乃木坂春香の秘密(6)
五十嵐雄策
イラスト◎しゃあ
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《テキスト中に現れる記号について》
《》:ルビ
(例)乃木坂春香《のぎざかはるか》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)完全|無欠《むけつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「みなさん」に傍点]
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乃木坂《のぎざか》春香《はるか》の秘密《ひみつ》(6[#丸に6])
容姿端麓で才色兼備、『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』という二つ名まで持つ超お嬢様、乃木坂春香。彼女の秘密を共有し、さらに激動(?)のクリスマスを一緒に過ごし、また一歩二人の仲も進展したかと思える今日この頃だったのだが……。
大晦日《おおみそか》。一年を締めくくる一大イベント冬コミ。何故か俺と春香は同人誌を売っていた。コトの顛末《てんまつ》を話せば長くなるものの、初めての冬コミで初めてのサークル手伝いをしつつ、春香の部屋で二人きりで作った初めての同人誌を一所懸命販売する。だが、そんな初めて尽くしで上手くいくわけもなく、俺は一年を締めくくるような春香の笑顔を見たくて――。
お嬢様のシークレットラブコメ第六弾V[#中黒のハートマーク]
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人生には分岐点《ぶんきてん》ってやつがある。
分岐する地点と書いて分岐点。
英語で言うとターニングポイント。
それが意味するところは、文字通りその後の人生を大きく左右するような分かれ道が生じたポイントということである。
人が生きていく上において何度かは必ず差しかかるモノ。
とはいえ、いざ分岐点に差しかかった時にそれがそうだと気付ける場面は決して多くはない。
ほとんどの場合は、分岐点を分岐点とも気付かずにただ通り過ぎるのみ。
例えるならクラスメイトが失《な》くした財布《さいふ》をいっしょに探《さが》すかどうかとか。
または放課後の帰り道に寄り道をするか否《いな》かなど。
それ自体はそんな日常にいくつでもあるようなシチュエーション。
細かなモノまで数え上げればキリがないだろう。
「……」
何が原因でその分岐が決まるかなんてのは後で振《ふ》り返《かえ》ってみなけりゃ分からんことだが、振り返ってみた時には確実にその分岐の意味が浮き上がって見えるもんが分岐点なのである。
悪い意味で言えば後の祭りの究極形《きゅうきょくけい》。
良い意味で言えは結果オーライの至高形《しこうけい》。
それこそが人生におけるターニングポイントの本質である。
「……」
いや我ながらなんかいつにも増してワケノワカラン内容だな。ムダに抽象的《ちゅうしょうてき》で回りくどいっつーか。それだけ俺白身、現状に戸惑《とまど》ってるってことかもしれんが。
まあ結局《けっきょく》何が言いたいのかっていうと。
この年の瀬《せ》も迫《せま》る冬休みのある一日。
そこである意味人生の分岐点とも言える出来事《できごと》に、俺も春香《はるか》も直面しなけりゃならなくなったってことだけなんだけどね。
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それは荒《あ》れ狂《くる》う冬の日本海のごとき波乱《はらん》満載《まんさい》で、ダブルミニスカサンタ&プリティートナカイ&シロクマが大乱舞《だいらんぶ》だったクリスマスから四日ほど経った木曜日――師走《しわす》の最終日であり一年の終着駅でもある大晦日《おおみそか》をもう明後日《あさって》に控《ひか》えたある穏《おだ》やかな冬休みの日のことだった。
時刻は午前十一時。
俺は乃木坂《のぎざか》邸《てい》の、全景を見ようとすると首があらぬ方向に曲がってムチウチになるんじゃないかってほど巨大な門の前にいた。
まるでどこぞの要塞《ようさい》みたいな堅固《けんご》な造り。
ピンポンダッシュなんかした日には、即座《そくざ》に四方から機関銃《きかんじゅう》でもぶっ放《ぱな》されそうである。
「……」
一瞬《いっしゅん》だけ誘惑《ゆうわく》に駆《か》られるもののとりあえず無謀《むぼう》な挑戦《ちょうせん》を試《こころ》みることはなく、獅子《しし》の顔を模《かたど》ったオブジェの口の中にあるインターホンを鳴《な》らすと、すぐに中から返事が戻ってきた。
『……はい』
「あー、ええと……」
この雨の前日のツバメ(低空飛行)みたいな声はおそらく葉月《はづき》さんだろう。なので名乗ろうとすると、
「……裕人《ゆうと》様ですね。お話は春香《はるか》様から伺《うかが》っております。少々お待ちください』
言うよりも早くそう返ってきて、
そして約三分後。
「……いらっしゃいませ、裕人様」
「四日ぶりですね〜、お元気にしてらっしゃいましたか〜?」
門の向こうからいつも通りに完全メイド姿《すがた》の無口メイド長さんとにっこりメイドさんが姿を現した。
「……どうぞ、お入りください」
「春香様と美夏《みか》横がお待ちですよ〜」
「あ、はい」
二人に先導《せんどう》されて敷地《しきち》内《ない》へと入る。
乃木坂邸にやって来るのはおよそ一ヶ月ぶりくらいだったが、非常識《ひじょうしき》なまでの広さ&景観《けいかん》はこれっぽっちも変わっていなかった。
周囲《しゅうい》に広がるほとんど自然保護区みたいな森。その傍《そば》を流れる小川に小さな湖。最《もっと》も目立つ位置に置かれた熊と戦う春香父の石像《せきぞう》(高さ二十メートル)。
「……」
うーむ、天王寺《てんのうじ》家《け》での一週間の住み込みバイトでこういったセレブな(?)光景《こうけい》にも少しは慣《な》れたつもりではいたが……やっぱりすげぇな。てかなんかオカシなもんが増えてるような気がしないでもないが、そこはスルーしとくべきなんだろう。
熊の前で両手と片足を上げて威嚇《いかく》のポーズをとる春香《はるか》父《ちち》を眺《なが》めつつ石畳《いしだたみ》の道を進んでいく。
と、
「あ、そちらのエリアは気を付けてくださいね〜。正規《せいき》の道から外《はず》れますと対《たい》侵入者《しんにゅうしゃ》用《よう》の迎撃《げいげき》兵器が発動しますので〜」
「え?」
「……アメフラシとウミウシとナマコ入りの落とし穴≠ナす」
「……」
いや迎撃兵器って……
てかこれ以上ないくらい精神的《せいしんてき》にクる落とし穴だな。
まあ色んな意味でアンビリーバブルな乃木坂《のぎざか》家《け》の仕様《しよう》については今さら突っ込んでもアレである。なのでコメツキバッタの跳躍《ちょうやく》のごとく軽《かろ》やかにスルーしておき。
「……」
さて、この辺でそろそろ今日の目的というか主旨《しゅし》を確認しておこう。
ここにいる理由。
そもそも何だって俺がこんな海産|軟体《なんたい》生物との素敵《すてき》ランデヴーの危険《きけん》を冒《おか》してまで乃木坂邸を訪《おとず》れているのかというと――
「は〜い、玄関《げんかん》に到着《とうちゃく》ですよ〜、裕人《ゆうと》様〜」
と、そこでにっこりメイドさんのこの上なく明るい声に思考を遮《さえぎ》られた。
「ここから先は私たちのすぐ後に付いて入ってきてくださいね〜。遅《おく》れますとこちらも迎撃システムが作動してしまいますので〜」
「……たっぷりの樹液《じゅえき》とカブトムシ入りのタライ爆弾《ばくだん》≠ナす」
「あ、はい」
再《ふたた》びの物騒《ぶっそう》な発言に慌《あわ》てて中へと足を踏《ふ》み入《い》れる。
「では奥にお進みください〜。春香様のお部屋《へや》までご案内いたします〜」
「……一名様、ごあんなーい」
そのまま二人に軽く背中《せなか》を押されるようにして玄関ホールへ。
――まあ、いいか。
何となく途中《とちゅう》で邪魔《じゃま》されるカタチになってしまったが、今日の目的についてはすぐに明らかになるだろう。別に焦《あせ》ることもない。
そう思い廊下《ろうか》を進もうとして――
「あ、裕人《ゆうと》様、そっちではないですよ〜。春香《はるか》様のお部屋《へや》はこっちです〜」
「……そちらは玄冬《げんとう》棟専用の根性|注入《ちゅうにゅう》部屋になります」
「……」
ちなみに案内がなければ春香の部屋まで辿《たど》り着《つ》く自信がまったくもって持てない(迷子《まいご》&遭難《そうなん》の危険性《きけんせい》極《きわ》めて大)ってのも、この屋敷《やしき》の恐《おそ》ろしいところなんだがな。
「あ、裕人さん、いらっしゃいませ♪」
玄関《げんかん》から十一分二十八秒ほどかけて辿り着いた部屋に入るなり、ふわふわのセーター姿《すがた》の春香がぱたぱたとテディベアのキンググリズリーくん片手に嬉《うれ》しそうな顔で迎えてくれた。
「お待ちしておりましたです。どうぞ、入ってください♪」
にこにこと笑いながら軽く手を引《ひ》っ張《ぱ》ってくる。
それはこれ以上ないってくらいの純情|可憐《かれん》で極上《ごくじょう》な笑顔《えがお》で……うーむ、これだけで門からここまでの長い道のり(生モノ&甲虫トラップ付き)も報《むく》われるような気がするね。
春風に吹かれる野原の小さなタンポポのような幸せな気分に浸《ひた》っていると、
「では私たちはお茶とお菓子《かし》の準備《じゅんび》をしてまいりますね〜。ごゆっくりしていてください〜。あとで美夏《みか》様もいらっしゃると思いますので〜」
「……何かありましたらお呼《よ》びください」
そう言って那波《ななみ》さんと葉月《はづき》さんは部屋を出て行った。
後には俺と春香とキンググリズリーくんだけが残される。
「あ、どうぞ座《すわ》ってください。そちらにソファがありますから」
「ん、おお」
春香に勧《すす》められてベッドの横にあるソファに腰を下ろす。
かわいらしい薄《うす》ピンク色のソファ。
それは以前(文化祭の翌日)ここに来た時にはなかったものだ。
「えと、これはこの間買ってもらったばかりのものなんです。ちょうど気に入ったものがあって」
「そうなのか?」
「はい。私の部屋にはゆったりと座れる場所がなかったですから……。それだと裕人さんがいらっしゃった時に何かと不便かと思いまして、思いきってお母様にお願いしちゃいました」
こっちを見て少しはにかんだように微笑《ほほえ》む春香。その表情は、前よりもどことなく心を許したものになった風に見える。
「……」
文化祭を過ぎてからの春香《はるか》の変化。
それはあのクリスマスでの色々な意味で刺激《しげき》溢《あふ》れる出来事《できごと》を経《へ》て、また少しだけレベルアップしたような気がしないでもない。
いや具体的に何が変わったとは言えんのだが、何となく漂う空気が絞《しぼ》りたてのミルクのように濃厚《のうこう》になったというかよりお互いに対する意識率《いしきりつ》が上昇気流でエルニーニョになったというか……いや自分でもいまいち何を言ってるのか分からん上に相変わらず俺の勘違《かんちが》いって話も捨て切れんのだがな。
と、どことなくいい匂《にお》いのするソファに背をもたれさせつつそんなことを何となく考えていると、
「……あの、裕人《ゆうと》さん、体調の方はもうだいじょうぶですか?」
「ん?」
春香が隣《となり》にちょこんと座《すわ》ってそう尋《たず》ねてきた。
「えと、お身体の具合です。クリスマスに倒《たお》れられてからまだ四日しか経っていないので、少し気になって……」
心配そうな顔で見上げてくる。
「ああ、それなら大丈夫《だいじょうぶ》だ。もう一人でエアギターをできるくらいに元気だぞ」
実際《じっさい》問題、体調はすっかり完全|快復《かいふく》していた。
医療《いりょう》メイドの鞠愛さんのクスリのおかげか春香の看病《かんびよう》のおかげか――物理的には前者、精神的には後者の気がするが――とにかくあれ以来、アスファルトの隙間《すきま》から強引《ごういん》に図々《ずうずう》しく生えているペンペン草のごとき健康体だった。
「ほんとですか? よかった……」
春香が安心したように胸を撫《な》で下《お》ろす。「やっぱり裕人さんは元気なお顔が一番です……」
「う……」
その顔は本当に俺のことを心配してくれていたのかつぶらな瞳《ひとみ》でシッポをふりふりと振《ふ》る仔《こ》マメシバみたいに健気《けなげ》で……思わずそのままギュッと抱《だ》きしめちまいたい衝動《しょうどう》に襲《おそ》われるのをグッと堪える。……いかんいかん、こんなお天道《てんとう》様から肌《はだ》に有害な紫外線《しがいせん》がしこたま降り注ぐような真っ昼間から何を考えてるんだ、俺は。
内心の微妙《びみょう》な動揺《どうよう》を誤魔化《ごまか》すべくブンブンと頭を四方八方に振り回して、
「――あ、あー、それじゃそろそろ始めるか?」
そう言った。
「え?」
「その、例のあれ[#「あれ」に傍点]だ。昨日電話で話したことっつーか。善は急げって言うしな」
「あ、は、はいっ」
その言葉《ことば》に、急に緊張《きんちょう》したように春香《はるか》がこくこくとうなずく。
「そ、そうですよね。今日はそのためにいらしてもらったんですし……」
思い切ったかのように顔を上げて、
「え、えと、それでは……あ、あの、不束者《ふつつかもの》ですが、よろしくお願いしますです」
ソファに三つ指をつきながらしずしずと丁寧《ていねい》に頭を下げた。
「ん、ああ、こっちこそ……」
そんな風に改まって言われるとこっちまで緊張《きんちょう》しちまうんだが。
潤《うる》んだ目でじっとこっちを見つめてきた春香と、ソファの上で正面から向き合う。
「……」
「……」
「あー、で、どうやればいいんだ? 初めてだからうまくできないかもしれんのだが……」
「あ、そ、それは気にしないでくださいです。その、私も初めてですから……」
「そうなのか?」
「は、はい。今まではなかなかこんな気持ちになったことはなかったので……」
「そうか……」
それは意外といえばピラニアとティラピアが全く違《ちが》う種類だってくらいに意外だったが、春香の遠慮《えんりょ》がちな性格やこれまでの環境《かんきょう》などを考えるともしかしたら自然なことなのかもしれん。
ともあれ、互いに初めてなら少しは気が楽になるってもんだ。
俺は軽く咳払《せきばら》いをして、
「それじゃあ――やるか?」
「は、はいっ。――あ、そ、その、できたら明かりは抑《おさ》え目《め》にしてもらえますか? あんまり明るいところでじっくりと見られると恥ずかしくて……」
「ん、分かった」
部屋《へや》の明かりをテーブルライトだけにし。
そしてコトを――今日ここに来た目的を始める。
「…………思ったよりも、柔《やわ》らかいんだな」
「そ、そうですか?」
「ああ、まるでマシュマロみたいというか……」
「あ、そ、そんなに触《さわ》っては――。もっと優《やさ》しく扱《あつか》ってくださると……」
「ん、悪い。気持ちよくてつい……」
むう……けっこうデリケートなものなんだな。
「あー、これはここに付ければいいのか? いまいち付け方が分からんというか……早くしないとこぼれてきそうだ」
「あ、へ、平気ですか? え、えと、それは先の方に付ければだいじょうぶですから……」
「こうか?」
「あ、それでいいと思います。ば、ばっちりです」
「ん、分かった」
春香《はるか》の言う通りに、長くて黒みがかった得物《えもの》の先に必要物《ひつようぶつ》を装着《そうちゃく》する。
これで準備《じゅんび》はオッケーだった。
「それじゃあ……いれるぞ」
「は、はい」
「最初はヘタで失敗するかもしれんが……それはガマンしてくれ」
「だ、だいじょぶです。覚悟《かくご》はできています」
きゅっと目をつむる春香。
そしていよいよ本番ともいえる重要な行為《こうい》をしようとして――
「ちょ、ちょちょ〜っと待った〜!!」
ばたん!
「!?」
と、そこでドアが勢《いきお》いよく開かれてちんまい何かがローリングストーンのごとく部屋《へや》の中に飛び込んできた。
「お、おに〜さんたち、いったいなにやってるの!? こ、こんな明るいうちから、そ、そんなアレなこと……っ!」
美夏《みか》だった。
真っ赤な顔で目をシロクロさせながら、両手とツインテールをぶんぶんと振《ふ》り回《まわ》してくる。
さらにはその後ろから、
「美夏様〜、こういう場面にいきなり踏《ふ》み込《こ》むのはまずいですよ〜。ここはもう少し手順を踏んでやんわりと止めませんと〜」
「……急《せ》いては事を仕損《しそん》じます」
何やらコンクリートマイクらしきものを持ったメイドさんたちも慌《あわ》てて顔を出す。
どうやらまた三人で盗《ぬす》み聞《ぎ》きをしてたらしいな……
「い、いいのっ! そんな手順だとか言ってる場合じゃないでしょ! 緊急事態《きんきゅうじたい》だもんっ!」
「しかしですね〜」
「……小さな恋のメロディー」
「と、とにかくおに〜さん! こ、こんなの絶対《ぜったい》に許《ゆる》さないからね! こうゆうのはもっとちゃんと関係をはっきりさせてから進むものであって、今みたいな中途半端《ちゅうとはんぱ》なままじゃだめなんだから!」
「いやダメと言われてもな……」
美夏の勢いに困惑《こんわく》しながら目の前のテーブルに視線《しせん》を落とす。
そこには触り心地のいい柔らかな[#「触り心地のいい柔らかな」に傍点]練り消しゴム、今にもインクがこぼれそうな[#「今にもインクがこぼれそうな」に傍点]ペン先、まさにこれからペン入れを始めようとした[#「まさにこれからペン入れを始めようとした」に傍点]原稿用紙があった。
「え……」
それを見た美夏《みか》の目がこれ以上ないってくらいの点になる。「あ、あれ……?」
「あの、私たちはどうじんし≠作っていたのですが……」
不思議《ふしぎ》そうな顔で春香《はるか》がつぶやく。
「ど、どうじんし……?」
「はい、どうじんし=Aです。ちなみにどうじんし≠ニは出版社さんのお力を借りずに自分たちで作る本のことで、自分たちの好きなキャラを主人公にしたものなんですよ♪」
にっこりと笑顔《えがお》。
「……」
「……」
「……」
沈黙《ちんもく》。
やがて、
「て、てことはわたしの勘違《かんちが》い……? な、なんだ、それなら早くゆってよ〜。わたしてっきり――」
「てっきり……?」
一体何と勘違《かんちが》いしてたんだ?
すると美夏《みか》は再《ふたた》び興奮《こうふん》した赤ベコみたいに真っ赤になって、
「! な、何でもないよっ! 何でもないっ」
「?」
「い、いいからっ! 女の子が何でもないってゆったら何でもないの! も、もう、デリカシーがないんだから〜」
「??」
首をひねる俺に。
「あらあら〜、見事《みごと》にトラの尾《お》を踏《ふ》んじゃいましたね〜」
「……タイガーズテイル」
「……」
なんかよく分からんが、これについてはこれ以上は突っ込まない方が賢明《けんめい》らしい。
いまいち釈然《しゃくぜん》としない気分だったが、とりあえずそう思い自分を納得《なっとく》させた。
――さて今のこの状況のそもそもの発端《ほったん》というか原因《げんいん》は、俺のアホ幼馴染《おさななじ》み(♂)にある。
あの慌《あわただ》しかったクリスマスの三日後。
すなわち昨日の夜、いきなり信長《のぶなが》からこんな電話がかかってきたのだった。
「あのさ裕人《ゆうと》ー、明々後日《しあさって》のことなんだけどさー」
「明々後日? 何だ、クラスで行く年越し&初詣《はつもうで》のことか?」
「あー、うん。まあそれもあるんだけどさー。裕人、その前の昼間って空いてるー?」
「昼間?」
「そう、だいたい午前から夕方くらいまでー。ちょっと頼《たの》みたいことがあってさー。大丈夫《だいじょうぶ》だよねー?」
「え、いや……」
一瞬《いっしゅん》返答《へんとう》に困《こま》る。
確かに去年までの俺ならば大晦日《おおみそか》の昼間なんざヒマでヒマで思わず折り紙で門松《かどまつ》(難易度《なんいど》A)を折っちまうくらいヒマだったが、今年は少しばかり事情《じじょう》が違《ちが》うのである。
今年の大晦日。
何でもその日には、いつかの夏コミ≠ニやらの冬バージョンである冬コミ≠ニやらがあるらしく、昼間は春香《はるか》と一緒《いっしょ》にそれに行くことになっているのだ。
なので、
「あー、悪いが明々後日は少しばかり用事があってな――」
言葉《ことば》を濁《にご》しつつ断《ことわ》ろうしたところ、
「あ、大丈夫《だいじょうぶ》だよー。頼《たの》みたいことっていうのはたぶんその用事に関係あることだからー」
「え?」
「用事って、どうせ冬コミに行くんでしょー? うんうん、最近の裕人《ゆうと》はこっち側《がわ》にアグレッシブだからねー。アキバを巡回《じゅんかい》したり夏コミに来て並《なら》んだりー。そうだと思ったんだー」
「いやちょっと待て――」
勝手に決めるな……という言葉を俺が発する間もなく信長《のぶなが》は、
「大丈夫大丈夫、みなまで言わなくていいよー。こういったことは言葉で確認《かくにん》することじゃなくてお互い感じ合うことだからねー。僕には分かってるからさー。いい傾向《けいこう》だよねー」
「……」
ちっとも分かってねえだろ。
だが信長はまったくもって気にせずに続ける。
「――で、頼みたいことなんだけどー、実はその冬コミに出る知り合いのサークルの手伝いをやってほしいんだよねー」
「……サークル?」
「うんー、何でも出展する人たちが本の完成の打ち上げでスッポンを食べ過ぎて鼻血を出して入院しちゃったみたいでさー。人がいなくて困《こま》ってるって話なんだー。本当だったら僕がやりたいところなんだけど、色々と忙《いそが》しくてー。それに裕人も本格的にこっちの道を目指《めざ》すならそろそろサークル活動くらい経験《けいけん》しておいた方がいいと思ってさー。ねー?」
「だからだな……」
「そういうわけでいいよねー? あ、もちろんそれ相応《そうおう》のお礼はするし、代わりにって言うとあれなんだけどー、裕人も何か出品したいものがあったらいっしょに委託《いたく》販売《はんばい》してもいいってさー。同人誌《どうじんし》とか同人グッズとか同人ゲームとかー」
「……」
んなもんねえよ!
心の中で激《はげ》しく突っ込む俺に、
「それじゃあよろしくねー。細かい話とかはまた後でメールするからさー。ここのところ色々と準備《じゅんび》で忙しくてー。じゃ、またー」
「お、ちょ――」
「ばいばーい」
ガチャリ。ツー……ツー……
そこで電話は切れた。
相変わらず人の話を聞かねえっつーかマイペースなことこの上ないアホ幼馴染《おさななじ》み(♂)だった。
「……」
……たく、あいつは……
思わず心の中で文句《もんく》を言う。
とはいえカタチの上では(信長《のぶなが》の中では)俺が了承したことになってるし、信長には何だかんだでここ最近色々と世話《せわ》になっている(主に情報|操作《そうさ》で)。無下《むげ》に断《ことわ》るようなマネもしたくはない。
――いちおう春香《はるか》に確認《かくにん》してみるか……
幸《さいわ》いというか何というか信長の用件にも冬コミとやらが関《かか》わっている。場所が同じならうまくすればどちらも回せるかもしれん。
なのであまり気が進まないながらもそのことについて春香に電話で伝えたところ、
「え、サークルさんのお手伝い……ですか?」
「ああ、そうらしいんだが……」
「冬こみ≠フ日にサークルさんのお手伝いを、私が……?」
聞こえてきたのはどこかくぐもった春香の声。
そこからは明らかな戸惑いと深い動揺《どうよう》が感じられる。
「あー、やっぱりマズイよな」
いかに場所が同じとはいえせっかくの冬コミとやらである。春香は色々見て回りたいだろうし、いきなりサークルとやらの手伝いうんぬんはいくら何でもムリな相談《そうだん》だろう。やはりここは先約の春香|優先《ゆうせん》ということで信長の方は断《ことわ》るしかないか――
と思ったのだが。
「――か、感激《かんげき》です」
「へ?」
「とっても感激です! まさか私みたいな冬こみ¥艶S者がサークルさんのお手伝いをできるなんて……」
電話口の向こうから返ってきたのは、そんな言葉《ことば》だった。
「お手伝いということは売り子さんができるということでしょうか……? わあ、サークルさんの売り子さん……あ、でも他にもお仕事がありますよね。列整理とか見本誌|提出《ていしゅつ》とか……」
「……」
「……お荷物運びとかお昼の買い出しとかも……。――あ、そ、そういえばそのお手伝いですけれど、何かを出品してもいいというお話……なのですよね?」
矢継《やつ》ぎ早《ばや》に言葉を続けてくる春香。
「ん、ああ、そうらしいが……」
確かに信長はそう言っていた。何でも冬コミとは夏コミと同じくみんなが作った同人誌とやらを出し合うところで、サークル関係者は自由にそういったものを出していいとか。まあ俺にはおよそ関係のない話だったので適当《てきとう》に聞き流してたんだが。
「そ、そうなのですか……」
そこで春香《はるか》は少しためらうような声音《こわね》になって、
「……あ、あの、で、でしたらその、私、いらすと集≠出してはだめでしょうか……?」
「え?」
小さな声でそんなことを言った。……イラスト集?
「え、ええと、ここ半年くらいで描きためたイラストを集めたものです。も、もしよろしければ、それをどうじんし≠ニして出してみたいなあ、って……」
恥ずかしそうに言う。
――ああ、そういえば色々あって半分くらい忘《わす》れかけてたが、春香はイラスト(ナチュラルボーン妖怪《ようかい》画《が》)が趣味《しゅみ》だったんだっけな。
「ど、どうでしょう? あ、ム、ムリそうならいいんですが……」
「ん、いいんじゃないか? 出すものは何でもいいらしいしな」
「ほ、ほんとですか?」
「ああ。大丈夫《だいじょうぶ》だと思うぞ」
「あ、ありがとうございますっ。――あ、だ、だったら今から急いで完成させますね!」
そんな言葉《ことば》が返ってきた。
「……完成? って、できてるわけじゃないのか?」
「えと、はい。その、出せるのだとしたらこぴー本≠ニいうものにしたいのですけれど、それだとまだ表紙にあたる部分とその他何枚か新しく描かないといけない場所がありまして……」
そう言ってくる。
ふむ、コピー本とやらについてはよく分からんが、とりあえず色々と大変ってことだけは確からしい。だったら、
「それって、俺でも手伝えるのか?」
「え?」
「よく分からんが大変《たいへん》なんだろ。手伝えればと思ってな」
そう言った。
こんな厄介《やっかい》というか、少なからず面倒《めんどう》なことに巻き込んじまうせめてもの返礼だ。
「それは……そうしていただければたいへん助かりますけど……でも、申し訳ないです」
「申し訳ないなんてことないぞ。もともと俺の事情に付き合わせちまうわけだし、俺にやれることがあれは何でもやるから、言ってくれ」
「……」
その言葉に春香は電話の向こうで少し迷っているようだったが、やがて、
「で、でしたらぜひお願いします。こういったことは初めてですし、実のところ一人で全部をやるには少し大変《たいへん》で……」
「ああ、任《まか》せてくれ」
そういうわけで冬コミとやらの打ち合わせも兼ねたイラスト集作成の手伝いで春香《はるか》の家へと行くこととなり。
こうして今に至るというわけである。
「あ〜、もう、ほんとにおに〜さんは人騒《さわ》がせなんだから〜」
クッションを胸にソファにぱふっと座《すわ》りながら、美夏《みか》がぷく〜っと頬《ほお》を膨《ふく》らませた。
「よく分かんないけどお絵描《えか》きしてるならお絵描きしてるってちゃんと言ってよね。そうすればこんなに大騒ぎになることはなかったんだから〜」
「いや騒いだのは美夏だけなんじゃ……」
思わずそう言いかけるも、
「裕人《ゆうと》様〜、そこは素直に受け取って謝《あやま》っておくのが殿方《とのがた》の嗜《たしな》みというものですよ〜」
「……鴨《かも》も鳴《な》かずばネギといっしょにお鍋《なべ》にされまい、です」
「……」
にっこりメイドさんと無口メイド長さんの二人に左右から即座《そくざ》にそう五寸釘《ごすんくぎ》を刺《さ》されては、俺としてはもう黙《だま》るしかない。
そこはかとない理不尽《りふじん》な気分を噛《か》み締《し》めていると、
「でさでさ、まあ悪いのはおに〜さんってことでふぁいなるあんさ〜として、結局《けっきよく》お絵描きってどんなの描いてるの? ちょっと見せて〜」
「あ……」
作業中のテーブルの上に美夏が横からひょいと顔を覗《のぞ》かせて、
「…………」
そして、直後に日光《にっこう》東照宮《とうしょうぐう》に生息《せいそく》している言《い》わ猿《ざる》にでもなったかのように黙《だま》りこんだ。
「えと、どうですか? ちゃんと描けているでしょうか……?」
何かを期待《きたい》した目で尋《たず》ね返《かえ》してくる春香に、
「え、えっと……これってなに? なんか頭に骸骨《がいこつ》みたいなのが二つ付いてて手にハンマーみたいなの持ってて…………妖怪《ようかい》ガシャドクロ?」
首をひねりながらドクダミを生のまま食べてしまった仔猫《こねこ》みたいな顔で何とか答える。ちなみに最後の部分(妖怪ガシャドクロ)だけは春香に聞こえないように小声で言ったのは最後の良心といったところか。
だがそんな美夏《みか》の気遣《きづか》いも何とやらに春香《はるか》は実にすこやかな表情で、
「あ、えとですね、それは『ドジっ娘アキちゃん』です」
「ど、どじっこあきちゃん?」
「はい。魔法服《まほうふく》ヴァージョンで、手に持っているのはマジカルフォルテッシモステッキなんですよ♪」
「……」
「どうでしょう、春くらいから裕人《ゆうと》さんに見てもらっていて、だいぶ上達したような気がするんですが……」
にこにこと答える春香。
「……」
「……」
「……」
しばしの沈黙《ちんもく》の後。
「……そ、そなんだ。うん、まあ色々と大変《たいへん》だと思うしよく分かんないけど、わたしも陰《かげ》ながら応援《おうえん》してるからがんばってね」
ツインテール娘は微妙《びみょう》に顔をそむけながらそうコメントした。
どうやらもはやこの件には関知《かんち》しないことに決めたらしい。賢明《けんめい》な判断《はんだん》と言えよう。
それからしばらくの間、作成|作業《さぎょう》を再開《さいかい》しつつも美夏たちと世界三大|珍獣《ちんじゅう》についてやら好きなゴーフレットについてやらの話で盛り上がっていたところで、
「……お楽しみのところ申し訳ありませんが春香様、そろそろピアノのレッスンのお時間です」
葉月《はづき》さんが壁《かべ》の鳩時計《はとどけい》(鳩が十五羽ほど付いている)に目をやりながらぽつりとそうつぶやいた。
「え、もうですか?」
「……はい。あと十五分ほどで先生がいらっしゃることかと」
「あ、ほんとです……。楽しい時間は過ぎるのが早いんですね……」
しょんぼりとした顔で春香はそうつぶやいて、
「あの、すみません。そういうわけで、その、私、ちょっとだけ行かないと……」
すまなそうに言う。どうやら色々と(美夏との勘違《かんちが》いやり取りとかその後の他愛《たあい》ない雑談とか)やってる内に、習い事の時間になっちまったらしいな。
「ああ、気にするなって。ピアノのレッスンなんだろ」
「は、はい。申し訳ございませんです」
スカートの裾《すそ》に手をやりながら立ち上がって、
「え、えと、ゆっくりとくつろいでいてください。四十五分くらいで戻ってまいりますので……」
「お姉ちゃ〜ん、がんばってきてね〜」
「春香《はるか》様、ガッツです〜」
こちらを気にかけながら、葉月《はづき》さんといっしょに春香はぱたぱたと部屋《へや》を出ていった。
後には必然的《ひつぜんてき》に、俺と美夏《みか》と那波《ななみ》さんの三人が残される。
「さ〜て、おに〜さん、どうする? お姉ちゃんが戻ってくるまでわたしたちと楽しく青ヒゲ危機一髪《ききいつぱつ》ゲーム(罰《ばつ》ゲーム付き)でもする? それともいつかみたいに人生ゲームとか?」
美夏が楽しけにそんなことを言ってくる。
「そうだな……」
春香はくつろいでいてくれと言っていたが、そういうわけにもいくまい。
目の前にある作りかけの同人誌≠ニやら。
明後日《あさって》に出品(?)ということは少なくとも明日までに完成させなければならない以上、あまり時間があるとは言えん。できるところは少しでも進めておくべきだろう。
「――いや、作業の続きをやる」
「え、そなの?」
俺の言葉に美夏は少しばかり驚《おどろ》いたような顔を見せた。
「ああ。時間をムダにできないからな」
「へ〜、真面目だね、おに〜さん」
意外そうな声を上げる美夏を横目に、作業を再開《さいかい》する。
作業の進め方は春香に教えてもらい一通りは理解していた。
大ざっぱに言ってやらなければならないことは下書きとペン入れ、スクリーントーンとやらの張《は》り付《つ》けと色塗《いろぬ》り。それらの内、俺の分担は主に消しゴムかけとベタ塗りとスクリーントーンとやらの張り付けである。
慣《な》れないというか何もかも初めての作業だが、とにかく一つずつやっていくしかない。
「むう、ここのこれをこうして……」
「……」
「いやこれはこうか……」
「……」
「違《ちが》うな……うーむ……」
原稿の中央でクワっと目を見開く、手に時限爆弾《じげんばくだん》らしきモノを持った怪人《かいじん》赤マントのようなもの(推定《すいてい》表現×二)へのスクリーントーン張りに苦戦《くせん》していると、
「ふ〜ん、おに〜さん、がんばるね〜」
横から美夏が、チョコがたっぷりのガトーショコラをぱくつきながら再び声をかけてきた。
「ん、そうか?」
「うん、さっきからすっごい真剣《しんけん》な顔してる。まるで好きな女の子のおはようからお休みまでその全てを逃《のが》すことなく全身全霊《ぜんしんぜんれい》をかけて見つめるストーカーさんみたい」
「まあ……春香《はるか》のためだしな」
そのたとえは正直どうかと思ったし対峙《たいじ》してるもんは怪人《かいじん》赤マントなんだが、真剣《しんけん》にやっているのには違《ちが》いなかった。コピー本の同人誌とやら。春香が出したいというのなら、何とか力になってやりたいしな。
「へ〜、そなんだ。ふ〜ん……」
「……変か?」
「ん〜ん、い〜んじゃない? そうゆうのって悪くないと思うよ。まっすぐってゆうかシンシってゆうか」
ちょこんとツインテールをかたむけながらじ〜っと顔を見つめてくる。
「……からかうなって」
「からかってないって。褒《ほ》めてるんだよ、うん。ね、那波《ななみ》さん」
「ええ〜、一生懸命《いっしょうけんめい》な男の子の汗はとってもステキですよ〜」
那波さんまでにこにことそんなことを言ってくる。
「ほらほら〜、愛するお姉ちゃんのために不器用《ぶきよう》な農耕馬《のうこうば》みたいにがんばらなきゃ♪」
「ラブ・イズ・パワーですね〜」
「……」
そんな感じでにやにや笑いの美夏と那波さんの小悪魔コンビに弄《いじ》られつつも作業を進めていき、
きっかり四十五分が経《た》ったところで、
「え、えと、ただいま戻りました」
かちゃりとドアが開き、春香が帰ってきた。
「お、戻ってきたか」
「あ、はいです」
よっぽど急いできたのか、楽譜《がくふ》を手に肩《かた》で息《いき》をしながら部屋《へや》の中に入ってくると、
「――あ、もしかして進めておいてくれたんですか? ありがとうございますっ」
俺の手元にある原稿を見て、嬉しそうに頭を下げた。
「わあ……『プリンセスナオちゃん真紅《しんく》ヴァージョン』ができてます。手に持ったメトロノームまでこんなにきれいに……」
「メトロノーム……」
どうやらさっきまで俺が苦戦《くせん》していた時限爆弾《じげんばくだん》のようなモノはメトロノームだったらしい。
確かに秒針みたいなもんが付いてるって点では共通してるが……。まあそれ以前にこの怪人赤マントが『プリンセスナオちゃん』とやらだってことも初めて知ったんだが。
「ほんとうにありがとうございますっ。裕人《ゆうと》さんにこんなにがんばっていただいて、私がお体みをしているわけにはいきません。私もがんばります」
「ん、ああ」
「ふぁいと、ですっ」
両手をぎゅっと握《にぎ》り締《し》めて気合を入れた春香《はるか》を加え、作業《さぎょう》を再開《さいかい》する。
再《ふたた》び始まるペン入れ、スクリーントーン張り、消しゴムかけ、などの繰《く》り返《かえ》し。
カリカリとペンを動かす音が部屋《へや》の中に響《ひび》く。
そして一時間ほどが経《た》ったところで、
「……春香様、間もなく華道《かどう》の稽古《けいこ》のお時間です」
再度《さいど》、葉月《はづき》さんがぼそりとつぶやいた。
「え、あ、もうですか?」
「……はい、あと十分ほどで。その後には茶道の稽古も続いていますので、一時間半ほどのお時間を見ていただければと」
「そ、そうなのですか……」
その言葉に春香は俺の方を見るとおずおずと頭を下げて、
「ほ、ほんとうにすみませんっ。何というか、その……」
「あー、いいって」
「で、ですが……」
「気にすることない。稽古ならしようがないだろ」
やむを得《え》ない事情ってやつだ。
「そう言っていただけると……。ほ、ほんとにすみませんです……」
心底《しんそこ》申し訳なさそうな顔で、何度もぺこぺこと頭を下げながら春香は稽古へと向かって行った。
その後《うし》ろ姿《すがた》を見送りながら美夏《みか》に尋《たず》ねる。
「……なあ、春香っていつもこんなにハードスケジュールなのか?」
「ん?」
「こんな、ほとんど休むヒマもないみたいな……」
「あ〜、そだね。うん、だいたいこんな感じだよ。今は年未だから少なめな方かな。忙《いそが》しい時とかは分刻みで動いてたこともあったし、『黒真珠《くろしんじゅ》』で世界のあちこちを移動してたなんてこともあったかな〜」
「……」
そうなのか……
何十も稽古事をやってるってことは話では聞いていたものの普段《ふだん》は春香がそういった素振《そぶ》りを見せないためついつい忘《わす》れがちになっていたが……こうして実際《じっさい》にその状況《じょうきょう》を目《ま》の当たりにしてみるとその超絶《ちょうぜつ》お嬢様っぶりを思い知らされる。なんつーか、世界お嬢様協会|公認《こうにん》全世界お嬢様検定特一級にも余裕《よゆう》で合格しそうな勢《いきお》いだ(んなもんがあるかは知らんが)。
「……春香《はるか》はスゴイな」
「そりゃそうだよ〜。普段《ふだん》はどじばっかりしてるからあんまりそうは見えないかもしれないけど、何てったってあれで乃木坂家《うち》の長女で跡取りなんだから」
「むう……」
確かにその言葉《ことば》は説得力《せっとくりょく》があるな。最も分かりやすい例っつーか。
微妙《びみょう》に納得《なっとく》しつつ再び春香抜きでの作業を始める。
春香が戻《もど》ってきたのは、やはりきっかり一時間半後だった。
まあそんなこんなで春香が習い事に行ったり戻ったりまた行ったりを繰《く》り返《かえ》しつつ時々|美夏《みか》たちと雑談をしながら同人誌の作業を進めていき、
「……」
気付けばけっこうな時間が経《た》っていた。
俺が乃木坂《のぎざか》邸《てい》にやって来てからおよそ六時間。
窓の外から入ってくる光もすっかり北海道産バフンウニみたいな濃《こ》いオレンジ色に変わっている。
「ふう……」
思わず口から疲労《ひろう》のため息《いき》が漏《も》れる。
さすがに昼からぶっ続けでやってただけあって全身の疲《つか》れはほとんどピークに達していた。
腕《うで》から肩《かた》にかけてバキバキというか。いいかげんここいらで一休みするべきだろう。
描きかけの原稿用紙を脇《わき》にどけ、服についたスクリーントーンの切れ端を払って、テーブルの上に上半身を伸ばす。
ちなみに春香は現在、本日五つ目の習い事である日本舞踊へと行っていてここにはいない。あと三十分もすれば帰ってくるとの話だが、それまでは作業をしているのは俺だけである。
「疲れた……」
テーブルの上でとろけたゼリー(ノド越しさわやか!)のようにグッタリとしていると、
「お疲れさま、おに〜さん」
「よろしければキャンブリックティーとショートブレッドでもどうですかー? 美味《おい》しいですよ〜」
「お……」
美夏《みか》たちがそんなことを言いながらティーカップとケーキプレートが載《の》ったトレイを差し出してきた。
「おにーさん、ほんとがんばってたよね〜。甘いから、疲《つか》れがとれるよ〜」
「糖質《とうしつ》効果《こうか》というやつですね〜」
「あ、サンキュな」
礼を言って、湯気《ゆげ》を上げる紅茶といい匂《にお》いのお菓子《かし》を受け取る。
色味としては茶というよりも黒に近いその紅茶はハチミツと牛乳の優《やさ》しい味が絶妙《ぜつみょう》な配分《はいぶん》で、美夏《みか》の言う通り疲れた身体にじんわりしっとりと染《し》み込《こ》んでくるかのようだった。むう、うまいな……
ソファに背中を預《あず》けながら少しだけセレブな気分でゆっくりと味わっていると、
「へへ〜、おに〜さん♪」
「ん? おわっ」
いきなり美夏が後ろからがばっと抱《だ》きついてきた。
「お、おい」
「どう、おいしい? まろやか? それ、わたしが掩《い》れたんだよ♪」
そのままごろごろとまとわりついてくる美夏。
「こ、こら……」
何するんだ、いきなり!?
思わず声を上げると、
「だっておに〜さん、ずっとお絵描《えか》きばっかで全然わたしに構《かま》ってくれなかったんだもん。これはその分のツケなんだから〜」
「んなこと言われてもな……」
それはしょうがないだろう。そもそも今日ここにやって来たのはそのお絵描きが目的なわけだし。
だが美夏は、
「ん〜、それは分かるけどさ〜、同じ部屋《へや》の中にこ〜んなにぷりてぃ〜はに〜な美夏ちゃんがいっしょにいるんだから少しくらいどきどきとかむらむらとかしてくれたっていいじゃん。男の子としてそれはどうかと思うよ?」
そんな微妙《びみょう》に勝手なことを言いながらさらにじゃれついてくる。む、なんかいつにも増してやたらと甘えモードだな。なんかあったのか?
そこはかとなく困惑《こんわく》する俺に、
「裕人《ゆうと》様〜、美夏様はきっと寂《さび》しいのですよ〜。裕人様が先ほどから春香《はるか》様のことばかり気にかけてらっしゃいますから〜」
「え?」
那波《ななみ》さんがそんなことを言った。
「それに最初のアレな一件もありますからね〜。壮絶《そうぜつ》な勘違《かんちが》いとはいえ、裕人様が遠くに行ってしまいそうに感じたのではないですか〜? こう見えて美夏《みか》様は寂《さび》しがり屋さんですし〜」
「な、那波《ななみ》さん!?」
美夏が顔を真っ赤にしてぱっと俺の背中から離《はな》れる。
「な、何言ってるの! わ、わたし、さみし〜なんてそんなこと一言《ひとこと》も……」
「まあまあ〜、美夏様もたまには素直《すなお》になられた方がかわいいと思いますよ〜。せっかくのチャンスなのですから〜」
にっこりと首をかたむける那波さん。
その完全に微笑《ほほえ》ましいものを見る目にさすがの美夏も勢《いきお》いが弱くなる。
「も、もう、那波さんはほんといいかげんなことばっか言うんだから……。それにいっつもわたしを子ども扱《あつか》いしてさ……ぶつぶつ……」
「……」
まあ那波さんの言っている内容はともかくとして、このツインテール娘が何だかんだでお子様なのは別に間違《まちが》ってないんじゃないかと突っ込みたくはなったものの、わざわざダイナマイトを前にして火打ち石をかき鳴《な》らすこともなかったため、とりあえずこの場は避《さ》けておくことにした。
「と、とにかく、その件はもう終わり! の〜かうんと! いい?」
「ん、あ、ああ」
俺がうなずくと美夏は改まったように咳払《せきばら》いをして、
「――え〜、こほん、それじゃ本題。あのさおに〜さん、せっかくうちまで来たんだし、いいものがあるんだけど、見てみたい?」
そんなことを言い出した。
「いいもの?」
「うん、そ。おに〜さんの活《い》きのいい十代の交感《こうかん》神経《しんけい》がと〜っても刺激《しげき》されそうなものだよ♪」
「……」
それがいいのか悪いのかいまいちよく分からんのだが。
目の前にキャットフードを置かれた犬のような顔になる俺に、
「――じゃじゃ〜ん、これは何でしょう〜?」
「それは……」
そう言って差し出された美夏の手に掲《かか》げられていたのは一冊の革製《かわせい》のアルバム。
その分厚い革(……クロコダイル?)に覆《おお》われた表紙に、「乃木坂《のぎざか》家《け》〜その栄光と絢爛《けんらん》の記録〜第《だい》拾参《じゅうさん》巻《かん》」と書かれている。
「うちのアルバムだよ♪ 門外《もんがい》不出《ふしゅつ》の秘蔵《ひぞう》の一冊で、お姉ちゃんの子供の頃《ころ》とかその他もろもろが赤裸々《せきらら》に記録されてま〜す。お絵描《えか》きするのもい〜けど、やっぱりせっかく来たんだからこうゆうのが定番だよね〜」
「むう……」
「ね、いいものでしょ? 見たい? 見たい?」
にこにこと笑いながら目の前にアルバムをちらつかせてくる。
「いや、それは……」
確かに昔の春香《はるか》への興味《きょうみ》は山ほどあるし、アルバムといえばクリスマスの時にいつか見せてくれるようなことを言っていたが……それにしたって勝手に見てもいいものなのか?
「ん、いいっていいって。別に見せちゃまずいようなものが写ってるわけでもないしお姉ちゃんだけが写ってるわけじゃないし。それにお姉ちゃんもきっとおに〜さんに見てもらいたがってると思うよ♪」
いたずらっぽく笑う美夏《みか》。
それならまあ――いいの、か?
「……分かった。見せてくれ」
俺がそう言うと、
「うん、そうこなくっちゃ♪ それでこそおに〜さんだよ」
ぱちりとウィンクをして、嬉《うれ》しそうにうなずいたのだった。
「じゃおに〜さん、こっち来て」
にっこりと笑って美夏がとことこと歩いていったのは……なぜか部屋《へや》の奥にあるベッド(天蓋《てんがい》付《つ》き)の上だった。
ぱふんと座《すわ》り込《こ》むとそのまま手招《てまね》きをして、
「ほら、ここここ、早く早く〜」
「……ちょっと待て。何だってそんなとこなんだ?」
別にアルバムを見るだけならここ(ソファ)でいいだろ。
「何でって、も〜、分かってないな〜。こうゆうアルバムとかを見るのはベッドの上で二人|並《なら》んでごろごろしながらって決まってるじゃん。それにテーブルの上はお絵描《えか》きの紙でいっぱいでしょ? アルバムを置く場所がないもん」
「……」
まあ後者についてはそれはそうだが……前者についてはそういうもんなのか?
首を六十五度くらい捻《ひね》りつつもとりあえずは言う通りにベッドの上に腰を下ろす。「うんうん、さすがおに〜さん♪」と美夏が満足げにうなずいた。
「さ、それじゃご開帳《かいちょう》〜♪」
ツインテール娘のそんな声とともにアルバムが開かれる。すると――
「おお……」
そこにいたのはピアノにちょこんと座《すわ》り込《こ》んでいる小さな春香《はるか》。
台で底上げされたペダルを一生懸命《いっしょうけんめい》な表情で踏《ふ》み込《こ》んでいるかわいらしい姿《すがた》の脇《わき》に、「はるか、ごさい」と書かれた達者《たっしゃ》な文字(毛筆《もうひつ》)が添《そ》えられている。
「春香、こんな小さい頃からピアノを弾《ひ》いてたのか」
「うん、そだよ。てゆうか正確に言えば二歳からかな。物心がついた頃にはもうテレビの音とかを聴き取っておもちゃのピアノで弾いてたってゆうし」
「むう……」
とすればすでにピアノ歴十五年。その腕《うで》がプロ級なのもうなずけるかもしれん。
「こっちは茶道《さどう》の稽古中《けいこちゅう》のか? 華道《かどう》とか日本|舞踊《ぶよう》らしきものもあるな」
「その辺は四歳くらいから始めたって聞いてるよ。他にもその頃から書道とか古武術《こぶじゅつ》とかもやってたって。ちなみにそこに書かれてる毛筆はみんな当時のお姉ちゃんが書いたんだよ」
「……」
五歳にしてすでに今の俺の三十八倍くらい達筆《たっぴつ》なんだが。
高校に入ってすぐ担任教師に「お前の字は顕微鏡《けんびきょう》で見た腸内のビフィズス菌みたいだな……」
と言われて通信教育のペン字講座を習おうかと三日ほど真剣《しんけん》に悩《なや》んだ身としてはちょっとしたショックを受けつつも、とりあえず気を取り直して他の写真にも目を移《うつ》してみる。
「――お、これはもしかして美夏《みか》か?」
ピアノを弾いている春香の写真の右隣《みぎどなり》。
そこには今よりもさらにちんまいツインテール姿《すがだ》の女の子が、額《ひたい》に「アレキサンダー」と書かれ四つんばいになった春香父の背中に仁王立《におうだ》ちして、さらにばりばりのカメラ目線でピースをしている写真があった。
「あ、それは……」
「ええ、そうですね〜。美夏様は小さい頃からやんちゃでしたから〜。一人でお屋敷《やしき》を抜け出して伊豆《いず》の温泉旅館までゆで卵を食べに行ってしまわれたり、玄冬《げんとう》様にドロップキックを喰らわせて失神《しっしん》させたり、遠足に行った帰りにイノシシを餌付《えづ》けして拾ってこられたりしたこともあったんですよ〜」
「ん〜、まあ若気《わかげ》の至《いた》りってゆうのかな? わたしもまだまだ子供だったからさ〜」
てへへ、と笑う。
「……」
昔からそういうキャラだったんだな、このツインテール娘は……
「ん、こっちのこれは……葉月《はづき》さんか?」
「あ、おに〜さんよく分かったね。髪型とか違《ちが》うし、葉月さんは意外に分かりにくかったりするのに」
「……いやチェーンソーを持ってる女子高生(セーラー服)なんて他にいないだろ……」
機関銃《きかんじゅう》とか鋼鉄製《こうてつせい》のヨーヨーとかならまだともかく、さすがにチェーンソー持ち女子高生は二人といまい。てかいてもかなりイヤだ。
「これは那波《ななみ》さんか。昔からサングラスをかけてるんですね……」
「あらら、お恥《は》ずかしい。それは今では流行|遅《おく》れのフレームなのですよ〜」
「……」
恥ずかしがるところはそこじゃない気がするんですが。
「秋穂《あきほ》さんだけは全く変わらんのだが……」
「ん〜、お母さんは昔から童顔《どうがん》だからね〜。そのせいじゃない?」
「……」
にしたって十年以上前から変化がないって、童顔の一言で済《す》ませられる問題か……?
「……」
まあそんな感じに、春香《はるか》を始めとした乃木坂《のぎざか》家《け》にまつわる主要人物の過去の姿《すがた》を見ていて、
「――ん?」
一枚の写真を発見した。
ページの片隅《かたすみ》にひっそりと張《は》られている、見慣《みな》れない制服に身を包《つつ》んだ春香がぎこちなく微笑《ほほえ》んでいる写真。
「これって……」
「あ、それは聖樹館《せいじゅかん》の制服だね。中学校のやつかな。幼稚舎・小学校ば〜じょんと中学校ば〜じょんの二つがあって……ほら、こっちにあるのが幼稚舎・小学校の時の」
「聖樹館……」
「うん、そう。お姉ちゃんの前の学校だよ」
「……」
そうか。そういえば、春香は中学までは全国でも有数の超お嬢様校な聖樹館女学院(挨拶《あいさつ》はごきげんよう)に通ってたんだっけか。そして確かその頃《ころ》に趣味《しゅみ》がバレて高校からは白城学園に通うことになって――
「ん〜、まあおに〜さんには前にも話したと思うけど、この時期はお姉ちゃんも色々あったからね〜」
美夏《みか》がちょっと複雑そうな顔になる。
「やっぱりあんまりいい思い出じゃないって感じなのかな。写真も少ないし、この頃のことはお姉ちゃんもほとんど話してくれないし……」
確かに中学の制服姿の写真はほとんど見当たらない。
僅《わず》かにあるのは入学式と卒業式、その他の節目《ふしめ》節目の行事のもの。それと当時のクラスメイトなのか、上品そうないかにもお嬢様といった女子たち数人に囲《かこ》まれて少し困ったように遠慮《えんりょ》がちに微笑《ほほえ》んでいるものくらいか。
「……」
やはり春香《はるか》にとって、まだこの時のことは忘《わす》れがたいイヤな思い出なのだろうか。
趣味がバレて周《まわ》りの友達が離《はな》れていった苦《にが》い過去。
そのほとんどトラウマと言えるようなものを三年近くも経《た》つ今でも引きずっていて――
「……」
……やめだやめだ。
当の本人である春香がいないのに、俺だけがそんなことを勝手に考えても仕方がない。
それにこのことはおそらく俺の方から不用意に持ち出していい話じゃないだろう。いつか春香が自分から向き合おうとした時に、その時に初めて問題にすればいい話だ。
「……」
「おに〜さん、どうかした? なんかすっごい怖《こわ》い顔してるよ?」
美夏《みか》が怪訝《けげん》そうに見上げてくる。
「ん、いや、何でもない」
「そなの? なんか心霊《しんれい》写真でも見つけちゃったのかと思った」
「そういうわけじゃないんだ。悪いな」
適当《てきとう》にページをめくりながらそう答える。
と、そこで。
「あれ、何を見ているんですか?」
ガチャリと部屋《へや》のドアが開き、日本|舞踊《ぶよう》の稽古《けいこ》を終えたのか春香が戻《もど》ってきた。
「春香……」
「あ、お姉ちゃん、お帰り〜」
「はい、ただいまです。――あ、アルバムですか?」
「うん♪ 昔のやつ。お姉ちゃんもいっしょに見るよね?」
「あ、はい。ぜひ……」
嬉《うれ》しそうに声を上げて俺の憐《となり》(春香のベッド)にぼふっと腰を下ろす。咲きたての花のような柔《やわ》らかくいい匂《にお》いがふんわりと鼻をくすぐった。
「わあ、それって昔の葉月《はづき》さんですよね? 懐《なつ》かしいです」
「ね〜、この頃はみんな若かったよね〜」
「ふふ、まだそこまで昔のことじゃないじゃないですか」
ちりばめられた写真を見ながら楽しそうに微笑《ほほえ》む春香。
どうやらアルバムを見ること自体には特に抵抗《ていこう》はないらしいな。
何となく一安心《ひとあんしん》しつつ、春香(と音もなく共に戻ってきていつの間にか横にいた葉月さん)も加えた五人でアルバム見学を続行していく。
ところがあるページに差《さ》し掛《か》かったところで、
「あ、そ、その写真は――」
「?」
ふいに春香《はるか》の表情が固まった。
まるであってはいけない何かを見つけてしまったみたいな表情。
何だ、やっぱりなんか古傷《ふるきず》を刺激《しげき》しちまうような中学時代の写真でもあったのか?
だが俺が事情を確認するよりも早く春香は素早《すばや》く反応して、
「え、えと、その……すみませんっ」
アルバムから一枚の写真をめくり取ろうと立ち上がりかけ、
「あっ――」
いつものドジ属性《ぞくせい》がいかんなく発揮《はっき》され、春香の手から写真がはらりと落ちる。
そこに写っていたのは――
「……水着?」
水着|姿《すがた》の、春香だった。
小学校低学年くらいの頃のものなのか、ビニールプール (空気をシュコシュコ入れて膨らませるアレな)の中にちょこんと座《すわ》り込《こ》んで、足で水をぱちゃぱちゃと叩いて遊んでいる。
「……?」
何でこれを隠《かく》そうとしたりしたんだ?
微妙《びみょう》に理解《りかい》に困《こま》りながら眺《なが》めていると、
「あ、み、見ちゃだめですっ」
「え、や」
「は、恥《は》ずかしいです……」
「……」
……いや。
……これはそんな桜餅《さくらもち》みたいに顔を真っ赤にするほど恥ずかしいもんなのか?
いつかのハッピースプリング島ですでにリアルでライブな水着|姿《すがた》(純白イノセントビキニ)を拝見《はいけん》している以上、今さらって気もしないでもないんだが……
しかし、
「ん〜、おに〜さんもまだまだだな〜。女の子はね、こうゆうちょっと昔の姿を見られる方が恥ずかしいんだよ?」
「微妙《びみょう》な乙女心ですね〜」
「……修行《しゅぎょう》不足《ぶそく》」
「……」
……そういうもんなのか?
うーむ、女心ってやつはいまいち分からんね。
で、そんな色々と中身の濃《こ》い休憩時間《きゅうけいじかん》を経《へ》て、その後も同人誌作成の作業《さぎょう》は続けられた。
再《ふたた》びのベタ塗《ぬ》り&スクリーントーン、消しゴムかけ作業。
春香《はるか》もあれから三つほど稽古《けいこ》事《ごと》を終え一段落したらしく、途中《とちゅう》からはずっと二人がかりで作業をしていたが、それでも何せ量が多い。結局全部は終わらないまま夜になってしまった。
「あ、もうこんな時間か〜。そろそろ夕ご飯だね〜」
テーブルの横でもむもむとレアチーズケーキを食べていた美夏《みか》が時計を見ながら言った。
「ね、おに〜さんたち、この辺で休憩にしてご飯にしよ〜よ。色々と忙《いそが》しかったから、わたしもうお腹《なか》ぺこぺこになっちゃった」
「いや美夏はほとんど何もしてないだろ……」
アルバムを持ってきた以外は、時折《ときおり》興味深そうにちらちらと原稿を眺《なが》めながらほとんど食べたり飲んだりちょっかいを出してきたりしてただけである。
「も〜、相変わらず細《こま》かいな〜。そうゆう重箱《じゅうばこ》の隅《すみ》をマチ針でつつきまくる男の子はもてないよ?」
「ぬ……」
「ほらほら、それより早く行こ。もちろんおに〜さんも食べてくでしょ? 今日は小鮎《こあゆ》さんが担当《たんとう》の日だから楽しみだな〜♪」
「? 小鮎さん……?」
また聞《き》き慣《な》れない名前が出て来たな。
「あ、えと小鮎さんはですね、メイド隊における序列《じょれつ》第六位の方で、おうちの料理長もしてくださっている凪川《なぎかわ》小鮎さんのことです。とってもシャイな性格をしているので人前に出て来ることはあまりないのですが……」
春香《はるか》がそう説明をしてくれる。ふむ、つまりは調理能力に特化された料理メイドさんか。相変わらず色々いるんだな、メイド隊……
まあそれはともかくありがたい申し出だった。
長時間に亘《わた》る肉体作業(主に黙々とスクリーントーン削《けず》り)で腹も減《へ》ったし、まさにナイスタイミングといった感じだ。
「ああ、それじゃありがたく……」
なので二つ返事で受けようとして、
「――あ」
と、そこで思い出した。
「ん、どしたの、おに〜さん?」
「……ルコたちの食事の支度《したく》をしてきてなかった」
「ルコ……ってルコおね〜さんの?」
「あ、ああ」
当初の予定では今日はそこまで遅《おそ》くなることは想定《そうてい》していなかったため、ワン公たちの夕食を用意してきていなかったのだ。これを放置《ほうち》した場合、ヘタをするとあの飢えた野獣《やじゅう》どもがいつかの天王寺《てんのうじ》邸《てい》と同様に俺を探《さが》して乃木坂《のぎざか》邸《てい》を襲撃《しゅうげき》する恐《おそ》れがある。それは何としても避けねばなるまい。
「……とりあえず連絡して適当《てきとう》に冷凍食品でも食べさせるか……いや待てレンジで解凍《かいとう》なんて高度な技術をヤツらがやれるわけも……」
かつてレンジで洗濯物を乾《かわ》かそうとしたやつらにそれはあまりにオーバーテクノロジーな注文ってもんである。まだリアルに犬にチルドボタンを押させる方がラクっつーか。むう、こうなったら最終|手段《しゅだん》の出前を使うか。いやしかしそれをやると今月の食費《しょくひ》が……
我が家の二大問題児(共に来年で二十五歳)の処置《しょち》について真剣《しんけん》に悩《なや》んでいると、
「んー、てゆうかそれならもっと簡単《かんたん》な解決方法があると思うけど」
「……え?」
「よく分かんないけど、要はルコおね〜さんたちが無事《ぶじ》にご飯を食べられればい〜んだよね。ならちょっと待ってて」
「?」
そう言うと美夏《みか》はおもむろにポケットから携帯《けいたい》(ピンク色)を取り出し通話ボタンを押すと、
「――もしもし、あ、沙羅《さら》さん? うん、わたし。あのさ、ちょっと頼《たの》みたいことがあるんだけど今だいじょぶかな? うん、そう。場所は分かるよね? はーい、それじゃよろしく〜♪」
それだけ言ってパタリと携帯のフリップを閉じた。
「何をするつもりなんだ……?」
「まあい〜からい〜から。おに〜さんは指回し運動(頭に優しい)でもしながら待ってて」
「??」
ワケが分からぬまま首をひねる。
そして十分後。
「むう、ここが乃木坂《のぎざか》さんの家か……」
「あらら、すご〜い。おねいさん、感激〜♪」
我が家のアホ姉とその親友のセクハラ音楽教師が俺の目の前にいた。
「これは……」
「へへ〜、『冬将軍』で巡回《じゅんかい》に出てた沙羅さんに頼んでおね〜さんたちも夕飯に呼《よ》んだの。これならおね〜さんたちは無事にご飯を食べられて、おに〜さんもゆっくりと夕食を楽しめるでしょ? 何てゆうの、逆転《ぎゃくてん》の発想《はっそう》ってやつ?」
ツインテールをふりふりしながら美夏が楽しそうに言う。
「確かにそれはそうだが……」
だけど普通《ふつう》実行に移《うつ》さねえだろ……
しかもその発想(飛ばぬなら戦闘機《せんとうき》に乗せて飛ばそうホトトギス)もさることながら呼んでから僅《わず》か十分で到着《とうちゃく》ってのが恐《おそ》ろしいな。ウチから乃木坂邸まで電車と徒歩《とほ》とで一時間近くはかかる距離《きょり》だってのに……
「まあまあ、細《こま》かいことは冥王星《めいおうせい》の脇《わき》にでも置いといて。それよりこっちこっち」
「ん、ああ」
「ルコさんと由香里《ゆかり》先生もどうぞ。こちらになります」
「おお、ありがたくご相伴《しようばん》させてもらうぞ」
「いい生徒を持っておねいさん幸せだわ〜」
というわけで、美夏たちに先導《せんどう》されて食堂へと向かうこととなった。
食堂は、春香《はるか》の部屋《へや》から徒歩三分ほどの距離にあった。
『本邸《ほんてい》内《ない》第四食堂・大朱雀《おおすざく》の間《ま》』と銘打《めいう》たれた大広間。
ちょっとしたホテルの披露宴《ひろうえん》会場くらいはある広さに、辺《あた》りに配置《はいち》された様々な調度品《ちょうどひん》。ギラギラと小さな太陽のように輝《かがや》くシャンデリアに照らされた空間の中央には、高価《こうか》そうな白いクロスに覆《おお》われたどでかい丸テーブルが置かれている。
「あ、裕人《ゆうと》さん、どうぞこちらへ」
「ん、サンキュ」
春香《はるか》に勧《すす》められて席に座《すわ》る。
席の並びは春香から時計回りに、俺、美夏《みか》、ルコ、由香里《ゆかり》さんの順番となっていた。
葉月《はづき》さんと那波《ななみ》さんのメイドさんコンビは、いつも通りにひっそりと壁際《かべぎわ》に並《なら》んで高価な置物のように静かにたたずんでいる(メイドの定位置《ていいち》)。
ちなみに春香父と秋穂《あきほ》さんは今日はそれぞれ北アメリカで行われている熊狩《くまが》り選手権とフランスで開催《かいさい》されている料理大会に行っていて不在《ふざい》らしい。どっちもどっちですげぇ理由だ。
「えと、今日のメインメニューはカニミソピザだそうです。それとカニミソを使ったデザートが付いて……」
「そうなのか?」
「はい。裕人さん、カニミソはお好きですか?」
「ああ、てか嫌《きら》いなもんはほとんどないぞ」
何年か前に酔《よ》ったルコと由香里さんにムリヤリ食わされたクサヤと鮒寿司《ふなずし》とシュールストレミングが苦手《にがて》なくらいで。
「あ、良かったです。私もカニミソ、大好きなんですよ♪」
にっこりと笑う春香。
その笑顔《えがお》は実に可憐《かれん》で、実に魅力的《みりょくてき》なものだった。……話題がカニミソってところが文脈《ぶんみゃく》的《てき》にはかなり微妙《びみょう》だが。
そんな春香とは対照的《たいしようてき》に横では、
「ふふふ、蟹味噌《かにみそ》か、じゅるり……」
「カニミソって、夢とロマン溢れるステキな響《ひび》きよね〜♪」
目がほとんど野性に帰っている我が姉と両手をチョキにして楽しげにわきわきと動かすその親友(くどいようだが共に来年で二十五歳・独身)。
「……」
まあ突っ込むべきところは多々あるが、基本的にこの二人は食べてる間(及びその前後)は静かなので、生暖《なまあたた》かい目で大絶賛《だいぜっさん》放置《ほうち》中《ちゅう》としておくとしよう。
そんな感じで、乃木坂《のぎざか》邸《てい》での夕食は始まった。
「お待たせいたしました。こちらが本日のメイン料理になります」
「おお、来たか!」
「カニ〜カニ〜♪」
名もなきメイドさん(たぶん序列《じょれつ》なしの一般メイドさんなんだろう)によって運ばれてきた大皿を見て、年長二人が声を上げる。
そこにあったのはカニミソがこれでもかってくらいにたっぷりと絡《から》められたピザ。
上質そうなクリーム色のピザ生地となめらかな光を放《はな》つ深緑色《しんりょくしょく》のカニミソが見た目も食欲をそそる見事《みごと》な一品で、どうやら毛ガニバージョンと松葉《まつば》ガニバージョンの二種類があるようだった。
「あ、裕人《ゆうと》さん、お取りしますね。こちらの小皿でいいですか?」
と、春香《はるか》がピザナイフ片手にそんなことを申し出てくれた。
「おお、すまんな」
「いいえ、ついでですから」
にっこりと笑って、大皿からカニミソピザを丁寧《ていねい》に取り分けようとしてくれる。
「は、春香様、そのようなことは私たちが……」
「春香様はお座《すわ》りになっていてください」
「い、いけません……」
それを見た名もなきメイドさんたちが慌《あわ》てて止めようとするものの、
「いえ、だいじょうぶです。みなさんはそのままにしていてください」
「え、で、ですが……」
「あの、裕人さんは大事な方なんです。公務でやって来るお客様や来賓《らいひん》とは違《ちが》う大切な方……。だからその、みなさんにお任《まか》せするのではなく、私が自分でやりたいんです。それが私の心からのおもてなしだと思いますから」
「春香様……」
そこまで言われては名もなきメイドさんたちもそれ以上は言えないようだった。
完全に納得《なっとく》したというわけではなさそうだが、壁際《かべぎわ》の定位置《ていいち》へと戻《もど》っていく。
ちなみに葉月《はづき》さんと那波《ななみ》さんはそんな春香の心情を分かっていたのか、最初から最後までにこにこと(無口メイド長さんは黙々《もくもく》と)事態《じたい》を見守っていた。
「お騒《さわ》がせしました。――はい、どうぞです、裕人さん♪」
「ん、ああ、サンキュ」
にっこり笑顔《えがお》の春香から、山盛《やまも》りになったカニミソピザを受け取る。
そしてカニミソに囲《かこ》まれたカニミソディナーが始まったわけだが。
「むう、美味《うま》いな。この味噌《みそ》のコクとキレが何とも言えず……がつがつ……がつがつ……」
「うわ、おいしい……ていうかさいこ〜。おねいさん、もうカニになってもいいかも……むしゃむしゃ……ぱくぱく……」
エサ解禁となった途端《とたん》に貪《むさぼ》るようにカニミソピザに喰らいついていく大人二人(しつこいようだが来年で二十五歳・彼氏《おとこ》の影《かげ》も形もなし)。相変わらず遠慮《えんりょ》がねぇな……
イイ歳なんだからいいかげんに慎《つつし》みだとか遠慮だとかいう言葉《ことば》を少しは覚《おぼ》えてそしてそのまま嫁《よめ》にでも行ってくれと心の底から思いながら自らもカニミソピザを口に運んでいると、
「あ、裕人《ゆうと》さん、口元にカニミソが付いてます」
春香《はるか》がふとそんなことを言ってきた。
「お?」
「そこのほっぺたの下のところです。ザリガニさんのおひげみたいになっちゃってますよ」
くすりと小さく微笑《ほほえ》む。む、どこに付いてるんだ?
ナプキンで適当《てきとう》に拭《ぬぐ》おうとすると、
「あ、だめです、その角度から取ろうとすると広がっちゃいます」
「ぬ?」
「えと……動かないでくださいね」
そう言うと、春香は膝元《ひざもと》にあった自分のナプキンを使って俺の口元をふきふきと優《やさ》しく拭《ふ》き取ってくれた。「はい、きれいになりました♪」
「あ、あー、サンキュな」
「いいえ。どういたしましてです」
にっこりと笑って小首をかたむける。なんかこういうのもいいもんだな……
拭かれた口元の滑《なめ》らかな余韻《よいん》に浸《ひた》る俺に、
「あ、そうです。裕人さん、よろしければはんぶんこもしませんか?」
「え?」
春香はさらにそんなことを言ってきた。
「えと、そちらの毛ガこと私の松葉《まつば》ガニを、はんぶんこ、です。そうすればお互いに違《ちが》った味のカニミソが食べられます。一石二鳥《いっせきにちょう》ですよ♪」
にこにこと笑いながら小皿を差し出してくる。
「おお、いいな」
その提案《ていあん》を断《ことわ》る理由はない。
俺が食べていた毛ガニピザを手で半分に分けて春香に渡《わた》すと、春香も松葉ガニピザをピザナイフで切り分けてこっちの小皿に載《の》せてくれた。
「あ、毛ガニもおいしいです」
「そうか? 松糞ガ二も負けずにウマいぞ」
二人で北海道産のカニと山陰産《さんいんさん》のカニとを頬張《ほおば》りながらそんなカニ会話をしていると、
「……じ〜」
「……むう」
とそこで、それまで一心不乱《いっしんふらん》にカニミソを貪《むさぼ》り続《つづ》けていたセクハラ音楽教師たちの視線《しせん》がこっちに集中していることに気付いた。
「な、何だ?」
「え、えと …?」
困惑《こんわく》する俺たちに、
「ん〜、な〜んか二人とも、いちゃつきぶりが妙《みょう》にパワーアップしてる感じだと思ってね〜」
「ふむ、まるで長年|連《つ》れ添《そ》った仲の良い夫婦みたいだな」
二人|揃《そろ》ってそんなことを言いやがった。
「えっ……」
「ん、なっ……」
な、何を言い出しやがるんだ、いきなり!
「え〜、だってどこからどう見てもそうじゃないかしら? さっきから春香《はるか》ちゃん、お料理を取り分けてあげたり口元を拭いてあげたりしてかいがいしく裕くんの世話《せわ》を焼いてるし、あまつさえナチュラルにはんぶんことかしてるし〜。これはもう完全に新婚さんの領域《りょういき》ね、きゃっ♪」
「いやそれは……」
「え、えと……」
「俗《ぞく》に言うおしどり夫婦というやつだな。うむ、めでたい」
カニミソピザを頬張《ほおば》ったままうなずくアホ姉。
「だからだな……」
「え、そ、その……」
「ふふふ、今さら隠さなくてもいいって。おねいさんは全部お見通しなんだから♪ ね、妹ちゃんもそう思うわよね〜?」
「…………え? あ、そだね〜。でもしょうがないんじゃない?クリスマスに指輪を贈《おく》り贈られちゃう仲でもあるわけだし♪」
美夏《みか》までもが乗ってくる。
それは確かにもっともな指摘《してき》というか事実ではあるわけであり、それを言われると俺としては何も言えなくなるんだが……
「ほらおね〜さんたち、こういう時は邪魔《じゃま》しちゃだめだよ。わたしたちはむしろ獲物《えもの》を狙《ねら》うライオンさんの気分で風下《かざしも》から気配《けはい》を消してひっそりと見守ってなきゃ♪」
「そういうものなのか? おお、それは悪いことをしたな」
「ん〜、つまりは衆人《しゅうじん》環視《かんし》プレイってことね〜、りょうかいよん♪」
そう言って再び何事もなかったかのようにカニミソを貪《むさぼ》り始《はじ》めるアホ姉たち。
「……」
「……」
だがそんなことを言われて俺たちがそれまでのようにしていられるわけもなく。
「あ、あー……」
「え、その、あの……」
結局《けっきょく》そのまま、何となく微妙《びみょう》な間合《まあ》いを取った状態で食事は続いていき。
やがて最後のデザート(カニミソプリン)とともに、カニミソ尽《づ》くしだった夕食は終了した。
そして夕食後。
食後のちょっと⊥た休憩《きゅうけい》やら談笑《だんしょり》やらダイエット体操《たいそう》やらを終え、そのまま春香《はるか》の部屋《へや》で同人誌作成|作業《さぎょう》が再開《さいかい》されることとなったのだが。
「……」
「……」
なんか、空気が微妙な感じだった。
どことなく牽制《けんせい》するような雰囲気《ふんいき》というか緊張感《きんちょうかん》のようなものが海藻《かいそう》プランクトンのごとく漂《ただよ》っているというか……
原因は言うまでもなく確認するまでもなくさっきのセクハラ音楽教師たちの戯《ざ》れ言《ごと》である。
唐突《とうとつ》な夫婦だ新婚さんだのの問題発言。
あれが間違《まちが》いなくガラパゴス諸島産のグリーンイグアナ並《なみ》に長い尾《お》を引いていた。
「……」
「……」
沈黙《ちんもく》が下りる。
互いに何となく言葉《ことば》が出てこない。
いや言いたいことはあるんだが、出すべき言葉を選べないというか。
部屋内に響《ひび》くのはカリカリとペン入れをする音とコリコリとスクリーントーンを削《けず》る音だけである。
時折ふとした弾《はず》みに目が合ったりするものの、
「あ、え、えと……」
「ん、な、何だ?」
「え、あ、いえ……」
「そ、そうか……」
などという、繰《く》り広《ひろ》げている本人(俺な)でさえ何が「そうか」なのかよく分からないような会話が繰り返されるだけである。うーむ、気まずい……
「……」
この部屋《へや》にいるのが俺と春香《はるか》の二人だけというのも影響《えいきょう》してるのかもしれん。
食事前までは入《い》り浸《びた》りだったかしましツインテール娘とメイドさんたちは、
「さ、わたしはこれから冬休みの宿題やらないと。自由課題のナメコの観察日記がめんどくさいんだよね〜」
「私たちは今日の後片付けと明日の準備《じゅんび》がいっぱいですね〜」
「……てんてこまい」
などと言って去ってしまっていたし、
問題の大原因であるどこぞのアホ姉とセクハラ音楽教師は、
「おお、これはまさしくロマネコンティの七十八年もの! これを飲んでいいというのか?」
「こっちには五十年モノの古酒とかあるわ〜。わ〜、まるで女王様みたいなき・ぶ・ん♪」
食堂にあった酒がたっぷり詰まった棚《たな》(春香父私品)を見つけて子供みたいにはしゃぎまくり、そのままいつものごとくエンドレスな宴会《えんかい》に移行《いこう》していった。
今は『七色|孔雀《くじゃく》の間《ま》(客間)』を占拠《せんきょ》して、勝手に二人でサタデーナイトフィーバーしている(木曜だが)。
「……」
どちらも普段《ふだん》は場所も時間も人の迷惑《めいわく》も構《かま》わず騒《さわ》ぎまくっているクセに、今のようにとにかくただ周《まわ》りで騒いでいてほしいって時に限《かぎ》っていないのは狙《ねら》ってやってるのか……しかし愚痴《ぐち》を言ったところで現状は変わらんため、もうそれについては考えないことにする。
――よし。
こういう時はとにかく目の前の作業《さぎょう》に集中して、漂《ただよ》う妙《みょう》な空気が自然に晴れてくれるのを待つしかあるまい。待てば海路《かいろ》の日和《ひより》あり。悟《さと》りを開いた仏像職人のごとき無心でスクリーントーンを削《けず》ろうとするものの……
「……」
そう簡単《かんたん》にいくもんでもなかった。
同じ部屋、同じテーブルの上で作業をしている以上どうしても視界《しかい》に春香が入っちまう。
透《す》き通《とお》るように白く滑《なめ》らかな肌《はだ》。今は作業用にアップにされたさらさらの髪の毛。そこにいるだけでそこはかとなく柔《やわ》らかい香《かお》りがふわふわと漂ってくる。
そしていかにスクリーントーンに集中していても絶対《ぜったい》に目に入ってくるのが、テーブルの上に置かれているそのワカサギのように端正《たんせい》な指だった。
――むう、キレイな指をしてるな。左の薬指でささやかに光っているのはあの時の『月の光』か。本当にずっと着けてくれてるんだな……
「……」
そんな淡《あわ》く輝《かがや》く『月の光』を見ていると、ふと思ってしまう。
――そういえば、俺と春香の関係って何なんだろうな……
今さらといえば今さらながらの疑問。
春香《はるか》と知り合って以来あまりにインパクトフルなことが次から次へと大間《おおま》のマグロの大群《たいぐん》のように目まぐるしく起こりすぎて深く考える間もなかったが、それはこの上なく重大なことかもしれん。
「……」
……クラスメイト、知り合い、友達?
……秘密《ひみつ》を共有する仲間?
それともそれ以上の他の何か……か?
いや何も夫婦だの新婚だのの発言を真に受けてるわけじゃない。あんなのはどうせアホ姉たちがアホな思い付きで言ったいつものアホ発言だ。だからそうじゃないんだが……
「……」
……うーむ。
……難《むずか》しいな。
というか考えれば考えるほど思考《しこう》が[#底本にはなし。入れた方がしっくりくるので]ドップリと深みにハマっていくような気がする。一体俺はどう思いたいのか……
右手のカッターをカリカリと動かしつつ脳ミソを壊《こわ》れかけのハードディスクのようにガリガリと稼動《かどう》させていると、
「…………あ、あの、裕人《ゆうと》さん」
「え?」
「あの、す、少しよろしいでしょうか……? その、ちょっとお話が……」
春香の方から、おずおずと声をかけてきた。
「ん、な、何だ? ああ、こっちのスクリーントーンはあと少しで……」
「あ、そ、そうではないんです」
「え?」
「そうではなくて、その……」
そこで春香はちょっと顔をうつむかせて、「そ、その、先ほどのことで……」
「お……」
先ほどのこと。
それが指しているのはさっきの夕食での一件だろうことはプレキオサウルス並《なみ》に鈍《にぶ》い俺でもすぐに分かった。
「あ、あー、さっきのことな」
「は、はい。さっきのことです」
二人して同じようなことを言い合ってうつむき合う。
「……」
「……」
そして再《ふたた》び沈黙《ちんもく》。
やがて、
「――あー、いや、さっきは悪かった。その、何だ、アホ姉たちが暴走《ぼうそう》して一際《ひときわ》アホなこと言って……」
膨《ふくら》らみきった風船を目の前にしたような緊張感《きんちょうかん》に耐《た》えかね、俺はそう切り出した。
「なんか勝手なことばかり言ってたよな。春香《はるか》もいきなりあんなこと言われちゃ困るだけだったろ。ほんとにスマン」
あれでもいちおう目上の人間である以上、春香としては実に対応《たいおう》に苦しむところだっただろう。
だが春香はふるふると両手を振《ふ》って、
「あ、え、えと、そ、そんな、謝《あやま》らないでください。私は嬉《うれ》しかったんですから……」
「え?」
「私……嬉しかったんです」
「嬉しかった……」
……って、夫婦だ何だ散々《さんざん》からかわれたことがか?
「は、はい。突然あのようなことを言われたのでちょっとだけ驚《おどろ》いてしまいましたけど……でも、困るなんてことは絶対《ぜったい》にないです。相手は裕人《ゆうと》さんですし、それに私の子供の頃《ころ》からの夢の一つは、素敵《すてき》なお嫁さんになることでしたから……」
自分の胸にきゅっと両手を当てて目を閉じる。
「……」
それは……どういう意味なんだ?
夫婦と言われてイヤじゃない。夢がお嫁さんになること。
その二つの要素が表すことは、まさかとは思うが……
脱皮《だっぴ》直前のクルマエビのように微妙《びみょう》なテンパリ具合《ぐあい》を見せつつ思わず春香の顔を真《ま》っ直《す》ぐに凝視《ぎょうし》しちまった俺に、
春香は、
「だって夫婦というのは、いつもいっしょにいると約束しあった仲の良い男女の方たちのことですよね? お父様とお母様みたいに……」
「……ヘ?」
「お父様とお母様……いつもいっしょでとっても幸せそうです。私もああいう風になりたいなぁって、ずっと思っていました。だから私は裕人さんと夫婦みたいだって言われて……嬉しかったんです」
ちょっと遠慮《えんりょ》がちに、えへへと微笑《ほほえ》む。
その笑顔《えがお》はこの上なく純粋《じゅんすい》で真っ直ぐなものだった。
「…………」
いや夫婦の定義《ていぎ》はそれはそれで間違《まちが》ってないんだろうが……しかしよりによってそっち側《がわ》(ピュア度一二〇%)に食いつくのか。や、まあ少し冷静《れいせい》に考えてみれば春香《はるか》ならそういう方面の思考《しこう》をするだろうってことは分かったはずなんだがな……
当たり付きアイスの棒に何か文字が見えたと思ったらそれがただの変色した木目だったことに気付いた時のような気分になる俺に、
「私……裕人《ゆうと》さんとならいつもいっしょにいたいと思います。だって裕人さんといっしょにいると……その、とっても楽しいんです」
「え?」
楽しい?
「は、はい」
そこで春香は少し顔を赤らめて、
「裕人さんといっしょにどうじんし≠作ったり、アルバムを見たり、お夕飯の席で並《なら》んで笑い合ったり……。そんな何でもないことが、とっても、とっても楽しいんです。いっしょにいられるだけで楽しくて嬉《うれ》しくて幸せで……。ううん、でも楽しいだけじゃない。胸がどきどきしたりじんわりとしたりほこほこしたりして……毎日が、新しいことの連続で……」
「……」
「だから私は、できる限《かぎ》り裕人さんといっしょにいたいです。私の勝手なお願いなのかもしれないですけれど……でも、それが今の私の一番の望《のぞ》み――です」
「春香……」
――そうだな。
だが、今はそれでいいのかもしれん。
関係なんてもんを明確《めいかく》にさせなくても、俺は春香といっしょに日々を過ごしていくことができれば楽しいし、春香も、その、まあ、同じように思っていてくれてるみたいだ。
何といってもそれが一番大事なことだと思うし、「夫婦」の意味に多少の捉《とら》え達《ちが》いがあるとはいえ春香がそれを嬉しいと言ってくれただけでも、産まれたてピチピチのオタマジャクシに後ろ足が生えたくらいの進歩ではあるしな。
だから
「……俺も、そうだぞ」
「え?」
「俺も春香と同じだ。いっしょにいられるだけで楽しいし、可能《かのう》な限りそうしていたいと思ってる。これはウソ偽《いつわ》りない本当の気持ちだ」
そう言った。
「その、だ、だからだな、俺もまあ、あー、夫婦とか言われるのは歓迎《かんげい》風味《ふうみ》だぞ。むしろいくらでもどんと来いっつーか……」
「裕人《ゆうと》さん……」
春香《はるか》がちょっとだけ声を震《ふる》わせて見つめてくる。
なんか日本語的に若干《じゃっかん》おかしい上に毎回同じようなクサイ台詞《せりふ》を言ってるような気がせんでもないが……気持ちの上においては間違《まちが》いなく前に進んでいるはずだ。それが松坂《まつざか》牛歩《ぎゅうほ》であれ少しずつは。……たぶん、きっと、おそらく。
「あー、そういうわけで……まあ、これからもよろしくな、春香」
「は――はいっ」
俺の言葉《ことば》に春香が驚《おどろ》いたような、でも嬉《うれ》しそうな顔でこくこくとうなずき、
「――それじゃあ、残りを仕上げちまうか。あんまり時間もないし」
「そうですね、がんばりましょうです」
そして俺たちは再《ふたた》び作業《さぎょう》に戻《もど》ったのだった。
――三時間後。
「終わった……」
ようやく作業は全工程を終了し、同人誌とやらが完成した。
「やったな、春香。これで間に合うぞ」
「……」
返事がない。
「春香?」
「…………」
やはり返事がない、ただの屍《しかばね》のようだ……ってわけではなく。
「……す〜す〜…………」
「……」
耳を済《す》ませば聞こえてきたのはかすかな寝息《ねいき》の音。
どうやら寝てしまったみたいだった。
「……」
まあ春香は昨日の内から作業をやってたわけだし、さらには今日は稽古《けいこ》をいくつもこなしつつ同時に様々な作業をしてたわけだから、ただひたすらにスクリーントーンとやらを削《けず》っていただけの俺とは違《ちが》って疲《つか》れるのも当然ってもんだ。
「頑張《がんば》ってた、もんな……」
何かをやり遂《と》げて安心しきった子供みたいな寝顔《ねがお》。
色々と大変だったが、その安らかな姿《すがた》を見ているとこれからも応援《おうえん》したい気分になってくる。
しかしこのままじゃ風邪《かぜ》を引いちまうな。何とかしないとマズイか……
「……」
――ま、まあ、その、夫婦、なんだしな。
誰《だれ》が見ているわけでもないにも関《かか》わらず俺は軽く咳払《せきばら》いをすると、すうすうと寝息《ねいき》を立てる春香《はるか》の身体をソファからお姫様抱っこで持ち上げて、そのままベッド(天蓋《てんがい》付《つ》き)にまで運んだ。
「お疲《つか》れさま、春香」
そして小さく胸を上下させる春香にそっと毛布をかけて、俺はそのまま部屋《へや》を後にしたのだった。
ちなみにこれは後日伝えられた全くの余談《よだん》なんだが。
この翌日の朝早くに熊狩《くまが》り選手権から戻ってきた春香父は、
「こ、これは……わ、私の秘蔵品《ひぞうひん》が……ロマネコンティも、古酒も、リシャールも、ぜ、全部消え失せて……ご、ごああああああ!」
地上に舞《ま》い降《お》りたアルコール神の化身《けしん》ども(褒《ほ》めてない)によって干からびるまで飲み干された秘蔵の酒の末路《まつろ》を見て、血の涙《なみだ》を流しながらどこぞの元大統領のような絶叫《ぜっきょう》を上げていたとか。……不憫《ふびん》である。
[#改ページ]
改札口を抜けたら、そこは人ゴミだった。
いや相変わらずどこぞの純文学のパクリな上にいつかも全く同じ台詞《せりふ》を吐《は》いたような気がしないでもないが、実際《じっさい》問題そうとしか表現しようがないんだから仕方がない。
東京|臨海《りんかい》高速鉄道臨海副都心線(りんかい線)国際|展示《てんじ》場《じょう》駅前。
十二月三十一日土曜日。午前七時二十分。俺たちはそこにいた。
「わあ、すごい人です……」
隣《となり》の春香《はるか》が手袋《てぶくろ》に包《つつ》まれた両手を口元に当てて驚《おどろ》いたように声を上げる。
「みなさん、こんな時間からいらっしゃっているのですね。夏こみ≠フ時には集合するのが遅《おそ》くてだめだめだったのも納得《なっとく》です……」
「そうだな……」
思わずうなずいちまう。
確かにこの時点でこの人数じゃ、前回俺たちが待ち合わせをした時間(九時)ではあんなすさまじい人ゴミになってるってのも当たり前の話だ。公園を排徊《はいかい》しているドバトを突《つつ》けばクルックーとの鳴《な》き声《ごえ》が返ってくるくらいに当然の話だ。しかし本当にこんな朝早くから集まってきてるもんなんだな。話には聞いていたが、実際に見るとまた真っ赤なオーロラでも見る気分というか……
そんなことをまだ微妙《びみょう》に目覚《めざ》めきっていない頭でそこはかとなく思いながら、ワラワラと移動する人ゴミの流れとともに二人で東京ビッグサイトの方へと進んでいく。
入り口前の行列も、やはりものすごいことになっていた。
「こ、こっちもすごい人です……」
「ああ……」
「お鍋《なべ》をしている方たちもいます。何時|頃《ごろ》からいらっしゃってるんでしょうか……?」
「分からん……」
二人して顔を見合わせる。ほとんど想像《そうぞう》もできん領域《りょういき》だ。
「冬こみ=Aまだまだ奥が深いです……」
「ホントにな……」
とまあそんな風にしばし行列について語《かた》ってはみたものの、俺たちの今回の目的はこの行列に並ぶことじゃない。
いや本来ならば冬コミとやらに参加するものは皆この行列に洗礼《せんれい》のごとく並ばなきゃならんのだが、今回に限《かぎ》ってはそれを免《まぬが》れる裏技《うらわざ》が俺たちにはあるのである。
サークル入場。
何でもサークルとやらに参加《さんか》をする者たちは開場前の準備《じゅんび》が必要《ひつよう》であるらしく、そのために特別に並《なら》ぶことなく専用の経路から中に入れるとか。
「……」
まあこのサークル入場をするためには遅《おそ》くとも九時までには会場に来なければならない(すなわち最低でも六時起きをしなければならない)ってのが、朝にけして強くない俺としては辛《つら》いところだが……それでもこの寒い中あのすさまじい行列に並ばなくて済《す》むってのを考えればこの上なくありがたい話である。
「えと、あちらから入れるんですよね? 夏こみの時と同じであそこに入り口が……」
春香《はるか》が手元の冬こみまっぷ☆さーくる編≠ニ見比べながらビッグサイトの一角《いっかく》を指差す。
表紙で不気味《ぶきみ》に笑う山形県|遊佐町《ゆさまち》名物アマハゲ(ナマハゲの親戚《しんせき》みたいなもん)が目印なそれは、毎度|恒例《こうれい》の春香お手製のガイドマップで、当然俺の分もあった。
「ん、そうらしいな」
信長《のぶなが》からあらかじめ聞いていた話では、サークル入場の場合でも入場する場所自体は一般の場合とほとんど変わらんらしい。途中《とちゅう》で出展者《しゅってんしゃ》パス(通行|手形《てがた》のようなもの)を確認《かくにん》をする受付があるらしいが、基本的《きほんてき》には普通《ふつう》に入り口から入っていくということになる。
「んじゃ行くか」
「あ、はい。何だか並んでいる方々にちょっとだけ悪い気もしますが……」
コーンの柵《さく》の向こう側《がわ》に大展開《だいてんかい》する行列をちらりと見て、春香が申し訳なさそうな顔をする。
まあそれはそうなんだが、世の中ってもんは得てしてそういうもんだからしようがない。夏は俺たちも並んだわけだし。
そう思うことにして、入り口へと向かったのだった。
というわけで足を踏《ふ》み入《い》れた二度目の東京ビッグサイト内だったが。
「おお……」
「わあ……」
夏コミで来た時とはまた違《ちが》った雰囲気《ふんいき》だった。
天井《てんじょう》が遥《はる》か上から見下ろすだだっ広いホールのあちこちに置かれた、まだ剥《む》き出《だ》しのままの事務机とパイプイス。その上に山積みにされた印刷所やイベントのチラシ。梱包《こんぽう》を解《と》かれたばかりの同人誌。会場の至るところでおそらくはサークルの関係者だろう人たちやスタッフとおぼしき人たちが忙《いそが》しそうに動き回っている。
あの時のようにホール全体が人で埋《う》め尽《つ》くされてるってことはないんだが、それでも妙《みょう》な熱気《ねっき》というか空気中を熱《あつ》くたぎるエナジーのようなものが充満《じゅうまん》していた。
「これがサークル入場か……」
ノリとしては何となく開店前のスーパーとか本番前日の文化祭とかに近い。ただざわめきや様々な人の行き来がある分それよりももっとパワフルな感じか。
「……」
「……」
しばし二人してその独特な空気に庄倒《あつとう》される。
夏コミの時が田舎《いなか》から上京してきたばかりのおのぼりさんの心境《しんきょう》だとすれば、今回は念願《ねんがん》叶《かな》って初のエキストラ出演するために初めてテレビ局を訪《おとず》れた若手劇団員みたいなもんだろうか。……いやどっちもどっちでワケノワカランたとえだってのは分かってるがさ。
そんな感じに二人で地蔵《じぞう》のようにフロア入り口に呆然《ぼうぜん》と立《た》ち尽《つ》くすこと数分。
「――って、こんなことしてる場合じゃないな。信長《のぶなが》に言われたサークルを探《さが》さんと……」
ここに来た本来の目的を思い出す。
今日はそもそもそのために朝も早くからやって来たのである。それを忘れちゃ本末転倒《ほんまつてんとう》だ。
「え、あ、そうですね。えと、サークルさんのお名前は『アルミ缶《かん》の上にある蜜柑《みかん》』さんでしたっけ? 場所は――」
春香《はるか》も手元の冬こみまっぷ≠ゥら顔を上げたり下げたりしながら、きょろきょろと辺りを見回して歩き始める。
そして、
「――あ、裕人《ゆうと》さん、あそこじゃないですか? あの真ん中にある……」
「お?」
春香が示した先に目をやる。
そこは事務机に囲《かこ》まれたスペースの一角《いっかく》で、机の横表面に小さくスペースナンバーと『アルミ缶の上にある蜜柑』と書かれたテープが貼ってあった。中では女の人が何やら作業をしている。
「おお、きっとアレだな。行こう、春香」
「はい」
春香とともにそのスペースへと近づいていき、
「あー、すみません」
パイプイスを脇《わき》に片付けていた女の人に声をかける。
「はい?」
「あの俺たち、信長――朝倉《あさくら》信長の紹介で手伝いに来たんですが……」
ここにいるということはおそらくこのサークルとやらの関係者なんだろう。なのでそう告《つ》げると女の人はにっこりと笑顔《えがお》になって、
「あ、はいはい。お話は信長《のぶなが》さんからうかがってます。ええと、確かお友達の綾瀬《あやせ》裕人《ゆうと》さんですよね?」
「あ、はい」
「で、そちらは――」
「は、はじめまして。あの、私は裕人さんのお手伝いで……」
春香《はるか》がおずおずと自己紹介をしかけて、
「乃木坂《のぎざか》春香さんですよねー? だいじょうぶです、ちゃんとうかがってますからー」
「え?」
そうあっさりと返してきた。どういうことだ? 春香がいっしょに来るってことは伝えてないはずなんだが……
すると、
「信長さんが仰《おっしゃ》ってました。綾瀬さんはおそらく乃木坂さんという女の子をお手伝いで連れてくるだろうって。だから分かったんですよー」
「……」
全てお見通しってことなのか? いやマジであいつはどこまで事情通《ストーカー》なんだよ……
普段《ふだん》は虫も殺さないような幼馴染《おさななじ》み(♂)の恐《おそ》ろしさを改めて実感していると、
「それじゃあとりあえずスペースの中へ入っちゃってくださいー。お仕事の大まかな内容とかを説明しちゃいますんでー」
「あ、はい」
「え、えと、分かりましたです」
女の人に招《まね》かれて事務机に囲《かこ》まれたスペース内へと入る。
中にはダンボールだのパイプイスだの色々と物が置かれていて案外《あんがい》狭《せま》く、三人が入ると結構《けっこう》キツキツだった。
「えーと、それじゃ改めまして私も自己紹介をー。北風《きたかぜ》美南《みなみ》っていいます。あっちで『えいりあんVSちょこれーとぱふぇ』というサークルをやってるんですけれど、信長さんに頼《たの》まれてお二人にサークル活動の基本を説明するためにやって来ましたー」
女の人――北風さんが通路を二つ挟んだ向こうにあるスペースを指差してぺこりと頭を下げる。
「え、てことはここのサークルの人じゃないんですか?」
「はいー。私は臨時《りんじ》の助《すけ》っ人《と》というか綾瀬さんたちへの説明係みたいなもので、もう少ししたら自分のスペースに戻らないといけないんです」
「そうなんですか……」
つまりは実際《じっさい》の販売《はんばい》その他もろもろのことは俺たちだけで切《き》り盛《も》りしなきゃならんってことか。こりゃあ思ったよりも大変《たいへん》そうだぞ。信長《のぶなが》め……
「さてさて、それで今日お二人にやっていただく大体の内容なんですが、ええと、売り子を始めとした一連のサークル活動全般ということになりますねー」
北風《きたかぜ》さんがそう言う。
「まずは十時の開場に向けて『新刊の内容|確認《かくにん》』、『ブースでの販売《はんばい》準備《じゅんび》』、『準備会への見本誌|提出《ていしゅつ》』などが目下《もっか》の課題《かだい》となります。そこまでの大まかな手順はこのプリントにまとめでおきましたから、見ておいてくださいー」
「あ、すいません」
「開場後に行うのは主に陳列《ちんれつ》した同人誌の販売で、それ自体は特に難《むずか》しいことはないです。値段《ねだん》は決められていますので、その通りに売ってくだされは大丈夫《だいじょうぶ》だと思います。あ、ちなみに『アルミ缶《かん》の上にある蜜柑《みかん》』さんの新刊はこちらに到着《とうちゃく》してますねー」
スペースの隅《すみ》に置いてあったダンボールを指し示す。そこには百冊くらいの色とりどりのカラフルな本がギッシリと詰《つ》まっていた。むう、これを売るのか……
「えーと、他に注意点としましてスペースにやって来た一般参加者にはなるべく全員声をかけるようにしてくださいー。お買い上げでない方にも一言何か言うのを忘《わす》れないでくださるといい感じです。コミュニケーションが大事ですから。それとお釣《つ》りは少し多めに用意しておくといいかもしれないですね。なくなると一般参加者の方にご迷惑《めいわく》をかけることになりますのでー」
「はあ……」
「あとはですねー……」
それからもサークルとしての基本ルール等について一通《ひととお》り説明を受けて。
「――えーと、だいたい伝えておかなきゃならないことはこんなところになりますねー」
十分後。
北風さんはにっこりと笑ってそう締めくくった。
「それでは私はもう戻らないといけませんが、何か困ったことがありましたらいつでも何でも遠慮《えんりょ》なく訊《き》きに来てください。助けになりますからー」
「あ、はい」
「ど、どうもありがとうございました」
「いえいえ。では失礼しまーす」
そう言って北風さんは自分のサークルスペースへと戻っていってしまった。
「行ってしまいましたね……」
「ああ」
北風さんの背中を見ながら春香《はるか》とつぶやく。
とりあえず泣いても笑っても目から血を噴《ふ》き出《だ》してもここから先は俺と春香の二人だけってことだ。
「――さて」
スペース内に置かれたダンボールとその他もろもろを前にして改めて気合を入れ直す。
何もかもが初めてなことばかりだが、とにかく目の前のことから一つずつ片付けていくしかあるまい。
「まずはスペース内での準備《じゅんび》か……」
「あ、は、はい、そうですね」
今まではまだ雰囲気《ふんいき》に庄倒《あっとう》されていたのか、いまいち心ここにあらずな感じだった春香《はるか》が緊張《きんちょう》したような表情でこくこくとうなずく。
「えと、新刊の到着《とうちゃく》は確認《かくにん》されてますから……ダンボールから出してしまってもよろしいのでしょうか?」
「ああ、いいんじゃないのか」
預《あず》かることになるその同人誌(カラフル)が今日の主役である。それがなけりゃあ始まらない。
「りょうかいしました。えと、それでは……」
春香はダンボールの中から本の束《たば》を取り出して、
「わあ、これが『アルミ缶《かん》の上にある蜜柑《みかん》』さんのどうじんし≠ネんですね……」
「む?」
「すごい……とってもお上手です。あ、『アルミ缶の上にある蜜柑』さんもはにトラ本なんですね。作者は片積利《かたつむり》舞々《まいまい》さんという方らしいです。『ダメっ娘《こ》メグちゃん」が滑《すべ》って転んできりもみ状に三回転してます……」
感動したように声を上げる春香の後ろから覗《のぞ》き込《こ》んでみる。
確かにその表紙イラストは、いつだったか『イノセントスマイル』の中で見た『ダメっ娘メグちゃん』とやらのようだった。とりあえず俺が見ても一目でそれと分かる。へぇ、うまいもんだな。
「そういえばこれって両隣のサークルに一冊ずつ渡《わた》すんだよな? その時にいっしょに挨拶《あいさつ》をするとかで……」
確か北風《きたかぜ》さんが説明の中でそう言っていた。何でもそれがマナーなんだとか。
「あ、そうでした。ご挨拶をしないと……」
春香はハッとしたかのように顔を上げ、
「で、でしたらそれは私にお任《まか》せください。は、初仕事です」
「お、そうか。んじゃ頼《たの》む。俺はその間に机の上に同人誌を並《なら》べとくから」
「は、はい」
大きくうなずいて春香《はるか》は隣《となり》のサークルへと向かうと、
「えと、お、おはようございます。あの、私たちは隣の『アルミ缶《かん》の上にある蜜柑《みかん》』の者なのですが……」
「あ、おはようございます。今日はよろしくお願いしますね!」
同じように隣で作業をしていた女子二人(メガネとツインテール)が元気に挨拶《あいさつ》を返してくる。俺たちと同年代くらいか、少し上くらいだろう。
「は、はい、こちらこそ。あの、それでよろしければこちらを……」
「わ、新刊ですね。ありがとうございます。うちのもよかったらどうぞ!」
「あ、わざわざすみませんです」
そんなことを話しながら無事《ぶじ》に交換《こうかん》し終えたかと思いつつ、
「あれ、もう一冊あるみたいですけど?」
「え?」
「ほら、そこの机の隅《すみ》にあるやつですよー」
女子の一人が春香の後ろを指してそう言った。
「あ、は、はい。今お渡ししたのは『アルミ缶の上にある蜜柑』さんの新刊になりまして、その、こちらは私たちの私的なもので、あの、私たちはただのお手伝いといいますか……」
しどろもどろに答える春香。
だが女子は全然気にした様子《ようす》もなく、
「そうなんですかっ。よければそっちも見せてもらえませんか?」
「え?」
「せっかくだから見てみたいなーと思って。あ、だめなら全然いいんですけど……」
「あ、いえ、そ、そんなことは……」
何だか妙《みょう》な流れになってきた。
「え、えと、こちらになります」
やがて女子たちの押しに負けたのか、春香がおずおずと自分の同人誌を差し出す。
一昨日《おととい》ほぼ一日かけて仕上げた努力の結晶。
ちなみに表紙には巨大なハンマーのようなモノ(マジカルフォルテッシモステッキ)を振《ふ》りかざした妖怪《ようかい》ガシャドクロ――もとい『ドジっ娘アキちゃん』が、何やら威嚇のポーズのようなものを取っている。
「……」
さすがにこれはいろんな意味でマズイか――
――と思いきや、
「わー、すごい。これってあれですよね、『はにかみトライアングル1st』に出て来る……」
「え?」
「当たってました? 私たちもはにトラは大好きでー」
「あ、は、はい、そうなんです!」
「!?」
思わず持っていた同人誌を床《ゆか》に落としそうになった。
――まさかとは思うが、あの妖怪《ようかい》ガシャドクロを『ドジっ娘アキちゃん』だと見抜《みぬ》けたってのか……っ!?
それは衝撃《しょうげき》だった。
頭を中身の詰《つ》まったドテカボチャで思いっきりぶん殴《なぐ》られたほどの衝撃だった。
うーむ、春香《はるか》のイラストは万人に対して妖怪画と認識《にんしき》されるものだと思っていたが、もしかしたら俺たちがそういった方面(アニメ・マンガ)に詳《くわ》しくないから分からんだけで、やはり見る人が見ればそれと分かるものなのか――
などと思いかけたその時。
「んー、でも見れば見るほどほんとすごいなー。はにトラに出て来る『悪魔』をここまでリアルに描くなんてー」
そんな声が聞こえてきた。
「うん、この死神タイプのやつとかすごい迫真《はくしん》の形相《ぎょうそう》だし、こっちの食人鬼《しょくじんき》タイプのもすごいなー。キバとかツメとかよく描《か》けてて……」
「…………あくま? きば? つめ? ???」
「…………」
……どうやら春香の妖怪画は、見る人によっては様々なモノに見えるらしい。ロールシャッハテストみたいなもんか。……全部人じゃない異形《いぎよう》の生物だってのがアレだが。
ともあれこれ以上はマズイだろう。
相互《そうご》理解《りかい》の致命的《ちめいてき》な齟齬《そご》が表面に出る前に俺は急いで前に出て、
「あ、あー、春香、ちょっといいか?」
「? はい、何かありましたか?」
「ん、まあちょっとな。こっち来てくれるか?」
チョイチョイと手招《てまわ》きをする。
「? 分かりました。すみませんです、それでは私はこれで――」
「あ、はいー。今日はがんばりましょうねー」
「はい、よろしくお願いします」
女子にぺこりと挨拶《あいさつ》をして春香がとてとてとこっちのスペースへ戻ってくる。
「あ、裕人さん、それでご用事は……」
「ん、いや、うん、それはもういいんだ」
「え……?」
ぽやんと不思議《ふしぎ》そうな顔をする春香《はるか》の頭をポンポンと叩いて。「あー、それよりな――」
「はい?」
……まあ春香のイラストについては色々あるんだが、春香自身のイラストに対する真《ま》っ直《す》ぐな思いはこの半年間でよく分かっているし、実際《じっさい》問題として技術的に成長の跡が見られないわけでもなくはないのだ。今の段階で水を差すのはアレだろう。鉄は熱《あつ》い内に打て……ってのは少しばかり違《ちが》うような気もするが。
ともかく、この場は烏龍茶《ウーロンチャ》を濁《にご》すことにしたのだった。
そういった具合に準備《じゅんび》の方は進んでいった。
スペースの整理や隣《となり》のサークルへの挨拶《あいさつ》以外にも、同人誌を並べていったり手書きのポップを立てたり見本の同人誌をスタッフに提出《ていしゅつ》したりと、やることはそれこそ越冬《えっとう》前《まえ》の働きアリ(一日三十六時間労働)のごとく色々とあったが、春香と二人でそれも何とかこなしていくことができた。
そして、
「終わり……ましたね」
「ああ……」
開場(十時)まであと十五分。
ようやく全ての準備を終えることができた。
「大変《たいへん》だったけど意外《いがい》と何とかなるもんだな。なせばなるっつーか……」
「はい、どり〜むず・かむ・とるぅ〜、ですね♪」
そんなことを言いながら互いに顔を見合わせる。
いくつか問題になるようなこともあったものの、分からないところは北風《きたかぜ》さんに訊《き》きなどしつつ、無事に乗り切ることに成功していた。
「まあまだ本番の売り子が残ってはいるが……」
とはいえ売り子自体はそんなに大変なものではないらしい。内容自体は普通《ふつう》のコンビニのバイトとかと同じ。まあ売りモンが人様から預《あず》かったモノである以上、最後まで気はまったくもって抜けんのだが。
隣では春香も、
「売り子さんですか……。売り子さんなんて名誉《めいよ》なお仕事をやらせていただくのは初めてのことなのでどきときしてもいるんですが……それでもやっぱり楽しみです」
緊張《きんちょう》した面持《おもも》ちの中にもどこか興奮《こうふん》を含《ふく》みつつ、きゅっと両手を握《にぎ》り締《し》めている。
その散歩デビューを前にした仔犬《こいぬ》みたいな表情を見てると、こっちまで成長途中のカイワレダイコン (スポンジ育ち)のようにやる気が出て来るから不思議《ふしぎ》だね。
「……頑張《がんば》っていこうな」
「はいっ」
春香《はるか》が元気よくうなずき、
『――お待たせいたしました。ただいまより、第八十回冬コミ三日目を、開催《かいさい》いたします』
それとほぼ同じタイミングで、そんなアナウンスとともに周《まわ》りからパチパチパチパチパチ……と柏手《はくしゅ》が巻き起こる。
「あ、始まるみたいです」
「だな」
祭りの始まりのような妙《みょう》な高揚感《こうようかん》。
周囲《しゅうい》にあるサークルもどこか慌《あわただ》しく動き出し始め。
そして冬コミとやらが始まる――
始まりは地響《じひび》きだった。
まるでタイマー付きの光の巨人がジャンケンでチョキしか出せないセミ顔の宇宙人と闘《たたか》っているかのような地響き。
ドドドドドドドドドドドドドド……と入り□の方から次第《しだい》に近づいてくる。
「あ、あの、裕人さん、これって……」
「ああ、まさかとは思うが……」
夏コミでの出来事《できごと》を思い出す。
開幕《かいまく》ダッシュ。
確か行列の先頭の集団が我先《われさき》に会場に入ろうとして入り口に殺到《さっとう》する足音の共振《きょうしん》が起こす脅威《きょうい》の現象《げんしよう》。
おそらく、というか間違《まちが》いなくアレだろう。
あの時は俺たちも行列の中に入っていたせいかイマイチ実感が湧かんというか森に隠れた木の葉みたいな感じだったが、こうして待っている立場になるとその凄《すご》さがよく分かる。これはほとんど人知《じんち》を超《こ》えた領域《りょういき》だ。
やがて先頭の集団が姿《すがた》を見せた。
ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドッ!!
百人はゆうに越える大群《たいぐん》が、必死《ひっし》の形相《ぎょうそう》で会場内を脇目《わきめ》も振《ふ》らず走り抜け館の端《はし》へと一直線に向かっていく。
その間|僅《わず》か一瞬《いっしゅん》。
続いてその後を追《お》うようにしてさらにいくつものグループが、
ドドドドドドドドドドドドドッ!
ドドドドドドドドドドドドドドドドドドッ!
ドドドドドドドッ!
やはり荒野《こうや》をひた走るバッファローのように走り抜けて行った。
「……」
「……」
すげぇな……
もはやそんな台詞《せりふ》しか出て来ない。
揺《ゆ》れる館内。
巻《ま》き起《お》こる砂挨《すなぼこり》。
あちこちから「走らないでくださーい!」というスタッフの声が聞こえるものの、だれ一人として聞いちゃいない。
隣《となり》の春香《はるか》もイギリス名物火だる祭りを目《ま》の当《あ》たりにした雪国の人みたいな顔で目の前を現在進行形で走り過ぎていく人の群《む》れを呆然《ぼうぜん》と見つめている。
最初はほとんどがそんな光景《こうけい》ばかりだった。
目に入ってくるのは、館内に入ったにも関《かか》わらずそのまま中を通り抜け外へと一目散《いちもくさん》に向かう集団のみ。中で足を止める者はほとんどと言っていいくらいに存在《そんざい》しない。
しかし何だって誰《だれ》も彼《かれ》も外に向かって行くんだ? まさか全員が全員トイレってわけではあるまいし、だとしたらなんかオープニングイベントでもやってるのか? そのことを疑問に思っていると、
「あ、えと、みなさんきっと大手≠フサークルさんに並《なら》んでらっしゃるのですね」
「大手?」
ようやく我に返ったのか、春香がそんなことを言った。
「は、はい。『ねこばすてい』を始めとして、人気のある大手のサークルさんのどうじんし≠買うためには外に並ぶことになるみたいです。その方が整理しやすいですし、館内だと行列が長くなって混雑《こんざつ》を呼び起こしてしまうそうですから……」
「ナルホド……」
つまりはそういうことらしい。
すなわちあの集団は全て整理された行列になるってことか。なんつーか色んな意味で合理的というか現実的だな……
とはいってもそんな状態がいつまでも続くわけでもなかった。
やがて開場から三十分ほどが経過《けいか》し館内の雰囲気《ふんいき》も少しずつ落ち着いてくると、次第《しだい》に俺たちがいるスペースの周《まわ》りにも人の姿《すがた》が見えるようになってきた。
「いらっしゃいませー、『夜更《よふ》かし悪魔《あくま》ピロウちゃん』の新刊出てますよー」
「こちら一冊百円ですー、ぜひぜひ見ていってくださーい」
「オマケで壁紙《かべがみ》データが入ったCDが付いてきまーす!」
それに伴《ともな》い辺《あた》りのサークルからも様々な声が飛《と》び交《か》う。
年末の商店街におけるバーゲン合戦《がっせん》みたいな感じだ。
「む、俺たちも頑張《がんば》らんとな」
「あ、はい。そうですね」
周《まわ》りに負けないようにこっちも呼び込みを開始することにした。
「あー、いらっしゃいませー」
「えと、こちら『アルミ缶《かん》の上にある蜜柑《みかん》』の新刊です。どうぞご覧《らん》になっていってください」
二人して通り過ぎる人たちに声をかけていく。
さすがに文化祭でのコスプレ喫茶《きっさ》、クリスマス前のメイド喫茶と接客業《せっきゃくぎょう》を経てきただけあって、春香《はるか》の呼び込みはなかなかに堂に入ったものだった。
大きくはないがよく通る澄《す》み切《き》った耳心地《みみごこち》のいい声。
見本用のサンプル本を広げて中身がよく見えるようにしながら、一生懸命《いっしょうけんめい》な顔で通路を行く人々に呼びかけていく。
そんな春香のエンジェルウィスパー(囁《ささや》いてないが)もあってか、
「あ、すいません、見てみてもいいですか?」
「これは、ジャンルは何になるんですか?」
「一冊もらえますか?」
『アルミ缶の上にある蜜柑』のスペースにもパラパラと人が集まってくるようになった。
三十人通りかかれば一人が立ち止まってくれて、さらにはその中の五人に一人くらい手に取ってくれて、その内の三人に一人くらいが買ってくれる。
それなりの繁盛《はんじょう》振《ぶ》り。
ただ、けして忙《いそが》しくて目が回るというレベルではなかった。
どうやら俺たちが任《まか》されたこのサークルはいわゆる有名どころではなく、どちらかといえばまだ駆《か》け出《だ》しの新興《しんこう》サークル(?)であるらしく、このサークルを第一目標とする固定ファンや行列を作ってまで買いたいという熱烈なファンはいないようであった。
まあさっき春香の説明にあったように、ここは場所からして大手が配置《はいち》されるという館の端《はし》からはかけ離《はな》れている。それから考えればさもありなんってところか。ちなみにまったくもってどうでもいい知識だが、大手のために用意されたフロアの端のことを壁《かべ》=Aその他のための事務机に囲《かこ》まれた場所のことを島中《しまなか》≠ニいうとか。
「……」
……って、何で俺はこんなに冬コミとやらについて詳《くわ》しくなってるんだろうね。
壁《かべ》≠セとか島中《しまなか》≠セとか……アキハバラの地理についてソラで言えるようになったことといい、本格的《ほんかくてき》に底《そこ》の見えない泥沼《とろぬま》にヒザ上三十センチくらいまで突っ込み始めてる気がしてならない。てかもはや手遅《ておく》れか……?
「……」
まあそのヘンについては要一考《よういっこう》の余地《よち》はあるものの。
とりあえず春香《はるか》とやる初めての共同作業(なんか意味深《いみしん》だな……)は楽しくもあった。
「あ、裕人《ゆうと》さん、追加《ついか》の同人誌、こちらに置いておきますね」
「ん、おお」
「すみませんが裕人さん、お釣《つ》りをお願いします。えと、五百円玉で」
「了解《りょうかい》」
「あの、そちらのポップが曲がっていますです。できれば直していただけると……」
「ん、分かった」
「あ、裕人さん、汗《あせ》が流れてきてます。――はい、取れました」
「あ、サ、サンキュ」
「いいえ、どういたしましてです♪」
狭《せま》いスペース内で春香と交《か》わされるそんなやり取り。
何だか二人の間の距離が近い(物理的《ぶつりてき》にも精神的《せいしんてき》にも)というか、連帯意識《れんたいいしき》が高まっていくというか……どことなく同居《どうきょ》したての新婚家庭みたいな感じだね。
「えへへ、売り子さんって楽しいですね、裕人《ゆうと》さん」
「ん、ああ」
「まるでいっしょにお店をやっているみたいです。いつか裕人さんと二人で本当にサークルをやれたらいいなあ……」
無邪気《むじゃき》な顔で嬉《うれ》しそうにそんなことを言ってくれる春香《はるか》。
「……」
うーむ、正直最初はこんな売り子だ何だのの仕事は少し面倒《めんどう》だと思ってたんだが……もしかしたらこれはこれでかなりの役得《やくとく》なのかもしれんな。
で、売り子作業を始めて一時間ほどが経過《けいか》した。
「ふう……」
最初は慣《な》れない売り子で目の前の仕事をこなすだけで精一杯《せいいっぱい》だったが、時間が経つにつれ段々《だんだん》と要領が《ようりょう》分かってきて、この頃になると少しずつだが周《まわ》りの様子《ようす》に目をやる余裕《よゆう》が出て来た。
「……」
両隣《りょうどなり》や通路《つうろ》を挟《はさ》んで向こう側《がわ》にあるサークル。
通路を埋《う》め尽《つ》くし移動《いどう》する大量の参加者《さんかしゃ》に、よく見てみれば会場の各所にいて色々と動き回っているスタッフたち。
どこもかしこも大忙《おおいそが》しといった風情《ふぜい》である。
そして相変《あいか》わらず、道行く人々には様々な格好《かっこう》をした者たちがいた。
カラフルなファンタジー服、オリジナルのセーラー服、定番のメイド服。
日本刀を持った紅《あか》い髪の制服少女(宝石のペンダント付き)なんてのもいる。
いやなんつーかある意味|壮観《そうかん》だね。夏コミやらアキハバラ探索《たんさく》やらでだいぶこういったものにも慣《な》れたつもりでいたが、それでも思わず目で追《お》っちまう。
しばし何とはなしにそれらの風景《ふうけい》を眺《なが》めていて、
「……ん?」
なんか、妙《みょう》なモノを発見した。
スペースから三十メートルほど離れたシャッターの脇《わき》にぽつんと立つ丸っこいシルエット。
「アレは……」
ハムスター、だよな?
つぶらな瞳《ひとみ》に丸い耳。ただしただのハムスターではなく、メガネをかけて腰元にチェーンソーを携帯《けいたい》した着ぐるみハムスター。胸の部分に『どっ突き@はむ次郎』だとか書いてある。
「……」
ちょっと待て、アレって……
「……」
「……」
目が合った。
「……」
「…………ぽっ」
いや何でそこで照《て》れたように顔を赤らめますか……
両手(肉球《にくきゅう》付《つ》き)を頬《ほお》に当てて恥じらうハムスターにある意味|愕然《がくぜん》としていると、
「あ〜、だめだよ葉月《はづき》さん、そんなとこでぼ〜っとしてちゃ!」
そんな声が聞こえてきた。
「いくら変装《へんそう》しているからっていけませんよ〜。メイドは隠密《おんみつ》行動が基本なんですから〜」
「――(こくこく)」
続いてどこかで見たようなツインテール娘とにっこりメイドさん(私服)、ちびっこメイド(やはり私服)がばたばたとハムスターに駆《か》け寄《よ》ってくる。その手にはそれぞれ最新型のビデオカメラ(ハードディスク・DVDダブル録画|可能《かのう》)が握《にぎ》られていた。
「ほら、行くよ〜。こっちこっち」
「あちらに絶好《ぜっこう》の撮影《さつえい》ポイントがありましたから、そこからじっくり見守ればよろしいかと〜」
「――(こくり)」
三人はハムスターのシッポを引《ひ》っ張《ぱ》ると、そのままいそいそと人ゴミの中へと消えていった。
「……」
……そうだったな。
よく考えてみりゃあ同人誌を作ってるのを間近《まぢか》で見てたわけだし、あの好奇心《こうきしん》旺盛《おうせい》すぎて水蒸気爆発《すいじょうきばくはつ》を起こしてるようなツインテール娘たち(今回は一人増)がおとなしくしているはずがない。
「…………」
また後でこの時の記録を見せられて散々《さんざん》からかわれるんだろうな……と少しばかりメランコリックな気分になりつつ、また同時に実は葉月さんは着ぐるみ好きなんじゃねえかっていう疑念《ぎねん》も抱《いだ》きながら、とりあえずは何も見なかったことにして売り子仕事に戻《もど》ったのだった。
さて、そんな感じに(?)売り子作業はそこそこにうまくはいっていたのだが……
問題が一つだけあった。
問題というか、微妙《びみょう》にして繊細《せんさい》な懸案《けんあん》事項《じこう》。
「……」
それは春香《はるか》の同人誌(『H&Y』価格:百円 総部数:十部)である。
着実に数を減《へ》らしていく『アルミ缶《かん》の上にある蜜柑《みかん》』の同人誌の横で、春香のものだけが売れ残ったキャベツの葉っぱのようにもっさりと山を作っていた。一向《いっこう》に売れる様子《ようす》がない。
春季も口にこそ出さないが気にしているようで、同人誌の前を人が通る度《たび》に、
「……(ぴくん)」
と反応《はんのう》していたり、
だれかが立ち止まった時には、
「……(どきどきどきどき)」
とそわそわと落ち着かない素振《そぶ》りを見せていたり、
その中の一人が手に取ってみようとした時なんかには、
「……(がたん!)」
とイスから立ち上がって周囲《しゅうい》のお客を驚《おどろ》かせたりと、その反応は実に分かりやすくもあった。
まあ気持ちは分からんでもない。
何といっても初めて作った自分の同人誌だし、売れてほしいと思うのが人情ってもんだろう。それはよく分かる。分かるんだが……
「……」
だが現実は厳《きび》しく。
今のところ、一冊もお買い上げまでには至っていないってのが実情である。
手に取ってくれる人まではいるんだが、その先までにはなかなか進んでくれない。
いかにそうでない部分もあるとはいえ、やはり基本は妖怪《ようかい》ガシャドクロや怪人《かいじん》赤マントである。一般ウケするのはなかなかに難《むずか》しいっつーか……
「……」
……うーむ、何とかしてやれんもんだろうか。
微妙《びみょう》にしょんぼりとしているように見えるお嬢様inサークルスペースを見ながら思う。
春香もあんなに頑張《がんば》ったんだし、完売《かんばい》御礼《おんれい》とはいかんまでもせめて一冊くらいは売れてほしいもんなんだが……
と、そんなことを思いはするものの具体的に何をどうすればいいのかなんてことはこういう方面には疎い俺にはさっぱり分からずに、
「むう……」
目の前に鉄壁《てつぺき》のようにそびえる春香イラスト集(八割|妖怪《ようかい》画《が》)を前に脳《のう》を捻《ね》じっていると、
「やっほー、裕人、がんばってるー!」
「!?」
いきなり聞《き》き慣《な》れた声が耳に飛び込んできた。
やたらとでかくムダに通りまくる声。
混雑《こんざつ》しまくって二酸化炭素が充満《じゅうまん》したホールの中でもクッキリハッキリと響《ひび》いてくるこのファンキーボイスの持ち主は、控《ひか》えめに言って俺が知る限《かぎ》り一人しかいない。
そしてその予想をまったくもって裏切ることなく、
「やー、元気ー? うんうん、なかなか売り子姿《すがた》も様《さま》になってるねー。まるで江戸時代に農村から一山いくらで買われた激安《げきやす》奉公人《ほうこうにん》を彷彿《ほうふつ》させるみたいなー」
「信長《のぶなが》……」
人ゴミの向こうからブンブンと手を振りながら十年末の幼馴染《おさななじ》み(♂)が姿《すがた》を現した。
「どう、ちゃんと仕事できてるー? まあ裕人だから何だかんだで大丈夫《だいじょうぶ》だと思うけど、いちおう気になってたっていうか心配《しんぱい》で――」
「――いいから、ちょっとこっちに来い」
「んー?」
とりあえず色々な意味での不安材料を即座《そくざ》に隔離《かくり》すべく、スペースから少し触《はな》れた春香《はるか》の視界《しかい》に入らない場所へと引《ひ》っ張《ぱ》って行く。
「どうしたのー、そんなツチノコでも見つけたみたいな顔でー。何かイイコトでもあったー?」
「どうしたもこうしたもな……。てか、何しに来たんだ?」
そもそもこいつ、今日は忙《いそが》しくてこっちには手が回らないからとかで俺にサークルを頼《たの》んだんじゃなかったのか?
根本的《こんぽんてき》な質間を投げかけると信長はあっさりと、
「何しに来たって、そんなの決まってるじゃんー、様子を見にだよー。少しだけヒマができたからねー。任《まか》せちゃった以上はやっぱり気になるし、大丈夫かちょっとだけ心配だったんだけどー……」
そこでニンマリと笑うと、
「うん、パッと見た限りいい感じそうだったねー。新刊も既刊《きかん》もけっこう売れてたみたいだしー。さすが裕人、僕が見込んだ三ヶ月に一人の逸材《いつざい》だけあるよー。鍛《きた》えればかなりモノになるんじゃないかなー。どう、本格的にサークルデビューしてみるつもりとかないー?」
「……」
三ヶ月に一人って微妙《びみょう》な年数だな。つーかそもそもそんなこと(逸材)言われてもあんま嬉《うれ》しくねえ上に今は俺の行《ゆ》く末《すえ》より春香の同人誌の行く末の方がよっぽど気になるんだが――
「……ん?」
――と、そこで一つ思いついた。
売れない春香の同人誌と目の前にいるマイペース極まりないアキバ系幼馴染み。
これはある意味割れナベに綴じブタな組み合わせかもしれん。
「信長、ちょっと待っててくれ」
「んー?」
首をかしげる信長《のぶなが》をそこに引き止め一度スペースまで戻《もど》り積まれたままの『H&Y』を一冊抜き取ってくると、「なあ、この同人誌、どう思う?」
それを信長に渡《わた》して、そう訊《き》いた。
色々と性格面に問題はあるが、こいつはこういった方面にはこれ以上ないくらい博識《はくしき》である。何か意見が聞ければ、もしかしたら現状|打破《だは》のきっかけを掴《つか》むことができるかもしれん。
「あ、これが裕人《ゆうと》たちの同人誌かー。ふーん、どれどれー……」
信長はしばしパラパラと中を眺《なが》めて、
「……どうだ?」
「んー、そうだねー。正直に言っちゃえばまだまだなレベルかなー。基本の線とかはけっこうしっかりしてるんだけど、まだどこか筆に迷いがあるっていうかさー。塗《ぬ》りもいまいちだしー」
真面目《まじめ》な顔でそう言った。
「まあ技術的な部分は仕方ないとしても、あとは構成《こうせい》も少し甘いかなー。イラスト集かもしれないけど、ページの順番とかにもう少し関連性を持たせると分かり易いし見栄《みば》えもよくなると思うよー」
「そうか……」
アキバ系を極《きわ》め尽《つ》くしてほとんど新世界の神みたいになってるこいつがそう言うのならそうなんだろう。だとすればやはりこれを売るのは難《むずか》しいのか……
微妙《びみょう》に消沈《しょうちん》する俺に、
「でもねー、一つだけポイント高いところがあるかなー」
「え?」
「ここにいるこれって『プリンセスナオちゃん犬ヴァージョン』だよねー? このキャラってマイナーであんまり描いてる人がいなくてさー。オリジナルプリンセスヴァージョンとかマジカルウィッチヴァージョンを描いてる人はけっこういるんだけと、やっぱり犬の方は人気がいまいちなのかなー、メッタに見ないんだよねー」
「……そうなのか?」
よく分からんが。
「うんー。だけど僕としてはやっぱりこっちも描いてこその『プリンセスナオちゃん」だと思うんだー。他にもそう思ってる人はいると思うよー。やっぱり何だかんだで同人誌に一番|必要《ひつよう》なものはそのキャラへの愛だからねー。そこに愛があれば自然と全てのヴァージョンを描きたくなるっていうかー。そういう意味でいうとこの本はばっちりかなー。至《いた》るところに思い入れが感じられるしー。――で、この『プリンセスナオちゃん』なんだけどさー、知ってるー?実は裏《うら》設定《せってい》があってー……」
「……」
「プリンセスっていうくらいだから当然お姫様なんだけど実はその出自《しゅつじ》に秘密《ひみつ》があってねー。それには魔法の国のシステムも関わってくるんだけどさー。それがまた一筋縄《ひとすじなわ》じゃいかなくてついには『悪魔』とかの存在《そんざい》理由にも関連してくるんだよー。でもそれで終わりじゃなくてねー、さらにはー……うんたらかんたら…………」
「…………」
「……なんたらかんたら……以下略……」
「…………」
後半はいつも通りに自分の世界に入りやがったアホ幼馴染《おさななじ》みをどこで強制サルベージしようか思案《しあん》していると、
「あ、こんなところに! いたいた、見つけましたよ、信長《のぶなが》さん!」
今度はそんな声が耳に飛び込んできた。
「んー?」
慌《あわ》てた様子《ようす》でやって来たのはジャンパーを着込んたスタッフらしき人たち。
信長の姿《すがた》を目に留《と》めると、
「困りますよ、突然《とつぜん》いなくなられちゃ!」
「次はパプアニューギニアからいらした親善《しんぜん》大使との会合が控《ひか》えてるんですから!」
「冬コミ特別外部|監査《かんさ》委員としてもう少し自覚《じかく》を持ってもらわないと……」
口を揃《そろ》えてそんなことを言った。特別外部監査委員……?
「あ、ごめんごめんー。ちょっと大事な用があってさー。うん、今すぐに行くからー」
その声に信長はあははーと笑ってにこやかに返事をすると、
「んー、そういうことだからさー。僕はもう戻らないとー。本当ならもう少し『プリンセスナオちゃん』についてじっくり語りたかったところなんだけどー……」
「……」
いやそれは全力でいらん。
「じゃあまたねー。裕人《ゆうと》も乃木坂《のぎざか》さんとがんばって――って、そうだ」
「ん?」
そこで信長は何かを思い出したかのように振《ふ》り向《む》いて、
「あのさー、いっこ確認しときたいんだけど真尋《まひろ》って来てないよねー?」
「真尋ちゃん?」
何だってそこで彼女の名前が出て来るんだ?
「んー、実は真尋も荷物持ちその他雑用で連れてきたんだよー。最初はお風呂を前にしたネコみたいに嫌《いや》がってたんだけど裕人が売り子をやってるっていったら目の色変えてさー。昨日の夜からすごい気合いの入れようだったんだよー。でも途中《とちゅう》で迷子《まいご》になったみたいで行方《ゆくえ》不明になっちゃってさー。てことは今は西館でも彷徨《さまよ》ってるのかなー?」
「……」
このカオスな混雑《こんざつ》の中で迷子《まいご》になるなんて、相変わらずアンラッキーだな、真尋《まひろ》ちゃん……
「ま、来てなかったんならいいやー。それじゃまたねー」
そう言うと、信長《のぶなが》はスタッフの人たちと共に人ゴミの中へと消えていった。
「……」
相変わらずヤツだけは分からん……
そんなこんなで開場から二時間ほどが経った。
時刻にして正午を少し回ったところ。
俺と春香《はるか》は相も変わらずサークルスペースでせっせと売り子|作業《さぎょう》に勤《いそ》しんでいる――と思いきや、
「相変わらずすげぇ人だな……」
「そうですね……何人くらいいるんでしょう?」
なぜか冬こみまっぷ≠片手に会場内を二人|並《なら》んで歩いていた。
「これだけ広いスペースにこれだけの人数です。もしかしたら一万人くらいかも……」
「もっとかもな。ここってまだ隣《となり》の館もあるんだろ? だとしたら倍くらいいくんじゃないか」
「あ、そうでした」
交わされるのはそんなまったりとした会話。
空気がゆっくりと流れているというか、つい前までの色々と慌《あわただ》しい時間とは大違《おおちが》いである。
さて、サークルスペースで売り子をしていたはずの俺たちが何だってこんなことをしていられるのかというと理由は簡単《かんたん》で。
三十分ほど前、ひとまず『アルミ缶《かん》の上にある蜜柑《みかん》』の同人誌|販売《はんばい》の方は落ち着き、ブースで売り上げの確認をしながら一息ついていたところで北風《きたかぜ》さんがやって来て、
『朝からずっとお二人だけで大変《たいへん》ですよね。なのでそろそろ休憩《きゅうけい》に行ってきたらどうですかー? その間ブースの方は私が見ておきますからー』
と言ってくれたからである。
正直まだ春香の同人誌(売れてない)の問題も残っていたし、基本的には『アルミ缶の上にある蜜柑』とは関係のない北風さんにそんなことまで頼《たの》むのは悪い気もしたが、実際《じっさい》のところ朝に入場してから働きっぱなしでロクにキジ撃ち(ニホンキジとか)もしてないのも事実である。また北風さんの方はもう同人誌を完売してしまって比較的《ひかくてき》時間が空いているとの話だったので、少しだけ厚意《こうい》に甘えることにしたのだ。
「あ、裕人《ゆうと》さん、あっち見てください。『富士壷機械《ふじつぼまっすぅぃ〜ん》』です」
「ん?」
「わあ、とっても長い行列です。新刊、出ているのでしょうか……? あ、あっちには『Passing Rim』、こっちには『月華《げっか》茶房《さぼう》』が……」
あちこちに視線《しせん》をぱたぱたと泳がせながら春香《はるか》が目をきらきらと輝《かがや》かせる。
その表情はまるで辺《あた》り一面のお花畑を前にしたお姫様のようで……
「……」
うーむ、やっぱ休憩《きゅうけい》を取らせてもらってよかったな。自分からは言おうとしなかったものの、やはり春香も冬コミ会場を回りたかったんだろう。元々はそれが目的だったわけだし。
幸せそうな春香を和《なご》やかな気分で見つつ、
「それじゃあどこに行くか? 俺はどこでもいいぞ。春香の行きたいところに気が済むまで付き合う」
「い、いいんですか?」
「ああ」
「わ、どうしよう、『修羅場《しゅらば》計画』もいいし、『GRA[#正確を期すために追加w]NADA LEVEL I[#ローマ数字]X[#の9の意]』も行きたいですし、『とぅいんくるは〜と。』も忘れては――あ、でも」
「ん?」
そこで春香が十二時が近づいていることに気付いたシンデレラのような顔になる。
「でもそこまでの時間はないかもです……。今回はサークルさんのお手伝いなので、あまりのんびりとするわけには……」
「む……」
それは……確かにそうだが。
「なので今回はお買い物は諦めます。残念《ざんねん》ですけれど……」
「あー、だけど春香は色々回りたいんだろ? せっかくここまで来たわけだし……」
「え、その、それは、でも……」
うつむきながら言葉《ことば》を濁《にご》す。春香の性格上表に出すことはないだろうが、心の底《そこ》ではニンジン畑に招かれたウサギのように自由に冬コミを跳《は》ね回《まわ》りたいに決まってる。
なので俺はこう提案《ていあん》した。
「――ならこういうのはどうだ、春香が一番行きたいところに一つだけ行くってのは」
「え……?」
「確かに全部を回るにはアレかもしれんが、一つくらいならそこまで時間も取られんだろ。せいぜい三〜四十分くらいだ」
「それは、で、でも……」
「どうだ? それくらいはやってもバチは当たらんと思うぞ」
「あ、え、ええと……」
春香《はるか》はしばらく迷っている様子《ようす》だったが。
「…………い、いいのでしょうか?」
「ん?」
「そ、その、そんな私のわがままを通してしまって……」
「いいも何も」
こんなのはワガママの内にも入らん。
俺がうなずくと春香は、
「あ、ありがとうございますっ。ほ、ほんとに嬉《うれ》しいです……」
遠慮《えんりょ》がちにお礼を言いながら小動物みたいに何度も何度もぴょこぴょこと頭を下げた。
うーむ、相変わらず控《ひか》えめというか慎《つつ》ましいというか……今回に関しては春香は俺の都合《つごう》に巻き込まれたカタチなんだから、もう少しくらいムチャを言ってもいいとは思うんだがね。
ともあれやることは決まった。
「それじゃあ行くか。――あ」
春香の目指《めざ》すサークルに向かって歩き出しかけて、あることに思い当たり立ち止まる。
「? どうしました?」
「あー、いや」
「?」
「……その、いちおうな」
少しばかり躊躇《ためら》ったものの右手を差し出す。いやこれはあれだ、ただこれだけの混雑《こんざつ》だからはぐれないようするためだけで、他意《たい》はないんだぞ、うむ。
それを見た春香は少しの間だけ初めて地上を見た人魚姫みたいにきょとんとしていたが、やがてすぐにその意味に気付いてくれたのか、
今回は夏コミの時のように「わん」とか「おかわり」だとかましてや「きゃいん」などと言うこともなく、
「…………よ、よろしく、お願いします」
顔を少し赤らめながら、そっと握《にぎ》り返《かえ》してきてくれた。
「……」
「……」
手の先に伝わるやわらかい感触《かんしょく》。
「じゃ、じゃあ行くか? あっちでいいんだよな?」
「は、はい、あっちですね」
そのままどこかぎこちなく歩き出す。
……何だろうね?
シチュエーション自体は夏コミの時と変わらんはずなのにアレよりも妙《みょう》に気恥《きは》ずかしいというかヘンに緊張《きんちょう》するというか、繋《つな》がれた手がどこかじんわりと温《あたた》かな感じだ。
「……」
……これはきっとあれだ、夏に比べて気圧《きあつ》が高めな冬の気候《きこう》が影響《えいきょう》して心臓及び全身の自律神経《じりつしんけい》が異常《いじょう》活動をしてるんだろう、うむ。
とりあえずそう思って、自分を納得《なっとく》させることにした。
で、数多《あまた》のサークルの中から春香が選んだ先は、『ねこバス亭』だった。
「またすげぇ行列だな……」
いわゆる壁《かべ》≠フ大手≠ナあり前回も人がビッシリと詰《つ》まりまくったフランクフルトウインナーみたいな超大行列だったそこは、今回もそれに違《たが》わず肉質の良い最高級生ハムのような賑《にぎ》わいを見せている。
「ここが最後尾《さいこうび》か……」
「あ、はい。そうだと思いますです」
春香とうなずき合いつつ、前の人から「最後尾だにゃん♪」と書かれたカンバンを受け取って列の一番後ろ(館外)に付く。
ちなみに列の長さは三十メートルほどで、男女を問わず多くの参加者《さんかしゃ》が並《なら》んでおり、中には外国人らしき人たち(しかもやたらと男前ばかり)の姿《すがた》もボチボチと見られる。そういやあ会場のあちこちでも色々なお国の人たちを見かけたし、こんなところにまで国際化の波が満《み》ち潮《しお》のように押し寄せてきてるんだな。
そんなことを何となく考えつつ、行列の流れに身を任《まか》せていく。
行列の進み具合は、ほとんど牛歩《ぎゅうほ》というか象歩《ぞうほ》のレベルだった。
「なかなか進まんな……」
「ええ、人気サークルさんですから……」
まあ行列自体には前回の体験でだいぶ慣《な》れてはいたし、今回はこれが初行列である。単純《たんじゅん》な体力的にはまだまだ大丈夫《だいじょうぶ》な感じであったのだが。
ただ一つだけ問題があった。
それは。
「……」
ヒュゴオオオオ……!
身体の芯《しん》にまで突き抜けてくるような寒さだった。
十二月という季節的条件に加え埋立地《うめたてち》という地理的条件も関係しているのか、吹き付ける海風がとにかくこの時期の日本海の荒波《あらなみ》のごとく(いやここは東京湾なんだが)冷たく肌《はだ》に突《つ》き刺《さ》さってくる。サークルスペースにコートを置いてきちまったのもかなり痛《いた》い。てか本気でさみぃ……
少しでも状況改善するため携帯《けいたい》のマナーモードのように身体を小刻《こきざ》みに動かし自家発熱《じかはつねつ》に勤《いそ》しんでいると、
「あの裕人《ゆうと》さん……だいじょぶですか? 何だかとっても寒そうですが……」
春香《はるか》が心配《しんぱい》そうな顔で声をかけてきた。
「ん、あー、まあ少しな」
本当はメチャクチャしんどいんだが、とりあえず割と平気そうな春香の前で簡単《かんたん》に弱音《よわね》を吐《は》くわけにもいかん。ハチドリの涙《なみだ》ほどの男の意地《いじ》ってやつだ。
すると春香は、
「あ、だったらこれはいかがですか?」
「え?」
「え、えと、んしょ、んしょ……」
そう言って手に持っていたバッグから、かわいらしいピンク色の水筒《すいとう》を差し出してきた。
「温かい紅茶です。きっと会場は寒いのではないかと思って、作ってきたのですが……」
「おお……」
思わず声がもれる。まさに渡《わた》りに高遠ジェットフェリーってところだ。
さすがの春香の気遣《きづか》いに感激《かんげき》しつつありがたくいただいていると、
「あ、え、えと、実はまだあるんです」
「ん?」
「軽食も作ってきちゃいました。その、売り子さんのお仕事で忙《いそが》しいと思いましたので、軽くつまめるものをと……」
こちらもやはりピンク色の紙袋をおずおずと差し出してくる。
そこに入っていたのは、真っ白な雪に包《つつ》まれたかのような純白のスイーツ。
「『サロン・ディベール』といって、冬の祭典《さいてん》という意味のスイーツなんです。銀果堂《ぎんかどう》の人気商品で、作り方を教えてもらったのを私が少しアレンジしたものなのですが……何かをしながらでも食べられるし、忙しい今日のような日にぴったりだと思って」
「……」
なるほど、冬の祭典。確かにこの冬コミとやらにこれ以上ないくらいにベストマッチしてるネーミングだな。見た目も冬っぽいし。――などと納得《なっとく》していると、
「と、というわけですので――はい、あ〜んしてください」
「え?」
「あ、あ〜んです。その、お口を開いてもらえると……」
一口大の『サロン・ディベール』を細くて長い指でちょこんとつまみながら、春香がそんなことを言ってきた。
「……」
……いや、ちょっと待て。
これはいくら何でもマズイだろう。そりゃあ今までも何だかんだで何度も魅惑《みわく》の「あ〜ん」体験《たいけん》をこなしてはきた。だがそれはあくまで箸《はし》だとかスプーンだとかの媒介《ばいかい》を用いた間接的「あ〜ん」であり、今回のように直接|春香《はるか》の手から口に向かってなされる直接的「あ〜ん」はこれが全くの初めてである。同じ「あ〜ん」でも破壊力《はかいりょく》と致死力《ちしりょく》とが段違《だんちが》いだ。
言ってみれば前者がただの汎用《はんよう》特殊《とくしゅ》警棒《けいぼう》で後者が感電《かんでん》機能《きのう》付《つ》きの最新型スタンロッドみたいなもんか。
だがいかに食らえば悶絶《もんぜつ》必至《ひっし》の究極《きゅうきょく》致死《ちし》兵器とはいえ、一生懸命《いっしょうけんめい》な目で「あ〜ん」をしてくる春香を前にして、断《ことわ》るってのもまたできそうにない。
「……」
……しょうが、ねえか。
まあ「あ〜ん」自体は拒否《きょひ》するどころかむしろ全身《ぜんしん》全霊《ぜんれい》で歓迎すべきことだ。ここはもうそういうもんだと割り切っちまおう。
「わ、分かった。ア、アーン……」
というわけで大人しく口を開けた俺に、
「あ、あ〜ん……」
春香が初めてウマにニンジンを与える幼稚園児のようにぎこちない手付きで『サロン・ディベール』を差し入れていく。
ちなみに味なんてちっとも分からなかった。
まあそういった感じに、紅茶を飲んだり新タイプの「あ〜ん」体験をしたりしつつ行列をこなしていき。
「裕人《ゆうと》さん、そろそろです」
「ああ、みたいだな」
二十分ほどしてようやく『ねこバス亭』のブースへと辿り着いた俺たちを待っていたのは、
「――おめでとうございます! あなたたちは当サークルの本日4444人目のメモリアルお客様となります! ぱちぱちぱちぱちー!」
そんなネコミミ売り子さんの明るい祝いの声だった。
「え、あの、えと……」
「メモリアル……?」
いきなりのことに状況がつかめずに目をシロクロとさせる俺たちに、
「ええとですね、ただ今ウチではお客様の数をカウントしてまして、キリのいい数字――キリ番ごとに新刊と記念品を差し上げているんです! お二人はそれに見事《みごと》に当たったというわけでしてー」
「き、記念品、ですか……?」
「キリ番……?」
「はい! というわけで記念として作者がサイン入りでお二人の似顔絵《にがおえ》をプレゼントいたします! ではお願いします、しゃあさん」
「え……」
「あー、どうも、こんにちは」
売り子さんに呼ばれてブースの奥から出て来たのはとこかで見たことがある男の人。確かこの人は……
「あ、な、夏こみの時の……」
春香《はるか》が驚《おどろ》いたように口元に手を当てる。
そうだ。あの時は一瞬《いっしゅん》のことでほとんど言葉《ことば》も交《か》わせなかったが、この人はあの時にわざわざ俺たちを追《お》いかけてまで同人誌を手渡《てわた》してくれたあの男の人に間違《まちが》いない。
困惑《こんわく》する俺たちの前でその人は、
「それじゃあさっそく描かせてもらうから。ええと、名前は……」
「あ、の、ののの乃木坂《のぎざか》、ははは春香です」
「ん、え、綾瀬《あやせ》裕人《ゆうと》だが……」
「乃木坂春香さんに綾瀬裕人さんだね。分かった、ちょっと待ってて」
軽《かろ》やかに笑いながらうなずくと、スケッチブックの上に鉛筆《えんぴつ》を走らせ始めた。サラサラという音。その手付きは実に流暢《りゅうちょう》で、こういうことはよく分からん俺の目から見てもこの上なく鮮《あざ》やかなものだった。
「いいな、あの人たち……」
「私も描いてもらいたい……」
「あんなメガネ男にはもったいないって」
周《まわ》りからはそんな羨望《せんぼう》(と俺への文句《もんく》)の声が聞こえてきて、
「不思議《ふしぎ》だな。初めて描くはずなのに、何だかもう何年も前から君たちを描き続けているような気がする。手が自然に動くというか……」
「あ、は、はははい」
「あ、あー……」
そして当の男の人は、腕を動かしながらそんなことをつぶやいていた。
うーむ……何なんだろうね。
で、まあそういった感じにスケッチは進められていき。
似顔絵《にがおえ》完成までおよそ五分ほどかかったのだが。
その間、春香《はるか》は最初から最後までゼラチンを入れすぎた手作りゼリーのように硬直していた。
「えへへ、しゃあさんのサイン入り似顔絵です……」
受け取ったばかりのサイン入り似顔絵を胸に抱《だ》いて春香が幸せそうにつぶやく。
「まさか同人誌だけでなくこんな素敵《すてき》なものまでいただけるなんて……夢みたいです」
「よかったな、春香」
「はいっ♪」
月下美人《げっかびじん》が咲《さ》くような満面《まんめん》の笑《え》みでうなずく。
あのあと完成したサイン入りの似顔絵を男の人手ずから渡《わた》してもらい、さらに新刊をも無事《ぶじ》にゲットすることができて、春香はご機嫌《きげん》だった。今も『亜麻色《あまいろ》の髪の乙女』を鼻歌で口ずさみながらにこにこと歩いている。
まあ確かに、色々とアクシデントがあって慌《あわただ》しかった夏コミと比べて、今回は上々というかこれ以上ないくらいに実りのあった結果《けっか》である。浮かれるのも分かるってもんだ。
ひとまずは今回の目的の一つは達成《たっせい》できたといえよう。
「……」
となると、残る問題はもう一つ。
春香《はるか》の同人誌だけである。
おそらくいまだに山積みだろう『H&Y』。
春香にとっての冬コミが最後まで楽しく過ぎるためにも、アレを何とかせねばなるまい。
そんな俺の内心を知ってか知らずか、
「裕人《ゆうと》さん、午後も売り子さん、がんばりましょうね」
「ん、ああ、そうだな」
笑顔《えがお》で言ってくる春香にうなずき返し、まあこの降《ふ》り注《そそ》ぐぽかぽかとした陽射《ひざ》しみたいな笑顔を曇らせないためにも何とか頑張《がんば》らなきゃいかんな……などとそこはかとなくやる気をたぎらせながらブースに戻ってみたら。
「……」
なんか、春香の同人誌が机の上からごっそりと消え失せていた。
「これは……」
「え、えと……」
春香と二人で言葉《ことば》を失う。
これが俺たちがいない間に疾風《しっぷう》迅雷《じんらい》のごとくお客が殺到《さっとう》して完売《かんばい》しちまったってんなら文句《もんく》の一つもない。むしろそれはこの場で一人デンプシーロールをしてもいいくらいに喜ぶべきことである。
だが生憎《あいにく》そうではないようだった。
「あ、お、お二人とも、戻ってきてくれましたか〜……」
北風《きたかぜ》さんが泣きそうな声で走り寄って来る。
「あの、これはいったい……」
五つ子家庭のオモチャ箱を引っくり返したようになったブースを見回しながら尋《たず》ねる。
すると北風さんは、
「じ、実はお二人が休憩《きゅうけい》に行った少し後に大変《たいへん》な事件が起きて、お金も受け取れずに強奪《ごうだつ》されてしまったんです……」
「え?」
「強奪って……」
随分《ずいぶん》と穏《おだ》やかじゃないな。
「す、すみません……。私、何もできなくて、目の前で乃木坂《のぎざか》さんの同人誌が持っていかれるのをただ見ていることしか……」
「いや、そんな」
こんなブース内をメチャクチャにするような凶暴《きょうぼう》なやつが相手じゃしょうがない。
「それでその犯人はどんなヤツだったんですか? 人相《にんそう》とかは……」
とにかくはそれだ。周りに注意を呼びかけるなりスタッフに通報《つうほう》するなりして何とか対処《たいしょ》せんと……
「は、はい。え、ええと、確か少し面長《おもなが》でとても鋭《するど》い目をしていて……」
「ふむふむ」
「全体的にはシャープな印象《いんしょう》でした。身奇麗《みぎれい》で、特にシッポがとてもきれいな毛並みをしていて……」
「ナルホド、シャープな印象でシッポがキレイ……って、シッポ?」
「は、はい」
北風《きたかぜ》さんはこくこくとうなずいて、「フサフサでサラサラでした。マメによく手入れされているみたいで……」
「……」
いやそれって……
俺の心の中に浮《う》かんだある想像《そうぞう》に、
「と、とても大きな犬でした。茶色の長毛で六十センチくらいの……」
「へ……?」
「ワンちゃん……?」
俺と春香《はるか》の声が重なる。
「は、はい。ゴールデンレトリーバーだったでしょうかー。私が机の上で『H&Y』の見本誌を開いて見せていたらいきなり一目散《いちもくさん》にこっちに向かって来て、ブースの中で暴《あば》れまくると机の上に置いてあった同人誌を全て咥《くわ》えてそのまま……」
「な……」
思わず言葉《ことば》を失う。
何だそりゃあ?
犬が同人誌って、ほとんどワケが分からんのだが。だいたいそれが事実だとして何だってこんなところに犬がいるんだよ。どう見たって生き物は連れ込み&立ち入り禁止な雰囲気《ふんいき》なんだが……
と、
「あ、あそこですー」
北風さんが声を上げて指を指す。
スペースから少し離《はな》れた外へと繋《つな》がるシャッター付近。
見るとそこには、確かに薄茶色《うすちゃいろ》の体毛《たいもう》をしたでかい犬の姿《すがた》があった。
垂れた耳、ぶんぶんと振《ふ》られたシッポ。いちおう飼《か》い犬《いぬ》なのか、丁寧《ていねい》に巻《ま》かれた首輪《くびわ》には大きく「マサル」と書かれていて、その口には遠目《とおめ》からでも認識《にんしき》できる特徴的《とくちょうてき》な春香《はるか》のイラスト集(×十)がしっかりと咥《くわ》えられている。
「……」
ホントに犬だ……
いや北風《きたかぜ》さんを疑うわけじゃなかったんだが、実物を見るまではいまいち意味が分からんかったというかマユツバだったんだよ。しかし人間じゃなく犬には好かれる同人誌なんだな……
「……」
ともあれこのまま放っておくわけにもいかん。
何といっても春香のイラスト集だし、一冊も売れんまま犬に奪《うば》われてそのまま行方不明なんてシャレにもならん。普段《ふだん》からエセワン公(×二)の扱《あつか》いには慣《な》れてる身としても、ここは何としても捕《つか》まえねば……
「ゆ、裕人《ゆうと》さん?」
身を乗り出した俺に春香が不安そうな目を向けてくる。
「……大丈夫《だいじょうぶ》だ」
「え?」
「心配《しんぱい》しないでいい、春香の本は絶対《ぜったい》に俺が取り戻すから。約束《やくそく》する。だからちょっとの間だけ待っててくれ。な?」
春香の両肩《りょうかた》に手を置いてそう言い聞かせる。
「ゆ、裕人さん……」
声を詰《つ》まらせる春香。
これで持っていかれたものが春香の同人誌(妖怪画《ようかいが》)で持っていった犯人が犬(マサル)じゃなければそれなりに感動的なシーンだったんだろうが、そこはまあこれが現実というやつである。
「それじゃあ、行ってくる。少しの間だけスペースは頼《たの》むな」
「は、はい。裕人さんこそご武運《ぷうん》を……」
「ああ、サンキュ」
胸の前で祈るように両手を握る春香にうなずき返して、俺は犬(マサル)を追《お》いかけて走り出した。
そして三十分後。
「……ハ、ハアハア……つ、捕《つか》まえた……」
スペースのあった東館から距離にしてのべ一キロほど離《はな》れた屋外《おくがい》展示場《てんじじょう》(コスプレ広場)まで来て、俺はようやくマサルを捕獲《ほかく》することに成功していた。
長い道のりだった。
逃げるマサルに途中《とちゅう》でバックキックを喰《く》らわされメガネを叩き落とされて五分ほど「メガネメガネ……」と床《ゆか》を這《は》いずり回《まわ》ったり、人ゴミの中でシッポを掴《つか》んだと思ったらそれはコスプレをしている女の人のイヌシッポで危《あや》うく変質者《へんしつしゃ》と間違《まちが》われ警察を呼ばれそうになったり、周《まわ》りからは動物|虐待《ぎゃくたい》をしているイカレメガネ野郎だと誤解《ごかい》と偏見《へんけん》の目で見られたりした挙句《あげく》に、やっとこさキャッチすることができたのだ。
「……」
いやホントに長かったな。主に精神的《せいしんてき》に。
だがその甲斐《かい》あってか、今はマサルも俺の腕の中で「ヴォー」と大人しく耳とシッポを垂れている。
「やれやれ……」
しかし何だって犬がこんな……
地面に落ちた春香《はるか》の同人誌を見ながら思う。
ビーフジャーキーとか最高級ドッグフードとかセクシーなコケティッシュ犬とかならともかく、犬がこれを持っていっても何もイイコトなんてないだろうに。
疲《つか》れたのか仰向《あおむ》けになったままハッハッハッ……と舌を出して放熱《ほうねつ》動作《どうさ》に勤《いそ》しむマサルを目にしつつ疑問に思っていると、
ビュウ!
とそこで、ふいに海から一陣《いちじん》の強風《きょうふう》が舞《ま》い起《お》こった。
思わず目をつむっちまうほどの強烈《きょうれつ》な風。
その余波《よは》を受けて春香の同人誌がパラパラとめくれあがっていき、とある見開き部分があらわになる。
するとそれを見たマサルが突然《とつぜん》――
「ワオン、ワオワオワオーン!」
「! お、おい……」
「オオーン! オフッ、ワフッ、ワオオオーン!」
再《ふたた》び工業用アルコールに火が点《つ》いたかのように同人誌へと向かって全身をバタつかせ始めた。
「ちょ、落ち着けって!」
「ワウン、ワオツオオオオ!」
落ち着かせようとするもまったくもってこっちの言うことを聞かない。
な、何だ!? 一体この春香の同人誌には何が……っ!?
腰《こし》を振《ふ》り乱《みだ》しながらジタバタと暴《あば》れるマサルを必死《ひっし》に押さえつつ開かれているページに目をやる。
そこには、
「………………犬?」
犬がいた。
ただしイラストの犬。
確かこれは『プリンセスナオちゃん犬ヴァージョン』とかいう……
「……」
「ワフ、ワフ、ワフーン!!」
……まさかとは思うんだが。
こいつ、これを見て反応《はんのう》してたのか……?
「フッ、フッ、アオアオオーン!!」
「……」
いまいち信じがたいというか信じたくもないんだが、間違《まちが》いなさそうだ。というか常人《じょうじん》にはそうだと思って見なけりゃあ犬かどうかの判別《はんベつ》は微妙《びみょう》なところなんだが、そこは野性《やせい》の本能《ほんのう》ってとこなんだろうか。こいつ、いちおうオスだし……
「………………」
切なげに身を悶《もだ》えさせるマサルを押さえつけたまましばし呆然《ぼうぜん》としていると、
「ん、あれってもしかして『プリンセスナオちゃん犬ヴァージョン』じゃないのか?」
ふと、周《まわ》りの通行人の中からそんな声が聞こえてきた。
「本当だ。描いてるサークルってあったんだな」
「どこだ? ……『H&Y』で 聞いたことないとこだが……」
「でも、なかなかいいな。ちゃんと犬ヴァージョンに肉球ハンドグローブまで描いてるし」
よくは分からんが、どうやら春香のイラスト集について話しているようだ。犬ヴァージョン……?
「……あ」
その声を聞いてピンとくる。
そうだ、確か信長《のぶなが》も言っていた。プリンセスナオちゃんは犬ヴァージョンが貴重だとか何とか。だったら――
「……」
ともあれやってみる価値《かち》はある。
「――よし」
ならば善は急げだ。
俺は地面に落ちた同人誌を全て拾い集めると、スペースへと向かって一目散《いちもくさん》に走り出したのだった。……まだ一冊も売れていない春香《はるか》の同人誌を売るために。
ちなみにこれはどうでもいいっちゃどうでもいいことだが。
何でもマサルはコスプレ好きのご主人様に犬キャラのコスプレ要員《よういん》として連《つ》れてこられたとかで、スタッフを通じて後《のち》に無事《ぶじ》に飼《か》い主《ぬし》のもとへと帰ることができたとか。飼い主は相当な注意を受けたって話だが、まあそれはある意味自業自得だろう。
結論《けつろん》から言うと俺の読みは大当たりだった。
作戦名『犬でメロメロ(仮)』。
あれからすぐにスペースへと戻り、不安げな様子《ようす》を隠《かく》しながらも売り子を続けていた春香に簡単《かんたん》に事情を説明し(犬がブームだ!)、同人誌の『プリンセスナオちゃん犬ヴァージョン』とやらが載《の》っているページを開いての呼び込みを行った。
「新刊、見ていってください!『プリンセスナオちゃん犬ヴァージョン』が載《の》ってます!」
「え、えと、『プリンセスナオちゃん犬ヴァージョン』、始めました」
この時点で『アルミ缶《かん》の上にある蜜柑《みかん》』の同人誌はほとんど売り切っていたため、『H&Y』の方のみに集中する。
道行く人たちに『プリンセスナオちゃん犬ヴァージョン』を必死《ひっし》にアピール。
ただやはりそれだけでは弱い。
閉場まで残り時間もそんなにないことだし、サークルスペースの前を通りかかる人のみに絞《しぼ》ってたんじゃ目標の初売り(一冊販売)が達成《たっせい》できんおそれがある。『プリンセスナオちゃん犬ヴァージョン』の需要もそこまでは多くないようだし。
なので、
「……やるしか、ねえか」
覚悟《かくご》を決める。
こういうことはできれば最後まで秘密《ひみつ》にされたままの秘密兵器のように温存《おんぞん》しっぱなしにしておきたかったが、もはや仕方がない。
「春香、ちょっと待っててくれ」
「え?」
「すぐにたくさん客を連れてくるから!」
目をぱちぱちとさせる春香をスペースに残して、見本用の同人誌を一冊持って走り出す。
向かった先は館内で人が最も集まっていると思われる連絡通路。
そこで俺は持ってきた見本誌を開き大きく息を吸い込むと、
「――見ていってください! 『アルミ缶《かん》の上にある蜜柑《みかん》』で『プリンセスナオちゃん犬ヴァージョン』が載《の》ったはにトラ本を扱《あつか》っています!」
そう叫んだ。
駆《か》け出《だ》しのお笑い芸人みたいに胃袋《いぶくろ》から声を捻《ひね》り出《だ》して叫んだ。
「『プリンセスナオちゃん犬ヴァージョン』、『プリンセスナオちゃん犬ヴァージョン』があります! 犬! 犬!」
正直こんな大勢《おおぜい》の人前でアレな台詞《せりふ》を大声で連呼《れんこ》するのは恥ずかしくないと言えばウソになるが……それでもこういう羞恥《しゅうち》プレイには天王寺《てんのうじ》家《け》での執事《しつじ》体験《たいけん》で(エリマキトカゲとか)耐性《たいせい》が付いていたし、これで春香《はるか》の笑顔《えがお》が見られると思えば大して気にもならん。大事の前の小事ってやつだ。
「見てくれるだけでいいんです! 『プリンセスナオちゃん犬ヴァージョン』。どうかお願いします!」
そしてそこからしばしの間。
一生涯《いっしょうがい》分《ぶん》の『プリンセスナオちゃん犬ヴァージョン』を言《い》い尽《つ》くす覚悟《かくご》で(おそらく千回は言うことになるだろう)宣伝《せんでん》を続けた結果《けっか》――
――一時間半後。
「う、売れました……」
初期状態よりこころもち低くなった山を見て、春香が感無量《かんむりょう》といった顔で目を潤《うる》ませた。
「それも三冊も……。夢みたいです……こんなに幸せでいいんでしょうか」
両手を胸の前で握《にぎ》り締《し》めてほうっと息《いき》を吐《は》く。
必死《ひっし》の宣伝活動が功《こう》を奏《そう》したのか、それまで鳴《な》かず飛ばずではたして息をしているのかすらも怪《あや》しかった春香の同人誌が、何と三冊も売れたのだった。
「よかったな、春香。お疲《つか》れさま」
俺が声をかけると、
「裕人《ゆうと》さん……あ、ありがとうございます。これもみんな裕人さんのおかげです。わ、私、私、何と言ったらいいか……ぐすっ……」
「んなことないって。春香ががんばって描いたからこそだろ。俺は大したことはしてない」
「い、いいえ。裕人さんがいてくださらなければこんな風にはいかなかったです。裕人さんが色々と手を尽くしてくれたから今の結果があるんです。……裕人さんは本当に王子様みたい。どんな時でも、私が困った時には助けてくれる……だれよりもしっかりと支えてくれます……」
えへへ、泣き笑いのような顔でそんなことを言ってくれる。
「……」
まあそれは多少オーバーなような気もするが、ここまで喜んでくれれば俺としても嬉《うれ》しいこと限《かぎ》りない。全力を懸《か》けて犬コールをやった甲斐《かい》があったってもんだ。
「あ、あー、まあとにかく万々歳《ばんばいざい》だ。終わり良ければ全て良しってな」
「はい。本当にありがとうございました」
春香《はるか》が大きくうなずき、
そして、
『ただいま午後四時をもちまして、冬コミは三日間の全日程を終了させていただきます。ありがとうございました』
そんなアナウンスが流れる。
「あ……」
「冬コミも、終わりだな……」
「そうですね……」
ちょっと寂《さび》しそうな顔になる春香。
こうして無事《ぶじ》に春香の同人誌の初売りにも成功し、
今回もまた様々なハプニング(?)にあふれた冬コミは終了したのだった。
挨拶《あいさつ》や後片付けなど諸々《もろもろ》を済《す》ませるのにけっこう時間がかかり、色々と北風《きたかぜ》さんが手伝ったりはしてくれたものの、結局《けっきょく》ビッグサイトを出ることができたのは五時過ぎになってしまった。
「あー、春香。今日は本当にお疲《つか》れさん」
満足そうな顔で隣《となり》をとてとてと歩く春香に声をかける。
「色々と慣《な》れないことばかりで大変《たいへん》だったろ。サンキュな」
「いいえ、とっても楽しかったです。裕人《ゆうと》さんこそ、お疲れ様でした」
にこにこと穏《おだ》やかな笑みが戻ってくる。
その手には『H&Y』六冊の詰《つ》まったカラフルな紙袋。
何でも余《あま》った同人誌は自分たちで持ち帰ることになるとかで、結果《けっか》として総売り上げ三部の『H&Y』はそのままその大半がお持ち帰りとなってしまったのである。ちなみに七冊でなく六冊なのは春香に頼《たの》んで俺も一冊もらうことにしたからだったりする。表紙が妖怪《ようかい》ガシャドクロとはいえ、考えてみりゃあ初めて春香と二人で作った記念すべきモノだ。せめて大事に取っておこうと思ったのである。
そんな感じに『H&Y』とともに二人|並《なら》んで歩いていき。
やがてあと少しで駅だというところで、
「――裕人さん、今日は本当にありがとうございました」
改まったように両手を身体の前で揃えて、春香《はるか》がぺこりと頭を下げた。
「え?」
「今日はとっても楽しかったです。憧《あこが》れのサークルの売り子さんもできましたし、『ねこばすてい』の新刊やサイン入り似顔絵《にがおえ》まで手に入れることもできました。これも裕人《ゆうと》さんのおかげです」
「いや、んなことは……」
というかむしろ礼を言わなきゃならんのは俺の方だ。急な頼《たの》みにも関《かか》わらずイヤな顔一つせずに売り子をやってくれたし、そのせいでまともにサークルを回ることもできなかったってのに……
「俺の方こそ春香には感謝《かんしゃ》してる。春香のおかげで頼まれたサークルの手伝いを無事《ぶじ》に終えることができた。本当に助かった。サンキュな」
頭を下げると、
「あ、そ、そんな、頭を上げてください。裕人さんがそのような……」
「いや、でもな……」
「色々と尽力し《じんりょく》てくださったのは裕人さんなのですから……」
「だからそれは春香の方こそがだな……」
「ですから――」
「だから――」
そんな感じに二人して並べたおじぎ鳥のようにぺこぺこと頭を下け合い続けて、
やがて、
「……ハハ」「……うふふ」
どちらともなく、互いに噴《ふ》き出《だ》し合《あ》ってしまった。いやこんな道のど真ん中(しかも東京ビッグサイト)で何をやってんだか。まあ、こういうのが俺たちらしいっちゃあらしいのかもしれんが。
「んじゃあ、今日のことはおあいこってことにしとくか」
「はい、そうですね。おあいこ、です♪」
そう言ってもう一度二人で笑い合って、
「それじゃあ、行くか。今日は早く帰らんと夜がアレだしな」
「はい。りょうかいしました」
互いにうなずき会いながら、並《なら》んで駅へと歩き出す。
空からは降《ふ》り注《そそ》ぐ薄《うす》オレンジ色の光。
そんな晴れやかな気分で帰路《きろ》に着こうとして――
「……」
「……」
「……全然進まん……」
「え、えと……」
イベント後の最寄り駅が、多人数|参加型《さんかがた》押《お》しくらまんじゅうのような超満員になるってことがすっかりさっぱり頭から抜け落ちていたのを思い出した。
俺たちの前に立ちはだかったこの日最大の大行列。
結局《けっきょく》それから電車(りんかい線)に乗ることができるまで、三十分ほどの時間を要したのだった。
それは冬コミとやらの終了から僅《わず》か五時間ほどしか経《た》っていない、微妙《びみょう》に空気の澄《す》んだ冬の夜のことだった。
十二月三十一日|大晦日《おおみそか》、午後の九時。
最寄り駅から電車で一時間ほどの距離にあるとある駅前の広場。
俺は熟《う》れたホオズキみたいに真っ赤に塗《ぬ》られた外壁《そとかべ》が特徴的《とくちょうてき》な駅舎《えきしゃ》とその周《まわ》りに集まっているいくつもの楽しそうに笑い合う集団を眺《なが》めつつ、口から白い息《いき》を吐《は》いて手の中のホッカイロを必死《ひっし》にモミモミと揉《も》みしだいていた。
「さ、さみぃ……」
思わずそんな言葉《ことば》がついて出る。
昼間のビッグサイトと同じように海が近く、耳元で浜風がヒュゴーヒュゴーと死霊《しりょう》の囁《ささや》きのように愉快《ゆかい》な音を奏《かな》でているこの場所は、なんつーか控《ひか》えめに言ってめちゃくちゃ寒かった。寒気《かんき》と冷気が揃《そろ》って仲良くルンバを踊《おど》り狂《くる》ってるって感じだ。
「……」
さて、何だって俺がこんなともすればカイロを人生の伴侶《はんりょ》として選びたくなるようなこの場所にいるのかっていうと理由《りゆう》は簡単《かんたん》で、
それはクラスメイトたちといっしょに初詣《はつもうで》に行くためである。
いわゆる年越し&初詣イベント。
最初に言い出したのがだれだったかはよく覚《おぼ》えてないが、大晦日の夜にクラスで集まって初詣に行こうということになり、大多数の賛成を得たのだ。
「……」
……それ自体はいい。
なかなかに楽しそうなイベントだとは思うし、どうせ家にいてもやることといったら例年カップ蕎麦《そば》(お稲荷様《いなりきま》一・五倍増量中)をすすりながら紅白を見るくらいしかないので、むしろこういった集まりはドンと来いである。
ただ一つだけ問題があったとすれば、
「うう、まさか待ち合わせの時間を間違《まちが》えるなんてな……」
ということである。
正式な[#「正式な」に傍点]集合時間の十時まであと五十分。
辺《あた》りには相変わらずビュルルルル……とやさぐれた北風|小僧《こぞう》のように駅舎にまで吹き付ける冷たい風。
加えてここらには寒さ避《よ》けになるようなものはほとんどない。
同じように周《まわ》りで待ち合わせをしていたやつらが次々と合流して去っていくのを眺《なが》めながら、このままじゃ他のクラスメイトたちが来る頃には物言わぬ冷たい即身仏《そくしんぶつ》にでもなってるんじゃねえか……と身を縮こまらせながら本気で心配《しんぱい》していると、
「――あれ、そこにいるのって、もしかして裕人《ゆうと》?」
「……ん?」
背後《はいご》から声をかけられた。
吹《ふ》き荒《すさ》ぶ風の中でもキレイに通る聞き慣れた明るい声。
ああとうとう寒さで幻聴《げんちょう》が聞こえ出したか……と振《ふ》り返《かえ》ってみると、そこにいたのは終業式以来およそ一週間ぶりに見る隣《となり》の席のフレンドリー娘だった。
「椎菜《しいな》……」
「あ、やっぱり裕人だ。どうしたの、こんな早く。確か集合時間って十時だったよね? ていうかなんか顔が柄杓《ひしゃく》を取られた船幽霊《ふなゆうれい》みたいに青白いんだけど……」
「ん、あー、いやそれは大丈夫《だいじょうぶ》だ」
反射的《はんしゃてき》に強がってそう答えはしたものの答える歯の根が昔話のタヌキが住んでいた山のようにカチカチと鳴《な》る。
それを聞いた椎菜は苦笑《くしょう》して、
「全然だいじょうぶに見えないって……あ、そうだ、ちょっと待ってて」
ぱたぱたとどこかへ走っていったかと思うとすぐに戻ってきて、
「はい、これ。あったまるよ」
「お……」
わざわざ買ってきてくれたのか、ホットココアを手渡《てわた》してくれた。
「あー、悪い、サンキュな」
「いいって。寒そうだったからさ」
にっこりと笑う。やっぱり椎菜はいいやつだな……
その気遣《きづか》いに心の底《そこ》から感謝《かんしゃ》して、受け取ったココアに口をつける。温《あたた》かいココアは身体だけでなく心にも染《し》み入《い》るようだった。
そんな感じにようやく人心地《ひとごこち》がついたところで、
「――で、そういえば椎菜こそどうしたんだ? まだ集合まで時間はあるだろ」
気になっていた根本的《こんぽんてき》な疑問を尋《たず》ねてみる。まさか椎菜まで俺と同じように時間を間違《まちが》えたってことはあるまい。
「あたし? あたしはちょっと早く家を出すぎちゃってさ。ほら、こういう楽しいイベントって一分一秒でも待ちきれなくならない? 遠足前に眠《ねむ》れない子供みたいな心境《しんきまう》かな」
「ナルホド……」
ふむ、この活発フレンドリー娘らしい理由だな。
「ね、それよりあたしもさっきから訊《き》きたかったんだけどさ、これ、どう?」
「ん?」
「うーん、自分でこういうこと訊くのもなんか野暮《やぼ》なんだけど、ほら、何もコメントもないのもさみしいかなあって」
両手を背中に回した状態でくるりと一回転して、ちょっとだけ照《て》れたように見上げてくる。
そういえば今さら突っ込むのもアレだが、椎菜《しいな》は振袖《ふりそで》姿《すがた》だった(遅《おそ》)。
白を基調としたすっきりとした柄《がら》の振袖。濃紺色《のうこんいろ》の帯《おび》が印象的《いんしょうてき》で、ピンで留められた髪には何やら髪飾《かみかざ》りのようなものがちょこんと彩《いろど》りを添《そ》えている。全体的に清涼感《せいりょうかん》が満ちているというか元気が溢《あふ》れているといった感じで、この活発娘によく似合《にあ》っていた。
「ん、いいんじゃないか。特にその頭に付いてるスズメみたいなやつとか」
「え、ほんと?」
「ああ」
「へへ、ありがと。これは北海道のお祖母《ばあ》ちゃんが誕生日にくれたウグイスのかんざしなんだ。お気に入りのやつで、だからそう言ってもらえるとちょっと嬉《うれ》しいかな」
「ほう……」
ちなみに全然関係ないが俺が去年の誕生日に祖父母《そふぼ》からもらったものはワラ入り納豆《なっとう》十束《じゅったば》セット(納豆菌《なつとうきん》が生きている!)である。
で、そんなことを話している内にやがてパラパラと見知った顔が集まり始めてきた。
「よう、早いな綾瀬《あやせ》」
「ルーズな綾瀬くんにしては珍し《めずら》いですね。雹《ひょう》でも降《ふ》るんじゃないですか?」
「まあたまにはそういうこともあるだろ」
三馬鹿《さんばか》たち。
「やっほー、冬コミ打ち上げの後にそのまま初詣《はつもうで》ってのも|Z《ゼータ》じゃなくて乙《おつ》なもんだねー」
信長《のぶなが》(隣《となり》のクラスなのになぜか当然のごとくやって来ている)。
「うう、寒いな。ホッカイロ一個くれ……」
「てかお前、天宮《あまみや》さんと二人で何を話してたんだよ?」
クラスでも比較的《ひかくてき》よく話す男子たち。
他にも朝比奈《あさひな》さんや八咲《やつさき》さん(ともに振袖|装備《そうび》)、千代《せんだい》など、クラスの主だったメンバーが姿を見せ始め。
そして十時まであと五分と迫《せま》ってきたところで、
「――あ、こ、こんばんは、みなさん」
そんな闇夜《やみよ》を可憐《かれん》に震《ふる》わせるソプラノボイスが小さく響《ひび》き渡《わた》った。
どんなに遠く離《はな》れていても自《おの》ずと聴覚《ちょうかく》が反応《はんのう》するパブロフライクな声。
振《ふ》り返《かえ》るとそこには……改札の前にある大きな柱の陰《かげ》から恥《は》ずかしそうにおずおずと出て来る、色|鮮《あざ》やかな振袖《ふりそで》を身にまとった春香《はるか》の姿《すがた》があった。
「ど、どうもです。すみません、遅《おそ》くなってしまって……」
「……」
落《お》ち着いた色彩《しきさい》だが、それでいてけして地味《じみ》ではなく見る者の目を留めさせる上品な柄《がら》の着物。きれいにまとめられた髪。それらに負けない可憐な顔立ち。その姿はどこか秋穂《あきほ》さんを彷彿《ほうふつ》とさせるものの、またそれとは違《ちが》った春香特有の満開《まんかい》の白百合《しらゆり》のような魅力《みりょく》がルルドの泉のようにコポコポと湧《わ》き溢《あふ》れていて……
「……」
思わず言葉《ことば》を忘《わす》れて某《ぼう》フライドチキンフランチャイズの白ヒゲマスコットキャラクターのように立《た》ち尽《つ》くす。
まさに真打《しんう》ち登場だった。
いや着物姿に攻撃力《こうげきりょく》ってもんがあるとしたら、おそらくワンパク盛《ざか》りのアメリカクロクマを七回|昏倒《こんとう》させられるんじゃないかってくらいの壮絶《そうぜつ》な破壊力《はかいりょく》である。
そんな俺のもとに春香はちょこちょこと近寄ってきて、
「あ、あの、裕人《ゆうと》さん、ヘンではないでしょうか……? あまりこれで人前に出ることはなくて……」
「……」
「今までは毎年新年におうちの中でだけ着ていたんです。なのでだいじょうぶなのかちょっとだけ心配《しんぱい》なのですが……」
「……」
「え、えと、裕人さん?」
「え? あ、ああ」
うかがうような春香の声に引《ひ》っ張《ぱ》られてようやく意識《いしき》が現世《げんせ》に戻《もど》ってくる。やばいやばい、あまりの眼福《がんぷく》インパクトに俺のちっぽけな精神《せいしん》が瞬間的《しゅんかんてき》にゲシュタルト大崩壊《だいほうかい》を起こしちまってたみたいだ。
俺は一度ゴホンと咳払《せきばら》いをすると、
「あ、あー、その、何だ、すげぇ似合ってると思うぞ」
「ほ、ほんとですか?」
「あ、ああ。なんつーか……か、かわいい、ぞ」
小学生レベルの貧困《ひんこん》なボキャブラリーでアレだが、もうそうとしか言いようがない。
「あ、ありがとうございますっ。よかった、そう言っていただけるとほっとして……」
本当に嬉《うれ》しそうに春香《はるか》が口元を綻《ほころ》ばせる。
その笑顔《えがお》はこれ以上ないってくらいにキュートでプリティーハニーで……これは今回の初詣《はつもうで》イベントでも何かいいことがありそうだって予感を間欠泉《かんけつせん》のごとく噴《ふ》き上《あ》がらせるものだった。
春香も、
「今晩の初詣、とっても楽しみにしてたんです。こういう行事に参加するのは初めてで……あ、そうだ裕人《ゆうと》さん。知ってますか、この近くに――」
満面《まんめん》の笑《え》みで何かを言いかけたその時、
ドンッ!
何かが弾丸《だんがん》のごとく俺たちの問に割り込んできた。
勢《いきお》いで弾《はじ》き飛《と》ばされて、俺の身体が二メートルほどゴロゴロと地面を転がる。「ぬおっ!」
続いて、
「わ〜、春香せんぱい、こんばんは!」
「冬休みに入って以来、全然会えなくて寂《さび》しかったですぅ」
「……一日千秋《いちにちせんしゅう》の思いでした」
そんな黄色いことこの上ない声が響《ひび》き渡《わた》った。
「振袖《ふりそで》ですか? とってもステキですー」
「やっぱり春香様は何を着ても似合《にあ》いますねぇ。アップの髪もすっごく色っぽいですしぃ」
「…………弘法《こうぼう》は筆《ふで》を選ばずという感じです」
「え? あ、あの……」
いつもの取り巻きたちだった。
吹っ飛ばされて転がった俺なんぞにはまったくもって欠片《かけら》も目もくれずに、ワラワラと春香の周《まわ》りに群《むら》がり始《はじ》める。ほとんどポップコーンを持った子供に襲《おそ》いかかる飢えたハトの群《む》れのようだった。
「はー、乃木坂《のぎざか》さん、相変わらずすごい人気だねー……」
椎菜《しいな》が驚《おどろ》いたように声をもらす。
「……」
すごいというか、てかそもそも何だってこいつら(一年)がナチュラルに俺らのクラス(二年)の集まりにいるんだかが最大の疑問なんだが……
まあこうして初詣イベントが始まったわけだが。
実のところこれからのおよそ七時間が、俺と春香そして椎菜のこの後の関係を色々な意味で何気《なにげ》に大きく変えて突然変異《とつぜんへんい》させることになるとは、この時の俺にはまったくもって予想することすらできなかったのだった。
集会時間が過ぎクラスメイトの全員(プラス信長《のぶなが》一人取り巻き三人)が集まったので、とりあえずは目的地である初詣先《はつもうでさき》の神社がある高台へと向かってダラダラと進むことになった。
露店《ろてん》などが出てお祭り気分の海沿《うみぞ》いの道。
辺《あた》りには俺たちと同じように初詣に来たと思われる大勢《おおぜい》の人々がウゴウゴとひしめく中を、約三十人のクラスメイトたちがそれぞれ四、五人ずつくらいのグループに分かれて歩いていく。
「うわ、人がたくさんだねー」
隣《となり》にいた椎菜《しいな》が驚《おどろ》いたように声を上げる。
「こんなに集まってるのって初めて見たなー。札幌《さっぽろ》雪祭りよりも多いかも……」
確かにかなりの人数だった。それも神社のある高台、その前にある桟橋《さんばし》へと近づくにつれ段々《だんだん》と雪ダルマ式に増えていく。ヘタすりゃあ冬コミにも匹敵《ひってき》するんじゃないかってくらいの数だ。
と、そこでさらに隣にいた朝比奈《あさひな》さんが、
「うーん、でもしょうがないかもしれないです。ここはこの辺りでは有名な初詣スポットなので……」
「ん、麻衣《まい》、この辺のこと知ってるの?」
「はい、小学校卒業まで住んでました。だからちょっとは……。何というか、元地元って感じです」
控《ひか》えめに笑いながら小さくうなずく朝比奈さん。
何でもこの辺りには彼女の父方の実家があるらしく、引《ひ》っ越《こ》して都心《としん》の方に出て来た今でもよく来る場所なんだとか。
「でもここを選《えら》んで正解だったと思います。一番人気の神社ではないのでまだ人が少ない方ですし、それにここの近くにある岬《みさき》で初日の出を見るとその年は一年幸せに過ごせるっていうお話もあるんですよ」
「へー、そうなんだ?」
「はい、何でも神社に祀《まつ》られている神様と関係があるという話ですが……」
「さすが麻衣、よく知ってるねー」
「あ、いえ、そんな……」
椎菜の言葉に朝比奈さんが照《て》れたように頬《ほお》を赤くする。
ちなみに現在俺の周りにいるのは、椎菜、朝比奈さん、その友達の澤村《さわむら》さんの三人で、横一列に並《なら》んで歩いてる。その少し離《はな》れたところで三馬鹿《さんばか》たちが信長《のぶなが》と『日本文化における着物女性のうなじと足首の重要性』について熱《あつ》く語っていた。
春香《はるか》はというとさらに十メートルほど隠れた位置《いち》で、
「春香せんぱい、ほら海がライトアップされてとってもきれいですよ!」
「私たちを祝福《しゅくふく》してくれてるみたいですねぇ」
「…………幻想的《げんそうてき》です」
「え、あ、は、はい。そうですね」
相変わらず取り巻きたちに囲《かこ》まれていた。
自分たちの周《まわ》りには何人《なんぴと》たりとも寄せ付けないぜごらあっ!≠チていうオーラを放《はな》っている最凶《さいきょう》の取り巻きたち。
おまけにその外周《がいしゅう》には春香を警護《けいご》するかのように何人かのクラスメイトたちが群《むら》がっている。アレはおそらく|星屑親衛隊《インペリアルガード》のメンバーだろう。確かウチのクラスは武闘派《ぶとうは》が多いんだよな……
「……」
できれば春香も含《ふく》めた皆でいっしょに歩いていきたかったんだが、あれではしばらくは近づくことすらできそうにない。というか近づいた場合の生命の保障《ほしょう》がこれっぽっちもありやしない。ゲームとかでレベル九十九の勇者《ゆうしゃ》に守護《しゅご》されたお姫様にスライムが特攻する(=即死)みたいなもんだ。
そんなことを考えながら何となく遠巻きに眺《なが》めていると、
「どうしたの裕人《ゆうと》、ぼーっとしちゃって」
椎菜《しいな》が声をかけてきた。
「なんかあんまり元気ないみたいだけど、寝不足《ねぶそく》とか? それともまだ寒いの?」
「ん、あ、いや」
まさか春香を見て切ないスライム気分を味わっていたなんて言えるわけもない。
「んー、大丈夫《だいじょうぶ》ならいいけどさ。ね、それで今ちょっとみんなで話してたんだけど、これからちょっと露店《ろてん》とか回ってみない?」
「露店?」
「うん、麻衣《まい》のお勧《すす》め。この辺りって大晦日《おおみそか》限定《げんてい》で色々と面白《おもしろ》いお店が出たりするんだって。ほら、例《たと》えばあれとか」
並んでいる露店の一つを指差して、椎菜が楽しそうに声を上げる。
そこには『年に一度のお楽しみ! 大人気、地元名物モンコウイカすくい!』と書かれた看板《かんばん》が写真(リアルモンコウイカ)付きでドンと立っていた。
「……」
いやイカすくいって……
「ねえ、ちょっとやっていかない? 何てったってイカだよ、イカ。これを逃《のが》す手はないって!」
「……」
そんな磨《みが》きたてのクリスタルガラスみたいな一点の曇りのない目で言われてもな。てか相変わらずのイカ好き娘だ……
とはいえまあ提案《ていあん》自体に問題はない。
クラスとしての集まり自体はすでにバラバラだし、集合予定先である神社まではもうほとんど自由行動といった感じだ。他のクラスメイトたちも適当《てきとう》に露店《ろてん》を流しながらノンビリと進んでいる。
なので、
「……そうだな。少し寄ってくか」
そう答えた。別に俺たちだけが急いで先に神社へ到着《とうちゃく》することもないだろう。
「やった、決まりね!」
その言葉《ことば》に椎菜《しいな》がぴょんぴょんと飛び上がって喜ぶ。
とりあえずあんまり跳ねると振袖《ふりそで》の裾《すそ》がシワになるぞ……とか思いつつも、そういうわけで少しばかり露店を見て回ることとなった。
椎菜の言う通り、露店には確かに色々と面白《おもしろ》そうなものがあった。
モンコウイカすくいを始めとしてモクズカニ釣《つ》りとかウナギつかみとか。
大晦日《おおみそか》の出店というよりも、どちらかと言えはお祭りの屋台《やたい》とかに近い。ネタに魚介類《ぎょかいるい》が多いのは海辺であるがゆえか。どこもかしこも賑《にぎ》やかでザワザワとしていて統一性がないんだが、見ているだけでどことなく気分が浮《う》き立《た》ってくるような不思議《ふしぎ》な雰囲気《ふんいき》をかもし出しているという点で共通している。
「わー、イカだイカー」
で、その中で椎菜が真っ先に飛びついたのが、やはりというか何というか『モンコウイカすくい』だった。
「ふふふー、待っててね。すぐにあたしが捕《つか》まえてあけるから」
実に楽しそうな顔で、水槽《すいそう》の中をユラユラとたゆたう海産|軟体類《なんたいるい》に向かってコーンを泳がせていく。
それはもう、自由に空をはばたくことを許された手乗りインコちゃんのような姿《すがた》だった。
「椎菜ちゃん、イカ好きなんですね……」
「そういえば携帯《けいたい》のストラップもイカのマスコットものだったような……」
その様子《ようす》を見ながら、朝比奈《あさひな》さんたちも少しだけ目をぱちくりとさせている。まあ女子高生とイカってのもレッサーパンダとトマホークミサイルみたいな組み合わせだからなあ……
そんな微妙《びみょう》に呆然《ぼうぜん》とする俺たちの前で、
「たあー、とりゃー」
「おっ、やるねお嬢ちゃん」
「え、そうかな? よ、ほっ」
「そうだよ、よっ、このイカ名人!」
「へへー、ありがと、おじさん」
屋台《やたい》のおっちゃんと微妙《びみょう》な会話を交わしながらイカと戯《たわむ》れること十分。
「はー、獲《と》れた獲れた。大漁大漁♪」
「……」
イカを三杯《さんばい》ほどゲットしてすっかりご機嫌《きげん》な椎菜《しいな》がそこにいた。
「楽しかったなー。みんな待っててくれてありがとね。――イカくんたちもありがと。きみたちのことは忘《わす》れないからね、ばいばい」
にこにこと笑いながら水槽《すいそう》へとイカをリリースする。てか基本的なシステムは金魚すくいとかと同じキャッチ&任意《にんい》リリースらしい。イカなのに……
「じゃあ次に行こっか。ね、麻衣《まい》、どっかお勧《すす》めとかってあったりするかな?」
「え、あ、はい」
いきなり振《ふ》られた朝比奈《あさひな》さんはちょっとびっくりしたように目を丸くして、
「え、ええと、だったらおでん屋さんとかはどうでしょう?」
「おでん屋さん?」
「はい。昔ながらの伝統《でんとう》の味を守っているお店で、ダイコンがとてもおいしいんですよ」
「あ、それいいかも」
「うん、ダイコンいいねー。私も好きだよー」
朝比奈さんのその提案《ていあん》に澤村《さわむら》さんも賛成して、
「じゃ、じゃあ案内しますね。こっちです」
というわけで次にやって来たのは朝比奈さんお勧めのおでん屋台だった。
ぱっと見は高架下《こうかした》とかにあるブルーシートに囲《かこ》まれた飲み屋みたいな感じ。
だが辺《あた》りに漂《ただよ》ういい匂いと全体的にかもし出される渋《しぶ》い雰囲気《ふんいき》から、そこが当たりの店であることが容易《ようい》に想像できた。
「あ、すみません。ダイコン四つください」
「お、麻衣ちゃん久しぶり。今日は初詣《はつもうで》かい?」
朝比奈さんの声に屋台主らしきおっさんが顔を出す。
「はい。学園のお友達といっしょなんです」
「へぇ、そうなんか。じゃあ少しオマケしとくかな。ほれ」
「あ、ありがとうございます」
どうやら顔見知りらしいそのおっさんから朝比奈さんがダイコンを四つプラスうずらの玉子四つを受け取り、
「はい、どうぞ」
と、それらを一つずつ俺たちに配《くば》ってくれた。
「あ、ほんとだ。すごくおいしいね、これ」
「ダシが利いててジューシーっていうか。うん、麻衣《まい》、偉《えら》い偉い」
「確かにウマイな。無農薬ダイコンの味がする」
前から順に椎菜《しいな》、澤村《さわむら》さん、俺の感想。
「あ、ほ、ほんとですか?」
「うん、ありがとう、麻衣」
おでんダイコンは皆に好評《こうひょう》だった。
いや高校生四人が大晦日《おおみそか》に集まってブルーシートの中でおでんダイコンを食ってるってのもなかなかにシュールな光景《こうけい》なんだが、そこはそれ、基本的に皆(俺も含め)大晦日の雰囲気《ふんいき》でハイになっているので気にならない。
「よーし、それじゃこの調子《ちょうし》でどんどん行ってみよう!」
まあそんな感じにその後もいくつか露店《ろてん》を巡《めぐ》っていった。
色々な食べ物系の店をはじめ、型抜きやナマコすくい、射的など。
どこもけっこう人が多く混み合っていて大変《たいへん》ではあったが、それでもなかなかに楽しい時間だった。
ちなみにその間に何回か露店の雑踏《ざっとう》の中で春香《はるか》の姿《すがた》を見かけたりもした。
どうせならいっしょに回れないかとダメ元で声をかけようとしてはみたものの、
「あ、春香せんぱい、あっちに面白《おもしろ》そうなものがありますよ!」
「え?」
「春香さま、あれって何ですかあ?」
「あ、は、はい。たぶんあれは輪投げで……」
「……………春香様、四人であっちの暗がりにでも行きませんか?」
「え、ええと、あの……」
その度《たび》に会津《あいづ》十本槍《じゅっぽんやり》のごとき取り巻きの横槍が入り、やはりうまくいくことはなかった。
俺たちのことに気付いていたのか春香もちらちらとこっちを気にかけてくれてはいたんだが、いかんせん基本的におっとりとしていて控《ひか》えめな性格である。取り巻きたちに強く引《ひ》っ張《ぱ》られるとそっちをスルーすることができないようだった。まあ春香の優《やさ》しい気立てを考えると分からないでもないんだが……
「なんか乃木坂《のぎざか》さん、大変そうですね……」
朝比奈《あさひな》さんも複雑そうな顔でそんなことを言っていた。むう、やっぱり同じ女子の目から見てもそういう風に見えるんだな……
何とかしてはやりたかったが、とはいえそんな感じではどうしようもないので、ひとまず春香《はるか》に声をかけるのは諦《あきら》め再《ふたた》び露店《ろてん》巡《めぐ》りへと戻る。
まだ回っていなかった面白《おもしろ》そうな店を改めていくつか散策《さんさく》。
で、最後に辿《たど》り着《つ》いたのはイカ焼きの屋台《やたい》(またイカ……)だった。
「すみませーん、イカ焼き四本くださーい!」
当然のごとく椎菜《しいな》が嬉々《きき》として飛び付いていき、「はい、みんな。あつあつのイカ焼き。あたしのおごりだよ♪」
「お、悪いな」
「ありがとう、椎菜ちゃん」
「さんきゅね、椎菜」
手に持ったイカ焼き(本格|炭火焼《すみびやき》)を皆に配《くば》る。
と、
「あれ、椎菜ちゃん、かわいい指輪……」
「え?」
「あ、その中指に着《つ》けてる指輪です。かわいいなって思って」
椎菜の右手の指輪を見て、朝比奈さんがそう言った。
「え、どれどれ? あ、ほんとだ、かわいー! ねえねえ、どこで買ったの?」
澤村《さわむら》さんも興味深げに身を乗り出してくる。
椎菜の右手でイカ焼きとともに光っている指輪。
いや、あれってもしかしなくてもこの前俺がプレゼントしたステラ・リングだよな……?
「うーん、これはねー……」
そこで稚菜はちらりと俺の顔を見た。そしてちょっといたずらっぼくウインクすると、
「んー、ごめん、秘密《ひみつ》かな。シークレットって感じ」
「え、え、それって……?」
「なんか意味深《いみしん》だー。どういうこと椎菜。ねえねえ、隠《かく》さないで教えてよ、ほらー(つんつん)」
「別にそういうわけじゃないって。きゃあ、やめてってば、もう」
朝比奈さんや澤村さんがなおも食い下がるも、椎菜は笑って誤魔化《ごまか》すだけで答えない。
結局《けっきょく》最後には朝比奈さんたちも諦めたようだった。
「分かりました。椎菜ちゃんの秘密なんですね……」
「あーあ、天宮《あまみや》椎菜の秘密、知りたかったのになー」
二人揃《そろ》って残念《ざんねん》そうにそんなことを言う。
「ごめんね。代わりに今度おいしい和風スイーツのお店を教えるからさ。それで許《ゆる》して。ね?」
「う、うん……」
「約束だからねー」
そううなずき合って、
「んー、それじゃそろそろ神社に向かおっか。色んな屋台《やたい》も堪能《たんのう》できたし、満足かな」
「はい、そうですね」
「楽しかったよー、さんきゅ、麻衣《まい》」
イカ焼きを頬張《ほおば》りつつ、四人で再び神社のある高台へと向かい始めた。
その途中《とちゅう》、椎菜《しいな》に小さく話しかける。
「あー、なんか気を遣《つか》わせちまったな」
「ん?」
「その、指輪のこと、黙《だま》っててくれて……」
別に俺がプレゼントしたってのは知られて困るわけじゃないが、色々と面倒《めんどう》なことにはなるに違《ちが》いない。朝比奈《あさひな》さんはともかく、澤村《さわむら》さんはけっこうウワサ好きそうだし。
「ううん、いいよ。それを説明すると裕人《ゆうと》が乃木坂《のぎざか》さんにクリスマスプレゼントを買ったりしたことも説明しなきゃいけなくなるもんね。そういうのって男子はあんまり知られたくないんじゃないかと思って。違《ちが》った?」
「あ、いや、違わん」
さすが椎菜。そういうところをよく分かってる。
感心する俺に、
「……それに、個人的にも何となく秘密《ひみつ》にしておきたかったのかな……」
ぽつりと、何かをつぶやいたような声が聞こえた気がした。
「ん、なんか言ったか?」
「え、う、ううん、何でもないよ」
椎菜《しいな》は慌《あわ》てたように小さく首を振《ふ》って、
「それよりちょっと急ごっか。あんまり遅《おく》れると皆も心配《しんぱい》するかもしれないし」
「ん、そうだな」
うなずき返し、俺たちは神社へと向かうべく露店《ろてん》通《どお》りを抜け、続く桟橋《さんばし》へと向かったのだった。
そんな具合に露店でのひと時を経《へ》て、目的地である神社のすぐ前の広場まではやって来たもののまだ新年のカウントダウンまで一時間ほど時間があったので、ひとまずは各自で適当《てきとう》に時間を潰《つぶ》すことになった。
椎菜たちは、
「えー、そうなの? 麻衣たちはどれが好き?」
「う、うーん、抹茶《まっちゃ》とかかな?」
「私はストロベリー。あの甘酸《あまず》っぱさがたまらないっていうか」
学園の最寄り駅前に出来たクレープ屋の話題で盛《も》り上《あ》がっていて、
「だからだな、あの着物の隙間《すきま》から垣間見《かいまみ》えるうなじの白さこそが一級の芸術品とも言うべきモノで……」
「いえやはり足首です。あの美しさと細さを抜きにして着物の良さは語《かた》れません」
「両方だろ。うなじと足首はともに着物|姿《すがた》の女子にとって欠かせない重大なファクターだ」
「僕はとりあえず二次元ならどっちも好きかなー」
その隣《となり》では三馬鹿《さんばか》と信長《のぶなが》たちがまだ『日本文化における着物女性のうなじと足首の重要性』についてムダに熱《あつ》く語り合っている。
ちなみに春香《はるか》の周《まわ》りにはいまだに相も変わらず取り巻きたちがピッタリガッチリとフジツボのごとく群がっていて、半径五メートル以内に近づくことすらままならなそうな状況だった。
それでもいちおう接触《せっしょく》しようと試みてはみたものの、
「きゃー、春香せんぱいが襲《おそ》われるー!」
「近づかないでくださいですぅ、この変質者《へんしつしゃ》」
「…………あなたはゴキブリです」
即座《そくざ》にそんな犯罪者《はんざいしゃ》扱《あつか》い&変質者《へんしつしゃ》扱い&人間以下扱いの言葉《ことば》が身体も心も傷付《きずつ》けるサブマシンガンのように返ってきて、完膚《かんぷ》なきまでに失敗に終わった。これっぽっちの希望すら見出《みいだ》せないくらいの大失敗だった。
「あ、あの、みなさん、裕人《ゆうと》さんはそんな方では……」
春香《はるか》はおろおろとそう言ってくれるものの取り巻きたちはまったくもって聞こえないフリで、
「ささ、こっちに行きましょう春香せんぱい」
「あんな男の視界《しかい》に入ったらそれだけで春香さまが汚《けが》されてしまいますぅ」
「…………駄男《だめんず》汚染《おせん》です」
「あ、え、えと……」
強引《ごういん》に春香の背中を押して見えないところへと連れて行ってしまう。
さらにはその様子《ようす》を見ていた|星屑親衛隊《インペリアルガード》たちにも、
「いいか、春香様は『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』――皆のアイドルなんだ。綾瀬《あやせ》ごときが触《ふ》れていい存在じゃないんだよ」
「今日くらいは大人しくしとけ、な?」
「ヘンなことしたら簀巻《すま》きにして相模《さがみ》湾《わん》に捨てるからな(ニッコリ)」
肩《かた》を組まれて物陰《ものかげ》に連《つ》れて行かれてそんな風に念《ねん》を押される始末《しまつ》。
「……」
冬コミまでの幸せ満載《まんさい》な状況とは一転《いってん》、春香に近づくどころか目を合わせることすらできない。
もしかしてこの初詣《はつもうで》イベントの間は春香とは同じ県内(広さ二千四百キロ平方メートルほど)の空気を吸うくらいしかできないんじゃねえか……って感じである。
仕方がないので広場の隅《すみ》で一人、ヒマそうに寝《ね》そべっていたイヌとお話(人生って大変《たいへん》だよな……)をしていたところ、
「おーい、なんかあっちの海岸の方で搗《つ》き立《た》て餅《もち》を配《くば》ってるらしいぜー!」
と、クラスの男子(非《ひ》|星屑親衛隊《インペリアルガード》)のそんな声が聞こえてきた。
「まだカウントダウンまでけっこうあるし、腹とか減《へ》っただろ。だれか行ってもらってこね?」
「お、いいな」
「でもだれが行くんだよ?」
そんなことを話しながら何人かがワイワイと集まり始める。
「餅くらいなら大した量じゃないだろ。とりあえず男が一人二人行けば十分じゃないか?」
「そうだな。ジャンケンでもして決めるか」
「ああ、それでいんじゃね?」
そういうことでまとまったようだ。
「おーい、ちょっと男子集まってくれ! 餅もらってくるやつを決めるからー!」
辺《あた》りにいたクラスメイトたちに向かってそんな声がかけられる。
それを受けてゾロゾロと集まり始める男子たち。
とりあえず俺もイヌ(カカカッと後ろ足でアゴをかいている)にお別れを告《つ》げて、皆が集まっている場所へと向かった。
「んじゃ全員でジャンケンをして、最後まで負けて残ったやつがもらいに行くってことでいいよな?」
その言葉《ことば》に集まった男子たちがうなずく。
まあジャンケンには少しばかり自信がある。この前の『@ほぉ〜むカフェ』での『萌え萌えじゃんけん』とやらでも何だかんだで負けなしだった。なのでおそらく大丈夫《だいじょうぶ》だろう――
――などと考えたのが甘かった。
三分後。
「それじゃあもらってくるやつは綾瀬《あやせ》に決定したから」
「まあ妥当《だとう》なとこだろ」
「頼《たの》むぞ綾瀬。どうせヒマなんだろうし」
「……」
見事《みごと》なまでに五連敗を喫《きっ》した負け犬な俺がそこにいた。
どうやら生まれもったジャンケン運はあの時に全て欠片《かけら》も残らないくらいに使《つか》い果《は》たしてしまったらしい。ブルーだ……
肩《かた》を落とす俺に、
「ガンバレよ。ああ、ついでに飲み物とかも買ってきてくれ。これ、皆の注文表な」
ポンと下がった肩が叩かれジュースやらの名前の書かれたメモ用紙を手渡《てわた》される。
さらなる追《お》い討《う》ちだった。
「ハァ……」
不本意《ふほんい》といえばこれ以上ないってくらい不本意な結果《けっか》だが、負けちまったもんは仕方がない。
タングステンのような重いため息《いき》を吐《は》きつつ、俺は搗《つ》き立《た》て餅《もち》(三十人分)プラスその他飲み物等をゲットすべく海岸へと向かうことになった。
餅が配《くば》られているのは、さっきさんざん回《まわ》り倒《たお》した露店通《ろてんどお》りのすぐ近くの海岸――イカ焼き屋台《やたい》の裏から降《お》りられる砂浜を少し歩いた先だった。
ほんの三十分ほど前にやって来たばかりの海沿いの道。
こんなことならさっきの露店|巡《めぐ》りの時についでにこっちも回っときゃよかった……などという後の祭りの中でも青森ネブタ祭りもいいところの後悔《こうかい》を抱《いだ》きながら人ゴミの中をゾンビのようにモソモゾと徘徊《はいかい》していると、
「待ってー、裕人《ゆうと》ー」
後ろから声が聞こえてきた。
明るくよく響《ひび》く弾《はず》むような声。この声で呼びかけられるのは本日二度目である。
「椎菜《しいな》……?」
振《ふ》り返《かえ》るとやはりそこにはこっちに向かって駆けてくるフレンドリー娘の姿《すがた》。着物姿だってのにも関わらずうまく走れてるところはさすがに運動神経バツグンの薙刀《なぎなた》有段者《ゆうだんしゃ》ってところか。立ち止まって追いついてくるのを待っていると椎菜はすぐにたたたっと駆け寄って来て、
「あ、よかった、追いついて。意外と歩くの速いんだね。すぐにいなくなっちゃって……」
「ん、そうか?」
特に自覚《じかく》はないんだが。
しかしガキの頃から他人の歩く速さになどまったく気にも留めない身内とその親友といっしょに育つとそうなるもんなのかもしれん。何せ遅《おく》れたら容赦《ようしゃ》なく置いてかれたからな……
「……」
まあそんな数多《あまた》あるワン公どもとのしょっぱい過去の一つはともあれ。
「それよりどうしたんだ? もしかして何か注文し忘《わす》れたものでもあったのか?」
俺が訊《き》くと椎菜は首をふるふると横に振って、
「あ、ううん、そうじゃないよ。別に追加《ついか》注文とかじゃない」
「? じゃあどうしたんだ?」
何だってそんなに急いで俺を追いかけてきたんだろうか? は、もしやなんかのバツゲームとかか?
すると椎菜は、
「や、いっしょに行こっかなって思って」
「え?」
「だって裕人だけじゃ大変《たいへん》でしょ。無料|配布《はいふ》のお餅っていったって三十人分だからけっこうな量にもなるだろうし、あたしも手伝うよ」
「え、いや、でもな」
ジャンケンに負けたのは俺なわけだし……
「いいっていいって。どうせカウントダウンまでは時間があるんだもん。じっとしてるのってあんまり落ち着かなくって。それに……」
「それに?」
「えへへ、実はもうちょっとだけイカ焼きが食べたくなっちゃってさ。ついでだから買ってこようかと思ったの」
「……」
ホントにイカ焼きが好きなんだな、このフレンドリー娘……
だが何にせよいっしょに来てくれるっていうその気持ちは嬉《うれ》しい。正直この賑《にぎ》やかな人ゴミの中を一人で歩くってのも味気ないというか微妙《びみょう》にわびしい気分だったのだ。
なので、
「じゃあ悪い。少しだけ手伝ってもらえるか?」
「うんっ。少しと言わずばんばん手伝っちゃうから。任《まか》せといてよ♪」
明るい笑顔《えがお》でぐっと右手を握《にぎ》り締《し》める。
見ているこっちが元気になってくるような表情。
何というか、本当に色んな面でこのフレンドリー娘には助けられてる気がするね。
で、餅《もち》の受け取り自体にはそう手間も時間もかからなかった。
三十人分の餅米の集合体ともなると一見《いっけん》大変《たいへん》そうにも思えるが、一人分の割り当てがそもそも直径五センチくらいの丸い小餅である。全部合わせてもせいぜい重さにして三キロといったところか。三十個の餅をまとめて袋《ふくろ》に詰《つ》めていることから量はかさばるが、それでも一人で持ちきれんというほどではない。
かかった時間もせいぜい十五分程度といったところだった。
「んー、思ったよりも早く終わったね」
イカ焼きの入ったビニール袋(三個で四百五十円)を持ったまま、ぐーっと背伸《せの》びをして椎菜《しいな》がそう言う。
「もっと時間がかかるかと思ったけど、意外にスムーズに行った感じ。あんまり混んでなかったのもラッキーだったかな」
「ああ、でもこれも椎菜が手伝ってくれたからだ。サンキュな」
実際《じっさい》問題としてそれは大きいだろう。労働力的にというよりも精神的《せいしんてき》に。
だが椎菜はぶんぶんと首を振って、
「そんなことないって。あたしは何もしてないよ。裕人《ゆうと》ががんばったんだし」
「ん? いや、んなことないことはないだろ」
「そうだって。それにあたしは好きで付いて来たんだからさ。そんなこと改めて言われるとこそばゆいってば」
照《て》れたように顔の前でふるふると手を振る。その表情は本当に心の底からそうだと思っているようだった。むう、やっぱいいやつだな、椎菜は。
「ほ、ほらー、あたしのことなんて別にいいから行こ。まだ飲み物とかも買わなきゃいけないんだから」
「ん、ああ、そうだな」
どうも褒《ほ》められることに慣《な》れてないらしく困ったように頬《ほお》を赤くする椎菜《しいな》を好ましく思いつつ、餅(三十個)の入った袋を持ち直して砂浜を歩き出す。
たくさんの人で賑《にぎ》わった砂浜。
その雑踏《ざっとう》を抜け、階段を昇《のぼ》って露店通《ろてんどお》りに戻《もど》り、頼《たの》まれた飲み物を一通り買い集めてそのまま元来た道を歩いていく。
その途中、
「なんか夜の海っていいよね……」
神社のある高台へと戻る桟橋《さんばし》に差しかかったところで、椎菜がふっと足を止めてそうつぶやいた。
「見てると今にも吸い込まれそうっていうか、何だかすごく不思議《ふしぎ》な感じがする。ずっと見てたい気分になってくるかも」
「あ、それは分かる気もするな」
「え、ほんと?」
「ああ、どこか神秘的《しんぴてき》っつーか幻想的《げんそうてき》っつーか……」
「わ、裕人もそうなんだー。へー、なんか嬉《うれ》しいな、同じこと考える人がいるのって」
本当に嬉しそうに椎菜がぴょんぴょんと飛《と》び跳《は》ねる。
着物|姿《すがた》でも、相変わらず飛び跳ねるのが大好きな元気娘だった。
で、まあそんなことを話しながらしばらく椎菜と並んで夜の海を眺《なが》めていると、
「――あれ、向こうの方なんか明るくない?」
「ん?」
「ほら、あっちの方。あ、なんかステージみたいなのがあるね」
「ステージ?」
「うん、そう」
椎菜が遠くの砂浜を指差してそんなことを言った。
「砂浜のとこに大きいのが組んである。人も集まってるみたいだし……何だろ、カウントダウンライブとかやるのかな? あれ、あそこにいるのって……」
桟橋からぐっと身を乗り出して椎菜が頭の上に手をかざす。
「おい、危《あぶ》ないぞ、椎菜」
「だいじょうぶだよ。――それより、ねえ、あれってもしかして……姫宮《ひめみや》みらんじゃない?『Chocolate Rockers』のボーカルの……」
「お?」
椎菜が口にしたのはここ最近人気上昇中のアーティストの名前。椎菜|一押《いちお》しのそれは俺もなかなかお気に入りなグループで、前にも一度その話で盛《も》り上《あ》がったことがあった。
「ほら、やっぱりそうだよ! あの髪型と目元のスターシールは絶対《ぜったい》間違《まちが》いないって!」
「よく見えるな。俺には分からんのだが……」
人がいるのは分かるんだが、ここからだと距椎《きょり》が離《はな》れすぎていてはっきりとは確認《かくにん》できない。
「こう見えて視力は両方とも二・○だからね。あー、でもこんなとこでカウントライブをやることになってたなんて。全然知らなかった。情報不足だなー」
悔《くや》しそうな顔でそう言う椎菜《しいな》。
やがてライブが始まったのか、ステージを彩《いろど》るライトの色が薄《うす》いブルーとグリーンに変わり、聴《き》き慣《な》れた歌声が聞こえてきた。これは確か一つ前のシングル『さよならビター・キャンディ』のはずだ。
「お、ホントだ。ホントに『Chocolate Rockers』だな」
「だから言ったじゃん。あたし目には自信があるんだから。――ね、ちょっとだけ聴いていっちゃだめかな?」
珍《めずら》しくお願いするように椎菜が下から見上げてくる。
「いいんじゃないか? 買い物も思ったより早く終わったし、少しくらいなら大丈夫《だいじょうぶ》だろ」
「わ、やった! さすが裕人《ゆうと》」
そう言うと椎菜は薄明かりに照らされた桟橋《さんばし》の欄干《らんかん》に両ヒジをついて、上向きにした手の平に顔を乗せ目をつむった。どうやらじっくり鑑賞モードに入ったみたいである。俺もその隣《となり》に並《なら》んで目を閉じた。
「うん、やっぱりいい曲だなー。歌詞もメロディーも両方とも心にじんわりと染みこんで来るっていうか……」
「ああ、そうだな」
「なんか夢の中にでもいるみたい……」
「……」
そんなことを話しながらひとしきり流れてくる優《やさ》しい音楽に身を委《ゆだ》ねる。
「――そういえばこの曲、CD買いに行くのに裕人に付き合ってもらったんだよね」
「ん、ああ、そうだったな」
確か文化祭|準備《じゅんび》の帰りにいっしょに寄ったんだったけか。
「あれが十一月だったからもう一ヶ月半くらいだよね……全然そんな感じしないのに、時間が経《た》つのって早いなー」
椎菜が遠くを見るような目をする。
「あの時は迷子《まいご》が泣いて大変《たいへん》だったぞ。椎菜がいなかったらお手上げだった」
てかヘタすりゃあ警察とか呼ばれてたかもしれん。客観的に見れば完全に俺が男の子を泣かせてる構図《こうず》だったし。
「あはは、そうだったそうだった。あの時は裕人の方が泣きそうな顔してたもんね。子供が二人いるみたいだったよ」
「何だよ、ヒデェな」
「まあまあ、いつまでも子供の心を持ち続けるのはいいことだよ、うん♪」
「むう……」
とは言うものの椎菜《しいな》に言われると全然|不快《ふかい》じゃない。むしろそんな何でもない軽口《かるくち》が楽しいというか……。これも椎菜のフレンドリー極《きわ》まりない人柄《ひとがら》ゆえだろうか。
「でもほんと色々あったよね。裕人と知り合ってからもう二ケ月……あ、最初に会ったのは夏のコンクールだから、正確に言えば半年くらいなのかな?」
「そう、なるか」
まあ初めて会ったあの時はアキハバラで二度目の邂逅《かいこう》をしようだとか、ましてや転校生として同じクラスで再会《さいかい》することになるだろうだなんてことは夢にも思わなかったが。
「ふふ、きっと裕人とは縁《えん》があったんだろうね。今もこうして二人で並《なら》んでるわけだし」
「どうなんだろうな……」
だが椎菜と知り合えてよかったと思ってるのは確かだ。
椎菜は明るくフレンドリーでいっしょに話していて楽しいし、何より肩が凝《こ》らない。まあこのフレンドリー娘相手に会話が尽《つ》きることはないだろうが、たとえそうなっても間違《まちが》いなく気まずいだとかを感じることはないに違いない。言葉《ことば》がなくても居心地《いごこち》がよい空気というか、そんな感じだろうか。
「それでさ――」
「ああ、そうだな――」
しばらくの間そんな他愛《たあい》もないことを話しながら流れてくるメロディーに二人して身を任《まか》せていて、
やがて一曲が終わったところで、
「――んじゃ、そろそろ戻るか。あんま遅《おそ》くなるのもマズイからな」
「ん、そうだね。もっと聴《き》いてたいけど、それを言い出したらキリがないし」
そう言って、椎菜がイカ焼きの袋《ふくろ》とともに歩き出そうとした時のことだった。
ふいに神社のある高台の方から人をかき分け椎菜の進行方向に入ってきた男が一人いた。そいつは「ヤバイ、もうライブが始まってる……急がないと……っ」などとブツブツ口走りながら椎菜の方へと割り込んでくると――
「お……」
声をかける間もなかった。
ドンッ!
「きゃあっ」
男と正面からぶつかり椎菜の身体が横へと弾《はじ》かれる。続いて何かが水に落ちるぽちゃんという音。バランスを崩《くず》した椎菜はその場にぺたりと座《すわ》り込《こ》み、男はそのまま謝《あやま》ることもなく行っちまいやがった。
「大丈夫《だいじょうぶ》か椎菜《しいな》!」
慌《あわ》てて駆《か》け寄《よ》る。
「あ、うん。たぶん平気。受身は取れたから」
「……ったく、何だよあいつ」
夏コミの時の割り込み男といい、どこにでも迷惑《めいわく》な人間ってのはいるもんである。まあ椎菜にケガがなかっただけまだマシといったところか。
「立てるか? ほら、掴《つか》まって――椎菜?」
座《すわ》り込《こ》んだままの椎菜に手を差し出して、その様子《ようす》がおかしいことに気付いた。
何やら頭に手を当てて、呆然《ぼうぜん》とした顔をしている。
「どうした!? やっぱりどこかにケガとかを……」
慌てて椎菜の肩に手をかけかけて、
「かんざし……」
「え?」
「お祖母《ばあ》ちゃんのかんざしが……ないの」
珍《めずら》しくうろたえたような様子で椎菜が言う。
その頭からは、確かについさっきまでは月明かりを受けて淡《あわ》く輝《かがや》いていたかんざしが消えていた。
「ど、どうしよう裕人《ゆうと》。かんざしが……」
「落ち着けって。たぶん今の弾《はず》みで落ちたんだろ。そう遠くには行ってないはずだ」
今にも泣き出しそうな顔で見上げでくる椎菜をたしなめる。
そういえばぶつかった時に何かが水の中に落ちるような音が聞こえた。おそらくあれがそうだったんだろう。とすれば下の海に落ちちまったって考えるのが有力だ。
「とにかく下まで行ってみるぞ。あっちから下りられるみたいだ」
「う、うん」
動揺《どうよう》したままの椎菜を連れて、二人で桟橋《さんばし》の下の砂浜へと向かう。
「あの位置《いち》からするとこのヘンだな……」
「う、うん、たぶん」
俺たちが立っていたちょうど真下の辺り。
海は海なんだが、不幸中の幸いというかその一帯《いったい》は浅瀬《あさせ》になっていた。深さにしてせいぜい二、三十センチくらい。欄干《らんかん》からの明かりで薄《うす》く水面《すいめん》が照《て》らされていて、波も比較的《ひかくてき》穏《おだ》やかな場所である。
「これなら何とかなるか……」
「え?」
「とりあえず中に入って探《さが》してみる。悪いがちょっとこれ、持っててくれ」
この状況《じょうきょう》なら実地調査(?)が一番手っ取り早いだろう。
俺は搗《つ》き立て餅《もち》(×三十)が入ったビニール袋を椎菜《しいな》に手渡《てわた》し、靴《くつ》と靴下を脱《ぬ》ぎズボンを捲《まく》り上《あ》げると、そのまま水際《みずぎわ》へと向かった。
「え、ゆ、裕人《ゆうと》、どうするつもりなの?」
「だから入って直接探してみる。暗いからな。実際《じっさい》に手《て》[#底本では「さ」。誤植]探《さぐ》りでやらないと分からないだろ」
「手探りって……海に入るつもりなの? ムチャだよ!」
声を上げる椎菜。
いやムチャなのは俺も分かってるさ。何せただ立ってるだけで肌《はだ》が羽毛《うもう》をむしり取られたシャポン(フランス産|高級《こうきゅう》鶏《どり》)のようになるこの気温である。水の中がどんなアイスエイジになってるのかってのは推《お》して知るべしだ。
だが。
「大事なもん……なんだろ?」
「え?」
「そのかんざし。お祖母《ばあ》ちゃんにもらった大切なものだって言ってただろ。そこに落ちたのは分かってるんだし、だったら何としても見つけないとな」
これがもうどうしようもない沖に沈《しず》んじまっただとか目の前でオルカの群れに持ってかれただとかなら俺だって諦《あきら》める。だけどそうではないのだ。少なくとも目の前にあるのは分かってるってのに、寒いだとか冷たいだとかの理由でみすみす見過《みす》ごすなんてことはできんだろ。
「ゆ、裕人……」
「いいから待ってろって。すぐに探しちまうから」
「あ――」
椎菜の返事を待たずに水の中に足を踏《ふ》み入《い》れる。
「――っ」
途端《とたん》に刺《さ》すような刺激《しげき》が脳天《のうてん》まで響《ひび》き渡《わた》った。真夏にかき氷を一気食いした時みたいなキーンとくる痛み。思わずそのまま回れ右をして一旦《いったん》浜に逃《に》げ戻《もど》りたくなる。
「……」
……ガマンだガマン。
ここで一度|退却《たいきゃく》したら二度と入ることができなくなるだろう。それにすぐに慣《な》れてくるはずだ。心頭滅却《しんとうめっきゃく》すれば火もまた涼《すず》し。――ん、だがそれは精神集中すれば熱に耐《た》えられるという意味であって冷たさを克服《こくふく》できるってことじゃないよな? てことはやはり人間は熱《あつ》さよりも寒さに弱いもんなんだろうか。むう……
「……」
……って、んな余計《よけい》なことを考えてる場合じゃない。
ブンブンとヘッドバンキングをして雑念《ざつねん》を振《ふ》り払《はら》う。
早く探《さが》さんと、いかに波が少ないとはいえ沖の方に流されちまうかもしれん。
気持ちを入れ直し、暗く濁《にご》った水の中に手を突っ込む。やはり冷たいことこの上なかったが、最初の一撃《いちげき》(?)で感覚《かんかく》がほとんどマヒしていたためあまり気にならない。
中腰《ちゅうごし》になりつつ、サラサラとした砂地を漁《あさ》って沈んでいるものを探していく。
「……む?」
と、そこで何やら固《かた》くてゴツゴツとした感触。《かんしょく》
拾い上げてみると、
「……これは、違《ちが》うな」
水面から出て来たのはこの寒い中わきわきと元気にハサミを動かすカニくんだった。先日カニミソ料理のフルコースを堪能《たんのう》した俺に野生《やせい》の本能《ほんのう》で危険《きけん》を感じているのか、威嚇《いかく》するかのように口からぶくぶくとアワまで噴《ふ》いている。
「……いいから海にお帰り」
必死《ひっし》に抵抗《ていこう》する小型|甲殻類《こうかくるい》を両手で包み込むようにして優しく水の中に放《はな》し、続行《ぞっこう》。
砂の中に手を突っ込み、海草を脇《わき》に除《よ》け、石の隙間《すきま》に腕を入れていく。
地道《じみち》な単純|作業《さぎょう》。
「……ん?」
と、再《ふたた》び何やら固い感触が指先に触《ふ》れた。
さっきのカニくんとは異なり、明らかに人工的な手触《てざわ》りの装飾品《そうしょくひん》のようなもの。
今度こそビンゴか! ……と一瞬《いっしゅん》期待するものの、
「……これは………」
だが出て来たのは直径十センチくらいのペンダント。宝石の表面に「Love Forever」と彫《ほ》ってあり、さらにその上にナイフかなんかで無理《むり》やり削《けず》ったのか「裏切《うらぎ》り者《もの》! 結婚するって言ったのに! 呪《のろ》ってやる!」とのおどろおどろしい文字が書かれている。
「…………。見なかったことにしよう」
胸の奥で般若心経《はんにゃしんぎょう》をつぶやきながらそっと視界《しかい》の端《はし》にペンダントを流した。南無《なむ》。
「ないな……」
それからも全力で探し続けたが、なかなか目的の物は見つからなかった。
なんかへンなもんは大量に見つかるんだが、肝心《かんじん》のかんざしはまったくもって出てこない。
まあ視界はほとんど利《き》かない上に、落ちた場所もあくまでだいたいの推測《すいそく》でしかない。状況《じょうきょう》としてはプールの中で落としたコンタクトレンズ(ハード)を探《さが》すようなもんだろう。
「……」
だが諦《あきら》めるわけにはいかない。
諦めたらそこで試合終了だし、ゲームオーバーだ。
「――よし」
気合を入れ直し再《ふたた》び捜索《そうさく》を開始する。
「この辺りなのは間違《まちが》いないはずなんだが……」
冷え切った身体(特に腰周《こしまわ》り)を奮《ふる》い立《た》たせながら捜索|範囲《はんい》をもう少しだけ広げてみようかと思案《しあん》していると、
「も、もういいよ、裕人《ゆうと》!」
「え?」
砂浜から、椎菜《しいな》のそんな叫《さけ》び声《ごえ》が響《ひび》き渡《わた》った。
「それ以上やったら裕人がどうにかなっちゃう! だから、もういい。ありがとう。裕人のその気持ちだけで十分だから……」
「椎菜……」
「早く上がってきて! 今だってそんなに震《ふる》えてるし、温《あたた》かくしないと死んじゃうよ!」
必死《ひっし》な顔でそう大声を上げる。
それだけ、俺のことを気遣《きづか》ってくれているんだろう。
だが。
「……本当に、それでいいのか?」
「え?」
「大事なものなんだろ? さっきだってあんなに動揺《どうよう》して――」
普段《ふだん》は弱い面を見せることのない椎菜があんな顔をするのを、俺は初めて見た。今にも泣きそうで消え入りそうな表情。それはそのままあのかんざしに対する椎菜の思い入れの強さの表れに違《ちが》いない。
「そ、それは、でも……」
「だから、俺のことは気にせんでいい。これくらい何てことない」
その椎菜の思いと比べれば俺の腰の冷えなんてちっぽけなもんである。何てことないってのは言いすぎかもしれんが、それでも諦める気持ちだけはこれっぽっちも沸《わ》いてこないのは確実だった。
椎菜に背を向けて、再び水の中に手を突っ込む。
最初は刺すようだった冷たさは、もうほとんど感じなくなっていた。
そして――
「見つけた……」
目星を付けていた辺《あた》りから少しだけ離《はな》れた岩場の間。
そこから、あの淡《あわ》く翠《みどり》色《いろ》に輝《かがや》くウグイスのかんざしが姿《すがた》を現したのだった。
「ほら、あったぞ!」
「ゆ、裕人《ゆうと》……」
ザブザブと水をかき分けて椎菜のもとへと戻り、見つけたかんざしをそっとその手の上に乗せる。
「これで合ってるよな? お祖母《ばあ》ちゃんのかんざし」
「あ……」
椎菜は両手を口元に当てて信じられないものを見たような顔をしていたが、
「あ、合ってる、合ってるけど……でも裕人、バカだよ。こんなに冷たくなってまで……」
「あ、あー、まあ……」
それはあまり否定できんところなんだが。
「でも、でも……ありがとう。裕人の気持ち、嬉《うれ》しかった……」
冷たくなった俺の手をぎゅっと握《にぎ》り締《し》めて、椎菜が声を詰《つ》まらせながら頭を寄りかからせてくる。椎菜の手はまるで沸《わ》かし立ての湯タンポのようにじんわりと温かく、つながれた部分からはその気持ちが直接染み込んでくるかのようだった。
「……」
「……」
その状態のまま三分が経過《けいか》。
うーむ、何となく勢《いきお》いに任《まか》せてやってみたが、冷静《れいせい》に考えてみるとこの状況はけっこう照れくさいな。なんか椎菜《しいな》、微妙《びみょう》に泣いてるみたいだし……
と、その時だった。
〜〜〜〜♪
風に乗ってステージの方からかすかに聞こえてきた歌声。
「お……」
「これって……」
それは『Chocolate Rockers』の新曲だった。
つい先日発売されたばかりのナンバーで、タイトルは確か……『おもいでシュガーボックス』。
ゆったりとしたテンポの、だがそれでいて情熱的なバラードで、まるで吸い込まれるように俺たちは同時に顔を上げていた。
「きれいな歌……」
「ああ……」
流れでくる透明《とうめい》な歌声。
全英語詞なため詳細《しょうさい》までは分からんのだが、確か内容的には「諦《あきら》めなければできないことはない」みたいなことを歌っていたはずだ。
「諦めない、強い気持ち、か……」
と、椎菜が隣《となり》でぽつりとつぶやく。
「椎菜?」
「うん、そうだね、それが一番なのかもしれないね……」
「?」
何かに思《おも》い至《いた》ったかのように遠くの海を見つめる椎菜。
その横顔からは何を考えているのか俺には分からず。
それからしばらくの間、二人|黙《だま》ったままその曲が終わるまで歌声に聴《き》き入《い》っていたのだった。
「さ、今度こそ戻らんとな。かんざしも無事《ぶじ》見つかったし、カウントダウンまであと少しだ」
「あ、うん」
色々とやっている内に、カウントダウンがあと十分ほどにまで迫《せま》ってきてしまっていた。広場を離《はな》れてからは三十分以上にもなる。いいかげんに戻らんとマズイだろう。
「少し急ぐか。ああ、そっちのイカ焼きの袋《ふくろ》も俺が持つから貸してくれ。振袖《ふりそで》で砂浜を走るのに袋を持ったままじやキツイだろうし」
「……」
「椎菜《しいな》?」
「…………」
返事がない。
見ると椎菜は波打《なみう》ち際《ぎわ》で立ち止まったまま、両手で振袖《ふりそで》の裾《すそ》をきゅっと握《にぎ》り締《し》めてうつむいている。む、何かあったのか?
「どうかしたのか? また何か落としでもしたのか?」
「……」
「椎菜?」
訝《いぶか》しく思い近づこうとして、
「――あ、あのさ、裕人《ゆうと》!」
「ん、おお」
ふいに椎菜がバネ仕掛《じか》けのオモチャのようにがばっと顔を上げた。
「何だ?」
突然《とつぜん》の反応《はんのう》に少し驚《おどろ》きつつもそう訊《き》き返《かえ》すと、
「あ、え、ええと……」
「?」
「ゆ、裕人はさ……」
「ん?」
「その、あのさ……」
「??」
「え、ええと、だから……」
いつもはあらゆる意味ではっきりしてる椎菜にしては珍《めずら》しく何だか歯切れが悪い。歯に十二単《じゅうにひとえ》が装着《そうちゃく》されている感じというか。うーむ、実は俺のメガネが潮風《しおかぜ》の潮を受けて白く粉《こな》を噴《ふ》いてるのを言い出したくて言い出せんとか……?
いちおうメガネを外して表面を確認するもそれは大丈夫《だいじょうぶ》なようだ。とすると一体……
首を捻《ひね》る俺に、
「あ……ご、ごめん。や、やっぱり、何でもない」
「へ?」
「ん、な、何でもないの。ちょっと呼び止めてみただけ。気にしないで」
ぶんぶんと首を横に振《ふ》って、そう言った。
「? なんかよく分からんが……」
まあ椎菜がいいと言うんならいいんだろう、たぶん。こういうところを深く突っ込むと大抵ロクなことがないってのは、今までの経験上よく分かっている(一昨日《おととい》の美夏《みか》とか)。
「じゃあ行くか。ほら、とりあえずそっちのイカ焼きを渡《わた》せって」
「あ、う、うん」
椎菜《しいな》からイカ焼きを受け取り、元来た方へと向かって砂浜を早足で歩き出す。
響《ひび》くザクザクという砂を踏《ふ》む音。
月がどことなくいつもよりも鈍《にぶ》い光を放《はな》っているように思えた。
そして椎葉は、
「……まずいな。スイッチ……入っちゃったかも」
かんざしにそっと手を添えながら、そんなことをつぶやいていたのだった。
「遅《おせ》えぞ。何やってたんだよ、綾瀬《あやせ》」
「早くしないとカウントダウン始まっちゃうだろ」
「天宮《あまみや》さんまで付き合わせて何やってんだ」
広場に戻ってくるなり浴《あ》びせられたのはそんなドライアイスのような言葉《ことば》だった。
「ちゃんと餅《もち》はもらってこれたんだろうな? 飲み物は?」
「つーか配《くば》ってたのってすぐそこだろ? 何でこんなに時間がかかるんだよ」
「まさかとは思うが天宮さんにヘンなちょっかいとか出してたんじゃねえだろうな」
文句《もんく》とブーイングの三段コンボ。
まあ実際《じっさい》問題、戻ってくるまでにムダに時間がかかりまくったのは事実なんで言い分は分からんでもないが……
「あ、あのさ、その、裕人《ゆうと》が遅《おそ》くなっちゃったのはあたしが――」
椎菜が横からそう言おうとするが、
「あー、悪い。ちょっと砂浜でウミガメの産卵《さんらん》を見つけてな」
「え……?」
「ちょうど最後の卵を産み終わるところでな、椎菜にはムリ言って付き合わせちまったんだ。そのせいで遅くなっちまった、悪かった」
「裕人……」
その言葉を遮《さえぎ》り前に出る。別にわざわざ本当のことを言うこともない。少し文句を言われるくらいだし、俺のせいだったことにしとけばそれで済《す》む話だ。
「ふうん、ウミガメの産卵ねぇ……」
「ホントはカップルでも見てたんじゃねえのか?」
「まあ間に合ったから何でもいいけどよ」
クラスメイトたちもそれ以上は言ってこなかった。
とりあえずもらってきた餅と飲み物を皆に配《くば》る。
「…………」
「椎菜《しいな》ちゃん、どうしたの、ぼーっとしちゃって」
「あ、え?」
「何かあったの? 何だかほっぺたが赤いような気がするんだけれど……」
「なんか椎菜らしくないなー、妙《みょう》に大人しいっていうか」
「あ、う、ううん、別に」
何やら椎菜と朝比奈《あさひな》さんたちがそんなことを話していたのを横耳で聞きながら、
餅と飲み物を春香《はるか》にも渡《わた》そうとして、
「別にあなたの手から渡してもらう必要はないです!」
「私たちが渡しますから近づかないでくださいぃ」
「…………あなたはピロリ菌《きん》です」
「……」
最後までそんな反応《はんのう》だった。
「あ、あの、その……」
「さ、春香せんぱい、あっちでいっしょにお餅を食べましょう」
「きなことあんこ、どっちがお好みですかあ?」
「…………両方混《ま》ぜたものもお勧《すす》めです」
強引《ごういん》に連《つ》れ去《さ》られていく春香。
そしていよいよカウントダウンが始まる――
[#改ページ]
[#改ページ]
『5、4、3、2、1……ハッピーニューイヤー!!』
「ハッピーニューイヤー!」
陽気《ようき》なカウントダウンのコールとともに、辺《あた》りから一斉《いっせい》に歓声《かんせい》と拍手《はくしゅ》とが巻《ま》き起《お》こった。
それに合わせるかのように、砂浜の方ではドカン! ドカン! と景気《けいき》よく次々に花火が打ち上げられ、あちこちから「あけおめ!」だとか「ハッピーニューイヤー!」だとか「バモラァ!」だとかの声が響《ひび》いてくる。
喧騒《けんそう》とざわめき。
いかにも年が明けましたって雰囲気《ふんいき》。
周《まわ》りではクラスメイトたちも、
「今年もよろしくな」
「ああ、こっちこそ」
「だからあのうなじと足首を活《い》かすためにはそもそも帯《おび》の締《し》め方《かた》がだな……」
それぞれに新年の挨拶《あいさつ》をしていて(一部アレなのもあるが)、
「おめでとう、良子ちゃん、椎菜ちゃん」
「うん、麻衣《まい》もね。今年もよろしくー」
「あ、おめでとう。――そ、その、裕人《ゆうと》も」
「ああ、おめでとうだな」
椎菜たちも楽しげにそんなことを喋《しゃべ》り合《あ》っていた。
ちなみに春香《はるか》はというと
「あけましておめでとうございます、春香せんぱい!」
「今年も私たちだけにそのステキな笑顔《えがお》を振《ふ》りまいてくださいねぇ」
「…………期待《きたい》してますから」
「あ、は、はい」
やはり取り巻き&親衛隊《しんえいたい》どもに囲《かこ》まれてカゴの中の高級巻き毛レモンカナリア状態で、近づくアリの穴ほどの隙間《すきま》さえなかった。まさにプラチナ壁《かべ》のガード。いや本気で今回はイベントの終了まで会話一つできねえんじゃねえかって気がしてきたぞ……
蜃気楼《しんきろう》のように遠くかすかに見える春香の笑顔にそんなやるせない気持ちを抱《いだ》いていると、
「それじゃそろそろお参《まい》りに行くから、皆、境内《けいだい》の方へ移動《いどう》してくれー!」
クラスの男子のそんな声が聞こえてき[#誤植。底本では「く」]た。
いよいよ本命であるところの初詣《はつもうで》へと向かうらしい。
「あ、ほら、裕人も行こう。もうみんな動き始めてるよ」
「……そうだな」
せめてお参《まい》りくらいは春香《はるか》の隣《となり》でやりたかったんだが、現実としてその可能性《かのうせい》はほとんど残されてなさそうな以上、叶《かな》わぬ夢にばかりしがみついていても仕方がない。
うなずき返し、椎菜《しいな》たちとともに歩き出す。
お参り台の周辺《しゅうへん》はそれなりに人で混み合っていたが、それでも冬コミのように行列がアミメニシキヘビの群《む》れのごとく長くビロンと伸びまくっているというほどではなかった。
歩けば進めるというか、普通《ふつう》によくある程度《ていど》の混み具合。むしろ露店通《ろてんどお》りの方が人が多かったくらいである。
そんな中を俺たちは五分ほどかけてお参り台の前まで辿《たど》り着《つ》き、
ガランガラン!
「今年もいい年になりますように……」
「家族の健康と世界平和をお願いします」
「世界中の足首が理想のサイズになりますように……」
鈴の付いたガラガラを鳴《な》らしつつ、他のクラスメイトたちとともに無事にお参りを済《す》ませることができた(また一部へンなのもいたが)。
「よかった、無事にお参りができましたね」
朝比奈《あさひな》さんが安心したように言う。「年明けすぐだったから、もっと混むかと思いましたけど……」
「うん、そうだね。あ、そういえば椎菜。ずいぶん長くお参りしてたけど何をお願いしたの?」
「え? べ、別に大したことじゃないよ。今年も楽しく過《す》ごせればいいなって……」
澤村《さわむら》さんの言葉《ことば》に椎菜が慌《あわ》てたように顔を上げる。
「んー、なんか怪《あや》しいなー。天宮椎菜の秘密(2[#丸に2])かー。ねえ、麻衣《まい》もそう思うでしょ?」
「え、いえ私は……」
「ほらほら吐いちゃえー(こちょこちょ)」
「ちょ、ちょっと良子……や、やめて、そこは弱くて……あっ……」
楽しげにきゃいきゃいとくっ付きながらじゃれ合う椎菜たち。うーむ、新年早々仲がいいな。
とまあそんな感じにお参り自体はさしてトラブルが起きたりすることもなくあっさりと終わり。
参拝《さんぱい》を済ませた者から順に広場へと戻って行き、おのおの適当にダベったりさっき配《くば》った餅《もち》をパクついたりすること三十分くらい。
「それじゃそろそろお開きにするかー。メインのお参りも終わったことだし時間もけっこう遅《おそ》くなってきたしな。皆、今日はお疲《つか》れ様でしたー」
男子の一人がそう叫んだ。
どうやら後は現地|解散《かいさん》というか、自由行動みたいな流れになるらしい。まあこれ以上ここにいてもそうやることもないし、妥当《だとう》な判断《はんだん》な気はするがな。
「んじゃ、帰るか」
「そうだな、いいかげん眠《ねむ》くなってきたし」
「いっしょに二次会行くやついねぇ?」
クラスメイトたちもそれぞれに動き始める。
三馬鹿《さんばか》や信長《のぶなが》たちも、
「よし、それじゃあ場所を移して議論の続きだ」
「そうですね、今宵《こよい》はうなじと足首について徹底的《てっていてき》に語《かた》り合《あ》いましょう。寝《ね》かせませんよ」
「ああ、ファミレス辺《あた》りでいいよな?」
「僕はどこでもいいよー。あ、裕人も来るー?」
「いや遠慮《えんりょ》しとく……」
そんなアレなことを言いながら去って行き、
椎菜《しいな》も、
「あ――それじゃ、あたしたちもそろそろ行くね」
「お?」
「これから麻衣《まい》たちとカラオケに行くんだ。で、その後に麻衣の親戚《しんせき》の家でお泊《と》まり会をする予定。今日はたぶんオールかな」
「そうなのか」
「うん、せっかくの新年だしね」
「むう……」
相変わらず元気というかアクティブだな。
「分かった。んじゃまたな」
「うん、またね。ばいばい」
そう言い手を振《ふ》って、途中でもう一度振り返ってまた勢《いきお》いよくぶんぶんと手を振って、朝比奈《あさひな》さんたちと行ってしまった。
他のクラスメイトたちも、ほとんどがバラバラと帰り出している。
全体的に漂《ただよ》うイベントの終わりというか微妙《びみょう》にうら寂《さび》しい雰囲気《ふんいき》。
そんなお開きムードを肌《はだ》で感じながら、
「俺はどうするかな……」
背を向けて境内《けいだい》を去っていくクラスメイトたちを眺《なが》めながらぼんやりと考えていて、
――そうだ、そういえば春香《はるか》は……?
ふとそれが頭に浮かんだ。初詣《はつもうで》イベントに入ってからはほとんどコンタクトを取ることができなかった春香。ここまではまったくと言っていいほど接点がなかったが、もしかしたらこれはそのラストチャンスかもしれん。
そう思い淡《あわ》い期待《きたい》とともにいちおう様子をうかがってみるものの……
「春香《はるか》せんぱい、これからの予定はどうなってますか?」
「何もなければ私たちと朝までいっしょにいましょうよぉ」
「…………素敵《すてき》なオールナイトカフェがあるんです」
「あ、は、はい、えと……」
「……」
ダメだった。
やはりというか何というか、取り巻きたちに囲まれてあわあわとしていて声をかけるきっかけがまったくもって掴《つか》めない。むう、あわよくばこれから二人で二度目|詣《もうで》をとか思ったんだが、どうもそれもミッションインポッシブルっぽいな……
「…………帰るか」
クラスメイトたちはほとんど帰っちまったし、春香にも近づけそうにないし、これ以上ここにいる意味はほとんどない。大人しく家に戻《もど》って、おそらくは今頃新年にかこつけて飲んで騒《さわ》いで火を吹いたり刀剣《とうけん》(本物)を振《ふ》り回《まわ》したりしてるに決まっている我が家のアホ姉とその親友の相手でもしてた方がまだ生産的だろう(何が生み出されるかはともかくとして)。
そんなことを思いながらトボトボと神社の出口へと歩き出す。
境内《けいだい》を抜け、石段《いしだん》を下り、鳥居《とりい》へ。そのまま露店通《ろてんどお》り前の桟橋《さんばし》まで差しかかる。
ピュルルルル……
「……寒ぃ」
海の方から親の仇《かたき》のように吹き付けてくる浜風。
気のせいかそれがさっきまでよりも冷たく痛《いた》く感じられる。
心が寒いと体感温度がそれだけ低く感じられるって本当なんだな……などと考えつつ歩速《ほそく》を上げようとして、
その時だった。
「ゆ、裕人《ゆうと》さん!」
「え?」
ふいに後ろから耳心地《みみごこち》のよい声が響《ひび》いた。
続いてとてとてという小さな足音。同時に服の袖《そで》が慎ましやかにくいっと引かれる。
振り返ってみるとそこには――
「え……春香?」
「は、はい」
息《いき》を切らしながら、一生懸命《いつしょうけんめい》な顔で俺の服の袖につかまっている振袖《ふりそで》お嬢様(長女)の姿《すがた》があった。「よ、よかった、追いつけました……」
置いていかれた群《む》れに追いついたカルガモみたいな表情で言う。
「え、いや何で……」
春香《はるか》がここに? 取り巻きたちとオールナイトカフェとやらに行ったんじゃなかったのか?
俺の疑問に、
「あ、は、はい、ええと、その、それは……」
「?」
「あ、あのですね……」
春香は少しの間もじもじとしていたが、
「ええと、そのように誘われたのですが……こ、断《ことわ》って帰ってきちゃいました」
「え、断って?」
「はい、その、裕人《ゆうと》さんにお話ししたいことがありまして……」
「え?」
俺に……話? そういやあ駅で集合した時に取り巻きたちが割り込んでくる前に何かを言いかけてたような……
「は、はい。――あの裕人さん、これからお時間はあるでしょうか……?」
「ん、いや、まあ大丈夫《だいじょうぶ》だが」
どうせ帰ったところでやることといえば寝《ね》るかワン公たちの相手をするくらいである。時間はあり余《あま》って飽和《ほうわ》状態になってるも同然だ。
「そ、そうですか……あの、その、でしたら……」
「?」
「え、えとですね……」
うつむきながら指を胸の前で絡《から》めていた春香は、そこで目をきゅっとつむって、
「あの、でしたらこれから……私といっしょに初日の出を見に行っていただけないでしょうか?」
思いきったかのようにそう言った。
「初日の出?」
「は、はい。この近くにとっても素敵《すてき》な初日の出スポットがあるという話なんです。黄瀬《おうせ》岬《みさき》というところなのですが、よろしければ裕人さんと二人でそこに行きたくて……」
一生懸命《いっしょうけんめい》な口調《くちょう》でそう言ってくる。
「それって……」
もしかしてここに来る時に朝比奈《あさひな》さんが言ってたやつだろうか。なんか神社に祀《まつ》られている神様がどうこうとかいう。いやよくは覚えてないんだが。
「ど、どうでしょう? もっと早くお誘いできればよかったのですけど、ずっと裕人さんとお話ができなかったのでなかなかお伝えする機会《きかい》がなくて……。な、なのでほんとうによかったらでいいんですが……」
遠慮《えんりょ》がちな表情でおずおずとこっちを見上げてくる。
春香《はるか》の誘《さそ》い。
それも二人きりでの。
突然《とつぜん》ではあるが、それを断《ことわ》る理由《りゆう》なんてこれっぽっちもあるはずがない。
なので、
「大丈夫《だいじょうぶ》だぞ」
「え?」
「全然大丈夫だ。初日の出でも熊手《くまで》でも、何でも大歓迎だぞ」
そう言った。それは俺の望《のぞ》みでもあるし、春香が取り巻きたちの誘い(ほとんどキャッチセールスだとか絵画商法レベル)を断ってまで自分からそんな積極的に誘ってくれるなんて、今までにはなかったことだしな。
「あ……」
春香が嬉《うれ》しそうに目をまん丸にする。
「あ、ありがとうございますっ。そう言っていただけると私……」
「あー、礼なんていいって。俺も行きたかったしな」
むしろこっちの方が感謝《かんしゃ》のアボリジニーダンスをしてもいいくらいである。
「それじゃ行くか」
「は、はいっ」
というわけで、春香と二人で初日の出を見に行くこととなった。
春香の言うところの初日の出スポットである岬《みさき》は、今までいた神社からは少し離《はな》れた場所にあるとのことだった。
露店通《ろてんどお》りを抜《ぬ》けた先を、桟橋《さんばし》を渡《わた》らずに左に曲がった先の方向。
お参りをした神社の分社に当たる建物の近くにあるらしい。
ここからだと時間にして徒歩《とほ》で三十分ほどかかるとの話だが、現在の時刻はまだ午前一時を少し回ったところである。日の出までにはけっこう時間があったので、途中《とちゅう》の道で行われている様々な催《もよお》し物《もの》(?)を見ながらのんびりと進むことにした。
「わあ、こっちには色々な出し物があります……」
横の春香が声を上げる。
さすがに新年だけあって、あちこちでたくさんの催し物が行われていた。
新年の踊《おど》りや獅子舞《ししまい》、お守りや破魔矢《はまや》などの販売《はんばい》、様々な神事《しんじ》やお祓《はら》いみたいなものまでやってるようである。
「すてきです……」
そういった光景《こうけい》がよっぽど珍《めずら》しいのか、春香《はるか》はさっきからしきりに歓声《かんせい》を上げて、氷上デビューを果たしたばかりの仔ペンギンみたいに楽しそうにきょろきょろとその小さな顔を動かしている。
「わ、裕人《ゆうと》さん、見てください。あっちで立派《りっぱ》な鏡餅《かがみもち》が売ってます」
「ああ、そうだな」
「あそこでは獅子舞さんが頭にかぶりついています。痛《いた》くないのかな……」
「ホントだ。夜中からすげぇな」
「向こうではお馬さんに乗った方が弓矢を射《い》て……」
「あれは流鏑馬《やぶさめ》……か?」
俺の服の袖《そで》をちょこんと摘《つま》みながらのそんな会話。
その無邪気《むじゃき》な様子《ようす》はとてつもなく可憐《かれん》でプリティーで……改めて俺にとっての最上級のハッピーモーメントは、春香と二人でこういうまったりほのぼのとした時間を過《す》ごすことなんだってのを再確認《さいかくにん》させられた感じだね、うむ。
などとそこはかとない幸せに浸《ひた》っていると、
「あ、ちょっといいですかー、そこを歩いているカップルさんたちー」
ふいにどこからか呼び止められた。
どこか間延《まの》びした能天気《のうてんき》な声。
何だ……と思い振《ふ》り返《かえ》ってみるとそこにいたのは背中に何やら小型|大砲《たいほう》のような六角形の筒《つつ》を背負《せお》った巫女《みこ》さん。頭に『出張巫女ちゃんV[#白抜きのハートマーク]』と書かれた派手《はで》なハチマキを巻き、にへら、と怪《あや》しげな笑みを浮かべながら俺たちに手招《てまね》きをしている。
明らかに不審人物《ふしんじんぶつ》だった。
「……」
とりあえず見なかったことにしよう。
「おお春香、あっちにザリガニ釣りがあるぞ」
即座《そくざ》に目を逸らして、怪しい巫女さん(かどうかも疑わしいが)とは反対方向でやっていたザリガニ釣りの屋台《やたい》を指差す。「行ってみるか? 面白《おもしろ》そうだぞ」
「え? あの、そちらの方《かた》は……」
「何のことだ? 俺には何も見えない。きっと幻覚《げんかく》だ」
「は、はあ……」
春香にそう言って足早にこの場を立ち去ろうとして、
「ちょ、ちょっと待ってくださいー」
しかし回り込まれてしまった。
俺たちの前に立《た》ち塞《ふさ》がるようにして巫女《みこ》さんは素早《すばや》く移動《いどう》すると、「は、話くらい聞いてくださいよー。まったく、これだから今時の高校生は……」
ぶつぶつと文句《もんく》を言う。
重そうなもんを担《かつ》いでる割には大した機動力だった。
「……」
……こういうのとはできれば毛根《もうこん》の先ほども関わりたくなかったんだが、しかたねぇか……
「……俺たちに何か用ですか?」
こうなったらさっさと用件だけ聞いて追《お》い払《はら》っちまおう。そう思いイヤイヤながら尋《たず》ねたところ、
「や、よくぞ訊《き》いてくれましたー。聞いて驚《おどろ》いてください、私は『出張巫女ちゃん』です!」
「……は?」
「だから、『出張巫女ちゃん』ですよー。忙《いそが》しかったり混雑《こんざつ》していたりでなかなか本堂のおみくじ売り場まで来られない困った人たちのために、雨にも負けず風にも負けず東に西に出張しておみくじを販売《はんばい》しているのですー、えへん」
「……」
偉そうに胸を張《は》っているが名前のまんまだった。てか胡散《うさん》くさいことこの上ねぇ……
だが春香は、
「わあ……とっても偉い方なのですね。『出張巫女ちゃん』さん……」
今の話のどこかに胸の琴線《きんせん》に触《ふ》れる部分があったのか(おそらく雨にも負けず風にも負けず辺りだろうが……)、ものすごく感激した顔をしていた。春香……
「お、さすが。彼女の方は分かってますねー。どうです、せっかくだからやっていきませんかー? 『出張巫女ちゃん』印の特選おみくじですよー?」
「あ、はい。やってみませんか、裕人《ゆうと》さん♪」
きらきらした目でそう言ってくる。
「……」
まあ……いいか。見た目は果《は》てしなくアレだが、とりあえずおみくじを売ってることだけは確かみたいだし、それくらいなら大して害はないだろう。
「分かった。それじゃやるか」
「はいっ」
春香が無邪気《むじゃき》な顔でうなずく。
「りょうかいしました。お二人ですね。それでは――」
そう言うと『出張巫女ちゃん』とやらはお辞儀をするように前かがみになるとそのまま身体全体をゆさゆさと前後に揺《ゆ》らし、
ガラガラ。
続いて背中の大筒《おおづつ》から、長さ一メートルくらいの細長い棒《ぼう》のようなモノが出て来た。
「はい、これがそっちの彼女の番号で……ええと、七番ですねー。そしてこっちがそっちの彼氏の分……四十四番です」
「……」
どうやらあの小型|大砲《たいほう》はおみくじの番号筒だったらしい。
いや何だってそんなにムダに巨大なのを使ってんだよ……だとか、そもそも今時番号筒を使う必要性《ひつようせい》はあんまないだろ……だとか色々と突っ込みたい俺の前で『出張巫女《みこ》ちゃん』は手に持っていた木箱から白い巻紙を取り出し、
「ではこちらが該当《がいとう》番号のおみくじとなりますー。お受け取りくださいー」
それぞれを俺たちに渡《わた》してきた。
「……」
「わあ、これが『出張巫女ちゃん』印のおみくじ……」
何やら正拳《せいけん》突《づ》きをする巫女さんのイラストが描《か》かれた巻紙を手に取る俺たちに、
「毎度ありがとうございましたー。それではまたのご利用をお待ちしておりますねー」
そう笑顔《えがお》で言うと、『出張巫女ちゃん』はぺこりと頭を下げて再《ふたた》び雑踏《ざっとう》の中へと消えて行ってしまった。
「……」
とりあえずまた≠フご利用はないと思うがな……
「あ、裕人《ゆうと》さん、あの、いっせいのせで見ましようね? いっしょにですよ?」
「ん、ああ」
『出張巫女ちゃん』が去った後、うきうきとした春香《はるか》のそんな声を受けつつ、同時に渡された白い巻き紙を開く。
「ええと……あ、やりましたっ! だ、大吉《だいきち》です」
「おお」
響《ひび》いたのは春香の歓声《かんせい》。
見ると確かに春香の手の平の上には大吉の文字があった。大きな吉と書いて大吉。さすがは春香、運がいいというか、ドジっ娘《こ》神《しん》以外の神様にもきちんと愛されてるって感じだな。
「裕人さんはどうですか? 見せてくださいです」
「ん、俺は、どれどれ……」
嬉しそうな春香の横で自分のおみくじに目をやると――
「……」
「……」
「……大凶《だいきよう》…………」
確率的に言って大吉よりも当てるのが遥《はる》かに至難《しなん》なレアナンバーがそこにあった。春香《はるか》のと比べてどこか黄ばんだ紙。心なしかほんのりと黒いオーラを発しているようにも見える。てか大凶って本当にあるもんなんだな。入れてないところもあると聞いていたが、そんな心のケアなどおかまいなしなのはさすがは『出張|巫女《みこ》ちゃん』といったところか……
「あ、え、えと、あの……」
紙の真ん中にデカデカと書かれた大凶の文字を目にした春香は最初何と言っていいか言葉《ことば》に困っているようだったが、
「だ、だいじょうぶですよ、裕人《ゆうと》さん」
「え?」
「だ、大凶だったからといって何も人生が終わったわけじゃないです。今年一年の運勢《うんせい》がほんのちょっとばっかり最悪になるだけで……」
やがておずおずと顔を上けて、そう言った。
「……」
「あ、あの、何と言いますか、落ちるところまで落ちてしまえばあとは昇るだけというか……」
「……」
「人生|七転《ななころ》び八起《やお》きと言いますし、たとえ七回|転倒《てんとう》して骨折《こっせつ》しても八回目に起き上がればその頃にはきっと松葉杖《まつばづえ》が身体の一部として馴染《なじ》んでくるようなもので……」
しどろもとろな口調《くちょう》で必死《ひっし》にそう訴《うった》えかけてくる。
「…………」
まあ本人としては慰《なぐさ》めてくれているつもりなんだろうが、ほとんどフォローになってないのは実に春香(天然《てんねん》)らしいというか。
「え、ええとですね……」
「あー、いいさ。気にしてない」
「え……」
さらに続けようとした春香を制し、
「春香の言う通り、一番ダメなら後は上がるだけたからな。それに悪い結果《けっか》でも木の枝に結びつければ大丈夫《だいじょうぶ》だって言うだろ。厄除《やくよ》けだったか」
「あ、は、はいっ、そうですね」
春香はこくこくと大きくうなずいて、
「そ、それじゃあ早速《さっそく》結んじゃいましょう。善は急げです。えと、ちょうどそこに良さそうな木がありますし」
「ん、そうだな」
道脇《みちわき》にニョッキリと生えている高さ二メートルくらいの木。
何人か同じようなことを考えたやつらがいたのか、すでにいくつかのおみくじ(『出張巫女《みこ》ちゃん』印のもありやがる……)がくくりつけられ白い花のように実っていた。
「えと、この辺かな……」
幾人もの初詣《はつもうで》客《きゃく》の幸運と怨念《おんねん》とをぶら下げて枝をたわませている木を見つめながら春香《はるか》は小さくそうつぶやくと、
「あ、あの裕人《ゆうと》さん、おみくじを貸してくださいです」
「お?」
「あのですね、私の大吉《だいきち》と裕人さんの大凶《だいきょう》をいっしょに結ぼうと思うんです。そうすればきっと相殺《そうさい》されてゼロになるんじゃないかと……」
「ああ……」
なるほど、そういうことか。
それなら納得《なっとく》だが、だがそれだと俺はいいとして、春香の大昔も俺の大凶に引《ひ》っ張《ぱ》られて効果をなくしちまうってことにならないか?
俺の疑問にしかし春香はふるふると首を振《ふ》って、
「いいんです。私だけ大吉でもしょうがないですし……。それよりも裕人さんの運勢《うんせい》が良いものになってくれる方がずっと嬉《うれ》しいですから」
「春香……」
「いいことは二人ぶん、悪いことははんぶんこ、です」
ほんわかとした笑顔《えがお》でにっこりと笑いかけてくる。うう、健気《けなげ》だ……
「そっか。じゃあ頼《たの》む」
「はい。それじゃあちょっと待っていてくださいね。今結んでしまいますから」
そのささやかな心づかいにジーンとする俺にそう言って、春香はおみくじ(大凶)を受け取ると木の枝へと手を伸ばし――
「ん、んしょ、んしょ……」
伸ばし――
「ん、ん〜……」
伸ば――
「あ、あと少し……」
「……」
どうやらあと一歩が届かないらしい。
必死《ひっし》にうんうんと背伸《せの》びをしてがんばってはいるが、春香はもともとそこまで背が高いわけではない。その上、今は動きにくい振袖《ふりそで》姿《すがた》である。二メートルの木を相手にするのは少しばかりきついんだろう。
「ん、ん〜……あ、あと少し……ですっ……」
「……」
まあその一生懸命《いっしょうけんめい》な姿《すがた》はそれはそれで届かない木の実を求めるエゾリスみたいでかわいらしくはあったんだが、さすがにいつまでも放っておくのは考えものである。
俺は三歩前に出て、
「ほら、大丈夫《だいじょうぶ》か」
「え?」
足下がおぼつかずにふらふらとしている春香《はるか》の身体を、後ろから支《ささ》えた。
「着物だし、転《ころ》んだりしたら色々危ないだろ。こうすれば安心だ」
「……」
「春雪?」
「あ、い、いえ……」
俺の言葉《ことば》に春香ははっとしたように顔を上げて、
「は、はい、でしたら、あの、支えていてくださいますか? ちょっとの間でだいじょうぶですので……」
「おう、任《まか》せてくれ」
俺の大凶《だいきょう》おみくじ(『出張巫女ちゃん』印)のためでもあるんだしな。
うなずき返して春香の肩《かた》と腰《こし》に手を添える。
と、同時にふわりと漂《ただよ》ってくる甘やかな匂《にお》い。手の先からは春香の柔《やわ》らかな感触《かんしょく》が伝わり、すぐ目の前からはアップにされた髪によってあらわになった春香の真っ白なうなじが視界《しかい》に飛び込んでくる。
「……」
……いや。
何だか深く考えない内に脊髄《せきずい》反射《はんしゃ》的《てき》に行動に出ちまったが、よく考えてみりゃあこれはかなりイエローゾーンギリギリのボーダーアクションなんじゃないのか。
春香もそれは意識《いしき》しているのか、
「あ、あの、す、すみません、こんなことをやらせてしまって……」
「ん、あ、いや」
ちらちらとこっちを振《ふ》り返《かえ》りながら困ったような笑みを浮かべて、
「な、なんか変ですね。ただ支えでいただいているだけなのに……」
「ん、そ、そうだな」
そんなどこかぎこちない会話。
「え、えと……」
「あ、あー……」
結局《けっきょく》おみくじを結び終えるまでずっと、妙《みょう》な雰囲気《ふんいき》は続いたのだった。
そういった感じに微妙《びみょう》に心臓をアイドリングさせるおみくじイベントを経《へ》て、俺たちは再《ふたた》び初日の出スポットへと続く道を適当《てきとう》に歩いていた。
振袖《ふりそで》姿《すがた》や紋付《もんつ》き姿の人々で賑《にぎ》わう石畳《いしだたみ》の道。
もう深夜《しんや》も二時を回った辺りなんだが、皆新年ということで夜通し騒《さわ》ぐ予定なのか、周囲《しゅうい》からは一向《いっこう》に人の数が減《へ》る気配《けはい》はない。
辺り一体を包《つつ》むどことなく浮き立ったような熱気《ねっき》に溢《あふ》れた空気。
「……」
そんな中、俺の心は微妙にまだ動揺《どうよう》したままだった。
全身の自律《じりつ》神経《しんけい》の過《か》稼動《かどう》状態とでもいおうか。
さっきまでの春香《はるか》の柔《やわ》らかい感触《かんしょく》が手に残っているというか目を閉じればあの透明《とうめい》なうなじのビジョンが浮かんでくるというか……うーむ、いつもならあのくらいでここまで意識《いしき》することはないってのに、やはり女子の着物は男にとってクリティカルヒットになり得《う》る代物《しろもの》なんだろうか。これじゃ三馬鹿《さんばか》たちのことを言えんな……
そこはかとなく悩《なや》む俺の隣《となり》で、春香《はるか》もまだ少し本調子《ほんちょうし》ではないのか、顔をほの赤くしてうつむいている。
どこか気まずげな沈黙《ちんもく》。
それを破るべく、
「あ、あー、春香」
「あ、あの、裕人《ゆうと》さん」
「!」「!?」
互いにかけようとした声が重なり、
「な、何だ?」
「あ、え、ゆ、裕人さんの方からどうぞ」
「え、や、春香からで……」
さらにはその後の言葉《ことば》までもが被《かぶ》る。
この上なく不毛《ふもう》なやり取り。
「……」
「……」
俺たちはさっきから一体何をやってるんだろう……自分で自分にそう突っ込みたくなるような時間が続いた、その時だった。
ドガッ!
突然《とつぜん》、背中に何かがぶつかったような衝撃《しょうげき》がはしった。
「ぐわっ!?」
不意の一撃《いちげき》。
衝撃自体は軽かったが何せ突然のことである。俺の身体はそのままブザマに地面を転《ころ》がりダンゴムシのようにゴロゴロと七回転半して、運動エネルギーのおもむくままに道脇《みちわさ》に立っていた地蔵《じぞう》(安産《あんざん》祈願《きがん》)に顔から激突《げきとつ》した。
「ゆ、裕人さん!」
「う、うおおおおお……」
思わず口からうめき声が漏れる。や、やばい、今マジで一瞬《いっしゅん》きれいな川とその向こうに広がるお花畑が見えたぞ……
「ゆ、裕人さん、だいじょうぶですか!?」
春香が慌《あわ》てたように駆《か》け寄《よ》ってくる。
「あ、ああ、な、何とか……」
生きてはいるようだ。臨死《りんし》一歩手前までは行ってたみたいだが。
強打《きょうだ》した顔面《がんめん》とメガネを押さえて痛《いた》みに耐《た》えていると、
「ちょっとあんた、どこ見て歩いてるのよ!」
背後《はいご》からいきなりそんな声が聞こえてきた。
同時に近づいてくる帽子を目深《まぶか》に被《かぶ》った女子。
どうやらこいつがぶつかってきた本人らしい。
帽子女は俺を見るなり、
「頭の悪い障害物《しようがいぶつ》みたいにぼーっとしてないでよ、こっちは急いでるってのに!」
「……」
いきなりモノ扱《あつか》いだった。それも工事現場のコーンだとか土嚢《どのう》だとかのレベルの。
「……ったく。まあいいけど。玄武岩《げんぶがん》か火成岩《かせいがん》にでも蹴つまずいたと思うことにしといてあげる。ところで、ケガはない?」
「あ? まあ」
いきなり振《ふ》られていまいち釈然《しゃくぜん》としないもののいちおう答える。
頭に小さくコブのようなものはできているがそれ以外に目立ったキズはない。プラスチック製|玩具《がんぐ》のように頑丈《がんじょう》なのだけが俺の取り得みたいなもんだしな。
「あっそ、ならよかった」
帽子女はあっさりとそううなずいて、
「スイカを木刀《ぼくとう》で思いっきり叩《たた》いた時みたいなものすごい音がしたから、頭蓋骨《ずがいこつ》陥没《かんぼつ》でもしてたらどうしようかと思って。あ、スイカっていってもちゃんと中身が詰《つ》まってるスイカだからそこは安心して」
「……」
フォローなんだかよく分からんことを言う。まさかとは思うがこいつ、これで心配《しんぱい》してるつもりなのか……?
一般常識的にはあり得《え》ない超《ちょう》褒《ほ》め殺《ごろ》しだが、今までの言動《げんどう》から考えると果《は》てしなくそうである可能性《かのうせい》が高い。なのでとりあえずそれに対する突っ込みはさておき、
「……つーか何をそんなに急いでやがったんだ?」
「は?」
「だから何であんなに人にぶつかるほど急いでたのかって訊《き》いてるんだよ。こんな新年早々何か用事でもあったのか?」
衝突《しょうとつ》事故に至った根本的《こんぽんてき》な理由《りゆう》を訊いてみる。
「そんなの別にあんたには関係ないでしょう」
「関係ある。おかげでこんな新年から路上で開脚《かいきゃく》前転《ぜんてん》をやるハメになったんだからな」
「それくらい別にいいじゃない。ケガがなかったんだから何が減《へ》るもんでもなし」
「そういう問題じゃないだろ……」
「……」
「……」
正面から対峙《たいじ》する俺たち。間で春香《はるか》が不安そうな顔で「あ、あの……」とおろおろとしている。
しばしそんな状態が続き、
「とにかく、このことはあんたに関係な――あっ」
「? どうした?」
と、そこで帽子女が何かを見つけたかのようにびくんと身体を震《ふる》わせた。
「ちょっとあんた、遮蔽物《しゃへいぶつ》になんなさい」
「お、おい?」
「いいから!」
返事も待たずに勝手に俺と春香の後ろに隠れる。
直後に俺の目の前を、何やらだれかを探《さが》しているような素振《そぶ》りのメガネをかけた大人しそうな女の人が通り過ぎて行った。
「……ふう、行ったみたいね」
それを確認して帽子女が背中から出て釆る。
「ごくろうさま。もういいわ。まったく茅原《かやはら》さんはしつこいんだから……」
「お前、なんかやったのか? ……傷害《しょうがい》? 名誉毀損《めいよきそん》?」
「……違《ちが》うわよ。ていうか何でそんな発想が出て来るのよ」
「何でってな……」
これまでのこいつの行状《ぎょうじょう》を見てればだれでもそこに至《いた》ると思うが。
「まあいいわ。とにかく私、もう行くから。――いちおうぶつかったお詫《わ》びとかくまってくれたお礼は言っとく。悪かったわ、サンキュ」
「あ、おい――」
「じゃあね」
最後に帽子を取って分かるか分からないかくらいの微妙《びみょう》な角度で頭を下げると、帽子女は人ゴミの中へと走り去っていってしまった。
その一瞬《いっしゅん》に女子の目元に何やらきらりと光る星型のシールのようなものが見えた気がしたが、気のせいだろうか。
「一体何だったんだ……」
「え、ええと……」
何が何だったんだかさっぱり分からずに春香と顔を見合わせていると、
「あ、す、すみませ〜ん、そこの安産祈願《あんぎんきがん》のお地蔵《じぞう》さんの脇にいるお二人さん」
「はい?」
声をかけられた。
見るとそこにいたのは先ほど通り過ぎていったメガネの女の人。どうやら戻《もど》ってきたらしく息《いき》を切らしながらこっちにやって来ると、
「す、すみませんが、この辺で女の子を見かけませんでしたか? 帽子を被《かぶ》って目元に星のシールがあって、それでいてちょっと口が悪い感じの……」
「え、ああ……」
それって今の帽子女のことだよな?
とりあえずほんの数秒前に逃《に》げるように走り去っていったことを告《つ》げると、
「そ、そうですか……。も、もう、これからまだ収録《しゅうろく》があるっていうのにみらんは……。や、やっぱりあの子、私のことがきらいなのかしら……めそめそ……」
「あ、あの……」
「……ぐすん……」
さめざめと目元にハンカチを当て始めた女の人(どう見ても俺たちより年上)にどう対応《たいおう》していいか分からずに困惑《こんわく》していると、
「あ、ご、ごめんなさい。初対面《しょたいめん》の人の前で変なところを見せちゃって……」
「いや、それはいいんですが……」
「本当にごめんなさいね。それじゃあ私は行きます。どうもありがとうございまし――」
と、そこで言葉《ことば》が止まった。
何やらメガネのリムに手を当てて、じーっと春香《はるか》の方を凝視《ぎょうし》している。
「え、えと、何か……?」
「あ、ご、ごめんなさい。ええと、あなたお名前は何て……」
「え、わ、私ですか? 乃木坂《のぎざか》ですけれど……」
それを聞いた女の人はいそいそと手帳のようなものを取り出して、
「そ、そう、乃木坂さん。あの、乃木坂さんはもうどこかの事務所に――」
〜〜〜〜♪
と、そこで聞《き》き慣《な》れない着信音が響《ひび》いた。
耳触《みみざわ》りのいい高音域《こうおんいき》の音。これは……『さよならビター・キャンディ」か?
それを聴《き》いた女の人が慌《あわ》てたようにカバンの中から携帯を取り出し、
「は、はい、茅原《かやはら》です。……はい、はい、その、今探《さが》している途中で――え、本当ですか!? わ、分かりました、すぐに向かいます。ええと、場所は……」
そんなことをひとしきり話した後に電話を切って、
「あ、ご、ごめんなさいね。私もう行かないと……あ、あの、とりあえずこれだけ受け取ってくれるかしら、乃木坂さん」
「え?」
「気が向いたら連絡してくれればいいですから、ね?」
カバンから名刺《めいし》のようなものを取り出しそれをぎゅっと春香の手に握《にぎ》らせると、女の人はそのまま何かに急《せ》かされるようにして行ってしまった。
「あ、あの……」
春香《はるか》が困《こま》ったような顔で手の中に目を落とす。
名刺《めいし》には『スリーピースプロダクション チーフマネージャー・茅原《かやはら》弥生《やよい》』と、その他色々電話番号などが書かれていた。
うーむ、結局何だったんだろうね? さっきの帽子女といい今の女の人といい何がやりたかったんだかさっぱりである。まあ春香も困惑《こんわく》してるようだしとりあえず二人とも行っちまったことだしこれ以上俺たちが関わることもないか……
そう結論付けて、その場は納得《なっとく》することにしたのだった。
さて、そんなワケノワカラン二人とのひと時を経《へ》て(おかげで春香との妙《みょう》な空気が解消《かいしょう》されたのだけは感謝《かんしゃ》すべきかもしれんが)、三度《みたび》初日の出スポットへと向かって歩いていた俺たちだったが。
その途中《とちゅう》で今度は、
「あ、裕人さん、あれは何でしょう?」
「ん?」
「あそこです。たくさん人が集まっているみたいなのですが……」
春香が指差している先に目をやる。
そこには即席《そくせき》で作られたような屋台《やたい》と、紙コップのようなものを配《くば》っている神社関係者らしき人たちがいた。
「ん、なんか甘酒《あまざけ》を配ってるみたいだな」
「甘酒、ですか?」
「ああ、たぶんな。そんな匂《にお》いだし」
おそらくは砂浜で配ってた餅と同じように縁起物《えんぎもの》として無料|配布《はいふ》してるんだろう。新年のイベントとしては夏祭りにおけるタコヤキの屋台と同じくらいにスタンダードなものだ。
「わあ、甘酒……」
それを開いて興味津々《きょうみしんしん》な目で屋台を見る春香。完全に大人用のワサビ茶漬《ちゃづ》けに憧《あこが》れる小さな子供の目である。
なので、
「……飲んでみるか?」
「え?」
「そんなに気になるんならもらってくるぞ。ちょうど身体も冷えてきたところだし、甘酒といえば初詣《はつもうで》の定番だしな」
「え、い、いいんですか?」
「ああ」
というか無料|配布《はいふ》だから本当にただもらってくるだけだしな。
俺は屋台《やたい》へと走ると白い湯気《ゆげ》を立てる紙コップを二つ受け取って、春香《はるか》のもとへと戻った。
「ほら、熱《あつ》いから気を付けてな」
「あ、はい、ありがとうございます」
春香は嬉《うれ》しそうな顔で紙コップを受け取ると、そのままちょこんと口をつけた。
「どうだ?」
「わあ、おいしいです……」
こくこくと小さくノドを鳴《な》らしてコップを傾《かたむ》けていく。
「甘酒ってこんなにおいしいものだったんですね。おうちで飲んだ時にはそこまで感じなかったのに……」
「こういうモンは屋内《おくない》で飲むよりも外で飲んだ方がウマイって相場《そうば》が決まってるからな」
風情《ふぜい》とか雰囲気《ふんいき》とか、そういったもんが影響《えいきょう》するんだろう。何というかある意味でのプラシーボ効果《こうか》みたいなもんか。
すると春香は、
「そうですね、それもあるかもですけれど……」
「?」
「でも、それだけじゃないと思います。やっぱり一番の原因は、裕人《ゆうと》さんがいっしょだってことです。隣にいるのが、裕人さんだってこと……」
「え?」
ちょっと照れたように顔をうつむかせて、ふいにそんなことを言った。
「裕人さんといっしょだから、おいしいんだと思います。これが一人だったり、他の方といっしょだっただけではきっとそうではなかったはずです。これも裕人さんのおかげですね」
「あ、な……」
思わず言葉に詰《つ》まっちまう。いやいきなりそんなことを言われてもな……
ちなみに春香の頬《ほお》はほんのりと赤くなっていて、微妙《びみょう》に色っぽかった。それも相《あい》まって余計《よけい》にクるもんがあるというか……
どういうリアクションをとっていいか分からずに道祖神《どうそじん》のように道端《みちばた》に突っ立っていると、
「……ほんとはずっと、こうして裕人さんといっしょにいたかったんです」
「え?」
春香がぽつりとそう言った。
「神社に向かう時からそうでした。もっと色々とお話がしたかったですし、いっしょに屋台も回りたかったです。カウントダウンもいっしょに迎えたかったですし……」
「……」
「離《はな》れたところにいる裕人《ゆうと》さんを見ていると何だか落ち着かなくて胸がそわそわとして……わがままだっていうのは分かってるんですけど……でも、それが私の気持ちでした」
「春香《はるか》……」
声を小さくさせて頬《ほお》をさらに赤くさせる春香。
その表情はこれ以上ないってくらいに真剣《しんけん》で、本当にそう思ってくれていたことがよく分かった。
「あ、ご、ごめんなさい。急に変なことを言ってしまって……。い、いきなりこんなことを言われても困りますよね。ちょっと酔っちゃったのかな……」
「あ、いや」
困るなんてことはこれっぽっちもダイダラボッチもないんだが。
それどころか春香も俺と同じことを思っていてくれたっていう事実に雨の日のアマガエルの鳴《な》き袋《ぶくろ》のように嬉《うれ》しさが膨《ふく》れ上《あ》がった。つーか今すぐこの場で地蔵《じぞう》を相手にジャーマンスープレックスをかましてもいいくらいの気分である。
だが春香はよほど照れくさかったのか、
「ほ、ほんとうにおかしなこと言ってごめんなさい。あ、あの、私、紙コップを捨ててきますね。裕人さんのも貸してください」
「お……」
空になった紙コップを手に取り近くにあったゴミ箱へぱたぱたと向かおうとして、
その進行方向上に、ワカメ(海辺ならでは)があるのを発見した。
「あ、春香――」
「え?」
声をかけるも時はすでに遅《おそ》し。
春香が走っていて、そこにワカメがあって、それらが接触《せつしょく》事故を起こさないわけがない。
「きゃあっ」
そしてその予想《よそう》は見事《みごと》なまでに外《はず》れることなく、悲鳴《ひめい》とともに春香の身体が宙に舞《ま》った。
色鮮やかな振袖《ふりそで》が闇《やみ》に舞《ま》う三回転半(歴代《れきだい》二位)。
「くそっ……!」
地面を蹴《け》ってダッシュする。間に合うか……っ!
摩擦《まさつ》運動で道脇《みちわき》に飛ばされたワカメ(へたっている)を横目で見つつ運動不足の足をもつれさせながら落下予測《らっかよそく》地点へと全力で走って、
「……ぐぼっ!」
回転する春香の身体が地面に墜落《ついらく》する寸前《すんぜん》で仰向《あおむ》けに滑《すべ》り込《こ》み、何とかクッション代わりになることに成功した。
「だ、大丈夫《だいじょうぶ》か、春香《はるか》?」
「え、あ、は、はい」
「そうか……」
ケガがないようならひとまずはよかった。胸を撫《な》で下《ね》ろし(俺のな)起き上がろうとして、
「……」
「春香?」
と、そこで何やら春香の様子《ようす》がおかしいことに気付いた。
両手で自分の身体を包《つつ》み込《こ》むようにしながら、もぞもぞと小刻みに動いている。
「どうした? あ、もしかして寒かったりするのか?」
「あ、えと……」
いぶかしく思い声をかけると春香は戸惑ったように顔を上げて、
「?」
「あ、あの、実は……」
そのまましばらく言《い》い淀《よど》んでいたが、やがて小さな声でそっと耳打ちをすると、
「そ、その……振袖が着崩《きくず》れしてしまったみたいなんです」
「着崩れ?」
「は、はい。たぶん、今の拍子《ひょうし》に……」
そう、恥《は》ずかしそうに言ったのだった。
「ここなら大丈夫か……?」
周囲《しゅうい》の様子を窺《うかが》いながらそうつぶやく。
人の気配《けはい》のない、ほとんど廃屋《はいおく》みたいな木造の建物。
ここは近くの砂浜にある使われていない海の家である。何でも着崩れは人前では直せないということから適当《てきとう》な場所を探《さが》していたところ、たまたまこの場所を見つけたのだ。
「スミマセン、だれかいますか?」
入り口らしき引き戸を開け、いちおう呼《よ》びかけてみるも返事は戻《もど》ってこない。
飛び込んでくるのは暗闇《くらやみ》と自分のダミ声の反響《はんきょう》だけである。
「大丈夫そうだ。お、足下には気を付けてな」
「す、すみません……」
少し不安げな表情の春香とともに中へと入る。
雨戸に囲《かこ》われた屋内《おくない》はタタミ十畳《じょう》ほどの広さで、今の時期はほとんど使われていないのかあちこちにホコリやらクモの巣《す》やらがたまっているようだった。お世辞《せじ》にも快適《かいてき》とは言えない状況《じょうきょう》だが、とりあえず着崩《きくず》れを直すのには不自由しないだろう。
「あー、それじゃ俺は外で待ってるから……」
そう言ってそそくさと退室《たいしつ》しようとして、
「あ、ゆ、裕人《ゆうと》さん、待ってください」
「え?」
「あ、あの、できればいっしょにいていただけないでしょうか? その、一人だと不安で……」
そんな声が背中にかかってきた。
「え、いや、でもな」
思わぬ言葉に戸惑《とまど》う。
着崩れというからにはきっと着物のラインが崩れてるってことであり、それを直すということはおそらく少なからず着物を脱《ぬ》いであれやこれやしなければならないということだろう。いや、そんな状況下にいちおうは男である俺が同じ空間にいるのは限りなくマズイんじゃないのか?
――とは思うものの、
「お、お願いします。こ、こんな真っ暗な中で一人になるのは、その……」
「う……」
微妙《びみょう》に目を潤ませた春香《はるか》にそう言われては、断《ことわ》ることもできそうにない。そういえばいつぞやの夜の図書室やウチでのお泊《と》まりの時にもそうだったし、こういった暗いところが苦手《にがて》なんだったな。
なので、
「……わ、分かった。俺でいいなら」
「あ、ありがとうございます。いてくださるだけでいいんです……」
本当に救《すく》われたような顔で頭を下げる春香。まあ……何とかなるか。
そういうわけで着崩れ直しが始まったわけだが。
「そ、それでは少しだけ待っていてください。すぐに済《す》ませてしまいますので……」
「ん、ああ」
「ほんとうにお手数をおかけしますです……」
そう軽く一礼して部屋の奥へといそいそと歩いて行く春香を見送った後、俺は後ろを向き、
シュル……シュルル……
直後にそんな衣擦《きぬず》れの音が聞こえてきた。
「……」
いやもちろん俺は春香に背を向けてかつ目をつむってるわけだからこれが本当に衣擦れの音なのかは定《さだ》かではない。ないんだが……これまでの経過《けいか》と状況から勘案《かんあん》するにまずそれに間違《まちが》いはないだろう。てか着崩《きくず》れを直してるわけだし……
高感度パラボラアンテナのようになる俺の耳に、
「わ、思ったよりも崩れてます……やっぱり全部脱がないとだめかな……」
「……」
「えと、まずはここをこうして……」
さらにシュルシュル…パサリという音が追加《ついか》で聞こえてきた。これはやはり脱いでる……んだろうな。
「こっちをこう……」
「……」
「これをああして……あ、きゃっ」
と、そこで小さく悲鳴《ひめい》が響《ひび》いた。何だ、何かあったのか?
「大丈夫《だいじょうぶ》か、春香《はるか》!」
振《ふ》り向《む》きたいのをガマンして目をつむったまま呼びかける。
「え? あ、は、はい。ちょっと裾《すそ》を踏《ふ》んづけてしまっただけで……」
「裾? そ、そうか……」
「あ、すみません、心配《しんぱい》をおかけして……」
「あー、いや、平気だ」
何が平気なんだか自分でもよく分からなかったがとりあえずそう答えておく。
そして再《ふたた》び目をつむり入り口付近での待機《たいき》状態を続行《ぞっこう》。
「……」
しかし見えないってのは逆《ぎゃく》にヘンに想像力《そうぞうりょく》がかき立てられてアレだな。暗闇《くらやみ》というある意味自由な空の中で妄想――もとい想像のツバサがアホウドリのごとくムダにバタバタとはばたくっつーか……
そんな俺の内心とは裏腹にその後も、
「ええと、ここを引《ひ》っ張《ぱ》って……あっ!」
「!?」
「ひ、引っ張りすぎてほどけちゃいました……」
だの、
「きゃ、冷たい……!」
「!?」
「な、なんだ、溜まった雨水の滴《しずく》が垂《た》れてきていたのですね……」
だの、
「ひゃっ!?」
「!?」
「こ、こんなところにクモの巣《す》が……」
だのと、
なかなかに脳下垂体《のうかすいたい》をイタズラに刺激《しげき》してくれる状況が続いた。
正直に言って後ろで何が行われてるんだかめちゃくちゃ気になるんだが……。しかしとにかくここはガマンだ、ガマン。春香《はるか》としては俺を信頼《しんらい》して一つ屋根《やね》の下(?)で着崩《きくず》れ直《なお》しをしているわけだし、その信頼に泥《どろ》を塗《ね》るようなマネはできん。
「……」
ガマンガマン。何があっても振《ふ》り向《む》かない振り向かない……
「あの……」
そうだな、ここはあれだ。ツルの恩返しにおける恩返しをされる猟師《りょうし》のような心境《しんきょう》で……って、あれは結[#ルビ「っ」誤植修正。底本では「ん」]局《けっきょく》覗《のぞ》いちまって全てがご破算《はさん》になるんだったっけか? うーむ、だとそれはマズイか。
「え、えと……」
「……」
だったら別の手を考えねばなるまい。こうなったら発想《はっそう》を転換《てんかん》して久しぶりに素数《そすう》を数えてみるってのもアリかもしれん。ええと最初は○からだったか? いや一? ……なんか前もここでつまずいた気もするな。
「ゆ、裕人《ゆうと》さん……?」
「……」
むう、気を逸《そ》らすってのも難《むずか》しいもんだな……
容量《ようりょう》値《ち》の少ない頭を必死《ひっし》に悩《なや》ませる俺に、
「あの……終わりました」
「……へ?」
「着崩《きくず》れの直し……全部完了しましたです」
そんな声。
振《ふ》り向《む》いて見れば、そこにはきちんと振袖《ふりそで》を着込んだ春香《はるか》がいた。
どうやら俺が般若湯《はんにゃとう》を目の前にした修行僧《しゅぎょうそう》のような気分でいる内に、着崩れ直しはすっかり終わっていたらしい。
「お……そ、そうか」
「はい、裕人さんが近くにいてくれたおかげで、怖《こわ》くありませんでした♪」
親カンガルーの袋に入っている仔カンガルーみたいな安心しきった笑顔《えがお》でそんなことを言う。親の心子知らずだ……
「あー、じゃあ行くか」
それを見てワケノワカランことばかり考えていた自分に少しばかり反省しつつそう言って、
「あ、はい」
春香がうなずきかけたその時だった。
カタリ。
「!?」
入り口のすぐ脇《わき》の物陰《ものかげ》で、そんな音がした。
「ゆ、裕人さん、今の……?」
春香が不安そうな表情を向けてくる。
「なんか音がしたな。風かなんかか?」
「わ、分からないです……」
こっちに近づこうとしかけて、
カタン、カタカタ……
さらに鳴《な》る不審《ふしん》な音。
「ゆ、裕人さん!」
「何なんだ……?」
そして次の瞬間《しゅんかん》、
カサカサカサ……
そんな音とともに物陰《ものかげ》から何かが飛び出してきて、
「きゃあっ!」
「!?」
同時に悲鳴を上げながら、春香《はるか》が全力で抱《だ》きついてきた。
突然《とつぜん》のことに俺は対応《たいおう》しきれずにバランスを崩《くず》し――
どさり! という音。
瞬間的《しゅんかんてき》に暗転《あんてん》する視界《しかい》。
――気付けば俺の身体に上からそのまま覆《おお》いかぶさるようなカタチで、春香の整《ととの》いまくった顔が目の前にあった。
「あ、す、すみませんっ!?」
「あ、い、いや……」
二人同時にそんな風に声を上げる。
「な、何だったのでしょう、今のは……?」
「分からん。何かが出て来たみたいだが……」
折り重なったまま首をひねる俺たちのすぐ横を、
カサカサカサ……
体長二十センチくらいのでかいカニがシャコシャコと元気に脚を動かしながら元祖《がんそ》カニ歩きで通り過ぎていった。
「……」
「……」
幽霊《ゆうれい》の正体見たりモクズガ二。
さすがに海辺だけあって、屋内《おくない》にまでカニが入り込んでいるようだった。
「カ、カニさんだったんですね……」
「みたいだな……」
というかここんとこやたらとカニに縁《えん》があるな……
カニミソコースやら間違《まちが》えで拾い上げてしまったカニやらを思い出し息《いき》を吐《は》く。
ともあれ原因《げんいん》は究明《きゅうめい》された。
ならばいつまでもこうして逆《ぎゃく》エロマウントポジション状態になっている理由もないだろう(個人的には微妙《びみょう》に惜《お》しかったり惜しくなかったりだが)。
そのまま起き上がり元のポジションに戻《もど》ろうと思いきや。
「……」
「……」
何だか春香《はるか》の顔が赤い。
まるで春のウグイにでもなったみたいに桜色だ。
「あ、あの、裕人《ゆうと》さん……」
「ん、な、何だ?」
「…な、何だか身体が熱《あつ》いです。どうしてしまったんでしょう……?」
「!?」
そ、それはどういう意味だ?
予想外《よそうがい》の言葉《ことば》に動揺《どうよう》する。
そりゃあここはまがりなりにも屋内《おくない》だし、今現在俺たちの身体はサンドイッチの上と下のようにぴったりと密着《みっちゃく》してることから互いの体温が伝わり合って平常よりはどちらも体温が一度くらいは上がっていてもおかしくはないが、それにしたって季節は冬である。それも海風が冷える砂浜の。その状況下で熱いってのは一体何が……
「……」
……落ち着け。
ここは冷静《れいせい》になって現在のシチュエーションを考えてみよう。
深夜《しんや》の海岸。
二人きりの密室《みっしつ》空間。
目の前には上気した春香の整《ととの》った顔。
これらから導《みちび》き出《だ》される答えは……
「……」
……やばい。
一度は抑《おさ》え込《こ》んだ桃色《ももいろ》イマジネーションが、再《ふたた》び灰《はい》の中から甦《よみがえ》ったフェニックスのごとく脳《のう》内《ない》を駆《か》け巡《めぐ》ってきやがる。
「は、春香……」
「ゆ、裕人さん……」
春香が上に、俺が下に目が合う。
自分の心臓の音がうるさいくらいに耳元にまで響《ひび》き。
全身の血流が高血圧《こうけつあつ》のお父さんのようにドクドクッと顔面《がんめん》にまで駆《か》け昇《のぼ》ってくる。
「――」
と、ふいに春香が目を閉じた。
揺れる長いまつ毛。
あらわになる白いまぶた。
まるで全てをこの場の流れに委《ゆだ》ねるかのようなそんな表情である。
「!?」
それを見た俺の中で何かが弾《はじ》けた。
こ、これはもうアレか、ここでダッシュ&ゴーをしなけりゃ男として……っ!
脳ミソの中で電気信号がドンパッチのようにスパークした感覚《かんかく》。
溢《あふ》れ出《で》る勢《いきお》いに任《まか》せてそのまま顔を上げようとして、
「…………きゅう」
ぱたり、と。
春香《はるか》の身体から突然《とつぜん》力が抜けた。
「……へ?」
「…………」
「あ、あー、春香……?」
呼びかけるが返事がない。全身を脱力《だつりょく》させて、俺の方へと倒《たお》れ掛《か》かってきている。
「ちょ、春香、大丈夫《だいじょうぶ》か!」
「……」
「春香!」
本当にどうしちまったんだ!? まさか間近で俺のメガネを見すぎて反射する光にあてられて光|過敏症に《かびんしょう》なったとかじゃあるまいし……
くたりとなった春香を抱《だ》き起《お》こしながら必死《ひっし》に何とか介抱《かいほう》しようとして、
と、
そこで気付いた。
「す〜す〜……」
何やら聞こえてくるそんな音。
そしてかすかに漂《ただよ》う甘酒《あまざけ》の香《かお》り。
――ん、ちょっと待て、まさかこれって……
一つの可能性《かのうせい》に思い当たる。
ここに至《いた》るまでの過程《かてい》と春香の体質。そこから導《みちび》き出《だ》される仮説《かせつ》。しかしよもや、そんなことが本当にあり得《う》るのか?
だが状況《じょうきょう》からしてもはやそれしか考えられない。
俺は思わずその可能性を口にしていた。
「酔《よ》って、寝《ね》てるのか……」
「ほ、ほんとうにすみませんでしたっ!」
「あー、いや」
「ま、まさかお酒を飲みすぎて眠《ねむ》ってしまうなんて……」
心の底から申し訳なさそうにぺこぺこと春香《はるか》が頭を下げる。
あれから一時間。
リンゴを食べた白雪姫のようにすやすやと眠り続けた春香は少し前にようやく目を覚《さ》ました。そして起きるなり自分の現状(酔《よ》ってオヤスミ)を認識《にんしき》したのか真っ赤になりながら謝《あやま》り出《だ》し、そのまま今に至《いた》るというわけである。
いやまあ春香がアルコールに弱いことはいつかの誕生会のシャンメリーで分かってはいたし、本当に何か体調を《たいちょう》悪くして倒《たお》れるよりは全然よかった。とはいえさすがに甘酒《あまざけ》(アルコールはほとんどなし)であんな風になるとは思わんかったから初めは少々|焦《あせ》ったが……
「それより本当に大丈夫《だいじょうぶ》なのか? もしまだいまいちなようならここで戻るってのも……」
「はい、それはだいじょぶです。肝臓《かんぞう》さんががんばってくれたのか、寝《ね》て起きたらだいぶすっきりしていました」
胸の前で手の平をぎゅっと握りしめる。
「それに……せっかくの裕人《ゆうと》さんと二人で初日の出を見る機会《きかい》を、こんなことでふいにしたくないです。一年に一度しかないチャンスなんですから」
「春香……」
「だから私のことは気にしないでください、ね?」
一生懸命《いつしょうけんめい》にそう言ってくる春香。そこまで二人での初日の出チャンスを大事に考えてくれてるなんて……
「分かった。だけど途中で気分が悪くなったりしたら遠慮《えんりょ》なく言ってくれな。俺にできることなら何でもするから」
だったら俺もその気持ちに応えなければなるまい。何としてでも春香と二人で初日の出を見てみせる。
「それじゃ行くか」
「あ、はい」
気合を入れ直し、笑顔《えがお》の春香とともに海の家を出る。
初日の出(気象庁予測時間)まであと一時間弱。
酔《よ》い覚《ざ》め(?)したばかりの春香を考慮して少しゆっくりめに歩いても充分に間に合う時間である。
砂浜を出て、海沿《うみぞ》いの道へと戻り、高台へと入っていく。
目的地である初日の出スポット――黄瀬岬《おうせみさき》とやらへと近づくにつれ、段々《だんだん》と周《まわ》りから人の姿が《すがた》少なくなってきた。
つい先ほどまでは歩道を埋《う》め尽《つ》くすほどだった人の波が、今ではもう三十メートルに一人の割合でくらいしか見られない。閑散《かんさん》としていると言ってもいい雰囲気《ふんいき》である。
「えと、ここはあまり人には知られていない隠れスポットみたいなんです」
春香《はるか》がそう説明してくれる。
「だからいらっしゃる方もそう多くはないようで……。先に行くにつれて少しずつ道も分かりにくくなってくるとのことですし……」
「そうなのか?」
「はいです」
春香の言う通り、先に進むに従《したが》い道も歩きやすいものから険《けわ》しいものへと変わっていった。
石畳《いしだたみ》の道から舗装《ほそう》されていない砂利道《じゃりみち》へ。さらには雑草《ざっそう》が生《は》え茂《しげ》った勾配《こうばい》のある獣道《けものみち》へ。
周《まわ》りの景色《けしき》も次第《しだい》に木々に囲《かこ》まれた緑あふれるものになっていく。
「大丈夫《だいじょうぶ》か、春香?」
隣《となり》で足下を気にしながら歩く春香に声をかける。
「え、あ、はい」
「病み上がりなんだからな。ムリはしないでくれ」
もともと何もなくても非常に歩きづらい道である上、振袖《ふりそで》と草履《ぞうり》ではいかにも辛《つら》そうである。
冬山をパーティードレスで登るようなもんというか。先を見るともっと険しくなってるみたいだし……
だが春香は、
「へ、平気です。このくらいへっちゃらです。これでも私、体力には自信があるんですよ」
「だがな……」
「それに、黄瀬岬まであと少しなのですから……」
俺に心配をかけまいと気を遣《つか》ってるのか、石につまずきかけて足をもつれさせながらも顔をぐっと上げて笑みを見せる。とはいえ客観的にはまったくもって平気には見えんのだが……
「……」
……しかたない。
これは恥《は》ずかしいというか精神的《せいしんてき》に多少なりとも負荷《ふか》がかかるものゆえに最後の最後まで封印《ふういん》しておきたかった奥の手なんだが、今のシチュエーションはここで使わなきゃどこで使うんだってシチュエーションである。
俺は覚悟《かくご》を決めて、
「――春香」
「あ、はい。何でしょう?」
「あのな――」
春香に近づくと、
「え、ゆ、裕人《ゆうと》さん?」
その小さな身体を両手で抱《かか》え上《あ》げた。
「あ、え、その、え、ええと!?」
「あー、いいから。春香《はるか》は大人しくしててくれ」
春香は大丈夫《だいじょうぶ》だと言うが、どう見てもここからの道は着物で進むのはムリだ。よくて着物がボロボロに、悪ければ転《ころ》んだりして春香がケガをしかねない。そんなのはまかり間違《まちが》っても避《さ》けたい事態《じたい》である。だからこれが春香のために俺ができる唯一《ゆいいつ》の手段《しゅだん》だった。
「これなら着物でも大丈夫だろ。危《あぶ》なくない」
「で、ででですが……」
「な?」
その提案《ていあん》に春香は少しの間俺の腕の中で手足をばたばたさせていたが、
「わ、分かりました……お、お任《まか》せいたします」
やがて最後には、顔を真っ赤にしながらも納得《なっとく》してくれた。
「んじゃ、行くからな」
「は、はい」
そういうわけで、そこからは基本はお姫様|抱《だ》っこ状態で進んでいった。
とはいってもさすがにオールウェイズお姫様抱っこではムリがあるため、場所によっておんぶに切り替えたり横抱きを使い分けたりして対応《たいおう》していく。
「ゆ、裕人さん、あの、だいじょうぶですか? その、お、重かったり……」
「ああ。全然何てことない」
心配《しんぱい》そうな春香に笑顔《えがお》で答える。
まあ実際《じっさい》にはそこまで簡単《かんたん》じゃなかったんだが(春香が重いわけではなく単純に俺の養殖《ようしょく》ガチョウのような体力的に)、春香の手前それくらいかっこつけてもバチは当たらんだろ。
「とにかく大丈夫だ。だから春香は何も心配せずにお姫様になっててくれればいい」
「え、その……」
「な?」
「……あ、は、はい、です」
こくんとうなずく春香。
最初は戸惑っていたようだが、今では黙《だま》って身を任《まか》せるようにして俺の胸にぎゅっと抱きついてきてくれている。
まあそんな感じで獣道《けものみち》を抜け、吊《つ》り橋《ばし》を通り、足下の悪い岩場を越えていき……
そしてとうとう目的地である黄瀬岬《おうせみさき》へと辿《たど》り着《つ》く――
「着いた……」
「わあ……」
俺の腕の中で春香《はるか》がほうっと声をもらす。
「すごい、とっても絶景《ぜっけい》です……」
「ああ……」
春香の言う通り、目の前にあるのは息《いき》を呑《の》むような光景《こうけい》だった。
海に面した切り立ったガケ。一面に広がる空とその向こうにある闇《やみ》に包《つつ》まれた水平線。まだ初日の出まで時間はあるようだったが、いざその時が来たら圧巻《あっかん》な光景になるだろうことは確実だった。
「ここが黄瀬岬《おうせみさき》……お母様が言っていたところなのですね……」
お姫様|抱《だ》っこからちょこんと地面に降《お》りて、春香がゆっくりと岬の先端《せんたん》へと近づいていく。
「春香、あんまりガケの方まで行くと危《あぶ》ないぞ」
「あ、はい。気を付けますです」
振《ふ》り返《かえ》ってそんな返事が戻ってくる。
まあガケの縁《ふち》には落下防止用の手すりのようなものが付いているから大丈夫《だいじょうぶ》だろうが、春香の超絶《ちょうぜつ》なドジ能力を考慮《こうりょ》すればいちおう言っておくに越したことはない。
で、俺も春香から少し遅《おく》れてガケの方にまで歩いていった。
春香が来たがっていた初日の出スポットな岬。
ガケの近くには古びた小さな祠《ほこら》のようなものが建っている。おそらくこれが初詣《はつもうで》をした神社の分社なんだろう。あっちに比べると随分《ずいぶん》と質素《しっそ》というか、ぶっちゃけボロイな……
何だか隠れスポットすぎて世間の全てから忘《わす》れ去《さ》られてしまった文化|遺産《いさん》を見るような切ない気分でそれを眺《なが》めていると
「裕人《ゆうと》さん……今日はほんとうにありがとうございました」
「ん?」
春香がふいにこっちを向いて、改まったようにぺこりと頭を下げた。
「裕人さんのおかげで無事《ぶじ》にここまで辿《たど》り着《つ》くことができました。ずっと来たいと思っていた黄瀬岬……。感謝《かんしゃ》の気持ちでいっぱいです」
「あー、いや」
別に俺は大したことはしてない。それに俺自身が春香といっしょに初日の出を見たかったからやっただけで、改めて感謝《かんしゃ》されるようなことじゃないんだよな。
だが春香《はるか》は首をふるふると振《ふ》って、
「そんなことないです。裕人《ゆうと》さんがいなければ……裕人さんの、そのお姫様だっこ≠ェなければ、ここに来ることはできませんでした。それに……ここには裕人さんと二人で来ることに特別な意味があったんですから」
「え?」
特別な意味……? それは初耳というか今この場で初めて聞いた言葉《ことば》だ。ここに来ることに、初日の出を見る以外になんか意義《いぎ》があるってのか?
頭頂部《とうちょうぶ》にハテナマークを浮《う》かべる俺に、
「この一年……ほんとうに色々なことがありました」
「お?」
「裕人さんと出会ったこの一年……私にとってこの一年はとっても新鮮《しんせん》な一年でした。とっても新鮮で、決して忘《わす》れることのできない特別な年……」
「……春香?」
突然《とつぜん》どうしたんだ、そんな過去|回想的《かいそうてき》なことを……
春香は続ける。
「初めは驚き《おどろ》でした。秘密《ひみつ》を知られてしまったことに対する驚き……。だけど裕人さんは人とは違《ちが》った趣味《しゅみ》を持つ私を笑うでもなくバカにするでもなく、そのままでいいと言ってくださいました。それは私にとって初めての反応《はんのう》で、そして……とても嬉《うれ》しい反応でした」
「……」
「それだけじゃありません。それどころか色々と私のわがままにも付き合ってくださって……。アキハバラに行けたのも、夏こみ≠ノ参加できたのも、冬こみ≠ナサークルさんのお手伝いができたのも……全部裕人さんが傍《そば》にいてくれたからです。今の私があるのは本当に裕人さんのおかげだと言っても過言《かごん》ではなくて……」
春香が話しているのは今年の――いやもう去年か――一年間の出来事だった。
図書室での出会いから始まったこの一年の軌跡《きせき》。
秘密を共有したことにより結ばれた不思議《ふしぎ》な関係。そしてそこから派生《はせい》した様々な出来事。
アキハバラでの買い物、乃木坂《のぎざか》邸《てい》訪問《ほうもん》、カタログ露出《ろしゅつ》事件。
夏コミ初体験、ウチでのプチお泊まり、春香父との衝突《しょうとつ》。
夏休み明けの「あ〜ん」、ハッピースプリング島での誕生会、文化祭でのすれ違《ちが》いとその修復《しゅうふく》。
そしてつい先日のメイド喫茶《きっさ》体験《たいけん》、ミニスカサンタ付きクリスマス会、その後の看病《かんびょう》。
「……」
まあこうして言われてみると本当に色んなことがあったんだってのが分かるな。さらにはこれらに加えて美夏《みか》やら葉月《はづき》さん、那披《ななみ》さんやらとの絡《から》みもあったんだから、まさに波乱万丈《はらんばんじょう》疾風怒濤《しっぷうどとう》といっても差《さ》し支《つか》えのない一年だ。
改めてそんな風に過ぎ去りし年に思いを馴《は》せていると、
「……だから私は、裕人《ゆうと》さんと二人でここに来たかったんです。特別なこの場所に、二人で……」
胸の前で両手をきゅっと握《にぎ》り締《し》めて、春香《はるか》がそう言った。
「特別な場所って……」
さっきも言ってたが、ここになんかあるんだろうか?
俺の言葉《ことば》に、
「ここの神社は……縁結《えんむす》びを司《つかさど》っているそうなんです」
「え?」
「ええと、正確に言えば神社に祀《まつ》られている神様が縁結びと安産《あんざん》を司る神様なんです。そしてこの場所はその神域《しんいき》――黄瀬《おうせ》岬《みさき》であり逢瀬《おうせ》岬《みさき》で、いっしょに初日の出を見て、そこであることをした二人は必ず結ばれるとの言い伝えがあって……」
少し遠くを見るような目で、春香がそう言った。
「……」
ナルホド、そういうことか。しかし縁結びと安産とは、何ともストレートというかある意味この上なく分《わ》かり易《やす》い神様だね。
まあそれはともあれ。
ここが縁結びの神社だってことは分かった。そして初日の出に関する言い伝えがあるってことも。問題はそれを知った上で春香が俺をここに連れて釆たってのは……
「……」
…いやいや、まだ早計《そうけい》は禁物《きんもつ》か。慌《あわ》てるマルチーズはオヤツのもらいが少ない。この前も夫婦を違《ちが》う意味に食いついてたしな……
ブンブンと頭を振《ふ》る俺に、
「そしてこの場所には……もう一つの特別があるんです」
「もう一つ?」
「はい」
春香はゆっくりとうなずき、
「ここはお父様とお母様がまだ結婚される前……学生だった頃《ころ》に二人でいっしょに初日の出を見た場所なんです」
「え……」
春香父と秋穂《あきほ》さんが?
「今の私たちと同じくらいの歳の時に来たそうです。お母様は言っていました。『ここにはあなたが本当にいっしょにいたいと思う人を連れてくるのよ。そうすればきっとうまくいくから。そう決まってるの、うふふ』と……。――だから私は決めていたんです。いつもいっしょにいたい方と……裕人《ゆうと》さんと二人でここに来て、初日の出を見ようって……」
「春香《はるか》……」
そんなことを考えていてくれてたのか。それじゃあここに来るまでのあのひたむきながんばりは全部そのために……
一生懸命《いっしょうけんめい》だった春香の姿《すがた》が頭をよぎる。
万全の体調でないってのに諦《あきら》めようとしなかった春香。
動《うご》き辛《づら》い振袖《ふりそで》姿にも関わらず険《けわ》しい道を歩き抜こうとした春香。
それらの行動が示していた意味に今さらながらに感じ入っていると、
「…………裕人さんは、どうですか?」
「え?」
「……わ、私は、裕人さんといっしょにここに来て、二人で初日の出を見たいと思いました。そしてその気持ちは今も同じです。で、ですが、その、迷惑《めいわく》ではなかったでしょうか? 詳《くわ》しい事情も話さずに強引《ごういん》に連れて来てしまって……」
少しだけ声のトーンを落として訊《き》いてくる。
迷惑だなんてことが、あるはずがない。
春香の真《ま》っ直《す》ぐな気持ち。
たとえその「いっしょにいたい」が先日の夫婦と同じような意味合いだったとしても(可能性《かのうせい》は限《かぎ》りなく高いが)、それでも十八分に嬉《うれ》しい言葉《ことば》だ。
だから。
俺は。
「――同じ気持ちだ」
「……え?」
「俺も春香と同じ気持ちだ。春香といっしょに二人で初日の出を見たいと思ったし、それは今の話を開いた後でも変わらん。間違《まちが》っても迷惑なんかじゃない」
そう言った。
精一杯《せいいっぱい》の真剣《しんけん》さと本気とを込めて。
「だから春香がそういう風に言ってくれて、嬉しかった。俺といっしょに初日の出を見たいと言ってくれて……」
「あ……」
「ありがとな、春香」
それは嘘偽《うそいつわ》りのない、正直な俺の気持ちだ。
「ゆ、裕人さん……」
目を潤《うる》ませた春香がゆっくりとこっちへと歩み寄ってくる。
それを受け止めようと俺も足を踏《ふ》み出《だ》そうとして、
その時だった。
春香《はるか》の背中越《せなかご》しに射し込んできた一筋《ひとすじ》の光。
夜を切《き》り裂《さ》く線のように一直線に横に広がったそのかすかな光は、やがてゆっくりと扇状《おうぎじょう》へと変化し空へと拡散《かくさん》していく。
「お……」
「あ……」
そして水平線の向こうから昇ってきた光の球体。
輪郭《りんかく》を水面《みなも》ににじませた光の円は、黄色や橙《だいだい》、オレンジや赤などの様々な色を内包《ないほう》して、次第《しだい》にその姿を俺たちの前にあらわにしてくる。
それはまるで、俺たちを祝福《しゅくふく》してくれているかのようで――
「これが、黄瀬岬《おうせみさき》の初日の出……」
「すげぇ……」
予想《よそう》していた以上だった。
視界《しかい》一面に飛び込んでくる圧倒的《あっとうてき》な光の奔流《ほんりゅう》。
世界を埋《う》めつくす途方《とほう》もない輝《かがや》き。
春香と二人でその神秘的《しんぴてき》ともいえる光景《こうけい》に目を奪《うば》われる。
「お父様とお母様もこの景色《けしき》を見たのですね……」
「ああ……」
「これを見て、お二人は何を思ったのでしょう……。やっぱりその美しさに圧倒されたのでしょうか……」
「どうだろうな……」
春香父や秋穂《あきほ》さんがこの初日の出からどういうことを感じたのかは、正直当人でない俺にはさっぱり分からん。
だが俺がここでのひと時を経《へ》て決意したことが一つある。
心に決めたことが一つだけある。
それは春香への気持ち。
これからも春香が望《のぞ》む限《かぎ》りできるだけその傍《そば》にいようと、全力をもって見守っていこうと、そう心に誓《ちか》ったのだった。
そんな俺に、
「……あ、あの裕人《ゆうと》さん、一つお願いをしてもいいですか?」
「ん?」
と、横の春香がそんなことを言ってきた。
「お、お父様とお母様が初日の出を見ながらここでやったことがあるんです。縁結《えんむす》びの言い伝えに関連して、やったこと。それを……私も倣《なら》ってもいいでしょうか?」
おずおずと伺《うかが》いを立ててくる。
春香《はるか》父《ちち》と秋穂《あきほ》さんがやったことか。それが何だかはよく分からんが、まあ別に問題はないだろう。何もガケからノーロープバンジーをやらされるわけでもあるまいし。
「ああ、別に平気だぞ」
「あ、ほ、ほんとですか? あの、でしたら少しばかり目をつむってもらえると……」
「ん、分かった。目をつむればいいんだな」
言われた通りに目を閉じる。何をやるつもりなんだろうね。後ろからヒザカックンとかか……
などと思った次の瞬間《しゅんかん》、
「は、はっぴ〜にゅ〜いや〜……ですV[#白抜きのハートマーク]」
そんな春香の声とともに、
ちゅっ、と、
なにかとんでもなく滑《なめ》らかで、なにかとんでもなく柔《やわ》らかなものが、一瞬《いっしゅん》だけ頬《ほお》に触《ふ》れたのを感じた。
「……」
「……」
「……」
い、いい今のは……!?
閉じていた目を即座《そくざ》にグワッとバックベアードのように見開いて春香《はるか》を見る。
そこでは春香は今までに見たことがないほど真っ赤な顔をして、着物の袖《そで》で顔を隠すようにしていた。や、やはり今のは……
「あ、あー……」
「…………(真っ赤)」
「あー、何ていうかだな……」
「…………(やはり真っ赤)」
「そのだな……」
「…………(これでもかってくらいに真っ赤)」
何と言っていいのか分からん俺と茹《ゆ》でたボタンエビのようになる春香。
そんな状態がしばらく続き。
「…………とりあえず、サンキュな」
果たしてこの返答《へんとう》で合ってるのかは甚《はなは》だ疑問だったが、俺はそう言った。
「あ、え……」
「……少しばかりビックリはしたが、嬉《うれ》しかったぞ」
「あ……」
春香も初めは顔を姫イチゴのようにしたまま目をぱちぱちとさせていたが、
やがて、
「は、はいっ。こ、こちらこそ、どういたしましてでしたっ」
ぴょこぴょこと頭を下げながら、微妙《びみょう》に日本語的におかしい返事をしてくれた。
「ハハ……」
「うふふ……」
そのどこかおかしなやり取りに、お互い笑《え》みが漏《も》れる。
いつの間にか、辺りにはいつも通りの和《なご》やかな雰囲気《ふんいき》がゆったりと流れていた。
「――んじゃ、そろそろ戻るか」
「はい、裕人《ゆうと》さん」
そしてどちらからともなく、自然に手を繋《つな》ぐ。
背後《はいご》から降《ふ》り注《そそ》ぐ初日の出の光に照《て》らされて、俺たち二人のシルエットがぼんやりと浮かび上がり――
とりあえず。
今にも蒸気《じょうき》を噴《ふ》き出《だ》しそうなほど紅潮《こうちょう》した俺の顔が春香に見られなかったことについては、降り注ぐ初日の出のオレンジ色の光に感謝《かんしゃ》しようと思った。
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一月一日元旦。
午前九時。
俺は乃木坂《のぎざか》邸《てい》の『乱《みだ》れ九頭龍《くずりゅう》の間《ま》(第一パーティー会場)」にいた。
目の前では、
「あけましておめでとう、おに〜さん♪」
「おめでとうございます〜」
「……あけおめです」
「――(こくこく)」
ツインテール娘とにっこりメイドさん、無口メイド長さんにちびっこメイドが着物《きもの》姿《すがた》で並《なら》んで笑みを浮かべている。美夏《みか》は当然としてメイドさんたち三人もいつものメイド服ではなく、それぞれのキャラに合った色とりどりの振袖《ふりそで》姿である。
「お正月特別|仕様《しよう》って感じかな。やっぱせっかくの新年だもんね〜」
「秋穂《あきほ》様と美夏様のお心遣《こころづか》いでこうなりました〜」
「……百花《ひゃっか》繚乱《りょうらん》です」
「――(こくり)」
その隣《となり》には、
「あらあら、裕人《ゆうと》さん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いしますね」
「……ふん、お前も来たのか」
やはり着物姿の秋穂さん(ある意味いつも通り)と紋付《もんつ》き袴《はかま》姿の春香《はるか》父《ちち》が、それぞれにこにこむっつりと並んで立っていて、
さらには、
「久しぶりじゃのう、裕人くん。元気にしておったか」
「ご無沙汰《ぶさた》でございます」
春香|祖父《そふ》である王季《おうき》さんとその影武者《かげむしゃ》の平蔵《へいぞう》・セバスチャン・桜坂《さくらざか》さんまでもが姿を見せていた。
その他にも部屋《へや》の至《いた》るところにメイドさんが配置《はいち》されていて、中には沙羅《さら》さんや鞠愛《まりあ》さんなどの見知った顔やまだ見たことのない前髪で顔を隠したメイドさん(序列《じょれつ》持ちっぽい)などの姿もちらほらと。
ほとんど乃木坂家オールスターといった様相。
さて何だって俺がこんな場違《ばちが》いというか高級|血統書《けっとうしょ》付《つ》きのチャンピオン犬たちの中のミックス犬のような気分になる集まりに加わっているのかというと。
あの後、黄瀬《おうせ》岬《みきさ》での初日の出|観賞《かんしょう》を終えた俺たちは帰り道を歩いていて、
「えと、裕人さん、これからどうされるつもりですか?」
「ん? 特には決まってないな。どうせやることもないんでウチに帰って寝《ね》るくらいか……」
「あ、だ、だったらうちに来ませんか? これからみんなで新年会をやることになっているんです。よかったら裕人《ゆうと》さんもいっしょに……」
「え、いいのか?」
「は、はい。というかいっしょに来ていただけると嬉《うれ》しいです……」
という誘いを受け、そして二人で乃木坂《のぎざか》邸《てい》にまで行ったところ門の所で待《ま》ち構《かま》えていた那波《ななみ》さんたちに強制|連行《れんこう》、もとい案内をされてこの新年会会場まで連れて来られて、そのまま今に至るというわけである。
ちなみになぜか広間の中には、
「おお、この御節《おせち》は絶品《ぜっぴん》だな。特に魚介類《ぎょかいるい》が新鮮《しんせん》で何とも言えん……むしゃむしゃ……」
「明石《あかし》の鯛《たい》の頬肉《ほほにく》で鯛の鯛ね〜、がつがつ……」
どこぞのアホ姉とセクハラ音楽教師の姿《すがた》もあったのだが、エサに夢中《むちゅう》でこっちには気付いてないようなので、とりあえず刺激《しげき》しないことにしておこう。触《さわ》らぬ邪神《じゃしん》にタタリなしである。
「ね、ね、おに〜さんおに〜さん」
と、そこで美夏《みか》がちょいちょいと袖《そで》を引《ひ》っ張《ぱ》ってきた。
「ん、何だ?」
「おに〜さん、ちょっとこのヒモを引っ張ってみない? 新年のイベントで、イイコトがあるかもよ?」
何やら布製のヒモのようなものを手にそんなことを言ってくる。
「ん、これか?」
「うん、そ。ほら、ぐいっとやっちゃって」
「ん、ああ」
促《うなが》されるがままにヒモを引っ張る。
その先には、
「……あーれー」
くるくると回る葉月《はづき》さんの姿があった。
「……」
「どう、おに〜さん。着物の定番、よいではないかよいではないかごっこ。ちょっとだけシアワセな気分でしょ♪」
「…………」
中二(十四歳)のクセに随分《ずいぶん》と発想《はっそう》が団塊《だんかい》世代だな……
ちなみに帯《おび》には細工《さいく》がされていていくら回しても着物自体ははだけない仕様《しよう》になっているようである。この上なくムダな凝《こ》り方《かた》だった。
「あ、あの、すみません、美夏がまたはしゃいでしまって……」
呆《あき》れ返《かえ》る俺に、隣《となり》の春香《はるか》(着替えて初詣《はつもうで》時《じ》とはまた違《ちが》う振袖《ふりそで》姿《すがた》)が申し訳なさそうに頭を下げる。
「あー、いや」
別に何か実害があるわけじゃないしな。
帯《おび》を片手に首を横に振《ふ》ると、
「そうだよ〜、おに〜さんだって楽しいでしょ? だってこれって男の子の永遠の夢の一つだもんね。他は何だっけ、裸《はだか》えぷろんとか? えへへ〜?」
「こ、こら、美夏《みか》」
春香が「めっ」って顔をするも美夏は素知《そし》らぬ顔で、
「あ、そういえばおに〜さんお姉ちゃん、初詣は《はつもうで》どうだった?」
「お?」
「え?」
「いっしょに行ってきたんだよね? 楽しかった? らぶらぶだった? ふふ〜♪」
いきなりそんなことを訊いてきた。
「あ、いや、なんつーかな」
「え、えとですね……」
正直初詣自体では俺と春香はほとんど接点がなかったため、感想を訊《き》かれても特に何もないんだよな。
俺たちが答えに困っていると
「ん〜、なんかいまいちな反応《はんのう》だな〜。あれ、初詣って二人で行ったんじゃなかったっけ? 初日の出とかいっしょに見てきたんだよね、違《ちが》うの?」
「初日の出……」
「あ……」
その言葉《ことば》に、ふとつい先ほどの光景《こうけい》がフラッシュバックする。
これ以上ないってくらい圧巻《あっかん》だった今年初めての太陽。
それをバックにそこで交わされた会話。
春香が春香父と秋穂さんとを倣《なら》ってやったコト。
「……」
むう、思い出すと顔面《がんめん》に微妙《びみょう》に血流が集まっちまうな……
横では春香も同じような気分なのか、顔を少しだけ赤くしてちょこんと顔をうつむかせている。
だがそんな俺たちの動揺《どうよう》に気付かずにツインテール娘は、
「そうそう、初日の出といえばさ、お姉ちゃん、すっごく行きたがってたよね〜。何だっけ、あのお母さんの話に出て来たやつ。――ん〜と、あれ、黄瀬岬《おうせみさき》ってとこ」
「う」
「あ」
「何てったってお父さんとお母さんの思い出の場所だもんね〜。おに〜さんと行きたがるお姉ちゃんの気持ちは分かるよ、うんうん♪」
ピンポイントにアレなところを突いてくる美夏《みか》。……まさかとは思うが本当は何があったのか知ってやがるのか? いや、しかしもしもそうならこのかしまし娘はもっとにやにやと意味ありげに絡《から》んでくるはずである。てことはたまたまなのか……
言葉《ことば》を失う俺たちに、
「そだ、知ってる? そこの縁結《えんむす》びの言い伝えって、お母さんたちが基《もと》になってできたんだって」
「え?」
「お母様たちが?」
「うん、そ。初日の出を見ながら女の子が男の子のほっぺにちゅっ♪≠チてするとその二人は絶対《ぜったい》にうまくいくって話。あれってどうもお母さんたちがそこでそれをやっちゃって、そのまま結婚したのがきっかけになってウワサされるようになったんだって〜。世間って狭《せま》いってゆうか、なんか面白《おもしろ》いよね〜」
「……」
「……」
それはまた何というか……
思わず春香《はるか》と顔を見合わせる。
つまり俺たちは秋穂《あきほ》さんたちが基となった言い伝えをそうとは知らずに聞いて、その秋穂さんたち(ハッピーエンド)とまったくもって同じコトをやったってわけで……
「……」
「……」
それの意味するところに思い至《いた》り沈黙《ちんもく》する俺たちに、
「ふふ〜、いつかおに〜さんとお姉ちゃんも二人で行けるとい〜ね♪」
何の他意《たい》もない無邪気《むじゃき》な顔で、美夏はそうにっこりと笑ったのだった。
「ふう……」
喧騒《けんそう》から離《はな》れて一息《ひといき》をつく。
広間の端《はし》から出られるバルコニーのような場所。
そこに出て、俺は一人ぼんやりと外の景色《けしき》を眺《なが》めていた。
「……」
後ろから聞こえてくるのは賑《にぎ》やかな笑い声。
広間の中ではいまだにハイテンションな騒《さわ》ぎが繰《く》り広《ひろ》げられている。
楽しげに帯《おび》を引《ひ》っ張《ぱ》る美夏《みか》。「……あーれー」とくるくると回る葉月《はづき》さんとその隣《となり》でマネをして同じように回っているアリス。それをにこにこと楽しげに眺《なが》める那波《ななみ》さん。
秋穂《あきほ》さんと春香《はるか》父《ちち》は王季《おうき》さんを交《まじ》えて歓談《かんだん》をしていて(春香父がブラウニーのようにものすごく小さくなっている)、テーブルでは酔《よ》っ払《ぱら》っていい気分になった由香里《ゆかり》さんが火炎放射《かえんほうしゃ》(当然ロから)を行い、さらには語《かた》り合《あ》っている内に興《きょう》が乗ったらしいルコと平蔵《へいぞう》さんが模造刀《もぞうとう》での太刀合いを真剣《しんけん》な顔で(模造刀なのに真剣とはこれいかに)始めていた。
あちこちではそれらのフォローをするために名もなきメイドさんたちが忙《いそが》しそうに動き回っている。
ある意味いつも通りっちゃあいつも通りなノリの光景《こうけい》。
それらの喧騒《けんそう》を背中で感じながら手すりにもたれかかっていると、
「――あ、裕人《ゆうと》さん、ここにいらしたのですか」
「お……」
かちゃりとバルコニーのガラス張《ば》りの扉《とびら》が開き、その向こうから春香が姿《すがた》を現した。
「疲《つか》れちゃいましたか? あんまり寝《ね》てないですし、美夏たち、元気ですものね」
「ん、ああ」
「ふふ、私もちょっと休憩《きゅうけい》です」
そう言ってそっと寄《よ》り添《そ》うように隣《となり》へと並んでくる。
かすかに吹き付けてくる北からの風。
目の前には乃木坂《のぎざか》邸《てい》の広大かつ中央に熊と戦う春香《はるか》父《ちち》の彫刻《ちょうこく》が吃立《きつりつ》する庭。
しばしの間、何を話すというわけでもなく、二人並んでバルコニーの手すりに身を任《まか》せながら流れゆく新年の空気を感じる。
やがて、
「――でも、さっきはびっくりしちゃいました」
「ん?」
春香が思い出したかのように口を開いた。
「あの黄瀬岬《おうせみさき》の言い伝え……です。まさかあれがお母様たちによって作られたものだったなんて……」
「そうだな……」
それに関してはまったく同意見だ。やたらと現代|風味《ふうみ》な言い伝えだとは思ったが、よもやそれが秋穂《あきほ》さんたちを基《もと》にされたものとは露《つゆ》ほども思わんかった。
「お母様、そのことは私には教えてくださらなかったんです。美夏《みか》に聞いてみたら、あの子もお母様から直接聞いたのではなくたまたま知ったみたいで……」
「そうなのか?」
「はい、やっぱりお母様にとってもそのことは……」
そこで春香は一度言葉を切って、
「――あ、あの裕人《ゆうと》さん、あの時のことは私たちだけの秘密《ひみつ》にしておきませんか?」
「え?」
「だ、だって、その方がご利益《りやく》があるような気がするんです。ほら、初夢とかも人に言わない方がいいという話です[#底本にはなし。活字抜けか?]し……」
恥《は》ずかしそうに下を向きつつ言ってくる。
まあご利益といってもこれに関しては神様のものよりも秋穂さんのものの方が大きいような気もするが……いや、それはそれである意味で最強かもしれんな。
だがいずれにせよ、俺の気持ちは春香と同じだ。
だから。
「……そうだな」
「え……」
「了解だ。あのことは他の皆には言わない……俺たちだけの秘密≠セ」
「あ……」
そう伝えると春香は目を丸くして、
「は、はいっ」
大きくうなずいたのだった。
と、
「あ〜、お姉ちゃんたち、そんなとこで二人で何やってるの〜」
バルコニーの入り口から美夏《みか》の声が飛び込んできた。
「気付いたらいつの間にかおに〜さんとお姉ちゃんだけいないんだから〜。二人でにゃんにゃんぱやぱやするのもい〜けど、これから新年|恒例《こうれい》の大ビンゴ大会が始まるよ。お姉ちゃんたちもしっかりがっつり参加《さんか》しなきゃ」
「一等の景品《けいひん》は葉月《はづき》さんを一日だけ自由にできる権利ですよ〜」
「……あーれー(まだ回ってる)」
「――(右に同じ)」
那波《ななみ》さんたちもぱたぱたとやって来る。
「あー、分かった、今行く」
急《せ》かす美夏たちにそう返事をして、
「んじゃ、行くか」
「はいです」
俺たちは笑い合って。
そして二人|並《なら》んで、広間《ひろま》へと戻《もど》るべく歩き出した。
こうして。
俺たちの間にまた新しい秘密《ひみつ》≠ェでき上がり、大晦日《おおみそか》及び新年は無事《ぶじ》に過《す》ぎていったのだった。
END
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あとがき
こんにちは、五十嵐雄策です。
『乃木坂《のぎざか》春香《はるか》の秘密《ひみつ》』六巻をお届《とど》けいたします。
今回は年末のお話です。
年末で、冬の一大イベントで、大晦日《おおみそか》なお話。
冬の一大イベントが絡《から》んでいるということもあり内容的にはいつも通り明るめですが、ストーリー全体としてはいよいよ起承転結《きしょうてんけつ》の転の部分に入り始めた感じです。もしかしたらこれからはちょっとばかりシリアスなお話も入ってくるかもしれません。とはいえ基本的には読んでいて楽しく明るいお話を目指《めざ》していますので、そこまでシリアス一辺倒《いっぺんとう》になることはない……と、思います。たぶん。
それとちなみに今回、本文中の冬の一大イベントのシーンではいくつか実際《じっさい》にやってはマズイ描写《びようしゃ》があったりしています。長モノを持ち込んだり連絡通路で宣伝をしたり犬を連れ込んだり……は実際にやると怒《おこ》られるかもしれないです。
以下はこの本を出すにあたってお世話《せわ》になった方々に感謝《かんしゃ》の言葉《ことば》を。
担当編集の和田様と三木様。今回は今までで最も締《し》め切《き》りを引《ひ》っ張《ぱ》ってしまいました。毎回言っているような気もしますが、次こそはもっと余裕《よゆう》をもって作業ができるように精進《しょうじん》いたします……
イラストのしゃあ様。今回も素敵《すてき》なイラストをありがとうございます。というか何気《なにげ》に原稿が上がるの遅《おそ》くて迷惑《めいわく》をかけているかも……
サークルについての疑問に色々と答えてくださった荻野様、また本文中においてお名前を使わせていただいたサークルの皆様にも、この場を借りて深く感謝を申し上げたいと思います。
そして最後になりますが、何よりもこの本を手に取ってくださった皆様に最大限の感謝を。
それではまた再《ふたた》びお会いできることを願って――
二〇〇七年三月末日 五十嵐雄策
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