乃木坂春香の秘密3
五十嵐雄策
イラスト◎しゃあ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)気象学的《きしょうがくてき》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)友達|甲斐《がい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)いつも通りの平凡な日常[#「いつも通りの平凡な日常」に傍点]。
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夏が終わった。
九月。
いや気象学的《きしょうがくてき》にはまだ夏という季節が終わりを迎えたわけではないんだが(暦《こよみ》の上ではともあれ)、俺たちのような高校生にとっては夏休みの終わり=夏の終わりと言っても過言《かごん》ではない。八月の終わりは夏の終わりであり、九月の始まりは秋の始まりでもあるのだ。
そんな(精神的に)四季の分かれ目な時期。
巷《ちまた》では新学期が始まり、皆過ぎ去った楽しい夏の記憶《きおく》に思いを馳《は》せながらも、次第《しだい》にいつも通りの平凡《へいぼん》な日常《にちじょう》へと戻《もど》っていく。
そして、それは俺にとっても例外ではない…………はずであった。
というのは、まあ俺にはいわゆる夏らしい夏の思い出――例えばプールだとか海水浴だとか花火だとか――ってもんが皆無《かいむ》だったってのもあるんだが(唯一《ゆいいつ》、夏こみ≠ニやらくらいか)、それ以上に問題となるフレーズがある。
いつも通りの平凡な日常[#「いつも通りの平凡な日常」に傍点]。
その中でも特に着目すべきは『平凡な』の部分。
そんなもんは春香《はるか》と出会ったあの日以来、作り方を間違《まちが》えたペットボトルロケットのごとく遥《はる》か空の彼方《かなた》へとすっ飛んで行ってしまっていた。
この五ヶ月プラス夏休みの間に起こった様々な出来事《できごと》。
それらはどれ一つとして決して『平凡』のカテゴリーに含《ふく》まれるものではなかったと俺は思うし、客観的《きゃっかんてき》に見てもおそらくそうだろうとも思う。
いや勘違《かんちが》いしてもらうと困《こま》るが、別にそれがイヤだって言ってるわけじゃない。
春香といっしょにいること自体は楽しいし、むしろ色々と普通《ふつう》では味わえないようなことも経験できて、面白《おもしろ》いとも思っている。それは俺の正直な気持ちだ。
ただ何というか、起こる出来事一つ一つのインパクトがいちいちあまりにも大きすぎて、初めて火を見た原始人のように少々戸惑《とまど》っているだけなのである。驚《おどろ》きが先に立ちすぎていまいち感情の方がそれに付いてきてくれないような感じか。
――まあ色々と遠回しな前置きが長くなったが。
結局《けっきょく》俺が何を言いたいのかというと。
やはりこの九月から始まる秋も、それに続く冬も、俺にとってそれまで経験《けいけん》したことのないこの上なくインパクトフルなものになったってことだけなんだがね。
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文字通り怒濤《どとう》のようだった夏休みが終わり九月になったにもかかわらず、まるでビニールハウス(大型)にでも入ったかのごとき暑さはちっともおさまらなくて、家を出た直後に回れ右してそのまま真《ま》っ直《す》ぐにエアコンの効《き》いた快適《かいてき》な室内へとダッシュで戻《もど》りたい衝動《しょうどう》に駆《か》られるようなそんな朝だった。
九月一日木曜日。
九月の始まりの一日目であり、夏休み明け最初の登校日でもある。
通学路の途中《とちゅう》で会った知り合いたちから「おー、生きてたか」だの「宿題写させてくれー」だの「由香里《ゆかり》先生の生着替え写真を売ってくれ! 一枚五千円までなら出すぞ」だの実に友達|甲斐《がい》のある言葉《ことば》をかけられるも、それらを適当《てきとう》にスルーして進んでいく。
およそ一ヵ月半ぶりの学校。
とはいえ別に何が変わるってもんでもない。
いつも通りの真っ白な校舎。いつも通りの混《こ》み合《あ》う昇降口《しょうこうぐち》。いつも通りのムダに音が鳴《な》るリノリウム製の廊下《ろうか》。全てが夏休み前のままである。
加えて教室でも。
「よう、裕人《ゆうと》、元気にしてたか」
「ふむ、朝から萎《しお》れたナスビみたいに冴《さ》えない顔をしていますね」
「まあ綾瀬《あやせ》はいつもこうだろ。それより俺たちは今、スクール水着の視覚的利便性《しかくてきりべんせい》について熱《あつ》く語り合っていたところだ。――お前はどう思う?」
「……」
永井《ながい》、小川《おがわ》、竹浪《たけなみ》の三バカたちは俺の席の周《まわ》りで相変わらずそんなアホなことをのたまってるし、
「おはよう裕人ー。ねえねえ、昨日の深夜《しんや》にやってた『はにトラ1st劇場版〜秘密《ひみつ》の魔法《まほう》は内角合わせて一八〇度〜』の再放送、見たー? すごいんだよー、ドジっ娘《こ》アキちゃんが八面六臂《はちめんろっぴ》の大活躍《だいかつやく》でねー……」
「……」
幼馴染《おさななじ》みで腐《くさ》れ縁《えん》の信長《のぶなが》は信長で(隣《となり》のクラスのクセになぜかいる)、やっぱりこっちの都合《つごう》などおかまいなしにワケノワカランことばかりを速射砲《そくしゃほう》のようにたたみかけてくる。
まあこいつらとは夏休み中もたまに会ったりしていたわけだし、それにそもそもすでにここまでアレに完成されたパーソナリティ(方向性はともかく)の持ち主であるこの三人と一人が、たかだかひと夏を経《へ》たくらいでそうそう変わるわけがないしな。
何気《なにげ》なく周《まわ》りに視線《しせん》を送ってみるも、他のクラスメイトたちにもそんなに変わったところは見られないようだった。
教卓《きょうたく》の前で男子たちがふざけ合い、窓際《まどぎわ》では女子たちが楽しそうに喋《しゃべ》っていて、教室の中央では男女のグループが笑い合っている。
夏休み前と同じく、動物園のように賑《にぎ》やかな教室。
いつもと違《ちが》うところといえば、クラスのあちこちで海がどうだったやら日焼けがどうやら、過ぎ去った夏の思い出についての会話が繰《く》り広《ひろ》げられているくらいか。うーむ、平和だね。なべて世はこともなし。安寧平穏《あんねいへいおん》ってのはいいもんだ――
などと少々人生リタイア気味《ぎみ》なことを考えていると。
「裕人《ゆうと》さ〜ん」
ふいに、耳心地《みみごこち》のよいソプラノボイスが響《ひび》いた。聞いているだけで脳《のう》からアルファ波《は》がドバドバと大量放出されそうなヒーリングな声。
続いて小柄《こがら》な人影《ひとかげ》がとてとてと人懐《ひとなつ》っこい仔犬《こいぬ》みたいに駆《か》け寄《よ》ってきた。同時にふんわりとした落ち着く香《かお》りが鼻をくすぐる。
「おはようございます。お元気にしてましたか?」
春香《はるか》だった。
いつも通りの超美少女な顔立ちにスイートピーみたいな可憐《かれん》な笑《え》みを浮《う》かべて、にこにことこっちを見ている。
「今日からまた新学期ですね。秋は色々と学校の行事がありますから、楽しみです」
だけどその表情と口調《くちょう》には、夏休み前よりもいっそう親《した》しみがこめられているように感じられるのはおそらく俺の自意識過剰《じいしきかじょう》じゃない…………と思う。――まあ夏休みには色々とあったしな。例えばピアノコンクールとか無ロメイド長さんの尾行《びこう》とか夏こみ≠ニかお泊《と》まり会《かい》とか春香父との対決とか。
「……」
……いや改めて考えてみると本当に色々あったな。十七年間生きてきて、こんなに(良くも悪くも)インパクトのあった夏休みは初めてかもしれん。これもやはり春香と知り合った賜物《たまもの》なんだろう。
「裕人さん、どうされましたか?」
考え込んでいると、春香が不思議《ふしぎ》そうな顔て覗《のぞ》き込《こ》んできた。
「あ、いや、何でもない」
「?」
さすがに当の本人を目の前にして春香のことを考えてましたとは言えんし。
春香はしばらく頭の上にハテナマークを浮《う》かべていたが、
「それにしても、昨日は本当に楽しかったですね」
やがて、にっこりとそんなことを言い出した。
「昨日……」
その言葉《ことば》であまり思い出したくなかった記憶《きおく》がリフレインする。
昨日――すなわち夏休みの最終日。
乃木坂家《のぎざかけ》へと遊びに行った俺は、春香《はるか》とのこっ恥《ぱ》ずかしい会話を皆(美夏《みか》、秋穂《あきほ》さん、春香父、葉月《はづき》さん、那波《ななみ》さん)にばっちり聞かれた挙句《あげく》、何だかんだで夕食にまで付き合わされたのだった。そしてその席では美夏・秋穂さん・那波さんというある意味|究極《きゅうきょく》の小悪魔《こあくま》トリオに春香と二人セットでからかわれまくり、最初はむっつりと黙《だま》り込《こ》んでいたもののいつの間にかウイスキーを片手にしていた春香父には男の哲学及び経営学に加え素手《すで》でシロクマを倒《たお》した時の武勇伝《ぶゆうでん》について二時間ほどえんえんと語《かた》られ、それを見た葉月さんに「……まるで親子みたいですね」などと真顔で評《ひょう》されるという、ほとんど苦行《くぎょう》に近い時間を過ごすことになった。
「お父様もお母様もすごく喜んでました。また機会《きかい》があったら、何があっても絶対《ぜったい》に裕《ゆうと》人さんをお呼《よ》びしなさいって。お二人とも、裕人さんを好きになってくれたみたいで嬉《うれ》しいです」
「……」
いや、気に入られるのはいいんだがな……
まあ物事には何でも良い面とちょっと困《こま》った面が存在《そんざい》するということである。
「あー、そ、それより課題《かだい》はやってきたか? 今日|提出《ていしゅつ》のとかけっこうあったよな」
とりあえず話題を転換《てんかん》することにした。
「はい、だいじょぶです。裕人さんはどうですか?」
「ん、俺はまあ、そこそこ」
八十パーセントくらいの達成率《たっせいりつ》だ。俺にしてはかなり高い。
「ちゃんと出さないと、由香里《ゆかり》先生とかは怖《こわ》そうですよね」
イタズラっぼく笑う春香。
「……そうだな」
あの人の場合、怖いというか何をやらされるかリアルに恐《おそ》ろしいが。
しばらくの間、俺たちはそんなたわいもない会話を交《か》わしていた。
本当に何でもない、どこにでもあるような会話。だけど学校で春香とこんなやり取りをする日が来るなんて、半年前の俺には想像《そうぞう》すらできなかったことだ。
ちなみにその間、傍《かたわ》らの信長《のぶなが》及び三バカはディスカッション(そんな高尚《こうしょう》なもんじゃないだろうが)に夢中《むちゅう》でこちらに見向きもしなかった。……まあ、余計《よけい》なことを突っ込まれるよりはその方がよほどマシなんだがな。
「あ、そうだ、裕人さん」
春香が何かを思い出したかのように胸《むね》の前でふわりと手を叩《たた》いた。
「ん?」
「あのですね、今日のお昼休みのことなんですが――」
だが何かを言いかけたところで、
「春香《はるか》せんぱーい、おはようございまーす!」
突然《とつぜん》、やたらとキャピキャピとした声(死語)が割り込んできた。
「おひさしぶりでーす! 夏休みはどうでしたか?」
「ロンドンでピアノのコンクールがあったって聞きましたですう」
「…………お元気そうで何よりです」
どこかで見たことがあるような女子の集団だった。
「ちょっと、あんた邪魔《じゃま》!」
「ぐおっ……」
ほとんど、というかあからさまに俺を押《お》しのけて、ついでに押しのける際《さいき》に強烈《ようれっ》なヒジの一撃《いちげき》を加えて、強引《ごういん》に俺たちの間に押し入ってきた。この好戦的《こうせんてき》かつ排他的《はいたてき》なやり口……まさかこいつら、いつか音楽室で見た春香の取《と》り巻《ま》きか?
果《は》たしてその推測《すいそく》は見事《みごと》なまでに当たっていたようで、みぞおちを押さえながら机にうずくまる俺をコオロギでも見るような目で一瞥《いちべつ》すると、女子どもは一直線に春香へと群《むら》がっていった。
「それでせんぱい、どうでした、夏休みは?」
「やっぱりコンクールはぶっちぎりの優勝ですよねぇ?」
「…………春香様なら当然です」
「あ、あの……」
ハリケーンのような勢《いきお》いで迫《せま》る取り巻きどもと、それに戸惑《とまど》う春香。
――ああ、そういえば春香ってこういうポジションだったんだっけか。
机から顔だけを起こしてその様子《ようす》を見ながら、学園内における俺たちの関係――ってかヒエラルキーの違《ちが》いってもんを思い出していた。
学園の中で男女を問わず圧倒的《あつとうてき》な人気を誇《ほこ》る『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』。三|桁《けた》を超える数のファンクラブ会員を擁《よう》し学園長までもが会員だとかいう噂《うわさ》もある、まさに学園のアイドル中のアイドル。
そしてそれに対して俺は何の特徴《とくちょう》もない単なる一般人《いっぱんじん》であり、ファンクラブ員からは春香にまとわりつくゴミムシ(加えてアキバ系)だと認識《にんしき》されている存在《そんざい》。
「……」
……いや、夏休みの間にすっかり忘《わす》れていた(忘れていたかった)事実をムリヤリに突きつけられた感じだな。
「それにしても春香せんぱい、何だか休み前よりもかわいくなったんじゃないですか?」
「え?」
取り巻きの一人が突然《とつぜん》そんなことを言い出した。
「そうですよね〜、もともと超絶美麗《ちょうぜつびれい》だったですけど、さらに磨《みが》きがかかった感じですう〜」
「…………キレイです、春香《はるか》様」
「そ、そんなこと……」
春香が顔を赤くしてうつむく。
「ね、春香せんぱい、もしかして本当に夏の間に何かあったんですか?」
取《と》り巻《ま》きの一人が春香に尋《たず》ねた。
「え、何か、ですか?」
「はい。その、例えば人生を変えちゃう燃えるようなひと夏の体験とか……きゃっ♪」
「…………ひと夏の体験」
その質問に春香は少し考え込むような仕草《しぐさ》で顔を伏《ふ》せた。
「なーんて、そんなわけないですよね。言ってみただけです」
「そうですう、春香様に限《かぎ》ってそんなことあり得《え》ませんよお」
「…………あり得ません」
取り巻きたちは口を揃《そろ》えてそんなことを言う。
だが春香はゆっくりと顔を上げ、
「えと……あったといえばあったかもしれません」
そんなことを言った。
「えっ!?」
シーン……
一瞬《いつしゅん》、クラス内が水を打ったかのように静まり返った。取り巻きの女子…………どころかクラス中、果《は》ては廊《ろうか》下を歩いていた生徒の視線《しせん》までもが春香に集中する。
「ほ、ほんとですか? な、何が、何があったんですかっ?」
「お、教えてくださいですぅ!」
「……春香様!」
「あ、そ、それは……」
恥《は》ずかしそうに俺の方をちらちらと見ながら、小さくつぶやく。「その、色々……です」
「え?」
「楽しかったこと、嬉《うれ》しかったこと、初めてだったこと……たくさんありました。でも詳《くわ》しいことは秘密《ひみつ》です」
そう言って、頬《ほお》を赤らめた春香はにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「……」
……いや春香さん。
言葉《ことば》自体は間違《まちが》ってないのかもしれんし、実際《じっさい》問題として詳しいことは話せないのかもしれんが、そういう意味ありげな態度《たいど》は春香ファン及びその急先鋒《きゆうせんぼう》である『星屑守護親衛隊《インペリアルガード》』が多いこのクラスでは、マラッカ海峡《かいきょう》のど真ん中を『海賊上等《かいぞくじょうとう》』のハタを振《ふ》りながら単独航行《たんどくこうこう》するくらいに(俺にとって)デンジャラスだってことを少しは分かってほしいんだが……
案《あん》の定《じょう》、周《まわ》りで聞いていた一般クラスメイト達は、
「……い、色々ってなに?」
「……え、それはやっぱりあれでしょ? チョメチョメとかパヤパヤとかー」
「ちょ、ちょめ? ぱや?」
そんな適当《てきとう》なことを言い出し、
「は、春香《はるか》せんぱいにっ!?」
「……春香様にヘンなことしたら、刺《さ》すって言いましたよねぇ?」
「……殺《や》りましょう」
それとともに、取《と》り巻《ま》きどもから百戦錬磨《ひゃくせんれんま》の傭兵《ようへい》が放《はな》つような強烈《きょうれつ》な殺気《さっき》が熱線《ねっせん》のごとくぶすぶすと突き刺さってきた。う、なんか四面楚歌《しめんそか》というか孤立無援《こりつむえん》というか、すげえスタンドアローンな空気だ。
「えと……?」
だが春香は春香でまったくもってそんな雰囲気《ふんいき》に気付いていないし、
「だからだな、やはりスクール水着は旧式の方が……」
「えー、そうかなー。最近のやつもそれはそれでいいと思うけどなー」
「いや、それはだな……」
助けを求めようと周りを見ても、三バカプラス信長《のぶなが》も相変わらずスクール水着|談義《だんぎ》にラフレシアを咲かせたままで、こっちのことなんてミジンコのため息《いき》ほども気にしちゃいない。
「……」
……とりあえず味方《みかた》はゼロっぽいな。
右にはぽわんとした表情の春香、左には熱《あつ》く議論《ぎうん》を交《か》わす三バカプラス信長という微妙《びみょう》な構図《こうず》の中、周囲《しゅうい》からの殺気はどんどんと増《ま》していく。……新学期初日から生命の危機《きき》という、今まで経験《けいけん》したこともなければこれからも一生経験したくなかった、実にイヤなシチュエーションだった。
「……」
そうしているうちにもますます強烈になっていく殺気。
これはもう腕《うで》の一本や二本くらいは覚悟《かくご》しなきゃなるまいか……と、朝の教室にあるまじきネガティブな決意を固めかけたところで。
「は〜い、みんな、お・は・よ・う♪」
ガラリと教室のドアが開いた。
「久しぶりね〜。みんなの永遠のアイドル、クールビューティー美少女の由香里《ゆかり》先生よ」
入ってきたのは、朝からすでに飲んでんじゃないかってくらいにテンション高めの音楽教師だった。いや美少女ってあんた……
「ん? な〜んかホラー映画のジェノサイドシーンみたいなイヤ〜な雰囲気《ムんいき》ねー」
教室の中を見渡《みわた》しながら由香里《ゆかり》さんは眉《まゆ》をひそめた。
「ほらほら〜、何やってたのかは知らないけど、ロングホームルームを始めるからみんな席に着いて」
ぱんぱんと手を叩《たた》く。だが荒《あ》れ狂《くる》う鬼《おに》のごとく殺気《さっき》立《だ》った取《と》り巻《ま》きどもはなかなか引こうとはしない。
「む、なんかみんな反抗的《はんこうてき》ね〜。事情はどうあれ、おねいさんに逆《さか》らうのは感心しないな。大人しく言うことを聞かないと、アレ[#「アレ」に傍点]をやっちゃうわよ〜」
「!」
その言葉《ことば》に、エキサイトしていた取り巻きどもの動きがぴたりと止まった。同時に周囲《しゅうい》を覆《おお》っていた殺気がすっと引いていく。
「……アレとまで言われちゃしかたありません」
「……命拾いしましたですねぇ」
「…………私たちも自分の身体がかわいいですから」
そんな捨《す》て台詞《ぜりふ》を残し、取り巻き及び『星屑守護親衛隊《インペリアルガード》』の連中は各《おのおの》々のクラスや席へと戻《もど》っていった。……いや、アレって何なんだ? まあこのセクハラ教師のやることだから、おそ
らくは知らない方が身のためなんだろうが。
ともあれ、どうやらこの暑い時期《じき》にギプス生活を強《し》いられることは避《さ》けられたみたいだった。いつもなら迷惑極《めいわくきわ》まりない由香里さんのハイテンションなんだが、今ばかりはそれに心からの感謝《かんしゃ》を贈《おく》ってもいいかもしれん。
「それじゃロングホームルームを始めるわね〜。日直、号令かけて〜」
「きりーつ」
日直の橋本《はしもと》さんの声で、ようやく教室内は完全にいつもの雰囲気に戻ったのだった。
しかしまあ。
何というか、新学期の初日から実に頭の痛《いた》くなるスタートだね。
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「は〜い、みんな夏の間は元気にしてたかな〜? ちょっと気になるあの娘《こ》とそのお付きのメイドちゃん、さらにはみんなの憧《あこが》れセクシーな美人おねいさんを自分のお家に泊《と》めて夏にもかかわらず鍋《なべ》パーティーをした挙句《あげく》、普段《ふだん》は飲《の》み慣《な》れないお酒を飲んで倒《たお》れちゃったセクシーな美人おねいさんをゴミのように放置《ほうち》して、自分だけちょっと気になるあの娘《こ》とよろしくやっちゃったりなんかしてないわよね〜?」
ロングホームルームは、由香里《ゆかり》さんのすげぇピンポイントかつ微妙《びみょう》に事実を歪曲《わいきょく》したそんな一言から始まった。
「ま、いないとは思うけど。だけどもしもいた場合、そんな悪い子には今度また音楽じゅんびしつの掃除《そうじ》をやってもらうからね〜。逃《に》げちゃダメよ♪」
思いっきりこっちを見ながらウインクをする由香里さん。それはつまり余計《よけい》なことを言われたくなかったら、前回の片付け(俺がやった)からまた僅《わず》か数ヶ月でプチ夢の島へと逆戻《ぎゃくもど》りしたあの音楽準備室《ごみため》を、俺一人で掃除しろってことか? ……うわ、欝《うつ》だ。
「はい、そんなわけで私信はオシマイ。それじゃまずは出席を取るわね。呼《よ》ばれたら発情期のシマウマみたいに元気な声でちゃんと返事をするように〜。――相原《あいはら》くん」
「はい」
「ん〜、ちょっと元気が足りないかな。夏休み中に隣《となり》のクラスのカノジョと別れたりでもしたのかしら〜?」
「うっ……」
相原の顔が苦痛《くつう》に歪《ゆが》んだ。図星《ずぼし》らしい。
「はい次、秋山《あきやま》くん」
「おすっ!」
「お、こっちはまたバナナを得《え》たマウンテンゴリラのように元気ね〜。でも海でのナンパは元気が良すぎてカラ回りしちゃったのかな〜?」
「そ、それは……」
「次は――」
と、教卓《きようたく》の上でまるで担任教師のように点呼《てんこ》をする由香里さん(副担任)。
ちなみに本来二年一組の担任であるところの田鍋繁夫《たなべしげお》(三十八歳、担当世界史、独身)のもっさりとした姿《すがた》は教室内にはない。何でも夏休み中に人生一〇一回目となるお見合いに盛大《せいだい》に失敗して、その傷《きず》を癒《いや》すために自分|探《さが》しの旅に出たとか何とか。ヴァーバリアンみたいな外見《がいけん》に似合《にあ》わず、けっこうリリカルなんだな、あのおっさん。
「――最後に渡辺《わたなべ》くんっと。はい、全員出席ね。よしよし、偉《えら》いわよ〜」
出席を取り終わると、由香里さんは今後の予定について話し出した。
「はい、今日はこのホームルームが終わったら体育館で全校集会があります。イヤミ学年主任の長ったらしい上にあんまり使えないお話とかがあるけど、そのヘンは適当《てきとう》に聞き流しておけばいいから〜。で、その後通常通りの授業に入る予定よ〜。おっけ〜?」
教師として極《きわ》めて不適切《ふてきせつ》な発言があった気もするが、もはやこの人に至《いた》ってはそんなもんはデフォルトどころか日常茶飯事《にちじょうさはんじ》なので、それについては今さらだれも突っ込まない。
代わりに台詞《せりふ》の後半部分について、小さな不満《ふまん》の声が辺《あた》りから漏《も》れる。
休み明け初日からのフルタイム授業(放課後の掃除付《そうじつ》き)。
白城《はくじょう》学園は前期と後期の二期制であるからしかたがないとはいえ、夏休みでほどよく脳《のう》がボイルドエッグされた大半の生徒(俺|含《ふく》む)にとっては、ほとんどイヤガラセに近いようなカリキュラムである。
「まあ大変《たいへん》かもしれないけど、これも犬に噛《か》まれたとでも思ってがんばって〜。ほら、若いうちの苦労は恋人を質《しち》に叩《たた》き入《い》れたお金で買ってでもしろっていうじゃない? うん、別に私が授業を受けるわけじゃないし」
「……」
最後の一言がなければそれなりにイイコトを言ってるのにな、この人。
「あ、それと明後日からみんなのお待ちかねな期末試験があるのは分かってるわよね? ちなみに他の教科はどうでもいいけど、音楽で赤点なんて取ろうものなら、カエルの歌の一人輪唱をやらせるから覚悟《かくご》しとくように」
えー、と今度はあからさまに不満そうな声が上がった。
「こらこら、そんなイヤそうな顔しない。代わりと言っちゃなんだけど、優良点を取った人には私からご・ほ・う・び♪ をあげちゃうわよ〜」
うおー、と男子のほとんどと女子の一部から嬉《うれ》しそうな声が上がった。……うーむ、見事《みごと》なまでにアメとムチとを使い分けてるな。でもこの人のことだから、優良点はギリギリのラインで取れそうで取れないレベルに設定《せってい》してるに違《ちが》いない。そういうところは実に有能《ゆうのう》な人なのである。
「は〜い、じゃそろそろ体育館の方へ移動《いどう》するわよ。遅《おく》れるとまた私がイヤミ言われるから全速力《ぜんそくりょく》で迅速《じんそく》に移動するように」
ぱんぱんと両手を叩く由香里《ゆかり》さん。
いや。
廊下《ろうか》を走って移動したらそれだけでクレームが来ると思うんだけどな。
で、体育館。
「あ〜、そういうわけだから、諸君《しょくん》らもいつまでも夏季《かき》自宅学習期間気分を引きずっていないで、白城学園の生徒としての自覚《じかく》と誇《ほこ》りをもって、勉学にスポーツにはげみつつも、慈愛《じあい》やボランティアの精神《せいしん》を忘《わす》れずに、およそ一年半後に迫《せま》った受験に備《そな》え今から万全の……」
全校集会の前半は、由香里さんの言った通り、学年主任の英語教師(イヤミ)のムダに長いうえに要点を得《え》ない訓示《くんじ》で過《す》ぎていった。
「だいたい試験や受験などというものは日頃《ひごろ》からの準備《じゅんび》と努力がものをいうのだ。にもかかわらず最近は大して努力もせずに高望みばかりをする者が増《ふ》えてきて、非常《ひじょう》に嘆《なげ》かわしいことである。こんなことだから最近の世界|情勢《じょうせい》は悪化の一途《いっと》を辿《たど》り、日本の政治経済は停滞《ていたい》し、その煽《あお》りを受けて私の月々の小遣《こづか》いも減《へ》っていく一方なのだ! まったく、なっとらん!」
しかも最初こそまともだった話の内容も、途中《とちゅう》から脇道《わきみち》へと逸《そ》れていき、次第《しだい》にただの愚痴《ぐち》の様相《ようそう》を呈《てい》してきていた。
「月々五千円なんてあり得《え》ないだろう! 子供の小遣いじゃあるまいし、こっちには大人の付き合いというものがあるんだ。五千円じゃ週末の飲み会にすらまともに参加《さんか》できん! それをやれ家のリフォーム費用《ひよう》だ犬の食費だと……」
興奮《こうふん》してきたのか、ばんばんと壇上《だんじょう》のマイク台を叩《たた》きながらわめきまくる。……たまってるな。
「あ、あー、川角《かわすみ》先生。お話の途中なのですが、そろそろ時間が押《お》していますので……」
いいかげんに見かねたんだろう、他の教師が止めに入った。
「いや、私にはまだ話すことが……」
「わ、分かりましたから、それはまた週末の飲み会ででも……」
「ええい、だからその飲み会ができんと言っておるのだ!」
とうとう暴《あば》れ出《だ》す学年主任。
「い、いいからちょつとこっち来てください。ご、権田原《ごんだわら》くん!」
「うす」
「は、離《はな》せ!」
要請《ようせい》を受けた体育教師(権田原|熊男《くまお》。二十四歳。独身)に半ば引きずられるようにして、学年主任の英語教師は壇上から退場《たいじょう》していった。最後まで「わ、私は悪くない! 悪いのはこの醜《みにく》く歪《ゆが》んだ現代社会だー!」などと大声で叫《さけ》んでいた。……しかしセクハラ音楽教師といい自分|探《さが》し世界史教師といい、まともな教師はいないのかね、この学校。
「は、はい。学年主任の川角先生の鬱屈《うっくつ》した家庭事情――じゃなくて、ありがたい訓示《くんじ》でした」
司会役の古典教師が、取《と》り繕《つくろ》うようにしてそうまとめた。
「では続いて、夏休みの間に様々な方面で活躍《かつやく》した生徒のみなさんの、表彰式《ひょうしょうしき》を執《と》り行《おこな》いたいと思います。――学園長先生、どうぞ」
「あ〜、はいはい。おっとっと」
呼《よ》ばれてよぼよぼと覚束《おぼつか》ない足取りで出て来たのは我らが白城《はくじょう》学園の学園長先生。今年で年齢が三|桁《けた》の大台に乗ると噂《うわさ》される、外見的《がいけんてき》には半ば生きた化石みたいな老人である。
「あ、あ〜……そ、それではこれより表彰に入りますじゃ」
ぷるぷると震《ふる》える手、かくかくと勝手に動くアゴ。今にも消え入らんばかりの幽《かす》かな声がマイクからお経《きょう》のように響《ひび》いてくる。……いや大丈夫《だいじょうぶ》なのか? なんか今にもぽっくりと逝《い》きそうな雰囲気《ふんいき》が全身から漂《ただよ》ってるんだが……
「ま、まずは〜……第十三回全国|五目並《こもくなら》べ大会第八位、大川一郎《おおかわいちろう》くん……」
「はい!」
「あ〜、お、おめでとう……」
「ありがとうございます」
「次は〜……、町内|相撲《すもう》大会第三位、大山田大介《おおやまだだいすけ》くん……」
「うすっ!」
名前を呼《よ》ばれて、一人ずつ壇上《だんじょう》で賞状のようなものを授与《じゅよ》されていく。
うーむ、夏休みの間に頑張《がんば》ってたやつってのはけっこういるもんなんだな。帰宅部《きたくぶ》な上に特にこれといった熱中できる趣味《しゅみ》もない俺からしてみれば、それだけで素直《すなお》にすごいと思える。
「ええ〜、それでは最後になります。うおっほん」
学園長、何やら咳払《せきばら》いをして姿勢《しせい》を正すと、
「……全国書道コンクール高校生部門第一位、活《い》け花《ばな》月影流展《つきかげりゅうてん》金賞、全国高校生茶道大会優勝、神薙流《かんなぎりゅう》古武術流内大会十八歳以下の部第一位――」
どんどんと列挙《れっきょ》されていく賞の数々。いや、そんだけの賞を一人で獲《と》ったってのか? そんなとんでもないマネをいったいだれが――
「そしてロンドン国際《こくさい》クラシックピアノコンクール第一位。――乃木坂春香《のぎざかはるか》さん」
「はい」
――って、春香だった。
鈴《すず》の鳴《な》るような声で返事をして、ゆっくりと学園長の方へと向かっていく。
……でもまあ、そりゃそうだよな。冷静《れいせい》に考えてみればそんなこと(賞複数獲り)をやりそうなやつなんて、春香以外にあり得《え》ない。にしてもピアノの他にもこんなに獲りまくってたのか……
「お、おめでとう――」
「ありがとうございます」
嬉《うれ》しそうに微笑《ほほえ》んで、賞状を受け取る春香。
「それではここで、特別に乃木坂さんにピアノで一曲|弾《ひ》いてもらいます。曲は、ええと……ショパン作曲エチュードOP25-1『エオリアン・ハープ』です」
古典教師の言葉《ことば》にこくりとうなずき、春香はいつものとてとてとした頼《たよ》りない足取りでグランドピアノへと歩いていく。そして――
「……」
流れるような旋律《せんりつ》だった。
キレイで、可憐《かれん》で、心にすっと染《し》み入《い》ってくるような音の奔流《ほんりゅう》。
相変わらず俺には音楽のことはよく分からんが、それでも春香の演奏だけは他のやつの演奏と聴《き》き分《わ》けられる自信がある。春香の演奏はそういったものだった。
曲は僅《わず》か二分半くらいの短いものだったが、演奏が終わる頃《ころ》には、まるで心地《ここち》のよい幸せな夢から覚《さ》めたかのような不思議《ふしぎ》な感覚《かんかく》が体育館中を包《つつ》んでいた。
「……すげえ」
だれかがそうぼそりとつぶやいたのを皮切りに。
「きゃー、春香《はるか》様ー!!」
「ステキですぅ!!」
「俺と結婚してくれー!!」
至《いた》るところから沸《わ》き上《あ》がる拍手《はくしゅ》と歓声《かんせい》。まるで山鳴《やまな》りのように、体育館を揺《ゆ》らす。
「は、春香ちゃん、ぶ、ぶらぼお〜!」
その中に、さっきまでほとんど死にそうだった学園長がまるでやばい実験薬でも飲んだハツカネズミのように活《い》き活《い》きと両|腕《うで》を振《ふ》り回《まわ》している姿《すがた》があったことについては……見なかったことにしよう。てか学園長もファンクラブ員だって噂《うわさ》、本当だったんだな。
「ご静聴《せいちょう》、ありがとうございました」
鳴《な》り止《や》まない拍手の中、ぺこりと頭を下げて春香が壇上《だんじょう》から降《お》りようとする。その瞬間《しゅんかん》、
「お……」
「あ……」
あり得《え》ないくらいの確率《かくりつ》で、俺と春香の目がぴたりと合った。
春香は最初、ちょっと驚《おどろ》いたような顔をしていたが。
「……(にっこり)」
やがてすぐに、妖精《ようせい》みたいな笑顔《えがお》で小さくぱたぱたと手を振ってくれた。う、かわいい……。
緩《ゆる》む頬《ほお》を押《お》さえながらこちらも手を振り返していると。
「……あいつ、なに?」
「何で乃木坂《のぎざか》さん、あの男に手を振ってんの?」
「つーか、あの男もあの男でにやけた顔で振り返してるし 」
……しまった。
つい何も考えずに反応《はんのう》しちまったが、この白城《はくじょう》学園においてこんな公衆《こうしゅう》の面前《めんぜん》で春香と手を振り合うなんてことは、ほとんど全校生徒にケンカを売ってるのと同義《どうぎ》なんだよな。
だが気付いた時にはもう後の京都|砥園祭《ぎおんまつ》りってやつである。
「……(殺)」
「……(死)」
「……(滅)」
周囲《しゅうい》三六〇度から飛んでくる「殺《や》っちまうぞこらぁ!」な視線《しせん》。
加えて。
「は、春香ちゃんが……」
壇上《だんじょう》の学園長までもが、餓《う》えたオオカミのような鋭《するど》い眼光《がんこう》で、マブタに覆《おお》いかぶさらんばかりに伸びた眉毛《まゆげ》の向こうからこっちを一直線に睨《にら》んでいた。
「お、おのれ……許《ゆる》すまじじゃ……」
それはもう、明らかに何か一線を越えちまった人間の目である。
「……」
……なんつーか。
俺、もしかしたらもう転校した方がいいのかもしれんな。
まあだいたいそんな感じで、午前中は過ぎていった。
2
当たり前だが、午前と午後の間には昼休みがある。
午前の戦いの疲《つか》れを癒《いや》し、午後の勝負に向けて体力を蓄《たくわ》える貴重《きちょう》な補給《ほきゅう》時間(大げさ)。
「やっと昼休みか……」
朝から取《と》り巻《ま》き及びファンクラブ員に睨《にら》まれ、ホームルームでは今学期中の音楽じゅんびしつの掃《そう》除《じ》を強制的に押し付けられ、全校集会ではファンクラブ員のみならず全校生徒・学園長にまで「殺《や》っちまいたい人物NO.1」としてインプットされるに至《いた》り、すっかり疲れ切っていた俺は、頭の皿が乾《かわ》ききった河童《かっぱ》のごとくぐったりと机の上に突《つ》っ伏《ぷ》していたところ、
「あ、あの裕人《ゆうと》さん」
くいくいっとどこからか制服の袖《そで》を引《ひ》っ張《ぱ》られた。
「ん?」
「えと、今っておヒマでしょうか?」
顔を上げると、そこには何やら手提《てさ》げ袋《ぶくろ》のようなものを片手に、制服の袖を引っ張っている春香《はるか》の姿《すがた》があった。
「ん、まあ大丈夫《だいじょうぶ》だが……どうしたんだ?」
「実はちょっとお話ししたいことがありまして……」
「話したいこと?」
「はい」
こっくりとうなずく。
そういえば朝の時点で何かを言いかけてたような気がしたな。取り巻きどもに邪魔《じゃま》されてあの時は結局《けっきょく》確認《かくにん》できなかったが。
「それで、その、よろしかったら少しばかりお時間をいただけないかと……」
「ああ、それはいいが……」
ちらりと周《まわ》りに視線《しせん》をやる。
「おい、春香《はるか》様が――」
「またあのヤロウか……」
「許《ゆる》せないですぅ〜……」
即座《そくざ》に返ってくる突《つ》き刺《さ》さるような殺気《さっき》。全校集会の一件の影響《えいきょう》か、ファンクラブ員のみならずそのヘンを歩いてる一般生徒までもが指名手配犯《しめいてはいはん》を見るような目でじろじろとこっちを見てくる。……春香の話の内容が何かは分からんが、少なくともここ(教室)でするのは得策《とくさく》と言えないのだけは確実だな。
「……中庭とかでもいいか?」
可能《かのう》な限《かぎ》り、なるべく人目に付かない場所の方が都合《つごう》がいい。そしてこの時期にその条件を満《み》たす場所となると屋上《おくじょう》か中庭かだが、暑さのことを考えると日除《ひよ》けとなる木陰《こかげ》のある中庭の方いいだろう。
「えーと……はい。中庭ならだいじょぶです」
「んじゃ、さっさと行こう」
「あ――」
いつまでもここにいるとファンクラブの連中に呪《のろ》い殺《ころ》されそうである。春香の背中《せなか》を押《お》して、俺は逃《に》げるように(実際《じっさい》逃げるんだが)教室を出た。
後ろからは、
「あ、逃亡《とうぼう》しやがったあのヤロウ!」
「春香様をかどわかしたのか!」
「あ、あ、あんなに春香様の身体にべったりと触《ふ》れていますぅ! 許せないですよ〜!」
怨嗟《えんさ》と怨念《おんねん》の声が次々と飛んできたが、とりあえずもう聞かなかったことにした。
思った通りというか、中庭にはほとんど人の姿《すがた》はなく閑散《かんさん》としていた。
まあいかに木陰があるとはいえ今日はこのほとんど南半球的な暑さである。大抵《たいてい》のやつらは緑に囲《かこ》まれるというマイナスイオン的自然的|快適《かいてき》さよりも、エアコンの効《き》いた屋内《おくない》でのんびりするという即物的《そくぶつてき》近代的快適さを好んだとしても何ら不思議《ふしぎ》じゃないってことだ。
「よし、大丈夫《だいじょうぶ》だな……」
右よし左よし。確認《かくにん》のためいちおう周りを見るも怪《あや》しいやつらはいない。上を見た時に校舎の屋上で何かがキラリと光ったような気もしたが、距離《きょり》も離《はな》れてるし、あれはきっと関係ないだろう。
「とりあえずベンチにでも――ん?」
隣《となり》を見ると春香《はるか》の姿《すがた》が消えていた。
「春香?」
あれ、どこ行ったんだ? カラスのごとく辺《あた》りを見回し……
「んしょ、んしょ」
何やら、中庭中央にある芝生《しばふ》付近《ふきん》でいそいそと作業《さぎょう》をしている春香を発見した。
「あ、裕人《ゆうと》さん、ちょっと待ってください。すぐに準備《じゆんぴ》ができますから――」
芝生の上にゴザのような敷物《しきもの》を広げながら春香が答える。いや準備って?
首をひねる俺の前で春香はきゅっきゅっと敷物のシワを丁寧《ていねい》に伸ばすと、今度は何やら峠《とうげ》の茶屋とかで使われていそうな日除《ひよ》けの傘《かさ》(?)を立て始めた。それが終わると、どこからか釜《かま》みたいなモノを取り出しゴザの上に並《なら》べていった。
「はい、支度《したく》が整《ととの》いました。こちらへどうぞ、裕人さん」
ようやく準備が終わったのか、にっこりと笑って春香が手招《てまね》きをしてきた。
「……あー、これは何なんだ?」
クツを脱《ぬ》いでゴザに上がりつつ尋《たず》ねる。日除けの傘やら釜やら、明らかにこの場(昼休みの中庭)に似《に》つかわしくないモノばかりだ。
すると春香はおっとりとこう答えた。
「野点《のだて》の準備です」
「は? のだ――?」
「はい」
何のこっちゃ?
ワケが分からず成り行きを見守るしかない俺の横で、春香は慣《な》れた手付きで茶碗《ちゃわん》に緑色の粉《こな》を入れ、ハケのようなものでしゃかしゃかとかき混《ま》ぜる。中身がほどよく泡立《あわだ》ったところで、そっと茶碗を手渡《てわた》してきた。
「できました。抹茶《まっちゃ》ですが、どうぞです」
「……」
……どうやらお茶を点《た》ててたらしい。
「? 何か?」
春香が不思議《ふしぎ》そうな顔で見上げてくる。
「いや……」
うーむ、相変わらず春香の行動にはいまいち理解《りかい》しづらいもんがあるな。
とりあえず渡された抹茶をずすーっと飲んでいると、
「そ、それでお話なんですけれど……」
改《あらた》まった口調《くちょう》で、春香がおずおずとそう切り出してきた。ああ、そういえば野点やら何やらで微妙《びみょう》に忘《わす》れかけてたが、それで呼《よ》び出《だ》されたんだっけか。
「ん、何なんだ、話って」
「は、はい、あの」
春香《はるか》は少しの間もじもじとしていたが、
「こ、これを……」
「ん?」
やがて背後《はいご》からか、どん、と巨大な黒い物体を取り出した。
「……あー、これは?」
段々に重ねられた直方体の物体。
俺の目とメガネが曇《くも》ってなければ、多段重《ただんがさ》ねのお重《じゅう》のように見えるんだが。というかそれ以外の何でもないだろう。
しかし何だってお重なんだ? こんな巨大なもんをどこから取り出したのかってことはとりあえず置いておくことにして、なにゆえこの場にお重なんかが出て来るのかがかなり謎《なぞ》なんだが……
そびえ立つ重箱《じゅうばこ》の前でその用途《ようと》について思案《しあん》していると、
「お、お弁当……です」
春香が小鳥の鳴《な》くような声でそう言った。
「お弁当?」
「は、はい。あ、お弁当というのは外出先で食事をするために容器に入れて携帯《けいたい》する食べ物のことであって――」
いやそれくらいは分かるんだが。
「……まさか、俺のために?」
「は、はい」
こっくりと小さくうなずく春香。
「裕人《ゆうと》さんには今まで色々とご面倒《めんどう》をかけてしまいました。夏こみ≠フ時もお父様の時も、その前にもたくさん……。だからその、せめてもの感謝《かんしゃ》の気持ちというか、日頃《ひごろ》のご愛顧《あいこ》にありがとうございますというか……」
なんかお中元の謳《うた》い文句《もんく》みたいだな。というかそもそも、それら一連《いちれん》の出来事《できごと》については別に面倒だとかこれっぽっちも思ってないんだが……
そんなことを考えていると、春香が不安そうな顔で見上げてきた。
「あ、あの、もしかしてご迷惑《めいわく》だったでしょうか……? 私、こういうことは初めてなので、よく分からなくて……」
「迷惑なんてまさか!」
○・一秒で否定《ひてい》する。
まかり間違《まちが》っても迷惑なんてことは確実《かくじつ》に絶対《ぜったい》に百二十パーセントあり得《え》ない。
そうじゃなくて、よもやあの『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』が俺に弁当(しかも巨大お重《じゅう》)を作ってきてくれるなんて、そんなほとんどパラダイスというかアルカディアな日が来ることがあろうとは白昼夢《はくちゅうむ》にも思っていなかったため、ただ単純に喜びのあまり困惑《こんわく》してるだけなのである。
「で、でしたらよろしければ――」
「ああ、ありがたく食べさせてもらう」
「ほ、ほんとですか? 良かった……」
春香《はるか》の顔がお日様みたいにぱっと輝《かがや》いた。「やっぱりお母様の言った通りでした……」
「?」
「あ、な、何でもないです。それじゃ開けますね」
春香が重箱《じゅうばこ》を上から順に降《お》ろしていく。すると――
「おお」
五段|重《がさ》ねのお重から姿《すがた》を現したのは……まばゆいばかりの輝きを放《はな》つ、この上ないくらい美味《うま》そうな料理の数々だった。普段《ふだん》はとてもお目にかかれないような高級食材がわんさか。これはまさかアワビってやつか? こっちにはなぜか夏にもかかわらずマツタケがあって、重箱のど真ん中にデン! と殿様のごとく偉《えら》そうに鎮座《ちんざ》しているのは伊勢《いせ》エビだろう。
「すげぇ……」
まるでどこぞの高級|懐石《かいせき》かってくらいの豪華《ごうか》さだった。
「これ全部……春香が作ったのか?」
「あ、いえ。難《むずか》しいところはお母様や葉月《はづき》さん、那波《ななみ》さんにも手伝《てつだ》ってもらいました。やっぱりこれくらいになると、お母様の仕込《しこ》みがないと難しくて……」
そういえば秋穂《あきほ》さんは料理学校の校長をしてるって話だったか。まあそれにしたってほとんどは春香が作ったってことだよな?すごいことには変わりはない。
そう口にすると、
「そ、そんなことないです……」
春香が照《て》れたように顔をうつむかせた。
「あ、そ、それより、よかったらお取りしましょうか?」
「ああ、頼《たの》む」
「はい。食べたいのがあったら言ってくださいね」
嬉《うれ》しそうにうなずいて、春香が(これまたどこから取り出したのか)陶製《とうせい》の皿《さら》に漆塗《うるしぬ》りの立派《りっぱ》な箸《はし》で料理をよそっていく。
「どうぞです」
「さんきゅ」
たっぷりと料理の盛《も》られた皿が俺の前に置かれ、
「んじゃ、いただきます」
さっそく食べようとしたところで、
「あ! 裕人《ゆうと》さん、待ってください」
春香《はるか》がくいっと袖《そで》を引《ひ》っ張《ば》って俺の腕《うで》の動きをとめた。
「ん?」
「あ、あのですね……」
「?」
何やらものすごく緊張《きんちょう》した顔で春香は、俺の前に置いてあった皿を手に取ると、
「あ、あ〜ん」
動物園で初めて馬にニンジンをあげる幼稚園児みたいなぎこちない手付きで、マツタケを摘《つま》んだ箸《はし》を差し出してきた。
「……」
「あ、あ〜ん」
「…………あー、それは?」
こめかみを指で押《お》さえながら尋《たず》ねると、春香は目をぱちくりとさせてこう答えた。
「あ、え? な、何かまずかったですか?」
「いやまずいとかじゃなくてだな……」
何だってそんなこと(あ〜ん)をしているんだって話である。好意《こうい》自体はありがたいとはい
え、別に一人で食べられるんだが……
「で、でも、男の人といっしょにお弁当を食べる時には必《かなら》ずこうするものだと、お母様が言っていたのですが……」
「……」
「も、もしかして私。何か手順や作法《さほう》を間違《まちが》っていましたか? ど、どうしましょう……」
わたわたと慌《あわ》てる春香《はるか》。
……いや秋穂《あきほ》さん。
微笑《ほほえ》ましいだろうことは分かるんですが、頼《たの》むから実の娘に大嘘《おおうそ》を教えるはやめてください。
あの人のことだからきっとのんびりにこにこな笑顔《えがお》で『殿方《とのがた》と二人でお食事をする時には、女性がお箸《はし》でもって殿方に食べさせてさしあげるのが嗜《たしな》みなのですよ。ああ、もちろんその時の掛《か》け声《ごえ》はあ〜ん≠ナすから、うふふ』などと言ったんだろう。その時の画が実に鮮明《せんめい》に頭に浮《う》かんでくるな。
「あ、そ、そういえばお箸を差し出す時には左手を添《そ》えるように那波《ななみ》さんに言われていました。
確か右手の斜《なな》め下三十度に支《ささ》えるように添えるとか……。分かりました。それが足りなかったんですね」
納得《なっとく》したかのようにうんうんとうなずき、
「あ、あ〜ん」
今度は左手付きで箸を差し出してくる春香。自分のやってることの客観的《きやつかんてき》な意味は分かっていなくても、やっぱり何となく本能《ほんのう》で恥《は》ずかしさを感じてはいるのか、微妙《びみょう》に頬《ほお》を染《そ》めている。
「……」
さて。
これにはどう対処《たいしょ》したらいいのか。
とりあえずこの行動の裏《うら》には秋穂さんやら那波さんやらが絡《から》んでることは分かったが、それはまたそれである。せっかく春香が「あ〜ん」をしてくれてるんだから食べないってのはマナー(?)に反するだろうし、しかしだからといって勧《すす》められるがままに「あ〜ん」をするのもめちゃくちゃこっ恥《ぱ》ずかしい気がする。や、別にだれが見てるってわけでもないんだが何となく個人的に。
うーむ……
悩《なや》むこと一秒。
――しかしまあ、これはあれだ。
結局《けっきょく》こんなのはただ料理を食べさせてもらうだけであって、「あ〜ん」だの何だのと意識《いしき》するから恥ずかしいだけなんだよ。うむ、そうに違《ちが》いない。だからヘタに意識することなくここは春香の勧めに従《したが》ってしまうのがきっと吉だ。――と、結論付けることにした。
「あ、あーん」
心を無《む》にして、飼《か》い主《ぬし》にエサをもらうインコのように差し出された箸《はし》に向けて口を開く。
「は、はい。どうぞです」
そこに春香《はるか》が、そっとマツタケを運んでくれた。
「ど、どうでしょうか、お味の方は……」
「ウマイ……」
「え?」
「めちゃくちゃウマイ、これ」
「ほんとですか?」
「ああ」
春香の料理は、見た目通りというか何というか、絶品《ぜっぴん》だった。いや俺自身は最高級マスクメロンとマヨネーズをかけたキュウリの区別も付かないくらいの舌《した》レベルなんだが、それでもこの料理がハンパじゃなくウマイことくらいは分かる。
「あ、ありがとうございますっ。そう言っていただけると、とっても嬉《うれ》しいです」
本当に嬉しそうな顔で、春香はにっこりと笑った。う……「あ〜ん」の時の恥《は》ずかしそうな顔に引き続きその褒《ほ》められた仔犬《こいぬ》みたいな表情のダブルコンボに、思わずショットガンでもぶち込まれたみたいなインパクトが胸《むね》に奔《はし》る。かわいい……
「あ、あの、何か?」
俺の視線《しせん》に気付いたのか、春香がこっちを見つめて訊《き》いてくる。
「あ、いや。何でもない」
まさか見惚《みと》れてたとも言えないため、そう首を振《ふ》って誤魔化《ごまか》した。
「?」
それからも、「あ〜ん」をされつつ自分でも料理を食べつつ、まったりと昼食は進んでいったのだが。
「――あれ、裕人《ゆうと》さん、ほっぺたに何か付いてます」
「え?」
ふと、春香が俺の顔を指差してそう言った。
「ご飯|粒《つぶ》みたいです。ほら、そこに……」
「どこだ? ここか?」
「あ、そっちじゃないです。こっちで……」
春香はそっと手を伸ばしその白魚《しらうお》のような指で米粒を取ると。
「はい、取れました」
「お、さんきゅ」
「いえ、どういたしまして」
にっこりと笑って、
ぱくり。
と、そのまま何のためらいもなく自分の口へと運んだ。
「は、春香《はるか》……」
いやそれってある意味間接……じゃ――
「?」
最初、春香はきょとんとした顔で小首をかしげていたのだったが。
「あ――」
今度は、さすがの春香も気付いたみたいだった。
「――あ、わ、私……」
春香の顔がかーっと赤くなっていく。
「あ、ご、ごめんなさいです。その、私、あまり深く考えていなくて……」
「い、いや……」
慌《あわ》ててぺこぺこと頭を下げる春香を見ていたら 何だろうね、何だか俺まで恥《は》ずかしくなってきた。
「……」
「……」
真昼の中庭に、しばし真夜中の漁港のような沈黙《ちんもく》が降《お》りる。
「あー、と、とにかく食おう。時間がなくなる」
「は、はい。そうですね」
半《なか》ば誤魔化《ごまか》すように言った俺の言葉《ことば》に、春香も慌《あわ》てたように大きくうなずいた。
そんなどことなくぎこちない空気の中で昼メシが再開《さいかい》されたわけだが。
その最中《さいちゅう》。
「……」「……あ」
どちらともなく目が合ったり。
「お、この稲荷寿司《いなりずし》ウマそう――」「そこにあるお稲荷さんがお勧《すす》めで――」
「え……」「あ……」
重箱《じゅうばこ》から取ろうとした料理が見事《みごと》にバッティングしたり。
「あのな、春香――」「あの、裕人《ゆうと》さん――」
「あ、悪い。春香からいいぞ」「す、すみません、裕人さんから――」
かけようとした言葉《ことば》がこれ以上ないってくらいのタイミングでかぶったりと。
なんか普段《ふだん》ではあり得《え》ないようなシンクロニシティな現象《げんしょう》が多々発生していた。
「な、何だかヘンですね」
「そ、そうだな」
互《たが》いに顔を見合わせてうつむく。
だけど不思議《ふしぎ》と気まずくはなかった。何だかそわそわと落ち着かないんだが、決して居辛《いづら》いというわけではなく、むしろどこか親密《しんみつ》というか居心地《いごこち》のよい雰囲気《ふんいき》。雨の中、バス停《てい》で二人だけで雨宿りをしている時みたいな、そんな穏《おだ》やかな空気が辺《あた》りを漂《ただよ》っていた。
うーむ、こういうのも悪くないかもしれん。
もう少しばかり、こんなゆったりとした時間が続いてくれてもいいな……と思ったその瞬間《しゅんかん》。
「う〜ん、青春ね〜」
「!?」
ふいに背後《はいご》から声が響《ひび》いた。
「青い春と書いて青春。いい言葉《ことば》だと思わない? ていうか、な〜んかこの辺りだけやけに気温が高い気がするのはおねいさんの錯覚《さっかく》かしらね〜」
聞《き》き慣《な》れた明るくかつ能天気《のうてんき》な声。
振《ふ》り返《かえ》るとそこには。
「や、裕《ゆう》くんに春香《はるか》ちゃ〜ん。こんにちは〜♪」
「な……」
にんまりとした笑《え》みを浮《う》かべたセクハラ音楽教師が、お茶を飲みながら手をぱたぱたと振《ふ》っていた。
「ゆ、由香里《ゆかり》さん……」
「ゆ、由香里先生……」
「はいは〜い、その通り。愛の伝道師《でんどうし》、由香里おねいさんよ〜」
セクハラ音楽教師は、相変わらず何かヤバイもの(ワライタケとか)でも食ったのかってくらいのハイテンションだった。
「いいわね〜、『二人で初めてのお弁当』『ほっぺたについたご飯|粒《つぶ》をばくり』『見つめ合ったまま二人の世界に入ってどきどき♪』……初々《ういうい》しくてもうおねいさんは見てらんないわ〜」
きゃっ♪ と似合《にあ》わない声を上げて自分の頬《ほお》に両手を添《そ》える。心の底《そこ》から楽しいモノを見たって顔だ。ったく、ほんとにこの人は……
「……って、ちょつと待て」
と、そこで気付いた。
何でこの人がそんなことまで知ってやがるんだ? 『見つめ合ったまま〜』うんぬんはともかくとして、『ほっぺたに〜』についてはそれなりに前からいないと分からんはずだぞ?
「……ちなみに由香里さん、いつからここに?」
「え? ちょっと前くらいからかな。春香ちゃんが『あ〜ん』ってやってるあたり?」
訊《き》くと、しれっとそんな風に答えやがった。……てことは、俺と春香の一連のこっ恥《ぱ》ずかしいやり取りを全部見られてたってことか? このセクハラ音楽教師に? うわ、最悪だ……
「ま、驚《おどろ》かすつもりはなかったのよ。でも何だかすっごくいい雰囲気《ふんいき》だったからね〜。あんなところで声をかけるほど、おねいさんはヤボじゃないわよ?」
「……」
だったら最後まで出て来るなと言いたい。
なんか、すっげぇ疲《つか》れた気分になった。
「……で、いったい何の用なんですか?」
どうせロクなことじゃないだろうってのは容易《ようい》に想像《そうぞう》がつくが、いちおう訊《き》いてみると。
「何って、学食にゴハンを食べに行こうとしてたまたま通りかかったのよ〜。ここって職員室から学食への抜け道だから。そしたらなんか裕《ゆう》くんと春香《はるか》ちゃんがいるじゃない? 何やってるのか気になってね〜。ほら、ここはあんまり人通りが多くないし、私もいちおう副担任だし、裕くんが真昼間からケダモノになっちゃったら大変《たいへん》だもの」
「……」
やっぱりロクなことじゃなかった。てか世間一般《せけんいっぱん》ではそれをデバガメ行為《こうい》と呼《よ》ぶ。
「でも全然|心配《しんぱい》なかったみたいね。てゆ〜か、むしろいいとこでジャマしちゃって悪かったかな〜って感じで。ごめんね、春香ちゃ〜ん」
「あ、え、その私は……」
にやにや顔のセクハラ音楽教師に迫《せま》られ、真っ赤な顔になる春香。
「う〜ん、その分《わ》かり易《やす》い反応《はんのう》。かわいいわ〜♪」
「え、えと……」
よしよしと頭を撫《な》でられて、春香は困《こま》った顔をしていた。
「で、それはそうとして〜」
ひとしきり春香の頭を撫で回してから、由香里《ゆかり》さんはちらりと横を見た。
「それ、春香ちゃんのお料理よね? わ〜、すっごく美味《おい》しそう」
「そ、そうですか?」
「うん。見てるだけでお腹がきゅるるるる〜って壮絶《そうぜつ》に鳴《な》ってきちゃうわ〜。私、お昼まだだしね〜」
獲物《えもの》を狙《ねら》う猛禽類《もうきんるい》のようにお重《じゅう》を凝視《ぎょうし》しながら言う。
「あ、あの、よかったら由香里先生もいっしょに食べますか?」
その言葉《ことば》に、由香里さんのメガネの奥《おく》の瞳《ひとみ》がきらりと光った。
「あら、いいの〜?」
「はい、まだたくさんありますので」
「そう? 悪いわね〜。じゃ遠慮《えんりょ》なく」
言うなりスーツのポケットから箸《はし》を取り出すと(……マイ・チョップスティック?)、一週間エサを抜《ぬ》かれたトラのような勢《いきお》いで重箱《じゅうばこ》に襲《おそ》い掛《か》かった。いやそこまで露骨《ろこつ》に催促《さいそく》しといて悪いも何もないと思うんだがな。
「あ〜、美味《おい》しい。春香《はるか》ちゃんはきっといいお嫁《よめ》さんになれるわよ〜」
「あ、ありがとうございます」
そのままがつがつとひたすらに料理を食べ続けること五分。
「……ん? 春香ちゃん、それって何かしら?」
ようやく少し満足したのか、お重から顔を上げた由香里《ゆかり》さんがそう尋《たず》ねた。
「え、どれですか?」
「それよそれ、そこの隅《すみ》にあるやつ」
由香里さんが指差していたのは、まだ一つだけフタが閉じられたままの重箱だった。ああ、そういえばそれはさっきから俺も気になってたんだよな。
「なんかフタの隙間《すきま》から甲羅《こうら》みたいなのが見えてるんだけど〜」
「……」
……コウラ?
なんか今、昼メシの席にあるまじき単語が聞こえてこなかったか?
「あ、これですか? これはですね――」
すると春香はかぱっと重箱を開け中身を見せてくれた。
「……」
そこにあったのは、まんまカメの甲羅だった。真ん中にぽっかりと丸い穴が開いていて、そこにピンク色をした半液体状《はんえきたいじょう》の物体がフルフルと揺《ゆ》れているのが見える。
「…………」
「…………」
「これはスッポンのゼリーです。デザートですので最後にお出ししようと思っていたのですが……」
「スッポンの」
「……ゼリー?」
由香里さんと俺の声が見事《みごと》につながった。
「はい。そうです」
こっくりとうなずく春香。
「お母様たちに持っていくように言われたんです。何でも、『殿方《とのがた》のお弁当に求められるものは、まず第一にスタミナです。そしてスタミナをつけるには何と言ってもスッポンが一番ぞす。うふふ(お母様談)』『ええ、精力絶倫《せいりょくぜつりん》というやつですね〜(那波《ななみ》さん談)』だとか……」
「……」
……またあの二人か。
本当に、心の底《そこ》からこのイベント(?)を楽しんでるみたいだな。こっちとしては感謝《かんしゃ》半分|迷惑《めいわく》半分って感じだが。
「あの、もしかして裕人《ゆうと》さん、スッポンはお嫌《きら》いだったでしょうか……?」
春香《はるか》が不安げに見上げてきた。
「え、いや……」
好きも嫌いも、スッポンなんて高級食材、生まれてこのかた口にしたこともないため分からん。しかもよく見るとうちのビッグガメラ(ミドリガメ)に似《に》てるような気がして微妙《びみょう》に抵抗《ていこう》があったり。
戸惑《とまど》う俺に、
「すみません、お嫌いだなんて知らなかったものですから……」
「あ……」
「これはお出しせずに持って帰りますね……」
しおれた花みたいにしょんぼりと春香が言った。何やらすごく落ち込んでいるらしい。スッポンなのに……
「裕く〜ん、ここで食べなかったら男じゃないわよ?」
「う……」
にやにやと笑いながら由香里《ゆかり》さんがヒジでわき腹をつんつんとつついてくる。
……まあ、覚悟《かくご》を決めるか。見た目は色々とアレだが、春香の作ったものだし品質の方は保証《ほしょう》されてるハズだ。……たぶん。
「あー、春香。それ、もらえるか?」
「え……?」
「デザートなんだろ? その、何だ、スッポンのゼリー」
「で、でも……」
「そろそろさっぱりしたものが食べたかったんだ。――もらうぞ」
「あ……」
俺は春香の手からスッポンを奪《うば》い取《と》り、そのピンク色の半液体《はんえきたい》を口へと運び――
「……」
「……」
「……ど、どうでしょうか?」
「あ、あー……」
何とも形容しがたい味だった。
苦《にが》いというか酸《す》っぱいというか何やら薬のような味が口いっぱいに広がり、正直二口目を口にするのすら躊躇《ためら》われる。これはおそらく春香の腕《うで》がどうこうというわけではなく、元々がこういった味なんだろう。
「……(どきどき)」
「……」
ともあれ、きらきらと期待《きたい》に満《み》ちた目でこっちを見つめる春香《はるか》を前にしてまさかはっきりマズイとも言えず。
「う、うまいぞ……」
額《ひたい》から出る汗《あせ》(脂汗《あぶらあせ》)を隠《かく》しながら、しぼり出すようにして何とかそう答えた。
「ほんとですかっ」
「あ、ああ」
「でしたら遠慮《えんりょ》せずにどんどん食べてください。これは全部|裕人《ゆうと》さん用ですから」
「え……」
「お代わりもありますよ」
にっこりと笑う春香。
「そ、そうだな……」
……マジですか。
「うんうん、裕くん。それでこそ男よ。がんばれ〜、おねいさんも応援《おうえん》してるわよ〜♪」
自分は少し離《はな》れたところでイモ羊葵《ようかん》をぱくつきながら、そんなことを言う由香里《ゆかり》さん。
だったら少しは食うのを手伝《てつだ》ってくれ……と心の中で盛大《せいだい》に文句《もんく》を言いつつ、俺はほとんどノドに流し込むようにゼリーのお代わりを口にしたのだった。
そんなこんなで、スッポンぜリーの何とも言えない味とともに昼休みは終わっていく――
3
五時間目、六時間目の授業は特にこれといったアクシデントもなく、普通《ふつう》に過ぎていった。
そして放課後。
帰りのホームルームも終わり、特に用事もなかったため帰ろうとカバンに荷物《にもつ》を詰《つ》めて、何気《なにげ》なく教室を見回していると。
「――ん?」
「……(そわそわ)」
「……」
「……(うずうず)」
何やら、やたらと落ち着きのない春香を発見した。遠目《とおめ》から見ても分かるくらいにいてもたってもいられないような様子《ようす》である。なんだ、何か緊急事態《きんきゅうじたい》でもあったのか?
「……どうしたんだ、春香《はるか》?」
「あ、ゆ、裕人《ゆうと》さん」
気になったので声をかけてみると、春香は地獄《じごく》で仏を見かけたような顔をした。
「何かあったのか?落し物でもしたとか?」
「い、いえ……」
「?」
「その……」
春香は少しの間|迷《まよ》っていたようだったが、やがて、
「じ、実は図書室に『イノセント・スマイル』の追加《ついか》のバックナンバーが入荷《にゅうか》されたというお話を、今そこで千代《せんだい》さんと八咲《やつさき》さんがしていたのを聞いたんです」
思い切ったかのようにそう言った。
「……」
あー、なるほど。
それは確かに春香にとってはかなりの緊急事態《きんきゅうじたい》かもしれん。
ただ千代と八咲さんって……あの『狂犬《きょうけん》』と『忠犬《ちゅうけん》』の二人だよな? 信長《のぶなが》とかなら分かるんだが、何でまたあの二人がそんな話をしてたんだ? うーむ、不思議《ふしぎ》なこともあるもんだ。
春香は続ける。
「ですが入荷されたのがどのナンバーなのか分からなくて……もしかしたら持っているものかもしれませんし、持っていない貴重《きちょう》なものかもしれません。だとしたら借《か》りたいと思うのですが……」
一人で行くのは不安ってわけか。まあその気持ちは痛《いた》いほど分かる。
なので。
「――なあ、いっしょに行くか?」
「え?」
そう提案《ていあん》した。
「図書室。行きたいんだろ? 確認《かくにん》の意味も含《ふく》めて。だったら付き合うそ」
「そ、それは――はい。でもよろしいのですか……?」
「ああ、別にヒマだし」
それに春香一人で行かせると、またいつかのように図書室|半壊《はんかい》事件とかを起こしかねんしな。
「あ、ありがとうございますっ。本当に裕人さんにはお世話《せわ》になりっぱなしで……」
春香がぺこぺこと何度も頭を下げた。
「いや、それくらい別にいいってのに―――――っ!?」
と、その瞬間《しゅんかん》。
背筋《せすじ》にぞくりとするような悪寒《おかん》が奔《はし》った。
「…………おい、あいつまた春香《はるか》様と二人で…………」
「……何で春香ちゃんがあんなヤツに頭を下げてんだ?」
「何か弱みでも握《にぎ》られてるんじゃないでしょうね?」
すでに本日何回目か分からん、周囲《しゅうい》からの殺人鬼《さつじんき》まがいな視線《しせん》だった。
朝、午前、昼休みを経《へ》て、その数は当初の三倍くらいにまで膨《ふく》れ上《あ》がっている。
……これはもう、後で信長《のぶなが》に情報|操作《そうさ》を頼《たの》んどかないと今後の学園生活に多大な支障《ししょう》をきたすことは確実《かくじつ》だな。ていうか生命が危《あぶ》ない。やつに借《か》りを作るとあとあと面倒《めんどう》なので(一日中買い物に付き合わされたり、よく分からないアニメDVDをいっしょに鑑賞《かんしょう》させられたり)あまり気が進まんのだが、この際《さい》、背《せ》に腹は代えられんだろう。
「裕人《ゆうと》さん?」
内心のメランコリーが顔に出ていたのか、春香が心配《しんばい》そうに俺の顔を見た。
「……いや、何でもない。それより図書室だよな。行こう」
「あ、は、はい」
首をかしげる春香を促《うなが》し、俺たちは図書室へと向かった。
それから三十分後。
心配《しんぱい》していたようなトラブル(図書室|半壊《はんかい》とか)は特になく、無事《ぶじ》に『イノセント・スマイル』の貸し出しに成功した。
「〜♪」
春香はご機嫌《きげん》だった。
軽くスキップをしながら、俺の隣《となり》で楽しそうに『ドジっ娘《こ》アキちゃんのテーマソング』(であるらしい)を鼻歌で歌っている。
「今日はとってもいい日です(にっこり)」
弾《はず》んだ声でそう言って、春香は背中《せなか》に背負《せお》っているカバンに目を向けた。そこに入っているのはもちろん、たった今借りてきたばかりの『イノセント・スマイル』である。
「これはずっと探《さが》していた号なんです。五年くらい前のもので『はにかみトライアングル1st』が初掲載《はつけいさい》されているのですけど……当時はお小遣《こづか》いが足りなくて買えなかったんです。だから嬉《うれ》しくて嬉しくて」
春の訪《おとず》れとともに雪の下から顔を出したフキノトウみたいなうきうきとした表情で春香が語《かた》る。まあ幸せそうなのはいいんだが、その微妙《びみょう》に浮《う》かれすぎな様子《ようす》を見てると、少しばかり心配になってくるな。
「……あんまはしゃいでると、また転《ころ》んだりするぞ」
いつかのように廊《ろうか》下でハデに三回転半した挙句《あげく》に所持品《しよじひん》全てブチ撒《ま》けなんてことになったら目も当てられん。
「だいじょぶです。今回はちゃんと足下《あしもと》に気を付けていますから」
笑顔《えがお》で両手をぐっと握《にぎ》り締《し》める春香《はるか》。
その言葉《ことば》にまったくもって信用が置けないのは、ここ半年の付き合いで骨《ほね》の髄《ずい》まで分かっている。というか、そもそも何もない平地でつまずいて転《ころ》ぶのが春香だしな。
それとなく春香の頼《たよ》りない足取りに気を配《くば》りながら廊《ろうか》下を歩いていく。
「あ、そうだ。よろしかったら、裕人《ゆうと》さんもうちに来ていっしょに『イノセント・スマイル』読みませんか?」
階段前の曲《ま》がり角《かど》を折れたところで、春香がそんなことを言った。
「俺も?」
「はい。やっぱり、一人で読むよりも裕人さんと二人で読んだ方が楽しいですし……。それに今日は葉月《はづき》さんがおやつにクリームババロアを作るって言ってたんです。どうですか?」
「クリームババロアか……」
悪くないかもしれん。……それに秋穂《あきほ》さんや那波《ななみ》さんには(在宅《ざいたく》してればだが)、昼メシの件について感謝《かんしゃ》の意とともに少々突っ込みたいこともあるし。
「んじゃ、お邪魔《じゃま》するかな」
「はいっ」
嬉《うれ》しそうに春香がうなずく。
で、そんなことを話しているうちに昇降口《しょうこうぐち》まで辿《たど》り着《つ》いた。
放課後ということもありそれなりに人で賑《こぎ》わっている昇降口で、クツに履《ま》きかえるべくゲタ箱を上げる。
「あっー」
と、隣《となり》て最上段にあるゲタ箱を開けようと一生|懸命《けんめい》に背伸《せの》びをしていた春香のポケットから、ころりと何かが落ちた。
金属音《きんぞくおん》を響《ひび》かせて地面に転がったのは、金色に輝《かがや》く大きな鍵《かぎ》。それもカタチからしてただの鍵じゃなく、コピー不可能《ふかのう》のウォーロック錠《じょう》ってやつか?
「あ、これはあの宝箱の鍵なんです。お部屋《へや》に置いておくとどこかに失くしてしまいそうなので、いつも肌身離《はだみはな》さず持っていることにしたんです」
春香がそう説明してくれた。
いや紛失《ふんしつ》って点では、家に置いておくよりも春香が持っている方がよっぽど危《あぶ》ない気がするんだが……という突っ込みはとりあえず心の内に秘《ひ》めておくことにした。
「よいしょっと」
鍵を拾い上げようと、春香がしゃがみこむ。
悲劇《ひげき》が起こったのは、まさにその時だった。
……おそらくは、カバンの留《と》め金《がね》をちゃんと閉めてなかったんだろうな。
どさどさどさ。
かがみこんだ拍子《ひょうし》にパカッと開いた背中のカバンから、中に入っていた荷物《にもつ》がダイレクトに春香《はるか》の頭に降《ふ》り注《そそ》ぎ。
「あ、あうっ」
頭の上でワンバウンドして。
ばさばさばさり。
そのまま重力《じゅうりょく》に従《したが》って地面へと撒《ま》き散《ち》らされる。
それらの中には筆記用具やら教科書やら楽譜《がくふ》やらに混《ま》じって やたらと原色な『イノセント・スマイル』があった。
「……い、いたた…………」
「……」
「す、すみません またやっちゃいまし――」
照《て》れ臭《くさ》そうに頭をさすっていた春香が顔を上げようとして。
「……あ、あれ?」
その視線《しせん》が途中《とちゅう》で止まった。
「え、え、あれ? こ、これって……」
もちろんその先にあるのは『イノセント・スマイル』である。落下《らっか》した勢《いきお》いでたまたま開かれていたページには、現在の春香《はるか》と同じように地面にへたり込みながら頭を押《お》さえている蒼髪《そうはつ》の少女(……ドジっ娘《こ》アキちゃん?)のイラストが、ページいっぱいにアップで描《えが》かれていた。
「あ、あ……」
状況《じょうきょう》を認識《にんしき》したのか、春香の顔色が化学|反応《はんのう》を起こした検査紙《けんさし》のようにさっと変わる。同時にふらりとその小さな身体が傾《かたむ》いた。
「春香!」
ダッシュで駆《か》け寄《よ》る。「――っ」
床《ゆか》に倒《たお》れるギリギリのところで何とか春香の身体をキヤッチ。ついでに『イノセント・スマイル』を拾い上げ、制服のシャツ(俺のな)の中に隠《かく》した。ちなみに、風でさらにぱらりとめくれた『イノセント・スマイル』の次ページも蒼髪の少女が何やら顔色を真《ま》っ青《さお》に変えているシーンだったが、そんなのは今はどうでもいい。
「ふう……」
とりあえず一息《ひといき》吐《つ》くとともに、周《まわ》りを見渡《みわた》して状況|確認《かくにん》をする。
どうやら春香が荷物をブチ撒けたことで注目はされているみたいだったが、幸《さいわ》いなことに『イノセント・スマイル』の方はバレてないようだった。
「春香、大丈夫《だいじょうぶ》だ」
腕《うで》の中の春香にそう声をかける。
「春香?」
「あ、わ、私、私」
だが、なんか目が虚《うつ》ろだ。マズイ、これはもしかしてパニックモードに入っちまったか?「春香!」
「わ、私……」
「平気だ。バレてないから」
両|肩《かた》を掴《つか》んで揺《ゆ》すると、ようやく春香の瞳《ひとみ》に少しだけ色が戻《もど》った。
「だい、じようぶ……?」
「そうだ、大丈夫だ」
「ほ、ほんと……ですか……?」
「ああ、問題ない。うまく隠《かく》せた」
「よ、良かった……」
その瞬間《しゅんかん》、すっと春香の瞳から雫《しずく》がこぼれた。
「!?」
「あ、ご、ごめんなさい……その、私、び、びっくりして……」
口ではそう言うものの、なおも春香の目からは涙《なみだ》が出てくる。あー、こういう場合はどうしたらいいんだ? ぬぐってやろうにもハンカチなんてしゃれたもんはやっぱり持ってない。ポケットティッシュならあるが、さすがにそれで涙《なみだ》をふき取るのはどうかと思う。
どう対応《たいおう》すべきか決めかねていると、
「おい、あいつ何やってんだ……?」
「知らねえけど、だれかを泣《な》かして……ってあれ、春香《はるか》様じゃねえか!?」
「春香様を……」
「強引《ごういん》に言い寄って泣かしただと……あのヤロウが」
いつの間にか、すげえ不穏《ふおん》な空気が周《まわ》りに発生していた。
「……」
まあ非常《ひじょう》に不本意《ふほんい》だが、客観的《きゃっかんてき》に見ると確かに俺が春香に迫《せま》って泣かしているように見えなくもない。というかそれ以外の何でもない。迫るダメ男・泣く美少女の構図《こうず》である。ここはもうさっさと戦線|離脱《りだつ》をするのが一番だな。
「……春香、立てるか?」
「あ、は、はい」
しゃがみこんでいた春香を立たせ、地面に散らばった荷物《にもつ》を手早く集めると。
「じゃ行くぞ!」
「あっ――」
春香の手を引いて、その場から走り出した。
「あのヤロウ、逃《に》げやがった!」
「誘拐《ゆうかい》だ、誘拐!」
「だれか警察|呼《よ》べ! いや親衛隊《しんえいたい》だ!」
背後《はいご》からは、それだけで空飛ぶ仔鳥《ことり》の一羽二羽は撃墜《げきつい》できそうなほどの殺気《さっき》と、ほとんど犯罪者《はんざいしゃ》に向かってかけられるような台詞《せりふ》のオンパレード。なんか今日はこんなのばっかだな……
心の中でアフリカゾウよりも重いため息《いき》を吐《つ》く。
とりあえず一つだけ確かなのは。
一刻《いっこく》も早く信長《のぶなが》に情報|操作《そうさ》を頼《たの》まなきゃならなくなっちまったってことだった。
4
ライオンから逃げるシマウマのごとき全力|疾走《しっそう》で学園から離《はな》れ、やって来たのは近くにある公園だった。
「こ、ここまで来れば大丈夫《だいじょうぶ》か……」
肩《かた》で息をしながら後ろを振《ふ》り向《む》く。あの焼け付くようなおびただしい数の殺気は、すっかり消え去ってくれていた。
「やれやれ……」
少しだけ安堵《あんど》して隣《となり》の春香《はるか》を見る。
「……」
「春香……」
春香はもうパニックモードからは立ち直っていたが、その表情は沈《しず》んだままだった。まあ未遂《みすい》に終わったとはいえ、二ヶ月前の悪夢《あくむ》(カタログ露出《ろしゅつ》事件)の再来《さいらい》に近いことをやっちまったんだしな。落ち込むのはムリもないといえる。
「やっぱり……まだダメか?」
「……」
晴れて家族|公認《こうにん》になって家の中では趣味《しゅみ》を隠《かく》すことはなくなったとはいえ、それがそのまま学校でも適用《てきよう》されるかというと、また全然別問題のようだ。
無言のまま下を向く春香。
だけど俺としては、いつまでも春香にそんな過去《かこ》のトラウマに縛《しば》られていてほしくないんだよな。そりゃ自分からカミングアウトしろとは言わんが、せめて何かの拍子《ひょうし》に趣味がバレそうになった時に、あそこまでハデなリアクションを取らずに笑って流せるくらいになってくれればいいと思う。
「気持ちは分かるが……何ていうか、そんなに大げさに考えなくても大丈夫《だいじょうぶ》なんじゃないか?前にも言ったが、みんながみんなアキバ系に敵意《てきい》を持ってるわけじゃないだろうし……」
「それは……」
俺の言葉《ことば》に、春香は少しだけ反応《はんのう》した。
「……それに、だな」
「……?」
「あー、これも前に言ったが――何があっても俺は春香の味方《みかた》だぞ? 絶対《ぜったい》に春香から離《はな》れることはない。だからその、春香が一人になることだけはないわけで……」
……相変わらず恥《は》ずかしい台詞《せりふ》ばかりを言ってるな、俺。だけどそれが本心である以上、この場で春香にそれを伝《つた》えておくことは大事だと思うんだよ。
「裕人《ゆうと》さん……」
春香がきゅっと制服の裾《すそ》を握《にぎ》ってきた。「ありがとうございます……」
その寂《さび》しがり屋《や》のウサギみたいに健気《けなげ》な仕草《しぐさ》に、不謹慎《ふきんしん》ながら思わずドキリとしてしまう。
「裕人さんにそう言ってもらえることはとても嬉《うれ》しいです。私も……できるものならそうしたいとも思ってます」
「じゃあ……」
「でも、でも……やっぱり、まだ怖《こわ》いんです」
春香《はるか》がふるふると首を振《ふ》った。
「裕《ゆうと》人さんが言うみたいに、全ての人たちがそういった趣味《しゅみ》を否定《ひてい》するわけではないと理屈《りくつ》では分かっていても、裕人さんが傍《そば》にいてくれると心では分かっていても、どうしてもあの時のことが頭に浮《う》かんで……」
あの時とはおそらく中学時代のことを言ってるんだろう。
「ごめんなさい……だから、私はまだみなさんの前では――」
すまなそうな顔でうつむく春香。
「……いや、こっちこそ結論を急ぎすぎた。悪い……」
春香にとって、中学時代のことはほとんどトラウマと言ってもいい出来事《できごと》である。そんなトラウマを持ったことのない俺にはそれがどれほど苦しいものなのかは想像《そうぞう》でしか分からんし、そもそもその出来事自体も春香の中ではトラウマの一言で片付けられるほど簡単《かんたん》なものじゃないんだろう。
頭を下げた俺に、春香は慌《あわ》てたようにぱたぱたと手を振った。
「そ、そんな、謝《あやま》らないでください。裕人さんの気持ちはとても嬉《うれ》しかったんですから……」
「けどな……」
考えの足りないことを言っちまったことは事実だ。
「……そ、それに、そんなもっともらしい理由だけじゃなかったりします」
春香の声が少し小さくなった。
「え?」
「みなさんに趣味のことを知られたくない理由――です」
「……どういうことだ?」
すると春香はよりいっそう声を小さくして。
「……何だか、もったいないような気がするんです」
照《て》れたような顔で、そう言った。
「もったいない?」
「は、はい。だって、その、このこと[#「このこと」に傍点]は私と裕人さんしか知らない……私たちだけの『秘密《ひみつ》』、ですよね? だから、大事にしておきたくて……。あ、へ、ヘンなことを言ってますよね、私。自分でもよく分からなくて……」
困《こま》ったように笑う春香。
まあ美夏《みか》や秋穂《あきほ》さん、春香父。葉月《はづき》さんに那波《ななみ》さん、それにルコに由香里《ゆかり》さん。春香の趣味について知っている人は俺以外にも何気《なにげ》にけっこういるんだが、春香が言いたいのはそういうことじゃないんだろう。
「か、勝手にこんなことを言ってご迷惑《めいわく》かもしれないですけれど……で、でも大切にしておきたいっていう気持ちは本当なんです。私と裕人さんとの『秘密』を……」
俺の手をきゅっと握《にぎ》ってくる。
「春香《はるか》……」
その言葉《ことば》を聞いて、嬉《うれ》しくなった。
いやそりゃもちろん、春香が俺たちだけの『秘密《ひみつ》』≠ニ言ってくれたことはそれ単体で天にも昇《のぼ》ってついでにそのまま星になっちまってもいいと思えるくらいに嬉しいんだが、それだけじゃなく春香の口から自分の趣味《しゅみ》についての前向きな言葉が出て来たことについて、だ。
少しずつだが、春香も変わってきている。
今までの、皆に自分がプチアキバ系ということを知られたくないというある意味後ろ向きで消極的《しょうきょくてき》な理由だけじゃなくて、少しだけ前向きで積極的《せっきょくてき》な理由で、趣味を隠《かく》しておきたいと考えるようになっている。
これだって、充分《じゅうぶん》な進歩と言えるだろう。
「裕人《ゆうと》、さん……?」
口元を綻《ほころ》ばせている俺を見て不審《ふしん》に思ったのか、心許《こころもと》なげな目で見上げてくる春香。
それに笑い返して、俺は言った。
「――そうだな」
「え……」
「せっかくだし、しばらくは俺たち二人だけの――綾瀬《あやせ》裕人と乃木坂《のぎざか》春香の『秘密』にして
おくのもいいかもしれないな」
「あ――」
春香は一瞬《いっしゅん》、その目をぱちぱちとさせて、
「は、はいっ」
そして満面《まんめん》の笑《え》みで、大きくうなずいたのだった。
さて、これで何もかも一件|落着《らくちゃく》と思いきや。
春香の家へと辿《たど》り着《つ》いた俺たちを待ち受けていたのは。
「あ〜、おに〜さん、来た来た〜。ね、ね、お姉ちゃんに『あ〜ん』された感想はどうだった? どきどきした? ふふ〜♪」
「なっ……」
にやにや顔の美夏《みか》と、
「ご飯|粒《つぶ》を取ってあげたのは、とってもいい行動でしたよ、春香。惜《お》しむらくはそのやり方ね。直接口で取って差し上げれば完壁《かんぺき》だったのに。うふふ」
「え、えっ?」
にこにこ顔の秋穂《あきほ》さん、
「裕人《ゆうと》様〜、せっかくいい雰囲気《ふんいき》になられたのですから、もっと積極的《せっきょくてき》にならないとダメですよ〜。ああいう場面では男の人から押《お》すべきだと私は思いますー」
「……スッポンゼリーは健康にとてもよろしいのです」
にっこりと笑う那波《ななみ》さんに、一人真顔の葉月《はづき》さんだった。
……い、いや何でこの人たちがそれを?
「さあ、どうしてでしょうね〜?」
などとにこやかに笑う那波さんの手にはビデオカメラ(最新手ブレ防止|機能《きのう》付き)。
まさかあの時、校舎の屋上《おくじょう》で光ってたのは……
「企業秘密《きぎょうひみつ》です〜」
とは言うものの、その楽しそうな声が全てを語《かた》っていた。
「……」
やられた……
そういえばこの人たちはこういう人たちだってことを忘《わす》れてた。
「ね、それでどうだったの? ほらほら、感想を四百字詰め原稿用紙十枚以内で述《の》べてみて〜」
「あらあら、それは私もぜひ聞きたいですね、うふふ」
「楽しかったに決まってますよね〜? 離《はな》れた屋上までラブラブな雰囲気が伝《つた》わってきましたし〜」
「……スッポンゼリーで精力《せいりょく》バリバリ」
「……」
こうして、二日連続で美夏《みか》、秋穂《あきほ》さん、那波さんの三人(プラス葉月さん)にからかわれまくるという悪夢《あくむ》のような展開《てんかい》で、新学期の初日は幕《まく》を閉じたのだった。
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十月に入って二回目の、ある日曜日のことだった。
朝の九時半。
部屋《へや》のベッドの中で昼寝中《ひるねちゅう》のナマケモノのように気持ちよくまどろんでいた俺は、
チャチャチャーン、チャチャチャーン、チャチャチャチャチャーン♪
「?」
突然響《とつぜんひび》いた『天国と地獄《じごく》』(運動会とかでよくかけられているアレである)の賑《にぎ》やかな音に叩《たた》き起《お》こされた。
「な、何だ?」
思わず辺《あた》りを見回しながら身体を起こす。
部屋いっぱいに鳴《な》り響《ひび》く音はかなりやかましい。そのやたらと軽快《けいかい》なリズムとも相まって、もはや騒音《そうおん》といっても差《さ》し支《つか》えのないレベルである。
どこで鳴ってるんだ……?
寝起きでトリのようにボケた頭でベッドの上から部屋内を見回す。
音の発生源《はっせいげん》はすぐに分かった。
ベッドの脇《わき》の勉強机。
その上でピカピカとライトを点滅《てんめつ》させながら鳴り響いていたのはー俺の携帯《けいたい》電話だった。
いやこんな着信音を入力した覚《おぼ》えはないんだが……
首をひねりながらディスプレイに表示された発信者名を見る。
そこには、
『らぶり〜美夏《みか》ちゃん?※[#ハート(白)、1-6-29]』
の文字(やはり入力した覚えなし)と、笑顔《えがお》でピースをしているツインテール娘の写真(同じく取り込んだ覚えなし)がともに浮《う》かび上《あ》がっていた。
「……」
ピツ。
とりあえず切った。
チャチャチャーン、チャチャチャーン、チャチャチャチャチャーン♪
三秒と間をおかず再《ふたた》び『天国と地獄』が鳴り響いた。
また切った。
チャチャチャーン、チャチャチャーン、チャチャチャチャチャーン♪
今度は一秒としない内に即座《そくざ》に鳴った。
「……」
しかたがないので出てみるとー
「あ、やっと出た。おに〜さん、おはよ〜」
通話ボタンを押《お》すなり電話の向こうから聞こえてきたのは、当然のごとく『らぶり〜美夏《みか》ちゃん?※[#ハート(白)、1-6-29]』の声だった。
「美夏……」
「はい、おに〜さん。まずはちゃんとお・は・よ・う。健全な朝はきちんとした挨拶《あいさつ》から始まるんだから、おろそかにしちゃいけないよ?※[#ハート(白)、1-6-29]」
「……」
「お・は・よ・う」
「……オハヨウ」
「ん、よろしい♪」
俺の棒読《ぼうよ》みな挨拶に、それでも満足そうに美夏が笑った。
「にしてもおに〜さん、なんかやけに出るのが遅《おそ》かったね。それに真昼間に叩《たた》き起《お》こされたフクロウみたいな声だし。あ、もしかして寝《ね》てたの?」
「……まあな」
もしかしても何も、完全|完壁《かんぺき》に寝てたんだが。
「え〜、ダメだよ。もう九時半なんだから、元気な男の子は起きてお庭でラジオ体操《たいそう》でもしてなきゃ。あんま寝てばっかりいると薩摩《さつま》の黒ブタになっちゃうよ?」
「……」
「あれ、松阪《まつざか》の霜降《しもふ》り牛《ぎゅう》だっけ?」
「……知らん」
そんなのどっちでもいい。
てかどっちも確実《かくじつ》に違《ちが》うだろ、それは。
「……そんなことより、こんな朝っぱらからどうしたんだ? 何か用でもあったのか」
放《ほう》っておーと話がどんどんとワケの分からない方向に行きそうだったのでそう言うと、
「あ、そだった。うん、あのね、きゃっ――!」
小さな悲鳴《ひめい》が聞こえた。
「どうした?」
「ちょっと巻《ま》いてたバスタオルが落ちぢやって」
「バスタオル……?」
何だって電話中にそんな単語が出て来るんだ? バスタオルといえばバス(風呂場《ふろば》)で使うタオルであり(当たり前だ)、そして電話は普通《ふつう》、風呂場で使われることはないものである。ゆえに両者が同時に使用されることなど通常《つうじょう》は考えられないはずなんだが……
「ん〜、今シャワーから上がったばっかりなんだよ。髪《かみ》を乾《かわ》かしてる時間がもったいないからその間におに〜さんに電話してたんだけど、油断《ゆだん》してたら落ちちゃった。えへ」
美夏《みか》はあっさりとそんなことを言った。
「やっぱりちゃんと結んどかないとダメだね。軽く巻《ま》いただけじゃすぐ落ちぢゃうよ。バスローブの方がよかったかな〜」
「……」
そういう問題じゃないだろ。
しかし言われてみれば、ルコのやつもしょつちゅうそういう横着《おうちゃく》なこと(髪を乾かしながら電話)をしてるな。もっともやつの場合は、盛大《せいだい》に素《す》っ裸《ぱだか》な上に片手にビールというオヤジなオプション付きだが。
「ん? あれ〜、おに〜さん、静かだけど、もしかしてなんか想像《そうぞう》しちゃってる?」
と、美夏のからかうような声が聞こえてきた。
「ほらほら、今のわたしは生まれたばっかの姿《すがた》だよ。どきどきする? 見てみたい? えへへ〜♪」
「……」
わざわざ携帯《けいたい》を近づけているのか、バスタオルがはだけるような音が聞こえてくる。芸が細かいというか何というか……
「…………特に用がないんなら切るぞ」
なんかもう、このツインテール娘が何のために電話をかけてきたんだかさっぱりだったためそう言うと、
「あ、待って待って! 用はあるよ。大事な用があるから電話したんだってば!」
少し慌《あわ》てた声が受話口の向こうから響《ひび》いた。
「大事な用?」
「うん、そうそう。おに〜さん、今日はもちろんヒマだよね?」
「いきなり断定形《だんていけい》から入るのも引っかかるが……まあ、ヒマだ」
ルコのやつは昨日から由香里《ゆかり》さんのアパートに泊《と》まりに行っていていないし、信長《のぶなが》も今日は何やらやる事(定期|巡回《じゅんかい》がどうのこうの)があるとか言っていた。俺の休日の予定には九割方その三人が関《かか》わってるのが通常《つうじょう》であるため、やつらがいない以上|必然的《ひつぜんてき》に本日のスケジュールは空白《くうはく》ということになる。
「やっぱり〜。おに〜さんならそうだと思った」
すると美夏《みか》はうんうんと大きくうなずき、
「だったら今から出て来れるかな? ちょっといっしょに付き合ってほしいところがあるんだ〜。時間は十時でだいじょぶだよね? えっと、場所は――」
1
で、それから一時間後。
俺は美夏に指定された場所で待っていたわけだが……
「……何でここなんだ?」
思わず一人でつぶやいてしまった。
俺の目の前に広がるのは、半年近く前に訪《おとず》れて以来の日本一の電気街。
何だか前に来た時よりも駅前がやたらと整備《せいび》されているような気もするが、それ以外の部分は相変わらず人で溢《あふ》れまくっていてムダに雑然としているこのアキハバラの街こそが、美夏の提示《ていじ》してきた待ち合わせ場所だった。いや春香《はるか》じゃあるまいし、美夏が何だってこんなところに俺を呼《よ》び出《だ》したのかその意図《いと》がさっぱり分からん。
加えて。
「遅《おそ》い……」
待ち合わせ時間であるところの午前十時から、すでに三十分ほどが経過《けいか》していた。
「……」
なんつーか、場所も時間も全部自分で一方的に設定《せってい》しておいて、しかも人に遅刻《ちこく》するなと念《ねん》を押《お》しておいて、自分が遅刻ってのは実にあのツインテール娘らしい。まあ、らしいからといって何でも正当化されるかといったらそれはまた激《はげ》しく別問題なんだが。
そんなことを考えてるうちにも、
「あ、ケンくん、待ったぁ〜」「ううん、僕も今来たところだから」
「ごめん恵《めぐみ》ちゃん、遅《おそ》くなって」「いいよ、気にしないで真一《しんいち》くん」
周《まわ》りにいた同じように待ち合わせをしていたと思《おぼ》しきやつらは、どんどんと待ち人と合流して消えていき。
「なあなあ、あの人、さっきからずっとあそこにいるよな?」
「きっと待ち合わせでもすっぽかされたんだろ」
「はは、かわいそー」
残《のこ》った俺には、周囲《しゅうい》からの憐《あわ》れむような視線《しせん》と声がヤリのようにチクチクと降《ふ》り注《そそ》いでいた。
「……」
俺、何でこんなことしてるんだろうな? なんかすげえ虚《むな》しくなってきた……
かくれんぼをしていて一人だけ存在《そんざい》を忘《わす》れられた子供のように黄昏《たそがれ》た気分で空を見上げるも、だけど十月の空は雲一つないすっきりとした青空で、ことさらに我が身の虚しさをかき立てられて余計《よけい》にブルーになった。……はあ。
美夏《みか》がやって来たのは、それからさらに三十分ほど経《た》ってのことだった。
「おに〜さ〜ん」
明るい声とともに手をぶんぶん振《ふ》りながら、自動改札の向こうから見慣《みな》れたツインテールが姿《すがた》を現した。
途端《とたん》に、周囲の視線が改札へと集中する。
「おい、あの娘《こ》、かわいくないか?」
「このヘンじゃあんまり見ない顔だけど……」
「キュートだ……」
さっきまで俺に向かって憐れみの視線を送っていた連中がざわりと色めきたった。辺《あた》りにいるその他の通行人たちの視線もそのほとんどが美夏へと注がれている。うーむ、春香《はるか》といっしょにいるとあんまり感じないが、やっぱりこのツインテール娘もツインテール娘でめちゃくちや目立つ存在なんだな。
「ごめんね〜、待った?」
そんな周囲の視線にはまったく気付かずに、美夏はひらひらとミニスカートの裾《すそ》を揺《ゆ》らしながら俺のところまでやって来ると、片手を上げてえへっと笑った。
「え? ていうかあの娘《こ》の待ち合わせ相手がアレ!?」
「ウソだろ、あんなのにこんなカワイイ娘《こ》が……」
「世も末だ……」
あからさまに俺を指差しながらさらにざわつく周囲《しゅうい》の連中。いや確かに俺と美夏《みか》が色んな意味で不釣合《ふつりあ》いなのはまったくもって否定《ひてい》できんのだが……にしたってめちゃくちゃ失礼だな、こいつら。
少しばかりむかっときたが、まあこんな見知らぬ野次馬《やじうま》相手にとやかく言ってもしかたがないので、そこはぐっとガマンしておく。
それよりも今問題にすべきことは、
「……遅《おそ》かったな」
こっちの遅刻《ちこく》ツインテール娘(一時間)である。
「確か待ち合わせ時間は十時じゃなかったか……?」
「あ〜、や、うん」
俺の言葉《ことば》に、美夏は気まずそうに目を逸《そ》らした。
「それはそうなんだけどね〜。でも色々やってたら電車に乗《の》り遅《おく》れちゃって……。あ、だけど待ってる間のどきどき感ってちょっと刺激的《しげきてき》じゃなかった? ほら、宮本武蔵《みやもとむさし》も巌流島《がんりゅうじま》の決闘《けっとう》にわざと遅れて行ったって話だし。なんてゆ〜か、待ち合わせに遅れるのは日本人の美学?」
「それは全然|違《ちが》うだろ……」
思いっきり、完膚《かんぷ》なきまでに問題のすり替《か》えってやつである。
「だいたい自分で誘《さそ》っといて遅れるってのが……」
「う……」
呆《あき》れた目で見ると、美夏は決まり悪そうにさらに顔を逸らした。
「だ、だってしょうがないじゃ〜ん。これにはちゃんと事情があるんだよ」
「事情?」
「そだよ〜、聞いて聞いて。あのね、せっかくのお出かけだから着ていく服をいっしょ〜けんめい選んでたの。で、たっぷり時間をかけて選んだ服をばっちり着こなして玄関《げんかん》まで行ったんだけど、そこでこの前買ったばっかりのミュールに服が合ってないことに気付いてさー、それで急いで部屋《へや》まで戻《もど》って着替えてたらいつの間にか時間が経《た》っちゃってたんだもん。不可抗力《ふかこうりょく》だよ〜」
「……」
……それは不可抗力なのか?
「だからほら、ここは笑って許《ゆる》してくれなきゃ。おかげで可愛く着こなせたことだし。男の子なら地中海みたいに広い心を持たないとだめだよ。ね、ね?」
また広いんだか狭《せま》いんだか微妙《びみょう》な例えを用いながらも、一生|懸命《けんめい》に笑《え》みを浮《う》かべて謝《あやま》ってくる美夏。
「ね、おに〜さん?※[#ハート(白)、1-6-29]」
「……はあ」
何だかそんな姿《すがた》を見てると、いつまでも文句《もんく》を言ってるのがバカらしくなってきた。
「……分かった。反省《はんせい》してるならもういい」
「え、ほんとっ?」
美夏《みか》の表情がぱっと輝《かがや》いた。
「ああ。今後気を付けるならそれで構《かま》わん」
ため息《いき》を吐《つ》きながらそう言うと、
「えへへ、だからおに〜さんって好き」
美夏が甘えた仔猫《こねこ》のごとく俺の腕《うで》にぎゅっと抱《だ》きついてきた。
「お、おい」
「ごろごろ〜」
な、何やら柔《やわ》らかいモノが腕に当たるんだが……
しかし美夏はそんなことはまったく意に介《かい》さずに、
「えへへ〜、今日はで〜とだね、おに〜さん♪」
「いやデートって……」
「ん、いいからいいからー。んじゃ行こ。しゅっぱ〜つ!」
やたらと楽しそうな美夏に腕を引かれ、俺たちは歩き出した。
アキハバラの街《まち》は、相も変わらずの混沌《こんとん》空間だった。
いたるところにカラフルなポスターや看板《かんばん》が立《た》ち並《なら》びまくった独特の街並《まちな》み。辺《あた》りの店からはアニメソングやらゲームソングやらが響《ひび》き、それらがまったく違和感《いわかん》なく街に溶《と》け込《こ》んでいる。これでも一時よりは自粛《じしゅく》してるらしい(信長談《のぶながだん》)ってんだから驚《おどろ》きだ。おまけに歩道ではミニスカートのメイドさんが何やらチラシのようなモノを道行く人々に配《くば》っていたりもしてるし。……普段《ふだん》から葉月《はづき》さんやら那波《ななみ》さんやらでメイドさんは見慣《みな》れているとはいえ、こうして街の風景《ふうけい》の中に普通《ふつう》にメイドさんがいる状況《じょうきょう》ってのは改《あらた》めて見るとやっぱり奇異《きい》なもんだな。
「で、今日はここで何をするんだ?」
歩行者天国となっている大通りを歩きながら、美夏に尋《たず》ねる。
「あれ、言ってなかった?」
「ああ、まったくもって」
とりあえず呼《よ》び出《だ》されたから来ただけで、目的等については何一つ聞かされていない。
というか時間と場所だけ指定《してい》してすぐさま電話を切ったのはどこのどいつだ。
「そだっけ? ん〜、でもおに〜さんもいい人だよね。理由も教えてもらえないのにわざわざ付き合ってくれるなんて。うん、すごいすごい♪」
「……」
……それは褒《ほ》めてるのか? けなしてるのか? すげぇ微妙《びみょう》だ……
「あ、それで今日はね、お買い物に付き合ってほしいの」
複雑な気分になる俺に、美夏《みか》がそう言った。
「て言ってもただのお買い物じゃないんだよ? 大切な人にあげる大事なものなの。だからおに〜さんの意見も聞きたいな〜って思って」
「大切な人?」
「うん、そう」
ふっと真剣《しんけん》な顔になり、こくりとうなずく。「とっても、大切な人だよ」
その顔は見たことないほどマジメなものだった。
……それって、彼氏《かれし》か何かだろうか。
「ん、な〜にその顔。もしかしておに〜さん、妬《や》いてるの?」
美夏がにやりと笑う。
「ね、ね、やっぱり心配《しんぱい》? 気になる? じぇらし〜?」
「ばっ、そうじゃなくてだな……」
「あ〜、やっぱそ〜なんだ? うんうん、気持ちは分かるよ。こんなかわいい美夏ちゃんを前にして、気にならない方が男の子として間違《まちが》ってるよね」
「だ、だから……」
違うってのに。いやまあ、確かにこのいつでも明るく屈託《くったく》のない夏のヒマワリみたいな美夏が、真面目《まじめ》な顔で『大切な人』なんて言う相手に興味《きょうみ》がないって言ったらウソになるんだが。
うーむ……
そこはかとなく葛藤《かっとう》していると、
「な〜んて、お姉ちゃんだよ」
美夏がぺろりと舌《した》を出した。
「え?」
「再来週の木曜日がね、お姉ちゃんの誕生日なの。だからそのためになんかプレゼントを買おうと思って」
ぱちりと片目をつむりながら言う。
「ああ、なるほど――」
そういえばいつだったか、信長《のぶなが》のやつがそんなこと(春香《はるか》の誕生日11十月二十日)を言ってたような気もしたな。そうか、もうすぐ春香の誕生日なのか……
「えへへ〜、おに〜さんはだれだと思ったのかな〜」
「う……」
にまにまと笑いながら美夏が顔を寄せてくる。
「もしかしてカレシとかだと思った〜? あはは、だいじょぶだよ。心配《しんぱい》しなくても、わたしの一番大切な男の子はおに〜さんだから♪ ――って、こんなこと言ったらお姉ちゃんに誤解《ごかい》されちゃうか」
「……」
なんか俺、中学生(十四歳)に遊ばれてる……?
微妙《びみょう》な敗北感《はいぼくかん》に打ちのめされる中、
「ま、それはともかく、当然おに〜さんもお姉ちゃんにプレゼントを買うでしょ? ならいっしょに買いに行かないかな〜って思ったの。だから呼《よ》んだんだよ」
美夏《みか》があっけらかんと笑って言った。
「……だったら最初からそう言ってくれ」
霜降《しもふ》り牛《ぎゅう》がどうだシャワーがどうだ言う前に、それを言うべきだろ。
「ん〜、だって電話した時はあんま時間がなかったんだもん。それにお姉ちゃんほどじゃないけど、わたしだって習い事とかで色々と忙《いそが》しいんだよ?」
「そうなのか?」
なんかこっちの元気印娘は、春香《はるか》と違《ちが》ってしょっちゅうヒマそうなイメージがあるんだが。
「そだよ〜。今日だって朝からヴァイオリンのレッスンで大変《たいへん》だったんだから。やっと終わったと思ってシャワーの後に電話をかけたら、おに〜さんはなかなか出てくれないし……」
恨《うら》みがましい目でじ〜っと見上げてくる。
「あ、いや、悪かったな」
何だか、美夏も美夏で色々と大変らしい。
「ま、何だかんだでちゃんと来てくれたからい〜けどさ。あ、それとこのことはもちろんお姉ちゃんにはナイショだよ。当日にいきなりプレゼントを渡《わた》して驚《おどろ》かせる計画なんだから」
「りょうかい」
サプライズイベントってやつか。
そんなことを話しながら俺たちはアキハバラの街を進んでいき。
「さっ、着いたよ」
そして俺たちが辿《たど》り着《つ》いた先は――
2
――なぜか、水着ショップだった。
「……おい」
いやアキハバラにこんなファッショナブルな店があること自体もかなり意外なんだが、それ以前に突っ込むべき問題がある。
「ん、どしたのおに〜さん。しぶ〜い柿でも食べたみたいな顔して」
「……何で俺たちはこんなところにいるんだ?」
「何でって、水着を買うからに決まってるじゃん。他になんかあるの?」
売り物の水着を片手に不思議《ふしぎ》そうな顔をする美夏《みか》。
いやそれくらい俺にも分かるわ。そうじゃなくてだな……
「もしかして春香《はるか》に水着をプレゼントする気なのか?」
プレゼントに水着ってコンセプトは俺にはいまいち理解《りかい》できんが、そうだとしたらいの一番にここに来た理由にも説明がつく。だが、
「え〜、そんなわけないじゃん。違《ちが》うよ〜」
美夏はあっさりとそれを否定《ひてい》した。
「水着はプレゼントにするには難《むずか》しいもん。サイズとかの問題もあるし、普通《ふつう》のお洋服とかよりも微妙《びみょう》な本人の好みがあるから色々と大変《たいへん》だし」
「だったら――」
本格的にいったいここに何をしに来たんだって話である。
「も〜、おに〜さんはせっかちだな〜。分かってるって」
美夏が腰《こし》に両手を当てる。
「お姉ちゃんのプレゼントはこの後にちゃんと買うよ? だってそれがメインの目的だし。これはなんてゆうの、主菜《メインディッシュ》に対する前菜《オードブル》? 朝飯前のお茶漬《ちゃづ》け? そんな感じだってば。あ、これかわい〜」
「……」
いやその目の輝《かがや》きからして、どう見てもこっちがメインディッシュのように思えるのは俺の気のせいか?
「……だいたい、何だってこの時期に水着なんだ?」
いかに時折《ときおり》は暑い日もあるとはいえもう十月である。確かにこの時期セールは行われているが、来年のモノを買うにしてもそれをわざわざ今日買う理由が分からない。
「あ、いいところに気付いたね、おに〜さん。でも今は秘密《ひみつ》かな♪ 理由はきっと近いうちに分かるよ」
「?」
「だから楽しみにしててね♪」
美夏は何やら含《ふく》みのある笑《え》みを浮《う》かべた。
「ね、それよりこれどうかな? わたしに似合《にあ》いそう?」
いまだに首を傾《かし》げる俺をヨソに、もうその話はこれで終わりとばかりに何やらカラフルな水着を手に訊《き》いてくる。……しかたない。しばらくは美夏《みか》のペースに付き合うしかないか。
「……いいんじゃないのか?」
とはいえ俺には水着の良《よ》し悪《あ》しなんて分からん。なので半《なか》ば適当《てきとう》に答えると、
「ん〜、なんかいまいちやる気が感じられないな〜。やっぱお姉ちゃんのじゃないと気合が入らない?」
「な、ちが――」
濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せられた。
「またまた〜、隠《かく》さなくてもい〜のに。普段《ふだん》見てれば分かるかもしれないけど、お姉ちゃん、スタイルいいからね〜。去年なんかは白のビキニを着てたんだけど、これがまたよく似合《にあ》っててさ〜」
「……」
思わず想像《そうぞう》してしまう。
白いビキニを着た春香《はるか》。潤《うる》んだ瞳《ひとみ》に少し照《て》れたような表情でこっちをじっと見つめて「きょ、今日の占《うらな》いでラッキーカラーはホワイトとあったのでこれを選んでみたのですが、ど、どうでしょうか……?」なんて言いながらもじもじと胸《むね》の前で手を組んで …………って、何を考えてんだ、俺は!
「あはは、ほんとおに〜さんって分《わ》かり易《やす》いね〜」
美夏がけらけらと笑う。
「べ、別に俺は……」
「そんなに隠さなくてもい〜のに。おに〜さんだって男の子なんだから♪」
「だ、だから……」
「あ、そうだ。とりあえずコレ試着《しちゃく》してみよっと。すみませ〜ん」
俺の抗弁《こうべん》を完壁《かんぺき》にムシして、美夏は店員さんに声をかけると、そのままフィッティングルームへと消えていってしまった。
「違《ちが》うってのに……」
完全に誤解《ごかい》されたままだった。
「……」
いやまあ。
そりゃあ見れるもんなら春香の水着|姿《すがた》(白ビキニ)は見てみたいとは思うがさ。
「お待たせ、おに〜さん」
十分ほどして、美夏はフィッティングルームから出て来た。
「ね、ね、どうかな、これ」
美夏《みか》が着ているのは、さっき手に取っていた赤いビキニだった。くるりと一回転してポーズを取りながら、俺に感想を求めてくる。
「似合《にあ》ってると思う? ぷりてぃ〜?」
「……」
「おに〜さん?」
「ん、ああ」
明るい色使いのそのビキニは、確かに美夏によく似合っていた。というかそもそも水着|姿《すがた》の美夏自体が新鮮《しんせん》で、なかなか胸《むね》にクるものがある。端的《たんてき》に言えば……かなりかわいかった。
「……」
とはいえそれをそのままストレートに言うのも何となく気恥《きは》ずかしい。それに主観《しゅかん》を超えた客観面《きゃっかんめん》でその水着が果《は》たして本当にそこまで似合っているのか、そういった(女モノの水着の)センスがトノサマバッタのように疎《うと》い俺には正直いまいち自信が持てないんだよな。
「あー、いいと思うそ」
なので無難《ぶなん》というかお茶|濁《にご》し的にそう答えたところ、
「ん〜」
美夏は何やら思案顔《しあんがお》になった。
「どうした?」
「そっか、これじゃまだダメか……」
「?」
「……何でもな〜い。だったら――」
そんなことをつぶやきながら再《ふたた》びフィッティングルームへ戻《もど》って、
「ね、こっちは、こっちは?」
今度は水色のワンピース姿になって出て来た。腰《こし》に手を当てて片目をつむりながら訊《き》いてくる。「どう、おかしくない?」
「問題ないんじゃないか?」
「む〜」
だが美夏は、何が気に入らないのか微妙《びみょう》に眉《まゆ》をひそめてまたフィッティングルームへ、
「ね、これすっごくかわいいくない? 自分でもけっこういいかな〜って思うんだけど」
そしてカラフルなワンピース姿で三度《みたび》ボーズを取る。
「ああ、そうだな。かわいいと――」
とそこで、美夏がジト目でこっちを見てることに気付いた。
「…………おに〜さん、ほんとにやる気がないね」
ものすごく不満《ふまん》そうな声。
「そう言われてもな……」
別にやる気がないわけではなく、単によく分からんだけなんだが……
「う〜、なんか腹立つ。そだ、こうなったら……」
美夏《みか》は何やら息巻《いきま》いて再《ふたた》びフィッティングルームへと消えていった。
「あ、おい……」
どうやらまだ選ぶつもりらしい。
しかし水着ねえ……
何だってそんなもん一つにあそこまでこだわるんだか俺にはよく分からん。水着なんて最低限《さいていげん》のデザインセンスをクリアしていてサイズが合えばそれでいいと思うんだが。春香《はるか》もやっぱりそうなんだろうか。とすれば例の白ビキニとやらもそこまでこだわり抜《ぬ》かれた末に選ばれた逸品《いっぴん》でありその選択《せんたく》には春香の情熱と魂《たましい》が込められているのかも……なんて少々、残暑《ざんしょ》で脳《のう》をヤラれた三バカレベルのことを考えていると。
「――裕人《ゆうと》さん」
「!?」
ふいに後ろから声をかけられた。
聞こえてきたのは澄《す》んだソプラノボイス。
振《ふ》り返《かえ》るとそこには――
「どうでしょう、これ……似合《にあ》っていますか?」
白いビキニを着た…………春香が立っていた。
「は、春香……?」
心臓がどくりとおかしな動きを見せる。
い、いや何で春香がここに? あまりにも水着と春香のことばかりを考えすぎてたため、脳《のう》が幻覚《げんかく》でも見せてるのか?
「裕人さんのために選んだんです。……似合ってない、ですか?」
「え、あ……」
呆然《ぼうぜん》とする俺に。
「……ぷっ」
「?」
「あ、あはは」
春香が、普段《ふだん》は絶対《ぜったい》にしないような大声で笑い出した。
「あはははは。すごい顔〜。おもしろ〜い、おに〜さん」
「え……」
「まだ分かんないの? わたしだよ、わ・た・し♪」
イタズラっぽく笑いながら、春香(?)は緩《ゆる》いウェーブがかかったその長くキレイな髪《かみ》を両手で掴《つか》んで頭の横に持っていく。すると春香(?)はよく見慣《みな》れたツインテール娘へと変化を遂《と》げた。な……
「み、美夏《みか》、なのか……?」
目の前の春香《はるか》→美夏がにまっと笑いながらうなずく。
「そだよ。なかなか上手《うま》かったでしょ? 声は昔から似《に》てるって言われてるし、顔はファンデーションでちょちょいって。ちなみに胸《むね》はパッドを入れて、身長はサンダルでゴマかしたの。……ちょ〜っと不本意《ふほんい》だけど」
「……」
完全に言葉《ことば》を失う。
そりゃあ姉妹だから似てるとは思ってたが、まさかここまでとは……
「ね、おに〜さん、どきどきした?」
美夏が小悪魔《こあくま》な顔で見上げてくる。
「ほんとにお姉ちゃんだと思ったでしょ? 顔とか真っ赤だったよ〜。や〜ん、えっち」
「……ノーコメント」
「む、素直じゃないな〜。ほれほれ、これでどう? ――裕人《ゆうと》さん」
再《ふたた》び髪を下ろし、偽《にせ》春香となった美夏が迫《せま》ってくる。
「似合《にあ》ってないでしょうか……私、この水着は裕人さんのためだけに選んだんですよ。ほら、せくし〜ですか、うふ〜ん♪」
「……春香はそんなこと言わん」
というかどこのセクハラ音楽教師だ。
「ほら、いいからとっとと水着を買って、プレゼントを選びに行くそ」
偽だと分かっていても外見上《がいけんじょう》はまったくもって春香であるため、ずっと見てると何だかヘンな気分になってくる。微妙《びみょう》に火照《ほて》った顔を隠《かく》しつつそう言うと、
「え〜、でもまだ水着が決まってないよ〜」
口をとがらせる美夏。
「最初のでいいだろ。あの赤いビキニのやつ。全体的な雰囲気《ふんいき》といい明るい色のイメージといい、一番似合ってたと思うそ」
「え、ちゃんと見ててくれたの?」
美夏が驚《おどろ》いた顔をした。
「まあ、それなりにはな」
じろじろ見るのもアレなので直視《ちょくし》はしてないが、いちおう最低限《さいていげん》のチエックはしていたつもりだ。
「そなんだ……」
美夏は俺の顔を見ながら何やら感慨深《かんがいぶか》げにつぶやき、
「うん、分かった。それじゃおに〜さんのお薦《すす》めのやつにするね。買ってくるからちょっと待ってて」
「ああ」
そしてフィッテングルームの方へと走っていくのかと思いきや――
「あ、そだ」
途中《とちゅう》で一度くるりと振《ふ》り返《かえ》って、こっちを見た。
「ん? どうした?」
「……ありがと、おに〜さん」
「え」
「ちゃんと見ててくれて嬉《うれ》しかったよ。えへへ」
ちょっとはにかんだ顔でそんなことを言うと、そのまま一直線にたたたっとフィッテングルームへと駆《か》けていった。
「……」
うーむ。
意外にかわいらしいとこもあるんだな。
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で、美夏《みか》が言うところの前菜《オードブル》を終え、いよいよ主菜《メインディッシュ》である春香《はるか》のプレゼント探《さが》しを行うこととなった。
「これからどこへ行くんだ?」
「え、さあ?」
アキハバラ集合を提案《ていあん》した張本人《ちょうほんにん》は、あっさりと首を横に振った。
「さあって……」
「だってわたしアキハバラに来るの初めてだもん。調べてたのはあの水着を買ったビルの場所だけだし……。おに〜さんは前に来たことあるんでしょ? だったらわたしよりは分かるんじゃないかって、頼《たよ》りにしてたんだけどな〜」
「それはそうだが……」
確かにこの街《まち》には何回か来たことはあるが、そのほぼ全てが信長《のぶなが》の付《つ》き添《そ》いである。他には春香との買い物が一回。ゆえに俺自身はこの街についてほとんど知らんと言ってもいい。
「ね、おに〜さん、アレは持ってこなかったの?」
「アレ?」
「うん、ほら前におに〜さんがもらったお姉ちゃんの『お買い物のしおり』。持ってきてって言ったよね?」
「ああ、アレか……」
そういえばそんなものも頼《たの》まれてたな。
カバンから一冊の冊子《さっし》を取り出す。B5サイズのそのカラフルな冊子(春香《はるか》のお手製)は、いちおうアキハバラ全体の地理を網羅《もうら》している代物《しろもの》である。
「どれどれ、見せてみて」
ただこれが実際《じっさい》に役に立つのかというとまたひどく微妙《びみょう》であって――
「……」
最初にあるアキハバラの全体マップが載《の》っているページを開いた瞬間《しゅんかん》、美夏《みか》は石像《せきぞう》のように沈黙《ちんもく》した。
「…………腹痛《ふくつう》を起こしたうなぎがいるね」
「…………ああ、いるな」
「…………それもたくさん。何コレ、うなぎ祭り? しかもその隣《となり》には真っ赤な目で虎視眈々《こしたんたん》とうなぎを狙《ねら》う化けネコみたいなのがいるんだけど」
「…………俺に訊《き》かんでくれ」
「……」
「……」
美夏は無言《むごん》で『お買い物のしおり』を俺へと返し、
「さ、行こっか。やっぱりショッピングは自分たちの足ですることに意義《いぎ》があるんだよね」
何かを悟《さと》ったような顔でそう言った。
どうやら何も見なかったことにするらしい。……賢明《けんめい》な判断《はんだん》だな。
「ま、とにかく適当《てきとう》に回ってみようよ。おに〜さんも道とか少しは分かるでしょ?」
「ああ、まあな」
本当に少しだが。
そんなわけで、とりあえずは前に春香と回ったコースを思い出しながら辿《たど》ってみることにした。
「確かこっちの方に色々と店があったと思うんだが……」
何とか記憶を掘《ほ》り起《お》こし、相変わらず雑然とした分かりにくい街《まち》を美夏と二人で右に曲《ま》がり左に曲がること二十分。
「着いた……」
ようやく辿《たど》り着《つ》いたのは、あの日春香が猛烈《もうれつ》なターゲッティング・アンド・ダッシュをかけたホビーショップだった。
「わ〜、なにここ、お人形屋さん?」
店に入るなり、美夏《みか》が興味《きょうみ》シンシンな目でディスプレイを覗《のぞ》き込《こ》む。
「でもそれにしてはやけにカラフルだね。髪《かみ》の色とか目の色とか。なんかかわい〜♪」
「あー、まあ」
美夏が指差してるのはおそらく『ドジっ娘《こ》アキちゃん』と『ダメっ娘メグちゃん』だろう。あの印象的《いんしょうてき》な蒼髪《そうはつ》と緑髪《りょくはつ》には見覚《みおぼ》えがある。……って、何で俺、そんなことが分かるんだろうな。なんか複雑な気分だ……
「そっか〜、お姉ちゃんってこうゆうのが好きなんだ〜」
初めて遊園地にやって来た子供みたいに楽しそうにきょろきょろと店内を見回す。
「ん〜、どのお人形さんがいいのかな? お姉ちゃんが喜びそうなのってどれだろ」
どうやらプレゼント候補《こうほ》にフィギュアがロックオンされたらしい。
「そういえば、春香《はるか》はそれを欲しがってたような……」
ディスプレイの真ん中に飾《かざ》られている、ヴァイオリンを持った赤髪《せきはつ》の少女のフィギュア。あの時は店頭のディスプレイに置かれていたため、春香はスジ肉の煮込《にこ》み(美味《おい》しい)を前にした仔犬《こいぬ》みたいにガラスの前に十五分ほど張《は》り付《つ》いていたな。
「え、そなの?」
「ああ」
「へ〜、じゃあこれ、いいかもしれないね――って、ん?」
美夏の言葉《ことば》は、だがフィギュアの脇《わき》にある値段《ねだん》のプレートに視線《しせん》がさしかかったところでぴたりと止まった。
「えっと、ひ〜、ふ〜、み〜、よ〜……あれ?なんかゼロが多いような……」
目をごしごしと擦《こす》ってもう一度プレートを見ながら数える。
「…………おに〜さん、わたし、視力《しりよく》落ちたのかなあ。二万五千円(税込)って書いてあるように見えるんだけど……」
「……正常《せいじょう》だと思うそ」
「……」
「……」
沈黙《ちんもく》。
「……次の店、行こっか」
「……そうだな」
二人してそこはかとなく疲《つか》れた面持《おもも》ちで店の入り口へと向かおうとして。
「――あ、ちょっと待って」
「ん? どうした」
「ね、そっちのやつ、どう思う?」
美夏《みか》が指差していたのは、ヴァイオリン赤髪《せきはつ》フィギュアの横にある蒼髪《そうはつ》の少女のフィギュア。スカートの裾《すそ》を両手でちょこんと摘《つま》んだポーズをしている。名前は忘《わす》れたが、確かあれは春香《はるか》お気に入りのポーズだったはずだ。
「ほら、なんかああゆうちょっとヘンなかっこって、お姉ちゃん好きそうじゃない? それに値段《ねだん》もそこそこに手ごろだし」
美夏がそう言う。さすがに姉妹だけあって、春香の趣味《しゅみ》をよく分かってるな。
「ね、どうかな?」
「ああ、悪くないんじゃ――」
俺が答えかけたその時だった。
「こんにちはー」
「!」
何やら聞《き》き慣《な》れた声が、店の入り口の方から耳に(強制的に)飛び込んできた。このムダによく通る声、まさか……
イヤな予感とともに入り口を見ると、
「すみませんー。例のブツ入ってますかー」
そこにはぱっと見だけは女の子と見紛《みまが》うような美少年の姿《すがた》。
「予約《よやく》してた朝倉《あさくら》ですけどー、特典ピンズ付きの『ノクターン女学院ラクロス部 春琉奈《はるな》様八分の一フィギュア』、今日発売ですよねー」
……信長《のぶなが》だった。
両手にがさがさと紙袋《かみぶくろ》を持って、いつも通りの悩《なや》みなんて何一つなさそうな笑顔《えがお》でスタスタと店内に入ってくる。
俺は美夏の手を掴《つか》んで、脱兎《だっと》の勢《いきお》いで素早《すばや》く商品|棚《だな》の陰《かげ》に隠《かく》れた。
「おに〜さん?」
「しっ、静かに」
美夏の口を手でふさぐ。「……声を出さないでくれ」
「えっ……」
すると何を勘違《かんちが》いしたのか、
「だ、ダメだよ、おに〜さん。いくらわたしがかわいいからってこんなところで……。ほ、ほら、物事には何でも順序《じゅんじょ》ってものがあって……」
顔を真っ赤にしてそんなことを言い出した。
「……激《はげ》しく違う」
相変わらず耳年増《みみどしま》というか、マセたお嬢様(次女)である。
「――とにかく、ここを出るぞ」
この場を、というか美夏といっしょにいるところを信長に発見されようもんなら、間違《まちが》いなくめんどくさいことになるに決まってる。美夏《みか》について色々訊《き》かれた挙句《あげく》にフィギュアについてのワケノワカラン考察《こうさつ》をえんえんと三時間くらい語《かた》られたりとか……。加えてやつの情報|散布力《さんぷりょく》からすると、それこそヘタをすれば春香《はるか》にまで飛び火する可能性《かのうせい》もないとは言い切れん。
「で、でも、あのお人形さんは?」
「とりあえず後回しにしてくれ」
今はアレに構《かま》ってるヒマはない。
「え〜、だけど……」
「いいから」
「あっ――」
もうのんびりと話してる時間はない。
「え、あ、ちょ、ちょっと引《ひ》っ張《ぱ》らないでよ、おに〜さん」
まだ何か言いたげな顔の美夏の手を握《にぎ》ると、俺はそのまま逃《に》げるように店を出た。
「お、おに〜さん、どこまで行くつもりなの?」
店から出て二百メートルくらい走ったところで美夏が立ち止まった。
「何だかさっぱり分かんないけど、とにかくストップしようよ。い、いきなりそんな走れないってば……」
肩《かた》で息《いき》をしながら、その場に座《すわ》り込《こ》む。
「そ、それにその、びっくりするじゃん。急に物陰《ものかげ》に引っ張り込まれたり、て、手なんて引っ張られたりしたら……」
「あ、悪い」
慌《あわ》てて握っていた手を離《はな》す。強く握りすぎていたのか、美夏の手にはうっすらと赤い跡《あと》がついてしまっていた。……これはまた何か言われそうだな。「いや〜ん、おに〜さんに傷《きず》モノにされちゃった。ちゃんと責任取ってね、えへ♪」とか。
だが。
「ま、まったく。れでぃ〜の扱《あつか》いには気を付けなきゃダメだよ」
返ってきたのはそんなある意味|普通《ふつう》の台詞《せりふ》だった。いや突っ込みどころはあるにはあるんだが、美夏にしてはやけに大人しいというか穏健《おんけん》な内容である。……うーむ、そんなに痛《いた》かったんだろうか。そこまで強く握ったつもりはなかったんだが。
少しばかり思《おも》い悩《なや》んでいると、美夏は気を取り直したかのように小さく「こ、こほん」と咳払《せきばら》いをした。
「あ〜、ま、反省《はんせい》してるみたいだからそれはもういいよ。で、これからどうするつもりなの、おに〜さん。さっきのお店に戻《もど》ってお人形さんを買う?」
「いやそれは……」
今戻ったら信長《のぶなが》と鉢合《はちあ》わせになる危険性《きけんせい》が高い。そうなったらなけなしの体力を振《ふ》り絞《しぼ》ってこんなにダッシュで逃《に》げてきた意味がなくなっちまう。
なので、
「――そうだ、せっかくだから他の店も見てみないか?」
そう提案《ていあん》した。
「他のお店?」
「ああ。もしかしたらアレよりもいいものがあるかもしれないだろ」
それにあのフィギュアに即決《そっけつ》するのも少しばかり気が早い気がしていたのも事実ではある。
どうせアキハバラまで来たんなら、色々見てから決めた方がいいに決まってるしな。
「ん〜……」
美夏《みか》は何やら考え込んでいたが、
「そだね。たくさん見て回った方がいいものに出会える可能性《かのうせい》も高いか。ヘタな鉄砲《てっぽう》数《かず》撃てば銃刀法違反《じゅうとうほういはん》で懲役《ちょうえき》二年≠チてやつだね。うん、そうしよ」
やがてにっこりと笑顔《えがお》で大きくうなずいた。
「……」
……いや。
逮捕《たいほ》されてどうする。
4
「う〜ん、おっきいお店だね〜」
目の前にある七階建てのビルを見上げて、美夏がは〜っと驚《おどろ》きの声を上げた。
「ここもお姉ちゃんと来たところなの?」
「ああ」
「へ〜、そうなんだ」
感心したように相づちを打ち、美夏がもう一度顔を上げる。
その視線《しせん》の先にあるのは『アニメイト秋葉原店《あきはばらてん》』と書かれた大きなカンバン。
ホビーショップを出た俺たちが、次にやって来たのはこの店だった。
アキハバラの駅前からほど近い距離《きょり》にあるこのグッズ系の専門店は、前回|春香《はるか》が特攻《とっこう》をかけた店の一つであり同時に俺が荷物《にもつ》とともに路上で放置《ほうち》プレイを食らった思い出(?)の場所の一つでもある。
隣《となり》にはやはり同じような専門店(こっちは本のようだが)である『とらのあな秋葉原店』とやらがあり、入り口のガラスには元祖秋葉原《がんそあきはばら》名物「虎焼《とらや》き」と書かれたポスターが貼《は》られている。
「うん、何となくお姉ちゃんの好きそうな感じだよね。さっきのお人形のお店といい、お姉ちゃんの好みが少し分かってきた気もするな〜」
うんうんとうなずいて、興味《きょうみ》深《ぶか》そうな顔でとことこと『アニメイト秋葉原店』の中へと入っていく美夏《みか》。
「ほら、おに〜さんも早く」
大きな声で呼《よ》ばれ、少し遅《おく》れて俺も店内へと足を踏《ふ》み入《い》れる。
日曜ということもあり店はそれなりに込み合っていた。
一階は雑誌売り場になっているようだったが、ざっと見ただけでも二十人以上の客の姿《すがた》が見て取れた。男女の比率《ひりつ》はだいたい七対三くらいか。しかも中には外国人の姿もあった。これはやっぱりあれか、昨今《さっこん》の海外でのマンガブームとかが関係してるのかね。
などと比較的《ひかくてき》どうでもいいことを考えながら、とりあえず店を奥《おく》へと進む。縦《たて》に長い長方形のフロアはだいたい三十|畳《じょう》くらいの広さで、一番奥には階段とエレベーターがあった。
「ん〜、なんか階によって売ってるものが違《ちが》うみたいだね。地下一階から七階まであるみたいだけど、どこを見てみる?」
エレベーター横に掲示《けいじ》されていたフロア案内を見て美夏が訊《き》いてきた。
「まあ、とりあえず上から回ってみればいいんじゃないか?」
一フロア自体はそこまで広くないため、全部回ってもそれほど時間はかかるまい。
「あ、そだね。おに〜さん、あったまいい♪」
俺の提案《ていあん》に美夏がぱちぱちと手を叩《たた》いた。
「んじゃ行ってみよう。まずは一番上からだね」
というわけで、エレベーターに乗り込んで上へと向かう。
最上階であるところの七階は、DVD売り場となっていた。
アニメやゲームなどのタイトルが中心となってジャンルごとにそれぞれ棚《たな》にきっちりと分けられているようだ。
「う〜ん、この『ノクターン女学院ラクロス部』ってのはどうかな〜? お姉ちゃんの好きそうな系統《けいとう》な気がするんだけど……」
「ああ。でも好きそうってことは、春香《はるか》が持ってる可能性《かのうせい》が高いわけだよな?」
「あ、そっか」
棚を端《はし》から見て回りながら、二人で思案《しあん》する。
こういったモノを専門に取《と》り扱《あつか》っているこの店はさすがに品揃《しなぞう》えがよく、さっきから春香が喜びそうなタイトルもいくつかは発見してはいたが、問題は春香が所有《しょゆう》しているDVDを俺たちが把握《はあく》していないという点にあった。
「この『はにかみトライアングルTVアニメ版』なんてのは絶対《ぜったい》に持ってるだろうし……」
「こっちのはどうかな? 『マジカル☆でぃな〜劇場版』だって」
「うーむ……」
際《きわ》どいセンだ。
「ん〜、難《むずか》し〜ね」
「難しいな……」
しばらく、二人であーだこーだと悩《なや》んでいたが、なかなか「これは!」というものは見つからなかった。
そんな微妙《びみょう》な停滞状態《ていたいじょうたい》の中。
「あ、おに〜さん、アレはどうかな?」
美夏《みか》が何かを発見したようだった。
「ん?」
「ほら、アレ。あそこにある『夜更《よふ》かし悪魔《あくま》ピロウちゃん』ってやつ。なんか良さそうって、磨《みが》き抜《ぬ》かれたわたしの女のカンが告《つ》げてる気がする」
微妙に突っ込みどころのあるそんな台詞《せりふ》とともに、とことこと歩いていくと、美夏は棚《たな》の一番上にあるケースがやたらとカラフルなDVDに手を伸ばし――
「ん、ん〜……」
「……」
手を伸ばしー
「あ、あとちょっと……」
がんばってはいるものの、そのちんまい背丈《せたけ》(一四七センチ。本人|申告《しんこく》は一五一センチ)ゆえに、届《とど》かずに苦戦《くせん》していた。
「む〜……ん〜……っ」
ヒナ鳥がエサをもらおうと一生懸命《いっしょうけんめい》に親鳥に向かって首を伸ばしているみたいなその仕草《しぐさ》は見ていて微笑《ほほえ》ましくもあったが、残念ながら彼我《ひが》の差は明らかで努力で縮《ちぢ》まるような距離《きょり》ではない。
「ん〜……とと、おっとっとっと……」
加えてムリをして背伸びをしているため、前に後ろにふらふらと実に危《あぶ》なっかしい足取りである。今にもコケそうだ。
見かねた俺は、
「――ほら」
「えっ……」
今にもコケそうな美夏の肩《かた》を支《ささ》えて、後ろから取ってやった。
「これだろ? 『夜更《よふ》かし悪魔《あくま》ピロウちゃん』」
「あ、う、うん」
きょとんとした顔で美夏《みか》がうなずく。オーストラリアの草原でパンダでも見たって表情だ。
「……どうした?」
「……」
「……美夏?」
「おに〜さんって案外《あんがい》……」
ぽーっと俺の顔を見たまま、美夏は小さな声でぼそりとつぶやいた。
「?」
「――!? ん、ん〜ん、何でもないっ」
焦《あせ》ったように首をぶんぶんと振《ふ》って、
「そ、そうだ。こっちにあるのもなかなかい〜んじゃないかな?あ、これなんて――」
くりんと背を向けて反対側の棚《たな》にあったDVDを取ろうとして……しかし美夏の動きがそのまま壊《こわ》れたロボットのように停止《ていし》した。
「美夏?」
次いでその顔からぷしゅ〜っと勢《いきお》いよく湯気《ゆげ》が吹き出る。な、何だ? クラッシュした?
「美夏、どうした――」
慌《あわ》てて駆《か》け寄《よ》りその手に取りかけていたDVDに目を落とし――
「……あ」
そしてすぐにその理由が判明《はんめい》した。
なんか、やたらと肌色《はだいろ》が多いアニメDVDだった。
全体的に描《か》かれている着衣《ちゃくい》の量が少ないというかほとんど皆無《かいむ》に等しいというかSTOPという手のマークの上に18の文字が書かれているというか……とにかくそういうモノである。
「あ、あわわわわわ、お、おに〜さ〜ん……」
美夏は完全に機能《きのう》停止|状態《じょうたい》に陥《おちい》っていた。うーむ、普段《ふだん》はあんなに耳年増《みみどしま》なかしまし娘なのに、春香《はるか》と同じくこういったモノには意外なほど免疫《めんえき》がないんだな。
「……と、とにかくどこかで一休みしよう」
完全に固《かた》まってる美夏の手を引き、とりあえず急いでその場から離《はな》れることにした。
で、結局《けっきょく》。
「あ、アレがソレで、コレがああなってて、あわ、あわわ……」
食《た》べ頃《ごろ》のユデダコ(美味《おい》しそう)みたいになった美夏が復活《ふっかつ》するまで、それから少しばかりの時間を要《よう》したのだった。
「――あー、こほん。え〜と、途中《とちゅう》ちょっとばっかりアクシデントがありましたが それはとりあえず忘《わす》れて忘れて! さ、探索《たんさく》続行《ぞっこう》しよ!」
美夏《みか》(復活後《ふっかつご》)が心機一転《しんきいってん》とばかりにそう元気に宣言《せんげん》したものの。
結局《けっきょく》DVD売り場ではプレゼントが見つかることはなく。
六階CD売り場、五階・四階のホビー売り場でもやはり同様の結果《けっか》に終わり。
現在、俺たちは三階まで下《くだ》ってきていた。
「ん〜、ここは本が売ってるのか〜」
美夏が辺《あた》りを見回して言う。
三階は、主にマンガなどの新刊を中心とした書籍《しょせき》コーナーとなっていた。
「なんかいい本あるかな? 何だっけ、お姉ちゃんの好きなマンガ雑誌 え〜と『インセクト・スマイル』?」
「……『イノセント・スマイル』だ」
虫っぽい微笑《ほほえ》み≠ヘ確実《かくじつ》に違《ちが》う。
「あ、そうそう、それ。あるかな〜?」
ぱたぱたと楽しそうな足取りで美夏はフロア内へと駆《か》けていった。やれやれ、復活したばかりだってのに元気だな。苦笑《くしょう》しながら、その後を追《お》って俺も本棚《ほんだな》の方へと歩いていく。
その時だった。
「ふんふんふーん、ドジっ娘《こ》アキちゃーん。今日も砂糖《さとう》と塩を間違《まちが》えちゃったー♪」
再《ふたた》び、聞《き》き慣《な》れた声が耳に飛び込んできた。
先ほどと同じムダによく通りまくる声。
声の元を辿《たど》ると……そこにはまたもや幼馴染《おさななじ》み(♂)の姿《すがた》があった。やはり両手に紙袋《かみぷくろ》(さっきより増えてる)を持って、実に能天気《のうてんき》な笑顔《えがお》でフロアに入ってくる。
「――っ」
何でいるんだ!?
慌《あわ》てて身体を本棚の陰《かげ》に隠《かく》す。
幸《さいわ》い俺たちのいる本棚の周辺《しゅうへん》はフロアの入り口部分からは死角《しかく》になっているため、信長《のぶなが》のやつに気付かれた様子《ようす》はなかった。
「ふんふんふーん、ダメっ娘メグちゃーん。失敗してもエンジェルスマイルー♪」
ワケノワカラン鼻歌とともに、信長は俺たちから二つ離《はな》れた本棚の前へと歩いていくと、「うーん、新刊あるかなー」
メッタに見られないほど真剣《しんけん》な表情で本棚を見渡《みわた》した。
「あれー、おかしいなー……今日辺りならもう電撃文庫の新刊が早売りしててもいいはずなのにー」
ぶつぶつとそんなことをつぶやきながら一つ一つ小説の棚《たな》を物色《ぶっしょく》していく。そして一通り見終わると、今度はフロア奥《おく》にある店員用の作業台《さぎょうだい》(そう書いてある)に近づいていき、
「あー、あったあったー」
その上に載《の》せられていた、まだ梱包《こんぽう》されたままの文庫本をがさがさと漁《あさ》り始《はじ》めた。
「…………何をやってるんだ、あいつは」
明らかに客にあるまじき行為《こうい》である。図《ずうずう》々しいことこの上ないというか、ヘタすれば営業|妨害《ぼうがい》にも近い。
案《あん》の定《じょう》、店員の一人が慌《あわ》ててレジから飛び出してきた。
「お客様すみません、そこにあるものはまだ棚並《たななら》べ前で……」
どうやら注意されているようである。当然っちゃ当然だが。
「えー、そうなの?」
「はい、ですから……」
穏便《おんびん》にお引き取りを願おうとする店員に、
「あ、そうだー! それなら僕が並べるの手伝《てつだ》ってあげるよー」
信長《のぶなが》のやつはそんなことを言い出した。
「え、で、でも……」
「よーし、決まり。はい、これそっちに並べてねー」
店員の了承《りょうしょう》も待たずに勝手に並べ始める信長。
「あ、え……」
「今月のイチ押しはこれね。だから平積みで二列に。ビジュアルノベルが出たこの文庫も二列はいるかなー。あとは隣同士になるカバーの女の子のポージングをカブらせないように……」
「あう、あう〜」
「ほらほらー、きびきびやろうよー。本部の村上《むらかみ》さんに怒《おこ》られちゃうよー」
「あ、あのお客様、ですからそれは〜」
熟達《じゅくたつ》したバイト長|並《な》みの手際《てぎわ》のよさで次々と本を平積《ひらづ》みにしていく信長の勢《いきお》いに押《お》され、店員さんが反論できずにあたふたとしていると、
「何をやってるんだい?」
とうとうフロアの責任者《せきにんしゃ》らしき人物(メガネ着用)までもが出て来た。
「あ、な、成瀬《なるせ》さ〜ん。実はこちらのお客様が……」
「うん?」
信長と店員の間に責任者らしき人物が加わる。
うーむ、なんかオオゴトになってきたな。まあここはどう見ても信長の方に問題があるし、怒《おこ》られるなり文句《もんく》を言われるなりしても自業自得《じこうじとく》だろう。
だが。
「いや、その人はいいんだ」
責任者らしき人物は、信長を見るなりそんなことを言った。
「え? しかし……」
「その人は特別なんだよ。キミだって『皇帝《カイザー》』の話くらいは聞いたことあるだろう」
キラーンとメガネを光らせてそう語る。.
「カ、皇帝《カイザー》!? 『皇帝《カイザー》』ってあの伝説《でんせつ》のお得意様《カスタマー》ですか? その圧倒的《あっとうてき》な買いっぷりから命名《めいめい》され、おまけにアニメイトの長い歴史の中でまだ三人しか存在《そんざい》しないというゴールドアニメイトカード(純金製)の持ち主の一人だっていう……。え、もしかして、この人が?」
「その通り。だから彼に陳列《ちんれつ》は任《まか》せようじゃないか。彼の神の手にかかれば棚《たな》の見栄《みば》えも素晴《すば》らしく、客足も途絶《とだ》えないだろう」
「いやー、そんな照《て》れるなー」
店員の言葉《ことば》に信長《のぶなが》が頭をかきながら笑う。
「そんな、この人が……」
まるでUMAとでも遭遇《そうぐう》したかのような驚《おどろ》いた表情だった。……『皇帝《カイザー》』? なんか知らんがすげぇ呼《よ》び名《な》だな。
ともあれ。
「……美夏《みか》、そろそろ出よう」
エスケープするなら、信長のアホが話しこんでる今がチャンスだ。
隣《となり》でじ〜っと棚を眺《なが》めていた美夏を促《うなが》す。
「え、何で? まだよく見てないよ」
「……いいから。声を立てないように、静かにな」
「え、また〜」
美夏が不満《ふまん》そうな目で見上げてくる。
「てゆ〜かさ、何でそんなに急ぐの? 理由は?」
「あー、それはだな……」
言葉《ことば》を濁《にご》す。説明すると、むしろ面白《おもしろ》がって自分から信長とコンタクトを取りそうなんだよな、このツインテール娘は。
そんなことをやってるうちに、
「それではわざわざご足労《そくろう》いただきありがとうございました。こちらの新刊はお持ちください、朝倉《あさくら》様」
「うん、ありがとー。社長の高橋《たかはし》さんにもよろしくねー」
「は、伝《つた》えておきます」
「それじゃねー」
「!」
話を終えたらしい信長がノンキな顔でこっちに近づいてきた。……まずい、ちんたらしてる場合じゃない。
「と、とにかく行くぞ」
「あっ……」
まだ何か言いたげな美夏《みか》をほとんど小脇《こわき》に抱《かか》えるカタチで、本棚《ほんだな》の裏《うら》を回りこむことで信長《のぶなが》の目を避《さ》け、階段へと向かって走り出す。言うと怒《おこ》るだろうが、これも美夏が極《きわ》めてミニマムだからこそできるワザである。
「ちょ、おに〜さ――」
「黙《だま》ってろ。舌《した》かむぞ」
抱《かか》えられたまま喋《しゃべ》ろうとする美夏を制し、何とか一階まで辿《たど》り着《つ》く。
一階まで辿り着けばあとは店から出るだけである。信長の移動速度《いどうそくど》及び範囲《はんい》を考えると、店を出てある程度《ていど》の距離《きょり》を取るまでは安心できん。
人と雑誌の間をすり抜《ぬ》けるようにダッシュで走り抜け。
ガチャポンの並《なら》んだ出口を過ぎ、とりあえず左に曲がろうとしたところで。
「!」
そこに人影《ひとかげ》があることに気付いた。
紙袋《かみぶくろ》を両手で抱えた女の子。
慌《あわ》てて避《よ》けようとブレーキをかけるも、『赤信号、車は急に止まれない』のと同様に、スピードに乗った人体はそうそう簡単《かんたん》には運動|係数《けいすう》の支配《しはい》からは逃《のが》れられるものではない。
結果《けっか》。
「うわっ!」
「あきゃあっ!」
「きゃっ!」
俺は美夏を抱《かか》えたまま、その女の子と見事《みごと》に正面から激突《げきとつ》した。地面に落ちそうになった美夏を人間クッションになって(俺が)何とか助けることには成功したものの、女の子は腰《こし》から倒《たお》れその拍子《ひょうし》に持っていた荷物《にもつ》をぶちまけ、俺は地面に思いっきり頭を打つことになった。
「ぐ……」
一瞬《いっしゅん》だが三途《さんず》の川が見えたぞ……
「い、いたたた……な、何なのよいったい」
身体を起こしながら、女の子が顔をしかめる。
「女の子抱えたまま前もよく見ないでいきなりお店から飛び出してくるなんて……信じられないわ」
「あ、ああ、悪い……」
謝《あやま》りながら、なんかものすごいデジャヴが頭によぎった。
……少し前にも同じようなシチュエーションに遭遇《そうぐう》したような覚《おぼ》えがあるな。
全速力《ぜんそくりょく》ダッシュ、衝突《しょうとつ》、転倒《てんとう》、謝罪《しゃざい》。
ダッシュをしていた理由は違《ちが》うとはいえ、それ以外の状況《じょうきょう》はまったくもって同じである。
まさかとは思うが――
「…………裕人《ゆうと》?」
女の子が俺の名前を呼《よ》ぶ。
「椎菜《しいな》……か?」
美夏《みか》の下敷《したじ》きになったままの状態《じょうたい》で、頭を上げて答える。頭上《ずじょう》にあったのは、やはりあの時ロンドンで出会ったフレンドリi娘、天宮《あまみや》椎菜の顔だった。
「あー、やっぱり裕人だ。どうしてこんなとこにいるわけ?」
椎菜がびっくりしたような顔で言った。
「どうしてってな……」
それはこっちが聞きたい。
「椎菜こそ……何でここに?」
「あたしは生活用品を買い出しに来てたのよ。冷蔵庫とか洗濯機《せんたくき》とか。まだ荷物《にもつ》が届《とど》いてなくて色々と不便《ふべん》だから。ほら、アキハバラはそういうモノが豊富《ほうふ》だし」
「荷物?」
何の荷物だ?
「ね〜、おに〜さん、このおね〜さん、知ってる人なの?」
首をひねっていると、俺の上に乗っかったままの美夏《みか》が興味深《きょうみぶか》そうな表情で訊《き》いてきた。
「な〜んか仲良さそうなんだけど、いったいどうゆう関係なの? ……はっ、まさかお姉ちやんの知らないところで浮気《うわき》――」
「――違《ちが》う」
即座《そくざ》に否定《ひてい》する。椎菜《しいな》はそんなんじゃない。
「そうじゃなくて、椎菜はだな――」
ロンドンで知り合った友達だ……と言いかけた時、椎菜の足越しに信長《のぶなが》が階段を下ってくる姿《すがた》が視界《しかい》に飛び込んできた。
「――っ!?」
やつにこんなグダグダなところ(美夏の下敷《したじ》きになった状態《じょうたい》で椎菜と向かい合っている)を見られたら、それこそ今年いっぱいはやつの買い物等に付き合わされまくるハメになっちまう。
俺は電光石火《でんこうせっか》のごとき素早《すばや》さで起き上がり(所要《しょよう》時間一秒)、
「きゃんっ!」
床《ゆか》に散《ち》らばった椎菜の荷物《にもつ》を集めると(所要時間ここまで三秒)、
「悪い、ちょっと今、急いでる!」
それらの荷物を椎菜に押《お》し付《つ》け、美夏を拾い上げると、この場から離《はな》れるべく全速力《ぜんそくりょく》で走り出した(ここまで合計五秒)。
「な、何? どうしたのよ、裕人《ゆうと》!」
後ろでは椎菜が何やら叫《さけ》んでいたが、振《ふ》り返《かえ》る余裕《よゆう》なんてものはこれっぽっちもなかった。
できれば椎菜とはもう少し話していたかった気もするが、美夏もいることだし、非常事態《ひじょうじたい》とあってはしかたがない。
美夏を小脇《こわき》に抱《かか》えたまま、俺は全速力《ぜんそくりょく》で『アニメイト秋葉原店《あきはばらてん》』から離脱《りだつ》したのだった。
5
「で、おに〜さん。あのおねーさんとはどうゆう関係なの?」
離脱先で美夏を降《お》ろすなり、いきなりそう訊かれた。
「クラスメイト? 知り合い? 友達? 幼馴染《おさななじ》み? …………まさかほんとに浮気なんてことはないよね?」
「あ、いや……」
疑《うたが》いの眼差《まなざ》しでじ〜っと見つめてくる。
「ま、そのヘンのこともちょっと訊《き》きたいし、それにさっきから走ってばっかで疲《つか》れたし……とりあえずどっかで休憩《きゅうけい》でもしない?」
「あ、ああ……」
というわけで、職務《しょくむ》質問及びひと休みのために手近な喫茶店《きっさてん》へと向かうことにしたのだが。
そこで俺たちを迎えてくれたのは――
「お帰りなさいませー」
「お二人様ですかー?」
「にゃー」
――ネコミミメイドさんたちだった。
『メイド喫茶 キャロットキュロット』
いや、この街《まち》で休憩《きゅうけい》できそうな場所なんてここしか知らなかったんだよ。決していつかのネコミミメイドさんが脳髄《のうずい》のどこかにもう一度見たいモノ≠ニして残っていたわけじゃない。……たぶん。
「わ〜、かわいいね」
何か突っ込まれるかと思いきや、意外にも(?)、美夏《みか》にはネコミミメイド喫茶は好評《こうひょう》だった。
「いーな〜、こうゆうの見てるとちょっとメイド服って着てみたくなるかも。今度|葉月《はづき》さんか那波《ななみ》さんに貸《か》してもらおっかな……」
なんて言ってるところは、実に春香《はるか》との血の繋《つな》がりを感じさせるな。
「おに〜さん、見て見て。ほらミミとシッポが生えてるよ〜。あ、メニューもかわいい名前のがいっぱいある」
席に着いてもまだきゃっきゃっとはしゃぐ美夏。なんか椎菜《しいな》の一件に対する追及《ついきゅう》なんてすっかりどこかへ行ってしまったようである。まあこっちとしては難《むずか》しい説明をしなくてすんで助かるが。
「ご注文は何になさいますかー?」
と、オーダーを受けるためにネコミミメイドさんの一人が席へとやって来た。
「あ、はい。ええと――」
顔を上げると。「……あれ?」
そこにいたのは見覚《みおぼ》えのあるネコミミメイドさんだった。
「確かあの時の……」
「はい。お久しぶりですねー」
やっぱりというか、前に写真を撮《と》らせてもらったネコミミメイドさんだった。どうやら俺たちのことを覚えていたらしい。……微妙《びみょう》な気分だ。
「今日は春香様はいらっしゃらないのですね……」
「ええ、まあ」
「……そうですか――あら?」
ネコミミメイドさん(なぜか春香《はるか》の名前を知っている)が美夏《みか》を見た。「あの、そちらの方、とても春香様とお顔が似《に》ていらつしゃるように思えるのですが、もしかして春香様の……?」
「え、えっと〜?」
「あー、はい。春香の妹です」
戸惑《とまど》う美夏に代わって答える。すると。
「や、やっぱり!」
ネコミミメイドさんの目にハートマークが浮《う》かんだかと思うと、
「かわいー!」
いきなり美夏をぎゅーっと抱《だ》きしめた。
「え、え?」
「こんなにかわいくって、ちっちゃくて、ツインテールで……ああ、もう持って帰って義妹《いもうと》にしちゃいたいですー」
抱きしめながら頬《ほお》ずりをする。
「お、おに〜さ〜ん……」
美夏が助けを求めるようにこっちを見た。うーむ、勢《いきお》いでだれかに押《お》される美夏ってのも珍《めずら》しい光景《こうけい》なのでもう少し成り行きを見守っていたい気もするが、そういうわけにもいかないんだろうな。半泣《はんな》きだし。
「あの、そのヘンにしといてもらえますか。びっくりしてるみたいなんで」
そう声をかけると、ネコミミメイドさんははっとしたような表情になった。
「え? あ、す、すみません! 私、お客様になんてことを……」
美夏からぱっと手を離《はな》し、ネコミミメイドさんが頭を下げる。
「失礼しました。あまりにもかわいかったもので、つい……」
「う〜……」
離してもらっても、美夏はまだ警戒《けいかい》したネコみたいな目でネコミミメイドさんを見ていた。
「本当に申《もう》し訳《わけ》ありません……あ、そうだ、あの、お詫《わ》びと言ってはなんですが、お好きなデザートを一品|頼《たの》んでください。おごっちゃいますよ」
「えっ、ほんと?」
途端《とたん》に美夏の表情が花火のようにぱっと輝《かがや》いた。
「はい」
「やった。わ〜、どれがい〜かな〜。この『カボチャのタルト馬車』もいいし、『静かな湖畔《ごはん》のミルフィーユ』も捨てがたいし、あ、この『七人の小人のアップルパイ』もいいな〜」
うきうきとメニューに目を走らせる。現金だ……
「よし、決めた。それじゃこの『魅惑《みわく》の園《その》のパッションフルーツパフェ』をお願いしま〜す」
美夏《みか》が弾《はず》んだ声で言った。さりげなくメニューの中で一番高いデザートを選んでるところはたくましいというかちゃっかりしてるというか。
「かしこまりました。ええと、あなたは……」
ネコミミメイドさんがこっちを向く。
「あ、んじゃ俺はアイスコーヒーでも」
「『ドス黒い妖精《ようせい》の贈《おく》り物《もの》』ですね? こちらもかしこまりました」
「……」
なんか微妙《びみょう》なネーミングだな。
「それでは少々お待ちくださいませ」
にっこりと笑って、ネコシッポをふりふりネコミミメイドさんは去っていった。
「あのメイドさん、お姉ちゃんとおに〜さんのこと知ってるんだね」
「ああ、まあ」
前に来た時に、春香《はるか》が必殺《ひっさつ》のエンジェルスマイルを炸裂《さくれつ》させたり写真|撮影《さつえい》を頼《たの》んだりしたため、相当《そうとう》に印象《いんしょう》に残ってたんだろう。何で春香の名前まで知ってるのかってことについては果《は》てしない謎《なぞ》だが。
「ふ〜ん。さっきのおね〜さんといい、おに〜さんにはずいぶん美人さんの知り合いが多いんだね〜」
何やら含《ふく》みのある言い方だった。
「いや、別に多くはないぞ」
というか女子の知り合い自体そんなにいるわけでもない。
「え〜、ほんとに〜? あやし〜なー」
じ〜っと美夏が俺の目を見てくる。確実《かくじつ》に疑《うたが》ってる視線《しせん》だが、そんなことはまったくもってないことは悲しいことに俺自身が一番よく知っている。
「お待たせしました。『魅惑《みわく》の園《その》のパッションフルーツパフェ』と『ドス黒い妖精の贈り物』ですー」
と、そこでネコミミメイドさんが、フルーツがこれでもかってくらいに山盛《やまも》りになったパフェとアイスコーヒーを持って現れた。
「わ〜、おいしそ〜♪」
コップから溢《あふ》れんばかりのフルーツを見て美夏が黄色い声を上げる。
「さくらんぼを一つサービスしときましたよー」
「ほんと? ありがと、おね〜さん」
美夏の笑顔《えがお》にネコミミメイドさんが顔を綻《ほころ》ばせる。そして、こちらの様子《ようす》をうかがようにしてこう言った。
「――あの、よろしければ一つお願いがあるんですがよろしいでしょうか?」
「お願い、ですか?」
何だ?
「はい。ぜひ記念|撮影《さつえい》をお願いしたくって」
デジカメを片手に、にっこりとネコミミメイドさんが言った。
「『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』である春香《はるか》様の妹様《プティ・スール》にお会いできたんですもの。写真の一枚も撮《と》っておかないと、七代|後悔《こうかい》しちゃいますよー」
「……」
そういうもんなのか? よく分からんな……
「あー、どうする?」
美夏《みか》に訊《き》くと。
「ん、わたしはおっけーだよ。おごってもらっちゃったし」
あっさりとそんな答えが返ってきた。まあ、本人がいいと言うんなら問題はないだろう。
「ありがとうございますー。それじゃ後でちょっとだけ奥《おく》まで来ていただけますか? 店内は撮影禁止ですので」
そう言って、ネコミミメイドさんが手招《てまね》きをする。客がメイドさんを撮《と》るだけでなく、メイドさんが客を撮る場合でもその規則《きそく》は適用《てきよう》されるもんなのかね。
そんなことを考えながら、俺はネコミミメイドさんと美夏の後を追《お》った。
かくしてこの日。
美夏とネコミミメイドさんそして俺の三人が仲良く笑っているという(俺はやっぱり引《ひ》き攣《つ》ってたかもしれんが)、非常《ひじょう》にコメントがし辛《づら》いというか事情を知らないやつが見たらほとんどワケが分からん写真(二枚目)が出来上がったのだった。
6
それからも色々な店を回ったが、プレゼントに適《てき》したモノは見つからなかった。
いやモノとしては候補《こうほ》となりそうなのはいくつかはあったんだが、どれも値段《ねだん》が高かったり、取り寄せ中だったり、美夏が個人的に気に入らなかったりで、最終的に決定するまでには至《いた》らなかった。
しかも行く先々の店には、なぜか全て信長《のぶなが》がいやがった。
グッズショップに行けば何やらカードの箱買いをしてるわ、アニメショップに行けばDVDを視聴《しちょう》してるわ、ゲームショップに行けば新作グームの予約《よやく》をしてるわで、まるで俺たちの行き先をことごとく先回りor追跡《ついせき》でもしてるかのようだった。……本当にしてるんじゃないだろうな? やつなら十二分にあり得《う》るから怖《こわ》い。
おかげでその度《たび》に、美夏《みか》には何とかもっともらしい理由をつけて誤魔化《ごまか》して、その場からこっそりと全速力《ぜんそくりょく》撤退《てったい》することを強《し》いられるハメになった。
店を見ては逃《に》げ、逃げては店を見る。
そんなことを何回か繰《く》り返《かえ》したものの。
「う〜ん、これでもう八|軒目《けんめ》か〜」
相変わらず、春香《はるか》のプレゼントは見つからないままだった。
「もっと簡単《かんたん》に見つかると思ったんだけどな〜。思った以上にないもんなんだね。甘かったかな〜」
ふ〜、と息《いき》を吐《つ》き、道脇《みちわき》に置いてあったベンチに美夏が腰《こし》を下ろす。
ネコミミメイド喫茶《きっさ》を出てから、すでに二時間ほどが経過《けいか》していた。
「ね、こうなったら、やっぱり最初に見つけたあのお人形さんがいいんじゃない?」
少しずつ太陽が西に傾《かたむ》き始《はじ》めた空を見ながら、美夏が言った。
「お姉ちゃんの好みには合ってるし、値段《ねだん》も一人じゃムリだけどわたしとおに〜さんの二人のを合わせれば買える範囲《はんい》でしょ?」
「そうだな……」
確かにそれがいいかもしれん。色々と見たが、何だかんだで最初のアレが一番プレゼントに適《てき》している気がする。これはいわゆる容疑者《ようぎしゃ》は事件現場に戻《もど》るってやつか?(かなり違《ちが》う)
「それじゃアレにするか」
俺の言葉《ことば》に美夏も大きくうなずき、
「うん! んじやもっかいあそこに行こ!」
勢《いきお》いよくベンチから立ち上がり、ホビーショップのある通りへと足を向けようとして、
「――えっ?」
たまたま地面に落ちていたタブ・クリアの空き缶(今どきなぜにこんなもんが……)に足を引《ひ》っ掛《か》けた。
美夏の小さな身体が大きくぐらつく。
「わわわっ!」
「――っと」
そのままバランスを崩《くず》して後ろに倒《たお》れる前に、美夏の身体を受け止めることに成功した。すっぽりと腕《うで》の中に美夏のちんまい身体が収《おさ》まり、柔《やわ》らかい感触《かんしょく》と甘い香《かお》りとが同時に伝《つた》わってくる。
「あ、ありがと、おに〜さん」
「大丈夫《だいじょうぶ》か?」
身体を支《ささ》えたまま無事《ぶじ》を確認する。
しかしまさか空き缶を踏《ふ》みつけてコケかけるとは、性格的にはまるで似《に》てない姉妹《しまい》だが、姉の持つドジ遺伝子《いでんし》は少しばかり(十九対一くらいの割合で)妹の方にも分け与えられているらしかった。
「う、うん、だいじょぶ。危《あぶ》なかったけど、おに〜さんのおかげで何とか」
腕《うで》の中でそう答える美夏《みか》。だが。
「……本当に大丈夫《だいじょうぶ》なのか?」
「え?」
「なんか、顔が赤いぞ?」
ちょうど西日が当たっているため分かりにくいが、美夏の頬《ほお》は不自然に赤く染《そ》まっているように見える。今日はやたらと走ったりしたからな。熱中症《ねっちゅうしょう》ととかじゃないだろうな?
「そ、そんなことないよ? 気のせいじゃない?」
「でもな……」
どう見ても普通《ふつう》な感じじゃないんだが。
「し、強《し》いてゆうなら」
「?」
「そろそろ離《はな》してくれると……嬉《うれ》しいかなって」
「あ――」
そこで初めて気付いた。
現在の俺は転《ころ》びかけた美夏の身体を後ろから支えている状態《じょうたい》であり、身体を後ろから支えているってことは見方によっては後ろから抱《だ》きしめているようにも見えるのであって…………いや、これは傍《はた》から見られたらかなり誤解《ごかい》されかねん姿《すがた》じゃないのか?
「わ、悪い」
瞬間的《しゅんかんてき》に手を離すと、美夏は慌《あわ》てたように首を振《ふ》った。
「あ、別にイヤだってわけじゃないんだよ? ただちょっと苦しかったから 」
「そ、そうか?」
「……うん」
こっくりとうなずく。
「……」
「……」
そのまま僅《わず》かな沈黙《ちんもく》。
よく分からんが、それまでとは微妙《びみょう》に違《ちが》う浮《う》き立《た》ったような空気が辺《あた》りに流れる。
「…………おに〜さんってさ」
やがて美夏がぽつりと言った。
「ん?」
「おに〜さんって、なんか不思議《ふしぎ》だよね。いっしょにいると落ち着くってゆうか、他の男の子とは違《ちが》うってゆうか……」
「そうなのか?」
自分じゃよく分からんが……
「うん。どこがどうとは言えないんだけど。今だってクラスの男子におんなじようなことされてたら、きっとそのまま全力で向こうのお店までゴミのように投げ飛ばしちゃってたと思う。お人形屋さんで腕《うで》を掴《つか》まれた時とかグッズ屋さんでDVDを取ってもらった時とかもそうだし……。てゆうかそもそも、他の男の子だったらこんな風に二人でどっかに行こうなんて思わないもん」
「……」
途中《とちゅう》に少しばかり問題発言があったような気もするがとりあえずは流しておこう。
「……何だろ〜ね。うまく言えないんだけど、おに〜さんは特別なんだ。いっしょにいても疲《つか》れないし、自然でいられる。……ちょっとどきどきしたりもするし。うん、最初に会った時からそんな感じだった」
穏《おだ》やかな表情で目をつむる美夏《みか》。
「だから……不思議《ふしぎ》なんだ」
そのどこか落ち着いた雰囲気《ふんいき》は、何となくピアノを前にして静かにたたずんでいる時の春香《はるか》を連想《れんそう》させて、少しだけ俺の心臓に異常挙動《いじょうきょどう》を発生させた。外面はそっくりなものの内面は正反対なこの姉妹だが、やっぱり根本的なところでは似《に》てるんだな……と改めて思う。
「――とにかく、ひとつだけ言えることは」
ゆっくりと目を開き、美夏は俺の顔を見ると、
「わたしも、おに〜さんのことが大好きってことかな。お姉ちゃんとおんなじで♪」
そう言って、イタズラっぽくえへっと笑った。
その顔は、ヒマワリのように明るいいつもの美夏のものに戻《もど》っていた。
うーむ。
結局《けっきょく》美夏が何を言いたかったんだかさっぱり分からんのだが、これは褒《ほ》められていると取っていいんだろうか?
美夏と向き合ったまま首をひねっていると、
「あれー、そこにいるのって」
「!?」
突然背後《とつぜんはいご》から聞こえてきた声に、俺と美夏は半ば同時に跳《と》び上《あ》がった。
二人で弾《はじ》かれたかのように身体を離《はな》し、距離《きょり》を取る。
「あ、やっぱ裕人《ゆうと》だー。こんなとこで何やってんのー? 買物? 巡回《じゅんかい》? そっかそっかー、裕人《ゆうと》もとうとう自発的に僕らの聖域《サンクチュアリ》まで来てくれるようになったんだー。この前の夏コミといい、順調に進歩してくれてるみたいで嬉《うれ》しいよー」
早口かつ大声で一気にまくしたてるその声の主は、当然ながら信長《のぶなが》のアホである。
「……」
……しまった。
どうやら美夏《みか》とのやり取りに集中しすぎて、周《まわ》りに対する注意が決定的に欠《か》けてしまっていたようだ。
とりあえず、これまで必死《ひっし》に逃《に》げてきた苦労が全てムダになった瞬間《しゅんかん》だった。
「で、で、何買ったのー? 僕はねー、『ドジっ娘《こ》アキちゃん限定《げんてい》ストラップ』と、『ノクターン女学院ラクロス部|春琉奈《はるな》様八分の一フィギュア』と、『電撃文庫』の新刊とねー……」
そんな俺の嘆《なげ》きも露《つゆ》知らず、出現するなり一方的に喋《しゃべ》り出《だ》す信長。相変わらず人の都合《つごう》なんざ何ひとつ気にしちゃいないそのマイペースっぷりは、見方によっては潔《いさぎよ》くすらある。
「……んー?」
と、そこでようやく信長の目が俺の隣《となり》にいる美夏へと向けられた。「あれ、そこにいるのって『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』の妹さんだよねー? 乃木坂《のぎざか》美夏、十四歳、四月五日生まれ、趣味《しゅみ》はヴァイオリンとスカッシュとイノシシの餌付《えづ》け、私立|双葉《ふたば》学院中学の二年生で、前回の定期試験の学年順位は総合二位、非公式で行われたミスコンでは二位以下を大きく引《ひ》き離《はな》して堂《どうどう》々の一位、また――」
「ちょ、ちょっとおに〜さん、何でこの人、そんなことまで知ってるの? ま、まさかストーカーとか?」
「あ、や、それは……」
ある意味ストーカーよりも恐《おそ》ろしいやつなんだが。違《ちが》うのはこいつ自身が別に美夏に特別な興味《きょうみ》を持ってないって点である。
「うーん、何で裕人と乃木坂さんの妹さんがいっしょにここにいるのかなー? 姉妹に同時にフラグを立てるのあんまりお勧《すす》めできないよー?そういう時って、だいたい対決イベントにいっちゃうもんだからー。人生はメッセージスキップもリセットしてタイトルからやり直すこともできないんだしー」
説明《せつめい》に窮《きゅう》する俺の横で、相変わらず信長はワケノワカランことを一人で喋り続けていた。お前のことをフォローしてやってるんだってのに……
と、その時。
『着信です、ご主人様?※[#ハート(白)、1-6-29] 着信です、ご主人様?※[#ハート(白)、1-6-29]』
首にぶら下げていた信長の携帯《けいたい》(蒼髪《そうはつ》少女のストラップ付き)から、かわいらしいそんな声が響《ひび》いた。
『着信です、ご主人様?※[#ハート(白)、1-6-29] 着信です、ご主人様?※[#ハート(白)、1-6-29]』
「あ、これ僕のお気に入りの着声でね。アニメ版のドジっ娘《こ》アキちゃんの声優《せいゆう》さんが喋《しゃべ》ってるやつで――」
「いいから早く出ろ」
声が鳴《な》り響《ひび》く中、説明を始めようとしやがったアホにそう突っ込む。説明を途中《とちゅう》で邪《じやま》魔されて、信長《のぶなが》は少し不満《ふまん》そうな顔で電話に出た。
「わかったよー。――はい、もしもしー」
『ちょっとバカ兄貴! 今どこにいるのっ!』
耳をつんざくような大声が受話口から漏《も》れてこっちにまで聞こえてきた。
『私のパソコン、また勝手にいじったでしょ?背景《はいけい》がヘンなのになってるしいじるとヘンな声が出て来るし……。ただウイルスを何とかしてくれって言っただけなのに!』
このパワフルな声……信長の妹か?
「えー、だってついでだったからさー。別に大した手間《てま》じゃなかったから気にしなくていいのにー」
『だれも感謝《かんしゃ》してないっ! そんなことよりいいからさっさと帰ってきて直せって言ってるの! このアンポンタン!』
どこまでもマイペースな信長と、それにどんどんと突っ込んでくる信長妹。
越冬《えっとう》を前にしたアリとキリギリスのようにすばらしくかみ合わない会話が、電話を挟《はさ》んで繰《く》り広《ひろ》げられていた。
「……なんか取り込んでるみたいだから、今のうちに行くか」
「……そだね」
いつまで経《た》っても終わりそうにない不毛《ふもう》な兄妹《きょうだい》ゲンカに付き合ってはいられない。それにまあ、信長から逃《に》げる絶好《ぜっこう》の…機会《きかい》でもあるしな。
「あー、信長、俺たちは行くから」
いちおう声はかけるものの、
「だからー、何が不満《ふまん》なのさ。あの壁紙《かべがみ》はなかなかのレアアイテムでー……」
『何もかもよ!』
やり取りに夢中《むちゅう》で、まったく聞こえていないようである。
なおも電話越しに言い合いを続ける信長を放置《ほうち》して、俺たちはその場を立ち去ったのだった。
で、最初に行ったホビーショップ。
「えーとですね、包装《ほうそう》はそんな感じで。ええ、はい。あ、でもやっぱこっちピンクのやつの方がかわいいかな〜……」
結局《けっきょく》プレぜントには例のフィギュア(個性的なポーズ)を買うことが決まり、今は美夏《みか》が何やら包装《ほうそう》に色々と注文をつけていた。
「う〜ん、こっちのブルーのも捨てがたいし……あ、そだ、リボンとかも選べたりはします?メッセージカードもあるなら付けたいし――」
「……」
どうやらかなり長引きそうな様子《ようす》だった。
とりあえず包装がどうとかリボンがどうとかは、俺にはまったくもって関知《かんち》できないファンシーな分野だったため、それについてはもう美夏《みか》に全て丸投げすることにした。
その間、ただ待っているのもヒマなので、適当《てきとう》に店内を見て回る。
さして広くはないホビーショップの店内。
棚《たな》ごとに分けられて、フィギュアやらプラモデルやら様々なグッズのようなモノやらが所|狭《せま》しと並《なら》んでいる。ふうん、色々あるもんだな。
「――ん?」
その中で、ふと目に留《と》まったモノがあった。
グッズの棚の一番|端《はし》に置かれていた、ピアノを模《かたど》った小さな物体。
「……何だ、これ?」
ピアノ型の文鎮《ぶんちん》かなんかか? 疑問に思いながらピアノのフタにあたる部分を開いてみると、その中からゆっくりと音楽が流れ始めた。
「オルゴール……か」
はかなげでスローテンポでなかなかにいい曲である。何の曲だかは知らんが、春香《はるか》のイメージにぴったりと合っていた。
「いいな、これ……」
何かピンとくるモノがあった。
一目ぼれというかインプリンティングというか、とにかく俺の心の琴線《きんせん》(太さ一センチ)に訴《うった》えかけてくる何かが在《あ》るのは確かである。
見ると値段《ねだん》もお手ごろだった。美夏が買ったフィギュアの代金を半分|支払《しはら》ったとしても、財布《さいふ》の中身が今月いっぱいはヘリウムガスのごとく軽くなることを覚悟《かくご》すれば何とか買えるレベルだ。
「……よし」
決めた。
やっぱり共同のプレゼントだけじゃ寂《さび》しいだろ。フィギュアの他に俺個人からのプレゼントがあってもいいはずだ、うむ。
「すみません」
俺はオルゴールを手に取ると、そのまま美夏が交渉《こうしょう》している店員とは別の店員に声をかけたのだった。
さて、無事《ぶじ》にプレゼント(共同&個人用)も買い終わり、
「じゃ、ばいばーい、おに〜さん。今日はありがとね、楽しかったよ♪」
「ああ、またな」
乃木坂邸《のぎざかてい》の近くまで送った後に美夏《みか》と別れ、これで長かった一日にもようやくエンドマークが付くかと思いきや……
「…………金が、足りん」
最寄《もよ》り駅で帰りのキップを買おうとしたところで、財布《さいふ》の中に百十五円しか入ってないことが判明《はんめい》した。
「確か百六十円あったはずなんだが……」
だが何度|漁《あさ》ってみても、財布の中にあるのは百円玉と十円玉と五円玉が一枚ずつ。
どうも、さっきホビーショップで調べた時に五十円玉と五円玉とを見間違《みまちが》えていたようだった。
「……」
やっちまった。
ひゅるるるるーと、まだ少し早い木枯《こが》らしが俺の背後《はいご》を吹き抜けていった。
からんからんと、目の前をタブ・クリアの空き缶が転《ころ》がっていった。
かくして。
美夏とのお買い物inアキハバラは、最後に自宅までの強制歩行|帰還《きかん》(電車にして約三駅分)というオマケ付きで終了したのだった。
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その日も、実に普通《ふつう》の一日だった。
十月二十日、木曜日。
登校するなり朝から信長《のぶなが》や三バカに『セーラー服とブレザーの実用的|機能性《きのうせい》の差異《さい》』について意見を求められ、ようやく学校に来るようになった田鍋繁夫《たなべしげお》(三十八歳、独身|継続中《けいぞくちゅう》)の果《は》てしなく精気《せいき》のない授業を受けて、昼休みには『星屑守護親衛隊《インペリアルガード》』に殺人鬼《さつじんき》のような目で睨《にら》まれつつも春香《はるか》といっしょに昼メシを食って、午後にはなぜか突然自習になった由香里《ゆかり》さんの授業で再《ふたた》び三バカに『セーラー服とブレザーの雨で濡《ぬ》れた時の透過性《とうかせい》の差異』について意見を求められるという、ごく普通の一日。……いや、普通というと少しばかり語弊《ごへい》があるかもしれんが、とにかく俺にとってはいつもと変わらない学園での一日だった。
ただ一つだけ普段《ふだん》とは違《ちが》っていたのは。
「――ん、ちゃんとあるな」
カバンの中に入っているライトグリーンの包み紙の存在《そんざい》だった。
およそ二週間前にアキハバラで入手した春香へのプレゼント。それが今日はカバンの奥底《おくそこ》の隠《かく》しスペース(持ち物|検査《けんさ》対策《たいさく》)にしっかりと収《おさ》まっている。
なんでそんなもんをわざわざ学校にまで持ってきているのかというと、その理由は昨日の夜にかかってきた美夏《みか》からの電話にあった。
『明日、放課後にお姉ちゃんの誕生日パーティーをやるよ〜。放課後になったら学校まで迎えに行くから、おに〜さんも来てね♪ あ、いちお言っとくとお姉ちゃんには秘密《ひみつ》だよ。サプライズパーティーだから』
それだけ言って電話は切れた。
どうやら、前に話してた春香の誕生日パーティーをやるらしい。
詳《くわ》しい場所やら時間やらはまったくもって不明だったが、まあ迎えに来るとのことだし、おそらくは乃木坂邸《のぎざかてい》でやるんだろう。今週は春香が掃除《そうじ》当番(図書室)で帰りが少し遅《おそ》くなることから、時間は夕方くらいからか?
いずれにせよ予定的に問題はない。ルコのやつは今日は朝早くから出かけていて、台所のホワイトボードには『今日は夕食はいらん』との書き置きがあった。どこに行ったのかは知らんが、やつの世話《せわ》をする必要《ひつよう》がないということは、本日の俺の夕方から夜にかけての予定がほぼフリーだということを意味する。
「さて、と……」
とりあえずは美夏がやって来るのを校門|辺《あた》りで待つことにしよう。そう思い、掃除の始まりかけた教室で荷物《にもつ》をまとめていると――
ドガン!
いきなり教室前方の入り口が巨大なハンマーによって吹き飛ばされていた。
「なっ……」
続いて。
チュインチュインチュインチュイン!
教室後方の入り口から生えてきたのは木目模様《もくめもよう》のチェーンソー。物騒《ぶっそう》なことこの上ない音とともに、キレイにドアが切り取られていく。
「……」
そして前後の入り口(だった場所)から同時に現れたのは
「みなさん、今日も一日勉強に運動にお疲《つか》れさまでした〜」
「…………お疲れさまでした」
今や見慣《みな》れたどこぞのにっこりメイドさんと無ロメイド長さんだった。片方は動物園のパンダのごとくにこやかに周《まわ》りに愛想《あいそ》を振《ふ》りまきながら、片方は美術館の彫像《ちょうぞう》のごとく静かに目を伏《ふ》せて、教室へと入ってくる。
「……」
一瞬《いっしゅん》、何も見なかったことにしてその場からこっそり逃《に》げ出《だ》したくなった。というか何でわ
ざわざ破壊《はかい》する必要《ひつよう》があるんだ……?
放課後でかつ掃除中《そうじちゅう》であることも手伝《てつだ》って教室の中に人の数はそう多くはなかったが、それでもこのあらゆる意味で目立つメイドさんズは、その残り少ない生徒の視線《しせん》を根こそぎ集めるのには充分《じゅうぶん》なほどインパクト大だった。
「おい、メイドさんだぞ……」
「何でメイドさんがうちのクラスに来るの?」
「二人ともすげえキレイだな……」
たちまち教室内が喧騒《けんそう》に包《っっ》まれる。
そりゃ放課後の教室に突然《とつぜん》メイドさんが二人も出現すれば騒《さわ》ぎにもなるだろう。しかも二人とも(見た目は)かなりの美人ときてる。これで騒ぎにならない方がむしろおかしい。
「あらあらー、みなさん、そんなに騒がないでください〜。あんまり目立つと怒《おこ》られちゃいます〜」
「どうぞお静かにお願いします」
騒ぎの大元たちがそんなことを言ってもまったく説得力《せっとくりょく》がない。てか、もう手遅《ておく》れだ。
赤い布をばら撒《ま》かれた闘牛場《とうぎゅうじょう》のようにますますエキサイトする教室。
もう本当にこの騒ぎに紛《まぎ》れて逃《に》げちまおうかと思ったその時。
「あら〜?」
にっこりメイドさんの方と、ばっちり目が合った。
「あ、いました〜。裕人《ゆうと》様、こちらです〜、那波《ななみ》さんがお迎えにまいりましたよ〜」
「……葉月《はづき》です」
こっちの姿《すがた》を目に留《と》めるや否《いな》や、ぶんぶんと両手を振《ふ》り回《まわ》してアピールしてくるにっこりメイドさんと表情を変えずにぼそりとつぶやく無ロメイド長さん。教室に残っていた連中の視線が、虫メガネで集められた太陽光線のように一斉《いっせい》に俺に集中する。
「またか! また綾瀬《あやせ》なのか!」
「メイドさんに『様』付けで呼《よ》ばれてるって、何様のつもりだあ?」
「だいたいあのメイドさん、本物なのかしら?」
「もしかして本物じゃないパパと同義《どうぎ》? ていうかそういうプレイ? うわ、やだー……」
「……」
その視線の八割方が冷たく蔑《さげす》んだものだったことについては……俺の人徳《じんとく》のせいじゃないと思いたい(希望)。
「……二人とも、とりあえずこっちに」
「あらら〜?」
「……」
クラスメイトたちの下等生物を見るような視線から逃げるように(実際《じっさい》逃げるんだが)、メイドさん二人を廊下《ろうか》の隅《すみ》に連《つ》れ出《だ》して尋《たず》ねる。
「……美夏《みか》が迎えに来るんじゃなかったんですか?」
メイドさんたちが来るなんて話はこれっぽっちも聞いてない。
「はい〜。本来は美夏様がいらっしゃる予定だったのですが……」
「美夏様はパーティーの準備《じゅんび》等で色々とお忙《いそが》しいので、代わりに私たちがお迎えにきたのです」
二人してそう説明してくれる。
……はあ、なるほどね。しかし相変わらずやり方(教室のドア粉砕《ふんさい》&切開《せっかい》)が個性的というか何というか。まあいつかのロンドンの時(強制連行)に比べればまだ少しはマシだが。
「ではでは〜、裕人《ゆうと》様もいらしたことですし、そろそろ行きましょうか〜」
那波《ななみ》さんがにっこりとそう言った。
「え、春香《はるか》はどうするんですか?」
誕生日パーティーの迎えなんだから、主役の春香もいっしょに行くべきなんじゃないのか?
すると。
「……春香様は、後ほど別の者がお迎えにまいります。あくまでもサプライズパーティーですので、私たちとは別行動をした方がよろしいのではと」
葉月《はづき》さんがそう答えた。
確かに、それはそうかもしれんな。
「では事情も分かっていただいたところで、沙羅《さら》ちゃんを呼《よ》びますね〜」
「沙羅ちゃん?」
初めて聞く名前だ。
「沙羅ちゃんは、運転手さんですよ〜。パーティー会場へと私たちを送迎《そうげい》してくれるんです〜」
「てことは、どっかに車でも待機《たいき》させてあるんですか?」
またロールスロイスでも用意してあるのかと思いきや。
「いえ、今回はお時間があまりありませんので、これ[#「これ」に傍点]で行きます〜」
乃木坂家《のぎざかけ》の非常識《ひじょうしき》なまでの財力《ざいりょく》は、そんな俺のちっぽけな想像《そうぞう》なんかを遥《はる》かに超越《ちょうえつ》していたみたいだった。
那波さんがぱちりと指を鳴《な》らすのと同時に、窓の外を巨大な黒い影《かげ》が横切った。
「な……」
ブオン!
突風《とっぷう》――ソニックブームがビリビリと廊《ろうか》下の窓を揺《ゆ》らす。
呆然《ぼうぜん》とする俺の前で、ソレはゆっくりと空中を旋回《せんかい》すると、校庭のど真ん中に垂直《すいちょく》着陸をし始めた。部活をやっている連中が何が起きたんだって目でその光景《こうけい》を眺《なが》めている。いや、大丈夫《だいじょうぶ》なのか、これ?
「そんな心配《しんぱい》そうなお顔をなさらなくてもだいじょうぶですよ〜。ちゃんと許可《きょか》は取ってありますから〜」
「……」
那波《ななみ》さんはそう実に軽く言うものの、何をどう考えてもそんなライトかつピースな事態《じたい》じゃない気がするんだが。
だってな。
俺たちの目の前でジエット音を轟《とどろ》かせながらホバリングしてるのは、どう見ても戦闘機[#「戦闘機」に傍点](それもミサイル付き)だぞ? 許可《きょか》とかそれ以前にもっと突っ込むべきところがあるだろ? だいたいこんなハデに登場したら春香《はるか》にもバレるんじゃないのか?
そんな俺の心の叫《さけ》びも虚《むな》しく、戦闘機《せんとうき》(ミサイル付き)は大きく砂埃《すなぼこり》を巻《ま》き上《あ》げると、そのまま校庭のど真ん中に轟音《ごうおん》とともに着陸した。
操縦席《そうじゅうせき》のハッチが開き、中から顔を出したのはこれまたやっぱりメイドさんだった。
「さ、どうぞ乗ってください、皆様」
「……ごくろうさまです、沙羅《さら》さん」
「いえいえ」
葉月《はづき》さんに声をかけられ、メイドさんが嬉《うれ》しそうに顔を綻《ほころ》ばせた。どうやら沙羅さんっていうのがこの戦闘機メイドさんの名前らしい。にしてもメイドさんと戦闘機って……セーラー服と機関銃《きかんじゅう》くらいにすげえ組み合わせだ。
「あの人が六条《ろくじょう》沙羅ちゃんです〜。メイド隊の序列《じよれつ》第七位で、菖蒲《あやめ》ちゃんっていうお姉さんと樹《じゅり》里ちゃんっていう妹さんといっしょに、主に乗り物の運転全般を担当してくださっています〜。ちなみに以前のロンドンの時に車を運転してくれていたのも沙羅ちゃんだったんですよ〜?」
訊《き》いてもいないのに那波さんがそんな詳細《しょうさい》な説明をしてくれた。でも六条なのに序列七位なんだな。まあそれを言ったら那波さんも七城《ななしろ》なのに三位だが。
そんな実にどうでもいい感想を抱《いだ》きながら、戦闘機(ミサイル付き)に乗り込む。
戦闘機(ミサイル付き)の中は一部改造が施《ほどこ》されていて、後部|座席《ざせき》(?)にあたる部分にはあの時ファーストクラスにあったような豪華《ごうか》なリクライニングシートが備《す》え付《つ》けられていた。
そこだけ見ると、とてもここが戦闘機(ミサイル付き)の中とは思えん。
「冷蔵庫も完備《かんび》してますから、何か飲みたいものがあったら遠慮《えんりょ》なく飲んでくださいね。あ、とはいいましても、発進してしまったらそんな余裕《よゆう》はないかもしれませんね」
戦闘機メイドさん――沙羅さんが計器類のチェックをしながらあははと笑う。無口すぎることもフレンドリーすぎることもない、色々と個性的な乃木坂家《のぎざかけ》のメイドさんたちの中にあって、戦闘機の操縦士《そうじゅうし》ってとこを除《のぞ》けば割と普通《ふつう》っぽいメイドさんだ。
「状況《じょうきょう》はどうなっていますか?」
葉月《はづき》さんが沙羅《さら》さんに話しかける。
「あ、はい。玄冬《げんとう》様と秋穂《あきほ》様はもうすでに朝から向かわれました。美夏《みか》様も樹《じゅり》里の操縦《そうじゅう》で一時間ほど前にお発《た》ちになっています」
「春香《はるか》様については?」
「そちらも大丈夫《だいじょうぶ》です。春香様は現在図書室で清掃中《せいそうちゅう》とのことですが、後で菖蒲《あやめ》姉さんがお迎えにあがることになっています」
「……そうですか。では後は私たちが向かうだけですね。分かりました」
何やらよく分からん話をしている葉月さんと沙羅さんの声を聞きながら、俺はリクライニングシートに腰《こし》を下ろした。おお、ふかふかだ。こんな辺鄙《へんぴ》なところに付いてるシートにもかかわらずウチで一番上等のソファよりも座《すわ》り心地《ごこち》が遥《はる》かにいいってのは、世の中どこか間違《まちが》ってるとしか思えないね。
などと資本主義社会の矛盾《むじゅん》に少しばかり思いを馳《は》せていると。
「…………ん?」
何やら、リクライニングに付属《ふぞく》しているやたらごついシートベルトとマスクのようなモノを見つけた。
「……」
何だ、この拘束具《こうそくぐ》とガスマスクみたいなのは?
「……これ、何ですか?」
イヤな予感とともに尋《たず》ねると。
「それは身体を固定《こてい》するベルトと酸素《さんそ》マスクですね〜。この冬将軍≠ヘ超音速《ちょうおんそく》で飛行《ひこう》しますので、慣《な》れない方はそれらをちゃんと装備《そうび》しておかないと、意識《いしき》を失ったりムチウチになってしまったりと、色々と不具合《ふぐあい》が出てしまうのですよ〜」
「……」
「……ちなみに冬将軍≠ニは、この機体の名称《めいしょう》です」
那波《ななみ》さんが笑顔《えがお》で何だか恐《おそ》ろしいことをさらりと言い、それに葉月さんが真顔で実にどうでもいい補足《ほそく》をしてくれた。……てか俺の鼓膜《こまく》が正常《せいじょう》なら、今意識|喪失《そうしつ》とかムチムチだとかやたらと物騒《ぶっそう》な単語が聞こえたんだが。
「とりあえず、裕《ゆうと》人様はそれらを装着《そうちゃく》することをお勧《すす》めしますが〜」
「……どうしてもイヤだと言われるのなら無理強《むりじ》いはできません。しかしその場合はこちらの書類にサインをしていただけると」
「……」
葉月さんが差し出した紙には、『交通事故、傷害《しょうがい》及び死亡|保険契約書《ほけんけいやくしょ》』と書かれていた。
「……装着させてもらいます」
果《は》たして戦闘《せんとうき》機に搭乗中《とうじょうちゅう》にケガをした場合は交通事故にあたるのかどうなのかなどと心の中で突っ込みながら、ベルトと酸素《さんそ》マスクを装着《そうちゃく》した。
「それではそろそろ出発いたします。皆様、準備《じゅんび》はよろしいですか?」
沙羅《さら》さんが操縦席《そうじゅうせき》から振《ふ》り返《かえ》って確認《かくにん》をしてくる。
「はい、よろしいですよ〜」
「……私も平気です。裕人《ゆうと》様は?」
「オッケーです」
「では、出発いたします。皆様、よいお旅を。五、四、三――」
そしてカウントダウンが始まったところで、
「……裕人様。上体《じょうたい》は寝《ね》かせておいた方がよろしいかと思いますが」
隣《となり》の葉月《はづき》さんがぼそりとそんなことを言った。
「へ、何でですか?」
「それは――」
葉月さんが何かを言いかけた次の瞬間《しゅんかん》。
「二、一……テイクオフ!」
「ぐ、ぐおっ!?」
ジエットエンジンの轟音《ごうおん》とともにすさまじいばかりのGが全身に嵐《あらし》のごとく襲《おそ》い掛《か》かり。
僅《わず》か三秒で、俺は浜に打ち上げられた深海魚《しんかいぎょ》のごとく意識《いしき》を失った。
1
「う〜ん、裕人様、だらしないですね〜。男の子はもっとたくましい方がいいですよ?」
「……もしかして、乗り物|酔《よ》いをされやすいのですか?」
三時間ほどの戦闘機による飛行を終えて(その間六回ほど意識を取《と》り戻《もど》しては失うを繰《く》り返《かえ》した)、着陸するなりメイドさん二人にかけられた言葉《ことば》がそれだった。
「ん、んなこと言われても……」
ぐわんぐわんとふらっく頭で何とか答える。
あんな地獄《じごく》のような環境下《かんきょうか》で真顔どころか笑顔《えがお》でいられるこの二人を基準《きじゅん》に考えること自体がそもそも果《は》てしなく間違《まちが》っている気がする。
ちなみにこの二人のメイドさんたちは、最初から最後まであのすさまじいばかりのGの中で平然と談笑《だんしょう》をしていた。……いや、もうこの人たちの超越《ちょうえつ》っぷりについては深く考えちゃいけないんだろう、きっと。
とりあえず、過ぎたことは忘《わす》れることにした。
「……で、ここはどこなんですか?」
むしろ今大事なのはそこだ。あんな超音速《ちょうおんそく》の戦闘機《せんとうき》に三時間も乗せられて、いったいどこに連《つ》れてこられたのか激《はげ》しく気になる。
戦闘機の窓から見える周囲《しゅうい》の景色《けしき》は、目を見張《みは》るようなものだった。
どこまでも広がるエメラルドグリーンの海。雲ひとつない青い空。辺《あた》りに当たり前のごとく生えまくっているヤシの木に、真っ白な砂浜。……少なくとも、日本じゃないことだけは確かそうだな。
すると那波《ななみ》さんはにっこりと笑ってこう言った。
「ええとですね〜、ここはハッピースプリング島ですー」
「ハッピースプリング島?」
何だそのいかにも頭の中が年中春の人が付けたような名前の島は。
「はい〜。赤道付近にある常夏《とこなつ》の島の一つですよ〜。詳《くわ》しい場所は企業秘密《きぎょうひみつ》なのでお教えできませんが〜」
「赤道……」
って地球儀《ちきゅうぎ》の真ん中にあるあの赤いラインだよな? 僅《わず》か数時間の飛行で一気にそんなバカンスなところまで来たってのか? 信じられないというか夢のようだというか、いまいち実感が湧《わ》かん……
そんな俺の心を知ってか知らずか、那波さんは再《ふたた》びにっこりと笑った。
「さてさて〜、色々とご質問はあるかもしれませんが、まずは降《お》りてしまいましょう。沙羅《さら》ちゃんも、冬将軍≠フ整備《せいび》をしないといけないですし〜」
「……分かりました」
那波さんの言葉《ことば》に従《したが》い戦闘機から砂浜へと飛び降りる。俺たちが降りると、戦闘機はそのままトンボのようにどこかへと飛んでいってしまった。
砂浜には俺とメイドさん(×二)だけが残される。
近くのヤシの木が海風に吹かれてゆらゆらと揺《ゆ》れ、その背後《はいご》に広がるマングローブ林では聞いたことのない鳥の鳴《な》き声《ごえ》がクエークエーと響《ひび》いていた。
「暑いな……」
まるで太陽がいくつもあるかのようにぎらぎらと日差しが頭上《ずじょう》から降《ふ》り注《そそ》ぐ。ただそこに立ってるだけで全身から滝《たき》のように汗《あせ》が噴《ふ》き出《だ》してくる。
「天然のサウナみたいだ……」
捻《ひね》りも何もない感想をつぶやいていると。
「この辺りは平均気温が三十度を超えていますからね〜。そのお召《め》し物《もの》じゃ暑いのもムリはないかもしれないです〜」
「……せめてブレザーだけでもお脱《ぬ》ぎになることを推奨《すいしょう》しますが」
そう言うメイドさん二人の顔は実に涼《すず》しげだったりする。どう考えてもそのエプロンドレスは俺の冬服よりも厚い生地《きじ》でできているように見えるんだが。
訊《き》いてみたところ。
「……メイドたるもの、いかなる過酷《かこく》な環境《かんきよう》の下《もと》でも常《つね》に平静《へいせい》を保《たも》てるように訓練《くんれん》を受けていますから」
「基本ですねー」
「……」
いや、そんな歴戦《れきせん》の傭兵《ようへい》みたいな訓練を受けてるのは世界広しといえど乃木坂家《のぎざかけ》のメイドさんだけだろ……などと心の中で激《はげ》しく突っ込んでいた俺に、
「あ、おに〜さ〜ん〜」
後方から、聞《き》き慣《な》れた明るい声が響《ひび》いてきた。
「やっほ〜、いらっしゃい、おに〜さん」
「美夏《みか》……」
振《ふ》り返《かえ》ってみると、少し離《はな》れた丘のような場所から水着|姿《すがた》の美夏がぱたぱたと手を振っていた。もちろん二週間前にアキハバラで買った、あの食《た》べ頃《ごろ》のイチゴみたいに真っ赤なビキニである。
美夏はそのままたたたっとこちらに駆《か》け下《お》りてくると。
「思ったより早かったね〜。空の旅はどうだった? ジェットコースターみたいで気持ちよかったでしょ?」
「……」
残念《ざんねん》ながらあれを気持ちいいと言えるほどの豪胆《こうたん》な神経《しんけい》は持ち合わせてない。
俺の顔色からそんな内心を読み取ったのか、
「あはは、まあ慣れないとちょ〜っときついかもね、アレは」
楽しそうに笑う美夏。……ちょっとどころじゃないと思うがな。
「にしてもすごいところだな、ここは」
「ん、そかな?」
「ああ」
一面に広がる真っ白な砂浜。泳いでる魚やサンゴ礁《しょう》がはっきりと見えるほど透明度《とうめいど》の高い海。
雲ひとつない空はほとんど吸い込まれそうなくらいの高さである。とても日本から三時間そこそこの場所とは思えない。
「まともに来たら旅費《りょひ》とかすごいんだろうな……」
そんな庶民的《しょみんてき》な感想を何気《なにげ》なくつぶやいたところ、
「ん、タダだよ」
「へ?」
そんなプライスレスな返事が戻《もど》ってきた。
「だってこの島、お父さんがお姉ちゃんの誕生日パーティーのためにわざわざ買ったんだもん。
お姉ちゃんはまだ知らないけど」
「……は? 誕生日パーティーのために?」
「そ。ついでにこの島の周囲《しゅうい》半径五十キロもセットで」
やれやれと肩《かた》をすくめる美夏《みか》。
「う〜ん、相変わらずお父さんらしいってゆうか親バカってゆうか。ハッピースプリングってゆうのもお姉ちゃんの幸せに願いを込めたお父さんのネーミング。安易《あんい》とかいう以前にオヤジギャグだよね〜」
春香父《はるかちち》、なかなかのネーミングセンスの持ち主だった。……てか、とりあえずさっき心の中で言ったネーミングについての俺の意見は取り消しておこう。
「あ、そうそう、パーティーはあっちにあるお屋敷《やしき》て開かれるから」
美夏が指差した先には……何やらドイツの山奥《やまおく》にでも建《た》ってそうな巨大な城《しろ》があった。周囲の風景《ふうけい》に見事《みごと》なまでに合っていない。いや何だってこんな南国チックなところにあんなヨーロピアンなもんを建てたんだ?
「あれもお父さんの趣味《しゅみ》。名前はヴァルハラ城。古城《こじょう》とかが大好きな人だから、勢《いきお》いでつい建てちゃったらしいよ? 周《まわ》りの景色から浮《う》いてるって、お母さんには不評《ふひょう》みたいだけど」
「……」
そんな一般家庭の父親がボーナスが出たことに気を大きくして前から欲しかったゴルフクラブをつい買っちゃいました≠ンたいな理由であんな古城を建てられるところがまた恐《おそ》ろしい。おそらくあの城の建設費用《けんせつひよう》だけで、俺なんかは一生ラクに生活していけるんだろうな……
そこはかとなく切ない気分で遠くに見える城を眺《なが》めていると。
「ま、とにかくおに〜さんも早く着替えてきなよ。あっちにレストハウスがあるから。そんなカッコじゃ暑いでしょ? 水着、おに〜さんのも用意しておいたからさ」
「そうだな……」
確かにこの環境下《かんきょうか》で冬服を着てるなんてのは狂気《きょき》の沙汰《さた》以外の何でもない。
「でしたらご案内いたします〜」
「あ、すみません」
「ではではどうぞこちらへ〜」
那波《ななみ》さんに連《つ》れられて、レストハウスへと向かう。
「そういえば……」
「はい?」
一つ疑問に思ったことがあった。
「那波さんたちは着替えないんですか?」
たとえ暑さには耐《た》えられたとしても、砂浜でメイド服ってのは色々と不便《ふぺん》があるんだろう。
動きづらそうだし濡《ぬ》れそうだし。
すると。
「メイドは、メイド服を着ていてこそメイドなのですよ〜。なのでお仕事中は常《つね》にメイド服を着ているものなのです。ほとんど身体の一部みたいなものですね〜。だから脱《ぬ》ぐわけにはいきません。それに――」
「それに?」
那波《ななみ》さんはにっこりと笑ってこう言ったのだった。
「このメイド服は、防水仕様《ぼうすいしよう》ですから。海でも安心です〜」
用意されていた水着(なぜかサイズも丈《たけ》もぴったり)に着替えて、那波さんとともにレストハウスから戻《もど》ってくると。
「……ん?」
なんか、砂浜に人影《ひとかげ》が見えた。
美夏《みか》と葉月《はづき》さん以外の二つの人影。……だれだ?
近づいてみたところ。
「あ、裕《ゆう》くんが来た〜」
「ふむ、遅《おそ》かったな」
「……」
なぜかそこにはビーチベンチに横たわってのんびりとくつろぐセクハラ音楽教師とバカ姉(二人とも当然水着着用)の姿《すがた》があった。
「………………いや、何で?」
ここにこの二人がいやがるんだ? 一人は朝から行方《ゆくえ》不明、一人は午後から欠勤《けっきん》だったってのに……
真冬にヤブ蚊《か》の群《む》れを見つけたようなげんなりとした気分で尋《たず》ねると、やつらはさらりとこう答えた。
「何でって、春香《はるか》ちゃんの誕生日パーティーやるんでしょ? 妹ちゃんに招待《しょうたい》されたから来たんだけど〜」
「乃木坂《のぎざか》さんの誕生日だからな。必要《ひつよう》とあらば人の二、三人を斬《き》ってでも駆《か》けつけるに決まっているだろう」
美夏、この二人も呼《よ》んでたのか……
木陰《こかげ》でヤシの実のジュースをちゅるちゅると飲んでいた美夏を見ると。
「ん〜、せっかくだし、知ってる人が多い方が楽しいと思って。みんなでお姉ちゃんを祝ってほしいしね♪」
明るい声でそう答えた。
いや……確かに『枯《か》れ木《き》も山の賑《にぎ》わい』ってコトワザがあることは否定《ひてい》せんが、『過ぎたるは及ばざるがごとし』っていうもんもあるんだぞ? しかもやつらに関しては確実《かくじつ》に後者《こうしゃ》こそがふさわしいだろうことは火を見るよりも明らかである。
「それにしても美味《おい》しいわね〜、これ」
「うむ。さすがは本場のバカルディだ」
ご機嫌《きげん》にそんなことをのたまう二人の傍《かたわ》らには、中身がなみなみと詰《つ》まった巨大なタルと柄杓《ひしゃく》があった。中に入っている液体が何であるのかは……もはや語《かた》るまでもあるまい。
「どうルコ、どっちが早く飲みきれるか勝負しない?」
「ふむ……そういえば前回は引き分けのまま勝負がついていなかったな。よかろう、望むところだ」
「んじゃ位置《いち》について。よ〜い……どん! ごきゅ……ごきゅ……」
「ごっ……ごっ……ごっ……」
タルに直接口を というか顔をつけて飲み始めるアホども。傍《はた》から見るとまるで水中で息《いき》を止める訓練《くんれん》でもやっているかのように見えるが、実質はただのクレイジーな飲酒《いんしゅ》である。
「……」
……もういいからお前らは帰れ。
「う、う〜ん、相変わらず豪快《こうかい》なおね〜さんたちだね〜」
酒呑童子《しゅてんどうじ》もかくやという壮絶《そうぜつ》かつ見苦《みぐる》しい飲酒|風景《ふうけい》を眺《なが》めながら、メッタなことには動じない美夏《みか》が微妙《びみょう》に引きつったような笑いを浮《う》かべていた。
「……美夏、もうアレは放《ほう》っておくそ」
「そ、そだね」
とりあえず放置《ほうち》ということで意見の一致《いっち》を見た。
「……それより、春香《はるか》はもう来てるのか?」
あんなアル中どもよりもそっちの方が遥《はる》かに(シャレではない)気にかかる。今日のパーテイーの主賓《しゅひん》である春香が来ないことには、何をするにせよコトは始まらない。
「あ、ん〜ん、まだ。でも、もうすぐこっちに到着《とうちゃく》すると思うよ。お姉ちゃん、今日は掃除《そうじ》当番だったでしょ? だからおに〜さんとは時間差で菖蒲《あやめ》さんが始皇帝《しこうてい》≠ナ迎えに行ってるはずだから」
「そうか……」
そういえば、戦闘機《せんとうき》の中で葉月《はづき》さんたちがそんなことを話してたな。
「ん〜、なになに、もうお姉ちゃんが恋しいの?」
美夏がにんまりと笑った。
「だいじょぶだよ。こないだわたしたちで選んだプレゼントを渡《わた》せば、お姉ちゃんもいちころだって。てゆ〜かお姉ちゃんだったら感激《かんげき》して泣いちゃうかも。あ、ちなみにいちころって何の略《りゃく》なんだろうね? 一撃《いちげき》でころり?」
そんなの知らん。
「うーん、何でしょう。一時のコロッケタイムの略ですかね〜」
「…………一網打尽《いちもうだじん》でコロポックル?」
メイドさんたちは、相変わらずそれぞれの個性に溢《あふ》れたワケの分からないことを言っていた。で、しばらくはそんな感じに美夏《みか》たちと話をしていたわけだが、
「……さてとっと。わたしたちはそろそろ行かないと」
ちゅ〜っとジュースを飲み干し、美夏が言った。
「行く?」
ってどこにだ?
「うん、パーティー会場のお城《しろ》に。これから色々忙《いそが》しいんだ。何せお姉ちゃんの誕生日パーティーだけあって、世界各国から色んな人たちが集まってくるからさ〜。お姉ちゃんの代わりにいちおう出迎えとかしなきゃなんないんだよ」
「え、パーティーって、そんなハデなやつなのか?」
てっきり内輪《うちわ》だけでやるささやかなものかと思ってたんだが……
美夏がうなずく。
「そだよ。ほら、今もお城の方に降《お》りてくるヘリコプターが見えるでしょ? あれもそうだと思う。そのうちカナブンみたいにぶんぶん飛んでくるんじゃないかな」
しかし冷静《れいせい》に考えてみればあの[#「あの」に傍点]乃木坂家《のぎざかけ》の長女である春香《はるか》の誕生日なんだよな。その超《ちょう》ブルジョワな立場やら会場であるあの城の巨大さやらを考えれば、それもうなずける話だ。
「ま、そうゆうわけなの。だから悪いけど、おに〜さんは少しだけ時間|潰《つぶ》してて、ね?」
片目をつむって顔の前で両手を合わせる美夏。
「一人だとさみしいかもしれなけど、でももうすぐお姉ちゃんが来るからだいじょぶだよね? それに退屈《たいくつ》だったら近くに現地の人たちの村とかがあるから、行ってみるのも面白《おもしろ》いかもよ。なんかあっても乃木坂の名前を出せば無問題。んじゃ、し〜ゆ〜れいた〜」
「……失礼します」
「楽しんでいてくださいね〜」
そう言うと、葉月《はづき》さんと那波《ななみ》さんを引《ひ》き連《つ》れて美夏は行ってしまった。
「あ――」
ぽつんと、砂浜に一人取り残される。
「こんなところに一人にされても困《こま》るんだが……」
いやまあ厳密《げんみつ》には顔見知りの酔《よ》っ払《ばら》いが二人いるにはいるが、やつらはすでにタル酒とともにどこか別の世界に旅立っている様子《ようす》なので物の数に入らない。というか入れたくない。
せめてあの戦闘機《せんとうき》メイドさんとかがいれば話し相手くらいにはなってくれただろうに……などと思うものの、まあ実際《じっさい》問題としてだれもいないのだからしかたがない話である。
「……散歩でもしてるか」
とりあえず春香《はるか》が来るまで、その辺を適当《てきとう》にぶらついてみることにした。
2
ハッピースプリング島は、予想《よそう》よりも案外広かった。
遠くまで続く砂浜、視界《しかい》の果《は》てまで広がる林。だいたい東京ドーム十個分くらいだろうか。
いや東京ドームの正確《せいかく》な大きさなど知ってるわけじゃないが、何となくフィーリングで。
特に目的地《もくてきち》もないため、たまたま目に入ったでかいヤシの木を目指《めざ》して進んでみることにする。
砂浜に沿《そ》って歩いていると、途中《とちゅう》で現地の人の村……というか小さな集落のようなものが見えた。美夏曰《みかいわ》く、春香父はこの辺《あた》りの島々を全て買い取り乃木坂家《のぎざかけ》の所有《しよゆう》としたものの、元々住んでいた人たち(少数らしいが)にはそのまま無償《むしょう》で生活をしてもらっているという。それどころか資金援助《しきんえんじょ》もしてるとか。おかげで現地の人たちは乃木坂家の関係者に極《きわ》めて好意的《こういてき》だとのことだった。
その言葉《ことば》を裏付《うらづ》けるかのように、浜辺で時折すれ違《ちが》う人たちは皆、明るい笑顔《えがお》と労《ねぎら》いの言葉(たぶん)を向けてくれた。中にはこの辺の名物なのか、海ヘビ(でかい)の丸焼きをくれる人なんかもいたり。もちろん丁重《ていちょう》にお断《ことわ》りしたが。
で、乃木坂家のプライベートビーチ(?)から歩くこと十五分くらい。
「――ん?」
他の場所よりも少し広けた感じのする砂浜。
そこで、何やら地面を這《は》いつくばっている人間を発見した。
浅黒い肌《はだ》、真っ白な髪《かみ》、彫《ほ》りの深い顔立ち。ハデなアロハシャツにサングラス姿《すがた》の爺《じい》さん。
現地の人だろうか。何かを探《さが》しているような素振《そぶ》りで、砂の上に手を這わせている。何だ、何をやってるんだ?
不思議《ふしぎ》に思ったので近づいてみても、作業《さぎょう》に集中してるのか爺さんはこちらを見向きもしない。うーむ、本当に何をやってるんだろう。
「あー、どうかしたんですか――」
何となく気になったので声をかけようとして、そういやここは日本じゃないんだってことを思い出した。詳細不詳《しょうさいふしょう》の赤道直下のハッピースプリング島。とすると何語で喋《しゃべ》ればいいんだ?
「わ、わっと・どうー・ゆー・どうー?」
悩《なや》んだ末、結局《けっきょく》自分は日本語の他には世界共通語である英語しか知らんことに気付き、しかしその英語ですらまともに喋《しやぺ》れるわけではなく、結果《けっか》として自分でも何言ってんだか分からん質問が口をついて出るに至《いた》った。
「……」
で、当然自分が言ってて何だか分からん言葉《ことば》が相手に通じるわけもない。爺《じい》さんは怪語《けげん》そうな顔で俺を見上げると、
「Can you speak English?」
「う、え?」
突然《とつぜん》返ってきた流暢《りゅうちょう》な英語に、思わずフリーズした。あー、要《よう》するに『英語を喋れるのか?』って訊《き》かれてるんだよな。……喋れん。
「あ、あい・きゃんのっと・すぴーく・いんぐりつしゅ」
「Where are you from?」
あー、今度は『どこから来たのか?』だよな……?
「あ、あい・あむ・じゃぱん?」
……で、いいのか?(自信なし)なんか確実《かくじつ》に間違《まちが》ってる気がするが。
すると爺さんは少し驚《おどろ》いたような顔でこっちを見上げ、
「……む? なんじゃお主、日本人か?」
そう言った。見事《みごと》な日本語だった。
「ヘタな英語じゃったからもしやとは思ったが……珍《めずら》しいの、乃木坂家《のぎざかけ》以外の日本人がここらに来るとは」
「日本語、喋れるんですか?」
「当たり前じゃ」
何を言っとるんだって顔でうなずく爺さん。うーむ、英語も喋れるようだし、見かけによらずインテリな現地人なんだな。
「で、何か用か? 見ての通り、ワシは忙《いそが》しいんじゃが」
「あ、いえ、特には。ただ何か探《さが》し物《もの》をしてるみたいだったんで……」
爺さんがじろりと俺の顔を見た。
「ほう、それで手伝《てつだ》ってくれようとわざわざ使《つか》い慣《な》れん英語なんぞで声をかけてくれたというわけか。ふむ……」
少しの間、何かを考えるような素振《そぷ》りを見せて、
「……実は、釣《つ》り針《ばり》を落としてしまっての」
やがて爺さんはゆっくりと口を開いた。
「特殊《とくしゅ》な釣り針なのじゃ。ワシの手作りで、レインボウスネイクを捕《つか》まえるためには必要《ひつよう》なの
じゃが……」
「レインボウスネイク?」
聞《き》き慣《な》れない名前だ。魚?
「うむ。この辺《あた》りでしか獲《と》れない珍《めずら》しい魚じゃ。光の角度によっては身体が七色に光ることから地元ではそう呼《よ》ばれておる」
「へぇ……」
そんな魚がいるのか。さすがは赤道直下ハッピースプリング島。
「手伝《てつだ》ってくれるというなら、悪いがそれを探《さが》してくれぬかな? 今日中にレインボウスネイクを捕《つか》まえたくての。先ほどの漁の帰りに落としてしまったから、この辺りに落ちているハズなのじゃが……」
「分かりました」
「すまぬな」
爺《じい》さんと同じようにかがみ込んで、砂浜を手探《てさぐ》りで調べ始める。
とはいえ爺さんが『この辺り』と指し示した範囲《はんい》は、それなりに広かった。
半径約二十メートルくらいの円。
その中にはマングローブの林やら小さな岩場やらも含《ふく》まれているため、思ったよりもずっと大変《たいへん》な作業《さぎょう》である。
砂をかき分け中身を探っていると、
「ん、何だ、これ?」
指先に小さなカニがひっ付いていた。片方だけやたらとハサミが大きく、何となくバランスが悪い。
「それはシオマネキの一種じゃよ」
爺さんが後ろから覗《のぞ》き込《こ》んできた。
「ハサミの動きがまるで潮《しお》を招《まね》いているかのように見えることから、そう名付けられたと言われておる。実際《じっさい》はその大きなハサミで砂を掘《ほ》り取《と》って、中にある栄養を食べているんじゃがな」
「へぇ……」
詳《くわ》しいな。
「まあ特に害はない。ハサまれると少し痛《いた》いくらいじゃ。この辺りにはあまりおらんが、砂浜から波打《なみう》ち際《ぎわ》にかけての生き物ならむしろエイなどの方が危険《きけん》かもしれぬな。日本でもアカエイの被害《ひがい》が出てるじゃろう?」
いや「じゃろう?」って言われても、そんな水棲《すいせい》生物事情など分からんのだが。
それからも爺さんから浜辺や磯《いそ》の生物についてのウンチクを聞きながら、釣《つ》り針《ばり》探しを続けること十五分。
「お……?」
ようやくソレらしきモノを見つけた。
「……ひょっとして、コレですか?」
波打《なみう》ち際《ぎわ》の流木《りゅうぼく》の陰《かげ》に隠《かく》れるようにして砂に埋《う》まっていたのは、直径二十センチはある巨大な鉄の針。釣《つ》り針《ばり》ってかほとんど鉤爪《かぎづめ》とかそういうレベルの代物《しろもの》であるが、とりあえず針という点でだけは探《さが》し物《もの》と共通する。
「おお、それじゃ、それ」
だが爺《じい》さんはその巨大針を見るなり大きくうなずいた。
「これの針先には特殊《とくしゅ》な返しが施《ほどこ》してあっての。この仕掛《しか》けでないとレインボウスネイクはうまく釣れん」
どうやら本当にこれが探してた釣り針らしい。だけど普通《ふつう》、針の大きさというものは狙《ねら》っている魚の大きさに比例するもんだよな? そしてその針がこの大きさってことは――
爺さんの顔を見ると、
「レインボウスネイクか? ふむ、体長はだいたい十メートルほどじゃな」
あっさりとそう答えた。
……そんなとんでもないもんを獲《と》る気なのか、この爺さんは。
「なに、身体こそ大きいが、イタチザメやホオジロザメに比べればかわいいもんじゃ。何より肉食ではないしの」
「……」
そりゃあ、そんな海の殺し屋たちから見ればそうかもしれんがさ……
「しかし、何にせよお主のおかげで助かった。何か礼をさせてもらわねばな」
サングラスをはずし、爺さんが頭を下げる。
「あー、別にいいですよ」
こっちとしてはヒマだったから手伝《てつだ》っただけだし、それに色々と面白《おもしろ》い話が聞けてなかなかに有意義《ゆういぎ》な時間だった。そんなお礼だ何だ言われるようなほどのことじゃない。
「ふむ、しかしの――」
爺さんが何かを言いかけたその時だった。
チャーララーラーチャーララーラー♪
水着のポケットから、常夏《とこなつ》の海にこれ以上ないってくらいに似《に》つかわしくないきよしこの夜≠ェ鳴《な》り響《ひび》いた。何だ? ポケットを探《さぐ》ってみると――
「……携帯《けいたい》?」
そこには、やたらとごつい小型の携帯電話があった。
「何でこんなもんが……」
当然ながら身に覚《おぼ》えはまったくない。というかこの水着自体がそもそも借り物である。誘《いぶか》しく思いながらもとりあえず出てみると。
「……裕人《ゆうと》様ですか?」
聞こえてきたのは無ロメイドさんの声だった。
「散歩をお楽しみの中、申し訳ございません。今、大丈夫《だいじょうぶ》でしょうか?」
「あ、ええ……」
それは別にいいんだが……
「? 何か?」
「……いえ、あの、この携帯《けいたい》は葉月《はづき》さんが?」
「はい」
俺の質問に、メイドさんは即座《そくざ》に肯定《こうてい》で答えた。「万が一にでもマングローブの林で迷子《まいご》になった挙句《あげく》にアナコンダのディナーになられたり、砂浜で熱中症《ねっちゅうしょう》になって倒《たお》れたまま天日《てんぴ》の干物《ひもの》になってしまわれたり、うっかりガケから足を滑《すべ》らせてそのまま海の藻屑《もくず》になってしまわれることがないよう、失礼とは思いましたがGPSで裕人様の位置《いち》を逐一確認《ちくいちかくにん》させてもらいました」
「……」
……すげえピンポイントかつイヤな心配内容《しんぱいないよう》だな。まあ、いいんだがさ。
「――で、俺に何か?」
何か用があるからこそ電話をしてきたんだろう。尋《たず》ねてみると。
「……実は先ほど春香《はるか》様がこちらにお着きになりました」
「え、春香が?」
「はい。そして裕人様が散歩をなさっている旨《むね》をお伝《つた》えしたところ、春香様もそらちへ向かわれてしまいました。なので早々に合流していただけると助かるのですが……」
「ああ、そういうことですか」
確かにこんな日本から遠く離《はな》れた島で春香を一人にさせておくのは若干《じゃっかん》心配ではあるな。
「分かりました。探《さが》してみます」
「すみませんが、よろしくお願いします。では――」
そう言って葉月さんは電話を切った。
「なんじゃ、連《つ》れがいたのか?」
爺《じい》さんが訊《き》いてくる。
「あー、はい。それであの、呼《よ》ばれてるみたいなんで俺はこれで……」
そう告《つ》げると、爺さんはにやりと笑った。
「ふっ、そういうことなら早く言わんか。ワシとて男女のらんでう※[#濁点付き平仮名う、1-4-84]ー≠ジャマするほど野暮《やぼ》ではないそ?」
「そ、そんなんじゃ」
ランデヴーって……
「ほれ、いいから早く行かんか。婦女子《ふじょし》を待たせるなど、男として失格《しっかく》じやぞ」
背中《せなか》をぐいぐいと押《お》してくる爺《じい》さん。
「分かりました。それじゃ俺はこれで」
「うむ、しっかりやるんじやぞ」
何がしっかりなんだかはさっぱりだったが、楽しそうに笑う爺さんに別れを告《つ》げて、俺は春香《はるか》を探《さが》し始《はじ》めた。
3
砂浜をプライベートビーチ方向に少し戻《もど》ったところで、辺《あた》りをきょろきょろと見回す春香を発見した。
「春香!」
「え?」
「こっちだ、こっち」
「あ、裕人《ゆうと》さん」
呼《よ》びかけると、春香は飼《か》い主《ぬし》を見つけた仔犬《こいぬ》みたいに嬉《うれ》しそうな顔になり、とてとてとこちらへ駆《か》け寄《よ》って来ようとして――
「春香、足下!」
「え――きゃっ!」
打ち上げられていた海草に足を取られ盛大《せいだい》に宙を四回転半し(新記録)。
そのまま、思いっきり顔から砂浜にハデに突っ込んだ。
辺《あた》りにもわもわと砂煙《すなけむり》が舞《ま》う。
「だ、大丈夫《だいじょうぶ》か……?」
「は、はひ……」
ハッピースプリング島にやって来ても、春香のドジっぷりは健在《けんざい》だった。
助け起こすと、春香は照《て》れた顔でえへへ、と笑いながら俺の顔を見た。
「す、すみません、相変わらずそそっかしくて……」
ちなみにコケた拍子《ひょうし》に肩《かた》にかけていた上着は落ちていて。
現在の春香は……白いビキニ姿《すがた》だった。
もともと雪みたいに真っ白な肌《はだ》をさらにライトアップするかのように添《そ》えられた上品な白い布地。小洒落《こじゃれ》たデザインのそれは、軽くアップにした髪《かみ》に実によく似合《にあ》っている。
「……」
……かわいい。
なんつーかすげえ月並《つきな》みかつ頭の悪い表現でアレだが……海をバックにしてにこにこと微笑《ほほえ》む春香《はるか》は、まるで陸《おか》に上がった人魚姫《にんぎょひめ》みたいだった。可憐《かれん》でキレイでどこか儚《はかな》げで、そして何よりかわいい。ああ、春香のこの姿《すがた》が見られただけでもこんなところ(赤道直下)まで来た甲斐《かい》があったな……と、心の底《そこ》から満足していると、
「あ、あの、私、何かおかしいでしょうか? そんなにじっと見られると……」
思わずエサを目の前にしたカメレオンのごとく凝視《ぎょうし》してしまっていたのか、春香が恥《は》ずかしそうに顔を逸《そ》らした。
「あ、いや、そういうわけじゃない。その、似合《にあ》ってるなと思って……」
「え……」
「似合ってるぞ、その水着」
「あ――」
素直《すなお》な感想を口にすると、春香は顔を真っ赤にして、
「あ、ありがとうございます」
ぎこちなくぺこりと頭を下げた。
「じ、実は、今日の占いでラッキーカラーはホワイトとあったのでこれを選んでみたんです。ヘンじゃないか不安だったので、そう言ってもらえるととっても嬉《うれ》しいです……」
「……」
なんかどっかで聞いたような台詞《せりふ》だな。
「あ、あの、裕人《ゆうと》さんの水着もとってもよくお似合いですよ。そ、その、かっこいい……です」
「そ、そうか? さんきゅ」
まあ俺の水着はウエストのところに大きく『海人《ウミンチュ》』とプリントされた、お世辞《せじ》にもかっこいいなんて言葉《ことば》とはほど遠い位置《いち》にある代物《しろもの》のようにも思えたが、この際《さい》それは気にしないことにしとこう。
「……」
「……」
微妙《びみょう》な沈黙《ちんもく》。
なんかいつかの弁当の時みたいな落ち着かない空気が辺《あた》りに流れる。
「あ、そ、それにしても、美夏《みか》にも困《こま》ったものですよね。那波《ななみ》さんが福引で当てたせっかくの日帰り海水浴夕食付きなのに、裕人さんをほったらかしでどこかへ行ってしまうなんて……」
話を逸《そ》らすように、春香が言った。
「日帰り海水浴夕食付き?」
まるで伊豆《いず》旅行とかに似合《にあ》いそうな実に庶民的《しょみんてき》なフレーズだった。
「え、そうですよね? 美夏からはそう聞いていたのですが……」
「あ、あー、そうだな」
どうやらまだパーティーのことは知らされていないらしい。おそらく直前まで隠《かく》しておくつもりなんだろう。なので俺は慌《あわ》てて話題を変えた。
「そういえばルコたちはどうしてた? 確かレストハウス近くの砂浜にいたと思うんだが……」
「え? あ、はい。いらっしゃいました。何やらタルに顔を浸《つ》けて勝負がどうとか言っていました。……潜水《せんすい》勝負でもしていたのでしょうか?」
「……」
……まだやってたのか、やつら。
「すごく真剣《しんけん》なご様子《ようす》でしたので、ジャマになってはいけないと思って声をかけずに来たのですが……」
「……賢明《けんめい》な判断《はんだん》だ」
あのアル中どもには、『話しかけない・近づかない・相手にしない』の三ない運動が一番|効果的《こうかてき》である。要《よう》するに放置《ほうち》ってやつだ。
「んじゃまあ、とりあえず戻《もど》るか」
無事《ぶじ》に春香《はるか》とも合流できたし、いったん戻った方がいいだろう。
春香を促《うなが》し、二人|並《なら》んで歩き出す。
輝《かがや》く太陽、青い空、それと同じくらい青い海。真っ白な砂浜、海風にゆらゆらと揺《ゆ》れるヤシの木、ところどころに生えている赤いハイビスカス。
来る時もキレイだと思った辺《あた》りの風景《ふうけい》が、春香といっしょだとなおさらにキレイに見えるから不思議《ふしぎ》だな。
などと考えていると、
「ここ、いいところですよね」
隣《となり》て春香もそんなことをつぶやいた。
「景色《けしき》も空気もとてもキレイで、雰囲気《ふんいき》が落ち着いていて……何だか時間がゆっくりと流れているような感じがします」
「そうだな」
確かにこの上なく落ち着いたスローライフ・リゾートな気分である。数時間前まで狭《せま》い教室でせこせこと授業を受けてたのがまるでウソみたいだ。
「あ、アレ見てください! 裕人《ゆうと》さん」
と、ふいに春香が声を上げた。
「?」
「あっちです、ほら、あれ」
「おお」
春香が指差した方を見てみると、そこではイルカが群《む》れをなして水面を飛《と》び跳《は》ねていた。
輝くようなエメラルドグリーンの水の上を、並《なら》んで滑《すべ》るようにして泳いでいくイルカの群れ。まるで映画のワンシーンでも見てるみたいだ。
「すげえ……」
少しばかり感動した。
野性のイルカを生で見るのは、これが初めてだった。
「知ってますか? イルカさんって人間の顔が分かるって話なんですよ」
「そうなのか?」
「ええ、ステキですよね」
そんなことを話していると、やがてイルカの群《む》れは沖へと泳ぎ去っていってしまった。
「行っちゃいました……」
「ああ。だな」
波間《なみま》へと消えていくイルカたちの背《せ》を見送りながら、何だか自分が優《やき》しい気持ちになっていることに気付いた。今なら、どこぞのアホ幼馴染《おさななじ》み(♂)に「今からアキバで明日発売のPCゲームの早売りがあるからいっしょに行こうよー」などと夜中の十二時に叩《たた》き起《お》こされてそんな寝《ね》ぼけたことを言われても(実話)、笑ってイタズラ電話|撃退用《げきたいよう》ブザーのスイッチを押《お》してやれそうである。春香とイルカと南の海というこの上ないヒーリングファクター及び脳内《のうない》アルファi波《は》の発生源に囲《かこ》まれて、心がティーブレイクしているのかもしれんな。
そんな満ち足りた気分で二人|並《なら》んでレストハウス前に戻《もど》ってみると、
「……ふ〜、なかなかやるわね、ルコ。僅《わず》か十分で半分も飲《の》み干《ほ》すなんて」
「お前もな、由香里《ゆかり》。息継《いきつ》ぎなしで三分も飲み続けるなんて、そこらの素人《しろうと》にはなかなかできるものじゃない。さすがは私の宿敵《ともも》だ。ひっく」
タルに顔を突っ込みながら、そんなどうしようもなく末期的《まっきてき》な会話を繰《く》り広《ひろ》げるアホニ人の世紀末な姿《すがた》が目に入った。
「……」
台無《だいな》しだった。
ヒーリングもアルファー波も何もあったもんじゃない。
「あははは〜、なんか太陽が三つに見えるわ〜」
「むう、何を寝《ね》ぼけたことを言っている。もう酔《よ》ったか? 太陽は五つあるものと相場《そうば》は決まっているだろう」
「……」
おまけにタルが一個から三個に増《ふ》えてやがるし。……本当にダメだな、こいつらは。
「…………さて」
もう何も見なかったことにして春香《はるか》の方を向いた。
「せっかくだから少し海にでも入るか。気持ち良さそうだし」
「は、はあ。あの、由香里先生とルコさんは……」
「あー、あの二人はいいんだ。肺活量《はいかつりょう》の訓練中《くんれんちゅう》だから」
実に適当《てきとう》にそう答えると、春香《はるか》は大きくうなずいた。
「あ、やっぱり訓練だったんですね。こんな時にまで自己|鍛錬《たんれん》を欠《か》かさないなんて……すごいです。――ええ、それならお邪魔《じゃま》しちゃダメですよね」
俺の言ったことを何一つ疑ってない素直《すなお》な瞳《ひとみ》。うーむ、本当に純粋《じゅんすい》なんだな。あの世俗《せぞく》に汚《よご》れきった年長者二人を前にするとなおさらそれが引き立つ気がする。
「よし、行こう」
「はいっ」
4
ハッピースプリング島の海は、その名の通り穏《おだ》やかで温《あたた》かかった。
湖面《こめん》のように凪《な》いでいて、日向水《ひなたみず》のようにぬくぬくとした心地《ここち》よい海。
そんな中を、レストハウスに置いてあったゴムボートやビーチボール、オーソドックスな丸ウキワなんかとともに泳ぎ入っていく。
「わあ、あったかいです」
ビザ上ほどの深さの水をすくいながら、春香が無邪気《むじゃき》に笑う。
「まるで温水プールみたい……。あ、小さなお魚さんが泳いでます。裕人《ゆうと》さんも来てみてください」
「ああ」
ぴちゃぴちゃと水飛沫《みずしぶき》を上げる春香の隣《となり》へ歩いていく。
「とってもかわいいです。何てお魚さんなんでしょう? あ、キレイな貝殻《かいがら》もあります。海鳴《うみな》り、聞こえるかな 」
貝殻を拾って耳に当てる春香。いやそりゃ海のど真ん中でやれば聞こえるとは思うがな
ともあれ、幸せそうにはしやぐ春香は本当に楽しそうな顔をしていた。
学校で普段《ふだん》見ているのとも、アキハバラや東京ビッグサイトで見たのともまた違《ちが》う、子供みたいな屈託《くったく》のない笑顔《えがお》である。それこそイノセント・スマイルとでも言おうか。こういうあどけない表情の春香もいいもんだな
などと考えていると。
「裕人さん」
「ん?」
「えい」
「うおっ」
いきなり水を顔にかけられた(直撃《ちょくげき》)。
「えへへ、ぼ〜っとしてるとダメですよ」
イタズラをした仔犬《こいぬ》みたいな目で笑う。
「この」
「きゃっ」
やり返そうとすると、逃《に》げながら春香《はるか》がさらに勢《いきお》いよく水をかけてきた。
「ふふ、先手必勝《せんてひっしょう》です」
「……待て」
「えへへ、待ちません」
お互いに何も難《むずか》しいことを考えず、アライグマの水浴びみたいにひたすら水をかけ合う。
子供に戻《ロもど》ったかのような無心な時間。
まるで夏がもう一回来たみたいだった。
そういえば今年の夏休みは、何だかんだであんまり夏らしいことはしてなかったしな。ここで一気に夏の思い出(というには時期が微妙《びみょう》だが)を作っておくのも悪くはあるまい。
砂浜の方からは、
「ふ〜、そろそろタル酒にも飽《あ》きてきたわね〜」
「そうだな。……ふむ、少し休憩《きゅうけい》して西瓜割《すいかわ》りでもやるか?」
「う〜ん、スイカも棒《ぼう》もない気がするんだけど、いいわね〜」
「なに、西瓜《すいか》はそこの椰子《やし》の実で代用すればいいし、棒がなくとも私にはこの愛刀《あいとう》『瑠璃髑髏《るりどくろ》』がある。問題はない」
「なーるほど。うん、じゃ、やりましょやりましょ」
などと、どこまでもアルコールに脳《のう》を侵《おか》された会話が聞こえてきたが、そっちはもう別の世界の出来事《できごと》だと思うことにしよう。
「この」
「あはは」
結局《けっきょく》、水のかけ合いはそのまま十分ほど続き。
終わる頃《ころ》には二人とも髪《かみ》の毛の先までびしょ濡《ぬ》れになっていたが、そんなのは全然気にならないほど俺たちの気持ちは浮《う》き立《た》っていた。
「ね、裕人《ゆうと》さん、よろしければもう少し沖の方まで行ってみませんか?」
それが手伝《てつだ》ってか、春香《はるか》が珍《めずら》しくそんなアクティブなことを言った。
「この辺《あた》りの海は遠浅《とうあさ》だと聞きましたので、危《あぶ》なくはないはずです。きっと向こうは気持ちいいと思いますし」
「ああ、いいんじゃないか」
そう答える。せっかくの春香からの提案《ていあん》だし、イヤだと言う理由はない。
「よし、んじゃこれで行くか」
ウキワといっしょに引《ひ》っ張《ば》ってきたゴムボートの上に飛び乗り、
「ほら」
春香に手を差し伸べると、
「え――あ、は、はいっ」
少しだけ戸惑《とまど》った様子《ようす》を見せながらも、素直《すなお》にぎゅっと握《にぎ》り返《かえ》してきてくれた。さすがに今回は「わん」とは言わなかった。
春香が座《すわ》るのを確認《かくにん》して、俺は付属《ふぞく》のオール(プラスチック製)でゴムボートを漕《こ》ぎ始めた。
乗っているのは二人だが、春香の重さはあってなきがごとしのようなもんなので、まったくもってきつくはない。
キラキラと光る波の上を、オレンジ色のボートで進んでいく。
「よし、っと」
砂浜から五十メートルくらい離《はな》れたところでゴムボートを泊《と》めた。このヘンで充分《じゅうぶん》だろう。
「お疲《つか》れさまでした」
春香がにっこりと労《ねぎら》いの言葉《ことば》をかけてくれる。
「けっこう遠くまで来ちゃいましたね」
「ああ」
「いい風です……」
そよそよと吹く南風に、春香《はるか》が気持ち良さそうに目を細めた。
確かにいい風だった。
海風である以上少なからず潮《しお》を含《ふく》んでいるはずなのに、それをまったく感じさせないというか、べったりとしていないサラサラとした風である。
そんな感じで、二人してそよぐ風に身を任《まか》せること数分。
と、ふいにどこからかエンジン音のようなものが聞こえてきた。
「……何だ?」
身体を起こして目を向けると、巨大なクルーザーが波飛沫《なみしぶき》を上げながらハッピースプリング島へと――正確にはヴァルハラ城へと近づいてくるのが見えた。
「わあ、裕人《ゆうと》さん、あれを――」
歓声《かんせい》を上げた春香が立ち上がった瞬間《しゅんかん》、もともとあんまり安定性の良くないゴムボートがぐらりと揺《ゆ》れた。
「きゃっ」
同時に春香の小さな身体も傾《かたむ》く。
「春香!」
バランスを崩《くず》した春香が海に落ちそうになるのを、すんでのところで後ろから支《さき》える。だが強く引《ひ》っ張《ば》りすぎたのか、そのまま勢《いきお》いあまって二人してボートの上に折り重なるようにして倒《たお》れこんだ。
「あ……」
「お……」
南の海の真ん中でもつれ合い絡《から》み合《あ》う二人。
僅《わず》か三十センチの至近距離《しきんきょり》に春香の顔があり、伸ばした手の先には春香の身体があった。普段《ふだん》の洋服越しのものとは違《ちが》う、リアルな春香の身体の感触《かんしょく》が手の平から伝《つた》わってくる。う、すげえ柔《やわ》らかい……
「……」
「……」
密接《みっせつ》した状態《じょうたい》で見つめ合うこと約十秒。
「……あ、す、すみません。私、また……」
「い、いや……」
我に返ったように恥《は》ずかしげにうつむく春香を見て、思わず俺も明後日の方向へと目を逸《そ》らしてしまう。
だがそれがよくなかった。
巨大なクルーザーが近くを通るということは当然波が発生するわけであり、そして波というものは距離《きょり》に比例《ひれい》して時間差でやって来るものなのである。
つまり。
ザッパーン!
と、今さらながらに押し寄せてきた大きな波の直撃《ちょくげき》を受けて。
「うわっ!」
「きゃあっ!」
発生源である巨大なクルーザーから見ればほとんど木《こ》の葉《は》のようなゴムボートは見事《みごと》に転覆《てんぷく》し、俺と春香《はるか》は勢《いきお》いよく宙に投げ出されそのまま頭から海に落下《らっか》した。今度は春香を助ける余裕《よゆう》もなかった。
「げ、げほっげほっ……」
咳《せ》きこみながら水面から顔を出す。
幸《さいわ》いというか何というか、海の深さは大したことはなかった。
「は、春香」
何とかギリギリで届《とど》く水底《みずそこ》につま先を付きながら、ぷかぷかと波に流されかけていた春香をこちらへと引き寄せる。
「春香、大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「う、う〜ん……」
少し水を飲んだのか、春香はくるくると目を回していた。気を失ってはいるようだが、溺《おぼ》れたってほどのものではないようだ。
「……ふう」
ひとまずは安心する。だがそこまで深刻《しんこく》ではないとはいえ、気を失っているには違《ちが》いない。
ここ(海上。それも沖)で何とかなるような簡単《かんたん》な状態《じょうたい》でもなさそうだ。
「とにかく戻《もど》るか……」
俺は春香をゴムボートの上に乗せると、浜へと向かって泳ぎ始めた。
「あら、どしたの、裕《ゆう》くん」
春香とともに何とか砂浜まで戻ってくると、ぽわんとした目をしたアル中A(音楽教師)が、真《ま》っ二《ぷた》つに割れたヤシの実片手に迎えてくれた。うっ、酒くせえ……
「何やら乃木坂《のぎざか》さんの様子《ようす》がおかしいようだが……まさかお前、酒に目薬でも混入《こんにゅう》して昏睡《こんすい》させたんじゃなかろうな?」
腰《こし》に日本刀を装備《そうぴ》したアル中B(社長|秘書《ひしょ》)が、その目の奥《おく》にヤバイ光をちらつかせてこっちを睨《にら》んでくる。
「……違《ちが》うわ」
というか発想《はっそう》が十年前のオヤジである。
「む、では何だというのだ?」
「だからだな……」
ため息《いき》を吐《つ》きながら、アル中二人にコトの顛末《てんまつ》(ゴムボートで沖に出たところ波のあおりを受けて転覆《てんぷく》しその拍子《ひょうし》に春香《はるか》が気を失った)を説明すると。
「なるほど。裕《ゆう》く〜ん、こうなったらここはもう人工|呼吸《こきゅう》よ!」
「は?」
またワケノワカランことを言い出した。
「春香ちゃんを救《すく》うにはもうそれしかないわ! ほら、ひと思いにぶちゅ〜っと」
「いや、別に春香は呼吸|停止《ていし》したりしてないんですが……」
ただちょっと気を失ってるだけで、普通《ふつう》に規則《きそく》正しく息をしている。安静《あんせい》にさせておけば何もしなくてもおそらくすぐに目を覚《さ》ますだろう。
「そんなの関係ないわよ!」
由香里《ゆかり》さんがぴっと俺の顔を指差した。
「溺《おぼ》れた女の子に男の子がびっくりどきどきの人工呼吸をするってのは海水浴の定番なんだから! あ、もちろんマウス・トゥ・マウスよ。そして目覚《めぎ》めた女の子は事情を知るとちょつと恥《はじ》らって、『い、今のは不可抗力《ふかこうりょく》だからね! カウントされないんだからっ!』って言うの。
で、男の子と女の子はお互《たが》いを見つめ合い、そのまま二人の世界へと……ああ、青春よね〜」
どこか違《ちが》う次元《じげん》を見ているようなイっちゃった目で言う。
「……」
……ダメだ。
普段《ふだん》からただでさえどうしようもないアホさ加減《かげん》が、アルコールの力を借りてさらにタチ悪くヴァージョンアップしてやがる。
ルコのやつも、
「うむ、もはやそれしかあるまい。お前も男ならここでびしっと根性《こんじょう》を見せてみろ。それができぬというのなら斬《き》られてしまえ」
そんなめちゃくちゃ不条理《ふじょうり》なことを言いながら、その手に持った日本刀を突きつけてくる。
「さあ、裕くん、熱《あつ》いヴェーゼを!」
「人工呼吸か刀の錆《きび》か、速《すみ》やかに選ぶがいい」
それぞれが勝手|極《きわ》まりないことを迫《せま》ってくるダメ大人二人。
さて、ここはどうすべきか?
いや理屈的《りくつてき》にはいくらでも反論のしようはあるんだが、あいにくトチ狂《くる》った酔《よ》っ払《ばら》い相手にまともな理屈は通じない。
うーむ。
頭を悩《なや》ませ考えること二秒。
――そうだな。
こうなったらここは適当《てきとう》に人工|呼吸《こきゅう》をしたフリで乗り切っちまおう。どうせバナナとトウモロコシの区別も付かないくらいに酔《よ》っ払《ぱら》ってるこの二人である。細かいところまで気付きやしまい。
「……分かりましたよ」
「おお、ようやくやる気になったか。それでこそ私の弟だ」
「裕《ゆう》くん、ひゅ〜ひゅ〜」
盛《も》り上《あ》がる酔っ払いども。
その無責任な声援《せいえん》を受けながら、白雪姫のように眠《ねむ》る春香《はるか》の隣に腰をおろし、
顔を近づけようとしたところで、
「…………う、ん」
「!」
春香の目がゆっくりと開かれた。
ばっちりと目が合う。
「……あ、れ……裕人、さん?」
「あ、ああ」
「……」
「……」
そのままの状態《じょうたい》で五秒。
先に生体反応《せいたいはんのう》を示したのは春香の方だった。
「あ、ああああの、裕人さん、何を……?」
「い、いやこれは……」
ぷしゅ〜っと顔から蒸気《じょうき》を噴《ふ》き出《だ》して固《かた》まる春香に、
「これは人工呼吸よ〜」
由香里《ゆかり》さんが言う。
「じ、人工呼吸?」
「ああ、そうだ」
驚《おどろ》く春香に、今度はルコが答える。
「なのですまぬがもう少し我慢《がまん》していてくれ、乃木坂《のぎざか》さん。これは乃木坂さんが意識《いしき》を取《と》り戻《もど》すために必要《ひつよう》な行為《こうい》なのだ」
「あ、そ、そうだったんですか。わ、私が意識を取り戻すために必要なのですね? で、でしたら、はい――」
覚悟《かくこ》を決めたように目をつむる春香。明らかにおかしいルコの言動《げんどう》にも、混乱《こんらん》しまくっていて気付いていないみたいだ。
「さあ、再開《さいかい》だ」
ちゃきっとルコが日本刀の切っ先をこっちに向ける。
――まずい。
春香《はるか》が目を覚《さ》ましちまった以上、計画は白紙《はくし》に戻《もど》さなきゃなるまい。というか春香の意識《いしき》がなければともかく、こんな恥《はじ》らうように真っ赤な顔をして目をつむるシンデレラみたいな春香を前にして……うまくフリで誤魔化《ごまか》せるかはかなり怪《あや》しいんだよ(俺の理性的《りせいてき》に)。
だがそれは――まずい。
そりゃ俺だって春香と、その、キス――もといマウス・トゥ・マウス――をしたくないかと訊《き》かれれば、当然|否定《ひてい》する余地《よち》はシマウマの身体のシロクロじゃない部分のごとく、限《かぎ》りなくないに等しいに決まってる。これでも健全《けんぜん》な十七歳男子高校生だし、春香はめちゃくちゃかわいいし、あー、あれだ、ご、ごほん
「……」
だがそういう気持ちがあることは否定できんとはいえ……この場でのソレを肯定《こうてい》できるかというと、それはまた断《だん》じてノーである。こんな酔《よ》っ払《ぱら》い二人に囲《かこ》まれたよく分からん状況《じょうきょう》でそういうことをすることは、確実《かくじつ》に間違《まちが》ってる気がするし、春香にも極《きわ》めて失礼だろう。
「……」
だとすればこの場は何とかうまく逃《のが》れなきゃならんわけだが……問題はその方法がまったくもって浮《う》かばんという点にある。シラフの時だって手を焼いてるってのに、このクレイジーにでき上がった酔っ払いどもを退《しりぞ》ける手段《しゅだん》など、今の俺にあろうはずもない。
「……」
あー!
もうどうすりゃいいんだ!?
現実(プラス欲望)と理性との狭間《はざま》でエセ哲学者《てつがくしゃ》のように激《はげ》しくもがき苦しんでいる俺に、「…………おに〜さん、なにやってんの?」
「え――」
ふいに声がかけられた。
振《ふ》り返《かえ》ると、そこにはちょこんと小首をかしげるツインテール娘の姿《すがた》。
両|脇《わき》には葉月《はづき》さんと那波《ななみ》さんもいる。
どうやらいつの間にか戻ってきていたらしい。
――助かった。
これでワケノワカラン人工|呼吸《こきゅう》モドキを強要《きょうよう》されないで済《す》む……と安心したのも束《つか》の間《ま》、
「……」
そこで、一つの極《きわ》めて大きな問題に気付いた。
それは現在の俺たちの客観的状況《きゃっかんてきじょうきょう》。
真夏の砂浜。
真っ赤な顔で観念《かんねん》したように目をつむって地面に横たわる春香《はるか》。
その上に覆《おお》いかぶさる俺。
十代の少年少女たちのひと夏の過激《かげき》なアバンチュール――なんていうテロップ(目元にモザイク付き)がこの上なく似合《にあ》いそうなシチュエーション(客観《きゃっかん》)だった。
ざざーん、と。
波の打ち寄せる音が辺《あた》りに響《ひび》いた。
ぎやーぎやー、と。
ウミネコの鳴《な》く声が聞こえてきた。
「あー、こ、これはだな」
「これは?」
「そ、そうだ、これはルコたちが――」
「おね〜さんたち?」
「そ、そう。酔《よ》っ払《ぱら》ったルコと由香里《ゆかり》さんにムリヤリ……」
「でもおね〜さんたち、寝《ね》てるよ?」
「え……」
後ろを見る。
「……う〜ん、おねいさんが教えてあげるわよん……むにゃむにゃ……」
「…………斬《き》るぞ……すー、すー……」
ついさっきまで心底《しんそこ》楽しそうな笑《え》みを浮《う》かべてマウス・トゥ・マウスを推奨《すいしょう》していたアル中A及び日本刀を突きつけてデッド・オア・キスを迫《せま》っていたアル中Bは、共に砂浜に埋《う》もれるようにして、熟睡《じゅくすい》していた。
「……」
「……」
……うわ、なんて役に立たねえ。
酔《よ》っ払《ばら》いコンビのあまりのダメっぷりに心の底からため息《いき》を吐《つ》いていると。
「ま、おに〜さんとお姉ちゃんのことだから、何でこんなことになってるのかはだいたい想像《そうぞう》がつくけどさ。二人でちょっと沖に出てみたところ波に襲《おそ》われてボートが転覆《てんぷく》してお姉ちゃんが軽く気絶《きぜつ》しちゃって、何とか助けて砂浜に戻《もど》ってきたらおね〜さんたちにムリヤリ人工|呼吸《こきゅう》を勧《すす》められた……ってとこ?」
「あ、ああ」
すげぇ洞察力《どうさつりよく》だった。
何ひとつ抜《ぬ》かすことなくここ三十分の俺たちの行動を網羅《もうら》している。まるでその場にいて俺たちの会話を聞いてたみたいだな…………って、まさか!?
イヤな予感がして顔を上げると、
「あり、バレちゃった?」
にんまりと笑った美夏《みか》がぺろっと舌《した》を出し、
「実はおに〜さんに渡《わた》したその携帯《けいたい》、音声感知機能《おんせいかんちきのう》が付いてたんだ〜。だから最初から全部|状況《じょうきょう》は分かってたんだけど、おに〜さんの反応《はんのう》が面白《おもしろ》かったから、つい……えへっ♪」
そんなことを言いやがった。
……やられた。
完全に、完膚《かんぷ》なきまでにやられた。
つーか、こんなGPS付きの携帯(完全防水)を知らぬ間に持たされた時点で、そっちの可能性《かのうせい》まで考えるべきだったのだ。
「ま〜ま〜。溺《おぼ》れるお姉ちゃんを助けるおに〜さん、かっこよかったよ? お姉ちゃんも、いいとこでジャマしてごめんね♪」
「あ、え……」
砂浜にころんと横たわったまま、春香《はるか》がか〜っと真っ赤になる。
「でも、もう時間だったからさ。――さ、行こ、おに〜さん、お姉ちゃん」
そう言って、美夏は俺と春香に手を差し出した。
「行く?」
って、どこにだ?
訊《き》き返《かえ》した俺に、美夏《みか》はそっと耳打ちをして。
「ヴァルハラ城《じょう》へ。もうすぐお姉ちゃんのパーティーが始まるから」
5
パーティー会場であるヴァルハラ城の大広間には、すでにたくさんの人々が集まっていた。
ジークフリートの間というらしいその広間には、老若男女《ろうにゃくなんにょ》日本人外国人を問わず様々な人たち(セレブ)の姿《すがた》が見られ、それぞれがあちこちで談笑《だんしょう》をしたり挨拶《あいさつ》をし合ったりしている。
広間の中央|奥《おく》には他よりも一段だけ高くなった部分――赤|絨毯《じゅうたん》が敷《し》き詰《つ》められまるで王様の謁見席《えっけんせき》みたいになっている場所があり、そこにはやたらと豪《ごうか》華なイスが三つほど並《なら》んでいる。
おそらくは春香たちが座《すわ》ることになるんだろうな。
さらに謁見台の後ろの壁《かべ》には巨大なスクリーンのようなモノまであった。何でも広間の後ろの方にいる招待客《しょうたいきゃく》にも謁見席の様子《ようす》がよく分かるようにとの配慮《はいりょ》らしい。なかなか気が利《き》いている。
その謁見席から扇状《おうぎじょう》に広がるようにして、辺《あた》りにはいくつもの丸テーブルが並べられていた。テーブルの上には美味《うま》そうな食べ物やら飲み物やらが所|狭《せま》しと置かれていて、立食《りっしょく》形式で招待客が自由に取れるようになっている。
「すげえな……」
いかにも上流社会のパーティーといった風情《ふぜい》だった。
ロンドンの時も感じたが、明らかに俺は場違《ばちが》いである。血統書《けっとうしょ》付きの高級犬オンリー(洋服着用)のドッグショーに、どこで生まれたのかも分からない雑種が紛《まぎ》れ込《ご》んじまった感じか。
微妙《びみょう》に劣等感《れっとうかん》に苛《さいな》まれていると、
「え〜、そんなことないと思うよ? そのタキシードも似合《にあ》ってるし」
隣《となり》でドレス姿《すがた》の美夏(着替えた)がそう言ってくれた。
「……そ、そうか?」
水着と同じく、これもレストハウスに用意されていた代物《しろもの》である。
「うん。きっとそのかっこ見たらお姉ちゃんも惚《ほ》れ直《なお》すんじゃない? このこの〜♪」
イタズラっぼく笑う美夏。
ちなみに春香は葉月《はづき》さんと那波《ななみ》さんに付き添われて、着替え及び諸準備《しょじゅんび》のために控《ひか》え室《しつ》へと行ってしまっていて、ここにはいない。
「ん〜、それにしてもまたいっぱい集まったもんだね〜」
広間を見渡《みわた》して、美夏《みか》が呆《あき》れたように言った。
「確かにな。何人くらいいるんだ、これ?」
「たぶん千人くらいいるんじゃないかな?」
さらりとそう答える。
「なんてったってお姉ちゃんの誕生日パーティーだからね〜。いい機会《きかい》だって、世界中から色んなとこの御曹司《おんぞうし》だとかが来てるんだよ」
「いい…機会?」
「そ、あわよくばお姉ちゃんに気に入られてそのまま乃木坂《うち》と良好な関係を築《きず》きたいって人たち。別にお姉ちゃんの誕生日を祝うために来てるわけじゃない。そんな人たちばっかなんだよね〜。まあ全部が全部そうってわけじゃないんだけど、ほとんどは打算的《ださんてき》ってゆうか下心があるってゆうか。わたしにまで声かけてくる人たちがいるくらいだし」
何やらあまり愉快《ゆかい》でなさそうな口調《くちょう》である。
「だいたいお姉ちゃんだってあんま賑《にぎ》やかすぎるのは好きじゃないんだから、こんなに大々的にやんなきゃいいのにさ。お父さんが『ほらほら、みんな春香《はるか》を見てくれ! キレイだろう?かわいいだろう?』的な性格だからどんどん人|呼《よ》んじゃって……。だから少しでもちゃんと祝ってくれる人がいたらなって思って、おね〜さんたちにも来てもらったんだよ」
「……」
……なるほど。
それならばわざわざ美夏があの二人を呼んだのも理解《りかい》できる。確かに人格的《じんかくてき》にはあんな二人であるが、春香の誕生日を本気で喜《よろこ》ばしいと思ってるのだけは確実《かくじつ》だろう。
とはいえそのアル中コンビは、あのまま満腹《まんぷく》の牛のごとくひたすら熟睡《じゅくすい》を続け、今も城内《じょうない》に用意された部屋《へや》で死んだように眠《ねむ》っている。……いや、ほんとに肝心《かんじん》な時にまったく役に立たんな。
「あ、でもね、今日はお祖父《じい》ちゃんも来る予定なんだよ」
微妙《びみょう》に暗くなった空気を振《ふ》り払《はら》うかのように美夏が言った。
「もうそろそろ着くのかな? ものすごく神出鬼没《しんしゅつきぼつ》な人だからよく分かんないんだけど、パーティーには必《かなら》ず出るって言ってたから、来るのは間違《まちが》いないと思うよ」
「……お祖父ちゃん?」
また何か不吉《ふきつ》な単語が出てきたんだが。
それってもしかして、今まで話にだけ出て来たクマ狩りとか狩猟《しゅりょう》とかが趣味《しゅみ》の人のことか?
「うん、そ。わたしたちのお祖父ちゃん。後でおに〜さんにも紹介《しょうかい》するね。だいじょぶだいじょぶ、お祖父ちゃんはお父さんと違《ちが》ってすごい気さくで柔《やわ》らか頭《あたま》な人だから、きっとおに〜さんもすぐに仲良くなれると思うよ」
「……」
……そうなのか?
信じたいが、何せ春香父《はるかちち》が春香父だからな……。アレを見てると、正直そのお祖父《じい》ちゃんとやらに対しても友好感情よりも恐怖《きようふ》と緊張《きんちょう》の方が先に立つんだが。
そんなことを話していると。
『――それでは会場にお集まりの皆様、間もなくパーティーを開演したいと思いますので、城内《じょうない》中央のジークフリートの間にお集まりください。繰《く》り返《かえ》します。間もなくパーティーを開演したいと――』
各所に据《す》え付《つ》けられたスピーカーから、葉月《はづき》さんの声が響《ひび》いてきた。
どうやらそろそろ始まるらしい。
「あ、始まるみたいだね。わたしたちももう少し前に行こ」
「ああ」
うなずき、俺は美夏《みか》と共に謁見席《えつけんせき》の方へと向かった。
そして春香の誕生日パーティーが始まる――
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「それではこれより、乃木坂家《のぎざかけ》主催《しゅさい》のハッピースプリングパーティーを始めさせていただきたいと思います」
謁見台《えつけんだい》の脇《わき》に、小型のマイクを持った葉月《はづき》さんが姿《すがた》を現した。
「皆様、本日はお忙《いそが》しい中、ハッピースプリング島までお越《こ》しくださいまして真《まこと》にありがとうございます。僧越《せんえつ》ながら司会は私、乃木坂家メイド隊|筆頭《ひっとう》の桜坂《さくらざか》葉月が勤《つと》めさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
深々と頭を下げる葉月さん。
その横には、小学校の学芸会なんかで使われそうなプログラム表(白い垂《た》れ幕《まく》を演目《えんもく》ごとに後ろにめくっていくアレである)がちょこんと置かれている。毛筆《もうひつ》で『進行表』の文字。……いや、このヨーロピアンな雰囲《ふんいき》気の大広間にまったくといっていいほど合ってないコレは何だ?まさか葉月さんのお手製?
「では、プログラムの方に移《うつ》りたいと思います」
会場の中でもそのミスマッチさに首を傾《かし》げる者もちらほらいるようだったが、そんなもんをまったく気にせずに淡々《たんたん》と口上《こうじょう》を読み上げていく葉月さんの姿《すがた》に、やがてそれはそういうものなのだと悟《さと》ったのだろう。すぐに静かになった。
「まずはプログラム一番、保護者入場です」
ぱらりとプログラム表をめくり、葉月さんがそう宣言《せんげん》する。何やらプログラム内容までもが学芸会っぽかったが、もうこの際《さい》それは気にしないことにしよう。
「玄冬《げんとう》様、秋穂《あきほ》様、どうぞ」
葉月さんの呼《よ》びかけとともに、謁見台|奥《おく》から二つの人影《ひとかげ》が現れる。
一人は長身にごつい身体。きっちりと後ろへと撫《な》で付《つ》けられた白髪《はくはつ》に顔の傷《きず》。怪《あや》しく光る黒の革手袋《かわてぶくろ》に威圧感《いあつかん》たっぷりのいかつい風貌《ふうぼう》。
見た目はまるでロシアンマフィアのボスみたいなその人物こそ言わずと知れた春香父《はるかちち》――乃木坂玄冬氏だった。
そしてもう一人。
その隣《となり》に寄《よ》り添《そ》うようにしてにこにこと出て来たのは、着物姿の小柄《こがら》な女の人。
こちらはもちろん無敵《むてき》の最終兵器こと春香母、秋穂さんである。しかし何度見ても、とても二児の母とは思えんほどの若々しさだな。
春香父と秋穂さんは、招待客《しょうたいきゃく》に向かって軽く会釈《えしゃく》をした後、謁見台に並《なら》べられた三つのイスのそれぞれ右と左の両サイドに座《すわ》った。
二人が席に着くのを確認《かくにん》して、葉月《はづき》さんは続けた。
「続きましてプログラムニ番。本日の主賓《しゅひん》でもあり乃木坂家《のぎざかけ》長女でもあらせられる、春香《はるか》様の入場です」
その声と同時に、パッと広間の照明《しょうめい》が落とされる。
続いて謁見台《えつけんだい》に照《て》らされるスポットライト。
薄暗《うすぐら》い闇《やみ》に黄色い円がぽっかりと浮《う》かび上《あ》がる。
その中心には……謁見台奥の控《ひか》え室《しつ》から出て来たのか、きょとんとした顔で周囲《しゅうい》をきょうきようと見回すドレス姿《すがた》の春香がいた。
「え、えと、あの、これは……?」
状況《じょうきょう》がつかめずに、迷子《まいこ》になった仔犬《こいぬ》みたいにあたふたとする春香。何が何だかさっぱり分からないって顔だ。
パパパー♪
ふいに、辺《あた》りに音楽が鳴《な》り響《ひび》いた。
重厚《じゅうこう》なオーケストラの演奏。
謁見台の周囲にもスポットライトが照らされ、そこにはいつの間にかヴァイオリンだのトランペットだのを演奏している、本物のオーケストラがいた。
「……」
いや、なんつーかすげえハデな演出《えんしゅつ》だな。演奏されているのが有名なハッピーバースデイ・トゥ・ユー♪で始まるあの曲だってのが少々アレだが、それでもインパクト大であることには違《ちが》いない。
「えへへ、あの演出考えたのわたしなんだよ」
隣《となり》の美夏《みか》がそんなことを言った。
「どう、すごいでしょ? ん〜、オーケストラにしようかサーカス団にしようか迷《まよ》ったんだけど、やっぱこっちにして良かったな〜。ほらほら、お姉ちゃんも喜んでるよ」
喜ぶ以前に驚《おどろ》きで何が何だか分かってないようにも見えるが。
……しかしなるほど。これ(春香入場)がこんなにハデなイベントになったのも、このかしましツインテール娘が仕掛《しか》け元なら大いにうなずける。本人のお祭り好きな性格がまさに百二十パーセント反映されているというか。
やがてオーケストラの演奏が終わった。
再《ふたた》び照明が点《とも》され広間には光が戻《もど》る。
「あ、あの……」
いまだ謁見台の真ん中でぽかんとした表情を浮《う》かべる春香に。
「お誕生日おめでとう、春香」
「え――」
イスから立ち上がった秋穂《あきほ》さんがにっこりと微笑《ほほえ》みかけた。
「……む、おめでとう」
「あ――」
続いて春香父《はるかちち》がぶっきらぼうにそうつぶやき、
「おめでとう!」
「ハッピーバースデー!」
「おめでとうございます!」
それらに呼応《こおう》するかのように招待客《しょうたいきゃく》の中からも次々とそんな声が上がった。
「お姉ちゃ〜ん、おめでと〜!」
そしてとどめとばかりに、人五倍でっかい声で隣《となり》の美夏《みか》がそう叫《さけ》んだ。おめでと〜おめでと〜おめでと〜…………と決して狭《せま》くない広間内に大きく声が木霊《こだま》する。ちんまい身体に似合《にあ》わずものすごい声量だった。
「ほら、おに〜さんも」
「あ、ああ」
促《うなが》され、慌《あわ》てて俺も叫んだ。
「春香、ハッピーバースデー!」
「んー、ダメだよ。もっとお腹に力入れなきゃ」
「ハッピーバースデー!」
声が届《とど》いたのか、春香が招待客たちの最前列にいる俺たちを見た。
「あ――」
そしてそこまで至《いた》って、ようやくこれが自分の誕生日を祝うために行われているということに気付いたんだろう。驚《おどろ》いた表情で春香が口元に両手を当てた。……気付くのが微妙《びみょう》に遅《おそ》すぎる気もするが、まあこれも春香ってことで。
「春香様、ではそちらの席へお座《すわ》りください」
「あ、は、はい」
葉月《はづき》さんに促《うなが》され、春香はそのまま用意されていた席(秋穂さんと春香父との間)にちょこんと座った。
「それでは改《あらた》めまして――春香様、お誕生日おめでとうございます」
葉月さんが皆を代表するかのようにそう言い、招待客たちからの盛大《せいだい》な拍手《はくしゅ》がそれに続いた。
こうして誕生日パーティーは幕《まく》を開けた。
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「続いてはプログラム三番。プレゼント贈呈《ぞうてい》へと移《うつ》りたいと思います」
また一枚|垂《た》れ幕《まく》がめくられ、パーティーは次のプログラムへと進んでいった。
「春香《はるか》様へのプレゼントをご用意くださった皆様には整理券を発行いたしますので、番号順に春香様のお席の前へと並《なら》んでください。プレゼント贈呈者の番号はその都度《つど》電光|掲示板《けいじばん》に表示されます」
などと葉月《はづき》さんが言うのだが。
「……整理券?」
って何でそんなもんが?
すると美夏《みか》が。
「ほら、さっきも言ったけど、お姉ちゃんの心証《しんしょう》を良くしときたいって人がたくさんいるからさ。プレゼントあげる人もそれだけ多いってわけ。たぶん五、六百人くらいはいるんじゃない?」
「そんなにいるのか……」
確かにその数なら整理券が必要《ひつよう》なレベルだ。
しかし参加人数約千人にプレゼント贈呈者約六百人か……改《あらた》めて考えみても、とんでもない誕生日パーティーだな。
「ん〜、まあとりあえずわたしたちの分の整理券は確保《かくほ》してあるから、順番が来るまでゆっくりしてようよ。あ、ちなみに番号は五九二番ね」
「ずいぶん後の方だな……。てか、いつ取ってきたんだ?」
パーティーが始まってから美夏はずっと隣《となり》にいた気がするんだが。
「えへへ、葉月さんに頼《たの》んでおいてあらかじめ、ね。まあこうゆうのは身内の特権《とっけん》ってことで。
順番を後の方にしたのはその方がインパクトがあるからだよ。新近効果《しんきんこうか》って知ってる?」
「……知らん」
「簡単《かんたん》に言うと、前に行われたことよりも後に行われたことの方が印象的《いんしょうてき》に感じるって現象《げんしょう》かな。認知心理学《にんちしんりがく》の用語なんだけどね〜。これとは全く逆《ぎやく》の初頭《しょとう》効果ってのもあるけど、それは一人の人間についての情報に限《かぎ》られるものだから、こういった多人数が関《かか》わる場合には後に行動した方が有効ってわけ。残り物には福がある、みたいなもんかな〜。分かった?」
「……」
さっぱり分からなかった。
てか何だってこのツインテール娘(十四歳、中学二年生)はこんなことを知ってるんだろう。
謎《なぞ》だ……
ともあれプレゼント贈呈《ぞうてい》はすでに始まっていた。
広間のあちこちでは葉月《はづき》さんや那波《ななみ》さんを初めとするメイドさんたちが整理券を配《くば》り、謁見《えっけん》台付近にはプレゼントを渡《わた》さんとする招待客《しょうたいきゃく》たち(主に男。それもいかにも金持ちのボンボンといった雰囲気《ふんいき》のやつらばかり)によってずらりと行列ができている。その長さは軽く五十メートルを超《こ》えていた。あの夏コミの時の行列もかくやという大行列である。
「春香《はるか》お嬢様、お誕生日おめでとうございます。これをどうぞ、ヴィトンの新作ボストンバッグです」
「世界に五十個しかないキング・パールのネックレスです。お納《おさ》めください」
「ロールスロイス・ファントムを。鍵《キー》には春香様のお名前を彫《ほ》っておきました」
「え、えと、ありがとうございます」
王様に貢物《みつぎもの》をする家臣《かしん》のように、一人一人|謁見台《えっけんだい》中央のイスに座《すわ》る春香にプレゼントを手渡《てわた》していく。
「最新型のクルーザーを持ってまいりました。春香様は海はお好きですか?」
「この日のために特別に造らせたセスナです。エンジンに改造を施《ほどこ》した特別|仕様《しよう》ですよ」
「HaHa.皆様。そのような粗末《そまつ》なものをプレゼントにしては春香様に失礼ですよ。どうぞ、僕からは中東の油田の権利《けんり》です。こちらが権利証、ああオプションとして作業員《きぎょういん》五百人もお付けいたします」
「あ、そ、そうですか。お心遣《こころつか》い、感謝《かんしゃ》します」
……にしても、とても十七歳の高校生に贈《おく》るとは思えないプレゼント内容《ないよう》だな。有名プランド品に高級外車にあまつさえ油田の権利。どれか一つ取ってみても庶民《しょみん》の金銭感覚《きんせんかんかく》からすると気が狂《くる》うことは間違《まちが》いないゴージャスな代物《しろもの》ばかりである。
「……」
それに対して、俺たちの手にあるのはピンクのかわいらしい包装紙《ほうそうし》に包《つつ》まれた縦横三十センチ程度《ていど》の箱。中身はもちろん、二週間ほど前にアキハバラで買ったあのフィギュア(個性的なポーズ)である。
……いや本当にコレをあげていいものなのか?
ここまでに出て来た超豪華《ちょうごうか》なプレゼントに比べて、コレはあまりにも差があるような気がしてならない。フランス料理のフルコースが並《なら》んでいる食卓に何の変哲《へんてつ》もない惣菜《そうざい》料理を出す気分というか……
などと考えていると。
「ん〜、やっぱダメだな〜。みんなお姉ちゃんの好みを全然分かってないよ」
テーブルにあったショートケーキを食べながら美夏《みか》がやれやれと肩《かた》をすくめた。
「お姉ちゃんがあんなブランド品とか車とかで喜ぶわけないじゃん。高価だったりハデだったりすればいいってもんじゃないのに。おに〜さんもそう思うでしょ?」
「……」
確かにそれはそうなんだが。
どう考えても春香《はるか》はそういったブランド品などは好みそうにない。少しでも春香の素《す》の性格を知ってるやつなら間違《まちが》いなくそんな選択《せんたく》はしないだろうが、ここに集まってる招待客《しょうたいきゃく》のほとんどはおそらく外見《がいけん》――というか乃木坂家の長女≠ニしてでしか春香を見ていないんだろう。ゆえにこの場がブランド物やら高級宝石やらの見本市となっているのである。
実際《じっさい》そういったプレゼント攻勢《こうせい》に対して、壇上《だんじょう》の春香は曖昧《あいまい》な笑《え》みを浮《う》かべるだけで、喜ぶというよりどちらかといえばどう反応《はんのう》していいんだか困《こま》ってる様子《ようす》であった。……まあしかし、だからといってフィギュア(個性的なポーズ)がプレゼントとして正しい選択《せんたく》であるかどうかはまた別問題なんだがな。
そうこうしているうちにも時間は経過《けいか》し。
「さ〜て。んじやそろそろわたしたちも並《なら》ぼっか?」
美夏《みか》がそう言った。
気付けば電光|掲示板《けいじばん》の整理券番号はすでに五五〇番を越《こ》えていた。俺たちの順番までもう間もなくだ。
ポケットの中にオルゴールの入った包《つつ》み紙《がみ》があることを確認《かくにん》して、美夏とともに行列の最後《さいこう》尾《び》に付く。
「ふふ〜、お姉ちゃん、きっと喜んでくれるよ、コレ」
フィギュア(個性的なポーズ)の包み紙を見て、美夏が楽しそうに笑った。
「だといいんだが……」
美夏はそう言うが、やはりいまいち不安はぬぐえないんだよな。
「だいじょぶだよ〜。ほんと、おに〜さんは心配性《しんぱいしょう》だな〜。お姉ちゃんの好みと趣味《しゅみ》はおに〜さんもよく分かってるでしょ?絶対《ぜったい》コレでだいじょぶ。てゆ〜かむしろコレじゃなきゃダメだって」
美夏が自信たっぷりに笑う。うーむ……
そしてとうとう俺たちの番となった。
真っ赤な絨毯《じゅうたん》の上を、美夏と二人|並《なら》んで春香のもとまで進む。
「あ、裕人《ゆうと》さん、美夏」
俺たちの姿《すがた》を見ると、春香は嬉《うれ》しそうに顔を綻《ほころ》ばせてくれた。
「やっほ〜、誕生日おめでと〜、お姉ちゃん♪」
「あー、おめでとう」
「あ、ありがとうございますっ」
お祝いの言葉《ことば》に、一生懸命《いっしょうけんめい》な顔でぺこぺこと頭を下げる春香。
ちなみに今の春香《はるか》は純白《じゅんぱく》のドレス姿《すがた》だった。
ロンドンの時に着てたのとはまた違《ちが》ったパーティードレス。あの時よりも少し落ち着いた大人っぽい雰囲《ふんいき》気のデザインである。しかし相変わらず春香は何を着てもかわいいんだよな。弘法《こうぼう》は筆《ふで》を選ばずってやつか(微妙《びみょう》に違《ちが》う)。
「あら裕人《ゆうと》さん、いらっしゃいな」
と、春香の左|隣《どなり》の秋穂《あきほ》さんから声をかけられた。
「遠いところまでわざわざ春香のために来てくれて本当にありがとう。これも愛の力かしら?うふふ」
「……」
いつもの通りふんわりとした微笑《ほほえ》みで、そんな問題発言をしてくれる。
「……ふん。よく来たな」
その反対側ではむっつり顔の春香父(怖《こわ》い)が、サングラス越《こ》しに鋭《するど》く光る目で睨《にら》みながらも、その丸太のような腕《うで》を差し出してきた。「今すぐこの場にひざまずいてお手をしろ、このイヌが!」ってわけでもなさそうだから、おそらくは握手《あくしゅ》を求められてるんだろう。
「お、お久しぶりです……」
挨拶《あいさっ》とともに恐《おそ》る恐《おそ》る握《にぎ》り返《かえ》すと、春香父はにやりと笑った。
「……まあ、ゆっくりと楽しんでいくがいい。歓迎《かんげい》しよう」
握られた手に異様《いよう》なまでに力がこもっていたのはもはやお約束《やくそく》だった。
「わ〜、おに〜さん。すっかりお父さんと仲良しだね」
「……」
……それは確実《かくじつ》に間違《まちが》った見解《けんかい》だと思うぞ。
だが周囲《しゅうい》のやつらも、
「おい、何だあいつ。どうしてあんなに玄冬《げんとう》氏や秋穂氏と仲がいいんだ?」
「あの『|熊殺し《ベア・キラー》』の玄冬氏が自ら握手を求めるなんて信じられん……」
「何かプロジェクトでも売り込む気じゃないだろうな?」
「だれだ? どこのグループの者だ? 今すぐ調べろ!」
何を勘違《かんちが》いしたのか、会場内がどよどよと沸《わ》き立《た》つ。……そんなんじゃないってのにな。
「んじゃお姉ちゃん、これわたしとおに〜さんからのプレゼントね」
「わあ、ありがとうございます」
美夏《みか》がにっこりと笑ってプレゼントを差し出すと、春香がぱあっと顔を綻《ほころ》ばせた。
「あの、開けてみてもいいですか?」
「うん、い〜よ。ね、おに〜さん」
「ああ」
春香にあげたもんだしな。
「えと、それでは――」
春香《はるか》は少しずつ丁寧《ていねい》に包《つつ》み紙《がみ》を開けていき、
「わあ――」
中から出て来たフィギュア(個性的なポーズ)を見て、ものすごく嬉《うれ》しそうに声を上げた。
「これってあれですよね? ドジっ娘《こ》アキちゃん≠フはにトラポーズ≠フふいぎゅあ」
ああ、そういえばそんな名称《めいしょう》だったな、そのオリジナリティあふれるポーズ。
「かわいくてキュートでとってもプリティーです……。本当にありがとうございます。大切にしますね!」
極上《ごくじょう》な笑顔《えがお》で大事そうにフィギュア(個性的なポーズ)を胸《むね》に抱《かか》える。
1やれやれ。
その笑顔に、ひとまず胸を撫《な》で下《お》ろす。どうやら美夏《みか》の意見が正しかったというか、俺の心配《しんぱい》は取《と》り越《こ》し苦労《ぐろう》だったみたいだな。
一方《いっぽう》、それを見た他の招待客《しょうたいきゃく》たちは。
「なんか春香様が喜んでる……」
「あれは何だ? 人形? どこかの貴重《きちょう》なアンティークドールなのか?」
「それにしてはやけにカラフルだが……」
「分からん。なぜあんなモノに春香お嬢様が?」
さっきにもましてどよめいていた。どよめきまくっていた。
中でも。
「バカな……どうしてあんな男がプレゼントしたあんなモノが――」
油田の権利証《けんりしょう》をプレゼントした男が、トンビに油揚《あぶらあ》げをさらわれたような呆然《ぼうぜん》とした表情でこっちを見ていた。いやまあ、謎《なぞ》に思う気持ちは痛《いた》いほど分かるんだが。
「それでは美夏《みか》様、裕人《ゆうと》様、お待ちの方の順番もありますでの、今はこれくらいで……。また後ほどゆっくりとお話ください」
「あ、はい。――またな、春香《はるか》」
「じゃね、お姉ちゃん」
葉月《はづき》さんに促《うなが》され、俺たちは謁見台《えっけんだい》を下りた。
「ね、お姉ちゃん、すっごく喜んでたでしょ?」
「だな……」
「だから心配《しんばい》いらないって言ったんだよ。ああゆうのがお姉ちゃんのツボなんだから。それにさ〜」
「?」
美夏はにまっと笑って。
「それにね、おに〜さんのあげたものだったら、きっと何でもお姉ちゃんは喜んだと思うよ。何てゆうの、らぶ?」
「なっ……」
「それともらぶらぶ? も〜、熱《あつ》いな〜、えへへ♪」
そんなことをのたまったのだった。
ちなみに。
フィギュアの方にばかり気を取られて、本命のプレゼント(オルゴール)を渡《わた》すのをすっかり忘《わす》れていたことに気付いたのは、それからしばらく経《た》って、最後のプレゼント贈呈《ぞうてい》が終了した後のことだった。
2
プレゼント贈呈の次は春香父|演説《えんぜつ》、メイド隊|演舞《えんぶ》と続いた。
サングラスをかけたままの春香父が目が合った者全てを繊滅《せんめつ》せんとばかりのすさまじい威圧感《いあつかん》とともに春香の可憐《かれん》さについて語《かた》りまくることにより招待客《しょうたいきゃく》を恐怖《きょうふ》のドン底《そこ》に突き落とし、それを那波《ななみ》さん率《ひき》いるメイド隊のみなさんが華麗《かれい》な踊《おど》りと歌によりほんわかと癒《いや》す。そんな地獄《じごく》と天国がいっぺんにやって来たかのような心臓に良くないひと時を経《へ》て。
「ここで、パーティーの途中《とちゅう》ではありますが特別ゲストの方がお見えになっておられますので、皆様にも紹介《しょうかい》したいと思います」
プログラム六番の『特別ゲスト謝辞《しゃじ》』とやらになった。
「……特別ゲスト?」
思わず首をひねる。
そもそもがここに集まっているのは、どこぞの社長だのグループ会長だの小国の国王だの、一般から見ればそれだけで充分《じゅうぶん》に特別≠ノ値《あたい》するような人物ばかりだ。その中にあってさらに特別ゲスト≠フ名で呼《よ》ばれる存在《そんざい》って……
だがその疑問もすぐに解決した。
「本日は春香《はるか》様の祖父《そふ》であり、現在は乃木坂《のぎざか》グループの相談役《そうだんやく》であられます乃木坂|王季《おうき》様がいらっしゃっています」
その言葉《ことば》に、会場内が今までにない怒濤《どとう》のようなざわめきに溢《あふ》れた。
「お、おい、今の話は本当か?」
「乃木坂|翁《おう》はメッタに公式の場には姿《すがた》を現さないというのが定説《ていせつ》だったが……」
「実務《じつむ》は玄冬《げんとう》氏に譲《ゆず》られたとはいえ、いまだに裏《うら》では絶大《ぜつだい》な権力を誇《ほこ》る翁だ。そんな翁がこんな辺境《へんきよう》まで……」
「一声かければ、三時間後にはその場でサミットが開かれるほどのお方だというのに……」
どうやら特別ゲスト≠ニは春香祖父のことらしい。
ふむ、確かにそれなら、このセレブなこと極《きわ》まりない招待客《しょうたいきゃく》の中にあって特別≠ニ評《ひよう》されるのにも納得《なっとく》がいくな。
「それではご登場願いたいと思います。王季様、どうぞ」
葉月《はづき》さんの呼《よ》び声《ごえ》とともに、謁見台の奥《おく》で巨大な影《かげ》がゆらりと揺《ゆ》れた。
現れたのは……身長ニメートルはあろうかという筋骨《きんこつ》たくましいスキンヘッドの老人。眼光《がんこう》は夏の稲妻《いなずま》のように鋭《するど》く、切《き》り揃《そろ》えられた見事《みごと》なカイゼル髭《ひげ》は今にも天を衝《つ》かんばかりである。
まるでどこぞの古代帝国の帝王だと言われればそのまま信じてしまいそうなヴァイオレンスな姿だった。
老人はそのヒグマのような身体で、ずしりずしりと床《ゆか》を踏《ふ》みしめながら謁見台《えっけんだい》の中央までやって来ると、
「大儀《たいぎ》である[#「大儀である」は太字]」
地鳴《じな》りのような声でそう一吼《ひとほ》えした。
「皆の者、よくぞ我が孫娘である春呑の誕生日祝いに来てくれた![#「皆の者、よくぞ我が孫娘である春呑の誕生日祝いに来てくれた!」は太字] その心遣《こころづか》いに、私は今、喜悦《きえつ》の至《いた》りである![#「その心遣いに、私は今、喜悦の至りである!」は太字]」
空気がびりびりと震《ふる》えている。
天井《てんじょう》に備《そな》え付《つ》けられた直径三メートルほどの巨大シャンデリアがぐらぐらと揺《ゆ》れている。
謁見席《えっけんせき》近くのテーブルにあったグラスに、ピシリと亀裂《きれつ》がはしった。
「……」
……いや美夏《みか》。
いったいこの人間|凶器《きょうき》みたいな人物のどこをとらえて気さくだとか柔《やわ》らか頭《あたま》だとか言ったんだ? 春香父《はるかちぢ》より三十八倍(当社比)くらい近寄りがたいんだが。てか口答えでもしようもんなら戦斧《せんぷ》とかで一刀両断《いっとうりょうだん》にされてもちっともおかしくなさそうだ。
「あれ、どしたのおに〜さん。なんか顔色悪いよ?」
「そりゃあ……」
悪くもなる。
後で紹介《しょうかい》してくれるとか何とか言ってたが、あんな人物に俺の存在《そんざい》を知られようもんならそれはイコール即《そく》死を意味するように思えてならない。
「? ――あ、そっか。おに〜さんは知らないんだっけ」
「知らないって、何をだ?」
「うん。あのね――」
美夏が何かを言いかけたその時だった。
「乃木坂翁《のぎざかおう》!」
何やら、謁見台《えっけんだい》へと駆《か》け寄《よ》る中年の男の姿《すがた》が見えた。
「謝辞《しゃじ》を終えるなりこんなところで失礼します。はじめまして、王季《おうき》様。私、高島《たかしま》グループ社長の高島|正和《まさかず》と申します。いきなりこんなことを致しますのも恐縮《きょうしゅく》ですが、どうか名前だけでもお覚《おぼ》えいただけると……」
おずおずと名刺《めいし》を差し出す。
するとそれを見ていた他の招待客《しょうたいきゃく》が。
「抜《ぬ》け駆《が》けは許《ゆる》さんぞ! 乃木坂翁にご挨拶《あいさつ》したいと思っているのはお前だけじゃない」
「そうだ! どけっ!」
「貴様《きさま》らこそジャマだ!」
わらわらと、我先にと謁見台へと上がっていく。さながらサル山のサルたちが一本しかないバナナを巡《めぐ》って血まなこで争っているといった見苦《みぐる》しい風情《ふぜい》だった。
「あ、あの、みなさん、どうぞ落ち着いて……」
突然《とつぜん》始まった狂騒《きょうそう》に、春香が不安そうに立ち上がる。
それを見た春香|祖父《そふ》の目がすっとすぼまった。
「あ、おに〜さん、耳栓《みみせん》しといた方がい〜よ」
「は?」
「ほら、い〜から」
何だかさっぱり分からなかったが、美夏《みか》に言われるがままに両手で耳を塞《ふさ》ぐ。
次の瞬間《しゅんかん》。
「――このうつけ者どもめがぁぁああああ!![#「このうつけ者どもめがぁぁああああ!!」は太字]」
広間中に、すぐ近くで巨大カミナリが落ちたかのような衝撃《しょうげき》が響《ひび》き渡《わた》った。
「よりにもよって春香の誕生日に春香を前にしてこのような下世話《げせわ》な話を持ち出すその低劣《ていれつ》な神経《しんけい》……根本から叩《たた》きなおしてくれるわ![#「よりにもよって春香の誕生日に春香を前にしてこのような下世話《げせわ》な話を持ち出すその低劣《ていれつ》な神経《しんけい》……根本から叩《たた》きなおしてくれるわ!」は太字] そこに直れ![#「そこに直れ!」は太字]」
発生源は謁見台《えっけんだい》からだった。
全身から陽炎《かげろう》のようにオーラを立《た》ち昇《のぼ》らせて吼《ほ》える春香|祖父《そふ》。その手にはいつの間にか巨大な斧《おの》が握《にぎ》られている。……いや、どこから出したんだよ、んなもん。
「ひ、ひいいっ!」
「も、申《もう》し訳《わけ》ありません。そんなつもりでは……」
「お、お助け……」
ライオンに睨《にら》まれた野ネズミのように床《ゆか》に這《は》いつくばり許《ゆる》しを請《こ》う男たち。
だが。
「ならぬ![#「ならぬ!」は太字]」
それを一喝《いっかつ》のもとに否定《ひてい》すると、斧を振《ふ》り回《まわ》しながら、春香祖父は野獣《やじゅう》のような眼光《がんこう》で男たちへと近づいていった。
「裁《さば》きを受けよ![#「裁きを受けよ!」は太字]」
そしてまさに斧が男たちに振り下ろされんとしたところで――
ガキン!と。
鈍《にぶ》い金属音《きんぞくおん》が響《ひび》き渡《わた》った。
「…………もうそのヘンでお収《おさ》めください」
「……む[#「む」は太字]」
今にもエグゼキューションしそうな春香祖父を止めたのは、意外にも無ロメイド長さんだった。木目模様《もくめもよう》のチェーンソーで斧を受け止め、真正面から春香祖父の目を見据《みす》える。
「……この方たちも充分《じゅうぶん》に反省《はんせい》なされたことでしょう。春香様も驚《おどろ》いていらっしゃいますし、これ以上の行為《こうい》はせっかくの春香様の誕生日パーティーを台無《だいな》しにしてしまいます」
「葉月《はづき》[#「葉月」は太字]……」
「どうぞ、お収めください」
「…………よかろう[#「よかろう」は太字]」
振り上げられた春香祖父の右手(斧付き)がそっと下ろされた。
「た、助かった……」
「は、はは……」
「……(声も出ないらしい)」
九死《きゅうし》に一生《いっしょう》を得《え》たような顔で(実際《じっさい》そうなんだろうが)胸《むね》を撫《な》で下《お》ろす男たち。
そんな男たちの方へと振《ふ》り返《かえ》り、葉月《はづき》さんは言った。
「……あなた方も、行いにはお気を付けください。今のはどう見ても非常識《ひじょうしき》な振《ふ》る舞《ま》いです。
幸《さいわ》い今回はことなきを得ましたが――次はありませんよ」
メガネの奥《おく》の瞳《ひとみ》がきらんと厳《きび》しく光る。
「は、はい。それはもちろん」
「す、すみませんでした」
「……(やっぱり声が出ないらしい)」
そのまま逃《に》げるように、男たちは謁見台《えつけんだい》から下りて行った。
「……それでは、これにて特別ゲスト乃木坂王季《のぎざかおうき》様による謝辞《しやじ》を終わります。ありがとうございました」
何事もなかったかのようにそう言って、ぺこりと頭を下げる葉月さん。
「……」
なんかよく分からんが。
とりあえず、やっぱり葉月さんは色々な意味ですごいってことだけはよく分かった。
3
そんなこんなで、あっという間にパーティー開始から二時間ほどが経過《けいか》した。
プログラムは順調に進行しているようで、現在は九番の『自由|歓談《かんだん》』となっていた。
あちこちで談笑《だんしょう》する招待客《しょうたいきゃく》たち。
そんな中、俺は一人でぽつんとローストビーフを食っていた。
春香《はるか》は招待客との挨拶《あいさつ》で忙《いそが》しそうだったし、いっしょにいた美夏《みか》もやはり個別の挨拶回りがあるとかで少し前にどこかへ行ってしまった。葉月さんや那波《ななみ》さんはメイドとしての仕事が忙しいらしく、ぱたぱたと会場のあちこちを飛び回っていて、とてもゆっくりと話をしているヒマなどありそうにない。
よって他に知り合いなどいない俺は、必然的《ひつぜんてき》に季節の移り変わりをド忘《わす》れしていた渡《わた》り鳥《どり》のごとく一人取り残されることとなったのだった。
「……」
やることがない。
退屈《たいくつ》を紛《まぎ》らわせるためにさっきからひたすらにテーブル上の料理に手を出していたが、それもいいかげん飽《あ》きてきた。というかいくら美味《うま》いからといってしょせん人間の胃袋《いぶくろ》には限界《げんかい》があるって話である。
他の招待客《しょうたいきゃく》と話そうにも、そのほとんどが外国人であるため意思疎通手段《いしそつうしゅだん》(英語)が致命的《ちめいてき》に欠《か》ける俺にはどうしようもない。まあ仮に英語が話せたとしても、こんなセレブの極《きわ》みみたいな人たちに何を話せばいいんだかさっぱり分からんわけだが。
「……」
やることがなかった。
本当に、とことんなかった。
仕方ないので、会場の入り口付近にある休憩用《きゅうけいよう》のイスに座《すわ》ってぼんやりと辺《あた》りを眺《なが》めていると。
「Hey.そこのメガネのキミ」
いきなり声をかけられた。
淀《よど》みのない流暢《りゅうちょう》な日本語。
見るとそこには、顔にニヤニヤとした笑《え》みを貼《は》り付《つ》けた金髪碧眼《きんばつへきがん》の男が立っていた。
「今少しいいかな?」
「はあ……」
いかにもいいとこのボンボンといった雰囲気《ふんいき》のこの金髪は、先ほどのプレゼント贈呈《ぞうてい》で油田の権利証《けんりしょう》を贈《おく》っていた男でもある。周囲《しゅうい》には取《と》り巻《ま》きらしきやつらも何人か。……こんなやつが俺に何の用だ? しかもこいつ前にどっかで……
首をひねる俺にそいつは、
「僕はシュート。シュート・サザーランドだ。よろしく」
片手で髪《かみ》をかき上げながら、イヤミったらしい笑顔《えがお》でそう挨拶《あいさつ》した。
――ああ、思い出した。
こいつ、あのロンドンの時にも春香《はるか》に言《い》い寄《よ》ってた佐々岡似《ささおかに》の軽薄《けいはく》外国人だ。そのいちいち芝居《しばい》がかったキザな動きが印象的《いんしょうてき》(悪い意味で)だったため、よく覚《おぼ》えている。……だがその佐々岡モドキが俺に何の用だ?何だか非常《ひじょう》にイヤな予感がするんだが。
「……俺に何か用ですか?」
「なに、大したことじゃないんだけどね」
佐々岡モドキはふっと冷笑《れいしょう》を浮《う》かべて、
「手洗いのカマドウマみたいにこそこそと春香様に取り入ってる貧乏人《びんぼうにん》の顔でも拝《おが》んでおこうかと思ってね」
予感は大当たりだった。
「……それはイイご趣味《しゅみ》で」
こいつ、顔だけじゃなくて性格までもが佐々岡に似《に》てやがるな。こういった顔のやつがこういった性格になるのか、こういった性格のやつがこういった顔付きになるのかは、タマゴが先かニワトリが先かって問題だが、何にせよタチが悪いことには変わりがない。
「ふん、どんな手を使ったのかは知らないけど、玄冬《げんとう》氏や秋穂《あきほ》氏、美夏《みか》お嬢様ともずいぶん仲がいいみたいじゃないか? あのおかしなフィギュアで釣《つ》ったのかい? HAHA. さすがはOTAKU王国の日本人らしい姑息《こそく》なやり口だな。春香《はるか》様は優《やさ》しいからあんなモノを渡《わた》されてもイヤな顔をしないが、実際《じっさい》のところあんなモノを贈《おく》られちゃ迷惑《めいわく》だってことは会場中の人たちが分かってるだろうね。HEY. みんなもそう思わないか?」
「そうだね、シュート」
「まったくだ、HAHAHA!」
「Fuck'in!」
取《と》り巻《ま》きどもが一斉《いつせい》に大声で笑う。
「……」
……はあ。
何だって俺の周《まわ》りにはこういうのが集まってくるんだろうね。
「用ってのはそんだけですか? んじゃ俺は行きますんで」
イスから立ち上がる。
こういうやつらと話していても何らイイコトはないのは佐々岡で体験済《たいけんず》みである。とっととこの場から立ち去っちまうのが吉だろう。
だが。
「まあ待ちなよ。キミに一つだけ言っておきたいことがあってね」
「……手短《てみじか》に」
何を言い出すのかはだいたい見当《けんとう》がついたが、いちおう先を促《うなが》す。
「……なに、簡単《かんたん》だよ。キミ、春香様にまとわりつくのはやめろよ。キミみたいなどこのウマの骨《ほね》とも知れない貧乏人《びんぼうにん》は春香様の側《そば》には不釣合《ふつりあ》いだ。いつかのようなジャージ姿《すがた》でカニのようにそのヘンの砂浜でもうろうろしている方が似合《にあ》っているよ」
そう言って、佐々岡モドキは再《ふたた》びイヤミったらしく笑った。どうやらこいつも俺のことを覚《おぼ》えていたらしい。
「……アンタの意見は分かりましたよ」
佐々岡モドキの顔を見る。
「ほう、ではもう春香様には近づかないと?」
「お断《ことわ》りします」
「Sure. 分かればいい……って断る!?」
どこまでも佐々岡と同じ反応《はんのう》だな、こいつ。
「アンタの言いたいことは分かりましたが、俺には別にそれに従《したが》わなきゃいけない義理《ぎり》はないんで」
「なっ……」
「んじゃ」
そのままその場を去ろうとしたのだが、
「ちょ、ちょっと待て!」
「まだ何か?」
俺が言い返したことがよほど気に食わなかったのか、佐々岡《ささおか》モドキはその顔を真っ赤に染《そ》め、
「な、何かじゃないよ! 何だ、その態度《たいど》は!」
初めて佐々岡とは違《ちが》う反応《はんのう》を示した。
通り過ぎようとした俺の肩《かた》を掴《つか》み、そのまま壁《かべ》に押《お》し付《つ》けてくる。同時に周《まわ》りを取《と》り巻《ま》きの金髪《きんばつ》どもに囲《かこ》まれた。……く、軟弱《なんじゃく》な外見《がいけん》に似合《にあ》わず案外武闘派《あんがいぶとうは》なのか?
「僕としてはなるべくコトを荒立《あらだ》てないように紳士的な方法で説得《せっとく》してやってたってのに……。貧乏人|風情《ふぜい》が調子《ちょうし》に乗るなよ!」
あんな無礼極《ぶれいきわ》まりない人を見下した態度が紳士的だって言うのかね。あれが紳士的だってんなら、世界人口のおよそ八割は礼儀《れいぎ》正しいジェントルマンだということになる。
ともあれ、なんかマズイ状況《じょうきょう》だな。
頭に血が昇《のぼ》った佐々岡モドキとその取り巻きたち。
どうもこのままサヨウナラとはいかない様子《ようす》である。
いかに対応《たいおう》しようか悩《なや》んでいると
「ぬ、お主は?」
ふいに、間に割って入るかのようにそんな声が聞こえた。
広間の入り口のところには……昼間に出会ったあの現地人の爺《じい》さんが立っていた。
「よお、少年。こんなところでどうしたんじゃ?」
「どうしたって……」
それはこっちが聞きたい。
何だってあの爺さんがここ(ヴァルハラ城《じょう》ジークフリートの間)にいるんだ? しかも何やら巨大な魚のようなモノを片手で引きずっている。シャンデリアの下で七色に輝《かがや》く美しい魚体。
もしやアレが例のレインボウスネイクってやつか?
「ふむ、よく分からんがどうもトラブルのようじゃの。何が原因《げんいん》じゃ?」
爺さんがこちらへと歩いてくる。レインボウスネイクの巨体もいっしょになってズルズルと近づいてきた。
「何だ、あんた?」
佐《ささ》々岡《おか》モドキが爺《じい》さんを一瞥《いちべつ》した。
「誰《だれ》だか知らないけど、関係ないやつは引っ込んでてもらいたいな。だいたい何であんたみたいな小汚《こぎたな》いカッコをしたオイボレがここにいるんだ。ここは乃木坂家所有《のぎざかけしょゆう》の城《しろ》だぞ? 現地人が入ってきていいところじゃない。……ふん、まあ貧乏人《びんぼうにん》の知り合いには貧乏人がお似合《にあ》いだが」
取《と》り巻《ま》きがHAHAHAと笑う。
「なかなか偉《えら》そうな口を叩《たた》くのう。若造《わかぞう》、お主はどこの者じゃ?」
「ふん、別にあんたごときに名乗る必要《ひつよう》はないんだけど、特別に教えてあげるよ。僕はシュート・サザーランド。サザーランドグループ会長、コネリー・サザーランドの息子だ。あんたもサザーランドグループの名前くらいは聞いたことはあるだろう? パパに頼《たの》めばあんたなんて煮《こ》るなり焼くなりどうにでもできるんだよ。分かったらとっとと消えな。今なら見逃《みのが》してやるからさ。Understand?」
「ほう……」
だが爺さんはまったく動じた様子《ようす》もなく目を細め、
「サザーランドグループか。確かに悪くない企業《きぎょう》だが……しかし跡取《あとと》りがこれでは、先行きは暗いのではないか?」
「な、何だと!」
佐々岡モドキの顔が怒《いか》りに歪《ゆが》む。
「ほれ、すぐそうやって感情的になるようでは、経営者としては致命的《ちめいてき》じゃぞ」
「…………貧乏人、そこを動くなよ1」
そのまま爺さんに殴《なぐ》りかかっていかんばかりの勢《いきお》いだった。
「――くっ」
マズイ。いかにたくましい爺さんとはいえ、佐々岡モドキ&その取り巻きども(五人ほど)の相手をするのは辛《つら》いだろう。だったらケンカにはまったく自信がないとはいえ、まだ俺が相手をした方がマシだ。
「ちょっと待て。アンタが用があるのは俺だろう。そつちの爺さんには――」
佐々岡モドキと爺さんとの間に割って入ろうとして。
「シュート、何を騒《さわ》いでいる」
野太《のぶと》い声がそれを遮《さえぎ》った。
「パパ!」
「やっと玄冬《げんとう》氏に挨拶《あいさつ》を終えて来てみれば……何をやっているのだ。乃木坂家の領内《りょうない》で余計《よけい》な揉《も》め事《ごと》は起こすなとあれほど言ってあっただろう」
後ろに撫《な》で付《つ》けたブラウンの髪《かみ》、ごつい身体、いかついヒゲ、鋭《するど》い眼光《がんこう》。ハマキとサングラスが実に似合《にあ》いそうなこの男がどうやら佐々岡モドキの父親らしいが、ぱっと見はまんまニューヨークマフィアのボスである。いや春香父《はるかちち》といい、巨大|企業《きぎょう》のトップってのは皆こうなのか?
「揉《も》め事《ごと》なんかじゃないってば。ただちょっとモノを知らない貧乏人《びんぼうにん》たちに礼儀《れいぎ》ってものを教えてあげようとしてただけだからさ」
「……貧乏人たち?」
「うん、そう。そこの見るからに貧相《ひんそう》な二人だよ」
「むう……?」
男(ニューヨークマフィアのボス)が俺たちの方に目を向ける。
最初は大した反応《はんのう》もなかったが、だがその視線《しせん》が爺《じい》さんに注《そそ》がれた瞬間《しゅんかん》、男(ニューヨークマフィアのボス)の顔色が豹変《ひょうへん》した。
「――な、シュート、まさかお前の言う貧乏人とは……」
「ん? そうだよ。こいつら、なんかよく分かんない現地人のクセに僕に文句《もんく》付けてくるから――」
「こ、このバカが!」
「ぶ、ぶべっ!」
言葉《ことば》を最後まで待たずに、男は佐《さき》々岡《おか》モドキの顔面《がんめん》を張《は》り飛《と》ばした。
ヘタクソな独楽《こま》のようにクルクルと回りながら、佐々岡モドキがブザマに床《ゆか》に転《ころ》がる。
「な、パ、パパ? 何を……」
「き、貴様《きさま》はサザーランドグループを潰《つぶ》すつもりかっ! 謝《あやま》れ、今すぐに土下座《どげざ》して謝罪《しゃざい》するんだ!」
「へ? あ、謝るって……」
「いいから頭を下げろ!」
「ぐべっ!」
佐々岡モドキの頭を掴《つか》んで、ムリヤリに床に平伏《ひれふ》させた。
「申《もう》し訳《わけ》ございません、乃木坂翁《のぎざかおう》! このバカ息子がとんだ粗相《そそう》を……。だが息子の不始末《ふしまつ》は親である私の責任……どうぞお許《ゆる》しを――」
男も爺さんに向かって深々と頭を下げる。
「……」
なんか今、乃木坂翁とか言わなかったか?
「ふむ……顔を上げなされ、コネリー・サザーランド殿」
爺さんがゆっくりと言った。
「まあそこまで畏《かしこ》まりなさるな。しょせんは子供のしたこと、ワシは大して気にしてはおらぬよ」
「で、では」
「だがワシはともかく……他に謝るべき相手がいるのではないかな?」
「他に……ですか?」
「ああ。そこにいる少年――春香《はるか》の大切な友達に謝《あやま》ってくれんか。元々はどうも彼が絡《から》まれていたようなのでな」
「え、春香様の……? は、はい。それはもう――」
男はくるりとこっちに向き直り、
「少年、うちのバカ息子が迷惑《めいわく》をかけたみたいで本当にすまなかった……。二度とこんなことをせんようにきつく言っておくから、どうか許《ゆる》してほしい。この通りだ。ほら、お前も謝らんか!」
「ほ、ほんと、すみませんでした……」
もう一度|後頭部《こうとうぶ》をはたかれ、ほとんど泣きそうな顔で佐々岡《ささおか》モドキが頭を床《ゆか》に着けた。
「あ、いや、分かってくれれば俺は別に構《かま》わないんだが……」
「そ、そうか。恩《おん》に着る……」
男が心底《しんそこ》ほっとしたように言った。
「それでは乃木坂翁《のぎざかおう》、私たちはこれで……。本当に申《もう》し訳《わけ》ございませんでした……。正式な謝罪《しゃざい》は後《のち》ほど改《あらた》めてさせていただきます」
「別にワシには謝らんでもいいというのに……」
「いえ、そういうわけには……では、失礼します」
呆《あき》れ顔《がお》の爺《じい》さんに対してもう一度深々と頭を下げると、
「ほら、行くそ」
「ま、待ってよパパ」
佐々岡モドキ(及びその取《と》り巻《ま》き)を連《つ》れて、男は去って行った。
「大丈夫《だいじょうぶ》だったか、少年?」
爺さんが手を差し出して訊《き》いてくる。
「あ、ええ……」
別に直接的には何をやられたってわけでもないんで、それはいいんだが……
「あの、あなたは……」
いったいどういうことなんだ?
佐々岡モドキの父親はこの爺さんのことを乃木坂翁と言った。さらにこの爺さんは春香を呼《よ》び捨《す》てにした。その二つが意味するところは――
「ふむ、それはの――」
少し気まずそうに爺さんが口を開きかけて、
「おに〜さ〜ん!」
と、呼《よ》びかける声が聞こえてきた。
振《ふ》り返《かえ》ると、美夏《みか》が葉月《はづき》さんと那波《ななみ》さんを連れて走ってくるところだった。
「だいじょぶ? なんかおに〜さんが誰《だれ》かに絡《から》まれてるって話を聞いたんで急いで戻《もど》ってきたんだけど……。――って、あれ? 何でお祖父《じい》ちゃんがここにいるの?」
爺《じい》さんを見て、美夏《みか》が驚《おどろ》いた顔になる。
「何でとは冷たいのう……春香《はるか》の誕生日を祝いに来たのではないか。ほれ、これがプレゼントのレインボウスネイクじゃ。どうだ、キレイじゃろう? この辺《あた》りの土地の伝説《でんせつ》での、十七歳の誕生日にレインボウスネイクを贈《おく》られた者は健康のまま末永く幸せに――」
「そうゆうことじゃなくて、何でお祖父ちゃんがおに〜さんどいっしょにいるのかってことなんだけど……」
美夏が俺と爺さんを見比べて小首をかしげる。
「お祖父ちゃん……?」
「ん? そだよ、わたしたちのお祖父ちゃん。英語で言うとあわぐらんどふぁざ〜。お母さんのお父さんでもあるわけだけど」
当たり前のようにそんなことを言う美夏。
だが。
「ちょ、ちょっと待て。だったらさっき挨拶《あいさつ》をしてたあの人は……」
いったいだれなんだって話になってくる。
「あ〜、あの人は影武者《かげむしや》だよ」
さらりと美夏はそう答えた。
「平蔵《へいぞう》さん――本名は平蔵・セバスチャン・桜坂《さくらざか》ってゆうの。お祖父ちゃんの親友で、もともとはうちで執事長《しつじちょう》をやってくれてたんだ〜。見た目はちょっと怖《こわ》いけど、ほんとはとっても優《やさ》しい人なんだよ」
「……」
……いや影武者って。
戦国時代じゃあるまいし、今どきそんなもんが存在《そんざい》するのか? いやまあこの乃木坂家《のぎざかけ》が何でもありっていうのは、春香とのこの半年の付き合いでイヤってほど思い知らされてはいたんだがさ。
「すまぬな、少年。――いや綾瀬裕人《あやせゆうと》くん、じゃな?」
爺さん――春香|祖父《そふ》(真)が申《もう》し訳《わけ》なさそうに口を開いた。
「隠《かく》していたわけではなかったんじゃが、ワシも立場上ほいほいと身分を明かすわけにもいかなくての。色々と、良からぬ目的で近づいてくる輩《やから》も多いのじゃよ。――それに、そもそもキミがあの[#「あの」に傍点]裕人くんだと気付いたのは、別《わか》れ際《ぎわ》だったのでな。ほれ、電話越しに春香のことを話しておったじゃろう。あれで分かったのじゃ」
「……」
あの葉月《はづき》さんからの連絡の時か。確かに春香の名前を出したような気もする。
しかし『あの[#「あの」に傍点]裕人《ゆうと》くん』って、いったい俺はどういう風に伝《つた》えられてるんだろうな。おそらく伝達元がかしましツインテール娘やら無ロメイド長さんやらにっこりメイドさんやらだと思われることから、すげえ気になるんだが。
「まあ、ともあれ――」
春香祖父《はるかそふ》は改《あらた》まったように咳払《せきばら》いをすると、
「改めてはじめまして、裕人くん。話は色々と聞いておる。春香たちがいつもお世話《せわ》になっとるとのことで、どうもありがとう。ワシは七代目|乃木坂王季《のぎざかおうき》じゃ。――お祖父《じい》ちゃんと呼《よ》んでくれても構《かま》わぬぞ?」
「……」
「あるいはグランドパピーかの? はっはっはっ」
秋穂《あきほ》さんや美夏《みか》を思わせる、どこかイタズラめいた笑《え》みでそんなことを言ったのだった。
かくして。
色々とあった春香の誕生日パーティーは、春香祖父の楽しげな笑い声とともに終わりを告《つ》げた。
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4
一時間後。
さて、場所は変わってヴァルハラ城《じょう》ワルキューレの間。
「は〜い、それじゃ改めてお姉ちゃんの誕生日を祝ってかんぱ〜い♪」
「かんぱーい!」
美夏の音頭《おんど》に従《したが》って、グラスを打ち合わせる音とみんなの声が響《ひび》き渡《わた》る。
「あ、ありがとうございます」
ゆったりとした部屋着《へやぎ》に着替えた春香が、胸《むね》の前にグラス(シャンメリー入り)を持ってぺこりと頭を下げた。
春の日向《ひなた》のように和気《わき》あいあいとした、どこかアットホームな空気。
パーティーの後片付けも無事《ぶじ》に終わり、今は親しい者だけを集めた内輪《うちわ》でのささやかな打ち上げが開かれていた。
主な参加者は春香、美夏、葉月さん、那波《ななみ》さん、ルコ&由香里《ゆかり》さん(やっと起きた)、春香父、秋穂さん、春香祖父(真)、春香祖父(影武者《かげむしゃ》)、菖蒲《あやめ》さん沙羅《さら》さん樹里《じゅり》さんの運転メイド三姉妹、そして俺の十四人である。
ジークフリートの間よりは狭《せま》い――とはいってもゆうに三十|畳《じょう》はあるこの広間で、各《おのおの》々自由に飲んだり食べたり喋《しゃべ》ったりと、少し遅《おそ》いディナータイムを楽しんでいた。
「あー、でも残念ね〜。そんな面白《おもしろ》そうな場面に居合《いあ》わせられなかったなんてー」
「まったくだ。その場に私がいればそんな輩《やから》、一刀《いっとう》の下《もと》に斬《き》り捨《す》ててやったものを」
肝心《かんじん》な時にカバのようにひたすら寝《ね》こけていた二人が今さらにそんなことを言う。もっともこの二人がいたとしても、事態《じたい》がよりいっそうややこしくなっただけで何一ついいことはなかったと思うが。
「ほう、いい刀ですな」
と、ルコの日本刀(瑠璃髑髏《るりどくろ》)を見ながら言ってきたのは執事服姿《しつじふくすがた》の春香祖父《はるかそふ》(影武者《かげむしゃ》)こと平蔵《へいぞう》・セバスチャン・桜坂《きくらざか》さんだった。
「む、分かるのか?」
「ええ。良い武器というものは、そこに在《あ》るだけで放《はな》つ空気というものがあるのです。貴女のその刀からはそういったオーラがぞわぞわと出ています。おそらくは名刀、あるいは妖刀《ようとう》と呼《よ》ばれた業物《わざもの》でしょうな」
いや明らかに後者《こうしゃ》だろ、名前からして。
「しかしそれだけの刀を扱《あつか》えるということは、さぞかし腕《うで》がお立ちになるのでは? 一度お手合わせしてみたいものですな」
「うむ、そうだな。いつでも受けて立とう」
「おお、約束《やくそく》ですぞ」
何やら二人は意気投合《いきとうごう》していた。うーむ、意外と言えば意外な組み合わせだな。
「それにしてもお姉ちゃんもこれで十七歳か〜。お・と・な、だね。ふふ〜♪」
グラスを片手に料理をバクついていた美夏《みか》が、ふいに意味ありげに笑った。
「え? あ、は、はい」
春香がこっくりとうなずく。
「でさでさ、お・と・な、と言えば、おに〜さんとの関係はどうなのかな〜。もういいかげん手くらいは繋《つな》いだ? キスは? もしかしてもうすぐ結婚とか?」
いつもの耳年増《みみどしま》っぷりを発揮《はっき》してにやにやと迫《せま》ってくる。
「そうですよね〜。最近、お二人ともいい感じですし〜」
「お弁当を二人で食べたりもしてたわよね〜。あ〜ん、とかしちゃったりして。いや〜ん♪」
さらに那波《ななみ》さんと由香里《ゆかり》さんによる援護射撃《えんごしゃげき》。
「あ、あー、それはだな……」
とはいえ、んな際《きわ》どいことを言われても俺としては当然答えられるわけもないし、
「あ、あのあのあの、そそそそれは…………」
春香《はるか》なんかはすでに収穫期《しゅうかくき》のアセロラみたいに真っ赤になって行動|停止状態《ていしじょうたい》になっている。
だが俺たち以上に反応《はんのう》した人物が一人いた。
「そ、そんなこと許《ゆる》さんぞ!」
バン、とテーブルを叩《たた》いたのは、額《ひたい》に青筋《あおすじ》を浮《う》かべた春香父。
「て、手を繋《つな》ぐだの、き、キスだのそんな破廉恥《はれんち》なことは、断《だん》じて私が許さん! ま、ましてや、けけけ、結婚など……」
「あら、別にいいじゃないですか」
秋穂《あきほ》さんが穏《おだ》やかに言う。
「本人たちが好き合っているのなら私たちに止める権利はありませんし……それに私も早く孫の顔が見てみたいわ。うふふ」
「な、秋穂、お前何を……」
「あなただってほら、一人くらい男の子が欲しいって言ってましたよね? 二人がいっしょになれば、裕人《ゆうと》さんが息子になるんですよ。いいこと尽《ず》くめとはこのことじゃないですか」
「そ、そういう問題では……
「う〜ん、孫の名前は何がいいかしらね? 男の子だったら――」
「あ、あの、あの、で、ですから……」
「……」
なんか、知らぬ間に話がどんどんとでかくなってきていた。
実に楽しげに俺たちの未来|予想図《よそうず》を(勝手に)話す美夏《みか》、那波《ななみ》さん、由香里《ゆかり》さん、秋穂さんの最強(最凶《さいきょう》)カルテット。もはや当事者(俺と春香)なんてそっちのけで、四人でわいわいと盛《も》り上《あ》がっている。
「はあ……」
もはやアレには何を言ってもムダだろう。というか余計《よけい》な口出しをしようもんなら藪《やぶ》を突《つ》ついてヒドラを出すことになりかねない。
ため息《いき》を吐《つ》きつつテーブルの反対側を見ると。
「どうした葉月《はづき》、お前も食べんのか?」
「……いえ、私は」
そこでは、春香|祖父《そふ》(真)と葉月さんとが何やら話をしていた。
二人の前に置かれているのはこんがりと焼けた七色に光る巨大な魚体。レインボウスネイクの変《か》わり果《は》てた姿《すがた》である。
「せっかく獲《と》ってきたんじゃ。他の皆はもう食べたのにお前だけまだ食べておらんじゃろ?少しくらいつまんでみてはどうじゃ?」
「ですが、私には仕事がありますので……」
春香祖父が深く息を吐く。
「……お前もワシにとっては孫みたいなもんじゃ。こんな時くらいメイドだ仕事だと堅苦《かたくる》しいことを言わずに、いいからのんびりせい。無礼講《ぶれいこう》というやつじゃよ」
「しかし……」
なおも渋《しぶ》る葉月《はづき》さんに、
「葉月さん、細かい仕事は私たちがやっておきますから、たまにはゆっくりしてくださいな」
「そうですよ。葉月さんは少しがんばりすぎです」
「うん、ここはあたしたちに任《まか》せて!」
運転メイド三姉妹が三人|揃《そろ》って笑顔《えがお》でそう言った。
その勢《いきお》いにさすがの葉月さんも根負《こんま》けしたのか、
「……分かりました。いただきます」
もむもむと仔《こ》ヤギみたいに口を動かして、葉月さんはレインボウスネイクを口にした。「美味《おい》しい……」
「そうじゃろう?」
それを満足そうに眺《なが》める春香祖父《はるかそふ》。
どうもこの二人には、単なる雇《やと》い主《ぬし》とメイドの関係を超《こ》えた特別な何かがあるみたいだな。
そんなことを考えながら何となく二人を見ていると、
「――む、裕人《ゆうと》、お主も食べるか?」
こっちに気付いた春香祖父がそう訊《き》いてきた。
「あ、いえ俺は……」
「……よろしければあ〜ん≠して差し上げますが」
「……」
「……あ〜ん」
真顔で箸《はし》を差し出してくる葉月さん。いやなんかのイヤガラセですか……
「ふむ……春香や美夏《みか》だけでなく、葉月とも仲がいいのか。――モテモテじゃな?」
春香祖父は春香祖父で、すげぇ楽しそうな顔でそうにやりと笑う。
……秋穂《あきほ》さんやら美夏やらの大元の遺伝子《いでんし》がどこにあるのかが少しだけ分かったような気がした。
「ほら〜、裕《ゆう》くん、そんな隅《すみ》っこで話してないでこっちに来ていっしょに飲みましょうよ〜」
と、最強(最凶《さいきょう》)カルテットの一角《いっかく》に呼《よ》ばれた。
「裕くんと春香ちゃんの話をしてるんだから、やっぱ主役がいないといまいち盛《も》り上《あ》がらないのよね〜。あ、葉月ちゃんと春香ちゃんのお祖父《じい》ちゃんもどう〜?」
いや充分《じゅうぶん》盛り上がってただろ……
「そだね〜。お祖父ちゃんのおに〜さんに対する評価《ひょうか》も聞きたいしな〜。それにお姉ちゃんもおに〜さんがいないと寂《さび》しいって♪」
「わ、私は、その……」
「お父様、どうぞこちらへ」
「葉月《はづき》さんもいらしてください〜」
手招《てまね》きする四人の手が地獄《じごく》へと誘《いざな》う悪魔《あくま》の手に見えたのは、きっと俺の目の錯覚《さっかく》じゃないんだろう。
「じゃ、おに〜さん。い・ろ・い・ろ聞かせてもらうからね♪」
「……」
そしてそれから打ち上げが終わるまでの間ずっと。
最強(最凶《さいきょう》)カルテットプラス春香祖父《はるかそふ》・葉月さんに、俺と春香があれやこれやとからかわれまくったのは言うまでもない。
5
ザザー、と穏《おだ》やかな波音が響《ひび》いていた。
辺《あた》りには暗闇《くらやみ》の幕《まく》が落ち、月と星の光とヴァルハラ城《じょう》から漏《も》れる灯《あか》り以外に周囲《しゅうい》を照《て》らすものはない。
「ふう……」
賑《にぎ》やかだった打ち上げは、三十分ほど前に終了したばかりであった。
最強(最凶)カルテットによる、俺と春香との結婚で始まった無責任《むせきにん》極《きわ》まりない未来|予想図《よそうず》は、マイホームを建《た》てて三人の子供(男一人、女二人)を授《さず》かり広い庭でラブラドールレトリーバーを二匹|飼《か》うことになった時点でようやく終わってくれた。というか調子《ちょうし》に乗ってまたノーフューチャーな勢《いきお》いで飲んで飲んで飲みまくったルコと由香里《ゆかり》さんが酔《よ》って暴走《ぼうそう》してそのまま潰《つぶ》れたことに加え、こちらもまた悪酔いした春香父が「けけ、結婚など私が許《ゆる》さんぞー!」と泣いてわめいて暴《あば》れたことによって強制的にお開きになったという方が正しいんだが。
でまあ、葉月さんを始めとしたメイドさんたちが後片付けをしている間に。
疲《つか》れ切《き》った精神の気分|転換《てんかん》のために、俺は一人砂浜に散歩へ来ているのだった。
常夏《とこなつ》の島の夜の海。
日本の観光地などのある意味発情期な夜の海とは違《ちが》い、辺《あた》りには人の姿《すがた》はまったくなく、ただ静かに波が打ち寄せているだけである。
そんなどこか幻想的《げんそうてき》というか神秘的《しんぴてき》な光景を見てると、何だか昼間にあったことが全部夢みたいに思えてくるな。
「結局《けっきょく》渡《わた》せなかったか……」
ポケットから包《つつ》み紙《がみ》を取り出す。
誕生日パーティーで渡《わた》し損《そこ》ね、打ち上げでもあんな雰囲気《ふんいき》の中でこれを春香《はるか》に渡すことは、それこそ飢《う》えたツキノワグマの群《む》れの前に活《い》きのいい紅《べに》ジャケを放流《ほうりゅう》するようなもん(入れ食い)だったためやはり渡せず、結果《けっか》としていまだに俺の手に残っているプレゼントのオルゴールである。
さてどうしたもんか。
また明日にでも春香が一人の時にこっそりと渡すって手もあるが、それはできれば避《さ》けたい。
やっぱりこういうものは今日のうちに渡しておきたかった。こだわるわけじゃないし単なる自己満足かもしれんが、プレゼントは誕生日のその日に渡すからこそ価値《かち》があるって面もあるとは思う。適材適所《てきざいてきしょ》? 鬼《おに》に金棒《かなぼう》? いやかなり違《ちが》うか。だけどまあ何であれ、コンセプトは同じようなもんだ。
とすれば、今から春香をここに呼《よ》び出《だ》してこっそりと渡すか?
しかしさんざん俺と春香の未来|予想図《よそうず》の話で(俺と春香以外が)盛《も》り上《あ》がった後に、そういう意味ありげな行動(呼び出し)を取るのも考えものである。それはもうあのにこやかな悪魔《あくま》たちに新たな話題を提供《ていきょう》するだけだ。
うーむ。
難《むずか》しいもんだな……
そんなことを考えていると、
「裕人《ゆうと》さ〜ん」
ふいに声がした。
振《ふ》り向《む》く。
そこにはヴァルハラ城《じょう》の方からこちらに向かってとてとてと走ってくる春香の姿《すがた》があった。
「春香……」
「こんなところにいたんですか。少し探《さが》しちゃいました」
はあはあ、と息《いき》を切らしながら言った。
「どうしたんだ?」
「あ、はい。バルコニーから海を眺《なが》めていたら裕人さんが外に出て行くのが見えたので、お散歩ならごいっしょしたいなと思って……」
「ああ……」
そういうことなら大歓迎《だいかんげい》である。というか、これは願ってもないチャンスだ。
「んじや、そのヘンに座《すわ》るか」
「あ、はい」
砂浜にある、ちょうどいい大きさの流木《りゅうぼく》の上に春香と並《なら》んで腰《こし》を下ろす。
「夜の海って静かですね……」
シャワーでも浴《あ》びたのか、春香の髪《かみ》からはフローラル系の柔《やわ》らかな香《かお》りが漂《ただよ》ってくる。本人の性格をそのまま反映《はんえい》したかのようなその香りはとても心地《ここち》がよく、隣《となり》にいるとそれだけでそこはかとなく安らかな気分に……って、今はそんなのんびりとしたことを考えてる時じゃないな。
「春香《はるか》」
「はい?」
「――ん、これ」
何となく照《て》れくさかったので、海の方を見たままオルゴールの入った包《つつ》み紙《がみ》を差し出す。
「えと……?」
渡《わた》されたモノと俺の顔を見比べて、春香が不思議《ふしぎ》そうな顔をした。
「あー、何というか、俺からのプレゼント。パーティーの時に渡したフィギュアは美夏《みか》と共同で買ったやつだけど、これはいちおう俺一人からってことで」
「え?」
いまいち状況《じょうきょう》がつかめてないのか、春香は何かを考えるように五秒ほど停止《ていし》して、
「そ、そんな!? い、いいんですか?」
やっと分かったのか、こっちがびっくりするくらいの反応《はんのう》で驚《おどろ》きを表現した。
「ああ」
いやまあそこまで驚かれるほどのことじゃないと思うんだが。
「あ、ありがとうございます。とっても嬉《うれ》しいです……」
本当に喜《よろこ》びいっぱいな面持《おもも》ちで、春香はプレゼントを受け取った。
「あの、開けてみてもいいですか?」
「もちろん」
俺がうなずくと、春香は宝物を扱《あつか》うような丁寧《ていねい》な手付きで包装紙《ほうそうし》を開いていった。そして中から出て来たモノを見て、目をホットケーキみたいにまん丸にした。
「これ――ピアノですか?」
「ああ、オルゴールになってるらしいそ」
「あ、フタの部分が開くんですね」
えいっと春香がオルゴールのフタを開けると、風に乗って柔《やわ》らかな音が流れ出した。
ゆったりとしてテンポのメロディアスな音楽。
「あ――」
それを聴《き》いた春香が、驚いたように小さく声を上げた。
「? どうした」
「エンディングテーマです……」
「え?」
「『はにかみトライアングル1st劇場版〜秘密《ひみつ》の魔法《まほう》は内角合わせて一八〇度〜』のエンデイングテーマなんです、この曲……」
嬉《うれ》しそうに言う。
そんな代物《しろもの》だったのか、これ。ただ単にキレイな曲だと思ったから選んだんだが、まあ考えてみればこれを買ったのはあのフィギュア(個性的なポーズ)が売られていたホビーショップだしな。そういう偶然《ぐうぜん》もあってもおかしくないのかもしれん。ヒョウタンから駒《こま》ってやつか。
「この曲、私、大好きなんです。キレイで穏《おだ》やかで優《やさ》しくて ピアノでもよく弾《ひ》いているんですよ」
そして春香《はるか》は、オルゴールの音色《ねいろ》に合わせて曲をハミングをし始めた。
月の光を照明《しょうめい》に、波の音を伴奏《ばんそう》にして、優しげなメロディーが辺《あた》りに小さく響《ひび》き渡《わた》る。
鈴《すず》を転《ころ》がしたかのような澄《す》み切《き》った歌声。
目をつむり、ゆるくウェーブのかかった髪《かみ》を風に揺《ゆ》らしながら、春香はただ静かに歌っていた。
「……」
キレイだ
その姿《すがた》はまるで地上に舞《ま》い降《お》りた月からの女神みたいで、俺が思わずアホのように見惚《みと》れてしまったことは言うまでもない、いや本当にキレイだな
やがて曲は終わり、
「私……今、とっても幸せです」
春香がぽつりとつぶやいた。
「え?」
「みんなが私の誕生日をお祝いしてくれて、ステキなプレゼントを頂《いただ》いて……こんなにいいことばかりでいいのかってくらいに、今の私は幸せです」
満ち足りた表情で夜空を見上げる。そして次に俺の顔を見た。
「……これも全部、裕人《ゆうと》さんのおかげです」
「俺の?」
いや今回の誕生日パーティーに関しては、俺はほとんど役に立ってない気がするんだが……
「はい」
だが春香はこっくりとうなずく。
「裕人さんがいなければ、こんな風に和《なご》やかに楽しく誕生日を迎えられることはなかったと思います。ルコさんとも由香里《ゆかり》先生とも仲良くなることもなかったですし、きっとお父様たちともこんなに打《う》ち解《と》けてお話をすることもなかった――。だから、裕人さんのおかげなんです」
にっこりと笑って、そんなことを言ってくれた。
うーむ、その言葉《ことば》はむしろそのままこっちから春香に返したいくらいだな。春香と出会ってから約半年、まあ大変《たいへん》なことも多々あったが、それ以上に楽しいことがたくさんあった。プラマイ補正《ほせい》は間違《まちが》いなくプラスと言っていい。
「それに――」
「ん?」
「そ、それにですね――」
春香《はるか》は一度そこで言葉《ことば》を切ると、
「ゆ、裕人《ゆうと》さんといっしょにいると、何だか安心できるんです……」
こてり、と肩《かた》に僅《わず》かな重みがかかる。
見ると……柔《やわ》らかな香《かお》りがする春香の髪《かみ》が、すぐ目の前にあった。
「は、春香!?」
一瞬《いっしゅん》、状況《じょうきょう》が理解《りかい》できずに思わず大声を出してしまった。
春香がはっとした表情になる。
「あ、ご、ごめんなさいっ。私、調子《ちょうし》に乗っちゃって! お祝いのシャンメリーを少し飲みすぎちゃったのかな……」
「い、いや……」
むしろもっと乗りまくってくださいって感じである。
「ほ、ほんとにすみませんっ」
真っ赤な顔で慌《あわ》てて頭を離《はな》した春香に。
「あー、そのままで構《かま》わんから」
「え、で、でも」
「いいから」
「…………はい、です」
遠慮《えんりょ》がちに、でも確かな意思《いし》を感じさせる動きで再度《さいど》頭を乗っけてくる春香。
「……」
「……」
そのまま、二人とも黙《だま》り込《こ》む。
「……」
「……」
空には己《おのれ》の存在《そんざい》を自己主張《じこしゅちょう》をするかのようにキラキラと輝《かがや》く星々。
辺《あた》りに響《ひび》くのは、寄《よ》せては返す波のゆるやかなリズムと、風でサラサラと揺《ゆ》れるヤシの木の影《かげ》。
あり得《え》ないくらいのロマンチックなシチュエーションだった。
いやロマンチックだとかは自分で言うのはめちゃくちゃ恥《は》ずかしいんだが、俺の貧弱《ひんじゃく》なボキヤブラリーじゃこの場の雰囲気《ふんいき》を表現する言葉《ことば》が他には見つからん。
……うーむ。
ここは肩《かた》に手くらい回すべきなんだろうか。
客観的《きゃっかんてき》に考えると、それくらいしてもいいシチュエーションな気もする。個人的にもやりたいとも思うし、男としてもやるべきなんじゃないかとも思う。
よ、よし。ここは思い切って――
と、そこであることに思い至《いた》った。
――そういや、こういう時には必《かなら》ず……
いつもなら大抵《たいてい》このヘンで、あの無ロメイド長さんやらにっこりメイドさん、かしましツインテール娘あたりが背後《はいご》から突然《とつぜん》現れる頃《ころ》である。
ダチョウのように素早《すばや》く首を動かして周囲《しゅうい》の様子《ようす》を窺《うかが》うが、辺《あた》りに人の姿《すがた》はない。さすがに毎回毎回同じようなパターンでジャマが入るわけじゃないってことか?
何にせよ、ここは見晴らしのいい砂浜である。何者かが接近《せっきん》してこようもんならいくら何でもすぐに分かるだろう。
――ってことは。
ちらりと横を見る。
今度こそ、途中《とちゅう》で妨害《ぼうがい》(?)が入ることはないってことか?
すぐ隣には俺の肩に頭を預《あず》けてお昼寝中の仔犬《こいぬ》みたいに安らかな顔をする春香《はるか》の姿《すがた》。
ごくりとツバを飲み込む。
ならばここはもう思い切って勝負に出るべきだろう。
俺は覚悟《かくご》を決めて、緊張《きんちょう》で震《ふる》える手を春香《はるか》の肩《かた》にそっと回すと――
「え、裕人《ゆうと》さん?」
春香の身体がびくりと震えた。
「あ、あああの……?」
「あ、あー、いや」
予想外《よそうがい》の過剰《かじょう》な反応《はんのう》に、思わず手を離《はな》す。やばい、少しばかりいい雰囲気《ふんいき》だったからって調子《ちょうし》に乗りすぎたか?
「わ、悪い。イヤだったか? そのこれはだな……」
しどろもどろになりながらも言《い》い訳《わけ》をしようとして。
「……イヤじゃ、ないです」
「え?」
「そ、その、今はいきなりのことで少しびっくりしただけで……全然、イヤなんてことはありません」
「春香……」
「だ、だから……その、ど、どんどんとやっちゃってください」
両手をぐっと握《にぎ》り締《し》めてそんなことを言ってくる。いやその表現には色々と問題があるような気もするんだが……
ともあれ許可《きょか》(?)は出た。
とすれば、あとは行動に出るのみである。
「そ、それじゃいくそ」
「は、はい」
ゆっくりと、春香の肩へと手を回す。緊張した様子《ようす》だったが、春香はそれを受け入れてくれた。
「ゆ、裕人さんの手……あったかいです」
「そ、そうか?」
「はい、とっても……」
回した手に、そっと春香の手が重ねられた。柔《やわ》らかく暖《あたた》かいその感触《かんしよく》に、胸《むね》がひとりでにビクンと鳴動《めいどう》する。なんかものすごくいい雰囲気なんじゃないのか、これ。
その時だった。
「きゃっ」
ふいに、突風《とっぷう》が辺《あた》りを吹《ふ》き荒《あ》れた。
砂を舞《ま》い上《あ》げ、春香《はるか》の髪《かみ》を乱《みだ》すほどの強い風。
とつさに春香をかばい、その頭を抱《だ》きかかえる。
「大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「あ、はい。何とか……」
俺の腕《うで》の中で春香が顔を上げ――
「おっ」
「あ……」
見事《みごと》に、視線《しせん》が交錯《こうさく》した。
それぞれの目に映《うつ》っているのは互《たが》いの目と顔のみ。それ以外のものは何もない。
「春香……」
「ゆ、裕《ゆうと》人さん……」
だが気恥《きは》ずかしいことこの上ない状況《じょうきょう》なはずなのに、お互いになぜか目を逸《そ》らせなかった。
コンビニとかにある誘蛾灯《ゆうがとう》に引き付けられたカナブンのように、俺たちの視線は一直線に互いの瞳孔《どうこう》と網膜《もうまく》と水晶体《すいしょうたい》へと向けられたままぴくりとも動かない。
そんな状態《じょうたい》のままどれくらい経《た》ったか。
「………………あ、あの」
「あ、ああ」
「わ、私、その……」
つぶやくと、何かを決意したかのような春香はそのまま恥《は》ずかしそうにこっくりとうなずき。
「――!?」
思い切ったかのように、そのマブタがぐっと閉《と》じられた。
俺の服を掴《つか》んでいた細い手にきゅっと力がこめられ、胸《むね》にかかった重みが少しだけ増《ま》す。
「……」
い、いやこれはアレだよな、その、オッケーってことだよな?
自問する。
どう考えても、これはそれ(オッケー)以外の何でもあるまい。
今までのいまいち何が何だか分からなかった状況(いつかの乃木坂邸《のぎざかてい》での勉強会、ロンドンの控《ひか》え室《しつ》など)とは違《ちが》って、今のこれは確実《かくじつ》に突撃《とつげき》すべきタイミングであることはもうイヌも歩けば道端《みちばた》に落ちている棒付《ぼうつ》きキャンディーを拾い食いするくらいに間違《まちが》いがない。いや自分でもだんだん何を言ってんだか分からなくなってきたが、とにかく現在の状況は全てにおいて俺にゴーサインを出している。
よ、よし!
ここで行かなきゃ男じゃない。いや漢《おとこ》じゃない
不退転《ふたいてん》な決意とともに、春香の華奢《きゃしゃ》な両|肩《かた》をつかむ。
手が触《ふ》れた時に一瞬《いっしゅん》だけぴくりと震《ふる》えたが、すぐに力は抜《ぬ》け、アゴの下を撫《な》でられた仔犬《こいぬ》のようになすがままになった。
「……」
目の前には春香《はるか》の顔。
白くてつややかな肌《はだ》。長いまつ毛。そして……桜色をした唇《くちびる》。
「……」
春香の顔が近づいてくる。
いや俺の顔が春香に近づいているのか。
三十センチ。
十五センチ。
あと……五センチ。
来るべき時を目前《もくぜん》に控《ひか》え、俺も目をつむったまさにその時。
ゴウ! と。
再《ふたた》び突風《とっぷう》が辺《あた》りを吹《ふ》き荒《あ》れた。
「!?」
さつきのよりも遥《はる》かに強い風。
ヤシの木が大きく揺《ゆ》れ、砂が舞《ま》い上《あ》がり、穏《おだ》やかだった海面が大きく波立つ。
そして――
「……申《もう》し訳《わけ》ありませんが、タイムリミットです」
「うおっ!?」
頭上から[#「頭上から」に傍点]湖面《こめん》のように静かな声が響《ひび》いた。
声の元を辿《たど》って首を上げると……そこには風をまとった巨大なヘリがほとんど音もなくホバリングしていて、その中ではエプロンドレス姿《すがた》のメイド長さんが直立不動《ちょくりつふどう》の姿勢《しせい》て立っていた。
「……」
驚《おどろ》きで、もう声も出なかった。
腕《うで》の中の春香も、宙を見上げたまま完全に固《かた》まってしまっている。
「……高いところから失礼します。しかしもう時間がありませんでしたので」
「じ、時間?」
「 はい」
うなずき、葉月《はづき》さんはそのまま音もなくヘリから飛び立つと空中できゅるきゅると三回転半して、見事《みごと》な姿勢|制御《せいぎょ》で砂浜へと降《お》り立《た》った。
「……日本へと帰国する時間です。時差の関係もありますので、これ以上|遅《おく》れてしまうと明日の学校に間に合わなくなってしまいます。結果《けっか》としてお二人のお邪魔《じゃま》をしてしまったことはとても心苦しいのですが……」
「日本って……」
まさか日帰りするつもりなのか? この赤道直下のハッピースプリング島から?
「ルコ様と由香里《ゆかり》様は、すでに樹里《じゅり》さんの第六|天魔王《てんまおう》≠ナお帰りになられました。春香《はるか》様と裕人《ゆうと》様には、美夏《みか》様とともに菖蒲《あやめ》さんの始皇帝《しこうてい》≠使っていただきたいと思います。あちらは冬将軍≠ニ違《ちが》って八人乗りでかつ特注リクライニングシートを採用《さいよう》していますので、ゆったり快適な空の旅が楽しめますよ」
「……」
それはつまり冬将軍≠ヘゆったりでなくかつ快適《かいてき》でないってことなのか?
すると無ロメイド長さんは、しれっとこう言ったのだった。
「冬将軍≠ヘ速度最重視《そくどさいじゅうし》の機体ですので」
6
そして再《ふたた》び四時間の空の旅を経《へ》て。
「そ、それでは裕人さん、また学校で」
「ばいば〜い、おに〜さん」
「……失礼します」
家の真ん前の道から垂直離陸《すいちょくりりく》して去っていく戦闘機《せんとうき》(始皇帝)を見送り。
実に丸一日ぶりとなる我が家の玄関《げんかん》をくぐる頃《ころ》には、すでに空は東の方から薄《う》っすらと白《しら》み始めていた。
「ふわあ……」
戦闘機の中で少し寝《ね》たとはいえそれも四時間ほどの話である。日頃《ひぐろ》から一日八時間|睡眠《すいみん》を目標《もくひょう》としている俺にはそれじゃ全然足りない。
アクビをしながら家の中に入ると、リビングのソファの上にはいまだに死んだように熟睡《じゅくすい》を続けるダメ姉とその親友の姿《すがた》があった。
「……」
おそらくメイド隊の人たちの手によってここまで搬送《はんそう》されたんだろう。こんな重い荷物《にもつ》を運ぶことになったメイドさんたちを、ご苦労様と心から労《ねぎら》ってあげたい気分だった。
「ほら、起きろって」
ソファを揺《ゆ》すりながら声をかける。
この二人も今日はそれぞれ会社と学校があるはずだ。もう起きないといいかげんにまずいだろう。
「む、むう……まさかそこで下段斬《げだんぎ》りがくるとは……」
「ん、ん〜……そこはダメだってば、場所が違《ちが》う……」
ワケノワカラン寝言《ねごと》を言いながらも、それでもしばらく揺《ゆ》すってやるとようやく意識《いしき》を回復《かいふく》したようだった。二人は冬眠明《とうみんあ》けのイノシシのようにもぞもぞと鈍《にぶ》く動き出した。
「……ん、ん〜、おはよ、裕《ゆう》くん……」
「……もう、朝か……」
ものすごくダルそうに起き上がる二人。
「ん〜……なんかみんなで南の島に行った夢を見てたような気がするんだけど、気のせいかしらね〜……」
「む? 偶然《ぐうぜん》だな、私もそのような夢を見ていたぞ。確か筋骨《きんこつ》たくましいご老人と手合わせの約束《やくそく》をした覚《おぼ》えがあるのだが……」
「……」
夢じゃねえよ。
おまけにこの二人、寝《ね》ているうちにそうなったのか、ほとんど服を着てるんだか着てないんだか分からんくらいのあられもない格好《かっこう》だった。
「とりあえずちゃんと服を着てくれ……」
普段《ふだん》からこの二人のそういう姿《すがた》には見慣《みな》れてるとはいえ、朝っぱらからはさすがに刺激的《しげきてき》すぎるというか、目に余《あま》る状態《じょうたい》である。
「あ〜、うん。でもその前にシャワー借りてもいいかしら。 酔《よ》い覚《ざ》ましに」
「……そうだな。私もそうしたいと思っていたところだ……」
この上なくバカでかいウワバミ(長さにして二十メートルくらい)であるこの二人も、さすがに今回ばかりはダメージなしとはいかないようだった。
青い顔をしながら、ふらふらと頼《たよ》りない足取りで風呂場《ふろば》へと消えていった。
「…………朝メシでも作るか」
まあやつらは百二十パーセント自業自得《じごうじとく》である。
とりあえず大根おろし(二日|酔《よ》いに効《き》くらしい)くらいは作ってやるとして、後は自力で何とかしてくれって感じだな。
で、登校する。
「あ、お、おはようございます、裕人さん」
教室に入ると、もうすでに登校してきていた春香《はるか》が迎えてくれた。
「きょ、今日もいい天気ですね」
「ああ、そうだな」
いつも通りの可憐《かれん》な姿《すがた》なんだが、その表情が若干《じゃっかん》ぎこちないように見えるのは、やはり約五
時間前の砂浜でのアレが影響《えいきょう》してるんだろう。あと一歩、あと数センチまで行ったあのニアミスな出来事《できごと》。もしも葉月《はづき》さんが来るのがあと一分|遅《おそ》かったら……って、思い出したら何だか俺まで恥《は》ずかしくなってきたな。
「……」
「……」
照《て》れくさいような決まりが悪いような、なんとも微妙《びみょう》な空気が流れる。
「……」
「……」
「――あ、あの、昨日は本当にありがとうございました」
そんな空気を振《ふ》り払《はら》うかのように、春香《はるか》が笑《え》みを浮《う》かべて言った。
「ふいぎゅあとオルゴール、本当に嬉《うれ》しかったです。さっそく大切にお部屋《へや》に飾《かざ》らせてもらっています」
「あ、あー、気に入ってくれたならよかった」
「はい、とっても♪」
ちょっとだけイタズラっぼく笑って、スカートの裾《すそ》をちょこんと摘《つま》む。その一見《いっけん》すると何だかよく分からん動きは、あのフィギュアがやっていたポーズ(はにトラポーズ≠セったか)である。
その一ポーズで空気が元に戻《もど》ったような気がした。
まあ……難しく考えることはないんだよな。
アレ(砂浜での一件)は別にその場の勢《いきお》いとか流れとかそういうわけじゃないが、あんまり意識《いしき》しすぎてもかえってワケが分からなくなるだけである。物事なんてなるようにしかならんわけだし、変に肩肘《かたひじ》を張《は》らずに普通《ふつう》にしてればいいんだろう、きっと。
キーンコーンカーンコーン……
と、そこで予鈴《よれい》が鳴《な》った。
「お、もうこんな時間か」
「ホームルーム、始まっちゃいますね」
「ああ、またな、春香――」
席に着こうとして、
「あ、そうです、裕人《ゆうと》さん」
春香が思い出したかのようにぱふっと手を叩《たた》いた。
「あの……よろしかったら今日もまた、お昼ご飯をいっしょに食べませんか?」
「え?」
「あ、そ、その、もちろんお時間があったらの話ですけど……」
少しもじもじとしながら訊《き》いてくる。
昼って、まさかまたお弁当でも作ってきてくれたんだろうか。いやでも春香が帰宅したのは俺よりも遅《おそ》かったはずだし、そんな時間があるとは思えんのだが……
すると。
「実は今日、葉月《はづき》さんと那波《ななみ》さんがお弁当を作ってお昼に届《とど》けてくださることになってるんです。きっと一人では食べきれないほどたくさん作ってくださると思いますので……どうでしょう?」
「ああ、そういうことなら」
喜んでごいっしょさせてもらおう。どうせ今日も昼は学食の予定だったし、まあ届けに来るのがあのメイドさん二人だってのが少々アレだが(色々からかわれるだろうしな)、それを差し引いても春香《はるか》といっしょに昼メシが食えるひと時ってのは捨てがたいもんである。
「ほんとですか? 良かった、葉月さんと那波さんも喜びます」
「んじゃ、昼休みにな」
「はいっ」
にこにこ顔の春香に手を振《ふ》って、俺は自分の席へと向かった。
「……は〜い……それじゃホームルームを始めるわよ〜……うぶっ」
臨終《りんじゅう》直前のナマズみたいな声で由香里《ゆかり》さんが言う。
一時問目のロングホームルーム。
何とか学校まで来ることはできたようだが、どうやらそれが精一杯《せいいっぱい》だったようで、今にもぶっ倒《たお》れそうな顔で力なく教卓《きょうたく》の縁《ふち》に寄りかかっている。
「……今日は〜……来るべき文化祭に向けて実行委員を決めたりクラスでの出し物を決めたりと〜、色々と決めなきゃいけないことがあります〜……。でもその前に一つ大きなお報《しら》せが…………おえっ」
由香里さんが口元を押《お》さえて身体の内側から昇《のぼ》り来《く》る何かに耐《た》えるような様子《ようす》を見せた。おそらく限界《げんかい》まで酷使《こくし》された胃腸《いちょう》が暴動《ぼうどう》を起こしたんだろう。さわやかな朝の景色《けしき》にふさわしくない実にどんよりとした空気がそこにだけ漂《ただよ》っていた。
やがて波が去ったのか、由香里さんは再び顔を上げ、
「あー、一つ大きなお報せがあります。……今日から、このクラスに新しい仲間が加わることになりました。ま〜、平たく言えば転校生ってやつです……」
おー! と、期待《きたい》に満《み》ちた歓声《かんせい》が教室内に響《ひび》き渡《わた》る。
だがその大きな声が胃に響《ひび》いたのか、由香里さんは「……うっ」と再《ふたた》び顔を歪《ゆが》めて、
「……はい、では入ってきていいわよ〜……」
ほとんど死にそうなそんな声とともに、がらりと教室の扉《とびら》が開かれる。軽《かろ》やかな足取りで入ってきたその転校生は――
「……ん?」
なんか、見覚《みおぼ》えがある顔だった。
フレンドリーそうな瞳《ひとみ》にシャギー入りのショートカット。教室内を興味深《きようみぶか》そうに見回しながら、楽しそうに笑《え》みを浮《う》かべている。
「……」
まだ疲《つか》れが残ってるんだろうか。
見覚えがあるというか、ほんの十日ほど前に見た顔のような気がするんだが。
「……じゃあ適当《てきとう》に自己紹介《じこしょうかい》してちょうだい……」
「はいっ!」
だがそんな俺の戸惑《とまど》いをヨソに。
その転校生は大きな声でこう自己紹介をしたのだった。
「天宮椎菜《あまみやしいな》です。天気の天に宮城県《みやぎけん》の宮、椎の木の椎に、菜っ葉の菜って書きます。趣味《しゅみ》はピアノと薙刀《なぎなた》で、座右《ざゆう》の銘《めい》は『先手必殺《せんてひっさつ》』。よろしくっ!」
[#地付き]To be Continued
[#改ページ]
あとがき
こんにちは、五十嵐雄策です。
『乃木坂春香の秘密』三巻をお届けします。
さて今回はシリーズ初の続き物、というか次巻への引きというものが多少あったりする構成《こうせい》になっています。とはいってもそんなに大げさなものではなく、話自体はいちおう完結《かんけつ》しておりますので、今巻単体でも楽しめるものとなっていると思います。いえもちろん次巻も読んでいただければそれに越《こ》したことはないのですが……などとさりげなく宣伝《せんでん》をしてみたり。
次はいちおう文化祭を予定しております。おそらく夏くらいまでには出せる……といいなーと思っています。
以下はこの本を出すにあたってお世話《せわ》になった方々に感謝《かんしゃ》の言葉《ことば》を。
毎回|的確《てきかく》な指摘《してき》で本作をカバーしてくださる担当編集の和田様と三木様。そろそろ昼寝《ひるね》の時間は一日二時間から一時間半に減《へ》らそうと思います。
イラストのしゃあ様。現時点(九月)ではまだ拝見《はいけん》していませんが、今回もきっと素晴《すば》らしいイラストが表紙及び挿絵《さしえ》を飾《かざ》ってくれていると確信《かくしん》しております。
取材《しゅざい》でお世話になったアニメイト秋葉原店《あきはばらてん》の村上《むらかみ》様、成瀬《なるせ》様。あれだけ丁寧《ていねい》に店内を上(七階)から下(地下一階)まで案内していただいた割には本編での描写《びょうしゃ》があまり多くないというアレなことになっていますが、その節《せつ》は本当にありがとうございました。
そして最後になりますが、何よりもこの本を手にとってくださった読者の皆様に深い感謝を。
それではまた再《ふたた》びお会いできることを願って――
[#地付き]二〇〇五年九月末日 五十嵐雄策