乃木坂春香の秘密2
五十嵐雄策
イラスト◎しゃあ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)銘《めい》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)長期|休暇《きゅうか》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)それは俺が春香と出会っていたってことだ。[#「それは俺が春香と出会っていたってことだ。」に傍点]
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夏休みだった。
別名、夏季自宅学習期間と銘《めい》打たれた七月後半から八月にかけての長期|休暇《きゅうか》。
まあ長期休暇とはいっても、実のところ俺にとっては学園が休みなだけで生活自体は日曜日やら普通《ふつう》の休日やらとそう変わらないものだったりもする。
家でナマケモノ(哺乳類《ほにゅうるい》アリクイ目《もく》)のようにゴロゴロとしたりルコに馬車馬のごとくこき使われたり信長《のぶなが》に金魚のフンみたいに連《つ》れ回《まわ》されたり、そんな代《か》わり映《ば》えのしない毎日が続いて気付けば八月三十一日になっている。だいたいがそんなもんだ。
俺にとっての夏休みは、特別なものでも何でもない、ただの休日の集合体だった。
……去年まではな。
しかし今年の夏は一味違《ちが》った。
八月に入ってから、荒《あ》れ狂《くる》うハリケーンのごとき勢《いきお》いでいきなりやってきたハプニングの数々。代わり映えのしない夏休みが、一気に新鮮味《しんせんみ》溢《あふ》れるモノとなった。
理由《りゆう》? そんなものは決まっている。
俺を取《と》り巻《ま》く状況《じょうきょう》において、去年と今年とで唯一《ゆいいつ》にして最も大きく異《こと》なる点。
それは俺が春香と出会っていたってことだ。[#「それは俺が春香と出会っていたってことだ。」に傍点]
乃木坂春香《のぎざかはるか》。
容姿《ようし》端麗《たんれい》頭脳《ずのう》明晰《めいせき》才色兼備《さいしょくけんび》。学園には会員数が三桁《さんけた》を超《こ》すファンクラブがあって、『||白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』の二つ名で呼《よ》ばれる生粋《きっすい》のお嬢《じょう》様。
そんなほとんど違《ちが》う星の住人みたいな存在《そんざい》の春香と、取り立てて特徴《とくちょう》のないこの上なく一般|庶民《しょみん》な俺が知り合うこととなったのは、今から約四ヶ月前のことである。春香がひた隠《かく》しにしていたある秘密《ひみつ》を俺が知ってしまったことから、俺たちの少しばかり不思議《ふしぎ》かつ複雑な関係が始まったのだ。
この四ヶ月、春香と春香の秘密・及びそれを巡《めぐ》る人々との間では様々な出来事《できごと》があった。
図書室|半壊《はんかい》事件=E初めてのお買い物=E乃木坂|邸《てい》での勉強会=Eカタログ露出《ろしゅつ》事件=Aその他もろもろ。
それまで体験したことのない日常《にちじょう》のオンパレード。
春香と出会って以来、俺の退屈《たいくつ》な日常は確実に変化したと言える。
そして。
どうやらその変化ってやつは、夏休みにおいてもばっちり適用《てきよう》されるものであったらしい。
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八月の頭の月曜日。
外ではセミがじーじーじーじーと狂《くる》ったように鳴《な》きまくっていて、蝉時雨《せみしぐれ》というかもうほとんど蝉豪雨《せみごうう》といった風情《ふぜい》であり、はっきりいってやかましいことこの上ないのでいっそのことそこら中の木々にホースでもって水でもぶっかけて回ってやろうかという思いにとらわれるような暑い夏の日だった。
俺は自宅の居間《いま》のソファの上で一人、ごろごろだらだらとテレビを見ていた。
「ふあ……」
ヒマだった。
時間を持《も》て余《あま》してペットの世話《せわ》に一日の大半を費《つい》やす有閑《ゆうかん》マダムくらいにヒマだった。
夏休みに入って早二週間。初日に春香《はるか》の家に行って以来、特に大きなイベントもなくだらだらとした日々が続いている。
ここ最近でやったことといえば、幼馴染《おさななじみ》である朝倉信長《あさくらのぶなが》にゲームを買いに行くのを付き合わされたり、マンガを買いに行くのを付き合わされたり、DVDを買いに行くのを付き合わされたりしたことくらい。……なんか見事《みごと》に全部、信長|絡《がら》みだな。
いや夏ってこういうもんじゃないだろ?
女の子と海やプールに行ったりだとか、お祭りに行ったりだとか花火をしたりだとか、もっとこう、迸《ほとばし》る青春を感じさせるイベントがあってもいいんじゃないのか?
とは思うのだが、思ってみたところで現実は変わらない。
現実の俺の夏休みは、信長に引《ひ》っ張《ぱ》り回《まわ》されたり、炊事《すいじ》洗濯《せんたく》掃除《そうじ》をしたり、飼《か》っているミドリガメ(名前:ビッグガメラ)の世話をしたりなどがその八割を占《し》めるという、自分で言うのもアレだがきわめて地味《じみ》なものなのだ。……春香も、あれから連絡くれないし。まあお嬢《じょう》様で才色兼備《さいしょくけんび》で『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』の二つ名で呼《よ》ばれるくらいの春香だから、夏休みとはいえ色々と忙《いそが》しくて俺なんかに構《かま》ってるヒマがないだけなのかもしれんが。
「ふあ……」
俺はソファの上で再度《さいど》、大きなアクビをした。
サウナのように暑い外に比べて、エアコンの効《き》いた室内は天国のように快適《かいてき》である。
テレビでは毎年|恒例《こうれい》の怪奇《かいき》特集が行われており、中年の司会者がUFOの信憑性《しんぴょうせい》についてむやみやたらと熱《あつ》い口調《くちょう》で語っていた。「――というわけでアメリカでは、宇宙人と遭遇《そうぐう》した人のところにはどこからともなく黒服のエージェントたちがやって来てその記憶《きおく》を抹消《まっしょう》するという――」
と、その時だった。
くっくどぅ〜どぅ〜どぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜。
玄関《げんかん》の方から、そんな異音《いおん》が飛び込んできた。
何度聞いても脱力《だつりょく》すること請《う》け合《あ》いのとてつもなくマヌケな音。
いや……説明するのもアホらしいんだが、あれはチャイムの音なのである。「普通《ふつう》の音には飽《あ》きた。外国産ニワトリの鳴《な》き声《ごえ》がいい」とか言い出したうちの姉上様が、少し前に俺に命令して付《つ》け替《か》えさせた代物《しろもの》だった。……ほんと、何考えて生きてるんだろう。というか変えたいなら自分で変えろ。
まあそんな限《かぎ》りない身内の恥《はじ》はともかく。
今、この家には俺の他に人はいない。
両親は仕事で忙《いそが》しくもともとほとんど帰ってこないし、チャイムの音を変えさせただれかさんは朝からどこぞの音楽教師の家に遊びに行ってそのままだった。
くっくどぅ〜どぅ〜どぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜。
よって必然的《ひつぜんてき》に、応対《たいおう》に出なければならない義務《ぎむ》は俺に課《か》せられることになる。どうせ勧誘《かんゆう》か何かだろうが、宅配便《たくはいびん》とかの可能性《かのうせい》もないわけじゃないので出ないわけにもいかない。
くっくどぅ〜どぅ〜どぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜。
そんなことを考えている間にも、間《ま》の抜《ぬ》けた音は断続的《だんぞくてき》に響《ひび》いてくる。あー、もう鬱陶《うっとう》しい。
今出るからちょっと待て。
玄関に向かうべく、俺は満腹《まんぷく》のシロクマのようにのっそりとソファから起き上がろうとして――
ドガン!
いきなり居間《いま》のドアが勢《いきお》いよく弾《はじ》け飛《と》んだ。
「なっ……!?」
あっけに取られる俺の眼前《がんぜん》でドアが発泡《はっぽう》スチロールのように高々と宙《ちゅう》を舞《ま》い、そのままテレビにぶつかってもろともに床《ゆか》に落ちた。
「はじめまして〜、綾瀬裕人《あやせゆうと》様ですね?」
そしてやたらと明るい声とともにドアのあった場所から現れたのは……真っ黒なサングラスをかけたメイドさん(ノーマルヴァージョン)だった。その手には何やら巨大なハンマーのようなものを持っている。
「いい子で待っていましたか〜? 那波《ななみ》さんが、お迎えに来ましたですよ〜」
「……」
「何度か呼《よ》び鈴《りん》を鳴らしたものの、お返事がないようなので、少々|乱暴《らんぼう》ですがこじ開けさせてもらいました〜」
「……」
こじ開けたって……いやこれ、どう見てもそんなかわいいもんじゃないだろ。明らかに吹っ飛んでたぞ?
メイドさん(サングラス付き)が俺を見た。
「ええと、お話は聞いていますよね? すみませんが、今から私といっしょに来ていただきますよ〜」
「……お話?」
いったい何のことだ? あいにく記憶力《きおくりょく》にはシャモほどしか自信はないが、それでも見知らぬメイドさん(サングラス付き)にいきなり自宅の居間《いま》にまで不法侵入《ふほうしんにゅう》されるお話などきれいさっぱり聞いた覚《おぼ》がないと断言《だんげん》できる。しかもこのメイドさん、破壊《はかい》したドアについては完全にスルーだし。
俺の反応《はんのう》に、メイドさん(サングラス付き)は小首をかしげた。
「あらら? おかしいですね〜。う〜ん。どっかで手違《てちが》いがあったのかな? ――えっと、まあいいです。あんまり時間がないようなので、とりあえず来ちゃってください」
メイドさん(サングラス付き)がぱちりと指を鳴《な》らすと、いきなり左右から二つの黒い影《かげ》が飛びかってきた。黒地に白のエプロンドレス……って、こっちもメイドさん!? 驚《おどろ》いていると、俺の身体はあっという問《ま》に二人のメイドさんに抱《かか》え上《あ》げられてしまった。どういうワザを使っているのか、まったく抵抗《ていこう》ができない。
「タ、ターゲット、確保しました。い、いかがいたしましょうか、那波《ななみ》さん」
ロングヘアーにメガネをかけた気弱そうなメイドさん(A)が、メイドさん(サングラス付き)に問う。
「え〜と、そうですね……車まで運んじゃいます。失礼のないようにしてくださいね」
「りょ、了解《りょうかい》いたしました」
「裕人《ゆうと》様、失礼いたします」
もう一人の、ポニーテールのメイドさん(B)がそう言って歩き出す。
そのまま引越し荷物《にもつ》のように運ばれていく俺。
な、何だいったい? 誘拐《ゆうかい》? 人さらい?  |M I B《メイド・イン・ブラック》?
ワケが分からないまま俺が連《つ》れて(運んで)いかれた先には――
――真っ黒なロールスロイスがあった。
それ一台でおそらくルコ所有のボロ車が百台以上買えるであろう、十円キズに狙《ねら》われ易《やす》いランキングナンバーワン(俺内)の最高級車。
「それではどうぞこちらに〜」
メイドさん(サングラス付き)によって黒光りするドアが開かれ、そのまま俺は有無《うむ》を言わさず車の中に押し込められる。どさり。それと同時に、ロールスロイスは静かな排気音《はいきおん》とともに動き始めた。
ここまでの所要《しょよう》時間、僅《わず》か三分。
見事《みごと》なまでの人さらいの手際《てぎわ》である。
「ほんと何なんだいったい……」
まったくもってさっぱり状況《じょうきょう》がつかめず暗闇《くらやみ》の中に放《はな》されたアホウドリみたいに混乱《こんらん》する俺に。
「こんにちは、おに〜さん♪」
突然《とつぜん》、声がかけられた。
「ひさしぶりだね〜、一ヶ月ぶりくらい? 元気してた?」
ものすごく聞《き》き覚《おぼ》のある舌《した》ったらずな声。
振《ふ》り返《かえ》ってみるとそこには――
「み、美夏《みか》?」
にっこりと笑ってウインクをする、乃木坂家《のぎざかけ》の次女の姿《すがた》があった。
「ん? な〜に、その真っ昼間にドラキュラでも見た牧師《ぼくし》さんみたいな顔。う〜ん、かわいい美夏ちゃんに会えて嬉《うれ》しいのは分かるけど、ちょっとリアクション大きすぎかな〜」
「……」
――いや、何で美夏がここに?
何が何だか全然《ぜんぜん》分からずに停止《ていし》する俺をヨソに、美夏は続ける。
「それより聞いたよ〜、この前わたしが奈良《なら》に狩猟《しゅりょう》に行っていなかった時に、うちに遊びに来たんだってね〜。部屋《へや》でお姉ちゃんと二人きりでいいムードになってたとか? このこの〜、おに〜さんもやるじゃん」
「……」
「この分だとおに〜さんがお義兄《にい》さんになる日も近いのかな〜。あ、ちなみにこれ、その時のお土産《みやげ》ね」
ぽん、と手渡《てわた》されたのは奈良名物の鹿《しか》センベイ。……鹿センベイ?
「……」
「えーと、おに〜さん、物をもらったらちゃんとお礼くらいは言うべきだと思うよ?」
「…………え? あ、ああ、さんきゅ――って、そうじゃない!」
ようやく我に返り、俺は人差し指を左右に振る美夏に突っ込みを入れた。
ここにいるということは、つまりこの人さらい(及び不法侵入《ふほうしんにゅう》、器物損壊《きぶつそんかい》)の首謀者《しゅぼうしゃ》は美夏ということになる。いきなりメイドさんを使って人を拉致《らち》しておいて鹿センベイも何もあったもんじゃないだろ。
だが美夏はあっけらかんとした顔で。
「ん? そんなに興奮《こうふん》してどしたの? 叫《さけ》ぶほど鹿《しか》センベイが嬉《うれ》しかったとか? うんうん、八《や》つ橋《はし》にしようか小一時間くらい迷《まよ》ったんだけど、こっちにして正解だったな〜」
「……いや、そこは迷わずに八つ橋を選ぶとこだと思うぞ」
三秒で即決《そっけつ》する場面だ。
「そかな〜。鹿センベイ、美味《おい》しいよ?」
「そういう問題じゃなくてだな……ていうか、ひょっとして食べたのか?」
「うん。美味しそうだったから」
満面《まんめん》の笑《え》みを浮《う》かべる美夏《みか》。
一瞬《いっしゅん》情景《じょうけい》を想像《そうぞう》する。奈良《なら》の鹿だらけ公園(正式|名称《めいしょう》は忘《わす》れた)で、たくさんの鹿といっしょに鹿センベイを美味しそうにむしゃむしゃと食べる美夏の姿《すがた》。
……どういうお嬢《じょう》様だ。
って、また話が逸《そ》れたが、俺が訊《き》きたいのはこんなこと(鹿センベイについての考察《こうさつ》)じゃないんだよ。
「何で突然《とつぜん》こんなことを――?」
「こんなこと?」
「ああ、こんな人さらいみたいな……」
というか客観的《きゃっかんてき》に見たらまんま人さらいだが。
俺の疑問に、美夏は不思議《ふしぎ》そうにこう答えた。
「ん〜、おに〜さんが何言ってるんだかいまいち分かんないんだけど……わたしはおに〜さんを迎えに来ただけだよ? これからお姉ちゃんのピアノのコンクールに行くから」
「ピアノの、コンクール?」
って、春香《はるか》の?
「うん、そ。もちろんおに〜さんも応援《おうえん》に行くでしょ?」
「そりゃあ……」
春香のピアノコンクールである。それが行われるというのなら何を差し置いてでも、それこそ姉とその親友を質《しち》に入れてでも駆《か》けつけるだろう。そのこと自体はもう決定|事項《じこう》である。完全決定事項である。
だからそれ自体はいい。いいんだが……
ただ問題は……その話を初めて聞いたのが、今まさにこの場所(ロールスロイス内)この時間(コンクール当日の昼下がり)だということにある。いきなりすぎることこの上ない。普通《ふつう》こういうことは、最低でも三日前くらいには伝《つた》えておくもんじゃないのか?
その旨《むね》を訴《うった》えると、美夏は心外《しんがい》そうに頬《ほお》を膨《ふく》らませた。
「え〜、わたし、ちゃんと言ったよ? えっと、一昨日《おととい》のお昼|頃《ごろ》だったかな、お姉ちゃんが忙《いそが》しかったみたいだから、わたしが代わりにおに〜さんの家に電話したんだけど」
「一昨日《おととい》?」
記憶《きおく》を手繰《たぐ》る。確かその日は、信長《のぶなが》に付き合わされて新宿で『はにかみトライアングル2ndシーズンDVD第一巻初回限定フィギュア付きヴァージョン・タイプ|N《ネコマタ》』(長い……)とやらの探索《たんさく》をしていたはずである。
「うん、でもおに〜さん、いなかったよね。だから電話に出たおね〜さんに、伝《つた》えておいてくれるように頼《たの》んどいたんだよ。『明後日、お姉ちゃんのピアノのコンクールがあるから、お昼くらいに迎えに行くんでよろしく♪』って」
「……おねーさん?」
「うん。なんか武士《ぶし》みたいな喋《しゃべ》り方《かた》する人」
……ルコか。
しかしやつとは昨夜と今朝に会っているはずだが、そんなことは一言も言っていなかった。
台所にある家族間連絡用のホワイトボードにも何も書かれてなかったし、メールでもそんな内容のものは
ズズズズーン♪
と、その時、携帯《けいたい》電話が不気味《ぶきみ》な音で鳴《な》り響《ひび》きメールの着信を告《つ》げた。『ワルキューレの騎行《きこう》』。そこに書かれていたのは――
『今思い出したのだが、そういえば今日の昼|頃《ごろ》に、お前を迎えにだれかが来るそうだ』
遅《おそ》いわ!
思わず携帯を床《ゆか》に叩《たた》きつけたくなった。……あのバカ姉。
しかもこの人、電話がだれからかかってきたのかすらもまともに認識《にんしき》していない。電話の応対《たいおう》として下《げ》の下《げ》、最低最悪。まだ幼稚園児の方がマシな応対をするってレベルである。……何でやつに社長|秘書《ひしょ》なんて仕事が務《つと》まってるんだ? そんなに人材不足なのか?
極《きわ》めつけに。
『PS.今晩は鍋《なべ》が食べたい。カニ鍋がいい。松葉ガニだ。由香里《ゆかり》も連《つ》れていくから七時までに用意しておけ』
なんて書いてあるのがますます腹立たしい。というか夏|真《ま》っ盛《さか》りのこの時期にカニなんか手に入るか!
携帯を握《にぎ》り締《し》めながら、やるせなさに打《う》ち震《ふる》える俺を見て美夏《みか》が一言。
「う〜ん、おに〜さんも色々苦労《くろう》してるんだねえ……」
中学生に同情された。なんか、ものすごくかわいそうなモノを見る目だった。うう……
「ま、でもそれはそれとして」
荷物《にもつ》を横にどけるジェスチャーをする。
「とにかく、そうゆうわけで今からお姉ちゃんのコンクールに向かうけど、い〜よね?」
「……りょうかい」
まあもう今さらあのアホ姉についてとやかく言ってもしかたがない。言ってどうにかなるものならとっくにやっている。とりあえずは、今日俺が家にいただけでもよしとしよう。
……というか、正直そう考えないとやってられない。
そんなわけでロールスロイスに乗せられて十五分。
「――それで、この人は?」
いつもの無ロメイドさんの代わりに、さっきから美夏《みか》の横でにこにこと笑っているメイドさんに目を遣《や》る。ちなみにこの人、俺を逮捕《たいほ》・連行《れんこう》してきたメイドさん実行部隊の主犯格《しゅはんかく》でもあった、
「あ、そっか。おに〜さんはまだ那波《ななみ》さんのこと知らなかったっけ?」
美夏がぽん、と手を打つ。
「那波さん?」
そういえばさっき自分でそう名乗《なの》っていたか。だけど俺が会ったことのあるメイドさんなんて、アキハバラのネコミミメイドさんと乃木坂家《のぎざかけ》の無ロメイド長さんくらいしかいないため、知っているわけがない。
「うん、七城《ななしろ》那波さんっていって――」
「あ、その先は私が〜。綾瀬裕人《あやせゆうと》様、改めてはじめまして〜。乃木坂家メイド隊|序列《じょれつ》第三位の七城那波と申します」
メイドさんが移動中《いどうらゆう》の車の中にもかかわらず、スカートを翻《ひるがえ》しくるりと回転して優《ゆうが》雅に一礼した。……メイド隊?
「裕人様のことは春香《はるか》様、美夏様、葉月《はづき》さんからよ〜く伺《うかが》っていますよ」
うふふ、と含《ふく》み笑《わら》い。いったい何を伺っているのかがかなり気になるところである。
「那波さん、普段《ふだん》は葉月さんの補佐《ほさ》をしてる人なんだよ。うちのメイドさんの中でもかなり古株《ふるかぶ》で、わたしたちも昔からお世話《せわ》になってるの。葉月さんは昨日からお姉ちゃんの方に付いて行っちゃってるから、わたしには那波さんが付いて来てくれたんだ〜」
美夏がそう付け加える。
どうやら能天気《のうてんき》な見かけによらず、けっこう偉《えら》い人らしい。
「以後《いこう》お見知りおきをお願いしますね〜。気軽にナナちゃんとお呼《よ》びになって結構《けっこう》ですので」
「……よろしくお願いします。那波さん」
さすがに自分よりも年上の妙齢《みょうれい》の女の人にちゃん&tけはできない。あのダメダメ音楽教師にすらいちおうさん&tけなくらいだし。
「うーん、裕人様、お堅《かた》いんですね。ストイックなのはいいですけど、ある程度《ていど》フレキシブルじゃないと女の子にもてませんよ〜」
いたずらっぽく笑う。
というか、またこっちはこっちでやたらとフレンドリーなメイドさんだな。あっちの、目の前で銀行|強盗《ごうとう》が銃《じゅう》を乱射《らんしゃ》していても顔色一つ変えなさそうなアンフレンドリーなメイド長さんとは、両極端《りょうきょくたん》もいいところである。
「おに〜さん、何だかんだでけっこう真面目《まじめ》だからね〜。ま、それがいいとこなんだけど。あ、そうだ、どうせだからみんなで鹿《しか》センベイ食べようよ。まだ着くまで時間かかるし。飲み物もあるよね?」
「はい〜。砂糖水からロマネ・コンティまで、何でもありますよ〜」
砂糖水って、だれが飲むんだ? スズムシ? それ以前に、鹿センベイを食う気か?
「じゃあね〜、え〜とわたしはココアでお願い。鹿センベイはちょっと塩辛《しおから》いから甘いのが合うかも」
「りょうかいしました〜」
……普通《ふつう》に食う気らしい。
「おに〜さんはどうする?」
「……俺はお茶だけ」
鹿センベイは断《だん》じていらん。
まあそんな感じで、しばらくの間ロールスロイスの中で三人、鹿センベイをメインとしたオ
ヤツの時間を過ごしていて。
「――なあ、そういえば」
「ん?」
ふと思いついたことがあったので、小声で美夏《みか》に尋《たず》ねた。
「……那波《ななみ》さんって、春香《はるか》の趣味《しゅみ》のことは知ってるのか」
春香の趣味。
およそ普段《ふだん》の春香からは想像《そうぞう》がつかないソレは、俺と春香が知り合うきっかけとなったものでもある。これを知っているか否《いな》かで、微妙《びみょう》に那波さんに対する今後の接《せっ》し方《かた》が変わってくるかもしれないんだよな。
ゅえに慎重《しんちょう》を期《き》して訊《き》いてみたのだが。
「うん、知ってるよ」
美夏は実にあっけなくうなずいた。「ね、那波さん」
「はい? 何のお話ですか」
「ん、お姉ちゃんの趣味のこと」
「ああ〜。ええ、よ〜く知っていますよ」那波さんが大きく首を振《ふ》った。「とってもかわいらしいですよね〜、うふふ」
「てゆーか、あのお姉ちゃんの挙動《きょどう》でバレないわけないじゃん。お祖父《じい》ちゃんも知ってるし、たぶんうちで働いてる人たち全員が知ってるんじゃないかな? 気付いてないのはお父さんとお母さんくらいだよ。――ま、相変わらずお姉ちゃん自身は隠《かく》し通《とお》せてると思ってるみたいだけどね」
……ナルホド。ま、それもそうだな。春香の、あの隠しているつもりでちっとも隠れていない隠し方では隠せるものも隠せないだろう(分かりにくい……)。学園でいまだに明るみに出ていないってのは、ほとんど奇跡《きせき》みたいなもんである。……これからもやっぱり、俺が色々とがんばらないとマズイんだろうな、きっと。
妙に悟《さと》った気分で窓の外に目を遣《や》ると。
「ん?」
いつの間《ま》にかロールスロイスが高速《こうそく》道路に入っていることに気付いた。
辺《あた》りを走る他の車をずんずんと抜《ぬ》きつつ、峠《とうげ》でブイブイ言わせてるドリフトカーのようにすごいスピードで疾走《しっそう》している。
……どこまで行くつもりなんだ?
微妙に不安になった。
コンクールというからてっきり都内のどこかに向かっているものかと思っていたが、この様子《ようす》だともしかしたら他県または地方にまで行くつもりかもしれん。だとすると今日中に帰ってこられるのかどうかかなり微妙である。いちおう夜には腹を空《す》かせた二匹のワンちゃん(実際《じっさい》はそんなかわいいもんじゃないが)がやって来るらしいので、できればそれまでに帰りたいんだがな。
「なあ、ピアノのコンクールってどこでやるんだっけ?」
「あれ、お姉ちゃんから聞いてない?」
尋《たず》ねると、美夏《みか》が鹿《しか》センベイをぱりぱりやりながらまばたきをした。
そして春香《はるか》によく似《に》た笑顔《えがお》で、にっこりとこう言ったのだった。
「ロンドン、だよ♪」
まさか生まれて初めての海外旅行及びファーストクラス体験を、部屋着《へやぎ》のジャージにスリッパをつっかけただけという世にも庶民《しょみん》な格好《かっこう》で迎えることになろうとは夢にも思わなかった。
……というか夢であってほしかった。
流れる空気すらもどこかハイソに感じられる、ファーストクラスエリア。
周《まわ》りを見渡《みわた》せばオシャレなスーツに身を包《つつ》んだジェントルマンやら高価そうな服を着た貴婦人《きふじん》たちばかり。当然ジャージにスリッパなんていう、カジュアルというか単に生活臭《せいかつしゅう》を感じさせる格好をしているやつなんて俺しかいない。連《つ》れられている犬までもが、おそらく俺の余所行《よそい》きの服よりも上等《じょうとう》な生地《きじ》のお召《め》し物《もの》をまとっているところがまたなんともヤな感じに劣等感《れっとうかん》をかきたててくれる。
この中で一人俺だけが、浮《う》き袋《ぶくろ》に空気を取り込みすぎて海面上に出ることを余儀《よぎ》なくされた魚みたいにぷかぷか浮いていた。浮きまくっていた。……いやもうほとんど羞恥《しゅうち》プレイの域《いき》だな、.これは。
「ま、まあまあ、おに〜さんのカッコも、個性的《こせいてき》でいいと思うよ?」
うなだれる俺を見かねたのか、美夏がそう言う。
「個性的?」
「うん、すっごく。ミニチュアダックスフントの群《む》れの中に一匹だけフレンチブルドッグが混《ま》じってるみたいな感じ」
「……」
ちっともフォローになっていなかった。フレンチブルドッグって……
そして謎《なぞ》なことが一つ。
普通《ふつう》、外国に行くにはそれが旅行であれ永住であれパスポートというものが必要《ひつよう》となるのであり、さらに海外未経験の俺は当然《とうぜん》そんなものを持っていなかったわけだが。
なぜか現在、俺の手元にはそのパスポートなるものがあった。……俺が撮った覚えのない[#「俺が撮った覚えのない」に傍点]写真付きで。
その写真の出所《しゅっしょ》がきわめて謎《なぞ》であるし、くわえて確かパスポートをとるにはけっこう厳格《げんかく》な手続き(本人確認とか)が必要《ひつよう》なうえに申請《しんせい》から発行までに最低二週間以上はかかったような気もするんだが……
那波《ななみ》さんに尋《たず》ねてみたところ。
「それは企業秘密《きぎょうひみつ》です〜」
との答えが返ってきた。いや、だから企業秘密って……
「企業秘密です〜」
「あの」
「企業秘密です〜」
「だから」
「企業秘密です〜」
「……もういいです」
そういうことらしい。
どうやら乃木坂家《のぎざかけ》のメイドさんの間には、触《ふ》れてはいけないダークグレーな領域《りょういき》があることだけはよく分かった。
やがて飛行機はあっという間《ま》にイギリスのヒースロー空港へと降《お》り立《た》ち。
そこからまた、用意されていた乃木坂家|所有《しょゆう》のリムジンでロンドンへと移動《いどう》した。
途中《とちゅう》、名前しか聞いたことのないような名所を何箇所か通り過ぎたが、その都度《つど》に美夏《みか》が解説《かいせつ》をしてくれた。
「ん〜と、あれはね、タワーブリッジだよ。某《ぼう》マスク超人《ちょうじん》の必殺技《ひっさつわざ》の由来《ゆらい》になったとこ。あっちのアレは大英博物館。ロゼッタストーンとかで有名だったりするかな〜。でねでね、あそこに偉《えら》そうに建《た》ってるのがバッキンガム宮殿《きゅうでん》で――」
「詳《くわ》しいな……」
旅行会社の添乗員《てんじよういん》も真っ青の説明っぷりである。
「そりゃそだよ〜。だってわたし、イギリスに来るのこれで十一回目だもん」
美夏がさらりとそう言った。
いや、それって俺が国内旅行(修学旅行等|含《ふく》む)に出かけた回数とほぼ同じなんだが……。
「他にも色々行ったよ。イタリアは十五回あるし、フランスは十二回、ドイツも九回あるし、オーストリアは十九回……あ、アメリカは三十七回あったかなー。その他も色々あって――」
「……」
得意《とくい》げに語《かた》る美夏(十四歳)。
さすがは天下の乃木坂家のお嬢《じょう》様である。この歳にして、海外旅行などほとんどご近所に出かけるのと同じ感覚《かんかく》らしい。
――にしても、まさかイギリスくんだりにまで来ることになるとはね。
窓の外を流れる景色《けしき》を見ながら思う。絵ハガキやTVでしか見たことのないような名所を、リムジンに乗って生で見ているなんて、数時間前の俺には想像《そうぞう》もつかなかった。春香《はるか》と知り合って以来《いらい》、それまで味わったことのなかった新しい体験が次から次へと目白押《めじろお》しである。ほとんど息《いき》をつくヒマもない。まあ、楽しいからいいんだが。
コンクールが行われるというヴィクトリア・ホールは、ロンドンの街の中心部にあった。
古びてはいるがどこか味わいのある建物《たてもの》に囲《かこ》まれて、城《しろ》みたいに巨大なホールがリムジンから降《お》りたばかりの俺たちを見下ろしている。
ちなみにここまでの所要《しょよう》時間は、約十四時間。
その割には、何だかロンドンまで来たという実感が全くないのは……おそらく、というか確実に、この近所のコンビニに出かける時と変わらない格好《かっこう》のせいだとは思うんだがな。
「こちらでございます〜」
那波《ななみ》さんの先導《せんどう》に従《したが》って、ホールの中へと入っていく。
外観《がいかん》からある程度《ていど》予想《よそう》はできていたことだったが、ホールの中もすごかった。
高い天井《てんじょう》。ゆうに千人は入れるんじゃないかってくらいの客席。辺《あた》りに置かれた豪《ごうか》華な調度《ちょうど》品《ひん》の数々。さらには流暢《りゅうちょう》な英語で談笑《だんしょう》するタキシードやドレス姿《すがた》のセレブな人々など。どれもが普段《ふだん》の俺とは無縁《むえん》のものばかりだ。
しかも俺たちが通されたのは、そのエグゼクティブなホールの中でも一際《ひときわ》目立つ、いわゆるVIP席のような場所だった。
「すげえ……」
ホールの三階部分にせり出すようなかたちで設置《せっち》されている席。ほとんど謁見席《えっけんせき》みたいな感じで、ホール全体が一望《いちぽう》できる絶好《ぜっこう》のポジションである。
「えっと、おに〜さんの席はそこね。わたしの隣《となり》」
「おお」
美夏《みか》が指差《ゆびさ》した先には、なんか王侯|貴族《きぞく》が座るようなブルジョワなイスが三つほど並《なら》んでいた。座《すわ》ってみると、まるで羽毛布団《うもうふとん》を十枚くらい積《つ》み重《かさ》ねたようにふかふかだった。
「もしもステージが見にくいようでしたら双眼鏡《そうがんきょう》をご用意いたしますが〜?」
「ん、だいじょうぶじゃないかな? おに〜さんは?」
「こっちも大丈夫《だいじょうぶ》だ」
視力《しりょく》があんまり良くない俺でも、ここからならピアノの置いてあるステージを鮮明《せんめい》に見ることができる。まさに絶景《ぜっけい》。
「裕人《ゆうと》様、なにか飲み物でもお飲みになられますか〜?」
手すりから身を乗り出して階下《かいか》を眺《なが》めていると、那波《ななみ》さんがそう尋《たず》ねてきた。
「え、飲食物アリなんですか?」
普通《ふつう》こういうセレブな場所は、飲食物及びペットは持ち込み禁止だと思うんだが。
那波さんがうなずく。
「ええ、本来ならばダメなのですが、この席は特別です。いちおうEXSSS(エグゼクティブトリプルエス)席なので。専用のバーカウンターもありますよ〜」
「エ、エグゼクティブトリプルエス?」
「はい、エグゼクティブトリプルエスです〜」
「……」
……そんな早口|言葉《ことば》みたいな席がこの世に存在《そんざい》するのか。というか俺たちが今いるここがそこなのか。
感心半分|呆《あき》れ半分に、改めて自分のいる場所を見回す。
庶民《しょみん》の味方、立ち見のC席に真《ま》っ向《こう》からケンカを売っているといっても過言《かごん》ではない席。
おそらくこんな席に座《すわ》ることができることはこれから先そうそうあるまい。ならばせめてひと時の王様気分を味わおうと、俺はひじかけに腕《うで》を乗っけて大きく足を組んだ。おお、なんか世界が違《ちが》って見えるな。
しばしの間、そんな束《つか》の間《ま》の似非《えせ》ブルジョワ気分を味わっていて(ちょっと楽しい)。
ふと、あることに気付いた。
「あれ、那波さん、座らないんですか?」
さっきから見ているが、この陽気《ようき》なメイドさんは美夏《みか》の脇《わき》に立ったまま一向《いっこう》に腰《こし》を下ろそうとしない。せっかく席があるんだから座ればいいのに。
すると那波さんはにっこりとこう答えた。
「どうぞお構《かま》いなく〜。メイドが主人の横に座るわけにはいきません。メイド作法《さほう》の基本中の基本です〜」
「……そういうものなんですか?」
「ええ、そういうものなのです〜」
とのことらしい。
言われてみれば、確かに葉月《はづき》さんが春香《はるか》たちの前で座ったところも見た記憶《きおく》がないな。なるほど、あれはそういうことだったのか。
納得《なっとく》すると同時に、疑問が浮《う》かんだ。
「――ん、でもだとしたら、席の数が合わなくないか?」
「え、どして?」
「いや、だって席は三つあるぞ? ……あ、もしかして春香もこっちに来るのか?」
「んーん、来ないと思うよ」
美夏《みか》が髪《かみ》の毛の先を指先でくるくるやりながら首を振《ふ》った。
「お姉ちゃんは出場者だから専用の控《ひか》え室《しつ》があるし。今も葉月《はづき》さんといっしょにそこにいるんじゃないかな?」
「だったら――」
やっぱりこの席の数はおかしくないか?
春香《はるか》が来なくて、那波《ななみ》さんも座《すわ》らないのなら、席は俺と美夏とで二つあれば足りるはずである。
なのに、席は三つ。
「……」
なんかヤな予感《よかん》がした。
虫の報《しら》せというか雨の日だけ当たる天気|予報《よほう》というか……とにかくそういった類《たぐい》のモノ。そして毎回毎回ブルーなことに、こういう予感だけはすばらしいまでの的中率《てきちゅうりつ》で当たってくれやがるもんなのである。
その予感に違《ちが》うことなく。
「あ、それ、お父さんの席」
俺の疑問に、美夏は実にさらりと今日の天気は晴れですってくらいに軽くそう答えてくれたのだった。
「……お父さん?」
「うん、わたしたちのお父さん。あわふぁ〜ざ〜」
「……」
わざわざ英語に直した意味はさっぱり分からなかったが、とりあえず頭の中で美夏の言ったその単語の意味を考えてみる。お父さん。お父さんとは父親であり、美夏の父親ということは春香の父親でもあるということであり、そして春香の父親ということは……
――ってまさか、何回か春香の話に出てきたあの[#「あの」に傍点]お父様!? あのお父様が、ここにやって来るってことか!?
いや、それってかなりシャレにならない事態《じたい》なんじゃ……。少なくとも、のんびりとイスにふんぞり返って足なんて組んでる場合じゃない。
「美夏、もう来ていたのか」
現在の自分が置かれている状況《じょうきょう》がどういうものであるかということに俺が気付くのと、背後《はいご》から声がかけられたのとはほとんど同時だった。
「那波くんも、わざわざごくろうだったな」
低く、威圧感《いあつかん》のある声。
――こ、これって……
きりきりと、壊《こわ》れたロボットのように後ろを振り返った俺の視界《しかい》に飛び込んできたのは――
鋭《するど》い眼光《がんこう》できれいに後ろに撫《な》で付《つ》けられた髪《かみ》、年齢を感じさせないがっちりとした長身を有する、壮年《そうねん》の男性だった。
「ああ、もしかして君が綾瀬《あやせ》くんかな。――葉月《はづき》くんたちから話は聞いている」
男性がその雷神《らいじん》みたいな目をこちらに向けると、おもむろに太い腕《うで》をにゅっと突き出してきた。
「はじめまして。私は乃木坂玄冬《のぎざかげんとう》。春香《はるか》と美夏《みか》の、父だ」
春香たちの父親が、そこにいた。
席順は、ピアノが置いてあるステージから見て、左から春香父、美夏、(その斜《なな》め後ろに立っている那波《ななみ》さん)、俺の並《なら》びだった。
間に美夏たちが入ってくれているのがまだ救《すく》いとはいえ……かなりの緊張感《きんちょうかん》である。生肉を両手に欄《つか》んで肉食獣《にくしょくじゅう》の櫨《おり》の中に入っているのと同じくらいの緊張感。なんせ態度次第《たいどしだい》じゃ、明日あたりにドーヴァー海峡《かいきょう》の藻屑《もくず》になっていてもまったくもって不思議《ふしぎ》じゃない。
ここはやっぱり、縄張《なわば》り争《あらそ》いに負けた野良犬《のらいぬ》のように大人しく静かに従順《じゅうじゅん》に、ひたすら時間が過ぎ去るのを待つのが吉だろうな。少なくとも美夏がいるうちは、春香父の関心《かんしん》がストレートに俺に向くことはないと思うし(希望的|観測《かんそく》)。
とか考えていると――
「あ、それじゃわたし、そろそろお姉ちゃんの様子《ようす》見てくるね」
「!?」
――いきなり、美夏がとんでもないことを言い出してくれた。
「お姉ちゃん、どうしてるか心配《しんぱい》だし。まだ本番まではけっこう時間があるから、控《ひか》え室《しつ》まで行ってくる」
「じゃ、じゃあ俺も……」
「あ、おに〜さんはのんびりくつろいでてね。いちおうお客様なんだし」
言いかけた俺を笑顔《えがお》で制《せい》し、美夏はぴょこんと席を立った。那波さんもカルガモのようにその後に続く。
ちょ、ちょっと待て。ちょ、ちょっと待て。頼《たの》むから空気ってものを読んでくれ……
そんな俺の心からの叫《さけ》びも空《むな》しく。
「またあとでね、おに〜さん」
「きげんよう、です〜」
二人の背中《せなか》は階段へと消えていった。
「……」
「……」
当然のごとく、後に残されたのは俺と春香《はるか》父の二人だけである。
「……」
「……」
「……」
「……」
空気が、冬眠《とうみん》前でたっぷりと脂肪《しぼう》をたくわえたヒグマみたいに重かった。
俺の両|肩《かた》に、確かな重みをもってのしかかってきている。擬音《ぎおん》にしてみれば「ずこごこごこごこごこご!」って感じだ。
「……」
「……」
……いや、俺にどうしろと?
本気で泣《な》きたくなった。
地獄《じごく》のような沈黙《ちんもく》の中、俺は美夏《みか》(この際葉月《さいはづき》さん、那波《ななみ》さんでもよし)が一刻《いっこく》も早く戻《もど》ってきてくれることを心から神様に祈った。
そんな時間がどれくらい続いただろう。
おそらく客観的《きゃっかんてき》には五分か十分かそんなもんなんだろうが、俺にとってはもう久遠《くおん》とも悠久《ゆうきゅう》ともいえるような長い長い時間だった。
「……綾瀬《あやせ》くん、だったかな」
「は、はい」
春香父がその重い口を開き。
「君に少しばかり――」
ピリリリリリリ
だがそのまま何かを続けようとしたところで、タイミング良く(悪く?)携帯《けいたい》電話が鳴《な》った。
「少し、失礼する」
どこか苦々しそうな顔で春香父が携帯を耳に当てる。
「――私だ」
低くよく通る声で、何事かを話し出した。
「何? それくらい、私にいちいち訊《き》かずにそちらでやっておけ!」
……や、殺《や》っておけ?
「ああ、ああ、そうだ。不必要《ふひつよう》な物は(商品リストから)弾《はじ》いて構《かま》わん。いつも言っているだろう、必要な物だけ残せばいい」
……ふ、不必要な者は、射殺《はじ》いて?
「弾《はじ》いた後の始末《しまつ》? そんなもの、適当《てきとう》に(倉庫《そうこ》の隅《すみ》にでも)沈《しず》めておけ」
……し、沈めておけ? 東京|湾《わん》?
「――以上だ。あまり私の手を煩《わずら》わせるな」
ふう、とため息《いき》を吐《つ》き携帯《けいたい》をしまうお父様。
「すまなかったな。少し日本の方でごたごたがあったみたいでね」
「い、いえ…………」
……抗争《こうそう》ですか? とはさすがに訊《き》けない。
「……」
「……」
で、再《ふたた》び沈黙《ちんもく》。
だが今回、それは長くは続かなかった。
「――それで、綾瀬《あやせ》くんだったか」
春香《はるか》父は真贋《しんがん》が微妙《びみょう》な骨董品《こっとうひん》の品定《しなさだ》めをする鑑定人《かんていにん》みたいな目で俺の顔を真正面《ましょうめん》から見据《みす》え、
「は、はい」
「君には少し訊いておきたいことが――」
「おに〜さん!」
再び何かを言おうとして、今度は突然《とつぜん》割り込んできた声に遮《さえぎ》られた。
美夏《みか》だった。
いつ戻《もど》ってきたのか、美夏は活《い》きのいい野ウサギのようにたたたっと駆《か》け寄《よ》ってくると俺のジャージの袖《そで》を引《ひ》っ張《ぱ》ウながら言った。
「おに〜さん、お姉ちゃんが呼《よ》んでるよー。――って、あれ? お父さん、もしかしてお話の途中《とちゅう》だった」
「――いや」
春香父が首を振《ふ》る。「私は構《かま》わん。それより……春香が呼んでいるのか? 綾瀬くんを?」
「うん。やっぱり本番前でがちがちに緊張《きんちょう》してるみたいだから、おに〜さんに会って落ち着きたいんじゃないかな。ま、控《ひか》え室《しつ》は関係者以外立ち入り禁止なんだけど、おに〜さんならだいじょぶでしょ。……あながち無関係でもないし♪」
意味ありげにこっちを見る美夏。
「えへへ〜、おに〜さんはお義兄《にい》さん候補《こうほ》だもんね〜」
「………………お義兄さん?」
い、いや……お父様の闘魔《えんま》大王みたいな視線《しせん》がすごく怖《こわ》いんですが。
「ほらほら〜、早く行こうよー。おに〜さ〜ん」
美夏がほとんど抱《だ》きつくようなカタチで俺の全身を引っ張る。柔《やわ》らかい感触《かんしょく》が腰《こし》の辺《あた》りに触《ふ》れ、さらさらの髪《かみ》からは柔らかく甘い香りが鼻をくすぐり……
「……」
そしてお父様の視線《しせん》はさらに強烈《きょうれつ》に、ほとんど圧縮《あつしゅく》空気砲《くうきほう》のように物理的|圧力《あつりょく》を伴《ともな》って俺にのしかかってきた。
………………俺、もしかしたら明日の朝にはもうこの世にいないかもしれないな。
春香《はるか》の控《ひか》え室《しつ》は、ホール地下一階の一番奥にあった。
美夏《みか》と那波《ななみ》さんに案内されてそこまで行くと、部屋《へや》の前にはよく見慣《みな》れた無ロメイドさんが置物のように立っていた。
「連《つ》れてきたよ〜、葉月《はづき》さん」
「……お久しぶりです、裕人《ゆうと》様」
葉月さんは俺に気付くと、相変わらず表情一つ変えずにぺこりと頭を下げた。那波さんと並《なら》ぶとその無愛想《ぶあいそ》さがよけいに目立つな。中身は決して悪い人じゃないのに。
「いえ、こちらこそ。――それより、春香が呼《よ》んでるって?」
「はい。本番前にどうしても裕人様に会いたいと仰《おっしゃ》っています。ひどく緊張《きんちょう》してらっしゃるようで……」
「緊張?」
「ま、いつものことなんだけどね〜」
美夏が 美夏が肩《かた》をすくめる。
「ほら、お姉ちゃんって何かのイベントの前とかって色々と考え込んだり、念入《ねんい》りに準備《じゅんび》するタイプでしょ? お買い物のしおり≠ニかもそうだけど。だからこうゆうコンクールとかの前は、いっつも考えすぎて緊張しっぱなしなんだよね〜。お姉ちゃんなら、今日くらいのレベルのコンクールだったら適当《てきとう》にやっても余裕《よゆう》で一位なのに」
まあ、それは何となく分かる気がするな。要《よう》するに春香は何事にも一生懸命《いっしょうけんめい》であり、いい意味《いみ》で力を抜《ぬ》くのが苦手《にがて》なんだろう。器用《きよう》に見えて実はかなり不器用だからな。
「でも今回はいつもよりひどいみたい。なんか気合の入り方が違《ちが》うから、そのせいで逆《ぎゃく》にがちがちになってるってゆうか。ま、それでもお姉ちゃんならだいじょぶだと思うけど」
美香がうなずく。
「でも分かんないな〜、なんで今回に限《かぎ》ってあんなにやる気なんだろ?」
それは俺には分からないが、きっと春香なりに何か事情《じじょう》があるんだろう。
ともあれ、この場において俺にできることは。
「それじゃ、俺は世間話《せけんばなし》でもして春香の緊張を少しでも解《と》いてやればいいのか?」
「はい」
葉月《はづき》さんがうなずく。「お願いします。私たちは、三階に戻《もど》っていますので」
「ご指名だもんね〜、おに〜さん」
「お熱《あつ》いですね〜。ごちそうさまです。ひゅ〜ひゅ〜」
美夏《みか》と那波《ななみ》さんは二人そろってそんなことを言っていた。……今気付いたが、なんかこの二人、性格|似《に》てるな。
「密室《みっしつ》で二人きりだからって、ヘンなことしちゃダメだよ〜」
「いちおう監視《かんし》カメラは付いていますからね〜」
んなことするか。
そんな実に無責任な声援《せいえん》を背《せ》に控《ひか》え室《しつ》に入ろうとした俺を、葉月さんがそっと呼《よ》び止《と》めた。
「裕人《ゆうと》様」
他の二人とは違《ちが》う真剣《しんけん》な表情で、深々と頭を下げる。
「春香《はるか》様を、どうかよろしくお願いいたします」
「あ、裕人さん!」
控え室に入るなり、親犬を見つけた仔犬《こいぬ》みたいな顔をして春香がとてとてと駆《か》け寄《よ》ってきた。
「わー、来てくださったんですね。ありがとうございますっ」
そのまま俺の手をぎゆっと握《にぎ》る。
「すみません、ここのところコンクールの練習で忙《いそが》しくて全然ご連絡ができなくて……ほんとは裕人さんとお話したかったんですけど」
約二週間ぶりに見る春香は、純白のドレス姿《すがた》だった。
今までピアノを弾《ひ》いていたのか春香の顔は少しばかり上気《じょうき》して赤くなっている。さらにそのドレス(コンクール用の特注らしい)というのが腕《うで》の動かしやすさを優先《ゆうせん》してのものなのか肩《かた》を出した仕様《しよう》になっていて、おまけに胸《むね》のラインがキレイに出るデザインになっていて……その、なんというか、ちょっとだけ色っぽい。
心臓が、勝手にどくどくと振幅《しんぷく》運動を開始する。……いかんいかん、これじゃ美夏たちのことをとやかく言えない。
「? あの、私、何か変ですか?」
春香が小首を傾《かたむ》けながら見上げてくる、
「い、いやそんなことは」
どちらかといえば変なのは俺の方であって。
「?」
「と、とにかく、気にしないでくれ」
何となく気恥《きは》ずかしくなって、視線《しせん》を周囲《しゅうい》に散《ち》らした。
控《ひか》え室《しつ》は、二十|畳《じょう》くらいの広さだった。
入り口から向かって部屋《へや》の左側の壁《かべ》には一面に鏡が張《は》られ、その前には大きなグランドピアノが置いてある。
「あ、あー、すごいピアノだな」
「? ええ、そうですね」
春香《はるか》がちょっと不思議《ふしぎ》そうに答える。
部屋の中には、他にもクローゼットやら何やらがあり、春香の私物が置かれているようだった。
と、そこになんか見覚《おぼ》のあるモノを発見した。
積み重ねられている楽譜《がくふ》の上。ちょうどピアノの鍵盤《けんばん》から見て真向《まむ》かいになる位置《いち》。
蒼色《あおいろ》の髪《かみ》をした直径十センチくらいの女の子が、スカートの裾《すそ》を指でちょこんと摘《つま》んでぺこりと頭を下げていた。確かこれって……
「あ」
俺の視線に気付いた春香が、ささっと恥《は》ずかしそうにフィギュアを隠《かく》した。
「あ、あのこれは……その、お守り代わりに持ってきたもので――」
なぜかラズベリーみたいに真っ赤になる春香。
「で、ですからその、特に深い意味はなくて……い、いえ、意味が全くないってわけじゃないんですけど……」
「ああ、分かってるって」
「え?」
「春香はその、何だっけ、はにトラポーズ=H のフィギュアがお気に入りなんだろ?」
「あ、え、はい」
おそらく春香のことだから、こういう緊張《きんちょう》する場面でお気に入りのグッズを手元に置いておきたかっただけなんだろう。別にそんな言《い》い訳《わけ》しなくてもいいのにな。
俺がそう言うと、春香は何だかものすごく複雑そうな表情になった。
「……それだけじゃ、ないんですけど。だってこれは裕人《ゆうと》さんが――」
「?」
「な、何でもないです」
ものすごい勢《いきお》いでぶんぶんと頭を振《み》る春香。「き、気にしないでください。気にしちゃダメです」
「?ま、いいけど」
何をそんなに慌《あわ》ててるんだかさっぱり分からん。
俺は部屋の隅《すみ》に置かれていたパイプイスに腰《こし》を下ろした。
しかし春香《はるか》、思っていたよりも元気というか、普通《ふつう》だな。あんまり緊張《きんちょう》しているようにも見えないし。これなら特に心配《しんぱい》しなくても大丈夫《だいじょうぶ》だったかもしれんな。
――などと考えたのは、大きな誤《あやま》りであったとすぐに気付かされることになった。
五分後。
「え、ええとここがこうなって……」
鍵盤《けんばん》の前で、春香が締《し》め切《き》り直前の漫画家みたいにうなっていた。
「こ、こっちがこうで……」
その細い指が頼《たよ》りなく鍵盤の上をふらふらとさまよう。
ちょっと前から練習を始めている春香だったのだが……見るからに調子《らにうし》が悪そうだった。
素人《しろうと》の俺が聴《き》いても分かるくらいにミスが目立つ。身体の動きも、なんかゼンマイが切れかけた上に油不足のブリキのオモチャみたいにがちがちだし。
「あ、あれ、ここはどうでしたっけ? え、ええと……」
鍵盤を見る目が完全に泳いでいる。……いや、本当に大丈夫なのか?
『だいじょぶだいじょぶ。本番前はあんなだけど、何だかんだでお姉ちゃん、いっつも一位取ってるんだから』
と美夏《みか》は言ってはいたが、あんな姿《すがた》を見ていると何だかこの上なく不安になってくる。
ここは一つ、春香の緊張をほぐすために何か小粋《こいき》なジョークでも言おうか、それとも特技のオラン・ウータンのモノマネ(小学生の頃《ころ》、ルコに無理《むり》やり仕込《しこ》まれた)でもしようか悩《なや》んでいると
「す、すみません裕人《ゆうと》さん。そこにある楽譜《がくふ》を取っていただけませんか?」
「ん、これ?」
「あ、はい。それです」
部屋《へや》の隅《すみ》にいくつか重ねられて置かれていた楽譜。カバーがかけられているのでタイトルは分からないそれらを拾い上げ、春香に手渡《てわた》す。
「お手数かけますです……」
春香はその中の一つを手に取り、譜面台《ふめんだい》に立てかけようとして
「あ、あああっ!!」
友達から二千円で売ってもらったハムスターが実はクマネズミであったことに気付いた時みたいな悲鳴《ひめい》をあげた。
「ど、どうした?」
「が、楽譜……間違《まちが》えて持ってきちゃいました」
譜面台に目を遣《や》ると、そこには『はにかみトライアングル BGM集』(タイトルの横には明らかに人体の限界《げんかい》を超《こ》えた不気味《ぶきみ》な動きをしている蒼髪《そうはつ》の女の子? の手描《てが》きイラスト付き。……ま、まあ、これについては深くは語《かた》るまい)と書かれた楽譜《がくふ》があった。
……ああ。
確かに俺が見ても分かる。一目見ただけで瞬時《しゅんじ》に分かる。これは明らかに間違《まちが》ったモノを持ってきたと。
「ど、どうしましょう?」
泣《な》きそうな顔で春香《はるか》が俺を見上げた。
「ないとまずいのか?」
「い、いえ、いちおう暗譜《あんぷ》はしているので、だいじょうぶにはだいじょうぶだと思います。ただちょっとだけ、出だしのカデンツァ部分が不安なだけで……」
……それは結局《けっきよく》、ないとマズイってことなんじゃないかと思うんだが。
「……春香、その楽譜のタイトル、何て言うんだ?」
「え、超絶技巧《ちょうぜつぎこう》練習曲集≠ナすけど……」
いつか春香の部屋《へや》で見かけた、あの楽譜にあるまじきすさまじいタイトルのやつか。
「分かった。春香はちょっとここで待っててくれ」
「え、 裕人《ゆうと》さん? ど、どこに行くんですか!?」
「すぐ戻《もど》ってくるから!」
不安そうな顔の春香を残して控《ひか》え室《しつ》を飛び出す。
とりあえずは葉月《はづき》さんか那波《ななみ》さん、美夏《みか》に相談してみるべきだと判断《はんだん》した。もしかしたら予備《よび》の楽譜とかを持っているかもしれん。それでもダメなようなら、楽器屋や音楽ショップなどをを探《さが》すって手もある。英語には自信はないが……そこはまあボディランゲージとかで何とか。
しかし何にせよまずは葉月さんたちである。
葉月さんは三階のあのVIP席に戻っていると言っていた。美夏と那波さんもたぶんそこだろう。
ゆえに三階へと急ぐため、俺はダッシュで廊下《ろうか》を走《はし》り抜《ぬ》け階段前の曲《ま》がり角《かど》をカーブしようとして。
「――えっ?」
そこに人影《ひとかげ》があることに気付いた。
ドレス姿《すがた》の女の子。
慌《あわ》てて避《よ》けようとするが、物理|法則上《ほうそくじょう》いったん勢《いきお》いがついた物体は急には止まれない。
結果《けっか》。
「うわっ!」
「きやっ!」
俺はその女の子と見事《みごと》に正面衝突《しょうめんしょうとつ》した。女の子は腰《こし》から倒《たお》れたその拍子《ひょうし》に持っていた荷物《にもつ》
を辺《あた》りにぶちまけ、俺は廊下《ろうか》にしたたかに頭を打つこととなった。
「あいたたたた……な、何なのよ突然《とつぜん》」
身体を起こしながら、女の子が顔をしかめる。
「曲がり角に全速力《ぜんそくりょく》で突っ込んでくるなんて……信じらんないわ」
確かにそれはまったくもってその通りである。ここは素直《すなお》に謝《あやま》っておくべきだろうな。
「悪い。急いでて……じゃない、ええと――」
言いかけて、ここが日本でなくてイギリスであることを思い出す。
「あ、あいむそーりー? はりーあっぷ?」
「は? 急げ=H」
「あ、ち、違《ちが》ったか」
参考までに、俺の英語の成績は三である。……十段階で。
「あー、こういう場合は何て言うんだったけか。ほーるどあっぷ……は明らかに違うか」
「うん、それ.確実にダウト」
「やっぱそうだよな。だったら――って、日本語?」
と、ここでようやく相手が日本語を喋《しゃべ》っていることに気付いた(遅《おそ》すぎ)。
「あれ、そういうあなたも日本人?――あっ」
俺の顔を見て、女の子がちょっと驚《おどろ》きの表情になる。
「ねえねえ、もしかしてキミ、乃木坂《のぎぎか》さんの関係者じゃない?」
「? そうだが……」
「あ、やっぱり。さっき控《ひか》え室《しつ》に入っていくのが見えたからそうじゃないかって思ったんだ。
へー、どういう関係なの? 弟さんとかじゃないよね、顔、全然《ぜんぜん》似《に》てないし」
何やら一人で納得《なっとく》している女の子。春香《はるか》の知り合い……なのか?
尋《たず》ねてみると。
「ああ、そういうわけじゃないのよ。乃木坂さんは有名人だから、あたしが一方的に知ってるってだけで」
との答えが返ってきた。なるほど。
「ところであたしは椎菜《しいな》っていうの。天宮《あまみや》椎菜。キミは?」
「ん、俺? 綾瀬裕人《あやせゆうと》だけど……」
「そうなんだ。ま、ここでぶつかったのも何かの縁《えん》てことで。裕人……でいいよね? よろしく」
シャギーの入ったショートの髪《かみ》を揺《ゆ》らしながら、にっこり笑って手を差し出してくる。いきなりの呼《よ》び捨《す》てといい、かなリフレンドリーなタイプみたいだな。
「よろしくな」
俺は椎菜の手を握《にぎ》り返《かえ》して、そのまま起き上がらせた。椎菜は満足そうに笑った。
「椎菜もコンクールに出るのか?」
「ん? そうだよ。そうじゃなきゃこんなカッコしてこんなところにいないって」
ドレスの裾《すそ》を摘《つま》み上《あ》げて片目をつむる。それもそうか。
「あたしにしてみれば、そんなカッコした裕人みたいなのがここにいることの方が驚《おどろ》きだって。なかなかいないよ、ジャージにスリッパ姿《すがた》でヴィクトリア・ホールをうろついてる人なんて」
「これには深い事情《じじょう》があってだな……」
俺はここに至《いた》るまでの経緯《けいい》(拉致《らち》↓空港直行↓ファーストクラス経由《けいゆ》↓ホール到着《とうちゃく》)を、簡単《かんたん》に椎菜に説明したところ。
「あはは、ウソばっかー」
と一蹴《いっしゅう》された。……まあムリない反応《はんのう》なんだが。
「で、裕人は何だってそんなに急いでたわけ?」
「あ」
言われて思い出した。そうだ、こんなところでのんびり談笑《だんしょう》してる場合じゃない。早いところ葉月《はづき》さんたちのところに行って楽譜《がくふ》を何とかしないと――
「悪い、ちょっと行かないとなんないところが――ん?」
そういえば、目の前にいるこのやたらとフレンドリー娘も音楽関係者なんだよな。ううむ、まさかとは思うが――
「あのさ、椎菜《しいな》……」
「ん?」
とりあえずダメ元で、訊《き》くだけは訊いてみることにした。
春香《はるか》が言っていた楽譜《がくふ》の名前を口にする。すると。
「うん、持ってるよ。てゆーか、これだし」
散乱《さんらん》していた楽譜の一つを椎菜が手に取って見せてくれた。
「なに、もしかしてこれを探《さが》してたの?」
「ん、ああ」
「ふーん、貸《か》してほしい?」
「そりゃあ……」
椎菜がにやっと笑って俺の顔を見た。「それって、乃木坂《のぎざか》さんのため?」
「う……」
今知り合ったばかりだってのにイイ勘《かん》してる。それともそんなに顔に出ていたのか、俺?ともあれここでヘタにウソを吐《つ》いても見透《みす》かされそうだったので大人しくうなずくと、椎菜は「へえ、そうなんだー」と意味ありげに笑い。
「いいよ、貸したげる」
あっさりと楽譜を差し出してきた。
「……いいのか?」
「うん。これ、あたしが今日|弾《ひ》く曲じゃないし」
「でもな……」
コンクールに出るのならいちおう春香とはライバルということになる。それなのにそんなに気軽にライバルに塩を送ってしまっていいのかと、多少|疑問《ぎもん》に思ってしまう。いや頼《たの》んだのは俺なんだけどな。
「いいっていいって。こんなことくらいで勝てないようなら、もともと勝てない相手ってことなんだから」
椎菜はひらひらと顔の前で手を振《ふ》り。
「それにあの乃木坂さんに楽譜を貸せる機会《きかい》なんて、めったにないしね」
こっちが拍子抜《ぬ》けするくらいに、あっけらかんとそう言った。
「――そっか。ならありがたく借りとく」
「あはは、ありがたく借りてください」
椎菜が笑う。
いいやつだな、こいつ。
「ほんと、さんきゅ」
椎菜に礼を言って、俺は急いで控《ひか》え室《しつ》へと戻《もど》った。
控《ひか》え室《しつ》に戻《もど》ると、ピアノの前にぽつんと座《すわ》った春香《はるか》が迎えてくれた。
「あ、裕人《ゆうと》さん……」
群《む》れから置いてけぼりにされた渡《わた》り鳥《どり》みたいな寂《さび》しげな目で俺を見る。う……一人で置いていってちょっと悪いことしたか。でもこれを手に入れるためにはしかたがなかったんだよな。
「ん」
|楽譜《がくふ》を差し出す。受け取った春香は目を真ん丸にした。
「こ、これ……どうしたんですか?」
「ん、ちょっと借りてきた。これでよかったんだろ?」
「え、ええ。でもどうやって……」
「まあ、色々あって……」
同じ参加者から借りてきたことは、今は言わない方がいいだろう。変に気にしてまた緊張《きんちょう》する心配《しんぱい》がある。
「とりあえず細《こま》かいことは気にしないでおいてくれ、な?」
「……」
しばらく春香は何かを考え込んでいたみたいだったが、やがて納得《なっとく》がいったのかこくりとうなずいた。
「……分かりました。裕人さんがそう言うなら、今は気にしないことにしておきます」
「そうしてくれると助かる」
「はい。でも――」
「ん?」
春香がちらりと俺の方を見る。
「――でも、裕人さんはやっぱり頼《たよ》りになりますね。私が困《こま》っている時にはいつも、助けてくれます。――何だか、王子様みたい」
「な、何言って……」
「ふふ」
かわいらしく笑う春香。ま、まいったな……。
ともあれ、それでようやく春香の緊張も少しは解《と》けてくれたようだった。
それからはピアノを弾《ひ》いたり、入場の練習をしたり、どうでもいいことを話したりしているうちにどんどんと時間は過ぎていき。
そして、本番まであと四十五分というところになった。
「申《もう》し訳《わけ》ございません。これから色々と準備《じゅんび》がありますので、裕人様は外に出ていていただけないでしょうか?」
戻《もど》ってきた葉月《はづき》さんにそう言われた俺は、控《ひか》え室《しつ》を出てすぐのところにあるベンチに座《すわ》って、もらったプログラムをぱらぱらと眺《なが》めながら春香《はるか》の最終|準備《じゅんび》が終わるのを待っていた。
今回の参加者は八名で、春香の出番はその中で五番目であるという。コンクールにしてはずいぶんと人数が少ないんだなと思ったが、どうやらすでに予選が行われていたらしく、そこで相当の人数が絞《しぼ》り込《こ》まれたとのことだった。
「そりゃ参加者が最初から八人しかいないなんてことないよな……」
デパートの屋上《おくじょう》とかでやってるちびっ子|将棋《しょうぎ》大会とかじゃないんだから。自分のアホさかげんを再確認《さいかくにん》した瞬間《しゅんかん》だった。
と、中から葉月さんの声がした。
「終わりました。もう入ってくださっても大丈夫《だいじょうぶ》です、裕人《ゆうと》様」
俺は控え室のドアを開けて中に入った。
するとそこには――
「あ、ゆ、裕人さん」
コンクール本番用にヴァージョンアップされた春香がいた。
アップにまとめられた髪《かみ》。そこからほのかに漂《ただよ》う柔《やわ》らかい香《かお》り。白いドレスには装飾品《そうしょくひん》が加えられ、照明《しょうめい》を反射《はんしゃ》してきらきらと輝《かがや》いている。
そして何より春香本体。
さっきまでのちょっと上気《じょうき》した色っぽい感じの春香も良かったんだが……すっかりクールダウンしてばっちリメイクアップされた、今の透明感《とうめいかん》あふれる春香もかなりいい。
心臓が再《ふたた》び、石炭をたっぷり追加《ついか》された蒸気機関車《じょうききかんしゃ》みたいにがしゃがしゃと激《はげ》しく駆動《くどう》を始める。落ち着け、マイハート。
「春香様、私は外に出ていますね」
変な気を利《き》かせてくれたのか、そう言って葉月さんは出て行った。
ばたん、とドアの閉まる音が響《ひび》き、ついで沈黙《ちんもく》が室内に降《お》りる。
「……」
「……」
「え、えっと……おかしくないでしょうか?」
口を開いたのは春香の方からだった。
「あの、あんまり髪を上げることってないので、どうなっているのか自分ではよく分からないのですけど……」
「い、いや、似合《にあ》ってる」
むしろ似合いすぎてるから俺はこうして困《こま》っているわけで。
「そ、そうですか? え、えへへ、嬉《うれ》しいな――」
顔を綻《ほころ》ばせた春香が上半身をふりふり動かして、今度はドレスを見せてくれる。
「ほらほら、見てください。このドレス、前も素敵《すてき》ですけど、後ろのデザインもかわいいんですよ」
そう笑顔《えがお》でターンをしようとして、
「あっ」
その途中《とちゅう》で、見事《みごと》にその長い長いドレスの裾《すそ》を思いっきり踏《ふ》みつけた。
「きゃあ!」
春香《はるか》の身体が大きな円を描《えが》いて控《ひか》え室《しつ》の宙《ちゅう》を舞《ま》う。
「春香!」
反射的《はんしゃてき》に飛び出した俺は、「回転して床《ゆか》に落下《らっか》せんとする春香に向かってダイビングヘッド。
墜落《ついらく》ぎりぎりのところで、何とか春香を受け止めることに成功した。
「あ、危《あぶ》なかった……」
片膝《かたひぎ》を立ててバランスを取りながら、ほっと一息《ひといき》。
「す、すみません」
「いや、春香が無事《ぶじ》なら――」
と、そこで言葉《ことば》が止まった。
止めざるを得《え》なくなった。
理由《りゆう》は単純《たんじゅん》。
こけそうになった春香を受け止めた俺。受け止められた春香。その二つから導《みちび》き出《だ》される状兄《じょうきょう》はというと――
「?」
春香はしばらく生まれたての仔鹿《こじか》みたいな目できょとんと俺を見上げていたが、やがて現在の状態《じょうたい》に気付いたのか。
「あ」
俺の腕《うで》の中にお姫《ひめ》様のように抱《だ》かれるカタチで、春香は真っ赤になって顔を伏《ふ》せた。そんな反応《はんのう》もまたかわいらしいというか愛らしいというか、よりいっそう俺の心臓はその運動量を増《ま》し――
「あ、あの……」
「う……」
そして、二人とも固《かた》まってしまった。
いや、いったい俺たちは何やってんだろうね?
床に半《なか》ば倒《たお》れた状態で使用十年目の中古パソコンのようにフリーズする、かたやジャージにスリッパ姿《すがた》の一般|庶民《しょみん》に、かたやドレスでフル装備《そうひ》をしたお嬢《じょう》様。
客観的《きゃっかんてき》に見たら、確実にワケノワカランニ人に違《ちが》いない。
だけど。
俺の目の前には、これまで経験したことがないほど近くに、春香《はるか》の顔があった。
腕《うで》には春香の柔《やわ》らかく温《あたた》かい感触《かんしょく》。鼻先には柔らかい香《かお》りを放《はな》つ髪《かみ》。とくんとくんと、その心臓の音すらも聞こえるような気がする。そして俺の理性《りせい》はどんどんと、塩を大量にぶっかけられたナメクジのようにとろけていき……
ダメだダメだ!
頭を激《はげ》しく振《ふ》り、危《あや》ういところで何とか理性を復活《ふっかつ》させる。
ここはもう一度、落ち着いてどうするべきかを考えてみよう。
とりあえず思いつく選択肢《せんたくし》としては三つほど。
@ここまでの経緯《けいい》はなかったことにして春香をそっと抱《だ》き起《お》こし「大丈夫《だいじょうぶ》か?」と無難《ぶなん》に問いかける。Aこのまま時が過ぎ去るのをただひたすらに待つ。B何となく勢《いきお》いに流されるままに抱きしめてしまう。
……まずBはダメだ。コンクール本番前にそんな突発的《とっぱつてき》な行動に出て春香を混乱《こんらん》させるわけにはいかん。というかヘタすれば犯罪《はんざい》である。
となると残りは二つ。@とA。
とはいえAもどうかと思うし、@はそんな器用《きよう》なことができるなら最初からやっている。
――いきなり選択肢が全部消えてくれた。
俺は悩《なや》んだ。
悩みまくった。
……なんか春香と二人きりになった時には、こんなことばっかりやってるような気がするな。
ちらりと春香を見てみる。
春香はまだ固《かた》まったままだった。
俺がうなっている間中ずっと、さっきと全く同じ体勢《たいせい》のままぴくりとも動かず、イタリアントマトみたいな顔をして俺の腕の中に収《おさ》まっていた。
ただやっぱりその目だけは俺の方に向けられていて――
「……う」
「……あ」
ばっちりと、目が合ってしまった。
視線《しせん》と視線とが交錯《こうさく》する。その距離《きょり》は、僅《わず》かに十センチほど。
春香の大きな瞳《ひとみ》の中には緊張《きんちょう》で引きつった俺の顔が映《うつ》り、俺のメガネの表面には真っ赤になってもなお可憐《かれん》な春香の顔がおそらく映っている。
そんな状態《じょうたい》が十秒ほど続き。
そして春香は……ゆっくりと目を閉じた。
「!?」
……これはいったいどう解釈《かいしゃく》すればいいんだろう。
普通《ふつう》に考えれば、これはその、ソレの意思表示《いしひょうじ》と取っていいんだろうが、春香《はるか》のことだから何か大きな勘違《かんちが》いをしている可能性《かのうせい》もあり得《う》る。十二分にあり得る。ここで一人先走ると、とんでもなく取り返しのつかない事態《じたい》(春香|絶叫《ぜっきょう》↓お父様|到来《とうらい》↓ドーヴァー海峡投身《かいきょうとうしん》)を引き起こす恐《おそ》れもあった。
しかし、と心の違う部分は言う。
この状況《じょうきょう》でソレ以外に目をつむる理由《りゆう》が他にあるのだろうか。二人きり。止まる時間。目を閉じる少女。キーワードは全部そろっているような気がする。まさか春香も眠《ねむ》くなって寝《ね》たわけでもあるまいし……。だとすると、ここは何もしないっていうのは逆に春香に失礼なのか?でもな……
あーもうさっぱり分からん!
こうなったらもう……今日こそは行けるところまで!?
長時間(主観的《しゅかんてき》にはである)にわたる葛藤《かつとう》の末に半ばオーバーヒート気味《ぎみ》になった俺の思考《しこう》が、なけなしの理性《りせい》を押《お》しのけBの選択肢《せんたくし》に大きく傾《かたむ》きかけて――。
「とてもストロベリーな雰囲気《ふんいき》の中、申《もう》し訳《わけ》ありませんが」
「!?」
背後《はいご》から聞こえてきた湖面《こめん》のような平坦《へいたん》な声に、一気《いっき》に現実へと引《ひ》き戻《もど》された。
「うわあっ!」「きやっ!?」
振り返《かえ》るとそこには、いつの間《ま》にか葉月《はづき》さんが立っていた。
「……もうその反応《はんのう》には慣《な》れましたので、それについては多くは申し上げません」
いやだから……何でこの人は毎回毎回|気配《けはい》を消して近づいてくるんだろう。それも決まって背後から。まったく、暗殺者《あんさつしゃ》みたいな人である。
何となく撫然《ぶぜん》とする俺を見て、葉月さんは少しだけ申し訳なさそうな表情をした。
「……すみません。お二人のお邪魔《じゃま》をするつもりはなかったのですが……お時問が迫《せま》ってまいりましたので」
「時間?」
「はい。ただ今、プログラム三番目の方の演奏が終わりました。まもなく出番ですので、春香様にはそろそろ舞台《ぶたい》のソデの方へと移動《いどう》していただかないと……」
もうそんな時間なのか。壁《かべ》にかけられている時計で確認すると、確かに春香の出演予定|時刻《じこく》の七分前。どうやら俺たちは、客観的《きゃっかんてき》にもそれなりの時間を固《かた》まったままでいたらしい。
「あ、はい。分かりました」
慌《あわ》てて立ち上がり、春香がドレスの乱れを直す。
「すみません、そういうことですので、そろそろ私、行かないと……」
「ああ、分かった。がんばれ。俺は客席から応援《おうえん》してるから」
そう言って控《ひか》え室《しつ》を出ようとした俺を、春香《はるか》が呼《よ》び止《と》めた。
「ゆ、裕人《ゆうと》さん」
「ん?」
見ると、ものすごく真剣《しんけん》な表情をした春香がそこにいた。
「あ、あのですね……」
ためらいがちな言葉《ことば》。何だろ? やがて春香はゆっくりと近づいてきて俺の正面《しょうめん》に回る。そして両手できゅっと、俺の手を強く握《にぎ》った。
「あの、見ていてください。私……今日は、裕人さんのために弾《ひ》きますから」
一言で言うと、春香の演奏《えんそう》は圧巻《あっかん》だった。
正直、ステージのソデからとてとてと頼《たよ》りない足取りで出て来る春香を見た時は、またハデにこけたり何か突拍子《とつぴょうし》もないミスをしたりするんじゃないかとかなり不安だったのだが、そんなものは演奏が始まった途端《とたん》に遥《はる》か冥王星《めいおうせい》の彼方《かなた》にまでふっ飛んでいった。
もうなんか、音からして違《ちが》った。
今までのやつらも予選を通過《つうか》してきたくらいだからかなりの腕《うで》なんだろうが、春香の演奏の前では、それらはことごとくヘラクレスオオカブトを前にしたごく普通《ふつう》の日本産カブトムシのように霞《かす》んで聴《き》こえた。悪いが、同じピアノを使っているとはとても思えない。
「すごい……」
真剣な表情。
旋風《せんぷう》のごとき素早《すばや》さで鍵盤上《けんばんじょう》を行き来する十本の指。
リズムに合わせてしなやかに動く身体。
そしてそれらから繰《く》り出《だ》される、重厚《じゅうこう》にして繊細《せんさい》な音。
思わず見惚《みと》れてしまった。
俺がまだ見たことのない春香が、そこにいた。
そういえば春香が演奏する姿《すがた》をちゃんと見るのはこれが初めてだったりするが……今さらながらにそのすごさを心の底《そこ》から思い知らされたような気分だった。
プログラムによると、春香の曲目は以下の三曲。
『ピアノソナタ第二番ト短調(R・シューマン)』
『メフィストワルツ第一番(F・リスト)』
『超絶技巧《ちょうぜつぎこう》練習曲集第四番マゼッパ=iF・リスト)』
ちなみに春香が今|弾《ひ》いているのはその中の三番目、最後の曲である。一曲目二曲目を快調《かいちょう》に演奏し終え、最後の締《し》めとばかりにこの曲に入っているのだが。
「……まぜっぱ?」
変わったタイトルだな。何か意味でもあるんだろうか?
「ん、知らないの、おに〜さん」
プログラムを見て首をひねっていた俺に、美夏《みか》が解説《かいせつ》してくれた。
「マぜッパってゆうのは、十七世紀に実在《じつざい》したロシアコサックの英雄《えいゆう》なんだよ。宮廷《きゅうてい》首長の愛人と不倫《ふりん》したのがバレて、罰《ばつ》として荒馬《あらうま》に縄《なわ》で繋《つな》がれてウクライナの荒野《こうや》を引きずられまくった逸話《いつわ》が有名かなー? ほら、ここんとこの音が馬のヒヅメみたいに聞こえるでしょ?」
確かに聞こえるが……それの何が英雄なんだかはさっぱりである。というかどう考えてもただのダメ人間のような……
まあマゼッパ氏の人間性についてはともかくとして(はっきり言ってかなりどうでもいい)、これもまたものすごい曲だった。
激《はげ》しいというか力強いというか重々しいというか、春香の小さな身体で、よくもまあここまで迫力《はくりよく》のある音を出せるものだと感心してしまう。
しばし、ホール内が圧倒的《あっとうてき》な音の奔流《ほんりゅう》に満たされる。
三曲目は他の二曲と比べ演奏時聞はそれほど長くない曲ではあったが、迫力と存在感《そんざいかん》では決して他に引けを取らなかった。
そして――演奏が終わった。
ゆっくりとイスから立ち上がり、ピアノの前で春香がぺこりと一礼。
客席からは嵐《あらし》のような拍手《はくしゅ》が降《ふ》り注《そそ》ぎ、「ブラヴォー」の声が飛《と》び交《か》う。中にはスタンディングオベーションをする人まで(それもけっこうたくさん)いた。
それらにちょっと困《こま》ったような表情を浮《う》かべて、春香はステージのソデへと歩いていく。
足取りはどこか頼《たよ》りなかったけど、その背中《せなか》は限《かぎ》りない自信に満《み》ち溢《あふ》れているように、俺には見えた。
――結果《けっか》は当然のごとく春香の優勝だった。
ステージの上でトロフィーのようなものを受け取る春香は(途中《とちゅう》、やはりまたドレスを踏《ふ》みつけてこけかけたものの)輝《かがや》いていた。明け方の金星みたいに、光り輝いていた。
何だろうね。
そんな春香の姿《すがた》を見ていたら……どうしてか少しだけ複雑な気分になった。
「ふむ、まあ当然だ」
表彰式を見届《みとど》け、春香《はるか》父が表情を変えずにそう言《い》い放《はな》った。
「この程度《ていど》のコンクール、春香なら眠《ねむ》っていても取れるだろう。……だがまあ、よくやったと、春香に伝《つた》えておいてくれ」
「承《うけたまわ》りました」
那波《ななみ》さんがうなずく。この人も、春香父の前では借《か》りてきたイリオモテヤマネコ(肉食)みたいにやたちと神妙《しんみょう》である。
「お父さん、お姉ちゃんに会っていかないの?」
「残念《ざんねん》だがもう時間がない。これから|イギリス情報局保安部《MIS》で人と会う約束《やくそく》がある」
「ふ〜ん、そ、なんだ」
美夏《みか》がどこか不満《ふまん》そうな口調《くちょう》でそう言った。
それに関しては俺も同意見だった。行き先とか色々と突っ込みどころはあるがそれはもう置いておくとして(深く考えると怖《こわ》いだけだし)、せっかくここまで来たんだから少しくらい春香に会っていってもいいような気がするけどな。
そんな俺の内心を知ってか知らずか、春香父は音もなく立ち上がるとそのまま出口へと向かって歩き出した。
だがその途中《とちゅう》で一度くるりと振《ふ》り返《かえ》り。
「ああ、そうだ。忘《わす》れていた。――綾瀬《あやせ》くん」
春香父はわざわざ戻《もど》ってくると、その丸太のように太い腕《うで》でぽんと俺の肩《かた》を叩《たた》いた。
「いずれ君とは、二人だけでゆっくりと話したいものだな」
……ナニヲデスカ?
その晩。
ホールに隣接《りんせつ》するホテルの大広間で、コンクールの参加者、審査員《しんさいん》、その他関係者などによる盛大《せいだい》な打ち上げパーティーが行われた。
「裕人《ゆうと》さんも、ぜひ来てください」
と春香に言われて、何となく参加はしてみたものの……正直今は少し後悔《こうかい》していた。
いやそれにはどこまで行ってもどこに行っても浮《う》きまくる俺の服装《ふくそう》(ジャージ&スリッパ)にも原因はあるんだが、最大の理由《りゆう》はそんなことじゃなかった。
会場内で最も賑《にぎ》わっている場所へと視線《しせん》を送る。
そこには春香がいた。コンクールの時とは違《ちが》う、よリフォーマルなパーティドレスに身を包《つつ》んだ春香。
その周《まわ》りには、老若男女《ろうにゃくなんにょ》様々な人で満《み》ち溢《あふ》れていた。
審査員《しんさいん》らしきヒグをたくわえた偉《えら》そうなおっさん。タキシード姿《すがた》の優男《やさおとこ》、南国インコが巣《す》でも作りそうなハデな髪形《かみがた》をした外国人のおばちゃん、コンクール出場者の女性。
皆、春香《はるか》にしきりに喋《しゃべ》りかけて、春香も笑顔《えがお》で応《こた》えている。
コンクール優勝者として、それはまあ当然《とうぜん》の対応《たいおう》なんだろう。
だけどそんな光景《こうけい》を見ていると、春香との間にある距離《きょり》というものを改《あらた》めて感じさせられたような気がして、微妙《びみょう》にブルーになってくる。
色々あってほとんど忘《わす》れかけていたが、春香はお嬢《じょう》様で、ピアノの世界では知らない者がいないほどの有名人で、学園ではファンクラブまである才色兼備《ざいしよくけんび》の『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』で……もともと俺なんかとは違《ちが》う世界の住人なんだよな。
「ふう……」
大広間の一角からテムズ川に面したテラスに出て、俺は一人で水銀《すいぎん》のようなため息《いき》を吐《つ》いた。
なんか、現実っていうやつを見せ付けられた気分だった。
春香と俺との間にある、見えない壁《かべ》のようなモノ。
ここ数ヶ月でだいぶ ここ数ヶ月でだいぶ縮《ちぢ》まったと思った春香との距離が、また大きく開いたような気がした。三歩進んで八十二歩戻る、みたいなもんか。
そのせいか、窓の外から見る春香は、たった一枚のガラスを隔《へだ》てただけなのにずいぶんと遠くにいるように感じられた。
「大人気だねー、彼女」
ふいにぽん、と背後《はいご》から肩《かた》を叩《たた》かれる。
「や、こんばんわー」
見るとそこには、笑顔《えがお》とショートカットのフレンドリー娘、椎菜《しいな》が立っていた。
「わー、すごい。あのおじさん、ドイツの巨匠《きょしょう》だよ? あ、あっちはイタリアの若手ナンバーワンの種馬男《たねうまおとこ》。で、こっちは――」
春香を取《と》り巻《ま》く人たちの素性《すじよう》を椎菜が説明してくれる。ほんとにすごい人たちばっかりなんだな。……あの南国インコの人が『ピアノ界の女王《マリー・アントワネット》』の二つ名で呼《よ》ばれてるってのはかなり意外だったが。
「ま、でもムリないか。乃木坂《のぎざか》さん、ほんとすごかったから。もちろん努力もあるんだろうけど、あれは天性《てんせい》の才能《さいのう》だなー。悔《くや》しいけど、あたしなんかとは音が全然違ったもん」
「いや、椎菜も――」
「はい、ストップ。ヘタな慰《なぐき》めの言葉《ことば》はいらない。どうせあたしの演奏《えんそう》なんてロクに覚《おぼ》ちゃいないでしょ?」
「う……」
図星《ずぼし》である。春香の演奏があまりにもすごすぎて、他の人の演奏はすでに記憶《きおく》の彼方《かなた》のその
また彼方《かなた》である。二位を取った[#「二位を取った」に傍点]椎菜《しいな》の演奏《えんそう》すらも。
「気を遣《つか》ってくれるのは嬉《うれ》しいけど、自分のことは自分が一番よく分かってるからさ。あたしはまだまだ乃木坂《のぎざか》さんには太刀打《たちう》ちできるレベルじゃなかったってこと」
椎菜が苦笑《にがわら》いをする。
「ていうか、はっきり言っちゃえば彼女のレベルは別次元。同世代どころか、二十歳以下ならもう敵《てき》はいないんじゃないかな? 一部では『|鍵盤上の姫君《ルミエール・ドゥ・クラヴィエ》』とか呼《よ》ばれてるくらいだし」
椎菜から見ても、どうやら春香《はるか》の存在《そんざい》は特別なようだったでか『|鍵盤上の姫君《ルミエール・ドゥ・クラヴィエ》』か……『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』に引き続いてまた大層《たいそう》な二つ名なもんだ。こういうのって、いったいだれが最初に考えるんだろうね?
「そういうわけで、今のあたしじゃ彼女の足元にも及ばない。及ばないけど……でも負けないよ。今はムリでも一年後か二年後。そうでなくてもいつかは必《かなら》ず、彼女よりもみんなの心に響《ひび》く演奏をしてやるんだから」
「椎菜……」
親《した》しみやすいその號珀色《こはくいろ》の瞳《ひとみ》に、この時は確かな決意の炎《ほのお》が燃《も》え盛《さか》っているのが見えた。春香も椎菜も、ピアノに対して本当に真剣《しんけん》に取り組んでるんだな……
それからしばらく、椎菜と色々と雑談《ざつだん》をして。
「あっ、あたしそろそろ行かないと。先生とか審査員《しんさいん》とか、色々と挨拶《あいさつ》しなきゃいけないんだ
った」
「そっか」
個人的にはもう少し話をしていたい気もしたが、そういうことじゃしかたがない。
「うん。それじゃね、裕人《ゆうと》」
「ああ。楽譜《がくふ》、ホントに助かった。ありがとな」
「だからそれはもういいって。じゃ、バイバイ!」
そう言って、椎菜は手を振《ふ》りながら室内の喧騒《けんそう》へと消えていった。
再《ふたた》び一人になった俺は、何とはなしに眼下《がんか》を流れる川に目を遣《や》った。昼間はきれいな川なんだろうが、今は暗闇《くらやみ》に塗《ぬ》りつぶされてただの真っ黒な流れにしか見えない。
――もう部屋《へや》に戻るか。
もともと、春香とゆっくり話せるのではないかと期待《きたい》して臨《のぞ》んだパーティーである。コンクールが終わってからの春香はハツカネズミのように忙《いそが》しく、まだちゃんと祝いの言葉《ことば》も言えていないし、他にも話したいこともあった。
しかしこの分じゃそれも果《は》てしなくムリそうだ。
テラスから室内へと入り再度《さいど》春香の方に顔を向けるも、今度は俺と同年代くらいのキンパツの男たち――コンクールの出場者だろうか? 実のところ春香と椎菜以外の顔はほとんど覚《おぼ》ていないんだよな――が迷子《まいご》になった仔《こ》ウサギに群《むら》がる飢《う》えたオオカミのように次から次へと水素《すいそ》以上に軽そうな笑顔《えがお》で近づいていくのが見えた。
その中の一人の顔が何となく佐々岡《ささおか》のヤツに似《に》ているのがムカついたが、春香《はるか》の立場もあることだし、まさかいきなりテーブル中央に置かれているピアノのアイスオブジェ(サイズ:八分の一)でぶっ叩《たた》くわけにもいかん。まあ葉月《はづき》さんが近くで控《ひか》えているからおかしなことにはならないだろうと自分を(ムリヤリ)納得《なっとく》させ、パーティー会場を出ようとしたところで。
ふと、春香と目が合った。
「あっ!」
すると春香はぱあっと表情を輝《かがや》かせ、ミサイルみたいに一目散《いちもくさん》にこっちに駆《か》け寄《よ》ってくると、そのままぎゅっと俺の腕《うで》に抱《だ》きついた。
「お、おい」
「えへへ」
男たちの鋭《するど》い視線《しせん》が一斉《いっせい》に俺に向けられる。英語なのでよく分からんが、何やら舌打《したう》ちとともに「Fuck!」だとか「Damn!」だとか「Kill!」、そういう実に殺伐《さつばつ》とした単語が耳に入ってきた。
「裕人《ゆうと》さん、やっと見つけました」
そんな男たちの視線などどこ吹く風で(というか完膚《かんぷ》なきまでに気付いていない)、春香は嬉《うれ》しそうに俺の顔を見上げた。
「さっきからずっと捜《さが》していたんです。でも関係者の方へのご挨拶《あいさつ》とかが忙《いそが》しくて、なかなか見つからなくって……」
確かに、ほとんど追《お》っかけに囲《かこ》まれた人気アイドル状態《じょうたい》だったしな。
「知らない人ばっかりだったので、緊張《きんちょう》してちょっと疲《つか》れましたけど……裕人《ゆうと》さんの顔を見たら安心しちゃいました」
えへ、と無邪気《むじゃき》に笑う。う……かわいい。
思わず抱《だ》きしめたくなる衝動《しょうどう》を何とか抑《おさ》えていると、春香《はるか》が何か言いたげな顔で俺の顔をじっと見ていることに気付いた。
「ん、どうした?」
「あ、えと――」
「うん?」
「あ、あのですね、ちょっとご相談《そうだん》があるのですが……」
春香はうんしょっと背伸びをして、俺の耳元でささやいた。
「実はホテルの隣《となり》にあるお店で、『ドジっ娘《こ》アキちゃんUKば〜じょん』のふいぎゅあを見つけたんです。それがすっごくかわいくて……今から買いに行きたいんですけど、その、よろしければいっしょに行ってもらえませんか? 一人だと心細くて……」
「……ド、ドジっ娘アキちゃん?」
「はい、UKば〜じょんですっ」
両手をぐっと 両手をぐつと握《にぎ》り締《し》めて、春香が身を乗り出す。
「……はは」
その一生懸命《いっしょうけんめい》な姿《すがた》を見て、何だかおかしくなると同時に心のどこかでほっとしている自分がいることに気付いた。
――ああ、何だかんだいってもやっぱり春香は春香だ。
ステージ上で華麗《かれい》にピアノを弾《ひ》いて、表彰式で輝《かがや》き、さっきまで大勢《おおぜい》の人々に囲《かこ》まれていたあの春香も春香なんだろうけど、今ここで年|相応《そうおう》の笑顔《えがお》を見せ、心の底《そこ》から楽しそうに目をきらきらと輝かせてメイド・イン・イングランドのアキバ系グッズ(ややこしい)のことを語《かた》る春香も、間違《まちが》いなく春香だ。
「? あ、あれ、私、何かおかしなこと言いました?」
突然《とつぜん》笑い出した俺を見て、春香が目をぱちくりさせる。そんな無防備《むぼうび》な表情もまた、俺の知っている春香のものだった。
「いや、言ってない」
「??」
さらに不思議《ふしぎ》そうな顔になる春香。
「何だかよく分からないのですが……それで、あの――」
「ああ、行こう」
即答《そくとう》する。断《ことわ》る理由《りゆう》なんて、これっぽっちもあるわけがない。
「やった。それでは早く行きましょう! 早く早く」
はしゃぐ子供みたいに手をぐいぐいと引《ひ》っ張《ぱ》る春香《はるか》を、俺は押《お》し留《とど》めた。
「でもその前に、春香に一つ言っておくことがあったんだ」
「? 何でしょう?」
春香が小鳥のように首をかしげる。
何はともあれ、まずこれだけは言っとかないとな。
「ん。――優勝おめでとう、春香」
春香は最初ぽかんとした表情を浮《う》かべていて、そしてようやく俺の言った言葉《ことば》の意味を飲み込めたのか、こっちを見て大きくうなずき、笑った。
「は、はいっ!」
はじけるような、花が咲くようなっていう言葉がぴったりの、そんな笑顔だった。
――ま、今回は色々あったけど、この笑顔で差し引きはゼロってことで。
さて、これにて一件|落着《らくちゃく》……と思ったのだが。
何かを忘《わす》れているような気がした。
微妙《びみょう》な感じなのだが、何かが記憶《きおく》の片隅《かたすみ》に引っかかっていた。
うーむ。
しばし考えるが、思い出せない。
……ま、思い出せないならきっと大したことじゃないんだろう、たぶん。
「裕人《ゆうと》さ〜ん、早く早く。売り切れちゃいますっ」
「ああ、今行くって」
ホテルのエントランスのところで春香が急《せ》かしていたので、俺は適当《てきとう》にそう結論付けると、そのまま春香の後を追《お》ったのだった。
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それから二十六時間後。
「うう……カニは、松葉ガニはまだか……」
「……お腹《なか》、空《す》いたよお……裕くぅん……」
帰国&帰宅した俺は、我が家の居間《いま》(なぜか破壊《はかい》されたはずのドアやらテレビやらはキレイに元通りになっていた)でゾンビのように横たわる、自分たちではまともに食事の支度《したく》すらできない妙齢《みょうれい》の成人女性二人(職業:秘書《ひしょ》と教師)の姿《すがた》を発見して、ようやく忘れていたのが何であったのかを思い出したのだった。
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雑踏《ざっとう》の中、遠くで黒地に白のメイド服が翻《ひるがえ》るのが見えた。
「あ、今あそこの角《かど》を曲《ま》がったよ?」
三つ先の角を指差し美夏《みか》が叫《さけ》ぶ。確かに、少し前まで見えていたメイド服がいつの間《ま》にか視界《しかい》から消えていた。「ほらほら、早く迫《お》っかけないと〜」
ぱたぱたとその場で足踏《あしぶ》みをする美夏を、しかし那波《ななみ》さんは止めた。
「いけません、すぐに行ったら見つかってしまいます〜。せめてあと十秒は待ってから追いましょう」
「え〜、そんなに〜」
美夏が不満《ふまん》そうな声を上げる。
「それで見失わないでしょうか……?」
その横で背伸《せの》びをして様子《ようす》をうかがっていた春香《はるか》が、遠慮《えんりょ》がちにそう言った。
「うーん、その可能性《かのうせい》はないわけではないですが〜」
俺たちの追っている人物と、俺たちとの間の距離《きょり》はざっと五十メートルくらい。しかも場所は繁殖期《はんしょくき》のアリの巣《す》みたいに人で満《み》ち溢《あふ》れる休日の歩行者天国(しかも都内)である。これじゃ本当にいつ見失ってもおかしくない。
「……もう少しくらい近づけないんですか?」
俺の言葉《ことば》に、しかし那波さんは首を横に振《ふ》った。
「ダメですよー。これ以上|接近《せっきん》したら葉月《はづき》さんにはすぐに気付かれてしまいます。今だって、ほんとに限界《げんかい》ギリギリなんですから〜」
「だけど……」
いくら何でもこの距離は遠すぎだろ。葉月さんがメイド服を着てなかったら、ほとんど分からんぞ。
「裕人《ゆうと》様、甘いです。人ゴミの中だからこそこの距離でも何とかなっているんです〜。見通しの良い場所だったら、百メートル離《はな》れていたって葉月さんは感知《かんち》してしまいますよ」
「……」
……いやあの人はいったい何者ですか? それってもうメイドさんのスキルを明らかに逸脱《いつだつ》してる気がする。
「とにかくもう少し待ってください。そうしたらまず私が先行《せんこう》いたしますので、その後から春香様たちは付いてきてくださいね〜
そう言うと、那波さんが人の波を避《よ》けながら音もなく前に出た。この人の身のこなしも、すでにしてほとんど常人《じょうじん》のものじゃないな。
「でも、ほんとどこに行く気なんだろ〜ね、葉月《はづき》さん」
「分からないです。だけど、何か手がかりだけでも掴《つか》めれば――」
美夏《みか》の言葉《ことば》に春香《はるか》が答える。
「手がかり、か……」
まあ、それを掴むために俺たちはこんなことをやっているんだが。
と、先行《せんこう》した那波《ななみ》さんがこちらに向かってちょいちょいと手を振《ふ》っていた。
「あ、もうだいじょぶみたいだよ。行こ、お姉ちゃん、おに〜さん」
「はい」
「ああ」
美夏に促《うなが》され、春香と俺は那波さんの後を追《お》った。
さて、俺たち(俺、春香、美夏、那波さん)がいったい何をしているのかというと――
「葉月さん……ここのところどこか変なんです」
始まりは春香のその一言からだった。
ロンドンから帰国した五日後。
いっしょに行くと約束《やくそく》した夏こみ≠ニやらを一週間後に控《ひか》え、その打ち合わせのために乃木坂邸《のぎざかてい》を訪《おとず》れていた俺は、春香からそんな相談《そうだん》をもちかけられた(打ち合わせ自体は、当日の待ち合わせ場所と時間の確認と、春香作の夏こみまっぷ≠渡《わた》されてすぐに終わった)。
「三日前、くらいからでしょうか。物思いにふけることが多くなったというか、どこか物憂《ものう》げというか……」
ベッド(天蓋《てんがい》付き)に腰《こし》を下ろした春香が、心配《しんぱい》そうにつぶやく。
「物憂げって、葉月さんが?」
「………はい」
ちなみにここは春香の部屋《へや》であり、件《くだん》のメイド長さんは紅茶とお茶菓子《ちやがしち》を厨房《ゆうぽう》まで取りに行っていて今はいない。「二十分ほどお待ちください」と言っていたから、おそらく本当に二十分きっかりしないと戻《もど》ってこないだろう。そういう人である。
「うまく言葉では言い表せないんですけど、何かに悩《なや》んでいるというか……。でも訊《き》いても、何でもありませんって言うだけで……」
春香の表情が曇《くも》る。
「心配《しんぱい》です……何かあるのなら、私たちに話してほしいのに」
「うーん……」
さっき会った限《かぎ》りでは、俺にはよく分からなかった。というかいまだにあの人の細《こま》かな表情の違《ちが》いは判別《はんべつ》することができない。大まかな喜怒哀楽《きどあいらく》くらいなら何とか分かるようになったんだけどな。
にしてもあの葉月《はづき》さんに悩《なや》みねえ……
「なあ、春香《はるか》の思い過ごしってことはないのか?」
「思い過ごし、ですか?」
「ああ、たまたまここんとこ葉月さん、ちょっとアンニュイな気分だったとか」
心配する気持ちも分からなくはないが、正直何かに悩む葉月さんというのが想像《そうぞう》できない。どんなことがあっても、それこそ乃木坂邸《のぎざかてい》に大陸間|弾道《だんどう》ミサイルとかが飛んできても、あの人なら迷《まよ》うことなく冷静《れいせい》に対処《たいしょ》できそうだし。
「う〜ん、それはないと思うよ?」
と、ふいに背後《はいご》から声が割り込んできた。
「お姉ちゃんの思い過ごしってことは、たぶんないよ。だってわたしもそう思うもん」
「え?」
振《ふ》り返《かえ》ると部屋《へや》のドアのところに、淡《あわ》い栗色《くりいろ》の髪《かみ》を二つに結んだ春香妹――乃木坂美夏が笑顔《えがお》でちょこんと立っていた。「えへ、おに〜さん、五日ぶり」
「美夏……」
「那波《ななみ》さんもいますよ〜。裕人《ゆうと》様、こんにちは〜」
その隣《となり》ではつい先日知り合ったばかりのフレンドリーなメイドさんがにこにこと笑っている。
「もう、水臭《みずくさ》いなー。ウチに来てるんならわたしたちに声くらいかけてくれてもいいのに。あ、それともお姉ちゃんと二人きりになりたかったとか? このこの〜♪」
「わ〜、裕人様、変態《へんたい》ですね〜」
現れるなり、何やら好き勝手なことをのたまい始める二人。
「あのな……」
「あ、もしかしてお姉ちゃんもそっちの方が良かった? ん〜、そっか〜。邪魔《じゃま》しちゃったかな〜」
「私たち、馬に蹴《け》られた方がいいですかね〜?」
二人で意味ありげに春香の方を見る。
「そ、そんなことは……今日はその、ただ打ち合わせをしていただけで――。も、もちろん裕人さんと二人でいるのはとっても楽しかったですけど、でも美夏たちがいると邪魔とかそういうことじゃなくて――」
かーっと真っ赤になりながら、ごにょごにょと春香。
それを見て、二人の小悪魔《こあくま》はさらに顔をにやにやとさせた。
「相変わらずお姉ちゃんはウソつけない人だな〜。ほれほれ、いいから素直《すなお》になっちゃいなよ〜」
「そうですよー。人間、素直が一番です」
「で、ですから――」
「ほらほら〜」
「うふふ〜」
「――(真っ赤のまま完全に沈黙《ちんもく》〉」
……やれやれ。
そんな感じでひとしきり(といっても十分くらいじっくり)俺たちに対するからかいの言葉《ことば》を口にした後、
「――ま、それはともかくとして」
美夏《みか》が唐突《とうとつ》に、真剣《しんけん》な顔になった。
「お姉ちゃんの言う通り……確かにここんとこちょっとヘンなんだよ、葉月《はづき》さん」
「……そうなのか?」
美夏がこくんとうなずく。
「うん。なんかいつもの葉月さんらしくないっていうか、見た目からはあんまり分かんないかもしれないけど……」
「いつもと比べて三倍増しでぼんやりとしていることが多いですね〜。先ほど廊下《ろうか》ですれ違《ちが》った時も、何やら浮《う》かない顔をしていましたし」
那波《ななみ》さんもそう付け加える。どうも、葉月さんが変だというのは事実らしいな。
「葉月さん、本当にどうされたのでしょうか……」
春香《はるか》の表情がさらに曇《くも》る。そんな春香に美夏が言った。
「ん〜、やっぱお姉ちゃんも気になるよね? 何で葉月さんの様子《ようす》がおかしいのか」
「……それは、はい」
「――だったらさ、理由《りゆう》を知りたいと思わない?」
「理由、ですか?」
春香が少し驚《おどろ》いた顔をした。
「うん、そ。葉月さんが何に悩《なや》んでるか。そのワケが分かればわたしたちにも対処《たいしょ》のしようもあるし。――ね、みんなもそう思うよね?」
ぐるりと皆を見渡《みわた》して、美夏が尋《だず》ねた。
「そうですね〜。気になります〜」
「まあ、分かるもんなら」
「だよねだよね?」
美夏《みか》がうんうんと満足そうにうなずく。
「そこでわたし、いいこと考えついちゃったんだ〜」
「いいこと?」
何だ、いいことって? 皆の視線《しせん》が美夏の顔に集まる。それを受けて美夏は得意《とくい》げに口を開いた。
「ふふ〜、あのねあのね、実は葉月《はづき》さんは今日――」
「……私がどうかいたしましたか?」
突然《とつぜん》、どこからか声がした。
「わわわっ!?」「きゃ!」「うわっ!」「〜っ!」
四人分の絶叫《ぜっきょう》が上がる。
「……さすがに四人同時にそういう反応《はんのう》を取られると、少しばかりショックです」
俺たち全員のちょうど共通の死角《しかく》になる位置《いち》に、いつの間《ま》にかひっそりと葉月さんが立っていた。相変わらず気配《けはい》も足音もドアを開く音すらも全くもってなし。……てか絶対《ぜったい》狙《ねら》ってないか、この人。
「ど、どうしたんですか、葉月さん?」
慌《あわ》てたように春香《はるか》が尋《たず》ねる。
「どうしたと言われましても……ご用意した紅茶とケーキをお持ちしたのですが」
「あ、そ、そうでした」
そういえば美夏たちの登場ですっかり忘《わす》れていたが、そのためにこの人は席を外《はず》してたんだっけか。
「す、すみません、自分で頼《たの》んでおいて……」
「いえ……」
謝《あやま》る春香に静かに首を振《ふ》って、葉月さんは持っていたトレイをテーブルに置いた。トレイの上には、湯気を上げるティーポットとケーキみたいなもの(三人分)が乗っかっていた。
「テ・ロマーノとキャロットケーキでよろしかったでしょうか?」
「あ、はい」
「美夏様もこれで?」
「う、うん、お願い」
葉月さんの無音移動術《むおんいどうじゅつ》にあまり慣《な》れていなかったのか、美夏の声は動揺《どうよう》していた。表情もどことなく引きつっているように見える。
「――失礼します」
こぽこぽと、葉月さんがそれぞれのカップに紅茶を俺れ、ケーキを切り分けていく。
その間、部屋《へや》の中は微妙《びみょう》な沈黙《ちんもく》に覆《おお》われていた。
カチャカチャと、ただ葉月さんが手を動かしている音だけが淡《たんたん》々と響《ひび》く。
やがて人数分の紅茶が滝れられ、切り分けられたケーキが皆の前に置かれた。
「それでは私は所用《しょよう》がございますので、厨房《ちゅうぼう》の方に戻《もど》っております。何かありましたらお呼《よ》びください。――那波《ななみ》さん、後はお願いいたします」
葉月《はづき》さんはぺこりと一礼をすると、部屋《へや》から出て行った。
ガチャリ、とドアの閉まる音。
「は〜、びっくりした」
直後に、大きなため息《いき》とともに美夏《みか》がテーブルの上にだらりと身体を投げ出した。「突然《とつぜん》あんなのなしだよ〜」
「ええ、全然《ぜんぜん》気配《けはい》を感じませんでした。さすがは葉月さんです〜」
どうやら那波さんですら全く接近《せっきん》を感知できなかったらしい。それが褒《ほ》めていいところかどうかはまた微妙《びみょう》な気がするがな。
「と、とりあえずは「と、とりあえずは冷《さ》めないうちに紅茶を飲みませんか? せっかく葉月さんが美味《おい》しく滝れてくれたんですから」
「……そうだな」
春香《はるか》の勧《すす》めで、皆(春香の後ろに立っている那波さんを除《のぞ》く)がテーブルの上にあるカップに手を伸ばす。
しばしの歓談《かんだん》タイム。
皆で思い思いに談笑《だんしょう》していると。
「――そういえばお姉ちゃん、さっきから気になってたんだけど、それ何?」
「えっ?」
テーブルの隅《すみ》に置かれていた冊子《さっし》を目聡《めざと》く見つけて、美夏が尋《たず》ねた。「なんかのガイドブック? もしかしてお姉ちゃんたち、どっか行くの? 見せて見せて!」
「あ、こ、これはその……」
春香の顔が途端《とたん》にぴしっと強張《こわば》った。
そこにあったのは、先ほどの打ち合わせの時に見せてくれた、春香作の夏こみまっぷ≠ニやら(自信作らしい)である。……またしまい忘《わす》れてたんだな、春香。
何にせよ、ここはさっさとフォローを入れておくべきだろう。
「あー、ごほんごほん」
わざとらしく咳払《せきばら》いをして美夏に目配《めくば》せする。
「それは夏休みの倫理課題《りんりかだい》の『世界の偉人伝《いじんでん》』ノートだ。別に見ても面白《おもしろ》いもんじゃないそ」
「? どしたのおに〜さん、急に」
「ごほん、ごほん」
「なに? 風邪《かぜ》でもひいたの? マイコプラズマ肺炎《はいえん》?」
少しの間、美夏はきょとんとした顔をしていたが、すぐに「――あ、そうゆうことか」と小さくつぶやいて。
「ん、な〜んだ、ただのノートなんだ。だったら別に見せてくれなくてもいいや」
「あ、そ、そうですか?」
春香《はるか》があからさまにほっとした表情になった。
「うん。でも宿題だったら、どっかにしまっておいた方がいいんじゃない? テーブルの上に出しっぱなしだと汚《よご》れるかもしれないし」
「あ、は、はい」
そそくさと、表紙を隠《かく》しながら問題のブツを机の引き出しにしまう。それを美夏《みか》が苦笑《くしょう》混《ま》じりに見ていた。やれやれ、何とか事なきを得《え》たみたいだ。
「で、美夏。さっき言いかけてたいいこと≠チて?」
春香が戻ってきたところで、俺はさりげなく話題を変えた。
「あ、うん。えっと――」
先刻《せんこく》のトラウマからか、美夏は一度きょろきょろと周《まわ》りを注意深く見渡《みわた》した。
「よし、今度はいないっと。――えっとね、実は葉月《はづき》さん、今日の午後に休暇《きゅうか》を取ってるの」
「休暇?」
「そうよね、那波《ななみ》さん?」
「え? あ、はい〜。日曜日ですし、確かどこかに出かけると言っていたと思いますが……」不思議《ふしぎ》そうに答える那波さん。「でもそれといいこと≠ノ何の関係が〜?」
それは俺もまったく同感だった。春香も隣《となり》で、カップを手に「?」と首を傾《かたむ》けている。
美夏(この中で最年少)が、みんな分かってないな〜って顔をした。
「ん〜とね、悩《なや》みごとの原因《げんいん》ってゆうのは、だいたいプライベートにあるものなの。だからその人のプライベートを調べてみれば、悩みごとが何だか分かるってわけ。あんだすたん?」
「そういう……ものなのか?」
「ん、そういうものなの。女の秘密《ひみつ》はプライベートにあり≠チて。――ね、お姉ちゃん?」
「え? あ、は、はい、そ、そうですね」
妹の突然《とつぜん》の突っ込みに、プライベートにものすごい秘密を抱《かか》えている(つもりの)姉が、目を泳がせながら答えた。
「そして葉月さんは今日は午後から仕事がお休み。で、仕事がお休みってことはプライベートの始まりってことだよね?」
「……まさか」
なんとなく、その先に続く言葉《ことば》が想像《そうぞう》できた。
ここ二ヶ月くらいの付き合いで、この春香妹の色んな意味で突飛《とっぴ》な思考回路《しこうかいろ》というものが少しは分かってきたからなのかもしれん。朱《しゅ》に交われば赤くなる。……あまり嬉《うれ》しくないが。
美夏が、ぱちりとかわいらしくウインクをした。
「そ。つまりこれから、みんなで葉月《はづき》さんの後を追《お》ってみようってこと♪」
――というわけで、葉月さんの尾行《びこう》をすることになったのだが。
これが思った以上にめちゃくちゃ大変《たいへん》だってことに気付かされるまで、さほど時間はかからなかった。
人ゴミの中を苦《く》もなく素早《すばや》く進んでいく春風のように軽《かろ》やかな身のこなし。
一定以上の距離《きょり》に近づくとすぐに反応《はんのう》するレーダーばりの探知能力《たんちのうりよく》。
さらに周囲《しゅうい》の物音や人の声に対して、軍用犬|並《な》みに敏感《びんかん》な聴力《ちょうりょく》。
とにかく葉月さんに気付かれないように、その後を追っていくというだけで一苦労なのだ。
街中でメイド服というこの上なく目立つ格好《かっこう》なのにもかかわらず、気を抜《ぬ》くとあっという間に(それこそ瞬時《しゅんじ》に)見失いかねない。
事実、俺たちだけだったら、とっくにロスとするなり気付かれるなりしていただろうね。
ここまで何とか無事《ぶじ》に追ってこられたのも、葉月さんに限《かぎ》りなく近い性能《せいのう》を有する那波《ななみ》さん(ちなみにこの人は今はピンクのキャミソールに黒のミニスカートという、至《いた》って普通《ふつう》の格好《かっこう》である)がいてくれたからこそである。
「はい、だいじょうぶですよ〜。来てください」
那波さんが先行《せんこう》して安全を確認してから、俺たちがその後に続く。そのやり方で、今のところはそれなりにうまくいっていた。
「あれ、葉月さん、どこ?」
「姿《すがた》が見えないのですが……」
三っ向こうの角《かど》を曲《ま》がったはずの葉月さん。確かにその姿が忽然《こつぜん》と消えている。
「ええと、どうやらあそこのお店に入ったみたいです〜」
「お店?」
「はい〜」
那波さんが、遠くにあるやたらとカラフルで原色チックな看板《かんばん》を指差す。
「あれはヌイグルミ屋さんですね〜。『アリス・イン・ワンダーランド』と書いてあります」
「ヌ、ヌイグルミ?」
「ええ〜、そうですよ」
「……」
いや葉月さん、何でまたそんなファンシーかつファンタジーな店に……
「葉月さん、ヌイグルミが大好きですから……」
春香《はるか》がそっとつぶやく。
「お部屋《へや》にも、かわいいヌイグルミがたくさんあるんですよ。ワンちゃんとか、ネコさんとか、ペンギンくんとか」
「……」
あー。
ほとんど忘《わす》れかけていたが、そういえば前にそんな話を聞いたことがあったような気もするな。激《はげ》しく意外《いがい》だったので理性《りせい》が記憶《きおく》することをかたくなに拒《こば》んでたのかもしれん。
「う〜ん、とりあえずはもう少しだけ近くに行って、出て来るのを待っているのが無難《ぶなん》ですね〜。ヘタに近づきすぎると、お店の中からでも発見されちゃいますから」
「……店の中から?」
「はい〜」
「いくら何でもそれは――」
あり得《え》ない、と言い切れないのが怖《こわ》かった。というか今までの実例からして、あのメイド長さんならそれくらい十分にあり得そうな気もする。暗闇《くらやみ》で百メートル先に落ちた針の音とかを聞き取れそうな人だし。
なので、ここは那波《ななみ》さんの言葉《ことば》に素直《すなお》に従《したが》うことにした。
そして店から離《はな》れた物陰《ものかげ》で待つこと十分。
「あ、出てきました〜」
葉月《はづき》さんがその手に紙袋《かみぶくろ》を持って店から出てきた。微妙《びみょう》にはみ出している白くて長い耳からして中身は……
「ウサギですね〜。あの耳の大きさを考えると、けっこう大きなものですよ」
……だろうな。いやそう見えて実はバニーガールの衣装《いしょう》の一部だったりしたらかなりイヤなもんがあるが。
「ウサギさん……ですか。やっぱりいっしょに寝《ね》たりするのかな、葉月さん」
春香がつぶやく。
「……」
……いやそれはないだろ。
なんか勝手な想像《そうぞう》だが、葉月さんとウサギのヌイグルミの組み合わせだと、どうしても無表情で首根っこを掴《つか》んで持ち上げているイメージ(狩猟《しゅりょう》or調理《ちょうり》)しか浮《う》かんでこないんだよな。ううむ。
考え込んでいると、横から美夏《みか》に肩《かた》を叩《たた》かれた。
「ほらほらおに〜さん、なに気難《きむずか》しいフクロウみたいな顔してうなってるの? 行くよ〜」
「あ、ああ」
促《うなが》され歩き出す。
次に葉月《はづき》さんが向かったのは、ペットショップだった。
「店先でチワワと戯《たわむ》れているようですね〜」
俺たちにはよく見えないが、那波《ななみ》さんによるとそういうことらしい。しかしあの葉月さんとチワワってこれまた……
「いいな〜、チワワ。わたしも遊びたいよ〜」
「あのつぶらな瞳《ひとみ》がかわいいんですよね」
羨《うらや》ましそうにペットショップの方を見つめる乃木坂《のぎざか》姉妹。
その横では、那波さんによる葉月さんのレポートが続く。
「抱《だ》き上《あ》げて頭を撫《な》でてあげていますね〜。ペロペロと顔を舐《な》められています。でも葉月さんもまんざらではないみたいで、とっても嬉《うれ》しそうな顔をしています〜」
「……」
「あ、そろそろ移動《いどう》するんでしょうか。ものすごく名残《なごり》惜《お》しそうな顔でチワワのことを見ていますね〜。あらあら、手まで振《ふ》っちゃって〜」
「……」
……もしかして、俺は葉月さんに対する認識《にんしき》を少しばかり改《あらた》めた方がいいんだろうか。
「よっぽど離《はな》れたくないんでしょうかね〜、手を振ったままその場で止まっちゃってます。あ、ようやく動き出しました。未練《みれん》を振り切るように小走りで離れていきます」
「……」
「ほらほら、私たちも追《お》いますよ〜」
そして再《ふたた》び追跡《ついせき》モードに入る俺たち。
「次はどこに行くつもりなんだろ、葉月《はづき》さん」
「……俺にはもうさっぱりだ」
ヌイグルミ店に続きペットショップ。すでに葉月さんのイメージとは百八十度かけ離《はな》れたとこうばかりが二つも続いている。悪いが俺にはこれっぽっちも想像《そうぞう》つかん。
「そろそろなんか手がかりがつかめそうなとこに行ってくれるかなあ。でも今の流れだと普通《ふつう》にキャラクターショップとか行きそうだし……。う〜ん」
美夏《みか》が口元に指を当ててうなる。
にしてもさっきからすごい人だな。なんかイベントでもあるのか? まあ休日の歩行者天国なんざこんなもんだと言われてしまえばそれまでだが、見回すと左も右も人ばっかりで、油断《ゆだん》すると葉月さんを見失うどころか春香《はるか》たちともはぐれかねない。特にこの面子《めんつ》は迷子《まいご》になりそうなのが多いから、気を付けないとな
とか考えながら、とあるケーキ屋の前を通り過ぎようとした、その時だった。
『それではこれより、毎月|恒例《こうれい》のタイムサービスを行います!』
店先からいきなり、そんな声が聞こえてきた。
『ただ今より三十分間、銀果堂《ぎんかどう》内全てのスイーツを五十〜八十%オフにさせていただきます。早い者勝ちですので、皆様|遅《おく》れることのないようご注意ください。では――スタート!』
その号令とともに、人の流れが大きく変わった。
それまで俺たちと順方向に流れていた波が、いきなり逆《ぎゃく》方向にシフトチェンジしたのだ。
「うわつ!」
押《お》し寄《よ》せてくる人の波。
俺と春香と那波《ななみ》さんは慌《あわ》てて横に飛んでその流れから抜《ぬ》け出《だ》すことに成功したが、ただ一人、考え事をしていてそれに気付かなかった者がいた。
「ん〜、ブティックとかもありだし、小物屋さんとかもあるかな……あ、意表《いひょう》をついてジュエリーショップとかも……。――って、きゃっ!」
もろに人の流れに巻《ま》き込《こ》まれて、美夏の姿《すがた》が消えた。
「お、お姉ちゃーん!」
叫《きけ》び声《こえ》が上がる。
人の渦《うず》のど真ん中でもみくちゃになった美夏が、あっという間《ま》に後方に流されていくのが見えた。
「あ、あわわわわ、お姉ちゃ〜ん、おに〜さん、那波さ〜ん!」
身体がちんまい(身長一四七センチ。ちなみに本人は一五〇あると言《い》い張《は》っている)だけに、一度流れに乗ってしまうと抜《ぬ》け出《だ》すのが非常《ひじょう》に困難《こんなん》のようだ。じたばたと懸命《けんめい》に手足を動かしているのが見えるが、全くと言っていいほど功《こう》を奏《そう》していない。おお、みるみるうちに、お椀《わん》に乗った一寸法師《いっすんぼうし》みたいに美夏《みか》の姿《すがた》が遠ざかっていく……って、そんなことを冷静《れいせい》に考えてる場合じゃないだろ!
「美夏!」
慌《あわ》てて追《お》いかけようとするが、この生まれたてのカマキリの幼虫《ようちゅう》のような人の量である。おまけに流れに逆行《ぎゃっこう》するカタチになるので――
「ああ、もう!」
全然進まん!
産卵期《さんらんき》になり必死《ひっし》に生まれ故郷《こきょう》の川へと遡上《そじょう》しようとする鮭《さけ》みたいに俺が四苦八苦《しくはっく》していると。
「春香《はるか》様、裕人《ゆうと》様、ここは私にお任《まか》せください〜」
「え?」
横からコンコルドのごとき速さで那波《ななみ》さんが飛び出した。押《お》し寄《よ》せる人波をスカートの裾《すそ》を揺《ゆ》らしながら踊《おど》るようにかわして、美夏の声がする方向(もはや視界《しかい》から完全に消えている)へと顔を向ける。
「お二人はこのまま葉月《はづき》さんを追《お》ってください。私は美夏様をお助けしてから、そちらに合流しますので〜」
それだけ言うと、瞬《またた》く間《ま》に、那波さんの姿は人ゴミの中へと消えていった。
俺たちはそれを、ただ呆然《ぼうぜん》と見送るしかなかった。というかこの人の流れをあのスピードで逆走するなんて、一般人にはムリな話である。
「……どう、しましょう?」
二人だけになって、春香がぽつりとつぶやく。
「……とりあえず、葉月さんを追うのを続けるか? 那波さんが行ったなら美夏は大丈夫《だいじょうぶ》だろうし……」
あのメイドさんなら、たとえどんな状況《じょうきょう》でもきっちり美夏を保護《ほご》して、その後俺たちに合流するだろう。どういう手段《しゅだん》を用いるのかまでは分からんが、そのヘンだけは自信をもって断言《だんげん》できる。
「そ、そうですね。ここで諦《あきら》めてしまったら美夏の犠牲《ぎせい》がムダになってしまいます。――あの子のためにも、私たちががんばらないと」
真面目《まじめ》な顔で両手をぐっと握《にぎ》り締《し》める春香。
犠牲って、死んでないけどな。
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こうして、ここからの追跡要員《ついせきよういん》は俺と春香《はるか》の二人だけになった。
主力であった那波《ななみ》さんがいなくなったことからその難易度《なんいど》はかなり増《ま》したのだが(偏差値《へんさち》にして五十五から七十くらいにまで)、それでも周《まわ》りに人が多いせいもあり、何とか葉月《はづき》さんに見つかることなく追跡を続行することに成功していた。
現在、葉月さんはデパートの一階にある喫茶店《きっさてん》に入ったところだった。屋内《おくない》だが、大通りに面してガラス張《ば》りになっている店なので、多少|離《はな》れた位置《いち》からでも中の様子《ようす》は把握《はあく》することができる。俺たちは、大通りを挟《はさ》んで店の向かいにある自動販売機の陰《かげ》から葉月さんの動きを窺《うかが》っていた。
「どうだ?」
「えと、注文をしているみたいですね」
春香の言葉《ことば》通り、葉月さんはメニューを手にウェイトレスさんに何かを言っているようだった。……メイドさんがウェイトレスさんに対して注文する図というのはかなり突っ込みどころが満載《まんさい》なんだが、まあそれはそれとして。
「だれかと待ち合わせしているような様子《ようす》もなしか……」
ここに至《いた》るまで、葉月さんに特に不審《ふしん》な行動は見られなかった。いやヌイグルミ専門店でウサギ(ビッグサイズ)を買ったりペットショップでチワワと楽しげに戯《たわむ》れたりは俺からすれば十分に不審な行動なんだが、そういうことではなくそもそも葉月さんをこんな風に尾行《びこう》することになった理由《りゆう》――すなわち彼女の悩《なや》みの原因《げんいん》が何であるか――に関《かか》わるような行動は見当たらなかったということである。
今もいつもと変わらぬ無表情でカップに口をつける葉月さんに、変わったところがあるようには思えない。
「うーむ」
これは果《は》たして俺が鈍《にぶ》いのかそれとも葉月さんが行動に出していないだけなのか……限《かぎ》りなく前者のような気もしないでもない。普段《ふだん》から信長《のぶなが》のやつにも「裕人《ゆうと》ってアレだよね、ギャルゲーの主人公みたいに超鈍感《ちょうどんかん》だよねー」とか言われてるくらいだし。いや、例《たと》え自体はワケワカランのだが。
ともあれ。
あのくつろいだ様子《ようす》からして、しばらく(少なくともお茶を飲み終わるまで)は葉月さんがここから動くことはなさそうだ。
少し気を緩《ゆる》めて、流れ行く通行人の群《サ》れに視線《しせん》を移《うつ》してみた。働きバチのようにせかせかと行《い》き交《か》う人々。この狭《せま》い日本、そんなに急いでどこに行くのかね……などとさっきまでこの上なく急いで葉月《はづき》さんを追《お》っかけていた自分たちのことを棚《たな》にあげて眺《なが》めていると。
――とんとん。
ふいに後ろから肩《かた》を叩《たた》かれた。ん?
とんとん。
再度《さいど》、叩かれる。何だ、春香《はるか》か?
「ん、どうかした――」
だが振《ふ》り向《む》いた俺の視界《しかい》に入ってきたのは、乃木坂家《のぎざかけ》長女の可憐《かれん》な笑顔《えがお》ではなかった。
「――――――え?」
そこにあったのは、見慣《みな》れたというかほとんど見飽《みあ》きた顔。ついでに言えばこの場で見たくなかった顔トップ3に入るだろう顔。
「な、何で……」
思わず、何も見なかったことにして無言《むごん》でその場を離《はな》れたくなる。
おお、やはり裕人《ゆうと》か。歩いていたらそれらしき姿《すがた》が見えたので、もしかしてと思ってな」
なぜかスーツ姿の我が家の姉上様がそこにいた。腕《うで》を組んでどこぞの殿《との》様みたいに偉《えら》そうに俺を見下ろしている。――い、いや、何でルコがここに? 確か俺が家を出て来る時にはまだ居間《いま》で一升瓶《いっしょうびん》片手にぐーすか寝《ね》てたはずなのに……(ダメ人間)
「で、お前、こんなところでこそこそと何をやっているんだ? 何か後《うし》ろ暗《ぐら》いことをやっているんじゃないだろうな?」
じろりと鋭《するど》い視線《しせん》を投げかけてくる。
「あ、あー、これには色々と事情《じじょう》があって……」
言葉《ことば》を濁《にご》す。
よんどころない事情があって乃木坂家のメイド長さんを尾行中《びこうちゅう》だ、とはさすがに言えん。
「そ、それより、ルコこそ、何でそんな格好《かっこう》で――」
「ん、ああ……」
ルコが顔をしかめた。
「いわゆる休日出勤というやつだ。寝ていたところを社長に呼《よ》び出《だ》された。何でも会社の新製品がどこぞの商標登録《しょうひょうとうろく》に引っかかっていることが判明《はんめい》したとかで、訴訟《そしょう》を起こされる寸前《すんぜん》だそうだ。ゆえに至急《しきゅう》その対策《たいさく》を頼《たの》むだとか何とか……まったく、この暑い中に」
対策って、この姉に? なんかの間違《まちが》いじゃないのか? 確かにヘタな企業《きぎょう》ヤクザとかよりは遥《はる》かに頼《たよ》りになりそうだが(注:実力|行使《こうし》に重点を置いた場合に限《かぎ》る)、それにしたって明らかにマイナス要素《ようそ》が多すぎるだろ。
「まあこっちはそういうわけだ。それで……ん?」
そこで初めて気付いたのか(遅《おそ》い)、ルコは俺の隣《となり》でちらちらと小動物のようにこちらの様子《ようす》を窺《うかが》っていた春香《はるか》を見た。
「そういえば、キミはだれだ?」
「あ、え……?」
突然《とつぜん》問われて、春香が戸惑《とまど》う。
「裕人《ゆうと》、お前の知り合いか? それにしては見ない顔だが……」
「あ、私は、その……」
春香が助けを求めるように俺の顔を見た。
「あー、彼女は……」
「――ああ、なるほど」
だが俺の言葉《ことば》を待たずに、ルコが何やらしたり顔で大きくうなずいた。「もしかしてその子がアレか? 以前に由香里《ゆかり》が言っていた、お前がホームルーム中に発情していきなり押《お》し倒《たお》したとかいう――」
「違《ちが》うわ!」
まだあのデマを信じてやがったのか、こいつは。
「ううむ、欲情《よくじょう》と劣情《れつじょう》から始まる関係もあるにはあるが……お前くらいの歳ではあまりお勧《すす》めはできんな。刹那的《せつなてき》に盛《も》り上《あ》がりはするが、長続きせん。まあストーカー行為《こうい》とかをするよりはマシとはいえ……」
「人の話を聞け!」
ルコが再度、顔をしかめた。
「――そんなに大声を出すな、やかましい。天下《てんか》の往来《おうらい》で恥《は》ずかしいヤツだな」
「だれのせいだ!」
というかお前が言うな。デフォルトでの声のでかさでは信長《のぶなが》とタメを張《は》るようなレベルのくせに。
「はあ……ったく」
このアホ姉の相手は疲《つか》れる。本当に心の底《そこ》から疲れる。暗澹《あんたん》たる気分で俺がため息《いき》を吐《つ》いていると。
「あ、あの……」
隣《となり》で、春香が所在《しょざい》なさげに俺たちの顔を見ていた。もうどうしていいんだかさっぱり分かりませんって顔である。そりゃ目の前でいきなりこんな理解不能《りかいふのう》なやり取りが始まったんじゃ当然《とうぜん》だろうさ。
「あー、こいつは………」
「ああ、そうか、すまんな。そういえば自己紹介《じこしょうかい》がまだだった」
再《ふたた》び俺の言葉を遮《さえぎ》ってルコがうなずく。このバカ姉……ほんとに俺の話を聞く気がないんだな。
「はじめまして、で間違《まちが》っていないな? 私は綾瀬《あやせ》ルコ。こいつの姉だ」
「え、お姉様、なんですか?」
春香《はるか》が驚《おどろ》いたように俺の方を見る。
「……まあ、いちおう」
個人的にはコレと血縁《けつえん》関係にあることは、限《かぎ》りなく否定《ひてい》したい事実の一つなんだが。
「そうなんですか……あ、はじめまして、私は乃木坂《のぎざか》春香と申します。ええと、裕人《ゆうと》さんとは二年生から同じクラスで――」
「クラスメイトってやつだ」
バカ姉が余計《よけい》なことを言う前にそう釘《くぎ》を刺《き》しておく。
「ほう、クラスメイト、か……」
ルコが突然《とつぜん》、花嫁《はなよめ》さんの査定《さてい》をする姑《しゅうと》のような目付きで、じろじろと春香の全身を眺《なが》め始《はじ》めた。
「え、え……?」
「ふむ……」
「あ、あの……」
その視線《しせん》があまりにも不躾《ぶしつけ》だったので、俺は遮《さえぎ》るように春香とルコとの間に立った。
「あ、ゆ、裕人さん……」
春香があからさまにほっとした顔を見せる。よっぽど怖《こわ》かったんだろう。目の端《はし》に薄《うっす》らと涙《なみだ》
まで浮《う》かべている。
そんな俺たちを見て、ルコはにやりと笑った。
「――なるほどな」
「……何がなるほどなんだよ」
「いや、だいたい分かったってことだ。先人《せんじん》曰《いわ》く、行動は口ほどに物を言う。――私は細《こま》かいところまで詮索《せんさく》しようとするほど野暮《やぼ》じゃない。由香里《ゆかり》は好きかもしれんが」
あの人の場合は、好きというかほとんど生《い》き甲斐《がい》だろう。
ルコが肩《かた》にかかっていた髪《かみ》(仕事中は下ろしている)をかき上げた。
「ふむ、乃木坂さんだったか」
「は、はい?」
名前を呼《よ》ばれて、バッテリー切れのロボットにスタンガンを食らわせてムリヤリ起動《きどう》させた時のように、春香がびくんと身体を震《ふる》わせた。
「こいつのことをよろしく頼《たの》む」
「え……?」
突然頭を下げられて、春香がぽかんと小さく口を開けた。
「こいつは優柔不断《ゆうじゅうふだん》で頼《たよ》りなくてアホだが、それでも私の大事《だいじ》な弟だ。こいつがいないと……私はおそらく生きていけない」
何やらすごくいいことを言ってるように聞こえるが、実のところこれは比喩《ひゆ》でも何でもなく、掃除《そうじ》洗濯《せんたく》炊事《すいじ》等の家事|遂行能力《すいこうのうりょく》――中でも特にそれが欠《か》けると生命の危機《きき》に直結する炊事能力がゼロというかほとんど限《かぎ》りなく絶対零度《ぜったいれいど》の域《いき》(マイナス273.15℃)に達しているルコの、切実《せつじつ》な心からの叫《さけ》びなのである。
だけどそんな事情《じじょう》を知らない春香《はるか》は、生《う》まれたての雛鳥《ひなどり》が親鳥を見るような目で、我が家のダメ姉を見つめていた。
「弟さん想《おも》いなんですね……」
……それはかなり違《ちが》うと思うけどな。突っ込もうかとも思ったがやめておいた。わざわざ身内の恥部《ちぶ》を見せる必要《ひつよう》はないし、余計《よけい》なことを言おうものなら即座《そくざ》にルコの鉄拳《てっけん》(鉄脚《てっきゃく》かもしれんが)が飛んでくるのは想像《そうぞう》に難《かた》くない。
ルコは続ける。
「それにこう見えて、こいつにも良いところもなくはない。例えば――」
「……」
「例えば……」
「……」
「例えば………………」
「……」
「ま、まあ具体例などに大した意味はない」
……おい。
「――とにかく、よろしく頼《たの》む。乃木坂《のぎざか》さんのようなちゃんとした娘《こ》が付いていてくれれば、私も安心だ」
「あ、は、はい」
「うむ」
優しげな微笑《びしょう》を浮《う》かべて春香の肩《かた》に両手を置く。野生《やせい》のオオカミのように好《す》き嫌《きら》いが激《はげ》しく、そして嫌いな相手にはとことん攻撃的《こうげきてき》になるこの姉にしては珍《めずら》しい行動だった。どうやら春香のことをいたく気に入ったらしい。
「では私はもう行く。――ああ、今日は夕食は作らなくていいぞ。社長にフグでもおごらせることにする。お前たちはせいぜいゆっくりしていけ」
そう言って、タイトスカートにもかかわらず風呂上《ふろあ》がりのおっさんのような豪快《ごうかい》な大マタで、ルコは去《さ》っていった。年に一度あるかないかのことだが、何やら妙《みょう》な気を回してくれたっぽい。
「え、えへへ、お願いされちゃいました」
嬉《うれ》しそうに笑う春香。ヤツの『頼む』という言葉《ことば》の内に包《つつ》まれた、色々な意味での含《ふく》みにはまったくもって気付いていない様子《ようす》である。
それどころか、こんなことまで言い出した。
「でも……ステキな人でしたね」
「は?」
一瞬《いっしゅん》耳を疑《うたが》った。
ステキって……アレが?
「ええ、とっても美人でスーツがばっちり決まっていて頭も良さそうで、それでいて裕人《ゆうと》さん想《おも》いで……憧《あごが》れちゃいます。デキる女の人って感じで」
「……」
まあ弟の俺が言うのも何だが、ヤツは見た目だけはいいからな。逆《ぎゃく》に言えば見た目で判断《はんだん》しちゃいけない人間の最筆頭《さいひっとう》なんだが。
「私もあんな風《ふう》になりたいなあ……なれるかなあ? どうでしょう、裕人さん」
割と本気な目でそんなことを言ってくる春香《はるか》。
可能《かのう》不可能以前に、頼《たの》むからそれだけはやめてくれ……
ルコと別れてから少しして、再《ふたた》び葉月《はづき》さんが動き出した。
喫茶店《きっさてん》を出て、相変わらず早朝の魚市場のように込み合う歩行者天国をすいすいと進んでいく。その後を、俺たちはつかず離《はな》れず追《お》いかけていった。
人ゴミをすり抜け、曲《ま》がり角《かど》を四つ折《お》れ、アーケードを抜けて。
そして葉月さんは、ある店の前で立ち止まった。
「何のお店でしょうか?」
「分からん」
大きなショーウインドウがある店だった。だがあいにく、光の反射《はんしゃ》の関係で俺たちのいる位置《いち》からは中はよく見えない。
そのショーウインドウの前で葉月さんはしばらく古代ギリシアの彫像《ちょうぞう》のように立《た》ち尽《つ》くしていた。何やら真剣《しんけん》な眼差《まなざ》しでショーウインドウの中を見つめているようだ。時折ため息《いき》を吐《つ》いているようなているような素振《そぶ》りも垣間見《かいまみ》える。
「何を見てらっしゃるんでしょう…………あっ!」
「どうした?」
「あ、あれを見てください」
「ん?」
春香の視線《しせん》の先を追《お》うと――そこには葉月さんに向かって駆《か》け寄《よ》ってくる一人の男の姿《すがた》があった。
さわやかな短髪《たんぱつ》をなびかせたスポーツマン風《ふう》の風貌《ふうぼう》。親しみやすそうな笑顔《えがお》が印象的《いんしょうてき》で、口を開くと歯がきらりと光りそうな、いわゆる好青年ってやつだ。
男は葉月《はづき》さんと何やら話しているようだった。
「どなた……なのでしょう?」
春香《はるか》が不安そうに尋《たず》ねてくる。しかしもちろん俺に分かるはずがない。
葉月さんはしばらくその場でぼそぼそと口を開いていたが、やがて小さくうなずくとそのまま男といっしょに店の中へと入っていった。
「裕人《ゆうと》さん、これって……」
「――ああ」
今のはかなり怪《あや》しい。
ショーウインドウを見ていた時のあの反応《はんのう》、加えて合流した謎《なぞ》のさわやか男。
詳《くわ》しいことはまだ分からんが、少なくとも葉月さんの悩《なや》みの原因《げんいん》とこの店とは何らかの関係があることは間違《まちが》いなさそうだ。
とりあえず、俺たちは葉月さんたちが店から出て来るのを待った。
暑さに耐えつつ、人がうじゃうじゃと行《い》き交《か》う歩行者天国の片隅《かたすみ》(路上《ろじよう》)で、じっと店の様《ようす》子を窺《うかが》う。
――そのまま二十分が経過《けいか》した。
……出てこねえ。
ずっと見ているが、一向《いっこう》に葉月さんたちが出て来る様子《ようす》はない。
放した犬のように元気な真夏のお日様にじりじりと照《て》らされて、俺はもう全身|汗《あせ》だくだった。
|移動《いどう》している時よりもなまじ一箇所にとどまっている時の方が、太陽光線の集中|率《りつ》が高いみたいである。くそ、あちい……
「裕人さん、だいじょうぶですか?」
「あ、さんきゅ」
春香がハンカチを取り出して額《ひたい》の汗をぬぐってくれる。だが当の春香は涼《すず》しげな顔だ。これはあれか、『お嬢《じょう》様は汗をかかない』っていう世界の法則《ほうそく》か?
それからさらに二十分が経過したが、やはり葉月さんたちは出て来なかった。
「……こうなったら、もう少し近くまで行って様子を見てみよう」
とうとう耐《た》え切《き》れなくなって俺は言った。
「え、でも……」
虎穴《こけつ》に入《い》らずんば虎児《こじ》を得《え》ず。葉月さんの基本《きほん》スペックからして、近づけば近づくほど見つかる危険性《きけんせい》が高いのは百も承知《しょうち》だが、このままではラチがあかないのもまた現状である。それに葉月さんがあんなに熱心に見ていたショーウインドウの中身が何かも気になるし。
「……そうですね」
春香《はるか》も最初は迷《まよ》っていたが、やがてこっくりと首を縦《たて》に振《ふ》った。
二人で、店へと近づいてみる。
「あ……」
そこは、ブライダルショップだった。店の入り口のところに、『ブライダル専門店 フォーチュン・テイルズ』と書かれた看板《かんばん》がかけられている。
そして葉月《はづき》さんが真剣《しんけん》に眺《なが》めていたショーウインドウの中。
「これって……」
――そこには、ライトを受けて真っ白に光《ひか》り輝《かがや》く純白のウェディングドレスがあった。もしかして葉月さん、これを見てため息《いき》を吐《つ》いてたのか?
「葉月さん……」
春香は少し複雑そうな顔をしていた。
「やっぱり、葉月さんも結婚に憧《あごが》れているのでしょうか?」
「うーむ……」
どうなんだろうね。
よく分からんが葉月さんも妙齢《みょうれい》の女の人である。そういったものに憧れていたとしても不思議《ふしぎ》じゃない……のか?(微妙《びみょう》)
まあ普通《ふつう》の女の人ならある程度《ていど》の年齢になればそういったコトを意識《いしき》するもんだろうが、し
かしそれも人それぞれである。現にルコやら由香里《ゆかり》さんやらはそろそろイイ年だってのに全く気にしてる様子《ようす》もない。俺としてはあの二人にはさっさと結婚して少しは落ち着いてもらいたいんだがな……。
「……葉月さんは、私と美夏《みか》が小さい頃《ころ》からずっと面倒《めんどう》を見てくれているんです」
春香がぽつりとそう言った。
「いつからだったかは詳《くわ》しくは覚《おぼ》ていません。でも物心ついた時には、もう葉月さんはうちで働いていて……歳が比較的《ひかくてき》近いこともあって、私たちともよく遊んでくれました」
「そんな頃《ころ》から……」
てことは、葉月さんはおそらく十代の頃から乃木坂家《のぎざかけ》でメイドとして働いていることになる。
あの歳にしてメイド歴十年以上。筋金《すじがね》どころか筋ダイヤモンド入りのメイドさんってやつだな。
春香は続ける。
「私が小学校に上がる頃には、葉月さんは私たちの身の周《まわ》りのお世話《せわ》を一人でやってくれるようになりました。他の仕事も忙《いそが》しかったはずなのに。その頃からお母様は忙しくてあまり会えなかったから……葉月さんは、もう一人のお母様みたいな存在《そんざい》でした」
そういえば、春香の家もほとんど両親が帰ってこないんだったっけか。
「私たちは葉月さんが大好きでした。どこへ行くのにも付いてきてもらっていましたし、寝る前に絵本を読んでくれるのも葉月さんでした。授業|参観《さんかん》とかにも来てもらいました。いっぱいご迷惑《めいわく》をかけちゃいましたし、今でも色々なところでご迷惑をかけちゃっていると思います。葉月《はづき》さん、優しいですからイヤな顔はしませんが……」
そこで、春香《はるか》は少し顔をうつむかせた。
「……もしかして、私たちは邪魔《じゃま》になっているのでしょうか?」
「え?」
それは意外《いがい》な言葉《ことば》だった。
「葉月さん、本当は結婚したいんじゃないでしょうか? でも私たちがいるからそれが叶《かな》わないんじゃないでしょうか?」
「春香……」
「私たちはまだ、色々なことで葉月さんに頼《たよ》りっぱなしです。那波《ななみ》さんとか、他の方たちも良くしてくれますけど……でもやっぱり、私には葉月さんが一番の人です。一番頼りになって、一番何でも話せて、一番|信頼《しんらい》できて――。だけどそれが葉月さんの負担《ふたん》になっているのだとしたら……」
春香はきゅっと目をつむった。
「もしもそうなら私は……葉月さんには、私たちのことなんて気にしないで、自分の思うように幸せになってほしいです。たとえお仕事を辞《や》めることになっても、それはしかたないと思います。ちょっと、寂《さび》しいですけれど……」
その言葉には真摯《しんし》な響《ひび》きが込められていた。真摯で誠実《せいじつ》な響き。葉月さんのことをほんとに大事に思ってるんだな、春香……。
正直、俺には葉月さんの真意《しんい》がどこにあるかなんて分からない。
本当に結婚に憧《あこが》れているのかも、春香たちの世話《せわ》をすることを負担《ふたん》に思っているのかもさっぱり分からない。
でも一つだけ分かることがある。
あの無口なメイド長さんが春香たちのことをジャマに思ってるなんてことは、絶対《ぜったい》にあり得《え》ない。
普段《ふだん》の葉月さんの春香たちに対する接《せつ》し方《かた》を見ていれば、鈍《にぶ》い俺にだってそれくらいは理解《りかい》てき《め》《む》る
「春香」
だから葉月さんの行動の意味はともあれ、それだけは言っておくべきだろう。そう判断《はんだん》した俺が、春香に向かってロを開きかけた瞬間《しゅんかん》。
ういいいん
俺たちの目の前で、どこか間《ま》の抜《ぬ》けた音とともに店の自動ドアが開いた。
「――おや?」
中から出て来たのは、ルコや由香里《ゆかり》さんと同じくらいの年頃《としころ》の若い女の人。
「ん、キミたち、ウチのお店に何かご用かな?」
どうやらこの店の店員さんらしい。にっこりと営業用のスマイルでそう尋《たず》ねてくる。
「あ、いや」
「え、ええと……」
「あら、何だか二人して深刻《しんこく》な顔してるわね。――はは〜ん。お姉さん、ぴんときちゃった」
返答に困《こま》っていると、俺たちとショーウインドウの中を見比べて、店員さんがにやりと笑った。……なんか、ヤな予感《よかん》が。
「ね、カノジョ、これ着てみる?」
「え?」
店員さんが指し示したのは、ショーウインドウの中で光《ひか》り輝《かがや》いている真っ白なウェディングドレス。
「ほら、カノジョかわいいから、きっとよく似合《にあ》うわよ」
「え、え? あの、その」
あまりに突然《とつぜん》の申し出に、春香《はるか》が目をぱちぱちさせる。
「で、でも、これって展示品《てんじひん》ですよね……」
「いいからいいから、特別サービスよ。どうせこんな真夏のバカみたいに暑い時期に、わざわざ足を止めてウェディングドレスを見ようなんて物好きはほとんどいないから」
きっぱりと言《い》い放《はな》った。
ブライダルショップの店員さんとしてはかなりの問題発言である。
「ま、そういうわけだから。とにかく入って入って」
「え、え?」
「ほら、カレシも」
「い、いえ俺たちは……」
てか、中には葉月《はづき》さんがいるかもしれんのにこのままノコノコと入っていくのは状況的《じょうきょうてき》に非常《ひじょう》にマズイような気がする。俺は抵抗《ていこう》を試《こころ》みるものの――
「こら、若いクセにヘンに遠慮《えんりょ》しない。お姉さんがいいって言ってるんだから、大人しく言うことを聞けばいいの」
何だかよく分からないまま、ほとんどぼったくリバーに引《ひ》っ張《ぱ》り込《こ》まれる酔《よ》っぱらい客のような勢《いきお》いで、俺たちは店内に足を踏《ふ》み入《い》れた。
店の中は、非常《ひじょう》に落ち着いた雰囲気《ふんいき》だった。
三階建てビルの一階フロア全部を使った広々としたスペース。品のいい内装《ないそう》に明るすぎず暗すぎない柔《やわ》らかな照明《しょうめい》。その中をどこかで聴《き》いたことのあるクラシック音楽が耳障《みみざわ》りにならない程度《ていど》の音量で流されていて、なかなかに癒《いや》しの空間といった風情《ふぜい》である。
「あ、これ、『結婚行進曲』です。メンデルスゾーン作曲の」
「あら、よく知ってるわね。今時の若い子にしては珍《めずら》しいわ」
店員さんに褒《ほ》められて、春香《はるか》は少しだけ嬉《うれ》しそうな顔をした。
ぱっと見回したところ、辺《あた》りには葉月《はづき》さんの姿《すがた》も男の姿も見当たらない。
とりあえずはセーフみたいだった。
どうやら一階は展示スペースオンリーで、二階が式場の案内や式の内容を打ち合わせるための会議場――いわゆるブライダルカウンターになっているらしい。ここ(一階)にいないってことは、葉月さんはそっちにいるんだろうか。まあ何にせよ見つからないようにしないとな……
「んじゃカノジョ、そこんとこに試着《しちゃく》スペースがあるから。着替え方とか細《こま》かいことは……えーっと、田中さん」
「あ、はーい?」
奥でショーケースを磨《みが》いていたもう一人の女の店員さん(ショートカットにメガネ)が、作業《さぎょう》を中断《ちゅうだん》して駆《か》け寄《よ》ってくる。
「何ですか?」
「悪いんだけど、ちょっとこの子の着替え、手伝ってあげてくれる? ドレスアップのやり方は任《まか》せるから」
「分かりました、テンチョー」
このお気楽な店員さんの正体《しょうたい》は、店長さんだったことが判明《はんめい》した。
「お、かわいい子ですね。こりゃヤリガイがあるってもんです。じゅるっ」
「よ、よろしくお願《ねが》いします……」
若干《じゃっかん》倒錯的《とうさってき》な笑《え》みを浮《う》かべるメガネの店員さんに連《つ》れられて、微妙《びみょう》に不安そうな顔の春香は試着スペースへと消えていった。
「よーし、どうせだからカレシもタキシード着よっか? んー、確か奥に在庫《ざいこ》があったっけなー」
「え、俺も?」
「そうよー。カノジョだけウェディング姿になってもカッコつかないでしょ? やっぱり新郎《しんろう》がいないと」
「し、新郎って……」
「ん? 新郎は新郎よ。花婿《はなむこ》さんのこと。ちなみに心の疲《つか》れのことじゃないわよ?」
「そうじゃなくて……」
俺が言いたいのは、いつの間《ま》に何でこんなよく分からん流れ(ウェディングドレス&タキシード試着)になってるんだ、ってことである。
混乱《こんらん》する俺に、店員さん――いや店長さんがこっそりと耳打ちした。
(なんかよく分かんないけどさ、キミらケンカしてたんでしょ? あー、うんうん、みなまで言わなくても分かるって。あんな深刻《しんこく》そうな顔で話し合う状況《じょうきょう》なんて他にないだろうし。だから、仲直りのきっかけを作ってあげようと思ったのよ)
(……)
(あたしも先月カレと別れたばっかでさー、なんかほっとけなかったっていうか……。ちょっとおせっかいかもしれないけど)
店長さんはそう苦笑《くしょう》した。
とりあえず、確実に完璧《かんぺき》にものすごく勘違《かんちが》いをしているが、どうも悪い人じゃないみたいだな。というかむしろかなりイイ人なのかもしれん。相当《そうとう》にマイペースだが。
「はい、じゃこっち来て。悪いけど試着《しちゃく》スペースは一人分しかないから、そこで着替えてくれる? 一人でだいじょぶよね」
そう言われ俺が案内《あんない》されたのは、店の片隅《かたすみ》にある物置スペースだった。何だか春香《はるか》との扱《あつか》いが天と地ほどに違《ちが》うように思えるのは気のせいだろうか? ……男女差別反対。
足がもげたマネキンやら色あせて花嫁《はなよめ》が涙《なみだ》を流しているように見える見本写真やら微妙《びみょう》にホラーな物体に囲《かこ》まれて、俺は渡《わた》されたタキシードに着替えた。ノリのビッときいた高価《たか》そうな生地《きじ》。おお、ご丁寧《ていねい》に真っ白な蝶《ちょう》ネクタイまでついてやがる。こんなもん着けるのは生まれて初めてだ。
「お、カレシ、なかなか似合《にあ》ってるよー」
戻《もど》ってみると店長さんが拍手《はくしゅ》で迎えてくれた。
春香やメガネの店員さんの姿《すがた》はない。店長さん一人である。確か俺よりも先に試着スペースに入っていったはずなんだが……
「あのね、女の子は準備《じゅんび》に時間がかかるもんなのよ。カノジョ、素材《そざい》がものすごく良さそうだったから、うちのメイク担当《たんとう》も腕《うで》を振《ふ》るいまくってるんでしょうね」
俺の心中を察《さっ》したのか、店長さんがそう説明してくれた。なるほど。
「ま、そういうことだから、お茶でも飲みながら気長に待ちましょ」
で、店長さんと二人で雑談《ざつだん》(「ね、カノジョとはどこまで進んでるの?」「……黙秘《もくひ》します」「手はつないだ?」「……黙秘します」「キスは? その先は? うふふ」「……」なんかどっかで聞いたことのあるようなセクハラ質問ばっかだ……)しながら待つこと十分。
「テンチョー、終わりましたよ」
メガネの店員さんがまず出て来た。なんかものすごく満足そうな顔をしている。「や、貴重《きちょう》な経験をさせてもらいました。肌《はだ》はスベスベだわ髪《かみ》もサラサラだわまつ毛も長いわスタイルもいいわで……こんな子、モデルでもなかなかいませんよー」
「でしょう? ランクトリプルSってところかしら」
「五つ星でもいいかもしれませんねー。お人形にして自分の部屋《へや》に飾《かざ》っときたいくらいですよ」
店員さんは何やらコワイことを口走っていた。
「さてさて、まあ、前振《まえふ》りはこれくらいにして。それではそろそろお姫《ひめ》様にご登場と願いましょうか。田中さん」
「そですね。はいみなさん、こちらに注目してくださーい」
店長さんに促《うなが》されて、店員さんが試着スペースの前で声を上げる。
みなさんとか言われても、三人しかいないんだが……。というかさっきから全然《ぜんぜん》客が入ってくる様子《ようす》がない。……余計《よけい》なお世話《せわ》かもしれんが、大丈夫《だいじょうぶ》なのか、この店?
「それじゃいきますよー。3・2・1……」
えいっという掛《か》け声《ごえ》とともに、一気に試着《しちゃく》スペースのカーテンが開かれる。その先から出て来たのは――
「あ、ゆ、裕人《ゆうと》さん……」
「……」
思わず言葉《ことば》を失ってしまった。
純白のウェディングドレスをその身にまとい、同色のヴェールに包《つつ》めながらはにかむ春香《はるか》。
いや――なんつーか、めちゃくちゃキレイなんですが。
たった今|降《ふ》り積《つ》もったばかりの新雪のようなウェディングドレス、それに負けないくらいに白く透《す》き通《とお》る肌《はだ》、さらさらと流れる髪《かみ》をふわふわとしたヴェールがまろやかに彩《いろど》って――
つい先日に見たノーマル及びパーティドレス姿《すがた》の春香も良かったが、これはもう、なんか別格《べっかく》である。反則《はんそく》である。ほとんど飛び道具である。
最後の方は自分でも何言ってんだかよく分からんが、とにかく今の春香が魅惑《みわく》で必殺《ひっさつ》のテンプテイターであることには間違《まらが》いない。
「ほらほら、ロミオとジュリエットみたいに見つめ合ってないで、並《なら》んで並んで」
「う」
「あ」
店長さんに引《ひ》っ張《ぱ》られて、俺たちは店の隅《ずみ》にある撮影《さつえい》スペースのようなところに並ばされる。
「ひゅー、お似合《にあ》いよ、お二人さん」
「……」
「……」
お互《たが》いに声が出ない。ヘンに意識《いしき》するのもかえっておかしいんだろうが、その、ウェディングドレスの春香が隣《となり》にいるのかと思うと、それだけで心拍数《しんぱくすう》が電気ショックを受けたカエルの脚《あし》みたいにムダに跳《は》ね上《あ》がるんだよ。
それは春香にしても同じらしく、本日二度目にして最高の赤面《せきめん》具合《ぐあい》でこっちをちらちらと窺《うかが》いながら、生まれたばかりの仔鹿《こじか》が鳴《な》くような声で言った。
「あ、あの、「あ、あの、裕人《ゆうと》さん、そのタキシード、すごく似合《にあ》ってます。カッコいいです」
「さ、さんきゅ。春香《はるか》も……その、なんだ……キレイだぞ」
「あ、ありがとうございます」
「ど、どういたしまして」
「……」
「……」
……会話が続かねえ。
「んー、若いっていいわねー。思春期《ししゅんき》だわー」
「ええ、羨《うらや》ましいです」
そんな俺たちを見ながら、微笑《ほほえ》ましいものを見るような表情を浮《う》かべる店長さんと店員さん(おそらく二人とも二十代)。そんなことより何かフォローとかしてくれ。
「よし、んじゃ二人ともそっちに並《なら》んで。写真、撮《と》ったげるから」
「写真?」
何でまた突然《とつぜん》?
「そうよ。せっかく二人でそんなカッコしてるんだから、記録《きろく》に残しておかないともったいないじゃない? 記念|撮影《さつえい》っていうかなんていうか……んー、二人の未来予想図《みらいよそうず》ってやつ?」
首をひねる俺たちに、店長さんはにっこり笑ってとんでもないことを言ってのけた。
「みみみ、みらいよそうず?」
春香の声が一気にニオクターブくらい跳《は》ね上《あ》がった。「み、みらいよそうずって、わ、わた、わたしたちの、ですかっ?」
両手を振《ふ》り回《まわ》して、わたわたと慌《あわ》てる春香。
そりゃそうだ。だって俺たちのこの姿《すがた》(タキシード&ウェディングドレス)が未来予想図ってことは俺たちが将来《しょうらい》にこの姿(タキシード&ウェディングドレス)で二人並ぶってことであり、この姿(タキシード&ウェディングドレス)で男女二人が並ぶってことは、何か特殊《とくしゅ》な事情《じじょう》でもない限《かぎ》り、つまりはそういうわけで――
「……」
「……」
顔を見合わせ、二入してまた沈黙《ちんもく》。
「あー、もう、二人ともほんとかわいいわー。うんうん、青春って感じね、青い春。グッジョブ!」
黙《だま》りこんでしまった俺たちに、黙らせた張本人《ちょうほんにん》である店長さんが、楽しそうに親指を立てた手を突き出してくる。……ああ、今気付いた。なんか一連のセクハラ会話にどこかデジャヴを覚《おぼ》ると思ったらこの人、由香里《ゆかり》さんに似《に》てやがるんだ。外見《がいけん》じゃなくて、性格《せいかく》が。
「はい、じゃあこっち向いて笑ってー。ん、なんかまだ硬《かた》いなー。…………そうだ、カレシ、肩《かた》でも抱《だ》いてみてよ」
「……は、はあ?」
また突拍子《とっぴょうし》もないことを。
「その方が新婚さんって感じでしょ? カノジョが抱きつくんでもいいからさ。ほら、私たちに遠慮《えんりょ》しないでがばっとやっちゃっていいわよ、がばっと」
無責任かつ道徳的に非常《ひじょう》に問題のある台詞《せりふ》を吐《は》く店長さんでか新婚さんじゃねえし。
「ほら、早くー。こっちの準備《じゅんび》は万端《ばんたん》なんだから」
店長さんが急《せ》かす。うう、どうする。ここはドサクサに紛《まぎ》れて言われるがままに肩を抱いちまうべきか。でも突発的事態《とっぱつてきじたい》ならともかく、こういう自覚的《じかくてき》な状態《じょうたい》でそういうことをするのは何だか気が引けるんだよな……。
どうすべきか、ロープに吊《つ》るされたバナナを目の前にしたチンパンジーのように悩《なや》んでいると、春香《はるか》がこっちをちらっと見た。紅玉《こうぎょく》リンゴみたいに赤くなった顔。そしてかなりためらうようにこう口にした。
「あ、あのさすがに抱きついたりは、その、まだあれですけれど――。で、でも……」
「え……」
「でも、こ、これくらいなら、い、いいと思います……」
そっと俺の左|腕《うで》に自分の腕を絡《から》ませた。
「……」
柔《やわ》らかな香《かお》りとともに、意外なほどのボリュームが俺の腕に押《お》し付《つ》けられる。こ、これはまさか……!? 真夏に鍋焼《なべや》きウドンを食べた時みたいに、がーっと顔面が熱《あつ》くなるのを感じて―
パシャ!
その瞬間《しゅんかん》、俺たちの目の前でフラッシュが瞬《またた》いた。
「ん、ナイスアングル! その微妙《びみょう》な距離感《きょりかん》が初々《ういうい》しさを醸《かも》し出《だ》しててまた良し!」
パシャ、パシャ!
満足そうな店長さんの声とシャッターが切られる音。
「ほんとにいいわね〜。一枚くらいお店の宣伝《せんでん》に使わせてもらおうかしら」
「いいですねー。きっと大人気ですよ」
「いっそ売りに出しちゃおっか、一枚五百円くらいで」
「八百円くらいでも大丈夫《だいじょうぶ》じゃないですか〜?」
まあそんなこんなで騒《さわ》ぐこと十五分。
――何だかよく分からんままに、撮影会《さつえいかい》(?)はつつがなく終了した。
「はい、それじゃこれはキミたちの分ねー」
元の私服姿《しふくすがた》に戻《もど》った俺たちは、撮《と》られた写真の内、最も写りの良いモノを一枚ずつお土産《みやげ》に手渡《てわた》された。
「ま、でもこれはしょせんインスタントだからねー。キレイに撮れてるのはちゃんとプリントしておくから、改《あらた》めて取りにいらっしゃい」
ウェディングドレスをマネキンに戻《もど》しながら、店長さんは笑顔《えがお》でそう付け加えた。
「あの、色々とお世話《せわ》になりました」
春香が深々と頭を下げる。
「ん、気にしないで。私たちも楽しかったから」
「有意義《ゆういぎ》な時間でしたよー」
確かに、何だか二人とも肌《はだ》が妙《みょう》にツヤツヤとしている。
「それでは、私たちはこれで失礼させていただきます。本当にありがとうございました」
「……ありがとうございました」
店長さんたちにお礼を言って店を出ようとしたところで。
「あ、そうだ、カノジョ」
呼《よ》び止《と》められた。
「? はい?」
「コレ、あげる」
「え、あっ」
そう言って店長さんが投げてよこしたのは、さっきまで春香《はるか》の手に握《にぎ》られていた真っ自なブーケだった。
春香が目を丸くする。
「あ、あの、いただいてしまってよろしいのですか?大事《だいじ》なものなのでは――」
「いいのいいの、記念《きねん》ってことで。それより」
俺たちの顔を見て、店長さんがイタズラっぽくウインクをした。
「もしもあなたたちが将来そういうこと[#「そういうこと」に傍点]になったら、ぜひ我が『フォーチュン・テイルズ』をご贔屓《ひいき》に。たっぷりサービスしちゃうから♪」
笑顔《えがお》の店長さんたちに見送られて『フォーチュン・テイルズ』を出ると、道の向こうの方から聞《き》き慣《な》れた元気声が飛んできた。
「あ、ほんとにいた。お〜い、お姉ちゃ〜ん、おに〜さ〜ん! こっちこっち〜!」
「美夏《みか》、那波《ななみ》さん」
「あ〜、やっと追《お》いつけた。疲《つか》れたよ〜……」
ぐた〜と、どこぞの垂れたパンダのように美夏が地面にへたり込む。
「美夏、大丈夫《だいじょうぶ》だったのか?」
「あ、うん、全然《ぜんぜん》。あの後、人の波に百メートルくらい流されたところでやっと抜《ぬ》け出《だ》すのに成功して道端《みちばた》で休んでたらなんかヘンな人たちがナンパしてきてそれがあんまりしつこいから一発ドロップキックをお見舞《みま》いしてあげたんだけどそしたらそいつらの一人がキレて十人くらい仲間|呼《よ》んで『目上の者に対する礼儀《れいぎ》ってもんを教えてやるぜこらあ!』とか頭悪いこと言い出した時に那波さんが追いついてきて八秒で全員をノックダウンしてくれたから」
「……」
「あ、六秒くらいだったかな」
「……」
そういう問題じゃない。
というか全然大丈夫じゃないだろ、それは。むしろ世間《せけん》ではそういった状況《じょうきょう》を危機一髪《ききいっぱつ》と呼ぶ。まったくこの爆弾《ばくだん》娘は……
「ん? どしたのおに〜さん、何だかすっごく疲《つか》れた顔してるよ?」
ほんとに分かってないって顔で、小鳥みたいに首をひねる美夏。基本的には正反対の性格《せいかく》だが、こういうところ(局所的《きょくしょてき》に天然《てんねん》)は姉にそっくりである。
「はあ……」
まあでも、過《す》ぎてしまったことをとやかく言ってもしかたがない。
それより。
「にしてもよく俺たちがどこにいるか分かったな。けっこう離《はな》れたところまで来てたのに」
「ん〜、わたしは全然《ぜんぜん》分かんなかったよ。ただ那波《ななみ》さんがこっちだって言うから来てみたら、ほんとにおに〜さんたちがいたから」
「……那波さんが?」
「うん、そ。何でかは教えてくれなかったけど」
「……」
「……」
「うふふ〜」
そちらを見ると、無言《むごん》で目を細める那波さん。理由《りゆう》を訊《き》いたって「企業秘密《きぎょうひみつ》です〜」とか言って絶対《ぜったい》に答えてくれないだろう。……知らぬ間《ま》に発信機(しかもGPS)でもつけられたんじゃないだろうな。この人なら素知《そし》らぬ顔でそれくらいやりそうだ。
「あ、ねえ、ソレなに?」
と、春香《はるか》が持っていた写真(タキシード&ウェディングドレス)及びブーケを見て、美夏《みか》が声を上げた。
「あ、え、これは……」
「もしかしてなんか手がかりをつかんだの? 葉月《はづき》さんの決定的|瞬間《しゅんかん》を捉《とら》えた写真とか? 見せて見せて!」
「あっ」
春香の手から、ほとんどひったくるような勢《いきお》いで美夏が写真を奪《うば》う。
「どれどれ、え〜と――」
だが写真に目を落とした途端《とたん》、美夏がジト目になった。
「………………お姉ちゃんたち、いったいなにやってたの? 葉月さんを追《お》っかけてたんじゃなかったの?」
「い、いやこれは」
「そ、その……」
何て説明すればいいんだか。いちおう葉月さんの迫跡《ついせき》に関《かか》わりが全くないわけじゃないんだが、客観的《きゃっかんてき》にはとてもそうは見えない代物《しろもの》である。
「……まあ、おに〜さんが順調《じゅんちょう》にお義兄《にい》さんに近づいていってるみたいだから、それはい〜んだけどさ〜」
大げさに肩《かた》をすくめて、美夏がにやりと笑う。その発音に込められたあまりに意味深《いみしん》な響《ひび》きに少しばかり反論したいところなんだが、証拠《しょうこ》物件(写真)を握《にぎ》られてしまっているためそれもできない。うう……
「うふふ、お義兄さ〜ん♪」
「私、近い将来には裕人《ゆうと》様にもお仕《つか》えすることになるんですかね〜」
そんなわけで、しばしの問にやにや顔の美夏《みか》(with那波《ななみ》さん)に絡《から》まれまくり。
「――で、葉月《はづき》さんの件はけっきょく何も分かんなかったの?」
「え……」
「それは……」
美夏に問われて、春香《はるか》と俺は顔を見合わせた。完全に分かったかどうかは怪《あや》しい之ころだが、少なくともそのキッカケとなる何かは掴《つか》めたかもしれない。
春香が小さくうなずく。
「……いえ、それについては、だいたいですが分かりました」
「え、そうなの?」
意外《いがい》そうに美夏が目を丸くした。どうやらほとんど期待《きたい》されてなかったらしい。……まあ、あんな写真(タキシード&ウェディングドレス)を見た後だから当然《とうぜん》かもしれんが。
「ええ、実は……」
「あっ、みなさん、隠《かく》れてください〜」
とその時、ふいに那波さんが小さく叫《さけ》んだ。俺たちの後方《こうほう》を肩越《かたご》しに指差し、「あちらに、葉月さんが〜」
「えっ?」
見ると、店(『フォーチュン・テイルズ』)の自動ドアから今まさに出てこんとするメイド長さんの姿《すがた》があった。例のさわやか男はいない。葉月さん一入である。
慌《あわ》てて物陰《ものかげ》に隠れる。
幸《さいわ》い葉月さんは俺たちに気付かずに、そのまま雑踏《ざっとう》の中へと消えていった。
「なんだ、ちゃんと葉月さんの追跡《ついせき》もやってたんだ、おに〜さんたち」
「ま、まあな」
ただ途中《とちゅう》からちょっとばかりワケノワカラン流れ(店内|強制誘引《きょうせいゆういん》↓タキシード&ウェディングドレス↓撮影会《さつえいかい》)になっただけで。……ちょっとじゃないな。
「ん〜、今からウチに戻《もど》るのかな、葉月さん」
「そうじゃないか? あっちは駅の方向だし」
それにおそらく、『フォーチュン・テイルズ』を訪《おとず》れることこそが葉月さんの本日の最終目的だったはずだ。だったらそれが済《す》んだ以上、後はもう屋敷《やしき》に戻るだけだと思われる。つまりは俺たちのこの尾行《びこう》モドキもこれで終了ってことだ。
「じゃ春香、俺たちもそろそろ――」
「……私たちも、お屋敷に戻りましょう」
俺が言う前に、春香がそうつぶやいた。
その表情は今までにないほど何かの決意《けつい》に満《み》ちている。どうしたんだ?
「「春香《はるか》?」
「お姉ちゃん?」
「春香様?」
俺と美夏《みか》と那波《ななみ》さんの三人分の視線《しせん》を受けて、春香はおもむろにこう続けた。
「葉月《はづき》さんに、伝《つた》えなければならないことがあります。たぶん、直接《ちょくせつ》私たちの口から……」
「……皆様お集まりになって、私にお話とは何でしょうか?」
葉月さんが俺たちの顔を不思議《ふしぎ》そうに眺《なが》めた。
ここは春香の部屋《へや》である。
あの後、乃木坂邸《のぎざかてい》に帰った俺たちは、すでに先に戻《もど》って厨房《ちゅうぼう》で食事の支度《したく》をしていた葉月さんを呼《よ》び出《だ》したのだった。職務《しょくむ》熱心なメイド長さんは、作りかけだったビーフストロガノブ及びボルシチ(本日の夕食〉の経過《けいか》がかなり気になるようだったが、それでも素直《すなお》に呼び出しには応じてくれた。
で、現在、俺たち(俺、春香、美夏、那波さん)は春香の部屋で葉月さんを囲《かこ》んでいるというわけである。
「あの……」
微妙《びみょう》な沈黙《ちんもく》を破って、春香が単刀直入《たんとうちょくにゅう》に切り出した。
「葉月さん……最近、何かに悩《なや》んでいましたよね?」
その言葉《ことば》に、葉月さんがぴくりと反応《はんのう》した。
「……なぜ、そのことを」
「やっぱり、そうなんですね?」
「……」
言葉に出してはっきりとは言わなかったが、葉月さんの表情がそれは真実だと肯定《こうてい》していた。
「葉月さん、水臭《みずくさ》いよ。なんか悩みがあるんなら、わたしたちに言ってくれればいいのに〜」
美夏が不満《ふまん》そうに言う。
「……………いえそれは」葉月さんが首を振《ふ》る。「お嬢《じょう》様たちにお聞かせするような、大したことではありませんでしたので――」
「そんなことないです!」
珍《めずら》しく、春香が大きな声で言った。
「大したことじゃないなんて、そんなことはないです。アレは、葉月さんにとって、とても大事《だいじ》なことだと思います。なので、そういう風《ふう》に言ってほしくないです」
春香《はるか》がぐっと身を乗り出す。
その勢《いきお》いあまったハムスターのような様子《ようす》に多少|面食《めんく》らった顔をして、だけど葉月《はづき》さんはこう言った。
「確かに私個人には非常《ひじょう》に重要なことですが……しかし客観的《きゃっかんてき》に見ると――」
「客観的とか、そんなのはどうでもいいです。葉月さんにとって大事《だいじ》なことなら、それはきっと私たちにとっても大事なことなんです」
「春香様……」
葉月さんが、目を瞬《またた》かせる。
「だから、葉月さんが望《のぞ》むことを、私たちは応援《おうえん》します。たとえその結果《けっか》、葉月さんが遠い存在《そんざい》になってしまうことがあっても……は、葉月さんには、後悔《こうかい》することなく、自分の思う通りに行動してほしいです……」
言っているうちに感極《かんきわ》まってきたのか、春香の声に湿《しめ》り気《け》が混《ま》ざり始《はじ》めた。
「――わたしも、お姉ちゃんと同じ考えだよ」
目を潤《うる》ませる姉の横で、美夏《みか》が真顔《まがお》でそう言った。
「葉月さんには、自分の思うようにしてほしい。そりゃ葉月さんから見ればわたしたちなんてまだまだ子供かもしんないけど、でももう最低限《さいていげん》の身の周《まわ》りのことくらいは自分たちでもできるもん。そんなことで……葉月さんの足を引《ひ》っ張《ぱ》るのは、ヤだよ」
「美夏様……」
美夏たちには、屋敷《やしき》への道すがらだいたいの事情《じじょう》は説明しておいた。
ウェデイングドレスのことやブライダルショップのこと、いっしょに店に入っていったさわやか男のことなどを説明した時にはさすがに目を丸くしていたが、それでもすぐに納得《なっとく》はしたみたいだった。
『そっか……葉月さん、結婚したいんだ。でもわたしたちがいるから……』
聞いた事情から春香と同じ結論を出したようだった。普段《ふだん》は見せない寂《さび》しそうな顔てそう下を向いていた。
「わたしたちのことは気にしないでい〜からさ。葉月さんは葉月さんの好きなようにやってよ。葉月さんの決めたことなら、わたしたち応援するから」
「ぐすっ……私からも、お願いします」
「お嬢《じょう》様方……」
姉妹二人(しかも片方は半泣《はんな》き)に迫《せま》られて、さすがの葉月さんも少し戸惑《とまど》っているようだった。
「……分かりました」
やがて葉月さんが小さくうなずいた。
「私としても迷《まよ》っていたところでしたが……今のお二人のお言葉《ことば》で決心がつきました。私は、私自身が最善《さいぜん》だと考える選択《せんたく》をさせていただくことにします。それがきっと、正解なのでしょう」
「は、葉月《はづき》さん……」
目をうるうるとさせた春香《はるか》が一歩前に出る。
「ぐすっ、は、葉月さんに渡《わた》したいものがあるんです」
「私に、ですか? 何でしょう」
「は、はい。――これを、ぜひ。ささやかなものですが、受け取ってください。ぐしゅ……」
そう言って春香が差し出したのは、帰り際《ぎわ》に店でもらったあの真っ白なブーケだった。
「これは……」
葉月さん、目をぱちくり。おお、なんかこの人がこんなに驚《おどろ》く顔は初めて見た。
「ブ、ブーケです。よろしければ、式で使ってくださると嬉《うれ》しいと思って……」
「式……」
「はい、式です」
大きくうなずく春香。
だが葉月さんは「……」と無言《むごん》で五秒ほど宙《ちゅう》を見つめた後、ゆるりと首をひねり。
「あの……式とは何のことでしょうか?」
予想外《よそうがい》の言葉《ことば》を口にした。
「近日中に、式典等の予定はなかったと思うのですが……」
「式典? いえ、そうではなくて結婚式の……」
「結婚式? どなたか結婚をなさるのですか?」
「どなたって、葉月さんが……」
「は? 私が……?」
疑問形の連続で答える葉月さん。
……何だか、話がものすごく噛《か》み合《あ》ってないような気がしてならない。
「だ、だって葉月さん、今日お店に入りましたよね、ブライダルショップに……」
「ブライダルショップ……?」
「は、はい、男性の方といっしょに……」
「……」
葉月さんがさらに不思議《ふしぎ》そうな顔をする。「……すみません。記憶《きおく》にないのですが――」
「え、え、だって……?」
春香が困《こま》ったように俺の顔を見る。
記憶にないって、俺たちは確かに葉月さんがあの店に入っていったのを見たんだが……。
「お二人がどうしてそのようなことを仰《おっしゃ》るのかは分かりませんが……本日私が行ったのは、ヌイグ――いえ縫製《ほうせい》人形専門店に、愛玩《あいがん》動物|展示店《てんじてん》、その他いくつかと、あとは金物店だけで
すが……」
ところどころ微妙《びみょう》な表現を交《まじ》えて、葉月《はづき》さんが言った。
「金物店?」
そんなところ行ってたっけ? 春香《はるか》を見ると、やっぱり首をふるふると横に振《ふ》っている。
「はい、金物店です。少しばかり私用がありまして……。しかしそれ以外の場所には――ブライダルショップも含《ふく》めて――本日は行っておりません。それは確かです」
きっぱりとそう言う葉月さん。その様子《ようす》から、ウソを吐《つ》いているとは思えない。
「で、でも、だったら葉月さん、どうして『フォーチュン・テイルズ』に……?」
「『フォーチュン・テイルズ』?」
「は、はい」
「……」
その名前に、何かを思い出したかのように葉月さんが顔を上げた。
「……それはもしかして、三階建てビルの一階と二階に入っているお店のことでしょうか?」
「え、ええ、そうですけど……」
「……そういうことでしたか」
ワケが分からず混乱《こんらん》する俺たちに、葉月さんは納得《なっとく》したようにうなずいた。
「それでしたら、春香様たちの勘違《かんちが》いです。私の行った金物店はその『フォーチュン・テイルズ』の入っているビルの三階にあるのですが……建物の構造上《こうぞうじよう》、入り口が同じになっているのです」
「……」
「……」
言われてみれば、3F『金物専門店ヘヴンズドア』と書かれた案内書《あんないが》きがあったようななかったようなあったような……
「で、でも、ショーウインドウのウェディングドレスを見てため息《いき》を……」
「それはおそらく、ショーウインドウの奥にあった展示写真を見てのことだと思います。新婦の足下に写っていたチワワがかわいらしかったので、つい――」
「じゃ、じゃあ、あの男の人は? いっしょに店に入っていった……」
「あの方は金物店の店長さんです。たまたまお店の前でお会いしたので、ごいっしょさせていただきました」
俺たちの一連の疑問に、さらりと答える葉月さん。
「……」
「……」
「……だとするとつまり」
「今までのことは私たちの勘違《かんちが》い――」
ってことになるな。
「お姉ちゃ〜ん、おに〜さ〜ん……」
「あらららら〜」
美夏《みか》と那波《ななみ》さんの何とも言えない視線《しせん》が突《つ》き刺《さ》さる。
「すすす、すみません! 私、てっきり葉月《はづき》さんが……」
「いや、俺が早とちりしたから……」
二人して頭を下げる。うわ、これってめちゃくちゃ恥《は》ずかしくないか。おまけに葉月さんに対して、ものすごく失礼な勘《かん》ぐりをしてたってことになる。とにかくここは謝《あやま》っとくしかないな。
だが必死《ひっし》に頭を下げる俺たちに対して、
「……ありがとう、ございます」
葉月さんは柔《やわ》らかな微笑《びしょう》を浮《う》かべて、なぜかそう言った。
「お二人とも頭をお上げください。そのお気持ちだけで……私には充分《じゅうぶん》です」
「は、葉月さん……」
「春香《はるか》様は、私のことを考えてあのようなことを言ってくださったのですよね? そのことが私にはとても嬉《うれ》しいのです。――美夏様も裕人《ゆうと》様も、ありがとうございました」
「で、でも……」
まだ何かを言おうとした春香の口を、葉月さんが指でそっと押《お》さえた。
「いいのですよ。それより、泣《な》かないでください。春香様の泣き顔を見ている方が私にはずっと辛《つら》いのです。だって……お嬢《じょう》様たちの笑顔《えがお》が、私の何よりの幸せなのですから」
「は、葉月さん、葉月さあん……」
とうとう涙腺《るいせん》が完全|決壊《けっかい》した春香が、スペイン・サンフェルミン祭りの闘牛《とうぎゅう》のごとく葉月さんの胸《むね》に飛び込む。
そんな春香を、葉月さんはとても優しい目で見ていた。母親が娘を見るような、姉が妹を見るような、そんな優しい瞳《ひとみ》。
それを見ればきっと春香も分かっただろうな。
葉月さんが、春香たちのことを負担《ふたん》に――ましてや邪魔《じゃま》に思っているなんてことは絶対《ぜったい》にないって。
「うう……いいお話ですね〜……」
横ては那波さんが、おうおうっと目元にハンカチを当てていた。
かくして、葉月さんに関する一連の騒動《そうどう》は静かに終わりを告《つ》げたのだった。
[#改ページ]
ちなみに後日《ごじつ》、葉月さんにいったい何を悩《なや》んでいたのか尋《たず》ねたところ。
「……愛用のチェーンソーの切れ味が悪くなってしまっていたのです」
微妙《びみょう》に恥《は》ずかしそうな顔でそう答えてくれた。……チェーンソーって、もしかしていつか見たあの殺人鬼|仕様《しよう》の?
「どうも刃の部分が欠《か》けてしまったようでして、それで新しい刃に代えようと思って先日金物屋に行ったのですが、その候補《こうほ》が二つありまして……。値段《ねだん》が安いけれどあまり切れ味の良くない汎用《はんよう》ステンレス製の刃。そして値段は高いのですが、切れ味|抜群《ばつぐん》でさらに見た目も美しい特注一点モノのダマスカス鋼《はがね》の刃。ずっとどちらにしようか迷《まよ》っていましたが、お嬢《じょう》様たちの言葉《ことば》で心が決まりました。後悔《こうかい》の残らないように、やはりダマスカス鋼にいたします」
「……」
ダマスカス鋼(伝説《でんせつ》の金属《きんぞく》)なんてチェーンソーに使ってどうするんだ? だいたい木目|模様《もよう》のチェーンソーって外観的《がいかんてき》にもかなりどうかと思うんだが……。
……やっぱり、この人の思考回路《しこうかいろ》はワカラン。
そう心の底《そこ》の底から思った夏の日だった。
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改札口《かいきつぐち》を抜《ぬ》けたら、そこは人ゴミだった。
いやいきなりどこぞの純文学《じゅんぶんがく》のパクリみたいなイントロから始まるのもアレだが、こればっかりはそうと言う以外に表現のしようがないからしかたない。
東京|臨海《りんかい》高速鉄道臨海|副都心線《ふくとしんせん》(りんかい線)国際展示場《こくさいてんじじょう》駅前。
八月十七日。午前九時。俺はそこにいた。
「すげぇ……」
とにかく辺《あた》り一面どこを見ても人、人、人。いったいどこからこれだけの人数が集まってきたのかってくらいに、そこら中が人で濫《あふ》れまくっていた。先日の歩行者天国もすごかったが、これに比べればまだまだ序《じょ》の口である。まるでダークドラゴンことウミイグアナの集団かと思えてしまうほどの超混雑《ちょうこんざつ》っぷりだった。
加えて。
「……あちい」
まだ午前中にもかかわらずほとんど全方位射出《ぜんほういしゃしゅつ》のレーザービームのように強烈《きょうれつ》な太陽光線。アスファルトで固《かた》められた地面からは照《て》り返《かえ》しがもわもわと立《た》ち昇《のぼ》り、さらにこれだけの人数に比例《ひれい》したすさまじいばかりの人いきれ[#「人いきれ」に傍点]が発生していて――
何というか……一言で言えば暑苦《あつくる》しかった。
あまりの暑苦しさに、消防車に付いている放水機《ほうすいき》かなんかでまとめて蹴散《けち》らしてやりたい衝動《しょうどう》に駆《か》られるが、そこはぐっとガマンする。ここが世界でも指折りの高人口|密度《みつど》国である日本な以上、多少の人ゴミくらいで文句《もんく》を言ってたら何もできんし、それによく考えてみれば俺もこの混雑を構成《こうせい》しているうちの一人である。人のことは全く言えない。
「……行くか」
覚悟《かくご》を決めて、辺りを埋《う》め尽《つ》くす人を避《よ》けながら、俺は歩き出した。
人で溢れたバスロータリーを抜け、人で満ちた小さな 人で溢れたバスロータリーを抜け、人で満ちた小さな高架橋《こうかせん》を越《こ》え、人でひしめく緩《ゆる》やかな階段を上がる。
向かうは遥《はる》か遠くに見える、ピラミッドを逆《ぎゃく》さにしてぶっ刺《さ》したかのごとき妙《みょう》なカタチをしたどでかい建造物。
東京ビッグサイト≠ニ呼《よ》ばれるソコこそが、本日の目的地であり、春香《はるか》との待ち合わせ場所でもある。
そう、なぜか今回も現地集合だった。
自宅の方向は同じなのだから、途中《とちゅう》で待ち合わせていっしょに行けばいいんじゃないかと提案《ていあん》したところ、春香曰《はるかいわ》く、
『こういうイベントは待ち合わせからが始まりなんですよ。ほら、会場の楽しい雰囲気《ふんいき》の中で集合すると何とも言えないどきどき感がありますよね? いかにもこれから何かあるって感じで(にっこり)』
とのことらしい。家に帰るまでが遠足の続きです、みたいなもんか?(謎《なぞ》)
まあ春香の考えは時々(……けっこうか?)よく分からんところがあるし、現地集合でも俺には特に不都合《ふつごう》はなかったことから、深く考えずに素直《すなお》に従《したが》うことにした。
で、人ゴミの中を歩くこと約五分。
ようやく東京ビッグサイト入り口に辿《たど》り着《つ》いたのだが……
「……」
なんか、そこにはすでに長い長ーい行列があった。
先頭《せんとう》が見えない、酔《よ》っ払《ばら》ったアナコンダのようにのたくった行列。それが何列かに分かれて、駐車場の方に続いている。
……いや、開場って十時じゃなかったのか?
春香からもらった夏こみまっぷ≠ノは確かそう書いてあった。ゆえに春香は最初、待ち合わせ時間を十時ジャストに設定《せってい》していたのだが、いつかのアキハバラでの一件(目的物《もくてきぶつ》売り切れ)があったことから、今回は確実に目的物をゲットするために五分前行動ならぬ一時間前行
動を実践《じっせん》すべく(俺が)この時間を選んだのだが――
「ゆ、裕人《ゆうと》さ〜ん……」
――ひょっとしたら、考えが甘かったのかもしれん。
先に待ち合わせ場所に来ていた春香が、泣《な》きそうな顔で駆《か》け寄《よ》ってきた。
「ど、どうしましょう、もうこんなに人が……」
挨拶《あいさつ》もそこそこに、辺《あた》りを見回し情《なき》けない声を上げる。
「わ、私、今回は絶対《ぜったい》に失敗しないようにって、少し早めに来ていたんですけど、もうすでに今みたいな状態《じょうたい》で……」
「あー」
まあそうだろうな。この行列の規模《きぼ》からして、五分や十分前にできたもんだとは思えない。
「こ、これじゃ『ねこばすてい』の本が買えないかも……。せっかくまた裕人さんにいっしょに来てもらったのに――」
春香が声を震《ふる》わせる。
ちなみに夏こみ≠ニやらは、どうやら本やCDなどのフリーマーケットのようなもので、『ねこばすてい』の本とは、本日の春香の一番の目的品らしい。
「わ、私、どうしたら……」
「とりあえず落ち着けって」
さっそくパニックになりかける春香《はるか》をなだめる。相変わらず不測《ふそく》の事態《じたい》に弱いことこの上ない。
「で、でも……」
「……とにかく並《なら》ぼう。ここしか、入り口はなさそうだし」
状況《じょうきょう》はいまいちよく分からんが、とりあえずもうそれしか手段《しゅだん》はなさそうだ。
「……はい」
春香とともに、地の果《は》てまで続くような行列の最後尾《さいこうび》につく。ちなみに先頭《せんとう》が全く見えない。
……最前線のやつらって、いったい何時くらいから来てるんだ? おまけにムダに長いクセに、行列自体はやけに整然《せいぜん》としているというか、はみ出すヤツらもなくキレイにまとまってるんだよな。
「どうしよう……だいじょうぶかな、『ねこばすてい』だいじょうぶかな……」
隣《となり》では春香が、さっきから念仏《ねんぶつ》のようにぶつぶつとそんな風《ふう》につぶやいている。
うーむ。
何とかフォローしてやりたいが、この人数を見てると何を言っても気休めにしかならないような気がする。……正直、俺も絶望的《ぜつぼうてき》なんじゃないかって思ってるくらいだし。
どう慰《なぐさ》めようか考えていると。
「ねえキミ、『ねこばすてい』って、もしかしてサークル『ねこバス亭《てい》』のこと?」
ふと、前に並んでいたメガネの男(何やらカラフルなウチワを装備《そうび》)がこっちを振《ふ》り向《む》いた。
「あ、は、はい」
春香がうなずく。
「うーん、確かにこの位置《いち》だと新刊を買うにはギリギリかもね。ここ、結構《けっこう》後ろの方だから」
「やっぱり……」
額《ひたい》に手を当てて、春香がよろめく。青ざめたその顔は、ほとんど世界の終わりを目《ま》の当たりにした預言者《よげんしや》のようで。
それを見たメガネ男が慌《あわ》ててこう付け加えた。
「い、いや、でも何とか大丈夫《だいじょうぶ》だと思うよ」
「……え?」
「うん、ギリギリだけど、急げば何とかなると思う。そんなにのんびりしてる余裕《よゆう》はないってだけで」
「ほんとですかっ!?」
大きく身を乗り出す春香。気圧《けお》されたように相手のメガネ男が一歩あとずさった。
「あ、ああ。たぶん、だけど。少し前までだったらダメだっただろうけど今は超大手だからね。入荷数《にゅうかすう》も多いだろうし」
とのことらしい。大手、が何の大手なんだかはさっぱりだが。本の大手スーパーマーケットってことか?
「よ、良かったです……」
春香《はるか》が安堵《あんど》の表情を浮《う》かべ、その場にへなへなと座《すわ》り込《こ》む、
こっちとしても一安心だった。とりあえず、あのアキハバラの二《に》の舞《まい》だけは避《さ》けられるらしい。
ほっと胸《むね》撫《な》で下《お》ろし、それからひたすら待つこと一時間。
『それでは、ただ今より入場を開始《かいし》いたします。参加者《さんかしゃ》の皆様は、走らないようにゆっくりとお進みください』
遠くからのスピーカー越《ご》しの声がそう告《つ》げた。
どうやら、入場が始まるらしい。
「裕人《ゆうと》さん、いよいよですっ」
「みたいだな」
周囲《しゅうい》の行列がアフリカ産ゾウガメのようにのそのそと緩慢《かんまん》に動き出す。
それと同時に、遠くから何やら地鳴《じな》りのようなドドドドドという音が聴《き》こえてきた。
「――? 何の音でしょうか?」
「分からん。工事でもやってるのか?」
そういう系統《けいとう》の音である。俺たちが首をかしげていると。
「ああ、あれは開幕《かいまく》ダッシュだよ」
メガネ男が再度振《さいどふ》り向《む》いた。
「開幕……」
「……ダツシュ?」
何だ、それ?
「簡単《かんたん》に言えば、列の先頭《せんとう》の人たちが走る足音だよ。一人一人の足音は大したことなくても、皆が皆、我先に会場に入ろうとするから、それらが合わさってこんな地響《ひび》きみたいな音になるってわけ」
「いや、でも今さっきアナウンスで走るなって……」
「まあ、皆、自分の目当ての新刊を買うために必死《ひっし》だってことなんだろうね。周《まわ》りが全員走ってるのを見て、自分だけのんびり歩いてもいられないっていうか」
メガネ男が苦笑《くしょう》する。
つまりは『赤信号みんなで渡《わた》れば怖《こわ》くない』の悪い例ってことだな(微妙《びみょう》に違《ちが》うかもしれんが)。しかしそれにしたってこの、近くで怪獣《かいじゅう》あるいはそれを倒《たお》さんとする銀色の異星人《いせいじん》が暴《あば》れているかのような音が全部足音だってのか?
「……」
……もしかして俺たち、とんでもないところに来ちまったんじゃ。
何というか、先行《さきゆ》きに果《は》てしない不安を感じさせる、前途多難《ぜんとたなん》な幕開《まくあ》けである。
だがその不安が決して杞憂《きゆう》ではなかったと、いきなり直後に思い知らされることになった。
「……や、やっと入れましたね」
「……ああ」
顔を見合わせてため息《いき》を吐《つ》く俺たち。
俺たちがようやく入場できた頃《ころ》には、すでに時刻《じこく》は十一時になろうとしていた。
……いや例の『開幕《かいまく》ダッシュ』とやらも驚《おどろ》きだったが、まさか入場するだけで一時間近くかかるとはね。まああの人の量からしてすんなり入れるとは思ってなかったが、それでもここまでかかったのは正直かなり予想外《よそうがい》である。しかも俺たちの後ろにはまだまだ果《は》てしない行列が続いてるし。……すごいところだな、改《あらた》めて。
「 で、これからどうするんだ?」
「はい。まずは『ねこばすてい』の本を入手《にゅうしゅ》しちゃいたいと思います」
尋《たず》ねると春香《はるか》は即座《そくざ》にそう答えた。
「前は楽しみを後に取っておいて大失敗しちゃいましたから。今回は先手必勝《せんてひっしょう》ですっ」
春香の目の奥には、真っ赤な炎《ほのお》が燃えていた。前回のアレが、よっぽど悔《くや》しかったらしい。
「それで、場所はですね……」
夏こみまっぷ≠ニやらを広げる春香。
そこにはいつかのお買い物のしおり≠ニ同様に、行くべき場所とタイムテーブルとがきっちりとまとめられていた。
「たぶん、こっちだと思います」
とてとてと歩き出した春香の後ろをついて、エスカレーターへと向かう。
夏こみまっぷ≠ノよると、最初の目的地は東1とかいう場所らしい。ちなみに俺はその東1とやらがどこにあるのかさっぱり分からなかったりする。夏こみまっぷ≠ノは詳細《しようさい》(だと春香が思っている)な地図もついているのだが……それはあいにく俺には、というかおそらく春香以外の人間には、ほとんど解読不能《かいどくふのう》な代物《しろもの》だった。てか、はっきり言って墓場《はかば》に無数のぬりかべ≠ェ立っている絵にしか見えん。
「そういえばここって、入場料とか取られないのか?」
通路を歩きながら、ふと疑問に思ったことを訊《き》いてみた。これだけの大掛《おおが》かりなイベントである。普通《ふつう》だったらいくらか(千円、二干円くらい)徴収《ちょうしゅう》されそうなもんだが、今のところ料金ゲートとかそういったものがある様子《ようす》はない。
「あ、はい。無料のようです」
春香《はるか》が夏こみまっぷ≠ぱらぱらやりながら答える。
「えと、昔は公式にカタログを買うことが参加条件《さんかじょうけん》だったようなのですが、今は無料のようです。一人でも多くの方が来場できるようにとの、主催者側《しゅさいしゃがわ》の配慮《はいりょ》だとか」
「へえ、そうなのか……」
「やっぱり楽しいことは、みなさんで分かち合えた方がいいですからね」
無邪気《むじゃき》に笑って、春香はエスカレーターにちょこんと飛び乗った。ま、個人的にはもう少し少人数で分かち合いたかった気もするが。
エスカレーターを降《お》りると、そこには通路があった。
道幅三十メートルくらいで天井《てんじょう》が異様《いよう》に高い(推定《すいてい》五十メートルほど)、通路というかそれ自体がほとんどホールみたいな場所。
その通路を挟《はさ》むカタチで、両側にいくつかのブロックが分かれている。手前から右側が東1・2・3、左側が東4・5・6。どうやら、実質的《じっしつてき》な会場はそのブロック内にあるらしい。
「にしても、ものすごい人だな……」
通路自体が相当《そうとう》に広いってのに、辺《あた》り一面、どこもかしこも人でほとんど隙間《すきま》なく埋《う》め尽《つ》くされていた。いそいそと歩き回っているやつ。携帯《けいたい》て連絡を取り合っているやつ。中には集団で床《ゆか》に座《すわ》り込《こ》んで、何やら作戦会議のようなものを繰《く》り広《ひろ》げているやつらもいる。
文字通り、ぎゆうぎゅうのスシヅメ状態《じょうたい》。
ただ歩くのすら難儀《なんぎ》する、イヌが歩けば蹴《け》られまくるようなものすごい込み具合《ぐあい》である。こりゃかなり気を付けないと、すぐに人とぶつかっちまう――
「きゃっ」
などと考えていた矢先《やさき》、春香が横を歩いていた男三人組の一人とぶつかって小さく声を上げた。
「す、すんません、大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
男が慌《あわ》てて振《ふ》り向《む》いた。
「は、はい、だいじょぶです。そちらこそ、お怪我《けが》はありませんでしたか?」
「あ、こっちはだいじょうぶっす」
「そうですか……。本当にすみませんでした」
ぺこぺこと謝《あやま》る春香。男たちは申《もう》し訳《わけ》なさそうな顔で、足早にその場を離《はな》れていった。
「大丈夫か、春香?」
「はい。これくらい、全然《ぜんぜん》何てことありません」
遊《あそ》び盛《ざか》りの仔犬《こいぬ》みたいに元気な笑顔《えがお》でそう答える。けっこう勢《いきお》いよくぶつかったと思ったのに。案外頑丈《あんがいがんじょう》なのか? そういえばいつだったか、図書室を廃嘘《はいきょ》にした時も春香自身はカスリ傷《きず》一つ負《お》ってなかったし。
「それじゃ、行きましょう、裕人《ゆうと》さん」
「ああ」
だが歩き出した春香《はるか》は。
「わわっ」
今度は、人ゴミに隠《かく》れてよく見えなかった柱(コンクリート製)にぶつかりそうになった。
「す、すみませんっ。前方《ぜんぽう》不注意でした。ごめんなさいっ」
しかも、柱だって気付かないで必死《ひっし》に謝《あやま》ってるし。
「……」
うーむ。
これは別に春香が不注意だとかいうわけじゃなくて単に人が多すぎるのが原因《げんいん》なんだが、だとしてもこのままじゃ危《あぶ》なっかしくてしかたないな。それにこのすさまじい人ゴミの中じゃ、いつはぐれてしまってもおかしくない。春香は携帯《けいたい》を持ってないから、一度はぐれたら再会《さいかい》はほとんど不可能《ふかのう》といってもいいだろう。……今回は那波《ななみ》さん(謎《なぞ》の探索機能《たんさくきのう》を保有《ほゆう》)もいないし。
となると。
「あー、春香」
ここは一つ対抗策《たいこうさく》を採《と》っておくべきだろうな、うむ。
「はい? 何でしょう」
「――ん」
少しためらいつつも、俺は右手を春香に向かって差し出した。これはアレだ、決してやましい気持ちからじゃなく、純粋《じゅんすい》に迷子防止《まいごぼうし》のためだぞ、うん。
俺が差し出した右手を、春香は月の石でも見るみたいに、しばらく不思議《ふしぎ》そうに眺《なが》めていたが、やがてのんびりと一言。
「えと……お手?」
「違《ちが》う!」
ぺたん、と乗せられた春香の左手に突っ込む。
「?」
ちょこんと首をひねる春香。
「そうじゃなくて……えーと、手を、何というか……」
「? お代わり?」
今度は右手を乗せてくる。「……わん?」
……頼《たの》むからイヌから離《はな》れてくれ。
「違うっての。だから、あー、ばらばらに歩いてると迷子になるかもしれないから、その対策のためにだな……」
「……あ」
そこに至《いた》って、ようやく俺の言っている意味を理解《りかい》してくれたのか、春香《はるか》が頬《ほお》をぽっと赤く染《そ》めた。
「いや、べ、別にこれには深い意味はないぞ、そ、その、純粋《じゅんすい》にはぐれないようにするためだからな」
「……………………え、あ、は、はい」
差し出した手を、春香がおずおずと受け取る。
「よ、よろしくお願いします……」
手《て》の平《ひら》に伝《つた》わる柔《やわ》らかい感触《かんしょく》。それなのに大理石《だいりせき》みたいにすべすべである。握《にぎ》る手に自《おの》ずと力がこもる。すると春香も、決して強くではないけれど、でも確かに握り返してきてくれた。
「ゆ、裕人《ゆうと》さんの手って、大きいんですね」
えへっと笑ってそんなことを言う。
か、かわいい……
思わずそのままぎゅっと抱《だ》きしめたくなるような衝動《しょうどう》に駆《か》られるが、そんなこと実際《じっさい》にはできやしないし、やっていいわけもないし、やれるワケもない。たぶん逮捕《たいほ》されるし。いや、逮捕はされないのか? あー、ワケワカラン。
「そ、それじゃ行くか。早く買わないと、売り切れるかもしれないんだろ?」
「は、はい」
照《て》れ臭《くさ》さを隠《かく》すために、俺はそう言った。
そして俺たちは、会場(東1ブロック)へと足を踏《ふ》み入《い》れる――
「わあ……」
「おお……」
何というか、そこにはある意味で別世界が広がっていた。
体育館五つ分くらいのホールに所|狭《せま》しと並《なら》べられた、長方形の事務机とパイプイスとで作られたいくつもの店舗《てんぽ》(どうやらサークルスペースというらしい)。ざっと見渡《みわた》しただけでその数は千を超えると思われる。それぞれの机の上には、おそらく売り物なんだろう、大量の本やらCDやらが置かれている。
「いらつしゃいませー」
「新刊、見ていってくださーい」
店舗の周《まわ》りには、手製の看板《かんばん》を持った宣伝《せんでん》の人や、チラシのようなモノを配《くば》っている人、通行人に積極的《せっきょくてき》に声をかけて呼《よ》び込《こ》みをやっている人なんかもいる。
「あ、これ、一部ください」
「はい、五百円でーす」
そして店舗《てんぽ》本体では、次から次へとやって来るお客さんに対して売っているものの説明をしたり、お釣《つ》りを手渡《てわた》したりしている。すでに大行列ができているところもあった。
「これが、夏こみ≠ゥ……」
何だか、ノリとしては文化祭とか学園祭とか、そういうライトなモノに近い感じだ。全体的にお祭り気分というか何というか。店側の人たちも客側の人たちも、何かに追《お》い立《た》てられているかのように忙《いそが》しそうだったが、それでも皆|一様《いちよう》に楽しそうな顔をしているところだけは共通している。
「……」
しばし、その独特な雰囲気《ふんいき》に圧倒《あっとう》された。
夏こみ=c…こんなフォーマルな場所(東京|国際展示場《こくさいてんじじょう》)で開催《かいさい》されてるくらいだから、最初はもっと商業的というか堅苦《かたくる》しいモノを想像《そうぞう》してたんだがな。
「すごいです……」
隣《となり》では春香《はるか》も、初めて雪を見た赤道|直下在住《ちよっかざいじゅう》の入みたいな顔をしていた。
春香にとっても、この何とも形容しがたい雰囲気は未知《みち》なものであるらしい。
そんな感じで、二人して入り口付近で田舎《いなか》から出て来たばかりのおのぼりさんのごとくぼーっとしていること数分。
俺はあることを思い出した。
「――って、春香。そろそろ行かないとマズイんじゃないのか?」
あのメガネの男の話だと、確か俺たちの位置《いち》でぎりぎりだとか言っていた。だとすれば、いつまでもこんなところで呆《ほう》けているヒマはないような。
「! そ、そうでしたっ。『ねこばすてい』ですっ」
俺の言葉《ことば》に、春香は弾《はじ》かれたように動き出すと、すごい勢《いきお》いで手元の夏こみまっぷ≠フぺージをめくり始めた(片手で器用《きよう》に)。
「え、え〜と、ここが東1ブロックの入り口だから……」
手をつないだ状態《じょうたい》のまま、きょろきょろと周《まわ》りを見渡《みわた》す。果物《くだもの》を探《さが》すリスみたいなその仕草《しぐさ》は、贔屓目《ひいきめ》を抜《ぬ》きにしてもかなりかわいい。
慌《あわ》てている春香には悪いが、思わず見惚《みと》れてしまう。
実際《じっさい》問題として、さっきから周囲《しゅうい》の視線《しせん》が少々――いやかなり、すごいんだよな。遠くからちらちら見るヤツ、すれ違《ちが》いざまに振《ム》り向《む》くヤツ、堂《どうどう》々とじろじろと見ていくヤツ。男女を問わず、周囲のあらゆる視線が集中している。もちろんその視線の先にあるのは俺なんかじゃなく春香なわけだが。
ちなみに今日の春香の服装《ふくそう》は、真っ白なサマードレスに同色の薄手《うすで》のカーディガン、頭には麦藁《むぎわら》帽子がちょこんと乗っかっているという、ちょっとレトロなお嬢《じょう》様スタイルである。
まあ見た目超美少女である春香《はるか》がどこにいても目立つのは別に驚《おどろ》くことじゃない。驚くことじゃないんだが……それでもこのどこか日常《にちじょう》からかけ離《はな》れた雰囲気《ふんいき》の空間では、その目立ち方はいつもよりも際立《きわだ》っているように思えた。
――ヒヨドリの群《む》れの中に白鳥がいるっていうか……? 違《ちが》うな、タンポポの群生《ぐんせい》の中に一輪《いちりん》だけ白百合《しらゆり》が咲いているって感じか(どっちでもいいような気もするが)。
そんなことを考えていた、その時だった。
「あっ、あれは!?」
突然《とつぜん》、右手が強い力で引《ひ》っ張《ぱ》られた。
続いて猛然《もうぜん》と走り出す春香。
「お、おい」
「見つけましたっ! あそこにあるのが、『ねこばすてい』ですっ!あ、もうあんなに人が並《なら》んで――。は、早く私たちも並ばないと」
磯《いそ》でイシダイをヒットした時のような手ごたえで、ぐいぐいと引っ張られる。
「ちょ、ちょっと」
「早く早くっ」
――そ、そういや、春香にはコレがあったんだっけか。
今さらながらに思い出した。気に入ったモノを見つけると周《まわ》りの物事が完膚《かんぷ》なきまでに目に入らなくなる春香の特攻癖《とっこうへき》。おそらく春香にしてみれば宝の山であるこの場所で、コレが今まで発動しなかったのはむしろ奇跡《きせき》ってもんだろう。
「は、春香、気持ちは分かるがそこまで焦《あせ》らなくても」
「だ、だめです。早くしないと売り切れちゃうかもしれませんっ」
俺の手をつかんだままチーターのように疾走《しっそう》を続ける春香。普段《ムだん》のおよそ八・五倍の敏捷《びんしょう》さで、辺《あた》りを歩いている大量の人を器用《きよう》に避《さ》け、ずんずんと前に進んでいく。止まらない。
「ど、どこまで行くんだ!?」
「あそこです、あの壁際《かべぎわ》にあるお店ですっ」
春香が指差したのは会場の端《はし》っこ。まだここから五十メートルくらい距離《きょり》がある場所だった。
「……」
……いや、この混雑《こんざつ》の中であの距離に置いてある本が見えたってのか? 俺には本が置いてあることすら視認《しにん》できんぞ?
ちらりと春香を見ると。
「は、早くしないとっ……」
その目は完全に、獲物《えもの》を狙《ねら》うタカの目だった。それも大タカ。さっきまでのリスはどこ行ったんだよ、ってな感じである。
半《なか》ば引きずられるような格好《かっこう》で必死《ひっし》に春香《はるか》に付いていきながら、思う。
何なんだろうね、この状況《じょうきょう》?
夏休み。超美少女に手を引かれて二人きりでお買い物。
字面《じづら》だけ見るとものすごくロマンチックなように思えるが、実際《じっさい》のところはこれである。ロマンも何もあったもんじゃない。……まあでも、春香と手をつなげているだけでそれなりに幸せではあるわけなんだが、うん(単純《たんじゅん》)。
さて、『ねこバス亭』とやらに辿《たど》り着《つ》いた俺たちを待っていたのは……再《ふたた》び、行列だった。
「……もしかして、また並《なら》ぶのか?」
「えと、そうみたいですね」
長さにして三十メートルくらいの行列。
入場時のまでとはいかないが、それでもこれ単体で見るとかなり長い行列だった。しかも屋内《おくない》だけにとどまらず、巨大通用口(荷物《にもつ》の運搬用《うんぱんよう》?)をまたいで屋外《おくがい》に向けて伸びている。なんでも人気のある店舗《てんぽ》(サークルというようだ)には長蛇《ちょうだ》の列ができるのが常《つね》であり、それらは屋内では通行の障害《しょうがい》になるということで屋外に出されるのだとか。まあ、確かにこんなプチアナコンダな行列が中にあったらジャマでしょうがないな。
というわけで、外に出て列の最後尾《さいこうび》らしきところに付いたわけだが。
「……あちい」
相変わらず、入月の日差しは殺人的なまでに強烈《きょうれつ》だった。
じりじりと、刺《さ》すような光が頭上《ずじょう》から降《ふ》り注《そそ》ぐ。オゾン層《そう》が貧弱化《ひんじやくか》して有害《ゆうがい》な紫外線《しがいせん》をたっぷりと含《ふく》んだ太陽光線は、日頃《ひごろ》からエアコンに慣《な》れ親《した》しんで放熱機能《ほうねつきのう》が著《いちじる》しく低下《ていか》した俺の現代っ子な身体には、かなりしんどいものがあったりした。
春香が、朝礼で今にも倒《たお》れそうな低血圧《ていけつあつ》の同級生を見るような、ちょっと心配《しんぱい》そうな顔で俺を見上げた。
「裕人《ゆうと》さん、だいじょうぶですか? 何だか顔色が良くないような……」
「いや、大丈夫《だいじょうぶ》だ。暑いだけで」
「……そう、ですか? それならいいのですが――」
「ああ」
まあその暑さが問題なんだが。
とはいえ、これくらいの行列なら十分も並べばおそらく何とかなる……と思う(推定《すいてい》)。長く見積もっても二十分はかからない……はずだ(予測《よそく》)。この暑さは少々辛《つら》いが、その程度《ていど》の時間だったらまだガマンできるだろ――
「あ、そこのお二人さーん」
――と、思ったのだが。
甘かった。
貯蔵《ちょぞう》と貯蓄《ちょちく》なしで冬を越《こ》せると考えていたキリギリスくらいに甘かった。
俺たちのところに駆《か》け寄《よ》ってきた列|整理《せいり》の係員さん曰《いわ》く、
「そこ、最後尾《さいこうび》じゃないですよー」
「……え?」
「えっとですねー、通行する人たちのジャマにならないように、列をいくつかのグループに分断《だん》しているんです。だからここは最後尾じゃありません。ちなみにここは先頭《せんとう》グループになります」
「……あの、それじゃ最後尾はどこに?」
「あそこですね」
係員さんが指差したのは……なんか、ここからさらに六十メートルくらい離《はな》れた場所だった。
遠目にだが、『最後尾』と書かれた札のようなものが見える。もちろんそこに至るまでには、人がびっしりとウインナーのように詰まった行列が続いていた。
「………………マジですか?」
「マジです」
にっこりと笑顔《えがお》で係員さん。一気に全身から力が抜《ぬ》けていくのを感じた。……冗談《じようだん》でもウソだって言ってほしかったな。
一方、春香《はるか》はというと。
「あ、そうなのですか。分かりました、でしたらあちらに並《なら》べばいいんですね?」
顔色一つ変えずに、そう答えていた。
というか、並ぶ気まんまんだった。
「だ、そうです。行きましょう、「だ、そうです。行きましょう、裕人《ゆうと》さん」
「………ああ」
こうなったら、もう覚悟《かくご》を決めるしかなさそうだ。
マナイタの上の鯉《こい》の心境で、俺は力なくうなずいたのだった。
そして、俺たちは行列(合計九十メートル)の一員となったのだが。
「あちい……」
やはりこの暑《あつ》さばかりはいかんともしようがなかった。
「裕人さん、だいじょうぶですか?すごい汗《あせ》……」
滝《たき》のように噴《ふ》き出《だ》してくる汗を、春香がハンカチでぬぐってくれる。
ふきふき。
柔《やわ》らかい香《かお》りのする、高級そうな質感《しつかん》が頬《ほお》に触《ふ》れる。僅《わず》かにひんやりとした春香《はろか》の手の感触《かんしょく》が布《ぬの》越《ご》しに伝《つた》わってきて……そこはかとなく心地《ここち》が良い。
「あー、さんきゅ。それより春香は大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「はい。私は平気です」
麦藁《むぎわら》帽子を揺《ゆ》らして春香がこくんとうなずく。そしてちょっと得意《とくい》げにこんなことを言った。
「私、暑《あつ》さには強いんですよ。だって、動物占いがコアラですから」
「……は?」
「コアラ、南半球オーストラリア在住《ざいじゅう》です」
「……」
……いや、それって関係あるのか?
「だって動物占いがコアラってことは、私の体質《たいしつ》がコアラに近いってことですよね? 違《ちが》うんですか?」
目をぱちくりさせる春香。……何か、動物占いを根本的に誤解《ごかい》しているみたいだな。
――ま、まあそれ(コアラ)はともかく。
さすがに強いと言うだけあって、春香の顔は涼《すず》しげだった。俺と同じだけの時間を日光に晒《さら》されてるってのに、そのカキ氷みたいに真っ白な肌《はだ》には汗《あせし》の滴《ずく》一つ浮《う》かんでいない。というか、春香の周《まわ》りだけ他と比べて気温自体が低いような。……これはまさか、『お嬢《じょう》様は汗をかかない』とかいう理《ことわり》に付随《ふずい》して、『お嬢様はいつも涼しげ』とかいう理が、世界の法則として確立してるんじゃないだろうな?
「? どうしました、裕人《ゆうと》さん」
南極のイワトビペンギンみたいな顔で首をちょこんと傾《かたむ》ける春香。
「……何でもない」
「?」
おそらく、ここは深く突っ込むべきところじゃないんだろう、たぶん。というか謎《なぞ》は謎のままにしておいた方がいいことは、世の中にはたくさんあるってことで。
そう割り切って(逃避《とうひ》ともいうが)、ちょっと前に売店で買ったペットボトル入りジュース(一本二百円の観光地価格)を飲もうとした時だった。
「あれー、そこにいるのって……」
突然《とつぜん》、どこかで聞いたことのある声が耳に飛び込んできた。ムダにでかい、雑踏《ざっとう》の中でも通りまくる声。
「……」
これは、まさか……
デフォルトでこんなにでかい声の持ち主は、俺の知り合いではルコを除《のぞ》くともう一人くらいしか思い当たらない。
果《は》てしなくイヤな予感《よかん》とともに声がした方へと目を遣《や》ると――
「ねー、もしかして裕人《ゆうと》ー? 裕人だよねー?」
そこには、両手にいくつもの紙袋を持った十年来の幼馴染《おさななじ》み(♂)の姿《すがた》があった。が……
慌《あわ》てて目(というか顔)を逸《そ》らすも時すでに遅《おそ》し。
紙袋をぶんぶんと振《ふ》りながら近づいてくると、幼馴染み(♂)――朝倉信長《あさくらのぶなが》は嬉《うれ》しそうに大声を上げた。
「あー、やっぱり裕人だ。えー、どうしたの、裕人がこんなところにいるなんてー? もしかしてようやくこっちの道に目覚《めざ》めてくれたとか:?」
「あー、いやこれはだな……」
とっさに、信長の視界《しかい》を遮《さえぎ》るように春香《はるか》を背中《せなか》に隠《かく》した。
春香と二人でいっしょにいるところを見られるのも微妙《びみょう》にアレだが、それ以上に場所が場所である。春香の秘密《ひみつ》のこともあるし、余計《よけい》な詮索《せんさく》&誤解《ごかい》は避《さ》けられるのなら避けた方が賢明《けんめい》だからな。
「照《て》れなくてもいいってー。そっかそっかー、やっと裕人もこっち側の良さを分かってくれたんだねー」
不幸中の幸《さいわ》いというか、信長が春香に気付いた様子《ようす》はなかった。
「んー、裕人ならいつかはそうなってくれるとは思ってたけど、こんなに早くなってくれるなんて、僕としては感無量《かんむりょう》だなー。ねーねー、もう何か買った?」
いつもと変わらず、マイペースに、一方的に、わーわー騒《さわ》ぎながら話しかけてくる。何か勝手に勘違《かんちが》いをしてるようだが、訂正《ていせい》するのもメンドクサイのでとりあえずはそのままにしておこう。
「僕はねー、さっきまで『富士壼機械《ふじつぼまっすぃーん》』と『とぅいんくるはーと。』の新刊を買ってたんだー。もちろん『ねこバス亭《てい》』のも買ったよーでいうかここに目を付けるなんて、初心者にしてはなかなかいいセンスしてるよねー。うんうん、さすが裕人」
喋《しゃべ》る信長。
「あ、そういえば知ってるー? 基本的なことなんだけど、ここで売られてる本ってみんな手作りなんだよー。同人誌っていってねー、まあ同じ趣味《しゅみ》の人たちが作るものだからそういう名前なんだけど。で、やっぱり商業誌とは根本的に違《ちが》ってて――」
喋り続ける信長。訊《き》いてもいないのにそんな説明までしてくれる。
「――で、まあそういうわけで、今回の僕のメインターゲットは『はにトラ』本かなー。他にも色々あるけど、やっぱり一番はソレってことで。あ、『はにトラ』ってのは『はにかみトライアングル』の省略形《しょうりゃくけい》のことなんだけどー、はにかみ≠ェ平仮名《ひらがな》でトライアングル≠ェカタカナだからそこを間違えないようにー。はにトラには1stシーズンと2ndシーズンがあってねー、僕的には1の『ドジっ娘《こ》アキちゃん』とか『ダメっ娘《こ》メグちゃん』とかも捨て難いんだけど、最近はさー、2の『ネコマタ美亜《みあ》』とかもいいなーって思ってきてるんだよね。そりゃ確かにネコミミ、ネコシッポなんて使い古されたべタ中のべタなキャラなんだけどー、でもそこにまた逆《ぎゃく》に味を感じるっていうかー。何ていうの、原点|回帰《かいき》? 容疑者《ようぎしゃ》は犯行《はんこう》現場に戻《もど》る? ま、そんな感じで、とにかく一番お気に入りかなー。あ、でもねー、それだけじゃないんだよー。他にも『神様|幼女《ようじょ》さくら』とかが出てきてー、こっちは外見《がいけん》が幼《おさな》いんだけど中身は三百歳っていうこれまたよくあるステロタイプなキャラなんだけど、ツインテールがかわいいんだよねー。おまけにちょっとツンデレだしー。なじられてみたいって感じかなー?で、もう一人|忘《わす》れちゃいけないのが『霊鳥《れいちょう》お姉さんの千鶴《ちづる》』でねー、天然《てんねん》のお姉さんキャラなんだよー。ほんわかしてていいキャラしてるっていうか。んー、キレイなお姉さんっていいよねー。僕もあんな口の悪い妹なんかじゃなくて、お姉さんが欲しかったよー。裕人《ゆうと》が羨《うらや》ましいなー。さらに言うと――」
とにかく喋《しゃべ》り続《つづ》ける信長《のぶなが》(うんちくモード)。
時間にしてすでに約三分。
こっちの反応《はんのう》を気にすることもなく、ついでにほとんど息継《いきつ》ぎをすることもなく、信長は二ンジンを目の前にした馬のようなえらい勢《いきお》いで喋りまくる。とにかく喋りまくる。……いや、こいつの肺活量《はいかつりょう》はどうなってるんだ? エラ呼吸《こきゅう》とかしてるんじゃないだろうな。
おまけに、話の内容は俺にはとことん分からなかったしでかワケノワカラン固有名詞を説明もなしに使われてもどうしようもない。かろうじて理解《りかい》できたのは姉がどうのこうのって部分くらいか。……理解はできても、アレが欲しいっていうこいつの神経《しんけい》は信じられんが。
「でねでねー、それにはまだ続きがあって――」
「あー、ストップ、ストップ!」
再《ふたた》びうんちくモードに入ろうとした信長を慌《あわ》てて止める。
「んー、何? これからいいところなのにー」
不満《ふまん》げな顔をする信長。いや、こいつにこれをやらせておくと、それこそ日が暮《く》れるまでえんえんと付き合わされるハメになるからな(実体験)。
「あー、色々と説明してくれるのもいいんだが、それよりお前、まだ行くところがあるんじゃないのか?」
「行くところーあ、そうだった!」
信長がぎゃーと叫《さけ》ぶ。
「そ、そうだったよー、ほんとはもっともっと裕人に『はにトラ』について教えてあげたいところなんだけど、僕はまだ自分の買い物が残ってたんだったー。これから『修羅場《しゅらば》計画』にも行かなくちゃいけないしー」
「いや、俺のことは構《かま》わんでいい」
というかむしろさっさと行ってくれ。
「あ、そう? だったら悪いけど遠慮《えんりょ》なくー」
「ん、じゃあな」
「んー、それじゃまたねー、裕人《ゆうと》、乃木坂[#「乃木坂」に傍点]さん」
「え……」
「ばいばーい」
そう言い残して、信長《のぶなが》はあっという間《ま》に人ゴミの中へと消えていった。
「あ、おい……」
いや今、最後に『乃木坂《のぎざか》さん』って言ったような……
確認しようとするも、すでに信長の姿《すがた》は影《かげ》も形も残っていない。
「……」
何というか。
十年以上付き合ってはいるが、あいつだけは本当に謎《なぞ》だ……
で、そんなこんなをしているうちに行列は進んでいき。
ようやくあと四、五人で、俺たちの購入順《こうにゅうじゅん》ってところまできた。
「あと少しです……」
春香はさっきから落ち着かない様子《ようす》だった。
「まだかな……あと何人かな……本、ちゃんと買えるかな……」
サンタクロースを待つ子供のようにそわそわとしながら、胸《むね》の前で手を合わせて列前方の様子を窺《うかが》っている。よっぽど楽しみにしてるみたいだな。何か理由《りゆう》でもあるのか?
訊《き》いてみると。
「私、この作家さんが大好きなんです。昔、雑誌でイラストを見たことがあってその時からずっとファンで……だから、今日はすごく期待《きたい》しているんです」
との答えが返ってきた。へえ、そんなに思い入れがあるもんだったのか。それならこの気合の入りようも少しは理解《りかい》できるな。
そして、さらに並《なら》ぶこと五分。
とうとう長かった行列が終わりを告《つ》げ。
「や、やっと私たちの順番ですっ」
俺たちの前に『ねこバス亭《てい》』の店舗《てんぽ》がその姿を現そうとしたところで――
横からすっと、売り子さんの死角《しかく》をついて、人影が忍者《にんじゃ》のように俺たちの前に入り込んできた。
「え……」
「あっ……」
野球帽を目深《まぶか》に被《かぶ》った、小太りのTシャツ姿《ずがた》の男。
そいつは身体に似合《にあ》わずバーゲンセールにおけるおばちゃんのごとき機動性《きどうせい》で机の上に置かれていた本三冊を掴《つか》み取《と》ると、代金の千五百円を押《お》し付《つ》けるように売り子さんに渡《わた》し、逃《に》げるように去って行った。
時間にして、僅《わず》か二十秒|足《た》らずの出来事《できごと》。
あまりの手際《てぎわ》の良さに、一瞬《いっしゅん》目の前で何が起こったのか、全然《ぜんぜん》分からなかった。
「……」
「……」
いきなりの展開《てんかい》に、俺たちはしばらくの間そこで呆然《ぼうぜん》と立《た》ち尽《つ》くしていたが。
「あっ……!」
やがて、春香《はるか》が弾《はじ》かれたように声を上げた。
「そ、そうです、本を買わないと……」
思い出したかのように店舗《てんぽ》に駆《か》け寄《よ》り、バッグから財布《さいム》を取り出す春香。だが――
「あ、すみません。新刊は今の方が買っていかれたので最後になります」
「……え?」
売り子さんの言葉《ことば》に、春香の表情が固《かた》まる。
「そ、それってどういう……」
「ええと、つまり売り切れということです。せっかく並《なら》んでいただいたのに申《もう》し訳《わけ》ないんですが……」
「う、売り切れ……」
店舗を見てみると、確かに売り子さんの言葉通り、机の上にはもう本は一冊も残っていなかった。ただ宣伝用《せんでんよう》のポップと見本誌だけが、ぽつんと残されている。列に並んでいた他の人たちもばらばらと散り始めた。
「……」
ようやく状況《じょうきょう》が掴めてくる。
突然《とつぜん》、列に入ってきた男。不自然に慌《あわただ》しい買い物。売り切れた本。
要《よりつ》するに……今、俺たちは横入りされたってことか? それで残っていた最後の本を目の前でかっさらわられたと? ふむふむなるほど…………って、何だそりゃ!?
俺は思わず売り子さんに詰《つ》め寄《よ》っていた。
「すいません、もう本は、残ってないんですか!_? てか、横入りされたんですが!」
「……横入り、ですか?」
「そうです、今走っていったあの野球帽の……」
「はあ……」
だが芳《かんば》しい答えは返ってこない。それも当然か。あの横入りヤロウはうまいこと売り子さんの死角《しかく》を突いてやがったしな……
「申《もう》し訳《わけ》ありませんが、今回のところはこれでお引取りを……」
「そんな、でも……」
「お引取り、ください」
「く……」
「……裕人《ゆうと》さん、もういいです」
なおも食い下がろうとした俺を、春香《はるか》が止めた。
「もう……いいです。私、諦《あきら》めます」
「けど………」
あんなに欲しがってた本だろ? 本来なら買えるはずだったのに、こんなことでフイにしちまって、それでいいのか?
俺の言葉《ことば》に、春香がふるふると首を横に振《ふ》る。
「確かに、とっても悔《くや》しいです。悔しいですけれど……でも、このままじゃ裕人さんが悪者になっちゃいます」
「う……」
確かに、横入りの事実を証明できない以上、俺のやっていることは、傍目《はため》にはただ本を買えなかったヤツがワガママでゴネているようにしか見えない。だけどこのまま引き下がるのも……
「……いいんです。裕人さんの気持ちだけで、充分《じゅうぶん》です」
「……」
「裕人さん」
「……分かった」
まだ納得《なっとく》はいかないが、当の春香にそう言われれば俺としてはもう引き下がるしかない。
「……ヘンなこと言って、スミマセンでした」
怪誇《けげん》な顔を向けていた売り子さんに謝《あやま》ると、俺たちは『ねこバス亭《てい》』の店舗《てんぽ》を離《はな》れた。
「あ、そこの二人! 待って待って」
春香と二人でとぽとぽと会場の外周《がいしゅう》部分を歩いていると、ふいに背後《はいご》から声をかけられた。
振り返ると、俺たちよりも少し年上な感じの、茶髪《ちゃぱつ》の男の人が走ってくるのが見えた。
男の人は俺たちのところに駆《か》け寄《よ》ってくると、肩《かた》で息《いき》をしながら言う。
「ああ、良かった、追《お》いついた。もう少しで見失うところだったよ」
「……あの、俺たちに何か?」
どうやら俺たちを追ってきたらしいが、少なくとも俺はこの男の人に見覚《おぼ》がなかった。反応《はんのう》からして、春香《はるか》の知り合いでもなさそうだ。
戸惑《とまど》う俺たちに。
「ああ。何かというか、まあ……コレ」
「?」
そう言って男の人が差し出したのは、本だった。蒼髪《そうはつ》の女の子が表紙に描《か》かれた三冊の本。
何だ、この本がどうかしたのか?
「こ、これは……」
と、横で春香が驚《おどろ》いたような声を上げた。
「こ、これ……新刊です。『ねこばすてい』の」
「え?」
それって……
男の人を見る。すると男の人は少し照《て》れたような顔をして。
「さっきね、偶然《ぐうぜん》見てたんだよ。キミたちの前に変な男が割り込んだのを。アレはキミたちは悪くない。というか災難《さいなん》だったね。あそこでは他のお客さんの手前、ああいう応対《おうたい》をするしかなかったけど、あのまま手ぶらで帰らせちゃうのも気が引けると思って。この暑い中、せっかく並《なら》んでくれたんだし」
だから、と続ける。
「これは何ていうかな、ヤな思いをさせちゃったお詫《わ》びというか……まあ、受け取ってくれると嬉《うれ》しいんだけど」
そう言って、春香に本を手渡《てわた》した。
「あの、え、え?」
キツネにつままれたみたいな顔をして、春香が手元の本と男の人の顔を見比べる。
「え、えと、お代は……?」
「ああ、いいよ。それは予備用《よびよう》に取っておいたやつの一つだから」
男の人がばちっとウィンクをした。
「で、ですけれど……」
「いいからいいから」
さらりと言う。
とすると、この人はあの店舗《てんぽ》の関係者なんだろうか。売り子さんじゃないみたいだが……。
けど何にせよ、わざわざ俺たちを追《お》いかけてきてまでこんなことをしてくれるなんて、いい人には違《らが》いない。
「あ、ありがとうございますっ。これ、大事《だいじ》にしますから」
「うん、そうしてくれると嬉しい」
「あ、あの、よろしければお名前を――」
と、携帯《けいたい》の着信音が春香《はるか》の言葉《ことば》を遮《さえぎ》った。
「ん、ちょっとゴメン」
男の人が、ポケットから携帯を取り出し耳に当てる。
「もしもし? うん、そうだけど。ああ、そっか。うん……うん……分かった、だったらすぐ戻《もど》るから」
男の人は携帯を仕舞《しま》うと、
「ゴメン、もう戻らないとマズイらしい」
「あ、そうなのですか」
「ああ、だから俺はこれで。――これからもがんばって描くから応援《おうえん》よろしくね」
「? えと……はい。本当にありがとうございました」
春香が深々と頭を下げる。
それに軽く手を振《ふ》って、男の人は去っていった。結局《けっきょく》、最後まで男の人の素性《すじよう》は分からないままだった。ほんと、だれだったんだろうね?
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俺たちの入場から三時間が過《す》ぎた。
あれからさらに五つの行列に並《なら》び、西の方のブロックにも行ってみたりもして、いちおう当初から目的としていたモノの大半をグットしてほくほく顔の春香は、あとは何か掘《ほ》り出《だ》し物《もの》を見つけるべく、今はのんびりとあちこちの店舗《てんぽ》を見て歩いていた(もちろん俺もいっしょに)。
「裕人《ゆうと》さーん、これ、かわいくないですか?」
「ん、あー、まあ」
曖昧《あいまい》にうなずく。いやそういうことを俺に訊《き》かれてもな。
「ですよね?――うん、決めました。すみません、これ、いただけますか?」
五百円玉と引《ひ》き換《か》えに、ドレス姿《すがた》の女の子が表紙の本を受け取る春香《はるか》。さっきからもう何度も繰《く》り返《かえ》されている光景である。
「ありがとうございましたー」
売り子さんに見送られて、俺たちはその店舗を後にする。
「いい買い物をしました」
満面《まんめん》の笑顔《えがお》で春香がそう言った。本当に、心から満足している顔だ。
「……よかったな」
俺には正直何がいいんだかほとんど分からない。というかどれも同じようなモノにしか見えないんだが、まあ春香が嬉《うれ》しそうな顔をしてるから良しとするか(割と適当《てきとう》)。
「あれ、あそこにあるのって――」
と、再《ふたた》び何かを見つけたのか、春香がとてとてと走り出した。やれやれ、またか。
それを後ろからのんびりと追《お》いかけながら、周《まわ》りを何となく見渡《みわた》してみる。
開場からそれなりに時間が経っているのにもかかわらず、ブロック内の人の勢《いきお》いは全然|衰《おとろ》える様子《ようす》を見せていなかった。むしろ増《ふ》えているくらいか。まるで、どでかいネズミがメインキャラクターを務《つと》める某《ぼう》テーマパークのように、ハデに賑《にぎ》わいまくっている。
紙袋を抱《かか》えてせわしなく歩き回る人、黙《もくもく》々と行列に並《なら》んでいる人、宣伝《せんでん》ポップのようなものを持って声かけをしている人、そして……メイドさん。
メイドさん。
いや、最後に何やらエキセントリックというか非日常的な単語が入ったが、これは別に何かのレトリックだとか、高度な政治的表現だとか、そういうわけではない。
本当にメイドさんが歩いているのである。
ちなみにメイドさんだけじゃない。他にも袴姿《はかますがた》の巫女《みこ》さんやお盆《ぼん》片手のウェイトレスさん、空手着《からてぎ》を着た男やターミネーターみたいな黒服など、さっきから実に多種多様な格好《かっこう》をした人達とすれ違《ちが》っている。これはたぶん、あのアキハバラのネコミミメイドさんと同種のモノなんだろうな。
最初は驚《おどろ》いたが、今はもう慣《な》れた。いや、人間の順応力《じゅんのうりょく》ってのは素晴《すば》らしいね、まったく。
達観《たっかん》というかどこか諦観《ていかん》した気分で、改《あらた》めて辺《あた》りを見回す。
ほら、あそこにもまたどっかで見たことがあるにこにこ顔のメイドさんがビデオカメラを構《かま》えて――
「……ん?」
――って、あれって。
「あ、まずいですー、隠《かく》れましょう」
「え、もう見つかっちゃったの?わわわ」
どこか見覚《みおぼ》えのあるメイドさんは、俺の視線《しせん》に気付くと慌《あわ》てたようにそそくさと人ゴミの中に姿《すがた》を消した。その隣《となり》には、春香《はるか》によく似《に》たちんまいツインテール娘の姿も見えたような……
…………
…………
……そういえば、あの二人は夏こみまっぷ≠フ存在《そんざい》を知ってたんだっけか……。
てことは、この夏こみ≠フ存在《そんざい》を嗅《か》ぎつけていたとしても全然不思議《ふしぎ》じゃない。というか百六十パーセント嗅ぎつけているだろう。そして事前に嗅ぎつけた以上、あの二人の採《と》るであろう行動は容易《ようい》に想像《そうぞう》できる。つまりは先日の葉月《はづき》さんの件と同じく――
「……もう、いいや」
深く考えるとドロ沼にハマりそうだったので、この際《さい》、目の錯覚《さっかく》だと思うことにした。というか、正直そう思わないことにはやってられない。この人ゴミに加えあのリアルメイドさんの規格外《きかくがい》の能力《のうりょく》を考えると、俺にどうこうできる話じゃないだろうし。
頭を振《ふ》って、視線《しせん》を反対側に移《うつ》すと――
「……お?」
そこには、またどっかで見たような男女の二人組の姿があった。
春香とはまた違った意味でこの場にそぐわないワイルド顔の男と、その隣にちょこちょこと仔犬《こいぬ》のように付《つ》き従《したが》う女の子。
あれってクラスメイトの――千代《せんだい》と八咲《やつさき》さん、だよな?
遠目《とおめ》だが、あの顔は間違《まちが》いない。
短気《たんき》で凶暴《きょうぼう》。ケンカ上等《じょうとう》で攻撃的《こうげきてき》。アキバ系の天敵《てんてき》。通称狂犬《マッドドッグ》≠フ名で恐《おそ》れられている千代|啓二《けいじ》。
ドジで臆病《おくびよう》。口ベタで引《ひ》っ込《ご》み思案《じあん》。一家に一匹|便利《べんり》なパシリ。通称忠犬《ちゅうけん》ハチ公≠フ名で親《した》しまれている(?)八咲《やつきき》せつな。
春香《はるか》や三バカを筆頭《ひっとう》として色んな意味で個性的なうちのクラスにあって、この二人もまた他に負《ま》けず劣《おと》らず目立つ存在《そんざい》である。良くも悪くも。
二人は何やら話をしているようだったが、すぐに人ゴミの中へと消えていった。
「……」
……これも、目の錯覚《さっかく》だよな?
そうとしか思えなかった。
あのあらゆる方面で正反対の二人が並《なら》んで歩いているだけでも充分《じゅうぶん》に奇異《きい》な光景《こうけい》なんだが、それに加え場所が場所だった。だって八咲さんはともかく、アキバ系の天敵《てんてき》である狂犬《マッドドッグ》$迹縺sせんだい》がこんなところにいるなんて、吸血鬼《きゅうけつき》が教会でロザリオを手に賛美歌《さんびか》を歌っているくらいにあり得《え》ない光景である。
「うーむ……」
こういう非日常的な場所に来てるから、きっと俺の脳《のう》も驚《おどろ》いて機能不全《きのうふぜん》を起こしてるんだろう、うむ。そうに違いない。てかそう決めた。
そう自分を(かなりムリヤリ)納得《なっとく》させたところで。
「裕人《ゆうと》さーん」
と、春香から声がかかった。こちらに向かってぶんぶんと手を振《ふ》っている。どうやらまた何か掘《ほ》り出《だ》し物《もの》を見つけたらしいな。
「こっち、こっちです」
「ああ」
春香に近づいていく。
「どうですか、これもステキだと――」
ぱらぱらと見本誌《みほんし》をめくっていた春香の動きが、しかし突然《とつぜん》ぴたりと止まった。
「春香?」
続いて本を見ていた目が点になったかと思うと、顔からヤカンみたいにものすごい勢《いきお》いで蒸気《じょうき》を噴《ふ》き上《あ》げた。な、何だ? 壊《こわ》れた?
「春香、どうした――」
慌《あわ》てて駆《か》け寄《よ》り春香の手にある本に視線《しせん》を落とし――
「……あ」
そして、すぐにその理由が判明《はんめい》した。
なんか、やたらと肌色《はだいろ》が多い本だった。
全体的に描《えが》かれている着衣《ちゃくい》の量が絶対的《ぜったいてき》に少ないというか裸族《らぞく》ばかりが登場人物というかお子様お断《ことわ》りというか……まあ、そういったモノである。
「あ、あわあわあわ……」
春香《はるか》は完全に機能停止状態《きのうていしじょうたい》に陥《おちい》っていた。お嬢《じょう》様だけあって、やっぱりこういうモノにはとことん免疫《めんえき》がないみたいだな。人の誕生日にエロ本をダースでプレゼントしてくれる、どこそのセクハラ音楽教師とは大違《おおちが》いである。
「……と、とにかく、どっか落ち着ける場所に行こう」
よく見るとここら一帯《いったい》そういった系統《けいとう》の本ばかりである。どうも、間違《まちが》った区画《くかく》に迷《まよ》いこんじまったらしい。
固《かた》まっている春香の手から本を取り上げ、怪語《けげん》な顔でこちらを見る店の人に会釈《えしゃく》をして、俺たちはいそいそとその場を離《はな》れたのだった。
とりあえず会場から出てみたものの、通路は相変わらずどこもかしこも人で溢《あふ》れておりベンチに座《すわ》ることはおろか立ち止まることすらままならないってのが現状で、とてもじゃないが落ち着いて休めるような環境《かんきょう》じゃなかった。
なので俺たちが向かったのは外――それも高台のような場所に位置《いち》する広場(屋上展示場《おくじょうてんじじょう》というらしい)だった。
どうせ外に出て休憩《きゅうけい》するのなら高いところの方が気分がいいだろうと考えたのはもちろん俺であるのだが、そこにはケムリと何とかは高いところが好きという古い格言《かくげん》との因果《いんが》関係はないと信じたい。
「大丈夫《だいじょうぶ》か、春香?」
「は、はひ……」
声をかけると、弱りきった仔《こ》ウサギみたいな声が返ってきた。おまけに時折《ときおり》ぶつぶつと「ア、アレがこうなっていて、コ、コレがああなっていて、あ、あわわ……」みたいなことをつぶやいている。……こりゃ、かなり重症《じゅうしょう》だな。
「……とにかくなんか飲んだ方がいい。オレンジジュースでいいか?」
さっき買ったジュース(一本二百円の観光地価格)をカバンから取り出す。本当なら冷えているのを買ってくる方がいいんだろうが、この状態《じょうたい》の春香を一人で置いていくのはかなりためらわれるため、この際《さい》しょうがない。
「ほら、これ」
「す、すみません……」
差し出したペットボトルを受け取ると、こくこくと小さく喉《のど》を鳴《な》らして飲み始めた。やはり先ほどの蒸気噴出《じょうきふんしゅつ》で、かなりの水分を失っていたようだ。
「おいしいです……」
三分の二ほど飲み切ったところで、春香はペットボトルを口から離した。
「ありがとうございました。おかげでだいぶラクになったような気がします」
「そっか。ならよかった」
ペットボトルを受け取り、ちょうど俺も喉《のど》が渇《かわ》いていたところだったのでそのまま飲もうとして。
「……」
「どうしました、裕人《ゆうと》さん?」
「い、いや……」
よく考えてみれば、コレって春香《はるか》が今飲んでたやつなんだよな?それはつまり今の今まで春香の唇《くちびる》が触《ふ》れていだってわけであり、コレを俺が飲むってことはその、間接《かんせつ》――なわけであって……
思わずペットボトルの口を見たまま考えこんでしまう。うーむ、飲むべきか飲まざるべきか、それが問題だ――
どこぞの劇作家のごとく俺が迷《まよ》っていると、
「あれ?」
何かを見つけたのか春香が声を上げた。
「裕人さん、あっちの方、何だか人がたくさん集まっていませんか?」
「あ、ああ、そうだな」
とりあえずペットボトルにはフタをして(腰抜《こしぬ》け)、春香が指差している方向を見た。
春香が見ている先。広場の中央部分だ。よく見えんが、確かに何やらやたらと人が蠢《うごめ》いている。
「何をやっているんでしょう? イベントかな……」
興味《きょうみ》を引かれたのか、春香がそっちに向かって歩き出した。少しばかりヤな予感《よかん》はしたが俺もそれに従《したが》う。
するとそこにあったのは
「わあ……」
「これって……」
……何て言ったらいいんだろうな。
そこにあったのは、ある意味でこの世のモノとは思えない光景。羽《はね》を生《は》やした女|悪魔《あくま》(露出度《ろしゅつど》高し)が脚《あし》を組んでイスに座《すわ》っていて、ネコミミメイドがホウキを片手に闊歩《かっぽ》し、ピンクの髪《かみ》をした女の子が両手でピースをしている。その隣《となり》では中世風の鎧《よろい》をまとった女|騎士《きし》がポーズをとっていて、明らかに現実にはあり得《え》ない天然色《てんねんしょく》のセーラー服を着た女子高生(?)が笑顔《えがお》を振《ふ》りまいている。さらにそれらの周《まわ》りにはカメラを構《かま》えた幾入もの男たちが、群《むら》がるように何かを話しかけながらしきりにシャッターを切りまくっていた。
「……」
そんな、ともすればこのあまりの暑さに自分の頭がヤラレちまったんじゃないかと勘違《かんちが》いするような、非日常《にちじょう》のカタマリみたいな空間。
「わ〜、あれは『マジカル☆でぃなー』の『エシャロッテ姫《ひめ》』で、あっちは『銀河《ぎんが》アフタヌーンティー戦争』の『シナモン軍曹《ぐんそう》』ですっ」
呆然《ぼうぜん》とする俺の横で、春香《はるか》は興奮《こうふん》で目をきらきらと輝《かがや》かせていた。休憩《きゅうけい》するために来たはずなのに、逆《ぎゃく》に火をつけちまったような気がするな、これは。
「あ、あの、ちょっと近くまで行って見てきていいですか?」
マタタビを目の前にしたネコみたいな、すげえ マタタビを目の前にしたネコみたいな、すげえ期待《きたい》に満ちた顔で迫《せま》ってくる。それを前にして、さすがにダメとは言えん。
「……あんま、ムリしないようにな。俺はこの辺《あた》りで待ってるから」
「はいっ、ありがとうございます。行ってきますっ」
返事とともに春香が走り出して。
「あ」
何かに気付いたのか、とてとてとこちらに戻《もど》ってきた。
「すみません、あの、これ持っていていただけませんか?」
あの人ゴミの中へ突撃《とつにゅう》するのにはジャマになると判断《はんだん》したのか、麦藁帽子と着ていたカーデイガンを脱《ぬ》いで、俺に手渡《てわた》してきた。
「えと、お荷物《にもつ》かもしれませんが……」
「いや、別にいいぞ」
別にそれくらい大した荷物じゃない。……すでに俺の傍《かたわ》らにある、中身ずっしりの紙袋×三に比べれば。
「それじゃ、お願いしますです」
「ああ」
受け取る。脱いだばかりのカーディガンにはまだ春香の 受け取る。脱いだばかりのカーディガンにはまだ春香の温《れく》もりが残ってたりして、微妙《びみょう》に心臓が痙攣《けいれん》したりもしたが。
「行ってきますねっ」
そして春香は水を得《え》たメバチマグロみたいに、スキップをしながら元気に異空間《いくうかん》の中へと突撃《とつげき》していき――
「――ん?」
なんか、一瞬《いっしゅん》にしてカメラを手にした男たちに周《まわ》りを囲《かこ》まれていた。
「ね、ねえ、キミ、ちょっと」
「写真、写真を撮《と》らせてもらっていいかな?」
「……(無言《むごん》)」
「あ、あの……」
困惑《こんわく》の表情を浮《う》かべる春香に、さらに男たちが迫ってくる。
「あ、あれ、もしかしてキミ、こういうこと初めて?」
「夏コミデビュー? あ、でも大丈夫《だいじょうぶ》、すぐに終わるから。別に痛《いた》くないよ」
「……(無言《むごん》で近づいていく)」
何だかそれらの台詞《せりふ》にめちゃくちゃ殺意《さつい》を覚《おぼ》るのはなぜだろう? ていうか何で春香《はるか》がいきなり囲《かこ》まれてるんだ?確かに春香は超美少女で目立つ存在《そんざい》だが、これまでこんなことはなかったのに。
――と。
「お、あれって『春琉奈《はるな》』様のコスプレじゃん。『ノクターン女学院ラクロス部』の」
「へー、珍《めずら》しいな。あのお嬢《じょう》様キャラのだろ?」
周《まわ》りにいる男たちがそんなことを言っているのが聞こえた。
「でも似合《にあ》ってるよな」
「だな。あのコスプレ、難度《なんど》が高くて有名なのに。時々見たことあるけど、だいたいのは目劣《めおと》りするっつーか、パチモン臭《くさ》いのが多くてさ」
「案外《あんがい》、本物のお嬢様だったり?」
「はは、まさか。本物のお嬢様がこんなとこ来るはずねーじゃん。それより俺たちも見にいこうぜ」
そう笑って、男たちも春香の方へと近づいていった。
「……」
………………何となく分かったような気がする。
つまり、カーディガンを脱《ぬ》いだ春香《はるか》のあの服装《ふくそう》(私服《しふく》)が何かアニメだか漫画だかの登場人物(お嬢《じょう》様)に似《に》ていて、それで勘違《かんちが》いされてるってことなのか?うーむ。普通《ふつう》ならあり得《え》ない偶然《ぐうぜん》だが、春香なら素《す》でそんなことをしでかしても不思議《ふしぎ》とおかしくないような気もする。
そうこうしている間にも、春香の周《まわ》りに群《むら》がるカメラ及び人(ほとんど男)の数はどんどんと増《ふ》えていく。
その中でも、最初に話しかけてきた三人が特にしつこく迫《せま》っているようだった。
「ね、ねえねえ、キミ、名前何ていうの? あ、コスプレネームでいいから教えてくれない?」
「現像《げんぞう》できたら写真送るから、住所を教えてくれると嬉《うれ》しいかな?」
「……(無言《むぐん》でにじり寄っていく)」
「いえ、その、ですから……」
「おお、その困《こま》り方《かた》も春琉奈《はるな》様にそっくりだ!」
「うん、素晴《すば》らしい!」
「……!(無言で感激《かんげき》している)」
というか、問題あるのはほとんどその三人だけのようだ。他の人たちは春香の気の進まない様子《ようす》を察《さっ》すると、それ以上は深入りしようとせず、大人しくその場を離《はな》れていく。
「い、いいじゃん。あ、オレの名前はさ――」
「ついでに携帯《けいたい》の番号とかも教えてくれるとなおいいかな。あ、メアドでも可だよ」
「……(無言で携帯を差し出している)」
三人は、タチの悪い押しかけセールスのようにいつまでも春香の側《そば》から離れようとしない。
……いいかげん、このヘンで限界《げんかい》だな。
こういった世界のルールやマナーのことはよく知らんし、せっかく春香が楽しんでる手前|余計《よけい》な騒《きわ》ぎは起こしたくなかったが、それにも限度《げんど》ってもんがある。目の前で春香がイヤがっているのを見過《みす》ごせるほど、俺は人間ができていない。
「――あー、ちょっとスミマセン」
親からはぐれた仔《こ》ジカを追《お》い詰《つ》めるハイエナみたいに、春香の周りをぴったりと囲《かこ》んでいる三人の間に強引《ごういん》に割り込む。ヤツらは露骨《ろこつ》にイヤそうな顔でこっちを睨《にら》みつけてきたが、とりあえずムシ。
「あ、ゆ、裕人《ゆうと》さん」
春香が心の底《そこ》から安堵《あんど》したような顔を見せる。おまけにちょっと涙《なみだ》ぐんでたりもした。……これならもっと早くから止めに入ってやるんだったな。少し後悔《こうかい》。
「――行こう」
「あっ……」
俺は春香の手を取ると、その場から離れんと歩き出した。
すると。
「ちょ、ちょっと待てよ。あんた何なんだよ。今オレたちが写真を撮《と》ってるところだろうが。か、勝手なことすんな」
「ボクたちの邪魔《じゃま》しないでくれるかな?」
「……キエロ(小声)」、
当然のごとく、三人はクレームを付けてきた。
いやお前ら人に文句《もんく》言える立場じゃないだろ、とは思うものの、今までのやり取りからしてまともに話が通じるヤツらにも見えなかったので、さらにムシして素通《すどお》りしようかと思ったのだが。
「ま、待てって言ってるだろ!」
「あっ……」
そうもいかなかった。
男の一人に肩《かた》を掴《つか》まれ、春香《はるか》の足が止まる。
ほんとにしつこいな、こいつら。
ここはできるなら穏便《おんびん》に済《す》ませたかったがしかたない。お互《たが》いのためにも、間違《まちが》っても春香に手を出させるわけにはいかないということで、俺は右手に持っていた紙袋(本やらチラシやらポスターやらがぎっしり)を大きく振《ふ》りかぶろうとして。
「いいかげんにしなさいよねー」
と、周《まわ》りからそんな声が飛び出すのを聞いた。
「どう見たってその子、イヤがってるじゃない。あんたたち、いくら何でもマナー違反《いはん》しすぎだって」
いつの間《ま》にか、周囲《しゅうい》には人がたくさん集まっていた。ギャラリーだけでなく、さっきまで周りでポーズを取っていたネコミミメイドや女|騎士《きし》もいる。皆、白けきった冷たい目で春香を囲《かこ》む三人を睨《にら》みつけていた。
「そうよそうよ、さっきからしつこくして。私、見てたんだからね」
「スタッフの人、呼《よ》んでこようか?」
「くっ……」
それまで真夏のゴキブリのように威勢《いせい》の良かった三人も、自分たちの劣勢《れっせい》を悟《さと》ったのか、
「く、くそ、覚《おぼ》てろよ!」
「キミの顔は覚えたからな!」
「……ウラミハラサデオクベキカ(小声)」
そんな一昔前のザコキャラみたいな捨《す》て台詞《ぜりふ》を残して、そそくさとその場から走り去っていった。逃《に》げ足《あし》だけはめちゃくちゃ速いな、まったく。
「……ふう」
ともあれ、どうやら大事《だいじ》にはならずにすんだみたいだ。
肩《かた》を撫《な》で下《お》ろしていると。
「あいつら、ブラックリストに載《の》ってる要注意人物なんだよ」
集まってきた人の一人(ネコミミメイドさん)が、俺たちにそんなことを言った。
「大人しそうな女の子のレイヤーばっかり狙《ねら》うんで有名でさ」
「けどなかなか面《めん》と向かって拒絶《きょぜつ》できる人もいなくて。キミ、すごいわね。ちょっとスッキリした」
「ホントホント、いい気味《きみ》だったよ」
「ま、でも、ここもあんなのばっかじゃないからこれに負けずに元気にコスプレしてほしいな」
いやまあ春香《はるか》のは別にそういったモノ(コスプレ?)じゃないんだが、でもその心遣《こころづか》いは嬉《うれ》しかった。春香も感激《かんげき》した顔をしている。
「んじゃまたね。良かったら今度、いっしょに|や《コスプレ》りましょう」
「ばいばい」
「それじゃ」
そう言って、ネコミミメイドさんたちは去っていった。
「いい人たちでしたね……」
「ああ、だな」
素直《すなお》にそう思う。
今のご時世《じせい》、人通りの多い道端《みちばた》て倒《たお》れても傍観《ぼうかん》されて放置《ほうち》されることすらあるってのに。
何ていうか、現代日本では失われつつある人情と助け合いの心ってやつを、改めて感じさせられたような気もした一時《ひととき》だった(大げさ)。
それからもしばらく、買い物であちこちを回ったりイベントを見たりのんびり海を見たりしてまったりと時間を過ごし。
午後四時。
夏こみ≠ヘ無事《ぶじ》に終了を迎えた。
『ただいまをもちまして、三日間の全日程を終了させていただきます。ありがとうございました』とのアナウンスが館内に響《ひび》く中、俺たちは帰路《きろ》につこうとしたのだが。
「……」
「……」
「……また、並《なら》ぶのか」
「……み、みたいですね」
臨海《りんかい》高速鉄道臨海|副都心線《ふくとしんせん》(りんかい線)国際展示場《こくさいてんじじょう》駅前。
そこには、やって来た時と同じかそれ以上の人で埋《う》め尽《つ》くされていた。
まあよく考えてみれば当然《とうぜん》なんだよな。
いかにゆりかもめとりんかい線の二つに分散《ぶんさん》され御とはいっても、あれだけの会場を埋め尽くしていた人々がほとんど一斉《いつせい》に帰路《きろ》につけば、そりゃこういったプチ渋滞《じゅうたい》な事態《じたい》が生じるに決まっている。
「……行くか」
「……そ、そうですね」
キップ売り場で十五分、改札からホームに下りるまでに二十分、そこから乗車|制限《せいげん》のかかった電車に乗り込むまでにさらに二十分。結局《けっきょく》、国際展示場駅を発車するまでに合計五十五分もの時間を要《よう》した。
「うぐ……」
「きゃっ……」
おまけに、押《お》され、揉《も》まれ、潰《つぶ》されかけてようやく乗り込んだ電車内でも、さらなる混雑《こんざつ》が俺たちを待《ま》ち構《かま》えていた。
「は、春香《はるか》、大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「な、何とかだいじょぶ……です……」
苦しげに春香が返してくる。
いやこれ、明らかに車載限界《しゃさいげんかい》人数を超えてるだろ。
「ぐ………」
ドア際《ぎわ》の春香に重さがかからないように何とか腕《うで》を突《つ》っ張《ぱ》らせるものの、さすがにこの人数を相手に俺が一人で対抗《たいこう》するのはムリがある。
電車が揺《ゆ》れる度《たび》にやってくる波。
第一|波《ぱ》、第二|波《は》までは何とかこらえることができたものの、第三波にしてあえなく俺の腕は限界を迎えた。
俺と春香との間に空間を作っていた支《ささ》えがなくなり――
「うわっ」
「きゃっ」
必然的《ひつぜんてき》に、俺と春香の身体は密着《みっちゃく》――ほとんど正面《しようめん》から抱《だ》き合《あ》うカタチになる。
「あ……」
「う……」
目の前には春香の小さな顔。
加えてちょうど胸《むね》の辺《あた》りに、何やらやたらと柔《やわ》らかい物体が押し付けられているのを感じる。
こ、これはまさか……
「あ、あの、すみません」
「い、いや……」
春香《はるか》は申《もう》し訳《わけ》なさそうにそう言うが、むしろ状況的《じきょうきょうてき》にはこっちの方が果《は》てしなくスミマセンな感じである。
と、そこで第四|波《ぱ》。
背後《はいご》から強い圧迫《あっぱく》を受け、それに押《お》されて春香の背中《せなか》に回していた腕《うで》にも力が入ってしまった。
「あっ、や……」
「わ、悪い!」
春香の唇《くちびる》から漏《も》れ凌小さな声に、反射的《はんしゃてき》に腕を離《はな》そうとするものの、後ろから加えられるもっそりとした圧迫感の前にはそれもままならない。うう、どうすりゃいいんだ。
何とかすべく脱皮《だっぴ》直前のツクツクボウシのようにもがいていると。
「だ、だいじょぶですから……」
腕の中の春香が、そう俺を見上げた。
「え?」
「わ、私ならだいじょぶです。今のは急だったのでびっくりしただけで、ぜ、全然《ぜんぜん》苦しくなんてありませんから」
こんな超満員の電車、お嬢《じょう》様な春香にはおそらく初めての経験に違《ちが》いない(というか俺ですら初めてだし)。本当は苦しくないわけがないのに、健気《けなげ》にえへへと笑う。
「春香……」
その笑顔《えがお》に、何だか強心剤《きょうしんざい》でも打たれたかのように胸《むね》が苦しくなった。本来ならば弱めなければいけないところなのに、思わず腕にこもる力が強くなってしまう。
「ゆ、裕人《ゆうと》さん?」
最初は驚《おどろ》いたような顔をしていた春香だったが、すぐに何やらうなずくと「えいっ」と小さく声を発して、俺の胸にぎゅっと抱《だ》きついてきた。
柔《やわ》らかい感触《かんしょく》。ふわりと漂《ただよ》う甘い香《かお》り。
腕の中にはすっぽりと収《おさ》まるように春香の身体。
あー、なんかもうどうでもよくなってきた。
春香とずっとこのままでいられるんなら、こんな超満貝電車もそれはそれでいいかもしれん……などと思いかけた時。
突如《とつじよ》、周囲《しゅうい》を覆《おお》っていた圧迫感が消えた。
『大崎《おおさき》ー、大崎ー、お降《お》りの方は急がずに落ち着いてお降りください』
いつの間《ま》にか、終点(乗換《のりかえ》駅)に着いていたらしい。
「あ――、す、すまん!」
はっと我に返り、春香《はるか》の身体から腕を離《はな》した。
「あ、い、いいえ、こちらこそっ」
いや……俺は何をやってんだ? いくら何だって電車の中でいきなり抱きしめるなんて……。
夏こみ♂場のどこか高揚《こうよう》した雰囲気《ふんいき》に当てられた――ってのは言《い》い訳《わけ》にしかならんよな、たぶん。
「……」
「……」
二人して黙《だま》り込《こ》んでしまう。周囲《しゅうい》の声や電車の音が、やたらと大きく耳に響《ひび》いた。
「で、でも……」
やがて、春香が口を開いた。
「でも私……イヤじゃなかったですよ」
「え……」
「さ、さっきみたいなのも、「さ、さっきみたいなのも、裕人《ゆうと》さんならイヤじゃないです。というより、むしろちょっとだけ――」
恥《は》ずかしがるように言葉《ことば》を切り。
「ちょっとだけ――ドキドキしたりもしました」
そんなことを、言ってくれたのだった。
その時の春香のはにかんだ顔は、今まで見た中で一番かわいくて。
何だか、少しだけ幸せな気分になった。
こうして、その行動の八割に混雑《こんざつ》という二文字が伴《ともな》った夏こみ≠ヘ、最後に俺にちょっとした幸福をもたらして、終わりを告《つ》げたのだった。
最寄《もよ》り駅まで春香を送り(自宅まで送ろうとも思ったが、春香がここまででいいと言ってきかなかった)、さて我が家へと帰るかというところで。
「あれ、偶然《ぐうぜん》だね、おに〜さん」
「こんばんはです〜」
見計《みはか》らったかのように声をかけられた。
迎えてくれたのは、ちんまいツインテール娘とにこにこメイドさんの二人だった。
「こんなところで何やってるのかな〜? あ、もしかしてお姉ちゃんとデートしたその帰りとか?」
「あらら、青春ですね〜」
白々しくもそんなことを訊《き》いてくる二人を、俺は思いっきりジト目で見てやった。
「あ、あれ、おに〜さん、なんか目がコワイよ〜。どしたのー?」
「狂犬病《きょうけんびょう》にかかったワンちゃんの目ですね〜」
「……二人とも、今日一日ごくろうさん」
皮肉《ひにく》も込めてそう言うと、
「え? な、なんのこと? 分かる、那波《ななみ》さん?」
「いえ〜、さっぱりです〜」
二人はあからさまに目をクロールさせた。この期に及《およ》んでまだしらばっくれる気か?
「――え〜と」
やがて美夏《みか》がバツの悪そうな顔で俺を見上げた。
「やっぱり……バレてる?」
「……あれでバレてないとでも?」
そう思ってるんなら逆《ぎゃく》の意味で大したもんである。
「や、それは〜」
「う〜ん、一度、思いっきり目が合っちゃいましたからね〜」
苦笑《にがわら》いをして、美夏と那波さんは顔を見合わせた。どうやらようやく観念《かんねん》したらしい。
「……で、いちおう何か申し開きがあれば聞くが」
「あ〜、うん」
美夏が何やら微妙《びみょう》な顔になった。「ちょっと――気になることがあってさ」
「気になること?」
全く期待《きたい》してなかったが、どうやらいちおう理由《りゆう》があるようだ。
「あ、もちろんおに〜さんがどれだけうまくお姉ちゃんをエスコートできるかにも興味《きょうみ》シンシンだったんだけどね」
「……」
「ん〜、今回はまあまあだったかな。ちゃんとお姉ちゃんと手もつなげたみたいだし。ま、わたし的にはもう少し進んでくれてもよかったと思うけど〜」
「そうですね〜。せめて腕《うで》を組むくらいはしてほしかったところです。最低限[#「最低限」に傍点]として〜」
「……」
「ああゆうイベントとかだと気持ちが盛《も》り上《あ》がるから、もっとが〜っといっちゃってもお姉ちゃん、きっとイヤがったりしなかったのにな〜」
「吊《つ》り橋《ばし》効果《こうか》ってやつですね〜」
きゃっきゃっと盛り上がる二人。また勝手なことを……
「――で、気になることって?」
とりあえず、この二人にそういう話をさせておくとどこまでも長くなるのは分かりきっていたため、さっさと話を本題に戻《もど》すことにした。
「ん? あ、そっか」
不思議《ふしぎ》そうな顔をした後、美夏《みか》が真剣《しんけん》な表情に戻《もど》った。一瞬忘《わす》れてやがったな……
「え〜と、たぶんわたしの気のせいだと思うんだけど………おに〜さん、今日|怪《あや》しいヤツに尾行《つけ》られたりしなかった? SPみたいなのとか、やたらとゴツイ男とか」
「いや、美夏たち以外に特には……」
見なかったと思う。まあ怪しいというか、普段《ふだん》だったらお目にかかれないような格好《かっこう》をした人たちならたくさん見かけたため、断言《だんげん》はできないが。
美夏が何かを考え込む。
「……そ〜だよね。いくらなんでもそこまでしないか。でもあのお父さんだしな〜」
「……お父さん?」
なんか不吉《ふきつ》な単語が出て来た。お父さんって……先日会ったばかりの、あのマフィアのボスみたいなあの人のことだよな?
「ん〜……」
小さくうなる美夏。
「――ま、いいや。いまんとこは、とりあえず気にしないでおいて」
「何だよ、それ」
そこまで そこまで振《ふ》っておいて気にするなと言われても。
撫然《ぶぜん》とする俺に美夏はちっちっと指を動かして。
「いいからいいから。細《こま》かいこと気にする男はモテないんだぞ〜。男の子なら、出荷《しゅっか》直前の北京《ぺキン》ダックみたいにどっしりと構《かま》えてなきゃ」
「……」
どういう例《たと》えだ。
「それより、もうお家に帰るんだよね?良かったら送っていこ〜か?」
「お車、回しますよ〜」
那波《ななみ》さんがハンドルを握《にぎ》るジェスチャーをしながらにっこりと笑う。何だかあからさまに話を逸《そ》らされたような気もするが……まあ、いいか。
「いや、大丈夫《だいじょうぶ》。歩いて帰るから」
ここからなら電車ですぐだし、途中《とちゅう》でルコの夕食の材料も買ってかないとならないことから、申し出を辞退《じたい》した。
「そっか。んじゃおに〜さん、またね」
「再見《ツァイツィエン》です〜」
二入はそう言って(なぜか那波さんは中国語)、去っていった。
その背中《せなか》をしばらく見送り、俺も駅の改札《かいさつ》へと足を向けた。
ま、美夏《みか》の言ってたお父さんうんぬんが少し気になったが、これで今回も一件落着《いっけんらくちゃく》だろう。
にしても今回はけっこう疲《つか》れた。あとは家に帰ってルコの夕食を作ったら、今日はもうゆっくりと休むことにしよう――
――と思ったのだが。
そうもうまくいかないのが、どうやら人生ってもんらしい、
近所のスーパーで入十円引きの鶏肉《とりにく》を買って帰宅《きたく》するや否《いな》や、まるで俺を待《ま》ち構《かま》えていたかのように、玄関口《げんかんぐち》に置いてある電話が鳴《な》った。
「もしもし――」
「おに〜さん!?」
受話器の向こうから響《ひび》いてきたのは、ついさっきに別れたばかりの元気娘の声。
「美夏?」
「おに〜さん、大変なの! お姉ちゃんが、お姉ちゃんが……」
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――まさか、こんなことになるなんてな。
俺は自宅の台所で一人、深いため息《いき》を吐《つ》いていた。
手元にあるのは、帰りがけに買ってきたニンジンと大根《だいこん》。朝取れ新鮮《しんせん》・泥《どろ》付きだというそれらの皮を剥《む》き、包丁《ほうちょう》で半月型に切り分けていきながらも、俺の心は別の場所にあった。
「ふう……」
いったい、どうしたらいいんだろうか。
今、自分の置かれている状況《じょうきょう》に理解《りかい》がついていかない。いや頭では理解しているんだが、感情の方がそれについてこないっていう、アンバランスな状態《じょうたい》である。
八十円引きだった鶏肉《とりにく》を適当《てきとう》に切り分けて、鍋《なべ》の中へと落としていく。
とりあえず、今の俺にできることといったらこれくらいしかない。状況|好転《こうてん》のための手段《しゅだん》ではなくあくまで現状維持《げんじょういじ》のための手段であるが、それでも何もやらないよりはマシだ。
それに今は何かをやっていた方が、余計《よけい》なことを考えなくてすむ。
あらかじめ刻《きざ》んでおいたネギを加え鍋にブタをすると、俺はガス台の栓《せん》をひねった。
ぼっ、という音とともに、青い炎《ほのお》が視界《しかい》に入り込んでくる。
ゆらゆらとフラダンスのように揺《ゆ》れる炎。
それをぼーっと眺《なが》めていると、浮《う》かんでくるのはやはりさっきのことだった。
『お姉ちゃんが、お姉ちゃんが大変《たいへん》なの!!』
美夏《みか》からかかってきた電話。
その第一声がそれだった。
『お姉ちゃんが、お姉ちゃんが……』
美夏の声は、聞いたことがないほど取り乱したものだった。
――まさか、春香《はるか》があんなことになるなんて。
春香に起きた出来事《できごと》、そしてそれが派生《はせい》して生じた現状。
こんなことなら、あの時にちゃんと屋敷《やしき》まで送って行ってやるべきだったか。いや、だとしても結果《けっか》が変わっていたとは思えない。たとえその場に俺がいたとしても、きっと何もできなかっただろう。ただおろおろと、事態《じたい》の推移《すいい》を見守るだけだったはずだ。
「はあ……」
再《ふたた》びため息が漏《も》れる。我ながら役に立たないことこの上ないな。
まあしかし。
いつまでも起きたことを後悔《こうかい》ばかりしていても始まらない。過去《かこ》を悔《く》やんでも現状は何も変
わらないことから、『後悔《こうかい》先に立たず』ってコトワザもあるわけだしな。
とにかく、今俺がやるべきことは目の前の鍋《なべ》を完成させることだ。
そう頭を切り替え、味付けをすべく棚《たな》からダシと醤油《しょうゆ》とみりんを出そうとして。
「おい裕人《ゆうと》、まだできないのか?」
居間《いま》の方からルコの声が飛んできた。
「いいかげん待ちくたびれた。早くしろ。皆も待っている。何をそんなに手間取《てまど》っているんだ」
微妙《びみょう》に酒気《しゅき》を帯《お》びたその声にげんなりする。もう飲んでやがるな……。
「たかが鍋ごとき、材料を切ってひとまとめにして煮《に》ればおしまいだろう。とっととやれ。客人を待たせるな」
「ごときって……」
そのごとき≠熏れない人間に偉《えら》そうなことを言われたくない。
「お腹空《なかす》いた〜、裕く〜ん、早く早く〜」
加えてどこぞの音楽教師(こっちもすでに酒気帯びだろう)までもが騒《さわ》ぎ出《だ》す。はあ……
「……だからちょっと待ってください。まだ煮立ってないんで」
「え〜、裕くん、使えないな〜」
「いいから今から三分で煮立たせろ。言《い》い訳《わけ》は聞かん。やる気と気合があれば鍋も沸《わ》くはずだ。分かったか?」
「……」
……プチ酔《よ》っ払《ぱら》いどもが勝手なことを。
心の中で盛大《せいだい》に文句《もんく》を言いつつ(実際《じっさい》に口に出すとまず間違《まちが》いなく蹴《け》貯れるため)、お玉で鍋をかき回していると。
「……よろしければ、何かお手伝《てつだ》いをいたしますが」
背後《はいご》から声をかけられた。
いつの間《ま》にか、無ロメイド長さんが台所の入り口に立っていた。
「葉月《はづき》さんーあ、いえ、大丈夫《だいじょうぶ》です」
特に困《こま》っていることもなかったのでそう答える。それにこの人も今はお客さんだ。台所仕事なんかをやらせるわけにもいかない。
「葉月さんも、座《すわ》って待っててください」
「――しかし、いかに裕人様のお宅とはいえ、メイドたる私が何もせずにいるのは……」
手持《ても》ち無沙汰《ぶさた》な葉月さんは何だか居心地《いごこち》が悪そうだった。ううむ、何かをしていないと落ち着かない、職業病みたいなもんか?
「どんなことでも結構《けっこう》です。何かありましたら……」
神妙《しんみょう》な顔をして迫《せま》ってくる葉月さん。
うーむ。そこまで言われると、頼《たの》まない方が悪いような気がしてきた。
「あー、それじゃ、これ持っていってもらえますか?」
「はい。お任《まか》せください」
ツマミ用に作ったほうれん草のゴマ和《あ》えの運搬《うんぱん》を頼《たの》むと、葉月《はづき》さんは即座《そくざ》に動き始めた。どことなく嬉《うれ》しそうですらある。本当に生粋《きっすい》のメイドさんだ、この人。
「ほら、三分|経《た》ったぞ。ツマミはいいから早く鍋《なべ》本体を持ってこい」
「お腹空《なかす》いた〜」
居間《いま》から再《ふたた》び催促《さいそく》の声。あー、もうやかましい。こうなったらまだ半煮《はんに》えだが持っていっちまおう。構《かま》うもんか。死にはしないだろ、たぶん。
ガス台|脇《わき》にかけてあった鍋つかみを引《ひ》っ掴《つか》み、微妙《びみょう》に沸騰《ふっとう》しきっていない鍋に手をかける。
居間に入ると真っ先に目に入ってきたのは、天井《てんじょう》から釣《つ》り下《さ》げられた垂《た》れ幕《まく》だった。
そこにはでっかい字で『祝 初めてのお泊《と》まり♪』(おそらく由香里《ゆかり》さん作)と書かれている。
「……」
その下にはソファでふんぞり返るルコ、なんかもう脱ぎ始《はじ》めてる由香里さん、無言《むごん》で皿を並《なら》べている葉月さん、そして……
「あ、裕人《ゆうと》さん、お疲《つか》れさまです」
申《もう》し訳《わけ》なさそうな笑《え》みを浮《う》かべる、春香[#「春香」に傍点](プロ上がりでぽかぽか)の姿《すがた》があった。
……いや。
ほんと、なんだってこんなことになってるんだろうね。
「おに〜さん、大変なの! お姉ちゃんが――家出しちゃった!」
大変なの! を十三回ほど連呼《れんこ》した後に、受話器の向こうで美夏《みか》がそう叫んだ。
「イエデ?」
一瞬《いっしゅん》美夏が何言ってるんだか分からず、そんなアホな答えを返してしまった。
「だから家出だってば! 家を出ること! ラン・アウェイ・フロム・ホーム! いきなり家を飛び出していっちゃったの!」
美夏が声を張《は》り上《あ》げる。
それでようやく状況《じょうきょう》が掴《つか》めてきた。
「つまり……春香《はるか》が家出したってことか?」
「だからさっきからそうゆってるじゃん!」
再度《さいど》大声を上げる美夏。
「あ、ああ。そうだな」
「もう、しっかりしてよおに〜さん!」
「悪い……」
謝《あやま》る。でも。
「家出って、何でまた突然《とつぜん》そんな……」
「それは……」
俺の言葉《ことば》に、美夏《みか》が微妙《びみょう》に言《い》い淀《よど》んだ。何だ、何か言《い》い辛《づら》いことがあったのか?
「――あのね、お姉ちゃんお父さんとケンカしちゃったみたいなの。原因《げんいん》はたぶん……今日の、何だっけ、夏こみ=H に行ったのが、お父さんにバレたことだと思う」
「え……」
……あのお父様に?
「わたしにもよく分かんないんだよ。おに〜さんとさよならしたあの後、ウチに帰ったらもうお父さんとお姉ちゃんが何かを言い合ってて――」
美夏がぐすっとすすり上げる音が聞こえてきた。
「だいたいお父さんに何かを言い返すお姉ちゃんを見るのも初めてだったから、わたしたちもどうしたらいいか分かんなくて……そうしたらお姉ちゃん、そのまま出て行っちゃった。お父さんは何も言わなかったけど、床《ゆか》にカラフルなポスターとか本とかが散乱《さんらん》してたから、たぶんそうだと思う」
それは……まあ確実にそうだろう。状況証拠《じょうきょうしょうこ》から考えるに。
「どうしよう……葉月《はづき》さんが後を追《お》ったんだけど、まだ見つかってないみたいなの……。わたし、もうどうしたらいいか――」
「美夏……」
受話器の向こうから聞こえる美夏の声は、それまで聞いたことがないほど不安げだった。うーむ、何だかんだいってもまだまだ子供(十四歳)ってことか。
「大丈夫《だいじょうぶ》だ」
俺はできるだけ優しい口調《くちょう》で言った。
「きっと大丈夫だ。葉月さんも探《さが》よしてるんだし、春香だって子供じゃない。そうそう心配《しんぱい》するような事態《じたい》にはならないさ」
「お、おに〜さん……」
「な、だから落ち着けって」
「で、でも、お姉ちゃんの世間知《せけんし》らずは幼稚園児|並《な》みだよ。おに〜さんも知ってるでしょ?」
「……」
妹(十四歳)に幼稚園児並みと明言《めいげん》される姉(十六歳)。いや確かにそれは全く否定《ひてい》できんのだけどさ。
「――とにかく、今から俺も探しに出るから」
「え、ほ、ほんとっ?」
「ああ。どのみち、放《ほう》っておくわけにはいかないだろ」
美夏《みか》が言うみたいにそんなすぐさま心配《しんぱい》するような状況《じょうきょう》に陥《おちい》るとまでは思えんし、あの高性能《こうせいのう》メイドさんがすでに探《さが》しているのなら俺が出る幕《まく》なんてないのかもしれないが、それでもただ家でじっとしているのは落ち着かない。
「だからどこか春香《はるか》の行きそうな場所に心当たりは――」
とその時だった。
カタリ。
玄関《げんかん》ドアの向こうで何やら人の気配《けはい》がしたような気がした。
まさか
それはもうほとんど直感だった。
「美夏、悪い。後でまた連絡する!」
「え、ちょっと、おに〜さ――」
美夏の言葉《ことば》を待たず放《ほう》り投《な》げるように受話器を置いて、ダッシュでドアを開けると――
「あ……」
そこには、迷子《まいこ》の仔犬《こいぬ》のように玄関前をうろうろしている春香の姿《すがた》があった。「あ、あの、これはその……」
慌《あわ》てた表情を浮《う》かべる春香の格好《かっこう》は、つい一時間前に別れた時のままだった。本当にそのまま飛び出してきたんだな。
「その、私、私、あ、あの……」
しどろもどろになりながら何かを言おうとする春香。だけどうまく言葉にならないらしい。
なので、俺の方から言った。
「――あー、ムリしなくていい」
「え……?」
「何ていうか、だいたいの事情《じじょう》は美夏から電話で聞いて分かってる。だから、今はムリして言わなくてもいい」
「あ……」
途端《とたん》に、春香の目からぽろぽろと涙《なみだ》がこぼれた。
「ご、ごめんなさい……わ、私、気付いたら家を飛び出していて、そ、それで前にクラス名簿《めいぼ》でで裕人《ゆうと》さんの住所を見たのを覚《おぼ》てて――」
「あー、だからいい、いいってのに」
しゃくりあげる春香の肩《かた》に手を置いた。「いいから、泣《な》くな」
「ゆ、裕人さん……」
俺の胸《ひね》にしがみついて、春香がわんわん泣き出した。甘い香《かお》りと柔《やわ》らかい感触《かんしょく》。だけど不思議《ふしぎ》と不謹慎《ふきんしん》な気持ちにはならなかった。……まあ、さすがに事情《じじょう》が事情だしな。
震《ふる》える春香《はるか》の背中《せなか》を撫《な》でてやる。
ご近所に見られたら確実に何か大きな誤解《ごかい》(「聞きまして奥様、綾瀬《あやせ》さんとこの裕人《ゆうと》くんが玄関先《げんかんさき》で女の子を泣《な》かしてたんですって」「まあ、初耳《はつみみ》」「大人しそうな顔してやりますわね!」「わたくしたちも気を付けませんと」「目が合ったら妊娠《にんしん》させられますわよ」)を招《まね》きそうな光景だったが、この際《さい》そんなことはどうでもいい。
そのままどれくらい経ったか。
「――夏こみ≠ノ行ったのが、知られてしまったんです」
やがて、胸《むね》の中の春香がぽつりとつぶやいた。
「どうしてだかは分かりません。だけどお屋敷《やしき》に戻《もど》ったらお父様が怖《こわ》い顔で待っていて……『今日、だれとどこへ行っていた?』と訊《き》かれました。私、とっさには答えられなくて……黙《だま》っていたら、買ってきた紙袋を強引《ごういん》に取り上げられてしまいました。中身を見るとお父様の顔色が変わって――」
「……」
あの『ドジっ娘《こ》アキちゃん』やら『ダメっ娘《こ》メグちゃん』やらのアレを見られたのか…… そりゃ、何の予備知識《よびちしき》もない親なら顔色も変わるかもしれん……が。
「……そのまま、床《ゆか》に叩《たた》きつけたんです。今日買ってきた本を、CDを、ポスターを全て、思い切り……。まるでゴミでも扱《あつか》うみたいに――ぐすっ」
よっぽど悲しかったんだろう、その時のことを思い出したのか、春香の声にまたじんわりと湿《しめ》り気《け》が混《ま》じり始《はじ》めた。
「でも、でもそれだけじゃないんです」
「え?」
まだあるのか。
「それだけでなく……裕人さんのことも――」
「俺のこと?」
「……はい。『今のお前はあの男に騙《だま》されているだけだ。何だ、この下劣《げれつ》で低俗《ていそく》な駄本《だほん》と俗書《ぞくしょ》の類《たぐい》は。見るに耐《に》えん。…………おのれ、こんな訳《わけ》の分からん趣味《しゅみ》に春香を引きずり込むとは――あのクサレ外道《げどう》が!』って……」
「……」
……いや、クサレ外道って。
「他にも……ひどいことばかりを、いっぱい、いっぱい口にしていました。……私、私のことは何て言われてもいいです。それだけなら、まだガマンできます。でも、せっかくみなさんが夏こみ≠ノ向けて一生懸命《いっしょうけんめい》に作った本のことや、今日私に付いてきてくださった裕人さんのことを悪く言うのだけは許《ゆる》せなくて、それで……」
春香《はるか》が、ぎゅっと俺の嚴を握《にぎ》る。
「……気付いたら家を飛び出していました――。だけど飛び出してはみたものの、行くところも頼《たよ》る人も他にいなくて、私――」
「……」
「ご、ごめんなさい……いきなり押《お》しかけてきてこんなことを言って、迷惑《めいわく》なのは分かっているんですけど、でも……」
「春香…………」
なるほど。
美夏《みか》から聞いただけじゃいまいち分からんところもあったが、これでほぼ完全に事情《じじょう》は理解《りかい》できた。確かにそういう話なら、春香が家出してくるのもムリはないとも思える。
ともあれ、いつまでもここで(玄関前《げんかんまえ》)こうしていてもラチがあかないだろう。
「とりあえず、中に入ろう」
さらに詳《くわ》しい話を聞くにも、これからどうするのかについて考えるにも、この場所(玄関前)はあからさまに不適切《ふてきせつ》である。
ゆえに春香を家の中へと招《まね》き入《い》れようとして。
「……やはりここでしたか」
門の辺《あた》りから、聞いたことのある声が響《ひび》いた。
「葉月《はづき》さん……」
見るとそこには、乃木坂家《のぎざかけ》のメイド長さんが一人、影《かげ》のようにひっそりとたたずんでいた。
いや春香はともかくなぜこの人までウチの場所を知ってるのか……って、訊《き》くだけ野暮《やぼ》なんだろうな、きっと。
「春香様……探《さが》しました」
「……私を、連《つ》れ戻《もど》しに来たのですか?」
春香が険《けわ》しい顔になる。
「私……お屋敷《やしき》には戻りません。お父様の言うこと、やっぱり納得《なっとく》できないです。だからお父様が考えを変えるまでは、私、帰りません。たとえ葉月さんの言うことでもこればかりは――」
「……いえ」
だがその言葉《ことば》に、葉月さんは静かに首を横に振《ふ》った。
「それが春香様の意志《いし》だというのなら、私はそれに従《したが》うまでです。春香様が戻りたくないと言われるのなら、ムリにとは申しません」
「え……」
「ただし、春香様をお一人にしておくわけにはいきません。よって私もごいっしょさせていただきますが、それはよろしいですね?」
「それって……」
「私は、春香《はるか》様に仕《つか》える者ですから」
「は、葉月《はづき》さん……」
葉月さんの言葉《ことば》に、春香が再《ふたた》び目をじんわりとさせる。それに葉月さんが優しい眼差《まなざ》しで応《こた》えた。おお、なんかいい光景だ……
「おい、裕人《ゆうと》」
と、そこで家の中から声がした。
「さっきから玄関《げんかん》で何をごちゃごちゃとやっている。近所|迷惑《めいわく》だろうが」
続いて、目の前の感動的シーンをぶち壊《こわ》すかのように、冬眠《とうみん》から覚《き》めたクマのような足取りでルコがのっそりと姿《すがた》を現す。
「よく分からんが、新聞の勧誘員《かんゆういん》か何かなら手刀《しゅとう》でもくれて追《お》い返《かえ》せ。私が許《ゆる》す。そんなことよりハラが減《へ》ったからさっさと食事を――む、そこにいるのはもしかして」
「あ、こ、こんばんは……です」
春香が、ぺこりと頭を下げる。
それを見て、ルコが破顔《はがん》した。
「おお、やはり乃木坂《のぎざか》さんか。久しぶり……というほどでもないな」
「えと、一週間ぶりくらいですね」
「むう、それくらいだな」
楽しそうに笑うルコ。寝起《ねお》き(おそらく)にこんな顔を見せるなんて、やっぱり春香のことはかなり気に入ってるみたいだ。
「――で、そちらは?」
春香の隣《とせり》のメイドさんに目を遣《や》る。
「私は桜坂《さくらざか》葉月と申します。春香様のお傍《そば》に仕えさせていただいている、メイドです」
「おお、そうか。私は綾瀬《あやせ》ルコ。裕人の姉だ」
「ルコ様ですね。よろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくな」
本物のメイドさんを目の前にしても顔色一つ変えずにそう言って笑う姉。やはりこの姉は、何か神経《しんけい》の大事《だいじ》なところが切れているような気がしてならない、
「それで、今日はどうしたんだ? こいつに用でもあって来たのか?」
「え、それは、その……」
春香がうつむく。
「何だ、どうした?」
「あー、それは」
怪誇《けげん》そうな顔になったルコに、俺は事情《じじょう》を簡単《かんたん》に説明した。もちろん春香の秘密《ひみつ》の具体的内容やら俺と春香の関係やらについてはうまく隠《かく》して。
「そうか……」
それを聞いたルコ。二秒ほど何かを考え込む素振《そぶ》りをすると。
「――事情《じじょう》は分かった。ならば今晩はウチに泊《と》まっていくといい。何もないところだが、部屋《へや》はいくつか余《あま》っているからな」
そんなとんでもないことを言い出した。
「ル、ルコ、何を!?」
「何とは?」ルコが首を傾《かし》げる。
「だから、今、何て?」
「特に行く所がないのならウチに泊まっていけと言ったのだが? どうせ両親は仕事で帰ってこないから部屋は空《あ》いている。何か問題でもあるのか? ないだろ?」
さらりと返してくる。
「いや……」
あるだろ。
ルコと葉月《はづき》さんはともかく、仮にも俺と春香《はるか》はお年頃《としごろ》の男女である。そんな俺たちが、いくら二人きりでないとはいえ、同じ屋根の下で一夜を過ごすってのがどういうことか、このバカ姉は分かって言ってんのか?
「別に珍《めずら》しいことではなかろう。いつも由香里《ゆかり》やら信長《のぶなが》やらが泊まりに来ているのだから。それとも何だ、お前はあの二人は良くて乃木坂《のぎざか》さんは駄目《だめ》だと言うのか?」
……たぶん、分かってねえな。
「そうじゃなくて……」
というか、春香を由香里さんや信長と同カテゴリーに置く時点で、根本的《こんぽんてき》に俺たちの認識《にんしき》にはマリアナ海溝並みの深さのズレがあると言わざるを得《え》ない。
「……では何だと言うのだ?言いたいことがあるのならはっきりと言え。奥歯にモノが挟《はき》まったような言い方は気に入らん」
「だからだな……」
「あ、あの……」
おずおずと口を開いたのは春香だった。
「お気持ちは嬉《うれ》しいのですが、やっぱり裕人《ゆうと》さんたちにこれ以上ご迷惑《めいわく》をおかけするのは……」
俺たちの顔を見て、そんなことを言う。
「いや、それはない!」
慌《あわ》てて答える。
「ですが……」
主人の様子《ようす》を窺《うかが》うチワワみたいな顔をする春香。
別に俺だって、春香たちが泊まることがイヤなわけじゃない。ただ春香たちの側《がわ》から考えた場合に、色々と問題があるんじゃないかと思って異議《いぎ》を唱《とな》えてみただけなんだよ。
「とにかく、迷惑《めいわく》ってことはない! それは全然《ぜんぜん》、全く、これっぽっちもないそ! ていうか、むしろ嬉《うれ》しいくらいだ!」
「えっ……」
春香《はるか》が目を丸くする。「え、えと、それって……」
「あ、え……」
あ、あれ、俺、今……最後に何を言った? 思わず本音《ほんね》の方が……?
「――ふむ、決まりだな」
ルコが満足そうに大きくうなずく。
「裕人《ゆうと》、まだ何か言うことがあるか?」
「…………」
あるわけなかった。
「というわけだ。二人とも、心置きなく泊《と》まっていくといい」
「本当に、よろしいのですか……?」
春香が俺の顔を見上げた。
「ああ。春香さえいいなら」
「あ、ありがとうございます! 不束者《ふつつかもの》ですが、どうぞよろしくお願いしますっ」
微妙《びみょう》に間違《まちが》ってる台詞《せりふ》とともに、春香が勢《いきお》いよくがばっと頭を下げる。……まあ、どうにかなる……といいんだが。
「――では、まずは鍋《なべ》だな」
「は?」
アホ姉が、また意味不明なことを言い出した。
「親交《しんこう》を深めるためにはまず鍋だろう。社会の常識《じょうしき》だぞ? そうだな、由香里《ゆかり》も呼《よ》ぼう。どうせなら大勢《おおぜい》の方が楽しい。――まあ乃木坂《のぎざか》さんに、桜坂《さくらざか》さんだったか、中に入ってくれ」
「あ、はい。お邪魔《じゃま》します」
「失礼いたします」
ルコの言葉《ことば》を受けて、春香と葉月《はづき》さんが綾瀬家《あやせけ》の敷居《しきい》をまたぐ。
「というわけだ、裕人、今から鍋を作れ。すぐに作れ。命令だ」
「鍋って……本気なのか?」
この夏の真《ま》っ盛《きか》り、正気《しょうき》の沙汰《さた》とは思えない。
「ああ。この間はお前のせいでカニ鍋を食《た》べ損《そこ》なったからな。とはいえ、今回は急だからカニとは言わん。鍋なら何でもいい。お前ならできるだろう?」
「……」
そりゃできるがさ……
「そうだな、私たちはその間にフロにでも入っておくことにしよう。食前のフロは胃腸《いちょう》の働きを適度《てきど》に活性化《かっせいか》させてくれる。――では裕人《ゆうと》、後は任《まか》せたぞ。さあ行こう、乃木坂《のぎざか》さん、桜坂《さくらざか》さん」
言いたいことだけ言うと、春香《はるか》と葉月《はづき》さんの背中《せなか》を押して、ルコのヤツは洗面所の方へと消えていった。
「……」
……どうやら、もはや俺に拒否権《きょひけん》はないらしい。まあそんなもん、この姉の前では生まれた時からきれいさっぱり存在《そんざい》してないって話もあるが。
かくしていつの間《ま》にか、春香たちの我が家への宿泊《しゅくはく》及びそれに伴《ともな》う歓迎鍋《なべ》パーティーの開催《かいさい》が決定されたのだった。
「はーい、それじゃみなさん、グラスは行き渡りましたか?」
由香里《ゆかり》さん(ルコが呼《よ》んでから僅《わず》か五分でやって来た。ヒマなんだな、この人……)の楽しげな声が、居間《いま》に響《ひび》き渡《わた》る。
「それではこれより、『春香ちゃんとメイドちゃんが綾瀬家《あやせけ》にお泊《と》まりすることになっちゃったパーティー』を行いたいと思います。今日はみんなで飲んで飲んで飲んで騒《さわ》いで騒いで騒いで、日頃《ひごろ》の響憤《うっぷん》を遥《はる》かイスカンダルの彼方《かなた》まで吹き飛ばしちゃいましょう。もちろん無礼講《ぶれいこう》です、セクハラも軽度のものならオッケ〜。イエ〜イ!」
仮にも教育者にあるまじき発言である。……てか、メイドちゃん=H
「それじゃ、春香ちゃんの初めてのお泊まりを祝しまして、かんぱ〜い!」
「うむ、乾杯《かんぱい》」                            .
「か、かんぱいです」
「……(無言《むごん》でグラスを掲《かか》げている)」
「…………乾杯」
打ち合わせられる五つのグラス。
そして宴《うたげ》が始まった。
「は〜い、上代《かみしろ》由香里二十三歳、今から一気しま〜す」
「おお、いけいけ」
半脱《はんぬ》ぎ音楽教師が、一升瓶[#「一升瓶」に傍点]を片手に立ち上がる。牛乳を飲む時のように腰《こし》に片手を当てると、そのままためらくことなくそれに口をつけた。
「……ごきゅ……ごきゅ……」
一升瓶《いっしょうびん》の中身が、みるみるうちに減《へ》っていく。
「ほう、以前よりも速度が上がっているな。新記録か? どこかで特訓《とっくん》でもしていたようだな。――これは私も負けてられん」
その様《ようす》子を見ていたアホ姉も同じように立ち上がると近くにあった一升瓶を引《ひ》っ掴《つか》み、
「……ごつ……ごっ……ごっ……」
やはりラッパ飲み。
「……」
アル中二人は、さっそく飛ばしまくっていた。飛ばしに飛ばしまくっていた。
すでにその一角だけ、なんか近寄りがたい異空間《いくうかん》が形成されている。
ぶはーっと、二人が同時に一升瓶から口を離《はな》した。
中身は当然カラ。
その所要《しょよう》時間、僅《わず》か三十秒だった。
「なかなかやるわね、ルコ」
「ふ、お前もな、由香里《ゆかり》」
空《から》になった一升瓶の傍《かたわ》らで、がしっと腕《うで》を交差《こうき》させる二人。
戦いの後に、何やら友情が生まれていた。
……
…………
とりあえず。
あの区画《くかく》は永久|放置《ほうち》決定ってことで。
「え、えと、裕人《ゆうと》さん、これって……」
暴走《ぼうそう》するアホ姉とその親友を見て、春香《はるか》がエリマキトカゲに初めて遭遇《そうぐう》した生物学者みたいな表情をした。
「あー、アレはだな……」
うーむ、何と説明すべきか。由香里《ゆかり》さんの方はともかく、考えてみれば春香はヤツのいいところ(秘書《ひしょ》モード)しか見てないからな。ヘタなことを言って夢(?)を壊《こわ》すのもしのびない。
ところが。
「――――ステキです」
「…………は?」
「ルコさんってお酒も強いんですね……。うん、やっぱり秘書さんくらいになると、お酒も強くないとダメですものね。そのためには日頃《ひごろ》からの鍛錬《たんれん》を欠かさない……とっても努力家だと思います」
キラキラとした目で、春香はそんなことを言い出した。いや鍛錬って……アレ(快楽的飲酒《かいらくてきいんしゅ》)には欠片《かけら》たりともそんな高尚《こうしょう》な意味合いはないと思うんだが。
「私もいつか、あんな風になりたいと思います」
「……」
……まあ、いいか。
何だか夢見る乙女《おとめ》な今の春香に何を言ってもムダそうだし、それに放っておいてもそのうちヤツの本性《ほんしょう》に気付くだろう。あのアホ姉がいつまでもポロを出さずにいられるわけがない、うむ。
「……あー、それより食おう」
そんなこと(ルコの評価《ひょうか》)よりも、むしろそっちの方が重要《じゅうよう》だった。
あまり煮《に》すぎると肉が固《かた》くなってしまうため、俺はそう提案《ていあん》した。
「そのヘンとか、もういい具合《ぐあい》に煮えてると思うそ」
「あ、じゃあ、裕人さん、よろしければお肉、取りましょうか?」
春香が、小鉢《こばち》片手にそう訊《き》いてきた。
「あ、悪い。んじゃ頼《たの》む」
「はい。ついでに、お野菜とかも取っちゃいますね」
うなずき、どことなく嬉《うれ》しそうに、次々と俺の小鉢に肉やら野菜やらをよそっていく春香。
「春香様、そういった雑事《ざつじ》は私が……」
メイドさんの言葉《ことば》に、しかし春香は首を振《ふ》った。
「いいんです、これくらいはやらせてください。裕人さんにはとってもお世話《せわ》になっていますし、それに……私がやりたいんです」
「ですが……」
何かを言いたそうな葉月《はづき》さんに、春香《はるか》がにっこり笑ってこう付け加えた。
「葉月さんも、たまにはゆっくり休んでください。ここはお屋敷《やしき》じゃないんですし、少しくらい羽を伸ばしてもらってもバチは当たらないと思います。あ、葉月さんの分も取りますね」
「……そこまで言ってくださるのでしたら。分かりました。お願いします」
渋《しぶしぶ》々といった感じに、葉月さんがうなずいた。
やっぱりこの人、常時《じょうじ》働いてないと落ち着かない人のようだ。こういうのもワーカーホリックというんだろうか。あるいはメイドホリック? ……いや、それはなんか意味が違《ちが》うか。
「はい、裕人《ゆうと》さん、どうぞ」
「お、さんきゅ」
「葉月さんも」
「……ありがとうございます」
肉と野菜が均等《きんとう》に盛《も》り付《つ》けられた小鉢《こばち》を俺たちに渡《わた》すと、それから自分の分も盛り付けて、春香がテーブルの前で手を合わせた。
「それでは、いただきます」
「……いただきます」
葉月さんもそれに続く。
そういえばまだ食前の挨拶《あいさつ》すらしてなかったんだっけか。いきなり「カンパイ!」から始めてそのまま一瞬《いっしゅん》にして別世界へと旅立っていったアホどもの印象《いんしょう》があまりにも強すぎて、すっかり忘《わす》れていた。
「あ、このお野菜、美味《おい》しいです」
春香が大根《だいこん》を食べながら言う。
「ああ、なんか無農薬のやつらしい」
「……無農薬」
葉月さんの目がきらんと光った。
「……裕人様、それはどこで買っていらっしゃるのですか?できれば私どもの厨房《ちゅうぼう》にも導入《どうにゅう》したいのでよろしければ教えていただけると  」
どうも、メイドさんとしての血が騒《さわ》ぐらしい。
「そういえば、このお鍋《なべ》って裕人さんが作ったんですよね?」
「ん、まあな。大したもんじゃないが」
料理のスキルは、数ある家事《かじ》の中でもかなり初期に習得《しゅうとく》したものの一つである。……そうしないと、生命にかかわるような家庭|環境《かんきょう》だったってのがその理由《りゆう》だが。
「いいえ、そんなことないです。このお鍋、とっても美味《おい》しいですよ。私、お料理ができる男の人って、すごいと思います」
春香《はるか》の目はきらきらと輝《かがや》いていた。
「そ、そうか?」
「はい。さすが裕人《ゆうと》さんです」
「あ、あー、さんきゅ」
急ごしらえで作った取り立てて特徴《とくちょう》のないただの鶏|鍋《なべ》とはいえ、褒《ほ》められれば悪い気はしない。何となく気恥《きは》ずかしくなって、俺は目の前のメイドさんに視線《しせん》を移した。
「……お婿《むこ》さんに、ぴったりですね」
葉月《はづき》さん、ぼそりと問題発言。
「……」
「? ……何か?」
「いえ……」
この人はほんと、分かってるんだか分かってないんだか……
ともあれ。
そんな感じに、しばらくはのんびりまったりとした夕食|風景《ふうけい》が続いていたのだが。
「うふふ〜、裕く〜ん」
そんな和《なご》やかな雰囲気《ふんいき》も、長くは続かなかった。
「な〜に三人だけでアットホームな雰囲気を作ってるのかな〜でいうか男一人女の子二人の簡易《かんい》ハーレム? ひゅ〜ひゅ〜、私たちも、そっちに混《ま》ぜてよ〜」
「ふむ、少し詰《つ》めてもらえるかな」
二人で一気飲みをするのに飽《あ》きたのか、すでにけっこう出来上《できあ》がった酔《よ》っ払《ぱら》いどもがこちらに加わり始めたことから、状況《じょうきょう》が変わった。
「ねね、私、裕くんに色々と訊《き》きたいことがあったのよね〜」
にじり寄ってきた由香里《ゆかり》さんが、俺と春香の顔を見比べてにやりと笑う。……いや、とてつもなくヤな予感《よかん》がするんですが。
「訊きたいこと、ですか……?」
「ええ、そう。例えば春香ちゃんとのこととか、春香ちゃんとのこととか、春香ちゃんとのこととか〜」
「……」
……やっぱり。
「だって〜、気になるじゃない。ルコに呼《よ》ばれて来てみれば、なぜか春香ちゃんがいるし。まあ事情《じじょう》はだいたい分かったんだけどさー。でもいつの間《ま》にそこまで二人は仲良くなったのか、詳《くわ》しく知りたいなー? ほれほれ、いいから包《つつ》み隠《かく》さず全《すべ》ておねいさんに話してごらんなさい、うふふ♪」
一升瓶《いっしょうびん》をマイク代わりに、ワイドショーの芸能レポーターみたいな笑顔《えがお》で迫《せま》ってくる。
「いや、だから春香《はるか》とは別にそんなんじゃなくて……」
「へー、春香、とか名前で呼《よ》んでるクセに?」
「ぐ……」
相変わらず痛《いた》いとこばかりをついてくる。その鋭《するど》さをもっと別のところで活《い》かせば、今頃《いまごろ》カレシの一人や二人くらいできてるだろうに。
「……だいたい、何で由香里《ゆかり》さんにそんなこと話さなきゃなんないんですか」
「ん〜、だって私はいちおう担任《たんにん》だし!。それにほら、私は裕《ゆう》くんのこと好きだから、興味《きようみ》あるのよね〜」
「……」
「愛してるわよ? うん、ラヴ♪」
「……」
この人は真顔《まがお》でウソを吐《つ》きまくるからタチが悪い。ったく、そんなトンデモ話、いったいだれが信じるってんだ――
「おお、由香里、そうだったのか?」
「えと……らぶ?」
「裕人《ゆうと》様、年上殺しですね」
「…………」
――三分の二が信じたみたいだった。
というか残りの一人(春香である)は、信じる信じない以前に、由香里さんの話の内容《ないよう》を理解《りかい》してないようだし(天然《てんねん》)。
「とにかくー、裕くんは春香ちゃんのこと、どう思ってるの〜?」
さらにしつこく由香里さんが迫《せま》ってくる。
「だから、春香とはただのクラスメイトだって――」
「ただの……クラスメイト」
と、なんか微妙《びみょう》に悲しそうな顔をしている春香が目に入った。「ただの……クラスメイト」
そんな、二回も言わんでも。
「……う、いや、ただのってことはないが……」
「じゃあ何なの? やっぱ特別ってこと〜?」
「ふむ、それは私も興味があるな」
「……同意します」
ルコが楽しそうに口元を上げ、葉月《はづき》さんがじいっと真《ま》っ直《す》ぐに視線《しせん》を送ってくる。
「さあ、大人しく吐《は》いちゃいなさいな、ラクになれるわよ〜」
「由香里が義妹《ぎまい》になるのと乃木坂《のざざか》さんが義妹になるのとでは、エリシュオンとタルタロスほどの差があるしな」
「……私には、春香《はるか》様のメイドとして裕人《ゆうと》様の気持ちを知る義務《ぎむ》があります。ええ、けして下世話《げせわ》な好奇心《こうきしん》などからではありません」
目をギラギラと輝《かがや》かせながら顔を寄《よ》せてくる年長三人組。
おまけに。
「……(どきどき)」
テーブルの向かいでは、春香までもがエサを待つ小鳥みたいな期待《きたい》に満《み》ちた目でちらちらとこっちを見上げていた。
……どうやらこの場に俺の味方《みかた》はいないらしい。
「うう……」
じりじりと、周《まわ》りを女四人に追《お》い詰《つ》められていく。……まずい、このままだと流されるままにあることないこと吐《は》かされそうだ。何とか話を逸《そ》らせないもんか……
必死《ひっし》に逃《に》げ道《みち》を探《きが》していると。
じりんじりんじりん。
廊《ろうか》下で、電話(レトロ音)が鳴《な》っているのが聞こえた。
「あー、ちょっと俺、電話に出てきます」
地獄《じごく》に仏、救《すく》いの女神《めがみ》とはまさにこのことである。この機会《きかい》を逃《のが》さず、俺はサバンナでライオンから逃げるインパラのごとき速さで席を立った。
「あ〜、逃げた」
由香里《ゆかり》さんが不満《ふまん》そうな声を上げる。
「むう、敵前逃亡《てきぜんとうぼう》は銃殺刑《じゅうさつけい》だぞ」
「……電気イス(ぽそっ)」
……その後に続いた果《は》てしなくコワイ言葉《ことば》(fromルコ&葉月《はづき》さん)は、とりあえず聞かなかったことにしよう。
「はい、もしもし――」
「おに〜さん!」
受話器を耳に当てると、いきなり飛び込んできたのは、耳に響《ひび》くでっかい声。
「もしもし、もしもし、聞こえてる、おに〜さん!」
「あ、ああ、美夏《みか》か。そんな大きな声でどうしたんだ?」
救いの女神は、ちんまいツインテール娘だった。
「どうした、じゃないよ! さっきはいきなり電話切っちゃって、後でかけ直すとか言ったきり全然連絡よこさないし、心配《しんぱい》してたんだから!」
「あ――」
そういえばそうだったか。色々と事態《じたい》が急展開《きゅうてんかい》(春香《はるか》がやって来たり葉月《はづき》さんが追《お》いかけてきたり鍋《なべ》を作ることになったり)だったんで、すっかり忘《わす》れてたな。
「あー、悪い。こっちも色々忙《いそが》しくて……」
「そんな言《い》い訳《わけ》はどうでもいいからっ! それより、お姉ちゃんはどうなったの!? 何か手がかりは見つかったの!?」
受話器の向こうで美夏《みか》がまくしたてる。
「あ、ああ、実はな――」
美夏にこれまでの 美夏にこれまでの経緯《けいい》を一通り説明すると。
「……見つかったんだ、お姉ちゃん。良かった……」
心からほっとしたような声が受話器の向こうから漏《も》れた。本当に春香のことを心配してたんだな。連絡が遅《おそ》くなってちょっと悪いことをしたか。
「で、お姉ちゃん、これからどうするつもりだって?」
「それなんだが……とりあえず今晩はウチに泊《と》まっていくことになると思う」
先のことは分かちんが、おそらくそれはもう確定事項《かくていじこう》だろう。
「そっか。ん、分かった。それならこっちの方はうまくゴマかしとくから。おに〜さんのとこにいるなら安心だしね。あ、でも――」
「?」
「こうゆうのってどうなんだろ? 年頃《としごろ》の男と女が一つ屋根の下って、もしかしたらそっちの方がずっと危《あぶ》なかったりして?」
「あのな……」
「プチ同棲《どうせい》? 一気にお義兄《にい》さん? てゆ〜かパパ? きゃっ♪」
「……」
……どういう飛躍《ひやく》だでか言ってることのレベルが由香里《ゆかり》さんと変わらない。いやこの場合、由香里さんのレベルが美夏と変わらないと言うべきなのか。
俺が黙《だま》っていると。
「な〜んて、あはは、じょ〜だんじょ〜だん」
美夏が笑いながらそう言った。どうやら軽口《かるくち》を叩《たた》けるくらいには元気になったようだ。まあ、沈《しず》んでるよりはこっちの方が美夏らしくていい――
「あ、でも半分くらいは本気かな。だって何だかんだで、おに〜さんも|男の子《ケダモノ》だし」
――かどうかは、微妙《びみょう》だな。いや、かなり。
「……はあ。他に話がないならこれで切るぞ」
一気に疲《つか》れた気分《きぶん》になりそう言うと。
「あ、ちょい待って、こっちも色々分かったことがあるから」
美夏《みか》が真面目《まじめ》な声になって。
「あのね、那波《ななみ》さんにも助けてもらって、あれからちょっと調べてみたの。何でお父さんが夏こみ≠フことを知ってたのか、どうしても夏こみ≠フことを知ってたのか、どうしても腑《ふ》に落ちなかったから。――――お父さん、やっぱ密偵《みってい》を放《はな》ってたみたい」
いきなりそんなことを告《つ》げてきた。
「み、みってい?」
「うん、密偵」
この平和な現代日本では聞《き》き慣《な》れない、というか聞き慣れたくもない言葉《ことば》である。
「えっとね、お父さん直属《ちょくぞく》の黒服軍団で、黒犬《ヘルハウンド》≠チてゆうの。わたしもよくは知らないんだけど、そういう人たちがいるみたい。で、たぶん、あのコンクールの後あたりからお姉ちゃんの周《まわ》りを調べさせてたんだと思う」
てことは一週間くらい前からか。しかし世の中には、探偵《たんてい》とかを使って自分の娘の素行調査《そこうちょうさ》をする父親もいるとは聞くが、まさか直属の密偵≠ニはね。相変わらず乃木坂家《のぎざかけ》はやることのスケールが違《ちが》う……って、そこに納得《なっとく》してる場合でもないな。
「けど、親父《おやじ》さん、何だってそんなことを……」
「ん〜、たぶん、おに〜さんと会ったからじゃないかな?」
美夏がさらりと原因《げんいん》をそう評《ひょう》した。……俺?
「今までお姉ちゃんがコンクールに男の人を呼《よ》ぶことなんて一回もなかったからさ。それで気になったってのは十分に考えられるよ。ま、もともとお姉ちゃんの趣味《しゅみ》のことも薄々《うすうす》は疑《うたが》ってたみたいだからね。これ幸《さいわ》いと二つとも潰《つぶ》しにかかったんだと思う」
「つ、潰しにって……」
……潰されるのか、俺。
何となく、インドゾウに踏《ふ》み潰されるアリの図(もちろんアリが俺な)を思《おも》い浮《う》かべてしまった。……てかそんなジェノサイド寸前《すんぜん》な状況《じじょうきょう》で、俺はこれからどうすべきなんだ?
「――ん〜、とりあえず、二十三時間かな」
受話器を握《にぎ》ると、美夏が突然《とつぜん》そんなことを言った。
「おに〜さん、とりあえず二十三時間だけ、時間|稼《かせ》げる?」
「………どういうことだ?」
「んー、まあ簡単《かんたん》に言えば、今から二十三時間、明日の夜くらいまでお姉ちゃんたちをそっちでかくまっておいてほしいってことなんだけど。だいじょぶ?」
「それは平気だと思うが……」
どうせ今晩はウチに泊《と》まっていくことが決定している。その期間《きかん》が明日の夜まで延《の》びるくらい、大した問題じゃない。
ただ、その二十三時間(半端《はんぱ》)を稼ぐことが果《は》たして何を意味するのか、俺にはさっぱり分からなかったりする、
「明日になればね、強力な援軍《えんぐん》が到着《とうちやく》する予定なの」
美夏《みか》が言った。
「……援軍?」
「そ、超強力な無敵《むてき》の最終兵器。だけど明日の何時|頃《ごろ》に到着するかはちょっと不確定《ふかくてい》だから、余裕《よゆう》を見て夜までかくまっててもらえば助かるかな〜って」
なるほど、そういうわけか。だが。
「……最終兵器?」
って、なんなんだ? あの大魔神《だいまじん》みたいな春香《はるか》のお父様に対抗《たいこう》できるモノなんて、とてもこの世に存在《そんざい》するとは思えんのだが……
「ん、それはヒ・ミ・ツ♪」
受話器の向こうで、美夏がそうイタズラっぼく笑った。
「でもアテにしてていいよ。効果《こうか》のほどは保証《ほしょう》するから」
「……」
いまいち不安だが、どのみち、俺にはその援軍とやらをアテにするしかない。潰《つぶ》されんためにも。
「じゃ、そうゆうことで。こっちもこっちで色々とやっとかないといけないことがあるから、もう切るね」
「ああ、またな」
「ん、ばいば〜い」
受話器を置こうとして。
「あ、そだ、おに〜さん」
「ん?」
「初めての夜なんだから、ちゃんとお姉ちゃんに優しくしてあげてね♪」
「……」
「……」
「……美夏」
「なーに?」
「……耳年増《みみどしま》」
それだけ言って、俺は受話器を置いた。
さて、居間《いま》に戻《もど》るとまたさっきみたいな尋問《じんもん》が待っているのかと思うとかなり気が進まなかったのだが、さりとてあの中に春香を残しこのまま自室へと引きこもるわけにもいかなかったので、覚悟《さと》って、酔《よ》っ払《ばら》い二人とメイド長さんが待つ居間《いま》へと戻《もど》ったところ。
「く〜……く〜……」
「……ぐぅ……」
「…………」
「……す〜、す〜……」
居間は真っ暗になっていた。
ていうか、みんな寝《ね》ていた。
「……」
なんだか微妙《びみょう》に取り残された気分だった。「……何も四人全員で寝なくても」
「私は、起きていますが」
「うおっー!?」
いきなり声がした。
「は、葉月《はづき》さん……?」
「それと、正確には眠《ねむ》っているのは春香《はるか》様お一人です。あとのお二人は、アルコールの過剰摂取《かじょうせっしゅ》で意識《いしき》を失っているという表現が正しいと思われます」
「……」
そんな違《ちが》い、はっきり言ってめちゃくちゃどうでもいいんだが。
てかそれ以前に、何だってこの人は暗闇《くらやみ》の中で微動《びどう》だにせずに、蝋《ろう》人形みたいに無言《むぐん》でソフアに座《すわ》ってたりするんだ?
「申《もう》し訳《わけ》ありません。灯《あか》りを点《つ》けたり、大きな音を出したりすると、春香様が起きてしまわれるのではないかと思いまして」
葉月さんはそう答えた。とことん春香|優先《ゆうせん》の人なんだな。……にしたって、もう少しやりようはある気がするが。
「はあ……まあ事情《じじょう》は分かりました」
「分かっていただけで、何よりです」
「……。――それより春香を何とかしないと」
酔っ払い×二はともかく、このままここで寝かせておくわけにはいかないだろう。
すると葉月さんが改《あらた》まった口調《くちょう》で。
「そのことなのですが……春香様のことは、裕人《ゆうと》様にお願いしてもよろしいでしょうか?」
「俺に?」
「はい」
「それはいいですけど……」
意外《いがい》だなでっきりこのメイドさんのことだから、何を差し置いても自分で春香の世話《せわ》をすると言い出すものだとばかり思ったが。
俺の表情からそんな内心《ないしん》を読み取ったのか。
「私がお世話《せわ》をしてさしあげたいのはやまやまなのですが、まだやることがありまして……」
葉月《はづき》さんはそう言うと、メイド服の裾《すそ》をふわりと翻《ひるがえ》した。
「……私は、この付近を巡回じゅんかい》してまいります」
「巡回?」
また聞《き》き慣《な》れない単語を。
「……はい。春香《はるか》様の身辺の安全確保も、メイドたる私の役目です。ここはお屋敷《やしき》と違《ちが》い、セキュリティシステムに若干《じゃっかん》の不安|要素《ようそ》があるようなので……」
「まあ、それは……」
不安があるというか、そもそもセキュリティシステムなんてブルジョワなもんはこの家には存在《そんざい》しない。あってせいぜいルコの秘蔵《ひぞう》の刀剣《とうけん》コレクションくらいである。
「そういうわけで、行ってまいります」
「はあ、行ってらっしゃい」
「――春香様をよろしくお願いします」
そう静かに言うと、葉月さんは音もなく居間《いま》から出て行こうとして。
ごんっっ……!
閉まっていた(俺が入ってきた時に閉めた〉ドアに、思いっきり顔面《がんめん》を強打《きょうだ》した。
「……っ」
のけぞる。
メガネが吹っ飛ぶ。
めちゃくちゃ痛そうだった。
「だ、大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
「…………問題、ありません」
いや、そんな目に大粒《おおつぶ》の涙《なみゼ》を浮《う》かべて言われても。
「………全く、問題ありません」
落ちたメガネを拾い上げながら、葉月さんは再度《さいど》そう言った。
「……私としたことが見苦《みぐろ》しいところをお見せしてしまいました。今のことは、どうか忘《わす》れていただけると――」
「は、はあ……」
「――助かります。それでは私は行ってまいります」
ぺこりと一礼して、再《ふたた》び歩き出す葉月さん。だが
「……葉月さん」
ぽい」
「……そっち、台所」
「…………」
葉月《はづき》さんの動きがぴたりと止まった。その姿勢《しせい》のまま、きりきりと半ば強引《ごういん》にドアの方に身体を向け直し、真顔《まがお》でこう言った。「…………フェイントです」
「……」
……フェイントって、あんた。
「……もしかして葉月さん、酔《よ》ってます?」
「……」
「……」
「……………………いえ、そんなことは」
その間《ま》は何だ。
まあ考えてみれば、俺が電話に出ている間にあの限《かぎ》りなくタチの悪い酔っ払いどもの渦中《かちゅう》にいたんだから、それ相応《そうおう》に飲まされていても何ら不思議《ふしぎ》じゃない。
しかし葉月さんはあくまで認《みと》めない。
「……何でもありません。今のはちょっとした幻覚《げんかく》……英語で言うところの、ハルシネーションです」
「……」
いや英語うんぬんはともかくとして、そっち(幻覚)の方が遥《はる》かにヤバイような気もするんだがな。
「……」
「……」
「……では、行ってまいります」
やがて葉月さんはそう言うと、居間《いま》のドアを開けて、今度は玄関とは反対方向へと[#「玄関とは反対方向へと」に傍点]歩いていった。……うーむ、相変わらず掴《つか》みきれん人だ。まああの超スペックのメイド長さんなら、何だかんだで大丈夫《だいじょうぶ》だろうけど。
だからそれはさておき。
こっちも、頼《たの》まれたからにはちゃんと春香《はるか》の面倒《めんどう》を見なくちゃなるまい。まあたとえ頼まれなくても、春香をこんなところ(酒の匂《にお》い漂《ただよ》う劣悪《れつあく》空間)で寝《ね》かせるつもりはない。が。
ソファで気持ち良さそうに寝息《ねいき》を立てている春香。
暗闇《くらやみ》の中、月の光に照《て》らされて横たわるその姿《すがた》は、まるで女神《めがみ》のようである。
俺が近づいても全く起きる様子《ようす》もない。今日一日、色々(夏こみやら家出やら)あって疲《っか》れたんだろう。だとすると起こすのもかわいそうだな……
少し迷《まよ》ったが、俺は春香を抱《だ》き上《あ》げた。
いつかアキハバラでやったのと同じ、お姫様抱っこ。まさかもう一度やることになるとは夢にも思わなかったが。
羽毛《うもう》のように軽い春香《はるか》を腕《うで》に、階段へと向かう。
行き先は二階の和室。いちおう、我が家で唯一《ゆいいつ》のお客様用の部屋《へや》である。
木製の、やたらとぎしぎしと音がする階段を昇っている途中《とちゅう》で。
「ん……」
春香が身じろぎした。
「……ん……あ、あれ、私――」
「悪い、起こしちゃったか」
「え、あれ? どうして裕人《ゆうと》さんの顔がこんな近くに……え、え、え?」
そこでようやく自分のお姫様な体勢《たいせい》に気付いたのか、春香が顔を真っ赤にした。
「あ、ここここれって……」
「あー、暴《あば》れるなって」
「こ、これって、もしかして、あの…………あ、だ、だいじょぶです。私、一人で歩けます。
なので、お、降《お》ろしてください」
じたばたと手足をばたつかせる春香。
そうは言うものの、こんな階段の途中で降ろすのは危《あぶ》なくてしかたがない。
「とにかく、大人しくしてくれ。落ちたら危ないし、それにすぐ着く」
「で、ですが……」
「いいから」
「は、はい……」
納得《なっとく》したのか観念《かんねん》したのか、ようやく大人しくなってくれた。
その間に、とっとと階段を昇りきる。
「……はあ、お姫様抱っこ、初体験です」
腕の中では、春香が感慨深《かんがいぶか》げにそうため息《いき》を吐《つ》いていた。
いや、実のところこれで二回目だったりするんだが、そのことは黙《だま》っておくことにしよう。
俺も恥《は》ずかしいし。
二階の和室には、事前《じぜん》に布団《ふとん》を敷《し》いておいてあった。
急だったのでさすがに干《ほ》すまではできなかったが、春香が泊《と》まると決定した時にシーツは換えておいたので、それなりに寝心地《ねごごち》はいいはずである。
その上に、ぼてっと春香を降ろした。
「あ……」
春香が小さな声を上げる。
「とりあえず、その布団を使ってくれ」
「あ、はい」
「着替えは、ルコのを用意しておいた。もしかしたらサイズが合わないかもしれんが、そのへンは適当《てきとう》に頼《たの》む」
パジャマだのシャツだの、何種類か用意しておいたから、まあたぶん何とかなるだろう。
「俺は隣《となり》の部屋《へや》で寝《ね》てるから、何かあったら呼《よ》んでくれればいい」
「はい。分かりました」
こくんと、布団《ふとん》の真ん中で春香《はるか》がうなずく。
「んじゃ、お休み」
それだけ言って、俺はさっさと部屋から出ることにした。少しばかりそっけないような気もしたが、なんせ状況《じょうきょう》が状況である。お姫様|抱《だ》っこ↓布団↓二人きり。この凶悪《きょうあく》なコンボを前にして、いつまで理性《りせい》をまともに保《たも》ってられるか、正直ミジンコの涙《なみだ》ほどにも自信がない。
だがフスマを閉《し》めようとしたところで。
「――あの、裕人《ゆうと》さん」
背後《はいご》から春香に呼《よ》び止《と》められた。
どくり、と心臓が明らかに異常《いじよう》な挙動《きょどう》を見せる。
「な、何だ?」
「……こんなことを言うのは、とっても恥《は》ずかしいんですけれど」
「あ、ああ」
「でも、ここで言っておかないと、きっと後悔《こうかい》すると思って――」
言葉《ことば》通りに、恥ずかしそうにうつむく春香。な、何だ、何を言うつもりなんだ!?
焦《あせ》りまくる俺に。
春香は。
これ以上ないくらい真剣《しんけん》な顔で、こう言ったのだった。
「あの――お布団って、どうやって寝るものなのでしょうか? 私、ベッドしか使ったことがないから分からなくて……」
さて、春香に布団での就寝《しゅうしん》方法をイチから指導《しどう》して(最初春香は敷《し》かれた布団をマクラだと勘違《かんちが》いしていた。そりゃ春香の部屋のあの天蓋《てんがい》付き巨大ベッドのマクラならそれくらいのサイズかもしれんがさ……)。
その後に、速攻《そっこう》で部屋に戻《もど》ったわけだが。
「うーん……」
当然《とうぜん》といえば当然なんだが、なんか落ち着かなかった。
なんせ、僅《わず》か数メートルしか離《はな》れていないところで春香が寝ているのである。いかに間に壁《かべ》を挟《はさ》んでいるとはいっても、お年頃《としごろ》の男子高校生として、これで普通《ふつう》の精神状態《せいしんじょうたい》でいられるはずがないだろ?
どぐっどぐっ……と、さっきから、明らかに脈拍《みゃくはく》が異常数《いじょうすうち》値をたたき出している。
おまけに手にはさっきまでの春香《はるか》の温かくも柔《やわ》らかい感触《かんしょく》がそこはかとなくじんわりと残っていてー
あー、ダメだダメだ!
考えれば考えるほど、思考《しこう》がヘドロ溢《あふ》れるドロ沼(底《そこ》なし)にハマっていくような気がする。
もう寝《ね》るぞ!
そう決めて下らない考えを修行僧《しゅぎょうそう》のごとく振《ふ》り払《はら》い、タオルケットを頭から被《かぶ》ったその時、 こんこん。
控《ひか》えめで、小さなノックの音が響《ひび》いた。
「――あの、裕人《ゆうと》さん、まだ起きてらっしゃいますか?」
「!?」
春香の、声だった。
「あ、私です。春香なんですけど……」
な、何だ、どうしたんだ?
突然《とつぜん》の訪問に、微妙《びみょう》に動揺《どうよう》していると。
「え、えと、もう寝ちゃいましたか? そのようでしたら戻《もど》りますので、返事してくださいです」
「……」
……それはあれだな。ホームルームの出欠確認で、欠席者に手を挙《あ》げさせるようなもんだな。
なんか、ちょっとだけ気が抜《ぬ》けた。
「……やっぱり寝ちゃってるみたいですね。すみません、だったら――」
「あ、いや、起きてる」
そう答えると、どこかほっとしたような声がドアの向こうから響いた。
「あ、良かった――今、ちょっといいですか?」
「ああ。カギは開いてる(正確に言えば春にルコが壊《こわ》して以来そのまま)から、入ってくれ」
「はい」
かちゃり、と小さくドアが開かれ。
「失礼しますです……」
遠慮《えんりょ》がちに春香が入ってきた。
やはりルコのだとサイズが合わなかったのか、手足がほとんど隠《かく》れてしまうほどぶかぶかなパジャマ姿《すがた》。両手でマクラを抱《かか》えてこっちをじっと見つめると、ペンギンみたいにぺこりと頭を下げた。
「夜分|遅《おそ》くすみません……」
「い、いや……」
そのどこか子供のようなあどけない姿《すがた》に、再《ふたた》び心臓の動きがオーストラリア原産のカンガルーのように跳《は》ね上《あ》がるのを感じた。正直  かなりかわいい。
「あー、で、どうしたんだ。まだ布団《ふとん》の使い方がよく分からないのか?」
内心の鳴門海峡《なるとかいきよう》の渦潮《うずしお》のような動揺《どうよう》は隠《かく》して、そう訊《き》く。
「あ、いえ、それはもう分かりました……」
「? じゃあ何だ?」
「え、えと……」
「ん?」
「あの……」
胸《むね》の前でマクラを抱《だ》きしめてもじもじ。何が言いたいんだかさっぱり分からん。
俺が首をひねっていると。
「――お部屋《へや》、真っ暗なんです」
やがて思い切ったかのように春香《はるか》が言った。
「? そりゃ、夜なんだし……」
「そ、そうなんですけど、それだけじゃなくて……」
「??」
「で、ですから、とっても暗くて……」
何だか、話がループしているような気がする。
怪誘《けげん》な表情になる俺に、
「ま、真っ暗なところって、一人でいると何だか寂《さび》しくなってきませんか?」
「え?」
「な、なってきますよね?」
必死《ひっし》な顔で訴《うった》えかけてくる春香《はるか》。
そこでようやく気付いた。
「もしかして……」
……一人で寝《ね》るのが怖《こわ》いのか?
春香の顔を見ると。
「……(こくこく)」
無言《むごん》で首を縦《たて》に振《ふ》っていた。振りまくっていた。目には涙《なみだ》まで浮《う》かんでいる。
「い、家だったらいっしょに寝てくれるテディ・ベアのキング・グリズリーくんがいますし、葉月《はづき》さんたちが部屋《へや》の周《まわ》りを巡回《じゅんかい》してくれているから、怖くないんです。で、でも今日は……」
「……」
まあ確かにここにキング・グリズリーくんとやらはいないが。というか、そのネーミングセンスはいくらなんでもどうかと思う。
春香は俺の顔をじっと見上げると。
「だ、だからその、私もここで寝ちゃダメでしょうか?」
潤《うる》んだ目で、そう言った。
いや、確かに今の話からするとそういう結論になるんだろうがな……
「だ、ダメですか?」
「う……」
「ご、ご迷惑《めいわく》はおかけしないつもりです。なのでどうかお傍《そば》に……」
「ぐ……」
すがるような目。そんな目で見られると、こっちとしても断《ことわ》るに断れない。
「……分かった」
「え?」
「分かった。それで、いい」
まあ――しかたない、か。本来ならルコか由香里《ゆかり》さんと寝てもらうところだが、あの状態《じょうたい》(泥酔《でいすい》)じゃ今日はどう考えてムリだし、葉月さんも巡回とやらに出てしまっている。消去法《しょうきょほう》でいくと、俺しか残らない。――と、自分に言い聞かせた。
「あ、ありがとうございますっ」
春香が顔をぱっと輝《かがや》かせた。
「あー、じゃあ布団《ふとん》を持ってくる。ちょっと待っててくれ」
和室から布団を持ってきて部屋《へや》の床《ゆか》に敷《し》く。
その中にちょこちょこと春香《はるか》が入り込むのを確認して、俺は言った。
「んじゃ、電気消すぞ?」
「あ、はい」
電気を消すと、部屋の中は一気に真っ暗になった。同時に沈黙《ちんもく》のカーテンもばさりと降《お》りる。
うーむ、こういう時って、いったいどういうことを話すべきなんだ? いやそもそも何かを話すべきなのかそれとも黙《だま》って寝《ね》るべきなのか? こんな青春なシチュエーション(夜中に自分の部屋で女の子と二人きり)なんて初めてで、全く分からん。
「裕人《ゆうと》さん」
と、春香の布団から小さな声が響《ひび》いた。
「ん?」
「あ、あの、よろしければなんですけれど」
少し恥《は》ずかしがるような声音《こわね》。
「え、えと……手を繋《つな》いでもらえませんか?」
「へ……」
思わずマヌケな声が口から出た。
今、春香は何て言った。手を繋ぐ……シェイクハンズ? ってそれは握手《あくしゆ》か。
あまりに突然《とつぜん》の申し出だったため、シナプスがすぐには情報を伝達《でんたつ》してくれなかった。
それを春香は拒否《きょひ》と受け取ったのか。
「あ、その、ダメならいいんです。な、何となくそんなことを思っただけなので……」
「え、いや……」
「ご、ごめんなさい、変なことを言って……」
タオルケットを被《かぶ》ってわたわたと慌《あわ》てる。そんな春香に。
「ん」
俺は、黙《だま》って手を差し出した。
「え?」
「手――繋ぐんだろ?」
「あ、は、はいっ」
差し出した手を、控《ひか》えめに握《にぎ》ってくる。
その手は――微《かす》かに震《ふる》えていた。
何だかんだで、春香も心細かったんだろうな。
父親とのケンカ、家出。どれも春香にとっては大変なことだったんだろう。美夏《みか》の話じゃ、春香が親父《おやじ》さんに反抗したのはこれが初めてだってことだし。
「……春香《はるか》」
柔《やわ》らかな手を握《にぎ》り返《かえ》す。
ちょっと迷《まよ》ったが、俺は口を開いた。
「あー、あのさ」
「……」
「――俺は、何があっても春香の味方《みかた》だからな」
「……」
「……」
無言《むごん》。
春香からの返事は戻《もど》ってこない。
あー、マズイ。これはかなりハズしたか。恥《は》ずかしさと後悔《こうかい》に身悶《みもだ》えながらちらりと春香の方を見ると。
「……す〜……す〜……(熟睡《じゅくすい》)」
春香は寝ていた。
すでにぐっすりとお休みだった。
「……」
遠くで、あおーんという犬の鳴《な》き声《ごえ》が聞こえた。
……いや。
……いいんだけどさ。
翌朝。
辺《あた》りを漂《ただよ》ういい匂《にお》いで、俺は目を覚《さ》ました。
何かを焼いているような香《こう》ばしい匂いと、味噌汁《みそしる》の匂い。
「ん……」
何だ?
この家には基本的に俺以外に料理を作れる人間はいない。ルコは真顔《まがお》で生卵を電子レンジに放《ほう》り込《こ》むようなレベルだし、そもそも両親は年に一度帰ってくるかこないかだ。台所に立っている姿《すがた》など、正月くらいしか見たことがない。
ゆえにこの家で俺が起《お》き抜《ぬ》けに料理の匂いを嗅《か》ぐなんてのは、普通《ふつう》だったらまずあり得《え》ないことなのである。
不思議《ふしぎ》に思った俺は部屋《へや》を出て階段を下り。
いまだ昨晩の酔《よ》っ払《ばら》い二人が死体のように転《ころ》がる居間《いま》を抜《ぬ》け。
台所へと向かった。
するとそこには――
「あ、裕人《ゆうと》さん、おはようございます」
「は、春香《はるか》……?」
エプロン姿《すがた》の春香が、おタマ片手に笑顔《えがお》で立っていた。
「今、ちょうど朝ご飯を作っていたところなんです。もうすぐできますから、待っていてくださいね」
「……」
そのどこぞの新妻《にいづま》のような姿&台詞《せりふ》に、思わずくらっときた。ていうか、かなりツボだった。
「もういくつかはできているんですけれど、まだ時間が少しかかるものもあってー。あ、よろしかったら味見をしてもらえませんか?」
「ん、ああ」
「ありがとうございます。これなんですけど……」
春香が作っていたのは野菜スープだった。
ニンジン、大根、タマネギ、ジャガイモ、その他もろもろの野菜を、ブイヨンベースで煮込《にこ》み、塩、コショウで味を調《ととの》えたもののようだ。
一見《いっけん》すると、よくある何の変哲《へんてつ》もない野菜スープ。
だが。
「うまい……」
めちゃくちゃうまかった。
見た目こそただの野菜スープだが、中身は極上《ごくじょう》のコンソメである。ヒツジの皮を被《かぶ》ったオオカミとはこういうことを言うんだろうか(かなり違《ちが》う)。
「ありがとうございます。隠《かく》し味《あじ》をいくつか加えてるんですよ」
「隠し味?」
「はい。でもレシピは秘密《ひみつ》です」
ちょっとイタズラっぼく春香が言った。
いや――でもほんとにうまいな、コレ。店とかで売り出せば十分に金が取れるレベルである。
……と、そこで思い出した。そういえば春香、料理の腕《うで》もプロ級なんだっけか.すでに調理師免状《ちょうりしめんじょう》を持っていて、フランスの有名な批評家《ひひょうか》に五つ星をもらったとか何とか。
「……」
改めて、春香の完璧《パーフェクト》超人っぷりを再確認《さいかくにん》させられた気がした。
そんな俺の目の前で、春香は目にも留《と》まらぬスピードで包丁《ほうちょう》を動かしている。
「あー、何か手伝《てつだ》えることはあるか?」
ただ待っているのも何となく気が引けたためそう訊《き》くと。
「あ、だったら、できているお料理を居間《いま》の方へ運んでもらえますか。ちょっと手が放《はな》せなくて、すみません」
「おっけ」
言われた通りに、野菜スープを初めとする料理を運んでいく。
「むう……何かいい匂《にお》いが……」
「お腹空《なかす》いた〜……」
匂いに釣《つ》られて、酔《よ》っ払《ぱら》い二人も覚醒《かくせい》を始めたみたいだった。墓《はか》から出たばかりのゾンビみたいな様相《ようそう》でふらふらと起き上がり、テーブルに並《なら》べられた(俺が並べた)料理を目にすると。
「おお、これは!」
「うわ、すごい」
二人|揃《そろ》って子供みたいな歓声《かんせい》を上げた。
「あ、ちょっと待てって」
「ばくばく、ばくばく……」
「がつがつ、がつがつ……」
よっぽど腹が減《へ》っていたのか、飢《う》えたイノシシのごとき勢《いきお》いで手当たり次第《しだい》に料理に手を付けていく。とてもあれだけ飲んだ翌日とは思えない、恐《おそ》ろしいばかりの食欲である。やっぱこの二人、ヒトとして何かが間違《まちが》っている気がしてならない。
「……ただいま戻《もど》りました」
と、かちゃりと居間《いま》のドアが開き、メイド長さんが姿《すがた》を現した。
「あ、葉月《はづき》さん」
「裕人《ゆうと》様、ルコ様、由香里《ゆかり》様、おはようございます」
俺たちの姿《すがた》を目に留《と》めると、斜《なな》め四十五度という絶妙《ぜつみょう》の角度で頭を下げ、挨拶《あいさつ》をした。
その顔はいつもと変わらない無表情だが、どことなく眠《ねむ》そうにも見えた。この人、もしかして……
「……もしかして、ずっと巡回《じゅんかい》をしてたんですか?」
ぽい」
こともなげに葉月さんは答えた。「今回は、替わりの者がいませんでしたので」
「……」
てことは葉月さん、一晩中《ひとばんじゅう》その格好《かっこう》でここら近所を歩いて回ってたのか。うーむ、『吃驚《びっくり》! 夜中に近所を排徊《はいかい》するメイドさんの霊《れい》!!』とかの心霊談《しんれいだん》になってなきゃいいが。
「……裕人様、つきましてはそのことで少しご報告《ほうこく》があるのですが」
葉月さんが、音もなく滑《すべ》るように近づいてきた。
「? 何ですか?」
「……はい。実は巡回中《じゅんかいちゅう》に何度か怪《あや》しい気配《けはい》を感じまして……」
「怪しい気配?」
「はい」
「それって……」
変質者《へんしつしゃ》とか、そういうのがこの辺をうろうろしてるってことか?
だが葉月《はづき》さんは首を振《ふ》り、
「いえ、違《ちが》うと思います。おそらくあれは黒《ヘル》――」
何かを言いかけたその時だった。
じりんじりんとやかましく鳴《な》る電話の音が飛び込んできた。
「おい、裕人《ゆうと》、さっさと出ろ。食事中に無粋《ぷすい》だ」
「う〜る〜さ〜い〜」
ルコと由香里《ゆかり》さんが即座《そくざ》に不平をたれる。いやお前らの方が電話に近いんだから自分で出ればいいだろ……との言葉《ことば》をぐっと堪《こら》え(言ったって赤兎馬《せきとば》の耳に念仏《ねんぶつ》だろうし)、
「ちょっとすみません……」
俺は葉月さんにことわり、俺は廊下《ろうか》に出た。だれだ、こんな朝から?
「はい、もしもし――」
「おに〜さん、大変だよ!」
受話器を耳に当てるなり響《ひび》いてきたのは、美夏《みか》の声だった。
「み、美夏?」
「大変、大変なんだよ、おに〜さん!」
「大変って何が……」
「とにかく大変なの!」
「……」
なんか、昨日の会話と同じ展開《てんかい》だった。
「……焦《あせ》るのは分かるけど、ちょっと落ち着けって。いいから深呼吸《しんこきゅう》しろ」
「あ、う、うん。ふっふっ、は〜……ふっふっ、は〜……」
「それ深呼吸と違《ちが》う……」
「え、そ、そう?」
少なくともニホンネコとイリオモテヤマネコくらいには違うものである。
ともあれ、今の(ラマーズ法?)で美夏は少し落ち着いてくれたようだった(それもどうかと思うが)。
「で、大変って、いったい何が大変なんだ?」
「あのさ、そっちにまだ、お姉ちゃんいるよね?」
「ああ、いるけどそれが……」
「バレちゃった!」
「は?」
「だから、お父さんに、おに〜さんの家がバレたの! 今日いっぱいくらいはだいじょぶかって見てたんだけど……思ったよりも密偵《みってい》たちの能力《のうりょく》が高かったみたい。もしかしたら帰り道からおに〜さんのこと尾行《つけ》てたのかもしれないし……。――とにかく、さっき何人か連《つ》れて屋敷《やしき》を出たから、もうそっちに着く頃《ころ》かも……」
「ちょっと待て、それってどういう――」
くっくどぅ〜どぅ〜どぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜。
言葉《ことば》の途中《とちゅう》で、洋物ニワトリ声が玄関《げんかん》に響《ひび》き渡《わた》った。
続いて、ノブの横からぎゅるぎゅると小型ドリルが差し込まれたかと思うと、その穴から侵入《しんにゅう》してきた何か器具のようなモノが、内側からカギをかちりと開く。
そして。
「失礼する!」
警察《けいさつ》の強行突撃班《きょうこうとつげきはん》のような勢《いきお》いで、ドアの向こうから春香《はるか》父――乃木坂玄冬《のぎざかげんとう》氏が飛び込んできた。
「呼《よ》び鈴《りん》を鳴《な》らしたが、返事がないようなので勝手に入らせてもらった! 責任者を出してもらおうか!」
背後《はいご》に、ターミネーターみたいにいかつい黒服サングラスを六人ほど控《ひか》えさせて、春香父が大声で怒鳴《どな》る。
「返事がないって……」
鳴らしてから入ってくるまで三秒も経ってなかっただろ。おまけに明らかにサムターン回し(犯罪《はんざい》)をやってた気がするんだが……。
「む、貴様《ききま》は……」
お父様がぎうりとこっちを睨《にら》む。なんかもう、最初から貴様呼ばわりである。
「うわ、もう着いちゃったの!? 何でそんな早く……って、そっか、ヘリを使えばそれくらいで……」
受話器の向こうで美夏《みか》がそんなことを言っているが、俺の耳にはもう半分くらいしか聞こえていなかった。
「と、とにかく一分一秒でも時間を稼《かせ》いどいて! こっちもできる限《かぎ》り何とかしてみるから!」
そう言って、通話は切れた。
「あ、おい、美夏……」
いやこの状況《じょうきょう》で時間を稼げと言われてもかなり困《こま》る。というか俺にどうしろと?
受話器を手に呆然《ぼうぜん》としていると。
「――春香《はるか》はどこだ?」
春香父が三和土《たたき》を乗《の》り越《こ》えものすごい形相《ぎょうそう》で迫《せま》ってきた。その額《ひたい》にぶっとい青筋《あおすじ》を浮《う》かべながら、俺の襟首《えりくび》を掴《つか》み上《あ》げる。
「……ここにいることはすでに調べはついている。今すぐに春香をこの場に出せ。……それが聞けんというのなら、こちらとしても実力|行使《こうし》に出させてもらうぞ!」
「ぐ……」
襟首にかかる力が強くなる。
何とか引《ひ》き剥《は》がそうとするが、その丸太のような腕《うで》は俺ごときの力じゃびくともしない。
く……これは実力行使のうちに入らないってのか?
それでも何とかしようと俺がじたばたともがいていると。
「――そこ、何をやっている?」
「ル、ルコ……」
騒《さわ》ぎを聞きつけたのか、居間《いま》からルコが出て来た。
「……む」
ルコは春香父と黒服を目に留《と》めると。
「……何だお前らは? 他人の家に土足で上がりこむとは穏《おだ》やかじゃないな」
鋭《するど》くそう言《い》い放《はな》った。
「おまけにお前が掴みかかっているのは私の弟だ。……無礼《ぶれい》という言葉《ことば》を知っているか?」
「ふん、知らぬな、そんな言葉」
「ほう……」
ルコの目がすっとすぼまる。
何かを感じ取ったのか、それまで春香父の後ろに控《ひか》えているだけだった黒服たちが、音もなく前に出た。
何やら一触即発《いつしょくそくはつ》の空気。
そんな中、遅《おく》れて由香里《ゆかり》さんと葉月《はづき》さんも姿《すがた》を現した。
「うわ、なんかやばいことになってない? 何なのこれ? どっかの組関係者?」
「玄冬《げんとう》様……」
対峙《たいじ》する春香父と俺たちを見比べて、二人がその場に立《た》ち尽《つ》くす。
そして――
「お、お父様……」
その後ろには、調理途中《とちゅう》で様子《ようす》を見に来たのか、フライパン片手(中にはアサリのパスタ)でエプロン姿の春香がいた。
「お父様、どうしてここに……。い、いえ、それより裕人《ゆうと》さんに何をやっているんですかっ」
「おお春香《はるか》、やはりここにいたのか」
春香(アサリのパスタ入リフライパン付き)が環れた途端《とたん》、ぱっと春香父の手が離《はな》された。
「裕人《ゆうと》さん!」
「ずいぶんと探《きが》したぞ。さあ、こっちに来るんだ」
床《ゆか》に落ちた俺にはもう目もくれずに、春香父が春香(アサリのパスタ入リフライパン付き)に向かって腕《うで》を広げた。
「迎えに来た。さあ、私といっしょに来るんだ。屋敷《やしき》に戻《もど》るぞ」
「え……」
「昨日のことならもう気にしておらん。お前も反省しているようなら、私とてこれ以上は責《せ》めはしない。あれは一時の気の迷《まよ》いなのだろう? あんなもの[#「あんなもの」に傍点]にお前が心を惹《ひ》かれるはずがない」
「――っ」
春香父が『あんなもの』と言ったところで、春香の顔色が変わった。
「ほら、だからさっさと帰るぞ。昨日はピアノの練習もしていないだろう。一日休めば取り戻すのに一週問はかかる。それに今日は華道《かどう》の稽古《けいこ》もあろう。こんなところで時間を浪費《ろうひ》しているヒマはない」
「……」
「いつまでも子供じみた意地《いじ》を張《は》るのはやめろ。いつもの素直《すなお》のお前に戻るんだ」
「……」
「春香!」
苛立《いらだ》ちの声を上げる春香父。
だがそれに対して春香は。
「……イヤです」
はっきりと、そう言い返した。
「……なに?」
「イヤです。私――私、帰りません。帰りたくありません。お父様は気にしていなくても……私はそうじゃない。だって私は……自分が悪いとは、思っていません!」
「……なんだと?」
「……お父様は全然分かっていない。私は『あんなもの』が好きなんです! 『はにかみトライアングル』が好きで、『ドジっ娘《こ》アキちゃん』が好きで、そして、『イノセント・スマイル』が大好きなんです!」
俺の手を強く握《にぎ》り、そう叫《さけ》ぶ春香。
「は、春香、お前は何を言って――」
「それは一時の気の迷いなんかじゃ――絶対《ぜったい》にありません。だからお父様がそれを否定《ひてい》する限《かぎ》り……私もお父様の言うことは聞けないです!」
「な……」
普段《ふだん》は大人しい小動物(ハムスターとか)が見せる威嚇《いかく》行動のようなその様子《ようす》に、しばらく春香《はるか》父は呆然《ぼうぜん》としていたが。
「……私は、認《みと》めんぞ」
やがて、うめくようにそう言った。
「……あんな低俗《ていそく》な趣味《しゅみ》は認めない。だいたい何だ、あんなアニメだのマンガだのは、子供が見るものだろう。お前はそんなものに執着《しゅうちやく》する娘《こ》じゃなかったはずだ。――やはり、そいつに証《たぷら》かされたのか? そうか、そうなんだな? おのれこの下郎《げろう》が……」
ちなみに説明するまでもないが、『そいつ』、『下郎』とは俺のことである。
「お父様……」
あくまでも自分の主張《しゅちょう》を認めようとしない父を前にして、春香の顔はどんどんと曇《くも》っていった。
そりゃあそうだろう。春香にとってあの趣味は、昨日今日に始まったものじゃない。小学生の頃《ころ》――それこそ十年近く前から心の支《ささ》えとしてきたもののはずだ。
『私、落ち込んだりイヤなことがあったりした時には、いつもこれを見ることで自分を励《はげ》ましてきました』
『この本は私にとって特別なんです。とてもとても大事《だいじ》な、私の宝物です』
少し前、春香が『イノセント・スマイル』創刊号を見せてくれた時に言っていた言葉《ことば》である。
あの時の春香の顔は、本当に真摯《しんし》で真剣《しんけん》なものだった。
春香は自分の趣味を大事に思っている。
心から、大切に思っている。
それを無下《むげ》に否定《ひてい》されて、へこまないわけがないな。
だけどそんな春香の思いは、興奮《こうふん》する春香父にはまったく届《とど》いていないようだった。その言葉《ことば》はどんどんと辛辣《しんらつ》になっていく。
それを聞く春香の悲しそうな顔。
その顔を見てたら――なんか、だんだん腹が立ってきた。
いや俺がそんなことを言える立場じゃないことは充分《じゅうぶん》に分かってるさ。実際《じっさい》のところ、俺は確かに春香父が言うように春香をアキバ系に引き込んだ直接|原因《げんいん》なわけだし、その後も春香を肯定《こうてい》して、色々と手助けをしてきたのも俺だ。それは事実である。
それに突《つ》き詰《つ》めればこれは家族の問題だ。何だかんだいっても他人である俺は、軽々しく何かを言える立場じゃない。ああ。そんなことはよーく分かってる。
でもな。
「――そんなに、ダメなもんなんですか?」
気が付いたら、俺は口に出していた。
「……何だと?」
「……春香《はるか》の趣味《しゅみ》、そこまでして否定《ひてい》するようなもんなんですか? そんなに良くないもんなんですか?」
でもな……俺はあの時に決めたんだよ。ほんの一ヶ月くらい前、春香が部屋《へや》に引きこもって泣《な》いているのを見たあの時に、これだけは心に決めた。
春香の泣き顔はもう見たくない。
そのためになら。
どんな時でも。
どんな場所でも。
どんな状況《じょうきょう》でも。
――俺だけは、絶対《ぜったい》に春香の味方《みかた》になるってな。
「ゆ、裕人《ゆうと》さん……」
「どうなんですか?答えてください、そんなに春香の趣味は――」
「当たり前だ」
だが春香父は即答《そくとヒつ》した。
「あのような低俗《ていそく》で下劣《げれつ》な趣味、乃木坂家《のぎざかけ》の長女としてふさわしくない。そんなこと、普通《ふつう》に考えれば分かるだろう。だいたいアニメだかマンガだか知らんが、あんな何の生産性もなければ創造性《そうぞうせい》もないもの、そもそも趣味とは呼《よ》ぶのもおこがましい。違《ちが》うか?」
「低俗で、下劣……」
春香の身体がさらに強張《こわば》るのを感じた。……この人も、とことんアキバ系に偏見《へんけん》を持ってるんだな。
震《ふる》える春香の手を握《にぎ》り返《かえ》し、俺は言った。
「何で、低俗で下劣だって、言い切れるんですか?」
「なに?」
「実際《じっさい》、あんたは春香の趣味の何を知っているっていうんですか? 春香がどうしてそれを好きになって、どんな気持ちでそれを好きでいるかを、考えたことはあるんですか?」
春香のアキバ系への思い。それを知らずに、知ろうともせずに……その外面《そとづら》だけを見て完全否定をするのは、あまりにも勝手なんじゃないのか?
「春香が趣味にかける気持ちは、他の人が他の趣味にかける気持ちと何も違わない。ひたむきで一生懸命《いつしようけんめい》で真剣《しんけん》で……なのにどうして、それだけは認《みと》められずに、低俗で下劣ってことになるんですか?」
「ぐ………」
「そんなの、おかしいじゃないですか!」
春香父が言葉《ことば》に詰《つ》まる。
「う、うるさい! 子供が知ったような口を利《き》くな! 貴様《きさま》ごときに何が分かる、何が分かるというんだ!」
「……」
「――とにかく、春香《はるか》は連《つ》れて帰る! もう御託《ごたく》はいい。いいからお前らはそこをどけ! 邪魔《じゃま》をするようなら少々痛《いた》い目を見てもらうことになるぞ。……黒犬《ヘルハウンド》!」
春香父が怒鳴《どな》り、同時に黒服たちが円を描《えが》くようにしてゆっくりと間合《まあ》いを詰《つ》め始《はじ》めた。
やばい、これがホントの実力|行使《こうし》ってやつか!?
「ふん、やる気みたいだな」
「春香様、裕人《ゆうと》様、お下がりください」
ルコと葉月《はづき》さんが戦闘態勢《せんとうたいせい》をとって前に出る。
それを見た黒服が俺たちに向かって手を伸ばそうとしたまさにその瞬間《しゅんかん》。
「は〜い、そこまでっ!」
どこか舌《した》ったらずな声が、玄関口《げんかんぐち》に響《ひび》き渡《わた》った。
「はい、お父さんもお姉ちゃんもみんなも、とりあえずいったん落ち着く。び〜くわいえっと」
緊張感《きんちようかん》の欠片《かけら》も断片《だんべん》もない、どこまでも能天気《のうてんき》な声。
その場にいた全ての人間の視線《しせん》が集中した先には……場違《ばちが》いな明るい笑《え》みを浮《う》かべる美夏《みか》(傍《かたわ》らに那波《ななみ》さん)の姿《すがた》があった。
「み、美夏……」
「あ、おに〜さん、やっほ〜。ぎりぎりで間《ま》に合ったみたいだね。ん〜、わざわざ空港まで迎えに行ってきた甲斐《かい》があったよ〜。よかったよかった」
ぶんぶんとこっちに向かって手を振《ふ》る美夏。いやせっかく急いで駆《か》けつけてくれたところ悪いが、今さら美夏が来たくらいでこの状況《じょうきょう》(爆発寸前《ばくはつすんぜん》)が変わるとはとても思えんのだが……「美夏……何のつもりだ?」
「ん〜?」
「……何をしに、こんなところまで来た?」
春香父が戸惑《とまど》ったような表情で問う。
「何って、そんなの決まってるじゃん。お父さんを止めに来たんだよ。どうせこういうことになってると思ったから」
「私を……止める?」
その言葉《ことば》に、春香父は間違《まちが》ってネコのエサを食べてしまったイヌみたいな顔をした。
「――何の冗談《じょうだん》だか知らんが、お前は下がっていなさい、これは子供の遊びじゃない」
「え〜、何で〜」
「何でもなにもない。とにかくお前の出る幕《まく》じゃ  」
「――下がるのは、あなたの方だと思いますけれど?」
言いかけた言葉《ことば》は、美夏《みか》たちの後ろから聞こえてきた穏《おだ》やかな声に遮《さえぎ》られた。
「どう考えても、理屈《りくつ》ではあなたの方が分《ぶ》が悪いと、私は思いますよ」
「お、お前……何でここに」
驚愕《きょうがく》の表情で声がした方向を見る春香《はるか》父。
その視線《しせん》の先には……なんか、春香にそっくりな女の人が立っていた。何だ、だれだ、あれ? 女の人は、俺を見るとにっこりと笑いかけてきた。
「こんにちは。ええと、あなたが裕人《ゆうと》さんね。いつも春香や美夏によくしてくれているって聞いています。どうもありがとう」
「あ、いえ、こちらこそ」
女の人の和《なご》やかな雰囲気《ふんいき》に、状況《じょうきょう》も忘《わす》れてつい呑気《のんき》に挨拶《あいさつ》を返してしまう。
「……あの、春香のお姉さんですか?」
春香たちに姉がいたなんて話は聞いたことないが、とりあえず当てはまりそうな人物としてはそれくらいしかいない。あるいは従姉妹《いとこ》とか。
「あらあら、ありがとう。うふふ」
俺の質問に春香そっくりの女の人は上品に笑い、そして。
「はじめまして。わたくし、乃木坂秋穂《のぎざかあきほ》と申します。そこにいる春香《はるか》と美夏《みか》の母[#「母」に傍点]です」
そう、言った。
「――は?」
「以後《いこう》、お見知りおきをお願いしますね、裕人《ゆうと》さん」
一瞬《いっしゅん》、何言ってんだか分からなかった。
……
…………
………………ハハ?
………………ハハって――母ぁ!?
「はい」
目の前のお姉さん――春香母がにこやかにうなずく。
「そ、そんな……」
どう見たって二十歳《はたち》かそれくらいにしか見えないぞ?
「ん〜、お母さん、童顔《どうがん》だから」
いつの間《ま》にか俺の隣《となり》にやって来た美夏が笑う。いやこれはもう童顔とかそういうレベルじゃない気がするんだが……
「さて――あなた」
呆然《ぼうぜん》というかほとんど愕然《がくぜん》とする俺の隣で、春香母――秋穂さんが春香父の方へと向き直った。
「あ、秋穂……」
「いいかげん、認《みと》めてあげたらどうですか? 正当性《せいとうせい》はどう見ても春香たちの方にあると思いますよ」
「う、うるさい、お前は余計《よけい》なことを――」
「……余計なこと?」
秋穂さんの周囲《しゅうい》の温度が、すっと下がったように思えた。
「春香は私の娘です。その私が春香のことを気にするのは当然《とうぜん》のことだと思いますけど。……違《ちが》いますか?」
「い、いや、それはその通り……だ」
その静かだけどどこか有無《うむ》を言わせない雰囲気《ふんいき》に、春香父は明らかに気圧《けお》されているように見えた。ヘビに睨《にら》まれたカエルならぬ、マングースに睨まれたキングコブラって感じだ。
秋穂さんは続ける。
「あなただって、心の中ではもう分かってらっしゃるのでしょう。春香の方が、裕人さんの仰《おっしゃ》ったことの方が正しいと」
「う、ぐ、それは……」
「信じてあげましょう。私にはあにめ≠竍まんが%凾フことはよく分かりませんけれど、それでも春香《はるか》が自分で選んだモノ、初めて自分からやり始めたモノです。私たちがそれを信じてあげなくてどうするのですか?」
「……そ、そんなこと、お前に言われなくても分かっている」
「あらあら、それならよろしいのですけど」
「ぐ……」
にこやかに微笑《ほほえ》む秋穗《あきほ》さん。
――勝負あり、だ。
登場から僅《わず》か五分で、あの春香父を完全に沈黙《ちんもく》させてしまっていた。
「ね、だから言ったでしょ。無敵《むてき》の最終兵器を連《つ》れてくるって」
「……確かに」
こりゃ無敵だ。春香父相手に、これ以上に頼《たよ》りになる人もいまい。
「さて、それでは私たちはこれで戻《もど》るとしましょう。お騒《さわ》がせしてごめんなさいね。――あ、そうそう、春香」
「は、はい」
「あなたも、夜までには一度お屋敷《やしき》に戻ってきてね。久しぶりに会えたのだから、色々と話したいことがあるの。――そう、あなたが初めて夢中《むちゅう》になったことの話とか、ね」
なぜかちらりと俺の方を見て、ぱちりとウインク。
それを見た春香が、恥《は》ずかしそうにこっくりとうなずいた。
「うん、じゃ、また後でね。――裕人《ゆうと》さんもごきげんよう」
そう柔《やわ》らかく言うと、秋穂さんはのんびりと去っていった。うーむ、すごい人だったな。
「……色々と騒がせたな」
残った春香父が、俺たちに向かって頭を下げた。
「そのことについては、謝罪《しゃざい》しよう。確かに私も頭に多少血が昇《のぼ》っていたし、大人気《おとなげ》ないとこうもあった。キミたちへの暴言《ぼうげん》も、悪かったと思っている」
「あ、いえ……」
ついさっきまで怒《いか》り狂《くる》った阿修羅《あしゅら》みたいだった人に、いきなりこんな神妙《しんみょう》になられると拍子《ひょうし》が抜ける。
「こちらこそスミマセンでした。その、俺も言い過ぎましたし……」
「……気にしておらん」
「……」
その割には、顔がすげえ怖《こわ》いんですが。
「……これは地だ」
……そ、そうなんだ。
「では私も屋敷《やしき》へと戻《もど》る。――お前たちも、行くそ」
春香《はるか》父の声とともに、黒服たちはこちらに向けて目礼《もくれい》すると、軍隊のように規則《きそく》正しく動き出した。
春香父を先頭にずらりと並《なら》んだ黒服。……客観的《きゃっかんてき》に見たら、間違《まちが》いなくマフィアのボスとそのファミリーのお通りといった感じである。
「――ああ、そうだ」
玄関《げんかん》から出て行く前に、春香父は一度|振《ふ》り返《かえ》り、俺の目をじっと見た。
「な、何か?」
「うむ、これだけは言っておこうと思ってな。私もこれまで色々な人間と接《せっ》してきたが……私に、あんな風《ふう》に正面《しょうめん》から自分の意見を言った者は、キミが初めてだ」
「え、はあ……」
「今時の高校生など取るに足らん軟弱者《なんじゃくもの》ばかりだと思っていたが……ふっ、なかなかいるところにはいるものだな。ころにはいるものだな。綾瀬裕人《あやせゆうと》、か。その名前、覚《おぼ》ておくそ」
さらばだ、と言い残し、春香父は今度こそ振り返ることなく、道路のど真ん中に着陸させてあったあった軍用[#「軍用」に傍点]ヘリ(しかもミサイル付き……)に乗り込んでいった。
……最後まで、色んな意味でコワイ人だった。
「良かったね。おに〜さん、お父さんに気に入られたみたいだよ」
美夏《みか》が能天気《のうてんき》に笑う。
「お母さんは最初からおっけ〜だし、残る関門《かんもん》はお祖父《じい》ちゃんくらいかな? これでまた一歩、お義兄《にい》さんへの距離《きょり》が近づいたね♪」
「……」
色々と突っ込みたいことはあるが、今は非常に疲《つか》れた気分なので後回《あとまわ》しにしよう。
「……ふう」
何にせよ、これで終わりだ。
昨日から立て続けに起きた様々なイベント&トラブル(夏こみ、家出、お泊《と》まり、襲撃《しゅうげき》)で息《いき》をつくヒマもなかったが、これでようやくゆっくりと休める。
と、思ったのだが。
「……ん、そういえば美夏たちは何でまだここに? 帰らないのか?」
てっきり、春香父たちといっしょに行くものかと思ったんだが。
すると美夏は。
「ん、帰んないよ? だってこれからおに〜さんの家に泊まるんだし」
「……は?」
「だってお姉ちゃんたちばっかりズルイじゃん。わたしたちだって、お泊まり会したいもん。
ね、那波《ななみ》さん」
「はい」
にっこりとうなずくメイドさん。「ズルイです〜」
「いや、でもそう言ってもこっちにも都合《つごう》が……」
「ウチなら構《かま》わんぞ。そこのチビっ子たちも乃木坂《のぎざか》さんの関係者なのだろう? ならば私に異論《いろん》はない」
「もちろん私もおっけ〜よ」
ルコと由香里《ゆかり》さんがそんなことを言う。
その横で春香《はるか》が。
「私たちは夜にはお屋敷《やしき》に一度|戻《もど》りますので、美夏《みか》たちのことをよろしくお願いしますね」
と、付け加えた。笑顔《えがお》で。
「んじゃ、決まりだね、おに〜さん」
「お世話《せわ》になります〜」
「うむ、入るがいい。また今晩も鍋《なべ》にしよう」
「お鍋お鍋〜♪」
「……」
……どうやら。
俺がゆっくりと休めるのは、まだまだだいぶ先のことらしい。
夏休みの最終日。
俺は春香《はるか》の部屋《へや》にいた。
「……」
「……」
「……」
「どうしたんですか、裕人《ゆうと》さん? そんなにきょろきょろとして」
「……いや、ずいぶん変わったなと思って」
周《まわ》りを見渡《みわた》す。
相変わらずバカみたいに広い部屋。中心に置かれた巨大なグランドピアノと天蓋《てんがい》付きのべッドこそ以前と変わらないものの、その周辺状況《じょうきょう》は大きく変わっていた。
壁《かべ》に貼《は》られたポスター。ピアノの上に置かれた蒼髪《そうはつ》少女のフィギュア。本棚《ほんだな》には『イノセント・スマイル』のバックナンバーやコミックなどがずらりと並《なら》んでいる。
「……」
色んな意味で、すっかりカラフルな部屋になっていた。
いやまあこれもこれで春香の部屋らしいっちゃらしいんだが。
そしてベッド脇《わき》のサイドボードの上には……なんか、どでかい宝箱のようなモノがどん! と置かれていた。まるでゲームや映画に出て来るような鍵穴《かぎあな》付きの立派《りっぱ》な宝箱。一般家庭ではまずお目にかかれない代物《しろもの》である。
「……春香、アレは?」
部屋に現れ始めたアキバ系グッズとは、また別の意味で浮《う》いている一品。現代芸術の最先端《さいせんたん》を行くオブジェかなんかなんだろうか。気になって訊《き》いてみると。
「え、宝箱ですが……」
との答えが返ってきた。
というか、まんまだった。
「えと、あの中には、特にお気に入りなモノが入っているんです。『ねこばすてい』の本も入っていますし、アキハバラで買っていただいたはにトラポーズ≠フふいぎゅあも入っています。もちろんあの時の思い出の『イノセント・スマイル』も……」
「……」
つまりは文字通りアキバ系グッズの宝庫[#「宝庫」に傍点]ってわけか。
しかし本当に変わったな、この部屋――
あの日――春香父がウチに乗り込んできた日――の夜、乃木坂邸《のぎざかてい》では話し合いが行われたらしい。
参加者《さんかしゃ》は春香《はるか》、秋穂《あきほ》さん、春香父、葉月《はづき》さん。
議題はもちろん春香の趣味《しゅみ》(アキバ系)の現状と今後のことについてである(ちなみに美夏《みか》と那波《ななみ》さんはその頃《ころ》、ウチではしゃぎながら鍋《なべ》を食べていたため不参加だった)。
話し合いは、二時間ほどに及《およ》んだらしい。
だけど結果《けっか》は、春香にとって良い方向へと転《ころ》んだようだった。
話し合いを終えて、葉月さんとともにウチへ戻《もど》ってきた春香の最初の言葉《ことば》。
『やりました裕人《ゆうと》さん! 勝訴《しょうそ》ですっ!』
秋穂さんの口添《くらそ》えもあり、春香の趣味は、他の習い事や学業に支障《ししよう》を及ぼさないという条件付きで、ほぼ全面的に認《みと》められることとなったらしい。喜ぶ春香の横で、葉月さんがそう淡々《たんたん》と説明をしてくれた。
そしてそれから二週間ほどが経《た》ち。
春香の部屋《へや》は、俺が今|目《ま》の当たりにしているように、カラスアゲハのサナギが成蝶《せいちょう》になるがごとき華麗《かれい》な(?)変貌《へんぼう》を遂《と》げたのだった。
「まさか、自分のお部屋にポスターを貼《は》ったり、ふいぎゅあを置いたりする日が来るなんて、夢にも思いませんでした」
嬉《うれ》しそうに春香が言う。
「これも裕人さんのおかげです。――本当に、色々とありがとうございました」
「いや俺は別に何も」
ほとんどは秋穂さんのおかげだろう。
「いいえ、それは違《らが》います」
春香はふるふると首を振《ふ》った。
「確かに決定打となったのはお母様の言葉《ことば》かもしれません。だけど、あの時に裕人さんがお父様に意見をしてくださらなかったら……お父様もそう簡単《かんたん》には私のことを認めてくれなかったと思います」
「うーん……」
それはどうだろうね。あの秋穂さんなら、別に俺の言葉なんてなくても、春香父を納得《なっとく》させてしまっていたに違いない。無敵《むてき》の最終兵器だし。
「――それに、それだけじゃないです」
「え?」
春香が小さくつぶやく。
そして、少しためらうようにしてこう続けた。
「私は裕人さんの言葉が一番嬉しかったです。私のために……言ってくれた言葉が。アレのおかげで、勇気が出たんです」
「なっ……」
「ほんとに、「ほんとに、裕人《ゆうと》さんは王子様みたい。ロンドンの時もそうだし、私が助けてほしいって思った時にはいつも助けてくれる。――あの、これからも、期待《きたい》していいですか?」
「え、あ……」
言ってから、春香《はるか》の顔がかーっと赤くなった。
「あ、わ、私、何を言ってるんだろう。ご、ごめんなさいっ、つい調子《ちようし》に乗って変なことを……」
「い、いや……」
「……」
「……」
そのまま二人して黙《だま》り込《こ》んでしまう。
「……」
「……」
かちこち……という時計の秒針の音がやたらと大きく耳に響《ひび》いてくる。
「……」
「……」
どれくらいそうしていただろう。
覚悟《かくご》を決めて、俺は口を開いた。
「――前に、言っただろ」
「え?」
「俺はいつだって春香の味方《みかた》だって。だから春香が困《こま》ってたら、いつだって助けてやる。もちろんこれからだって――」
「ゆ、裕人さん……」
春香がじっと俺の顔を見る。
あー、何だか俺、春香の前では恥《は》ずかしい台詞《せりふ》ばかり言ってるような気もするな。
カタログ露出《ろしゅつ》事件≠フ時もそうだし、この前の春香父と相対《あいたい》した時もそうだ。さかのぼれば六年前のあの出会いの時にも、かなり恥ずかしいことを言ってたような覚《おぼ》えがある。
――まあ、でもいいか。
俺が恥ずかしい台詞を言うことで春香が笑ってくれるんなら、それはそれでいい気もする。
春香の笑顔《えがお》に比べれば、俺の恥辱《ちじょく》プレイなんてお安いもんだ。
「う、嬉《うれ》しいです……」
と、そう言う春香の目から涙《なみだ》がぽろぽろとこぼれた。
「は、春香?」
「あ、あれ、どうしてだろ? 嬉しい時でも、涙って出るものなのでしょうか……?」
「春香《はるか》……」
俺はそっと春香に近づき、その肩《かた》に手をがけようとして――
「あきゃあっ!」
――突然《とつぜん》、ガタガタドサリという音が背後《はいご》で響《ひび》いた。
「あいたたたた……那波《ななみ》さん、押《お》さないでよ〜」
「ですが〜、ちょうどいいところだったので〜。葉月《はづき》さんもそう思いますよね?」
「……私は、特に」
ミニマムツインテール娘とにっこりメイドさんがドアの下にころりと転《ころ》がっていて、それを無ロメイド長さんが静かに見下ろしていた。
そしてその後ろには。
「うー、ごほんごほん」
「まあ、青春ですわね。うふふ」
苦虫《にがむし》を百匹くらい噛《か》み潰《つぶ》したような表情の春香父と、穏《おだ》やかな微笑《ほほえ》みを浮《う》かべる秋穂《あきほ》さん。
「…………」
つまりこの人たち、さっきからずっとドアの向こうで俺たちの会話を聞いていたと?俺の恥《は》ずかしい台詞《せりふ》も?
「ごめんなさいね。盗《ぬす》み聞《ぎ》きをするつもりじゃなかったの。でも何だかとっても良い雰囲気《ふんいき》だ
ったから入《はい》り辛《づら》くて。うふふ」
そう言う秋穂さんの瞳《ひとみ》の奥には、イタズラっぽい光が浮《う》かんでいた。表情もどことなく楽しげである。……美夏の性格がだれの遺伝《いでん》なのか、少しだけ分かったような気がするな。
「……勘違《かんちが》いしないでくれたまえ」
こっちは春香父。
「確かに私は春香の趣味《しゅみ》を認《みと》めた。そしてそれを後押ししたキミのことも少しは認めている。
……だがな、キミたちの交際《こうさい》まで認めたわけではないのだぞ。クラスメイトとして春香と接《せっ》するのならば大目にも見よう。だが交際となればまた話は別で――」
「も〜、またお父さんはすぐそうゆうこと言う〜。こないだはおに〜さんのことすごく褒《ほ》めてたクセに」
起き上がった美夏が頬《ほお》を膨《ふく》らませた。
「ぬ、いやあれは……」
「わたし知ってるんだからね〜。家でお酒飲みながらお母さんといっしょにおに〜さんのこと褒めてたこと」
「う、ぐ……」
言葉《ことば》に詰《つ》まる春香父。なんか思ったよりも家族内ヒエラルキーが低そうである(……俺と同類《どうるい》?)。
あーだこーだと言い合う春香《はるか》父と美夏《みか》の隣《となり》で、
「こういう素直《すなお》じゃない人ですけれど……」
秋穂《あきほ》さんがふんわりと笑い、ぺこりと頭を下げた。
「私ともども、これからもよろしくお願いしますね、裕人《ゆうと》さん」
「あ、はい、こちらこそ秋穂さん」
「――あ、そうそう」
そこで秋穗さんは、何かに気付いたかのように顔を傾《かたむ》け。
「私のことはお義母《かあ》さん≠ニ呼《よ》んでくださって結構《けっこう》ですから」
そう言って、再《ふたた》びにっこりと笑ったのだった。
最後の台詞《せりふ》の中に少しばかりあり得《え》ない響《ひび》きが聞こえたような気がしたのは俺の気のせいだろうか。気のせいってことにしておこう。
まあこうして。
色々と(本当に色々)あったが。
俺たちの夏休みは、無事《ぶじ》に終わりを迎えたのだった。
[#地付き]END
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あとがき
こんにちは、五十嵐雄策《いがらしゆうさく》です。
おかげさまで、二巻を出していただけることとなりました。
本書の第一話は「電撃hp」34号、第二話は35号に掲載《けいさい》されたものを加筆修正《かひつしゅうせい》したもの、第三話、四話、及びプロローグ、エピローグは書き下ろしとなっております。
一巻の時と同様、基本コンセプトは「できる限《かぎ》り読みやすくかつ楽しいお話」です。今回もその試《こころ》みが少しでも成功していると感じていただければ、私としては嬉《うれ》しい限りです。
あ、それと今回、初めてファンレターというものをいただきました。
温《あたた》かい応援《おうえん》の言葉《ことば》から素敵《すてき》なイラストまで色々あって、日々の雑事《ざつじ》で微妙《びみょう》に疲《つか》れた私の心を、野原に咲く一輪《いちりん》の小さな花のように優しく癒《いや》してくれました。何だかいまいち分かりにくい比喩《ひゆ》でアレですが、やっぱり読んでくださる方たちがいるからこそ自分はこうやってお話を書いていられるんだな〜と、心の底《そこ》から感じた瞬間《しゅんかん》でした。本当にありがとうございます(ぺこり)。
現在は色々と立て込んでおりまして、今すぐにお返事というわけにはいかないのですが、いずれ何らかの形でお返しができたら――と思っています。
以下はお世話になった方々に感謝《かんしゃ》の言葉を。
前回に引き続き、様々な面でご面倒《めんどう》をおかけしました担当編集の和田様と三木様。お電話をいただく時の七割が昼寝中という草食動物のような新人ですが、これからもよろしくお願いします。
イラストのしゃあ様。今回はイラスト以外の面でも微妙に色々とお世話《せわ》になっていたりいなかったり。えっと、何を言っているのかは本編を読んでいただければ分かると思います。ありがとうございました。
また本編でお名前を使わせていただいたサークルの皆様にも、この場を借りて深くお礼を申し上げたいと思います。
そして最後になりますが、何よりもこの本を手に取ってくださった皆様に最大限の感謝を。
それではまた再《ふたた》びお会いできることを願って――
[#地付き]二〇〇五年三月末日 五十嵐雄策