乃木坂春香の秘密(4)
五十嵐雄策
イラスト◎しゃあ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)乃木坂春香《のぎざかはるか》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)完全|無欠《むけつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「みなさん」に傍点]
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乃木坂《のぎざか》春香《はるか》の秘密《ひみつ》4[#丸に4]
容姿端麗で才色兼備、『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』という二つ名まで持つ超お嬢様、乃木坂春香。彼女を縛っていた例の秘密[#「例の秘密」に傍点]は『俺と春香の二人だけの秘密』にランクアップし、あとは毎日楽しく過ごせれば……などと思っていた矢先、事件は起こった。
あの椎菜が俺のクラスに転校してきて、一緒に文化祭実行委員までやることになり、さらにクラスの出し物は誰の意見か知らんがコスプレ喫茶に決定し、かなり先行き不安な展開に。それでも春香と衣装を選びつつ(まさか試着室であんなことになるとは思わなかったがな)、春香もやる気満々なので、あとは文化祭に向けて尽力するのみ……のはずが、仕事のせいで春香と話す時間も少なくなり―――。
お嬢様のシークレットラブコメ第四弾V[#中黒のハートマーク]
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青天《せいてん》の霹靂《へきれき》という言葉《ことば》がある。
霹靂とは雷《かみなり》のことで、それまで晴天だったところに突然雷が生じる現象《げんしょう》から転じて、あまりに突然でびっくりする変動・事件やその衝撃《しょうげき》ということを意味しているらしい。いやそりゃあ少し前まで晴れ空だったところにいきなり雷が落ちたりすれば驚《おどろ》くのは当たり前だと思うがな。
まあそれはともあれ、今現在の俺の心境《しんきょう》を表すのにこれほど適《てき》した言葉は存在《そんざい》しないだろう。
なぜなら。
「天宮《あまみや》|椎菜《しいな》です。天気の天に宮城県の宮、椎の木の椎に、菜っ葉の菜って書きます。趣味《しゅみ》はピアノと薙刀《なぎなた》で座右《ざゆう》の銘《めい》は『先手《せんて》|必殺《ひっさつ》』よろしくっ!」
教壇《きょうだん》に立ち、興味深げに教室を見回しながら笑顔《えがお》でそう自己紹介をしている転校生。
十月にあるまじきここのところの暑さで俺のメガネにヒビが入っているんじゃなければ、あれはどう見ても椎菜だ。
天宮椎菜。
二ヶ月前の夏休みにロンドンでぶつかって、つい十日ほど前にアキハバラでぶつかった女子。
だがその椎菜が何だって目の前に、しかも転校生として立っているのか……それがさっぱり分からん。いやまあ転校生としてここにいるんだから当然転校してきたんだろうが、その現実にうまく俺の安物スポンジケーキライクな脳ミソが付いてこないんだよ。まさに「あまりに突然でびっくりする事件」そのものである。うーむ……
そんなタヌキに額《ひたい》をデコピンされたような気分で教壇を眺《なが》めていると、
「……ん、あれ?」
たまたまこっちに目を向けていた椎菜と、ばっちり目が合った。
「……」
「……」
しばしの沈黙《ちんもく》。
そして、
「あー、裕人《ゆうと》だ!」
俺の顔を指差して、椎菜が嬉《うれ》しそうに叫《さけ》んだ。
「うん、やっぱり裕人だよね? えー、何でどうして、何で裕人がこんなところにいるの?」
「あ、いや」
どうしても何もここは俺のクラスなんだが……
「え、もしかしてここって裕人の通う学園なの? で、ここは裕人のクラス? ここにいるってことはそういうことだよね? へー、すごい偶然《ぐうぜん》! こんなことってあるんだー」
教壇《きょうだん》の上から大きな声でそう呼びかけてくる椎菜《しいな》。
それを受けて、
「……何だ綾瀬《あやせ》のやつ、どうしてあんなに親《した》しげに話してやがるんだ?」
「まさか春香《はるか》様だけじゃなくてあのかわいい転校生にまで手を……?」
「この万年発情ヤロウが……」
教室中の視線《しせん》が怒髪《どはつ》したハリセンボンのように俺に集中する。う、いてぇ……。チラリと窺《うかが》うと、右|斜《なな》め後方《こうほう》からは春香もぽかんとした顔で俺と椎菜の顔を見比べていた。
「あ〜……なんか知らないけど裕《ゆう》くんの知り合いみたいね……」
と、それまで静かだった由香里《ゆかり》さんがどうでもよさげにうめくような声を出した。
「いえ、知り合いというか……」
「だったら席は裕くんの隣《となり》に座《すわ》ってちょうだい……。というかもう考えるのが面倒《めんどう》なんでそのヘンは適当《てきとう》にしちゃって……」
そんなことを言うと、いまだ前日の春香の誕生日パーティーでのアルコールを引きずるセクハラ音楽教師(最悪である)は、気だるげに教卓《きょうたく》に突《つ》っ伏《ぷ》した。いや面倒ってあんた。
「え、えっと、裕人の隣って……」
一方の言われた椎菜も椎菜で戸惑《とまど》っているようだった。
「そこ、だよねー……?」
俺の隣に目をやりつつ、高い準備金《じゅんびきん》を支払って登録《とうろく》した芸能事務所が実在《じつざい》しなかったことを発見した女優|志望《しぼう》の女の子みたいな顔で首をひねっている。
まあしかしそれも当然といえば当然だな。
なぜなら窓際《まどぎわ》であるところの俺の右隣には、すでにして朝比奈《あさひな》さんという女子が座っているんだから。
「ほらー、早くして……」
戸惑う椎菜に、教卓から顔も上げずに急《せ》かしてくるセクハラ音楽教師。
これは意訳すればつまりそのへンはこっちで適当に調整しろってことなんだろう。相変わらず言葉が足りなすざるというか大雑把《おおざっぱ》なことこの上ないが、このアホ教師のそういうアレな性格についてはクラスメイトたちもよく了解しているようだった。
「じゃあ私、一個後ろにずれますね」
「あ、だったら私たちも」
朝比奈さんを始めとして、隣の列の女子たちがそれぞれ一個ずつ席を後ろにずれていく。見事な連携《れんけい》プレー(?)で、あっという間に椎菜のための席が空けられた。
「う、うーん、いいの、これ?」
何となく申し訳なさそうに俺の顔を見る椎菜。
「ああ、大丈夫《だいじょうぶ》だろ。てかこれくらいのことを気にしてたらここじゃ負けだ」
担任が自分探《さが》しリリカル世界史教師で副担任がいいかげんセクハラ音楽教師で、さらには『三馬鹿《さんばか》』や『狂犬《きょうけん》』、『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』などの良くも悪くも個性的な人員を抱《かか》えるこのクラスにおいては、他では有《あ》り得《え》ないイレギュラーな事態《じたい》など割と|日常茶飯事《にちじょうさはんじ》なのである。
「そ、そうなんだ。――ごめんね、迷惑《めいわく》かけて」
「あ、いいですいいです、そんな」
「ううん、ありがとう」
朝比奈《あさひな》さんたちに笑顔《えがお》でお礼を言って、椎菜《しいな》は空《あ》いた席(俺の隣である)に座《すわ》った。
「それじゃ、改めてよろしくね、裕人《ゆうと》」
「ああ」
椎菜の言葉《ことば》にうなずく。
「はい……それじゃ椎菜ちゃんの紹介も終わったところで他の連絡|事項《じこう》を伝《つた》えます……」
由香里さんが濁《にご》った声でそう言った。
「まずは来週から遅刻《ちこく》|取《と》り締《し》まり週間に入るので普段《ふだん》から遅刻しがちな人は正門から登校せずに裏門から来るようにしてください……。それに伴《ともな》い持ち物|検査《けんさ》とかも行われる可能性《かのうせい》もあるので気を付けるように……。また最近、校内で隠《かく》し撮《ど》り及びパパラッチが出没《しゅつぼつ》しているという話があります。体育の時間や放課後の部活の時間などが特に狙《ねら》われやすいということなのでみんなも注意してください…………美人なおねいさんもサービスショットやお約束のポロリを狙われないように気を付けないと……おえっ」
青い顔でそんなことを言う由香里さん。気持ち悪いんならムリして余計《よけい》なことを言って胃腸《いちょう》を刺激《しげき》しなきやいいのにな。
「連絡事項は以上です……ですがそれに加えて、今日は残りの時間を使って文化祭実行委員を二人決めないといけません……」
その言葉に、それまでざわざわと騒《さわ》がしかった教室内が途端《とたん》にしーんと静かになった。
「文化祭実行委員はその名の通り約一ヵ月後に控《ひか》えた文化祭に向けて色々と準備《じゅんび》などを取り仕切る重要な役職です…………だれかやりたい人はいませんか? 自薦《じせん》|他薦《たせん》は問わないのでやりたい人がいたらどんどん手を挙げちゃってください……」
「……」
沈黙。
だれも皆、面倒《めんどう》な実行委員の仕事など自分から進んでやりたくはないのである(俺も含《ふく》めて)。
「……いませんか〜? ……やりがいがあって周《まわ》りから尊敬《そんけい》されて社会のためになる、とっても楽しくステキな仕事ですよ〜……」
「……」
やはり沈黙。
というかそんなどこかの胡散《うさん》|臭《くさ》い仕事紹介(表向きはクリーンで給料もいいが実は非合法《ひごうほう》、とか)みたいな紹介をされてもだれも手を挙《あ》げるわけがない。
何となく互《たが》いの顔をちらちらと見合うような微妙《びみょう》な空気が漂《ただよ》う。
そのまま三分ほどが経過《けいか》し、
「……あー、ダメ、もう限界《げんかい》…………うぷっ」
何かに耐えかねたのか、由香里《ゆかり》さんが教卓の上でもぞりと動いた。
「こうなったらもうだれでもいいわ……早く決めないとおねいさんの身体がもたないもの……ここはだれかよさそうな子を適当《てきとう》に見繕《みつくろ》って…………そうね、椎菜《しいな》ちゃん、やらない?」
「え、あたしですか?」
突然の指名に、椎菜が目を丸くする。
「でも、転校してきたばっかりなのに……」
「……うん、だからこそよ!……ええとほら……転校してきてすぐだからクラスに馴染《なじ》むためにはこういう仕事をやった方がいいでしょ……? クラスの雰囲気《ふんいき》もつかめるし、それに学校のこともよく分かるし……。……間違《まちが》っても、これ以上時間をかけられるとリバースしてきて何かが産まれそうだとか、さっさと終わらせてゆっくり寝《ね》たいから適当に決めちゃおうだとかじゃないからね……うっ」
一瞬《いっしゅん》白目をむく二日酔《ふつかよ》い女教師(二十三歳独身)。
「……」
……いや間違いなく後者《こうしゃ》が本音《ほんね》だろ。
いつもダメ人間なセクハラ音楽教師は、それに輪《わ》をかけて今日はいつもの三倍|増《ま》しで本当にダメ人間だった。
「うーん、文化祭実行委員かあ……」
そんなダメ人間がダメ思考《しこう》の未に出したダメ意見に、椎菜は真面目《まじめ》に考え込んでいるようだったが、
「――分かりました。あたし、やります」
やがて顔を上げ、そう言った。
「椎菜?」
「うん、センセイの言う通り、早くクラスに馴染むにはこういう学校行事に積極的に参加した方がいいですもんね。それにけっこう楽しそうですから!」
明るい声でにっこりと笑う。
「さすが椎菜ちゃん、偉いわ〜……うん、おねいさんは感動しました……。じゃ一人目は椎菜ちゃんで決定ね…………あ、ちなみに後の一人は椎菜ちゃんが決めちゃっていいわよ…………ん、でも転校してきたぽっかりだからだれがだれだかなんて分からないか……だったら――」
微妙に顔を起こし教室内を見回した後に、死んだサバのように濁《にご》った目でこっちを見る。
何だが、すげぇヤな予感がした。
「裕《ゆう》くんでいいわね……よく分かんないけど椎菜《しいな》ちゃんと知り合いみたいだし、部活とかもやってないから毎日ぶらぶらと犬のふぐり(野草の名前)みたいにヒマそうだしね〜……」
「……」
失礼かつ微妙《びみょう》に下ネタなことを言いやがる。
つーか部活をやってないとはいえ、毎日毎日あなたやその親友(我が姉)の世話《せわ》があるからこれっぽっちもヒマじゃないんだがな。
「椎菜ちゃんも、裕くんならいいわよねー……?」
「え? でも……」
「はい、じゃ決まりね……というわけで、文化祭実行委員はめでたく椎菜ちゃんと裕くんで決定しました……みんなもいいですね?」
異議《いぎ》なーし! との声とともに周《まわ》りからパチパチと拍手《はくしゅ》が巻《ま》き起《お》こる。
いや、俺の意見とかそういうもんはまったくもってスルーなのか……?
そんな心中の抗弁《こうべん》も虚《むな》しく、
「……それではこれでロングホームルームを終わります。……あとは自習にしますので、適当《てきとう》に他のクラスに迷惑《めいわく》にならない程度《ていど》にだらだらと時間を潰《つぶ》していてください……私は体調が悪いため保健室で仮眠《かみん》を取ることにします。なのでその間に何か問題が起きたらそれは自分たちで解決して決して私の安眠をジャマしないようにしてください……ていうか、したらオシオキするから」
最後までとことんダメ人間なことを言って、由香里さんは死にかけたウミウシみたいな足取りで教室を出て行った。
「はあ……」
そのどんよりとした背中を見透りながら、なんかすげぇ疲れた気分でため息を吐いていると、
「――ごめんね、裕人」
隣から椎菜がそう話しかけてきた。
「え?」
「なんかあたしのせいでムリヤリ文化祭実行委員にさせられちゃったみたいで……」
ちょっとばかりすまなそうに言う。
「いや、あれは椎菜が悪いわけじゃない」
「でも……」
「あんな風に言われちゃどうしようもないだろ? だから椎菜が気にすることないぞ」
というかどう見ても、責任は自分がさっさと寝たいがために適当に押し付けたあの音楽教師にあるのは一目瞭然である。
「裕人……」
「それに今まで一度も委員会なんてもんはやったことがなかったからな。たまにはこういうのも面白《おもしろ》いかもしれん」
「……ありがと。そう言ってくれるとかなり助かるかも」
椎菜《しいな》がほっと安心したように笑った。
「うん、でもそうだよね、決まっちゃったものを今さらどうのこうの言ってもしかたないし……だったら、これからをどうやって楽しくやっていくかを考えた方がよっぽどいいよね」
「ああ、その意気《いき》だ」
「うん。よーし、がんばろうね、裕人《ゆうと》!」
大きくうなずく椎菜。その笑顔《えがお》には、もうさっきまでの憂《うれ》いの色は感じられない。
まあ正直なところ文化祭実行委員なんて面倒は面倒《めんどう》なんだが……この常《つね》に前向きで真《ま》っ直《す》ぐでポジティブシンキングな椎菜となら、そう悪くもないかもしれんな。
こうして、半《なか》ばなし崩《くず》し的《てき》に文化祭実行委員をやることになっちまったわけだが。
まさかこの『文化祭実行委員』が、後に大きな波乱《はらん》の要因《よういん》となろうとは、この時の俺には欠片《かけら》も予想《よそう》することはできなかったんだよな。
「んー、それにしても驚《おどろ》いたなー」
自習の喧騒《けんそう》の中、椎菜が改めて俺の顔をまじまじと見て言った。
「まさか転校先が裕人と同じ学園で同じクラスで、しかも隣《となり》の席になるなんて。これってすごい偶然《ぐうぜん》だよね? 映画みたい」
「……それはこっちもビックリだ」
そもそもアキハバラで再会《さいかい》(十五秒ほど)した時もアレだったが、よもや学園で三度目の邂逅《かいこう》をすることになろうとはね。まあ今になって思い返してみればあの時椎菜は荷物やら生活用品やらがどうこうとか言っていたから、冷静《れいせい》に考えればこういう事態《じたい》もあり得《う》ると想像《そうぞう》できたのかもしれんが……。いや、ムリか。
「でも良かった。転校は初めてってわけじゃないけど、ちょっとだけ不安だったんだ。やっぱり知ってる人がいると心強いものね」
こっちを見ながら明るく笑う。ふむ、このフレンドリーが服を着て歩いているような元気娘でもそんな風に不安になったりするもんなんだな。
「あ、そだ。びっくりといえばさ、裕人《ゆうと》はあの時、何であんなに慌《あわ》ててたの?」
「あの時?」
って、どの時だ?
「ほら、アキハバラで会った時。なんか閣金業者《やみきんぎょうしゃ》に内臓《ないぞう》を狙われてる連帯《れんたい》保証人《ほしょうにん》みたいに急いでたじゃない。せっかく会えたんだからあたしはもう少し裕人と話がしたかったのに、一瞬《いっしゅん》でどっかに行っちゃうし」
「あー……」
アレか。
何というかアレには色々と事情があるんだが、それを説明するとものすごく長くなる&ややこしいことになるに違《ちが》いない。あそこにいた理由《りゆう》やら信長《のぶなが》のことやらも絡《から》んでくるだろうし。
口ごもる俺に椎菜《しいな》はさらに続けた。
「それにいっしょにいた小柄《こがら》な女の子、ちらっと見ただけだったけどすっごくかわいい子だったよね。あ、もしかしてカノジョとか? でもその割《わり》には歳がアレだったしなー。妹さん……にしても似てなかったよね? うーん、だったら――」
サブマシンガンみたいに立て続けに畳《たた》み掛《か》けてくる。うーむ、相変わらずアグレッシブというか何というか。
そんな椎菜の攻勢《こうせい》に少しばかりたじろいでいると。
くいっくいっ。
「――ん?」
ふいに、後ろから制服の裾《すそ》が引《ひ》っ張《ぱ》られるのを感じた。
何だ? まさかポルターガイスト現象《げんしょう》――?
――なわけはなく、振り向くとそこには机の陰《かげ》に隠《かく》れるようにして床《ゆか》にちょこんとしゃがみ込む春香《はるか》の姿《すがた》があった。
「春香?」
こんな風に自習時間に春香が俺のところまで来るなんて珍《めずら》しい。何かあったのか?
尋《たず》ねると春香はこっくりとうなずいて、
「あの、お話し中に失礼しますです。実は少しお訊きしたいことがあって……」
「訊きたいこと?」
「はい。えと、そちらの天宮《あまみや》さんって、もしかしてロンドンのコンクールに出ていた――」
何かを言いかけ、
「あ、あれ、そこにいるのって……まさかとは思うけど乃木坂《のぎざか》さん!?」
それよりも早く、椎菜がそう声を上げた。
「え?」
「う、うそ! どうして乃木坂さんがここにいるの!? え、本物だよね!?」
「いやどうしても何も」
ここは俺のクラスであると同時に春香《はるか》のクラスでもあるからな。
興奮《こうふん》する椎菜《しいな》にそのことを伝えると、
「え、乃木坂《のぎざか》さんも自城《はくじょう》学園だったの!? すっごいお嬢《じょう》様だって聞いてたからてっきりどこかのハイソな女子校にでも通ってるものかと……あ、でもそう考えれば裕人《ゆうと》がロンドンに来てたのも納得《なっとく》できるか。クラスで応援《おうえん》に来てたんだよね?」
「あ、あー、まあ、な」
本当は違《ちが》うんだがめんどくさくなりそうなのでここでは割愛《かつあい》する。ヘタに説明しようとして他のクラスメイトたち(武闘派《ぶとうは》親衛隊《しんえいたい》多し)に聞こえでもしたら、俺の生命|存続《そんぞく》にも関《かか》わってくるからな。
「そっかー、そうなんだ」
椎菜はうんうんと納得《なっとく》したようにうなずき、
「でもウソみたいだよ。まさかあの乃木坂さんと同じクラスになれるなんて……あ、乃木坂さん、あたしは天宮《あまみや》椎菜――って、それはさっき自己紹介の時に言ったか。えっと趣味《しゅみ》は薙刀《なぎなた》とピアノでいちおうピアニスト志望《しぼう》。乃木坂さんのことは昔から憧《あこが》れでもあって目標《もくひょう》でもあって――あー、なんかうまく言えないけど、とにかくよろしくねっ!」
にかっ! と笑うと、春香の手を握《にぎ》りながらぶんぶんと振《ふ》り回《まわ》した。
「え、えと、はい。こちらこそよろしくお願いします」
その勢《いきお》いに、春香も若干《じゃっかん》圧《お》され気味《ぎみ》のようだった。小鳥のようにこくこくとうなずきながら戸惑ったようにちらちらと俺の顔を見る。まあムリもないな。
「あー、椎菜。春香もびっくりしてるみたいだからもう少し――」
と、そこで。
「――ねえねえ、天宮さん!」
後ろから椎菜を呼ぶ声が聞こえてきた。
「ん、あたし?」
椎菜が振り返る。その先には転校生に対する興味《きょうみ》で溢《あふ》れんばかりの日をしたクラスメイトたちの姿《すがた》があった。
「そうそう。あ、私は五月《さつき》、水谷《みずたに》五月っていうの、よろしくね。ねえ、天宮さんってどこから来たの?」
「え、北海道からだよ」
「わ、北海道って、札幌《さっぽろ》とか?」
「ううん、あたしは小樽《おたる》なの。知ってるかな、運河《うんが》とかオルゴールとかで有名なところで――」
丁寧《ていねい》に受け答えする椎菜。
それを皮切りに、さらに何人ものクラスメイトたちがスルメに集まるアメリカザリガニのごとく群《むら》がってくる。
「天宮《あまみや》さんって何月生まれ?」
「あ、あの、趣味《しゅみ》が薙刀《なぎなた》なんですよね? だったらぜひ薙刀部に……」
「カレシとかいる?」
「あ、えー、えーとね」
あっという間に、椎菜《しいな》の周《まわ》りには黒山の人だかりができていた。
「天宮さん、大人気ですね……」
俺の背中《せなか》で春香《はるか》がつぶやく。
やはり皆転校生には興味《きょうみ》があるのか、おそらくクラスの三分の一は集まっていそうな人だかり。それはまるでどこぞの城砦《じょうさい》の壁《かべ》のように俺たちの前に立《た》ち塞《ふさ》がっていて、通《とお》り抜《ぬ》けるどころか話しかける隙《すき》もない。さて、これはどうしたもんか……
すると人垣《ひとがき》の向こうで椎菜が、
『ごめん、また後で』
と口だけ動かしてそう言って、俺たちに向かって申し訳なさそうに顔の前で両手を合わせた。
どうやら現状ではこれ以上話をするのはムリそうである。
――まあ、仕方ないか。
もう少し色々と話したいこともあったが、転校生である以上こうなるのも仕方あるまい。今はまず椎菜がクラスに馴染《なじ》むことの方が先決だろう。俺たちとばっかり話していてはそれもままならないしな。
というわけで、とりあえず春香とともにこの場から離《はな》れることにした。
「そういえば春香、椎菜のこと覚《おぼ》えてたんだな」
「え?」
椎菜から少し離れた教室の隅《すみ》で、何となく訊いてみた。
「さっきロンドンがどうとか言いかけてただろ。あれってこの前の夏のコンクールのことだよな?」
「あ、はい。そうです」
春香がこっくりとうなずく。
「天宮さんのことはとってもよく覚えています。歳も近い感じでしたし、何よりすごくキレイな音を出されていましたから、印象《いんしょう》に残っていたんです」
「へえ……」
そうなのか。椎菜が開いたら喜びそうな台詞《せりふ》だな。
「――それより裕人《ゆうと》さんこそ、天宮さんとお知り合いだったんですね」
春香《はるか》がふいにそんなことを言った。
「自己紹介の時にそう言っていましたし、お二人とも名前で呼《よ》び合《あ》ってました。とっても仲が良さそうです」
「あー、まあ」
仲がいいというか、まだ二回しか会ったことがないんだが。
「仲が良いことはいいことです」
春香が本当に嬉《うれ》しそうににっこりと笑う。
「……」
むう、相変わらず無邪気《むじゃき》な笑顔《えがお》だな。俺としては椎菜《しいな》との関係にもう少しは何かを感じてほしかったりしなかったりするんだが……
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか春香はそのままにこにこ顔で、
「ロンドンでお知り合いになられたんですよね? えとなんぱ=Aですか? さすが裕人《ゆうと》さん、どなたともすぐに親しくなれてうらやましいです」
「ぶっ!?」
思わず肺の中の空気を全部|噴《ふ》き出《だ》しそうになった。ナ、ナンパって、何を言い出すんだいきなり!?
突然の意味深《いみしん》な発言に触角《しょっかく》を失ったイナゴのごとくコンフュージョンする俺に、だが春香はきょとんとした顔でこんなことを言った。
「え、違《ちが》うんですか? なんぱ≠ヘ男女が出会うための能動的《のうどうてき》な礼儀作法《れいぎさほう》のひとつであり、紳士《しんし》淑女《しゅくじょ》のたしなみだとお母様に聞いたのですが……」
「……」
……いや秋穂《あきほ》さん。
あなたは自分の娘をどういう風に育てたいんですか……
「……違うって。ナンパなんてしてない。ていうか、あの時に楽譜《がくふ》を貸してくれたのが椎菜だったんだよ」
「え、そうなんですか?」
「ああ」
「あの時の……」
春香が驚《おどろ》いたように目を丸くした。
「で、でしたらお礼をしないと……あの楽譜と裕人さんのおかげで、私は緊張《きんちょう》をほぐすことができたんですから」
両手をぐっと握《にぎ》り締《し》めて身を乗り出してくる春香。どうやらあの時のことをよっぽどありがたく思っていたみたいだ。まあそれ自体はいいことなんだが……
「あー、だけど今はムリだろ」
ちらりと椎菜《しいな》の席の方を見る。
椎菜は今現在も多数のクラスメイトに取《と》り囲《かこ》まれて質問|攻《ぜ》めにあっていた。とてもじゃないがゆっくりと話ができるような状況《じょうきょう》ではない。ましてや押しの弱い春香《はるか》じゃ、近づくことすら難《むずか》しいだろう。
「そうですね。早くお礼を言いたいのですが……」
春香がしょんぼりと顔をうつむかせる。気持ちは分かるが、ここは急がばその場で三遍《さんべん》回ってワンと鳴《な》けだ。
「とにかく少し待とう。な?」
物言いたげな春香に言い聞かせる。
春香は少しの間ちらちらと椎菜の方を見ていたが、やがて、
「……はい、です。それじゃ、私は席に戻りますね」
「ああ、後でな」
「はい」
ぺこりと頭を下げて、少し残念そうに春香は自分の席へと戻っていった。
まあ昼休みくらいになれば少しは状況もマシになるはずだ。いかに転校生が物珍《ものめずら》しいとはいえ、昼までに三回もの休み時間を挟《はさ》めばそれもいいかげん収《おさ》まるだろう。そう軽く考えていたのだが。
ところが。
昼休みになっても、椎菜の周《まわ》りの人だかりは消えることがなかった。
「あ、やっぱり天宮《あまみや》さんもそう思う?」
「うん、学食で食べるカレーって何だか妙《みょう》に美味《おい》しいよね。あの安っぽさがたまらない感じ」
「あはは。ツウだね、椎菜ちゃん」
「でもそれすごい分かるな〜」
それどころか、むしろ人の量は朝よりも増えているようだった。
春香との会話の場を作るべくいっしょに昼メシにでも誘《さそ》おうかとも思ったのだが、やはり声をかける隙《すき》さえこれっぽっちもなかったりする。これはまあ椎菜が転校生だというよりもむしろその人類皆兄弟姉妹なパーソナリティが強く影響《えいきょう》してるんだろうが、何にせよ俺たちが声をかけづらいという事態《じたい》に変わりはない。
「それじゃ行こうか、天宮さん」
「うちの学食はあっちの別棟《ベつむね》にあってね……」
「値段《ねだん》もそんなに高くないんだよ」
どうしようか考えている内に、椎菜《しいな》はそのままクラスの連中に連《つ》れられて学食へ行ってしまった。
「天宮《あまみや》さん、まだお忙《いそが》しそうですね……」
隣《となり》にやって来た春香《はるか》がぽつりと言う。
「まあクラスに馴染《なじ》んでるのはいいことなんだがな……」
なかなか春香と引き合わせる機会《きかい》を作れないのが少しばかりもどかしくもある。
「――とりあえず今は諦《あきら》めるか。さすがに学食まで追いかけていくのもなんだし、また放課後にでも声をかけるしかないだろ」
「ええ、残念ですけれど……」
しおれた白百合《しらゆり》みたいにしょんぼりと春香。一刻《いっこく》も早くお礼が言いたくて仕方がない様子《ようす》である。
「まあそのうち何とかなるさ。そこまで焦《あせ》らなくても――」
そんな春香をフォローしようとして、
ギュルギュルギュル! っと、
俺の腹の虫が発情期のガマガエルのごとく元気に鳴《な》った。
教室中に響《ひび》くほどのでかい昔だった。
「……」
「……」
一瞬《いっしゅん》、沈黙《ちんもく》。
「あー、これはだな……」
今朝は酔《よ》っ払《ぱら》い二人の世話《せわ》に時間を取られたせいでロクに食べていない。おかげで三時間目の途中《とちゅう》くらいからずっとこんな調子《ちょうし》なのだ。
春季がくすりと笑う。
「ふふ、裕人《ゆうと》さん、お腹が空いてるんですね。――あ、そういえばもうこんな時間です。葉月《はづき》さんたちが待ってると思います。中庭に行きませんか?」
「えっ あ、ああ。そうだな」
そういえば今日は、春香たちといっしょに昼メシを食うことになってたんだっけな。朝一番に大きなイベント(椎菜の転校)があったため、すっかり忘《わす》れてた。
「それでは行きましょう、裕人さん」
「ああ」
というわけで朝の約束《やくそく》通り春香と二人で中庭へと向かったわけだが。
「ふんふん、なるほど。あのアキハバラの時のおね〜さんが転校生で、さらにはおに〜さんの知り合いだったわけか〜」
「偶然《ぐうぜん》の再会《さいかい》というやつですね〜」
「…………ドラマティックエンカウンター?」
「……」
なぜかそこには無口メイド長さんとにっこりメイドさんの他に、笑顔《えがお》で弁当をぱくつくかしましツインテール娘までもがいた。
「そういうことってほんとにあるんだねー。う〜ん、すごい偶然。あ、でもそれって考えてみれば、お姉ちゃんにとってはライバル出現ってことだよね?」
「え、ら、らいばる?」
「違《ちが》うの? だってそのおねーさん、おに〜さんと仲がいいんでしょ?」
「え、そ、それは……」
美夏《みか》の言葉《ことば》に春香が困《こま》ったような表情になる。
「というか裕人《ゆうと》様、浮気《うわき》は良くないですよ〜」
「………二股《ふたまた》はダメです」
「……」
「浮気か〜、そうだよね〜。アキハバラの時もな〜んか怪《あや》しい雰囲気《ふんいき》だったし。お姉ちゃんもうかうかしてられないな〜」
「え、えと、あ、あの、その……」
「古代ヨーロッパのとある国では、浮気をした男の人は切断[#「切断」に傍点]の刑だったそうですよ〜」
「…………ちょんぎる?」
「…………」
さりげなく非常《ひじょう》に怖《こわ》い台詞《せりふ》が一部吐かれたような気がしたんだが、それはひとまず置いておくとして。
「……いや、何でいるんだ?」
真っ赤な顔をした春香の周《まわ》りで、実に楽しげにきゃっきゃっと声を上げながら俺の今後の処遇《しょぐう》について話し合うツインテール娘たちに問う。
「ん〜? 何でって、沙羅さんの戦《いくさ》乙女《おとめ》≠ナ来たんだよ。今日は冬将軍≠ヘ洗車中だっていうから。戦乙女≠ヘ快適《かいてき》だったな〜」
「そうじゃなくてだな……」
別にここに来た手段《しゅだん》を訊《き》いているのではなく(てかそんなもん、校庭のど真ん中に堂々と着陸しているステルス戦闘機《せんとうき》ミサイル付きを見れば容易《ようい》に察《さっ》しは付く)、なぜ学校の違う美夏が当然のごとくココ(白城《はくじょう》学園中庭)にいるのかってことを訊いているのである。
すると美夏は、
「えー、だってわたしもお姉ちゃんとおに〜さんといっしょにお昼ご飯を食べたかったんだも〜ん♪」
実にあっさりとそんなことを言った。いやも〜ん♪≠チてな……
「別にそれくらい、い〜でしょ。それともなに、わたしがいたらお邪魔《じゃま》だったかな〜? 左右に葉月《はづき》さんと那波《ななみ》さんをはべらせてお姉ちゃんといちゃいちゃして、ぷちはーれむ気分を味わいたかったとか〜?」
「いやそういうわけじゃ――」
何だその発想《はっそう》は。
「じゃ、い〜よね。ほら、おに〜さんもこんなにかわいい美夏《みか》ちゃんといっしょにご飯が食べられて嬉《うれ》しいでしょ えへ♪」
「……」
相変わらず口の減らないお嬢《じょう》様(次女)だった。まあ別にいいんだけどな……
「ま、細かいことは気にしちゃだめだって。それよりほら、おに〜さん、全然食べてないじゃん。せっかく葉月さんたちが腕《うで》によりをかけて作ってくれたんだから、ちゃんと食べてくれないときっと泣いちゃうよ?」
「裕人《ゆうと》様、いらなくなったからって私(の作ったお弁当)をゴミのように捨てるんですねー、えっえっ……(嘘泣《うそな》き)」
「…………泣きます」
「……いや、食べますよ」
だからそこの無口メイド長さん、そんな捨てられた仔犬《こいぬ》みたいな切ない目で見んでも。
「ん、それじゃおに〜さん、あ〜んV[#中白のハートマーク]」
美夏が、おままごとにおけるお嫁《よめ》さん役みたいな手付きで玉子焼きを摘《つま》んだ箸《はし》を差し出してきた。
「……」
「あ〜んV[#中白のハートマーク]」
「…………いちおう訊《き》くが、何のマネだ?」
ものすごく疲《つか》れた気分で尋《たず》ねると、美夏はにんまりと笑って、
「何って、あ〜んV[#中白のハートマーク]、だよ。だって大切な男の子といっしょにご飯を食べる時にはこうするって決まってるんだもん♪ ね、お姉ちゃん?」
「あ、え、ええ」
春香《はるか》がこくこくとうなずく。
「ほらほら、お姉ちゃんもいっしょにやるよ。あ〜んV[#中白のハートマーク]」
「は、はい。た、確《たし》か左手は斜《なな》め下三十度で……。あ、あ〜ん、です……」
両脇《りょうわき》から春香と美夏が箸を差し出し、
「う−ん、これは私たちもやっておくべきでしょうね〜」
「……はい」
それを見た那波《ななみ》さんと葉月《はづき》さんまでもがなぜかそんなことを言い出し、
「裕人《ゆうと》様、あ〜んです〜」
「……あーん」
それぞれやはりオカズを摘《つま》んだ箸《はし》を差し出してくる。
「あ、あー……」
い、いったいこれは何なんだ?
唐突《とうとつ》に生じた両手に花どころかあまりに百花《ひやっか》繚乱《りょうらん》(?)な状況に、どうすりゃあいいんだか分からずうろたえるしかない俺に、
「はいおに〜さん、あ〜んV[#中白のハートマーク]」
「あ、あ〜んです、裕人さん(一人だけ顔を真っ赤にしつつ)」
「あ〜ん、ですよ〜」
「……あ〜ん」
美夏《みか》、春香《はるか》、那波さん、葉月さん。
四方向から色とりどりの箸が迫《せま》ってくる。いやもう何が何だかさっぱり分からん。
こうして、昼休みは差し出される箸《はし》と「あ〜ん」カルテットとともに終わったのだった。
で、ようやく椎菜《しいな》とコンタクトが取れたのは、掃除《そうじ》も終わって教室がすっかり放課後気分になったあたりだった。
この頃《ころ》になるとさすがに椎菜の周《まわ》りに群《むら》がるクラスメイトの数もだいぶ少なくなり、春香《はるか》を連《つ》れた俺でも簡単《かんたん》に近づけるくらいの状況《じょうきょう》になっていた。
「椎菜ちゃん、じゃあね〜」
「うん、由貴《ゆき》もまた明日!」
「じゃ頼《たの》まれた本、明日持ってくるね」
「あ、よろしくね、ばいばい良子《りょうこ》」
教室から出て行くクラスメイトたちに笑顔《えがお》で声をかける椎菜。いつの間にか名前で呼《よ》び合《あ》っているのはさすがフレンドリー娘といったところか。
「椎菜」
それにさらに俺が声をかける。図式にすると俺→椎菜→クラスメイト澤村《さわむら》さん、みたいな感じだ。
「あ、裕人《ゆうと》。なーんか久しぶりって感じだね」
こっちを向き、椎菜がぱたぱたと手を振《ふ》った。
「まあな。六時間ぶりくらいか?」
「んー、だいたいそれくらいかも。朝のホームルーム以来だから」
さすがに転校生に対する質問|攻勢《こうせい》に疲《つか》れたのか、少し苦笑《くしょう》気味《ぎみ》に答える。
「だけどおかげでだいぶクラスにも慣《な》れてきたよ。みんな楽しいし、いい人たちばっかりだし。ちょっとラッキーだったかな」
「そうか」
それはいいことだな。まあ椎菜の性格《せいかく》ならどこに行ってもだれが相手でも立派《りっぱ》にやっていけるような気もするが。
「ところで椎菜、これから時間あるか?」
一通り前振《まえふ》りを済《す》ませた後、本題に入る。
「時間? うん、平気だよ。転校手続きとかは朝のうちに済ませちゃったから、特にやらなきゃいけないこともないし」
笑顔でうなずく。
「ならちょっといいか? 春香が話したいことがあるってな」
「乃木坂《のきざか》さんが? わ、何かな?」
そこで俺の背中《せなか》に仔《こ》コアラのように張《は》り付《つ》いている春香に気付き、椎菜《しいな》が嬉《うれ》しそうに声を上げた。
「あ、あの」
「ん?」
「え、えと」
春香はもじもじと胸《むね》の前で指を絡《から》めながら椎菜の顔を見ていたが、やがて。
「あ、私、天宮《あまみや》さんにお礼が言いたくて……」
タンポポの葉《は》擦《ず》れのような小さな声で口を開いた。
「お礼?」
「はい、ロンドンの時はとってもお世話《せわ》になったみたいで……」
春香のその言葉《ことば》に、椎菜は一瞬《いっしゅん》首をかたむけて、
「お世話…………あ、もしかしてあの楽譜《がくふ》のこと? いいっていいって、あんなの大したことじゃないんだから」
あはは、と手をひらひらさせながら笑った。
「え、で、でも……」
「ほんといいんだって。あの時は使わない楽譜だったし、乃木坂さんの役に立てたなら本望《ほんもう》だよ」
「そ、そうなのですか?」
「うん。だから気にしないで。ねっ?」
椎菜がぱちりと片目をつむる。
「……そう言われるのでしたら――分かりました。でもこれだけは言わせてください。天宮さんの楽譜のおかげで本当に助かりました。ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる春香。
椎菜はちょっと照《て》れくさそうな顔をしていた。
さて、これでいちおう春香が椎菜にお礼を言うというミッション(?)は無事《ぶじ》に終了したわけだが、このまま「じゃあまたな」ってのも少しばかり味気《あじけ》ないだろう。もう少し椎菜と春香が話をする時間を作ってもやりたいし。
なので一つ、提案《ていあん》してみることにした。
「――なあ椎菜、もう学園を回ってみたりはしたか?」
「えっ? ううん、まだだよ。学食とか一部は教えてもらったけど」
ふるふると首を振《ふ》る。
だろうな。昼休みだけではまあそれくらいがいいところだろう。
「だったらこれからいっしょに色々と回ってみないか? よければ案内するぞ」
「え、いいの?」
椎菜《しいな》がぱっと表情を輝《かがや》かせる。
「ああ。春香《はるか》も大丈夫《だいじょうぶ》だよな?」
「はい、だいじょうぶです。今日はお茶のお稽古《けいこ》がありますけれどそれは夜からですし……楽譜《がくふ》のお礼も兼ねて、ぜひ案内させてくださいです」
笑顔《えがお》でそう言ってくれた。
「じゃあ決まりだ。――椎菜、どこかリクエストとかはあるか?」
「うーん、そうだなー。特別教室とかあったら場所は覚《おぼ》えときたいし、あと購買とかも知っとかないと不便だし……あ、でもまずは音楽室かな。やっぱりどんなピアノが置いてあるのかとか興味《きょうみ》あるから」
椎菜はそう言った。
「分かった、音楽室だな」
「ばっちり案内させてもらいます」
「うん、よろしく頼《たの》むね!」
というわけで、音楽室へと向かうことになった。
音楽室は高等部校舎の最上階――五階にある。
五階の端《はし》っこの一番奥まった部分にある角部屋《かどべや》。そこは高等部でピアノが置いてある数少ない部屋の一つであり、どこぞのセクハラ音楽教師の拠点《きょてん》でもある音楽室だった。
「着《つ》いたぞ。ここだ」
防音|効果《こうか》のある分厚い扉《とびら》を開け中に入ると、まず視界《しかい》に飛び込んでくるのが巨大なグランドピアノ。その奥に続くように生徒用の席が扇《おうぎ》状《じょう》に並《なら》んでいる。
周《まわ》りの壁《かべ》にはたくさんの有名な音楽家たちの肖像画《しょうぞうが》が所《ところ》狭《せま》しと飾《かざ》られていて、その中でもまるで生けとし生ける者全てを呪《のろ》うかのごとき目をしたベートーヴェン(額《ひたい》に『肉』の文字byセクハラ音楽教師)のソレが一際《ひときわ》目立っていた。
「わ、すごい、これってベヒシュタインだよね!」
入り口横に、でん、と置かれたグランドピアノを見るなり稚菜が目を輝《かがや》かせた。
「うん、やっぱりそうだ。本物なんて初めて見た……。ねえ、弾《ひ》いてもいいのかな?」
「あ、はい、だいじょうぶです。生徒は自由に弾いていいことになっていますから」
「やった! じゃさっそく――」
春香の言葉《ことば》にうなずくと椎菜は一直線にピアノへと駆けていき、
「よーし、やるぞー!」
腕《うで》まくりをして、鍵盤《けんばん》へと指を躍《おど》らせる。
「さて、まずは――」
たちまち音楽室の中が音に包《つつ》まれていく。
最初は静かな旋律《せんりつ》。次に跳《は》ねるような音。最後には教室中を震《ふる》わせるような激《はげ》しい響《ひび》きになった。
「ベートーヴェン作曲、ピアノソナタ第十四番『月光』です。ステキですよね……」
胸《むね》の前で手を合わせながら、春香《はるか》がそう説明してくれる。
「とってもキレイな音…………裕人《ゆうと》さん、知っていますか? ピアノの音色《ねいろ》には弾《ひ》いているその人の内面――その人の心の内やその時の心情が表れるものなんですよ」
「そうなのか?」
「はい。きっと天宮《あまみや》さんはとっても心がキレイで、とっても楽しい気持ちで弾いているんだと思います。そうじゃなければ、こんな音を出せないですもの」
「……」
だとすると春香の演奏《えんそう》があんなにも人の心を惹《ひ》き付けるのは、春香の心がそれだけ魅力的《みりょくてき》だからなんだろうな――
――と言おうとしてやめた。さすがにそんなこっ恥《ぱ》ずかしいことを真顔《まがお》で言えるほど、まだ俺は人生の酸《す》いも甘《あま》いも知《し》り尽《つ》くしてない。
その後も、椎菜《しいな》は何曲か弾いた。
春香曰《いわ》く、曲名は『幻想《げんそう》即興曲《そっきょうきょく》(ショパン)』『エチュードOP10-12革命《かくめい》=iショパン)』『プレスト・パッショナート(シューマン)』とのことらしかったが、相変わらず俺にはさっぱり分からなかった。
「あー、気持ちよかった!」
演奏を終え、満足した顔で椎菜がぴょんとイスから降《お》りる。
「ここのところ引越しの後片付けとかで忙《いそが》しくて、なかなかピアノを弾くまとまった時間が取れなかったからなー。………あ、ってごめんね、なんか一人で先走っちゃって」
「いや、別に構わんぞ」
「ええ、とってもキレイな音でした」
「ほんとっ?」
「はい」
「わー、嬉《うれ》しいな。あの『|鍵盤上の姫君《ルミエール・ドゥ・クラヴィエ》』乃木坂《のぎざか》さんにそんなこと言われるなんて」
本当に嬉しそうな顔で、椎菜は屈託《くったく》のない笑《え》みを浮《う》かべると、
「ね、乃木坂さんも何か弾いてくれない?」
春香の手を引《ひ》っ張《ぱ》ってそう言った。
「え、私、ですか?」
「うんっ、ぜひ聴いてみたいな」
「え、えと……」
春香《はるか》が因《こま》ったように俺の方を見る。
「いいんじゃないか? 俺も聴いてみたいし」
そういえば、何だかんだでまだ春香のピアノをこんなに近くで落ち着いて聴いたことはないしな。
「そ、そうですか? でしたら……」
遠慮《えんりょ》がちにうなずき緊張《きんちょう》した面持《おもも》ちでピアノへと向かうと(手足が同時に出ていたが)、春香はゆっくりと鍵盤《けんばん》の上で指を動かし始めた。
――そして流れ始める柔《やわ》らかな音色。
コンクールで聴いたものとは違《ちが》う、穏《おだ》やかな曲想《きょくそう》。
だけどその昔はやはりあの時と同じく心に直接染《し》み渡《わた》ってくる響《ひび》きで――一瞬《いっしゅん》にして、音楽室がまるでコンサートホールへと変貌《へんぼう》を遂《と》げたかのような錯覚《さっかく》に襲《おそ》われた。
「あー、やっぱりすごいなー」
椎菜《しいな》が隣《となり》のイスに腰《こし》を下ろして息《いき》を吐《つ》いた。
「すごいってのは分かってたけど、まさかこれほどなんて。シューマン作曲、リスト編曲『春の夜』。こんなにキラキラした演奏《えんそう》、初めて聴いた。もう、悔《くや》しいなあ」
苦笑《にがわら》いを浮《う》かべながら少しだけ悔しそうな顔をする。
「でもこうして乃木坂《のぎざか》さんの演奏を聴いてみると、やっぱりここに転校してきて良かったなーって思えるよ。目標《もくひょう》は身近にいればいるほど、高ければ高いほど燃えるものだしね」
「椎菜……」
そう言う椎菜の人懐《ひとなつ》こい大きな目に、一瞬《いっしゅん》だけ真摯《しんし》な光が宿るのが見えた。本当にピアノに関しては真剣《しんけん》なんだな……
「――そういえば、椎菜は何でうちの学園に来たんだ?」
ふと疑問に思い、訊いてみた。
ここまで真剣にピアノに打ち込んでいて、しかもあんなでかいコンクールで二位を取るくらいだ。だったら自城《うち》みたいな普通の進学校に来るよりも、音楽高校なりもっと芸術に力を入れている高校なりを選んだ方が将来のためになるんじゃないのか?
「うん、ま、それも考えたんだけど……」
椎菜が腕《うで》を組む。
「色々事情があってさ。――あのね、北海道で師事してた先生から聞いたんだけど、ここの卒業生ですごい人がいるんだって」
「すごい人?」
「うん。芸大のピアノ科に主席で入学して、そのままトップクラスの成績を維持《いじ》して卒業した伝説の『宵闇《よいやみ》の独奏者《どくそうしゃ》』って人が。普通の高校出身で、特にすごい先生に師事してたわけじゃないのに、そんな風に有名になるなんてすごいと思ってさ。ずっと憧《あこが》れだったの。で、今回たまたま父親が転勤《てんきん》でこっちに来ることになったから、そんなすごい人が通ってた高校に行ってみたいなって思って。それで便乗《びんじょう》して付いて釆ちゃったってわけ。まあ、お父さん一人じゃロクに食事の支度《したく》もできないから、そのヘンも考えてなんだけどね」
「へえ……」
なるほど、そういう理由《りゆう》があったのか。それならわざわざここを選んだのもうなずける。しかしうちの卒業生でそんなすごい人がいたなんて、初耳《はつみみ》だな……
とその時。
『は〜〜〜〜っくしょん!』
隣《となり》の音楽|準備室《じゅんびしつ》から唐突《とうとつ》に盛大《せいだい》なくしゃみの音が聞こえてきた。
「……」
場所といいこの周《まわ》りをはばかることのないハデさといい、間違《まちが》いなく由香里《ゆかり》さんだろうな。そういえばあの人も白城学園の卒業生だって聞いていたが……
「……まさかな」
あのセクハラ教師に限《かぎ》ってそんなことは有《あ》り得《え》まい。
それはもう、童話に出てくるみにくいアヒルの子が白鳥ではなく実はフェニックスだったりするようなもんだ。いや自分で言っててワケの分からん喩えだとは思うが、要するに確実《かくじつ》に有り得ないってことを言いたいんだよ。
そんなことを考えていると、春香《はるか》の演奏《えんそう》が終わった。
「ど、どうもありがとうございました」
ピアノの横でぺこりと頭を下げる春香。
「すごい良かったよ、乃木坂《のぎざか》さん!」
「ほ、ほんとですか?」
「うん! さすがはピアノをやってる人みんなの目標《もくひょう》で憧《あこが》れだけあるっていうか……目が覚めるみたいな演奏だった! 感動しちゃったよ!」
「そんな、オ、オーバーです……」
春香が照《て》れたように顔をうつむかせる。
「ううん、ほんとにすごかった。どうしたらあんな音が出せるのか想像《そうぞう》もつかないっていうか……あ、ねえ、ちょっと指先見せてもらってもいいかな」
「え?」
返事を待たずに春香の手を取る。
「わあ、きれい……すべすべで長くて整《ととの》ってて……いいなぁ……この指からあの演奏が生まれてくるんだ。うーん、そう考えると何だか不思議《ふしぎ》な感じ……」
「あ、あの、あの……」
「あたしもこんな指だったらなあ……ほんときれい……」
大事なものを扱《あつか》うかのように春香《はるか》の手を撫《な》でる椎菜《しいな》。むう、なんかあの一角だけ花が咲《さ》き誇《ほこ》る女子校のような微妙《びみょう》な空気が……
しばし、そんな男の俺にはどことなく声がかけづらい状態《じょうたい》が続き、
やがて椎菜はぱっと顔を上げて、
「でもねっ、乃木坂《のぎざか》さん」
「は、はい?」
「だけどあたしも負けないからねっ。いつかきっと今の演奏《えんそう》を――乃木坂さんを超えてみせるから! 待っててね!」
イタズラつぽく笑いながら、そんなことを宣言《せんげん》したのだった。
「それじゃ、次は図書室を見たいかも」
音楽室を出て、椎菜に次のリクエストを訊いたところそんな答えが返ってきた。
何でも図書室で行われている楽譜《がくふ》の貸し出しに興味《きょうみ》があって、どのくらいの品揃《しなぞろ》え(?)があるのかを見てみたいらしい。
まあ五階には音楽室以外に案内する目ぼしいところもなかったし、図書室はすぐ下の四階にあるためちょうどいいということで、リクエスト通りに向かうこととなった。
階段を下りてすぐの角《かど》を右に曲がる。そのまま廊下を進み図書室の入りロに差《さ》し掛《か》かったところで、
「あー、裕人《ゆうと》だー。おーい」
突然《とつぜん》、後ろから呼び止められた。
「こっちこっち、僕だよー。マイブラザー」
相手の返事も待たずに一方的に大声で呼びかけてくる。このムダにでかい上によく通る声は……
「やー、裕人。元気にしてたー? こんなところで会うなんて奇遇《きぐう》だねー」
「……」
予想《よそう》通り、信長《のぶなが》のやつだった。
いつものごとく美少年な顔立ちに能天気《のうてんき》といえるほどの底抜《そこぬ》けに明るい笑みを浮かべて、ワケの分からないことを言いながらブンブンと手を振《ふ》っている。はあ……まためんどくさいところでめんどくさいやつが出て来たな。
そんな俺の気持ちもいざ知らず、信長は満面の笑みでこちらに駆《か》け寄《よ》ってくると、
「ここで何してるのー? 裕人《ゆうと》が図書室に来るなんて珍《めずら》しいよねー。――あれ、今日も乃木坂《のぎざか》さんがいっしょなんだー。こんにちはー」
「え? こ、こんにちはです」
突然声をかけられ、春香《はるか》が戸惑《とまど》ったようにぺこりと頭を下げる。まあ春香から見ればほとんど初対面《しょたいめん》みたいなもんだからな……
「えっとー、そっちの女の子は天宮《あまみや》椎菜《しいな》さんだよねー? 身長百六十センチ、誕生日は三月三日、趣味《しゅみ》はピアノと薙刀《なぎなた》。夏休みに行われたロンドン国際クラシックピアノコンクール第二位。北海道の小樽《おたる》から転校してきたばっかりで――」
「ちょ、ちょっと、何でこの人、そんなことまで知ってるの!? ストーカー!?」
椎菜が驚《おどろ》いたように俺の顔を見た。
「あー、まあこいつは何というか……」
説明しようとして説明に困る。てか美夏《みか》の時といい、こいつについての予備《よび》知識《ちしき》がない人間にはやっぱりそういう類《たぐい》の人種(ストーカー)に映るらしい。
「あっ、そういえば朝のホームルームの時に上代《かみしろ》センセイが隠《かく》し撮《ど》りが横行《おうこう》してるとか言ってたけど、まさか――」
ざざっ、とヒゲを抜《ぬ》かれそうになったネコのように一歩あとずさる椎菜。
「やだなー、僕はそんなことやらないよー」
と、信長は心外そうに首を横に振った。
「隠し撮りなんて邪道《じゃどう》なんだよー。写真っていうのはやっぱり本人にちゃんと許可《きょか》を取ってから撮るのが礼儀《れいぎ》だからねー。そんなバカチンたちといっしょにしてほしくないなー」
なんか知らんがこの色んな意味でエキセントリックの代名詞みたいなやつの台詞《せりふ》にしては珍しく意外なほどに正論である。これは少しはこいつに対する評価《ひょうか》を改《あらた》めてもいいのかと思いきや。
「僕が隠し撮りをするのは、何かお願いする時とか相手をキョウハクする時だけって決めてるからねー」
「いやそれでも充分《じゅうぶん》悪いわ!」
思わず突っ込んじまった。
基本的にはまあ悪いやつじゃないんだが、こういうところがあるせいで真正面《ましょうめん》からフォローしにくいのである。
「はあ、ったく……」
心の底《そこ》からため息《いき》を吐《つ》く俺に、信長はまったくもって涼《すず》しい顔で、
「ま、とにかく僕は隠し撮りなんてしてないよー。ていうかー、それって今ちょっと話題になってるやつだよねー?」
「ん、ああ」
ホームルームで注意事項として伝達《でんたつ》されるくらいだからな。
すると信長《のぶなが》はウンウンとうなずき。
「ふーん、そっかー。やっぱり一般にはあんまり知られてないし、そういう風に思われるのも仕方ないのかもしれないねー」
「?」
「今の高等部には全学年に万遍《まんべん》なくかわいい子が揃ってるのも影響《えいきょう》してるのかなー。平均レベルが高いっていうかー。『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』乃木坂《のぎざか》さんは当然として、三年の織川《おりかわ》さんとか一年の『|絶対零度の氷姫《プリンセス・ブリザード》』天王寺《てんのうじ》冬華《とうか》とかー。裕人《ゆうと》のクラスにも朝比奈《あさひな》さんとか『忠犬《ちゅうけん》』八咲《やつさき》さんとかマニアックな層に人気がある子がいるし、由香里《ゆかり》さんとかも中身はともかく外見だけならトップクラスだからねー」
「……」
結局《けっきょく》こいつは何が言いたいんだ? うちの学園にはかわいい子が多いってことか?
「ま、僕としてはだれが選ばれても別にいいんだけどねー。やっぱ女の子は三次元よりも二次元の方が輝《かがや》いて見えるしー。――あ」
と、そこで首から下げていた携帯《けいたい》の液晶画面を見て、
「もうこんな時間かー。そろそろ僕は帰んないと。今日は夜から『夜《よ》更《ふ》かし悪魔《あくま》ピロウちゃん』の放送あるからさ−。それまでに色々と雑事《ざつじ》を済《す》ませておかないといけないんだー。――というわけで、じゃーねー」
そう早口で言うと、こっちの反応《はんのう》も待たずに信長は嵐《あらし》のごとく去っていった。
「な、なんか、すっごい個性的な人だったね……」
椎菜《しいな》が呆然《ぼうぜん》とした表情でつぶやく。
「まあ、な……」
アレを個性的と表現するのはおそらくかなりの譲歩《じょうほ》、または妥協《だきょう》案《あん》だとは思うがな。
しかしいつものことながら、プリンセスなんたらとかああいった情報はいったいどこから仕入れてくるんだろうね?
「わ、すごい! 貴重《きちょう》な原典版とかがたくさんある!」
信長との第一種|接近《せっきん》遭遇《そうぐう》を経《へ》て本来《ほんらい》の目的地である図書室へと足を踏《ふ》み入《い》れるや否《いな》や、歓声《かんせい》を上げて椎菜は楽譜《がくふ》コーナーへと走っていった。なんかよく分からんが、およそ普通《ふつう》の図書室には考えられないラインナップらしい。
「これも、あれも、それも……うわー、宝の山みたいっ!」
そんな声が聞こえてくる。
まるで大量のマタタビとカツオブシを前にした仔猫《こねこ》のようである。やれやれ、あの調子《ちょうし》じゃしばらくは戻《もど》ってきそうにないな。
苦笑《くしょう》しながら、何となく周《まわ》りを見渡《みわた》してみる。
もともと利用率の驚異的《きょういてき》低さで有名な図書室に、今は俺たち以外の人の姿《すがた》はない。
独特な本の匂《にお》いのする広々とした部屋《へや》には椎菜《しいな》の歓声が響《ひび》くだけで、他に音もなく静かなものである。
――そういえば、春香《はるか》と知り合う最初のきっかけとなったのはこの場所だったんだよな。
ふと思う。
『イノセント・スマイル』を借りに来た春香。それに続く図書室|半壊《はんかい》事件。屋上《おくじょう》への逃避行《とうひこう》。
持ち物|検査《けんさ》と職員室への呼《よ》び出《だ》し。屋上での春香|渾身《こんしん》のイラスト(らしきもの)の閲覧《えつらん》。
『イノセント・スマイル』の返却《へんきゃく》と図書室|不法《ふほう》侵入《しんにゅう》。
図書室から始まり、図書室でいちおうの終結《しゅうけつ》を見せた一連の騒動《そうどう》。
半年前のあれらがなければ今の俺たちの関係はなかったわけだし、それどころか俺と春香はただのクラスメイトのまま言葉《ことば》を交《か》わすことすらなかったかもしれない。ふむ、そう思うとただの図書室も少しばかり感慨《かんがい》深《ぶか》いものがあるね。
と、
「ここが……始まりだったんですよね」
春香が隣《となり》でぽつりとつぶやいた。
「ここで初めて裕人《ゆうと》さんと知り合って、その、『秘密《ひみつ》』を分け合うことになって……だから、今の私たちがあるんですよね? そう考えると何だか不思議《ふしぎ》です」
はにかんだような顔で口元を綻《ほころ》ばせる。
「春香……」
春香も同じようなことを考えていたのが、何となく嬉《うれ》しかった。ていうか春香も俺たちの今の関係《かんけい》を大事に思ってくれてるんだな……
「――あ、そういえばあれって……」
「え?」
ぽんと手を叩くと、春香が貸し出し台の近くにあるイスにとてとてと歩いていった。
「ほら、これ。私があの時、足を引《ひ》っ掛《か》けちゃったイスです。それでそのままカバンの中身をばら撒いてしまって……」
「ああ――」
あの図書室半壊事件の間接的なきっかけになったやつか。
「あの時は痛《いた》くて恥《は》ずかしかったですけど……でも、あれがあったから裕人さんとお話をすることになったんですよね。だとすると、もしかしたらこのイスさんは私と裕人さんとを引き合わせてくれたキューピッドなのかもしれません」
イスの背《せ》を右手で撫《な》でながら言う。イスのキューピッド。シュールな表現だ。まあ春香のことだから、そのキューピッドという言葉《ことば》が意味するところについてはあまり深く考えていないんだろう。
「だから私、このイスさんに感謝《かんしゃ》しちやいます。このイスさんのおかげで、今私は裕人《ゆうと》さんといっしょに笑っていられるんですから」
俺の顔を見ながら、少し煩《ほお》を赤らめてえへへ、と笑う春香《はるか》。
「う……」
そのちょっと照《て》れたような笑顔《えがお》は殺人的にかわいくて、俺は自分の脳髄《のうずい》からアドレナリンがゴボゴボッと大量放出されるのを感じた。これはやばいだろ……
「裕人さん?」
「あ、いや」
興奮《こうふん》から思わず凝視《ぎょうし》しちまってたのか、不思議《ふしぎ》そうにこっちを見つめてくる春香に背《せ》を向け、内心のテンパリ具合《ぐあい》を誤魔化《ごまか》すかのように俺は口を開いた。
「あ、あー、そうだな。俺もそう思うぞ。このイスがあったから春香といられるわけだし、そのおかげで今は毎日が幸せだ。なんつーか、縁結《えんむす》びみたいなもんだよな」
――って、俺何言ってんだ? どこぞのインチキ臭い幸運|招来《しょうらい》アイテムの宣伝《せんでん》みたいな口上《こうじょう》に加えて縁結びって、いくら脳内《のうない》興奮《こうふん》物質のおかげで思考《しこう》能力《のうりょく》が限《かぎ》りなくゼロに近づいてたとはいえこんな真昼間からなんて恥ずかしい&直接的な台詞《せりふ》を……
これはさすがにやっちまったかと恐《おそ》る恐《おそ》る春香の顔を見るも、
「裕人さん……」
だが春香はまったくもって動じることなく、俺の制服の背中をちょこんと摘《つま》んでこんなことを言ってきた。
「……はい。私も裕人さんと同じ気持ちです」
「え?」
「私もこのイスさんは縁結びだと思います。縁結びで、キューピッドさん。だって裕人さんといっしょにいられて、私もとっても幸せなんですから」
「春香……」
「えへへ、こうしていると何だか落ち着きます」
ふにゃりと笑って、遠慮《えんりょ》がちにもう少しだけ身体を寄せてくる。
「……」
「……」
背中から伝わる温《あたた》かく柔《やわ》らかな感触《かんしょく》。
心落ち着く優《やさ》しい香《かお》り、窓の外から降《ふ》り注《そそ》ぐ光、穏《おだ》やかな時間。
そんなどこか別世界のような空気に包《つつ》まれていると、何だかここが放課後の図書室だってことを忘《わす》れそうになってくるな――
「裕人《ゆうと》、乃木坂《のぎざか》さん!」
「!?」
と思った直後、響《ひび》いてきた声によって強制的に現実に引《ひ》き戻《もど》された(約三秒)。
慌《あわ》てて反重力兵器を照射《しょうしゃ》されたかのように身体を離《はな》す。
「ほら見て見て! すごいよ、探《さが》してた楽譜《がくふ》がいっぱいあった。これって全部借りてもいいのかな?」
両手にいっぱいの楽譜を持った椎菜《しいな》が、ほくほく顔でこっちに戻って来た。
「これとかすごいレアなやつでこっちも今じゃほとんど見られなくて――あれ、どうしたの?二人ともなんか顔が赤いよ、だいじょうぶ?」
「い、いや、何でもない」
「は、はい。の〜ぷろぶれむ、です」
「? 何で英語なのかよく分かんないけど……ま、だいじょうぶならいっか。んしょっと」
そう言うと椎菜は、目の前にあったイス(キューピッドさん)にちょこんと腰を下ろした。
「あっ――」
春香《はるか》が小さく声を上げる。
「え、何かまずかった……かな?」
椎菜が不思議《ふしぎ》そうに顔を向けた。
「あ、ご、ごめんなさい。そういうことじゃないんです」
「?」
「き、気にしないでください」
「??」
椎菜は最後までよく分からないという顔をしていた。ま、当然っちゃ当然なんだが。
さて、その後もいくつか学園内の目ぼしい場所を回り。
椎菜が最後にリクエストしたのは、体育館だった。
「体育館では薙刀《なぎなた》部《ぶ》が練習をやってるっていうから、ちょっと見てみたかったの。麻衣《まい》ちゃんにも誘われてたし」
ちなみに麻衣ちゃんというのはうちのクラスの朝比奈《あさひな》麻衣のことである。
ほんの昨日までは俺の隣《となり》の席で今は斜《なな》め後ろの彼女は、普段《ふだん》の微妙《びみょう》に気弱な性格とは裏腹《うらはら》に薙刀部の副部長を務《つと》めているとか。人は見かけによらないとはこのことだな。
体育館では、薙刀部の他にバスケ部と卓球部が練習をやっているようだった。
天井《てんじょう》からぶら下がっている巨大なネットで真ん中を仕切ったスペースを、半面をバスケ部がもう半面を半分ずつ薙刀《なぎなた》部《ぶ》と卓球部が使っている。
「へー、広い体育館だね。サッカーとかできそう」
椎菜《しいな》が楽しそうにぐるりと辺りを見回す。
「設備《せつび》もかなり整《ととの》ってるし、運動にもけっこう力を入れてるのかな」
「ああ。そうだな」
いちおう文武《ぶんぶ》両道がモットーの白城《はくじょう》学園は、運動系の設備《せつび》もそれなりに整っている。とはいっても音楽室や図書室などの文科系に比べればまだまだではあるが、そのヘンにはまあ色々と事情(寄付金《きふきん》by乃木坂《のぎざか》家《け》とか)があるんだろう。
「あ、椎菜ちゃん、来てくれたの?」
と、そこでこちらに気付いたのか練習していた朝比奈《あさひな》さん(胴着《どうぎ》姿《すがた》)が駆《か》け寄《よ》ってきた。
「うん、せっかく誘《さそ》ってくれたし、やっぱり興味《きょうみ》もあったから」
「そうなんだ……嬉《うれ》しいな。あ、よかったらちょっとやっていってみない?」
練習用の薙刀(もちろん刃《は》は付いていない)を差し出して、朝比奈さんがそう言った。
「うーん、そだなー。でも案内してもらってる最中だし……」
ちらりと俺たちの方を見る椎菜。
「いや別にいいぞ。まだ時間はあるし」
「天宮《あまみや》さんの薙刀、見てみたいです」
「そ、そう? だったらちょっとだけ――」
俺たちの手前|遠慮《えんりょ》していたものの、実のところかなりやりたかったらしい。椎菜は嬉しそうにうなずくと、薙刀を受け取り練習が行われている薙刀部スペースの中央へと進んでいった。
「じゃとりあえず、っと」
そうつぶやくと、手に持った練習用薙刀を正面に構《かま》える。
途端《とたん》に、辺《あた》りの空気がすっと静まり返ったように思えた。
流れ出す静謐《せいひつ》な空気。
椎菜の薙刀の動きに伴《ともな》い、周囲《しゅうい》の風がゆっくりと舞《ま》い始《はじ》める。
「――はっ! やあっ!」
響《ひび》く掛《か》け声《ごえ》と薙刀が空を切る音。
「たあっ!」
一連の動作にまったくムダがない。素人《しろうと》の俺が見ても達人《たつじん》級《きゅう》のそれだとはっきりと分かる、まるで流れる水のような見事《みごと》な動きだった。
やがてひと通り型《かた》のようなものを終えると、椎菜はふーっと息《いき》を吐《は》いて、
「はい。こんなもんかな」
「し、椎菜ちゃん、すごいよ!」
朝比奈《あさひな》さんが感激《かんげき》の声を上げる。
「経験者だっていうのは聞いてたけど、こんなにすごいとは思わなかった! 師範代《しはんだい》級《きゅう》だよ!」
「えへへ、いちおう小さい頃《ころ》からやってるしね。父方のお祖父《じい》ちゃんの家が薙刀《なぎなた》道場なんだ。
『天宮神灯流槍術《あまみやしんとうりゅうそうじゅつ》』。だからこれくらいは、ね」
椎菜《しいな》が照れたように頭に手をやった。ほめられて、まんざらでもないようである。
「すごい……かっこいいです、薙刀……」
一方、俺の隣《となり》では春香《はるか》も胸《むね》の前で両手を握《にぎ》りしめてそんなことをつぶやいていた。何だ、春香も薙刀が好きなのか? そういえば春香は古武術《こぶじゅつ》をやってたし、そういった武道《ぶどう》系《けい》のものに興味《きょうみ》を持ってもおかしくないのかもしれんな……などと思っていると、
「『ノクターン女学院ラクロス部』に出て来るヒロイン『春琉奈《はるな》』様も薙刀の達人《たつじん》なんです。だから私も昔から憧《あこが》れていて……」
「……」
まあ、何というか実に春香らしい理由《りゆう》だった。
「いいなあ、薙刀……ステキだなあ……」
大好物のオヤツを前にして「待て」の練習をさせられている仔犬《こいぬ》みたいに物欲しそうな目をしていた春香に、
「あ、よかったら乃木坂《のぎざか》さんもやってみますか?」
朝比奈さんが声をかけた。
「え、いいんですか?」
春香が目を輝《かがや》かせる。
「はい。少しでも薙刀に興味を持ってくれた人は大歓迎です」
「ありがとうございますっ。ぜひお願いします!」
で、朝比奈さんに連《つ》れられて、春香も薙刀部スペースへと歩いていった。
「ええとですね、ここをこういう風に持って――」
「あ、こ、こうですか?」
「そう、そこをそうやって、うんそんな感じ」
「えいっ、えいっ」
「あ、でももう少しだけ力を抜《ぬ》いた方がいいかな」
「わ、分かりました。えいっ、えいっ」
「そうそう。さすが乃木坂さん、筋《すじ》がいいです。何をやってもすごいんですね」
朝比奈さんの指導の下、春香は一生懸命《いっしょうけんめい》な顔で薙刀を振《ふ》るう。
その横では椎菜が、他の薙刀部の部員に何やら型《かた》を教えている。
何となく、今までの春香とのやり取りでは見ることのなかった体育会系な光景。
小窓から射し込む光の中でさらさらと髪《かみ》が踊《おど》り、ひらひらと制服のスカートが微妙《びみょう》な揺《ゆ》れを見せる。
まあたまにはこんなのもいいかもな……と、しばしそんな放課後の部活的な光景《こうけい》に見入っていて。
「――ん?」
視界《しかい》の隅《すみ》に、何やら怪《あや》しげなモノを見つけた。
体育館の隅。用具入れ倉庫の近く。
なぜかそこに、どでかい跳《と》び箱《ばこ》(八段)が三つほど並《なら》んで置いてあった。しかもその三つが三つとも、不自然に春香《はるか》たちの方を向いている。
「……」
……何だあれは?
体育館にいる他の生徒たちは部活に集中していて気付いていないみたいだが(というか俺もさっきまで気にも留めてなかったんだが)、冷静《れいせい》に考えてみればアレはオカシイ。てかあからさまにアヤしい。不審《ふしん》に思いもっとよく見てみると――
「……」
跳び箱の隙間《すきま》から何やらキラリと光るモノが見えた。
あれはまさか――
即座《そくざ》に頭に浮かんだのはホールムールで由香里《ゆかり》さんが言っていた「隠《かく》し撮《ど》り」の文字。
何ともマヌケな姿《すがた》だが、あの中に人が入っていて春香たちのことを密《ひそ》かに撮影《さつえい》しているとなれば、この状況《じょうきょう》にも説明がつく。もしそうなら断固《だんこ》として放置《ほうち》しておくわけにはいかない。
「……」
俺はこっそりと後ろから跳び箱に回り込むと、一気に三つ全てのフタを開けた。
「――あ」
中にいたのは、デジカメ(望遠レンズ付き)を構《かま》えた制服姿の男たち(×三)。
その怪《あや》しく銀色に輝《かがや》くレンズは、今まさに春香や椎菜《しいな》たちの方へと向けられているところだった。
「お前ら……」
「ヤ、ヤベ!」
「遂げるぞ!」
「そんな、何で僕たちの完璧《かんぺき》な擬態《ぎたい》工作《こうさく》が……」
跳び箱の中から飛び出し、隠し撮り男たちはクモの子を散らすように一斉《いっせい》に逃《に》げ始《はじ》めた。
「待て!」
あれのどこが完璧な擬態工作なんだっていう突っ込みはとりあえず置いておき、とにかく男たちを捕《つか》まえるべく手を伸ばす。
「は、放せ《はな》!」
「く、くそっ! ここで俺たちが捕《つか》まるわけには……」
「僕たちは怪《あや》しい者じゃない! え、ええと、なんというか、ただの跳《と》び箱《ばこ》検査《けんさ》委員だ! だから……のわっ!」
「逃《に》がすか!」
身体ごと飛び付くことで何とか一人は取《と》り押《お》さえることに成功したものの、だが残りの二人は強引《ごういん》に俺の手を振《ふ》り払《はら》い、デジカメを抱えたまま体育館の真ん中を突っ切って出口へと走っていく。
その進路上には。
「えと……?」
「な、何、この人たち?」
春香《はるか》と椎菜《しいな》がいた。
「そいつら、隠《かく》し撮《ど》り犯《はん》だ! だれか先生に――」
「え、隠し撮りって……?」
「この二人がっ?」
春香はよく事情が呑《の》み込《こ》めていない顔でゆるりと小首をかたむけ、椎菜はキッと隠し撮り男たちを睨《にら》む。
「ど、どけっ!」
隠し撮り男たちは、両腕を振り回しながらそんな春香たちの間を強引《ごういん》に通り抜けようとして。
次の瞬間《しゅんかん》。
めきょっ!!
中身の詰《つ》まったカボチャを木刀《ぼくとう》で思いっきりぶっ叩《たた》いた時のような、果《は》てしなく鈍《にぶ》い音(×二)が体育館内に響《ひび》き渡《わた》った。
「なっ……」
続いて体育館の上空に舞《ま》い上《あ》がる二つの影《かげ》。
まるで竜巻《たつまき》に巻《ま》き込《こ》まれたゴミのようなそれらはギュルギュルとキリモミ状に回転しながら五メートルほどの高さまで到達《とうたつ》した後、そのまま引力に従《したが》ってひと夏の短いきらめきを終えたセミのようにボトリと床《ゆか》に落下《らっか》した。
「……」
一瞬《いっしゅん》、何が起こったのか分からなかった。
ただ目の前には薙刀《なぎなた》を振り切った体勢《たいせい》の椎菜と春香の姿《すがた》。
風圧《ふうあつ》でふわりとスカートの裾《すそ》がひるがえり、瞬間《しゅんかん》的《てき》にちらりとその奥(×二)が視界《しかい》の隅《すみ》に入ってしまい呆然《ぼうぜん》としていた俺は――
「ど、少しは反省した? 隠《かく》し撮《ど》りなんてする人にはいいクスリでしょ」
「あ、す、すみません。と、とっさのことでつい……」
「――!」
椎菜《しいな》と春香《はるか》、二人の声で我に返った。
「これに懲《こ》りたらもうこんなことはやめなさいよね。知らないうちにこっそり写真を撮られてるなんてサイテーなんだから」
「ほ、ほんとにすみませんです……」
腕《うで》を組んでそう言い放つ椎菜とすまなそうな顔でぺこぺこと謝《あやま》る春香。
その足下には、壊《こわ》れたカメラとともに麻酔銃《ますいじゅう》で撃《う》たれたサルのように倒《たお》れ伏《ふ》す隠し撮り男たちの姿《すがた》があった。
「これは……」
そこでようやく事態《じたい》が呑《の》み込《こ》めてきた。
響《ひび》いた打撃《だげき》音《おん》と宙を舞《ま》った物体。
倒れている隠し撮り男たち。
謝る春香と椎菜。
つまり……今のは春香たちがやったのか?
いまいち信じられんというか信じたくない部分があるんだが、状況《じょうきょう》を総合してみればそれしか考えられん。倒《たお》れてる男二人の顔面にはしっかりと薙刀《なぎなた》の痕がついてるし。しかし春香《はるか》には佐々岡《ささおか》を壊《こわ》れたタケトンボのように投げ飛ばした前歴《ぜんれき》があるが、まさか椎菜《しいな》までもがここまで強かったとは……
「……」
……いや。
もしかしたらこの二人、学園最強コンビかもしれんな。
「あ……あひ……」
そして目の前で起こった仲間の壮絶《そうぜつ》な末路《まつろ》を見て逃亡《とうぼう》することなどおよそ不可能《ふかのう》だと悟《さと》ったのか、俺の腕《うで》の中の一人も真《ま》っ青《さお》な顔になって抵抗《ていこう》をやめた。ま、賢明《けんめい》な判断《はんだん》だな。
「ほら、立てって」
「ひっ、い、命だけは……」
俺はヒッチコック映画を見た直後に鳥の集団に遭遇《そうぐう》でもしたかのように怯《おび》えるそいつの腕を掴《つか》んで起こすと、春香たちのもとへと連《つ》れて行った。
「裕人《ゆうと》さん……」
「裕人、だいじょうぶ?」
二人が心配《しんぱい》そうに声をかけてきてくれる。
「ああ。それよりこいつらをどうするか……」
体育館の隅《すみ》に、怯《おび》える一人といまだに電気ショックを受けたカエルの脚《あし》のようにピクピクと痙攣《けいれん》をしている二人とを並《なら》べる。
まあ普通《ふつう》に考えればだれか教師を呼んできて引《ひ》き渡《わた》すのが順当だろう。とりあえず男たちの見張りを朝比奈《あさひな》さんたちに頼《たの》んで職員室へと向かおうとして、
「ま、待ってください! これは違《ちが》うんです! 僕らは隠《かく》し撮《ど》りなんかじゃなくて……」
隠し撮り男(唯一《ゆいいつ》無傷《むきず》)が叫《さけ》んだ。
「いや違わないだろ」
どこの世界に隠し撮り以外の目的で跳《と》び箱《ばこ》の中からこっそりとデジカメを構《かま》えるやつがいるってんだ。
すると隠し撮り男は。
「じ、実は僕らはこういう者で……」
そう言って制服のポケットから手帳のようなモノを取り出す。そこには――
『第三十五回|白鳳祭《はくほうさい》ミスコン管理《かんり》委員会実働部』
と光り輝《かがや》く文字(金箔《きんぱく》)で書かれていた。横にはちゃんと学園長の印までもが捺《お》してある。
「これは……」
どういうことだ。こいつらはただの隠し撮り犯じゃないのか? ワケが分からず顔を見合わせる俺たちに、
「僕らは文化祭におけるミスコンの管理《かんり》委員なんです。ミスコンを発起《ほっき》、主催《しゅさい》、管理して無事《ぶじ》に成功まで導《みちび》くための特別委員会というところでしょうか? 現在はノミネートされる生徒の予備《よび》審査《しんさ》をしている段階で、学園内で人気の高い方々の写真を集めていたところなんです」
男はそんなことを言った。
「そしてみなさんの飾《かざ》らない自然な顔を撮るために隠し撮り――もとい、こっそりと推定的《すいていてき》承諾《しょうだく》の下に撮影《さつえい》させていただくというのが毎年の慣例《かんれい》でして……。だから一般生徒の方はもちろん、先生方や学園関係者にも秘匿《ひとく》にしてコトを運ばせてもらっているんです」
「……」
「な、何なら確認してもらっても構《かま》いません。学園長先生に訊けば分かるはずです。僕らは学園長先生の直轄《ちょっかつ》機関《きかん》ですし」
真剣《しんけん》な表情で訴《うった》えかけてくる。うーむ、本当にウソは言ってないのか?
俺は春香《はるか》と椎菜《しいな》を手招《てまね》きして、男たちから少し離《はな》れた位置《いち》にまで連《つ》れていった。
「……どう、思う?」
「うーん、ウソ吐《つ》いてるようには見えないよね」
「は、はい。学園長先生の印も本物のようですし……」
そろって首をかたむける。
「よく分かんないけど、信じてもいいんじゃないかな?」
「私もそう思います…」
「そうか……」
二人の意見も男の言葉《ことば》を肯定的《こうていてき》に捉《とら》えるものだった。
とすると、こいつらは本当に正真正銘《しょうしんしょうめい》のミスコン管理委員とやらということになる。にわかには信じがたいが……だがそうだとすればこれでさっきの信長《のぶなが》のワケノワカラン言動《げんどう》にも納得《なっとく》がいく。あいつは最初からこのこと(隠し撮り=ミスコン予備審査)を知ってやがったに違《ちが》いない。女子の平均レベルがどうこう言っていたのもだからだろう。……ったく、だったらちゃんと俺たちにも分かるように説明しろってんだ。
何となく釈然《しゃくぜん》としない気分で俺たちが戻ると、男は示談《じだん》を期待《きたい》する痴漢《ちかん》常習犯《じょうしゅうはん》のような顔で、
「ど、どうですか? 僕らが隠し撮り犯でないと分かっていただけましたか?」
「まあ、な……」
いちおう状況《じょうきょう》だけは理解できた。
だがそれにしても、なんつーか紛《まぎ》らわしいことこの上ないな。やってること自体は客観的《きゃっかんてき》に見れば隠し撮りとそう変わらんわけだし。だいたい学園長直属って、あのハッスルじいさんは一体何を考えているんだか。
「あの、それでどうでしょう、分かってもらえたのならこのまま見逃《みのが》していただけないでしょうか? 僕らの存在《そんざい》が公《おおやけ》にされるとこれからのミスコンの運営に大きな支障が出てしまう恐れがあって……」
懇願《こんがん》の表情で俺たちを見上げてくる。
「……どうする?」
果《は》たしてこのまま放免《ほうめん》するかそれとも教師に引《ひ》き渡《わた》すか、当事者《とうじしゃ》たる春香《はるか》たちに訊いてみると
「まあ……いいんじゃない? そんなに悪い人たちには見えないし、カメラも壊《こわ》れて現像《げんぞう》はできないみたいだし……」
「そうですね……先生に通報というのは、少しかわいそうな気もします」
うなずき合う椎菜《しいな》と春香《はるか》。
「――て、ことらしい」
「あ、ありがとうございます! このご恩《おん》は決して忘《わす》れません!」
その旨《むね》を伝えると、男が地べたに平身《へいしん》低頭《ていとう》して礼を言った。
「あー、ただまあ、もうこんなことはやめといた方がいいと思うぞ。やっぱり撮られる方は気持ちいいもんじゃないだろうし……」
「そうね。またやってるところを見かけたら次は容赦《ようしゃ》しないから」
「や、やめてくださいね」
椎菜がぴしりと、春香はやんわりとそう付け加える。
「そ、それはもう! 今度はちゃんと正面から堂々《どうどう》とお二人のことを撮りに来させてもらいます!」
「……」
そういうことを言ってるんじゃねえと思うんだがな。
そんな分かってるんだか分かってないんだか微妙《びみょう》な言葉《ことば》を残して、男たちは去っていった。
やれやれ。
「二人とも、ケガはないか?」
男たちの姿《すがた》が見えなくなってから、春香たちに確認《かくにん》する。
「うん、あたしは全然」
「あ、私もだいじょぶです」
椎菜と春香が同時にうなずく。
「そうか」
ならひとまずは安心だ。まあこの二人の並外《なみはず》れた戦闘力《せんとうりょく》を考えれば、そんな心配《しんぱい》は無用《むよう》かもしれんが。
「あ、裕人《ゆうと》さん、その手……」
と、春香が俺の右手を指して小さく声を上げた。
「え?」
「血が出てるじゃない。どうしたの?」
椎菜《しいな》までそんなことを言ってくる。
見ると確《たし》かに、薬指の先が切れて僅《わず》かに血が出ていた。たぶんさっき隠《かく》し撮《ど》り男たちに手を払われた時にでもできたもんだろう。
「あー、大したことない。これくらいなら放っとけばすぐに治《なお》るだろ」
「え、で、でもそういった小さなキズも放っておいては大変《たいへん》なことになるかもしれないです。せめてこれで拭《ふ》き取《と》ってくだ――」
「ダメだって! ほら、ちょっと手、出して」
「お――」
椎菜がぐいっと俺の手を掴《つか》む。
「とにかく血を拭いてっと……あ、傷《きず》自体はそんなに深くないみたいだね。でも後でちゃんと消毒《しょうどく》しとかないとダメだよ」
ポケットからハンカチを出して血を拭《ぬぐ》うと、椎菜は顔の前で人さし指をぴっと立ててそう言った。
「分かった?」
「あ、ああ……」
その勢《いきお》いに押《お》されて思わずうなずく。
「あー、それより悪い。ハンカチ、汚《よご》しちまったな」
「そんなの気にしなくていいって。ハンカチなんかより、裕人の方が大事でしょ?」
明るい声でにっこりと笑う。うーむ、やっぱりいいやつだな、椎菜は。
「……」
と、そこで春香《はるか》がこちらに向かって右手を差し出した状態《じょうたい》で固《かた》まっているのに気付いた。
「ん、どうした、春香?」
「え? あ、いえ、何でも……」
訊くと春香はふるふると首を振《ふ》って、何かをいそいそとポケットに仕舞《しま》った。
「?」
「だ、だいじょぶです。き、気にしないでください」
どこか誤魔化《ごまか》すような笑顔《えがお》で両手を顔の前で振る。
何なんだろうね? 少しばかり気にならないでもないが、まあ春香自身が気にしないでくれと言ってる以上、そんなに大したことじゃないんだろう――と思い、この時の俺はほとんど気にも留めなかった。
ゆえに。
「…………変です。何だか胸《むね》がもやもやとして……」
春香がぽつりとそんなことをつぶやいていたことに、まったく気付かなかったのだった。
ちなみにその頃《ころ》音楽|準備室《じゅんびしつ》では。
「うーん、おかしいわね。いつまで経っても隠《かく》し撮《ど》りくんたちが来ないじゃない」
十月にあるまじき夏|真《ま》っ盛《さか》りな格好《かっこう》――具体的にいえばビキニの水着姿――をした音楽教師がそんなことをつぶやいていた。
「せっかくきれいなおねいさんが絶好《ぜっこう》のシャッターチャンスを作って待ってあげてるのに〜……このままじゃ風邪《かぜ》引いちゃうわ。……は、は、は〜くっしょん!」
とても二十三歳独身女性とは思えないほど周《まわ》りを憚《はばか》らない大きなくしゃみをする。
「うう、寒いわ……さすがにパレオくらいは着けるべきだったかしら……いやだめよ、それじゃおねいさんの脚線美《きゃくせんび》を期待してきた隠し撮りくんたちに失礼だわ。うん、がんばらないと」
で、何かを根本的に勘違《かんちが》いしているセクハラ音楽教師は、ミスコン管理《かんり》委員たちが隠し撮りから撤退《てったい》したことも知らずに、そのままの状態《じょうたい》(カメラ目線、ビキニ)で五時間ほど音楽準備室でポーズをとり続け。
結果《けっか》として、本当に風邪を引いたのは言うまでもない。
まあなんつーか、アホである。
[#改ページ]
それは秋も深まり、コオロギやスズムシのオスたちが互いの意地《いじ》とプライドとをかけてピーピーリンリンと壮絶《そうぜつ》な種の保存競争に勤《いそ》しみ始める十月|終盤《しゅうばん》のある日のことだった。
「えっと、それじゃ今日は十一月に行われる文化祭の出し物を決めたいと思います」
教壇《きょうだん》に立つ椎菜《しいな》が、手に持ったプリントを見ながら教室内をぐるりと見回してそう言った。
「出し物の内容は、基本的に学生としてあからさまに不適切《ふてきせつ》なものでなければ特に制約《せいやく》はありません。何でもいいみたいです。なので何か面白《おもしろ》いアイディアがあったらどんどん言ってくださーい」
にっこりと笑《え》みを浮かべながら、よく通る声でクラスメイトたちに呼びかける。
現在は一時間目のロングホームルーム。
約一カ月後に控《ひか》えた文化祭にどんな出し物で参加するかを決めるために、実行委員たる俺たち(俺と椎菜)は教壇に上がって皆に意見を求めているのだった。
「何かないですかー? どんなものでもいいから、とりあえず言うだけ言ってみてくださーい」
ちなみに椎菜が司会役であるのに対して俺は地味《じみ》に板書《ばんしょ》役である。当初は俺が司会をする予定だったのだが、「朝っぱらから男のむさ苦しい顔など見たくない」「綾瀬《あやせ》の声なんかより椎菜ちゃんの声が聞きたいんだ」「春香《はるか》様にすり寄るチンケなゴミムシ野郎《やろう》は隅《すみ》っこでシコシコと黒板消しクリーナーでもいじっているがいい」とのクラスメイトたち(主に男ども)の心温《こころあたた》まる意見の数々からそれは真夏のつむじ風のごとく一瞬《いっしゅん》で却下《きゃっか》され、こうしてめでたく板書役に納《おさ》まることとなったのだ。……やるせねえ。
「うーん、出し物かー」
「どういうのがいいんだろ?」
椎菜の言葉《ことば》に、ざわざわと教室内がざわつく。
「ね、椎菜ちゃん。それって何でもいいの?」
クラスメイトの一人が挙手《きょしゅ》しつつそう尋《たず》ねてきた。
「去年は確《たし》か屋台《やたい》は一学年につき三つまでとか、そんな注意があったような気もしたんだけど……」
「うん、よっぽど公序良俗《こうじょりょうぞく》違反《いはん》なのとか倫理的《りんりてき》社会通念的にアブナイのじゃなければ何でもアリだって。あ、もちろん許可《きょか》を取るものは許可を取らなきやいけないけどね。委員会でそう言ってた」
「ヘー、そうなんだ?」
「そ、だからどんどん意見を出してねっ」
それに対して気さくに答える椎菜《しいな》。その親しげな様子《ようす》は、すでに何ヶ月も前からこのクラスにいるかのようである。
この一週間で、椎菜はすっかりクラスに溶け込んでいた。
もともと人懐《ひとなつ》こいネコのようにフレンドリーで面倒見《めんどうみ》がよく、明朗《めいろう》快活《かいかつ》なキャラである。転校初日から男女のどちらにも好かれ、今では春香《はるか》とは違《ちが》った意味でクラスのアイドル的存在《そんざい》となっていた。
「だったら演劇《えんげき》とか面白《おもしろ》そうだよね」
「普通《ふつう》にヤキトリの屋台《やたい》とかもアリかな?」
「オバケ屋敷《やしき》もいーんじゃねえ?」
椎菜の声を受けて皆が活発に意見を出し始める。
クラスがわいわいと喧騒《けんそう》に包《つつ》まれるそんな中、
「んー、何でもいいならおねいさんはかわいい男の子たちを揃《そろ》えたヴィジュアル系ショットバーとかがいいかな」
つい先日に二日酔《ふつかよ》いで死にそうになっていた音楽教師(ヴィジュアル系大好き)が、やたらとてかてかした顔をしてイスの上で組んでいた脚《あし》を組み変えた。
「う〜ん、他にはお酒飲み放題《ほうだい》の居酒屋《いざかや》とか。渋《しぶ》く全国各地の利《き》き酒《ざけ》大会なんてのも文化的でいいわね〜。まあ、日本酒があればとりあえず言うことなしなんだけど」
実に楽しそうにそんなことを言いやがる。
「……」
……いや本当に懲りてないな、この人は。本能《ほんのう》で生きている野生動物(シマウマとかエゾシカとか)だって経験から多少なりとも教訓《きょうくん》を得《え》るってのに。
「あ、え、えーと、それはさすがに公序良俗《こうじょりょうぞく》違反《いはん》じゃないかと……」
きらきらと眼を輝《かがや》かせる由香里《ゆかり》さんを見て、椎菜が困《こま》ったような笑《え》みを浮《う》かべて言った。
「あら、そう?」
「は、はい、おそらく」
「そっか〜、いいアイディアだと思ったんだけど残念ねー。ん〜、だったら少し譲歩《じょうほ》してプチビアガーデンとかでも――」
「……いいからあんたはもう黙《だま》っててください」
さらにワケノワカランことを言い出したアル中音楽教師にブッスリと釘を刺しておく。これ以上この人(二十三歳独身美形限定彼氏募集中)を暴走《ぼうそう》させておくと本当に収拾《しゅうしゅう》がつかなくなりそうだからな。
「え〜、なんか裕《ゆう》くんつめた〜い」
由香里さんが不満そうに口をとがらせた。
「……文化祭実行委員としてのまっとうな意見です」
「むー、いつからそんな石頭になっちゃったのかしら〜。昔は『僕は大きくなったら由香里《ゆかり》お姉ちゃんのお婿《むこ》さんになってその南国フルーツみたいに豊満《ほうまん》なボディを独《ひと》り占《じ》めにするんだー』なんて言ってたのに〜」
「……」
そんなサカリが付いた中年のおっさんみたいなこと言ってねえよ。
だいたい話の文脈《ぶんみゃく》からして前後が全然|繋《つな》がってない。何で文化祭の出し物を決めていていきなりそんなセクハラな話が出て来るのかって時点でもうさっぱり意味不明である。
「…………椎菜《しいな》、とりあえずあれはもう放置《ほうち》で」
「え、い、いいの?」
「ああ。まったくもって構《かま》わん」
この人のその場の思い付きなたわ言にいちいち付き合っていてはいつまで経《た》っても話が進まないことは身をもって知りまくっていたため、とりあえずいつものごとく普通《ふつう》に放置して板書《ばんしょ》を続けることに決めた。
「ねー天宮《あまみや》さん、アイスクリーム屋とかは?」
「クレープ屋さんはどう?」
「だからオバケ屋敷《やしき》でいーんじゃねえ?」
セクハラ音楽教師がようやく静かになり、再《ふたた》びまともな意見が出始める。
と、その時だった。
「えっとー、だったら『コスプレ喫茶《きっさ》』なんてどうかなー」
聞《き》き覚《おぼ》えのある、ムダによく通る声が教室内に響いた。
「今までの意見を総合するとそれが一番いいと思うけどなー。あ、『コスプレ喫茶』っていうのはコスプレした店員さんがウエイトレスさんをする喫茶店でねー、メニューとしてアイスクリームとかクレープとかヤキトリを出すことだってできるし、オバケ屋敷みたいに色んな格好《かっこう》をして演劇みたいに色んな役を演じることもできるよー。コスプレっていうのはコスチュームプレイの略《りゃく》で、簡単《かんたん》に言えばかわいい衣装《いしょう》を着て楽しむことだからねー。例えばフリル付きの黒白のドレスとか紅白の袴《はかま》みたいな和服とか動物っぼい帽子とか、好きなのを着《き》放題《ほうだい》なんだよー」
息継《いきつ》ぎもこちらの反応《はんのう》を待つこともなしに繰《く》り出《だ》される立て板に土石流《どせきりゅう》な説明。
後半部分は完全に自分の嗜好《しこう》に走って力説《りきせつ》してやがるその声の主は、当然のごとく信長《のぶなが》(いつの間にか教室中央一番後ろの席に座《すわ》ってる)のアホだった。
「さらに『コスプレ喫茶』のいいところはねー、集客率が普通《ふつう》の喫茶店と比べて段《だん》違《ちが》いってところにもあるんだよー。僕のデータによるとおよそ一・五倍から二倍近い差があってねー。んー、実際《じっさい》に見てもらった方が分《わ》かり易《やす》いかなー」
そう言って信長《のぶなが》は教壇《きょうだん》のど真ん中(椎菜《しいな》の隣《となり》な)までやって来ると、ぽかんとした表情を浮かべる椎菜をヨソに持っていたノートパソコンをクラスメイトたちの方へと向けた。
「この二つの折れ線グラフを見てもらうと分かると思うけどー、こっちが普通《ふつう》の喫茶店《きっさてん》の平均《へいきん》売り上げでこっちがコスプレ喫茶の売り上げなんだよねー。ほら、一目瞭然《いちもくりょうぜん》でしょー。ここまできたらもう分かるよねー? 何てったって文化祭で重要なのは短期決戦に最適《さいてき》なコンテンツでー、その点でも瞬発力《しゅんぱつりょく》があり話題性を含《ふく》んでいる『コスプレ喫茶』はピッタリだしー。他のクラスとの差別化もできて一石《いっせき》五鳥《ごちょう》ってやつかな−。ならこれをやらない手はないってー」
どこぞの怪《あや》しい深夜通販のような根拠《こんきょ》のない数字と口上を並《なら》べる信長。
そして締めくくりのごとく、教室内を見回してこう言った。
「どうかなー? 僕としては建設的《けんせつてき》かつ保守的《ほしゅてき》で妥当《だとう》な意見だと思うんだけどー」
「……」
……そのトンデモ意見のどこがだよ。
つーかそもそも『コスプレ』ってアレのことだよな? 前に夏コミ≠フ屋外《おくがい》広場で異《い》空間《くうかん》を形成してた。アレを文化祭でやろうってのは、いくらなんでもムチャもいいところだろ。
そんな俺の予想通り、信長の提案《ていあん》にクラスは明け方のカラスの巣《す》のごとくざわついていた。
「えー、なにコスプレ喫茶って?」
「なんかよく分かんないけど今流行《はや》ってるやつでしょ? そういう流行りモノに便乗《びんじょう》するのってどうなんだろ」
「でもかわいい服が着られるんならよくない?」
「私はクレープができるんなら何でもいいけど……」
「着てもらうのなら俺はスクール水着がいいな(三馬鹿A)」
「今は亡きブルマの復活は有《あ》り得《う》るのですか?(三馬鹿B)」
「いやここは何と言っても一番シンプルなセーラー服を!(三馬鹿C)」
反対と賛成、それぞれの意見が錯綜《さくそう》する。
ちなみに今さらながら、隣のクラスの信長が当たり前の顔をしてここにいて意見を出していることにだれ一人として突っ込まないのは、やつの日頃《ひごろ》の奇天烈《きてれつ》な行動の賜物《たまもの》(?)だろう。
「えっと……それじゃいくつか候補《こうほ》も挙《あ》がってきたようなので、そろそろ多数決をとってみたいと思います」
ざわつく教室に向かって、椎菜がそう言った。
「多数決は、公平を期して無記名|投票《とうひょう》で行おうと思います。今から用紙を渡《わた》すので、そこに自分がやりたいと思う出し物を選んで記入してください。では配ります」
椎菜と二人でわら半紙製の投票用紙を配り教卓に戻ると、
「ね、裕人《ゆうと》はどれが選ばれると思う?」
いまだに教壇に居座《いすわ》る信長にちょっと遠慮《えんりょ》するように、椎菜が小声でそう訊《き》いてきた。
「あたし、演劇《えんげき》とかがちょっと面目《おもしろ》そうかなって思うんだけど、どうだろ」
「そうだな……」
椎菜《しいな》の言葉《ことば》に黒板を見る。
挙《あ》げられた出し物|候補《こうほ》は全部で七つ。
演劇。
ヤキトリの屋台《やたい》。
オバケ屋敷《やしき》。
ヴィジュアル系ショットバー(いちおう)。
アイスクリーム屋。
クレープ屋。
そしてコスプレ喫茶《きっさ》。
この中から選ばれるとしたら……
「よくは分からんが、クレープ屋とかそのヘンじゃないか?」
「あ、やっぱそうかな? 人気ありそうだもんねー」
椎菜がうなずく。
まあわざわざこっちのクラスにまで来て熱弁《ねつべん》をした信長《のぶなが》にはアレだが、『コスプレ喫茶』が
選ばれることだけはないだろうな。三票(馬鹿三人)も入れば健闘《けんとう》ってところか。
と思ったのだが――
『演劇:T[#‘正’を書いて数える方法 2の意]、ヤキトリの屋台:T[#‘正’を書いて数える方法 2の意]、オバケ屋敷:下[#‘正’を書いて数える方法 3の意]、ヴィジュアル系ショットバー:一[#‘正’を書いて数える方法 1の意]、アイスクリーム屋:正[#‘正’を書いて数える方法 正から下棒除く 4の意]、クレープ屋:正[#‘正’を書いて数える方法]T[#‘正’を書いて数える方法 5+2=7の意]、コスプレ喫茶‥正正正正正』
「……」
黒板に書かれた(いや俺が自分で書いたんだが)投票《とうひょう》結果《けっか》を見て、俺は思わず自分の目を疑《うたが》っちまったね。
なんつーか、ヒョウタンからサラブレッドが出て来るのを間近で見た気分というか……いや何だってよりにもよって信長の趣味《しゅみ》と嗜好《しこう》に走ったコレが選ばれるんだ? 他に目ぼしいもんがないんならともかく、文化祭の王道が目白押《めじろお》しだってのに…
しかし現実は時として自費出版小説よりも奇々怪々《ききかいかい》である。
実際《じっさい》問題として二年一組四十二名(プラス副担任一名)中、投票用紙に『コスプレ喫茶』と書いた人数は二十四人。ゆうに過半数《かはんすう》を超えている。……これはあれか、もしや俺が知らなかっただけでこの『コスプレ喫茶』とやらは文化祭の出し物として世間《せけん》一般《いっぱん》で当たり前のように認知《にんち》され受け入れられているものなのか?
「……うーむ……」
自らの常識《じょうしき》で信じていた基準《きじゅん》と世間様とのギャップに悩《なや》んでいると、
「んー、よかったよかった。みんな何だかんだ言っても『コスプレ喫茶』が好きなんだねー」
隣《となり》で投票《とうひょう》の結果《けっか》を満足げに見ていた信長《のぶなが》が、意味ありげにそんなことを言った。
「いやー、このクラスには見る目がある人がたくさんいて助かったよー。これからもその素晴《すば》らしい慧眼《けいがん》を持ち続けてくれると僕としても嬉《うれ》しいかなー」
にこやかに教室を見回す信長。
「!?」
その視線《しせん》を受けて、クラスの何人かが捜査中《そうさちゅう》の鬼《おに》刑事と目が合った重要参考人のごとく瞬時《しゅんじ》にさっと目を逸らした。
明らかに、何かに怯《おび》えている目だった。
「……」
……こいつ、裏でなんかやりやがったな。
その様子《ようす》を見て確信《かくしん》した。確《たし》かにこいつの恐《おそ》るべき情報収集能力及びその活用能力をもってすれば、十や二十の票|操作《そうさ》をするくらい生まれたての仔猫《こねこ》のツメを切るよりも簡単《かんたん》に違《ちが》いない。
確実《かくじつ》にクロな容疑者《ようぎしゃ》を見る目で信長を見ると、
「えー、なんか目が怖《こわ》いなー? 僕はただみんなにお願いしただけだよー。文化祭で『コスプレ喫茶《きっさ》』をやりたいから協力してくれると嬉しいなーって」
「……」
お願いというオブラートで包《つつ》まれたキョウハクだろうが、お前の場合。
ともあれ、もはや結果が出ちまった以上そんなことを言ってもしかたがない。
まあいちおう基本は喫茶店なわけだし、クラスの一部では確かに『コスプレ喫茶』への直接の肯定者《こうていしゃ》がいることも否定《ひてい》はできん(例《たと》えば三馬鹿とか三馬鹿とか三馬鹿とか)。とすればここでわざわざ俺が異論《いろん》を唱《とな》えるのもアレだろう。
「さー、みんなで楽しく『コスプレ喫茶』を盛《も》り上《あ》げていこうかー」
楽しげに信長(隣のクラス)が宣言《せんげん》し
そんな次第で、うちのクラスの出し物は『コスプレ喫茶』とやらに決定したのだった。……なんか色んな意味で世も末だって気がするがな。
「えーと、喫茶店となると、やっぱりまずはカップとかケーキ皿とかの食器類が必要《ひつよう》になるかな?」
で、ロングホームルーム後の休み時間。
椎菜《しいな》と二人で『コスプレ喫茶』の今後の展開《てんかい》について話をしていた。
「他にもティーバッグとかティースプーンとか……」
「だろうな。後はコーヒーメーカーなんかもだな」
「あ、そういうのもあるか。だとするとそれらの確保《かくほ》が最優先《さいゆうせん》だよね。あんまり時間もあるわけじゃないし、早めに算段だけはつけておかないと……」
「ああ、確《たし》かに」
文化祭が催《もよお》されるのは今から約一ヵ月後の十一月の第四日曜日。諸《しょ》準備《じゅんび》や予算の承認《しょうにん》などを考えると、できるだけ早く下準備を進めておくに越したことはない。
「とすると……ね、裕人《ゆうと》、今度の日曜日って空《あ》いてる?」
「日曜? ああ、大丈夫《だいじょうぶ》だと思うぞ」
今のところ特に予定はない。というか何度も何度も言うが、俺の休日の予定などうちで常《つね》にごろごろごろごろとしている特大の粗大《そだい》ゴミと、よほどやることがないのかほとんど毎日のようにやって来るその朋友《ほうゆう》の世話《せわ》くらいしかないんだよ、くそ。
「そっか。だったらその日に下見に行かない?」
「下見?」
って何のだ?
「うん。その場で買うか買わないかはともかくとして、とりあえず使えそうなものがあるのか見ておくだけでもやっておけば後々ラクなんじゃないかな」
「ああ――」
そういうことか。ふむ、確かにそれには一理《いちり》も二理《にり》もあるな。なので、
「分かった、じゃ行くか」
「さすが裕人。よし、決まりね」
椎菜《しいな》は嬉《うれ》しそうにうなずき、
「後はどこに行くかだけど……カップとかそのヘンはディスカウントショップで安めのを揃《そろ》えれば何とかなるか。いざって時は百均って手もあるし。とすると……後はあの何だっけ、コスプレ≠するための衣装《いしょう》だよね?」
微妙《びみょう》に首をかたむけながら言ってくる。
「でもそういうのってどこで調達《ちょうたつ》すればいいんだろ? 買うにせよ借りてくるにせよ、普通《ふつう》にショップとかに行けば置いてあるのかな? それにそもそもコスプレ≠チていうのがどういうものなのかもいまいち分からないんだよね……裕人、知ってる?」
「いや、俺にも分からん」
ああいったカラフルな衣装は、着ている人々こそ夏コミ≠竄辜Aキハバラで見たことはあるものの、それがどういうもんなのかについてはほとんど説明できんし、ましてやどこで売っているのかやどうやって入手しているのかなどに至ってはまったくもって分からない。まあ普通《ふつう》に分かるやつの方が稀有《けう》だとは思うがさ。
「うーん、どうしよう。これが分からないと話にならないし……」
「む……」
確《たし》かにそれはその通りである。『コスプレ喫茶《きっさ》』である以上、まず『コスプレ』の部分を何とかせにゃあ始まらない。本末転倒《ほんまつてんとう》ってやつだ。
……こうなったら、あまり気は進まんが信長《のぶなが》に訊《き》くしかないか?
そもそもこの『コスプレ喫茶』とやらを提案《ていあん》した張本人《ちょうほんにん》である。やつならば間違《まちが》いなく『コスプレ喫茶』に関する情報をそれこそ一から百八十六くらいまで知ってるだろう。ただしやつにこういった類《たぐい》のことを訊くともれなく余計《よけい》なウンチク、個人的感想などのオマケ付きなんだよな、むう……
いつだったか何気《なにげ》ない気持ちで『イノセント・スマイル』についての感想を訊いたばかりに、やつの部屋《へや》に拉致《らち》監禁《かんきん》され約半日ほどかけて数十冊にも及ぶバックナンバー(やたらとカラフル)の精読《せいどく》をさせられた挙句《あげく》にそのまま徹夜《てつや》でのDVD鑑賞会に付き合わされた苦行《くぎょう》の体験を思い出し、果《は》たしてどうすべきか真剣《しんけん》に悩《なや》んでいた俺に、
「裕人《ゆうと》さん、天宮《あまみや》さん」
ふいに、心地の好いシャワーのような声が聞こえてきた。
同時に、こちらに向かってとてとてと駆《か》け寄《よ》ってくるはしゃいだ仔犬《こいぬ》みたいな足音。途中《とちゅう》で床《ゆか》に置いてあっただれかのカバンにつまずきかけて「あ、あうっ」とあたふたとしながら、その主は俺たちのところまでやって来た。
「春香《はるか》……」
「こ、こんにちはです」
春香だった。
照《て》れたような表情でぺこりと頭を下げると、
「お二人とも、先ほどはお疲《つか》れさまでした。えと、こすぷれ喫茶≠ノついてのご相談《そうだん》ですか?」
「ん、ああ。まあそんなとこだ」
「あ、やっぱりそうでしたか」
春香は胸《むね》の前でぽむっと手を叩《たた》き、
「あの、何か手伝えることがあったら言ってくださいね。私にできることなら何でもやりますから」
「え? ああ」
「色々と大変《たいへん》そうですけどみんなでがんばっていきましょうね♪」
両手をぐっと握《にぎ》り締《し》めて、とびきりのほんわか笑顔《えがお》を向けてくる。
「お、おう」
そのあまりの可憐《かれん》さに、一瞬《いっしゅん》脳《のう》への酸素《さんそ》供給《きょうきゅう》が完全にカットされて意識《いしき》がクラっときた。相変わらず殺人的戦略兵器的なかわいさである。
にしても春香……なんかすげぇいい顔してるな。
いつにもましてにこにこぽわぽわというか、なんか春香《はるか》の周《まわ》りに色とりどりのお花畑(ゆらゆらと舞うモンシロチョウ付き)が見えるというか……
(――ね、何だか乃木坂《のぎざか》さん、妙《みょう》に楽しそうだね)
と、椎菜《しいな》が微妙《びみょう》に困惑《こんわく》した様子《ようす》で俺に尋《たず》ねてきた。(いつもとテンションが違《ちが》うっていうか、浮かれてるみたいな感じだよね。何かあったの?)
どうやら椎菜の目にも同じように映るらしい。
「いや俺にもよく――」
分からん……と言いかけて、そこで春香のつぶやきが耳に入った。
「えへへ、こすぷれ喫茶《きっさ》≠ナす。どんなかわいいお洋服を着られるんだろう……今から楽しみだなあ」
「……」
「……」
「メイド服とかあるかな……ステキなドレスとかもあるといいな……」
「……」
「……」
もしかして春香……文化祭の出し物が『コスプレ喫茶』とやらに決まったことに喜んでるのか?
だが考えてみれば別に驚《おどろ》くべきことじゃないかもしれん。夏コミ≠フ時もお姫様に憧《あこが》れる小さな女の子みたいな目で熱心にコスプレを眺《なが》めていたわけだし、そもそも春香の趣味《しゅみ》から考えて、そういった類《たぐい》のモノに興味《きょうみ》を示すのはむしろヨガにハマったOLが次にインドに行きたくなるくらいに自然なステップと言えるだろう。
「そっか、乃木坂さん、そんなにかわいい服が好きなんだ……」
椎菜がつぶやく。事情を知らない椎菜の目には、今の春香は単にかわいい衣装《いしょう》を着られることを喜んでいるようにしか映らんのだろう。まあ余計《よけい》なフォローをしなくて済《す》むからこっちとしては大いに助かるんだが。
「――ん?」
と、そこでふと思った。
目の前で楽しげに『コスプレ喫茶』に思いを馳せているぽわぽわお嬢様。もしかしてとは思うが春香なら……
「――なあ春香、ちょっといいか」
「はい?」
うきうき顔の春香に向かって手招《てまね》きをする。
「? 裕人、どこ行くの。まだ打ち合わせが……」
「悪い。すぐに戻《もど》る」
「?」
話の内容が春香《はるか》の秘密《ひみつ》に関《かか》わる可能性《かのうせい》があったため、いちおう椎菜《しいな》から離《はな》れて廊下まで移動した。
「どうしたんですか、裕人《ゆうと》さん?」
春香が不思議《ふしぎ》そうな顔をする。
俺は今さっき思いついたことを訊いてみた。
「なあ春香、もしかしてコスプレの衣装《いしょう》が置いてある店とかって知ってたりするか?」
「え、こすぷれ≠フ、ですか?」
「ああ」
今の浮《う》かれっぶりや夏コミ≠フ時の反応《はんのう》からすると、もしかしたら何か知っているかもしれん。そう思って訊いてみたところ、
「あ、はい。分かると思います」
春香はあっさりと首を縦《たて》に振《ふ》った。
「ほんとか?」
「えと、たぶんですが。前に『イノセント・スマイル』でこすぷれ%チ集をやっていた時に見たことがあるので……」
「おお」
ビンゴだった。
さすがは(?)春香というか、ほとんどダメ元だったとはいえ世の中何でも訊いてみるもんだな。
「もしよければその店、案内《あんない》してくれないか?」
「え?」
「ほら、『コスプレ喫茶《きっさ》』をやる以上、とりあえず一度どういった衣装があるのかを見ておかなきやマズイらしくてな。だけど俺たちにはそういう店がどこにあるのか分からなくて、困ってたところなんだ。だから春香が色々教えてくれるとかなり助かるんだが……」
「えと……」
俺の言葉《ことば》に、何かを考えこむように春香がちょこんと小首をかたむける。
「――それって、裕人さんが私を頼《たよ》りにしてくれて……」
「ん?」
「あ、い、いえ」
大きく首を振って、
「その、それって私が裕人さんのお役に立てるということ……でしょうか?」
「ん、ああ、そうだな」
言い回しは少しオーバーだが、まあそんなようなもんだ。
すると春香《はるか》はぱっと顔を輝《かがや》かせて、
「は、はい。私でよければぜひごいっしょさせていただきますっ」
ぐっと身を乗り出しながら大きくうなずいてくれた。うーむ、なんかやけに気合が入ってる
な。いやそれ自体はいいことなんだが。
「あー、それじゃ頼《たの》む」
「はい、任《まか》せてください」
真剣《しんけん》な日でそう言ってくる春香。
「それで、できれば今度の日曜日に行きたいんだが……」
「え、日曜日……ですか?」
一瞬《いっしゅん》、春香の動きが止まった。
「ああ。ん、もしかして都合《つごう》が悪かったりするのか? だったら――」
「あ、い、いえだいじょぶです。都合が悪いなんてことはありませんっ」
すごい勢《いきお》いで春香は首を振《ふ》った。
「日曜日は私、ものすごくヒマですから。ヒマでヒマでどうしようもなかったんです。何もやることがなくて、テディベアのキング・グリズリーくんのお洗濯《せんたく》をしてあげるくらいしか……」
「そ、そうか……」
いやその休日の過ごし方もどうかと思うが……と突っ込みそうになりながらも勢いに圧《お》されてうなずく。
「あー、じゃあとりあえずオッケーってことでいいんだよな?」
「は、はい。ばっちりおっけ〜です」
こくこくとうなずいてくれた。よし、とりあえずこれで『コスプレ』の方も何とかなりそうだな。
「よし、じゃ教室に戻るか――お、そうだ」
「はい?」
「ちなみにその店ってどこにあるんだ?」
それはまあほんとに何となく思ったことだった。
あんまり遠くだと集合時間とかを早めに考えなければならんしな、くらいに思ってしてみた質問。
だがその何気《なにげ》なく発した質問に春香はにっこりと笑って、
「アキハバラ、です」
「え、お店の見当が付いたの?」
「ああ。何でもたまたま春香が知ってたとかでな」
教室へと戻《もど》り、椎菜《しいな》にだいたいの事情を報告《ほうこく》する。もちろんあまり詳《くわ》しく説明すると春香《はるか》の秘密《ひみつ》がバレる恐《おそ》れがあったため、そのヘンは適当《てきとう》に誤魔化《ごまか》してだが。
「へー、そうなんだ。さすが乃木坂《のぎざか》さんだね。色んなこと知ってるっていうか、ファッションチェックも欠かさないんだー」
椎菜も特に突っ込んでくることはなく、感心したようにうなずいていた。いやたぶんファッションはあまり関係ないがな、この場合。
「てことは乃木坂さんも日曜日にいっしょに来てくれるってことでいいんだよね? じゃあ時間とか集会場所とかどこにする?」
ポケットからメモ帳を取り出した椎菜に、
「あー、それについて、一つ提案《ていあん》があるんだが」
俺はそう言った。
「え、提案?」
「ああ、コスプレ担当《たんとう》と食器その他の雑貨《ざっか》担当とで二手に分かれないか? その方が効率的《こうりつてき》だと思うんだが……」
それは春香から店の在《あ》り処《か》を聞いた時から考えていたことだ。
何せ行き先が行き先だけに、椎菜と春香をいっしょに行かせるのには若干《じゃっかん》の――いやかなりの不安がある。そういった類《たぐい》のモノに目がない春香が、いつかのアキハバラや夏コミ≠ナ見せた特攻(暴走《ぼうそう》)などをしようもんなら、一発で趣味《しゅみ》がバレちまうだろう。いや椎菜ならたとえ趣味がバレでも変わらずに接してくれるのかもしれんが、それでも避けられる危険《きけん》は避けた方が無難《ぶなん》だ。まあ何というか、俺たち二人の『秘密』でもあるわけだしな。
「んー……」
その提案に椎菜は少し何かを考えていたようだったが、
「――うん、そうだね。確《たし》かにいっしょに回るよりもその方が効率的かも」
やはり特に気にした様子もなく、明るく笑った。話が早くて助かるな。
「じゃそういうことで、そっちの、コスプレ≠フ方は裕人《ゆうと》たちの担当でいいの?」
「ああ、任せてくれ」
「ん、だったらお願いね」
椎菜が笑顔《えがお》でうなずき、
「がんばりましょうね、裕人さん」
その横では、春香もにこにこな笑顔を見せていた。
こうして、日曜日の春香と二人でのアキハバラ行きが決まったのだった。
その日はそれまでの十月にあるまじき陽気もどこかに吹っ飛び、そろそろ山間部のクマたちが来《きた》るべき冬眠《とうみん》のために毛皮の下にこってりとした脂肪《しぼう》を蓄《たくわ》え始めるような、そんないかにも秋の到来《とうらい》を感じさせる日和《ひより》だった。
十月三十日、日曜日。
岩場のフジツボのごとき多くの人で賑《にぎ》わうアキハバラの駅前に、俺は春香《はるか》と二人で立っていた。
「今日はお天気になってよかったですね」
空を見上げて春香がふんわりと微笑《ほほえ》む。
「やっぱりせっかく出かけるんですから、お天気の方が楽しいです。こう、何だかうきうきしてくるような感じがしますし」
「そうだな。昨日まではけっこう曇りがちだったから……」
「もしかしたら私たち、普段《ふだん》の行いがいいのかもしれないですね」
えへへ、と笑う春香。うーむ、いつものことながらリフレッシュフルな笑顔《えがお》というか、心の底から実に癒《いや》されるね。間近《まぢか》で白糸《しらいと》の滝《たき》でも見た気分だ。
「さて、それでは行きましょうか、裕人《ゆうと》さん」
春香がくるりとスカートの裾《すそ》をひるがえす。
「ああ、店はどっちにあるんだ?」
「ええとですね……おそらくあっちの方向だと思います」
手元にあるB5サイズの冊子に目を落として春香がつぶやく。
「まずは大通りに出て、少し行ったところで脇道《わきみち》に入ります。そしてその脇道を少し進んだところに目的のお店はあるはずです。そんなに分かりにくい道ではなさそうですけど、迷子《まいご》にならないように裕人さんもお手元の地図でちぇっく≠オておいてくださいね(にっこり)」
「ん、ああ」
笑顔の春香から微妙《びみょう》に目を逸らしつつ答える。
春香が言っている『お手元の地図』とは『お買い物のしおり・ぱーと2』とやらのことである。前回と同じく春香のお手製で、俺の分も渡《わた》されてはいるんだが…何というか、やはり集団食中毒を起こして苦しげにのたうちまわっている妖怪図《ようかいず》(カラフル)にしか見えん。これはもう、特技を通り越して天が与えたある種の才能《さいのう》と言えよう。
「それじゃ、れっつご〜、です」
妖怪図を縦《たて》に横にくるくると回しながら歩き出した春香の後に付いて(というかそれ以外に俺に手段《しゅだん》はないので)、俺も歩き出した。
駅前を抜けると、そこはすぐに大通りである。
休日には歩行者天国になっている幅《はば》の広い道路。
店頭からは相変わらずゲームやらアニメやらの主題歌が響《ひび》き、十歩進めば笑顔《えがお》でチラシを配《くば》っているメイドさんやら、西洋人形が着るような全身真っ黒のやたらとフリルが付きまくった服を身にまとった女の人やらを見かける。ほんとに何でもアリの空間だな、ここは。
そんなことを考えながら歩いていると、通りを挟《はさ》んだ反対側に先日|美夏《みか》といっしょに行った『アニメイト秋葉原《あきはばら》店《てん》』の青いカンバンが目に入った。なるほど、コスプレ専門店とやらはこっちの方向にあるのか。ああ、そういえば確《たし》かこの辺には他にでかいゲームショップとかもあったような気が――
「……」
――いや、何で俺はそんなことまで知ってるんだろうね?
思わず自分に突っ込んじまった。
いかに今年だけで三回もアキハバラに来ているとはいえ、それだけで具体的店名を挙《あ》げられるまでになるもんなのか? 少し前までは原色な店頭《てんとう》の飾《かざ》り付《つ》けを見るだけでクラクラしちまってたくらいだってのに。順応力《じゅんのうりょく》が高いというよりももはや単に順調《じゅんちょう》にそっちの道へと足を踏《ふ》み入《い》れかけているだけにしか思えんのだが……
「……」
何やら底《そこ》の見えない底なし沼(人喰《ひとく》いワニ付き)にずぶずぶと片足を突っ込んじまったかのような複雑な気分を覚《おぼ》えていると。
「…………」
隣《となり》を歩いていた春香《はるか》の動きが、ぴたりと止まっているのに気付いた。
「春香?」
「……」
呼びかけるも反応《はんのう》がない。お地蔵《じぞう》さんのように道のど真ん中に立《た》ち尽《つ》くし、ある一点をじ〜っと見つめている。何だ? 何かあるのか?
不審《ふしん》に思い春香の視線《しせん》の先を追《お》う。するとそこには――
「……」
全長一・五メートルほどの大きさの人型をしたカンバン(やけに色|鮮《あざ》やか)が立っていた。
ふんだんにちりばめられた原色が目にまぶしいそれは、ハデに装飾《そうしょく》された丸文字で『ドジっ娘アキちゃん等身大POP』とか書いてある。
……あー、なるほどね。
瞬時《しゅんじ》に何が起きたのか理解《りかい》した。
これはつまりいつものターゲッティングモードが発動《はつどう》したのか。お気に入りのモノを見つけた時の春香《はるか》の反射的《はんしゃてき》習性。ってことは経験《けいけん》上《じょう》、この次にくるのは間違《まちが》いなく散歩中に仲のいいご近所犬を発見した時のコーギーのような特攻→俺の放置《ほうち》プレイであるはずである。
いつ春香が飛び出すのか注意深く身構《みがま》えていると、
「……だ、だめです………」
意外にも特攻はされなかった。
その場から動かずに春香は下を向き、自分を抑《おさ》えるかのようにつぶやく。
「……今日は裕人《ゆうと》さんのお仕事のお手伝いで来たんですから、勝手な行動をしては迷惑《めいわく》がかかってしまいます……だからがまんしないと……」
「……」
どうやら、春香なりに誘惑《ゆうわく》に耐《た》えているらしかった。スカートの裾《すそ》を両手でぎゅっと握《にぎ》り締《し》めたまま、ちらりとカンバンを見てはふるふると頭を振《ふ》ってきゅっと目をつむる。そしてまた目を開けてカンバンに視線《しせん》を遣《や》り……をその場で繰《く》り返《かえ》す。その様子はそれはそれで何だか傍《はた》から見れば微妙《びみょう》に微笑《ほほえ》ましい光景だったりもするんだが……まあ当人である春香にしてみれば一生懸命《いっしょうけんめい》でそれどころじゃないんだろうな。
やがて何度かそのプチ挙動不審《きょどうふしん》な動きを繰り返したところで、
「――あ、す、すみません。こんなところで立ち止まったりして。行きましょう、裕人さん」
少しムリをしたように笑って、そう言ってきた。
「……いいのか?」
別にそこまで急いでるわけでもないし、また春香《はるか》にとって人生二度目のアキハバラなわけだし、少しくらいなら寄り道(特攻)をしても俺は別に構《かま》わんのだが。
しかし春香は首を横に振《ふ》り、
「い、いいんです。そ、そこまで見たいものでもなかったですし、それにせっかく裕人さんのお役に立てる機会《きかい》なんですから、その期待《きたい》を裏切《うらぎ》るわけにはいかないです」
「……」
裏切るだとか、そんな大げさな話じゃないと思うんだが。
まあしかし春香がそこまで言ってくれるんなら、その意思《いし》を尊重《そんちょう》すべきだろう。路上放置プレイもないに越したことはないしな。
「分かった、じゃあ行くか」
「は、はいっ」
そうして、こちらに向かい微笑《ほほえ》みかける『ドジっ娘アキちゃん』を振り切るようにして春香は小走りで歩き出したのだが。
「……あ、あれは、まさか『夜更《よふ》かし悪魔《あくま》ピロウちゃん』の限定版《げんていばん》ふぃぎゅあ………」
さすがにここは大通りだけあって店構《みせがま》え及び品揃《しなぞろ》えが豊富《ほうふ》であり、
「あっちにあるのは『ノクターン女学院ラクロス部』のサイン入り最新巻……こっちにあるのは『あぷりこっとdeぎゃんぐすた〜』の初回版たペすとりー……」
そして品揃えが豊富ということはそれだけ春香のターグッティングの対象《たいしょう》となるモノが多いということであり、
距離にして僅《わず》か五十メートルほどの間に、幾度《いくど》となく俺たちの前に出現し、
「……だめ、です……だめなんです…………」
その度《たび》に春香は律儀《りちぎ》に動きを止めて悩んでいるようだったが、それでも一度たりとも特攻(暴走《ぼうそう》)をすることはなかった。
「……はあ……はあ………」
「……大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「は、はい。全然だいじょぶです」
息《いき》を荒《あ》らげつつちらちらと未練《みれん》ありげに後ろを振り返りながら言われても全然|説得力《せっとくりょく》はなかったが、本人は必死《ひっし》にがんばっているようなのでそのことには触《ふ》れないでおいた。
「あ、あと少しです。お店にまで着いてしまえばきっと何とかなるはずです。だからそれまでのがまんで……」
冬山で遭難《そうなん》して緊急《きんきゅう》避難《ひなん》用《よう》のロッジを目指す登山者みたいな悲愴《ひそう》な声で前を向く。
「……」
なんつーかもう、ガンバレとしか声をかけようがなかった。
そんなこんなで止まったり動いたり、動いたかと思ったらまた止まったりしつつ(春香《はるか》が)、ようやく目的地であるコスプレ専門店――『COSPAジーストア・アキバ店』の前にまで辿《たど》り着いたのだが。
「……」
「……」
そこには、最後にして最大の関門《かんもん》(春香にとって)が待ち受けていた。
「あ……こ、これは…………」
細長い外観《がいかん》をした六階建てビルの一階。
二階にある『COSPAジーストア・アキバ店』に向かうために必《かなら》ず通らなければならないという細い通路部分で俺たちを出迎えてくれたのは……いつだったか、春香がハマりにハマりまくって小遣《こづか》い四千円ほどをつぎ込んだプラスチック製の四角い箱だった。
「……」
それも尋常《じんじょう》な量じゃない。奥行き五メートルほどの通路の両脇《りょうわき》に、いくつも段《だん》になってひしめくように積み重ねられている。とにかく右を見ても左を見てもガチャポンガチャポンガチャポン。数にして軽く五十くらいはあるんじゃないか?
何でこんなところ(通路)にこんなもん(ガチャポン)があるのかと思いきや、よく見りゃあ表の目立つ位置に大きく『1Fガチャポン会館』と書かれたカンバンがあった。つまりここはもともとそういうところらしい。こんな場所が普通《ふつう》に街中にあるとは、さすがはアキハバラといった感じか。
「あ、あ……『ドジっ娘アキちゃん』の新バージョンがあります、こっちには『ノクターン女学院ラクロス部』ライバル校の夏海《なつみ》ちゃんが……」
そしてその多数のガチャボン台を前にして、春香は煩悶《はんもん》していた。
数々の誘惑《ゆうわく》に耐《た》え、やっと安全地帯に到着《とうちゃく》したと油断《ゆだん》したところに、このガチャポン攻撃《こうげき》は予想外《よそうがい》の不意打《ふいう》ちだったらしい。
「だ、だめです……ただでさえここまで余計《よけい》なお時間を取らせてしまったのに、これ以上予定を遅《おく》らせるわけには……あ、でもあれは『とってけ! わさびちゃん』……」
ぶんぶんと首を振《ふ》って、
「そ、そうです。見なければいいんです。目に入ってこなければきっと……」
春香はきゅっと目をつむると、
「さ、さあ行きましょう、裕人《ゆうと》さん」
「あ、春香……」
そう俺に呼《よ》びかけ、そのまま歩いていこうとして――
「あうっ」
ごいん、と。
オデコからガチャポンの筐体《きょうたい》に激突《げきとつ》した。周《まわ》りにギャラリーがいたらコインでも飛んでくるんじゃないかってくらいの、見事《みごと》な激突だった。
「い、いたいです……」
……いや、そりゃあこの狭《せま》い通路で目をつむって歩けばそうなるだろうさ。
心の中で突っ込みつつ、オデコを押《お》さえながら涙目《なみだめ》でうずくまる春香に手を差し出す。
「……ほら。立てるか?」
「あ、す、すみません」
「ケガ……はしてないな」
ぶつけた額《ひたい》は少し赤くなっていたが、これはケガってほどのもんでもないだろう。
「だ、だいじょうぶです。それよりまたご迷惑《めいわく》をおかけしてしまって……」
すまなそうな顔でぺこぺこと頭を下げてくる春香《はるか》。いやそれは別に構《かま》わんのだが……
「なあ、そんなにやりたいんならガマンしなくてもいいんじゃないか?」
「え?」
「ガチャボン。今日は別に急いでるわけでもないし、少しくらいやっても大丈夫《だいじょうぶ》だぞ?」
「い、いいえ、だめですっ」
だが春香はふるふると首を振ってそれを拒絶《きょぜつ》した。
「がちゃぽん≠ヘ恐《おそ》ろしいものです。一度やり始めたら目的のものが出るまでやめられなくなってしまい……それはまるでお菓子《かし》の箱に付いている透明《とうめい》のぷちぷちを一度ぷちぷちし出したらやめられなくなるようなもので――」
「……」
真剣《しんけん》な表情で力説《りきせつ》する春香。例《たと》えが妙《みょう》に庶民的《しょみんてき》なのは少々アレだが、確《たし》かにそれはいつかの春香(ハマりにハマって一時間)を見てればイヤというほど分かるってもんである。
「だけどこのままじゃ何回激突するか分からないだろ……」
というか春香のドジっぷりを考えると、目的地まで無事《ぶじ》に辿《たど》り着《つ》けるのかどうかもかなり怪《あや》しい。
すると、
「あ、あの、でしたら手を繋《つな》いでもらってもいいですか?」
「へ?」
何やら頬《ほお》を少し赤らめて、春香が突然《とつぜん》そんなことを言った。
「あ、そ、その、目をつむってもぶつからないように手を引いてもらえたらと……」
「あー」
なるほど、そういう意味か。
確《たし》かにそれなら激突《げきとつ》することなく進むことができる。ナイスアイディアといえばナイスアイディアではあるが……しかしそうまでするほど春香《はるか》の目にはこのガチャポンの山が魅力的《みりょくてき》に映るらしい。まあ春香にとってみれば脂《あぶら》の乗りまくった天然カモ(×五十)が最高級|下仁田《しもにた》ネギと熱《ねつ》伝導《でんどう》率《りつ》百二十パーセントの骨董《こっとう》ナベを背負《せお》ってが〜が〜鳴《な》いてるみたいなもんだろうからなあ……
「ん、分かった。春香がそれでいいなら」
「は、はい」
右手を差し出すと、春香は遠慮《えんりょ》がちにきゅっと掴《つか》みつつ少しばかり身を寄せてきた。
同時に柔《やわ》らかい香《かお》りがふわりと辺《あた》りを漂《ただよ》う。フローラル系の心落ち着く香り。いつも思うんだが、何だって春香からはこういい匂《にお》いがするんだろうね。
少しばかり心臓の不正動作を感じながら、俺は春香を促《うなが》した。
「あー、それじゃ行くぞ」
「よ、よろしくお願いしますです……」
ぺこりとうなずいて目をつむる春香。
そして二人でガチャポンの谷間を進んでいくものの。
「み、見なければだいじょうぶ……見なければだいじょうぶ……」
「……」
「何もない……ここには何もないんです……」
「………」
ぶつぶつと、念仏《ねんぶつ》のようにそう繰《く》り返《かえ》す春香の歩みはミドリガメのそれよりも遅《おそ》いものであり。
結局《けっきょく》、僅《わず》か五メートルほどの通路を抜《ぬ》けるのに、十五分ほどの時間を要したのだった。
で、例のコスプレ専門店とやらは確かに二階にあった。
「つ、着きました。ここが『COSPAジーストア・アキバ店』です」
俺の腕《うで》にしがみついたまま、春香が大きく息《いき》を吐《は》く。
「やっとここまで来ることができたんですね……長い道のりでした……」
「……」
まあ距離にしてみればアキハバラの駅から僅か二百メートルほどなんだが、春香にとってはある意味シルクロード(およそ六〇〇〇キロ)よりも長く感じたことだろう(精神的《せいしんてき》に)。お疲《つか》れさまというか何というか…
何か大きなことをやり遂《と》げた夢追《ゆめお》い人《びと》のような顔の春香《はるか》に心の中で労《ねぎら》いの言葉《ことば》を送っていると、
「あ、でもまだ一息《ひといき》つくのは早かったです。ちゃんとお店の中を案内《あんない》するまでがお仕事なんですから」
何やら自分に言い聞かせるようにそうつぶやくと、春香はくるりとこっちに向き直り、
「――あの、裕人《ゆうと》さん。何か分からないこととかありますか? 色々と調べてきたので、よろしければ何でも訊いてくださいね」
「お、そうなのか?」
「はい、もうばっちりですよ」
微笑《ほほえ》みながら、ちょっとだけ自信ありげにちょこんと胸《むね》を張《は》る。春香のそういった得意《とくい》げな仕草《しぐさ》ってのを見るのは珍《めずら》しかったが、それでもやっぱりかわいらしいのは春香が春香たる所以《ゆえん》だろう。
「んー、だったら全般的な説明を頼《たの》めるか? とりあえずこの店については何も分からんからな」
何か分からないことがあるかというよりも何が分からないのかも分からないレベルだったのでそうリクエストしたところ、
「あ、はい。――えと、ここは『COSPAジーストア・アキバ店』といって、こすぷれ≠フ衣装《いしょう》の専門店です。そのお名前の示す通りこすぷれ∴゚装がメインですが、他にグッズや小物なども扱《あつか》っているとのことらしいです」
手元の『お買い物のしおり・ぱーと2』(相変わらず俺には解読《かいどく》不能《ふのう》)をぱらぱらとめくりながら、そう説明してくれる。
「他には……あ、後はここのワンフロア全部がお店になっているみたいです」
「へえ……」
春香の言葉《ことば》に改《あらた》めてフロア内に視線《しせん》をやる。
そこは教室一個分弱くらいの、特別広くも狭《せま》くもないスペースだった。
見回してみてまず目に付くのは入り口部分に飾《かざ》られた展示品《てんじひん》。真っ黒な着物のようなものが、金髪をしたマネキンに着せられている。その奥正面には新発売と書かれたグッズが平積《ひらづ》みにされた台があり、それを囲むようにプリントTシャツやパンツなどが並べられていた。
「けっこう人がいるんだな……」
意外、と言っては失礼なのかもしれんが、三十畳ほどの広さの店内には多くの人がひしめいていた。Tシャツを眺《なが》めている若い男、マグカップを手に取っている中学生くらいの女子。展示されたジャケットを仲良く見ているカップル。メインの客層《きゃくそう》は男のようだが、女性客の比率《ひりつ》も決して低くはない。
店内の雰囲気《ふんいき》もごくごく普通《ふつう》のものだった。最初はコスプレ専門店ということで少し身構《みがま》えていたりもしたんだが、いざ実物を見てみると特に何かが変わっているということもなく、そのヘンにある古着屋とかとほとんど変わらない気安い空気である。ふむ、もっと『一見《いちげん》さんお断《ことわ》り』みたいな感じかと思ってたんだがな。ちょっとしたカルチャーショックな気分だ。
「で、肝心《かんじん》のコスプレの衣装《いしょう》はどこにあるんだ?」
ぱっと見たところ、入り口周《まわ》りにあるのはグッズ関係を始めとした小物のようなものである。
いわゆる『コスプレ』の衣装らしきものはエレベータ横の着物以外に見当たらない。
すると春香《はるか》は再《ふたた》び『お買い物のしおり・ぱーと2』に目を落とし、
「えと……それはたぶんあっちだと思います」
店の奥の方を指差して、そう言った。
「調べたところによりますと、入り口付近は主に新商品やグッズなどが置いてあるコーナーみたいです。なのでおそらくですがこすぷれ≠ヘあちら側《がわ》なんじゃないかと……」
「ほう」
どうやらこの阿鼻叫喚《あびきょうかん》で魑魅魍魎《ちみもうりょう》な妖怪《ようかい》画集《がしゅう》(色|鮮《あざ》やか)には、店への道程《どうてい》、解説だけでなく店内の詳細《しょうさい》な構造《こうぞう》までもが記されているらしい。そこまでしっかりと調べてくれているのはさすが春香というか。これとノーマル仕様《しよう》の『お買い物のしおり・ぱ−と1』があればそれだけでアキハバラの地理はバッチリに違《ちが》いない。……読めんけど。
「じゃあそっちに行ってみるか」
「はいです」
うなずいた春香とともに店の奥へと向かう。
そこにあったのは――
「おお」
「わあ……」
春香が歓声《かんせい》を上げる。
そこにあったのは、色とりどりのカラフルな制服やメイド服、ウエイトレス服に巫女《みこ》服《ふく》と、とにかく思い付く限《かぎ》りのコスプレ用の衣装だった。
「すごい……かわいいお洋服がいっぱいです」
生まれて初めて海を見た内陸部の子供たちみたいに目をうるうるとさせる春香。
「まるで夢の国みたい……生きていてよかったです、はあ……」
「……」
夢の国だ何だは多少オーバーだとは思うが、春香の気持ちも分からんでもない。
目の前に並《なら》べられた衣装の数々。
ハンガーにかけてあるもの、マネキンに着せてあるもの――展示《てんじ》様態《ようたい》は様々であるが、どれもこれもが本格的な作りになっていて、そこにあるだけで自《おの》ずと目を引いた。こういったものに特に興味《きょうみ》のない俺でも何となく手に取って見てみたい気分になるというか……そんな感じである。
「ほんとにすごいです……」
しばらくの間、春香《はるか》は衣装《いしょう》の前で感激《かんげき》の海に肩《かた》までどっぷりと浸《ひた》っていたみたいだったが、
「――あっ、あれはもしかして『まじかる☆でぃな〜』の宇宙服? あっちには『ドジっ娘アキちゃん』の魔法《まほう》服《ふく》まであります……うわぁ……(ふらふら)」
とうとうリミッターが外れたのか、やがてそのまま花の香《かお》りに誘《さそ》われるシジミチョウのようにゆらゆらと衣装が置いてある区画の奥へと歩いていった。まあここまでガマンにガマンを重ねてきたからな。その反動が出たんだろう。
春香の後を追《お》って、俺もたくさんの衣装が並ぶコスプレコーナーへと向かった。
「ほらほら、裕人《ゆうと》さん見てください。この衣装、とってもかわいいですよ♪」
花がこぼれて画面外に溢《あふ》れ出《で》るような満面《まんめん》の笑《え》みで、春香がハンガーにかかっていた制服の一つを見せてくる。
「これは『ノクターン女学院』に出て来る制服で、ここの袖《そで》の部分の色使いが特徴的《とくちょうてき》なんです。それでこっちは……」
「……」
いや本当に楽しそうだな。
衣装を手に取る春香の表情は、今まで見たことがないほどものすげぇ活《い》き活《い》きとしていた。
まさに適材適所《てきざいてきしょ》、流氷《りゅうひょう》を得《え》たイワトビペンギンって感じだな。
「こっちの巫女服もかわいいし、あっちのメイド服もすてきですし……あ、これなんて裕人さんに似合《にあ》いそうな気がします。どうでしょう?」
と、濃《こ》い青色に白いラインの入った軍服のようなモノを手に春香がそんなことを言ってきた。
「ん、そうか?」
「ええ、そう思います。そうだ、ちょっと動かないでくださいね」
「え?」
にっこりと笑うと春香は軍服を俺の身体の前に当てて、
「わあ、やっぱり。初めて制服に袖を通した新一年生みたいでとっても似合《にあ》ってます」
「……」
「かわいいですよ(にこにこ)」
それは褒《ほ》め言葉《ことば》なのか……?
春のお日様のような春香の笑顔《えがお》とは裏腹《うらはら》に、何とも微妙《びみょう》な気分だった。
で、それからしばらく、二人で適当《てきとう》に衣装やその他の小物を見たりした。
うきうきな春香が色々な物を手に取り、それに俺が答える。
それはともすればまるで二人で普通《ふつう》にデートでもしているかのように思えて――いやまあここがコスプレ衣装《いしょう》専門店で春香《はるか》が手に持っているのが色|鮮《あざ》やかなコスプレの衣装って点ですでにこれっぽっちも普通《ふつう》じゃないんだがそれは今は置いておくとして――そこはかとなく幸せな気分に浸《ひた》れたりもした。何だかんだで、春香と二人でこういう時間を過ごすのも久しぶりな気がするしな。
少しの間、そんなささやかな幸せ気分を満喫《まんきつ》していて、
「裕人《ゆうと》さん、これはどうですか?」
と、春香が一着の衣装を手に取って見せてきた。
「え?」
「このお洋服、こすぷれ喫茶《きっさ》≠ノは合うんじゃないかと……」
「コスプレ喫茶……」
その言葉《ことば》で、本来のココにやって来た目的を思い出した。
あー、そうだった。そういや今日は文化祭の出し物の下見に来てたんだっけか。春香と二人での時間があまりに楽しくて、つい頭の中から完膚《かんぷ》なきまでにすっぽ抜《ぬ》けてたみたいだ。
「どうでしょう? とってもきゅ〜とでぷりてぃ〜だと思うのですが……あ、ちなみにこれは『はにかみトライアングル1st 』に出て来る『ドジっ娘アキちゃんエンジェル・ヴァージョン』っていうんですよ♪」
笑顔《えがお》で春香が差し出していたのはクリーム色を基調としたひらひらなドレスだった。何やら背中には天使の羽根《はね》のようなモノが付いている。
「ふむ……」
確《たし》かにこれは『コスプレ喫茶』に合うかもしれんな。
見た目がかわいらしいため、これならクラスの女子の受けも悪くないはずだ。まあ名称《めいしょう》が少しばかり引っかかるのと、微妙《びみょう》な角度でスリットが入っていたり胸元《むなもと》の開きが大きかったりするのはアレだが……それも見方によってはかわいさを増幅《ぞうふく》させる要因《よういん》となるしな。
「よし、じゃあメインの衣装はこれでいくか――ん?」
「…………」
「春香?」
と、春香が何やらその羽根付きドレスに見入ったままぼ〜っとしているのが目に入った。
「……いいなあ、これ…………」
「春香?」
「うん、見れば見るほどほんとにかわいいです……ここのステッチがとってもすてき……」
再度《さいど》声をかけてみるものの、聞こえていないのか一人小さくそうつぶやいてる。その目はどこか遠くのお星様を見ているお姫様のようだった。
「……」
これはもしや……
「なあ春香《はるか》、もしかして――」
心に浮かんだある推測《すいそく》を確認《かくにん》すべく、いまだぽや〜んとした顔で羽根付きドレスに見入るお姫様に声をかけようとして。
「お客様ー、もしよろしかったらご試着《しちゃく》なさいますかー?」
とそこで、店員さんの一人がにこやかに声をかけてきた。
「え、し、試着?」
その言葉《ことば》に、春香が大きく反応《はんのう》した。
「はい。気になるようでしたら、着てみるだけでもどうですかー? 他のお客様も気軽にご試着されてますしー」
「そ、そそそそそんな、わ、私はそんな大それたことは……」
慌《あわ》てたようにぶんぶんと首を振《ふ》って後《あと》ずさる。
「? お客様ならよくお似合《にあ》いになると思いますよー。どうでしょう、あちらに試着室がございますので、よろしければご案内いたしますがー?」
「え、で、でも、それは……」
困《こま》ったように俺の顔をちらちらと見る春香。だがさっきまでのニンジン畑を目の前にしたミニウサギみたいな様子《ようす》からして、本心では着てみたいだろうってことは明らかである。
「とりあえず試着してみればいいんじゃないのか? 着てみたいんだろ?」
なのでそう勧《すす》めてみたところ、
「い、いえ、それはその、ですから……」
初めはわたわたとしていた春香だったが、
「……………………………………き、着てみたい、です」
と、羽根付きドレスに顔を埋めるようにして、恥ずかしそうにこっくりとうなずいた。あー、やっぱりか。てか別に今さらそこまで恥ずかしがることもないのにな。
「分かりました。それではこちらにどうぞー」
そんな春香を微笑《ほほえ》ましいものを見るような目で見つつ、店員さんは試着室へと案内しようとして、
「あ、そちらのカレシさんもごいっしょにどうぞー。やっぱりお気に入りのコスを着たかわいい姿《すがた》は、一番初めにカレシさんに見てほしいですものねー」
意味ありげな声でそんなことを言った。
「え、か、かか、かれしって……」
春香の顔が山形産サクランボのようにさらに真っ赤になる。「ゆ、ゆゆ裕人《ゆうと》さんは、そ、その……」
「またまたー、隠さなくてもいいですよ。さっきまでのお二人の仲の良さそうなやり取りを見ていれば分かりますからー。ラヴ、ですよね?」
ぐっと親指を立てて、店員さんは笑った。
「……」
なんかこの人、ノリがいつかのブライダルショップの店長さんにすげぇ近い気がするんだが。
接客業《せっきゃくぎょう》に就《つ》く入ってのは皆こういう人種なのか?
「はーい、それじゃ一名様、試着室《しちゃくしつ》へご案内でーす」
パニくる春香《はるか》の背中《せなか》を押して、店員さんは実に楽しげな顔でフロアの隅《すみ》にある試着室へと進んでいってしまった。
「……」
一人残された俺に、
「あ、カレシさんはちょーっと外で待っててくださいね。もしかしたらいっしょに着せ替えっことかしたいかもしれませんけど、残念ながらここの試着室は一名様用ですので♪」
「……」
……そんなこと、しねぇよ。
でまあ春香が着替えているその間、当然俺は試着室の外で待っていることになるわけだが。
「……」
なんか、やけに落ち着かなかった。
いや、だってこの薄布《うすぬの》一枚の向こうで春香が着替えをしてるんだぞ? いかにその姿《すがた》が直接見えることはないとはいえほんの少し手を伸ばせば届いちまうような距離だし、耳を極限《きょくげん》まで澄《す》ませば徴《かす》かにだが衣擦《きぬず》れの音なんかが聞こえてくるような気もして――
「……」
あー、ダメだダメだ!
試着室の前でじっとしていると思春期《ししゅんき》マックスゲージな妄想《もうそう》が湯水《ゆみず》のごとくバシャバシャと溢《あふ》れてきてとどまることがなかったので、気を紛《まぎ》らわせるためにそのヘンの衣装《いしょう》やら化粧品やらでも見て回ることにした。
店内の約半分のスペースを埋《う》め尽《つ》くしている多数のメイド服や制服、ウェイトレス服。
まあこれらはこれらである意味妄想の温床《おんしょう》となるもんだったが、それでも試着室の真ん前で悶々《もんもん》としているよりは遥《はる》かにマシってもんである。
心を無《む》にして、神社|仏閣《ぶっかく》を巡《めぐ》る修行僧《しゅぎょうそう》のような気持ちで辺《あた》りを排徊《はいかい》する。
そのおかげか、しばらくするとムダにアイドリング気味《ぎみ》のエンジンのようだった心臓も少しは落ち着き、ある程度《ていど》の余裕《よゆう》をもって周《まわ》りを見ることができるようになってきた。
「本当に色々とあるんだな……」
改めて見てみると、その種類の豊富《ほうふ》さ多様《たよう》さに驚《おどろ》かされる。日本中のコスプレ衣装の六割くらいはここに集結してるんじゃないかって思わされるほどだ。
――そういえば、値段《ねだん》とかはいくらくらいするんだろうな?
ふと思った。
よく考えてみれば文化祭の出し物の条件としてそれはかなり重要な要素《ようそ》である。予算が限《かぎ》られている以上、買うにせよ借りるにせよ値段が分からなきや話にならん。なのに春香《はるか》の笑顔《えがお》と衣装《いしょう》のかわいさばかりに気を取られて、そのへンはまったくもって眼中《がんちゅう》に入ってなかった。つーか、ついさっきまでココに何をしに来たのかも忘《わす》れてたくらいだしな。
完全に色ボケしていた自分を少しばかり反省しつつ、何気《なにげ》なく目の前にあったメイド服の値札《ねふだ》を見て、
「……は?」
一瞬《いっしゅん》、メガネにヒビでも入ってるのかと思った。
てかむしろ入っていてほしかった。
……なんかゼロが四つほど付いてるのが見えたんだが、気のせいだろうか。
気を取り直して隣《となり》にあった巫女《みこ》服《ふく》を手に取ってみる。
「……」
やはり、ゼロの数は変わらなかった。
「……高ぇ…………」
だが考えてみればそれも当然かもしれん。
学園の制服などでも一着買えば普通《ふつう》に福沢諭告《ふくざわゆきち》が数枚飛んでいく。特にこういった『コスプレ』の衣装は一つ一つに色々とこだわって作ってありそうだし、それだけ値が張《は》るのもうなずけるっちゃあうなずける。まあうなずいたところで、懐《ふところ》の暖《あたた》かさがそれに付いてきてくれるかはまた大いに別問題だが。
「うーむ……」
そんな風にコスチューム職人《しょくにん》さんのこだわりと市場経済のバランスについて考えていると。
背後《はいご》からシャッとカーテンの開かれる音がした。
「お、お待たせしました……」
続いて聞こえてきた少し控《ひか》えめな声。
振《ふ》り返《かえ》ると、試着《しちゃく》室《しつ》の中からおずおずと恥ずかしそうに出て来たのは――
「す、すみません。慣《な》れない作りのお洋服だったので着替えるのに少し時間がかかってしまったのですが……ど、どうでしょうか?」
羽根付きドレスに身を包《つつ》んだ、春香だった。
「……」
衣装と同じクリーム色のカチューシャ。かわいらしいフリル。背中《せなか》からちょこんと生えた天使の羽根。そこはかとない角度で入ったスリットがひらひらなスカートの裾《すそ》を可憐《かれん》に彩《いろど》っている。さらには開いた胸元《むなもと》からは降《ふ》り積《つ》もり立ての雪のように白い肌《はだ》が見えていて――なんつーか、控《ひか》えめにごく抑《おさ》えめに言って、めちゃくちゃ似合《にあ》っていた。
「あ、へ、変じゃないですか?」
「……」
「あ、あの、裕人《ゆうと》さん……?」
「え? あ、ああ」
春香《はるか》の声にハッと我に返る。
あまりの超絶《ちようぜつ》ハマりっぷりに、数秒間だけ意識《いしき》が遥《はる》か捏磐《ねはん》の彼方《かなた》にまで吹っ飛んでたみたいだ。
「大丈夫《だいじょうぶ》だ、すげぇ似合ってる」
「ほ、ほんとですか?」
「あ、ああ、本物の天使みたいというか……とにかくバッチリだ」
「あ……ありがとうございますっ」
本当に嬉《うれ》しそうに笑うと、少し遠慮《えんりょ》がちに春香は俺の方を見て、
「ほ、ほら見てください。このドレス、中もこんなにかわいい凝《こ》った作りになってるんですよ」
上着を脱《ぬ》いで、ドレスの中身(?)部分を見せてきた。
大きく露出《ろしゅつ》した肩口《かたぐち》。
かわいらしく、かつふくらみが自然に強調されるようにデザインされた胸元。
そして何よりちょっと照《て》れたような顔で恥《は》ずかしそうに見上げてくる春香。
「……」
やばい……マジでかわいすぎるぞこれは。かわいさに攻撃力《こうげきりょく》があったら間違《まちが》いなく人を七回殺せるレベルである。つーか、すでにして三回くらい昇天《しょうてん》しそうになってる俺が言うんだから間違いない。これはもうある意味殺人兵器だね。
「え、えへへ♪」
そんなことを考えつつ、ドレスの裾《すそ》を摘《つま》んだり羽根の位置を直したりとご機嫌《きげん》な春香を前にアホのようにボーっとしていると
「こんにちはー!」
「!?」
ふいに何やら聞《き》き慣《な》れた声が、有無《うむ》を言わせず耳に飛び込んできた。
「広報《こうほう》の小雀《こすずめ》さんいるー? 今日は新製品の企画《きかく》打ち合わせに来たんだけどー」
おそらく入り口付近にいるだろうにも関わらず店の奥にいる俺たちに届くほどムダによく通る声。この展開《てんかい》はまさかいつかと同じ――
「……隠れるぞ、春香」
本能《ほんのう》が瞬間《しゅんかん》的《てき》に警鐘《けいしょう》を鳴《な》らし、俺は春香の背中《せなか》を押《お》して試着室《しちゃくしつ》へと飛び込んだ。
「え? きゃっ」
春香《はるか》が小さく悲鳴《ひめい》を上げる。
「ど、どうしたんですか、裕人《ゆうと》さん」
「すまん、緊急《きんきゅう》事態《じたい》だ」
目を白黒させる春香にそう告《つ》げて、手早くカーテンを閉める。
直後に、カーテンのすぐ向こう辺《あた》りから話し声が聞こえてきた。
「あ、いらっしゃいませ、朝倉《あさくら》様。お待ちしていました」
「こんにちはー、小雀《こすずめ》さん。この前話した新製品の企画《きかく》を持ってきたよー」
「え、ほんとですか?」
「うん、今回のは自信作でね−。『ドジっ娘アキちゃん』仕様《しよう》の『寸足《すんた》らずTシャツ』ってやつでさー……」
やはり信長《のぶなが》のやつだった。
カーテンの隙《すき》間からチラリと外の様子《ようす》を窺《うかが》うと、何やら「SIDE-3」と書かれた緑色の軍服っぽいジャケットを着た女の店員さんらしき人と楽しげに会話している姿《すがた》が目に入る。くそ、何だって毎回毎回やつは俺たちが行くところにいやがるんだ? 狙《ねら》ってるとしか思えんぞ?
などと文句《もんく》を言ってみても、いるもんはもはやどうしようもない。
見つかればまたメンドクサイことになるのは分かりきっている。ならばやつが去るまで、何とかこの中(試着室《しちゃくしつ》)でやり過ごすしかあるまい。
だがそれには一つ不都合《ふつごう》な点があった。
「あ、あの……」
もともとここの試着室は人が二人入るようにはできていない。
そして一定以下の狭《せま》さの空間の中に許容量以上の人が入れば、そこでは当然のごとく通学時間帯の満員電車のようにぴったりと身を寄せ合わなければならないわけで――
「あ、あの、ゆ、裕人さん……」
必然的《ひつぜんてき》に、俺は胸《むね》の中に春香をギュツと抱《だ》きしめるカタチになってしまっていた。
「ん……」
春香の口から苦しそうなあえぎ声が漏れる。
「わ、悪い、狭《せま》くて……」
「あ、い、いえ……」
そう言うものの、やはり春香の表情は苦しそうである。
俺としては両腕と両足と腰《こし》を突《つ》っ張《ぱ》って何とか春香のスペースを確保《かくほ》しょうとしてはみるが、絶対的《ぜったいてき》な体積の問題はどうしようもない。むしろ動けば動くほど、俺の手足、胸、腰は春香の身体の、その、色々とアレな部分へと複雑に絡《から》み合《あ》っていく。
くっ、これを何とかするには関節《かんせつ》を正常|稼動《かどう》角度とは反対方向に三十度くらい動かさないとどうにもならんぞ……
しかも問題はそれだけではない。
「んっ……」
目の前には羽根付きドレスを着た春香《はるか》(人を殺せるかわいさ完備《かんび》)が、お互いの心臓の音が聞こえるほどの距離《きょり》で、頬《ほお》を紅潮《こうちょう》させ潤《うる》んだ瞳《ひとみ》でこちらをじっと見ている。
「あ……んっ……」
おまけに時折《ときおり》、その小さな唇《くちびる》から漏《も》れる色っぽい吐息《といき》なんかが耳元に触《ふ》れたりして……
「……」
健全な十七歳男子にとって、これはあまりといえばあまりにも過酷《かこく》でデンジャラスな状況《じょうきょう》
である。
「……」
「あ……」
「……」
「ん、んんっ……」
そんな状況が五分ほど続き。
――も、もうダメかもしれん……
色んな意味で俺のガマンが限界《げんかい》に近づいてきたところで、
「はーい、お着替えは終わりましたかー?」
「!?」
いきなりカーテンが勢《いきお》いよく開かれた。
開かれた先にあったのは、当然のごとくにこにこ笑顔《えがお》の店員さんの姿《すがた》。
「あ、いやこれは……」
「そ、その、えと……」
マズイ、これは何て言い訳をすりゃあいいんだ? 実は俺は開所《かいしょ》恐怖症《きょうふしょう》(閉所《へいしょ》恐怖症の逆《ぎゃく》)なんです。背中《せなか》の羽根を外すのを手伝ってました。……ダメだ、どれも理由《りゆう》として頭が悪すぎる。
冷凍庫で二時間くらい冷やした蜜柑《みかん》のように固《かた》まる俺たちに、
「あらら、やっぱり着せ替えっこをやっちゃったんですかー?」
「……へ?」
店月さんは人さし指をぴっと立てて、
「もー、カレシさんだめですよー、いくらかわいいカノジョさんの姿を見てむらむらっと若いリビドーがたぎったからってこんなところで。女の子はムードを大切にするんですからー」
実に楽しそうにそんなことを言った。……いやそれより先に突っ込むべきところがあると思うんだがな。
ちなみに、試着室《しちゃくしつ》から出てみると信長《のぶなが》の姿はいつの間にか消えていた。
まあそれ自体はラッキーなんだが、あいつは姿が見えないなら見えないでまた何をやってるんだか不安にさせるやつである。不審《ふしん》に思って店員さんにそれとなく訊いてみたところ、
「朝倉《あさくら》様ですか? 彼でしたら役員クラスの会議に出席されるとかで、ウチの広報《こうほう》の小雀《こすずめ》といっしょに本社に行かれましたよ。あ、もしかしてお知り合いなのですか? 彼、ステキな方ですよねーV[#中白のハートマーク]」
との返事が戻ってきた。
なんつーか……もう何でもアリだな、あいつは。
で、それからしばらくして。
『COSPAジーストア・アキバ店』を出る頃《ころ》には、辺りはもうすっかり夕方になっていた。
オレンジ色をした太陽は西へと傾《かたむ》き、辺《あた》りを歩いている人の数も少し減《ヘ》ってきたような気もする。入店したのは午後三時頃だから、何だかんだで二時間以上も店に居たことになるな。
結果《けっか》として、コスプレの衣装《いしょう》は羽根付きドレスをはじめとした何着かを参考用に買って残りは自分たちで作ることにした。全部買えればそれに越したことはなかったんだが、あの値段からして人数分買うことはとても不可能《ふかのう》である。携帯《けいたい》で椎菜《しいな》とも話をしたところ、その結論に落ち着いたのだ。
「それにしても、今日は春香《はるか》のおかげで本当に助かった」
「はい?」
羽根付きドレスの入った紙袋を大切そうに胸《むね》に抱《かか》え、隣《となり》をとてとてと歩いていた春香に声をかけた。
「春香がいてくれなきゃそもそも店を見つけるのも難《むずか》しかっただろうし、その上衣装選びにも色々と協力してもらっちまった。サンキューな」
「あ、いえ、そんな……」
春香は顔の前でぱたぱたと手を振《ふ》って、
「私も楽しかったですから。それに少しでも裕人《ゆうと》さんのお役に立てたのなら良かったです。いつもは裕人さんにお世話《せわ》になりっぱなしなので……たまには何かできることがないかなって、ずっと思っていたんです」
「春香……」
「だから気にしないでください」
えへへ、と笑ってそう言った。その健気《けなげ》な仔犬《こいぬ》みたいな笑顔《えがお》に思わず頬《ほお》が緩《ゆる》んじまうのを感じるね。
――まあしかし、色々あったがこれで本日のやるべきことは無事《ぶじ》終了だ。
見本用の衣装を買うことはできたし、『コスプレ喫茶《きっさ》』開催《かいさい》への見通しもついた。もともと今日本来の目的は下見だけだったことから考えれば上々だろう。あとは春香を送って家に帰るだけだ。
――と、思ったのだが。
チャチャチャーン、チャチャチャーン、チャチャチャチャチャーン♪
ふいに、ポケットからやたらとけたたましい音が鳴《な》り響《ひび》いた。
鳴っているのは、「天図と地獄」。
「……」
この着信音ってことは……
携帯《けいたい》を取り出すと、ディスプレイには予想《よそう》通り『せくしー美夏《みか》ちゃんV[#中白のハートマーク]』の文字とバスタオル一枚で投げキッスのポーズをとるツインテール娘の写真(なぜか知らぬ間に変わってやがる)が浮《う》かび上《あ》がっていた。
「……」
一瞬そのまま何も見なかったことにしてこっそりと携帯をポケットに戻《もど》したい衝動《しょうどう》に襲《おそ》われたが、んなことをしたらまた鬼《おに》のような着信|攻撃《こうげき》が待っているに違《ちが》いない。
「……ちょっと悪い。美夏《みか》からみたいだ」
仕方なく出ることにして、
「え、美夏、ですか……?」
春香《はるか》の顔色が微妙《びみょう》に変わったように見えた。何だ? 何かあるのか?
少し訝《いぶか》しく思いつつも、鳴《な》り続《つづ》ける『天国と地獄』を黙《だま》らせるためにとりあえず通話ボタンに指をかける。
「はい、もしもし――」
「おに〜さん、そこにお姉ちゃんいるよね!?」
携帯《けいたい》を耳に当てた途端《とたん》、美夏の大声が鼓膜《こまく》に飛び込んできた。
「もしもしっ、聞こえてる? もしもしっ? 聞こえてるなら『美夏ちゃんはぷりてぃ〜、美夏ちゃんはきゅ〜と、美夏ちゃんはせくし〜』ってその場で三回|繰《く》り返《かえ》して……」
「……そんなことさせんでも聞こえてる」
いやどさくさに紛《まぎ》れて何を言わせるつもりだこのツインテール娘は。
「あ、そ、そなの? だったらもっと早く返事してくれないと。男の子は物事に機敏《きびん》に反応《はんのう》しなきゃだめじゃん!」
「……」
怒《おこ》られた。
てか返事をするヒマすら与えなかっただろうが。
「……で、何の用だ?」
放《ほう》っておくとまた話がワケノワカラン方向に飛んでいきかねないのはいつものことだったのでそう言うと、
「え? ――あ、そうだった! おに〜さん、とりあえずお姉ちゃんを連《つ》れてそこから離《はな》れて!」
「へ?」
いきなりそんなことを言われた。
「そこ、アキハバラでしょ? そこにいちやまずいから早く逃げて!」
「いや離れろって言われてもな」
言ってる意味が分からず首を捻《ひね》っていると
「そこにいたら、お父さんに見つかっちゃうよ!」
「は?」
「ついさっき、お父さんが『黒犬《ヘルハウンド》』を何人か連れてそっちに向かったの! かな〜り興奮《こうふん》してたから、今見つかったらけっこう厄介《やっかい》なことになっちゃうかもしんない。だからとりあえずどっかに退避《たいひ》して様子《ようす》を――」
「ちょっと待て、いったい何を言ってるのか……」
もうさっぱりである。何だって春香《はるか》父《ちち》がこっちに来るのかもさることながら、それでどうして俺たちがこの場を離《はな》れなければならないのかもまったく分からん。
すると、
「お姉ちゃん、ほんとなら今日は会食に行くはずだったんだよ!」
美夏《みか》が電話の向こうでそう叫《さけ》んだ。
「会食?」
「うん、そう。有名なピアニストのポリーニ先生っておじさんが直々に会ってくれることになってたとかで、その予定が午後に入ってたの。お父さんもすごく楽しみにしてて……」
「……」
いや今日の午後って……もう過《す》ぎてるよな?
つーかそもそも、俺たちが待ち合わせをした時刻がまさに午後だと言える時間である。てことは春香、まさか……
俺の予想《よそう》を肯定《こうてい》するかのごとく、美夏は続けた。
「だけどお姉ちゃん、そっちに行っちゃったでしょ? わたしはだいたいおに〜さん絡《がら》みのなんか大切なことなんだろうな〜って分かってたから気付かないフリをしてたんだけど……お姉ちゃん、『お買い物のしおり・ぱーと2』の下書きをリビングのテーブルの上に置きっぱなしにしてたから、それがお父さんにバレちゃって――」
「……」
ようやく、美夏が何を言ってんだかが呑《の》み込《こ》めてきた。
つまり、こういうことか? 春香は今日は本来そのポリープ先生とかいうおっさんと会食をする予定だったんだが、それをサボってアキハバラに付き合ってくれて、で、そのことを知った春香父が激怒《げきど》して現在こちらに向かっている――と?
「……」
……いや、それってかなりやばいんじゃないのか?
少なくともこんなところでのんびりと幸せ気分に浸《ひた》ってる場合じゃない。
「――だから、とにかく早くそこから離れて! わたしたちも今そっちに向かってる途中《とちゅう》なの。合流すればたぶん何とかなるはずだから、それまでがんばってて、おに〜さん!」
「あ、ああ、分かった」
今はそれしか手はあるまい。
美夏との通話を終えた俺は、
「春香、行こう」
「え?」
とりあえずどこか近くの喫茶店《きっさてん》にでも避難《ひなん》しようとして、
ブロロロロロッ!!
「!」
いきなり、俺たちの眼前《がんぜん》に黒塗《くろぬ》りの車(やたらゴツイ)が暴《あば》れ馬《うま》のごとく飛び出してきた。
「なっ……」
何だこれは!?
だがまともに声を出すヒマさえなく、続いて後ろと左右にも同様に黒塗りの車が急ブレーキとともに到来《とうらい》し、俺たちの残りの進路と退路《たいろ》とを塞《ふさ》ぐ。
気付けば、あっという間に四方を囲《かこ》まれてしまっていた。
「……見つけたぞ」
そして正面に横付けされた車のドアがゆっくりと開く。
地獄《じごく》の底《そこ》から響《ひび》いてくるみたいな声とともに、その中から現れたのは――
「お、お父様……」
その身に怒《いか》れる魔王《まおう》でも召喚《しょうかん》したかのような春香父だった。額《ひたい》にぶっとい青筋《あおすじ》を浮《う》かべ、上半身|裸《はだか》にサラシ姿《すがた》というほとんどそちらの筋の方々みたいな出立《いでた》ちで、ギロリと俺の顔を睨《にら》みつけてくる。
「やはり貴様といっしょだったか……おのれ、このクサレ外道《げどう》が……」
おまけに右手には長さ一メートルくらいの木刀《ぼくとう》のようなモノ。表面に南《な》無《む》阿《あ》弥《み》陀《だ》仏《ぶつ》と書かれたソレはいわゆる根性|注入棒《ちゅうにゅうぼう》とかのアレである。……ただし直径がふた回りほど太い上に、やたらとごついトゲみたいなものまで付いてるがな。
「……まさかこの大事な日に春香《はるか》をかどわかしてこんないかがわしい場所で連《つ》れ回《まわ》しているとは…………少しは貴様のことも認《みと》めていたんだが、どうやらそれも勘違《かんちが》いだったみたいだな!」
背景《はいけい》が歪《ゆが》んで見えるような殺気《さっき》に満ちたオーラをまとい、春香父はゆらりと一歩前に出た。もうこの場でおっ始める気マンマンである。
「お、お父様、これは違《ちが》うんです! 悪いのは私で裕人《ゆうと》さんは……」
「さあ、そこを動くなよ下郎《げろう》! その腐った根性……この『死屍累々《ししるいるい》』で直々《じきじき》に叩《たた》き直《なお》してくれるわっ!」
春香が叫ぶも、根性注入棒(『死屍累々』というらしい)を振り上げて興奮《こうふん》状態《じょうたい》の春香父にはもはや聞こえてないらしい。働《はたら》き盛《ざか》りのベンガルタイガーもシッポを丸めて逃げ出すような形相《ぎょうそう》で、一歩ずつズシリズシリとこっちへと近づいてくる。
……マズイな、このままじゃ万が一だが春香まで巻き込まれちまう可能性《かのうせい》がある。
「……春香、下がっててくれ」
「? ゆ、裕人さん?」
「ここは俺が何とかする」
あの状態(リアルバーサーカー)の春香父に何を言ってもムダだろう。だったらターゲットである俺に注意を集中させた方がまだいい。
「え、で、でも……」
困惑《こんわく》の表情を浮かべる春香《はるか》を強引《ごういん》に後ろに下がらせて、俺は春香父の前に立った。
「……ほう、覚悟《かくご》ができたのか?」
野生の猛獣《もうじゅう》みたいにビンビンな殺気《さっき》。正直めちゃくちゃ怖《こわ》いが、ここは退《ひ》くわけにはいかない。
「……玄冬《げんとう》さん。あなたの言う通りです」
「ぬう?」
「今日のことは春香は悪くない。悪いのは……春香をムリヤリ誘《さそ》った俺です」
「ゆ、裕人《ゆうと》さん、何を言って……」
「いいから」
今にして思えば、最初に店の案内を頼《たの》んだ時から春香の様子《ようす》はどこか変だった。何かを気にするような戸惑《とまど》うような……そんな素振《そぶ》りを見せていた。だけど俺は気のせいだと適当《てきとう》に思い込み、深く考えようとしなかった。それが第一の間違《まちが》い。それにそもそもの根本的な問題として、ああいう承諾《しょうだく》を前提とした頼み方をしちまえば押しに弱い春香が断《ことわ》れるはずもない。そのことに俺はまず気付くべきだったんだよ。
だから。
「何か文句《もんく》があるんなら……俺に言ってください」
少なくとも、この場での春香父の怒《いか》りくらいは俺が受けなきやならんだろ。
「……なるほど、自らの悪行《あくぎょう》を認《みと》めるか。いい度胸《どきょう》だ」
春香父がゆらりと身体を揺《ゆ》らす。
「どこぞの政治家のようにグダグダとくだらない言い訳をするよりはよほどマシだ。その心意気《こころいき》だけは認めてやろう。――だがな」
『死屍累々《ししるいるい》』を大きく振り上げ、
「それだけ言うからには、一発や二発くらい鉄拳《てっけん》を喰《く》らう覚悟はできてるんだろうな!」
「ゆ、裕人さん!」
「歯を食いしばれっ!!」
「……っ」
いやそれは鉄『拳』じゃねえだろ……と心の中で突っ込みつつ、直後にくるだろう『死屍累々』の衝撃《しょうげき》に備《そな》えて目を閉じたのだが――
次の瞬間《しゅんかん》、
ガギンッ! と、
耳の奥で鋭《するど》い金属音《きんぞくおん》が響《ひび》き渡《わた》った。
「え……」
これはまさか俺の頭蓋骨《ずがいこつ》が粉砕《ふんさい》された音…………じゃないよな?
恐《おそ》る恐《おそ》る目を開けるとそこには……
「裕人《ゆうと》様、お待たせいたしました〜」
「……遅《おそ》くなってしまい、申し訳ございません」
「え……?」
にっこりメイドさんと無口メイド長さんが二人そろって立っていた。
左右からハンマーとチェーンソーで春香《はるか》父《ちち》の『死屍累々《ししるいるい》』を受け止め、穏《おだ》やかな目でこっちを見ながらにこにこと微笑《ほほえ》んでいる。いや何でこの人たちが……?
「お前たち……どういうつもりだ?」
春香父の眼光《がんこう》(サングラス越《ご》し)がさらに鋭《するど》くなる。
「なぜ私の邪魔《じゃま》をする? メイドたるお前たちが主人である私に逆《さか》らうなどあってはならぬことだろう。それを――」
「私のお願いですよ、あなた」
響《ひび》いてきた穏やかな声が、春香父の言葉《ことば》を遮《さえぎ》った。
「葉月《はづき》さんたちには私が頼《たの》んだのですよ。裕人さんを守ってあげてくださいってね」
「ぬ……」
見るといつの間にか、俺たちを囲んでいた黒塗《くろぬ》りの車を分け入るようにして真っ白なリムジンが停まっていた。そしてその傍《かたわ》らに立っているのは――着物|姿《すがた》の秋穂《あきほ》さん。隣《となり》では美夏《みか》が笑顔《えがお》で「やっほ〜♪」と元気よく手を振《ふ》っている。
「あ、秋穂……」
「まったく、あなたはすぐにそうやって先走るんですから。きちんと二人から話も聞かずにいきなり実力行使に出るなんて、いくら何でも乱暴《らんぼう》ですよ?」
「いやそれは、しかし……」
言葉に詰《つ》まる春香父。相変わらず秋穂さんにだけは弱いみたいである。
「とにかくまずはお話を聞きましょう。全てはそれからです」
そう言うと秋穂さんはくるりと春香の方へと向き直って、
「さて春香、これはどういうことなのかしら? 何か事情があるのなら、ちゃんとお話ししてちょうだい」
「あ……」
秋穂さんの青葉を受けて、春香が少しだけ顔をうつむかせる。
「え、ええい、事情も何も全てそっちの外道《げどう》が仕組んだに――」
そう叫《さけ》び再《ふたた》び『死屍累々』を振り上げようとする春香父に、
「いいからあなたは少し黙《だま》っていてくださいな」
「ぐべっ」
秋穂《あきほ》さんの見事《みごと》な地獄《じごく》突《つ》きが、目にも留まらぬ速さで喉元《のどもと》に突《つ》き刺《さ》さった。
断末魔《だんまつま》のガマガエルのような声を出し、春香《はるか》父《ちち》がその場にバッタリと昏倒《こんとう》する。
「あら、少しやりすぎちゃったかしら。でもあなたがいると落ち着いて春香たちとお話ができないから、ちょっとの間静かにしていてくださいね」
にこにこ顔のままさらりとそんなことを言う秋穂さん。物理的にも間違《まちが》いなく最強だ、この人……
白目を剥《む》いた春香父が葉月《はづき》さんたちの手によってずるずると道の脇《わき》に引きずられていく中、秋穂さんは続けた。
「――さ、春香、開かせてちょうだいな。どうして無断《むだん》で会食をお休みしたりしたの?」
「そ、それは……」
「前に約束《やくそく》しましたよね? あなたの趣味《しゅみ》は全面的に認《みと》めるけれど、それは他の習い事や学業に支障《ししょう》を来《きた》さないという条件付きだって。今回のことは、それに抵触《ていしょく》しちゃうんじゃないかしら?」
口調《くちょう》こそ穏《おだ》やかで表面は笑顔《えがお》だが、秋穂さんの目には真剣《しんけん》な光が浮かんでいた。その場しのぎの半端《はんぱ》な答えはだめですよって光だ。
春香は少しの間うつむいたまま黙《だま》っていたが、
「う、嬉《うれ》しかったんです……」
やがてしぼり出すようにそう話し始めた。
「嬉しかった?」
「はい…こ、今回のことは裕人《ゆうと》さんが初めて私を頼《たよ》ってくれたお誘《さそ》いだったんです。私、こういうことでだれかに頼られるのって初めてで……それが嬉しくって……ぐすっ」
「春香……」
目に浮かんだ涙《なみだ》を拭い《ぬぐ》ながら、春香は続ける。
「せ、せっかくの会食を休んでしまったことはとっても悪いことだと思います。でも、きょ、今日のお仕事は私にとって大事なことで、どうしてもやりたかったんです……」
顔を上げてぐっと秋穂さんの目を見つめる。
やけに仕事って言葉《ことば》にこだわってると思ったら、そんなことを考えてたのか……
「ご、ごめんなさい……だから悪いのは私なんです。裕人さんはただ文化祭実行委員としてのお役目を果たしていただけで……」
「いや、ちょっと待て。悪いのは俺だ! 俺がムリヤリこんなことを頼《たの》んだから……」
「ゆ、裕人さん? そ、それは違《ちが》います。今日ここに来たのは私の意思《いし》で……」
「だからそれは……」
微妙《びみょう》にプチ言い合いになりかけたところで、
「はいはい、二人とも、痴話《ちわ》ゲンカはそこまでにしておいてね」
ぱんぱんと手を叩《たた》いて、秋穂《あきほ》さんがにっこりと笑った。
「仲がいいのは分かるけれど、ここは公道なんですから。そういうのは二人だけの時にやりましょうね」
「う……」
「あ……」
互《たが》いに顔を見合わせて赤くなる。
「でも、おかげでだいたい事情は分かったわ。春香《はるか》と裕人《ゆうと》さんの気持ち、考え、その行動|理由《りゆう》。――それに、二人ともとってもよくお互いのことを想《おも》いやってるということも、ね」
イタズラっぽく頬《ほお》に手を当てる秋穂さん。俺も春香も何も言えなかった。
「だからそれを踏《ふ》まえて、今回のことに対する私の判断《はんだん》を言いますね」
そう言って秋穂さんは春香を見て、
「――さて春香、あなたがどういうことを考えて今日の行動に出たのかは分かりました。その気持ち自体はとってもいいことだと思うし、理解《りかい》もできます。でも、だからといって約束《やくそく》違反《いはん》をしたことには変わりはありません。それは分かっているかしら?」
「は、はい……」
しゅんとした表情で春香がうなずく。
「今回のあなたの行動によって、色々な方に迷惑《めいわく》がかかったの。今日の会食を楽しみにしてくださっていたポリーニ先生はもちろん、その他のたくさんの方々にも。それも分かる?」
「……はい、分かります」
春香が短く答える。
「本当に?」
「は、はいっ」
真剣な表情の春香。
その日を、秋穂さんが正面《しょうめん》から見据《みす》える。
「……」
「……」
そのまま一分ほどが経過《けいか》した。
やがて秋穂さんはふっと微笑《ほほえ》んで、
「――そう、それならいいの」
いつものにこやかな顔に戻り、そううなずいた。
「今日のことは約束違反だけれど、そこさえ分かっていればもう同じことは繰《く》り返《かえ》さないでしょうから。というわけで、二人の気持ちに免《めん》じて今回だけは特別に不問《ふもん》にしてあげますね。私もお馬さんに蹴《け》られたくないですし、うふふ」
「お、お母様」
「秋穂《あきほ》さん……」
「ただし、今度からはこんなことのないように。何かある時はあらかじめ言っておいてくれないと、私たちだって対処《たいしょ》のしょうがないんですもの。いいわね?」
「は、はい」
優《やさ》しく語りかける秋穂さんに、春香《はるか》が大きくうなずく。
「よかったね、お姉ちゃん、おに〜さん」
「おめでとうございます〜」
「……丸く収まって何よりです」
美夏《みか》たちが笑顔《えがお》で駆《か》け寄《よ》ってくる。やれやれ、これでようやく今回も一件|落着《らくちゃく》か……
――と思いきや。
「それじゃ私たちは帰りますけど……春香、あなたはちゃんと最後までお仕事を全《まっと》うしてから戻ってくるのですよ」
「え?」
秋穂さんはにっこりと微笑《ほほえ》み、
「お仕事は、二人で仲良く[#「二人で仲良く」に傍点]お家に帰るまでがお仕事なんですから」
最後の最後にそんなことを言って、ぱちりと片目をつむったのだった。
秋穂さんたちが帰って、アキハバラには俺と春香が残された。
すっかり日が落ちて暗くなった駅前で、最後に秋穂さんが残した意味深《いみしん》な言葉《ことば》を受けてどことなく照《て》れくさいような空気が漂《ただよ》うそんな中、
「あ、あの、今日は本当にすみませんでした。こんなことになってしまって……」
おずおずと、春香が申し訳なさそうにロを開いた。
「裕人《ゆうと》さんのお役に立てればと思ったんですけど……結果《けっか》としてまたご迷惑《めいわく》をかけることになってしまいました。わ、私ってほんとにだめだめですね。これでは『春琉奈《はるな》』様に笑われてしまいます」
あははと、ムリをしたように笑う。
「春香……」
だから迷惑だなんてそんなことはないってのに。前から思ってはいたが、どうも春香は自分のことを卑下《ひげ》というか過小《かしょう》評価《ひょうか》する傾向《けいこう》にあるな。なので、
「あー、ダメダメなんてことはないぞ」
俺はそう言った。
「え?」
「さっきも言ったが、今日は春香《はるか》のおかげで本当に助かった。春香がいなければこんなにスムーズにコスプレの衣装《いしょう》が決まることはなかっただろうしな」
それは本当のことだ。というかそもそも春香の助けがなければあの『COSPAジーストア・アキバ店』の存在《そんざい》を知ること自体|困難《こんなん》だった可能性《かのうせい》もある。
「で、でも……」
「それに俺に配慮《はいりょ》が足りなかったのも事実だ。もう少し春香のことを考えていればこんなことにはならなかったかもしれん。こっちこそ悪かった」
「あ、え……」
俺が頭を下げると、春香は面食《めんく》らったような表情になった。
「で、そのお詫《わ》びというかお礼と言っちゃなんだが……今度は何か俺にできることはないか?」
秋穂《あきほ》さんや春香父に怒《おこ》られるだろうことを分かって今日の下見を付き合ってくれた春香。それに対して、俺にできることがあれば何かしてやりたかった。
「そ、そんな、お礼だなんて……」
「何でもいいぞ。一週間家までの送り迎え(カバン持ち付き)とかでもオッケーだ」
「そ、そう言われましても…………あ」
そこで春香が何かを思い出したような顔をした。
「お、何かあるのか?」
「あ、い、いえ、その……」
「いいから言ってみてくれ。本当に何でも大丈夫《だいじょうぶ》だ」
「え、えと……」
胸《むね》の前で指をもじもじと絡《から》めながら春香は口ごもっていたが、
「そ、それじゃ、ひとつだけいいですか?」
「おう。一つと言わずにいくつでも」
普段《ふだん》はほとんどまったくといっていいくらいワガママを言わない春香である。この機会《きかい》に、何か聞けることがあったら聞いてやりたい。
すると、
「……フォークダンス」
「え?」
「ぶ、文化祭で、フォークダンスがありますよね? それにいっしょに参加してもらえたら嬉《うれ》しいなあって……」
少し顔をうつむかせながら、恥ずかしそうにごにょごにょとそう言った。
春香《はるか》の言っているフォークダンスとは、毎年文化祭後の後夜祭《こうやさい》において行われる一大イベントのことである。男女二人一組でペアになってキャンプファイヤーを囲《かこ》んで踊《おど》るという、独り身の生徒にとっては目に辛《つら》いというかほとんどイヤガラセみたいなイベント。ちなみに俺は去年、信長《のぶなが》や三馬鹿《さんばか》どもと共に燃《も》え盛《さか》る炎《ほのお》の周《まわ》りで寂《さび》しく砂山《すなやま》崩《くず》しゲーム(砂山の上に棒《ぼう》を置いて順に砂を取っていき、最初に棒を倒《たお》したやつが負けというアレである)をするしかなく、参加できるもんならしてみたいとは思っていたが……
「いや……でも、俺でいいのか?」
春香ならフォークダンスの誘《さそ》いも引く手|数多《あまた》だろう。何もよりによって俺みたいなダンスも踊れん一般市民を選ばなくてもいいような気がするんだが……
すると春香は俺の目を見ながらしっかりとうなずき、
「はい。私は、裕人《ゆうと》さんがいいんです。というか裕人さんでないと…………」
そこで一度|言葉《ことば》を止めて、
「……裕人さんでないと…………いや、です」
そんなことを言ってくれた。
「春香……」
「………あの、だめ、ですか……?」
「まさか!」
慌《あわ》ててぶんぶんと首を振《ふ》る。
ダメだなんて、そんなことがあるわけがない。ただあまりに予想外《よそうがい》というか嬉《うれ》しい不意打《ふいう》ちで、脳《のう》ミソが少しばかり震盪《しんとう》状態《じょうたい》になってただけなんだよ。
不安そうにちょこんと見上げてくる春香に、俺は答えた。
「あ、あー、分かった。俺でいいなら喜んで」
「ほ、ほんとですかっ?」
春香の顔がぱっと輝《かがや》いたように見えた。
「ああ、よろしく頼《たの》む」
俺がそう言うと春香は大きくうなずいて、
「はいっ、こちらこそ、です」
いつぞやのスカートの両端《りょうはし》を摘《つま》む妙《みょう》なポーズ(はにトラポーズだったっけか?)で、満面《まんめん》の笑みを見せてくれたのだった。
ま、今回も色々とあったが。
こうして、春香との二度目のアキハバラ探索《たんさく》は終わりを告《つ》げることとなった。
ちなみにこれはまったくもって余談《よだん》であるが。
同時刻の白リムジン(秋穂《あきほ》さん所有《しょゆう》)の中では、以下のような会話が繰《く》り広《ひろ》げられていたらしい。
「――あれ? なんか忘《わす》れてる気しない、お母さん」
「忘れていること? あらあら、何かあったかしら?」
「んー、何かが引っかかるってゆうか、旅行に行った時に飼ってる金魚にエサをあげるのを忘れてきた気分ってゆうか〜……」
「気のせいではないですか〜? 忘れ物などないと思いますけど〜」
「……ありません」
「ん、そかな? うん、でも葉月《はづき》さんたちもそうゆうんならそうなんだろうね。あ、そうだ葉月さん、今日の夕ご飯ってなに?」
「……今夜はイカスミパスタです。他には付け合せとしてムール貝の酒蒸《さかむ》しなどが――」
「ほんと? わ〜、あれおいし〜んだよね。楽しみ〜」
「腕《うで》によりをかけて作らせてもらいますよ〜」
そのまま、会話はその日の夕食の内容へと移行《いこう》した。
そしてアキハバラの路上《ろじょう》では、
「む……ここはどこだ? なぜ私はこんなところで寝《ね》て……」
家族どころか仕《つか》えているメイドさんたちにまですっかり忘れ去られていた春香《はるか》父《ちち》が、一人でそんなことをつぶやいていたという。
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周《まわ》りの景色《けしき》が日に日に秋めいてくるのに比例して最低気温が下がっていき、それに従《したが》い巷《ちまた》の生物(トカゲとかツキノワグマとか寒さに弱いどこぞのアホ姉とか)が次第《しだい》に精力《せいりょく》を失くしていく十一月、学園内は目前《もくぜん》に迫《せま》ってきた学園祭へと向けてにわかに活気付き始めていた。
「おーい、そっちのクギ取ってくれ」
「これってこの角度《かくど》で大丈夫《だいじょうぶ》だよな?」
響《ひび》く呼《よ》び声《ごえ》と、トンカンと鳴《な》るトンカチの音。
昼休みや放課後になるとあちこちのクラスで準備《じゅんび》作業《さぎょう》が行われ、教室や廊下ではやたらとハデな色をしたカンバンやらハリボテやらがその辺に転《ころ》がっているのが見られるようになった。
グラウンドではどこぞのぼったくりバーの店員のような呼び込みの発声練習が行われ、屋上《おくじょう》には作りかけの巨大な垂《た》れ幕《まく》がビニールシートの上に置かれている。
発情期の前の動物園のような、どこかそわそわとした空気。
うちのクラス(二年一組)でもそれは例外ではなかった。
出し物である『コスプレ喫茶《きっさ》マージナル・シンフォニー』の達成《たっせい》に向けて、紅茶の掩《い》れ方《かた》やクレープの作り方、『COSPAジーストア・アキバ店』で買ってきた数点の見本を基《もと》にしての衣装《いしょう》の作成(なぜか信長《のぶなが》が陣頭《じんとう》指揮《しき》)などが、日々|交代《こうたい》で行われていた。
「うんうん、クラス全体が身も心もひとつになってドッキングしちゃったみたいなこの雰囲気《ふんいき》、楽しそうでいいわね〜。おねいさんもほ〜んの少し前には花も恥じらう女子高生で、これと同じ空気の中にいたのにな〜」
準備光景を眺《なが》めながら副担任たるセクハラ音楽教師(女子高生だったのは五年以上前)はそんな極《きわ》めて図々《ずうずう》しいことをのたまっていたが、楽しそうって部分にだけはまあ同意できた。このお祭り前の高揚感《こうようかん》を思わせる雰囲気《ふんいき》は決して悪いもんじゃない。
とはいえ、楽しいことばかりでもなかった。
本番が近づいてくるということはやることが増《ふ》えてくるということであり、やることが増えてくるということは当然それだけ忙《いそが》しくなるということである。
そしてその忙しさの波がタイダルウェイブのごとく最もダイレクトに降りかかってきたのは、文化祭実行委員である俺たち(椎菜《しいな》と俺)だった。
毎日のように行われる委員会の集まり。
クラスメイトたちからの質問、作業の進行|監督《かんとく》。
予算の調整や細かい雑事《ざつじ》の遂行《すいこう》。
それはほとんど息《いき》をつくヒマもないほどの働きアリのようなスケジュールで、体力が真冬のキリギリス並《な》み(極小《ごくしょう》)の俺には少々しんどいものがあったりもした。
特に慣《な》れない最初の内などはよほどひどい顔をしていたらしく、
「なんか裕人《ゆうと》、雑木《ぞうき》林《ばやし》の奥にある腐葉土《ふようど》(カブトムシの幼虫付き)みたいな顔色だね……」
などと椎菜《しいな》に言われたこともあった。それってほとんど土に還《かえ》る寸前《すんぜん》ってことなんだが、確《たし》かにそんな顔をしていた時もあったかもしれん。それくらい大変《たいへん》だったんだよ。
ただ、実行委員の仕事それ自体はけっこう面白《おもしろ》かった。
常に前向きな椎菜といっしょに文化祭を盛《も》り上《あ》げていくのは楽しかったし、クラスで一つになって何かに向かっていくというのがそもそも俺にとって初めての経験だった。中学時代は基本的に文化祭という行事自体がなく、去年のクラスは根本的にやる気がなく、男女別好きな昆虫ランキングだったかそんな実にどうでもいいアンケートを適当《てきとう》にでっち上げて教室一面の壁《かべ》に張り出しただけだったしな。
なので現状の忙《いそが》しい毎日も、まあ悪くないと言ってもいい。というか気に入っているといってもいいくらいだ。
ただ、一つだけ問題というか不満《ふまん》があるとすれば――
「――あの、裕人さん」
ある日の昼休み。
四時間目の授業で使われた世界史の教科書を片付けていたところを春香《はるか》に声をかけられ、俺は寝起きのカバのように顔を上げた。
「お、春香。どうしたんだ?」
「あ、えと……」
「?」
俺の言葉《ことば》に春香は少しもじもじとして、
「え、えと、よろしかったら久しぶりにいっしょにお昼を食べませんか?」
かわいらしくそんなことを言った。
「昼メシって、俺とか?」
「はい、あの、少しお弁当を作りすぎてしまって……」
重箱《じゅうばこ》(推定《すいてい》)の入った包《つつ》みをおずおずと差し出してくる。
「ど、どうでしょう。よろしければまた中庭とかでごいっしょに……」
「おお、いいな――」
と、言いかけたところであることを思い出した。そうだ、今日はこれから……
「? 裕人さん?」
「あ、ああ。悪い、今日はこれから実行委員会の報告会が入ってたんだ」
毎週月曜日と木曜日の昼休みに行われる文化祭実行委員会の定例報告会。
本来ならそんなもんサクッとサボって春香《はるか》といっしょに幸せランチタイムと洒落《しゃれ》込《こ》みたいところなんだが、それがバレようもんなら次の集まりで他の実行委員たち(|星屑守護親衛隊《インペリアルガード》多し)に精神的、物理的両面で吊《つ》るし上《あ》げを喰《く》らうことは確実《かくじつ》である。さすがにそんなリアルハングドマンな事態《じたい》は避《さ》けたい。椎菜《しいな》にも迷惑《めいわく》がかかるしな。
「あ、そうなのですか……」
しょんぼりとした顔になる春香。
「委員会じゃしかたないですよね……」
「ほんと悪い、せっかく誘ってくれたのに……」
「あ、い、いいんです。裕人《ゆうと》さん、がんばってるんですから」
すぐにムリして明るい表情を作る。う、サンポに行きたいのを必死《ひっし》にガマンする育《そだ》ち盛《ざか》りの仔犬《こいぬ》みたいなその表情に胸《むね》が痛《いた》むな……。こうなったらリスク覚悟《かくご》で信長《のぶなが》に情報|操作《そうさ》でも頼《たの》んで委員会はエスケープしちまおうか――
「裕人ー!」
とそこで、横から声が飛んできた。
真夏の太陽in沖縄みたいに明るく元気な声。
「何してるの裕人。ほら早く行かないと委員会に遅《おく》れちゃうよー」
「あ、おう」
椎菜だった。
すでに完全に支度《したく》を終えて(筆記用具、お弁当、飲み物|装備《そうび》)、教室の入り口付近からぶんぶんと手を振《ふ》っている。
「分かった。今行くからちょっと待ってくれ」
そう答え、春香の方へと向き直る。さすがにこうなっちゃもうサボるのはムリか。
「あー、そういうわけなんだ」
「あ、い、いえ、気にしないでくださいです」
「本当にスマン。この埋《う》め合《あ》わせはきっとするから……」
誠心《せいしん》誠意《せいい》で謝《あやま》っていると、
「……おい、あいつもしかして春香様のほどこしを断《ことわ》りやがったのか?」
何やら、周《まわ》りにいたクラスメイト(親衛隊《しんえいたい》&取《と》り巻《ま》き)どもがそんなことを言い出し始めた。
「たかだか綾瀬《あやせ》の分際《ぶんざい》で、何様のつもりだぁ?」
「サルのくせに勘違《かんちが》いしてんじゃないっつーの」
「………やっぱり、殺《や》ってしまいましょう」
殺気《さっき》とともにどんどんと物騒《ぶっそう》な台詞《せりふ》が飛び出す。
いやお前ら、誘いを受けたら受けたで思いっきり文句《もんく》言いやがるクセに…
「裕人《ゆうと》、ほんとに時間なくなっちゃうってー!」
椎菜《しいな》がぶんぶんと手を振《ふ》って急《せ》かしてくる。
「あ、ああ。それじゃ春香《はるか》、またな――」
殺し屋|組織《そしき》の暗殺《あんさつ》部隊《ぶたい》みたいな視線《しせん》を送ってくる取り巻きどもの方はなるべく見ないようにしながら、椎菜の方へと向かおうとして、
「あ、裕人さん!」
春香に呼び止められた。
「ん?」
何だ?
だが振り返ると春香ははっとしたような表情になって、
「あ、え……な、何でもないです。委員会、がんばってくださいね」
「? あ、ああ」
いったい何なんだろうな?
とはいえ今はそのことに深く突っ込んでいる時間もない。
「じゃあ、俺は行くな」
「は、はい。いってらっしゃいです」
まだどこか物言いたげな春香の表情に後《うし》ろ髪《がみ》どころか後頭部《こうとうぶ》全体を鷲掴《わしづか》みにされつつも、俺は教室の出口へと向かった。
――そう、唯一《ゆいいつ》の不満点とはこれのこと。
実行委員の仕事が忙《いそが》しくて、なかなか春香と話をする時間が取れないことだった。
最近はもうずっとこんな感じで、学園にいる間は委員会の集まりだクラス作業《さぎょう》のチェックだで忙しく落ち着いて昼メシを食うこともできないし、休日は休日で買出しやら自宅作業やらで潰《つぶ》れてしまう。
おかげで、春香とはあのアキハバラに行った日以来ほとんどまともに話せていない。
いやそりゃあ「おはよう」だの「こんにちは」だの「また明日」だのの短いセンテンスくらいは交わしているが、そんなもんは会話とは言えんだろう。ただの挨拶《あいさつ》だ。
せっかく少しずつ春香と仲良くなれてきたところだってのに、この状況《じょうきょう》はいただけないことこの上ない。
うーむ、何とかしたいとは思ってるんだがな……
――などと考えている内に、一週間ほどが経過《けいか》した。
十一月も中旬に差《さ》し掛《か》かったある日の夕方。
「はー、終わったー」
会議室を出た廊下で、隣《となり》の椎菜《しいな》が寝起《ねお》きのネコみたいに、うーんと大きく伸びをした。
「今日も長かったねー。実行委員会って、何で毎回毎回こんなに決めなきゃいけないことがたくさんあるんだろ」
「ああ、ほんとにな」
うなずき返す。
その日も放課後に実行委員会の集まりがあり、各クラスへの予算配分についての質疑《しつぎ》応答《おうとう》から当日の天気予測まで色々とあーだこーだとオーストリア講和《こうわ》会議のごとく話し合った結果《けっか》、お開きになったのは夕方過ぎというかほとんど夜――午後七時を少し回ったところだった。
「それじゃ帰ろっか、裕人《ゆうと》。早くしないと校門が閉まっちゃうし」
「そうだな」
椎菜と二人で昇降口《しょうこうぐち》へと向かい、そのままダラダラと学園を出る。帰り道が途中《とちゅう》まで同じということもあり、委員会があった日はこうして椎菜といっしょに帰るのがほとんど恒例《こうれい》となっていた。
「でね、その時|麻衣《まい》が転《ころ》んじゃってねー」
「ほう」
「大変だったんだよー。棚《たな》の上からカボチャ面の置物とかが落ちてきて……」
日が落ちて真っ暗になった通学路を、椎菜と話しながら進んでいく。
椎菜はよく喋《しゃべ》り話題も豊富《ほうふ》で話していて楽しかったが……頭に浮かぶのはやはり春香《はるか》のことだった。
――また今日もロクに話ができなかったな。
いつかと同じように昼メシに誘ってもらったんだが、昼休みには放課後の委員会で使うプリントのコピーを実行委員長に頼《たの》まれていたため(パシリ)行くことができなかった。事情を説明すると春香はやっぱり笑顔《えがお》で気にしてないと言ってはくれたものの……それでも、せっかくの誘いを断《ことわ》るのはまさに断《だん》直腸《ちょくちょう》の思いだった。
それ以外にも、挨拶《あいさつ》を除《のぞ》きほとんど春香と接触《せっしょく》する時間は取れていない。
もうこれで何日連続で春香と話せてないんだろうな。仕事なんだから仕方ないっちゃ仕方ないとはいえ、やはり憂鬱《ゆううつ》である。
心の中でナウマンゾウの足跡《あしあと》のような大きなため息《いき》を吐いていると、
「――うと、裕人《ゆうと》」
「……あ、え?」
目の前に、いきなり椎菜《しいな》のキレイに整《ととの》った顔があった。
「ど、どうした?」
そのあまりの近さに一瞬《いっしゅん》だけ思わず心臓の不《ふ》随意《ずいい》筋《きん》が妙《みょう》な動きを見せる。
「? どうしたって、それはこっちの台詞《せりふ》だよ。さっきからずっと呼んでるのに。なんか精神だけがどっか異世界にでも行っちゃったみたいな顔してたよ?」
「あ、ああ、スマン」
どうやらマイナススパイラルの思考にずっぽりと没頭《ぼっとう》しちまって、椎菜の話を聞いてなかったらしい。いかんいかん。いくら気がかりだからって、椎菜と二人でいるってのに春香《はるか》のことばかり考えてるのは、それは何でも失礼だな。
気分を少しばかり切り替えて、椎菜の方へと向き直る。
「あー、ほんとに悪い。ちょっと疲《つか》れ気味《ぎみ》でな」
「え、だいじょうぶなの?」
「ああ、大したことない。それでどうしたんだ?」
訊《き》き直《なお》すと椎菜は首を少し傾《かたむ》けて、
「あ、うん。裕人、今からちょっと時間あったりする?」
「今からか? まあ、たぶん大丈夫《だいじょうぶ》だとは思うが……」
現在の時刻は七時十五分。まだそう遅《おそ》くもない時間だ。
急いで家に帰らなければならない用事も特になく、唯一《ゆいいつ》気になることといえばルコの晩メシくらいだが、幸《さいわ》いなことに昨日の夜に作っておいたチキンカレー(やつの大好物)の残りがある。さすがにあれを温《あたた》めるくらいはあの炊飯スキルが両生類|並《な》みに壊滅的《かいめつてき》に退化《たいか》しているダメ姉(二十三歳独身社長秘書)でも何とかなるだろう。
「ほんと? だったらちょっと付き合ってもらってもいいかな。実は欲しいCDがあるんだけ
ど、まだこの辺のお店ってあんまりよく分からなくて……」
「CDか……」
ふむ、確《たし》かに駅前のアーケード街は現市長が選挙に向けての人気取りのために興《おこ》した『幸せ駅前再開発計画』とやらでさして広くない割にムダにゴチャゴチャしてるからな。何だかんだでまだこっちに越してきて一ヶ月|程度《ていど》の椎菜には探《さが》し辛《づら》いかもしれない。
「分かった、いいぞ」
なのでそう答えると、
「やった、さすが裕人! ありがとねっ」
稚菜はその場でぴょんぴょんと飛《と》び跳《は》ねて喜んだ。勢《いきお》いでマフラーとコートの下のスカートがふわりと揺《ゆ》れる。む、美夏《みか》といいこの椎菜《しいな》といい、普段《ふだん》から元気な女子はどうも嬉《うれ》しいことがあるとすぐに活動期のウサギみたいに飛《と》び跳《は》ねる傾向《けいこう》にあるみたいだな。このとかく殺伐《さつばつ》としがちな現代社会にあって感情表現が豊かなのはいいことなんだが、おかげで少しばかり目のやり場に困るっつーか……
まだ跳ねてる椎菜から微妙《びみょう》に目を逸らしつつ俺は訊いた。
「あー、こほん。で、CDって何のCDなんだ? やっぱりクラシックかなんかか?」
趣味《しゅみ》がピアノである以上当然そっち系統《けいとう》のものなのかと思いきや、
「ううん、違《ちが》うよ」
椎菜はあっさりと首を横に振《ふ》った。
「あ、もちろんクラシックも聴くけどね。でも今日買いに行きたいのは違うやつなの。知ってるかな、『Chocolate Rockers』ってグループの『さよならビター・キヤンディ』っていうシングルなんだけど……」
椎菜が挙《あ》げたのは、最近有線なんかでよく流れているアーティストの曲だった。確《たし》かリードヴォーカルがイギリス帰りのハーフの女の人で、一部音楽ファンの間で非常《ひじょう》に人気があるとか。一般的な知名度《ちめいど》こそあまり高くはないが、ポップなメロディーとどことなくうなずける歌詞がなかなかよくて、自分内でも最近赤丸急上昇中の一曲だった。
「ああ、確かにアレはいいよな。なんつーかキャッチーな感じで」
俺がうなずくと椎菜は驚《おどろ》いた顔になって、
「え、裕人も好きなんだ? もしかしてファンとか?」
「まあな。ファンってほどじゃないが、いい曲だとは思う」
「ヘー、なんか嬉《うれ》しいな。同志《どうし》を見つけた気分」
にかっと笑う。
「ねね、裕人って他にどんな音楽聴くの?」
下から俺の顔を眺《なが》めながら、そんなことを訊いてきた。
「ん、別に普通《ふつう》のだと思うぞ。テレビで流れてるのとか映画の主題歌だとか……」
「そうなの? デスメタルとか?」
「……」
……いや普通って言って何で一番初めにそれが出てくるんだ? てかジャンル名に『デス』なんて物騒《ぶっそう》な単語が入ってる時点で、世間一般では普通と言わんだろ。
「えー、いいと思うんだけどな。あたしはキライじゃないよ?」
「や、俺も悪いとは思わんが……」
「落ち込んでる時とかに聴くとすっきりするんだよねー。一撃《いちげさ》必殺《ひっさつ》デストロイ〜って感じで。あはは♪」
「……」
あはは♪ じゃねえだろ。
どうもこのフレンドリー娘の聴く音楽ジャンルは色んな意味でかなり幅広《はばひろ》いみたいだった。
クラシックからデスメタル。まさに音楽界の最左から最右までを網羅《もうら》してる感じだな。
とまあ、そんな話で盛《も》り上《あ》がりながら(?)二人で通学路をテクテクと歩いていき、
やがて駅前のデパートに入っている、この辺《あた》りでは一番|品《しな》揃《ぞろ》えのいいCDショップへと辿《たど》り着《つ》いた。
「へー、こんなところにあったんだ。全然知らなかったよ」
椎菜《しいな》が驚《おどろ》いたように声を上げる。
「まあ、普通《ふつう》分からんからな」
なぜかここのCDショップは全国の特産品物産展とかが行われてる区画と同じフロアにある。予算だの間取りだのの都合《つごう》上《じょう》仕方なかったのかもしれんが、イカ飯の香《かお》り漂《ただよ》うシーフード感たっぷりなフロアでいっしょにCDが売られてるなんてのは、地元民かよほどの柔軟《じゅうなん》な思考《しこう》の持ち主でもなければ分かるまい。
「うーん、まさかこんな辺鄙《へんぴ》なところにCDショップがあるなんて……あ、でもあのイカ飯、美味《おい》しそ」
店頭に並《なら》べられているイカ飯の束《たば》を見て声を上げる椎菜。花より団子《だんご》、CDよりもイカ飯って感じだな……
「んー、いい匂《にお》い。何だか見てるとお腹《なか》が空《す》いてくるっていうか、嬉《うれ》しさのあまり身体がイカ飯分を求めてくるっていうか……」
何か妙《みょう》な引力にでも引き寄せられるように、じ〜っとイカ飯を見つめる椎菜。
「ほら椎菜、CDを買いに来たんだろ」
「う、それはそうだけど」
「気持ちは分かるが今度にしろって。今食べたら夕飯が入らなくなるぞ」
「……むー」
しばらく椎菜はイカ飯相手に睨《にら》めっこを続けていたが、
「……そうだね。ん、分かった………」
やがて諦《あきら》めたのか、すげぇ悲しげにそう言った。「ばいばい、イカ飯……」
「……」
いやそこまで切なそうな顔をせんでも。
しかしいちおう男女二人きりの放課後の寄り道だってのに、真っ先に話題に出てきたのがイカ飯とは、とてもお年頃《としごろ》な高校生同士のやり取りとは思えんね。
で、目的のCDはすぐに見つかった。
「あ、あった、これこれ」
最近話題になっている楽曲を集めたピックアップアーティストのコーナー。
その一番目立つところに置いてあったのが、例の椎菜《しいな》が探《さが》していたCDだった。
「よかった、やっと見つかったよ。これけっこう品薄《しなうす》みたいで、小樽《おたる》のお店だとどこに行っても売り切れててさー」
椎菜が嬉《うれ》しそうに言った。
「このジャケットのデザインがまたいいんだよねー。かわいいっていうかキュートな感じで、つい手に取ってみたくなる雰囲気《ふんいき》があるんだよ」
「へぇ……」
「あ、限定版《げんていばん》も残ってるんだ、わー、すごい!」
そういえば俺もCD自体は持ってなかったんだよな。
椎菜がそこまで言うジャケットとはどんなものかと思い、置いてあったCDに何とはなしに手を伸ばそうとして、
「お……」
「あっ」
たまたま同時にCDを取ろうとしていた椎菜の手と重なった。
少し冷たく、柔《やわら》かい感触《かんしょく》、
「ス、スマン!」
いわゆるカルタなんかにおける嬉し恥《は》ずかしダブルハンド状態《じょうたい》である。
慌《あわ》てて手を離《はな》すと、椎菜は不思議《ふしぎ》そうな顔で俺を見て、
「? 何をそんなに焦《あせ》ってるの? あ、もしかして爪《つめ》とか当たっちゃった?」
「いやそういうわけじゃ……」
「そうなの? じゃ何で?」
きょとんとする椎菜。
「あー、なんつーかな。その、男の俺が曲《まが》りなりにも女子の手を触《さわ》るってのはマズイっつーか……」
言葉《ことば》に詰《つ》まる。
別に何があったってわけじゃないんだが、ただこういったこと(女子との第三種|接近《せっきん》遭遇《そうぐう》)に基本的に慣《な》れてない俺にとっては、これだけでも充分《じゅうぶん》に前頭葉《ぜんとうよう》を刺激《しげき》する事態《じたい》なんだよ。
するとそれを聞いた椎菜は、
「あ、そんなの気にしてたんだ? あはは、別にいいのにー」
そう言ってあっけらかんと笑った。
「そんなのってな……」
いや思春期《ししゅんき》真《ま》っ盛《さか》りな十七歳高校生にとってはそれなりに問題になることだと思うんだが。
「うーん、そりゃあだれにだって触られてもいいっでもんじゃないとは思うよ? でも相手が裕人《ゆうと》ならあたしは別に気にならないかなー」
「え?」
「触《さわ》られてもイヤじゃないっていうか、別にいくら触ってくれてもいいって感じ? えいっ」
「お、おい」
「ほらほら♪」
俺の手を取って自分の手に触らせながら椎菜《しいな》がにひひ、と笑う。
「ね、こんなの大したことじゃないでしょ? だから裕人《ゆうと》もあんまり気にしない気にしない♪ ――じゃ、とりあえずCD買ってきちゃうからちょっと待っててね」
「お……」
「行ってきまーす」
そう明るく笑って、椎菜はCDを手にレジへと走っていってしまった。
後に残されたのは、いまだに混乱《こんらん》状態《じょうたい》の俺。
「……分からん」
いったい椎菜は何がやりたかったんだ?
美夏《みか》といいこの椎菜といい、フレンドリーな女子の考えってのはほんとによく分からんね。
なんかすげぇ疲《つか》れた気分だったので、椎菜を待っている間、同じフロアにある休憩《きゅうけい》用《よう》のベンチで休んでいることにした。
「どっこいせっと……」
我ながらオヤジなかけ声とともにベンチに腰《こし》を下ろす。プラスチック製の安物ベンチはお世辞《せじ》にも座《すわ》り心地《ごこち》がいいとは言えなかったが、肉体的にも精神的にも色んな意味で疲れが溜まりまくっている身体にはこの際《さい》もう何でもよかった。
「ふぅ……」
残業帰りのお父さんのごとく沈《しず》み込《こ》むようにベンチに体重を預《あず》けていると、
「……」
「……」
「……ん?」
いつからいたんだろうな。ベンチのすぐ近く、自動販売機の横からなんか二、三歳くらいの小さな男の子がじっとこっちを見ているのに気付いた。こんな時間にこんなところに一人でいるような歳じゃないな。迷子《まいご》か何かか?
「どうしたんだ?」
「……」
気になって声をかけてみるも、男の子は武装《ぶそう》した木星人にでも話しかけられたような顔で黙《だま》ったままじーっとこっちを見るだけである。
「一人なのか? お母さんかお父さんはいっしょじゃないのか?」
「まま?」
「そうだ、ママは……」
「まま……」
そう言ったところで、男の子の目にぶわっと大粒《おおつぶ》の涙《なみだ》が浮《う》かんだ。
「まま、どこ……?」
「げ」
「まま〜……まま〜、うえええええんん〜!」
どうもやぶヘビだったようだ。「ママ」の言葉《ことば》に反応《はんのう》して、男の子はいきなり火の点《つ》いたゴマ油のように泣き出した。
「ちょ、こら、泣くなって」
「うえええええんん〜!」
慌《あわ》てて駆《か》け寄《よ》るも泣き止まない。その場に立ち尽くしたまま、大声を上げるだけである。
「まいったな……そ、そうだ、今から面白《おもしろ》いことするから、見てろよ。――ほ、ほら、いないいないヴァーヴァリアン」
何とか泣き止ませようと、アホ姉とその親友に仕込まれた宴会用の一発芸《いっぱつげい》をするものの、
「う、うわああああああんんん!!」
思いっきり逆効果《ぎゃくこうか》だった。
泣き止むどころか男の子は至近《しきん》距離《きょり》でナマハゲでも見たかのような勢《いきお》いで狂《くる》ったように泣《な》き叫《さけ》びだした。う、そんなに俺の顔は子供受けしないのか? ちょっとショックだ……
「じゃ、じゃあこれはどうだ、あっち向いてホルスタイン乳牛」
「わぁぁぁぁあんん!」
「こ、これは――」
「うぎゃああああああん!」
その後も色々やってみたものの、男の子はまったくもって泣き止む気配を見せずそれどころか今にも殺されんばかりの絶叫《ぜっきょう》を発し始め、しまいにはほとんど半狂乱《はんきょうらん》状態《じょうたい》になっていた。
「うう、どうすりゃいいんだ……?」
子供の扱《あつか》いなどやったことがないからさっぱり分からん。おまけにこの状況は客観的に見れば俺が男の子をいじめてるように見えるらしく、さっきから近くを通る買い物客の毒矢《どくや》(カエル毒)のような視線《しせん》がいてぇし……。
心の底《そこ》から途方《とほう》に暮《く》れる俺に、
「ごめーん。裕人《ゆうと》、待った?」
そんな救《すく》いの声がかけられた。
「遅《おそ》くなってごめんね。やっぱりあのイカ飯がどうしても気になっちゃって、つい買ってきちゃった。ほら、これ。二つ買ってきたから裕人《ゆうと》も食べる――って、何やってるの?」
「し、椎菜《しいな》」
まさに冥府《めいふ》でアフロディテ(右手にイカ飯付き)だった。
「どうしたの、その子? なんか一生のトラウマになるモノでも見たみたいなすごい泣き方してるけど……」
「いいところで戻《もど》ってきてくれた。た、助けてくれ!」
「?」
目の前で泣《な》き叫《さけ》んでる男の子よりもむしろ自分の方が泣きたい気分で、椎菜(右手にイカ飯)に事情を説明すると。
「――ふんふん、なるほど。状況《じょうきょう》から総合するとこの子は迷子《まいご》ってところね」
「あ、ああ、たぶんな」
「そっか……」
いまだすさまじい勢《いきお》いで泣きわめく男の子を見ながら、「ごめん、ちょっとコレよろしく」
椎菜は持っていたイカ飯を俺に手渡《てわた》して、
「ほら、よしよし、男の子でしょ、もう泣かないの」
その場にしゃがみ込んで目線を男の子の高さまで落とし、男の子の頭を優《やさ》しく撫《な》でてあげた。
すると、
「………ぐずっ」
途端《とたん》にそれまでどんな慰《なぐさ》めの言葉《ことば》も受け付けなかった男の子がぴたりと泣き止んだ。む、俺がいくらやってもダメだったのに現金な……
「ん、そ、いい子だぞー。もうだいじょうぶだからねー」
椎菜が笑顔《えがお》で抱き上げると、男の子は首をちょこんとかしげて、
「……まま?」
「え?」
「まま〜♪」
いきなり笑顔になって自分から抱《だ》きついていった。
「あ、こら、あんまり動かないの」
「や〜らかい……ままとおんなじ……」
椎菜の胸《むね》の辺《あた》りに顔をうずめて、気持ち良さそうに男の子は声を出し、
「ちょ、ちょっと、くすぐったいってば」
「おっぱい〜」
さらには両手でえぐり込むようにして椎菜の胸を触《さわ》りまくる。むう、何て羨《うらや》ましい……じゃねえ、何て天真欄穫《てんしんらんまん》な……
「こ、こら」
椎菜《しいな》が少し照《て》れくさそうな顔になって、
「もう、だーめ。いたずらっ子なんだから」
男の子のおでこをつんと突《つつ》いて、言い聞かせるように笑う。
「う〜……あ」
男の子は少しだけ不満《ふまん》そうな表情を見せたがすぐに笑顔《えがお》に戻《もど》って、
「ぱぱ〜」
「え?」
と、今度は俺の制服の袖《そで》を掴《つか》んでそんなことを言った。
「まま〜、ぱぱ〜♪」
椎菜の胸《むね》の中に(比喩《ひゆ》でなく)すっぽりと収まりながら、にこにこ笑顔で袖を引《ひ》っ張《ぱ》ってくる。
周《まわ》りからは、
「ふふ、かわいー、あの子たち」
「まさか本当にパパとママなのかな?」
「うーん学生結婚か……いいねぇ、青春だねぇ」
「えー、それはあり得ないでしょ。男の方がやたらと甲斐性《かいしょう》のなさそうな顔してるし……」
そんな声が聞こえてくる。余計《よけい》なお世話《せわ》っつーか、見知らぬ他人のことを捕《つか》まえて勝手に甲斐性なしとか言うな。そりゃ昔やったゲーセンの人相《にんそう》占《うらな》いで「合戦《かっせん》で完膚《かんぷ》なきまでに惨敗《ざんぱい》した落《お》ち武者《むしゃ》みたいな相をしてますね」とか言われたりもしたがさ……
「はい、よちよち、いい子にしてましょうねー」
そんな外野《がいや》のささやきなどは気にした様子《ようす》もなく、椎菜《しいな》は優《やさ》しい目で男の子に語りかける。
「そういえばボク、名前はなんていうのかな? お姉ちゃんはね、シイナっていうんだよ」
にしても椎菜、子供をあやす姿《すがた》が実にサマになってるな。母性本能|炸裂《さくれつ》というか、普段《ふだん》の活発|極《きわ》まりない姿からは想像《そうぞう》もつかないほど女の子らしいというか……
「ん、なに?」
「あ、いや」
俺の視線《しせん》に気付いたのか、椎菜が顔を上げた。
「やけに子供の扱《あつか》いに慣《な》れてるなと思って」
「ああ、コレ? うん、あたしは下に妹と弟がいるからね。昔からよくこういうことはやってたの。だから子守りはお手の物って感じかな」
「そうなのか……」
ならこの手慣れたあやしっぷりにも納得《なっとく》がいくな。いわゆる長年の経験《けいけん》ってやつか。
それからしばらく、椎菜と二人で男の子の相手をして、
やがて男の子の母親は見つかった。
何でも買い物をしていてちょっと目を離《はな》した隙《すき》に、迷子《まいご》になってしまったらしい。
「ほ、本当にありがとうございました。何とお礼を言ったらいいのか……」
男の子を胸《むね》に抱《だ》き締《し》めた母親が深々と頭を下げてくる。
「あ、いえ」
「あたしたち、別に大したことはしてませんから」
何度もぺこぺこと頭を下げる母親の腕《うで》の中で男の子は、
「ばいばい、まま、ぱぱ〜」
「こら、お姉ちゃん、お兄ちゃんでしょ」
「ううん、ままとぱぱなの〜」
男の子は最後まで俺たちのことをママとパパと呼《よ》び続《つづ》けていた。
「ふふ、かわいかったね」
男の子が見えなくなるまで手を振《ふ》って、椎菜が優しく目を細めた。
「あたし、子供って大好きなんだー。かわいいし素直《すなお》だし、将来結婚したら絶対《ぜったい》に子供は欲しいって思ってるの。男の子と女の子、二人ずつくらいがいいなー」
「ふむ……」
確《たし》かに、椎菜ならいいママになれるだろうな。
「さ、それじゃそろそろ行こうか。あ、でもその前にイカ飯を食べちゃわないと。冷めるとおいしくないもんね。裕人《ゆうと》も食べるでしょ?」
「え、まあ……」
くれるんならもらうが。
「はい、じゃあこっちは裕人の分ね。いただきまーす♪」
すげぇ活《い》き活《い》きとした顔でイカ飯を食べ始める。
「うん、おいしい♪ やっぱりイカ飯といえば北海道産だよね。あー、幸せ」
「……」
にしても、さっきまでは母性本能|炸裂《さくれつ》かと思えば今度は食欲|爆発《ばくはつ》か。なんかギャップがすげえな。
結局《けっきょく》そのまま二人で微妙《びみょう》に冷めかけたイカ飯を食べ、その日は別れたのだった。
それからさらに一週間が過《す》ぎた。
やはり相変わらず春香《はるか》とはまともな会話ができないまま時間ばかりが湯水のごとくバチャバチャと過ぎていく中、いよいよ文化祭当日までのタイムリミットも残り十日を切り、コスプレ喫茶《きっさ》『マ−ジナル・シンフォニー』の準備《じゅんび》は最終段階へと移ろうとしていた。
ちなみに『マージナル・シンフォニー』とは、この喫茶店を作る上でベースとなった『はにかみトライアングル1st 』において主人公の『ドジっ娘アキちゃん』が使っている魔法《まほう》工房《こうぼう》の名前らしい。もちろん名付け親及びトータルプロデュースは信長《のぶなが》である。その際《さい》、訊《き》いてもいないのに嬉々《きき》として俺に『はにかみトライアングル1st 』の内容を語《かた》ってくれやがったこと(それも三時間ほどかけてじっくりと)も余談《よだん》として付け加えておこう。
「あ、そこの飾《かざ》りつけはもう少し上にして。あ、そっちはもっと右がいいかな。それで――」
椎菜《しいな》の声が放課後の教室に響《ひび》き渡《わた》る。
現在のところ、一番進行が遅《おく》れているのは、椎菜が中心となって行っている喫茶店の内装《ないそう》作業《さぎょう》だった。
手本とされているものが魔法工房ということで、内装はかなり凝られたものになる予定になっている。例《たと》えばメニューの一つである『恋のドジっ娘|媚薬《びやく》スープ』を入れておくのに使う鍋《なべ》は魔女が使うような巨大な釜《かま》だし、店内に飾られる照明《しょうめい》はアンティークを模した古びたランプだ。教室全体は工房の中をイメージして中世風の飾り付けがされることになっている。
これらの過剰《かじょう》なこだわりは、できる限りオリジナルの世界に近付けんがために信長のアホが提唱《ていしょう》し、クラスの賛成を(強引《ごういん》に)得《え》たものだった。
「うん、そう。そっちの色合いはくすんだ感じで……」
「よう、進み具合はどうだ?」
忙《いそが》しそうに作業《さぎょう》をしている椎菜《しいな》に声をかける。
「あ、裕人《ゆうと》。うーん、まずまず、かな」
こちらに気付くと、椎菜は少し苦笑《くしょう》気味《ぎみ》にそう答えた。
「このままだとかなりぎりぎりかも。この大釜《おおがま》がけっこう難《むずか》しくて――」
現在作成中らしい魔女《まじょ》の大釜を見ながら言う。
「そうか……」
まあ見た目ほとんど五右衛門《ごえもん》風呂《ぶろ》みたいなコレは、見るからに大変《たいへん》そうである。鍋《なべ》というかほとんどドラム缶を作ってるようなもんだからな。
作りかけの大釜をまじまじと見ていると、椎菜が少しすまなそうな顔で、
「ごめんね、裕人」
いきなりそんなことを言った。
「え?」
「あたしがこっちにかかりっきりになっちゃったから、全体の作業進行のチェックはけっこう裕人|任《まか》せになってるでしょ? ほんとはもっと早くこっちを仕上げて、あたしもそっちに移《うつ》る予定だったんだけど……」
「ああ……」
何かと思えばそういうことか。
「いいさ。気にするなって。それだけ椎菜ががんばってる証拠《しょうこ》だろ」
「でも……」
「それにその分、俺には専任の仕事はないわけだしな。お互い様だ」
「裕人……」
結局《けっきょく》、忙しさの配分《はいぶん》はそうそう変わるもんでもないってことである。というかこれでもまだ椎菜の方が忙しいくらいかもしれない。
「ま、そういうわけだ。とにかく、がんばれよ」
「うん、ありがとっ」
元気に答えた椎菜にうなずき返し、他の作業を見て回ることにした。
椎菜たちの内装《ないそう》組《ぐみ》の他に、衣装《いしょう》作りをメインとするグループと紅茶の淹《い》れ方《かた》やクレープの作り方をメインとするグループとがある。これらのグループはどちらも作業に道具を必要《ひつよう》とするため、教室外で作業を行っているのだ。
まずは衣装組の方から顔を出してみることにする。
衣装組の活動場所は、ミシンなどが使用できるという理由《りゆう》から家庭科室だった。
「うーん、そうだなー。そこの恵魔《あくま》の羽根《はね》はもう五センチ上に付けた方がいいかなー」
「え、こうかな?」
「違《ちが》う違うー! それだと今度はシッポの角度がずれちゃうんだよー。羽根とシッポとツノの三者のバランスの黄金率《おうごんりつ》こそが悪魔《あくま》っ娘《こ》のメグちゃんを彩《いろど》る最高のコンビネーションなんだからー」
「そ、そう言われても……」
ちなみに先頭《せんとう》に立ってワケノワカランことを言いながらクラスの女子を指導《しどう》しているのは信長《のぶなが》のアホ(隣《となり》のクラス)である。まあ人格的には多分に問題があるが、こういった方面の知識がムダに豊富《ほうふ》で手先が意外に器用なことに加えて、何よりも本人がいたくやる気だったため任《まか》せたのだった。
「調子はどうだ、信長?」
周《まわ》りに細かい指示を出しながら自らも目にも留《と》まらぬ速さで縫製《ほうせい》をしていくいまだ底の見えない十年末の劫《おさな》馴染《なじ》み(どこでこんな技術を身に付けたんだ?)に尋《たず》ねる。
「うーん、いまいちかな−。みんなコスプレの何たるかが分かってないよー。コスプレ衣装《いしょう》っていうのはただの糸と布の集合体じゃなくて、作る際《さい》にはそのオリキャラに対する愛とリスペクトが絶対《ぜったい》に必要《ひつよう》でねー」
「……」
「でもそれだけでもだめなんだよー。愛とリスペクトによってオリキャラの基本形を忠実《ちゅうじつ》に再現《さいげん》しつつも、部分部分で微妙《びみょう》にずらしていくことによってそこに表現者の意思《いし》ってものが表れてー……」
「……まあ、がんばってくれ」
言ってることは相変わらずさっぱり意味不明だが、とりあえず仕事の進行度合いとしては一番進んでいるグループであるため、特に突っ込むことなく家庭科室を後にした。
「さて、あとは――」
最後に向かうのは、理科室である。
ここでは、紅茶を淹れたりクレープを作ったりする調理関係のグループが作業《さぎょう》を行っていた。
「あ、えとですね、紅茶の美味《おい》しい淹れ方のコツとしては、お湯をポットに持っていくのではなくポットの方をお湯のところに持っていくんです。これはお湯を冷まさないためなんですけど意外に効果的《こうかてき》で……」
「ヘー、そうなんだ。でも考えてみればそうかも」
「すごいねー、紅茶なんてペットボトルでしか飲んだことなかったから、そんなの全然知らなかったよ」
「さすが乃木坂《のぎざか》さんって感じだわー」
「あ、い、いえ、そんな大したことでは……」
中心となっているのは春香《はるか》や朝比奈《あさひな》さんなどを始めとした女子勢。和気藹々《わきあいあい》とした雰囲気《ふんいき》で、楽しげに作業をしている。
「あとは、種類によって葉が開く最適《さいてき》の温度があるんです。それによってもだいぶ味が変わってきます。簡単《かんたん》にレシピ表にまとめておきましたので、よかったら参考にしてみてくださいね」
「わー、イラスト入りなんだ」
「すっごいかわいいよね、このイエティ」
「うん、雪男のクセに頭から煮えたぎる溶岩《ようがん》を被《かぶ》ってるのもまたチャーミングっていうか」
きゃあきゃあと騒《さわ》ぐ女子たちの横で、
「え? いえてぃ? 紅茶を飲んでるマルチーズなんですが……」
春香《はるか》は一人で不思議《ふしぎ》そうに首をひねっていた。
「……」
まあイラストの妖怪《ようかい》っぷりは相変わらずみたいだが、それが紅茶の出来《でき》に影響《えいきょう》を及《およ》ぼすことはなさそうなので、ここは何もなかったことにしてさらりと流しておこう(ことなかれ主義)。
レシピ表を手にハテナマークを浮かべている春香に、
「ごくろうさん。順調に進んでるみたいだな」
と声をかけると「え?」と小さな声を上げてこっちを振《ふ》り返《かえ》り、
「あ、裕人《ゆうと》さん。お疲《つか》れさまです」
ぺこりと頭を下げてくる。
「えと、見回りですか?」
「ああ、そんなところだ」
少し違《ちが》うが、まあ似たようなもんだろう。
「それよりその紅茶、春香が淹《い》れたのか?」
実験机の上で香ばしい湯気《ゆげ》を上げるカップを指差して尋《たず》ねた。
「あ、はい。そうですが……」
「やっぱりそうか。すげぇウマそうだ。さすが春香だな」
そう言うと、春香は照《て》れたように
「そ、そんな、私はただ普通《ふつう》に淹れただけで……あ、そ、そうです、良かったら裕人さんも飲んでいかれますか?」
「お、いいのか?」
「はい。ちょうど今から色々な種類の葉で試《ため》してみようとしていたところなんです」
それは嬉《うれ》しい申し出だった。
他のグループは一通り見終わったし、少しくらいならここでのんびりしていても大丈夫《だいじようぶ》だろう。久しぶりに春香とゆっくり話せるかもしれんし。
「だったらごちそうになるかな」
俺がうなずくと春香はぱっと笑顔《えがお》になって、
「それじゃ淹れますね。アッサムとアールグレイ、どちらがいいですか?」
「ああ、んじゃそっちのリトルグレイとかいうので……」
「はい、アールグレイですね」
うきうき顔でティーポットを手に取ったところで、
『ピンポロパロペ〜ン♪』
と、壁《かべ》に取り付けてある呼《よ》び出《だ》し用のスピーカーからそんな愉快《ゆかい》な音が鳴《な》り響《ひび》いた。
続いて、
『生徒の呼び出しをいたします。高等部二年一組の綾瀬《あやせ》裕人《ゆうと》くん。ご家族の綾瀬ルコさんからお電話が入っています。至急《しきゅう》職員室まで来てください。繰《く》り返《かえ》します。高等部二年一組の綾瀬裕人くん――』
「……」
「……」
何て間のわりぃ……
あまりのタイミングに、思わず何も聞かなかったことにしたくなる。
しかも呼び出しの相手があのアホ姉ってのがまた憂鬱《ゆううつ》もいいところだった。どうせ大した用事じゃないんだろうからムシしちまいたいところだが……いちおう学園に提出《ていしゅつ》した書類の家族氏名|欄《らん》に書かれている身内の一人であるためそういうわけにもいかないのが辛《つら》いところだ。
「……悪い。そういうことになっちまった」
「あ、いえ……」
そう告《つ》げると春香《はるか》は一瞬《いっしゅん》だけ目を伏《ふ》せたがすぐに顔を上げ、
「ル、ルコさんからのご連絡なんですから、しかたないです。わざわざ学園にまで電話をかけてくるなんて、きっと大事な用なんだと思います。早く行ってあげてください」
「ああ、紅茶はまた今度飲ませてくれ」
「はいです、ぜひ」
「それじゃ」
ふるふると小さく手を振《ふ》る春香に手を振り返し、俺は職員室へと向かった。
……なんつーか、本当にツイてないね。
ちなみに、ルコからの電話の内容は以下のようなものだった。
『今日は私は帰りが少し遅《おそ》くなる。なので九時からやる「大江戸|人《ひと》斬り列伝《れつでん》〜今宵《こよい》も刀は血に染《そ》まり〜」の録画をしておけ。「人斬り」と書いてあるテープに標準《ひょうじゅん》で録《と》っておけばいい。ああ、CMカットも忘《わす》れるなよ。分かったな?』
「……」
予想《よそう》通りにロクでもないっつーか、そんなもんメールで送るか由香里《ゆかり》さんでも経由《けいゆ》して伝《つた》えろって話である。
こんなことのために春香《はるか》との久しぶりの会話の機会《きかい》を潰《つぶ》されたのかと思うと一瞬《いっしゅん》だけ裏番組の『趣味《しゅみ》講座《こうざ》・楽しいキックベース第一回〜ボールと友達になろう〜』を録画してやりたい衝動《しょうどう》に心の底《そこ》から駆《か》られたが、それをやると俺の生命自体がサルに潰されるノミのごとくプチッと潰される恐《おそ》れがあったため、泣く泣く諦《あきら》めて言われた通りに録画をした。……ちくしょう。
それからも色々と忙《いそが》しい毎日が続いた。
実行委員としての仕事、コスプレ喫茶《きっさ》の準備《じゅんび》、その他の雑事《ざつじ》。
次から次へとやることが積み重なってきて、息《いき》をつくヒマもない。
その間、やはり春香とゆっくり話をする機会は持てないまま、時間ばかりが過《す》ぎていった。
たまたま俺の時間が空《あ》いた時にいっしょに帰らないかと誘《さそ》ってみたりもしたんだが、その時は春香の方にどうしても外《はず》せない用事があるとのことで無理《むり》だった。何でもいつかのポリープ先生とやらとの再会食の予定が入ってたらしい。
うーむ、これは本気で何かを考えねばマズイかもしれん。何せ見事《みごと》なまでに行動予定がかみ合ってない。星の巡《めぐ》りが悪いっつーか天中殺《てんちゅうさつ》っつーか……。この調子《ちょうし》だと、ヘタをすりゃあせっかくの文化祭当日ですら何かのアクシデントで春香と楽しく過ごせないなんてことも可能性《かのうせい》としては有《あ》り得《う》る。フォークダンスの約束《やくそく》までしたってのに、そんな事態《じたい》は絶対《ぜったい》に避《さ》けたい。
よーし。
こうなったらここは「なせばなる、なさねばならぬ」の精神だ!
何事も絶対にうまく行かせる気てやればきっと成功するに違《ちが》いない――
――などと二百年前の武士《もののふ》のような気合を入れてみたものの、それだけで何とかなるほど現代物質社会は甘いものではなく。
確《かく》たる解決《かいけつ》策《さく》は見つからぬまま、やはり春香とは話ができないままさらに日にちだけが過ぎていき。
そして文化祭を二日後に控《ひか》えた金曜日。
「ただいま……」
その日も夕方まで実行委員の話し合いがあり、精神的にも肉体的にもクタクタに疲《つか》れた状熊《じょうたい》で家へと帰り着き、自室のドアを開けた俺を迎えてくれたのは。
「あ、遅《おそ》かったね、おに〜さん」
「紅茶とコーヒーのどちらをお飲みになられますか〜?」
「……お帰りなさいませ」
「……」
笑みを浮かべながら紅茶のカップを掲《かか》げる、かしましツインテール娘とにこにこメイドさんと無口メイド長さんだった。
七畳ほどの広さの俺の部屋《へや》は、現在|突然《とつぜん》の訪問者《ほうもんしゃ》たちにより少しばかり人口|過密《かみつ》状態《じょうたい》に陥《おちい》っていた。
「へ〜、ここがおにーさんの部屋なんだ。前にお鍋《なべ》パーティーで泊まった時には見せてもらえなかったけど、意外にきれいにしてるんだね〜。男の子の部屋ってもっとゴミゴミしてるのかと思ってたよ」
「ええ、よく片付いている方ですよ〜。十分に合格点をあげられますね〜」
「……花丸です」
お茶を飲みながら楽しげに笑い合う三人。完全にくつろぎきっている様子《ようす》である。
「……で、何でいるんだ?」
一通り人の部屋に対する評価《ひょうか》を言い終えた美夏《みか》たちに、尋《たず》ねる。
「え、何でって、沙羅《さら》さんの黒《くろ》真珠《しんじゅ》≠ナ来たんだよ。うちから二十分くらいだったかな。あ、ちなみに黒真珠≠チてゆうのはおに〜さんも前に乗った車のことだから」
「……そういうことじゃなくてだな」
何だってこの三人(美夏、葉月《はづき》さん、那波《ななみ》さん)がここ(俺の部屋)にいやがるんだってことである。むう、なんか少し前にも同じような会話をした記憶《きおく》があるな。
「だいじょうぶですよ〜、裕人《ゆうと》様がベッドの下や机の引き出しの奥に隠《かく》しているものについては春香《はるか》様にはナイショにしておきますから〜」
「…………知らぬが仏」
「お、おに〜さんも何だかんだ言ってやっぱり男の子なんだよね〜。あ、あんなのやこんなのまで……」
「……」
三者三様《さんしゃさんよう》に好《す》き放題《ほうだい》なことを言いやがる。いや人がいない間に何勝手に家捜《やさが》ししてやがるんですか……
「……てか遊びに来ただけなら帰ってくれ」
思い切り冷たい目でそう言ってやると、美夏は腰に両手を当てて、
「もー、おに〜さんつれないな〜。おに〜さんたちの危機を見かねてかわいい美夏ちゃんたちが助けに来てあげたのに〜」
そんなことを言った。
「……危機?」
「そ。最近おに〜さんとお姉ちゃん、あんまり会えてないんでしょ? どことなくすれ違《ちが》い気味《ぎみ》ってゆうか。だからわたしたちがアドバイスをしてあげようと思ってさ〜。お姉ちゃんも寂《さび》しがってたし」
「寂しがってるって……春香《はるか》がか?」
「うん、口には出してないけどね。でも毎日おに〜さんからもらったオルゴールを見ながらため息《いき》を吐《つ》いてたり、おに〜さんの話が出る度《たび》にいちいち反応《はんのう》してたりしたら、いやでも分かるって」
「……」
……そうか。
やっぱり春香にも寂しい思いをさせちまってるんだな。
「おに〜さんもだめだよ。せっかくお姉ちゃんが勇気を出してお昼ご飯に誘《さそ》ったってのに、クラスメイトでお友達で同じ文化祭実行委員の天宮《あまみや》さんに委員会の集まりに呼ばれたくらいで簡単《かんたん》に諦《あきら》めちゃ。そういう時には全てを投げ打ってでも最優先《さいゆうせん》でお姉ちゃんの方に行ってあげるべきなの。女はいつだって男の子が自分だけを選んでくれるのを待ってるんだよ?」
ずい、と顔を寄せてくる美夏《みか》。また表現はムダに大げさだが、言ってること自体は非常《ひじょう》に耳に痛《いた》い。
「分かってるの、おに〜さん?」
「あ、ああ、それについては悪かったと思ってるが――ん?」
と、そこで気付いた。
……って、何で美夏たちがそのこと(昼飯の一件)を知ってやがるんだ? それも超具体的に。春香は口に出してないって言ってたのに……
俺の表情から言いたいことを察《さっ》したのか、
「ふっふっふっ、おに〜さん、わたしたちをなめちゃだめだよ」
美夏は人さし指をちっちっと振《ふ》りながら不敵《ふてき》に笑った。
「敵《てき》を知り己《おのれ》を知らばこれ百戦《ひゃくせん》危《あや》うからず、ってやつ? おに〜さんとお姉ちゃんのことなら何だって調査《ちょうさ》済《ず》みなんだから♪」
「メイド隊に分からないことなどないのですよ〜」
「……情報収集はご奉仕《ほうし》活動の基本となるものですから」
「……」
だからそれは乃木坂《のぎざか》家《け》メイド隊|限定《げんてい》の基本だろ……などと突っ込んでももはや始まらない。この人たちのメイドスキルを超逸《ちょうえつ》した超スペックについては論議するだけムダだからな……
ため息《いき》を吐《つ》くしかない俺に、美夏はぱちりとウインクをして、
「ま、とにかくそ〜ゆう次第《しだい》でおに〜さんたちの破局《はきょく》のピンチを救《すく》うべくわたしたちが参上《さんじょう》したってわけ。で、その第一段階として――」
そこで大きく息を吸って、
「ぱんぱかぱ〜ん、これより『第一回お姉ちゃんとおに〜さんのすれ違《ちが》いを何とかしよう会議』を開催《かいさい》したいと思いまーす♪」
すげぇ楽しそうにそんなことを言いやがった。
「ぱふ〜ぱふ〜どんど〜ん♪」
「……ぱちぱちぱちぱち」
那波《ななみ》さんと葉月《はづき》さんもそれに口で効果音《こうかおん》を付け足し彩《いろど》りを添《そ》える。なんつーかもうこの時点で、いいからさっさと帰ってくれって気持ちでイッパイだった。
「えーと、これはタイトルから分かるように、おに〜さんとお姉ちゃんの破滅《はめつ》の運命を美夏《みか》ちゃんたちのナイスアイディアで救ってあげようってゆう企画《きかく》です。構想《こうそう》一時間、経費《けいひ》二百十円(税込み)の壮大《そうだい》なプロジェクトなんだから、心して聞かなきやだめだよ?」
「……」
なんかいつの間にか危機のレベルが破局《はきょく》から破滅にランクアップしている上に、「壮大」って言葉《ことば》の意味《いみ》をもう一度辞書で調べてみろと言いたくなるような台詞《せりふ》である。
だが何にせよ、とりあえずここはもう大人しく聞いとくのが無難《ぶなん》だろう。
何を言おうともこのツインテール娘たちは自分たちのやりたいことをやり通すってのは今までの経験から百も承知《しょうち》である。だったらやりたいようにやらせてさっさとお引き取り願うのが賢明《けんめい》だ。
「……分かった。聞くから言ってくれ」
「ん、よしよし。それでこそおに〜さん。素直な男の子はもてるんだよ?」
美夏が満足そうにうなずく。
しかし毎回毎回本当に色んなことを考えるもんだね。
「それじゃすれ違い解消《かいしょう》のための第一|弾《だん》。まずは実技指導でいこっか」
「……実技指導?」
「うん、そだよ♪」
にっこりと美夏が笑う。
いや初《しょ》っ端《ぱな》から、なんかすげぇイヤな予感《よかん》がするんだが……
「え〜とね、すれ違いで離《はな》れた心の距離《きょり》を縮《ちぢ》めるためには何と言っても適切《てきせつ》な場面での適切な対応《たいおう》がなされることが必要《ひつよう》なの。だからいざっていうシチュエーションでちゃんと正しい行動ができるように、身体で覚《おぼ》えとくのが一番。なんてゆうか、条件《じょうけん》反射《はんしゃ》? パブロフのわんこ?」
くるりんと首をひねる美夏。
おそらく言葉は間違《まちが》っちゃいないんだろうが、その例《たと》えに一抹《いちまつ》の不安を感じるのは俺だけだろうか。
「ま、とにかく今からそんな風なのをやるからね。それじゃおに〜さんのためにわたしたちが考えたシチュエ〜ション。じゃ〜ん、名付けて『おに〜さんが文化祭前日に準備《じゅんび》のため夜|遅《おそ》くまで学園に残っていると、そこに差し入れを持ったお姉ちゃんがやって来るシーン』!」
「……」
なんか知らんが、めちゃくちゃ具体的なシーンだな。
「もちろん分かると思うけど、おに〜さんはおに〜さん役ね。で、お姉ちゃん役は、今回は厳選《げんせん》な選考(マジカルバナナ)の結果《けっか》、葉月《はづき》さんにやってもらうことになったから。頼《たの》んだよ、葉月さん♪」
美夏《みか》が楽しげにそう言い、
「……よろしくお願いします」
「……」
なぜかそこには白城の制服を着た[#「白城の制服を着た」に傍点]葉月さんが立っていた。メイド服が制服へとすり替わり、着けていたプリムも春香《はるか》がいつもしているようなカチューシャに変化している。いやどこからそんなもんを入手してきたのかってのもさることながら、この人いつの間に着替えたんだ? 俺の記憶《きおく》が確《たし》かならばほんの三秒くらい前までは見慣《みな》れたメイド服|姿《すがた》だったと思うんだが……
「……企業《きぎょう》秘密《ひみつ》です」
「いやまだ何も言ってないんですが……」
「……企業秘密です」
「だからそうじゃなくて……」
「……企業秘密です」
「……」
とりあえずもうそういうことらしい。そこにこだわると話がまったくもって進まなそうなため、これについての疑問は心の奥底《おくそこ》に漬物《つけもの》のごとく押《お》し込《こ》めることにした。
「さ、それじゃ始めるよ。あ、おに〜さんはそのヘンで適当《てきとう》になんかの作業《さぎょう》でもやってるフリをしてて。んで葉月さんは練習通りこっちにね」
「……」
どこから取り出したのかメガホンを片手に折《お》り畳《たた》みイスに座《すわ》って、てきぱきと指示を出し始める美夏。
「はい、三、二、一、スタ〜ト!」
満面《まんめん》の笑《え》みでそう告《つ》げて。
というわけで、実技|指導《しどう》とやらが始まった。
「ふう、つかれたなあ……」
見慣《みな》れた自分の机に座《すわ》って鉛筆《えんぴつ》削《けず》り(電動)で鉛筆をガリガリやりつつ、俺は適当《てきとう》につぶやいた。
「さっきから居残《いのこ》ってやってるのになかなか仕事が終わらないなあ……腹も減《へ》ってきたし、ここらで差し入れでもあると助かるんだがなあ……」
「は〜い、かっと!」
と、美夏《みか》の声が飛んできた。
「だめだめ、なんかぜんぜんやる気が感じられないよ。動きも死にかけたエゾカッパみたいだし、台詞《せりふ》もいいかげんだし……」
「そう言われてもな……」
いきなり何の説明もなしに実技指導とやらに参加させられた上に具体的な指示《しじ》もなしじゃ、何をすりゃいいんだかさっぱり分からん。
「しっかりしてよおに〜さん。もっとお姉ちゃんへの愛情を前面へ出さなきゃ。そんなんじゃ立派《りっぱ》な役者さんになれないよ?」
「……」
いや、なる気なんてねえし。
「まあまあ、いいじゃないですか〜」
と、そこで那波《ななみ》さん。
「確《たし》かに裕人《ゆうと》様の演技《えんぎ》はだめだめですが〜、桜島《さくらじま》並《な》みの大根《だいこん》役者が監督《かんとく》の手によって立派《りっぱ》な名優へと変わるのを見るのも、また乙《おつ》なものですよ〜」
にこにことそんなことを言う。そういう趣旨《しゅし》じゃないだろ、これは。
「ん〜、そだね。ま、それに大事なのはお姉ちゃんが登場してからだし……。それじゃ続きのシーンでいよいよ本命、お姉ちゃん役の葉月《はづき》さんの登場ね」
美夏がぱちんと指を鳴《な》らすとともに部屋《へや》のドアが開かれ、廊下で待機《たいき》していた葉月さん(制服着用)がしずしずと中に入ってきた。葉月さん(制服着用)は寝起きのニワトリみたいな動きで顔を上げると、
「……裕人様、作業《さぎょう》の進み具合の方はいかがですか?」
ぼそりと無表情のままそうつぶやいた。
「……」
いやキャラが完全に葉月さんのままなんだが……
「ほらおに〜さん、そこでどうしたんだ春香《はるか》、こんな時間に?≠チて言わなきゃ」
美夏がメガホン越《ご》しにそんなことを言ってくる。どうやらそれはスルーするところらしい。……もういいけどな、何でも。
「……どうしたんだ春香、こんな時間に?」
「……裕人様が夜|遅《おそ》くまでがんばってらっしゃると聞いて、差し入れを持ってまいりました。よろしければ受け取ってもらえると――」
「差し入れ?」
「……はい。こちらになります。アンパン(税込み九十円)と牛乳(税込み百二十円)です。どうぞ」
無表情でツブアンと今どき珍《めずら》しいビン入りの牛乳を手渡《てわた》してくる。どうもこれがさっき言ってた経費《けいひ》(税込み二百十円)のようだ。しょぼいな……
「サンキュー、助かる」
礼を言って受け取ると、葉月《はづき》さんは僅《わず》かに目を伏《ふ》せて、
「……いえ、裕人《ゆうと》様のお役に立てればそれはメイドとして無上《むじょう》の幸福です」
「……」
……メイドとか言っちゃってるが、いいのかこれは?
チラリと美夏《みか》の方を見ると、全く気にした様子《ようす》はなく手に持った脚本《きゃくほん》のようなモノをぱらぱらとめくっていた。いいらしいな、どうやら。
「……それでは私はこれで」
制服のスカートの裾《すそ》を両手でちょんと摘《つま》んでぺこりと頭を下げた後(春香|得意《とくい》のはにトラポーズ≠マネしたものと推測《すいそく》される)、葉月さんがくるりと踵《きびす》を返す。
「ああ、また明日な」
それに対して手を振《ふ》ろうとして、
「ちょっと待った〜! かっとかっと〜!」
再《ふたた》び美夏の矢のようなクレームが飛んできた。今度は何だ?
「おに〜さん、そこで黙《だま》って帰しちゃだめじゃん! シチュエーションをよく考えてみようよ? 何のためにお姉ちゃんがわざわざ夜の学園にまで来たと思ってるの」
「何のためって、差し入れを届けるためだろ?」
ていうかあれは春香じゃなくてもはや完全に葉月さん(制服着用)だと思うがな。
すると美夏はぶんぶんと大きくツインテールを振って、
「ちがうちがう、全然ちがうよ〜。差し入れなんてタテマエ、お姉ちゃんはおに〜さんに会うために来たの。それなのに差し入れだけ受け取ってそれでばいばいなんて、ブロントサウルス並みに気が利かないのもいいところだよ〜」
「もらうだけもらってぽい、はいけませんね〜。空気が読めない男は産業|廃棄物《はいきぶつ》か生ゴミですよ〜?」
にっこりメイドさんがにこにこ笑顔《えがお》のまま、研《と》ぎ澄《す》まされた刃《やいば》のような言葉《ことば》を口にする。
「とにかくやり直し。今度はちゃんとやってよ、おに〜さん」
「あ、ああ」
いや何で俺が責《せ》められてるんだ? ひどく不条理《ふじょうり》なものを感じつつも美夏の勢《いきお》いに負けてうなずく。こうなったらもうとことんまで付き合うしかあるまい。
「よろしい。んじゃ葉月《はづき》さん、あの妙《みょう》なポーズのところから始めて」
「……分かりました」
無口メイド長さんはこくりとうなずくと、
「……それでは私はこれで」
先ほどの台詞《せりふ》をリピートして、再《ふたた》びスカートの裾《すそ》をちょんと摘《つま》んだ。
「はい、おに〜さんはそこで引き止める!」
「あ、あー、良かったらいっしょに牛乳でも飲んでいかないか? 一人で飲むのには多すぎるんでな」
とっさに口をついて出たのは我ながら頭の悪そうなことこの上ない誘《さそ》い文句《もんく》だったが、
「……はい」
だが葉月さんはそれに素直に答えると、俺の隣《となり》にちょこんと腰を下ろした。
そのまま無言でじっと俺の顔を見つめてくる。
「あー、ええと……」
その雛鳥《ひなどり》みたいな視線《しせん》の意味が分からずに戸惑《とまど》っていると
「おにーさん、牛乳を半分飲んで!」
「は?」
「で、残りの半分をお姉ちゃんにあげるの。今言ったじゃん。いっしょに牛乳飲もうって。お姉ちゃんはそれを待ってるんだよ!」
「なっ……」
ちょっと待て、何だその牛乳プレイは?
「ほら、腰《こし》に手を当てて一気にごきゅごきゅと!」
「春香《はるか》様はお待ちかねです〜」
「……(じ〜)」
二つの有形《ゆうけい》のプレッシャーと一つの無形《むけい》のプレッシャーが三方向から迫《せま》ってくる。う……これはもうやるしか、ない、のか……?
「ほらほら〜、いっき、いっき♪」
「裕人《ゆうと》様〜、男は有言《ゆうげん》実行ですよ〜」
「…………(じ〜)」
「……」
……分かったよ、やればいいんだろ、やれば。
何で半分なのにいっきなのかよく分からんが、もはややらずにすむような空気ではない。
仕方なく十円玉みたいなカタチをしたフタを開けて半分ほど牛乳を飲み干し、残りを葉月さんに渡《わた》す。
「……どうぞ」
「……いただきます」
透明《とうめい》な牛乳ビンを両手で受け取ると、葉月《はづき》さんはこくこくと静かに牛乳を飲み始めた。
「よーし、じゃあここで最後の仕上げだよ、おに〜さん!」
美夏《みか》がメガホンを振《ふ》り上《あ》げて声を張《は》り上《あ》げる。
仕上げって、まだこれ以上何かやらせる気なのか? 正直今の牛乳プレイで俺の精神|疲労《ひろう》ゲージはマックスまで達してるんだが……
「牛乳を飲み終えたお姉ちゃんに向かってこう言うの。お、春香《はるか》。口元に牛乳が付いてるぞ≠チて」
「いや付いてないんだが……」
仔ヤギのように小口で飲んでいたため、葉月さんの唇《くちびる》はきれいな桜色のままである。本物の春香だっておそらく同じだろう。まあ春香がビン牛乳を飲む姿《すがた》ってのもある意味|想像《そうぞう》つかんわけだが。
「も〜、細《こま》かいな〜。そんなのはど〜でもいいの」
美夏がロをへの字にした。
「実際《じっさい》に付いてるか付いてないかなんて大した問題じゃないんだってば。これは今から最後の一撃《いちげき》を加えるための布石《ふせき》に過《す》ぎないんだから。はい、分かったらお、春香。口元に牛乳が付いてるぞ≠閧メ〜と・あふた〜・み〜」
「…………お、春香。口元に牛乳が付いてるぞ=v
もう何も考えずに心を無《む》にして聴覚《ちょうかく》から入ってきた言葉《ことば》をそのまま台詞《せりふ》に変換《へんかん》する。
「……どこにでしょうか? 分からないのですが」
葉月さんがハンカチを取り出し口元を拭《ぬぐ》う仕草《しぐさ》をした。
「はい、おに〜さん、そこで間髪《かんぱつ》いれずに決めの台詞! そうか。だったら拭《ぬぐ》ってやるぞ。――俺の唇で=v
「………‥そうか。だったら拭ってやるぞ。――俺の唇で=c………って、おい!」
何を言わせやがるつもりだ!
公《おおやけ》の場で口にしたら間違《まちが》いなくその場でサツの御用《ごよう》になるだろうクライム風味《ふうみ》溢《あふ》れる台詞に美夏の顔を見ると、
「い〜の。乃木坂《のぎざか》家《け》には『牛乳を飲み終わった後、女子の口に付いた跡《あと》は殿方《とのがた》がその自《みずか》らの唇をもってきれいに拭《ふ》き取《と》らなければならない♪』って家訓《かくん》があるんだから」
「……」
それ、絶対《ぜったい》にここ三日以内くらいに作られた家訓だろ……
「だいじょぶだって。おに〜さんにならやられてもお姉ちゃんは嫌《いや》がらないよ。ほっペに付いたご飯をぱくり、とかする仲だもん♪」
「うふふ、アレは何度見てもいいシーンですよね〜」
美夏《みか》と那波《ななみ》さんがにこやかに笑い合い、
「というわけで、れっつご〜! ちゅっとやっちゃいなよ、ちゅっと」
「ちゅっちゅでも可《か》ですよ〜」
妙《みょう》な擬音《ぎおん》を駆使《くし》してプレッシャーを与えてくるのに加え、
「……お願いします」
葉月《はづき》さん本人までもが真面目《まじめ》な顔でそんなことを言ってきた。
「ちょ、ん、んなこと言われても……」
困る。かなり困る。
どうしていいんだか分からずに混乱《こんらん》する俺の前で、さらに棄月さんは「……」と顔を上げてきた。
目の前にあるのは葉月さんの白く小さな顔。
メガネの向こうにあるその大きな瞳《ひとみ》がすっと閉じられ、そのまま少しずつ近づいてくる。
「……」
い、いや本当にやるのか?
いくら実技|指導《しどう》だからつてこれはやりすぎだろ!? だって唇で唇《くちびる》を拭き取るってのは、その、ストレートにアレするのよりも遥《はる》かにやばいわけであり、なんつーかある意味プレイの領域《りょういき》というか新しい何かに開眼《かいがん》しちまいそうっていうか……
だがそうこう考えている内にも、どんどんと葉月《はづき》さんの顔が迫《せま》ってくる。
そしてその形のいい唇《くちびる》があとピンポン玉一個分くらいの距離まで近づき――
「は〜い、裕《ゆう》く〜ん、こんばんわいん〜♪」
「!?」
いきなりガチャリと開かれたドアの向こうから、セクハラ音楽教師が顔を出した。
すさまじく寒いオヤジギャグとともに現れたこの人は、おそらくいつものごとく晩メシをたかるためにサバンナのブチハイエナのごとくやって来たんだろう。それは別にいい。
「今日のおかずは何かな〜? おねいさんはアンキモの酒蒸《さかむ》しとかが食べたいお年頃《としごろ》――って、あれ?」
そこでようやく、俺の目の前で何かを求めるように顔を上げる葉月さん(制服着用)の存在《そんざい》に気付いたみたいだった。
「……」
「……」
しばしの沈黙《ちんもく》。そして、
「……だいじょうぶ。裕くんにどんな趣味《しゅみ》があっても、おねいさんは見放《みはな》したりしないから」
ぐっと親指を立てて、すげぇいい笑顔《えがお》を見せてくる。
「ご、誤解《ごかい》だ!」
「いいのよ、おねいさんには隠《かく》さなくても。制服&服従《ふくじゅう》プレイは年頃の男の子が一度は通る妄想《もうそう》の道だものね。何て言うの、青春の甘酸《あまず》っぱい通過|儀礼《ぎれい》ってやつかしら?」
「そ、そうじゃなくて……」
何やら妙《みょう》に優《やさ》しい目をしだしたセクハラ苦楽教師に反論する。「は、葉月さんからも何か言ってやってください」
「…………はじめは優しくお顧いします(ぽっ)」
「あ、なっ……」
ま、またそういうややこしいことを……
「ああ、おねいさんの知らないところで、裕くんも大人への階段を二段抜かしくらいで駆《か》け上《のぼ》ってたのね〜。ちょっと寂《さび》しい気分……」
「だ、だからだな……」
「メイドちゃんとの禁断《きんだん》の恋……しかも制服プレイ……若いっていいわね……」
完全に自分の世界に入った由香里《ゆかり》さん。ダメだこりゃ……
すっかりあっちの世界にトリップしちゃったこのセクハラ音楽教師の誤解(妄想《もうそう》)を解くのに、それから一時間ほどかかった。で、その後も何だかんだと美夏《みか》たちの指導《しどう》とやらが続き。
「うん、これくらいやっとけばだいじょぶかな」
「そうですね〜、これならおっけ〜だと思いますよ〜」
「……ばっちりです」
ようやく全てのカリキュラム(?)を終了したのが、夜も十時を回ったくらいだった。
「……やっと終わったか」
思わず安堵《あんど》の息《いき》が口から漏れちまった。
実技指導から始まって筆記試験や口頭|試問《しもん》。
俺が帰宅したのが七時過ぎだから、都合《つごう》三時間近くもこんなワケの分からん騒《さわ》ぎに付き合ってたことになる。いやヒマなんだな、俺も……
「それじゃおに〜さん、時間も遅《おそ》くなってきたし、そろそろわたしたちは帰るね。今日やったことを絶対《ぜったい》に忘《わす》れないためにも三回以上復習してからベッドに入るよ〜に」
「……復習してください」
「あ、いちおう言っておきますと復習ですよ〜? 復讐《ふくしゅう》でも福州《ふくしゅう》でもないですからね〜」
「……」
そんなことは分かってるよ。
心身ともにとことん疲《つか》れきりもはや突っ込む気も起きない俺に、
「んじゃおに〜さん、明日を楽しみにしててね♪」
「ぐっないです、裕人《ゆうと》様〜」
「……良い夢を」
最後になぜか三人で笑い合いながら、美夏たちは帰っていった。
……いや。
ほんとにあの三人、何がやりたかったんだろうね?
そして翌日《よくじつ》になった。
十一月二十六日土曜日。
いよいよ文化祭一日前ということで、教室内では本番に向けて最後の追《お》い込《こ》みが軍隊アリの巣《す》作《づく》りのごとくクラス全員で一丸《いちがん》となって行われていた。
「ちょっと、そっちのベニヤ板を押《お》さえててくれない?」
「だから、そのカボチャはそこに置いといたら危《あぶ》ないって。もっと安定のいいところに置かないと」
「ねえ、ティーポットどこにいったかだれか知ってる?」
クラスメイト達の声が飛《と》び交《か》う。
さらには、
「うん、そうそうー。そこのソデのボタン部分は特に丁寧《ていねい》に仕上げておいてねー。ポイントになるところだからー」
「あ、そのレシピ表はそこに貼《は》ってあります。えと、そのティーコジーはそちら側《がわ》の棚《たな》に入れておいてくださいです」
家庭科室、理科室でそれぞれ作業《さぎょう》をやっていた信長《のぶなが》、春香《はるか》たちのグループも今日に至《いた》っては教室に合流し、教室の各所で様々な最後の詰《つ》め作業を行っていた。
あちこちで行われる共同作業、それに伴《ともな》い飛び交う声。
クラスの一体感は、今や最高潮《さいこうちょう》に達していた。
「うんうん、いいわ〜。いかにも青春って感じね〜。おねいさんもいっしょにこの中に入りたいくらい。きっと制服を着ちゃえば他の子たちと区別が付かないんじゃないかしら、きゃっ♪」
アホな子の副担任はそんなさらに図々《ずうずう》しいを飛び越えてほとんど鋼鉄《こうてつ》面《めん》皮《ぴ》なことをぬけぬけと言いつつ、相変わらずイスに座《すわ》ってぐだぐだと見てるだけだった。まあ実際《じっさい》この人が作業に入ってきても役に立たないどころかむしろ余計《よけい》なこと(セクハラとかセクハラとかセクハラとか)をして足を引《ひ》っ張《ぱ》ることになるのは確実《かくじつ》だろうから、大人しく座っていてくれるのが一番いいんだが。
まあそんな楽しくも騒《さわ》がしい作業時間が続き。
そして、
「はい、お疲《つか》れさまー。これで全作業は終了でーす!」
椎菜《しいな》の声が教室内に響《ひび》き渡《わた》る。
クラスの皆の頑張《がんば》りの甲斐《かい》あって、夕方の五時を迎える頃《ころ》には全ての作業は無事《ぶじ》に終わりを迎えた。
「みんな、ほんとにごくろうさまっ」
歓声《かんせい》と安堵《あんど》の声とに包《つつ》まれるクラスメイトたちに向かって椎菜が言う。
「後は細々《こまごま》とした雑用《ざつよう》と簡単《かんたん》な片付けくらいしか残ってないから、あたしたちだけでだいじょうぶ。今日はゆっくり休んで、明日の本番をがんばろうねっ」
それが解散《かいさん》の言葉《ことば》となった。
「じゃあね、椎菜ちゃん」
「あんまムリしちゃだめだよ?」
「椎菜ちゃん、お疲れさまー」
クラスの皆が椎菜に声をかけながら、使用前→使用後みたいな何かをやり遂げた満足げな顔とともにぱらぱらと教室を出て行く。
そんな中、
「裕人《ゆうと》さん、お疲《つか》れさまです」
「お、春香《はるか》」
帰《かえ》り支度《じたく》を終えた春香が、笑顔《えがお》でとてとてと駆《か》け寄《よ》ってきた。
「いよいよ明日ですね、文化祭。少しどきどきしちゃってます」
にこやかな笑《え》みを浮かべてそう言ってくる。
「そうだな。やっとここまで来たって感じだ」
「長かったですよね。ここ一ヶ月くらいはずっと準備《じゅんび》でしたし……」
春香は少し遠くを見るような目をして、
「でもこすぷれ喫茶《きっさ》=Aとっても楽しみです。これだけみなさんでがんばったんですから、きっとうまくいきますよね」
「ああ、大丈夫《だいじょうぶ》だ」
「はい」
そんなこんなで少し春香と話をする。
今日の作業中の出来事《できごと》や明日の文化祭についての期待《きたい》。
考えてみれば、こうして春香と三分以上まともに話すのはどれくらいぶりだろうな。何だかあの二人でアキハバラに行ったのがずっと昔のことにように感じられる。こういうのを何というんだっけか、ジャネーの法則《ほうそく》? 少し違《ちが》うような気もするな。
ともあれしばらくの間はそんな感じで他愛《たあい》もない立ち話を続けていたのだが。
やがて、
「あ、それでは私はそろそろお暇《いとま》しますね。裕人さん、まだお仕事が残っているんですから、
これ以上引き止めてしまってはご迷惑《めいわく》になってしまいます」
「ん、あー」
名残《なごり》は惜《お》しいがそれはその通りだった。
教室の後片付け自体は大したことはないが、それ以外に俺たちには実行委員会としての仕事が残っている。そっちはそれなりに時間がかかるものばかりだ。
「悪いな」
「いえ、そんなことないです。それよりお仕事、がんばってくださいね。影《かげ》ながら応援《おうえん》していますから」
ぺこりと頭を下げて、来た時と同じようにとてとてとした足取りで春香は教室を出て行った。
「――さて、それじゃあやるか」
春香が応援してくれてることだし、頑張《がんば》らなければなるまい。
椎菜《しいな》の方も、クラスメイトとの会話を終えたのかこっちにやって来て、
「ん、そだね。まずは委員会の仕事から終わらせちゃおっか。たぶんあっちの方が時間かかるだろうし」
「ああ」
うなずき返し、最後の仕事をすべく椎菜《しいな》とともに実行委員会|準備《じゅんび》室《しつ》へと向かった。
実行委員の仕事(主にパシリ)を全て終えて教室に戻ってくる頃《ころ》には、辺《あた》りはもうすっかり真っ暗になっていた。
「案外《あんがい》時間かかったね。もうちょっとラクだと思ったんだけどなー」
椎菜が苦笑《くしょう》を浮《う》かべながら息《いき》を吐《つ》く。
「ああ。でも後は片付けだけだ。さっさと終わらせちまおう」
「うん、りょうかいっ」
暗闇《くらやみ》の中、ほのかなランプの光だけが灯る教室で椎菜と二人片付けを開始する。
すでに全ての作業《さぎょう》が完了した教室の中は、すっかり魔法《まほう》工房《こうぼう》を思わせる雰囲気《ふんいき》になっていた。
辺《あた》りにかけられた暗幕《あんまく》。微《かす》かに光るランプ。様々な工夫《くふう》を凝《こ》らした置物。
それらは一つ一つが互いを引き立て合って、見慣《みな》れた教室を非現実な幻想《げんそう》空間へと変貌《へんぼう》させている。
うむ、自分のクラスながら、なかなかいいデキなんじゃないかと思うぞ、これは。
「うーん……」
と、椎菜が何やら教室の隅《すみ》を見ながらうなっているのに気付いた。
「? どうした?」
尋《たず》ねると椎菜は少し難《むずか》しい顔をして、
「ん、ちょっとこの大釜《おおがま》の底《そこ》がさ。なんか塗装《とそう》が剥《は》がれかかってるように見えて……」
「どこがだ?」
「うん、ここのところ」
大釜の右底辺りを指差す。確《たし》かに言われてみれば少しばかり塗装が剥げているが、よく見なければ分からないようなレベルだ。
「これくらいならいいんじゃないか? そんなに目立つもんでもないし」
「うーん、それはそうなんだけど。でもなんか気になるっていうか……」
大釜を前にして椎菜はしばらく悩《なや》んでいたが、
「――よし、決めた。ちょっと直していくことにする」
やがて大きくうなずいてそう言った。
「椎菜?」
「目立たないっていっても欠陥《けっかん》は欠陥だもん。いちおうこの大釜はあたしが担当《たんとう》したやつだし、それにこのまま放《ほう》って帰ったら余計《よけい》に気になっちゃいそう。やっぱりここまでやったからには、できる限《かぎ》りの最高のモノを作りたいしね」
屈託《くったく》のない顔で明るく笑う。
むう、このフレンドリー娘は本当にどんな時でも前向きでポジティブシンキングだな。ここまではっきりしていると見ていて気持ちいいものがあるね。
「あ、裕人《ゆうと》はもう帰って平気だよ。これはあたしの仕事だから、あたしが何とかするのがスジだもんね」
そう言うと、椎菜《しいな》はくるりと大釜《おおがま》の方に向き直って、
「じゃね、明日もがんばろうね」
「あ、おい」
にっこり笑って一人で塗装《とそう》の準備《じゅんび》を始めた。
「えーと、あそこを塗り直すにはこっちを下にして……」
ペンキを塗るためにハケを片手に大釜を持ち上げようとしているが、重くてうまくバランスが取れないのかやり辛《づら》そうな顔をしている。そりゃあいくら元気でパワフルでエネルギッシュだからって椎菜も女の子だ。こんな五右衛門《ごえもん》風呂《ぶろ》モドキみたいなもんを一人で持ち上げるのは難《むずか》しいだろう。
なので。
「――ほら、ここを持ってればいいのか?」
「裕人?」
後ろから大釜の底《そこ》を支《ささ》えたところ椎菜がすげぇ驚《おどろ》いた顔で見上げてきた。
「……そんな近所の用水路でオオサンショウウオ(天然記念物)でも見たみたいに驚かなくてもいいだろ。俺が手伝ったらそこまでへンか?」
「でも、帰っていいって言ったのに……」
珍《めずら》しく控《ひか》えめな声で椎菜がそうつぶやいた。
「いいから遠慮するな。俺だっていちおう実行委員なんだし、それに――」
こんなことを言うのは少しばかり恥ずかしいんだが、まあこの際《さい》仕方あるまい。
「それに?」
「――椎菜は友達だろ。友達が困ってたら放っておけないのが普通《ふつう》だ」
「裕人……」
椎菜が瞬《まばた》きをしながら俺の目を見る。
「だから手伝わせてもらうぞ。椎菜のさっきの言葉《ことば》じゃないが、このまま椎菜を放って帰ったら余計に気になっちまうからな」
「……」
椎菜はしばらく黙《だま》ったままじーっと俺の顔を見ていたが、
「裕人《ゆうと》って……いいやつだね」
やがてにっこりと笑ってそう言った。
「そういえば最初に会った時も、乃木坂《のぎざか》さんのために必死《ひっし》に楽譜《がくふ》を探《さが》してたんだよね。自分のことじゃないのにすごい一所懸命《いっしょけんめい》な顔で。それにあたしのせいで文化祭実行委員にされちゃった時も、イヤな顔ひとつせずに笑って引き受けてくれたし……。他人のために自分から何かできる人なんだ。――そういうの、すごくかっこいいと思うよ?」
「……からかうなって」
「え、からかってなんかないよ。本気だって」
真面目《まじめ》な顔で身を乗り出して言ってくる椎菜《しいな》。
「……」
女子にそんなことを言われるのは初めてだったため、思わず顔が作りたての小龍包《シャオロンパオ》のごとく熱《あつ》くなるのを感じた。うう、なんか恥ずかしいな……
すると、
「あ、もしかして裕人、照《て》れてるの? かわいー♪」
「なっ、そんなんじゃ……」
「ふふ、図星《ずぼし》だー。顔が真っ赤だよ」
ペットのハムスターをかわいがる親バカ飼《か》い主《ぬし》のように笑う椎菜。
くっ、実際《じっさい》こっ恥《ぱ》ずかしく思ってるのは確《たし》かなので強くは反論できねぇ……
「ほ、ほら、くだらないこと言ってないでいいから続きをやるぞ。早く終わらせないとマズイんだからな」
「はーい、りょうかいであります、教官♪」
くすくすと笑いながら椎菜が嬉《うれ》しそうに手を上げる。ったく、本当に分かってるのかね……
純度《じゅんど》百パーセントの葛根湯《かっこんとう》でも飲まされたかのような苦々《にがにが》しい思いを感じつつ、大釜《おおがま》を持ち上げ直そうとして、
「……ん?」
その時だった。
グラリ。
おそらくしっかりと固定《こてい》してなかったんだろうね。椎菜の真後ろに立てかけてあった巨大|人面樹《じんめんじゅ》(ブサイク)のハリボテが大きく傾《かたむ》くのが目に入ってきた。ハリボテはゆらゆらと前後に揺《ゆ》れるとそのまま椎菜めがけてゆっくりと倒《たお》れかかってきて――
「椎菜!」
「え?」
反射的《はんしゃてき》に飛び出す。
映画とかならここで華麗《かれい》な空中三回転半でも見せるところだろうが、あいにく俺のどこをどう贔屓目《ひいきめ》に見ても標準《ひょうじゅん》の域《いき》を超《こ》えない運動|神経《しんけい》じゃそんなことは絶望的《ぜつぼうてき》に望むべくもない。俺にできたのは、日を丸くした椎菜《しいな》に覆《おお》いかぶさるようにして繁殖《はんしょく》期《き》のダンゴムシのごとくごろごろとブザマに床《ゆか》を転《ころ》がるくらいだった。
「ちょ、ちょっと裕人《ゆうと》――きゃあっ」
椎菜が悲鳴《ひめい》を上げる。
俺のダンゴムシ運動の甲斐《かい》もあって、幸《さいわ》いなことにハリボテは椎菜から微妙《びみょう》に外《はず》れたところに倒《たお》れてくれた。
ふう、やれやれ、何とかなったか……
ひと息《いき》吐《つ》きながら頭を起こすと――
「……」
「……」
目の前僅《わず》か数センチの距離に、椎菜の顔があった。
「!?」
おまけに気付けば身体はぴったりとほとんど密着《みっちゃく》状態《じょうたい》。腕《うで》や足の先には椎菜の柔《やわ》らかい感触《かんしょく》がダイレクトに伝わってきて……。さらに転がった勢《いきお》いでそうなったのか、スカートの端《はし》が僅《わず》かにめくれ上がって健康的な白いフトモモが顕《あらわ》になっている。
「え、えーと……」
さすがの椎菜も、これには頬《ほお》を少し赤くしながら顔を逸《そ》らした。
「わ、悪い、これは、その……」
慌《あわ》てて事情を説明しようとすると椎菜は首を振《ふ》って、
「あ、う、ううん、気にしないで。裕人は助けてくれたんだよね?」
「あ、ああ」
「だ、だいじょうぶ。それはちゃんと分かってるから。あ、あはっ、でもちょっとだけどきどきしちゃったり」
「そ、そうか」
「う、うん」
「……」
「……」
そのまま、なんかへンな沈黙《ちんもく》がシーンと辺《あた》りを覆《おお》う。
やがて、
「あ、あのさ、裕人」
「ん、な、何だ?」
「わ、悪いんだけどこのままじゃちょっと恥《は》ずかしい……かも。その、む、胸《むね》のところに体重がかかってるから」
「え? あ、ああ、スマン! 今どくから――」
今の俺は、椎菜《しいな》の上に馬乗りになった、いわばエロマウントポジション状態《じょうたい》。
よく考えてみりゃあ、万が一こんなところ(エロマウントポジション)をだれかに見られでもしたらどんな風に勘違《かんちが》いされるかも分からん。へタをすりゃあ「夜の学園で突然《とつぜん》むらむらと湧《わ》き上《あ》がるビースティックな情動に支配《しはい》された綾瀬《あやせ》が天宮《あまみや》さんに襲《おそ》い掛《か》かって、チョメチョメとかパヤパヤを……」なんてウワサを立てられてもおかしくな――
ガシャーン!
「!?」
その瞬間《しゅんかん》、突然《とつぜん》背後《はいご》から何かが割《わ》れる音が響《ひび》き渡《わた》った。
静まり返った教室中に響くようなハデな音。
振《ふ》り返《かえ》るとそこには――
「は、春香《はるか》……?」
「…………」
教室の入り口で、呆然《ぼうぜん》とした表情でこっちを見ている春香の姿《すがた》があった。足下《あしもと》には割れた牛乳ビンとアンパン。流れ出した牛乳が床《ゆか》を白く染《そ》めている。
「い、いやこれは……」
何だってこんな時間にここに春香が?≠竄轣A何でビン牛乳にアンパン?≠竄轤「くつか疑問はあったが、それらはハッキリ言って大したことじゃない。
問題は、今の俺たちの状況《じょうきょう》(エロマウントポジション)。
傍《はた》から見れば犯罪《はんざい》の匂《にお》いをプンプンと感じさせるあらゆる意味で危険《きけん》なこの体勢《たいせい》は、あらゆる意味で周囲《しゅうい》に誤解《ごかい》を招《まね》きまくって俺を破滅《はめつ》に追《お》い込《こ》みかねないスキャンダラス爆弾《ばくだん》である。
――ど、どうする!?
一瞬《いっしゅん》頭の中がパニックになって何も考えられなくなる。
1、事情を一から説明する。
2、適当《てきとう》に誤魔化《ごまか》す。
3、バーリトゥードの練習をしてたと言う。
出て来たのはそんな頭の悪そうな選択肢《せんたくし》。
だが考えてみれば春香《はるか》はこういう方面のことに関して超が付くほど疎《うと》いし、いつか初めて乃木坂邸《のぎざかてい》に行った時の美夏《みか》とのやり取り(抱《だ》き付《つ》かれたり飛び付かれたりうんぬん)にもまったくもって反応《はんのう》を示さなかった。だからもしかしたら今回も案外《あんがい》大丈夫《だいじょうぶ》かもしれん――と混乱《こんらん》した思考《しこう》が比較的《ひかくてき》楽観的《らっかんてき》な答えに辿《たど》り着《つ》いたところで、
「あ、え、あ、あの……」
だが予想外《よそうがい》というか、春香はか〜っと顔を赤くして、
「そ、その……ご、ごめんなさいっ!」
「え、ちょ、春香?」
くるりと踵《きびす》を返すと、ワニザメに襲《おそ》われた白ウサギのような勢《いきお》いで走り去って行ってしまった。え、何でだ? どうして春香が逃《に》げて? え?
「裕人《ゆうと》、早く追《お》わなきゃ!」
「え? あ……」
あまりに突然《とつぜん》のことで状況|把握《はあく》ができない俺に、椎菜《しいな》の声が飛んできた。
「ここはあたしが何とかしとくからっ。とにかく裕人は乃木坂《のぎざか》さんを追いかけるの、早くっ!」
「追いかける……」
そこでようやく少しだけ脳の血流が正常《せいじょう》に戻《もど》る。
そ、そうだ、なんか事情はよく分からんが、春香が逃げたんなら追わんと!
「わ、分かった。スマン!」
椎菜に礼を言い、俺は全速力で教室から飛び出した。
で、俺が春香に追いついたのは、教室を出て廊下を通り階段を下りてさらにもう一度廊下を抜けて、昇降ロ《しょうこうぐち》まで差《さ》し掛《か》かったところだった。
ここまで時間がかかったのは春香の足が速いのか俺の体力がなさすぎるのか、果てしなく後者《こうしゃ》のような気もするが……ともあれ下駄箱《げたばこ》のところで上半身をかがめながらわたわたのろのろと靴《くつ》を履《は》き替《か》えていた春香《はるか》に急いで声をかける。
「春香!」
「え……」
俺に気付くと春香は驚《おどろ》いたように顔を上げ、
「あ、ゆ、裕人《ゆうと》さん……」
「春香、待ってくれ! とにかく話を――」
だが俺の言葉《ことば》を待たずにあせあせと立ち上がり、
「し、失礼しますっ」
「ま、待て、話を聞いてくれ!」
そのまま逃げようとしたところで、
「――きゃあっ」
昇降口《しょうこうぐち》の段差に足をひっかけ、大きくバランスを崩《くず》した。
「――っ!」
火事場のクソカ的なダッシュで床《ゆか》を蹴《け》って飛び出す。
「あっ……」
俺にしてはほとんど奇跡的《きせきてき》な反射神経《はんしゃしんけい》で、そのままひっくり返りそうになる春香を、すんでのところで片腕《かたうで》を掴《つか》むことで何とか助けることに成功した。
「ふう、危《あぶ》なかったな。あと少しでコケるところだったぞ」
ぺたりとその場に座《すわ》り込《こ》んでしまった春香に声をかける。
「……」
「大丈夫《だいじょうぶ》か? どこかケガとかは……」
「…………」
だが春香は、顔を横に向けたまま返事をしない。う、やっぱり怒《おこ》ってるのか?
「あー、さっきのは何ていうかな、アレは違《ちが》うんだ。その事故というか何というか……」
その言葉にウソはない。さっきのアレ(エロマウントポジション)はまったくもって事故そのものである。それは神に誓《ちか》って確実だ。
「と、とにかく、あれだ。別にやましいことじゃなくてだな……」
「……」
春香はしばらく黙《だま》っていたが、
「――は、はい、分かってます」
微妙《びみょう》にこちらから顔を背《そむ》けたまま、繕《つくろ》ったような笑顔《えがお》でそう言った。
「き、きっと何か事情があったんですよね? 事情があってあんな風になった……。それは分かってるんです。ええ、それ……は、分かって……いて……」
「春香《はるか》?」
「……あ、あれ、どうして…………」
横から僅《わず》かに見えた春香の瞳《ひとみ》から、何か光るものが流れていた。
月の光を反射《はんしゃ》して白く輝《かがや》く幾筋《いくすじ》かのライン。
これって、まさか……
顔を覗《のぞ》き込《こ》もうとすると、春香ははっとしたように頭を振《ふ》って、
「な、何でもないです。本当に何でもないですから。き、気にしないでください」
「いや、だけど――」
「し、失礼しますっ」
そう言うと春香は立ち上がり、走り去っていってしまった。
まるで何かから逃げるかのようなダッシュ。
今度は追《お》いかけることができなかった。
「春香……」
後に残ったのは、春香の腕の感触《かんしょく》だけ。
月明かりに照《て》らされた春香の泣き笑いのような笑顔《えがお》だけだった。
そして文化祭が始まる――
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後悔《こうかい》ってのは常《つね》に後から来る。
後悔。
英語で言うところのリグレット。
まあ字自体が後《あと》で悔《く》やむと書いて「後悔」なんだからそれは当然っちゃあ当然のことなんだが、それでも改めてその当たり前のことを言及《げんきゅう》せずにいられない。
いやこれは別に俺が謎《なぞ》めいた宗教にハマっただとか妙《みょう》な哲学に目覚《めざ》めただとかましてや宇宙から怪《あや》しげな電波を受信してしまったとか、そんなわけではもちろんない。
ただ単にその言葉《ことば》の意味を考えさせられる局面《きょくめん》にぶつかっちまったってだけなのである。
それは例《たと》えば春香《はるか》の気持ち。
春香が心の奥で本当に感じていたこと。
それらに対してもう少し俺が敏感《びんかん》だったなら、事態《じたい》はあそこまでこじれずにすんだのかもしれない。もっと穏便《おんびん》なままで解決できたかもしれない。
はたまたそれ以前に、あそこで春香を追《お》うことができていれば、きっと現状は全然|違《ちが》ったものになっていただろう。
それは雨の後の竹林には大量のタケノコがニョキこョキと生えてくるってくらい確実《かくじつ》だ。
だが現実として俺は春香を追いかけることができずに。
春香の気持ちを察《さっ》することができずに。
そして現在に至《いた》っているのである。
だからこその後悔。
だからこそのこのワケノワカラン戯言《ざれごと》だった。
まあ色々とぐだぐだと言ったが。
要は、やるべき時にやるべき事をやっとかないと後で困るぞってことなんだがね。
十一月二十七日、日曜日。
その日は、まるで磨《みが》き抜《ぬ》かれたクリスタルガラスのように空が澄《す》み渡《わた》る気持ちのいい秋晴れだった。
「おはよー、出し物の準備《じゅんび》はどう?」
「あ、ばっちりだよ。そっちのクラスは何やるんだっけ?」
「うちはオバケ屋敷《やしき》でねー……」
廊下を歩いているとそんな楽しげな声が辺りから聞こえてくる。
『白鳳祭《はくほうさい》』当日ということで、学園内は朝早くから多くの生徒たちで賑《にぎ》わっていた。黙々と最後の作業をする者、妙《みょう》なハイテンションに駆られて「ひゃっほう!」などと奇声《きせい》を上げる者、気になるあの子に今日こそフォークダンスの申し込みをせんと挙動《きょどう》不審《ふしん》になる者。学園全体が良くも悪くも鮮《あざ》やかに彩《いろど》られ、普段《ふだん》はない活気に満《み》ち溢《あふ》れている。
明るくエネルギッシュで、希望に満ちた空気。
「…………」
だがそんな中にあって、教室へと向かう俺の足取りは税務署《ぜいむしょ》への強制《きょうせい》出頭《しゅっとう》を命じられた脱税者《だつぜいしゃ》のごとく重かった。
理由《りゆう》は言うまでもない。昨日のアレである。
椎菜《しいな》とのエロマウントポジションを春香《はるか》に見られ、そのまま脱兎《だっと》のごとく逃げられた一件。
――春香、泣いてたよな……
暗がりだったのではっきりそうだと確認《かくにん》したわけじゃないが、春香の目から確《たし》かに光る何かがこぼれ落ちるのが見えた。俺のメガネがここ最近の寒暖《かんだん》差《さ》で破損《はそん》していたのでなければ、あれは涙《なみだ》だった……はずだ。
あんな春香を見るのは初めてだった。
いつもぽわぽわとしていて温かな午後の陽《ひ》だまりみたいな春香。
その春雪が、泣いた。
趣味《しゅみ》についてのアクシデント以外の場面で、涙を流した。
結局《けっきょく》、何で春香が泣いたのかその理由までは分からなかったが、その原因《げんいん》が俺(正確に言えばエロマウントポジション)にあるだろうことは何となく想像《そうぞう》がつく。
「…………」
あの後教室に戻り椎菜にそのこと(春香に逃げられたこと)を話したところ、
『あちゃー、なんか誤解《ごかい》させちゃったかなー……』
と申し訳なさそうな顔で言っていた。
誤解。
やっぱそうなんだろうか?
椎菜もそう言うってことは、やはりあのエロマウントポジションが春香に何らかの間違《まちが》った認識《にんしき》を与えちまったってのは間違いなさそうだ。ヤキモチを焼いてくれた……なんてのは自惚《うぬぼ》れが過《す》ぎるかもしれんが、少なくともびっくりさせちまったのは確実だろう。
「……」
……まあ、考えてみりゃあそりゃあそうだよな。夜の教室に入るなりいきなりエロマウントポジションが目に飛び込んでくれば、だれだって驚《おどろ》くに決まってる。驚かないのはたぶんうちのアホ姉とかその親友とかの天上天下|唯我《ゆいが》独尊《どくそん》をひたすら己の身で体現しているようなやつらくらいだ。そしてもちろん、春香《はるか》はそんな人種とは地球と冥王星《めいおうせい》くらいにかけ離《はな》れた位置《いち》にいる。
「…………」
とにかく春香に会ったらまずは謝《あやま》ろう。
いや具体的には何をどういう風に謝ればいいんだかはよく分からんのだが、原因《げんいん》が俺にある以上それが道理ってもんだ。ちゃんと事情を話して精一杯《せいいっぱい》謝れば、きっと春香だって分かってくれるだろう、うむ。
そうこうしている内に、教室の前へと辿《たど》り着《つ》いた。
いつもと違《ちが》い華《はな》やかに装飾《そうしょく》された教室のドア。それが逆《ぎゃく》に俺の精神にそこはかとないプレッシャーを与えてくる。う、胃《い》が微妙《びみょう》にキリキリと痛《いた》むな……
とはいえ、ここで出社|拒否症《きょひしょう》の中間|管理職《かんりしょく》みたいにうだうだしていても仕方がない。
「――よし」
行くか。
覚悟《かくご》を決め、どこか不安な心境《しんきょう》を吹き飛ばすように教室のドアを開くと――
「あ、おはようございます、裕人《ゆうと》さん」
「え……?」
そこには、いきなり春香がいた。
俺を見るなり、いつもの明るい笑顔《えがお》でにこにこと笑いかけてくる。
「いよいよ今日は文化祭本番ですね。がんばりましょう」
「あ、え……」
意外というか何というか……その様子《ようす》はいつもと全然変わらなかった。いやそれどころか普段《ふだん》よりも心なしか明るく、元気なようにすら見える。
「? どうかしましたか?」
「い、いや……」
不思議《ふしぎ》そうにこちらを見上げてくる春香に曖昧《あいまい》に笑い返しつつ、心の中で俺は首を斜《なな》め四十五度に捻《ひね》っていた。
……これはどういうことなんだ? 何だって春香はこんなに明るいんだ?
また昨日のように有無《うむ》を言わせず逃げられるとまでとはいかないまでも、少なくとももっと落ち込んでるんじゃないかと思ってたんだが……
戸惑《とまど》う俺に、春香はさらに明るい口調《くちょう》で、
「だめですよ。せっかくの文化祭なんですから、もっと元気を出さないと」
「あ、ああ」
「はい、その意気《いき》です。がんばっていきましょうね」
にっこりと笑う。その表情に、昨日見た憂《うれ》いの影《かげ》は欠片《かけら》も見当たらない。
「……」
うーむ、これは実は気にしてたのは俺だけで、春香《はるか》は案外《あんがい》そんなに気にしてなかったってことなのか? いまいち信じられんが、この春香の様子《ようす》から見るとそう考えるしかないような気がする。だったらわざわざ俺のロから蒸《む》し返《かえ》すのもアレだしな……と、何となく謝《あやま》るタイミングを逃《のが》してしまい戸惑っていると。
「春香せんぱ〜い、おはようございま〜す!」
いきなり教室の入り口の方から黄色いことこの上ない声が響《ひび》き渡《わた》った。
「ごきげんはいかがですか〜? わあ、今日もおキレイですね〜」
「こういった幻想《げんそう》的《てき》な場所だと春香様の姿《すがた》が映《は》えますねぇ。ちょっとあなた、どいてくださいですぅ」
「………邪魔《じゃま》」
「ぬおっ!」
声の主たちは俺を生ゴミのように押《お》しのけると春香の周《まわ》りにピラニアのように群《むら》がり、
「ねね、ところで春香せんぱいはミスコンに出るんですか?」
「もちろん出ますよねぇ? 何ていったって予備《よび》審査《しんさ》ではぶっちぎりの一位なんですからぁ」
「…………春香様の姿が見たいです」
「あ、あの……」
何の前触《まえぶ》れもなく、そんなことを言い出した。
突然の出現と要請《ようせい》に目をシロクロとさせる春香に向かって、ずんずんと切り込んでくる。
「ぜひぜひ出てくださいよ。私たち、断然《だんぜん》応援《おうえん》しちゃいます!」
「私たちだけじゃなくて、他のみんなも春香様が出てくださるのを期待《きたい》してますよぉ」
「…………お願いします」
「え、その……」
いつもの取り巻きどもだった。
会話の感じからして、どうも春香にミスコンに出てくれるよう迫《せま》ってるみたいだな。
「いいじゃないですか〜、どうしてもいやだってわけじゃないんですよね?」
「だったら私たちへのプレゼントだと思って出てくださいですぅ」
「…………お願いします」
「え、えと……」
割と一方的なその申し出に、春香も最初は戸惑っていたようだったが、
「わ、分かりました。そこまでおっしゃるのでしたら……」
取《と》り巻《ま》きたちの熱意(摂氏《せっし》三百度くらい)に圧《お》されたのか、目をぱちぱちとさせながらこくりとうなずいた。
「やった! ありがとうございます春香《はるか》せんぱいっ!」
「おっきな花束《はなたば》を用意しておきますからぁ」
「………感激《かんげき》です」
取り巻きたちがきゃーきゃーと黄色い声を上げる。どうやら春香がミスコンに出場することが正式に決まったらしかった。
「へー、やっぱり乃木坂《のぎざか》さんもミスコンに出るんだー」
と、後ろからそんな声。
振《ふ》り向《む》くとそこには、右手に紙束を持った椎菜《しいな》の姿《すがた》があった。
「椎菜……」
「や、おはよ、裕人《ゆうと》」
椎菜は俺に向かって軽く手を上げて、
「でもそうだよねー。あれだけかわいいんだし人気もあるんだし、出ない方がおかしいかも。彼女が出ないでだれが出るのって感じかなー」
うんうんとうなずく。
つーか今、乃木坂さん『も』って言ったよな?
椎菜の顔を見ると
「あ、うん、あたしも出るんだよ。なんかさっきあの時の隠し撮りの人が来て、エントリーされてるとか言われてさ。麻衣《まい》も出るみたいだし、五月《さつき》とか由貴《ゆき》とかも応援《おうえん》してくれるっていうし、どうせだからやってみよっかなって」
「ほう……」
まあ椎菜もかなりの美少女だしな。転校してきてまだ日が浅いとはいえ、エントリーされていても全然|不思議《ふしぎ》じゃない。
「よかったら裕人も見に来てよ。二時から体育館でって話だけど、確《たし》かそのヘンの時間は空《あ》いてたよね?」
「ああ、そうだな」
午後一時から三時までが俺の休憩《きゅうけい》時間である。春香も出るという話だし、これはどこぞのアホ姉を担保《たんぽ》に入れてでも見に行かなきゃなるまい。
「……そういえば乃木坂さん、昨日のことまだ気にしてた?」
と、そこで椎菜が少し小さな声でそう尋《たず》ねてきた。
「なんか、誤解《ごかい》しちゃったんでしょ。その、昨日のあたしたちを見て……。だからちょっと気になってて……」
「いや、大丈夫《だいじょうぶ》みたいだ」
今も取り巻きたちに囲《かこ》まれて笑顔《えがお》を見せている春香《はるか》。
どうもここまでの反応《はんのう》を総合すると春香は大して気にしてないと考えるのが妥当《だとう》っぽい。まあそれが俺にとってはたしていいことなんだか悪いことなんだかはいまいち微妙《びみょう》だが。
「え、そうなの?」
椎菜《しいな》が意外《いがい》そうな顔をする。
「ああ、たぶん。話してる時もすっかりいつもの調子《ちょうし》だったしな」
「そっか。ふーん、そうなんだ……」
何やら考え込み、ぽつりとつぶやく。「ということは、まだそんなに確定《かくてい》事項《じこう》ってわけじゃないのかな……」
「?」
「あ、ううん、こっちのこと。それより今日のローテーションのことなんだけど……」
「ん、なんか問題でもあるのか?」
「そういうわけじゃないんだけど、いちおう確認《かくにん》っていうかそんな感じかな。今時間だいじょうぶ?」
「ああ、いいぞ」
「よかった。ここの休憩《きゅうけい》時間のことなんだけど――」
「ふむふむ」
で、しばらく椎菜と本日のスケジュールについて話していると、
「は〜い、みんなおはよ〜ぐると〜♪」
がらりとドアを開けて、朝っぱらから妙《みょう》なテンションの副担任が教室に入ってきた。
「いい朝ね〜。朝日がさんさんとまぶしくて、おねいさんの気分もむらむらうきうきよ〜♪」
「……」
まさか飲んでんじゃねえだろうな、この人。
「ほいほ〜い、とりあえずみんなそのままでいいから開いて〜。今から美人のおねいさんがセクシ〜かつビュ〜テホ〜に連絡事項とかを説明するから〜。ええとね〜……」
ハイテンションのまま説明をし始める。
……まあ考えてみれば、この人はいつもこんな感じか。
シラフとアルコールインの状態《じょうたい》の区別があんまり付かない、可哀《かわい》そうな音楽教師だった。
『それではこれより、第三十五回|白鳳祭《はくほうさい》を開催《かいさい》したいと思います!」
午前九時五十分。
校内中に響《ひび》く大きなアナウンスと共に、校庭からはおそらく年間学内予算の十分の一くらいをかけてるだろうムダに豪華《ごうか》な花火が盛大《せいだい》にポンポンと上がった。
それと同時に屋上《おくじょう》からは『第三十五回|白鳳祭《はくほうさい》』と書かれたやたらとでかい垂《た》れ幕《まく》(達筆《たっぴつ》)が落とされ、校門前に設置《せっち》されていたゲートが閉放《かいほう》される。
生徒たちの歓声《かんせい》を受けて、とうとう文化祭が幕を開けた。
「さ、いよいよだね。何だかわくわくしてきちゃった」
隣《となり》の椎菜《しいな》が子供みたいな表情で言った。
「もうやれるだけのことはやったし、後はお客さんが来るのを待つだけだよね」
「ああ、そうだな」
教室内の準備《じゅんび》はすでに完了していて、色とりどりの衣装《いしょう》を着たクラスメイトたちが辺《あた》りを歩いているのを見ることができた。『ドジっ娘アキちゃん魔法服《まほうふく》ヴァージョン(by信長《のぶなが》)』を着た朝比奈《あさひな》さん。『プリンセスナオちゃんマジカルドッグヴァージョン」を着た『忠犬《ちゅうけん》』八咲《やつさき》さん。その他ほとんどの女子も何かしらの衣装を着ている。椎菜も『ダメっ娘メグちゃんデビルヴァージョン』とやらの衣裳を着ていた。
そして――
「わー、すごいです! 春香《はるか》さま」
「目がくらむばかりの美しさですよぉ!」
「…………素敵《すてき》です」
何といっても圧巻《あっかん》なのは、やはり春香だった。
身に着けているのは、あの時の『ドジっ娘アキちゃんエンジェルヴァージョン」の衣装。
取《と》り巻《ま》きや親衛隊《しんえいたい》たちに囲まれて、少し困ったように笑っているその姿《すがた》はまるでマンガの中から出て来た本物の天使のようで、見ているだけで心が浮《う》き立《た》つ春の小川のような気分になれる。かわいい……
ちなみにこの衣装を着ているのはクラスでも春香一人である。他の衣装は何人かで重複《ちょうふく》しているものもあるが、文字通り地上に舞《ま》い降《お》りた天使を彷彿《ほうふつ》させる清楚《せいそ》かつ可憐《かれん》なこの衣装は『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』にこそふさわしいということで、クラス全員の圧倒的《あっとうてき》な賛成の下に春香のオンリーコスチュームとすることに決まったのだ。
「は−、乃木坂《のぎざか》さん、かわいいなあ……。あたしが男の子だったら、ぎゅっと抱《だ》きしめちゃいたい感じ……」
隣では椎菜もそんな風に声を漏《も》らしている。同性から見てもやはりアレはかわいいらしい。
できることなら俺も直接声をかけたいところだったが、あの防御壁《ぼうぎょへき》(取り巻き&親衛隊&一般クラスメイト)の中に自《みずか》ら突っ込んでいくことは、ほとんど猟犬《りょうけん》の群れにチワワが単独でケンカを売る行為《こうい》(即死《そくし》)を意味すると言ってもいい。晴れの文化祭をわざわざそんな血みどろなスタートで飾《かざ》るのもイヤすぎる。
――ま、後で声をかければいいか。
同じ店にいる以上、いくらでもチャンスくらいはあるだろう。それに前に約束《やくそく》したフォークダンスもあることだしな。
そう考え、今は遠目《とおめ》で見るに留《とど》め開店前の最後の仕事へと戻《もど》った。
そして、いよいよ開店時間の午前十時がやってくる。
「いらっしゃいませー、何名様ですか?」
クラスメイトのそんな声が響《ひび》き、『コスプレ喫茶《きっさ》マージナル・シンフォニー』は幕を開けた。
第一号のお客は、若い男の二人組みだった。
「すみません、コレとコレをお願いします」
「はい、『魔法《まほう》のレインボウティー』と『魅惑《みわく》のクランベリークレープ』ですね」
応対《おうたい》に出たのは椎菜《しいな》だった。悪魔《あくま》のシッポと羽根をふりふりさせながらにこやかな笑顔《えがお》で注文を受け、
「すみませーん、『魔法のレインボウティー』と『魅惑のクランベリークレープ』ひとつずつ入りまーす!」
「りょうかい、『魔法のレインボウティー』と『魅惑のクランベリークレープ』ひとつずつね」
「うん、お願いっ」
調理|担当《たんとう》のクラスメイトにそう告《つ》げこっちに戻ってくると、
「ふふ、なんかこういうのっていいね。ほんとにみんなでお店をやってるって感じで」
嬉《うれ》しそうに笑ってそう言った。
ふむ、確《たし》かにその通りだな。普通《ふつう》にただ出し物をやるよりも、皆で声を掛《か》け合《あ》ったりする分だけ一体感《いったいかん》があるというか。
「さ、この調子《ちょうし》でどんどんがんばってこー!」
椎菜《しいな》が元気に声を上げる。
こうして『コスプレ喫茶《きっさ》』は本格的に稼動《かどう》を始めた。
客足は出だしにしてはまずまずといったところだったが、それでもまだ盛況《せいきょう》というほどではなかった。
やはり『コスプレ』喫茶というある意味イロモノな部分が足を引《ひ》っ張《ぱ》っているのか、最大で三十人ほど座ることができる客席は、平均して半分ほどしか埋まっていない。回転率《かいてんりつ》もそう高くはなく、ウェイトレス役の女子も少しヒマそうにしている。これはもう少し外に出て呼び込みでもやってきた方がいいかもしれんな……などと考えていると、
「ふふー、そろそろかなー」
「信長《のぶなが》?」
ウエイター姿《すがた》の幼馴染《おさななじ》み(隣《となり》のクラス)が、時計を見ながら言った。
「情報|伝達《でんたつ》の速度と休日の朝の出足の遅《おそ》さとを総合するとー…………うん、もう間もなくだねー。これから忙《いそが》しくなるよー」
「……どういうことだ?」
頼《たの》むからちゃんと他人に分かるように説明してくれ。
「んー、あのね、ココのことを色々とネットとかにも情報を流しておいたんだー。高レベルのコスが集まってて、メガネっ娘もイヌ耳ドジっ娘もお嬢《じょう》様もなんでも完備《かんび》のお店があるってね。さらにはサクラも何人か仕込んでおいたし、これで人が集まらなきゃウソってもんだよー」
「……」
にっこりと笑顔《えがお》でそんなことを言う。相変わらずこいつは色々とやってんだな……
で、信長のその言葉《ことば》通り、開店一時間後くらいを境《さかい》に一気に客が増《ふ》え始《はじ》めた。
「す、すみません、ここで『はにトラ』のコスプレをやってるって聞いたんですが……」
「かわいいですね。写真|撮影《さつえい》は可なんですか?」
「そ、それって『ダメっ娘メグちゃんデビルヴァージョン』だよね?」
なんてのは当然として、
「あ、ねえねえ、ここの紅茶《こうちゃ》おいしいんだって。ちょっと飲んでってみようよ」
「すみません。ここでヴィクトリアケーキを食べられるって聞いたんですけど……」
「レシピとかって、売ってないんですか?」
などという客も増えていたのは喜ぶべきことだろう。
紅茶系及びスイーツの類《たぐい》は春香《はるか》が本格的に調理指導をしてるため、実際《じっさい》のところかなり美味《おい》しい。普通《ふつう》に専門店などで商品として出しても売れるレベルじゃないかってくらいである。それがじわじわとだが、評価《ひょうか》され始めたみたいだ。
とはいってもやはりここは『コスプレ喫茶《きっさ》』
メインとなるのは、衣装《いしょう》及びそれを着ている人間の方だった。
人気としては主に朝比奈《あさひな》さん、八咲《やつさき》さん、水谷《みずたに》さん、椎菜《しいな》辺《あた》りが高かったが、その中でも春香への注目っぷりはすごかった。
「すげぇ、かわいい……」
「すてきだよね、本物の天使って感じ……」
「私もあんなの着てみたいな」
客席からは春香に注文を求める声がひっきりなしに響《ひび》いていた。今も男五人の団体客に呼ばれて一生懸命《いっしようけんめい》に注文を取っている。まああれだけかわいい上に衣装もこの上ないくらいにぴったりハマってるから、それも仕方ないっちゃ仕方ないんだが。
「――ん?」
と、そこで違和感《いわかん》を覚《おぼ》えた。なんか春香の笑顔《えがお》がいつもとは違《ちが》うような……。いや特にどこが何ってわけじゃないんだけどな。
「……気のせいか?」
もう一度見てみると、そこにはいつも通りの春香の笑顔があった。
ふむ、やっぱり気のせいか。まあ何となく一瞬《いっしゅん》そう見えたってだけで、特に根拠《こんきょ》があったってわけでもないんだがな。
「すみませーん、『恋のドジっ娘《こ》媚薬《びやく》スープ』ひとつ入りまーす」
「あ、おう」
ウェイトレス役の女子から注文を受けて、我に返る。
ま、今は仕事だ、仕事。
「――ふう」
昼を少し回る頃《ころ》になって、ようやく客の入りも一段落《ひとだんらく》してきた。時間帯から考えて、おそらくちゃんとした昼食を取るために本格的な屋台《やたい》やらそっちの方に行ってるんだろう。この間に少しだけ休もうとパーティションで仕切られた奥の店員スペースで一息《ひといき》ついていると、
「ん?」
何やら店の方が騒《さわ》がしいことに気付いた。パーティションの陰《かげ》にクラスメイトたち数人が集まって客席の方を見ている。むう、何かトラブルでもあったのか?
気になって行ってみると、
「……お、おい、ヤクザが来てるぞ」
「あ、あれって、やっぱりそうよね?」
「見るからにそれしかないだろ……」
そんなことを言い合ってるのが聞こえてきた。
「しかもなんかツインテールのかわいい女の子とキレイなメイドさんを連《つ》れてるし……今どきのヤクザってそういう趣味《しゅみ》なの?」
「着物|姿《すがた》の美人な女の人までいるしな。情婦《じょうふ》か? あれ、でもあの人どっかで見たことがあるような……」
「き、気のせいだろ? それともヤクザに知り合いでもいるのかよ?」
不安そうに顔を見合わせる。
「と、とにかく、だれか注文取ってきなよ。ほら、こっち睨《にら》んでるし……」
「げ、ほんとだ。お前行けよ」
「イ、イヤだって。喫茶店《きっさてん》にもかかわらずラーメンとか注文して、『この店は客の注文を聞けんのかあ? 東京湾に沈《しず》めたるぞ!』とか言って因縁《いんねん》つけてきそうじゃん!」
互いに注文役(生贄《いけにえ》)を押《お》し付《つ》け合《あ》うクラスメイトたち。
「……」
……いや。
なんつーか、その人物|構成《こうせい》で一つだけ思い当たる家族があるんだが。
ある予感《よかん》(というかほとんど確信《かくしん》)とともに席の方を覗《のぞ》いてみると、
「…………」
そこには、話題の渦中《かちゅう》にあるヤクザ顔の人物を中心として、乃木坂《のぎざか》家《け》ご一行《いっこう》様(無口メイド長さん、にっこりメイドさん付き)の姿があった。はあ……やっぱりな。まあアレをその筋《すじ》の人だと勘違《かんちが》いする気持ちは分からんでもないんだが……
いまだ言い合いをしているクラスメイトたちに、俺は言った。
「……俺が行く」
「え?」
「皆は仕事に戻っててくれ。大丈夫《だいじょうぶ》だから」
「お、おい、綾瀬《あやせ》?」
「まさかお前、一人で行く気か? やめとけって、殺されるぞ!」
「うちのクラスから死人が出たら色々問題になるだろ!」
蒼白《そうはく》な顔で止めてくるクラスメイトたちの横を抜け、教室中央にある席へと向かう。
「……いらっしゃいませ」
少しばかり心臓の鼓動を早くさせながら声をかけると、
「むう、遅《おそ》いぞ! ここに入ってから何分経《た》つと思っている。こういった店ではスピードこそが命だろう。それを――ぬ、お前は」
春香《はるか》父《ちち》がギロリと顔を上げる。その眼光《がんこう》の超合金ブレードみたいな鋭《するど》さに、自律神経《じりつしんけい》が反応《はんのう》して思わず足が勝手に二歩ほど後ずさっちまう。
「お、お久しぶりです……」
俺の姿《すがた》を確認《かくにん》すると春香父はハマキをくわえながらうなずいて、
「……ふん、そうか、お前が店長をやっているのか。なるほど、道理《どうり》で締まらんわけだ。これは一度経営学というものを骨《ほね》の髄《ずい》まで叩《たた》き込《こ》んでやらねばなるまいな」
「え?」
「今度私の書斎《しょさい》まで来るがよい。直々《じきじき》に教えてやろう」
「は、はあ……」
とりあえず適当《てきとう》にうなずいておく。
にしてもほんとに怖《こえ》えな、この人は。何度か会ったことがある俺でさえこれなんだから、初見《しょけん》なクラスメイトたちからすればほとんどホラーモンスター級だろう。恐怖《きょうふ》におののくのもムリはないかもしれん。
改めて春香父のテリブルっぶりを再《さい》確認《かくにん》していると、
「あらあら、こんにちは、裕人《ゆうと》さん」
「あ、おに〜さん。やっほ〜♪」
「……先日はお世話《せわ》になりました」
「こんにちはです〜」
続いて秋穂《あきほ》さんたちが一斉《いっせい》に声をかけてきた。心が安らぐ癒《いや》しの声。そこにいるだけで周囲《しゅうい》にムダな緊張《きんちょう》とプレッシャーを与える春香父と並《なら》ぶと天国と地獄《じごく》、高天原《たかまがはら》と黄泉平坂《よもつひらさか》もいいところである。
「わ〜、おに〜さん、そのカッコ似合《にあ》ってるね〜」
俺のウェイター服を指差して美夏《みか》が声を上げた。
「ん、そうか?」
「うん、かっこい〜よ。特にそのチョッキとか、まるで本物の雇《やと》われ店長さんみたい」
「ええ〜、天性《てんせい》の雇われ体質といった感じです〜」
「……ジャストフィット」
「……」
また微妙《びみょう》な褒《ほ》め方《かた》だな。本人たちは純粋《じゅんすい》に褒めてるつもりなんだろうが……
「ん、そういえばおに〜さんだけで お姉ちゃんは?」
きょろきょろとカラーヒヨコみたいに教室内を見回して美夏が言った。
「ああ、春香は今|休憩《きゅうけい》中《ちゅう》だ。外に出てる」
「え、そなの?」
「ああ」
少し前から春香《はるか》や椎菜《しいな》などの主要メンバーの一部は休憩《きゅうけい》中《ちゅう》である。午前中はずっと働《はたら》き詰《づ》めだったため、せめて客の少ないこの時間に気分|転換《てんかん》をして少しでも英気《えいき》を養《やしな》ってもらおうという意図《いと》だった。
「う〜ん残念《ぎんねん》、お姉ちゃんがこすぷれ”してる姿《すがた》も見たかったんだけどな〜。――あ、そだ。お姉ちゃんと言えばおに〜さん、昨日はどうだった?」
「え?」
俺の耳元に顔を寄せて、
「ふっふっふ、さっそく実技|指導《しどう》の成果《せいか》が出たんじゃない? お姉ちゃん、うきうきで牛乳とアンパンを持って行ったでしょ? このこの〜」
明るくそんなことを言う美夏《みか》。もしかして、昨日のこと(エロマウントポジション→涙《なみだ》→春香|逃走《とうそう》)を聞いてないのか?
「うんうん、牛乳はポイント高いもんね。何てったってそこにはもれなくお姉ちゃんの唇《くちびる》をちゅっちゅできるっていう特典付きで〜……」
「く、唇だと!?」
とそこで、美夏の発したNGワードに春香父が激《はげ》しく反応《はんのう》した。
「は、はは春香の唇に何をするというのだ、き、ききき貴様《きさま》……」
「え、い、いやその……」
俺に文句《もんく》を言われても困《こま》るんだが……
「こ、この変態《へんたい》が! やはりあの時に粛清《しゅくせい》をしておけば……」
立ち上がり懐《ふところ》から『死屍累々《ししるいるい》』を抜《ぬ》き放《はな》とうとしてくる春香父に、
「まあまあ、落ち着いてくださいな、あなた。ここは学校の中ですよ? みなさんびっくりしてらっしゃいますし」
「ええい、これが落ち着いて――」
「あ・な・た」
笑顔《えがお》の秋穂《あきほ》さんの背後《はいご》から、一瞬《いっしゅん》だけ肌《はだ》を切るようなひゃっこいオーラが立《た》ち昇《のぼ》る。「いいから落ち着いてくださいと、そう申し上げているのですが?」
「う……」
それを見た春香父は、敏腕《びんわん》調教師《ちょうきょうし》に睨《にら》まれたライオンのようにたちどころに大人しくなった。
「分かってくださいましたか?」
「う、うむ……」
コクコクとうなずく。
「ごめんなさいね。この人にはちゃんと言い聞かせておきますから」
春香父の背中《せなか》をぽんぽんとたたきながら秋穂さんがにっこり笑う。乃木坂《のぎざか》家《け》無敵《むてき》の最終兵器は、相変わらず無敵《むてき》なことこの上なかった。
「ね、ところでおに〜さん、今からヒマ?」
父親の権力|失墜《しっつい》がまさに行われたその横で、美夏《みか》がそう訊いてきた。
「ん、そうだな。いちおうあと十分もすれば休憩《きゅうけい》だ。ヒマといえばヒマだが……」
「ほんと? だったら、学園の中を案内してくれない? 校舎の中まで入るのってまだ二回目だから、地図を見てもどこに何があるのかよく分からなくってさ〜」
「ふむ……」
美夏の言葉《ことば》に今後の予定を考える。
まだミスコンが始まるまでには時間があるし、春香《はるか》とも休憩時間がかみ合わない。特に目的もなく野良犬《のらいぬ》のように一人|寂《さび》しく校内をブラブラとするくらいなら、このツインテール娘たちといっしょの方が遥《はる》かに楽しいだろう。
「分かった。じゃあ行くか」
「わーい、さすがおに〜さん。だから好き♪」
ぱ〜っと顔を輝《かがや》かせて、美夏がその場で飛《と》び跳《は》ねて喜んだ。
「あ、でしたら私たちもお供させてもらいますよ〜」
「……もらいます」
那波《ななみ》さんと葉月《はづき》さんが音もなくイスから立ち上がる。
だが春香父と秋穂《あきほ》さんはその場から動こうとしなかった。
「あー、ええと……」
これは何か新手《あらて》のイヤガラセかあるいは逆《ぎゃく》放置《ほうち》プレイかなんかなんだろうかと春香父の顔を見ると、
「ふん、行くならお前たちだけで行くがいい。私はこういうお祭り騒《さわ》ぎはあまり好かん。ゆえにここで秋穂と二人で、ゆっくりと腰をすえて春香が指導したという紅茶でも飲んでおる」
「……」
それ、確実《かくじつ》に営業|妨害《ぼうがい》(威力《いりょく》業務《ぎょうむ》妨害)だと思うがな……
「ということですから、私たちに構《かま》わずに裕人《ゆうと》さんたちは楽しんできてくださいな」
「はあ……」
ともあれまあ、そういうことなら素直に従《したが》っておくことにしよう。秋穂さんはともかく、この外見も中身もヤクザ風味の春香父といっしょに校内を練《ね》り歩《ある》くなんてことになったら、色んな意味で片時も気が休まらんのは確《たし》かだからな。
「じゃ、行ってきますんで」
軽く会釈《えしゃく》をして教室を出ようとしたところで、
「あ、裕人さん」
「はい?」
秋穂《あきほ》さんは俺を呼び止め、
「美夏《みか》のことをよろしくお願いしますね。裕人《ゆうと》さんなら、きっと素敵《すてき》にエスコートをしてくれると信じていますから」
何やら楽しげにそうにっこりと笑ったのだった。
というわけで、美夏たち(葉月《はづき》さん、那波《ななみ》さん付き)と共に文化祭を回ることとなった。
「ん〜、なんかいろんなのがあるね〜」
美夏が楽しそうに視線《しせん》を躍《おど》らせる。
『白鳳祭《はくほうさい》』真《ま》っ只中《ただなか》ということで校内の様子《ようす》は普段《ふだん》とは様《さま》変《が》わりし、いかにもお祭りやってますといった賑《にぎ》やかな雰囲気《ふんいき》をかもし出していた。壁《かべ》に貼《は》られまくった色とりどりのポスター、秋の虫(コオロギとか)のように響《ひび》き合《あ》う呼《よ》び込《こ》みの声。飲食系の出し物をやっているクラスも多いのか、あちこちからヤキソバやらヤキトリやらの食欲をそそる匂《にお》いも流れてくる。
「わ〜、すごい。おに〜さん、あれなに?」
「ん、あれはヤキトリ屋だな。『コカトリスの憂鬱《ゆううつ》』」
「ね、あっちのあれは? 『白アフロの奇跡《きせき》』とか書いてあるけど」
「あー、あれはワタガシだろ、おそらく」
そんな具合に、美夏の質問に受け答えしながら、廊下を歩いていく。
と、その途中《とちゅう》で、
「あ、そこを行くメイドさんを連《つ》れた人ー」
白い着物|姿《すがた》の女子生徒に呼び止められた。
「どうです、ちょっと寄っていきませんかー? うちのクラスの出し物は面白《おもしろ》いですよ」
「出し物?」
って何のだ?
「ふふ、中身は実際《じっさい》に現場に着くまで秘密《ひみつ》でーす。でも面白さは保証《ほしょう》しますよ。特にそっちのかわいいカノジョなんかを連れていくにはぴったりだったりしますー」
「え、わたし?」
「はいー」
何やら意味ありげに俺と美夏を見比べながら言う。
「う〜ん、そっかそっか。どこかのアイドルと見紛《みまご》うばかりにかわいらしくてぷりてぃ〜できゅ〜とな女の子とまで言われたら、行かないわけにはいかないよね〜」
「……」
そこまで言ってねえだろ。
何とも都合《つごう》のいい耳をお持ちなお嬢《じょう》様である。
「で、どうです? 今なら色々とサービスしちゃいますよ?」
「ね、行ってみよ〜よ、おに〜さん」
美夏《みか》がくいくいと腕《うで》を引《ひ》っ張《ぱ》ってくる。
「そうだな……」
まあ他に特に行きたいところがあるわけでもなし、美夏が行きたいようなら構《かま》わないだろう
俺がうなずくと、
「わ〜い、じゃ決まりね」
「でしたらこちらにどうぞー」
女子生徒が嬉《うれ》しそうに笑う。
で、連《つ》れて行かれた先は、
『絶対《ぜったい》号泣《ごうきゅう》・阿鼻叫喚《あびきょうかん》恐怖《きょうふ》の館《やかた》(血文字)』
とやらだった。
「これは……オバケ屋敷《やしき》か?」
「はいー。うらめしやー、です」
女子が両手を下に垂《た》らしながら答える。なるほど、てことはこの人が着てるのは白《しろ》装束《しょうぞく》ってわけか。本人のテンションがやたらと明るめだったから気付かなかったが、よく見てみれば頭に逆《ぎゃく》三角《さんかく》の布みたいなもんも付いてるしな。
「じゃあまあとりあえず入ってみるか――ん?」
「……」
「どうした、美夏?」
「え、な、なに?」
「なんか顔色が悪いように見えるが……」
予防|接種《せっしゅ》前のヨークシャーテリア(一歳)みたいな顔だ。
すると美夏はぶんぶんと首を振《ふ》って、
「そ、そんなことないよ。ほら行こ、おに〜さん。葉月《はづき》さんと那波《ななみ》さんも」
「お……」
「……………」
「あらあら〜」
三人分の腕を一気に掴《つか》んで『絶対号泣・阿鼻叫喚恐怖の館』に入ろうとしたのだが、
「あ、すみません。いちおう一度に入れる定員は二人ということになっていますので、二人ずつに分かれもらえますかー?」
幽霊《ゆうれい》姿《すがた》の女子にそう止められた。どうやら人数制限があるらしい。
「二人ずつか……どうする?」
美夏《みか》たちを見回して訊いてみると、
「わ、わたしは別にだれとでもいいけど」
「そうですね〜、それじゃあせっかくですから裕人《ゆうと》様と美夏様で行かれたらどうですか〜? 私たちは後から行きますので〜」
「……お先にどうぞ」
とのことらしい。まあ無難《ぶなん》な組み合わせか。
「じゃあ行くか、美夏」
「う、うん」
「はーい、二名様ご案内でーす。いってらっしゃいませー」
オバケ屋敷《やしき》には不《ふ》釣合《つりあ》いと思えるほどの明るい案内声を受けて、俺は美夏とともに巨大|骸骨《がいこつ》の口を模してある『絶対《ぜったい》号泣《ごうきゅう》・阿鼻叫喚《あびきょうかん》恐怖《きょうふ》の館《やかた》』の入り口をくぐった。
教室の中は、オバケ屋敷と言うだけあって真っ暗だった。
「ほう……」
けっこう本格的だな。
薄暗《うすぐら》いという視覚《しかく》効果《こうか》も手伝《てつだ》って、文化祭の出し物とは思えんほどになかなか迫力《はくりょく》がある。デパートの特設フロアとかに夏季《かき》限定《げんてい》で開催《かいさい》されるオバケ屋敷とタメを張れるくらいのレベルかもしれん。
「おお、あそこの生首とかよくできてるぞ」
「……」
「あっちの人体|模型《もけい》もリアルだな……って、あれはホンモノか?」
「……」
「そこに転《ころ》がってるゾンビも顔の蒼白《あおじろ》さとかがよく表現されてて面白《おもしろ》いな」
「……」
って、なんかさっきからやけに美夏が静かだな。こういう場所では、このツインテール娘は人一倍はしゃいでじゃれついてきそうな気がするんだが。
とそこで、きゅっと手の先に何かがくっついてくる感触《かんしょく》がした。
「?」
何だ、オバケ屋敷|定番《ていばん》のコンニャクか何かか? と思って見てみると、
「…………う、うう〜……」
美夏だった。
何やら目元をへの字に下げてうなりながら、握力《あくりょく》でも測《はか》らんかのごとき勢《いきお》いできつく俺の手を握《にぎ》っている。どうしたんだ、お腹《なか》でも痛《いた》いのか?
「……美夏《みか》?」
「あ、ち、違《ちが》うんだよ? こ、これはさ〜」
俺の視線《しせん》に気付くとあせあせと首を振《ふ》って、
「え、えーと、わたしは別にこんなの怖《こわ》くないんだよ? うん、それはもう全然。お、お姉ちゃんじゃないんだし。でもほら、やっぱりおに〜さんはこんな真っ暗な中じゃ心細いでしょ? だ、だからかわいい美夏ちゃんが手を繋《つな》いであげようと思って」
「……」
「ほ、ほんとだからね?」
「……」
そうか、怖いのか……
まあ普段《ふだん》が普段なのでつい忘《わす》れがちになるが、考えてみればこのツインテール娘もまだまだ十四歳の中学生なんだよな。オバケが怖いなんて、こういうところは実に歳《とし》相応《そうおう》である。
「分かった分かった。じゃあこのまま行くぞ」
「う、うん。しっかり掴《つか》まってていいからね。は、離《はな》しちやだめだよ?」
「はいはい」
で、そんな抱《だ》っこちゃん状態《じょうたい》で進んでいく。
出口までの道のりは案外《あんがい》長く、途中《とちゅう》でごっついキバを生やした狼男《おおかみおとこ》やら血塗《ちまみ》れの口裂《くちさ》け女やらが大量に出て来て、その度《たび》に「きゃう!」だの「はうん!」だのの妙《みょう》な叫《さけ》び声が隣《となり》から上がり、それに比例《ひれい》して段々《だんだん》とくっついてる面積が広がってきてたんだが、それについては黙《だま》っとくことにしよう。
「はぁ……はぁ……」
ようやく出口に差《さ》し掛《か》かった頃《ころ》には、抱きつくというよりもほとんど全身でしがみつくような体勢《たいせい》になっていた。
「や、やっと終わったよ〜……」
出口にかかっている暗幕《あんまく》をくぐりながら、涙目《なみだめ》になって美夏が言う。「うう〜、夜に届く新聞とか読んでないのに、寿命《じゅみょう》が三百日くらい縮むかと思った……」
ほとんど倒《たお》れそうな様子《ようす》である。
そんな俺たちの姿《すがた》を見て、呼び込みをやってた幽霊《ゆうれい》姿の女子がにっこりと一言。
「ほら、かわいい子を連《つ》れていくにはぴったりだったですよねー? 役得《やくとく》ってやつですか?」
「……」
なるほど。それはそういう意味だったのか。深いな……
とその時、背後《はいご》から「ぎゃー!!」と耳をつんざくような男の叫び声が聞こえてきた。
まるで巨大なツメを持った殺人鬼《さつじんき》にでもリアル遭遇《そうぐう》したかのような恐怖《きょうふ》のにじみ出た絶叫《ぜっきょう》。
続いて、
「で、ででで……でた……」
教室の中から先ほど見た狼男《おおかみおとこ》が転《ころ》がるように飛び出してくると、明後日《あさって》の方向へと逃げていった。
「な、なに? なにが起こったの、おに〜さん?」
不安そうな顔で、即座《そくざ》に美夏《みか》が跳《と》び付《つ》いてくる。
「分からん……まさか本当に出たんじゃあるまいな」
「で、出たって、もしかして……」
「ああ」
こういう幽霊《ゆうれい》だとか妖怪《ようかい》だとかを扱《あつか》っている場所には本物の霊《れい》とかそういう類《たぐい》のモノが集まって来やすいと、なんかの本で読んだような覚えがある。そういった念《ねん》に集まってくるとか何とか。映画とかでも、ホラーを撮る前には必《かなら》ずお祓《はら》いを済《す》ませるらしいし。
「ちょ、ちょっと〜、こ、怖《こわ》いこと言わないでよ〜……」
俺の身体に力いっぱいしがみついたまま、美夏がほとんど泣きそうな顔で首を振《ふ》った。
「待て、何か来る」
「え?」
出口にかかっている暗幕《あんまく》がごそごそと動く。
周囲《しゅうい》の視線《しせん》が集まる中、その向こうからゆっくりと出て来たのは――
「あらあら〜、みなさんどうしたのですか〜」
「……そんなに見つめられると(ぽっ)」
――にっこりメイドさんと無口メイド長さんだった。
なぜか二人とも得物《えもの》(?)である巨大ハンマーと木目模様のチェーンソーを手に持っている。
「何やらシリアスなお顔をしてらっしゃいますけど、何かあったのですか〜?」
「何かって、今、中から人が逃《に》げて……」
そう告《つ》げると那波《ななみ》さんはゆるりと首をかたむけて、
「えーと、人って、もしかして狼男さんのことですか〜?あのセイウチみたいなキバをした〜」
「那波さん、何か知ってるんですか?」
「う〜ん、私たちはただ補修《ほしゅう》作業《さぎょう》を行っていただけなのですが〜」
そんな言葉《ことば》が返ってきた。
「補修作業?」
「はい〜。実は歩いている途中《とちゅう》でたまたまセットの建《た》て付《つ》けが悪いところを発見してしまいまして〜。そのままでは危《あぶ》なそうだったので直してさしあげようかと思い作業をしていたのですが、何やらそこを通りかかった狼男さんが私たちの姿《すがた》を見た途端《とたん》、大《だい》絶叫《ぜっきょう》を上げてどこかへ行ってしまわれまして〜」
「……」
「何をそんなに慌《あわ》てていたのですかね〜?」
原因《げんいん》判明《はんめい》。
なんつーかまさに、幽霊《ゆうれい》の正体見たりメイドさん≠ナある。
「……もしかして、お節介《せっかい》でしたでしょうか?」
葉月《はづき》さんがぼそりとつぶやく。「……私たちとしては良かれと思ってやったことなのですが…………」
「いやお節介とかそういうことじゃなくてですね……」
そりゃああの暗闇《くらやみ》の中で、見知らぬメイドさんたちがチェーンソーと巨大ハンマーを持ってトンカントンカンチュインチュインチュインと共同|作業《さぎょう》をしてたら怖《こわ》いだろ。『恐怖《きょうふ》、文化祭のオバケ屋敷《やしき》でハンマーとチェーンソーを振《ふ》り回《まわ》すメイドさん!』とかの都市伝説になりそうだ。
「……わたし、ちょっとだけあの狼男《おおかみおとこ》さんに同情したくなってきたかも」
「……同感だ」
美夏《みか》と二人で、そううなずき合ったのだった。
「さ〜、それじゃ次行こ、次!」
オバケ屋敷から十メートルほど離《はな》れた途端《とたん》に、バッテリーを入れ直したラジコンヘリ(五|馬力《ばりき》)のごとく元気になった美夏がそう急《せ》かしてきた。
「せっかくここまで来たんだから、めいっぱい楽しんでいかないとソンだよね? 人間楽しんでこそ免疫力《めんえきりょく》が高まって風邪《かぜ》とか引かなくなるんだから。…………オ、オバケ屋敷なんて、あんなの邪道《じゃどう》だよ、うん」
何かを振り払うかのようにそう言って、たたたっと走り出す。
「ほ〜ら〜、おに〜さんたちも早く〜。置いてっちゃうよ〜」
「やれやれ……」
野に解《と》き放《はな》たれた野生の仔グマみたいな美夏に苦笑《くしょう》する。もうすっかりいつも通りだな。ついさっきまではあんなに大人しかったってのに。
「ふふふ、美夏様、いつにもまして楽しそうですね〜」
那波《ななみ》さんがにこにこと微笑《ほほえ》みながらそう話しかけてきた。
「そうですか? 普段《ふだん》からあんな感じだと思うんですけど」
常《つね》に上がり気味《ぎみ》高気圧《こうきあつ》なテンションはいつもの美夏とまったく変わらない。強いて言えばそれが夏型か冬型かってことくらいか。
「そんなことないですよ〜。裕人《ゆうと》様といっしょに文化祭を回ることができて、美夏様はとってもとっても嬉《うれ》しがっているんです〜」
「はあ……」
「裕人《ゆうと》様も、男の子でしたらそういうことにちゃんと気付いてあげなきゃだめですよ〜? 基本ですから〜」
人さし指を立ててそんなことを言ってくるにっこりメイドさん。そう言われても普段《ふだん》のツインテール娘と今のツインテール娘がどう違《ちが》うのかさっぱり分からんわけだが。
ともあれ、それから美夏《みか》たちといっしょにいくつかのクラスを回った。
「あ、これくださ〜い。あ、そっちのネギマも。そこのタコヤキもおいしそ〜だな〜」
「よく食べるな……」
「ん〜、デザートにはチョコチップとチョコバナナのどっちがいいかな〜。どっちも美味《おい》しそうで捨てがたいってゆうか……よし、決めた、ダブルにしてもらお。あ、支払いは全部こっちのおに〜さんがやってくれますから〜♪」
「な、ちょ――」
「はーい、全部で千二百円になります。支払ってくださいね、おに〜さん=v
「う……」
行く先々でヤキトリを食べたりアイスクリームを食べたりタコヤキを食べたりして、美夏は非常にご満悦《まんえつ》なようだった。
「あ〜、おいしかった。満腹満腹♪ もう食べられないよ〜」
美夏が心から満足そうに笑う。
「俺の財布《さいふ》は空腹《くうふく》というか飢餓《きが》状態《じょうたい》だがな……」
文化祭用に少し多めに用意しておいたDr. ノグチ×三(今月の小遣《こづか》いの八割)が、一瞬《いっしゅん》にして消え去っていた。というかカタチを変えて目の前のツインテール娘の腹の中にすっぽりと収まっていた。
「ま〜ま〜、い〜じゃんそれくらい。おに〜さん、年上なんだし。それにこ〜んなかわいい美少女といっしょに文化祭を回れたんだから、おに〜さんも嬉しいでしょ♪」
「……」
回ったというか、オバケ屋敷《やしき》を除《のぞ》いてはほぼこのツインテール娘が何かを食べてるシーンを見てるだけだったような気がするんだがな……
廊下を歩きながら、この一時間で得《え》たモノと失ったモノの等価性《とうかせい》について深く思考《しこう》を巡《めぐ》らせていると、
「あー、裕人だー」
「?」
またどこからか声をかけられた。しかも今度は名指《なざ》しで。
「こっちこっちー、おーい!」
声の元を辿《たど》ってみるとそこには、
「こんなところで何してるのー? あ、いいなー、メイドさんを二人も連《つ》れてるー」
何やらやたらとフリフリな格好《かっこう》をした小柄《こがら》な女子生徒がいた。親《した》しげな笑《え》みを浮かべてこっちに向かってぶんぶんと手を振《ふ》っている。しかもけっこうかわいい。
「……おに〜さん、あの人、知り合い? また新しい女?」
隣《となり》の美夏《みか》がジト目でそんなことを言ってくる。またって何だよ……
「その台詞《せりふ》には色々と突っ込みたいことはあるが……とりあえず、だれだか分からん」
「分からんって、あの女の人が?」
「ああ。人違《ひとちが》いなんじゃないか?」
どこかで見たことがあるような気はしなくもなくはないが、ひとまず俺の記憶《きおく》領域《りょういき》の中に一致《いっち》する人物は存在《そんざい》しない。基本的に女子の知り合いはそう多くはないため、一度会ったことがあるなら忘《わす》れることはないはずだから、てことは人違いだってセンが有力だと思われる。
なのでそう説明したところ、
「ん〜、それはアレ? 身に覚《おぼ》えのある女の子が多すぎて、とても絞《しぼ》り込《こ》み切《き》れないってこと?」
そんな返事が戻《もど》ってきた。
「何でそうなる……」
「え〜、だっておに〜さんだもん。自分も気付かないところで女の子のヘンなツボを刺激《しげき》してそう」
「……」
……もういい。
とりあえず口で何を言ってもムダそうだ。
「あー、どちらさまで……?」
じっとりと湿《しめ》りまくった濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を晴らすためにも、もう大人しく本人に訊いてみることにした。俺のほとんどヤモリ並《な》みの記憶力に依存《いぞん》しようとするよりはそっちの方がよっぽど手っ取り早い。
近くまで歩み寄ってそう尋《たず》ねると女子生徒はちょこんと首を少し傾《かたむ》けて、
「えー、分からないのー? 冷たいなー。いっしょにお風呂《ふろ》にも入ったことがある仲なのにー」
「!?」
ふ、風呂!?
「お、おに〜さん!?」
美夏がくわっと目を剥《む》いた。「そ、それはいくら何でも問題だと思うよ!」
「い、いや待て。んなこと言われても、本当に知らないんだよ」
「裕人《ゆうと》様、ここまで来てヘタに隠《かく》すとためにならないですよ〜」
「……素直《すなお》に自白されることをお勧《すす》めします」
メイドさん二人までもがそんなことを言ってくる。本当に知らないもんはどうしようもないっつーのに……
自《みずか》らのあまりの信用のなさとこの場をどう切り抜けようかの二つの命題《めいだい》に悩《なや》んでいると
「んー、やっぱりこの格好《かっこう》じゃ分かんないかなー」
そこで女子生徒の声のトーンが僅《わず》かに低くなった。
「ほら、僕だよ僕ー、裕人《ゆうと》ー」
「え?」
その独特のよく通るムダにでかい声。まさかこいつ……
「信長《のぶなが》……か?」
「そうだよー。やっと気付いたー?」
あははーと無邪気《むじゃき》に笑いながら女子生徒がウイッグを取る。メイクをしているから分かりにくいものの、目の前のソレはよく見りゃあ確《たし》かに信長のアホだった。
「マジかよ……」
あり得《え》ねえ、全然分からなかった……
「は〜、男の方だったんですか〜。私でも気付きませんでしたよ〜」
「……不覚《ふかく》です」
両メイドさんがちょっと悔《くや》しそうにつぶやく。
「ま、コスを着てる時には成りきるのが基本だからねー。もう少しメイクが濃《こ》いのだったら、親|兄妹《きょうだい》にだって見破られない自信もあるしー」
そうさらりと言う信長。いや、だからってこの超スキルを有する葉月《はづき》さんたちにも気付かれないってどういうハイエンドだよ……。つーかそれ以前に、
「……だいたい、お前は何でそんな格好をしてるんだ?」
そこにそもそも致命的《ちめいてき》な問題があると思うんだが。
「ん? 何でって、もちろん宣伝《せんでん》のためだよー。これから午後にかけてまだまだ集客できるからねー。少しでもたくさんのお客さんに来てもらうために、チラシを配《くば》ったり呼び込みをしてたってわけー。ウェイトレス役の女の子をこっちに回すのはもったいないからねー」
「……」
言ってることは実に正論だった。……まあいいか。別にこいつが女装《じょそう》しようと何しようと俺には直接関係ないからな。
「あ、おに〜さん、そろそろ時間だよ」
美夏《みか》がピンク色の携帯《けいたい》を見ながら言った。
「ミスコン、確《たし》か二時からでしょ? 場所取りとかも考えるともう行かないとまずいんじゃない?」
「む、もうそんな時間か」
オバケ屋敷《やしき》と信長《のぶなが》で、思ったよりも時間を取られていたようだった。
「あー、そういうことだから俺たちはもう行くぞ」
「んー、ミスコンかー。僕も時間があったら後で顔を出してみようかなー」
信長は小さくそうつぶやき、
「ま、そういうことでー、ばいばーい」
来た時と同じように手をぶんぶんと振《ふ》りながら離《はな》れていこうとして、
「あー、そうだ裕人《ゆうと》ー。真尋《まひろ》が探《さが》してたよー」
と、思い出したように言った。
「真尋ちゃんが?」
「うんー。さっきお店の方に来てたー。声をかけたら『今日は久しぶりに裕にぃに会うんだから、ジャマしないでよねこのバカ兄貴! ていうか声かけないで。知り合いだと思われたくないから!』って言われちゃってさー。兄妹《きょうだい》の温《あたた》かいスキンシップって感じかなー」
「……」
温かくもなければましてやスキンシップですらないような気もしたが、そのヘンはもう個人の主観《しゅかん》の問題なので特に触《ふ》れはしまい。基本的に兄バカだしな、こいつ。
「まーでもきっと今日は会えないんじゃないかなー。真尋は方向音痴に加えて絶望的《ぜつぼうてき》に運が悪いからねー。今頃《いまごろ》は校舎の反対側でもさまよってると思うよー」
「そうか……」
久しぶりだし少しくらいは会ってみたかった気もするが、現在のこのメンバー(美夏《みか》、葉月《はづき》さん、那波《ななみ》さん)に彼女が加わると何となく大変《たいへん》なことになるような気もする。だからそれはそれでいいのかもしれない。
「まあ、よろしく言っておいてくれ」
「んー、らじゃー」
そう言って、今度こそ信長は俺たちとは逆《ぎゃく》方向へと歩いていった。
何やらさりげなく道行く男子達の熱《あつ》い視線《しせん》を浴《あ》びていたような気もしたが、まあそれは気にしなかったことにしよう。
ミスコン会場であるところの体育館は、真夏の東南アジア(タイとか)のようなむせ返らんばかりの熱気で溢《あふ》れかえっていた。
まあいまいち公式なんだか非公式なんだか分《わ》かり辛《づら》いグレーなもんとはいえ、ある意味学園祭最大のイベントといっても差《さ》し支《つか》えがないだけあって、学園内にいる人間のおよそ七割くらいが集結してるんじゃないかってくらいの盛況《せいきょう》ぶりである。一階の通用口から二階の展望《てんぼう》席《せき》に至《いた》るまで、とにかく人でイッパイイッパイだった。
「ぬおっ」
右を見ても左を見ても人・ヒト・ひと。一歩進むのすら難儀《なんぎ》する。
「は〜い、美夏《みか》様、裕人《ゆうと》様、こっちですよ〜」
「……はぐれないようにお気を付けください」
そんな本格ドイツウィンナーのごとく人がみっちりと詰《つ》め込《こ》まれた体育館の中を、空間|制御《せいぎょ》装置《そうち》でも装備《そうび》してんじゃないかってくらいに何事もなくすり抜けていくメイドさん二人。やっぱこの人たち、フツウじゃねえ……
「は〜、やっと着いた……」
ようやく最前列まで到達《とうたつ》し、美夏がふわ〜と大きくため息《いき》を吐《つ》いた。
「ん〜、去年もすごかったけど、今年もまたすごいね。人がアリンコさんみたいだよ〜」
「去年?」
「うん。わたしたち去年も見に来てたの。お姉ちゃんが出てたから」
「ああ、なるほど」
そういえば去年のグランプリは春香《はるか》だったんだっけな。俺はその時クラスの出し物(昆虫アンケート)の留守番《るすばん》をやっていて見に来られなかったんで直接はその時の様子《ようす》を知らんわけだが。
「すごかったんだよ〜。ほとんどお姉ちゃんの独壇場《どくだんじょう》って感じで。本人はわたわたおろおろしてて大変だったんだけど、ふふ」
思い出したのか、美夏が楽しそうに口元を緩《ゆる》めて笑う。なんかその時の様子が思いっきり目に浮かぶな。
「ま、でも今年もお姉ちゃんの優勝で決まりかな。身内の贔屓目《ひいきめ》かもしれないけど、真っ向から勝負してお姉ちゃんに勝てる入ってそうはいないと思うんだよ」
うーむ、どうなんだろうね。
俺としても優勝はまず春香だと信じているが、信長《のぶなが》のやつが今年はレベルが高いみたいなことを言っていた。それに今年は椎菜《しいな》(春香とは違《ちが》うタイプの活発系美少女)もいる。なのでもしかしたらそこまでの大差はつかないかもしれんな。
などとそこはかとなく勝手な分析《ぶんせき》していると、
「ん、そこにいるのは裕人か?」
もうこれで今日何回目だろうね。またどこからか名前を呼ばれた。
「おお、やはりそうか。む、いっしょにいるのは乃木坂《のぎざか》さんの妹さんだな」
三メートルほど離《はな》れた所から大声を出していたのは、外出用のスーツ姿《すがた》の我が家の姉上様だった。
「あ、ルコおね〜さんも来てたんだ?」
「ああ。乃木坂《のぎざか》さんが出るかもしれんという話だったからな。それなら見に来ない手はあるまい?」
うなずきながら言う。全然関係ないんだが、なんかこのアホ姉、腰のところに刀を差してるように見えるのは俺の目の錯覚《さっかく》だろうか。心から錯覚であってほしいと願うが、やつの周囲《しゅうい》半径一メートルくらいに人ゴミのエアポケットができてるという事実がその願いを見事《みごと》に否定《ひてい》してくれている。頼《たの》むから何か事件を起こして俺が身元引受人として迎《むか》えに行かされるような事態《じたい》だけは避けてくれよ……?
そんな俺の不安|極《きわ》まりない心情をヨソにルコは涼《すず》しい顔をして、
「む、そちらのメイドさんたちも久しぶりだな。いつもうちのバカが世話《せわ》になっているみたいで、感謝《かんしゃ》している」
「いえいえ〜、こちらこそ〜」
「……裕人様にはよくしていただいております」
葉月《はづき》さんたちと仲良く挨拶《あいさつ》を交《か》わしていた。ったく、人の気も知らんで……
心の中で深いため息《いき》を吐《つ》く。
と、その時だった。
バッ!
唐突《とうとつ》に、体育館内の照明《しょうめい》が一斉《いっせい》に落とされた。
辺《あた》りが一瞬《いっしゅん》だけ真っ暗になり、次に緞帳《どんちょう》が下りたままのステージ周辺《しゅうへん》だけが白く照《て》らされる。そして、
「皆様、大変長らくお待たせいたしました。それではこれより、第三十五回|白鳳祭《はくほうさい》ミスコンを開催したいと思います!」
壇上からマイク越《ご》しのそんな声が響《ひび》いた。
続いて緞帳がゆっくりと上がっていき、その向こうから何やらタキシードの男が姿《すがた》を現《あらわ》す。
しかもアレ、どこかで見たことがあると思えばあの時の隠《かく》し撮《ど》り男の一人じゃねえか。
タキシード男はコホンと咳払《せきばら》いをして、
「あー、今年は例年と比べてレベルが高く、予備《よび》審査《しんさ》も非常《ひじょう》に難航《なんこう》しました。その厳《きび》しい戦いを勝ち抜いてきた八名の出場者をこれからご紹介したいと思います!」
うおー!! と大きな歓声《かんせい》がそこら中から上がる。すげぇ盛《も》り上《あ》がりだ。
「ではまずエントリーナンバー一番。『メガネっ娘なのに薙刀《なぎなた》部《ぶ》副部長』二年一組の朝比奈《あさひな》麻衣《まい》さんです!」
「よ、よろしくお願いします……」
朝比奈さんがステージの袖《そで》から姿を現す。
「続いてエントリーナンバー二番。『去年の準《じゅん》グランプリ』三年一組の住友《すみとも》美弥《みや》さんです!」
「よろしくお願いしますね」
「エントリーナンバー三番『騒擾《そうじょう》の織姫《おりひめ》』三年二組の織川《おりかわ》巴《ともえ》さんです!」
「あー、みんな、よろしくねー♪」
「エントリーナンバー四番『炎《ほのお》の転入生』二年一組|天宮《あまみや》椎菜《しいな》さんです!」
「よろしくっ」
「エントリーナンバー五番『|絶対零度の氷姫《プリンセス・ブリザード》』、一年三組の天王寺《てんのうじ》冬華《とうか》さんです!」
「…………ぷい(無言《むごん》で顔を背《そむ》けて)」
「エントリーナンバー六番『忠犬《ちゅうけん》』二年一組の八咲《やつさき》せつなさんです!」
「あ、よ、よよよろしくおねがいしま……わふっ(噛んだらしい)」
「エントリーナンバー七番特別参加|枠《わく》『|永遠の十七歳《エターナル・セブンティーン》(自称)』上代《かみしろ》由香里《ゆかり》センセイです!」
「は〜い、みんなお待ちかねの美人おねいさんの登場よ〜」
次々と名前が読み上げられ、それとともに出場者が壇上《だんじょう》に姿《すがた》を現す。最後になんか一人へンなのが混じってたような気もするが、それはまあとりあえず聞かなかったことにした。
「そしてエントリーナンバー八番――」
そこで一度司会の男子生徒は言葉《ことば》を切った。
ダララララララ……とどこからかドラムロールが響《ひび》いてくる。
その軽快《けいかい》なリズムに乗るようにして司会の男子生徒は大きく手を振《ふ》りかざし、
「『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』にして『|鍵盤上の姫君《ルミエール・ドゥ・クラヴィエ》』『昨年のグランプリ』、乃木坂《のぎざか》春香《はるか》様です!!」
パッ!
次の瞬間、壇上が三色のスポットライトによって照らされ、その中央にエンジェルドレスを着た春香の姿が浮かび上がった。
「あ、よ、よろしくお願いしますです」
その雰囲気《ふんいき》に少し気圧《けお》されたように、春香がおずおずと頭を下げた。
さすがに去年の優勝者だけあって他の出場者とは少し扱《あつか》いが違《ちが》うようだ。まあ一人だけ『様』付けなのは司会者の個人的嗜好なのかもしれんが。
そんな感じで、出場者全八名が一斉《いっせい》にステージ上に並《なら》んだ。
「わあ、みんなきれいな人ばっかだね〜」
隣《となり》の美夏《みか》がそう声を上げる。
さすがにミスコンにエントリーされるだけあってどれもみんな粒《つぶ》ぞろいかつ個性豊かな美少女(と言うには年齢的に問題あるのが一人いるが)であり、それが八人も揃《そろ》っている姿は圧巻《あっかん》だった。
ちなみにうちのクラスからは朝比奈《あさひな》さん、椎菜、八咲さん、春香の四人がエントリーされていた。四人とも、それぞれ教室で着ていた衣装《いしょう》を身にまとっている。いやしかし、考えてみれば出場者八人中その半分がうちのクラスってのもすごいもんだな。
「はい。それでは全ての出場者が出揃《でそろ》いましたところで、まずはそれぞれひとりずつ自己紹介をしてもらいたいと思います。一番の朝比奈《あさひな》麻衣《まい》さんからどうぞ」
「あ、は、はい。ええと……」
司会者に促《うなが》されて、朝比奈さん(魔法服《まほうふく》装備《そうび》)が一歩前に出る。
「あ、あの、気付けばこんなところに立っていますが、一生懸命《いっしょうけんめい》がんばりたいと思いますので、どうかよろしくお願いします」
「わー!」とか「かわいー!」とかの声とともに拍手《はくしゅ》が巻《ま》き起《お》こる。
「はい、ありがとうございました。続いて二番の住友《すみとも》美称《みや》さん、お願いします」
「はい」
そして二番の住友さん、三番の織川《おりかわ》さんとやらが無難《ぶなん》に挨拶《あいさつ》をこなし、
「ではエントリーナンバー四番、天宮《あまみや》椎菜《しいな》さんです」
椎菜(悪魔《あくま》ドレス装備)の番になった。
「はじめましてっ、天宮椎菜です。趣味《しゅみ》はピアノと薙刀《なぎなた》で座右《ざゆう》の銘《めい》は『先手《せんて》必殺《ひっさつ》』。少し前に北海道から転校してきたばかりでよく分からないことが多いですけど、できる限《かぎ》りがんばりたいと思いますので応援《おうえん》よろしくお願いします!」
ひと息《いき》でそう言い切ると、観客に向かって元気にがばっと頭を下げた。
「おー!」「いいぞー!」「がんばれー!」「元気っ娘《こ》好きだ!」
周囲《しゅうい》から今までよりも一際《ひときわ》大きな歓声《かんせい》と柏手《はくしゅ》が鳴《な》り響《ひび》く。どうやらこの時点では椎菜が一番の高《こう》評価《ひょうか》のようだ。
次いで今大会|唯一《ゆいいつ》の一年生である『|絶対零度の氷姫《プリンセス・ブリザード》』天王寺《てんのうじ》冬華《とうか》、クラスメイトである『忠犬《ちゅうけん》』八咲《やつさき》さんと続き、
「は〜い、みんな。今日も元気に×××してるかな〜?」
どこぞのセクハラ教師の番になったのだが、いつものごとく頭の悪いことこの上ないテンションだったのでこれは省略。
そして、とうとう春香《はるか》の番がやって来た。
「それではいよいよトリに入ります。エントリーナンバー八番、昨年度グランプリの乃木坂《のぎざか》春香様よろしくお原いします!」
「あ、え、えと……」
大仰《おおぎょう》な紹介に戸惑《とまど》った表情を浮かべる春香は、迷子《まいご》の仔犬《こいぬ》みたいにきょろきょろと不安そうに体育館内を見回し、
「に、二年一組の乃木坂春香です。こ、この度《たび》はこのような場を設《もう》けていただいてとっても嬉《うれ》しく思っております。ふ、不束者《ふつつか》ですが、一生懸命《いっしょうけんめい》がんばりたいと思いますので、応援《おうえん》していただけると嬉しいです」
ぺこりと頭を下げた。
「きゃ〜、春香《はるか》さま〜!」
「初々しいですぅ! そのままお家に持って帰りたいですぅ!」
「…………ステキ……」
取り巻きやら親衛隊《しんえいたい》やらの黄色みがかった声で体育館中が埋《う》め尽《つ》くされる。
ちなみに何やら微妙《びみょう》に自己紹介の仕方を間違《まちが》ってるように思えるところは、気にしちゃいけないところらしい。
「――ふむ、確《たし》かになかなかレベルが高いようだな」
自己紹介が全て終わるのを見届《みとど》けて、ルコがぽつりとつぶやいた。
「全体として高い閾値《いきち》で安定してまとまっているというか、百点満点中八十〜九十点くらいの者たちが集まっているな」
偉《えら》そうに批評《ひひょう》する。
「だがこれくらいならまだ乃木坂さんの優勝は固いだろう。彼女は頭ひとつ分くらいは抜けている。次点《じてん》であのプリン入りの冷凍庫なんたらとかいう一年生と、放火のうんたらとかいうお前と同じクラスの者というところか」
「……」
『|絶対零度の姫君《プリンセス・ブリザード》』と『炎《ほのお》の転入生』な。
相変わらずあまり興味《きようみ》のない相手に対してはスバラシイ認識力《にんしきりょく》である。つーか後者の椎菜《しいな》に至《いた》っては、最初の一文字「ほ」しか合ってねえし。
「さて、自己紹介も終わりましたところで、次は簡単《かんたん》な質疑《しつぎ》応答《おうとう》を行いたいと思います。まずは一番の――」
司会の声が響《ひび》き渡《わた》る。
まあそんな感じで、ミスコンはどんどんと進められていき――
「ではここで、出場者の皆様にはそれぞれの有する特技を披露《ひろう》していただきます!」
メインとも言えるプログラム、特技披露となった。
特技披露とは、その名の通り出場者が制限時間内に自らの持つ特技をもって自己アピールをするものである。一人ずつステージに現《あらわ》れ、それぞれの特技を披露していく。
「そ、それじゃあ、やらせてもらいます」
一番の朝比奈《あさひな》さんは薙刀《なぎなた》の演舞《えんぶ》。
二番の住友《すみとも》さんは日本|舞踊《ぶよう》。三番の織川《おりかわ》さんはテーブルマジックと続き、
「それでは四番の天宮《あまみや》さん、お願いします」
「はいっ」
またもや椎菜の番となった。
名前を呼ばれて元気に返事をした後、椎菜はステージの隅《すみ》に置いてあるどでかいピアノ(夏休み明けの全校集会で春香が使ったモノ)へと歩いていくと、おもむろにそれを弾《ひ》き始《はじ》めた。
「ん〜、やっぱコンクールで二位になるだけあってかなり上手いねー」
流れ始めた旋律《せんりつ》を聴《き》いて、美夏《みか》が腕《うで》を組む。
「しかも前の時よりも音が良くなってるような気がする。何かあったのかな?」
「分かるのか?」
「うん。これでもいちおう昔から音楽はやってるし、お姉ちゃんのピアノも聴《き》いてるからね〜。ちなみにこれショパンの『舟歌《バルカローレ》』って曲だよ。ショパンさんが迫《せま》る失恋《しつれん》の危機《きき》と体調の悪さに怯《おび》えてずたずたのぼろぼろになりながら作ったやつで、ヴェネチアのゴンドラをモチーフにしてるとかしてないとかって話もあるんだって」
「……」
なんか今にも沈没《ちんぼつ》しそうなゴンドラだな、それ。
まあ曲のしょんぼりとした由来《ゆらい》はともかく、演奏自体は素晴《すば》らしかった。
椎菜の演奏には春香と同じく人を引き込む何かがあるんだよな。よくは分からんが、おそらくそれが才能《さいのう》とかそういうもんなんじゃないかとも思う。
「ご静聴《せいちょう》、ありがとうございましたっ」
曲を弾《ひ》き終《お》え挨拶《あいさつ》をすると、これまた自己紹介の時と同じく盛大《せいだい》な柏手《はくしゅ》が沸《わ》き起《お》こった。
「大人気だね、おに〜さんのお友達」
「ああ、みたいだな」
今のところ拍手量は春香《はるか》にもそれほど引けを取っていない。この調子なら、優勝とまではいかなくとももしかしたらいいところまでいくかもしれないな。
ちなみに次の順番である五番の天王寺《てんのうじ》さんと六番の八咲《やつさき》さんはここに至《いた》って棄権《きけん》するとのことらしかった。前者からは「飽《あ》きたわ……帰る」と、後者からは「特技……ありません(ぐすっ)」とのコメントが寄せられていたとか。なんかどっちもどっちで両《りょう》極端《きょくたん》なすげぇ理由だ。
そして七番のセクハラ音楽教師。
「は〜い、それじゃおねいさんの特技を見・せ・て・あ・げ・る♪」
そんな台詞《せりふ》とともにいきなりアルコール度数九十七パーセントのウオッカを一気飲みした挙句《あげく》にそのまま半脱《はんぬ》ぎ状態《じょうたい》で火炎《かえん》放射《ほうしゃ》をやろうして、即座《そくざ》に強制退場させられた。滞在《たいざい》時間|僅《わず》か三十秒。てかミスコンだけじゃなく教職からもそのまま強制退場させられなきゃいいんだけどな。
まあそれは比較的《ひかくてき》どうでもいいことなのでさておき。
由香里《ゆかり》さんの次は、いよいよ春香の出番だった。
「え、えと……私もピアノを弾かせてもらいます」
ステージ中央で遠慮《えんりょ》がちに頭を下げると、春香はとてとてとぎこちない足取りでピアノへと歩いて行った。
シン、と会場内が水を打ったかのように静まり返る。
どこぞの礼拝堂《れいはいどう》のような厳《おごそ》かな雰囲気《ふんいき》の中、春香は集中するように一度目をつむりゆっくりと息《いき》を吐《は》くと、そのまま白魚《しらうお》のような指をそっと鍵盤《けんばん》の上に添《そ》えた。
静かに流れ出すメロディー。
椎菜《しいな》と同じく、春香もクラシックの曲を弾くのかと思ったのだが、
「これは……」
聴こえてきたのは、クラシックとはどこか感じの違《ちが》う旗律《せんりつ》だった。
曲の雰囲気がポップっぽいというか耳に馴染《なじ》みやすい。これまで何度か春香や椎菜の演奏《えんそう》を聴いてきたおかげか、それくらいは何となく分かるようになっていた。
「キレイな曲……春香せんぱいにぴったり」
「うっとりしちゃいますぅ」
「…………感動です……」
取《と》り巻《ま》きたちがほーっとため息を漏《も》らす。
確《たし》かにいい曲だな。キレイで切なげで、だけどどこか悲しげで……聴いているとどこか感傷的《かんしょうてき》な気分になってくるというか……
「――ん?」
でもこれ、どっかで聴《き》いたことがないか?
この耳《みみ》心地《ごこち》がよく耳障《みみざわ》りがいい感じは、どこか記憶《きおく》の片隅《かたすみ》に引っかかる。
頭を捻《ひね》ってみるものの、しかし俺の脳内はよほどシナプス同士の結合《けつごう》具合《ぐあい》が悪いのか、思い出せそうで思い出せない。
「ぬぅ……」
手巻《てま》き寿司《ずし》を食べていたら上アゴに海苔《のり》が張《は》り付《つ》いた挙句《あげく》にそれが取れそうで取れない時のようなもどかしい気持ちでうなっていると、
「ん、おに〜さん、なんか野生の水牛みたいな声出してどうしたの。お腹《なか》でも痛《いた》い?」
「いや、この曲に聴き覚えがある気がしてな」
「そなの? だとしたら、なんかお姉ちゃんの趣味《しゅみ》糸《けい》の曲なんじゃない? わたしはよく分かんないけど」
「春香《はるか》の趣味……あ」
その美夏の一言に、脳髄《のうずい》の奥で何かが閃《ひらめ》いた。
そうだ、これはあれだ。誕生日パーティーで俺が春香にあげたオルゴールの曲。確《たし》かタイトルは『はにかみトライアングル1st 』のエンディングテーマだったか。それに間違《まちが》いない。
だけど。
「……この曲、こんなに悲しげな曲だったか?」
そこが引っかかった。
あの時流れていた旋律《せんりつ》、春香が歌っていたメロディー。キレイな曲ではあっても、決して悲しい曲じゃなかったはずだ。
そう思って見てみると、春香の表情もどこか浮かないように見える。いや表面上は笑顔《えがお》なんだよ。でもまるでその裏で何かに必死《ひっし》に耐《た》えているみたいな……
「……」
どういうことだ、これは?
春香の表情と旋律とが意味するところが分からずに困惑《こんわく》していると、
「ヘー、これって『はにトラ1st 』のエンディングテーマだよねー」
いつの間に釆ていたのか、隣《となり》で腕組《うでぐ》みをしていた信長《のぶなが》(女装《じょそう》解除《かいじょ》)がウンウンとうなずいていた。
「これはねー、アキちゃんが親友のメグちゃんと決闘《けっとう》する時に、大好きな幼馴染《おさななじ》みのケンくんを想《おも》って弾《ひ》く曲なんだよー。決闘時の挿入《そうにゅう》歌《か》としても使われててねー」
「……そうなのか?」
「うんー。それにしても面白《おもしろ》いよねー。天宮《あまみや》さんが『ダメっ娘メグちゃんデビルヴァージョン』のコスで、乃木坂《のぎざか》さんが『ドジっ娘アキちゃんエンジェルヴァージョン』のコスでピアノを弾くなんてー。本当にアニメの一場面みたいだよー。うーん、いいねー」
「え……」
それを聞いて思い出した。
今回『コスプレ喫茶《きっさ》』をやるにあたり信長《のぶなが》から聞かされた(ムリヤリ)、『はにかみトライアングル1st 』の内容。
「うーん、まあ内容はありがちな魔法《まほう》少女モノなんだけどねー。取り得がピアノだけで他は何をやっても失敗ばかり、幼馴染《おさななじ》みのケンくんにほのかな恋心を抱《いだ》いてるアキちゃんって女の子が主人公の話でー。ある日アキちゃんは言葉《ことば》を喋《しゃべ》る不思議《ふしぎ》なイヌに出会うんだよー。魔法の国のお姫様だというそのイヌは、『悪魔《あくま》』から逃《のが》れてこちらの世界にやってきたんだけどー、たまたまアキちゃんに魔法使いの素質《そしつ》があることを見《み》抜《ぬ》いて助けを求めてくるんだよー。で、それに応《おう》じたアキちゃんは天使の心で『悪魔』と戦うようになるんだけど、その時に色々な衣装《いしょう》をねー……うんたらかんたら……
――(ここで衣装について一時間ほど語りやがったため中略)――
で、ある時アキちゃんは自分と同じように失敗ばかりをやっているメグちゃんって女の子と出会って親友になるんだよー。メグちゃんはアキちゃんの魔法のことを薄々《うすうす》気付きつつも知らないフリをして影《かげ》ながら助けていくんだけどー、でもある日ケンくんに恋をしちゃうんだよねー。アキちゃんとの友情と恋との間に揺《ゆ》れるメグちゃん。その心の隙《すき》を『悪魔』に突かれて悪の魔法使いになるんだよー。違《ちが》う道を行き、敵《てき》同士になってしまった二人。やがてそれは二人の涙《なみだ》の決闘《けっとう》っていう形で収束《しゅうそく》していってー……なんたらかんたら……――(ここから先は信長の超個人的感想で特にストーリー内容に関係なかったため省略)」
確《たし》かそんなストーリーだったはずだ。
いやまあ内容的には色々と突っ込みどころがあってやまない話なんだが、この際《さい》それはどうでもいい。
問題は春香《はるか》が弾いている曲と、それが使われたというアニメの場面。
その曲に秘《ひ》められた、ヒロインの想《おも》い。
そのことを春香が知らないわけがない。
「春香……」
一つの可能性《かのうせい》が頭に浮かぶ。
まさかとは思う。
だがそれ以外に考えようがない。
その時、唐突《とうとつ》にいつかの春香の言葉が浮かんだ。
『裕人《ゆうと》さん、知っていますか? ピアノの音色《ねいろ》には弾《ひ》いているその人の内面――その人の心の内やその時の心情が表れるものなんですよ』
音楽室で椎菜《しいな》のピアノを聴いた時に言っていた言葉《ことば》。
音色にはそれを弾く者の心が透《す》けて出るという考え方。
「……っ」
決定打だった。
やはり春香《はるか》は昨日のことを気にしてなくなんかない。何とも思ってなくなんかない。それどころか――
やがて春香の演奏《えんそう》が終わった。
笑顔《えがお》でぺこりと頭を下げてステージの袖《そで》へと消えていく春香。
辺《あた》りからは嵐《あらし》のような柏手《はくしゅ》と喝采《かっさい》が沸《わ》き起《お》こっていたが、正直俺の耳には入ってこなかった。
頭の中にあるのは春香の悲しげな表情。
そこに秘められた、春香の本当の気持ち。
――とにかく、春香に会わないとならん。
それが何を置いてもの、今の最《さい》優先《ゆうせん》事項《じこう》だった。
その後にどんなことが行われたのかはよく覚《おぼ》えていない。
ただ気付けばプログラムは全てつつがなく終了し、ミスコンは終わりを迎《むか》えていた。
「それでは皆さん、去年に引き続き見事《みごと》グランプリを獲得《かくとく》した乃木坂《のぎざか》春香様に、盛大《せいだい》な拍手をお顧いします!」
結果《けっか》はやはりというか春香の優勝だった。
二位以下に大差をつけての完全優勝。
ちなみに二位となった椎菜《しいな》も得票《とくひょう》ではそれなりのセンまではいき、朝比奈《あさひな》さんも四位入賞したらしいが、そんなことよりも今は大事なことがあった。
「わ〜、お姉ちゃんやったね♪ さすがってゆうか、今夜はお赤飯《せきはん》に決定かな。あのおに〜さんのお友達の人も準《じゅん》グランプリになったみたいだし……って、あれ、おに〜さん、どこ行くの?」
「悪いな、ちょっと急用がある」
「え、急用?」
「ああ!」
表彰式その他が終わりミスコンが終了するとともに、俺はミスコン出場者控《ひか》え室《しつ》(体育館横の特設プレハブ小屋)に向かって鉄砲玉《てっぽうだま》のごとく走り出していた。
どうしても、春香に確認《かくにん》しておかなきゃいけない。
昨日の一件(エロマウントポジション)に対して春香《はるか》が心の奥で感じていたこと。
もしも朝の笑顔《えがお》が、それを隠《かく》して無理《むり》やりに作り出されたものだったとしたら――
「春香!」
プレハブ小屋の前で、ちょうど入り口から出て来た春香の後《うし》ろ姿《すがた》を発見した。羽根の付いたクリーム色のエンジェルドレス。遠目《とおめ》かつメガネ越しの俺の目だが、間違《まちが》えるはずがない。
「春香!」
もう一度名前を呼ぶ。
「え?」
それでようやく気付いたのか、春香はこっちを振《ふ》り向《む》くと目を丸くして、
「あれ、裕人《ゆうと》さん? どうしたんですか、そんなに慌《あわ》てて……」
とてとてと駆《か》け寄《よ》ってくる。その顔には朝と見たものと同じような笑みが浮かんでいるが……それが普段《ふだん》のものとは全然|違《ちが》うってことが今ならよく分かる。くそ、何で今まで気付かなかったんだ。数時間前の自分の養殖《ようしょく》アヒルみたいな能天気《のうてんき》っぷりに腹が立つ。
「春香……」
もう訊くまでもなく答えは出ていたが、それでもあえて言わなければならない。「……訊きたいことが、ある」
「はい? 何でしょうか」
表面上はにこにこ笑顔《えがお》で首をかたむける春香に対して、俺はゆっくりと口を開いた。
「……昨日のこと、だ」
「え……?」
「昨日のことでいくつか訊きたいこと――いや話したいことがあるんだ。……いいか?」
途端《とたん》に、春香の顔が氷のように固《かた》まった。
「あ、の……昨日のこと、って……」
「そのままだ。昨日の夜に、その、春香が見ちまったことについてっつーか……」
「あ、え……」
夕立の前の空みたいに、春香の表情がどんどんと曇っていく。
正直春香にそんな表情をさせるのは辛《つら》かったが、ここで根本的に解決をしておかないとどうしようもない。
「とにかく聞いてくれ。昨日のアレは――」
春香に近づき事情を説明しようとして、
「…………や……です」
しぼり出すような、そんな声が春香の喉《のど》から漏《も》れた。
「春香?」
「……や…………いや……」
何かに怯《おび》えるようにじりじりと二、三歩後ずさり、
「……いや……です。き、聞きたくありません。よ、よく分からないですけど……そのことは、聞きたくないんです」
「あ――」
春香《はるか》の大きく澄《す》んだ瞳《ひとみ》から、ぽろぽろと幾粒《いくつぶ》もの涙《なみだ》がこぼれていた。昨日の夜に見たものよりも、もっと本格的な決壊《けっかい》。
「――っ」
両手で目元を押《お》さえると、そのままくるりと後ろを向いて春香は走り出した。
「春香!」
大声で名前を呼ぶも、こちらを振《ふ》り返《かえ》らずに春香は走っていく。
「くそっ!」
ここで追《お》わなかったら昨日と同じだ。
校舎の方へと駆けていった春香を追って、俺は走り出したのだが――
「きゃっ、ちょっと何やってんのよ!」
「あ、わ、悪い」
運の悪いことに、ちょうどミスコン会場から出て来た大勢《おおぜい》の人々が雪崩《なだれ》のごとく道をふさいでいて、
「いてーな、どこ見て歩いてんだよ!」
「いやちょっと急いでて……」
そしてそれらの人の流れをうまくかわして全力|疾走《しっそう》できるほどの身体能力はもちろん俺には
なく――
人ごみに揉《も》まれているうちに、春香の後《うし》ろ姿《すがた》はいつの間にか視界《しかい》から消えていた。
春香を追って校舎内に突入したものの、こちらもまた校庭同様、生徒・来場者を問わず多くの人で溢《あふ》れていて、春香の姿はなかなか見つからなかった。
春香の身長は、美夏《みか》(超ミニマム)のように低すぎるわけではないが決して高いわけでもない。これだけ多くの人間の中に紛れ込んでしまったら、外観《がいかん》だけで探《さが》し当《あ》てるのはかなり困難《こんなん》である。
また羽根付きドレスを頼《たよ》りに探《さが》そうにも、文化祭という日の特性上、そういった奇抜《きばつ》というか普通《ふつう》でない格好《かっこう》をした者はたくさんいる。さっきの幽霊《ゆうれい》姿の女子生徒しかり信長《のぶなが》しかり。ゆえにこれもまた、手がかりとしてはあまり役に立ちそうにない。
「春香《はるか》、どこだ……」
一通り校舎内を回ってみたものの、結局《けっきょく》春香を発見することはできなかった。
「教室にでも戻ったのか……?」
この混雑《こんざつ》の中、春香が行きそうな場所はそれくらいしか思いつかない。
なので一度教室に帰りクラスメイトたちに訊《き》いてみたものの、
「悪い、春香を見なかったか?」
「乃木坂《のぎざか》さん? ううん、見てないよ」
「うーん、私も見てないかな」
「わりぃ、ちょっと分かんねえ」
「私、一時くらいからずっとお店にいるけど、戻ってきた様子《ようす》はないと思うよ?」
そんな言葉《ことば》が返ってくるだけだった。
「そうか……」
どうやら教室にも戻って来ていないようである。
これで春香の足取りは完全に途絶《とだ》えてしまった。
それどころか三時からはコスプレ喫茶《きっさ》の仕事が俺に回ってくることになっており、探《さが》しに行くこともままならない。くそ、こんなことしてる場合じゃないってのに……
と、
「ねー、裕人《ゆうと》、もしかしてなんか急用があったりするー?」
「え?」
いつの間にそこにいたのか、信長が何気《なにげ》ない顔でそう訊いてきた。
「んー、何だか追《お》い詰《つ》められた『幼馴染《おさななじ》みケンくん』みたいな顔してるからさー。急ぎの用事でもあるんじゃないかって思ったんだけどー」
「それは……」
その通りなんだが、信長に詳《くわ》しい事情を話すわけにはいかない。これは春香の『秘密』とプライバシーに深く関わってくることだ。
俺が口をつぐんでいると
「んー、やっぱりなんか事情があるみたいだねー。あ、別に詳しいことは話さなくてもいいよー。どうせ言《い》い難《にく》いことなんだろうしー。そういうことならここは僕に任《まか》せて、裕人は行きなよー」
「……いいのか?」
いつも通りの笑みを浮かべる幼馴染みの顔を見る。
「うんー。他ならぬ裕人のためだからねー。店の方は僕がうまくやっとくからさー」
「信長……」
その厚意《こうい》が嬉《うれ》しかった。普段《ふだん》の行動は色々と問題だが、何だかんだでいいやつなんだよな、こいつは。
「ほらー、早く行きなよー。急いでるんでしょー?」
「あ、ああ。スマン、恩《おん》に着る!」
「いいってー。その分、また今度色々と付き合ってもらうからー」
信長《のぶなが》のそんな楽しげな声を背中《せなか》で聞きながら教室をダッシュで飛び出す。
こうなったらもう、片《かた》っ端《ぱし》から探《さが》してみるしかない。
春香《はるか》がいる可能性《かのうせい》がある場所をしらみ潰《つぶ》しに回っていく。
校庭。
体育館。
中庭。
音楽室。
屋上《おくじょう》。
だけどそのどれにも春香の姿《すがた》はない。
近くにいた生徒たちに訊いてみても、春香を見たという報告《ほうこく》すらない。
――春香を探すってのはこんなに大変《たいへん》なのか?
改めてそのことに気付く。
今までは春香の方から会いにきてくれた。気付けば傍《そば》にいてくれた。俺はその状況《じょうきょう》に甘んじて……春香がそこにいるのが当たり前だなんて勘違《かんちが》いをしてたんじゃないのか?
「……くそ!」
ぽわぽわな、お日様みたいな春香の笑顔《えがお》が脳裏《のうり》を掠《かす》める。
春香に会いたかった。
会って謝《あやま》りたいのはもちろん、それ以上にただ春香といっしょにいたかった。春香の心からの笑顔が見たかった。
だがそんな想《おも》いとは裏腹《うらはら》に時間ばかりが流れるように過ぎていき、
『それではこれにて、第三十五回|白鳳祭《はくほうさい》を終了いたします。ご来場の皆様、本当にありがとうございました。まだ校内におられる方々は、最寄《もよ》りの出口から速《すみ》やかにご退場《たいじょう》を――』
とうとう、そんなアナウンスがスピーカーから響《ひび》いてきた。
校内を走り回っている内に、いつの間にか文化祭終了の時刻となっちまっていたようだった。
「……はあ」
重苦しいため息《いき》が口からこぼれる。
結局《けっきょく》、春香といっしょに文化祭を楽しむことはできなかった。あと残っているのはもはや後夜祭《こうやさい》くらいで……
「……後夜祭?」
そこで頭にひとつの可能性が浮《う》かぶ。
そうだもしかしたら……
その瞬間《しゅんかん》、俺の足は動き出していた。
そう、最後に残されたひとつの可能性《かのうせい》。
アキハバラで交《か》わした、フォークダンスの約束《やくそく》。
まだそれがあった。
約束したんだし、きっと来てくれるはずだ。
一縷《いちる》の望みとともに、フォークダンスの会場である校庭へと、俺は全速力で走った。
校庭では、後夜祭《こうやさい》及びそこで使われるキャンプファイヤーの準備《じゅんび》が行われていた。
後夜祭の始まりとともにすぐに着火されるということで、もうすでにけっこうな数の生徒が集まってきている。ざっと三、四百人はいるだろうか。
「春香《はるか》?」
「ちょっと、何?」
「あ、すいません、人違《ひとちが》いです」
その中を片《かた》っ端《ぱし》から春香の姿《すがた》を探《さが》していく。
「あの――」
「ん、だれ?」
「あ、や、間違えました」
だがそれでも春香は見つからない。
疲《つか》れからか暗くなってきて視力《しりょく》が落ちてきているのか、髪形《かみがた》だけが似《に》ているエセ春香や背中《せなか》の羽根がダチョウみたいなニセ春香にまで声をかけちまったのは、もはや末期的《まっきてき》症状《しょうじょう》としか言えないかもしれん。
ここにも来てないなんて……
気持ちがさらに重く大型船の碇《いかり》のように沈《しず》みこむのを感じた。
これが最後の頼《たの》みの綱《つな》だった。
約束をした時の春香の嬉《うれ》しそうな顔。何があっても、これにだけは来てくれると思っていたのだが……
しかし何でこんなことになっちまったんだろう。
今さらながらに思う。いったい何が悪かったというのか。
文化祭前のすれ違《ちが》い、エロマウントポジション。
原因《げんいん》らしきものを考えていけばいくつかは挙《あ》げられるが……やはり一番の問題は春香を傷付《きずつ》けてしまったことに気付けなかった俺自身だろう。
やたらと明るく振《ふ》る舞《ま》っていた春香。
昨日のことには触《ふ》れようともしなかった春香《はるか》。
意識《いしき》無意識はともかくとして、あれはもしかしたら傷付《きずつ》いた春香の春香なりの俺へのサインだったのかもしれん。
だけど俺はそれを受け止めることなく、見事《みごと》なまでにスルーしてしまった。
まさに見逃《みのが》し三振《さんしん》状態《じょうたい》。
昔から鈍感《どんかん》だのボケーっとしてるだの言われてきたが、今日ほど自分のアホさを恨《うら》めしく思った時はない。
もしも数時間前に戻れるのならば、顔面《がんめん》デッドボールになってでも受け止めてみせるってのに……
そんなことを考えながら校庭の片隅《かたすみ》で一人立《た》ち尽《つ》くしていると
「――あれ、そこにいるのってもしかして裕人《ゆうと》?」
ここのところよく聞いていた元気|溢《あふ》れる明るい声がかけられた。
「あ、やっぱり裕人だ。どしたの、こんなところでぼーっとして」
「椎菜《しいな》……」
顔を向けると、そこには制服に着替えた椎菜の姿《すがた》があった。
「なんか今にも口からエクトプラズムでも吐《は》き出《だ》しそうな顔してるけど、だいじょうぶ? 調子でも悪いの?」
「あ、いや大丈夫《だいじょうぶ》だ……」
首を横に振《ふ》ると椎菜は「そう? ならいいんだけど……」と言って、
「そうだ、そういえばミスコン見てくれたかな? あたし、いちおう準《じゅん》グランプリになったんだよ。あ、もちろんグランプリは乃木坂《のぎざか》さんだったんだけどね。やっぱすごいよねー、乃木坂さん。何の曲かは分かんなかったけど、あんなにキレイに弾《ひ》くなんてさすがとしか――」
いつもの明るい調子で楽しそうに話しかけてくる。だけど椎菜には悪いが、今はのんびりと
お喋《しゃべ》りに興《きょう》じているような気分じゃない。春香を探《さが》さないとならないし。
「スマン、ちょっと――」
と言いかけた時、
「あ、そうだ。ねえ裕人、今から時間ある?」
「え?」
「や、よかったらいっしょにフォークダンスでも踊《おど》らないかなーって。せっかくこんなところで会えたんだし」
ちょっと照《て》れたようにそう言ってきてくれた。
「フォークダンスか……」
その申し出は嬉《うれ》しかった。
一年前の俺だったら、春香と知り合う前の俺だったら練《ね》り餌《え》を前にした冬のヘラブナのごとく飛びついていただろう。
だが今は――
「悪い、まだ用事が残ってるんだ……」
いくら春香《はるか》との約束《やくそく》がなくなった可能性《かのうせい》が高いからといって、すぐにホイホイと椎菜《しいな》の誘《さそ》いを受けるようじゃ、人間として男としてどうかと思うしな。
「あ、そうなんだ。だったらしょうがないかー」
俺の返答《へんとう》に、あまり気にした様子《ようす》もなく椎菜は明るくそう言った。
「ほんとスマン。どうしてもやらなくちゃいけないことでな……」
「あ、気にしないでよ。そんな真剣《しんけん》に誘ったわけじゃないんだし、それならそれで麻衣《まい》たちと適当《てきとう》に見てるからさ」
「そうか……」
それならいいんだが……
「じゃ、あたし行くね。麻衣たちと合流しないとなんないし」
「ああ、本当に悪い」
「いいっていいって。それじゃまたね」
ばたばたと手を振《ふ》って、椎菜はキャンプファイヤー(着火《ちゃっか》寸前《すんぜん》)の方へと歩いていった。
――ほんとスマン、椎菜。
その姿《すがた》を見送り、俺は再《ふたた》び春香を探《さが》すべく走り出した。
一方、キャンプファイヤーへと向かった椎菜は、
「あーあ、ふられちゃったか」
ちょっとばかり残念《ざんねん》そうな顔で空を見ながら、頭の後ろで手を組んでそんなことをつぶやいていたのだった。
後夜祭《こうやさい》会場である校庭にいないとすると、後はやはり校舎内しか考えられなかった。
少し前にも回った高等部内の目ぼしいところを、もう一度|徹底的《てっていてき》に探す。ここのところの春香との巡《めぐ》り合《あ》わせの絶望的《ぜつぼうてき》なまでの悪さもある、もしかしたら行《い》き違《ちが》いになってしまった可能性もゼロではなかった。
「ここには……いない」
一階から順に上へと向かって各階をローラー作戦で潰《つぶ》していく。
「こっちも、ダメか……」
先ほど探した時に比べると人の数はだいぶ減《へ》っていて探しやすかったが、それでも全教室を漏《も》れなく確認《かくにん》するのにはそれなりに時間も労力もかかってしまった。
だがそこまでしてもやはり春香《はるか》は見つからず、
春香に繋《つな》がる手がかりさえも見つけられず、
とうとう屋上《おくじょう》まで来てしまった。
「いない……か」
だれもいない冷たい風が吹く薄暗《うすぐら》い屋上でひとりごちる。
校庭ではもう後夜祭《こうやさい》が始まったのか、楽しげな生徒たちの歓声《かんせい》に紛《まぎ》れてオクラホマミキサーの音色《ねいろ》がここまで流れてきていた。
――まさかとは思うが、もう帰っちまったんだろうか。
ここまで探《さが》して影《かげ》もカタチも見つからないってことは、もはやそれしかないような気もする。
すれ違《ちが》いの未の帰宅《きたく》。
いやでも春香が教室に立ち寄った様子《ようす》はないし、教室に寄っていないということは制服に着替えることもできていないということだから、まさかあの恥《は》ずかしがり屋《や》の春香が羽根付きドレスを着たまま帰るとも思えない。いやだがそのヘンは車とかを使えば何とか――
「だめだ……」
思考《しこう》が完全にループ状態《じょうたい》だった。
メビウスリングに乗せられたハツカネズミみたいに、アホみたいに同じ場所をグルグルグルグルと回っている。
ホントにどうすりゃあいいんだろうな。半ば諦《あきら》めのため息《いき》とともに手すりに腕《うで》をかけた瞬間《しゅんかん》、
「……春香様を、お探しですか」
「!」
ふいに耳元で声が響《ひび》いた。
夜に降《ふ》る雪のように静かで、落ち着いた声。
「……こんばんは、裕人《ゆうと》様」
「は、葉月《はづき》さん……」
そこにいたのは乃木坂《のぎざか》家《け》の無口メイド長さんだった。
いつものように無表情のまま、背景《はいけい》に溶《と》け込《こ》むように立っている。
「……」
いや何でこの人はこんな時まで音も気配もなく背後《はいご》から現《あらわ》れるんだとか、というかいつから俺の後ろにいたんだとか、突っ込みたいことは山ほどあったが、今はそれよりも気にかかることがあった。
「……春香様をお探しですか?」
そう、その台詞《せりふ》だ。
どうしてこの人は俺が春香を探していることを知っている? ミスコン会場で別れてから今に至《いた》るまでこの人とは会っていないし、美夏《みか》や那波《ななみ》さんとも接触《せっしょく》していない。いくら乃木坂家のメイドさんがメイドさんとは思えないほどの超スペックを誇《ほこ》るとはいえ、ソースもなしにこの短時間でそこまで知ることはさすがに難《むずか》しいだろう、たぶん。
すると、
「……事情は全て承知《しょうち》しております」
「え……」
「昨日に春香《はるか》様と裕人《ゆうと》様との間にあったこと、春香様のお気持ち、そして今どうなっているか、僭越《せんえつ》ながら私は全て承知しております」
淡々《たんたん》と、静かな声音《こわね》で葉月《はづき》さんはそう告《つ》げてきた。
「……」
どういうことだ? それって、まさか春香から聞いてたってことか?
そんな俺の内心の疑問に答えるかのように、
「……見ておりましたので[#「見ておりましたので」に傍点]」
「は?」
「……申し訳ございませんが、全部見ておりました。実はあの時、春香様には隠《かく》れて護衛《ごえい》についていたのです。いかに学園へ向かうとはいえ夜道は危険ですから。そうしていたところあのような場面に遭遇《そうぐう》してしまい、出るに出られずに……」
とのことらしかった。
「……」
「……申し訳ございません」
見てたっていったいどこから……ってのはもうこの人に訊くのは野暮《やぼ》だろう。天井《てんじょう》裏《うら》なり壁《かべ》の中なり、何だってアリな気がする。
ともあれ事情は分かった。
それなら俺が春香を探《さが》していることをこの人が知っていても不思議《ふしぎ》じゃない。
だったら、
「春香は……どこにいるんですか?」
それを訊くべきだろう。
その質問に葉月さんは静かに俺の顔を見て、
「それに答える前に……裕人様に、ひとつだけお伝えしたいことがあります」
「お伝えしたいこと?」
「はい」
首を縦《たて》に振《ふ》りながら、一歩こちらへと近づく。
「……私が裕人様にお伝えしたいことはひとつ、春香様への向き合い方についてです。美夏《みか》様が仰《おっしゃ》ったように、何を置いても全てに先んじて春香様のことを優先《ゆうせん》してくださいとまでは言いません。現実問題として、それは限《かぎ》りなく不可能《ふかのう》に近いのですから。ですが――」
そこで葉月《はづき》さんは一度言葉《ことば》を止めて、
「――選ぶべき時だけは、間違《まちが》えないでください」
「選ぶべき……時?」
「……はい」
葉月さんが静かにうなずいた。
「私にも昔……今の裕人《ゆうと》様と同じようなことがありました。……あれは今から三年前、大好きだったエリックが私の前から消えてしまいそうだった時のことです」
「エリック……」
男の名前だ。昔の恋人か何か……なんだろうか?
「……その時のことについて細《こま》かく語《かた》ることはいたしません。それはこの場においては無用な代物《しろもの》です。ただ、私は選ぶべき時を見極《みきわ》めることができなかった。選ばなければいけないその時に行動に移《うつ》ることができなかったのです。そしてその結果《けっか》……エリックは私から離《はな》れていきました」
「……」
「ある日ふいに私の前から消えてしまったエリック……いつまでもそこにいてくれると思った存在《そんざい》が実はそうではないと知った時、私は悩《なや》みました。そして後悔《こうかい》をしました。どうしてあの時に動かなかったのだろう、どうしてできることをやらなかったのだろう、と」
「葉月さん……」
「その時の後悔は……今でも忘《わす》れることができません」
当時のことを思い出しているのか、遠い目をする。その表情は今まで見たことがないほど深い憂《うれ》いに満ちていて……声をかけるのすらためらわれた。
やがて葉月さんはうつむかせた顔を上げ、
「……だからこそ、私は裕人様に私と同じような気持ちは味わっていただきたくないのです。あの時の私の、選ぶべき時を間違えてしまった切ない気持ちを……」
「……」
そうか……この一見ロマンスとは無縁《むえん》なように見える無口メイド長さんも、実は色々と苦労してきてるんだな。そのエリックさんとやらが葉月さんにとってどれほどの人だったのかは俺には分からんが、その時に彼女が深い後悔を感じていただろうことだけはその語り口から理解《りかい》できた。
「すみません、辛《つら》い話をさせてしまって……」
俺が謝《あやま》ると、
「……いえ、だいじょうぶです」
葉月さんは静かに首を振《ふ》って、
「ちなみにその後、エリックはオークションで無事《ぶじ》に手に入れることができましたので」
そんなことを、言った。
「……は?」
オークション? オークションって、あの?
「……『YABEE! オークション』です」
「……」
「……」
「え、ええと、葉月《はづき》さん、そのエリックというのは……?」
何だか相互《そうご》理解《りかい》に大きな齟齬《そご》があるような気がしてならない。
「……当時発売された、期間|限定《げんてい》のテディベアです。ぴんと立った耳と意思《いし》を感じさせる瞳《ひとみ》がとても凛々《りり》しくかつかわいらしかったのですが……当時の私の貯蓄では手が出せないほどの値段《ねだん》だったのです」
「……」
……ヌイグルミの話だった。
てかそれ、別に選ぶべき時を間違《まちが》ってないだろ。
何だかいい話だったんだかそうでなかったんだか判断《はんだん》しかねていると、
「……春香《はるか》様は、体育館裏にいらっしゃいます」
葉月さんが言った。
「……行ってさしあげてください。今の春香様には……裕人《ゆうと》様が必要《ひつよう》なはずです」
真《ま》っ直《す》ぐにこっちを見つめ、手をぎゅっと握《にぎ》ってくる。
「葉月さん……はい」
うなずき返す。
まあエリックうんぬんはともあれ、葉月さんが何を伝えたかったのかは分かった。動くべき時に動け。そう言いたかったに違《ちが》いない。
「じゃあ、俺は行きます」
「……はい。息災《そくさい》があらんことを祈っております」
ぺこりと頭を下げる葉月さんに背《せ》を向け屋上《おくじょう》を出ようとして、
「――あ、ところで葉月さん」
「……はい」
春香のもとへ行く前に、どうしても一つだけ訊いておきたいことがあった。
ここで声をかけられた最初から、気になって気になって仕方のなかったこと。それは――
「……どうしてまた制服なんですか?」
「……」
そう、なぜかこの無口メイド長さんの格好《かっこう》は例の実技|指導《しどう》の時と同じく白城《はくじょう》の制服|姿《すがた》だった。
後夜祭《こうやさい》に紛《まぎ》れ込《こ》むための変装《へんそう》のつもりなのか、それともまさか実はお気に入りだとか……?
すると葉月《はづき》さん、微妙《びみょう》に照《て》れたように顔を逸《そ》らしつつ、
「………企業《きぎょう》秘密《ひみつ》です」
短くそう答えたのだった。
体育館裏《うら》に着いたと同時に、聴《き》こえてきたのはオルゴールの音だった。
聴《き》き覚《おぼ》えのある、というかつい数時間前に体育館で聴いた美しくも悲しげなメロディー。
微《かす》かに聞こえるその音を追《お》っていくと、そこには古びた木のベンチの上にぽつんと一人|座《すわ》り込んでいる羽根付きドレス姿《すがた》の春香《はるか》がいた。
これは――
「春香……」
「あ……」
俺の姿に気付くと、春香は焦《あせ》ったような顔で手に持っていた物体のフタをぱたんと閉じた。
メロディーが、途切《とぎ》れる。
見覚えのあるそのピアノ型の物体は、俺が誕生日プレゼントで渡《わた》したあのオルゴールだった。
「こんなところにいたのか……探《さが》したぞ」
人気《ひとけ》のまったくない体育館の裏。
昼間でさえあまり人が来ることのないこの場所は、日が落ちたこの時間になっては周辺《しゅうへん》にすら人の姿はない。葉月《はづき》さんに教えられなければ、絶対《ぜったい》に分からなかっただろう。
「裕人《ゆうと》さん……」
春香は顔を上げると、泣いているような笑っているような複雑な表情でこっちを見た。
その顔に、思わず胸《むね》がチクリと痛《いた》む。
いったい春香はいつからここにいたんだろう。どんな想いで、どんな顔をしてこんなところに一人でいたんだろう。
それを考えると、まったくもってやり切れなくなってくる。
俺はゆっくりと春香に近づいていくと
「隣《となり》……いいか?」
そう尋《たず》ねた。
「あ……」
春香は小さく声を上げ、一瞬《いっしゅん》だけ戸惑《とまど》うような素振《そぶ》りを見せたが、すぐにこくりとうなずいてくれた。
木のベンチに腰《こし》を下ろす。
隣《となり》にはエンジェルドレス姿《すがた》の春香《はるか》。
ただそこにいるだけで、ほのかに柔《やわ》らかい香《かお》りが漂《ただよ》ってくる。
しばしの沈黙《ちんもく》を挟《はさ》み、俺は思い切って口を開いた。
「春香……昨日は悪かった」
「え……」
春香が驚《おどろ》いたようにこっちを見る。
「昨日の夜のことだ。わざわざ差し入れまで持って来てくれたのに、何だか妙《みょう》なことになっちまって……」
「あ、あの……」
「いやそれだけじゃないな。昨日の一件から始まって今日の今に至《いた》るまでの色々なことについてなんだが……。その、何から謝《あやま》ればいいのか分からんが……とにかくスマン!」
精一杯《せいいっぱい》の気持ちを込めて頭を下げる。
今の俺にできることはこれくらいしかない。
だが俺の言葉《ことば》に春香は困惑《こんわく》したように手を振《ふ》って、
「そ、そんな、あれは裕人《ゆうと》さんが悪いわけじゃないんです。だ、だから謝らないでください」
「でもな……」
故意《こい》ではないとはいえエロマウントポジションを見せるハメになっちまったし、その説明を十分にすることもできなかった。さらにはその後も春香が傷付《きずつ》いていたことにも気付かずにノンキな顔をしていたのも事実だ。
だが春香はふるふると首を振って、
「ち、違《ちが》うんです。私は、そうじゃなくて……」
「え……?」
春香はしばらくの間何かを考え込んでいたようだったが、
「あ、あの時のことは……私にもよく分からないんです」
やがてぽつりとそう言った。
「分からない?」
「……はい」
こくりとうなずく。
「どうしてあの時裕人さんから逃《に》げてしまったのか、どうして涙が出てしまったのか……自分でも全然分からないんです。ただ、その、天宮《あまみや》さんと裕人さんの姿を見たら胸《むね》がもやもやとして苦しくなってきて……気付けば、走り出していました――」
「……」
「胸が苦しいような、悲しくなってくるような……そんな変な感じでした。まるで何か大事なものを失くしてしまったみたいな……。こんなことは生まれて初めてで、裕人さんの前でどんな顔をすればいいのかも分からなくなってしまったんです。だから、せめて裕人《ゆうと》さんにイヤな思いをさせないように笑っていようって……うっ……」
春香《はるか》が声を詰《つ》まらせる。
「で、でも、それもムリでした。ミスコンが終わった後に裕人さんが会いに来てくれて、『昨日のこと』と言われた瞬間《しゅんかん》……あの時のことが急に頭の中に浮かんできてしまったんです。そうしたらまた胸《むね》が苦しくなって、その場にいることも辛くなってきて……」
「春香……」
「い、今でもどうしてそうなるのかは分からないんです。だけど何だか裕人さんが遠くへ行ってしまったように感じて…………ぐすっ……す、すみません」
再《ふたた》び涙《なみだ》を流しながらそう言ってくる春季。
それって……少しは俺のことを意識《いしき》してくれてるってことだよな?
「……」
嬉《うれ》しかった。
はっきり言って、その場でバク宙をしたいくらい嬉しかった(できんけど)。
春香と『秘密《ひみつ》』を共有するようになり、いっしょに行動をすることが多くなって半年。ここに来てようやく春香の本当の心を少しだけ垣間《かいま》見《み》ることができたような気がするな。
なのでそれに応《こた》えるべく、俺も言った。
「……どこにも行かないさ」
「え……」
「俺はどこにも行かないぞ。少なくとも春香がイヤだと言うまでは、春香の傍《そば》を離《はな》れるつもりはない。なぜなら――」
そこで一度言葉《ことば》を切り、
「俺は――春香といっしょにいたいからな」
そう、告《つ》げた。
あー、なんかいつにもましてめちゃくちゃ恥《は》ずかしい台詞《せりふ》のような気がするな。てか勢《いきお》いに任《まか》せて言っちまったが、これって取りようによっちやあプロポーズとかにも聞こえるんじゃないか? いや内容自体にウソはないんだが、もう少しやり様《よう》ってもんがあったかもしれん。
「……」
うーむ、これはもしかしてまたやっちまったか……と恐《おそ》る恐《おそ》る春香の方を見ると。
「…………たい、です……」
「え……?」
春香はこっくりとうなずいて、
「はい……私も…………私も、裕人《ゆうと》さんといっしょにいたいです。ずっと、裕人さんがイヤだと言うまでは、いっしょに……」
そんなことを言ってくれた。
「もう、あんな想いはしたくないです……裕人さんが遠くに行ってしまったような、あんな気持ちはイヤです……」
「春香《はるか》……」
ぼろぼろと涙《なみだ》をこぼしながら、何度も何度もうなずいてくる。
そんな春季の肩《かた》に、俺はそっと手を回した。
手が触《ふ》れた瞬間《しゅんかん》に少しだけぴくりと動いたが、春香はそのまま嫌《いや》がることなく身を寄せてきてくれた。
そしてゆっくりと顔を上げると、
「ゆ、裕人さん……裕人さん…………」
それまで抑《おさ》えてたもんが一気に爆発《ばくはつ》したんだろうね。
俺の胸《むね》にしがみ付きながら、春香は声を出して泣いた。
これまで見たことがないほど、春香が感情を表に出した瞬間《しゅんかん》だった。
そのままどれくらい経《た》ったか。
「……落ち着いたか?」
「…………はい、です」
やがて人心地《ひとごこち》がついたのか、胸の中に顔を沈《しず》めたまま恥《は》ずかしそうにこっくりとうなずく春香に向かって俺は言った。
「……だったら、踊《おど》るか?」
「え?」
春香が首をかたむける。
「フォークダンス。約束《やくそく》しただろ?」
「あ、は、はい」
まだ赤い目をぱちくりとさせながら春香はうなずきかけ、
「あ、で、でももうダンスは終わってしまって……」
「大丈夫《だいじょうぶ》だ」
「で、ですけどそれだと音楽が……」
「音楽なら、あるだろ」
「え?」
きょとんとした顔をする春香の手にある、ピアノ型の物体のフタを開く。
流れ出すメロディー。
柔《やわ》らかで、キレイな旋律《せんりつ》が辺《あた》りに響《ひび》き始《はじ》める。
「わあ……」
春香《はるか》が声を上げた。
「どうだ? これだって立派《りっぱ》な音楽だ」
「裕人《ゆうと》さん――は、はいっ」
春香が大きくうなずく。
そして流れる音楽に会わせて、俺たちは踊《おど》り始《はじ》めた。
月明かりの下、オルゴールの音色《ねいろ》を伴奏《ばんそう》とした二人だけのフォークダンス。
「え、えへへ、裕人さん、へたっぴです」
「む、しょうがないだろ。こんなもん生まれて初めてなんだし……」
去年はキャンプファイヤーの脇《わき》で、幸せそうなカップルどもを眺《なが》めながら三馬鹿《さんばか》や信長《のぶなが》たちとダラダラとだべってるだけだったしな。
「だったら私に身体を任《まか》せてくださいです」
ちょっと甘えた声でそんなことを言う。
「ほ、ほら、ここでこうやってステップを踏《ふ》むんですよ」
「む、むう……」
春香の指示のもと、慣《な》れないリズムで足を動かす。
降《ふ》り注《そそ》ぐ白い光の中、そんな風にぎこちなく踊る俺たちの後方五メートルほどの木陰《こかげ》で、
「うんうん、お姉ちゃん、がんばったね」
「成長した愛娘《まなむすめ》を見る気分ですね〜」
「……お二人とも、おめでとうございます」
どこぞのツインテール娘とメイドさん×二がこっそりとそんな会話を繰《く》り広《ひろ》げていたというのは、後に聞かされた話だ。
ともあれ。
俺たちの仲直りのダンスは、オルゴールの音が鳴《な》り終《お》わるまで続いたのだった。
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文化祭の翌日《よくじつ》の振《ふ》り替《か》え休日。
なぜか俺は乃木坂《のぎざか》邸《てい》、『七色|孔雀《くじゃく》の間《ま》』(客間)にいた。
「も〜、おに〜さんはほんとにはらはらさせるんだから。一時はどうなることかと思っちゃったよ〜」
「ほんとです〜。見ていて落ち着かないというか〜、春香《はるか》様が泣き出した時には思わず木陰《こかげ》から飛び出しそうになりましたし〜」
「……やきもきしました」
「……」
招《まね》き入《い》れられるなり部屋《へや》の真ん中に正座《せいざ》をさせられてそんな説教をされまくる。
周《まわ》りにいるのは、美夏《みか》・葉月《はづき》さん・那波《ななみ》さんの三人。
これは何でも、先日に行われた『第一回お姉ちゃんとおに〜さんのすれ違《ちが》いを何とかしよう会議』の反省会とやらであるらしい。家でのんびりと前日の文化祭でのエネルギー消耗《しょうもう》(色んな意味で)の回復に努めていたところ、突然《とつぜん》やって来たメイドさんたちに春香が呼んでいると言われ急いで来てみたら、待っていたのがこれだったのだ。
「だめだよ〜、男の子は常《つね》にビンカンに女の子の気持ちを推《お》し量《はか》ってあげなきゃ。なんてゆうの、気配《きくば》り? 男の甲斐性《かいしょう》?」
「ええ、まったくもってその通りです〜。本来ならば泣き出してしまう前に先手を打って何とかしなくてはいけないところですよ〜」
「……ニブチン?」
「…………」
三人が三人とも、もはや言いたい放題《ほうだい》である。
正直言ってこんなエセ井戸端《いどばた》会議な場からは即座《そくざ》にでも帰りたかったのだが美夏|曰《いわ》く、
『まあまあ、いいからちょっと座《すわ》りなって(正座)。お姉ちゃんが会いたがってるってゆうのは本当だよ? 後でいきなり部屋に行ってあげたら喜ぶんじゃないかな。サプライズイベントって感じ? だけどその前にわたしたちのお話を聞いてからね♪』
とのことで、仕方なくこの場に踏《ふ》みとどまっているのであるが。
「い〜い、男の子の基本スキルは一に優しさ二に気配り、三四がなくて五に甲斐性なんだよ?おに〜さんには一以外がまだまだ欠けてるんだから、そこんとこをよく自覚《じかく》しとかないと」
「優しさだけでは人は生きていけないのですよ〜」
「……甲斐性ナシ?」
しかしさっきから延々《えんえん》とプチ説教が続きまくってもう三十分になるぞ。何だか内容もループというかエンドレスの様相《ようそう》を呈《てい》してきたし、いいかげんに終わらせてもらって春香のところへ行きたいんだが……
「でもさ〜、葉月《はづき》さんも知ってたんならもっと早く言ってくれればい〜のに」
と、美夏《みか》がちょっと不満そうに頬《ほお》を膨《ふく》らませた。
「わたしたちはてっきりおに〜さんは無事《ぶじ》に牛乳イベントを成功させてお姉ちゃんとらぶらぶになってると思ってたんだよ。なのに実はあんなドロ招な状況《じょうきょう》になってたなんて聞いて、驚《おどろ》いちゃった」
「そうですよ〜、ひとり占《じ》めはひどいです〜。情報はもっとみんなで分け合わないと〜」
那波《ななみ》さんもぶ〜ぶ〜と文句《もんく》を言う。
それを聞いた葉月さんは、
「……申し訳ありません。ですが、今回のことについてはなるべく他者の手を借りずに裕人《ゆうと》様がご自身の力で解決すべきことと判断《はんだん》しました。なので最後の最後まではお二人の耳には入れない方が良いと思いまして……」
「ん〜、まあそれは分かるんだけどさ〜。でも結局《けっきょく》、葉月さんは手助けしたんだよね」
「エリックちゃんのお話までして後押《あとお》しをしたと聞きましたが〜」
「……それは」
葉月さんが少し照《て》れたように顔をうつむかせる。「……心配《しんぱい》、でしたので」
「ん〜、だけどしょ〜がないのかな〜。葉月さんのお気に入りだもんね、おに〜さんは♪」
「エリックちゃんのお話はですね〜、かな〜り心を開いた人にしかしてくれないんですよ〜?」
美夏と那波さんが意味ありげな笑みとともに俺の顔を見て、葉月さんが「…………」と黙《だま》り込《こ》む。
むう、よく分からんがあのエリックうんぬんとやらの話は葉月さんにとってそんなに秘蔵《ひぞう》の一品だったのか。いやまあ色々と複雑ではあるし、基本的にはいい話なんだけどさ。クマじゃなければ。
「ま、でも今回の一件で分かったことは、おに〜さんにはまだまだわたしたちの指導《しどう》の必要《ひつよう》があるってことだよね」
にやりと美夏が笑う。
「ですね〜。失礼ですがまだまだ裕人様は経験不足かと〜」
「……同意します」
その言葉《ことば》を受けて、那波さんと葉月さんも俺に目を向けた。
う、なんかすげぇイヤな予感《よかん》が。
これはまた面倒《めんどう》なことになる前にさっさと退散《たいさん》しちまおうかと出口に目を向けかけたところで、
「というわけで、これから第二回実技指導を行いま〜す。テーマは『文化祭前日にお友達でクラスメイトのおね〜さんとにゃんにゃんしてるところをお姉ちゃんに見られて慌《あわ》てまくるおに〜さんの正しい対処《たいしょ》法《ほう》』に決定いたしました〜♪」
「ひゅ〜ひゅ〜♪」
「……ぱちぱちぱちぱち」
「……」
遅《おそ》かった。
引《ひ》き際《ぎわ》を間違《まちが》えて挟《はさ》み撃《う》ちに追《お》い込《こ》まれた戦国武将のような気分になる俺の横で、美夏《みか》はどこからかメガホンと折《お》り畳《たた》みイスを取り出し、
「というわけで準備《じゅんび》準備♪ おに〜さんはもちろんまたおに〜さん役で、お姉ちゃん役は葉月さん。あの天宮《あまみや》さんっておね〜さん役は那波《ななみ》さんね」
実に楽しげにそんなことを言い出した。
「で、状況《じょうきょう》設定《せってい》はっと……え〜と、確《たし》か葉月さんの話ではおに〜さんがおね〜さんに襲《おそ》い掛《か》かった時にお姉ちゃんが入ってきたってことだから……それじゃ那波さんはそこに立ってて。葉月さんは出番が来るまで部屋《へや》の外で待機《たいき》しててくれるかな」
「お任《まか》せください〜」
「……承知《しょうち》いたしました」
メイドさん二人も快《こころよ》くそんな返事をしやがる。ちなみにこの二人、今の一瞬《いっしゅん》(約三秒ほど)ですでにメイド服から制服|姿《すがた》へと変わっていた。だからあんたらは忍者《にんじゃ》ですか……
「さ、おに〜さん、準備はおっけ〜? 後はおに〜さんさえよければいつでも始められるよ」
もそもそと部屋を出て行くメイド長さん(制服着用)を背景《はいけい》にこっちを向いて、美夏がすげぇいい笑顔《えがお》でそう言った。
はあ……どうやら本気でやる気みたいだな。個人的には正直これっぽっちも気が乗らないというか転落《てんらく》気味《ぎみ》なんだが、このツインテール娘たちの真夏のミンミンゼミみたいな勢《いきお》いからしておそらくミッションコンプリートするまでこの部屋から出してくれんだろう。だったら、
「……分かった。やるならやってくれ」
とっとと終わらせちまうのが得策《とくさく》だ。ヘタに引《ひ》っ張《ぱ》れば引っ張るほど状況は雪だるま式に悪化していくに決まってるからな。
すると美夏は、
「あ、そう? 那波さんも準備はいい?」
「はい、ばっちりですよ〜」
にっこりメイドさんが笑顔でうなずき、
「うん。じゃあ始めるね――えい♪」
「ぬおっ」
かわいらしいかけ声とともに、俺の背中《せなか》がどんと押《お》された。
小型かつ軽量な一撃《いちげき》とはいえ背後《はいご》からの不意《ふい》打《う》ちである。俺の身体は勢いで前につんのめりそのまま進路上にいた那波さん(制服着用)にぶつかって、二人してもつれるように床《ゆか》へと倒《たお》れた。
「み、美夏《みか》!」
突然《とつぜん》何しやがる! 思わず声を上げた俺に、
「え〜、だっておに〜さんが天宮《あまみや》のおね〜さんに発情したケモノのように覆《おお》いかぶさったところから始まったんでしょ? だったらその状態《じょうたい》からじゃないと始められないじゃ〜ん」
しれっとした顔で美夏はそう言った。
「……」
いや、その前提《ぜんてい》は必須《ひっす》なのか? てか発情したケモノっておい……
「ほらほらおに〜さん、いいからもっとちゃんと密着《みっちゃく》しなきゃ。大事なのはりありてぃなんだよ、りありてぃ」
さらに好き勝手を言ってくる美夏。おまけにもう一人の当事者である那波《ななみ》さんも那波さんで俺の下で馬乗られ状態になりながら「強引《ごういん》な裕人《ゆうと》様もステキですよ〜♪」などと適当《てきとう》なことを言いながらにこにこ笑うだけだし。
「……」
もうグダグダだった。
朝メシの納豆《なっとう》に醤油《しょうゆ》と間違《まちが》えて思いっきりニョクマムをかけちまったくらいグダグダだった。
……帰りてぇ。
上から下から「おに〜さん、もっと優しくエスコートして!」「腰《こし》の位置《いち》はもう少し上の方がいいと思いますよ〜」などの意味不明な指示を受け、何だか自分がどうしてここにいるんだかそれすらも分からなくなりかけてきたその時。
がちゃり、と。
後ろの方で部屋《へや》のドアが開く音がした。
同時にだれかが部屋へと入ってくる気配《けはい》。
ああ、これはきっと春香役《はるか》の葉月《はづき》さんだろう。
シナリオが一昨日のエロマウントポジション事件の通りに進むならそのはずである。とすれば、後は牛乳とアンパンを落とすと思われる葉月さんにうまく対処《たいしょ》すればこの頭の悪い実技指導第二弾も終わりとなるはず――
と心からの安堵《あんど》とともに顔を上げると。
なぜかそこには、
「……え、えと……」
ぽかんとした顔で立《た》ち尽《つ》くす春香の姿《すがた》があった。
「……」
あー。
何で春香がここに?
いや乃木坂《のぎざか》邸《てい》なんだから春香《はるか》がいるのは当然なんだが、そうじゃなくて何だってこの客間であるところの『七色|孔雀《くじゃく》の間《ま》』に来客(俺のことな)を知らないはずの春香がいるんだってことである。
「ん、ん〜と、何でお姉ちゃんがここにいるのかな〜? おに〜さんが来ることは言ってなかったと思うんだけど……」
美夏《みか》にしてもこの場に春香が現《あらわ》れることは予想外《よそうがい》だったらしい。困ったような笑みを浮かべてそう尋《たず》ねた。
「え、私ですか? わ、私は、その、沙羅《さら》さんから裕人《ゆうと》さんがこちらにいらしていると聞いて来たのですが……」
「沙羅さん?」
出て来たのは、俺を乗せてここまで運転してきてくれたメイドさんの名前だった。
「は、はい。何かまずかったでしょうか……?」
「そっか〜、沙羅さんか〜。それは盲点《もうてん》だったな〜……」
美夏は三秒ほど沈黙《ちんもく》して、
「ん〜、こうなったらここは……よし、ほらおに〜さん、今こそここで決《き》め台詞《ぜりふ》だよ。俺が本当に覆《おお》いかぶさりたいのはお前だけなんだ!≠チて」
びっと俺の顔を指差しながらそう叫《さけ》んだ。
どうやら細かいイレギュラーは脇《わき》に置いておいて、強引《ごういん》に実技|指導《しどう》を続けることに決めたらしい。
「……」
いやまあ美夏らしいっちゃ美夏らしいが……いくら何でもそれはムチャだろ?
「す、すみませんでした。何だか美夏が色々とご迷惑《めいわく》をかけてしまったみたいで……」
「あー、いや」
「ほんとうにごめんなさいです……あの子も悪気《わるぎ》はないはずなんです。ただ裕人さんに懐《なつ》いているので、その……」
春季がぺこぺこと頭を下げる。
場所は移《うつ》って春香の部屋《へや》。
あの後、固《かた》まった春香に美夏とともに適当《てきとう》な事情を説明して何とかその場を誤魔化《ごまか》し(ちなみに俺と那波さんとでプロレスごっこをやっていたというトンデモ結論に落ち着かせた)、俺たちは『七色孔雀の間』を後にして春香の部屋へと向かったのだった。
ちなみにこの場に美夏たちの姿《すがた》はない。
客間を出たところで、
『ごめんね、おに〜さん。驚《おどろ》かせちゃったお詫《わ》びに、お姉ちゃんと二人っきりにさせてあげる。今回に限《かぎ》っては覗《のぞ》いたりしないから、お姉ちゃんとの時間を十分にエンジョイしてくれてい〜よ。――いっきにお義兄《にい》さんになってくれちゃったりして? きゃっ♪』
などと言い残して、フェードアウトしていったのだ。相変わらず耳年増《みみどしま》というか一言多いというか、ったく……
ともあれまあそういう次第《しだい》で、今はこうして春香《はるか》の部屋《へや》で二人で巨大ベッド(天蓋《てんがい》付き)の縁《ふち》に腰掛《こしか》けているわけだが。
「……」
改めて二人きりになると、なんか気まずいというか気恥《きは》ずかしかった。何せあんなほとんどプロポーズ紛《まが》いのこと(プラスこれ以上ないくらい恥ずかしい台詞《せりふ》)を言っちまった昨日の今日だ。照れくさくて春香の顔がまともに見られないっつーか……
「? あれ、裕人《ゆうと》さん、何だか顔が赤いような……。だいじょぶですか?」
「ん、あ、ああ」
「?」
我ながら微妙《びみょう》な挙動《きょどう》不審《ふしん》具合《ぐあい》を見せる俺に対して、春香は思ったよりも普通《ふつう》だった。いつもと変わらぬマイナスイオン振《ふ》りまきまくりな笑顔《えがお》で、ぽわんとこっちを見つめている。
「……」
むう、しかし本当にいつも通りだな。ここまで変化がないと、何だか昨日のアレが本当にあったことだか少しばかり不安になってくる。まさかとは思うがアレはイリオモテヤマネコ(肉食)に目を付けられたニワトリのごとく追《お》い詰《つ》められた俺が見た白昼夢《はくちゅうむ》だったとかじゃ……
などと若干《じゃっかん》被害《ひがい》妄想《もうそう》気味《ぎみ》な疑心《ぎしん》暗鬼《あんき》に囚《とら》われていると、
「――あの、裕人さん、昨日はありがとうございました」
「え?」
ふいに春香がそう言った。
「あ、い、いきなりすみません。突然《とつぜん》こんなことを言っても、驚いてしまいますよね」
「あ、いや」
それは別にいいんだが……
「でも私……とっても嬉《うれ》しかったんです。裕人さんが、その、私といっしょにいたいと言ってくれて……」
「春香……」
春香がぽっと頬を赤らめる。
「ご、ごめんなさい。だけどあんなことを言ってもらったのは初めてなんです。だからどうしてもちゃんとお礼を言っておきたくって……」
えへへ、と笑顔を見せる春香。
これはもしかして春香《はるか》も俺と同じ気持ちでいてくれたのか、と――思いきや。
「私も、裕人《ゆうと》さんにはいつまでもいっしょにいてもらいたいです。美夏《みか》や葉月《はづき》さん、那波《ななみ》さんや沙羅《さら》さん、お母様やお父様たちみたいに……」
にっこりと微笑《ほほえ》みながらそう言った。
「……」
……それって、何かが違《ちが》うような。
うーむ、なんか伝達《でんたつ》側《がわ》と被伝達側とで微妙《びみょう》にニュアンスの差異《さい》があるような気がしてきた。というか明らかに違う。
……でもまあ春香だしな。とりあえず今回のところは春香の大切さを確認《かくにん》できたのと、春香と仲直りができただけでもよしとしよう。どんなカタチであれ、春香が少しは俺のことを意識《いしき》してくれるようになっただけでも一歩前進といったところか。
と、少しばかり消極的《しようきょくてき》な自己完結していると
「……でも、どうしてでしょう」
春香がぽつりとそうつぶやいた。
「ん?」
「さっき裕人さんと那波さんがぷろれすごっこ≠しているのを見て……少しだけ、また胸《むね》がきゅっとなっちやいました」
「え……」
「へ、変ですよね。裕人さんと那波さんが仲良くしていて、本当なら嬉《うれ》しいはずなのに……でもどうしてか胸が……」
そこで言葉《ことば》を止めると、春香は顔を上げて俺の服の裾《すそ》をちょこんと摘《つま》んできた。
「は、春香?」
「あ、す、すみません。な、何ででしょう。どうしてかは分からないのですが、裕人さんの近くに行きたくなってしまって。ご、ごめんなさいっ」
慌《あわ》てて離《はな》れようとした春香に、
「……あー、いや、構《かま》わないぞ」
「え?」
「てか、俺もいっしょにいたいって言っただろ。いっしょにいたいってことは近くにいたいってこととほとんど同じ意味で、あー、その、要するに俺もこうしていたいっつーか……」
「裕人さん……」
春香の顔がぱ〜っと明るくなったように見えた。
「で、でしたらちょっとだけお願いします」
「あ、ああ。ちょっとと言わずいくらでも。どんとこい」
「は、はい」
そこはかとなく意味不明な言葉《ことば》を発した俺に、春香《はるか》は遠慮《えんりょ》がちにそっと寄《よ》り添《そ》ってきた。
肩《かた》にちょこんと頭を乗せて、両手でぎゅっと腕《うで》をつかんでくる。
羽根のように軽い感触《かんしょく》とふわりと流れる柔《やわ》らかな香《かお》り。
「え、えへへ。裕人《ゆうと》さんの身体って、あったかいですね」
「そ、そうか?」
「はい、こうしていると落ち着きます……」
こっちを見上げながら嬉《うれ》しそうにそんなことを言う春香の笑顔《えがお》は、俺が今まで見たどの春香よりもかわいくて――
……やばい。
理性《りせい》が高架《こうか》下《した》に作られた安アパートの一室のようにぐらぐらと揺《ゆ》れる。
そういえば今回こそは美夏《みか》たちの横槍《よこやり》(巨大、鋭《するど》い、直径五メートルくらい)もないんだよな。ざっと周《まわ》りを見渡《みわた》してもそれらしき様子《ようす》はないし、どこかに隠《かく》れているような気配《けはい》も感じられない。
ということは。
こ、これは、もしかしたら今日こそ――
そんな淡《あわ》い期待《きたい》が前頭葉《ぜんとうよう》の内側に活性酸素のようにボコボコと浮《う》かぶ。
だが次の瞬間《しゅんかん》、
バタン!
すさまじい勢《いきお》いで部屋《へや》のドアが開かれた。
「春香、入るぞ!」
聞くだけで骨《ほね》の髄《ずい》にまで響《ひび》きそうなごつい声。続いて姿《すがた》を現《あらわ》したのは春香《はるか》父《ちち》だった。
「!?」
二人して弾《はじ》かれるように、それぞれベッドの両端《りょうはし》へと飛びのく。
「聞いたぞ、小僧が来ておるそうだな! 昨日言ったばかりなのに早速《さっそく》来るとは、今どきの若造のクセに少しは見所があるではないか。そういうやつはまあ嫌《きら》いではない――む、何をやっているのだ?」
「あ、い、いやこれは」
「ベッドの上に男女が二人……まさかとは思うが貴様《きさま》、春香に不埒《ふらち》なマネをしようとしてたわけじゃあるまいな――?」
ぎろりとノコギリみたいな視線《しせん》を突きつけてくる。
「ち、違《ちが》います違います!」
本当のことを喋《しゃべ》ればそのまま脳天《のうてん》をスイカ割りのスイカのようにカチ割られそうだったので、真っ赤になったまま沈黙《ちんもく》する春香を何とか春香父の視線から隠《かく》し、必死《ひっし》に弁明《べんめい》する。
幸《さいわ》いというか九死に一生というか、春香父はそれ(赤面《せきめん》春香)には気付かなかったみたいだった。
「――ふん。まあ何もなければそれで構《かま》わん。ならさっさと来るがいい」
「へ?」
行くって、どこに?
「何だその顔は。貴様《きさま》は私に経営学の教えを請うために来たのだろう。違《ちが》うのか? さあ来い。私の書斎《しょさい》はこっちだ」
「え、いや、あの……」
腕《うで》を掴《つか》まれてずるずると引きずられていく。
ベッドの端《はし》でまだ微妙《びみょう》に赤い顔をしていた春香《はるか》も、
「ゆ、裕人《ゆうと》さん、お父様ともすっかり仲良しですね。私のことは気にせずに行ってきてくださいです」
そんなことを言う。仲良しって、それは絶対《ぜったい》に違うだろ……
ほとんど呆然《ぼうぜん》自失《じしつ》状態《じょうたい》の俺を見下ろしながら、春香父はバキバキと指を鳴《な》らし、
「ふふふ、久しぶりの教練《きょうれん》だ。腕が鳴る。今日はゆっくりじっくりみっちりと、時間が許《ゆる》す限《かぎ》り教え込んでやるから楽しみにしているがいい」
「……」
実に楽しそうにニヤリと笑った。
とりあえず今の俺にできることは。
春香父の書斎から生きて帰れるように、神様に祈ることだけだった。
END
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あとがき
こんにちは、五十嵐《いがらし》雄策《ゆうさく》です。『乃木坂《のぎざか》春香《はるか》の秘密《ひみつ》』四巻をお届《とど》けします。
本書の第十三話は「電撃hp」41号に掲載《けいさい》されたものを加筆《かひつ》修正《しゅうせい》したもの、第十四話、十五話、十六話及びエピローグは書き下ろしとなっております。
基本コンセプトは一巻の頃《ころ》と同様「できる限《かぎ》り読みやすくかつ楽しいお話」ですが、今巻はちょっとした節目《ふしめ》の部分に当たることから、普段《ふだん》よりも若干《じゃっかん》シリアス分が多めかもしれません。とはいえあくまで若干ですので、お話自体の雰囲気《ふんいき》は今までと変わらない……はずです、きっと。なので肩《かた》の力を抜《ぬ》いてこれまで通りに気楽な気持ちで読んでもらえれば作者としては嬉《うれ》しい気持ちでいっぱいです。どんな時にも気楽に読んでもらえて、読後に少しでも楽しい気分になってもらおうというのがこのシリーズのモットーですので。
ちなみに次巻は冬のお話となる予定です。おそらくは年内には出せるのではないかと思います。
以下はこの本を出すにあたってお世話《せわ》になった方々に感謝《かんしゃ》の言葉《ことば》を。
担当編集の和田様と三木様。今回はけっこうスケジュールぎりぎりまで粘《ねば》ってしまいました。次からはもう少し余裕《よゆう》を持って作業《さぎょう》ができるようにがんばります。
イラストのしゃあ様。毎回ステキなイラストをありがとうございます。見本が届いた時にまずイラストを見るのが何よりの楽しみです。色々とお忙《いそが》しいようですが、今後ともどうかよろしくお願いします。
取材《しゅざい》でお世話になったCOSPA の小雀《こすずめ》様及び秋葉原《あきはばら》店《てん》の皆様。その節《せつ》はどうもお世話になりました。細かいところまで丁寧《ていねい》に説明していただいたおかげで、店内の描写《びょうしゃ》にかなり役に立ちました。あと出演《しゅつえん》許可《きょか》、ありがとうございます(笑)。
そして最後になりますが、何よりもこの本を手に取ってくださった読者の皆様に深い感謝を。
それではまた再《ふたた》びお会いできることを願って――
二〇〇六年三月末日 五十嵐雄策
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