乃木坂春香の秘密(5)
五十嵐雄策
イラスト◎しゃあ
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《テキスト中に現れる記号について》
《》:ルビ
(例)乃木坂春香《のぎざかはるか》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)完全|無欠《むけつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「みなさん」に傍点]
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乃木坂《のぎざか》春香《はるか》の秘密《ひみつ》(5[#丸に5])
容姿端麗で才色兼備、「|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》」という二つ名まで持つ超お嬢様、乃木坂春香。そんな彼女と話すことなど半年前には夢にも思わなかったのだが、俺が春香の秘密を共有して以来、少しは親密になってきた。そんな12月、とあるイベントを目の前に控え、俺は新たな事態に対して深刻に考えなければならなくなった。街も学校もクリスマスムード一色な中、春香が急にメイドカフェでアルバイトを始める。お嬢様の春香が何故……と不審に思うものの、春香が初めてのバイトを健気に頑張る理由を知って、触発され、自分自身を見つめ直し、気づけば俺は……なぜか天王寺家で執事となっていた。そして、いよいよクリスマスを迎える――。
お嬢様のシークレットラブコメ第五弾V[#中黒のハートマーク]
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世の中ってやつは得《え》てして予測《よそく》不能《ふのう》である。
例えは降水《こうすい》確率《かくりつ》○パーセントの快晴の日に突然大粒の雹《ひょう》が降《ふ》ることもあるし、それまで自分のことを営業部のエースだと思っていた勤続《きんぞく》十年目のイケイケ係長が突然|窓際《まとぎわ》部署《ぶしょ》に追いやられることもある。ほんの前日までぴよぴよとかわいらしく鳴《な》いていたヒヨコが、翌日《よくじつ》にいきなりコケコケとむさ苦しいニワトリに変身していることだってあるのだ。
自分に関することですら先を読むことは難《むずか》しく、何が起こるのかを予見することは難しい。
ましてやそれが自分以外のだれかに関わることであるのならばなおさらである。
予測の難しい現代社会。
「……」
いや俺がこんなどこぞの知識《ちしき》人《じん》モドキなことを言い出すのには当然理由がある。
この十二月の頭からクリスマスまでに俺とその周囲《しゅうい》で起こったいくつかの出来事。
春香《はるか》に起こったこと。
俺自身に起こったこと。
それらが影響《えいきょう》して周《まわ》りに起こったこと。
それらはどれも俺にとっては予測が難しく、驚《おどろ》くべき出来事《できごと》だったのだ。
いやまあ春香と出会って以来、ある意味全てが予測不能なハプニングの連発《れんぱつ》だったという気がしないでもないが、その中にあってもここ最近の事情は殊更《ことさら》に特殊なものだった。
クリスマスという時期的|要因《よういん》が影響していたのかもしれん。
普段《ふだん》は足を踏《ふ》み入《い》れないような場所という地理的要因が影響していたのかもしれん。
その辺りはよくは分からんが、とにかく今回の一連の出来事は俺にとって色々と印象《いんしょう》に残るものだったんだよ。
「……」
……まあ色々とワケノワカランことを言ったが。
要するにこの年の瀬《せ》も追《せま》った十二月、これまでの例に漏れずにまた色々と大変《たいへん》なことがあったってだけなんだがね。
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それは吹き付ける風も世間《せけん》の風も冷凍庫で一ヶ月|放置《ほうち》された冷凍ミカンのごとく冷たさを増《ま》し、道行く人々もマフラーやらコートやらどっちが本体だかそこはかとなく判断《はんだん》に困《こま》るけばけばしい毛皮やらで武装《ぶそう》を始め、辺《あた》りの景色《けしき》も本格的に冬の訪《おとず》れを感じさせるようになってきた十二月の第一土曜日のことだった。
学校行事においては年内最大のものである文化祭を終えて、学園内はいつも通りの日常を取り戻《もど》していた。
「ねえねえ、冬休み、どっか行く?」
「あ、行く行く! 温泉とか?」
「みんなでスノボとかもいいよねー」
朝の教室ではあちこちで来《きた》るべき冬休みについての会話が弾《はず》み、楽しげな声が聞こえてくる一方、その真横では「やはりナマ足よりもストッキングだろう。俺としてはストッキングの黒の濃淡《のうたん》が……」「いえ、そうは言っても生足の持つ健康的な魅力《みりょく》というものは……」「ここはニーソックスだろ……」と三馬鹿《さんばか》たちが相変わらず周《まわ》りには目もくれずに『女子における生足とストッキングの視覚的《しかくてき》触覚的《しょっかくてき》差異《さい》』について熱《あつ》い議論を交わしている。
そんなどこまでも普段《ふだん》通りな風景。
戻ってきた日常。
そして、それについては俺と春香《はるか》も同様だった。
文化祭実行委員のイリオモテヤマネコの手も借りたいような多忙《たぼう》さから起こったすれ違《ちが》い、それに伴《ともな》う牛乳プレイやエロマウントポジション、そこから発生した色々な意味でデンジャラスかつアバンチュールな誤解《ごかい》も何とか解消《かいしょう》され、一時は野生のパンダの生息数《せいそくすう》のように危《あや》うくなった春香との関係も今ではそれまで通りのものに戻っていた。
時には色々と話したりして、時にはいっしょに帰ったりして、そして俺たち二人の『秘密《ひみつ》』を共有している。
ただ何から何まで以前と全く同じというわけではない。
微妙《びみょう》にだが、文化祭前とは異なっていることもあった。
それは何かというと――
「――あ、裕人《ゆうと》さん、おはようございます♪」
と、そこで横から声がかけられた。
聞くだけで心にシャワーを浴びたような心地よい気分にさせてくれる最上級ヒーリングなソプラノボイス。
振《ふ》り向《む》くとそこには、声に勝るとも劣《おと》らないほどの癒《いや》しの空気を纏《まと》った超美少女――才色《さいしょく》兼備《けんび》でお嬢《じょう》様、学園のアイドルで『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』こと乃木坂《のぎざか》春香《はるか》が立っていた。
「春香……」
「今日もいいお天気ですね。西高東低《せいこうとうてい》、冬型の気圧《きあつ》配置《はいち》です」
俺の返事に、春香はにっこりと笑って顔をちょこんとかたむける。
「う……」
その素晴《すば》らしく可憐《かれん》な仕草《しぐさ》に思わず心臓が一瞬《いっしゅん》だけ脳《のう》への酸素|供給《きょうきゅう》を忘れた。むう、相変わらず天使のような笑顔《えがお》というか、街を歩けば十人中十五人が振り返りそうな天下《てんか》無敵《むてき》のキュアフルスマイルというか……
そんなことを思いつつ朝っぱらから午後のシエスタのような気分でいると、
「あ、あの裕人《ゆうと》さん、どうかされましたか?」
「え?」
「その、そんなにじっと見られると……あ、も、もしかして髪型がヘンなのでしょうか? 三ミリほど前髪を切ってみたんですけど、し、失敗しちゃいましたか?」
恥《は》ずかしそうにちょんと髪に触《ふ》れる。
「あ、いやそういうわけじゃなくてな……」
ただ単に見惚《みと》れていただけなんだが。てか髪切ってたんだな(三ミリ……)。
とりあえずそのことに言及《げんきゅう》するのもアレなので話題を変えることにする。
「あー、それよりどうしたんだ? 何か用でもあったのか?」
「あ、は、はい」
訊《き》くと春香は少し照《て》れたように顔をうつむかせて、
「え、えと裕人さん、よろしければ今日いっしょに帰りませんか?」
「今日か?」
「は、はい、どうでしょう? あ、その、もちろん何もご用事がなければなのですが……」
はにかみながら見上げてくる。
その表情は今までと比べてどこか親しげで、甘えてくる仔犬《こいぬ》のようなものである。
――そう、微妙《びみょう》な変化とはこれのこと。
何だか以前よりも、春香の方から声をかけてきてくれたり、いっしょに下校しようと誘ってくれたりする回数が増《ふ》えたように思えるということである。
いやこれまでも春香と話すこと自体はあったわけだがそれは主に学園外でのことであり、学園内では席も離《はな》れていた上に春香自身が基本的には消極的《しようきょくてき》ということもあり、意外に会話の機会《きかい》はそう多くはなかったのだ。それがここ最近、少し変わりつつあるのである。
それに加えて、授業中や話をしている時などのふとした瞬間《しゅんかん》に目が合うことが多くなったような気もする。いやこっちは本当に気のせい(気の迷い)かもしれんが。
ともあれ、これまでに比べて春香《はるか》との拒離《きょり》が僅《わず》かとはいえ近づいたように思えるのは事実だった。
やはりこれにはあの文化祭での出来事《できごと》が影響《えいきょう》しているのか。直接訊くのもアレなため真偽《しんぎ》は定《さだ》かではないとはいえ、春香が意識《いしき》であれ無意識であれ俺のことを少しは気にかけてくれるようになったかもしれんことは喜ばしいことには変わりがない。つーか端的《たんてき》に言ってこの場で衝動的《しょうどうてき》に反復《はんぷく》横跳《よこと》びを始めちまいたいくらい嬉《うれ》しい。やらんけど。
そんなことを何となく考えていると、
「えと……裕人《ゆうと》さん?」
「え」
「どうしたんですか? ぼーっとして……」
春香の声で思考《しこう》の海から高知カツオのごとく一本釣《いっぽんづ》りされた。
「あ、もしかしてやっぱり何かご用事があったのでしょうか? それなら……」
「いや、違《ちが》う違う」
「え、でも……」
不安そうな表情をする春季に慌《あわ》てて説明する。
「今のは何というか、その……ちょっと瞑想《めいそう》をしてただけだ。今日はヒマだぞ。めちゃくちゃヒマだ」
「あ、そうなのですか?」
春香がちょっとだけ安心したような顔になる。
てかせっかくの春香からの誘《さそ》いを、少しくらいの用事(例えばどこぞの姉とその親友へのエサやりとか)があったからって断《ことわ》ることなどあり得《え》んしな。
「ああ、だから大丈夫《だいじょうぶ》だ。何も問題ない」
「ほんとですか? わあ、嬉しいです……」
花がほころぶような顔で大きくうなずく春香。
うーむ、むしろこっちが喜びたいくらいだってのに、そんなに屈託《くったく》のない反応《はんのう》をされると思わず口元が初孫を目の前にしたお祖父《じい》ちゃんみたいになっちまうね。
それから今日の授業についてだとかドジっ娘アキちゃん占《うらな》いについてだとか葉月《はづき》さんが新たに購入《こうにゅう》したヌイグルミ情報についてだとかの世間話《せけんばなし》を少しして、「では、また後でですね♪」と春香は手を振りながらとてとてと自分の席へと戻っていった。
ちなみに戻る途中《とちゅう》で三回ほどこちらを振り返り、その度《たび》にハデに机に激突《げきとつ》していたことについては……とりあえず見なかったことにしよう。
そんな感じに春香《はるか》を見送り、机で教科書(置きっ放し)の整理をしていると、
「や、裕人《ゆうと》。おはよっ!」
そんな声とともに背中《せなか》をぽんと叩《たた》かれた。
見ると今度は、隣《となり》の席の元気娘が咲き誇る大型タンポポみたいな笑顔《えがお》で立っていた。
「椎菜……」
「へへ、どう、今日も元気してる?」
今登校して来たのか、コートとマフラーを脱《ぬ》ぎながら、普段《ふだん》通りのエネルギーが溢《あふ》れまくるフレンドリーな口調で話しかけてくる。
「ん、まあそこそこってとこだ」
俺がそう答えると椎菜は、んー?と眉《まゆ》をひそめて、
「あれ、なーんか朝から中途半端《ちゅうとはんぱ》だね。ちゃんとご飯食べてきた?」
「いや朝はあんまり時間がなくてな……」
「あー、だめだよ。朝食を抜くと身体にも頭にもよくないんだから。そうだなー、あたしのお勧《すす》めとしてはイカ飯なんかがいいと思うよ? あっためるだけでできるから手軽《てがる》だし、栄養価《えいようか》もばっちりだし、何より美味《おい》しいし♪ うん、イカ飯は完全食だと思うよ、あたしは」
うんうんと大きくうなずく椎菜。
むう、相変わらずよく喋《しゃべ》るな。てかせっかく勧めてくれて悪いが、朝食にイカ飯は明らかにヘビーだろ。味|濃《こ》いし。
「えー、そう? あたしは毎朝食べてるけど。この前実家からたくさん届いてさー。ここ最近はずっとイカ飯天国って感じかな。あ、裕人も食べる? 山ほどあるからお裾分《すそわ》けするよ?」
「いや、遠慮《えんりょ》しとく……」
そんだけ聞けばイカ飯はもういいというか。
そんな感じに世間話《せけんばなし》(イカ飯主体)をしていると、
「んー、そういえばあとちょっとで冬休みだよね。冬休みといえはイベントがたくさん。クリスマス、大晦日《おおみそか》、お正月……。あ、そうだ。裕人、クリスマスとかはどうするの?」
と、思い付いたように訊いてきた。
「クリスマス?」
「うん。日本語訳・聖夜。ロシア語訳・ノエル」
今のところまったくもって予定はない。
ちなみに去年は、街を流れるクリスマスナンバーなどはこれっぽっちも気に留めずに日本酒と焼酎《しょうちゅう》とで酒盛りを始めたアホ姉とその親友に付き合わされてえんえんと酒のツマミを作り続けていた。酔って歌って暴走《ぼうそう》した挙句《あげく》に「よし、サンタ狩りに行くぞ!」「ええ、ついでにかわいいイケメントナカイちゃんもね〜♪」などと言い出したアホ二人を止めるのにどれだけ苦労したことか。いや、今思い出しても頭が痛《いた》くなってくるな……
「……」
まあそんな限《かぎ》りなくカカオ九十九パーセントな思い出はさておき、とりあえず今年は例のアホ二人は近所の商店街で行われる『クリスマス飲み比べ大会 〜寒さなんてアルコールで焼《や》き尽《つ》くせ〜』とやらに参加予定らしいから、現時点ではフリーだ。その旨《むね》を椎菜《しいな》に伝《つた》えると、
「へぇ、そうなんだ? あたしはてっきり……」
「?」
てっきり、何なんだ?
「ん? んーん、何でもない。ちょっと意外だなーって思っただけだから、うん」
「意外?」
「え、あー、ま、いいからいいから」
首を捻《ひね》る俺に椎菜はぶんぶんと顔の前で手を振《ふ》って、
「それより冬休み、楽しみだなー。ね、裕人《ゆうと》もそう思うよね?」
「??」
なんかよく分からんが、まあ本人がいいと言ってるんならそれ以上突っ込むこともあるまい。
その椎菜は、
「……やっぱりまだ確定じゃないのかな? うーん、そのヘン、どうなんだろ?」
小さな声でそうつぶやいていたのだった。
そして放課後になった。
「あー、それじゃ行くか」
「はい♪」
掃除《そうじ》を終えセコセコと荷物《にもつ》をカバンにまとめて、春香《はるか》といっしょに教室を出る。
「む〜、あの男、また春香様をムリヤリ〜……」
「帰り道まで付きまといやがるつもりですかあ? 着香様と同じクラスなだけでも迷惑《めいわく》してるというのにぃ」
「…………殺《や》ってしまいたいです(ぼそり)」
その際《さい》周《まわ》りの取《と》り巻《ま》きやら親衛隊《しんえいたい》やらからの奥州《おうしゅう》長《なが》ドスのような殺人的|視線《しせん》は気になったが、春香といっしょに帰れることの至高の喜びを考えれば、そんなもんは家族の中で一番かわいがっているにもかかわらず飼っている犬が全然|懐《なつ》いてくれない世のお父さんの切《せつ》ない気持ちくらいに些細《ささい》なことである。とりあえず気にしないことにして、ほとんどイバラのような視線の花道を通り抜けた。
「すっかり寒くなってきましたね。冬って感じで……。ほら、息《いき》が白いです」
校門を出たところで、は〜っと息を吐《は》き出《だ》しながら春香《はるか》がにこにこと見上げてきた。
「あ、あそこ見てください。かわいいサンタさんの置物があります。わあ……」
ちょこちょことしたペンギンみたいなステップに合わせて、背中《せなか》にあるカバンとかわいらしいマフラーがゆらゆらと揺《ゆ》れている。
「そうだな、もう十二月だし……」
見回してみれば、辺《あた》りの風景《ふうけい》もすっかり冬のものに変わっていた。
街のあちこちに飾《かざ》り付《つ》けられたデコレーション。ショーウインドウに並《なら》ぶ『冬の大セール!』の文字。流れてくるクリスマスソング。道を行く人たちの表情も、そんなウインター真《ま》っ盛《さか》りな雰囲気《ふんいき》にどこか浮き立っているように見える。
「私、冬って好きなんです。空気がキレイでとっても澄《す》んている感じがして……でもあんまり寒いと、指がかじかんじゃってピアノを弾くのが少しだけ大変《たいへん》だったりしますけど」
両手を顔の前で合わせて、えへへと笑う。
――そういえば春香はクリスマス、どうするつもりなんだろうな?
ふとそんな疑問が頭をよぎった。
やはり春香のことだから『フィンランドで本物のサンタさんと握手《あくしゅ》!』とか『北極でシロクマとオーロラを見ながらトナカイの餌付《えづ》け!』とか、セレブにお嬢様らしく過《す》ごすんだろうか。
それとも誕生日の時のようにどこかのホテルを買い取って豪華《ごうか》ディナーとか。はたまた家で葉月《はづき》さんたちとまったりとホームパーティーってのも有《あ》り得《え》るかもしれない。
「……」
うーむ、気になる……
ここはまあウダウダと考えるより直接訊《き》いてみるべきだろう。訊いてマズイ内容でもなし、下手《へた》の考え休むに似たりだ。
「なあ、春香――」
「はい?」
なので確認《かくにん》しょうと横を向いたその瞬間《しゅんかん》。
「お」
「あ」
ぴたり、と
腕《うで》が振《ふ》られた拍子に、俺の手と横を歩いていた春香の手が触《ふ》れ合《あ》った。
「……」
「……」
すべすべひんやりとした感触《かんしょく》。
一瞬、《いっしゅん》何が何だか分からずに二人の動きが止まる。
やがて。
「――あ、す、すみませんっ!」
「え、い、いや」
当惑《とうわく》の声とともに、互《たが》いに慌《あわ》ててばっと飛びのいた。
「ご、ごめんなさいです。私、ぼ〜っとしていて……」
「あ、や、俺の方こそ」
……いや、顔と顔とが何らかのハプニングで接触《せっしょく》したとかならともかく、手がちょっとばかり触《ふ》れただけだってのに何だってこんなに二人して固まってるんだ? 春香《はるか》も今までならこれくらいじゃ普通《ふつう》な顔で「わん?」とか言ってたってのに……
「ゆ、裕人《ゆうと》さんの手、ちょっと冷たかったですね」
何かを誤魔化《ごまか》すかのように春香が照《て》れ笑《わら》いを見せる。
「あ、ああ。春香のもな」
「さ、寒いですから」
「そ、そうだな。寒いからな」
「……」
「……」
沈黙《ちんもく》。
同囲《しゅうい》の雑踏《ざっとう》がやけに大きく耳に響《ひび》き、時間の流れがやたらとゆっくりに感じられる。
「あ、あー、んじゃ行くか。道で立ち止まってると迷惑《めいわく》になるしな」
「そ、そうですね」
どこか戸惑ったような春香の言葉《ことば》を受けて、歩き出す。
とその時、
はらり。
春香のコートのポケットから何かが地面へ舞《ま》い落《お》ちた。
「ん、なんか落ちたぞ?」
「え?」
「何だ? なんかのチラシみたいだが……」
「あ、そ、それは……」
途端《とたん》に春香の表情が慌てふためいたものになった。
「?」
不思議《ふしぎ》に思いつつも何気《なにげ》なく手に取る。
――その時舞い落ちたチラシ。
それが俺たちの関係及びクリスマスに新たな局面《きょくめん》をもたらす小さくない要因《よういん》の一つになろうとは、この時の俺にはまったくもって予想《よそう》が付かなかったんだがな。
落ちたチラシには、かわいらしい丸文字でこう書かれていた。
『メイド募集《ぼしゅう》! 貴女《あなた》もハートにメイド服を着てみませんか♪ @ほぉ〜むカフェ=x
1
その次の日、俺は浮《う》き上《あ》がったシミが微妙《びみょう》に人の顔に見える天井《てんじょう》をぼんやりと眺《なが》めながら、食後の乳牛《にゅうぎゅう》のようにベッドの上でゴロゴロとしていた。
十二月四日日曜日。
外は前日と同じく清々《すがすが》しいまでの冬晴れで、カーテン越しに見える澄《す》み渡《わた》った空にはちゅんちゅんとノンキな声を上げながら雀《すずめ》が飛んでいる。表の通りから聞こえてくる近所の子供たちの声も実に楽しげだ。
「……」
だがそんなさわやかな天気とは裏腹《うらはら》に、俺の心の中は何となくモヤモヤとしていた。
胸《むね》の奥《おく》に害虫《がいちゅう》退治《たいじ》用《よう》のケムリがかかったような気分というか、とにかく何かがすっきりとしない。
そのモヤモヤの原因《げんいん》となっているのは、当然のごとく昨日の出来事《できごと》である。
「……」
春香《はるか》が落としたチラシとその時に聞いた春香からの話。
それが一日経った今でも、俺の頭の中にしぶとく残っている。
「春香……」
ベッドの上をゴロリとカブトムシのサナギのように横に一回転する。
春香は今頃《いまごろ》どうしているのか。
頭に二浮かんでくるのはそればかりである。
「…………」
……だめだ。
このままただ悶々《もんもん》としててもラチがあかない。
ここはとりあえずもう一度あの時のことをキチンと整理してみるしかあるまい。
昨日の帰り道。
そこで春香が話した内容。
それらを思い出す。
結局《けっきょく》何があったのかというと――
*
「あ、あの、実は私、あるばいと≠しようと思っているんです……」
地面に舞《ま》い落《お》ちたカラフルなチラシを俺の手から受け取りながら、少し恥ずかしそうに春香《はるか》は言った。
「バイト?」
「は、はい」
こっくりとうなずく。「あるばいと、です」
「いや、何でまたそんな……」
思わずそんな言葉《ことば》がロから漏れる。
天下無敵《てんかむてき》の乃木坂《のぎざか》家《け》のお嬢《じょう》様(長女)である春香とバイト。これほどアンバランスというかペルシャネコに一円玉な組み合わせもそうはあるまい。
「そ、それは……」
「ん?」
「え、えと、それはその……あ、実はちょっと欲しいものがありまして……」
微妙《びみょう》に目を泳がせながらそう言う。うーむ、また何か新しい趣味《しゅみ》のグッズでも出たんだろうか。まああんまり深く突っ込んでほしくなさそうだったので、とりあえずそれについてはこだわらないようにしておく。
だがまだ気になることというか疑問点が一つ。
「……何でメイド喫茶《きっさ》なんだ?」
「え?」
「何だってまたそんな特殊《とくしゅ》なところを……」
それである。
チラシに書かれている『メイド募集《ぼしゅう》! 貴女《あなた》もハートにメイド服を着てみませんか♪ @ほお〜むカフェ=xの文字(色|鮮《あざ》やか)。
別にバイトをしたいだけならもつと普通《ふつう》というかスタンダードなところがいくらでもあるだろう。わざわざイロモノというか、クワガタでいうところのギラファノコギリクワガタのようなバイト先を選ぶこともない。
すると春香は、
「――憧《あこが》れ、だったんです」
「憧れ?」
「はい。以前にその、裕人《ゆうと》さんといっしょにアキハバラへ行った時から……いえ、それよりも前、『イノセントスマイル』で初めてめいどかふぇ≠フ紹介《しょうかい》を見た時からずっとメイドさんになってみたくて……」
「……」
「それにこの間の学園祭でのこすぷれ喫茶《きっさ》≠ナ確信《かくしん》したんです。やっぱり私はお仕事をするならこういうところがいいなあって。雰囲気《ふんいき》がとっても楽しそうですし、その、お客さんの笑顔《えがお》も嬉《うれ》しかったですし……」
小さく笑いながら言う。
「そうか……」
メイド付きのお嬢《じょう》様がメイドさんになりたいってのも何だかある意味|本末転倒《ほんまつてんとう》だが、春香《はるか》自身がそう望んでいるんなら俺がとやかく言うようなことじゃないだろう。
「分かった。だったらがんばれよ。応援《おうえん》してる」
「は、はいっ」
俺の言葉《ことば》に、春香は大きくうなずいたのだった。
*
――というわけである。
そしてその春香のバイトの初《はつ》出勤日《しゅっきんび》が今日だった。
……春香、どうしてるんだろうな。
どうしてもそれが気になってしまう。
接客《せっきゃく》や調理については文化祭のコスプレ喫茶である程度《ていど》経験《けいけん》しているとはいえ、何せ春香は基本的にドジである。いや運動神経は申し分ないわけだが性格的に慌《あわ》てるとドジを誘発《ゆうはつ》する素因《そいん》を持ちすぎているというか。ミスとかを連発《れんぱつ》しまくっていてもおかしくない。
「……」
バラバラバラバラ。
あるいはあのおっとりとしてぽわぽわな春香だ。タチの悪い客にでもからかわれて、お気に入りのオモチャを微妙に《びみょう》手の届かないところに隠されて困っている仔犬《こいぬ》のようにおろおろしているという可能性《かのうせい》も十分に考えられる。
バラバラバラバラ。
むう、すげぇ気になる……
バラバラバラバラバラ!
こういうのはアレだ、初めてのお使いに向かう孫(三歳)を見守るお祖父《じい》ちゃんのような心境《しんきょう》? いやそれは何か違《ちが》う気がするな。うーむ……
バラバラバラバラバラバラバラバラ!!
「…………」
……って、何だ? さっきから外でバラバラバラバラうるせぇな。人が真面目に考え事をしてるってのに。真っ昼間っからどこかのバカが錯乱《さくらん》してマシンガンでも乱射《らんしゃ》してるってのか? 微妙《びみょう》に気分を害しつつベランダから騒音《そうおん》の源《みなもと》を確《たし》かめようとして。
「やっほ〜、おに〜さん♪」
がらり!
「うおっ!?」
先手を打ったとばかりに俺の目の前でいきなり窓が開いた。
その向こうから現れたのは見慣《みな》れたツインテール娘。
「な、なっ……」
「ん〜? その反応《はんのう》はちょっといただけないな〜。女の子の顔を見てそんな獅子舞《ししまい》の獅子みたいな顔するのって、すご〜く失礼なんだよ?」
突然《とつぜん》の出現にフリーズする俺に、びっと人の顔を指差しながらそんなことを言う。
さらにその後ろからは、
「そうですね〜、ジェントルマンとしてのマナー違反《いはん》です〜」
「……いけません」
にっこりメイドさんと無口メイド長さんがいつもの調子《ちょうし》でにゅっと顔を出す。
「…………」
もはやどこから突っ込んだらいいのか分からずに呆然《ぼうぜん》と空を見上げると、何やらハシゴの垂れ下がったヘリがバラバラバラバラと浮かんでいるのが目に入った。どうやらアレで来たらしい。
「ほらおに〜さん、せっかくかわいい美夏《みか》ちゃんたちが来たんだから、ベッドの下のちょっとアレな本とかを片付けてお茶くらい出さないとだめだよ。ついでにピグマリオンのクッキーとか銀果堂《ぎんかどう》のケーキとかもあればポイント高いかな」
「おもてなしと気遣《きづか》いは男の子の基本ですね〜」
「……殿方《とのがた》のたしなみです」
そんな勝手なことを言いながら、ツインテール娘たちは窓から部屋《へや》へと入ってきた。そのまま美夏はベッド(俺のな)の上にぽふっと腰を下ろし、那波《ななみ》さんと葉月《はづき》さんはそれぞれその両脇《りょうわき》(メイドの定位置)へと移動《いどう》する。
「……」
相変わらずこっちの都合《つごう》とかそういうもんを考えないこと甚《はなは》だしかったが、この程度《ていど》のことはもはやいつものことである。養殖ニワトリが羽ばたけば隣《となり》のお仲間にトサカをぶつけるくらい日常茶飯事《にちじょうさはんじ》である。今さらそこに突っ込んでも始まらない。
「……で、何の用だ?」
なのでそれについては諦めて本題に入る。
この三人がいきなり訪《たず》ねてくるのは決まってロクでもない用件がある時だってのは、ロンドン拉致《らち》だとか牛乳プレイだとかで身をもって分かりきっていたが、それでもいちおう訊《き》いておく必要《ひつよう》はある。
すると美夏《みか》は口元に指を当てながらちょこんと首をかたむけて、
「ん〜、用っていうかさ。これからお姉ちゃんの様子《ようす》を見に行こうと思って。もちろんおに〜さんも行くでしょ?」
「春香《はるか》の?」
それってまさか?
「うん、そだよ。アキハバラの『@ほぉーむカフェ』まで♪」
って、美夏たちもバイトのことを知ってるのか? どう見ても秘密《ひみつ》にしていたような素振りだったと思うんだが……
俺の表情から言いたいことを察《さっ》したのか美夏はあははと笑うと、
「お姉ちゃんは隠《かく》してるつもりみたいだけど、わたしたちにはばればれかな〜。だってリビングのテーブルの上に堂々《どうどう》とチラシが置いてあるんだもん。記入済みの履歴書《りれきしょ》といっしょに。こっそりお姉ちゃんの部屋《へや》に戻《もど》しといたから、たぶんお父さんにはばれてないと思うけど〜」
「……」
またそのパターンか。
相変わらずの素晴《すば》らしいばかりの迂闊《うかつ》っぷりだった。春香……
「とゆうわけで行くよ〜! ほらほらおに〜さん、早く支度《したく》して」
「や、ちょっと待て」
「?」
とりあえず事情は飲み込めたが、その前に確認《かくにん》しておかなきやならんことがある。
「なあ、俺たちは……見に行くべきなのか?」
「え、何で? お姉ちゃんのメイド姿、《すがた》見たくないの?」
「いや、そういうわけじゃなくてだな……」
見たいとか見たくないたとかの俺の個人的|欲求《よっきゅう》はさておき(いやもちろんめちゃくちゃ見たいに決まってるんだが)、何となくだが春香は働いている姿を見られるとかそういうことを恥ずかしがるような気がするんだよ。逆《ぎゃく》の立場だったら俺でも戸惑うかもしれんし、それに初日から身内が冷やかしで行って春香が店から良くないイメージを持たれるのもマイナスなんじゃないのか。
そう美夏に言うと、
「な〜んだ、そんなことか。それならだいじょぶだいじょぶ。ちゃんと対策《たいさく》は考えてるから♪」
「対策?」
「そ。おに〜さん、これ着けて」
「これは……」
にっこりと笑いながら美夏《みか》が手渡《てわた》してきたのは…何やらやたらと外巻きロールをした白髪《はくはつ》のウィッグと、至るところに機能《きのう》上《じょう》明らかに不《ふ》必要《ひつよう》なビラビラが付いたどこか古めかしい感じの服だった。
「これで変装《へんそう》すればきっとばっちりだよ! お姉ちゃん、きっとテンパってるだろうからそれでばれないって」
「――いや待て」
何だこの音楽室にでも飾《かざ》ってありそうなモーツァルト(生誕《せいたん》二百五十周年)風味《ふうみ》なカツラ及び燕尾服《えんびふく》は。
俺のクレームに、
「あ、惜《お》しい。それはモーツァルトじゃなくてバッハ仕様。古典派の中でもけっこう時代にズレがあるから、間違《まちが》えちゃだめなんだよ?」
「……」
そんな違いはトコトンどうでもいいんたが。
「ま、細かいことはい〜からい〜から。とにかくまずはがっつりと着けてみる。葉月《はづき》さん、那波《ななみ》さん♪」
「……はい(うずうず)」
「裕人《ゆうと》様、動かないでくださいね〜」
「お、おい」
美夏の声に、なんかどことなく嬉《うれ》しそうな顔をした葉月さんと那波さん(手にはウィッグと燕尾服)が迫《せま》ってきて。
――十分後。
「う〜ん、何だかバッハっていうよりシューベルトみたいだね〜」
外巻きウィッグとビラビラ燕尾服を強制|装着《そうちゃく》させられた俺を見て、美夏が何かが違うって顔でそうつぶやいた。
「メガネが悪いのかな〜? でもメガネがないおに〜さんはおに〜さんじゃない気もするし。ん〜……」
「……」
美夏はしばしツインテールをかたむけて思考していたが、
「ま、いっか。だいじょぶだいじょぶ、お姉ちゃんはバッハもシューベルトも好きだから」
「ちなみにシューベルトさんは三十一歳の若さで惜《お》しまれつつもお亡くなりになられたのですよ〜」
「……天に召《め》されました(合掌《がっしょう》)」
「……」
そういう問題じゃねえだろ。てか那波《ななみ》さんと葉月《はづき》さんの台詞《せりふ》は何のフォローにもなってねえし……
改めて現在の自分の状態《じょうたい》を見てみると、もうため息《いき》しか出てこなかった。
白い巻き毛、やたらとハデな燕尾服《えんびふく》、それらの組み合わせからやけに浮いた黒フレームのメガネ(デフォルト)。いやこれで本当に外を歩けってのか? 変装《ヘんそう》というよりもほとんど何かのプレイの域《いき》だぞ。防寒性《ぼうかんせい》だけはムダに高そうだが……
「さ、不安も解消《かいしょう》されたことだし、それじゃ行こっか♪ お出かけお出かけ〜」
「――待て、美夏《みか》たちは変装しないのか?」
楽しげに部屋《へや》を出ようとする美夏たちを再度《さいど》止める。
俺だけがこんなにグレイトフルに変装しても、美夏たちがそのままではまったくもって意味がないだろう。
すると美夏は、
「あ、そっか。んじゃちゃちゃっと……」
言いながらツインテールの髪をほどき手早くアップにして帽子を被《かぶ》ると、かわいらしい薄グリーン色の伊達《だて》メガネを装着《そうちゃく》した。
「はい、完了♪」
「……」
いや俺がこんな奇怪《きかい》というかエキセントリックなほとんど仮装《かそう》に近い格好《かっこう》(要装着時間十分)なのに、何でそんなに簡単《かんたん》なんだよ。おまけに葉月さんたちはメイド服のままだし……
「あ、私たちはいいのです〜。お店には入らずに外でお待ちしておりますから〜」
「……メイドがメイド喫茶《きっさ》に入っては、色々とメイドうなことになります」
「……」
「……何か?」
「いえ……」
……葉月さん、たぶん面倒《めんどう》なこと≠チて言いたかったんだろうな……
ともあれそういうわけで。
「さ、それじゃしゅっぱつしんこ〜!」
「行きましょう〜」
「……れっつご〜、です」
「……」
これ以上ないくらいの不安を抱《かか》えつつ、美夏たちとともに家を出たのだった。
2
春香《はるか》の働いているメイドカフェ――『@ほぉ〜むカフェ』とやらはアキハバラの駅から歩いて五分ほどの場所にあった。
以前に行った『アニメイト秋葉原《あきはばら》店』やら『COSPA ジーストア・アキバ店』よりもさらに駅の近く、休日には歩行者天国になっている大通りの途中《とちゅう》を曲がって少し行ったところにある大きなビル。そこの七階に入っているらしい。
家《ウチ》を出た俺たちは現在、メイドさん二人のナビゲートに従《したが》ってアキハバラの街を進んでいき、まさにその真下に来ていた。
「ふ〜ん、ここにそのメイド喫茶《きっさ》が入ってるんだ〜」
でかいビルをちんまりと見上げながら美夏《みか》がオデコに手をかざす。
「ええ、そうですよ〜」
「……私たちの調査結果に間違《まちが》いはありません」
那波《ななみ》さんと葉月《はづき》さんが声を揃えてそう答える。
「なんか五階と六階もおんなじ感じのお店があるみたいだね。同系列なのかな?」
確《たし》かに美夏の言う通り、五階がメイド甘味処《かんみどころ》(?)で六階がメイドグッズショップ(?)になっているようだ。エレベーターの脇《わき》にある案内表にそう書かれている。
「はい、そのようですね〜。ここの上層《じょうそう》階《かい》のお店は全て同じグループによって経営されているみたいです。何と言ってもメイドカフェ業界最大手の会社ですし〜。あ、これは余談《よだん》ですが、何でもここでメイドさんとして働きたい方は非常《ひじょう》にたくさんいらっしゃるとのことで、倍率は五十倍から八十倍という話ですね〜」
「……ちなみに乃木坂《のきざか》家《け》のメイド隊(序列《じょれつ》なし)に入るための倍率もほぼ同《どう》程度《ていど》です」
葉月さんがくいっとメガネのブリッジを上げながら補足《ほそく》する。
「……」
それはどっちに驚《おどろ》くべきところなんだ。
「んじゃいこっか、おに〜さん」
「ああ」
美夏に促《うなが》されてビルの中へと向かい歩き出す。
「いってらっしゃいませ〜」
「……ご武運《ぶうん》をお祈りしています」
後ろからは、数多《いくた》のメイドさんたちが待つメイドカフェへと向かう俺たちを見送るリアルメイドなにっこりメイドさんと無口メイド長さんの声が響《ひび》いていた(ややこしい)。
エレベーターのういんういんういんという音を聞きつつ七階に上がると、すぐにそれらしき店舗《てんぽ》が目に入ってきた。
『お帰りなさいませご主人様、お嬢《じょう》様♪』と書かれた簡易《かんい》メニュー台と、カラフルなポスターやイラストなどが貼られた自動ドア。
どうやらこの向こうが、目的地である『@ほぉ〜むカフェ』なのは一目瞭然《いちもくりょうぜん》だった。
「さ、おに〜さん、心の準備《じゅんび》はいい?」
「……大丈夫《だいじょうぶ》だ」
「よ〜し、それじゃ突撃《とつげき》〜」
楽しそうに声を上げた美夏《みか》とともに自動ドアを通り抜ける。
その向こうにあったのは――
「お帰りなさいませ、ご主人様、お嬢様!」
「何名様でご帰宅《きたく》でしょうか?」
「今ならすぐにお席にご案内《あんない》できますよ〜」
――なんか、別世界だった。
店に入った途端《とたん》に響《ひび》く耳心地《みみごこち》のよい甘い声。流れてくるアップテンポな音楽。続いてかわいらしいメイド服に身を包んだたくさんのメイドさんたちが一斉《いっせい》に俺たちを出迎えてくれる。
「あ、あー、ええと……」
バッハ姿《すがた》で戸惑《とまど》う俺にメイドさんたちはぺこりと一礼すると、
「二名様ですね? どうぞ、こちらのお席にお座《すわ》りください♪」
「あ、え……」
「は〜い」
笑顔《えがお》とともに手近にあるテーブルへと案内してくれ、
「注文がお決まりになりましたら、そこのベルでお呼びください」
「あ、はい」
「ごゆっくりしていってくださいね〜」
メニューを置いて丁寧《ていねい》にお辞儀《じぎ》すると、にこやかな声とともにカウンターらしきところへと戻っていった。
「わ〜、お店の中もかわい〜ね〜」
きょろきょろと店内を見回しつつ美夏が言う。
ピンクやクリーム色などを基調《きちょう》とした店内は教室と同じくらいの広さで、照明の柔《やわ》らかさもあってか全体的に落ち着いた感じの造りになっている。奥《おく》の方には何やらステージのようになっている場所があり、壁《かべ》の部分には巨大なスクリーンが設置《せっち》されている。スクリーンの中では大勢《おおぜい》のメイドさんたちが歌って踊《おど》っていた。
「へぇ……」
いわゆるメイド喫茶《きっさ》に来るのはこれが二店目だが、ネコミミメイドさんのメイド喫茶とはまた違《ちが》った雰囲気《ふんいき》だった。
どことなく親《した》しみやすいというか落ち着く感じがするというか……いや、あくまで感覚的《かんかくてき》なもんで口ではうまく説明できんのだがね。
さらに店内を見渡《みわた》してみると、あちこちの壁《かべ》には様々なポスターや写真(『完全メイド宣言《せんげん》』と書かれてるものが多い)などが貼《は》られていて、その中には色紙のスペースがあった。ふむ、有名人のサインやら色紙やらがたくさんあるな。やはり業界最大手だけあって色々な方面から注目されてる人気店ってことなんだろう。おお、さらにそれらの一番上には何やら金色の額縁《がくぶち》に囲《かこ》まれて『|至高のご主人様《マスター・オブ・マスターズ》・ご帰宅《きたく》記念♪』と書かれた写真が……
「……いや待て」
なんかそこに写っている人間に見覚《みおぼ》えがあるように思えるのは俺の目の錯覚《さっかく》だろうか。
写真(高画質・百年プリント)の中でスーツ姿《すがた》の美人な女の人とがっちりと握手《あくしゅ》を交《か》わしている男子の顔。俺のメガネがここ最近の寒さで凍結《とうけつ》破損《はそん》しているんでなければ、どこぞの十年末の幼馴染《おさななじ》み(♂)の優男《やさおとこ》面《づら》に見えるんだが。
「……」
……とりあえず見なかったことにしよう。
自らの心の平穏《へいおん》のためにそう結論付けて、俺は視線《しせん》をテーブルへと戻した。
ちなみにこれは後で聞いた話だが、あの信長《のぶなが》のアホといっしょに写っていた女の人はどうもこのメイドカフェを経営《けいえい》している社長さん(代表|取締役《とりしまりやく》)だったとか。相変わらずあいつの交友関係は底知れねぇ……
「そういえばお姉ちゃんはどこにいるのかな〜? おに〜さん、見つけた?」
案内《あんない》されたテーブルの向かいで、水をくぴくぴと飲みながら美夏《みか》が訊《き》いてきた。
「ん、いや、まだだ」
さっきから探《さが》してるんだが、何せ店の中はメイドさんだらけである。なかなか見つけようったって見つかるもんじゃない。アクアマリンの中からサファイアを探すようなものだ。
目を古伊万里《こいまり》のようにしてメイドさんの森の中を走らせていると、
「あ、いたいた! ほらおに〜さん、あそこ!」
「お?」
くいくいと俺の外巻きウィッグを引《ひ》っ張《ぱ》りながら美夏が声を上げる。
その指差す先。
そこには――メイド姿の春香《はるか》がいた。
俺たちの席からは少し遠いが間違《まちが》えるはずもない。
カナダの初雪のような純白のヘッドセット。薄《うす》い葡萄《ぶどう》色《いろ》のメイド服。ひるがえるヒザ丈《たけ》のフリル付きスカート。
何というかその姿《すがた》は……めちゃくちゃ可憐《かれん》で魅力的《みりょくてき》で俺の中のご主人様|魂《だましい》(?)を刺激《しげき》するに十二分なものだった。
「わ〜、やっぱお姉ちゃんはメイド服も似合うね〜。かわい〜♪」
「……」
ほとんど目がくらむほどプリティーであり、キュートであり……
「あの文化祭の時の何だっけ、こすぷれ? もよかったけどこっちはこっちでまた別のかわいさがあるってゆうか。何だろ、ちょっと落ち着いた色合いがいいのかな? おに〜さんはどう思う?」
「……」
いやもはや自分でも何が言いたいんだかさっぱり分からんのだが、とにかくそれだけメイド・イン・春香《はるか》は天下一品《てんかいつぴん》であり見事《みごと》にマッチングしてるってことであり……
「って、おに〜さん?」
「――ん、あ、ああ」
美夏《みか》の呼《よ》びかけではっと我に返る。メイド姿の春香の放《はな》つあまりのメイドパワーっぷり(?)に思わず意識《いしき》が成層圏《せいそうけん》の彼方《かなた》にまで飛んじまってたみたいだ。
そんな俺の反応《はんのう》に美夏《みか》がにやりと笑って、
「はは〜ん、おに〜さん、さては見惚《みと》れてたでしょ?」
「え、いや」
「隠さなくてもい〜って。絶頂期《ぜつちょうき》のマンモスみたいに鼻の下が伸びてたもん。あはは、おに〜さんってほんとに分かりやすいね〜」
「ぐ……」
反論したいところだが、しかし実際《じっさい》問題として目を奪《うば》われまくって半意識|喪失《そうしつ》してたのは事実なため、黙《だま》るしかない。
仕方なく美夏のからかいの視線《しせん》に耐《た》えていると
「きゃっ」
と、そこで春香《はるか》の声が聞こえてきた。
何だと思い見てみると、とあるテーブルの前で困《こま》った顔をしている春香の姿《すがた》。どうやら給仕をしている途中《とちゅう》で紅茶の入ったカップをこぼしてしまったようで、テーブルの上に広がった洪水《こうずい》を前におろおろとしている。
「春香……!」
思わず立ち上がり、駆《か》け寄《よ》りそうになる。だが、
「だめだよ、おに〜さん」
意外にもそんな俺の袖《そで》を引《ひ》っ張《ぱ》って止めたのは美夏だった。
「美夏?」
ツインテール娘(いや今は遠《ちが》うんだが)は少しだけ真面目《まじめ》な顔で首をふるふると振《ふ》って、
「これはお姉ちゃんのやったミスなんだからお姉ちゃんが何とかするのがスジだよ。わたしたちが手を貸しちゃお姉ちゃんのためになんない。仕事って、そうゆうもんだと思う。違う?」
「それは……」
その通りなんだが。だけど目の前で現在進行形で困ってるのを放《ほう》っておくってのも……
「それに平気だよ。ほら、他のメイドさんたちがちゃんとフォローしてくれてるみたいだし」
「え?」
美夏の言葉《ことば》に視線を戻してみると、慌《あわ》てふためく春香の周《まわ》りに他のメイドさんたちが集まってきているのが見えた。
「だいじょうぶ、春香ちゃん?」
「あ、は、はい、すみませんです」
「不慣《ふな》れなうちにミスするのは悪いことじゃないの。だれだって最初は完璧《かんぺき》にこなせるわけないんだしね。問題はその後のカバーの仕方かな」
「ね、片付けは私たちもいっしょにやるからまずはご主人様に謝《あやま》らないと」
「あ、ありがとうございます、ユーリさん、さらさん。――申し訳ありませんでした、ご主人様」
春香《はるか》がぺこぺこと頭を下けると、客は「あ、いいっていいって」と笑って許《ゆる》してくれた。
どうやらドジをしているようだが、どうもそれに対して周《まわ》りがうまくフォローしてくれてるみたいだ。
「ね、だからおに〜さんは手出し無用《むよう》だって言ったでしょ?」
「むう……」
少しばかり負けた気分だが、美夏《みか》の言う通りだ。
「おに〜さんは心配《しんぱい》しすぎなんだよ。ほら、昔から言うじゃん、かわいい子にはスペースシャトルで宇宙旅行をさせろってね♪」
美夏はそう言って、にっこりと笑ったのだった。
3
「さ、それじゃ注文しちゃおっか、おに〜さん」
「ん、そうだな」
そういえば店に入ってから色々と忙《いそが》しくてまだ注文をしてなかった。
置いてあったメニュー表を片手に中身を見てみる。ほう、またやたらとメルヘンな名前のメニューがたくさんあるな。『きのこさんのクリームパスタ(きこり風味《ふうみ》)』『ヨークシャーテリアケーキ』『お気に入りのメイドさんの玉子焼き』。……いやこの『ヨークシャーテリアケーキ』って、まさか原材料がヨークシャーテリアなんじゃあるまいな?
そんな微妙《びみょう》にブラックメルヘンなことを思っていると、
「ふふふ〜、いいこと考えちゃった♪」
美夏がメニュー表を見ながら何か計略《けいりゃく》を思い付いた小悪魔《こあくま》のようににんまりと笑った。……何をする気だ? とりあえずイヤな予感しかせんのだが……
「すみませ〜ん」
テーブルに備《そな》え付《つ》けてあったベルをちりんちりんと鳴《な》らしてメイドさんを呼ぶ。そして、
「お〜い、お姉……じゃなくて、そこの髪の長いメイドさ〜ん」
「ん、なっ」
あろうことか、美夏が呼んだメイドさんは春香だった。
「あ、はいです。少々お待ちください。すぐにうかがいますので」
食器を下げる途中《とちゅう》だった春香が振《ふ》り返《かえ》って返事をする。
(お、おい、美夏!)
(ん? どしたの、そんな年齢|詐称《さしょう》がバレたアイドルみたいな顔して)
(どしたのってな……)
いやいくら何でもこれはまずいだろ。いかに春香《はるか》が緊張《きんちょう》していてさらに元々そこはかとなくぽわんとしているところがあってかつ俺の格好《かっこう》がイカレバロック風味《ふうみ》とはいえ、この至近距離《しきんきょり》で接《せっ》したらさすがにバレちまうのが当たり前……のはずだった。
ところが。
「お、お待たせいたしました、ご主人様、お嬢様」
――バレなかった。
食器を片付けた後、とてとてとやって来た春香。
俺たちの姿《すがた》を見てもまったく動じた様子《ようす》はなく――いや緊張自体はしているみたいだが――他の客に対するのと同じように接客《せっきゃく》をしている。
まさか春香に限《かぎ》って俺たちに気付きながら意識的《いしきてき》に知らないフリをするなんて器用なことをできるはずもないから、おそらく素《す》で気付いていないんだろう。
「……」
うーむ、もしかして案外《あんがい》この格好(エセバッハ)は自分で思っている以上にジャストフィットしてるのか? そういえばここに来るまでの街中でも意外なほどに周《まわ》りの注目を集めなかったし、店に入った時にもまったく言及《げんきゅう》されなかったしな。まああれはこの街(アキハバラ)が少しばかり特殊《とくしゅ》だからって話もあるが……
ともあれ、春香が気付いていないのだけは確《たし》かみたいだった。
「すみませ〜ん、この『お気に入りのメイドさんの玉子焼き』を作ってもらえますか〜?」
「え、えと、『お気に入りのメイドさんの玉子焼き』ですね? 味付けの方はどうなさいますか?」
美夏《ふか》の注文に、フロアにヒザ立ちになった状態《じょうたい》で一生懸命《いっしょうけんめい》に答える春香。
「味付けはう〜んと甘めでお願いしま〜す♪」
「甘めで……はい。ではご注文の方のお名前を教えてもらえますか?」
「え?」
「俺たちの?」
こちらの顔を交互《こうご》に見ながら訊《き》いてくる。そんなシステムがありやがるのか。
「あ、はい、お名前です。玉子焼きにケチャップで書かせていただきますので」
「う、それは……」
言葉《ことば》に詰《つ》まる。まさかここで本名を名乗るわけにもいかん。
すると美夏は、
「は〜い、このおに〜さんが食べるんで、バッハでお願いしま〜す♪」
にこにこと笑いながらそんなことを言いやがった。
「バッハさん…」
そうつぶやきながら春香《はるか》はきょとんとした目で俺の顔を見ている。やばい、さすがにそのあまりにまんまな名前に不信感を持たれちまったんじゃねえのか。
やがて春香は何かに気付いたかのようにはっと口元に手を当てて、
「も、もしかしてあなたは――」
「!?」
げ、バレたか?
思わず巻き毛に包《つつ》まれた頭を抱えると、
「――ノクターン女学院の院長さんなんですか?」
「へ?」
春香の口から出て来たのはそんな言葉《ことば》だった。
「アニメ『ノクターン女学院ラクロス部』に出て来るバッハ先生のこすぷれ≠セったんですね! わあ、とっても似合《にあ》っていますよ!」
きらきらした目でじっと俺の顔を見つめてくる。
「あ、あー、まあそんなところだ」
なんかよく分からんが勝手に勘違《かんちが》いしてくれてるようなのでそういうことにしちまおう。
「やっぱり! だとしたらお名前はこれでいいですよね? 馬覇《ばっは》先生=v
「ん、あ、ああ、たぶん」
紙ナプキンに書かれた字を見てうなずく。
馬覇。
いや字面《じづら》だけ見るとまるでどこぞの三国志《さんごくし》の武将《ぶしょう》みたいだな。実際《じっさい》は外巻きウィッグに燕尾《えんび》服《ふく》を着たエセバロック野郎《やろう》なんだが。
「分かりました。それては少しの間お待ちください。作ってまいりますので♪」
少し声を弾《はず》ませながら春香はカウンターの奥《おく》へと去っていった。
「ね、だいじょぶだったでしょ、おに〜さん」
春香の姿《すがた》が見えなくなったのを確認《かくにん》して、美夏《みか》(こっちも最後まで気付かれなかった)が勝ち誇《ほこ》った顔でぱちりとウインクをする。
「お姉ちゃんはこうゆうことにはすっごいぼけぼけなんだから。ま、あのバッハ先生がどうのこうのってのはわたしにもよく分かんなかったけど」
「むう……」
つまり俺はまだまだ春香のぽわぽわ天然《てんねん》っぷりを見くびってたってわけか。いやそれもそれでどうかって気がするんだがね。
それからしばらくして、他の注文とともに『お気に入りのメイドさんの玉子焼き』がやって来た。
「お待たせいたしました、ご主人様、お嬢《じょう》様。こちらがスペシャル玉子焼きになります」
憤重《しんちょう》な手付きで差し出された一枚の皿。
その上にちょこんと乗っかっていたのは……
「……」
「……」
何か、得体《えたい》の知れない生物の顔面《がんめん》立体図《りったいず》だった。黄色い表皮《ひょうひ》に尖《とが》った二本のツノ。真っ赤に充血《じゅうけつ》した目の下にある激《はげ》しく裂《さ》けた口からは生き血が滴《したた》っている。……ああ、こういうのなんか妖怪《ようかい》でいたな。雷獣《らいじゅう》とかそんなような名前だったか。
「…………ね、おに〜さん、これって」
「言うな。分かってる……」
小さな声でそう告《つ》げてくる美夏《みか》に言い聞かせる。
そう、これがいくつかの玉子焼きを用いて作られたものであり、それが何かのキャラクター(生き物)だってことは分かっている。そしてまあ、雷獣(妖怪)を意図《いと》して作られたものではないだろうってことも。ただ何のキャラクター(生き物)なのかはさっぱり分からんだけで。
そんな俺たちをヨソに春香《はるか》は、
「こちらは玉子焼きで作ったうさぎさんの顔になっています。ユキウサギさんなんですよ♪」
……ウサギだったのか。
どうやら春香の超絶《ちょうぜつ》なイラスト能力(ある意味)は、媒体《ばいたい》を問わず描《えが》かれるもの全てに適用《てきよう》されるみたいだった。
何だか脇《わき》に書かれている 『馬覇《ばっは》先生V[#白抜きのハートマーク]』のケチャップ文字までもがダイイングメッセージ(血文字)または殺人|予告《よこく》のように見えてくるから不思議《ふしぎ》だ。
「どうぞ、お召《め》し上《あ》がりください(にこにこ)」
「……」
ま、まあ見た目はアレであれ、中身は春香が作った玉子焼きだ。味の方はまず保証《ほしょう》されてると言っていいだろう。
雷獣のツノの部分(ウサギの耳)を割《わ》り箸《ばし》で摘《つま》み上《あ》げ、ゆっくりと口へと運ぶ。
「お味の方はいかがでしょうか?」
「ウマイ……」
「ほ、ほんとですかっ?」
「ああ。すげぇ優《やさ》しい味だ(見かけからは想像《そうぞう》もつかんほどに)」
「あ、ありがとうございますっ」
春季の顔がぱ〜っと輝《かがや》く。
俺の手元で不気味《ぶきみ》に口元を歪《ゆが》める、人間の一人や二人|喰《く》い殺《ころ》してるんじゃないかってくらいに凶悪《きょうあく》極《きわ》まりない雷獣《らいじゅう》(うさぎさん)とは対照的《たいしょうてき》な、心|穏《おだ》やかになること極まりない笑顔《えがお》だった。
「どんどん食べてくださいね♪ うさぎさんもバッハ先生に食べられるのなら喜んでいると思いますから」
「おう」
とまあそういった具合に会話を交《か》わしながら雷獣(うさぎさん)を平らげ、
「それではごゆっくりしていってくださいね♪」
それを確認《かくにん》するとにっこりと嬉《うれ》しそうに笑って、春香《はるか》はカウンターの方へと戻っていった。
「ふ〜ん」
その様子を眺《なが》めながら、美夏《みか》がにやにやと笑って。
「な、何だよ」
「べっつに〜。ただおに〜さんにはお姉ちゃんの笑顔が最高のスパイスなんだろうな〜って思っただけ」
意味ありげな声音《こわね》で、そう言ったのだった。
4
そんな感じでメイドカフェでの時間はまったりと過ぎていった。
春香の作った妖怪《ようかい》――ゴ、ゴホン、もといウサギの玉子焼きを食べ、その他のメニューもいくつか頼《たの》んでみた。どれも全て個性的で他ではあまり見ない外観《がいかん》だったが、なかなかにうまかった。
ちなみに春香が俺たちのテーブルに来たのはあれきりだった。
俺たちのテーブルを離《はな》れた後もあちこちのテーブルから呼ばれ、色々と忙《いそが》しそうに動き回っている。まだいくつかドジはやっていたみたいだったが、それでも次第《しだい》に慣《な》れてきたのか今ではだいぶサマになってきていた。
「春香、がんばってるんだな……」
慣れないながらにも自分なりにメイドとしての仕事をこなそうとしているのが見て取れる。その姿《すがた》からは一生懸命《いっしょうけんめい》さが伝《つた》わってきて実に好ましい。
「うん、この調子《ちょうし》ならお姉ちゃん、だいじょぶそうだね」
美夏が『ヨークシャーテリアケーキ』(ヨークシャーテリアの顔を模したケーキ。原材料がヨークシャーテリアというわけではなかった)をもむもむと食べながら言った。
「おに〜さんもお姉ちゃんのメイド姿が《すがた》見られた上にお手製のらぶらぶ玉子焼きを食べられて大満足だよね。来てよかったでしょ?」
「……」
いやらぶらぶってな。まあ何だかんだで楽しかったし、来てよかったって部分にだけは賛同《さんどう》できるが。
そこはかとなくそんなことを考えながらデザートの『ちょこっとビターなちょこれいとぱふぇ』を口にしていると、
「皆様、お待たせいたしました〜! さあ、ただ今から『@ほぉ〜むカフェ』でお楽しみ会の始まりで〜す♪」
後ろの方からそんな声が聞こえてきた。
同時に店内の照明が少し落とされ、店の奥《おく》にあるステージ上にメイドさんが二人出て来る。む、何やらイベントが始まるらしいな………って、メイドさんの一人は春香《はるか》じゃねえか。
驚《おどろ》く俺の前でメイドさんは、
「本日のお楽しみは『萌《も》え萌《も》えじゃんけん』となっております。皆様、ふるってご参加《さんか》ください」
「? 萌え萌えジャンケン?」
何だそのあからさまにアレなネーミンクは。
「初めてのご主人様、お嬢様のために一通《ひととお》り説明をさせていただきますね。まずは皆様、左手をグーに右手をパーにして、そのまま右手で左手を覆《おお》うようにしてください」
「?」
よく分からんが言われるがままにやってみる。右手のパーを左手のグーに被《かぶ》せて……何だこれは、少林寺《しょうりんじ》式の挨拶《あいさつ》か何かか?
「ん〜、何だろ、なんかの影絵《かげえ》とか?」
向かいでは美夏《みか》も合わせた手を色んな角度から見ながら首を捻《ひね》っている。
するとステージ上のメイドさんが、
「はい、できましたか〜? ではその合わせた手を正面から見てくださ〜い。それで@ほお〜む≠フ@の形になっていますね〜」
おお、なるほど。そういうことか。
思わず納得《なっとく》しちまった。
「それが基本形となっています。そこからコールをかけますので、それに合わせていっしょに復唱《ふくしょう》してくださいね〜。ちなみに、本日皆様のお相手をさせていただくのはこちらの春香ちゃんです〜。ぱちぱちぱち〜」
「よ、よろしくお願いします」
相方《あいかた》のメイドさんの声に春香《はるか》が一歩前に出る。どうやら春香が、シャンケンの相手をするらしい。
「春香ちゃんが皆様とじゃんけんをしますので、負けた方とアイコの方はお座《すわ》りください。勝った方だけが次に進めます。そして最後まで残った方にはステキな景品《けいひん》をプレゼントいたしま〜す」
「へ〜、景品なんてあるんだ〜」
美夏《みか》が声を上げる。
「そうみたいだな」
とはいえこれはちょっとした余興《よきょう》みたいなものだろうから、おそらくそれほど大したもんじゃあるまい。せいぜい紅茶一杯タダ券とか百円割引券とかか? そう思ったんだが。
「景品は、こちらの春香ちゃんと写真撮影《さつえい》ができる権利となりま〜す。もちろん二人きりのツーショットです。皆様、がんばって勝ち抜いてくださいね〜」
「春香(メイド服|装着《そうちゃく》)との写真……」
心が揺《ゆ》れた。それはちょっと……欲しいかもしれん。
「では皆様、お立ちください。まずは一回戦を始めたいと思いま〜す」
メイドさんの主導《しゅどう》でコールがかけられ、
「はい、先ほどの@マークを作ってください。準備《じゅんび》はいいですか〜? それでは……せ〜の、あ[#ここから太字]っとほ〜むで萌え萌えじゃんけん……じゃんけん、ぽいっ![#太字終わり]」
『ジャンケン、ポイ!』
店内の他の客の声が被《かぶ》せられた。
それに合わせてあまり深く考えずにパーを出す。
ちなみに人間が何も戦略《せんりゃく》を練《ね》らずにジャンケンをした時に、一番出す確率《かくりつ》が高いのがパーだとか。
春香が出したのはグーだった。
「は〜い、春香ちゃんはぐ〜ですね。それではすみませんが、ぐ〜とちょきを出した皆様はお座りください」
司会役のメイドさんの声に、周《まわ》りの客が何人か残念《ざんねん》そうな顔で座る。
「あ〜あ、わたしもだめか〜」
美夏《みか》も勝てなかったようで、ちょっとだけ悔《くや》しそうにイスに座《すわ》り込《こ》んだ。
「こうなったらおに〜さんにがんばってもらわないとな〜。メイド姿《すがた》のお姉ちゃんとバッハ姿のおに〜さんのツーショット写真、見てみたいし〜」
「いやそう言われてもな……」
春香(メイド服着用)と写真を撮《と》りたい気持ちは俺も同じだが、ジャンケンは純粋《じゅんすい》に運次第《しだい》である。頑張《がんば》ったところでどうにかなるもんじゃない。
だが美夏《みか》は、
「だいじょぶ、おに〜さんならきっと勝てるって! 何てったってそのウィッグは、乃木坂《のぎざか》家《け》に代々伝わる装着者《そうちゃくしゃ》に幸運をもたらすという伝説《でんせつ》の『フォ〜チュン・バッハ』なんだから!それで勝てなきゃもうおに〜さんの運が貧乏神《びんぼうがみ》並《な》みに致命《ちめい》的《てき》絶対《ぜったい》的《てき》に悪いとしか考えられないよ、うん」
「……」
……嘘《うそ》つけ。
「それでは二回戦に行きま〜す」
楽しそうなメイドさんの声が響《ひび》き、次戦が始まる。
「せ〜の、あ[#ここから太字]っとほ〜むで萌え萌えじゃんけん……じゃんけん、ぽいっ![#太字終わり]」
『ジャンケン、ポイ!』
再《ふたた》び深く考えずに、今度はチョキを出す。
春香《はるか》が出したのはパーだった。
「は〜い、ぱ〜とぐ〜の方はお座《すわ》り願います」
「わ〜、やったね、おに〜さん」
美夏の歓声《かんせい》が飛んでくる。うーむ……実は俺ってジャンケンに強かったのか? それとも単に周《まわ》りが弱いだけか? 周りがバタバタと座っていく中そこはかとなくそんなことを考えていると、
「ええと残ったのは……二名様ですね」
そんな声が響いた。
「え〜と、それでは残ったお二人で決勝戦ということになります。お二人には春香ちゃんの前で直接対決していただきますので、どうぞステージにお上がりくださ〜い」
「え?」
メイドさんの言葉《ことば》に周りを見てみると、立っているのは俺の他にはもう一人だけだった。おまけにどうやら最終戦はステージ上で行われるらしい。
「おに〜さん、あと一勝だよ。がんばれ〜!」
「お、おう」
美夏の声援《せいえん》を背中《せなか》に受けて、ステージに上がる。
相手はこの店の常連《じょうれん》らしき男だった。
「ではでは、こちらのお二人のご主人様による勝負を行いたいと思いま〜す。お二人とも、準備《じゅんび》の方はよろしいですか?」
「あ、はい」
「大丈夫《だいじょうぶ》っす」
俺と男とがうなずき、
「分かりました。でしたらこれよりファイナルを始めさせていただきます――」
「……」
…………シン……
メイドさんの声に一瞬《いっしゅん》店内が静まり返り。
「せ〜の、あ[#ここから太字]っとほ〜むで萌え萌えじゃんけん……じゃんけん、ぽいっ![#太字終わり]」
『ジャンケン、ポイ!』
直感のままに無心《むしん》で手を前に出す。
俺が出したのはグー。
そして相手が出したのは……チョキだった。
「おめでとうございます! 優勝はこちらのバッハ先生になりま〜す♪」
『オー!!』
メイドさんの宣言《せんげん》とともに周《まわ》りから嵐《あらし》のような歓声《かんせい》と柏手《はくしゅ》が巻《ま》き起《お》こる。
勝った……のか?
思わず自分の手(拳《こぶし》)と相手の手(カニ)を見比べちまう。
「わ〜、やったね、おに〜さん♪」
席の方から美夏《みか》のそんな声も聞こえてきた。
俺が春香《はるか》(メイドヴァージョン)との写真|撮影権《さつえいけん》をゲットした瞬間《しゅんかん》だった。
「それでは優勝したバッハ先生には春香ちゃんとの記念撮影をプレゼントいたします。春香ちゃん、お願いしま〜す」
「あ、は、はいです」
『記念撮影権』と書かれた目録《もくろく》を手にステージ中央に立つ俺の隣《となり》に春香がとてとてとやって来て、
「よ、よろしくお願いしますね」
「ん、ああ」
にっこりと笑いかけてくる。無事《ぶじ》にジャンケンの進行を終えて安心したのか、その表情もどこか満足げである。思わず頭を撫でてやりたくなる笑顔《えがお》だった。
「じゃ、撮《と》りますね〜。用意はいいですか〜?」
メイドさんがデジカメを構《かま》えてそう呼びかけてきた。
「は、はいっ」
「あ、オッケーです」
春香と二人並んで、レンズの方に顔を向ける。
「え〜とそれでは……あ、春香ちゃん、もう少し後ろに下がってもらえる〜? 肩のところが少しだけ見切れちゃうから」
「え、そ、そうですか?」
「うん。だからちょ〜っとだけ下がって」
「あ、は、はい」
メイドさんに言われて春香《はるか》があたふたとバックする。
その時だった。
「あっ――」
「!」
慌《あわ》てて下がろうとしてもつれた春香の足が、ステージの端《はし》を踏《ふ》み外《はず》した。
バランスを大きく崩《くず》して春香の身体がぐらりと揺《ゆ》れる。
「くっ――!」
慌てて俺が手を伸ばすも、あまりに予想《よそう》外《がい》なことで、すんでのところで間に合わなかった。
「きゃっ!」
完全に体勢《たいせい》が斜《なな》めになった春香は手足をばたつかせながら叫《さけ》び声《ごえ》を上げると、なぜかそのまま空中を後ろに四回転半し(記録タイ)……カウンター席に後頭部《こうとうぶ》から突っ込んでいった。
トリプル(プラスワン)アクセル・アンド・ダイブ。
その衝撃《しょうげき》でテーブルの上に置いてあったアップルティー(ホット)が舞《ま》い上《あ》がり、近くに立っていたメイドさんのスカートにかかる。
「やっ――」
それを受けて反射的《はんしゃてき》に飛びのいたメイドさんが退避《たいひ》した先にはスクリーン用ステレオのボリュームスイッチがあり、ぶつかった勢《いきお》いで時計方向に回される。
一気にマックスの音量を強制|射出《しゃしゅつ》させられてハウリングを起こしたスピーカーはすさまじいばかりの音波《おんぱ》を店内に放《はな》つと、カウンター奥《おく》の厨房《ちゅうぼう》に仕舞《しま》われていた食器類を揺《ゆ》らしてその何枚かを落下《らっか》させる。
落下した先にあったのは、運が悪いことに調理用のウインナー(×二)。皿とまな板とに挟《はさ》まれその摩擦《まさつ》によりニュルンと飛び出したウインナー(×二)はギュルギュルときりもみ状に回転しながら近くにいた調理係の男の鼻にぶっすりと突《つ》き刺《さ》さる。
「ぐもっ……」
鼻から立派なウインナー(×二)を生やした男は衝撃《しょうげき》で白目を剥《む》いてフテフラと陸《おか》に上がったサハギンのように辺《あた》りを彷捜《さまよ》うと、そのままバタリと倒《たお》れこむ。
そして倒れこんだ先には……あろうことか火災報知器《かさいほうちき》のスイッチがあった。
ポチリ。
スイッチが押《お》される。
僅《わず》かな静寂《せいじゃく》を挟《はさ》んで。
ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ!!
けたたましく警報《けいほう》が鳴《な》り始《はじ》めた。
「な、何だ!?」
「か、火事じゃないのか!?」
「大変《たいへん》だ、逃《に》げないと!」
同時に人喰《ひとく》いザメの寝床《ねどこ》を突《つつ》いたかのように騒然《そうぜん》とする店内。
あちこちで悲鳴《ひめい》が上がる。
「……」
もはや写真|撮映《さつえい》どころではなかった。
春香《はるか》のほんのちょっとしたドジから始まって、終いにはエマージェンシーコールにまで発展《はってん》した一連《いちれん》の現象《げんしょう》。
いやどこのバタフライ効果《こうか》というかループシルバーバーグマシーンだよ……
「あ、そ、その、私……」
カウンター席の瓦礫《がれき》の中から身を起こし、呆然《ぼうぜん》とした顔で混乱《こんらん》下《か》の店内を見回す春雷。
そんな春香に追《お》い討《う》ちをかけるかのように、警報は鳴り続けていた。
5
「行ってらっしゃいませ、ご主人様、お嬢《じょう》様。またのご帰宅《きたく》をお待ちしております♪」
メイドさんの黄色い声がカフェ内に響《ひび》き渡《わた》る。
春香によるプチ店舗《てんぽ》崩壊《ほうかい》から十五分後。
店の中はすっかり元の平静《へいせい》さを取《と》り戻《もど》し、営業を再開《さいかい》していた。
騒《さわ》ぎ自体はあれからすぐに収《おさ》まった。
元々警報機が鳴ったのはイレギュラー(春香のドジ)が原因《げんいん》であり何かトラブルがあったわけではないし、また他のメイドさんたちの迅速《じんそく》なフォローと行動の甲斐《かい》あって、騒ぎの割には大した実害《じつがい》もなく店内は混乱《こんらん》状態《じょうたい》を脱《だっ》したのだった。
「は〜、まったくお姉ちゃんは……」
美夏が変装《へんそう》用《よう》メガネのリムを指で押さえながら大きくため息《いき》を吐《は》く。
「どじだどじだとは思ってたけど、まさかあそこであんなことになるなんてさ〜。もうすごいを通り越してある意味才能だよ、クイーン・オブ・ドジ娘《むすめ》って感じだよ」
「……」
まあそのネーミングはどうかと思うが、今回ばかりは美夏《みか》の言う通りだった。
これまで見たドジの中で長大の規模《きぼ》(図書室|半壊《はんかい》事件トップタイ)を誇《ほこ》った今回の惨状《さんじょう》。
おそらくは初バイトということでの緊張《きんちょう》や疲労《ひろう》などが影響《えいきょう》してるんだろうが、それにしたってこれはすごすぎる。まさにドジっ娘《こ》神《しん》の寵愛《ちょうあい》を一身に受けているって感じだ。
「春香《はるか》……」
思わずそうつぶやいてしまう。
この状況の中、春香がどうしているのかが気になった。わざとではないとはいえあれだけの騒《さわ》ぎを引き起こしたのだ。王様の耳がロバだと知ってしまった男の掘った穴より深く気にしているに違《ちが》いない。
春香を探《さが》して辺《あた》りを見回していると、
「……」
そこで自動ドアから無言《むごん》で外へ出て行く春香の姿《すがた》がちらりと目に入った。
どこへ行くつもりだ? まだバイトの時間は終わってないだろうに……
「――ちょっと、すまん」
「? おに〜さん?」
気になったので、その後を追《お》って店を出る。
美夏は春香の仕事のことで俺が口を出すべきじゃないと言ったが、さすがに今回ばかりは放っておけなかった。
どこだ? 確《たし》かこっちの方に行ったはずだが……
視線《しせん》をあちこちに送る。
店前のエレベーター。エレベーターのすぐ横にある非常階段。それを少し上に行った場所。
「――あ」
春香は――そこにいた。
階段の脇《わき》に座《すわ》り込《こ》んで、両手で抱《かか》え込《こ》んだヒザの間に頭を埋めている。その小さな肩《かた》が少しだけ震《ふる》えていた。
(春香……)
「あ――」
俺が近づくと、春香はびくりと身体を震わせて顔を上げた。
「バッハ……先生…………」
まるで怯《おび》えた小動物みたいな視線。
一瞬《いっしゅん》、どう対応《たいおう》していいものか判断《はんだん》に困《こま》る。
「あ、あー……」
「……」
「ええと、春香、さんだよな」
「…………はい……」
今にも消え入りそうな声が返ってきた。う、目が死んでるな……
「なんつーか、さっきは大変《たいへん》だったな。色々とアンラッキーだったっつーか……」
「……」
「あー、気持ちは分からんでもないが、あんまり落ち込むべきじゃないと思うぞ。別にわざとやったわけでもなし、結果《けっか》として大した騒《さわ》ぎにもならなかったわけだし……」
「……」
無言《むごん》。
春香《はるか》からの返事は戻《もど》ってこない。
「……」
「……」
どれくらいそのままでいただろうね。
やがて。
「……いつも…………」
春香がぽつりとつぶやいた。
「え?」
「……私、いつもこうなんです……いつも肝心《かんじん》な時に大きなミスをしてしまって……ドジでだめだめで、人に迷惑《めいわく》をかけてばかりで何もいいところがないんです……ぐすっ……」
春香《はるか》の声に湿《しめ》り気《け》が混《ま》ざる。むう、やっぱりかなり落ち込んでるみたいだな。
とはいえその後ろ向きな言葉《ことば》を全部|肯定《こうてい》することは色んな意味でできない。
俺はもう一歩だけ春香に近づくとその顔を真《ま》っ直《す》ぐに見て。
「そんなことない。さっき先輩《せんぱい》のメイドさんたちも言ってただろ? 新人がミスをしちまうのは仕方がないって。それよりも、そのミスにどう対処《たいしょ》をして、どうこれからに活《い》かしていくのかが大事だって」
「……」
「それに、俺の見たところちゃんとやってたと思うぞ。玉子焼きも美味かったし、ジャンケンの相手もちゃんとこなしてた。あの記念|撮影《さつえい》のことを除《のぞ》けば、問題はなかったと思う」
「……」
「だからあんなミスの一つくらいで自分を責《せ》めることはないだろ。――いや責めでもいいんだが、それで自分のやったこと全部を否定《ひてい》するのはなんか違《ちが》うんじゃねえのか?」
くそ、うまく言えん。だけど春香が春香なりに一生懸命《いっしょうけんめい》にがんばっていて、良かったところがいくつもあったのは事実だ。だから俺にできるのはせめてそれを春香に伝《つた》えてやることくらいなんだよ。
「なんつーか、少なくとも俺は、その、春香さんといっしょの時間を過《す》ごすことができてよかったと思ってるぞ」
「え……」
俺の言葉に、春香は少しの間何を言われているのか分からないというような目をしていたが、
「あ……」
やがてゆっくりと顔を上げ、「……あ、わ、私…………ありがとうこざいます……少しでもそう言ってもらえると…………」
両手を口元に当てて、ぼろぼろと涙《なふだ》を流し始めた。
「う……ぐすっ……うう…………」
ぬう、ここはどうするべきか。やはり男なら黙《だま》ってハンカチでも差し出して涙をぬぐってやるところか。だがそうしようにもあいにくポケットにはチープなポケットティッシュしか入っておらず……我ながら毎度毎度情けないことこの上ないが、仕方なくティッシュをきれいに折《お》り畳んで差し出した。
「や、涙は拭《ふ》いた方がいいと思うぞ。そのままにしとくと目が赤くなるし……」
「あ、も、申し訳ないです、気を遣《つか》っていただいて……」
「いや、気にしなくていい」
どうせポケットティッシュだしな。
「ぐすっ…………あ、あれ?」
「ん?」
「あ、あの、あなたは……」
そこで春香《はるか》は驚《おどろ》いたような顔になって、
「……裕人《ゆうと》、さん?」
「!?」
ふいにぽつりとそんなことを口にした。やばい、今度こそバレたか!?
だが春香はすぐに思い直したように首を振《ふ》って、
「あ、そ、そんなわけないですよね。す、すみません。勘違《かんちが》いです。どうしたんでしょう、何だか、私の知っている人に似ている気がして……」
「……」
どうやら違ったようだ。
何だってこのエセバッハを一瞬《いつしゅん》とはいえ俺だと思ったのかは分からんというか少し気になるが、とはいえこれ以上その話題について突っ込んでもいいことはない。とりあえず議題を変えることにした。
「なあ、春香さんは何でそこまでがんばってるんだ?」
「え?」
「そんなに大変《たいへん》な思いまでして、一生懸命《いっしょうけんめい》にバイトを……」
そうまでして欲しいグッズがあるんだろうか。また『ドジっ娘《こ》アキちゃん』とやらの限定《げんてい》フィギュアとか? あるいは『ノクターン女学院』うんぬんの初回版サントラCDなど?
だが春香の口から出たのは、そのどれでもない意外な言葉《ことば》だった。
「……プレゼントを、買いたいんです」
「プレゼント?」
「……はい。あの、もうすぐクリスマスですよね? どうしても自分でプレゼントを贈《おく》りたい人がいるんです。その人には日頃《ひごろ》からとってもお世話《せわ》になっていて、感謝《かんしゃ》の気持ちを込めるにはお小遣《こづか》いではなくてやっぱり自分の力で買いたくて……」
「それって……」
まさかその相手ってのは……
「さっき言った、バッハ先生に少し似ている人です。とっても優《やさ》しくて格好《かっこう》よくて……素敵《すてき》な方なんですよ」
照れたように笑う。
最後の方は少し誤魔化《ごまか》すような口調だったが、だけどそこには春香の確《たし》かな意思《いし》が感じられた。
「……」
ってことは、春香が急にバイトをやりたいなんて言い出したのは……
何と言っていいか分からずに俺が言葉《ことば》に詰《つ》まっていると
「……ありがとうございました。バッハ先生のおかげで、少しだけ元気が出たような気がします。――お仕事に、戻《もど》りますね」
「あ、ああ」
「本当にありがとうございました」
ぺこりと頭を下げて春香《はるか》は店へ戻っていったのだが、俺はそれところではなかった。
春香のバイトの本当の目的。
クリスマスに向けて自分の力でプレゼントを買うこと。
――春香、そんなことを考えてくれてたのか……
俺はせいぜい春香がクリスマスをどう過《す》ごすかが気になった程度《ていど》で、全然そこまでは頭が回ってなかったってのに。
……何だろうね。
このまま俺だけがのうのうとしていていいのか……どことなく焦《あせ》りに似《に》たような気分を覚《おぼ》えたのだった。
「――じゃそろそろ帰ろっか。何だか急に混《こ》んできたし、お姉ちゃんのメイドっぷりも見れたからとりあえず目的は果《は》たせたもんね」
「……ん、ああ、そうだな」
春香を見送り席に戻った後、美夏《みか》にそう言われ残っていた紅茶を飲み干して会計を済《す》ませる。
「行ってらっしゃいませ、ご主人様、お嬢様♪」
「ありがとうございました♪」
「またのご帰宅をお待ちしております♪」
そんなメイドさんたちの黄色い声を背中《せなか》に受けつつも、心の中はどこかもやもやしたままだった。
「……」
このままでいいのか。
春香はあんなにがんばっているのに、俺だけが何もせずにいていいのか。
いや、いいわけがない。
いいわけはないんだが……だがそれでも俺に何ができるのだろうか――
「……」
そんなことを考えながらエレベーターを降《お》りた俺が目にしたものは。
「……」
「……」
「は〜い、こちらがお店の情報となっておりま〜す。ぜひぜひご来店してくださいね〜♪」
「……どうぞ(無表情で)」
何やら往来《おうらい》でチラシを配《くば》るにっこりメイドさんと無口メイド長さんの姿《すがた》だった。
「二人とも、何をやってるんですか……?」
尋《たず》ねるとメイドさん二人はスカートの裾を翻《すそひるがえ》して、
「あ、美夏《みか》様、裕人《ゆうと》様〜。ええ〜、ここでひっそりとお二人が出て来るのをお待ちしていたのですが〜」
「……よく分かりませんが、どうもここのお店のアルバイトと間違《まちが》えられてしまったようで」
「チラシを渡《わた》されたので、ついでなのでそれをお配りしていたところなのです〜」
「……(無言でうなずいている)」
「……」
どうやら、チラシ配りのバイトメイドさんと間違えられたらしい。いやそりゃあこんな格好《かっこう》(メイド服)でこんなところ(メイドカフェ前)に立ってりゃあ間違えられても仕方《しかた》ないかもしれんが……というかこの二人、ずっとここに立ってたのか? まさかあの退席《たいせき》する前の急激《きゅうげき》な店の混《こ》み具合《ぐあい》はこのせいで……
「でもこういうのも面白《おもしろ》いですね〜♪ うふふ、何だかメイド隊の研修時代を思い出してしまいました。写真|撮影《さつえい》とかも頼《たの》まれてしまいましたし〜」
「……思い出します(目がきらきらと輝《かがや》いている)」
「……」
まあ、本人たちが楽しんでるんならそれはそれでいいって気もするがな。
ともかくそういうわけで。
春香の初バイト日(メイドカフェ)及びその見学は、リアルメイドさんによる本来はバイトメイドさんにより行われるメイドカフェのチラシ配りによって終わりを告《つ》げたのだった。
0
「――それでは、お待たせいたしました」
静寂《せいじゃく》の中、少し低めの声が響《ひび》き渡《わた》った。
丁寧《ていねい》ではあるがあまり感情を感じさせない声。
それに従《したが》って、俺はだだっ広い廊下《ろうか》(赤い絨毯《じゅうたん》敷《じ》き)に置かれていたソファからのっそりと立ち上がる。
「こちらが面接《めんせつ》の会場となっております。中でお嬢《じょう》様本人が待っておられますが、くれぐれも粗相《そそう》のないようにお気を付けを。ご機嫌《きげん》を損《そこ》ねられたら、そこで終わりですので」
脇《わき》にあるドアを手で示して、モーニング姿《すがた》の爺《じい》さんが真顔でそんな説明をしてくる。
「はあ……」
「ジ・エンドでオメガで、カタストロフィでございます」
「……」
何やらろくでもない単語はかりなんだが……
「……」
まあいまいち気がかりというか心もとないのは否定《ひてい》できんが、何事にも初めてには不安が付き物だ。ファミレスでカレーを頼《たの》めば福神漬《ふくじんづ》けが付いてくるのと同じくらい付き物だ。だからそれはいい。
それよりも問題は。
「……」
『天王寺《てんのうじ》家《け》臨時《りんじ》執事《しつじ》選考会会場』
この部屋《へや》の前にでかでかと掲げられた張《は》り紙《がみ》(達筆《たっぴつ》)にあった。
「……」
いや……これは何だ? 臨時執事選考会? 確《たし》かに俺は面接を受けるためにここにやって来たわけなんだが、それが執事選考会だとかはこれっぽっちも聞いちゃいない。
「では、お入りください」
そんな俺の戸惑《とまど》いとは裏腹《うらはら》に、勢《いきお》いよく目の前のやたらとでかいドアが開かれる。
ギギギ、という木の軋《きし》む音。
「こちらへどうぞ」
「……」
爺《じい》さんの後に付いて中へと入る。
部屋《へや》の中も、廊下《ろうか》と同じくムダに広いというか金のかかってそうなハデな造りになっていた。
キックベースはおろかサッカーができそうなはどの面積、キラキラとまばゆいまでに輝《かがや》くシャンデリア、ゆうに十メートルはあろうかという巨大な老人の肖像画《しょうぞうが》。そのまるで映画館のスクリーンみたいな肖像画の真下にはほとんどどこぞの王侯貴族《おうこうきぞく》が座《すわ》るような豪華絢爛《ごうかけんらん》なイスが置いてあり――
「……ふん、また景気《けいき》の悪そうなのが来たわね」
と、そこで凛《りん》とした声が広い部屋内に反響《はんきょう》した。
決して大きくはないのだけれど、どこか人の耳を惹《ひ》き付《つ》ける魅力《みりょく》を持った声。
貴族様|御用達《ごようたし》のラージなイスにまるで女帝のように偉そうにふんぞり返ってこっちを見下ろしていたのは……サイズ的にはかなりミニマムな女の子だった。
「まあ募集《ぼしゅう》期間が今日一日だったっていうし仕方ないのかしら。……前に来たのよりは少しはマシだといいけれど」
目を細めながらつまらなそうにそう言い捨てる。
「まあまあお嬢《じょう》様、そう仰《おっしゃ》らずに。今回の方はかなり有望《ゆうぼう》ですぞ」
「……どうかしら。いかにもなヘタレ面《づら》をしているけど」
「人間、見た目ではありません。たとえ一見《いっけん》する限《かぎ》りはどこにでもいるような平凡《へいぼん》な一般|庶民《しょみん》顔《がお》であっても、その中身は実は磨《みが》けば光るダイヤモンドかもしれませぬ。ただの炭素《たんそ》のカタマリである可能性《かのうせい》も否定《ひてい》できませぬが」
「ふうん……まあ、どうでもいいわ、そんなの」
「……」
景気が悪いだとかへタレだとかどうでもいいだとか、全部俺のことだよな。てか爺さんも少しはフォローしろよ……
「とにかくさっさと始めるわよ。こんなことで余計《よけい》な時間を費《つい》やしたくない。いい?」
「はっ、分かりました。――ではこれより面接《めんせつ》を始めたいと思いますが、よろしいですかな?」
「え、はあ……」
こっちを向いた爺さんの言葉《ことば》にうなずく。
「それでは天王寺《てんのうじ》家《け》臨時《りんじ》執事《しつじ》選考会を始めまする!」
「……」
高らかに爺さんの声が響《ひび》き渡《わた》り。
そして『天王寺家臨時執事選考会』とやらが始まる――
さて一体これが何なのかと言うと、そのことを説明するためにはまず時間を少しばかり遡《さかのぼ》らなけりゃならない。
いや俺自身まだ状況を完全に掴《つか》みきれてないため、それで全ての事情を説明できる確証《かくしょう》はないんだが、それでもそうしなけりゃあ始まらない。
コトの発端《ほつたん》は今からおよそ一時間前のこと――
1
十二月九日金曜日。午後三時五十六分。
その日もいつも通り我がクラスの副担任によるセクハラなホームルーム(クラス内カップルのアルファベットにおける進み具合についての質疑応答《しつぎおうとう》)で一日の授業が締《し》められた放課後、俺は制服|姿《すがた》のまま一人で街中を歩いていた。
「……」
春香《はるか》のバイト先であるメイドカフェ訪問《ほうもん》から今日で五日。
辺《あた》りの景色《けしき》は前よりもさらにクリスマス度を増《ま》し、どこもかしこもイルミネーションやらサンタクロースやら人目をはばからずにやたらといちゃつくにわかカップルやらで覆《おお》い尽《つ》くされている。とにかく街中クリスマス一色で、前に春香がかわいいと言っていたサンタの置物の数もほとんど倍近くに増《ふ》えていた。
「……」
ちなみにその春香は今日もバイトである。
色々と習い事やら勉強やらで忙《いそが》しいはずなのに、その合間《あいま》を縫《ぬ》って毎日せっせとメイドカフェに通っている。初日に見た時にはかなり心もとないメイド姿だったが、美夏《みか》たち(日替《ひが》わりでだれかが偵察《ていさつ》に行っているらしい)から聞いた情報によると今ではそれもずいぶんと堂《どう》に入《い》ったものになってきているとか。
「……」
一生懸命《いっしょうけんめい》にがんばっている春香。
冬に向かってこつこつと木の実を集めるリスみたいにひたむきなその姿。
あの日、春香のバイト姿及びその事情を知ってから、密《ひそ》かに心に決めていることがあった。
――クリスマスに、俺も春香に何かプレゼントを贈《おく》る。
それも小遣《こづか》いでではなく、春香と同じように独力で何かを。
春香のあんながんばりを見て、俺だけがのうのうと何もせずに飼《か》い慣《な》らされたマルチーズのようにノンビリと惰眠《だみん》を貪《むさぼ》っているわけにもいかん。
だがそのためにはまず先立つものが必要《ひつよう》となってくる。
しかし一介《いっかい》の男子高校生であり扶養《ふよう》家族《かぞく》である俺には、その先立つものがない。
というわけで何とかその先立つものを工面《くめん》すべく、とりあえずバイト求人誌を購入《こうにゅう》し何か目ぼしいものはないかと探《さが》していたのだが、
「むう……」
さっぱり見つからなかった。
ここ五日ほど探し続けて、見つかったのは工事現場でのタコ部屋《べや》労働くらいである。
いや求人自体はあるんだよ。だが高校生の俺が、限られた期間で、それなりの額《がく》を稼《かせ》ごうと思うと、やはりその数は昨今《さっこん》の公衆《こうしゅう》電話の残存《ざんぞん》数《すう》並《な》みに少なくなってくる。つーかほとんど皆無《かいむ》に等しい。
「……」
こうなったらここはルコに借金《しゃっきん》でもするしかないか。いやしかしそれは春香《はるか》のがんばりに対してあまりに誠意《せいい》がないような……
「うーむ……」
そんなことを考えつつ街を歩いていたその時だった。
一枚のシックな色合いのカンバンが俺の目に飛び込んできた。
『急募《きゅうぼ》、短期アルバイト! 簡単《かんたん》な事務・雑用仕事。学生(高校生)可。高給約束。詳細《しょうさい》要《よう》相談《そうだん》』
「――!」
思わず通《とお》り過《す》ぎようとしていた足が止まった。
それはまさに俺が求めていたバイトそのものである。ドンピシャである。ほとんど神棚《かみだな》からアンコロモチといった感じだ。
「……」
メガネのズレを直してもう一度よく見てみる。
――短期のバイトで仕事内容は事務に雑用、詳細は相談……ふむ、特に胡散臭《うさんくさ》い仕事とかじゃなさそうだ。
仕事探しの過程《かてい》でいくつか見かけた微妙《びみょう》にレッドゾーンな求人広告(『ただ立っているだけで一日一万円!』とか『秘密《ひみつ》厳守《げんしゅ》! 電話をかけるだけの簡単なお仕事です』とか『あなたの口座売りませんか!』とか)が頭をよぎる。あれらに比べればこれは三・二倍ほどマシだ(当社比)。
ただ一つだけ気になる点がありやがった。
長方形のカンバンを持ちつつ道脇《みちわき》に姿勢《しせい》正しく立っている初老の爺《じい》さん。
あれはどう見ても――
「……執事《しつじ》、だよな?」
後ろに撫《な》で付《つ》けられたロマンスグレーの髪。着こなされたフォーマルスーツ。手入れの行《い》き届いたヒゲと鼻の上にかけられた丸メガネ。
英語で言うところのバトラー、日本語で言うところの執事に他ならない。
「……」
いやこの現代日本に執事《しつじ》なんて職業が現存《げんぞん》しているもんなのか? というか本物? だが冷静《れいせい》に考えてみればごく近くにリアルメイドさんやらリアル黒服やらがいるんだから、リアル執事がいてもおかしくないかもしれん。
「……」
よし。
決めた。
多少怪《あや》しいところ(執事)はあるが、それにはこの際《さい》もう苦手《にがて》なシャンプーに臨《のぞ》む小学生のごとく固く目をつむろう。まさか取って食われることはねえだろうし。
決心とともに足を踏《ふ》み出《だ》す。
「あー、すみません」
僅《わず》かに残った躊躇《ちゅうちょ》をザリガニの脱皮《だっぴ》のごとく振《ふ》り払《はら》い、俺は直立《ちょくりつ》不動《ふどう》の体勢《たいせい》を維持《いじ》する執事の爺さんに声をかけた。
「む、何ですかな?」
「ちょっと訊《き》きたいんですが、その短期バイトって特に応募《おうぼ》条件とかはないんですか?」
「ほう、もしや志願者《しがんしゃ》の方ですか?」
執事の爺さんの丸メガネがキラリと光る。
「は、はい。いちおう……」
「ふむ……」
俺がうなずくと、執事の爺さんはメガネに指を当てながら上から下までこっちの全身を眺《なが》めて、
「なるほど、見たところ健康上の問題はなし、基本的な身なりも悪くない……精神的な打たれ強さまでは不明ですが、同年代というところはポイントかもしれませんな、ぶつぶつ……」
何やらよく分からんことをつぶやいたかと思うと
「……時につかぬことをお訊きいたしますが、気まぐれでかつワガママな仔猫《こねこ》はお好きですか?」
「はい?」
「ですから気まぐれでワガママな仔猫です。相当に手はかかりますが、その分だけ可愛《かわい》いところもごさいます。お嫌いですか?」
そんなことを訊いてきた。
「いや、嫌いってことはないですが……」
「ほうほう、では夏の天気と秋の天気、どちらを好みますかな?」
「え?」
さらにワケノワカラン質問だった。
「まあ、どちらかと言えば秋の方が……」
涼《すず》しくて過《す》ごしやすいとは思うが。
「ふむふむ、なるほどなるほど」
執事《しつじ》が満足そうにうなずく。
その後もいくつかいまいち脈絡《みゃくらく》のない質問(「足腰《あしこし》は丈夫《じょうぶ》ですか?」とか「暴れ馬を御《ぎょ》したことは?」とか) が続き、
「――合格です」
十三個めの問いが終わったところで(……いやいちおう数えてたんだよ)、いきなりそんなことを言われた。
「……は?」
「ですから、合格です。勝手に試《ため》したようで申し訳ございませんが、今の質疑《しつぎ》応答《おうとう》で一次|審査《しんさ》を兼《か》ねさせていただきました」
「一次審査?」
って、今の意味不明な質問がか?
「はい。そしてあなたは見事《みごと》に基準《きじゅん》をクリアなさいました。というわけで今から私と共に来てもらえますかな? これより二次審査である面接《めんせつ》の会場に向かいますゆえ。――カモン!」
爺《じい》さんがパチリと指を鳴《な》らす。
するとどこからかギャギャギャ! という凶暴《きょうぼう》なホイールスピンの音とともに黒《くろ》塗《ぬ》りのリムジンが人通りのある街の真《ま》っ只中《ただなか》に姿《すがた》を現した。
「どうぞ、お乗りください。面接会場までご案内《あんない》いたします」
「……」
「む、どうなさいました? リムジンを見るのは初めてですかな?」
「いや……」
そういうわけじゃなくてだな……
「ではお乗りください。ささ」
「あ、え?」
ほとんどワケの分からぬまま車の中へと押し込まれ――
そんな感じに半ば強引《ごういん》にリムジンに乗せられて、走ることおよそ十分。
向かった先にあったのは――
「……」
「どうかなさいましたか?」
「どうかっていうか……」
――なんか、すさまじく巨大な建物《たてもの》だった。
視界《しかい》の上から下、右から左の端《はし》までを覆《おお》い《つ》尽くす広大な敷地。どこかの城の入り口みたいな門。そしてその中にそびえ立つとんでもなく巨大な屋敷《やしき》。
「……何だ、これは?」
ほとんど乃木坂《のぎざか》邸《てい》と変わらんというか、ヘタすりゃそれ以上だぞ。この長い不景気《ふけいき》に窒息《ちっそく》しかけたナマズのごとく喘《あえ》ぐ日本に、まだこんなセレブ極《きわ》まりないリッチスペースが存在《そんざい》していたとは……
「ではどうぞ。お入りください」
「え、あ」
呆然《ぼうぜん》と立ち尽くす俺の前で、ゴゴコ……という開門にあるまじきごつい音ともに門が開かれる。
門の向こうには、予想通りの見渡《みわた》すほどの景色《けしき》が広がっていた。
「こちらが天王寺《てんのうじ》本家《ほんけ》、「跼天《きょくてん》庭国《ていえん》」となっております。あちらに見えるのが本館である『天地《てんち》開闢《かいびゃく》館《かん》』で、その横にあるのが――」
「……」
執事《しつじ》の爺《じい》さんが歩きながら何やら説明をしてくれるが、そんなもんはほとんど耳に入ってこなかった。いやあり得ねえだろ……
「まずは本館へと向かいますが、正規《せいき》の道から外《はず》れないようにご注意を。防犯用の対人レーザーが反応《はんのう》する恐《おそ》れがありますので」
そんな微妙《びみょう》に怖《こわ》い台詞《せりふ》を受けて、どこぞの自然テーマパークのような庭を十五分ほどかけて抜《ぬ》け(人工の滝《たき》と湖《みずうみ》なんかがありやがる……)、屋敷の中へと入る。
屋敷の中も、やはり乃木坂家に勝るとも劣《おと》らないような豪華な造りとなっていた。
見上げると首が痛くなりそうなほど高い天井《てんじょう》、夜中に動き出しそうな甲冑《かっちゅう》、それ一つだけでウチの家(土地付き)が三個くらい購入《こうにゅう》できそうな色|鮮《あざ》やかな壷《つぼ》。いやあるとこにはあるもんなんだな……
「しっかりと私の後に付いてきてくだされ。迷子《まいご》になった場合、そのまま遭難《そうなん》される心配《しんぱい》がございますゆえ」
「……」
真面目な顔で注意を促《うなが》してくる執事の爺さん。そんなところ(邸内遭難)まで乃木坂家と同じかよ。
そして玄関ホール脇《わき》にあった通路を進み、角を五つ曲がり、階段室二回上り下りし、十字路(?)を二つ過《す》ぎたところで(ここまで所要時間計二十七分)、
「こちらが二次審査《しんさ》の面接《めんせつ》会場となっております。準備《じゅんび》がありますので、少しの間そこにかけてお待ちくださいますかな?」
「は、はあ……」
コンコースのようにだだっ広い廊下《ろうか》に置かれているソファに座《すわ》らされ、
「それでは、準備《じゅんび》が整《ととの》いましたらすぐにお呼びしますので。失礼――」
そう言って執事《しつじ》の爺《じい》さんは廊下の端《はし》へと消えていった。
「……」
いまいち状況《じょうきょう》が掴《つか》めないまま独《ひと》り取り残される俺。
そしてしばらくの後に部屋《へや》の中へと呼ばれ――
2
――まあそういうわけなのである。
そういった次第《しだい》で、今現在俺はこの巨大な屋敷《やしき》の一室でバイトの面接《めんせつ》を受けているわけなんだが……
「……」
さっきも言ったように、一番の問題は今の今まで一体自分が何のバイトに応募《おうぼ》してるんだか俺がキチンと理解できてなかったってことにあったりする。
『天王寺《てんのうじ》家《け》臨時《りんじ》執事選考会会場』
……まさかとは思うが本当に執事を募果《ぼしゅう》してるってのか?
いまいちというか九割の確率《かくりつ》で信じられんのだが、そう書いてある以上はそうなんだろう。まさか執事選考と書いて実はフランスパン職人《しょくにん》を募集してるなんてことはあるまい。いやまあそれはそれで面白《おもしろ》いんだが。
ともあれここまで来たらもはや後には引けない。
どんな仕事条件でどんな仕事内容なのかは知らんが、とにかく当たって砕《くだ》けるのみだ。春香《はるか》へのクリスマスプレゼントのためにも。
などと考えながらだだっ広い部屋の真ん中でポツリと決意を固めていると、
「では応募者――綾瀬《あやせ》裕人《ゆうと》くん、前に出てもらますかな」
「……あ、はい」
執事の爺さんの声に従《したが》い、お姫様に謁見《えっけん》する一|衛兵《えいへい》のように前へと出る。
「こちらのお方が現在の天王寺家における正当|後継《こうけい》者《しゃ》の一人――天王寺|冬華《とうか》お嬢《じょう》様です。お嬢様、こちらが今回の候補者《こうほしゃ》となります」
「あー、どうも……」
イスにふんぞり返る女の子に向かって会釈《えしゃく》をするものの、
「……ふん(ぷい)」
目も合わせずに即座《そくざ》に(〇・一秒)そっぽを向かれた。
むう、無愛想《ぶあいそう》というかほとんど対人バリアー(自動|攻撃《こうげき》機能《きのう》アリ)の領域《りょういき》だな。……てかこいつの名前、どっかで聞いたことがあるような気がするんだよな。天王寺《てんのうじ》冬華《とうか》……?
微妙《びみょう》な引っかかりを覚《おぼ》えるが、同じように微妙なレベルの俺の記憶力《きおくりょく》のおかげで思い出すまでには至《いた》らない。
「ではお嬢《じょう》様、面接《めんせつ》の方をお願いいたします」
執事《しつじ》の爺《じい》さんがやんわりと促《うなが》す。
それを受けてイスにふんぞり返っていた女の子――天王寺冬華はまるでアサリの味噌汁《みそしる》に時々入っている小ガ二でも見るような視線《しせん》でこっちを一瞥《いちべつ》すると。
「そうね……とりあえずエリマキトカゲのモノマネでもしてもらえる?」
「……は?」
そんなことを言いやがった。
「聞こえなかった? エリマキトカゲのモノマネ。その場で三遍《さんべん》回って『ぴぎいっ』って鳴《な》いてって言ったの。いい声で鳴くのを聞いてみたいわ」
「……」
……ヴァージョンアップしてやがるし。てかエリマキトカゲって鳴くもんなのか?
「ほら、早くやりなさい。時間は待ってくれないのよ、このヘタレ男」
「ぐ……」
理性《りせい》が激《はげ》しく拒《こば》む。何が悲しくてバイトの面接に来て一昔《ひとむかし》前に流行《はや》ったイロモノ爬虫類《はちゅうるい》のモノマネをしなきゃならんのだ。だが春香にクリスマスプレゼントをするためにはもはやこれしか道がないのも事実。ここの面接に失敗するとそれこそ後がない。
……やるしか、ねえか。
覚悟《かくご》を決めて一歩前に出る。
正直なところ気が進まないこと果《は》てしないが、春香のためにならエリマキトカゲ(爬虫類|有鱗目《ゆうりんもく》トカゲ亜目《あもく》アガマ科《か》)にだって何だってなってみせるさ。
「……」
半ば投《な》げ遣《や》りな決意とともに、俺はその場で三回転すると、自らのガニマタの間にだらりと両手を落としさらには白目を剥《む》いて舌《した》をダラリと突き出して、そのまま「……ぴぎいっ!」と鳴いた。
「……」
「……」
「……」
沈黙《ちんもく》。
……やった。
……やっちまった。
ヒトとして大切な何かを失くしちまったみたいなそこはかとない疲労感《ひろうかん》に包《つつ》まれる中、執事《しつじ》の爺《じい》さんだけが「よくぞやりましたな!」って顔でウンウンとうなずきながらこっちを見ている。
やがて。
「……まさか、本当にやるとは思わなかったわ。あなた、頭は大丈夫《だいじょうぶ》?」
「……」
お前がやれって言ったんだろうが!
何かかわいそうなモノを見るような視線《しせん》でそんなことを言われ、やるせなさに打《う》ち震《ふる》えていると、
「……まあ、いいわ。認《みと》めてあげる」
「へ?」
「その顔は何? 合格だって言っているの。ブサイクとはいえ、いちおうやり遂げたわけだし(エリマキトカゲを)。――ほら、そんなことよりもさっさと支度《したく》をなさい。着替えはあなたの部屋《へや》に用意されているはずだから、まずは着替えて十五分後にわたしの部屋まで来ること。わたしの専属《せんぞく》として恥ずかしくないようにきびきびと動くことね。コンマ一秒でも遅《おく》れたらモーニングスターで殴《なぐ》り倒《たお》すわよ」
「……」
「いいわね」
それだけ言い放つと、天王寺《てんのうじ》冬華《とうか》は頭の横で二つに結んだ髪《かみ》を翻《ひるがえ》し、一度も振《ふ》り返《かえ》らずに部屋を出て行ってしまった。
だが。
「……あなたの部屋? わたしの専属?」
いったい何のことだ?
何が何だかさっぱり分からずに、というかそもそも面接《めんせつ》の結果《けっか》がどうなったのかすらも分からずに収穫期《しゅうかくき》後《ご》のカカシのごとくたたずむ俺に。
執事の爺さんはさらっとこう言ったのだった。
「そういえばまだ仕事内容をきちんと説明していませんでしたな。あなたの仕事は冬華お嬢様専属の住み込み執事[#「冬華お嬢様専属の住み込み執事」に傍点]となっておりますので」
3
「…………」
……このヘンで、一度|状況《じょうきょう》を整理してみよう。
屋敷《やしき》の奥《おく》に用意されていた部屋《へや》(俺専用)内で、これまた用意されていた執事服《しつじふく》(サイズピッタリ)に着替えながらそんなことを思う。
現在の微妙《びみょう》にカオスティックな状況。
まず俺は今日バイトを探《さが》していた。なかなか好条件なのが見つからずに街中を歩いていたところたまたま執事の爺《じい》さんがカンバンを持って募集《ぼしゅう》をしている謎《なぞ》のバイトを見つけた。そのまま面接《めんせつ》のためにこの屋敷にやって来て、ふんぞり返ったお嬢様の前でエリマキトカゲのモノマネをやった。なぜか面接に合格してこの屋敷で執事としてバイトすることになった。
そしてその結果《けっか》、今ここでこうして執事服に袖《そで》を通しているわけだが。
「……さっぱり分からねえ」
俺の玄武岩《げんぶがん》のように硬直した頭では、個々の状況は分かってもそれが全体として何を示しているのかまではこれっぽっちも理解《りかい》できん。だいたい何で有無《うむ》も言わせずにいきなり住み込みなんだか、その時点でもう意味不明てある。
それでも少しでも事態《じたい》を認識《にんしき》すべく、ない頭をひねって考えていると、
コンコン。
部屋のドアがノックされた。
「着替えは終わりましたかな?」
聞こえてきたのは執事の爺さんの声だった。
「あ、はい」
「入りますぞ」
ドアを開け中に入ってきた執事の爺さんは俺の姿《すがた》を見ると目を見張って、
「おお、なかなか似合《にあ》っておりますな。従属《じゅうぞく》属性《ぞくせい》がそこはかとなく醸《かも》し出《だ》されているというか天性《てんせい》の執事|気質《きしつ》というか……。しかしネクタイの結び目がいささか雑なのが惜しい。そこさえしっかりしていればこれ以上ないくらいの完壁《かんぺき》な服従《ふくじゅう》スタイルでしたのに」
「……」
おそらく褒《ほ》めてるつもり……なんだろうな。客観的《きゃっかんてき》及び俺の主観的《しゅかんてき》にはさっぱりそんな気はせんのだが。
どことなく複雑な気分でネクタイを直す俺に、
「ああ、そういえばまだ名乗っていませんでしたな。申《もう》し遅《おく》れましたが私は小犬川《こいぬかわ》無道《むどう》と申します。ここ天王寺《てんのうじ》本家《ほんけ》で執事長を勤めさせていただいておりますな。どうぞ、お見知りおきを」
絶妙《ぜつみょう》な腰《こし》の角度でペコリと頭を下げてくる。
「あ、よろしくお願いします」
慌《あわ》てて挨拶《あいさつ》を返す。今の俺の立場からして、執事長であるということは上司であるということだ。最低限《さいていげん》の礼儀《れいぎ》は必要《ひつよう》だろう。
だけど無道《むどう》さんは笑って、
「そう畏《かしこ》まらなくても結構《けっこう》ですよ。あなたは冬華《とうか》お嬢《じょう》様の専属《せんぞく》執事《しつじ》として私たちとは別《べつ》系統《けいとう》で、独立して働いてもらうことになります。なので立場的には私とあなたは同格ということになるのですよ」
「はあ……」
よく分からんがそういうものらしい。
「さて、それではお嬢様のところに向かう前に簡単《かんたん》に仕事の内容を説明させていただきたいと思います。よろしいですか?」
無道さんがコホンと咳払《せきばら》いをする。
「あ、それはぜひ」
むしろこっちから訊《き》きたいと思っていたところだ。
「分かりました、では……あなたの仕事は基本的には冬華お嬢様の身の周りのお世話《せわ》です。雑用、小用、野暮用《やぼよう》……それのみです。冬華お嬢様に関することのみを行い、それ以外の他の屋敷《やしき》に関《かか》わることなどは一切《いっさい》手を出さなくて結構《けっこう》です」
「そうなんですか?」
「ええ。それゆえの専属執事なので。一意専心《いちいせんしん》というところでしょうか。重要な役割なので、気合を入れてお願いしますぞ」
再《ふたた》び深々と頭を下げてくる。むう、どうやら本当に大事な仕事みたいだ。だが、
「それならどうして……」
この人を始めとした本職《ほんしょく》の執事がやらないんだ? わざわざ外部から臨時《りんじ》バイトを雇《やと》ってまでするようなことじゃないだろ。
と、
「……冬華お嬢様は、普段《ふだん》はこの屋敷には住んでおられないのです」
「え?」
「現在は所用があって十日間の期限《きげん》付きでお一人で戻っていらしているだけで、普段住んでおられるのは別の場所です。ゆえにお嬢様のお世話をなさる専属執事はこの屋敷には存在《そんざい》しません。加えてあの通り色々と難《むずか》しい方ですから、普通《ふつう》の執事では少々手に余る――ごほんっ、失礼、そのありあまるパワーを抑《おさ》えきれないのです」
「……」
まああのお嬢様の性格に少しばかり難《なん》があるだろうってことは、すでに俺も身をもって体験《たいけん》(エリマキトカゲ体験)してるがな。
「ゆえに今回は外部から登用いたしました。年齢が近くまた下手《へた》に仕《つか》え慣《な》れしていない人物の方が向いているかと思いまして。もちろん、私の眼鏡に適《かな》う最低限《さいていげん》の人物であることは必須《ひっす》条件ですが。住み込んでもらうのもそれの一環《いっかん》です。お嬢様は一時でも目を離《はな》すと何をなさるか分からない――いえ、もとい、我々の予想外《よそうがい》の行動に出られることがございますので……」
「……」
なるほどね。
なんかところどころでキナ臭《くさ》い台詞《せりふ》が見《み》え隠《かく》れしていたが、だいたいの事情はつかめた。それならば臨時《りんじ》バイトでお嬢《じょう》様|専属《せんぞく》執事《しつじ》ってのもうなずける。というかある意味|必然《ひつぜん》だ。
しかし、住み込みか……
生まれて初めての経験《けいけん》だが、まあ特に不都合《ふつごう》はない。学園にも普通《ふつう》に通えるようだし。むしろ自宅から通うよりも通学時間が短くなって助かるくらいだ。
「以上がおおよその仕事内容です。何か質問などはありますかな?」
「あ、いえ」
無道《むどう》さんの言葉《ことば》に俺は首を振《ふ》った。
「そうですか。それなら何よりです」
……ん、待てよ、なんか忘《わす》れてるような気がするが……?
「では、行きましょうか。冬華《とうか》お嬢様の部屋《へや》はここから四つ隣《どなり》になっております」
むう……少々気になるが、まあ思い出せないようなら大したことじゃないんだろう。今までも大抵《たいてい》そうだったしな。なのであまり気にしないことにして、無道さんの後を追《お》う。
部屋を出たところで、
「……あなたには色々と期待をしております」
無道さんがポツリとそうつぶやいた。
「え?」
今、何て言われた? キタイ? 気体や奇態《きたい》ってわけではあるまいし……まさか期待?
首をひねる俺に無道さんはもう一度真《ま》っ直《す》ぐにこっちを見て、
「あなたには何かを変えてくれる力があるような感じがするのですよ。私の勘《かん》ですが」
「では私はここで。冬華お嬢様のことを、よろしくお願いいたします」
部屋を出て廊下《ろうか》を右手に八十メートルほど進んだところにあった一際《ひときわ》どでかい扉《とびら》の前でそう言って、無道さんは去って行った。
――さて。
ここからは俺一人だ。
扉の前で潜水《せんすい》前《まえ》のカバのような深呼吸《しんこきゅう》を一度。
先ほどの面接《めんせつ》時《じ》におけるやり取り及び無道さんの話からして、相手はどうも一筋縄《ひとすじなわ》ではいきそうにない。対峙《たいじ》するにはそれなりの心の準備《じゅんび》が必要《ひつよう》だろう。
「……」
よし。
色々な意味で覚悟《かくご》を決めて目の前の頑丈《がんじょう》そうな扉をノックする。
中からはすぐに返事が飛んできた。
「……だれ?」
「あ、ええと、新しく執事《しつじ》になった……」
「……ああ。いいわよ、入りなさい」
「……失礼します」
自分で呼《よ》んでおいてだれはねえだろと思いながらも口には出さずにドアを開く。
部屋《へや》に入った途端《とたん》、
「……あなた、ずいぶんと遅《おそ》かったわね」
「え?」
「三秒の遅刻よ。コンマ一秒でも遅《おく》れたら斬馬刀《ざんばとう》で足腰《あしこし》が立たなくなるまで捻《ひね》り倒《たお》すって言ったわよね? ……覚悟はいいかしら?」
「なっ……」
そんな覚悟はねえ。つーかいつの間にかグレードアップ(モーニングスター→斬馬刀)してやがるし。
思わず言葉《ことば》を失う俺に、
「……ふん、冗談《じょうだん》よ」
下等な微生物《びせいぶつ》でも見るみたいに笑って、
「……いちいち本気に取らないで。まったく、アメーバみたいに単細胞《たんさいぼう》ね。細胞|分裂《ぶんれつ》でもする?」
「……」
これっぽっちも冗談に聞こえなかったんだが。
「で、いつまでそんなところに突っ立ってるつもりなのかしら? さっさとドアを閉めて中に入りなさい。ほんとに気が利かないわ」
「…………」
入った途端に言いがかりをつけて止めたのはお前だろうが……という突っ込みをぐっと堪えて、言われた通りにドアを閉め中へと入る。
部屋の中は非常に簡素《かんそ》な造りになっていた。
置かれているのは最低限《さいていげん》の家具と生活用品とおぼしきもの。それだけである。なまじ広い部屋だけに、余計《よけい》に寂《さび》しく感じられる。
「……」
そしてその中央で腕《うで》を組みながらイスにふんぞり返っているのが天王寺《てんのうじ》冬華《とうか》。
白いもこもことしたセーターに黒のスカートというどちらかといえばかわいらしい格好《かっこう》でありながら、それにあるまじき偉そうな態度《たいど》でこっちを見ている。
「さて……あなたが今日からわたしの専属《せんぞく》執事《しつじ》ね。名前は何ていったかしら?」
「ん、ああ、綾瀬《あやせ》裕人《ゆうと》だ――いや、です」
「ふうん……」
天王寺《てんのうじ》冬華《とうか》はまるで新しい液晶テレビを値踏《ねぶ》みでもするように目を細め、
「綾瀬裕人――言いにくい名前ね。……決めたわ、今日からあなたはロドリゲス」
「は?」
「ロドリゲスよ。二度も言わせないで」
「……」
そんなことを言いやがった。
いやどういう理屈《りくつ》だ。大方《おおかた》昔|飼《か》ってた犬の名前だとかいうパターンだろうが、ロドリゲスの方がよっぽど言いにくいだろうが……
とはいえいちおう雇《やと》われ執事の立場上、それをそのまま口にすることはできない。
「あー、なんか犬みたいな名前だな――いや、ですね」
なので少しばかり婉曲《えんきょく》に突っ込むと、
「違《ちが》うわよ。ロドリゲスは昔わたしが飼っていたエリマキトカゲの名前。絶妙《ぜつみょう》な角度のエリマキとほっそりと伸《の》びた二の足がとっても素敵《すてき》だったの……。あなたごときが、あの子の名前を貰《もら》えるだけありがたく思いなさい」
「エ、エリマキ……」
「何よ、不服なの? イヤならウーパールーパーの名前でもいいのよ。ちなみにそっちはザンギエフだけど」
あっさり言《い》い放《はな》つ。そこには微塵《みじん》もためらいとか悪びれとかは感じられなかった。
「…………」
……とりあえず、こいつの性格とネーミングセンスに多大な問題があるってことだけはよく分かった。身に染みてよーく分かった。
これの相手を一週間も務《つと》めなきやならんのか……と少しばかり絶望的《ぜつぼうてき》な気分でいると、
「それとあなた、慣《な》れない敬語《けいご》は使わなくていいわ。バイト程度《ていど》にそんな高尚《こうしょう》なことを求めるつもりもない。それにロドリゲスのくせにいちおう先輩《せんぱい》らしいし」
「は? 先輩?」
こんな性格|破綻《はたん》な後輩《こうはい》を持った覚《おぼ》えはないんだが。
すると冬華はこっちを見下ろすようにうなずいて、
「そうよ。履歴書《りれきしょ》を見たわ。あなたは白城学園の二年生なんでしょう? だったら先輩じゃない。たとえそれがどんな凡夫《ぼんぷ》でも、先に生まれた輩《やから》は先輩だから」
「え、じゃあ天王寺は白城の一年生なのか?」
「そうよ。知らなかったの? この前の、何て言ったかしら、ミスコンとかいうくだらない騒《さわ》ぎにも出させられたっていうのに」
「……あ」
……思い出した。
そういえばどこかで見たことがあると思ったらこいつ、あのミスコンに出てた一年じゃねえか。『|絶対零度の氷姫《プリンセス・ブリザート》』とか呼ばれてて、確《たし》か途中《とちゅう》で飽《あ》きたから帰るとか何とかなトンデモ理由でリタイアした。
「あともう一つ。わたしを呼ぶ時は名前で呼びなさい。天王寺《てんのうじ》の姓で呼ばれるのは、好きじゃない」
「あ、ああ」
しかし言われるまでは後輩《こうはい》だなんてまったくもって気付かんかったな。その理由はおそらく……
「……なに?」
「あ、いや、てっきり……」
「てっきり、何よ?」
「あー、まあ中学生くらいかと思ってたからな。まさか俺の一つ下だったなんて、これっぽっちも想像《そうぞう》してなかっただけだ」
何せこのブリザードお嬢《じょう》様、身長的にはどこぞのツインテール娘(こっちもお嬢様)とほぼ変わらない。おそらく百五十はないだろう。なのでいいとこ中二がせいぜいだと思ってた。
「なっ……」
すると冬華《とうか》は顔をかーっと真っ赤にして、
「だ、だれが成長不良の手乗りコロポックルよっ! この、ロドリゲスのくせにっ……」
「え? いやだれもそこまで……」
「言った! いいえ、目が言っているわ! ……こ、こうなったらタマネギのエキスをスプレーにして眼球《がんきゅう》に直接吹き付けてくれようかしら……」
「……」
何やら物騒《ぶっそう》なことを口走っているが、要するにこのお嬢様は身長に何がしかのコンプレックスを抱《いだ》いてるってことなんだろう。
口と態度《たいど》はほとんど最悪と言っていいほど悪いくせに案外《あんがい》かわいいところがあるんだな……などと少しだけ微笑《ほほえ》ましく思っていると、
「い、いつまで人の顔をじろじろ見てるのよ! 視線《しせん》で舐《な》め回《まわ》されているみたいで、とてつもなく気分が良くないわ! このエロメガネ! 変質者《へんしつしゃ》、マンホールのフタでも踏《ふ》み外《はず》してしまいなさい!」
「ん、なっ……」
言うに事欠《ことか》いて何を言い出しやがる、こいつは。
「……(ぷい)」
挙句《あげく》に機嫌《きげん》を損《そこ》ねたネコのごとくそっぽを向く。
「……」
前言《ぜんげん》撤回《てっかい》。
やっぱこいつにはこれっぽっちもかわいげなんてねえ。
そんなこんなで、幸先《さいさき》の思いやられる住み込みの執事《しつじ》生活が始まったわけだが。
ファーストコンタクト(エリマキトカゲのモノマネ強要、ロドリゲス命名《めいめい》)の印象《いんしょう》通り、というかそれを何一つとして裏切ることなく、冬華《とうか》付き執事《しつじ》の仕事は熾烈《しれつ》を極《きわ》めた。
いや仕事としては基本的に冬華の身の周りの雑用(炊事《すいじ》、掃除《そうじ》など)やちょっとした世話《せわ》をするだけなんだが、何せその主体となっているお嬢様に多大な問題(主に性格面で)がある。雑用がただの雑用で済《す》むわけがない。
例えばそこはかとない眠気《ねむけ》にまどろむ朝食時。
「……焼き魚とお吸い物が食べたいわ」
「は?」
食堂でマニュアル(完全執事ハンドブック)通りにパンとベーコンを焼いていた俺に、起きてくるなりいきなりそんなことを言い出し。
「聞こえなかったの? 焼き魚とお吸い物よ。今すぐ作りなさい、ロドリゲス。やっぱり日本人の朝は和食よね」
「……」
仕方《しかた》なく予定を変更《へんこう》して言われるがままに作ったものの。
「……ロドリゲス、これは何かしら?」
「伺って、焼き魚と吸い物――」
「呆《あき》れたわ!」
どん、とテーブルを叩き。
「焼き魚といえばマイワシでしょう! 何だってウルメイワシなんて使うのよ! お酒のツマミじゃあるまいし」
「え、いや」
そうは言うがウルメイワシの方が安いし、その割に味は大して変わらない。それに朝食だからサイズ的に小さめのウルメイワシの方がいいと思ったんだが。
「いやもヘチマもないわ! わたしはマイワシが好きなの、大好物なのよ! いいからロドリゲスは四の五の言わずに大人しく言う通りにしてればいいのよ!」
「……」
「まったく……いい、次にこんなものを出したら身ぐるみ剥《は》がしてアイアンメイデンに投げ込んであげるから!」
「…………」
などと朝っぱらから物騒《ぶっそう》なことこの上ない料理講座を受けさせられたり。
例えばニワトリも藁《わら》敷《じ》きの小屋の奥《おく》でうたた寝《ね》をする午後のうららかな一時《ひととき》。
「……乗馬《じょうば》がやりたいわ」
「へ?」
執事《しつじ》仕事が一段落《ひとだんらく》し自室で休憩《きゅうけい》をしていた俺にいきなりそんな言葉《ことば》がかけられ。
「行くわよ、ロドリゲス。付いて来なさい」
「ちょ、待……」
「うるさい。六の七の言わないであなたは黙《だま》って付いてくればいいの」
引きずられるようにして半ばムリヤリ連《つ》れて行かれた厩舎《きゅうしや》で(当然のごとく敷地内《しきちない》にありやがった)。
「……」
「……」
「さあ、あのかわいらしい馬をこちらへ」
「ちょ、ちょっと待て! あれはいくら何でも……」
冬華《とうか》が指差した先にいたのは、F1マシンのエンジンみたいにブモーブモーと鼻息《はないき》を荒《あら》げ前足で地面をガリガリと削《けず》るアホみたいにでかい黒毛の馬。ほとんど何か違《ちが》う生き物だぞ……
「早くなさい。馬なんて犬と似たようなものでしょう。そういえば動物とのコミュニケーションにはお互いに噛《か》み付《つ》き合《あ》うといいって前にテレビでやっていたわね。ほら、黒王号《こくおうごう》(馬の名前らしい)の好物の菜《な》っ葉《ぱ》をあげるからこれで気を引いてうまくやりなさい」
「…………」
などとどこぞの動物王国まがいのスキンシップWith暴《あば》れ馬《うま》をやったり。
例えばペンペン草や絞《し》め殺《ごろ》しの木もひっそりと寝《ね》静《しず》まる夜中の十二時。
「急に『モ〜モ〜・ミルク 天然《てんねん》生乳《せいにゅう》成分100%』がホットで飲みたくなったの。二十分以内に買ってきなさい」
「……はあ?」
寝ていたところを普通《ふつう》に叩《たた》き起《お》こされたかと思うと、実に偉そうな口調でそんなことを命令され。
「……いや、普通《ふつう》の牛乳じゃだめなのか?」
それなら冷蔵庫にあるんだが。
「却下《きゃっか》よ。わたしは今、『モ〜モ〜・ミルク 天然《てんねん》生乳《せいにゅう》成分100%』が飲みたい気分なの。飲みたくて飲みたくて、飲まないと安眠《あんみん》できない心地なの。他の飲み物は何一つとして認《みと》められないわ。八の九の言ってないでさっさと行ってきなさい」
「……」
「ゴー、ロドリゲス!」
「……」
結果《けっか》として、近くにあるコンビニ、二十四時間営業のスーパーを駆けずり回《まわ》らされた挙句《あげく》、十一軒目にしてようやく『モ〜モ〜・ミルク 天然生乳成分100%』を発見して帰った時には当の冬華《とうか》はすでにぐっすりと寝《ね》ていたりと。
とにかく、そんな日々が続いていた。
なるほど、これなら普通《ふつう》の執事《しつじ》には手に余りまくるってのもうなずける話だ。正直俺もストレスで前髪の立ちが悪くなりつつある毎日である。なんつーか、働くことの大変《たいへん》さを骨《ほね》の髄《ずい》まで思い知らされた感じがするね。
「――なんか裕人《ゆうと》、ここんとこすっごく疲《つか》れた顔してるね」
天王寺《てんのうじ》家《け》で働くようになって三日ほど経《た》ったある日の昼休み。
真冬のツキノワグマのように机に突《つ》っ伏《ぷ》して体力(&精神力《せいしんりょく》)の回復に努《つと》めていた俺を見て、椎菜《しいな》が少しばかり心配《しんぱい》そうに話しかけてきた。
「どうしたの? 最近はもう学校も半日授業とかが多くてそんなに大変じゃないよね。何かあった?」
「……まあ、色々とな」
適当《てきとう》に言葉《ことば》を濁《にご》す。
まさかマイワシとウルメイワシの微妙《びみょう》な違《ちが》いで朝早くから悩《なや》んだり、暴《あば》れ馬《うま》と甘《あま》噛《が》み合《あ》い(俺は頭から血が出たが)したり、夜中に牛乳を買いに方々を走り回ったりしてるなんて言えん。というか言いたくもない。
「ふーん、色々ね……あ」
そこで椎菜は何かに気付いたようなにんまりとした顔になり、
「もしかして乃木坂《のぎざか》さん? このこのー」
「え?」
「裕人がそんなに真剣《しんけん》になってるってことは、なーんか乃木坂さん絡《がら》みのことなんじゃないのー? クリスマスも近いことだし、どっか立派《りっぱ》なレストランにでも予約《よやく》を取るためにがんばってるとかー」
にやにやとしながらヒジでつんつんと脇腹《わきばら》を突《つつ》いてくる。
「あー、なんつーかな……」
まあ疲《つか》れている直接の原因《げんいん》(冬華《とうか》)は違《ちが》うんだが、その大元の動機がそっち(春香《はるか》)にあるって点については実に的を射ている。なので何と言っていいか分からずに迷っていると、
「え……もしかして、ほんとにそうなの?」
椎菜《しいな》が、犬が歩いて金ののべ棒《ぼう》にぶつかるのを目撃《もくげき》したような顔になる。
「あー、まあ」
当たらざるとも遠からずってとこだ。少なくともクロアゲハとカラスアゲハくらいには近い。
すると椎菜は何だか少しばかり複雑そうな表情をして、
「ん、そうなんだ……。…………ちぇっ、七割くらい、冗談《じょうだん》だったのに」
「?」
「あ、ううん。何でもないよ」
「よく分からんが……とりあえず、このことは春香には黙《だま》っててもらえるか?」
「乃木坂《のぎざか》さんに?」
「ああ」
今のところ春香には天王寺《てんのうじ》家《け》でバイトをしていることはバレていない。俺自身なるべくバレないように接《せっ》しているし、春香自身もメイドカフェのバイトに忙《いそが》しいためそこまで気が回っていないようだ。どうせなら本番(クリスマス)までは知られずにしておきたかった。
「うん、それはいいけどさ……」
少し戸惑《とまど》ったように首を振《ふ》る椎菜。
「何をやってるのか知らないけど、ほどほどにしときなよ。身体|壊《こわ》したりしたら元も子もないんだから」
「ああ、それは大丈夫《だいじょうぶ》だ」
うなずき返す。
いや相手があのブリザードお嬢様じゃ分からんけどさ。
4
それからもさらに過酷《かこく》な執事《しつじ》生活でヘトヘトになる日が数日続き(天王寺家→学園→天王寺家の無限《むげん》ループ)。
バイトの期限《きげん》である一週間のちょうど三分の二ほどが過《す》ぎたある日。
「……あなたも、よくやるわね」
いつものごとく何の前触《まえぶ》れもなく「……ワックスで光《ひか》り輝《かがや》く仏像《ぶつぞう》を眺《なが》めながらお茶をしたい気分だわ」と言われ、廊下《ろうか》で阿修羅像《あしゅらぞう》(笑い・冷血《れいけつ》・怒《いか》り)を分解《ぶんかい》して磨《みが》いていた俺を見て、冬華《とうか》が呆《あき》れ顔《がお》でそう話しかけてきた。
「冬華……」
「今までの人たちは早くて一時間、長くても半日くらいですぐに音《ね》を上げたのに。見た目はただのメガネ男なのに意外《いがい》に根性《こんじょう》があるのか、それとも単にバカなお人好しなの?」
「……」
相変わらず口がわりぃ。てかメガネは別に関係ないだろ。
「まあ……ムチャな要求《ようきゅう》にはある程度《ていど》は慣《な》れてるからな」
阿修羅像の六角形の冠《かんむり》部分を布で擦《こす》りながら答える。まあそのへンはとこぞのツインテール娘たちによるところが大きいんだが。
「ふうん……」
冬華は訝《いぶか》しげな目でじろりと俺の顔を見て、
「まあ、別にいいけれど。どうせ一週間|程度《ていど》の付き合いなんだし。せいぜい目の前に北陸《ほくりく》産《さん》の高級ニンジンを吊《つる》された馬車馬のごとく働いて尽《つ》くしてその身を捧げなさい」
相変わらずの、触《さわ》るものを皆|傷付《きずつ》けるナイフみたいに尖《とが》った言葉《ことば》を残してくるりと踵《きびす》を返すのだが、
「あ、おい、そっちは――」
「え?」
冬華が足を向けた先には、取り外した阿修羅像の右手の一つ(なぜか挑発《ちょうはつ》するかのように中指が立っている)が置いてあった。
「――っ!?」
そして自らの行く先に障害物《しょうがいぶつ》などないと(あらゆる意味で)思っている|天上天下唯我独尊《てんじょうてんがゆいがどくそん》なお嬢様は、当然のごとくそれに気付くことなく、正面から突っ込んだ。
ガラガラガッシャーン!
だだっ広い廊下に大きな炸裂音《さくれつおん》が響《ひび》き渡《わた》る。
むう、春香《はるか》といい、こういったお嬢様には基本的にドジ属性《ぞくせい》が備《そな》わってるのか? それとも因果応報《いんがおうほう》?……って、んなこと言ってる場合でもねえな。
「大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「な、何でこんなところにいきなり小汚《こぎたな》い木《こ》っ端《ぱ》が置いてあるのよ! ロドリゲス、説明しなさい!」
「何でってな……」
冬華の命令で分解作業をしてたからなんだが。おまけにいきなりじゃなくて最初からそこに置いてあったぞ。
「く……ば、バカにしてっ……」
床《ゆか》にぺたりと座《すわ》り込《こ》んだままの状態《じょうたい》で、冬華《とうか》が悔《くや》しそうに阿修羅像《あしゅらぞう》右手(中指立ち)を睨《にら》みつける。
「ほら、とにかく立てって。一人で平気か?」
「だ、だいじょうぶよ。これくらい何てこと……っ」
俺の手を振《ふ》り払《はら》い自力で立とうとして、冬華は顔を歪《ゆが》めた。
見ると転んだ時に擦《こす》ったのか、ニーソックスが破れビザのところから出血していた。
「おい、血が出てるぞ」
「さ、触《さわ》らないで。だいじょうぶだって言ってるでしょ」
二つに結ばれた髪を振ってキッとこっちを睨みつける。
「大丈夫《だいじょうぶ》じゃないだろ。救急箱《きゅうきゅうばこ》とかはないのか?」
「それくらいあるわ。確《たし》か私専用の食堂の棚《たな》に――」
「食堂だな。ちょっと待ってろ」
「あ――」
自分で取りに行こうとした冬華を近くにあったイスに座らせると、俺は走って食堂(冬華専用)へと向かった。
だれもいない静まり返った食堂。
そのだだっ広い空間の隅《すみ》に置かれていた棚の最上段《さいじょうだん》で、救急箱はすぐに見つかった。
――よし、これだな。
赤い十字マークが付いたそれを手に取りダッシュで戻ると、
「あ、ロドリゲス……」
「ほら、足を出せって」
「えっ?」
ぽかんと目を丸くする冬華の足を手に取り、患部《かんぶ》に目をやった。
「――っ、な、何をしてっ……!?」
「ちゃんと治療しとかないマズイだろ。血も出てるし、せっかくきれいな足なんだから痕《あと》とかが残ったらもったいないぞ」
「――!?」
冬華は珍《めずら》しく動揺《どうよう》したような表情を見せて、
「な、何を言ってるの。きれいって、ロ、ロドリゲスの分際《ぶんざい》で、そんな生意気《なまいき》なこと……っ!」
「いいから、ちょっと染みるぞ」
「あ、なっま、待ちなさっ……」
最初こそぎゃ〜ぎゃ〜とわめいていたものの、次第《しだい》に冬華の口数は少なくなっていき、最後には借金《しゃっきん》の担保《たんぽ》として借《か》りられてきた仔《こ》ネコのように黙《だま》り込《こ》んでしまった。
「……」
「……」
静寂《せいじゃく》の中、黙々《もくもく》と治療を進めていく。
やがて。
「……何でここまでしてくれるのよ」
「え?」
冬華《とうか》がぽつりとつぶやいた。
「あなたの仕事はわたしの専属《せんぞく》執事《しつじ》……だからわたしの言うことだけを聞いていればいいはずじゃない。そのわたしがやらなくていいって、だいじょうぶだって言ったのに、どうしてここまで……」
「んなこと言われてもな……」
目の前でケガをしているやつ――それもいかに口と態度《たいど》が悪かろうと女の子――を見て放っておけるほど人でなしじゃない。
だが冬華は、
「……そんなの、おかしい」
「え?」
「だって人なんてみんな利益《りえき》がなければ動かないでしょう。今まで、ずっとそうだった。わたしの周りの連中も、この煩《わずら》わしい屋敷《やしき》での生活も、みんな全部……。――あの妖怪《ようかい》クソジジイだって、そうやって母様のことを……」
「まあそれは……」
ある意味正しいっちゃ正しいのかもしれん。クソジジイやら母様やらはよく分からんが。
でも全てが全てそんなわけじゃない。
「冬華《とうか》の言ってることも分からんでもないが……だけと必ずしもそうじゃないことだってあるだろ。皆が皆、自分の利害《りがい》だけを考えてるわけじゃない。そういった感情|抜《ぬ》きで動いてるやつらだって絶対《ぜったい》にいるはずだ」
そんなんじゃ世の中が動いていくはずもない。それくらいのことは小学生だって知っている。
だが冬華は頭《かぶり》を振《ふ》って、
「分からない……わたしには分からないわ、そんなこと……」
「……」
むう、歪《ゆが》んでるな。お嬢様ってのはみんなこうなのか? いやでも春香《はるか》はこれとは正反対のおっとりぽわぽわお嬢様だから、冬華が特異《とくい》なだけか。
しばらくの間、そのまま冬華は黙《だま》り込《こ》んでいたが。
やがて、
「……部屋《へや》に、戻《もど》るわ」
「え、おい」
「とりあえず治療してくれたことは感謝《かんしゃ》しておく。……でも、いい気にならないで。ロドリゲスはしょせんロドリゲス。それ以上でもそれ以下でもないんだから……」
そんなことを言うと、どこか寂《さび》しげな表情で自分の部屋へと戻っていってしまった。
やれやれ、何だったんだろうね。
冬華が去ってしばらくして。
コンコン。
阿修羅像《あしゅらぞう》のワックス塗装《とそう》、組み立てを終え、部屋に戻っていた俺の耳にドアを叩く音が聞こえてきた。
? 今度は何だ?
ドアを開けてみると――
「やっほ〜、おに〜さん♪」
「お元気そうで何よりです〜」
「美夏《みか》、那波《ななみ》さん!」
その向こうから顔を出したのは、かしましツインテール娘とにっこりメイドさんだった。
いつもと同じすげぇ楽しそうな様子《ようす》で、にこにこと手を振《ふ》っている。
「いや、何で……」
この二人がここに? ここは天王寺《てんのうじ》の屋敷《やしき》だよな?
「何でって、おに〜さんが心配《しんぱい》だったからに決まってるじゃん。わたしたちに相談《そうだん》もなしにいきなりこんなところでアルバイトを始めるんだもん。……それに放っとくとまただれか他の女の子と仲良くなってそうだし〜」
「え?」
「先程だってそこはかとなくいい雰囲気《ふんいき》でしたしね〜。いけませんよ〜? 根拠《こんきょ》のない優《やさ》しさは時として全てを傷付《きずつ》ける暗黒《あんこく》の刃《やいば》なのですから〜」
「なっ……」
って、まさかさっきの冬華《とうか》とのやり取りを見てやがったのか!?
そんな俺の疑問をきれいさっぱりスルーして、二人はきゃっきゃっと声を上げながら部屋《へや》に入ってくると、
「ん〜、それにしてもさすが東の乃木坂《のぎざか》家《け》≠ノ並《なら》び称《しょう》される西の天王寺家≠ナすね〜。セキュリティをかいくぐるのにだいぶ時間がかかってしまいました〜」
「ほんとだよね〜。那波《ななみ》さんにしてはけっこう手こずった方なんじゃない?」
「そうですね〜。私もまだまだ修行《しゅぎょう》が足りないということでしょうか〜。葉月《はづき》さんならもっとスマートにチェーンソーで一刀両断《いっとうりょうだん》したでしょうに〜」
ころころと楽しげに笑う。
むう、何やら苦労したらしいが、それでもメイド服にホコリ一つ付けることなく通《とお》り抜《ぬ》けてきたのはやはりこちらも超スペックのメイドさんってところか。さすがだな……
「……」
……って、そうじゃねえ!
今一番問題にすべきことは何だってこのかしましツインテール娘とにっこりメイドさんがここ(天王寺家内|臨時《りんじ》専属《せんぞく》執事《しつじ》部屋)にいるかってことだ。
「ん〜? だから〜、言ってるじゃん。おに〜さんが心配だったからだって」
ツインテール娘が返事をする。
「そうじゃなくてだな……」
どうして俺がここで住み込みで働いてることを知ってるんだってことである。
すると美夏《みか》はぱちりとかわいらしくウインクをして、
「わたしたちはおに〜さんのことなら何でもお見通しだよ♪」
「メイド隊の情報収集能力を甘く見てはいけませんよ〜」
「……」
そういや このメイドさんたちはそういうスキルを持ってたんだったな。
いつかの文化祭の時といい、まあもうここは深く突っ込んではいけないとこなんだろう。ため息《いき》とともに半《なか》ば諦《あきら》めの境地《きょうち》に達していると、
「――ん?」
と、そこで気付いた。
なんか……一人|見慣《みな》れない顔がないか?
「――」
那波《ななみ》さんの後ろに隠れるようにして顔を半分だけ出している、まるで西洋人形みたいな小学生くらいの金髪碧眼《きんぱつへきがん》の女の子。
初めて見る顔だが、乃木坂《のぎざか》家《け》指定《してい》の(かどうかは知らんが)メイド服を着ていることからおそらくは関係者なんだろう。だれなんだ?
首を捻《ひね》る俺に美夏《みか》はぽんと手を叩いて、
「そっか、おに〜さんは初めてなんだっけ?」
「ええと、こちらはアリスちゃんです〜。メイド隊の序列《じょれつ》第八位で、主に要人《ようじん》の護衛《ごえい》や警備《けいび》、敵対《てきたい》勢力《せいりょく》の拠点《きょてん》破壊《はかい》などを専門に担当《たんとう》する戦闘《せんとう》メイドですね〜。今までも各地で色々な怖《こわ》〜い人たちから乃木坂家を守ってきたのですよ〜。あ、ちなみにアリスは愛称《あいしょう》で本名はアリスティア=レインといいます〜」
「――(こくり)」
那波さんの陰《かげ》に隠れたまま無言《むごん》で小さくうなずく。
「……」
こんなちびっ娘が? まあ乃木坂家のメイド隊は見た目に惑わされるとアレだからその点については深く言及《げんきゅう》するのは避けておくとしても、それはもうメイドじゃなくてただのSPとか傭兵《ようへい》とかなんじゃないのかと思うんだが……。しかし何だってまたそんな戦闘力|溢《あふ》れるメイドさんをわざわざ同行させて来たんだ?
「ん〜、ほんとは私だけでも良かったんですけどね〜。今の天王寺《てんのうじ》家《け》は色々と物騒《ぶっそう》みたいですから、今回は念《ねん》には念を入れてアリスちゃんを連れて来ちゃいました〜」
那波さんが口元に指を当ててそんなことを言った。
「物騒?」
「ええ〜、当主《とうしゅ》であった天王寺|天膳《てんぜん》氏がつい何ヶ月か前に百四十七歳のウルトラ大往生《だいおうじょう》で亡くなったばかりでして、その相続《そうぞく》問題で揉めているようなのですよ〜」
「相続問題……」
って、よくドラマとかでやってるアレだよな?
「そうです〜。濃縮《のうしゅく》されたコールタールのようにどろどろで、裏《うら》では骨肉《こつにく》の勢力争いが行われているとか〜。さらに裕人《ゆうと》様が付いていらっしゃる冬華《とうか》さんですか、彼女はもともと色々と複雑な境遇《きょうぐう》な上に確《たし》か第三位の継承権《けいしょうけん》を持っていたはずですから、それ相応《そうおう》に苦労も多いのでしょうね〜。普段《ふだん》は避《さ》けているというここの屋敷《やしき》に十日も滞在《たいざい》しているのもそれが関係しているのかもしれません〜」
「……」
そんな事情があったのか。だとしたらさっき冬華《とうか》が利益《りえき》がどうのこうのとか言ってたのもそのことに関連してるのか? それどころかもしかしたらあの色々と問題がありまくる性格もそういった複雑な現状が影響《えいきょう》している可能性《かのうせい》も……
「……」
……いや。
あれはたぶん地だな。
まあこの冬華の遺産《いさん》継承《けいしょう》については色々と裏があってかつそれはそれでけっこう大変《たいへん》なことになっていく問題なんだが、それは実際《じっさい》のところ俺が深く関知《かんち》することではなく、また別の話だったりするのである。
「でもおに〜さん、そんなに大変なら乃木坂家で働けばよかったのに〜」
「え?」
と、美夏《みか》がそんなことを言った。
「お仕事とかたくさんあるんだよ? 執事《しつじ》がやりたいんなら平蔵《へいぞう》さんに教えてもらえばいいんだし、それならいつもお姉ちゃんやわたしの傍《そば》にいられるじゃん」
「いや……」
それだと何から何まで乃木坂《のぎざか》家《け》にお世話《せわ》になることになっちまう。春香《はるか》はああして独力でメイドカフェで働いてるんだし、俺だけがそんなぬるま湯のような環境《かんきょう》に甘んじるのはなんか違《ちが》うと思うんだよ。
「…………何なら、わたしの専属《せんぞく》執事をやらせてあげてもよかったのに」
「? 何か言ったか?」
なんかぼそりと言った言葉《ことば》が聞こえたような気がしたので尋《たず》ねると、美夏はちょっと拗《す》ねたように横を向いて。
「ん〜ん、何でもな〜い。ま、おに〜さんがそう決めたんならとやかく言っても仕方《しかた》ないか。ほら、それよりももっと楽しい話をしようよ!」
「ん、ああ」
その後も通っている中学校で流行《はや》っている携帯《けいたい》機種の話だの最近のスイーツ事情だの、ほとんどどうでもいいといえばどうでもいい話をして美夏たちは帰っていった。あのアリスとかいうちびっこメイドも結局《けっきょく》一言《ひとこと》も喋《しやべ》らなかったし……。うーむ、こっちもこっちでいまいち何をしに来たのか分からんな。
5
まあそんなこんなで執事《しつじ》生活は続いていき。
「……ふう」
本日でようやく六日目を迎えていた。
今日も今日とていつも通りのパシリ執事|暮《ぐ》らし。
朝からブリの照《て》り焼《や》きを作らされ、放課後には暴《あば》れ牛《うし》の面倒《めんどう》を押し付けられ、夜中に銀果堂《ぎんかどう》のレアチーズケーキを買いに走らされる。
ただあの日から、冬華《とうか》の態度《たいど》が少しだけ変わったような気がした。
いや暴君《ばうくん》のごときムチャクチャな命令はまったくもってそれまで通りである。だがその合間《あいま》に、普通《ふつう》の会話をしたり僅《わず》かに笑顔《えがお》を見せたりするようになったのだ。
最初はまた何かロクでもないことを考えてるんじゃないかと思いオオアリクイに囲《かこ》まれたアフリカのシロアリのごとく警戒《けいかい》していたのだが、どうもそうではないらしい。
うーむ、やはりあの時の利益うんぬんのやり取りが何か影響《えいきょう》してるのか? だけとそんな繊細《せんさい》なキャラにも思えんしな……
「……」
ともあれまあ、この仕事も今晩でおしまいだ。
那波《ななみ》さんが言っていた冬華の事情や、あの時口走っていた意味深《いみしん》な言葉《ことば》なんかも気になるっちゃあなるが、そのヘンはおそらく俺があまり深く関わるべきことじゃないんだろう。しょせんは期間|限定《げんてい》の雇《やと》われ執事の身でそこまで踏《ふ》み込《こ》むのは無理がありすぎる。
そんなことを考えながら一週間お世話《せわ》になった部屋《へや》の整理などをしていたのだが、
「?」
ふいに、頭上《ずじょう》の照明《しょうめい》(プチシャンデリアみたいなやつ)が瞬《またた》いた。
消える間際《まぎわ》のロウソクのような明滅《めいめつ》。
何だ……と思った次の瞬間《しゅんかん》。
ふっと。
部屋内の明かりが一斉《いっせい》に落ちた。窓から外を見てみると、屋敷《やしき》全体が真っ暗になっている。
ふむ、停電か何かだろうか?
辺《あた》りの様子《ようす》をうかがいながら懐中電灯《かいちゅうでんとう》でもないかと探《さが》していると、
ばたばた、と何やら廊下《ろうか》の方から音が聞こえてきた。
続いて、
「ロ、ロドリゲス、いるんでしょ、開けなさい!」
どんどんどん! と叩《たた》かれるドア。
そのまま一秒と待たずに、
「開けなさいって言っているのが聞こえないのっ!」
どがん! というハデな昔とともにドアが蹴破《けやぶ》られ。
同時に、闇《やみ》の向こうから牛が飛び込んできた。
「!?」
な、何だこれは!? まさか古びた洋館に生息《せいそく》するというUMA・妖怪《ようかい》プチミノタウロス……
「……」
……ではなかった。
そこにいたのは仔牛《こうし》柄《がら》のパジャマのようなガウンのような布状のものを頭から被《かぶ》って涙目《なみだめ》でこっちを見上げる冬華《とうか》。
「な、何よ……?」
「いや……」
ああ、これはあれか。確か『モ〜モ〜・ミルク 天然《てんねん》生乳《せいにゅう》成分100%』に付いている当たりクジでもらえる『も〜も〜・がうん』とかいう……
「あー、それよりどうしたんだ、これは。停電か?」
とりあえずそのけったいな格好《かっこう》については突っ込まないことにして尋《たず》ねると、冬華は気を取り直したように、
「わ、分からないわ。屋敷《やしき》内《ない》の照明《しょうめい》全てが消えているからそうだとは思うけれど、でもそれにしたって予備《よび》電源があるはずなのに……」
「冬華にも分からないのか」
だったら俺に分かるわけもないな。
「……まあ、いいわ。その内に復旧《ふっきゅう》するでしょう。わたしたちが騒《さわ》いだって仕方《しかた》がないわ。大人しく待ちなさい」
そう言うと、冬華はまるでそれが当たり前の行動のように俺のベッドにちょこんと座《すわ》り込《こ》み。
「ほ、ほら、ロドリゲスも座りなさい。電気が復旧するまでの間、わたしが話し相手になってあげるから」
「は?」
「だから、話し相手よ。退屈《たいくつ》でしょう?」
「……」
「……」
「……」
「な、何よその目は……?」
「いや……」
黙《だま》って首を振《ふ》る。
さっきのミニバッファローのような突撃《とつげき》といい、どうやらこの仔牛《こうし》お嬢《じょう》様、真っ暗なのが怖《こわ》いらしい。
内心で苦笑しつつ(言葉《ことば》に出すととんな罵詈雑言《ばりぞうごん》が飛んでくるか分からないため)、俺は冬華《とうか》の隣《となり》に腰《こし》を下ろした。
「ほ、ほら、そんな下らないことはどうでもいいから何か話しなさい。気が紛《まぎ》れるなら何でもいい――じゃなくて、今はたまたまそういう気分だから、大抵《たいてい》のことは聞いてあげるわよ」
ぷいっと顔を逸《そ》らしながらそんなことを言ってくる。
その口調《くちょう》は珍《めずら》しくいつもよりも少しだけしおらしくかわいらしい。まあ単純《たんじゅん》に停電による暗闇《くらやみ》のせいだろうが。
ともあれ、それなら一つだけ訊《き》いてみたいことがあった。
「――なあ、何で冬華はこの屋敷《やしき》に戻《もど》ってきたんだ?」
「え?」
「ここでの生活を望んでたわけじゃないんだろ? なのにどうして……」
無道《むどう》さんの話では普段《ふだん》は別の場所に住んでるってことだし、冬華白身、どう見てもここでの生活を楽しんでるように見えない。いやむしろ鬱陶《うっとう》しがっているように思えてならないんだよ。そうまでして何だってわざわざ戻ってきたのか。それが不思議《ふしぎ》でならない。
「……小犬川《こいぬがわ》から聞いたの?」
「ん、ああ、まあ」
「そう……」
そこて冬華はため息《いき》を吐《は》いて、
「いいけどね。別に隠すようなことでもないし。――お聞きなさい、ロドリゲス。わたしがこんなムナクソの悪い屋敷に戻ってきたのはね」
一度|言葉《ことば》を切ると真正面《ましょうめん》から真剣《しんけん》な目で俺の顔を見据《みす》えて(『も〜も〜・がうん』は被《かぶ》ったままだったが)、
「……それがわたしの目的のために必要《ひつよう》だからよ」
「目的?」
「そうよ」
「目的って……」
首を捻《ひね》る俺に。
「あなた……何てこんな仕事を選んだの?」
「え?」
「もっと他にいくらでもマシな仕事があったはずでしょう。それなのにわざわざこんな仕事を選んだのにはそれなりの目的があるから。違《ちが》うの?」
「それは……」
まあその通りなんだが、春香《はるか》うんぬんについては言わない方がいいだろう。
「ロドリゲスにも色々と事情はあるんでしょう。そのことについては深くは訊かないわ。別にどうでもいいし。ただそれと同じように、わたしにも目的があるのよ。そのためにはどうしても天王寺《てんのうじ》のチカラを手に入れないといけないの。他の有象無象《うぞうむぞう》のバカたちに譲《ゆず》るわけにはいかない。そしてそのためにはこの屋敷《やしき》に戻《もど》ってくる必要《ひつよう》があった。それだけよ」
力強くそう宣言《せんげん》する。
「天王寺家のチカラって……」
と、そこでこの前の那波《ななみ》さんの言葉《ことば》が頭をよぎる。
『当主であった天王寺|天膳《てんぜん》氏がつい何ヶ月か前に百四十七歳のウルトラ大往生《だいおうじょう》で亡くなったばかりでして、その相続《そうぞく》問題で揉《も》めているようなのですよ〜」
「……」
おそらく天王寺家のチカラとは那波さんの言っていた天王寺の継承権《けいしょうけん》やら相続権やらのことなんだろう。相続問題という言葉とも一致《いっち》する。
だが。
「それで……何をするつもりなんだ?」
いったいそこまでして冬華《とうか》が果《は》たしたい目的ってのは何なんだ? 天王寺家のお嬢《じょう》様っていう今の立場でだって大抵《たいてい》のことは叶《かな》うだろうに。
「そんなの、決まっているじゃない」
すると冬華は仔牛《こうし》のヒヅメでびっと俺の顔を指差し、
「――世界|征服《せいふく》よ!」
きっぱりとそう言い切りやがった。……いや、こいつなら本当にやりそうだな。
「とにかくそういうこと。わたしの目的|達成《たっせい》のためには天王寺家のチカラが必要|不可欠《ふかけつ》。だからこそこんな見ているだけでも腹が立ってその辺の壁《かべ》とかを蹴《け》り飛《と》ばしたくなってくる屋敷にも戻ってきた。相続会議の定例会のためにね。分かった?」
「……そ、そうか」
まあ、適当にがんばってくれって感じなんだが。
なんかものすげぇ疲《つか》れた気分でそう答えかけ、
と。
ゴーン、ゴーン、ゴーン……
そこで、鐘《かね》の音のような音が屋敷中に鳴《な》り響《ひび》いた。何だ、何かイベントでも始まるのか?
「これは……」
冬華《とうか》の表情が変わる。
「どうしたんだ?」
「……緊急《きんきゅう》時《じ》の半鐘《はんしょう》よ。しかもこの鳴《な》らし方《かた》ということは――」
「あ、おい」
冬華が立ち上がり、小走りで真っ暗な廊下《ろうか》に出ると同時に、『エマージェンシーエマージェンシー! 屋敷《やしき》内《ない》に侵入者《しんにゅうしゃ》を確認《かくにん》。推定《すいてい》二名で、どちらも武器を所持《しょじ》。警備《けいび》を撃破《とっぱ》して奥《おく》へと進んでいる。総員、緊急|応戦《おうせん》態勢《たいせい》に入れ。繰《く》り返《かえ》す、屋敷内に侵入者を確認……』
そんな声が、敷地《しきち》内《ない》のあちこちに配置《はいち》されている非常時用|通[#伝声管]信[#のこと]筒[#か?]《つうしんとう》(潜水艦《せんすいかん》とかによくあるアレである)から肉声《にくせい》で聞こえてきた。
「侵入者……」
「……そうみたいね」
冬華がさして驚《おどろ》いた様子《ようす》もなくそううなずく。
「いや軽いな……」
いかに図太《ずぶと》い神経をしてるからって、侵入者なんて普段《ふだん》はそう使われない物騒《ぶっそう》な単語にもう少し驚《おどろ》いてもよさそうなもんだが。
「別に。だってこんなのよくあることだもの。今さら慌《あわ》てたって仕方《しかた》がないわ」
「……よくある?」
「ええ、わたしのことを嫌《きら》っている脳味噌《のうみそ》の沸《わ》いた親族はたくさんいるのよ。それこそ世の中に生息《せいそく》するバクテリアの数くらい。だから小さい頃からこんなこと日常茶飯事《にちじょうさはんじ》よ」
「……」
まあ、こいつの傍若無人《ぼうじゃくぶじん》極《きわ》まりない性格なら敵《てき》の数が多いだろうことはシロクマが暑さに弱いだろうことよりも簡単に想像《かんたんそうぞう》はつくんだが……それでもこんな状況《じょうきょう》に慣《な》れすぎてるってのはなんか違《ちが》う気がする。うまくは言えないが、どこか気持ちが悪い感じなんだよ。
「なあ、冬華……」
何を言ったらいいんだかは分からんのだが思わず声をかけかけて、
「冬華お嬢様、ご無事《ぶじ》ですか!」
それに割り込むようにして呼《よ》び声《ごえ》が響《ひび》いた。
手を振りながら通路の向こうから姿《すがた》を現したのは無道さん。片手に懐中《かいちゅう》電灯を持ち、息《いき》を切らしながらこっちへと駆《か》け寄《よ》ってくる。
「おお、ご無事でしたか! 綾瀬《あやせ》殿も。ようございました……」
「これは何事なの? 侵入者はどうしているの?」
冬華の質問に、
「む、そうでございました! お二人とも、すぐにお逃《に》げください!」
思い出したかのように無道《むどう》さんが大声を上げた。
「ただ今、屋敷《やしき》内《ない》の執事《しつじ》部隊で応戦《おうせん》しておりますが、侵入者《しんにゅうしゃ》は異常《いじょう》な強さを誇《ほこ》っております。ここにいる人員だけでは防《ふせ》ぎきれないかも――」
ガターン!!
無道さんがそう言った直後に。
玄関《げんかん》ホールへと繋《つな》がる連絡口である通路奥の扉《とびら》が大きく開《あ》け放《はな》たれた。
その向こうにはこちらへヒタヒタと近づいてくる人影《ひとかげ》。暗くてよく見えないが、手には何やら薄《うす》く輝《かがや》く刀のようなモノが握《にぎ》られている。
「くっ……もうここまで入り込んでっ……!」
苦渋《くじゅう》の声とともに無道さんは懐《ふところ》から特殊《とくしゅ》警棒《けいぼう》のような物体を取り出すと俺たちの前に出て、
「ここは私が食い止めます! お嬢《じょう》様たちはその隙《すき》に逃《に》げて――」
侵入者に向かって一直線に駆《か》け出《だ》していったものの。「ぐ、ぐあっ!?」
「無道さん!」
「お、お逃げを……」
迫《せま》ってきた侵入者の一撃《いちげき》であっけなく倒されてしまった。
「そんな……小犬川《こいぬがわ》だってそれなりの訓練を積んでいるはずなのに。こんなに簡単《かんたん》に……」
「……」
つまりはそんだけ侵入者が普通《ふつう》でないってことか。
こうなったらとにかくここは冬華《とうか》を連れて逃げるしかないだろう。どこぞのメイド隊たちなどとは違《ちが》って戦闘力が皆無《かいむ》の俺にできることはそれくらいしかない。
だがいざこの場を離《はな》れようとしたその時、
「牛……」
前方の暗がりから侵入者がこっちを見て、ぼそりとそうつぶやいた。
「牛……牛肉……サーロイン…………」
ぎらりとその目を光らせたかと思うと、
「………………いただくぞ、じゅるり」
「!?」
冬華に向かって一直線に飛《と》び掛《か》かってきた。くっ、やっぱり相続《そうぞく》関係での冬華|狙《ねら》いの不審者《ふしんしゃ》なのか!?
「ロドリゲス、あなたは逃げなさい! こいつの狙いはわたしでしょう。どこの馬の骨か知らないけれど、あなたまで巻き込まれることはない」
「そういうわけにもいかないだろうがっ!」
「あっ……」
冬華の手を取って連絡口とは逆《ぎゃく》方向へ走り出す。
「ロ、ロドリゲス、手が痛《いた》い……」
「がまんしてくれ! 文句《もんく》なら後で聞く!」
今は何をおいでも逃《に》げるしかない。
出口へと向かって一心不乱《いっしんふらん》に足を動かす。
だが侵入者《しんにゅうしゃ》は都市伝説のジェットババアみたいな恐《おそ》るべき速《はや》さで一瞬《いっしゅん》にして追《お》いついてくると、
「ステーキ……ハンバーグ……ビーフカレー…………」
「!?」
そんなつぶやきとともに、得物《えもの》を持った右手を冬華《とうか》に向けて振《ふ》りかざした。
「ぐっ……!」
ガキン。
とっさに近くに置いてあった阿修羅像《あしゅらぞう》の右手(中指立ち)を取り外して受け止める。
「ロドリゲスっ!」
しかし侵入者の力は強く、抑《おさ》えきれない。
みるみるうちに刀のようなものが迫《せま》ってくる。
だめか……っ!
覚悟《かくご》を決めたその瞬間《しゅんかん》。
「…………うう」
炭酸《たんさん》の抜《ぬ》けたサイダーのような気の抜けた声とともに、突然《とつぜん》右手にかかっていた圧力がフッと弱まり。
「……?」
ぱたり、と。
まるで電池が切れたかのように人影《ひとかげ》がその場で倒《たお》れた。
何……が起こったんだ?
倒れた人影に目をやる。
よく見てみりゃあそいつは……
「…………ルコ!?」
「……腹…………減《へ》った……ぞ………」
白目《しろめ》を剥《む》いた我が家の姉上様だった。
右手に日本刀(たぶん瑠璃髑髏《るりどくろ》とかいうやつだろう)を持ち、左手で腹を押さえながら、何やらうわ言のように「…………ご飯……牛……食事がない……」とぶつぶつとつぶやいている。
「……あ」
そういやあ、いきなり住み込みになることが決定されたせいで、留守《るす》にする間のルコのメシの用意をまったくしてこなかったんだっけか。確《たし》か作り置きとかインスタントとか温《あたた》めるだけのイカ飯もなかったはずだ。何か忘《わす》れてるとは思ってたが……
とすればもう一人の侵入者《しんにゅうしゃ》ってのも……
イヤな予感が頭をよぎった次の瞬間《しゅんかん》、
『各員に通達。侵入者の一人、確保に成功。侵入者は公序良俗《こうじょりょうぞく》に反する言乗《ことば》を撒《ま》き散《ち》らしながら酒瓶《さかびん》を手に口から火炎《かえん》を放出《ほうしゅつ》する若い女。繰《く》り返《かえ》す、確保した侵入者は……」
そんなアナウンスが|通[#伝]信[#声]筒[#管]《つうしんとう》から流《なが》れ渡《わた》った。
「…………」
予感が、見事《みごと》に的中《てきちゅう》した瞬間《しゅんかん》だった。
6
「……すまん。何というか、言葉《ことば》もない」
翌朝《よくあさ》。
俺は冬華《とうか》と無道《むどう》さんに向かって深々と頭を下げていた。
「あのアホ身内の不始末《ふしまつ》は全て俺の責任だ。本当に申し訳ない……」
結局《けっきょく》、侵入者の正体《しょうたい》は空腹《くうふく》で我を忘《わす》れたアホ姉とセクハラ音楽教師だった。
事情を訊《き》いたところ、あまりの空腹《くうふく》に耐《た》えかねてかすかに残った俺の気配《けはい》と匂《にお》いとを追ってこの天王寺《てんのうじ》の屋敷《やしき》までやってきたらしい。いやどこの警察犬だ。結局、あの停電もルコのやつが暴《あば》れて屋敷《やしき》内《ない》の配電盤《はいでんばん》を破壊《はかい》したことが原因《げんいん》らしいし。ったく、そういう能力を《のうりよく》もつと違《ちが》った面(主に日常生活:炊事《すいじ》・洗濯《せんたく》・掃除《そうじ》)に活《い》かせというか……
「……いいわよ、別に」
「そうですな。倒《たお》された執事《しつじ》も皆、峰打《みねう》ちで済《す》んでいたようですし……」
冬華《とうか》と無道《むどう》さんが特に気にした風もない顔で言う。
「それになかなか面白《おもしろ》かったわ。おかげでこのつまらなく下らない屋敷|滞在《たいざい》も少しは刺激《しげき》のあるものになったもの」
「我々にも良い教訓《きょうくん》になりました。有事《ゆうじ》に備《そな》えて私たちはもっと研鑽《けんさん》せねば……」
「……」
まあ、そう言ってくれるのならこっちとしては助かることこの上ないんだがな。
――ともあれ、何にせよこれにて今回も一件|落着《らくちゃく》だ。
冬華とも少しだけ打ち解けることができたし、一週間の住み込みバイトを終えたことで春香《はるか》へのクリスマスプレゼントを買えるだけの資金《しきん》は稼《かせ》ぎ切《き》れただろう。あとは帰ってプレゼントを買うだけだ。
と、思ったのだが――
「こちらが今回の報酬《ほうしゅう》となります」
「…………へ?」
無道さんから受け取った給料袋。
その中に入っていたのは……五円玉が一枚きりだった。
「……」
何かの間違《まちが》いじゃねえかと袋を逆《さか》さまにして振《ふ》ってみるも、出て来るのは空気とホコリだけである。期待《きたい》していた諭吉《ゆきち》さんの姿《すがた》は影《かげ》も形も欠片《かけら》もない。
「…………」
事態《じたい》がさっぱり飲み込めずに無道さんを見ると、
「……申し訳ございませんが、それが今国の綾瀬《あやせ》殿の報酬《ほうしゅう》の全てでございます」
実に済《す》まなそうな顔でそう言ってきた。
「冬華お嬢様を守っていただいてこういうことを言うのは私としても心苦しいのですが……お姉様が破壊《はかい》された設備《せつび》、倒された執事の治療費《ちりょうひ》、その他もろもろの諸経費《しょけいひ》、それらを差し引いたところ、その額になってしまったのです」
「なっ……」
「すみません。それでもでき得《う》る限《かぎ》りの便宜《べんぎ》は図ったのです。しかしいかんせん被害《ひがい》が大きすぎて…」
「何でも屋敷《やしき》の設備《せつび》の六十パーセントが壊滅《かいめつ》したみたいだしね。すごいじゃない、ここまで天王寺《てんのうじ》のセキュリィティを破壊《はかい》したのは今までで三人目よ」
冬華《とうか》もそう付け加える。
「……」
……あのアホ姉。
今さらながらに実姉の迷惑《めいわく》極《きわ》まりないイノシシのごとき暴走行為《ぼうそうこうい》に呆《あき》れ返《かえ》っていると、
「それよりロドリゲス……あなた、名前は何ていうの?」
「は?」
「名前よ。まさか本名がロドリゲスなわけないでしょう」
冬華がそんなことを言ってきた。そりゃそうだが……てかこいつ、本当に今の今まで俺の名前を覚《おぼ》えてなかったんだな……
「……綾瀬《あやせ》裕人《ゆうと》だ」
「そう、綾瀬裕人」
何となく釈然《しゃくぜん》としない気分でそう言うと冬華はゆっくりと顔を上げ、
「……綾瀬裕人。わたしは昨日のことを忘《わす》れない。昨日助けてもらったことを忘れない。約束するわ。この先あなたの身に何かがあった場合、あなたの身に危機《きき》が生じた場合、わたし――天王寺《てんのうじ》冬華は全力であなたのことを助けると」
真《ま》っ直《す》ぐな眼差《まなざ》しでそう言った。
その日には、ひと欠片《かけら》の迷《まよ》いもためらいもなかった。
「冬華……」
「……あ、で、でも勘違《かんちが》いするんじゃないわよ。わたしはただ借りを作るのがイヤなだけ。天王寺家の次期|当主《とうしゅ》になる者が一般|庶民《しょみん》を相手に負債《ふさい》を抱《かか》えているというわけにはいかないでしょう。それだけよ。変な勘違いをしたらクレイモアで記憶《きおく》が飛ぶまで袋叩《ふくろだた》きにするから」
「……」
「……な、何よその顔は。いいからさっさと行ってしまいなさい、目障《めざわ》りよ(ぷい)」
微妙《びみょう》に頬《ほお》を赤らめながらそっぽを向く。
まったく最後の最後まで素直《すなお》じゃねえな。ま、こっちの方がらしいっちゃらしいが。
「それじゃ、失礼します」
「またいつか会える日を楽しみにしていますぞ」
「……(顔を背《そむ》けて無言《むごん》のまま)」
そして俺は天王寺の屋敷を後にしたのだった。
まあこうして。
一週間に渡《わた》った冬華《とうか》専属《せんぞく》の執事《しつじ》のバイトは終わりを告《つ》げ、限《かぎ》りなく不本意《ふほんい》ながらも新たなバイトを探《さが》さなきゃならんこととなった。
0
十二月もいよいよ後半へとさしかかり、周囲《しゅうい》では来《きた》るべきクリスマスと冬休みへの期待《きたい》がバイオリズム上昇期のごとく高まっていく中、学園も無事《ぶじ》に年内最終日を迎え、クラス全体が恩赦《おんしゃ》解放《かいほう》前日の囚人《しゅうじん》のようなハイテンションに包《つつ》まれていたある日のことだった。
終業式後の休み時間、俺は漁師にヤスで捕獲《ほかく》され浜辺へと連行されたリュウグウノツカイのように机に突《つ》っ伏《ぷ》していた。
「……疲《つか》れた……」
思わず口から疲労《ひろう》の吐息《といき》が漏《も》れる。
暴走《ぼうそう》したアホ姉とその親友のせいで結局《けっきょく》プラス五円の収支《しゅうし》で終わったあの天王寺《てんのうじ》家《け》でのバイトから数日。俺は、最終|手段《しゅだん》として選択《せんたく》した(せざるをえなかった)工事現場でのバイトに追《お》われ続け、ほとんど疲労|困債《こんぱい》というか体力ゲージが黄色から赤の域《いき》をフラフラと彷徨う毎日を送っていた。
「……」
気を抜《ぬ》くとすぐに襲《おそ》ってくる鉛《なまり》のような疲労感と稲妻《いなずま》のような筋肉痛《きんにくつう》。ただイスに座《すわ》っているだけで全身の骨がボキボキベキョベキンと末期的《まっきてき》な音を立てる。むう……我ながら都会っ子なことこの上ないな。
机に顔をつけたまま真夏のゴマフアザラシのようにぐったりと脱力《だつりょく》していると、
「――おはようございます、裕人《ゆうと》さん」
頭の上から声がかけられた。
いつものごとく聴《き》いているだけで心の奥底《おくそこ》から某《ぼう》肉体疲労時の栄養|補給《ほきゅう》飲料に匹敵《ひってき》するようなファイトがムクムクと湧《わ》き上《あ》がってくる声。
「今日で学校も終わりですぬ。お疲れさまです」
ぽわぽわな元メイドお嬢《じょう》様(バイトは先日|無事《ぶじ》終了)が、満開《まんかい》の白百合《しらゆり》のようなにこにこ笑顔でそこに立っていた。
「春香《はるか》……」
「明日からはいよいよ冬休みです。長いお休みですけれど裕人さんはどうやって過《す》ごすつもり――あ……」
微笑《ほほえ》みながら話していた春香だったが、俺の顔を見ると心配《しんぱい》そうな顔になって、
「あの、だいじょうぶですか?」
「え?」
「何だかとっても疲《つか》れているように見えるのですが……」
「あ、あー、大丈夫《だいじょうぶ》だ」
余計《よけい》な心配《しんぱい》をかけまいと笑ってそう返事をすると同時に、ボギョン、と腕《うで》の第一|関節《かんせつ》が奇怪《きかい》な昔を発した。
「……」
「……」
「あの、今何かへンな昔が……」
「あ、いや、これはあれだ……そう、あれ、ちょっと昔に流行《はや》ったボディパーカッションみたいなもんだ」
「あ、そうなんですか? わあ、すごい。素敵《すてき》ですね」
胸の前で手を合わせにこにこと微笑む春香。いや自分で言っておいて何だが、それで素直《すなお》に信じてくれるってのもどうかと思うぞ……
微妙《びみょう》に複雑な気分でいると、
「そういえば美夏《みか》から聞いたんですけれど、いよいよ明々後日《しあさって》はクリスマスパーティーですね」
「ん、ああ、そうだな」
「楽しみです、えへへ♪」
クリスマスパーティー。
春香が言っているのはクリスマスイヴに行われる美夏|主催《しゅさい》のホームパーティーのことである。何でも美夏や葉月《はづき》さん、那波《ななみ》さんたちも参加するとかで、三日ほど前に誘われたのだ。ちなみになぜか場所はウチで行われることが強制決定だった。『だってその方がアットホームな感じがして落ち着くんだも〜ん♪』とのことである。何がも〜ん♪≠ネのかさっぱり分からんが、まあどうせルコと由香里《ゆかり》さんは『クリスマス飲み比べ大会 〜寒さなんてアルコールで焼《や》き尽《つ》くせ〜』でいないから別にいいんだがな。
「美夏たちもとっても楽しみにしているみたいです。那波さんたちと協力して今から色々と準備《じゅんび》をしているようですよ。『ふっふっふっ、おに〜さん、あれ見たらきっと目から血の涙《なみだ》を流して喜ぶよ〜♪』と言っていましたから」
「……」
とりあえず美夏たちの準備とやらにはろくでもない予感しかせんのだが、パーティー自体は非常に楽しみである。
「楽しいパーティーになるといいな。せっかくのクリスマスなんだし」
「はい♪ がんばって盛《も》り上《あ》げていきましょうね」
両手をぐっと握《にぎ》り締《し》めて大きくうなずく春香。
「乃木坂《のきざか》さーん」
と、そこで教室の入り口から春香《はるか》を呼《よ》ぶ声が聞こえた。
「あ、すみません。私、ちょっと職員室に行く用があって……」
「ん、そうなのか?」
「はい。なのでこれで失礼しますね」
丁寧《ていねい》にぺこりとお辞儀をして、
「それではまた明々後日《しあさって》に♪」
「ああ、またな」
こちらを振《ふ》り返《かえ》り振り返り去って行った。
そんな春香を見送りつつ振っていた腕《うで》がメキメキと音を立てる。「ぐお……」
再《ふたた》び机に倒れこみ全身をピクピクさせつつ悶《もだ》えていると、
「――もー、強がっちゃって」
「……ぬ?」
今度は横からそんな声がかけられた。
「乃木坂《のぎざか》さんの前だからってそんなにムリしなくてもいいのに。だいじょうぶって言ってるけど全然だいじょうぶに見えないよ。ていうか前よりひどくなってない? なんか顔が栄養不良のドングリみたいに土気色《つちけいろ》な気がするんだけど……」
「椎菜《しいな》……」
見るといつの間に教室に戻《もど》って来ていたのか、隣の《となり》席のフレンドリー元気娘が両手を腰《こし》に当ててこっちを見下ろしていた。
「そんなにバイトが大変《たいへん》なの? 身体壊《こわ》しちゃ元も子もないって言ったのにー」
「あー、まあな……」
現場のおっちゃんたちは基本的に気のいい人たちばかりなんだが、いかんせん仕事自体はこの上なくハードな肉体労働だ。土嚢《どのう》を運んだりツルハシを打ったり丸太《まるた》をかついだり……耐久《たいきゅう》値Fランクの俺に疲《つか》れるなってのがムリな話である。
「そっかー、まあでもしょうがないのかなー。乃木坂さんのためだもんね。……いいなあ乃木坂さん、そこまでしてがんばってもらって」
椎菜がちょっと羨《うらや》ましそうな顔になる。
「男の子が自分のためにがんばってくれる……女の子ならそれだけで嬉《うれ》しいと思うよ。ある意味女の子の永遠の夢っていうか憧《あこが》れだもん」
「そういうもんなのか?」
「うん、そういうもんだよ。男子にはちょっと分かりにくいかもしれないけど。――あ、そういえばどんなプレゼントにしたの? ちょっと興味《きょうみ》あるかなー」
「プレゼント……?」
「うん、もう買ってあるんでしょ?」
「…………」
その言葉《ことば》で思い出した。
まだ肝心《かんじん》のプレゼントを買ってねえ……
てか何にするかすら決めてねえ……っ!?
毎日毎日家と学校と現場を行ったり来たりするのに精一杯《せいいっぱい》で、一番大事なはずのソレがすっかりさっぱり頭から抜《ぬ》け落《お》ちていた。まさに本末《ほんまつ》大転倒《だいてんとう》でそのまま全治三ケ月。やべぇ……もうクリスマスまでほとんど時間がないぞ。
プレゼント選びにはそれ相応《そうおう》に時間がかかるのは実証《じっしょう》済《ず》みである。誕生日の時は美夏《みか》と二人で探《さが》してほぼ丸一日を費《つい》やした。これをセレクションセンスのない俺一人でやればどういったことになるか……
今さらながらに生じた問題に頭を悩ませていると、
「……ん?」
そこで目の前で首をかたむけている椎菜《しいな》の姿《すがた》が目に入った。
――そうだ、このフレンドリー娘の力を借りれば……
俺は椎菜の顔を見て、
「――なあ、椎菜。明後日《あさって》って空《あ》いてるか?」
「明後日? ええと二十三日だよね? うん、別に何も用事はないと思うけど」
ぱらぱらとスケジュール帳をめくりながら言う。む、それは僥倖《ぎょうこう》だ。
「だったらちょっと付き合ってくれないか? その、何だ、実はまだプレゼントを何にするかを決めてなくてだな。もしよければ椎菜の意見とかも聞きたいと思ったんだが……」
「え、まだプレゼント買ってなかったの?」
椎菜が驚《おどろ》いた顔になる。
「あー、まあ……」
「うわ、呆《あき》れた。クリスマスはもう三日後だよ? それなのにそんな崖《がけ》っぷちまで何も準備《じゅんび》してないなんて……」
「……」
とりあえずアホなこと限《かぎ》りないのは自分でも分かりきっているため、反論できん。
「うーん、まあいっしょに行くの自体は別にいいんだけどさ。でもそれだったらあたしなんかよりもっと適任《てきにん》の人がいるんじゃない? あたし、まだそこまで乃木坂《のぎざか》さんのこと知ってるわけじゃないし……」
「いや、椎菜がいいんだ――というか、椎菜じゃなきゃダメなんだ」
「え……」
今回に関しては美夏や葉月《はづき》さんたちに訊くよりも椎菜の方がいい。
ヘタにそういったことを頼《たの》むと春香《はるか》にバレる恐《おそ》れもあるし、バレないにしても色々とムダにからかわれて弄《もてあそ》ばれる可能性《かのうせい》もある。それに椎菜《しいな》は学園祭の時に買ってきた小物のセンスも良かった。きっとこういうことにはうってつけだろう。
「そう……なの?」
「ああ」
うなずき返す。すると椎菜は僅《わず》かに目を逸らして、
「わ、分かった。あたしでいいんなら……」
両手の人さし指をつんつんさせつつ、いつもよりも少しばかり小さな声でそう言ってくれた。
「そうか、サンキュ!」
「う、うん……」
よし、これでプレゼントの問題も何とかなるな。
というわけで。
明後日《あさって》に椎菜といっしょにプレゼントを買いに行くことに決まったのだった。
1
で、十二月二十三日金曜日。
俺は椎菜との待ち合わせ場所に向けて、どこぞの文学作品における某《ぼう》メロスのごときダッシュで走っていた。
「ハアハア……」
息《いき》を切らしながら全速力で《ぜんそくりょく》足を動かす。
こんなことをしているのも全ては目覚《めざ》まし(さわやかな小鳥の声で起こしてくれるタイプ)が鳴《な》らなかったせいである。いや鳴ったのかもしれんが、少なくとも俺の耳にはウグイスくんの美声はさっぱりきっぱり入ってこなかった。まあ要するに――連日の疲《つか》れのせいか思いっきり寝坊《ねぼう》したのだった。
「ヒイヒィ、フウフウ……」
ちなみに現在の時刻は午後一時。
そして待ち合わせ時刻は午後一時である。
目的地までまだおよそ二キロの距離を残しすでに遅刻は確定なのであるが、それでもせめてその遅《おく》れは最小限にしたかった。どこぞのアホ姉とかじゃあるまいし、自分で買い物に付き合ってくれるよう頼《たの》んでおいて社長|出勤《しゅっきん》なんて最悪だ。
そんなわけで走って走って走りまくり。
十五分ほどハアハアしたところで、ようやく待ち合わせ場所に辿《たど》り着《つ》いた。
俺と椎菜の共通の最寄り駅南口。
改札に一番近い柱の前。
その場所に、すでに椎菜《しいな》は来ていた。
女の子らしい明るめの色のコートにマフラー、動きやすそうなスカート。
ただ……その周《まわ》りには何やら大学生くらいの男が二人ほどシオカラトンボの脳《のう》ミソよりも軽そうな笑みを浮かべて、しきりに椎菜に話しかけているようだった。
「ねえねえ、カノジョかわいいね?」
「いくつ? 高校生? ヒマならちょっとお茶でも飲まない?」
「んー、ごめんね。人、待ってるから」
「カレシ? えー、でもさっきから全然来る気配ないじゃん。すっぽかされたんじゃないの?」
「そんな冷たいヤツ放っておいてさー。俺たちとどっか行こうぜ」
「や、だからさ……」
「……」
どうもナンパされてるみたいだった。
そういえばいつも間近《まぢか》で見てる&やたらと親近感《しんきんかん》があるためつい忘《わす》れがちになるが、椎菜も椎菜でかなり高レベルの美少女なんだよな。むう……
ともあれそんなことをノンビリと考えてる場合でもあるまい。椎菜も困ってるようだし。
「椎菜」
ナンパ男たちの対処《たいしょ》に苦労するフレンドリー娘を救出《きゅうしゅつ》すべく声をかける。
「あ、裕人《ゆうと》。こっちこっち!」
俺に気付くと椎菜は笑顔《えがお》になって手をぶんぶんと振《ふ》ってきた。
「悪い。遅《おそ》くなった」
それに軽く手を振り返しつつ近づいていく。
「ちつ、何だよ、ホントに待ち合わせ相手がいやがったのか?」
「てかコレがそうなのか? 明らかに釣《つ》り合《あ》ってねえっつーかヘタレっぽいっつーか」
男たちが意外そうな顔をしやがる。
「まあ世の中|趣味《しゅみ》は色々だからな。行こうぜ、オトコ付きならもう用はねえし」
「でもアレなら絶対《ぜったい》オレの方がイケてるだろ。けっ、惜《お》しいな」
「……」
そんなことを言いながら男たちは渋々《しぶしぶ》去っていった。ていうか人のことをコレだアレだ代名詞で指すなっての。
かなーり心外《しんがい》な気分でいると。
「裕人、遅いよー。おかげで大変《たいへん》だったんだからね」
「ん、ああ、悪い」
「着いた直後に話しかけてきてさー。待ち合わせだって断《ことわ》ってるのに、しつこくてしつこくて」
うんざりした顔をする。てことは十五分もあんなのの相手をさせちまったってことなのか。それはかなり悪いことをしたかもしれん。
「でもほんっと失礼だよね、あの人たち」
「ん?」
「裕人《ゆうと》のことを色々悪く言ってさ。そういう人たちに限《かぎ》ってだいたい外面《そとづら》ばっかりで中身がなかったりするんだから。よっぽど直接言ってやろうかと思っちゃった」
腕を組みながら唇《くちびる》を尖《とが》らせる。
「あんな人たちより裕人の方が全然いいと思うよ、あたしは」
「え……」
それってどういう意味だ。
微妙《びみょう》にその言葉《ことば》の意味が分からず戸惑う俺に、
「さ、それじゃ行こっか。いつまでもここにいても始まらないし」
「ん、ああ」
「お勧《すす》めのお店があるんだよ。そこなら色々とかわいい小物とかアクセサリーとかが置いてあるから、きっとプレゼントに向いてるのが見つかると思う」
いつも通りの元気な声で椎菜《しいな》が促《うなが》してきた。
「……」
まあいまいちよく分からんままだったが、それほど深く考えるようなことでもなさそうだったので北カナダを流れる雪解《ゆきど》け水のごとく流すことにした。
椎菜お勧めの店とやらは、待ち合わせ場所から電車で二駅ほど行ったところにあった。
いつだったか葉月《はづき》さんを尾行《びこう》した時に来た街。その表通りから少しだけ外れた落ち着いた雰囲気《ふんいき》の小道を、ちょっとだけ進んだ場所。
『|Clair de Lune《クレール・ドゥ・リュヌ》』という名前のその店は静かにそこに佇ん《たたず》でいた。
「さ、着いたよ。入ろ」
「ああ」
椎菜に促されて小さな木製のドアから店内へと足を踏《ふ》み入《い》れる。
店の中はぱっと見た感じは様々な雑貨《ざっか》や小物の類《たぐい》で占《し》められているみたいだった。ヌイグルミや置物、アクセサリーが所|狭《せま》しと並《なら》んでいる。それほど広くはない展示《てんじ》スペースも、道に面したショーウインドウが大きなガラス張りになっているせいか、外からの光がよく入りとても明るい雰囲気だった。
「いいでしょ、ここ」
椎菜が嬉《うれ》しそうに両腕を広ける。
「引っ越してきて色々|探索《たんさく》してた時にたまたま見つけてさ、それ以来お気に入りなんだー。小物だけじゃなくてアクセサリーとかもあるし、こういった系の探《さが》し物《もの》は大抵《たいてい》ここに来れば見つかるって感じかな。まだそんなに有名なブランドってわけじゃないんだけど女の子に人気で、いいのがたくさん置いてあるんだよ」
「へえ……」
確《たし》かにいい感じだ。
こういうインテリアだとかそういうもんにはさっぱり疎《うと》い俺でも、この店が他と一線を画していることが分かる。つまりはそれだけ相当《そうとう》にハイセンスだってことだろう。
「まずはとりあえず色々見てみようよ。たくさん見たほうが気に入ったのが見つかると思うしさ」
「そうだな」
案ずるよりも産むが易《やす》しだ。
うなずき、椎菜《しいな》とともに奥《おく》へと進んでいく。
店の奥は棚《たな》によってはいくつかの区画に仕切られていて、それぞれヌイグルミがたくさん並んでいたりガラス小物が飾《かざ》られていたりしていた。
「どれがいいんだろうな……」
基本的にはこういったもんは管轄外《かんかつがい》である。色々とあって目移《めうつ》りしてしまうというかそもそも何が女子の好みに合う代物《しろもの》なのかすらいまいち分からんかった。
その辺にあるものを適当に手に取ったり下から眺《なが》めたりしていると、
「ねえねえ、これなんていいんじゃない? かわいくて」
「お、どれだ?」
椎菜が指差していたモノを見てみる。
そこにあったのは――『天然記念物アユモドキくん』と書かれた中型のヌイグルミ。
「……」
いやこれ……かわ、いい……か?
丸くのっぺりとした目、ドジョウのようなヒゲの生《は》えた口元、どちらかといえばずんぐりとした胴体《どうたい》。
確《たし》かに見ようによってはかわいくなくもないような気がそこはかとなくするかもしれないししないかもしれない今日この頃《ごろ》だが、基本的にはディープな日淡《にったん》マニアにしか受け入れられないブサイクな川魚に見えるんだが……
しかしその『天然記念物アユモドキくん』の尾びれのところには、
キモかわいいと大人気! 女子中高生に売れています!
と書かれた手書きのポップがあった。
「……」
どうやら俺には分からんだけで、昨今《さっこん》の女子にはこういった微妙《びみょう》なもんが流行《はや》りであるらしい。椎葉《しいな》も喜んでるし。
さらにその周《まわ》りにある他のヌイグルミにもまた、やたらと珍妙《ちんみょう》なものが目に付いた。
例えば『ドラゴンフルーツくん』。
いや別にオリジナルが食べ物のクセにやたらと突起《とつき》が尖《とが》ってるのはいいんだが、同じ棚に並んでる『ハリセンボンくん(威嚇《いかく》ヴァージョン)』と『ヤマアラシくん(警戒《けいかい》ヴァージョン)』と見た目がほとんど区別付かんのはアレだと思うぞ。果物《くだもの》と魚類と哺乳類《ほにゅうるい》なのに。
その他にも色々と微妙《びみょう》なラインナップがあったが、そのヘンの説明は控《ひか》えておこう。
とにかく基本的にはセンスがいい中、ここの一画《いっかく》だけやたらと個性|溢《あふ》れるアバンギャルドなものがひしめいていた。
そんな中。
「お……」
ふと何かに導《みちび》かれたかのように俺の目に入ってきたものがあった。
ヌイグルミの棚の向こう、アクセサリーのコーナー。
そこに置かれた一つのリング。
――これ、いいんじゃねえか?
ほとんど直感的にそう思った。
『月の光』と書かれたその深緑色の指輪は、他の品物の中で明らかに光を放《はな》っている。まあここまでに俺が見たモノがたまたま全部アレだったという話もなくもないが。
椎菜も、
「わあ、それすっごくかわいいねー。うん、なんかデザインといいサイズといい乃木坂《のぎざか》さんに似合いそう」
そう言ってうんうんとうなずいてくれた。
「……」
やはりこれは当たりらしい。
そう思って改めて見てみると、目の前の指輪が春香《はるか》の指先にぴったりとはまっているイメージが頭に浮かんだ。うむ、いい感じだ。
そうなると後は値段《ねだん》だけだが、値札《ねふだ》に書かれていたその数字はなかなかにハイグレードではあるものの、それでもここ数日の肉体労働で得《え》た対価《たいか》をもってすれば十分にお釣《つ》りがくるレベルだった。
「……よし」
決まりだった。
誕生日プレゼントの時もそうだったが、こういったものを選ぶ時には最初のフィーリングというか第一|印象《いんしょう》のイメージが一番大事だったりするのである。
「あ、それにするの?」
「ああ」
見たところあまり在庫は多そうではない。後に回して売り切れにでもなったら目も当てられないからな。
俺は淡《あわ》く輝《かがや》く『月の光』を手に取ると、レジへと向かったのだった。
「良かったね裕人《ゆうと》、いいプレゼントが買えて」
「ああ」
腕《うで》の中にある丁寧《ていねい》にラッピングされた四角い箱を見つつ椎菜《しいな》にうなずき返す。
店員さんから聞いた話ではこの『月の光』はムーンストーンをあしらった指輪であり、その名称は《めいしょう》店の名前から採《と》られたものであるらしい。簡単《かんたん》には手を出しにくい価格設定の割には店でも一番人気の限定品だとか。さらにはピアノ曲であるところのドビュッシーの『月の光』やベートーヴェンのソナタ『月光』などにも由来するとのことで、ますます春香《はるか》へのプレゼントにはぴったりだった。
「それよりサンキュな。椎菜にあの店を教えてもらわなければこれは見つからなかった。椎菜のおかげだ」
「え、いいよ別に気にしないで」
椎葉が顔の前で手を振《ふ》る。
「いや、本当に感謝《かんしゃ》してる。ありがとな」
「もう、いいって言ってるのに……」
少し照《て》れたように顔を背《そむ》けて、
「それよりこれからどうする? 思ったよりも早く決まったみたいだけど……」
「うーむ……」
今日は夜に最後のバイトが入っているが、それにはまだ時間がある。いつものごとくウチでくだまいてるワン公二匹のエサの用意はしてあるし、一度家に戻《もど》ると面倒《めんどう》だから、個人的にはこのままバイトまで時間を潰《つぶ》したいところだが……
「なあ椎菜、まだ時間は大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「え、うん。あたしはだいじょうぶだよ。ピアノのレッスンがあるけど、夜からだし」
「そうか……」
椎菜も空《あ》いてるのか。だったら……
「なら適当にどっかブラブラしないか? せっかくここまで出て来たんだしな」
「ぶらぶら? 遊びに行くってこと?」
「ああ」
「でも裕人、疲《つか》れてるんじゃないの? 学校でも一週間水をもらってないアサガオみたいだったし……」
「いやそれはまあ大丈夫《だいじょうぶ》だ」
疲《つか》れてるのは事実だが動けないほどクタクタってわけじゃない。それにこのまま家に帰ってもどうせワン公二匹の相手で余計に疲れるだけだしな。
「だからどうだ? もちろん椎菜《しいな》の気が乗らないってんなら強制はできんが」
「んー……」
その提案《ていあん》に椎菜は少し何かを考え込んでいるようだったが、
「――そうだね。それもいいかも」
やがて大きくうなずいてそう答えた。
「考えてみれば裕人《ゆうと》といっしょにどこかに遊びに行ったりすることってまだなかったもんね。うん、たまにはそういうのも悪くないかな」
「お、じゃあ……」
「うん、いっしょにぶらぶらしよっか」
ちょっとだけ顔をかたむけて、
「よーし、今日は遊びまくるぞー! おー!」
椎菜は笑顔《えがお》で元気にそう宣言《せんげん》した。
2
「じゃあどこ行こっか?」
椎菜がうきうきとした目でそう訊《き》いてくる。
「そうだな……椎菜はどこか行きたいところとかあるのか?」
俺としてはこの辺りはあまり詳《くわ》しくないし、椎菜に希望があるならそれに従《したが》って構《かま》わない感じだった。
「ん、そうだなー、ショップで買い物もいいしCD見るのもいいし……あ、銀果堂《ぎんかどう》でスイーツと紅茶ってのもありかもー。うーん、どうしよー……」
腕を組みながらそう言う。どうやらなかなか決まらないみたいだな。
「だったら、全部回ってみるってのはどうだ?」
「え?」
「別にムリして一つに決めなくても、適当《てきとう》にぶらついて気に入ったところに入ってみればいいんじゃないのか?」
まあそれは俗に言う散歩とかとほとんど変わらないんだが、適当に歩いてるだけでも椎菜となら退屈《たいくつ》しないだろう。
「あ、それいいかも」
「だろ?」
その提案《ていあん》に椎菜《しいな》は元気よくうなずいて、
「よし決まり! じゃあ行こ行こ!」
「お……」
腕《うで》をぐいぐいと引《ひ》っ張《ぱ》って急《せ》かしてくる。
「ん、どしたの?」
「どしたのって…」
そうがっちりと腕を組まれると、その、触《ふ》れてくる柔《やわ》らかいモノが少しばかり気になるんだが……
微妙《びみょう》に顔面《がんめん》が唐辛子《とうがらし》を振《ふ》りかけられたように熱《あつ》くなるのを感じつつ答えると「えー、別にこれくらい普通《ふつう》じゃない? 前も言ったけと、裕人《ゆうと》だったらあたしは気にしないし」
「……」
いや、だからこっちが気にするんだよ。
「ほらほら、そんなのはいいから早く行こうよ。時間がもったいないって」
笑顔《えがお》でそうせっついてくる。やれやれ、相変わらずフレンドリー爆発《ばくはつ》だな……
ともあれ椎菜がまったくもって気にしていないのに俺一人がルームランナーを渋《しぶ》る運動不足のミニブタのようにウダウダしてるのもアレだったため、そのままにすることにした。
椎菜に腕を引っ張られて、クリスマス前で賑《にぎ》わう街を歩いていく。
「わあ、見て見て、あそこに展示《てんじ》されてるフライドチキンおいしそう」
「おお」
「ほらあっち! サンタクロースが回《まわ》し蹴《げ》りしてる!」
「むう」
椎菜はいつものごとくとにかくよく喋《しゃべ》った。無尽蔵《むじんぞう》のスピーチ力というか。美夏《みか》なんかも同じ元気娘だが、それとはまた違《ちが》ったエネルギーを椎菜からは感じるんだよな。
しばらくそんな風にわいわいと街を歩いていて、
「あ、ねえねえ、ここ入ってみない?」
ある場所で椎菜が立ち止まって言った。
「なんか面白《おもしろ》そう。あたし、こういうところって入ったことなかったから」
「ここは……」
椎菜が関心を示したのはゲーセンだった。
ただしゲーム機ばかりが置かれたPTAのお偉《えら》いさん方に嫌われるいわゆるステロタイプなゲームセンターではなく、最近流行のアミューズメントパークタイプの大型のゲーセン。ふむ、確《たし》かにこれなら女子でも色々と楽しめそうだな。
「じゃあここにするか」
「うん、そうこなくっちゃ!」
というわけで、ゲーセンに入る。
ゲーセンは、三階建てプラス地下もありな構成《こうせい》になっていた。
「わー、けっこう広いんだねー」
椎菜《しいな》が興味深《きょうみぶか》そうにきょろきょろと辺りを見回して声を上げた。
「それにアトラクションみたいなのがたくさんあるねー。なんかゲームセンターつていうかちょっとしたテーマパークみたい」
「北海道にはこういうところはなかったのか?」
「んー、そういうわけじゃないけど、向こうにいた時はピアノのレッスンとか薙刀《なぎなた》の練習とかで忙《いそが》しくてさー。行くヒマがなかったかも」
「そうなのか?」
「うん、まあねー」
少し遠い目をする。
むう、何やら椎菜も色々|大変《たいへん》だったみたいだな。
「ま、そんなのはいいじゃん。それより早く回ろ回ろ。面白《おもしろ》そうなのがいっぱいあるよ」
「お……」
椎菜に手を引かれてゲーセン奥《おく》へと入っていく。
「あ、裕人《ゆうと》、これ何?」
「それはワニ叩《たた》きゲームだな。出て来るワニを片《かた》っ端《ぱし》から叩いていくゲームだ」
「へえ……あれは?」
「ゾンビ撃ちゲームだな。出て来るゾンビを片っ端から撃っていくゲームだ」
「そうなんだー。あっちのは?」
「インベイダーゲームだ。出て来る侵略《しんりゃく》宇宙人を片っ端から撃退《げきたい》していくゲームだ」
「なんか片っ端から掃討していくのばっかだねー……」
そんな感じで目ぼしい定番ゲームをいくつか選び、
「ねえねえ裕人、これってどうやるの?」
「ん?」
次に椎菜が目を付けたのはいわゆるダンスゲームの筐体《きょうたい》だった。
少し前に流行《はや》った人気シリーズで、今日びどこのゲーセンでも一台は必ず《かなら》見かけるやつである。ちなみに信長《のぶなが》に誘《さそ》われて俺もやったことがあるが、その時は「なんか鳥獣戯画《ちょうじゅうぎが》に出て来るカエルみたいだよー、裕人ー。もっと軽《かろ》やかにリズムに乗らないと−」などと笑われた苦《にが》みばしった思い出がある。言った信長《のぶなが》本人は余裕《よゆう》の表情でハイスコア(ぶっちぎり)を出してやがったため文句《もんく》も言えず、かなりブルーだった。
とりあえず椎菜《しいな》に内容及び大ざっぱなやり方を説明すると、
「へー、面白《おもしろ》そう。ちょっとやってみよっかなー」
楽しそうな顔でそう言って、
「裕人、悪いけどこれよろしくっ!」
「お」
コートとマフラーをぽいぽいっと脱《ぬ》いで俺に手渡《てわた》すと、椎菜はゲーム台の上にぴょんと跳び乗《の》った。筐体脇《きょうたいわき》のコイン投入口に百円玉を入れると準備《じゅんび》運動のように軽くその場で手足を動かして、
「えーと、曲の難易度《なんいど》は……分かんないけどノーマルかな。――よっ」
ゲームスタートとともに流れてくる音楽に合わせて、そのまま身体を動かし始めた。
「おお……」
軽やかな足運び。
華麗《かれい》なステップ。
流れるような動きでタイミングよく足場のパネルを踏《ふ》み、次々にコンポを決めていく。うーむ、さすがに運動神経|抜群《ばつぐん》の元気娘だけあり初めてだってのにその姿《すがた》は実に様《さま》になっている。
ピアノをやってるせいかリズム感がいいのもプラスになってるんだろう。ほとんどプロダンサーみたいだった。
周囲《しゅうい》からも、
「お、あの娘《こ》、うまくね?」
「え、どれよ」
「ああ、あそこのショートカットの娘か」
そんな椎菜の姿に目を引かれたのか、ゾロゾロとギャラリーが集まってくる。
「すげえな。てかうまいだけじゃなくてかわいくないか?」
「ホントだ。なんかアイドルみてえ」
「どこの子だよ? 初めて見る顔だよな……」
何やらそんな声が聞こえてきた。どうやらここでも椎菜は大人気らしい。まあ確《たし》かにかわいいからな……
だけど当の椎菜にはそれらの声はまったくもって耳に入っていないようで、楽しそうな顔でダンスに集中している。
そしてノーミスのまま曲は進んでいき。
それに比例《ひれい》するように周囲のギャラリーたちの数も増《ふ》えていき。
「よし、これでラストかなっと!」
最後に鮮《あざ》やかなターンを決めて、椎菜《しいな》の初プレイが終わった。
終わってみれば最初から最後までノーミス、パーフェクトだった。
「やったー! どう裕人《ゆうと》!」
その場でぴょんぴょんと飛《と》び跳《は》ねて喜ぶ椎菜。「……って、あれ?」
そこで初めて自分の周《まわ》りを取《と》り囲《かこ》んでいるギャラリーたちに気付いたのか、驚《おどろ》いた顔になる。
「え、えっと、何、これ……?」
「ねえねえ、すごいね、キミ」
「名前何ていうの?」
「もしかしてテレビとかに出てる?」
「え、え?」
目を丸くする椎菜に、さらに男たちは詰《つ》め寄《よ》ってくる。
「よかったらもう一回|踊《おど》ってみせてよ」
「いいでしょ? あ、クレジットなら出すからさ」
「写メとってもいいかな?」
「あ、え、えーと……」
その勢《いきお》いを受けて困ったように一度きょろきょろと周りを見回した後、椎菜はこっちに駆け寄《よ》ってくると、
「裕人、行こ!」
「お?」
そのまま俺の手を取ってダッシュで走り始めた。
「ちょっと待ってよキミ!」
「てかあいつ何なんだよ? 独《ひと》り占《じ》めしやがって!」
「せめて握手《あくしゅ》だけでも!」
そんな声が聞えてくる。
だけど椎菜はそれに振《ふ》り返《かえ》ることなく、
「ハアハア……」
「はあはあ、ここまで来ればだいじょうぶかな……」
ゲーセンから少し離《はな》れた場所にある小さな公園。
そこまで来て、ようやく椎菜は走るのをやめた。
「ごめんね、走らせちゃって……」
「い、いや……」
単純に本日二回目の全力ダッシュは相当に俺の体力を削《けず》り取《と》ってカツオブシみたいにしていたが、あの追《お》っかけに囲《かこ》まれた売り出し中の新人グラドルみたいな状況《じょうきょう》じゃまあそれもしかたがないだろう。
「どうもああいうのって苦手《にがて》で。悪気《わるぎ》はないんだろうけど……」
「そうか」
まあ得意《とくい》なやつもそうはいないとは思うが。
「てかとりあえず座《すわ》らないか? さすがに疲《つか》れた」
「あ、うん、そだね」
椎菜《しいな》と二人で近くにあったベンチに腰を下ろす。
「にしても椎菜、ダンス上手かったな」
「え、そうかな?」
「ああ。もしかして習ってたりしたのか?」
ゲームは初めてでもダンス経験《けいけん》があればあれくらいできるのかもしれない。
だが椎菜は首を振《ふ》って、
「ううん、そんなことないよ。ダンスなんてこれっぽっちもやったことない。さっきのが初めて」
「そうなのか?」
「うん。けど薙刀《なぎなた》の足運びとかにも少しだけ似てるところがあったから、そのおかげかもしれないね」
あはは、と笑う。ゲームもダンスも未経験《みけいけん》であそこまで踊《おど》れたのか。すげぇな……
「あー、でも動いて走ったらノドが掲《かわ》いたなー。何か買ってくるけど裕人《ゆうと》は何がいい?」
「ん、それなら俺が行ってくるぞ」
「え、でも」
「いいから、椎菜は座ってろって」
遠慮《えんりょ》する椎菜をそのままベンチに押《お》し留《とど》めて、近くにある自動販売機へと向かう。
「コーラと紅茶でいいか」
適当《てきとう》に無難《ぶなん》な飲み物を二つ買って戻ろうとして。
「きゃあああっ!!」
「!?」
突然《とつぜん》、椎菜の叫び声が聞こえてきた。
な、何だ!? あの椎菜がこんな声を上げるなんて、痴漢《ちかん》でも出たのか? いやしかし椎菜ならそれくらい簡単《かんたん》に撃退《げきたい》できそうだ。とするとまさか強盗《ごうとう》とか通《とお》り魔《ま》の類《たぐい》じゃ……
「椎菜!!」
慌《あわ》てて戻ってみる。するとそこには。
「こ、来ないで……」
何かに追《お》い詰《つ》められるかのように地面にへたりこんで後ずさりする椎菜《しいな》の姿《すがた》。
そしてその眼前《がんぜん》では身長二メートルはあろうかという完全にイっちゃった瞳《ひとみ》のバカデカイ暴漢《ぼうかん》が周囲《しゅうい》にあるモノ全てを薙《な》ぎ倒《たお》さんばかりに凶器《きょうき》を振《ふ》り回《まわ》していた――――
「……」
――――というわけではなく、体長三十センチくらいのつぶらな瞳がプリティーなちびっこいミニチュアチワワがちぎれんばかりにシッポを振りまくっていた。
「……あー、椎菜、これは?」
「ゆ、裕人!?」
俺に気付くと椎菜は一直線に駆《か》け寄《よ》ってきて、
「た、助けて! ベンチに座《すわ》ってたら急にこの猛犬《もうけん》が襲《おそ》ってきて……」
「え、猛犬?」
「そ、そうだよ! ほら今だって獲物《えもの》を狙《ねら》うライオンみたいな鋭《するど》い目でこっちを見てる……!」
ほとんどしがみつくような状態《じょうたい》で俺の腕《うで》に抱《だ》き付《つ》き、助けを請うような目で言う。その表情はどこまでも必死《ひっし》で真剣《しんけん》そのものだった。
「……」
改めて目の前でちょこんとこちらを見上げている子犬(体長三十センチ)を見てみる。
つぶらな瞳、かわいらしく立った耳、保護欲《ほごよく》を誘《さそ》う顔付き。おまけに甘えるような声でいじらしくキュンキュンと鳴《な》いている。いやこれのどこが猛犬《もうけん》……?
「あ、あたし、犬だけはだめなの! こ、子供の頃に集団で襲《おそ》われたことがあって……」
「……」
「あ、あの時はもう死ぬかと思った……! 何匹も身体の上に乗ってきて、威嚇《いかく》するみたいにシッポを振ってきて、味見《あじみ》でもするみたいに顔とかをべろんべろん舐められて……」
それは単に好かれてただけなんじゃ?
いやそれにしたって、この犬なんだかリスなんだか分からんような小動物にそこまで怯《おぴ》えるのはどうかと思うんだが。
「ゆ、裕人《ゆうと》ぉ……」
しかし椎菜《しいな》は俺の身体にぴったりとくっつきながらもうほとんど泣きそうな顔で見上げてくる。まあ苦手《にがて》意識《いしき》ってやつは本人にしか分からんもんなんだろう。納豆《なっとう》好《ず》きの東北人に納豆嫌いの関西人の気持ちが分からんみたいなもんで。
「分かった。ちょっと下がってろ」
「え……」
怯《おび》える椎菜を背中にやり、俺は足下でハッハッハッと舌を出しているチワワを手に取ると、そのまま優《やさ》しく抱《だ》き上《あ》げた。人懐《ひとなつ》こいチワワはこの上なく大人しく俺の腕《うで》の中に収まった。
「ほら、捕獲《ほかく》終了。もう大丈夫《だいじょうぶ》だろ?」
「ほ、ほんと……?」
恐《おそ》る恐《おそ》るといった面持《おもも》ちでちょこんと顔を出してきた。
「ああ。ちゃんと俺が抱えてるから平気だ」
「よ、よかった……」
ようやく安心したように椎菜がほっと息《いき》を吐《は》く。「ほ、ほんとに怖《こわ》かったんだからー」
「にしてもこいつ、どこから来たんだ?」
首輪をしてるから野良《のら》には見えんし、かといって近くに飼《か》い主《ぬし》らしき人の姿《すがた》は見えんし……
「わ、分からないよ。急に街の方から走ってきて……」
「ふむ……」
だとすると迷《まよ》い犬《いぬ》だろうか。
何か手がかりになるものはないか見ているとチワワの首輪に何か書かれていることに気付いた。小さくて読み取りにくいがメガネのピントを合わせてよく見てみると、そこには『ペットショップ犬まみれ』との文字があった。
「これは……」
「あ、す、すみませーん、そこの人!」
と、そこで公園の入り口の方からそんな声が聞こえてきた。
「その子、うちの子なんですー! 捕《つか》まえといてくださいー!」
「え?」
声を上げていたのは真っ白なエプロンをかけた女の人。
そのままぱたぱたとこっちへ駆《か》け寄《よ》ってくると、
「やっと見つけたー……もう、心配《しんぱい》したんだからね」
「キュウン……」
ぴちぴちとシッポを振るチワワを抱《だ》きしめてそう声を上げる。
「……?」
どういうことなのかと俺たちが首をひねっていると、
「あなたたちがこの子を保護《ほご》してくれてたんですね。ありがとうございました!」
「はあ……」
「実はこの子は……」
話を聞くとどうやらこのチワワは近くにある『ペットショップ犬まみれ』の所属《しょぞく》犬《けん》で店頭で日向《ひなた》ぼっこをさせていたところ、この店員さんがちょっと目を離《はな》した隙《すき》に――具体的に言えば昼食のカップタラコスパ(特盛りスーパーサイズ)の湯切りをするためにちょっとキッチンへと席を立った隙に、ハヤテのごとく逃《に》げ出《だ》してしまったのをずっと探《さが》していたらしい。
「この子は女の人が大好きで、見つけるとすぐに飛びかかっていっちゃうんですよね〜。これもよくお店に来てかわいがってもらってるあの無口なメイドさんのおかげかしら? うーん……」
「……」
なんか最後に気になることを言っていたが、まあそれは気にしないことにしよう。
3
そんな感じで椎菜《しいな》の意外な一面が垣間見《かいまみ》られたチワワ騒動《そうどう》も一段落《ひとだんらく》し。
その後も他に色々な場所を二人で回ってみた。
ショップで椎菜の買い物に付き合ったり、銀果堂《ぎんかどう》でスイーツを食べたり、CDを買ったり。
適当に街中を歩いたり、本屋に寄ったり、楽器屋に行ったりと。
別に何がどうというわけでもないが、それはそれで楽しい時間だった。
「わ、もうこんな時間かー」
椎菜が腕時計を見て驚《おどろ》いたようにそう言った。
「早いなー、まだ全然経《た》ってない感じなのに。これはあれだね、楽しい時は吹き矢のごとしってやつ」
「そうだな」
確《たし》かにあっという間の数時間だった。それこそ体感的には一時間そこそこといったところか。
「そういえば、椎菜《しいな》は何時からピアノのレッスンがあるんだ?」
「ん、今日は六時から。いつもより少し早めなんだよ」
「そうか。だったらそろそろお開きだな」
現在の時刻は五時少し前。移動の時間なども考えるとけっこうギリギリだろう。もう少しくらい椎菜とブラブラしていたかったような気はするが、しかたない。
「んじゃとりあえず駅まで行くか」
「そだね」
二人で来た道を歩き出す。
駅へと向かう道は、来た時よりも賑《にぎ》やかになっているようだった。
夜に合わせて人目を引くようにうまくイルミネーションなどを配置《はいち》しているんだろう。電柱や街路樹《がいろじゅ》、ビルの壁《かべ》などあちこちで様々な色をした光が明滅《めいめつ》を繰《く》り返《かえ》している。駅前にある大きな木にも派手《はで》やかな飾《かざ》り付《つ》けがされて、そのてっぺんでは一際《ひときわ》目立つ星のオブジェがキラキラと光《ひか》り輝《かがや》いていた。
「きれい……」
椎菜がほうっと声をもらす。
「こんなの初めて見た……。まるで空から光が降《ふ》ってくるみたいで……いかにもクリスマスって感じ」
「ああ」
本当にキレイだな。
普段《ふだん》はあまりこういったもんには興味《きょうみ》を持たない俺だが、それでも思わず足を止めてしまうほどの見事《みごと》さだ。
二人してしばしの間そのどこか幻想的《げんそうてき》な光景《こうけい》に見惚《みと》れていると。
「あ、そこのお兄さん、お姉さん」
と、どこからか声をかけられた。
見るとライトアップされた木の下にはアクセサリーなどを売っている露店《ろてん》がいくつかあって、声をかけてきた女の人はその内の一つの店主みたいだった。
「デートっすか? いいっすねー、お二人ともお似合《にあ》いだー」
「お」
「え?」
思わずお互《たが》いに顔を見合わせてしまう。いやデートって……
そんな俺たちに、
「それで、よければ記念に何か買っていきませんか? クリスマスのイヴイヴにラヴラヴってことで、全品一割引きにしておくっすよー」
実にフランクな口調《くちょう》で言う。クリスマスイヴイヴでラヴラヴって、強引《ごういん》だな……
「あ、でもけっこう色んなのがあるんだね。わ、これとかかわいいかも」
「おっ、お姉さんお目が高いっすねー。それはステラ・リングっていって、うちの店で一番の人気商品なんですよー」
「ヘー、そうなんだー」
イルミネーションを反射《はんしゃ》してきらきらと輝《かがや》くリングを見て、椎菜《しいな》が同じくらい鮮《あざ》やかに目を輝かせる。
「どうっすか? 今ならさらに一割引きをして二割引きで売りますよ?」
「え、二割引き?」
「ええ、こんなチャンスはなかなかないっすよ。お買い得っす」
「うーん……」
悩《なや》む素振《そぶ》りを見せる椎菜。
むう、どうやらかなりこのステラ・リングとやらが気に入ったみたいだな。それなら――
「……よければ、買ってやろうか?」
「え?」
「それ、プレゼントするぞ?」
俺の言葉《ことば》に椎菜は目を丸くして、
「い、いいよ、そんなの悪いし」
「遠慮《えんりょ》するなって。そう高いもんでもないし、なんつーかわざわざ今日一日付き合ってくれたお礼っていうか、そんな感じだ」
実際《じっさい》のところ今日は椎菜のおかげで助かったし、楽しかった。これくらいのお礼をしてもバチは当たるまい。
「ほんとに……いいの?」
「ああ」
「だったら……甘えちゃおうかな」
少しばかり遠慮がちに、でも心の底から嬉《うれ》しそうに椎菜はそう言った。
「はーい、お買い上げありがとうございまーす!」
店主の嬉しそうな声が冬空の下に響《ひび》き渡《わた》った。
「どうします、包《つつ》みますか、それともこのまま着けていきますか?」
「んー、じゃあそのままで」
「そうっすか。でしたらどうぞー」
買ったリングは包装《ほうそう》せずに、そのまま着けていくことに決めたらしい。
露店《ろてん》から少し離《はな》れたところで、
「裕人……ありがとね」
「ん?」
そうつぶやくと椎菜《しいな》は右手の中指にそっとリングをはめた。
そしてイルミネーションでライトアップされた煌々《こうこう》と輝《かがや》く街並《まちな》みを背景《はいけい》に、リングを着けた手を真《ま》っ直《す》ぐ上にかざして、
満面《まんめん》の笑《え》みでこう言ったのだった。
「絶対《ぜったい》に大事にするからねっ、これ」
その夜。
椎菜と別れた後に最後のバイトを済《す》ませ、さらに自宅で待《ま》ち構《かま》えていた酔《よ》っ払《ぱら》い二人(当然のように飲んでる)の相手を終えて自室に戻《もど》ってきた俺は、ベッドの上にグッタリと横たわっていた。
「はあ……」
思わず口からエクトプラズムのような息が出る。
全身の疲労《ひろう》はほとんどピークに達していた。
椎菜との買い物はともかくとして、その後の現場でのバイト、アホ二人のお守りの二連コンボは現在のエンマコオロギの息な俺にはなかなかにしんどいものがあった。残り少ない体力値をほとんど使い切った感じか。
「ふう……」
だが目的は果たした。
机の上に置いてある丁寧《ていねい》に包装《ほうそう》された箱を見る。
ムーンストーンリング、『月の光』。
無事《ぶじ》に春香《はるか》のプレゼントも買えたし、あとは明日のパーティーを待つばかりだ。
「……」
ゴロリと寝返《ねがえ》りを打つ。
――にしても椎菜が犬に弱かったなんてな。
ふいに思い出して苦笑《くしょう》が漏れた。
ついぞ八時間ほど前の光景《こうけい》。
苦手《にがて》なものなんて何もないようなあの元気娘が、極小《ごくしょう》なチワワ相手にほとんどマングースに睨《にら》まれたアマミノクロウサギみたいになっていた。
そんな意外な面が見られたことも、本日の収穫《しゅうかく》の一つだったと言っていいだろう。
「……」
まあ何にせよ明日はクリスマスイヴだ。
ここ一ヶ月ほどの様々なイベントの集大成。
それらの努力の結晶《けつしょう》の全てが反映される日である。
「……寝《ね》るか」
決戦の時までもう二十四時間を切った。今日は早めに休んで英気《えいき》を養《やしな》っておかねばなるまい。
いまだにメキョメキョと鳴《な》り続《つづ》ける身体に毛布《もうふ》を三枚ほどかけて、眠《ねむ》りに就《つ》いたのだった。
そしていよいよクリスマスイヴがやって来る――
4
十二月二十四日土曜日。
その日は朝から目もくらむような快晴《かいせい》で、サンタも思わずトナカイといっしょに軒先《のきさき》で日光浴《にっこうよく》でも始めちまうんじゃないかってくらいの冬晴れ具合《ぐあい》だった。
「それじゃあみんな〜、準備《じゅんび》はい〜い?」
我が家の居間《いま》にツインテール娘の弾《はず》みまくった声が響《ひび》き渡《わた》る。
「おう、大丈夫《だいじょうぶ》だ」
「だいじょぶです」
「……おっけーです」
「いつでもどうぞ〜」
それに俺たちが答えて、
「えー、こほん。それではこれより『美夏《みか》ちゃんプロデュースによる第一回クリスマスヴァーニングパーティー』を始めたいと思いま〜す。――メリークリスマ〜ス♪」
『メリークリスマス!』
ツインテール娘の高らかな声に、他の皆の声が合わせられる。
それと同時に各々がイスから立ち上がり持ったグラスが打《う》ち鳴《な》らされ、パーティー開始の合図を告《つ》げた。
美夏主催《しゅさい》によるホームパーティー。
参加者には春香《はるか》、美夏、葉月《はづき》さん、那波《ななみ》さん、沙羅《さら》さんたち運転メイド三姉妹にあのアリスというちびっこメイドに加え、秋穂《あきほ》さんと玄冬《げんとう》さんまでもが入っていた。
総勢《そうぜい》十一名(俺含む)の大所帯《おおじょたい》。
ほとんど春香の誕生日パーティー打ち上げの時と同じメンバーである。
ちなみに開催《かいさい》場所は当初の予定通りウチだった。
とはいえ参加人数に比べて築十二年ローン残り二十三年の我が家はあまりに手狭《てぜま》だったため、リビングとダイニングとの間にあった本棚《ほんだな》を一時的に取っ払って(葉月さんたちが手伝ってくれた)二つを合体(?)させることによって何とかしのいでいた。
「さ、みんな飲んで食べて騒《さわ》いで〜! 今日はお祭りだよ〜!」
「平たく言ってしまえば酒池肉林《しゅちにくりん》ですね〜」
そんな微妙《びみょう》に人口|密度《みつど》が高いパーティー会場の中を、ツインテール娘とにっこりメイドさんの声が通り抜けていく。まだ真っ昼間の二時だってのにアップテンポなことこの上ない。
「元気だな……」
いまだにここ四、五日の疲《つか》れを引きずる身としては少しばかりうらやましい気がしなくもない。少し遠巻《とおま》きにそれらを眺《なが》めていると、
「あ、裕人《ゆうと》さん、よろしければ七面鳥《しちめんちょう》をお取りしましょうか?」
隣《となり》の春香《はるか》がニットセーターの袖《そで》をまくりつつそう言ってきてくれた。
「お、悪いな」
「いいえ。ソースはラズベリー味でいいですよね?」
にっこりとうなずいてダイニングテーブルの真ん中にどん! と置かれている巨大な七面鳥の丸焼き(美夏《みか》持参《じさん》)を取り分けてくれる。どうも感謝祭《かんしゃさい》か何かと勘違《かんちが》いしてるんじゃないかってメインディッシュだが、とりあえずは気にしないことにしておこう。
「はい、どうぞ♪」
「ん、サンキュ」
赤紫色の液体がかかった七面鳥を受け取り口に入れる。む、七面鳥なんてプチセレブなもんは初めて食ったがなかなかウマイな。この下地に付けられた辛味《からみ》と甘酸《あまず》っぱいソースの絡《から》みが何とも……
そんなことを考えながらモグモグと七面鳥を口にしていると、
「……ん?」
「……(じ〜)」
何やら、春香がにこにこと微笑《ほほえ》みながらこっちを見ていることに気付いた。何だ? もしや俺のメガネにソースでも付いて色メガネになっちまったとかか?
なので訊いてみたところ、
「あ、いや、そういうわけじゃないんです」
春香は慌《あわ》てたように顔をぶんぶんと振《ふ》って、「ただ……」
「ただ?」
「その、こういうのって、いいなあって思って……」
遠くの水場を見つめる砂漠《さばく》の民みたいな目でそう言う。
「みなさんといっしょにクリスマスパーティー。とっても楽しいてすよね。私こういうものに参加する機会は初めてなんです」
「そうなのか?」
「はい。公的なパーティーや儀礼的《ぎれいてき》なレセプションなどはあったんですけれど、こうして大切な人たちと水入らずでゆっくりと過《す》ごすのは今までなかったことなんです。だから本当に楽しくて……」
嬉《うれ》しそうに微笑《はほえ》む。
「……」
……そうか、春香《はるか》にはこんなありふれた(まあ参加メンバーはありふれてないが)皆でわいわいと騒《さわ》ぐクリスマスパーティーすらも初めての体験《たいけん》なのか。
そう考えると何だかできる限《かぎ》り楽しませてやりたいような気持ちになってくる。
「じゃあ今日は満喫《まんきつ》しないとな」
「はいっ」
春香と二人、持っていたグラスでカンパイを交わす。グラスがチン♪ と音を立てた。
で、そんな感じにしばし春香と日常の何でもないことの話をして時を過《す》ごした後。
「えへへ〜、どうおに〜さん、楽しんでる?」
「ん?」
声をかけてきたのは、姉とお揃《そろ》いのセーター姿《すがた》のツインテール娘だった。
「美夏《みか》ちゃんプロデュースのクリスマスパーティー、ちゃんとエンジョイしてなきゃ人としてだめだめなんだよ?」
「ああ、楽しいぞ」
「わ、ほんと? 嬉《うれ》しいな〜」
ぱ〜っと表情を輝《かがや》かせてツインテールをふりふり笑いかけてくる。「でも後でも〜っと楽しいイベントが待ってるから、期待しててね♪」
「?」
何だ、それは?
「ね、おに〜さん。ところでおに〜さんって足は丈夫《じょうぶ》?」
いきなり美夏が話を変えた。
「え?」
「だからアシだよ。英語にすると……レッグ? ちなみに植物の方じゃないからね」
「いやそれは分かるが……」
そうじゃなくてそのよく分からん質問の意図《いと》が何なんだってことである。首をガチョウのごとく捻《ひね》る俺に、
「い〜から。イエス? それともノ〜? ほら答えて答えて」
「ん、別に普通《ふつう》だと思うぞ」
すると美夏はにぱ〜っと笑って。
「そっか。それじゃ――っと♪」
「お?」
ちょこん、と。
ウサギのように飛《と》び跳《は》ねてイスに座《すわ》る俺《おれ》のヒザの上に座り込んできた。
柔《やわ》らかい感触が《かんしょく》足の上に触《ふ》れるとともに春香《はるか》に似《に》たふんわりと甘い香《かお》りが漂《ただよ》ってくる。
「お、おい」
「えへへ〜、たまにはい〜じゃん。今日はせっかくのクリスマスイヴなんだし〜。無礼講《ぶれいこう》ってやつ? ごろごろ〜♪」
嬉《うれ》しそうに目を細めながら頬《ほお》擦《ず》りしてくる。ぬ、さっきも思ったがなんかやたらとハイテンションだな。
「ほら美夏《みか》、裕人《ゆうと》さんが因ってらっしゃいますから……」
春香が控《ひか》えめにたしなめるも、
「え〜、でもやりたいんだもん。おに〜さんもいいでしょ、ね?」
「む、むう……」
まあ特に重いわけでもなし(むしろ軽すぎるくらいだし)、そもそも懐《なつ》いてくれているのは単純に嬉しいことなのでそれ自体はさして拒否《きょひ》するようなことでもない。
だが問題が一つがあった。
それは。
「……………(ゴゴゴゴゴゴ)」
斜《なな》め前から突《つ》き刺《さ》さるように飛んでくる殺気《さっき》溢《あふ》れる視線《しせん》。
テーブルを挟《はさ》んで対角線上に座っている春香父が、闇夜《やみよ》に光る死神の鎌《かま》みたいな目でサングラス越しにこっちを睨《にら》んでいた。
「ん? な〜にお父さん、ヘンな顔して」
美夏が怪訝《けげん》そうな表情でそんな春香父の顔を見る。
「む、な、何ではないだろう。乃木坂《のぎざか》家《け》の次女ともあろう者が人前でそのような破廉恥《はれんち》なこと……」
「ん〜、そう?」
「だ、だいたいヒザに座りたいのだったら何もそんなやつのでなくて私が……」
「え〜、やだよ〜。お父さんのはごつくて固くて座り心地よくないんだも〜ん。おに〜さんの方がいい」
ぷいっとそっぽを向く美夏。
「な、み、美夏?」
「それに別にお父さんのヒザなんて座りたくないし〜。ね、おに〜さん。ごろにゃ〜♪」
「な、なっ……」
春香父の顔が一瞬《いっしゅん》情《なさ》けなく崩《くず》れ。
「……お、おのれ、これも全て貴様が……っ!!」
今にも懐《ふところ》からチャカっとやばいもんでも出しそうな勢《いきお》いで俺を睨んでくる。……いやなんか年頃《としごろ》の娘につれなくされるお父さんのやり場のないやるせなさの矛先が全部こっちに向いてる気がしてならないんだが。
と、
「まあまあ、いいじゃありませんか。美夏《みか》も喜んでいるみたいですし」
そこでやんわりとフォローを入れてくれたのは秋穂《あきほ》さんだった。
「美夏だってもう子供じゃないんですから、こういうくだけたパーティーの時くらい自分のやりたいようにさせてあげるのがいいと思いますけれど?」
「し、しかしだな……」
「しかしもカカシもありません。あんまり過保護にすると嫌われちゃいますよ」
「ぐ、ぐう……」
その言葉《ことば》で春香《はるか》父《ちち》は少しだけ勢いを弱めたが、
「よ、よかろう。そこまで言うのならこの場は目をつむることにする。――ただし貴様っ、美夏におかしなマネをしたらすぐにでもそのメガネを叩《たた》き壊《こわ》してフレームだけにしてくれるからなっ!」
すぐにそんなことを言ってきた。
目が、マジだった。
「わ、やった〜。それじゃ遠慮《えんりよ》なく〜♪ ――えいっ♪」
実に嬉《うれ》しそうに声を上げて、美夏がさらにヒザの奥深くに身体を預《あず》けてくる。それはもうアリの入る隙間《すきま》もないほどのかなりの密着状態で、ほとんどパーフェクト・ハグみたいだった。
「えへへ〜」
「あ、あー……」
いきなり降《ふ》って湧《わ》いたシアワセ状態に、言葉《ことば》が出てこない。
「あらあら、二人ともお似合《にあ》いね。まるで本当の兄姉《きょうだい》みたい。うふふ」
秋穂さんはそんなことを言いながら楽しげに笑っていたものの、
「…………(ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!!!)」
額《ひたい》の前で手を組んだ春香父は、ガタガタと落ち着かなそうにテーブルを揺《ゆ》らしながらひたすらにこっちを(正確には俺一人を)睨《にら》み続《つづ》けていた。
「……」
なんつーか。
天国と地獄《じごく》がいっぺんに来るってのは、きっとこういうことを言うんだろうね。
で、そんな超高級アメと電気ムチとの板挟《いたばさ》み状態《じょうたい》から経過《けいか》すること十五分。
「……」
俺は一人、我が家の似非《えせ》システムキッチンな台所にいた。
箸休《はしやす》めに何か軽いモノでも作ってくると言って、出て来たのだ。
いやいくら美夏《みか》の超絶《ちょうぜつ》甘え仔猫《こねこ》モードとはいえ、あのマフィアの王みたいな春香《はるか》父《ちち》の殺気《さっき》というかほとんど瘴気《しょうき》に近いものを浴びせられ続けてまっとうに皮膚《ひふ》呼吸《こきゅう》を続けることができる人間はいないだろう。ぶっちゃけ怖《こわ》すぎる。生命|維持《いじ》を第一|優先《ゆうせん》とする生物としてのある意味まっとうな反射《はんしゃ》ともいえるかもしれん。
それに実際《じっさい》、料理や飲み物を用意するのは俺の担当《たんとう》だった。
まあそういうことが得意《とくい》というか専門としているメイドさんたちはたくさんいるんだが、いちおうここは俺のウチでありそしてルコがいない以上事実上のホストは俺である。それくらいはやっとくべきだろう。
というわけで冷蔵庫からホウレン草を出し水洗いしていると、
「あらあら、裕人《ゆうと》さんお疲《つか》れさまです」
にこにこ笑顔《えがお》の秋穂《あきほ》さんがノレンを雅《みやび》やかにかき分けて台所へとやって来た。
「さっきはごめんなさいね。大騒《おおさわ》ぎしちゃって。春香や美夏のことになると、あの人すぐに頭に血が昇《のぼ》っちゃうみたいだから……」
「はあ、まあ……」
血が昇るというか、沸騰《ふっとう》して蒸発《じょうはつ》して水蒸気|爆発《ばくはつ》を起こしそうになってた気もするが。
まあそれはともあれ。
「あ、ところで何か用事ですか?」
尋《たず》ねる。
わざわざ玄冬《げんとう》さんのフォローをするためだけに来たわけでもないだろう。
すると秋穂さんは小さく微笑《ほほえ》んで、
「そうね、用事というのかしら? お手伝いをしようと思ったの。裕人さんにばかり雑事を任《まか》せてしまっては大変《たいへん》だと思って」
「え、でも……」
あの天下の乃木坂《のぎざか》家《け》のファーストレディーに台所仕事、しかもうちの狭苦《せまくる》しいこと限《かぎ》りないこのキッチンで立ち仕事をさせるのは気が引けまくるんだが。
「遠慮《えんりょ》しないでくださいな。お料理は私、大好きですし。それに裕人さんとも一度ゆっくりと二人でお話をしてみたいと思っていたから。うふふ」
「え……」
お話って……
よく現状が飲み込めない俺へにっこりと笑いかけて、秋穂さんは隣《となり》に立つと着物の袖《そで》をまくりたすきがけにしつつ手際《てぎわ》よく包丁《ほうちょう》を動かし始めた。さすがに料理学校の校長をしているだけあって見事《みごと》なことこの上ない手際《てぎわ》である。みるみるうちにホウレン草が切り分けられていく。
「煮びたしを作るんですよね? でしたらまずはダシ汁を作らないと。ダシはありますか?」
「あ、は、はい。ダシはここに……」
「ダシは少し濃い目にした方が美味《おい》しいんですよ。カツオダシだったらこれくらい入れて……」
「あ、そうなんですか?」
「ええ、あとホウレン草はゆでたらすぐにさっとおしょう油をかけて下味を付けておいた方がいいかしら。水っぽくなっちゃいますから」
「へぇ……」
そんな感じで調理を進めていると、
「ねえ、裕人《ゆうと》さん」
「はい?」
「あの子たちね、ここのところとっても楽しそうなんですよ?」
「え?」
計量カップを使ってダシの調合をしていた秋穂さんがふいにそんなことを言った。
「春香《はるか》はもう毎日毎日ラベンダーのお花畑にいるみたいな幸せそうな顔をしているし、美夏《みか》は普段《ふだん》からああいう感じだからよく分からないかもしれないけれど、それでも私に話すのはおに〜さん≠フことばかりなんですから」
「……」
「それだけじゃないわ。葉月《はづき》さんや那波《ななみ》さんも裕人さんのことを好意的に思っているみたいだし。なかなかないのよ? あの葉月さんが男の人にエリックちゃんのお顔をするなんて」
「え、あー……」
何と返していいか言葉《ことば》に困《こま》る。
あのエリックうんぬんの話は本当にポイントが高かったらしい。
しかしそれはともあれ、こうやって面と向かってそういうことを言われるとなんかこそばゆいな。動けない状態《じょうたい》で足の裏をコチョコチョとくすぐられる気分というか。秋穂さんと二人きりで話をするのが実はこれが初めてだってこともあるんだろうが。
照れくささで少しばかり顔を逸らしていた俺に秋穂さんは、
「――裕人さん、あの子たちのことをよろしくお願いしますね」
まっすぐにこっちに向き直ると、深々と頭を下げてそう言った。
「あの子たちは本当に裕人さんのことが好きみたいなんです。だからできる限《かぎ》りはそれに応《こた》えてやってくださいませんか? 何もずっととは言いません。でもせめてあの子たちが裕人さんと同じ時間を共有している間は、楽しい思いをさせてやっていただきたいんです」
「秋穂さん……」
「それが母親としての、ささやかな願いですから」
柔《やわ》らかく微笑《はほえ》む。その表情からこの人が本当に春香《はるか》たちのことを大事に思っていることが伝《つた》わってきた。
だから。
「……はい。分かりました」
俺もフライパンを菜箸《さいばし》でかき混ぜていた手を止めて、精一杯《せいいっぱい》真剣《しんけん》にそう答えた。ここはそうすべきところだと思ったからな。
「ありがとう、裕人《ゆうと》さん」
秋穂《あきほ》さんがうなずく。
「うん、やっぱり裕人さんは見込んだ通りの素敵《すてき》な方だわ。――あ、そうそう」
「?」
そこで秋穂さんはいたずらっぽくにっこりと目を細めて、
「言《い》い忘《わす》れましたけれど、もちろん私も裕人さんのことは大好きですからね。うふふ♪」
そう、実に楽しそうに笑ったのだった。
そんなこんなで秋穂さんのレクチャー(?)を受けつつもホウレン草の煮《に》びたしを完成させて居間《いま》へと戻ると、春香と美夏《みか》の姿《すがた》が見えなくなっており、代わりにメイドさんたちがテーブルに集まっていた。
「あ、裕人様が戻ってきました〜」
「……どうも、お疲《つか》れさまでした」
「それはホウレン草の煮びたしですね〜?」「わ、とても美味《おい》しそうです」「さすがは裕人様ですねっ」
「――(こくり)」
那披《ななみ》さん、葉月《はづき》さん、それに運転メイド三姉妹(菖蒲《あやめ》さん、沙羅さん、樹里《じゆり》さん)とアリスが声をかけてくる。
「えっと、春香たちは……」
「春香様と美夏様は現在メインイベントの準備《じゅんび》をしておられます〜。なので部屋《へや》を一室お借りしていまして、お二人はそちらにいらっしゃると〜」
「メインイベント?」
それはもしやさっき美夏が言ってたやつか?
「ええ〜、私と葉月さんとアリスちゃんもいっしょにやることになってるんですよ〜♪」
「……僧越《せんえつ》ながら、参加させてもらいます」
「――(こくこく)」
ということらしい。
運転メイド三姉妹が参加しないのには何か意図《いと》でもあるのかと思い訊《き》いたところ「私たちは裏方《うらかた》の運転が専門ですので〜」「そういったハデなことはちょっと……」「遠慮《えんりょ》させてもらいますっ」と苦笑《にがわら》いをされてしまった。どうやらそのメインイベントとやらは相当ハデであるようだ。まああのツインテール娘が楽しみにしてろと言ってた時点で大人しく慎《つつ》ましやかなものでないだろうことは確実《かくじつ》なんだがな。
「ところで裕人《ゆうと》様、秋穂《あきほ》様と何をお話しされていたのですか〜?」
那波《ななみ》さんが何の前フリもなくそんなことを訊いてきた。
「え?」
「そちらに秋穂様が向かわれましたよね〜。何か大事なお話でもされていたのかと思ったのですが〜。もしかして春香《はるか》様との間のお世継《よつ》ぎの話ですか〜?」
「ぶぼっ!」
思わず肺の中の空気を残らず噴《ふ》き出《だ》しそうになった。なっ、よ、世継ぎって……
「あら〜、違《ちが》うのですか〜?」
「ぜ、全然違っ……」
何言ってんだこの人!
「そうなのですか〜? てっきりそのお話かと〜……」
「い、いや……」
「そろそろそういったお話があってもおかしくないですよね〜。本当に違うのですか〜?」
「だ、だから…」
一体《いったい》どう説明すりゃあいいんだか分からずに混乱《こんらん》しまくっていると、
「な〜んて、冗談《じょうだん》ですよ♪」
「……へ?」
「まだまだ裕人様はその段階には達《たっ》していませんからね〜。色々な意味で早すぎるというか、時期|尚早《しょうそう》もいいところですものね〜」
「…………」
にこにこ顔でそんなことを言う。いや冗談にしちゃあ心臓に悪すぎるぞ……
思わず憮然《ぶぜん》とした表情になる俺に、
「ふふ、早くその域《いき》まで達するよう、がんばってくださいね〜。私たちメイド隊は春香様と美夏《みか》様に仕《つか》える者。ゆえにお二人が全面的に信頼《しんらい》されている裕人様の味方ですから〜」
「はあ……」
「それに個人的にも、私は裕人様を応援《おうえん》しているのですよ〜。裕人様になら全てをお任《まか》せしてもいいと思っています〜」
「……右に同じです」
「――(こくり)」
那波《ななみ》さんに続き、葉月《はづき》さん、アリスまでそう言う。
むう、いきなりそんなことを言われると照れるな……
「さてさて、それではそろそろ私たちも準備《じゅんび》の方に移らせていただきますね〜」
「……また後ほどお会いしましょう」
「――(ペこり)」
そう言って那波さんたちは居間《いま》を出ていった。
「……」
結局《けっきょく》、メイドさんたちが何が言いたかったのかさっぱり分からんかった。
5
「え、ええと、それではこれよりメインイベントを始めたいと思います」
那波さんたちが部屋《へや》の外へと消えて行ってからおよそ十分後。
いつの間に用意していたのか小型マイクを片手におずおずと前に出た沙羅さん(こういった司会進行役に慣《な》れてなさそう)が、もう片方の手に持ったカンペをぎこちなく読み上げた。
「今回のイベントは美夏《みか》様プロデュースによるすぺしゃるでわんだふるな一品となっております。皆様、心してご覧《らん》になってください。では美夏様――どうぞ!」
リビングの入口に向かって手をかざす。
それと同時に居間《いま》内の照明がふっと落とされ、続いてどこからかバ――――――――――ン とやたらと賑《にぎ》やかなドラの書が鳴《な》り響《ひび》く。
そして居間のドアの向こうから現れたのは――
「メリ〜クリスマ〜ス♪」
「……(無言で恥《は》ずかしそうに)」
「なっ……」
――サンタ姿《すがた》の、美夏と春香《はるか》だった。
「こちらが美夏様と春香様によるメインイベント……ええと、燃《も》え盛《さか》る炎《ほのお》のサンタ祭 美夏ちゃんサンタと春香ちゃんサンタが僕らの街にやってきた♪≠ノなります」
二人とも赤と白の定番サンタルックに少し大きめのサンタ帽子、お揃《そろ》いの赤いブーツで、手には色とりどりのクリスマスケーキを持っている。まあなんかサンタにしてはやけにスカートの丈《たけ》が短いように見えることについてはそこはかとなく一言《ひとこと》物申したいところなんだが……それはそれで完膚《かんぷ》なきまでに眼福《がんぷく》――ご、ごほん、かわいらしいので突っ込まないことにしよう。
「えへへ〜、おに〜さんどうどう? かわいい? 嬉《うれ》しくて目から血が出そう? あ、どっちかといえば鼻からかな〜♪」
そんなことを言いながら美夏《みか》がにやにやと迫《せま》ってくる。
「ほら見て見て、これわたしたちが自分で作ったんだよ。ここのふわふわとかがいい感じでしょ〜? 雪虫をイメ〜ジしてみたんだ〜」
「あ、ああ」
いやせっかくの自作|衣装《いしょう》を披露《ひろう》したいのは分かるが、あまりスカートの裾《すそ》をひらひら手で持ち上げるのは目のやり場に困るというか……
だが俺のそんな思春期《ししゅんき》な戸惑《とまど》いを根本的なやる気のなさと勘違《かんちが》いしたのか、
「ん〜、なんかいまいちな反応《はんのう》〜。目がばちゃばちゃってバタフライを泳いでるってゆうか……あ、そっか〜」
そこで美夏はにんまりと笑って、
「何といってもおに〜さんにはやっぱりお姉ちゃんだよね。――ほらお姉ちゃん、せっかくの晴《は》れ姿《すがた》なんだからちゃんとおに〜さんに見せなきや♪」
「え、あ、は、はい」
ツインテール娘に押されるようにしておずおずと前に出て来た春香《はるか》。
右[#誤植? どちらも右手であるが、わからないのでそのまま]手で白いふわふわのついたスカートの裾を押さえ、残った右[#誤植? どちらも右手であるが、わからないのでそのまま]手で落ちてきそうなぶかぶかの帽子を支えたまま控《ひか》えめにこっちを見上げてくると、
「え、えと……どうでしょうか?」
「あ、え……」
「さ、さんたくろ〜すさんです。え、えと……め、めりくり、ですか?」
恥ずかしそうにはにかみながら、ちょこんとスカートの両裾を指でつまむ(久々のはにトラポーズ=j。
「……」
……やべぇ。
これはもうほとんどプレゼントをくれるっていうよりも私がプレゼントですって感じであり放っておくと理性《りせい》が火を点《つ》けられたダイナマイトのごとくことごとく木《こ》っ端《ぱ》微塵《みじん》に砕《くだ》けてバラバラになっちまいそうというか……いや自分でも錯乱《さくらん》してるのはよく分かるんだが、とにかくそれくらいあり得ないかわいさを誇《ほこ》っているってことなんだよ。
「あー、に、似合ってるぞ。いいんじゃないか」
とりあえず何を言っていいのか分からんかったためそう返すと、
「ほ、ほんとですか?」
「あ、ああ。すげぇいい感じだ」
「あ、ありがとうございます! 裕人《ゆうと》さんにそう言ってもらえると、それだけで私、胸《むね》がどきどきして……」
「……」
「……(うつむきながら頬《はお》を赤らめている)」
そんな恥じらう姿《すがた》もまたかわいくて……胸《むね》がドゴンドゴンと爆発《ばくはつ》しそうなほど脈動《みゃくどう》する。
視界《しかい》に入ってくるのはもはや春香《はるか》(Withサンタルック)の姿のみ。むう、なんか……気恥《きは》ずかしいな。
「……」
「……」
互《たが》いに向かい合ったまま沈黙《ちんもく》していると。
「あ〜あ、なんか二人だけの世界を作っちゃってる。冬なのに暑いな〜」
「春香様、裕人《ゆうと》様〜、私たちのことも忘《わす》れないでくださいね〜」
「――(こくこく)」
じと目になった美夏《みか》と、その後ろに控《ひか》えていた那波《ななみ》さんとアリスがにゅ〜っと脇《わき》から顔を出してきた。
「え、あ、おお」
「は、はい」
慌《あわ》ててそっちへと向き直る。
「どうですか〜、私たちのコスチュームは〜?」
「――じ〜(返答を求める目)」
「あ、いや、二人とも似合《にあ》ってると思いますよ」
ちなみに那波さんとアリスの二人はトナカイの格好《かっこう》をしていた。
ツノの生えた薄茶色《うすちゃいろ》の着ぐるみ。二人ともよく似合っていて――特にちびっこメイドのアリスの方はハマりにハマりまくっていて、アブない剥製《はくせい》収集家にガチで狙《ねら》われてしまいそうなくらいの相当にかわいらしい出来である。
――と、ここまではいい。
クリスマスといえばサンタでありサンタといえばトナカイだ。この二つはもはや切っても切れない関係と言ってもいいだろう。だからトナカイがいるのは別におかしなことじゃない。
「……」
だがなぜかその中に紛《まぎ》れて……なんかシロクマがいた。
真っ白な衣装《いしょう》(毛皮)に身を包《つつ》んだ無口メイド長さん。
「………………がおー(真剣《しんけん》)」
「…………」
まあ冬の生き物|繋《つな》がりってことでこれはこれでいい…………のか? いやシロクマとトナカイはどう見ても捕食側《ほしょくがわ》と被捕食側の関係だろ。てかこの人、時々|忘《わす》れそうになるけどこれで乃木坂《のぎざか》家《け》メイド隊の全てを取り仕切る序列《じょれつ》第一位のメイド長さんなんだよな……
「……」
世の中これでいいのかと微妙《びみょう》に複雑な気分になっていると、
「あらあら、みんなかわいいわね。うふふ、まるでお人形さんとヌイグルミさんみたいよ」
秋穂《あきほ》さんが微笑みながら歩み寄ってきた。
「お母さんも着る? まだたくさん衣装《いしょう》は余《あま》ってるからさ〜」
「そうね あと十年若かったら考えるわね」
秋穂さんが苦笑《くしょう》気味《ぎみ》に笑い、
「いえいえ〜、秋穂様なら今でも全然だいじょうぶですよ〜」
「……ばっちり可能《かのう》だと思われます」
「――(こっくり)」
「あらあら、そんなにおだてても何も出ないわよ。うふふ」
とまあそんな風に和《なご》やかな雰囲気《ふんいき》で盛《も》り上《あ》がっていたのだが。
その状況を快く思わない人物が約一名ほどいた。
「お、お前たち、な、ななな何て格好《かっこう》をしておる! な、何だ、そのどこかのクラブ(アクセントはク=jのような衣装……」
春香《はるか》父《ちち》だった。
顔を今|爆発《ばくはつ》したばかりの活火山のマグマのように真っ赤にしながら両腕《りょううで》を振《ふ》り回《まわ》し、地団駄《じだんだ》を踏《ふ》みまくっている。
「ま、まさか次は胸《むね》のところにリボンでも巻いて『プレゼントは……私です』とか言い出すんじゃないだろうな! い、いいいかんぞ、そんな婦女子《ふじょし》にあるまじきふしだらな行為は! だれが許しても私だけは――」
「……」
さっきの俺と同じ発想《はっそう》だった。てか俺の発想はキレてトリップした春香父《おっさん》(年齢三回りくらい上)と同じなのか。ちょいヘコむな……
「と、とにかく今すぐに何か上に羽織《はお》るんだ。ほ、ほれ、私のコートを貸してやろう。これは防弾《ぼうだん》仕様《しよう》になっているからそこの男のタチの悪いマグナムのような視線《しせん》にも……」
さらにヒートアップ(悪い方向に)する春香《はるか》父《ちち》に、
「も〜、さっきからうるさいな〜。ノリの悪いお父さん、きらい」
美夏《みか》が呆《あき》れたようにそう言った。
「キ、キライ……?」
「そだよ。せっかくのクリスマスパーティーなのに文句ばっかりでさ〜。お姉ちゃんもそう思うよね〜?」
「あ、え、えと……」
突然《とつぜん》振《ふ》られた春香はあわあわとして、
「その、きらいというのは言《い》い過《す》ぎだと思いますけれど、もう少し器量《きりょう》を広くしてもらえたらとは思います……」
「あ、な、は、春香……」
その言葉《ことば》に春香父はまるで世界の終わりのような悲愴《ひそう》な顔になり、
「み、美夏だけでなく春香にまで…………。お、おのれ、これも全てそこのイエダニ(ダニ目《もく》中気門《ちゅうきもん》亜《あ》目《もく》オオサシダニ科)のせい……こうなったら――」
両手で頭を抱《かか》えながらヘッドバンキングすると、
「し、死なばもろとも……貴様のメガネを叩《たた》き割《わ》って私のサングラスも茶毘《だび》に付してくれるわっ!」
「げ?」
懐《ふところ》から『死屍累々《ししるいるい》』を取り出しそのまま襲《おそ》い掛《か》かってきた。ヤバイ、や、殺《や》られる!?
――と、
「あらあら、あれほど今日は暴《あば》れちゃだめですって言ったのに、困った人ね。仕方《しかた》ないわ。――アリスちゃん」
「――(こくり)」
秋穂《あきほ》さんの言葉《ことば》にそれまでトナカイ姿《すがた》でこくこくとホットココアを飲んでいたちびっこメイドが小さくうなずき、
次の瞬間《しゅんかん》。
「ごぼおっ!?」
二本のツノの生えた茶色い影《かげ》が閃光《せんこう》のような速さで瞬《またた》き、まさに俺の眼前《がんぜん》で『死屍累々《ししるいるい》』を振《ふ》り上《あ》げていた春香《はるか》父《ちち》が、どこぞのアクの強い根菜《こんさい》類《るい》を彷彿《ほうふつ》させる妙《みよう》な声とともにズルズルとその場に崩《くず》れ落《お》ちた。
「ごくろうさま、アリスちゃん」
「――(こく)」
秋穂《あきほ》さんの労《ねぎら》いの言葉《ことば》にちびっこメイドがやっぱりホットココアを口にしながら小さくうなずく。どうやら今の一瞬《いつしゅん》で何かをやったらしい。さすがは戦闘《せんとう》メイドといったところか。しかしまあ、何だか春香父の扱《あつか》いがどんどん雑になってきてるような気がするな。
「ぐ、お……」
「……」
床《ゆか》に倒《たお》れたままピクピクと活《い》き作《づく》りのイセエビのように時折《ときおり》痙攣《けいれん》する春香父(現|乃木坂《のきざか》家《け》当王《とうしゅ》。ペンタゴン、|イギリス情報局保安部《MI5》もフリーパス)を見て、少しばかり同情の念《ねん》を覚《おぼ》えたのだった。
6
まあそんな感じに全体的にはまったり和《なご》やかに、部分的にはさっくり殺伐《さつばつ》と、クリスマスパーティーは進んでいった。
ケーキや料理、飲み物を食べて飲んで色々なことを語り、皆で楽しく笑い合う。
この上なく楽しい時間。
秋穂さんと玄冬《げんとう》さん(昏倒中《こんとうちゅう》)は途中《とちゅう》て用事があるからと言って菖蒲《あやめ》さん運転の軍用ヘリに乗って帰っていってしまったが(何でも秋穂さん主催《しゅさい》のクリスマス晩餐会《ばんさんかい》があるらしい)、それでもかしましツインテール娘、にっこりメイドさんを筆頭《ひっとう》としてナチュラルハイテンションなメンバーは残っていたため、賑《にぎ》やかさに変わりはなかった。
「さ〜、うるさいお父さんも帰っちゃったことだし、これから盛《も》り上《あ》がるよ〜♪」
サンタルックのままの美夏《みか》が片手を元気よく天井に《てんじょう》向かって突き上げてそう宣言《せんげん》する。
「今日は日付が変わって朝日が昇《のぼ》るまで大ブレイクだよ! そのためにちゃんとスケジュールも調整したんだから。というわけで……ふっふっふっ、今夜は寝《ね》かさないからね、おに〜さん♪」
「そうですね〜。ハッスルしていっちゃいましょう〜!」
「……不眠不休《ふみんふきゅう》です」
何がというわけで≠ネのかいまいち分からんがそういうことらしい。
まあ今日これからも明日も見事《みごと》なまでに予定はないことだし、それ自体は別に問題はないんだがな。
「すみません 美夏《みか》たちが勝手に話を進めてしまって……」
やたらと張り切るツインテール娘たちを眺《なが》めながら、春香《はるか》が申し訳なさそうな顔でそう言ってきた。
「他所様《よそさま》のおうちなのに、あんなに大騒《おおさわ》ぎをして……」
「いや 別に構《かま》わんぞ」
「え?」
「これくらいなら俺はまったく気にならんし、むしろ賑《にぎ》やかでいい感じだ」
それにどこぞのアホ姉たちのおかげで、どうせウチはいつもこんなもんだ。今さら騒がしいも何もない。
「そうですか? そう言っていただけると……」
ちょっとほっとしたような表情になる。てか春香がそこまで気にするようなことじゃないと思うんだがな。
「さ、せっかくだし俺たちも加わるか。クリスマスなんだし、少しくらいハメを外してもバチは当たらんだろ」
春香を連《つ》れて喧騒《けんそう》の輪《わ》に入ろうとして、
「あ、あの裕人《ゆうと》さん……」
きゅっと、後ろから服の裾《すそ》を掴《つか》まれた。
「ん?」
どうしたんだ?
振《ふ》り返《かえ》ると春香は何かを心に決めたように俺の顔を見上げて、
「え、ええと、この後少し時間をとっていただけませんでしょうか?」
「時間?」
「は、はい。その、二人で少しお話ししたいことがあるというか、お渡《わた》ししたいものがあるというか……」
周《まわ》りをきょろきょろと見回しながら言う。む、これはもしかしてあれか、心ときめくプレゼント交換《こうかん》への伏線《ふくせん》ってやつか。
「ああ、大丈夫《だいじょうぶ》だ」
何にしても断《こと》わる理由《りゆう》はないのでうなずくと、
「ほんとですか!」
春香の表情がぱ〜っと輝《かがや》く。
俺としてもプレゼントを渡《わた》すのはやはり二人きりの時の方がいいからな。
「だったらどこか静かな場所の方がいいよな。……俺の部屋《へや》とかでもいいか?」
「は、はいっ」
まあ美夏《みか》たちのあの張り切りようでは俺の部屋でも平穏《へいおん》が保《たも》たれるかどうかは分からんのだが、それでも他よりはマシだろう。
「ん、なら俺の部屋で――」
俺がうなずきかけ、
「ほらおに〜さん、お姉ちゃん、そんな隅《すみ》っこで何してるの〜!」
と、そこでリビングの中央からマイクを通した美夏の呼《よ》び声《ごえ》が飛んできた。
「これからみんなでカラオケ大会をやるんだから、二人だけでお話ししてないで早くこっちに来てよ〜」
「あ、は〜い」
「おう」
二人|揃《そろ》って返事をする。
「んじゃ、また後でだな。適当《てきとう》に場が落ち着いたら部屋に行くか」
「はい、分かりました」
そううなずき合って、その場は二人でカラオケ大会へと加わったのだった。
で、カラオケ大会が始まって三十分ほどが経過。
ノドの渇《かわ》きを覚《おぼ》え水分|補給《ほきゅう》のために台所までやって釆たついでに、春香《はるか》たちにも飲み物(カルピス)を差し入れるために、俺はチョコチョコと動いていた。
「濃《こ》さはこれくらいで大丈夫《だいじようぶ》か……」
カルピス:一対水:三の黄金比《おうごんひ》に従《したが》ってコップに乳白色《にゅうはくしょく》の原液《げんえき》を入れていく。
「あとは水、水っと……」
居間《いま》からはのりのりでカラオケを歌っている美夏たちの声が聞こえてくる。
流行《はや》りのポップスを歌う美夏、それにハモリを合わせる那波《ななみ》さん、定番のクリスマスソングを選択《せんたく》する春香、そしてなぜかシューベルトの『魔王《まおう》』を歌っている葉月《はづき》さん。見事《みごと》な毛並《けな》みの立派《りっぱ》なシロクマがマイクを握《にぎ》り締《し》めて歌曲って、シュールだ……
葉月さんの「お父さ〜ん、お父さ〜ん〜♪(美声)」を聞きながらそれぞれのコップに水を加えていく。
――いいもんだな、こういうのも。
春香じゃないが、そんなことを思う。
ここ最近のクリスマスの過《す》ごし方といえば、去年のルコたちの世話《せわ》を筆頭《ひっとう》にグダグダなもんがほとんどだった。クラスの連中と適当《てきとう》に集まってオールでファミレスでだべったり、信長《のぶなが》にワケノワカラン期間|限定《げんてい》のイベントに付き合わされたり、三馬鹿《さんばか》と延々《えんえん》人生ゲームをしたり、そんなのばっかりである。
いやまあそれもそれでそれなりには楽しかったんだが、それでも今回のホームパーティーには遠く及《およ》ばない。
こんなにクリスマスをクリスマスらしく過ごしたのは、もしかしたら人生で初の経験《けいけん》かもしれん。特に春香《はるか》のサンタ姿《すがた》とか春香のサンタ姿とか春香のサンタ姿とか。
「……」
いや全部春香のサンタ姿だろって突っ込みはナシの方向で。
さて。
まあ色々グダグダと考えこんじまったが、そろそろ戻らんと美夏たちがうるさいだろう。
「よっこらせっと」
我ながらオヤジくさいかけ声とともにカルピスのビンを持ち上げ、冷蔵庫にしまう。そのままコップの載《の》ったトレイの置いてあるテーブルに戻ろうとして、
――その時だった。
グラリ。
世界が、大きく斜《なな》めに傾《かたむ》いた。
「……え?」
続いて、傾いた世界がそのままグルグルと回り始める。な、何だこれは? いつからウチはソロで回転運動をするパニックハウスになったんだ?
などと考えてる内に、
「な……」
全身から力が抜《ぬ》け、床《ゆか》に倒《たお》れこんでしまう。
頬《ほお》に触《ふ》れる冷たい感触《かんしょく》。
まるで芯《しん》の切れかけた豆電球みたいに、どんどんと視界から光が消えていく。
そんな中 ぱだぱたとこちらへとやって来る足音がかすかに聞こえた。
「あ、裕人さん、よろしければ私も運ぶの手伝いま――え、ゆ、裕人さん!?」
慌《あわ》てたような春香の声が遠くに聞こえる。
「ゆ、裕人さん……だ、だれか、だれか来てください! 裕人さんが、裕人さんが……!」
0
真っ暗だった。
上も下も左も右も何もかも野生のシマウマの白くない部分のように真っ暗で、黒以外に何も見えない。というか光も色もなく、かすかな音すらも聞こえてこない。
完全な暗闇《くらやみ》。
まるで子供の頃ルコに地底人《ちていじん》ゴッコと称して押入れの中に閉《と》じ込《こ》められた挙句《あげく》に、きれいさっぱり忘れ去られてそのまま八時間ほど放置《ほうち》された時みたいだった。
「……」
いやここはどこなんだろうね? まさかこの歳になってまたルコが地底人に目覚《めざ》めたとは思えない……とも言い切れないのが怖《こわ》いところだが、生憎《あいにく》今日はやつは出かけていて帰ってこないため、それはまあないと言っていいだろう。
だとすると本格的《ほんかくてき》にここがどこだか分からなくなってくる。
井戸の中か、落とし穴の底か、はたまたどこぞの夜の国か。うーむ、不明だ……
そんなことを考えていると。
ふわり。
ふと、手に何かの感触《かんしょく》を覚《おぼ》えた。
温《あたた》かくて、柔ら《やわら》かくて……そしてとても優《やさ》しい感触。
――何だ、これは?
見ようとしてもなぜか身体が動かせず見ることができない。だがそれに触《ふ》れているとやたらと心が落ち着く。まるでそこから直接に優しい波動《はどう》が伝《つた》わってくるというか。イルカ超音波《ちょうおんぱ》の発信機か、あるいは接触型《せっしょくがた》のトランキライザーか何かか?
心地《ここち》よかったのでとりあえず握《にぎ》ってみると、握り返してきてくれた。
ぎゅっ。
さらに温かさが伝わってくる。
むう、なんかいい気分だ……
手に取っているだけで、何やら身体がフワフワと宙《ちゅう》に浮《う》くような、そんな感じがしてくる。
温かい水の中で浮いているような心地。
ああ、気持ちいいな……
次第《しだい》に意識《いしき》が上方へと浮上《ふじょう》していき――
「裕人《ゆうと》さんっ!?」
「え……」
目を開けると、そこには俺の手を両手て握《にぎ》り締《し》めて目に涙《なみだ》を浮《う》かべる春香《はるか》(サンタルック)の姿《すがた》があった。
「ゆ、裕人《ゆうと》さん、だいじょうぶですかっ!」
「はる、か……?」
「よ、よかった、裕人さん、無事《ぶじ》で……」
俺の右手を握り締めたまま、声を詰《つ》まらせてそう言ってくる。「ほんとによかったです……」
「?」
状況《じょうきょう》が分からずにただ頭上《ずじょう》にハテナマークを浮かべていると、
「おに〜さんが目を覚ましたのっ!?」
そんな声とともにどたどたと音がして、今度は血相《けっそう》を変えたツインテール娘がドアから飛びこんできた。
「おに〜さん! 平気なの? わたしのこと分かる?」
「ん? ああ」
「ほんとに!? それじゃあ刑法一一〇条は? ルート七はいくつか分かる?」
「え? いや……そんなもん分からんぞ」
刑法なんてハナから知らんし、ルートも三とか五までなら分かるが七なんてこれっぽっちも覚《おぼ》えちゃいない。
すると美夏《みか》は、
「あ、だいじょぶだ。いつものおに〜さんだ……」
「おい……」
それはどういう意味だ。
「よかった〜。台所は狭《せま》いから、流し台に頭でも打って記憶《きおく》喪失《そうしつ》とかになってたらどうしようかと思ったんだから〜」
「台所? 頭……? ……あ」
そこでようやく記憶がよみがえってきた。
ほんの少し前の出来事《できごと》。
そうだ、確《たし》か俺はクリスマスパーティーの最中《さなか》に台所でカルピス(お客様仕様)を作っていて、そうしたら急に周《まわ》りがグルグルと回りだしてそのまま……
「……もしかして俺、倒《たお》れたのか?」
自分の身に起こったことへの推測《すいそく》を口にすると
「そうだよ〜。お姉ちゃんが発見して、わたしたちが見に行ったら台所の床《ゆか》にべったりばったりと五体《ごたい》投地《とうち》してて、しかもなんか時々びくんびくんて悪霊《あくりょう》憑《つ》きみたいになってて……」
「……」
それはかなりヤな倒れ方だな……
「呼《よ》んでも揺《ゆ》すっても全然起きないんだもん。だからみんなでひとまずおに〜さんの部屋《へや》まで運んだの。大変《たいへん》だったんだからね、おに〜さん、見た目よりも重くて」
「そうだったのか……」
やっと事態《じたい》が完全に飲み込めた。要するに気絶《きぜつ》→昏倒《こんとう》→発見→運搬《うんぱん》の過程《かてい》を経《へ》てこうして今俺はベッドに横たわってるってわけか。とすると春香《はるか》たちにはだいぶ迷惑《めいわく》をかけちまったってことになるな。
「スマン、心配《しんぱい》かけて……」
謝《あやま》りの言葉《ことば》を口にすると美夏《みか》は両手を腰に当てて、
「ほんとだよ。も〜、おに〜さんは人騒《ひとさわ》がせなんだから。今度から倒れるんならあらかじめそう言っといてよね。そしたら倒れる先にトランポリンを用意しといたげるよ」
「うふふ〜、口ではこう言っていますけれど美夏様、とっても裕人様のことを心配しておられたのですよ〜?『お、おに〜さんが死んじゃった! どうしよう、どうしよう! や、やだよこんな最期《さいご》なんて〜!』とほとんど大泣きで……」
「な、那波《ななみ》さん!」
その言葉に美夏が顔を真っ赤にして反応《はんのう》した。
「う、うそだからね! 今のは那波さんが適当に言ってるだけで、わ、わたしは泣いたりなんかしてないから! いい、おに〜さん?」
「そんなに照《て》れなくても〜」
「て、照れてなんかないもん!」
さらに顔をか〜っと紅潮《こうちょう》させて、美夏はぶんぶんとツインテールを振《ふ》り回《まわ》す。むう、何はともあれ心配してくれていたのは確かみたいだな。
「うふふ、素直《すなお》でない美夏様もかわいらしいですよ〜」
「だ、だから違《ちが》うのっ!」
しばらくの間、美夏は那波さんとそんな微笑《ほほえ》ましい(?)やり取りをしていたが、やがてくるりとこっちを向いて、
「と、とにかく、今はお医者さんを呼んでるところだからそれまでおに〜さんは大人しくベッドで安静《あんせい》にしてること! い〜い?」
「あ、ああ」
びっ、と俺の顔を指差してそう言った。
その傍《かたわ》らでは、
「……ご無事《ぶじ》で何よりでした」
「――(こくこく)」
無口メイド長さんとちびっこメイドがそううなずき、
「…………」
その間も、春香《はるか》はずっと目に涙《なみだ》を浮《う》かべたまま俺の手を握《にぎ》ってくれていた。
1
で、それから五分ほどして。
美夏《みか》の言うところのお医者さんが到着《とうちゃく》したわけだが。
「……」
「遅《おそ》くなってすみません。こんにちはみなさん。――あ、いえ、今の時間だとこんばんはですね。こんばんは、みなさん(にこにこ)」
「……」
なぜか俺の部屋《へや》で穏《おだ》やかに笑っていたのは、新しいメイドさんだった。
見たことのないふんわりウェーブの優しそうなメイドさん。いや医者を呼んだんじゃなかったのか?
するとその新メイドさんは、
「はじめまして。ええと、綾瀬《あやせ》裕人《ゆうと》様でいらっしゃいますよね? 私は乃木坂《のぎざか》家《け》メイド隊|序列《じょれつ》第五位、雪野原《ゆきのはら》鞠愛《まりあ》と申します。主にみなさまの健康面でのお世話《せわ》を担当《たんとう》させていただいております」
「あ、え……」
「以後、よろしくお願いしますね」
柔《やわ》らかに微笑《ほほえ》んでぺこりと頭を下げた。
「鞠愛さんはお医者さんなんだよ。乃木坂家の医療《いりょう》班《はん》筆頭《ひっとう》で、わたしたちの普段《ふだん》の健康管理とか、病気になった時のお世話とかをしてくれてるの。ん〜、学校でいうところの保健室のお姉さんみたいなもんかな〜」
美夏がそう説明してくれる。
なるほど、てことはこの人は医者兼メイドさんでいわばドクターメイドさんってわけか。いやメイドで医者なんだからメイドドクターさんか? むう、分からん……
微妙《びみょう》にダルさが残る頭でそんな実にどうでもいいことで悩《なや》む俺に、
「メイド隊においてはですね〜、序列十位以内の者はすべてそれぞれの専門分野を持っているのですよ〜。例えば七位の沙羅《さら》ちゃんたちは運転、八位のアリスちゃんは戦闘《せんとう》、そして五位の鞠愛《まりあ》さんは医療といった具合にですね〜」
那波《ななみ》さんが補足《ほそく》をしてくれた。
「ちなみに三位以上の葉月《はづき》さんと私たちはその全てを平均的にこなせるオールマイティーな能力を持っていることが条件なのです〜」
「……です」
「……」
そうなのか。よくは分からんが、乃木坂《のぎざか》家《け》のメイド隊にも色々あるんだな……
改めて何でもありの私設メイド部隊(志願《しがん》倍率八十倍以上)の奥深さに感心していると、
「ではでは、自己紹介も終わりましたところでお話を進めさせていただきますね。――裕人《ゆうと》様、とりあえず生まれたままの姿《すがた》になってしまいましょうか?(にっこり)」
「え?」
鞠愛《まりあ》さんが、虫も殺さないような笑みでそんなことを言い出した。「あの、今、何て……?」
「生まれたままの姿になりましょうと申し上げました。速《すみ》やかに実行していただけると嬉《うれ》しいのですが(にこにこ)」
にこにこ笑顔《えがお》のままそう迫《せま》ってくる。
「……」
一見《いっけん》はまともそうに思えたけどやっぱりこの人も乃木坂家のメイドさんか……
クローバーの群生《ぐんせい》の中に四葉のクローバーを見つけたかと思ったらやっぱり普通の三つ葉のクローバーだった時のような気分になる俺に、
「ええと……恥ずかしいのは分かりますけれど、診察《しんさつ》のためですので」
「え?」
「その、聴診器《ちょうしんき》を当てるにせよ触診《しょくしん》をするにせよ、お洋服を脱いでもらえないと診察ができないですから……」
鞠愛さんはちょっと困った顔で言った。
「あ、ああ、そういうことですか……」
「? あの、そういうこと……とは?」
「あ、いえ何でもないです」
いきなり生まれたままの姿だとか言い出すから何かと思ったが…。いや、別にあれだ、おかしなことを考えてたわけじゃないぞ?
「さ、というわけで鞠愛さんの診察が始まりますから、みなさんお外に出てましょうね〜」
「え? あ、は、はいっ」
「あ、そ、そっか。わたしたちがいたんじゃ脱ぎにくいよね」
「――(こ、こくこく)」
那波《ななみ》さんの言葉《ことば》に三者三様に顔を赤くした春香《はるか》たちがあせあせと部屋《へや》を出て行く。
一方のにっこりメイドさんと無口メイド長さんの二人は、なぜかそのまま某有名フライドチキンチェーンのマスコットキャラクターのようにその場に直立していて――
「那波さん、葉月《はづき》さん?」
「はい〜?」
「その、お二人は出て行かないんですか?」
いかに診察上《しんさつじょう》とはいえいちおう上半身は生まれたままの姿《すがた》になるわけである。女の人は少ない方がいいんだが……
「あ、ええ〜。私たちはいいのです〜。というよりも鞠愛《まりあ》さんのお手伝いをしないとなりませんから〜」
「……残る必要《ひつよう》があります」
「……」
「どうぞ私たちのことは二酸化炭素とでも思ってばんばん脱《ぬ》いじゃってください〜」
「……脱衣《だつい》はかっこ悪いことではありません」
「……」
とのことらしい。うわ、やりにくいことこの上ないな……
「では診察を始めますね。聴診器《ちようしんき》を当てますので、上着のボタンを外してください」
「あ、はい」
「いい子ですね。それでは大きく息《いき》を吸ってくださいね」
「こうですか?」
真剣《しんけん》に診察を受ける俺の傍《かたわ》らで、
「わー、裕人様、意外に背中《せなか》が広いですね〜」
「……広い背中は男の子の証《あかし》…………(きら〜ん)」
メイドさん二人が楽しそうに黄色い声を上げていた。いや手伝いはどうしたんだよ……
「……」
とまあそんな感じで半ば衆人《しゅうじん》環視《かんし》露出《ろしゅつ》プレイみたいな診察を終え、
「――おそらく過労《かろう》ですね。過労による軽い発熱と消耗《しようもう》、貧血《ひんけつ》が見られます。きっとそれらが合わさって一時的に意識《いしき》を失ったのではないでしょうか」
鞠愛さんが出した結論はそれだった。
「特定の疾患《しっかん》というわけではありませんのでそこまで深刻《しんこく》なものではないですが、いちおう栄養補給のためのお注射《ちゅうしゃ》を打っておきました。念のために今日一日は安静《あんせい》にすることをお勧《すす》めしますね(にっこり)」
「安静……」
それじゃあ春香《はるか》たちとのパーティーは……
「う〜ん、残念だけどこれじゃパーティーはここで終わりだね〜」
診察終了とともに戻ってきていた美夏《みか》が腕《うで》を組みながら言う。
「まだまだ夜はこれからだけど、おに〜さんの身体には代えられないし。えと、こういうのって何てゆうんだっけ…プライスレス?」
「そうですね〜。お金で買えない価値《かち》がある……でしょうか〜?」
「……同意します」
「――(こくり)」
まあなんか一部ズレている気もしなくもないが、那波《ななみ》さん、葉月《はづき》さん、アリスもうなずいてくれる。
そして春香《はるか》も、
「何よりも裕人《ゆうと》さんのお身体が第一です。とにかく今はゆっくりと休んでください……」
行方不明の雛鳥《ひなどり》の身を案じる親鳥みたいな心配《しんぱい》そうな顔で、俺の右手をぎゅっと握《にぎ》りながらそう言ってくれた。うう、なんか皆の優《やさ》しさが身に染みるな……
そんな感じでしばらくの間、皆で傍《そば》に付いていてくれて、
「――よし、それじゃ時間も時間だしあんま長居《ながい》しておに〜さんを疲《つか》れさせても悪いから、そろそろわたしたちは帰ろっか」
美夏《みか》が皆の顔を見回して言った。
「そうですね〜、それがよろしいかと〜」
「……カラスが鳴《な》くから帰ります」
「――」
それに那波《ななみ》さんたちも従おうとして、
「あ、でも今日ってルコおね〜さんとか帰ってこないんだっけ? だとおに〜さんをお世話《せわ》する人が残ってた方がいいのかな?」
思い出したかのように美夏が言った。
「あ、いや、それは大丈夫《だいじょうぶ》だ」
「そなの?」
「ああ。今はちょっとフラフラする程度《ていど》だし、何とかなると思う」
ただでさえ色々と迷惑《めいわく》をかけたってのに、これ以上|余計《よけい》な手間《てま》をかけさせたくはない。まあ少しばかり不安といえは不安だが、ただの過労《かろう》だって話なので死にはしないだろう。
「だから皆は帰ってくれていいぞ。後は一人で平気だ」
なのでそう言ったのだが。
だがそこで
「だ、だめです!」
――声が響《ひび》き渡《わた》った。
決して大きくはないのだが、この場にいる全員の注意を引き付けるほどの強い意思《いし》のこもった声。
声の主は――春香だった。
「春香《はるか》?」「お姉ちゃん?」「……春香様?」「あらら〜?」「――?」
皆の視線《しせん》が集中する。
「か、過労《かろう》を甘くみてはだめです! 過労は全ての疫病《えきびょう》と疾病《しっぺい》の原因……。この前、テレビでもやっていました。過労で倒《たお》れたバッハ先生がムリをして作曲活動を続けた結束《けっか》そのまま亡くなってしまわれて……春琉奈《はるな》様もずっとそのことを後悔《こうかい》していました。も、もしも裕人《ゆうと》さんがバッハ先生の二《に》の舞《まい》になってしまったら、私、私……」
「え、いや……」
「だ、だから、私は……」
言ってることはまあ間違《まちが》ってないような気はするんだが何もそこまで発展《はってん》させんでも……とは思うのだが、ぎゅっと自分の身体を腕《うで》で抱《だ》きしめるその必死《ひっし》な様子《ようす》を前に何も言えない。
「……」「……」「……」「――」
美夏《みか》たちもまた、ぽかんとした表情で普段《ふだん》はぽわぽわなお嬢様(現在|興奮《こうふん》中《ちゅう》)を見ている。
やがて春香もその周囲《しゅうい》の視線及び自分の言った言葉《ことば》の内容に気付いたのか、
「…………あ」
はっと我に返ったような顔になり、
「お、大声を出してしまってすみません……」
か〜っと顔を赤くしながら身体を小さくして下を向き、「で、でもどうしても心配《しんぱい》なんです。もうこんなに暗くなってきているのに、だれもいないお家《うち》に具合《ぐあい》の悪い裕人さんを一人きりにするなんて……。だから、私、帰りません。残って、裕人さんを看病《かんびょう》します。普段《ふだん》お世話《せわ》になっているのですからせめてこれくらいのことは……。だ、だめでしょうか……?」
「え、それは……」
正直その春香の気持ちは嬉《うれ》しいんだが、簡単《かんたん》にうなずけるようなことでもないような。
躊躇《ちゅうちょ》している俺に美夏が、
「ん〜、い〜じゃん。お姉ちゃんがそこまで残りたいっていうんなら大人しく甘えておけば。おに〜さんだってお姉ちゃんがいちゃまずいってわけでもないんでしょ?」
「それはそうだが、春香に迷惑《めいわく》が……」
「お姉ちゃんが迷惑だなんて思うわけないじゃん。自分でいたいって言ってるんだし、何てったって大切なおに〜さんのためなんだから」
「む……」
「そ、そうです。迷惑なんてとんでもないです!」
大きく身を乗り出して春香もそう主張する。
そこまで言われちゃ、あえて強く断《ことわ》る理由も見つからなかった。
「……分かった。それじゃあ頼《たの》めるか?」
「え?」
「残って、傍《そば》に付いててくれるか?」
「は、はいっ! だいじょうぶです。な、何があっても絶対《ぜったい》に離《はな》れません!」
俺の言葉《ことば》に春香《はるか》が大きくうなずく。いやそこまで気合を入れてくれんでもいいんだが。
「ん、それじゃ決まりだね♪」
美夏《みか》がうんうんとツインテールを縦《たて》に振《ふ》り、
「お父さんとお母さんのことは任《まか》せといて。わたしからうまく事情を説明しとくよ。てゆ〜かどうせ二人とも今日は帰ってこないだろうし」
「あ、すみません。よろしくお願いします」
春香がぺこりと頭を下げる。
「でねでね、お姉ちゃん」
「はい?」
「ちょっとこっちこっち」
「?」
首をかたむける春香を部屋《へや》の隅《すみ》まで誘導《ゆうどう》するとそこで美夏はこそこそっと耳打ちをして、
「――あ、そ、そうなのですか?」
「うん、だから、ごにょごにょ……」
「そ、そんな決まりが……は、はい、分かりました。それで……」
「詳《くわ》しいことはちゃちゃ〜っとこれに書いておいたから。後でちゃんと読んでおくよ〜に」
何やらメモ帳のようなものを手渡していた。
「――さ、じゃあ後はお姉ちゃんに任せることにして、わたしたちは帰るね。ばいばい、おに〜さん」
「失礼いたしますね〜」
「……ご養生《ようじょう》してください」
「――(ぺこり)」
そう言って、美夏、那波《ななみ》さん、葉月《はづき》さん、アリス、鞠愛《まりあ》さんが部屋から出て行く。
だがその途中《とちゅう》で、
「あ、そうそうおに〜さん」
「ん?」
ツインテール娘がにんまりとした顔で振り返り、
「二人きりだからって、襲《おそ》ったりしちゃだめだよ。何かあったらすぐにわたしたちが駆けつけるからね♪」
「……」
耳年増《みみどしま》め……
2
そういう次第《しだい》で、春香《はるか》と二人きりになったわけだが。
「……」
「……」
何やら落ち着かなかった。
身の周《まわ》りのちょっとしたことや細かい雑事は春香に任《まか》せておき俺は飛ぶことに疲《つか》れた小鳥ちゃんのようにノンビリ落ち着いて休息《きゅうそく》を取る……なんてことができるわけがなかった。
何せ状況《じょうきょう》が状況である。
時刻は夜九時。
狭《せま》い部屋《へや》の中、ベッドに横たわっている俺と、その傍《かたわ》らで毛布《もうふ》の裾《すそ》をせっせと直している春香。それはすなわち手を伸ばせばすぐそこに届く距離(デコピンの射程《しゃてい》圏内《けんない》)に春香がいるということであり、部星の中にはそこはかとなく春香の柔《やわ》らかい香《かお》りが漂《ただよ》っていて……
「……」
あー、なんか余計《よけい》に熟が上がってきそうなんだが。
基本的には心身ともにムダに健康な十七歳男子高校生に、この状況はヒメヘビの生殺しもいいところである。夜に自室で女子(それもミニスカサンタルック)と二人だけ。しかもそこにいるのは春香ときている。何というか、脳《のう》からドーパミンやらエンドルフィンやらがドピュドピュと垂《た》れ流《なが》されることこの上ない。
そんなことを考えていると春香はにっこりと笑って、
「? どうしました裕人《ゆうと》さん。何かお困りですか?」
「あ、いや」
「困ったことがあったら何でも言ってくださいね。今日は私が裕人さんの手足となりますから」
両手でぎゅっとグーを作ってそう言う。うう、健気《けなげ》だ……
そんな天然《てんねん》成分百パーセントのイノセントお嬢《じょう》様の姿《すがた》に、汚染《おせん》物質《ぶっしつ》にまみれて濁《にご》りきった自分を少しばかり自己|嫌悪《けんお》していると、
「あ、裕人さん。よろしければ、これからお身体の具合を見させてもらってもいいですか?」
「え?」
「あ、その、看病《かんびょう》の一環《いっかん》です。裕人さんのお身体のために、少しでも私にできることがあればと思いまして……」
春香が控《ひか》えめにそう言ってきた。
「それは構《かま》わんが…」
というか願ったりである。別に傍《そば》にいてくれるだけでも十分なのに看病《かんびょう》までやってくれるとは、至れり尽《つ》くせりだな。
――と、思ったのだが。
春香《はるか》はいきなりとてとてとこっちに近付いてきてオデコを出すと、
「でしたら……えと、まずはお熱を計らせてもらいますです。――おでこを出してください」
「……は?」
一瞬、《いっしゅん》何を言われたのか分からなかった。
「あの、お熱です。現状が分かりませんと今後の方針が立てられませんから……」
「いやそれはまあ分かるが……」
そうじゃなく、俺が訊きたいのは何だって体温計とか手とかじゃなくてよりにもよってデコ同士なんだよってことである。
すると春香は、
「え、でも女性が殿方《とのがた》のお熟を計る時にはおでこ同士の接触《せっしょく》により行うのがスタンダードなんですよね?」
「……」
「先ほど美夏《みか》に渡《わた》された乃木坂《のぎざか》家《け》に代々伝わる看病がいどらいん≠ノそう書かれているのですが……。何か間違《まちが》ってますでしょうか?」
手元のメモ帳を見ながら不思議そうな顔でそう言う。
……ナルホド。さっきの美夏の怪《あや》しい行動はそういうことだったのか。またあのツインテール娘はワケノワカランことを……
相変わらずのマセガキっぶりに呆《あき》れていると、
「というわけですので――失礼します」
「お……」
「動かないでくださいね」
頭に貼られていた冷却《れいきゃく》シートを剥がすと春香は両手で俺の頬《ほお》をそっと挟《はさ》み。
ぴたり、と。
俺が声を発する間もなく、そのかわいらしいオデコを額《ひたい》にくっ付けてきた。
「……!」
柔《やわ》らかく、そして少しだけひんやりとした感触《かんしょく》。
同時に心臓の鼓動が一気に九十六ビートにまで跳《は》ね上《あ》がる。
「えと……確か計る時の顔の角度はおでこを基点《きてん》として二十度で……」
「…………」
何やらぶつぶつと言っているのはおそらくまた美夏の差《さ》し金《がね》部分なんだろうが、そんなことはもはやどうでもよかった。というかそれどころではなかった。
目の前、それもほとんと吐息《といき》が交錯《こうさく》する距離《きょり》に春香《はるか》の顔。
長いまつ毛、大きな墟柏色《こはくいろ》の瞳《ひとみ》、小さな桜色の唇《くちびる》が俺を惑《まど》わすかのごとくふわふわと揺《ゆ》らめいている。
――い、いや何なんだこの状況《じょうきょう》は?
思わず自分に突っ込んじまう。
ある意味まっとうに浜辺なんかで二人で見つめ合っているよりも刺激的《しげきてき》なシチュエーションである。なんつーか、ヨーグルトは容器本体に入っているのよりもフタの裏に付いているやつの方が美味しく感じるようなもんと言おうか。
しかもよく考えてみりゃあ明るい場所でこんな間近《まぢか》(ほとんどゼロ距離)に春香の顔をジッと見るなんてのは初めてなんじゃないのか? めくるめく初体験《はつたいけん》。ぬ、意識《いしき》したらまた全身の発熱|細胞《さいぼう》が余計《よけい》な運動を……
「あれ? 何だかお熱が上がってきているような気が……」
オデコを付けたまま春香が器用にちょこんと首をかしげる。
「あー、気のせいだ、たぶん」
「ですけれど……」
「たぶんあれだ、知恵熱《ちえねつ》みたいなもんだから、特に心配《しんぱい》することないぞ」
「?」
俺はそう言ったものの、不審《ふしん》に思ったのかさらに強くオデコを押《お》し付《つ》けてくる春香《はるか》。
勢《いきお》いで、すべすべとした頬《ほお》の一部も触《ふ》れる。
「あ、なっ……」
「う〜ん、やっぱり少し熱《あつ》いような気がします。それに顔も赤くなってきて……」
「――っ」
もはやここまでだった。
俺は少しばかり強引《ごういん》に、オデコを付けたままこっちをじ〜っと見つめてくる春香を引《ひ》き剥《は》がし、
「と、とにかく大丈夫《だいじょうぶ》だ。少し熟はあるが、そこまでひどくはない」
「そうなのですか?」
「あ、ああ」
俺の言葉《ことば》にきょとんと首をかたむける。自分のやっている行動(オデコ接触《せっしょく》、半ほお擦《ず》り)についてまったくもって自覚《じかく》していない様子《ようす》である。
「えと……何だかよく分かりませんが、だいじょうぶならよかったです。えへへ」
ほわん、と微笑《ほほえ》む。
その笑顔《えがお》はまるで甘えてくる仔犬《こいぬ》のようで、思わず見ているこっちの口元が緩《ゆる》んでしまう類《たぐい》のものだった。
「……」
とりあえず突っ込みたいことは獅子座《ししざ》流星群《りゅうせいぐん》の数ほどあるが……まあかわいいからいいか。
「――では次に、添《そ》い寝《ね》をさせてもらいますね」
「へ?」
色々な意味でリミットブレイクギリギリだった熟計測を終えて、次に春香が言い出したのがそれだった。
「看病《かんびょう》がいどらいん≠レりゅ〜むつ〜です。熱を下げるには身体を温《あたた》かくして安静《あんせい》にするのがいいのですが、そのためには人肌の温もりが最適《さいてき》とのことですので」
メモ帳に目を落としながらにこにことそう微笑んでくる。その顔には怪《あや》しげなことこの上ない看病ガイドライン≠ノ対する疑いの色はまったく見て取れなかった。
「というわけですので……えと、不束者《ふつつかもの》ですがよろしくお願いしますね」
そんな合ってるんだか合ってないんだか微妙《びみょう》な台詞《せりふ》とともに、毛布《もうふ》の端《はし》っこを持ち上げて「んしょ、んしょ」と中に入ろうとしてくる。
「や、ちょ、ちょっと待て」
「え?」
慌《あわ》てて止める。
「いや、なんつーか、そこまでしてもらわんでも大丈夫《だいじょうぶ》だ」
身体を温かくするってのはまあ正論だが、それなら布団《ふとん》を重《かさ》ね掛《が》けするなり湯たんぽを使うなりパジャマに火を点《つ》けるなり、いくらだって方法はある。冬山じゃあるまいし、何も、その、人肌《ひとはだ》なんていう究極《きゅうきょく》兵器を用いる必要性《ひつようせい》はまったくもってない。
なので俺はそう言ったのだが。
だが春香《はるか》は、
「い、いいえ、今日は私の言うことを聞いてもらいます」
珍《めずら》しく強い調子でそう首を横に振《ふ》った。
「私、裕人《ゆうと》さんが無理《むり》をしているなんて全然気付かなかったんです。過労《かろう》で倒《たお》れてしまうほど毎日|忙《いそが》しく働いていたなんて、初めて知りました。も、もうあんなことはイヤです。倒れている裕人さんを見た時、胸《むね》が痛《いた》くて潰《つぶ》れるかと思って……」
「ぬ……」
「だ、だから、大人しく看病《かんびょう》されちゃってください。こ、ここだけは私、譲《ゆず》れないです」
「……」
「…………ぐすっ」
「……」
少しばかり涙《なみだ》ぐんだ目でそんな風に見つめられると、何だかこっちが悪いことをしているような気分になってくる。
「……」
……これはもう、しかたねえか。
「……分かった」
「え?」
俺はうなずき、
「春香の言う通りにする。やってくれ」
「あ……」
同じベッドで添《そ》い寝《ね》ってのはまたエマージェンシーなプレイだが、まあおかしなことにはならんだろう。俺が理性《りせい》の鬼《おに》となってジェントルマンをキープしてればいいだけの話だ。
――と思ったのだが。
「そ、それでは、お邪魔《じゃま》しますです」
毛布《もうふ》をめくりおずおずと隣に入ってきた春香。
その添い寝=iそばにいっしょに寝ることby辞書)は、考えてた以上に破壊力《はかいりょく》があった。
「……」
鼻腔《びこう》をくすぐるえもいわれぬフローラルな香《かお》り、小さな息《いき》づかい、布団の中の空気を通して伝わってくる温《あたた》かな体温。
それだけで、心臓の鼓動が今にもエンスト&発火を起こしそうなほどドドドドドドドドッとおかしな加速《かそく》を見せる。
おまけに俺のベッドはダブル仕様でも何でもなく、むしろ狭小《きょうしょう》な日本住宅に合わせてチョイスされた一人で寝るのも少しばかり窮屈《きゅうくつ》な安物仕様である。どんなに身を縮こめても身体のどこかの部分は春香《はるか》に接触《せっしょく》するわけで、ましてや寝返りなんぞ打とうもんならそのまま疾風怒涛《しっぷうどとう》のごとく覆《おお》い被《かぶ》さらんばかりの勢《いきお》いで……何と言うか、手足を一センチ動かすのすらためらわれる状況だった。
そんな中、
「あ、その、ベッドの温《ぬく》もり加減《かげん》はいかがでしょうか? 看病《かんびょう》がいどらいん≠ノはただ『男の子のお布団《ふとん》で添《そ》い寝《ね》をして人肌《ひとはだ》で温《あたた》めること♪』としか書いていなくて、私、よく分からないのですけど……」
「あー、い、いいんじゃないのか」
たどたどしく言ってくる春香にそう暖味《あいまい》に答える。というかこの状態《じょうたい》でこれ以上のことをされたら色々な意味で俺が限界《げんかい》を迎えちまう。
身体を丸太のようにしてジッと耐えていると、
「あ、裕人《ゆうと》さんのにおい……」
ぽつりと、春香がつぶやいた。
「え?」
「お布団から、裕人さんのにおいがします。中に入るまで気付かなかった……」
「ぬ、そ、そうか?一昨日干したばっかなんだがな……」
布団叩きでのスパンキング具合が足りなかったか?
だが春香は、
「何だろう……とっても優《やさ》しいにおい。何だかどこか懐《なつ》かしい感じがして、とっても落ち着きます」
「あ、え……」
「えへへ、充電《じゅうでん》、です」
「……」
……あー、もう、かわいいじゃねえか!
てか、んなこと言われるとどう返していいのか分からんぞ。
そんな俺に、春香はちょっと甘えたように口元を緩《ゆる》めながらきゅっとパジャマの裾《すそ》を掴《つか》んでくる。
「む、むう……」
これはこれでアオダイショウの生殺し(グレードアップ)もいいところだった。
加えてさっきから無用な身体的|接触《せっしょく》を避《さ》けるためムリヤリ身体を動かさないようにしていることから、かなり関節《かんせつ》及び筋肉《きんにく》に限界《げんかい》がきている。く、このままじゃ手足が攣《つ》っちまう。ベッドで寝《ね》ていて両手足|痙攣《けいれん》なんてあまりにもブザマだぞ……
「……」
こうなったらとりあえず身体の向きだけでも改善しょう。苦肉の策だが、それで少しは楽になるはずだ。そう思って全身に力を入れた、その時だった。
グー、ギュルギュルギュルギュル!
そんな音が、狭《せま》い布団《ふとん》の中に響《ひび》き渡《わた》った。
「……」
「……」
「あー、いやこれは」
出所《しゅっしょ》は俺の六つどころか二つにも分かれていない平たい腹。
――壮大《そうだい》な腹の音だった。
そういや最後に食ってからずいぶん経ってたか。しかし何もこんな時に鳴《な》らんてもいいだろうに……
だが春香《はるか》はくすりと笑って、
「すごい音……裕人《ゆうと》さん、お腹が空《す》いているんですね」
「や、まあ……」
にしたって我ながら耳をふさぎたくなるようなハデな音だったが。
布団の片隅《かたすみ》で微妙《びみょう》に恥《は》じらっていると、
「あの……よろしかったら何かお作りしましょうか?」
俺の顔を見ながら、春香がそんなことを言った。
「え、いいのか?」
「はい。看病《かんびょう》がいどらいん≠フぼりゅ〜むすり〜にもお食事の項目がありますし」
「……」
そんなもんもあるのか……
「あー、じゃあ頼《たの》めるか。冷蔵庫の中のものを適当《てきとう》に使ってくれていいから」
「りょうかいです♪」
そう言って、春香はベッドから跳ねるようにして出ていった。
「……」
うーむ、ホッとしたような残念のような、実に複雑な気分だね。
「はい、こちらになります」
「おお」
春香《はるか》が作ってきてくれたのは、土鍋《どなべ》いっぱいに入ったおかゆだった。
一面に玉子とネギとがちりばめられた玉子がゆ。ほかほかと湯気《ゆげ》を上げるそれは実にウマそうな匂《にお》いを発していて、熱で弱った胃腸《いちょう》からも火を点《つ》けられたヘビ花火のごとくムクムクと食欲が湧き上がってくるかのようだった。
「どうでしょう、消耗《しょうもう》状態《じょうたい》でも食べやすいようにと薄味《うすあじ》で作ったのでどこまでうまくできているのかは分からないのですが……」
「いや、めちゃくちゃうまそうだ」
「え、そ、そうですか?」
「ああ」
てか春香の料理の腕前《うでまえ》は保証済《ほしょうず》みである。うまそうではなく実際《じっさい》にうまいに違《ちが》いない。
「とりあえず食っていいか? もう腹が《へ》減って減って……」
「あ、はい。どうぞ」
俺の言葉《ことば》に春香は小さくうなずくと、
「では――あ、あ〜ん」
なぜかぎこちない手で、おもむろにレンゲをそっと差し出してきた。
「……」
「あ、えと、食べないのですか?」
不思議《ふしぎ》そうな顔で訊いてくる。
……まあもう訊くまでもないが、これが看病《かんびょう》ガイドライン≠ニやらにおける食事時の世界|標準《ひょうじゅん》なんだろう。ああ、そもそも乃木坂《のぎざか》家《け》では家訓《かくん》(秋穂《あきほ》さん制定)でそう決まってたんだったっけか。何にせよ、今さらこれくらいのことでは驚《おどろ》かない、驚かないぞ、俺は。
「あ、もしかして熱《あつ》かったですか? すみません、すぐに冷ましますね。ふ〜、ふ〜……」
「……」
そういうことじゃないんだがな。
だがそうだと心から信じて一生懸命《いっしょうけんめい》に冷ましてくれている春香を前にして、へタに突っ込むのは野暮《やぼ》以外の何でもあるまい。
なので、
「はい、冷めましたです。あ、あーん」
「お、おう」
これはもうこういうもんなのだと自分に言い聞かせ、言われるがままに差し出されるレンゲに対して口を開く。
「ど、どうぞ」
そこに春香が庭にやって来たヒヨドリを餌付《えづ》けする小学生のようにそっと適温《てきおん》になった玉子がゆを運んでくれる。
「ど、どうですか?」
「ああ、ウマイぞ」
「わ、ほんとですか」
春香《はるか》の顔がぱ〜っと輝《かがや》く。
「よ、よかったです。おいしくできていたか心配《しんばい》で……。あ、どんどん食べてくださいね♪ いっぱい作りましたから」
「ん、サンキューな」
そんな感じに、魅惑《みわく》の「ふ〜ふ〜」&「あ〜ん」を繰《く》り返《かえ》しながらおかゆを食べていく。
僅《わず》か十分ほどで、あっという間に土鍋《どなべ》の中は空《から》っぽになっていた。
「ごちそうさん。すげぇうまかった」
「おそまつさまです」
えへへと笑い、春香がぺこりと頭を下げる。
「それじゃあ、お鍋《なべ》と食器を片付けちゃいますね。よろしいですか?」
「あ、悪いな」
「いいえ、裕人《ゆうと》さんはゆっくりと休んでいてくださいね」
土鍋と取り皿とをお盆に載《の》せて、「エリーゼのために」をハミングしながらドアへと向かい歩き出す。
その時だった。
「あっ……」
部屋《へや》に置いてあった雑誌(『楽しい暗殺剣 《あんさつけん》〜これであなたも明日から和製アサシン〜』、ルコが忘れていった)につまずき、春香が体勢《たいせい》を崩《くず》した。
前は見ていても足下が見えていない春香のドジヴィジョン。
同時に持っていたお盆が携帯《けいたい》のマナーモードのごとく揺《ゆ》れ、載っていた土鍋と取り皿が宙を舞う。その軌道[#底本では「跡」]《きどう》は真《ま》っ直《す》ぐに発射元である春香へと向かっていて……まずい、このままいくと春香の頭に土鍋がずっぽりとダイレクトにはまっちまうぞ!
「――!」
正直そんなコントなシーンは見たくなかったし、何よりあの土鍋はそれなりに重量がある。直撃したらいかな春香でもただではすまないだろう。俺は全身のバネ(五センチくらい)を駆使し、かつてないほどのアマガエルのような瞬発力《しゅんぱつりょく》でベッドから飛び上がると、
「春香っ!」
「え……」
回《まわ》し損《そこ》ねたベーゴマのようにふらついていた春香の身体に腕《うで》を回し、全力でこっちへと引《ひ》っ張《ぱ》った。
「きゃっ……」
何が起きているのか分からずに目を丸くする春香《はるか》の顔。
ふわりと、ポプラの綿毛よりも軽い感触《かんしょく》が腕《うで》に伝わり。
次の瞬間《しゅんかん》、それまで春香が立っていた場所に土鍋《どなべ》と取り皿とがガゴンガゴンと音を立てて続けざまに落ちた。
「ふう……」
間一髪《かんいっぱつ》だった。
メイドカフェの時は間に合わなかったが、今回は何とか大惨事《だいさんじ》を未然《みぜん》に防《ふせ》ぐことができたみたいだな。
ひとまずの落着《らくちゃく》にホッと胸《むね》を撫《な》で下《お》ろしていて。
「……」
「……」
そこで、気付いた。
「あ、あの……」
俺の身体の下から戸惑ったように見上げてくる春香。
こっちに向かって思い切り引《ひ》っ張《ぱ》るということは当然俺がいた場所へと春香を引き寄せるということであり、そして今の今まで寝《ね》ていた俺がいた場所はベッドの上であり……結果的《けっかてき》に春香の身体はベッドの上に収まることとなったのだ。
簡単《かんたん》に言えば、客観的には俺が春香をベッドの上に引っ張りこんで完全|密着《みっちゃく》して押《お》し倒《たお》しているカタチである。
「!?あ、いやこれは……」
たまたま夏の海で写真を撮っていたら盗撮犯《とうさつはん》と間違《まちが》われ職務質問された写真好きの一般人のごとく混乱する俺に、
「わ、分かっています。その、裕人《ゆうと》さんは助けてくださったんですよね? 私が転《ころ》んで倒《たお》れそうになるのを……」
「あ、ああ。そうだぞ」
「え、ええ、そうですよね」
正確には土鍋を頭から被《かぶ》りそうになるのを防いだんだが、それはこの場において極《きわ》めてどうでもいい違《ちが》いである。
「あ、ありがとうございました。おかけで助かりました。――えと、だめですね、私は相変わらずドジで」
「え、いや、そんなことは」
「ド、ドジっ娘アキちゃんに笑われちゃいますよね」
あははと笑う。
「……」
「……」
だがその後が続かず、お互《たが》いにそのまま沈黙《ちんもく》してしまう。
「……」
「……」
何となく気まずいというか妙《みょう》な雰囲気《ふんいき》。しかもベッドに倒《たお》れこんだ時の勢《いきお》いで、微妙《びみょう》に着衣(春香《はるか》のな)のあちこちが乱れてたりもしていたりしていなかったり……
「……」
「……」
あー、ここはどうするべきなんだろうね?
文化祭の時のエロマウントポジションにも近いもんがあるが、今回はそれに加えてだれもいない部屋《へや》とベッドの上という地理的デンジャラス要素が加わっている。いわばツーカウントまで入ったエロフォール状態《じょうたい》とでも言おうか。バーリトゥードの練習だ何だと言ってるような場合でもない。
自分の心臓の音が地震《じしん》のように脳髄《のうずい》の奥《おく》にまでドゴドゴドゴドゴと響《ひび》く。
真下には薄《うっす》らと頬《ほお》を桜色に染めた春香(ミニスカサンタ)の端正《たんせい》な顔。
春香は初めは当惑《とうわく》したような表情でこっちを見つめていたが、何度か瞬《まばた》きをした後に……なぜか何かを覚悟《かくご》したかのようにきゅっと目をつむった。
「!?」
静まり返った室内。
クリスマスイヴの夜。オンザベッドな二人。
目の前には目を閉じたサンタルックの春香《はるか》の姿《すがた》。
これはもう「汝《なんじ》の思うがままに行け!」という聖誕祭《せいたんさい》の神様の思《おぼ》し召《め》しか?
「……」
って、ダメだダメだ!
春香は看病《かんびょう》のために残ってくれただけなんだ。ヘタな勘違《かんちが》いをして春香の厚意《こうい》を無どころかマイナスにするようなことになっては台無《だいな》しだ。いやしかし目をつむってるってことはアリってことも考えられるか? いやいや、これは単に驚《おどろ》いてるかあるいは俺の緊張《きんちょう》で引きつった顔が正視《せいし》に耐《た》えずに恐怖におののいているだけかもしれん。早計《そうけい》は禁物《きんもつ》だ。
……むう。
何だか考えれば考えるほど思考のアリジゴクにはまっていくような気がする。てか毎回毎回、同じようなところでループを繰《く》り返《かえ》してるな、俺。進歩がないというか何というか……
めくるめく思考。
そんなことをしている内に、どんどんと顔が熱《あつ》くなっていき――
「――あ、れ?」
ふいに視界《しかい》がぼやけた。
蒸気《じょうき》立《た》ち籠《こ》める岩盤浴《がんばんよく》ルームみたいに部屋《へや》が白くなり、身体から力が抜《ぬ》ける。
「あ、ゆ、裕人《ゆうと》さん?」
俺の様子《ようす》がおかしいことに気付いたのか、目を開けた春香が下から心配《しんぱい》そうに見上げてきた。
「あの、どうしたんですか、何か様子が……」
「あ、ああ、大丈夫《だいじょうぶ》だ」
余計《よけい》な心配をかけまいとそう言うも春香は顔色を変えて、
「だ、だいじょぶじゃないです。め、目が、目が四角くなってますっ!」
「え、いやこれは……」
メガネだろ。
だけど春香は相当《そうとう》に動転《どうてん》しているのか、
「え、ええと、こ、こういう時はどうすれば……!?」
わたわたと慌《あわ》てながら、そんなことを言っていた。
3
急に起こったふらつきは、どうやら立ちくらみに似《に》た貧血《ひんけつ》によるものらしかった。
まあそれまでベッドにミイラみたいに横たわっていたのをいきなり立ち上がって極《きわ》めて激《はげ》しい動き(俺にとって)をした挙句《あげく》、一気に脳《のう》ミソに血液を集めるようなマネをしたことで身体がビックリしたんだろう。しょうがないっちゃしょうがないんだが。
とはいえしょせんは貧血。原因《げんいん》についてもイヤというほど自覚《じかく》があるのでそれ自体は大したことではない。
しかしパニくったままの春香《はるか》は、
「た、大変《たいへん》です! 裕人《ゆうと》さんが死にそうに……っ!」
半ば泣きそうな顔でそんなことを言っていた。
「いや、そんな大層《たいそう》なもんじゃなくてな……」
「は、早く人工|呼吸《こきゅう》をしないと……あ、あれ、こういう場合は心臓マッサージ? 簡易《かんい》電気ショックは……」
「だからだな……」
「……(おろおろ、おろおろ)」
その後何とか説明して、大丈夫《だいじょうぶ》だということをアピールするためにベッドの上でハンドスプリングまでして、ようやく春香は納得《なっとく》してくれた。今は落ち着いて部屋《へや》に散乱《さんらん》した土鍋《どなべ》などの後片付《あとかたづ》けをしてくれている。とはいえベッドから出してはくれなかったが。
「あ、裕人さん、この雑誌はどこに置いておけばいいでしょうか?」
先ほどの騒《さわ》ぎ(?)の原因《げんいん》となった『楽しい暗殺剣《あんさつけん》 〜これであなたも明日から和製アサシン〜』を手に春香が訊《き》いてきた。
「何だかすごい雑誌ですね。ページの至るところに髑髏《どくろ》や血しぶきのイラストがあります……」
「……とりあえず、それは捨てといてくれていいぞ」
「え、ですが……」
「そんな物騒《ぶっそう》なもん、燃やして地中深くに埋めちまってもいいくらいだ」
「は、はあ……」
よく分かりませんがひとまず枕元に置いておきますね、と言って春香は『楽しい暗殺剣 〜これであなたも明日から和製アサシン〜』をそっと床《ゆか》からどけた。
そんな感じで春香のドジ未遂《みすい》の後片付けも終わり。
部屋に、再《ふたた》び静寂《せいじゃく》が戻《もど》ってきた。
「……」
「……」
むう、しかし特にやることもなくいざ二人きりになると意外に話すことがないな。いや単純に話題がないってわけじゃなく、何となく雰囲気的《ふんいきてき》にどうでもいい雑談(布団《ふとん》が吹っ飛んだ!とか)をする感じじゃないんだよ。どことなく空気が半《はん》桃色《ももいろ》というか、さっきのエロフォール状態《じょうたい》での余韻《よいん》を引きずってるってのも大きな要因《よういん》だと思われる。
春香《はるか》も同じように感じているのか、
「あ、な、何か変ですね。ど、どうしたんでしょうか?」
「そ、そうだな。ヘンだな」
「で、ですよね……」
「……」
会話が続かねぇ……
「あ、裕人《ゆうと》さん、か、身体の方はだいじょうぶですか?」
「お、おう。元々大したことじゃなかったしな」
「そ、そうですか」
「あ、ああ、心配《しんぱい》かけたな」
「い、いえ……」
「……」
「……」
そんなどこか空回《からまわ》り気味《ぎみ》なやり取りがしばらく続き。
「あー、ヒマなら音楽でもかけるか? それとも適当に本とか読んでくれてもいいぞ」
「本ですか?」
「ああ。大したもんはないが……」
部屋内《へやない》を漂《ただよ》う微妙《びみょう》な空気を攪拌《かくはん》すべく、俺はそう言った。
「あ、で、でしたら……」
それを受けて春香がとことこと本棚《ほんだな》へと向かう。背中《せなか》に腕《うで》を回しつつ少し前かがみの姿勢《しせい》で本棚に目をやっていて、
「あの、これは何ですか?」
「ん? ああ、それは……」
春香が指差していたのはアルバムだった。
別に小学校や中学の卒業アルバムなどではなく、ただのアルバム。いわゆる成長記録とかともまた違《ちが》っていて、節目《ふしめ》節目で適当に撮った写真をただ何となく集めただけという割とアバウトな代物《しろもの》である。
「よろしければ見てみてもいいですか? ちょっと興味《きょうみ》ありますです」
「別に構《かま》わんが……」
そんなに面白《おもしろ》いもんでもないぞ?
だけど春香《はるか》は嬉《うれ》しそうに目を輝《かがや》かせて、
「ありがとうございます。では、拝見《はいけん》させてもらいますね」
本棚《ほんだな》からアルバムを取り出し、丁寧《ていねい》にページをめくり始めた。
「わあ、かわいい♪」
「ぬ」
「これ、裕人《ゆうと》さんですよね? ここでカニさんにはさまれているの」
「あー、まあ、な……」
そこにあったのは一枚の古びた写真。ルコのやつがジャンケンにおけるグーは本当にチョキよりも強いのかということを確かめるために実験をした時のもんである。実験というと大仰《おおぎょう》だが、要は近所の川からモクズガ二を捕《つか》まえてきて俺の手をはさませただけだ。モクズガニvs俺。結果《けっか》は言わずもがな。痛いわ手から血は出るわで泣きそうになったのを覚《おぼ》えている。
そういった事情を春香に話すと、
「さすがルコさんですね。普段《ふだん》は私たちが常識だと思っていることを自分の手で確かめてみる……すごいです」
「……」
……まあ、あのアホが色んな意味ですごいということだけは認《みと》めよう。てか自分の手じゃなくまさに俺の手≠使って実験しやがったんだがな。
今も微妙《びみょう》に残る古傷《ふるきず》(十分の一ミリくらい)を見つつ当時を思い出しベッドの上でため息《いき》を吐《つ》いていると、
「えと、このよくいっしょに写《うつ》っているかわいらしいお二人は……?」
今度は別の写真を見てそう訊《き》いてきた。
「あー、それは信長《のぶなが》とその妹の真尋《まひろ》ちゃんだな。確か家族ぐるみで動物園に行った時の写真だ」
「信長……朝倉《あさくら》さんですか?」
「ああ、幼馴染《おさななじ》みなんだよ」
不本意《ふほんい》なことにな。
しかしこうして昔の写真を見ると、小さい頃の信長と真尋ちゃんはどう見ても兄妹《きょうだい》というより姉妹《しまい》だ。改めてやつは動かずに黙《だま》っていれば美形だってことを思い知らされるね、まったく。
「そうなんですか……。あ、ということは朝倉さんは裕人さんの小さい頃を知っているということですよね。いいなあ……」
「ん、そうか?」
「はい。だって私は最近の裕人さんしか知りません。だから、ちょっとだけうらやましいです」
「……」
にこにことそんなことを言われると実に照《て》れるんだが。
しかしそれはまあその通りかもしれんな。俺も春香《はるか》のことを知ったのは高校に入ってからだし、ましてや『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』でないその本当の姿《すがた》を知ったのなんてほんの半年前くらいだ。それ以前のことはほとんど知らんと言っていい。
「……今度は、春香のアルバムも見せてくれな」
「はい、喜んで♪」
まあそんな感じにアルバムのページをめくっていき。
「――あ」
春香の手が三度《みたび》止まった。
「ん、どうした?」
「……」
春香が見ていたのは、クリスマスの風景《ふうけい》を写《うつ》した写真だった。
あまり多くはないが、ルコや由香里《ゆかり》さん、信長《のぶなが》たちといっしょに子供の頃に二、三回やったクリスマス会。確《たし》か最後にやったのが小学校低学年の頃――十年くらい前だったと俺のそこはかとなくスポンジのような脳《のう》ミソは記憶《きおく》していた。
「楽しそう……」
それを見た春香がぽつりと小さく声をもらした。
「いいですね、みなさんてゆっくりと楽しむクリスマスって…。とっても和《なご》やかで、微笑《ほほえ》ましくて、見ているだけでこちらも何だかわくわくした気持ちになれます」
「春香……」
そこで思い出した。
そうだったな。春香は今回が初めての皆で楽しく過《す》ごすクリスマスだった。それがあんな風に区切りの悪いところで終わっちまって……
口には出さないものの、そのことについては春香も不本意《ふほんい》に思っていることだろう。だとすれば――
「なあ春香……やっぱりちゃんと最後までクリスマスパーティーをやりたかったか?」
「え?」
「あんな中途半端《ちゅうとはんぱ》な締《し》め方《かた》じゃなくて、美夏《みか》たちの言うみたいに夜まで騒いで楽しんでたかったか?」
アレは中途半端というかほとんどパソコンにおけるフリーズ→強制終了みたいなもんである。これから盛り上がろうって時に後味《あとあじ》が悪いことこの上ない。
「それは……でも、仕方《しかた》ないですよ。具合《ぐあい》が悪くなってしまうのはだれにでも起こりうることです。だから中途半端だとか、そんなことはないと思います」
優《やさ》しい笑顔《えがお》で春香はそう言ってくれる。
だけど。
「春香《はるか》……ゴメンな」
「裕人《ゆうと》さん……?」
「せっかくの初めてのクリスマスパーティーだったってのに、俺が倒《たお》れなんかしたせいで台無《だいな》しにしちまって……」
確かに体調については個人の意思でどうこうできることじゃないが、そもそもその体調不良の原因《げんいん》となった切羽詰《せっぱつま》ったバイト(住み込み執事《しつじ》、ツルハシと土嚢《どのう》が友達の工事現場)をしなきゃならなくなったのは俺のせいだ。もっと早い内からプレゼントについて気を回すことができていたら、まず間違《まちが》いなくこんなことにはならなかった。
だから。
「――なあ、何なら俺のことは気にしないでいいから、今からでも美夏《みか》たちとパーティーをやり直すってのはどうだ?」
「え?」
「またそんなに遅《おそ》くない時間だし、俺ももうだいぶよくなったから、あとは一人でなんとかなる。帰って美夏たちと合流すれば十分さっきまでの続きをやる余裕はあるだろ。どうだ?」
「裕人さん……」
我ながらナイスアイディアだと思った。これなら春香も初めてのクリスマスパーティーを楽しい最後で終えられる。そう思ったのだが――
だけど春香は黙《だま》ってふるふると首を振《ふ》ると、
「……いいえ、その提案《ていあん》は受け入れられませんです」
「え……?」
「裕人さんの気持ちは嬉《うれ》しいです。嬉しいですけれど……でも、それは少し違《ちが》うと思います」
「違う……?」
「はい」
こっくりとうなずく。
いや何でだ? 何が違うってんだ?
春香の言っていることが分からずに困惑《こんわく》していると、
「……ね、裕人さん。サンタクロースって、いつまで信じてました?」
「え?」
ふいに春香がそんなことを訊《き》いてきた。
「サンタさんです。いつまでですか?」
「ん、あー、たぶん幼稚園の頃までだったんじゃないか?」
何だっていきなりそういった話になったのかはよく分からんがとりあえず答える。
確かその頃に両親が俺たちを喜ばせようと呼んでくれた派遣《はけん》サンタ(時給千二百円)を不審者《ふしんしゃ》と勘違《かんちが》いしたルコのやつ(当時小学生)が「ぬう、全身を返り血で赤く染めた怪《あや》しいやつめ! 刀のサビにしてくれる!」と所持《しょじ》していた木刀《ぼくとう》(京都|土産《みやげ》)でぼこぼこに叩きのめして以来、サンタに対する夢も希望も木《こ》っ端《ぱ》微塵《みじん》になくなったのだった。
「私は小学校六年生の時まででした。けっこう遅《おそ》い方ですよね」
少し恥じらうように笑いながら言う。
「まあ……そうかもな」
俺みたいにバイオレンスかつトラウマな例は特殊《とくしゅ》だが、大抵《たいてい》は小学校低学年くらいで自然にサンタに関する真実を知るもんだろう。
「その年になるまで信じていたのは、私自身、サンタさんの存在《そんざい》を信じたいと思っていたからかもしれません。私、サンタさんが大好きでしたから……」
昔を思い出すかのように、少しだけ遠い目をする。
「私は毎年楽しみにしていました。何度か眠《ねむ》くなるのをがまんしてサンタさんが枕元にプレゼントを置きにきてくれるのを待ったこともありますし、夢うつつに何度かちらっと姿《すがた》を見たこともあります。サンタさんは毎回|寝《ね》ている私の頭を撫《な》でてくれていたような気もします。私はそれが本物のサンタさんだと信じていましたし、クリスマスになればそのサンタさんがまた来てくれると思って、毎年楽しみにしていました」
「……」
「そんなある年のことでした。私はどうしてもサンタさんに会ってみたくなって……あることをしてしまったんです」
「あること?」
「はい。当時『イノセントスマイル』に載《の》っていたマンガで『サンタクロースの捕《つか》まえ方』というものがあったんです。そこには『サンタさんはメルヘン世界の住人です。ゆえに捕獲《ほかく》するためには何かメルヘン心を揺さぶるような可憐《かれん》なトラップを仕掛《しか》ける必要《ひつよう》があります』と書いてありました。私はそれを実行しちゃったんです」
少し決まり悪そうに言う。
まあ色々突っ込みたいところはあるが、捕獲だとかトラップだとか言ってる時点ですでに根本的《こんぽんてき》にメルヘンからはかけ離《はな》れてるような気がするがな。
春香《はるか》は続ける。
「マンガにあった通りに、メルヘン心を揺さぶるためにヌイグルミを用意しました。お気に入りのテディベアのキング・グリズリーくん。やり方もそのままマネしました。グリズリーくんをコンロに載《の》せたお鍋《なべ》に入れて、その脇《わき》に、『タスケテ、タベラレチャウヨ!』と書いた紙を置いたんです。グリズリーくんに糸を付けて、お鍋から取り出したら鈴が鳴《な》るように細工《さいく》して。
そして――鈴は鳴りました」
「……」
本当に引っかかったのか……
「サンタさんに会える! そう思い喜んで私はベッドから飛《と》び起《お》きました。だけどそこにいたのは……サンタさんの格好《かっこう》をしてグリズリーくんを力いっぱい抱《だ》きしめたままあたふたとしている、私のよく知っている人だったんです」
「それって……」
春香《はるか》はこっくりとうなずいて、
「サンタさんは……葉月《はづき》さんでした」
「……」
……やっぱり。
「とても衝撃《しょうげき》を受けました。それまでは私、サンタさんは本当にいると信じていましたから。でも……すぐに気付いたんです」
「気付いた?」
「はい。サンタクロースは本当はいなかった。私がサンタさんだと信じていたのは毎年葉月さんが変装《へんそう》してくれていたサンタさんだった。だけど……葉月さんが変装してくれていたサンタさんは、私にとって確かに本物のサンタクロースだったんです」
胸《むね》の前に両手を当てて、そっと目を閉じる。
「それは簡単《かんたん》だけれどとっても大事なこと……。サンタクロースがいるからクリスマスなんじゃない、私にとっては葉月さんが来てくれて、プレゼントをしてくれることこそがクリスマスだって気付いたんです」
そこで春香は顔を上げて、
「それと同じで、私にとってのクリスマスパーティーは、裕人《ゆうと》さんがいてこそのものです。裕人さんがいないクリスマスパーティーはクリスマスパーティーじゃない……。裕人さんは私のサンタさんでありクリスマスの全てですから……。今日この場所で、裕人さんといっしょに過《す》ごしたこの時間が、私にとっての今年のクリスマスなんです」
真《ま》っ直《す》ぐに俺の目を見つめて、春香はきっぱりとそう言った。
「春香……」
「だから、自分のことは気にしないでいいなんて……そんなことは言わないでください」
「……」
「お願いします……」
「……」
……そうか、そうだよな。うぬぼれるつもりはないが、春香にとっては俺を含《ふく》めて美夏《みか》や葉月さんや那波《ななみ》さん、秋穂《あきほ》さん玄冬《げんとう》さんがいてこそのみんな≠ネんだろう。いかんな、体調不良で少しばかり弱気になってたのかもしれん。
「……スマン」
「え?」
「春香《はるか》の言う通りだ。俺は何か勘違《かんちが》いをしてた。悪い……」
「あ、そ、そんな、謝《あやま》らないでください。そういうつもりで言ったのではないですから……」
春香は困ったようにふるふると首を振《ふ》って、
「――それにまだ、クリスマスは終わってないです」
「え?」
「ちょっと……思いついちゃったことがあります。少しの間だけ、待っていてもらえますか?」
「それはいいが……」
何をするつもりなんだ?
疑問に思う俺に、
「それは秘密《ひみつ》です♪」
と答えて、
「あ、準備《じゅんび》ができる前に見にきちゃだめですよ。裕人《ゆうと》さんは部屋《へや》で安静《あんせい》にして待っていてくださいね」
春香はばたばたと部屋を出て行った。むう、分からん……
ともあれ春香に待っててくれと言われた以上、待っているしかあるまい。どうせこれといってやることもなし、適当に本(『楽しい暗殺剣《あんさつけん》〜これであなたも明日から和製アサシン〜』)でも読みながら大人しく時間を潰《つぶ》してることにしよう。
……
……
十五分が経過《けいか》。
「……」
まだ春香は戻ってこなかった。
何をしてるんだかは分からんがけっこう時間がかかってるな。いいかげん人の斬《き》り方《かた》を覚《おぼ》えるのにも飽きてきたんだが……
……
……
さらに十五分が過ぎる。
やはり春香は戻ってこない。
「……」
何だか少し眠《ねむ》くなってきた……
そこはかとない眠気というか、睡魔がブスブスと三叉《みつまた》のヤリを後頭部《こうとうぶ》に刺《さ》し出《だ》したような感覚《かんかく》が全身に広がる。
まあ何だかんだで今日一日も盛りだくさんだったからな。疲《つか》れが相応《そうおう》に蓄積《ちくせき》していても不思議《ふしぎ》ではない。春香《はるか》が戻《もど》ってくるまで少しだけ休むことにするか。
そう決めて目を閉じたその十秒後。
「グウ……」
俺の意識《いしき》はそのまま、やる気のないシタビラメのごとく眠《ねむ》りの海の底《そこ》に沈没《ちんぼつ》していた。
4
それからどれくらい経ったか。
「ホー、ホケキョ♪ ホー、ホケキョ♪」
「ん……」
耳元で響《ひび》くさわやかなウグイスくんの美声が、俺の意識を揺《ゆ》り動《うご》かした。
「ホー、ホケキョ♪ ホー、ホケキョ♪」
「……」
「ホー、ホケキョ♪ ホー、ホケキョ♪ ホケキョホケキョホケキョホケキョホケキョホケッホケッホケッホケッ……!」
うるせえな……
まだ眠りを求めるドリーミーな意識を総動員し、ゴソゴソと枕元に手を伸ばしてウグイスくんの背面《はいめん》に付いている停止ボタンを押《お》す。
訪《おとず》れる沈黙《ちんもく》。
再《ふたた》び俺の意識は夢の世界に落ちていこうとして――
「ホケキョホケキョホケキョホケキョホケキョホケッホケッホケッホケッ……!」
「……」
「ホケキョホケキョホケキョホケキョホケキョホケッホケッホケッホケッホケキョホケキョホケキョホケキョホケキョホケッホケッホケッホケーッ!!(スヌーズ機能《きのう》)」
「…………や、やかましいっ!」
狂ったように鳴《な》き続《つづ》けるウグイスくんにマクラを叩きつける。
バフン!
そんな乾《かわ》いた音とともに枕元のサイドボードの上で五回転半し、最後にしつこく「ホケッ!」
と鳴いてようやくウグイスくんは鳴きやんだ。
「ったく……」
ベッドから頭を起こす。
肝心《かんじん》な時には大して役に立たんクセに、こういうどうでもいい時にはやたらとイイ声で鳴きやがる。やっと静寂を《せいじゃく》取り戻したものの、おかげで完全に目が覚めちまった……
「……ん、目が覚《さ》める? ……あ」
そこでようやく自分が寝《ね》ていたことに気付いた。
やべぇ、本格的に寝ちまったか?
慌《あわ》ててウグイスくんを起こして見てみると時刻は午後十一時半過ぎ。少し目をつむるだけのつもりが一時間ほど熟睡《じゅくすい》しちまったらしい。
「春香《はるか》は……?」
そういえばもう戻ってきたんだろうか。
辺《あた》りを見回す。
と、
「すう……」
ベッドにもたれかかるようにして安らかに寝息《ねいき》を立てている春香(サンタルック)を発見した。お気に入りのタオルケットに包《つつ》まれて安心しきった仔犬《こいぬ》みたいに、ぐっすりとお休みしている。
「春香……」
「……」
呼びかけても返事はない。
そういえば今のウグイスくんのご乱心《らんしん》にもほとんど反応《はんのう》を見せていないし、きっと必死《ひっし》に看病《かんびょう》をしてくれて気疲《きづか》れしたんだろう。
「……」
にしても無防備《むぼうび》に寝て、まあ……
すやすやと眠《ねむ》るお嬢《じよう》様を見て思う。
これは俺が男として意識《いしき》されてないのかそれとも完璧《かんぺき》に信頼《しんらい》されている結果《けっか》と取るのか、あるいはそれ以前にそもそもそういったことに免疫《めんえき》がゼロなのか……まあおそらくは果てしなく後者なんだろうな。
ともあれ、メッタに見ることができないものが眼前《がんぜん》にあることに変わりはない。
くうくうと肩を上下させる春香の愛くるしい寝顔。
しばしそれに見入り、ちょっとはかり幸せな気分に浸《ひた》っていると、
「……ん…………」
こっちの意識に気付いたのか春香は小さく声をもらし、
「あ、おはようございます……」
ようやく目が覚めたのか、ゆっくりと顔を上げるとぽやんとした目を擦《こす》りながらそんなことを言う。
「悪い、起こしちまったか」
「え……起こす……?」
俺の言葉《ことば》に一瞬《いっしゅん》だけ目をぱちくりとさせて
「え……? あ、私、寝《ね》てしまっていたのですか?」
慌《あわ》てたように左右をきょろきょろと見回しながらそう声を上げた。
「す、すみません。準備《じゅんび》を終えて戻ってきたら裕人《ゆうと》さんがお休みになっていたので、起きるのを待っていたらそのまま私もつい……」
「あー、いや」
熟睡《じゅくすい》してたのは俺も同じなので人のことは言えん。それに春香《はるか》のかわいらしい寝顔も見れたし、むしろ役得ってとこだ。
「それより準備って何をやってたんだ? けっこう時間がかかってたみたいだが……」
肝心《かんじん》のことを訊くと、
「あ、そ、そうでした。えと時間は…………あ、よかった、まだ間に合います」
ウグイス時計を見て春香が安心したようにほっと息《いき》を吐《は》く。
「時間?」
「はい。あの裕人さん、お部屋《へや》の電気を消してもよろしいですか?」
「電気? 別に構《かま》わんが……」
何をするつもりなんだ?
いまいちその意図《いと》が分からん俺の前で春香は電気を消すとそのままベッドの正面にある窓の脇《わき》に立って、
「それじゃ行きますよ、裕人さん」
「ん、おお」
何が行くんだかさっぱり分からんがとりあえずうなずくと、
「――メリークリスマス♪」
そんな声とともに、カーテンを開けた。
「お……」
カーテンの向こうにあったもの。
それは夜の闇《やみ》の中で色とりどりに光るイルミネーションの数々。
まるでファンタジーの世界を現実に持ってきたみたいに、美しくキラキラと輝《かがや》いている。
「これは……」
どうやら庭に生えている木(微妙《びみょう》に栄養不足な松の木)にイルミネーションが飾《かざ》り付《つ》けられているらしい。
しかしこれはどうしたんだ? ついぞさっきまではこんなもんは影《かげ》も形もなかったはずだ。もしかしてとは思うが――
窓の脇《わき》でにこにことしているぽわぽわお嬢様を見ると、
「あ、ど、どうでしょう? 雰囲気《ふんいき》が出てますでしょうか?」
ちょっと恥ずかしそうに俺の顔を見上げてきた。
「これ……春香《はるか》がやったのか?」
「は、はい。お部屋《へや》の中からでもせめて少しはクリスマスの気分を味わえたらなと思って……。これなら、裕人《ゆうと》さんといっしょにクリスマスを迎えられますよね? よかったです、日付が変わる前に間に合って」
「……」
いかに栄養不足のしょぼい木とはいえ二メートル以上の高さはある。それをこんな真っ暗な中この小さな身体で一人|飾《かざ》り付《つ》けをしたってのか?
「春香……」
さっきまでは気付かなかったが、よく見てみると手とかに細かい傷《きず》がいくつも付いている。慣《な》れない作業にきっと苦労したんだろう。ピアノを弾《ひ》く身だから手は大事なはずなのに……
そこまでしてくれた春香の気持ちに感激《かんげき》していると、
「あ、そ、それとですね。さらにクリスマスの雰囲気を出すために、美夏《みか》たちが置いていってくれた先ほどの衣装《いしょう》を用いてみました」
「え?」
「ト、トナカイさんです」
茶色のツノを頭に付けて、
「わ、わんっ」
「……」
それは犬なんだが……
おまけにサンタ服の上にトナカイのツノを付けてもあまり効果がないようにも思える。
とはいえツノが落ちないように両手を頭に添えてわんわんわふわふしてくる姿《すがた》は非常にこの上なく健気《けなげ》でかわいらしい。この際《さい》それがトナカイなのか犬なのかなんていう細かい違《ちが》いは(いや細かくないんだが)どうでもいいような気がしてくるから不思議《ふしぎ》だね。
「……ありがとな、春香」
「え?」
「こんなに、がんばってくれて……」
「あ……」
春香の傍《そば》へと歩み寄り、ツノの生えた頭をくしゃくしゃと撫でる。柔《やわ》らかで指心地《ゆびごこち》のよい感触《かんしょく》。春香は少しだけ照《て》れくさそうに、でも気持ち良さそうに「えへへ……」と目を細めていた。
しばらくそんな犬みたいなトナカイの格好《かっこう》をした春香の頭を撫でていて、
「あの、裕人さん」
「ん?」
「あと、これを……」
もじもじと、春香《はるか》が何かを差し出してきた。
「え、えと、ク、クリスマスプレゼントです。その、せっかくのクリスマスですし、用意してみたりしました……」
「おお」
これが一生懸命《いっしょうけんめい》にメイドカフェでバイトをしてまで選んでくれたやつか……
「開けてみていいか?」
「はい、ぜひ」
了承を得て、キレイにラッピングされた箱を開く。
「これは……」
中から出てきたのは……ヘッドに特徴的《とくちょうてき》なデザインがなされたペンダントだった。
「テレスコープをモチーフにしてデザインされたペンダントなんです。何となくなんですが、裕人さんに似合うかなと思って……」
「おお」
椎菜《しいな》と行った店でも万華鏡《まんげきょう》型《がた》のチョーカーとかは見たが、それの望遠鏡ヴァージョンといったところか。
「ど、どうでしょうか? 男の人へのプレゼントを買うのは初めてなので、気に入っていただけるといいのですが……」
「気に入るも何も!」
春香からのプレゼントだ。それだけでもう耐火《たいか》耐震性《たいしんせい》の巨大金庫(銀行とかにあるやつ)に入れて永久保存しちまいたいほどお気に入りになることは請け合いだ。実際《じっさい》そういった付加価値《ふかかち》を抜きにしてもセンスのいいデザインだと思うしな。
「サンキュな。大事にする」
「あ……は、はいっ」
お礼を言うと春香が嬉《うれ》しそうにうなずいた。嬉しいのは俺の方だってのに。
ともあれ、今度はこっちの番だ。
俺は春香へと向き直ると、
「あー、それでだな、お返しってわけじゃないが、俺からもプレゼントがあるんだ」
「え?」
「これなんだが……」
驚《おどろ》いた表情を浮かべる春香に、リングの入った紙袋を渡《わた》した。
「あ……」
「開けてみてくれ。まあ、大したもんじゃないんだが」
「は、はいです」
まるで国宝でも扱《あつ》うような慎重な手付きで春香《はるか》は一枚一枚|包装《ほうそう》を剥《は》がしていき、
「わあ……」
その表情がみるみる咲《さ》き誇《ほこ》る花のようなものになった。
「素敵《すてき》なリング……。『|Clair de Lune《クレール・ドゥ・リュヌ》』……月の光、ですね」
「ああ、そうらしい」
「あ、ありがとうごさいますっ! 宝物にしますねっ」
花がこぼれんばかりに顔を綻《ほころ》ばせながら何度もぺこぺこと頭を下げて、
「あの、着《つ》けてみてもいいですか?」
「ああ、もちろん」
「あ、でも、その、できれば……」
「?」
そこで春香は少しだけ顔をうつむかせて、
「裕人さんに……着けていただけると、嬉《うれ》しい……です」
「え?」
俺に? この指輪を?
唐突《とうとつ》な申し出に若干《じゃっかん》戸惑《とまど》っていると、
「あ、わ、私、何を言っているんでしょう。じ、自分で着ければいいんですよね。す、すみません、何だか急におかしなことを言って……」
「あー、いや、いいぞ」
「え?」
「指輪、着けるんだろ? オッケーだ」
少しばかり照《て》れくさいっちゃ照れくさいが、春香が望むんならそうすることはやぶさかではない。せっかくのクリスマスだしな。
うろたえる春香を前に、俺は箱から『月の光』を取り出すと、
「メリークリスマス、お姫様」
春香の前にひさまずいて、その白波みたいに白くて細い指に指輪をそっとはめた。
背景《はいけい》に輝《かがや》くイルミネーションの光とリングの輝きとが混《ま》ざり合《あ》い、一つになる。
春香はしばらくの間、何が起こったのか分からないという顔で俺と指輪とを交互《こうご》に見比べていたが。
やがて。
「は、はいっ。メ、メリークリスマス、です♪」
満面《まんめん》の笑みで、そう答えた。
それは今日一日の中で、一番の笑顔《えがお》だった。
そんな俺たちに。
「あ、見てください!」
「お……」
「ほら、雪が……」
春香《はるか》が歓声《かんせい》を上げながら窓の外を指差す。
そこには、あたかもこの聖なる夜の全てを祝福《しゅくふく》するかのように降《ふ》り注《そそ》ぐ白い結晶が《けっしょう》あった。
「きれい……」
口元に手を当てて春香が小さく声を上げる。
「まさかホワイトクリスマスになってくれるなんて……まるで空からの贈《おく》り物《もの》みたい……」
「ああ……」
ほんとにな。
夜空に瞬《またた》くいくつもの星と眼前《がんぜん》で光るイルミネーション。
その二つの輝《かがや》きを背景《はいけい》にして舞《ま》い落《お》ちる雪。
それらはまさに春香の言う通り、天空からのプレゼントと言っても過言《かごん》ではないほどの美しさを誇《ほこ》っていた。
「…ん?」
何か今|一瞬《いっしゅん》、自分で思い付いたフレーズと目の前の光景《こうけい》にすげぇ違和感《いわかん》を覚《おぼ》えたんだが……まあ、おそらく気のせいだろう。
改めて目の前に広がる夢のような光景を眺《なが》めていると。
「裕人《ゆうと》さん……」
「!?」
春香《はるか》がきゅっと身を寄せてきた。
「私……今年のクリスマスのこと、一生|忘《わす》れません。みなさんといっしょに過《す》ごした初めてのクリスマス……そして、こうやって裕人さんと二人で雪を見たクリスマスを……」
「春香……」
「もうちょっとだけ……こうしていていいですか?」
「あ――ああ」
うなずき返した後、微妙《びみょう》に迷《まよ》ったが……春香の肩《かた》に腕《うで》を回してほんの僅《わず》かだけこちらに引き寄せた。春香も少し恥《は》ずかしがる素振《そぶ》りを見せたもののすぐに「……(こくり)」と受け入れてくれた。
「……」
「……」
腕の中に感じる春香の体温。
触《ふ》れているだけで心落ち着く柔《やわ》らかな感触《かんしょく》。
「幸せです……」
「……」
俺の胸《むね》に寄りかかるようにして小さくつぶやく春香。
どこか二人の距離《きょり》が近づいたような不思議な空気が流れる。
互《たが》いにそれ以上の特別な言葉《ことば》はないが、それでも確かに心が通じ合っているのが感じられた。言葉以上に語りかけてくる何かがあるというか……
時間がゆっくりと流れていく。
辺《あた》りを包《つつ》む夜の闇《やみ》が優《やさ》しく感じられる。
「……」
「……」
こんな至福《しふく》のひと時が少しでも長く続いてくれればいいんだがな――と思った次の瞬間《しゅんかん》。
「――今帰ったぞ!」
そんな声とともに、ガチャガチャと乱暴《らんぼう》に玄関のドアが開く音が聞こえてきた。
「げっ」
「!?」
慌《あわ》てて二人、弾《はじ》かれたように身体を一メートルくらい離《はな》す。
「大事な姉上様のお帰りだ。今すぐに酒宴《しゅえん》の用意をしてツマミを作れ!」
「おねいさんもいるわよ〜♪ メリ〜クリストファ〜コロンブ〜ス」
続けて響《ひび》くそんなアホ丸出しな会話。
「あの声は……」
どう聞いてもアホ姉とその親友のセクハラ音楽教師のそれである。けど何だってよりにもよってやつらが? やつらはなんかイカれた名前の飲酒イベントで今日は帰ってこないんじゃなかったのか?
すると、
「まったく、あの程度《ていど》で酒が全て底《そこ》を突《つ》くとは話にもならん。何が『クリスマス飲み比べ大会 〜寒さなんてアルコールで焼き尽くせ〜』だ。名前負けもいいところだろう」
「ほんとよね〜。せめて一人頭五十合くらいは用意してくれないと。おねいさんは欲求不満《よっきゅうふまん》でもう身体が火照っちゃって火照っちゃって……」
「ほう、ならば今日は火酒《ウォッカ》でも飲むか? 確《たし》かスピリタスを一ダースはど常備《じょうび》してあったはずだ」
「わ、いいわね〜♪ 久しぶりに奥義《おうぎ》『火《ひ》祭《まつ》りの踊《おど》り』を見せちゃおうかしら〜」
「……」
どうもそういうことらしいな。
さすがの『クリスマス飲み比べ大会 〜寒さなんてアルコールで焼き尽くせ〜』もやつらの常軌《じょうき》を逸《いっ》したアルコール力までは想定《そうてい》していなかったようだ。当たり前なんだが。
「とにかく飲むぞ! おい、どこだ裕人《ゆうと》! いるんだろう。さっさと出て来てもろもろの支度をしろ。出て来ないとまたどこぞの屋敷《やしき》に乗り込むぞ!」
「裕くんが作る鮭カマが食べたいわ〜」
声とともにカンカンカン! という何かを打《う》ち鳴《な》らす音が階下から聞こえてくる。おそらく箸でコップかなんかを叩いてるんだろう。いい年してやることはほとんど子供(小学校低学年)レベルである。ったく、あの二人は……
「ルコさんと由香里《ゆかり》先生ですね……」
「ああ、おそらく……」
そう言って俺と春香《はるか》は顔を見合わせると、
「……ははっ」
「……うふふ」
何となく、互《たが》いに笑い出してしまった。
まあ……これはこれで、俺たちらしいクリスマスの締《し》め方《かた》なのかもしれんな。
「それじゃ、やつらの面倒《めんどう》を見に行くか」
「あ、裕人《ゆうと》さんは寝《ね》ていてください。私がお相手をしてきますから……」
「いや大丈夫《だいじょうぶ》だ。なんかもうすっかりよくなった感じでな」
「え、そうなんですか?」
「ああ」
色々とバタバタやっている内に、熱っぽさやダルさはいつの間にかどこかへすっ飛んで行ってしまっていた。
「じゃあ、いっしょに行きましょうか?」
「そうだな」
二人でうなずき会い、
二匹の腹を減《へ》らしたワン公たちが待つリビングへと向かったのだった。
クリスマスイヴ翌日。
すなわちクリスマス当日。
その日も我が家は、朝っぱらから騒《さわ》がしかった。
「おい、裕人《ゆうと》。トム・ヤム・クンはまだか?」
「おねいさんはフグのヒレ入りお茶漬《ちゃづ》けが食べたいな〜」
居間《いま》から聞こえてくる催促《さいそく》の声。
「早くしろ、飲んだ翌日にはあれが一番いいんだ。いいからとっとと五分以内に持ってこい」
「裕く〜ん、は〜や〜く〜、は〜や〜く〜」
「あー、もう、分かったからちょっと待てって!」
台所から叫び返す。
俺の体調は夜半《やはん》から朝方にかけてすっかり回復していたが、代わりに帰還《きかん》した酔《よ》っ払《ぱら》い二人の面倒《めんどう》を見るハメになった(手土産《てみやげ》にサンタの首×四を持って帰ってきやがった。もちろん人形だが、器物《きぶつ》損壊《そんかい》で訴《うった》えられなきゃいいんだがな……)。やれ酒持ってこいだのツマミを作ってこいだのやかましかったが……まああの世俗《せぞく》に汚《よご》れ切《き》った二人の相手を純粋《じゅんすい》真っ白な春香《はるか》に任《まか》せっきりにするわけにもいかんしな。
だが予想外《よそうがい》の展開《てんかい》はそれだけで終わらなかった。
アホ二人の帰還直後に、
『やっほ〜、おに〜さん♪』
『こんばんは〜、六時間ぶりくらいですね〜』
『……だいぶ復調されたようで何よりです』
なぜか美夏《みか》たちまでもが戻ってきたのだった。
状況《じょうきょう》がよく分からず混乱《こんらん》する俺に、
『だって二人きりでなくなったんじゃもうわたしたちが気を利かせる意味がないじゃん。あ〜あ、せっかくチャンスだと思ったのにな〜。ルコおね〜さんたち、ちょ〜っと戻ってくるのが早すぎるよ〜』
『そうですね〜。ムード作りのためにわざわざ倉庫から人工|降雪機《こうせつき》まで引《ひ》っ張《ぱ》り出《だ》してきましたのに〜』
『……残念《ざんねん》無念《むねん》です』
などと言っていた。
『……』
そのやり取りであの時の違和感《いわかん》の正体がやっと分かった。光《ひか》り輝《かがや》く星と降《ふ》り注《そそ》ぐ雪。そりゃあ満天《まんてん》の星空の下で普通《ふつう》は雪なんて降るはずがない。
で、その後、ツインテール娘たちも当然のごとくそのまま居座《いすわ》り、
「おに〜さん、わたしはホットケーキお願いね〜♪」
「杏仁《あんにん》豆腐《どうふ》をいただけると嬉《うれ》しいですね〜」
「……ゴーヤ・チャンプルーをお願いいたします」
今はルコたちといっしょに楽しそうに食卓を囲んでいる。
おかげで朝のさわやかな光が射し込む居間は、すっかり二次会の様相《ようそう》を呈《てい》していた。
「はあ……ったく」
何だってこんな状況になってるんだか。弟ヤギができて以来両親ヤギの興味《きょうみ》がすっかりそちらへ移《うつ》ってしまい半《なか》ば放置《ほうち》ポジションに置かれてしまった兄ヤギのようにやさぐれた気分で戸棚《とだな》から小麦粉を取り出していると、
「あ、裕人《ゆうと》さん。お手伝いします」
「春香《はるか》……」
現メンバーの中での最後の良心、春香@私服ヴァージョン(ついさっきシャワーを沿びてサンタから私服へと戻った)がこっちに来てくれた。
「裕人さん、まだ病《や》みあがりなんですから……あんまり無理《むり》をしては身体によくありませんです」
「そう言ってくれるのは春香だけだ……」
思わず胸《むね》の奥《おく》からそこはかとなく何かが込み上げてくる。
美夏《みか》たちは「鞠愛さんに注射を打ってもらったんならもうだいじょぶだって。あれ鞠愛さん調合の特別製で、怖《こわ》いくらいに効果抜群《こうかばつぐん》なんだから〜♪」とのことだし、ルコたちに至《いた》っては俺が過労《かろう》でダウンしていたことを知りすらしない。まあ知ってたとしてもあの二人に関してはあまり変わらなそうだがな。
「な、泣いているんですか、裕人さん」
「うう……」
とまあそんな具合《ぐあい》に春香の優《やさ》しい気遣《きづか》いに深く感動しつつ、二人で催促《さいそく》された料理を作っていき、
「――よし、完成だ。悪いが運ぶのを手伝ってくれるか?」
「はいっ♪」
で、でき上がったトム・ヤム・クン、フグヒレ茶漬《ちゃづ》け、ホットケーキ、杏仁豆腐、ゴーヤ・チャンプルー(しかし見事《みごと》にジャンルがバラバラだな……)を居間へと運んでいく。
「むう、ごくろう。待っていたぞ」
「裕く〜ん、おそ〜い」
居間に入るなり飛んでくるそんな声。
とりあえず待ってたのは俺じゃなくてトム・ヤム・クンの方だろうがなどと思いつつも、口には出さずにトレイから皿を移《うつ》していく。
すると、
「あら、春香《はるか》ちゃん、それな〜に?」
「え?」
「それよそれ、その左手の薬指に着けてるリング」
春香の指に光る『月の光』を目ざとく見つけ、由香里《ゆかり》さんが黄色い声を上げた。
「なになに、ステキじゃな〜い。どうしたの、これ〜? 色からしてムーンストーンよね〜」
「あ、え、えと、これは……」
突然《とつぜん》の指摘《してき》にちらちらと俺の方を見ながら口ごもる春香に、
「……あ、おねいさん、ぴんときちゃった」
「え、え?」
「これはあれでしょ、ずばり裕くんからのプレゼント! それもクリスマスプレゼントと見た! どう?」
セクハラ音楽教師が、妙《みょう》な第六感を発揮《はっき》してそんなことを言いやがった。いやどうしてこの人はこういうムダなところだけやたらと鋭《するど》いんだよ……
「あ、それは、その……」
返答《へんとう》に困《こま》る春香に、
「きゃ〜、やっぱり? いや〜ん、なんかストロベリーパフェのようにダダ甘な青春の一ページを見ちゃった気分よ〜」
「へ〜、お姉ちゃん、それ左の薬指に着けてたんだ〜」
と、これは隣《となり》でホットケーキをもむもむと食べていたツインテール娘。
「やるね、おに〜さん。おに〜さんのことだから右手の中指にでも着けて適当に場つなぎ的にとりあえずお茶を濁《にご》したのかな〜って思ってたけど、やる時はやるじゃん♪」
「え? いや」
「裕人《ゆうと》様〜、見直しましたよ〜」
「……漢《おとこ》です」
にっこりメイドさんと無口メイド長さんまでそんなことを言ってくる。
というかあの時は俺も何気にかなりテンパってたため、どこに着けたのかなんてこれっぽっちも認識《にんしき》しちゃいなかったんだが……
「これはもう婚約《こんやく》ね! うん、間違《まちが》いない。あ、てことはそれはラヴリングってことかしら?このこの〜♪」
「ほう、そうなのか? それはめでたいな」
ルコまでもが話に加わってくる。
「いやそうじゃなくてだな……」
もうこの時点で完全にショートして真っ赤な顔のまま「あ、あの、その……」と沈黙《ちんもく》しちまっている春香《はるか》の代わりに釈明《しゃくめい》しまうとするものの、
「あ〜、でも悔《くや》しいな〜、裕《ゆう》くんはおねいさんも狙《ねら》ってたのに〜」
「だとしたら結納《ゆいのう》はいつにするべきか。むう、次の大安は確か……」
「へへ、お・め・で・と・う、おに〜さん(にまにま)」
「ひゅ〜ひゅ〜♪」
「……ぱちぱちぱちぱち」
「……」
……だれ一人として聞いちゃいねえ。
その後も俺たちを置いてけぼりにして披露宴《ひろうえん》だ新居《しんきょ》だハネムーンだで勝手に盛り上がりまくり。
結局《けっきょく》、最後までずっとそんなアホ話が続いたのだった。
「……ふう」
自室へと戻《もど》りようやくひと息《いき》つく。
あれから三時間。
ようやくお日様も高くなってきたところでやっとというか何というかルコと由香里《ゆかり》さんは沈没《ちんぼつ》し、さすがの美夏《みか》も昨日の夜からテンション上げっぱなしで騒《さわ》いでいて疲《つか》れたのかソファですやすや寝入ってしまっていた。
今は下の階では、葉月《はづき》さんや那波《ななみ》さんたちが後片付《あとかとづ》けをしてくれている。
「疲れた……」
さすがに疲労《ひろう》が極致《きょくち》にまで達《たっ》していた。
いかにこれまでの過労《かろう》はあの医療《いりょう》メイドさんの特製注射と春香の看病《かんびょう》で回復したとはいえ、今日の労働だけを見ても十分に疲労に値《あたい》するものである。
ベッドの緑《ふち》に腰掛《こしか》けて少しでも体力回復を図《はか》っていると、
こんこん、と遠慮《えんりょ》がちにドアがノックされた。
「ん、はい?」
「あ、あの、私です……」
ドアの向こうから透《す》き通《とお》るような可憐《かれん》な声が響いてきた。
「お、春香か。入ってくれていいぞ」
「あ、はいです」
お邪魔《じゃま》します…………と言って春香はおずおずと部屋《へや》に入ってくると、
「――あ、あの、さっきはすみませんでした」
いきなり深々と頭を下げた。
「え?」
「その、美夏《みか》が変なことを言って……」
「あー、いや」
ああ、そのことか。
まあ色々と大変《たいへん》だったが、主にワケノワカランことを言い始めたのはセクハラ音楽教師とうちのアホ姉だ。春香《はるか》が気に病《や》むようなことじゃない。
「それに誤解《ごかい》を招《まね》くような原因《げんいん》を作っちまったのは俺だしな。むしろ謝《あやま》るのはこっちの方かもしれん」
「あ、それは……」
「?」
「その……」
春香は少しためらうように顔をうつむかせて、
「あの、違《ちが》うんです。あれは……私のせい、なんです」
「え?」
「裕人さんは他の指にはめてくださいました。それを私が、自分で左の薬指に移《うつ》してしまったんです」
「春香が……?」
一体どうして?
その意味をはかりかねていると、
「――『大切な殿方《とのがた》からいただいた指輪はね、心臓に一番近い左の薬指に填《は》めることが最高の感謝《かんしゃ》の意の表明になるのよ』」
「え?」
「これは小さい頃にお母様から教えていただいた言葉《ことば》なんです。そして私の……とっても好きな言葉」
きゅっと、左薬指の『月の光』を握《にぎ》りしめながら言った。
「だ、だから、すみません。私、裕人さんから指輪をいただいたのが嬉《うれ》しくて、ついその通りに……。まさかあんな大騒《おおさわ》ぎになるとは思わなくて……」
再《ふたた》び深々と頭を下げる春香。
「ほんとうにごめんなさいです……」
「……」
なるほど、そういうことだったのか。それなら春香がそんな行動(指輪を薬指に装着《そうちゃく》)をとったのもまあ分かる。ある意味|納得《なっとく》っちゃあ納得だ。
だけど一つだけ、春香が思い違いをしていることがある。
「……いや、謝《あやま》るようなことじゃないぞ」
「え?」
「つまり春香《はるか》はそれだけ、その、俺からのプレゼントを大事に思ってくれたってことなんだろ?だったらそれは、謝るようなことじゃない」
むしろ俺にとっては嬉《うれ》しいことだ。
「だからそんな風に謝らないでくれ。な?」
「裕人《ゆうと》さん……」
春香が潤ませた日で顔を上げた。
「……」
「……」
そのまま互《たが》いに沈黙《ちんもく》する。むう、なんかここのところこのパターンばかりのような気もするな。
「あ、あー、とりあえず座《すわ》ったらどうだ?」
辺《あた》りを覆《おお》い始《ほじ》めたどこかデリケートな空気に耐えられなくなってそう提案《ていあん》した。
「え?」
「その、立ってるのも何だし、ほら」
ベッドの上、俺の隣を《となり》パンパンと手で叩《たた》いて促《うなが》す。これには別に他意《たい》はなく、単純に俺の部屋《ヘや》で一番くつろげる方法がベッドに腰掛《こしか》けることだというだけの話である。……本当だぞ?
「あ、は、はい」
それを受けた春香がうなずきかけて「――――――あ」
「ん、どうした?」
「あ、い、いえ……」
そう首を振《ふ》るものの明らかに何かある顔をしている。
「? なんかよく分からんが何かあるならとりあえず言ってみろって。言いかけて途中《とちゅう》ってのも気になるぞ」
「それは、その……」
春香はしばらくの間うつむいたまま口をつぐんでいたが、
「あ、あの…………させてもらっても……」
「ん?」
小さくてよく聞こえんのだが……
再度《さいど》尋《たず》ねると、
「…………あの、座《すわ》るのなら、ヒザの上に座らせてもらっても……」
「!?」
そんな衝撃的《しょうげきてき》な答えが返ってきた。
「あ、す、すみません! わ、私、何を言って……」
春季《はるか》がはっとしたような顔になって口元に手を当てる。
「い、いや」
言えと言ったのは俺だしな。
「ご、ごめんなさい! 今のは聞かなかったことにしてくださいっ。な、何だか変なんです。最近、裕人《ゆうと》さんを見ていると今までとは違《ちが》う胸《むね》のどきどきがして……胸の奥《おく》が熱《あつ》くなって、傍《そば》に行きたくなってしまうんです」
「……」
「な、何なんでしょうね?」
あ、あはは……と焦《あせ》ったように笑う春香。
その反応《はんのう》は、今までのこういった場面における春香のそれとはどこか異なるものだった。うまく口では言えんが何かが違うというか……これは春香も無意識《むいしき》ながらも少しは俺に対する意識を強めてくれたってことなのか? ふむ、いまいち分からんな。
だがそういった難《むずか》しいことはともあれ――
「……構《かま》わんぞ」
「え?」
「その、ヒザの上に座《すわ》ってくれて……」
――その申し出が、断《ことわ》るべきものでないことには変わりがない。
「い、いいんですか?」
春香が驚《おどろ》いたように声を上げる。
「ああ、もちろん。どんと来い」
我ながらそんなロマンスの欠片《かけら》も感じさせない台詞《せりふ》はどうかとも思ったが、それでも春香はこくんとうなずいてくれた。
「で、でしたら……し、失礼しますです」
ふわりと柔《やわ》らかな髪が俺の前を横切り、
次の瞬間《しゅんかん》、春香の小さな身体が俺のヒザの上に収《おさ》まっていた。
「え、えへへ。裕人さんの、ヒザです」
照れくさそうに、でも嬉《うれ》しそうに笑う春香。
「美夏《みか》が一人で座っているのを見て、いいなあって思ったんです。でも言い出せなくて……」
「そ、そうか……」
あの時は春香父のトールハンマーのようなプレッシャーに耐えるのでイッパイイッパイだったが、改めて味わってみるとこの状況の絵にも描けない素晴《すば》らしさがよく分かる。
胸《むね》の中に感じられる柔らかく温《あたた》かい感触《かんしょく》。
シャンプーとリンスの心落ち着く甘やかな香り。
頬《ほお》を染《そ》めながら微笑《ほはえ》む春香《はるか》の姿《すがた》。
いやもうなんかそれだけで……まるで天に昇《のぼ》ってキューピッドたちと鬼《おに》ゴッコをして戯《たわむ》れているみたいな心地になってくる。いまいち分かりにくいかもしれんが、まあ一言《ひとこと》で言うと最高ってことなんだよ。
「何だか、とっても落ち着きます……」
春香はそっとつぶやいて、
「ずっと、こうしていられたらいいのにな……」
「春香……」
目を閉じて、甘えるように緩《ゆる》やかに身体を預《あず》けてくる。
「……」
……むう、ここは、後ろからギュツと抱《だ》きしめるくらいは、すべきか?
今のシチュエーションならそれくらいはやっても大丈夫《だいじょうぶ》なはずだ。てかこの夢のような状況で何もせずにただデレついてるだけってのは、男としてそれもそれでどうかという気もする。
「……」
――よ、よし。
ここはあれだ、いざ鎌倉《かまくら》! 敵《てき》は本能寺《ほんのうじ》にあり! ってやつだ!
迸《ほとばし》る決意とともに両腕《りょううで》を春香の身体に回そうとして――
「……」
「……」
「……む、どうした? 続きをやらんのか?」
「ほらほら、そこでむちゅ〜っとやっちゃって〜」
「……」
なんか、いやがった。
「私たちのことなら気にしないでいいぞ。仏像《ぶつぞう》とでも思ってくれればよい」
「いいから一思《ひとおも》いにちゅっちゅとやっちゃいなさいな。おねいさんはもう待ちきれないわ〜!」
「……」
いつからいたのか、部屋《へや》の真ん中で一升瓶《いっしょうびん》両手に(コップなどという生温《なまぬる》いものはすでに存在《そんざい》しない)アホ姉とセクハラ音楽教師が寝《ね》そべってやがる。いや何でこいつらがここに……
あまりにワケノワカラン事態《じたい》に硬直《こうちょく》する俺と春香に。
「あ〜、だめだよおね〜さんたち! こういうのは物陰《ものかげ》からこっそり見てるのがマナ〜なんだから〜」
今度はドアの向こうから、美夏《みか》たち(葉月《はづき》さんと那波《ななみ》さん付き)がばたばたと飛び込んできた。
「む、そういうものなのか?」
「せっかくのかぶりつきなのに〜」
「ほら、いいからこっち来て〜」
ツインテール娘にぐいぐいと腕《うで》を引《ひ》っ張《ぱ》られて、ルコと由香里《ゆかり》さんが退出《たいしゅつ》していく。ドアの外まで出たところで美夏《みか》がぴょこんと顔を出し、
「さ、おに〜さんお姉ちゃん、わたしたちに遠慮《えんりょ》せずに続きをどうぞ♪」
「……」
……できるか!
心の底《そこ》からそう叫ぶ。
てかあのツインテール娘は疲《つか》れてぐっすりとお休みだったんじゃないのか? まさかタヌキ寝入《ねい》り&フェイント……
「……」
……あり得る。
あり得すぎる。
というよりこれまでの美夏たちのゴーイングマイウェイ極《きわまり》まりない行動を考えればむしろ一五〇パーセントそれで間違《まちが》いないだろう。
そんな俺の耳に、
(おね〜さんたち、静かにね。きっとこれからがいいところなんだから〜)
(仔《こ》カルガモに対する親カルガモのように優《やさ》しく見守るのが乙《おつ》ということですね〜)
(……沈黙《ちんもく》は金です)
(むう、そのヘンの機微《きび》はよく分からんが、キミたちがそう言うのなら従《したが》おう。我が弟の晴れ舞台《ぶたい》をあえて邪魔《じゃま》をするほど私も無粋《ぶすい》ではない)
(え〜、口も手も出せないなんておねいさん、微妙《びみょう》につまんな〜い。それ何てプレイ〜?)
ダメ押《お》しのように、ドアの外から実に楽しげな声が聞こえてきた。
「……」
なんつーか。
もう色んな意味で実に末期的《まっきてき》というか、いつものパターンすぎて文句《もんく》を言う気にもなれないね。
俺は大きなため息《いき》を吐《は》く。
ちなみに春香《はるか》は、
「…………」
ルコたちが出現した時からすでにすっかり本日何度目かの混線《こんせん》状態に陥《おちい》っていて、俺のヒザの上で停止したままぴくりとも動いていなかった。
まあそんなわけで。
こうして最後の最後までツインテール娘たちやらアホ姉たちやらに盛大《せいだい》に茶々を入れられつつ、クリスマスはその幕《まく》を閉じたのだった。
END
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あとがき
こんにちは、五十嵐《いがらし》雄策《ゆうさく》です。
『乃木坂《のぎざか》春香《はるか》の秘密《ひみつ》』五巻をお届けいたします。
さて今回は冬のお話です。
冬で、メイドカフェで、クリスマスなお話です。
ええと色々と突っ込みどころはあるかもしれませんがそれはひとまずさておき(?)、今巻を書くにあたり実地|取材《しゅざい》は避《さ》けては通れないだろうということで、メイドカフェ『@ほお〜むカフェ』に取材に行ってきました。実のところ私はメイドカフェといったところに行くのはこれが初めてだったのですが……何というか、そこはパラダイスでした。たくさんのメイドさんたちがかわいらしいメイド服で所狭《ところせま》しと動き回り花がこぼれるようなステキな笑顔《えがお》で給仕していて……。私自身も紅茶を掩《い》れてもらったり名前入りの玉子焼きを作ってもらったりと、実に楽しい時間を過《す》ごさせてもらいました。その辺《あた》りの至福《しふく》の体験(?)は、きっと本編に反映されていると信じています。
ではでは、以下はこの本を出すにあたってお世話になった方々に感謝《かんしゃ》の言葉《ことば》を。
担当編集の和田様と三木様。今回は余裕《よゆう》をもって仕上げると言っておきながら前回よりもさらにギリギリまで粘《ねば》ってしまいました。次回こそはきっともう少し余裕をもって作業《さぎょう》ができるようにがんばります……
イラストのしゃあ様。今回もまだイラストを見ていないのですが、きっと表紙は可憐《かれん》なサンタルックが飾《かざ》ってくれていると期待《きたい》しております。
取材でお世話《せわ》になった『@ほぉ〜むカフェ』の河原《かわはら》様と越智《おち》様。細《こま》かい質問にも丁寧《ていねい》にお答えくださって本当にありがとうございました。実際にはアルバイト募集《ぼしゅう》はチラシではやっていなかったり、応募《おうぼ》は履歴書《りれきしょ》ではなくメールで受け付けていたり、ジャンケンの景品《けいひん》が写真でなかったりと、本編では設定上《せっていじょう》色々とアレンジをしてしまいましたが、快諾《かいだく》していただいて助かりました。あとお借りしたDVD、とても参考《さんこう》になりました。
そして最後になりますが、この本を手に取ってくださった読者の皆様に深い感謝を。
それではまた再《ふたた》びお会いできることを願って――
二〇〇六年九月末日 五十嵐雄策
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