュー!!」
「…………う……」
だがやはり野生に生きるニホンカモシカと超絶《ちょうぜつ》メイドさんとはいえ人間(……だよな?)である無口メイド長さん。次第《しだい》に葉月さんが押され始めてきた。足下が雪でありふんばりが利《き》かないのもマイナスなのか、少しずつ後退《こうたい》していく。
「は、葉月さん!」
「……」
しかも押されていく葉月さんの後ろには、運の悪いことにサルノコシカケ(ヒダナシタケ目に属するキノコ)の群生《ぐんせい》があった。マズイ、このままじゃ……葉月さんがサルノコシカケまみれになっちまう。
だが葉月さんは、
「……今の内に、お逃《に》げください」
「え?」
「……裕人《ゆうと》様は今の内にこの場をお離《はな》れください。この先の道を真《ま》っ直《す》ぐに行けば国道に出るはず……。そこまで行けば安全です。このカモシカは私が刺《さ》し違《ちが》えてでもここで食い止めますので……」
自分の危機的《ききてき》状況(サルノコシカケまみれ一歩手前)にはまったく気を払《はら》わずに俺にそんなことを言う。
「な、何だってそこまでして……」
「……?」
「何でそこまでして俺のことを……」
すると葉月さんは真っ直ぐにこっちを見て、
「……春香《はるか》様のためです」
「え?」
「……裕人様が万が一おケガでもなされたら、春香様が悲しみます。私はメイドとして、春香様にそんな思いをさせるわけにはいかないのです」
「だ、だからって……」
「…………それに」
「?」
「…………それに私自身、裕人様にはおケガなどしていただきたくはありません。私にとっても裕人様は大事な人……お守りすべき大切な身内の一人なのです」
「葉月《はづき》さん……」
「……お話はここまでです。さあ、早くお逃げください」
そう言って再《ふたた》びカモシカへと向き直る。
その横顔には絶対《ぜったい》に退《ひ》かないという強い意志が見て取れた。
「……」
――何とか、ならないのか。
全力でカモシカと相対する葉月さんを目の前にしながら強く思う。
身体を張って俺を守ってくれているこの人のために、俺ができることは……
「……」
と、そこで気付いた。
今俺がしている格好《かっこう》。
白い毛皮に覆《おお》われた地上長大の肉食動物の着ぐるみ。
もしかしたら、これが使えるかもしれない。
――よし。
とにかくやれるだけのことはやってやる!
一縷《いちる》の望みを託して、俺はダグラスを目深《まぶか》に被《かぶ》ると、
両手(肉球付き)を天に向けて大きく上げながら腹の底《そこ》の底にまで力を入れて、フクロテナガザルもかくやとばかりに懸命《けんめい》に叫《さけ》んだ。
「ガ、ガオー!! ガルルルルルリュ!!(噛《か》んだ)」
「……」
「……」
カモシカのつぶらな瞳《ひとみ》と無ロメイド長さんのいつも通りの冷静《れいせい》な瞳が、一斉《いっせい》にこちらへと向けられる。
やがて、
プイ。
カモシカがふいに力を抜いて踵《きびす》を返した。
何かものすごくかわいそうなものを見たような目。
そのまま山の中へと消えていく。
「……」
――やった、のか……?
いまいち実感が湧《わ》かんのだがどうもそのようである。
まあどう見ても怖《こわ》がって逃《に》げたというよりも呆《あき》れて闘争本能《とうそうほんのう》を失ったように見えたんだが、それは自らの精神上のバランスを保《たも》つためにも気のせいということにしておこう、うむ。
「……見事《みごと》なシロクマっぷりでした」
と、葉月《はづき》さんが穏《おだ》やかにそう言ってきた。
「……力強い吠《ほ》え声《ごえ》といい勇ましい決めポーズといい、本当に何から何までダグラスに生き写しで――三重花丸を差し上げてもいいくらいです」
それはフォローなのか本気で褒《ほ》めてるつもりなのか、すげぇ微妙《びみょう》だ……
「……なので.それは裕人《ゆうと》様に差し上げます」
「え?」
「……今のナイスプレイを見て悟《さと》りました。ダグラスはもう私には必要のないものなのかもしれません。カエサルのものはカエサルへ。きっと裕人様ならば、これからもダグラスを有用に使っていただけるでしょう」
「……」
嬉《うれ》しくねぇ……
何だか妙《みょう》に身体に馴染《なじ》んでいる気がしなくもないダグラスを肌《はだ》に感じながら複雑な気分でいると、
「……裕入様。…………ありがとう、ございました」
「え……?」
「……今の行動……私を助けるために、危険《きけん》を顧《かえり》みずにカモシカに立ち向かってくれたのですよね? あのようにだれかに助けられるというのは、王季《おうき》様に拾っていただいて以来初めてで……」
ぽつりと、そうつぶやく。
「……」
「…………とても、嬉《うれ》しかったです」
「……」
いつもより少しだけ柔《やわ》らかな表情。うーむ、改《あらた》めてそんなことを言われると照れちまうな。特に普段《ふだん》からあまり感情を表に出さない無ロメイド長さんが相手だと余計《よけい》にそれが際立つっつーか……
「あー、と、とにかく、行きましょう。またあのカモシカが戻《もど》ってきたりするとアレですし……」
「……はい」
気恥《きは》ずかしさを隠《かく》すためにも早くこの場を立ち去ろうとして、
「……ああ、そうです。一つ忘《わす》れていました」
「? な、何ですか?」
微妙《びみょう》な焦《あせ》りを覚える俺に葉月《はづき》さんは、
「……先ほどの春香《はるか》様クイズの結果ですが、十問中八問正解です。なので春香様検定三級合格の証明書を進呈《しんてい》したいと思います。さらに副賞として北海道産|甘納豆《あまなっとう》もプレゼントです。ぱちぱちぱちぱち」
今度はいつもと全然変わらない調子《ちょうし》でそう言った。
「……」
やっぱりこの人はよくワカラン……と心底《しんそこ》思い知らされたのだった。
で、それから三十分ほど山道を歩いて、
「あ、おに〜さんやっと来た。おそ〜い」
「あら〜、思ったよりお時間がかかったみたいですね〜」
「――(こくり)」
ようやく旅館(街から少しだけ離《はな》れた山の中腹《ちゅうふく》にあり)に到着《とうちゃく》した俺を待っていたのはツインテール娘たちのそんな言葉《ことば》だった。
「……いや、こっちも色々あったんだがな」
「そなの? もしかして次の電単が待ちきれなくて山道を歩いてきてその途中《とちゅう》でクマさんと戦いでもしてたとか? ま、最初はちょっと焦《あせ》ったけど、葉月《はづき》さんが付いてるならまあだいじょぶかな〜って」
「葉月さんなら一人で戦車一個|師団《しだん》に突っ込んでいっても無傷で生還《せいかん》するでしょうから〜」
「――(こくこく)」(尊敬《そんけい》の眼差《まなざ》し)
そんなことを言いやがる。つーか少しは心配してくれてもいいだろ。
心配してくれるのは、
「裕人《ゆうと》さん、無事《ぶじ》だったんですか! よかった、私、気が気でなくて……」
「裕人、だいじょうぶだったの!」
俺たちの姿を見るなり案じるような顔で駆け寄ってきてくれた春香と椎菜の二人、それと朝比奈《あさひな》さんくらいである。
ちなみに三馬鹿たちはロビー脇《わき》のソファで『温泉《おんせん》旅館と美人|女将《おかみ》のうなじの関係』について語り合っていてこっちには見向きもしやがらなかった。まあもうやつらについては突っ込んでどうとなるもんでもないのでそれでいいとして、
その横のソファにはなぜか、
「おお、裕人、ようやく釆たか」
「おねいさん、待ちくたびれて一人で始めちゃった〜♪」
「……」
なんか……増《ふ》えてやがった。
地酒を片手にふんぞり返っている浴衣《ゆかた》姿のアホ姉とセクハラ音楽教師。
すでにすっかりでき上がっているのか辺《あた》りには酒瓶《さかびん》と食い散らかした馬刺《ばさ》しが散乱し、テーブルの上にはギラリと輝《かがや》く脇差《わきざ》しが垂直《すいちょく》に突《つ》き刺《さ》さっている。いや何でこの二人が……
「え〜、だって青春がぎらぎらとみなぎってるうら若い裕くんたちだけで温泉旅行なんて色々とキ・ケ・ン♪ じゃない。教師として保護者としてこれはほっとけないってゆうか〜。それに裕くんがいないとおいしいご飯が食べられないし〜」
「まあ箇単《かんたん》に言えば保護者による監督《かんとく》というやつだな。ああ、この場所については乃木坂《のぎざか》さんの妹さんから聞いたぞ。メル友なのでな」
「……」
迷惑《めいわく》極《きわ》まりないホットラインができてやがった。てかこの二人、絶対《ぜったい》ただ温泉と酒を満喫《まんきつ》したかっただけだろ……
招かれざる闖入者《ちんにゅうしゃ》たちに早くも疲《つか》れ切《き》った気分でいると、
「それじゃ裕人たちも無事《ぶじ》に合流したことだし、そろそろ部屋《へや》に行こっか?」
椎菜が皆にそう呼《よ》びかけた。
「ん、そだねー、何だかんだでまだチェックインしてないしー」
「だったらまずはフロントですね」
「お姉ちゃんも行こ」
「あ、はいです」
皆で並《なら》んで歩き出す。
俺もそれに従《したが》おうとして、
「……ん?」
と、そこで気付いた。
ロビーの入り口付近に置かれているパンフレットの束《たば》。
温泉《おんせん》案内やら観光地案内やらが陳列《ちんれつ》されている中、それらに紛《まぎ》れてごくナチュラルに並べられているモノがあった。
それは、
『私立ノクターン女学院ラクロス部〜春琉奈《はるな》様キャラソン発売記念イベント!!
開催日二月十五日(日)開催地《かいさいち》:冬合宿の舞台《ぶたい》となった温泉地』
と書かれた、佗《わ》び寂《さ》びの極《きわ》みである温泉旅館には似《に》つかわしくないやたらとカラフルなパンフレットだった(他にも細々《こまごま》と色々書いてあるがよく見えん)。
「これは……」
確か春香《はるか》のお気に入りのアニメの一つだったか。なんか春琉奈様とやらの名前には聞き覚えがある。ただ春香は気付いていないのか、フロントのところで椎菜たちと楽しそうにお喋りをしている。
「……」
むう、これは教えてやるべきなんだろうか。知ればきっと春香は興味を持つに違《ちが》いないだろう。だが今は椎菜たちもいるしな……
どうすべきか考えていると、
「ほーら〜、おに〜さん何ぼ〜っとしてるの? みんないっちゃうよ」
「あ、おう」
美夏《みか》に呼《よ》びかけられてそう返事をする。
――まあ、今は仕方ないか。
今すぐというほど急ぐものでもないし、あとで春香が一人になった時を見計《みはか》らって言えばいいだろう。
そう思って、その場は美夏たちの後を追《お》ったのだった。
ヒンヤリとした空気で目が覚《さ》めた。
まるで倉庫管理のバイト中に入れられた業務用冷蔵庫で間違《まちが》えて外から閉められて三十分閉じ込められた時みたいなそこはかとなく冷えた空気。
「ぬう……」
布団《ふとん》から身体を起こしながら何となく周《まわ》りを見ると、開け放たれた窓と見慣《みな》れないソファの上やらテーブルの上やらで死んだように眠《ねむ》っている三馬鹿たちとアホ姉&セクハラ音楽教師(浴衣《ゆかた》がハデにはだけ両手には酒瓶《さかびん》を握《にぎ》りしめている)の姿《すがた》が目に入り、ああ、そういやあ皆で旅行に来てたんだっけな……と思い出した。
「……」
昨日は色々と大変《たいへん》だった。
何だかんだで俺たちが旅館に着いたのが夕方だったため、とりあえずその日のところは翌日に備《そな》えてゆっくりと休もうということになりすぐに籠《こも》りモードへと移行《いこう》したんだが……何せメンバーの中には動力が血液でなくアルコールなんじゃねえかってくらいの有害指定生物がいやがる。当然のごとくというか必然の流れで荷物を置くやいなや宴会《えんかい》へと雪崩《なだ》れ込《こ》み、早々に温泉《おんせん》へ向かうことにした春香《はるか》や椎菜《しいな》たちを除《のぞ》き、そのまま夜中まで宴《うたげ》は強制的に続けられたのだ(男子|部屋《べや》で)。
「頭いてえ……」
おかげで色んな意味で二日酔《ふつかよ》いである。精神も肉体も疲《つか》れ切《き》ったっつーか……
――ちょっと散歩でもしてくるか……
時計を見ると時刻は朝の六時半。
旅館で用意される朝食にはまだ少しばかり早い時間である。
頭痛《ずつう》を覚ますためにも気分を切り替えるためにも部屋の外で適当にブラブラして新鮮な空気を吸うのもいいだろう。色々アレでまだ旅館の中もよく見てないしな。
「……」
そうと決めたら善《ぜん》は急げだ。
寝《ね》ぼけた頭と寝乱れた浴衣を引きずって男子部屋――『青竹の間《ま》』を出る。
まだ朝も早いということもあり、シンと静まり返った廊下《ろうか》にはほとんど人の姿は見られなかった。
よく造り込まれた感じの日本|家屋風《かおくふう》の廊下。
ただしメチャクチャ広い。
今さらながらの解説になるが、俺たちが泊まっているのは『悠久《ゆうきゅう》の宿・千石屋《せんごくや》』という名の温泉《おんせん》旅館である。
総《そう》部屋《へや》数《すう》二十九、温泉数八、本館が重要文化財木造|建築《けんちく》四階建てという、こういった旅館にしてはかなり大きなところであり、それに比例して内部の造りもかなり豪華《ごうか》なものとなっていた。
どこを見回しても目を引く景観《けいかん》というか、至《いた》るところに色々と手の込んだ装飾《そうしょく》がされているというか。敷石《しきいし》が並《なら》べられた床《ゆか》には砂利《じゃり》が敷《し》き詰《つ》められているし、赤く塗《ぬ》られた壁《かべ》には行灯《あんどん》がぶら下がっている。天井《てんじょう》近くには室内にも関《かか》わらず軒《のき》が出ていて、さらに廊下の中央にはでかい杉の木で造られた見事《みごと》な通《とお》し柱《ばしら》があった。
「すげぇな……」
改めて見てみるとほとんど昔話の世界とかどこかの時代劇のセットとかに迷《まよ》い込《こ》んじまったような感じである。
そんな非日常的な光景に感嘆《かんたん》しつつも適当《てきとう》に廊下を歩いていると、
「お……」
見知った顔を発見した.
裏庭に面した窓辺でぼんやりとガラスの向こうを眺《なが》めている小柄《こがら》な人影《ひとかげ》。
浴衣《ゆかた》姿《すがた》のお嬢様(姉)だった。
「よう、春香《はるか》。おはよう」
「あ、裕人《ゆうと》さん♪」
こっちに気付くと春香はとてとてと走り寄ってきて、
「おはようございます。気持ちのいい朝ですね」
ちょこんと首をかたむけてそう言ってきた。むう、ちょっと大きめの浴衣とも相まって朝から雪の隙間《すきま》で春を待ちわびて背伸《せの》びをするフキノトウみたいでかわいいな……
「どうしたんだ、こんな早くから」
「えと、何だか早く目が覚《さ》めてしまったみたいなんです。こういう旅行は初めてなのでわくわくしすぎたのか五時にはすっかり覚醒《かくせい》してしまっていて……。まだみなさんお休み中でしたので、旅館の中を見て回っていたんです」
ちょっと恥《は》ずかしそうにえヘへと口元を緩ませる。
ちなみに春香は椎菜《しいな》、朝比奈《あさひな》さん、澤村《さわむら》さんといっしょに『紅梅《こうばい》の間《ま》』に泊まっている。俺たちの部屋《へや》からは渡《わた》り廊下《ろうか》を挟んで別館にあたる位置《いち》。その隣《となり》には美夏《みか》たちの泊まる『桃源《とうげん》の間』があったりもした。
「裕人さんはどうされたんですか? 何かご用事でもあったとか……」
「ん、まあ俺も似《に》たようなもんだ」
もっとも目が覚めたのは単に部屋が寒かったからだし三馬鹿たちはアルコールに浸《ひた》されて潰《つぶ》れてるだけだが。
「それより昨日はどうだったんだ、温泉《おんせん》はのんびり入れたのか?」
「あ、はい。とっても楽しかったです。澤村《さわむら》さんに誘《さそ》われて『天孫降臨《てんそんこうりん》の湯』とかを三つも回っちゃいましたし……今日は雪見ができるという露天風呂《ろてんぶろ》に入ろうと思ってるんですよ」
「お、そうなのか?」
「はい♪」
野に咲く一輪《いちりん》のコスモスみたいな可憐《かれん》な笑顔《えがお》。
うーむ、それだけで二日酔《ふつかよ》いで手作り青野菜ジュースのように混濁《こんだく》していた頭もすっきりさっぱり浄化《じょうか》されていくような気がするね。まさに歩く高濃度《こうのうど》酸素《さんそ》カプセルとでも言おうか……
そんな感じに幸せな気分を噛《か》み締《し》めていて、
「……」
と、そこで一つ思い出した。
それはロビーで昨日見つけたパンフレットのこと。
春香《はるか》に伝えようと思ってはいたものの昨日はあの後すぐに強制的に宴会《えんかい》に突入したせいで結局話す機会を逃《のが》してしまったが、今なら周《まわ》りに俺たち以外のだれもいないしいい機会だろう。
なので、
「――なあ、春香」
「はい?」
「あのな、実は昨日ロビーのところで見かけたもんがあるんだが――」
おもむろにそう切り出そうとして、
「――あれ、そこにいるのって裕人《ゆうと》と乃木坂《のぎざか》さん?」
「え?」
ふいに後ろから声をかけられた。
「あ、やっぱそうだ! おはよ、早いね! そっか、乃木坂さん、部屋《へや》にいないと思ったら散歩してたんだ」
「おはようございます、乃木坂さん、綾瀬《あやせ》さん」
「ふーん、朝も早くから春香ちゃんと綾瀬っちが二人っきりかー。へー、ほー」
椎莱《しいな》、朝比奈《あさひな》さん、澤村さんの三人だった。
それぞれやはり浴衣姿《ゆかたすがた》で楽しそうにこっちに向かって手を振《ふ》っている。
「ん、おう、椎菜たちも早いな」
「うん、せっかくの旅行なんだから早く起きないともったいないと思って」
「早起きは三文《さんもん》の徳《とく》と言いますから」
「こんな風に朝からみんなで集まるなんてのも旅行ならではだしー。あ、でも乃木坂さんには負けちゃったけどねー」
澤村さんがあははーと元気に笑う。その言葉《ことば》に当の春香@早起きは「そ、そんなことないです……」とぷるぷると首を振《ふ》りながらしきりに恐縮《きようしゅく》していた。
「だけど昨日の夜はすごかったよね。裕人《ゆうと》のお姉さんとか、由香里《ゆかり》先生とかがノリノリで」
「そうですね、野球拳《やきゅうけん》をしようとしてましたし……」
「男湯を実地《じっち》調査しに行くとかも言ってたよねー」
顔を見合わせてそんなことを言う椎菜《しいな》たち。
「そのことは思い出させないでくれ……」
というかホントに進歩がないシーラカンス二人である。
「で、二人ともこんなところで何やってたの? 体操とか? そろそろ朝ご飯だし、特に用事とかがないんだったらいっしょに行こうよ。美夏《みか》ちゃんたちもすぐに来るって言ってたから」
「食事処《しょくじどころ》はあっちみたいですよ」
「ごーごー♪」
「ん、ああ、そうだな」
「はい」
うなずき、椎菜《しいな》たちの後に付いて食事処である『稲穂《いなほ》の間《ま》』へと歩き出そうとして、
「あ、そうです。裕人さん、さっき何か言いかけてませんでしたか?」
「え?」
「その、ロビーがどうかされたとか……」
春香《はるか》が首をちょこんとかたむけながらそう訊《き》いてきた。
「ん、あー、それはまあいいんだ」
「?ですけど……」
「大したことじゃないんでな、気にしないでくれ」
というか椎菜たちの前では話せることじゃない。いちおう春香の秘密《ひみつ》に関《かか》わることであるし。
「あー、ほら、それより早くせんと。椎菜たちが行っちまうぞ」
「あ、はい」
そう言って促《うなが》し、
頭の上に小さなハテナマークを浮かべる春香とともに『稲穂の間』へと向かったのだった。
「わ、朝からすごいねー! おいしそー!」
「けっこう量がありますね。食べきれるかな……」
「やっぱり地《じ》の物がたくさんあるみたいだね……あ、イカがある! ねえみんな、イカだよ、イカ!」
囲炉裏《いろり》を囲《かこ》んだ特別製の食卓で、澤村《さわむら》さんたちが責色い声を上げる。
その目の前には朝食とは思えないほど豪勢《ごうせい》に盛り付けられた料理の数々があった。
「ん〜、これはたぶん地元の野沢菜《のざわな》漬《づ》けだね〜、いい浸《つ》かり具合《ぐあい》でおいしそ〜♪」
「自家製ですかね〜。見事《みごと》な色ツヤをしています〜」
「――(こくり)」
「……のざわなくんがお料理されて……(切なげな目)」
少し遅れて合流してきた美夏《みか》たち(美夏は浴衣《ゆかた》、葉《はづき》月さん、那波《ななみ》さん、アリスはここでもメイド服のまま)も大絶賛《だいぜっさん》している。
ちなみに現在この場に集まっているのは、三馬鹿を除《のぞ》いたその他のメンバー十一人である。
その一方で浴《あ》びるように(文字通り)飲んでいたはずの当のルコと由香里《ゆかり》さん(浴衣ははだけたまま)は「むう、うまいな……むしゃむしゃ……」「おねいさんしあわせ……がつがつ……」
と飢《う》え切《き》った今帰仁《なきじん》アグーみたいな恐るべき食欲で次々と料理を胃袋《いぶくろ》に収めていっている。一体どういう代謝《たいしゃ》機能《きのう》をしてるんだよ……
「あれ、どしたのおに〜さん、食欲ないの? こっちの野沢莱漬けとかおいし〜よ?」
「ん、ああ……」
食欲がないというか、目の前の野生動物二人の食いっぶりに少しばかり胸焼けを起こしていただけなんだが。
気を取り直して勧《すす》められた野沢菜漬けに手を伸ばす。
「お、ホントだ、ウマイな」
「あ、おに〜さん、分かる?」
「ああ、いい味だと思うぞ」
「でしょでしょ、へへ〜、これが分かるのはツウなんだから」
訳知り顔でそんなことを言うツインテール娘(十四歳中学二年生)。
「もっと食べる? お皿に取り分ける? あ、よければあ〜んしてあげよっか♪」
「……いや、それは遠慮《えんりょ》しとく」
さすがに椎菜《しいな》たちもいるこの状況でそれはあまりにもチャレンジャーすぎる行為だ。
「でもホントにウマイな。この独特の風味が何とも言えないっつーか……。春香《はるか》もどうだ?」
隣《となり》の春香に勧めると、
「あ、はい、いただきます。……わあ、おいしい」
「だろ?」
「はい。とってもまろやかな味付けで……。あ、裕人《ゆうと》さんもこちらのお魚さんの塩焼きはどうですか? ニジマスさんみたいですよ」
「お、じゃあもらうか」
「はい♪」
春香《はるか》が満面《まんめん》の笑《え》みで囲炉裏《いろり》に刺《さ》さっている串《くし》を一本|手渡《てわた》してくれる。むう、なんかこういう機会は貴重《きちょう》というか、こんなほのぼのとした雰囲気《ふんいき》なのもいいもんだな……
でまあ、そんな感じに朝食は進んでいき、
「うーん、野沢莱《のざわな》漬《づ》けおいしー。さすが美夏《みか》ちゃんのお勧《すす》めだけあるなー」
「やっぱり塩イカだよ塩イカ! あ、おかわりもらっていいかな?」
「……のざわなくん……(涙《なみだ》ぐんでいる)」
「……むしゃむしゃ、ごくごく、ぱりぱりぱり……」「……がつがつ、ごっごっ、ごぎゅごぎゅごぎゅ……」
一部で微妙《びみょう》なカオスを見せながらも食事タイムは終了した。
そしてそのまま食後のお茶(玄米茶《げんまいちゃ》)を飲みながら、話題は本日のこれからの予定について移行《いこう》する。
「それじゃ今日はどうしよっか? みんな、どこか行きたいところとかある?」
椎菜《しいな》(結局塩イカを三杯ほどおかわりした)が皆の顔を見回してそう言う。
今日明日は丸々一日時間を白由に使うことができるため、どうやって過ごすかは皆の意見を総合して決めるのである。
「はいはーい、椎菜センセー! 私はこの近くにある温泉《おんせん》タマゴ作りが体験できるっていう茄釜《ゆでがま》に行きたいでーす!」
澤村《さわむら》さんが元気よく手を上げながらそう言った。
「やっぱり冬の信州っていったら熱々《あつあつ》の温泉タマゴだって! あのドス黒いまでに真っ黒なボディが何とも言えずにおいしそうだし、他にも温泉のお湯がそのまま飲めるお店もあるんだってー。おまけに今はなんかキャンペーンをやってて参加者全員にもれなく温泉タマゴのストラップをプレゼントしてくれるらしいよー」
「へぇ、温泉タマゴかー……」
「いいんじゃないでしょうか?温泉街ならではですし、私は良子《りょうこ》ちゃんに賛成です」
「そうだね、うん、ナイスアイデアだと思う」
朝比奈《あさひな》さんが笑顔《えがお》でうなずき、それに椎菜も同意する。
「裕人たちはどう? それでもいいかな?」
「ん、ああ……」
「? なんかまずい?」
「いやそういうわけじゃないんだが……」
一瞬《いっしゅん》返答に詰《つ》まる。温泉《おんせん》タマゴも別に悪くないんだが、例のイベント(ノクターン女学院キャラソン何とかやら)のことも少し気にかかったりもするんだよな。てか絶対《ぜったい》に知れば春香《はるか》も行きたがると思うんだが……
だが、
「わぁ、温泉タマゴですか? ぷりぷりとしていておいしいですよね」
そう言ってにこにことうなずく春香。むう、春香が楽しそうにしている以上はあえて俺がこだわる必要もないんだろうか。
「美夏《みか》ちゃんたちはどう? 由香里《ゆかり》先生たちは?」
「ん〜、温泉タマゴか〜。ま、定番だけどそれもアリかな」
「私たちは春香様と美夏様の行かれるところでしたらどこでもお供いたしますから〜」
「……お二人が在《あ》るところにメイド隊在り、です」
「――(こくり)」
美夏たちは賛成のようだったが、
「ふむ、悪いが私たちは別行動をとらせてもらってもいいかな? せっかくの温泉、少しばかりやりたいことがあるのでな」
「大人のお楽しみタイムっていうか〜、ちょっとしたロマンなのよね〜」
「あ、そうなんですか。残念だな……」
ルコたちは不参加らしい。まあ昨日言ってた保護者として監督《かんとく》うんぬんはどうしたんだって突っ込みはあるが、この年長者二人については放《はな》し飼《が》いにしておいた方が平穏《へいおん》なことは間違《まちが》いないので謹《つつし》んで放置《ほうち》しておこう。
「うん、じゃあそんな感じで決定かな。それじゃこれから各自で準備《じゅんび》とかして、一時間後に着替えてロビーに集合ってことで!」
椎菜《しいな》がそうまとめて、
そういう次第《しだい》で、朝食の時間は終わった。
「おに〜さん、ちょっといい?」
「ん?」
「ちょ〜っとお話があるんだけど、今だいじょぶかな?」
部屋《へや》に戻《もど》ろうとしていた俺に、ツインテール娘がそう声をかけてきた。
「ああ、平気だが……」
そう返すと美夏はにっこりとうなずいて、
「ん、よしよし、じゃあ悪いけどこっちまで来て〜」
「あ、おい」
俺の腕《うで》をつかんで『青竹の間《ま》』とは反対側にある区画《くかく》へと引《ひ》っ張《ぱ》っていく。
その先にあったのは美夏《みか》たちの部屋《へや》である『桃源《とうげん》の間』。
そしてそこには、
「は〜い、いらっしゃいませ裕人《ゆうと》様〜」
「……おいでませ」
「――(こくり)」
三つ指をついて出迎えてくれたいつものメイドさんトリオがいた。むう、このおもしろメンツで一体何の話をするつもりなんだ?
訝《いぶか》しがる俺に、
「――さておに〜さん、それでお話なんだけど……単刀直入《たんとうちょくにゅう》に言って、おに〜さんはこのままでい〜の?」
「え?」
美夏がいきなりそう言って下から覗《のぞ》き込《こ》んできた。
「このままでいいって……どういう意味だ?」
「言葉《ことば》通りだよ。この温泉《おんせん》旅行、このままノンビリのほほんとグループ旅行を楽しんでるだけで満足なのかってこと。お友達のみんなとわいわいと楽しくやるのもいいけど、お姉ちゃんとのすい〜とでらぶり〜な愛のめもり〜作りとかもしたいと思わない? 三泊四日なんてあ〜っという間に過ぎちゃうんだよ?」
「それは……」
確かにそういう思いはないわけじゃない。
いかに皆で来ている旅行とはいえ春香《はるか》と二人で何か特別な思い出が作れればいいに決まってるし、例のノクターン女学院イベントだって、その、春香と二人で行ければとは思ってたわけだしな(まあアレにはどの道|椎菜《しいな》たちは誘《さそ》えないが)。
すると美夏は腰《こし》に手を当ててツインテールを颯爽《さっそう》とはためかせながら「びっ!」と人さし指を突きつけてきて、
「だったらもっとがんばんなきゃ! せっかくの華《はな》の高校時代の温泉旅行なんだよ? もう一生で二度とあるか分かんないんだよ? ここで発情したアメリカアリゲーター(天然モノ)くらいの勢《いきお》いでが〜っと攻《せ》めなきゃどこで見せ場を作るってゆうの?」
「いやアメリカアリゲーターってな……」
またすげえたとえだ。ちなみにそのワニ、攻撃性《こうげきせい》よりもハンドバッグなんかの革《かわ》製品としてよく使われることで有名である。
「そりゃおに〜さんが奥手でパッシブなのは知ってるけどさ〜。やっぱり女の子は決める時にはばしっと決めてほしいものなんだよ。普段《ふだん》は甘えん坊なお座敷《ざしき》犬《けん》にもいざという時には暴《あば》れん坊の番犬になってほしいってゆうか〜。特に今日の温泉街《おんせんがい》巡《めぐ》りなんて大チャンスじゃん」
「まあそうかもしれんが……」
そう簡単《かんたん》にいけば世の中何も苦労しないっつーか……
言葉《ことば》に詰《つ》まる俺に、
「――とゆうわけでここはわたしたちが一計《いっけい》を案《あん》じてあげることに決まりました♪」
「は?」
そこで美夏《みか》はすげえ楽しそうににぱっと笑うと、
「ぱんぱかぱ〜ん、それではこれより『第一回何とかしておに〜さんとお姉ちゃんに二入きりのらぶり〜たいむat温泉街《おんせんがい》を過ごさせよう会議』を始めま〜す♪」
「ぱふ〜ぱふ〜どんど〜ん♪」
「……ぱちぱちぱちぱち」
「――(こくこくこくこく)」
そんなやたらとデジャヴを呼《よ》び起《お》こすタイトルを言った。
どうやらこれが本題らしかった。
「これはタイトルからも分かるように、お姉ちゃんと二人きりになりたくてなりたくてたまらずに身悶《みもだ》えるおに〜さんをぷりてい〜な美夏ちゃんたちが応援《おうえん》してあげようってゆう企画《きかく》です。構想《こうそう》六十五分、経費《けいひ》四二〇円(税込み)の壮大《そうだい》にして深遠《しんえん》なプロジェクトなんだから、震《ふる》えて聞かなきゃだめだよ?」
「……」
まあ確かに構想時間も経費も前回(六十分、二一〇円)より多少はグレードアップしてるみたいだが……それにしたって牛丼一杯|並《なみ》ってのはショボイことには変わりなくねえか……?
あらゆる意味で唖然《あぜん》となる俺に、
「はいはい、とにかく細かいことはい〜から実技指導を始めるよ。今回のおに〜さんのためにわたしたちが考えたシチュエーション。名付けて『みんなで温泉街を散策《さんさく》してたんだけど途中《とちゅう》でおに〜さんとお姉ちゃんが横道(人生のじゃないよ♪)に逸《そ》れて二人きりになった挙句《あげく》にそのまま秘宝館《ひほうかん》にしけこんじゃったシーン』!」
「……」
秘宝館って……この耳年増《みみどしま》娘、意味分かってるのか?
「で、キャストだけどもちろんおに〜さん役はおに〜さんね。お姉ちゃん役は今回も厳正《げんせい》な審査《しんさ》(マジカル裏《うら》バナナ)の結果《けっか》、葉月《はづき》さんに一肌《ひとはだ》脱《ぬ》いでもらうことになったから。よろしく、葉月さん♪」
「……承《うけたまわ》りました」
その言葉を受け葉月さんはすっと前に出ると、なぜかおもむろに着ていたメイド服の前ボタンに手をかけ(!?)ぱさりと下に落とし――
「……一肌脱ぎました」
「……」
取り払われたメイド服の下からは、旅館指定|浴衣《ゆかた》姿《すがた》のニューメイド長さんが現れた。
……いやこの人、このパフォーマンスのためだけにわざわざメイド服の下に浴衣を着込んでたのか? 何ともムダな懲《こ》りようっつーかなんつーか……
「それで椎菜おね〜さん役と朝比奈《あさひな》おね〜さん役は那波さんが兼任ね。澤村《さわむら》おね〜さん役はアリスちゃんにやってもらうから。二人とも、おっけ?」
「は〜い、お任《まか》せください〜。私たちも一肌《ひとはだ》脱《ぬ》ぎますね〜」
「――(こくこく)」
こちらもやはりにっこりメイドさんとちびっこメイドが思わせぶりにメイド服を脱ぎ捨てる。
てかずいぶん賑《にぎ》やかな朝比奈さんと無口な澤村さんだな。
「さ、それじゃ役者もそろったところだし始めるよ。まずはみんなで温泉街《おんせんがい》を適当《てきとう》に歩いてるところから。準備《じゅんび》はい〜い? 三、二、一……キュー♪」
どこから取り出したのか折《お》り畳《たた》みイスに腰掛《こしか》けてメガホン片手に美夏《みか》が号令をかける。
そして実技指導が始まったわけだが――
「はい、おに〜さん、そこでまずお姉ちゃんの手を取って横道に入る!」
グルグルと部屋内《へやない》を適当に歩いている演技をしていたところいきなりそう言われた。
「いや横道ったってな……」
この僅《わず》か十|畳《じょう》ほどの広さの部屋でどうしろというんだろうか。
「ん〜、そこはほら、ふぃ〜りんぐでカバー? 考えるんじゃなくて感じるって感じ? あ、ちなみに手はあんまり強く握りすぎちゃだめだよ。女の子の身体はデリケートなんだから。でも弱々しすぎるのも考えものだから、逃《に》げ回《まわ》るウナギをつかむくらいの絶妙《ぜつみょう》の力具合でね♪」
「……」
そんなもんウナギ職人でもない俺にはさっぱりワカランのだが……
「い〜からとにかく実践《じっせん》実践。はい、きりっとした表情で『春香こっちだ! いいから俺を信じて付いて来てくれ!』って」
「…………。……春香こっちだ。いいから俺を信じて付いて来てくれ」
もはや突っ込むことは放棄《ほうき》して、葉月《はづき》さんの手を取って横道(架空《かくう》の)に逸《そ》れるフリをする。
とはいえ狭《せま》い部屋ゆえにすぐに壁《かべ》(本物の)にぶつかってそれ以上は進めなくなるのだが。
それでも美夏は満足そうに、
「うんうん、その調子だよ。次はそこでお姉ちゃんがたまたま足下に落ちてた野沢菜《のざわな》を踏《ふ》んづけてそのままハデに転《ころ》んじゃうの。で、それをおに〜さんがキャッチして――」
「ちょっと待て、何で野沢菜なんだ……」
「え〜、だって信州だよ? 道を歩けば野沢菜《のざわな》かワサビが落ちてる感じじゃない?」
「それは偏見《へんけん》だろ……」
地元の人が聞いたら間違《まちが》いなくクレームが噴《ふ》き出《だ》しそうな台詞《せりふ》である。
「そかな? ま、とにかくそうゆう設定《せってい》なの。ほら、いいから続き続き」
「……」
………まあ、美夏たちがそれでいいのならもう何も言わんが。
「はい、じゃあ葉月《はづき》さん、転《ころ》ぶリアクションをよろしく。お姉ちゃんの転びっぷりだから、できるだけハデにね♪」
「……了解いたしました」
美夏の言葉に葉月さんは小さくこくりとうなずいて、
「…………とう」
そんな声とともに音もなく飛び上がった。
そのまま空中で目にも留《と》まらぬ速さでぎゅるぎゅると見事《みごと》な六回転半(目線付き)を被露して、さらにはそれに高性能ドリルのようなひねりを加えて、絶妙《ぜつみょう》な角度で十点満点な姿勢《しせい》のままタタミの上に降《お》り立《た》つ。
ほとんど忍者だとかそういった特殊《とくしゅ》専門職(in闇の世界)のような身のこなしだった.
「わ〜、さすが葉月さんですね〜。見事《みごと》な体術です〜」
「――(こくこく!)」
「……」
「ほら〜、おに〜さんはそこでちゃんとお姉ちゃんのことキャッチしなきゃだめだよ〜。できればがばっとお姫様|抱《だ》っこ風味《ふうみ》でスライディングキャッチするのが理想かなー」
「……いやムリだろ…………」
あんなほとんど人間を超えたアバンギャルドな動きを俺にどう捉《とら》えろと。
「え〜、そこは気合で何とかしなきゃ〜。もしくはらぶ? お姉ちゃんへの愛が試される大事なシーンなんだから〜」
「それは愛じゃなくてただの身体能力だ……」
「も〜、またそうゆう夢のないこと言う〜。だめだって、夢とロマンのない男の子なんてただの動物プランクトンなんだよ?」
「……」
クリオネとかシーモンキーとかと同じレベルかよ……
「でもまあい〜や。今はこれでも本番でちゃんとキャッチしさえすれば問題ないし。それじゃ続きいこっか。はい、おに〜さんはお姉ちゃんの頭に載《の》っかったワサビを払《はら》ってあげる!」
「は、ワサビ?」
またワケノワカラン単語が出て来た。
「そ。今の転倒《てんとう》でお姉ちゃんは顔から軒下《のきした》に積んであった収穫《しゅうかく》したてのワサビ群に突っ込んだの。だからそれを払《はら》いつつ『大丈夫《だいじょうぶ》か? ワサビが髪飾《かみかざ》りみたいになってるぞ』って」
……ああ、そういう設定なのか。しかし何気に春香のキャラがさっきからアレだな。まあ実際《じっさい》どれも(野沢菜《のざわな》スリップ&ワサビダイブ)やらかしそうっちゃあやらかしそうなんだが。
とはいえ今さらそこに突っ込んでもアレなので先に進めることにする。
「……大丈夫《だいじょうぶ》か? ワサビが髪飾りみたいになってるぞ」
「………すみません」
なぜか恥《は》じらった表情を見せる葉月《はづき》さんの頭に手を添えて、ワサビを落とすフリをする。
と、それを見た美夏《みか》が勢《いきお》いよくイスから立ち上がって、
「よし、おに〜さん、ここで決《き》め台詞《ぜりふ》だよ! お姉ちゃんの目を真《ま》っ直《す》ぐに見つめて『――春香、こうなったら俺のワサビを食べてくれ! これが俺の気持ちなんだ! 最初は少し辛《から》くて苦《にが》いかもしれんが……きっとそれが段々クセになるから!』って!」
「言えるか!」
てか何だそれは! 文脈的《ぶんみゃくてき》にもうワサビしか共通項がねえ!
それに今気付いたんだが椎菜《しいな》兼|朝比奈《あさひな》さん役の那波《ななみ》さんと澤村《さわむら》さん役のアリスが何の役にも立ってねえ……。ただ周《まわ》りで楽しそうに騒《さわ》ぎながら見物してるだけである。つーかそもそも横道に逸《そ》れた意味からしてねえし……
「えー、何で〜? こんなのよくプロポーズとかにある『毎日お前の手料理を食べさせてくれ!』とかいうあれと同じじゃん。ある意味思い出作りのクライマックスみたいな? あ、ちゃんと臨場感《りんじょうかん》をもたせるためにワサビは本物を用意したから。はい♪」
そう言われどでかいワサビを一本手渡される。まさかとは思うがこれが今回の経費(税込み四二○円)だってのか……
「ほらほらおに〜さん、早く〜!」
「ここが男の見せ所ですね。」
「――(こくこく)」
「……じ〜(期待に満《み》ち溢《あふ》れた目)」
もはや全ての意味で絶望感《ぜつぼうかん》を覚える俺を視線《しせん》でじわじわと急《せ》き立《た》ててくる。
ハア……もうここはとっとと済ませて全てを終わらせちまおう。
清水《きよみず》の舞台《ぶたい》からバンジージャンプをするかのごとく覚悟《かくご》を決めて、
「………………春香、こうなったら俺のワサビを食べてくれ。これが俺の気持ちなんだ。最初は少し辛くて苦いかもしれんが、きっとそれが段々クセになるから(棒読み)」
そう言いながらワサビを葉月さんに向けて差し出す。
その時だった。
がらり。
入り口のフスマが突然開かれて、中に入ってきた入物がいた。
「ふんふんふ〜ん、信州はほんとお酒――もとい大人のロマンがおいしくていいわね〜。中でも朝から温泉《おんせん》で飲むモーニングドリンキングは最高だけど、せっかくのお楽しみにおつまみを忘《わす》れるなんておねいさんもまだまだ未熟者《みじゅくもの》……って、あれ、裕《ゆう》くんじゃな〜い♪」
「ゆ、由香里《ゆかり》さん?」
「どうしたの〜、そんな一所懸命《いっしょけんめい》な顔しておねいさんたちの部屋《へや》で何をして――」
と、そこで由香里さん(両手に酒瓶《さかびん》)の言葉《ことば》が止まった。
その視線《しせん》が俺たちの姿《すがた》に注《そそ》がれる。
現在の状況。
密室《みっしつ》で向き合う俺と葉月《はづき》さん。
葉月さんはさっきの六回転半(目線付き)の影響《れいきょう》でちょっとはだけた浴衣《ゆかた》姿。
そして俺の手にはその葉月さんに向けて真《ま》っ直《す》ぐに突き出されたぶっといワサビ。
「……」
「……」
さらに最悪なことに由香里さんの後ろからは、
「む、どうした由香里? 何かあったのか?」
アホ姉(やはり両手に酒瓶)が姿を現し、
「ゆ、裕くんが……裕くんが………採《と》れたてワサビ(長さ三十センチ太さ二十センチ)を手にメイドちゃんに迫《せま》って……。それもあんないい感じにごつごつしたのを……いや〜ん♪」
「あ、なっ……」
「何だと!? 裕人、お前こんな朝っぱらからそんな反社会的な真似《まね》を!」
「や、だ、だからこれは……は、葉月さんも何か言ってください!」
「…………裕人様、(ワサビの香りが)とても刺激的《しげきてき》です(ぽっ)」
「ちょ、それは――」
ウソじゃないんだがどうしてまたそういう紛《まぎ》らわしいことを!
「み、美夏《みか》! 美夏たちの口からも何か……って、いねえし!」
見ればいつの間《ま》にか部屋《へや》の中から忽然《こつぜん》と姿を消しているツインテール娘たち。く、逃《に》げやがったな……
「おのれ乃木坂《のぎざか》さんというものがありながらそのメイドさんに手を出すとは……二度と変な気など起こせないようにぶった斬《ぎ》ってくれる!」
「メイドちゃんと生[#‘しんせん’だし、“新鮮”と書きたかったのか?]鮮《しんせん》ワサビ……この上級者にしか分からないようなマニアックな関係に快楽を覚えるお年頃《としごろ》なのかしらね〜。若いっていいわ〜……」
「だ、だから……」
そうじゃないってのに……
だが興奮《こうふん》したアホ姉と別世界にイっちゃったセクハラ音楽教師は聞きゃしない。
結局|誤解《ごかい》を解くのに、それから丸々十分ほどかかったのだった。
旅館近くの温泉街《おんせんがい》は、日曜日ということもありたくさんの人で賑《にぎ》わっていた。
比較的《ひかくてき》道幅《みちはば》の狭い石畳《いしだたみ》の坂道には人が横並《よこなら》びになって歩いているし、道脇《みちわき》に競《きそ》うようにズラリと並ぶ土産物《みやげもの》屋《や》の店先では多くの人たちが足を止めている。多人数でわいわいと騒《さわ》いでいるグループから一人で橋のたもとに寄りかかり川を眺《なが》めているアンニュイな女の人まで実に様々で、中にはこの寒いのに浴衣《ゆかた》に上掛《うわが》け姿《すがた》で下駄《げた》を鳴《な》らしながら歩いているおっさんの姿もあった。
また街のあちこちにはモワモワと硫黄《いおう》の匂《にお》いがする白い湯気《ゆげ》を上げる川や独特の造りの建物《たてもの》なども見られ、いかにも温泉街《おんせんがい》といった風情《ふぜい》をかもし出していた。
「んー、すごいね。やっぱりこういうとこに来ると温泉に来たって気分になるなー」
澤村《さわむら》さんがぐーっと身体を伸ばしながら言う。
「微妙《びみょう》にひなびたというかレトロな雰囲気《ふんいき》がたまらないっていうかー。気持ちいいー」
「そうですね。何となく空気が違《ちが》う感じです」
「昔からの湯治《とうじ》場《ば》って感じだよね。あ、でも良子《りょうこ》、楽しいのは分かるけどあんまりはしゃいで転《ころ》んだりしないようにね。けっこう雪とか残ってるし」
「はーい、気を付けまーす、椎菜《しいな》センセー」
そんな風にノリノリな会話を繰《く》り広《ひろ》げる椎菜たち。
その横では美夏たちも、
「ほらほら、見てあそこ! おサルさんが川でなんか顔面をかきむしりながらのたうちまわってるよ〜」
「あら〜、あれはカニさんを採《と》ろうとしているようですね〜。負けて顔をハサミで挟《はさ》まれているようですが〜」
「……リアル猿蟹《さるかに》合戦《がっせん》」
「――(こくっこくっ)」
いつもよりも三割増しなハイテンションで(後ろ二人はいまいち分かりづらいが)きゃっきゃっと黄色い声を上げている。
一方の俺はというと、
「皆、元気だな……」
微妙に陽に当たった乳草《ちぐさ》(西洋名:レタス)みたいなテンションだった。
何というか身も心もすでにへたれきった気分というか。まあ朝っぱらからあんなハイリスクノーリターンなことに付き合わされたんだから仕方ないといえば仕方ないのかもしれんが……
そんな気分で賑《にぎ》やかに先行く椎菜たちを眺《なが》めている俺に、隣《となり》の春香《はるか》が声をかけてくる。
「? どうしたんですか、裕《ゆうと》人さん。何だかとっても疲《つか》れた顔をしてますが……」
「ん、あー、ちょっとな……」
例のワサビうんぬんは思った以上に俺の精神力を削《けず》り取《と》っていたようだった。旅行二日目|序盤《じょばん》にしてすっかり消耗《しょうもう》気味《ぎみ》である。
「本当にだいじょうぶですか? 赤道直下のシベリアンハスキーみたいな感じで………」
「ん、平気だ………心配かけてスマンな」
不安そうな顔をする春香に手を上げて笑い返す。
すると春香はそれを空元気《からげんき》と思ったのか、
「え、えと、元気だしてくださると嬉《うれ》しいです。せっかくのいっしょに来られた旅行なんですから……」
「え?」
「あ、その、裕人《ゆうと》さんといっしょにこういったところに来られる機会ってあんまりないと思うんです。今年はもう三年生なりますし……。なのでいっしょに来たことの特別な思い出というか、どうせなら裕人さんにも楽しい時間を過ごせたと思ってもらえればいいなあって……」
両手でぎゅっと俺の手を包み込むようにしてそう真《ま》っ直《す》ぐに訴《うった》えかけてくる。
「春香《はるか》……」
――そんなことを考えていてくれてたのか……
思わず春香の顔に視線《しせん》が吸い寄せられる。
いっしょに来たことの思い出。
春香も同じようなことを思っていてくれたのが嬉《うれ》しいっつーかなんつーか……
思わぬ春香の気持ちにプチ感敵《かんげき》していると、
「――へへ、おに〜さん、お姉ちゃんの癒《いや》しパワーにめろめろかな〜?」
「む、美夏《みか》」
いつの間《ま》にかこっちまで下がってきていたツインテール娘がにまにまとからかいの笑《え》みを向けてきた。
「何を二人だけでこっそり話してたのかな〜。どじょうすくいを踊《おど》ってる人みたいに鼻の下がびよ〜んと伸びてたよ♪ あ、でも路上でのらぶらぶスキンシップはほどほどにしといた方がいいかもね〜。いちお天下の往来《おうらい》なんだしさ〜」
「いや別にだな……」
「そ、そんなこと……」
春香が真っ赤になってぱっと手を離《はな》す。
そこで美夏はこそっと耳打ちをしてきて、
「ふふ〜、なかなかいい感じじゃん、おに〜さん♪ あとはさっきの実技指導を実行に移《うつ》すだけだね。この辺は裏道《うらみち》とか路地とかが多いからチャンスがいっぱいだよ。いいタイミングがあったらわたしたちがばっちりサポートするし別行動のアフターフォローもしてあげるからさ。がんばってね、目指すは秘宝館《ひほうかん》一直線かな〜♪」
「……」
さっきからやたらと秘宝館にこだわるな。どんだけ秘宝館好きなんだよ……
まあそれはともあれ。
今の春香の飾《かざ》らない気持ちを聞いて、ここで改《あらた》めて再確認したことがあった。
再確認というか、決意したこと。
それは、
――やっば、春香と二人での思い出を作りたいかもしれん……
ってことだった。
あのイベントのパンフレットを見つけた時から考えていたこと。
いや潜在的《せんざいてき》にはこの旅行が決まった時から心のどこかで期待《きたい》していたこと。
それが今、俺の中で確かなモノになっていた。
春香《はるか》と二人で忘《わす》れられない時間を過ごす。
美夏《みか》たちに言われたからとかじゃなくて、イベントがあるからとかじゃなくて……自分の意思《いし》でそうしたいと思うんだよ。
「……」
「? どうしました、裕人《ゆうと》さん?」
俺の視線《しせん》に気付いたのか、春香が不思議《ふしぎ》そうな顔でこっちを見上げてくる。
「…………春香」
「はい?」
無邪気《むじゃき》にこっくりと首をかたむける春香。
――よし
覚悟《かくご》は決まった。
俺は一度|寝起《ねお》きのカバのように大きくゆっくり深呼吸をすると、
春香の白くほっそりとした手を取って、
「え、ゆ、裕人さん?」
「――悪い、こっちに!」
近くにあった細長い路地に入って一直線に走り始めた。
「あ、え? え、えと……?」
春香が驚《おどろ》いたように声を上げる。
「え、おに〜さん?」
さらには美夏の声が続き、
「ちょ、ちょっとおに〜さん? もう行っちゃうの? ま、まだ合図出してないのに〜。てゆうか秘宝館《ひほうかん》はそっちじゃないよ〜! おに〜さんってば!」
直後にそんな焦《あせ》ったような声が背後《はいご》から追《お》いかけてきたものの、俺は構《かま》わずに足を動かし続け――
「ハア、ハア……」
「あ、あの……」
「とりあえずここまで来れば……」
路地裏《ろじうら》をいくつも適当《てきとう》に通り抜け、比較的《ひかくてき》広めの道を二つほど横断《おうだん》し、
全力|疾走《しっそう》を五分ほど統けたところで俺は足を止めた。
辺《あた》りの風景はさっきまでいた場所とはすっかり様変《さまが》わりしていて、周《まわ》りにある建物や街並《まちな》みなどもそれまでとは違《ちが》ったものとなっている。
そんな景色《けしき》を視界《しかい》の隅《すみ》でかすかに捉《とら》えながら猛暑《もうしょ》の日の犬みたいに荒くなった呼吸を整《ととの》えていると、
「え、えと、裕人《ゆうと》さん、何が………」
気付けば春香《はるか》が困ったような戸惑《とまど》ったような顔をしてこっちを見ていた。
何が何だか状況がまったく掴《つか》めてませんって表情。
あっけに取られまくって言葉《ことば》も繋《つな》げないって感じである。
むう……何やらあまり深く考えずに感情の赴《おもむ》くままにダッシュ&エスケープをしちまったが、もしかしたらかなり大胆《だいたん》なことをしちまったんじゃないのか?
少しばかり弱気というか自分の行動に自信がもてなくなるものの、ここで尻込みしてしまっては元も子もない。
俺は気を取り直して、
「あ、あー、実はだな、昨日こんなもんを見つけて……」
「え?」
ポケットから例の春琉奈《はるな》様キャラソンイベントとやらのパンフレットを取り出し、春香に手渡《てわた》す。
すると春香はぱあっと表情を輝《かがや》かせて、
「わあ! これって春琉奈様のイベントですよね? え、え、もしかして本日|開催《かいさい》なのですか? し、しかもここが冬合宿の開催地で……。ど、どこでやってるのでしょう!?」
ものすげえ嬉《うれ》しそうな声で身を乗り出してきた。
うむ、やはり当初の読み通りにこのイベントは春香のツボにすっぽりと入ったというかストライクゾーンど真ん中だったみたいだな。
「どうもそれ、この近くでやってるみたいなんだ。それでもしよければいっしょに行けたらと思ってな。よかったら今からどうだ?」
「ほ、ほんとですか! は、はいっ、行きたいです! ぜび行きたいです! あ、でも………」
そこで何かに気付いたように顔を曇らせて、
「天宮《あまみや》さんや美夏《みか》たちにはどうお伝えすれば……。いっしょに温泉《おんせん》タマゴ作りへ行くと言ってしまいましたし……」
「あー、うん」
まあ当然そこに行き当たるだろうな。
俺は少しばかり間《ま》を置いて、
「そのことなんだが……椎菜《しいな》たちには悪いと思うが、このまま俺たちだけで行くのはどうだ?」
「え?」
春香《はるか》の顔を見てそう提案《ていあん》した。
「他の皆にはメールをしておけばおそらく大丈夫《だいじょうぶ》だと思う。それにこういったイベントについては秘密《ひみつ》だから言うわけにもいかんだろ」
「そ、それはそうですけれど……でも、いいのでしょうか? そんな……」
困惑《こんわく》した様子《ようす》になる春香。
「……皆にはあとで謝《あやま》っておく。きっと美夏《みか》たちもフォローしてくれてるはずだし……」
「で、ですが……」
「それに…………俺はやっぱ春香と二人だけで行きたいんだ」
「え……?」
春香の言葉《ことば》が止まった。
「さっき思い出って言ったよな? いっしょに旅行に来たことの特別な思い出。あれは……俺も同じ気持ちだ。春香との忘《わす》れられない思い出を作りたい。そのためにはやっぱ二人で……」
「裕人《ゆうと》さん……」
春香の顔を真《ま》っ直《す》ぐに見つめて言う。
あー、自分で言っててアレだが何とも言えず恥《は》ずかしい台詞だな。後で思い返してみたら悶絶《もんぜつ》すること間違《まちが》いなしの赤面《せきめん》差恥《しゅうち》メモリーっつーか。でもこれが今の俺の正直なところだからしょうがない。
「だから、ダメか? 春香の気が進まないってならムリには言えんが……」
「あ、え、ええと……」
僅《わず》かな沈黙《ちんもく》。
そして春香はちょっと恥《は》ずかしそうに下を向きつつ、
「………………だ、だめじゃないです。全然、少しも、ちっともだめなんかじゃ……。そ、それにその、わ、私も、裕人さんと、その、二人になりたかった…………かもしれないです……」
消え入りそうな声でそんなことを言ってくれた。
「春香……」
「だ、だから……よろしく……お願いします……」
遠慮《えんりょ》がちに、でもはっきりとした意思《いし》をもって……春香はぺこりと頭を下げた。
「――あー、じゃあ、行くか」
「は、はいっ」
春香が大きくうなずき、
俺たちは二人|並《なら》んで歩き出したのだった。
そういうわけで会場に向かいつつ、ちょっとした寄り道として途中《とちゅう》にある温泉施設《おんせんしせつ》等を見て回ることにした。
何でもパンフレットによると会場へと続く道には春琉奈《はるな》様とやらに関連した縁《ゆかり》の場所が多数|存在《そんざい》するらしく、どうせならそれらにも寄りながら進もうということになったのだ。
「わあ……あったかいです♪」
で、その中の一つ。
街中《まちなか》にある無料の足湯《あしゆ》に浸《つ》かりつつ春香《はるか》が嬉《うれ》しそうに声を上げる。
「春琉奈様も冬合宿の疲《つか》れを癒すためにこうやって温《ぬく》もっていたのかもしれないんですよね? そう思うと感慨《かんがい》もひとしおで……」
「……」
「えへへ、春琉奈様とおそろいです♪」
ぱちゃぱちゃとスカートから伸びた足を小さく動かしながらそんなことを言う。
ふむ、やはり春香にとって春琉奈様≠ニやらはドジっ娘《こ》アキちゃん≠ノ次ぐくらい思い入れのあるキャラみたいだ。
「でも足湯ってなんか面白《おもしろ》いですね。他はお洋服を着たままなのに足だけ温泉に浸かっているって、何だか不思議《ふしぎ》な気分がします」
「そうだな、少しだけこそばゆい感覚《かんかく》とでもいうか……」
「温かい部屋《へや》でおこたに入りながらアイスクリームを食べている感じにもちょっとだけ似《に》ていますよね」
そんなことをのんびりと話しつつ足湯には十五分ほど滞在《たいざい》して、
「ふう、気持ち良かったな。それじゃ次に行くか」
「はい、裕人《ゆうと》さん♪」
足湯を出た後にも、俺たちは近くにあった神社へ立ち寄ったり土産物屋《みやげものや》を覗《のぞ》いてみたりした。
春琉奈様が県大会優勝を願ってお参りをしたという神社では、
「あ、見てください、狛犬《こまいぬ》さんがいますよ」
「お、本当だ」
「やっぱり狛犬さんも『わんっ』って鳴《な》くのでしょうか? そういえば葉月《はづき》さんから聞いたのですが、パンダさんも興奮《こうふん》した時には『わんっ』って鳴くそうなんですよ」
「そうなのか?」
「はい。子犬さんみたいでとってもかわいいそうです♪」
「……。クマ科なのに……」
などと狛犬《こまいぬ》の話をしていたと思ったらいつの間《ま》にか大熊猫《ジャイアント・パンダ》の話になっていたり、
春琉奈《はるな》様が家族へのお土産《みやげ》に木彫《きぼ》りのニホンカモシカを買ったという土産物屋では、
「ね、裕人《ゆうと》さん。これ、裕人さんに少し似ていませんか?」
「ん?」
「ほら、この『ニジマス王子』さん。どことなく面影《おもかげ》が重なるというか………」
「そうか? 特に親近感《しんきんかん》は覚えんのだが……」
「似てますよ。口元が凛々《りり》しいところとかそっくりです、うふふ♪」
「むう……」
かわいいんだか何なんだか微妙《びみよう》なマスコットを前に『ニジマス王子』談義をしたりして、
二人だけでの楽しいひと時を過ごした。
短いながらもなかなかに充実《じゅうじつ》した時間だった。
で、そんなこんなで進んでいき、
「――お、そろそろ着くみたいだ」
「え、ほんとですか?」
「ああ」
いつの間《ま》にかかなり会場に近づいていたようだった。
パンフレットに載《の》っている簡易《かんい》地図を見ると、町民ホールはここから川沿《かわぞ》いにあと五分ばかり歩いたところにあるようである。
「わあ、もうすぐ春琉奈様に会えるんですね……」
春香《はるか》が小さく声を上げる。
「どんなイベントなんでしょう。春琉奈様、どんな服装をしてるのかな………どきどき……」
「ん、楽しみだな」
そんなことを話しながら、立《た》ち昇《のぼ》る湯気《ゆげ》で少しばかり煙《けむ》る川沿いの道を二人で歩いていく。
と、その途中《とちゅう》で、
「くちゅん」
なんか隣《となり》からかわいらしい音がした。
小鳥がさえずりを噛んだ時みたいな音。
目をやってみると、
「あ、ご、ごめんなさいです……」
恥《は》ずかしそうに口元を手で押さえながら上目遣《うわめづか》いでこっちを見ている春香がいた。
どうやら春香のくしゃみのようだった。
「大丈夫《だいじょうぶ》か? もしかして寒いとか……」
そういえば足湯《あしゆ》を出てからけっこう時間が経《た》ってるからな。川沿いだけあって風も意外に強いし、身体が冷えちまったってこともあり得るかもしれん。
しかし春香《はるか》は、
「あ、へ、平気です。たまたまちょっと出てしまっただけで……」
「でもな……」
「ほ、ほんとにだいじょぶです。別に寒くなんてありませんから………くちょん!」
「……」
「……」
……全然|大丈夫《だいじょうぶ》じゃねえ。
まあどこまでもくしゃみの音がかわいくてしかたがないのは置いておくとして、このままにしておくわけにはいかないだろう。
俺はその場で足を止めて、
「――ほら、これを着けろって」
「あ……」
自分の首にガラガラヘビのように巻き付けていたマフラーを春香の首元にかけてやった。
「どうだ、これならもう寒くないだろ? 首元は意外と冷えやすいところなんだ」
「は、はい、とってもあったかです。裕人《ゆうと》さんの温《ぬく》もりが残っていますし……。あ、で、でも、これだと裕人さんが寒いんじゃ……」
「俺は大丈夫だ。けっこう着込んでる上に、寒さには強い方だしな」
「ですけど……」
「気にするなって、ノープロブレムだ」
「……」
春香は少しの間何かを考えこんでいるようだったが、
「だ、だったら、こうすればいいと思います。――え、えいっ」
「お……」
そんなかけ声とともに、
春香はちょこんと背伸びをしてマフラーの半分を俺の首にもかけてきた。
「ど、どうですか? これなら私だけでなく裕入さんもあったかで、円満解決です」
「そ、それはそうだが……」
道徳的|倫理的《りんりてき》に若干《じゃっかん》問題があるというか。しかしこんな高等テク(?)をどこで……
微妙《びみょう》に動揺《どうよう》する俺に、
「え、えと、今朝|美夏《みか》が教えてくれたんです。乃木坂家《のぎざかけ》の家訓《かくん》冬の巻≠ナは『女の子がマフラーをして男の子と歩いてる時は二人で仲|睦《むつ》まじく繋《つな》がって温もりを分け合わなきゃいけないんだも〜ん♪』とあると……」
「……」
あのツインテール娘、またそういうところだけはしっかりと……
「あ.あの、何か間違《まちが》っていたでしょうか? あ、もしかしてマフラーはきちんとちょうちょ結びにしなければいけないとか……」
「い、いや……」
間違ってるとかそういう問題じゃなくてだな……
まあしかし、これはこれでアリというかアフリカクロアリかもしれん。何せ長さに限《かぎ》りがある一つのマフラーを二人で巻くということはそれだけ接近《せっきん》せざるを得ないということであり、接近せざるを得ないということは必然的に春香《はるか》が近くに第三種接近|遭遇《そうぐう》するということで……
「え、えヘへ、あったかいですね、裕人《ゆうと》さん♪」
電気毛布にじゃれつくミニチュアダックスみたいに安心しきった笑顔《えがお》。
それはどこか皆といる時よりも甘えたもののように見えるというか大晦日《おおみそか》から元旦にかけての親密《しんみつ》な空気を彷彿《ほうふつ》とさせるものであり………
「……」
うーむ、この上なく心が安らいでいく感じだね……
束《つか》の間《ま》の至福《しふく》な気分に首まで(文字通り)どっぷりと浸《つ》っていて、
その時だった。
「――ん?」
何か気配《けはい》を感じた。
どこからか見られているというかそこはかとなく視線《しせん》を感じるというか……
不審《ふしん》に思い振《ふ》り返《かえ》ってみると、
「……」
なんか……ヘンな生き物がいた。
いやアレを生き物と呼んでいいのか。大小二つの団子《だんご》が積み重なったみたいなボディ。真っ白な身体に先が二又《ふたまた》に分かれた青いトンガリ帽子。首元には「ヒーホー」と書かれた帽子と同じ青色のマフラーが巻かれている。
要するに……雪だるまだった。
というか明らかに雪だるまの着ぐるみを装着《そうちゃく》した無ロメイド長さんだった。
「…………」
おそらくは美夏《みか》に言われて俺たちのことを追《お》いかけてきたんだろう。手にビデオカメラ(最新ブルーレイ搭載型《とうさいがた》)を持ってるし。
雪だるま(葉月《はづき》さん)はこそこそと建物の陰《かげ》から建物の陰へと移動《いどう》すると、
「………(じ〜)」
自らの変装《へんそう》(?)に絶対《ぜったい》の自信を持っているのか、気付かれているとは微塵《みじん》も感じていないような素振《そぶ》りでひたすらにこっちを撮《と》り続《つづ》けている。いやアレでバレてないと思ってるんだ、この人……
「……」
「? どうされました、裕人《ゆうと》さん?」
「ん、いや」
不思議《ふしぎ》そうに見上げてくる春香《はるか》に首を振《ふ》る。
わざわざあんな格好《かっこう》でここまで追いかけてきた葉月《はづき》さんには悪いが、今日のところは春香との特別な思い出を作ると決めた以上、ここから先はあんまり報告《ほうこく》(撮影《さつえい》)されたくない。
「……」
ここは何とか撒《ま》かせてもらうか。
そう決めた。
尾行《びこう》を撒くなんてのは初めての経験だが、相手が無口メイド長さんだけならやりようもある。
俺は大きく息を吸い込むと葉月さんの後ろの空を指差して、
「あ、ワサビーナちゃんがUFOにアブダクションされてる!」
「……!?」
その叫《さけ》びに葉月さんの顔が即座《そくざ》に後ろを向く。
――よし、今の内だ!
「春香、ちょっと走るぞ――」
素早《すばや》くどこかの物陰《ものかげ》に入ろうとして、
「え、わ、わさび〜なちゃんはどこですか!? あ、あぶだくしょんされる前に助けないと!」
「……」
こっちも引っかかっていた。てかワサビーナちゃん、大人気だな……
「……ワサビーナちゃんは大丈夫《だいじょうぶ》だ。それよりこっちに」
「あ、え?」
目をぱちぱちとさせる春香を促《うなが》し、
そのまま二人つながった状態《じょうたい》(マフラーでな)で、イベント会場へと向かった。
葉月さんは追いかけてこなかった。
「わあ………すごい行列ですね……」
「そうだな……」
イベント会場である町民ホールの前は、見渡《みわた》す限《かぎ》りどこもかしこも人の行列で埋《う》め尽《つ》くされていた。
「春琉奈《はるな》様のラクロスを模した風船を持っている人たちがいます……あっちではグッズの販売《はんばい》も行われているみたいで……」
「ああ……」
真冬でありながら妙《みょう》な熱気と活気に満《み》ち溢《あふ》れたその様子《ようす》は、まるで夏コミ冬コミとやらをそのまま縮尺《しゅくしゃく》したかのようである(多少男の比率《ひりつ》は高いが)。
うーむ、こんなローカル線で一時間のところでやるイベントだから閑散《かんさん》とまではいかなくともせいぜいそこそこの人の入りくらいがやっとだろうと思ってたんだが……春琉奈様とやらの人気は案外あなどれないものなのかもしれん。春香《はるか》もお気に入りなわけだし……
予想外《よそうがい》の盛況《せいきょう》ぶりに少《すこ》し圧倒《あっとう》されつつそんなことを考えていると、
「あれー、そこにいるのって裕人《ゆうと》じゃないー?」
「!?」
と、そこでふいにどでかい声が耳に飛び込んできた。
普段《ふだん》から学園では聞《き》き慣《な》れまくって耳にヒョウモンダコ(猛毒《もうどく》)ができた、しかしここ(長野)では決して聞こえてくるはずのない、これだけ大勢《おおぜい》の人の中でもこの上なく通りまくって貫道《かんつう》する声。
こんな声の持ち主といえば――
「あー、やっぱりそうだー。うわー、こんなところで奇遇《きぐう》だねー」
「信長《のぶなが》!? ――っ!」
俺は瞬時《しゅんじ》に反応すると、
「ス、スマン春香、ちょっと飲み物を買いに行ってくる!」「え?」「すぐに戻《もど》ってくるから!」
と言い、
「信長、ちょっとこっち来い!」
「んー?」
人ごみの中から満面《まんめん》の笑《え》みで現れた信長の腕《うで》を掴《つか》んで、春香から見えないところ(近くにあった巨大春琉奈様ポップの裏《うら》)まで隔離《かくり》する。
「どうしたのー、会うなりそんなスカイフィッシュを見つけたみたいな顔でこんなところまで強引《ごういん》に引《ひ》っ張《ぱ》ってー」
「お、お前、どうしてここに……?」
突然の幼馴染《おさななじ》み(♂)の出没《しゅつぼつ》に微妙《びみょう》に動揺《どうよう》しながらそう問いかける。
すると、
「どうしてって、ヘンなこと訊《き》くねー。イベント会場にいるんだから春琉奈様イベントに来たに決まってるじゃんー」
「……」
そりゃそうだ。
そういえばこの週末は何か外《はず》せない用事があるとか言ってたが……これだったのか。
「それより僕からすれば裕人《ゆうと》がここにいることの方が驚《おどろ》きだよー。なんか旅行に行くとか言ってなかったっけー? 何でこんなところにいるのー?」
「いやそれはだな………」
「あ、そっかー。とうとう裕人もこういう地方イベントにまで積極的に足を伸ばしてくれるまでになったんだー。僕の長年の布教《ふきょう》活動の成果《せいか》がそろそろ実りつつあるってことかなー、うんうん、いいことだよー」
人の言葉《ことば》も待たずに勝手に納得《なっとく》する信長《のぶなが》。
まあ現状について色々と突っ込まれるよりは遥《はる》かにいいんだが。
「でも裕人もなかなかいい嗅覚《きゆうかく》してるなー。このイベントは狙《ねら》い目《め》だよー。何てったってこの街は春琉奈《はるな》様の冬合宿の合宿地のモデルになってるって言われてるところだからさー。聖地|巡礼《じゅんれい》っていうかそんな感じでねー、普通《ふつう》のイベントよりも盛《も》り上《あ》がりがすごくて人の入りもすごくてー。あ、もちろん忘《わす》れちゃいけないのは出演してる声優さんかなー。これもまたすごい豪華《ごうか》で………………うんたらかんたら…………(長かったので中略)………………それに加えて今回のイベントはセットリストもスペシャルでねー。特に学院の時計塔を模《も》したギミックのリアルさが…………(さらに中略)…………それで地方イベントなのにここまで人が集まってるってわけなんだよー。あ、ところで裕人、入場整理券は何番台ー? 最前列に行くには十番台くらいまでじゃないときついかもしれないよー」
「入場整理券?」
そこで初出な単語が出て来た。
「そうだよー、入場整理券。特定のお店で春琉奈様のキャラクターソングを買うともらえるやつー。あれー、もしかして知らなかったのー?」
「……」
そんなもん当たり前だが知ってるはずねえ………
そういえば入り口のところに入場整理券がどうとか書かれた注意書きがあったような気はしたが、その場で買うものかと思って大して気にも留《と》めてなかった。だが信長の話からするとつまりはその入場整理券とやらはあらかじめ入手しとかなければマズイってことなのか?
予想外《よそうがい》な事実に沈黙《ちんもく》する俺に、
「ふーん、そうなんだー。まあ知らないで直接会場に来ちゃうってのは初心者にはありがちだからねー。だったらこれあげるよー」
「え?」
「これがあればばっちりだからさー」
そう言って信長が自分の首にかけていたのを取り外して手渡《てわた》してきたモノ。
それは『いんびて〜しょん@のくた〜ん』と書かれたパスだった。
「これは……」
「ま、見ての通り通行パスかなー。それが一枚あれば何人でも間題なく中まで入れるよー。ていうか前列の特別席に座《すわ》れるんじゃないー?」
「いや、でもこれを渡《わた》したらお前が……」
入れなくなるんじゃないのか?
だが信長《のぶなが》は首を振《ふ》って、
「あ、心配しなくてもそれなら大丈夫《だいじようぶ》だよー。僕はバックヤードまで顔パスだからー」
「……」
あっさりとそんなことを言った。いや顔パスって……
「……いいのか?」
「うん、いいっていいってー。他ならぬ裕人《ゆうと》のためだしー。これを機にさらにこっち側に精進《しょうじん》してくれれば嬉《うれ》しいかなー。――あ、じゃ僕はそろそろ行くねー。色々|挨拶《あいさつ》周《まわ》りとかしなくちゃいけなくてさー。裕人も乃木坂《のぎざか》さんと二人で仲良くねー」
そう言って信長はいつも通りの虫も殺さないような笑顔《えがお》で去って行った。
「……」
いや本当にやつはどれだけワールドワイドな人脈《じんみゃく》を持ってるんだろうね。結果《けっか》として入場券というか入場パスをゲットすることができたからそれは本当にありがたいんだが……
微妙《びみょう》に複雑な気分になりつつ春香《はるか》のもとへと戻《もど》ると、
「あ、おかえりなさい、裕人さん。飲みものは買えましたでしょうか?」
「ん、ああ」
笑顔の春香が迎えてくれた。
まあ買ってないんだが。
「あー、それよりそろそろ時間みたいだ。せっかく間《ま》に合うように来たんだし、早く中に入っちまおう」
「あ、はい、そうですね」
そううなずき合って、
二人で町民ホールの中へと入った。
ちなみに入り口で俺の首に下がった入場パスを見た受付の人が「あ、あのお方のお知り合いで……」となぜかすげぇ丁重《ていちょう》な態度《たいど》(超VIP待遇《たいぐう》)でおもてなしてくれたが……それは気にせんことにしよう。
「それではこれより『私立ノクターン女学院ラクロス部〜春琉奈《はるな》様キャラソン発売記念イベント!!』を始めます♪」
イベントの始まりを告《つ》げるその声とともに辺《あた》りから嵐《あらし》のような拍手《はくしゅ》と「うおー!」だとか「のとまみ〜!」だとか「かわいいぞー!!」だとかいう歓声《かんせい》が湧き上がる。
何かの式典みたいな独特《どくとく》の雰囲気《ふんいき》。
館内は基本的には暗幕《あんまく》に覆《おお》われていて真っ暗で、女学院風にアレンジされたステージの上のみがライトで照らされている。そこで春琉奈《はるな》様とやらの声優《せいゆう》さんを初め数人の声優さんたちと司会らしきプロデューサーの男の人とが流れている曲の紹介などをしている。
「わあ、始まりました♪ すごいです、本物の春琉奈様の声優さんたちが目の前に……」
目をきらきらとさせながらうっとりとした表情をする春香《はるか》。
ここで初めて知ったんだが、どうやら今回のイベントは春琉奈様とやらの声優さんたちがトークをしたり歌を歌ったりなどしつつ進めていくものらしい。
例のノクターン女学院とやらのイベントだからてっきりアニメの上映会かなんかでもやるもんだと思っていたんだが、どうもそうではないらしい。まあこういった系のイベントについては俺はまだよく分からんからな。だからそれはいい。
問題は、
「なあ春香、この声優さんなんだが……」
「はい?」
「いやなんつーか……春香の声にそっくりじゃないか?」
それだった。
「え、そうですか?」
「ああ」
今もステージ上で楽しげにトークをしている春琉奈様役の能登《のと》麻美子《まみこ》という声優さん。
春香に自覚《じかく》はこれっぽっちもないようだが、俺の耳が壊《こわ》れたイヤホンのようになってるんじゃなければホントにそっくりである。
ちょっと落ち着いた感じで耳心地《みみごこち》のいいウィスパーボイス。声自体にマイナスイオンが含《ふく》まれているかのような癒《いや》しの響《ひび》きで、最初の挨拶《あいさつ》の時には驚《おどろ》いて思わずステージ上と隣《となり》の春香の顔とを見比べちまったくらいだ。
「え、えと、自分ではよく分かりませんが……でも、もしもそれが本当ならとっても嬉《うれ》しいです。大好きな春琉奈様ですし……」
少し照れたように笑う。
その表情と声はまたかわいらしくこの上なく可憐《かれん》で……なんつーかこっちもこっちで負けずに地上に舞《ま》い降《お》りたヒーリングの化身《けしん》というか……
ステージ上と隣との二つのエンジェリックボイスに挟《はさ》まれて、思わず日光浴中のニュージーランドアザラシのようにゆるんだ頬《ほお》になっちまう俺の耳に、
「それでは次は恒例《こうれい》の春琉奈様クイズに移りたいと思います。春琉奈様|直々《じきじき》のご出題で、最後まで残った方にはもれなく春琉奈《はるな》様のサインをプレゼントさせていただきますので、がんばってください!」
そんな司会の声が流れ込んできた。
どうやら俺がノンキにニュージーランドアザラシしている間にもステージではトークが進行していて、次のプログラムになっていたようだ。
「わあ、クイズをやるそうですよ、裕人《ゆうと》さん♪」
「みたいだな」
春琉奈様クイズとやら(なんかどっかで聞いたような……)。
ネーミングはアレだが要は単純な○×クイズらしい。あらかじめそれぞれの席に用意された表と裏《うら》に○と×のマークが書かれた下敷《したじ》きを使って、正解だと思う方を上げることによって解答をするもののようだ。
「しかも最後まで残るとサインがいただけるなんて………が、がんばっちゃいますね!」
「ん、おう」
両手でぎゅっとグーを作る春香《はるか》。気合が入ってるな……
「それではクイズを始めたいと思います。――春琉奈様、よろしくお願いします!」
「あ、はい♪」
そんな司会の声を受けて春琉奈様役の声優《せいゆう》さんが一歩前に出る。それとともに『おおおおおー!!』というでかい歓声が辺《あた》りの客席から響《ひび》き渡《わた》った。
「それでは第一問です。みなさん準備《じゅんび》はいいですか?」
その呼びかけに『オッケーでーす!』という声がすぐに戻ってくる。
「ええと、まずは腕鳴《うでな》らしからです。私《わたくし》、春琉奈の従姉妹《いとこ》である秋緒《あきお》ちゃんの隣《となり》に住んでいるお姉さんのお母さんが通っていた学校は私立セレナーデ学園である。○か×か、どちらでしょう?」
「……」
一問目からずいぶん細かいというか迂遠《うえん》な質問だった。いや春琉奈様とやらについての知識が皆無《かいむ》な俺にはよく分からんのだが、こんなの知ってるやつがいるのか?
すると、
「○です、裕人さん」
「? 春香、分かるのか?」
「はい。確か第四話のAぱ〜とで春琉奈様が電話でそのようなお話をされていました。間違《まちが》いないと思います」
こっくりとうなずきながらちょこんと○の下敷きを上げる。
というか春香の他にも何人も迷《まよ》うことなく○の方を選択《せんたく》している。むう、ファンにはこの程度《ていど》は楽勝なのか……?
やがて制限時間が終了し、
「はい、そこまでです。みなさまお分かりになりましたか? 最初の問題にしてはちょっと簡単《かんたん》だったかもですね。ではでは気になる答えは――○です。○を選択《せんたく》したみなさま、おめでとうございます♪」
そう声優《せいゆう》さんが笑顔《えがお》で発表した。
「わあ、やりました、正解です!」
ぴょこんと飛び上がって喜ぶ春香《はるか》。何だかんだで見事《みごと》に正答なのはさすがだった。
「それでは第二問です。私が夏の大会の決勝戦で部員の皆に言った激励の言葉《ことば》の中で『勝利』という単語は全部で三回使われていた。○か×か」
「えと、あれは確か……裕人《ゆうと》さん、今度も○です」
「ん、ああ」
再《ふたた》び春香がえいっと○の下敷《したじ》きを上げる。
「みなさまよろしいでしょうか?第二問の答えは――○です。○の方、おめでとうございます!」
今度もやはり正解だった。
で、そんな感じにどんどんと春琉奈《はるな》様クイズとやらは進んでいき、
十分後。
「――それではいよいよ次が最後の問題となります。まずはここまで残られたみなさん、おめでとうございます♪」
いつの間《ま》にやら最終問題になっていた。
現在残っているのは春香(と俺)を含めて五人ほど。
元々の参加者がざっと二〇〇人ほどだったことを考えるとこれだけでも大したものである。
「では最終問題にいきます。私の飼《か》っているマルチーズのシャルルローズが散歩の途中《とちゅう》でたまたま拾ったバルーンメールの差出人である香奈子《かなこ》様が、半年の間に使用した万年筆の種類はモンブラン、アウロラ、ファーバカステル、カランダッシュ、ビスコンティーの五種類である。最後だけあって少し難しいですが、がんばってください。さあ、○か×か、どちらでしょう?」
「…………」
何だそれは。
もはや何がなんだかさっぱりワカラン。てか問題文自体がすでに暗号《あんごう》だとかそんなレベルである。
「え、えと、えと、確かあれは第六話からで……」
隣《となり》では春香が目をつむりながら必死にうんうんと思案《しあん》している。ここまでは比較的《ひかくてき》順調に来たとはいえ、さすがにこの問題はそう簡単《かんたん》にはいかないようだ。
「モンブランが第八話、ファーバカステルが第十一話で……あ、でも確か十三話でカランダッシュ、十五話でアウロラとビスコンティー、二十一話のアイキャッチでパーカーのデュオフォールドが…………わ、分かりました、×です、裕人《ゆうと》さん!」
「ん、おお」
悩《なや》んだ末に×を選《えら》んだ春香《はるか》に従《したが》って×を上げる。
×を選んだのは俺たちだけだった。
「はい、そこまでです。よろしいですか? ○を選んだ方も×を選んだ方も悔《く》いはありませんでしょうか。それでは最終間題の答えは――」
「……」
「答えは……」
「……どきどき、どきどき……」
「……」
一瞬《いっしゅん》の静寂《せいじゃく》。
そして、
「答えは――×です!」
そう、高らかに宣言《せんげん》された。
会場中に『おー!!』とざわめきが起こる。
「や、やりました! 正解ですっ、裕人さん!」
隣《となり》の春香が興奮気味《こうふんぎみ》に手をぎゅっと握《にぎ》ってくる。
春香(と俺)の優勝が決まった瞬間《しゅんかん》だった。
「えへへ……能登《のと》麻美子《まみこ》さんのサインです……」
少しだけ夕暮《ゆうぐ》れ色《いろ》に染《そ》まった川沿《かわぞ》いの道。
手に入れたサイン色紙を胸《むね》にきゅっと抱《だ》きながら幸せそうに春香が息を吐《は》いていた。
「私、これ宝物にします。額縁《がくぶち》に入れて間接照明を当ててお部屋《へや》の一番よく見えるところに大事に大事に飾《かざ》ります。はあ……」
「よかったな、いいものが手に入って」
「はい、夢みたいです。しかも握手《あくしゅ》までしてもらっちゃいましたし……」
満面《まんめん》の笑《え》みでそう答える。
あのあと再《ふたた》びのトークタイムやら声優《せいゆう》さんへの質問タイムやらを経《へ》て、最後に参加者全員との握手会を行ってイベントはつつがなく終了した。
ステージ上にう設《もう》けられたスペースでのちょっとした会話も交《まじ》えた握手会。
その際《さい》の春香と声優さんのやり取りが以下のようになる。
「あ、あのあの、わ、私……」
「あ、確かさっきのクイズ優勝者の方ですよね? おめでとうございました、すごかったですね♪」
「は、はははいっ! あの、さ、サイン本当にありがとうございましたっ。た、大切にしますので……」
「あ、そんな……頭を上げてください。そこまで大したものではないですから……」
「い、いいえそんな、とっても大したものです。ものすごくすてきなものですっ」
「あ、ええと、ありがとうございます。そう言ってもらえると私も嬉《うれ》しいです……」
二入してぺこぺこと丁寧《ていねい》にそんなことを言い合う。
なんかそっくりな声が同じようなテンポで恐縮《きょうしゅく》し合っているのは、不思議《ふしぎ》というかどこか錯[#ルビ「っ」に誤植。底本では「く」]覚《さっかく》を生じさせる光景《こうけい》だった。
さらにそれだけではなく、
「そ、それではこれからもがんばってください! お、応援《おうえん》させていただきますっ」
「あ、はい。ありがとうございますね」
互《たが》いに挨拶《あいさつ》をしようとして、
がんっ。
「あうっ」
「あっ」
「……」
ちょうどいいタイミングで双方《そうほう》とも頭を下げ合い、頭突《ずつ》きをし合うカタチになっていた。
涙目《なみだめ》で頭を押《お》さえている二人。
いやこの二人、声だけじゃなくなんかやたらとぽわぽわとしたキャラまで似《に》てる気がするんだが……そこはあまり深く突っ込むところじゃないんだろうな。
まあそんな感じだった。
色々とハプニングはあったが、それでも基本的にはまったりとしたいい雰囲気《ふんいき》だったし、充実《じゅうじつ》した時間を過ごせたイベントだったといえよう。
春香《はるか》も楽しんでくれたのか、
「今日はとっても楽しかったです。これも裕人《ゆうと》さんが誘《さそ》ってくださったおかげで……本当にありがとうございました」
そう言ってぺこりと頭を下げてきた。
「あー、いや」
何だかんだで俺もイベントをそれなりにエンジョイしてたし、そもそも半《なか》ば強引《ごういん》に誘っちまったっていう経緯《いきさつ》もある。むしろお礼を言うべきなのはこっちな気もするんだがな。
だがそんな俺に、
「いいえ、そんなことないです。本当に楽しかったですし、私自身が裕人《ゆうと》さんと行きたかったんですから……。それに……」
「?」
「……思い出、できました……」
「え?」
ぽつりと春香《はるか》が言った。
「特別な思い出……できました。裕人さんといっしょに旅行に来たことの特別な思い出。春琉奈《はるな》様イベントだけじゃないです。いっしょに足湯《あしゆ》に入って、神社にお参りして、お土産《みやげ》を見て……全てが初めての体験でした。きっと私……今日のことは絶対《ぜったい》に忘《わす》れないと思います」
「春香……」
「だからやっぱり、私の方から言わせてくださいです。今日は裕人さんのおかげでとっても幸せな一日でした。ありがとうございました」
きゅっと俺の手を握《にぎ》りしめながらにっこりと笑う。
うーむ、そう言われちまうとこっちからはもう何も言えんな。俺が言いたいことは全部言われちまったわけだし。
「それじゃあそろそろ戻《もど》りましょうか? お日様も傾《かたむ》いてきてしまいましたし」
「ん、ああ。そうだな」
「行きましょうです」
歩き出した春香の横に並《なら》ぶ。
まあ口で言えることはもうないが、それでもできることはある。
「あー、それでだな春香」
「はい?」
「その、だな、寒いんじゃないか?」
「え?」
きょとん、とした顔をする。
「あ、だからだな、寒くないかと思ってな。夕方だしだいぶ気温も下がってきてるわけだし、その、首元とかが……」
「? いえ、イベント会場が温《あたた》かかったおかげで今は特に寒くは――あっ」
そこでようやく言わんとすることを分かってくれたのか、
「あ――は、はい。ちょ、ちょっとですが……寒い、です」
そうこくんとうなずいて、少しだけその小さな身体をこっちに寄せてきてくれた。
「あー、だ、だったら温かくせんとな」
「は、はい……」
「じゃ、じゃあ行くぞ」
そう確認を取ると、俺は白分の首にヤマカガシのように巻きついていたマフラーを半分だけ外して、再《ふただ》び春香《はるか》の首にそっとかけた。
「あー、ど、どうだ。これで大丈夫《だいじょうぶ》だろ」
「はい。とっても………あったかいです」
マフラーを間に挟《はさ》んで一つになるシルエット。
そうしてマフラーで連結したまま、旅館への道を歩いた。
何だか一つのマフラーを通して首だけでなく心までも繋《つな》がってるような気がした……ってのはさすがに少しばかり言ってて恥《は》ずかし過《す》ぎるな、いくら何でも。
「あ〜、おに〜さん、帰ってきた〜!!」
旅館の入り口を通り抜けるなり、そんな大声を上げたツインテール娘がだだだっと駆《か》け寄《よ》ってきた。
「こんな時間までどこで何してたの〜! わたしたちの合図なしに勝手に抜け出すし秘宝館《ひほうかん》にも行ってないみたいだし、葉月《はづき》さんも途中《とちゅう》でまかれちゃったってゆうし……。あのあとみんなへのフォローが大変《たいへん》だったんだからね〜」
「あー、いや……」
「まったく、ほんっといいかげんなんだから〜。『あとは頼《たの》んだ』のメールを送ってきただけで、いったいこんな時間までどこで何してたのさ〜?」
「それはだな……」
ぷりぷりとおかんむりな美夏《みか》に一通りの事情を説明する。
すると美夏はちょっとだけすねたようになって、
「……二人でそんなことしてたんだ。そりゃあそういうお姉ちゃんの秘密《ひみつ》に関《かか》わることならみんなに言えないのも分かるけどさ……。でもわたしたちには言ってくれたっていいのに……」
ぷ〜っと横を向きながらそう言った。
「ホントに悪かったとは思ってる。だけどどうしても春香《はるか》と二人で行きたくてな……」
「ごめんなさいです。でもやっぱり裕人《ゆうと》さんといっしょに過ごしたくて……」
俺と春香の謝《あやま》りの言葉《ことば》が被《かぶ》る。
それを聞いた美夏は息を吐《つ》いて、
「は〜、いいよ、もう。そもそも途中《とちゅう》で抜け出すように勧《すす》めちゃったのはわたしたちだし、お姉ちゃんと二人きりになるってゆう目的は達成できたみたいだしさ〜」
「お……」
「美夏……」
「…………それに、そんな幸せそうなお姉ちゃんの顔見たら、何も言えないじゃん」
「? 何だって?」
「ん〜ん、何でもな〜い。相変わらずおに〜さんはナチュラルに女の子キラーだな〜って思っただけ」
「??」
それはどういう意味だ?
意図《いと》が分からずに首を傾《かたむけ》けていると、
「でも裕人様、すごいですね〜。まさか葉月さんを撒《ま》いてしまうなんて〜」
「――(こくこく!)」
那波《ななみ》さんとアリスがそう声を上げて集まってきた。
「それってなかなかできることではありませんよ〜。葉月さんの尾行《びこう》能力は全メイド隊の中でもピカイチで、ハナマルスッポンの葉月≠ニ呼《よ》ばれていたこともあるのですから〜」
「――(こくっこくっ!!)」
「…………面目《めんもく》ありません」
その言葉になぜかいまだに雪ダルマ姿《すがた》のままだった無ロメイド長さんがしょんぼりとそう答える。……やっぱりこの人、着ぐるみ大好きだろ……
まあそれはともあれ。
「あー、いや、あれは何て言うかな……」
ワサビーナちゃんの勝利というかファンシーなもの好きの葉月《はづき》さんの自滅《じめつ》というか。
いずれにせよ俺が何かしたわけではない。
どう説明したもんかと頭を悩《なや》ませていると、
「あ、裕人《ゆうと》、帰ってきたの!」
部屋《へや》から出て来たのか、今度は廊下《ろうか》の向こうから浴衣姿《ゆかたすがた》の椎菜《しいな》が手を上げて呼びかけてきた。
むう、なんか初日といい今日といいロビーで色々と質疑《しつぎ》応答《おうとう》させられてばっかだな。
椎菜はたたたっと駆《か》け寄《よ》ってくると、
「大丈夫《だいじょうぶ》だったの? 荷物は無事《ぶじ》に取《と》り戻《もど》せたの? 大変《たいへん》だったって聞いたけど……」
「え?」
荷物? 何のことだ?
首をねじる俺に、
「昼間は気が付いたら突然いなくなっててびっくりしたけど、美夏ちゃんが言うには、『あ〜、ん、ん〜とね、おに〜さんは気の抜けた炭酸飲料みたいにぼーっと道を歩いてたところをサルに手荷物を取られてそのままそれを追《お》いかけていっちゃいました。心配したお姉ちゃんもいっしょに着いていったみたいです。で、その途中《とちゅう》で秘宝館《ひほうかん》を見つけて一休みしようと二人でしけこんじゃったとか何とか。そ、そうゆう連絡があったからさ〜』だって話だから……」
「……」
いやフォローしてくれたのは助かったんだが、正直その内容(秘宝館で一休み……)はどうかと思うぞ……
あらぬ誤解を招《まね》きかねないというか。
すると案《あん》の定《じょう》、
「あ、そ、それで秘宝館は楽しかった……?」
「え?」
「その、乃木坂《のぎざか》さんと二人で秘宝館に、し、しけこんじゃって……」
椎菜が微妙《びみょう》に言いづらそうにそんなことを言ってきた。
「う、それはな……」
「あ、べ、別に困《こま》るようならムリして言わなくてもいいって。そ、そうだよね、秘宝館で二人きりだもんね。ただ何となく訊《き》いてみただけだから……」
「……」
いやそんな掃除中《そうじちゅう》にたまたま兄の部屋《へや》のベッドの下からエロ本を見つけてしまった妹みたいに気を遣《つか》った顔をしないでくれ……
とはいえ本当のこと(春琉奈《はるな》様イベントとやら)を話すわけにもいかない。
何とかうまく誤魔化《ごまか》そうとして、
「お、お客様、困《こま》ります!」
と、今度はそんな声が廊下《ろうか》奥《おく》の大浴場の方から聞こえてきた。
「日本酒風呂などはウチではやっておりませんので、どうかそのような狼藉《ろうぜき》はお控《ひか》えください!」
「え〜、別にそれくらいならいいじゃな〜い。大人のロマンっていうか、お酒は百薬《ひゃくやく》の長《ちよう》ってゆうし、世の中にはワイン風呂とかもあるんだし、おねいさん興味しんしんなの〜♪」
「心配しなくとも使う日本酒はこちらで自腹で用意する。ほれ見てみろ。年間数十本しか生産されないという幻《まぼろし》の銘酒《めいしゅ》、『白熊裸祭《しろくまはだかまつ》り』だぞ」
「そ、そういう問題ではなくてですね……」
「…………」
「裕人《ゆうと》、今のって………」
「……。……ああ」
一瞬《いっしゅん》何も聞かなかったことにして部屋《へや》に直帰《ちょっき》したくなった。
いや放《はな》し飼《が》いにしといたと思ったら一体何をやってるんだあのワン公たちは……
「だ〜か〜ら〜、ちょっとやってみるくらいいいじゃな〜い。日本酒でだめならシャンパンとかでもいいわよ〜。あ、知ってる? シャンパンって日本語にすると三鞭酒《さんぺんしゅ》って書くんだけど、三つの鞭《むち》ってなんか危険《きけん》な感じよね〜、きゃっ♪」
「何だ、『白熊裸祭《しろくまはだかまつ》り』では不満だというのか? むう、ならば仕方ない、ここは秘蔵《ひぞう》の『裸王降臨《らおうこうりん》』を出して……」
「で、ですから……」
「…………」
さらにワケノワカランことを言い出すアル中たち。
我が身の安全のためにも限《かぎ》りなくそのまま放置《ほうち》しておきたいが、こと食事と酒が関《かか》わる事項《じこう》においてはやつらは放っておくと何をしでかすか極《きわ》めてデンジャラスである。
「はあ……」
――俺が何とかするしかないか……
結局。
日本酒両手にごねまくるアホ姉とセクハラ音楽教師とを何とかなだめてすかして捕獲《ほかく》して、部屋まで運れ帰ることとなったのだった。
それは俺と春香《はるか》が声優《せいゆう》イベントを終えて旅館に戻《もど》ってきてからおよそ三時間後、『稲穂《いなほ》の間《ま》』で朝食と同様にこれまた豪華《ごうか》な夕食を済《す》ませ(ジューシーな信州牛のステーキとか見事《みごと》なピンク色の馬刺《ばさ》しとかがあった)、それぞれ部屋《へや》へと戻《もど》るべくわいわいと旅館内の通路を歩いていた時のことだった。
「あ、ねえねえみんな大変《たいへん》! あれ見て!」
「ん?」
デザートの特製|朝搾《あさしぼ》り生乳カスタードプリンが大当たりだったのか上機嫌《じょうきげん》にツインテールをふりふりさせていたツインテール娘が、何かを見つけてふいに声を上げた。
「ほらあれ、あそこ! あの奥の部屋。あれって卓球場じゃない? ピンポン♪」
「ああ、みたいだな」
美夏《みか》のちんまりとした指が差していた先。
そこには『王華《おうか》の間(卓球場)』と書かれた部屋名札があった。
「わ〜、わ〜、やっぱこうゆう旅館にはちゃんと完備《かんび》されてるんだ〜。さすがは温泉地《おんせんち》ってゆうか〜。すごいすごい! ――ね、ね、せっかくだからこれからみんなでやってみない?」
「え?」
唐突《とうとつ》にそんなことを言い出した。
「ほら時間もあるし、何といっても温泉といえば温泉卓球でしょ? 浴衣《ゆかた》でピンポン、ぽろりもあるよ、みたいな♪ やっぱこれをやらずして温泉に来たとは言えないじゃん。そだ、温泉卓球|六箇条《ろっかじょう》って知ってる? (1[#底本は丸に1])浴衣はひざ上までたくし上げなければならない、(2[#底本は丸に2])かいた汗《あせ》はダブルスのパートナーが拭《ふ》いてあげる、(3[#底本は丸に3])浴衣が着崩《きくず》れても直してはいけない、(4[#底本は丸に4])相手の懐《ふところ》に入ったピンポンは男の子が取らなきゃいけない、(5[#底本は丸に5])くつ下を履《は》くのは邪道《じゃどう》である、(6[#底本は丸に6])ピンポンが場外に飛んでいった場合は見ているギャラリーが胸元《むなもと》でキャッチしなければならない、の六つでね〜」
俺の浴衣の袖《そで》をぐいぐいと引《ひ》っ張《ぱ》りながらやたらと庶民的《しょみんてき》なことを熱弁するお嬢様(妹)。つーか何やらすげぇ気合いが入ってるな。そんなに卓球が好きなのか?
少しばかり怪訝《けげん》に思っていると、
「あの、実は美夏はたっきゅうをやったことがないんです」
と、春香が小さな声でそう言ってきた。
「あの子も色々と忙《いそが》しくて……前々からやりたがってはいたんですがなかなか機会がなかったみたいなんです。中でも温泉でやるたっきゅうに憧《あこが》れていたようで……。昔からテレビとかで温泉《おんせん》でのたっきゅうシーンが出る度《たび》にやりたいやりたいと言っていましたから、その反動なのかもしれません」
「そうなのか……」
ならここまで積極的なのもうなずける話なのかもしれん。
「ね、ね、楽しそうでしょ? だからみんなでやろうよ、温泉卓球♪」
皆の顔を見回して美夏《みか》が言う。
「卓球かー。そういぇばここのところやってないかも」
「浴衣《ゆかた》で卓球って、風情《ふぜい》がありますよね」
「うんうん、卓球をチョイスするなんて美夏ちゃんは相変わらずぷりちーだねー」
椎菜《しいな》たちがすぐに賛成し、
「わ、やった〜。さすがおね〜さんたち、いいノリしてる〜♪ あ、ルコおね〜さんたちもい〜よね?」
「ふむ、たまにはそういった戯《たわむ》れもいいかもしれんな」
「卓球といえば棒《ぼう》で玉を突《つ》っつくお・と・なV[#中黒のハートマーク]の球技よね〜♪ おねいさん、大得意よ〜」
ルコ、由香里《ゆかり》さんのアホ年長コンビ(日本酒風呂はようやく諦《あきら》めたらしい)もそう同意した。
「いえ〜い♪ あとはお姉ちゃんとおに〜さんだけだけど……」
ちらりとこっちを見ながら訊《き》いてくる。
まあそういうことなら付き合うのもやぶさかではない。何だかんだで昼間は色々と世話《せわ》になっちまったしな。その感謝の意も兼《か》ねてってことで。
「はい、だいじょうぶです」
「ああ、いっちょやるか」
なのでそう答えると、
「えへへ、やった。それじゃ決定だね♪」
美夏が嬉《うれ》しそうにぴょこんと跳《は》ね上《あ》がる。
それといっしょに浴衣の裾《すそ》もツインテールもその持ち主の心の内を表しているかのように元気よく揺《ゆ》れた。
というわけであれよあれよという間《ま》に皆で卓球をすることになったのだが。
これがまさかこの後に控《ひか》えている壮大《そうだい》なる悲劇(俺にとって)の序章となろうとは……この時の俺にはミジンコほども想像《そうぞう》がつかなかったのである。
「それではこれから、第一回信州|美夏《みか》ちゃん杯《はい》温泉《おんせん》卓球大会を始めたいと思いま〜す♪」
そんなツインテール娘の声が高らかに響《ひび》き渡《わた》る。
卓球場こと『王華《おうか》の間《ま》』は学園の教室ほどのスペースで、二つの卓球台が置かれていた。
備品《びひん》であるラケットやボール(ピンポン玉)も部屋《へや》の隅《すみ》にカゴに入って用意されていて、利用者が自由に使えるようになっている。
「へー、結構《けっこう》広いね。ん、これなら本気で動いても大丈夫《だいじょうぶ》かも。ラケットはどれがいいかな……」
「あ、椎菜《しいな》ちゃん、やる気ですね」
「椎菜は身体動かすの好きだからねー。私はこっちのペンでいこっと。美夏ちゃんはどっちにするー?」
「あ、ん〜とね……」
そう楽しそうに笑い合いながらラケットを選ぶ椎菜たち。
ちなみに参加者は、春香《はるか》、美夏、椎菜、朝比奈《あさひな》さん、澤村《さわむら》さん、ルコ、由香里《ゆかり》さん、俺の八人である。葉月《はづき》さんたちメイドさんズは審判《しんぱん》をやってくれるらしく卓球自体には不参加で、三馬鹿たちは何でも『浴衣《ゆかた》と卓球とチラリズムの相関性《そうかんせい》』についてのディベートを行うとやらで小刻《こきざ》みにスクワットをしながらどこかへ行ってしまったのだった。
そんな中、
「あ、あの、実は私もたっきゅうは初めてで……え、えと、これでいいのでしょうか……」
「………」
「あ、あれ何か違《ちが》うような……。こ、ここをこうして握《にぎ》って……」
ペンタイプのラケットを逆手《さかて》で握りしめながら、春香が迷子《まいご》のカルガモの赤ちゃんのようにきょろきょろと辺《あた》りを見回していた。
「こ、ここにこう指をかけて……」
「……春香、それはアイスピックとかを持つ時の持ち方だ」
見かねてそう言うと春香はわたわたと慌《あわ》てて持ち直して、
「あ、そ、そうなのですか? じゃあこうで……」
「…………。……それはおそらくフェンシングとかの握り方じゃないのか」
卓球のラケットでそれをやるとはある意味器用である。
「そうじゃなくてだな、こういう風に鉛筆《えんぴつ》を握るみたいに……」
「あ、は、はい」
「ここをこう軽く添《そ》えるようにして……」
「こ、こうですか? あ、少しコツが掴《つか》めてきたような気がします♪」
実際《じっさい》に春香《はるか》の手をラケットに添えさせながら持ち方を教えていると、
「ん〜、相変わらず仲い〜ね、おに〜さんたちは」
「ぬ?」
「え?」
美夏《みか》がにまにまと笑いながらそんなことを言ってきた。
「二人して接近《せっきん》しながらいちゃいちゃとさ〜。なんてゆうか、手取り足取り腰取《こしと》り特別|指導《しどう》って感じ? あ〜、あついあつい」
「な、こ、これはただラケットの持ち方を教えてただけでだな……」
「そ、そうです。別に、その、特別なことでは……」
「ふ〜ん、そなんだ。へ〜、ふ〜ん。ま、そうゆうことならそうゆうことにしといてあげてもいいけど〜♪」
「……」
これっぽっちもそういうことで済《す》ませるって顔をしてないんだが。相変わらず耳年増《みみどしま》というかマセガキというか……
その横では、
「…………」
「ん、どうしたのー、椎菜《しいな》? なんか塩害《えんがい》に遭《あ》った小松菜《こまつな》みたいな顔しちゃってー」
「え? あ、う、ううん、何でもないよ」
「? ならいいけどー。元気出してこうよー」
何やら澤村《さわむら》さんたちがそんなやり取りもしていた。むう、椎菜、どこか調子《ちょうし》でも悪いんだろうか?
で、まあそういった事前|準備《じゅんび》(?)を経《へ》て、温泉《おんせん》卓球が始まった。
二つの台を使ってそれぞれで適当《てきとう》に打ち合いをする。
「とりゃー、スマッシュー!」
「きゃっ、りょ、良子《りょうこ》ちゃん、つ、強すぎます……」
「あ、ごめーん。久しぶりだったんでついー」
「……ナイススマッシュです」
「いや〜ん、黒い棒《ぼう》がすっぽり胸元《むなもと》にはまっちゃった〜」
とか、
「ほら、行くよ〜、お姉ちゃん」
「は、はい。え、ええと、カットボールを返すには手首を使って……」
「あ、すごいすごい、ちゃんとカットできてるよ、お姉ちゃん!」
「……ナイスカットです」
「白い玉が、白い玉がおねいさんの豊満《ほうまん》な身体をかき乱して……」
とか、
だいたいそんな感じだった。
途中《とちゅう》でなんか呼吸をするかのごとく自然にセクハラをしてる人も約一名いたが、それはもういつもの持病《じびょう》(治療《ちりょう》不可《ふか》)なので気にせずに、せめてかわいそうな目で眺《なが》めていることにしよう。
「こんなのはどう、お姉ちゃん、とうっ」
「こ、ここをこうして……えいっ」
「わ、これも返してくるんだ。やっ」
「え、ええと、えいっ。――たっきゅうって面白《ねもしろ》いですね」
楽しげにラケットを振《ふ》るう春香《はるか》たち。
二人とも最初こそはたどたどしかったものの、そこはさすがに基本的には運動神経に恵まれたお嬢様姉妹である。少しやり方を教わっただけでその上達は目ざましく、特に美夏《みか》の方は一時間も経《た》つ頃《ころ》には朝比奈《あさひな》さん(卓球|経験《けいけん》そこそこ)と互角《ごかく》に打てるくらいにまでなっていた。
「へへ〜、これでわたしも温泉《おんせん》卓球ますた〜だね。どう、すごい? すごい?」
くるくるとラケットを手の上で回しながら得意げな顔でそんなことを言ってくる。
「たった一時間でこれだけうまくなるなんて、もしかしたらわたしって天才かも♪ もうおに〜さんにも負けないかもね」
「いやまだ分からんぞ」
これでもいちおう卓球歴十年(小学生の頃《ころ》にルコに仕込まれた)である。このちんまいツインテール娘がいかに梅雨《つゆ》時《どき》に水をたっぷりと吸収したカイワレダイコンのような成長っぷりを見せているとはいえ、さすがに開始一時間の初心者には負けん。
すると美夏は挑戦《ちょうせん》的《てき》にぐっと身を乗り出してきて、
「だったらおに〜さん、ダブルスで勝負しない?」
「ダブルス?」
そんなことを言い出した。
「そ、わたしの開花した才能をおに〜さんに直《じか》にたっぷり見せたげるから。ちなみにダブルスにしたのはやっぱり温泉卓球の醍醐味《だいごみ》はダブルスに尽きるからかな♪ 温泉卓球|六箇条《ろっかじょう》も基本的にはダブルスを前提《ぜんてい》にしたものだしね〜」
「……」
……そういうもんなのか?
怪訝《けげん》な顔になる俺に、
「そういうもんなの。で、負けた方には罰《ばつ》ゲームってのも定番かな〜。内容は、勝ったペアが適当《てきとう》に決めるって感じで。どうおに〜さん、やる、やらない?」
「うーむ……」
どうするかしばし考える。
まあでも別に構《かま》わんか。ちょっとした余興《よきょう》みたいなもんだし、罰《ばつ》ゲームとは言っても互《たが》いにペアがいる以上そうひどいことにはならんだろう。
「――分かった。いっちょやるか」
「うんうん、そうこなくっちゃ♪ んじゃおに〜さん、ペアはどうする?」
「そうだな……」
周《まわ》りを見渡《みわた》す。
候補者《こうほしゃ》としては春香《はるか》、椎菜《しいな》、朝比奈《あさひな》さん、澤村《さわむら》さん、ルコ、由香里《ゆかり》さん(後ろ二人は割と論外だが)。むう、だれがいいんだろうか――
「あ、えと、もしよろしければ私が――」
春香が何かを言いかけて、
「あ――あたしがやる!」
それよりも早く椎菜がばっと手を上げてそう言った。
「え、ええとほら、深い意味はないんだよ。こういう身体を動かすことは得意だから、力になれるかなと思って……」
「ん、おう。じゃあ任《まか》せた」
なんか妙《みょう》な勢《いきお》いに少し押されつつそう答える。
「ん、それじゃおに〜さんは椎菜おね〜さんとペアね。わたしは――」
「はいはーい! 私がなるよー」
即座《そくざ》に名乗り出たのは澤村《さわむら》さんだった。
「美夏ちゃんのためならたとえ火の中水の中、何でもやっちゃうんだからー」
「あ、じゃあお願いね、良子《りょうこ》おね〜さん」
「うん、任せてー」
大きくうなずく澤村さん。
こうしてペアが決まり、
「よろしくな、椎菜」
「あ、うん、がんばろうね」
「ここはさくっと勝つからね〜、良子おね〜さん」
「うんうん、スポコンな美夏ちゃんもかわいいなー」
罰ゲームを賭《か》けた温泉《おんせん》卓球勝負が始まった。
序盤《じょばん》はそれなりの接戦だった。
「椎菜《しいな》、そこだ!」
「うんっ、えいやっ!」
椎莱が抜群《ばつぐん》の動きでラケットを振《ふ》り、
「良子《りょうこ》おね〜さん、お願い〜!」
「はいはーい。任《まか》せてー」
その勢《いきお》いのある玉を澤村《さわむら》さんが打ち返す。
そんな感じの互角《ごかく》の戦い。
美夏《みか》は思ったよりも上手《うま》くなっていたが、それでも現時点ではまだまだ何とか対処《たいしょ》できるレベルだった。
むしろ問題だったのはダブルスの場合に特に優先的《ゆうせんてき》に適用《てきよう》されるという温泉《おんせん》卓球|六箇条《ろっかじょう》とやらであり、
「ほらほら、椎菜おね〜さん、そこは第二条に基づいておに〜さんの汗《あせ》を拭《ふ》き取《と》ってあげなきゃ」
「え、あ、あたしが?」
とか、
「あ、おに〜さ〜ん、浴衣《ゆかた》の中に球が入っちゃった。取って取って〜。第四条だよ〜」
「お、俺が?」
とか、
「はいお姉ちゃん、場外に飛んでった球は胸元《むなもと》でダイレクトキャッチするの〜」
「わ、私ですか? ど、どうすれば――きゃあっ」
とか、
「ありゃりゃー、動いたらなんか着崩《きくず》れちゃったー」
「あ、だめだよ良子おね〜さん、着崩れを直すのはルール違反《いはん》なんだから〜」
とかの、桜色アクションだった。
浴衣に手を入れさせられたり入れられたり胸元でキャッチしようとして失敗したり目の前で着崩れて段々ときわどくなってきた俺以外の三人の浴衣|姿《すがた》がちらちらちらちらと乱舞《らんぶ》したりで……正直ゲームに集中できないんだよ。
とはいえそれはまだ前座《ぜんざ》に過《す》ぎなかった。
いや前座と言い切れるほど軽いもんでもなかったんだが、その後にそれ以上にイレギュラーな事憩《じたい》があったのだ。
最大の誤算《ごさん》だったのは、
「さてさてー、それじゃ肩《かた》もあったまってきたしそろそろ本気出そっかなー。負けたら美夏ちゃんが罰《ばつ》ゲームになっちゃうしー。――てりゃー、ジャンピングスマーッシュー!」
「ぬおっ」
「あっ……」
試合も終盤《しゅうばん》に差《さ》し掛《か》かった辺《あた》り。
突如《とつじょ》何かヘンな神が覚醒《かくせい》でもしたかのように見事《みごと》なまでの腕前《うでまえ》を披露《ひろう》する澤村《さわむら》さんだった。
「くらえー、サイドワインダー!」
「ぐあっ」
「わっ……」
「とりゃー、王子サーブー!」
「のわっ」
「きゃっ……」
それまでのけっこう適当《てきとう》だった動きがウソのような鋭《するど》いラケットさばきで、ガンガンと攻《せ》めてくる。
「ふふふー、こう見えても私、小学校の時は卓球クラブだったんだよー。それなりに有名で、クラスでは『ピンポンダッシュクイーン』って呼《よ》ばれてたくらいなんだからー」
それはただの迷惑《めいわく》ないたずらっ子じゃねぇか。
まあそのことについての突っ込みはともあれ、澤村さんが俺たちの中で頭一つ抜けた実力だったことには違《ちが》いなく、
二十五分後。
「……そこまでです。セットカウント3−1で美夏《みか》様|澤村《さわむら》様ペアの勝利です」
そんな葉月《はづき》さん(審判《しんぱん》)の声が無情にも響《ひび》き渡《わた》った。
「……俺たちの負けだ」
「うん……」
悔《くや》しいが完敗である。澤村さんだけでなく美夏も予想《よそう》以上に上達していたようだし。
「へへ〜、どう、わたしの実力? ――じゃおに〜さん。おに〜さんには約束通り罰《ばつ》ゲームをやってもらうよ?」
「……ああ。何でも言ってくれ」
こうなったらもう柳川鍋《やながわなべ》の中のドジョウのように覚悟《かくご》を決めるしかない。
「何でも? ほんとに?」
「ああ、本当だ。男に二言はない」
すると美夏はもじもじとうつむきながら背中《せなか》で手を組んで、
「じゃ、じゃあさ……」
「?」
「じゃ、じゃあさ……わ、わたしの頭をなでなでしてさ、い、いい子いい子してくれる?」
「……は?」
一瞬《いっしゅん》何を言われてんだか分からなかった。
「だ、だから〜、頭を、その、なでなでして『よくがんばったな』って言ってくれればい〜から。それがおに〜さんの罰ゲーム」
「そんなんで……いいのか?」
このツインテール娘のことだからもっとそれなりにムチャなこと(それじゃ椎菜《しいな》おね〜さんと二人でリアルよいではないかよいではないかごっこをやってね♪ とか)を要求してくるもんだと思っていたが……
「い、い〜の。わたしがそうしてほしいんだから」
「まあ、そう言うなら……」
ナデナデ、とツインテールのついた頭をゆっくりと撫《な》でる。「よく……頑張《がんば》ったな」
「え、えへへ〜……♪」
この上なく嬉《うれ》しそうな顔をしてぴったりとくっ付いてくる美夏。
「……美夏様、嬉しそうです」
「美夏様はほめられて伸びるタイプですからね〜。もっと慈《いつく》しんであげてくださいな〜」
「――(こくこく)」
メイドさんたちがそんなことを言う。
まあこんなに喜んでくれるなら負けてよかったのかもしれんな……
と思ったのも束《つか》の間《ま》。
「ふっふっふっー、綾瀬《あやせ》っち、お楽しみのところ悪いけどー、それで終わると思ったら大間違いだよー」
澤村《さわむら》さんが何だか邪悪《じゃあく》な笑《え》みを浮《うか》かべながらそう言ってきた。
「さ、澤村さん?」
「良子……?」
「まだ私の罰《ばつ》ゲームが残ってるんだからー。そんな乳《ちち》繰り合《あ》いみたいなのだけで終わると思ったら大甘ってやつかなー。やっぱ罰ゲームなんだからもっとハデにいかなきゃねー♪」
楽しそうにきらんと目を輝かせると、
「へヘー、私の罰ゲームはねー……」
五分後。
「きゃ〜、裕《ゆう》くんかわいい〜♪」
「へー、意外に違和感《いわかん》ないねー。これはこれでアリっていうかー」
「……」
実に楽しげな由香里《ゆかり》さんと澤村さんの声が『王華《おうか》の間《ま》』に響《ひび》き渡《わた》っていた。
「さすがに姉弟だけあってこういう格好《かうこう》をすると少しルコに似《に》てるっていうか〜。このままおねいさんの部屋にお持ち帰りしたい気分だわ〜」
「ぬ、私はこんな不格好《ぶかっこう》なオカチメガネではないぞ」
「うんうん、そっちの趣味《しゅみ》の人にはたまらないかもー。でも私としてはやっぱり椎菜《しいな》の方が好みかなー。普段《ふだん》は活発なクラスメイトがふとした拍子《ひょうし》に見せる恥《は》じらいの表情がたまらないっていうか……じゅるり」
「……」
「な、何だろ、なんか悪寒《おかん》が……」
弾《はず》みまくった声。
その黄色い声の先には…………メイドになった俺[#「メイドになった俺」に傍点]と椎菜がいた。
もちろんこれは俺たちが趣味《しゅみ》で装着《そうちゃく》しているわけではない。
メイド服を着てフラダンスを踊《おど》ること
それが澤村さんの提唱《ていしょう》した罰ゲームだったのだ。
ちなみにメイド服は那波《ななみ》さんと葉月《はづき》さんからの借り物(予備《よび》用)である。
「裕入様椎菜様〜、よろしければそちらは差し上げますよ〜。ぜひプライベートでも着ていただけると〜」
「……メイド隊オリジナルのシリアルナンバー入りです」
「――(こくり)」
「…………結構《けっこう》です」
そんなことを勧《すす》めてくるメイドさんたち。
さらには朝比奈《あさひな》さんと美夏《みか》も、
「こ、これって……何でしょう。綾瀬《あやせ》くんのメイド姿《すがた》を見ていたら何だか急に胸《むね》がどきどきして……」
「ま、麻衣《まい》おね〜さん、なんか目に怪《あや》しい光が……。…………で、でも少しだけ気持ちは分かるかも…………(ちらちらとこっちを見ながら)」
「…………」
そんな少しばかりデンジャラスなやり取りをしていて、
最後の良心といえる春香《はるか》も春香で、
「え、えと、裕人《ゆうと》さん、とってもお似合《にあ》いですよ。じゃすとふぃっとというか、ま、まるで裕人さんのためにあつらえられたお洋服みたいです」
必死に笑いかけながらそんなことを言ってくれる。フォローしてくれるのは嬉《うれ》しいんだがそれがほとんどフォローになってないのもまた実に春香らしいというか……
「ほらほら裕く〜ん、もっとせくし〜なポーズをとって〜♪」
「……カンベンしてください……」
「ね、ねえ椎菜《しいな》、これ着けてくれないかなー? あ、これはねー、ネコミミって言ってー」
「りょ、良子《りょうこ》、何でそんなの持ってるの……?」
「な、何でしょう、この胸《むね》の高鳴《たかな》りは……(どきどき)」
「そ、それはきっと病気だよ、麻衣おね〜さん……」
そんな悲劇と混沌《こんとん》の時間はそれからもしばらく続き、
ようやく解放《かいほう》されたのはそれから三十分後のことだった。
「…………。風呂《ふろ》でも行くか……」
皆(特に由香里《ゆかり》さんと朝比奈《あさひな》さん)がつやつやとした顔で去っていった卓球場で、
一人ポツンと残された俺は、人として何か大事なものを失った気分を味わいながら、そうつぶやいたのだった。
風呂場は思いの他に広い造りになっているようだった。
俺が向かったのは『雪月花の湯』という露天《ろてん》風呂。
旅館内に八つある温泉《おんせん》の一つで、その中でも最大|規模《きぼ》の露天《ろてん》であるらしい。
「空《す》いてるみたいだな……」
脱衣所《だついじょ》には他に人の姿《すがた》はない。
使用中の脱衣カゴの数からも考えて、ほとんど人は入っていないようだった。
まあ今は気分的になるべく一人になりたい感じである。
手早く浴衣《ゆかた》とメガネを脱ぎ捨てて脱衣カゴに入れ風呂《ふろ》用の手ぬぐいを持ってガラス製の引き戸をガラリと開く。ノレンをかき分けて外に出るなり、露天の景色が視界《しかい》に飛び込んできた。
「おお、すげぇ……」
それはなんつーか壮観《そうかん》の一言だった。
ちょっとした庭ほどはある広さの大浴場。たっぷり三十人くらいは入れそうな岩でできたヒョウタン型の湯船。どことなくマーライオンに似《に》たどでかい給水口から滝のように流れる白い湯。
湯煙《ゆけむり》でよくは見えんのだが、湯船のあちこちには小さな岩がいくつも突き出ていていかにも露天といった風情《ふぜい》をかもし出している。さらにそれらの岩の端々《はしばし》には至《いた》るところに雪の名残《なご》りがあったりもして……ナルホド、だから雪月花なのか……
そんなことを考えながらかけ湯をして汗《あせ》を洗い流した後に、ゆっくりと乳白色《にゅうはくしょく》の湯に足から浸《つ》かる。
「ぬお、あちい……」
少し熱《あつ》めの湯。
普段《ふだん》だったら水を足《た》すくらいの温度だが、気分を一新させるという意味ではピッタリである。
少しずつ熱さに身体を慣《な》らしながらだれもいない広い揚船の中を進んでいく。
うーむ、気持ちいいね……
身体の奥底にまでお湯が染《し》み込《こ》んでくるかのような心地《ここち》よい感覚《かんかく》。
これだけでも信州くんだりまで来た甲斐《かい》があるってもんである。
そんな感じに溢《あふ》れんばかりの温泉力を全身で堪能《たんのう》していて、
ぱちゃり。
「ん?」
少し離《はな》れたところで何か水音のようなものが聞こえた気がした。
湯船の中央にドンと置かれたタマゴ型をした岩の陰《かげ》付近。
「……?」
だれかいるのか? そういやあさっきからずっと姿を見かけなかったがもしかして三馬鹿たちが入りでもしてるとか……?
疑問に思って目を凝《こ》らしてみる。
すると、
「……」
「……」
「お……」
「……え……」
湯煙<ゆけむり>の向こうに……なんか見たことのあるようなシルエットを一つ発見した。
最初は何が何だか分からなかった。
まあ元々メガネなしじゃあ俺の視力《しりょく》は夜中のカラスみたいなもんだし、おまけにこの爆竹《ばくちく》を三十個くらいハデに炸裂《さくれつ》させたかのような湯煙である。そこにいるのが動物なのか人間なのか、ましてや知っている相手なのかなんてことはほとんど分かりやしない。
なので、
「し、椎菜《しいな》……か?」
「え、ゆ、裕人《ゆうと》……?」
現状|把握《はあく》に丸々一分ほどかかっちまっても、それはある意味セントバーナードが西向きゃ尾は東ってもんである(微妙《びみょう》に混乱中)。
椎菜は慌《あわ》てたように胸元《むなもと》に両手を当てて、
「え、ど、どうして? な、何で……?」
「い、いや何でと言われても……」
それはこっちが訊《き》きたいくらいなんだが。俺の記憶《きおく》が定《さだ》かならば確かにここは男湯のはずである。
すると、
「あ、も、もしかして裕人、知らないの? ここのお湯は男女交代制になってるってこと……」
「え?」
「日によって男子専用と女子専用、男女交代制の三ローテーションになってるんだって。それで今日は女子専用の日で……。昨日ここに着いた時に女将《おかみ》さんが説明してくれたんだけど……」
「……」
んなことはこれっぽっちも聞いてない。てかそもそも俺たちは昨日|遅《おく》れて到着《とうちゃく》したため女将さんに会ってすらいないわけだし。
だがそれが事実ならつまり悪いのは一方的に俺ってことに……
「ス、スマン!」
「あ、ゆ、裕人?」
脱《だつ》ドラネコのごとく慌てて湯船から飛び出ようとして、
ワイワイガヤガヤ――
「!?」
引き戸の向こうから何やら聞《き》き慣《な》れない声と人の気配《けはい》のようなものを感じた。
それも一人ではなく数人。
見れば曇《くも》りガラスの向こうにいくつかの人影が映《うつ》っている。げっ、まさか他の客が入ってきたのか……っ!?
慌《あわ》てふためく俺に、
「ゆ、裕人《ゆうと》、こっち!」
「え?」
「こっちに来て! いいから早く! 急がないと見つかっちゃうよ!」
椎菜《しいな》のそんな声が飛び込んできた。
「あ、ああ」
もはや脳の中がショート&スパーク状態《じょうたい》な中、言われるがままに湯船の奥へと走って移動《いどう》する。
「ここ、そこの岩陰《いわかげ》に早く隠《かく》れて!」
「わ、分かった」
半ばヘッドダイビングをするように岩陰に飛び込むのと引き戸の向こうから数入の女性客が姿《すがた》を現したのとは、ほとんど同時だった。
――あ、あぶねぇ……
岩陰で胸《むね》を撫《な》で下《お》ろす。
あと少しで痴漢《ちかん》容疑《ようぎ》で通報されるところだった。いやこういう場合はわいせつ物チン列罪か? はたまた公然わいせつ罪なのか……って、どれでもいいな、んなもん。
(裕人、大丈夫《だいじょうぶ》?)
と、椎菜がちらりとこっちに目をやりながら訊《き》いてきた。
(ここにいれば大丈夫だと思うから。声を立てないでじっとしてて)
(あ、ああ……)
椎菜の後ろに隠れながら小声で答える。
幸いなことに、女性客たちは俺たちからはかなり離《はな》れた場所で湯船に浸《つ》かっているようだった。このまま騒《さわ》いだりヘタに動いたりしなければ見つかることはないだろう。
岩場の陰で息を殺したままただ時が過ぎるのを待つ。
「……」
「……」
ただひたすらに待つ。
「……」
「……」
岩と同化して待ち続ける。
そして二十分後。
「それじゃそろそろ出よっか?」
「うん、いいお湯だったね」
「次は『雪見酒の湯』に行かない?」
そんなことを言いながら、女性客たちは出て行った。
「ふう……」
自然と安堵《あんど》のため息が漏《も》れた。何とか助かったみたいだな……
椎菜も胸を撫で下ろすようにこっちを見て、
「行ったみたい……だね。これでもう大丈夫《だいじょうぶ》だと思う。食事の時に見たんだけどここに泊《と》まってる女性客ってそんなに多くないみたいだし、良子《りょうこ》たちは『花鳥風月の湯』に行くって言ってたから。ただ今の人たち、まだ脱衣所《だついじょ》にはいるみたいだからもう少し待ってから動いた方がいいかな。ここは岩陰《いわかげ》だから何かあっても見つかりにくいと思うし」
「そ、そうか……」
ひとまず危険《きけん》を回避《かいひ》できた安心からか思わず岩場に寄りかかるようにして身を投げ出しちまう。
風呂場《ふろば》にやって来てからこっち、緊張《きんちょう》しっぱなしだったからな……
ようやく少しだけリラックスして周《まわ》りに目をやろうとして――
「……」
――と、そこで気付いた。
今の俺たちの状態《じょうたい》。
そういえば女性客の出現でうやむやになっていたが、今の俺と椎菜《しいな》は互いに一糸《いっし》まとわぬ姿《すがた》で真っ白な液体《えきたい》(温泉《おんせん》な)に浸《つ》かっているのであり、さらにはこの風呂場という閉じられた空間で二人きりであり…………
「あっ……」
椎菜もそれに思《おも》い至《いた》ったのか、
「え、えぇと、そ、その、あんまりじっと見ないでくれると……」
「あ、ス、スマン! す、すぐに目を潰《つぶ》すから……!(つむるからを言《い》い間違《まちが》えた)」
「え、う、ううん、そこまでしなくても……」
そんなことを言い合いながら牽制《けんせい》するかのようにバッと離《はな》れる。
その距離《きょり》三メートルほど。
それはお互いに手を伸ばぜば届《とど》くような間近《まぢか》な間隔《かんかく》だが……なんか気まずい雰囲気《ふんいき》だった。
まるで辺《あた》りを覆《おお》う湯煙《ゆけむり》が白い壁《かべ》になっちまった感じというか。
「……」
「……」
何とかその状態《じょうたい》を打開《だかい》しようと会話を試《こころ》みてみるものの、
「あー、何だかこのお湯、カルピスみたいじゃないか? 濃《こ》い白って感じで……」
「そ、そうかな? どっちかといぇばブルガリアヨーグルトっぽい感じもするけど……」
「そ、そうか……」
「う、うん……」
「……」
「あー、も、もう出られるか?」
「あ、ど、どうだろ? もう少しかも……」
「そ、そうか……」
「う、うん……」
「……」
「……」
話が続かねぇ……
会話のキャッチボールでお互《たが》いにフォークボールとナックルボールを投げ合ってる感じ(捕《と》れない)である。
「……」
こんな状況は初めてだった。このフレンドリー娘と二人でいてこんなに言葉《ことば》が出ないなんてのはこれまでに一度たりともなかったことである。てか空気が重い……
「……」
「……」
続く気まずい雰囲気《ふんいき》。
仕方がないので湯船の一番奥にあったマーライオンくんのタテガミでも磨《みが》くことで心を落ち着かせようとして、
「ぬ、ぬおっ、あ、あちぃ!?」
その口からゴボゴボと流れてきたお湯のあまりの熱《あつ》さに、真夏のアスファルトに誤着隆したアマガエルのごとく悶絶《もんぜつ》した。
「ちょ、ちょっと裕人《ゆうと》、何やってるの!?」
椎菜《しいな》がびっくりしたような顔でばちゃばちゃと駆《か》け寄《よ》ってくる。
「い、いやマーライオンくんとコミュニケーションでも取ろうかと……」
「は?」
「や、それは気にせんでくれ……」
「? なんかよく分からないけど……温泉のお湯って温度が高めなのが多いから、噴《ふ》き出《だ》し口《ぐち》のところはけっこう熱かったりするんだよ。近づくなら気を付けないと……」
「そうなのか?」
「うん、温泉《おんせん》好《ず》きには割と基本|事項《じこう》かな」
「……」
それは初耳だが……しかし落ち着いて少し考えてみれば分かることかもしれんな。
納得《なっとく》する俺に椎菜《しいな》は人さし指を立てて、
「だから裕人《ゆうと》も注意しなきゃだめだよ。温泉だけにお湯のオン度がセン択《たく》できないんだから」
「……」
「……」
「……」
ひゅー、と極寒《ごくかん》の風が湯煙《ゆけむり》の間を吹きぬけていくのを感じた。
一瞬《いっしゅん》だけ辺《あた》りを漂《ただよ》う湯煙が吹き荒れる雪嵐《ゆきあらし》になったかのようだった。
いや今の……聞き違いじゃねぇよな?
なんかこのフレンドリー娘の口から葉月《はづき》さんレベルのトンデモギャグが飛び出た気がしたんだが……
あまりの出来事《できごと》に理性が対応できずに完全に思考《しこう》停止《ていし》状態《じょうたい》に陥《おちい》っていると、椎菜はものすげぇ恥《は》ずかしそうな顔をして、
「ちょ、ちょっと、何か反応《はんのう》してよ。黙《だま》られると恥ずかしいじゃない!」
「ん、あ、ああ」
「な、なんか落ち着かない感じだったから気分を紛《まぎ》らわそうと思って勇気を出して言ったのに……そんなスズメが米《こめ》鉄砲《でっぽう》をくらったみたいな顔しなくても」
うつむきながら胸の前で指をつんつんと突《つつ》き合《あ》わせる。
その姿《すがた》はなんだか妙《みょう》に子供っぽくて……
「……」
「……」
やがて、
「……ぷっ」
「……フッ」
「ふふ、あはははは」
「ハハハ」
どちらともなく二人同時に笑い出してしまった。
「何だろ、なんかおかしいね。何でこんなに緊張《きんちょう》してたんだろ」
「ああ、そうだな」
笑いながらそううなずき合う。
それがターニングポイントだった。
これまでのともすれば重苦しかった空気がウソだったかのように、辺《あた》りを覆《おお》う雰囲気《ふんいき》はいつも通りの軽《かろ》やかなものになっていた。
「別にいつも通りでいいんだよね。あたしたちはあたしたちなんだから」
「ああ」
そこからはもういつもの俺たちだった。
「それでさ、そこで麻衣《まい》が温泉《おんせん》タマゴを落としそうになっちゃって……」
「そうなのか?」
「うん、危なかったんだけど、でも地面に落ちる寸前《すんぜん》で良子《りょうこ》がすごい反射神経を見せて口でダイレクトキャッチしたんだよ。あれは見事《みごと》だったな」
「澤村《さわむら》さん、すげぇな……」
昼間のことを話したり、
「そういえばさっきの卓球は大変《たいへん》だったよね……」
「ああ、本当に災難《さいなん》だった……」
「あ、でも裕人《ゆうと》はかわいかったよ♪意外なマッチングっていうか」
「……いやそれはもう忘《わす》れさせてくれ……」
「えー、どうしよっかなー。携帯《けいたい》で写真も撮《と》っちゃったし、待ち受け画面に設定《せってい》しちゃおっかな」
「椎菜《しいな》……」
「あはは、うそうそ。お気に入りフォルダに保存《ほぞん》で許《ゆる》してあげる♪」
ついぞさっきの苦《にが》いこと極《きわ》まりない思い出に苦笑《くしょう》し合ったりと、
肩肘《かたひじ》を張《は》らない気楽なやり取り。
広い湯船の中央で背中合わせになりながらそんな何でもない話にいくつも花を咲かせる。
湯気《ゆげ》に包まれた大浴場の中をサラサラと心地《ここち》よい風が吹《ふ》き渡《わた》り、少し火照《ほて》った身体(ヘンな意味ではなく)を丁度《ちょうど》いい具合に冷ましてくれる。
とても居心地《いごこち》がよくて、心安らぐ時間。
そんな穏《おだ》やかなひと時を共有していて、
「……」
「……」
やがてふと再《ふたた》び沈黙《ちんもく》が訪《おとず》れた。
ただそれはさっきまでの気まずい沈黙とは違《ちが》い、会話の合間にふいに発生するエアポケットのような静寂《せいじゃく》。決してイヤなものではない。
しばしその空白の時に身を任《まか》せる。
背中に感じるのは流れるお湯と柔《やわ》らかい椎菜の感触《かんしょく》。
聞こえてくるのはマーライオンから注《そそ》ぐお湯のコポコポという音と時折《ときおり》中庭から伝わるししおどしのカコーンという音のみ。
それらの響《ひび》きにノンビリと耳を傾《かたむ》けていて、
「………………あ、あのさ裕人《ゆうと》」
「ん?」
と、その静寂《せいじゃく》を破るかのように椎菜《しいな》が口を開いた。
「ちょ、ちょっと訊きたいことあるんだけど……いいかな?」
「ん、何だ?」
何を訊きたいんだろうか? 何やら改《あらた》まった様子《ようす》である。
「う、うん、あのさ……」
「……」
「え、えっと……」
「?」
なかなか次のフレーズに繋《つな》がらない。むう、この椎菜が言《い》い淀《よど》むなんて珍《めずら》しいな。
首をひねりつつ言葉《ことば》を待っていると、
「あ、あのさ!」
「ん、おう」
急にがばっと立ち上がりこっちを振《ふ》り向《む》いた。
そして、
「あのさ、ゆ、裕人って…………付き合ってる人とか、いるの?」
「!?」
いきなりの不意打《ふいう》ちだった。
これっぽっちも予想をしていなかったというか、フリッカージャブに備えていたらカエル跳《と》びアッパーが来たみたいな感じというか。
あまりに突然なその内容に温泉《おんせん》にも関《かか》わらずフリーズしていると、
「あ、べ、別にヘンな意味じゃないよ! 何ていうか、裕人ってあんまりそういうことを話さないから、それでちょっと気になっただけで……。ほ、ほら、た、たとえば………………乃木坂《のぎざか》さん、とか?」
「え?」
「や、だって仲良さそうだしよくいっしょにいるし、今日だって二人で秘宝館《ひほうかん》なんかに行っちゃうし……」
「あ、あー、それは……」
ものすごく困《こま》る質問だった。
いや俺と春香が付き合っているのかと訊かれればそれは間違いなくノーなのではある。少なくとも形式上はそういう関係ではない。だが形式上はそうとはいえ実質的に考えてまったくそういった気がないのかといえばまたそれは確実にノーだし、だからといってそれに自信をもってイエスと言えるわけがないのもまた現状で……
「…………」
うーむ。
分からん。
分からんというか現状がどういう状懇《じょうたい》なのか、当事者である俺自身計りかねて整理しかねている部分があるというか……
…………
……………………
ともあれ椎菜《しいな》には答えを返しておかないといかん。
なので、
「あー、とりあえず付き合ってるやつはいないぞ」
「え、そうなの!?」
そう言ったところ、ぱちゃんという水を叩《たた》くような音とともにそんなハデな反応が返ってきた。
「いやそこまで驚《おどろ》くところじゃないだろ……」
「あ……だっててっきり裕人《ゆうと》は乃木坂《のぎざか》さんと付き合ってるものかと思ってたから……」
ちょっと声を小さくしながらそんなことを言う。
「う、それはだな……」
そこが最も微妙《びみょう》なところである。
だがとにかく今はこう答えてお茶を濁《にご》す以外にできることはない。椎菜相手にイイカゲンなことを言いたくもないし……
言葉《ことば》に詰《つ》まる俺に、
「……そっか、だったらまだチャンスはあるかも……」
「? 何か言ったか?」
「あ、う、ううん、何でもないの! ちょっと考え事をしてただけだから!」
「??」
「き、気にしないで! ホントに何でもないから!」
いまいちよく分からんが、まあ椎菜がそう言うならそうなんだろう。
「あ、そ、それじゃあそろそろ出よっか? あんまり長く入ってて湯中《ゆあた》りとかになってもよくないし」
「ん、ああ、そうだな」
「じゃあちょっと待ってて。もう大丈夫《だいじょうぶ》だとは思うけど、脱衣所《だついじょ》に人がいなくなったかいちおう確認してくるから――」
そう言いつつ椎菜が湯船から出ようとした時だった。
「あれ〜、もしかしてだれか入ってるの〜?」
「!?」
引き戸の向こうからそんな声がした。
さっきのものとは違《ちが》い、今度は明らかに聞《き》き慣《な》れた声。
「なんか人の声とか聞こえたみたいだけどだれだろ? ルコおね〜さんたちかな」
「え、でもルコさんと由香里《ゆかり》先生は『雪見酒の湯』の方に行くとおっしゃってましたが……」
「あ、椎菜《しいな》じゃないかなー。さっきこっちのお湯に行くみたいなこと言ってたから。だよね、麻衣《まい》?」
「はい、たぶん椎菜ちゃんなんじゃないかと思います」
「そなんだ? あ、ごめん那波《ななみ》さん、ちょっとシャンプー持っててくれるかな?」
「お任《まか》せください〜」
「……横のきざみがシャンプーの証《あかし》」
「――(こくり)」
「………」
こ、これはまさか……
イヤな予感を覚える間《ま》もなく、
直後にガラリと勢《いきお》いよく引き戸が開かれ、その向こうから数人の人影《ひとかげ》が姿《すがた》を現した。
「あ、やっぱ椎菜《しいな》だー。どう、気持ちいいー?」
「やっほ〜、椎菜おね〜さん、元気してる〜?」
「あ、ど、どうもです、天宮《あまみや》さん」
「りょ、良子《りょうこ》、みんなも……。え、な、何で……? 確かみんな、『花鳥風月の湯』の方に行ったんじゃ……」
「うん、そうだよー。でもせっかくだから色々と湯《ゆ》巡《めぐ》りしてみようかと思ってこっちにも来てみたの。特にここの『雪月花の湯』は明日は入れないからさー」
入ってきたのは春香《はるか》たちだった。
正確にいえば…………おそらくは春香、美夏《みか》、葉月《はづき》さん、那波《ななみ》さん、アリス、澤村《さわむら》さん、朝比奈《あさひな》さんの七人。おそらくってのは俺の現在位置からはほとんど声しか判別できないからであり――
(ちょ、ちょっと裕人《ゆうと》、あんま動いちゃだめだよ!)
(ぬ、ス、スマン)
椎菜《しいな》が小声で注意してくる。
そう現在の俺の位置。
それはヒョウタン型の湯船の端《はし》っこ付近に後退《こうたい》した椎菜のさらに後ろ……マーライオン似《に》の給湯口《きゅうとうぐち》からドバドバと吐《は》き出《だ》される滝の裏《うら》の僅《わず》かなスペースで水面に顔半分だけを出しているという、ほとんど恥《は》ずかしがり屋の海坊主《うみぼうず》のような状態《じょうたい》だった。さっきとは違《ちが》い突然のことだったため、もはやこうするしかなかったのだ。
「どう椎菜ー。お湯|加減《かげん》とかどんな感じー?」
「あ、う、うん、いい感じだよ。少し熱《あつ》めで、温泉《おんせん》って雰囲気《ふんいき》が出てるかな」
とっさに俺の頭を隠《かく》しながら湯船の方に近づいてきた澤村《さわむら》さんにそう声を返す。
「ふーん、そっかー。どれどれー」
「あ………」
そう言ってかけ湯をしつつ、澤村さんも中に入ってきた。「あ、ほんとだー、ちょっと熱めだねー」
その隣《となり》では、
「ほらほら、早く入ろうよ、お姉ちゃん」
「あ、お、押さないでください。い、今入りますから……」
美夏《みか》に促《うなが》されながら春香《はるか》が水際《みずぎわ》(お湯際《ゆぎわ》?)で足先を恐《おそ》る恐《おそ》る伸ばしているようだった。どうやら少しずつ温度を確認しながらでないとお湯に入れないタイプみたいだ。
「え、えと、まずは心臓に遠いところからゆっくりとお湯をかけていって……」
「も〜、お姉ちゃん、時間かけすぎ〜」
丸々一分ほどかけてようやく湯船に浸かる春香。
で、その後には朝比奈《あさひな》さんやメイドさんたちも続き。
気付けばさっきまで広々としていて貸切|状態《じょうたい》だった湯船は、すっかり人(というか女子)でいっぱいになっていた。
「わあ、とってもいいお湯です……」
「それに広いよね〜。泳げそうってゆうか〜」
「それってだれもが一度は温泉でやることだよねー。バタフライとかシンクロとかー。ね、麻衣《まい》」
「りょ、良子ちゃん、お尻出てるよ……」
交わされる楽しそうな会話。
マーライオンから放出されるお湯のカーテン越しにそれらの断片《だんぺん》が聞こえてくる。つーか最低限の呼吸路は確保しているとはいえ酸素|過少《かしょう》状態《じょうたい》には変わらんわけだし、降《ふ》り注《そそ》ぐお湯が熱いこともありかなりキツイぞ……
ドボドボと降り注ぐ熱湯《ねっとう》を頭頂部《とうちょうぶ》で受けながら必死に耐《た》えていると、
「あ、そういえば何で椎菜《しいな》そんなに遠くにいるの?」
「え!?」
(!?)
澤村《さわむら》さんがこっちを見ながらそう指摘《してき》してきた。
「そんな隅《すみ》っこにいないでもっとこっち来ればいいのにー。そんなところで一人だけしんみりしてるなんて椎菜らしくないよー。――あ、もしかして生まれたままの姿《すがた》を見せるのは恥《は》ずかしいとかー?」
「え? そうじゃなくて……」
「だめだめー。へへー、こういうのはちゃんと覚悟《かくご》して裸《はだか》の付き合いをしなきゃ。麻衣《まい》も手伝ってー」
「あ、え、は、はい」
「ちょ、ちょっと……」
そうにやりと笑ってじゃぶじゃぶとこっちまでやって来た澤村さんと困惑顔《こんわくがお》の朝比奈《あさひな》さんが、椎菜の手をぐいぐいと引《ひ》っ張《ぱ》る。
(ぬ、ぬおっ!?)
その影響《えいきょう》で水面が大きく波立ち、剥《む》き出《だ》しになっている目や鼻にお湯がダイレクトインする。
ぐう、硫黄分《いおうぶん》を含《ふく》んだ湯が粘膜《ねんまく》にしみる……
しかも被害《ひがい》(?)はそれだけではなかった。
椎菜に近づくというごとはそれだけ澤村さんたちが俺に近づくということであり、俺に近づくということは乳白色《にゅうはくしょく》のお湯の中にちらちらと本来見えてはいけない肌色《はだいろ》のモノが垣間見えることもあったりして……
「ち、違うんだって! 別にそういうんじゃなくて、こ、これはその……そう湯中《ゆあた》り、ちょっと湯中りしちゃって、こっち側は風が通って少し涼《すず》しいからいるだけなの!」
椎菜が慌《あわ》てたようにそう声を上げる。
「え、そうなのー? だいじょうぶー」
「湯中りって意外に危《あぶ》ないですよ」
「あ、だ、大丈夫《だいじょうぶ》だから! 湯中りっていってもちょっとのぼせたかもってくらいだし……」
「そっかー。ならいいんだけどー」
「ムリはしないでくださいね」
その言葉《ことば》に納得《なっとく》して二人とも皆の輪の中に戻《もど》っていった。うう、色々な意味でピンチだった……
ひとまずは安堵《あんど》する(海坊主《うみぼうず》状態《じょうたい》のままで)。
とはいえ状況が良くなったわけでもなかった。
いまだに周《まわ》りには春香《はるか》たちが、その、澤村さんが言うところの生まれたままの姿でいることは変わらず(まぁ俺の視力《しりょく》じゃボンヤリしか分からんが……)、俺は滝の裏《うら》で海坊主《うみぼうず》を保《たも》ったまま潜水艦《せんすいかん》のように息を潜《ひそ》めて隠《かく》れ続《つづ》けなけりゃならない。
そんな俺の苦境《くきょう》をヨソに、ちゃぷちゃぷきゃっきゃっと楽しげな会話は続けられていく。
「そういえばこうして見てみると、やっぱり春香《はるか》ちゃんと美夏《みか》ちゃんは姉妹だって実感するよねー」
「え?」
「どしたの良子《りょうこ》おね〜さん、突然」
「ん、だって髪《かみ》を下ろしてる美夏ちゃん、春香ちゃんにそっくりなんだもん。ほんとそのまま春香ちゃんをミニチュアサイズにしたみたいでー」
「え、そかな? えへへ」
頭の後ろに手をやりながら照れたように美夏が笑う。
「うん、将来が楽しみだよ。きっともう少ししたら美夏ちゃんも春香ちゃんみたいな美少女になるんだろうねー。ほんと、どこからどこまでもよく似《に》て……あ」
と、そこで澤村さんの言葉《ことば》が止まった。
同時にその目がじ〜っとツインテール娘のある部分に向けられる。
その先にあったものは――
「……りょ、良子おね〜さん、その視線《しせん》は何かな〜……?」
「あ、う、ううんー、別にー」
慌《あわ》てて逸《そ》らされた澤村《さわむら》さんの視線。
それはほんの直前まで、身長と同じようにちまっ! とした美夏の胸元《むなもと》へと向けられていた。
「う、うう、これは今はしかたないんだもん! 不可抗力《ふかこうりょく》なんだもんっ! まだ成長期で、これからぐんぐんと大きくなって――」
両手をぱしゃぱしゃと振《ふ》り回《まわ》しながらそう強く主張するものの、
「……春香様が美夏様くらいの頃《ころ》はすでにそのスリーグレードくらい上でしたが」
「身長も百五十センチちょっとありましたよね、確か〜」
「――(こくこく)」
「あ、え、えと……」
「……う」
メイドさん三人の証言(?)に美夏の動きが止まる。
「そ、それはお姉ちゃんと比べればどうしても見劣《みおと》りしちゃうけど……。で、でもわたしだってそんなすてたもんじゃないんだから……。てゆうか毎日『モーモーミルク・天然生乳成分一〇〇%』を飲んでるのに……」
「あ、だ、大丈夫だよー。ちょっとくらい(色んなところが)ちっちゃくても美夏ちゃんは充分《じゅうぶん》にかわいいからー」
「そ、そうですよ。美夏《みか》ちゃんには美夏ちゃんの[#底本にはなし。入れた方がしっくりくるので]良さがあります」
澤村《さわむら》さんと朝比奈《あさひな》さんがそうフォローしてきて、
「え、そ、そう?」
「そうだよー。ほら、お肌《はだ》なんかこんなつるつるですべすべだしー、いいなー。うりゃー♪」
「あ、ちょ、ちょっとおね〜さん……」
ふいにがばっと抱《だ》きついてきた澤村さんに美夏が困惑《こんわく》の声を上げる。
「うーん、やっぱりこの弾力《だんりょく》とか張《は》りとかは一級品だなー。柔《やわ》らかいんだけど型崩《かたくず》れしてなくて、高級料亭のお豆腐《とうふ》みたい♪」
「ちょ、ちょちょ……」
「んー、なに? 蝶々《ちょうちょ》? うんうん、美夏ちゃんのお肌はモンシロチョウの羽みたいにきれいだよー」
「にゃ、にゃ〜!?」
まったく太刀打ちできずにたじたじになる美夏。
「あらら〜、美夏様が弄《もてあそ》ばれていますね〜」
「……慰《なぐさ》み者《もの》です」
「――(こっくり)」
「…………(真っ赤になっている春香《はるか》)」
そんな感じに一通り美夏《みか》の身体を触《さわ》り尽《つ》くして、
「はー、満足満足♪ 極楽《ごくらく》っていうか天国っていうか、五歳くらい若返った感じかなー。さ、それじゃそろそろ身体でも洗おっかー」
ようやく気が済んだのか抱《だ》き付《つ》きをやめて、澤村さんがそんなことを言った。その傍《かたわ》らではツインテール娘が「……うう、やっぱりこのおね〜さんは苦手《にがて》だよう……」と那波《ななみ》さんに寄《よ》り添《そ》いながら岩に「の」の字を書いている。
「みんなも行くでしょー? 洗いっことかしようよー」
「はい。あ、椎菜《しいな》ちゃんは……?」
「あ、え、ええとあたしはもう洗ったから大丈夫《だいじょうぶ》。良子《りょうこ》たちだけで行ってきて」
「そうー、ならいいけどー」
「またのぼせないように気を付けてくださいね」
「う、うん、心配してくれてありがと」
うなずく椎菜。
それを確認しつつ、他の皆は順に湯船から出ていった。
「ふう……」
春香《はるか》たちが湯船を出て洗い場へと向かうのを滝越しにボンヤリと碓認しつつ、俺は椎菜の後ろでひと息ついていた。
海坊主《うみぼうず》状態《じょうたい》はキープしなきゃならんとはいえ、近くに春香たちがいるといないとでは緊張《きんちょう》の度合いが大違《おおちが》いである。
湯船から口まで出しながら少しだけ気を楽にしていると、
(裕人《ゆうと》、大丈夫《だいじょうぶ》……?)
と、椎菜が顔は前を向けたまま小声でそう訊《き》いてきた。
(さっきからずっと身動きできてないみたいだけど、平気? しんどくない?)
(あ、ああ、何とか………)
少々頭がボーっとしてきていてしんどくないとは言えんが、まだ何とか海坊主を維持《いじ》できるレベルである。
(そっか。だったら……その状態で少し動ける?)
(え?)
(今みんな洗い場に行ってるから、ひとまずお湯から出て岩伝いにあそこの大きな岩のところまで移動《いどう》できないかな? ここにいたらさっきみたいなことがあるかもしれないし、あそこなら人一人くらいなら余裕《よゆう》で隠《かく》れられると思うから。で、みんなが湯船に戻《もど》ったらその隙《すき》に洗い場の裏側《うらがわ》を通って脱衣所《だついじょ》まで行けば見つからないで脱出《だっしゅつ》できるかも……)
ちらりと洗い場の方に目をやりながらそう言ってくる。
(移動《いどう》か……)
それはなかなかに魅力的《みりょくてき》なアイデアだった。多少リスクはあるものの、成功すれば一気に出口(脱衣所)まで近づける。このままここで海坊主《うみぼうず》を続けていてもジリ貧《ひん》であるのは事実であ[#底本にはないが、↓]る[#付ければ意味が通るため]ため、賭《か》けてみる価値《かち》はあるだろう。
なので、
(分かった。何とかやってみる)
(ん、りょうかい。だったらお湯を出るまではあたしが誘導《ゆうどう》するから。あ、だいじょうぶだとは思うけど、見つかりにくいようにこれとか被《かぶ》るといいんじゃないかな。あ、あたしの方は、見ちゃだめだからね)
(風呂桶《ふろおけ》か……)
まあないよりはマシである
(それじゃ行こう。前、見えないと思うからあたしの手か背中《せなか》に掴《つか》まりながら付いてきて)
(む、頼《たの》む)
うなずき返し、決死の移動を開始する。
湯からネッシーにように半分だけ突き出た頭を風呂桶で隠しつつ、椎菜《しいな》のナビゲートを頼《たよ》りに慎重《しんちょう》かつ大胆《だいたん》に潜行《せんこう》しようとして――
(きゃっ!? ちょ、ちょっと、裕人《ゆうと》、そこ違《ちが》う! 背中じゃない!)
(え、あ、ス、スマン)
慌《あわ》てて違う場所を掴み直そうとするものの、
(そ、そこも違う……むしろさっきよりももっとダイレクトになってる……やっ……)
(!? わ、悪い! ワザとじゃないんだ! そういえばなんか柔《やわ》らかいとは思ったが………)
(も、もうっ! それは分かってるけどさ……)
真っ赤になって恥《は》ずかしそうに睨《にら》んでくる椎菜。
と、
「あれれ、椎菜どうしたのー?」
「え?」
異変《いへん》(?)を感じ取ったのか、澤村《さわむら》さんがそんなこと言いながら湯船をのぞきこんできた。
「なんか赤い顔してるけど湯中《ゆあた》りは大丈夫《だいじょうぶ》なのー? ていうか隣《となり》に逆《さか》さまの風呂桶がぷかぷか浮いてるんだけどー」
「あ、こ、これは……」
慌てたように椎菜は澤村さんと風呂桶(俺な)を見比べる。
そして、
「え、ええとね、これは……そう、健康体操なの! 風呂桶《ふろおけ》健康体操! 桶に入った空気の反動を利用したやつで、ダイエットにも効果《こうか》があるとかで……」
かなり苦しい言い訳をしたものの、
「ふーん、そなんだー。でも別に椎菜《しいな》、ダイエットなんて必要ないと思うけどなー」
澤村《さわむら》さんはいちおう納得《なっとく》してくれたみたいだった。
小さく首をひねりつつ洗い場へと戻《もど》っていく。
「はあ……」
(危《あぶ》なかったな……)
ヘタすれば一番最悪なタイミングでバレるところだった。
(こ、これも裕人がヘンなところ触るから……)
(う、ス、スマン……)
(い、いいけどさ、き、気を付けてよね……)
とまあそんなアクシデントもあったものの、何とか無事《ぶじ》に湯船を移動《いどう》し終わり出入り口へと続く岩陰《いわかげ》の端《はし》まで辿《たど》り着《つ》くことに成功する。
(がんばってね。ここからはあたしはフォローできないから……)
(ああ。サンキュな)
うなずき返し、湯船の端に隣接《りんせつ》した岩陰から次の岩陰へと伝って大きく回りこむようにして目的の出口近くの岩まで移動する。ちなみにそこまでに続く岩陰は八十センチほどの高さなので、腰《こし》を落としたアヒルちゃん歩きで進んでいく必要があった。
で、何とか到着《とうちゃく》
――ふう、ここまで来ればもう大丈夫《だいじょうぶ》……って、意外に小さいな、この岩。
湯船から大きく見えた岩は近くで見ると思いの外《ほか》小ぶりで、普通《ふつう》に座《すわ》り込《こ》んでいると手やら足やらがはみ出してしまう。仕方ないので岩の形に合わせて手足を色々と折り曲げることになったんだが……状態《じょうたい》としては変態《へんたい》『命』のポーズのような妙《みょう》な体勢《たいせい》になる。
ぐ、これはこれで案外《あんがい》辛《つら》いぞ……
ムリな姿勢《しせい》に関節《かんせつ》がギシギシと悲鳴《ひめい》を上げる。
苦悶《くもん》する俺の耳に、洗い場からは変わらずに楽しそうな声が聞こえてくる。
「え、えと、お水を出すにはこれをひねって……あうっ」
「の、乃木坂《のぎざか》さん? だ、大丈夫ですか」
「あ、は、はい……」
「お姉ちゃん……カランを出そうとしてシャワーを出すなんてまたベタなことして……」
どうやら春香《はるか》がまたドジをやっているようだった。
「ご、ごめんなさい、大騒ぎしてしまって……。す、すぐにとめますから……はうっ」
「だ、大丈夫ですか!?」
「今度はシャワー口に頭をぶつけてる……」
(…………)
相変わらずだな、春香《はるか》……
風呂場《ふろば》でも健在《けんざい》のそのドジっぷりにある意味|感嘆《かんたん》していると、
「もうー、春香ちゃんはかわいいんだからー、このこのー♪」
「あ、さ、澤村《さわむら》さん?」
そんな声が聞こえてきた。
「だから良子《りょうこ》ちゃんでいいってばー。ていうかむしろそう呼《よ》んでくれた方が嬉《うれ》しいかもー。でもほんと、何でそんなにかわいいのー? もう家にお持ち帰りしちゃいたいくらいだよー」
「え、あ、あの、何を………きゃっ」
今度は春香に抱《だ》き付《つ》いているようだった。
「わー、やっぱ春香ちゃんもお肌《はだ》すべすべだねー。美夏《みか》ちゃんと比べても全然|遜色《そんしょく》ないし、それに……おっきー」
「や、あ、そ、その、お風呂場《ふろば》でこういうことはいけないことだと……」
「まあまあー、固いこと言わないでー♪ せっかくの温泉なんだからこうしてスイートなスキンシップをしないとー」
「で、ですけど………あ、そ、そこは……」
「ふふー、よいではないかよいではないかー♪」
「だ、だめです……何だか力が抜けて……やっ……」
何やら聞こえてくる普段《ふだん》は聞けないような桃色《ももいろ》ピンクな声。それは思わず耳をインドゾウみたいに大きくしちまうほどのもので……ゴ、ゴホン。てか澤村さん、さりげなく姉妹|制覇《せいは》である。すげぇな……
そんな感じにやはりしばしの間春香の身体を堪能《たんのう》(羨《うらや》ましい……)していて、
「そういえば春香ちゃんってさー、綾瀬《あやせ》っちとはどういう関係なのー?」
「はあはあ……えっ?」
(お?)
ふいにわきわきと怪《あや》しげな動きをしていた手を止め、澤村さんがそんなことを言い出した。
「ん、ちょーっと気になったんだよねー。なんか仲がいいみたいだしさー。美夏ちゃんがおに〜さんとか呼んでるしメイドさんたちとも顔見知りってことはけっこう家族ぐるみの関係なんだよね? 今日だって昼間は二人でどっかに消えちゃったしー」
「え、その、そ、それは……」
「なーんか匂《にお》うんだよねー。……もしかして付き合ったりしてるとかー?」
「え、ええっ!?」
その言葉《ことば》に春香が光に触《ふ》れた感光紙《かんこうし》のごとく反応《はんのう》した。
「あれれー、顔が真っ赤だぞー。もしかして図星だった? ラッキーストライクだった? ふふー」
「い、いえ、そ、その、あの……」
両手をぱたぱたとさせながら慌《あわ》てふためく春香《はるか》
そんな春香にさらに澤村さんが「ほほうー」と迫《せま》っていく。
「あ、あのさ〜、良子《りょうこ》おね〜さん、お姉ちゃんは……」
美夏《みか》がフォローしようとするものの、
「んー、そういえば美夏ちゃんも何だかんだいってすっごい綾瀬《あやせ》っちに懐《なつ》いてるよねー。さっきだって頭なでられて嬉《うれ》しそうだったしー」
「え?そ、それはさ〜……」
「思い返してみれば行きの新幹線とかでもそうだったかもー。おんぶとかしてもらってー」
「う………」
やはり澤村さんは天敵《てんてき》なのか、それ以上言えずに黙《だま》り込《こ》んでしまう。
「ねーねー、それでどうなのー? ここには女の子しかいないんだし、隠すことなんてないって。少なくとも春香ちゃん、綾瀬っちのこと好きだよねー?」
「え、わ、私が……?」
「うん、好き。らぶとも言うかなー。どうなのどうなのー?」
「そ、それは……わ、私……」
顔をうつむかせたままもじもじと顔を赤くする春香。
その恥《はじ》らったような表情は愛くるしいこともう果《は》てしなくて、さらに露天風呂《ろてんぶろ》という立地上《りっちじょう》の影響《えいきょう》か少し上気《じょうき》した頬《ほお》はそこはかとなく甘やかでどこか色っぽくもあり……
「…………」
……ってノンキにそんなことを考えてる場合でもないかもしれん。
春香はいったいこの質問にどう答えるつもりなのか。
いわばさっきの俺に対する椎菜《しいな》の問いの裏返《うらがえ》しともいえるクエスチョン。
気になるっつーかなんつーか、ついつい岩陰《いわかげ》で『命』を形作る腰《こし》にも力が入っちまう。
「わ、私は……」
「……」
「……」
「わ、私は、その……裕人《ゆうと》さんのことを……」
「……」
「……」
皆の視線《しせん》が一斉《いっせい》に春香へと集中する。
その時だった。
がらがらがしゃん!
そんな赤ん坊の遊び道具を彷狒《ほうふつ》とさせる音がすぐ傍《そば》で響《ひび》き渡《わた》った。
見ると俺が隠《かく》れている岩陰《いわかげ》のすぐ隣、風呂《ふろ》桶《おけ》や風呂イスなどが大量に積んであった山の中に……無口メイド長さんが埋もれていた。
「は、葉月《はづき》さん、どしたの〜?」
皆の疑問を代表した美夏《みか》の問いかけに、
「……いぇ、大したことは。ただサウナがあるのかと思って入ろうとしたのですが」
頭に風呂桶を乗せたまま無表情でつぶやく。
「ああ、そういえば葉月さん、メガネがないとほとんど周《まわ》りが見えないのでしたっけ〜」
「え?」
「視力〇・一未満なのですよ〜。特にここは湯煙《ゆけむり》がすごくてほとんど視界《しかい》が利《き》かないですからね〜。茶色っぽい風呂桶をサウナ室と見間違《みまちが》えても不思議《ふしぎ》ではないかもしれません〜」
那波さんがそう説明する。どうやら積み重ねてある風呂桶の山をサウナルームだと勘違いしたらしい。しかしこの無口メイド長さんとサウナって、またミスマッチも甚《はなは》だしいな……
そんなことを考えていると、
「あ、え、えと、だいじょうぶですか、葉月さん?」
「けっこうすごい音がしたよね〜。ボーリングのストライクの時みたいな」
「――(こ、こくこく)」
駆《か》け寄《よ》ってくる春香《はるか》たち。
――ヤ、ヤバイ!
さっきも言ったように葉月さんが頭から突っ込んだ風呂桶の山は俺がベッドの下で息を潜《ひそ》める都市伝説のストーカーのように気配《けはい》を殺している岩陰《いわかげ》のすぐ傍《そば》にあるものであり、その風呂桶の山に皆が集まってくるということはすなわち俺の姿《すがた》が発見される恐《おそ》れがあるということである。
「……っ!」
慌《あわ》てて『命』を解いて動き始める。
来た時とは逆のルートで何とか湯船へと戻《もど》らんとオオサンショウウオのように四《よ》つん這《ば》いで岩陰を伝い走っていく。
不幸中の幸《さいわ》いというか、皆の注意は葉月さんの方に意識《いしき》が集中していたため途中《とちゅう》でバレることはなかったものの、
(……ただいま、椎菜《しいな》……)
(お、おかえりなさい……)
結果《けっか》として、再び湯船の中に土左衛門《どざえもん》なんだか海坊主《うみぼうず》なんだかよく分からん状態《じょうたい》で潜伏《せんぷく》することとなった。
まさに人生ゲームにおける「ゴール直前の振《ふ》り出《だ》しに戻《もど》る」である。まあ貧乏《びんぼう》農場行きでないだけまだマシなのかもしれんが……
で結局、その後に再度|脱出《だっしゅつ》の機会が訪《おとず》れることはなく。
「それじゃそろそろ上がろっかー」
「あ、うん、そうですね」
「気持ちよかったね〜、お姉ちゃん」
「あ、は、はい」
身体を洗い終え再《ふたた》び湯船に戻ってきた春香《はるか》たちが上がるまでの間、俺はマーライオンくんだけを友達にひたすら海坊主になっていたのだった。
マーライオンモドキの口からお揚が吐《は》き出《だ》されるゴボゴボという音が静かに響《ひび》いていた。
白い湯気《ゆげ》に覆《おお》われた浴場の中で、同じく白濁色《はくだくしょく》のお湯がゆらゆらと揺《ゆ》らめいている。
「そろそろだいじょうぶかな……」
「……」
現在|露天風呂《ろてんぶろ》には椎菜と俺(海坊主|解除《かいじょ》)の二人。
椎菜は湯船から脱衣所《だついじょ》の方の様子《ようす》をうかがっていて、俺はその横の岩に寄りかかって海辺で天日干しされているカマスの干物のようにグッタリと身体の熱を冷ましている。
ちなみにどうして椎菜《しいな》もここにいるのかというと、
出掛けに「あれ椎菜ちゃん、出ないの?」と訊《き》いてきた朝比奈《あさひな》さんと澤村《さわむら》さんに、
「う、うん、あたしはもう少しだけ浸《つ》かっていくから。悪いけど麻衣《まい》たちは先に行っててくれるかな?」
「あ、はい、分かりました」
「お風呂好きなんだねー、椎菜。でも早く出てきなよー。また湯中《ゆあた》りとかしたら大変だからー」
「うん、すぐに行くから」
そう言って、残ってくれたからである。
もちろんこれは俺を安全にここから脱出させてくれるためにだ。
「裕人《ゆうと》、もうちょっとだけ待ってて。今から脱衣所に行ってみんなが部屋《へや》に戻ったか見てくるから」
「ん、ああ……」
さすがにもう限界《げんかい》が近かった。
春香《はるか》たちが入ってきてからのべ一時間近く(途中《とちゅう》で移動があったとはいえ)湯船に沈《しず》んだまま海坊主《うみぼうず》を維持《いじ》し続けてきたのである。コクワガタのため息のような俺の体力はもはや風前《ふうぜん》の灯《ともしび》だった。うう、あまりの熱《あつ》さに頭がグラグラする……
やがて椎菜《しいな》が脱衣所を確認して戻ってきたようだった。
「裕人《ゆうと》、もう大丈夫《だいじょうぶ》だよ。みんな行ったから、今なら安全に出られると思う」
「……ん……ああ……」
「……裕人? 聞こえてる?」
「……」
「……裕人?」
なんか辺《あた》りの音がやたらと反響《はんきょう》して聞こえるというか椎菜の声が遠くに聞こえるのは気のせいだろうか。てかいくら湯気《ゆげ》があるからとはいえここの浴場ってこんなに真っ白だったか……?
「裕人、どうしたの? なんか目が釣《つ》られたオコゼみたいに虚《うつ》ろなんだけど……」
「…………」
「ちょ、ちょっと大丈夫!? 裕人!?」
「………………」
ユサユサと揺《ゆ》すられる感覚《かんかく》
だけど身体にカが入らずにただされるがままにバイブレートされることしかできない。
その揺《ゆ》すられる視界《しかい》の脇《わき》に映《うつ》ったのは湯気《ゆげ》の遥《はる》か上方に広がる星空。
北斗七星《ほくとしちせい》の横になんかやたらとギラギラと輝《かがや》く白い星が見える。
――ああ、なんかキレイな星だな……
空気の澄《す》んだ信州の夜空の中にあって一際《ひときわ》ハデにフラッシュしているように見える星。
まるでおいでおいでと俺を誘《さそ》っているかのようである。
ボンヤリとした意識《いしき》の中でそんなことを何となく考えていて、
「裕人《ゆうと》! しっかりして! ねぇ、聞こぇてるなら返事して!」
「…………」
それが俗《ぞく》に言う死兆星《しちょうせい》だということに気付くのと同時に、俺の意識はホワイトアウトしていった。
真っ白だった。
何もかもが真っ白。
視界《しかい》が全て白一色の光に包まれているというか、身体がフワフワと宙に浮《う》かんでいる感覚《かんかく》というか、とにかく全てが浮《うわ》ついているような状態《じょうたい》。
――むう、これってクリスマスにぶっ倒《たお》れた時に似《に》てるな……
ユラユラと揺れる意識の中でそんなことを思う。
あの時は目を開けるとそこに今にも泣き出しそうな春香《はるか》(サンタルック)の姿《すがた》があったんだが……
今回はどうなんだろうか……?
……
…………
分からない。
ただ――
…………
……
気詩ちいいな……
頭の上からパタパタと吹き付けてくる優《やさ》しい風。後頭部《こうとうぶ》には何かとても柔《やわ》らかく心地《ここち》の良い感触《かんしょく》
やがて少しだけだがゆっくりと意識が覚醒《かくせい》していく。
いまだはっきりとしない視界の中に、ボンヤリと映る白い天井《てんじょう》と人の姿の[#たぶん誤植。底本では「な」]ようなもの。
そこにあったのは………
「だいじょうぶ、裕人《ゆうと》?」
「……ん、ああ……」
まだ判然《はんぜん》としない意識《いしき》でそう答える。
視界《しかい》はほとんどモヤのようなものに覆《おお》われていて、目の前にいるのがだれであるのかもはっきりしない。
何となく知っているだれかであることだけは分かるんだが……
「大丈夫《だいじょうぶ》だが……何だか……ボンヤリとして……」
「あ、ムリしなくていいよ。ちょっと前まで完全な湯中《ゆあた》りだったんだから……」
「……ん、ああ……」
曖昧《あいまい》な意識の中でそう答える。
……何だか、ねみぃな……
穏《おだ》やかに動くゆりかごに揺《ゆ》られているみたいな感覚《かんかく》。
寄せては返す波のように眠気《ねむけ》が次第《しだい》に頭の中を覆っていき……
再《ふたた》び意識が白い光の中へと戻《もど》っていく。
「裕人?」
「…………」
「寝《ね》ちゃったの?」
「…………」
頭の上で何かを話しかけてくれているのは分かるんだがその内容までは認識《にんしき》できない。
半《なか》ば白昼夢《はくちゅうむ》を見ているような感じというか。
万華鏡《まんげきょう》のように拡散《かくさん》してまとまらない意識の中、
「……先手必殺《せんてひっさつ》、だよね……」
そんな小さな小さなつぶやきとともに、
すっ、と。
俺の顔の上に影《かげ》が落ち、そして右の頼《ほお》に……何か柔《やわ》らかなものが触《ふ》れたような気がした。
それはとても滑《なめ》らかでちょっとだけひんやりとしていて……何だかとても気持ちのよいものだった。
「ん…………あれ……?」
「あっ……」
目を開けると、真っ白な天井《てんじょう》と逆《さか》さまの椎菜《しいな》の顔が視界《しかい》に飛び込んできた。
「ここは………? 俺は一体……?」
「あ、ゆ、裕人、起きたんだ」
逆《さか》さまの椎菜《しいな》がちょっと慌《あわ》てたような口調《くちょう》でそう呼《よ》びかけてくる。
「椎菜、これは……?」
「あ、うん、あのね――」
事情がサッパリ分からない俺に、椎菜が説明をしてくれる。
どうやら俺は湯中《ゆあた》りで気絶《きぜつ》しちまったらしく、湯船の中で海坊主《うみぼうず》どころか本当の土左衛門《どざえもん》になりそうだったところを慌《あわ》てて助け上げてここまで運んできてくれたらしい。で、現在はこうして脱衣所《だついじょ》の隅《すみ》で浴衣《ゆかた》姿《すがた》の椎菜に膝枕《ひざまくら》をされてウチワの風を受けているというわげのようであり――
「そうか……椎菜が介抱《かいほう》してくれたのか……」
「あ、う、うん……」
「悪い、色々と迷惑《めいわく》をかけちまった……」
「う、ううん、そんなことないよ。別に迷惑とか、そ、そういうことは全然ないから」
ぶんぶんと首を振《ふ》る椎菜。
何だかその顔が少し紅潮《こうちょう》しているように見える。
「? どうしたんだ? なんか顔が赤いみたいだが……」
「!?」
何気なく訊《き》いてみると椎菜は焦《あせ》ったような様子《ようす》になって、
「な、何でもないのっ! こ、これは湯上がりだからまだちょっと顔が火照《ほて》ってるように見えるだけで……!」
「?」
「ほ、ほんとに何でもないんだからね! な、何かあったとかじゃなくて……。そ、それじゃあたしはもう行くから……っ!」
「あ、おい、椎菜……」
「ば、ばいばい――っ!」
そうぱたぱたと走り去って行ってしまった。
「…………」
残された俺はただ呆然《ぼうぜん》とその後ろ姿を見つめるだけである。
うーむ。
何が何だかさっぱり分からんのだが……
さて、まあそんな感じに今日は一日色々とあったものの(ホントにな……)ひとまずはこれでハプニングは終了かと思いきや。
最後の最後に、この日最悪のピンチが待ち受けていた。
椎菜《しいな》が去った後、すぐに浴衣《ゆかた》を着てそそくさと脱衣所《だついじょ》(女湯)を出ようとしていた俺の前に、
「らんらんら〜ん♪ 今日も楽しい雪見酒〜♪」
「ふむ、『雪月花の湯』か。なかなかに趣《おもむき》のあるいい感じだな……」
「げっ!?」
お盆ととっくりを両手に持ったセクハラ音楽教師とアホ姉が姿《すがた》を現したのだった。
「ん? あら、裕《ゆう》くんじゃな〜い。こんなところで何してるの? あ、もしかして男の子の夢とロマンと生きがいでもある女湯単独|潜入《せんにゅう》を思いあまってやっちゃったとか〜?」
「何だと! お前また……」
「え、いや違《ちが》う――」
――んだが、この状況はどう見てもそれ(女湯単独潜入)そのものである。
「ん〜、裕くんも成長したわね〜。おねいさんは別にいいわよ〜。ほら、いっしょに入っていいことしましょう〜♪」
「むう、昼間のメイドさんの一件といい、このところのお前の行動は少し目に余る……ここらで姉として一つ教育的指導をしなければなるまいか」
「あ、い、いや、だからこれには深い事情が……」
「分かってるって〜。青少年の悩《なや》みはいつだって深くて濃《こ》いものよね〜。大丈夫《だいじょうぶ》よ〜、おねいさんがその溢《あふ》れまくって先走る男の子のロマンを全て柔《やわ》らかく包み込んであげるから〜♪」
「事情なら意識《いしき》を失うまで活《かつ》を入れてからたっぷりと聞いてやろう。まったく、我が弟ながらこんなハレンチ犯罪に手を染《そ》めるとは嘆《なげ》かわしい……」
左右から迫《せま》ってくるピンク色のオーラと暗黒色の殺気《さっき》。
「……」
あの死兆星《しちょうせい》はこういう意味だったのか……?
それらに挟《はさ》まれながら絶望的《ぜつぼうてき》な気分の中でそこはかとなく思う。
ちなみに豆知識《まめちしき》というか枝豆《えだまめ》ほどの知識だが。
死兆星は正式にはおおぐま座のアルコルという実際《じっさい》に存在《そんざい》する星であり、別に死に瀕《ひん》した者でなくても普段《ふだん》からバッチリ見えるそうである。
……いや、実際に今俺は死にそうなんだけどな。
春香《はるか》の笑顔《えがお》。
それは俺にとっていつでもそこにあるものだった。
気付けばいつだって近くにあって、存在《そんざい》するだけで心が軽くなるような気分にさせてくれて……それは半《なか》ば空気のようなもの(いい意味で)。
時にはちょっとした事件で微妙《びみょう》に遠ざかったりすることもあるものの、基本的にはどんな時にも傍《かたわ》らにあった。
「……」
いやいきなり何を言い出すのかと思われるかもしれんが、それは事実なんだよ。
事実にして俺の正直な気持ち。
飾《かざ》らない本心とでも言おうか。
そして今回の温泉《おんせん》旅行でもそれは常《つね》に変わることはなかった。
新幹線を見てはしゃいでいた時も声優《せいゆう》イベントで目を輝《かがや》かせていた時も、そして浴衣《ゆかた》をはためかせながら一生懸命《いっしょうけんめい》な顔で卓球をしていた時も。
常にぽかぽかと降《ふ》り注《そそ》ぐ太陽の光のような春香の笑顔がそこにはあった。
「……」
だけど今は違《ちが》う。
辺《あた》り一面に吹き付ける吹雪《ふぶき》の中。
全ての音をかき消してしまいそうな風音《かざおと》の中。
その笑顔が、今は目の前でその姿《すがた》を雲に覆《おお》われてしまった月のように隠れてしまっている。
「私……どうしたら……」
しぼり出すような声。
「このままでは私、裕人《ゆうと》さんに顔向けができません……合わせる顔がありません……」
「春香……」
「こんなことになってしまったのにすぐに気付かなかっただけでも迂闊《うかつ》なのに……その上それを何とかすることもできないなんて……」
その瞳には薄《う》っすらと光る雫《しずく》が浮かんでいる。
どうすればいいのか分からなかった。
何をしてやればいいのかも分からなかった。
俺にできることは傍らでただ立《た》ち尽《つ》くすことだけで……何と声をかけていいのかすら分からない。
「……」
吹き付ける雪。
暗闇《くらやみ》に包まれた奥深い山の中。
そして地面にヒザを着く春香《はるか》。
それはこの旅行最大のアクシデントにしてエマージェンシーとも言える光景だった。
その全ての発端《ほったん》は今から七時間ほど前に遡《さかのぼ》るのである――
それは旅行三日目となる一月十六日(祝)の午後三時のこと。
俺は浴衣《ゆかた》の前帯《まえおび》を緩《ゆる》めた状態《じょうたい》でノンビリとリラックスしつつ、渡《わた》り廊下《ろうか》の談話スペースに置いてあった電動マッサージ機(肩《かた》位置《いち》自動合わせ機能《きのう》付き)でヴィンヴィンヴィンとこの世の至福《しふく》(……我ながら安いな)を全身で味わっていた。
「ふう、効《き》くな……」
強すぎず弱すぎない身体の隅々《すみずみ》まで揉みほぐす絶妙《ぜつみょう》な振動《しんどう》。
太腿《ふともも》から足裏《あしうら》までの下半身ケアも忘《わす》れてない行《い》き届《とど》いた稼動《かどう》システム。
それらが疲《つか》れ切《き》ってバキバキメリョメリョゴギョゴギョォ! と廃車《はいしゃ》の解体工場のような音を立てていた全身に心地《ここち》よく響《ひび》く。
「……むう、たまらん……」
思わず漏《も》れるそんな声。
まさにマッサージ天国(怪《あや》しい意味ではなく)という言葉《ことば》がピッタリである。
「……もうここから離《はな》れたくない……」
そう心の底《そこ》から思う。
このままこのマッサージチェアを終《つい》の棲家《すみか》としてもいいくらいかもしれん……(大げさ)
さて何だって俺がこんなに精根尽《せいこんつ》き果《は》てた九十前のおじいちゃんのようにマッサージの快楽に溺《おぼ》れているのかというと、それにはいちおうワケがあるのである。
ワケというかそれなりに正当な理由。
今日の午前中。
俺たちは澤村《さわむら》さんの「ねぇねぇー、今日はこの『天空《てんくう》の涅槃湯《ねはんゆ》』ってのに行ってみようよ〜。本来冬はやってないんだけど今の期間は特別限定公開ってことでやってるんだってー。この辺の温泉で行ってないのはここだけだしこのチャンスを逃《のが》す手はないよねー? だから行こうよけっていイエーイ!」という提案《ていあん》(一人|強行《きょうこう》採決《さいけつ》)により、朝も早くから山奥にある秘湯《ひとう》にまで行ってきたのだった。
それもただの山奥の秘湯《ひとう》でなく山奥の中の山奥にある秘湯。
旅館の裏手《うらて》にある山を二十分ほど登り、そこにあるリフトに乗ってもう一段上の山にまで行き、そこからさらに雪に埋《う》もれた険《けわ》しい山道を十五分ほど歩いてようやく辿《たど》り着《つ》くという、山奥というかほとんど秘境《ひきょう》と言ってもいいような立地《りっち》条件。
そこに『天空《てんくう》の涅槃湯《ねはんゆ》』は存在《そんざい》したのだった。
「……アレは本当にきつかったな……」
温泉《おんせん》自体はさすがに秘湯と言われるだけあって景色、泉質《せんしつ》ともに極上《ごくじょう》だったが、そこまでの道のりは本当にしんどかった。行きは行きで雪道な上に急斜面《きゅうしゃめん》やら岩場やらで進むだけで難儀《なんぎ》だったし、帰りは帰りでちょっとしたハプニングに見舞《みま》われたし。
まあ生来《せいらい》アクティブな澤村《さわむら》さんたちや美夏《みか》はかなり楽しんでいたみたいだったが……
「……俺ももう歳《とし》なのかね……」
そんなことを薄ボンヤリと考えながらマッサージ機を『全身しっかり揉みほぐしコース』から『局部集中じっくりコース』へとチェンジする。さらに心地《ここち》よい刺激《しげき》が腰《こし》を中心に臀部《でんぶ》付近に集まってくる。
「……おうう……」
再《ふたた》び漏《も》れる気の抜けた声。
目の前にはマッサージチェア用に設置されたテレビ。その画面の中ではえくぼがステキなお天気お姉さんが『長野方面は本日夕方から荒《あ》れ模様《もよう》になるでしょう。お出かけになる際《さい》にはカンジキを忘《わす》れずに――」と笑顔《えがお》で解説している。天井《てんじょう》からは目に優《やさ》しいソフトな間接照明が降《ふ》り注《そそ》ぎ、耳にそこはかとなく聞こえてくるのは館内に流されているスローテンポな琴《こと》の音《ね》。
「……落ち着く……」
そんなまったりとした空気の中ただただマッサージ機の振動《しんどう》に身を任《まか》せていると、
「やっほ〜、おに〜さん、元気〜?」
漂《ただよ》うまったり感を打ち破るに十分な賑《にぎ》やかさ満載《まんさい》な声がいきなり飛び込んできた。
目を開けるとそこには無口メイド長さんとにっこりメイドさん、ちびっこメイドを伴《ともな》ったアクティブツインテール娘の姿《すがた》。
マッサージ機と一体化したかのような俺の姿を見るなり、
「…………って、あんま元気じゃないみたいだね。も〜、昼間っからジジくさいんだから〜」
「まるでくたびれきった十年もののミイラみたいですね〜」
「……少年老《お》い易《やす》く学《がく》なり難《がた》しです」
「――(こくこく)」
「……」
いきなりそんな言葉《ことば》の連続|攻撃《こうげき》を浴《あ》びせてきた。
「いいだろ別に、疲《つか》れてるんだから……」
俺のささやかな主張《しゅちょう》に、
「は〜、そんなんだからおに〜さんはお義兄《にい》さんへの道がまだまだなんだよ。昼間のアレだっておに〜さんにもう少し機動性《きどうせい》があったら違《ちが》ったのにさ〜」
「う……」
それを言われると耳が痛《いた》い。
美夏《みか》が言っているアレとは先ほどのハプニングのことである。
例の秘湯《ひとう》からの帰り道。春香《はるか》が日頃《ひごろ》のドジ属性《ぞくせい》を発揮《はっき》して地面からニョッキリと突き出た人の股《また》型《がた》の木の根につまずいて足を滑《すべ》らせたのだ。本来ならその時いっしょに前を歩いていた俺が身体を支《ささ》えるなり人間安全マットになるなりして助けるべきだったんだが…………あいにく俺のへたれたナスのような運動神経ではそんなことを望むべくなく、結果二人|揃《そろ》って仲良くそのままドングリのようにゴロゴロと雪に覆《おお》われた斜面《しゃめん》を転《ころ》がって枯れ木に正面から衝突《しょうとつ》しかけたところを葉月《はづき》さんに助けられたのである。
「男の子だったらああゆうところで颯爽《さっそう》と活躍《かつやく》しなきゃいけないのにさ〜。かっこよくロペスでも決めながらお姉ちゃんの身体を優《やさ》しく抱《だ》きとめてあげたりしてたらきっとポイントアップしただろうにね〜」
「ぐ……」
容赦《ようしゃ》なく追撃《ついげき》を加えてくる美夏。
悔《くや》しいが事実ではあるので何も言えん……
ヘコんだバカ貝のように押《お》し黙《だま》るしかない俺に、
「ま、とにかく以後は気を付けるよ〜に。日々の地道なポイントアップがお義兄さんへの近道なんだから。――ところでそのお姉ちゃんなんだけど、どこにいるか知らない?」
「え?」
いきなり話を変えてそんなことを訊《き》いてきた。
「だからお姉ちゃんだよ〜。さっきから探《さが》してるんだけど、見なかった?」
「春香? いや、見てないが」
旅館に帰ってきてからここ(マッサージ機)をほとんど動いてないわけだが、少なくともその範囲《はんい》では見かけていない。
すると美夏は少し意外そうな顔になって、
「え、そなんだ。ん〜、どこ行ったんだろ……」
「部屋《へや》にはいないのか? ロビーとかは……」
「うん。どっちもここに来る途中《とちゅう》に寄ってみたけどだれもいないみたいだったの。おに〜さんも知らないってことは良子《りょうこ》おね〜さんたちと買い物にでも行ったのかな? あ〜あ、せっかく温泉《おんせん》にいっしょに行こうと思ったのに〜」
「温泉って、また入るのか……?」
昨日はもちろん午前中にあれだけ秘湯《ひとう》を入《はい》り倒《たお》したってのに。
「そだよ。だってせっかく信州まで来たんだし、骨《ほね》の髄《ずい》まで楽しまなきゃもったいないじゃん。どうせなら帰るまでに全制覇《ぜんせいは》(二周目)しとこうと思って。――あ、よかったらおに〜さんも行く? 貸し切り風呂《ぶろ》で混浴《こんよく》とか♪」
「……いや遠慮《えんりょ》しとく」
温泉はもう色々と満腹である。
「そう? ん〜、ま、い〜や。それじゃもしお姉ちゃん見かけたら、わたしが温泉で待ってるって言ってたって伝えといて」
「ああ、分かった」
「よろしく〜。じゃ、またあとでね、おに〜さん♪」
「よろしければあとでメイド式のスペシャルマッサージをして差し上げますよ〜」
「……しーゆーあげいんです」
「――(こっくり)」
そう楽しげに言い残して美夏《みか》たちは去っていった。
やれやれ元気だな……
まったくいつだってハイテンションというかエネルギーに満《み》ち溢《あふ》れた活発お嬢様である。
そう軽く苦笑《くしょう》しつつリモコンでマッサージのパワーを少しだけ上げる。
「……」
にしても春香《はるか》、部屋《へや》にいないのか。
それが少し意外といえば意外だった。
午前中は色々とハードスケジュールだったし、春香の性格上午後はてっきり部屋かロビー辺《あた》りでのんびりと午後のティータイムかシエスタでも楽しんでるのかと思ったんだがな。
とはいえこの時はまだまあそういうこともあるか……くらいに思って気にも留《と》めなかったんだが――
それから一時間後。
相も変わらずマッサージ機のお世話《せわ》になっていた俺のもとに、
「ねー、綾瀬《あやせ》っち、春香ちゃん知らない?」
「……お?」
今度は澤村《さわむら》さんたち三人がやって来た。
「これから温泉《おんせん》に入ろうと思ってさー、いっしょに行こうと思って探《さが》してたんだけど全然見当たらなくってー」
「部屋《へや》にも戻《もど》ってないんです。だからもしかしたら綾瀬《あやせ》くんといっしょにいるんじゃないかと思って……。ね、椎菜《しいな》ちゃん」
「……」
「椎菜ちゃん?」
「え? あ、う、うん、そうだね」
朝比奈《あさひな》さんの言葉《ことば》に、はっとしたかのように顔を上げる椎菜。 そういえば何だか今日は朝から椎菜の様子《ようす》がヘンなんだよな。いや正確に言えば昨日の夜からか。どこかよそよそしいというか目が合ってもなんか気まずそうに逸《そ》らされるというか……。ううむ、もしやまだ昨晩の温泉内でのやり取りとかを引きずってるのか? でもあれはいちおうその場で解決したはずだしな……
少々気にはなるがまあ今はそれはさておき、「春香、澤村さんたちといっしょじゃなかったのか? さっきも美夏たちが探してたみたいなんだが……」
「え、ううん、違《ちが》うよー。私たちはさっきまで近くにあるお土産屋《みやげや》さんでエアショッピングしてたしー。ていうかそれにも春香ちゃんを誘《さそ》おうと思ったんだけど、なんか『天空《てんくう》の涅槃湯《ねはんゆ》』から帰ってきてから見かけないんだよねー」
「そうなのか?」
「うんー、綾瀬《あやせ》っちも知らないー?」
「ん、ああ」
さっき美夏たちにも言った通り俺は見ていない。
そう答えると澤村さんは首をかたむけて、
「そっかー、綾瀬っちなら知ってると思ったんだけどなー。――ま、残念だけどいないならしょうがないかー。もし春香ちゃんを見かけたら私たちが温泉に行ったって言っておいてくれるかなー?」
「ああ、いいぞ」
「うん、お願い。じゃねー」
「失礼します」
「あ、ま、またね」
そう言って澤村さんたちは去っていった。
辺《あた》りには静寂《せいじゃく》とマッサージ機の動くヴィンヴィヴィンという音だけが残される。
「……」
ううむ、春香、まだ部屋に戻ってないのか。というか澤村さんたちといっしょに行動してるんじゃないってことは、一人でどこかに行ってるってことなのか? 春香《はるか》が単独行動をするってのは俺が知る限《かぎ》りあんまりないことだが……
少しだけ気にかかるものの、まあでももしかしたらあんまり人に見られたくないもの(ドジっ娘アキちゃんの信州限定|野沢菜《のざわな》ヴァージョンストラップとか)を土産《みやげ》物《もの》屋《や》で買ってるとかかもしれん。詳《くわ》しい事情も分からずに深く考えすぎるのもアレだしな。
そう思い、再《ふたた》びマッサージのパワーを上げたのだった。
それからさらに一時間後。
いまだにマッサージ機に全身を委《ゆだ》ねてヴィンヴィンヴィンと揺《ゆ》られていた俺のもとに、
「ねえ裕《ゆう》く〜ん、春香ちゃん知らな〜い?」
「……ぬ?」
三度目にやって来たのは、由香里《ゆかり》さんとルコの年長コンビだった。
「最後の夕方くらいいっしょに温泉《おんせん》で女の子同士ハダカのお付き合いをしようと思ったんだけどどこにもいないのよ〜……って、あらん、裕くん気持ち良さそうなのに乗ってるわね〜♪全身に余すことなく響《ひび》き渡《わた》るヴァイブレーションが身体の色々とたまったところをビンビンと敏感《びんかん》に揉《も》みほぐして……」
「……」
何でこの人はこう何をしてもセクハラなんだろう……
今さらながらのそのナチュラル・ボーン・セクハラには呆《あき》れを通り越してある意味感心の念すら感じる。尊敬《そんけい》の念はチリペッパーほども感じんが。
まあそんなセクハラ女教師の悪い意味で卓越《たくえつ》したセクハラギフトはともあれ、
「ルコたちも春香を探《さが》してるのか?」
そこが気になった。なんせ美夏《みか》たち、澤村《さわむら》さんたちに続き三連続である。
「む? 私たちもというのはどういう意味かは分からんが、乃木坂《のぎざか》さんを探しているというのはその通りだぞ。紛《まご》うことなき事実だ」
ルコがそううなずく。
「まあ由香里の言い方はアレだが、普段《ふだん》から色々と世話《せわ》になっている乃木坂さんと共に温泉にでも入って親睦《しんぼく》を深めようと思ってな。部屋にはいないようだったので旅館内の目ぼしいところを探していたんだ。それでどうだ裕人、乃木坂さんを見なかったか?」
「いや、見てない。温泉から帰ってきた時に見たのが最後だ」
「そうか………」
ルコは軽くため息を吐《つ》くと、
「まあ残念《ざんねん》だが見つからないものは仕方がない。それじゃあもしも乃木坂さんを見たら私たちは温泉《おんせん》にいるので気が向いたら来てくれと言っていたと伝えてくれ」
「ああ、分かった」
「頼《たの》んだぞ。ほら由香里《ゆかり》、いいかげんに行くぞ」
「あん、もうちょっとだけ〜」
「いいから早くしろ。お前のちょっとはあてにならん」
「いや〜ん、ルコのいけず〜……」
隣《となり》ですっかりマッサージにハマっていた(くどいようだが怪しい意味ではなく)由香里さんをムリヤリ引《ひ》っ張《ぱ》って風呂場《ふろば》の方へと消えていった。
「…………」
それを見送りつつマッサージのパワーを少しばかり弱める。
さすがに少し気になった。
気になったというか、何か心に引っかかるものを感じるというか。
例の秘湯《ひとう》から戻《もど》ってきて間もなく三時間。
その間、だれも春香《はるか》の姿《すがた》を見ていないという。
「…………」
いや春香だってもう十七である。子供じゃないんだし、少しばかり姿が見当たらんくらいで普通ならそんなに心配するようなごとじゃないのかもしれん。だけど――
「……。春香、だからな……」
何せ基本的なところでおっとりぽわぽわとしまくっていてさらにはドジっ娘《こ》神《しん》の寵愛《ちょうあい》を一身に受けているうっかりお嬢様である。どうしても心配は尽《つ》きない。外では雪も降《ふ》ってきているようだし、滑《すべ》りやすくなった夜道で転《ころ》んで大回転して道端《みちばた》にある雪だるまに顔から突っ込んだり、はたまた凍《こお》った池を道だと勘違《かんちが》いしてどんぶらことハマったりしていてもおかしくないわけだし。
……うーむ。
ここは探《さが》しに出るべきなんだろうか。
それとも春香にも一入で羽を伸ばしたい時があると思い温かく静観《せいかん》すべきか。
「……」
どちらが正解かいまいち分からずに考え込んでいると、
「お、おに〜さん!」
「あ、綾瀬《あやせ》っちー!」
「ん?」
そんな声がマッサージチェアの振動音《しんどうおん》と共鳴《きょうめい》して渡《わた》り廊下《ろうか》に響《ひび》いた。
見ると何やら慌《あわ》てた様子《ようす》でぱたぱたと手を振《ふ》っている美夏《みか》と澤村《さわむら》さんの姿。む、このいつでも活発マイペースな二人が揃《そろ》ってこんな慌てた様子を見せるなんて珍《めずら》しいな。何かあったのか?
二人は息を切らしながら駆《か》け寄《よ》ってくると、
「た、大変《たいへん》だよ〜! 良子《りょうこ》おね〜さんの部屋《へや》から、こんなのが見つかったんだって〜」
「え?」
「こ、これだよこれー、さっきみんなでマクラ投げをしてたら、部屋からこんなものが――」
「……?」
呼吸を整《ととの》えることすらせずに何か紙のようなものを見せてくる。
何だ、飾《かざ》ってある額《がく》の裏《うら》から悪霊《あくりょう》退散《たいさん》のお札《ふだ》でも見つかったとかか?
そんなオカルトライクなことを何となく思いつつ、軽い気持ちで澤村《さわむら》さんの手に握《にぎ》られていた一枚のメモ用紙のようなものに目をやる。
「!? これは……」
するとそこには、
おそらくは筆ペンを用いたと思われる達筆《たっぴつ》この上ない字で、
『お山に行ってまいります。すぐに戻《もど》りますので、探《さが》さないでください。春香《はるか》』
短く、そう書かれていた。
十五分後。
ロビーには美夏《みか》、椎菜《しいな》、朝比奈《あさひな》さん、澤村さん、葉月《はづき》さん、那波《ななみ》さん、アリス、ルコ、由香里《ゆかり》さん、三馬鹿、俺の、春香を除《のぞ》く全員が集まっていた。
皆|一様《いちよう》にそこはかとなく困惑《こんわく》した表情である。
原因は言うまでもなくテーブルの上に広げられた一枚のメモ用紙。
その僅《わず》か10×10センチほどの大きさの紙に、皆の視線《しせん》は集中していた。
「……では澤村様、皆様方のお部屋にこの書置きが残されていたということでよろしいのですね?」
「は、はい」
無口メイド長さんの言葉《ことば》に澤村さんがうなずく。
「いつからあったのかは分からないんですけどー……。どうもヒーターのすぐ近くに置かれてたせいで風に飛ばされて部屋に備《そな》え付《つ》けのお菓子皿《かしざら》の醤油《しょうゆ》煎餅《せんべい》の下に滑《すべ》り込《こ》んじゃってたみたいなんですー。最初は全然気付かなくてー……」
「お風呂《ふろ》から出て来た後にたまたま椎菜《しいな》ちゃんが見つけたんです」
「あ、お、お腹《なか》が空いちゃって夕ご飯前に少しだけつまもうと思って……」
朝比奈《あさひな》さんと椎菜もそう続けてくる。
どうやらそういうことらしい。
しかしそういう迂闊《うかつ》なところ(書置きを残すもヒーターの温風《おんぷう》に飛ばされて菓子皿《かしざら》の醤油《しょうゆ》煎餅《せんべい》の下へ)は実に春香《はるか》らしいというか何というか……
改《あらた》めて春香のドジっぶりに感心(?)していると、
「……ともあれこの筆跡《ひつせき》は春香様のものに間違《まちが》いありません。そしてお山に行かれるという言葉《ことば》……これに関連して春香様のお写真を見せて周囲《しゅうい》に聞き込みをかけたところ、どうやら春香様は昼間に行った秘湯《ひとう》のある山に再度《さいど》向かわれたらしいということが分かりました」
無口メイド長さんが厳《おごそ》かにそう言った。
「え、あの山に?」
「……はい。なぜかは分かりませんが、慌《あわ》てたような様子《ようす》でそちらへと向かう私服の春香様らしき人物を目撃《もくげき》した方がいらっしゃいます。メイド隊の情報綱を駆使《くし》して調べたものですので、比較的《ひかくてき》信用性は高い情報です」
「……」
「何だってまたそんなところに……」まさかまた温泉《おんせん》に入りに行ったわけでもあるまい。リフトだって午後五時には止まっちまうし、そもそもあそこの温泉周辺は夜間は立ち入り禁止のはずである。わざわざこの時間に向かう意味なんて何もない。それなのになぜ……
周《まわ》りの美夏《みか》たちもざわめく。
「も〜、お姉ちゃん、何考えてるんだろ〜。雪とかも降《ふ》ってきてるのに……」
「あ、ほ、ほらー、もしかしたら積もりたての新雪を使ってかき氷を食べるためとかー」
「そ、そんなこと考えるのは良子《りょうこ》ちゃんだけだって……」
「乃木坂《のぎざか》さん……」
皆で春香の動向《どうこう》について話し合っていると、
『――ここで番組を変更《へんこう》しましてお天気情報をお伝えします』
「?」
ロビー脇《わき》に置いてあったテレビからそんな声が聞こえてきた。
『本日午後七時過ぎ、長野県北部に大雪|警報《けいほう》が出されました。付近にお住いの皆様は十分に注意して、不要な外出はなるべく控《ひか》えるようにしてください。なお同時に暴風《ぼうふう》警報も出されており、特に山間部は大変《たいへん》危険《きけん》です。繰《く》り返《かえ》します、ただ今長野県北部に大雪警報が――』
「……」
「……」
「……」
ロビー内がシーンと静寂《せいじゃく》に包まれる。
いやこれ……本当にマズイんじゃねえのか?
思わず顔を見合わせる俺たちに、
「……ともかく、私たちはこれから春香《はるか》様を探《さが》しに行ってまいります」
「え?」
静寂を打ち破るかのように、葉月《はづき》さんがそう言った。
「……行き先が分かった以上、このまま静観《せいかん》しているわけにはいきません。聞いての通り天候も芳《かんば》しくありませんし、あの辺《あた》りは夜になると照明なども消えほとんど真っ暗になると聞いています。クマなどの野生動物の危険《きけん》もありますし……。一刻《いっこく》も早く春香様を保護する必要があります」
「私たちがすぐに春香様をお違れして帰ってきますから〜」
「――(こくり)」
それに那波《ななみ》さんとアリスが続く。
「あ、だ、だったらあたしたちも――」
椎菜《しいな》が言いかけて、
「……いえ、それには及びません。これはメイド隊の仕事です」
「え、で、でも……」
「こういう場合|慣《な》れていない方がヘタに山に入ると二次|遭難《そうなん》の危険があるのですよ〜。その点、私たちはこういった非常|事態《じたい》には慣れていますから〜」
「――(こく)」
「そ、そうですか……」
そう言われて落胆《らくたん》したように声を小さくする椎菜。
その葉月さんたちの主張は分かる。
確かにこういったイレギュラーな状況の解決には葉月さんたちのような特殊《とくしゅ》技能を持った経験者が適《てき》しているんだろう。ここは彼女たちに任《まか》せて、素人《しろうと》の俺たちは静かにその帰りを待っているのが正しい選択《せんたく》なのかもしれない。
だが――
「……それでは、行ってまいります」
「皆さんは旅館でお待ちしていてくださいな〜」
「――(こっくり)」
だがそれでも俺は――
「……」
俺はギュッと右手を握《にぎ》り締《し》めると、
旅館の玄関《げんかん》へ向かおうとする葉月さんたちの背中《せなか》に、思わず大声で叫《さけ》んでいた。
「待ってください! 俺も――俺もいっしょに行きます!」
「え、裕人《ゆうと》?」
「おに〜さん?」
椎菜《しいな》と美夏《みか》が驚《おどろ》いたように同時にこっちを見る。
「お願いします! 俺もいっしょに連れていってください! 分不相応《ぶんふそうおう》なのは分かっています。でも……俺も春香《はるか》を探《さが》しに行きたいんです。ジッとしてはいられないんです!」
それが俺の思いだった。理由は分からんがこの雪の中で一人山で何かをしている春香。それを放っておいて旅館で葉月《はづき》さんたちの帰りをただ待っているだけなんてのは……できそうにない。
「……裕人様……」
葉月さんが困ったようにこっちを振り返る。「……しかし、先ほども言った通り大変危険で……」
「分かってます! 昼間でもあんなに厳《きび》しかったのに、夜の雪山がどれだけ危《あぶ》ないかっていうのは……。それに俺が行ってもどれだけ力になれるかは分からない……。でもやっぱり春香を放ってはおけない……放っておきたくはないんです! お願いします、足手まといにだけはなりませんから……!」
「…………」
「あらあら〜……」
「――」
葉月さんたちが困惑《こんわく》したような表情になる。
と、そこで。
「――よくぞ言った」
そんな声が辺《あた》りに響《ひび》き渡《わた》った。
「いいではないか。裕人も曲《ま》がりなりにも江戸時代なら元服《げんぷく》を迎えている男子。その男子がそこまで言ったのだ。メイドさんたち、頼《たの》む、こいつも連れていってやってくれ。全責任は私が負《お》おう」
「おねいさんからもお願い〜。裕くんはきっと大丈夫《だいじょうぶ》だから」
「ルコ、由香里《ゆかり》さん……」
年長者二人組だった。
普段《ふだん》からは想像《そうぞう》もできないような大人の顔でそう葉月さんたちに訴《うった》えかける。この二人、こんな顔もできたんだ……
その今までにない雰囲気《ふんいき》に葉月さんたちはしばらくの間何かを考え込むような顔で沈黙《ちんもく》していたが、
やがて、
「…………。……分かりました」
「え?」
「……では裕人《ゆうと》様のみ、お力をお借りします。ただし決して無茶はしないと約束してください」
真《ま》っ直《す》ぐにこっちを見てそう言ってくれた。
「あ……ありがとうございます!」
「……いえ、そこまで春香《はるか》様のことを想っていただいてお礼を言わなければならないのはこちらの方です。――さ、それよりもすぐに支度《したく》をお願いします。事は一刻《いっこく》を争うかもしれませんから」
「あ、大丈夫《だいじょうぶ》です。浴衣《ゆかた》を着替えれば今すぐにでも出られます」
「……分かりました。それでは五分後に出発いたしますので、着替えが終わりましたら表《おもて》玄関《げんかん》の方までいらしてください」
そう言ってぺこりと一礼すると、葉月《はづき》さんたちは表玄関へと歩いていった。
――よし。
それを確認して俺も着替えるためにいったん部屋《へや》に戻《もど》ろうとして、
くいっと浴衣の袖《そで》が引《ひ》っ張《ぱ》られた。
「ん?」
見ると引っ張っていたのはツインテール娘。
こっちを見上げながらきゅっと袖を握《にぎ》る手に力を込めて、
「おに〜さん、お姉ちゃんのこと……頼《たの》んだよ」
「え……」
「お姉ちゃんを……無事《ぶじ》に連れて帰ってきてね。もうおに〜さんたちだけが頼《たよ》りだから……」
「美夏……」
さらには澤村《さわむら》さんたちも、
「春香ちゃんは綾瀬《あやせ》っちだけじゃなくて私たちにとっても大事なお友達なんだからねー」
「乃木坂《のぎざか》さんと二人で無事に戻ってきてくださいね」
「裕人……絶対《ぜったい》に乃木坂さんを見つけてくれるって信じてるからね」
真剣《しんけん》な顔でそう言ってくる。
皆、本当に春香のことを大事に思ってるんだな……
そのことが痛いほど理解できた。
だから俺は、
「――ああ、分かった。春香は絶対に無事に連れ帰ってくるから」
「おに〜さん……」
「綾瀬っち……」
「綾瀬くん……」
「裕人《ゆうと》……」
そう約束して、
足早に自らの部屋《へや》である
『青竹の間《ま》』へと向かったのだった。
山中《さんちゅう》の様《ようす》子は、昼間来た時とはまったく様変《さまが》わりしていた。
ヒュゴゴゴゴゴ……!!
耳元に響《ひび》くのはすさまじい勢《いきお》いで吹き付けてくる珍走団《ちんそうだん》のバイク排気音《はいきおん》のような雪の音。
辺《あた》り一帯《いったい》にどこまでも広がる闇《やみ》と視界《しかい》一面を覆《おお》い尽《つ》くす吹雪《ふぶき》の白。
まるで周《まわ》りを白い煙幕《えんまく》に覆われているかのようで、少し油断《ゆだん》したら自分がどこにいるのかすぐに分からなくなってしまいそうである。
ちなみに現在地は『天空《てんくう》の涅槃湯《ねはんゆ》』がある奥の方の山。
リフトはすでに止まってしまっていたので、葉月《はづき》さんたちがどこからか調達《ちょうたつ》してきたスノーモービル(でかい)でここまでやって来たのだった。
「……それでは、手分けして春香《はるか》様をお探《さが》しいたしましょう。お互《たが》いに決して離《はな》れすぎないように気を付けてください。また三十分ごとに定時連絡をするのも忘《わす》れないように」
「分かりました〜」
「――(こくん)」
葉月さんの注意に那波《ななみ》さんとアリスがうなずく。
「……裕人様もよろしいでしょうか? よろしければお返事をしていただけると――」
「……あ、はい、それはいいんですが……」
「……? 何か?」
葉月さんが首をかたむける。
提示《ていじ》された注意事項自体に問題はないものの、それ以外で一つだけどうしても突っ込んでおきたいことがあった。
それは、
「何で俺たちはこんな格好《かっこう》をしているんですか……?」
シロクマ姿(ダグラス)の自分を指差しつつ雪ダルマ姿の無口メイド長さん、ユキウサギ姿のにっこりメイドさんとちびっこメイドに問いかける。
「……なぜと言われましても、防寒《ぼうかん》のためですが?」
「この吹雪の中ではさすがに私たちもメイド服だけでは辛《つら》いですからね〜。メイド隊特製の防寒コートを身に着けさせてもらっているのですよ〜」
「――(こくこく)」
返ってきたのはそんな答えだった。
「……裕人様のダグラスも防寒具《ぼうかんぐ》としては一級品です。そのことは先日身をもって体験されたと思いますが」
「……」
まあそれはそうなんだが。
このダグラスは見た目の割に軽いし滑《すべ》りにくいし思いの他に動きやすい。何といっても毛皮だけあって温かさはバツグンだ。おそらくは雪ダルマとユキウサギもそうなんだろう。
ただ機能的にはそうであってもビジュアル的には大いに問題があるというか、何せシロクマ、雪ダルマ、ウサギ×二の珍《ちん》パーティーであるわけだし……。てか猟師《りょうし》とかに発見されたら撃《う》たれるんじゃないのか、これ……?
微妙に気が抜けた気分になる俺の肩がぽんぽんと叩かれ、
「――ぴょん」
「……」
ウサミミ姿《すがた》のアリスが背伸《せの》びをしながらなでなでと頭をなでてくれた。
いや励《はげ》ましてくれているつもりなのかもしれんがなんか余計《よけい》脱力感《だつりょくかん》が増《ま》したというか……。つーか初めて聞いたちびっこメイドの声がそれだった。ぴょん……
「……では捜索《そうさく》を始めてください。下から上へと順に登っていきましょう」
そういうわけで春香《はるか》捜索は始まった。
四人(見た目は四匹)でそれぞれ東西南北に分かれ、割《わ》り振《ふ》られた区画《くかく》を探《さが》していく。
範囲内《はんいない》を自らの足で歩き回りつつ声を出し懐中《かいちゅう》電灯《でんとう》で辺《あた》りを照らしていくという、シロクマ、雪ダルマ、ユギウサギというファンシーな見た目に反して地道な作業である。
「春香!」
「……春香様」
「春香様〜、どこですか〜?」
「――ぴょん」
周囲《しゅうい》に響《ひび》くそんな四つの声。
とはいえ山は広い。
おまけにこの低気圧が逆ギレしたかのような激《はげ》しい吹雪《ふぶき》である。声を出してもすぐにかき消されてしまうし、足跡《あしあと》を探《さが》そうとしても五分もすればそこはまっさらな新雪面《しんせつめん》になってしまう。そう簡単には見つからない。
「くそ……」
すぐに三十分が経過《けいか》し、一度目の定時連絡のため集まる。
「こっちにはいませんでした」
「……こちらも発見できず、です」
「同じくですね〜」
「――ぴょん」
そう報告《ほうこく》し合《あ》って、
「……では、捜索《そうさく》を再開《さいかい》してください」
で、場所を変えて再《ふたた》び捜索を開始。
新しい区画で三十分間|探《さが》すも、
「見つかりません……」
「……こちらもです」
「同じくです〜」
「――ぴょん」
やはり結果はそれだった。
そしてまた捜索を再開。
そんなことを何度か繰《く》り返《かえ》すが、春香《はるか》は見つからない。
「春香……」
思わず力ない言葉《ことば》が口から漏《も》れる。
すでに捜索を開始して二時間近くが経過《けいか》しようとしていた。
捜索|範囲《はんい》はどんどんと拡大《かくだい》していて、辺《あた》りはさらに山深く雪深くなってきている。
本当にこんなところで何をやっているんだろうか。というか私服で出て行ったということはまともな防寒《ぼうかん》装備《そうび》もしていないということである。そんなんでこの吹雪の中を耐《た》え切《き》れるのか……
「…………」
イヤな考えが一瞬《いっしゅん》だけ頭をよぎる。
だがすぐに頭を大車輸のごとく振《ふ》り回《まわ》すことによりそれを振り払う。いかんいかん、病《やまい》は気からとも言うし、弱気なことを考えると大抵《たいてい》結果《けっか》もロクなことにならん。
気を取り直し捜索を再開しようとして、
「!」
ふいに何かに足を取られる感触《かんしょく》がした。
子供の頃《ころ》に畑で遊んでいてモグラの巣《す》にハマった時のような感じ。
「ぬおっ!?」
そのままバランスを崩《くず》して、ブザマに顔面《がんめん》から雪に突っ込む。
「い、いてえ……」
衝撃《しょうげき》で、頭にシロクマを被《かぶ》ったメガネの顔拓《がんたく》という世にもけったいなもんが出来上《できあ》がった。
「一体何が……」
傾《かたむ》いたメガネの角度を直しつつ足下を見る。
すると、
「――って、穴?」
メガネ付きシロクマ顔拓《がんたく》の原因となったのは直径五十センチ深さ三十センチほどの小さな穴だった。どうやらこれに見事《みごと》に足(肉球《にくきゅう》付き)がハマっちまったらしい。
「何だってこんなもんが……」
どう見ても自然にできたもんじゃない。
明らかに何か外からの力が加えられたことによって作られたものである。
見てみると辺《あた》りには同じような穴が無数にあった。
何かによって掘られただろう穴と、その時にできたと思われる小さな雪の山。
「何なんだこれは……」
と、そこであることに思《おも》い至《いた》った。
――そういえば、クマとかは採《と》った(獲《と》った)食料を保存《ほぞん》しておくために地面に穴を掘ってその中に入れておくっていうよな……
「…………」
不吉な想像が頭に浮《う》かぶ。確かこの辺《あた》りにはツキノワグマが生息《せいそく》してるって話だし……
と、その時、
ザッザッザッ…………
「!」
何かを掘り返しているような音が、吹雪《ふぶき》に紛《まぎ》れて聞こえてきた。
それもすぐ近く。おそらく十メートルも離《はな》れていない距離《きょり》である。
……ま、まさかクマが……?
思わず身構《みがま》える。
だが今の俺の姿《すがた》はシロクマである。うまくすれば仲間だと見なしてくれる可能性《かのうせい》も昨今《さっこん》の日銀の公定歩合《こうていぶあい》引き上げ率(〇・一〜〇・二%)くらいはあるかもしれん。
「……」
ともかく様子《ようす》を見てみるしかない。
本当にクマだったら葉月《はづき》さんたちにも知らせなければならんし、そうでなくともこの雪のカーテンの先に何か――この吹雪の中でせっせと地面に穴を掘るような生物が存在《そんざい》していることは確かである。何にせよその正体を確かめておく必要があるだろう。
「……」
身を低くしてなるべく物音を立てないように音のする方へと近づいてみる。
一歩、また一歩。
慎重《しんちょう》にその距離を縮《ちぢ》めていく。
ほふく前進にも近い牛歩《ぎゅうほ》な移動《いどう》(いやクマだが)。
そしてとうとう、その影《かげ》が見えるところまでやって来た。
ザッザッザッザッザッ
さっきまでは微《かす》かだった穴を掘《ほ》る音も、今では確かに聞こえるようになってきている。
「……」
目を凝《こ》らすと三段《さんだん》跳《と》びをすれば届《とど》くほどの距離《きょり》で地面を掘っている謎《なぞ》の影《かげ》(推定《すいてい》クマ)。
思ったよりも小柄《こがら》なようだが、吹雪《ふぶき》のせいでその姿《すがた》をはっきりと確認できないためまだ油断《ゆだん》は禁物《きんもつ》である。
「……」
警戒《けいかい》しつつゆっくりと懐中《かいちゅう》電灯を照らしてみる。
小さな丸い光が暗闇《くらやみ》を切り取り、
するとそこには――
「……」
「んしょ……んしょ……」
そこには…………何やら必死《ひっし》な顔をして雪の中で一生懸命《いっしょうけんめい》に穴を掘っているお嬢様(おっとり)の姿があった。
「……」
「んしょ……んしょ……」
「…………」
「え、ええと、きっとこの辺のはずなのですけれど……んしょ……んしょ……」
「…………」
一心に穴を掘り続ける春香《はるか》。
俺が近くに来ていることにすらまったく気付いていないようである。
「…………。……何をしてるんだ、春香……?」
思わず声をかけると、
「え? あ、はい、ちょっと探《さが》し物《もの》を……って、ク、クマさん!?」
血相《けっそう》を変えて声を上げた。
「あ、あの、あの、わ、私は怪《あや》しいものじゃないんです。お、落とし物もしてないですしハチミツも持ってないですし、そ、その……」
「え? いや俺は……って、あ」
自分の現在の姿《すがた》を思い出す。
確かに少し呼吸を荒《あ》らげながら四《よ》つん這《ば》いで身を低くして迫《せま》る俺の姿(withダグラス)は、獲物《えもの》を狙《ねら》うシロクマに見えなくもない。
「あー、違《ちが》う、俺だ俺、裕人《ゆうと》だ!」
慌《あわ》ててフード部分を脱《ぬ》いでメガネの付いた顔面《がんめん》を晒《さら》す。
「え……ゆ、裕人さん……?」
「ああ、そうだ。クマじゃない」
「裕人、さん……」
ようやく認識《にんしき》したのか、気が抜けたかのように春香《はるか》がぺたりとその場に腰《こし》を落とした。
まあなんかシロクマをどこぞの花咲く森に生息《せいそく》するお人よしグマや峰蜜《はちみつ》好《ず》きの黄色いふっくらとしたクマと混同していたような気がしたんだが、それについては突っ込むと色々と長くなるので伏せておこう。
やがて春香はおずおずと顔を上げて、
「あ、あの裕人さん、どうしてここに……?」
「どうしてって、それはこっちの台詞《せりふ》だ。いきなりいなくなって、皆心配してるんだぞ」
「あ……」
春香がはっとしたような表情になる。
「何だって一人で出かけたりしたんだ? それもこんな吹雪《ふぶき》の中で……」
「そ、それは……」
口ごもる春香。
「大丈夫《だいじょうぶ》なのか? 雪がこんなに積もって……」
「あっ……」
肉球とツメ付きの右手で頭やコートに積もった雪を払《はら》い落《お》としてやる。
「寒かったんじゃないのか? 何でこんなになるまで……」
「あ、え、えと、けっこうだいじょうぶだったりします。未年《ひつじどし》生まれなせいか、私、寒さには割と強いですから……」
「……」
それはあんま関係ない気がするんだが。てか羊も毛皮がなけりゃあそこまで寒さに強いわけでもないし。
内心で突っ込みつつ右手を差し出して、
「まあ何にせよ、無事《ぶじ》でよかった。とにかく戻ろう。あっちには葉月《はづき》さんたちもいるし、皆心配してる。ほら――」
「あ……」
だが差し伸べられた手に春香《はるか》は少し迷《まよ》ったような素振《そぶ》りを見せて、
「す、すみません、まだ戻《もど》ることは……できない、です」
「え?」
そう、言った。
声こそは小さかったが、そこにははっきりとした意思《いし》が込められていた。
「戻れないって……何でだ?」
まさかここで一晩を過ごすつもりじゃあるまいし。
首をひねる俺に、
「さ、探《さが》し物《もの》があるんです。そ、その、とっても大切なもので……」
「そうなのか? だったら俺も手伝う。何を探してるんだ?」
「あ、え、ええと……」
だけどそこで春香は言葉《ことば》を止め、
「?」
「そ、その……」
「ん?」
「そ、それは……」
しばしドとレとミとファとソとラとシの音が出なくなったクラリネットをひた隠《かく》す子供のように戸惑《とまど》っていたが、
やがてしぼり出すかのようにこう言った。
「………『月の光』……です……」
「え……?」
「………裕人《ゆうと》さんにいただいた『月の光』、なんです……探しものは」
「『月の光』……」
意外な単語に一瞬《いっしゅん》言葉が止まる。『月の光』って……当然あの『月の光』のことだよな、あのネックレス状に変態《へんたい》してた。探し物がそれってのはどういうことなんだ?
いまいち事情が掴《つか》めない俺に、
「…………気が付いたのは、『天空《てんくう》の涅槃湯《ねはんゆ》』から旅館に戻《もど》ってきてすぐのことでした」
春香がぽつぽつとそう話し始めた。
「お部屋《へや》に着いて着がえをしている時に気付いたんです。ネックレスの紐《ひも》が切れて、そこにあったはずの『月の光』がなくなっていることに……。すぐに探しました。でもどこにもなくて……。あの時に、あの温泉《おんせん》からの帰り道に転《ころ》んでしまった時にどうにかしてしまったんだと、分かりました。それ以外にはそうなるような場面は考えられなかったですから……」
「……」
あのドングリハプニングか……
「だから直接お山に行くことにしたんです。あのぶつかりそうになった枯れ木のおかげでだいたいの場所の見当《けんとう》はついていましたし、早くしないと雪に埋《う》もれてしまうと思ったから……。だけどまだ見つかっていなくて……」
……ナルホド、段々と状況が掴《つか》めてきた。
要するに春香《はるか》は『月の光』を落としちまって、それを探《さが》すためにわざわざこんなに時間をかけてこんなところまで一人で来たってことなのか……?でもそれなら――
「それなら言ってくれれば……つーかこんなムリしてまで探さんでも……」
皆で探すなり色々と手はあったはずである。
だけど春香はふるふると首を振《ふ》って、
「これは私の不注意が原因《げんいん》で起こってしまったことです。そのようなことでみなさんにご迷惑をおかけするわけにはいきません。自分で蒔《ま》いてしまった種は自分で摘《つ》み取《と》りませんと……」
「だがな――」
「そ、それに……」
「?」
「そ、それに……これは裕人《ゆうと》さんにいただいた大切な『月の光』です。初めて家族以外の男の人にプレゼントしていただいた大事なものです。だからどうしても……自分で見つけたいと思ったんです」
「え……」
「ごめんなさい……わがままだというのは分かっています。でもこれは私にとってはとっても大事なことで……」
胸《むね》の前で両手にぐっと力を入れてこっちを見上げてくる。
「……すみません。だから私はまだ帰れません。『月の光』を見つけるまでは……」
「春香……」
そう言うと春香は再《ふたた》び雪が積もった地面を掘《ほ》り始《はじ》める。
手袋も着けていない紅葉《もみじ》のような小さな手。
すでに寒さで真っ赤になってしまっているその手で、懸命《けんめい》に目の前の雪をかき分けていく。
「この辺りにはあるはずなんです。それは分かっているんです……」
「……」
ザッザッザッ……
「滑《すべ》ってしまったのがあそこで、ぶつかりそうになった木があるのがここだから……」
「……」
ザッザッザッ……
暗闇《くらやみ》の中、吹雪《ふぶき》に混ざって響《ひび》く音。
それとともにさっき見たものと同じような小さな穴が次々と出来ていく。
一個、二個、三個、四個………
だが『月の光』は出てこない。
出て来るのはただ真っ白な雪とそれに紛《まぎ》れた枯れ枝や枯葉のみ。
「……」
次第《しだい》に春香《はるか》の表情にも焦《あせ》りのようなものが見え始めてくる。
焦りともどかしさとが相混《あいま》ざったかのような複雑な表情。
そして
「私……どうしたら……」
しぼり出すような声が春香の口からもれた。
「このままでは私、裕人《ゆうと》さんに顔向けができません……合わせる顔がありません……」
「春香……」
「こんなことになってしまったのにすぐに気付かなかっただけでも迂闊《うかつ》なのに……その上それを何とかすることもできないなんて……」
その瞳《ひとみ》には薄《う》っすらと光る雫《しずく》が浮《う》かんでいる。
どうすればいいのか分からなかった。
何をしてやればいいのかも分からなかった。
俺にできることは傍《かたわ》らでただ立《た》ち尽《つ》くすことだけで……何と声をかけていいのかすら分からない。
「……で、でもだめです、きっとあるはずなんです。こんなことで諦《あきら》めたら……」
ザッザッザッ……
「諦めたら……そこで全てが終わってしまいます……」
ザッザッザッ……
「春香、もういい……」
「……」
ザッザッザッ……
「もういい……これ以上そんなことを続けたら春香の手が……っ」
ピアノを弾《ひ》く大切な手をこれ以上|酷使《こくし》させるわけにはいかない。
たまらずに飛び出して春香の背中《せなか》を抱《かか》え込《こ》むように手を回したその時だった。
「…………お願い、です……」
「え……」
「…………神様、お願いします……あの指輸は、『月の光』は……本当に本当に、大切なものなんです……」
「……」
「……だから……だからどうか……見つけさせてください……取《と》り戻《もど》させてください……お願いします――っ……」
そう訴《うつた》えかけるようにしてぎゅっと目をつむった春香《はるか》。
その形の良い瞳《ひとみ》の端《はし》から光るものが一滴《いってき》だけぽとりと雪の上に落ちる。
落下した透明《とうめい》な雫《しずく》は少しだけ雪を溶《と》かし、その中に埋《う》まっているものの姿《すがた》を顕《あらわ》にして。
その先で淡《あわ》く光っていたのは――
「つきの……ひかり……」
「え……?」
春香がぽつりとつぶやく。
涙《なみだ》一滴分だけ溶けた雪の中で淡く蒼色《あおいろ》に光《ひか》り輝《かがや》いていたもの。
それは紛《まぎ》れもなく……直径ニセンチほどの小さな『月の光』だった。
「あ……」
春香が信じられないといった顔で両手を口元に当てる。
そして化石を掘《ほ》り出《だ》す時のように慎重《しんちょう》にさらさらと雪を払《はら》いのけ、
壊《こわ》れ物《もの》を扱《あつか》うような丁寧《ていねい》な手付きで雪の中から『月の光』を拾い上げると、
「あ、あった……ありました……やっと……よかった……」
きゅっと両手の中に握《にぎ》りしめて、包み込むように胸《むね》に抱《だ》きしめた。
それはまるで宝物を見つけたお姫様のような表情だった。
「ゆ、裕人《ゆうと》さん、見つかりました……。裕人さんにいただいた……プレゼントしていただいた大切な、大事な『月の光』が……」
泣き笑いのような顔を見せながら、春香が本当に嬉《うれ》しそうに振《ふ》り向《む》いてくる。
「もう私、絶対《ぜったい》に離《はな》しませんから……。いつでもどこでも大切に身に着けていることにします。
お早うからお休みまでずっとずっとこの『月の光』といっしょに暮《く》らしていきます……」
「ああ、よかったな」
「は、はいっ」
喜ぶ仔犬《こいぬ》のシッポのような勢《いきお》いでぶんぶんと大きく首を振る。
その姿《すがた》はとてつもなくいじらしく、また思わず目を瞠《みは》ってしまうほど健気《けなげ》で……
「…………」
何だかそれを見ていたら……無性《むしょう》に春香のことを抱《だ》きしめたくなった。
自分の手が真っ赤になることも厭《いと》わずに冷たい雪を掘《ほ》り続《つづ》けてくれた春香。
そうまでして俺の贈った『月の光』を大切に思ってくれていた春香。
それがこの上なく愛《いと》しく思えた。
いやダグラスを着た今の状態《じょうたい》じゃどう見ても冬眠前で飢《う》えたクマが食欲に任《まか》せて人を襲《おそ》っているようにしか見えんのだろうが、それでもその小さな身体をギュッと抱《だ》きしめてやりたくなったんだよ。
「春香《はるか》……」
一歩前に出る。
「裕人《ゆうと》さん……?」
「春香、俺は……」
その肉球付きの両手を伸ばしかけて、
「ぬおっ!?」
ふいに足下の雪がズルリと崩《くず》れた。
「ゆ、裕人さん!?」
「……っ!?」
暗くてよく見えてなかったがどうもここはすぐ横がガケになっていたらしい。
そこまで高くはなさそうだが落ちたら落ちたでそれなりに痛《いた》そうだ。
なので、
「ふん……っ!?」
腰《こし》に力を入れてふんばる。
滑《すべ》り止《ど》め効果《こうか》のある肉球とツメとを駆使《くし》して何とか踏《ふ》みとどまったものの、
「あ――きゃ、きゃあっ!」
「春香!?」
今度は俺を助けようとして手を伸ばしていた春香が、逆にバランスを崩《くず》してふらりとガケへと身体を傾《かたむ》かせた。
「くっ――!」
手を伸ばす。
だが肉球と毛皮の手は虚《むな》しくスカッと空を切り、
結果《けっか》として、
「おわっ……!?」
「きゃ、きゃあっ」
そのまま二人もつれ合うようにして、雪に覆《おお》われた斜面《しゃめん》を転《ころ》がり落《お》ちていくことになった。
「い、いつつつつ……」
「だ、だいじょうぶですか、裕人さん!」
春香の心配そうな声が身体の上から降《ふ》ってくる。
「あ、ああ、何とか……」
答えながら身体を起こす。
ダグラスの対衝性《たいしょうせい》に優《すぐ》れた毛皮のおかげでほとんどダメージは負《お》っていなかった。
「春香《はるか》こそ大丈夫《だいじょうぶ》か? ケガとかは……?」
「あ、だいじょぶです。その、裕人《ゆうと》さんがかばってくださったので……」
「そうか……」
ならひとまずは安心である。
これで春香がケガでもしていようもんなら申し訳なくてダグラスの中から顔を上げられないところだ。
とはいえ――
「ここを登るのは難《むずか》しそうだな……」
落ちてきたガケを見上げて思わずつぶやく。
高さ二十メートル、角度四十五度ほどの急斜面《きゅうしゃめん》。
雪がなければまだともかく、現状でここから上に戻《もど》るのはほとんど不可能《ふかのう》と言わざるを得ない。
「……違《ちが》う道を行った方がよさそうだ。ハッキリは分からんが、あっちが旅館だから、おそらくこっちから回り込めば何とかなるだろ。そこまで行けば葉月《はづき》さんたちとも合流できるはずだしな」
「す、すみません……」
「いや俺の方こそ。つーかそもそも俺が足を踏《ふ》み外《はず》したせいだし……」
もっと言えば微妙《びみょう》に邪《よこしま》な考えを抱《いだ》いたからなんだが、まあそれはここでは大目に見てもらうということで。
「とにかく進もう。じっとしてても寒くなってくるだけだ」
「あ、はい」
そう言って春香とともにすぐ脇《わき》にあった道(のような場所)を歩き出す。
まあ正規《せいき》の道ではないとはいえ何とかなるはずだ――と軽く考えていたものの。
夜の闇《やみ》と吹雪《ふぶき》のコラボレーションはそう長崎名物|桃《もも》カステラのように甘いものではないと、すぐに思い知らされることとなった。
十分後。
「……おかしいな。こっちでいいはずなんだが」
「そこを右に行くのではないでしょうか? あそこにリフトが見えますし……」
「むう……」
俺たちの間で交《か》わされていた会話がそれだった。
「……やっぱりここを真《ま》っ直《す》ぐか? いやそれとも少し左に……」
「え、えと、たぶんそんな感じだとは思うのですが……」
「ぬう……」
少し進めばすぐにガケ上へと戻《もど》る道が見えてくる予定だったのに、その道がまったくもって見えてこない。
それどころか、
「……なんか、段々道が険《けわ》しくなってきたような気がするのは俺の気のせいか……?」
「い、いえ、私もそう思います……」
「しかも何だか木とかが多くなってきてやがるし……」
「え、ええ……」
「……」
「……」
「これってまさか……」
互《たが》いに顔を見合わせる。
おそらくは同時に二人の頭に浮かんだだろう一つの単語。
それは――
「まさか俺たち、遭難《そうなん》しかけてるのか……?」
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辺《あた》り一面が真っ白だった。
右を見ても左を見ても上を見ても下を見ても、ついでに斜《なな》め六十五度を見てもとにかく白の大洪水《だいこうずい》。
他に見えるものといったらところどころに立《た》ち並《なら》ぶ枯れ木くらい。
状況は少し前よりもさらに悪化しつつあった。
遭難の可能性《かのうせい》に気付いてから、とにかく歩くことで正規《せいき》ルートへと戻る道を見出《みいだ》そうとしてみたものの。
だけど進めば進むほど自分たちがどこにいるのかどんどんと分からなくなっていき……
歩けば歩くほど周《まわ》りの景色は次々にその姿《すがた》を変えていき……
さっきまで見えていた目印のリフトさえも、今は影も形もなくなってしまっている。
「……」
「……」
ビョゴゴゴゴォ! と吹き付ける雪と風。
視界《しかい》を覆《おお》う辺《あた》り一面の白のカーテン。
もはや遭難《そうなん》しかけているというよりもほとんど現在進行形で絶賛《ぜっさん》遭難中と言った方が正しいかもしれん。
「大丈夫《だいじょうぶ》か、春香《はるか》?」
「あ、は、はい」
隣《となり》の春香に声をかける。
俺の言葉《ことば》にそう笑顔《えがお》で答えはするもののその身体はふるふると小さく震《ふる》えていた。考えてみれば春香の格好《かっこう》は普通《ふつう》の私服にコートを羽織《はお》っただけだ。足下も雪山用ではないノーマルブーツであるわけだし、服が濡《ぬ》れて体力が奪《うば》われやすい分だけ一級|防寒具《ぼうかんぐ》であるダグラスを身にまとった俺よりも消耗《しょうもう》していてもおかしくない。
……これは本格的にマズイかもしれん……
このままアテもなくただ歩き続けているだけでは俺はさておき春香がまいっちまう。ともかくちゃんとした道を見つけるなりどこか休める場所を探《さが》すなりせんと……
ただそのどちらもすぐに何とかなるものでもない。
なのでまずは春香の身体を優先《ゆうせん》すべきだろう。
「春香、これを……」
「はい?」
「これを着てくれ。そうすれば少しは温《あたた》かくなるはず――」
ダグラスを脱《ぬ》いで渡《わた》そうとして、
「――ん?」
ふと、視界《しかい》の隅《すみ》にあるものが映《うつ》った。
少し離《はな》れた場所にボンヤリと見える建物《たてもの》のようなモノ。
「なあ春香、あれって……」
「え?」
「もしかして山小屋じゃないか? ほら、あそこの木の横にある」
懐中《かいちゅう》電灯の光の先で微《かす》かに浮《う》かび上《か》がっている黒いシルエット。
それは木々の合間《あいま》に建つ小さな山小屋のように見えた。
「あ、は、はい。小屋だと思います」
「おお、やっぱりそうだよな?」
メガネに雪の結晶《けっしょう》が張《は》り付《つ》いて俺だけに見えた幻覚《げんかく》とかじゃあないようだ。
「行ってみよう。ああいうところには遭難者用の設備《せつび》とかがあるって相場《そうば》が決まってる。休めるかもしれん」
「は、はい」
春香の手を取り小走りで動き出す。
少しだけ希望の灯《ひ》が見えたような気がした。
山小屋の中は、当たり前だが真っ暗だった。
電気も何もない冷え切った真っ暗な空間。
なのでまずは懐中《かいちゅう》電灯で照らしながら辺《あた》りを物色し、明かりとなるものを探《さが》す。
暗がりの中手探りでそのヘンを漁ると、すぐにカンテラのようなものとアルミ缶に入った灯油《とうゆ》とが見つかった。
「裕人《ゆうと》さん、これ……」
「ああ、これがあれば――ここをこうして……よし」
「わあ、明るいです……」
ボンヤリと円のように照らされたカンテラの光を見て春香《はるか》が声を上げる。
小屋の中はタタミ十|畳《じょう》分くらいのスペースだった。
というかまんまタタミ敷《じ》きの小部屋《こべや》で、座布団《ざぶとん》やら毛布《もうふ》やらのオプション付き。部屋の真ん中には古いストーブまで置かれている。
「えと、これは……?」
と、春香が口元に指を当てて頭上《ずじょう》にクエスチョンマークを浮《う》かべていた。
「ん、ストーブだろ? どうかしたのか?」
昔|懐《なつ》かしの、小学校や中学校の教室によくあったようなやたらとパイプがたくさん付いたやつである。
すると春香はこくこくとうなずいて、
「あ、これがストーブなのですか。初めて見ました。かっこいいですね♪」
「……」
どうやらお嬢様、ストーブは初見《しょけん》のようだった。
「複雑な形をしてますね……。コンセントとかもないようですし、どうやって使うのでしょう?石油をかけて燃やすのですか?」
「…………」
しかも微妙《びみょう》に危《あぶ》ないことを言ってるし。
「そうじゃなくてこれはだな……」
「?」
口で言うよりも実演した方が早い。俺は缶に付属《ふぞく》していた簡易《かんい》ポンプを使って本体に灯油を入れると点火《てんか》スイッチを押した。鈍《にぶ》い稼動音《かどうおん》とともにストーブが動き始め、やがて本体の中に小さな炎《ほのお》が見え始めてくる。
「あ、こうやって使うのですね? 何だか巨大ろぼっとさんの動力炉《どうりょくろ》みたいです……」
うっとりと燃《も》え盛《さか》る炎《ほのお》を見つめる春香《はるか》。
まあどういう感想を持とうと人それぞれだが……
「……」
それはともかく。
ひとまずはストーブで暖気《だんき》を確保できたとはいえ、まだまだ問題は山積みだ。
何といってもここに辿《たど》り着《つ》くまでに吹雪《ふぶき》にさらされまくったせいか全身はグチョグチョな上に、体温も東京タワー臘《ろう》人形館の臘人形のように下がりきっている。まずはこれを何とかせんと風邪《かぜ》を引いたり様々な体調不良の原因になりかねない。春香もさっき小さく「くちょん」とくしゃみをしてたし。
「……」
考える。
濡れた衣服。
それにより冷え切った身体。
これらの諸問題を解決するためにはどうしたらいいのか――
「…………」
思《おも》い浮《う》かんだのは一つしかなかった。
古来からの伝統的(?)な方法であり、大した物がなくても実行できる足し算ではなく引き算的なやり方。
少々口にするのはためらわれることではあるが……実際《じっさい》問題として、それは現在の事態《じたい》を打開《だかい》するのに非常に効《こうか》果的《てき》だという話である。
「…………」
――やるしかない、か……
このままここで朝まで過ごさなきゃならん可能性《かのうせい》が高い以上、現状を放置《ほうち》しておくわけにはいかない。
俺は決意を込めて立ち上がると、
まだストーブに向かって手をかざしつつ目をきらきらと輝《かがや》かせている春香に向かって、
「――春香」
「はい?」
「春香――脱《ぬ》いでくれ!」
真正面からそう告《つ》げた。
「え?」
春香の顔がよく漬《つ》かった最高級十年モノ紀州|南高《なんこう》梅干《うめぼし》(シソ入り)のようにみるみる真っ赤になる。
「え、え? あ、あの、そ、それはいったい……」
「言葉《ことば》通りだ。多少というかかなり抵抗《ていこう》はあるかもしれんが、今はこうすることが最良の方法なんだ。だから頼《たの》む、俺を信じて脱《ぬ》いでくれ!」
春香《はるか》の目を見ながらつめ寄る。
「え、え、えと、えと……」
その提案《ていあん》に春香も最初はもじもじわたわたと目まぐるしく表情を変えながらまごついていたが、
「え、え、そ、その、あの……ぬ、脱ぐというのは衣服を身体から着脱《ちゃくだつ》するということですよね? ちゃ、着脱してそのままになるということで……。た、確かに抵抗《ていこう》はあるといえばあるのですが……で、でででも、ゆ、裕人《ゆうと》さんがどうしてもそうしてほしいとおっしゃるのでしたらやぶさかでは……」
だけど最後には何かを覚悟《かくご》したかのように胸元《むなもと》に手を当てて、恥《は》ずかしそうにそう答えてくれた。
「……」
そこに至《いた》って、なーんか意思《いし》の相互疎通《そうごそつう》に問題があるのを感じた。
認識《にんしき》の根本的な方向性の違《ちが》いにして致命的《ちめいてき》な齟齬《そご》。
「あー……春香。いちおう言っとくが別に俺は個人的|嗜好《しこう》でこんなことを提案してるわけじゃないぞ」
「え!?」
「冷えた身体を温めて濡《ぬ》れた服を乾《かわ》かすにはそうするしかないというか、ある意味|緊急避難《きんきゅうひなん》的《てき》措置《そち》なわけで……」
「あ……」
真っ赤な顔が――瞬《いっしゅん》元に戻《もど》り、そして再《ふたた》び前よりもさらに真っ赤になる春香。
「――あ、そ、そうですよね。雪ですっかり濡れてしまいましたし、このままだと体温が下がってしまいます。た、確かにお洋服は着たままでは乾かせません……」
ふるふると頭を振《ふ》って、
「わ、分かりました。ゆ、裕人さんのおっしゃる通りにします」
「そ、そうか……」
「……」
「……」
「え、えと……」
「ん、あ、ああ、スマン! すぐに目隠《めかく》しを作る」
とりあえずは小屋にあった毛布をヒモで吊《つ》って間仕切《まじき》りにして、二人分の簡単《かんたん》な脱衣《だつい》スペースを作り上げる。
「そ、それでは……」
「あ、ああ、また後でな」
そんなことを言い合って互《たが》いにそれぞれのスペースに分かれる。
そして始まった着替えの時間(いや替えずに脱ぐだけなので正確には脱衣か)。
俺も保温のため濡れた服を脱ぎ出したわけだが……
「……」
ぱさ……ぱさり……
間仕切《まじき》りの向こうから聞こえてくるそんな音。
衣擦《きぬず》れのようなというか明らかに衣擦れ以外の何でもない音。
そしてそれと並行《へいこう》して間仕切りとなっているヒモの上に、襦れてまだ雫《しずく》が滴《したた》る新鮮《しんせん》な(?)服が一枚また一枚と掛《か》けられていき――
「…………」
……
…………
……………………むう。
正直落ち着かねえ……
目の前に大好物のバナナを置かれながらも「待て」をされるウマヅラコウモリのような気分である。
いやこのような事態《じたい》は今回が初めてではない。近いところで言えば初詣《はつもうで》の海の家でも似《に》たような状態《じょうたい》ではあったし、あれはあれで十二分にセンセーショナルではあったが……それでもあの時はもう少し距離《きょり》が離《はな》れていたし、着物を一度|脱《ぬ》いだとはいえそれは再《ふたた》び春香《はるか》の身体に舞《ま》い戻《もど》る運命にあった。
だが今は違《ちが》う。
脱がれた服はそのまま乾《かわ》かし物《もの》として隔離《かくり》され、結果として春香の身体を覆《おお》う衣服の数は刻一刻《こくいっこく》と減ってきているのだ。しかも即席《そくせき》の間仕切《まじき》りの下から足が僅《わず》かに見えてたり見えてなかったり……。それを考えると緊迫感《きんぱくかん》(?)が段違《だんちが》い――いや桁違《けたちが》いである。
そんな刺激的《しげきてき》すぎる着替えタイム。
悟《さと》り切《き》った即身仏《そくしんぶつ》のように落ち着いてただ静観《せいかん》しろってのがムリな話だ。
やがて全ての服が間仕切りの上へとかけられ、
「お、お待たせしました、裕人《ゆうと》さん……」
間仕切りの向こうから遠慮《えんりょ》がちに春香が現れる。
その身体には当然のごとく衣服は着けられておらず……毛布が一枚バスタオルのように慎《つつ》ましく巻かれているだけだった。
「お……」
思わず言葉《ことば》を失っちまう。
毛布の合間から見える白い肌《はだ》。
見上げてくる潤《うる》んだ瞳《ひとみ》に少しだけしっとりと濡《ぬ》れた髪《かみ》。
その健全な男子高校生(十七歳)の青春|満載《まんさい》でサラダデイズなハートを桃色《ももいろ》のネコジャラシのようにくすぐりまくってやまないあまりの絶大《ぜつだい》な攻撃力《こうげきりょく》に……まるで脳ミソをバールのようなもので直接ぶっ叩《たた》かれたかのような衝撃《しょうげき》を受けた。やべぇ、これはもうほとんど究極兵器《アルティメットウェポン》と言っていいレベルだぞ……
ちなみに俺も濡れた服は全部脱いでいたため似《に》たような状態だったんだが、まあそっちについてはもはやどうでもいい。
ハイになったドラマーに叩《たた》かれるドラムセットのようにドゴドゴドゴドゴと跳《は》ねまくる動悸《どうき》を何とか抑《おさ》えて、
「あ、あー、それでだな次はダグラスに……」
次の手順を伝えるべく口を開こうとする。
とにかく自身の体調|維持《いじ》のためにも、俺の心臓の平穏《へいおん》のためにも、春香にはそのまま速《すみ》やかに毛布の中なりダグラスの中なりに収まって体温保持に努《つと》めてもらいたいところである。
だが春香は、
「あ、わ、分かってます」
「え?」
「こ、こういう時に次にどうするかですよね? え、えと……」
自ら半歩前に出てそう切り出したかと思うと、
「そ、その、こ、こういう時はお互《たが》いにぴったりとくっ付いて体温を分け合った方がいいんですよね? ゆ、裕人《ゆうと》さんと私の二人で……。わ、分かってますからっ」
「は!?」
いきなりそんなとんでもないことを言ってきた。
「だ、だいじょぶです。す、少し恥《は》ずかしいですが、ゆ、裕人さんとなら……。そ、それにこれは冬山で体温が低下した時の最も有効《ゆうこう》な解決法なんですよね? 人の身体を温めるには同じく人の体温が最も有効ということで……。りょ、旅行の前に葉月《はづき》さんからそう教えていただきましたので……」
「……」
そういやああの無口メイド長さん、一昨日山道を歩いてた時もそういったことを言ってたな。しかし春香《はるか》にまで何を教えてるんだか……
微妙《びみょう》に動揺《どうよう》しつつ心の奥底で深いため息を吐《つ》く俺に、
「な、なのでだいじょぶです。準備《じゅんび》は万端《ばんたん》です。お、お〜るおっけ〜ですっ」
「え? あ、いや」
オールオッケーって言われてもな……
こっちとしては非常に対応《たいおう》に困《こま》る。
ただこういった場合(冬山で遭難《そうなん》)に体温を分け合うのは本当に効果《こうか》があるって話も聞いたことがないわけではない。まあ毛布《もうふ》もあるんだし、何より春香がオッケーだと言ってるんだし、ただダグラスにいっしょに入るだけなら……アリなのはアリ、なのかもしれん……のか?
チラリと春香を見る。
「……(じ、じ〜)」
そこには飼《か》い主《ぬし》に全てを委《ゆだ》ねたフェレットの子供みたいな目。
これから行われることに何の疑いも持っていない目である。
……仕方ない。
もうここは――覚悟《かくご》を決めるしかねえか。
「――わ、分かった」
「え?」
「そ、それじゃあ、いっしょに入るぞ?」
「あ、は、はい」
俺の言葉《ことば》に春香はおずおずとその場に座《すわ》り込《こ》んで、
「ふ、不束者《ふつつかもの》ですが、よ、よろしくお願いします……」
三つ指を突きつつそうぺこりと頭を下げてきた。
「あ、あー、こっちこそよろしくな」
「は、はい」
そんな微妙《びみょう》に何かが違《ちが》うやり取りをして、
そして二人してダグラスの中にインするものの――
「……」
「……」
沈黙《ちんもく》だった。
「……」
「……」
ダグラスの中を漂《ただよ》うのは、どこかよそよそしくてどこか気恥《きは》ずかしいような沈黙《ちんもく》。
会話はなく、隣《とな》り合《あ》ったお互《たが》いの位置《いち》を気にしながら、時折《ときおり》何となくちらちらとそれぞれの顔を見て「あ、え、え、えと……」「あー、い、いや……」などのやり取りをするくらいである。
「……」
「……」
昨日の椎菜《しいな》と温泉《おんせん》で二人きりの時と同じような状況でありながら、それとはまたどこか異《こと》なる、そしてそれよりも遥《はる》かに大きな緊張感《きんちょうかん》。
まあ状況が状況だけに(夜の山小屋で生まれたままの姿《すがた》で二人きり。いやなんかこの表現、エロいな……)緊張するなってのがムリな話なんだが、密着《みっちゃく》している毛布一枚を隔《へだ》てた先から春香《はるか》の心臓の鼓動《こどう》が聞こえてきそうというか俺の心臓の鼓動がそのまま伝わっていきそうというか……
「……」
「……」
外では相変わらず吹雪《ふぶき》が親の仇《かたき》のごとく元気に吹《ふ》き荒《あ》れまくっていて、時折入ってくる隙間《すきま》風がカンテラの灯《あか》りをユラユラと揺《ゆ》らす。
「……」
……うう、どうすりゃあいいんだ?
このままではさっき以上に活発なドラム活動に勤《いそし》しむ心臓がスピンオフして口から飛び出しちまいそうである。
いいかげんに緊張感が限界値《げんかいち》だった。
とにかく鬼《おに》が出るにせよ幸運の使いである岩国のシロヘビが出るにせよこの状況を何とかせんと……
――よし。
決めた。
何であれこの現状を打開《だかい》するために、そのネタ振《ふ》りとしてまずは好きな深海魚《しんかいぎょ》の種類についてでも質問しようとして、
と、その時、
きゅるるるる……
「……」
「……」
オーストラリア産キーゥイ(雛《ひな》)の鳴《な》き声《ごえ》みたいなかわいらしい音がダグラスの中に響《ひび》いた。
あまりにかわいすぎて一瞬《いっしゅん》何の音だかよく分からなかったほどのもの。
その発生元は
「す、すす、すみません……」
春香《はるか》が消え入りそうな声でそう言った。
「あ、あの、緊張《きんちょう》しすぎて、お腹《なか》が鳴っちゃったみたいで……」
「あー」
そういやあ何だかんだで昼食以来何も食ってなかったからな。身体が空腹を訴えてもおかしくはない。ていうかやっぱり春香も緊張してたんだな――
と、そこであることを思い出した。
「お、そういえば確か……」
「え?」
「ここにアレが……」
ダグラスのポケットに手を入れる。
予想通り、そこには小さな袋《ふくろ》に入った色とりどりの北海道産|甘納豆《あまなっとう》があった。
「甘納豆だ。初日に旅館に来る時に葉月《はづき》さんからもらったんだった」
「わあ……」
春香が小さく声を上げる。
「食べるか? 甘いから疲《つか》れがとれるだろ」
「あ、はいっ」
それをきっかけに、何となくおかしな感じだった空気が元に戻《もど》った。
甘納豆を食いながら何でもない話に花が咲く。
「それでだな、その時うちのガメラが滑《すべ》りながら横に五回転して……」
「わあ、そうなんですか? うふふ」
「ところで春香は深海魚では何が好きだ? 俺はガウシアとかの光るところがナイスガイだと思うんだが……」
「あ、はい。私はメガマウスです。あの大きなお口がきゅ〜とで……」
飼《か》っているミドリガメの話だとか好きな深海魚《しんかいぎょ》の種類についてだとか色々。
いつもの和《なご》やかな雰囲気《ふんいき》。
そんな他愛《たあい》もない会話をしばし繰《く》り広《ひろ》げて、
「――あの、裕人《ゆうと》さん」
「ん?」
「あの……こんな時に変なことを訊《き》いてもいいでしょうか?」
「ん?」
春香《はるか》がふと真面目《まじめ》な顔になってそんなこと言ってきた。
「本当に変なことで、その、この場にはそぐわないものかもしれないのですけれど……」
「いや構《かま》わんぞ。何だ?」
ヘンとは言っても春香が言うことだし、別に「ねえねえおに〜さん、おに〜さんはお姉ちゃんが脱《ぬ》いだ制服と制服を脱いだお姉ちゃんのどっちが好きかな〜♪」とか「裕くんの好きなエリンギの産地を教えて〜、おねいさんのお・ね・が・い♪」とかではあるまい。
なので軽い気持ちでうなずいた俺に、
しかし春香は、
「あの……裕人さんには、付き合っている人とかはいるのでしょうか?」
「!?」
そんなハートブレイクショット(コークスクリュー付き)を飛ばしてきた。
それは椎菜《しいな》にされたのとほとんど同じ質問。
だが発信元がこういった事項《じこう》には疎《うと》いというか鈍《にぶ》いといってしまってもいいことこの上ない春香なだけに、その言葉に含《ふく》まれた意味というものはだいぶ異《こと》なってくる。い、いや春香、何だってそんなことを……?
動揺《どうよう》しまくる俺に、
「あ、そ、その、そんなに特別な意味はないんです。ただ少し前にちょっとそういうお話をされたので気になってしまって……」
「え……?」
「私、よく分からなくて……。付き合うとか、好きとかって……いったいどういうものなのでしょう……?」
じっとこっちを見上げながら言ってくる。
それはもしや昨日のあの温泉《おんせん》内《ない》での会話のことを言ってるのか……?
澤村《さわむら》さんがハデなボディコミュニケーションをしながらしきりに興味《きょうみ》を示していた事項《じこう》。
そういやあの時は葉月《はづき》さんの風呂桶《ふろおけ》突入《とつにゅう》によって結局|曖昧《あいまい》なままになっていたが……春香はアレについてどう思っているのだろう。
春香《はるか》は続ける。
「えと、付き合うという言葉《ことば》の意味は、その、分かっているつもりです。男の人と女の人が親密《しんみつ》に交際《こうさい》することですよね? いっしょに交換《こうかん》日記をしたりとか……」
「……」
……それはいまいち分かってないような気がしないでもないが。
「そういった言葉の意味は分かっている……いいえ、分かっていたつもりでした。頭では分かっていたというか……。でもいざそれが自分に関わる状況になってみたら、全然分からなくなってしまって……」
「?」
それはどういうことだ?
すると春香は思い切ったかのようにがばっと顔を上げて、
「さ、澤村《さわむら》さんに言われたんです。そ、その、わ、私が、ゆ、裕人《ゆうと》さんのことを好きなのではないのかって……」
両手をぐっと握りしめながらそう言ってきた。
「た、確かに私は裕人さんのこと、好きです。いっしょにいると楽しくて心が安らいで……いつだっていっしょにいたいと思っています。でも澤村さんの言っていることはそれとはどこか違《ちが》うもののような気がして……」
「え、いや……」
違うといえばかなり違うもんかもしれんが……
「ど、どうなのでしょうか? わ、私の感じている好きということは、想っている好きということは……普通に認識されていることとは違うものなのでしょうか? そして――」
「え、あ、あー……」
「そして……その、あの…………わ、私、私は……裕人さんのことが好きなのでしょうか?」
顔をか〜っと真っ赤にしながら一生懸命《いっしょうけんめい》にそう迫《せま》ってくる。
いやそれを俺に訊《き》かれても困《こま》ることこの上ないんだが……
その時だった。
ヒュゴオオオオオー!!
一際《ひときわ》強烈《きょうれつ》な風が小屋の外で吹《ふ》き荒《あ》れ、その隙間《すきま》風《かぜ》が入り込んだ影響《えいきょう》でカンテラの灯りがフッと消え、
「!?」「!」
小屋内が一瞬《いっしゅん》にして暗闇《くらやみ》に包まれた。
「ゆ、裕人《ゆうと》さん……」
真っ暗になった小屋の中で、春香《はるか》が不安そうな顔できゅっと腕《うで》に抱《だ》き付《つ》いてくる。
「あー、大丈夫《だいじょうぶ》だ。たぶん風で火が消えただけだろ。すぐに点《つ》け直《なお》してくるから少し待っててくれ――」
そう言ってダグラスから出ようとして、
「だ、だめですっ」
「ぬお?」
がしっとその足首が掴《つか》まれた。
見れば春香がダグラスから半身を乗り出してすがりつくように足にぶら下がっている。
「春香……?」
「だ、だめです……い、行かないでください……こ、こんなところで一人にされたら……」
「いやちょっと灯《あか》りを点けてくるだけなんだが……」
距《きょり》離にしてほんのニメートルくらいである。
しかし春香は、
「う、うう〜……(うるうる)」
ほとんど涙目《なみだめ》でふるふると首を振《ふ》ってくる。
その怖《こわ》がっている顔は真剣《しんけん》そのもので……それを見て、ああ、そういえば春香はこういった密室での暗がりというか怪談《かいだん》の匂《にお》いを感じさせる場所にはとことん弱かったんだっけか――と思い出した。海の家の時もそうだったしな。
「……」
まあ別に灯りがなくともさほど不自由はしない。
小屋の中を動き回るわけでもなし、ストーブの方は正常に機能している以上おそらくは朝になるまではほとんどダグラスの中で過ごすことになるだろう。周囲《しゅうい》の様子《ようす》が見えないのは若干《じゃっかん》不安ではあるが、それもその内に暗闇《くらやみ》に目が慣《な》れれば解決することだ。
なので、
「――分かった」
「え……?」
「分かった。ならここから動かないことにする。どこにも行かないぞ」
「ほ、ほんとですか……?」
「ああ、本当だ」
「あ、ありがとうございます……」
そう言ってもたれかかるようにひしっと全身を寄せてくる。
その時になって初めて、現在の俺たちがどういう状態《じょうたい》だか再認識《さいにんしき》した。
狭《せま》いダグラスの中。
その身を預《あずけ》けるようにして傍《かたわ》らに寄《よ》り添《そ》っている春香《はるか》。
しかも俺も春香も生まれたままの姿《すがた》に毛布《もうふ》一枚という微妙《びみょう》な格好《かっこう》で。
おまけに春香は色々動いた影響《えいきょう》なのか身を覆《おお》う毛布が少しばかり乱れていたりして。
「……」
かなりきわどい状況だった。
再《ふたた》び小刻《こきざ》みに震《ふる》え出《だ》す心臓。
全身の血管の先の先まであますことなくヘモグロビン溢《あふ》れる血液が送り出され、身体全体がプット・ジョロキア(ハバネロより辛《から》い唐辛子《とうがらし》)をルコたちにムリヤリ食べさせられた時のように熱《あつ》くなっていく。
ほとんどプチ興奮《こうふん》状態《じょうたい》のレベル。
このままビートを刻《きざ》んで燃《も》え尽《つ》きるんじゃないかと本気で不安になり始めた一歩手前で、
「……何だろう、とっても……落ち着きます」
「え?」
春香がぽつりとそうつぶやいた。
「何でしょう……裕人《ゆうと》さんの腕《うで》の中で包まれているだけで、何だか安心できます。安らいだ気分になれるというか、それだけで胸《むね》の奥までほっと温《あたた》かくなってくる感じで……」
「春香……」
「これが澤村《さわむら》さんの言う『好き』……ということなんでしょうか? まだはっきりとは分かりませんが……でも何だかヘンです。胸の奥にじんわりぽかぽかと干したばかりのお布団《ふとん》にくるまっている時のような温《ぬく》もりが湧《わ》き出《で》てきて……美夏《みか》や葉月《はづき》さん、那波《ななみ》さん、お母様たちに対して感じる『好き』とはどこか違《ちが》う感じで……」
「……」
「ずっと……こうしていたい気持ちです……」
きゅっと俺の腕をつかんだ手に力が込められる。
「……」
ああそうか、と思った。
春香はまだヒナ鳥のようなものなのだ。タマゴから出て来たばかりのヒナ鳥で……『好き』というものに家族などに対する広義のモノから、いわゆる、その、男子と女子との間で使われる狭義《きょうぎ》のモノまで様々な様態《ようたい》があることをようやく認識《にんしき》し始めた段階。魚で言えばワカシがイナダになったみたいなもんか。
そう思うと心の中の煩悩《ぼんのう》に満ちたドラム活動が急速《きゅうそく》に治《おさ》まってきた。
そしてそれに反比例《はんぴれい》するかのように春香に対する愛《いと》おしさが込み上げてくる。
――そうだな。
きっとこれが今の段階ではベストなんだろう。前にも思ったが、今はムリをすることはない。焦《あせ》ることなく、ゆっくりとマイペースに進んでいけばいいのだ。
だから俺は、
「……今はそれでいいと思うぞ」
「え……」
「今はその気持ちだけで十分だと思う。そこから先は、これからじっくりと分かっていけばいいはずだ」
真《ま》っ直《す》ぐに春香《はるか》の目を見ながらそう言った。
何というか、その方が春香らしい。
「裕人《ゆうと》さん……」
「だから春香はこのままでいてくれればいい。俺はそんな春香が……あー、その、好きだからな」
「あ……」
春香は少しの間|言葉《ことば》の意味をかみしめるかのように目をぱちぱちとさせていたが、
やがてぱっと表情を輝《かがや》かせて、
「――は、はいっ。私も裕人さんのことが好きです。――大好きです♪」
花がこぼれて辺《あた》り一面に鮮《あざ》やかな赤いチューリップの花畑を作るかのような満面《まんめん》の笑《え》みで、そう言ったのだった。
翌朝。
チュンチュンとスズメが鳴《な》く声を聞きダグラスの中で目を覚《さ》ましてみたら……外はすっかり晴《は》れ渡《わた》っていた。
雲一つない透《す》き通《とお》るような青い空。
まぶしいばかりの太陽光線が辺《あた》り一面に降《ふ》り注《そそ》ぎ、真っ白な雪原に反射《はんしゃ》してキラキラと輝《かがや》いている。
「気持ちいいくらいの冬晴れだな……」
昨日までの猛吹雪《もうふぶき》がほとんどウソのようである。本当に昨晩のアレは何だったんだか……
そんなことを一人つぶやきながら隣を見る。
そこには、
「す〜……す〜……」
と、安らかな寝息《ねいき》を立てながらすやすやと眠《ねむ》る春香の姿《すがた》があった。
ダグラスと毛布に包まれるようにして丸くなっているその姿。
それはまるでおとぎの森の中で幸せな夢を見る眠り姫のようで……ううむ、ついついいつまでも眺《なが》めていたくなっちまうな。
なのでしばし観賞タイム。
五分ほど穏《おだ》やかな気持ちで春香の寝顔を横から眺めていて、
やがてその寝息が次第《しだい》に不規則《ふきそく》になり、ゆっくりと目が開かれる。
「おはよう……春香」
「え? ふあ……あ……」
声をかけるとまだいまいち覚醒《かくせい》しきってないのかしばしぼんやりとした顔で目をぱちぱちとさせていたが、
「――あ、お、おはようございますっ! そ、そうでした、私たち……」
すぐにわたわたと起き上がって慌《あわ》てたように居住《いず》まいを正した。
「す、すみません! こんな状況なのにいつまでものんびりと寝てしまっていて……」
「ん、いや」
「ほ、本当はもっと早く起きようと思っていたんですけれどダグラスくんと裕人《ゆうと》さんの腕の中があまりにも気持ちよくて……。ほ、ほんとにだめだめです、私……」
「あー、気にするなって」
そのおかげでプチプリンセスな寝顔《ねがお》が見られたわけだし。
「あ、そ、それで吹雪《ふぶき》はどうなったのでしょうか? それにこの山小屋の位置《いち》は……? 早くみなさんのところに戻《もど》らないと……」
慌てたようにそう訊《き》いてくる。
「あー、春香《はるか》、そのことなんだがな……」
「?」
「実はだな――」
目が覚《さ》めてまず最初に窓から外の様子を眺めてみて……発見したことが一つあった。
発見したというか一方的に判明《はんめい》した予想外《よそうがい》な事実。
それは――
「すぐ真ん前にだな…………旅館があるみたいなんだ」
「……はい?」
「いやだから、ここの真ん前が旅館の裏口《うらぐち》なんだよ……」
「…………」
春香が何を言ってるんでしょうか?って感じのぽか〜んとした顔になる。
いや俺だって最初は信じられなかったんだよ。
まさか山の奥深くにあるんだと思ってたこの山小屋が、吹雪で見えなかっただけで実は俺たちの泊まっている旅館のすぐ裏に建っていたものだなんてな[#「実は俺たちの泊まっている旅館のすぐ裏に建っていたものだなんてな」に傍点]。
「え、えと、それって……」
「……。ああ……」
おそらくここは旅館の物置小屋か何かなんだろう。
つまり俺たちは結果《けっか》として自力で下山に成功し遭難状態《そうなんじょうたい》を脱《だっ》していたんだが、そのことにまったくもって気付かずに遭難気分のままこの山小屋(物置小屋)で一夜を明かしていたってことになる。
「……」
「……」
やがて、
「――ふふ」
「――ハハ」
二人顔を見合わせてどちらからということもなく笑い出す。
「ホント……何やってたんだろうな、俺たち」
「そうですね。旅館の真裏で遭難していただなんて……」
しばらくの間、温《あたた》かな笑いが小屋の中を包み込む。
そして
「――行くか。皆も心配してるかもしれん」
「はいっ」
そううなずき合って、
この一晩ですっかり乾《かわ》いた服とともに、俺たちは手を取り合って山小屋(物置小屋)を後にしたのだった。
長野新幹線のほどよく規則的《きそくてき》な揺《ゆ》れが、疲《つか》れた身体に心地《ここち》よく響《ひび》いていた。
コトトンコトトン……と、どこか眠気《ねむけ》を誘発《ゆうはつ》するリズミカルな振動《しんどう》。
窓の外では四日間|慣《な》れ親《した》しんだ信州の風景が少しずつ遠ざかっていく。
「あーあー、これで信州ともお別れかー。長いようで短かったなー」
行きと同じく窓際《まどきわ》に座《すわ》った澤村《さわむら》さんがそう名残《なご》り惜《お》しげに声をもらす。
「まだまだ全然遊び足りないよー。あと一週間くらいはいたかった気分かもー。ねー、麻衣《まい》もそう思わない?」
「あ、うん。気持ちは分かりますけど、でも学校とかがあるから……」
「そうだけどさー。んー、できるなら空をはばたく自由な青い鳥になりたいなー」
「りょ、良子《りょうこ》ちゃんは今でも割と自由だと思うけど………」
朝比奈《あさひな》さんが困《こま》ったように笑う。
その隣《となり》では、
「よ〜し、フルハウス。わたしの勝ち〜♪」
「……フラッシュです」
「あらら〜、ブタさんですね〜」
「――(こく)」
楽しげにポーカーをやる美夏《みか》たちの姿《すがた》。
さらにその後ろではルコと由香里《ゆかり》さんが缶ビール両手にいい気分でふんぞり返っていて、その横では三馬鹿たちが『新幹線における売り子さんのお辞儀《じぎ》の角度とスリットの因果律《いんがりつ》・第二章』について熱《あつ》く議論している。
いつも通りといえば極《きわ》めていつも通りなやり取り。
そんな光景を春香《はるか》と並《なら》んで座席《ざせき》にもたれかかりながら何となく眺《なが》めていると、
「――でもさ〜、おに〜さんたちもやるもんだよね〜」
「え?」
と、美夏がこっちを見ていきなりそんなことを言ってきた。
「まさか最後の最後で朝帰りなんてさ〜。秘宝館《ひほうかん》を活用してくれなかったのは今でも残念だけど、結果的《けっかてき》におに〜さんたちの仲が進展しれくれたならまあいっかな〜って♪」
意味ありげに笑いながらとことことこっちに[#底本にはないが、あると違和感がなくなる]歩いてくる。
「いやだからあれはだな……」
「え、ええ、ちょっとした勘違《かんちが》いで……」
「あ、い〜からい〜から、そのヘンの経緯《いきさつ》は葉月《はづき》さんたちから聞いてほとんど知ってるからさ〜。みなまで語らなくてもい〜んだよ、うんうん♪」
テレビに出ている自称文化人のようなことを言う。
美夏《みか》が言っているのはもちろん咋夜の遭難《そうなん》モドキとそれに引き続く旅館への帰還《きかん》時《じ》のことであるが、そこにはちょっとした紆余曲折《うよきょくせつ》があるのである。
さてそれがどういうことかというと。
今朝。
山小屋もとい物置小屋を出て旅館に戻《もど》った俺たちを待っていた美夏たちの言葉《ことば》。
それは、
「あ〜、やっと帰ってきた〜。おに〜さんお姉ちゃん、おそ〜い」
「んー、綾瀬《あやせ》っちたち戻ってきたのー? だったら急いで荷物とか持ってきた方がいいかも――。今椎菜《しいな》たちが手続きしてるけど、もうすぐチェックアウトみたいだからー」
「……お帰りなさいませ、春香《はるか》様、裕人《ゆうと》様」
「こちらに温《あたた》かいお茶を用意してありますのでよかったらどうぞ〜」
「――(こっくり)」
そんな実に軽い日常会話的なものだった。
「え、えと……?」
「あ、あー……」
思わず春香と二人で言葉を失う。
いや仮にも一晩帰らなかったんだし、山に向かう時は皆あんなに心配してたんだし、もっと安否《あんぴ》を気遣《きづか》う言葉というかともすれば叱責《しっせき》の言葉が返ってくるかとも思ったんだが……
困惑《こんわく》する俺たちに、
「それでそれで、密室《みっしつ》での二人っきりの夜はどうだった〜? 雪山で道に迷《まよ》ったあとにいい感じに盛《も》り上《あ》がっちゃって近くの山小屋にしけこんじゃったんでしょ〜?」
「え?」
「なっ……」
ツインテール娘がにまにまと笑いながらそんなことを言ってきた。
「何てったって初めての朝帰りだもんね〜。キスくらいはした? そ、それともそれ以上のあ〜んなこととかこ〜んなこととかも……きゃ、きゃっ♪」
言っていて自分で恥《は》ずかしくなってきたのか両手を頬《ほお》に当てながら真っ赤になる美夏。
相変わらずの耳年増《みみどしま》っぷりだが今はそれよりも先に突っ込むべきことがある。
「いや何で……」
その事情(雪山で遭難《そうなん》して山小屋へ)をこのツインテール娘が知ってやがるんだ……?
すると、
「……私たちがお伝えしましたので」
「……は?」
隣《となり》の無口メイド長さんがぽそりとそう言った。
「……僭越《せんえつ》ながらお二人の動向《どうこう》は途中《とちゅう》より把握《はあく》しておりました。道に迷《まよ》っておられたことも、吹雪《ふぶき》の中で身を寄せ合いながらお歩きになられたことも、自力で下山されてそこにある物置小屋を山中の避難《ひなん》小屋だと誤認《ごにん》されたことも、全て」
「な……」
それってどういう……
顔を見合わせる俺たちに葉月《はづき》さんは続けた。
「……裕《ゆうと》人様のダグラスには万が一の時のためにGPS付きの発信機を仕込ませていただいていたのです。いわゆる保険のようなものでしょうか。定時連絡に戻《もど》ってこられなかったのでそれを手がかりに探《さが》しに行ったところ、春香《はるか》様といっしょに斜面《しゃめん》下《した》の道におられるところを発見しましたので、そのまま少し離《はな》れた位置《いち》から見守らせていただいたという次第《しだい》です」
「何か危険《きけん》な事態《じたい》になったらいつでも助ける準備《じゅんび》はできていたのですが、何だかいい雰囲気《ふんいき》なようでしたので出るに出られなかったのですよ〜。なのでここはもう裕人様を信じて若い二人にお任《まか》せしようかと〜。美夏《みか》様も思い出を作るように仰《おっしゃ》っていましたし〜。ピンチを共有することで男女の絆《きずな》は深まりますから〜。それにせっかくの最後の夜でしたしね〜♪」
「――(こくこく)」
那波《ななみ》さんとアリスがそう付け加える。
どうも、そういうことらしかった。
「……」
……考えてみれば、そりゃあそうだよな。
このメイドさんたちが何の備《そな》えも準備もなく素人《しろうと》(?)な俺をいっしょに夜の雪山に連れていくはずがない。そしてGPS付き発信機があればあの猛吹雪《もうふぶき》の雪山の中といえども俺たちの位置を捕捉《ほそく》することなど、このスーパーメイドさんたちにとっては朝飯前のコーンフレーク並《なみ》に簡単《かんたん》だろう。
「……ですがご安心ください、物置小屋に入られてからあとはお二人の位置の確認のみに留《とど》め、中でのご様子《ようす》については一切|関知《かんち》しておりませんので」
「これでも気を利《き》かせたのですよ〜」
「――(こっくり)」
「……」
「え、えと……」
中でのご様子という言葉《ことば》に春香が頬《ほお》をほのかに赤くする。
てかそういう問題じゃねえと思うんだがな……
とまあそういうわけで俺たちの遭難《そうなん》については軽く流され、
旅館のチェックアウトやら何やらをやっている内にあれよあれよという間に時間は過ぎていき、
そして今は行きと同じ長野新幹線でまったりと帰路《きろ》に着いているというわけである。
「でも今回の旅行、楽しかったよね〜。ま、ちょ〜っと不満があるとすればおに〜さんがあんまわたしと遊んでくれなかったことくらいかな〜」
そんなことを言ってくる美夏《みか》。
いやワケノワカラン実技|指導《しどう》をさせられたり温泉《おんせん》卓球をしたりで何だかんだで十分に相手をしてたと思うんだがな。
すると美夏はそこで何かに気付いたかのようにぽんと手を叩《たた》いて、
「あ、そ〜だおに〜さん。おに〜さんに不満で思い出したんだけど、そういえばまだお願い全部を聞いてもらってなかったよね?」
「お願い?」
「うん。忘《わす》れたとは言わせないよ。行きの新幹線でやった大富豪《だいふごう》。おに〜さんが驚異《きょうい》の十連敗でダントツビリになったやつ」
「……」
……ああ。
……あれか。
「よく考えてみたらあれってまだ初日の一個しかやってもらってなかったと思って。それに葉月《はづき》さんたちから状況は聞かされてたっていっても昨日はけっこう心配したんだから、その罰《ばつ》も含《ふく》めてかな。――というわけで、えいっ♪」
ツインテールを揺《ゆ》らしつつぴょこんとヒザの上に飛び乗ってくる。
「お、おい」
「えへへ〜、特等席〜♪」
スカートから伸びる足を楽しげにぷらぷらと揺らして、
「今日のところは東京までこれをするんで許《ゆる》してあげる。でも使わなかったお願いは今度に持ち越しね。二回分かな♪」
「いや待て……」
「い〜の。決まりね。ふふ、楽しみ楽しみ〜♪」
もはや完全に当初の趣旨《しゅし》(この旅行内に一日一個)を逸脱《いつだつ》した宣言《せんげん》をする。
まあどうせこの場のノリで言ってるだけだろうし三日もすれば忘れてるだろうからいいっちゃいいんだが……
「さ〜、東京に着くまではまだまだ時間もあるし、三人でまた大富豪でもやろ〜よ。今度は罰ゲームはなしでい〜からさ」
「あ、はい」
「ん、ああ」
そんな感じに行きに引き続き大富豪《だいふごう》をやることになった。
ちなみにここでも、俺の八連敗だった。
窓から差し込む光が少しだけ薄《うす》いオレンジ色に変わりつつあった。
視界《しかい》を流れる街並《まちな》みもビルやコンクリートの建物《たてもの》など都会|風味《ふうみ》なものに戻《もど》ってきていて、それに伴《ともな》い新幹線の速度も少しだけゆっくりになっている。おそらくあと十五分もすれば東京駅に着くだろう。
「……す〜……す〜……だめだよおに〜さん、もうちょっと優《やさ》しく触《さわ》ってくれなきゃ……」
ヒザの上には横になった美夏《みか》の姿《すがた》。
四日間の旅行にさすがのこの元気ツインテール娘も体力を使《つか》い果《は》たしたらしく、少し前から遊《あそ》び疲《つか》れた仔猫《こねこ》のようにぐっすりとお休み中だった。
「すみません裕人さん、美夏が色々とご迷惑をかけて……」
「ん? いや全然|構《かま》わんさ」
こんなのは迷惑なんていうほどのもんじゃない。それに何だかんだで懐《なつ》いてくれるのは悪い気はせんしな。
「そうですか……ありがとうございます。そう言っていただけるとこの子も喜ぶと思います」
「……」
優しい目で美夏の寝顔《ねがお》を見る春香《はるか》。
それは本当に妹のことを大事に思っている姉の目だった。
しばしそのまま美夏に目をやりながらその頭を撫《な》でていて、
「いよいよ旅行も終わってしまいますね……」
おもむろに顔を上げ、春香はそう感慨《かんがい》深《ぶか》げにぽつりとつぶやいた。「何だか少し……さみしい気持ちです」
「そうだな……」
それは俺も同感だった。
気付けば瞬《またた》く間《ま》に全日程を消化していた旅行。
澤村さんの言葉じゃないが、本当に長いようであっという間の四日間だった。
葉月《はづき》さんと山道を歩き、春香と声優《せいゆう》イベントに行き、温泉《おんせん》ではちょっとした海坊主《うみぼうず》体験をして、そして……春香と二人きりで山小屋で一夜を過ごしたメモリアルな四日間。
きっと俺はこれらの出来事《できごと》を忘れないだろう。春香との距離《きょり》がまた少しだけ縮《ちぢ》まった気がするこの旅行のことを。
と、
「裕人《ゆうと》さん、私……今回の旅行を絶対《ぜったい》に忘《わす》れないと思います」
「え……」
春香《はるか》が俺が考えていたこととまったく同じことを言った。
「何もかもが新鮮《しんせん》で、心がわくわくとすることがいっぱいで、とても楽しかったこの四日間…………私にとって、絶対に記憶《きおく》から消えることのない素敵《すてき》な経験でした。そして……裕人さんとの特別な思い出を共有できた四日間でもあります……」
「……」
「裕人さんと二人で春琉奈《はるな》様のイベントに行けたことや、たっきゅうをやったこと、『月の光』を落としてしまったこと、そしてダグラスくんの中で色々とお話ししたこと……私は絶対に忘れません。忘れようがありません」
「春香……」
「本当に……素晴《すば》らしい四日間でした」
そう穏《おだ》やかに言ってにっこりと微笑《ほほえ》む。
その笑顔《えがね》は黄昏色《たそがれいろ》の光の中であまりにも鮮《あざ》やかで……
「…………俺も、だ」
「え?」
「俺もその、春香といっしょにこの旅行を過ごせてよかったと思ってるぞ。他のだれでもない、春香と……」
気付いたら俺も自然とそう口にしていた。
「裕人さん……」
「だから……ありがとな、春香。春香が傍《そば》にいてくれて本当に楽しかった」
「そ、そんな……こちらこそ、です。いっしょにいられたのが裕人さんで……とっても満ち足りた気持ちになれた旅行でした」
「……」
「……」
ふいに舞《ま》い降《お》りる沈黙《ちんもく》。
そして互《たが》いに互いの顔を見る。
穏《おだ》やかに新幹線が揺《ゆ》れる中。
何かを示し合わせたとかそういうわけではなく、
「……」
「……」
周《まわ》りからは見えないようにシートとシートの陰《かげ》で……俺たちはきゅっと手を握《にぎ》り合《あ》ったのだった。
ちなみにその間では、美夏《みか》が「……むにゃむにゃ……だ、だからおに〜さん、こんなところじゃだめだって……」とつぶやいていた。
こうして。
三泊四日の真冬の信州|温泉《おんせん》旅行は、途中《とちゅう》で様々なアクシデントやらハプニングやらに見舞《みま》われたものの、最終的には特に大きな波乱《はらん》を巻き起こすこともなく平穏《へいおん》無事《ぶじ》に終わりを告げたのだった。
――――――と思ったのだが。
もっとも俺の知らないところで、様々な思惑《おもわく》が動いていた……いや動き始めていたらしい。
後ろの席では、
「……ねえ良子《りょうこ》、麻衣《まい》。あたし、決めた」
「んー、何を?」
「?」
「……自分の気持ちに、正直になる。どこまでできるか分からないけど……がんばれるだけ、がんばってみることにした」
「? 何のことー?」
「ええと、お稽古《けいこ》事《ごと》か何かですか?」
「……ごめん、詳《くわ》しいことは言えないんだ。でも……良子と麻衣にはどうしても聞いてもらいたくなって」
「? なんかよく分かんないけどー……」
「何かにお悩《なや》みでしたら、遠慮《えんりょ》なく言ってくださいね」
「うん、ありがと、二人とも」
そんな会話が繰《く》り広《ひち》げられていたし、
そして
東京駅で解散した後、
春香《はるか》たちが乃木坂《のぎざか》邸《てい》へと戻《もど》る帰り道。
どこぞのフランス凱旋門《がいせんもん》のような巨大な門のところで、
「あ、の、乃木坂さんですね? 私のこと、覚えてらっしゃるでしょうか?」
「え?」
「え、ええと、大晦日《おおみそか》の日に名刺《めいし》を渡《わた》させていただいた茅原弥生《かやはらやよい》です。この度《たび》は突然失礼いたします」
「あ、はい、あの時の……」
「本日は乃木坂《のぎざか》さんに大事なお話があって参《まい》りました。あの、少しだけお時間をよろしいでしょうか? あ、お、お手間《てま》は取らせませんので……」
「はあ……」
そんなやり取りが行われていたのだった。
あとがき
こんにちは、五十嵐雄策です。
『乃木坂《のぎざか》春香《はるか》の秘密《ひみつ》』七巻をお届《とど》けいたします。
というわけで(?)、恐《おそ》れ多《おお》くもドラマCD化とアニメ化をしていただけることとなりました。
何だかいまだに実感が湧《わ》かないというか信じられない気分です……
さて内容の方ですが、ドラマCDの方はすでに十月に放送されたラジオドラマ放送分を含め、もう一話分のお話と書き下ろし短編《たんぺん》を追加したものとなっています。キャストの皆様のお力によってまさにキャラクターに命が吹き込まれたかのようなとても素晴《すば》らしいものになっていますので、よろしければお手に取っていただけると幸《さいわ》いです(ぺこり)。
またアニメの方も少しずつですがカタチになってきています。
これから段々《だんだん》と情報の方も出て来ると思いますので、こちらも応援《おうえん》していただけると原作者としてはこの上なく嬉しく思います。というか私自身が一番楽しみにしていたり……
以下はこの本を出すにあたってお世話《せわ》になった方々に感謝《かんしゃ》の言葉《ことば》を。
担当編集の和田様三木様。毎回|微妙《びみょう》なネタ出しにお付き合いいただきありがとうございます。温泉《おんせん》の構造上《こうぞうじょう》の問題について小一時間ほど議論して危《あや》うく終電を逃《のが》しそうになったことも今となってはいい思い出です。
イラストのしゃあ様。今回も原稿上げるのが遅《おそ》くなりすみません。次回こそはもっと余裕《よゆう》をもって上げられるようにがんばります……
春香役の能登麻美子《のとまみこ》様。今回はアレなお願いを快《こころよ》く引き受けてくださってありがとうございます。アレが何であるかについては本編参照ということで……。
デザイナー様に校閲様、またこの本を出すにあたり様々な方面でご尽力《じんりょく》くださった方々、本当にどうもありがとうございました。
そして最後になりますがこの本を手に取ってくださった読者の方々に深い感謝を。
それではまた再《ふたた》びお会いできることを願って――
二○○七年九月末日 五十嵐雄策
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