乃木坂春香の秘密
五十嵐雄策
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)乃木坂春香《のぎざかはるか》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)完全|無欠《むけつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「みなさん」に傍点]
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クラスメイトの乃木坂春香《のぎざかはるか》は完全|無欠《むけつ》である。
いやいきなりこんな頭の悪そうな表現で始めるのもアレなのだが、それは事実なのである。もう厳然《げんぜん》たる事実なのである。
背中《せなか》まで伸ばされたサラサラの髪《かみ》。ぱっちりとした二重まぶた。少し垂《た》れ気味《ぎみ》の目には澄《す》んだ瞳《ひとみ》。そのどこか凛《りん》とした雰囲気《ふんいき》ともあいまって、町を歩けばたぶんすれ違《ちが》った男の百人に百人がだらしない顔をして振《ふ》り返《かえ》るだろうな。かくいう俺もその一人だったり。何せ去年、一年生にしてミス白城《はくじょう》学園にダントツのトップで選ばれ、その時以来『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』の二つ名で呼《よ》ばれたりしているくらいである。この一年の間に告白して玉砕《ぎょくさい》した野郎の数が三|桁《けた》を越《こ》すとか、学園長までもが会員の秘密《ひみつ》ファンクラブがあるとかいうのもあながちウワサだけではないかもしれん。
とはいえ、これだけならそう珍《めずら》しいものではない。どんな学校にも必《かなら》ず一人はいる単なるアイドル的|存在《そんざい》というやつである。全国を探《さが》せば同じようなヤツが何十人何百人と見付かることだろう。
だが乃木坂春香のすごいところは、その特筆《とくひつ》すべき点が容姿《ようし》のみにとどまらないことにあった。
まず性格《せいかく》がいい。
しっかりとした大人びた性格で、だれに対しても分《わ》け隔《へだ》てなくにこやかに穏《おだ》やかに接《せっ》する。まさに白百合《しらゆり》が咲くような雰囲気とでもいうか。何にせよ、美人は性格が悪いという定説《ていせつ》をひっくり返してくれる貴重《きちょう》な実例である。
続いて頭がいい。
一年前、入学してすぐに行われた実力テストでは全教科九割以上という驚異《きょうい》の得点をたたき出し二位以下に大差をつけての学年トップという離《はな》れ業《わざ》をやってのけ、それ以来今に至《いた》るまで常にトップをキープし続けている。凡人《ぼんじん》とは根本的に頭の出来《でき》が違うっていうか……彼女と比べれば、きっと俺たちの脳《のう》ミソなんてスカスカの豆腐《とうふ》みたいなもんなんだろうな。
加えて教養《きょうよう》もある。
日舞《にちぶ》に生け花、茶道に書道。彼女が幼い頃《ころ》から習っている稽古事《けいこごと》の数は優《ゆう》に十を超えるというが、その全てにむいて類稀《たぐいまれ》な才能《さいのう》を発揮《はっき》しているというから驚《おどろ》きである。中でも最も得意とするピアノは、もはやプロ並《な》みの腕前《うでまえ》だとそっちの道ではもっぱらの評判《ひょうばん》だとか。今もクラスの皆の前で優雅《ゆうが》に鍵盤《けんばん》の上に指を躍《おど》らせているその姿《すがた》を見れば、それも納得《なっとく》である。
さらに彼女は手先も器用《きよう》で、英検一級の資格《しかく》を持っていたり、とある流派《りゅうは》の古武術《こぶじゅつ》の師範代《しはんだい》だったり、実家が代々続く貿易商《ぼうえきしょう》であるお嬢《じょう》様であったり……何というか、天は二物《にぶつ》を与《あた》えずという言葉《ことば》に真正面《ましょうめん》からケンカを売ってかつ完膚《かんぷ》なきまでに完全勝利したみたいなヤツである。
しかし。
そんなほとんど完璧《パーフェクト》超人みたいな乃木坂春香《のぎざかはるか》にもたった一つだけ弱点、というか秘密《ひみつ》があった。
ただし今のところその秘密を知っているのは俺しかおらず、それゆえに俺は彼女と個人的に関《かか》わりを持つことになり、結果《けっか》今まで足を踏《ふ》み入《い》れたことのなかった世界へと半ば強制的に引きずり込まれていくことになるのだが――
などと考えていると、そこで彼女の演奏が終わった。
「はい。今のがベートーヴェンのピアノソナタ第二十三番『熱情』の第三楽章です。模範《もはん》演奏は乃木坂春香ちゃんでした〜。ありがとう、春香ちゃん」
音楽担当の上代由香里《かみしろゆかり》先生(二十三歳彼氏募集中)の声に一斉《いっせい》に拍手《はくしゅ》が巻き起こる。それに対して控《ひか》えめに、しかし見る者全てをとろかすような微笑《びしょう》で乃木坂春香は応《こた》えた。うーん、何だか見ているだけで幸せな気分になってくる。そのあまりの可憐《かれん》さに、普通《ふつう》の男子は言うに及ばず、普段《ふだん》はジョークを聞いてもにこりともしない最高裁判所裁判官のような生真面目《きまじめ》クラス委員の森田《もりた》までもがメガネの向こうの目をだらしなく細めてるし。さらには女子すらもが、妬《ねた》みの要素《ようそ》のない、純粋《じゅんすい》な尊敬の眼差《まなざ》しを彼女に送っている。天使の笑顔《えがお》ってのはああいう彼女みたいなのを言うんだろうな、きっと。
そこで、ふと彼女と目が合った。南アルプスを流れる天然水《てんねんすい》みたいに澄《す》んだ瞳《ひとみ》。彼女は俺を見ると、周《まわ》りに気付かれないようにこっそりとこっちに向かって手を振《ふ》った。他のクラスメイトたちに向けるものとは少し異《こと》なる親しみのこもった笑顔《えがお》と共に。
うーん、やっぱりかわいい。
思わず頬《ほお》が緩《ゆる》む。
こんなことは、少し前までの俺たちにはあり得《え》ない、それこそ紅《あか》いブタが飛行機に乗って空を飛ぶくらいにあり得なかった光景《こうけい》である。少し前とは、すなわち俺が乃木坂春香の秘密を知るまでは。
だって彼女の秘密を知るまでは、俺と乃木坂春香はただのクラスメイト――それも向こうは学園のアイドル、かたや何の変哲《へんてつ》もないただの一学生――でしかなく、まともに口をきいたことすらなかったのだから。
始まりを思い出す。
僅《わず》か三ヶ月くらい前のことなのだが、今となってはもう遠い昔のことのようにも感じられるな。それはたぶん、俺が乃木坂春香と知り合ってからの時間の密度《みつど》があまりにも濃《こ》かったせいだろう。
そう。
始まりは放課後の図書室での出来事《できごと》。
俺が、乃木坂春香の秘密を知ってしまったあの日のちょっとした事件。
あの日以来、平凡平坦《へいぼんへいたん》な学園生活は終わりを告《つ》げ、俺たちのある意味|奇妙《きみょう》な関係は始まったのだ。
そして。
乃木坂春香《のぎざかはるか》の秘密《ひみつ》とは――
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1
その日も別に、普段《ふだん》と同じ昼休みだった。
私立|白城《はくじょう》学園高校二年一組の教室で、俺はいつもと同じようにそれなりに仲の良いクラスメイト(永井《ながい》、竹浪《たけなみ》、小川《おがわ》、通称《つうしょう》三バカ)たちといっしょに昼メシを食いながら、他人が聞いたら死ぬほどどうでもいいような内容の会話を繰《く》り広《ひろ》げていた。
「――だからよ、俺は思うわけだ。女子の体育時の服装《ふくそう》は、絶対《ぜったい》にブルマの方いい。半ズボンなんて邪道《じゃどう》だ。外道《げどう》だ。人でなしだ。違《ちが》うって言うヤツは日本国民じゃねえ」
「そうですね。ボクもそう思います」
「ああ、そうだな」
永井の主張に小川と竹浪の二人がふんふんとうなずく。
「裕人《ゆうと》、お前はどう思うよ?」
「え、いや俺はどっちでも……」
本当に心の底《そこ》からどうでも良かったので俺はそう答えた。
「どっちでもだと? そういう曖昧《あいまい》な態度《たいど》が今の日本をダメにしてるんだ! だいたいお前は普段からそうやって適当《てきとう》でいいかげんだからなあ――」
「綾瀬《あやせ》くんはいつも極《きわ》めて対症的《たいしょうてき》ですよね。その何事にも流される主体性のない性格《せいかく》、直さないと今に痛《いた》い目を見ることは必定《ひつじょう》ですよ」
「そうそう。そんなんだからお前はダメなんだよ。このコウモリ野郎が!」
三人|揃《そろ》って、んなことを言いやがる。はっきり言って余計《よけい》なお世話《せわ》だ。まあ確かに俺が適当で大雑把《おおざっぱ》でいいかげんな性格であることは(自分で言うのも悲しいが)全くもって否定《ひてい》出来《でき》んのだが、真剣《しんけん》な顔でブルマうんぬん言ってるヤツらにだけは言われたくない。
「まあ、いい。今はとりあえず俺たちのディベートを聞いてろ。そしてそれらを踏《ふ》まえた上でお前はお前の立ち位置を決めればいい。それでまずはブルマの視覚的利便性《しかくてきりべんせい》についてだが――」
まったく、揃いも揃ってアホばっかである。
心の中でため息《いき》を吐《つ》きつつ、俺は何気《なにげ》なく教室を見回した。そこにあるのはいつもと同じ風景《ふうけい》。皆食事を摂《と》るなり、友達と喋《しゃべ》るなりして思い思いの時間を過ごしている。それはどこにでもある、ありふれた昼休みの教室のワンシーンだった。
そんな中、どうしても俺の視線《しせん》は廊下側《ろうかがわ》のある席《せき》に吸い寄せられてしまう。動物園のサル山が行儀《ぎょうぎ》良く見えるくらいに雑然《ざつぜん》とした雰囲気《ふんいき》の教室にあって、そこだけどこかゆったりと落ち着いた空気が流れているかのような不思議《ふしぎ》な空間。
その中心には、『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』の名を冠《かん》された美少女がいた。
クラスメイトの乃木坂春香《のぎざかはるか》である。
もう食事は終わったのか、少し首を傾《かたむ》けて穏《おだ》やかな表情で左手に持った文庫のようなものに目を落としている。時折その白くて細い指でページを繰《く》る姿《すがた》はもう何ていうか最高に絵になっていて、果《は》てしなく頭の悪い表現で言えばめちゃくちゃかわいかった。清楚《せいそ》で可憐《かれん》なお嬢《じょう》様ってやつのこれ以上ないくらいの完璧《かんぺき》なお手本とでも言おうか、何だか見ているだけで心が洗われるような気さえしてくる。マイナスイオンでも放出《ほうしゅつ》してるのかもしれん。
ヤキソバパンを頬張《ほおば》りながら(永井《ながい》たちのディベートとやらは完全に無視《むし》して)その姿にしばし見惚《みと》れる。うーむ、癒《いや》されるね。至福《しふく》の時間っていうのはこういうことを言うんだろうな、きっと。
などとのんびり考えながらちょっとだけ幸せな気分に浸《ひた》ること数分。
平穏《へいおん》はすぐに終わりを告《つ》げた。
廊下《ろうか》の方から何やら聞《き》き覚《おぼ》えのある声が近づいてくるのが聞こえた。この大してでかくない割にはムダによく通る声。たぶんというか間違《まちが》いなく信長《のぶなが》だな。またアホが一人来たかと、心の中で今日二度目のため息《いき》……を吐《つ》く。
「裕人《ゆうと》、いるー?」
そんな俺の予想《よそう》を裏切《うらぎ》ることなく、ほどなくして見慣《みな》れた顔が教室の入り口に姿を現した。色素《しきそ》の薄《うす》い髪《かみ》に小柄《こがら》な体型《たいけい》、一見《いっけん》すると女子と間違えてしまいそうな美少年風の男子生徒。ヤツは俺の姿《すがた》を目に留《と》めるなりこう叫《さけ》びやがった。
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「あー、いたいた。ねー裕人《ゆうと》、昨日の深夜《しんや》にやってたアニメ、見たー? 僕はねー、標準《ひょうじゅん》モードで録画しつつリアルタイムでも見たんだよー。やっぱりこれが正しい鑑賞《かんしょう》方法だよねー」
その大声に教室中の視線《しせん》が集中するが、その発生源が信長《のぶなが》だと分かると皆|一様《いちよう》に納得《なっとく》した表情でそれまでやっていた動作に戻《もど》った。まあ何というか、ヤツはもうそういうキャラとしてクラス内、いや学年内ですでに認知《にんち》されているのである。
「ねー、見てないのー? 昨日の『はにかみトライアングル』。来週で最終回なんだけど、クライマックスの一歩手前で主人公の親友がねー……あー、今からDVDが出るのが待ち遠しくてたまんないなー。ちゃんと予約しとかないと。何たって初回|限定版《げんていばん》にはヒロインの『ドジっ娘《こ》アキちゃん』のフィギュアが――」
こちらに駆《か》け寄《よ》ってくるやいなや、一人ベラベラと、見た目からはおよそ想像《そうぞう》もつかない内容を心から楽しそうに喋《しゃべ》り始《はじ》めるこの男。名前を朝倉《あさくら》信長という。俺とは幼稚園の頃《ころ》からの付き合いにしてクサレ縁《えん》の代表格。まあ……いちおう親友と言って差《さ》し支《つか》えのない存在《そんざい》である。性格は基本的には明朗快活《めいろうかいかつ》。だれとでもすぐに仲良くなれる。成績は割と優秀で、得意科目は物理と数学。で、今とさっきの言動からも分かるように少しばかり偏《かたよ》った趣味《しゅみ》の持ち主だったりする。いわゆるオタク趣味……昨今《さっこん》でいうアキバ系ってやつか。まるで戦国|武将《ぶしょう》二人を掛《か》け合《あ》わせたようないかつい名前と、それに似《に》つかわしくない優男《やさおとこ》な外見《がいけん》、そしてまた名前とも外見とも似つかわしくないコアな中身という非常に複雑というかまぎらわしい特徴《とくちょう》を持ったヤツである。
「裕人もねー、あれ見ないのはほんとに損《そん》だよ。もともとは雑誌|連載《れんさい》されてるマンガがアニメ化されたやつなんだけど、本編の前日談っていうのかな、なぜ主人公とその親友が対立し合うに至《いた》ったかのその理由がねー……」
「あー、分かった分かった」
とりあえず黙《だま》らせる。こいつにそのまま喋らせておくとそれこそ昼休みが全部|潰《つぶ》れかねん。実際《じっさい》、過去に一度そんなことがあった経験を踏《ふ》まえての対応《たいおう》だ。
「何だよー、人がせっかく気持ち良く喋ってるのに感じ悪いなー」
「人の教室に来るなり自分の趣味を一方的に喋り続けるお前の方がよっぽど感じ悪いわ」
「そうかなー、でもみんな好きでしょ? こういう話」
「お前個人の価値観《かちかん》に普遍性《ふへんせい》を持たせるのはやめてくれ」
「えー、でも裕人は好きだよね?」
「俺はどっちでもない。いつも言ってるだろ」
好きでもなければ嫌《きら》いでもない。肯定《こうてい》する気はないが否定《ひてい》する気もない。俺がこいつの趣味に、アキバ系というモノに対して抱《いだ》いている印象《いんしょう》だ。いや、それよりもよく分からないと言った方が正解か。まあ要するに、イイ歳して何でそんなに熱心にアニメとかを見る気になるんだろうな……と素直《すなお》に疑問に思ってしまうのである。しかしここまで趣味《しゅみ》が違《ちが》うこいつと何で親友なんだろうな、俺。
「うーん。でも裕人《ゆうと》には素質《そしつ》があると思うんだけどなー」
何の素質だ。
「僕にしては最高の褒《ほ》め言葉《ことば》のつもりなんだけどー。あ、それよりそうだ、裕人、大ニュースがあるんだよー」
「大ニュース?」
こいつの言うことだから、どうせロクなことじゃないような気がするが。
「んー、ほら、僕がこの前|探《さが》してた雑誌あったよね? あれのバックナンバーがようやく図書室に入荷《にゅうか》されたんだってー。図書室っていいよねー。労力を惜《お》しまないでちょっと申請書《しんせいしょ》を出すだけで、今は個人じゃ入手|困難《こんなん》なレア本も読み放題《ほうだい》。この学園、某所《ぼうしょ》からの寄付金のおかげで資金《しきん》だけは有り余ってるからさー。ブタもおだてりゃ木に登るってほんとだねー。わーい」
無邪気《むじゃき》な笑顔《えがお》でそんなことを言う信長《のぶなが》。
雑誌って……そういえばこの前何かひどく怪《あや》しげなタイトルのやつを頼《たの》んでたな。あれでよく学園側の許可《きょか》が下りたもんだ。
「……申請書|偽造《ぎぞう》でもしたのか?」
と疑惑《ぎわく》の眼差《まなざ》しを向けると、
「失礼だなー。そんなことしてないってー」
さも心外《しんがい》だって顔で信長は頭を振《ふ》った。そして胸《むね》を張《は》ってこうのたまった。
「ただちょっと、脅《おど》しただけだよー」
なお悪いわ!
しかし俺の突っ込みなんざヤツはこれっぽっちも聞いちゃいない。
「それに『イノセント・スマイル』って、その筋《すじ》じゃちょっとは有名な雑誌なんだよー。昨日のアニメだってもともとはこれに連載《れんさい》されてるやつだしー。そんなに昔のことじゃないから裕人も覚《おぼ》えてると思うけどさー、創刊号が発売された時なんかちょっとした社会|現象《げんしょう》になったくらいで――」
と、再《ふたた》びうんちくモードに入ろうとしたその時、
ガタン、という大きな音が教室内に響《ひび》いた。
聞こえてきたのは教室の中央を挟《はさ》んで俺たちがいるのとは反対側から。もう少し具体的に言えば廊下際《ろうかぎわ》の後ろから二番目の席《せき》。それはついさっきまで俺がだらしない視線《しせん》を送っていた場所であり、ある意味このクラスで最も騒音《そうおん》などというものとは無縁《むえん》の場所である。……本来ならば。
だがその場所では今、乃木坂《のぎざか》さんが立ち上がって俺たちの方を凝視《ぎょうし》していた。その足元にはイスが横向きで転《ころ》がっている。たぶんさっきの音はそれが原因《げんいん》だろうな。
教室がシン、と静まり返っていた。それはいつも深い湖のように落ち着いている乃木坂《のぎざか》さんの表情に、僅《わず》かに動揺《どうよう》のようなものが浮《う》かんでいるのが見て取れたからかもしれない。
「ね、ねえ乃木坂さん、どうしたのかしら?」
「わ、分かんない。私たち、何もしてないよね?」
「何か綾瀬《あやせ》くんたちの方を見てるけど……」
そんな囁《ささや》きも漏《も》れる。
うーむ。
もしかして俺たち、何かやっちまったか?
身に覚《おぼ》えはこれっぽっちもないんだが、それでもあの乃木坂さんに満員電車で痴漢《ちかん》を発見した女性警察官みたいなキツイ視線《しせん》でじっと見つめられると、何だかこっちが一方的に悪いことをしているように思えてくる。クラスのやつらも皆、お前ら何やったんだよ? って目でじぃっとこっちを見てるし。
「裕人《ゆうと》ー、どうするのー? 何か注目されてるよー」
「そ、そうだな……」
原因《げんいん》として考えられるのは、信長《のぶなが》の大声がやかましくて読書の邪魔《じゃま》をしちまったってことくらいか。まあ俺はもう慣《な》れたとはいえ、趣味《しゅみ》について語ってる時のこいつの声はほんとに半端《はんぱ》じゃなくウルサイからな……。静かに読書をしていた乃木坂さんの気に障《さわ》ったとしても何ら不思議《ふしぎ》じゃない。
とすれば非《ひ》はこっちにあることになる。
だったらここはちゃんと謝《あやま》っておくべきだろう。
クラス中が固唾《かたず》を呑《の》んで見守る中、俺は意を決して乃木坂さんの席《せき》へと歩み寄り、
「えーと、うるさくして、ごめんなさい」
ぐっと頭を下げる。すると乃木坂さんは途端《とたん》にはっとしたような表情になった。
「あ、いえ、違《ちが》うんです。頭を上げてください。その、あなたたちを責《せ》めているわけじゃないんです」
「?」
でも、こっち見てたよな?
「い、いえいいんです。と、とにかく何でもなくて……ごめんなさい、お騒《さわ》がせしました」
それだけ言うと礼儀《れいぎ》正しくぺこりと一礼して、何事もなかったかのようにイスを起こし、乃木坂さんは席に着いた。
だが俺たちには何が何だかさっぱりである。
「何だったんだろうねー」
「分からん……やっぱりお前がうるさかったんじゃないのか?」
「僕はそんなにうるさくないよー」
と大声で抗議《こうぎ》する本末転倒《ほんまつてんとう》なやつは放《ほう》っておいて、俺は何だかキツネにつままれたような気分で乃木坂《のぎざか》さんを見た。『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』の端正《たんせい》な横顔には、まだちょっとだけ動揺《どうよう》が残っているようにも見えた。……ほんとに何だったんだろうな。
ちなみに余談《よだん》であるが、信長《のぶなが》の来襲《らいしゅう》から乃木坂さんの動揺に至《いた》るまでの間、永井《ながい》たちはそれらに毛ほども動じることなく、熱《あつ》いブルマ談義《だんぎ》に花を咲かせていた。マイペースというか単なるバカというか……確実に後者《こうしゃ》だな。
……いや、ほんっとにどうでもいい話だが。
そして特に何の問題もなく五時間目と六時間目も終わり。
その日の放課後。
俺は図書室に向かって歩いていた。
なぜかというと信長のヤツが、
「裕人《ゆうと》ー、悪いんだけど僕の代わりにこの本、図書室に返却《へんきゃく》しといてくれないかなー? 裕人は放課後ヒマだよねー? 今日は僕、ワンフェスの攻略《こうりゃく》マップを作んなきゃなんないから忙《いそが》しいんだよー」
などと言いくさったからだ。……ったくワンワンフェスだか何だか知らんが(犬の祭典《さいてん》か何かか? でもあいつが飼《か》ってるのはネコだったよなあ……)、それならそれで昨日のうちに返しときゃいいだろとか思いつつも、ヤツには普段《ふだん》から何かと世話《せわ》になっているため(教科書を忘《わす》れた時に貸《か》してもらったり、うちのパソコンが壊《こわ》れた時に直してもらったり色々と)渋々《しぶしぶ》ではあったが引き受けた。まあ確かに特に用事もないからいいんだけどさ。
と、そんなわけで普段はほとんど来ることがない図書室なんてところに来てみたわけだが。
さて話には聞いていたが、うちの学園の図書室の利用率の低さは見事《みごと》だった。閑古鳥《かんこどり》が五十羽くらい大声で鳴《な》いているという表現がぴったりで、俺を含《ふく》めても片手で数えられるほどしか人がいない。学園側としては一人でも多くの生徒に快適《かいてき》に利用してもらおうと、コンピュータ管理《かんり》による貸し出しシステムの構築《こうちく》やゆったりとした閲覧《えつらん》スペースの導入《どうにゅう》、幅広《はばひろ》いジャンルの書籍《しょせき》の購入《こうにゅう》などの試《こころ》みを行っているそうなのだが、いかんせん活字|離《ばな》れが著《いちじる》しい現代っ子には馬の耳に念仏《ねんぶつ》というか何というか、とにかく学園側の熱意が見事に空回りに終わっていることだけは間違《まちが》いなかった。かくいう俺も普段は図書室なんて昼寝以外にほとんど利用したことがないため大きなことは全く言えないんだが。
ま、何にせよ人が少ないなら手続きもさっさと済《す》ませることが出来《でき》そうだ。
管理用のパソコンがあるカウンターに向かい、ちゃちゃっとキーボードを操作《そうさ》して返却手続きを行う。貸し出し及び返却手続きは全てパソコンでやらなければならないため少々めんどくさい(信長|曰《いわ》く慣《な》れれば人を相手にするより早いらしい)が、まあこれくらいの手間《てま》に文句《もんく》なんて言っていたらこの文明社会では生きていけまい。働かざる者食うべからず。管理《かんり》番号と生徒番号を打ち込んで、っと……よし完了。最後に返却《へんきゃく》ポストに信長《のぶなが》のヤツが借りた本(ちなみにタイトルは『美少女フィギュアコレクションV 球体|関節《かんせつ》の歴史』。ほんと、うちの学園は寛容《かんよう》である)を投げ入れてミッションコンプリート。さて帰るか。
と、出口に向かおうとした時だった。
「…………」
怪《あや》しい人物を発見した。
何ていうか、すげえ怪しい人物だった。
だって持っているカバンで顔を隠《かく》しながら、まるでどこぞの忍《しのび》の者か暗殺者《あんさつしゃ》みたいに、本棚の陰《かげ》から陰を隠れるように移動《いどう》しているのである。しかも女子生徒。これを怪しいと言わずして何を怪しいと言おうか(反語《はんご》)。……何だあれ? どうも姿《すがた》を隠しているつもりらしいが、あのナリと動きじゃ逆《ぎゃく》に見てくれって言ってるようなもんだ。それともほんとは注目してほしいのだろうか。
何にせよああいうのには関《かか》わらないのが吉。キジも鳴《な》かずば撃《う》たれないし、余計《よけい》な好奇心《こうきしん》を持たなければネコも殺されることはないのである。何も見なかったことにして俺がその場から立ち去ろうとした瞬間《しゅんかん》。
ちらりと、本棚の陰から不審《ふしん》人物の顔が見え。
一瞬《いっしゅん》、自分の目を疑《うたが》った。
珍《めずら》しく図書室なんかに来たせいで、脳《のう》が拒絶反応《きょぜつはんのう》を起こして幻覚《げんかく》でも見せたのかと思った。
「……」
なぜなら。
そこにあったのは、これ以上ないくらいに見覚《みおぼ》えのある顔だったから。
「あれって……」
……乃木坂《のぎざか》さんだよな?
相変わらず不審な動きをしながら辺《あた》りの様子《ようす》をきょろきょろと窺《うかが》っているその顔は、信じられないが確かに乃木坂|春香《はるか》だった。遠くからでもそのクレオパトラみたいに整《ととの》った顔立ちはまず間違《まちが》えようがない。だけど何だって乃木坂さん、あんな怪しげな動きを?
そんな俺の疑念《ぎねん》にも、それどころか俺の存在《そんざい》にすら気付いていない様子の乃木坂さんは、まるでこれから他人様《ひとさま》のバイクを盗《ぬす》んで夜の街に走り出そうとしている十五歳みたいな神妙《しんみょう》な面持《おもも》ちで俺の隣《となり》にあるもう一台の管理用パソコンまでやって来ると、何やら急いで操作《そうさ》を始めた。傍《かたわ》らに雑誌みたいなものが置かれているのが少しだけ見えるから、おそらくは貸し出し手続きをやっているんだろうが。
カタカタと、キーボードを叩く音が聞こえる。
やがて手続きも無事《ぶじ》に済《す》んだのか、乃木坂さんは一仕事を終えたドイツの職人《しょくにん》みたいな晴々《はればれ》とした表情でモニターから顔を上げた。そして出口へと足を向けようとして。
俺と目が合ったのはその時だった。
「……」
「……」
しばし、時が止まった。
「……」
「……」
「え……ど、どうしてここに?」
どうしてって、それは俺が聞きたい。てかそんなUMAでも見るみたいに驚《おどろ》かんでも。そりや確かに俺と図書室なんかで出会う確率《かくりつ》は、ビッグフットとの遭遇率並《そうぐうりつな》みに低《ひく》いかもしれんがさ。
「い、いつからいたんですか?」
「えーと、ちょっと前から」
「み、見ましたか?」
「?」
何を?
「その、私が何を借《か》りたのか――」
「ああ、いやそこまでは見てないけど……」
「そ、そうですか、ほっ」
なぜか辛《から》くもリストラ対象《たいしょう》から外《はず》された中年|管理職《かんりしょく》みたいな安堵《あんど》の表情を見せる乃木坂《のぎざか》さん。
「?」
「あ、い、いえ大したことじゃないんです。どうか気にしないでください。えっと、確か綾瀬《あやせ》さんですよね。そ、それじゃ私はこれで」
失礼します、と慌《あわ》てつつも優雅《ゆうが》な仕草《しぐさ》で頭を下げて、乃木坂さんは出口へと歩き出す。だが俺の方に気を取られていたせいか、その進行方向に閲覧用《えつらんよう》のイスとテーブルがあるのに全く気付いていなかった。
「あ……乃木坂さん、そっちは――」
「え!?」
結果《けっか》。
ガラガラガッシャーン。
ハデな音と共に、乃木坂さんはイスとテーブルを巻《ま》き込《こ》んで盛大《せいだい》に転《ころ》んだ。それはもう年に一度あるかないかという、思わず拍手《はくしゅ》をしたくなるほどの、これ以上ないくらい完膚《かんぷ》なきまでに見事《みごと》な転びっぷりだった。
「い、いた……な、何でこんなところにイスが……」
何でと言われても最初からそこにあるものはどうしようもないような。てか、いつも落ち着いて冷静沈着《れいせいちんちゃく》な乃木坂《のぎざか》さんらしくない失態《しったい》である。何かあったかのかな。弘法《こうぼう》も筆《ふで》の誤《あやま》り?
何にせよ放《ほう》っておくわけにもいかないので、とりあえず倒《たお》れている乃木坂さんに手を貸《か》す。ある意味|自業自得《じごうじとく》だろうが、さすがに目の前で転《ころ》んでいる女の子(それもあの乃木坂|春香《はるか》である)を助けないのは礼儀《れいぎ》に反する。これでも俺は全国|紳士《しんし》検定二級の取得者《しゅとくしゃ》なのだ。知らんけど。
「あ、す、すみません」
目を丸くする乃木坂さんを立たせて、俺は床《ゆか》にばらばらと散《ち》らばった彼女の私物と思われるモノに目を遣《や》った。あーあ、ハデにやったもんだな。それらを拾い集めようと手を伸ばそうとした瞬間《しゅんかん》――
「だ、だめですっ!」
信じられないような絶叫《ぜっきょう》が木霊《こだま》した。辺《あた》りの空気が家族|団欒《だんらん》の食事中に突然テレビでベッドシーンが始まった時みたいに一瞬《いっしゅん》だけ凍結《とうけつ》する。いや、ダメって何ですか? まさかあなたなんかの汚《きたな》い手で私の持ち物に触《ふ》れるなと? ……なわけないよなあ。お嬢《じょう》様だけど、乃木坂さんはそういうキャラじゃないはずだし。
「?」
乃木坂さんの制止の意味がよく分からなかったので、俺は構《かま》わずに落ちている雑誌を拾い上げようとした。
「だ、だからだめですってば!」
すると乃木坂さん、何やら必死《ひっし》の形相《ぎょうそう》でぱたぱたと、割り込むように俺の足元にある雑誌に手を伸ばしてきた。
だが。
「えっ?」
その進路上には、彼女の所有物《しょゆうぶつ》である数学のノートらしきものがあり――
「え、えっ!?」
見事《みごと》と言っていい命中率《めいちゅうりつ》で、彼女の足はそのノートの上に着地し――
「えっ、えっ、えっ!?」
勢いよく踏《ふ》み出《だ》された足は、間にノートを挟《はさ》むことによって、床との摩擦《まさつ》による制限から限りなく解放《かいほう》され――
「きゃあああっ!!」
そして、乃木坂さんの身体がきれいな円を描《えが》いて宙《ちゅう》を舞《ま》った。一回転したその先には……本棚《ほんだな》があった。
ガラガラガラガッシャーン!
さっきとは比べ物にならないほどの壮絶《そうぜつ》な音と共に、乃木坂《のぎざか》さんのフライングボディアタックを食らった本棚《ほんだな》があえなく倒《たお》れる。さらに倒れた本棚がその横にある本棚をなぎ倒し、さらにその本棚が隣《となり》の……という具合に、ドミノ倒しよろしく次々と本棚が倒れていく。
全ての本棚が倒れきるまでに、さして時間はかからなかった。
「……」
一瞬《いっしゅん》にして、図書室は見るも無惨《むざん》な廃墟《はいきょ》へと変《か》わり果《は》てていた。
えーと。
何が起こったんだか、理解《りかい》がついてこなかった。
目の前にあるのは、全ての本がぶちまけられ果てしなく悲惨《ひさん》な状態《じょうたい》になった図書室と、思いっきり本棚に激突《げきとつ》しておきながらなぜかほとんどケガのなさそうな乃木坂さん、そして床《ゆか》に散《ち》らばった彼女の私物。
……俺、ここで何してたんだっけ?
一瞬《いっしゅん》ほんとに分かんなくなりかけたが、床に散乱《さんらん》している荷物《にもつ》を見て何とか思い出せた。ああ、そういや乃木坂さんの荷物を拾い集めようとしてたんだっけな。
乃木坂さんの方はとりあえず大丈夫《だいじょうぶ》そうだったので、俺は彼女の荷物集めを再開《さいかい》すべく一番手近にあった、すなわち足元に落ちたままであった雑誌を拾い上げ――
「……」
――そして何となく、乃木坂さんの絶叫《ぜっきょう》及び困惑《こんわく》の意味を理解した。
「……」「……」
そこには、遺伝子学的《いでんしがくてき》にあり得《え》ないほど蒼色《あおいろ》の髪《かみ》を風になびかせ、生物学的にあり得ないほど大きな瞳《ひとみ》に数多の星を輝《かがや》かせている女の子が、スカートの裾《すそ》を指でちょんと摘《つま》んで微笑《ほほえ》んでいるアニメ絵のイラストがあった。
その下には、過剰《かじょう》に装飾《そうしょく》された黄色の太字で『イノセント・スマイル』と書かれている。
「えっと……」
言葉《ことば》に詰《つ》まる。これって……確か信長《のぶなが》が言ってたやつだよな。でも何で乃木坂さんがこんなモノを――
だがしかしそれ以上のことを考えるヒマは与《あた》えられなかった。
直後に、俺の耳に信じられない音が飛び込んできた。
「う……うっ……ぐす…み、見られた。見られちゃいました」
それが乃木坂さんの泣《な》き声《ごえ》だと理解した時には、すでに状況《じょうきょう》は俺の手ではどうしようもないものになりかけていた。
騒《さわ》ぎを聞きつけたのか、辺《あた》りにはもう何人かのギャラリーが集まってきている。
「も、もうオシマイです……ぐす……」
そう声を漏《も》らす乃木坂さん。
いやむしろこの状況《じょうきょう》では、オシマイなのは果《は》てしなく俺の方な気がするが。
周囲《しゅうい》の視線《しせん》がものすごくイタかった。放課後の図書室というロケーションということもありそこまでギャラリーは多くないのだが、それでもたまたまその場に居合《いあ》わせた四、五人の生徒がまるで金を貢《みつ》がせるだけ貢がせた挙句《あげく》別れ話を切り出して女を泣《な》かせているダメ男でも見るようなイヤーな視線でこちらを眺《なが》めている。
「何あれ? 痴情《ちじょう》のもつれ? ごにょごにょ……」
「さあ? でも男の方も大した顔してないのによくやるわ。ぼそぼそ……」
「本棚《ほんだな》もあの人が暴《あば》れて倒《たお》したのかしら? こそこそ……」
「あれって一組の綾瀬《あやせ》くんだよね? ひそひそ……」
なーんて囁《ささや》きまで聞こえてきたりして。せめてもの救《すく》いと言えば、泣いているのがあの乃木坂春香《のぎざかはるか》だとはまだ気付かれていないことくらいか。
「捨てないでって懇願《こんがん》する女の子を突き飛ばして、ついでに本棚まで倒したんだって」
「うわ、何それ。サイアク」
「女の敵《てき》よね」
「ダメ男」
ひどい言われっぷりである。
まあ客観的《きゃっかんてき》に見れば確かに俺が乃木坂さんを泣かしているように見えなくもない。というかそれ以外の何でもないだろう。ものすごく不本意《ふほんい》ながら。
何にせよ一つだけ確かなことは。
これ以上この場に居続《いつづ》けようものなら、明日には俺の名前が(悪い意味で)学校中に轟《とどろ》いているだろうことは間違《まちが》いないということだった。
そういうわけで。
逃《に》げるが勝ちの先人《せんじん》の偉大《いだい》なる教えに従《したが》って(もう遅《おそ》いかもしれんが)、俺は床《ゆか》に散《ち》らばっている荷物《にもつ》を電光石火《でんこうせっか》の勢《いきお》いで拾い集め、そしていまだに泣いている彼女の腕《うで》を取ると、逃げるように――いや実際《じっさい》逃げるのだが――図書室を出た。後ろからは、
「あ、逃げた」
「誘拐《ゆうかい》?」
「愛の逃避行《とうひこう》?」
「前者でしょ。火を見るよりも明らかに」
なんていうありがたい声が聞こえてきやがった。うう。何だって犯罪者《はんざいしゃ》扱《あつか》いまでされないといけないんだ。何も悪いことはしてないのに。
などと俺まで泣きたい気分になってきたが、女の涙《なみだ》は真珠《しんじゅ》であるが男のそれはただの塩水である。ナメクジは溶《と》かせるかもしれんが他には何の役にも立たない。
しかし……何だってこんなことになったんだか。
どこか人目につかない場所を探《さが》しながら、俺は心の中で出荷《しゅっか》直前の食肉牛よりも重たいため息《いき》を吐《つ》いたのだった。
そんなわけで。
ダメ男や犯罪者《はんざいしゃ》呼《よ》ばわりされながら辛《から》くも図書室からの脱出《だっしゅつ》に成功した俺、というか俺たちは、現在|屋上《おくじょう》にいた。落ち着いて話が出来《でき》、かつ人目がないところなど、俺のキャパシティの少ない頭ではここくらいしか思いつかなかったのだ。
乃木坂《のぎざか》さんはいちおう泣《な》き止《や》んでいた。泣き止んではいたのだが……ただ今にも死にそうな顔で、呆然《ぼうぜん》としたまま肩《かた》をふるふるとチワワみたいに震《ふる》わせている。その姿《すがた》はいつもの完璧《かんぺき》な『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』である乃木坂さんとはほど遠く、あまりにも弱々しいものであり、ああ乃木坂さんってこんなに小さかったんだっけなんてことを考えたりもして。
ともあれ、普段《ふだん》はあんなに落ち着いてしっかりしている乃木坂さんをここまで混乱《こんらん》の極《きわ》みに陥《おとしい》れた原因《げんいん》だが、まあ一つしかないだろうな。
俺の左手に抱《かか》えられた『イノセント・スマイル』。
さっきは突然《とつぜん》のことで俺も何が何だか分からなかったが、少し落ち着いて考えてみれば何だってあんなに乃木坂さんが取り乱したのかがよく分かる。
まあつまり。
「乃木坂さんって……アキバ系だったんだな」
俺の言葉《ことば》に、塞《ふさ》ぎこんでいる乃木坂さんが一瞬《いっしゅん》だけぴくっと反応《はんのう》する。やっぱビンゴか。ふむ、なるほど。道理《どうり》で昼休みに信長《のぶなが》の発した『イノセント・スマイル』の単語に反応《はんのう》したわけだ。……なんて冷静《れいせい》に分析《ぶんせき》してる場合じゃないな。
乃木坂さん、すげえ沈《しず》んでるし。
どうも乃木坂さん、自分がアキバ系であることを知られたのが相当《そうとう》ショックだったみたいだ。まあ確かに意外《いがい》ではあるし、世間《せけん》一般においてマイノリティに属する部類の趣味《しゅみ》ではあることは否定《ひてい》出来んが、普段からこのテのモノは信長の部屋《へや》で腐《くさ》るほど(比喩《ひゆ》ではなく)見ているせいもあり、実のところ俺はそんなに抵抗《ていこう》を感じていなかったりする。
「あのさ、乃木坂さん」
なので俺はフォローすることにした。
「……はい」
死んだシーラカンスみたいな目。
一瞬|怯《ひる》む。
「あー、今日見たことは、俺|忘《わす》れるからさ」
「え?」
それまで萎《しお》れた花みたいだった乃木坂《のぎざか》さんの表情に、ようやく少しだけ生気《せいき》が戻《もど》る。
「なんつーか、別に俺は乃木坂さんがそうでも全然気にならないんだが……でも乃本坂さんは知られたのがショックだったんだろ? だから、今日のことは忘《わす》れる。だれにも言わないし、乃木坂さんの前で蒸《む》し返《かえ》すこともないから、心配《しんぱい》しないでいい」
「……」
俺の台詞《せりふ》を、鹿《しか》が目の前でハンターに散弾銃《さんだんじゅう》を乱射《らんしゃ》された時みたいなぽかんとした顔で乃木坂さんは聞いていた。あれ、そんな変なこと言ったか、俺?
「……」
しばらくの間乃木坂さんはそのまま静止《せいし》していた。ぴくりとも動かなかった。うーん。これはネジでも巻《ま》いてやらないとマズイかなとか思い始めた時に。
「あの……綾瀬《あやせ》さんは、私のことバカにしないんですか? 変な目で見ないんですか?」
そう言った。
「変な目? 何で?」
「だって……その、あの、こういう趣味《しゅみ》に対して、大抵《たいてい》の人は否定的《ひていてき》な感情を向けるものです。だから――」
何かヤな思い出でもあるのか、ちょっと辛《つら》そうに乃木坂さんはそう言った。否定的ね。まあその言葉《ことば》はある程度《ていど》は真理《しんり》をついているかもしれんが――
「乃木坂さんの言ってることは分からないでもないけどな……でもそういった趣味を持ってても普通《ふつう》のやつは普通のやつだし、そうじゃなくたって変なやつは変なやつだ。少なくとも俺はそれだけで人の全てを判断《はんだん》しようとは思わないぞ」
信長《のぶなが》なんかがいい例だろう。あいつは真性のアキバ系であり性格《せいかく》も少々……いやかなり変わってはいるが、それでもけして悪いヤツじゃない。そうでなきゃいかにクサレ縁《えん》だからって十年以上も友好関係が続くわけがないし。
「で、でも……」
納得《なっとく》がいかないという顔の乃木坂さん。うーん。どう言えばいいんだろ。
「だからさ、そういう趣味があったって乃木坂さんは乃木坂さんだろ? それが変わるわけじゃないんだから、別にいいじゃん」
「私は……私?」
乃木坂さんがつぶやいた。
「ああ。アキバ系だなんて言ったって結局《けっきょく》は趣味の一つにすぎないんだし。要《よう》はそいつの性格に付いたオマケみたいなもんだと俺は思う。そのオマケが少し人と違《ちが》ってたって、そんなのその人のちょっとした個性の一部にすぎないだろ。人としての肝心《かんじん》なモノはもっと根っこの方にあるんじゃないのか? それに……」
「……それに?」
「んー、うまく言えないけど、乃木坂《のぎざか》さんにもそういう意外《いがい》な一面があるって分かって、何か新鮮《しんせん》っていうか……」
「え……」
「何か乃木坂さんを少し身近に感じた気がして嬉《うれ》しかったっていうか……」
乃木坂さんの顔が完熟《かんじゅく》トマトみたいに真っ赤になる。
まあ自分で言っていて果《は》てしなくお気楽《きらく》な台詞《せりふ》のような気もするが、でも実際《じっさい》これは俺の正直な気持ちなんだからしかたないだろ。
だけど乃木坂さんは、ものすごく真剣《しんけん》な目で聞いていた。
「そんなことを言ってくれた人は……初めてです」
そりゃあそうだろう。俺だってこんな機会《きかい》じゃなきゃ『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』にこんなことはとても言えまい。畏《おそ》れ多くて。
「ま、とにかくそういうことだから。あんまり気にしない方がいいと思うぞ」
何か乃木坂さんは固まったままだったので、俺は雑誌を渡《わた》すと、軽く彼女の肩《かた》を叩《たた》いて屋上《おくじょう》を後にした。そのまま階段を下りて、昇降口で靴《くつ》を履《は》き替《か》え、校門を出る頃《ころ》に至《いた》ってようやく自分の行動を振《ふ》り返《かえ》る余裕《よゆう》が出てきた。
……あの乃木坂|春香《はるか》に説教《せっきょう》をしてしまった。
今さらながらにとんでもないことをしちまったんじゃないかとちょっとだけ後悔《こうかい》。ものすごいクサイ台詞も言ってたような気がするし。てか、それまでほとんど話したこともなかったクラスメイトにいきなり偉《えら》そうに説教かますなんて俺の方がよっぽど変なヤツのような。まあ過《す》ぎたことを今さら言っても後のカーニバルなのだが。
ともあれ、こんなカタチで乃木坂春香と関《かか》わることは、もうあるまい。
何せ彼女は学校一の美少女であり成績学年トップの才媛《さいえん》であり日本でも有数のお嬢《じょう》様、かたや俺はこれといって特徴《とくちょう》のないごくごく普通《ふつう》の一般市民である。柄《がら》にもなく慌《あわ》てたり動揺《どうよう》したりする乃木坂さんを知って少しだけ身近に感じたりはしたんだが、しょせんは住む世界が違《ちが》う人間。本来|交《まじ》わることのない二本の線がほんの偶然《ぐうぜん》でたまたま重なり合ったにすぎない。それだけのことだ。
と、この時はそう思ってたんだが。
2
それからしばらくは、特に何事もなく平穏《へいおん》に過ぎていった。
乃木坂さんはいつもと変わらずお嬢様だったし、俺も俺で相変わらず適当《てきとう》な学園生活を送っていた。朝は遅刻《ちこく》ギリギリの時間に登校して、睡魔《すいま》と戦いながら授業を受けて、休み時間は永井《ながい》たちとだべりつつ、放課後は信長《のぶなが》のやかましいうんちくを聞きながらつるんでゲーセンに行ったりする。特に目標《もくひょう》とか将来の夢とかもなく、だらだらと何となく過ごす退屈《たいくつ》かつ予定|調和《ちょうわ》な日々。愛すべきルーチンワーク。
だけどそんな変わりばえのしない日々の中、一つだけ俺にとって変化があった。
それは。
何だかあの日以来、乃木坂《のぎざか》さんの姿《すがた》を目で追《お》ってしまうことが多くなったことだ。教室とかで、ふと気付くと彼女のことを見ている自分がいる。うーん、これは何なんだろうね。
「それはねー、恋だと思うよー」
「うおっ」
横からいきなり信長のアホ顔がにゅっと飛び出してきた。
「やっほー、裕人《ゆうと》。昼ご飯いっしょに食べようよー」
「お前……いつ来た?」
全然|気配《けはい》とか感じなかったぞ。
「ふふー、無音|移動術《いどうじゅつ》は僕の四十八ある特技の一つなんだよー」
……こいつとは十年以上の付き合いになるが、いまだにその全容を把握出来《はあくでき》ん。まあ把握したいとも思わんのだが。
それはともかく。
「恋ってどういう意味だよ、信長」
「どうもこうもそのまんまー。あ、錦《にしき》とか真《ま》とかが付く方じゃなくて、もちろんラヴの方だよー」
それくらい分かるわ。そうじゃなくてだな――
「でもねー、『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』はやめといた方が無難《ぶなん》だと思うよー」
相変わらず人の話なんて聞かずに、信長は隣《となり》の席《せき》からイスを持ってきて俺の正面《しょうめん》に座《すわ》り、マイペースで話を進め始める。
「何ていうか裕人には少し敷居《しきい》が高すぎるっていうかー、うーん、身分|違《ちが》いってやつ?」
「む」
「裕人は知らないと思うけどねー、入学以来約一年間で『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』に告白《こくはく》した人の数は男子七十八人に女子十六人、計九十四人で全校生徒の約二十パーセントだよー。んで玉砕数《ぎょくさいすう》もぴったり九十四人で撃墜率《げきついりつ》一〇〇パーセント。あれはすごいねー、ニュータイプもびっくりだしー」
いや……乃木坂さんが人気あるのは知ってたが、女子十六人って何だよ、女子って。それに何だってこいつはそんなに詳細《しょうさい》なデータを持ってやがる?
「これくらいの情報収集は現代に生きる者として当然だよー。ちなみに『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』のパーソナルデータもある程度《ていど》なら分かるよ。えっとー、乃木坂|春香《はるか》、十六歳、十月二十日生まれ、身長百五十五センチ、得意科目は全科目、苦手《にがて》科目はなし、家族構成は祖父《そふ》と両親、三つ年下の妹が一人――」
何やらポケットから手帳のようなモノを取り出しそんなことをつらつらと語る信長《のぶなが》。……こいつ、ストーカーか?
「あ、その変質者《へんしつしゃ》を見るみたいな目、失礼だなー。僕は生身《なまみ》の女の子になんか興味《きょうみ》ないんだよー。やっぱり女の子は二次元に限るしねー。その中でも最近はネコミミメイドさんが特にツボかなー」
そんなことまで訊《き》いてねえ。それに反論するところが明らかに違《ちが》うだろ。
「それにねー、今のご時世《じせい》、これくらい調べようと思えばだれでも簡単《かんたん》に調べられるんだよー。情報化社会っていいよねー。情報|保護《ほご》条例だプライバシーだなんて言っても、その気になれば結局個人情報なんて筒抜《つつぬ》けだしー。他にもだれかの情報が欲しい時にはいつでも言ってよー、うちの学園の生徒のことなら大抵《たいてい》分かるからー」
虫も殺さないような笑顔《えがお》でそう言う信長。
……恐《おそ》ろしいヤツだ。こいつだけは敵《てき》に回さないように気を付けよう。
「で、まあそんな感じだからさー、残念だけど裕人《ゆうと》が『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』にアタックしても九十九・九パーセントの確立で玉砕《ぎょくさい》すると思うんだよねー。聞いた話によると、ふられた人たちの中にはイケメンで有名なバスケ部キャプテンの佐々岡《ささおか》先輩《せんぱい》とかもいたらしいってよー。ま、この人、実はプチ整形《せいけい》なんだけどさー。でもそんな人でも取り付く島もないくらいにきっぱりと断《ことわ》られちゃってるらしいしー。だから裕人じゃねー」
「……憐《あわ》れむような目で人を見るな」
「いや裕人が悪いって言ってるんじゃないんだよー。ただ相手が悪すぎるっていうか、何しろ『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』はうちの学園最強だからねー。…………と、まあいちお忠告《ちゅうこく》はしてみたけどさー」
ちょっとだけ肩《かた》をすくめるような素振《そぶ》りをして、信長は笑う。
「でもでもー、裕人がどうしてもやるっていうなら僕は応援《おうえん》するよー。何てったって大事な幼馴染《おさななじみ》だしねー」
男で幼馴染って、何かイヤな響《ひび》きだな。いやそれより、
「……って、だからそもそも俺は乃木坂《のぎざか》さんにアタックするつもりなんてないんだっつーのに」
「そうなのー?」
そうなのも何も、最初からだれもそんなこと言ってない。
「まあ裕人がそう言うなら別にいいけどさー、でもこういう言葉《ことば》知ってるー?」
にやり、と珍《めずら》しく人をからかうような表情を浮《う》かべて、信長のヤツはこんなことを言いやがった。
「気になり始めが恋の始まり≠チて。ばーい朝倉信長《あさくらのぶなが》」
めちゃくちゃ語呂《ごろ》の悪い格言《かくげん》だった。てか、格言ですらないし。
信長のヤツにヘンなことを言われたせいで、それ以来|乃木坂《のぎざか》さんのことを目で追《お》ってしまう頻度《ひんど》がさらに高くなってしまった。授業中、休み時間、放課後、気付けば彼女の姿《すがた》を探《さが》してしまっているのである。我ながら、こりゃ重症《じゅうしょう》だな。
そしてそんなこんなでさらに何日かが過ぎ。
事件が起こったのは、あの日からちょうど二週間後の朝のことだった。
3
「あー、これから持ち物|検査《けんさ》を行う。各自、カバンの中身をよく見えるところに出すように」
担任《たんにん》の田鍋繁夫《たなべしげお》(三十八歳♂独身)の言葉《ことば》にクラス内が少しざわめいた。持ち物検査は抜《ぬ》き打《う》ちで行われるのが通例だが、それでもやはり抵抗《ていこう》があるんだろう。
「静かにしろー。それじゃあ今から回るんで、男子は私、女子は上代《かみしろ》先生に見せるように」
上代先生はうちのクラスの副担任であり、去年女子大を卒業したばかりのうら若き音楽教師である。先生ぶった偉《えら》そうなところがない気さくな人で生徒にも非常に人気がある。加えて美人だし、きれいだし、かわいいし、スタイルも……ご、ごほん。まあそれは余談《よだん》だが。
そんなことよりも、持ち物検査と聞いて一つ頭に引っかかったことがあった。
……まさかとは思うけど、乃木坂さん、あの本を持ってるなんてことないよな?
うちの学校の図書室の貸し出し期間は二週間。乃木坂さんがギリギリまであれを借りていたとすれば、返却日《へんきゃくび》はちょうど今日ということになる。いやしかしいくら何でもまさかそんな運の悪いことはあり得《え》ないだろ――
何気《なにげ》なく、俺は右|斜《なな》め後ろ遠くにある彼女の席《せき》を見た。
そこには、殺人事件の被害者《ひがいしゃ》みたいに蒼白《そうはく》な顔をした乃木坂さんがいた。
……うわあ、絶対《ぜったい》持ってるよ、この人。
それはもう明日も太陽が東から昇るのと同じくらいの確信だった。
「はい、それじゃみんな。すぐに終わるから、少しだけガマンしてね〜」
上代先生の指示《しじ》で女子が皆カバンの中身を机に出し始める。乃木坂さんも仕方《しかた》がないといった感じでそれに従う。教科書や楽譜《がくふ》に紛《まぎ》れて、二週間前に見たあの雑誌のようなものが机の上にちらりと見える。
さてどうするか。
しばし思考《しこう》。いや別にこのまま放《ほう》っておくっていう選択肢《せんたくし》もある。というか助けてやらなければならない必然性《ひつぜんせい》は特にはない。
でもなあ。
二週間前の乃木坂《のぎざか》さんの泣《な》き顔《がお》が頭をよぎる。俺に見られただけであんな死にそうな顔して泣いていたのに、それをクラス全員に見られようものならどういう風になるのか。うーむ、まるで想像《そうぞう》もつかない。だがどう考えても好ましい状況《じょうきょう》にはならないだろうってことだけは分かる。どうも乃木坂さん、いつもは完全|完璧《かんぺき》なお嬢《じょう》様な反面、不測《ふそく》の事態《じたい》ってやつに弱そうだし。
ま、仕方《しかた》ないか。たとえそれが泥舟《どろぶね》であろうとタイタニックであろうと、これも乗りかかった舟ってやつである。多少|力業《ちからわざ》になるが、相手は上代《かみしろ》先生だしまあ何とか出来《でき》ないこともなくはない。肯定《こうてい》の否定《ひてい》の否定は肯定。助ける手段《しゅだん》があるってのにみすみす何もしないってのも目覚《めざ》めが悪いしな。
俺は手を上げて言った。
「あの、急にバラが痛くなってきたんで、トイレに行ってきてもいいですか?」
「んー、何だ、朝から食いすぎか? まあ別に構《かま》わんぞ。お前の検査《けんさ》はもう終わっとるし。好きなだけどんと出してこい」
無自覚《むじかく》に微妙《びみょう》にデリカシーのないことを口にする田鍋繁夫《たなべしげお》三十八歳。微苦笑《びくしょう》があちこちから上がる。そんなんだからいまだに結婚出来ないんだと思うんだが。まあ別にいいけどな。俺はさも辛《つら》そうな風を装《よそお》って前傾《ぜんけい》姿勢《しせい》で教室の出口へと向かう。その途中《とちゅう》には……乃木坂さんの席《せき》がある。
「ちょっと悪い」
「えっ?」
すでに少し泣き出しそうだった乃木坂さんにだけ聞こえるようにそう言って、俺は床《ゆか》に置いてあるだれかのカバンにつまずいたフリをしてそのまま彼女の机に身体ごと突っ込んだ。
「え、え、きゃっ!」
机が倒《たお》れ、勢《いきお》いでその上にあった教科書や楽譜《がくふ》その他もろもろが床に散《ち》らばった。乃木坂さんが小さな悲鳴《ひめい》をあげ、一瞬《いっしゅん》だけ周囲《しゅうい》はちょっとした混乱状態《こんらんじょうたい》になる。
「乃木坂さん、大丈夫《だいじょうぶ》?」
「ちょっと綾瀬《あやせ》、さっさとどきなさいよ!」
「あんた、邪魔《じゃま》! 乃木坂さんから離《はな》れて」
辺《あた》りからはそんな台詞《せりふ》が響《ひび》く。……一人くらい俺の心配《しんぱい》をしてくれてもいいのに。
「あー、もう。何をやっているの綾瀬くん」
見かねたのか上代先生が駆《か》け寄《よ》ってきた。
「すいません。早くトイレに行こうと気が急《せ》いて、つまずいちゃって」
「気が急《せ》いて……ねえ。もう、いいから早く行ってきなさい。片付けはこちらでやっておくから」
「お願いします」
どこか含《ふく》みのある笑《え》みを浮《う》かべる上代《かみしろ》先生に頭を下げ、早足で教室を出た。
バラを押《お》さえたまま廊下《ろうか》を進みトイレに入る。さらに個室に入って鍵《かぎ》を閉めたところで周《まわ》りを確認。いや男子トイレの、それも個室を覗《のぞ》いている物好き(というか変態《へんたい》)なんているはずもないんだが、念《ねん》には念を入れてである。トイレ内にだれもいないことを確認して、俺は制服のハラの部分から長方形の物体を取り出した。言わずと知れた『イノセント・スマイル』である。蒼髪《そうはつ》の女の子の微笑《ほほえ》みがやけにまぶしい。よし、どうやら無事《ぶじ》回収《かいしゅう》に成功したみたいだな――
「……あれ?」
と思ったら、その下から何か出てきた。やたらと高価そうな青緑色の本。これって……楽譜《がくふ》か? そういえば乃木坂《のぎざか》さん、机の上にそんなもんも出してたような気も。どうも慌《あわ》てていたため余計《よけい》な物まで持ってきちまったみたいだな。
「フランツ=リスト作曲、メフィストワルツ第一番S514……」
何やらすごいタイトルである。悪魔《あくま》のワルツ? 中をちらりと見てみると、何が何だか分からないほどの数のオタマジャクシが乱舞《らんぶ》していた。うわ、すげえ。ピアノのことはアリンコ並《な》みによく分からんのだが、それでもこれが普通《ふつう》の高校生に弾《ひ》けるような代物《しろもの》じゃないことくらいは見た瞬間《しゅんかん》に理解《りかい》出来《でき》た。乃木坂さん、こんなとんでもないもんをやってるのか。さすがというか何というか。
改めて乃木坂さんの才能《さいのう》に感心し、俺はその分厚い楽譜を閉じようとして…………
…………閉じようとして、視界《しかい》の隅《すみ》にそれを見付けてしまった。
「……」
これは、イラストなんだろうか? 楽譜の端《はし》っこに血に飢《う》えた人喰《ひとく》いグマのようなすさまじく目付きの悪いキャラクターが指揮棒《しきぼう》のようなモノを手に立っていて、「ここは速《はや》く弾きすぎないように要注意♪」との台詞《せりふ》が、イラスト本体とは対照的《たいしょうてき》にやたらとかわいらしいフキダシ(ピンク色)の中に書かれている。
いやような≠ニ表現したのは、それが人喰いタヌキにも見えるし、人喰いイヌにも見えるし、出来|損《そこな》いのゴジラのようにも見えるからであり、さらに手にしているモノもサーベルにも見えれば特殊警棒《とくしゅけいぼう》のようにも見えるし、デッサンの狂《くる》ったライトセイバーのようにも見えるからである。
端的《たんてき》に言ってしまえば、ヘタクソだった。
絵心のある幼稚園児ならもうちょっとマシに描《か》けるんじゃないかってくらい、ヘタだった。
「……見なかったことにしよう」
色んな意味でそれが正解のような気がする。きっと、世の中には知らない方がいいことってのは存在《そんざい》するのだ。知らぬが仏。
ちょっとだけ諦観《ていかん》して、俺は静かに楽譜《がくふ》を閉じたのだった。
その日の放課後、俺は上代《かみしろ》先生に職員室に呼《よ》び出《だ》された。
どうも朝のあの時にやった小細工《こざいく》を見抜《みぬ》かれていたらしく、
「さて、あの時、何を隠《かく》したのかしら?」
青少年には少しばかり目に毒《どく》なすらりとした長い脚《あし》を組み替えながら、いきなりそんな質問をしてきた。まあ確かにあんな三文芝居《さんもんしばい》、この人相手ならばれていても不思議《ふしぎ》じゃない。さて何と答えようかと僅《わず》かに悩《なや》み、
「えー、隠したのは認《みと》めますけど、別に校則禁止品とかじゃないんですよ。一身上の都合《つごう》というか何というか、緊急避難《きんきゅうひなん》というか乙女の危機《きき》というか」
結局《けっきょく》、自分でも何言ってんだかよく分からないそんな返答を返すと、上代先生は契約《けいやく》を完了した小悪魔《こあくま》みたいににやりと笑った。
「ふーん、まあ裕《ゆう》くんがそう言うなら信じるけど。で、庇《かば》った相手は春香《はるか》ちゃん?」
「いや、それは」
「違《ちが》うの?」
「う……」
何か……全部お見通しみたいだな。さすが年の功《こう》、とか言うとおそらく本気で殴《なぐ》られるだろうから余計《よけい》なことは口にしないが。
「うんうん、みなまで言わなくていいから。そっか、そういうことならこの件は不問《ふもん》ということにしておきましょう。う〜ん、若いって、青春っていいわねえ。煌《きらめ》く青春、駆《か》け抜《ぬ》ける十代。あ〜私もあと五歳若ければな〜」
妙《みょう》に嬉《うれ》しそうに目をキラキラとさせる上代先生。何だか確実に勘|違《ちが》いしてる部分がある気がするのだが、説明してもスイッチが入ったこの状態《じょうたい》じゃあおそらく聞きゃあしないだろう。ムダな行動は控《ひか》えることにする。
「やっぱりね〜、若い頃《ころ》ってのは色々な経験《けいけん》をすべきだと思うのよ。二股《ふたまた》、三角関係、何でもありね。そういった経験がコヤシとなってやがて泥沼《どろぬま》の六角関係くらいに――」
そのまま五分が経過《けいか》。
ひとしきりあっちの世界に飛んで満足したのか、上代先生はもう一度その色っぽいおみ脚《あし》を組み替えて言った。
「うん。話はそれだけだからもう行ってもいいわよ。…………て、待った。もう一個あったの思い出した。ねえ裕くん、私の携帯《けいたい》どこにいったか知らない? 昼休みに楽譜を借《か》りに行ったあたりから行方《ゆくえ》不明なのよ」
「そんなもん俺が知るはずないじゃないですか……」
「そう? 実は裕《ゆう》くんが隠《かく》したとかない? ほら、好きな子にはついつい意地悪《いじわる》をしたくなっちゃうっていう思春期《ししゅんき》の男の子特有の心理《しんり》で――」
「激《はげ》しく否定《ひてい》します」
「そこまではっきり言われるとおねいさん、ちょっと傷付《きずつ》くわねえ」
「……」
ウソつけ、と小声で突っ込むと。
「うわ、ひどい言い草。ウソなんだけど。……それにしてもどこに忘《わす》れたのかしら。おかしいわねえ。ま、いいや。今日一日|探《さが》してみて見付からなかったら対策《たいさく》を考えましょう」
「適当《てきとう》ですね……」
俺が言えた台詞《せりふ》じゃないかもしれんが。
「そうかしら? う〜ん、にしてもキミと春香《はるか》ちゃんかあ……意外《いがい》と言えば意外なカップリングよね」
「いやカップリングって……」
話を戻《もど》されてしまった。しかもやっぱり間違《まちが》った認識《にんしき》だし。
「いいのよ、隠さなくても。おねいさんには全部分かってるって言ったでしょ?」
「だから隠す隠さないじゃなくてですね……相手はあの『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』ですよ? 俺なんかじゃ泣《な》きたいくらいに釣《つ》り合《あ》わないし、それにそもそもが全部|誤解《ごかい》なんですって」
しかし。
「身分|違《ちが》いの恋《こい》。ステキねえ……」
ダメだこりゃ。まったく……ほんとに人の話なんて聞きやしない。
「……相変わらずですね、由香里《ゆかり》さん」
さすが姉貴の友達だけのことはある。ま、並《な》みの神経《しんけい》じゃあの女の友達なんて務《つと》まらないってことか。……しかし、俺の周《まわ》りって何でこんな人ばっかなんだろうな。信長《のぶなが》しかり、三バカしかり、由香里さんしかり、姉貴しかり。類《るい》が友を呼《よ》んでるとは……考えたくない。
「こら、学校では上代《かみしろ》先生って呼びなさい」
自分は人のこと名前で呼ぶクセに……と一瞬《いっしゅん》思うのだが、
「私はいいのよ。セ・ン・セ・イだから」
などと茶目《ちゃめ》っ気たっぷりにウインクしながら言われようものなら、反論する気もなくなるってもんである。ま、とりあえず用事は済《す》んだみたいだしと教室に戻ろうとした俺に、由香里さんは部下のOLにセクハラするオヤジ中間|管理職《かんりしょく》みたいな顔で、実に楽しげにこんなことを言いやがった。
「今日は校医の斉藤《さいとう》先生は出張《しゅっちょう》だから、保健室のベッドは空《あ》いてるわよ〜。がんばれ、青少年〜!」
[#挿絵(img/01_060.jpg)入る]
職員室を出ると、乃木坂《のぎざか》さんが立っていた。
例えるならチューリップの花壇《かだん》に咲く一輪《いちりん》の白百合《しらゆり》のように、控《ひか》えめでありながらしかし他とは違《ちが》う確かな存在感《そんざいかん》を持って、静かにそこに佇《たたず》んでいた。
「あ……」
乃木坂さんは俺を見ると、頭の白いカチューシャをいじりながら何か言いたそうな顔で一歩前に出た。
少しの間、乃木坂さんは何かに迷《まよ》う素振《そぶ》りを見せたまま立《た》ち尽《つ》くしていたが、やがて決心がついたのか、
「あ、あの綾瀬《あやせ》さん――」
その桜色の唇《くちびる》を動かして何かを言おうとしたのだが、
「あれ、あそこにいるのってもしかして『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』じゃねえ?」
どこからか聞こえてきたそんな声にあっけなく遮《さえぎ》られた。
「え、どこだ?」
「ほれ、あそこあそこ」
見ると廊下《ろうか》の向こうで数人の男子生徒たちが、こちらをあからさまに指差しながら何やら話をしている。
「ほんとだ。ん……何か男に話しかけられてるみたいだぞ」
「ナニィ! 男だあ?」
男子生徒の一人が、殺気《さっき》だった声を上げる。
そういえば色々あって少しだけ忘《わす》れかけていたが、乃木坂《のぎざか》さんって有名人だったんだよな。それも超が付くほどの。その超有名人が職員室の前で深刻《しんこく》な顔をして男(俺だが)と二人きりで向かい合ってりゃあ、そりゃ目立つか。
「え、『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』がいるって?」
「男と?」
「なになに、何かあったの?」
男子生徒の叫《さけ》びが聞こえたのか、その辺を歩いていた他の生徒まで足を止めて、興味深《きょうみぶか》そうな目で俺たちをじろじろと眺《なが》め始《はじ》める。中にはわざわざ近くまで寄ってくるやつらもいるし。あっという間《ま》に俺たちは野次馬《やじうま》に囲《かこ》まれてしまっていた。
うーむ
恐《おそ》るべきは『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』の知名度《ちめいど》である。公共の場で二人でゆっくり話すことも許《ゆる》されないってわけか。プライバシーって言葉《ことば》がこれほど無意味に感じられたこともないな。まあ連中の興味は俺ではなく百二十パーセント乃木坂さんに向けられているわけであり、俺が偉《えら》そうに言える台詞《せりふ》じゃないんだが。
んなことを考えている間にも、野次馬の数はどんどんと増《ふ》えてくる。ざっと見ただけでも……こりゃすでに二、三十人はいるな。どこから集まってきたんだか。
何にせよ、これ以上この場に留《とど》まることは百害《ひゃくがい》あって一利《いちり》なしだった。こんなに人がいるところで話も何もあったもんじゃない。
ならば採《と》る手段《しゅだん》は一つである。
「乃木坂さん、行こう」
「え?」
生まれたてのカルガモみたいにきょとんとしている乃木坂さんの手を取って、俺はこの場から離脱《りだつ》すべく全速力で走り出した。何か俺、乃木坂さんといっしょにいる時は逃《に》げてばっかな気がするな。
「おい、何だあいつ、『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』と馴《な》れ馴《な》れしく手なんか繋《つな》ぎやがって!」
「何ぃ、手だと!」
人垣《ひとがき》をかき分けながら走っていると、野次馬の一角から罵声《ばせい》があがる。
「ちくしょう! 待ちやがれ!」
「許《ゆる》せねぇ……」
「くそ、てめぇ、顔は覚《おぼ》えたからな! 今度見かけたら簀巻《すま》きにして屋上《おくじょう》から吊《つ》るしてやる!」
なんて、すげえ物騒《ぶっそう》な台詞《せりふ》が聞こえてきたりもした。何かそいつらの額《ひたい》に『春香《はるか》様命〜星屑守護親衛隊〜』とか書かれた真っ赤なハチマキが巻かれていたように見えたのは、俺の目の錯覚《さっかく》だと思いたい。
……というか、錯覚であることを心から願います。
で、俺たちがやって来たのは、今回もまた屋上だった。
ただしあの時とは異なり乃木坂《のぎざか》さんは泣《な》いておらず、むしろ俺の方が半泣き状態《じょうたい》だったが。うう、まさかウワサだと思ってた秘密《ひみつ》ファンクラブが実在《じつざい》したとは。この分じゃ後で信長《のぶなが》に頼《たの》んで情報|操作《そうさ》をしてもらわなきゃなるまい。ヤツにムダな借《か》りを作るのはイヤだが、さもないとほんとに屋上から吊るされかねんからな。
殺人鬼《さつじんき》みたいな目をしてたファンクラブ員たちを思い出し憂鬱《ゆううつ》になる。
それにしても今さらながらに乃木坂さんの人気のすごさというものを思い知らされる一件だった。あの分だとファンクラブの会員数が三桁を超えているってのもおそらく事実だろう。三桁というと学園の総生徒の四分の一に近い数。つまり(女子も含めて)四人に一人は乃木坂さんのファンということになる。これって、ものすごいことだよな?
その乃木坂さんであるが、さすがに疲《つか》れたのか今は俺の隣《となり》で息《いき》を弾《はず》ませていた。ま、あんだけ走れば当然か。
とりあえず乃木坂さんが落ち着くのを待って、俺は口を開いた。
「えっと、何か話、あるんだよな?」
まあ何となく内容の想像《そうぞう》はついていたが。
「あ、はい。その、朝のことで……」
ようやく息を整《ととの》えた乃木坂さんが顔を上げる。
やっぱりそうか。考えてみれば、乃木坂さんがわざわざ俺なんかに声をかけてくる理由なんてそれくらいしか思いつかない。……自分で言っててちょっと切ないが。
「あー、あの時はいきなり突っ込んで、悪かった」
俺がそう言うと乃木坂さんはちょっと慌《あわ》てて、
「え? あ、ええ。それは良いんです。いえ、良くないのですけれど……」
どっちだ。
すると乃木坂さん、今度は突然《とつぜん》ヒヨコみたいに頭をぴょこっと下げた。いっしょにさらさらの髪《かみ》の毛が揺《ゆ》れて、柔《やわ》らかないい香《かお》りがふんわりと漂《ただよ》う。
「その……あの時はありがとうございました。私のこと、助けてくれたんですよね?」
「あー、まあ」
助けたというか単に放《ほう》っておけなかったというか。俺はいちおう乃木坂《のぎざか》さんの秘密《ひみつ》を知ってしまっているわけだし。
乃木坂さんがクスリと笑った。
「綾瀬《あやせ》さんって、いい人なんですね」
「いい人……」
女が男に向かっていい人と言う場合は大抵《たいてい》がどうでもいい人≠フ意味なので、何だか素直《すなお》には喜べない。もちろん今の乃木坂さんの言葉《ことば》にはそんな含《ふく》みはないんだろうが。
「とにかくお礼が言いたかったんです。綾瀬さんのおかげで、その、私が『イノセント・スマイル』を持っていることが知られないですみました。だから、本当にありがとうございました。そして……ごめんなさい。私のせいで呼《よ》び出《だ》されちゃったりして……」
再《ふたた》び頭を下げられる。
「いや別にそんな気にしないでもいいって。呼び出されたっていっても上代《かみしろ》先生なんだから」
「でも……」
「いいからいいから」
何度もそう言うとようやく納得《なっとく》してくれたのか、乃木坂さんはやっと頭を上げてくれた。
「綾瀬さんには、お世話《せわ》になりっぱなしです、私」
はにかんだ笑顔《えがお》を見せる乃木坂さん。うーん、何かそんな風に改《あらた》めてお礼ばっかり言われると照《て》れるな。
なので話題を変えることにしよう。
「そうだ、それよりこれ、返しておくから」
いちおう周《まわ》りに他の生徒の姿《すがた》がないことを確認して、カバンから『イノセント・スマイル』と楽譜《がくふ》を取り出す。
「あ、その楽譜も、綾瀬さんが持っていたんですね」
「ああ、回収《かいしゅう》する時につい勢《いきお》いあまって。にしてもすごい楽譜だよな、これ。乃木坂さん、弾《ひ》けるのか?」
尋《たず》ねると乃木坂さんはちょっと照れたように、
「ええ、今練習中の曲なんですけど……だいたいなら」
そううなずいた。やっぱり弾けるのか。タイトル通り、とても人間が弾くような代物《しろもの》には見えなかったんだが。
素直に感心していると、乃木坂さんは何かを思い出したかのように「そ、そういえば……」と、はっと顔を上げた。
「あ、あの……もしかして、見ました?」
微妙《びみょう》に動揺《どうよう》の混《ま》じった声で乃木坂さん。ええと、見た、と言うと?
「その……色々と、描《か》いてあったでしょう?」
上目遣《うわめつか》いでそう尋《たず》ねてくる。
「あ、あー」
あの人間を二、三人殺してエサにしてそうなクマのアレか。インパクトだけは強かったので、よーく覚《おぼ》えている。というか一度見たら三日くらい夢に見そうだったし。もちろん悪夢《あくむ》で。
「ごめん。見た……というか目に入った。ちらっとだけど」
「や、やっぱり見たんですね?」
乃木坂《のぎざか》さんが顔を伏《ふ》せる。うーむ、やっぱりあれは見てはいけないモノだったのか。禁断《きんだん》の果実《かじつ》。どうフォローをしようか頭を悩《なや》ませていると、だが次の瞬間《しゅんかん》、意外《いがい》な言葉《ことば》が乃木坂さんから発せられた。
「それで、あの、どうでしたか?」
「え?」
どう、と言うと?
「その……上手《うま》く描《か》けていたでしょうか? だれかに見せるのは初めてなんです」
目をキラキラと輝《かがや》かせてそう尋ねてくる乃木坂さん。その表情には少しばかり自信のようなものが感じられる。……これはひょっとして感想を求められてるのか? 何か予想外《よそうがい》の展開《てんかい》になってきたな。
しばし思案《しあん》する。うーん、何て言うべきか。指揮棒《しきぼう》を持った目付きがすさまじく悪いクマ。
「主食が人間みたいなクマだね」……褒《ほ》めてねえ。「このクマ、何だかクスリでもやってそうな目してるね」……明らかにけなしてるだろ。「クマ鍋《なべ》にしたら美味《おい》しそうなクマだよね」……もはや何言ってんだか自分でも分からん。
考えに考えた末、
「でもあのクマ、目付きは悪――い、いややたらと鋭《するど》かったけど、見方によれば逆説的《ぎゃくせつてき》でなかなかかわいかったかも――」
という無難《ぶなん》なモノに落ち着きかけた俺の社交辞令《しゃこうじれい》も、次の乃木坂さんの一言《ひとこと》で全くその意味を失った。
「……えっと、クマ? ネコですけど、あれ」
何言ってるんですか? って顔で首を傾《かし》げる乃木坂さん。
「……」
「……」
「……そ、そうそう、ネコ」
ネコか。
それはさすがに分からなかったな。だって普通《ふつう》ネコってキバ生えてないだろ。
「で、でもネコが指揮棒を持ってるってのもなかなかユニークで――」
「……それ、たぶんネコジャラシだと思うんですけど」
「……」
「……」
「……あ、ああ、ネコジャラシね」
楽譜《がくふ》なんだからさ、それくらい統一感《とういつかん》を持たせておこうよ。
しかしそんな俺の内心のぼやきに全く気付くことなく、
「どうでしたでしょうか? 自分で言うのも恥《は》ずかしいんですけれど、あれは割と自信作なんです」
乃木坂《のぎざか》さん、さらにそんなことを言った。
「……」
あなた……それ、本気で言ってるんでしょうか?
乃木坂さんを見る。
そこには真剣《しんけん》な眼差《まなざ》しがあった。
これ以上ないってくらい真剣な眼差しだった。
「……」
まあ、人間何かしら一つくらいの欠点はあるってことで。
「……な、なかなか個性的かつインパクトの強いイラストで、いいんじゃないかと思うな。うん、どこかピカソのゲルニカを彷彿《ほうふつ》させるというか」
すごく婉曲的《えんきょくてき》に感想を述《の》べた。というか、それが限界《げんかい》だった。
「ほんとですか? わあ、嬉《うれ》しいです!」
素直《すなお》に喜ぶ乃木坂さんを見てちょっとだけ罪悪感《ざいあくかん》。いや、でもウソは言ってないわけだし。いちおう。
「本当に嬉しいです! 思い切って聞いてみた甲斐《かい》がありました」
「そ、そう……」
でも他の人には聞かない方がいいと思います。
「あの……これからもよろしくお願いします」
「?」
何のこと?
「やっぱりですね、だれかに見てもらった方が上達も早いと思うんです。一人で描《か》いているのも練習にはなりますが、それだけだとどうしても限界があるので……。あ、もちろんお時間のある時でいいんですけど……」
「……」
それはまさかあの悪魔召還《あくましょうかん》が出来《でき》そうなナイトメアちっくイラストを、定期的に俺に見ろと言うんですか?
「どう……でしょうか?」
「そ、それは……」
「だめ……ですか?」
さすがに即答《そくとう》出来《でき》ずにいると、乃木坂《のぎざか》さんは途端《とたん》に捨てられた子犬みたいな沈《しず》んだ表情になった。うっ……その表情は反則《はんそく》だろ。あの『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』にそんな顔をされて断《ことわ》れるヤツなんていやしない。それに考えてみれば、乃木坂さんがこんなことを頼《たの》めるのは例の趣味《しゅみ》のことを知っちまった俺しかいないんだよな。……ええい、仕方《しかた》ない。気が進まんどころかむしろかなり後退《こうたい》してるが、これこそ本当に乗りかかったタイタニックだ。
「お、俺で良ければいつでも」
声が上ずってたのは、まあご愛嬌《あいきょう》ってことで。
「ほんとですかっ!」
すっげえ嬉《うれ》しそうに乃木坂さんが笑った。ま、まあ一回見る度《たび》に百回|寿命《じゅみょう》が縮《ちぢ》まるなんてことはたぶんない……といいな。
それから少しの間(とはいっても三十分間はみっちり)、乃木坂さんから彼女のイラストにかける意気込《いきご》みを聞かされて。
「それじゃあ、今日は本当にありがとうございました。イラストは、また新しいのが出来|次第《しだい》お見せしますね。それでは失礼します」
これからピアノのレッスンがあるからと、乃木坂さんは去っていった。『エリーゼのために』を鼻歌で歌いながら、最高に上機嫌《じょうきげん》だった。
その後《うし》ろ姿《すがた》を見つめながら、俺はぼそりとつぶやいた。
「……早まったかな」
4
さてその晩、部屋《へや》で勉強をしていると、いきなり階下《かいか》からバカでかい声が響《ひび》いた。
「おい裕人《ゆうと》! 電話だぞ!」
いい感じで進んでいた宿題の英語の和訳を邪魔《じゃま》された俺は少しむかっときたが、血を分けた実の姉の方がもっとキレやすかったみたいだった。
「電話だと言ってるだろうが!」
半ばドアを蹴破《けやぶ》るようにして――いや実際《じっさい》留《と》め金《がね》の一つが今の衝撃《しょうげき》で吹っ飛んだ――部屋に入ってくる長身の人物。
「ルコ……」
冬眠《とうみん》を邪魔されたツキノワグマみたいに不機嫌《ふきげん》そうな顔をした我が姉(空手《からて》二段、ムダに強い。両親が仕事でメッタに帰ってこない綾瀬家《あやせけ》では最強の権力を誇《ほこ》る)が、下着にワイシャツを羽織《はお》っただけというあられもない姿《すがた》でそこにいた。
「全く……人がせっかく気持ち良く寝《ね》ていたのに台無《だいな》しだ。彼女だかだれだか知らんが、こんな深夜《しんや》に電話をしないようにお前からもよく調教《ちょうきょう》しておけ」
いや深夜って……まだ十時だろ? そりゃ早くはないがそこまで言うほど遅《おそ》い時間でもない。それにだいたい調教って何だ、調教って。それを言うなら教育だろ。
と、ムダだと分かりつつもいちおう突っ込んではみるのだが。
「そんなものはどっちでもいい。教え込むという意味では同じだ」
全然|違《ちが》うわ! それこそ月とスッポンくらい。
しかしもともと大雑把《おおざっぱ》である上に俺以上に適当《てきとう》な性格《せいかく》をしているルコにとっては本当にどうでもいいことだったみたいだ。心から面倒《めんどう》くさそうな顔で、抗議《こうぎ》をした俺を一瞥《いちべつ》すると、
「……ウルサイやつだな。とにかくいいからさっさと電話に出ろ。私は寝る。眠《ねむ》いんだ。終わったら消音《しょうおん》にしておけ」
子機を投げつけて、留《と》め金《がね》が外《はず》れてブラブラしているドアの横をすり抜《ぬ》けていってしまった。ったく。これで普段《ふだん》は某《ぼう》一流|企業《きぎょう》の社長|秘書《ひしょ》なんてやってるんだから世の中って複雑|怪奇《かいき》である。まあ美人はどこでも優遇《ゆうぐう》されるってのが世の常《つね》ってことか。こいつも顔だけはいいからなあ……性格は最悪だけど。平等平等言いながら世間様《せけんさま》とはかくも不平等なものなのだ。
そんなことを考えながらとりあえず電話に出る。
「はい、もしもし」
すると。
「あ、もしもし。綾瀬《あやせ》さんですか? あ、私、乃木坂《のぎざか》です」
子機の向こうから、意外《いがい》な声が聞こえてきた。ここ最近になってよく聞くようになった耳心地《みみごこち》の良いソプラノボイス。しかし昼間に別れた時の上機嫌《じょうきげん》ぶりからうって変わって、何やら深刻《しんこく》そうな声である。む、何かあったのかな。
「夜遅くにごめんなさい。実は、その綾瀬さんにお願いがあって……」
お願い? そのそこはかとなく心ときめく単語に何となく胸《むね》がドキリとする。
「……突然《とつぜん》こんなことを言うのはとても心苦しいのですけど、でも、でも今言わないと後で絶対《ぜったい》に後悔《こうかい》すると思ったんです」
真剣《しんけん》な、それでいてどこか恥《はじ》らうような声。こ、これは……これはもしや? いやいやしかしあの乃木坂さんが俺にそんなことをするなんて、エリマキトカゲが逆立《さかだ》ち歩行をするくらいにあり得《え》ない。
「聞いて……もらえますか?」
「え、あ、ああもちろん」
聞かないわけがありません。
「良かった……あの、綾瀬さん、これから私と会っていただけないでしょうか?」
「えっ……」
一瞬《いっしゅん》思考《しこう》がスパークする。
「えっと、会うって、二人で?」
「はい」
こんな時間に二人で会いたいって……まさか深夜《しんや》の逢引《あいびき》? 人気《ひとけ》のない公園。二人きりで座《すわ》るベンチ。止まる時間。そして二人は……っていかんいかん、何か妄想《もうそう》入ってきた。これじゃよくある三流|恋愛《れんあい》小説もどきだろうが。
頭をぶんぶんと振《ふ》る。落ち着け、俺。
何とか心を静めようと頭の中で必死《ひっし》に九九を暗誦《あんしょう》していると、乃木坂《のぎざか》さんが続けた。
「あの……実は、私といっしょに学園まで行ってほしいんです」
「学園?」
学園って……当然俺らが通っている白城《はくじょう》学園のことだよな。肝試《きもだめ》し大会でもやるわけじゃあるまいし何でまたこんな時間にそんなところに――
「……本を、返し忘《わす》れてしまって」
ウスバカゲロウの羽音《はおと》みたいな弱々しい声が俺の思考《しこう》を遮《さえぎ》った。
「最初は……綾瀬《あやせ》さんと会った後にそのまま返しに行こうと思ったんです。でも何だか一安心して気持ちが緩《ゆる》んでいたからつい後回《あとまわ》しにしてしまって。そうしたら……そのまま忘れてしまったんです」
「あのさ……本ってまさか」
例の『イノセント・スマイル』ですか?
「…………はい」
「……」
いやそりゃあ……かなりマズイんじゃないか。うちの学園、基本の校則はヘンに緩いクセに備品《びひん》とか施設《しせつ》の利用|管理《かんり》とかにはやたらとうるさく、確か図書室の本も期限《きげん》までに返却《へんきゃく》しないと翌日《よくじつ》に放送で呼《よ》び出《だ》されるシステムになってたような。生徒の学年クラス氏名及び借《か》りた本のタイトル付きで。
「……そうなんです。もしも呼び出されることになったりしたら私、わ、私……ぐすっ」
考えられる不吉《ふきつ》な未来《みらい》を想像《そうぞう》してか、乃木坂さんの声に湿《しめ》り気《け》が混《ま》ざった。
「だ、だから今から返しに行こうと思って。ぐすっ、で、でもこんな時間に一人で学園に行くのは……その怖《こわ》くて。それで、だれかにいっしょに行ってくれるように頼《たの》もうと思って……だ、だけど」
涙声《なみだこえ》でそう語る乃木坂さん。
ナルホド。確かにその事情だと俺以外に頼《たよ》るヤツはいないわな。ヘタにだれかを頼って『イノセント・スマイル』を見られようものなら、それこそ藪《やぶ》を突《つつ》いてヤマタノオロチを出すようなもんだし。
「あの、ぐすっ、だから……ダ、ダメですか? あ、綾瀬《あやせ》さんには度々《たびたび》迷惑《めいわく》をかけて、ひくっ、本当に悪いって思って、いるんですけど、でも……」
とはいえ、頼《たよ》られるのは悪い気はしない。それに……そもそもこんな本泣《ほんな》き状態《じょうたい》の乃木坂《のぎざか》さんを放《ほう》っておくことなんて、まともな神経《しんけい》を持った男なら出来《でき》ないだろうし。
だから。
「えっと、直接学園に行けばいいのか?」
「ぐすっ、えっ……」
受話器の向こうで驚《おどろ》いたような声。
「行って……くださるんですか?」
「ああ、どうせやることもないし」
そうすることに決めた。まあ英語の宿題はまだ残っていたが、んなもんこの際《さい》どうでもいい。乃木坂さんの涙《なみだ》と英語教師(♂四十二歳|属性《ぞくせい》イヤミ)のねちねちとしたお説教《せっきょう》。どちらを避《さ》けたいかなど(そりゃあ出来れば両方避けたいが)、改めて考えるまでもないってことだ。
「あ、ありがとう……ぐしゅ、本当にありがとう」
感極《かんきわ》まったような乃木坂さんの声。よっぽど一人で行くのがイヤだったんだろうな。気持ちは分かるが。
こうして、真夜中の学園に不法|侵入《しんにゅう》することが決まったのだった。
夜の校舎ってやつは、なかなか不気味《ぶきみ》だった。
築《ちく》三十年以上は確実なコンクリート製の白い校舎が、真っ黒な闇《やみ》の中にボウっと浮《う》かび上《あ》がって、見る角度によってはまるで廃屋《はいおく》みたいに見える。何とも言えないイヤーな感じ。テレビに出て来る霊能力者《れいのうりょくしゃ》とかがこの場に居合《いあ》わせたら「ああ、何か非常に悪いオーラを感じます。おおう」みたいなことを言って悶《もだ》え苦《くる》しみそうな、そんな雰囲気《ふんいき》だ。隣《となり》で乃木坂さんもちょっと泣きそうな表情で校舎を見上げている。
さてどこから入ったもんか。
当然こんな時間に昇降口《しょうこうぐち》が開いているわけあるまい。とすれば職員用《しょくいんよう》の通路か何かを探《さが》すのが確実かもしれんが、職員用というからには職員室やらの近くにあるんだろう、ヘタをすれば宿直の教師に見付かる恐《おそ》れもある。うーむ。手近にある窓をちょっと損壊《そんかい》して鍵《かぎ》を開けるとか、昇降口にかけられている南京錠《なんきんじょう》をペンチでぶった切るとか、もっと簡単《かんたん》に鉄パイプか何かで昇降口をぶち破って直接侵入するとかの方法もあるが、それだと本格的に犯罪《はんざい》になってくるんだよな……
何とかスマートに侵入する手段《しゅだん》はないかと(注:スマートに侵入しても犯罪は犯罪です)思案《しあん》していると、
「あの、綾瀬《あやせ》さん、こっちです」
腕《うで》をくいっと引《ひ》っ張《ぱ》られた。
「裏口《うらぐち》からなら入れるんです」
「裏口って……何でだ?」
「合鍵《あいかぎ》が、あるんです」
「合鍵?」
なぜにそんなもんを?
「ええと……父の書斎《しょさい》にあったものを、こっそりと拝借《はいしゃく》してきたんです。必要《ひつよう》になると思ったから」
ああなるほどお父さんの書斎から……って、一瞬《いっしゅん》納得《なっとく》しそうになっちまったが、だから何でそんなところに合鍵が置いてあるんだ?
「私もよくは知らないのですが……何でも父はうちの学園に多額《たがく》の出資《しゅっし》をしているらしくて、非常時に備《そな》えて、秘密裏《ひみつり》に学園の全ての合鍵を作っていると言っていました」
出資……そうか、そういえばそんな話をちょっとだけ小耳に挟《はさ》んだこともあるな。乃木坂《のぎざか》さんが入学して以降《いこう》、白城《はくじょう》の寄付金の実に九割は乃木坂家からのもので占《し》められるようになったとか何とか。まあ、それなら合鍵くらいは持っててもオカシクはない……のか?
「? どうかしましたか?」
「いや……」
どうかしたかといえば何から何までどうかしている気もしなくもないのだが。くわえて学園の合鍵を全て所有《しょゆう》してるんなら、昇降口《しょうこうぐち》の鍵を持ってきた方が話は早かったのではと思ったけど、口には出さなかった。
「それでは行きましょう」
「ああ――」
図書室は二階にあるので、俺たちはまず階段に向かうことにした。
当たり前だが校舎の中には人の姿《すがた》はなく、まるで真夜中の墓場《はかば》みたいにシンと静まり返っている。
「不気味《ぶきみ》ですね……」
無人の廊下《ろうか》を見回しながら、乃木坂さんがまんまな感想を口にする。ただその手は万力《まんりき》のことき強さでしっかりと俺の服の袖《そで》を掴《つか》んで離《はな》さない。
「ゲームだったら、その角の向こうからゾンビとか出て来そうです」
「あー」
そのゲームなら俺もやったことがある。ゾンビやら巨大蜘蛛《きょだいぐも》やらを倒《たお》して洋館から脱出《だっしゅつ》するゲーム。開始十分でゾンビ三匹に囲《かこ》まれて食い殺されたような気もしたが。……忘《わす》れよう。
「綾瀬《あやせ》さん、うちの学校の七不思議《ななふしぎ》って知ってますか?」
ようやく階段まで辿《たど》り着《つ》いた辺《あた》りで、唐突《とうとつ》に乃木坂《のぎざか》さんがそんなことを言い出した。七不思議ね。ベタだがうちの学校にもいくつかあったはずだ。ええと確か……
「『屋上《おくじょう》の死の十三階段』とか……」
他には『理科室の踊《おど》る人体|模型《もけい》』『ひとりでに鳴《な》る音楽室のピアノ』『ボールが弾《はず》む無人の体育館』。俺が知っているのはそれくらいか。
「ええ、そうです。あとは『トイレの花子さん』『死後の姿《すがた》が映《うつ》る保健室の大鏡』。そして……『読書する死者』」
乃木坂さんが後を継《つ》ぐ。
「……」
あの、今、ものすごく不吉《ふきつ》な台詞《せりふ》が聞こえたような気がするんですが。
『読書する死者』。初めて聞く話だが、読書っていうからには当然図書室|絡《がら》みだろう。そして俺たちが今向かっているのがどこかって言うと。
「……」
……俺、帰っていいかな?
「だ、だめです」
潤《うる》んだ瞳《ひとみ》の乃木坂さんに腕《うで》をがっしりと捕《つか》まれた。逃亡《とうぼう》不可能《ふかのう》。
そんなことをしているうちに、問題の図書室に到着《とうちゃく》した。昼間見た時はただの木製のでかい扉《とびら》だなあくらいにしか感じなかったが、今はまるで地獄《じごく》の門みたいな威圧感《いあつかん》を伴《ともな》って俺たちの前にある。
非常にヤな感じだ。
「ちなみに……『読書する死者』って、どんな話?」
尋《たず》ねると、乃木坂さんはこう答えた。
「むかしむかし、この学校がまだ木造校舎だった頃《ころ》、とても本好きだった生徒がいたそうです。その生徒は本当に本が好きで好きで、毎日のように図書室に通っていました。だけどある日、その生徒は図書室に向かう途中《とちゅう》で事故にあって……不幸にも亡《な》くなってしまいました。その生徒が、死んだ今でも本を読むために毎日図書室に通ってきているって話なんです。だれもいないはずの図書室から真夜中に足音が聞こえたり、本棚《ほんだな》から本が落ちる音が聞こえたり、窓に読書する人影《ひとかげ》が映ったりするらしいです」
「詳《くわ》しいね……」
「余談《よだん》ですけど、この話を聞いた人が真夜中に図書室に行くと、その人の前に本当に『読書する死者』が姿を現すとか」
[#挿絵(img/01_084.jpg)入る]
「……」
「私、一昨日たまたまその話を聞いてしまったんです。聞かなければ良かったって、今すごく後悔《こうかい》しているんですけど……」
乃木坂《のぎざか》さんが顔をうつむかせる。いやでもその理屈《りくつ》だと――
「……その話って、知らない人に言っちゃまずいってことにならないか?」
「そう……なりますね」
「でもって、俺はその話を今の今まで知らなかったわけなんだが」
「ええと、それって……」
乃木坂さんが唇《くちびる》に指を当てて考え込む。
「……もしかして、今、初めて聞いたんですか?」
「まあ、そういうことに」
「……」
「……」
沈黙《ちんもく》。
「ご、ごめんなさいっ。やっちゃいました……」
心底《しんそこ》済《す》まなそうな顔で、叱《しか》られた仔犬《こいぬ》みたいにおろおろと慌《あわ》てる乃木坂さん。何かそんな姿《すがた》を見ていると文句《もんく》を言う気もなくなってくるな。
「あー、いいさ。別に乃木坂《のぎざか》さんも悪気《わるぎ》があったわけじゃないんだし」
それに、そもそも詳《くわ》しい内容を訊《き》いたのは俺の方である。
「で、でも、もしも今の私の話が原因《げんいん》で綾瀬《あやせ》さんが読書する死者と遭遇《そうぐう》して取り殺されたりしたら……」
蒼白《そうはく》な顔になる乃木坂さん。いや勝手に人を殺さんでくれ。
「まあ大丈夫《だいじょうぶ》じゃないか? その話を聞いたからって必《かなら》ず読書する死者が出て来るってわけでもないんだし。それに俺は身体が頑丈《がんじょう》なのだけは取《と》り柄《え》だから、幽霊《ゆうれい》にちょっとやそっと攻撃《こうげき》されても何てことないと思うぞ」
ガキの頃《ころ》からルコのヤツにさんざん鍛《きた》えられてるしな。
「け、けど……幽霊の攻撃って、物理的なモノじゃなくて精神的《せいしんてき》なモノじゃないですか? ……呪《のろ》い、とか」
「そっちもばっちり」
精神的攻撃の方は、ルコのみならず由香里《ゆかり》さんからも叩《たた》き込《こ》まれている。むしろ物理的攻撃よりも耐性《たいせい》があるかもしれん。全然|嬉《うれ》しくないが。
だけど俺のそんな言葉《ことば》を強がりと受け取ったのか、乃木坂さんはちょっと目を細めて笑った。
「……優しいんですね」
「な、そんなんじゃなくてな……」
何を突然《とつぜん》言い出すんですか、この人は。
「ふふ」
「だ、だからなあ……」
否定《ひてい》しようと思うのだがうまく言葉が出て来ず、俺は赤くなった顔を見られないように図書室の方に向き直った。
「ご、ごほん。で、そんないわく付きの図書室なわけだが……当然入るんだよな?」
確認すると、乃木坂さんは真剣《しんけん》な表情に戻《もど》ってこくりとうなずいた。
「ええ。せっかくここまで来たんですもの、手ぶらでは引き返せません」
いや手ぶらになるためにここまで来たんだがね。
「い、行きましょう」
そうは言うものの、乃木坂さんはその場から動こうとしない。ただ目でじーっと俺に何かを訴《うった》えかけている。……つまり、怖《こわ》いから俺に先に入れってことね。やれやれ。
仕方なくバカデカイ木製《もくせい》の扉《とびら》に手をかける。ギギギという音がやけに耳に残り、扉が真っ二つに割れる。その向こうにあるのは……無人の図書室。とりあえず、扉を開いたらいきなり『読書する死者』とご対面《たいめん》、というホラー映画とかにありがちな最悪の事態《じたい》だけは避《さ》けられたみたいだった。もっとも、無人の図書室ってのもそれはそれで十分に怖いんだが。真っ暗な本棚《ほんだな》の陰《かげ》から今にも青白い顔をした何かが出て来そうっていうか……そんな雰囲気《ふんいき》だ。
「わ、私から離《はな》れちゃダメです。というか、むしろ離れないでください、お、お願いだから」
俺の腕《うで》にしがみつくように掴《つか》まってそう懇願《こんがん》する乃木坂《のぎざか》さん。ふわり、と何やら甘い香《かお》りが鼻腔《びこう》をくすぐる。いや心配《しんぱい》しなくてもそんなに引っ付かれちゃ離れられないです。というか歩けないだろ、これじゃ。
「あ、そ、そうですね」
慌《あわ》てて離れる乃木坂さん。ようやく少しだけ密着状態《みっちゃくじょうたい》から解放《かいほう》される。あ、何かちょっとだけ残念《ざんねん》かも。
「じゃ、じゃあこれくらいで。でも、絶対《ぜったい》に離れないでくださいね?」
上目遣《うわめつか》いで見上げて、俺の腕にぶら下がるようにしながら乃木坂さんが言う。それにうなずいて、俺たちは暗闇《くらやみ》の中を並《なら》んで貸し出しカウンターに向けて歩き出した。
距離《きょり》にして約五メートル。慎重《しんちょう》に進む。
その間、ふとした拍子《ひょうし》に何度か乃木坂さんの整《ととの》った顔がこちらに接近する。琥珀色《こはくいろ》のキレイな瞳《ひとみ》に白い肌《はだ》。ピンク色の唇《くちびる》。その度《たび》に何やら心臓が少しどくりと動いたりして。……不整脈《ふせいみゃく》?
「きゃっ」
と、乃木坂さんが何か――閲覧用《えつらんよう》のイスか? ――につまずいて体勢《たいせい》を崩《くず》した。そのまま顔面《がんめん》からハデに転《ころ》びそうになるのを、危《あぶ》ないところで何とか支《ささ》えることに成功する。
「な、何でこんなところにイスが……」
何でと言われても最初からそこにあるものはどうしようもない。つーかそれ、この前もつまずいたイスじゃないか?
「……や、やっちゃいました。私って、ドジですね」
苦笑《くしょう》して再《ふたた》び歩き出す乃木坂さん。すると今度は別のイスにつまずいてトテン、とコケた。
「……」
まさかとは思ったけど。
乃木坂さんって少しばかり……いやかなり抜けてる?
「……昔から、よく転んだりモノにぶつかったりはするんです」
俺の内心の疑問に答えるかのように乃木坂さんがそう言った。
「歩いていると何もないところで転んだり、電柱にぶつかったり、停《と》まっている車にぶつかったこともありました」
「でも乃木坂さん、運動神経は悪くないよな?」
体育の時間とかも、別に普通《ふつう》だったと思うし。
「あの……運動神経とはあまり関係がないみたいで。注意力とか、そっちの話みたいなんです」
「それは……何ともまあ」
そういうこともあるのか。でも教室とかでは別にそんなドジっぷりを発揮《はっき》したことはないと思うんだが。
「普段《ふだん》は気を付けているんです……。でも綾瀬《あやせ》さんにはもうさんざんかっこ悪いところ見られちゃっているから……油断《ゆだん》したのかもしれないです」
照《て》れくさそうに微笑《ほほえ》む乃木坂《のぎざか》さん。何か彼女は彼女なりに色々と苦労してるみたいだな。
「……あ、な、何を言っているんでしょう、私。それより早く手続きを済《す》ませなきゃ」
頬《ほお》を染《そ》めたまま思い出したように立ち上がって、今度はつまずくことなく貸し出しカウンターまで辿《たど》り着《つ》くと、乃木坂さんは手早く管理用《かんりよう》パソコンを起動《きどう》させた。ヴィン、という音とともにOSのロゴがディスプレイに浮《う》かび上《あ》がる。
「あのさ、今ふと思ったんだが」
「はい。何でしょう?」
「いや、よく考えてみたら、今その雑誌を返却《へんきゃく》しても、パソコンにデータが残るんじゃないのか?」
そのための管理用パソコンである。貸し出し及び返却の日付と時間、それらは正確にパソコンに、細かく言えばそのハードディスク上に記録される。四月二十二日木曜日、二十三時八分、管理番号千二百三番『イノセント・スマイル』返却、という風に。
「……」
乃木坂さん、きっかり五秒間|停止《ていし》。
「……それは、全然考えていなかったです」
おいおい。
「う〜ん、でも何とかなるんじゃないでしょうか? ほら、普通《ふつう》に考えればこんな時間に本を返却しにやって来る人なんていないですし、司書《ししょ》の方々も何かの間違《まちが》いだと思って見過ごしてくれると思います。人は細かい間違いには、もっともらしい理由をつけて正当化《せいとうか》してしまうものですから」
まあそりゃあそうかもしれんが……でも案外|適当《てきとう》だな、この人も。
「それでは作業《さぎょう》を済ませてしまいます。ちょっとだけ待っていてくださいね」
そう言って乃木坂さんは作業に集中し始めた。
その間やることもないので、俺は何となくディスプレイと睨《にら》めっこをしている乃木坂さんの横顔を眺《なが》めていた。
サラサラの黒髪《くろかみ》。雪のように真っ白な肌《はだ》。整《ととの》った鼻筋《はなすじ》。窓から薄《うっす》らと差し込む月光とディスプレイからの光に照らされて蒼《あお》く白く輝くその姿《すがた》は、まるで神話か何かに出て来る癒《いや》しの女神のように神秘的《しんぴてき》だった。容姿端麗《ようしたんれい》、頭脳明晰《ずのうめいせき》、品行方正《ひんこうほうせい》、ピアノの腕《うで》はプロ級、深窓《しんそう》のお嬢《じょう》様、『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』。しかしそんな完全|無欠《むけつ》の彼女の肩書《かたが》きも、今のこの光景《こうけい》の前ではどうでもいいものに思えてくる。
だいたい乃木坂《のぎざか》さん、そもそもが全然イメージ通りのキャラじゃなかったし。
少し前までは、落ち着いていて大人で人間のよく出来《でき》た、見かけ通りの清楚《せいそ》なお嬢《じょう》様キャラなのかと思っていた。クラスのヤツらもおそらく同じ評価《ひょうか》だろう。
しかし人間やっぱり見かけだけじゃ判断《はんだん》出来ないってことを、今この場にいる俺は心の底《そこ》から思い知らされていた。
だってどこの世界に、アキバ系の雑誌をこっそり図書室に返却《へんきゃく》するために真夜中の学校に不法|侵入《しんにゅう》をするお嬢様がいようか。おまけによく泣《な》くし、どこか抜《ぬ》けてるところがあるし、かなりドジだし、絵は凶悪《きょうあく》にヘタだし……
でも普段《ふだん》の完全|無欠《むけつ》すぎる乃木坂さんより、こっちの乃木坂さんの方が身近に感じられて、俺は絶対《ぜったい》にいいと思うんだがな。まあ俺にいいと思われて乃木坂さんが嬉《うれ》しいと思うかどうかは棚上《たなあ》げにしておいて。
「なあ乃木坂さん」
「はい?」
俺の視線《しせん》には気付かずに、作業中《さぎょうちゅう》の乃木坂さんが返事をする。
「乃木坂さんは、何でこういった趣味《しゅみ》……アキバ系になったんだ?」
ついそんなことを訊《き》いてしまった。ああ、何言ってんだ俺。もう蒸《む》し返《かえ》さないって約束《やくそく》したのに。
けど、乃木坂さんは、
「うーん、なぜなんでしょう?」
大して気に留《と》めた風もなく答えてくれた。
「自分でもそんなにはっきりと分かってはいないんです。気が付いたらいつの間にかこうなっていたっていうか……ただ、最初のきっかけはたぶん、アレだと思います」
口元に指を当てて小首を捻《ひね》る。アレとは?
「はい。今から六年くらい前のことなんですけど……私、お稽古事《けいこごと》のことでちょっと両親とケンカして、近所にある公園で泣いていたんです。確か……お友達と遊ぶ約束をしていたのに日本|舞踊《ぶよう》のお稽古のせいでダメになってしまったとか、そういった理由だったと思います。私、お友達に遊びに誘《さそ》ってもらったのってその時が初めてで、すごく楽しみにしていたのに、それなのに突然《とつぜん》入った特別のお稽古でダメになってしまって……すごく悲しくて悔《くや》しくて、一人でわんわんと声を上げて泣いていました。周《まわ》りを憚《はばか》ることなく、本当に大声で。きっとだれかに慰《なぐさ》めてもらいたかったんだと思います。大声で泣いていればそのうちにだれかが自分に優しくしてくれる。子供心にそう思っていたんでしょうね。でもやっぱり世の中はそんなに甘いものじゃなくて……通りかかる人は何人かいましたけど、皆見て見ぬフリをして通り過ぎていきました。泣いている子供なんて、厄介《やっかい》なだけですものね。だけど……一人、一人だけそんな私に声をかけてくれた人がいたんです」
どこか遠くを見るような目になる。
「その方は泣《な》いている私を、ぶっきらぼうに、でもとっても一生懸命《いっしょうけんめい》に慰《なぐさ》めてくれました。あの時のことは今でも忘《わす》れられません。そして……その時に見せてくれたのが、『イノセント・スマイル』の創刊号だったんです」
少し誇《ほこ》らしげに、乃木坂《のぎざか》さんはそう言った。
「私、それまでマンガとかそういったモノを見たことがなかったからとっても新鮮《しんせん》で……一瞬《いっしゅん》でトリコになっちゃいました。見るだけで人を楽しい気分にさせてくれるその雰囲気《ふんいき》に惹《ひ》かれたというのか……。結局《けっきょく》その方にお願いして、創刊号はもらっちゃったんです」
えへ、と苦笑《くしょう》する乃木坂さん。
へえ。何かいい話だな。まあ小学生の女の子を慰めるために『イノセント・スマイル』を見せたっていう、そのお方の何考えてるんだかよく分かんない選択《せんたく》はともかくとして。
「それが始まりと言えば始まりかもしれないです。それ以来、またあの楽しい気分を思い出したくて、こっそりとマンガとかを読むようになったから。だから……今でも『イノセント・スマイル』には特別な思い入れがあるんです」
なるほどね。だから決して小さくないリスクを冒《おか》してまでわざわざ図書室から借《か》りるなんてことをしたわけだ。確か『イノセント・スマイル』のバックナンバーはレア物だとか信長《のぶなが》も言ってたし。目的のためには手段《しゅだん》を選ばず。ようやく納得《なっとく》がいった。
「ええと……これでお終いです」
ぽん、とエンターキーを押《お》す音が聞こえた。どうやら作業《さぎょう》は無事《ぶじ》に終わったらしい。
とそこで乃木坂さん、ようやく俺の視線《しせん》に気付いたみたいだ。モニターの前で伸びをしたままの姿勢《しせい》で電池の切れたアイボみたいに固まった。
「な、何でしょう? 私の顔に何かついてますか?」
少し慌《あわ》てたように頬《ほお》を赤らめる。やっぱりこれも教室じゃ見られない反応《はんのう》。とても新鮮である。
「いや……ヘンなお嬢《じょう》様だな、って思って」
俺は思ったままの感想を口にした。
「えと、本人に面と向かってそういうことを言うのは失礼だと思います……」
とは言いつつも、そんなにイヤそうではない。というかどこか嬉《うれ》しそうですらある。
「それにお言葉《ことば》ですが……私に言わせれば、綾瀬《あやせ》さんの方がずっとヘンですよ? うん、すごくヘン。全日本変人王選手権があったら間違《まちが》いなく上位入賞|出来《でき》そうなくらい。私が保証《ほしょう》します」
「そりやどうも」
何の選手権だ、それは。
「……」
「……」
一瞬《いっしゅん》、辺《あた》りに柔《やわ》らかい沈黙《ちんもく》が落ちて。
「……ふふっ」
「……はは」
次の瞬間《しゅんかん》、俺たちはお互《たが》いの顔を見合わせてどちらともなく笑い出していた。真夜中の図書室に響《ひび》く男女の楽しげな笑い声。だれかに聞かれたらほぼ確実に新たな七不思議《ななふしぎ》が誕生しそうである。『恐怖《きょうふ》、真夜中の図書室で笑い狂う男女の霊《れい》』。
どれくらいそうしていたかな。
しばらくしてようやく笑いの渦《うず》が収《おさ》まると、乃木坂《のぎざか》さんがちょっとだけ真面目《まじめ》な顔になって、
「私……もうオシマイだと思ってました」
唐突《とうとつ》にそんなことを語り出した。
「オシマイ?」
「はい」
乃木坂さんがこくんとうなずく。
「あの時、綾瀬《あやせ》さんに私が『イノセント・スマイル』を借《か》りたのを見られて、さらにとっても混乱《こんらん》した姿《すがた》を見られてしまって……ああ、これでもう私がそういう趣味《しゅみ》を持っていることが皆に知られてしまう、そうしたら皆は私のことをバカにするだろう、ヘンな目で見るだろう、って、そういう風に思ったんです」
まあそれは否定《ひてい》出来《でき》んかもしれない。俺は普段《ふだん》から信長《のぶなが》を見ているためそうでもないが、世の中には妙《みょう》な偏見《へんけん》を持ったヤツが数多くいる。『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』がアキバ系だなんてことを知ったら面白《おもしろ》おかしく騒《さわ》ぎ立《た》てるヤツが絶対《ぜったい》にいそうだしな。
ん、でもちょっと待てよ。乃木坂さんのその口ぶりからすると――
「あのさ、もしかして乃木坂さん、俺が乃木坂さんがアキバ系だってこと、周《まわ》りに広めると思ってた?」
そういうことになるよな?
すると気まずそうにちょっと目を横に逸《そ》らす乃木坂さん。
「ご、ごめんなさい。あの時はまだ綾瀬さんのことどういう人なのかよく分からなかったから、そういう可能性《かのうせい》も否定出来ないかなって……。それに私、そもそもあんまり男の人と喋《しゃべ》ったことがなくて、綾瀬さんのことも……少しだけ怖《こわ》かったの」
「喋ったことがないって……」
乃木坂さんが? 『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』が? それは甚《はなは》だしく意外《いがい》というか何というか。
「男の人はみんな、どうしてか私に対しては余所余所《よそよそ》しくて……。他の女の子にするみたいに、気軽に接してくれないんです。普通《ふつう》に話してくれるのは、綾瀬さんくらい」
それはたぶん、乃木坂《のぎざか》さんがあまりにも可憐《かれん》すぎて完璧《かんぺき》すぎて気後《きおく》れしてるだけだと思うんですが……まあ、他の男のフォローまでしてやらなきゃいかん義理《ぎり》はないか。
乃木坂さんが続ける。
「そんなわけだから、あの時はもう本当に何もかもオシマイだと思ったんです。いっそそのままどこか遠くへ旅に出てしまおうかと思ったくらいで……。でも、私の認識《にんしき》は間違《まちが》っていました。綾瀬《あやせ》さんは約束《やくそく》通り黙《だま》っていてくれましたし、それに私の趣味《しゅみ》を知ってもバカにすることもなく普通《ふつう》に接してくれた……それどころか助けてさえくれました。今日だって綾瀬さんがいてくれなかったらどうなっていたことか……。綾瀬さんを信じることが出来《でき》なかった自分が恥《は》ずかしいです。あの時の自分にバカって言ってやりたいくらい。私……綾瀬さんには本当に感謝《かんしゃ》しているんです」
だから、と言って、乃木坂さんは俺の前にちょこんと立ち、
「本当に……ありがとうございました」
はにかみながらスカートの裾《すそ》を指でちょんと摘《つま》んで、ぺこりと頭を下げた。それは何かつい先日どっかの雑誌の表紙で見たようなポーズなのだが……それでも乃木坂さんがやると、それはもう世紀末的にめちゃくちゃかわいくて可憐で愛らしくて――
思わず理性《りせい》を失いそうになったその時だった。
ガタリ、バサバサ。
「!?」
書架《しょか》の奥《おく》の方で、何やら物音がした。
「い、今の……何の音でしょう?」
乃木坂さんが光速を超える驚《おどろ》くべきスピードでいつの間《ま》にか俺の身体にしがみついていた。火事場のバカ力。いやこの場合はバカ脚力《きゃくりょく》? どっちでもいいか。それはともかく腕《うで》に何やら柔《やわ》らかいモノが当たるんですが……
「ほ、本棚《ほんだな》の方から聞こえてきましたよね? もしかして『読書する死者』……」
「まさか、幽霊《ゆうれい》なんて……」
いない。……と、思いたいが。
「ど、どうするんですか?」
不安げに乃木坂さんが俺の顔を見上げてくる。ここでの選択肢《せんたくし》は三つ。@好奇心《こうきしん》にかられて見に行く。A大人しく逃《に》げ出《だ》す。B怖《こわ》がるフリをしてさりげなく乃木坂さんを抱《だ》きしめる。個人的にはBを選びたいところだが……い、いや世迷言《よまいごと》だな。ヘタすりゃ犯罪《はんざい》だし。
ともあれここは普通に考えればAが妥当《だとう》なとこだろう。もう用事は済《す》んだことだし、わざわざ自分から深遠《しんえん》なる大霊界《だいれいかい》の一部を垣間見《かいまみ》ようとする必要《ひつよう》もない。ないんだが……でも、それも何か釈然《しゃくぜん》としないんだよな。
「あ、綾瀬さん!?」
「ちょっと様子《ようす》を見てくる。乃木坂《のぎざか》さんはここで待ってて」
と、腰《こし》をぎゅっと掴《つか》まれた。
「わ、私も行きます」
「え、でも怖《こわ》いんじゃ……」
「ここに一人で置いていかれる方がよっぽど怖いですっ」
そりゃそうかもしれんな。
「じゃ、行くか」
「は、はい」
というわけで二人して、怪音《かいおん》の発生源と思われる方へと向かう。
「たぶん、聞こえてきたのは楽譜《がくふ》のコーナーの方からだったと思います」
「楽譜?」
そんなものまで置いてあるのか。ま、『イノセント・スマイル』が認《みと》められるくらいだ。別に驚《おどろ》くべきことじゃないかもしれない。
「こ、こっちです」
勝手知ったる乃木坂さんに導《みちび》かれて、奥《おく》にある本棚《ほんだな》の一角に近づいた時、
ヴィンヴィンヴィン。
再度《さいど》、さっきとは違《ちが》う異音《いおん》がして、
バサバサバサ。
続いて本が落ちるような音がした。
「ひっ……」
乃木坂さんが、器用《きよう》にも俺の腕《うで》に掴まったまま自分の耳を塞《ふさ》いだ。
「い、い、今の……」
目に涙《なみだ》をためて、乃木坂さんが俺を見上げた。
「や、やっぱり『読書する死者』……に、逃《に》げましょう、綾瀬《あやせ》さん」
「いやちょっと待て……これって」
本が落ちる音は止んだが、もう一つの異音はいまだに聞こえている。ヴィンヴィンヴィンヴィンヴィン。どこかで聞いたことがある音だな。えーと……あ、これってまさか。
「あ、綾瀬さん!」
本棚に近づいてみると、その推測《すいそく》が正しかったことが分かった。
「……携帯《けいたい》、ね」
楽譜がいくつも収《おさ》められている本棚に載《の》っかっている白い物体。周《まわ》りの楽譜をなぎ倒《たお》して床《ゆか》に落としながら振動《しんどう》し続けているそれは、ただ今着信中の携帯電話だった。
「……しかも、何か見覚《みおぼ》えがあるし」
アルファベットが集まってYUKARIと、なっているストラップ。ああ、そういやあの人、携帯《けいたい》失《な》くしたとか言ってたっけなあ……。まあ大方《おおかた》ここで借《か》りる楽譜《がくふ》を選んでいて、たまたま置《お》き忘《わす》れたとかそんなとこだろう。まったく、人騒《ひとさわ》がせな。とりあえずこれは後《あと》で本人に届《とど》けてやるとして今はウルサイから電源オフ。
「乃木坂《のぎざか》さん、もう大丈夫《だいじょうぶ》。原因《げんいん》、分かった」
本棚《ほんだな》の陰《かげ》で死にそうな顔で震《ふる》えている乃木坂さんを呼《よ》ぶ。異音《いおん》が消えたので少しは安心したのか、恐《おそ》る恐《おそ》るといった足取りでこちらにやって来た。
「原因分かったって……」
「ああ、人騒がせな原因はコレ」
持ち主の心とは正反対の真っ白な携帯を見せると、気が抜けたのか乃木坂さんはその場にぺたりと座《すわ》り込《こ》んだ。
「あ、安心したら力が抜けちゃいました」
ほんとに腰《こし》が抜けてるみたいだった。うーむ、腰を抜かした人って初めて見た。それもあの『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』がねえ……。もう何だかほとんどコメディの世界だ。
「ぷっ……」
思わず笑ってしまった。すると乃木坂さん、ぷーっと頬《ほお》を膨《ふく》らませて、
「な、何でそこで笑うんですか。そこは笑うところじゃないです。しょ、しょうがないじゃないですか。ほんとに怖《こわ》かったんですから!」
と抗議《こうぎ》をしていたが、やがて呆《あき》れたような顔になって口元を緩《ゆる》ませた。
「もう……ほんとにヘンな人」
「それはお互《たが》いさまってことで」
そしてまた二人して顔を見合わせて、思いっきり笑った。近隣《きんりん》の住民に聞こえるくらい、盛大《せいだい》に笑った。
もしかしたら、明日あたりには新しい七不思議《ななふしぎ》が生まれているかもしれないな。
5
さてこれにて任務《にんむ》は完了。
校門を出たところで、乃木坂さんがぺこりと頭を下げた。
「今日は本当にありがとう。綾瀬《あやせ》さんのおかげで助かったし、それに……不穏当《ふおんとう》かもしれないけれど、とっても楽しかったです」
楽しかった。うん、確かにその表現は不穏当だが、不適当《ふてきとう》ではないな。だから俺も笑顔《えがお》でこう返した。
「どういたしまして。俺も楽しかった」
これは正直な気持ちだ。
「あの……春香《はるか》、でいいです」
照《て》れたような顔で、でも改まって乃木坂《のぎざか》さんが言った。
「あ、呼《よ》び名《な》のことなんですけど。その、乃木坂さん、っていうのは何だか他人行儀《たにんぎょうぎ》じゃないですか。いえ、確かに他人は他人なんですけど、そういう意味じゃなくて……。う〜、うまく言葉《ことば》に出来《でき》ないです。でも……とにかく私のことは春香って呼んでほしいんです。乃木坂さん、じゃなくて」
その表情は結構《けっこう》真剣《しんけん》だったりする。
うーむ。何を混乱《こんらん》していたのかはよく分からんが、その申し出自体は受け入れることに何の問題もなかった。てか、むしろ嬉《うれ》しいし。
「分かった。春香……でいいんだよな?」
「うん!」
すげぇ嬉しそうな顔でうなずく乃木坂さん……いや、春香。うう、何か今さらだけど春香って、めちゃくちゃかわいいんだよな。
「……だったら、俺のことも裕人《ゆうと》でいい。仲いいヤツは、だいたいそう呼んでるから」
何となくそれ以上春香を見ているのが照《て》れくさくなり、半ば目を逸《そ》らし気味《ぎみ》にそう答える。
すると「仲いいヤツ……」とつぶやいた後に、春香はもう一度笑った。教室では見せない、心からの笑顔《えがお》で。
「分かりました。裕人さん、これからもよろしくお願いしますね」
これが俺と乃木坂春香との、ある意味|奇妙《きみょう》な関係の始まりでもあった。
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0
それは五月にしてはやけに暑い、ある日曜日のことだった。
日本一の電気街にある、とある店頭。
俺は目の前で繰《く》り広《ひろ》げられている奇異《きい》な光景《こうけい》に、心の中で深い深いため息《いき》を吐《は》いていた。
「……どうして出ないんでしょうか? こんなにやっているのに――」
そうつぶやきながら、心底不思議《しんそこふしぎ》そうに首を傾《かたむ》ける超美少女の姿《すがた》。
いや別にそれ自体はそんなにおかしな光景じゃない。美少女だって人間なんだから(否定《ひてい》するヤツもいるが)、何か謎《なぞ》に直面し思い悩《なや》むことだってあるだろう。だからそれはいい。それはいいんだが……
問題は……その美少女の右手に握《にぎ》られているモノと、彼女の眼前《がんぜん》にあるモノにあった。
「これも外《はず》れです。こっちも違《ちが》います……」
白魚《しらうお》みたいに細くてきれいな指の先にあるのは直径六センチほどの球形の物体。硬貨《こうか》と引《ひ》き換《か》えに、先ほどから直方体の販売機から吐き出され続けているソレは、俗《ぞく》にガチャポンと呼《よ》ばれるアレだったりする。
「おかしいです……」
ガチャポンの中身を確認することに段々と声に力がなくなってきている。それでもレバーを回す手は休めない。見かけによらず案外|諦《あきら》めが悪いというか何というか……
「次こそは……次こそは出ますように」
にしてもやっぱり……目が眩《くら》むばかりの生粋《きっすい》の美少女が、ガチャポンを前にしょんぼりと硬貨を投入《とうにゅう》し続ける姿にはめちゃくちゃ違和感《いわかん》を覚《おぼ》えるな。通りかかるやつらもちらちらとこっちを見てるし。
「なあ春香《はるか》……もうそのへんにしといたらどうだ?」
彼女の傍《かたわ》らには、すでに十を超える数のガチャポンが転《ころ》がっている。だけど春香はふるふると首を横に振《ふ》った。
「……だって、まだあのアキちゃんピアノバージョンが――」
それはつまり出るまでやるってことか? うーむ、見事《みごと》にメーカーの思惑《おもわく》にハマっとるな……
「……」
ゴリゴリと、レバーを回す音が響《ひび》く。出てきたガチャポンの中身を見て、彼女は悲しそうにその整《ととの》った眉《まゆ》をひそめた。
「また外れです……」
もう何か、どう言葉《ことば》をかけたらいいのかもよく分からん。新たに硬貨《こうか》を投入《とうにゅう》する彼女を黙《だま》って見守りながら、俺は再度《さいど》マリアナ海溝《かいこう》よりも深いため息《いき》を吐《つ》いた。
俺……何をやってんだろうね?
何だか自分で自分が分からなくなってくる。何だって俺はせっかくの春香《はるか》と二人きりの買い物中にこんなところでこんなことをやってるんだろう? 一ヶ月前のあの時から微妙《びみょう》に脇道《わきみち》に逸《そ》れ始《はじ》めてる気がする自分の人生について、ちょっとだけ考え直してみたくなってしまう今日この頃《ごろ》である。
さて、実際《じっさい》のところ俺はどうしてこんな状況《じょうきょう》に陥《おちい》っているのか。
そもそものコトの発端《ほったん》は……三日ほど前に遡《さかのぼ》るのである。
1
日本語に直すと黄金週間と呼《よ》ばれる大型連休も瞬《またた》く間《ま》に終わりを告《つ》げ、来るべき中間試験に向けて学園全体が少しずつ慌《あわただ》しくなり始めたある日の放課後。副担任である音楽教師に残業《ざんぎょう》の手伝《てつだ》い(職員用トイレの掃除《そうじ》。一人でやれよ、んなもん)を半《なか》ばムリヤリに付き合わされて、くたくたになって教室に戻《もど》ってきた俺は、机の中に入っていた一枚の便箋《びんせん》を発見した。
『放課後お時間がありましたら、音楽室まで来ていただけないでしょうか。ご相談があります』
いつから入ってたんだろうな。間違《まちが》いなく段持ちだと思われるとてつもない達筆《たっぴつ》。一見して、それだけならラブレターか何か(しかも本命用)と間違えてもおかしくはない代物《しろもの》である。
「…………」
ただしその横に、それを全て台無《だいな》しにするような、物心がついた子供が見たら確実にトラウマになるんじゃないかってくらい目付きの悪い動物(みたいなモノ)のイラストがなければの話だが。
それを見ただけで、だれからの手紙か一発で分かった。もう分かりすぎるくらいに分かった。というか、こんなある意味才能とさえいえる凶悪《きょうあく》なイラストを描《か》ける人物を俺は他に知らん。
「春香《はるか》……だよな、やっぱり」
『乃木坂《のぎざか》春香』
予想通り、便箋の下の方にはそう書かれていた。
クラスメイトにして、才色兼備《さいしょくけんび》を地で行く深窓《しんそう》のお嬢《じょう》様。『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』の異名《いみょう》を持ち、会員数三|桁《けた》を越すというファンクラブをも有する学園の超有名人。学園長の名前を知らないヤツはいても乃木坂春香の名前を知らないヤツは我が白城《はくじょう》学園にはいない。そんな存在《そんざい》である。
で、そんな有名人が何だってとりたてて特徴《とくちょう》も取《と》り柄《え》もない俺ごとき一般学生を放課後の音楽室なんかに呼び出すのかというと……それにはまあ彼女が周囲《しゅうい》にひた隠《かく》しにしているとある秘密《ひみつ》が関係してくるのだが――
と、そこまで考えて、俺は時計を見た。時刻はまもなく午後五時。放課後と呼《よ》ばれる時間帯からすでに一時間半ほど経過《けいか》している状態《じょうたい》である。不可抗力《ふかこうりょく》とはいえ、これではいいかげんお姫《ひめ》様も待ちくたびれてるかもしれん。
教室を出て早足で音楽室へと向かう。黄昏《たそがれ》に染《そ》まった廊下《ろうか》には人気《ひとけ》はなく、窓の外からは運動部が発する「だっしゃー!」やら「きえぇぇー!」やらの、やたらと元気のいい(方向性は確実に間違《まちが》っている気がするが)掛《か》け声《ごえ》が響《ひび》いてくる。何かサルの求愛時《きゅうあいじ》の声を彷彿《ほうふつ》させるな。
まだ五月だというのにここのところやたらと暖《あたた》かい日が続いていて、こんな時間にもかかわらず歩いているだけでじっとりと汗《あせ》がにじんでくる。カバンから取り出したタオルで汗をふきふき、帰りに自販機でマンゴスチンジュース(夏季限定)でも買っていこうと決めた。あー、あちぃ。
音楽室の前に到着《とうちゃく》すると、扉《とびら》の隙間《すきま》からピアノの音に紛《まぎ》れて何やら話し声のようなものが微《かす》かに聞こえた。それも複数人。おや? ピアノはまあ春香《はるか》だとして、他にだれかいるのか?
防音設備《ぼうおんせつび》の施《ほどこ》された分厚《ぶあつ》い扉を開ける。その向こうには……何か禁断《きんだん》の花園があった。
まず春香がいた。これはいい。俺をここに呼んだ張本人《ちょうほんにん》である。てか、いてくれないとこっちとしては逆《ぎゃく》に困るってもんだ。
だが……何だって春香《はるか》の周《まわ》りにあんなに大量の女子生徒がいるんだ?
ピアノを弾《ひ》く春香を取り囲むように集まっている女子生徒。ざっと見積もっても十人以上いることは確実だ。学年も様々で、同学年もいれば一年生もいるし、三年生のお姉さま方もいたりする。まさか……『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』の人気を妬《ねた》んでのいぢめ?
……なわけないな。春香は妬まれるようなキャラじゃないし、それに鍵盤《けんばん》に指を躍《おど》らせる春香を見つめる女子生徒たちの目に浮《う》かんでいるモノは、明らかに憧《あこが》れとかそういうもんだし。
てことは答えは一つだろう。乃木坂《のぎざか》春香@『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』は男子の間ではもう当然のごとく当然として、女子の間でもそれに勝《まさ》るとも劣《おと》らない驚《おどろ》くべき人気を誇《ほこ》る。同陸の目から見ても、春香の存在感《そんざいかん》ってやつは飛び抜けてるってことなんだろうな。そんな学園のアイドル的存在が放課後の音楽室で一人静かにピアノを弾いてれば、そりゃあ人も集まってくるってもんだ。
曲が終わると、女子生徒たちは一斉《いっせい》に大きな拍手《はくしゅ》をした。
「今の曲、とってもキレイでした。何て曲なんですか、春香|先輩《せんぱい》?」
「はい。今のはラヴェル作曲の『水の戯《たわむ》れ』です」
「わー、うんうん、ほんと水って感じだった。あたし、思わず聴《き》き惚《ほ》れちゃったよ」
「川のせせらぎとか、渓流《けいりゅう》とかを思い出しちゃいました」
きゃっきゃっ、っとそんな感じの会話が繰《く》り広《ひろ》げられる。
うーん、何だかほんとに女の子の世界というかバックに大量の百合《ゆり》の花が見えるっていうか……すげえ近寄りがたい雰囲気《ふんいき》を感じるんですが。おまけに女子生徒たちは春香に夢中《むちゅう》で、春香はその相手にいっぱいいっぱいで、いまだにだれ一人として音楽室に入ってきた俺の存在《そんざい》にすら気付いていないってのもどうかと思うんだがな。……寂《さび》しい。
仕方《しかた》なく、ちょっとばかり自己表現してみた。
「おーい、春香《はるか》」
音楽室の隅《すみ》っこからパタパタと軽く手を振《ふ》ってみる。俺としてそれはほんのささやかな抵抗《ていこう》のつもりだったのだが……その一言《ひとこと》で場の雰囲気《ふんいき》が一変《いっぺん》した。
「……あの人、だれ?」
「今、春香|先輩《せんぱい》のこと呼《よ》び捨《す》てにしてたよね? どういう関係?」
「あれって一組の綾瀬《あやせ》だ……」
冷たいというよりもどこか殺意《さつい》すらこもった視線《しせん》が集中する。あ、あれ……何かミスった、かな。
背中《せなか》にツララを二、三本差し込まれたみたいな悪寒《おかん》を感じ一歩あとずさると、そこでようやく俺の存在に気付いたのか、春香がこっちを見て顔を綻《ほころ》ばせた。
「あ、裕人《ゆうと》さん。いらしてたんですね。お待ちしていました」
だがそんな春香の言葉《ことば》も火に油を注《そそ》ぐハメになった。
「春香先輩が男の人を名前で……」
「何か春香ちゃん、嬉《うれ》しそう……」
「何なの、あいつ」
周囲《しゅうい》の視線がさらにキツくなる。針のムシロっていうか、エクスカリバーのムシロに正座《せいざ》させられてモモの上に石布団《いしぶとん》を敷《し》かれてる気分だ。
「あの、みなさんすみません。約束《やくそく》していた方がいらっしゃいましたので、残念《ざんねん》ですけれど今日のところはこのへんで……」
春香が頭を下げると、女子たちは「え〜」とか「もっと春香ちゃんの演奏|聴《き》きた〜い」とかひとしきり残念そうな声を上げていたが、それでも春香の言葉に異《い》を唱《とな》えるつもりはないらしく、大人しく帰っていった。ただ中には、俺の横を通り過ぎる時に確実に殺《や》る気な目で睨《にら》んでいったヤツとか、「春香先輩にヘンなことしたら、刺《さ》します」だとか、「夜道では背中に気を付けることね」だとか、ぼそりと一言「……青酸《せいさん》カリ」だとか、非常《ひじょう》に恐《おそ》ろしい捨《す》て台詞《ぜりふ》を残していったヤツらもいたりした。……こ、こええ。
「……で、話っていうのは?」
女子生徒(殺人鬼《さつじんき》)たちが完全に視界《しかい》から消えたのを確認してから(そうしないと何か危険《きけん》がありそうだからな)本題に入る。すると春香は少し恥《は》ずかしそうにもじもじと顔を伏《ふ》せて、「裕人さん……明後日の日曜日、おヒマですか?」
そう訊《き》いてきた。
「日曜日? いや特に用はないけど」
何だってそんなことを訊いてくるのか疑問に思いながらも、休日にやることといったらダメ姉の代わりに掃除《そうじ》洗濯《せんたく》(要するに家事)をするくらいしかなかったためそう答えると、春香《はるか》は一瞬《いっしゅん》ほっとしたような表情を見せた後、再《ふたた》びもじもじとしながらこう続けた。
「あ、あの……それでしたら、私に付き合っていただけませんか?」
「……」
一瞬何を言われたのか理解出来《りかいでき》ず、脳細胞《のうさいぼう》が完全にフリーズする。
えっと。
いきなりのことで頭が全くもって付いて来ないんだが、それってもしかして……
「デート?」
ってやつでしょうか?
「ちちち、違《ちが》いますっ! そそ、そんなんじゃないんです! デ、デートだなんて……」
顔を茹《ゆ》でたエビのように真っ赤にしてぶんぶんと激《はげ》しく頭を振《ふ》る春香。いやそんな速攻《そっこう》かつ全身|全霊《ぜんれい》で否定《ひてい》せんでも……。あ、何かちょっとショックかも。
「そ、そうじゃなくてですね、実はちょっと買い物に行きたいところがあるので、それにごいっしょしていただけたらいいなぁと思ったんです」
真っ赤な顔のままそう付け加える春香。ああ、そういうことね。そりゃここ一ヶ月でちょっと仲良くなったとはいえあの『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』が俺なんかをデートに誘《さそ》うわけないか……。ん? でもよく考えてみれば、世間《せけん》一般ではそういったこと(二人で買い物)をデートっていうんじゃないかそうなんじゃないか?
「ど、どうでしょうか? あ、も、もちろん気が進まないようならムリにとは言いませんが……」
「いや、おっけ。行く」
光よりも速く即答《そくとう》した。
だってせっかくの春香の誘いを断《ことわ》るなんて、そんなもったいないオバケが出そうなことは死んでも出来ない。
「ほ、本当ですか!」
春香がぱっと顔を輝《かがや》かせる。
「よ、良かったです。初めて行く場所なので一人じゃ心許《こころもと》なくて……裕人《ゆうと》さんに断られたらやめようかと思ってたんですよ」
うーん、何やらやたらと喜んでくれてるな。まあこっちとしては素直《すなお》に嬉《うれ》しいが。
「で、買い物ってどこに行くんだ?」
根本的なことを尋《たず》ねると、『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』はそれだけで巷《ちまた》の思春期な男子中高生の実に十割を恋に落としそうなスバラシイ笑顔《えがお》で、こう答えたのだった。
「はい。アキハバラに、です」
まあつまり……そういうことなのである。これこそが乃木坂春香《のぎざかはるか》の秘密《ひみつ》。俺だけが知っている『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』の意外《いがい》な一面にして、彼女と俺とをつなぐ奇妙《きみょう》な糸。
そう。
何というか、乃木坂春香は……プチアキバ系なのである。
2
そういう次第《しだい》で、俺の休日の過ごし方が決まったわけだったが。
正直そんなに乗り気なわけじゃなかった。
いや春香と過ごすのがイヤだってわけじゃない。というかそれ自体はその場で三|遍《べん》回ってワンと鳴《な》いてもいいくらいに喜ぶべきことである。『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』と二人きりで過ごす休日。特にやることもなく家で一人ごろごろと過ごすよりも格段《かくだん》に有意義《ゆういぎ》だと言えよう。……それに春香はかわいいし、いっしょにいるのは楽しいし、ごにょごにょ。
にもかかわらずいまいち気乗りしないのは、何というか、俺にとってアキハバラという街にはあまりいい思い出がないからである。
俺がこの日本最大の電気街に来るのは生涯《しょうがい》でこれが三度目であるが、その過去に訪《おとず》れた二度が二度ともさんざんな思いをしていたりして……もちろんそれはこの街が悪いわけではなく、俺をここに連れて来たアホに問題があるわけなのだが、それでも心に刻《きざ》まれた傷ってやつはそう簡単《かんたん》に消えてくれないらしい。
最初に連れて来られたのは、小学校一年生の時だった。
その頃《ころ》からすでにどっぷりと骨《ほね》の髄《ずい》までアキバ系だったクサレ縁《えん》の幼馴染《おさななじみ》(♂)の朝倉信長《あさくらのぶなが》に誘《さそ》われて、ちょっとした冒険《ぼうけん》気分で家から遠く離《はな》れたこの街にやって来たのだが、到着《とうちゃく》から僅《わず》か一時間後には俺はもうその選択《せんたく》を後悔《こうかい》していた。
迷子《まいご》になっていた。
ムダに雑然《ざつぜん》として、不必要《ふひつよう》に入り組んだ街のど真ん中で、俺は一人ぽつんと取り残されていた。
理由は至極簡単《しごくかんたん》。俺をここに連れて来た当の張本人《ちょうほんにん》が、人のことをすっかり忘《わす》れて自分の買い物に走ったからである。その歳にしてすでに日本一の電気街の地理を熟知《じゅくち》していたそのバカとは違《ちが》い、この街の右も左も上も下も分からない俺が(まあそれが普通《ふつう》なんだが)、ヤツとはぐれるのにそう時間はかからなかったってことだ。
で、そんな俺が迷子《まいご》になって一人で駅まで戻《もど》れるはずもなく。
泣《な》きじゃくる俺が警察に保護《ほご》されたのは、それから二時間後のことだった。
二度目はそれから何年か経《た》った後、小学校高学年くらいの時。
もはや二度とあそこには行くまいと固《かた》く心に誓《ちか》っていたのだが、どんな心境の変化だったのか、再度《さいど》ヤツの誘《さそ》いに乗ってしまった。その時もその時でアキハバラ中の本屋|巡《めぐ》りをさせられた挙句《あげく》にやっぱり自分の買い物に走りやがったヤツとはぐれてしまい、さすがにその時は自力で家まで帰り着くことが出来《でき》たのだが、そこに至《いた》るまでの間にちょっとしたゴタゴタがあったりなかったり。
まあとにかくそんなこともあって、俺はこの街があんまり得意《とくい》じゃなかったりするんだよな。
ちょっとだけ複雑な気分で周《まわ》りを見回す。
待ち合わせ場所でもあるアキハバラ駅前。休日ということもあり辺《あた》りにはエサに群《むら》がるアリの集団のように人が蠢《うごめ》いている。そういえば春香《はるか》はこの街が初めてとか言ってたか。最初は、なんつーか意外《いがい》だなと思ったんだが、よく考えてみるとそうでもないのかもしれん。この一ヶ月で分かったことなのだが、春香の本質は基本的には見たまんまのお嬢《じょう》様のそれなのである。容姿端麗《ようしたんれい》、頭脳明晰《ずのうめいせき》、性格温厚《せいかくおんこう》、品行方正《ひんこうほうせい》。ゆえにアキバ系としての経験値《けいけんち》は決して高くない(というか低い)。とはいっても、その潜在的《せんざいてき》な素質《そしつ》がエベレスト並《な》みに高いだろうことだけは何となく窺《うかが》えるんだがな。
などとぼんやりと考えていると、
「あ……もしかして待たせちゃいましたか?」
ウワサをすれば影《かげ》が差す。いつの間《ま》にか春香がやって来ていた。
「ごめんなさい……時間通りに着いたつもりだったんですけど」
「いや、春香は遅《おく》れてない。俺がちょっと早く来すぎただけだから」
これはほんとのことである。もう少し詳《くわ》しく言えば、春香と休日に二人で会えることが楽しみで、早起きしすぎてしまったという事情《じじょう》もあるのだが、それは何となく遠足前にはしゃぐ小学生みたいでカッコ悪いので口には出さない。
にしても――
「……うーむ」
春香の私服|姿《すがた》をお日様の下で見るのは初めてだが……何ていうか、かなりかわいい。さらさらのロングヘアーを白いカチューシャでまとめたお嬢様スタイルに白いワンピースとクリーム色のカーディガンというお嬢様なコーディネイトがまたこれ以上ないくらいばっちりハマっていて、ただでさえお嬢様なのが二・五倍増し(当社比)で超お嬢様になっている感じでさらにその全身に纏《まと》われた上流階級なオーラがまた……あー自分でも段々何言ってんだかさっぱり分かんなくなってきたが、一言で言ってしまえばその姿はとにかく殺人的世紀末的|致死《ちし》量《りょう》的《てき》にめちゃくちゃかわいいのである。
「あ、あの……どうしたんですか? そんなにじっと見られると恥《は》ずかしいのですが……」
「あっ、悪い」
思わずぼーっと見入ってしまっていたみたいだ。だけどそんな恥ずかしそうにちょっと上目遣《うわめづか》いで頬《ほお》を染《そ》める姿《すがた》もまたかわいくて……い、いやこのヘンにしておこう。いいかげん自分の頭の中身が心配《しんぱい》になってきたし。
煩悩《ぼんのう》を追《お》い払《はら》うべく、頭をぶんぶんと振《ふ》る。そんな俺の姿を春香《はるか》が不安そうに見つめた。
「? 私……どこかおかしいでしょうか? このお洋服、今日おろしたばかりのものなのですが……似合《にあ》っていないのかな」
「いやそんなこと」
全くありません。むしろ似合いすぎていて怖《こわ》いくらいです。
それに春香は気付いてないが、さっきから周《まわ》りの視線《しせん》(特に♂)がものすごかったりする。そりゃあ春香ならどこを歩いても否《いや》が応《おう》にも注目を集めるだろうが、場所が場所だけにその目立ち方が半端《はんぱ》じゃない。かなり半端じゃない。まさに貧相《ひんそう》で小汚《こぎたな》いガチョウ(俺|含《ふく》む)の群《む》れの中に舞《ま》い降《お》りた、美麗《びれい》で優雅《ゆうが》な白鳥といった感じである。
「そ、それじゃ行くか」
「あ、はい」
促《うなが》すと、ワンピースの裾《すそ》をひるがえして春香がにっこりと笑った。そのあまりに愛くるしい仕草《しぐさ》に、周囲《しゅうい》から一斉《いっせい》にため息《いき》がこぼれる。マジで……かわいい(しつこい)。
眼福《がんぷく》って言葉《ことば》を心から噛《か》み締《し》めて、俺は春香といっしょに歩き出した。
さて、この辺で俺たちがこの街にやって来た理由をちょっとばかり説明しておくべきだろう。
いやもちろん買い物に来ているわけだが、そういうことではなくて具体的に何を買いに来たのかということである。
以下はちょっと前に交《か》わされた会話である。
「あのですね……銀色の『ぽーたぶる・といず・あどばんす』が欲しいんです」
春香の口から出たのは、俺でも知っているくらい有名な携帯《けいたい》ゲーム機の名前だった。『ポータブル・トイズ・アドバンス』。略して『PTA』である。『銀色の』とは、おそらくその中でも手に入れるのが特に困難《こんなん》だという限定版《げんていばん》のシルバーモデルのことを言ってるのだろう。確か信長《のぶなが》のやつもかなり欲しがってたっけな。
「てことは、オモチャ屋に行くってことか?」
「うーん、オモチャ屋さんというか電気屋さんだと思います。たぶん。私もよく分からないのですが、雑誌にそう書いてあったので」
何か頼《たよ》りないな……
「じゃあまず電気屋か? といってもこの街は電気屋ばっかだからな……」
むしろここではそうでない店を探《さが》す方が難《むずか》しいくらいである。
「だったら、まずその辺の電気屋を片《かた》っ端《ぱし》からあたってみるか?」
とりあえずそう提案《ていあん》してみると、
「あ、ちょっと待ってください」
止められた、
「あ、あの、実は今日のために用意したものがあるのです」
何やらカバンをごそごそと漁《あさ》り、春香《はるか》が取り出したのはレポート用紙のような二枚の紙だった。
「えと、こちらが裕人《ゆうと》さんの分です。お役に立てばいいのですが……」
「……これは?」
「お買い物のしおり≠ナす」
にっこりと春香。
「は?」
何だそれは。
「今日に備《そな》えて私が作った特製のしおりです。行きたい場所とそこまでの道のり、到着《とうちゃく》する予定時刻を簡単《かんたん》にまとめたオールインワンの万能《ばんのう》マップです。これさえあればもうばっちり。作るのに三時間もかかったんですよ。えへ」
控《ひか》えめに春香が笑う。
なるほど地図ね。いや、まあ行きたいところを事前にまとめておいてくれたのはいいんだが、ひょっとしてこのミミズがのたくってヘビとケンカしてるみたいなけったいな線が地図だとか言うんじゃないだろうな。
内心の不安を面《おもて》には出さず、お買い物のしおりとやらをもう一度よく見てみる。地図の部分はもう絶望的《ぜつぼうてき》なくらいアレだったが、それ以外はよくまとまっているみたいだ。これなら行き先をどこにするかに迷《まよ》うことはないだろう。……そこまで無事《ぶじ》に到着|出来《でき》るかはまた別問題だが。
で、このお買い物のしおりとやらによると、携帯《けいたい》ゲーム機|購入《こうにゅう》は最後(予定時刻午後五時)になっていた。
「なあ、何で肝心《かんじん》のモノが最後なんだ? そんなに欲しいものなら最初に確保しといた方がいいんじゃ……」
先手必勝《せんてひっしょう》は日本人の定番だと思うんだが。それとも最後に買うことに何か意味でもあるのか。残り物には福がある?
俺の質問に、春香はちょっとイタズラっぽく目を細めた。
「だって最初に買ってしまったら、それでお買い物が終わってしまいますよ。せっかく楽しみにしていたお買い物なのに……そんなのもったいないです。それに――」
「それに?」
「それに……一番のお楽しみは、最後に取っておくものだと思って」
どうやら好きなオカズは最後に食べるタイプみたいである。
とまあ、それ(携帯《けいたい》ゲーム機|購入《こうにゅう》)が本日の主目的らしい。
とはいってもメインイベントに至るまでにもいくつかサブイベントがあるようで、お買い物のしおりとやらのタイムテーブルに従《したが》って、俺たちはアキハバラの街を歩いていた。
しかし……相変わらずすごい街だな、ここは。
歩いていると目に入ってくるのはアニメやゲームなポスターやらカンバンやら、中には等身大のポップなんてものまでありやがる。まるっきり異世界、アナザーワールドって感じだ。じっと見てると何か頭がくらくらしてくる。
「えと……そこの道を左に曲がって、少し進んだところを右に曲がって直進して――」
その異世界を、春香《はるか》が地図を見ながら先導《せんどう》してくれていた。
……何であの地図で分かるんだろうな。俺には何をどう見てもウナギが腹痛を起こしてうねうねとよじれている図くらいにしか見えん。あんな地図を描《か》けるのもある意味|才能《さいのう》ながら、それを正確に読み取れるのはもっとすごい才能のような気がする。……全くもって完膚《かんぷ》なきまでにうらやましくはないが。
「次にこの道を右ですね。そうしたら白い建物が見えてくるはずです」
ともあれ春香のおかげで、ここまで俺たちはほとんど迷《まよ》うことなく目的地へと到着《とうちゃく》することが出来《でき》ていた。順調《じゅんちょう》にサブイベントとやら(アニメショップの見学とかグッズショップのウインドウショッピングとか)を消化して、現在はお買い物のしおりにおける四番目の目的地である専門書店へと向かっているところである。
大通りを並《なら》んで歩いていると、何だかあちこちで行列のようなものが見えた。ざっと見て三、四十人くらいの人間がぞろぞろとレミングスみたいに列をなしている。何かイベントでもあるのかね? この暑い中ご苦労なこった。代われるもんなら代わってあげたい。まあ実際《じっさい》ムリなんだけど。
などと完全に他人事《ひとごと》で眺《なが》めていると、
「あっ、あれは」
隣《となり》にいた春香が突然《とつぜん》とてとてと走り出した。あー、またか。走り出した先にあるのは一|軒《けん》の店。その後《うし》ろ姿《すがた》を黙《だま》って見守る俺。これで本日三度目である。さすがにもう驚《おどろ》かん。
ゆっくりと歩いて春香の後《あと》を追《お》う。
春香は、店のディスプレイの前にぴったりと張り付いていた。
「かわいいです……」
視線《しせん》の先にあったのは赤色の髪《かみ》をした女の子がヴァイオリンを弾《ひ》いているフィギュア(定価二万五千円、高ぇ……)。それをまるでお気に入りのトランペットを見るため楽器屋に毎日通っている少年みたいな目をして、春香《はるか》はじ〜っと見つめていた。
どうも春香はお気に入りのモノが目に入ると周《まわ》りが見えなくなるらしく、隣《となり》を歩いてる俺の存在《そんざい》すらもすっかり忘《わす》れて、真っ赤な布を見つけて興奮《こうふん》する闘牛《とうぎゅう》のごとく、単独特攻《たんどくとっこう》をかけるのである。
おかげでその度《たび》に、俺は荷物《にもつ》を持ったまま一人ぽつんと取り残されるという放置《ほうち》プレイを食らうハメになり、まあ寂《さび》しいというか空《むな》しいというか何で俺ここにいるんだろうなとか自分の存在意義《そんざいいぎ》について少しばかり疑問を抱《いだ》いたりもしたんだが……何だかそれも段々《だんだん》と気にならなくなってきた。
「かわいいものって、見ているだけで幸せな気分になりませんか?」
と、学園では絶対《ぜったい》に見せない幸せそうな笑《え》みを浮《う》かべる春香。その生き生きとした姿《すがた》を見てると、そんなこと(俺への放置プレイ)なんて非常《ひじょう》に些細《ささい》なことに思えてくるんだよな。ま、『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』のこんな無邪気《むじゃき》な顔が見られただけで報酬《ほうしゅう》としては十分ってことで。
――それから十五分ほどが経過《けいか》したが、春香は一向にディスプレイの前から離《はな》れようとしなかった。
「なあ……そんなに気に入ったんなら、買えばいいんじゃないのか?」
さすがにこれ以上ここにいるのも少し営業|妨害《ぼうがい》っぽいんで、そう提案《ていあん》してみたところ、春香はその整《ととの》った顔を曇《くも》らせて答えた。
「そうしたいのは山々なんですけど……予算がないんです」
「予算?」
天下の乃木坂家《のぎざかけ》のお嬢《じょう》様からそんな言葉《ことば》を聞くとは思わなかった。小遣《こづか》い月百万とかお年玉五百万とか、そういうレベルじゃないのか?
と尋《たず》ねてみると、
「そんな……とんでもないです」
春香は大きく首を振《ふ》って力いっぱい否定《ひてい》した。
「私のお小遣いなんて本当に少しばかりで……毎月どう節約《せつやく》するかに頭を悩《なや》ませているくらいです」
「ちなみに、いくらくらい貰《もら》ってるんだ?」
参考までに訊《き》いてみると、
「ええとですね――」
春香の口から出たのは、俺の月の小遣いとほとんど変わらない額《がく》だった。
「意外《いがい》だ……」
激《はげ》しく意外《いがい》である。あの由緒《ゆいしょ》正しい上流階級の代表格の乃木坂家《のぎざかけ》のお嬢《じょう》様と、ちゃんとした家系図が残っているかどうかも怪《あや》しい中流階級のステロタイプである綾瀬家《あやせけ》の一子《いっし》にすぎない俺の小遣《こづか》いが同額《どうがく》なんて、普通《ふつう》は考えられない。
「うちはお父様が厳《きび》しくて……今日だって、この日のために取っておいた大事な一万円札を貯金箱《ちょきんばこ》から出してきたんです。……おかげでブタさんが天に召《め》されてしまいました」
ブタさん……貯金箱のことか?
「だからムダ使いは出来《でき》なくて……。でも、いいんです。見ているだけで、十分満足ですから」
えへ、と健気《けなげ》に笑う春香《はるか》。うう、何ていじらしい……。そういう理由なら(店の人に文句《もんく》を言われるまで)好きなだけ見なさい。おじちゃんが許《ゆる》すから。
そしてさらにディスプレイの前で十分ほどの時間を過ごし。
「ありがとうございました。おかげさまで幸せなひと時を過ごせました」
とのことらしいので再《ふたた》び歩き出した俺たちであったが――
「あっ」
また何か見付けたのか、大通りに出るなり春香が四度目の特攻《とっこう》を見せた。忙《いそが》しいな。
向かった先はとあるグッズ系の専門店。だが店内には入らずにその店先に置いてある直方体の物体に駆《か》け寄《よ》っていく。これはあれか、いわゆるガチャガチャだとかガチャポンだとか呼《よ》ばれる類《たぐい》の玩具《がんぐ》自動販売機か。うーむ、懐《なつ》かしい。俺も小学生の時によくやったもんである。某《ぼう》機動戦士や某筋肉超人のデフォルメされたゴム人形なんかは、今でも押入れをひっくり返せば大量に出て来るんじゃなかろうか。
「これって、アレですよね? 確かお金を入れると中からお人形とかが出てくる……。あっ、あれって……もしかして、『ドジっ娘《こ》アキちゃん』?」
……何かどっかで聞いたような固有名詞だな。春香が指差した先には、やはりどこか見覚《みおぼ》えのある蒼色《あおいろ》の髪《かみ》をした女の子がピアノを弾《ひ》いているフィギュアの写真が貼《は》られた四角い筐体《きょうたい》(長い……)があった。
「あれ……とってもかわいいです」
再び少年の目になる春香。うーん、何となく春香の好みの傾向《けいこう》が分かってきた気もするな。
「だったらやってみたらどうだ?」
さっきのやつとは違《ちが》って、これならリーズナブルだし。
「え? やるって、これをですか?」
「ああ」
「え、でも……」
勧《すす》めてみたものの、春香《はるか》は何やらもじもじと躊躇《ちゅうちょ》している。あれ、もしかしてあんまり乗り気じゃないのかな?
すると春香は小さな声で言った。
「あの……実は私、初めてなんです」
「初めて?」
って、ガチャポンが?
「は、はい」
恥《は》ずかしそうにこくりとうなずく。
「見るのも触《さわ》るのも今日が初めてなんです。えっと、こういうのを何ていうのかな……初体験《はつたいけん》、でしょうか? なのでちょっとだけ心配だったのですが……あの、私にも出来《でき》るのでしょうか?」
「……」
いやまあ言葉《ことば》としては正しいんだが。でもこんな真っ昼間から人前で初体験とか言うのはやめてほしいです。
「ど、どうでしょうか?」
「うーん、まあ平気だろ。特に難《むずか》しいもんでもないし」
ガチャポンなんて、硬貨《こうか》を入れてレバーを捻《ひね》るだけだ。その気になれば幼稚園児でも出来る。
「そうなんですか。それならやってみます」
ようやく春香もその気になったようだった。おもむろに財布《さいふ》をカバンの中から取り出し、新たに支給《しきゅう》されたパソコンに向かう機械オンチの中年サラリーマンみたいに、すげぇ真剣《しんけん》な顔をしてガチャポンと向き合う。ま、ここはとりあえず温《あたた》かい目で見守っておくか――
「あ、あれ? あれ? おかしいな……どうなってるんでしょう?」
と思ったのだが、いきなり春香が何やら困《こま》っていた。
「どうした?」
「裕人《ゆうと》さん……これ、壊《こわ》れているんでしょうか? お金が入らないんです」
「ん、そんなことないと思うが……どれどれ」
覗《のぞ》き込《こ》んでみる。
「……」
そこには硬貨|投入口《とうにゅうぐち》に必死《ひっし》に一万円札を押し込もうとしている春香の姿《すがた》があった。……いや春香さん、それはいくら何でも。
「??」
「……春香、ガチャポンは紙幣《しへい》は使用|不可《ふか》。硬貨のみ可だ」
「えっ、そうなんですか?」
「……そうなんです」
いやマジ顔で訊《き》き返《かえ》さないでくれ。
「分かりました、硬貨《こうか》ですね」
再《ふたた》び財布《さいふ》を開く春香《はるか》。そして次の瞬間《しゅんかん》、ご馳走《ちそう》を目の前にしてお預《あず》けをくらった豆柴《まめしば》みたいに悲しそうな顔になった。
「……硬貨がないです」
「……とりあえず、俺が立て替えておくから」
このままじゃいつになったらスタート出来《でき》るのか分からなかったため、そう提案《ていあん》した。
「……お手数をおかけします」
千円札を両替機に呑《の》み込《こ》ませて、百円玉に替《か》える。何か紙幣《しへい》が硬貨に替わると損《そん》した気分になるのは俺が小市民だからだろうか。
「ほい、これ」
「は、はい」
緊張《きんちょう》した面持《おもも》ちで俺から百円玉を受け取る春香。
そして春香のガチャポン初体験が始まったわけなんだが……ちょっとばかり危惧《きぐ》すべきことがあった。
それは中毒性《ちゅうどくしょう》である。
経験上《けいけんじょう》、この手のガチャポンは一度ハマるとなかなか抜《ぬ》け出《だ》せないことを俺は知っている。どうしても手に入れたいモノがある場合、それが出るまでやめられないのだ。
それでもやるのが小学生ならまだいい。いくら続けたくてもなけなしの小遣《こづか》いがなくなれば物理的に続行が不可能《ふかのう》になる。何ていうか、財政的《ざいせいてき》に抑止力《よくしりょく》がかかるのだ、まあそんな時に限って自分の次に並《なら》んでいたヤツが目当ての品をゲットしたりして涙《なみだ》を呑《の》むことになるのだが、そういった苦《にが》い経験を繰《く》り返《かえ》して少年は大人へと成長していくのだ……って、ちょっと話がズれたな。
結局《けっきょく》俺が言いたいのは、しかしそれをやるのがそれなりに財力《ざいりょく》を持った高校生だとしたらどうなるか? ということなのである。その答えを想像《そうぞう》すると……眩暈《めまい》を覚《おぼ》えるんだよなあ。
願わくばその答えが外《はず》れてくれることを期待《きたい》したのだが。
現実ってやつは……そんなに甘くなかった。
案《あん》の定《じょう》、ハマりまくった春香がお目当てのモノ(『ドジっ娘《こ》アキちゃん』ピアノバージョンとやら)を手に入れる頃《ころ》には、漱石《そうせき》さんが四枚ほど羽を生《は》やして天へと飛んでいき、代わりに俺たちの周《まわ》りには山ほどのハズレカプセルが、河原《かわら》に落ちている丸石のごとくごろごろと転《ころ》がっていたのだった。
3
昼メシの時間となった。
しおりによると、昼食は『キャロット・キュロット』という店に決まっているらしい。
「この店、どんな店なんだ?」
ファミレスか何かだろうか。店名だけじゃよく分からん。
俺のその質問に、春香《はるか》は待っていましたと言わんばかりに、にっこりと笑った。
「喫茶店《きっさてん》です。雑誌で見て、前からぜひ一度行ってみたいと思っていたお店なんですよ。メインイベントに次ぐ重要なイベントになっていますので、楽しみにしていてくださいね」
重要イベントね。ふむ、よく見ると確かにしおりの店名の横に花丸が付いてるな。ちなみに今まで気付かんかったが(というか心が拒否《きょひ》してたのかもしれんが)、メインイベントの某《ぼう》大型電気店の横にも何やらイラストのようなモノが描《か》かれている。針のようなヒゲとナイフのようなツメを生やし、目を血の色に染《そ》めた化け物。……これはネコ、のつもりなんだろう、たぶん。
「ふんふ〜ん♪」
歩きながら、隣《となり》で楽しそうに『乙女の祈り』の鼻歌を歌う春香。
だがそれとは正反対に、俺の心は果《は》てしない不安でいっぱいだった。イメージにすると、それまで真っ青だった夏の空に突然|黒雲《あんうん》が現れてゴロゴロとカミナリが光りだす、みたいな(古典的)。
「着きました。ここです」
春香の声で我に返る。どうやらうだうだと色々考えているうちに、いつの間《ま》にか目的地へ到着《とうちゃく》していたらしい。
「良かった、空《す》いているみたいです。早く入りましょう、裕人《ゆうと》さん」
春香の声は弾《はず》んでいる。
さて、春香お薦《すす》めとはどんなに怪《あや》しい(かなり失礼)店なのか。意を決して頭を上げた俺の視界《しかい》に入ってきたのは――
「……あれ?」
別に、どこにでもある普通《ふつう》の喫茶店だった。
ちょっとこじゃれた感じの、いかにも女の子ウケしそうなかわいらしい外観。窓ガラスからちらりと見える内装《ないそう》も落ち着いた感じで、ぱっと見る限りなかなか良さそうな雰囲気《ふんいき》である。店中に入ってみても、特に変わったところは見受けられなかった。白を基調《きちょう》とした落ち着いた内装。男の客がやけに多い気がするのが少し気にはなったが、それくらいは許容範囲《きょようはんい》というか、とりたてて問題視《もんだいし》するようなことでもない。
窓際《まどぎわ》の席《せき》に座《すわ》りメニューを開く。メニューも――ちょっとファンシーな名前のモノが多いけど――いたって普通《ふつう》だった。ううむ、この様子《ようす》だと、どうやら俺の心配《しんぱい》も今回は(初めて)杞憂《きゆう》に終わったみたいだな。きっと春香《はるか》も、この店のかわいらしいデザインに惹《ひ》かれてここを重要イベントにしたんだろう。うん、そうに違《ちが》いない。何だかんだいって春香も、基本的には普通の女の子だしな。
幾分《いくぶん》ほっとした気分でメニューを選《えら》んでいると、頭上から黄色い声が降《ふ》ってきた。
「いらっしゃいませ〜。ご注文《ちゅうもん》はお決まりでしょうか?」
おっと、もうウェイトレスさんが注文を取りに来たか。まだこの『不思議《ふしぎ》の国のパスタ』と『七人の小人のアップルパイ』のどっちにしようか決めてないのに。春香もメニューを見ながらうんうんと悩《なや》んでいる。よし、ここはもうちょい待ってもらおう。
俺はメニューから顔を上げて、
「あー、すみません、まだかかりそうなのでもう少し――」
待ってください、とは続けられなかった。
視線《しせん》の先にあったものに、俺の動きは完全に停止《ていし》した。
ついでに思考《しこう》も完璧《かんぺき》に停止した。
「……」
「どうかなさいましたか、お客様?」
そこにいたのは……何というか、メイドさんだった。白いフリフリのエプロンドレスに同色のカチューシャ(みたいなもの。正式には何ていうのかは知らん)を装備《そうび》している。加えて何か頭にネコミミみたいなもんが付いてるように見えるのは俺の目の錯覚《さっかく》か?
「お連れのお客様もまだでしょうか〜?」
「あ、はい。もう少し待っていただけますか」
「そうですか〜。了解《りょうかい》いたしました」
銀色のトレイを持ったネコミミメイドさんがうなずく。……ネコミミメイドさん。自分で言ってて何だが、すごい表現だな。
「それではご注文がお決まりになったらお呼《よ》びください〜」
愛想良《あいそよ》く笑ってネコミミメイドさんがシッポをふりふり立ち去っていった。それを確認して俺は春香に尋《たず》ねた。
「あの春香……ここって」
「? 喫茶店《きっさてん》ですよ?」
いやそれくらいは分かってるんだが……。そうじゃなくて、いつから日本の喫茶店はメイドさんが標準《ひょうじゅん》装備になったんだ。
「ここのウェイトレスさんの衣装《いしょう》、とってもかわいいんです。何と言ってもみなさん[#「みなさん」に傍点]、メイドさんですから」
「……」
……ちょっと待て。今、みなさんって言ったか?
春香《はるか》を席《せき》に座《すわ》らせたまま、ダッシュで店の表にある看板《かんばん》まで走る。さっきは気付かなかったが、そこには確かにメイド喫茶《きっさ》=wキャロット・キュロット』と書かれていた。
なるほど……やっぱそういう店だったわけだ。
非常《ひじょう》に疲《つか》れた気分になって席へと戻《もど》る。
メイド喫茶。確かにそれならメイドさんがウェイトレスをやってるのにもうなずける。というかそれが売りなんだろうから当然だろう、メイド喫茶でメイドさんがいなかったらそれはそれで羊頭狗肉《ようとうくにく》、看板に大きな偽《いつわ》りありだ。
だからまあ百歩|譲《ゆず》ってそれはいいとしよう。いやあんまよくない気もするがそれを気にすると話が進まなくなるんでいいことにする。でもな――
「……なあ、何でみんな、頭にネコミミが付いてるんだ?」
そこが最大の疑問だ。おまけによく見ればシッポが付いているメイドさんまでいるし……。あれには学術的に一体どんな意味があるのか。
「ええと、かわいいからじゃないでしょうか」
春香は実に単純明快な答えを出してくれた。
「メイドさんはそのままでもかわいいですけれど、そこにネコミミを付けることによってさらにかわいさあっぷです。一+一が二じゃなくて三にも四にもなる好例《こうれい》ですよね?」
にこにこと笑う春香。そんなかわいく同意を求められても困《こま》るんだが……
「いいなあ、かわいいなあ……私も着てみたいなあ。今度|葉月《はづき》さんに貸《か》してもらおうかな……」
夢見るような瞳《ひとみ》でネコミミメイドさんを見つめる春香。うーむ、春香にメイド服か……。ちょっとだけ想像《そうぞう》してみる。エプロンドレスを着てネコミミを付けた春香。にっこりと笑って「ご主人様♪」。………………い、いいかもしれない。
――って何考えてんだ俺は! これじゃネコミミメイドがツボだとか何とか言ってたあのアホと変わらんだろうが!
あまりに頭の悪い妄想《もうそう》をしてしまい自己|嫌悪《けんお》に身悶《みもだ》える俺を尻目《しりめ》に、いまだに春香は店内を優雅《ゆうが》に闊歩《かっぽ》するネコミミメイドさんたちをぼ〜っと至福《しふく》の表情で見つめている。そして突然《とつぜん》、何かを思い付いたかのように左手の上に右手をぽんと落とした。
「裕人《ゆうと》さん、私……いいこと考えついちゃいました」
「……何でしょう?」
それはきっと俺にとってはいいことでないと思う。もう断言出来《だんげんでき》るのが怖《こわ》い。
「写真を撮《と》らせてもらいましょう」
「は?」
[#挿絵(img/01_142.jpg)入る]
「せっかく来たんですから、メイドさんといっしょに記念|撮影《さつえい》です」
「いやちょっと待て――」
俺が止める間《ま》もなく、どこからともなくデジカメを取り出した春香《はるか》は行動に出た。
「すみません、あの……いっしょに写真を撮《と》らせていただいてもよろしいですか?」
テーブルの脇《わき》を歩いていたネコミミメイドさんを呼《よ》び止《と》めて、そうストレートに切り出した。しかし、
「すみません、当店では写真撮影はご遠慮《えんりょ》いただいていますので……」
とネコミミメイドさん。
「え、そうなんですか……?」
「はい。申《もう》し訳《わけ》ありませんが……」
ネコミミメイドさんが頭を下げる。よ、良かった。春香には悪いが、おかげで店内での写真撮影なんて半ば羞恥《しゅうち》プレイに近い恥《は》ずかしいマネをしなくて済《す》んだな。
――と安堵《あんど》するのはまだまだ早かったみたいだった。
「ダメ……ですか。メイドさんと写真、撮りたかったのですが……」
捨てられた仔猫《こねこ》みたいにしょぼんとする春香。そのあまりに落胆《らくたん》した姿《すがた》を見かねたのか、ネコミミメイドさんはちょっと考える素振《そぶ》りを見せて「う〜ん、少しだけお待ちください。もしかしたら何とかなるかもしれないです」と言って店の奥《おく》に小走りで消えていった。いや何とかしてくれなくていいです……などと突っ込むヒマもなく、すぐにネコミミメイドさんは戻《もど》ってきた。
「お客様、こちらまでお越《こ》しください」
「?」
「え〜と今、店長に事情《じじょう》を話して撮影《さつえい》の許可《きょか》をもらってきました。私でよろしければ、どうぞ写真を撮《と》ってもらって結構《けっこう》です。ただし他のお客様の手前、お店の奥《おく》でこっそりと撮影ということになっちゃうんですが……」
「ほんとですか? ええ、それでいいです。ありがとうございますっ」
花が咲くような笑顔《えがお》で春香《はるか》がぺこりと頭を下げた。それを見たネコミミメイドさんが何やら恥《は》ずかしそうに頬《ほお》を染《そ》めている。何というか、春香の笑顔は男女|関《かか》わりなく全ての人のハートをがっちりとキャッチするエンジェルスマイル(必殺《ひっさつ》)なのである。ううむ、もしかして希少《きしょう》な女性ファンクラブ員を一人|増《ふ》やしちまったんじゃないのか(星屑守護親衛隊。現在の男女比五:一)。
かくしてこの日、『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』とネコミミメイドさんそして俺の三人が仲良く笑っている(俺は引《ひ》き攣《つ》ってたかもしれんが)という、後世《こうせい》まで語《かた》り継《つ》がれそうな非常《ひじょう》にコメントがしづらい写真が生まれたのだった。
さて(満面《まんめん》の)笑みのネコミミメイドさんに見送られ、俺が心の底《そこ》から疲労《ひろう》してメイド喫茶《きっさ》を出た直後のことだった。また何か新しいモノを見付けた春香が本日五度目の特攻《とっこう》をかけ、いいかげん慣《な》れてきた俺が店の前にあった汚《きたな》いベンチに腰《こし》を下ろしてぼんやりと景色《けしき》を眺《なが》めていた時のことだった。
「あれー、もしかして裕人《ゆうと》じゃない?」
人ゴミの中から、あり得《え》ない声が聞こえた。
とりあえず他人のフリをしてあさっての方向を見たのだが、ヤツはそれで諦《あきら》めてくれるような殊勝《しゅしょう》な性格《せいかく》をしていなかった。
「ねー裕人だよねー?」
「……」
「裕人ー?」
「……」
「あー、ムシだー。そういうことするんなら僕にも考えがあるよー」
「……」
「ふーん、いいんだねー。あのねー、白城《はくじょう》学園二年一組の綾瀬《あやせ》裕人くんは幼稚園の時にバラ組|担任《たんにん》の岩倉《いわくら》先生に――」
「……分かった。俺が悪かった、信長《のぶなが》」
観念《かんねん》すると、見慣《みな》れたというよりはもはや見飽《みあ》きた顔の幼馴染《おさななじみ》は「うんうん、それでいいんだよー」と子供みたいに嬉《うれ》しそうに笑った。
「けど信長……何でお前がここに?」
「ん? 変なこと訊《き》くねー、僕が休みの日はほとんどここに来てるってこと、裕人《ゆうと》が一番よく知ってると思うけどー。僕らの聖地《サンクチュアリ》だしねー」
……そういやそうだった。
「ま、今日はちょっと用事があったんだけどねー。あ、正確には昨日からかー。てゆーかこっちにしてみたら裕人がここにいるってことの方が驚《おどろ》きだよー。普段《ふだん》僕が誘《さそ》っても全然乗ってくれないのにー」
お前の誘いだからイヤなんだよ。こいつとこの街の組み合わせは俺にとって最悪のカップリングである。盆と正月どころか仏滅《ぶつめつ》と葬式《そうしき》がいっぺんにやって来たって感じだ。
まあそれはともかくとして、確かにこいつの言う通りこいつがこの街にいることは驚くべきことじゃない。それはある意味海に魚がいることが当たり前のようなもんだ。真性アキバ系であるこいつが、休日にここにいなくてどこにいるのかって感じである。
問題は、春香《はるか》と二人で出かけるということに気を取られすぎてそのことをすっかりさっぱりキレイに忘《わす》れていた俺の脳《のう》ミソの方にある。ちっ、覚《おぼ》えていればそれなりに対策《たいさく》も立てられたものを。
「どしたの裕人ー、顔色悪いよー」
「いやちょっと頭痛《ずつう》が……」
「へー、大変《たいへん》だねー。成分の半分が優しさで出来《でき》てる頭痛薬、あげようかー?」
頭痛のタネがそんなことを言いやがる。
「あー、それより信長、お前も色々|忙《いそが》しいんだろ? 俺に構《かま》わず行ってくれていいぞ」
「えー、そんなことないよー。メインイベントはもう終わったしー、特に急いでやらなきゃいけないこともないしー」
「でも俺といても退屈《たいくつ》だろ? せっかくの休日なんだから好きに羽《はね》を伸ばした方が……」
「何か裕人、僕にどっか行ってほしいみたいだねー」
「い、いやそんなこと……」
めちゃくちゃあるんだがな。少なくとも春香が戻《もど》ってくる前に消えてくれないと、色々と厄介《やっかい》なことになるのはもう明白である。火炎《かえん》を見るよりも明らかである。
「ふーん……ま、何でもいいけどさー。分かったよー。もう用事は済《す》んだしー、僕は眠《ねむ》いから、大人しく帰って寝《ね》ることにするー」
本当に眠そうな顔でカバみたいに大きな欠伸《あくび》をして信長が伸びをした。ムダにタフなこいつにしては珍《めずら》しい。
「昨日からちょっとしたイベントがあってねー。並《なら》びっぱなしでほとんど寝《ね》てないんだよー。でもおかげで目的のブツは無事《ぶじ》ゲット出来《でき》たからいいんだけどねー。あははー」
何かこいつはこいつで色々と大変《たいへん》みたいだな。
「じゃーねー裕人《ゆうと》、また明日学校でー」
右手に持った紙袋をぶんぶんと振《ふ》りながら、信長《のぶなが》は駅へと歩いていった。
4
そして何だかんだで時間は過ぎてゆき。
いよいよ(春香《はるか》にとって)本日のメインイベントである、携帯《けいたい》ゲーム機|購入《こうにゅう》の時間が近づいてきた。
「時刻は現在午後四時四十八分……いよいよメインイベントです」
ここまで順調《じゅんちょう》にイベントをこなしてきて上機嫌《じょうきげん》の春香の後を付いて、最終目的地である電気屋へと向かう。ちなみに俺の両手には二つの紙袋。本日の(春香の)入手物《にゅうしゅぶつ》である。中身はほとんどがあちこちでもらった無料|配布《はいふ》の冊子やカタログ、ポスター等で、その他にもマンガ(『イノセント・スマイル』今月号やら)に小説などが少々。量はそんなに多くないが、紙モノが多いためけっこう重い。
「裕人さん……だいじょうぶですか? あの、やっぱり私、半分持ちます」
「いや、平気」
気遣《きつか》ってくれるのは嬉《うれ》しいが、荷物持《にもつも》ちくらいしないとほんとに何しに来たんだか分からんからな。
「でも……」
「ほんとに大丈夫《だいじょうぶ》だって。重い荷物を持つのは昔から慣《な》れっこだし」
小学生の頃《ころ》からルコやら由香里《ゆかり》さんやらに時給五十円で(ほとんど強制的に)荷物持ちをやらされてたからな。真夏のあっつい日に俺がクソ重い荷物にひーひー言ってる横でヤツらは楽しそうにソフトクリームを舐《な》めてたっけ。……いや、今になって冷静《れいせい》に考えてみると、それって児童|虐待《ぎゃくたい》とかそういうのじゃないのか、おい。
自らの被虐《ひぎゃく》の思い出を振り返り少し鬱《うつ》になった俺を、春香が心配《しんぱい》そうに覗《のぞ》き込《こ》んできた。
「何か顔色が悪いような気がするのですが……あ、あの、やっぱり荷物、重いんじゃないですか?」
「いや……ちょっと過酷《かこく》な過去を思い出して」
「過酷な……ですか?」
「ちなみにシャレじゃないぞ」
「?」
春香《はるか》の頭の上にでっかいハテナマークが浮《う》かぶ。
「あー、何でもない。こっちのこと。それよりさっさと行こう。せっかくここまで来たのに、売り切れでもしてたら悲惨《ひさん》だからな」
と、荷物《にもつ》を勢《いきお》いよく持ち上げ春香の前に立って歩き出した俺だが、
「裕人《ゆうと》さ〜ん」
すぐに春香に呼《よ》び止《と》められた。
「道、そっちじゃないですよ?」
「……」
そういえば、俺は行く先がどこだか正確には分かってなかったんだっけ。
「こっちです」
「……はい」
うなずいて、春香の後に続く。
しかしあれだ。
まさかこの時|何気《なにげ》なく言った言葉がまさか現実のものになろうとは、全く想像《そうぞう》もつかなかったね。
「……売り切れ?」
「はい。真《まこと》に申《もう》し訳《わけ》ございませんが……」
メガネをかけたいかつい顔の店員さんが深々と頭を下げる。
現在俺たちがいるのは、某大型電気店3Fのゲームコーナーである。ぴったり鞄買い物のしおり通りの時間にここに辿《たど》り着《つ》いた俺たちを待っていたのは、『ポータブル・トイズ・アドバンス』限定版《げんていばん》シルバーモデルの空き箱の上に貼《は》られた売り切れ≠フ文字だった。
「限定版のシルバーモデルは大変《たいへん》な人気でございまして、予約分で七割方が販売《はんばい》済《ず》みで、残った三割も午前中に完売してしまっております」
それも大変な混雑《こんざつ》で、開店前もしくは前日から並《なら》んでいないと購入《こうにゅう》はまずムリだったでしょう、とフォローだか何だかよく分からんことを付け加えた。
「どうにかして、手に入りませんか?」
「当店の系列店にも在庫《ざいこ》はございませんし、他店に行かれたとしてもこの時間ではもうムリではないかと――」
俺の質問に丁寧《ていねい》に答えてくれる店員さん。マウンテンゴリラみたいな顔の割《わり》に実はけっこういい人かもしれない。
まあつまり話を総合すると。
「見込みが甘かった……ってことか」
本気でその限定《げんてい》シルバーモデルとやらが欲しかったら、開店前――それこそ早朝くらい――から並《なら》ぶくらいの覚悟《かくご》が必要《ひつよう》だったってことだろう。午後五時にのんびりと来店なんてそれこそ問題外だ。
「……」
隣《となり》を見ると、魂《たましい》が抜《ぬ》けかけて頭の上にふわふわと浮《う》いているのが見えそうなほど愕然《がくぜん》とした顔の春香《はるか》が立っていた。
完全に、茫然自失《ぼうぜんじしつ》って顔だった。
「あー、春香」
普段《ふだん》はほとんど完全|無欠《むけつ》なのに、ここ一番の肝心《かんじん》なところが抜けてるのは春香の特性だが、そこまでアレな顔をされると、何て声をかけていいんだか分からなくなってしまう。
「まあ今回は、運が悪かったってことで」
「……」
「春香?」
「……え? あ、はい」
虚《うつ》ろな瞳《ひとみ》で何とか返してくる春香。目が完全に死んでる。こりゃ……相当《そうとう》のダメージみたいだな。
「とりあえず出よう。これ以上ここにいてもしょうがないし」
むしろいたたまれない気分になるだろう。
「……はい。そうですね」
力のない声でそう答えて、春香はエスカレーターのある方へと歩き出そうとした。その身体が途中《とちゅう》でふらりと揺《ゆ》れる、
「春香?」
「あ、あれ?」
俺が声をかけるのと、春香の身体がそのまま床《ゆか》に向かってゆっくりと傾《かたむ》いていくのとはほとんど同時だった。
「!」
床に着く寸前《すんぜん》に何とか春香の身体を受け止めることに成功する。うわ、腰《こし》細いな。おまけにいい匂《にお》い……ってそんな不埒《ふらち》なことを考えてる場合じゃないだろ!
「大丈夫《だいじょうぶ》か、春香!」
俺の腕《うで》の中で、春香はまぶしそうに目を細めた。
「は、はい。何だか少しふらっとして……」
貧血《ひんけつ》か何かだろうか。確かにただでさえ白い春香の顔が、今はさらに紙のように白くなっている。どうする……ここは店の人に助けを求めるかあるいは救急車でも呼《よ》ぶか――
「あの、裕人《ゆうと》さん。私、平気です。これくらいなら少し休めば楽になると思います」
俺の考えていることが分かったのか、春香《はるか》が力なく首を振《ふ》った。
「でもな……」
「お願いします。大事《おおごと》にして裕人さんに迷惑《めいわく》をかけたくないんです」
……仕方《しかた》ない。ここは春香の意思《いし》を尊重《そんちょう》しよう。
「……分かった。じゃあとりあえず店を出て、どこか休める場所に行くぞ。――ちょっとガマンしてくれ」
「え? ゆ、裕人さん!?」
目をシロクロさせる春香を抱《だ》き上《あ》げる。何を勘違《かんちが》いしたのか周囲《しゅうい》から口笛《くちぶえ》やら歓声《かんせい》やらが上がったがムシして、俺はダッシュで店を出た。
……しかしお姫様抱《ひめさまだ》っこなんて、するのもされるのも(されたくないが)生まれて初めの経験《けいけん》だな。
休めそうな場所を探《さが》して、着いた先は小さな公園だった。
「つ、疲《つか》れた……」
さすがに人一人抱きかかえての全力|疾走《しっそう》は身体に堪《こた》える。いや春香は全然重くなく、むしろ羽毛《うもう》みたいに軽かったのだが、それでも帰宅部で万年運動不足の身には少々|辛《つら》いものがあった。俺ももうトシだな……。今度通販のアレでも購入《こうにゅう》することを本気で検討《けんとう》した方がいいかもしれん。ちなみにどうでもいいが、アレとは深夜《しんや》に外人さんがさわやかな笑顔《えがお》で宣伝《せんでん》していた怪《あや》しげなルームランナーの出来損《できそこな》いのような一品――「HEY、ナンシー! 今日はいいものがあるんだ!」「わあ! 何かしら、ビル!」みたいなくだりで始まるアレである。確か分割払《ぶんかつばら》い可《か》で税込み一万二千八百円也だったか。……いや、ほんとにどうでもいい話だな。
「よいしょっと」
抱《かか》えて走っている最中に眠《ねむ》ってしまったのか、眠り姫よろしく穏《おだ》やかな寝息《ねいき》を立てる春香をベンチに寝《ね》かせて、俺は一息《ひといき》吐《つ》いた。
――それにしても倒《たお》れるなんてな。
まあ、あそこまで楽しみにしていたゲーム機購入である。それだけに失敗した反動はものすごいのかもしれんが……
ベンチの上で、規則《きそく》正しく胸《むね》を上下させている春香を見る。
何にせよあと少し待ってみて目を覚《さ》ます様子《ようす》がないようなら、本気で救急車を呼ぶこととかも考えた方がいいかもしれん。いくら大事にしたくないからって、春香の身体の方が大切だ。
さて救急車を呼ぶとしたら携帯《けいたい》で呼ぶべきか、それとも今ではもう化石|並《な》みにすっかり少なくなってしまった公衆電話を探《さが》してそっちで呼《よ》ぶべきか迷《まよ》いながら、もう一度|春香《はるか》の方に目を遣《や》ると――
「あっ……」
いつの間《ま》に起きていたのか。
こっちに顔を向けていた春香とぴたりと目が合った。それはもう、これ以上ないってくらいのばっちりのタイミングだった。
「……」
「……」
……何か、気まずい。
「あ、身体はもう大丈夫《だいじょうぶ》なのか?」
「は、はい」
慌《あわ》てたように春香がうなずく。
「おかげさまでだいぶ落ち着きました。あの、昨晩はあまり眠《ねむ》れなかったので、おそらくはそのせいだと思うのですが」
「眠れなかった?」
「え、その、はい……今日のお買い物が楽しみでわくわくして、遠足の前日みたいに目が冴《さ》えてしまって――」
「そ、そうか」
「……」
「……」
沈黙《ちんもく》。
目が合ったままの状態《じょうたい》で、俺も春香も石像《せきぞう》のように固《かた》まってしまう。
視線《しせん》を外《はず》してしまえばいいだけの話なんだろうが、どうしてかそれが出来《でき》ないんだよ。近距離《きんきょり》にある春香の整《ととの》った顔。汗《あせ》でほんのりと濡《ぬ》れた髪《かみ》、澄《す》んだ瞳《ひとみ》、薄《うっす》らと赤く染《そ》まった頬《ほお》、かわいらしい桜色の唇《くちびる》。それらから目が離《はな》せない。なぜか春香もこっちをじっと見つめたまま全然動かないし。
心臓がどくんどくんとやかましく動く。ノドがやたらと渇《かわ》くし、何やら少し息苦《いきぐる》しいような気もする。まさか、まさかこれって……心筋梗塞《しんきんこうそく》? ……って俺にそんな持病《じびょう》(成人病)はねえ! 身体が健康なことは(体力は六十歳のおじいちゃんレベルだが)、給食の肉ジャガに入っている肉の量|並《な》みに数少ない俺の長所の一つなのだ。
けど……だとしたらこれは一体何なんだ?
動悸《どうき》はいまだにちっとも収《おさ》まらず、それどころか壊《こわ》れたエンジンのようにますますその勢《いきお》いを増《ま》していく。もうほとんどオーバーヒート寸前《すんぜん》である。
このままこの状態《じょうたい》があと十秒も続いたら死ぬんじゃないかと思われたその時、突然《とつぜん》ポケットから鳴《な》り響《ひび》いた不気味《ぶきみ》な音によって空気が動いた。
「……あ」
金縛《かなしば》りが解《と》ける。
ワルキューレの騎行《きこう》
映画『地獄《じごく》の黙示録《もくしろく》』に使われた、ワーグナー作曲の仰々《ぎょうぎょう》しい音楽である。着信じゃなくてメールのようだが……この着信音ってことは、もう該当者《がいとうしゃ》は一人しかいないんだよな。
「ルコ……」
予想《よそう》通り、携帯《けいたい》の液晶《えきしょう》画面には我が姉上様からの簡潔《かんけつ》なことこの上ない文面が表示されていた。
『今日の夕食はカレーが食べたい。材料買って、七時までには戻《もど》ってこい』
……まあ、二十三にもなって好物がカレーなのはどうだろうだとか、料理はおろか洗濯掃除《せんたくそうじ》の全てを弟に任《まか》せっきりなのは女として姉として何かが間違《まちが》ってるだろだとか、いきなりメールしてきて七時までに帰れなんて少しはこっちの都合《つごう》も考えろだとか、言いたいことはそれこそ山ほどあるんだが……今回ばかりはこのタイミングにスズメの涙《なみだ》くらいは感謝《かんしゃ》してやってもいいかもしれん。
「メ、メールですか?」
「あ――ああ、姉貴から」
なぜなら、そのおかげで辺《あた》りを覆《おお》っていた妙《みょう》な雰囲気《ふんいき》が少しだけ解消《かいしょう》されたから。
「お姉さんがいるんですか?」
「あ、あれ。言ってなかったっけ? 七つ年上なんだけど……」
「そ、そうなんですか」
とはいえそれは完全に消え去ってくれたわけではない。
おかしな沈黙《ちんもく》だけはなくなってくれたが、春香《はるか》は郵便ポストみたいに頬《ほお》を赤らめたままだし、俺も俺で油断《ゆだん》すると妙な行動をとりそうになる。……ほんとに何だろね、これ。
とにかく、ここは少しインターバルを取らなきゃマズイ。
「ま、まあそういうわけなんだが。それより……あ、そうだ。春香、ノド渇《かわ》いたろ? 何か飲み物でも買ってくるから、そこに座《すわ》っててくれ」
「あ、ええ。あの……」
「すぐ戻ってくるから」
何か言いたげな春香をベンチに座らせて、俺はその場から駆《か》け足《あし》で離《はな》れた。うう、だってあのままあそこにいたらヘンな気分になりそうだったんだよ。
近くにある自販機でコーヒーと紅茶を買う。そのついでに息《いき》を大きく吐いて深呼吸《しんこきゅう》。落ち着け、俺。何だか知らんが鎮《しず》まれ、心臓。そのまま五回ほど息を吸ったり吐いたりを繰《く》り返《かえ》すと(客観的《きゃっかんてき》にはかなり怪《あや》しい人物だが)、ようやく胸《むね》の動悸《どうき》が収《おさ》まってくれた。ふう、これでとりあえずは一安心だ。あまり待たせるのも春香《はるか》に悪いのでさっさと戻《もど》らんと。
再《ふたた》び駆《か》け足《あし》で春香のところへと戻る。
「ほい、紅茶で良かったよな?」
「は、はい。ありがとうございます。私、紅茶大好きなんです」
黄色いレモンティーの缶を渡《わた》すと、嬉《うれ》しげに春香は微笑《ほほえ》み、こくりと口をつけた。
「何か……新鮮《しんせん》な味。こういうのも……美味《おい》しいかも」
「新鮮?」
別にどこにでも売ってる汎用《はんよう》レモンティーだと思うんだが。
「私、缶に入っている紅茶を飲むのって、初めてなんです」
……ナルホド。そういえば学園でもブリック(パック入りジュース)とかを飲む姿《すがた》を見たことがない。いつも専用の水筒《すいとう》とティーカップ(ウエッジウッド製)を持参《じさん》してるし。
こくこくとレモンティーを飲む春香。その隣《となり》で俺もコーヒーをちびちびと口にする。頭上では、山で七つの子が待っているのか真っ黒なカラスが一羽、カーカーと切《せつ》なげに鳴《な》いていた。
「あの……さっきはすみませんでした」
黄昏《たそがれ》の中、春香がぽつりとつぶやいた。
「あんなに大勢《おおぜい》の人の前で倒《たお》れてしまって……裕人《ゆうと》さんに、とってもご迷惑《めいわく》をかけてしまいました」
「ん、あー、いや」
まあ確かに倒れた春香をお姫様抱《ひめさまだ》っこして運ぶのは少々|周囲《しゅうい》の視線《しせん》が痛《いた》かったが、それは春香が悪いわけではない。それにちょっとした役得《やくとく》もあったし。
「……ほんとにすみませんでした。今日はムリを言って、せっかく裕人さんにこんなところまで付き合ってもらったのに」
春香がうつむく。
「……私、ほんとにダメですね。おまけに私がぼやぼやしていたせいで『ぽーたぶる・といず・あどばんす』も売り切れちゃうし……。目的も果《は》たせないうえに裕人さんに迷惑《めいわく》までかけて……もうダメダメです。『ダメっ娘《こ》メグちゃん』くらいにダメダメです。こんなことなら来ない方が良かったって、裕人さんも思ってますよね……」
缶をきゅっと握《にぎ》り締《し》めて、そう息《いき》を吐《つ》く春香。うーん、テンションが地の底《そこ》まで下がってる感じだ。落ち込む気持ちは分かるんだが……そこまで自分を卑下《ひげ》せんでもいいだろ。ていうかメグちゃんってだれだよ。
それに春香。お前の言ってることには一つだけ大きな間違《まちが》いがあるぞ。
「待った。確かに限定《げんてい》モデルが買えなかったのは春香のミスかもしれんし、ちょっとばかり困《こま》ったのも事実だ。でもな……別に俺はムリして付いてきたわけじゃない。俺は春香と来たかったから来たんだ。そこだけは聞き捨てならない」
「え……」
「それに何だかんだいっても……今日は楽しかった。色々と俺の知らない新しい世界(ネコミミメイドとかネコミミメイドとかネコミミメイドとか)も見られた。だから来ない方が良かったなんてこれっぽっちも思ってないし、むしろ春香《はるか》と来られて良かったと思ってるぞ」
これは本音《ほんね》だ。
「裕人《ゆうと》さん……」
春香が、くしゃっと顔を歪《ゆが》めた。
「う……ぐすっ、あ、ありがとうございます。わ、私も、今日は楽しかったです。だ、だれかと買い物に行くなんて初めてで……本当に楽しかったんです。でも、でも楽しかったからこそ肝心《かんじん》の『ぽーたぶる・といず・あどばんす』が買えなかったのが、最後の最後にこんな風になっちゃったのが悔《くや》しくて、申《もう》し訳《わけ》なくて、それでそれで……」
「あー、泣《な》くな」
「はひ……」
とは言いつつも春香は泣いていた。マジ泣きだった。ポケットからハンカチを出そうとして……ハンカチなんて上品なものは持ってきてなかったことに気付いて、街でもらったポケットティッシュ(配布元:最近社長が逮捕《たいほ》された某《ぼう》有名|消費者金融《しょうひしゃきんゆう》)を差し出した。
「ぐしゅ……すみません」
涙《なみだ》を拭《ぬぐ》う。春香《はるか》が使うと大量|頒布用《はんぷよう》の安物ティッシュさえもシルク質感《しつかん》の高級ティッシュに見えるから不思議《ふしぎ》だ。
それから春香が泣《な》き止《や》むまで十分ほど要《よう》した。
[#挿絵(img/01_163.jpg)入る]
「そろそろ帰るか」
「……はい。そうですね」
すっかり泣き止んだ春香が、笑顔《えがお》でベンチから立ち上がる。
「でも……まだちょっとだけ残念《ざんねん》です、『ぽーたぶる・といず・あどばんす』」
「まあ、また今度の休みにでも探《さが》してみるか。もしかしたらどっかで売れ残りとかがあるかもしれないしな」
俺が言うと、春香はキツネに両|頬《ほお》をつままれて左右に力いっぱい伸ばされたみたいな顔をした。
「い、いいんですか?」
「ああ。言ったろ? 俺も今日は楽しかったって。だから春香とまた出かけられるんなら、望むところだ」
「う、嬉《うれ》しいです!」
スキップをしながら前に出る春香。その先には――
「春香、前!」
「え?」
遅《おそ》かった。
ガンッ、と鈍《にぶ》い音。
「……痛いです」
――公園の外灯《がいとう》があった。そりゃ痛いだろうよ。相変わらずドジというか抜《ぬ》けてるというか……。でもそんな春香を見ていると頬が自然と緩《ゆる》んできてしまう。
「……裕人《ゆうと》さん、人の不幸を笑うのはヒドイと思います」
「え、笑ってないぞ」
「わ、笑ってますよ! 思いっきり笑ってます」
ぽかぽかとゲンコツで俺の胸《むね》を叩《たた》く春香。いや全然痛くないんだけどな、これが。
「あー、分かった分かった、俺が悪かった」
「……誠意《せいい》が感じられません」
「いや誠意って言われても」
どうすりゃいいんだか。助けを求めるべく周《まわ》りを見渡《みわた》すと、視界《しかい》の隅《すみ》に何やら直方体の物体が映った。アレって……お、そうだ。
「だったら最後にもう一回アレやってくか? 俺のオゴリで」
公園の外を指差す。そこにあったのは昼間に春香《はるか》がやっていたガチャポン。ここってあの店の裏《うら》だったんだな。
それまでぷーっと頬《ほお》を膨《ふく》らませていた春香の顔が、一瞬《いっしゅん》でぱあっと輝《かがや》いた。
「ほんとですか? やったあ!」
百円玉を渡《わた》し、春香がそれを硬貨投入口《こうかとうにゅうぐち》に押し込みレバーを回し、ガチャポンっと丸い物体が転《ころ》がり出て来る。透明《とうめい》のプラスチックケースに包《つつ》まれたその中身を見て、春香が叫《さけ》んだ。
「こ、これって……はにトラポーズ≠ナす!」
……は? 何? 今のって日本語?
「『はにかみトライアングル』のヒロインで『ドジっ娘《こ》のアキちゃん』が得意《とくい》とする決めポーズです。ほら、かわいいでしょ?」
春香の手の平の上では、蒼色《あおいろ》の髪《かみ》をした女の子がスカートの裾《すそ》を指《ゆび》でちょこんと摘《つま》んでぺこりと頭を下げている。なるほど、略《りゃく》してはにトラ≠チてわけか。……にしてもこのポーズ、どっかで見たことねえか?
「私、これ宝物《たからもの》にしますね」
嬉《うれ》しそうにフィギュアを胸《むね》に抱《だ》いて、春香がにっこりと笑った。
「……これを?」
このワケの分からんポーズをしたやつをか? これならあのピアノを弾《ひ》いてるフィギュアの方が数段マシのような気がするんだが。
だけど春香は静かに首を横に振《ふ》り、
「このポーズ、とってもかわいいんでお気に入りなんです。それに――」
ちょっとだけ頬を染《そ》めて、
「それに……裕人《ゆうと》さんが買ってくれたものです。それだけで、私にとっては大事な大事な宝物です」
そんなことを言ってくれた。
……まいったな。
真剣《しんけん》に照《て》れた顔してそんなことを言われるとこっちとしても何て答えればいいのやら。てかそれ以前に、顔が火照《ほて》ってまともに春香の方を見られやしない。
夕方の涼《すず》しい風が頬に当たる。その心地《ここち》よい涼気《りょうき》で顔を冷やしながらしばし(三分ほど)熟考《じゅっこう》して、俺はようやく何とか返事を捻《ひね》り出《だ》すことに成功した。
「……大事にしてやってください」
……ま、それが気の利《き》いた返事であったかどうかはともかくとして。
こうして、俺と春香の初めての買い物は終わったのだった。
ちなみに後日|信長《のぶなが》に聞いた話であるが、例の妙《みょう》なポーズをしたフィギュアはレア中のレアモノで、全国でもいまだ五十体|程度《ていど》しか確認されていない天然記念物みたいな代物《しろもの》であるとか。……世の中って分からん。
[#改丁]
[#挿絵(img/01_169_3.jpg)入る]
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六月に入り、梅雨《つゆ》真《ま》っ只中《ただなか》だというのに全然雨が降《ふ》らないのはいいんだが、代わりに一足早く夏を迎《むか》えたような蒸《む》し暑《あつ》い日々が来る日も来る日も延々《えんえん》と続き、いっそオーストラリアにでも移住《いじゅう》してコアラやカンガルーと戯《たわむ》れるムツゴロウさんもどきな毎日でも送ろうかなどと考えてしまうくらいにほどよく脳《のう》が腐《くさ》ってきたある日のことである。
放課後、俺はせっせと音楽|準備室《じゅんびしつ》の掃除《そうじ》をしていた。
床《ゆか》にばらばらと散《ち》らばっている資料《しりょう》の数々を、系統別にまとめ直して本棚《ほんだな》へと仕舞《しま》う。部屋《へや》の片隅《かたすみ》でいくつも折り重なって、捨てられた自転車の成《な》れの果《は》てみたいになっている指揮台《しきだい》を起こし、その下敷《したじ》きになっているスピーカーを引《ひ》っ張《ば》り出《だ》す。事務机の上にゴミのように積み重なっていた楽譜《がくふ》を引き出すと、途端《とたん》にホコリが粉雪《こなゆき》のように辺《あた》りに舞《ま》った。
「ごほっ、げほげほ……」
音楽準備室は荒廃《こうはい》していた。
妻に三行半《みくだりはん》を叩《たた》きつけられて出て行かれた、甲斐性《かいしょう》なしの男やもめの自宅のように荒《すさ》みきっていた。
「ひでぇ……」
思わずそんな言葉《ことば》が口をついて出る。
ある程度《ていど》の惨状《さんじょう》は予想《よそう》していたが、まさかこれほどとは思わなかった。どうやら俺はあの人のポテンシャルをまだまだみくびっていたらしい。
片付けても片付けても片付かない音楽準備室(最悪)を見て、深々とため息《いき》を吐《つ》く。
さて、何だって俺がこんなことをやっているのかというと、これもひとえにこの部屋の主である音楽教師にしてうちのクラスの副担任(片付けられない女)が原因《げんいん》だったりするのである。
今から遡《さかのぼ》ること三時間前の会話。
「ねえ裕《ゆう》く〜ん、今日ってヒマかな〜?」
ホームルームも終わり、帰り支度《じたく》をしていた俺のところにやって来た音楽教師は、ネコがアゴの下を撫《な》でられたときのような甘い声でそうささやいた。
「全然ヒマじゃありません。まったくもって、これ以上ないくらい完璧《かんぺき》に、予定が入りまくってます」
「実は、裕くんにお願いがあるのよね〜」
「イヤです」
「聞いてくれたら、おねいさん、後《あと》でイイコト(はあと)してあげたりするんだけどな〜」
「結構《けっこう》です」
「松コースと竹コースと梅コースがあるんだけど、どれがいい?」
「……俺、帰りますんで」
相変わらず人の話を全く聞かないアホな人は放っておいて帰ろうとすると、
「ちょ、ちょっと待ってよ」
がっちりと腕《うで》を掴《つか》まれた。ちっ、逃亡《とうぼう》失敗。
「……何ですか?」
「だから、お願いがあるって言ってるじゃない」
「だから、俺もイヤだって言ってるじゃないですか」
この人の『お願い』にはロクなものがない。経験上《けいけんじょう》、それはもう分かりすぎるくらいに分かりきっているのだ。
「そんなこと言わないで、聞くだけでも聞いてよ、ねっ?」
とはいえ、聞くだけは聞かないと帰してくれなさそうな勢《いきお》いである。仕方なく、嫌々《いやいや》ながらも俺はうなずいた。
「……まあ、聞くだけなら」
「うんうん、裕《ゆう》くんのそういうところ、おねいさん大好きよ」
ぎゅっとその豊満《ほうまん》な胸《むね》に抱《だ》きしめられる。うう。頬《ほお》に触《ふ》れた柔《やわ》らかい感触《かんしょく》と甘い匂《にお》いに思わずくらりとくるが、ここで負けては由香里《ゆかり》さんの思うツボだ。
「で、何なんですか?」
尋《たず》ねると、由香里さんは神妙《しんみょう》な顔をして語り始めた。
「実はね〜、今朝、学年主任の先生から直々《じきじき》のお達しがあったのよ〜」
「何て?」
「今日中に、音楽|準備室《じゅんびしつ》を片付けなさいって」
「……さようなら」
くるりと踵《きびす》を返そうとした俺の腕を由香里さんががっちりと掴む。
「ま、待ってってば。何で最後まで聞かないうちに帰ろうとするのよ〜」
「聞かなくても分かりますよ。どうせ俺に片付けを手伝《てつだ》えって言うんでしょう。そんなの一人でやってくださいよ。この前だってトイレ掃除《そうじ》に付き合ったばっかりなんですから」
「あ、惜《お》しい。近いけど違《ちが》う」
「違う?」
絶対《ぜったい》当たりだと思ったんだが。さすがにこの人もそう毎回毎回、他人に迷惑《めいわく》をかけるようなことばかりをやるわけではないのか。
と、この人に限ってそんなことを考えたのは甘かった。
「うん、違う。あのね、手伝ってほしいっていうか、私の代わりに一人で掃除をやっといてほしいのよね〜」
「……」
この人、何考えて生きてるんだろう。
図々《ずうずう》しいにも程《ほど》がある。
「……いっぺん死んでください」
吐《は》き捨《す》てるようにそう言ってその場から立ち去ろうとした俺の身体に、由香里《ゆかり》さんがすがりついてきた。
「だ、だから待ってってば。私だって本当は手伝《てつだ》いたいと思ってるんだけど、今日はどうしても外《はず》せない大事な大事な用事があるのよ」
「……どんな用事ですか?」
「『|SerapH《セラフ》』のライブ(ぼそっ)」
「……は?」
空耳《そらみみ》だと思いたかった。
「だから〜、今日はこれから『SerapH』のライブがあるのよ。半年前に予約してやっとのことで取ったプラチナチケットなの〜。これに行けなかったら私、欲求不満《よっきゅうふまん》で死んじゃうかもしれない」
「それ……本気で言ってるんですか?」
「もちろん。本気よ」
授業中にも見せたことのない真面目《まじめ》な顔で言い切る由香里さん。
ちなみに『SerapH』とは由香里さんお気に入りのビジュアル系バンドの名前である。
「お願い裕《ゆう》くん〜、助けると思って私の代わりに掃除《そうじ》して。してくれたら、お礼に今度いっぱいイイコト(はあと)してあげるから〜。裕くんの他にこんなこと頼《たの》める人いないの。ね、一生のお願い〜」
ほとんど押《お》し倒《たお》さんばかりの勢《いきお》いで俺の身体にぴったりと密着《みっちゃく》し、泣《な》きそうな顔でそう懇願《こんがん》してくる。
そうまでされると、自業自得《じごうじとく》とはいえさすがに無下《むげ》に断《ことわ》るのにも気が引ける。はあ……まあしょうがないか。今日のところは放課後もヒマなことだし、ここは一つ貸しを作っておくことにしよう。
「……分かりましたよ。分かりましたから胸《むね》を押し付けないでください。音楽|準備室《じゅんびしつ》をキレイにしておけばいいんですね?」
「えっ、やってくれるの?」
「……まあ、いちおう」
そう答えると、ビジュアル系大好きの二十三歳女教師は身体いっぱいに喜びを表現した。
「ありがとう〜。だから裕くんって好き♪」
「……それはどうも」
と、そういうことである。
以上のような経緯《けいい》でこのゴミタメの掃除《そうじ》を引き受けたわけだが、今となってはその選択《せんたく》を激《はげ》しく後悔《こうかい》していた。
「ひどすぎる……」
部屋《へや》の主の限りなく大雑把《おおざっぱ》な性格は、僅《わず》か二ヶ月でそれまで小ぎれいだった音楽|準備室《じゅんびしつ》を混沌《こんとん》あふれる夢の島へと変貌《へんぼう》させていた。
半ば鬱《うつ》になりながら、ホコリまみれになったベートーヴェンの肖像画《しょうぞうが》をハタキではたく。降《ふ》り積《つ》もったホコリの下から出てきたいかめしい顔には、額《ひたい》に大きく『肉』と書かれていた。小学生レベルのイタズラである。……楽聖《がくせい》も草葉《くさば》の陰《かげ》で号泣《ごうきゅう》してるぞ、これじゃ。
何だかものすごく疲《つか》れた気分で『肉』マジックを落としていると。
ポロン♪
ふいにピアノの音が聴《き》こえたような気がした。
空耳かと思い最初は気にしないことにしたが、しばらくしてどうもそうじゃないらしいことに気付いた。耳を澄《す》ますと確かに旋律《せんりつ》が聴こえてくる。重々しく激《はげ》しくも、どこかもの悲しい旋律。隣《となり》の音楽室からみたいだ。
ちらりと壁《かべ》にかかった時計を見ると、時刻《じこく》はすでに午後七時近い。部活をやっている生徒ですらもうほとんど下校している時間である。こんな時間にピアノ?
真っ先に頭に浮《う》かんだのは、七不思議《ななふしぎ》の一つ、『ひとりでに鳴《な》る音楽室のピアノ』だった。
――まさか、なあ。
そっと音楽準備室の扉《とびら》を開き、隣《となり》を覗《のぞ》いてみる。ここからだと死角《しかく》になっていて弾《ひ》いている人物(であってくれ)の姿《すがた》はよく見えないが、確かにピアノからは音が発せられているみたいだ。
少し迷《まよ》ったが、俺は音楽室へと足を踏《ふ》み出《だ》した。足音を忍《しの》ばせながらピアノに近づいてみる。人間の演奏者がいてくれることを心から願いながら、鍵盤側《けんばんがわ》を覗《のぞ》き込《こ》んだ俺の目に映《うつ》ったのは――
「……」
春香《はるか》だった。
黄昏《たそがれ》の中、春香が真剣《しんけん》な顔をしてピアノを弾いていた。
一気に力が抜けた。いや、何で春香がここに?
「……」
演奏に集中しているのか、春香は俺の存在《そんざい》に気付いていないみたいだった。ただ一心不乱《いっしんふらん》に鍵盤に指を躍《おど》らせている。しなやかで優雅《ゆうが》でそれでいて柔《やわ》らかい動き。ピアノを弾いているというよりも、まるで何かダンスでも踊《おど》っているようにも見えるその姿に、俺は思わず見入ってしまった。
時間にして五分くらいだろうか。
「ふう……」
ようやく曲が終わり、春香《はるか》が息《いき》を吐《つ》いた。
「お疲《つか》れさん」
「えっ?」
俺が拍手《はくしゅ》をすると、真冬にカブトムシでも見つけたみたいな顔で春香が目を丸くした。
「あ、あれ? どうして裕人《ゆうと》さんがここに? 入ってきた時には確かだれも……」
まあ演奏を終えたらいきなりいるはずのない俺が隣《となり》にいたんだから、驚《おどろ》くのもムリはない。
俺はざっと事情《じじょう》(準備室《じゅんびしつ》の掃除《そうじ》をしていたこと)を説明した。
「あ、そうなのですか。それはとってもお疲れ様でした」
にっこりとねぎらいの言葉《ことば》をかけてくれる春香。それだけであのゴミ部屋《べや》の掃除で蓄積《ちくせき》した疲労《ひろう》が癒《いや》されていくような気がする。まさに癒しの天使って感じだ。
「それより春香こそ何でこんな時間に?」
むしろそっちの方が謎《なぞ》だろう。春香が音楽室にいること自体は全然おかしくないが、今は時間が時間である。
すると春香は、ちょこんと小首を斜《なな》めに傾《かたむ》けて言った。
「それはですね、ええと、話すと少しややこしくなるのですが……」
「聞かせてくれ」
興味《きょうみ》ある。
「はい、それでしたら。あのですね、実は私、さっきまで図書室で勉強をしていたんです。世界史の勉強をしていたのですが、そこにシェークスピアについての記述が載《の》っていまして――」
「シェークスピアって、劇作家の?」
「はい。私、大好きなんです。『マクベス』とか『真夏の夜の夢』とか、とっても素敵《すてき》だと思います」
「そ、そうだな」
曖昧《あいまい》にうなずく。
いやシェークスピアなんて『ロミオとジュリエット』くらいしか知らんし。それもだいたいのあらすじしか。
「けど、それとピアノとどこが結びつくんだ?」
「あ、はい。それはですね、シェークスピアの作の中に『テンペスト』というお話があるのですが、同名のソナタがベートヴェンの作品の中にもあるんです。ピアノソナタ第十七番『テンペスト』。シェークスピアの名前を見ていたら何だか急にそれが弾《ひ》きたくなって……コンクールも近いことですし、その練習も兼《か》ねて帰る前にちょっとだけ弾いていこうかなって思ったんです」
「な、なるほど」
勉強→世界史→シェークスピア→『テンペスト』→ピアノ、との思考経路《しこうけいろ》を辿《たど》ったわけだ。確かになかなかややこしいが、いちおう理解《りかい》は出来《でき》た。
「それにしてもこんな時間まで勉強してたのか……」
放課後すぐからやっていたとして、ざっと三時間半である。俺の一週間の総勉強時間よりも多いかもしれん。
「はい。中間試験も近いですから」
「……中間試験」
その言葉《ことば》に、一気に現実に引《ひ》き戻《もど》された気がした。
そうだ。今の今まですっかり忘《わす》れていたが(というよりも心が考えることから逃《に》げていたのか)、二週間後には地獄の中間試験が待《ま》ち構《かま》えている。
前期と後期の二期制を採《と》る白城《はくじょう》学園では試験の回数自体は年に四回と少ないが、代わりにその成績が悪かった者には鬼《おに》のような処遇《しょぐう》が用意されていたりするのだ。端的《たんてき》に言えば赤点(三十点未満)を取った者には夏休みのおよそ三分の一を占《し》める補習《ほしゅう》が義務付《ぎむづ》けられる。いや三十点以上なら楽勝に聞こえるかもしれんが、あいにく俺の出来の悪いスイカみたいな頭だとそれもかなり危《あぶ》なかったりするんだよ。
「裕人《ゆうと》さんも、中間試験の勉強は進んでいますか?」
「いや全然」
何せ今初めて思い出したくらいである。進むどころかスタートすらしていない。
「全然、ですか。でもこれからやる予定はあるんですよね?」
「そりゃあ、まあ。俺、バカだし」
やりたくはないが、やらなきゃ今年の夏はないものと覚悟《かくご》しなきゃならない。二度とない十七の夏を、狭苦《せまくる》しい教室で山のようなプリントと気温以上にむさ苦しい教師|陣《じん》(なぜか白城学園は男性教師の独身率が高い)と向かい合って過《す》ごすなんてまっぴらごめんだった。
「けどよく考えたらノートからしてまともに取ってないんだよな……」
普段《ふだん》の授業の七割を睡眠《すいみん》学習にあてている俺のノートの日付は、三日|坊主《ぼうず》かつ気まぐれな人がつける日記帳のごとく、四月の次は六月だったりするのである。
「……だれか、ノートを写《うつ》させてくれる人を探《さが》さんと」
とはいえこれといったアテがあるわけではなかった。去年までなら信長《のぶなが》(なにげに成績優秀)が第一|候補《こうほ》だったんだが、今年からやつとは違《ちが》うクラスになってしまったため、あまり期待《きたい》は出来ない。かといって同じクラスのやつだと三バカ(名は体を表すの代表格ども)とかしかいないし。
……やばいかもしれんな。冗談抜《じょうだんぬ》きで。
そんなかなりテンションの下がった俺を見て、春香《はるか》は何かを考えこんでいるようだった。口元に指をあてながら、首を斜《なな》め四十五度にちょこんと傾《かたむ》けている。
そのままの状態《じょうたい》で三十秒。
やがて何かを考えついたのか、俺の顔を見て春香はこうつぶやいた。
「あの裕人《ゆうと》さん、でしたら……いっしょに勉強しませんか?」
「え……」
勉強? 俺と春香が?
「はい。ノートも、私のでよろしければどうぞ写《うつ》してください。あんまり上手《じょうず》にまとまっていないかもしれませんが……」
いやそれは大丈夫《だいじょうぶ》だろう。春香、字は[#「字は」に傍点]上手だし。
「だけど迷惑《めいわく》じゃ……」
俺と春香じゃ天と地ほどに学力が違《ちが》う。ゆえに俺にとっては助かるが、春香にとっては何のプラスにもならんだろう。それどころかヘタすりゃマイナスである。
でも春香はふるふると首を振《ふ》る。
「そんなことないです。お勉強も、一人でやるよりだれかといっしょにやった方が楽しいです」
そういうもんなのか? 普通《ふつう》は一人の方が集中|出来《でき》るという話をよく聞くが。しかし春香さえオッケーならばこの申し出はかなりありがたい。
「……ほんとに、いいのか?」
「はい。もちろんです」
春香|即答《そくとう》。
「だったら……頼《たの》む」
ここはお言葉《ことば》に甘えておこう。実際《じっさい》、今のままじゃかなりピンチだし。
「で、時間と場所はどうする? 春香がヒマな時で構《かま》わないが……」
「あ、そうですね……」
再《ふたた》び春香がううん、と考え込む。
「それでは、日にちは日曜日でどうでしょうか? 時間は一時くらいからで、場所は……えと、私の家でよろしいですよね?」
「ああ、それで大丈夫――」
あまり深く考えずに返事をしようとして。
「……ん?」
その言葉の中に、何かとんでもない単語が含《ふく》まれていたことに気付いた。今、私の家とか何とか言ったような……
「あの、何か?」
「い、いや……」
たぶん聞《き》き違《ちが》いだろうな。いくらなんでも春香《はるか》が俺なんかを家に招待《しょうたい》するわけがない。きっとそれを望《のぞ》むあまりに、俺の心が幻聴《げんちょう》を作り出したんだろう。うん、そうに違いない。そう納得《なっとく》しかけた俺に、春香はにっこりと笑いながらもう一度|繰《く》り返《かえ》した。
「では日曜日に私の家でいっしょにお勉強です。忘《わす》れないでくださいね?」
1
というわけで、なぜだか春香の家でいっしょに試験勉強をすることになったのだが。
日曜日。
俺はいきなり迷子《まいご》になっていた。
「えと、これがうちまでの地図です。駅からは歩いて十分くらいなので、迷《まよ》うことはないと思うのですが……」
と、春香から地図を受け取った時点で気付くべきだったのだが、あいにく春香の自宅にご訪問《ほうもん》ということで傍《はた》から見たらちょっとやばいくらいに浮《う》かれまくっていた俺はそのことを全く失念《しつねん》していた。ようやくそれを思い出したのは最寄《もよ》り駅に着いて初めて地図を見た時だったのだが……まったくもって後悔《こうかい》先に立たずというやつである。
春香からもらった地図を開く。
そこには、八目ウナギが十五匹ほど集団ヒステリーを起こして狂乱麗舞《きょうらんれいぶ》している図があった。
しかも脇《わき》にはパラノイアみたいな目をした(おそらく)小鳥であろう生物が不気味《ぶきみ》な笑いを浮《う》かべながら「こっちだよ♪」とウナギのバラに尖《とが》った棒《ぼう》のようなモノを付き立てている。……これは何だ? 新手《あらて》の心理テストか?
「……」
本気で泣《な》きたくなった。
地図の隅《すみ》っこに小さく書かれているぷろでゅーすどばい春香≠フ美しすぎる文字が今は恨《うら》めしい。
しかし……どうしたもんか。
適当《てきとう》に進んでみようにも、最初の交差点ですでにどっちに行きゃいいのかすら分からん(絶望的《ぜつぼうてき》)。電話して直接道を訊《き》こうにも春香は携帯《けいたい》を持ってないし、乃木坂家《のぎざかけ》の電話番号なんて覚《おぼ》えてない。住所こそまともに記載《きさい》されているものの、それを見ただけじゃ地元民じゃない俺にはさっぱり分からんし、辺《あた》りには交番もないときてる(お手上げ)。
「ダメだこりゃ……」
途方《とほう》に暮れて、旅に疲《つか》れた渡《わた》り鳥《どり》のごとくぐったりと道端《みちばた》に座《すわ》り込《こ》んでいると、突然《とつぜん》背後《はいご》から声をかけられた。
「どうかしたんですか、おに〜さん」
振《ふ》り返《かえ》ると、女の子がこっちを覗《のぞ》き込《こ》んでいた。中学生くらいの、きらきらとした目の輝《かがや》きが印象的《いんしょうてき》な子で、かなり整《ととの》った顔立ちをしている。服装《ふくそう》は薄《うす》いピンク色のサマーセーターにプリーツスカート。頭の横でちょこんと二つに結んだ髪型がかわいらしい。あと一、二年もすれば間違《まちが》いなく美少女と呼《よ》ばれるレベルだろう。
「さっきからうーうー唸《うな》ってるけどお腹《なか》でも痛《いた》い? 霊柩車《れいきゅうしゃ》呼ぶ?」
「いや火葬場《かそうば》へ送ってどうする……」
「あ、こういう場合は救急車か」
女の子が屈託《くったく》なく笑う。あんま笑うところじゃない気もするんだがな。
「で、ほんとどうする? 具合《ぐあい》悪いんなら人を呼ぶけど?」
ちょっと真剣《しんけん》な顔になった女の子。
「いや別にそういうわけじゃないんだ。ただ道に迷《まよ》ってただけで――」
と、そこでふと思った。どうも感じからしてこの子は地元の子みたいだ。だとしたらこの地図が分かるんじゃないか。春香の地図も、もしかしたら俺が読み取れないだけで、見る人が見たらちゃんと地図としての役割を果《は》たしているのかもしれない。
一縷《いちる》の希望を託《たく》して地図を見せると、女の子はあからさまにイヤそうな顔をした。
「何これ? 妖怪画《ようかいが》? 姑獲女《うぶめ》とか……」
「……」
「百鬼夜行《ひゃっきやこう》?」
希望は一瞬《いっしゅん》にして完膚《かんぷ》なきまでに叩《たた》き潰《つぶ》された。……まあ、分かっちゃいたが。
[#挿絵(img/01_187.jpg)入る]
「……それ、地図らしいんだ。いちおう」
真実《しんじつ》を告《つ》げると、女の子は飛び上がらんばかりに驚《おどろ》いた。
「……地図って、これが? ウソ!?」
「いやほんと」
俺としてもあんまり信じたくないんだが、ホントなのである。
「うわ〜、どう見てもこれ、妖怪画《ようかいが》とか悪魔画《あくまが》とかにしか見えないんだけど――」
女の子が珍《めずら》しいモノでも見るような目で地図(?)を眺《なが》める。その点に関しては俺も全く同意見だ。
「ひょっとしてこれが道のつもりなのかなあ。このヤマタノオロチみたいなの。うわ、こっちにはぬらりひょんみたいなのがいる。あっ、ここには唐傘《からかさ》オバケも」
などと騒《さわ》いでいた女の子だったが、
「……って、ん?」
その視線《しせん》がある一点に差《さ》し掛《か》かったときに、動きがぴたりと止まった。
「……げ、これってまさか」
そして無言《むごん》でびりびりと地図を破り捨てた。
「お、おい……」
いや破りたくなる気持ちは痛《いた》いほど分かるんだけど、それがなくなると乃木坂家《のぎざかけ》への手がかりが全く完全になくなるんだが。
「えっと、おに〜さん。たぶん、あれ見ても永久に目的地に辿《たど》り着《つ》けないよ?」
「それはそうなんだが……」
しかしあんなもんでもないよりはマシかもしれない。……タダより高いものはないって言葉《ことば》はこの際《さい》気にしないとして。
「あれならない方がマシ。うん、絶対《ぜったい》マシ。だから、わたしが新しいの描《か》いたげます。おに〜さん、何か描くモノ持ってる?」
女の子は一刀《いっとう》のもとにそう斬《き》り捨《す》て、右の手の平をひらひらと差し出した。よく分からんが、どうも地図を描いてくれるらしいので、素直に持っていたメモ帳とボールペンを差し出す。
「住所はいちおうこれらしいんだが……」
細切れになった地図の、住所が書かれている部分(達筆《たっぴつ》)を拾って女の子に見せるが、女の子はそれをちらりと見ただけで、すぐに腕《うで》を動かし始めた。
「はい。さらさらさら、と」
慣《な》れた手付きでペンを走らせる女の子。早いな。
「出来《でき》たよ。はい」
「おお」
そこには、春香《はるか》が描《か》いたアレとは月とスッポンどころか満月とミドリガメ、比べるのも失礼なくらい見事《みごと》な地図があった。
「うまいもんだな……」
これならきっとサルでも辿《たど》り着《つ》ける。
「そんなことないよ〜。すっごく簡単《かんたん》な道のりだもん。さっきの妖怪画《ようかいが》みたいに、分かり難《にく》く描く方が難しいくらいで」
とは言うものの、女の子はまんざらでもないようだった。
「でもとにかく助かった。ほんとにさんきゅー」
「いいっていいって。こんなの感謝《かんしゃ》されるほどのことじゃないよ。――それに、こっちにも責任《せきにん》があるわけだし……」
「?」
「ん、え、えっと何でもないの。それじゃわたしはもう行くから。またね、おに〜さん!」
「あ、ちょっと!」
呼《よ》び止《と》める間《ま》もなく、女の子は風のように走って行ってしまった。
……一体何だったんだろうな。まあおかげで助かったけど。
2
女の子が描いてくれた地図のおかげで、何とか無事《ぶじ》に乃木坂家《のぎざかけ》に辿り着くことが出来た。
出来たんだが……
「何だ、こりゃ……」
それが俺の口から出た最初の言葉《ことば》だった。
目の前にあるのは巨大な門。視界《しかい》に収《おさ》まりきらないほど長く、アルカトラズ刑務所|並《な》みに高い塀《へい》。その遥《はる》か向こうに見えるは中世ヨーロッパの貴族《きぞく》が住むような豪壮《ごうそう》な屋敷《やしき》。庭にはローマの休日に出てきたみたいな噴水《ふんすい》なんかもありやがる。
ここが本当に日本なのか、少しばかり疑いたくなるような光景《こうけい》だった。いや乃木坂家が金持ちだってことは知ってたが……これはいくら何でも限度《げんど》ってもんを超えてるだろ?
だがまだこれで終わりではなかった。
全然終わりではなかった。
さらに我が目を疑いたくなることに、呼《よ》び鈴《りん》を鳴《な》らした俺を出迎えてくれたのは……何とメイドさんだった。メイドさん。この前アキハバラで亜種《あしゅ》(ネコミミ付き)を見たが、まさかこの現代日本家庭に実物が存在《そんざい》していようとはね。もう驚《おどろ》きを通り越して言葉《ことば》も出ない。
メイドさんは俺を見ると、恭《うやうや》しく頭を下げた。
「綾瀬《あやせ》裕人《ゆうと》様ですね? 春香《はるか》お嬢《じょう》様からお話は伺《うかが》っております。どうぞお入りください」
「は、はあ」
生まれて初めての『様』付けに感動するヒマもなく、アホみたいに広い庭をメイドさんの案内で進んで行く。うわ、何か森みたいなのがあるし。おまけにその脇《わき》にはさらさらと小川までもが流れている。もうちょっとした自然公園だな、これ、
「こちらになります」
広い広い庭を抜《ぬ》け、屋敷《やしき》の中に足を踏《ふ》み入《い》れる。半ば城みたいな外観《がいかん》の屋敷は、やっぱり中も城みたいだった。てか吹き抜けのホールなんて初めて見たし、豪華《ごうか》なシャンデリアやアンティークの鎧《よろい》の置物がデフォルトで装備《そうび》されているなんて、平均的な中流家庭に育った俺からすればほとんど正気《しょうき》の沙汰《さた》ではない。
「すげえ……」
というかすごすぎる。
呆気《あっけ》にとられていると、メイドさんがさらりと怖《こわ》いことを告《つ》げてきた。
「私の後《あと》を離《はな》れないようにしてください。はぐれると大変《たいへん》なことになりますので」
どこの迷宮《めいきゅう》だよ……。とはいえ確かにこの広さ。方向|音痴《おんち》な俺が迷《まよ》ったらたぶんえらいことになるな。屋敷内で遭難《そうなん》なんて恥《は》ずかしいことはしたくない。
それからメイドさんの先導《せんどう》で、角を七つ曲がり、やたらと長い廊下《ろうか》を二つ直進し、階段を三つ上り下りしてようやく辿《たど》り着《つ》いた客間らしきところ(つーか広すぎて客間なんだかホールなんだか分からん)で、やっと春香と会うことが出来《でき》た。敷地《しきち》に入ってからここまでの所要《しょよう》時間二十分……あり得ない。
「あ、裕人さん、いらっしゃいませ」
部屋《へや》の中央にでん、と置かれていたアンティークっぽいソファから立ち上がって、白いサマードレス姿《すがた》の春香が満面《まんめん》の笑《え》みで迎えてくれた。
「葉月《はづき》さんも、案内ごくろうさまでした」
「いえ、仕事ですので」
そっけなくメイドさんが答える。
「立ち話もなんですから、どうぞくつろいでください」
勧《すす》められてソファに腰《こし》を下ろす。おお、ふかふかだ。
「よろしければお茶をお淹《い》れいたしますが」
「あ、お願い出来ますか?」
メイドさんの申し出に、春香が答える。
「はい、もちろん。葉はいかがなさいますか?」
「えっと、確かニルギリのファーストフラッシュがありましたよね。それでロイヤルベンガルタイガーを二つお願いします」
「ティーフードはどうしましょう? マドレーヌとプラムプディング、ビクトリアケーキでしたらすぐにご用意|出来《でき》ますが」
「う〜ん、それじゃプラムプディングで」
「分かりました。では十分ほどお待ちください」
そんなやりとりを交わしてメイドさんが出て行った。いやどうでもいいが出てきた単語の半分くらいが分からんかったんだが……。ロイヤルベンガルタイガーって、モンスターの名前か何かですか?
「少し待っていてくださいね。葉月《はづき》さんの淹《い》れる紅茶、とっても美味《おい》しいんですよ」
……紅茶の名前だった。
紅茶なんてそれこそ缶とかペットボトルに入ってるやつしか飲んだことない俺に、そんなのが分かるはずもない。ていうか、普通《ふつう》分からんだろ。
十分きっかりで、メイドさんは戻《もど》ってきた。
「ロイヤルベンガルタイガーと、プラムプディングになります」
俺たちの前にカップとお茶菓子《ちゃがし》を配《はい》し、メイドさんは背筋《せすじ》をぴんと伸ばして春香《はるか》の後ろに立った。どうもそこが定位置《ていいち》らしい。
そんなメイドさんに、春香が顔を向ける。
「え〜と、ちゃんと紹介《しょうかい》しておきますね。こちらは桜坂《さくらざか》葉月さん。私たちの身の回りのお世話《せわ》等をやってくださっているメイド長さんです」
メイド『長』ってことは他にもいるんだろうか、メイドさん。
「桜坂葉月と申します。以後《いご》お見知りおきを」
そつのない動作《どうさ》でメイドさんがぺこりと頭を下げる。言葉《ことば》こそ丁寧《ていねい》なものの、その表情はぴくりとも動かない。うーん、春香に対するさっきの反応《はんのう》といい、クール系の人なのかな。美人なんだけど、ちょっと苦手《にがて》なタイプかもしれん。
と、心の中で考察《こうさつ》していると、
「葉月さんは、ぶっきらぼうに見えるけどとっても優しい人なんですよ」
俺の考えてることが分かったのか、春香がこっそりと耳打ちしてきた。
「この間も、夕食の残り物を近所のノラネコに分けてあげていましたし、お休みの日には必ずペットショップを覗《のぞ》いたりしてるんですよ。趣味《しゅみ》もヌイグルミ集めで、お部屋《へや》にはかわいいヌイグルミがいっぱいあります」
ヌイグルミねえ……。うーむ、この冗談《じょうだん》を言ってもぴくりとも反応しないどころか思わず人間やめたくなるような絶対零度《ぜったいれいど》の視線《しせん》を返してきそうな人が、クマやらネコやらのファンシーなヌイグルミを部屋に集めて名前とかを付けてるってのか。悪いけど想像《そうぞう》がつかん。
「……春香《はるか》様、聞こえております」
葉月《はづき》さんが横からぼそりと抗議《こうぎ》する。おや、何かその頬《ほお》が少し赤い。
「あ〜、葉月さん、照《て》れてる」
「……………………そんなことは」
めちゃくちゃあるみたいだった。
それからしばらく、メイドさんを交《まじ》えて三人で話をした。
確かに話してみると、葉月さんは見た目ほどとっつきにくい人じゃないことが分かった。
話しかければ普通《ふつう》に答えてくれるし、ジョークを言えば反応《はんのう》はしてくれる(笑ってはくれなかったが)。ただ感情を強く面《おもて》に出すことがほとんどないため、何を考えてるんだかが非常《ひじょう》に分かりづらいのが難点《なんてん》だが、春香|曰《いわ》く「慣《な》れてくれば微妙《びみょう》な表情の変化が分かりますよ」とのことらしい。うーむ、そういうものなのか?
3
色々とインパクトの強い出来事《できごと》が多すぎて忘《わす》れかけていたが、俺が今日ここ乃木坂邸《のぎざかてい》にやって来たのは二週間後に迫《せま》る中間試験へ向けて勉強をするためである。けして乃木坂家のブルジョワっぷりを拝見《はいけん》しに来たわけではない。
お茶を飲み終わった俺たちは、その本来の目的を達成すべく、客間から春香の部屋《へや》へと移動《いどう》していた(ちなみに途中《とちゅう》で巨大なバルコニーやらダンスホールやらミニシアターやらを見かけたりしたことについてはもう突っ込む気すら起きん)。
で、その春香の部屋だが……何というか、思ったよりも普通の部屋だった。
いやそりゃあ広さにして三十畳ほどあって部屋の中央に巨大なグランドピアノが鎮座《ちんざ》していて天蓋付《てんがいつ》きのベッドがある部屋を普通と呼《よ》んでいいわけがもちろんないんだが、そういう意味ではなー、俺としてはもう少しアキバ系の混沌《こんとん》とした部屋を想像《そうぞう》してたんだよな。
「あ、その辺に適当《てきとう》に座《すわ》っていてください。テーブルを出しますので」
俺にそう言って、春香はさっきからウォークインのクローゼットの中で何やらごそごそとやっている。クローゼットだけでおそらく俺の部屋よりも遥《はる》かに広いだろうという事実にはこの際《さい》目を瞑《つぶ》って海こう。
高価そうな絨毯《じゅうたん》の上に座《すわ》り込《こ》んで改めて周《まわ》りを見てみても、やっぱり普通のお嬢《じょう》様の部屋って感じだった。少なくとも目に映る場所にアキバ系の片鱗《へんりん》はない。
まあこれはこれでこの上なく『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』らしい部屋のような気もする。信長《のぶなが》の部屋みたいにアニメのポスターやフィギュア、おびただしい数のマンガや小説に埋《う》め尽《つ》くされた腐界《ふかい》だったらかなりイヤだったかもしれんしな。
そんなことを考えていると春香《はるか》がテーブルを手に戻《もど》って来たので、何気《なにげ》なく訊《き》いてみた。
「この部屋《へや》って、ポスターとかないんだな」
「あ、ええ……」
「この前、アキハバラでいくつか貰《もら》ってたけど、あれとか貼《は》らないのか?」
あの中には春香お気に入りの『ドジっ娘《こ》アキちゃん』やら何やらのポスターもあったはずだ。それにガチャポンで当てたミニフィギュア。春香の性格上、これらのお気に入りのモノは部屋の目立つところに飾《かざ》っていてもおかしくなさそうなもんだが。
「それは――」
春香が一瞬《いっしゅん》口ごもる。ん、何かマズイこと訊いたのかな。
「それは、私も飾りたいと思います。かわいいですし、出来《でき》ればいつも目の届《とど》くところに置いておきたいです。でも……しょうがないんです。だって私がこういう趣味《しゅみ》を持っていることは、家族にも秘密《ひみつ》なんですから」
「え?」
家族にも?
「私の家は両親、特にお父様がとても厳《きび》しくて……そういったアニメのポスターやフィギュアなんかは、それこそ見付かったら即座《そくざ》に捨てられてしまうと思います。教育上良くないって。だから、部屋の目立つところには置けないんです」
うつむく春香。
なんつーか……そりゃあ大変《たいへん》だな。ふむ、春香にどこか一般|常識《じょうしき》が欠けている部分がある理由が少し分かった気がした。この部屋、やたら広い割には娯楽《ごらく》に関する物がやけに少ないのもそういうわけか。テレビもないしパソコンもないしな。携帯《けいたい》を持ってないのも、たぶんその延長《えんちょう》なんだろう。
「そういえば、家の人っていないのか?」
ふと思った。
もしも件《くだん》のお父様とかがいらっしゃるのだとしたら、早めに挨拶《あいさつ》しといた方がいいような気がする。俺なんかどこからどう見ても、手塩にかけて育てた愛娘《まなむすめ》に取り付く悪い虫(エキノコックスとか)にしか見えんだろうし。
「今日は私しかいないです。お父様はアメリカのぺんたごん≠ニいうところに出張していますし、お母様も経営している料理学校の講義で夜中まで帰ってきません。お祖父《じい》様も北海道にクマ狩りに出かけてしまっていて朝からいませんし――」
「……」
えっと。
あなたのお父上は何者ですか? ……ヘタしたら消されるんじゃないか、俺。
そんな俺の気持ちを分かっているのかいないのか、春香はどこまでも平和そうな顔でにっこりと笑った。
「というわけですので、気を遣《つか》わないでご自分の家にいるようにリラックスしてください。さ、それではそろそろ勉強を始めましょうね。初日は英語のリーダーと世界史なので、英語からやりましょう」
さて、さすがに入学以来学年トップを維持《いじ》しているだけのことはあり、春香《はるか》はめちゃくちゃ頭が良かった。どのくらいすごいのかというと、自分は淡々《たんたん》と応用問題集を解きながら、隣《となり》で学園指定の基礎問題集をやってる俺の間違《まちが》いを指摘《してき》しかつそれに適切《てきせつ》な解説を加えることが出来《でき》るくらいである。
「あ、ここの不定詞《ふていし》はですね、未来というか運命をあらわす特殊《とくしゅ》な用法なんです。訳《やく》すと、『彼は都会に行ったきり、二度と故郷《こきょう》に戻《もど》ることはなかった』になりますね」
「それはつまり、彼は都会に出て一山当ててやるぜと勢《いきお》い込《こ》んで上京したところ世間《せけん》の風当たりは思ったよりも強くて彼なりにがんばってはみたものの定職《ていしょく》も得《え》られずコンビニのバイトで糊口《ここう》をしのぐ毎日で最後には契約更新《けいやくこうしん》で賃貸アパートを追い出されて故郷に錦《にしき》を飾《かざ》るなんて夢のまた夢のまま公園で一人|孤独《こどく》に野垂《のた》れ死《じ》んだ、ってことか?」
「え、ええ、まあそうかもしれませんが……」
「ふむふむ」
「これは不定詞と動名詞《どうめいし》の区別の問題です。前者が『タバコを吸うために立ち止まった』になるのに対して、後者は『タバコを吸うことを止めた』という意味になります」
「つまり前者が道端《みちばた》だろうとどこであろうとタバコを吸わずにいられず条例|違反《いはん》で罰金《ばっきん》を食らいまくった末期のニコチン中毒者《ちゅうどくしゃ》で、後者がそれまでは熱烈《ねつれつ》な愛煙家《あいえんか》であったにもかかわらず子供が産まれた途端《とたん》に一転してタバコを完全禁止、うちの子の前でタバコを吸うヤツはぶっ殺してやる、的な考えに変わった子煩悩《こぼんのう》な禁煙者《きんえんしゃ》ってこと?」
「……ま、まあいちおう。中毒かどうかは知りませんが」
「なるほどなるほど」
てな感じに。何か俺の果《は》てしないバカさ加減《かげん》がうかがえるやりとりではあるが。
ほとんど俺が春香に教えてもらうカタチではあったが、それでも勉強は順調《じゅんちょう》に進んだといえるだろう。てか解説中も春香の右手は自分の問題を解き続けてたし。
「えと、ここはですね……」
そして本日何回目かになろうという春香先生の解説が始まろうとして、ふとその左手がテーブルの上にある俺の消しゴムに触《ふ》れた。消しゴムはその反動でおむすびのごとくころこうこうりと絨毯《じゅうたん》の上に転《ころ》がり落ちた。
「あ、すみません」
春香《はるか》が身を乗り出そうとする。でも俺からの方が位置《いち》が近い。
「いいよ、俺が拾うから――」
「いえ、私が――」
そう言って俺たちが手を伸ばしたのは、奇跡的《きせきてき》なくらいに全く同時だった。
「……」
「……」
指先に柔《やわ》らかい感触《かんしょく》。触れているのは、断《だん》じて消しゴムなんかではない。
心臓が、どくりと動く。
「あっ、あの……」
「あ、わ、悪い」
慌《あわ》てて手を引っ込めるが、胸《むね》の動悸《どうき》は消えてはくれなかった。どくんどくんどくん。クスリでも盛《も》られたみたいに不自然に心臓が酸素を求めている。かなりオーバーヒート気味《ぎみ》。サウナにでも入ってのぼせた時みたいに頬《ほお》が熱い。
何だ? 何か……ヘンな気分だ。見れば隣《となり》で春香まで何やらぽーっとした顔で頬を真っ赤に染《そ》めている。まるであのアキハバラの公園で感じたような妙《みょう》な――色にすればピンク色の――もやもやとした雰囲気《ふんいき》が部屋《へや》の中を包《つつ》んでいるみたいな……
目の前には潤《うる》んだ春香の瞳《ひとみ》。
よく考えてみれば、今この部屋には俺と春香の二人しかいない。二人しかいないということは他にはだれもいないってことであり、二人きりってことだ(当たり前だ)。閉じられた空間。年若い男女。二人きり。これらのキーワードから連想《れんそう》される言葉《ことば》は……密室《みっしつ》殺人? って違《ちが》うだろ! そうじゃなくて、もっとこう初々《ういうい》しいというか、穏当《おんとう》というか健全《けんぜん》な言葉は思い付かんのかね。
などと自分の想像力《そうぞうりょく》の偏《かたよ》りを嘆《なげ》いている場合じゃない。
とにかく、今はこの不可思議《ふかしぎ》なピンク色に染《そ》まったどこかインモラルな空間からいかに脱《だっ》するかを考えるのが先決である。このままじゃ俺の理性《りせい》が周回軌道《しゅうかいきどう》を外《はず》れた人工衛星のごとく宇宙《うちゅう》の彼方《かなた》にすっ飛んでいくのも時間の問題だ。……よし、ここは心を落ち着かせるために素数《そすう》でも数えることにしよう。えっと最初は0から……あれ、0って素数だったっけ? それとも1から? あれ?
――いきなり詰《つ》まってしまった。
我ながら、数学二(十段階中)の成績は伊達《だて》ではない。何せ数学の教師に、「頼《たの》むからお前だけは、三年になっても理系コースには来ないでくれ。な?」と泣《な》き顔《がお》で懇願《こんがん》されたくらいである。そう、言わば折り紙付きだ。バカであることの。
……自分で言っていてアレだが、何だかものすごく悲しくなってきた。
やるせない気分になり春香《はるか》の顔に視線《しせん》を戻《もど》すと、春香もじっとこっちを見ていた。
目が合った。
春香がぼんって音がしそうなくらいに顔を赤くする。そのまま落ち着かなく視線をあちこちに彷徨《さまよ》わせて、そして何かの覚悟《かくご》を決めたかのようにゆっくりと目を閉じた。……いや春香さん、何でそこで目を閉じますか?
そのまま十秒が経過《けいか》。
うーむ、さすがにこのまま放置《ほうち》ってのはかえって春香に失礼なのか? こういった青春な場面に遭遇《そうぐう》したことがいまだかつて一度もない俺には、さっぱり分からん。
もうこうなったら勢《いきお》いに任《まか》せて行くところまで(どこだよ)行ってしまおうか、それとも俺も目を瞑《つぶ》って寝《ね》たブリでもしようかと両|極端《きょくたん》に悩《なや》み(言《い》い訳《わけ》になるが、この時の俺はまともな精神状態《せいしんじょうたい》じゃなかったんだよ)、結局《けっきょく》前者を選択《せんたく》しようとしたところに、
「お二人で良い雰囲気《ふんいき》のところを申《もう》し訳《わけ》ありませんが」
突然《とつぜん》、背後《はいご》から声がした。
「!?」
振《ふ》り返《かえ》ると……そこにメイドさんがいた。
「うわあっ!」「きゃあ!」
「……私の顔はそんなに驚《おどろ》かれるような造作《ぞうさく》をしておりますでしょうか?」
少しばかり心外《しんがい》そうな顔でメイドさんが答える。そうじゃなくていつからここに!?
「五度ほどノックをしましたが、返事がないようなので失礼とは思いながら勝手に入らせていただきました」
いや……いくら春香に気を取られてたとはいえ全くもって気配《けはい》を感じなかったんですが。メイドさん恐《おそ》るべし。
「は、葉月《はづき》さん、何のご用でしょうか?」
春香が慌《あわ》てた声で尋《たず》ねる。
「はい。実は先ほど美夏《みか》様がお戻《もど》りになられたところ、春香様にお話があると仰《おっしゃ》っておられるのですがいかがなさいましょうか?」
「え、美夏が?」
「はい」
メイドさん、こくりとうなずく。
「あの子、今日はお友達のお家へ遊びに行くって言ってませんでしたか? どうしたんでしょう」
「詳《くわ》しくは分かりませんが……『面白《おもしろ》そうだから、早めに切り上げて帰ってきちゃった♪』と仰《おっしゃ》ってました」
「面白《おもしろ》そう……ですか?」
春香《はるか》が首を捻《ひね》る、
「あの春香、美夏《みか》って?」
「え? ああ、裕人《ゆうと》さんにはまだ言ってませんでしたね。私の妹です」
「妹? 春香、姉妹いたんだ」
「はい。中学二年生なのですが」
そういえば前に信長《のぶなが》(ストーカー)がそんなことを言ってたな。
「すみません、そういうことですので私、ちょっと美夏のところに――」
「ああ、りょうかい」
「ほんとにすみませんです……。すぐ戻《もど》ってきますので、適当《てきとう》にくつろいでいてくださいね」
4
春香とメイドさんが行ってしまい、部屋《へや》には俺が一人残された。
適当にくつろいでと言われたものの、何だかこの部屋は広すぎて落ち着かない。狭《せま》いオリから急に広い実験スペースに放り出されてとまどうマウスみたいなもんか。
じっと座《すわ》ってるのも退屈《たいくつ》だったので、部屋の中を色々と見てみることにした。
まずは部屋の中央にどん、と置かれているグランドピアノ。メイドさん曰《いわ》く、スタンウェイのフルコンだかファミコンだかそんな名前の代物《しろもの》で、時価《じか》にして二千万円ほどするとかしないとか。……うちの家、買えるな。しかも土地付きで。
「……」
何だか底知《そこし》れない敗北感《はいぼくかん》に苛《さいな》まれて、俺は目の前の黒い楽器から目を逸《そ》らした。
ピアノの向こうにある本棚《ほんだな》を覗《のぞ》いてみる。
本棚には、いくつもの楽譜《がくふ》が収《おさ》められていた。ベートーヴェン、モーツァルト、ショパン、リスト、シューマン、ブラームス……音楽の授業で出てきて何とか名前だけは知ってるってレベルだ。
「これ……全部|弾《ひ》けるのか?」
何か『超絶《ちょうぜつ》技巧《ぎこう》練習曲集』とかいう、楽譜にあるまじき壮絶《そうぜつ》なタイトルのやつもあるが、春香のことだからたぶん弾けるんだろうな。この前音楽室で見た春香の演奏は、ある意味超絶技巧と呼《よ》ぶにふさわしかったし。
と、その中に、楽譜に紛《まぎ》れて一冊だけタイトルの付いていない本が置いてあるのが目に留《と》まった。高級そうな布製の真っ白なカバーが丁寧《ていねい》にかけられた本。他の楽譜とは明らかに(いい意味で)扱《あつか》いが違《ちが》う。
何だろ、これ?
中身を見てみようと思ったのは、ほんの気まぐれだろう。ちょっとした好奇心《こうきしん》もあったかもしれない。
本棚《ほんだな》から取り出し、カバーを取ってみる。
「……」
中身は、マンガだった。
「……おい」
いや正確に言えばマンガ雑誌か。楽譜《がくふ》と同じA4サイズの少し古びた雑誌。タイトルは……『イノセント・スマイル』創刊号とある。
――ああ、コレね。
今でもこのタイトルを聞くと二ヶ月ほど前のあの図書室不法|侵入《しんにゅう》事件を思い出して、色々と複雑な気分になる。思えば俺が春香《はるか》と親しくなりこうして自宅にまで呼《よ》ばれるまでになったのも、ある意味、春香の愛読書でありあの事件の当事品でもあるこのシリーズのおかげだったりするんだよな。『創刊号』と書いてあるから、これはたぶん前に図書室で聞いた、春香がアキバ系に興味《きょうみ》を持つきっかけとなった思い出の品ってやつなんだろう。それを考えれば、これだけがやたらと丁重《ていちょう》に扱われているのにもうなずける。
春香の思い出の一品か……
ロングヘアーの女の子のイラストが微笑《ほほえ》んでいる表紙に何となく目を落とすと、
「……あれ?」
そこで、何かが引っかかった。
それが何であるのか、はっきりとは分からない。だけどこの表紙を見ていると記憶《きおく》の隅《すみ》で何かが引っかかるのだ。心の奥《おく》で何かが騒《さわ》ぐというか。何だか以前にどこかでこれと同じモノを見たことがあるようなないような――
「お待たせしました」
「!?」
その時ドアの開く音と春香の声が聞こえ、俺は反射的《はんしゃてき》に『イノセント・スマイル』にカバーを付け直し本棚に戻《もど》した。
部屋《へや》に入ってきた春香が俺を見る。
「あれ? 楽譜に興味《きょうみ》があるんですか?」
「ん、ま、まあちょっと」
首を振《ふ》って誤魔化《ごまか》す。隠《かく》してあるものを勝手に見られたと知ったら、春香もいい気分はしないだろうし。
「もし何か聴《き》いてみたいのがありましたら言ってください。弾《ひ》きますから」
にこにこと嬉《うれ》しそうに春香《はるか》が答える。う、そんな無邪気《むじゃき》な顔をされると胸《むね》が微妙《びみょう》に痛《いた》むな。
「じゃあ後《あと》で頼《たの》む。それより、妹さんのところに行ってたんじゃなかったのか?」
「あ、そうでした。実は妹が……美夏《みか》がどうしてもご挨拶《あいさつ》がしたいと言っているのですが、ご迷惑《めいわく》じゃないでしょうか?」
「いや、俺は構《かま》わないけど」
向こうから挨拶がしたいっていうのを断《ことわ》る理由もない。それに春香の妹ってのにも興味《きょうみ》があるしな。やっぱり姉と同じく天然《てんねん》ぽわぽわなお嬢《じょう》様なんだろうか。
「そうですか。美夏も喜びます。美夏、いらっしゃい」
「はーい!」
と、元気な声とともにドアの向こうからウサギのようにぴょんと飛び出してきたのは
「ん? あれ?」
「へへ〜、こんにちは、おに〜さん。また会ったね」
何とあの地図を描《か》いてくれた女の子だった。え? この子が春香の妹?
「あ、驚《おどろ》いてるな。おに〜さんもまだまだ甘いね。わたし、あの時ちゃんと言ったよ。『また[#「また」に傍点]ね』って」
言われてみればそんな気もするが……でも何で俺が春香の知り合いだって分かったんだろ。
疑問が顔に出ていたのか、女の子は俺の耳に顔を寄せて小声でささやいた。
(あんな妖怪画《ようかいが》を描くのって、お姉ちゃんくらいしかいないじゃん。ちゃんとサインまでしてあったし)
……なるほど。大いに納得《なっとく》。
(それにお姉ちゃんから、今日はお客様が来るって聞いてたしね)
えへへ、と笑う。そんな無邪気な表情は春香によく似《に》ている。さすがに姉妹だけはあるな。
「……妖怪画?」
その隣《となり》で、春香が怪訝《けげん》そうに首を傾《かし》げていた。
「あ、ううん、何でもないよ。こっちのことだから〜。それよりお姉ちゃん、早く紹介《しょうかい》してよ」
「あ、そうですね。何か二人とももうお知り合いみたいですけど……。この子がさっき話した私の妹で――」
「乃木坂《のぎざか》美夏で〜す。十四歳で、趣味《しゅみ》はヴァイオリンとイノシシの餌付《えづ》けとスカッシュ。よろしくね、おに〜さん」
「……」
何か趣味のところで一部あり得《え》ない響《ひび》きが聞こえたような気もするが、聞こえなかったことにしよう。
気を取り直して自己紹介を続ける。
「あー、俺は綾瀬裕人《あやせゆうと》。春香のクラスメイトだ。こっちこそよろしくな」
「えっ……裕人《ゆうと》?」
と、春香《はるか》妹がなぜかそこで反応《はんのう》していた。何だ?
「美夏《みか》、目上の人を呼《よ》び捨《す》てにするのは失礼ですから……」
「いや別に俺はいいけど……何か俺の名前、変だったか?」
「あ、ん〜ん、そういうことじゃないんだけど……」
「?」
「な、何でもない。――ふ〜ん、それより春香≠ゥ〜」
春香妹……美夏が俺と春香の顔を見てにやっと笑う。
「な、何だよ」「な、何ですか」
「ん〜ん、べっつに〜。ただお姉ちゃんのことこんなに親しげに呼ぶ男の人、珍《めずら》しいな〜って」
そうなのか? でも確かに学園ではみんな乃木坂《のぎざか》さんとか春香様とか『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』とかだしな。てか不用意に呼び捨てなんかにしようものなら、先日の俺のような悲惨《ひさん》な目(屋上《おくじょう》で簀巻《すま》き未遂《みすい》)に遭《あ》うことは請《う》け合《あ》いである。自分から核地雷《かくじらい》を踏《ふ》もうとする物好きはそうそういまい。
「べ、別に深い意味はないんですよ。ただ裕人さんはクラスメイトで、その、お、お友達ですから、それで……」
「ふ〜ん、裕人さん≠ヒ〜。お姉ちゃんが男の人を名前で呼ぶのも初めて聞いたな〜」
「あ、そ、それは……」
しどろもどろになる春香。うーん、何となくこの姉妹の基本的な力関係が見えたような気がする。
ともあれ春香が困《こま》っているようなので、フォローを入れとこう。
「あー、ヘンな勘《かん》ぐりをしなくても、俺と春香はただの友達だから」
本当はちょっと違《ちが》うのだが、例の趣味《しゅみ》については家族に秘密《ひみつ》だそうだから、こう言っておくのが吉だろう。
「そ〜なの、お姉ちゃん?」
「そ、そうです。た、ただのお友達です。け、けして特別な関係とかではないです」
春香が戸惑《とまど》うような何とも微妙《びみょう》な表情でそう答える。
それを見た美夏が含《ふく》みのある笑いを浮《う》かべた。
「ふ〜ん。ナルホド、そうゆうことか」
「何だよ、それ」
「何でもな〜い。つつけばまだいろいろありそうだけど、だいたいは分かったから今日のところはこれくらいでカンベンしといたげる。あ、それからわたしのことも美夏って呼んでね、おに〜さん」
「りょうかい」
「よろしい♪」
しかし元気で活発な妹だ。春香《はるか》とは良くも悪くも正反対。春香を月だとすると、こっちはさしずめ太陽ってところか。
それからはもう勉強どころじゃなかった。
俺は美夏《みか》にせがまれてウノをやったり人生ゲームをやったりチェスをやったりと(レトロだ……)、まったりのんびりだらだらとした時を過ごした。
「美夏、裕人《ゆうと》さんはお勉強をしにいらっしゃったのですから……」
「え〜、いいじゃん、ちょっとくらい。おに〜さんはわたしと遊ぶの〜」
「もう……」
とたしなめつつも、春香もそれほど強く注意する気はないみたいだった。
「ごめんなさい、裕人《ゆうと》さん。美夏が初対面《しょたいめん》の人にこんなに懐《なつ》くのは珍《めずら》しいんです。よろしければ、お相手をしていだただければ……」
「おっけ」
「わ〜い、じゃあ次はトランプね」
というわけで、これじゃあもう試験勉強に来たっていうよりほんとにただ遊びに来たって感じだったが、楽しかったのでよしとしよう。あと一週間あるんだし試験勉強は何とかなるさ、きっと。明日は明日の風が吹く(現実|逃避《とうひ》とも言う)。
で、気付けば夕方になっていた。
夕食を食べていってはいかがですか? と春香は言ってくれたのだが、ウチには定時に食事を与《あた》えないと暴《あば》れだす問題人物が若干《じゃっかん》一名(時によりもう一名:某《ぼう》音楽教師)ほどいるので、後《うし》ろ髪《がみ》引かれる思いながらお断《ことわ》りした。
「そうですか……残念《ざんねん》です」
「せっかく誘《さそ》ってくれたのに悪いな。今度はちゃんとエサを用意してから来ることにするから」
「エサ? 裕人さん、ワンちゃんでも飼《か》ってるんですか?」
「あー、まあ……」
手がかかるって点では似《に》たようなもんだ。イヌの方が聞き分けがいい分だけ遥《はる》かにマシだが。
「ワンちゃんですか……。あ、そうだ。それなら昼間に食べたプラムプディングの残り、お土産《みやげ》に包《つつ》みますね。よかったらワンちゃんにも食べさせてあげてください」
「いやそこまでしてくれなくても……」
「大した手間《てま》じゃありませんから。遠慮《えんりょ》しないでください。私、ワンちゃん大好きですし」
葉月《はづき》さんにそのことを伝えてきますね、と、春香は駆《か》け足《あし》でぱたぱたと部屋《へや》を出て行った。いつの間《ま》にかウチにはイヌがいることが確定になってしまったみたいだ。
「ま、いいか……」
大きな間違《まちが》いはないし。
「ね、おに〜さん、ちょっとちょっと」
「ん?」
と、美夏《みか》がちょいちょいと俺に手招《てまね》きをしていた。何だ? ここは定番として、本人がいない間に春香《はるか》の子供の頃《ころ》のアルバムを見せてくれるとかそういう展開《てんかい》か。
などと少し期待《きたい》してそっちに行ってみると、
「おに〜さん、この前はアキバ楽しかった?」
「!?」
いきなりそんなとんでもないことを訊《き》かれた。
「お姉ちゃんと二人でデートしてきたんでしょ? い〜な〜。ね、もう手は繋《つな》いだの? キスは?」
「な……」
突然《とつぜん》の質問に混乱《こんらん》し、言葉《ことば》に詰《つ》まる。
「何を言って――」
ほんとに、突然何を言い出すんだ、この子は。
「ふっふっふ。とぼけてもムダだよ。わたしにはちゃ〜んと分かってるんだから」
「と、とぼけるって、何のことだよ……」
アキバって……当然先月のあの春香との買い物のことを指してるんだよな。というかそれ以外あり得《え》ない。でも、何でこの子があれを知ってるんだ? カマをかけてるにしても行き先が具体的《ぐたいてき》すぎる。
俺の焦《あせ》りを見て取ったのか、さらに美夏は突っ込んできた。
「ふ〜ん、とことんとぼける気なんだ〜。でもね〜、もうネタは上がってるんだよ。確か連休明けの日曜日だったかな〜? お姉ちゃん、新しい服着てうきうきで出かけていったんだよね〜」
にやにやと笑う美夏。
……日にちと詳細《しょうさい》まで合ってやがる。ということは……あんま認《みと》めたくないが、ほんとに美夏はあのことを知ってるってことに。いや、でも春香がこういうことをだれか(たとえ妹とはいえ)に話すとも思えないんだが……
悩《なや》む俺に、美夏はとどめを刺《さ》してくれた。
「お姉ちゃん、おに〜さん専用のリッパなお買い物のしおり≠ワで用意してたよね。妖怪画仕様《ようかいがしよう》の」
「……」
もう、認《みと》めるしかなかった。
「何でそのことを……」
うなだれる俺に、美夏《みか》は勝《か》ち誇《ほこ》ったように、にまっと笑った。
「へへ〜、実はね、お買い物のしおり≠こっそり見ちゃったんだ〜。ていってもわたしが悪いんじゃないんだよ。だってお姉ちゃん、リビングのテーブルに堂々《どうどう》と置《お》きっぱなしにしてたんだもん。見るなってのがムリな話でしょ?」
「……」
「で、ちらっと見てみたら二冊あって、その一つに『裕人《ゆうと》さん用』って書かれてて、この『裕人』さんってだれなんだろって不思議《ふしぎ》に思ってたら……お姉ちゃんが連れて来たお客さんの名前が『裕人』なんだもん。わたし、びっくりしちゃった」
「はあ……なるほどな」
納得《なっとく》した。イヤになるくらいに納得した。それならお買い物のことを知っていて当然である。
しかし何つーか……そういうところ(置き忘れ)は実に春香《はるか》らしいな。完全|無欠《むけつ》に見えていつも肝心《かんじん》なところで抜《ぬ》けに抜けまくっている。まあもう慣《な》れたが。
「でさ〜。ついでにもういっこ訊《き》いていい?」
「……どうぞ」
もうここまで来たら何を訊かれても驚《おどろ》くまい。毒《どく》を食らわば皿《さら》までと思ったのだが。
「おに〜さんは、お姉ちゃんの秘密《ひみつ》のことも知ってるんだよね?」
「え……」
それは少し予想外《よそうがい》の質問だった。
春香の秘密。それが指すものはもう一つしかないだろうが、果《は》たしてそこまで答えてしまっていいものなのか? いや、そもそも家族は秘密のことを知らないんじゃなかったのか? それとも美夏にだけは特別に教えてあるのだろうか? ……あー、もうワケが分がらん。
「ど〜なの、おに〜さん」
「い、いや……」
「あ、その目は知ってる目だな〜。ほらほらー、大人しく吐《は》いちゃえば楽になるぞ〜」
迷《まよ》っていると、美夏は俺の脇《わき》の下をこちょこちょとくすぐり始めた。
「こ、こら……俺はそこ弱いんだ」
「あ、それいいこと聞いた〜、ほれほれ〜」
「う、うははははは……や、やめ」
「ほれほれ〜」
ひとしきりそんなじゃれ合いにも近いやり取りをやった後、ちょっと真剣《しんけん》な顔をして美夏が改めて言った。
「ね、おに〜さん。真面目《まじめ》に答えてほしいんだ。おに〜さんは、お姉ちゃんの秘密のこと、知ってるの?」
「……」
迷《まよ》ったが、結局《けっきょく》、本当のことを言うことにした。美夏《みか》の瞳《ひとみ》に宿る光を見て、何となくそうするべきだと思ったから。
「……知ってる。きっかけは偶然《ぐうぜん》だったけど、その後《あと》に春香《はるか》本人から詳《くわ》しい話を聞いた」
「そっか」
美夏の表情がぱっと明るくなる。
「うん。まあたぶんそうだろうとは思ってたんだけど、やっぱそうだったか。うんうん、我ながら女の勘《かん》ってのは当たるものよね〜」
微妙《びみょう》に突っ込みどころのあることを言いながら笑う美夏。
「なあ、今度はこっちが訊《き》いていいか?」
「ん、な〜に」
「そっちこそ、何で春香の秘密《ひみつ》のこと知ってるんだ? 家族にも秘密なんだろ」
確かにあのお買い物のしおり≠見れば予想《よそう》がつくかもしれないが、美夏の口調《くちょう》からは、むしろそれよりもかなり前から秘密について知っていたように感じられる。
「あ、そのことか」
美夏が苦笑《くしょう》する。
「ん〜、本人は必死《ひっし》に隠《かく》しているみたいだけどね〜。わたしとか葉月《はづき》さんには昔からバレバレだよ。お姉ちゃん、ウソつけないタイプだから。気付いてないのってお父さんとお母さんくらいじゃないかな。でもお姉ちゃんは隠したいって思ってるみたいだから、わたしが知ってるってことはまだ秘密にしといてね」
ぺろっと舌を出しながら笑う。この歳でそんなことまで考えてるのか。うーん、お姉ちゃん想《おも》いのよく出来《でき》た妹だ。うちのダメ姉とトイレットペーパー付きで交換《こうかん》したいくらいだな。
まあ、美夏たちが秘密を知っていることについてはこれで納得《なっとく》がいった。
でもまだ一つ気にかかることがあった。
「なあ、何で俺が春香の秘密を知ってるって思ったんだ?」
美夏も、俺が知っているというある程度《ていど》の確信があったからこそ訊いてきたんだろう。これでもいちおう隠すために気を遣《つか》ったつもりなんだが。
すると美夏はあはは、と笑った。
「それは簡単《かんたん》。お姉ちゃんが、自分の秘密を知らない人を、アキバに誘《さそ》うわけないもん。それもあんな妖怪画仕様《ようかいがしよう》――こ、こほん、イラスト付きの地図まで用意して」
「……あ」
確かにそれはまったくもってその通りだ。
「それに……そうじゃなくたって、お姉ちゃんの顔を見てれば丸分かりだよ」
「顔?」
「うん。だってあんなに幸せそうな楽しそうな顔したお姉ちゃん見るの、初めてだもん。あれは完全に心を許《ゆる》してる顔だった。あれはきっと全てを許した女の顔ね。――これもきっと、おに〜さんの前だと本当の自分を出せるからなんだと思う」
「……本当の春香《はるか》、か」
確かに学園での『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』としての春香よりも、こっちの春香の方が本物……というか素《す》なんだろう。以前は気付かなかったが、学園にいる時の春香は僅《わず》かに表情が固《かた》い。にこやかに笑いながらもどこか周《まわ》りに対して一歩|退《ひ》いているような、そんな感じがするのだ。
「きっと、お姉ちゃんはおに〜さんのこと憎《にく》からず思ってるんだと思うよ。でもそれも何となく分かる気がする。わたしから見ても、おに〜さんっていい人っぽいし。これでもわたし、人を見る目には自信あるんだよ」
「うーん」
姉妹にそろっていい人と言われてしまった。実際《じっさい》のところ、そんないいモンじゃないんだけどな、俺。
「おに〜さん」
と、美夏《みか》がそれまでうって変わって真摯《しんし》な面持《おもも》ちになった。
「お姉ちゃんを……どうか見放《みはな》さないで、やってください」
「見放すって……」
いや立場的にはどちらかと言えば俺が春香に見放される方かと。何せ『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』と凡庸《ぼんよう》な一学生だし。
しかし美夏はふるふると首を振《ふ》った。
「お姉ちゃん……あの趣味《しゅみ》が周りにバレたせいで、昔にけっこう辛《つら》い思いとかしてるの。見た目とか雰囲気《ふんいき》とかがああだから、周りの人たちはみんな清楚《せいそ》で落ち着いた完璧なお嬢《じょう》様ってイメージみたいなものをお姉ちゃんに押し付けて、それが破られると勝手に幻滅《げんめつ》して離《はな》れていくって感じで。ほんとはドジで抜《ぬ》けてて、ちょっと変わった趣味を持ってるだけの普通《ふつう》の女の子なのに」
それは……あるかもしれんな。うちの学園にもファンクラブはあるが、果《は》たしてそのうちの何人が春香の中身を知ってるだろう。そして何人が中身を知っても今までと同じように春香のことを見ることが出来《でき》るだろう。ガチャポンにはまったり、妙《みょう》なマンガを愛読してたり、携帯《けいたい》ゲーム機が買えなくて泣《な》いたり……知れば知るほど完璧なお嬢様――『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』の本来のイメージとはほど遠い。
「お姉ちゃんには、お姉ちゃんのことを色眼鏡なしで見てくれる人が必要《ひつよう》なんだと思う。ありのままの、自然体のお姉ちゃんを見てくれる人が。そして何となくだけど、おに〜さんにならそれが出来る気がする」
だから、と言って、美夏《みか》は俺の目をしっかりと見た。
「勝手なこと言ってるのは分かってるけど……でも、どうかお姉ちゃんと仲良くしてあげてください。わたし、もうだれかに裏切《うらぎ》られて泣《な》いてるお姉ちゃんを見たくないから……」
ぺこりと頭を下げる。
――ほんとにこの子は春香《はるか》のことを大事に思ってるんだな。言葉《ことば》の端々《はしばし》、態度《たいど》からそのことがひしひしと伝わってくる。いい子なんだな……この子は。
だからってわけじゃないが、俺は美夏の頭に手を置いて、出来るだけ優しい口調《くちょう》で言った。
「……心配《しんぱい》しなくても大丈夫《だいじょうぶ》だ。俺が春香を見放《みはな》すなんて、そんなことあるわけない」
「え……」
「春香は大事な友達だし、それに……」
「それに?」
「……か、かわいいとも思ってるしな。ドジで抜《ぬ》けてて天然《てんねん》なところも、ちょっと変わった趣味《しゅみ》を持ってるところも、全部ひっくるめて」
そうでなければ、春香の中身を知ってから二ヶ月近くもこんな関係(真夜中の学園に不法|侵入《しんにゅう》したり、放置《ほうち》プレイをされたり、ファンクラブに睨《にら》まれたり)を続けていない。
「おに〜さん……うん、やっぱりおに〜さんはわたしの見込んだ通りの人だっ!」
美夏が歓声《かんせい》をあげて俺に抱《だ》きついてきた。その勢《いきお》いで束《たば》ねてある髪《かみ》の毛が鼻先をかすめ、ふわりといい匂《にお》いが舞《ま》う。春香と同じフローラル系の柔《やわ》らかな香《かお》り。同じシャンプーを使ってるんだろうか。何だか春香に抱《だ》きつかれているような錯覚《さっかく》に襲《おそ》われて、頭がぼーっといい気持ちになってくる――
と、その時。
「お待たせしました」
がちゃりとドアが開き、春香が戻《もど》ってきた。
「ワンちゃんのお土産《みやげ》、ばっちり用意|出来《でき》ました。――あら?」
「は、春香……」
紙袋を片手に部屋《へや》に入ってきた春香。その視線《しせん》は、じっと俺と美夏に注《そそ》がれている。
「は、春香、いやこれは」
最悪のタイミングだった。客観的に見れば、どう言《い》い訳《わけ》しても俺が美夏を抱きしめている(あるいは襲《おそ》っている)ようにしか見えない。
「み、美夏からも何とか言ってくれ」
「おに〜さん、いくらわたしがカワイイからって、いきなり抱きしめるのは早いと思う。物事には順序《じゅんじょ》ってものがあるんだから。きゃっ♪」
いや「きゃっ♪」じゃないだろ!
もうどうしていいか分からず、浮気《うわき》現場を妻に踏《ふ》み込《こ》まれた夫のようにその場で凍《こお》り付《つ》いていると、春香《はるか》がにっこりと笑った。
[#挿絵(img/01_226.jpg)入る]
「もう美夏《みか》、そんなに裕人《ゆうと》さんに甘えちゃダメですよ。裕人さん、困ってます」
「は〜い」
イタズラを咎《とが》められた子供みたいな顔をして美夏が離《はな》れる。その様子を、春香はにこにこと穏《おだ》やかな顔のままで見守っている。あれ?
「……春香、怒《おこ》ってないのか?」
「え、どうしてです?」
頭の上にハテナマークを浮《う》かべながら、ぽわんとした表情で不思議《ふしぎ》がる春香。ほんとに何とも思ってないみたいだ。……何だかそれはそれで少し寂《さび》しいような気も。
「お姉ちゃん、こういったことにはすっごく鈍《にぶ》いからね〜」
腕《うで》を組みながら、うんうんと美夏がうなずいた。
「ま、それがお姉ちゃんの短所でもあり長所でもあるんだけど」
「?」
「あ〜、いいのいいの、お姉ちゃんは分からなくて。それよりおに〜さん」
「ん?」
小首をかしげたままの春香から俺の方に向き直り、美夏は改めてこんなことを言った。
「ああいうお姉ちゃんだから色々と大変《たいへん》かとは思いますが……どうかよろしくお願いします。……お義兄《にい》さん♪」
最後のおにいさん≠フ響《ひび》きが、少し他と異《こと》なっていたように聞こえたのは俺の気のせいだろうか。気のせいってことにしとこう。
5
「それではまた明日学園で、ですね」
門まで送りに来てくれた春香《はるか》が名残惜《なごりお》しそうにそう言う。
「こちらがさっきのプラムプディングです。他に、少しオマケもつけておきました」
手渡《てわた》された紙袋には「ワンちゃんへ♪」と書かれた字の横に、何か地獄《じごく》の番犬ケルベロスみたいな生き物が狂気《きょうき》に満ちた熱《あつ》い視線《しせん》をこっちに送っていた。何から何まで突っ込みどころ満載《まんさい》のステキなお土産《みやげ》である。
「あの、よかったら駅まで車でお送りしますけど……」
「ありがたいけど遠慮《えんりょ》しとく。大した距離《きょり》じゃないから、歩いていくさ」
春香の申し出を謹《つつし》んで辞退《じたい》した。いや、だって徒歩《とほ》十分もかからない距離だしさ(ちなみに屋敷《やしき》内から門まで徒歩二十分である)。
「おに〜さん、気をつけて帰ってね」
「ぜひ、またお越《こ》しください」
春香だけでなく、美夏《みか》も葉月《はづき》さんも見送りにきてくれていた。ここまでわざわざ来てくれたことが、少し嬉《うれ》しい。
「じゃ、また」
門の前で手を振《ふ》っている三人に手を振り返して、俺は駅へと向かって歩き出した。
何だかんだで、今日はいい日だったと思う。
美夏や葉月さんといった面白《おもしろ》い人たちと知り合うことも出来《でき》たし、春香のことを今までよりも知ることが出来て、何だかもう少し身近に感じられるようになった気がする。行く途中《とちゅう》で道に迷《まよ》ったり、気配《けはい》のないメイドさんにおどかされたり、美夏に色々と答えにくいことを突っ込まれたりもしたけど、それだけで今日は俺にとっていい日だった。
こんな一日が、これからもたくさんあるといいんだけどな。
さて、これは全くもって余談《よだん》であるが。
春香から貰《もら》ったお土産をうちのワンちゃんに渡《わた》したところ、
「おお、これは美味《うま》いな。こっちのすもも味のプリンもいいが、特にこの燻製肉《くんせいにく》は絶品《ぜっぴん》だ。日本酒にとてもよく合う。いささか味が薄《うす》いような気もするが、それはまあご愛嬌《あいきょう》だろう。貰《もら》ったものに文句《もんく》を言ったらバチがあたるな」
と喜んでいた。非常《ひじょう》に喜んでいた。
すもも味のプリンとはおそらくプラムプディングのことを指しているんだろう。まんまな表現であるが、横文字に弱い人だからそれはいい。それはいいんだが――
「……燻製肉《くんせいにく》?」
そんなもん入ってたのか? そういえば春香《はるか》、オマケを付けたとか言ってたような言ってなかったような……
イヤな予感《よかん》がして、恐《おそ》る恐《おそ》る姉の傍《かたわ》らに置かれているモノを覗《のぞ》き込《こ》んでみる。
そこには、大きく『最高級ビーフジャーキー』と記載《きさい》された袋《ふくろ》があった。……ただし、その横に『犬用』と書かれた。
「……うわ」
幸《さいわ》いなことに、すでに酔《よ》っ払《ばら》っている姉はそれに全く気付くことなく上機嫌《じょうきげん》でジャーキー(犬用)を口にしている。そんな姉を横目で見つつ、俺は無言でジャーキー(犬用〉を全部袋から出すと、家にあったビニールパックにそれらを移し替え、『犬用』と書かれた方の袋をゴミ箱にそっと投げ入れた(証拠隠滅《しょうこいんめつ》)。だってバレたらたぶん……コロされる。
「ん、どうした?」
「あ、い、いや。湿気《しけ》るとまずいだろうから、袋、入れ替えておいたぞ」
「おお、すまんな」
珍《めずら》しく礼などを言って、ルコはさらにジャーキー(犬用)に手を伸ばした。よほどこれ(犬用)が気に入ったみたいだ。
まあ食べても死ぬことはないだろう。というか、最近のペット用食品は人間が食べるものよりも高品質であるという話も聞く。だから大丈夫《だいじょうぶ》だ。おそらく。
「……じ、じゃあ俺はもう寝るから。ルコも早く寝ろよ」
「ああ。これを飲んだら寝るよ」
そして俺はリビングを後《あと》にした。
結局《けっきょく》、その日のうちに春香からのお土産《みやげ》であるビーフジャーキー(犬用)は、全てルコの腹の中に納《おさ》まったのだった。
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七月。
中間試験も終わり、学園全体が来るべき夏休みに向けて段々と騒《さわ》がしくなりはじめていた。
どこどこへの旅行の計画だとか、終業式までにはだれだれに告白《こくはく》するだとかで教室中がどこか落ち着かないそわそわとした雰囲気《ふんいき》に包《つつ》まれる中、何とかかろうじて補習《ほしゅう》を免《まぬが》れることに成功した俺は(とはいってもかなりきわどい点数のものがいくつもあった)、三バカに一アホ(信長《のぶなが》)が加わった四人(……客観的には五バカに見られてるかもしれんが)と、いつものごとくだらだらと昼休みを過ごしていた。
「やっぱり夏は海だろ。飛び散る水|飛沫《しぶき》、降《ふ》り注《そそ》ぐ太陽、焼けた砂浜、白熱《はくねつ》するスイカ割り。これこそ日本の侘《わ》び寂《さ》びってやつだ! ……男しかいないけどな」
「そうですね。深緑《しんりょく》に包《つつ》まれた山の中で涼気《りょうき》を堪能《たんのう》するのも乙《おつ》なものです。日本の夏とはそういうものです。……人喰《ひとく》いグマに襲《おそ》われるかもしれませんが」
「ああ、そうだな。近所の公園で一晩中飲んで騒《さわ》いで脱《ぬ》いで歌って語り明かす。これが夏の醍醐味《だいごみ》だ。……たぶん警察に捕《つか》まるだろうがな」
こいつら、三人とも夏がキライなんだろうか。おまけに全然会話が噛《か》み合《あ》ってないような……。三人が三人ともボールを投げっぱなし状態《じょうたい》である。
「夏といえばさー、何といっても有明《ありあけ》だよねー」
信長は信長でまたワケノワカランことを言ってるし……。有明って、九州まで行くつもりか、こいつは。
「おい裕人《ゆうと》、お前はどう思う? やっぱ男は海水浴だよな?」
永井《ながい》がいきなりこっちを向く。そういう議論を俺に振《ふ》るな。ていうか、俺も頭数に入ってたのか。
「いいえ、海なんて有害な紫外線《しがいせん》の照射場《しょうしゃじょう》みたいなものです。やはりここはマイナスイオンが豊富《ほうふ》に満ち満ちた癒《いや》しと安らぎの場である山でのキャンプを選ぶのが賢人《けんじん》の選択《せんたく》かと」
「公園で宴会《えんかい》が一番だろ? 金もかかんねーし」
「やっぱ同人誌だよねー?」
四人がずい、と顔を寄せてくる。うっ、暑苦しい。
いや俺は海でも山でもどこでも別に構《かま》わんのだが(信長はそもそも何を言ってんだか分からんし)、いっしょに行くのがこいつらってところが一番問題なんだよな……。どこに行っても絶対《ぜったい》に何かロクでもないトラブルが起きそうな気がする。そもそも、これらの計画全てが男のみで構成《こうせい》されてる(すなわち色気の『い』の字もなし)ってところが何よりも悲しい。
「あー、とりあえず俺の意見は保留《ほりゅう》ってことで」
何と答えてもどこからか文句《もんく》が出そうだったので無難《ぶなん》にそう逃《に》げておくと、
「またか。お前は本当にいいかげんだな」
「その全てにおいて等閑《なおざり》な性格、直さないと痛《いた》い目を見ると忠告《ちゅうこく》したはずですが」
「けっ、この中途半端《ちゅうとはんぱ》な根無し草ヤロウが」
「裕人《ゆうと》は昔から優柔不断《ゆうじゅうふだん》なんだよねー。外食するときもメニューを選ぶのにやたらと時間かかるしさー」
言いたい放題《ほうだい》だった。まあ別に今さらこいつらに何と言われようと気にはならんけどさ。
再《ふたた》びあーだこーだ不毛《ふもう》な議論を始めた四人は放《ほう》っておいて、机につっぷす。
――夏休みと言えば、春香《はるか》はどうするんだろうな。
ふと気になった。
三バカプラス一アホたちの意味不明な計画はほんとに心の底《そこ》からどうでも良かったが、そっちはかなり気になる。
やっぱりお嬢《じょう》様だけあって南の島でバカンスを楽しみながら優雅《ゆうが》にクルージングだとか、軽井沢《かるいざわ》の別荘《べっそう》で備《そな》え付《つ》けのテニスコートで汗を流しながらのんびりと避暑《ひしょ》とかなのかね。
ちらりと教室の反対側を見ると、その春香が食後のお茶を楽しみながらのんびりと読書をしていた。相変わらずその姿《すがた》は優雅で、しとやかにたたずむ白百合《しらゆり》を連想《れんそう》させる。読んでいるのは高価そうなカバーに覆《おお》われたいかにも文学的な香りを感じさせる文庫本だが、その中身が必《かなら》ずしも外観《がいかん》と一致《いっち》しないということは先日以来もうよく分かっている。頼《たの》むから人前で落としたりしないでくれよ(すげえやりそう)。
春香がふとこっちを見た。目が合う。すると少し恥《は》ずかしそうに頬《ほお》を染《そ》めて、でも嬉《うれ》しそうにぱたぱたと手を振《ふ》ってくれた。うーん、とてつもなくかわいい。
出来《でき》ることなら三バカたちとなんかじゃなくて春香とどこかに行きたいんだが(それも二人で)……まあそれは調子《ちょうし》に乗りすぎってもんだろう。いかにここ数ヶ月の間に少しは親しくなったとはいえ、夏に二人だけでどこかへ出かけられるほどの仲じゃない。
だけど、訊《き》いてみるだけは訊いてみてもいいかな……
「え、夏の予定ですか?」
「おう。春香はどっかに行ったりするのか?」
放課後。廊下《ろうか》でたまたますれ違《ちが》った時にさりげなくそう訊いてみると、春香はかわいらしく小首をかしげた。
「えと……そうですね、美夏《みか》や葉月《はづき》さんたちといっしょに葉山《はやま》の別荘に行くのは決まっています。八月にはロンドンでピアノのコンクールがありますし、あとはお祖父《じい》様と尾瀬《おぜ》にテニスへ行く予定もあります」
「ふんふん」
予想《よそう》から大きくは外《はず》れていないラインナップだ。さすがお嬢《じょう》様。
「うーん、あとは何かあったかな……。あ、一つ行きたいところがありました」
「どこだ?」
「なつこみ≠ナす」
「……」
……何それ?
「『イノセント・スマイル』に書いてあったんですけど、何でも『ドジっ娘《こ》アキちゃん』と『ダメっ娘メグちゃん』の茶道ヴァージョンの限定《げんてい》ふぃぎゅあが売られているそうで……。それがとっても素敵《すてき》なんです」
夢見る少女の瞳《ひとみ》でそう語《かた》る春香《はるか》。それだけでなつこみ≠ニやらがどういうものかだいたい分かった。分かりすぎるくらいに分かった。
「それって、どこでやってるんだ?」
「有明《ありあけ》の東京ビッグサイトと書いてありました。でも一人だと不安なので諦《あきら》めようかとも思っているんですけど……」
「ゆりかもめか……」
それならそう遠くもないな。
「もしよかったら、いっしょに行くか?」
そう提案《ていあん》してみた。
「い、いいんですか?」
「ああ」
「あ、ありがとうございますっ」
興奮《こうふん》した面《おも》持ちで春香が立ち上がる。ほんとに嬉《うれ》しそうだな。
ひとしきり喜んだ後、
「あ、それじゃ私そろそろ行きますね。今日、掃除《そうじ》当番なんです」
と言って、にこにこ顔で春香は去っていった。
かくして少々(かなりか?)色気には欠けるものの、春香と二人きりでどこかへ行くという、念願《ねんがん》の夏の予定が決定したのだった。
春香と別れて下校しようとすると、校門のところで呼《よ》び止《と》められた。
「お〜い、おに〜さん」
「ん?」
聞《き》き覚《おぼ》えのある舌ったらずな声。
見ると校門の辺《あた》りでこっちに向かって手を振《ふ》っている小柄《こがら》な影《かげ》が一つあった。
「美夏《みか》?」
「へへ〜、おに〜さん、久しぶり」
たたたっと駆《か》け寄《よ》ってくると、制服|姿《すがた》の美夏はそう挨拶《あいさつ》した。
「どうした? 春香《はるか》に何か用か」
「うん、用っていうか、ちょっとこの近くまで来たから寄ってみたの。いっしょに帰ろうと思って。お姉ちゃん、まだいる?」
「ああ。でも出てくるまでにはもう少しかかるんじゃないか」
掃除《そうじ》当番だと言ってたから、たぶんあと二、三十分はかかるだろう。しかし考えてみると、『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』に掃除当番とは、何とも似合《にあ》わん組み合わせである。
「そ〜なの? ね、おに〜さん。だったらお姉ちゃんが来るまで話し相手になってくれない? せっかく会えたんだし。それともこれから何か用事でもある?」
「いや、大丈夫《だいじょうぶ》だ」
彼女がいるわけでもなしバイトをやっているわけでもなし、やることといえば七時までにルコの夕飯を作ることくらいである。俺の放課後のスケジュールは基本的に空きまくっているのだ。……自分で言ってて悲しいが。
「わ〜い、やった」
ぴょんぴょんとその場で飛《と》び跳《は》ねて美夏が喜ぶ。どうでもいいが、スカートでそういうことをするのはやめた方がいいと思う。
「で、最近お姉ちゃんとの仲はどう?」
ひとしきり喜んだ後、美夏はいきなりそんなことを尋《たず》ねてきた。
「いやどうって言われても」
夏にいっしょに出かける約束《やくそく》はしたものの、それ以外には特に進展《しんてん》はない。というか、学園内ではヘタに春香と仲良くするとファンクラブに目を付けられるため、人前では落ち着いて話も出来ないのである。
「う〜ん、ダメダメだなあ。そんなんじゃ、おに〜さんがお義兄《にい》さんになる日はまだまだ遠いぞ〜」
そう言って、俺の腕《うで》に抱《だ》きついてくる美夏。
「お、おい」
「えへへ、ちょっとくらいならいいじゃん。わたし、お兄ちゃんも欲しかったんだよね〜。今のところ、おに〜さんが将来のお義兄ちゃん候補《こうほ》ナンバーワンだし」
美夏がイタズラっぽく笑う。
「それとも、おに〜さんはわたしのこと、キライ?」
「いや、そういうわけじゃなくてだな……」
まあ何だかんだいって美夏《みか》はかわいいし、懐《なつ》かれるのは悪い気はしない。俺としてもこんな妹がいたらいいなと思うこともある。
ただ――
「人前でってのは、問題あると思うぞ……」
さっきから何やら周囲《しゅうい》の視線《しせん》がやたらと俺たちに集中していた。
すれ違《ちが》う人、通り過ぎる人がこっちをちらちらと見てはひそひそと小声で何かをささやいているのだ。
その中のいくつかが聞こえた。
「ね、あの子って中学生だよね? 何あれ、男の方がナンパしてるの?」
「でもさっきおに〜さん≠チて呼《よ》んでたよ。兄妹なんじゃない?」
「おに〜さん≠ヒえ……。それって本物じゃないパパ≠ニかと同義《どうぎ》なんじゃないの」
「うわ、最低」
別の集団からは、こんな声も聞こえた。
「なあ、あの子、すごいかわいくないか?」
「ああ。でも、何かだれかに似《に》てるような……」
「だれだっけ?」
「うーん……」
「で、あの男は何してんだ。ナンパか?」
「白昼堂々《はくちゅうどうどう》、校門で中学生をナンパか……最悪だな」
さらにはこんな声も。
「あれって二年の綾瀬《あやせ》じゃねえか? 確か春香《はるか》様にちょっかいだしてるってウワサの……」
「春香様に手を出しておきながら他の子をナンパだあ?」
「しかも自分のことをおに〜さん≠ニか呼ばせて悦《えつ》に入ってるらしいぞ」
「腕《うで》なんて組みやがって……変態《へんたい》が」
「……殺《や》っとくか?」
「親衛隊《しんえいたい》、呼べば五分以内に二十人は集められるぞ」
後半の方、ものすごく物騒《ぶっそう》な会話が交わされていた。
身の危険《きけん》を感じた。これ以上この場に留《とど》まっていたら生命が危《あぶ》ないと本能《ほんのう》がレッドシグナルで警告《けいこく》していた。
「あれ、おに〜さん、顔が青いよ。どしたの、具合《ぐあい》悪い?」
美夏が顔をぐっと寄せてくる。
周囲からの視線が、刃物《はもの》でえぐるようなさらに強烈《きょうれつ》なものになった。やばい……このままじゃマジで殺られるかもしれん。
ここはとりあえず一刻《いっこく》も早くこの場を離《はな》れるべきだろう(戦略的|撤退《てったい》)。
「あー、美夏《みか》。悪いが俺、急用を思い出したからここで――」
「あれ美夏? どうしてここにいるんですか?」
死線を離脱《りだつ》しようとした俺を、校舎の方から響《ひび》いてきたのんびりとした声が遮《さえぎ》った。
「あ、裕人《ゆうと》さんもいます。二人でどうしたんですか?」
春香《はるか》だった。
ようやく掃除《そうじ》が終わったのか、嬉《うれ》しそうに顔を綻《ほころ》ばせながらこっちに向かってとことこと歩いてくる。う、春香もやって来た以上、ここでいきなり俺が消えるのは不自然だ。
「お、おい、春香様だ……」
『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』の出現で、にわかに周《まわ》りが騒《さわ》がしくなる。慌《あわ》てて頭に怪《あや》しい赤いハチマキを巻《ま》きだすやつも(それもけっこう多数)出てきた。
「春香様、あの女の子と知り合いなのか? 親しそうだぞ」
「あれって……もしかして美夏様か?」
「だれそれ?」
「お前知らねえのかよ、モグリか? 春香様の妹だ」
「そういえば顔、似《に》てるな」
「かわいい……」
「でもあいつ、何で春香様の妹とあんなに親しげに腕《うで》なんて組んでやがるんだ?」
「……まさか妹にも手を出してやがるんじゃ」
「フタマタ……」
その言葉《ことば》に、ざわりと辺《あた》りの空気が揺《ゆ》れた。
「……おい、親衛隊《しんえいたい》、集められるだけ集めろ。あのヤロウ……春香様だけじゃなくて美夏様にまで手を出しやがって。バットとか木刀《しない》とかあるやつは持ってくるようにも言え」
「ラジャ」
周りの雰囲気《ふんいき》が殴《なぐ》り込《こ》み前の組事務所みたいな剣呑《けんのん》なものへと変化していく。やばい、本気でやばい。
「そ、それじゃ美夏、春香も来たことだし俺はこのへんで。春香もまた明日――」
「え〜、せっかくだから途中《とちゅう》までいっしょに帰ろうよ」
左腕に美夏がぶら下がってくる。
「あ、私もそれに賛成です。裕人さんといっしょに帰る機会《きかい》って、あまりありませんので」
右腕の袖《そで》を春香がきゅっと掴《つか》む。
「い、いや……」
それはもう普段《ふだん》なら両手に花どころか胡蝶蘭《こちょうらん》(最高級品)といったところなのだが、今の状況《じょうきょう》ではそれは葬式《そうしき》(もちろん俺の)で飾《かざ》られる弔花《ちょうか》に他《ほか》ならなかった。
「ちょっといいかな、綾瀬《あやせ》くん」
突然《とつぜん》、強い力で後ろから肩《かた》をがっちりと掴《つか》まれた。
振《ふ》り返《かえ》ると、そこには岩のような顔に白いハチマキを巻《ま》いた野生《やせい》の熊《くま》みたいな男が立っていた。目を真っ赤に血走らせて親の仇《かたき》のごとく俺を睨《にら》み付《つ》けている。
「少しばかり話があるから、俺といっしょに校舎|裏《うら》まで来てもらえる?」
その鋭《するど》い目がぎらりと光る。……こいつ、どっかで見たことあると思ったら空手部《からてぶ》の主将《しゅしょう》(全国大会三位)だよ。先日、絡《から》んできた他校の不良五人をボコボコにして病院送りにしたとかいう……
「ああ、もちろん時間は取らせないからさ。……痛《いた》いのは一瞬《いっしゅん》だけだよ」
にっこりと笑ってそう言うが、目が全く笑っていない。
あからさまな破壊《はかい》と暴力《ぼうりょく》の匂《にお》いを感じ、俺は必死《ひっし》に春香《はるか》と美夏《みか》の二人に目で訴《うった》えかけた。『タ・ス・ケ・テ・ク・レ』。それを受けて姉妹は、ああなるほどとばかりにうんうんとうなずいた。
「何だ、おに〜さん、友達と約束《やくそく》があったんだ」
「お友達との約束なら仕方がないです。残念《ざんねん》ですけれど、私たちのことは気になさらずにそちらに行ってください」
二人そろってにっこり。
「全然|違《ちが》う……」
アイコンタクトは失敗だった。見事《みごと》なまでに大失敗だった。いやどこをどう見ればこいつと俺が友達に見えるんですか……。
「じゃ〜ね、おに〜さん」
「さようなら、裕人《ゆうと》さん」
姉妹の背中《せなか》が遠ざかっていく。
「ああ、キミはこっちだから。親衛隊《しんえいたい》のみんながお待ちかねだよ」
半ば引きずられるようにして春香たちとは反対方向へ連れて行かれる俺。
その後、突如《とつじょ》現れた信長《のぶなが》(どうも俺が美夏といるところから見ていたらしい)に助けられて(信長がぼそりと何かを耳打ちしたところ、空手部主将は真っ青になって逃《に》げていった。相変わらずこいつは謎《なぞ》だ……)何とか逃げ出すことに成功したものの、それからしばらくの間、俺はファンクラブからの一級指名|手配犯《てはいはん》となり隠遁《いんとん》生活を送るハメになったのだった。
また別のある日のこと。
その日もまた春香に会いに来た美夏(なぜか最近よく来る)に校門前で捕《つか》まり、一般生徒から冷たい視線《しせん》を浴《あ》びせられた挙句《あげく》、ファンクラブ員に校舎裏に連れていかれそうになりながらも命からがら逃亡《とうぼう》に成功し、半ばボロボロになって帰宅すると、一階のリビングの方から二人分の笑い声が聞こえてきた。
「ふふ、それは面白《おもしろ》いな」
「あはははは、やっぱそうよね〜」
ルコの声と……もう一つ、すごく聞《き》き覚《おぼ》えのある声。この妙《みょう》に高いテンションからして、まずあの人に間違《まちが》いないだろう。
疲労《ひろう》がいきなり倍加《ばいか》した気がした。
一瞬《いっしゅん》そのまま二階の自分の部屋《へや》に引きこもりたい衝動《しょうどう》に駆《か》られたが、挨拶《あいさつ》もしないでそんなことをすると後々《のちのち》もっと厄介《やっかい》なこと(翌日《よくじつ》に校内放送で呼《よ》び出《だ》されたり、音楽の授業中に『あ の素晴《すば》らしい愛をもう一度』の独唱《どくしょう》をやらされることになったり)になるのはこれまでの経験《けいけん》で身をもって知らされている。仕方《しかた》がないので、嫌々《いやいや》ながら俺はリビングへと足を向けた。
「ただいま」
がちゃり、とリビングの扉《とびら》を開く。
「おお、帰ってきたか」
「お、裕《ゆう》くん、おかえり〜。おじゃましてるわよ〜」
思った通り、そこにはソファの上で足を組んでふんぞり返っているバカ姉と、その隣《となり》でぷらぷらと手を振《ふ》る親友の音楽教師の姿《すがた》があった。
「……」
この人たちは二人とも肩書《かたが》き上は立派《りっぱ》な社会人なはずなのになぜ高校生である俺よりも早く帰宅しているのかとか、まだ午後四時半なのにもかかわらず何だってテーブルの上に日本酒の空瓶《からびん》が二本ほど載《の》っかっているのかとか、突っ込みどころは山とあったのだが、たぶんそこらヘンは命が惜《お》しくば深く突っ込んじゃいけないんだろう。まあ、こんなの(キッチンドランカー)はいつものことだしな。……なお悪いが。
「今日はいつもより遅《おそ》かったな。何か用事でもあったのか?」
「いや別に」
据《す》わった目でじっとこっちを見る姉から目を逸《そ》らす。こいつらにあえて春香《はるか》たちのことは話すこともあるまい。出来上《できあ》がった酔《よ》っ払《ばら》いども(それもかなりタチが悪い)にわざわざ酒の肴《さかな》を提供するなんて、それこそ飢《う》えたトラの前に自らの腕《うで》を差し出すようなもんだ。
しかし。
「春香ちゃんとかその妹ちゃんにヘンなことしてたんじゃないでしょうね〜?」
俺は何も言ってないのに、一升瓶《いっしょうびん》片手に、由香里《ゆかり》さんがにやりとファウスト博士みたいな笑《え》みを浮《う》かべた、
「……何の話ですか?」
「隠《かく》したっておねいさんにはムダよ。ここのところ裕くんが春香ちゃんと妹ちゃんと仲良くしてるってことは、信長《のぶなが》くんからの情報で分かってるんだから」
「……信長?」
確かにあいつは俺が春香《はるか》に興味《きょうみ》を持ってたことを知っている。でもあいつはそういったことを他言《たごん》するようなやつじゃない。適当《てきとう》そうに見えてそういったところは意外《いがい》に律儀《りちぎ》なやつなのである。その信長が、よりにもよって知られたら一番メンドウなこのセクハラ音楽教師に教えるはずがないんだが……
すると由香里《ゆかり》さん、再《ふたた》びにやりと笑い、
「ま、信長くんも最初は言うのを渋《しぶ》ってたみたいだけどねー。でも優しくか・ら・だ♪≠ノ訊《き》いてみたら快《こころよ》く洗いざらい答えてくれたわよ。『わ、分かったよー。僕が知ってることなら全部|喋《しゃべ》るからさー、い、いやむしろ喋らせてくださいー。うわー、僕はまだキレイな身体のままでいたいんだー。裕人《ゆうと》、ごめんねー』って」
「……」
その場で何が行われたのかは……考えない方が心の健康のためにはいいんだろうな。生贄《いけにえ》となった哀《あわ》れな幼馴染《おさななじみ》に少しだけ同情した。
「さすがに信長くんの情報は詳細《しょうさい》かつ的確よね〜。裕くんが周《まわ》りの目を盗《ぬす》んでちょくちょく春香ちゃんと話をしてることとか、試験勉強をしに春香ちゃんの家にまで行ったこととか、妹ちゃんと校門のところで仲良くじゃれあってたこととか、まるで見てきたみたいに詳《くわ》しく説明してくれたわよ〜」
由香里さんの口ぶりからして、信長のやつ、持っていた情報を全て開示《かいじ》させられたのは間違《まちが》いなさそうだ。はあ……てことは、この人に春香関係の情報は全て握《にぎ》られたってことか。うわ、最悪だ。
「……ん?」
ちょっと待て。
そこで思った。
春香と学園でちょくちょく喋っていたことや美夏との一件はともかくとして、何であいつ、俺が春香の家に行ったことまで知ってるんだ? このことはだれにも喋ってないのに……
『情報化社会っていいよねー。情報|保護《ほご》条例だプライバシーだなんて言っても、その気になれば結局《けっきょく》個人情報なんて筒抜《つつぬ》けだしー』
いつかの信長の言葉《ことば》が頭に浮《う》かぶ。
「……」
改めて、朝倉《あさくら》信長という人物の恐《おそ》ろしさを垣間見《かいまみ》たような気がした。てか絶対《ぜったい》ストーカーだよ、こいつ……
色んな意味で俺が絶句《ぜっく》していると、由香里さんはさらに続けた。
「ま、もっとも信長くんに聞く前からも薄々《うすうす》気付いてたけどね。だって最近、学園内じゃ有名よ? あの『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』にちょっかいをかけてるクソヤロウがいて、さらにそいつはその妹ちゃんまで毒牙《どくが》にかけようとしてる人間のクズだって。それを聞いた時、私ぴ〜んときたのよね。これもう絶対《ぜったい》に裕《ゆう》くんのことだって」
……いや由香里《ゆかり》さん、どうしてその人間像から真っ先に俺が浮《う》かんでくるんでしようか。
「だって裕くんならいかにもじゃない。普段《ふだん》からむっつりスケベだし」
「……」
俺の抗議《こうぎ》にさらりと答える由香里さん。
「……裕人《ゆうと》。幼女偏愛《ようじょへんあい》はいかんぞ。私はお前をそんな風に育てたつもりはないんだが――」
「……」
姉は姉で真面目《まじめ》な顔でそんなことを言いやがるし、
「でも裕くんの性格じゃ幼女ちゃんにも尻に敷《し》かれそうよね〜」
「……」
由香里さんも由香里さんでさらに好き勝手なことを言いやがる。……くそ、何か本気でグレたくなってきたぞ。
「あ、裕くん、怒《おこ》ってる?」
「……そりゃあもう」
変態《へんたい》プラスヘタレ呼《よ》ばわりされて仏顔《ほとけがお》でいられるほど俺は人間|出来《でき》てない。
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「ごめんごめん、そんな怖《こわ》い顔しないでよ。ほんの冗談《じょうだん》なんだから。でも薄々《うすうす》気付いてたってのはホント。だって前から裕《ゆう》くん、春香《はるか》ちゃんのこと色々と気にかけてたじゃない。いつかのホームルームの一件とか」
「……う」
そこをつかれると痛い。
「確か、裕くんがいきなり繁殖期《はんしょくき》のシマウマのごとく発情して春香ちゃんに覆《おお》いかぶさったのよね〜。いや、私が必死《ひっし》に止めたから被害《ひがい》は未然《みぜん》に防《ふせ》げたものの、色欲《しきよく》に狂《くる》ったケダモノを抑《おさ》えるのには苦労したわ〜」
「過去を捏造《ねつぞう》すんな」
あんたあの時ほとんど何もしてないだろ。
「ま、恋することはいいことよ。恋があるから愛があるわけだし、愛があるから人類は今こうやって繁栄《はんえい》してるわけだしねー。愛は地球を救《すく》う。ラヴ・アンド・ピース♪」
何だかいいことを言っているように見えて実はその場のノリで喋《しゃべ》ってるだけの酔《よ》っ払《ぱら》いは、すげえ楽しそうな顔で親指を立てててぐっと俺の方に突き出した。
「どお、裕くんも私といっしょに地球を救ってみない?」
「遠慮《えんりょ》しておきます」
ピンク色のオーラを出している酔っ払いに、〇・五秒でそう答えた。
「よよよ、フラれちゃったわ〜。ルコー、裕くんが冷たいよ;……」
「……いや、私としても由香里《ゆかり》が義妹《いもうと》になるのは心の底《そこ》から遠慮したい」
「ううー、姉弟そろって北極に吹く北風みたいに冷たいのね〜……」
何やら泣《な》きマネを始めた人はとりあえず放置《ほうち》しておく。
「それじゃ俺は宿題があるんで部屋《へや》に戻《もど》りますんで。飲むのもいいけどほどほどにしといてくださいよ。ルコも」
「心配《しんぱい》するな」
その言葉《ことば》に一片《いっぺん》たりとの信憑性《しんぴょうせい》もないことはもはや疑《うたが》いようもないんだが。せめていつかのように家の中で火炎放射《かえんほうしゃ》(口にアルコール度数九十六%のウオッカを含《ふく》んでライターの炎《ほのお》に向かって思いっきり吹き付ける。注1:良い子は絶対《ぜったい》にマネしないでください)をやって消防車を呼《よ》ばれるようなマネだけは避《さ》けてほしい。
「……ほんと気を付けてくださいよ」
俺はリビングのドアに手をかけ部屋へ行こうとして、
「裕くん」
と、背後《はいご》から由香里さんに声をかけられた。いつになく真剣《しんけん》な声。何だ? 振《ふ》り返《かえ》ると、そこにはまるでホンモノの教師のような顔をした(注2:本物です)由香里さんが、こっちをじっと見つめていた。
「……私ね、これだけは言っておきたいと思うの」
「何ですか?」
普段《ふだん》と異《こと》なる、どこか厳《おごそ》かですらあるその雰囲気《ふんいき》に、少しばかり身構《みがま》えながら問うと、由香里《ゆかり》さんは実に真面目《まじめ》な声音《こわね》でこんなことを言いやがった。
「……年下よりもね、やっぱり年上の方がいいわよ? 何といってもテクニックに天と地ほどの差が――」
「うるさいだまれ」
……ダメだ、この人。
春香《はるか》と知り合って以来の俺の日常は、概《おおむ》ねこんな感じだった。
学園では三バカや信長《のぶなが》とだべり、チャンスを見ては春香と色々なことを話し、放課後はルコや由香里さんにからかわれる。休日は時々春香の買い物に付き合ったり、なぜか美夏《みか》の買い物に付き合わされることもあったりした。
春香と出会って以来、微妙《びみょう》に変化した日常。
それはちょっとばかりエキセントリックで、色々と苦労も多い。
でもそんな日常が、俺は気に入っていた。
だってそれはそれまでの退屈《たいくつ》な日常より、確実に面白《おもしろ》かったからな。
1
夏休みまであと二週間に迫《せま》ったある日の放課後。
由香里さんに呼《よ》ばれて職員室へと向かっていた俺は、どこからか呼《よ》び止《と》める声を聞いて、廊下《ろうか》を振《ふ》り返《かえ》った。
「裕人《ゆうと》さ〜ん」
耳心地《みみごこち》の良いソプラノボイスを辿《たど》ると、廊下《ろうか》の向こうの方で春香がぶんぶんと手を振っているのが見えた。何かとても嬉《うれ》しそうな表情だ。
「裕人さ〜ん」
再《ふたた》び指名される。
その辺を歩いていたヤツらが一斉《いっせい》にこっちを見る。その視線《しせん》の一部に殺気《さっき》のようなモノが含《ふく》まれているように感じるのは気のせいでしょうか? 見覚《みおぼ》えのあるハチマキをしてるヤツらも何人かいるし。
だけど春香は相変わらずそんなもんどこ吹く風でにっこりと笑って、
「あのですね、この前お話ししたモノ≠持ってきました。よろしかったらこれからいっしょに見ませんか?」
ぱたぱたとこっちに向かって走り始めたのだが。
「あ、おい春香《はるか》、足下!」
その進路上には掃除《そうじ》の時間にだれかが置《お》き忘《わす》れたのか一枚の雑巾《ぞうきん》が落ちていて――
「え?」
こっちに来るのに夢中《むちゅう》で全く足下が見えていない(見ていない)春香が、ピンポイントでそれを踏《ふ》んづけるのはもはやお約束《やくそく》だった。
「え、ええっ……?」
そして衆人環視《しゅうじんかんし》の中、春香は宙《ちゅう》を舞《ま》い、
「き、きゃあっ!」
一回転して、見事《みごと》に廊下《ろうか》に墜落《ついらく》した。
走る→滑《すべ》る→見事に転《ころ》ぶ、の素晴《すば》らしいコンボだった。
「い、痛いです……」
床《ゆか》にしこたまぶつけたのか、痛そうに腰《こし》をさする春香。その横ではカバンの中身が完全にぶちまけられている。あー、またハデにやったもんだな、こりゃ。
助け起こそうと春香のもとへ行こうとして……そこで、周囲《しゅうい》の視線《しせん》に気が付いた。
何やら見てはいけないものを見てしまったような、たまたま物陰《ものかげ》から殺人事件を目撃《もくげき》してしまった家政婦《かせいふ》みたいな視線。そんな視線が春香に集中している。
最初はただの注目だと思った。
あの『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』が廊下のど真ん中で見事にすっ転んだことに、注目が集まっているだけかと思った。
しかし。
春香の傍《かたわ》らで悪魔召還辞典《あくましょうかんじてん》のごとく開かれている雑誌のようなものを目にした瞬間《しゅんかん》、その視線のほんとの意味が分かった。イヤってくらいに。
この前お話ししたモノ≠ニやら。
たまたまめくれて顕《あら》わになっているページには、どんな偶然《ぐうぜん》か今の春香と全く同じポーズで痛そうにお尻《しり》をさすっている蒼髪《そうはつ》の女の子のイラストがあった。『ドジっ娘《こ》アキちゃん』ドジポーズNO.Vとか書いてある。
「……」
辺《あた》りの時間は完全に止まっていた。
空手師範《からてしはん》が寸止《すんど》めの手本を見せようとして思いっきり弟子《でし》の顔面《がんめん》にクリーンヒットを食らわせてしまった時みたいな、そこはかとなく気まずい雰囲気《ふんいき》が廊下を漂《ただよ》っている。
「ま、またやっちゃいました……」
状況《じょうきょう》がつかめていないのか、最初のうちは廊下《ろうか》にぺたりと座《すわ》り込《こ》んだまま恥《は》ずかしそうにそんなことを言っていた春香《はるか》だったが、やがて周囲《しゅうい》の異様《いよう》な静寂《せいじゃく》に気付いたみたいだった。
「あ、あれ……みなさん、どうしたんでしょう?」
「……」
「あの、どうしてこんなに静まり返っているのですか?」
俺を見てそう不思議《ふしぎ》がる。どう答えたらいいか分からず俺が言葉《ことば》に詰《つ》まっていると、さらに不思議そうな顔をして春香は周《まわ》りを見回した。ヤジウマをしていた何人かの生徒と目が合うも、そいつらはみんな一様《いちよう》に気まずそうな顔をして素早《すばや》く春香から目を逸《そ》らした(まあムリもないんだが)。
「??」
春香の頭の上にでっかいハテナマークがいくつも浮《う》かんでいた。全く何が何だか分からないって顔だ。
「あの裕人《ゆうと》さん、一体何が――」
助けを求めるように再《ふたた》びこっちに視線《しせん》を向けようとして、
「え……?」
その途中《とちゅう》に落ちている、これ以上ないってほどに自己主張している物体に気付いてしまった。
「え、どうしてなつこみ≠フカタログが……え? え?」
春香の顔色がかわいそうなくらいに変わった。朝会で校長先生の長話の最中に貧血《ひんけつ》で倒《たお》れる寸前《すんぜん》の生徒みたいに真っ青になった。
「え? だって私、ちゃんとカバンの一番|奥《おく》に仕舞《しま》っておいたはずなのに。何で、どうして……」
受け入れたくない現状に心がついてこないのか、春香はあたふたとするだけで立ち上がることもしない。
「春香、とりあえず立てるか?」
転《ころ》んだ拍子《ひょうし》に乱《みだ》れたスカートの裾《すそ》を直してやり、右手を差し出す。だが春香の様子《ようす》は少しヘンだった。
「あ……わ、私、私……」
「春香?」
虚《うつ》ろな瞳《ひとみ》で辺《あた》りを呆然《ぼうぜん》と見回し、廊下に視線をさまよわせる。
「や、やめて……そんな目で見ないでください。私、私は……」
「む、おい、落ち着けって……」
俺の声も聞こえていないのか、両手で頭を抱《かか》え込《こ》むようにして春香が首を振《ふ》る。まるでそうすることで周りの視線が全部消えるとでもいうかのように。
「わ、私はっ……」
そして春香《はるか》はその大きな瞳《ひとみ》に涙《なみだ》をためて、
「っ……」
そのまま落ちているカバンを掴《つか》むと、呼《よ》び止《と》める間もなく全速力で走り去ってしまった。
「は、春香……」
残されたのは、いまだドジポーズとやらのページが開かれたままのカタログと俺。う、視線《しせん》イタイ……。
「なあ……アレって、本当に乃木坂《のぎざか》さんのなのか?」
「分かんない……でも彼女のカバンに入ってたのよね」
「でもあの『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』があんな怪《あや》しいもん持ってるなんてこと……」
周《まわ》りからはそんな囁《ささや》きが聞こえてきた。うーん、こりゃマズイな。このままだと春香の秘密《ひみつ》が盛大《せいだい》にバレかねない。そこまでいかなくても、『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』があんなカタログを持っていたなんてことがウワサになったらそれだけでも十分に大問題だ。もしそんなことになったら、春香はきっと泣くだろう。春香の泣き顔は……もう見たくない。
よし。
だったらここはもうこれしかないだろ。
「あ、これってもしかして!」
俺はわざとらしく大声を出し、残されたカタログを指差した。
「これってもしかして……俺が三日前に落として探《さが》してたカタログか? ああ、やっぱりそうだ! 乃木坂さんが拾って持っていてくれてたんだな。さすがは乃木坂さん!」
……かなり棒読《ぼうよ》みかつ説明|臭《くさ》い台詞《せりふ》になってしまった。俺にはどうやら役者の才能《さいのう》は全くといっていいほどないみたいである。
だがそれでも、周りのヤツらは俺の大根芝居《だいこんしばい》(それも桜島大根|並《な》み)を信じたみたいだった。
「……そうだよな。あの乃木坂さんがこんなもん持ってるはずないし」
「春香ちゃん優しいから、あんなものでも捨てずに持ち主を探《さが》してたのね」
「あいつ一組の綾瀬《あやせ》だろ? ほら、あの朝倉《あさくら》の親友の。ならこういう怪しいもんを持っててもおかしくねーしな」
「ふーん、綾瀬くんもそういう趣味《しゅみ》だったんだ。何かイメージ崩《くず》れたなあ」
「そう? 別に綾瀬なんてどうでもよくない?」
「まあもういいじゃん。行こーよ」
好き勝手なこと(人のことどうでもいいとか言うな)を言いながら、ヤジウマ共はちりぢりに解散《かいさん》していった。
……ふう。何とか誤魔化《ごまか》せたみたいだな。
胸《むね》を撫《な》で下ろし、俺は廊下《ろうか》に散《ち》らばった春香の私物《しぶつ》を拾い集め始めた。教科書、ノートにペンケース。それに楽譜《がくふ》と例のカタログ。かなり勢《いきお》いよくコケたせいかあちこちに分散《ぶんさん》していて大変《たいへん》だったが、それでも全部集めるのに一分とかからなかった。
「やれやれ……」
立ち上がる。
ともあれ、これで一件|落着《らくちゃく》だと思った。春香《はるか》の秘密《ひみつ》はバレずにすんだし、このカタログは明日にでも人目につかない場所で返せばオッケーだ。春香の様子《ようす》が少しおかしいように見えたのが気にはなったが、きっとそれも突然《とつぜん》の出来事《できごと》にいつか(図書室|半壊時《はんかいじ》)みたいに半パニック状態《じょうたい》に陥《おちい》っていただけだろう。そんな風に簡単《かんたん》に考えていた。
だけどその考えは、少しばかり楽観的《らっかんてき》すぎたみたいだった。
翌日。
春香は学園を休んだ。
2
「はい、それでね〜。フランスでは近代になってドビュッシーやラヴェルなどの印象派《いんしょうは》と呼《よ》ばれる人たちが台頭《たいとう》してきて――」
壇上《だんじょう》では、由香里《ゆかり》さんが教師とは思えない女子高生チックな丸文字を板書しながら、流暢《りゅうちょう》に教科書の内容を説明している。
「この印象派の人たちの特徴《とくちょう》はね〜、それまでの古典主義音楽に見られる三つの要素《ようそ》、旋律《せんりつ》、和声《わせい》、リズムからの脱却《だっきゃく》を図ったもので〜、ま、簡単《かんたん》に言えば頭の固い先人の考え出した固っ苦しいルールとかをほとんどムシして、感性の赴《おもむ》くままにやりたいようにやったってことね〜」
口調《くちょう》は軽いがその分だけ分かり易い説明。なにげにこの人、教師としての能力《のうりょく》は高いんだよなあ。……中身はほとんどエロオヤジなのに。まあ、個人の人格と教育の能力とは完全に別次元の問題であるという生きた見本である。
だけどそんな由香里さんの説明も、今の俺の頭にはほとんど入ってこなかった。まあもともと退屈《たいくつ》な音楽史の授業(と言ったらおそらく鉄拳《てっけん》が飛んでくるだろうが)な上に、そんなことよりももっと気がかりなことがあったから。
教室の斜《なな》め後《うし》ろを見やる。
そこにある、本来春香が座《すわ》っているはずの席《せき》には、今日はだれも座っていなかった。
いや今日も、という表現の方が正しいか。
心の中でため息《いき》を吐《つ》く。
今日で、春香が学園を欠席して三日目である。
先日のカタログ露出《ろしゅつ》事件=i命名:俺)以来、春香は学園に姿《すがた》を見せていない。由香里さんに訊《き》いたところ「体調不良のためお休みだって〜。何か体力を消耗《しょうもう》させるようなことでもやったのかなー? このこのー」と非常《ひじょう》にセクハラな返答が返ってきた(相手にしても疲《つか》れるのでもちろんノーリアクション)。
ほんとに体調不良ってことは……たぶんないだろう。
いまだに俺のカバンの中に入りっぱなしのカタログのことを考える。あの時の春香《はるか》の反応《はんのう》……今にして思えば少し過剰《かじょう》だったような。いくら自分の特殊《とくしゅ》な趣味《しゅみ》がバレそうになったとはいえ、あそこまでパニックに陥《おちい》るだろうか。
いくら考えても、俺のニワトリ並《な》みの頭じゃ分からない。
だが何にせよ、このまま放っておくことはためらわれた。
――見舞《みま》いに、行ってみるか。
こんなことを信長《のぶなが》やら由香里《ゆかり》さんやらに知られたらまた鬼《おに》の首を取ったがごとく(俺から見ればやつらの方がオニだが)からかわれまくること必定《ひつじょう》であるが、気になるもんは気になるんだからしょうがない。
放課後になるのを待って、俺は乃木坂邸《のぎざかてい》に行くことを決めた。
文句《もんく》あるか。
そういえばあの事件以来、俺の周囲《しゅうい》で変化したことがもう一つあった。
「またありやがる……」
下駄箱《げたばこ》を開くと同時に、中からドサドサと落ちてくる手紙の山。軽く見積もって全部で五十通はある。もちろんこれらはラブレターなんて夢あふれる代物《しろもの》じゃなくて、ほとんどが不幸の手紙や嫌《いや》がらせの手紙、それらに類《るい》するモノである。
「やれやれ……」
全部拾い集めて焼却炉《しょうきゃくろ》へと持っていく。心情的にはそのまま放置《ほうち》しておきたいが、怪文書《かいぶんしょ》のほとんどに俺の名前が書いてあるため始末《しまつ》しないと責任が全て俺にかぶさってくるのである。ったく……出したヤツらもそこまで計算してるんなら大したもんだ。その細やかな心遣《こころづか》いをもうちょっと違《ちが》った方向に活《い》かせばこの世知辛《せちがら》い世の中ももう少しは住みやすくなるだろうに。
などと嘆《なげ》きつつ、道すがらいくつか怪文書の中身を見てみる。
そこには、「春香ちゃんに近づく害虫め! 怪《あや》しい本を春香ちゃんに拾わせてんじゃねえよ、ファック!」とか「あんたみたいなサルには春香様は似《に》つかわしくないのよ。身の程《ほど》を知りなさい、オタク野郎!」「春香様のフィギュアとか造ってんじゃねえだろな、この変態《へんたい》が!」とか、実に頭の悪そうな煽《あお》り文句が書かれていた。
心の底《そこ》からため息《いき》を吐《つ》く。
このテの嫌《いや》がらせの手紙は前々からもあった。春香と馴《な》れ馴《な》れしくするなだの春香の半径五メートル内に近づくなだの春香《はるか》と同じ空気の中に存在《そんざい》するなだの、そんな内容のやつである。それも信長《のぶなが》が好意でやってくれた情報|操作《そうさ》のおかげで一時期はだいぶ少なくなってきたように思えたんだが、先日の一件以来また大量に届《とど》くようになり始めている。しかも今までとは多少毛色の違《ちが》うやつが。
「はあ……ったく」
どうも学園では、『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』にべったりとくっ付いているクソヤロウ(俺)=怪《あや》しいフィギュアを愛《め》でるアキバ系、という公式が確立しようとしているらしい。原因《げんいん》は探《さぐ》るまでもなく先日のアレだろうが、今回ばかりは信長に情報操作をしてもらうわけにもいかない。あのカタログの持ち主が俺でないということになれば、必然的《ひつぜんてき》に春香の方に嫌疑《けんぎ》がいくからな。それに信長も信長で、「わー、裕人《ゆうと》もとうとうこっちの道に覚醒《かくせい》してくれたんだねー。わーい」などと素直《すなお》に喜んでいたから、頼《たの》んでもやってくれんかもしれん。
「にしてもどいつもこいつも……アキバ系がそんなにキライなのかね」
あるいは単に俺のことがキライなだけかもしれんが。
いや冷静《れいせい》に考えてみるとむしろそっちの方が可能性《かのうせい》としては大きいか。実際《じっさい》、アキバ系のマスターとして認知《にんち》されている信長に今までこういった嫌《いや》がらせがあったと聞いたことはない。それどころかあいつは、そのフレンドリーかつユニークなキャラクターから、ある意味学園のマスコット的存在として、周囲《しゅうい》の人間には意外《いがい》なほどに好かれているのである(見た目は美少年だし)。
これらのことから結論すると、
「……つまり、キラわれてるのは俺個人ってことか?」
ちょっと鬱《うつ》になった。うう、俺が何をしたっていうんだよ……
まあしかし、なるようにしかならないだろ。
人のウワサも七十五日。そのうちみんな俺のことなんて忘《わす》れてくれるに違いない。そう思うことにする。物事を深く考えないことは俺の短所でもあり長所でもあるのだ。
怪文書《かいぶんしょ》をまとめて焼却炉《しょうきゃくろ》に投げ入れる。
んなことより今は春香の方が心配《しんぱい》だった。怪文書の始末《しまつ》も無事《ぶじ》に終わったことだし、さっさと乃木坂邸《のぎざかてい》へと向かうとしよう。
校門へと足を向けようとした俺の前に、
「やあ、綾瀬《あやせ》くん。今日もゴミ捨て大変《たいへん》だね」
茶髪《ちゃぱつ》ロンゲでホスト風の長身の男が、イヤミったらしい笑《え》みを浮《う》かべて立《た》ち塞《ふさ》がった。
……だれだ、こいつ。
初めて見る顔だが、少なくとも好感《こうかん》の持てる雰囲気《ふんいき》ではなかった。理由などない。だが一般女性のほとんどが無条件《むじょうけん》でゴキブリを嫌《きら》うように、俺は本能的《ほんのうてき》にこいつを好きになれないと感じていた。
「ああ、自己|紹介《しょうかい》が遅《おく》れたね。僕は三年の佐々岡《ささおか》。佐々岡|修斗《しゅうと》」
にやにや笑いを貼《は》り付《つ》かせたまま、芝居《しばい》がかった仕草《しぐさ》で男が頭を下げる。
その名前には聞《き》き覚《おぼ》えがあった。
確かバスケ部の主将《しゅしょう》で、春香《はるか》にフられた過去もあるイケメン(ただしプチ整形《せいけい》)。その性格と女癖《おんなぐせ》の悪さで学園内では有名な最上級生である。出来《でき》れば関《かか》わり合《あ》いになりたくない人物ナンバーワンだった。
「……で、その佐々岡先輩が俺に何の用ですか?」
どうせロクな用事ではあるまいと予想《よそう》しつつも訊《き》いてみる。
「いやなに、春香ちゃんに寄生虫《きせいちゅう》のごとく張《は》り付《つ》いている無粋《ぶすい》なオタクヤロウのツラってやつを、一度は直《じか》に拝《おが》んでおこうと思ってね」
「……それはおヒマなことで」
予想《よそう》はバッチリ当たってくれやがった。
はあ。試験のヤマとかは全くもって当たらないクセに、どうしてこういうろくでもないことだけは当たるんだろうね。自らの不運を嘆《なげ》きつつ、俺は佐々岡の方に向き直った。
「……だったら、十分に見ることが出来てもう満足したでしょう。そこ、どいてくれますか? 俺はこれから用事があるんで、アンタに構《かま》ってるヒマはないんですよ」
押《お》しのけるようにして佐々岡の横を通り過ぎようとする。だけど佐々岡の野郎はニヤニヤと癪《しゃく》に障《さわ》る笑みを浮《う》かべて、再度《さいど》俺の前に立《た》ち塞《ふさ》がりやがった。
「……何ですか?」
「まあ待てよ。キミに一言だけ言っておきたいことがあってね」
「……手短に」
三秒以内にすませろ。
「何、簡単《かんたん》だ。……キミ、春香ちゃんにまとわりつくのやめろよ。目障《めざわ》りだからさ。春香ちゃんだって、怪《あや》しい美少女フィギュアを眺《なが》めて悦《えつ》に入っているキミみたいな人種に近づかれたくないと思っているに違《ちが》いないからね。はっきり言って、春香ちゃんがカワイソウだ」
……フィギュアを眺めて喜んでるのは実は春香の方なんだけどな。まあ何であれ、こんなヤツの言うことを聞く気なんてこれっぽっちもありゃしない。
「用件はそれだけですか? んじゃ俺はこれで」
「ま、待ちたまえ!」
「何ですか?」
しつこいな。
「何だじゃない! 今の僕の話は聞いてたんだろ? だったらここで誓《ちか》えよ。もう二度と春香ちゃんには近づかないってさ」
「お断《ことわ》りします」
「うん、分かればいい……って、断《ことわ》る!?」
「ええ。別に俺にはアンタの言うことを聞かなくちゃいけない義理《ぎり》はありませんので」
当たり前だ。
「……っ」
その返事が気に食わなかったのか、佐々岡《ささおか》はあと一歩のところで皇帝|暗殺《あんさつ》に失敗した宰相《さいしょう》みたいな気難《きむずか》しい顔になり、
「ふ、ふん、まあいいさ。キミなんて、放《ほう》っておいてもそのウチ、春香《はるか》ちゃんの方から捨てられるよ。何せオタクヤロウだしね」
と、鼻で笑った。
もういいからそこどけ。
佐々岡の野郎を振《ふ》り切《き》って校門までやって来ると、
「おに〜さん!」
美夏《みか》がいた。
何やら腰《こし》のところに両手を当てて、仁王立《におうだ》ちでこっちを睨《にら》みつけている。うわ、何か髪《かみ》の毛が逆立《さかだ》ってないか?
「おに〜さん、お姉ちゃんに何したの!?」
いきなりそれだった。
「……原因《げんいん》をハナから俺に求めるのはどうかと思うぞ」
だが俺の抗議《こうぎ》を全く耳に入れず、
「だってお姉ちゃんがあんなに落ち込む理由なんて他に考えられないもん! おに〜さん、お姉ちゃんに、ヘ、ヘンなプレイとか強要したんじゃないのっ?」
顔を真っ赤にして美夏が叫《さけ》ぶ。……お願いだから下校|途中《とちゅう》の生徒が大勢《おおぜい》いるこんなところで『ヘンなプレイ』とか大声で言うのはやめてください。
「ナ、ナースとか、バニーとか、裸《はだか》エプロンとか……」
さらに超具体的な内容を付け加える美夏。
案《あん》の定《じょう》、周囲《しゅうい》からすげえ蔑《さげす》んだ視線《しせん》が俺に突《つ》き刺《さ》さった。完全に変質者《へんしつしゃ》を見る視線だった。……もういいけどな、どうでも。
「あのな、だから俺のせいじゃないんだって」
説明するが、美夏からは疑惑《ぎわく》の視線が返ってくる。
「ウソ! じゃあ何でお姉ちゃん、あんなになってるの!? 三日前に学園から帰ってくるなり部屋《へや》にこもりっきりで全然出て来なくて、ゴハンもロクに食べてないんだよ! ときどき部屋から聴《き》こえてくるピアノも『葬送《そうそう》行進曲』とか『悲愴《ひそう》』とか「死の舞踏《ぶとう》』とかで……」
それはかなり怖《こわ》いな。
「それに夜には泣《な》き声《ごえ》とかも聞こえて……あれじゃまるで中学のあの頃《ころ》みたいな――」
そこまで言って、美夏《みか》ははっとした表情になった。
「……もしかして、お姉ちゃんの秘密《ひみつ》、バレたの?」
すがるような瞳《ひとみ》で俺を見上げる。
「いや未遂《みすい》。危《あぶ》ないところだったけどな」
「それじゃ何で……」
「あー、でも春香《はるか》はバレたと勘違《かんちが》いしてるかもしれん。ていうか、やっぱ体調不良じゃなかったんだな」
「あ、うん……」
美夏が控《ひか》えめにうなずく。
「いちおう本人は体調が悪いからって言ってる。でもあれは絶対《ぜったい》に違うの。お父さんとお母さんは特に気にも留《と》めてないけど……あれはあの時と同じだもん。葉月《はづき》さんもすごく心配《しんぱい》してる」
「あの時と言うと……?」
「あ、え、それは……」
珍《めずら》しく美夏が口ごもる。言いにくい内容、なんだろうな、
「俺が聞いていいような話じゃないならムリにとは言わないが――」
「……そういうわけじゃないんだけど」
「でも、もし出来《でき》るものなら聞きたい。その話、たぶん春香の今の状態《じょうたい》と関係あるんだろ?」
「……」
美夏は少し考え込むようにうつむいて、
「……そうだね。うん、おに〜さんは知っておくべきなのかもしれない」
それから何かを振《ふ》り切《き》ったかのように顔を上げた。
「分かった、話す。おに〜さんにだったら話してもだいじょぶだと思うから。あのね、お姉ちゃんは――」
3
そして俺は再《ふたた》びあの乃木坂邸《のぎざかてい》へとやって来ていた。
相変わらず凱旋門並《がいせんもんな》みに巨大な門を抜《ぬ》け、森林公園以上の広さの庭を越え、どこぞのダンジョンのように複雑な構造《こうぞう》の屋敷《やしき》を歩き――
合計二十分ほどかけて、ようやく春香の部屋《へや》の前に到着《とうちゃく》する。
「春香《はるか》様、裕人《ゆうと》様がお見舞《みま》いにいらっしゃいました」
葉月《はづき》さんがドアをノックすると、中で少し物音がした。
「労姉ちゃん、おに〜さんがお土産《みやげ》に銀果堂《ぎんかどう》のケーキを買ってきてくれたの。お姉ちゃんもいっしょに食べようよ〜」
ガタリバタバタ、と中から何やら動揺《どうよう》したような音が聞こえた。
ちなみに俺が今右手に持っているケーキ(一日|限定《げんてい》十個|販売《はんばい》)は春香の大好物《だいこうぶつ》らしく、三日に一度は必《かなら》ず食べているとかいないとか。それでもあのスリムな体型を維持《いじ》しているんだからスゴイ。
「……出ていらっしゃいませんね」
さっきの物音以来、反応《はんのう》がない。
美夏《みか》が腕《うで》を組んで首をひねる。
「う〜ん、おに〜さんとケーキのダブルコンボでだいぶ動揺してるみたいだから、もうちょっとって感じなんだけどな〜。とりあえず、ここでお茶しよっか? 葉月さん、用意してくれる?」
「はい」
どこから持ってきたのか、葉月さんは折《お》り畳《たた》み式の簡易《かんい》テーブルを手早く組み立て、その上にテーブルシートを敷《し》く。さらにどこからか四人分のイスを取り出し、ティーポットとカップを並《なら》べ始《はじ》め…………………………………………
………………………………って、ちょっと待て。こんな大荷物《おおにもつ》どこに持ってた? 確かさっきまでこの人、手ぶらじゃなかったか?
「それは企業秘密《きぎょうひみつ》です」
尋《たず》ねると、涼《すず》しい顔してメイドさんはそう答えた。企業秘密ってあんた。実はそのメイド服のポケットが四次元に繋《つな》がっているとかそういうんじゃないだろうな?
「企業秘密です」
「いや……」
「企業秘密です」
「だから……」
「企業秘密です」
「……分かりましたよ」
もうそういうことにしておこう。諦《あきら》めて、俺は大人しく(出所不明の)イスに腰掛《こしか》けた。
メイドさんが、ポットに手をかけて俺たちを見回す。
「ヌワラエリアでよろしいでしょうか?」
「何でもいいよ。わたしはお姉ちゃんみたく紅茶マニアじゃないから」
「……右に同じく」
というか言われるまでそれが茶葉の名前だってことすら分からんかったし。
そんな感じで、いつの間《ま》にか春香《はるか》の部屋《へや》の真ん前(廊下《ろうか》である)でお茶会が始まった。
「わ〜、おいしそ〜♪」
「ザッハ・トルテですね。切り分けましょうか?」
「うん、お願い〜」
鮮《あざ》やかな手付きで葉月《はづき》さんがケーキにナイフを入れていく。チョコレートの甘い香《かお》りが辺《あた》りにふわりと広がる。春香のお気に入りだけあって、ほんとにうまそうだ。
と、その時、背後《はいご》でカタリ、と小さな音がした。
「ん?」
「!」
振《ふ》り返《かえ》ると、そこにはドアの隙間《すきま》からこっそりとこっちを覗《のぞ》いている春香の姿《すがた》があった。俺の視線《しせん》に気付くと、ぱたぱたと慌《あわ》ててドアを閉じる。……もしかしてケーキにつられて顔を出したのか?
(よしよし、惹《ひ》かれてる惹かれてる)
小声で美夏《みか》がそう囁《ささや》く。……やっぱそうなのか?
(よろしければ、フルーツコンポートもお持ちしましょうか?)
(あ、いいかも。お姉ちゃん、大好物《だいこうぶつ》だし)
(では……)
葉月さんが廊下《ろうか》を滑《すべ》るように去っていき、
(お待たせしました)
果物《くだもの》を煮込《にこ》んだようなモノが載《の》ったトレイを持ってあっという間《ま》に戻《もど》ってきた。何やら独特の匂《にお》いがする。
(これはフルーツコンポート。季節の果物をシロップで煮《に》て、ラム酒を加えたものです)
葉月さんがそう解説《かいせつ》してくれた。なるほど、ラム酒か。
カチャ。
と、再《ふたた》びドアが開く音がした。匂いに惹かれてまた春香が顔を出したみたいだった。だが俺たちの視線に気付くと、用心深いリスのようにすぐに顔を引っ込めてしまう。まあそんな小動物みたいな仕草《しぐさ》もかわいかったりはするんだが。
(ん〜、あと一押《ひとお》しだと思うんだけど)
(それでは今度はジンジャービスケットを持ってきますか?)
(うん、お願い)
とまあ、そんな天岩戸《あまのいわと》まがいのことを何度か繰《く》り返《かえ》したのだが、それでもあと少しのところで春香は出て来てくれなかった。
「もう〜……粘《ねば》るなあ、お姉ちゃん」
とうとうシビレを切らしたのか美夏《みか》は、
「よ〜し、こうなったら……」
すう、と息《いき》を吸い込んで、
「ほら〜、出て来ないんだったら、ケーキもおに〜さんもわたしが貰《もら》っちゃうよ〜。ねっ、おに〜さん」
「う、うわっ! おい」
大声でそう叫《さけ》んで、がばっとネコのように俺に抱《だ》きついてきた。おお、柔《やわ》らかい。
「おに〜さん、ごろごろ〜」
「こ、こら」
ほ、ほっぺたを擦《す》りつけるな!
「もうお姉ちゃんなんか放《ほう》っておいてわたしとデートしようよ〜、デート。二人だけでさ〜、アキハバラとかいいよね〜」
「だ、だから待てって」
「うにゃ〜」
じゃれついてくる美夏を何とか振《ふ》りほどこうとしていると、突然《とつぜん》ドアの向こうからドタン! とすごい音がした。
「だ、だめですっ!」
続いて勢《いきお》いよくドアが開かれ、中から必死《ひっし》な顔をした春香《はるか》が両|腕《うで》をぶんぶんと振《ふ》り回《まわ》しながら出て来た。
「ゆ、裕人《ゆうと》さんはだめですっ! 他のことならともかく、裕人さんだけは譲《ゆず》れません! ゆ、裕人さんは、アキハバラには私とだけ行くんですっ!」
「……」
「……」
「……わお」
沈黙《ちんもく》する俺と葉月《はづき》さんと、なぜか楽しそうな声をあげる美夏。
そこに至《いた》って自分の言ったことのイミにようやく気付いたのか、春香の顔が酸性反応《さんせいはんのう》を起こしたリトマス紙みたいにかーっと真っ赤になった。
「わ、私、何言って……す、すみませんっ!」
ばたん、と再《ふたた》びドアが閉じられてしまった。続いてかちゃん、とカギ及びストッパー(チェーンが進化したようなモノ。高級ホテルなんかによく付いている〉のかかる音。
「うーん、逆効果《ぎゃくこうか》だったかな……」
「いえ、作戦としては良かったと思うのですが……」
「そうだよね〜。う〜ん、おに〜さんの色男♪」
「……スケコマシ」
[#挿絵(img/01_282.jpg)入る]
二人(特に後者《こうしゃ》のメイドさん)が好き勝手なことを言う。
ともあれこれで振《ふ》り出《だ》しに戻《もど》ってしまった。いやむしろストッパーまでかけられたので三歩進んで四歩戻るといった感じか。
「……こうなったらもう、強行|突破《とっぱ》をせざるを得ません。ここ一二日、まともに食事《しょくじ》を摂《と》っていらっしゃらないので、春香《はるか》様のお身体が心配《しんぱい》です」
メイドさんが一歩前に出る。
「それはそうですけど、でも強行突破ったってどうやって?」
チェーンと違《ちが》って、ストッパーはペンチなどで簡単《かんたん》に切ったり出来《でき》ない。
「これを使用します」
と、メイドさんの手に(これまたいつの間にか)握《にぎ》られていたのは某《ぼう》ホッケーマスクを被《かぶ》った殺人鬼《さつじんき》も真っ青の巨大なチェーンソー。だからんなもんどこから持ってきたんだよ……
「危《あぶ》ないですので、お二人は下がっていてください」
チェーンソーが、チュインチュインチュイン! と危険《きけん》な音を発し始めた。……本気でこれを使う気か、この人。
「それでは――」
「待ってください。ここは俺が行きます」
ドアの前でチェーンソーを大上段《だいじょうだん》に構《かま》えようとした葉月《はづき》さん(使い方|絶対《ぜったい》間違《まちが》ってる)を制する。
とりあえずあの件はちゃんとカタが付いたことだけでも教えておかなければなるまい。美夏《みか》から聞いた話からして、春香《はるか》が落ち込んでるのは趣味《しゅみ》がバレたと思っているからだ。ならば誤解《ごかい》を解《と》けばこの状況《じょうきょう》も変わるに違《ちが》いない。おそらく。
「しかし……」
「任《まか》せてください」
少なくともそんなチェーンソーを使うよりはマシなはずだ。
「……分かりました。お任せします」
「がんばってね、おに〜さん」
美夏と葉月《はづき》さん二人の視線《しせん》を背中《せなか》に受けながら、部屋《へや》のドアを軽く叩《たた》く。
「春香、ここ開けてくれ。この前のことで話がある」
「……」
無言《むごん》。
「あー、きっと春香にとっても悪い話じゃないはずだ。それにほら、春香の好きなケーキもあるぞ」
「……」
まだ無言。
「というか、開けてくれないと葉月さんがチェーンソーを振《ふ》り回《まわ》して暴《あば》れるって言ってるんだが」
「……そこまでするとは言っておりません」
背後《はいご》からメイドさんの冷静《れいせい》な突っ込みが入る。いやあなたならやりそうです。
「で、そういうわけなんだが、開けてくれないか?」
改めて尋《たず》ねると、少し迷《まよ》うような気配《けはい》がドアの向こうから感じられたがやがて、
「……分かりました。入ってください」
か細い声で、そんな返事が戻《もど》ってきた。
春香はヒザを抱《かか》えるようにしてベッド(天蓋付《てんがいつ》き)の上にちょこんと座《すわ》っていた。
その傍《かたわ》らにはクマのヌイグルミと、雑誌のようなものが置かれている。
俺の姿《すがた》を確認すると、春香は頬《ほお》を薄《うっす》らと朱《しゅ》に染《そ》めて目を伏《ふ》せた。
「……あの、さっきはすみませんでした。そ、そのおかしなことを言ってしまって……」
「あー、俺は気にしてないから」
そのことに関しては今はあんま突っ込まない方が吉だろう。いや突っ込んではみたいんだけど。
「それより三日も学園休んで……心配《しんぱい》したぞ」
「……すみません」
「いや別に責《せ》めてるわけじゃなくてな……」
叱《しか》られた仔犬《こいぬ》みたいにしょんぼりとしてしまった春香《はるか》を見ていると、何だかまるで自分がいじめをしているようなやるせない気分になってくる。
「とりあえず、大丈夫《だいじょうぶ》だから」
「え?」
「春香の趣味《しゅみ》、バレてないから。あの後《あと》何とかフォローが上手《うま》くいった」
「そ、そうなんですか?」
春香がぱっと顔を上げた。
「ああ、だから春香は何も心配することない」
「あ、ありがとうございます。でも、あの状況《じょうきょう》でどうやってフォローなんて……」
確かにあれはかなり絶望的《ぜつぼうてき》な状況だったからな……
俺があの時にやったこと(大根役者《だいこんやくしゃ》)を簡単《かんたん》に説明すると、春香の顔色が変わった。
「え、それじゃあ……裕人《ゆうと》さんがカタログの持ち主だと思われているのですか?」
「まあそういうことに」
「そ、そんな……」
春香の表情が変わった。
「ん? 何かマズイか?」
特に問題はないと思うんだが。
「だ、だって、裕人さんがヘンな目で見られてしまいます……」
なるほど、そのことか。確かにアレが原因《げんいん》で現在色々と弊害《へいがい》(怪文書《かいぶんしょ》とか佐々岡《ささおか》とか)が生じているが、別にそれくらいは昨今《さっこん》の世界|情勢《じょうせい》に比べれば全然大したことじゃない。てか春香の悲しむ顔を見るくらいなら、むしろ自分がイヤな目に遭《あ》った方がまだマシだって思えるんだよな。……不思議《ふしぎ》だ。今までこんな感情をだれかに持ったことなんてなかったってのに。
「それは別に気にしなくていい。春香が元気になれば、それで俺は満足だ」
だから俺はそう言ったのだが。
「そ、そんな、そんなこと……」
しかし、春香はその答えに納得《なっとく》がいかなかったみたいだった。
「裕人さんは分かってないです。それがどういうことなのか……周《まわ》りとは違《ちが》う、変わった趣味を持っていることが露見《ろけん》してしまうことがどういうことなのか……」
その瞳《ひとみ》に、みるみるうちに大粒《おおつぶ》の涙《なみだ》が浮《う》かびはじめる。
「ダメです……そんなのはダメなんです……。ゆ、裕人さんには、私と同じような思いはさせたくありません」
「春香《はるか》?」
「……あんな、あんな思いはもう――」
うつむいて肩《かた》を震《ふる》わせる春香。しばらくの間そうしていたが、やがて何かを決心したように顔を上げた。
「……裕人《ゆうと》さん。これから少しお話をしたいことがあります。聞いて……いただけますでしょうか?」
「ああ。いいけど何の――」
言いかけて気付いた。こんな状況《じょうきょう》で春香が言おうとしている話。そんなものはもう、一つしかないだろ。それはすなわち、さっき聞いた――
その予想《よそう》に違《ちが》うことなく、春香は静かに口を開いた。
「――私の、中学生の頃《ころ》のお話です」
*
春香の語った内容と美夏《みか》から聞いた話とを総合すると、以下のようになる。
要するに、春香は今回やっちまったのとほとんど同じポカを、中学の時にもやっちまったとのことらしい。
詳《くわ》しくは分からんが、昼休みの教室でたまたま持ってきていたマンガ(「はにかみトライアングル』第一巻)を、床《ゆか》に落ちていた牛乳の空パックに滑《すべ》って転《ころ》んで宙《ちゅう》を舞《ま》って、クラスメイトたちの真ん前で見事《みごと》にぶちまけたとかなんとか。……なんかその時の情景《じょうけい》がありありと想像《そうぞう》出来《でき》るってのが怖《こわ》い。
そして見事に趣味《しゅみ》がバレた。
中学の時も、すでに今と同じように周囲《しゅうい》からは良い意味で特別視されていた春香が、そういった特殊《とくしゅ》な趣味を持っていたことは、退屈《たいくつ》な日常に飽《あ》き飽《あ》きしていた中学生たちには恰好《かっこう》のネタであったようで、それ以来、春香を取り巻く状況は大きく変わってしまった。
別にムシされたり、表立っていじめられたりするようなことはなかったらしい。
ただ周囲の春香に対する態度《たいど》、見る目は(悪い方向に)確実に変わり、それまで仲の良い友達だと思っていたやつらも、選挙に落選した国会議員の取り巻きのように、次第《しだい》に春香と距離《きょり》を置くようになっていったとのことだった。
美夏が言うには、その時の春香の落ち込みようは見るに耐《た》えなかったらしい。
「あの頃《ころ》のお姉ちゃん、すっごく痛々《いたいた》しかった。見てられなかった。それまでは明るくてよく喋《しゃべ》るお姉ちゃんだったのに、だんだんと塞《ふさ》ぎ込《こ》みがちになって、あんまり笑わなくなって……夜とかには、時々一人で泣《な》いてた」
美夏も葉月《はづき》さんも何とかその状況を打開《だかい》すべく色々とがんばったみたいだが、学校という閉鎖《へいさ》社会から見れば二人はあくまでも部外者《ぶがいしゃ》である。それらはことごとく失敗に終わったらしい。
結局《けっきょく》一度変わってしまった周《まわ》りの態度《たいど》は卒業するまで変わることなく、春香《はるか》はそのまま塞《ふさ》ぎ込《こ》みがちなままで中学生活を終えた。
「ほんとならお姉ちゃん、そのまま付属《ふぞく》の聖女《せいじょ》――聖樹館《せいじゅかん》女学院に上がる予定だったんだけど……そういう事情《じじょう》があったから、それをやめて白城《はくじょう》学園に通うことにしたの。白城なら聖女からは離《はな》れてたし、お姉ちゃんの趣味《しゅみ》のことを知ってる人もいなかったから」
聖樹館女学院とは、幼小中高大の十九年間|一貫《いっかん》教育のエスカレーター式で、純粋培養《じゅんすいばいよう》の超お嬢《じょう》様学校(生徒の八割は語尾《ごび》に「〜ですわ」を付けるとか、石を投げれば社長|令嬢《れいじょう》に当たるとか、学食にフランス料理のフルコースがあるとか噂《うわさ》されている)としてこの辺《あた》りでは有名な名門校である。まあ考えてみれば、確かに春香ほどのお嬢様が白城みたいな上の下レベルの進学校に通ってるってのは少しばかり不自然だったが、だけどそういう事情があったのならそれも納得《なっとく》出来《でき》る。
「お姉ちゃんが、趣味がバレることをあんなに怖《こわ》がってるのはそのせい。その時のヤな思い出が、一種のトラウマみたいになってるんだと思う。……おに〜さん。だからわたしはおに〜さんに期待《きたい》してるの。だってお姉ちゃんの趣味を知って、それでも変わらずに接してくれてるのって、おに〜さんだけだから」
*
話を終える頃《ころ》には、春香の頬《ほお》には涙《なみだ》が伝《つた》っていた。
「……だ、だから、ダメなんです。あのカタログの持ち主が裕人《ゆうと》さんだなんて思われたら、こ、今度は裕人さんが周りからヘンな目で見られて、みんな離れていってしまいます」
思い出したくない昔の話をするのは相当《そうとう》に辛《つら》かったんだろうな。ノドの奥《おく》からしぼり出すようにして春香は言葉を紡《つむ》ぐ。
「私、わ、私は……裕人さんに、そんなことになってほしく、ないです……」
「いやそれは」
春香の言うことは分かるが、必《かなら》ずしも全員が全員そうってわけじゃないだろ。確かに純粋培養の聖女のお嬢様たちの目には、アキバ系なんてものはこの世のものとは思えないほど異質《いしつ》に映ってもおかしくないかもしれんけど……普通《ふつう》に考えれば十人に一人くらいは、肯定《こうてい》してくれるやつもいるんじゃないか?
俺の言葉《ことば》に、しかし春香は首を振《ふ》る。
「そ、それはそうかもしれないです。で、でも私のせいで、裕人さんが、そんなことになる必要《ひつよう》はないです。もともとは私がいけないんですから……わ、私だけがヘンな目で見られればそれで――」
「そういうこと、言うな」
「だ、だって……」
春香《はるか》の目を見据《みす》える。
「だいたいそんなことくらいで離《はな》れていく友達なんて、ほんとの友達じゃない。そういうやつらとは、そのことがなかったとしてもいつか何らかの理由で絶対《ぜったい》にうまくいかなくなるに決まってる。離れていってよかったとまでは言わんが……そこまで気にしても仕方《しかた》がないだろ?」
少なくとも俺はそう思っている。
そいつがアキバ系であるというだけで、その他の性格などの要素《ようそ》を無視《むし》して、付き合い方や態度《たいど》を露骨《ろこつ》に変えるやつなんて、友達でいても仕方《しかた》がない。
「で、でも……」
胸《むね》の前で手をぎゅっと握《にぎ》り締《し》める春香。
「でも……一人になってしまうのは辛《つら》いことです。私はそれに耐《た》えられませんでした。今だって、耐えられる自信はありません。ひとりぼっちは……イヤです。みんな、イヤなはずです……」
そして辛そうに目を伏《ふ》せた。
うーむ、かなり後ろ向きになってるな。話を聞く限りじゃムリもないことかもしれんが、いいかげんにそんな過去から春香を解放《かいほう》してやりたい。
「なあ」
だから俺は言った。
「一人、じゃないだろ」
「え?」
春香が顔を上げる。
「春香は、俺が変わった趣味《しゅみ》を持ってるからって、俺から離れていくか?」
「そ、そんなことはありません。私は裕人《ゆうと》さんのことが好きです。それくらいのことで、離れていったりはしません」
まあ、その「好き』に深い意味は含《ふく》まれていないと考えておこう。
「だろ? だったら少なくとも俺には春香がいる。一人じゃない」
「それは、でも……」
戸惑《とまど》う春香に、俺はさらに続ける。というかむしろこっちこそが真に春香に言いたい言葉《ことば》だ。
「それに……俺だって同じだ。たとえ世界中のやつらが春香のことをヘンな目で見たって、俺だけは春香の味方《みかた》だ。いつだって、だれが相手だって、その結果俺がどんな目に遭《あ》ったって、フォローしてやる。それだけは約束《やくそく》するぞ」
「え、ええっ……!?」
断言《だんげん》してもいい。
もしも春香《はるか》がもう一度この前みたいなことを、いやそれ以上のこと(……いつか本当にやりそうな気がするが)をやらかしてしまっても、やっぱり俺はフォローするだろう。その結果《けっか》、周《まわ》りからヘンな目で見られようが、良くないウワサを立てられようが、おそらく後悔《こうかい》はしないと思う。
何でかって?
そりゃ春香の秘密《ひみつ》を知っているのが俺しかいないからだとか、春香の趣味《しゅみ》を肯定《こうてい》したことへの責任があるからだとか、美夏《みか》に真剣《しんけん》な顔をして頼《たの》まれたからだとか、色々と理屈《りくつ》はつけられる。
けど、俺が春香の味方《みかた》になると決めた一番の理由は、もっと単純《たんじゅん》で、もっと根本的なものだ。
要《よう》するに。
俺は気に入ってしまったのだ。この一見《いっけん》すると完全|無欠《むけつ》のようで、実のところはドジで泣《な》き虫で天然《てんねん》で、どこか放《ほう》っておけない雰囲気《ふんいき》を持った、ちょっとばかり変わったお嬢《じょう》様を。
「だから、春香が一人になることもない。どんなことがあっても、俺は絶対《ぜったい》に春香から離《はな》れていかない」
……って、自分で言って置いて何だが、これってもしかしてかなり恥《は》ずかしい台詞《せりふ》なんじゃないのか? それこそ花火会場で「お前の瞳《ひとみ》に映《うつ》る花火を見ていたい……」とか言うくらいに。
「ゆ、裕人《ゆうと》さん……」
でも春香は感極《かんきわ》まった表情で、再《ふたた》びその大きな瞳《ひとみ》いっぱいに涙《なみだ》をためていた。
「わ、私……きっとだれかにそう言ってもらいたかったのかもしれないです。私は一人じゃないって、どんなことがあっても傍《そば》にいてくれるだれかがいるって、ずっとそう言ってもらいたかったんです」
ガマンしきれなかったのか、春香の目から再びぽろぽろと雫《しずく》がこぼれた。ポケットからハンカチを出してそれを拭《ぬぐ》おうとして、やっぱり今日もハンカチなんて上品なものは持ってきていなかったことに気付く。我ながら甲斐性《かいしょう》ナシなことこの上ない。
ちょっと迷《まよ》ったが、俺は指で春香の涙を拭《ぬぐ》った。柔《やわ》らかくてすべすべとした肌《はだ》。最初は驚《おどろ》いたような表情をしていた春香だったけど、すぐにされるがままになった。
「あの、一つだけお願いして、いいでしょうか?」
「ああ」
「少しの間だけ、胸《むね》を貸してほしいです」
「お安い御用《ごよう》だ」
「はい」
春香はこくりとうなずくと、俺の胸に顔をうずめて静かに泣《な》いた。それがどういう意味での涙《なみだ》だったのか分からなかったけど、その間、俺はそっと春香《はるか》の身体を抱《だ》きしめていた。
やがて春香は泣《な》きやみ、顔を上げた。そしてウサギみたいに真っ赤な目のままで、照《て》れくさそうにこう言った。
「……ずっと、傍《そば》にいてくださいね」
返事の代わりに、俺はもう一度春香の身体を抱きしめた。さっきは気付かなかったが、春香の長い髪《かみ》からはとても心落ち着く柔《やわ》らかい香《かお》りがする。そんな春香の髪を撫《な》でようとして――
「……とても良い雰囲気《ふんいき》の中、申《もう》し訳《わけ》ありませんが」
「うわあっ!」「きゃっ!?」
気が付くと、また背後《はいご》にメイドさんが立っていた。
磁石《じしゃく》の同極のように、俺たちはぱっとお互《たが》いの身体から離《はな》れた。
「……ですから、私の顔はそんなに驚《おどろ》かれるような造作《ぞうさく》をしておりますでしょうか?」
かなり心外《しんがい》そうな顔でメイドさんが答える。だからそうじゃなくていつの間《ま》に部屋《へや》に入ってきたんだ? 確かにカギは開いてたが、ドアを開く音とか足音とか気配《けはい》とかが全くもってなかったぞ?
「二人の世界に入ってたから、気付かなかったんじゃないの〜?」
これまたいつの間《ま》にいたのか、葉月《はづき》さんの後ろで美夏《みか》が笑っていた。この二人、絶対《ぜったい》おかしいよ……
「どうやら悩《なや》み事《ごと》も解決したご様子《ようす》ですので、どうかむ食事をお摂《と》りください。三日も食べていないのですから、ご空腹《くうふく》のはずです」
「あ、そういえば……」
思い出したかのように、春香のお腹がく〜とかわいらしい音を立てた。
「……」
春香が真っ赤な顔になる。
そんな春香を見ながら俺は、お嬢《じょう》様は腹の鳴《な》る音も上品なんだな……と実にどうでもいい感想を抱《いだ》いたのだった。
4
さてそれから一週間が過ぎた。
「あ、裕人《ゆうと》さん」
朝の通学路。いつもの道を少し行ったところでたまたま春香と会った。
「お、春香。おはよう」
「おはようございます。いい朝ですね」
「ああ。まだちょっと眠《ねむ》いが」
「あ、ほんと。眠そうな顔してます。寝不足《ねぶそく》のパンダみたい」
ころころと笑う春香《はるか》と、そのまま二人|並《なら》んで学園へと向かう。周囲《しゅうい》にはやはり同じ白城《はくじょう》の制服を着た生徒が何人か歩いている。どうでもいいが、ここのところ何だか行きがけに春香と会うことが多いように思えるんだよな。気のせいだろうか?
「明後日で授業も終わりですね。そうしたらいよいよ夏休みです」
明るく微笑《ほほえ》む春香。
あの日以来、春香はいつもの春香(にこにこぽわぽわの天然《てんねん》お嬢《じょう》様)に戻《もど》り、元気に学園に通っている。その表情に、つい一週間前に見えた憂《うれ》いはない。
「夏休み、とっても楽しみです。あ、そういえばこの間の約束《やくそく》……覚《おぼ》えてくれていますか?」
「もちろん」
「えと、日程はおそらく八月の中頃《なかごろ》になると思いますので――」
ともあれ、コトは全て良い方向に向かっているように思えた。
今回の事件(春香の秘密露見未遂《ひみつろけんみすい》)をきっかけに、春香は過去のわだかまりのかなりの部分――さすがに全部とはいかないだろうが――を解消《かいしょう》することが出来《でき》たようだし、俺は俺で春香との距離《きょり》をちょっとばかり縮《ちぢ》めることが出来た。災《わざわ》い転《てん》じて福となすとはまさにこのことである。
もっともこの状況《じょうきょう》においてもまだ一つだけ、懸案事項《けんあんじこう》というかメンドクサイことが残っているのだが――
「おはよう、春香ちゃん」
と、歩いていた俺たちの前に突然《とつぜん》長身の影《かげ》が立《た》ち塞《ふさ》がった。
「春香ちゃん、いつまでもそんなオタクヤロウといっしょにいるのやめなよ。そんなの春香ちゃんの価値《かち》を下げるだけだって」
佐々岡《ささおか》だった。
「そいつは怪《あや》しげなフィギュアとか眺《なが》めて喜んでる変態《へんたい》なんだよ? 背も高くないし顔だって大したことない。頭がいいわけでもないし、運動神経がいいわけでもない。さらに怪しげなフィギュアとかを眺めて喜んでる変態ときてる。春香ちゃんだって、例のウワサを聞いてないわけじゃないでしょ?」
相変わらずのにやにや笑いを貼《は》り付《つ》けたまま、俺をじろりと睨《にら》む。
そう。
懸案事項とはまさにこれのことだったりする。
俺についてのウワサ(とそれを攻撃《こうげき》材料にしつこく絡《から》んでくる佐々岡)。
これがいまだに――それこそ殺《や》っても殺っても湧《わ》いて出て来る真夏の蚊《か》のように――しぶとく生き残っていたりするのである。まあさすがに十日も続けばいいかげんそんな状態《じょうたい》(ウワサ蔓延《まんえん》)にも慣《な》れてきたとはいえ、それでも面《めん》と向かって変態《へんたい》だの何だのと言われるのはあんまり気分がいいもんじゃない。というかむしろかなり悪い。
思わず渋面《じゅうめん》になった俺を無視《むし》して、佐々岡《ささおか》はさらに続ける。
「もう終わってるっていうの? 学園にまでいかがわしいカタログとかも持ってくるしさ。救《すく》いようがないよ。ていうかキショイ?」
もう言いたい放題《ほうだい》だな、こいつ。
「どこを探《さが》してもいいとこなんて何にもないじゃん。何で春香《はるか》ちゃんがこんなやつと仲良くしてるのか僕には分からないよ。あ、もしかして春香ちゃん、そいつに何か弱みでも握《にぎ》られてるとか? それならそう言ってくれれば僕が何とかするよ。これでも僕は少林寺拳法《しょうりんじけんぽう》二級で――」
「……やめてください」
佐々岡の言葉は最後まで続かなかった。
「裕人《ゆうと》さんはとっても素敵《すてき》な人です。優しいし、周《まわ》りの人に心を配《くば》ることができる素晴《すば》らしい人です。私はそんな裕人さんを素敵だと思っていますし、そのことをあなたに否定《ひてい》されるのはとっても心外《しんがい》です。だから、やめてください」
「は、春香ちゃん?」
いつにない春香の様子《ようす》に佐々岡がひるんだ。辺《あた》りを歩いていた生徒たちの何人かも、何事かと足を止める。もしかして春香……怒《おこ》ってる?
「お話がそれだけでしたらこれで失礼します。……行きましょう、裕人さん」
「あ、ああ」
春香に手を引かれその場から立ち去ろうとして。
「ちょ、ちょっと待てよ! それ一体どういう意味!? こいつみたいなオタクヤロウの何がいいってんだ? 僕にも分かるように説明しろよ! おい、春香ちゃん!」
佐々岡が背後《はいご》から強引《ごういん》に春香の手を掴《つか》んだ。うーむ、このテの偏《かたよ》った似非《えせ》フェミニストはキレると厄介《やっかい》だからな。ここらで釘《くぎ》を刺《さ》して物かないと後々《あとあと》メンドウだろう。
「おい、アンタいいかげんに――」
俺はたまたま近くに落ちていた落葉|清掃用《せいそうよう》のホウキ(市役所の人が忘《わす》れていったんだろう)を拾い上げ、佐々岡の頭をぶっ叩《たた》くべくそれを大きく振《ふ》りかぶろうとして――
佐々岡の身体が、眼前《がんぜん》で宙《ちゅう》に浮《う》くのを見た。
「……え?」
それは重力と物理法則に逆《さか》らった、現実的にあり得《え》ない浮き方。ほとんどタケトンボみたいな勢《いきお》いで、佐々岡の身体がぐんぐんと天高く舞《ま》い上《あ》がっていく。うわ、すげえ……。そしてそのまますさまじいキリモミ回転で宙を滑《すべ》り、十メートルほど向こうにある街路樹《がいろじゅ》に思いっきり激突《げきとつ》して、ずり落《お》ちるように地面に墜落《ついらく》した。遅《おく》れて「ぐえ」と死にかけたカエルみたいな声が聞こえた。
「……」
そして佐々岡《ささおか》の身体の発射《はっしゃ》地点……すなわち俺の隣《となり》には、何やら武道《ぶどう》の型《かた》のようなポーズをした春香《はるか》の姿《すがた》。ふわりと舞《ま》い上《あ》がったスカートの下から一瞬《いっしゅん》だけちらりと白いモノ(!?)が覗《のぞ》く。い、今のはまさか……って、そんな助平《すけべ》オヤジみたいなこと考えてる場合じゃないな。
辺《あた》りがシーンと静まり返っていた。
道行く人々が、信じられないものを見るような目で、地面に情《なさ》けなく転《ころ》がっている佐々岡を見ている。
えっと。
いまいち信じられないんだが。
もしかしてこれ……春香がやったのか?
完全に理解《りかい》の範疇外《はんちゅうがい》の出来事《できごと》に呆《ほう》けるばかりの俺と周囲《しゅうい》の生徒をよそに、春香は口から日射病のカニみたいにアワを吹いて生まれたてのアザラシみたいにピクピクと痙攣《けいれん》している佐々岡(意識《いしき》だけはあるらしい)の下に歩み寄ると、にっこりと笑ってこう言った。
「裕人《ゆうと》さんの悪口、言わないでください」
「は、春香ちゃ……」
「それに……あなたの言うそのいかがわしいカタログ、本当は私が持ってきたものなんです。だから言いたいことがあるのなら、私に言ってくださいね」
「……」
春香《はるか》の背中《せなか》に、炎《ほのお》をまとった龍《りゅう》が吼《ほ》えているのが見えた。
その笑顔《えがお》の裏《うら》に隠《かく》された迫力《はくりょく》に、さすがの佐々岡《ささおか》もそれ以上は何も言えなかったみたいだ。まあ単にダメージがひどくて喋《しゃべ》れなかっただけかもしれんが。
[#挿絵(img/01_303.jpg)入る]
「それでは裕人《ゆうと》さん、行きましょう。遅刻《ちこく》してしまいます」
振《ふ》り返《かえ》ってそう微笑《ほほえ》む春香は、いつもの天使のような表情に戻《もど》っていた。
……そういえば今さらながらに思い出したが、春香ってどこかの古武術《こぶじゅつ》の師範代《しはんだい》の資格《しかく》を持ってるとか何とか。いやそれにしたって今の佐々岡の飛び方、明らかに異常《いじょう》だったぞ……
「あの……裕人さん?」
停止《ていし》している俺の顔を、心配《しんぱい》そうに春香が下から覗《のぞ》き込《こ》んでくる。
「……いや、何でもない」
まあ、いいか。気にならないわけではないが(ていうかすげえ気になるが)、春香の屈託《くったく》のない無邪気《むじゃき》な笑顔の前では、そんなことは小さなことだ。春香の悲しむ顔を見ることがなければ、俺はそれでいい。
だけど地面を活《い》きの悪いゾンビのように這《は》いつくばっている佐々岡の姿《すがた》を見て、一つだけ固《かた》く心に誓《ちか》った。
この先、何があろうと春香を本気で怒《おこ》らせるようなことだけは絶対《ぜったい》するまい、と。
そしてこの一件を境《さかい》に、あれだけうるさかった佐々岡はめっきりと静かになった。それどこうか俺や春香を見ると、マングースに相対《あいたい》したシマヘビのように目を逸《そ》らしてそそくさと逃《に》げ出《だ》す始末《しまつ》である。気持ちは分からんでもないが。
またそれと同時に、それまでさっぱり収《おさ》まる気配《けはい》のなかった俺についての悪いウワサまでもが、キレイさっぱり跡形《あとかた》もなく完全|消滅《しょうめつ》したりもした。理由については――考えるまでもないだろう。あの場には俺たちの他にたくさんのギャラリーもいたしな。……今さらながらに春香の影響力《えいきょうりょく》の強さというものを再確認《さいかくにん》させられた思いである。
何にせよこれでようやく、残った厄介事《やっかいごと》の全てが解決されたことになる。
約二週間ぶりに戻ってきた日常。
とはいえファンクラブ員からは相変わらず親の仇《かたき》のごとく睨《にら》まれてはいるし、「春香様から離《はな》れろ! このブタが!」みたいな内容の怪文書《かいぶんしょ》もなお時折《ときおり》届《とど》いたりもするのだが、そのことについてはもう諦《あきら》めた。何だかんだ言って、俺が春香と仲良くしていることは事実であるわけだし。うーむ、せめて屋上《おくじょう》で簀巻《すま》きにされかねないような、目立つことだけはしないように気を付けよう。
「裕人《ゆうと》さ〜ん」
――とは思うのだが。
「よろしかったらいっしょにむ昼ご飯を食べませんか?」
――正直、それも難《むずか》しいんじゃないかって気がする今日この頃《ごろ》である。
楽しそうな顔でこっちに向かって手をぱたぱたと振《ふ》る春香《はるか》。
ちなみに現在のシチュエーションは昼休みの教室である。最近、春香は以前に比べて学園でも積極的に俺に声をかけてくるようになった。それが俺に心を許《ゆる》してくれたということならば嬉《うれ》しいことこの上ないのだが、いかんせん物事には必《かなら》ず長所と短所の両面が存在《そんざい》するのである。
まあつまり。
昼休みの教室には当然ながら周《まわ》りに大勢《おおぜい》のクラスメイトたちがいるわけであり、そんな中で『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』がそんな行動をとれば注目を買うのは必至《ひっし》であり、
「綾瀬《あやせ》、お前ここ最近一段と春香様と仲がいいみたいじゃねえか」
「いっしょに昼メシねえ……けっ、調子《ちょうし》に乗ってんじゃねえぞ」
さらにうちのクラス内にはファンクラブ員(しかもわりと武闘派《ぶとうは》)が多数存在しているのである。
「とりあえず、屋上《おくじょう》で簀巻《すま》きか?」
「いや、花壇《かだん》に埋《う》めてチューリップにしてやるのがいいだろ」
「プールで逆《さか》さ吊《つ》りってのもあるな」
……はたして俺は無事《ぶじ》に夏休みを迎えられるんだろうか。
かなり不安だった。
[#改丁]
[#挿絵(img/01_309_e.jpg)入る]
夏休みの初日。
俺は春香《はるか》の部屋《へや》にいた。
「実は……裕人《ゆうと》さんに、お見せしたいものがあるんです」
と言われてやって来たのだが、見せたいものって一体何だろう。……まさか、春香のメイド服|姿《すがた》をご披露《ひろう》してくれるとか!? ここにはリアルメイド服(葉月《はづき》さん所有《しょゆう》)があるわけだし――。いやいくら何でもそりゃないか。でも前に着てみたいとか言ってたよな……
などと我ながら春季発動期な考えに頭を悩《なや》ませていると、
「お待たせしました」
春香が、ティーポットを片手に戻《もど》ってきた。
当然、メイド服は着ていなかった。
「……ちっ」
「? 何がちっ≠ネんですか?」
「い、いやこっちのことで……」
「?」
言えるわけがありません。
「よく分かりませんが……あ、セイロンブレンドのテ・フレスコでよろしかったでしょうか?」
「ああ」
とりあえず、それが紅茶の名前なんだろうってことが分かるくらいには俺も成長している。
オレンジの甘い香りのする紅茶を、春香がカップ(旧エドワード王朝のアンティーク。時価《じか》六十万円)に注《そそ》いでくれた、
「そういえば、今日は葉月さんは?」
ふと、いつもはこういった仕事を一手に引き受けているメイド長さんの姿《すがた》がないことに気付く。
「葉月さんはお休み中です。早めの夏休み、ということで田舎《いなか》に帰省《きせい》しています」
「へえ、田舎か」
そう言われてみれば、門のところまで迎えにきてくれたのも他のメイドさんだった。
「北海道だそうです。お土産《みやげ》にクマカレーを買ってきてくれるって言っていました」
「クマカレー……」
またマニアックなもんを。
「美夏《みか》の姿《すがた》も見当たらないが……」
「あの子はお祖父《じい》様といっしょに山に狩猟《しゅりょう》に行っています。たぶん夜まで帰ってこないと思います」
「狩猟《しゅりょう》……」
渋《しぶ》すぎる趣味《しゅみ》だ。というか、あの歳で猟銃《りょうじゅう》をぶっぱなしたりして法律に触《ふ》れはしないんだろうか。
「ちなみにお父様はなさ≠ノ出張で、お母様もパリに視察《しさつ》旅行に出かけていますので、今日はいないです。なので、ゆっくりしていってくださいね」
春香《はるか》がそう付け加える。
なるほど。てことは、今日は春香と二人きりってことか。うんうん。美夏《みか》や葉月《はづき》さんたちがいてにぎやかなのもキライじゃないが、たまにはそういうのもいいかもな――
「……」
……って、二人きり!?
自分で思《おも》い浮《う》かべた言葉《ことば》に思わず突っ込みを入れてしまう。
いやもちろん、この広大な乃木坂邸《のぎざかてい》の維持《いじ》を陰《かげ》で支《ささ》えている常駐《じょうちゅう》メイドさんはたくさんいるんだろうから純粋《じゅんすい》な意味では二人きりじゃないかもしれんが、少なくともあの気配《けはい》を殺せるメイド長さんのように、呼《よ》んでもいないのに気付いたらいつの間《ま》にか背後《はいご》に立っているなんて無粋《ぶすい》なマネをする人はいないだろう。だとすれば、実質的には二人きりも同然だ。
二人きり。
何とも素敵《すてき》な響《ひび》きである。
「あれ? 裕人《ゆうと》さん、何だか顔が赤いですが、どうかされましたか?」
「い、いや」
だがそう考えると何だか急に緊張《きんちょう》してきた。さっきまでは気にならなかった春香の仕草《しぐさ》の一つ一つになぜだか目が行ってしまう。
気を逸《そ》らすために頭の中で世界史の年号(|1919《イクイク》ホテルヴェルサイユでヴェルサイユ条約、とか)を暗誦《あんしょう》していると、
「――裕人さん」
間近《まぢか》に春香の顔があった。
「な、何だ?」
答える声が思わず動揺《どうよう》してしまう。うう、落ち着け、俺。
「今日は裕人さんにお見せしたいものがあるって言いましたよね」
「あ、ああ」
見せたいもの、と言われて再《ふたた》び頭にメイド服|姿《すがた》の春香を思い浮かべてしまうが(変態《へんたい》)、こちらを見つめる春香の表情が思っていたよりもずっと真剣《しんけん》だったため、すぐに気を引《ひ》き締《し》め直《なお》す。
「実は、これなんです」
そう言って春香は傍《かたわ》らに置かれている雑誌を大事そうに手に取った。
「これは……」
それはつい先日にこの部屋《へや》の本棚《ほんだな》の片隅《かたすみ》で見てしまったモノ。
「はい。『イノセント・スマイル』の創刊号です」
春香《はるか》の思い出の品がそこにあった。
「あの……私といっしょに、これを読んでいただけませんか?」
「これを?」
「はい。ダメ……でしようか」
「いや、それは構《かま》わないが……」
特別に断《ことわ》る理由もないためそう答える。でも何だって春香、そんなことをしたいんだ?
「……これは私にとって、特別な本なんです」
春香が静かに語《かた》り出《だ》した。
「私、落ち込んだりイヤなことがあったりした時には、いつもこれを見ることで自分を励《はげ》ましてきました。辛《つら》いことがあっても悲しいことがあっても、きっとあの時のあの方みたいに私のことを慰《なぐさ》めてくれる人がどこかにいる。そう信じて、私はイヤなことを乗《の》り越《こ》えてきたんです」
胸《むね》にぎゅっと『イノセント・スマイル』を抱《だ》きしめる春香。
「そういう意味で、この本は私にとって特別なんです。あの方との思い出の品であって、とてもとても大事な、私の宝物《たからもの》です」
「そう、か……」
今でもその人物が春香にそこまで頼《たよ》られているということは、俺としては何となく複雑な気分だったりする。いやそんな名前も顔も分かんないようなやつに嫉妬《しっと》してもしょうがないんだけどさ。
少しばかり沈《しず》んでいると、
「だから、裕人《ゆうと》さんにもこれを読んでほしかったんです。私を今まで支えてきてくれたものを……そ、その、今、私のことを一番支えてくれる人に」
春香は、そう言った。
「え……」
「私、嬉《うれ》しかったです。裕人さんが私を庇《かば》ってくれたって聞いて……それで裕人さんが周《まわ》りからヘンな目で見られたらどうしようかと思うと同時に、心の奥では、庇ってくれたことを嬉《うれ》しいって思う私がいました。……ごめんなさい。私は悪い子だと思います。でも……本当に、嬉しくて――」
「春香……」
素直《すなお》に嬉しかった。春香は俺のことを『自分を一番支えてくれる人』と思ってくれている。それが何よりも嬉しかった。
嬉しさのあまり一瞬辺《いっしゅんあた》りを走り回りたい衝動《しょうどう》に駆《か》られたが、実際《じっさい》にそれをやるとただのヘンな人(それも黄色い救急車を呼《よ》ばれるレベル)である。俺はこみ上げてくる喜びを何とか抑《おさ》えて言った。
「それじゃ、いっしょに読むか」
「はいっ!」
春香《はるか》と並《なら》んでベッドの端《はし》に座《すわ》って、二人で『イノセント・スマイル』のページをめくっていく。
「私、ここのところの台詞《せりふ》が大好きなんです」
「ここのお話のクライマックスの部分がとっても面白《おもしろ》くて――」
「このイラスト、かわいいですよね」
各所で春香が感想を述《の》べる。その姿《すがた》はいつにないほど生き生きとしていて、本当に春香はこの本に思い入れがあるんだなということを改めて思い知らされる。それはやっぱりちょっとばかり悔《くや》しいんだが、でも仕方《しかた》がないことなんだろうな。恋人の元|彼氏《かれし》のことが気にかかる現彼氏の心境《しんきょう》に近いものを味わいながら、ちらりと隣《となり》の春香の顔を見てみた。
楽しそうに、『イノセント・スマイル』のページを繰《く》る春香。
――あれ?
その姿に、ふと違和感《いわかん》を覚《おぼ》えた。
それはあの日、春香がいないときにこの部屋《へや》でこっそりとこれを見てしまったときに感じたものと同じ、何かが心に引っかかる感じ。既視感《きしかん》といってもいいような気がする。
――俺は、どこかでこれと同じシーンを見たことがある?
夕暮《ゆうぐ》れ時《どき》。オレンジ色に染《そ》まった公園。泣《な》いている女の子。並んで本を読む俺たち。
その瞬間《しゅんかん》、ふいに頭に一つの映像《えいぞう》が浮《う》かんだ。
*
それは確か信長《のぶなが》に付き合わされて二度目にアキハバラに行った日の帰り道のことだった。
家路《いえじ》を急ぐ俺の目に入ってきたのは、夕日に照《て》らされてオレンジ色に染まった公園と、その片隅《かたすみ》にあるベンチに一人で座《すわ》っている女の子の姿。
女の子は泣いていた。
人目もはばからずに大声で泣いていた。
そんな女の子の声に気付かないわけがないのに、周《まわ》りを歩く大人たちはみんな見て見ぬフリをして足早にその場を通り過ぎていく。だれも女の子に声をかけようとする者はいない。
何だかハラが立った。
これだけ大人がいるんなら、一人くらい声をかけてやってもいいだろ。女の子が泣いてるんだぞ。
でもやっぱり、だれも女の子に声をかけるやつはいなくて。
女の子は変わらずにわんわんと泣《な》き続《つづ》けていて。
気付いたら、俺は女の子に声をかけていた。
「一人……なのか?」
「……」
女の子が、すすりあげながらもこくりとうなずく。
「家、帰らなくていいのか? もう遅《おそ》いぞ」
「……帰りたく、ないです」
ふるふると首を横に振《ふ》る。何があったのかなんて俺には全然分からなかったけど、女の子が本気でそう思ってることだけは分かった。
放《ほう》っておけなかった。
「隣《となり》、いいか」
そう訊《き》くと女の子は少し驚《おどろ》いた顔をしたが、すぐに首を縦《たて》に振った。
女の子の横に座《すわ》る。
「……」
「……」
しばらくの間、沈黙《ちんもく》が続いた。
女の子のぐすっ、という泣き声だけが辺《あた》りに響《ひび》く。
先に耐《た》えられなくなったのは俺の方だった。
「なあ、何があったの知らないけど、泣いてばっかりじゃつまんないだろ。何かしようぜ」
「……」
女の子が無言《むごん》で俺の顔を見る。「するって、何を?」とその目が言っていた。
「そうだな……サッカーとか」
「……ボール、ないです」
その通りだった。
「だったら、かくれんぼとかは」
「……二人だけでやると、すごく寂《さび》しいです」
確かに。
「うーん……」
他にも色々と提案《ていあん》してみたが、人も物も少ないこの場では出来《でき》ないことばかりだった。
「まいった……どうするか」
女の子は顔をうつむかせて、じっと地面を見つめている。このままだとまた泣き出してしまいそうだった。何か女の子を楽しませることが出来るものはないか――
「ん、そうだ」
思い出したのは右手に持っていたモノ。今日一日中、アキハバラ中の本屋をムリヤリ巡《めぐ》らされてようやく手に入れたそれを紙袋から取り出し、女の子に見せる。
「いっしょにこれ読まないか? まあ、マンガなんだけどさ」
「まん、が?」
女の子が少しだけ興味《きょうみ》ありそうな顔を見せた。
「ああ。友達が言ってたんだが、けっこうレアアイテムらしいぞ」
「れあ、あいてむ……」
適当《てきとう》にページを開いて何ページか読み進めていくと、女の子は目を輝《かがや》かせた。
「面白《おもしろ》い……です」
女の子は、ちょっとだけ笑ってそう言った。それは初めて見た女の子の笑顔《えがお》だった。
確かにそのマンガは面白かった。信長《のぶなが》の買うこのテの本には全然興味のなかった俺だけど、これから少しはその認識《にんしき》を改めてもいいかなとも思った。あくまで少しは、だが。
それから二人で、並《なら》んでそれを読んだ。その間に会話はほとんどなかったけど、ページが進むにつれて女の子の顔が段々《だんだん》と明るくなっていくのが分かった。
全部を読み終える頃《ころ》には、辺《あた》りはすっかり暗くなっていた。
「少しは元気、出たか?」
問うと、女の子は最初に見たときよりも少しだけ大きな声で、
「……はい」
と、うなずいた。
「それじゃ俺はそろそろ帰るけど、おまえは――」
「あ、私も……帰ります」
ベンチから立ち上がり、
「おかげさまで……元気、出ました」
そう言って女の子がぺこりと頭を下げる。その手には、今まで読んでいたマンガ雑誌。
「あ、そうですよね。これ、お返ししないと――」
名残惜《なごりお》しそうに見つめて、俺にマンガ雑誌を差し出す女の子。その宝物《たからもの》を手放《てばな》すような目を見て、俺はついこう言っていた。
「……やる」
「え?」
「これ、やるよ。欲しいんだろ」
女の子が、その大きな瞳《ひとみ》をお月様みたいに丸くした。
「え、で、でも……大事なものなのでは」
「まあそうらしいけど。でもおまえもこれ、好きなんだろ?」
「は、はい。好きです。とっても……」
女の子が力強く返事をする。
「だったらいいさ。きっとあいつが持ってるよりもおまえが持ってた方が、この本も喜ぶ」
「そ、そうなのでしょうか……」
「ああ」
この本を見て女の子は笑顔《えがお》になった。それはつまり、事情《じじょう》はどうあれ女の子にとってこの本は笑顔の源《みなもと》の一つであるってことだ。だったら、きっとこの本は信長《のぶなが》なんかよりもこの女の子が持つにふさわしい。そうに決まってる。ていうか、今俺が決めた。
俺は女の子の手に、強く本を握《にぎ》らせた。
「あ、あの……ありがとうございます」
「いいさ。それより、もう泣《な》くなよ。おまえはたぶん、笑ってた方がかわいいから」
それはさっきの笑顔を見て何となく思ったことだった。
「え、あ……は、はい」
「それじゃあな!」
それだけ言って走り出す。
「あ、あの」
女の子の声がまだ後ろから聞こえてきたような気がしたけれど、門限《もんげん》(ルコの夕食)が迫《せま》っていたので俺は振《ふ》り返《かえ》らなかった。
そのマンガ雑誌は、その日から女の子の物となった。
ちなみにその後、信長にそのことを話すと、
「あ、あげたって、『イノセント・スマイル』の創刊号をー!? ぎゃー、な、何てことしてくれたんだよー。あれを手に入れるのに僕がどれだけ苦労したかー」
などとさんざん文句《もんく》を言われたが、そんなに大事なもんなら俺に預《あず》けたままにしたりせずに自分で持ってろって話である。それに本屋|巡《めぐ》りをさせられて苦労したのは俺も同じだ。だいたいお前、この本全部で三冊買ってたんだから、今さら一冊くらいなくたって問題ないだろ。
「問題あるよー! あーもう、裕人《ゆうと》は分かってないんだからー。大事な本は保管用《ほかんよう》と閲覧用《えつらんよう》と自慢用《じまんよう》に三冊用意しておくのが常識《じょうしき》なんだよ! あーあ、おかげで友達に自慢|出来《でき》なくなっちゃったじゃないかー。裕人のせいだからねー!」
そこまで知らん。
アキハバラまで付き合ってやったんだから、それくらいガマンしてくれ。
*
――思い出した。
完全に思い出した。
夕暮《ゆうぐ》れ時《どき》。オレンジ色に染《そ》まった公園。泣《な》いている女の子。並《なら》んで本を読む俺たち。
てことは、あのときのあの女の子は春香《はるか》だったってことか?
「なあ春香、その『イノセント・スマイル』をくれたやつって……もしかして、小生意気《こなまいき》なガキじゃなかったか?」
訊《き》いてみる。すると春香は「違《ちが》います」と、ふるふると首を横に振《ふ》った。
「あの方は全然小生意気なんかじゃなかったです。とっても素敵《すてき》な男の子でした。言葉遣《ことばづか》いはちょっと乱暴《らんぼう》なんですけど優しい方で……そうですね、ちょっと裕人《ゆうと》さんに似《に》ていたかもしれません」
はにかんだ表情で俺を見る春香。そのかわいらしい笑顔《えがお》にあの時の女の子の控《ひか》えめな笑顔が重なって――
「……はは」
何だか、おかしくなった。
つまり俺たちの関係は、三ヶ月前どころか、もっとずっとずっと昔から始まっていたのであり、そればかりか春香がこっちの道(アキバ系)に走った一因《いちいん》どころか、むしろのその大元の原因《げんいん》は俺にあるわけで――
「はは、あはは」
思わず声を上げて笑ってしまった。
そんな俺を、春香が初めてウーパールーパーを見た小学生みたいな不思議《ふしぎ》そうな顔で眺《なが》める。
とりあえず一つだけ確かなことは。
俺たちのこの不思議な関係が、これからも続いていくことだけは間違《まちが》いなさそうだ。
[#地から2字上げ]END
[#改ページ]
あとがき
はじめまして、五十嵐雄策《いがらしゆうさく》と申します。
このたびは第4回電撃hp短編小説賞で最優秀賞を頂戴《ちょうだい》し、デビューさせていただきました。……といっても、受賞作と本作は違《ちが》うのですが。
本書のプロローグ、第一話は「電撃hp」30[#「30」は縦中横]号、第二話は31[#「31」は縦中横]号に掲載《けいさい》されたものを加筆《かひつ》修正《しゅうせい》したもので、第三話と第四話、エピローグは書き下ろしとなっております。
できるだけ読《よ》み易《やす》く、かつ読んでいて楽しいお話になるように心がけたつもりです。あくまでつもり≠ネのでどこまでうまくいっているかは分かりませんが、少しでもそれが成功していると感じてもらえれば嬉《うれ》しい限りです。
ちなみに本書はハッピーエンドになっております。鬱《うつ》な展開《てんかい》とかが苦手《にがて》〜という人も落ち着いて読めるようにしたつもりなのですが、どうでしたでしょうか?
さてさきほども書きましたが、本作と第4回電撃hp短編小説賞受賞作の『幸せ二世帯同居《にせたいどうきょ》計画』とは異《こと》なります。
なぜかと言いますとこれは実に単純《たんじゅん》でして、
私自身が、まさかそこ(受賞)までいくとは思っていなかったため、受賞のお報《しら》せを聞いた時にはすでに本作の執筆《しっぴつ》に入ってしまっていた
ということが理由として挙《あ》げられます。
そして途中《とちゅう》まで書いてしまったのならまずはこっちを完成させてしまおうということになり、執筆を進めた結果、めでたくこのたび文庫化されたものが本作というわけです。
なので、受賞作についても続編の構想《こうそう》がないわけではありません。
私としてもできれば受賞作の続きも書きたいと目論《もくろ》んでいますので、読みたいと思われる方がいらっしゃいましたらむ葉書やメールをいただけたらなあ、とさりげなく宣伝《せんでん》してみたり。
……何だかいつの間《ま》にか話が横道に逸《そ》れてきてしまいましたが、これは『乃木坂春香《のぎざかはるか》の秘密《ひみつ》』のあとがきです。
以下はこの本を出すにあたってお世話になった方々へ感謝《かんしゃ》を。
電撃Short3(「電撃hp」本誌やホームページで行われている読者参加企画)、電撃hp短編賞への投稿《とうこう》時代を経《へ》て、ようやくデビューに至《いた》ったのですが……。まずは電撃Short3作品の頃《ころ》から読んでくださっていた担当《たんとう》編集の和田様と三木様。疲《つか》れてくると脳《のう》の稼働率《かどうりつ》が一気に平時の30[#「30」は縦中横]%くらいにまで落ちるような新人でスミマセン。メインとなるネタ出しからサブの小物のネーミングまで、様々な面でさんざんご面倒《めんどう》をおかけしましたが、中でもネーミングについては本当にお世話《せわ》になりました。お二人のアドバイスがなかったら、『イノセント・スマイル』は今でも『スーパー萌《も》え萌《も》え大王』のままだったでしょう。お二人への心からの感謝《かんしゃ》と共に、自分の素敵《すてき》すぎるネーミングセンスを改めて怖《こわ》く思う今日この頃《ごろ》です。
イラストのしゃあ様。「電撃hp」掲載時《けいさいじ》から素晴《すば》らしいイラストをありがとうございました。どのキャラもイメージにぴったりで、途中《とちゅう》からはイラストを思《おも》い浮《う》かべながら本文を書いておりました。ネコミミメイドが特にラブリーです。キュートです。プリティーです。実に頭の悪そうな形容しかできない自分のボキャブラリーがアレですが、とても感謝しております。これからもよろしくお願いします。
またデザイナー様に校閲様をはじめ、この本が出るにあたり様々な方面でご尽力《じんりょく》いただいたたくさんの方々。本当にありがとうございました。感謝の念《ねん》でいっぱいです。
高校時代からの友人の松崎《まつざき》くんに村口《むらぐち》くん。お酒を飲みながら君たちと交《か》わす会話は、執筆《しっぴつ》において酔《よ》っ払《ばら》いを書くのに非常に役に立ちました。また今度、飲みましょうね。
疲《つか》れた時に心を和《なご》ませてくれた我が家の愛犬(マルチーズ)。もうそろそろ八歳になるシニア犬ですが、いつまでも長生きしてください。
そして最後に、この本を手に取ってくださった皆様。
本当に本当に心から感謝しております。できるものならば一人一人に直接お礼を言いたいくらいなのですが、実際《じっさい》にそんなことをされても迷惑《めいわく》なだけだと思うのでやめておきます。
本書を読み終わって、あなたが少しでも楽しい気分になっていただけたなら、それだけで私にとっては何よりの喜びです。
それではまた再《ふたた》びお会いできることを願って――
[#地から2字上げ]二〇〇四年七月末日 五十嵐雄策
底本:「乃木坂春香の秘密」電撃文庫、メディアワークス
2004(平成16)年10月25日初版発行
入力:海洋深層水
校正:?、暇な人z7hc3WxNqc
2008年06月11日作成
2008年09月04日校正
2009年12月05日校正
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テキスト化にあたって、流れていた画像ファイルを使用させていただきました。
元の画像ファイルを流してくださった方に感謝です。
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このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
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使用したWindows機種依存文字
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「V」……ローマ数字3、Unicode2162
「@」……丸1、Unicode2460
「A」……丸2、Unicode2461
「B」……丸3、Unicode2462
「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本20頁8行 見惚《みと》れる。
みほれる
底本58頁6行他 おねいさん
おねえさん
底本75頁11行 恥《はじ》らう
恥じらう
底本137頁3行 黒雲《あんうん》
暗雲
底本186頁17行 姑獲女《うぶめ》
姑獲鳥
底本245頁6行 木刀《しない》
竹刀
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おまけ1 カバー袖の作品紹介
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俺のクラスメイトの乃木坂春香は、容姿端麗で才色兼備で、『|白銀の星屑《ニュイ・エトワーレ》』の二つ名を持ち、ファンクラブの会員数も三桁を超す、まさに深窓のお嬢様という言葉がぴったりの学園のアイドルだ。そんな彼女の秘密を知ってしまったあの日以来、俺の平凡な学園生活は終わりを告げ、ある意味奇妙な彼女との関係が始まった。そして、春香が周囲にひた隠しにしている秘密とは――
第4回電撃hp短編小説賞の最優秀賞受賞者、電撃文庫でついにデビュー!
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おまけ2 カバー袖の著者&イラストレーター紹介
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[#挿絵(img/igarashi.jpg)入る]
五十嵐雄策
五十嵐雄策の秘密。第4回電撃hp短編小説賞の最優秀賞受賞者。趣味はピアノ・料理・ハーブティーと、どこぞのお嬢様のような設定。シカゴに住んでいた過去を持つ帰国子女で、弁護士を目指すかたわらで執筆活動をスタート。弁護士作家の誕生が待ち遠しい?
イラスト:しゃあ
しゃあの秘密。盆と年末は有明で戦うタイプのナイスガイ。「電撃帝王」でもまったりと活躍中。座右の銘は“チャンスの女神にバックドロップ”。赤いヒトではないらしい。