[#表紙(表紙.jpg)]
晴明鬼伝
五代ゆう
目 次
序 章 志《し》 狼《ろう》
一 章 狐巫女
二 章 白童子
三 章 旋《つむじ》 風《かぜ》
四 章 葛《かつら》 城《ぎ》
五 章 夢 幻
六 章 天 雷
終 章
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今は昔、一条|桟敷屋《さじきや》に、ある男とまりて、傾城《けいせい》とふしたりけるに、夜中ばかりに、風ふき、雨ふりて、すさまじかりけるに、大路に、「諸行無常《しよぎやうむじやう》」と、詠じて過ぐる者あり。なに者ならんと思て、蔀《しとみ》をすこし押し明てみければ、長《たけ》は軒とひとしくて、馬の頭なる鬼なりけり。おそろしさに、蔀を懸けて、奥の方へいりたれば、此《この》鬼、格子《かうし》押し明て、顔をさしいれて、「よく御覧じつるな。御覧じつるな」と申しければ、太刀《たち》をぬきて、いらばきらんとかまへて、女をばそばに置きて待ちけるに、「よくよく御覧ぜよ」といひて、いにけり。百鬼夜行《ひやくきやぎやう》にてあるやらんと、おそろしかりける。それより一条の桟敷屋には、又もとまらざりけるとなん。
[#地付き]宇治拾遺物語 巻一二ノ二四
[#地付き]『一条桟敷屋鬼の事』
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「――声が」
かぼそく、女が呟《つぶや》いた。
「む?」
「声が、いたします」
「そなたの声であろう」
気軽く、男は応じた。満足していた。酒の酔いが心地よく身に残り、かたわらの、女の白い柔らかい肉体がいっそうその酔いを深いものにしている。
先ほどまで、灯火の届かぬ暗がりの夜気をふるわせていた自身の淫声《いんせい》のことを言われているのだと女は察したらしく、切れ長の目をつと伏せて、口つきに媚態《びたい》をにじませ、そのような、と言った。
「その声は声でございますが、また別の声が。お聞きなさいませ。何やら外を、歌など吟じて通られるお方があるようでございます」
「ほう、それは」
風流な、と男は思った。物好きな、とも思いもした。
とんだ深草少将《ふかくさのしようしよう》と、朋輩《ほうばい》に囁《ささや》かれる百夜通いの末の逢瀬《おうせ》だった。なまめかしい薫香が仮寝の宿のうす闇に充《み》ちている。
雨の夜であった。夜半から降りはじめた雨はしだいに強さを増し、おろした蔀戸《しとみど》を、大粒の雨の叩く音がひびいている。
この風雨の夜に、詩を吟じてあえて夜行するものとはなんであろう。
風が出てきたらしく、おろした戸は何ものかがつかんで揺らしているように落ちつかぬ音をたてている。
男が身を起こした瞬間、最初の稲妻が走った。一瞬遅れて轟《とどろ》いたはげしい雷鳴に、女は、あれ、と小さな叫び声をあげ、なよなよとくずおれた。呵々《かか》と男はわらった。
「怖いか。なにが怖い。心配するな、わしがちと戸を開けて、外の御仁を見てやろう」
「おやめくだされませ」
袖で顔を覆って、女は細い声をあげた。
「気味が悪うございます」
「なに気味が悪い。ばかな」
男は女のおびえを一笑に付した。ついにこの女を征服したのだという気持ちが、気負いに拍車をかけた。
武門の者として宮中に仕える身ではあるが、殿上人《てんじようびと》とはほど遠く、手にする禄《ろく》は雀が路傍で拾う粟粒にも満たない。あまたの貴人と情を通ずる名高い遊女《あそびめ》を、ものにするなどと狂気の沙汰《さた》と誰もがわらった。
だが、自分はやり遂げたのだ。はるかな高みを舞う天女の衣を剥《は》ぎ、わが手につなぎ止め、こよい、そのかぐわしい秘所にわけいったのだ。
そう思うと、めまいのするような興奮を覚え、陽根にふたたび力のみなぎるのを感じた。すでに頭の中では、女を妻としてわが館《やかた》に、あるいは生国《しようごく》に連れ帰り、子の母として遇することを考えていた。それまで女に巻き上げられた金、これから巻き上げられるだろう金のことは念頭になかった。女がそのたおやかさのかげにどんないつわりを隠しているか見抜くには、やはりかれは純朴すぎ、無骨に過ぎたのであった。
「たとい物《もの》の怪《け》であろうとも、わしがこの太刀で、ひと打ちにしてくれるわい」
女は袖に顔を隠してふるえている。かたわらに置いた太刀を引き寄せ、すぐ抜けるようわずかに刀身を抜きだしながら、男は蔀戸に近寄った。
持ち上げる。なまぬるい雨のしぶきが額にはねた。奇妙に生ぐさく思えたそれに顔をしかめ、傾けた戸の下に隠れるようにして、男は、目をすがめた。雨中の人の太い声が、急にはっきりと耳に届いた。
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――諸行無常……。
――偈《げ》か。涅槃《ねはん》経の。
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男は思った。
声はつづけて、
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――諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽《じやくめついらく》。
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風雨はいよいよ烈しい。雷鳴は已《や》むけぶりもなく、どろどろと空を踏みとどろかしている。詠ずる声はそれらを圧してなお太い。
「おやめなされませ」
悲鳴のような女の制止に耳をふさいで、男は、雨の幕のむこうの人影をもっとよく見ようと、戸を押し上げ、身を乗り出した。
ひときわ大きな雷鳴が鳴りわたり、稲光が大路にはじける雨足と、そこを往くものの姿をあきらかに照らした。
巨大な馬の頭を持った異形《いぎよう》のものが、碗《わん》ほどもある目玉を光らせて男を見返した。
鬼。
その言葉が脳裏に浮かぶと同時に、男はかすれた声をあげて飛びすさっていた。
女はぐったりとなって死んだように俯《うつぶ》している。よろめきながらそちらへ走り、太刀をつきたてて、身構えた。手足がわなわなと震えている。いや、これは、武者震いだ。そう考え、あえておのれを励ました。
入ってくるなら来よ。一太刀に斬り捨ててくれる。
蔀戸が外から音もなく持ち上げられた。
次の瞬間、巨大な馬の頭が目の前にあった。
生ぐさい息が顔に吹きかかった。
「よくごらんじつるな。よくごらんじつるな」
唸《うな》るように鬼は言った。
馬そのままの巨大な前歯ががつりと打ち鳴らされるのが見えた。赤児の頭と同じ大きさの、血走った眼球の中心に、打ち伏す女にすがり、下帯一つでがたがた震えながら太刀を手にすくんでいる、自分の生白い裸があった。
馬頭《めず》の鬼はなめるように視線を移動させ、しげしげと男を見つめると、
「よくよくごらんぜよ」
そう言い残し、すう、と馬頭が小さくなった。
気がつくと、鬼の姿は消え、もとどおり閉じて雨に叩かれる蔀戸を、凍りついたように男は見つめていた。ふいに気づき、がらりと太刀を投げ捨てると、床に手をついてはげしい息をくりかえした。
なんだ。
なんだ、あれは。
這《は》うようにして、戸のそばへ行った。
吹き込む風が、木の葉のように戸をあおってばたばたと音をたてている。隙間に指を入れ、のぞき込んだ。白い雨足が見えた。ひらめく稲光が見えた。
そして雨の中を楽しげに往く、異形の者が見えた。
闇黒《あんこく》の天から銀針のように降る雨の中を、その者どもは濡れもせず、かえって浮き立つように笑いあい足を踏み、手を鳴らしていた。
手に手に振り立てる松明《たいまつ》の火は青い陰火の光をはなち、頭上をひるがえる幡《はた》は喪をしめす乾いた血のごとき香色をしている。それらをつかむ手の持ちぬしは、鉤爪《かぎづめ》をはやすものあり、骨のないもののごとくたよたよとして形なきものあり、また毛の生えたもの、鱗《うろこ》を光らせるもの、尾のあるもの、角のあるもの、目一つ、または三つ、さては目どころか口も鼻も手足も持たず、わななく肉塊のからだを他のものに運ばれてすすむもの――
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――諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽。
――諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽。
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唱和しつつ往くそれら百鬼の先頭に、かの馬頭鬼《めずき》の姿があった。広い肩を悠然とゆすりつつ、他のものを導いてゆくその首の後ろに、足をひらいて立つ何者かがいる。
はじめは、腰のかがまった老人かと見えた。そう見えたのは小柄なそのものの髪がまるで綿をつむいだように白かったからだが、ふたたび走った雷光に照らし出されたその面差しは、白髪を裏切ってなめらかに若かった。
ふくよかな頬の線は、まだ十をいくらも出ぬ童子のものと映った。髪と同じく白い水干《すいかん》をまとい、結わぬままの白髪を長々と背に垂らしている。
童子は笑った。
天地を切り裂くいかずちを映して、その目は、黄金のごとくにきらめいた。
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――諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽。
――諸行ハ無常ニシテ是レ生滅ノ法ナリ、生滅スレバ已ニ滅ス、寂滅楽ト為ル。
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「諸行無常」
澄んだ童子の声が愉《たの》しげにひびいた。
つづいてはっと一時《いつとき》に笑う声が聞こえ、あとは音もない。
姿も消えた。ただいくぶん小やみになった雨音がはるか遠くから、この屋を押し包むようにひたひたと迫ってくる。
――男は震える手で蔀戸《しとみど》をおろし、ふと見れば、はや、女の息は絶えていた。
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序 章 志《し》 狼《ろう》
失敗《しくじ》った。
目にぶつかってくるおびただしい虫めいたなにかを、袖をかざしてよけながら、志狼は、密《ひそ》かにほぞをかむ。
山が吼《ほ》えている。
どうどうと咆哮《ほうこう》している。
それもこれも、志狼がうっかりと黒御前《くろごぜん》のなわばりに足を踏み入れてしまったためだ。
罠《わな》の気配を感じているべきだった。いかに近ごろ、山中に妖物《ようぶつ》の気のさらに濃いとはいえ、白昼、志狼にまるでみせびらかすかのように、目の前で村の子供をひっさらった妖風一陣。風の中に見えた猿、狐、むじな、むささびなどの、なんということもない小妖どもが、指さして口々にあざ笑うのを見て、かっと頭が煮えた。
追いかけること数刻。すでに日は落ち、あたりはとっぷりと暗い。否、あるいはすでに、黒御前の結界《けつかい》に籠《こ》められたか。
もはや判断はつかない。駆けるほどに、闇はいよいよ深い。
沼の腐れた水のように、どろりとした闇が耳、目、鼻、口、身体のあらゆる穴から流れ込んでこようとする。見えない手のように、からみつき、からみつき、四肢の動きを封じようとする。
『御方さまがお呼びぞ、わっぱ』
流れ込んだ闇黒が脳裏に言葉のかたちになった。
『果報者よの。人の身で御方さまに望まりょうとは』
『わしらとて、めったに受けられぬお情けぞ』
『なぜ逃げる。御方さまの情は濃いぞや。人の知らぬ、人の受けぬものを、其方《そなた》に下さりょうとての、お召しじゃぞえ』
『ありがたやの、志狼。憎やの、志狼』
『志狼……』
『志狼丸……』
「黙れ!」
声のかぎりに志狼は叫んだ。
まとった麻の筒袖は、もはやぼろ同然に裂かれて形もない。こわい髪を無造作に一くくりに束ね、垂らしたその先が尾のごとくはげしく宙を叩く。
眉ふとく唇うすく、すらりと切れ上がったまなじりはどことなく高貴の血をうかがわせて涼しい。美童と呼ばれるたぐいの容貌《ようぼう》ではなかったが、そこにたたえられた精気はなみなみならぬものがある。
短い括袴《くくりばかま》から長い臑《すね》をむきだしにした裸足《はだし》の若者は、まさしく野を駆ける、一個の狼であった。
腕の中では救い出した女童《めのわらわ》が、泣く力もなくしてぐったりと首《こうべ》を垂れている。
粘りつく闇を蹴りつけ、蹴りつけ、志狼は駆ける。
背筋を刺した悪寒に気づいて振り向けば、うねり盛り上がった闇黒が、漆めいて艶《つや》びかる一匹の大|蜘蛛《ぐも》を吐き出すところだった。
炭火のごとく燃える八つの瞳《ひとみ》が、こちらに近づく。腥《なまぐさ》い風が頬を撫《な》でた。とたんに手足が鉛のように重くなる。
足にまつわりつく何者かを察知して、志狼は片手の指をそろえ、短い呪《まじない》とともに鋭い声を吐きつけた。
「裂ッ」
同時に、ぎゃっと悲鳴があがる。両断されて浮かび上がったのは、吐き出された蜘蛛の粘糸とそれに乗りかかった腹のふくれた小鬼の姿だった。
泥人形が水に溶けるように、それらもすぐ闇に呑《の》まれて形をなくす。だが、足の下で、頭の上で、後ろで、前で、おなじような妖物がうぞうぞと蠢《うごめ》いている。
すきを見せれば、いっせいに覆いかぶさってくるだろう。そうしてとりこめ、力を奪ったかれを、黒御前の待つこの闇の底へ連れ去るために。
そう感じて唇をかんだとき、はるか彼方《かなた》で、おおおーん……、と遠吠《とおぼ》えする何者かの声がきこえた。
(あれは)
吹きつける瘴気《しようき》から女童をかばって、志狼は声を張り上げた。
「北辰《ほくしん》!」
闇が割れた。水のつまった袋を突き破るかのように、一条の光が空間を貫く。光は一頭の輝く巨大な獣と化し、猛然と唸《うな》り声をあげながら妖物に襲いかかった。
長大な牙が白くきらめいたかと思うと、蜘蛛の毛むくじゃらの八本の足は朽ちたそだ木のように一瞬に砕けていた。まるまるとふくれた胴体が、くさい体液をまき散らしながらどうと地面に転がる。
悪臭をはなつ泥をふんまえ立ったのは、後足で立てば大人の身長をも凌駕《りようが》するであろう、しなやかな体躯《たいく》の黒い巨狼《きよろう》であった。
黒い毛皮から放散するあえかな光は、まさに星の輝きのようだ。額にはその輝きが一点|凝《こご》ったかのように、北辰の名にふさわしい白い一つ星がある。
「北辰」
志狼は狼のそばに走り寄り、後ろを向いて妖物どもに相対した。逞《たくま》しい首に手を回し、よく来てくれた、と低く囁《ささや》く。
狼は人型《ひとがた》をした同類である主人の頬を軽くなめると、ひときわ獰猛《どうもう》な唸り声をあげて、身を低くして相手に向きなおった。
「出てこい、黒御前!」
声を大きくして志狼は叫んだ。
「もうたくさんだ。なぜ姿をあらわさぬ? このような小物で俺を手に入れられるとはよもや思っていまい。北辰も来たいま、こ奴らごとき、俺の爪先にすら触れられぬくせに」
足をあげて蹴りつけた。這《は》い寄ってきていた一匹の妖虫が悲鳴をあげて霧散する。北辰、と呼ばれた狼の身の光は、志狼の身体と腕に抱いた女童までも包んでいた。
ひしひしと蝟集《いしゆう》した闇のものどもは、光の届く範囲よりもすこしはなれた場所で、押し合いへし合いしながら様子をうかがっている。羽虫の群れのような音、石をこすり合わせるような囁き、泥から立ちのぼるあぶくめいた声。それらすべてが、なにやら畏怖にも似た響きを含んでいる。ほのかな、蛍の放つほどの光であるのに、夜にひそむかれらに対して、それは確固たる障壁として作用しているようだ。
『やれ、しおらしや』
笑みを含んだ声がした。女の声だった。
『それでわらわが囲みを破ったとでも思うてか。かわいやの、志狼丸』
ざわりと闇が揺れた。集まった闇の眷属《けんぞく》が左右に分かれ、ひとりの上臈《じようろう》の立ち姿をそこに送り出した。
唐衣《からぎぬ》はぬめりとした黒に、金糸で燃える炎の図をいろどり、長く引いた裳《も》には銀糸で人骨の柄を縫い取る。檜扇《ひおうぎ》をかざした手と、なかば隠れた顔だけが白い。金の炎と銀の人骨とを従え、顔と手だけを闇に浮かばせた女は、扇のかげでふくみ笑った。
『そなたこそ、なぜそのようにわらわにつれなくするのじゃえ。わらわについて御所に参れば、身は安泰、気は安楽、栄耀栄華《えいようえいが》は思いのままぞ』
「人を口説くなら、もっと気の利いた条件を持ち出すことだな。里の阿呆《あほう》どもならともかく、俺にそんなたわごとが通用するか」
志狼は一蹴《いつしゆう》した。
たしかに黒御前のもとであれば年を取ることも、死ぬこともなく、思うがままの富と力にかこまれて暮らせよう。だが、それはあくまで黒御前の操り人形として、という意味なのだ。この山中に棲《す》んでひさしいこの女のかたちの妖物の館《やかた》には、そうして集められ、しまいに精気をぬきとられた生き物が数千を数えているという。志狼をもまた、そうした人形の一つに加えたいとこの妖女は願っているのだ。
『たわごととはますますつれないことを。そなたはこの葛木《かつらぎ》の長《おさ》の息子ではないか。かの一言主《ひとことぬし》の霊威を継ぐ血のあととりではないか。そなたほど、わらわが御所にふさわしい殿御《とのご》はおらぬわえ、わからぬかや』
扇のかげからちらりと赤い唇がのぞく。笑っていた。
『これ志狼丸、そなたは十四、いまだ幼いゆえ、女の情がわからぬのじゃ。こち来、若子や。生まれの親の顔を知らぬそなたに、母御の顔をみせてやろ。これこのとおり、誰にでも、のぞむがままの姿と顔になれるわらわよ。見や』
白い片手が、闇色に骨の白、血の緋《ひ》をかさねた五衣《いつつぎぬ》をさっとかき開いた。あるいは衣が自ら、意志あるもののように襟を開いたと見えた。
『これ吸うてみるかえ、葛木の若。甘い母の乳が吸えるぞ。そなたを残して死んだ、優しい母御のぬくい乳がなあ』
白桃を思わせる、たっぷりとした胸乳《むなぢ》がこぼれた。やわらかくはずむ肉の頂点に、一点つぼみのごとき紅をとまらせて黒御前は毒のある蜜のような甘やかな笑い声をたてた。
『あのむごい、厳しい父御など忘れて眠るがよいよ。あれはそなたを嫌《きろ》うておる』
『恋女房を殺したのじゃものなあ。惚《ほ》れた女の命を奪って、それで生まれてきた息子じゃものなあ』
『片目片足うばわれたあの身に、そのすこやかな身は眩《まぶ》しかろうよ』
『あれはそなたを嫌うておる』
『嫌うておるよ、志狼丸』
はは、はは、といくつもの哄笑《こうしよう》が起こる。
志狼は呼吸を整え、間合いをはかった。
黒御前が動く気配はない。しかし、その無数の触手とでもいうべき結界の闇は、たえまなく蠢いて志狼に忍び寄ってくる。少しでも気を抜けば、いっせいに襲いかかってきてがんじがらめに手足をからめとるに違いない。
腕に子供をかかえている志狼は、印《いん》を結ぶことができなかった。結印《けついん》という形なくして強力な術をはなてるほど、志狼の技量はまだ高くない。
かといって、この場で子供から手を離せば、周囲に待ちかまえる飢えきった妖物どもの格好の餌食となることは必定。自分一人なら、北辰の力で結界破りもできようが、子供もいっしょではどうしても動きが鈍る。見逃すような黒御前ではあるまい。
見知った子供ではなかった。ただ、父の館のある里に住まいする夫婦の子であるというだけではあったが、自分をおびき出すために利用された罪のないものを、むざと殺すのは忍びない。
「俺が合図したら、翔《と》べ。北辰」
こっそりと囁き、子供の身体をかかえ直す。
狼は非難するような色を金色の目に浮かべたが、あたりに目を走らせると、承知した、と軽く頭をうなずかせた。
女の顔にかざされた檜扇が、かすかに揺れた。
「今だ!」
志狼はかかえた子供を北辰の背中に投げあげた。気を失った子供はだらんと手足を垂らしたまま、狼の背にひっかかる。
闇が動いた。百怪が昏《くら》い津波のようにせきを切って押し寄せた。
と、見えない壁にさえぎられたかのように、黒御前の動きが止まった。
あとに続く眷属どもも、いっせいに凍りつく。
子供を乗せた黒狼は、高く飛び上がって宙に溶けるように消え失《う》せた。
外縛印《げばくいん》を結んだまま、志狼は微動だにしない。
ここでしばらくなりとも黒御前を押さえれば、北辰は女童を連れて里へ戻っているはずだ。山中の狼のたばねである北辰ならば、童を連れ帰ったのち父や里の者にも報《しら》せて助けをこさせてくれようが、そこまで自分の力が保《も》つか。志狼には自信がなかった。
『小角《おづぬ》の縛呪《ばくじゆ》か。しおらしや、志狼丸。しおらしやのう――』
唇が動いたとも見えぬのに、どこからともなく声がひびいた。
『だが金縛術《きんばくじゆつ》ていどでは、わらわが力は封じられぬぞや――』
扇のかげの唇が嗤《わら》う。薄氷《うすらひ》のきしむに似た音がして、志狼の指から血が噴いた。結んだ唇が苦痛にゆがむが、視線は動かさない。せわしく指を組み替え、呪《まじない》を唱えようとするが、最後は血煙に消えた。喉にこみ上げてきたぬるいものに、志狼はたまらず咳き込み、血を吐いた。ゆるりと黒御前が動き出す。
『それそれ、童の身で、そのような大それた術を使おうとするからじゃ。待ちゃ、今わらわが、その苦しみ除いてくれようのう』
甘い血が唇をしたたり落ちる。地面に手をつき、志狼はなんとか立ち上がろうともがいたが、ふたたび忍び寄ってきた闇がしなりと手足をからめて動くことを許さない。
『かわいや、志狼丸。葛木の若子』
妖物どもの嬉しげなざわめきが耳もとで聞こえる。
『わがものぞ』
と、そのとき、一条の白い光が妖物と志狼のあいだを奔《はし》った。けえ、と声をあげてはねとんだ妖女の上に、さわやかな声がかぶさった。
「放っておこうかとも思うたが、子供がおるのなれば見るに忍びぬ。加勢をするぞ、わっぱ」
声は、笑いさえ含んでいるように思われた。黒御前の口がくわっと裂けた。ぶっちがいに食い出た長い牙をきりきりと咬《か》みならした。
『誰ぞ、そこにおるは』
闇の中に人影が浮かび上がった。息を吸い込みながらあげた目に、その男の唇に浮いた笑みの形だけが読みとれた。
愉《たの》しげに笑みつつ双手を剣印になし、胸の前にかかげたその男に、どことなく見覚えがある気がして志狼はまたたいた。
「東に降三世明王《ごうさんぜみようおう》、南に軍荼利《ぐんだり》明王、西に大威徳《おおいとく》明王、北に金剛夜叉《こんごうやしや》明王、中央に大聖不動《だいしようふどう》明王、じゃく・うん・ばん・こく、おんびしびしからから、ししびそはか」
『おお!』
一声叫んで黒御前は後ずさった。これまでの余裕ありげな様子は消えて、ばりばりと牙を咬み鳴らし、指より長く伸びた爪を探るように術者にむけて蠢《うごめ》かせている。だが、触れることはできぬようだった。
檜扇がはたりと落ちた。現れたのは本性をあきらかにした、裂けた眦《まなじり》より血の糸を眼球にからみつかせたあさましい鬼の顔であった。
「其《そ》れ汝《なんじ》は土性の怪《け》にて木は土を剋《ころ》す、雷は其の性木にしてまた天の征矢なり、理《ことわり》に拠《よ》りて魔怪是に滅す、天篷、天内、天衝、天輔、天禽、天心、天柱、天任、天英、――雷火招来、急々如律令」
白光が奔った。天頂からひといきにくだったいかずちは、逃げまどう眷属《けんぞく》もろとも、闇に溶けようとする黒御前をまばゆい火にくるみこんだ。
長い絶叫がいつまでも続くかに見えた。
頭をかかえてうずくまっていた志狼は、首筋に当たる濡れた感触にふと心づいた。狼の北辰が尾を振りながら身を寄せ、冷たい鼻面を押しつけていた。
いつのまにか闇は失せ、月が出ていた。あやしい気配はかけらもない。明るい、夏の月夜であった。虫の声がかすかにひびいている。
夜風にさわぐ木々の下の、月光に青く照らされたところに、先ほどの男が浮かべた笑みはそのままに、こちらを見つめて佇《たたず》んでいた。
「危ないところだったな、わっぱ」
「誰だ」
救われたありがたさよりも、救われたことで傷ついた自負心が志狼をうたぐり深くさせた。口もとについた血を腹立たしく感じながらぬぐい棄て、油断のない目で相手を見る。
(里の人間ではない)
見覚えがあるような、と感じたことが信じられなかった。風体のどことなくみやびた風からして、このあたりのものではあるまい。
(都者か)
北辰が主人の警戒を感じ取り、脅すようにうなりながら前へ出る。
「やれ、こわいことだ」
男は、首をすくめて身ぶるいしてみせた。
四十か、五十か。かなりの歳にはなっているようだが、それほど老いた印象はない。半白の頭に萎|烏帽子《えぼし》をいただき、海松色《みるいろ》の着なれた狩衣《かりぎぬ》をまとっている。
長い眉は濃く、視線にときおり混じる鋭いものがどことなく鷹を思わせる。かたい表情の志狼の肩をひと撫《な》ですると、通りすぎ、呪法《じゆほう》のために脱いでいた沓《くつ》を拾って袖に包み込んだ。裂けた指からの血が止まっているのに気づいたのは、そのときだった。
ゆるやかな動作のいちいちに、すきがない。地面の一部に、いつのまにか一抱えほどのなめらかな石が顔をのぞかせている。男はそこへ歩み寄ると、何事か小さく呟《つぶや》き、印を切って呪符《じゆふ》のかたちを空書した。
「地主神か、山神か、怨霊《おんりよう》か。まあ怨霊ではないな。いずれにせよ、やっかいなものに惚れられている。今はわしが封じたが、あの姫君、まだあきらめぬようだぞ。おう」
笑いながら、なめらかな黒い石の肌を平手で二、三度と叩いた。
「もがいている、もがいている。元気のよいことだ」
まるで腹の子が暴れているような、嬉しげな言い方をする。
「葛木の御殿にお目通りを願いたい。都より、賀茂のものが参ったと、長殿に」
「名は」
「陰陽寮《おんみようりよう》、賀茂忠行《かものただゆき》」
打てば響くような名乗りだった。
名乗った一瞬、厳しいものになった目の色を、男はふとゆるませて志狼に笑いかけた。
「……昔の友が参ったと、大角《だいかく》に、そう伝えてくれぬかな」
知らぬものが見れば幽閉の窟《いわや》と見たであろう。
山肌に顔を出した巨岩を、掘り抜いた岩窟《がんくつ》である。高さ一尺、幅二尺、入り口には固く格子を閉じ、生き物の気配とてない。
あたりは深甚たる森だ。欅《けやき》、柏、椚《くぬぎ》、そのほか名も知れぬ木々が濃く生い茂り、光のもれる場所には小笹《おざさ》が緑の刀を折り重ねたようにみっしりと葉を並べている。右手には深い谷が口をあけ、折り重なる山々が一目に見渡せる。
きききき、と猿か雉子《きじ》か、高い声で梢をかすめて飛んだ。
「ここでよい」
送りに来た里の者を帰し、賀茂忠行は長い息を一つついた。
変わらぬ、と思う。
十五年前この場をあとにしたときと同じように、神気に充《み》ちたこの山は聖地であった。
御金《みかね》の嶽《たけ》とたたえられる金峰山《きんぷせん》に道場が創られてから、修験を修める者の修行の中心は吉野《よしの》に移っている。だが古い神の宿る地には、人がいようがいまいが強い霊気が漂っているものだ。ひさかたぶりの山の大気を、甘く忠行は味わった。
獣道とさほど変わらぬ小径《こみち》を身軽く降りていく里の者の背中を見送りながら、猿のような……となかば感心しなかばあきれた。それでも、十五年前の自分もあのように木々の中を疾風のごとく駆けていたのだったと思いなおす。顧《かえり》みれば今のおのれは、いかにやつしたとしても都人の、あか抜けたふうが消せないようだ。
(あのわっぱ、無事でいるかな)
途中の山道で顔を合わせた童子の、牙をむいて唸《うな》りたそうだった顔を目に浮かべた。ひととおりの術は修めていたようだったが……。
つい手を出してしまったのは、幼いものがむざんに命を奪われるのを見るにしのびなかったばかりではない。その目にうかぶ光に、惹《ひ》かれたからでもあった。遠い昔に、どこかで見たような色であった。
――そういえば、共にいた狼に、どこか似ていた……。
手を伸ばし、扉を押す。古びた見かけにかかわらず、格子はすべるように開いた。
「大角」
身をかがめ、覗くようにして呼びかける。
「大角。そこにいるか」
――中でわずかに動く気配がした。
入り口から想像するより、内部は広い。それでもせいぜい三尺四方か。彫りぬいたままの岩肌を露がしっとりと光らせている。燭《しよく》の灯《あか》りが仄《ほの》かに揺れる。正面には今は火の消えた護摩壇《ごまだん》がすえられ、壇上には油煙にいぶった黒い不動明王が、永遠の憤怒《ふんぬ》にくわっと牙をむいて宙を踏んまえ、足を踏み鳴らしている。
壇の前に一人の男が、こちらに背を向けて座していた。
不動火界の真言《しんご》が低く流れている。忠行は微笑し、頭を下げて扉をくぐった。男の後ろには、かれの到着を待っていたかのように藁《わら》で編んだ円座が用意されていた。座して不動明王を拝し、あとについて静かに真言を修する。
[#ここから1字下げ]
なうまくさまんだ ばさらだん
せんだ まかろしゃな そわたや
うん たらた かんまん
[#ここで字下げ終わり]
三世十方に遍満する金剛諸尊に礼したてまつる。暴悪なる大忿怒尊よ。砕破したまえ。忿怒したまえ。ハーン・マーン。
しばし、二人の男の唱和する呪《まじない》が石で張られた洞《ほら》を充たした。
やがて終えると、男は頭を上げ、静かに振り向いた。
その右の目はいかなる理由からか黒い布で固くおおわれ、袴《はかま》の裾から出た右の足も、膝の少し下でばっさりと断ち切られて終わっていた。
「……お久しゅうござる、賀茂のぬし」
鷹めいた眼光をわずかにゆるめて、男は言った。
「息災であられるか」
錆《さ》びた声にもなつかしげな響きがまじった。
験者のようななりではなく、地下人のごとき狩衣に括袴《くくりばかま》のいでたちである。眸《ひとみ》にやどった光は炯々《けいけい》として厳しい。ごつごつと骨の高い顔立ちは突兀《とつこつ》たる岩山に似ている。見れば、くつろげた胸やむきだしの腕にも固い筋肉が盛り上がり、みなぎる力を形にしている。不自由な身ではあっても、鍛錬は怠っておらぬらしい。
「むろん息災だとも」
忠行もかすかに笑み返したが、思い直してじきにそれを消した。
「堅苦しい挨拶はよそう。十五年分、つもる話はむろんあるが、今は先に、まず知らせておかねばならんことがあるのだ」
威儀を正し、忠行は自らも視線を厳しくして男を見返した。
「……あれ[#「あれ」に傍点]がな。顕《あらわ》れたぞ」
応《こた》えはなかった。
ただ相手の隻眼がわずかに細められたのが唯一の反応だった。忠行はうなずくと、心にかかえてきた物語を思い返した。
「二月ばかり前、さる権門《けんもん》の随身をつとめる男が、百鬼夜行《ひやつきやこう》に往き遭った」
――一条の桟敷屋《さじきや》にて起こった怪事を、手短に忠行は語った。
風雨の中を行列して往く鬼の影。
高さ三丈を超す馬頭《めず》の鬼。
その肩に立つ白髪の童子。
「連れていた女はその場で死に、男ものちに長く病んだという」
忠行は言った。
「わしがその話を聞いたのは左大臣藤原忠平《さだいじんふじわらのただひら》殿よりであったが、のちに帝《みかど》のお耳にも届いたとみえて、よくよく詮議《せんぎ》せよと陰陽寮に特にお言葉があった。なあ大角――」
相対する男は、自分よりもわずかに背が高い。瞑目《めいもく》している相手を見上げるようにして、忠行は言葉をつづけた。
「今思えば、去年《こぞ》からすでにしるしはあった。聞いたか。先の卯月《うづき》、内裏《だいり》の門の内外に、小児の足跡が残されていた話を」
延長《えんちよう》七年(九二九)四月二十五日、宮中におびただしい鬼の足跡が顕れる怪事があった。玄輝門《げんきもん》のほとり、中宮庁、後宮の中心にあたる常寧殿《じようねいでん》の中などに、赤や青などの獣毛がちらばり、巨大な牛の足跡に似たひづめのあとが乱れてついていたのである。
しかしその中でも奇怪なのは、足跡の中にまぎれていた「をさなきもの」の足跡、すなわち、人間の小児の足跡があったことであった。
『北陣の衛士《えじ》が見けるには、大きなる熊、陣中にいりてすなはちみえず。其鬼のあとの中に、をさなきものの跡まじりたりけりとぞ。おそろしかりけることかな』
と、史書である『扶桑略記《ふそうりやつき》』にはある。足跡は中宮庁にもっとも多くあり、一日二日の間に消え失《う》せたという。
「もしやとは思ったが式占《ちよくせん》にも星にも影は顕れず、油断した。
すでにあの者は形を持ったぞ。いまだそれほどの力は持たぬらしいが、異形の者どもは聡《さと》い。奉ずるべき者のもとへ早くも集まり始めているようだ」
男は黙してなおも応えない。
「それだけではない、ここへ来る途中にも、おぬしの里の者らしい若い男が妖《あや》しいものに襲われているのに行き合った。ひととおりの術は心得ているようであったが、相手はかなり強力な妖物のようであった。
石の下に封じてきたが、あのようなものがこの葛城《かつらぎ》にまで現れるようではことは一刻を争うとしかおもえぬ。大角」
燭台《しよくだい》がじじ、と音をたてた。
忠行はじれて膝を進めた。
「大角!」
「……なぜ、来た」
だが、男の口をもれたのは話とは関係のない質問であった。
虚をつかれて忠行は口をとざした。
「それだけの話をするためなら都からここまで旅をすることもあるまい。式に言伝を持たせて飛ばせばよいものを、帝の意を迎える宮仕えの身のおまえが、なぜ、みずからこの葛城へ来た」
「……さ、それは」
それは忠行にも応えようのないことであった。指摘のとおりだった。陰陽寮に属し従五位《じゆごい》の位を得ている忠行は、位こそ低いとはいえ官人である。みだりに都を出てよいものではない。むろん無断で出てきたわけではなく、届けは出したうえで来たのだが……。
「……呼ばれたのだよ、おまえは」
返答につまる忠行に、男は言って、ゆっくりと立ち上がった。失われた足は、かたわらに横たえていた一本の杖で支えている。身体をゆすりながら忠行の横を通り抜け、扉を押し開けた。
遮るものがなくなり、明るい昼の光とともにさっとかぐわしい風が吹き込んだ。こもった香の匂いがみるみる薄れる。一羽のヒタキが高い声で鳴きながら舞い込んできて、堂内を巡り、男のさしのべた指についと留まった。
戸がまちにもたれ、愛《いと》しげに目を細める男の足下で、忠行は何をすべきかも判らず茫然《ぼうぜん》としていた。修行を終え、都に戻ってからは、長い間忘れていた圧倒される感覚であった。京に並ぶ者のない術の上手とたたえられる賀茂家の当主が、手元もおぼつかない陰陽生《おんみようしよう》のように、ぼんやりと相手の顔を見上げるしかできないのだった。
こ奴には、かなわない……。
「呼ばれたとは、誰にだ」
「おまえはすでにその者に会っている」
「それは」
誰だ――、と問い返そうとしたその脳裏に、一条の光明のようにひとつの若々しい顔が浮かんだ。外光を背にした旧友の隻眼の横顔に、ふと、その面影がかさなった。
忠行は思わず、あっと声をたてていた。
「――わしの息子だ。志狼という」
葛城役一族《かつらぎのえんのいちぞく》の長《おさ》は、笑みを含んで言った。ヒタキが羽ばたき、鳴きながら太陽めがけて飛び立っていった。
「あれは、〈小角〉だ」
奪い返した子供を家族のもとに帰してから、志狼はどことなく落ちつかない心を持てあまして、北辰とともに日のあたる山の斜面に身体をのばしていた。
はるか下の方で、里の者たちが太鼓を鳴らし、ささらを打って歌い騒いでいるのが聞こえてくる。楽しんでいるわけではなく、日々のなりわいの技を磨いているのだ。
葛城の里のものは、一定の年齢に達すると傀儡《くぐつ》子や放下《ほうげ》師、あるいは巫女《みこ》となって山を下り、全国に散ってゆく。うたい、踊り、芸をし、時には色を売ることで、津々浦々を渡り歩き、自然に集まってくる情報を持ち帰る。
――春の初の歌枕、霞たなびく吉野山、鶯佐保姫翁草、花を見すてて帰る雁
――常に消えせぬ雪の島、蛍こそ消えせぬ火は点せ、巫鳥《しとと》と言へど濡れぬ鳥かな、一声なれど千鳥とか
しゃりん、しゃりん、と鈴の音が拍子を打つ。
うるさい、と思う。
志狼は十四だ。じき十五になる。
ほかの里の子供らは、立って歩けるようになる前から刃《やいば》を手玉に取ったり、女であれば神懸かりのやりかたを教え込まれるものだが、志狼はそのようなこととは関わりなく育った。長の、大角の息子であるという理由もありはしたが、それ以上に志狼は、どこかほかの人間とは違う己を、感じていた。
ごく幼いころからのことだった。志狼には母がない。いたのはめったに岩室から出てこぬ父と、北辰だけだった。
巨大な狼犬は、乳をやる以外のすべてのことを赤ん坊の志狼に与えた。ごわごわした毛におおわれた獣くさい横腹に、顔を埋めて眠ったのが志狼の最初の記憶である。歩くことを意識するより先に、北辰のあとを追って野山を駆けていた。屋にあるより、露のしたたる木の下で転がるほうがくつろげた。
呪法は山の霊気が染み込むように志狼の身についた力だった。印を組み、呪《まじない》を唱えるのは、呼吸をするように自然なことだった。
里に呪法者は多い。女は巫女として神おろしや魂振《たまふ》りの法を学ぶことは普通だし、そもそもここは葛城|修験《しゆげん》の祖とも言える役行者《えんのぎようじや》が開いた地だ。傀儡子や放下をなりわいに選んだものでも幻術の一つ二つを扱うのはあたりまえになっている。
そんな中でも、志狼の力の強さは群を抜いていた。異常とすら言えた。印すら結ばず、いや、そうと意識すらしなくとも、あふれる呪力は身体をもれてあたりに影響を及ぼした。
ものが飛び、器《かわらけ》が砕け、得体の知れぬものの影が朦朧《もうろう》と行き来するのなどは日常茶飯のことだった。父である大角が息子に呪のかたちを教え込んだのは、力を引き出すというよりは、勝手に働こうとする力に枷《かせ》をはめて動きを封じるための措置だった。そうすることで初めて、狼に育てられた子供は里のものの中にはいることができた。
だがそれは、ほかのものと完全に同じになるということを意味してはいなかった。
人の友人はいない。家族はないに等しい。志狼の心の中で、友であり、親であり、兄弟でありほかの愛情すべてであるのは、育ての親の黒い狼ただ一頭だった。
(俺も――)
いつかはああしてささらを手にし、歌を歌って国々を回ることになるのだろうか。
そう思うと気が沈んだ。旅はいやではない、むしろ、この山奥の小さな里に押し込められていることを考えれば歓迎すべきとも言えたが、芸をし、投げ銭を拾って、その裏でこそこそと人の噂を聞き集めたり、計略をめぐらせたりするのはどうにも性《しよう》に合わない。そんなことをしている自分は、自分ではない、とさえ感じる。
かといって、どうしようという当ても志狼にはないのだ。自分の未来について、何かを考えるには志狼はまだ幼すぎたしものを知らなさすぎた。ただ、ばくぜんとした不安と焦燥だけがある。
爆発しそうな力の予感が心臓を突き動かすのに、行くべき場所を志狼は知らないのだった。黒御前のような山の物怪といくら力を競ったところで、背後から槍《やり》で突かれているようなその焦燥が収まるわけではない。むしろますます強さを増すばかりである。
思いを振り払うように、北辰の腹に顔を埋める。巨大な黒狼は、なだめるように主人の頭に鼻面を寄せて、低く、くうと啼《な》いた。
閉じた瞼《まぶた》のうらに、印を切る都の陰陽師《おんみようじ》の姿が浮かんだ。
(何者だ……。あいつ)
賀茂家がなんであるかは志狼も薄々知っている。都の陰陽師の家だ。先ほど、黒御前を退けてのけた腕前からも、その腕前は見て取れた。強い……。少なくとも、この葛城の里の中にも、あれほど強い力を持ったものはいない。
(いや)
親父がいる、か。
そう思うと、志狼の顔はいくぶん苦くゆがんだ。
都の陰陽師は先刻、里の者に案内されて、父の隠《こも》る峰の岩屋に昇っていった。歴代の里長、そして、その後継者に選ばれるものしか、入ってはならぬ禁断の場所だ。
(古い友と言っていたな……)
あのくそ親父に、友などというものがあってたまるか。腹立たしく思う。
いずれにせよ、場違いな都人だ。いかに力を持っていようと扉はびくともすまいと思ったが、何か、気にかかる……。
「おい」
影がさした。鳥のたつように、がば、と志狼はとびおきた。
気づかなかった自分が信じられなかった。先ほど見送った都の陰陽師が、四角い顔につかみどころのない笑みを浮かべて、上からのぞき込んでいた。
「そう驚くな。先ほどは難儀だったな。怪我はないか。あのときの女童《めのわらわ》はどうした」
「家に帰した」
身構えて、志狼は吐き捨てた。
「それより、どうしてこんな所にいる」
「ばば殿に――白専女《しらとうめ》殿に、お会いしとうてな」
背を向けて、斜面を登る。少しためらって、志狼はあとを追った。
くやしいが、興味を引かれていた。白専女とは、男たちの長、表の長である父、大角に対して女たちの長、裏の長にしてこの里の真の首長である女巫《じよふ》の名だ。
〈大角〉は代々男長に引き継がれる名で、息子である志狼もいずれはその名を継ぐことになるのだが、〈白専女〉は違う。葛城に役一族がこの里を結んで以来、その名を持つのはただ一人だった。氏の祖たる役行者、小角の生母の名、それが〈白専女〉だ。
ばば様はめったなことでは人に姿を見せない。里のものすら一生に一度声を聞くか聞かないかだというのに、なぜこんな都の男がばば様のことを知っているのだ。しかも、まるで隣の老女にでも会いに行くような気軽さで、軽々と山を登ってゆく。
この男、もう父には会ってきたのだろうか――。
「おまえ、なんでばば様のことを知ってる」
都人が――ととがめる調子で続ける志狼に、陰陽師は目を細めた。
「知っているも何も。わしに最初に陰陽の術の手ほどきをしたのは、葛城のばば殿だ」
「だからなんで、ばば様がおまえにそんなことをする」
「わしが賀茂家の主《あるじ》だからだ」
「しかし――」
「わが賀茂の家はな、役一族の流れよ」
忠行は言って、からりと笑った。「知らなかったか」
都で陰陽道の上手をたたえられる賀茂氏は、もとはと言えば大和《やまと》葛城にその根を発する一族である。葛城の山神であり、かつ呪言神《じゆごんしん》である一言主神《ひとことぬしのかみ》、また同じく呪言神である事代主《ことしろぬし》神をまつり神託を受ける巫祝《ふしゆく》の家系が賀茂であった。
雄略《ゆうりやく》の帝《みかど》の御代《みよ》にいたって朝廷の弾圧を受け、一言主をまつることを禁じられた賀茂氏は、それ以前に葛城に根付いていた新羅《しらぎ》からの渡来人が持ち込んだ、道教や呪禁道《じゆごんどう》といった外来の法術を研究することにその活路を見いだした。
「役一族の祖にあたられる役行者殿も賀茂の血につらなるお方だ」
陰陽師は言った。かなり山の奥のほうまで入り込んできている。茂みはいよいよ深くなり、葉を透かして差し込む陽光も明るさを減じる一方だった。
「行者殿を奉じおのが道を修めることを選んだ者らは葛城に残りこの里を築いた。中央に出て上の御役にたとうとする者らは山を棄て平地に降りた。だが、双方のつながりが切れたわけではない。
われわれ都の賀茂は表の術を司《つかさど》る。星を見、算を置き、暦を編んで主上に献ずる。そして葛城の衆は山々を駆けめぐり、地脈にそって塚を立て、経塚を納め、裏の術者として地下からこの国を支える。それがわれらが一族のさだめというものだ」
「それが、ひっくりかえることはないのか」
いきなりたずねた志狼に陰陽師は驚いた顔をみせた。
「ひっくりかえるとは、どういうことだ。都の賀茂と、葛城と、役割が変わるということか」
「ちがう。いや、そうか。とにかく、たがいに人を交換することはないのかということだ。賀茂の者が葛城にはいることや、葛城の者が賀茂にはいることは」
「さあ、昔はあったようだが」と言いかけて、ふと口をとざす。浮かんだのは十五年前の己の姿であった。岩室の前にへたりこみ、両手をついて、ほうけたように口を開いている。かるく頭を振って、言葉をつづけた。
「このごろは、あまり人の行き来はないようだ。少なくとも、この十五、六年あたりはない。わしが、賀茂からこの葛城の里に修行に来てからは、都からここへ来るものは絶えてなかったはずだ。おまえも、そんな奴が来たら、おぼえていよう」
「修行に来たのか」
「おまえの父と友となったのは、そのころよ。おまえはどうやら、わしが都に戻ってから、いくらもたたずに生まれたようだな」
どことなくあざ笑われたような気がして志狼がむっとしていると、ふと振り向き、後ろをついてくる北辰を見やって、いい犬だ、と言った。
「犬じゃない。北辰は狼だ」
「ほう。それはすまぬ。北辰か。いい名をつけた」
北辰、すなわち北極星。妙見菩薩《みようけんぼさつ》とも呼ばれる星ぼしの王である。
「身のほど知らずと思っているだろう」
睨《にら》んだ志狼にいやいや、と笑って答え、
「ただ美しい、強い犬だと思って見た。いや、犬ではない、狼だな。このような生き物は、都ではとんと見ない。葛城ならでは、このようなものを養うことはできまい。
おぬし、京に行きたいのか」
すばりと、斬りこむようにきいてきた。
なんの前触れもない問いに、志狼はたじろいで、思っていたよりずっと素直に、わからない、と応《こた》えた。
「ただこの里から出てみたい。けれども芸人になるのはいやだ。もっとちがう運命が、俺には待っているように思えてならない。術も、学問も、剣も体術もつぶての技も、俺の望むところではなかった。行かなくてはならぬ場所がある。欲しいものがあるのはわかっている。なのにどこに行くのか、何を求めたらいいのか、俺にはわからない」
ひといきに、そう喋《しやべ》ってしまってから、苦い顔をしておまえになんのかかわりがある、とけんか腰に言った。
都の陰陽師は微笑したまま、それきり口を開かなかった。
いつしか山道は頂付近にまで達していた。そこばかりは濃い森林がぽかりと口を開け、燦々《さんさん》と降りそそぐ日光に緑の芝草が輝いている。小道のいたり尽きるさきに、風雨にさらされ古色を帯びた一戸の堂宇があった。つくりは仏道のものだが周囲には四本の生きた杉の木が立ち、その一本一本を柱として真新しい注連縄《しめなわ》が張りめぐらされている。
いかにも子細ありげな風情、ありていに言うならば、ここに漂う空気は神域というよりは魔所のそれであった。めぐらされた注連縄は、俗界と神を隔てるというよりは裡《うち》にこめられた魔の力の、外へもれ出るのを防ぐかのように見えた。
志狼は思わず足をとめた。かれのみならず、里のものはこの堂が見えたとたんに足が止まるのが通例である。白専女とはそれほどの通力をもつ女仙と信ぜられてきた。
「おい、ちょっと待て」
陰陽師がなんの恐れげもなく、注連縄をくぐって中へ入ろうとするのを見て、志狼はあわてた。陰陽師は聞こえないふりで先へすすもうとする。
と、堂の扉がいきなり、風に吹きまくられるように開いた。中の闇から一陣の狂風が、渦をまいて躍り出た。あたりはたちまち墨を流したような暗黒に沈んだ。
志狼はとっさに身を伏せた。あぶない、という叫び声がとどくかとどかぬか、素早く僻邪《へきじや》の印をきって災いをさけた陰陽師もさすがであった。どろどろと蠢《うごめ》き脈打つ闇のただ中に、朦朧《もうろう》と一つの女の顔が浮かび出た。まなじりまで裂けた目をさかだて、ぶっちがいに食いしめた牙をはらはらと鳴らすそれは、あさましい鬼女の顔であった。
『おのれ珍しや陰陽師。ようもわらわをあのような場所に閉じこめやったな』
「黒御前!」
「これはいかん。力のいれ具合が悪かったか」
のんびりとそのようなことを言う陰陽師に、
「ほうけるな、避けよ!」
といいもはてず、結んだ印から雷光がながれた。白い光刃《こうじん》が闇を裂いたと見えたのもつかのま、ぬれた泥があわさるようにぴたりとあわさって、はや跡もない。
ずるりと黒御前は身体をのばした。ずるりずるりと這《は》い出てくるのは太さといえば三抱え、長さといえばもはや見当もつかない闇々《あんあん》たる黒蛇の胴である。裂けた口からひゅるりと炎が伸びた。炎と見えて舌である。ちろちろと志狼に向けてゆらめかしながら、
『おおそこにいたか志狼丸。先ほどは不覚をとったが、この度こそは逃さぬぞえ。わがものとならぬというならば、そのかぐわしい膚《はだ》をわらわにくりゃれ。きれいに剥《は》いでなめして、わらわが身に縫いつけさしょう。さすればわらわとそなた、膚と膚、二度と離れずむつまじく暮らす道理じゃぞえ』
「剥がれてたまるか、さがれ、化け物!」
打ち返すように叫んでから、ふと陰陽師を顧《かえり》み、「おい、手を出すなよ」
居丈高に言い残してから黒狼とともに飛び出す。
「手など出さぬよ」ひそかに陰陽師は応えた。
『志狼を連れてゆけ。あれは小角《おづぬ》よ。なみの人間ではない』
岩室の裡で笑みを含んで葛城の長は告げた。
『都の変事も聞いておる。時は今よ。おぬしが何かに誘われたとすれば、志狼の星によばれてきたのだ』
『だが、だがあれはまだ童《わらわ》ではないか』
忠行は述べたてた。
『わしはあれが戦うのを見たが、まだまだ未熟。狂《たぶ》れたか、大角』
『それはやつが、いまだ目をふさがれておるからよ』
『ふさがれておるとは、何に』
『この里に。父に。母にじゃ』
『何と』
『おぬしの目にした黒御前とやら。あれは山霊ではない。ましてや神でも、魔でもない。あれは、志狼の母よ』
『母!』
『母の影とでもいおうか。あれの母はあれを産み、胎《はら》を割かれて死んだ。その思いがやつを縛っておる。あれは呑《の》み込み、溶かし、食らう母じゃ。子を離さずにおくためなら、殺して食ってわが腹に戻すことをためらわぬ母じゃ。あれを打ち破り、殺さねば、やつがみずからの真の力に気づくことはけしてあるまい』
『だが、だが、あの者が勝てねばどうなる。死ぬぞ、やつは』
『むろんよ。わが生まれた罪にすら勝てぬものが、どうしてあの者[#「あの者」に傍点]になど勝てようか。ましてや世をうつくしく生きぬくことなどとうていできまい。力持つだけのただ人となり、力に目をくらまされつつ見苦しく生きるならば、いまここで死んでくれたほうが天地にもあれにもさいわいというもの』
忠行は言葉をなくした。都には、忠行自身の息子がいる。保憲《やすのり》といい、ことし十四になる。先に加冠《かかん》の儀をすませたばかりの保憲は幼いころから鬼を見る資質をしめし、忠行にとっても自慢の息子であった。まだあらけずりとはいえ、志狼というあの子供の力はその保憲にまさるともおとらない。磨けばあるいは保憲を、この忠行をも超えるやもしれぬ、そう考えてぞくりと身裡《みうち》に冷や汗のながれるのを感じ、それほどまでの資質を秘めた息子をあっさりと切って捨てる父ににぶい畏《おそ》れを忠行はおぼえた。
冷酷とさえとれることばを吐きながら、しかし大角の目はあくまでおだやかに澄んでいるのだった。笑みすらふくむように思えるその顔は、忠行にとって恐怖だった。失われた片目と、片足を見やり、あるいはもしそれがすべて満足にそろっていて、しかも、われがこの葛城に生まれ、かれが都の賀茂の家に生まれたのであれば、どうなっていたか……とおもうと、腹の底でなにか気分の悪いものが蠢いた。
(しかし、本当に大事ないか。見ているばかりで)
岩室で大角と話した記憶をふりはらいつつ、忠行は眼前に展開される志狼と黒御前のたたかいに注意を戻した。
陰身の陣をはり、あれくるう術の余波から身を守っているが、ひっきりなしに叩きつけられる風やいかずちがびりびりと呪《まじない》の防壁をゆする。志狼はよく戦い、北辰もどうやらただの狼ではなく、群がる小妖を食いちらし、踏みにじって、主人を助けて間然《かんぜん》するところがないが、それでも多勢に無勢。じりじりと押されている。
この地に導いたのは忠行である。白専女とはすなわち小角の母。かの女の前でなければ志狼のめざめはかなわぬという。おぬしは産婆の役割をせいと大角にいわれここまで来たが、その生まれるべき子供が死んでしまってはなにもならぬのではないか。しかし今うかつに呪をとけば、忠行とてもただではすむまい。
(はて、いかにすべきか……)
「ばば殿はどうした、黒御前! まさか食ったのではあるまいな」志狼がわめく。
『おう食うたわ、食ろうてやったわのう。年寄りのやせ首、何のうまいこともなかったが、かなしや、志狼の君の前祝いとおもえば、なんの苦労ぞ』
「きさま!」
『ほう怒った、怒った。なぜ怒る。あのばばめがそなたの母者を死なせたのではないのかえ。そなたを狼にそだてさせ、里の人々とへだてさせたのではなかったのかえ』
「え」
『ほう、その顔では知らなんだな。そなたの母はの、天からくだった黄金の独鈷杵《とつこしよ》が口にはいったと夢にみてそなたを孕《はら》んだ。それをきいた白専女はそなたの母御の繊弱にすぎて産にたえられぬのを見越し、臨月の腹を裂いて赤子のそなたをとりだしたのよ。なんとむごい話ではないか。われらとてそのようなことはせぬぞえ』
志狼は言葉につまった。そこへ押しかぶせるように黒御前が、
『のうそれに、そなたの父御の目と足をうばったのも白専女のさしがねよ。そなたの父御はそれは強い呪術者《じゆじゆつしや》であったよ。そこに隠れておる、都の陰陽師などとはくらべても足りぬ術の巧者であった(忠行は顔をしかめた)。それを白専女がの、脚を切り、片目をつぶしたのじゃ。父御を葛城の里にとどめ、長《おさ》となさんがためにな。
葛城の里は古来葛城のぬし神、一言主をまつる里でもあった。里長はすなわち一言主の巫《かんなぎ》よ。片足片目は一言主の宿り身のあかしよ。白専女は里の安泰をたもたんがために、そなたの父御を犠牲《いけにえ》としたのよ』
今やまったく動きのとまった志狼に、ずるずると黒い蛇体が巻きついてゆく。もはやまったく魂を奪われたか、無表情な志狼のわかわかしい顔を、炎の舌がちろりとなめた。
『のう志狼、かわいやの、つまらぬではないかそのような世など。わらわとともに往くならば、かまえてそのような思いはさせぬぞえ。風にもあてぬ。陽にもあてぬ。五色《ごしき》の雲の真綿に包み、天人の羽衣をむしった羽根で、そなたを包んでやろうほどに。なにも案ずることはないぞ。――さ、目をお閉じ。乳飲ましょう』
かき開いた胸もとから匂うような胸乳がこぼれる。志狼はがっくりと首《こうべ》をたれて正体もない。はるか遠くで北辰が夢中になって吠《ほ》えているが、羽虫にもにた妖物の蚊柱《かばしら》にはばまれて容易に近づけない。
(これは、いかぬ)
かまえて手出すな、といわれてはいるが、さすがに見ておれなくなって忠行が呪のそとに出ようとしたそのとき、金色の光明が志狼の胸元からはしった。まばゆいばかりの光であった。昇る太陽の光、月の光、空にあるすべてのかがやかしいものを集めたところでそれほどかがやかしくはないと思われた。蛇体の女は顔をおおって悲鳴をあげた。志狼はいまだ夢うつつの瞳《ひとみ》で、わが胸の前に顕《あらわ》れたものをつかみとった。
それは手のひらをのばしたほどの長さの、黄金に輝く一個の独鈷杵であった。志狼のふりあげた独鈷杵は、金の光芒《こうぼう》をひきながら、黒御前とよばれるもののゆたかな乳のただ中を、まっしぐらにつきとおした。
「俺にさわるな。指図すな」
自分がそう呟《つぶや》くのを、志狼は聞いた。ぼろりと黒御前の顔が崩れる。首が崩れ、肩が崩れ、胸が崩れたなかに燃える白い炎があった。
炎は燃えあがり、独鈷杵を握ったままの志狼をもつつみこんだ。少しも熱くない炎であった。涼しい水にさらされているような心地で志狼が目をあげると、白い光の洪水のなかに、ひとつの、相好《そうごう》円満ななんともいえず美しい顔があった。
(それで良い)
微妙な声がそう言ったかと思うと、たちまち顔は炎にまぎれた。
ばば殿、いや、母上――。顔も見たことのない母の面影を確かにそこに見たと思い、志狼がかけよろうとしたとたん、ごっと火炎が吹き上がった。そこに在るのは忿怒《ふんぬ》暴悪の形相をあらわした三面|六臂《ろつぴ》の不動尊であった。
黒御前の衣をおもわす蒼黒《あおぐろ》い膚《はだ》にぶっちがいの牙をかみならす尊《みこと》は天地をゆるがして呵々《かか》と大笑し、手にした錫杖《しやくじよう》の先で息の止まるほど志狼の胸を突いた。あっけなく志狼は地に転げた。独鈷杵も手を離れて地に転がった。それを見て尊はふたたび声をあげて笑い、つきぬ煩悩《ぼんのう》すらやきつくす三昧《さんまい》真火に姿をかくした。
と、見るにすでにそこはうつつの地であった。歩いて登ってきた葛城の山頂、白専女の庵《いおり》である小堂がしずまっている。ただその周囲にはりめぐらされた注連縄《しめなわ》の、東に向いた一本だけが中から切れて落ちているのが変わった点であった。
「おい、だいじょうぶか。生きているのか」
呪をといた忠行があたふたと走りよった。北辰もわけのわからぬながらに、主人のもとへきてくーんと鼻を鳴らす。志狼はあっけにとられ、尻餅をついたまま手を見つめた。地面を見おろし、空を見上げ、自分を見おろす陰陽師のまぬけた面《つら》をみつめた。
そして笑った。笑いはいくらでも身体の奥からこみ上げてきた。理由もわからないのにただおかしくてならなかった。野を駆ける子供が意味もなく笑うように、笑えて笑えてしかたがないのだった。
「おい陰陽師。俺は都へ行くぞ。つれていけ」
ようやく笑いやんで志狼はいった。忠行はなにか口を開きかけたが、思い直して苦笑いをした。
「よかろう。ただ、連れの名くらいは覚えろ。わしは賀茂忠行という」
「知るものか」
志狼はいい、仰向《あおむ》けに転げて空を見上げた。それはこれから志狼の向かう先にも続いているはずの空であった。そのことに今、志狼は初めて思いあたっていた。
「悟ったか、志狼」
同じころ、不動の岩室で呟くものがあった。大角であった。自由の利かぬ足下には、くろぐろと油煙にいぶされた不動の尊像が、鉈《なた》で一撃されたようにまっぷたつに断ち割れていた。だが砕けた像など一顧《いつこ》だにせず、いずれかの遠い場所をみつめる葛城の長のひとつだけの目は澄んでいた。
「この天地のあいだに道を邪魔するものなし。母に会えば母を殺せ。父に会えば父を殺せ。魔に会えば魔を殺し、仏に会えば仏を殺し、神に会えば神を殺せ。すべて殺してなお消えぬものを見いだせば、それがなんじの命となるぞ。おぼえたか、志狼。きこえたか」
いいはなち、瞑目《めいもく》した。ただその身辺には笑いがあった。谷をへだてたところで笑う息子の笑い声が、谷をつたい、山を震わし、この深い岩室の底まで届いてきているのだった。日は暮れようとしていた。沈みかかる太陽の最後の燃えのこりに、ほがらかな笑い声が、かぶさった。
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一 章 狐巫女
このごろ都にかかる暗雲といえば、第一が菅《かんの》 丞《じよう》 相《しよう》の怨霊《おんりよう》である。
醍醐《だいご》の帝《みかど》の御代《みよ》に右大臣をつとめたが、その権勢いや高く、宇多《うだ》の上皇ともあわせて主上の信頼のあついのを左大臣、藤原時平卿《ふじわらのときひらきよう》にねたまれ、讒言《ざんげん》によって九州|大宰府《だざいふ》に遷《うつ》された。
『遷客ハ甚シク煩懣《はんまん》目ス、煩懣胸腸《むねはらわた》ニ結バル』とうたい、都をなつかしみわが身をなげきつつ二年後に憤死したが、その翌年から、京にはしきりに雷鳴がとどろいた。
雷すなわち|威ツ霊《いかずち》であり、落雷は怨霊の祟《たた》りである。かれの死から五年たって、まず恩義にそむき追放に加担した蔵人頭《くろうどのとう》藤原|菅根《すがね》が死んだ。ついで翌年、右大臣であり讒言した張本人の時平卿が三十九で死んだ。うち続く落雷と立て続けの死に、人は道真の怨霊と噂した。
聞くところによれば文章《もんじよう》博士三善清行《はかせみよしきよゆき》が、病床の時平のもとに息子の僧|浄蔵《じようぞう》を送って加持《かじ》をさせ、あとから見舞いに行った。
すると時平の両の耳の穴から青い色の小蛇二匹が頭を差しいだし、われはこれ道真の怨霊である。いま天のゆるしを得て怨敵にむかしの仇《かたき》を報ぜんとするに、何をもってなんじは妨げるか。ただちに去れと難じた。
術《すべ》のないことを悟った清行は息子に加持をやめさせ、自分も退出したところ、時平もまもなく死んだとか。一度は清涼殿《せいりようでん》に落ちいらんとする、道真の化した雷神にむかって刀を抜き、かつて殿上にあったおりは自分のほうが位のまさった身である。今にしてこの無礼はなんたることかといいたてて退散させた増上慢も、ここにいたっては通用しなかったらしい。
さらに右大臣|源光《みなもとのひかる》は遊猟のさいちゅうに泥中にはまって姿が見えなくなった。死体も見つからなかったという。
ついに時平の妹|穏子《おんし》所生の皇太子、保明親王《やすあきらしんのう》の、二十一の若さで急死するにいたって、朝廷は道真を本官の右大臣に復するとともに正二位を追贈し、左遷の詔勅《しようちよく》を破棄したが、怨霊の祟りはやむことを知らなかった。
「つい五年前にも、次の春宮《とうぐう》とさだめられた慶頼王が疫神にあたって死んだそうな。五歳の童《わらわ》が哀れなことよ。もっともそれを哀れと感じぬのが、怨霊の怨《おん》たるところかもしれぬがな。道真も、童も、まっこと、哀れなことじゃ」
「御僧は怨霊を哀れとおぼしめされるか」
「おお、むろん。哀れでないものは霊ではないぞ。みないずれも、当人にとってはもっともな怨《うら》みを呑《の》んで鬼になるのじゃ。おのが怨みに食われて霊鬼になりはてる。怨みのふかいものほど闇は濃いであろう。光明の明るさを知らずして煩悩の闇に身を沈める愚に気づけぬものを、哀れといわずしてなんとする」
「だがその怨霊を調伏《ちようぶく》なさるのも、御僧のしわざ」
「それは、それ、これは、これよ。わしとて飯を食わねばならん。おぬしが刀をふりまわすのと同じに、数珠《じゆず》をふりまわして鬼を追っぱらうのがわしの生計《たつき》よ。とやこう言われても困る。哀れといって見逃しては、わしが路頭に迷う」
「漁師が魚を、猟人《かりうど》が鹿を憐《あわ》れむようなものかと」
「ほう、なかなか、おぬしも言う」
かかかか、と笑った。四十がらみの坊主であった。袈裟《けさ》などは品も良く、なかなか上等なのを身につけているが、口ぶりや顔つきがなんともくだけている。四角い顔といがぐり頭にぐりぐりと大きな目をむきだし、土ぼこりの舞う路上にしゃがみ込んで、珍しげに市の路傍で銭をかせぐ芸人の姿をながめている。
昨年市中をおそった洪水、また春からの疫神の横行で、いくらかにぎわいも減ったかと思われる京の町だが、市にきてみれば相変わらずの人ごみである。米、布、魚、野菜、さまざまに商人が呼び売りをするなかに、ひときわ黒く人のたかっているところがある。
三人の楽人をうしろにひかえた女が、巫女《みこ》のつくりで笹を手に歌い舞っているのだった。風のように笛が鳴り、太鼓がはずむ。
手にした笹は巫女であるしるしの執り物である。地下の巫女はこのように、角で歌や踊りをしてみせ、家に呼ばれて神おろしをし、さらにはそこで色を売るのが常であった。開いた裾からちらちらと白い素足がこぼれるたび、おお、と見物からため息がもれた。小笹《おざさ》がさらさらと鳴る。紅をぬった唇から、澄んだ歌声がながれていた。
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よくよくめでたく舞うものは、巫小楢葉車の胴とかや、
八千独楽蟾舞手傀儡、花の園には蝶小鳥
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「ほうほう、よい眺めじゃ」
「浄蔵殿」
じれたように言ったのは、これは二十歳ばかりの、若い武士《さむらい》である。田舎くさい柿色の直垂《ひたたれ》に身を包み、太刀を下げているが、筋骨たくましく、鼻筋通って眉ふとく、青いほど澄んだまなざしにはどことなくただ人でない品がある。
「歩き巫女の舞いなどに見ほれているときではございませぬぞ。わがきみ忠平卿《ただひらきよう》におかれては、このごろ宮城にうち続く怪異についていたくご心痛、ことにさきごろ一条大路にて見聞された百鬼夜行のこときこしめし、ぜひ浄蔵殿に相談をとのご所望」
「ふむふむ」
「陰陽寮に名の高い、陰陽博士賀茂忠行殿お留守のいま、術の上手といえば浄蔵殿のほかにない。かの道真の怨霊の祟りすら、ひとときは抑えたもうたお方が、道ばたの売色の女の脛《すね》に鼻の下をのばしていてよいわけがございますまい」
「えい、うるさい若造よの。だいいちそれでは、わしが忠行殿の身代わりに呼ばれたように聞こえるぞ」
「いえ、けして、そのような」
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筑紫なんなるや、唐の金、白蝋という金あんなるは、ありと聞く、
それを合わせて造りたる、阿古屋の玉壺様かりな
甲斐の国より罷り出でて、信濃の御坂をくれくれと、遙々と、
鳥の子にしもあらねども、産毛も変わらで帰れとや
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「ふん、あわてるな。忠行殿の術の上手は世間にも知れたことだわ。さような達人の身代わりとあらば、こちらも悪い気はせぬよ。よい気もせぬが。――お、それより何やら、騒動が持ち上がったようじゃぞ」
輪になった人が、わっと崩れた。人垣からぬっくと頭を突きだしたいかにも悪党面な男が四、五人、舞っていた女の肩をつかんでなにやら荒い口調《くちぶり》で言っている。
どうやら市のもと締めに納める金のことで文句をいっているらしい。女はあまり言い返しもせず、ひややかな目つきで男を見返している。
横で銭を請うらしいしわびた老人がおろおろと手をもみしぼり、うしろで太鼓を打っていた蟹のような短躯《たんく》の男と鞨鼓《かつこ》をならしていた小太りの女は、ただふてくされたように目をそらしている。
「これは、いかん」
声がしだいに荒くなり、とうとう男が腰の得物に手をかけるにいたって、武士が足を踏みだした。
「行って、おさめてこよう。御僧はここでしばらくお待ちあれ」
言いおいて、大股に駆けてゆく。みっしり集まった人だかりを両手でかきわけながら大音声に、
「さがれ、さがれ。わが名は下総豊田《しもうさとよた》の住人|平小次郎将門《たいらのこじろうまさかど》、左大臣藤原忠平卿の家人《けにん》である。この場はそれがしがおさめる。皆さがれ。散れ、散れ」
「はて、せっかくおもしろくなると思うたに、無粋なやつよ」
首をひねって浄蔵、
「じゃがあの男、民の苦しむのを見ておれぬ心の持ち主なそうな。平といえば帝には五代の苗裔《びようえい》、まさに王孫にあたる。殿上にあってみことと呼ばれてもおかしゅうない血筋が、わしの見るところ、横死の星が額にある。危うい哉《かな》、危哉《あやういかな》」
かいがいしく人を分ける武士をみつめながら、
「が、人のさだめはわが手の内にあらず、気づかわねばならぬことはほかにある。……見ればあの女芸人、あの細腕で、もう少しであの荒し男を伏させるところであった。なにも腕力ばかりが武器ではない。女には女の武器もあるであろうが、ちとあの様子はただ事ではなさそうな」
人垣を割って出てきた男たちは、皆ほうけたような顔で口を半開きにしている。あの様子であれば、将門という武士が割ってはいらなかったところで芸人どもにさしたる害はなかったに違いない。
涎《よだれ》を垂らしながらぼうっと立っている頭だった一人に、舞っていた女がすいと近づいた。肩に手をかけて耳に口をちかづけ、耳朶《じだ》をねぶらんばかりにしてなにか言った。目顔でべつの方向をさす。そこには一人の娘がいた。先ほどまでは女のうしろで、笛を奏していたほっそりとした少女《むすめ》である。
男は娘を見るといっそうだらしなく顔をくずしてうなずき、手をのばして、娘を袖のうちに抱きこんだ。
「ようするに、あの娘を払いの代にするというわけか。……が、あの娘には妖気がある。よくは見えぬが黒い霧のようなものが、娘のまわりにむずむずと蠢《うごめ》いているな。なにやらいやな心地がするわい。ほ、こちらを見たな」
娘は顔をあげ、おびえたように周囲を見まわし、浄蔵に目をとめた。
その唇がなにかいいたげに開くが、その前に、主人であるらしい巫女装束の女がたちふさがった。
赤くぬった唇をゆがめて、にったりと笑う。そのあいだに娘は男にともなわれて、どこかへ姿を消した。浄蔵は顎《あご》に手をかけ、
「頼まれたわけではなし、祓《はろ》うてやるほどのかかわりもないが、気にかかる。……聞けばこのごろ百鬼夜行のほかにも、下京にころがる死骸《しがい》の中に、脳をやぶられそこらじゅう食いあらされ、精気を吸われてかれがれと枯れ木のごとくなった死人がおおいとか。あるいは忠平殿も、そのあたりのことご存じであるのやもしれぬ。うむ」
金壺眼《かなつぼまなこ》がぐっとひそまる。
「あの娘、あの笛、……さては、きゃつ、荼枳尼《だきに》の使わし女《め》か?」
「おお、おお、おまえのここは……極楽じゃ。火の華じゃ。尽きることない蜜の壺じゃ。たまらぬ、たまらぬ……も、もう、こんなに、おう、お」
びくんと身体を震わせて、男はもう何度目かわからぬ精をはなった。
菰《こも》いちまいで外からへだてられただけの小屋である。しめった藁布団《わらぶとん》の上で、先刻のあらくれが娘を組みしいている。
垢《あか》まみれの裸に覆いつくされて、あえかに白いはだか身はほとんど見えない。ただ長い長い黒髪だけが、男が動くたびに生き物のように土の上をすべる。
娘は声もたてなかった。いや、たてることもできないのか。
目を閉じ、手足をなげだした姿は人形、あるいはすでに死んだもののようである。なめらかなうりざね顔には血の気もないが、まだいとけなさを残したこぼれるように大きな瞳は、夜の闇よりなおふかぶかと美しく澄んでいる。
土間のかたすみには脱ぎすてた小袖《こそで》と、薄汚れた水干《すいかん》、烏帽子《えぼし》が頽《くず》れた小山をなす。娘の奏していた黒漆《こくしつ》の笛が、ぬれたような艶《つや》びかりをしながらそこから突きだしている。
――と。
笛の歌口でなにかが動いた。
ちかりとそこに赤い光が宿ったかと思うと、銀の毛なみにおおわれた一匹の奇妙な獣が、ぬるりと頭を出した。
一匹の、獣であった。頭につづけて歌口のおおきさよりは太さのある身体が、ぬるぬるぬると這《は》いだしてきた。
ききき、ときしるような声をたてる。おそろしく細くて長い胴体に、奇妙に短い脚が四本。脚のさきにはふつりあいなほど、するどく大きな爪がついている。
鼻先のとがった顔つきは狐に似ているようでもあり、鼬《いたち》に似ているようでもあり、犬や猫にも似ているようであり、またそのどれにも、またいかなる野の獣にも、似ているようで似ていない。全身かがやく銀色で、その中にその瞳《ひとみ》だけがただふたところ、血を落としたようにあかあかと燃えると見えた。
獣は針を並べたような毛を逆立て一震いすると、水銀のごとく動きだした。音もたてずに男に流れより、足をつたって音もなくはい上がる。
男は気にもとめぬ。横臥《おうが》してうごかぬ娘の蜜壺を責めるのに夢中である。
獣は男が振りたてる尻のわれめにするするとたどりつくと、その毛だらけの尻の穴に首をのばした。
いきなり、ずるりと頭をもぐらせた。
そのまま中へ、蛇みたいな細長い体をくねらせてずるずるずるともぐりこんでいく。男の息はますます荒い。ぴしゃぴしゃと肉を打つ音がはてしなく続く。
――ややあって、びょくんと男のからだが跳ねた。
娘はうつろに男を見上げる。
「ぐお……ご……」
げぐ、と呼吸をつまらすような音をたてて、男の口からどっと血がふいた。
娘の顔に血しぶきがとんだ。
まだ固い胸にも、たいらな腹にも、点々と赤いしずくが散った。
娘は表情をかえない。あくまで無表情である。
男の目がくるりと裏返った。白い目玉から涙のように血がぼとぼとと落ちた。
口から鼻から耳から、穴という穴から鮮血をふきださせながら、男の腰はそれだけが別の生命をもつように、規則ただしく動きつづけた。
娘の手足がふるえ、ようやく男が大量の精を噴出したと同時に、瓜《うり》をつぶしたような音がして、男の頭のてっぺんがはぜ割れた。
中からあの銀色の獣頭を出し、高い声でキイと鳴いた。
食い散らした男の肉と血が銀の毛皮をまっ赤に染めていた。とがった口の先で、ちいさな石のようなものが燦然《さんぜん》と光をはなった。
血と肉のただなかから取りだされたにもかかわらず、一滴の血も汚れもついていない。指先ほどのおおきさだが、まるでたったいま坩堝《るつぼ》から出てきた黄金のように、淋漓《りんり》と光をこぼしてまばゆくきらめいている。
娘はゆらりと身を起こし、死んだ男を押しのけた。
睫毛《まつげ》の濃い、うれわしげに小作りな顔は、露にしおたる秋草の風情であった。ごろりと横に転がった男の、まだ屹立《きつりつ》したままの陽根がむなしく天をつくのをかなしげに見やり、ちいさく吐息すると、獣にむかって手をさしのべた。
「おいき」
獣は高い声で鳴き、血をまき散らしながら宙にかけあがった。口にくわえた光り物ともども、ふと消え失《う》せる。
娘はおきあがり、着物をはおって小屋を出た。
烏帽子と水干は持って出る。死体はそのままにする。すでに食い物のにおいをかぎあてて、寄りあつまってくる餓鬼どものきしきしさわさわいう音がきこえた。小半時もすれば、骨すらものこるまい。
すぐ隣にしつらえられた小屋にはいる。中ではひとりの男が、こちらに背をむけて太鼓の革を張りかえていた。ふりかえりもせず、
「すんだか。葛葉《くずのは》」
「――あい」
こたえて、葛葉はかかえた水干をおいた。
相手は市で太鼓を打っていた、蟹めいた短躯《たんく》の男芸人である。姿にちなんだか、その名もまさに鋏丸《はさみまる》。
やっぱり蟹みたいにひらたい顔から、細い三白眼がじろりと葛葉をねめつける。
「ぬかりのう人黄《じんおう》はぬきとったか。このところ、おぬしのはたらきには鳴滝《なるたき》様もご不満でいらっしゃる。よもや妙な気持ちをおこしてはいまいな。われらを裏切れば、たちまちその五体、あの腹の立つわっぱともども千々に裂けると覚悟せよ」
「大事ない。人黄ならばもう、飯綱《いづな》に持たせて社へやった」
細いふるえ声で葛葉はこたえた。かの女の吹く笛のように、蕭々《しようしよう》として秋の野に吹く風の、さびしいひびきを持つ声であった。
「からだに血がついて気味がわるい。河原で洗うてきてもよかろうか」
好きにせい、と応じると、鋏丸はそれなり葛葉のことはわすれたようであった。
逃げるようにその場を去り、流れの細った河原へ降りた。
四条の河原は物ごいと、芸人と、いんちき坊主ともぐりの陰陽師《おんみようじ》と、そのほか妙なやつら、きたならしいやつら、いかがわしいやつらの巣窟《そうくつ》である。
とくにこのところの飢饉《ききん》と疫病、洪水で、河原にとぐろを巻くやつがずんと増えた。運わるく疫神にあたったやつも、身の貴賤《きせん》にかかわらずたいていは生きているうちに河原へ投げ捨てられていくので、あちこちに腐れた死骸や、まだ腐れていない新しいやつ、すっかり腐って骨になったやつがごろごろしている。
はんぶん溶ろけかけた女がそれだけはあざやかな黒髪を流れに落としているそばで、葛葉は身をきよめた。死人の肉を溶かした水で洗うのである。脚のあいだからもれる男の精が、とろとろと内腿《うちもも》をつたって身体からおとした血と混じりあう。
……あさましい。声をださずに葛葉は泣いた。
泣いてもからだは洗わねばならぬ。泣き泣き肌をこするその脚の隣を、とけた黒髪が水を黒くして長々とはしる。血を洗いおとしているくらいで驚くようなやつはこの河原にはいない。若い娘が裸で水を浴びるさまに、筵《むしろ》で囲った小屋の中からいくつも下卑た笑い声があがる。
「おう、やれやれ、それ、こちらを向け」
「どうせなら股開いてこちらに見せぬかやい」
ざれ歌をあてつけにやんやと囃《はや》したてる。娘が歯を食いしばって知らぬ顔をしているのに、焦《じ》れたはみ出しものが、調子にのって小屋を飛びだし、腕をつかんだ。
「まあ、こちらへ来い。ひとつ酒の相手でもせい。舞え舞え蝸牛《かたつぶり》と舞うてみせれば、銭のひとつもくれてやろう」
「はなせ、下郎」
せいいっぱい叫んでもがくのに、よけいに興をそそられたのかげらげらと笑って四方八方から手を出してつかみどりにする。
「何が下郎じゃ、こいつ、われらと同じ物ごいのくせして、ふとい女め」
「やれやれ、やってしまえ。あとでこ奴の持ち主に代を払えばすむことだわ」
「こらしめじゃ、みせしめじゃ」
五、六人ほども寄ってたかって、わっわっとさわぎあうところへ、いきなり、頭のうえから降ってきた小さな影が風のようにとびかかった。
何が起こったのかわからぬうちに、一人が鼻を顔にめり込ませてふきとび、別の一人が拳のくい込んだ腹をかかえてげえげえもどしはじめた。
影はくるりと地面に降り立つと、胸を抱いてうしろへ下がった葛葉を庇《かば》い、とがった歯を剥《む》いてごう、と唸《うな》った。
「げっ、こ、こりゃ、あの狼っ子じゃ」
「悪いものに当たった。あの金色のびかびかした眼はどうじゃ」
「おそろしや、呪詛《のろい》がかかるぞ。娘を行かせろ。ええ、とんだ災難じゃ」
潮のひくように河原の者どもがひいていくのを見届けても、降ってきたそいつは牙をぜんぶ剥きだしたまま動く様子もない。低く喉《のど》の奥で地鳴りのような音をたてているのを、葛葉がうしろからなだめるように手をかけて、
「もうよい、童子。楽におし」
振り向いて、うう、と唸る。
その顔は別人のごとくおだやかである。炯々《けいけい》と光る金眸《きんめ》は光をよわめて気がかりな色をうつし、泥に汚れた手をあげて、葛葉の頬をそっと撫《な》でた。葛葉はほほえんだ。
「いや、なんともない。ありがとうな、童子」
別人。いや、別物か。
たしかにひとの目鼻をそなえてはいる。年のころなら十ばかりの童子、じっさい顔立ちを言うならば、汚れをおとして磨きたて、こぎれいな童水干など着せれば、叡山《えいざん》、鞍馬山《くらまやま》に巣くうあらくれ坊主のずいぶんと争いの種になろうといううるわしさではある。
が、眸がこわい。牙がこわい。
溶けた黄金を填《は》めたかと思われるふたつの金眸、小さい唇からのぞくのは、人にはあらざる鋭い牙である。ほうほうと伸びた髪は蓬《よもぎ》のごとく乱れ、おまけに白い。
たてがみ。そんな形容の思い浮かぶほどいきいきと四方八方に乱れとび、小枝だの枯れ葉だの、いろんなものをからみつけている。愛《いと》しげにもつれを梳《す》いてやり、葛葉は童子とふたり連れだって、河原のはずれのねぐらへ向かった。
「また何か食べていたのだね。……この臭い、蛇か。らちもない」
引き寄せた袿《うちき》に胸をかくしながら、袖で童子の口もとをぬぐってやる。
よく見れば、そこから顎《あご》にかけてをべたべたと汚しているのは泥ではない。どすぐろく固まった、血である。鱗《うろこ》ごと引きさかれた肉片がこわばりついているのを、母親めいたしぐさでやさしく取ってやりながら、
「下手もの食いはおまえの病、とめられぬことはわかっているけれど、心配《きがかり》なことは、……毒のないのならよいが、うっかり蝮《まむし》やなにかにゆきあって、咬《か》まれでもしたらどうするのだろう。腹が減ってするならまだしも、飯《いい》より、毛虫や、井守《いもり》をよろこぶおまえなのだもの。わたしは別にかまわぬけれども、大きくなったら人に嫌われはすまいか。ほんに姉やは困ってしまうよ」
言葉は困っているが、顔はいっこうそうではない。
童子のほうは、首尾よく姉を守りおおせたことで大満足で、石だらけの河原をはねるように歩いていたが、ふと止まって、草むらに目を光らせた。
「あ、これ」
姉の制止も聞こえぬ様子で、さっと身をかがめ、繁った薄《すすき》に頭からつっこむ。
ばさばさどさどさ、とひとしきり穂が揺れ、あきれて見ている葛葉の前で、意気揚々と突きだした頭は、口に青びかりする大きな蜥蜴《とかげ》を横ぐわえにしていた。
「ほんに困ったことの」
嘆息する姉をしりめに、童子は暴れる蜥蜴を嬉しげにつるりと呑《の》みこんでしまう。
姉、というが、葛葉は童子の姉ではない。
いかなる血縁も葛葉にはない。ものごころついたときにはすでに鋏丸、それから鞨鼓《かつこ》を打つ小萩《こはぎ》という女、それに、誰よりも鳴滝、かれらのひざ元で笛と術とを仕込まれていた。すなわち飯綱のあつかい方をである。
笛は竹筒でできているもの。その中に、人の血と肝とでやしなわれているもののけを、飯綱という。
先ほどにもみたとおり、全身銀白のなめらかな毛皮におおわれた、伸縮自在の奇怪なけもので、すみかである笛のもちぬしに操られることがある。人を襲うときは尻の穴からもぐりこみ、五臓|六腑《ろつぷ》を食いあらしながら上へとのぼって、脳をやぶって顔を出す。
そこにある、人黄と呼ばれるものをくわえて持ち出させるようにしこんだのは、葛葉にとっては飯綱あやつりの師である、鋏丸であった。
人黄はすなわち人間の魂魄《こんぱく》。人の頭頂に在し、呼吸の出入の息となって生命をたもち、また降って懐妊の種となっては人身をつくるという。
その六粒のあまつひ[#「あまつひ」に傍点]と呼ばれるものをとって服せば諸願成就するとも、不老長生がえられるとも、さまざまに伝説《いいつたえ》はおおいが、中にもっともたしかなのは、夜叉《やしや》神|荼枳尼《だきに》に魚鳥の肉類にくわえてこの人黄をさざけ、供養すればたちまちにいかなる祈願も成就するという荼枳尼天の法である。
葛葉がしろがね、と呼ぶ飯綱の一統は、その荼枳尼天の使いであるのだとか。文字のひとつもこころえない葛葉にはかかわりのないことだったが、おそらく、鋏丸たちはその荼枳尼の法を持する行者であるのだろうと茫然《ぼんやり》と思っている。
集めさせられている人黄を、鋏丸や鳴滝がどうつかうのか葛葉には知りようもない。もとより知ろうともしないように、幼いころから仕込まれてきた身である。
もとより鋏丸や鳴滝がいかなる人間であるかも知らない。鋏丸はただきびしい師であり、無慈悲な主人であり、気が向けば葛葉を殴りつけて犯す男である。
しかし鳴滝のことはもっと知らない。最初から一座にいたわけではなく、葛葉が九つか十のときに鋏丸のもとを訪れてきたのだが、そのときのかれの恐懼《きようく》することといったら見物であった。女がするすると入ってきて前に立ち、われは鳴滝じゃ、と名乗るやいなや、それまでぶえんりょにじろじろと胸やら腰をねめまわしていた顔をたちまちひきつらせて、へへえっ、と飛びすさって平伏した。
それ以来、一座の長は鳴滝である。鋏丸はたいてい横暴だし、人になにか言われることにはがまんのならぬたちだが、鳴滝に関してだけは頭があがらぬらしい。
小萩も同様で、これは鋏丸にまして鳴滝をおそれている。ぎゃくに葛葉のことはあなどっており、鋏丸や鳴滝になぶられでもすると、ため込んだ憤懣《ふんまん》をいっぱいにかかえてやってきて、あざができるまで手足をつねったり、髪をむしったりする。
鳴滝その人はといえば、ふだんは葛葉に気づいているのかいないのかわからぬ態度をとっているくせに、なにかの拍子に目を上げると、ひたとこちらを見つめる視線に出会うことがある。
そういう時、鳴滝はいつもにったりと赤い唇をゆがめてわらい、おまえ不自由はないかい、なにかほしいものはあるかい、と脂をしませた練絹《ねりぎぬ》のような声で問うのだが、そうされるたびに葛葉は心底ふるえあがった。
鋏丸に犯されるのも、小萩につねられるのもいやなことはいやだったが、それらはいずれにせよ人間にされることである。鳴滝の粘着質な目つきには、どこか蛭《ひる》かなめくじにはらわたを吸いつかれるような、なんともいえぬ不快さがあった。
つまりどちらに転んでも、葛葉はいためつけられる身だったのである。少なくとも、昨年までは。
その日のことは昨日のようにおぼえている。ことにきげんの悪かった鋏丸と小萩によってたかってせっかんされて、よろめきながら河原へのがれ出たのだった。理由はおそらくささいなことにちがいなかった。
すわっておびえた眼で、顔を見たのが気に入らぬ、口をひらかぬのが気に入らぬ、そう言われたところで平然とすればふてぶてしいとなじられ、なにか喋《しやべ》ればうるさいと怒鳴られるのだからどうしようもない。
鞨鼓の手入れをしながら、おまえの肌はきれいだねえとあてつけるように小萩がいう。若い娘の血をぬると、鳴り物のひびきが良くなるというよ。ためしてみるかい、おまえ。そういってどれほど餓《う》えても、傷つけられても、みずみずしい張りをうしなわない葛葉のからだを、盗むような眼で見やった。その頭の中でのたうつ生皮をはがれた自分の姿が、葛葉にはすけて見えた。
飯綱はこのときなんの役にもたたない。主人は葛葉ということになってはいても、むしろ使われているのはこちらがわのような気がする。
夕暮れだった。手にした笛の中で、銀の妖獣はひっそりと静もっている。
もし、これにわたしをおそえと命じたとしたら、こ奴はわたしを殺すだろうかとひそかに葛葉は思った。こころよい想像ではあった。だが自分にそれをする力のないのもわかっていた。飯綱は本来はみな鋏丸の所有である。おなじく鋏丸のもちものである葛葉を、うしなわせるようなことはするまい。
さんざん突かれてきずついた、脚のあいだからべとべとした血がこぼれている……
葛葉は泣きはしなかった。かわりに笛を吹いた。
笛音は縹渺《ひようびよう》と河原にながれた。夕風がしろく薄《すすき》の葉裏をかえし、見えない素足でかるがると川面《かわも》の靄《もや》を蹴ってゆく。管のなかで飯綱はねむっていた。鋏丸のおしえたなかで、唯一愛すべきものがこの笛のわざであった。山も河もみなききほれた。涙のかわりの笛のしらべが、暮れてゆく京のみやこを青くそめた。
しばし伎芸天《ぎげいてん》の極楽に遊ぶここちからさめた葛葉がふとあたりを見まわしたとき、いつかそこは七条の近くであった。
都もこのあたりまで来ると、人家少なく、荒れはてて、もとは華麗をきわめた場所であったのがかえってものすさまじい。盗賊もおおいこのごろ、女のひとりで来るところではない。いざとなれば笛中の飯綱をだせばよいのではあるけれども、わが身をまもるためであってもできれば命はうばいたくない、やさしい心根の葛葉であった。
――もどろう。こよいは橋の下ででも夜を明かせばよい。
そう考えて向きなおりかけたとき、ふとなにものかに呼ばれた心地のしたのがそもそも縁であったかもしれぬ。
葛葉はふりむいた。
しらしらと光る月に、さざめく河瀬がまばゆい。ひとすじの光の道のように思えるその流れの先に、丸いものがある。黒く大きなそれは、河上のほうから押しながされてきた人の髑髏《どくろ》が、たまって小山のようにもりあがったものに見えた。
しかしただ流れによどんだのみならば、このように円にはととのうまい。ひとかかえもあるずうたいをどっしりと岩の上にすえた様子は、大きな卵のようでもある。
男の、女の、大きいの、小さいの、若いの、年とったの……肉をかぶっていたころはずいぶんと違いもあったろうが、腐ってしまえばみな同じ一党にほかならぬ。ぽかりと眼窩《がんか》を暗くして、歯をむきだしてげらげら笑っている顔また顔、それら髑髏の殻にとりまかれて、中でなにかが葛葉を呼んでいるのであった。
「誰。そこにいるのは」
応《こた》えはなかった。川風が瀬をわたった。おぼえず、葛葉の手が笛にのびた。しっかりと口にあてる。今度吹くのは、涙のためでない。声の、言葉の、かわりであった。
雲雀《ひばり》の空にあがるように、たのしく笛はうたった。夜はしだいにふかまるが、卵と笛と葛葉のあるその場所だけは、太陽かがやく春野の原であった。
髑髏卵ははじめは小さく、あとには大きく、すわった場所でゆらゆらと身をゆすった。拍子にあわせてゆるやかに、踊っているかのようでもあった。
殻をかこんで髑髏どもも、光の中で歌をうたった。いつしか肉のないそれら顔から、あざけり笑いはきえていた。眼の裏にひろがる光の世界に、とどけとばかり葛葉がたかだかと笛を吹きならしたとき、耐えかねたように卵はきしみ、叫びをあげて噴きとんだ。
灰と、骨粉の、雪のようにきらめきながら降るなかに、ひとりの童子がからだを丸めてやすらかに寝入っていた。
たったいま、産湯からあがりでもしたように、丸裸、濡れたからだからはまだ湯気があがっている。葛葉は歩みより、跪《ひざまず》いた。肩に手をのばす。
ふれるより先、頭があがった。ひな鳥のようにふわふわとした、柔らかな白い産毛であった。大きなひとみが不思議そうに葛葉をみた。太陽の、こぼれ落ちそうな夕日の色の、ひとみであった。
――なんと、美しい……。
「あれからもう一年がたってしまう。つらいことは数限りなくあるけれど、おまえがいるから、わたしは生きていけるよ」
そまつな板がこいだけの小屋の中で、隣に丸くなって眠る白髪|金眸《きんめ》の童子に、そっと葛葉は語りかけた。
「ときどきわたしは考えるのだよ、おまえは、よるべないわたしに、天がおくってくれたただひとつの幸福《しあわせ》ではないかとね。たしかに髑髏はいかにも不祥だ、けれどあれだけの人々がみなおまえの生まれるのを守ってああしていてくれたことを考えると、おまえが悪いものにはわたしにはどうしても思えないのだよ。
きっとあの髑髏たちは、おまえがあそこで生まれ出るのを、祝いに集まっていたのだね。みんな砕けてしまったけれど、あのとき降った光る雪の美しさはどうしても忘れられない。おまえがなんなのかわたしにはいっこうわからないけれど、でもおまえはもしかしたら、蓮の花から生まれる仏さまより、とうといものかもしれないねえ……
……童子、……童子や、……眠ってしまったのかい?」
うーんとうなって寝返りをうつ。髑髏の卵をわって生まれた童子は、ただすこやかな寝顔である。
ほほえみ、葛葉は目を閉じる。川面を風が吹きわたっている。
「では、その女があやしいというのかな」
「いえ、はっきりあやしいというのではござらぬ。ただ見過ごしにするには、多少つよすぎる妖気にございましたよ」
ぐっと杯をほしてひとつ息をつき、
「してまた、あれほどの妖気をはなつ者であるなら、この浄蔵めのおることに気づいてもよさそうなもの。いや、気づかぬほうがおかしい。それがしのおるのを見こした上で、われはここじゃ、手を出せるなら出してみよ、くそ坊主……と、あなどりかけてきたとも見えましょう。となれば、ますます油断のならぬ相手」
「ふうむ」
「もとより妖気をかくすことのできぬのは妖物の中でも小物。力の強いものになればなるほど、さあらぬていで人間《じんかん》にたちまじり、陰にまわって悪をなすものにございます。あの女が何者であるかはいずれ調べてもみましょうが、左大臣殿、くれぐれも油断はなさいますな」
「心得ておる」
ゆったりとうなずき、脇息《きようそく》の上で指を組む。
左大臣藤原忠平卿はこのとき五十二歳、今は病の床にある帝《みかど》の外戚として、権勢は世にならぶものもなかった。七年前に、かれにとっては甥《おい》にあたる春宮《とうぐう》が怨霊《おんりよう》のたたりとて若死にし、さらにその二年あとにもまた別の甥であるあらたな春宮が死んでも、威勢にいささかのかげりもない。
時平、仲平、忠平と、のちの世に三平とよばれるこのひとの、性は剛胆にして剛直、みやびと陰謀にうつつをぬかすがならいの貴族とは、生来ちがったところがあった。兄時平が道真のたたりにより血の絶えるうきめにあったのちも、弟たる忠平卿がなんら怨《うら》みも受けず、いよいよまして世にさかえるのは、菅丞相のぬれぎぬを着せられて大宰府《だざいふ》へやられるおり、ひとり兄をいさめて才ある右大臣をまもろうとしたことが怨霊の胸にもひびいて、手出しをひかえさせたのだともっぱらの噂である。
あるとき、忠平が陣定の座に向かうとちゅう、紫宸殿《ししんでん》の背後にもののけの気配を感じたことがあった。見るとそれは腕に毛がむくむくとおいしげり、刀のような長い爪をはやした鬼であったが、かれは勅命をうけて評定《ひようじよう》に参ずるものを脅すとは何ごとかと怒り、太刀を抜いて捕らえようとすると、鬼はその威をおそれて、北東の鬼門の方角に向かって逃げ去ったという。
その時のことをなつかしげに思い返しながら、忠平は、
「呪詛《じゆそ》やたたり、もののけは、わが身ひとりであればおそれることもない。が、世の民にまでわざわいの降りかかるようなことがあれば、放っておくわけにもいかぬ。先日の、一条の百鬼夜行のことはおききか、浄蔵殿」
「は。すでに」
「さようか。わしはさして気にもせなんだのだが、賀茂の陰陽博士殿がおいでになられたおり、白髪の童子がその先頭で魔を率いていたとかと申し上げると、いちどきに顔色をなくされてな。あいさつもそこそこにあたふたと立ってゆかれたが、その日のうちに葛城へたたれたとか。
葛城と申せば賀茂氏の根元の地、あるいはなにか手だてのあるのかも知れぬが、かほどの術の達人があのあわてぶり。不吉なことでなければよいがの」
と言葉をきり、かたちをあらためて、
「さて浄蔵殿、本日そこもとをまねいたのはまた別の子細がある」
「うけたまわりましょう」
「これじゃ。――それ、あの品をもて」
と下知すると、庭にひかえていたあの若い武士、将門が、一礼してひきさがり、しばらくして、大きなたらいに入れたものをかかえてきた。階《きざはし》の上にさし置き、ふたたびもとの場所に控える。
「ほう、これは……ちと失礼」
浄蔵は立ち上がり、端近まで出ていった。たらいのそばにしゃがみこみ、上から下から、じっくりと検分する。
「これは……骨でございますな」
「いかにも骨よ。だが、ただの骨ではない。ひとつひとつが互いにくっつき、あたかもひとつの岩から彫りだしたように固くなっておる」
たらいの中に入っているのは、数かぎりない人間の髑髏《どくろ》からできた、丸い球のかたわれであった。内側が碗《わん》のようにくぼみ、どうやらそこになにか入っていたらしいあとが見受けられる。
「これを見だしたは、そこにおる小次郎将門よ。小次郎、その話、まず浄蔵殿にお聞かせせい」
「は、承知いたしました。……それがし、殿のご下命を受けて、朱雀《すざく》の大路をくだり、八条のとある御方にお使者つかまつるところでござった」
と、将門は、いくぶん緊張したおももちで口を開いた。
「あまり遅くなっては主人に申しわけも立つまいと道をいそぐほどに、どうあやまったか、人家のあとさえたえてない、あれはてた場所に立ち至りました。都にまいってさほどの時もたたぬ田舎者にて、これはあやまった、不調法にも迷ったかと、いささかとほうに暮れましてあたりのさまを見回しておりますと、ふと、しげみのかげに、なにやら犬の子のようなものが蠢《うごめ》くと見えまして」
気を引かれた将門はその者に近づき、草葉をかき分けて、うっと息を呑《の》んだ。
「鬼でございました」
将門は言った。
「ほうほうと白い髪が針のごとく突っ立ち、牙を剥《む》き、金色《こんじき》にこうこうと燃える目をした鬼の子が、手足をついてもがいておりました。
それがしの近づいた気に感じてか頭を上げ、毒気をはいて手にかぶりつこうといたしましたので、太刀を抜き、頭を切り落としました。胴体も頭も長い間、わかれわかれになっても牙を鳴らし、目を剥き、地面に爪を立てて怒りもがいていたのでございます」
「そのすぐ近くに半分埋まっていたのが、その髑髏の玉なのじゃ」
忠平が言った。
「小次郎はその鬼も持ち帰った。見せい」
下知に従って持ち出されたのは、中に液体を満たしてあるらしい、唐《から》わたりの巨大な青磁の瓶《かめ》であった。
「その中に、酒に浸して首と胴体もろともに保存してある。今ふたを開けさせる。そなたなら浄蔵殿、これがどういうものであるか、わかるであろうか」
「あ、しばしお待ちを。何の用意もなくお開けなされては――」
浄蔵があわてて立ち上がったときにはすでに遅く、呼び出された家人の手によって、ふたの封印ははがされていた。
血けむりがあがった。
絶叫はあとからひびいた。
「おさがりあれ、殿!」
おっとり刀で立ち上がった将門の前で、喉《のど》に何かをぶらさげた家人の男が、もだえにもだえてあがいていた。
人の赤子ほどの大きさのなま白いいきものが、その喉笛に牙をたててがつがつとのどを鳴らしているのである。
「こやつ、生きておったか!」
「やれ、だからならぬと申したに」
とぼやきつつ、これも懐から数珠をつかみだした浄蔵に、胸をけって離れた鬼の子が、梁《はり》の上から襲いかかった。
どさりと家人が倒れる。肉を食いとられ、咬《か》みさかれた喉が花のようにぱっくり口を開いていた。浄蔵は悠然と数珠をとりなおし、
「なうまくさまんだ、ばざらだん、かん」
と呪《まじない》を一声、手にした数珠を投げつけた。
矢のように飛んだ数珠がぴしりと鬼の額にあたった。たまらず鬼は床に転げ落ちる。煙とともに糞のいやな臭いがたちこめ、思わず忠平が袖で鼻を押さえたところ、進み出た将門が、床でもがいている子鬼を、頭から尻まで一刀のもとに両断した。
「こやつは――」
「近づいてはなりませぬぞ、忠平殿。ほれ、まだ動いておる」
「おう、まさに。体が左右に分かれても、まだ生きておるとは」
いくらか青ざめながらも、首をのばして異形のものをのぞきこんでいるのはさすがに剛のものではある。浄蔵は数珠をひろうと、鬼の上で印をきり、
「なうまくさまんだ、ばざらだん、せんだ、まかろしゃだ……」
と唱えて、息をふきかけた。するとたちまち鬼の動きはとまり、さっとすきとおったかと思うとたちまち春の雪のように空に溶けうせた。
おう、と将門が声を立てる。鬼が消えたそのあとに、あたかも水晶でこしらえたかのような、青い霊気をまとった宝珠《ほうしゆ》がころりと転がったのである。
浄蔵はそれをひろいあげ、袖につつんだ。一同そろって音もない。喉を食いさかれた男の、苦しむ声だけが悪夢のようにのこった。
「誰か、その者を看てやれ。助かるであろうか、浄蔵殿」
「さてそれは」
気がかりそうな忠平に、考えに沈みながら浄蔵は言った。
「傷もさることながら、鬼の気にあたっておりますからな。まず、むずかしゅうございましょう。……さても容易ならぬことになりましたぞ。まずはこの場は血にけがれた。席をおうつし願いたい、忠平殿」
ややして、別の場に居をうつした忠平と浄蔵、将門は、それぞれに青ざめた顔を席上にそろえていた。
「容易ならぬというのはどういうことじゃ、浄蔵殿。あのもののけはそれほどまでに危険なものであるのか」
「危険も危険、……あのままに捨ておいては、大千世界にためしを聞かぬわざわいを呼ぼうという大悪鬼の、あれは器にございますよ」
「なに器。するとあれは、本体ではないということか」
「さすがに忠平殿は察しがはやい。さよう、あれは器で本体ではござらぬ。いまだ魄《はく》のみにて魂の宿らぬ器であったればこそ、このやせ坊主のとっさの呪法《じゆほう》で消しされたのでござるよ。――むろん、そちらの若いのの力もあるがの」
おそれいります、と将門が頭をさげる。
さて、と浄蔵は威儀を正して、
「そもそも忠平殿、この世に生あるものは、すべて魂魄《こんぱく》をその身にもっております。
魂は陽にして身死すれば天に昇り、魄は陰にして身死すれば地に帰る、これが人間の生死《しようじ》流転の理《ことわり》にございます」
忠平はうなずき、「うむ、存じておる。続けよ」
「魂はすなわち人間の精神、魄はすなわち人間の肉体とお思いくだされ。人が死にいたれば魂は天にのぼり、ぬけがらの身体すなわち魄は地上にのこって鳥獣虫魚の食らうところとなります。――が、獣に食われるならばよし、世の中には、そのようなぬけがらの魄に別の魂をすりこんで、悪をなそうと企《たくら》むものがおります」
「外法《げほう》の術だな」
「いかにも」
「かの鬼子が、そのような呪法の産物であるとそなたは申すのか」
「まことに察しが良うてあられる。そのとおり。ちとこれをご覧くだされ」
袖の中からとりだしたものを床にころがす。透明な水晶の宝珠が、光をうけてきらきらと美しく透けた。
「心配なさらずとも大事ない、これにはもう、いかなる力もございませぬ。……これはの、如意宝珠《によいほうしゆ》と申します、蠱物《まじもの》にござる」
忠平は驚いたように、
「なに蠱物。……しかし如意宝珠といえば、魔ならぬ、み仏が衆生利生《しゆじようりしよう》のために手になされたもちもののたぐいではなかったか」
「さよう、それもあやまりではございませぬが、人間に陰陽の魂魄あるがごとく、いっさいのものには陰と陽、光と影がございます。み仏の手にあって衆生を救済するも宝珠の力、また蠱物としてつかわれ鬼を生むのもその力のうち」
「むむう」
「そもそも如意宝珠とは、なにより仏舎利《ぶつしやり》をこそ称するものと申します。すなわちこれぞみ仏の骨。また水界の竜王の爪につかまれるものとも、さらには鬼神|荼枳尼《だきに》天の持するものとも申します。……さて忠平殿には、荼枳尼の名をご存じか」
「薄々とは。なにか天狐《てんこ》にまたがる天女で、供養すれば天上天下、行者の望むいっさいの所願成就を約定するとか。だがおろそかにすればおそろしい祟《たた》りを呼ぶ鬼神《おにがみ》であるとも聞くが」忠平はかすかに頬をひきつらせた。「まさか」
浄蔵はうなずいた。
「荼枳尼とは破壊の神たる大黒天の眷属《けんぞく》にして、人肉を、ことに人黄と申します人のあたまの天頂に在する魂魄、六粒のあまつひ[#「あまつひ」に傍点]を、好んで食する夜叉《やしや》の名。大日如来に帰依してからは生きた人間を食うことはなくなりましたが、代わりに人の死するを六か月前に知り、死したのちにその魂魄をとって食らうようになり申した」
「まるで死神のようだの」
「おお死神、まことに。……そうした、いわば死肉食いの神をまつる呪法の中には、なかなかにおそろしく、またいまわしいものがあるのも確かでございます。口にするのもけがらわしいながら、あれ、先ほどのあの鬼子、あれこそは荼枳尼の修法秘中の秘法、骨寄せの秘呪によるものにまちがいございませぬ」
「骨寄せ、……それに、うたがいないか」
「は。それがしも目にしたのは初めてなれど、伝え聞くよりはるかにおぞましいものにございました。如意宝珠すなわち仏陀《みほとけ》の御遺骨を、呪法をかけて汚れた土に埋め、人血と肉とでやしないながら、三年三月のあいだ休むことなく供養いたします。秘中の秘に関することゆえこれ以上のことは申し上げられませぬが、呪法が成れば、あたりにちらばる恨みをのんだ死人の髑髏《どくろ》、自然に集まって土中にこれをつつみこみ、ひとつの卵となって、その裡《うち》に鬼を孕《はら》むのでございます」
「怖ろしいな」
忠平は顎《あご》に手をあてて吐息した。
「すると、あの髑髏の固まった球はその呪法の成ったしるしであったか。だが、み仏の骨などというとうといものが、なぜそのような鬼を生む」
「ものごとには陰と陽、光と影があると申しあげました。陽のきわまるところ陰もまたきわまり、聖のきわまるところまた魔ももっとも強いのでございます。聖なる上にも聖なる、きよらかな仏陀のおん体であったればこそ、生まれる鬼も強うなる」
「ううむ」
「昨年よりの洪水、疫病、……恨みつつ、呪いつつ、死んだ人間の数に不自由はなかったことでございましょうな。かの鬼子とて、将門殿に見つからねばいずこかの陰中にひそみ、人を食らって成長したあかつきには、まさにこの都をゆるがす大悪鬼となっておりましたはず。いやそれだけならばまだよいが、まず――」
「まず? まず、なんじゃ、浄蔵」
「――いや、それはまだ思ってもよしないこと」
思いをふりきるように浄蔵はきっと頭をあげ、
「それよりも忠平殿、三年よりも前に、どこぞの寺なりなんなりから、塔におさめた仏舎利をうばわれたというしらせは届いておりませなんだか」
「さあ、今この場ではちとわからぬが、調べさせることはできよう。だが浄蔵殿、先ほどあの鬼を退治た以上は、もはや心配はないのではないのか」
浄蔵は膝を叩いて、
「やあこれは忠平殿らしからぬお言葉。埋められた仏舎利がただひとつであるとは、誰も申しておりませぬぞ」
「なに」忠平の顔がさっと白くなった。
「あのようなものが、まだ都にはいるというか」
「おそらく。呪法をなしたものの正体は今はわかりかねますが、鬼子の成長せぬさきに人に見つかる危うさはおそらく考えておりましたでしょう。骨寄せの秘呪はなまなかなことでは成就のならぬ大呪、見つかったしくじったですむようなものではない。ひとつが見つかってもふたつ目、三つ目が動けるよう、さらにこまかい準備がなされていてもおかしくはありませぬ」
忠平はすっかり考えこんでしまった。浄蔵は市にいたときとはうってかわって、きびしい顔でじっと正面をみつめている。重くるしい雰囲気の漂うなか、ばたばたと人の足音が近づいてきた。
「申しあげます。申しあげます」
息をきらして下人がうずくまった。
「なにごとじゃ」
「ただいま御門前に、陰陽博士賀茂忠行様ご到着。……至急、左大臣殿にお会いしたいとの、お言葉でございます」
夜の内裏《だいり》はあやしいさざめきに満ちている。紫宸殿《ししんでん》、清涼殿、帝《みかど》のいますとうとい場所とはいいながら、その裡にうずまく悪意のうずといってはしもじものとうてい思いおよぶところでない。至尊の位である主上《おかみ》そのひとであってもことは同じ、いや、とうとい身であればあるほど、その身にたまる闇はさらに濃いのであった。
「ううむ……ううむ……」
先ほどからしきりに聞こえるのは苦しげな呻《うめ》きである。きびしくおろされた御簾《みす》のうちから、喉を絞められたような喘鳴《ぜんめい》がほそぼそともれてくる。
御簾の前にはひとりの女が端座している。誰あろう、その日の昼、市にて歌い舞っていた歩き巫女《みこ》である。名を、たしか鳴滝。白衣に緋袴《ひばかま》の巫女装束もそのままに、膝に小笹をよこたえて、凄《すさ》まじい微笑を口もとに漂わせている。
「苦しめ、苦しめ」
ぬらりと赤い唇をゆがめて嬉しげに囁《ささや》くには、
「つらいであろうの、おのが記憶の鬼に責められるのはのう。……哀れなは道真よ、あの男、なんじの父宇多院より汝がことをくれぐれもと託されていたものを、ふがいない臆病者《おくびようもの》のそなた、ごますりの左大臣やら文章博士やらの言をいれて詔勅《しようちよく》をくだしたばっかりに、大宰府《だざいふ》などという地の果てで、右大臣の身がのたれ死ぬとは」
呻き声がひときわ高くなった。
「そもそもそなたは道真がけむたくてならなかった、……父宇多院は若年のおり関白|藤原基経《ふじわらのもとつね》に政《まつりごと》すべて牛耳られ、屈辱の底に沈んでおったものを、基経死してのちは一手に力をあつめ、藤原家ならぬ文人諸侯から子飼いをあつめたが、中にもっともひいきなが道真であった、……唐への遣いをやめさせ、「朕《ちん》の博士」の名をほしいままにし、娘を女御《にようご》に入内《じゆだい》させ、まさにそのいきおいは天へものぼる勢いであった、……だがなんじの代になり、道真が右大臣にのぼるにいたってとうとうなんじは怖くなったのだ、ふたたび道真の娘を後宮にもち、宇多院のむすこ斉世親王にまで自分の娘を縁づかすとあって、このままでは己は一生この男にとりこめられて暮らすのではないか、いや、娘の婿である斉世親王をこそ帝の位にのぼせんと、わが身を追い落とすのではないかと小心者の汝は夜もい寝がてにすごすようになった、……そこに藤原摂関家がつけこんだ、……汝のもっとも聞きたいことのみをその耳に吹き込んだのだ、……道真が臣たる分を失い、専権の心もて先帝をあざむき、おのが女婿もて帝に代えんとその廃立を欲した、とな」
呻き声はほとんど絶叫にまで達した。これだけの声を立てていながら、だれひとりこの場に駆けつけてくる様子はなかった。帝の身辺に侍すべきものは、全員ががっくりと頭をたれ、涎《よだれ》をたらし、いびきをかいていぎたなく寝入っていた。女が高い笑い声をあげた。深閑とした内裏に、笑い声がどこまでも長くひびきわたっていった。
「道真左遷の報をえた宇多院はあわてふためいて内裏に駆けつけたが、なんじは門をとざして内へいれさせなかった、……面とむかってわが意をとおすことはできぬと自らわかっていたがためよ。けっきょく父の死したあと、なりあがる機会を狙っておった藤原時平ら一統に、うまいこと利用されたと悟ろうことが恐ろしかったのじゃ、なんという怯懦《きようだ》、なんという卑怯、……汝ふがいない愚か者よ、小いやしい畜生にもおとる奴よ、あったら忠臣を死なせ、その恨みにすら正面からたちむかうこともできぬ腰抜けの帝よ」
殺されたかと思うような長い叫び声が夜を裂いたかと思うと、ふいにまったくたえいったかのように静まった。
女、鳴滝はふんと鼻を鳴らすとすばやく裾をさばいて立ちあがり、庭に降りた。素足のまま白い砂をふんまえ、声高く、
「鋏丸。どこじゃ」
はあっ、と一声して、たちまちその前に控えたのは飯綱つかいの鋏丸であった。
蟹のような矮躯《わいく》をひらたくして這《は》いつくばるのに、鳴滝が脚をあげて、踏みつけた。ぐえ、と呻いてますますひらたくなるのに、居丈高に、
「首尾はえ」
「例のおとりはうまうまと忠平が邸に持ち込まれてござります」
葛葉に対するときとはまるで違って、鋏丸の声は畏《おそ》れにふるえてかん高い。四角い顔を白砂に何度もすりつけながら、
「が、随身の者にさまたげられて忠平を討ち果たすまでにはいたらず、ただ下仕えの下司のひとりを殺したのみにござります。鬼子は宝珠に戻りもうした。かの浄蔵と申す坊主が骨寄せの呪法と喝破いたしましたが、いくつの骨を仕掛けておるかはまだ悟らぬ様子。われらがことも、いずれ知りはしましょうが」
「ふふ。浄蔵か」鳴滝は冷笑し、
「あれの父親もまた道真を怨霊《おんりよう》となしたひとりよ。同じ文人の身ながら、道真ばかりがひいき[#「ひいき」に傍点]されることをねたんでの、『氏足の分』とかをわめいて、あの腰抜け帝の詔勅すらみずから代筆しおったのだわ。立役者には不足のないやつよ。……ほほほ、ほ」
ぐりぐりと脚に力を入れた。ひい、と声をあげて鋏丸は白目をむきつつ、
「も、もうひとつ、申しあげることが」
「なんじゃ」
「陰陽寮の賀茂忠行が、葛城山より帰参し、忠平のもとに立ち寄ってござります。な、なんでも、葛城の役一族の、長《おさ》の息子を連れてもどったとかいう話で――」
「なに」
鳴滝の踵《かかと》がまともに鋏丸の背骨を踏んだ。
ぎゃっ、と叫んで転がった鋏丸は、ごろりと仰向《あおむ》いたときには涎を垂らしてひくひくと痙攣《けいれん》していた。ばんびろな顔に浮かぶのは、苦痛というよりはけだものじみた快楽の色である。
ふんと笑った鳴滝は、さらにそのつっぱった股間《こかん》に爪先を蹴こんだ。涙と涎にまみれながら鋏丸がのたうち回る。それを見もせず、鳴滝はのけぞって笑い声をあげた。
「そうか。あの子が来たか。葛城の若子《わくご》が来たか」
小躍りし、頬にうすく血の色をのぼせた様子はあたかも男の訪ねてきたのをよろこぶ乙女のようではある。だがその瞳《ひとみ》はあやしくあかく輝き、血を塗ったように赤い唇はいよいよみだらにぬれぬれと濡れている。
「うれしかろう、鋏丸。いや、今は韓国連広足《からくにのむらじひろたり》と呼んでくれようか。なんじには怨《うら》みのふかい小角の裔《すえ》がこの地にやってくるのじゃぞ。うれしいな、広足。畜生をとおりこして虫けらにもおとるなんじも、その名を聞けば心が躍ろう。嬉しいか。これ、うれしいと言ってみやれ」
「う、うれしゅう、ござります」
と喘《あえ》ぎながら言ったとたん、力まかせに顎《あご》を蹴あげられて、惚《ほう》けたような喜悦の表情のまま気絶した。前を押さえた手のしたでは精をもらしているらしい。
「おもしろい。またもわが妨げをなすか、小角よ」
鳴滝はきっと空を見すえて、月にむかって凄まじい微笑をおくる。
「よかろう。こたびは負けぬ。策はすでに成った。帝はもはやこの手のうちよ。人も世も、以前とはなにもかもがかわったぞ。今度こそはこの日の本をわが手にし、炎となげきのただ中に沈めてくりょう」
見ておれ、と声のみが残った。
すでに女の姿はない。絶息していた鋏丸の影も残らない。白砂の上には人の立っていた跡形もなく、ただこうこうと明るい月光が照っているばかりである。
「お――」
見あげて、声をあげる者がある。
ちょうど朱雀門《すざくもん》の前を、松明《たいまつ》をともしてゆきかかった武士《さむらい》である。
黒漆《こくしつ》の腹巻に弓をたずさえ、太刀を佩《は》いているが、全体のこしらえがどこかちぐはぐで、どうもそれぞればらばらのところから拾ったかぬすんだかしたものと見える。このところ、百鬼夜行の噂で夜出歩くものはほとんどないというのに、どうどうと夜歩きするところから見てかなりの胆力のもちぬしではあるらしい。
「流れ星か。今、なにやら光り物が、内裏のなかからとんだような――」
けげんげに目を細めたところはまだ若そうだが、むくむくと肉の盛り上がった肩や腰は岩をちぎってつみあげたように逞《たくま》しい。
美男というのではないがどこか愛嬌《あいきよう》のある顔立ちに、無精ひげ、顎や頬には戦いの跡らしい古傷が幾|条《すじ》となくはしっているあたり、ふてぶてしい男のにおいが漂う。弓を肩に乗せながら、
「星は辛《かのと》から酉《とり》の方角へながれた。おれのふつつかな知識では心もとないが、このように星のざわめくのは、世の乱れる前ぶれだとか耳にしている。やれ不吉な、悪いことにならねばよいが」
と、前方のくらがりから別の声が、
「純友《すみとも》。純友よ」
「おう、ここじゃ」
こたえて、足をはやめた。行くほどに、十四、五人の男たちが、手に手に松明《たいまつ》をともして群れているのがみえてきた。中にひとり、目だって華美な装束に身をかためているのが焦《じ》れたように手を振っている。
「おそいぞ、純友。今夜は例のない大ばたらきの夜じゃというに、わが副将のおまえが来ずになんとする」
「すまぬ」
と頭を下げてはみるが、その目は言葉ほどおそれいってはいない。腰に手をあてえらそうに仁王立ちしている相手の、横のあたりをさぐるように見ている。
そこに一人の女がうずくまっている。髪長く、秋草の小袖を身にまとった女は、先ほど内裏の庭から消えたあやしの者の仲間、小萩と呼ばれる女であった。
だが、市で見たときとはいささか様子が違う。鳴滝という主人から離れたせいか、その下ぶくれの顔は闇のなかであやしく花開き、目鼻立ちはかわらぬのにまるで別人のようなあでやかさをそなえている。あたかも枯れた萩の花が、露をえてよみがえったかのようなみずみずしい色である。
純友の凝視を知ってか知らずか、女はあるかなきかの笑みを浮かべ、つつましげに頭《こうべ》をたれていた。
男はもはや興味をなくしたふうで、
「まあよい。刻がたつ。出発するぞ。その話はたしかに正しいのであろうな、女」
「はい、たしかでございますとも」
甘えるように女がふり仰ぐ。
「わたくしは今は数ならぬ身となりはてましたが、以前は邸《やかた》に住み、姫と呼ばれる身分でございました。それをあの左大臣、忠平と申すあの男が、位にあかせて無理強いに妻問《つまど》いをし、なびかぬと知るとわが権力にものを言わせて父を罪におとし、財のすべてを奪いましたのでございます。
母は嘆きに嘆いて死に、わたくしは市に立って色売る身となりましたが、怨みは一日たりとて忘れはいたしません。先日、風の噂に聞きましたことには、忠平が邸には今も、わが父より奪った家に重代の宝、釈迦《しやか》の御遺骨たる如意宝珠が秘蔵されているとか。手にするものはあらゆる望みをかなえるという、世にたぐいなき宝でございます。
どうぞお慈悲をもってこのあわれな女をおたすけくださいませ。家の宝をひとめこの目に見せてくださいませ。お見せくださりさえすれば、もはやこの穢《けが》れた身にはとうとい宝は縁なきもの、すべて獲物はあなたさまにさしあげます。名高い盗賊の、あなたさま、袴垂《はかまだれ》保輔さまに」
とふしおがめば、男はますます気分よげにそっくりかえる。
この男、袴垂。ほんらいの名を藤原|保輔《やすすけ》といって、世間になだかい偸盗《ちゆうとう》のひとりである。名前からもしれるように、忠平とおなじく藤氏一門の出ではあるのだが、生来性根いやしく心ねじけ、身をもちくずしたあげくに今はこうして盗賊の首領にまでおちぶれている。
もっとも本人はおちぶれたとはかけらも思ってなどいず、むしろ、自分一人の才覚でここまでのしあがったことに得意満面、ごみためのねずみの王ながら、天までとどけとばかりに愚かな矜持《きようじ》をふくらませている、痴者《しれもの》であった。
「ものどもいくぞ。今宵の獲物は小一条院《こいちじよういん》よ。警護の武士など気にするな。この小萩がすべて心得ておる。左大臣のおしろい面の、しゃっ面ひっぱたいてやれ」
なまめかしくしなだれかかる小萩を馬に引きずりあげて下知すれば、おうっと答えが返る。純友もむずかしい顔をしながらあとにしたがった。
(どうもあの女は気にいらん。あいつが来てから袴垂はすっかり変わってしもうた)
ひそひそと夜を駆けてゆく盗賊の中でひとり思うには、
(むかしの袴垂はもっと慎重であった。部下のこともよく思いやったし、分け前も気前よくふりまいた。無益な殺生をすることもなかった。官を求めて都には出たが、勝手がわからずあやうく野垂れ死ぬところのおれを拾ってくれる侠気《おとこぎ》もあった)
純友もまた藤原一族の出である。そのただしい名を藤原三郎純友、父は藤原北家の藤原 良範、育ったのは父が国司に出向いていた伊予国《いよのくに》でであった。
なにしろ鄙《ひな》の地のこと、都の公家ぶりなど薬にしたくもなく、来る日も来る日も武芸と弓と荒波とにたわむれて育ったが、長じるにしたがって、若い胸には疑問がわいた。
(なぜこうも、富む者とまずしい者とが世にはあるのか)
身分はそれほど高くはないにせよ、公家の血をひく若君としもじもの民との暮らしをくらべてみれば雲泥の差がある。幼いころはへだてもなく、浜の子供らと砂まみれになって転がりまわったというのに、自分が元服をすませる年になってみると、浜の友人は相変わらず、垢《あか》と塩にまみれた筒袖《つつそで》で網を引いたり海藻《かいそう》を拾ったりしている。
なぜかれらは自分のようにならないか。そう考えたのが、ごく単純に育った若者が世のなかのしくみというものに思いをめぐらせたはじめであった。まずそれを知るには官を得て、政《まつりごと》というものを学んでみるがよかろうと、京へ上ったのはいいものの、内裏のなかには伊予から来たぽっと出の田舎者のはいる余地などなかった。
誰か適当な権門につてを頼ればよかったのだろうが、そこまで知恵が回るほど世慣れているわけでなし、また藤原とはいえ伊予の国司などという地方官が父では、どうせさしたるつてのあるわけでもない。行き暮れて、空っぽの腹と財布をかかえて市にへたりこんでいるところに、声をかけてきたのが袴垂保輔、その人であった。
(初めはおれの身体の逞《たくま》しいのに目をつけたのだろうが、同じ藤氏の一門であると知るといたく喜び、おれを自分の副将にした。……盗賊は強きをくじき弱きを助けるもの、富めるものより財を奪い、まずしい者に分け与えるのが仕事じゃと説き聞かされてこれまで従ってきたが、今の袴垂はもはやそのような者ではない。あの小萩という女にたぶらかされて、女の求めることならなんでもする。女のほしがる袿《うちき》を奪うために、罪もない上臈《じようろう》を車から引きずり出して殺したこともある。あのときの叫び声が耳からはなれぬ。小萩はそのとき、そばにうずくまり、流れた血をうれしげに手にとって舐《な》めていた)
きっと視線を前に送る。
(あれはあやかしじゃ。妖物じゃ。袴垂は妖怪にたぶらかされておるのじゃ)
前方で女がけらけらと凄《すさ》まじい声で笑った。
すでに邸の前であった。左大臣忠平《さだいじんただひら》のすまいである小一条院は、二条の南から西洞院《にしのとういん》の東にまでもいたる、とてつもなく広い邸である。
月のない夜、土をかためた築地塀《ついじべい》のうちがわで、邸はしんと眠っている様子である。そのやや北に寄ったまん中あたりに、南に向いて忠平の寝殿がある。寝殿の東西にあるのが東の対、西の対、南へ向かってのびるのを中門廊とよび、端が釣殿《つりどの》。
さらに北側には北の対、西北の対と呼ばれる別棟の舎殿がならび、そして宝物のおさめられているはずの蔵は、もうひとつその北にある――と、小萩は馬上で身をくねらせながら語った。
「だが、警邏《けいら》の者はどうするのだ。武者溜まりには、少なくとも三十人の武士が詰めているはずぞ」
鋭く純友が問いつめたのに、小萩は婉然《えんぜん》たる顔を向けて、
「お気遣いなく。こういたします」
と、ふところから手を出して、ひろげた。
ぷうんと羽音を立てて飛び立ったのは、蚊《か》よりもまだちいさい、銀色の霧のようにみえる羽虫の群れであった。
いったいどこから湧いてくるのか、まるでたちのぼる煙のように、あとからあとからわいて出てつきる気配をみせない。みるまに、左大臣の邸は銀色にひかる靄《もや》のような虫の大群に覆いつくされてしまった。小萩は手をもどすと、
「あの虫どもは羽音で人を正体なく眠り込ませます。多少のことでは目を覚ましませぬ。宝を取るのはもちろん、切ろうが突こうがおもいのまま。……虫を使って殺すこともたやすくはございますが、それでは袴垂さまのお楽しみが減りましょう」
と艶のある目つきをする。
「ようわかっておる。さすがは、おれの女だ」
袴垂は大笑して小萩をだきよせ、唇を吸った。骨のない者のように、小萩の白い腕がしんなりとその背にまといつく。
盗賊どもがにやにや笑って肘《ひじ》こづきあう中、純友だけはそっと横を向いて、苦々しい息をついていた。ふと視線を感じ、目をあげると、袴垂に口を吸われながら、薄目をあいた小萩がこちらを見ている。にやりと笑った。ぞっとした。
(魔性よ)
骨まで冷えるおもいをしながら、純友は呟《つぶや》いた。
小萩の言葉にたがわず、邸はすべて眠りこんでいるようであった。雅《みやび》のきわみにととのえられた庭園、千重池と呼ばれる泉水も、今の刻限なら星をうつして美しくきらめいているはずであるのに、びっしりとその水面《みなも》を覆った銀色の妖虫のために、異境のはての沼のようにどろりと凝《こご》った色にしずんでいる。
「虫どもの羽音は、みなさまには効きませぬ。どうぞお心やすう、お好きなようにあそばしませ」
小萩がたからかに言うと、盗賊どもはわっと廷内に散った。
もとよりこんな豪壮な邸にはかかわりなかった地下《じげ》ものばかり、盗賊らしく内に躍り込んで財物を担ぎだしたり上臈を小脇にかかえてきたりするのはまだいいほうで、そのうち、勾欄《こうらん》を切りそいだり渡殿《わたどの》にのぼって瓦《かわら》をけおとしたり、柱の根もとに小便をしたり、まるきりそこらの餓鬼とかわらないような悪ふざけをしはじめた。
なにしろ、どんなことをしても誰もとがめる様子がないし、あざやかな衣装をとりどりに花のようにちらした上臈衆でさえ、犯されようがなぶられようが正体もなく人形のように手足をのばしているだけなのである。物足りない、となげくならまだしも、狼藉《ろうぜき》はしだいに狂熱のきざしをおびてきた。
「この女、首を切ってもまだ眠ったままでいるかのう」
「いやまて、首切ってはすぐに死んでしもうてわからぬ。ひとつ腹を裂いてみべい。はらわたひきずりだしてやれば、いくらなんでも目覚めようわ」
さんざん犯しぬいた女を囲んで言っているのがいるかと思えば、
「見ろ見ろ、この衣装、この太刀、わしこそは左大臣忠平であるぞよ。いやいや、もっと偉い、そうじゃ、わしこそは主上《しゆじよう》よ。聖なる帝よ。さがりおろう、さがりおろう」
などと、片手に黄金づくりの宝刀をふりまわし、持ち出した錦繍《きんしゆう》はなやかな指貫《さしぬき》や狩衣《かりぎぬ》を着られるだけ着込んで、ふらつきながら酔ったようにわめいているのがいる。
そんな叫び声すら耳に入らぬように、そこここで白い足がなまめかしく持ち上がり、黒い背中がその上で動いている。と、どこかでしめった音がして、鮮血が地に流れた。とうとう腹を裂いたらしい。
「なんじゃ副将どの、おぬし面白くもなさそうな顔をしておるの」
血走った目と酒臭い息をぬっと突きつけられて、純友はおもわず身を引いた。
「い、いや、おれは……」
「このように楽しい夜働きは初めてじゃの。それ、一つ、おぬしもまいらんか。このような美味生まれてこのかた口にしたことがない。さすがは左大臣忠平殿の邸よ」
差し出されたものをひとめ見て、純友はううっと呻《うめ》いた。なま白い女の腿《もも》が、一口かじられた歯形もなまなましく血をしたたらせている。
「い、いまは要らぬ。腹がわるいのじゃ」
「なんじゃそうか。つまらぬのう。ではこちで飲み直しじゃ」
残念そうに離れていくのを見送って、純友はこみあげる吐き気に口をおさえる。
(なんだ。皆はいったいどうなったのじゃ)
皆それぞれに盗賊である。残虐であり酷薄であるのはある程度当然のことではあったが、この所行はなにか。とても人のものとはおもわれぬ。
(鬼)
その一言が脳裏にひらめいた。
純友ははっと空をみあげた。銀色の雲霞《うんか》がその目の先にある。気がついて、耳をすましてみると、その羽虫の立てる高い羽音がほそほそと耳にしみこんできた。
なるほど眠気をもよおす様子はない。だが、何か、頭の奥底で自分ではないぬるりとしたものが身じろぐような気がした。ふいに口の中がかわいた。なにか飲みたい、それも、水ではなく酒でもなく、もっと濃厚な、甘いものを、とおもい、そのとき先ほど吐き気をもよおした女の腿が鮮烈に目に浮かんだ。
あのみずみずしい肉にかぶりつけばさぞかし甘いであろう――そうもの欲しげに考えている自分に気づいて、純友はげっと声をあげてその場にしゃがみこんだ。
(む、虫だ)
わななく手をのばして泉水から泥をとり、耳につめこむ。あの羽音をきいてはならぬ。なんの音も感じられなくなってからようやく目を上げ、悪鬼の所行にふけっている仲間を胸のむかつきをおさえて見渡した。
(あの虫はただ邸を眠らせておるのではない。皆をあやつってこのような所行に走らせておるのは、あの虫なのだ。小萩がこれをやらせておるのだ)
――おのれ。
豁然《かつぜん》として怒りがわいた。世間にとっては盗賊であれ、純友にとっては友であり、仲間である。それをたぶらかし、天も目をそむける鬼畜におとすとは許せぬ。
(たたき殺してくれる。鬼であろうが、蛇であろうが、かまうものか)
弓と太刀をとりなおし、純友はあたりを見回した。小萩の姿は見えなかった。袴垂の姿もである。
おのれ、どこへ行った。駆けめぐって捜すうちに、小萩に手をひかれて、寝殿の階《きざはし》をあがる袴垂の姿が目にとまった。
「おのれ、待て、魔性!」
置き石の上を走りながら純友は叫び、矢をつがえた。小萩がこちらをむき、凄《すさ》まじく笑った。純友は弓を切ってはなった。ひょうと飛んだ。間をおかずもうひと矢。
小萩は目にもとまらず袖を振ると、からりと矢は地に落ちた。第二矢はがっきと口でとらえた。
声もない純友をなまめかしい流し目で見やり、ひと飛び飛んで内に入った。へし折られた矢のみがそこに残った。呆然《ぼうぜん》と純友は弓をおろす。袴垂は操られたもののおぼつかなさでふらふらと小萩のあとに続いた。
「袴垂。保輔どの」
大声で呼びながらあとを追うと、二人はするすると奥の寝所に進むところであった。
「保輔どの。おぬしはたぶらかされておるのじゃ。その女を斬れ。行ってはならぬ。おおい、保輔どの。保輔――」
いきなり口が動かなくなった。同時に身体がみえない壁のようなものに当たってうごかなくなる。
さてはこれも小萩の、と思いはしたが、全身が縛りつけられたようになって指先すらも自由にならない。歯がみしている純友をしり目にかけ、小萩はこちらに気を向けるようでもなく、忠平の寝ている枕もとにまであがって、几帳《きちよう》をさっとはらった。
(お、あれは)
その中にひとつ、星のようにかがやく青い光。
さてはあれこそ如意宝珠、と見るほどに、浄い光にいらだつように袖をあげて、小萩は手足をつき、珠に手をのばした。
袴垂は寝ている忠平をまたいで仁王立ちになると、太刀を抜き、振りかざす。抜き身の刃がぎらりと光った。
(殺す気か)
小萩の手がそろそろとのびる。
(いかん!)
純友は吠《ほ》えた。
動いた。
たくましい腕が、肩が縄をなったように盛り上がった。不可視の鎖がめりめりとひきちぎられた。骨から肉を引きはがすような気がした。
腕をもちあげ、弓をとり、矢をつがえ、切ってはなった。
愕然《がくぜん》と小萩がふりむいた。矢は小萩の眉間《みけん》に突きたった。のけぞって小萩が吹き飛ぶ。銀の雲霞が轟《ごう》、と揺れた。袴垂がくたくたと糸の切れた傀儡《くぐつ》のように倒れた。
そのとたん、
「推参なり、妖怪!」
忠平とばかり思っていた寝姿が大音声で躍りあがった。
現れたのは白い浄衣《じようえ》に身をかためたきびしい顔の男であった。浄衣、すなわち陰陽師《おんみようじ》の衣である。夜の御衣《ぎよい》をかなぐりすて、男は足を踏み鳴らして反閇《へんばい》を踏むと、きよめられた四角四境《しかくしきよう》の四隅にむかって符をなげつけ、かまえた五鈷杵《ごこしよ》に疾《チイ》ッと舌を鳴らして結界を結んだ。
眉間に矢をつきたてた小萩のからだがばらばらにはねた。手は手の、足は足の、胴は胴の独自の生命をもつかのような異妖なうごきであった。手からころげた宝珠がしずかに男の足もとまで転んだ。
陰陽師はそれを拾い上げると、裾をはらい、棒立ちのままの純友をじろりと見やった。
「こ……こやつ!」
うおっと唸《うな》って斬りかかった。
理屈ではなかった。事情はわからぬが今宵《こよい》の襲撃はすでに忠平がわに知られていたこと、この陰陽師はそのための備えとしてここにいたこと、とすれば、仲間が殺した女たちや持ち出した財宝もすべてまやかしであろうこと――小萩というあやかしにだまされつつ、もっと上手のあやかしにかけられていたこと、そういったことがらがさまざまに脳裏で渦巻いて純友を惑乱させた。
動かぬ陰陽師の頭上に白刃がひらめいた瞬間、下から打ちあげられた刃《やいば》がそれをはじいた。「おっ」と純友が飛び下がる。
ほぼ同い年かと思える若い武士が、刀をかまえ、油断なく相対していた。ごつごつと大作りな純友とちがって、鼻筋の通った顔立ちに品の良さがあった。
「将門殿」
殿上から陰陽師が声をかけた。
「その男、殺さんでくだされ。この女の妖術に耐え、矢を射てのけたつわものじゃ。ただ人とはおもえぬ。あとでゆっくり詮議《せんぎ》したい」
「承知いたした。忠行殿」
さびた声で武士がこたえる。
「まいる」
と同時に、目にも止まらぬ太刀筋がきた。小萩の術との戦いにつかれはてていた純友のむかえる敵ではなかった。ごっ、という重い衝撃とともに、膝が崩れた。斬られた、とめまいがしたが、痛みはなかった。刀の背でしたたかに首をうちすえられたのであった。全身がしびれて倒れふす純友に、将門は表情をかえず刀をおさめた。
「さて、女――」
結界の中で奇怪によじれた舞いを舞い続ける小萩にむかって、陰陽師、すなわち葛城山より帰着した、陰陽博士賀茂忠行はいった。
「おぬし、鳴滝の式神《しき》じゃな。あの女はどこじゃ。骨寄せの術はあといくつ施してある。例のあ奴はもう生まれたか。生まれたのならばどこにいる。応《こた》えよ」
声をきびしくして、
「応えよ。式神」
小萩がぐいと頭をあげた。何者かに髪をつかんでひきすえられたような動きであった。血走った目は煌々《こうこう》と赤く輝いていた。鼻は消えてなくなり、のっぺりとした顔に開いたただ二つの孔《あな》になっていた。それは女の顔というより髑髏《どくろ》の顔であった。
血を吸ったような口がくわっと開いたかと思うと、
「――は。は。は。は」
おそろしい笑い声がはきだされた。
同時にごつん、と音たてて、小萩の首がとれた。
あっというまに忠行にとびかかり、その手の中の宝珠を奪いとった。黒い髪を尾のようにひいて、さっと空にかけあがる。
女の朱唇《しゆしん》にくわえられて、珠はあやしく輝いた。
「しまった」
忠行は呻《うめ》き、五鈷杵を投げた。
法具は空中で鷹に変じ、首のあとを追った。
術が破れ、死んだ羽虫の死骸《しがい》が雪のように降ってくる。その中から、
――は。は。は。は。は。
――はははははははははは。
雷鳴のように女の笑い声が降ってくる。
唇をかんで忠行は立ちつくした。後ろで小萩の胴体が崩れ、腐り、一塊の屍肉《しにく》と化しつつあった。逃したことはあきらかであった。
「忠行どの。こちらはすみ申した」
墨染の衣すがたが渡殿《わたどの》をやってきた。浄蔵であった。
「お、浄蔵どの――これは、大儀な」
気をとりなおして僧に目を向け、忠行はしゃんと立ち上がった。
「庭にころがっているやつらはすべて捕縛させ申した。鬼気にあたっておるがゆえ、正気にかえることはなかなかむつかしかろうが、明日の朝、検非違使《けびいし》にでもまとめてひきわたせば良うござろう。――ところで、盗賊どもの頭《かしら》は」
「それがな」
と、忠行はあらためてあたりを見まわす。そこに倒れていたはずの、袴垂の姿がない。自分で動けたともおもえないから、おそらくは、首になって飛び去った小萩が珠とおなじく連れて逃げたのであるらしい。
「どんな魂胆があるのか知らぬが、あのならず者、何かの道具に使われるらしい。なんにせよ、用心したほうがよかろうの」
「まことに。……それはさておき、忠行どの、先ほどはききずてならぬことを申されました。鳴滝とは、いかなる者の名前であられるか。忠平殿のおん前に参上つかまつってより、わけも話さずこの企てを行わせられ、こちらは合点がゆかぬ。鳴滝とはそも何者か。この場にて平らかに、説き聞かせられい」
「ふむ鳴滝か。鳴滝とはな」
目の色を沈痛なものにして忠行はいった。
「鳴滝とは……わが、娘の名前じゃ」
賀茂家の邸は四条に面したあたりにある。よい日和で風も涼やかに、磨きぬいた柱のあいだをそよそよと吹きぬけていくのを、その邸の中でひたすら無聊《ぶりよう》をもてあまし、ふくれているのは志狼である。
「これでは、なんのために都へ来たのかわからん。おいおまえ、保憲とかいったな」
と、こちらに横顔をむけて座している相手にすごみのきいた目を向ける。
「いつまで俺は待てばよい。あの陰陽師はどうした」
「父上は待てといわれた」
向けられたほうはあわてた様子もなく、青みをおびた切れ長の目を静かにあげて、
「おまえも我が家のかかり人になるのであれば、おとなしく家の主《あるじ》の帰りを待つがよい。犬でさえ主人の帰りを待つ。葛城の若子は犬にもおとるといわれたいか」
「何」かっとして起きなおりかけたが、そのとき、庭先にねそべっていた北辰が首をあげ、とがめるように一声|唸《うな》った。意気をくじかれてつい腰を落とす。保憲は表情も変えないまま、机上に広げた典籍《てんせき》をしずかにめくり続けた。
賀茂保憲。十歳にして鬼を見たといわれ、長じては父忠行にまさる術の上手として、しょせん下級貴族でしかない陰陽師としては破格の従四位下までのぼった達人である。
このとき、十四歳。近く加冠の儀をひかえて、水際だった稚児姿は野の狼に似た志狼とならべてみればますます端然として都めいている。木彫りの女面に似た、あくまで動かぬ白皙《はくせき》の表情が、わけもなく志狼をいらだたせた。
志狼が葛城からきたことは邸の誰もが知っている。が、その連れてこられた理由となると主の忠行しか知らない。志狼自身ですら自分が何を待っているのか、待たされているのかわからない。
忠行は都へもどるが早いか、志狼を自邸の保憲にあずけて左大臣忠平のいる東三条邸へとむかった。
それきり、二晩ももどってこない。何一つ知らず、知らされないまま、ただ無為に時を過ごすことにはいい加減|倦《う》んでいた。
志狼のおもてむきの身分はここにいる保憲の乳母《めのと》の息子、乳母|子《ご》とされている。だからこそ今も話し相手めかして同じ房でおたがい息のつまりそうな顔をあわせているのだが、こんな青白い仮面野郎の乳母子あつかいされるくらいなら、死んだほうがましだと志狼は思った。たぶん保憲も同じことを思っているに違いない。
「どこへ行く」
立ち上がった志狼に保憲が抑揚のない声をかける。
「なんでもない。その辺を少し歩いてくるだけだ」
おまえなどと顔をつきあわせているよりはいくらかましだと心にはきすてる。
「だめだ。父上が帰るまで待て。おまえは都に慣れていない。危害にあってはわたしが父に責められる」
「そんなこと、知ったことか。北辰、行こう」
切り捨てるように言って背を向けた。
黒狼をつれて早足に出ていく志狼の背に、保憲はなにやら印を結びかけたが、迷うように手を止め、指をほどいて、かたわらの料紙をとりあげた。
小刀をとってすばやく動かしたかと思うと一羽の白鳥の形にきりぬき、口中に訣《けつ》を唱えて投げあげた。紙はたちまち生きた鳥となって羽ばたいた。
「行け。目を離すな」
鳥は鳴きながら志狼のあとを追って飛びさった。見送って保憲の呟《つぶや》くのに、
「まったく父上は、なぜあのようながさつな者をおそれておられるのか……」
背中でそのようなことが行われているとも知らず、志狼は北辰をつれて洛中を大股に歩いていた。
装束こそ公卿《くぎよう》の家のものらしく、浅黄《あさぎ》の水干、帷《かたびら》に染分袴《そめわけはかま》と一応ととのえてはいるが、髪は下髪《たれがみ》にもせずほうほうとさせたまま、目をいからせてのしのしと歩くので、道行く人はつい横に避け、通りすぎてからまじまじと見送る。くわえてその横に堂々と歩を運ぶ、子熊ほどもある巨狼《きようろう》の北辰はいやでも人目を引いた。
「見やい、なんちゅう大けな犬じゃ」
「いやありゃ犬とは違う、狼じゃ。あんな犬神を連れ歩くとは、どこの童《わらわ》じゃろう。どこぞの河原から流れてもきたか、それとも何かの化生《けしよう》か」
「わぬし、ためしにつぶてでも打ってみぬかの」
「いやなことじゃ。まっこと化生であって、災いでも招いたらどうする」
聞こえないと思ってこそこそ囁《ささや》きあっているのが耳にはいる。志狼はくるりと振り向くと、額を寄せあってこそこそ話している二人にむかって、
「化生とは、俺がことか」
わあ、と叫んで転び転び逃げちるのに、にがにがしく唾を吐く。
およそ都で志狼をいらだたせるものの筆頭に、この人々の目があった。やたらにお高くとまって人を見下すかと思えば、志狼が貴族の家にあると知るとたちまちもみ手でごまをすり、また裏へまわって、ひそひそ陰口をたたく。道を歩けば遠巻きにして、さっきのような好きかってな噂をする。
葛城の里人《さとびと》たちは都人のようには見栄えよくなかったが、裏表のないことだけは確かだった。長の息子の志狼であっても、ふだんの暮らしはほかの里人とかわりなかったし、まちがったことをすれば叱られ、時には面罵《めんば》されるのも同じだった。乱暴で粗野ではあったが、そこは山の空気とおなじく、風通しのよい場所だった。ひきかえて、この都という所の息苦しさはどうか。ねばりつくような都人たちの視線にからめ捕《と》られて、志狼はほとんど窒息しかけている自分を感じた。
都そのものも、志狼を感心させるものではとうていなかった。山にいたころぼんやりと思い描いていた都というものは、ただひたすら美しく、白い壁と赤い柱が甍《いらか》の波をささえて続き、きらびやかによそおった天人のような重みのない人々が、そよそよとゆききするこの世のほかの場所であるはずだった。
だが現実に目にした都は、穢《きた》なかった。道ばたにはおびただしい死骸《しがい》がころがり、蛆《うじ》をまといつかせながら夏の陽に見ぐるしくとろけている。ゆきかう牛車《ぎつしや》は臭い糞をぼとぼと落とし、それを裸足《はだし》の人の足が踏みにじっていく。垢《あか》まみれのわっぱどもがうずくまる横では築地《ついじ》の崩れから雑草がおいしげり、尾を振る牛の尻の毛ははげちょろけている。人の生活する場には避けることのできない穢《けが》れが、ここには充満していた。
(くだらない。こんなものを見るために、俺はここへ来たのか)
失望していたのである。心に描いたものよりうつくしいものは、めったにこの世にあるのではないのだということをまだ知らない志狼だった。
牛車でゆく殿上人がいかに綺羅《きら》をかざり、威勢をほこったところで、志狼の心にはひびかない。白粉《おしろい》でいちめん白く塗りこめ、眉を描き紅をさした顔はただ醜悪だった。葛城の山の山頂から、夜に眺める星空を思えば、そのような美はわざとらしい造りものにしかおもえなかった。
いつのまにか、川のほとりに出ていた。四条の河原はついそこにある。ぶらぶらと歩きながら、小刀を出して河原の葦《あし》を一本きりとり、慣れた手つきで笛にしあげた。
口にあてて吹くと、葛城の尾根を吹きぬける風に似た音がした。われにもなく、懐かしさが胸にわいた。
人よりも、狼に近い志狼のたましいにとって、都ははっきりと異質であった。都もまた志狼を異質としてきらった。
化生といい、犬神という。まさしく志狼は化生であり犬神だった。都は志狼を呑《の》みこんだが、胃に入れてしまってから消化できぬことに気づき、かといって吐きだすこともできずにふきげんな顔をしているようだった。
鬼だな、と志狼は思った。俺もおまえも、鬼だよ、北辰。
声にださずに話しかけると、北辰は主人の心をきいたかのように、くうんと鼻を鳴らして志狼の顔を仰いだ。
――と、その耳が、ぴくと動いた。
おん、とひとこえ吠《ほ》えて、いっさんに前へ駆け出す。
志狼は驚愕《おどろ》いた。命令もないのに食物や猫につられて、勝手に走り出すようなそのへんの犬と北辰はわけが違う。霊地葛城の気に感じて生まれた、神にも近い獣である。それが雷鳴のように唸《うな》りながら、一直線に駆けていく。
「北辰! 北辰、どうした? もどれ!」
北辰は聞いた様子もない。通行人を左右に蹴ちらしながら橋の欄干を躍りこえ、河原に飛びおりた。たむろしていた河原ものが悲鳴をあげて腰をうかす。
「うわっ、熊じゃあ、熊が出たあ」
「馬鹿もん、こりゃあ狼じゃ。食い殺されるぞ、逃げえ、逃げえ」
なだれをうって逃げまどう中を北辰は矢のようにすりぬけ、大口あけてとびかかった。
その先にはひとりの若い娘が、小袖の袖に笛を抱き、おそろしさに凍りついたように立ちつくしている。
「北辰ッ!」
あわや、その細首が黒狼の牙にかかるかと思われたせつな、横から飛びついた白い影が北辰にむしゃぶりつき、がぶりっと横腹に食いついた。
たまらず北辰は横に転げる。それでも許さず咆哮《ほうこう》しながら白い影は牙を剥《む》いて唸り、狼の喉《のど》を咬《か》みやぶろうとしきりに身をよじる。
北辰も負けずに相手をふりはなそうとする。牙がひかり、爪が躍った。そのぎらぎら光る目は、娘が手にした黒漆の笛一管にひたとむけられていた。
ようやく追いついた志狼は、北辰に食いついているのがえらく汚れてみすぼらしいが、確かに筒袖を着た十歳《とお》ばかりの人の子供であるのに気づいて愕然《がくぜん》とした。
「北辰! 北辰、しずまれ。何があった。とにかくさがれ、北辰。さがれ」
「童子や、もうよい、これおやめ、おやめというのに」
二人の声が重なる。おたがいそれぞれの方を引きはがすようにしてわけると、大きな怪我はないものの、手にも足にも、こまかいすり傷や打ち傷がおびただしくできていた。
白髪|金眸《きんめ》の童子はすりむいた手の血をなめながら、今にもまた襲いかかりそうに低く唸りつづけている。北辰のほうはそれよりはいくらか落ちついたようで、主人の顔をふり仰ぎ、詫《わ》びるように尾を垂らして鼻を鳴らしてみせる。毛むくじゃらの首ねっこをつかんで押さえ、志狼はあらためて娘に目をむけた。
「大事ないか」
あい、とうなずく肩がわずかにふるえている。無理もない、立てば人の背たけをこえるであろう巨狼が牙をむきだして迫ってきたのである。娘のやわらかな心が耐えられることではない。娘は志狼の目をさけるように、身をかがめ、わななく手をのばして、今ひきわける拍子に落とした笛をひろおうとした。
ぐる、と唸って北辰が前に出る。
「北辰」
強く叱りつけて、志狼は娘に頭をさげた。
「悪かった。いつもはこんなことをする奴ではないのだが、慣れぬ都でこいつも苛立《いらだ》っていたのかもしれん。許してやってくれ」
「こちらこそ、不調法をばいたしました」
かぼそい声で娘はこたえた。
「弟が、大事の御犬にきつい失礼を、……これ童子、若君におわびをおし」
と頭に手をそえるが、頭を下げるどころか歯をむきだしてがお、と吠えた。
おおきく開いた口のなかで、二本の糸切り歯が牙のようにとがっている。どちらが獣かわからぬ剣幕に、志狼はおもわず苦笑した。
「なに気にするな、仕掛けたのはこちらから、悪いのもこちらからだ。……それに若君と呼ばれるほどの身でもない。この笛、おまえのか」
「あ、それは」
なにげなく、笛に手をのばすのになぜか娘はあわてた。
いそいで取りあげようとするのに一瞬はやく、志狼の手が笛をつかんだ。娘が息をのむ。だが何ごともおこらず、志狼は笛を目の高さにもちあげてためつすがめつしている。
「どうやら割れてはいないような。どれ」
歌口に口をあてた。たちまち美しい音色がこぼれた。
信じられぬ顔で娘は目をみひらく。そのようなことには気づかず、志狼は興のおもむくままひとふし吹き終えると、笑顔になって笛をさしだした。
「よい笛だ。手入れがいい。落としてひびでも入ったらずいぶんこちらの粗相になるところだった。よかったな」
娘はだまって笛をうけとり、胸に抱いた。なめらかな頬がかすかに青ざめているのを、志狼は若い娘のまだ北辰に襲われた衝撃がさめやらないのだと思いなした。ぐあい悪くがりがりと頭をかいて、
「とにかく、悪かった。名乗ろう。志狼という。葛城の志狼だ。これは北辰」
はっと娘は顔をあげる。首筋をたたかれ北辰はしぶしぶと尾を振った。目はまだ娘の袖のなかの、あの笛からはなれない。
「今は陰陽寮の賀茂忠行という男のもとに身をよせている。なにか、つぐないになる品があればいいのだが、あいにく、自由になるものをなにももっていないのだ。この衣装さえ、いけすかぬ奴からの借り着でな。――あ、そうだ」
懐から、先ほど作った葦笛《あしぶえ》を取りだし、娘の手ににぎらせる。
「そっちの弟のおもちゃにでもしてやれ。悪かったな、ぼうず」
と童子にむかって手を出し、あやうく咬みつかれかけてにが笑いする。
「それにしても実に姉おもいなやつだ。北辰とまともにわたりあおうとは、いいかげんなやつなら夢にもおもうまい。感心した。名はなんという」
「さあ、わかりませぬ。わたくしどもはただ童子、とだけ」
娘がわきからかわりに答える。
「わからぬ。姉弟なのにか?」
「おたがい身よりのないものどうし、肩をよせあって暮らしております。ごらんのとおりの異形の童《わらわ》、口もきけず、まともにものもわきまえぬ哀れな痴者《しれもの》ではございますが、たよりない身にはこよなき支えでございます。さいわいこの子も、わたくしをただひとりの係累《みうち》としたってくれているようで」
ねえおまえ、ともつれた白い髪を撫《な》でてやれば、童子はここちよさげに金色の眸を細める。むつまじい姉弟の様子、志狼の胸はかすかにうずいた。
「そうだ、忘れていた。おまえ、名は?」
「葛葉……と、申します」
「葛葉」
よい名だ、といって、志狼はからりと笑った。ひさかたぶりの心からの笑いであった。
「いつも、この河原にいるか」
「夕暮れは。昼間は東の市にて、笛を吹いております」
「笛か。聞いてみたいな。何か値があれば、今この場で一曲所望したいところだが」
「いえ、値など、いただけませぬ。――それでは弟の無礼の申しわけに、ふつつかながら、一節お聞かせいたしましょうか」
「それはいい。ぜひ頼む」
では、とうなずいて歌口を湿す。
一息吹きこめば、嫋々《じようじよう》とした調べは降りはじめた夕闇をつらぬいてながれた。腕を組んでじっと志狼は聴きいる。
童子も今は猛りをおさめて、子供らしいむじゃきな表情で肘《ひじ》をつき、目をとじた姉の顔をみあげている。北辰もさかだてた毛をねかせて、おだやかな目つきで太い尻尾《しつぽ》をゆったりと振った。無意識にぬくもりを求めてか、童子の腕がしっかりと胴にまきついているのも、まばたいただけでなすがままにさせている。
「堪能《たんのう》した」
やがて一曲が終わると、志狼はそういって手を叩いた。
「きっと市にも聞きにいこう。葛葉といって捜せばよいのか」
「いえ、どうぞ、捜すのならば鳴滝の名を。わたくしの主人の名でございます。その方の舞ううしろで、音曲を奏でるのがわたくしの役目」
「そうか、しかしなんだかもったいないな。これだけ美しい笛はまたとないぞ。踊りの囃《はや》しには上等にすぎよう。少なくとも俺はそう思う」
「……おたわむれを」
と俯《うつむ》いた頬が、今度はうっすら朱にそまったような。
「いつか日をみて邸にも来い。かたくるしいところだが、食い物は悪くないからな。賀茂家の邸、葛城の志狼だ。いいか。きっとだぞ」
また会おう、と言い残して、だっと身をひるがえした。
あ、待って――とうしろに聞こえるのをわざと耳にはいらぬふりで、土手をかけあがり、欄干をつかんで橋上に身をはねあげる。ちょうど通っていた公卿《くぎよう》がひえっと声をあげてつんのめりかかるのに、吠《ほ》えるような笑いを吐きつけてから、葛葉にむかってひとつ手を振り、つむじ風のように駆けだした。北辰があとにしたがう。人と狼あとさきにつっ走る、都の汚穢《おわい》はもはやその目にうつらない。
あの娘、子鹿のような目をしていた――。
「ははっ!」
一陣の颱風《ぐふう》となって夕暮れの京を駆けぬけながら、志狼はながいこと忘れていた、爽快《そうかい》な気分を味わった。
(ふしぎな人……)
あとに残された葛葉は、黒い竹笛、みどりの葦笛、ふたつの笛をふところに抱いて、なかば放心している。
この飯綱の笛を吹き鳴らせるのは、現在の持ち主の葛葉その人と、師であり笛をかの女に与えた鋏丸ただふたりのはず。
あるいは鳴滝は鳴らせるのかもしれぬが、そのような卑しい小妖にはかかわらぬ主人だから勘定にはいれぬとして、どうしてあの若者が鳴らすことができるのか。しかも、あれほどたやすく。そと歌口に唇を寄せ、そこにはあの若者の唇がふれたことを思いだして、あわてて離す。
これから笛を吹くたびに、思いださずにはいられぬのではないか。都人にはみられない、あらけずりな顔立ちとつよい光を帯びたまなざしを目に浮かべると、自然に頬があつくなった。
志狼、葛城の志狼といっていた。……茫然《ぼんやり》と立ちつくす葛葉の袖を、誰かがついと引いた。
見返ると、弟の童子が気がかりそうに口をむすんで姉の顔を見上げている。姉の心のゆらめきを感じてか、双《ふた》つの金眸《きんめ》もまた湖にうつる夕日のように揺れていた。みだれる思いをふりはらい、葛葉はわらって弟の頭に手をのせた。
「なんでもないよ、童子や。……さあ、そろそろ夕餉《ゆうげ》にしようねえ。おまえも、向後《こうご》はあまりひとさまに牙をむけてはいけないよ」
童子は知らぬ、という思い入れでぷいと横を向くと、すばやく手をのばし、姉の懐から青々と濡れる葦笛をさらいとった。
あ、これ、と追う手をのがれて、吹き鳴らしながら駆け出す。夜鳥のなき声のように、するどく澄んだ音が暮れる河原を遠ざかっていった。
またどこかへ虫や、蛇を捜しにいくつもりだろう。しようのないこと、と微笑《わら》って腰を上げかけたとき、
「――葛葉」
しゃがれた声が葉陰から呼んだ。
とつぜん氷を背筋に入れられたような気がして、ふりかえる。
茂った葦の下、よどんだ水のたまりから、長い女の黒髪が水草めいて流れでている。
泥を口にふくんだような濁った声音が、
「葛葉え。なにをしておる。ここじゃ」
葛葉は蒼白《そうはく》な顔でひざまずき、葦の葉をわける。
夏の陽にむれた川水の臭いがわっとたつ。泥と青みどろでべたべたのぬかるみに、女の髑髏《どくろ》がひとつある。
それこそ、小萩。ほどけた長い黒髪こそは匂え、忠行の術にうたれてか肉も皮もすべて腐りおち、白骨のあさましい正体の中に目玉ばかりがぎろぎろと光った。
口には破れ裂けた狩衣《かりぎぬ》のはしをくわえている。その先には気をうしなっているらしい男の、小山のようなからだがあった。
「ぐずぐずするな。手を貸せ。この男を鳴滝様のもとへつれてゆくのじゃ。早うせい。妾《わたし》は動けぬ。早う」
吐き気をこらえて葛葉はうなずき、なまぐさい泥をわけて小萩の髑髏を持ち上げた。
流れのなかほどに立ちつくす白い鳥が、その一部始終をじっと見守っていた。
朝廷《おおやけ》が、政《まつりごと》を行うためひらく評定にはいくつかの種類がある。
さだめられた中に御前定《ごぜんのさだめ》、殿上定《てんじようのさだめ》、陣定などがあるうち、御前定と殿上定がしだいに儀礼的あるいは特別な折りの会合という性格をつよめていくのに対して、陣定のみは日常おこなわれる重大な会議として、政に大きな役割をはたしていくことになるのである。
この日、左大臣藤原忠平の遅参について、右大臣たる藤原|定方《さだかた》は、いらだちを隠さぬ様子で左右のものどもに不機嫌な視線をまきちらしていた。
「さように心せかれいでも、定方殿、忠平殿ならばわけもなく定の席を外すなどということはございませぬに」
「さよう、さよう。聞くところによると昨夜、忠平殿の東三条邸に賊が押し入り、いかい乱暴はたらいたとか。さいわい、同席なされていた陰陽博士賀茂忠行殿のおはたらきにより、のこらず捕縛したよしに聞き申したが、おそらく、そのあと始末のために遅れておられるのでござろう。今しばし、しばらく、お待ちあれ」
左右からしきりになだめられるのに、
――わかっておるわい。
苦々しい思いを定方はのみくだした。
はらだたしいのは遅参そのものではない。皆が無言のうちに忠平の登場をまちのぞみ、かれが姿をみせるまではなにひとつすすめようとせぬことである。
もとより陣定は誰が何人来ねばならぬときまったわけでもない。集まる顔触れは一応きまってはいるが、全員あつまらなくとも主要な顔が何人かそろえば、それで評定は行われるのが慣例となっている。
とくに重要なのは上卿《しようけい》と呼ばれる役目で、これはいわゆる議長である。任にあたっては大臣を原則とし、ときには大・中納言におよぶ場合もある。上卿は会合のおこなわれる前日あるいは数日前に出席者に開催を通告し、うけとった公卿はおのおのそれに参否の回答をかえすことになっている。
このたびの上卿は、右大臣たる定方がつとめていた。評定の日時も、左近衛府《さこんえふ》という場所も、きちんと忠平には伝えたはずである。参加の返事ももどってきた。
(なのに)
なぜ。どろどろと胸に渦巻く暗いものを、重い霧のように定方は吐きだした。
もはや刻限はすぎている。集まった公卿は十人、上卿の定方がいるのだから、とっくに評定をはじめていていいはずだった。なのに誰も、始めようとは言いださない。定方も言わない。言いだせないのである。
忠平の見識と知恵を、ここにいる皆があてにしている。かれを抜きにしてはじめて、判断をあやまるのがこわいのか。おそらくそうではない。ただ忠平の強烈な個性がなければ、なにひとつ身動きとれぬほどに無気力な、おそれいったることなかれ主義者ばかりがこの場に雁首《がんくび》そろえているのである。
もとより宇多院にはじまり、現在の主上《おかみ》にまで続く、のちに延喜《えんぎ》・天暦《てんりやく》の治《ち》と呼ばれる長く平和な時代は、少し視線をずらせば世の乱れを見て見ぬふりし、民の窮状に目をとざして遊惰と儀礼に淫《いん》した結果だった。
そこに生まれたのはみやびごとと金と女のことにしか興味のない、怠惰な遊民の群れであった。かれらの首はひたすら、権力のあるほうへあるほうへとなびく。権勢と利得の匂いにばかりは聡《さと》くできている公卿どもの首は、正しく、定方よりは忠平のほうに、そろってなびいているのであった。
(ふがいない――)
袴《はかま》の膝に指をくいこませながら定方は思う。
同じ藤氏の一門にうまれて、五十の坂を越え、こちらが右大臣の位にまでのぼっても、年下の忠平は左大臣。忠平が右大臣から、時平なきあと空位のままだった左大臣に昇位したあとをおそって、定方は右大臣になった。
そのこともまた気に入らない。見渡せば、集まった人数も、忠平が上卿をつとめる時にくらべて少ないように思われる。定に集まる人数はそのまま、上卿をつとめる人物の人望をあらわす。それほどまでに、われはあの男におとっているのであろうか。考えるとはらわたがよじれるような気がする。
今のこの自分の地位も、長くは続かぬであろうというひそかな噂もあった。忠平の息子の仲平はすでに中納言《ちゆうなごん》の位を得、つぎは右大臣、すなわち、この定方のすわるこの座にすわることになろうという話だ。
定方にも息子はある。望みもある。だが息子は決してこの父がすわった座にはのぼれぬだろう。それはあの忠平めの血筋がついでゆくのだ。
時平の血筋をことごとく殺しつくした道真の怨霊《おんりよう》も、忠平|卿《きよう》には手を出さなかったとたたえる声はかしましい。ことし五十五を迎え、身体のおとろえは朝目をさますたびに、つめたい手で首筋をそっと撫《な》でる。もはや自分は長くないであろうという気持ちは、かれの背に常に重くのしかかっていた。
これで終わりか。
われはとうとう位をきわめることなく、あの男の下座にあまんじながら生涯を終わらねばならぬか。
同じ藤の一門に生い立ちながら、同じとうとい血を体内につぎながら、なぜ――
(なぜ――)
と、唇をかみしめたそのとき、
『――はは。見つけた。見つけた』
よき獲物よ。
あざけるような声が、庇《ひさし》のあたりでひびいた気がした。
「なに?」
ぎくっとして目をあげるが、見やったかたには影もない。ただ初夏のあつい陽光がきらきらとかがやいているばかりである。
空耳か――と、目を閉じかぶりを振ったとき、先触れの者の声が、
「申しあげます」
と、こんどは確かにひびいた。
「左大臣藤原忠平卿、ただいま、ご到着にございます」
定方はしぶい顔をした。
座にほっとした空気が流れるなか、やがて、さらさらと衣擦《きぬず》れの音が近づいてきた。
にが虫をかみつぶしたような定方の表情にはまったくかかわりなく、忠平は、いつものように内面をうかがわせぬ落ちついた顔で入ってきて、さだめの座に着いた。
「遅参のこと、まことにもって不調法。失礼の段、ひらにお許しくだされ」
悠揚せまらず一礼する。さだめられた深紫の袍《うえのきぬ》に唐綾《からあや》の下襲《したがさね》をひいて、黄金づくりの太刀に錦の緒《うちひも》をかざり、堂々たるものごしに、また定方は自らの身|顧《かえり》みて歯ぎしりせねばならなかった。
「そのことは、もうよろしい」
不機嫌な声で定方は言った。
「刻もすぎた。では、はじめよう」
その日の評定は春からの京中の疫病の流行、および、昨年のみそかとことし三月に、朝鮮は東丹国より丹後国に来着した国使のあつかいであった。
東丹は貢納をもとめてきている。だが、このところ地子《じし》、すなわち土地に対して支払われる税の減少により太政官は窮乏しており、昨年にも、稲以外を作る雑田まで税の対象となる乗田にくわえたばかりである。他国、それも今すぐ関係がどうこうということでもない国に貢ぐような余裕はない。
それでなくとも、永い太平の世は地方官の腐敗にまずその弊を表し、毎年おさめられる調庸物には粗悪品が増え、ひどいのになると不作であったと言いたてて、おさめずにすませようとする者さえいる。
おととし、調庸をおさめる折りには民部省に品物を監検させ、その結果を地方官である受領の評価として記録させることになったが、それでも事態がよくなることはなかった。
そもそもそれ以前に、受領となっても任国に出向くことなく、身は都に置いたままひたすら財をむさぼる輩《やから》がたんといたのである。そうした滞留者を罰する命令は何度か下されたが、もはや栄達の道は都にないとさとった下級貴族たちはひたすら自分の懐を太らすことに精をだし、罰されてもまったく懲りず、私利私欲の者はますます数を増やすばかりであった。
「いかに制しても、不届きものどもの数はいっこうに減り申さん。ここはさらに罰則を強化し、監察の手を厳しくするのが得策かと」
「いや、しばしお待ちを。ただ厳しくするのばかりが良いとは必ずしもいえぬ。ひとつ、定められた量と質に達した調庸をおさめた受領には、別に報償としてなにがしかのものをあたえるというのでは……」
「それでは本末転倒というものでござろう。そもそものめあては税を定められたとおりにとりたて、収入を増やすことのはず、なのにかえって出るものを増やすようでは、なかなか……」
さまざまに上席から順に意見を述べてゆき、それを下座に控えた参議のひとりが定文にかきとってゆく。あとでこれを上卿がまとめて蔵人頭《くろうどのとう》に渡し、その上で帝に奏聞するのである。べつだん決をとる必要はなく、主上に奏する各自の意見をそろえるためなので、言いあうようでも雰囲気はどこかおっとりとしている。
(おかしい……)
会議を進めながら、定方はどこか妙な忠平の様子に内心首をひねっていた。心ここにあらずといっていいのか、自分の意見を述べてしまうと、いつものようにほかの者の意見に耳を傾ける様子も、ましてや口をはさむような気配もみせずに、脇息《きようそく》に肘《ひじ》をあずけたまま考えこむようにおし黙っている。
昨夜、盗賊が押し入ったと先ほどきいたか、それほど被害が大きかったのであろうか。寵愛《ちようあい》の女のひとりでも奪われたか、殺されたか、それならずいぶん腹の癒《い》えることだと、いじ悪く思っているうちにひととおりの議題がおわった。
「では、本日の定はこれまで……」
定文をまとめていた参議から書類をうけとり、会合の終わりを宣しようとしたやさき、するすると簀子《すのこ》をひとりの童子が近づいてきた。
浅黄の童《わらわ》水干をまとい、白く臈《ろう》たけた顔の童子は座の外に手をつくと、言葉は発さず忠平のほうをひたと見た。忠平の目が光った。かれは立ち上がると、座の上でもぞもぞしはじめていた公卿たちにむかって朗々と声をはりあげ、
「かたがた、いましばらく。今しばらく、お待ちあれ」
「なにごとか、忠平殿。それになにかは知らぬがそのような童子を、評定の場につれてこられては不都合ではござらぬか」
定方がとげとげしい口調で言ったのに、
「お気遣いなく、右大臣殿。これは人にあらず、賀茂忠行殿がわが身にお貸しおきくだされた、式神《しき》にございますれば」
ぴしりと言いかぶせる。その言葉にしたがうように、童子の姿は影のごとくすきとおり、ゆらめいて消えた。
あっ――、と一同、息を呑《の》むうちに、そこには墨染めの衣をまとったきびしい顔つきの僧侶《そうりよ》と、頭をおおってふるえている、若い僧の二人が立っていた。
「こ、これは――」
「このような無法なあらわれ方をいたし、諸卿には詫《わ》びの言葉もない」
年かさの僧が口をひらいた。ずんと腹にひびく太い声で、
「これは比叡山《ひえいざん》に身を置く僧浄蔵、またそちらは廃都平城京は西大寺《さいだいじ》の寺僧にして、浄円と申すもの」
「おお、浄蔵殿とはそなたか」
名を聞きしっているらしいのが意外そうに前へ出て、
「だが、おん身のようなおかたがなぜここへ――」
「さ、われら火急に申しあげねばならぬ儀あって、礼しらずを悟りつつも陰陽博士殿の術にたよってこちらにはまかりこした。左大臣殿、よろしいか」
「うむ」忠平は大きくうなずく。
「では、その者がそうか」
ひえっ、と呻《うめ》いて若い僧が小さくなる。
忠平はしずかに一同を見返ると、まったく別のことをいう口つきで、
「かたがたには、おととし、西大寺の西塔が焼け失《う》せたのを覚えておいでか」
「ああ、そういえば」
と何人かが思いだしたらしく、
「あれは暑い夏であった。道真公の雷震もひときわはげしく鳴りわたったな」
西大寺は、さきの都長岡のもうひとつまえ、平城京の内裏を中心とし、女帝|孝謙《こうけん》が官大寺として創建した寺である。その名は東大寺に対して西の大寺を意味する。創建当時には天皇家のうしろだてあって広大な寺域を有し、薬師、弥勒《みろく》の両金堂、東西の両塔、四王院、十一面堂院など、百を超える堂塔を誇った。
だが時がうつり、都が寧楽《なら》をはなれて山城国《やましろのくに》へ、今の平安京へと移ると、しだいにその勢いもおとろえた。何度かの災害もかさなって、今では壮大華麗の、往時の面影もかすかなものと聞く。
「しもじもの噂には、怨霊《おんりよう》のうらみは京にはおさまらず前《さき》の世の廃都にまでおよぶかと囁《ささや》いたものもあったが、それが、なにか」
おととし七月の西塔焼亡のしらせは、そうした衰亡のながれにますます勢いををつけるものと思いなされていたが、今さらそれがどうかしたのか。皆ふしんげな目で忠平を見上げるのに、忠平は声をきびしくして、
「寺僧浄円とやら。そちがおととし、西塔のやけあとでなした所行を、今、ここであきらかに申してみよ」
むち打つように叩きつけた。びくりとからだをはねさせた僧は、蛙のようにその場に平伏して、わななく声をはりあげた。
「わ、わたくしは、罪をおかしました。堕地獄の罪をおかしました。お許しくださりませ。どうぞ、お許しくださりませ」
忠平つめたく、「そちを許すのはわしではない。ただ、つまびらかに申せ」
「申します、申しますとも。どうぞみ仏の、お慈悲をもってこの身をお救いくださりませ。……わたくしは、七歳《ななつ》の年に御寺にはいり、もったいなくも仏縁を得て得度いたしました。それ以来、女人には触れるどころか影すら見ることもなく、ひたすら精進をかさねてまいりました身でございます。
二十歳をこえて、上のかたがたに日々の精励をお認めいただき、毎朝、東西の塔の、清掃と夜の監見をまかされることとなりました。ああ、それが、あんなことになるとは!」
「どうなったのだ」
「女です。女に会ったのでございます」
物狂おしい目つきで僧は囁いた。
「女は、私が夜の見まわりに出るのを待っていたように、塔の真下に立ちつくしておりました。月が照っておりました。まるで玻璃《はり》のように透明な夜でございました。とうとい御寺に見るはずのない女人の姿に、わたくしが驚いて立ち止まりますと、女は、妙に赤い唇をゆがめてにやりと笑ったのでございます。
そうして着物の襟に手をかけ、するりと滑り落としました。
白い乳房が月をはじきました。みがきぬいた珠のような、かがやく丸い胸乳《むなぢ》でございました。脚のあいだには黒いたけだけしいかげりが貼りついていました。その姿で、女は階《きざはし》を降り、わたくしのもとへゆっくりと近づいてきたのでございます――」
「溺《おぼ》れたな。その女に」
「溺れました」
浄蔵の低い言葉に若い浄円はいい、顔をかくした。
「あれほどの法悦は味わったこととてございませんでした。女はわたくしを思うさまなぶりつくすと、ひとり立ち上がって衣を身にまといました。
待て、どこへ行く、とわたくしは申しました。
逃してはならぬ。逃せばこの先、自分はもはや生きてはゆけぬであろうとまで感じておりました。女のすべてが欲しゅうて総身が燃えておりました。どうしても去るというなら捨ててはおかぬ、とらえて殺し、その肉食らいつくしてもわがものにせずば気のすまぬとまで思いつめておりました」
わが身が欲しいか、とからかうように女が言う。
欲しい、と喘《あえ》ぐように男が答える。
ならばなんじ、わが犬となれ。赤い犬となり、わが身のために炎をはしらせよ。
獲物はあそこじゃ、と指ししめした先に、月光にくろぐろとしずもる影があった。――西塔。
みずから守るべきはずのものに、しかしそのとき男の心ははげしくゆれた。その影の黒さ巨大さは、自分と女とのあいだをへだてる敵のにくにくしさに見えた。
敵。敵だ。あれは焼かねばならぬ。そう思うそばから、幼いころより身にきざんできたみ仏のとうとい威光が思い出され、はっと身がすくむ。
なにを考えているのだ、このような、見知らぬ女にたぶらかされて、大事な塔を焼くなどと――爪を掌にくい込ませ、情欲に目を血走らせた男に、女はうってかわって遊女《あそびめ》の気やすさで、とろけるような甘い声を吹きこんだ。
――ねえおまえ、なにもためらうことなどないじゃないか。こんなところに、仏などいやしない。いるのならなぜ、わたしとおまえとが寝ているときにここへ雷でもおとさないのだい。それこそ、都でひょうばんの、雷神道真公みたいにさ。
おまえのおろがむべき仏は、このわたしさ。つめたい金銅や青銅の仏など、捨てておしまいな。この熱い胸にさわってごらん。すべすべと丸いだろう。甘いだろう。ここちよいだろう。
おまえがいうことを聞いて、あるものを持ってきてくれさえすれば、わたしは、おまえだけの生き身のみ仏になってあげるよ。この肌も、この唇も、脚のあいだのこの濡れたところも、みんな、おまえのものになってあげるよ――
「そうして、火をつけたか」
「つけました」
打てばひびくように答えたのは、すでにその折りの思いに立ちもどっているのだと思われた。酔ったように宙にあげた目にはもはや気後れの色はなく、むしろ、勝ちほこったような狂的な光がぎらぎらと浮いていた。
「女のいうままに、経堂より持ちだしたさまざまな経典を……海を越え、時をわたり、大切に伝えられてきた教えのかずかずを……扉の前に積みあげ、火をはなちました。
火はたちまち燃えあがって塔を包みました。寺の仲間が気づいて飛びだしてまいりましたが、わたくしはまったくおぼえませんでした。皆が叫びあい、足音荒くかけまわるのに、めだたぬようわたくしも同じくふるまってはおりましたが、目にうつるのはただただ女の顔、女の体、燃えさかる炎の上にじっと立ち、わたくしを見つめている女の姿ばかりでございました。
女は腕をひろげてわたくしを招いておりました。炎の舌にねぶられて、白い内股《うちもも》がしっとり汗ばむ様子さえ見えるようでした。木のこげる臭い、紙の燃える音、人の燃える脂臭い煙さえ女のほとの放つかぐわしい香りに思いなされて、衣の下でわたくしはいくども精を放っておりました。朝になるころには、わたくしの守っておりました西塔は、中におさめた仏、経典、もろともにすべて焼け失せ、灰と焼けぼっくいとが、朝空に煙をふきあげているばかりでございました」
「心地よかったか」
「心地ようございました」
浄蔵の問いに、浄円はこたえてどっと床に伏した。
「あれほど心地よいことは、ほんとうに、生まれて初めてでございました」
お許しください、お許しください、と床にうずくまり泣きむせぶ若い僧に、哀れな――と一言口中に呟《つぶや》いたが、眸《ひとみ》に宿るあわれみをおしかくして、浄蔵は表情をきびしくした。
「してそなたが焼け跡より取りだし、女にささげたのはいったいなんであった」
「そ、それは――」
「言え」
「そ、それは」
何度も唾《つば》を飲み込みながら、浄円は、
「珠でございます。宝珠でございます。
塔を建てるとき、その礎《いしずえ》として心柱の中心におさめた、おそれおおくも釈尊の御遺骨、仏舎利の一箇でございます」
「すなわち、如意宝珠。そうだな」
「さようでございます」
それだけ言って、浄円はすべての力を使い果たしたようにぐったりと首《こうべ》をたれた。ふたたび、餓《う》えたようなかがやきが落ちくぼんだ目にたまっていた。
「女はそれを受け取ると、高々と笑い声をあげ、よくやった、ほうびをくれてやろう、こうじゃ――と吐きつけて、わたくしを蹴倒し、踏みつけて天へ舞いあがりました。
手に残ったのはただ、女のまとった袿《うちき》の片袖、ただひとつ。それすらも、はっと気づけば、悪臭を放つ腐りかけた筵《むしろ》の切れと化しておりました。さては化性か、わたくしは狐狸《こり》のたぐいにたぶらかされたか、とそのとき初めて我にかえり、目をあげてみればわが為した所行は朝の光にくまなく照らしだされ、いたたまれず――」
「死のうとしたのであったか」
「首をくくろうかと考えました。また崖の上から身を投げるのがよいかとも思いました。
けれどもいざそうしようとすると、いつもあの女の顔が現れて誘うのです。あの赤い、血をすすったような唇を曲げてにんまりと笑い、人差し指をあげてわたくしを招くのです。
そうするとわたくしはかあっとなって、前後も恥もなにもかも忘れ、衣をかなぐり捨てて女をもとめて狂いまわり、朋輩《ほうばい》に捕らえられ押さえつけられるまで、どうにも止めようがないのです。ああ情けない。見苦しい。かりにも仏に帰依する身が、なぜこんな、おぞましい――」
口ではそういいながら、早くもその狂乱に入りかけているのか、目を光らせ犬のように舌をつきだし、はあはあと息を荒くする浄円に、集まった公卿一同は声もない。落ちついているのは忠平と、忠平への対抗心からしいて動揺をねじふせている定方のみである。
「さて、すさまじい話ではあるが」
さも興味なさげに定方はいった。
「この破戒坊主の話と、この無礼な闖入《ちんにゆう》のしようと、浄蔵殿、何かかかわりがおありか。かりにもここは公の場、かしこくも主上《おかみ》に奏するための国政がまとめられる場である。忠平殿には、どうやら事情を承知しておられるようなが」
皮肉げに忠平を見やるのに、忠平はあくまで泰然として、
「むろんのこと、それはこれからお話しし申す。……おのおのがたには、昨夜わが小一条の邸に賊が侵入いたしたこと、お聞き及びか」
「おお。いかにも」
「いずれそのうち、そのことお尋ねしようと思っていたところでござった」
話が身近なところへもどってきたことで、ほっとしたらしい者が口々に言う。おもねりもあらわな口つきに定方はまた歯ぎしりする。
「実を申せば、その賊の目的は、この浄円の手により持ち出された如意宝珠」
「おお!」
「ひょんなことからわが手にたどりつき、それとは知らぬまま宝として秘蔵しておりましたが、残念ながら賊の首魁《しゆかい》はとりにがし、宝珠も奪われたは心残りではあるけれども、昨夜とらえた賊のひとりの口から、珠の素性と、なにゆえそれが奪われまた求められておるかがあきらかになり申した」
「そ、それはいったい」
「すなわち、厭魅《えんみ》」
ずしりと響く声で浄蔵が言った。
「ひえっ」
「なんと」
「主上の御身を害しまいらせ、わが国を転覆させんとする不逞《ふてい》の輩《やから》が蠢《うごめ》いておる」
ざわざわと話しあう声がおこった。
厭魅とは人を呪う法、それをおこなうのはいうまでもなく大罪である。ましてやそれが高貴の人にむけられるとなると、その重大さははかりしれない。
古くは女帝|称徳天皇《しようとくてんのう》の時代、従三位《じゆさんみ》の位にあった和気王《わけのおおきみ》という人物が、皇嗣になることを望んで巫鬼《ふき》、すなわち神おろしや招魂の術をよくする紀益女《きのましめ》という者に命じて帝を呪詛《じゆそ》せしめた罪で、伊豆《いず》に配流がきめられている。
さらにまたその四年後の神護景雲《じんごけいうん》三年(七六九)には、皇族|塩焼王《しおやきのおおきみ》の妃|不破内親王《ふわないしんのう》とその子、氷上志計志麻呂《ひがみのしけしまろ》が、県犬養姉女《あがたのいぬかいあねめ》という者にそそのかされて女帝を呪詛したとして、内親王は名をかえられた上で都を――このころは平城京《へいじようきよう》が都であった――追われ、志計志麻呂は土佐国へ流された。このときは女帝の頭髪を盗みだし、佐保川《さほがわ》で拾ったけがれた髑髏《どくろ》に入れ、三回にわたって呪いをかけたとされた。
もっとも、これらの厭魅事件はけっして真実ではなく、むしろ政敵を排除するためにつくりあげられたぬれぎぬであったというのが正しい。伊豆に配流がきめられていたはずの和気王は、よけいなことを喋《しやべ》らぬうちに都を出たところでさっさと首をひねられたし、のちの不破内親王、および直接呪殺を行ったとされる犬養姉女も、内親王を敵視した女帝称徳が死去するのとともに罪を許されてもとの地位をとりもどしている。
つまりじっさいにはかれらは無実だったのである。厭魅の事実を生んだのは、宿曜《すくよう》の秘法を持する僧侶《そうりよ》・道鏡との愛欲におぼれた女帝の、疑心暗鬼の心だったとおもわれる。
「しかし、その折りにも実は怨霊《おんりよう》の手がはたらいていたというではありませぬか。それ、あの、淡路《あわじ》の廃帝の……」
「しっ、めったなことを言ってはならぬ……」
おそろしそうに顔を見合わせる。淡路廃帝とは称徳に位を追い落とされた帝、淳仁帝のことである。政争にもてあそばれたこの悲劇の帝に同情する声は多く、のちの世の史書にも「淡路廃帝国土を呪い給《たま》うにより」と、この廃帝の怨霊のために大風や飢饉《ききん》がおこったという風説の広がりがしめされている。
そしてこれらのことは、都が平安京にうつった今の世にもひとごとではないのである。
平安京《へいあんきよう》自体がそもそも、早良《さわら》親王という怨霊の祟《たた》りから逃れるためにつくられた都であるのだ。その成り立ちからして、怨霊の手は骨がらみこの都にからんでいる。
その上たった今も、菅原道真《すがわらのみちざね》という新しい怨霊が人々に猛威をふるっているさいちゅうなのである。呪詛といい、厭魅といい、ひとの悪意を形にするうえでの術や祟りは、政争の道具であるのとはまったく別に人々にとってきわめて現実的なものなのであった。
「では左大臣殿、その厭魅をなしておる者の正体は」
「それはいまだ知れませぬ。が、昨夜の者どもがいささかの手がかりをわがもとに残しており申す。それからたぐってゆくならば、何ほどかのことはつかめるはず」
「ううむ」
「またおのおのがたには、検非違使《けびいし》の者を探索につかうこと、お許しねがいたい」
忠平は言った。
「そしてその指揮は、この忠平が一手にひきうける」
「それは僭越《せんえつ》ではないか、忠平殿」
怒りの声をはなったのはむろん定方、
「官はすべて帝のおんためにのみ動くもの、それをわが邸に盗賊が入ったからと、その探索に私するとは不届きしごくな」
「けして私するのではござらぬ。国に仇《あだ》なす悪を除くためでござる」
凜然《りんぜん》と言いきった忠平に、定方は反駁《はんばく》の言葉をなくした。その威、その品、いずれにしても定方の遠くおよばぬところであった。気圧《けお》されて口を閉ざした定方から、なにごともなかったように目をそらして忠平は、
「なにしろ、ことは厭魅。国家に仇なす大罪なれば、まことの首謀者があきらかになるまで、この話はこの場のみの秘密にすることお含み置きを。
わが身に関しては、すでにそこの浄蔵殿と賀茂忠行殿が強い護身の術を張りめぐらしてくださっている。事あれば、害をうけるのは、主上でなければ誰でもよい。わが身ひとりでたくさんじゃ。
もしや事がもれたならば、相手は、清い僧をもたぶらかす妖術の使い手。いかなる呪《まじない》を諸卿に送りつけるやもしれぬ。疫神の横行もはげしい折りから、そのような危険を、国政にたずさわる方々のうえにもたらすわけにはゆきませぬからな」
「そ、それは」
だれしも自分の身に危険が降りかかるとなるとしりごみする。一時は定方の意見にうなずきかけていたものも、呪ときくときゅうに首をちぢめてあたりを見まわし、周囲とこそこそ囁《ささや》きあっては口を閉ざしてうずくまった。
定方はただ青ざめて、にぎった拳をわなわなふるわせている。忠平は浄円のそばについた浄蔵と目をみかわし、うなずくと、がらりと声をやわらげて、
「では、よろしいな。……あとで、検非違使庁のものをわが邸によこしてくださるようお願いする。まことに今日はお騒がせした。詫《わ》びといってはおかしいが、佳《よ》い酒を持参した。今もってこさせようから、一献酌まれよ、諸卿」
(なにが厭魅か。なにが国か)
宴《うたげ》と化した陣定の席がはね、西三条の自邸にもどった定方は、どろどろと腹中にうずまく妬心《としん》をおさえかねるままに苦い酒を酌んでいた。
(そのようなこと、口実にきまっておるわ。どうせ大事の宝物を奪われ、肝をつぶしてなんとしても取りもどさんがために厭魅などという理由をでっち上げたに違いない。許せぬ。許せぬ。なにゆえあのような横暴が野放しにされておるか。なにゆえあのような男が臣の一位たる左大臣とたたえられておるのか)
前夜、忠平の邸でどのような怪事があったかなどついぞ知らぬ定方である。いや、知ったところでそれもまたつくり話、浄蔵と陰陽師とを巻き込んでこねあげた幻術のしわざと断じたにちがいない。
ようするに何をしようと定方は忠平が気にいらぬのであり、事あらばなんくせのつけどころを見つけたいのだが、いかにしても人物の器の違いをこえられないのであった。
ただひとにらみで自分の反論を封じてのけた忠平のするどい眼光を思いだし、定方はまたまずい酒をひとくち含んだ。これもそれなりに佳い酒ではあるはずだが、先ほど忠平にふるまわれた酒にくらべれば、沼の泥水をすするにひとしく感じられる。またどろどろと腹の底がうずいた。
忠平と定方。双方同じ藤原一門といい、藤原の姓を持ってはいる。
だが、定方自身はつとめて脳裏からおいはらっていることだが、同じ藤原とはいっても家格、血筋の違がいというものはある。すなわち始祖藤原|鎌足《かまたり》につづく不比等《ふひと》の四人の息子、武智麻呂《むちまろ》、房前《ふささき》、宇合《うまかい》、麻呂《まろ》から出た、南家・北家・式家・京家の四家である。
このうちとくに藤原式家は早いうちから天皇家内部に娘を送りこんで姻戚関係を作り、永い年月をかけてちゃくちゃくと権力の基盤を作りあげてきた。現在の藤原一統の中心となる名家である。忠平はまさしくその嫡流に属する。
ひきかえて、定方の血筋はといえば、これは北家である。決して悪い血筋ではないはずだが、家格でいえば式家には一歩をゆずる。その上、定方にはもうひとつ、貴族としてはどうしようもない引け目が忠平に対してあった。
母の血筋であった。
定方の父は藤原|高藤《たかふじ》といい、従三位《じゆさんみ》として内大臣にまでのぼった人である。
だが、この人の生母は、京都西の市の市正《いちのかみ》、すなわち市場を管理する下役人の娘であった。なんらかの位は持っていたかもしれぬが、まず貴族としては下の下、とるにたらぬ下司役人とあなどられてもしかたがない。そんな者の血を、定方は祖母からうけついでいるのである。
さらに、定方を右大臣にまでひきあげる原動力となった妹、胤子《いんし》のこともある。
この妹は宇多帝の女御《にようご》として入内《じゆだい》し、のちにはげんざいの主上となるべき皇子、敦実《あつみ》親王を産みまいらせて、いまは皇太后《こうたいごう》として宮にある。
しかしこの妹の母は、父高藤が若い日、折りあって狩りにでかけたときにゆきずりに一夜をすごした山城国の郡司の娘である。これもまた、けっして名門の生まれとはいいがたい。父高藤がかなりたった後日、ふと思いだして郡司のもとを訪ねてみると、生まれた娘、すなわち胤子はすでに五、六歳にまで成長していたというから、どのていどに見られていたかは考えてみればわかる。
一夜の遊びの結果が思わぬ形をとって、父が驚いたか喜んだのかは今となってはわからぬが、なぜもっと相手の家柄を選んでくれなかったかと定方は恨んだ。
かれがいま右大臣となっているのは、妹胤子のひきたてのおかげであるのに違いはない。が、かの女が宇多帝に入内した当時は、下司と田舎者の血でとうとい皇統を濁らせるわけにはゆかぬと、水面下でかなりの反発があったことも確かなのである。
その後皇太子《のちのこうたし》の母となり、皇太后となった胤子の地位は落ちつき、表だって陰口をたたくものはない。しかし定方は、声にはならぬあざ笑いが風のまにまに几帳《きちよう》をぬい、御簾《みす》を越え、漂っているのを聞くのである。
(見よ、あれが右大臣じゃと)
(おかしいのう。たかが市正と、郡司風情の血の娘にすがって、ひきあげられた成り上がりがなあ)
うるさい、黙れ――と定方は呟《つぶや》く。だがいつものように声は黙らず、定方の腹にたまるどろどろとしたものをさらに煮つめて濃くしてゆく。
定方はまた酒を飲んだ。苦い、苦い酒であった。
(こっけいな。まあ、あわれであるから、面とむかっては何もいわぬでおいてやるがの)
(忠平殿とは天と地の違いよな。血はあらそわれぬよ)
(あのようなものを上にのせては、殿上がけがれるわ)
(ほんにな。あれ、いっぱしの公達《きんだち》ぶって、のう)
(はははは)
(はははははは)
はははははは――と、ほんものの笑い声がきこえていると気づいたのはそのときのことであった。
すっかり食らい酔って、脇息《きようそく》の上につぶれかけていた定方ははっと目をすって庭先を見た。すでに、外は暗い。月が出ていた。池の中島に植えた老松が、怪異な影を藍色《あいいろ》の空にうかばせている。
「誰じゃ。そこにおるのは」
定方は叱咤《しつた》した。盗賊横行のおりから、邸の門は侍所の家人にきびしくかためさせている。主人のゆるしがないかぎり、誰もはいってはこれぬはずである。
と、さびた声が打てばひびくように、
「右大臣殿に世にならびなき宝玉一つ、献上にまかりこして候《そうろう》」
「なに」
ふと気づけば、目の前の簀子《すのこ》にひとりの男が平伏している。
身なりはいやしげ、顔も身体も押しつぶしたように扁平《へんぺい》で、鉢のひらいた頭とがにまたはまるで蟹のような異相の男であったが、それが、ますますひらたくなりながらべったりと額を地につけ、頭上にひとつの珠をささげていた。
魅入られたように、定方の目はそれに引きつけられた。
宝玉は高さ一寸、幅一寸、あくまでも清げにすみきって、おのずから放つ光にきらきらと輝きわたっている。あたりにはみるみる神気ただよい、ただならぬ風情に、定方は思わず裾をはらって立ちあがった。
「苦しゅうない、顔をあげい。……そなた、何者じゃ。宝玉というたか。なんのためにそれをわがもとに持ちきたった」
「へいそれは」
と男は歯を剥《む》きだしてにいと笑う。ふぞろいな黄色い歯をぞろりとむきだしたその笑顔は、まさしく、鋏丸《はさみまる》と呼ばれる飯綱《いいづな》つかいにまちがいない。
「右大臣様こそこの天下第一の宝の主人たるにふさわしいと、わが主人たるおん方がご託宣《たくせん》なさったからでござります」
「なに宝。天下第一の宝とか」
「さよう」
身を乗りだした定方にむかって、いよいよ珠を高くもちあげ、声高に、
「これこそは昨夜、左大臣忠平卿のもとより奪いかえされた霊宝。とうとき仏陀《みほとけ》の御遺骨、天が下にならぶものなき宝、如意宝珠であることうたがいございませぬ」
「う、う、うぬ」
定方は思わず唸《うな》った。
ふだんなら何をよまいごとを、これ誰かこの慮外者をひったてい、と青筋たてて怒鳴るところだが、男の汚い手のひらの上で輝きわたる聖なる宝珠の光が定方の言葉を封じた。見ているうちにも赤、青、碧《みどり》、と五色の光が炎のようにきらめき、たちのぼる霊気はこちらを圧倒するようである。どうしても、ただの水晶玉であるとは思えなかった。
「忠平殿のもとより奪いかえされた、といったか」
「まことに。あの御方こそはまさに、盗賊をも恥入らする悪逆無道の強欲人。この如意宝珠わが主人のもとにありと知るやいなや、家人をつかって無理じいにさらいとり、わがものなりと得々として日夜もてあそんでおりましたが、あのような御方が、この聖なるみ珠を持っていてよいはずがござりません。天も照覧あれ、われら一党、昨夜|侠気《おとこぎ》ある人々を頼んでとりかえしに参りました。
くちおしいことにはあちらも金にあかして、比叡の山のなまぐさ坊主やら、くそ陰陽師やらを頼んで防備をかためておりましたため、多くの仲間をうしない申したが、これこのとおり、宝珠は首尾よくもとの持ち主が手にもどってござります」
宝珠はさらに明るく輝きを増す。
「では、そちがその持ち主というか」
鋏丸はますます頭をひくくし、
「めっそうもござりません。わっしはただの使い者でござります。ただ右大臣様にこの珠をおささげし、主人の目通りをねがいますばかりで」
「主人とな。それは、誰じゃ」
「主人とはすなわち、この珠のまことの持ち主。そうして右大臣様に、珠をお渡しするためつかわされた玉女、天女にござります」
「天女」
ふたたび、定方は唸った。もはやすっかり術中にはまり、人を呼ぶことなど思いもつかなかった。息をあらくして性急に、
「では、その主人を呼べ。その珠の持ち主である、玉女とやらを呼べ。いま、すぐ近くにおるのか。呼べば、すぐ来るのか」
「おん側に候」
凜《りん》と女の声がひびいた。
定方はおっ、と身をそらす。鋏丸が片膝をつく。中島と岸とをつなぐ反橋《そりはし》の上に、ひとりの女が忽然《こつぜん》と姿を現していた。
白衣《びやくえ》に緋袴《ひばかま》をあわせ、巫女《みこ》のかたちをとった女のうしろには、侍女がひとりつつましげに目を伏せている。上品な女房姿に身を変えてはいるが、月明かりに浮かんだその顔は、まちがいなく小萩のものだ。
たずさえた笹がさらりと揺れる。
妖女、鳴滝。
紅をさした目じりをつつとあげると、定方を見据え、うすく笑った。
とたん、定方は身体じゅうに熱い蜜が流れるのをおぼえた。平伏する鋏丸のことなどもはやみじんも頭になく、履物をつっかけるのももどかしげに、庭に飛びおりる。右大臣の威厳もなにもあったものでない。
鳴滝はしずしずと簀子の下まできて、しとやかに頭を下げた。
「そなたが天女か。おお、まことに、なんと美しい……」
定方は息を荒げている。鳴滝を見た瞬間から、奇妙な熱情がかれの肉体を支配していた。寺僧浄円をとらえたのと同じ炎であった。絹のような手にやわやわと包み込まれているかのように、陽根はげしくいきり立ち、少しのきっかけさえあれば目の前の女に飛びかかっていきかねなかった。
「どうぞ、鳴滝とお呼びくださりませ、右大臣様」
甘い声で鳴滝は言った。
「わたくしは、わたくしの護持してまいりました品を、正しい持ち主の手にお渡しするために天よりつかわされてまいったものでございます。あなたさま、定方さまこそは、この世にただひとり、如意宝珠をお手になさるにふさわしい御方と、天がおきめになりましたのでございます」
「なに天が、わしを……」
定方はほとんど恍惚《こうこつ》とした。これまでの長い年月、忠平をはじめとしてかれをさげすむ貴族社会への劣等感にさいなまれてきたかれの心を、鳴滝の言葉は心地よく慰撫《いぶ》したのである。
ほかの血筋ただしいと称する貴族どもを捨てて、天がこの定方こそを選んだというか。あのしゃくにさわる忠平さえも、この定方にはおとったか。
哄笑《こうしよう》がこみあげた。躍りあがりたいような気分であった。ざまをみろ、やはり、われこそは天下にひとり、もっとも尊い人間であったのだと叫びたかった。
鳴滝は捧《ささ》げる鋏丸の手からかがやく宝珠をそっと取りあげると、定方にちかよった。
「さあ、右大臣様、どうぞ珠をお取りくださいませ。あなたさまに授けられるべきものでございます」
「う、うむ」
ただよう薫香にくらくらしながら定方は手をのばす。
つまみ上げようとしたところが、鳴滝は、手にした珠を砂糖をなめるように口に含むと、いきなり定方の首をとらえて口と口とをあわせた。
定方は全身をつらぬいた蜜の矢にうめき声を上げた。袴が精に濡れた。口うつしにされた珠は、あたためた寒天のような感触をのこして食道をすべり落ちていった。定方はふらふらとあとずさり、思わず喉《のど》に手をあてた。
「の、呑《の》んでしまったぞ」
「ご心配なさいますな。宝珠はそもそも、仏陀の骨。人の身のうちに入り、その血肉に溶けあってこそまことの力を発揮いたします」
鳴滝はふたたびもとの姿勢にもどって言った。
「いま、右大臣様は宝珠の胤《たね》を呑まれました。こんどはそれを、大きく育てなくてはなりませぬ。でなければ、すべての望みをかなえる如意宝珠といえども、正しい力を発揮することはできないのでございます」
「育てる? これをか」
定方は心配そうに腹をさすった。仏陀の骨、といっても骨にかわりはないのだから、あまり気味は良くなかった。呑んだ気分はかわらない。少し胃の腑《ふ》が重いような気がするが、それだけだ。
「どのようにして育てるというのじゃ」
「さて、それはまたおいおいに……。宝珠自身が身のうちから、少しずつ右大臣様にお伝えするでございましょう」
と鳴滝ははぐらかし、
「そうして右大臣様には、もうひとり、右大臣様ご自身の玉女を育てていただかねばなりません」
定方は目をしばたたき、
「玉女。珠を護持する乙女か。それは、そなたのことではないのか」
「玉女はひとりの持ち主に、ひとりずつしかございません。わたくしの役割は、その珠を右大臣様にお捧げしたところで終わりました。右大臣様の体内ではぐくまれる如意宝珠の、いわば母となる娘と思ってくださればようございます」
「ううむ――」
「子の生まれるときを考えてみてごらんなさいませ。男子の陽気、女子の陰気、双方二つをともに身にうけて子の肉体が成るのでございます。
宝珠も同じこと。男である右大臣様の陽気に対となる、陰気をそなえた美しい乙女、玉女がいて、初めて宝珠はまったき姿となり、真のちからを発揮することができるようになるのでございます」
「では、そのような娘を捜さねばならぬな。さっそく市中に人をやって」
「お待ちくださいませ。市中を歩いているようなおなごでは、宝珠も濁ってしまいまする。わたしくが良き者を連れてきております。さ、こちらを」
と、音高く手をたたいた。
おう――と応じる声がし、ひとりのがっしりした男がぬうっと姿を現した。
唇をゆがめ、ふてぶてしい笑みを口もとにためた男は、袴垂保輔の顔を持っている。かたわらにほっそりした娘を、抱えるように連れていた。
「この娘は、わたくしが右大臣様の玉女と為すため、とくに育ててまいりました乙女。この者をお使いになれば、宝珠はとどこおりなく成長し、右大臣様にかぎりない福徳をもたらすであろうこと、決してうたがいございませぬ」
「ほう、これは、愛らしい――」
のぞき込んだ定方が嘆声をあげる。
桔梗《ききよう》の小袖を身につけて、被衣《きぬかずき》の下に震えながら、青ざめた顔を俯《うつむ》けているのは――葛葉であった。
「さようか。そのようなことが――」
葛葉が右大臣の前に進んだのとほぼ時を同じくして、邸にもどった賀茂忠行は、息子保憲から昼間の話をきいていた。
式神の鳥を飛ばして見たことを、保憲はすべて父に語ったのであった。葛葉が女の首を拾いあげ、袴垂ともどもどこかへはこびさったことを聞くと、忠行はふかく嘆息して、宙に目を向けた。
「なるほどな。それ以上の追跡はできなんだのかな」
「試してみることはできましたでしょうが、なぜか、あるときから急に術の効力が弱くなり、式を操りにくくなったのです。まるで強い魔か、神仏の力に邪魔をされているようでした。下手をするとあの女の式神に感づかれそうでしたので、大事をとって追うのはひかえました。行き先を突きとめることができなかったのは、かえすがえすも残念ですが」
唇をかむ息子に、忠行は笑ってさとした。
「いや、それでよい。おまえはまだ若い。無理をせぬのがいちばんじゃ。よくやった」
はい、とうなずきはしたが、保憲の顔にはまだ翳《かげ》りがあった。忠行はめざとく気づき、
「どうした。不服そうな顔じゃの」
「はい……」
しばらく、ためらうように口をつぐんでいたが、やがて保憲は意を決したようにきっと父の顔を見上げ、
「なぜ、あのような卑しい者を放っておかれるのです、父上」
ことば強く詰問した。
「あのような者、とは」
「とぼけるのはおやめください。父上が葛城からお連れになった者のことです」
忠行は、む、と唸《うな》って口を閉ざした。保憲はさらに膝をすすめて、
「いかに葛城の役氏《えんのうじ》がわが賀茂家の祖となる一族であっても、それは遠い昔のことではございませぬか。今の賀茂氏は陰陽寮にかくれもない名家、術にすぐれた者ならいざ知らず、呪力はあっても操りかたにおいては陰陽生にもおとるあのような山犬を、どうしてわが家でやしなわねばならぬのです」
「おまえが気にすることではない。わしには、わしの考えがある」
「父上!」
「聞かぬぞ、保憲。いずれおまえにも話すときがあろう。今日はもう休め。大儀であったな」
言いおいて、部屋を出る。
取り残された保憲は、だまって俯き、膝の上の手を握りしめていた。庇《ひさし》からさし込む月光が、まだ産毛しか生えないなめらかな頬をいっそう青白く見せている。
「おい。飯はないか。食い物だ。腹が減った」
忠平の小一条院の奥まった塗籠《ぬりごめ》で、藤原純友が大声でわめく。
「うるさい」
見張りをかねて同じ室内にすわっている将門がじろりと睨《にら》んで叱咤《しつた》した。
「盗人《ぬすつと》の身で贅沢《ぜいたく》をほざくでない。殺されなかっただけでもありがたいと思え」
「思っているとも。しかし、腹が減ったのとありがたく思うのとは別の話だ。殺されなかったのはありがたい。しかし、飯がもらえればもっとありがたい」
「気楽な男だ」
将門もいささかあきれ顔だった。忠行と浄蔵のふたりに知っていることすべてを聞き出されたあと、処分が決まるまでのあいだ、武者所《むしやどころ》のせまい塗籠に押し込められることになった純友だったが、妙に人好きのする男で、将門自身さえどうやって説得されたのかわからぬうちに、縛った縄をはずさせられてしまった。
それでいてべつだん暴れる様子も、逃げだそうとする様子も見せずに、まるでわが家にでもいるようにくつろいでいる。しまいに飯を持ってこい、酒を持ってこいと言いだすに至ってはあいた口がふさがらないが、それでもふと、それほど言うなら持ってきてやろうかと思わせるおかしな魅力がこの男にはあった。
「こわくはないのか、お主。たった今、この場へ検非違使《けびいし》を呼んできてお主を捕らえさせるのかもしれんのだぞ」
「そのときは、そのときだ。俺とて放免の刀にかかりとうはないから、そうなったらまた必死で逃げるさ。だが、お主は逃がしてくれまいなあ」
「当然だ」
機嫌悪く言ったが、なんとなく、
「だが、逃げたとしてどうするつもりだ。仲間はみな捕縛されたぞ」
どちらかといえば口の重い将門がついそう言葉をつづけてしまう。
「むろん、仇《かたき》をうつつもりよ」
「なに、仇だと。きさま、また懲りずに忠平様に――」
中腰になって刀に手をかけた将門に、純友はこれも腰を浮かせて両手を振り、
「ち、ちがうちがう、ちょっと待て。はやまるな。俺が仇は忠平殿ではない、あの、小萩という女よ」
「小萩だと。それはあの、袴垂のそばについていた女か」
「そうよ、あの女よ」
腰を落とした将門に、ほっとしたようにまたあぐらをかいて純友は目をぎらぎらと光らせた。
「あの女が保輔を妖術でたぶらかしたおかげで、なにもかもが悪くなってしまったのだ。あいつだけは許せぬ。いったい何がどうなっているのかはわからぬが、あの女の首だけは俺がこの手でとってやる。仲間の仇じゃ」
ぐっとごつい手を握りしめ、
「――そうとも。必ずな」
「かわった男だな。お主は」
しみじみと将門が言ったのに、にやりと笑みを返して、
「お主もなかなかの腕前よ。おれが真正面から打ちかかって、一合すらも打たせなかった男など初めて会ったぞ。お主、名はなんというのだ。俺は純友、藤原三郎純友だ」
「――将門。平小次郎将門」
「将門か。よし、これで名前もかわした」
にやにやしながら純友は、
「そういうわけだから、名をかわしたわれらが友となった証《あかし》にだな、義兄弟の杯を一献酌めるように、ここに酒を――」
「調子にのるな」
怒鳴りつけながらも、将門の謹厳な口もとには、いつのまにか、かすかな笑みが浮かんでいる。
そして、そうしたさまざまなことが起こっているとも知らず、賀茂家の邸の屋根の上で、志狼は北辰とともに長々と寝そべり星を見ていた。
昨夜まではこうしていても、山の自由な空気と風のかぐわしさを思い、ため息がもれるばかりだったが、今夜は違う。星のうるんだ輝きは、葛葉というあの娘のやさしい眸《め》を思い出させた。夕暮れの河原に流れた笛の一節を、口笛でなぞってみる。あの娘も、この降るような星空をどこかで眺めているのだろうか。
「なあ、北辰」
そばでうずくまる狼に語りかける。
「あの娘、市場で笛を吹いていると言ったな。明日市へ行ってみれば、またいるだろうか。葦笛《あしぶえ》しかわたすものがないのは、なんとも気の毒だった。今度はもうすこし別のものを持っていってやろう。なにがいいと思う、おまえ?」
むろん狼は答えない。ことさら興味のない顔で大きな欠伸《あくび》をすると、前脚に頭をのせて目を閉じた。
志狼は気にしない。もともと返事をもとめて話しかけているのではないのだ。目を輝かせてまた星空を見上げる。あの娘が同じ都の空の下にいるということを考えると、ただひたすら、胸がおどってならなかった。
どこかさびしげなあの小さな顔が、喜びに輝くところをぜひ見たい。そのためには、何をやるのがいいだろう。布か。櫛《くし》か。鏡がよいか……。
思いは乱れてたのしく宙を飛びかった。すべてを見つめて、月は天頂にのぼる。青い月光は、志狼の夢をもほんのりと青く染めた。眠る志狼の瞼《まぶた》の裏で、笛を抱いた娘は、憂いを捨てた明るい笑顔で、優しくほほえんでいた。
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二 章 白童子
「笛吹きの娘? 知らぬな。笛を吹く芸人くらい、ここにはいくらでもおる」
「十四、五の娘なのだ。白い髪をした弟を連れている」
伸びあがるようにして志狼は言いつのった。
懐には、葛葉にやるつもりで先日手に入れた扇が入っている。金に松を描いたものである。家主の忠行や、気位の高い保憲に相談するのはしゃくにさわるので、目を盗んで外に出ては、人の使い走りをしたり荷を運んだりして、銭をためて買い求めた。さして高価な品ではないがこれを手始めに、いずれはもっと美しいものを手にいれてやるつもりでいた。
だがせっかく訪ねた東の市には、葛葉の姿はなかった。そこここでむしろを広げたり、おのおの芸を披露したりしている芸人仲間に尋ねてまわったが、知っているものはなかなかいない。
「ああ、そういえば、歩き巫女《みこ》の主人の後ろで笛を吹いていると言っていた。たしか、鳴滝とか」
ふと思い出し、鳴滝の名を出してみると、ようやくひとりの若鮎《わかあゆ》売りの女が、ああ、そういえば、と膝を叩いた。
「なにか知っているのか」
「いやあ、知っているってほどじゃあないけどねえ」
汚れていても精悍《せいかん》な志狼の顔に流し目をくれながら、女はしなを作って、
「こないだ、頼まれて東一条の殿さまのお邸《やしき》に鮎を届けにいったとき、なんだか見覚えのある顔を見たような気がする。名前は知らないけれど、確か、あれは小萩がさいきん引き入れたばかりの男にまちがいないと思うよ」
「小萩というのは誰だ」
「だからさ、その鳴滝という巫女の後ろで鼓をうっていた女だよう」
なまぐさい匂いのする手で志狼の手の甲をつねる。
「まったく手の早い、腹のたつあまだったけど、そいつが四、五日まえに連れてきた男がお邸の内外《うちそと》をうろうろしていたのさ。どうやらあそこの中に寝起きしているような気配だった。早々に捨てられたんじゃなきゃ、小萩もいっしょにいるんだと思うよ。もしかしたら小萩なら、雇われ仲間の行く先くらい知ってるかもしれない。いったいどうやって右大臣様のお邸なんかにとりいったのか、わからないけどねえ」
「右大臣。東一条。葛葉はそこにいるんだな」
「いるかどうかは知らないよう。ただ、鳴滝って巫女が使ってた女が、そこにいるかもってだけで――ねえ、それよりさ……」
「わかった、ありがとう。邪魔をした」
「あ、これ――」
からみつく女の指を払って、志狼はさっさと駆け出している。
後ろで、ちくしょう、なんだってんだ、とわめく女の声が聞こえていた。なまぐさい。志狼は鼻筋にしわをよせて、手についた魚のうろこを払いおとした。
(右大臣――)
なぜ、そんな名前がここで出てくるのだ。
北辰とともに都の大路を駆けてゆきながら、志狼はくむくむくとわき起こる不安の黒雲を感じた。
まだ葛葉がそこにいるときまったわけではない。わけではないが、いやな感じがする。匂いがするのだ。首筋のうしろがちりちりし、額の一点が燃えるように思う。北辰ならばたてがみを逆立て、牙を剥《む》きだしているあたりだ。
気に入らない。
(葛葉――)
右大臣が具体的にどういうものであるか志狼は知らぬ。だがそれがなにか国政に関わる高い職分であること、貴族の中でも位の高い者であること、ていどの知識は持っている。
政《まつりごと》とは山そだちの志狼にとって、都と同じくえたいの知れない、不気味でつかみづらいものである。葛葉の澄んだ子鹿のひとみは、そんなどろどろとしたものと関わっている人間には似つかわしくないと志狼は思った。
それは幼い嫉妬《しつと》であるかもしれなかった。先ほど、手にからみついてきた女の指のしんねりとしたやわらかさを想像して、走りながら、志狼は音たてて唾《つば》を吐いた。
右大臣藤原定方の邸はすぐに訪ねあてられた。東市のある七条からここ一条まで、ひといきに駆け抜けて志狼は息もほとんどきらしていなかった。
都は、北へ行けば行くほど、つまり主上のいます内裏に近ければ近いほど身分の高いものが多くすむ。まずしい庶民が多くあつまる市のあたりとちがって、道ゆくものの身なりもものごしも、あきらかに金がかかって品がよい。巨大な狼をつれ、蓬髪《ほうはつ》を風に乱した志狼の姿は、賀茂家のあるあたりを歩くよりももっと人目をひいた。
(お――)
騒ぎが起こっているのに気づいたのは邸のすぐ近くまできたときだった。二人の武士が、ひとりの子供をよってたかって門内から引きずり出そうとしている。その子供の振り乱した髪が、陽光をうけて銀色に光るのが目に入った。
「おい!」
自然に志狼は走り出していた。
おん、と一声|吠《ほ》えて、北辰が前へとびだす。主人の先へ走り抜けると、子供の襟をつかんで振り回そうとしていた武士のひとりに、全身で体当たりした。
うわっ、と叫んで武士が子供を取り落とす。白髪の童子は地面にころがり、くるりと身をひるがえすと、金色の眸《め》を光らせて歯を剥きだした。
すばやく起き直った北辰が、かばうようにその前に立つ。
「こ、こやつ!」
別のひとりが激高したように刀に手をかけた。
志狼はちょうどそのときに駆けつけた。
「待て、待て」
と叫びながら童子と北辰をかくすように後ろに押しやる。
「ちょっと待ってくれ。この童子は俺の知り合いの弟だ。少しばかり頭が弱くて、ものごとをわきまえない哀れな奴なのだ。なにがあったかしらないが、幼いもののすることだ、ひとつ勘弁してやってくれ。頼む」
「うすっ気味悪い小僧め」
北辰に体当たりされた武士が、不機嫌そうに胸のあたりを撫《な》でながら言った。
「うーうー唸《うな》るばっかりで、ろくに口もききよらん。いかんと言うておるのに、無理にお邸の内に入ろうとするから止めておっただけだ。わしらとて、たかがわっぱひとりを斬る刀など持ち合わせておらぬよ。どこなと好きなところへ連れていけ」
「もうしわけない。こいつにかわって謝る。ところで、この邸中に、葛葉という娘が来てはいまいか。十四、五の、笛の上手な娘なのだが」
「葛葉? 知らんな。だいたい、なぜおまえがそんなことを訊《き》く。おまえもなにか、このお邸に含みでもあるのか」
「いや、そんなことはない。別に、どうということはないのだ。悪かったな」
雲行きがわるいとみて、ひとまず志狼は引くことにした。頭を下げ、童子をひっぱっていこうとするが、童子はなかなか動こうとしなかった。地面に爪を立ててしがみつき、しきりに身もだえして門の内にはいろうとあがく。
「おい、いい加減にしろ」
しまいに志狼がかんしゃくを起こした。
「いつまでもぐずぐずしていて、またややこしいことにでもなったらどうする。おまえの姉はあの中にいるのか。いるならいるで、俺がなんとかしてやるからとにかく動け。しばらく引かねば、あの武士どもがまた来ておまえをつかまえるぞ。人を呼ばれでもしたら、いつまでたってもおまえは姉には会えん。それでもいいのか」
童子はぎらつく眸で志狼を見すえるとそっぽを向き、ますますはげしくあがいた。
この、と志狼が頭に血をのぼせかけたとき、北辰が、つと首をのばしてたしなめるように童子の頬に鼻面を押しあてた。
童子はびくりとし、まばたいて北辰を見た。
二組の金眸、狼と人の眸が出会った。
その間になにか形のないものが流れた。童子はしばらくじっと北辰の眸を見つめ、ふいにくしゃっと顔をゆがめたかと思うと、赤ん坊のように声をあげて泣きだした。
「こ、こら、どうした」
あたりはばからぬ大泣きに、志狼はあわてた。
「おい、待て、泣きやめ。泣きやめというのに。……くそっ、おい、北辰、おまえか、泣かせたのは。とにかくこっちへ来い。来いというのに、ほら」
しゃくりあげながら手をひいてゆかれる童子のあとを、北辰がついてゆく。その眸は考え深げに澄み、遠ざかる右大臣邸とその築地《ついじ》の中から立ちのぼっている一筋の煙を、振り返りつつじっと見守っていた。
(どこかで、声がしたような……)
懐かしい声……。葛葉は脇息《きようそく》に伏せていた顔を、ものうく上げた。
弟からも、親しんだ場からも引きはなされて、ひとり孤独に泣いていた心を声はかすかにゆるがした。座と定められた御簾《みす》のうちをいでて、しばしはしぢかに立ち、耳に手をあてて聞き入ったが、もうそれ以上なにも聞こえてくるものはなかった。
――やはり、空耳……
いっとき浮いた心はあっけなく沈んだ。葛葉はちいさなため息をついて、ずしりと肩にのしかかる重い五衣《いつつぎぬ》をひきずりながら、また座にもどった。
市に立つかの女の姿を見知ったものがもしこの場にいたとしたら、目をうたがったはずである。汚れた小袖を脱ぎすてて、衣の色目は夏の藤重《ふじかさね》、その上にはさらに唐綾《からあや》の袿《うちき》、名前にちなんで葛を織りだした表着《うわぎ》には金銀の糸を贅沢《ぜいたく》に使って、あっぱれ女房装束によそおった姿はまさにまばゆいばかりのあでやかさではある。
だがその白い顔には前にもまして憂愁の色が濃かった。長い睫毛《まつげ》はつねに露のしずくを含んで濡れていた。人の居ないときには声をしのんで泣いた。さびしさが、娘の心とからだをあえなく細らせているのであった。
動いてはならぬと、新たな主人たる右大臣にはきびしく言い渡されてあった。それはすなわち、鳴滝の命令でもあった。
座とさらに部屋そのものの四方に、北には玄《くろ》、南には赤、東には青、西には白、の四色の幣《ぬさ》を立てまわしたこの場はまさしく自分を閉じこめる牢獄《ろうごく》であると見えた。
かぎなれぬ香を焚《た》き、朝夕|呪言《じゆごん》を唱えさせられるそのことが、どんな意味をもっているのか知りようもない葛葉である。だがわからないながらに、自分がなにかあぶないこと、昏《くら》い企《たくら》みに巻き込まれようとしていることは、ひと一倍つよく感じた。
もとより清い身であるとは信じていない。飯綱を操り、多くの人間をあやめてはその魂の精髄である人黄を奪ってきたおのれは魔である、鬼女であると、幼いころから鋏丸や小萩にはいいきかされ、自分でもそうと思いなしてきたけれども、その実、だれより澄んだ魂をもっていることを葛葉はまだ知らない。
そういう娘だからこそ、この場におかれているのだということもわからない。ただ、自分のような畜生使いの穢《けが》れた女が、こんな高貴の姫のような扱いをされることにとまどい、怖れるばかりである。
目をとじれば、離ればなれの弟の顔が目に浮かんだ。邸に引き入れられるときにはぐれてしまった、あの子はどうしているだろう。
姉を見失い、泣いてはいないか。迷ってはいないか。
河原者には狼っ子とおそれられる異形の童子でも、姉の目にしてみればほんのいたいけな子供にすぎない。あの小さな身体で、細い手足で、必死になって姉を捜しているところを思いえがくと、涙があふれてならなかった。家族と呼べるものが葛葉にあるとすれば、あの童子こそはまさしくそうであった。
飯綱の笛のみはまだ手もとにあった。葛葉はそれを、つねに大切に懐中していた。
飯綱になぐさめをもとめるのではなかった。その笛に触れるたび、鳴るはずのない笛をかるがると吹き鳴らしたある少年《わかもの》の、すずしいまなざしが瞼によみがえる。
濃い香の匂いがこもる御簾の中で、重い衣装に縛られながら、そのときばかりは葛葉の想いは風に乗った。さらさらと薄《すすき》の鳴る河原で、無心に笛を吹いた記憶は、楽しい思いをしたこと自体がごく少ない葛葉にして、どんな宝にもまさる思い出であった。
(いまごろ、わたしを捜しに来ておくれだろうか――)
必ず、行くと言っていた――そう思ってわずかに胸をときめかせ、また次の瞬間には、今はとらわれ人にもちかいわが身を思って心を沈ませた。
いや、思いかえせば、人を殺し淫《いん》をむさぼるこの肉体が、あのどこまでも澄みわたる瞳《ひとみ》の前になど出られるはずもない。
でなくとも、身なりからして、いずれどこぞの身分ある人の身内なのであろう。そのような人が、卑しい河原者の娘などに心をかけるはずもない。どのみち夢だったのだ、幻だったのだと、しいて自らに言いきかせると、ひとりでに熱い涙は頬をつたった。
ああ、泣くまい。泣いてもどうにもならぬ。
袖口でそっと涙をぬぐい、せめても笛に思いを澄まそうと懐に手を差し入れたとき、荒い声が無遠慮に庭先からかかった。
「姫君にはお悲しみじゃな。なんぞ俺に、できることなどあるか」
葛葉は手を引き抜き、きっと唇をひきしめた。
「なにもない。どうぞわたしには、かまわないでおくれ」
「それではいこう愛想がない。一つ屋に暮らすもの同士じゃ、少しは情けをかけてくれてもよいものを」
腕に巻子本一山とおびただしい画像をかかえて出てきたのは、袴垂と呼ばれるかの盗賊であった。
盗んだ布子はどこかに捨てたか、浅黄の狩衣《かりぎぬ》に風折烏帽子《かざおりえぼし》をつけ、いっぱしの貴族の下仕らしくこしらえているが、ぎらぎらとものに憑《つ》かれたような目つきはかくしきれない。美しい女房姿の葛葉をものほしげな目で眺め、
「のう、仲良うしようではないか。右大臣殿におかれてはおぬしにきつい執心、如意宝珠の母たる玉女を汚させてはなるまいと下へも置かぬもてなしじゃが、のう、本当のことを知ればどれほど驚くであろうの。浄い処女《おとめ》が実は河原の遊女《あそびめ》、それも、飯綱の外法をつかう人殺しであるとはのう」
「そのようなこと、今さら教えてもらわなくても知っている」
ともすれば震える声を張って葛葉はこたえる。かの女はこの袴垂という男がどうにも気に入らなかった。
小萩に命ぜられて鳴滝のもとまで連れてゆきはしたが、そこでどのようないきさつがあったのかは知らない。しかし、いつのまにやら袴垂は平気な顔をして鳴滝一党の仲間にくわわり、小萩の情夫としてこの右大臣邸の中ででさえも、あたりはばからずみだらなたわむれをしている。
小萩が人でないことを、知っているのか知らぬのか――あるいは、知っていても気にはせぬのか。もしそうであれば、袴垂という男は葛葉にとって、小萩そのものよりもずっと不気味で、えたいの知れぬ生き物におもわれた。
「わたしになどたわむれかからずと、小萩のところへゆけばいい。小萩ならずいぶんと、愛想よくしてくれるであろうに」
「男はたまにはな、趣を変えてみたいときもあるのよ。ことにこのような、抹香臭い仕事をやらされていてはな」
鼻に皺《しわ》を寄せて、どっと腕に抱えたものをおろした。
晴れた空に、うっすらと青い煙が立ちのぼっている。右大臣定方が、邸におさめられていた経典、仏画、仏像のたぐいを、みな庭に積みあげさせ焼かせているのである。庭先にすえられた巨大な火桶にはすでになかば灰になった貴重な典籍や、とうとい画像や、すすけた金銅の仏の残骸《ざんがい》などが山積みになっている。
これもまた、鳴滝のさしずであった。如意宝珠を得た定方は、仏と同等、いや、それ以上の身になるのであるから、まがいものの仏の教えや像など無用のものと吹き込んだのである。
普通の下人は、畏《おそ》れ多いと怖がって手を出したがらない。式神《しきがみ》の小萩は仏の力のこもった品々に手を触れられない。おかげで神仏を恐れぬ袴垂ひとりが、書物を運び出し、像を打ち砕く作業を負わされることになった。
「おお、臭い、臭い。香の匂いが髪までしみてたまらぬわ。口の中まで灰だらけじゃ」
ぺっぺっと唾を吐きながら袴垂は腰を伸ばしてみせ、
「のう、哀れとはおもわぬか。これもみな、おぬしが宝珠の母として変生《へんせい》するための準備ぞよ。おぬしを世の何より高い位置につけんがためにはたらいている俺を、ありがたいとはおぼしめさぬか。なんとも冷たい姫君よな。こち来て、この舌についた灰のひとつもかき落としてはくださらぬかよ、のう」
そう言いながらずかずかとあがってきて、強引に葛葉の手をつかむ。
ざらざらの岩を組んだような粗い男の手に、葛葉はすくみあがった。
「お離し。人を呼ぶよ」
「おう呼べ、呼ぶがいいわい。呼べばおれはこう答えるばかりよ、鳴滝様のご命令で、玉女のお世話をしておりましたとな」
顔をそむける葛葉の顎《あご》をつかんで言いつのる。
「あの馬鹿|公卿《くぎよう》はすっかり鳴滝様のいいなりで、鳴滝様が黒いといえば白い碁石とて黒いのよ。鳴滝様がせよと言ったといえば、俺を拝んでするがままにさせるわい。どうじゃ呼べ、呼んでみろ、呼ばぬか。人の血をすする淫売《いんばい》が、大きな口をたたくでないわ」
思わず葛葉は手をあげていた。
渋紙のような袴垂の頬が音高く鳴る。うおっと袴垂がのけぞった。痛みより抵抗をうけたことに驚いた様子で、満面に朱をそそいでおきなおる。
「ようもしてくれたな、この、すべたが――」
「そのくらいにしておおき、袴垂。あまり手荒くして、傷をつけるといけない」
渡殿《わたどの》のほうから女の声がした。
「鳴滝様の大事のお人形だよ。面白いから見ていたけれど、頭に血ののぼったおまえは何をするかわからないからね」
「おお、小萩」
投げだすように葛葉から手をはなし、袴垂はふてぶてしく歯を剥《む》きだした。葛葉はくずれるように倒れ、散りかかる髪の下で襟をおさえて荒い息をつく。
「おまえがこのごろ冷たいのでな。ちとこの姫君に、たまった子種を献上しようと思うただけよ」
「冗談じゃあないよ。おまえの子種は、わたしのものさ。ほかの女にとられて、たまるものかね」
するすると渡殿をわたってきた小萩は、これもみごとな女房装束に身をかざっている。姫君たる玉女に仕える侍女という位づけではあるけれども、ぬらりと赤い唇からもれる言葉はあいかわらず地下のそれだ。
鳴滝によって造りなおされた首から下は前にもまして豊満で、何枚もかさねた衣の下からでさえ、妖艶《ようえん》な色香がむせかえるようににおっている。袴垂はものほしげにひくひくと鼻を蠢《うごめ》かした。
「わたしのものと言うならば、ひとつ、わが献上物をうけとってもらえまいかの」
「がっつくのはおやめ。いやらしいね」
股間《こかん》をしめす袴垂になまめかしい笑みでしなをつくると、喘《あえ》いでいる葛葉を虫でも見るような目でじろりと見やって、態度ばかりはうやうやしくその前にかしこまった。
「お館《やかた》様、定方卿より、玉女、真葛《まくず》の前《まえ》にお呼びがかかりましてございます。どうぞ、わたくしについてお出でくださりますよう」
息をつまらせながら葛葉は顔をあげる。
真葛の前とは、この邸に来てからあたえられた名だ。その名を呼ばれるたびに、なにかまがまがしいものが身のうちに降りつもっていくような気がする。真葛とはつまり葛そのものの美称、いかに美しく呼んだところで実体がかわるわけでもない。わさわさと葉をしげらせ、緑の蛇にも似て藪《やぶ》をからめ捕っていく蔓《かずら》。風にやさしくそよぐその葉とは、違う心象をあたえる真葛の名は、どうにも葛葉になじまない。
そんな名はわたしの名ではない、といくら叫ぼうとしても、小萩や鳴滝の視線をあびると声がでなくなる。自分が、自分でないものに少しずつ作りかえられていく、名を変えられたのはその最初の一歩にすぎぬと感じ、逃げ出したいほどの恐怖をおぼえる。
だが身体は、長年たたきこまれた習慣のままのろのろと起きあがり、小萩にしたがって歩きだす。後ろで袴垂が、あざけるような笑いをひびかせた。
(助けて。誰か、助けて……)
懐の笛を握りしめる。中で飯綱が身じろぎするのがわかる。これを、小萩にけしかけてみたらどうなるだろうという考えがふと頭をかすめた。
だができぬ。小萩は飯綱などよりはるかに強い妖物であるのだ。そんなことをしたところで、打ち返されてこちらが傷つくだけだろう。
それに、たとえ人ではないとわかっていても、人の形をしたものに自ら望んで獣をけしかけるほど葛葉は非情にはなれない。多くの人を殺《あや》めているかの女であるからこそ、かえって人を傷つけることへの恐れはひと一倍つよいのだった。
そんな思いを感じとったのか、小萩がふり向いてにたりと笑う。
(助けて、助けて童子や。志狼さま。――志狼……)
あの方は、葛葉をよい名だと言ってくれた――。
狼の目をした若者の名を祈りのように胸に抱いて、葛葉は、重い足をすすめる。
「ええくそ、泣くな。泣くなというのに。人が見ているだろうが」
泣きじゃくる童子を引きずるようにして、志狼は三条わたりまで引き返した。
べそをかく子供をひっぱっているものだから、道行くものたちの視線が襟首にいたい。子さらいか、人買いか、人買いにしてはよいものを着ているし、年が若い。何より北辰の堂々とした狼王ぶりに怖《お》じけて呼び止めるものはいないけれど、これ以上人目をひけば検非違使《けびいし》を呼んでこられるのははっきりしている。
とりあえず三条大路を西へ走り、朱雀《すざく》院の裏手の人目にたたぬ築地《ついじ》のかげへ隠れこんだ。走る志狼に、泣き泣きながら年ごろに似合わぬ俊足ぶりでついてきた童子は、地べたに尻を落とすとこんどこそあたりはばからず、大声を上げてわーっと泣きだした。
「おい、いい加減にしろ、泣きやめ。泣いてばかりでは話にならぬ。おまえの姉はあの中にいるのか。ええ、葛葉はあそこにいるのかと訊《き》いているのだ」
葛葉、のひと言が耳にとどくと、童子はぴたりと泣きやんで、光る眸で志狼を見上げた。さしもの志狼がたじたじとなる。炯々《けいけい》と光るその瞳《ひとみ》は煮えたぎる金か、いっそ夕空に燃える落日をうつしとったようで、見つめられると肌を灼《や》きぬき、うしろの地面まで黒い焦げあとがつくかに思われる。
「わかったか。俺はおまえの敵ではない」
いくぶん声をやわらげて志狼、
「俺も、おまえの姉を捜しているのだ。まえに河原で会ったろう。北辰が無礼をした詫《わ》びに、おまえに葦笛《あしぶえ》をやった。おぼえているか」
童子はなおもじっと志狼を見上げていたが、懐に手をつっこみ、先のへしゃげた葦笛を取りだした。
「おう、それだ、それだ」
ほっとして志狼は手をのばした。
「それで俺が敵でないことがわかったろう。さあ、わけを話せ。……と、おまえは話せぬのか。これは……」
困ったな、と言ったとたんに、童子が手にかみついた。
「つッ」と指を押さえるがはやいか、切れたところからじわりと血がにじみ出す。とがった歯を剥《む》いて、しゃああ、と童子が唸《うな》った。
手にした葦笛を、力をこめて志狼の額に投げつける。眉を逆立て、金眸の目じりに涙をためたその顔は、憤怒《ふんぬ》と悲しみに煮えかえっていた。
童子にしてみれば、むつまじく暮らした姉を突然奪われた寂しさととまどいを、どこにぶつけてよいかわからずにいたのだろう。志狼は、姉がなにやら心をよせていた相手、また、彼が現れてからいくらもたたずに葛葉は右大臣邸へ移らせられたとあって、姉の消失にこのいけすかぬ相手がかかわっていると思いこんだのもむりはない。わけ知らずのままおさない怒りは、すべてこの姉を奪った若者に向けられたのである。
しかし志狼はそのような事情を思いやれるはずもなく、額にはりついたしおれた葦笛をはらいのけ、頭に血をのぼらせて童子の腕をひっつかんだ。
「こいつ、子供と思ってやさしくしてやれば……」
が、そこへ毛むくじゃらの大きな頭がわりこんできた。「北辰」と虚をつかれて、志狼は自らの守り神の名を呼んだ。
「なぜとめる。こいつには少し言い聞かせてやらねばどうしようもないぞ」
しかし北辰はよせよせ、というように頭を振り、そのたくましい体躯《たいく》で志狼と童子のあいだをさっさとへだててしまった。
ふてくされる主人の顔をとがめるようにじっと見つめ、またふり返って、唇をかんで拳を握りしめている童子の頬を、落ちつけといいたげにねぶる。童子は俯《うつむ》いていたが、やがてどっと座ると、北辰の毛深い肩に顔をうずめてうずくまってしまった。先ほどの手放しの泣き方ではなく、しぼりだすような、低い声でしゃくりあげはじめたのを、北辰はまるで年上の人間がするように、白髪の頭に顎《あご》を乗せてじっとしている。
(なんだ、こいつ――)
志狼は面白くない。
北辰はこれまで、一度として他人にはなついたことのない獣である。志狼のごく幼いときからそばにいて、里の者はおろか、たとい父の大角であろうとその身に容易にふれさせるものではなかった。葛城の山の精気のこごった神狼は、おのが主人とさだめた者以外、けっして気をゆるすことなどないのだ。
ましてや自分から人に近づいていくような真似をするのは前代未聞といっていい。そういえばまえに葛葉と会ったあの河原でも、この童子に首を抱かれてもべつだんいやがりもせずにおとなしくしていたのではなかったか。
(この童子、なにものだ)
白髪金眸の童子の異貌《いぼう》を、そのとき志狼は初めてかすかなうたがいの目で見た。
と、そのとき、
「難儀しているようじゃな。手を貸そうか」
からかうごとき声が頭上からした。
すわ追っ手か、とはじけるように起き直った志狼に、ひらりと飛びすさった人影は、なにごともなかったようににやりとわらった。
「おおこわい。どうぞ手をあげんでくれよ。坊主の肝など、冷やしてもうもうない」
「誰だ、おまえ」
「なに、浄蔵と申す比叡《ひえい》の山の痩《や》せ法師よ」
浄蔵は僧衣《そうえ》の裾をなおし、かっかっと笑った。
ここまでひとりで歩いてきたのか、衣の裾が白く埃《ほこり》をかぶっている。強い日差しに目を細めて埃をはたきつつ、
「ただ今はちと御山を降りて、八坂《やさか》のあたりに庵しておるがの。そちゃ、葛城の志狼丸殿じゃな」
「なんで、俺の名を知ってる」
「はて、知らいでか。わしとて葛城に修行にまいったことはある。修験の心得もいささかは知っておる。大角どのが秘蔵の息子じゃとて、何度か噂に聞いた。毎日狼づれで野山を駆けめぐって、いっこう修行に精ださぬとの評判でもあったがの」
「よけいなことをいうな。なんで、その浄蔵とやらがこんなところにいる」
いらいらと志狼はいった。葛城のことを持ち出されたのも腹立たしいし、この四十がらみの坊主の妙に自信ありげな、こちらの心をみすかすような顔つきが気にくわない。
そういえば、この数日、賀茂家の邸の本院にあわただしく人出入りがあったが、そのとき来ていた中にこの坊主の青あたまがあったような気がする。とすればどのみちこの坊主も、忠行や保憲とどうよう、志狼の仲間ではないときまった。童子もしくしく泣くのをやめて、警戒ぎみの鋭い視線で北辰のかげから浄蔵を見ている。
「いやなに、先ほど、所用あって右大臣、藤原定方卿のもとへ参ろうと思って前まで行ったのじゃがな」
とぼけた顔つきで浄蔵はいった。
「なにやら騒ぎが起こっておるらしいので、かかりあいになってはならぬとわきにのいて見ておったのよ。すると年端もいかぬ童子と、賀茂忠行殿のもとで見かけたそなたが、あわただしく駆けてゆく。これは見過ごしにするわけにもいかぬ、行って何があったか訊いてみようとて、こうしてあとを追いかけてきたのよ」
「右大臣だと」
飛び立つように志狼は立ち直った。
「おまえ、いや、御坊、御坊はあの邸に行かれるのか」
「いかにも」
「すると、中に入れるのだな」
「むろん」
「頼む、浄蔵殿」
いささかのためらいもなく、志狼は地面に平伏した。
「なんとかして、俺たちも浄蔵殿といっしょにあの邸へ入れるよう、算段してはもらえまいか。俺はどうしても、あの邸で確かめねばならんことがある」
いきなり目の前に這《は》いつくばった志狼にも、浄蔵は眠たげな瞼《まぶた》をひとつまたたいたのみであった。
「迷惑はかけぬと約束する。頼む。この礼は、いつか必ずする」
「礼をするといわれてもな」
浄蔵はあくまで飄々《ひようひよう》と呟《つぶや》いた。
「仏につかえる身が、そのようないつわりごとに手を貸してよさそうなものであるかの」
「いいか悪いか、俺は知らぬ。とにかく頼む。どうしても捜したい相手がいるのだ。この童子の姉でもある」
志狼はずいと身を乗りだして、「たがいのほかに身寄りというもののない、かわいそうな姉弟なのだ。哀れとはおもわぬか。先ほども、姉をしたって泣いて難儀していたのだ。せめて弟に、姉の姿をひとめ見せてやるのがそれほど仏の意にかなわぬか、え、浄蔵殿。善行のためには嘘も必要、方便という言葉もあるではないか」
「いやといえば、喉笛《のどぶえ》を食いちぎりそうなつらがまえだの」
首をふって浄蔵はにが笑いし、くるりと踵《きびす》をかえした。
「よかろう。ついてこい。ただし、その格好では人目をひきすぎる。すぐ近くにわしの知り人の邸があるから、そこへ行って身体を洗い、髪を整えて衣装を替えるのだ。先ほどの騒ぎがあったから、警護のものどもはまだそなたらのことを見覚えていよう。わしの従者《ずさ》としておかしくない姿にならねば、入るのはとてものことにかなうまいぞ」
「心得た」
いさんで志狼は浄蔵に従う。北辰と、泣きやんだ童子も続いた。
横に並んだ異形の童子を、浄蔵がじっと見つめる。太い眉根がかるく寄ったかと思うと、手をのばし、童子の頭上に印をきってなにか唱えた。
だが、なにごともない。北辰のかたわらを跳ねるようにすすむ童子は、頭上でそんなことをされたとも気づかない様子で歩を運んでいる。
「これは、効かぬか……」
ひっそりと呟いた浄蔵の声は、志狼の耳にはとどかなかった。
一方、右大臣邸――。
「来たか、真葛《まくず》や」
と声をかけたのは主たるべき定方ではない。
鳴滝。女房すがたに作った小萩に対して、かの女は相変わらず白衣《びやくえ》に緋袴《ひばかま》の巫女《みこ》装束を廃してはいなかった。いまは定方になりかわり、実質この屋の主人ともいうべき妖女は、紅いろの口をつややかにぬめらせて、手にした鈴のさきで錦縁の畳を指ししめした。
「それへ座りゃ。先ほどから、定方卿がおまちかねじゃ」
それに応《こた》えるように、くぐもった呻《うめ》き声が奥にたてまわした几帳《きちよう》からした。白い紗《しや》のうすもののむこうで、黒い人影が起きあがる。
葛葉はふるえながら、小萩にうながされて座についた。
いや、座りはしない、立ったまま、几帳の中から見つめるものの視線によくうつるように、まっすぐに畳の上に立った。
「手を」
鳴滝が叱咤《しつた》する。
せんかたなく、葛葉は衣装の襟をおさえていた手をおろした。
五衣《いつつぎぬ》といい、唐衣《からぎぬ》といい、袿《うちき》というが、この時代、たとい身分ある上臈《じようろう》といえども衣をあわせるのに紐《ひも》のようなものはもちいていない。少しでも荒い動きをすればとうぜん、前はひらいて素肌がのぞけてしまうし、それで立ちでもすればたちまち胸乳《むなぢ》も腹もあらわになる。息をつめて立ちつくす葛葉の衣が揺れ、胸もとのまるみがわずかにのぞいた。
おお、と中で身をのりだす気配がする。
「小萩。脱がしゃ」
追いうちをかけるように鳴滝の命令がくだった。
すかさず小萩が後ろから、容赦なく葛葉の衣をはいでいく。葛の文様の表着《うわぎ》が落ち、何枚もの袿がとりはらわれ、生絹《きぎぬ》の単《ひとえ》も奪われて、葛葉は打袴《うちばかま》と裳《も》で腰から下を覆っただけ、上半身はむきだしにされてふるえていた。
「下もじゃ」
最後に身につけていたものもとりあげられて、葛葉は全裸になる。
まろやかな肩もふくよかに盛り上がった乳房も白玉のごとくまばゆく輝き、胸の上にはふた所、血を落としたかと思わすあわく朱《あか》い乳首。それでいて、細い腰といまだ肉付きのうすい臀《しり》はあたかも春のめざめを知らぬ少年のように青く清らである。
小萩はぴりりと眉根に険を走らせると、胸をかくそうとする葛葉の腕をねじあげて座らせ、畳の上に脚を組ませた。
両腿《りようもも》の上にそれぞれ足先を載せる結跏趺坐《けつかふざ》のかたちで、それだと几帳のなかから娘のもっとも恥ずかしい隠しどころがあらわに見える。
さらに両手の人差し指をたて、のこりの指をくみあわせる憑神の印契《いんけい》を結ばせて、小萩はうしろへさがった。
「おお……おおお……」
几帳の奥でずるずると這いずり出る気配。葛葉は眼をとじてひたすら耐えた。
「笛を」
笛が渡される。あの、飯綱の宿った笛である。
心のささえであるはずの笛も、今この場はただ、おぞましいばかり――いや、しあわせな記憶の宿る笛だからこそ、このようなおぞましい場に見るのはなおさら恐い。
黒光りする笛から葛葉は顔をそむけるが、鳴滝と小萩の目が見守っている。指をわななかせながらも、手にした。手にすると笛は、それまでとは違う妙に脂ぎった色艶《いろつや》を帯びて、身じろぎするようであった。
「吹きゃ」
操られるように葛葉は笛を唇にはこぶ。高い響きがながれでた。だがそれは、あの河原でたのしくうたった、雲雀《ひばり》のような音ではなかった。
それはどこか重く、昏《くら》く、にごっていた。闇のにおいがした。
月と星々の照らす夜の、また月も星もない虚空の清浄な闇ではなく、この世の人と獣、虫、鳥、草木の一本一本にわたるまでの、怒り、恨み、怨嗟《えんさ》の呻《うめ》きを集めてぞんぶんに練りかためた闇黒《あんこく》、それは、そういう音であった。
うねる音色は天にのぼらず、螺旋《らせん》をえがいて地にわだかまった。
鳴滝が立ち上がった。
しゃりん、と音を立てる小鈴を手に、ゆるゆると舞いはじめる。
鈴は三鈷鈴《さんこれい》、子供のにぎりこぶしほどの鈴を三つたばねて把手《とつて》をつけたもので、神おろしのさいにはかかせぬ巫女のもちものである。鈴は古さびて緑青《ろくしよう》がふき、なんのつもりか、把手の下には、黄色くなってひからびた榊《さかき》の枝がくくりつけられている。
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すおまとせしこきにもとちたみか
ずろよおやみかつにくみかつまあ
をとこうまためよきいまたえらは
とじらあはみつういとみつはてい
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しゃり、しゃり、と鈴を打ちふりつつ、鳴滝は奇妙な呪言《じゆごん》を唱えて葛葉の周囲をまわった。
ふいに、闇が濃くなった。いまだ外はあかるく、陽は高く中天にかかっていたが、空気が重みをましたといおうか。沼の水のように濃度をもった風が、なまぬるく呪法の場に吹きいってきた。鳴滝の呪言はつづく。
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むてちなはきぶいににくのこそに
くのねみかういとしぬどきぶけす
まいにどきぶいばてみのかかくか
むてみのかかちもみかいうとめひ
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すみの暗がりからおこった、和琴の調べがそこに唱和した。
琴もまた古来、神との交信につかわれた神秘の楽器である。だがこの調べはどうしたことか。笛と同様、この音も暗く、にごって、とうてい天にいます神のもとまでのぼってゆこうとは思われない。
弾いているのは鋏丸であった。ひらべったい矮躯《わいく》を琴の上にかがみ込ませ、にやにやしながら琴爪を操っている。
よく聞けば、鳴滝はただ意味もなく音をならべているのではなかった。唱えているのは大祓《おおはらえ》祝詞《のりと》、神事《かむごと》の前にはかならず唱えられる、数ある祝詞の中でももっとも神聖にして強力な言霊である。
奏上すればあらゆる罪|穢《けが》れを祓《はら》い、どんな厄もおとすことのできる力あるそれを、鳴滝は、なんと尻から逆に唱えているのであった。
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むなでいちもにらばなうおおみか
いうとめひつりおせすまいにせの
わかやはつぎたちおにりだなくさ
りよえすのまやかじみえすのまや
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いんいんたる琴と笛の音がそれに和す。
舞っているとみえたのは、実は反閇《へんばい》を踏んでいるのであった。これもふつうとは順序を逆にし、左右と前後を入れかえて、逆の反閇を踏んでいる。
踏めば悪しき方角に宿る厄災を踏み破り、邪気を祓い、悪鬼を除くといわれる足踏みの法の、逆を踏めば、いったいどういうことになるのか。それはかえって悪を呼び込む法、災いを喚起し、邪気を呼びよせ、悪鬼を力づける方向にはたらきはしないか。
また、罪穢れを消除し、厄を祓う大祓をさかさに読むことは、本来ならば祓われるべき穢れを集め、厄を引きよせ、追いやられるはずの悪い因果を、すべてこの場に集中させることになりはしないか――。
反閇や大祓はそれ自体が強い力をもつ呪《まじない》である。それが行われるとき手順と言葉をまもらねばならぬというのは、ただ儀式の正確を重んじるのではなく、そのかたち、その音にふくまれた強力な力が、形式をうしなうことによって手綱を切り、制御のきかぬ方角へあふれだすことのないようにといういましめにほかならぬ。今ここに行われているのはまさに穢れの、魔の、悪のための呪、百鬼を呼び、浄めをしりぞけ、闇の中にももっとも濃い闇を呼びよせるための、呪詛《じゆそ》の法であった。
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れのをとごとりのとふのとりのつ
まあてきさりとにりはやてりきり
かともをそがすつまあてしわらた
きおにらくきおのらくちてちたち
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ますます濃くたちこめる闇。それはすでに瘴気《しようき》であった。気体の毒であった。床にわだかまった妖気がゆるりと蠢《うごめ》き、一匹の黒蛇と化す。
葛葉の吹く笛の中でぬるりと何かが動いた。とがった鼻、鋭い鉤爪《かぎづめ》、ぬるぬると這《は》いでてきた妖獣が、身をくねらせてぼとりと膝の間に落ちる。銀毛をさかだてた飯綱は、赤い目を燃えたたせて唸《うな》った。
香の煙がもうもうとたつ。香炉の底にしかれているのは、袴垂が焼いたとうとい仏典、仏画の燃えがらに、鳥辺野《とりべの》から拾ってきた死骸《しがい》の骨灰をまぜたものである。渦巻く闇黒の中に、啾々《しゆうしゆう》と亡者のなげきがこだました。
飯綱の口がくわっとひらいた。
床の上の黒い蛇がふっと浮き上がり、するりとその口に呑《の》み込まれた。
飯綱の吸引はとまらない。蛇のほかにも煮つまるようにかたちを取りはじめていたさまざまな物怪、三つ目の犬頭をもつ蜥蜴《とかげ》だの、毛むくじゃらの足を百八本ものばした大|蜘蛛《ぐも》だの、後ろあたまがざくろのように弾《はじ》けた巨大な人の首だの、とりどりにあやしくおぞましいものどもを、まるで索餅《さくべい》を吸うように次から次へ吸い込んでゆく。
と、葛葉の顔に、少しずつ変化があらわれはじめた。
それまでは青ざめた顔でかたく眼をとじ、何も見るまい、聞くまいと、かたくなに自らをとざしていたかの女が、白玉の肌を上気させ、うなじにうっすらと汗を浮かばせはじめたのである。
小さな唇《くち》はわずかにひらいて、せつなげな吐息をもらしている。つんととがった乳首をつきだし、腰を波打たせて身をよじる。
身をのけぞらせて倒れこむと、黒髪が渦を巻いて床を這った。ぞわりと闇がたちさわいで滑りよる中心に、白いからだがあやしくうねる。
「おおう、おう……」
御簾《みす》があがって、ひとつの皺《しわ》んだ顔がつきだされた。定方である。
だが、それはなんという姿であったか。平凡ではあっても貴族の常、たっぷりと肉がついてやわらかそうにふくれていた頬は内側から肉を吸われたように落ちくぼんで、えぐったような昏い眼窩《がんか》に熱に浮かされたような目がぎらぎらとひかっている。
直衣《のうし》の袖から突き出た手はやせ細り、飛び出た手首の骨がまるで木の瘤《こぶ》のごとく突きだしている。はげかけた白粉《おしろい》の下の顔にはほとんど血の気がない。唇ばかりがぬらりと赤いのは、どことなく鳴滝や小萩のそれを思わせる。
「まだか――、まだ、触れられぬのか、鳴滝殿」
突きだした両手をゆらゆらと振り動かしながら、呻《うめ》くような声がその口をもれた。
「まだ、いけませぬ。あの娘が玉女たるべき力を蓄えるには、いま少しの時が必要――」
かわりにこたえたのは小萩であった。御簾からまろびでた定方に進みより、その首に両腕をまわして赤い舌でそっと耳朶《じだ》をねぶる。
「あと少しの辛抱でございます。今あの娘は、定方さまとこの都に溜まった濁りと影をすべてその身にうけているところ……陰きわまれば陽となり、陽きわまれば陰となるのが世の理《ことわり》。ああして陰のすべてを身にうけた真葛さまは、時いたれば定方さまのおんため、光りかがやく陽気そのもののかたまりとなって、定方さまの体内に宿る宝珠を受け取り、その体内にはぐくむことでございましょう」
「そうか……まことに、そうか……」
「さようでございますとも。み心安くいられませ。それまではわたくしが、おなぐさめしてさしあげましょうほどに」
そういいながら、定方のゆるんだ襟もとに少しずつ手をのばしてゆく。袴《はかま》の紐《ひも》をゆるめ、深く指を差し入れると、垂れた髪のわきで小さく何かが蠢いた。
青白い肌を持つ、肥えた芋虫のような虫であった。そいつらが何匹となく、ぞろぞろと定方の袴の内側に這い降りていく。
そそりたった陽根は蠢く虫の大群に覆われた。粘液を垂らすしめった肌を持つ妖虫どもが絶妙の動きで刺激する。定方は喜悦の声をあげて白目を剥《む》いた。開いた口からは涎《よだれ》が糸を引いている。小萩は指をぬきとると、ついてきた液を舌を出してなめとった。
「……たわいもない」
笑ったとき、ふと、鳴滝の動きがとまった。
琴の音もやんだ。小萩はぴくりとし、頭をもたげた。手を膝をつき、首をのばしたその姿勢は人というより獣のものであった。
「……坊主めが――」
腹立たしげに、鳴滝が呟《つぶや》いた。
「しばらくここにおれ。頃合いを見て呼ぶ」
そう言いおいて浄蔵が奥へはいっていったあと、侍童《じどう》に化けた志狼と童子は、車宿《くるまやどり》の軒下へのこされそのまま手持ちぶさたに長いあいだ待たされた。
「おい、あの坊主はいつまで俺たちを放っておくつもりだ」
一刻たち、二刻たち、とうとう日が傾きかけるにいたって、ついに腹に据えかねた志狼はかたわらの童子をかえりみた。
膝をかかえてうずくまった童子は、風に鼻をひくつかせながら金眸《きんめ》を剣呑《けんのん》なかたちに細めている。汚れた筒袖はここへ来るまえに脱ぎ捨て、白い髪は被衣《きぬかずき》でかくして、水浅黄《みずあさぎ》の童水干に括袴《くくりばかま》のいでたちではあるが、全身からわきあがる精気はかくしきれるものではない。それは志狼もおなじことで、こちらは薄紅梅《うすこうばい》の水干に裾濃《すそご》に染めた染分袴《そめわけはかま》、奔放な蓬髪《ほうはつ》も梳《す》いて流して元結をいれている。
二人ながらに顔立ちはわるくないのだから、水際立った稚児の一組、水浅黄に薄紅梅の水干がならんだところは一枚絵のようであってもいいはずだ。なのに、なんとなく気配のちがうのは人にもわかるらしく、ときどき通りかかる下仕の者や家司は、浄蔵の座りこんだ従者に目をあててはぎょっとしたように目をみはり、あわてて視線をそらす。
童子が髪と目をかくし、志狼が殊勝げにかたちをつくっていてこうである。こう人目をあつめていては、たとい名のある――と思われる――僧の連れといえどもそのうち名なりなんなり聞きにこられるのではないかと、志狼は気が気ではなかった。
二人とも、ここに来る前に寄った大学寮《だいがくりよう》の裏の小屋で、身体を洗って衣をかえた。かつて浄蔵とともに学んだことがあるという大学寮の役人が世話を手配した。志狼は説き伏せられてしぶしぶ髪を結うことを承諾し、童子には、目立ちすぎる白髪と金眸を隠すとて娘のかぶる被衣がわたされた。
二人ならんで青葉のもとに立つと、その場にいた下仕の女がぽっと頬を染め、ほほう、と浄蔵が嘆声をあげた。
「これは、よう化けた、よう化けた。たいしたものじゃ。これが先ほどのあのうす汚れた餓鬼とは親が見てもわかるまい。ほい、口が滑った、許せよ」
「聞き流そうさ。世話になる身だ」
着なれぬ上物の衣装の袖を――なにしろ賀茂家で貸されたものは布はよくとも、さんざん洗い古した古着だったもので――落ちつかなげにさすって志狼はいった。
「で、首尾は?」
「よいか、まずわしが奥へ入って様子を見る」
浄蔵はいった。
「そなたらはわしの従者じゃ。わしが呼ぶまで、奥へ通ることはなるまい。気にはなろうが呼ばれるまでは、決して自ら動いてはならぬぞ。そちらの童子にもよく言い聞かせておけ。こんど騒ぎを起こしたら、いかなわしとて助けてはやれぬ」
「わかった。かまえて動くまい」
勢いこんで志狼はこたえたが、ふと気になって、
「しかし御坊は、なんの用事であの邸に行かれるのか」
浄蔵、ほっほっと笑って、
「なに、やぼ用よ。このところ、右大臣殿御不予との噂を聞いてな。ひとつ加持調伏《かじちようぶく》のことでもあるまいかと思うて、たずねに行く。飯の種よ。ついでにこのごろ邸にあがられたという、美人の匂いも嗅ぎとうてな」
「なに、美人。それは――」
「ふむ、そうかもしれぬ、そうでないかもしれぬ」
身を乗りだした志狼の頭を、おさえるようにぽんぽんと叩いて、
「まあ、気を静めよ。時を待て。じきに呼ばせてやろう。しばしはおとなしくしておれよ。逸《はや》ると女は逃げるものぞよ」
何がおかしいのか、かっかっかっと笑いながら渡殿《わたどの》の奥へと消えていったものである。
なにか馬鹿にされているような気がして志狼は不快な思いを腹の底に押しこめて見送ったのだが、こう長い間待たされていると、その押しこめた不快がだんだんに発酵して、腹の底からぶつぶつと泡をたててわきたってきた。
志狼はむずと立ち上がった。
「もう我慢ならん。おい、おまえ。人の気配は近くにないか」
しきりに鼻を蠢《うごめ》かす童子に声をかける。被衣の下から頭をもたげ、いっしんに風を嗅いでいるありさまは北辰が生き物の気配に意識をこらすときそっくりだ。
童子はまたたいて志狼に眸を向けると、つらぬくようにじっと見つめた。
そのまなざしに志狼は肯定の意志を読みとった。生まれてこのかた北辰とともに野山を駆けめぐり、その魂の半ばに狼の気をたくわえている志狼に、童子のはなつ言葉でない意志はむしろ言葉そのものより明快で澄明だった。一瞬に志狼は決断した。
「よし。それなら、行こう。あの坊主ならかまうものか。どうせ酒など食らい酔って、俺たちのことなど忘れているに違いない。都の人間なんて、どうせそんなところだ」
かってにあっさりそう決めこんで、そういえばこの子供の名前をついぞ知らないのを思い出す。
「おまえ、ええと――まあいい、童子。行こう。おまえの姉を捜しにいくぞ」
童子も目をかがやかせて飛びたつように立った。
こちらも長すぎる待機にあきあきしていたのであるらしい。大学寮に着く道のりのあいだにすっかり気に入ってしまった北辰がいないのだから、むっつりした志狼しか相手がないのがよほど退屈だったのか。
さすがに北辰は連れてはいるには巨大すぎ目立ちすぎるので、大学寮に残してきた。戻るまで大事に世話はすると請けあわれたが、これまで北辰とは人の兄弟であるより長く接してきた志狼だから、別れると心細くなるのではないかと、そのようなことは死んでも人にはもらさぬにせよ、ふと心配にもなったことであった。
しかし今、思ったより以上に心じょうぶに感じている自分が志狼には少々意外であった。あるいはこの童子のいるためか、と思い、いや、こんな妙な餓鬼のひとりがあの北辰と代えられようはずもなし、と心のうちでかぶりをふる。
言われたとおり、かついだ衣をしっかりと手で押さえている童子はどこから見ても人で獣には見えぬが、炯々《けいけい》と光るその両眸が人の形《なり》を裏切っている。あたかも北辰の、ただ今もそばにあるように感じるのは、あるいはそのためかとも志狼にはおもえた。
北辰が身に触れることを許す童子の不思議さはまだ頭にひっかかっていたが、現在はこの童子しか仲間とたのむものがない。物知らずの童子にうなずきかけ、車宿をそっとすべり出る。童子もすぐにあとに続いた。
「静かにしろよ。被衣も取るな。頭を下げて、目立たぬようにするのだぞ」
車宿は牛車《ぎつしや》から牛を離して車を入れておくところで、現在にいうなら車庫にあたる。
正殿である寝殿、その東西に配置される対《たい》の屋《や》、そこからのびる中門廊がほぼ一町にも及ぼうという広大な敷地の奥から続いている。志狼と童子はそのかげを、足しのばせて駆け抜けた。右手に見える門のあたりで、侍どもがうろうろしている。ぐずぐずしていて見つかれば、めんどうなことになりかねない。
東の対につづく十丈あまりを一息に駆け抜けて、床下にもぐりこんでほっと息をついた。すぐそばに童子がもぐり込む。
「おい、わかるか。葛葉はどこにいる」
静かにしろ、というように、童子は低く唸《うな》った。金眸をまたたかせて、ひたと上を見上げる。床板を通して上が見えるというような目つきに、志狼も思わず上を見上げた。
すり足の足音が近づいてきた。思わず首をすくめて息をひそめる頭上で、低い女の声が二、三人、ひそひそと、
「北の対……」
「……お坊さま……浄蔵さまが……」
「いえ駄目……大殿さまは今……」
「あの女……あの……」
童子がするりと動きだした。
「あ、おい」
志狼もいそいであとを追う。
「北の対か。葛葉はそこにいるのか?」
童子はこたえない。ただどんどんと先を行く。
せまくるしい床下を、童子はほとんど平地を進むのとおなじ早さで進んでいった。いくらか身体が大きいだけ分が悪いことはあるけれども、童子の身ごなしは葛城の山をわがもの顔に飛びまわった役《えんの》一族の若子《わくご》が舌を巻くほどであった。少し気を抜くと、あっというまにはるか先まで行ってしまう。しゃくにさわるが、がっしりした身体つきとすらりとのびた背丈がじゃまをした。
「おい、待て。ちょっと待て」
何度か頭を打ち、肩を根太の隙間につかえさせて、志狼はとうとう音をあげた。
「そんなに早く進むな。音でもして人に気づかれてはまずい。おい。聞こえないのか」
それこそ大きな声はたてられぬ。童子は聞こえているのか聞こえていても知らぬふりをしているのか、するりと床下を抜けて明るい外へ抜けていってしまった。
そうなると志狼も負けん気がわく。ひっかかった肩を唸りながら外し、最後の二、三尺を腕をきしませながらようやく這《は》いだして、ほっと息をついて空を見上げたとたん、いきなり、血が凍った。
あたかも大気が鉛と化してのしかかるかのようであった。脳天がずしりと重くなり、目の前がさあっと暗くかげっていく。ぞわぞわと全身に鳥肌がたった。目鼻口、全身の毛穴という毛穴からもぐり込んでこようとする虫めいた何ものかに志狼は身震いした。
それは妖気、これまで志狼の感じたこともない、煮詰めたがごとき濃い妖物の気配であった。
「おい」志狼は忍びの身であることも忘れてつい呼びかけた。
童子はこちらに背を向けて、小さい拳を握りしめぐっと天を見上げている。そこはこぢんまりと開けた内庭になっており、正面には表の正殿よりいくぶん規模の小さな建物がある。北の対である。
今そこに、まさに捜し求める葛葉がいることを、志狼はむろん知らぬ。だが、童子の金眸《きんめ》のらんらんと燃える色からして、その視線のさきになにか重要なものがあるらしいということはわかった。
「あの建物に、なにかあるのか。よし、ならそっちへ行こう」
と、再び声をひそめ、人目にたたぬ道筋はないかとあたりを見回したとき、
「あっ、お、おまえは――」
ちいッとするどく舌を鳴らして志狼はふりむいた。「見つかったかっ」
鼻歌をうなりつつぶらりと現れた男は、二人の姿を目にして信じられぬふうで目をむいている。権門の下仕えらしくこしらえてはいたが、うっすら無精ひげの生えかかったつらつきはどことなく小いやしい。肩には男にふつりあいな、目もあやな色合いの衣を数枚かけている。
言うまでもない袴垂である。抹香臭い焚《た》きつけが足りなくなったとて、宝物倉の前まで行ってまた一抱え取りいだし、ことのついでに納められていた高価な装束もわがものとして意気揚々と出てきたのが、思いもかけぬものを見るはめになった。視線はもっぱら志狼ではなく童子に、その燃える眸《ひとみ》とほうほうとした白髪に向けられている。
「お、おまえ、なんでここへ入ってきた。いやそれより、なんでここへ来られた。確かに小萩の言うとおり、心の臓をひとつきにして、川へぶちこんでやったものを――」
があっ、と童子が吠《ほ》えた。あふれ出る憤怒《ふんぬ》が志狼の目には赤いもやのように見えた。髪を逆立て牙を剥《む》き、炎と燃える金眸はもはや人ではない。ただしく野獣の相である。ひととび跳ねて高々と宙に舞い、動けずにいる袴垂の頭へ、化鳥のように襲いかかった。
「うわあっ」
袴垂が頭を抱える。手にした経文がばらばらと落ちた。振り下ろした童子の爪の斬撃《ざんげき》はかれの肩をかすめ、かけた衣の金襴《きんらん》のすそをまっすぐに裂いた。くるりと降り立った童子はくやしさに牙を咬《か》みならし、獲物の喉《のど》を狙う狼さながら、身を低くして相手の周囲をめぐる。
「み、みなさまお出合いめされ! 曲者《くせもの》じゃ、曲者が入り込みましたぞ!」
薄手をおった肩を押さえながら袴垂があとずさると、応、と声がして、すでに騒ぎを聞きつけてきていたのか十名ちかい武士どもが打ち物の音高くばらばらばらっと駆けて出た。
「お、こ奴ら、先ほど門の前で悶着《もんちやく》を起こしておった餓鬼どもじゃ」
中のひとりが声をあげた。
「なんと、太い奴らじゃ。それ、取り押さえよ」
じり、と包囲をせばめようとする寄せ手に、童子は煮え返る黄金の眸を向けた。身を包む赤い靄《もや》がいっそう濃くなる、とみるまに、なんの前置きもなく童子の身体はまた宙に舞った。ついたじろいだ武士どものただ中に、きらりと白く光が走った。
「ぎゃっ」
「があっ」
血煙があがった。二、三人が顔や腕を押さえてのけぞった。
顔を押さえた者は目がなかった。腕を押さえた者は裂けた肉から白く骨がのぞいた。童子は爪をひとふりした。長くのびたその先端から真っ赤な血が振りはなたれた。えぐられた目くぼからたらたらと血を流す仲間に、たじたじと武士どもがあとずさる。
「こ、こ奴、鬼か」
「ええ、ひるむな、ただ押して、搦《から》めて捕《と》れ」
声に応じてまたじりじりと来る。くみしやすしと見たか、志狼のほうにも四、五人が刀を抜きつれ走ってきた。
「おとなしくせよ。童とはいえ、容赦はせぬぞ」
「馬鹿っ」と志狼は怒鳴りつけ、かさねた掌を突きだして、気合いとともに気弾を打ち込んだ。すでに先ほどから導引法《どういんほう》にて気を練り、いつでも反撃できるように準備していたのであった。まともにくらった武士がげえっと呻《うめ》いて吹き飛び、植えられた松にぶち当たって昏倒《こんとう》する。
「こっちの童も妙な術を使いおるぞ!」
「年若と思って油断すな。斬れ。斬り捨てよ」
頭上に殺到する剣の嵐をすりぬけ、蹴りよけ、押さえようとする武士の顎《あご》に峰走りできたえた踵《かかと》を叩きこんで、志狼は渡殿《わたどの》に飛び上がった。指をくわえて吹き鳴らす。遠くで力強い吠え声が応《こた》えたかと思うと、一頭の巨大な黒狼《こくろう》が、砂を蹴立てて走りこんできた。北辰であった。
「くそ、こうなったら仕方がない――おい!」
すでに逃げたのか、袴垂の姿はない。志狼はあたりをぐるりと見回し、刃《やいば》と鎧《よろい》の真ん中で揺れる白髪に向かって怒鳴った。
「行くぞ。もう隠れても意味はない。さっさと葛葉を助けて逃げよう。そんな奴らは相手にするな。来い。来ないのか」
童子はまばたいた。
次の瞬間、そのきゃしゃな身体は志狼の隣にあった。頬にとんだ返り血を怒ったようにぐいとぬぐい、志狼を見上げる。爪はまだ長い。剃刀《かみそり》のような先端から、なまなましい血がたれている。瑪瑙《めのう》玉のようにとろりと赤いその雫《しずく》に、魅せられたように志狼は見入った。
(この童子)
こ奴、いったい。
だが考えている暇もなく、ひゅっと風きる音とともに無数の矢が飛来した。数本は志狼の気術にへし折られ、数本は童子の手にすばやくつかみ取られ、残りのほとんどは北辰の厚い毛皮にはねかえされた。ねらいを逸《そ》れた数本がむなしく柱に突きたった。
「行くぞ」
志狼は走る。北辰が従い、童子が続く。
「逃すな! 射よ! 射落とせ!」騒ぎ立てる人々の声があとを追う。
「それでは御病とはちと早合点でございましたとな。これは愚僧の失敗《しくじ》りでござった」
大口あいて笑ったのは、むろん浄蔵。御簾《みす》をへだてて向かい合っているのはこの屋の主《あるじ》の右大臣定方である。
「おりから京中も疫神横行、これはひとつ祈祷《きとう》の口でもかかるまいかとこうしてお訪ねもうしたところ、無駄に終わってまずは重畳――いやさ、無駄に終わらねばよいと、思っていたわけではござらぬがの」
「浄蔵殿にはご造作であった」
こちらからわずかに透けてみえる人影はのったりと脇息《きようそく》に身をのばしてはいるが、声には張りもあり、病人らしくは見えない。
「確かに先日、陣定の席を退出いたしたときはいささか頭痛もし、熱もあるかと思われてかたがたに無礼の段あったかもしれぬが、わが邸に戻ってひと眠りすれば、心気もさわやかに何事もなかった。お心遣いかたじけない」
何の前ぶれもなく訪ねてきた高僧に、邸の者があわてたのは事実である。しかし学識名高い文章《もんじよう》博士《はかせ》三善清行の子であり、叡山《えいざん》に密教を学びその法力に評判いや高く、しかも何より、宇多法皇に師事して学んだ身という後ろだてが無理を無理でなくした。
さいしょは通すことをしぶっていた家司が、奥からあたふたと出てきた女童《めのわらわ》がこそりと耳打ちしたとたんにがらりと変わって、それではどうぞ、と主人のもとへ通したとき、浄蔵の金壺眼《かなつぼまなこ》にきびしい光が走り、「さては」と呟《つぶや》いたことは誰の耳にも届かずじまいになったことであった。
そのような気配は今は露ほどもみせず、浄蔵は闊達《かつたつ》に哄笑《こうしよう》する。
「はっは、お心遣いやら、文使いやら、まことはこの身の世過ぎの種に、ひとつ山をはってみしょうと思ったまで。有難がられると背筋がかゆい、そのまま置いていただこうよ。――ところで、定方殿」
とちと声をひそめて、
「人の噂に聞きもうしたが、近ごろこちらでは、うるわしい女舞人をそば近く仕えさせられておるとか」
「そのようなこと、誰から」
御簾の内の声は少しく不興を含む。
「確かに近ごろ入れたばかりの女房はいくたりかおるが、みな身元のたしかな女人ばかりよ。舞人か芸人か知らぬが、そのような卑しげなもの、かまえて当家の門をくぐらすものではない」
「さ、そのように、お隠しなさらずともよいものを」
端然と座ったまま、にたりと浄蔵は口をゆがめ、
「わしとて坊主の身ではあれど、美しきものを見るのは目の功徳じゃ。衣の佳《よ》き香のひとつも嗅げば、この痩《や》せ坊主の寿命も延びよう。ひとつ善行を施しなされ。女人の求めがあるならば、わしとていささか心得はある。座の余興には」
「む」
「有難たい偈《げ》、観音経のひとつも唱えてくれようよ」
と言い切った瞬間、静かに座した全身から目に見えぬ気合いがほとばしった。
御簾の端がふと揺れた。室内ぜんたいがなんとはなしにぶれたようであった。端座したまま浄蔵は動かぬ。下卑た笑いを浮かべるかと見えた顔に、触れなば切れん真摯《しんし》な宗教者の色が浮かんでいた。
気圧《けお》されたか、御簾からはなんのいらえもない。いうにいわれぬ緊張の漂うなか、わっわっと騒ぐ声が近づいてきたのはそのときであった。
「曲者。曲者。何をしておる、逃すな」
「そちらへ行ったぞ。弓を射よ、搦《から》め捕《と》れ」
「いかん、北へ回ったぞ。そちらは今、殿が」
「――ええ、気短な。もう動き出したか」
呟いて、さっと立ったのは意外、浄蔵である。
もっと騒ぎ立てていいはずの邸の主人は、相変わらず御簾の奥に沈黙している。高貴の相手の前であることを忘れたかのように、浄蔵は無礼を詫《わ》びることもせずつッと席をはなれ、簀子縁《すのこえん》へ出て手をかざして見る。
正殿からこの北の対にむかう渡殿に、ひらひら白く白刃のひるがえるのが見えた。びゅんと矢弦《やづる》のうなりも聞こえた。
二十名ちかい武門にとり囲まれて、渡殿のかわらを足下にふんまえ、青空を背に応戦する小さな影が二つ、……志狼と童子、その二人。
「どけっ! どけえッ!」
今は稚児装束もかなぐり捨てた志狼、どこからもぎ取ったのか腕ほどもある丸太を片手に、水車のように振り回している。上半身裸にたくましい肩を光らせて、射かけられる矢をとっては捨て、払っては折り、屋根によじ登って来る奴は片端から蹴り落とす。気合いとともに打ち出される気弾は数名の大の男をばたばたとなぎ倒す。
黒狼北辰は主人をかばって、近寄るものは即座に喉笛《のどぶえ》を食いさかんばかりの威をみせてうなり猛り、振り下ろされる刀をがっきとくわえて噛《か》み折る。鋼にまさる神狼《しんろう》の金剛の牙に、刃《やいば》の主は驚きあきれて逃げ散るしかない。
だが、わけてもすさまじいのはもっとも年若であるはずの童子の戦いぶりであった。
小柄なからだを生かして刃をかいくぐるやいなや、あっというまもなく相手の顔に飛びついて、目をえぐる、鼻に食らいつく、喉へかぶりつく。
長々と爪の生いのびた手は、もはや肘《ひじ》まで真紅に染まっている。口からしたたった生血が装束の胸といわず腹といわずおびただしく流れて、その白髪にも点々と、紅玉色の露がやどっているのが恐ろしくもあり美しくもあり、内から燃えて煌々《こうこう》たる金眸《きんめ》も、人ならぬ美の最たるすがたである。
「ば、化け物!」
わめいて滅法打ちかかった敵に、影のごとくに襲いかかる。絶叫。流血。くるりと宙返りして降り立ち、足下にべっと吐き捨てたのは、食いちぎられた男の耳であった。
刀を落として身もだえする朋輩《ほうばい》に、さしもの荒くれもじりっと後ずさる。
「やれ、まことにすさまじい。――これ、もうよいであろう」
ひくく呟いて内にもどった浄蔵は、やはりしんとしている御簾のうちに向かって、声高に一喝した。
「ごまかしはよしにするが好い。この浄蔵、いつまでも小娘の幻術につきあっておるほど暇ではないぞよ」
屋ぜんたいがもぞりと身動きしたようである。
「うぬらがここに身をひそめておるのは承知の上じゃ。出てくるがよい、女、鳴滝とやら。廃都の鎮めの宝珠を手に入れ、今また右大臣をたぶらかし、この上、なんの悪事をなすつもりか」
「――ほほ。言われずとも、ここにおる」
妖然たる声は背後からした。浄蔵、恐れず振り返り、
「鳴滝か」
「いかにもわらわ。鳴滝じゃ」
薄暗がりからわき出たように、すらりと立った立ち姿はまぎれもなく鳴滝。
輝くほどに白い浄衣《じようえ》、燃え立つ緋《ひ》の袴《はかま》をかさねて、手にした真榊《まさかき》、鈴、肩にすべらせた闇の黒髪。巫女《みこ》姿ではあってもこれは闇の巫女、穢《けが》れと呪詛《じゆそ》を一身に集めて、その中に暗く燃え立つ暗黒の女であった。
「ゆるしなくわが名を口にするは無礼ではあれど、命みじかいなんじに、とくにその段さし許す。顔見せてやろう。近う寄りゃ」
甘い甘い、蜜のごとき声である。しかしこの蜜には毒がある。耳にする者のからだを芯からしびれさすような魔魅《まみ》を帯びた声を、浄蔵は顔色ひとつ変えずに聞き流して、
「ありがたいが、やめておくわい。うるわしい女人は眼福じゃが、そなたの顔はあとで目が腐れてこよう。久米《くめ》の仙人は川に衣を洗う女の脛《すね》に目がくらんで落ちたというが、そなたごときに目がくらんでは、ちと世間にもはばかりがある」
白い喉をそらして妖女は驕慢《きようまん》に笑う。
「いくじがないの。かの道真の怨霊《おんりよう》を、一時なりとも抑えた大徳、浄蔵上人ともあろうお方が、しおらしい口をきくことよ」
「しおらしいとはそなたのことじゃ。よしなき女の身で、何をそのように世に仇《あだ》なさんとする。いっそ何もかもよしにして、宝珠を返し、都に埋めた骨寄せの邪法も解いて、この浄蔵の説法を聞いてはみぬか。心の洗われる思いがするであろう」
「笑止。よしなき女の身であるからこそ、つもる恨みもあると知れ」
妖女の瞳《ひとみ》が真紅にひかる。
動くともみせずその身辺から、黒い霧がわっとわきたつ。たちまち角三つに目四つの悪鬼の姿と変じて浄蔵に襲いかかるが、浄蔵の法とておこたりはなかった。裂帛《れつぱく》の気合い、不可視の刃に切り裂かれて鬼が四散すると、座したままの鳴滝が、凄《すさ》まじく嗤《わら》った。
「無粋よな。女と相対しつつ、その袖の中に印を結ぶとは」
「なに、相手が誰だか、知っておったまでよ」
「ほほほ、面白い。わらわを誰と存じおるぞや」
「さて、まずは市に立つ色売る歩き巫女、鳴滝とやら」
浄蔵は指を折る。
「または右大臣藤原定方にその託宣の力で取り入り、寵愛《ちようあい》をうける巫女鳴滝とやら。また託宣としてよからぬ力をふるい、この世に害をなさんとする大悪女鳴滝とやら。しかしその、本のことは」
「さよう、ほんのことはえ」
「陰陽師《おんみようじ》賀茂忠行の娘、賀茂|徳子《とくし》」
えッ――という叫び声が、妖女の口からほとばしった。
「えい、いつまでも蟻のように!」
陽に焼けた屋根の上をとんで歩きながら、さすがに志狼も息があがってきた。
疲れてくれば手練《てだれ》の技もわずかながら隙が出る。射られた矢が肩をかすめ、頬をかすめ、筋肉の張りつめた肌にひとすじふたすじ真紅の筋が走った。
北辰に背を守られ、童子にかたわらをまかせながらも、多勢に無勢、しだいにひしひしととりこめられて、やっと目指す北の対も間近なところへたどり着きながら、そこから先へすすめない。
疲労のあまりか、目はかすみ、足はわずかにふらつくが、若い心に宿った恋の想いはなおとどめがたく、こめかみをつらぬく痛みをあえてさしおき、鉛のように重い丸太をふたたび高く差しあげる。
「葛葉! 葛葉、どこにいる!」
もしや声でも届きはすまいかと、喉をかぎりに呼んでみた。
「俺だ! 志狼だ、河原で会った志狼だ! 聞こえるならば返事をしろ、葛葉、葛葉! 聞こえないのか!」
だがその声もすぐに、唸《うな》る矢弦とひらめく剣風にかき消される。
北の対から本殿へつづく、反対側の渡殿を、華麗に装束を整えた女房たちが流れるようにきらきらと逃れてゆくが、その豆粒のような姿の中にも、葛葉の、懐かしい慕わしい面影が見いだせはしないかと思われて、ただひたすらに目をこらすが、綾羅錦繍《りようらきんしゆう》のくるめきにまどわされて、確かには見分けがたい。
――もしや、ここには……
いないのか、と数度目になる疑いがふときざしたが、かたわらの、童子をちらりと見れば、そんな疑いは無用のものと知れた。油断なく牙を剥《む》く童子の様子は、確かにこの邸に姉があると全身をもって知らせている。その目はひたすら北の対の、もっとも奥まった部分をのみ見つめている。すればやはり葛葉はあそこに、いかなる意図のもとにかは知らぬが、とらわれているに違いない。
(待っていろ。今、たすけてやる)
その内実はどうであれ、都の、大路の上に生きるたいていのものからすれば、右大臣の邸に引き取られた葛葉の身はうらやまれるべきでこそあれ、哀れがられるものではなかったはずだ。権門のおもいものともなれば栄耀栄華《えいようえいが》は思いのまま、それこそ女の身の果報よと、わきまえのあるものならまずは考えるのが普通である。
が、志狼にはそのわきまえがない。山の自由な空気に育ったかれにとって、貴族はひたすら唾棄《だき》すべきもの、白粉《おしろい》臭い足の下に人という人を踏みつぶして、こともなげに歩む悪党の頭というのがその認識である。
そのような悪党のもとに、好意を抱いた娘を置いておくなどということは罪であった。犯罪であった。
あのような、澄んだ子鹿の目を香の煙に暗くこもった屋のうちにかげらせていてよいわけがない。いや、それでなくとも、天下にただ二人の姉と弟としていつくしんでいた童子とむりやりに引き離すような場所に、やさしい葛葉を置いてはならない。
なにより、この邸に充満する気配は異常であった。北の対に近づくにつれ、しだいに濃くなりまさる妖気はほとんど粘る泥と化して志狼の足をはばんだ。
常ならぬ疲労も、おそらくはそのせいであろうと思われる。ありとあらゆる邪念、悪念、この世の呪いという呪いを練って固めたような瘴気《しようき》が立ち上ってくる。
額の真ん中が熱を持ってちりちりと痛んだ。
(こ奴ら、なにも気づかぬのか――)
かかってくる武者どもは異様な雰囲気に気づいてはいないようだ。中にはときどき、気分悪げにそっと首の後ろをさすったり眉をひそめて首をもたげたりするのもいるが、それ以上のことはない。凡夫のありがたさか、それとも、感じぬからこそその鈍さを見込まれて、この魔所に等しい邸に雇い入れられているのか――
「つッ」
額に錐《きり》をさしこまれたような痛みを感じ、思わずよろめく。
すかさず襲いかかってきた太刀風を身をそらして避《よ》け、丸太を振り回す。腹を一撃され、武者はぎゃっと呻《うめ》いて地に転げ落ちた。が、そこに隙ができた。はっと振り向いたとたん、別の相手の刀が目の前にぎらりとひらめいた。
「動くな!」
大喝の声が飛んだ。
「動くと、こ奴の命はないぞよ」
童子だった。童子が数名の男に取り囲まれ、手にした槍《やり》や刀で、よってたかって衣を押さえ、肩を踏まれて屋根の上に押しひしがれている。
さかんに牙を噛《か》みならし、身をもがいているが、やはり子供、疲労のためかそれとも志狼に同じくこの瘴気にあてられているのか、それ以上の抵抗もならぬらしい。
「卑怯《ひきよう》な」
きっとなって志狼は言った。「たかが子供に、その仕打ちか」
「なにが子供じゃ。その子供に、何人やられたと思うか。恐ろしい奴らじゃ。ふてぶてしい、鬼に相違ない」
頭立つものが吐き捨てるように言う。
「得物を捨てよ。その場に膝をつくのじゃ。その狂い犬をさがらせよ」
志狼は唇を噛んで言葉に従った。丸太をおろし、北辰の肩に手を置いて、
「北辰。さがれ」
黒狼《こくろう》は不服げに主人を見上げてくうんと鼻を鳴らしたが、言われたとおり牙を納め、逆立てた毛を寝かせて、跪《ひざまず》いた志狼のそばに寄り添った。
武者頭はつかつかと志狼のそばに近づくと、鉄の籠手《こて》をはめた手で志狼の頬を音高く張りとばした。
「ふとい奴らじゃ。手こずらせおって。詮議《せんぎ》は厳しいものと覚悟せよ」
唇の端から血をしたたらせて、志狼はなにも言わない。
「こ奴」
嚇《か》っとなった頭が、もう一度痛い目を見せてくれようと手を振り上げたとき――
――うううおーんおんおんおんおん……
高く、天の高みまでもつきぬけるような叫びが、人々の耳をつんざいたのである。
「なにっ」
「な、なんじゃ。なにごとじゃ」
童子を取り押さえていた武者どもがわれがちに後ずさった。
童子が叫んでいた。吠《ほ》えていた。
思いきり喉《のど》をそらし、その繊《ほそ》さからは思いもよらぬ強さと深さで長く長く吠えていた。
槍や刀に手足を大の字に押さえつけられていながら、その顔には懼《おそ》れの色もなかった。ただいや高に高められた怒り、姉を奪い自分をとらえて往かせぬ者に対する怒りに、白い顔は鏡のごとく磨きぬかれていた。
「こ、こ奴は、いったい――」
「ひ、光っておるぞ」
まさしくその光は童子の手にも、足にも広がっていた。血にまみれた装束すら透かして、童子の体はまばゆく照り輝いた。
気圧《けお》されて、押さえつける武具の先は自然童子からはなれた。後ずさる武者の一人がふと朋輩《ほうばい》の顔に目をうつして、
「どうなされた、基偵うじ。額になにやら、赤い色が――」
え、と言われた方が額に手をやるより早く、その赤い色がどっとはじけた。
「う、わああああ!」
ぱっくりと口をあけた額から、血と脳漿《のうしよう》を吹きあげながらどうと倒れる人体。
腰を抜かして尻餅をついたそのともがらの喉からも、悲鳴とともに血しぶきがあがった。もはや声も声にならず、ゴボゴボとのみ血泡を吐いてくずおれる仲間に、いっとき勝ち誇った武者どももたちまち浮き足立った。
「こ、こ奴らやはり鬼じゃ! 鬼じゃ!」
とそう叫ぶ下から、次々とその喉を、額を、引き裂いてどっと上がる血しぶき。血のみならず、倒れたその肉体はかたはしからぐずぐずと崩れて、流れた血のなかに溶けいるように消えていく。
じきにあたりに、志狼をのぞいて人の姿はなくなった。あふれた血は瓦《かわら》を染め、地にしたたり、あたりいちめん血の池地獄と化すかに見えたが、さにあらず、真紅の流れは一点にあつまり、ただひとつの流れとなって一人の者に集中した。
あぜんと見守る志狼の前で、童子はすっくりと立ち上がった。
稚児装束に、もはや地の汚れはみじんもなく、雪白の髪、透き通る肌、燦爛《さんらん》たる光の金眸《きんめ》をそなえた顔は、けだものじみて見えるより、いっそ神々しい。
ふっくらとした小さな手を、何かを呼びまねくように宙にかざす。頭上にうねる真紅のうずが、待っていたようにその手に殺到した。
血はその肌に触れると見るまに、色すら残さず消えてゆく。鮮血のうずは触手をのばし、立ちつくす童子の全身を、抱きしめるかのように包み込む。
童子はこたえてからだを伸ばす。濃い血臭があたりににおった。かすかにあおのいたおさない横顔は、小さく、あどけない笑みを浮かべているようであった。
(こ、これは――これは……)
あまりの酸鼻に、さすがの志狼も声がない。
その光、流血無惨のありさまは間を隔てて睨《にら》み合う浄蔵と鳴滝のところからもよく見えた。
「や、あれは――」
思いもよらず敵の口から出た名前に顔面|蒼白《そうはく》、ぎりぎりと歯を噛みならしていた鳴滝だったが、瞳《ひとみ》のはしに立ち上る白光をとらえると、たちまち狂喜に顔を引きつらせた。
「待て鳴滝、いや徳子。なにゆえ宝珠を奪ったか。何を狙って父の家、この都に仇《あだ》なすか。逃がしはせぬ、とくとく語れい」
「えい、やかましい」
形相|凄《すさま》じくふり返ると、白い繊手を一閃《いつせん》。
「きさまにつき合うておる暇などないわ。失《う》せい、くそ坊主」
見えぬ力に突き飛ばされて浄蔵、たまらず吹き飛び、空中に呑《の》み込まれるようにふっと姿が消えた。
満足げにうち笑んだ鳴滝だが、はっとしたようにあたりを見回す。この場にかけた幻術の網が、みるまに、とろとろとろけて地肌を見せはじめた。
何事もない瀟洒《しようしや》な貴族の屋敷に見せていた幻が、しだいに透き通り、うすれ、その下の、床に描かれた幻怪な文様、四方に立て回した紙幣、張りめぐらした五色の縄と符とその中心におりた几帳《きちよう》台をあらわにする。
「やりおったな、浄蔵」
床の真ん中に突き刺さった、金色の独鈷杵《とつこしよ》に柳眉《りゆうび》を逆立てる。
「とばされる間際にからくも投げていきおったか。さすがは三善の息子、叡山に俊才と言われた大徳だけのことはある、……だが、もう遅い、わが御子《みこ》は着々と力を身につけている。あの光がその証拠じゃ。
よい、もっともっと怒れ、もっともっと食らうがよい、御子。何にもまさるご馳走《ちそう》を、そのうちわらわが用意してやろうのう。右大臣ごときはたかが中食《ちゆうじき》の飯粒ひとつにも足らぬことよ、にっくき葛城の若子も、いずれはそなたの腹にはいるのじゃ。楽しみだのう。嬉しいのう。――これ鋏丸」
はあっ、と答えて平伏したのは鋏丸、どうやら主人の呼び出しがあるまで、気配を消して部屋のすみにでもうずくまっていたらしい。
「そなた小萩とともに外へゆき、この騒ぎの人にもれぬよう片づけて来や。まだわれらは人目に立つわけにはゆかぬ。御子がすっかり生い育つまで、いましばらく、右大臣の名前をかくれ蓑にしておく時は必要じゃ」
「あの者、始末させていただくわけには参りませぬか?」
めずらしく、主人に言葉を返した鋏丸、その目はぎらぎらと輝いて屋根の上の志狼を凝視している。つぶれた蟹みたいな異相はどす黒く膨れて、裡《うち》にため込んだ怨嗟《えんざ》と執念に、矮躯《わいく》がわなわなと震えている。
鳴滝は莞爾《かんじ》とほほえんだ。
「しおらしや、敵《かたき》の子孫を目にして血が騒ぐかのう。……じゃが、ならぬよ、あれは御子の大事なえじきじゃ。いずれ期が来て、御子が存分に食らい酔ったなら、その流れはみなそなたに授けようほどに、辛抱しや。三百年を待ちうけたそなたじゃ、あとひと月やふた月、待つことくらい難とうはあるまい」
「ははっ」
とふたたび平伏はしたが、納得はしていない様子の鋏丸。小さな瞳をぎろぎろさせて、志狼ののびやかな手足を無念そうにこっそり見やる。鳴滝は驕慢《きようまん》な笑い声をひびかせ、
「行きゃ!」
とばかりに鋏丸の顎《あご》を蹴りあげる。きひい、と声を上げてひっくりかえった鋏丸は、しばらく腹這《はらば》いになって喜悦にあえいでいたが、そのうちに立ち上がって、一礼して出ていった。鳴滝はここちよさそうに、近づいてくる童子と志狼を眺める。
「来るがよい、来るがよい、稀《まれ》なる乙女に牽《ひ》きよせられて来るがよい。またとない、葛葉は生き身の神饌《しんせん》よ、恋うる心のおろかさに目がくらんで、うかうかとやって来るがよい。……いずれこの世は血の闇に沈むのじゃ、現世の地獄を見ずにすむわが身を、ありがたいとのみ思うがよいよ」
屋根の上は洗われたように綺麗《きれい》になった。
「お、おい」
童子はとんと足を蹴り、地に降り立った。
そのまま、重さなどないもののように身軽く駆けてゆく。後を追おうとして、志狼は額を貫いた痛みにくらりとよろめいた。
――先ほどから、なんだ。いったい……
最初、ほんの蚊《か》に刺されたほどのものでしかなかった痛みは、時がたつにつれ少しずつ強さを増し、今では、錐《きり》をもみこむかのように鋭い痛みが、額のまん中から頭の前あたりにかけてずきんずきんと響いてくる。
額を抑えて呻《うめ》く主人を、心配げに北辰が見上げる。
「大事ない。行くぞ」
志狼はしいて強い顔を作り、北辰を従えて童子のあとを追った。
(それにしても、あの童子、鬼か。蛇か……)
血をあびて力を増し、からだを輝かすなどというものが、ただ人であるわけはなかった。ただの童子ではなさそうに思っていたが。志狼は今さらながらに、得体のしれぬ戦慄《せんりつ》をおぼえた。
山育ちであり、人よりも獣やもののけに近しい志狼ではあったが、この怪異は、かれにとって見知らぬ怪異であった。葛葉は、あのような童子と知って身近くかれを養っていたのだろうか。いや、そのようなことはあるまい。いかに葛葉がやさしい娘でも、血をすする鬼の子をそうと知って養うはずもない。
ならば、あの娘はだまされていたのであろうか。
しかし、そうと断じようとすると、志狼の心は不思議と沈むのであった。無心に笛を聞いていた河原でのむじゃきな顔や、姉をしたって泣いていたがんぜない様子を思い描くと、いや、まさか、という思いのほうがつよくなる。
いや、それこそは鬼の子の手管、と思いはしても、気づけば、そうではないと否定するための罪状をいつか探している。しまいにばかばかしくなって、考えるのをやめた。もともといろいろと考えるのは得意でない志狼である。
童子が自分や葛葉に害をするようすはなく、そして、あの凄まじい様子を見てもやはり、北辰は童子に牙を剥《む》くようすを見せぬ。
ならば今は、たとい童子がまさしく鬼であろうとも、ただ目を離さぬようにしておけばよい。童子がさらに血に狂い、自分や姉たる葛葉に襲いかかるようなことでもあれば手を下せばよいが、今は、その力をこそ、葛葉を連れ出しこの場をのがれるためのよすがとすればよい――
そう思い決めると楽になった。前栽を飛び越え、泉水をわたり、志狼はたちまち童子に追いついた。二人して、床を踏みならして簀子縁《すのこえん》に駆けのぼる。
そこは森閑としていた。さっきまでいたはずの、鳴滝の姿も今は消えている。志狼は裾をはらって踏み込んだ。ひいやりと板敷きが、灼《や》けた足につめたかった。
「おい!」
呼んだ。声はいく重にも反響するように思えた。こだました声は折りかさなり、漂いながら虚空に散った。童子が低く唸《うな》った。
「おい! 葛葉! いるのか、そこに?」
ずっと奥の方に、白い几帳がたてまわしてある。その中で、なにか動くものの影をみとめて志狼は叫んだ。
「葛葉! 俺だ、葛葉! 志狼だ!」
その声を聞きつけたかのように、几帳はしずかに揺れた。
中にいるものはさらに動いた。夢の中のものが動くような、ゆったりとしたしぐさであった。志狼はますます確信し、大股で内へと踏みこんだ。
「葛葉、おまえだろう? そこにいるのだろう? 待っていろ、今、そこから出してやるから――」
おそらく、しばられているか、猿ぐつわをされていて動けぬのだろう。朱《あか》い唇に、たおやかなほほえみを浮かべて手をさしのべる葛葉の面影を瞼《まぶた》に描いて、志狼は几帳に手をかけた。
はらりと舞うように、うすい紗《しや》がこちらへ向かってたおれた。
あ……、と、はかない声があがった。
さいしょ、志狼は、そこに蠢《うごめ》いているものがなんであるのか理解できなかった。
ぬめぬめとした白いものに、なにか、おそろしく皺《しわ》びた蛇の脱け殻のようなものが、十重二十重にまといついてしっかりとからんでいた。渦巻く黒い流れがとめどなく床を這っていた。髪であった。ぬれた花びらのようなものがかすかに開いた。口であった。
目であり、鼻であり、顔であった。葛葉の顔がそこにあった。一糸まとわぬはだか身の葛葉が、輝くばかりの白いからだに年老いたどす黒い男のからだを、まるでいたいけな桜に巻きつく蔦《つた》かずらのように、きりきりとまといつかせて横たわっているのだった。
「……葛葉」
茫然として志狼はいった。
葛葉はまだ夢にくもった目で志狼を見上げた。まだそこにいるのが誰かも心づいておらぬようであった。
使われた香と呪《まじない》の効力がいまだ切れていなかったのであろう、うっとりとほほえみ、招くように手をのばしさえしたが、後ろで、童子が喉も裂けんばかりに高々とあげた泣き声が、一筋の陽光のごとく、その場にさっと切り込んできた。
童子は泣きわめきながら、姉にむかって飛びついていった。かの女がどういう状態であるかはまったくかかわりなく、主人を見つけて飛びついてゆく子犬のように迷いのないよろこびが全身にあふれていた。
葛葉は身を起こし、ゆたかな乳房をあらわにしながら、すがりついてくる童子の頭を、夢に歩く人のような手つきで撫《な》でた。
「これもまた、夢か」
幽《かす》かな声で呟《つぶや》く。
「こんなところに童子がいる。また河原の小屋の夢でも見ているのであろ。あまり恋しいのでこのごろ夢ばかり見る。さめればまた、さらに悲しいことがわかっておるのにの。けれどもきょうの夢は、ずいぶんとくっきりしておるそうな。ほれ、こんな童子の髪の、やわい手触りまでして――」
「葛葉」
志狼は、ふたたび呼んだ。
ぼんやりと遠くをさまよっていた葛葉の目が、呼ばれて志狼の面上にとどまった。
二度、三度と、長い睫毛《まつげ》がまばたく。不思議そうに首をかたむけた葛葉の目が、ふいに、はっきりと焦点をむすんだ。
悲鳴をあげて葛葉は跳ね起きた。
自分がどのような姿をさらしているかを、今こそはっきりと悟ったのであった。
白い頬にさっと血の色がのぼり、ついで、ほとんど透き通らんばかりに蒼白《あおじろ》くなった。
葛葉は叫びながら、からみつく年寄りを、皺びはてた右大臣のからだを押しのけ、立ちあがって逃げだした。
「待て、葛葉!」
追って、志狼は叫びかけた。
とがめるつもりはなかった。怒りすらなかった。ただひたすら、美しいと感じた。そのまろやかな肩も、胸も、若々しくぴんと張りつめた腰から太股《ふともも》の線も、光るばかりにみずみずしく匂わしかった。
あとを追いかけてつかまえ、抱きしめて、黒髪に顔を埋めてかぐわしさを存分に味わってみたかった。だらりと下げた腕が慕わしさにうずいた。
「待ってくれ、葛葉。俺は……!」
だんッ、という音が志狼の言葉を断ち切った。
足の甲に激痛を受け、志狼は前のめりにのめった。
倒れるとちゅうで、右の足の甲を縫い止める黒塗りの矢が見えた。
みるまに、だん、だん、と二本目、三本目が降った。肩を縫われて志狼はもがいた。
だ、だ、だ、と板を踏みならす音が上がってきた。吠《ほ》えたける童子と北辰の声が遠く聞こえた。じわじわと血が熱く衣を濡らす。
耳もとに太刀がさしつけられた。
「大人しくせい。下郎」
言葉の荒さに似合わぬ錆《さ》びた声が言った。
やっと目を動かして志狼は相手を見た。武士にしてはめずらしいほど整った、白皙《はくせき》の面が見下ろしていた。後ろから別の声が、
「おい、将門、こちらは取り押さえたぞ」
「……くそでも食らえ」
それだけ言って、志狼は気を失った。
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三 章 旋《つむじ》 風《かぜ》
「朕《ちん》は譲位したいと思う、大臣」
そのような言葉はこのごろの主上《おかみ》の口癖であったので、忠平は眉もうごかさなかった。
「それはまた、いかなる訳でございますか。よろしければ、お話しくださりませ」
「毎夜、夢を見るのじゃ」
御簾《みす》の奥からは呻《うめ》き声のような帝《みかど》の声が聞こえてくる。
「毎夜毎夜、浄衣《じようえ》をまとった美しい天女が枕上に舞い降りて、朕を責め立てて眠らせぬ。やっとうとうとしたと思えば、見るのは地獄の風景じゃ。昨夜もな、ふと気がついてみると、冥府《めいふ》にて閻魔《えんま》王の前に立っておった」
「それは――」
「それだけではないぞ。そこには道真《みちざね》がおって、自分を陥れた時平と朕の罪状を、事細かに述べたてた訴状を読み上げておった」
恐怖のあまりか声を震わせ、
「それが破鐘のような声でな。背丈が一丈ほどもあるのだ。生きた心地もせなんだ。震えながら眺めておると、閻魔王のそばに居並ぶ冥官の一人がどっとため息をついて、『天皇も改元でもして謹慎の証《あかし》を見せればよいが、さもなくば――』と言ったところで、目が覚めた」
御簾が巻きあがった。中から、青ざめ、白髪をそそけ立たせた帝のやつれた顔が現れた。天皇の御座から転がるように降りると、耐えかねたように忠平の袖にすがりつく。
「のう忠平、忠平、冥官がそんなことを言うたのじゃ。改元して謹慎すればよし、さもなくば、とな。改元して謹慎の意が伝わるならば、位をしりぞけばますますその意は明らかになるであろう。今度こそ、死ぬのは朕かもしれぬのだ。朕は死にとうない。死にとうないのじゃ」
弱られた、と忠平は思った。
今上《きんじよう》は今年で四十六、十三の年に先帝宇多から帝位をついでより三十年。若々しかった帝はすでに白髪の老人である。長く平和を保ち、のちの世に聖帝との名をたてまつられることになる帝ではあったが、その心中は、決してやすらかなものではなかった。
帝はしきりにかき口説く。
「菅公に冤罪《えんざい》がかぶせられた時、朕は十七歳であった。ああ、愚かであった若いおのれが恨めしい。あのとき、なぜ基経《もとつね》の言うことを鵜呑《うの》みにしてしまったのか。公が謀反を企《たくら》んでおるなどとなぜ信じ込んでしまったのか。そのために保明は死んでしもうた。かわいい慶頼も死んでしもうた。時平までも殺されてしもうた。みな道真の恨みがためじゃ。恐ろしい。恐ろしい。朕はいつまでこのような恐ろしい座に座っておらねばならぬのか」
「主上は至尊のかたにてあらせられます」しかたなく、忠平は言った。
「お心やすうあられませ。道真公にはすでに正二位の位をたまわり、左遷の勅《ちよく》もお取り消しになられたではござりませぬか。それ以上のなにが必要でござります。そのような夢はすべて、主上の御心が疲れていらっしゃるのに乗じた、物怪どものたぶらかしに相違ございませぬ」
「そうかのう。だが恐ろしい。朕は恐ろしい」
帝は小さくなって指をくわえた。赤子のように指をくわえて吸うのは、かれの幼いときからなかなか直らぬ癖であった。天皇として即位後はしばらくやんでいたのだが、時平の非業の死をきっかけに、またぶりかえしてきている。
特に、愛孫の慶頼王が死んでからはますますひどくなった。今の春宮である八歳の寛明《ひろあきら》親王など、怨霊《おんりよう》の祟《たた》りを恐れるあまり、三歳までは母親の穏子の手で、夜も昼も格子を降ろし、ぴったりと閉ざした室内に灯《あか》りをともした中で育てられている。年月がたつにつれ、帝の怨霊へのおそれはほとんど常軌を逸し始めていた。
「のう忠平、頼む、朕は譲位したい。譲位して早くこの怒りを逃れたいのじゃ。忠平。忠平……」
「しばらく、しばらくお待ちくだされ。陛下はあまりにも疲れて、ご気分が普通ではいらっしゃいませぬ。ちょうどここに、昨晩かの賀茂忠行殿よりいただいた護符がござります。さ、これを差し上げますによって、どうぞ一時《いつとき》なりともぐっすりとお寝《ねむ》りになられませ。奥の方々をお呼びいたしましょう。琴なり笛なりをお聞きになり、ゆったりとなされば、そのような暗い気持ちなどどこかへ行ってしまうに相違ございませぬよ」
「そうかのう。そうかのう……」
忠平に握らされた護符をつかんで、放心したように帝は呟《つぶや》いている。人を呼んで後をまかせると、忠平は逃げるように御前を退出し、庇《ひさし》に立ってほうと大きな息をついた。
(弱られた、まことに……)
ふたたび思う。
帝が譲位を口にするのは今に始まったことではない。もとよりかれは、政《まつりごと》よりは学問、学芸をこのむほうの人物であった。最初の皇子がよいほどに生い立ったならば頃を見て譲位し、当時の右大臣であった藤原時平を太政大臣になおして摂政として、自らは父宇多帝のように上皇としてゆったりと日々を送りたいというのが、ごく若いころからの彼のねがいであった。
しかし時平の突然の死去がそれを不可能にした。のちの世に聖なる御代《みよ》としてたたえられる三十年間の天皇親政の、その始まりは、摂政として信頼を置くべき人間がいなくなったのでしかたなく、というのが本来のところであった。
(それでも以前は、もっとお心強うあられた。ご自身の決断には確信を保《も》たれ、あれほどまでに、怨霊をお恐れなさることはなかったものを――)
そもそも、道真の追い落としをはかった中心はむろん時平一派であったが、現在の帝のほうにも、実はそれを真に受ける下地がないこともなかったのである。
右大臣定方の妹である今上帝生母・胤子には、祖母が西市の市場役人の娘であったという地下《じげ》の血がはいっているとはすでに述べた。ということは、その胎《はら》の子である帝にも、同じ下賤《げせん》の血がまじっていることになる。
加えて、父宇多はいったんは臣籍に降下したことのある人間で、即位にあたっては、前日にわざわざ親王位に復帰した上であらためて天皇の座につくという操作を要した。狂疾《きようしつ》を理由に位を逐《お》われた廃帝・陽成《ようぜい》が、自宅の前を通過する宇多帝の行列にむかって、「当代は家人にはあらずや」とあざけった話ものこっている。つまり、「天皇などと名乗っているが、おまえなぞ昔は自分の家来であった人間ではないか」とののしった、ということだ。
陽成帝のあとをおそった祖父・光孝《こうこう》も、本来なら皇統からはとうにはなれ、市井で人生を送るはずの人であった。かれの后《きさき》は民人と同じく、自らの足で歩いて市に買い物に出かけたという。
市井の暮らしに慣れた祖父、臣籍に身を置いていた父。しかしかれらはまだしも自らの血のもつひけめに折り合いをつけるすべを知っていた。
だが、生まれながらに宮の中で、皇子として立った今上帝に、父方から流れる血の負い目は、身が高貴とされればされるだけ、重く重くのしかかったのであった。
(しかし帝はよく戦われた。周囲のひそかなあなどりをはねかえし、道真殿のよき薫陶を得て、自らの力を示されることによってまことの威を発揮なされた。わしはそのような帝が頼もしく、身を捨ててもこのお方をお支えし、微力ながらみ手の道具となって働こうと思うたものを――)
それを、時平兄が、とわずかに苦々しく心中に吐き捨てる。
時平がついたのは、まさにその今上帝の中の血の引け目であった。即位してまだ日の浅い十七歳の天皇に、時平は、道真は帝の寵愛《ちようあい》をよいことに、娘婿である帝の腹違いの弟、斉世親王をいただいて、世ののっとりを企んでおりますぞ――と、ふきこんだのである。
かつて父帝宇多が、同じように近臣の暗躍によって動きをしばられ、名ばかりの至尊の位におかれて歯ぎしりした経験をもっていたのも道真には悪く働いた。父が悔恨と恨みをこめて語るその当時の物語を聞きつつ育った、いまだ若い今上帝は手もなく震え上がり、自らのひそかな恐怖を代弁するかたちであおりたてる時平の讒言《ざんげん》を、一も二もなく信じ込んでしまった。
道真左遷の報に仰天した父帝が駆けつけたときにも、耳をふさぎ、聞こうとしなかった帝を、いちがいに責めることはできぬと忠平はおもう。人はしばしば、おのれのもっとも恐れることを信じるものである。あとになって気持ちが落ちついてみれば、うまうまとのせられた自分のふるまいが恥ずかしくもあり、後ろめたくもあり――だが、誇りにかけても後悔の言葉などは口にできず、父帝のあとを継いで、よき帝となることに一途邁進《いちずまいしん》することでつぐなうつもりであったかもしれぬ。
(ご心気の弱りは帝気の弱り、……このままではこの国を支える、かんじんな力にさえ影響がでるやもしれぬ。例の、髑髏《どくろ》の呪法《じゆほう》を、都にしかけた者のこともある。賀茂の当主と浄蔵殿が調べるとおっしゃってたが、なにかわかったことなどあろうか)
そんなことをうつうつと考えながら車宿《くるまやどり》の牛車《ぎつしや》のところまで来た。供の者に台をおかせて、車にのぼろうとしたやさき、
「左大臣殿。左大臣殿」
牛が口をきいた。
さすがに忠平もぎょっとしてそちらに目をやると、不思議や、随身も牛飼い童も、主人が車に乗り込むのを待ってかしこまっているばかりで、今の声を耳にした様子もない。牛は続けて、
「申し訳ない、しくじり申した。このまま、忠行殿のお邸《やかた》までお出でくださらぬか。わしはそこでお待ち申し上げておりまする。くわしいことは、またのちほど」
「その声。そなた、浄蔵殿か」
つい声をあげたが、もう牛は返事もせぬ。もの思わしげに口を動かし、しきりに涎《よだれ》をたらすばかりである。いきなり牛に向かって話しかけた主人に、随身がけげんな顔をする。
「どうかなされましたか、殿」
「……いや。大事ない。なんでもないのだ」
車に乗って垂れをおろす。中に腰を落ちつけながら、
「ちと用を思い出した。邸へもどる前に四条に寄る。陰陽師《おんみようじ》賀茂忠行殿の邸に向かうのじゃ」
「では、右大臣はやはり――」
「さよう。すでになんらかの術の依《よ》り代《しろ》につかわれていると思ってよろしかろう」
場所は変わって、四条の東、賀茂家の邸――
横たわったしとねの上から、青ざめた顔を起こしているのは浄蔵である。
場には邸のあるじ忠行、その息子保憲も顔をそろえ、庭先には先ほど呼び出された平将門、藤原純友の二名が、直垂《ひたたれ》姿でかしこまっている。
上座になおった忠平は、ふうむと唸《うな》って思案げに顎《あご》を揉《も》んだ。
「また、難儀なところへ食いこみおったものだの」
「面目次第もございませぬ」
神妙に平伏したのは忠行だ。
「本来ならば、ここまでにならぬうちに気づき、魔の跳梁《ちようりよう》を食い止めるがわれら陰陽師の職掌。それを今までなすすべなく、投げ置いたのはわが罪にございます。どうぞいかようにも、ご処分をばいただきますよう」
「たわけたことを言うでない」忠平はあっさりかぶりをふって、
「都一の術の上手のそなたなくば、なぜこの難局をのりきれると思うのじゃ。処分なり褒美なり、いかようにも、この事の終わりしだいに授けよう。今はとにかく、妖女めの始末よ――
鳴滝、とか言いおったか?」
「は。油断いたしました。容易ならぬ相手とは思いおりましたが、こうも手もなくあしらわれようとは――」
さしもの使い手、浄蔵の頬にも、憔悴《しようすい》の色が濃い。
定方邸のにらみ合いの場から、鳴滝によってはじき飛ばされた浄蔵は、そのままこの世の場所でさえないところへ消し飛ばされてしまうはずであったが、そこは一道の達者、自分に忠行がつけていた式神《しきがみ》の力をたどってなんとか現世にしがみつき、賀茂邸の庭に落下したのである。
遠くから父子してなりゆきを見守り、事あらば合力をと用意していた忠行と保憲は、死人のようにぐったりとなった浄蔵をけんめいになって介抱したが、意識が戻ったのが、ようやく、今朝のことであった。
それほどまでに、鳴滝がかれにぶつけた力は大きかったのである。すぐにその場で、五体が砕けなかったのがしあわせというべきであった。
「しかし、本来の目的は達することができたのは、まず何よりでござった。賀茂殿より、この者をかれらに近づけてみよとお教えいただいた葛城の一族の若者、そして、白髪|金眸《きんめ》の童子――」
「うむ」
「かの童子、やはり、人ではありませなんだ」
ひえびえとした声で浄蔵はいった。日ごろのかれの闊達《かつたつ》なふるまいを知る人にとって、それはふと背筋に粟《あわ》を生じさすような変貌《へんぼう》であった。
「ここで詳しゅう述べたてて、お心を騒がすも悪しきふるまいゆえ控えましょうが、とりかこむ寄せ手を指さえささずにみじんに引き裂き、その血と肉を口のみならず肌からそのまま吸い込んで、おのが力となしおりました。……そのことは、式神の目を借りその場をごらんになっておられた忠行殿、保憲殿、お二方ともようご存じのはず」
忠行と保憲はしずかにうなずく。忠平は思い描いたらしく、わずかに唇を白くして、
「すさまじいの」
と一言|呟《つぶや》いた。
「その者ども、今、どうしておる」
「われら両名の手にてとりおさえ、ただ今は、高貴の家に暴れ込んだ罪人として、検非違使《けびいし》庁の獄屋にてひとまずつなぎとめております」
錆《さ》びた声で将門がこたえる。
「いずれあやしの力を使うものどもゆえ、できるものならその場よりじかにこの場に同道し、こちらのお邸にて問いただすべきとは心得ましたが、ともにおりました検非違使の長があきれかえった小心者にて、われらに手柄を横取りされまいとの意地をはっての横車。この上あらそっては、人目に立ってはならぬとの仰せにそむくこととなると思い、ひとまずは引き下がってまいりました」
「うむ、でかした。菅帥《かんのそち》の怨霊《おんりよう》の噂もかまびすしい折りから、新たに世の乱れをまねくような種はまかぬようにするがよいのだ。ときに」
と忠行親子と床の上の浄蔵に目をもどし、
「そなたらこのごろ、亭子《ていし》院様のご機嫌はいかがか、聞きしっているか」
「上皇様……で、ございますか」
三名はとまどったように目を見交わす。
今上帝の父、宇多はすでに再三述べたように、帝位をしりぞいたのちは上皇として、  院にて悠々自適の生活を送っている。
「われら下司の身にて、なかなかお噂も耳にする機会がございませぬが、なんぞ、お気にかかることでも――」
「いや、それがな」
と忠平は先ほど目にした帝の狂乱ぶりを一同に語った。
ほんらいならば皇室の一事、かまえて人にはもらすまいことではあったけれども、今は非常のとき。あやしい陰謀、強力な魔の跳梁をゆるしている状態で、不敬や恥はかまっておれぬ。この場につどう人々こそは術の達者、あるいは魔のはなつ呪力のせいであるかとうたがいもする帝のありさまを見るにつけても、この人々ならば帝の心を鎮め、安らかならしめることもできようとかすかな期待もわく。
もっとも、忠平も人の子、愛しもり立ててきた帝の狂乱に心をひしがれ、つい人に頼りたくなった、弱音の一つもはいてみたくなったというのが本音にはあったかもしれぬ。
「おいたわしや、聖なる君が」
浄蔵がほっと息をつく。
「それではまことに、退位の決意は強うあらせられると」
「わしとてつとめて、思いとどまられるよう申し上げてはいるのだが」
忠平は沈痛なおももちを崩さぬ。
「春宮はいまだ六歳、もしや今上が位をお譲りになるとしても、摂政がなくてはかなわぬお年じゃ」
「しかしそれは、忠平殿がお執りになればすむことでは」
「執らせてくれるならば問題はないがな。だが」
「かの妖女。鳴滝めですね」
低い声で言ったのは童姿で下座に控えた保憲、
「右大臣様にとりいったかの女妖、自らの存在を知られた以上おとなしくしてはおりますまい。こちらが手を打つ前にと、必ずなんらかの策をうってくるはず」
「保憲、控えよ。無礼であるぞ」
「よい、言わせよ。それで、何だ」
叱咤《しつた》しかけた父の忠行を制止して忠平はいう。
保憲は一礼し、目もと涼しいきれながの目をきっとあげて、
「よし陛下が譲位なされたとして、確かに官位からすれば左大臣たるあなた様に摂政の任が下されるが順序というもの。しかし右大臣様は、その場合の帝たる寛明王さまの母君の兄上。つまりは国母の兄ということになります。
ひるがえってみれば、忠平様は、こう申し上げるのは失礼かと存じますが、道真公をおとしいれた張本人たる時平様の弟君。菅公《かんこう》の怨霊を心底恐れておられる陛下になさってみれば、時平の血縁の者をふたたび高位にまつりあげれば、またもや怨霊の怒りを招くのではとお恐れにならぬとはいえますまい」
「うむ――」
「妖女めはおそらくそれをも計算にいれておりましょう。陛下の心の恐れをあおり、わが手の駒である右大臣様に心を向けさせ、やがては忠平様を亡き者に――」
「保憲よ。言葉がすぎようぞ」
浄蔵のとばした叱責にも、保憲は動じない。
「あ奴めの狙いは定方殿をわが道具とし、内裏にまた聖なる玉体に、都に、やがてはこの日の本そのものにと魔手をのばしてゆくこと。
いずれは、宇多院様の御身にも、また――」
「力をのばすのでは、というか」
むしろ忠平は興味をひかれる様子。
「あの方のもとには、たしか時平様の娘御がおられたはず。そうですね、父上」
「お、おう……」
何故かじっとうつむき、額に汗をにじませていた忠行は、息子のするどい視線をあびてぎくりと身をそらせた。
「――時平殿の娘とな。そう、たしか、褒子《ほうし》殿のことかな」
「ええ、確か、そうおっしゃる方でございました」
脂汗を垂らしながらうずくまっている父をにらみすえながら保憲、
「でもそのお方は、もとは今上陛下のもとに上がられる予定であったのが、まさにその入内の夜になって突然現れられた宇多院様が、奪い取ってご自分のものになさったとお聞きしております。
今はお年を召したとはいえ、宇多院様はそのように、負けん気の強いお方であらせられる。ましてや昔、自ら門前に出向いて座りつづけたにもかかわらず、管公の左遷をとめられなかった恨みもおありだ。
今、陛下が譲位なされば、世には法皇と上皇のふたつの勢力がならびたつことになる。管公を恐れる今上陛下はもはや表舞台には立たれまいとしても、負けず嫌いの宇多院様がこのときにじっとしておられましょうか。あるいはもう一度幼帝のうしろだてとなり、政《まつりごと》の世界に戻ろうとおぼしめされるやもしれぬ。
またはいっそ、ご自分が褒子様にお産ませになった御子をふたたび皇位に――管公流罪のときにいやおうなく出家に追いこまれた御孫斉世親王のこと、あのときの無念を、今、幼帝の後見となることではらそうとなさるのでは」
「保憲。黙らぬか」
はげしく叱りつけたのは忠行である。保憲は口をつぐんで平伏した。いうべきことはいったと感じたのか、水のように澄んだ表情には何のうごきもない。忠平は長く嘆息すると、かまわぬ、といった。
「今の保憲の言葉は、わしの胸の心配をことごとく言い当てていたぞ。……まさにそのとおり、妖女に操られ、一方に右大臣、他方に宇多院、くわえて怨霊の噂はさらにかまびすしい。このままではせっかく長く平和をたもったこの地が、またもや無益なあらそいにまきこまれてしまう」
「妖女めの最終の目的がわからぬのが、不気味でございますな」
浄蔵が唸《うな》るように呟《つぶや》いた。
「まことにの。あの、都に仕掛けられた髑髏《どくろ》の呪法《じゆほう》、解呪は進んでおるのか」
「は、だんだんには。……しかし、なにぶんにも数が多く、またひとつひとつの呪力が強いため、なまじなものでは片づけられませぬ。忠行殿、陰陽寮の方々のお力添えを得て見つけしだいに進めてはおりますが、まだ、なかなか」
「さようか」ため息まじりに忠平はうなずき、
「そなた、浄蔵殿、このようなときにまことにすまぬが、身体が良うなりしだいかの童子のもとへ出向いてふたたび調べてみられるがよい。かの異妖の童子がまた新たな鬼であるのか、それとも、かの鳴滝なる妖女となんらかのかかわりをもっておるのか、持つとすればどのようなかかわりであるのか……」
「むろん、お言葉がなくとも、そうするつもりでござりました」
床の上で、浄蔵はぎらぎらと目を光らせる。
「起きあがれるようにさえなり申したら、すぐにでも、検非違使庁に出向くことといたしましょう」
「うむ。頼む」
と告げて、忠平は苦々しい顔をした。
「このようなときは、何の呪力もないこの身が歯がゆいの。そなたらばかりに苦労をかける」
「なんとおっしゃいます。忠平殿は政をとって、われらの任を支えていてくださるではございませぬか」
浄蔵はやっといくらかいつもの調子を取り戻し、不敵にわらった。
「人にはそれぞれ向き不向きというものがあり申す。わしらは目にみえぬ魔を討ち、忠平殿は目にみえる魔を討つ。それぞれ、おのれにできることをやるばかりでござりますよ」
「さようか……」
僧の笑いをうけて、忠平もいくらか眉を開く。
だが忠行はそうした場の空気にも気づかぬ様子で、じっと床に視線をおとし、身じろぎもせずに座に固まっている。そうした父の後ろ姿を、下座から、保憲の青みを帯びた瞳《ひとみ》がじっとみつめている。
「父上」
保憲が父を呼びとめたのは、忠平を門まで見送ったあと奥へと戻る簀子縁《すのこえん》の上であった。
「なんじゃ」
「先ほどは、なぜあのように固くなっておられましたか」
ずばりと、保憲は問いかけた。
忠行は何もこたえない。
「どうもこのごろ、父上はおかしすぎます。私の知っている父上はもっと果断な、口ごもったり俯《うつむ》いて黙りこくったりは決してなさらないお方でございました。
なのになにゆえ、今回のことに関してはそのように及び腰になられますのか。なぜ、あの葛城の志狼とやらを、たまたま修行に来ていた知り人の息子だなどと偽られました」
「偽ってなどおらぬ。あの者は確かに、父に預けられてわがもとに修行に来たのだ」
「父上。私にまでなぜお隠しになるのです」
保憲は声を厳しくして父に詰め寄った。
「ならばあの山育ちについてはお聞きしますまい。別のことをお聞きいたします。鳴滝が父上の娘であるとは、あれはどういう意味でございますか」
忠行は、こたえぬ。皺《しわ》深いその額に、うっすらとまた光るものがにじんできた。
保憲はゆるさぬ。若さゆえの性急さと潔癖さで、ことあらば父の襟さえとってゆさぶろうという勢いをみせる。
「なにゆえ口をつぐまれますか。式神《しきがみ》の目と耳を通して、私ははっきりとこの耳で聞いたのです、浄蔵殿が、かの妖女にむかって、『賀茂忠行の娘、賀茂|徳子《とくし》』と呼びかけるのを。
父上の娘というのであれば、私の姉ともなりましょう。私はこれまで、徳子という姉の話など耳にしたこともございません。父上。なぜ黙っておられるのです。かの妖女が私の姉であるというなら、私は、都を滅ぼす悪鬼の血縁ということになる。父上はどうお思いか知りませぬが、私は、とうていそのような不名誉には耐えられませぬ」
けがらわしい――と吐き捨てるようにいう。
その一言を聞いたとたん、肩を落とした忠行の背が別人のようにぴんとのびた。「黙れ」の一喝とともに、目にもとまらぬはやさで手の甲を息子の頬に打ちつける。
不意をつかれて、保憲はよろめいた。
忠行は凝然と立ちつくしていた。手など上げたことのない父であり、上げられたことなどない子だった。今起こったのは、この父子の間には決して起こりえぬと思われていたことだった。しかし起こった。打たれた頬を抑えて、保憲は唖然《あぜん》と父を見上げた。
「黙れ」
もう一度、忠行は力なく言った。
みるみるうちに肩がしぼみ、たちまちかれは疲れた老人になった。無言で背を向け、奥へ向かって歩き出す。
「父上――」
「ついてくるがよい、保憲」
重く地を這《は》う声が闇を伝わってきた。
「話してつかわす。父の、かつてのあやまちをな。そなたにだけは知られとうなかったが――これも、また、因果というものであろうよ」
背骨をかたい裸足が力任せに蹴りつけた。
「えい、強情な。手こずらせおって、わっぱが」
しめった土に転がって、志狼は声もなくのたうった。
すでに身体は血まみれ、あざだらけである。乱れた髪は泥で固まり、散りかかる前髪の間から傷ついた獣めいて眸《め》がぎらついている。
囚獄司《ひとやのつかさ》、東獄――。
多くの官衙《かんが》は大内裏の中につくられたが、いくつかの役所、市司や宮の造営・修理を受け持つ木工《もく》寮、修理職、学生をかかえる大学寮などは宮城の外に作られた。うけもつ職分の性格上、京中にあるのが便利であったためである。左右の囚獄司《しゆうごくし》もこの範疇《はんちゆう》にはいる。
右大臣邸で捕らえられ、一昼夜。その間、ほとんど眠る間さえあたえられなかった志狼である。たかが童ふたりであのようなだいそれたことができるはずもない、後ろにいるのは誰と誰か、吐け、吐かぬかと間断なしに責めたてられ、ほとんど考えをまとめるのも不可能にちかくなっている。
起きあがろうとするが、さんざん痛めつけられたあげくにようやく獄に戻されてすでにそれだけの力もない。力つき、ぐったりと横たわったその頭の上で、鎖をじゃらつかせた獄吏ふたりが声高に喋《しやべ》りあっているのが遠くに聞こえた。
「しかし、太いわっぱよ。いくら責めても、悲鳴一つあげよらんとは見上げたものじゃ。なんでも右大臣藤原定方さまのお邸に暴れこんで、側仕《そばづか》えの者や太刀とった武士を何十人も殺してのけたというではないか」
「いや待て、それはこ奴ではなくいま一人のほうだと聞くぞ」
といま一人が言う。
「そ奴はなにしろおそろしい奴で、針をさかだてたような銀髪に三本の角を生やし、耳まで裂けた口にぶっちがいにそろった牙をがちがち咬《か》み鳴らす妖怪じゃそうな」
「おそろしいのう。するとそれを捕らえなされたお方は大分の剛の者じゃの」
「それよ。なんでも平将門、藤原純友という二人の武人じゃそうなが、ほれ、かの藤原忠平殿の肝煎《きもい》りで、先ごろ検非違使庁に送り込まれてきた者どもじゃそうな」
「まあ、なにか知らぬが、こ奴がいま一匹のごとき力を持ってはおらぬかの。わしはまだ食われとうはないぞ」
死人のように横たわる志狼を薄気味悪そうに見る。いくらか肝の太いらしいほうはからからと笑って、
「なあに、大事ない。力ある一匹のほうは陰陽寮の陰陽師どもがよってたかって呪で封じた特別な房に押し込めてあるし、こ奴にも、精を封じ魔を縛する不動明王の呪符《じゆふ》を貼りつけてあるということじゃ。殴ろうと蹴飛ばそうと、ただの餓鬼と同じよ。なにが恐ろしいことなどあるものかい」
「なるほどそうか。なら、心配して損したの」
と肝の小さいほうも笑って、いきなり志狼の脇腹につま先をめりこます。ぐっ、と唸《うな》って転がった志狼の懐から、ぽろりと細長いものが落ちた。
「おや、これは何じゃ」
めざとく見つけた獄吏が拾い上げる。
「なんと、扇ではないか。女物だの。こ奴、邸で女房がたの房にでも入り込んだか」
「わっぱとはいえ、すみにおけぬのう。どれ、これは駄賃がわりに」
きらきらと金が輝く扇を満足げに掲げてみたとたん、わっと叫んで飛び上がった。
「こ、こ奴」
「か……え、せ」
うまく動かぬ手をのばして、志狼は歯を剥《む》き出した。
息をするのすら苦しいが、その扇を奪われるのはがまんがならなかった。それは葛葉にやるものだ。あの子鹿の目をした娘のためのものだ。このような臭い場所で、このような卑しげな笑いを顔中に浮かべた男たちに奪われてよいものではなかった。
「かえせ……それは、俺のだ。返せ……!」
獄吏の袴《はかま》の裾に血の手形がべったりとついた。
「おのれ」
げじげじ眉を逆立てた獄吏は、手にした鎖をいきなり振り上げ、志狼の裸の背に振り下ろした。
鉄のぶつかる音に続いて、ぐしゃりと鈍い音がする。頭が白くなるほどの激痛に志狼はのけぞった。むきだしの背は幾|条《すじ》もの鞭《むち》のあとにおおわれて、赤剥《あかむ》け同然になっている。そこを、錆《さび》だらけの重い鉄の鎖で打たれたのだからたまらない。
裂けた肌から、じくじくと新たな血がにじみ出す。それでも志狼は離さなかった。
「返せ……俺の、扇だ。あいつにやる扇だ。返せ。返せ……!」
「えい、しつこい奴め!」
ふたたび鎖が唸った。手の甲をしたたか打たれて、志狼は叫び声をあげた。つい指がゆるんだのに乗じて、獄吏が手を引き離す。いささか気をそがれたように額の汗を拭《ぬぐ》い、
「まったく、奇態なわっぱじゃ。それだけやられてなぜまだ動けるのかわからぬ。なみの盗賊なら今ごろ、骨が砕けた身が裂けたなどといってひいひい泣きわめいておるころじゃろうに」
「やはり、魔物なのではないか」
とまた小心者が怖がりはじめる。
「おぬし、やはりその扇は置いておいたほうがよくはないか。気味の悪いわっぱじゃ。あとでなにか、祟《たた》りがあってはためにならぬぞ」
「なんじゃ、まっこと臆病な奴じゃのう」
朋輩《ほうばい》のおそれがよけいにその男の虚栄心をたかぶらせたようで、かれは肩をそびやかしてこれ見よがしに扇を懐にしまった。
「魔物なら魔物でよし、珍しくてよいではないか。よい売り文句になるわい。市へもってゆけば、なにがしか金になるであろう。どうじゃ、これから行って、それで少しはましな酒でも酌もうではないか」
「おお、それはよいの。では行こうか」
「ま……て――」
かぼそい志狼の声は、もはやかれらの耳にはとどかぬ。
高笑いと足音が遠ざかり、とだえてしまうと、あとには自分の呼吸《いき》の音が耳障りに響くばかりとなる。
うずくまり、志狼はひたすら、くやしさに泣いた。
獄舎《ひとや》は暗い。そして暑い。
長年多くの罪人が出入りし、そこで呪い、恨み、嘆き、あるいは死んだ場所である。昼でさえ、土間の隅にどろりと溜まった闇は肌を侵すほどに濃い。しみついた糞便と血と膿《うみ》の臭い、なにより望みの絶えた人間の、行き場もなくそこにわだかまるしかない呪詛《じゆそ》のうめき。
ならんでいるはずのほかの獄舎は、からなのか、それとも入っていてもみなあきらめているのか、ひっそりかんとして音もない。唯一、どこかから高く低く流れてくるかぼそいすすり泣きは、男のものなのか女のものなのか――あるいはこれまでここに呻吟《しんぎん》した罪人どもの、恨みと呪いが凝《こご》ったのか。
(葛葉――)
倒れた志狼の頭の中で、その名が鬼火のように燃えている。
なぜ逃げる、葛葉。俺だとわかって、なぜ逃げる。
あらあらしい獣に似た志狼の心には、娘の胸のやわらかい想いはわからない。けがれたおのれの肉体、想う相手に、老人に抱かれるあさましい姿を見られたと気づいて恥と絶望にとらわれたその嘆きもわからない。
目に焼きついたのはただその白さであった。まろやかな肩、つよくくびれた腰に、ふくよかに盛りあがった輝くような下腹。ぴんと肌の張りつめた太股《ふともも》が立てられて蔭をつくり、もっとも秘められた部分をつつましくそのうしろに隠していた。
生き物のように床をすべる黒髪ばかりを身にまとって、葛葉はひとつの煌々《こうこう》たる発光体であった。ひからびた蛙のような右大臣のからだなど、その光の前ではなにほどのこともなかった。ただそれは美であった。女であった。そうして志狼は初めて女というものを見た気がした。
山では男女の交合《まぐわい》はかくすべきことでもなく、飢えれば飯《いい》をほおばり渇けば水を飲むのと同じに、人々はそれぞれ小屋であるいは野山で、茂る草の蔭で流れる水のほとりで、おおらかなまじわりを持っていた。
志狼にとってそれらはさして目に留めるべきほどの意味をもたない、ただそこにあるだけのものだった。初めて女を抱いた、あるいは抱かれたのは十三のときだったが、そのときでさえ、たいした感興はなかった。
なるほど、こういうものか。ことが終わり、丸い腹と乳房をまるだしにして喘《あえ》いでいる女に、十三の志狼はさめた心地で思ったものだ。
なるほど楽しくないこともないが、同じく汗をかくのなら、北辰をつれて峰をめぐり、谷をわたる修行のほうが爽快《そうかい》であるし面倒が少ない気がした。もとより、誰かと息をあわせて何ごとかをなすということのきらいな志狼だ。初めのうち、童とあなどった微笑をみせていた女がしだいに悦びにおぼれ、唇をゆがめて咆哮《ほうこう》しはじめる様子を見下ろしながら、考えていたのはこ奴を突き放して谷川へ蹴転がし、冷や水でざぶざぶ洗ってやればどれほど爽快だろうということだった。
頭の後ろがむずむずしだして、やがてそれが粘着質の熱の塊にかわって脳髄いっぱいに膨れ、噴出した瞬間のみは頭から考えが吹き払われたが、それとて過ぎ去ってみればどうということもない。熱くて臭く、べたつく身体がうっとうしかった。濡れた目つきで見上げる女は重く脂くさく、脂ののった手足が章魚《たこ》のようにぐにゃぐにゃとからみついてきて、へんに甘ったるい泥でおさえつけようとする。
不快な。そう叫んで相手を蹴りつけ、志狼はひと飛びして岩場を走った。ぎゃっという悲鳴に続いて、金切り声でわめく女の声が聞こえたが、意に介さず、走りつづけた。疾風のように山を駆け抜け、深山の自分しか知らぬ深い淵へ行って、全身|刃《やいば》のように冷え切ったと感じるまで何度も水をくぐった。
そばにいるのは北辰のみであった。神狼は桃色の舌をだらりと垂らして、水をはねとばす若い肉体を眺めていた。
なあ、北辰――疲れはてて水の上に漂いながら、狼にむかって話しかけた自分の言葉を志狼は思いだしていた。
――なあ北辰。人間というものは面倒なものだな。
女は俺を恋うているといったよ。
俺をいとしいと言い、恋しいと言い、わたしのもとへ通うてくりゃれと言ったよ。幼くともよい、おまえと夫婦になりたいと――おまえの子が産みたいと、言ったよ。
おかしいな。恋というものがただそれだけのものなら、なにも言葉などつくさぬがよい。俺のしたことが快いならしてやる。子種が欲しいならいくらでもくれてやる。なのに、なぜ女はあのようなことを言うのか。
愛《いと》しいと言い、恋しいというのがみな先ほどのあれを意味するのなら、恋とはなんと暑苦しいみにくい面倒なものだろうな。
語る言葉をもたぬおまえたちのほうが、よほど簡単でいい。
なあ、そう思わないか、北辰。
口に、血の味がひどい。舌の上にとがった砂粒を感じながら、志狼はかすんだ目をあげて獄舎の外をうかがおうとした。濃い闇が目に映るばかりであった。すでに陽は沈んでいたが、昼夜にかかわらず暗いのが獄舎である。また首を落とした。腹の奥から、嘔気《おうき》がこみあがってきた。
殴られたことによるものではない。見えているのは葛葉の白い顔、白い肉身、ただそれのみであった。思えば身体の芯に火がともった。志狼のこれまでに知らぬ熱い火、粘りけのある蜜のような炎がふつふつとわきたってきた。
それは凶暴な火であった。初めての女を蹴り飛ばしたときの、足の下で鞠《まり》のようにはずんだ肉の感触、たっぷりと脂をたくわえてぬめぬめと光っていた肌のつややかさがよみがえった。いつのまにか、女は葛葉の顔をしていた。混濁した意識の闇のなかで、志狼はその上に折りかさなっていた。腕の中で葛葉の身体は白い稲妻となった。志狼はその日に灼《や》かれて死んだ。そうして次の瞬間、まだ生きていることに驚愕《きようがく》しつつ目覚め、葛葉のそばにないことに愕然とするのだった。
「葛葉。葛葉」
ぼろぼろと志狼は涙を流した。涙は土に吸われていった。濡れた土からはにおいが立った。多くの罪人の血と涙にぬれていながら、その香は不思議と清冽《せいれつ》であった。
「これが恋か。この痛みが恋か、この苦しみが恋か。おまえが俺にこの呪詛《のろい》をかけたか。葛葉よ。葛葉。葛葉……」
かの女のそばにいないことは理不尽であった。冒涜《ぼうとく》であった。不在の女を求めて腕がはげしくうずいた。地面に倒れたまま志狼は哭《な》いた。奪われた恋人、自らの手を逃れ去っていった女を求めて哭いた。逃げた女を殺したいと思い、その一方で、捉えれば二度と離さぬように全霊こめて抱きしめ、その髪のひとすじ吐息のひとつも外にもらさぬよう、傷つけぬように、大事に大事に守ってやりたいという想いがはらわたを裂いて荒れた。
「――おまえ、女を、捜したい、のか」
声がしたのは、むかいがわの獄舎の格子の中からであった。
舌足らずの喋《しやべ》り方は幼児のようでもあったが、声は太い、おとなの男のものであった。息切れしているような切れ目の多い話し方をしながら、なにものかが格子に寄ってきた。太い指が横木をつかんだ。
濃い闇に染められたように、指はつややかに黒かった。よくそろった歯並びが、影のなかでぎらりと笑った。
「――それなら、己《おれ》が、てつだって、やろう、か」
「これまで人には話したことのなかったことじゃ」
屋内は暗かった。深沈たる闇であった。その中に仄《ほの》あかく照らされている場所がある。忠行と保憲が座している場所であった。微《かす》かに灯《あか》りがともっていた。さだかならぬ火明かりに、親子の顔は幽鬼のように小さく小さくゆらめいた。
「ことにそなただけには、知られとうないことではある。恥じゃ。恥である。……が、しかし、恥であるから話さねばならぬ。まことにいつかは語らねばならぬではあった。しかしわしは恥ずかしい。今も思い出したばかりで、恥に全身が焼かれる気がする」
「お話しくださりませ、父上」
端然と座って、保憲のほうがよほど落ちついているようであった。が、しかし、その白皙《はくせき》の頬はいささかならず青ざめている。無理もない。かれにとってこれまで父は絶対であった。権威であり、世に知らぬことのない道術の師であった。その師をこれほどまでに脅えさせうることがあるとは、若いかれにはなかなか思えぬのであった。
さよう忠行は怖れていた。皺《しわ》をきざんだ額のあたりに、氷の汗が浮いていた。拭《ぬぐ》う手をあげもせず流れるままにまかせると、藻塩草《もしおぐさ》めいて白くなった眉のあたりに、ふるえる露がわずかにやどった。
「うむ語る。語るぞ」
まばたけば露は流れる。また次のしずくがそこに宿る。息子の見る前で、賀茂忠行はすこしずつ溶けていくようにみえた。
「だがわしは恐ろしい。そうして恥ずかしい。あのころわしは若かった。そうしてひどく愚かであった。おのれより強いものが居ることが許せず、またその許せぬおのれがさらに苛立《いらだ》たしゅうてならなんだ。さようあれはもはや二十年の昔、わしがまだ、そなたよりほんの五つ六つ上でしかなかったころの話じゃ」
そうして忠行は訥々《とつとつ》と語りだした。
昔の話であった。しかし語るものと聞くものにとっては、現在ただ今、この場において繰りひろげられつつあることに変わりなかった。
灯心がじりじり音を立てた。舞い込んできた羽虫が炎にひかれて焼け死んだ。
汗みずくになって忠行は語った。保憲は黙然《もくねん》と聴き入った。陰陽師の語る言葉は時をこえ、言霊《ことだま》となって、当時の姿を厳然とそこに描きだすかに思われた。
急峻《きゆうしゆん》な尾根を、男が一人登ってゆく。若い男である。しかしこのあたりの杣人《そまびと》でないことは、そのからだつきのきゃしゃなことや山歩きには慣れておらぬ風情の、よろめきがちな足取りからも見てとれる。
足を止め、上を仰いだ。袖で顎《あご》を拭い、ため息ついて頂上をながめやる。道はまだまだ遠いらしい。十重二十重に重なった木々は猛々《たけだけ》しい緑に萌《も》える。
葛城のそのまた奥山である。獣道さえかよわぬような深い山々を、従者ひとりさえ禁ぜられてただ徒歩《かち》でのみ登らねばならぬと、言い渡されての旅であった。男は賀茂忠行。ようやく陰陽寮に席を得たばかりの、まだ年若い陰陽師であった。
「賀茂の総領どのであられるか」
ふたたび吐息して、腰をあげかけたとたんに声がした。
ぎくりとして振り向くと、かたわらの茂みががさと揺れた。ぬっと頭を出したのは、漆にひたしたようにつややかな黒い毛におおわれた獣の頭であった。
「おお」
忠行はたたらを踏んで下がった。
一瞬、この獣が口を利いたかと感じたのである。獣に殺気は不思議となかった。ただ牙を剥《む》いてううと唸《うな》った。額に星のごとき白い一点のある巨狼《きよろう》であった。聡《さと》い金色《こんじき》の瞳《ひとみ》をしていた。
しかし獣が口を利くわけはなく、狼につづいて、がさがさと枝を分けて現れたのはひとりの人間の若者であった。
忠行とさほど年はかわらぬらしい。山歩きに適した括袴《くくりばかま》と袖無しから、赤銅色《しやくどういろ》の手足がぬっくと突き出ている。だが粗野ではない。じゅうぶんに育った野生の獣が粗野ではないのとおなじである。爛々《らんらん》として澄明な眼光と、全身からあふれさせる精気は、都で育った忠行を圧倒してあまりあるものであった。
「俺は葛城の志狼という。総領どのを迎えにまいった。この狼は北辰」
ついてこられよ、と、言いたいことだけ言って身をひるがえす。
はばひろい背中ががさがさと茂みに消えるのを見送って、忠行はあわてて後にしたがった。山に入ってから初めて得た案内人である。この若者を見失えば、それきり木々の枝々にからまれ、命を吸いつくされるやもしれぬと根拠のない恐れがあった。それを抱かせるような緑であり、山の霊威であった。ざわざわと、魑魅《すだま》どもが葉末にざわめく声がきこえた。
志狼なる若者はいかにも気軽に、敏捷《びんしよう》に、岩から岩へ、木から木へ、飛び移っては駆けていく。都人の忠行はじきに難渋した。
「北辰」
忠行が大きな岩を越えかねているのに気づいて志狼は声をかけた。
と、北辰というかの黒い巨狼がひと跳ねしてそばへ来た。尻をおろして、なにかもの言いたげな目をこちらに向ける。
「そのものの背に乗るとよい。案ずるな」
ためらっている忠行に、志狼はかすかに笑みを含んで言った。「咬《か》みはせぬ」
嘲弄《ちようろう》ではなかったのであろう。しかし忠行はむっとした。わずかな迷いをおいはらい、こわい毛におおわれた獣の首に手を回す。
北辰は一つ吠《ほ》えると、忠行を背に乗せて岩根をただひと飛びに躍り越えた。そのまま、人ひとりを背に乗せているとは思えぬ身軽さで、次々と難所を跳ねていく。
愉快そうに志狼は笑った。はればれとした、空のはてまでも響きわたっていくような晴れやかな笑いであった。その後、いくどとなく忠行の夢に現れて苦しめる声であった。
しかしそのようなことはつゆ知らず、忠行は今は北辰の背にしがみついているので精いっぱいだった。やがて山頂が見えてきた。ひとつかみの石をばらまいたような、人家が見えてきた。
「あれが里だ」志狼が言った。
苦悩《なやみ》を抱えての旅路であった。
賀茂忠行のことである。
賀茂家の祖が葛城にあることはまえにも述べた。奈良朝における呪術師の筆頭、役小角《えんのおづぬ》は賀茂家の出である。かれは金の五鈷杵《ごこしよ》が口から入る夢を見た母によってはらまれ、長じては人にすぐれた力をねたまれ、弟子の讒言《ざんげん》により流罪せられたかれは、さまざまな奇跡をあらわしたのち母とともに昇天したとも、また雲に乗っていずこともなく消え失《う》せたともいわれる。これらのこともすでに述べた。
わが家系の大先達として忠行があがめる小角の、その直系が住まうそれが葛城役一族の里であった。
いま都にある賀茂一族は、役小角の霊を継ぐ長より、帝のそばにあって玉体の平穏と国の安堵《あんど》をささえるようにと命ぜられ、寧楽《なら》から京へと、移動する朝廷にしたがってうつり住んだ者どもである。賀茂の名はすでに以前から氏族として存在してはいたけれども、すでに奉ずる神をうしない消えかけていた。そこにふたたび息を吹き込み、新たに呪《まじない》をつたえる一族として再生させたのは、葛城の者のしわざであった。
それ以来、賀茂家は国の呪術の表側を、役一族はその裏面を――それぞれに、人を駆使し術を駆使し、守りぬいてきた歴史がある。国々にちらばる山人、傀儡《くぐつ》、巫《かんなぎ》、遊女《あそびめ》など、闇を蠢《うごめ》く化外の者をまとめてきた役一族と、朝廷のなかにまぎれこみ、たくみに動きまわっては裏で蠢く役一族を支えてきた賀茂家と。そのようにして長いあいだ、秩序はたもたれてきたのであった。
しかし人は変わる。時もながれる。
貴族の中で代をかさねるうちに、賀茂の裡《うち》にもゆるみがでた。
しだいしだいに呪力もよわまり、今では、ほとんどのものはたいした力をもってはおらぬ。ただ伝わる呪法のかたちだけが増えてゆく。かたちは器であって中味ではない。盛るべき中味がないというのに、からの器ばかりがどんどんたまってゆく。
器は充《み》たさねばならぬ、そう思うのが人の常だ。
賀茂家はそれに権力をえらんだ。栄達を望んだ。
陰陽寮の中でのしあがること、それが現在の賀茂家ののぞみであった。
貴族というのは迷信家である。朝起きてから夜寝るまで、外へ出るにも髪を洗うにも衣装をかえるにも、その生活は呪と禁忌にがんじがらめといってよい。
それらの指示はみな陰陽師と、かれらのつくる暦によっている。にもかかわらず、陰陽師の地位は低い。いって従五位、従四位、殿上が許されているというだけでほとんど市井のものとかわりはないのである。
貴族の中にはあからさまに、陰陽師に対して鼻をならすものがある。低い官位のものなど貴族ではなく、貴族でないものはかれらにとって人間ではないのである。鬼や穢《けが》れを祓《はら》いきよめる汝《なんじ》らなど、鳥部野《とりべの》に死人を運んで捨てる荷車とさしてかわらぬと、けがらわしげに吐き捨てるものすらあった。
しかしそういうことを言うものほど、ことあるごとに忠行やそのほかの陰陽師を呼びつけ、もののけがついた悪霊がついたと金切り声でさわぎたてるのである。そうした呼びだしに応《こた》えるたび、忠行は腹の中で血が流れるほど歯ぎしりした。
ふだんは犬を見るような顔をしておいて、一度ことが起これば足を押しいただかんばかりにへいつくばってみせるおろかしさ、もののけを払ってしまえばまた何事もなかったようにすましこむ厚顔、狡《ずる》さ、鈍感さ。落ちつきはらったその顔に、何度|唾《つば》を吐きかけてやりたいと思ったかしれぬ。
朝廷と貴族は一族にとって仮の場、まことの世界は葛城の山の清浄にありと、始祖の心をたもてていればよかった。しかし、そうはならなかった。
忠行は実に若かった。
そうして夢を抱いていた。
いうまでもなく陰陽師として位をきわめる夢であった。
けれどもきわめるだけではない。陰陽寮を一級の官庁にまで押し上げ、陰陽師を殿上の上席に居ならぶ貴人たちと同列につかせる夢であった。
陰陽師が高い地位をみとめられれば、能もないまま高位を誇る権門の人々に卑屈になることもないであろう。術に必要な鍛錬と知識に、妥当な敬意も払われるであろう。連綿とつづくわが家系に、必要な家禄《かろく》も与えられるであろう。
しばしば忠行はそうした白昼夢にふけった。綺羅《きら》をかざった殿上人たちが、ふかぶかと頭を下げる中をしずしずと歩いていく陰陽寮の者。その先頭にいるのはむろん貫禄をそなえた忠行自身である。それは愉《たの》しい夢であった。
しかし夢は夢でしかないのだった。目をひらけば現実がそこにあった。ほとんど無冠に等しいわが身と、きわめて煩雑かつ忙しく見返りのすくない陰陽寮という場所。
このときの陰陽頭は代々秦氏がつとめていた。秦氏は渡来人の家である。陰陽道のもととなった呪禁道《じゆごんどう》や道教のおしえは外国《とつくに》のものであるから、渡来人が陰陽寮の頂点にすわるのはある意味理屈にかなっている。
それでも忠行には我慢がならない。かつて外国からもちこまれたとはいえ、今は国に根づいたものであるから、父祖の代からこの地で血をかさねてきた家が呪の頂点に立つのがあたりまえと思えてならぬ。頭上に立つ者たる陰陽寮のかしらが、陰陽師とは名ばかりの、なんの呪力ももたぬただ人であることが、ますますその思いに拍車をかけた。
忠行の不幸はなまじ人よりすぐれたその呪力にあった。おとろえた賀茂の血は、かれにおいてわずかに力をとりもどしたのであった。
忠行は自分に能力《ちから》があることはわかっていた。しかしそれが、今の状況をひっくり返せるほどの、大きな力でないこともまたわかっていた。
陰陽師として生きてゆくに、おそらく不自由はないであろう。
むしろ賞賛されるであろう。
しかしそれは忠行の求めるところではなかった。
かれは自由になりたかった。裏とはいい条《じよう》、実は葛城の民の中心は役一族であり、賀茂は分家でしかない現実から脱却して、賀茂家それ自体としての栄華をほこりたかった。
それをつくり出すのは自分自身でありたかった。父も母もそれをのぞんでいた。青年《わかもの》としての自負もあった。しかしそれを充たすだけの力の己にないことも、否応なしに知らされていた。
かれは苦しんだ。
かれは煩悶《はんもん》した。
その煩悶のただ中に、葛城からの呼び声がとどいたのであった。
『来よ』と。
ふたたび、獄舎――。
「――なんだ。おまえは」
誰だ、ではなく、なんだ、といった。
それほど相手は異様であった。巨《おお》きかった。そうして、黒かった。
「なんでも、ない。己《おれ》は、己、だ」
そいつは言って、きしきしと笑った。
滑石をふたつ、手に握ってすりあわせたような、きしんだ声であった。
志狼はゆっくりおきあがった。
向かいあった牢《ろう》の闇の中から、ぬうとひとつの顔が出てきた。
顔というより、目であった。歯であり、口であった。
そのほかのところはみな黒い。
黒くないのは白目と、唇と、歯それくらいのものである。
ぽってり厚い唇は桃色で、同じ桃色の歯茎から生えた歯が、ほの光るほどに皓《しろ》いのだ。ちらりと見えた手のひらは、染めたがごとき黒い肌に、そこばかり赤子の肌のように、ほんのり明るい色だった。
肩も腕も足腰も、りゅうりゅうと肉が盛り上がって、あたかも突兀《とつこつ》たる岩峻《がんしゆん》の体《てい》をあらわしている。立ち上がればおそらく狭い獄舎の天井は突き破られるであろう。衣服は腰にひっかかった、ぼろ布一枚。
小鼻の広がった獅子鼻《ししばな》の横に、黄金《きん》の飾りをとめていた。それが暗がりにちかりと光った。また、きしきしと笑った。
「己の、ような、ものを、みたことは、ないか。むりも、ない。もう、ここに、入って、三十年、ちかくに、なる。いや、それ、以上か」
のしりと寄ってきた男は格子に顔を近々とよせた。それで相手の顔がわかった。
のんべりと広い顔はどこもかしこも大作りで、磨いたようにてかてかしている。髪はなく坊主のようにまるい頭がつやつや光っている。ぶあつい唇が別の生き物のように濡れてうごいている。キョロキョロよく動く眼は三白眼で、瞳《ひとみ》の上半分が、いつも瞼《まぶた》にかくれている。そうして白目がまた蒼《あお》みを帯びるほど白い。
その白い眼の目尻から頬へ、耳へ、首筋へ分厚な胸板へと、いちめんぼつぼつと釘を打ったような、窪《くぼ》んだきずあとが刻まれているのである。
よく見てみるとそれらは意味なくうたれているのではない。どうやらひとつの模様の図案にそって、きちんとならんでいるらしい。
渦巻く葛《かずら》の蔓《つる》のような、なにかの動物の触手のような、奇妙に精気のこもった図である。追うとめまいをさそわれる。
黥面《げいめん》であった。
「おまえ……」
「気に、するな。これは、己の、おやじが、やった」
にたりと笑うと、地響きをたててあぐらをかいた。
「おまえ、女を、捜したい、のだな。それなら、己が、力に、なろう」
――用心しいしい、志狼も座った。
熱い胸苦しいにおいが目の前の相手から漂ってきた。不快なにおいではなかった。どこかかぎ馴《な》れたにおいであった。なんだろう、と考えて、思い当たった。
――ああこれは、獣のにおいだ。
「力になろうと言って、どうする。おまえに俺をここから出すことができるとでもいうのか。三十年ここにいると言ったな。なにか秘密のつてでも持っているのか――待て」
志狼は格子にとりついた。
「三十年というが、おまえ、それほど年寄りではなかろう。手に皺《しわ》もないし、声も若いようだ。偽りを言うような人間を、俺が信用できると思うか」
「己は、ここで、生まれた、からな」
ひいひい、と息をすいこむように笑うのである。
「己の、おふくろは、とある、貴族の、侍女で、あった。――しかし、おやじは、宮を逃げ出した、唐わたりの、黒人《くろきひと》で、あった」
「黒人……?」
海の果て、大陸を支配する大唐――そこへの使節、すなわち遣唐使が廃止されたのは寛平《かんぴよう》六年(八九四)のことになる。のちに怨霊《おんりよう》となる運命の菅原道真が、その慧眼《けいがん》で唐帝国のおとろえを予知し、いちはやく廃止を上奏したのである。
しかしそれまでの行き来のあいだに、さまざまな文物が二国の間をゆきかった。金銭は言うにおよばず仏典、書物、技術、工芸、それから人。
学生ならびに特殊な技術をもつ工人はいざ知らず、そこには、特異な容姿をめずらしがられた異国の人間もふくまれていたのである。
しかし人間というよりかれらは動物であった。物にひとしかった。
栄華をほこる大唐は、ひろく大陸全域に交易の手をのばしていた。その都にはさまざまな人があふれた。眼の青い波斯《ぺルシヤ》人、肌の色濃い天竺《インド》人など、姿形のかわったものはいくらでもいてめずらしくない。
しかし、いまだ熱帯の大陸、今でいうあふりか[#「あふりか」に傍点]の発見されていない時代、荒海にへだてられた大陸どうしにゆききがあったとは思われぬ。おそらく嵐かなにかに遭いたまたま流されたのであろう。漆のような肌をした黒人は、玉《ぎよく》の香炉や螺鈿《らでん》の手箱とおなじ、他国への珍なる献上品として、遣唐使船にのせられたのであった。
「しかし、毎日、大きな、犬の、ように、あつかわれるのが、がまんできずに、逃げた、のだ。おやじは、な」
傷だらけの頬を撫でてみせる。
「おやじは、逃げて、都を、荒らした。鬼と、思われ、追い立て、られた。そうして、暴れ込んだ、先にいた、おふくろを、犯し、殺された。おふくろは、それで、物狂いに、なった。家の者が、きらった、ので、追い出され、た。閉じこめ、られたが、その先で、人を、殺した、ので、捨てられた。ここに、放り込まれて、己を、生んで、死んだ」
そんな凄惨《せいさん》な話をしながら、にやにや愉快そうに笑うのである。
「もとは、どこぞの、姫だった、らしい。涙を、さそう、話だ」
「赤子のときからここにいるというのか」
ますます志狼は格子に顔を押しつけた。
「ふざけるな。生まれたての赤子が、母もおらずにどうして生きのびられるものか。もし生きのびられたとしても、物心もつかぬのにふた親をなくしたおまえがどうして今のような話を知る道理があるのだ」
「おやじが、育てて、くれた、からな」
平然としてますます奇怪なことを言いだす。
「言った、だろう、これは、おやじが、したこと、だと。
おやじは、部族の、呪術師で、あった。呪術師の、魂は、正しい、送りを、しないと、悪い霊と、なって、この世に、のこる。
おやじは、みごとに、横死、した。だから、悪霊に、なって、息子の、己に、憑いた」
ひいひいひい――きしるような笑い声が響きわたる。
「己を、おのれの、形代《かたしろ》にして、この世に、もどる、腹づもりで、あった。だが、己の、ほうが、一枚、うわて、だったよ」
「どうしたのだ」
「喰った、のよ――」
――どこかで鳥がするどい鳴き声をたてた。
声は離れた牢にも響いた。人には見られぬ、見つからぬ、ごく奥まった場所であった。
昼なお暗い獄舎《ひとや》にも、ひときわまして暗い部屋であった。
童子はそこに囚《とら》われていた。白髪のあたまをがっくりと前に垂れ、繊《ほそ》い手足を鉄鎖でかたくかたくいましめられてあった。
鉄鎖にはすきまなく、なにかの文字がきざまれてあった。不動明王の御真言が、蟻ほどの小さい小さい文字でびっしりとかきこまれてあるのであった。
さらに身体のまわりには、浄めた砂と塩とをまぜて描かれた、緊縛のための方陣が描かれてあった。香炉が煙をたてていた。部屋の壁といわず柱といわず、べたべた貼られた呪符と真言で針をたてる間もないほどであった。
その中で童子は首《こうべ》をたれている。
身じろぎもしないが苦しんでもいない。
白い手足はしばられていても、緊張もみせずにくつろいでいる。鎖のほうがえんりょして、そっと巻きついているだけのようにみえる。
髪からのぞくあどけない顔は、眠るがごとくただ静かである。十歳の童《わらわ》の寝顔である。
やわらかい頬から唇が、ときおりびくりと動くのは、引き離された姉を夢に見ているのか、それとも、もっと別のものを見ているのか――
――また、どこかで鳥が啼《な》いた。
金属に爪をたてたがごときその鳴き声がおわらないうちに、土間のすみの闇黒《くらがり》で、ごそりと動くものがあった。
虫か。いや、虫ではない。
鼠か。いや、鼠でもない。
そいつはふくれた腹をかかえてごそごそといざり出てきた。ぐいと前につきでた口は犬の顔であった。
背たけはほんの二、三寸しかない。痩《や》せこけた身体は餓鬼であるが、尻から長い尾が出ている。尾は鎌首をもたげて糸のような舌を吐いた。蛇であった。
――御子さまじゃ。
涎《よだれ》をしたたらす牙のあいだからそいつは吠《ほ》えた。
――御子さまじゃ。御子さまじゃ。
どこからか、多数《おおく》の声がそれに唱和した。
すると犬頭の餓鬼が這《は》い出したあとから、別のやつらがぞろぞろともがき出てきた。
――御子さまじゃ。御子さまじゃ。
――御子さまじゃ。御子さまじゃ。
ぞろぞろ、ぞろぞろと、あとからあとから這い出してくるのである。
女の悪露《おろ》が凝《こご》ったがような、血のかたまりに似たやつがいる。なめくじに手足が生えたような、べとべとしたなにかがいる。あおじろい陰火を吹きながら、ぐるぐる回る車輪がある。蝙蝠《こうもり》の羽根を耳にもつ、人の生首が羽ばたいて飛ぶ。手のひらほどの大きさしかない、人間の骸骨《がいこつ》ががくがく歩く。
よく見るとそれは、小指ほどのおおきさの小さな小さな骸骨が、手を組み、足を組んで、できあがっているのである。米粒ほどのされこうべの、芥子粒《けしつぶ》ほどの暗い眼窩《がんか》から、じわりと黒い闇があふれる。そうしながらいっせいに、声をそろえて歌うのである。
――御子さまじゃ。御子さまじゃ。
――御子さまじゃ。御子さまじゃ。
出てくるのはひとところばかりでない。見えるところすべてを覆いつくさんばかりに貼りつめられた呪符の、それでも残るわずかな隙間から、にじみでるように頭や手や足や尻尾《しつぽ》が現れる。あるいは、それに似たようなものがひり出されてくる。
せまい隙間を無理にとおらんがために、押しつぶされた身体からどろりと赤い血がしたたる。天井からこぼれ落ちた小さいやつが、床の方陣にふれてぎゃっと声を上げて弾《はじ》け飛ぶ。それでもかれらはやめようとしない。
――御子さまじゃ。御子さまじゃ。
――御子さまじゃ。御子さまじゃ。
声をあわせてうたいながら、方陣の中心の童子に這いよろうとする。
しかし描かれた陣はかたく、なまなかなことでは破れそうにない。かれらはしばらく思案げにより集まる。
やがて、中から一匹が前に押し出されてきた。ぶよぶよとした血のかたまりのような、血膿《けうみ》で充たした袋のようなやつである。
そいつは女のような笑い声をあげ、方陣の外の線に、かぶさるように身を投げた。
ばしゃ、といやな音がして、血袋に似た身体が砕ける。
悪臭をたてながら広がった血が、砂と塩とを混ぜた方陣の線を溶かした。
見ていた仲間がどっと笑った。
――御子さまじゃ。御子さまじゃ。
こんどは骸骨が前に出て、膝をついた。みるまに身体がばらばらとほぐれる。
分かれた数百体の小さな骸骨が、たくみに手足をからめあって骨の梯子《はしご》を作り上げる。踊り歌いながら、かれらはその上を渡っていった。
――御子にお斎《とき》をさしあげよ。
――われらがお斎をさしあげよ。
ばしゃっ、びじゅう、と、梯子から落ちたやつらが、おのれの体液でもってあちこちで方陣の線を消していく。するとどんどん通り道ができる。あちらからもこちらからも、同じような小さいものどものかたまりが支え合い、助け合って方陣をこえる。
――御子にお斎《とき》をさしあげよ。
――われらがお斎をさしあげよ。
犬頭の餓鬼がさいしょに童子のもとに到達した。
白い水干の襟にとりつき、口もとへよじ登る。夢見るように小さく開かれた、やわらかい唇にたどりつくと、一声歓喜の吠え声をはなって、その口の中へ飛び込んだ。
がつっ、がりっ、と、音がした。
童子の唇のあいだから血がたらたらと落ちた。はみ出していた尾の蛇が、のたうちながら呑《の》み込まれた。
がり、がり、と音をたてながら、餓鬼は咀嚼《そしやく》されていった。やがて童子の喉《のど》が動いた。胃の腑《ふ》へおちていく頭目に、かれらはいっせいに喝《かつ》采さいした。
――御子にお斎《とき》をさしあげよ。
――われらがお斎をさしあげよ。
童子の小さい唇に、われもわれもとかれらは吸い込まれていった。羽根のあるものは飛んで、手足のある者は這い、それらのないものは仲間にかかえられて、嬉々《きき》として次から次へと喰われていった。ちぎれて落ちる肉片や体液も、自ら意志を持つように、ひとりで飛び上がって跳ねながら口にもどり、あるいは落ちかかる途中から上へむかって逆流するのであった。
今や獄舎は闇の領域であった。雲霞《うんか》のごとく舞う小さいいきものが、声をそろえてうたっている。
御子にお斎《とき》をさしあげよ。
われらがお斎をさしあげよ。
――うすく開いた童子の瞼《まぶた》から、金色《こんじき》の光がわずかにこぼれた。
「喰うとは、どういうことだ」
異貌《いぼう》の男に志狼はたずねた。奥まった別の獄舎で奇妙な食事が展開されているとは知りもあえぬかれであった。黒い男はげたげた笑った。皓《しろ》い歯が暗がりに躍った。闇をも食いちぎらんばかりの煌々《こうこう》たるそれは牙であった。
「言葉の、とおり、よ。そいつに、歯を立て、肉を、ちぎり、骨を、裂き、そこに、ある、一切を、己の、なかに、とりこむ、のよ」
格子のむこうからごつごつした拳が突きだされる。桃色の手のひらがひるがえり、目に見えぬなにかを握りこんだ。
開くと、蠅である。溜まりほうだいの汚物にまるまると肥えて、脂ぎった腹をてらてら光らせた青蠅が、指のあいだに押さえこまれて必死になってもがいている。
男は菓子でも食うようにそれを口へ放りこんだ。白い歯並びががっきとあわさった。がっき、がっきとあわさるたびに、蠅はこまかく咀嚼された。
いやただ噛《か》み砕かれるのではない、それは一匹の昆虫のうちにある、活力や能力、本能や種族の記憶を、あまさず吸い出し奪い去る行為であった。かれはそうすることによって、その一匹から将来生まれるかもしれぬ、幾億匹かの蛆《うじ》や蠅どもの未来までも、そっくり吸い取っているのであった。
逞《たくま》しい喉が上下した。舌に貼りつく羽を唾といっしょに吐きとばす。
「そうすれば、そやつに、あった、力が、喰った、ものの、中に、やどる」
何事もなかったように男は話をつづけた。
「おやじ、どのの、父祖は、遠い、熱い、土地の、人間で、あったよ。そこでは、戦いのおりには、強い敵を、殺して、そうして喰って、多くの、力を、たくわえた、そうだ。己も、その、例に、ならった、までよ」
「しかしおまえの父親は死んでいたのだろう。死んで形のないものを、喰うことはできまい」
胸をわるくしながらも、志狼はなおも問いかけずにはおられなかった。男には確かになんらかの力が宿っていて、それが志狼の目を引きつけてやまなかった。
「おやじは、おれに、憑《つ》いていた、からな」
おもしろそうに男はいった。
「己が、そろそろ、ころあい、だと見て、肉体を、奪いに、かかった、のだ。最初は、好きに、させて、おいて、最後の、瞬間に、喰らいついて、やった。見えるか――」
と身体をずらす。いままで尻の下になっていた、太い足首が出た。ごつい足にふさわしい、固そうな足指が見えた。
ところがどこか様子がおかしい。よくよく見ると、そこには指が四本しかない。親指、人差し指、中指、薬指ときて、小指にあたる指がない。
さらに目をこらすとそこには細い骨だけが突き出ている。洗われたように白い骨である。
生きている証拠に、男が足を動かすと、その骨もほかの指といっしょにそろって動く。両方の足の小指の部分だけが、すすがれたように肉を失っているのである。
「なにしろ、みんな、喰って、しまった、からな。肉体を、作り直すと、いうのは、なかなか、暇が、かかる、ものだ」
平然として男はいう。
志狼の脳裏にある映像が浮かんだ。
ひとりの男ががつがつと自分の手足を喰らっている。
指から始めて腕へ、肩へ、胸へ腹へと、歯を鳴らし肉をちぎり、血をすすりつつ喰いすすむ。
やがて頭だけになっても口は動いて唇を頬を咬《か》み、それでも喰らう口そのものが肉を吸い取る吸引口と化す。くしゃくしゃと潰《つぶ》れた顔と頭蓋骨《ずがいこつ》がどこか虚空の胃袋へと吸い込まれ、そうしてすべてがパッと消える。あとには何も残らない。
酸鼻でありながらこっけいな図であった。
こっけいでありながら酸鼻きわまりなかった。
俺は狂《たぶ》れた人間とむかいあっているのかと、さすがに志狼はいぶかった。
けれども骨の小指は証拠であった。黒い小石のようなほかの指とならんで、それは生白い小蛇のようにしめった土間の土にある。
「美味《うま》、かった、なあ――……」
うっとりと、男はいった。
声にどこかであがった悲鳴がかさなった。濡れた軟体動物のような舌が、ぺろりと動いて唇をなめた。われ知らず志狼は身をひいた。
「心配、するな。おまえ、は、喰わない」
志狼のおびえを感じ取ったか、異形の男はしのび笑った。
「おまえは、ここから、出たいの、だろう。己も、そろそろ、ここから、出たい。蠅やら、百足《むかで》やら、雀やらちびちび喰って、力を集める、のは、もう、飽いた。
まぬけな、獄吏を、引き込む、ことも、できるが、騒ぎに、なるのは、困る。己は、まだ、陰陽寮の、ものどもと、渡りあえる、ほどの、力は、ない」
「だから俺に手を貸すかわりに、ここを出るため力をあわせようというのか? 馬鹿なことをいうな」
志狼はさすがに腹をたてた。
この男がいうことの真実《ほんとう》であるかどうかを、いまだ信じたわけではなかった。だがもしすべてがいつわりではなければ、この男は虫を食い飽きて、世間に出たいと言っているのである。世間にいるもっと大きい者、犬、猫、牛馬、そうして人を喰うために、外へ出たいというのである。
志狼とても葛城の若子だ。いかに恋に狂おうとも、そのような者の力を借りるのは若者らしい正義感のゆるすところではない。憤然と志狼は男に背をむけた。
「おまえなど、そこの暗闇の中で永遠に腐ってしまえばよいのだ。話など、聞くのではなかった。俺はおまえの力など、金輪際、借りるつもりはない」
「なぜ、怒る」
むしろ男は不思議そうであった。背をむけてしまった志狼にむかって、
「おまえは、己と、同族では、ないのか。だから、おまえと、おまえの連れが、きたとき、ようやく、仲間を、えたと、思った、のに。もしも、おまえが、仲間で、ないなら、その、額に、あるものは、いったい、なんだ」
「なに」
思わず志狼は額をさぐった。しかし、いつもと変わりはない。秀でた眉のあいだには、なめらかな皮膚があるばかりだ。
「でたらめを言うな。俺の額が、どうしたというのだ」
「わからねば、それでも、よい。だがひとつ、教えて、おいて、やる。おまえの、連れは、もうすぐ、目をさます、ぞ」
「あの童子が近くにいるのか? どこだ! どこにいる?」
「おまえが、己に、諾《うん》と、いうなら、教えて、やろう。先ほどの、蠅が、己に、伝えて、いった、のだ」
闇に溶けてゆきながら、男はふたたびしのび笑った。
「心が、決まったら、己を、呼べ。己は、いつでも、きいている、からな」
「待て! おまえの、名前は?」
志狼は叫んだ。
――おふくろは、おやじを、どーま[#「どーま」に傍点]と、呼んだ。
気づけば獄内に魁偉《かいい》な姿はなく、ただ声だけが志狼の脳裏にいんいんと響きわたった。
――おやじの、家系に、つたわる、名前だ。己は、おやじと、己を、喰った。だから、おまえも、己を、そう呼べ。
そうして、もはや音もない。
高い明かり取りから、血色の夕映えがかすかに獄舎を明るませている。志狼はひとりそこにいた。拳を握り、瞼にあてる。脳髄の奥が熱っぽかった。
「ドーマ――」
呟《つぶや》く。
額の真ん中が、そのとき、微かに疼《うず》いた。
「葛城では半年暮らした。春が去り夏が来たった」
忠行は語りつづけている。保憲は目を閉じている。灯火《ともし》がしだいに年ふりていく。そうして闇は閑《しず》かである。
「わしは何をするともなく、志狼に連れられ山ですごした。明ければ目覚め暮れればねむった。月のあかるい夜には、北辰とともに尾根を駆ける志狼と狼の群れにくわわりもした。じきに手足はかたくなり、都で見れば下賤《げせん》と目をそむけたであろう皮のごとき色艶《いろつや》をもった。肉体《からだ》に精気はみなぎった」
ちらと忠行の貌《かお》に、なつかしげな色がはしった。都の格式としきたりとを離れ、自由の天地で呼吸した日々はやはり若かったかれの魂にとってひとつの快い思い出であるにはちがいないのであろうと思われた。
だがすぐその表情はきびしくひきしまった。悲痛の色がもどってきた。かれは膝に目をおとした。袴《はかま》の膝は指につかまれ、揉《も》み紙《がみ》のように潰れていた。
「しかしいつまでたっても、求めるこたえは得られなんだ。秘法、栄達のため必要な力、いにしえ、役行者の会得せし鬼を使い神をも縛《ばく》す強大な力が目の前にあらわれることはついぞなかった。山と谷、岩をこえるせせらぎ、雄大なる葛城の天地が眼前にあった。そうして志狼が目の前にいた。
かれは葛城の長子であった。志狼は代々長の子が名乗る名だときかされた。いつか時至ればかれは父のあとをついで長となり、役一族の頂点にたつといわれた。志狼の口から聞かされたのじゃ。さしたる気負いもなく、ただあっさりとそう言って、奴は、奴は、からからとあの笑い声をはなった……」
「そなた都へ行く気はないのか」
忠行はたずねた。
それは白昼の川辺のことであった。真夏の光が河原の白い石をじりじりと灼《や》いていた。下帯ひとつでひと泳ぎしたあと、志狼はのんびりと石の上にねそべり、志狼のそばをはなれぬ北辰は、その石の影に腹這《はらば》いになって涼しげな顔でからだを舐《な》めている。
忠行は衣服を脱げずにいた。のびて結いづらくなった髪をむりやりひとつにくくり、色あせかけた烏帽子《えぼし》に押し込んで、汗をかきながら木陰に座りこんでいる。まるで綺羅《きら》はなやかな殿上に、ぼろ服であがりこむようにおのれが場違いであると感じていた。汗じみた直衣《のうし》やしめって型くずれした烏帽子よりも、自然は清潔で美しかった。
しかし忠行は服を脱げなかった。
昨日、都よりの使いが報《しら》せをもたらしたからであった。
九州|大宰府《だざいふ》に、またもや夷《えびす》の群れが上陸したという。
さっそく朝廷は追討の宣旨《せんじ》をくだしはしたが、この時代、外敵やら疫病やらの災厄をしりぞけるのは、追討軍や医師の薬より陰陽師や僧の祈祷《きとう》である。たちまち著名の僧や呪師《まじないし》が呼びあつめられ、陰陽寮も総出で怨敵《おんてき》調伏の法をおこなった。
その甲斐《かい》あってか来寇《らいこう》の危機はまぬがれたが、このたび賀茂の家はこのだいじな調伏においてほとんど重要な位置をしめられなかった。
それはすなわち忠行の不在からである。現在賀茂家にもっとも大きい力を持つ忠行が、葛城に修行の身をおいているからである。
陰陽頭の主導のもとすべては賀茂家の頭上をこえてことははこび、葛城にある忠行になりゆきがつたえられたのは、いっさいが終わり、呪詛《じゆそ》が効いたにせよなんにせよ、異民族がふたたび海の彼方《かなた》にしりぞいてのちのことであった。
忠行は足ずりしてくやしがった。国家の敵を調伏するといえば、武家にいう戦《いくさ》とおなじこと、戦いにおいて大きな効をあげれば、それにふさわしい報償が与えられるのは刀の戦いにおいても術の戦いにおいてもおなじである。このたびの機会こそ、忠行の求める賀茂家の栄達、わが身の累進にとって大きな糧となるはずのものであった。
しかるに忠行は山深い大和国《やまとのくに》にあり、なにもかもすんで始末がおわったあとで、なにか物語のように一部始終を座してただ聞いたのである。
聞くほどに、山暮らしにしばしは忘れていた焦慮が、めざめて飢えた鼠のようにはらわたをかじるのを感じた。おのれはここでなにをしているかという思いがあらためてわいた。一刻もはやく、強い呪力を身につけて都にもどらねばならぬ。
そうして気負って来たというのに、いつのまにか青々とした空気と、人々の闊達《かつたつ》さにまぎれてからりとそれを忘れていた。そういう自分を忠行は恥じた。その羞《は》ずかしさが忠行に、ひさかたぶりの都装束を脱がせないのである。
「都へ行ってどうなるというのだ。俺はここにいるほうがいい」
石の上から眠そうに志狼が答えた。
「風が青いし、食い物はうまい。空は広くて地味はゆたかだ。なにより山の息吹がある。夜になれば星が地上に降る。手のひらに燃えて輝く月がみられる。なあ北辰」
と手をのばして北辰のたてがみを撫《な》でる。狼はうっそり首を上げると、小さく鼻を鳴らしてまた前足のあいだに頭をおとした。
「おまえこそ、どうしてそんなきゅうくつな格好をしている。脱げ脱げ脱いでしまえ、そうして水を浴びるがいい。冷たいぞ。山頂の岩屋から湧き出す水だ。開祖役尊者もここで水垢離《みずごり》をとられた。心身の疲れが一気におちる」
「しかしおまえほどの力があれば、都で一の陰陽師にもなれように」
忠行はいいつのった。
「陰陽寮はおろか、そんな力の持ち主は都でも見たことがない。なぜそれを天皇家の、国家のためにつかおうとせぬ。もったいないとは思わぬのか――」
「もったいない? なにがもったいないのだ。俺はここで俺のすべきことをしている。父は里のものをたばね、暮らしと日々の面倒を見ている。国々にはなった仲間があつめる話を、都の賀茂にわたしている。いずれは俺はその跡をつぐ。そういうものだ。どうしてそれがもったいない」
「しかし――」
どう言えばいいのかわからない。山そだちの志狼は都の官位というものに、まったく重きをおいていないのである。むしろわずらわしい、面倒くさいしろものとしか思っていないふしがある。
それがまた忠行にはもどかしい。忠行自身が志狼ほどの力をもちあわせていれば、そもそもこんな山の中であせりの鼠にちりちりとかじられてなどいないものをと腹立たしくてならぬ。しかも見たところ志狼は修行らしい修行もしておらぬ。少なくとも忠行にはそう見える。腹立ちがさらに苛立《いらだ》たしさを呼ぶ。このごろは志狼の顔を見るさえ、いたたまれない心持ちのする忠行であった。
葛城で忠行はなにをしているか。
修行といえば修行である。しかし都において忠行がしたしんでいたような、精神を集中し書物をよみ、師が口ずさむ口伝の法をけんめいに頭にきざみこむような、切磋琢磨《せつさたくま》を意味しない。
葛城の里は遊芸人の里である。それは忠行も知っている。
ここで芸と、それから術を、学んだものたちは山伝い道伝いに全国へ散って、それぞれ間者の役割をはたす。大事な大事な役割である。それも忠行は承知している。
にもかかわらず里においては、琢磨という言葉がなかった。修行という言葉もなかった。里のものたちは日々ひたすらに踊り歌い、木偶《でく》を舞わしてたわむれ遊んでいる。そのように忠行には思える。
やっと歩き出したような幼児《おさなご》でさえも、もみじみたいな手に人形をつかんで意のままに舞わせる。だれひとりとして『修行』しない。自在に遊び、舞い歌い、そうしてその愉《たの》しみの一部のように、闇をくぐって旅へと出る。
術とは学ぶものである。精神とは磨くものである。
そう考えている忠行には理解のできないことであった。気ままに愉しみ、笑いあいつつ日々を活《い》きている里人たちが、幼少のころより厳しい修行に耐えてきた忠行が、いまだにもって身につけられぬ秘術を、どうして身につけられるのか。
中でも志狼の力はめざましい。指さすだけでかれは巨石をくだく。舌をならすだけで獣をそばへ引き寄せる。常にそばを離れぬ北辰なる黒狼は、山の精気の凝《こご》った神狼だと志狼自身が忠行に告げた。いわば葛城の精霊である。では北辰はおまえの式神《しき》かとたずねた忠行にむかって、志狼は驚いたようにこうこたえた。
「式神? ばかな。北辰は友だ。ただ俺のそばにいるのが好きなのでついているだけだ。俺もこいつといるのが好きだしな。どうしてそんなことを言う?」
とうぜんのように言われたことが、また忠行のはらわたを囓《かじ》る。
「だいいちみんな不人情だ」
ついつい言わでもの愚痴が出る。
「吾《おれ》がせっかくこのような山奥まできたのに、一月《ひとつき》の余もたつ今も、いっこうに術の奥義《おうぎ》をつたえてはくれぬではないか。吾はいつまでもこうしておるわけにはいかんのだ。早く力を身につけて、都へもどってはたらかねばならん。でなければ賀茂家は没落する。おまえとて、都へ流れた同胞《はらから》が、人の口にものぼらずなって血の絶えるのはうれしくあるまい」
「血の絶える。血の絶えるとはなんだ」
志狼はきっとなった。
「人はだれでも大きなひとつの流れの末に属しているのを知らぬか。いや人のみではない、獣も鳥も木々も虫も、鳥獣草魚すべて生命あるものはみなその底に同じ流れを有しているのだ。たかがひとつの家系が絶えたとて、それがなにか。鳥は飛び、魚は泳ぐ。木々は風になびいて花を咲かす。世は変わりなく続いてゆくであろう。生命この世に残るかぎり、何ものも絶えることなどないと知れ」
「ではすべては永遠というか」
「永遠なものなど一つもない。ただ大いなる流れのあるのみだ」
「都も、天皇家すらも永遠ではないと」
「川面に浮かぶ泡沫《ほうまつ》よ。時に澱《よど》み、時に荒れ、鎮まってまた新たな泡が浮かぶ」
「おまえ本気で言っているのか」
思わず忠行は立ち上がっていた。ききずてならぬ言葉であった。
これまでかれは本家たる、葛城の役一族もまた、都をささえ皇家をまもるがために、裏でひそかに働いていると思っていた。
しかし次期の長たる志狼は、都も天皇もはかない泡沫のごときものと言いすてた。
ではかれらはなんのために動き、なんのために情報をあつめているか。なんのために全国に遊芸人をはなち幾万の目と耳、手と足を持って影の仕事にあまんじているか。
忠行の脳裏におそろしい考えが浮かんだ。すなわちそれは謀反である。
葛城の神は一言主《ひとことぬし》神である。かつては天皇に互すまでの神性をみとめられたにもかかわらず、のちには天皇家に従属するものとされた。ついには役行者に使役され、罰され縛されてしまう鬼神の位置にまでおとされた。人には今もそう思われている。
しかし葛城に住む者は、そうではないのを知っている。
役行者も知っていた。縛したのではなくただ鎮めたのである。時に荒ぶる神霊を、むやみに他の生命に害なすことのないように、慰めなだめたものである。
山巓《さんてん》の峰に木々のあわいに、石の一つに泉の一滴に、脈々として今もかの神霊のいのちは流れている。ここにきて忠行はそれをまざまざと知った。
そうしてそれがおそろしい想像とつながった。謀反すなわち新たな天皇家の創立である。
かれらは失われた自らの神の復活をめざしているのではあるまいか。天孫降臨によって奪われたおのが国土を、奪いかえそうとしているのではあるまいか。
わが賀茂の一族を都へやったのも、あるいはその目的のため働かさんがため、天皇家の動静を探らすためではなかったか……さよう、いつか賀茂家は葛城ではなく、わが血筋が本流であると考えるようになっていた。たとい血筋の祖、術法の祖でこそあれ、官位もなく教育もとどかぬ粗野な山人《やまびと》が、本家であるのは恥辱であると、忠行でさえも心の底で、ひそかに考えるにいたっていたのであった。
しかるに忠行は今初めて、そうではなかったかもしれぬ可能性に思いあたった。表舞台に立つと信じていたおのが家系が、まさにかれらの木偶のごとく、踊らされていたと考えるのは忠行にとって事件であった。頭をぐわんと殴られたほどの衝撃であった。かれは唇をふるわせながら言った。
「たわけたことを言うな。都なくてなんの国か。天皇なくて何の国家か。われらはみな天孫の裔なる天皇を奉じねばならぬ。狂《たぶ》れたか、うぬ」
志狼はちらと忠行を窺《うかが》い、ため息ついて起き直った。
「……賀茂はどうやら都暮らしに、行者の垂訓《おしえ》を忘れたそうな」
「なに」
「今夜、山頂の御堂の前にくるがよい」
短く言って、志狼は岩を飛び降りた。北辰がのっそり起きあがり、伸びをしてぶるりと身をふるわす。
「そこで毎夜の祝祷《いわい》がある。そこにておまえの疑問が晴れよう。葛城の秘法、術の奥義、すべて目前に明かされる」
そういう志狼の眸《ひとみ》はすこしくもって見えた。悲劇《かなしみ》の到来を予感する人のような、きらめく泉に落ちる嵐雲の影のような、昏《くら》い昏い色であった。
「賀茂は行者の垂訓を忘れた。――是非もない」
言いのこして身をひるがえした。あっというまもなく忠行は河原に取りのこされた。あとにはかれのとまどいと疑心と、微《かす》かな山の風ばかりがあった。
風は夜になって涼しさをました。永い夏の日も残りなく消えて、あたりはすでに真の闇であった。鳥は木の巣へかえって睡った。夜あるく獣が巣穴をすべり出た。星がいっそう輝いた。やがて月が山の端に顔をのぞかすであろう。
忠行は寝所をあとに暗い道を歩いていた。灯火はとめられていたので持たなかった。いまだ都の衣を着ていた。脱ぐのがおそろしくて脱げなかった。裸になったような心持ちがするのである。周囲はすべて敵であると、かれは信ずるにいたっていた。
志狼はなにゆえ自分を夜に呼び出すか。こちらがかれらの企《たくら》みに気づいたことを、感づいたのではあるまいか。こうして秘密を知ったものを、闇に乗じて殺すのではないか。
しかし忠行は足を止めなかった。力への希求が、かれを留まらせなかったのである。なんとしても葛城に秘められた秘術を、神変不可思議の行者|役小角《えんのおづぬ》の獲得した、鬼神をも取りひしぐ術の奥義を、手に入れねば帰られぬ、そんな気分であった。やはり陰陽師として、秘密と秘法は忠行の心をゆるがした。あるいは生命をとられることになっても、その秘法とやらを一目見ねば気が済まぬ、そんな思いであった。
歩くほどに木々のざわめき、風の唸《うな》り、ひとつひとつが忠行にとって恐怖となった。
あらゆる影に凶器を手にした里人がひそんでいるのではないかと感ぜられた。背中につめたい汗が流れた。疑心はすなわち暗闇の鬼、歩く忠行の足もとを見えない疑いの鬼がすくった。鬢《もとどり》の毛をひっぱって、けらけら笑う鬼どもの声がきこえた。
けれどもそこには何もなかった。かれは闇にひとりであった。目から耳から鼻孔から、闇がかれを蚕食した。おのれのちっぽけな悟性が、なにか巨大な混沌《こんとん》にゆっくり呑《の》み込まれてゆく。目前にぽっかり開いた獣の口に、自ら歩いていくようである。暗いなま暖かい獣の胃袋にはいって、跡形もなく溶かされてしまう。
人がもっともおそれるものは、自分《おのれ》が失くなる恐怖である。死の恐怖もその他のおそれも、突きつめていけばそれに尽きる。
そういう何かがここに充満している。受け入れれば母の胎内である。しかし拒めば胃袋の中である。忠行が感じているのは、まさにそんな恐れであった。あらがいがたい何者かに対する、絶対普遍の恐怖であった。
と、前方に光が見えた。
最初は蛍ほどの小さな光が、しだいしだいに数をふやしてやがて数十までになった。ぼんやりと場が浮かびあがった。
それは短い芝草におおわれた草地で、里人が周囲に群れている。手に手に操り慣れた傀儡《くぐつ》や楽器、鈴、太鼓、拍子木などをたずさえて、押し合いながら輪の中心へ首をのばして眺めている。
そこにあるのは空の桶である。口を下にしてさかさに伏せ、周囲に注連縄《しめなわ》を張ってある。四隅に榊《さかき》をかざってある。
正面に火が燃えている。ひとりの娘が跪《ひざまず》いている。娘は半裸で鈴を手にしている。娘のまるい白い肩に、火が照り映えて茜色《あかねいろ》にみえる。俯《うつむ》いた頭は戴いた葛《かずら》の輪にかくされて、ほとんど目にはうつらなかった。
呆然《ぼうぜん》と忠行は見入った。ひょう、とどこかで笛が鳴った。ととん、と太鼓が唱和した。ざわざわと木が動揺《どよ》めいた。里人の顔が白く光った。
女がつう、と頭を上げた。
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おおおおおおおお
しししししししし
おおおおおおおお
しししししししし
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歌声は波濤《はとう》のように周囲《あたり》にわきあがった。神楽舞にさいしてはじめに行われるならわしの、阿知女《あちめ》の囃《はや》しであった。忠行とて都で何度もきいた。知らぬ囃しではないのに、この場においては新しかった。手をあげ、口をあけ、篝火《かがりび》のなかに浮かびあがる里人たちはそのまま山の精気のこもる精霊たちであった。
女の立ちあがるさまは花のひらくに似た。あるいは早蕨《さわらび》の目のゆるやかに伸びあがるに似た。多数《おおく》のまなざしを一身に受けつつ、頭上ゆたかに人々の上に立った。
女は胸をはった。乳房が大きく突きだされた。重たげなまるい乳房であった。摘《つま》んだような乳首がついていた。羞《はじ》らうような薄紅の乳首である。そこへ焔《ほのお》が陰影《かげ》をつけた。薄紫の陰影であった。
焔が揺れると影もゆれた。くくれた腰にもなだらかな腹にも、微妙にしなる背中にも、形をもたぬ影の指先が、愛撫《あいぶ》するごとくに踊るのであった。両手をのばして女は立ちつくした。煌々《こうこう》たる白い肉身の上に、黄金《きん》と紫の舞踏が繰り広げられた。
微動だにせぬのに、女はすでに舞っているように見えた。その唇は微笑していた。あわい意味深い微笑であった。睫毛《まつげ》はかるく閉じられていた。小鳥のように首をかしげて、女は何かを聴くようだった。裸足《はだし》の先は光を透かして、中に通った血の流れすら、脈々とあかく輝いた。
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あちめ、あちめ
おおおおおおおお
しししししししし
あちめ、あちめ
おおおおおおおお
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腰から下はうすい布いちまいだった。それがはらりと地面に落ちた。
ととん、と拍子が鳴り響き、女は桶に飛び乗った。雌鹿のごとき身ごなしだった。長い髪が尾を引いた。強《つよ》い踝《かかと》がひらめき、思いがけない あ蹠《しうら》の小ささが忠行の目にしろくのこった。
とんとん桶を踏みならしながら、女は裸体を誇らしげにさらして舞い踊った。
賤屋《しづや》の小菅《こすげ》 鎌もて刈らば 生ひむや小菅 生ひむや 生ひむや小菅
――天《あめ》なる雲雀《ひばり》、寄り来や雲雀、と里人たちが唱和する。
天《あめ》なる雲雀 寄り来や雲雀 富草《とみくさ》 富草持ちて
小童でも知るたわいない歌謡である。
だから子供も唱和する。喉声《こうせい》いっぱいに、声をはりあげて謡《うた》う。ひとりの例外もなく足を踏み、手を舞わして、里人たちはひとつの大きな波となって揺れ動いた。
動かぬのは今や忠行ひとりであった。躍動する人々の輪の外にいて、忠行はひたすら女の姿に見入っていた。盛り上がった太股《ふともも》が、足踏むたびに押し合った。逞《たくま》しいふくらはぎが、ひきしまり、ゆるみ、そしてまたひきしまった。股のつけねに黒いしげみが貼りついていた。体をまげるとふくよかな腹に、臍《へそ》をよこぎる皺《しわ》がうねった。榊を舞わす長い腕は力強くしなやかだった。あざやかに猛々《たけだけ》しい、一個の生命の化身《けしん》がそこに在った。
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賤屋の小菅 鎌もて刈らば 生ひむや小菅 生ひむや
天なる雲雀 寄り来よや雲雀 富草 富草持ちて
あいし あいし
あいし あいし
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月が出た。ほぼ満月にちかい円形の月が、東の山の頂きをくっきり黒く浮かばせた。夜闇《やあん》は固く透明になった。その中を女は舞うのであった。青みを帯びた大気の底に、先細りの手がほの白くひらめく。
あやつられる者の動きで、忠行は蹌踉《よろよろ》と女に近づいた。
背に垂れた髪が汗でよじれている。あおのいた顔は恍惚《うつとり》としている。とじた眸《め》は空にむいているが、月をも星をも仰ぐのではない。ただそこより来るよろこびを呼吸するのである。なんのために輝くでもない、純粋な光を身に受けるのである。
小鼻が大きく膨らんでいる。朱い唇を、皓《しろ》い前歯が軽く噛《か》んでいる。僅《わず》かに開いた口の中に、桃色の舌がのぞいている。降り来る光に濡れそぼち、いよいよ肉体《からだ》は輝きをました。
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きりきり 千歳栄《せんざいえう》 白衆頭《びやくすとう》 聴説晨朝《ちやうぜちしんてう》 清浄偈《しやうじやうげ》 や 明星《あかぼし》は
明星《みやうじやう》は くはや ここなりや 何しかも 今宵の月の 只だここに坐《ま》すや 只だここに
只だここに坐すや
や 明星《あかぼし》は
明星《みやうじやう》は
明星《あかぼし》は
明星《みやうじやう》は
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夜は更けていくのであった。
どよめきはもはや遠くなった。忠行にとって感ぜられるのはただ煌々たる発光体と化した女の動き、踏み鳴らす桶の音、その手と足とのえがく謎めいた軌跡のみであった。いつか地面に膝をついていた。口をあけ、ほうけたように女を見つめる。女は無心に舞いつづける。
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木綿《ゆふ》作る 信濃原《しなのはら》に や 朝尋ね 朝尋ね 朝尋ねや
朝尋ね 汝《まし》も神ぞ 遊べ遊べ 遊べ遊べ 遊べ遊べ
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汝も神ぞ――と、潮の充《み》ちるように和する声。
それはすでに人の声ではない。山にさきわうすべての生命、木々や岩や川に宿る青いいのちまでもがここに寄り集い、発した声であるかにきこえた。声はうねりつつ上天の月へとのぼった。さらにその上に存在する星の光をめざした。
忠行は跪《ひざまず》き、ただ泪《なみだ》をながしていた。女の手にする青葉がすずしく頬をかすめた。まことにここは神の天地であった。歌にさそわれ、脈打つ血のどよめきが丹田《たんでん》からあふれて、激流のごとく背筋をのぼり、天頂に花をひらかせる。水晶のごとくすきとおる皮膚の下に、息づく白い光の流れを忠行は見た。
まことにこれがおのが身の中にひそんでいたものであった。躍動する生命の流れ、それこそが力であり秘密であり己自身であった。汝も神ぞ、とうたう声は、気づかぬうちに、別の言葉に形をかえていた。
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――朝尋ね 汝も神ぞ
我も神ぞ
汝も神ぞ
我も神ぞ
遊べ遊べ 我も神ぞや 遊べ 遊べ 遊べ遊べ遊べ遊べ
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遊べや、と忠行も声をそろえた。
ひとりでに手が舞い、足が舞いだした。渦を巻く人々の中に忠行は自ら飛び込んだ。今までは、どこか隔てを感じていた里人《さとびと》たちであったが、それはかれ自身が、心にこしらえていた壁がそうと思わしめたものであることに初めて思いあたった。
熱気が全身をみたした。前後も知らずに忠行は舞った。天地に充ちるよろこびをことほいだ。手は舞うところを知らず、足は踏むところを知らなかったが、忠行の魂は自在に宙を翔《か》けった。いかなる言葉にもならぬ秘密と謎を、かれはあまさず味わった。世界はかれであり、かれは世界であった。この地に生きる生命すべてであった。
ついに力を使いつくし、忠行は倒れ伏した。いつか、夜明けであった。消え残る明星が中空に輝いていた。茫《ぼう》とかすむ有明の月が仄《ほの》かに西に浮いていた。
囃《はや》しも唄も鎮まって、さかさに伏せた桶の上に女は静かに立ちつくしていた。目を閉じ、僅かに顔を上に向け、ふくよかな喉《のど》をさらしていた。盛り上がった胸は朝の涼風のなかに、乳首を大きくとがらせていた。提《さ》げた榊《さかき》はなかば葉をうしなっていた。
「おお、そなた……」
両腕をさしだして、忠行は女に近づいた。
女にふれてみたかった。その瞳《ひとみ》を見つめ、丸い肩を抱きしめたかった。濡れた肌に鼻を押しつけてあまい汗の匂いを吸い込み、腰に腕を巻きつけて、ゆたかな胸の感触をこころゆくまであじわいたかった。
あと少しで指が女にふれるというとき、後ろの闇からすべり出るように何者かの影があらわれた。影はつと忠行と女のあいだをへだて、女を抱いて後ろにさがった。自分の身体の一部をもぎとられたように感じて忠行は呻《うめ》いた。
影はすなわち志狼であった。瞳のうちには悲傷《いたみ》があった。かなしい目つきを忠行におくり、女を腕に抱きしめて、たった一言こう言った。
「――俺の妻《め》だ」
世界がいちどに色を失った。
「ああ面白くない。退屈じゃ」
脂汗にまみれて忠行が息子に過去を語っているのとおなじころ、左京の検非違使《けびいし》庁のひと間にあって、しきりに不平をならす者がいた。藤原純友である。
「なにが退屈だ。気を抜くでない」
そばにいた将門がじろりとにらんだ。こちらは鞘《さや》をはらった刀の手入れに余念がない。浅黄の狩衣《かりぎぬ》に姿勢をただして、背筋をのばし、だらりと足を投げ出す純友とは対照的にすずやかな武者ぶりをくずさずにいる。
ほかの検非違使のめんめんは、少し離れた簀子《すのこ》のへりで、二、三人ずつよりあつまってはてんでに肌脱ぎになって、酒を酌んだり賭博《とばく》をしたり、よもやま話に興じていた。誰もこちらへは近寄ってこない。権勢第一の藤原家の長、右大臣忠平の肝煎《きもい》りで入庁した将門と純友を、扱いかねているのである。
なにかしてかれらを怒らせ、右大臣に睨《にら》まれてはならぬし、かといってへつらいをあらわに近寄ってくる者に、いい気になるほど将門も純友も卑しい心根はもっていない。はじめのうちは話しかけてくる者もいたが、例の定方邸の変事があってからは、さわらぬ神に祟《たた》りなしと衆議一決したか、用事のときのほかはまず近づく者もなくなった。
自然、二人でいることが多くなる。さして不便にも思わぬ二人であった。もともと将門は口数のおおいほうではないし、二人分はよく喋《しやべ》る純友にしたところで都の噂や金勘定、博打《ばくち》に女や武道の自慢といった、ほかの者たちが話すようなことにはとんと興味もない。好んで話すのは、昼間に食った餅がうまかったことやら、道で行き会った犬が実に人なつこく愛らしかったことやら、昨晩警備の暇つぶしに、星をむすんで名前をつけたことやら、まるで小童のようなたわいもない話ばかりである。
が、初めはうるさく感じたそのような話に、いつか将門は慣れていた。そばに純友の顔がないといささかさびしく感じるほどに、いつのまにかなっていたのであった。一度は盗賊の仲間入りし、切り取り強盗をはたらいていたことが信じられぬほどに、瞳にくもりをもたない男であった。
「忠平様のご下命をわすれたか。かの獄舎《ひとや》に下した鬼の子、たとい陰陽寮総出で術を施したといえども、油断するには危険すぎる。われら一同、間違いがあってはならぬゆえ、いっときたりとも気を抜かず、かの者の警備にあたらねばならぬとの仰せじゃ」
「わかっておるとも。だが退屈じゃ。面白くない」
膝によせた瓶子《へいじ》の酒をぐっとあおって、ふっと純友は息をついた。
「――なあ小次郎よ、俺はな、京へ出てくればもっと華々しいことができるかと思うておったのよ」
「華々しいこととは、なんだ」
小次郎とは将門の名である。相馬小次郎《そうまのこじろう》とも称する。将門よりも気安くひびくこの名を、純友はこのんで呼んだ。
「さ、それは。大盗《たいとう》どもと斬り合うであるとか、さらわれた姫を助けるであるとか、――そのう、なにか、そのようなことよ」
自分でも、はっきりとは思い描いていなかったらしい。純友はそわそわと口ごもり、ごまかすようにまた酒をあおった。
「――だがなあ、少なくとも、あのように小さな童を捕らえるようなことでは、少なくともなかったはずじゃ」
とまた愚痴を言い出す。
「大きいほうにしたところで、まだ刀も持てぬようなほんの小わっぱではないか。小童ふたりを大の大人が、わあわあと取り囲んでよってたかって鎖でいましめるなどとは、俺にはどうも、武士としてなさけないように思えてならぬ」
「何を言う、きさま」
将門は目を剥《む》いた。どうもあれかららしくもなく眉間《みけん》に皺《しわ》をよせ、なにやら考えるふうであったと思っていたら、そのようなことを考えていたか。いかに気楽な、少年めいて無邪気な男と知ってはいても、今の言葉はききずてならなかった。
「寝ぼけたことを言うでない。あれは鬼ぞ。童の姿をしていても、それは鬼めのたぶらかしというものぞ。きさま、あの大屋根の上で、鬼が寄せ手を血肉の渦と化し、喰らいつくしたことをきかなんだか。そのような鬼に情けは無用じゃ。それ以上言うと、おのれ、ただでは置かぬぞ」
むろん陰陽寮も、いつまでも童子を獄においておくつもりはない。獄におとしたのはあくまで一時的のもので、あらためて都から離れた地によい場所をえらび、今よりもっと強い術を施した空間をつくりあげて、そこへ永久に封じ込めるつもりでいる。かの童子がなんであるのかを正確に知っているものは今のところ、ことのさいしょからかかわりを持っている忠平、浄蔵、賀茂の親子のほかにはない。
童子のことが表|沙汰《ざた》になれば、京には菅公の怨霊《おんりよう》いらいの騒乱が起ころう。他人の目をあざむくためにも、童子はひとまず一般の罪人として獄につなぎ、あらためて陰陽寮に移すのがよかろうというのが陰陽頭寮としての判断であった。危険すぎる、と忠行は強硬に主張したものの、かといって、童子を下しておけるような場所を、獄舎いがいにそうすぐに見つけることなど不可能なのも事実《ほんとう》なのである。
「しかしなあ」
としきりにため息をつく。
「あの鬼、姉を呼んでおったよ」
「なに?」
不意をつかれて将門はききかえす。呼んでいた何も、白髪|金眸《きんめ》のあの小鬼は、取り押さえられてもひたすらに唸《うな》り吼《ほ》えたけるばかりで、人の理解できるような言葉は一度たりとも発しなかったのである。
「姉を呼んでおったとは、それは、何の謂《い》いじゃ」
「呼んでいたから呼んでいたと言ったまでよ。おぬし、あれが聞こえなんだとでも言うつもりか。あれほどはっきりした声で、泣きながら呼んでいたに」
とかえって驚いた顔をする。
将門はふと考えこんだ。
純友が忠平にひろわれたのは、その身にどうやら奇妙な霊力《ちから》が宿っているように思われたからである。妖女鳴滝の手先が忠平邸にあらわれたとき、投げかけられた幻術をうち消し、あやかしに向かって矢を射かけたのはほかならぬ純友であった。
定方邸にはいったときも、将門でさえ背筋を凍らせたどろりと黒い邪気の気配に、ひとりすずしい顔をしていた純友である。渦巻く瘴気《しようき》のなかをずしずしと歩き、白髪の小鬼の力さえ、かれの身にはおよばぬかに思われた。
あるいは真に純友は、陰陽師の呪力とは別の意味においてかもしれぬが、ある種の力をそなえているのかもしれぬ。将門は初めてその事実を思いあたった。これまでは、知識として知ってはいても、さして意識にはのぼらなかったことであった。しかし今将門は、けげんそうな顔をする友をあたらしい目で見ていた。かれはたずねた。
「姉とは、では、あの場のどこかにいたのか」
「さあ、それはわからん。だが、まさにそのためにこそ、あの鬼があそこへ乱入したのはたしかなようであった。それはあわれな、悲しげな声でなあ」
杯を置いて、純友はぼんやりと膝頭に顎《あご》を乗せた。
「聞いていて、俺は胸がつぶれそうになったよ。姉やあ、姉やあ、と、血を吐くように泣くのだ。俺にも姉がある。もう嫁いでしまったが、初めのころはずいぶんと寂しかったものだ。小さかったからな。だからそういう気持ちがわからんでもないのだ」
おぬしだから話すのだぞ、とまじめくさった顔でつけ加えた。自分の言っているのが、もののふとしてはいささか女々しいと言われるたぐいのことだという自覚はあるらしい。ついほほえみそうになり、将門はあわてて頬をひきしめた。
「だが、あの鬼が多くの人間を殺したことは事実なのだぞ。大臣殿はあれからどっと寝ついて、枕もあがらぬご病状だと聞いている。いかに小児《こども》でも、哀れでも、京の平穏を乱すのであればわれらはそれを討ち取らねばならぬぞ。それこそが、忠平様にいただいた、われらの務めであるのだからな。なあ、そうだろう、純友よ」
「わかっておる」
つい、年の離れた弟にいいきかす口調になった将門に、純友はうなずいて、だがなあ、とぼそぼそ言った。
「俺はなんだか、どうにもやりきれんのよ――」
杯をとりあげ、苦そうにすすった。
将門も、なんとはなしに気まずい思いがして、口を閉ざし、視線をそらした。
簀子縁《すのこえん》では博打に興じるものたちのだみ声の歓声が響いている。雲が薄れ、月が顔を出した。切れ上がった女の目のような、細い細い月である。あわい月影が庭先に落ち、放られる賽《さい》のぶつかる音がすだく虫の音にまじってきこえた。
と、そのとき、つんと鼻をつく異臭が漂った。
純友が下げた眉をはねあげて、上を見上げた。将門はずいと立ち上がった。南の方角、左獄舎のあるほうに、一塊の黒煙がたちのぼっている。
ものの焦げるにおいがきつくなる。わっわっと騒ぐ声が大路をこえてつたわってきた。
左獄すなわち例の小鬼を下した獄である。検非違使庁には大路いっぽんへだててごく近い。変事の気配が氷のように座を奔《はし》った。
「災事じゃ! 太刀持てい!」
将門が大喝する。
いわれる前に純友は、もう打ち物ひっさげて簀子を駆けていた。博打《ばくち》と酒に興じていたものたちもたちまち表情をひきしめて、あとにつづく。黒煙はいよいよ強くなりまさり、いまにも夜空を圧するかとみえた。
「あ奴であろうか」
駆けながら、ひっそりと純友が将門に呟《つぶや》いた。
「わからぬ」
短くこたえる将門。
「しかし先ほど言うたように、手加減は無用じゃ。わかっておるな」
「……わかっておるわい」
拗《す》ねたように口をとがらせるが、歩調はゆるめない。
それきり押し黙って二人は寝静まった都の大路を馳《は》せた。ちらりと夜空をなめる炎の赤い舌がみえた。火事はいよいよはげしいらしい。
「こ、これは」
燃え上がる獄にたどりついて、思わず将門は声をあげた。
先にも述べたように検非違使庁と左獄は近い。女子供が一息に駆けても、息もきれないほどである。
であるのに、火のまわりは異常なほど早かった。見ている間にも炎は広がり、生き物のように屋根をなめて、蠢《うごめ》く黒煙をまつわらせながら獄舎をじわじわ握りつぶしていくのである。
「水じゃ! 水をかけい!」
「えい、そのようなものが効くか、逃げろ逃げろ! 焼け死ぬのはまっぴらじゃ!」
「そうじゃ逃げろ! 逃げろ逃げろ!」
中からは次々と、背中や髪に火のついた獄吏や罪人が悲鳴をあげて転げだしてくる。仲間があわてて叩いて消そうとするが、手を触れれば火は、消えるどころかむしろ嬉しげに手をのばしてそいつも口に入れようとする。たちまち二人、三人が火だるまになった。どっと火の粉を噴き上げて、屋根の片隅が崩れおちた。
「おい、おぬし」
ちょうどわきを駆け抜けようとした下人の腕を将門はとらえた。
恐怖《おそれ》に狂った目をした下人は、それでも将門の身なりを見たのか、ぎくしゃくと足をとめて見返った。
「これはいったいどうしたことじゃ。なぜこんなに火のまわりがはやい。囚人《めしうど》が火を放ったか。油の壺に火が入りでもしたか」
「わ、わしは知らぬ。何も知らぬ!」
わめいて、下人は袖をふりはらった。
「あのような鬼を、こんなところに入れておくのが間違いじゃったのじゃ。このようなところにはもうおれぬ。放しやい、さむらい!」
腕を振るとびりりと音をたてて着物が裂けた。唖然《あぜん》とする将門の手に片袖をのこしたまま、下人は後をも見ずに、闇の中へ駆け去っていった。
「おい、小次郎――」
立ちつくしている将門に、純友が近づいてきた。腕を引いて注意をひこうとする。
「なんじゃ」
「もののけがおる」
「ぬ?」
ぎくりとして将門は目をこらした。
しかし、何も見えぬ。見えるのはただ炎々ともえあがる火と煙と闇にしるく残る火の粉の色ばかりである。
「どこにいるのじゃ。なにもおらんではないか」
「おぬし、あれが見えんのか? あれほどうじゃうじゃしておるではないか。毛むくじゃらの鼠のようなやつやら、蜘蛛《くも》に手足の生えたようなやつやら、ささらのように細い手が何本もゆらゆらしておるやつやら――見ろ、鬼火じゃ。鬼火が火をつけて回っている」
もともと大きい目をかっと見開いて、純友は火事の光景に釘付けになっている。
「顔のある火の塊じゃ。や、や、手足を生やして走り回っているのもおるぞ、火でできた小さい人がいくつもいくつも、……おお何やら唄っている――」
としばし耳をすまして、
「うむやはり唄っている。蚊の鳴くような声ではあるが、おおぜいでこう唄っている――われらが御子に灯火《あかり》させ。われらが御子に光明《ひかり》させ、とな」
しかし将門の耳にはばちばちと火の弾《はじ》ける音しかきこえないのである。
ひやりと背に冷たい水がながれた。将門は太刀をとりなおした。
「純友よ」
「うむ」
「まことに聞こえるのだな。見えるのだな、そういう物どもが」
「見える。おぬしには見えぬのか。なんと不思議な。これほどはっきりしておるというに。信じぬのか、小次郎は」
「いや信じる。おぬしには確かになんらかの力があるらしい。だから、これから俺とともにこの火の中にはいってくれ。俺はあの鬼を斬りにゆく」
「斬るのか!」
「不満か」
「いや、それは――」
「不満であればここで火消しを手伝っておってくれ。俺とて好んでおぬしを危険にまきこみたくはないのだ」
眉をあげた純友に、ごくおだやかに将門は言った。
「しかし俺は忠平様に仕える身である。忠平様の京を乱す鬼は許しておけぬ。勝手に斬ればあとで忠平様より叱責《しつせき》をいただくかもしれんが、それでも、忠平様に害を加えるやもしれぬ物を、俺は生かしておくわけにはいかんのだ」
「それは俺とて同じことよ。水くさいぞ、小次郎」
にっと笑って純友はひっさげた太刀を二度叩いた。
「忠平様にご恩のあるのはおぬしばかりではないぞ。俺とて盗賊の罪ある身を拾っていただき、こうして官にまでつけていただいたことを感謝しておらぬわけがなかろう。
さ、もののけどもは俺が引き受ける。はよう行こう。早くゆかぬと、火で道が塞《ふさ》がれてしまうぞ、それに」
太刀を肩に、ずしずしと歩いてゆきかけながら将門の背をどすんと叩いた。
「――友であるおぬしを、ひとりで火の中へやるほど不人情な俺ではないわ」
「友?」
「なんだ、違うのか?」
振り向き、べそをかくような表情《かお》をする。
「俺のほうはもうずっと、おぬしのことをそう思っておったのだが」
将門は目をまたたいて、それから、噴き上げるように笑い出した。
笑いながら純友に追いつき、お返しとばかりに背を叩く。右往左往する人々の間をぬけて、太刀をかまえ、二つの背中が燃えさかる炎のなかに、畏《おそ》れげもなく飛びこんでいった。
志狼のはいる獄舎には、まだ火はとどいていなかった。しかし叫喚の声は響く。わっわっわっと騒ぐ声、だだだだだと足を鳴らす音、それらがさわがしく前を行き来して、うつうつ寝ていた志狼は驚愕《びつくり》して飛び起きた。
「何だ、どうした」
と窓を見上げ、ちらちら揺れる橙色《だいだいいろ》の火の粉に気がついてあっといった。夜である。藍色《あいいろ》の空に黒く切り抜かれた都の屋根屋根が、時ならぬ茜《あかね》の色に照り映えてみえた。
精いっぱいに目をこらせば、いつか自分のいる一棟をのこして、獄舎ほぼすべてが紅蓮《ぐれん》の炎におおわれている。見ている間にも上天の凶星蛍惑が、その赤い火を地上に散らしたごとくに、振りまかれた火種がつぎつぎ乾いた垂木を燃え上がらせていく。
「火事か!」
心臓をぎゅうと絞られた気がした。
牢《ろう》には錠がおりている。格子の木鉄は堅牢《けんろう》である。どう考えても志狼の手では解かれようはずがない。そうして火はこちらへ燃えてくる。幾程もなく炎はここに達し、志狼もろともこの建物を、灰燼《かいじん》と化すはずである。
しだいに空気が熱を帯びてくる。いよいよ炎が近いのであろう。きなくさい匂いが鼻にまつわり、呼吸をさえも止めようとする。
「おい誰か、ここを開けろ! 出せ、俺を!」
さすがに志狼も周章《あわ》てはじめた。よじ登った窓をかきむしり、それでは駄目と見て飛び降り、さらにまた声をあげて格子をゆすり、力任せに扉を蹴飛ばす。
しかし扉は開かれない。人の声は遠くのほうで、さざなみのごとく寄せては引くが、近づいてくる気配といってはいつまでたってもいっこうになかった。
『無駄だ、無駄だ』
どこからか愉快そうに言うものがあった。
『ここへくる、途《みち》は、みな、焼け落ちて、しまった。どこも、かしこも、火の、海よ。そうで、なくとも、たかが、罪人。わざわざ、火へ、もぐりこむ、酔狂者も、いまい。あきらめろ。あきらめろ』
「黙れ、ドーマ!」
志狼は怒鳴った。しのび笑いがいんいんと返った。
「そういうおまえはどうなのだ。他人をひやかす暇があったら、とっとと逃げだすがいい。獄が燃えてしまえば、おまえを閉じこめるものはあるまい。どうやら格子や錠前は、おまえに枷《かせ》とはならぬようだからな」
『さあ、それが、そうは、いかぬ、のだ』
声だけでも、にやにや笑っているのが目に見えるようであった。
『己の、因果は、目に、みえぬ、糸で、この地に、縫いとめられて、いる。己、ひとりの、力では、ちぎる、ことの、できぬ、糸だ。これが、ある、かぎり、己は、ここを、はなれ、られぬ』
「陰陽師に勝てぬからここにこもっておったのではなかったのか」
『むろん、それも、ある。だが、ほんとうの、理由は、この、糸だ』
どーまの声がそれとわからぬほど、わずかに真剣みをました。
『おやじも、おふくろも、己自身も、ここで、死んだ。だから、ここは、己の、子宮《こつぼ》、だった。月満ちれば、自然に、出ることも、できたで、あろうが、燃えて、しまっては、どうしようも、ない。孕《はら》み女が、死ねば、その、腹の子も、生きては、おれぬ。己も、おなじ、ことよ。ここが、燃えれば、もろともに、焼けて失《う》せるしか、すべが、ない』
志狼は唸《うな》った。ドーマがほんとうのことを言っているのが、そのせっぱつまった口調から読みとれたからであった。
『なあ、おまえ、とて、死にたくは、なかろう。死にたく、ない、はずだ。――なにしろ、女が、いるのだ、からな』
ドーマは説得に出た。宥《いさ》めるがごとき口調《くちぶり》で、肩に手をかけんばかりに馴《な》れ馴《な》れしく、
『女は、おまえを、待って、いるぞ。逢《あ》いに、来るのを、待って、いる。迎えに、来るのを、待って、いる。そう、だろう。そのはず、だ。こんなに、恋うて、いるのだ、からな。こんなに、想って、いるのだ、からな』
「うるさい」
怒鳴って志狼は土をつかんで、声の聞こえるほうへ投げた。驚愕《びつくり》したように、ドーマが黙る。
「葛葉は俺など待ってはいない。待つくらいならなぜ、あのとき逃げた。呼んだのに悲鳴をあげて、まるで鬼から逃げるように俺からのがれた」
恐怖にゆがんだ葛葉の顔が、焼き印のごとく今も志狼の胸をこがしている。葛葉が、己のあさましい姿を恋する男に見られたと、思ったがゆえの恐怖とは思うすべもない志狼であった。
「葛葉は俺を嫌っているのだ」
恋しい女に拒まれた、恐れられたと、ただそれだけの胸のいたみに、志狼はきりきり牙を鳴らした。
『おおおお。愛らし、い』
かっかっかっ、とドーマがわらった。きっと志狼は目を見開いて睨《にら》んだ。
「おまえなどに何がわかる。獄から出たこともないくせに」
『さも、あろう。しかし、おまえは、逢いたい、のだな』
ずばりと言われて志狼は唇をかんだ。
その通りかれは逢いたいのであった。いま一目かの女に逢い、なぜ逃げたのか問いつめたかった。いや言葉などかわさずとも、子鹿のごときあの眸《ひとみ》を見つめ、ひしと抱きしめるそれだけでもよかった。
豪壮な貴族の邸で、あでやかな女房装束に身を包むその意味を、うすうす感じ取らなかったわけではない。ましてや葛葉は、市に立つ色売る芸人の娘。都の女は、男にやしなわれ、ある意味では身を売ることで身をたてるのは、京に出てきていくらもたたず、志狼が知ったことであった。
しかし恋にはそれも関係《かかわり》なかった。あるいはすでにかの女の身がほかの男のものであっても、気持ちにとってかわりはなかった。
一目逢いたい、声をききたい、その肌のぬくみに触れ、そばにあることを確かめたい。そうと思えば魂はたちまち宙をかけて千里をこえる。
若い純粋な恋であった。
そこにはなんの打算もなかった。
「そうだ俺は逢いたい。葛葉に逢いたい」
とうとう志狼はそう言った。
「あとのことがどうなろうがかまわぬ。俺はただかの女に逢いたい。逢ってそれなり死んでもよい。あるいは娘が泣いているなら、涙を拭《ふ》いて慰めてやりたい。嫌われているならそれでもよい。ただ逢いたい。葛葉に逢いたい」
「よく言った」
いきなり声が近くなった。
ぎょっとして振り返ると、肌に触れんばかり近くに、ドーマの黒い顔があってにやにやと笑っていた。皓《しろ》い歯がまぶしいばかりだった。
「では、己が、てつだって、やろう。外に、でよう。ここを、出て、女の、もとへ、ゆこう。異存は、ないか。合力、する、か」
しばしためらったあと、意を決し、志狼ははっきりうなずいた。
ドーマへの疑心や警戒心が消えたわけではない。このような人妖《ばけもの》を世に放つことにはいささかならぬ懼《おそ》れを感じる。だがしかし、葛葉への恋心はそれらすべてを押し流して強かった。
「合力しよう。だが、俺のほかに、あの童子と、どこかにいるはずの俺の友の、北辰もともに出るのでなければならぬ。それを承知なら、てつだおう」
聞いて満足げに歯を剥《む》き出し、ドーマはまたひとしきり笑い声をあげ、また唐突に真顔にもどった。牢内の熱があがっている。炎はいよいよ迫るようである。
「では、急げ。この火は、あやかしの、陰火では、あるが、それだけに、焼かれた、ものは、確実に、魂魄《こんぱく》を食われて、永劫《えいごう》に、滅する。早く、せねば、手遅れに、なるぞ」
「わかった」
熱風が炎々と吹きつけてくる。橙の輝きがちらちらする。志狼は格子に向き直った。手を組んで腕を突き出した。葛城の念法で、格子をやぶろうとの試みである。
すでに何度か試みていたが、体力のおとろえと気力の減退から、破るまでにはいたらなかった。しかし重ねて試みるのもわるくないように思われた。
「待て待て」とドーマがとめた。
「それは、外へ、出てから、人を払う、のに、とっておけ。ここは、己に、まかせるが、いい」
「どうするのだ?」
「おまえの、血を、少し、よこせ。ひと滴で、よい」
目をぎらぎらさせてドーマは身を乗り出してきた。がさりと近くで天井が崩れた。ぱっと立つ火の粉、どこかで誰かの絶叫が聞こえてすぐに途絶えた。
「血か」
気味は悪かったが断るわけにもいかぬ。
志狼は小指をくわえて先を噛《か》みやぶり、数滴の血を絞り出した。手に受けて、ドーマは弄《あめ》をなめるようにその血をなめた。美味《おいし》そうに舌なめずりする。
「これで、よい。さがって、見て、いろ」
格子の前へゆき、何ごとか呟《つぶや》きはじめる。沼の底から上る泡を思わせるくぐもった声である。巨大な背中から目をはなさず志狼はあとずさった。とたん、足もとを、黒い何ものかが駆け抜け思わずわっと言った。
「この地に、住まう、小妖、よ」
祈念をこらしつつドーマがほくそえむ。
「見て、いろ――」
床に這《は》っているのは、さかさになった人の頭に節ある細い手足の生えた、蜘蛛のようななにかであった。
そいつはしきりに手足を蠢《うごめ》かせて床の上を這い回った。人の頭がどんよりと目を開き、米粒のような歯をのぞかせてなにか言った。志狼が思わず蹴飛ばすと、きいっと悲鳴をあげて床の反対側へ飛んでいった。
しかしもうそいつだけではない。見えない門の開いたように、あとからあとから不気味なものが、床から壁から沸きかえりはじめていた。
「これは――」
それらは破壊された人間の一部であった。
この地に死んで埋められた人間、牢死《ろうし》、刑死した人間、恨みをのんで息絶えた人間、それらが次々と地獄の門を這い出して、地上に現れてくるのであった。
白い蛇のようにうねくって進む腕には肘《ひじ》からあとがない。ぼろぼろに腐れた狩衣《かりぎぬ》をまとう男がぽっかり開いた眼窩《がんか》を見開いてなにか叫べば、腰から下は骨ばかりの女がけらけら笑ってとりすがる。ぶるぶる震える肉塊は、どうやら形もなさぬまでになった、古い死体であるらしい。
それら有象無象をかき分けて、ゆらり進み出てきた三つの影。長い髪を後ろに引き、汚れ破れた小袖を纏《まと》うたそれは三人ともに女のようだ。
死んだ女はゆらりと志狼の前をとおりすぎ、格子の前に、骨ばかりの膝をついてうずくまると、そればかりは見事にそろった歯をくわっと剥いて格子の横木にかぶりついた。
みるみる横木が細っていく。
「己の、乳母《めのと》、どもよ――」
いんいんと、ドーマの笑う声が響きわたった。
夜の葛城の山中を、ひたすら駆ける者がいる。ほかならぬ賀茂忠行である。背には女性《おんな》を負っている。ほかならぬ神楽の女である。
夜は睡りの時刻である。しかし山ではそうではない。谷からあがる突風が、どうっと森を身震いさせる。だっだっだっだっ、と踏みならす足が、山ぜんたいを鳴動させる。
所々にあがる吼《ほ》え声は、変事を知った山犬の声か。ざわざわ梢を鳴らす翼は、狩りを邪魔されたよたかの苛立《いらだ》ちか。
山の霊威は夜もとだえぬ。むしろ闇にこそその力は脈打つ。
その中を、息をきらせて忠行は駆けぬける。木々の葉むらをもれる月が、銀の硬貨を撒《ま》いたがごとく、蒼《あお》ざめたまだら[#「たまだら」に傍点]を成している。血ばしった目、ひきつった唇《くち》が、切りぬいたように闇に浮かびあがる。
「――どこへ、ゆかれるのでございますか」
細い声で女がたずねた。
忠行は答えなかった。ただ、必死で足を運んだ。
一刻も早くここを逃れねばならぬ、離れねばならぬ、そういう考えで頭は一杯であった。今にも里人は追いかけてくるであろう、志狼が追跡してくるであろう、想像の牙に踵《かかと》を囓《かじ》られて、つんのめるように夜道を走る。
汗にまみれた直衣《のうし》の裾をからげ、袴《はかま》を脛《すね》までまくりあげて、手には女の尻を支えている。ふっくらと丸い、やわらかな尻である。衣越しにもしっとりとした重みが、手のひらにしみるようである。
「――どこへ、ゆかれるのでございますか」
細い声で女がまたたずねた。
忠行はまたもこたえなかった。
「わたくしを、どうなさるおつもりでございますか――」
ただいっそう足を速めた。石ころだらけの山道を、つまずき、滑り、転げかけつつそれでも忠行は逃げてゆく。
明確な目的があったとは思われない。恐らく最初はただの衝動であったろう。
けれどもあの祝祭《ほがい》の夜から数日間、忠行は腑抜《ふぬ》けた人のようであった。目をとざせば女の光るばかりの肢体が浮かび、ほほえんでかれをさし招いた。目を開ければ志狼のきびしい悲しげな顔があり、『俺の妻だ』と囁《ささや》いた。
二つの幻にさいなまれて、かれはほとんど発狂寸前であった。寝ても起きてもそこには苦悩《くるしみ》があった。かれは苦しんだ。懊悩《おうのう》した。これまで知ったことのないそれは苦痛であった。
目の前には何より欲しいものがあった。しかしそれはすでに他人のものであった。里人の性はおおらかではあったが、女は長の息子の妻であった。自然そこには区別がうまれた。下界に謂《い》う身分とは別の、おのずからなる威厳であった。
女はまた巫女《みこ》でもあった。神とまじわることがその身のもつ意味であった。地上の男が触れてよいものではないのだった。許されるのはただ神と、その神霊にえらばれた、たったひとりの人間のみであった。
誰に言われないでも忠行にはそれがわかった。ここでもまたかれの、常人には高すぎる呪力がわざわいしたのであった。いっそわからねば、ただ葛城の神女の霊威にうたれ、畏《おそ》れかしこむだけですんだであろうに、忠行にはそれもならなかった。女に凝集する、山の霊気のかがやきから目をはなせぬ忠行であった。それが己の腕にあればと考え、想像のまばゆさに目のくらむ思いがした。
まさに葛城の力はあの女ひとりの身に凝《こご》っているのではあるまいか。いやきっとそうにちがいない。志狼は秘法を見せると、あれほどはっきり告げたではないか。かの女こそが葛城の宝、すべての霊威の結晶であるのだ。
かの女ひとりそばにあれば、どれほどのことがなしえよう。めくるめく未来が忠行の脳裏にひろがった。綺羅《きら》をかざりほこらしげに殿上をゆく、おのが姿がふたたびまざまざと目間《まなかい》をいきかった。栄達。繁栄。かがやかしい未来がすぐそこにあった。深い山の夜闇《やあん》に目をこらしながら、忠行の瞳《ひとみ》はそのむこうの輝くおのれ自身をみつめていた。
と、足もとがいきなり宙に浮いた。
踏みすべらした枯れた木の根が、土くれを道連れにばらばらと舞った。
あっと声をあげて忠行は落ちた。二、三度ぐるぐると目がまわり、一瞬のち濡れた粘土の地面にはげしく叩きつけられていた。背中を打って息ができず、しばし身体を丸めて唸《うな》る。
いつしか、雨が降り始めていた。風も出てきていた。山中の木々はざわざわと鳴りさわいだ。ようやく息を整えて、頭を上げようとしたとたんずきりと足首が疼《うず》いた。捻《ひね》ったようだ。
(女は)
ぎくりとして辺りを見回した。転落のはずみに首でも折りはせなんだか、それとも、もっと恐ろしいことには、この手を逃れて里人のもとへ馳《は》せもどり、ここに略奪者がおると訴えに出てはいまいか。もはや里の者は忠行にとって同胞《はらから》ではなく、敵であった。備えねばならぬ仇敵《きゆうてき》であった。血走った目で闇をさぐった忠行の目に、仄《ほの》かに、白い小さな顔が見えた。女の顔であった。
「おお、そなた、無事であったか」
逃げてはおらなんだのだな、という言葉は、どうにかこらえた。
女は寝所に侵入した忠行に、さして抗《あらが》いもせず囚《とら》われたのである。都へゆこう、と囁いた忠行の言葉にうなずきこそしなかったものの、その小さな胸の中には、まだ見ぬ都への憧《あこが》れがしずもってはいなかったか。いや、女であれば誰でも、はなやかな世界への憧れは身に持っているものではないか。
女はじっと動かなかった。そこに自分の略奪への赦《ゆる》しが、同意が、こもっていると忠行は信じた。信じておらねば走れなかった。女はただ、黒々とした瞳で忠行を見返したばかりであった。
「すまぬが、足を捻ったようだ。そなた、そなたの力で、この足を癒《いや》してはくれぬか。完全にでなくてよい、山を降りるまで保《も》てばよいのだ。このままでは追いつかれてしまうぞ」
女ににじり寄りながら忠行は囁いた。女に怪我はないらしい。神女《しんによ》には山の木も土も害をなすことをはばかるのか、なめらかな頬にも光るばかりの素足にも、泥はねひとつついてはいない。
「何をしておる。そなた、あの奥山へ連れ戻されてもよいのか」
ただ人形のように自分を見かえす女に、あせって忠行はいいつのった。
「都へゆくのだぞ。にぎやかな、はなやかな、都へゆくのだ。あのような土臭い山里では、とうてい浮かぶ瀬もない。そなたのように美しい姫が、ここな山奥に埋もれていてよいものか。都へゆけば、思いもよらぬほどの栄華がたのしめるのだ」
どうっと木々が騒いだ。山が揺れる。
「錦繍《きんしゆう》の衣をとらそう。何枚でも好きなだけ。壮《ひろ》い邸《やかた》をあたえよう。選び抜いた女房をはべらせ、山海の珍味をならべよう。権門の姫さえうらやむような、やんごとない貴女として遇しよう。そなたが吾《あ》に合力してくれるなら、できぬことなどなにもなくなる。もはや山に籠《こ》もり、世間に背を向ける生き方は時に合わぬやりかたなのだ。奴らは山で朽ちてゆくにまかせればよい。葛城の霊力は、わが賀茂にこそ添わねばならぬ。なあ――」
ぽつ、と冷たい雨が頬にあたった。痛めた足首をひきずりながら、忠行は女に這《は》いずり寄った。
「なあ――」
「――あなたは、わたくしを見てはおられない」
ふと、女が口をひらいた。吐息ににた声であった。
女のふくよかな足を今にも押しいただこうとしていた忠行は、いきなり横つらを張られたような気がして、ぐいと身をのけぞらせた。
「な、なにを――」
「あなたの目はわたくしを見てはおられない」
女はいった。その目は今や、ひどく悲しげであった。
いや、悲しげと見るのは、見るものの目にそうであれという願いがこもっているからか。女の目はただ鏡であった。黒い黒いおだやかな鏡。そこに映るのは深甚たる山中の闇と、そこにうずくまる、あわれに小さな己の姿にほかならぬ。
忠行は震えだした。震えは手から腕へとひろがり、胸へ、足へ、全身へとひろがっていった。止めることができなかった。べっとりと、つめたい汗が背中を濡らした。
「あなたの目が見ておられるのは、わたくしを通したどこか遠い場所。あなたの目にしかうつらぬ世界。わたくしのあずかり知らぬ場所でございます。わたくしを見てお話しくださらぬ方に、わたくしは、お応《こた》えするわけにはまいりませぬ」
「黙れ、何をいっているのだ。吾は、吾は――」
女はもう口をひらかなかった。ただじっと、忠行を見つめた。
そこに映っているおのれ自身を、忠行は見た。
冠はなく、髪は乱れ、ほつれた後れ毛がおどろに頬に貼りついて、恐怖と猜疑《さいぎ》に目を血走らせている。泥まみれの衣をひろげてべったりと地面に這いつくばり、蝦蟇《がま》のように両手をついて、わなわなと震えつづけている、闇の中の一個のいきもの――
「み、見るな」
両手で顔をおおって忠行は呻《うめ》いた。
「ええい、見るな! 見るな見るな! そのような目で、吾を見るなああ!」
消し去らねばならなかった。そのようなものはあってはならぬのだった。この忠行が、賀茂の当主が、都で随一の陰陽師になるべき男が、獣のように泥まみれで、手足をつき、地面に這っている姿など、この世にあってはならぬのだった。
柔らかい練絹《ねりぎぬ》のようなものを指先に感じた。女の喉《のど》であった。ぐいと締めつけると、骨のないもののように綺麗《きれい》に反った。黒い髪が闇に流れた。ざっと時雨が降りそそいできた。荒い呼吸を吐きながら、忠行は腰紐《こしひも》を引きぬいた。あらわになった下腹が、喘《あえ》ぐがごとく大きく動いた。歯をむき出し、ひろげた鼻孔から火の息をふいて、男の背中がそこへのしかかった。
山はいつか嵐であった。全山の木々は身をよじり、もがくがごとくざんざんと波打った。こすれる枝が悲鳴をあげた。時雨はやがて驟雨《しゆうう》になり、白く凍って雹《ひよう》となった。もぎとられた星が地に降った。冷えた涙のごとくであった。
ふと気づくと忠行はひとりであった。身体の下の白い肉体《からだ》は、つめたく冷えてうごかなかった。かすかにひらいた小さな唇《くち》から、紅い流れがひとすじ落ちていた。みぞれに打たれたその色が、薄まりながらながれていくのを麻痺《まひ》したように忠行は見た。
そうして手をのべて女に触れた。しおれた花のうてなのように、女の首《こうべ》は静かにたれた。息はつい絶えていた。ひらいた腿《もも》のあいだから、口とおなじく赤い血が、大地をそめて流れていた。
叫んだかもしれぬ、忠行は。叫ばなかったかもしれぬ。いずれにせよ耳にするものは、嵐と夜と山としかなかった。
かれは両手でにじりより、わななく指で女に触れた。初めはおずおず、ついではげしく、やがては狂気したように女を呼び活けようとこころみた。だが甲斐《かい》なかった。女の身体は閑《しず》かに冷えていった。死んでもその顔は美しかった。雨もその顔を濡らすことははばかった。
立ちあがろうとしてはたせず、忠行は尻をついたまましりごみした。死によって神女は、いよいよ聖なるものと化したようであった。山の内ぶところに鎮まる肉体が、忠行の前にそびえたった。白い柔らかい小さななきがらが、何千丈もの石壁と化したがように思われた。
ふと頭上に人の気配を感じた。覚えのある気配であった。たちまち撃たれた獣のように、忠行は宙にとびあがった。闇からこぼれた影に似て、志狼がそこに立っていた。円満慈悲の仏陀《ほとけ》の顔が、時にあっては冷酷無惨と映るがごとく、若い顔には表情がなかった。
「おまえは自らのものでない力を望んだ」
「ゆ、赦してくれ。赦してくれええ」
「山の霊威をねたんだ。人のものならぬ霊力をけがした。この女の保つ力は、そも葛城の、日ノ本の、なべての生命につながるものよ。それをおまえは奪おうとした」
「赦してくれ、志狼、赦してくれ。このとおりじゃ、な、志狼、このとおり」
「俺が赦しても、葛城の山が赦すまい。天地の理《ことわり》が赦すまい。すべての生命を支配する、大きな流れが赦すまい」
雨と泥と涙と鼻水に、忠行の顔はどろどろに濡れた。あさましく尻をむきだし、ちぢかんだ陽根を股のあいだにぶらさげて、身も世もあらず泣いているのであった。ただ恐ろしかった。恐ろしくてならなかった。山にしずもる霊威のすべてが、今や身をよじり声をかぎりにうなり吼《ほ》えていた。見えぬおおきな掌のなかで、一枚の木の葉のごとく揉《も》みつぶされるおのれの幻影に忠行はふるえた。
「なぜ言わなかった。恋したゆえ、奪ったと」
志狼の声は全山のうちからくる囁《ささや》きだった。どうどうと森をゆする嵐のただ中にあって、それはやけつく火花となって忠行の耳を灼《や》いた。
「それであれば、これもおまえに応えたろう。否《いや》であれ、応であれ、なんらかの応えを与えたろう。たのみに応えてほほえみながら、力を貸しもしただろう。しかしおまえは恋を権力に見かえた。浄らかたるべき恋の火を、嫉妬《しつと》と欲で奪おうとした」
吾は、と忠行は叫ぼうとした。しかし声が出なかった。干割れた口に泥を食《は》んで、かれは地面にうち倒れた。裸の背中に、どっと雨がしぶいた。その背に志狼の声がひびいた。
「よかろう、おまえは力を得よう。望んだものは手に入ろう。だがその代償《あたい》は払わねばならぬ。
おまえのこぼした子種がある。ここに割られた子宮《こつぼ》がある。こぼれた種と割れた子宮だ。そのふたつが実をむすぶとき、おまえは代償を払うことになろう。それがどういうものとなるかは、俺の手にははかれぬ。おまえは力を得る。代償は支払われねばならぬ。どうすることもできぬことだ」
「赦《ゆる》してくれ。赦してくれ。志狼、志狼、赦してくれ」
「ならぬ。俺が決めることでない。葛城の山が決めることだ」
そういうと志狼はつと女の骸《むくろ》を腕に抱えあげた。眠るがごとき女の顔に、つかのま目を当て、その額にそっと顎《あご》をあてて、頬ずりするようなしぐさを見せた。
そうして、居なくなった。あとには風がごうごうと渦巻いていた。
立っていられず、忠行はふたたび地に伏せた。「助けてくれ、助けてくれ、どうか志狼よ助けてくれ」もはや恥も外聞もない。嵐にもまれてかれは泣き叫んだ。こだまは風にちぎれて消えた。
「助けてくれ、助けてくれ、志狼、志狼殿、どうか助けて、助けてくだされ」
翌朝山の清水を汲《く》みに、あがってきた里人が見いだしたのは、なかば破れた衣に下はむきだし、泥と汚れに顔さえさだかならぬ、半狂乱の都人ひとりであった。
「里人にすくわれて都にもどったわしは、身体が快復してみると、おのが身にすさまじいまでの霊力が宿っていることを知った。志狼のいったとおりであった。わしはその力をもって陰陽寮に位を築き、術の上手と都に名をはせることになった。……だが」
脂汗にぬれて忠行は言葉をついだ。保憲は黙ってきいている。なお夜はふかく、闇は濃く、尽きかけた燭《しよく》の火に灼かれた蛾が金茶の鱗粉《りんぷん》をまきちらしてはたはたともがいている。
「頭の底には常にあの夜の志狼の言葉があった。……おまえのこぼした子種がある、ここに割られた子宮《こつぼ》がある、こぼれた種と割れた子宮だ、そのふたつが実をむすぶとき、おまえは代償を払うことになろう……そのときがいつくるのか、いかなる代償をわしは払わねばならぬのかと考えると、全身を冷汗がながれた。望みどおりの一門の栄華が、そばに近づけば近づくほど恐ろしさがつのった。……これもまた、わしに払わせる代償を大きくするためのはかりごとではないか、わしを高みまで引き上げ、引き上げておいて、突き落とす落下のいきおいをさらに増さしめんがためのはかりごとではあるまいかと考えると、いつにても心は楽しまず、胸は暗くふたがれた、……あの日からわしは今まで、一度たりとて心より愉《たの》しんだことはない。どれほどの喜びの絶頂にあろうとも、いつも、あの視線がある……志狼の目……夜と嵐と闇のなかからわしを見つめていた……あの、目が」
つかのまの静寂があった。蛾はついに力つき、はたりと翅《はね》をとじてうごかなくなった。
「それでは」と若い保憲は、目の前で身を固くしてうつむく父に問いかけた。
父の苦渋とはうらはらの、それはあくまで沈着な声であった。
「あの志狼とやら謂《い》う小冠者《こかじや》は、その父上の『志狼』のなんでございますか」
「息子であろう。おそらくは」
忠行はほとんどうわのそらであった。
「あの夜死んだ女のあとに、また妻をめとったのやもしれぬ。誰が知ろう。ほぼ二十年もたって、都に起こったこたびの異常事。占えば盤は意味なく乱れ、星を見上げれば見えるのは凶事ばかりよ。思い出されるのは二十年前のあの言葉。こぼした子種、割られた子宮《こつぼ》――それがとうとう実をむすんだのではあるまいかとさとった瞬間、ついにわが代償を払うべきときが来たかと、命をすてる覚悟で山に登ったのだ」
「それがあの、鳴滝とやらいう鬼女――」
「間違いない。あの顔は、あの女とうり二つよ」
目をとじた。ふたたびよみがえった恐ろしい記憶に、色をうしなった唇がわなわなとふるえていた。
「都のこの凶事はわが旧悪のなせるわざ。そうと知ったときの、わしの恐懼《おそれ》がわかるか。都を守護せねばならぬ身が、災いをこの地に招いたのだ。
このことが人に知られてみよ。せっかくこれまで必死になって積みあげてきたわが名声、わが栄光は、たちまち塵《ちり》となって失《う》せてしまう……賀茂の家さえ、無事ではいられまい。わしはすべてを失わうのだ。それが代償として求められようなら、あまりにも大きすぎるといわねばならぬ。
わしは賀茂を栄えさせたい。陰陽の血として代々人の口にものぼり、書にも物語にもしるされる、ほまれある陰陽の宗家となしたい。なぜ今になって、それをあきらめねばならぬ。
ほかのものならなんでもやろう。わしの命が欲しければやろう。そう考えて、山へ戻ったというのに、だが今は里長となり、大角と名乗るあ奴は、わしを責める言葉ひとつ投げるでなく、ただあの童を連れていけと言ったばかりであった……」
「それで黙ってつれておいでになったのですか。あのような、汚い者を」
「ほかに何ができた?」
忠行の声がわずかにとがる。
「わしは葛城の神女を殺したのだ。都を襲う怪事の原因を、志狼は、いな、大角は知っておるのだぞ。傀儡《くぐつ》たる役一族の手の者はどこにでもおる。賀茂家の耳をふさいでおいて、こたびの異変の原因は陰陽師賀茂忠行にありと上にひとこと囁くならば、たちまちすべては終わってしまう。闇じゃ。もはやわが家門が世に浮かもうことはよもあるまい。小わっぱひとりを都へ連れてゆくことが代償であるならば、やすいものだと思わぬのか……」
「――ばかばかしい」
はっきりと、保憲はいった。
忠行は目を剥《む》いた。
「ば、ばかばかしいと? おのれ保憲、そなた、何を思ってそのような」
「ばかばかしいと思ったからばかばかしいと申し上げました」
すっきりと高く頭をあげ、保憲はきっと父を見返した。
おのが息子のつよい視線に、たじろいだように忠行はわずかに身をのけぞらせた。切れの長い目をすずしく見張って、保憲はつづけた。
「代償代償と、父上はなぜそうも怖れておられるのです。確かにそうかもしれませぬ。しかし、何を怖れることがございますか。父上は力をおもちです。強い力です。それを使えば、こたびの凶事は、かえって賀茂一門の名をあげることになると、どうしてお気づきになられぬか」
ずいと膝を進めて、保憲は声を高くした。
「わが身ひとつの栄達をのぞむは、自然な心ではございませんか。わが一門の栄華をのぞむは、当然の思いではございませんか。父上はただその心に従われたまでのこと。なんの罪、なんの悪。なんの天地に恥ずるところがございましょう」
「や、保憲、そなた――」
「原因を知っている者が邪魔ならば、さっさと始末してしまえばよかったものを」
冷然と、保憲はいいすてた。
「やす――」
「そもそも父上もおっしゃっておいでではありませんか、葛城の者どもは不遜《ふそん》にも、かれらが手に畏《おそ》れおおくも天皇の大権《だいごん》をとりもどそうとしておるのではないか、と。うっかりもらした一言が、人ひとりの生命を露と散らすことにもなりかねぬこの世。訴え出ようとおもうなら、いくらでも事のこしらえようはございます。それほどまでに恐ろしかったならば、なぜもっと早くそれらしい罪をこしらえ、葛城の山すべてを焼き払っておしまいにならなかったのです」
「そ、そなた、何を言っておるかわかっておるのか。葛城はわが一族の――」
「いいえあれはただの卑しい山里」
保憲のうすい唇に、美しい笑みがちらりと宿った。
「先ほどもおっしゃったではございませんか、この賀茂こそは陰陽道の宗家、人にも書にもうたわれる、ならびなき霊力の血脈《けちみやく》となると。父上はそれにふさわしい力をおもちだ。私も。ならば、いつまでも昔の亡霊にしばられている必要はありませぬ。これからは賀茂が唯一の役の血脈。不要となったぬけがらは、さっさと焼き捨ててしまわねば」
忠行はもはやなにも言うことができなかった。かれは初めて見るような目つきで、おのが息子を眺めた。朱《あか》い唇にわずかな笑みをはいて、保憲はそこに端座していた。面長の、色白の、女にもしたいようなやさしい面差しの奥に、おそろしくつめたく酷烈なものがのぞいていた。ふいに、まったく新たな恐怖にぞくりと忠行が背筋を凍らせたとき、渡殿のむこうから、あわただしい人声と足音が入り乱れて近づいてきた。
保憲はさしたる注意もはらわなかった。それがなにを伝える使者であるかは、すでに知っていたようであった。あわただしく入ってきた下人は、忠行のかたわらに膝をつき、きしるような囁《ささや》き声で語った。色をうしなった忠行の顔がさらに白くなった。
保憲はしずかに座を立った。
「参ります。左獄でございますね。今はとりあえず、手近なものから順に片づけていかねばなりませぬようですから」
「保憲、そなた――」
「ご心配なく、父上。父上の御名を汚すようなまねはいたしません。私は、このときを待っていたような気がいたします。父上に、さいしょの術の手ほどきを受けた、その瞬間から」
衣《きぬ》ずれの音をのこして、保憲はしずしずと退出していった。
板間のわずかなきしみが消えてしまうまで、忠行は脂汗を垂らしながらその場にすくんでいた。
風が出てきた。炎が揺れた。じ、と音をたててついに燭が消えた。墨をながしたような闇があたりをひたした。しかし星は美しかった。天からじっと人を照らした。瑠璃《るり》の天井にかざられた、多数《おおく》の澄んだ目のようであった。
遠くで一声叫ぶ声がした。
額を白くそそけだたせて、豁然《かつぜん》忠行は立ち上がった。
さて焼け落ちる獄舎のなかを、駆け抜けているのは純友と将門のふたりづれである。
「退《ど》けい、小次郎」
一喝して純友が太刀をふるう。ぎくりと将門が飛びのいたとたん、ふくらはぎのところで水に映った影のようなものが、透明な血をしぶかせた。よじれた四肢がからまって、炎にまぎれるその姿をたしかに目にし、将門は唖然《あぜん》と朋《とも》を見返って、
「今のは――」
「おう。魚の頭に牙をはやした、なんともいやらしい小鬼であった。おぬしの股に食らいつこうとしておった。見えたか、小次郎」
「うむ――いや。はっきりとは見ておらぬ。だが、なにか透きとおった、鏡に映る影のような――」
「さもあろう」
純友は眉根をよせて口を覆った。熱気がひどい。だがかれは、そのなかにさらに熱気よりもたえがたい何かを感じとっているのであるらしい。
「いそごう。俺はひどく胸騒ぎがするのだ。この火事に、あの白髪|金眸《きんめ》の小童がかかわっておることは間違いあるまい。いずれ騒ぎを聞きつけて、陰陽寮の方々も駆けつけてこられよう。それまでには、なんとか――」
「おぬし、まだ妙なことを考えているのではあるまいな」ふと気がついて将門はとがめた。
「なに?」
「あの金眸の小鬼を、なんとか説きつけることはできまいかと考えているのではないかというのだ」
純友は口をへの字にした。嘘のつけない男である。
「おぬし、なにを考えているのだ。今はそのような場合でないことがどうしてわからぬ。あれは鬼じゃと、何度言ったらわかるのだ。情は無用よ。ためらうな。気おくれ一つが命取りとなる」
「……しかし童じゃ。姉や姉やと泣く」
むっつりと純友は言う。しかしその間も手は休みなくうごいて、自分と将門に忍びよる妖物どもを右へ左へと斬りさばいている。
「だからそれが手管だと言うに」
「手管なら手管でもよい。俺はどうにもあの声が、耳についてはなれぬ。これをしているのがあの童なれば、なんとかしてやめさせたい。道理をわからせてもやれば、なんとかできるかもしれぬ」
「鬼に道理が通ると思うか」
「人よりよっぽど正直じゃわい」
将門のほうも同様である。いまや辺りにむらがる者が、将門の目にも仄《ほの》かに映った。熱にゆらめく陽炎とみまごう、水晶色のほのめきをばったばったと薙《な》ぎはらえば、ぎらつく影の血しぶきをあげて、いくつもの気配がざわりとうごめく。
しかしその数、いっこうに減らぬ。むしろいよいよ密度を増し、燃え落ちるその柱のかげから、煙にむせて倒れ伏したそこの囚人《めしうど》の躯《からだ》のうえから、ゆらりと漂ってくる影どもでもはや呼吸もならぬありさま。
しかも熱気はますますつのる。いかに将門、純友が、人にすぐれた剛の者であろうとも、炎にかこまれ、熱に焼かれ、鼻をつく異臭と煙のなかではそれほど長くもちそうもない。
しだいに将門はあせってきた。
「おい、純友よ」先をゆく純友のうしろから大音声に、
「ここはいったん引き上げよう。このままではわれらまでも、炎に巻かれてしまおうからな。死んでしまっては元も子もない」
「いや、しかし小次郎」
「死んでは小鬼に説諭もできぬぞ。とにかく一度外へ出よう。小鬼のほうもこの炎では、いつまでもここにいることもできまい」
いわれて純友は、口をへの字に曲げはしたが、前へすすむ足をとどめた。
「――よかろう。だがあと少し。あるいは鬼ならぬ囚人が、まだ残っているやもしれぬゆえ――」
「どこまで人がよいのだ、おぬし」
いささかあきれた顔の将門が、これが最後と腰に食らいついてきた脚ある小蛇を切り払ったとたん、炎の奥にちらと人影がゆれた。
「お、あれは――」
「人じゃ、小次郎。ゆくぞ。救い出さねば」
一声かけて純友がまっさきに飛び込んでゆく。これ、待て、とのあわてた制止もきかず、まっしぐらに炎を抜けていく純友にやれやれと息をついて、将門も後を追った。と、すぐに、驚愕《きようがく》した純友の声が炎の弾《はじ》ける音を圧した。
「お、おぬしらは――」
志狼は足をとめた。
袖を顔の前にかざし、炎をくぐり抜けて前に飛び出してきたのは、あの邸で自分を捕縛した、若い武者にほかならなかった。相手も不意をうたれたようで、構えもわすれて目を剥《む》いて、
「お、おぬしらは――」
「どうした、純友。なにがあった――うっ」
あとから朋輩《ともがら》を追ってきた、いまひとりも息を呑《の》んだ。すなわち将門である。眉のすずしい整った顔に、たちまち闘志がもえあがる。
「おのれ、鬼の片割れか。炎に乗じて仲間のもとへゆかんとするか。赦《ゆる》さぬぞ。そこへ直れ、今度こそ成敗してくれる」
「ま、待て待て小次郎」
太刀をあげかけた仲間をあせった様子でさきの武者がとどめ、立ちつくす志狼を見返った。
「おい鬼のわっぱよ、おぬしの仲間はどこにおる。この火事はおぬしらのやっておることか。この妖物どもの群れはおぬしらの眷属《けんぞく》か。なんとかこ奴らを収めてはくれぬか。このまま火が燃え広がれば、京一帯が焼け失《う》せてしまう」
「俺は鬼じゃない」
当惑げに志狼はいった。純友と呼ばれているこの武者は、肩がいかつく、太い眉と張った顎《あご》がいかにも無骨者であったが、ぎょろりと大きなどんぐり眼が小童のように澄んでいて、囚《とら》われた事実を忘れたわけではないにせよ妙に志狼の警戒心を薄れさせた。
「この火事も俺のしたことじゃない。童子のしたことかと言われればそうかもしれないが、俺には少なくとも、このような力はない」
「童子というのは、あの白髪金眸のわっぱか。名はなんという」
「名は知らぬ。ないのかもしれぬ。ただ童子としか呼んでいない。あれの姉も、そう呼んでいた」
「姉? そうか! やはりあの鬼の子は――」
「純友ッ!」
嬉々《きき》として純友が声をはったとたん、うしろで油断なく構えていた将門が大喝した。
純友がはっと頭を上げたとたん、黒ずんだ床の破れから、伸びてきた枯れ枝のごとき腕がかれの腰にからみついた。
ぐうっと呻《うめ》いて太刀をとろうとしたが、つづいて現れた第二、第三の腕が肩へ胸へとからみついて動きを封じた。影から引きずり出されるように、くろぐろと眼をくぼませ乾いたあばらを剥《む》き出しにした、死人の上半身が現れた。
いんいんと嗤《わら》い声がひびき、ゆらりと、炎をわけて一個の黒い人影が現れた。
「なにを、している、のだ、シロオ、よ」
ぶあつい黒い胸と剃《そ》り上げたあたま、桃色の唇。ドーマである。志狼という名をひどく奇妙な仕方で呼ぶ。まるで異国の言葉のようであった。
「こんな、ところで、手間取って、いるな。早く、ゆかぬと、われらも、共倒れ、ぞ」
むろんそのようなことを将門たちは知るよしもない。骨ばかりの手に首をしめつけられ、純友はかすれた苦鳴をもらした。瞳《ひとみ》を怒りに燃えたたせて、将門はふたりを睨《にら》みつけた。
「鬼どもが、俺の友を放せ! 正々堂々と勝負せよ、いまわしい妖物どもめが!」
「その武者を放せ、ドーマ」
志狼はいった。きしるような忍び笑いをもらしていたドーマは、楽しみを取り上げられたわがまま娘のように、不服げに唇をつきだして志狼を見返った。
「この、男は、おまえを、捕らえた、男ぞ。いまも、そっちの、男は、われらを、斬ろうと、している。敵だ。われらの、邪魔を、するぞ。殺さ、なくて、よいのか?」
「こんなことに時間を食っている暇はない。いそごうと言ったのはおまえだ。放せ。でなければ、俺はおまえといっしょには行かない」
ドーマは歯を剥きだして威嚇するような表情をした。
だが、今は志狼を離反させるようなことは控えたがいいと悟ったか、存外素直に首をすくめて、糸を引くように手を動かした。死人の指がつと純友からはなれる。
が、その一瞬にドーマの口もとをかすめたゆがんだ笑みを志狼は見のがさなかった。いったんゆるむと見えた指が、目にもとまらぬすばやさでふたたび純友の首をめざす。
「よせ、ドーマ!」
「純友ッ!」
交錯する叫び、それから大音響。火の粉をどっと噴き上げて、燃え崩れた天井がなだれ落ちてきた。投げ出された純友が、喉《のど》を押さえてのたうつ。顔を覆って熱気をのがれた将門は、咳《せ》き込む朋《とも》にいそいで手を貸した。
「純友! 無事か?」
「あの……わっぱ」
「なに?」
「俺を……救った。目には見えぬ念の力で、……死霊どもを、吹き飛ばした」
ぜいぜいと喉を鳴らしながら純友がいう。愕然《がくぜん》として将門が炎をすかす。
志狼は両手を前につきだし、彫像のごとく動かずにいる。
「――俺は葛葉に逢《あ》いたいばかりだ」
志狼はいった。額が白く光っていた。頭の中にはなにもなかった。炎は踵《かかと》を舐《な》めていたが、熱さは感じず、ただ身のうちには火があった。
「その他の者を害する気はない。京に害などあたえる気はない。ただ、邪魔はするな。この度は助けた。しかし、次はない。心しておけ」
たかが十六の若者である。にもかかわらず剛の者二人、そろって言葉をうしなった。
ゆらめく火炎を背に立つ姿が、降魔の利剣をかざし浄炎をまとって佇立《ちよりつ》する、不動明王の御姿と見え、純友があっと言って目をかばったとき、めきめきと音をたてて、燃える柱が倒れてきた。将門が純友をかかえて横へ転がる。視界はたちまち火にふさがれた。志狼の姿はすでにない。
『冥加《みようが》、よな。命、びろい、したか』
かっかっかっ、と嗤うドーマの声ばかりが耳にひびいた。
『早う、外へと、逃れるが、よいぞ。すぐにも、ここは、焼け落ち、よう。せっかく、拾った、命を、むだに、捨てる、ことは、ない。なんじら二人、ただならぬ、星を、帯びて、いる、ようだ。気を、つけろ。気を、つけろ、よ』
「今のは……」
「鬼よ」
茫然《ぼうぜん》とする将門に、ようやく呼吸をととのえた純友が、おきあがりながら呟《つぶや》いた。
「あれが、鬼よ。――あれこそが、魔というものよ、小次郎――」
「おまえも、意外に、甘い。殺して、おかねば、のちのち、後悔、するかも、しれぬ、ものを」
「煩《うるさ》い。無駄口を叩かずに、童子のいるところへ案内しろ。知っているのだろうが」
応《こた》えず、ドーマはまたしのび笑った。どこで手に入れてきたのか、古びた墨染めの衣に尻切れ草鞋《わらじ》をひっかけ、いっぱし僧形をきどっている。ひらいた襟から黥《いれずみ》のある逞《たくま》しい胸がなかばのぞき、異相をますます異様にしていた。
石をきしらせるような、歯に響く嗤い声は不快ではあったけれども、志狼はこらえた。火炎はいよいよ烈しい。冗談ではなく、いそがねば、獄舎ともどもみな焼け失せてしまわねばならぬ。
「そう、急くな。……ほれ。あそこよ」
と指さした先に、まるでそこだけ夜に護られたかのように、ふいにぽかりと黒い口があいた。
通路の上下に張り巡らされた、注連縄《しめなわ》と呪符《じゆふ》がふっつり切れて垂れ下がっているのは、火事のせいか、それともほかの理由からか。注連縄の先には火の影もなく、しんと暗く、つめたく冷えて、かすかに聞こえる阿鼻叫喚《あびきようかん》の声がいっそそらぞらしい。
「あそこか」
と意気込んで行こうとして、志狼はたたらを踏んだ。ドーマが先へ進まぬのである。それまでは、志狼の先に立ってまっさきに駆けていたものを、その場に甲を釘付けにされたように、ぴたりと足をとめてしまった。
「何をしている。早く来い。灼《や》けてしまうぞ」
「吾は、ここに、いる。おまえ、行って、連れて、こい」
「なんという口のききようだ。俺は、おまえなどに命令される筋合いはない」
志狼は怒ったが、ふと気づいてドーマの貌《かお》を見直した。つとめて無表情をよそおっているが、脂びかりした黒い頬に、わずかながらのひきつりがある。志狼はそれを恐怖と見た。そうして、それは正しかった。
「おまえ。この中の、童子がこわいのか」
「……別に、こわい、ことなど、ない。あちらが、吾より、強い、だけだ」
ドーマは肩をそびやかした。桃色の唇がいまいましげにねじれた。いきなりひどく愉快になって、志狼は思わずにやりとした。
「そうか、おまえは、童子を連れ出すために俺を抱き込んだな。いまだ力弱いおまえでは、童子を封じる境を破ることができぬので、俺に合力させようとしたか。考えたな」
「おまえも、煩い、ぞ、シロオ」
不服げにドーマは舌を鳴らした。
「さっさと、して、くれ。皆で、焼け死に、たくは、あるまい」
にやにやしながら志狼は暗い空間に踏み込んだ。
利用されたという気は不思議とわかなかった。利用したというなら、志狼もまた葛葉に逢うためにドーマを利用したのである。おたがいさまといえばいえる。
それにひたすら異様であった連れが、いささかなりと人臭い弱みを見せたことがたいそうおかしかった。どれほど命あやうい境にあっても、おかしければ笑い、痛快ならばよろこぶ精神の若さと健康さが志狼にはあった。
だが結界の先の闇に踏みこんだとき、さしものかれもうっと呻《うめ》いた。
そこは妖物の巣であった。
ひやりと涼しく空気は冷えていた。外の灼熱《しやくねつ》など想像もできぬほどのに閑《しず》かなその闇のなかに、数かぎりない異形の手と脚と尾とその他、もはや何とも区別のつかぬしろものがうじゃうじゃうぞうぞとからまりあってひっきりなしに蠢《うごめ》いていた。
大石をうかと返したとき、その下に巣くう毒虫のかたまりを、さらに千倍にも増したがごときありさまであった。立ちすくむ志狼の足もとを、髪の毛より細い足を百万も生やした人頭の大《おお》百足《むかで》が、ほうけた笑みを浮かべながらざわざわざわと歩いていった。なまぐさい臭気が鼻をついた。
「童子!」
腹の底に力をこめて気を取りなおし、志狼は呼んだ。「童子! 童子よ!」
からまりあった妖物の群れが、いっせいにこちらを見たようであった。
「迎えに来たぞ、童子よ」
濡れた舌でねぶられるような、おぞましいばかりの悪寒に歯を食いしばって、志狼はつづけた。
「童子、童子よ。そこにいるのか」
妖物の群れが左右にわかれた。何者かの命を受けたかのような、一糸乱れぬうごきであった。
志狼の前に一筋細く道がひらいた。今ではこの間が、ほかの獄舎《ひとや》の間を二つみっつつなげたほどの、広い空間であるとわかった。
黒くすすけた梁《はり》のあいだに、羽根もつ蛇がばさばさ飛んだ。描きこまれた方陣の、墨縄のあとがかすれて残る床板に、鈎爪《かぎづめ》や肉肢や棘《とげ》ある尾がさらさらと鳴った。それら闇のざわめきの中に、ひとり皓《しろ》く、金色に、きゃしゃな童子が手足を鎖にいましめられて首《こうべ》をたれていた。
「童子」
志狼は走り寄った。妖物どもはその場を動かぬ。万が一にも邪魔をせぬよう、息をつめ身をちぢめて、なりゆきを見守るかのようであった。
童子は目覚めぬ。声もない。
「童子。童子よ」
わずかに身じろいだ。童の身で、痛めつけられたのかと志狼は一瞬気がかりになったが、繊《ほそ》い手足にはみみず腫《ば》れひとつない。緊張すらもしておらぬようだ。跪《ひざまず》き、志狼は肩に手をかけた。
「起きよ、童子。目をさませ」
かすかに首が動いたようだ。
「いっしょに、葛葉のところへ行こう。おまえの姉のところへ行こう。確かめよう、なんで俺を拒んだか、どうしておまえに背を向けたのか。
そうして葛葉が望むなら、囚《とら》われの身から自由にしよう。俺は葛葉が恋しい。おまえもそうなら、ともに行こう。いっしょに、葛葉を迎えに行こう。おまえの姉を迎えに行こう」
ゆらりと、首があがった。うすくひらいた瞼《まぶた》のかげから、金の眸《め》が志狼を見上げた。
うたたねの夢からふとさめたように、つかのまその眸は眠たげであった。ぱちりとまばたいて、ふいにはっきりと見開かれた。童子はまじまじと志狼を見つめた。
「葛葉を迎えに行こう」
力強く志狼は行った。
「俺たちの葛葉を迎えに行こう、童子」
もう一度、童子はまばたいた。
手足を巻いた鉄の鎖が、ざらりと床へすべり落ちた。
「な、なんじゃ、あれは……!」
いのちからがら燃える獄舎からのがれ出た将門と純友は、火災の報に集まってきた人々のあいだから、あがった叫びに愕然《がくぜん》とした。
「おお、あれは……」
いかつい貌を驚愕《きようがく》にゆがめる純友のそばで、将門は、声もなく口をかんでいる。
見よ。
今や一個の燃えさかる熾火《おきび》と化した獄舎の屋根が、金の火の粉をふいてどっと崩れ落ちる。
その中から、火炎地獄を突き破り、巨大な頭をぬっともたげたその者は――
「お、鬼。鬼じゃ」
「鬼じゃ! 牛頭《ごず》の、鬼じゃあ!」
――踏みしめた炎に照らされて、牛頭をもつ大鬼は、よじれた角を天へと突き上げ、身震いをしてごおおと吼《ほ》えた。
ずん、と地面が揺れた。
牛頭鬼《ごずき》は燃える獄舎から足をぬきだし、悠然たる足どりで京の街なみを進みはじめた。
ずん、ずずん、と鳴動がつづく。悲鳴をあげて逃げまどう人々は、つぎからつぎへと鞠《まり》のようにころがってはぶつかりあった。
身の丈六丈になんなんとし、肩幅二丈、角は一丈。甍《いらか》をつらねる建物も、その三かかえはある膝頭をようやくかくすほどでしかない。
赤い炬眼《きよがん》が爛々《らんらん》ときらめき、帯には鉄杖《てつじよう》、先に五輪の輪のついたのをたずさえ、肩には小さな白い光。言うまでもなくこれは童子の、やわらかな白い髪の頭と見えて、その髪さえもほのかに赤く、火のかがよいを映して燃える。
あとに続いてこれは馬頭《めず》の、同じく六丈はある鬼が、浮き上がるようにぬうっと立った。
隆々と肉の盛り上がる腕はまるで岩をちぎって並べたよう、腰には裕衣《たふさぎ》、家ほどもあるまさかりの刃を松の古木のごとき拳ににぎって、たてがみを振り立て、嘶《いなな》いた。
首のそばには二人の白黒の人影、こちらは志狼とドーマらしい。吹きあがる火事風に、ドーマの墨染めの袖がはたはたと波をうつ。哄笑《こうしよう》。叫び。都の空の灼《や》ける間に、天地をひきさく軋《きし》り声が、燃えて崩れる火勢のとどろきすらも、圧して偉《おお》きく鳴りひびいた。
[#ここから3字下げ]
――賤屋《しづや》の小菅《こすげ》 鎌もて刈らば 生ひむや小菅 生ひむや 生ひむや小菅
[#ここで字下げ終わり]
と、呼応するように、夜の底から囁《ささや》きがわいた。
[#ここから1字下げ]
――天《あめ》なる雲雀《ひばり》 寄り来や雲雀 富草 富草《とみくさ》持ちて
[#ここで字下げ終わり]
「な、なに」
将門と純友が蒼白《そうはく》となって後ろを振り返る。
その目の前を、ずるりと太い胴体が流れた。
虹色の鱗《うろこ》をひらめかせた、それは大きな蛇体であった。
凍りつくふたりの前を、蛇はきりなくずるずると這《は》っていった。背には女の髪がながれた。水晶の板をならべたように、なかば透きとおった胎《はら》のなかには、いまだ形質《かたち》のさだかでない、たえまなく蠢きゆれやまぬ、胎児《はららご》の陽炎がもえていた。
「こ、これは――」
「見よ、小次郎!」
純友が指さす、見てさしもの将門も全身を凍らせた。
燃えさかる火がそのまま門と化したかのように口をひらき、そこから、にじみ出るように何ものかの影があらわれる。
たちまちのうちにそれはたしかな実体をそなえ、金椀《かなまり》をはめ込んだかのような巨大な眼を光らせた、大頭の黒い小鬼に変化した。小鬼は手にした幣《ぬさ》を振り上げ、唇を貫く牙を剥《む》きだしにして、たかだかと空へ喚《おら》びあげた。
[#ここから1字下げ]
――六根清浄、六根清浄、六根清浄。
[#ここで字下げ終わり]
そうして前へ踏み出した。足はそのまま踊りになった。幣をかざし、振り立て、舞いすすむその後ろから、また新たなものたちの影が現れた。影はつきることなく常世《とこよ》の門をわけて現れ、次から次へとかたちを成して、にぎやかにどっと舞いいでた。
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賤屋の小菅 鎌もて刈らば 生ひむや小菅 生ひむや
天なる雲雀 寄り来よや雲雀 富草 富草持ちて
あいし あいし
あいし あいし
[#ここで字下げ終わり]
その唄こそは二十年の昔、葛城で賀茂忠行が耳にしたものと、この場の誰が知ろう。
常世の行列は渦巻く黒い流れとなって都大路へとあふれ出した。二人の剛の者はなすすべもなく、目の前を嬉しげに歌い踊り、祝《ほが》い歩く異形の群れを眺めるしかなかった。
歩くもの、走るもの、這うもの、飛ぶもの、跳ねるもの、転がるもの、毛のあるもの、毛のないもの、衣を着たもの、裸のもの、杖をつくもの、跨《またが》るもの、黒いもの、赤いもの、ひっかくもの、かみつくもの、みな小鬼の幣にみちびかれ、右大臣定方の邸をめざす。
先頭に立つのはかの牛頭鬼である。額の、角のあいだに、月のごとく立つ皓《しろ》い姿は確かに童子、だがこれが十の小児《こども》か。たかだかと頭をあげ、胸をそらし、自分の背たけにまさる高さの鬼の角に玉座のごとくよりかかって、おそれげもなく下界を眺めている。吹きなびく髪が乱れて顔をかくし、小さい肩をおおっているが、それがあたかも仏の頭の、後ろに輝く光雲のようで、将門と純友は目をみはった。
『諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽《じやくめついらく》』
くわっと開いた鬼の口から、とどろくような偈《げ》がひびいた。
『生者必滅、寂滅為楽、六根清浄、六根清浄、六根清浄』
すかさずどっとはやし立てる声が応《こた》え、声はそのまま唄のつづきになる。
[#ここから1字下げ]
きりきり 千歳栄 白衆頭 聴説晨朝 清浄偈 や 明星は
明星は くはや ここなりや 何しかも 今宵の月の
只だここに坐すや 只だここに 只だここに坐すや
[#ここで字下げ終わり]
と、長幡をふりたてて踊りはねていた鰐口《わにぐち》の化物が、ぴいっと声を上げて砕け散った。あとに白鷺を模した式神符《しきふ》がひらりと舞う。
闇にしずんだ条坊の角を、浅黄の水干をひるがえした姿が勢いよく飛び出してきた。走りつつ印をかまえて、
「天上地上、天下地下、悉皆障碣、魔性砕却、滅!」
人指し指させば、力弱い小妖どもが次々と悲鳴を上げて飛び散る。
しかしそれさえ気づいたようもなく、なお進行する百鬼夜行に、賀茂保憲は両足をふんまえて立ちふさがり、手先にひろげた十数枚の呪符を、
「滅せよ、妖怪!」
声たかく叫んで投げつけた。
符は空中でたちまち数十羽の白鷺と変じ、牛頭馬頭の二匹の鬼と、その上につかまる三人の――童子、志狼、そして異形の黒い男めがけて飛んだ。
だがあわや鋭いくちばしが童子の首を引き裂くかと見えた瞬間、一度に鳥はもとの白紙に変じ、雪のごとく地上に降った。鬼は悠然と歩を進める。
保憲は歯ぎしりし、ふたたび何事か呪《まじない》を呟《つぶや》き、「やっ」と一声、気合いとともに腕を突き出した。青白い光が両の腕ぜんたいを包んで広がり、まばゆく輝いてほとばしる。
しかしそれさえ鬼の手前で、はかなく散って消え失《う》せた。茫然《ぼうぜん》と佇《たたず》む保憲の前を、かわらず進むものたちの祝い唄が、ほがらかに響いていった。
[#ここから1字下げ]
きりきり 千歳栄 白衆頭 聴説晨朝 清浄偈
や 明星は
明星はや
[#ここで字下げ終わり]
「もうよせ、保憲」
怒りに蒼白《そうはく》になってふたたび手をあげようとした保憲に、後ろから声がかかった。
ぎくりと振り返れば、そこに、音もなく馬頭鬼の肩から飛び降りてきて立ち上がる、志狼のしずかな顔があった。
「いくらやっても無駄だ。今のおまえに、あの童子は抑えられない」
「おのれ、鬼め! 葛城の手の者が!」
眉をさかだてて保憲は志狼にむきなおった。
「やはり役一族は帝に背するつもりなのだな。だから早くに滅ぼしておくべきだったのだ。賀茂家を道連れにはさせぬぞ、鬼め。このような魔の大群を都に呼びだし、何をするつもりなのだ!」
「何をするつもりもない。俺はただ、葛葉にあいたいだけだ」
志狼の言葉はごく穏やかにひびいた。先をゆく牛頭鬼の肩の上を見上げて、
「あの童子もそうだ。ほかに何の理由もない。……ドーマのほうはどうだか知らぬが」
「黙れ、言い抜けようとしてもそうはいかぬぞ!」
足を踏み鳴らして保憲は怒鳴った。
「わかっているぞ、これら妖怪どもを引きつれて、禁裏にあばれこもうというのだろう! 帝を弑《ころ》したてまつり、きさまらの意のままになる国を築こうというのだろう。許さぬぞ。帝は国の礎、都は国の心の臓なのだ。きさまらなどに奪わせるものか。
京は賀茂家が、この私が、護るのだ、葛城などという、過去《むかし》の亡霊の手になどわたしはせぬ! さがれ、鬼! 魔物!」
一足飛びさがって、続けざまに指先から光弾を放つ。
志狼がつと手を振っただけで、弾はふらふらと揺れて消え失せる。
「無駄だといっているのに、保憲」
保憲を見る眸《め》にやどる色は、怒りいうよりむしろ哀れみに似て、何よりまさにそのことが、保憲を逆上させた。
「――黙れっ、黙れえッ」
目を血走らせて懐の小刀を抜き放ち、志狼めがけて突きかかる。
しかし体術となれば志狼がもとよりはるかに上だ。軽く身体をさばいて避け、よろめいたところを腕をとって、脾腹《ひばら》に肘《ひじ》を突きこむ。
うっと呻《うめ》いて前のめりになったのを、すくうように後ろへはね飛ばした。布人形のように保憲はとんで、わきの築地《ついじ》にぶち当たってぐったりした。
頭上からいんいんとドーマの笑い声がひびいた。
『陰陽師が、術を、忘れる、か。いよいよ、賀茂の血も、濁った、な』
「……いらぬことをほざかずに先へ行け。殺すなよ、いいな」
かっかっとドーマは笑った。
『ほう、こちらも、鬼、らしからぬ、事を、ぬかすわ。われらは、鬼よ。殺さんで、どうする』
「俺は鬼ではない」
機械的にそう答えてから、志狼はふと眉をくもらせて、
「――いや、そうかもしれぬ。俺はもう鬼なのかもしれぬ。俺はもう葛葉のことしか考えられないようになった。頭の中は彼女《あれ》のことしかない。あれとひきかえならば、世界をこのまま焼いてしまってもいいようにすら思える。そのようなことが許されるわけはない。……少なくとも人であれば、許されるはずもない。
しかし鬼ならそれを許そう。であれば俺は鬼でもよい。俺は童子と行をともにする。ドーマと行をともにする。あれらはどうやら人ではない。すると俺ももう人ではない計算になる。それがすなわち鬼ということか。……俺にはどうも判らない」
ドーマは笑っている。哄笑《こうしよう》している。ただ心地よげな笑いである。そこには何の屈託もない。
「……しかし鬼と人とには、さしたる違いもないように思える。俺は変わったか。少しも変わらない。自分では変わったように思わない。苦しくもないし悲しくもない。他をにくいとも思わない。だいいち鬼とはどこからが鬼で、人とはどこから人なのか。判らない。角があるから鬼ならば、牛はすべてが鬼になる。人を殺すが鬼ならば、戦《いくさ》の者は鬼になる。人を食うたが鬼ならば、飢饉《ききん》のときの世の人々は一切合切鬼である。悪をなすのが鬼ならば、では悪とはすなわち何なのか。
……判らない。ただ俺は葛葉が恋しい。俺が鬼であるならば、この恋こそはつまりは悪か。しかし悪なら悪でもよい。俺は恋しい。葛葉が恋しい」
遠くから高い遠吠《とおぼ》えの音が聞こえた。陸続とつづく物怪《もののけ》どもの行列をとおりぬけて、黒色の獣がまっしぐらに志狼のもとに馳《は》せてきた。北辰であった。とらわれていた場所から、自力でぬけでてきたらしい。
志狼は立ちあがった。北辰はその足にまつわるように走りより、口の横からはっはっと喘《あえ》いだ。荒い毛皮が黒く濡れ、こわばり固まりかけていた。北辰の流す血ではなかった。きつい酒の、垢《あか》と汚濁の臭いのまじる、それは確かに人の血であった。
人血で口をよごした山神は、鼻を鳴らして口にくわえたものを志狼に差しだした。
扇であった。葛葉にやるつもりで買い求めた一本の美しい扇。それもまた血によごれていた。松の梢に散らした金箔《きんぱく》が、銅色《あかがねいろ》に燿《かがや》いていた。
そのとき志狼はようやく気づいた。
金箔をおいた表面に、おぼろな影が映っていた。おのが額に白く発光する、とがったもの。
それは葛葉をもとめて逸《はや》る気持ちをかたちに映したように、凶暴な刀の切っ先に似て、しらじらと闇に白光をはなった。
志狼は手をあげて角に触れた。
何の変わったこともなかった。
それはただそれ、そういうものであった。
「――行こう。北辰」
そう呟《つぶや》いて扇をうけとり、踵《きびす》をかえそうとしたそのとき、血相を変えて駆けてくるものの気配がした。闇の中から現れたのは、青ざめ、汗をかき、見るかげもなく衣服を乱した賀茂忠行の姿であった。
横行する百鬼の姿に一瞬凍りつき、「こ、これは」と呻いたが、わが息子の保憲が築地のわきに絶息しているのを認めると、あっと叫んで息子のそばに走り寄った。
「死んではいない。気を失っているだけだ」
志狼の言葉も耳に入らぬ様子で、息子の名を呼びながら身体をゆさぶる。口から息がもれているのをたしかめて初めて安堵《あんど》したように息をつき、それから初めて志狼を見上げ、その額に煌々《こうこう》とかがやく発光体に目をとめて、息を呑《の》んだ。
「そ、そなた、その姿は。その、角は――」
「もう俺を追うな」
志狼はいった。そのことばの静けさは、老陰陽師に若き日の、嵐の夜のことを否応なく思い出させた。忠行の額に新たな汗がぷつぷつと湧いた。
「俺はあんたに何のかかわりもない。迷惑をかけたかもしれんことは謝る。しかしもう俺を追うな。邪魔をするな。いいたいことはそれだけだ」
「そうか、これが代償か。そなたの父がわしに課した」
息子の身体を膝にかかえて、夢中で叫ぶように忠行は言った。
弾《はじ》けんばかりに紅潮した額から、だらだら汗がながれていた。その顔こそはむしろ地獄絵の、焦熱地獄の火にあぶられる獄卒《ごくそつ》の鬼の顔に似た。
「よめたぞ、つまりこういうことだったのだな。息子などとはまっかないつわり、鬼の本性をもつ者を都に連れゆかせ、内から都を崩そうと。わしの息子を殺し、賀茂の家名をけがし、京の都を踏みにじり、天下にわが名を響かせんと――」
志狼はつと背をかえした。忠行の言葉はもはや、かれにとってほとんど意味をなさなかった。目の前で肩を怒らせて叫んでいる老人の名すら、ほとんど思い出すことはできなかった。
踏み出した足はそのまま宙を踏んだ。一歩、二歩と、踏み出す足は当然のごとく地面を離れて舞い上がる。宮殿の階《きざはし》を登るがごとく、志狼は空を踏みしめて空へとあがった。
「待て、待ってくれ!」忠行の、悲痛な声があとを追った。
「……せめてわしの息子は助けてくれ、京の都には手を出さずにおいてくれ! そなたの母を、大角の妻を、殺したのはこのわしだ、恨みならばこの身に晴らせばよい、しかし他を害すのはやめてくれ。
この子が死ねば賀茂には力ある者がなくなる。賀茂の血が絶えてしまう。そればかりは許すわけにはいかぬ。賀茂が絶えれば京の護りは崩れる。京の都がなくなれば、幾百万の民が迷う。せっかく鎮まったこの国が、ふたたび戦乱の巷《ちまた》に沈む。そのようなこと、あってよいはずがない。頼む、恨みならわしに、償いなら、このわしひとりにさせてくれい、のう頼む、頼む頼む」
『見ぐるしい、ぞ。賀茂の、陰陽、師』
しかし代わりに吐きつけられたのは轟《とどろ》くような嘲笑《ちようしよう》であった。志狼の姿はすでになく、ただ黒い異相の男、ドーマの、腹いっぱいの哄笑が夜空をこめて響きわたった。
『都が、崩れた、ところで、それが、なにか。国が、壊れた、ところで、それが、どうした。――人種は絶えず、血は流れ、野山にはかわらず花が咲くぞ。ましてや賀茂の一門などは、それらの前では鼻くそ同然。なにを騒ぐ、陰陽師。口つききれいにとりつくろうても、腹の底は見えたぞ』
「な、何者――」
『おぬしは知らぬ者よ。いやさ、知っているかな』
ドーマの言葉がかわっている。踊り歌う百鬼どもの中にあることが、この異人のなにかに力をあたえたか、今は舌先なめらかに、
『都の過去をふりかえるなら、そこにはすなわち累々たる屍山《しざん》血河が見いだされよう。おぬしもまた死者を踏みにじり、足下に踏んまえて立つ者よ。
だが己は死人の腹から生まれ、死人に育てられ、死人に食われて死につつ死者たる己を生み出し生きたぞ。己の足をば支える者は、まさにその死者ども、怨《うら》みとともに地に封じられ、大地を支える者どもだ。己こそは死中の生、生中の死よ。生死に確たる区別なく、鬼と人とはさして変わらぬ。己の父は鬼と呼ばれた。おぬしは志狼を鬼という。己を鬼と呼ぶか、陰陽師』
「鬼! 鬼! きさまらはみな鬼だ!」
『ほう鬼か。ならばおぬしはなぜ鬼ではない。己とおぬしと、志狼と保憲と、違っておるとの証拠を告げい』
「わしはきさまらのごとく、人の心をもたぬ者ではない! 京が滅べば人が死ぬ、賀茂が朽ちれば術は果てる! わしは葛城で罪をおかし、それを悔いている、それを知るからこそ、わしは――」
『笑止ぞ、陰陽師』
あざけるような声が降った。
『まこと悔いるというならば、おぬし、足下を見るがよい』
言われて忠行ははっと眼をおとした。
と、足下の影がたちまちざわざわ黒く波立ち、白い腕がぬっと出てきた。黒髪をなめらかな肩に乱し、うるんだ眸《め》をかげらせた、葛城の乙女がそこにいた。闇わだの底から半身を乗り出し、裸身を白く輝かせて、乙女の唇がわずかに動いた――
――忠行さま[#「忠行さま」に傍点]。
忠行の喉《のど》が笛のような音をたてた。
狂気したごとくかれは飛びすさり、大声でわめきつつ取り出した呪符《じゆふ》を手当たりしだいに投げつけた。口にする呪《まじない》はほとんどかたちをなしていなかった。とびださんばかりにむき出した眼は、恐怖のあまりうつろであった。
『見たか。見たか』
雨のごとく符を投げられた乙女はずるりと形をくずし、泥となってふたたび地面に没した。荒い息で肩をおとす忠行に、心地よさげなドーマの哄笑が降りかかった。
『それがおぬしの覚悟なるものよ、罪よ、人の心とか称するすべてよ。まこと悔いるというならば、乙女の腕に身を投げるがいい。真っ白な腕で頸《くび》をへし折られるがいい。ともに闇の底までも、墜《お》ちゆくことを選ぶがいい。人ならばな。人ならば!』
忠行にもはや言葉はない。ただ黙ってわなわなと身をふるわせる。
『死にたくないとなぜいわぬ。代償など払うのはまっぴらと言ってやるがよい。都合のよい建前でわが身を飾るのはよすことだ。殺の一事をなぜ恥じる。酷の一事は人の常よ。
力を望み、繁栄を望む、そのこと自体が悪ではない。おお、それこそ人よ。生き物よ。望むはなにも悪ではない。さようさ、おぬしの息子はよう判っている』
「黙れ、黙れ、鬼め、悪鬼め――」
『人がそれほど尊いか。鬼がそれほどいまわしいか』
ドーマの声はますます自信にみち、
『なにをすなわち悪とはいう。悪とは保身よ、悪とは狭量よ、悪とは欺瞞《ごまかし》よ。わが身かわいさゆえの、せせこましい人たる怯懦《きようだ》よ。
純なることにおいて人にまさるものを、鬼とはいうぞ。われらにとりては、心の想いは、わが身にも、またいのちにも、まして目映《まばゆ》く輝くのだ。おぬしごときの知るところでない。つけあがるな、おいぼれ。しゃらくさいわ、うぬ』
汗みずくになりつつも印をくもうとした忠行の頭上から、真黒な影が降った。
ぎゃっと叫んで忠行は地面にたおれて悶絶《もんぜつ》した。肩の骨がくだけていた。
ドーマは笑った。銅の鐘を打ちならすがごとき、不思議に澄んだ笑いであった。
その姿はひらりと飛んで行列の先頭についた。あやしい声がどっと囃《はや》した。おりから月はあきらかに、雲ひとつない夜空にのぼった。燦《さん》たる月光が地面に濃い影をひいた。影はときに実体より多く、ときに少なく地上にもだえた。実体とは違うかたち、違う動きで踊り歌う影どももあった。虚実どちらともわかちがたく、影は身、身は影であった。
「おおう、おおう」手を振り、足を踏んで舞い踊りながらドーマは吠《ほ》えた。
「おおおおおう。おおおおおう、おおう」
四条をこえ、大路をのぼり、異形の行列はえんえんと続く。定方の邸《やかた》へ。
「あれが来る。あれが来るぞ、鳴滝よ。わしはどうすれば良い、どうすれば良いのじゃ」
定方はもはや正常とはいえぬようすで邸内を荒れくるっていた。
さきに鬼の子に邸がおそわれてからというもの、物忌みと称してうつうつと邸にとじこもる日々をおくっていたかれであった。むろんあのような怪事があった家の主《あるじ》としてそれは世の人のうなずくところではあったものの、このような狂態をさらしていようとはほとんどのものは思いもしていなかったに違いない。
遠い火事は赤く空を染めているが、喚声《かんせい》はいまだきこえず邸内は森閑としている。鳴滝の指示で、邸を護る侍や下人はすべて遠ざけられているのである。すでに定方はかの女の傀儡《くぐつ》であった。
気遣う家人《けにん》や家司をすべて身近から追い払い、壇前に端座する妖女鳴滝の膝に、幼児のごとくとりすがって身もだえている。その顔はもはや見るかげもなくやつれ果て、青ざめた土気色《つちけいろ》の唇はわなわなと震えてまともな言葉をつむぐことさえむずかしいのだった。
物狂おしくぎらつく眼をあげて、必死に手をのばそうとする定方を妖女は底光りする目でちらりと見て、あざけるように、
「お悩みなさいますな、右大臣さま。すべてこのわたくしが良いようにいたします。どうぞお心やすうあらせられませ」
「さようか」と、少しほっとしたそばからたちまち顔をゆがめて、
「いや、いや、いかぬ。真葛は、真葛はどうした。鬼はあの娘をねらっておるのじゃ。いかぬ、いかぬ、鬼にあれをわたしてはならぬ。あれは、わがものじゃ。あれをもっとわしは天下と美女と、二つながらに手に入れるのじゃ。いや、天下と、美女と、財宝と、三つながらじゃ。三つながら、すべて、わがものじゃ。邪魔などさせてなるものか。のう鳴滝よ、真葛はどこじゃ、真葛はぶじか。ここへ連れてきてくれい、早う、早う、のう、鳴滝よ……」
鳴滝はいったん何か応《こた》えようと口をひらきかけた。
だが思い直して口をとじ、さっと立ちあがると、蠅を払い落とすかのように膝をはたいた。たわいなく定方は鞠《まり》のように転がり、板間に転んでのたうちまわった。
「おまえたち」
凜《りん》と声をはって呼んだのは己の二人の侍者である。はあっ、とどこからか声あって、次の瞬間には男女ふたりの闇の者がかの女のまえに平伏していた。
「おん前に、御方さま」
「この男もそろそろ用済みよ。見苦しい。あやしてやるのももう飽いた」
冷然と定方のほうを顎《あご》でしゃくる。定方は身を丸めて床で脂汗を流しており、あらわれた二人にみじんも気づいた様子はない。
「わらわはひとまずここを退く。思ったよりも早う事態がうごいておる。葛城の若子のおかげよ。妙な外国《とつくに》の男もからんでおるようだが」
「わたくし、見てまいりましょうか」
細い声で進み出たのは小萩である。忠行にうちすえられた傷はすでに癒《い》えたか、ねばりつくような目つきにおさえきれぬ媚《こび》がにじむ。朱色の唇から、濡れた舌がちらりとのぞいた。
「わが手飼いの蠱《むし》を、いっぴき飛ばせばわけはないこと」
「かまわぬ。いずれあれらはここへ来る。餌は用意した。首尾は上々。そなたには別に、やってもらいたいこともある」
「なんなりと」
「そなたの蠱いっぴき、この右大臣めに食わせておやり」
鳴滝は背筋のさむくなるような、艶麗《えんれい》な笑みを浮かべた。
「蠱の放つ厭毒《ぶす》にやられたこの男、廟堂《びようどう》にていかなる毒を吐き散らすか。まこと見物よ。餌をくわえたわれらが獲物を見送る前に、ひとつ置きみやげを、帝に遺してやろうぞ」
「まことによきお考えでござります」
とわきから、鋏丸が追従口《ついしようぐち》に、塩辛声をはりあげたとたん、さっと鳴滝の裾がひるがえって、白いふくらはぎがなまめかしくのぞいた。
「そうかえ、鋏丸、いやさ、ひろたり[#「ひろたり」に傍点]よ」
ちいさな爪さきに蹴り上げられて、鋏丸は喜悦の声を上げて板にうずくまった。
「そなたもうれしかろうの。そなたの仇敵《きゆうてき》葛城一族の若子が、鬼に堕ちたというのだから」
「なんの。まだ、足りはいたしませぬ」
嬉しげな苦鳴のあいだからも、毒のしたたるような怨みのひびきはおさえがたく、
「かの小角の血脈はもとより隠《オニ》の血を受けつぐものども、ただ鬼に堕としたところでなんでわたくしの心が晴れましょう。ただあれは、あの者どもの正身にかえったのみでござります。いわば畜類にひとしい卑しき者ども。
わたくしはかの太古《いにしえ》にもそれを知り、衷心よりときの帝に言上申しあげたに、世のものどもはかえってわが身をそしり、帝すらものちには小角をみとめて神ともあがめるようになさった。わが身をさしおき、あのような、鬼の角持つ異形の男を」
「しかし一時はその異形を師にもったそなた」
あざけるように鳴滝はいった。
「師を売ったは、その人ならぬ異形のものに、どうで人たるそなたがかなわぬ、追いつけぬと、悟ったゆえでもあろうかな」
声もなく、鋏丸は平伏する。鳴滝はからからと笑った。
「よい。なればこそ、わらわはそなたを無明の中有より掬《すく》い出し、わが手のものとしてあらたないのちをあたえたぞ。人をねたみ、うらやみ、己の分をわすれてさらに上をのぞむ、その姿こそ、わらわには愛《いと》おしい。それこそが人の世の正真の姿よ。わらわはそれを世の人に、もどしてやりたいと望むのみじゃ」
「俺はどうする」
錆《さ》びた声があって、前庭に大太刀をつかんだ姿が仁王立ちしている。袴垂である。鳴滝はやさしく見返って、
「そなたにもまた考えがある。いましばらく、わがそばについていや。損はさせぬほどに」
「純友の野郎、俺を裏切りやがった」
毒のしたたるような声で袴垂はいった。盗賊ながらもかれにあった、人を惹《ひ》きつける豪放さ、磊落《らいらく》さ、そういったものは跡形なく消えて、無精ひげのまぶされた黒い顔は骸骨《がいこつ》めいて昏《くら》かった。
「俺を売って、自分ひとりだけ仕官しやがった。許せねえ。野垂れ死にするところを、拾ってやったのはどこの誰だと思ってやがる。人をこけにしやがって、どうするか見ていろ」
鳴滝はこころよさげに目を細め、袴垂を招いた。ひろげた金襴《きんらん》の唐衣《からぎぬ》の袖に、ふらりと盗賊が歩み寄る。
「小萩」
は――と一礼して、小萩がふと口をすぼめる。
その濡れた口から、ふうっと一匹の大きな蛾が吹きだされてきた。
死人の肌めいた、蒼白《あおじろ》い大きな蛾は、手のひらほどもある翅《はね》をすぼめて、倒れたままの貞方の口にごそごそともぐりこんでゆく。
でっぷりと肥えた腹部がすっかり土気色の唇にのみこまれてしばらくたつと、定方の身体がふいにびくびくっと二、三度けいれんした。うすく開いていた瞼《まぶた》の下で、眸《ひとみ》がぐるりと白目を剥《む》く。
鳴滝はたからかに哄笑《こうしよう》した。
「さ、ゆくぞ。皆、用意しや」
こたえて、どうっと邸内が揺れ、気づけば、はやなんの姿もそこにはない。
ただ蛾をのみこまされた右大臣だけが、ぴくぴくと身を震わせつつ、蛾とおなじく膨れあがった腹を剥きだして転がっているばかりである。
(死んでしまいたい――)
香りたかい錦の小袖に顔をうずめて、葛葉はもはや流す涙も見つけられないでいる。
思うまい、考えまいとすればするほど、あの一瞬の志狼の顔が、愕然《がくぜん》としたあのまなざしが、刃《やいば》と化して胸をつらぬく。
いっそ真物《ほんもの》の剣であれば、死ねるものを。
女としてもっとも恥ずかしい、あさましい、姿を見られた。
なんといういやしい、きたならしい女かと、あの人は思ったに違いない。
志狼の目に去来したものがなんであったかを、さとらぬほどに葛葉は己に対して価値をみとめていなかった。その身に刻みこまれたきずは深く、志狼の目に、さいしょに浮かんだ驚きと衝撃の色を、そのまま自分への非難であるといちずに信じ込んだ彼女だった。
焚《た》かれた淫香《いんこう》と呪のひびきになかば精神をからめられていたとはいえ、あのような行為をさせた自分も、した相手も、叫び声をあげてずたずたにしたいほど憎いのだ。
しかし再度の行為をこばむ権利もまた、葛葉はもちあわせないのだった。あれから小萩や鋏丸は、泣き暮らす葛葉をいたぶるように、惚《ほう》けた右大臣の手をとり足をとって葛葉のいる西対《にしのたい》にわたらせ、執拗《しつよう》なまじわりをそそのかす。
葛葉は死にものぐるいで抵抗したが、最後にはいつも、小萩のあやつるさまざまな蟲からとる薬や、鋏丸がにやつきながら奏でる和琴のひびきに負けてしまう。葛葉を組みしく右大臣をやんやと囃《はや》し、それを見ながら、かれらもまた衣を脱ぎ、あたりはばからず淫をかわす。
みだらな嬌声《きようせい》、息づかい、精かぎり肉の触れあう音にかこまれ、右大臣の、皺《しわ》ばんだ身体にのしかかられながら、葛葉はいつもひとりでに、違う身体をそこに追っていた――なめらかな皮膚の下にひきしまった筋肉がうねり、ふかくくぼんだ鎖骨のくぼみに暖かな金色の翳《かげり》をためた、熱い肉体。
触れたことなどいちどもない。ただ河原で、笛を手渡されたときに、そとかすめた指さきだけがゆいいつの触れあいだったというに、その肌のなめらかさも熱さも、すでに葛葉の身体にはっきりときざまれているかのようであった。
やがてついに薬と呪に押し流され、夢のなかの肉体につらぬかれみじかい気死をあじわって、さて目覚めたあとの恥ずかしさと呪わしさはたとえようもなかった。
求めて喉をつこうにも、先のとがったものは簪《かんざし》、箸《はし》にいたるまできびしく遠ざけられている。
首をくくろうにも、紐《ひも》はすべて身体をあずけるには細すぎるものしか許されていない。
こうして志狼をおもい浮かべるたびに、自分はあの人をけがしているのだ、おとしめているのだと、身がちぢむ。それでも想いの甘さは、自然に身体の中心に熱い泉をわきたたせる。
身体というものの、なんという、いとわしさ。
もしこの世に神仏、諸天、自在の通力をおもちの尊いものたちあらば、たった今、この命とりたまえ。
習い覚えさせられた管狐《かんこ》のあやつりの術は、こんなとき、かけらの役にもたたぬ。
天から五色の彩雲にのって舞い降りた武人に、きらめく剣で胸をつらぬかれる自分をうっとりと想像し、その武人の顔が、目もとすずしい、狼のまなざしをもっていることを知って、葛葉ははっと身を伏せた。
ああ、わたしは、また。
しばらく、身じろぎもせずうずくまっていて何刻がすぎたのか。
ふと気づけば、しんとあたりはしずまりかえっている。
葛葉はおそるおそる頭をあげて、まわりを見回した。
いつもそばに、これ見よがしに座って、にやにやしながら見張っていた小萩の姿がきえている。
小萩だけではない、一時にくらべればかなり数はへっていたとはいえ、人気《ひとけ》のたえることのなかった邸内が、死んだように音もない。動くものの気配すらない。
おそるおそる頭をもたげ、そっと几帳《きちよう》からすべり出てみても、いつものようにとがめる声はどこからも飛んではこなかった。さやかな月光が、こうこうと床に影をひいている。その美しさに、つい葛葉は心奪われて見ほれた。
まるで、重みのない氷の滝《たき》つ瀬《せ》のような。
そう感じ、その冷たさに両手を浸してみたい思いでつつと簀子縁《すのこえん》までいざり出たとき、なにか偉《おお》きなものがゆらりと頭上をよぎるのを感じて、葛葉ははっと頭をあげた。
同時に、ばきばきと屋根のくだける音がひびいた。
めりめりと邸が鳴動し、崩れた梁《はり》がずんと音を立てて落ちる。逃げることもできず、葛葉はその場にうち伏した。やっときた、という思いが頭をかすめた。このままこうしていれば、邸は崩れよう。崩れた建物にのみこまれれば、この身の命もあるまい。
わずかに肩にかかっていた月光がみるみる幅を増し、葛葉の全身を包みこんだ。裳《も》に織りこまれた金糸が光をあびて燦爛《さんらん》とかがやいた。ひとしきりめりめり、みしみしと音が続いたのち、あたりはふたたびしんと静まりかえった。
いぶかしみ、葛葉は目をあけた。
引きちぎられた屋根のむこうには、考えられぬほど巨大な馬の頭。
人のあたまほどもある赤い炬眼《きよがん》が、じっとかの女を見下ろしていた。
恐怖に息を呑《の》みかけて、次の瞬間、葛葉はすべてをわすれた。
ぴんと立った両耳のあいだに、ひとりの若者が、静かな顔で立っている。
「葛葉」
志狼はいった。
「迎えに、きた」
そうして、ゆっくりと手をのばした。
葛葉の口からか細い悲鳴がほとばしった。
とっさに几帳に逃げこもうとしたが、そこはすでに落ちてきた瓦《かわら》や梁に押しつぶされて見るかげもなかった。その場で両袖にふかく顔をかくし、悲痛な声をふりしぼる。
「触れてはなりません」
のびかけた志狼の手がぴくりと止まる。
「どうぞわたしを、ご覧くださいますな」
「俺が怖いか」
ごく穏やかに志狼はいった。
額のわずかに上方、眉間《みけん》よりもすこし天頂によったあたりに、小さな蒼白い火がもえている。よく目をこらせばそれは、刀の切っ先のように、小さくとがった角のかたちをしていた。
「いいえ、――」
せきあげる涙を葛葉はおさえることができなかった。
どうしてあなたが怖いことなどあるものか。鬼だろうと、蛇だろうと、それがあなたであるならばわたしは七生《しちしよう》かけて恋いわたる。
けれども怖いのは、あなたのその目。わたしがどれほど汚れた女か、その目はご存じだ。
縛《いまし》めれば縛めるほど、心のうちでさえ、わたしは、あなたを汚す。
いっそ憎んでくれれば、憎んで、罵《ののし》ってくれるならば、かえって心やすらかであれように。
「ただ、お捨ておきくださいませ。ご覧にならないで。触れればあなたの身がけがれる」
『汚れ? 汚れか。汚れとは、これよ』
どこからか、笑いをふくんだ声がして、葛葉のまとう衣装が一時にすべて跳ねとんだ。
月光に、白くかがやく裸身をさらして、葛葉はそこにうずくまった。まるい肩も、ゆたかな胸も、肉のはりつめた腿《もも》も、くまなく光に照らしだされた。
意にそまぬとはいえ、交情をかさねた体はみごとに花開き、どこかに青さを残していた肢体は蜜をふくんだ水蜜桃《すいみつとう》のように甘い香をはなっていた。好きな男の目にさらされていると気づいたとき、皓《しろ》い肌には閃光《せんこう》のように、仄《ほの》かな血の色がはしった。
呵々《かか》と大笑の声がひびいた。
『汚れと見れば、肉体はみな汚れよ。かたちあるものはみな汚れよ。しかしかたちなきものはみな、そのあつい血のかよう肉にこそ宿るぞ。内にもられた宝のかがやきに目をやるとき、器の古びや壊れに気づくものがあろうか。われらはかたちなきもの、逆しまの世をことほぐものよ。肉を汚れと観るならば、それこそはもっとも尊いものと知れ。それともその胸に宿る火までも、汚れと観じて捨て去る気かな』
「いいえ!」
弾《はじ》かれたように葛葉はこたえていた。それだけは決してできぬことだった。ならぬ、ならぬのいましめながら、それなしでは自分を支えることができぬ。今の葛葉の持ち物といえばただそれのみ、もゆる思いと、それをおさめる熱い肉の体、そればかりであった。
「葛葉」
また、志狼がいった。葛葉ははっとして後ずさりし、胸をかくそうとしたが、かくそうとしてもゆたかな乳房は手のひらに余ってふるえながら匂った。
「俺と来い、葛葉」
「いいえ――」
「汚れなら、汚れでもいい。それがおまえであるならば、汚れは俺の手の中で光り輝く花に変わる。
何がよいか、悪いか、何が浄《きよ》くて何が汚れか、俺は知らぬ。ただおまえが恋しいと、そう思うばかりだ。この身が恐ろしい、おぞましいと思うならば、顔をそむけよ。恨みはしない。胸の思いにかわりはない、――だが、ただひとつ言えることは、葛葉」
初めて、志狼の顔に苦しげな色がよぎった。
「俺は、おまえが、好きだ。葛葉」
ああ――。
その瞬間、葛葉の全身を貫いたのは寒気ではなく不思議にも恐怖だった。
甘美な恐怖。剣を手にして天を駆けてくる神将のまぼろしを、葛葉は瞼《まぶた》に思い描いた。
志狼がたずさえてきたのは剣ではなく、言葉だった。命を終わらせるのではなく、与えるための言葉。生と死のきわみがたがいに似通っているとは、誰がいったか。確かにそれと同じつよさと衝撃で、志狼の言葉は葛葉を貫いたのであった。
「葛葉。俺と、来い。俺と、行こう」
手が伸びる。大きな手だ。力強い手だ。
この手にすがれば、確かに、どこまでも天を馳《は》せてゆけよう。
指がからみあった。強い力で引き上げられるのを感じた。足が地をはなれ、風を踏む。
「葛葉」
あつい囁《ささや》きを耳にきいたかと思うと、息もとまるほどかたく、抱きしめられていた。
どっと囃《はや》し立てる声があたりを圧した。
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きりきり 千歳栄 白衆頭 聴説晨朝 清浄偈 や 明星は
明星はや
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ごおおう、と馬頭鬼《めずき》が吠《ほ》え、手にしていた瓦屋根の残骸《ざんがい》を放り捨てた。
ずしん、がらがらという音がひとしきり響き、やがて鎮まると、あとには煌々《こうこう》と照る月光が踊った。牛頭《ごず》と馬頭、ふたつの巨大な影が藍色《あいいろ》に澄む夜空にしろく浮かびあがる。
かたく抱きあって身じろぎもしないふたつの影に光がさし、まろやかな肩を、胸を、頬を白くまばゆく輝かせる。まさに一個の、それは地上の月であった。
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明星はや くはや ここなりや 何しかも 今宵の月の
只だここに坐すや 只だここに 只だここに坐すや
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ふと視線を感じて葛葉は志狼の胸から顔をあげた。金色の眸《め》が、少しはなれた牛頭鬼の頭上から場所から無言で自分をみつめている。
童子。
そう思ったとたん、今まで、大切な弟のことを少しも思い出しもしなかった自分に気づき、葛葉ははげしく狼狽《ろうばい》した。
童子や。そう呼びかけようとしたとき、まるでそれに気づいたかのように、ついと童子は顔をそむけた。
離れていく弟の小さな後ろ姿に、葛葉は、罪の意識とかすかな胸騒ぎをおぼえる。
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きりきり 千歳栄 白衆頭 聴説晨朝 清浄偈 や 明星は
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京の大路を百鬼の行列がゆく。
先頭に白髪の童子をおき、地上の月をいただいて、静まりかえる都のなかを幻のようにすぎてゆく。
「いったい、どこへ……」
あちこち焼けこげ、煤にまみれた純友が呻《うめ》くように言う。
将門は刀を杖にし、睨《にら》むように、かすかに明るむ空を見上げる。
「あの方向は、すなわち――」
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きりきり 千歳栄 白衆頭 聴説晨朝 清浄偈
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黒い男の影が地上に踊る。
女の高い哄笑《こうしよう》が天に響きわたる。
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千歳栄 白衆頭 聴説晨朝 清浄偈
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――はっ、とひときわ高い喚声《かんせい》が消えかかる夜闇《やあん》にこだまして、鬼どもの影は、風にさらわれたようについそこからは消えていた。
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四 章 葛《かつら》 城《ぎ》
延長《えんちよう》七年(九二九)も六月《みなつき》にはいった。
盛夏をむかえて陽はますます熱く、まだ日の出からいくらもたたない時刻でも、ようしゃなくじりじり肌をやいた。馬や牛車《ぎつしや》で三々五々、参内《さんだい》してくるものたちは、流れる汗を拭《ふ》きながら乗り物を降りたち、うんざり顔で雲ひとつない晴天をふり仰いだ。
「今日も降りそうにないのう」
道でひろった筵《むしろ》の切れで、やたらと顔をあおぎながら愚痴をこぼす朋輩《ほうばい》に、ともども牛車の柄のそばでうずくまっていた牛飼童《うしかいわらわ》がそのようだのう、と相づちをうつ。
「これでもう二た月こえて、雨どころか雲のひとかけらも目に映ったためしがないわい。昨日わしの在所から縁者が来て、田の作物が真っ黄色じゃとなげいておった。このまま雨がないならば、今年はきつい飢饉《ききん》になろう。わしが所になにか助けはないかと尋ねにきたが、貸すような金などないしのう」
前年の貞観七年は、これまた異常に降雨の多い年であった。七月に京をおそった大風と豪雨は鴨川《かもがわ》の堤をあっけなく決壊させ、市中に甚大な被害をもたらした。水はなかなかひかず、七条以降は人馬の通うことすら不可能となって、京南にひらけた田畑はみな水浸しになった。朝廷は正税を被災の百姓どもに支給したがとてもそれではおっつかず、諸物の値は高騰し、たつきの道を失った民がおびただしく流入してきて、河原にころがる死骸《しがい》の数もまた一段と増えたのであった。
「あったところで貸す気もなかろうが。返ってくる当てもないところへ」
「さ、それを言うては身もふたもない。……しかし、飢饉になりそうなことは本当じゃ。昨年、あれだけ出水があって田畑が荒れた上に、今年がこれじゃ、酷いことのう」
と身ぶるいする。
「そういえば、聞いたかの。……三日ほどまえ、左獄で火事があり、罪人やら役人がえろう死んだとか」
「おう聞いたとも。なんでも近くでまた百鬼夜行があって、西三条の、あのお邸が地震にあって崩れたそうな。月の光に朦朧《もうろう》と、大けな鬼がうかんだと泣き騒いだ童がいたとのことよ。宴の松原《まつばら》ではまた女が鬼に食われたとか」
「やれ怖や、ぶっそうな」
筵切《むしろぎ》れを膝の間にやすめて、吐息する。
「御上はなんぞ手だてを考えておらるるかのう」
「どうかのう。……なんでもよいから祈雨の御|祈祷《きとう》なりなんなり、早いところやってほしいものじゃ。追い返しはしたものの、わしとて人の子よ、在所の者が飢え死に乾き死にするとあっては少々尻の落ち着きが悪い」
「ほんになあ」
首筋の汗をぬぐう。どのみちそこへと話は戻ってくるらしい。そこへどけどけ、と荒い声がかかって、話し込んでいた二人はあわてて牛の尻にむちをあてた。
「右大臣藤原|定方卿《さだかたきよう》のおつきである。うぬら邪魔じゃ。そのようなところで、とぐろを巻いておるな」
口に出せば影がさす。噂話があたふたと追いやられていったあとへ、豪奢《ごうしや》な車がしずかに止まる。垂れが巻きあがり、ゆるりと中から姿を現したのは、むろん今名前の出た、右大臣、藤原定方――
しかし、その姿はなんとも異様であった。かたちこそすきなく綺羅《きら》をかざり、衣冠束帯、なんら変わりはないけれども、つつまれた本体は、なにやらあたためかえされた死人が動き出したような、不健康な青白い面つきをしていた。
濃くぬった白粉《おしろい》の下で、弾力のない肌は粘土のように動きがない。むくんだような顔の下に続く首は布をしぼったようにひきつれて筋がういている。べんべんと突き出た太鼓腹ばかりが存在を主張していた。ゆるみきった唇が紅をぬられてばかに紅く、その中で眼が、妙にあぶらぎった光をたたえていそがしく左右にうごいていた。
「大儀で……あった」
いいおいた言葉は、誰かほかの者がその口をかりて仮にいわせでもしたような。
ゆらゆらと階《きざはし》をのぼり朝堂へとむかう右大臣を、すこし離れてじっと見守る者がいる。すなわち左大臣、忠平。さきに参内していたかれは、簀子縁《すのこえん》で足をとめてこの様子を眺めながら、眉間《みけん》に皺《しわ》をよせていた。
「定方殿」
前を通りすぎようとしたところへ、声をかける。
「先夜、思わぬ災害にてお屋敷がいこう被害に遭われたとか。お見舞いもさし上げず、たいへん申し訳ない。おつつがなくいられるか」
「おう……忠平……殿」
ぎりぎりと骨のきしむ音の聞こえそうな動作である。ゆっくりと忠平のほうを向いて、定方はにたり笑った。幽鬼の笑みであった。
「お気遣い……かたじけ……ない。しかしさいわい、ほんのささやかな揺れで……ござったので、わが身はなんの……害も、受けなんだ」
紅い唇の間で、血をぬったような舌がへらへらと動く。朝の光に、ふと銀色に光る粉がそこから舞ったようにおもって忠平は眼をすがめた。
「家の者も……まずは……無事にて」
「それはよかった。いずれまた、あらためてご挨拶もうしあげよう」
「お心遣いかたじけのう……では」
定まらぬ視線で笑みを浮かべ、ふたたび幽鬼の歩みをはじめる。見送る忠平の眸《め》に、もはや隠しきれぬ嫌悪と恐れの色がわいた。強く焚《た》きしめた香のかおりの底に、はっきりと漂う死臭を、かれの鼻は、感じとっていたのであ。
「間違いない。定方殿は、何者かに取り憑《つ》かれておる」
法衣《ほうえ》をまとった僧浄蔵、稚児すがたの賀茂保憲、そして、いまだ床からおきあがれぬ賀茂忠行の三名が顔をそろえた席上で、きびしい顔で忠平はいった。
傷をやしなう忠行の身を気遣って、左大臣自らが四条の賀茂家まで身をはこんだのだった。主人たる忠行は、ドーマ、と名乗るあの異形の黒い男に肩を蹴りくだかれて、貴人の前で床をのべたままでいる無礼を詫《わ》びつつ、半身おこして話にくわわるのがやっとである。ようやく熱がさがったばかりのやつれきった顔を、痛みとは別の事情で青ざめさせて、忠行は上座の左大臣をみあげた。
「忠平様には、それがどのようなものかご見当はおつきでございましょうか」
「皆目わからぬ。無理を申すな、忠行」忠平は苦笑した。
「わしはただ人であって陰陽師ではない。一瞥《いちべつ》のみでどのような憑き物がしておるか見抜く、そちの眼力といっしょにしてもらってはこまる。しかし」
両腕くんで考えこんだ。
「しかしそのようなわしでも、あれがなんともおぞましい、不浄の術であることはわかるぞ。むしろ、他のものどもがいつものように接しておることこそ信じられぬ。今朝の評定でも、漂ってくる死臭の、なんともいえぬなまぐささに辟易《へきえき》したわ」
「それこそやはり、忠平殿がただ人にあられぬ御精気をお持ちだからでござるよ」
浄蔵が口をはさんだ。口調こそ闊達《かつたつ》であるが、四角い顔にはまった金壺眼《かなつぼまなこ》はいつにない鋭い光を宿している。かれもまた、過日妖女鳴滝から受けた傷も完全には癒《い》えていないはずだが、仏法をいただく僧として、また法をもって人をまもらんとする者としての矜持《きようじ》が、痛む身をおしてこの席につかせたのであった。
「ひときわ強い忠平殿の陽気が、右大臣殿に憑きおった陰気のばけものに呼応するゆえ、よりいっそういとわしさが強いのでござろう。これで忠平殿に、呪《まじない》のひとつも唱えるだけの能がそなわっておればの」
「そなたまでわしに無茶をいうのか、浄蔵殿」
「無茶も言いたくなり申す。こうまでこちらが、手も足も出ぬようではのう」
言葉がとぎれた。手をついたまま、顔もあげようとしない保憲をのぞいて、三人はそれぞれひとりの考えにしずんだ。
左獄に出火し、右大臣の西三条邸が崩落して四日目。
あの事件の真の姿を知っているものは、ここに顔をそろえた四名、それに、別所にてひかえている平将門、藤原純友の両名、あわせて六名ばかりである。
いや、そのうち忠平と浄蔵は、忠行、保憲の親子と将門、純友からの報告をきいただけなので、直接知っているという点では四名というのがすじだろう。
焼けた獄舎《ひとや》は、役人の火の不始末が原因ということにされてけりがついた。火が消えてみれば、建物そのものは黒く焦げた柱が形をとどめていたにもかかわらず、その場にいたもののほとんど、駆けつけた検非違使《けびいし》庁のものでさえ半数以上が焼け死んで、骨ものこらぬありさまであった。
その場で踊り狂った百鬼の群れも、眼にした者のおおかたが灰になってしまったおかげで怪異をおし隠すのはむずかしくなかった。しかし、定方邸にあらわれた百鬼夜行と身の丈六丈の牛頭馬頭鬼《ごずめずき》の噂は、市中にながれて止めることができなかった。そのことは忠平自身、今朝の牛飼いどもの会話をわきで聞いてたしかめたことであった。
それらとともに姿を消した志狼、童子、そして異形の男ドーマのゆくえは杳《よう》として知れなかった。
かれらが定方邸から、市の遊女《あそびめ》であった女房のひとりを連れだしたことは、往来でなすすべなく立ちつくしていた将門・純友の報告から知れた。
それが、鳴滝と呼ばれる歩き巫女《みこ》のうしろで笛を奏でていた葛葉なる娘であることは探索に出したものの聞き込みからわかった。邸内で日夜おこなわれていた、あやしい修法のことも耳にはいってきた。さらに意識をとりもどした忠行からのうわごとめいた報告、凍りついた刃《やいば》をひそめたような保憲の言葉、さらに、朴訥《ぼくとつ》ながら嘘のない武人ふたりの話をあわせて聞いて、忠平は、事態のいよいよ容易ならぬことを思いしったのであった。
「女、鳴滝といったか、そのゆくえはいまだつかめぬのか」
「は、いまだ。右大臣殿の憑き物はおそらくあの妖女のしわざとおぼしいゆえ、女のいどころさえつかめれば、何か打つ手もあろうと陰陽寮あげて捜しておりますが、手がかりひとつなく、占えば盤はたちまちくもって、一寸先のことすらみえず――」
「わしの身体が万全であればの」
げっそりとくぼんだ頬をややゆがめて、忠行が嘆じた。陰陽寮に、名のかくれもない術の上手の忠行、自分がやれば今すこし――との自負はあったであろうが、今は、負わされた傷と、負い目あるわが娘の、そして能ある息子の反逆、くわえて、黒い男に吐きつけられた、闇の侮蔑《ぶべつ》の衝撃がこの一代の名人から気力を根こそぎ奪いさっていた。声にも自嘲《じちよう》のいろが濃い。
「さよう、あの妖女めは――いや、これは言うてもせんないことでござった」
浄蔵が言いかけて、口をまぎらせたのは妖女鳴滝のすなわち賀茂忠行の実娘にほかならぬことを知るがゆえであった。一身にもかかわるこの秘密を、忠平といえど余人にはもらさぬように忠行は浄蔵にたのんでいたのである。忠平はけげんな顔で浄蔵を見たが、かれはそしらぬふうで、
「とにかく、忠行殿でも見えぬとあれば、それがしごときが慣れぬ手に算をならべても読みちがうは必定。すると妖女のあとを追うはしばらく控えざるをえぬとして、すれば次の策は、あの白髪|金眸《きんめ》の鬼子のゆくえじゃが――」
「――その任、どうぞわたしにお下しくださいませ。忠平様」
ずっと黙っていた保憲が、このとき、初めて口をきいた。
まだ幼さののこる高い声の、ぞっとするようなつめたさに浄蔵はおもわず口をつぐんだ。
いつか顔をあげた保憲は、青じろくひかる目をすえてじっと忠平を見上げていた。願いを申し出るより、それは、なにかを呪っている目つきであった。その場にはいない相手にとおく瞋恚《しんい》の視線をつきさしつつ、保憲は、動かぬ青い炎のようにそこにいた。
「わたしの見るところ、もはや右大臣藤原定方様に関しては、かの妖女はさしたる興味を持ってはおらぬかに感ぜられます。あの憑き物は、いわばかの女のおきみやげ、自らが去ったのちもなおもわれらをあざわらい、帝《みかど》の御代《みよ》にあだなさんとてしかけていった目くらましのひとつではありますまいか。
女のまことの目的は、あの白髪の鬼にあり。みなさまがたは、早く京中にしかけられたあの骨寄せの呪法をおわすれになってはおられぬはず」
「む」
「あれはなんの目当てがあることであったか。陰陽寮のものがおびただしい数の髑髏《どくろ》玉を始末いたしたと聞きおよびますが、その中にいた未生の鬼は、どれをとっても魂魄《こんぱく》そろわぬなりそこないばかりとか。そのような、やくたいもないしろものをばらまいて、かの妖女がなにをしようとしたか。お気づきではございませんか」
「それもまた、眼くらまし――」
「あの白髪の鬼童子、寄せ手の血肉を手も触れずくだいて、肌身に直接すいこんだと申します。そのようなあやかしが、この同じときに、京中に現れたとすればこれはかかわりのないはずがない。おそらく妖女は、あれをこそ生み出すためにかの髑髏玉をしかけたに違いありませぬ。
浄蔵様は、骨寄せの呪にて生まれる鬼が、成長したかたちをご存じでおいでですか」
「話にはきいておる。しかし、実際見たことはない」浄蔵はにがく笑い、
「なにしろ、あのような大がかりなしかもけがれた術を、今の世で働く輩《やから》がおるとは思いもせなんだでな」
「ではあの白髪鬼がそれであっても不思議はないわけですね。浄蔵殿も、あの童子がそれではないかと、お疑いになっていたのではございませんか?」
「保憲」
床から忠行が叱咤《しつた》するが、保憲は見向きもしない。
「むろん思った。実をいえば、今もそう思っておるよ。しかしな」
「しかし、なんでございますか」
「あの鬼童子、奇妙にも邪気がまるで感じられぬあたりが腑《ふ》におちぬ。破邪の印にもまるで反応せなんだしの」
「しかし人を食う鬼です。鬼は討たねば。忠平殿」
あっさりといって、保憲は忠平に向かって膝を進めた。
「いずれにせよ、あの白髪鬼を追わばいずれ妖女も姿を現すことは必定と思われます。日照りに洪水、菅《かん》の怨霊《おんりよう》の噂も高いおりから、このままぐずぐずしていてよいはずがございません」
「それはむろんのことだが、そなたはどうしようというのだ」
「わたくしを、葛城へやってくださいませ」
「葛城」忠平はくりかえした。
「そなたは、白髪の童子がそこへ逃げたという、なにか確信があるのかな」
「鬼に同行いたしておりました者は、一時わが家にかかりうどとして身を寄せておりました、葛城の卑しい山里の住人」
つめたいうす笑いを浮かべて、保憲は言った。父忠行が、横で身を引きつらすのに委細かまわず、
「妖女のゆくえは読めずとも、夜具にのこっておりました髪の毛をつかってやつの居場所ならある程度追うことができました。今もあの鬼といっしょにいるかどうかははっきりいたしませんが、やみくもにあたりを探るよりはよほど望みがございましょう。
なにとぞわたしを、葛城へ探索にお出しくださいませ。よしなき山がつの子とはいえ、一度は当家に縁のあったもの、それが鬼にたぶらかされ同道しているとあっては世間の聞こえもございます」
「うむ、そなたの言うことももっともなようだ。それでは陰陽寮より何名かを選んでつけさせよう。武者どものうちからも、何名か気に入ったものをつれていくがよい」
「いえ、ありがたいお言葉ながら、それは、ご遠慮いたします。こたびの任務は、どうぞ、わたしひとりに」
忠平はちょっと目を見ひらいた。
「遠慮するとか。なぜじゃ。そなたはまだ若い、ひとりであの妖女に対するとなれば」
「先ほども申しましたとおり、ことはわが家の縁ある者にかかわっております」
保憲の言葉は、あくまでもゆるぎない。
「ことが外にもれては賀茂家末代までの恥、それに、口はばったいようでございますが、年若ながらわたしは父に継ぐ霊力を有しているとの評判をいただいております。しかしまだ未熟は未熟、方々についてきていただいても守れるのはおそらくわが身ひとつ。皆さまにまで気をくばるだけの余裕は、残念ながらございませんでしょうから」
「つまり、足手まといになる配下などいらぬというわけだの」
皮肉げにいった浄蔵にうす笑みで返して、ふたたび忠平へ、
「父忠行が同行できればそれがいちばんよろしいのでしょうが、父はこのありさま」とあざけるような目を忠行に投げ、「浄蔵様も、いまだお身体万全ではあられぬご様子。右大臣様の憑き物の動向も見守らねばならぬ今、達人ふたりが都にのこることもまた大切とかんがえます。どうぞここは、わたくしひとりを葛城へ。必ず、よいしらせをお伝えいたしますゆえ」
「……よかろう。わかった」
しばらく沈思したのち、忠平はかるく膝をうって決断した。
「ではそなた葛城へゆくがよい、保憲。いささかの金子もさげ渡す。しかし、くれぐれも無理はするなよ。父忠行のみならず、そなたも京にはだいじな守護神じゃ。父をかなしませるようなことにだけはなるな。よいかな」
「承りました。ご配慮、ありがたく」
保憲はふかく頭をさげた。なにか考えているような目で、浄蔵は親子をみくらべた。床の中で、賀茂忠行はもうなにも言おうとせず、剥《む》きだした目を天井にむけて、額に汗を浮かべていた。
「しばらく。しばらくお待ちなされ、保憲殿」
「浄蔵様」
忠平を送りだしてから、奥へもどろうとする保憲を浄蔵が呼びとめた。しずかに保憲は見かえった。なんの力みもかまえもない、端正な貴公子のおもむきである。
「なにかご用でしょうか、浄蔵様」
「なに、そなたのほんとうの気持ちを確かめておきとうてな」
衣の袖に両手をくんで、浄蔵はするどい目つきをした。
「そなた実のところ、なにしに葛城へあの者どもを追うつもりかの」
「――むろん、討ち果たすためです。鬼を滅するためですよ。ほかに、なにがあると仰せです」
「それそれ、その笑みじゃて、この老いぼれが気になるのはの」
袖にいれたままの手で保憲を指ししめす。
さされた顔からはうす笑いが去らない。研ぎあげた刃のうえを、爪先だってあるくような鋭いつめたい笑いである。少年めいた朱唇《しゆしん》からこぼれる白い歯を、刀の切っ先のように思いなして浄蔵は舌をならした。笑った貌《かお》で保憲はいった。
「気になるとおっしゃっても。これは生得のものゆえ、わたしの意のままにはなりません」
「いや、いや、そうではない。そうではなくてな、そなたのその笑みのうしろに、鬼気がみえる」
「鬼気」
「鬼の貌じゃよ」ぴしりと、浄蔵はいった。
「そなた、あの、志狼という葛城の若者に、してやられたそうではないか」
ぴりっと、保憲の頬がひきつった。なめらかに落ちついていた面《おもて》に、みにくいひび割れがはしったようであった。しかし次の一瞬に、もう笑いの仮面がそこに貼りついていた。
「浄蔵様にはようご存じ。父にお聞きになりましたか」
「いかぬ。いかぬぞ、保憲殿」
保憲の問いにはこたえず、首を振る。
「そのような鬼気をまとっていて、どうしてあの容易ならぬ敵に勝てようか。かんちがいしていると困るが、そなたが戦わねばならぬ敵は、天下に害なす妖女じゃ。悪じゃよ。そなたが遺恨の葛城の子、あるいは白髪の子鬼、それらはほんの目先のことにすぎぬに。
いや、それですらないかもしれぬな。そなたは今や、自ら体内に鬼をかかえ込んでおる。そやつと争ってたおすことができねば、なかなか、こたびの葛城行き、戻ることはかなわぬぞ。鬼を滅するのは、鬼ではない、人じゃ。鬼と戦うには、われらは、どこまでも人であらねばならぬ」
「ご助言、感謝いたします、浄蔵様」
きっちりと頭をさげて、保憲はいった。
「しかし、ご心配なされますな。きっと忠平様の御前に、子鬼二匹と、女鬼一匹、ぴったり引きすえて見せましょうほどに」
では、と言いおいて、奥へ消えてゆく。しょうことなしに浄蔵は表へ出る。
「いかぬ。いかぬなあ」
大路をあるきながらひとりぼやくには、
「若いが災いしたか、それとも、なまじ常人よりも力がありすぎたが祟《たた》ったか……悪い当たり方をしておる、なかなか、あれでは、わしの言うことも耳にいれまい。ひたすら志狼憎し、鬼ども憎しにこりかたまっておるな。しかも野心がからまっておる。いや危ういかな、危ういかな。このままでは、あったら有望の術師を、外道の道に失うことにもなりかねぬ。はて、どうしたものかな」
「――そうかえ。忠平は何か感づいているようだね」
「あの者、ただ人にしては気力にすぐれ、妙な勘さえそなえております。ましてや背後には、かのにっくき賀茂家の親子、そしてくされ坊主の浄蔵が。さぞかし今ごろ、役にもたたぬ談合に首をそろえていること疑いございません」
「そのようなこと、言われなくともわかっている。お控え、犬」
へへえっ、と這《は》いつくばって額を板にすりつけるのは鋏丸である。醜貌短躯《しゆうぼうたんく》、皺《しわ》だらけの顔にぬめぬめした目のいろをひからせて、上目づかいに座を見上げている。
その座にあるのは……妖女鳴滝、もちろんそれは鋏丸が堂々と近侍していることから明白ではあるけれども、もうひとり、足をひろげて投げ出した鳴滝の尻の下に、布団のように敷かれているのはなにものか。裸身の肩から錦繍《きんしゆう》あざやかな衣をうちかけ、ゆたかな胸をむきだしにして、しきりに尻をすりつけ身をもんで喘《あえ》ぎ声をもらすのは、そのまま交合《まぐわい》のかたちにほかならないが、それでは相手が、その布団か。
やがて鳴滝がひときわ大きな喘ぎ声をもらすと、その、深々とつながったあたりから、黒い煙がぼうっと立った。煙は硫黄臭くいぶりながら天井近くまでのぼり、そこで、一匹の異様なすがたの獣をぼんやりと映しだした。
手足は虎、尾は蛇、頭は猿と、いわゆる鵺《ぬえ》と呼ばれるあやかしに似たが、違いはこの獣には頭が四つあり、そのどれもが猿ではなく人間で、しかも、とぎれなく涎《よだれ》をこぼしながらげらげらと哄笑《こうしよう》しているあたりにあった。生まれたばかりの悪獣を見上げて、鳴滝はふんと鼻をならす。
「ご覧。血に血をかさね、血で血を洗ってつくりあげてきた天皇家とやら、そこにからんだ因縁がさてどれくらいのものか見てくれようと思うたのに、生まれるもの生まれるもの、どれもこれも醜いうえに阿呆でのろまでぷんぷん臭って、ものの役にも立ちそうにない。これはこの男が悪いのか、それとも妾《わらわ》の術が悪いか、そちの見識を述べてみや、犬」
「それがし考えまするに――」
と言い始めたところへ、立ちあがった鳴滝にそのまま背を踏まれてぐえっとさらに平たくなる。女主人は蟻を踏んだほどの気にもとめず、衣を滑りおとして裸身を恥じるようすもない。女がどいたあとに息もたえだえで姿をあらわしたのは、なんと、禁裏に主上としてあがめられる、その方――
するとここは、おそれ多くも天皇の御座所であるらしい。鳴滝がどいたことで妖術の霧も晴れてきたのか、どろりとくもって視界をふさいでいた常ならぬ翳《かげり》もすこしずつ薄れて、あたりの様子がはっきりしてきた。
そこは清涼殿の奥まったあたりにまぎれもない。御簾《みす》をきびしくおろし、あたりに人影はなく、今にも絶えてしまいそうな帝の喘鳴《ぜんめい》がきれぎれに響く。
「もう……もう、ゆるしてくれい……放してくれい……勘弁して……」
「――考えまするに、天皇家はさまざまに恨み呪いを巻き起こしながら、その中心にあって穢《けが》れを受けぬあたりに帝の帝たる所以《ゆえん》があるのではなかろうかと」
「わが生み出した呪詛《じゆそ》や怨念《おんねん》を、すべて穢れとして祓《はら》いのけ、外のものとして……」
死なんばかりに哀願する至聖のお方のことなど、目にいれるふうもない主従である。
「なるほど、それなら得心がゆく。恨みや呪いを身の裡《うち》に抱えてこそ、真に強い力も生まれようものなのに、この男のふぬけぶりと来たらどうしたものかと思ったけれど、怨《うら》みの渦を巻きおこしておきながら我ばかりそこから逃れようとしていたのであれば当然よな。
そもここで、妾の役に立つようなほどの獣を生み出しうるなら、道真公の怨霊なども怖れるはずのない道理じゃ。やはり妾の御子を、世にも下の下、下もきわまる河原にくさりはてた死骸《しがい》の中から生み出させたは正しかった。あれらは純粋な怨《えん》と穢れのかたまり、怨みの渦から出てきておきながら、自分ばかりは悪念から逃れようなどという姑息《こそく》な考えはもっておらぬ……来たかえ、小萩」
「おん前に」
となまめかしい声があって、ひとつ、ふたつ、都合みっつの人影が御簾の前にうずくまる。
ひとつはまっ赤なくちびるに笑みをうかべた小萩、その後ろに少しさがってこれは右大臣の藤原定方が、うつろな目を茫洋《ぼうよう》と宙にさまよわし、その隣には袴垂が、小鳥を呑《の》んだばかりの悪狐《わるぎつね》にも似た、したり顔でひかえていた。
「賀茂家の小せがれ、これより鬼の討伐にと葛城へむかうよしにございます。平将門、藤原純友、両名もともに」
「さようか。して仕込みはえ」
「それも、抜かりのう」
ほくそ笑みひとしきり。その間に、帝の喘ぎも少しずつ鎮まる。どうやら眠ったようだ。
「しかし将門と純友の二名がともにむかったとなれば、ちと面倒かもしれぬな。あの二人もまた、忠平どうようおかしな運命を負っている。なにがどう動いて、すらすらとすすむべきなりゆきを滞らせるやもしれぬ」
「わたくしもそれを心配しておりました」と小萩が一膝進めて、
「わたくし、あれらを追って、葛城へと参りとうございます」
「おまえは忠行に首打たれたことがあったのだねえ」
「はい。忠行のむすこ保憲、またそれに同行する将門純友両名にも、さまざまに怨みがございます。御前様の御心をまちがいなく徹底させるためは無論のことながら――」
「よかろう。みなまで言わぬでもよい」
毒のにじむ小萩の言葉を、鳴滝はさえぎった。
「どのみち、ここにあまりに多く妖気をあつめることは、忠平以下賀茂の一派にいらぬ用心をつのらせることになる。そち葛城にて始末を身届けや、小萩。――怨みといえば、おまえもよほど怨みを抱いていたねえ、犬や、鋏丸、いいや、ひろたり――」
と最後の言葉に、びくりと背を引きつらせた鋏丸の頭を踏みつける。爪先で顎《あご》を持ち上げ、その憎悪にゆがんだ面《おもて》を見定めてにやりとすると、ものも言わずに蹴りとばした。ひとたまりもなく面の簀子縁《すのこえん》にまで転げ出た鋏丸は、しかし、痛みすら感じておらぬ顔で、ふたたび平伏する。
「お方様はようご存じでござります」
俯《うつぶ》せたまま呟《つぶや》く声は殷々《いんいん》と低い。
「俺がなぜ、何のためにお力におすがりしたか、ようご存じでござります」
「よう言うた。その面、その声、大いに気に入ったぞ」
白い喉《のど》をさらして、からからと鳴滝はわらった。
「では鋏丸、小萩、両名ともに葛城へ行くがよい。そこでわらわの思うまま、ことが運ぶのを確かめるのじゃ。それぞれの思いは晴らすがままとする。わらわの考えにそむかぬまでと区切ってのことだがのう」
二人、いっせいに頭《こうべ》を垂れて、
「承知いたしました。して、お方様は」
「わらわはここを動かぬ。動かずとも、あれらの動きは手にとるようにわかる道理がある」
こう言ったとき、妖女の瞳《ひとみ》に不思議なきらめきが踊った。だが、手下のものどもがそれをなにとも見極めぬうちに、たちまち暗黒が光をおおいかくした。
「俺も行くぜ。純友の野郎は俺を売りやがった。ぜひともこの意趣返しをしなきゃあ、腹の虫がおさまらねえ」
ぎらぎらとした目で言い放つのに、鳴滝はさほど気にかけたふうでもなく、好きにするがよいといった。さに何ごとか続けようとして、よいことを思いついた、というように梁《はり》のあたりの暗がりを見やって、にと笑った。
「おおそう、――そちたちの往来の華に、ここにわだかまる妖物・魔獣・悪獣、皆で都にばらまいてやるがよいよ」
ざわりと、闇がざわめく。先ほど生まれ出た異形の鵺をはじめとして、ほかにも定かではないが蠱《むし》のような頭と節の多い手足の人影、毛玉にでたらめに尾やら羽やらを突き出させたようないきものが、わらわらと顔を出し始めていた。
「おのれらが上にいただく御方の身内にひそむ因縁のかずかず、臣民として、わかち味わうは当然のことであろうもの。帝もいたくお喜びであろう。――ほ、ほ、ほ、ほ」
暗闇の中に声ばかり、高く笑って、
「誰が来ようが、わらわが事に指いっぽんもささせるものかえ。そなたたち、手配はまかせるゆえ、うるさい虻《あぶ》どもうち払って見せや」
いっせいに、はあっと応《こた》えて、つい気配は絶えた。
「……かわいや葛葉、葛城の若子、たがいにつのる想いに身も心もとろけきっておるわいの。あと少し、陰陽相通じ、恋の一念に燃え狂え。たがいのことより何一つ見えぬようにもなるがいい。それこそ御子のこよない食物、わらわが丹精の娘葛葉、霊力きわまりなき葛城役一族の長子の、恋ゆえ鬼となったるものと、二つながらに取りこむならば、そのとき生まれる鬼神とはいかなるものであるのやら……誰よりも、いつくしんでくれた姉の霊肉、さぞかし甘く舌に触れようよ、のうわが御子や」
からからとうち笑う声はますます物凄《ものすさ》まじく、
「天は割れよ、地は砕けよ、この世はいずれ無常所よ。千年を祈る都など、愚の骨頂。ましてや帝の血脈も、腐れてよどんだ血の溜まり、絶ってやるのが情けというもの。
わらわが教えてとらすのは、ただ破壊、憎しみ、民人あい争い諸州さだまらず、その性のおもむくままにふるまうことこそこの世の正真の姿ということよ。これこそ真理じゃ。神仏も陰陽も是非に及ばぬ。たかが人の、こざかしい技にすぎぬ。
怨嗟《えんさ》と呪詛から練りあげられ、あらゆる鬼神もののけの王たる御子や、こんどは人の王におなり。触れてはならぬ自然の霊力を、欲でもって犯した人の業から生まれたわらわが望むのじゃ。人の性根を正しいものにもどしてやるのじゃ。そのためにこそわらわは汝《なんじ》をつくったぞ、御子や、御子や……」
さてそのころ、大和《やまと》、葛城――。
ひとくちに葛城といっても、ひとつの山、ひとつの土地のみをいいあらわすものではない。『続日本紀』には修験道開祖|役小角《えんのおづぬ》について、『初メ小角、葛木山ニ住テ、呪術ヲ以テ称メラル』と記すが、この葛木がつまり葛城。現在にいう葛城山よりはずっと南にさがった、金剛山のことをさしている。
北から南へかけて続く長い山なみのうち、弟背《いろせ》とわが見むとなげく皇女のうたが万葉集にある二上山《ふたかみやま》、続く戒那山《かいなさん》と呼ばれているのが現代の葛城山、もっとも高い金剛山が、つまりさっきも出た昔の葛城山。最高峰から見わたせば、大和の国は一望のもとにあり、ずうっと頭をめぐらせば吉野《よしの》、大峰《おおみね》、修験者の駆けめぐった聖山|峻峰《しゆんぽう》が、視界の果てに青くかすんで夢のようにたちならんでいる。
山の霊威のそくそくたるこの深山の土地を、総称してまた葛城とする。志狼が飛びさり、連れられた葛葉らが身をよせた、そこはそういうところであった。
歌舞し叫喚しあいながら、一行を導いたもののけどもは都を出るやすこしして消え、志狼は葛葉を腕に抱いて、夜の星空をすべるように馳《は》せた。足は地にふれず、息もみだれず、ただびょうびょうと耳もとに鳴る風の音と爪先をなぶるつめたさが、葛葉にとっては道行のしるしであった。
ドーマと童子もまけずについてきた。宙にとぶ、青い光芒《こうぼう》と白いきらめきと、そのそばにぴったりとついた、虚空をくりぬいたような暗黒の人影と。もしも誰かが眼にしたならば、さぞかし肝をひっくりかえしたであろうが、ころは夜、見上げるものも、眠りかけの鳥獣よりほかは無い。夜明けの光の差しそめるころには、ぶじ、葛城の山奥深い、太古《いにしえ》の磐座《いわくら》のもとに舞いおりていた、それから、はや二十日あまり。
「志狼さま?」
かさりと草を分けて、頭を出したのは、むろん葛葉。
そばには巨狼《きよろう》の北辰が、姫の衛士《えじ》よろしく付きしたがっている。そのたてがみに、いたわるように片手をかけ、細い肩に、志狼のものらしいすこし汚れた水干《すいかん》を着て、光るばかりの素足をやわらかい草においている。長い髪は細いつる草でしばってまずしい身ごしらえ、だが定方の屋敷にいたころとはうってかわって、白い頬はゆたかにつやつやしく、大きな瞳《ひとみ》は涙ではなくしあわせにうるんでいる。
「志狼さま? どこにいらっしゃいますの」
みなまでいわない先に、ざざっと枝が鳴ってそこへ志狼が飛び降りてくる。
なびいた髪のわけめから、切っ先に似た小さな角が、鋭く頭をだしている。身をひるがえして降りたった手には、金色に咲きこぼれる、山吹のひと枝。無造作に葛葉につきだし、みやげだ、といってからりと笑った。
「渓川のほとりにあまり美しく咲いていたので、持ってきた。来る最中に花が散らぬよう、ずいぶん気をつけたつもりだが」
「ありがとうございます。ほんに綺麗《きれい》」
うっとりと花弁に唇をよせる葛葉を好ましげにながめて、
「花より先に、衣装がいるかな。ここは山上、俺の衣装の水干いちまいでは、夜が寒いか。必要ならば里へいって、小袖ばかりなり手に入れてくるが」
「いいえいいえ」
山吹を袖へ抱いて、葛葉、強くかぶりを振り、
「わたしはこれでいいのです、いえ、この衣装がいちばん佳《よ》い。都で着ていたあのような重い、けがらわしい衣装など二度と着たくはありません。お山はどうやら、わたしにはやさしくしてくださいます。夜になっても手足も冷えず、日が照っても汗も流れず、いつでも爽《さわ》やかにすごせます」
と、その下をねぐらにしている古い偉《おお》きな磐座をふり仰いで、
「きっとこの岩に宿る神霊が、めぐみを垂れてくださるのでしょう。――それに」
ふと声をちいさくし、
「それにあなたのお身についていた品だと思えば、ましていっそう、好ましゅう存じます」
うっすら染まった頬でそう呟《つぶや》けば、志狼はいっしゅん口ごもり、それから、吹きだすようにわらって葛葉の手をつかんだ。
「北辰も、少しは走って水もあびたいだろう。来い、渓《たに》まで降りよう。山吹の花でも、見て涼もう」
追っ手の心配をしないわけではなかった。都を出てきたときのことは、葛葉にとっても夢のようで、あまり現実とは思われなかったのだけれど、邸のくずれる音、間近にあった巨大なもののけの眼、なまぐさい吐息、頭上と足下を素晴らしいいきおいで駆けすぎていく天と大地との印象は、きれぎれに残っている。
さまざまなことを、切りさかれた女房装束といっしょにあの地においてきた葛葉ではあったが、それら残った記憶のなかでも、ひときわおそろしいのは、とうとう最後まですがたを見せなかったもとの主人の鳴滝一統――
――貴人の邸を破壊し、もののけとともに都から逃げた我々、さだめし上からの追討もあろうことだけれど、それよりおそろしいのは、御方さま、鳴滝様。
――あの御方さまがこのままわたしを逃したままにさせておくわけもなし。あのとき、逃げるのを止めようともなさらなんだことは奇妙だけれど、いつまでも放ってはおかれまい。御方さまはおそろしい方、きっとわたしを、捕まえに来なさるはず……
ひとりの時にそう思い、背筋に氷をあてられたような恐怖にふるえることもあるけれども、一日、また一日と、なにごともない日々がしあわせにすぎてみると、しだいにそうした闇もうすれて、かの女は、もはや恋人の志狼の微笑と抱擁しか眼にうつさないようになった。
岩屋がわりに宿かりた、巨石を組み合わせた磐座のおかげで雨風は身にさわらない。日々の糧は木の実果物、鳥や獣などを志狼が、山中をめぐって手に入れてくる。おそれも悲しみもなにもなく、山のくらしは平穏であった。
ここへ来てから、童子はあまり姉のもとに顔をみせなくなった。ひとりでやはり山を走り回っているらしいが、三日に一度、四日に一度、遠くからじっとこちらを見つめているのに葛葉が気づくだけで、すぐにひらりとどこかへ駆けさってしまう。
ドーマにいたっては、山の近くまで来たところでかき消すように姿が見えなくなり、どこへ行ったともまったくわからなかった。
獄舎《ひとや》のなかに生い育ち、父の亡霊にとり憑《つ》かれたあげくにわれと我が身を喰らって死中の生を得たという異形の男のこと、志狼も、初めはいぶかしむ様子をみせたが、そのうちに、首尾よく獄から逃れることを得たので、どこでも自分の好きなところへまぎれていったのだと考えるようになった。
死と生、陰と陽とが逆転しているようなあの男にとって、葛城の山の気はあまり心地よいものではなかったのかもしれない。葛葉はもとよりほとんど知らぬし、自分にとってもどのみちあまり気には食わなかった相手、志狼は追うほどのことはないときめて、それきり考えるのをやめてしまったのだった。
――童子が、あまり甘えてきてくれぬのがさびしいけれど……
志狼にだかれて岩から岩へ飛びわたりながら、夢みるように葛葉は思う。
――わたしは今まで、これほどまでに幸福だと、感じたことがないような。
男の、逞《たくま》しい肩に顔を伏せて、おろした睫毛《まつげ》にふっと露が宿る。
「さあついた、……どうした葛葉、何を泣いている」
「いいえ、なんでも。ただあまり、陽の光がまぶしゅうて。長いこと、暗がりにいたせいでしょうか」
軽いからだを河原の石の上におろして、気がかりげに志狼がのぞきこむ。葛葉はにっこり、指先で目をこすり、清い水の流れるせせらぎの光景に嘆声をあげた。
「まあ素晴らしい、都でわたしの知っていた河原と、同じ名で呼ばれるとは思えません」
「あたりまえだ、あんな汚れきった場所といっしょにされては山が怒る」
「ここからだと、あの磐座がたいそうよく見えます」
「あれはわれらがこの地に根づくよりはるか昔からあって、葛城の地にながれる気脈のかなめのひとつを鎮護するものだそうだ」
はるか峰上にそびえる巨大な磐座が、頭をもたげた獅子《しし》のように青い空に映えている。
「この流れは深山の懐より湧き出た水が寄りあつまり、あの磐座の根からひとつとなって流れ落ちている。かつてわれらが一族の大先達、役小角様も身を清めたという場所、少し上流へのぼれば、水垢離《みずごり》をとったという滝もある。いわば山の精気が凝《こご》って噴き出した聖なる流れだ、死骸《しがい》や汚物のとけだした都の水と同じでたまるものか」
「でもそんなとうとい水に、わたしのような者が身をひたしては神様がお怒りにはならないでしょうか」
「なんだと。まだそんな馬鹿なことをいうか、それっ」
きゃあ、と声をあげる間もなく、流れのなかへ放りこまれてしまう。深さはないからおぼれはしないけれど、まとった水干はたちまちしおたれて、ゆたかなからだの線をあらわにする。面白そうに志狼は手をのばした。
「そら、こっちへ貸せ。もどるころには乾くように、こちらの岩へ干しておく」
さてはそういう魂胆だったかと、かるく恋人を睨《にら》んだが、怨《えん》じてみせる目つきにも恋する者の蜜がにじむ。しかたなく、衣に手をかけたが、そのときはっと頭をよぎったのは、いつか、老人にからみつかれた、はずかしい裸体を見られた恐怖であった。
「葛葉」
凍りついたように手を止めた葛葉に、やさしい声がかかる。目を上げればそこにはいまわしい祭壇も、芥子《けし》の香りに満ちた闇も、ほくそえむ小萩・鋏丸のふくみ笑いもなく、ただ陽光にかがやく水と、みどり濃い深山と、ほほえむ男の姿。
「――あい、志狼さま」
はりつく布をすばやく引きはがし、髪をまとめた葛《かずら》もほどいて、ともに岸へ。たちまちそこに白玉をきざんで磨いたような、乙女のにおう裸形が立つ。
控えた北辰がさっと受け取り、主《あるじ》のところへくわえていく。陽にぬくもった石にひろげられる衣を横目にして、葛葉は、今は自在に水をくぐった。
都での、あのいたましい水浴び、血と精にぬれたからだを泣きながらぬぐったあのときとはなんという違いだろう。清冽《せいれつ》な清水は悪戯《いたずら》な生き物のように肩をすべり、腕にまつわり、まろやかな双《ふた》つの乳房にたわむれた。底の石までかぞえられるほど澄んだ淵を、黒髪をなびかせながら泳ぐ姿は大きな白い鮎のようであった。
夢中になって水を浴びるうち、いきなり足首をつかまれた。ざぶんと水にすべり落ち、強い腕に抱きしめられた。かがやく泡を顔じゅうまつわらせて、志狼がそこで笑っていた。抱き合いながら流れに運ばれてくるくると回り、いくらか下流で顔を出す。
身をよじってのがれようとした葛葉を、志狼の腕がまたとらえる。水をはね飛ばしながら、二つのからだは声もなくたわむれあって、やがて流れにのって暖かなひなた水のたたえられた浅瀬へゆっくり泳ぎついた。
ほどけた髪を漂わせて、しずかにそこに横たわった。陽にぬくめられた水はどのような褥《しとね》よりもあたたかく、流れに丸められた石は背になめらかであった。たがいの肩に手をまわし、一糸まとわぬ肌をひたとあわせて、二人しばらく動かなかった。大きく喘《あえ》ぐ胸があわさり、いったんはなんれた手が、たがいをもとめてしっかりと握りあわされた。瞼《まぶた》のうらで光が踊った。もつれた志狼の髪に手をいれて梳《す》き、額に生いでた一本角に、そっと愛撫《あいぶ》の唇を這《は》わす。
わたしのもの、わたしの男、そう思い、その思いの、われにもあらぬ猛々《たけだけ》しさに息を呑《の》んだ。触れられたところに次々と快さが花ひらき、からだの奥に脈打つ熱い泉があふれるにまかせた。脚のあいだに堅い腿《もも》がはいってきたとき、全身の力をぬいて葛葉は目をとじた。
漂っている、広くて昏《くら》い大きな海に、と思った。
そこはなにもなく、山も、川も、天地も時もあらゆるものは消え失《う》せて、ただ、志狼と己と二人きりがあった。ゆるやかな律動に身をゆすられながら、葛葉は、ここにはいつかいたことがある、とさとった。
耳もとに、志狼の吐息があつい。のけぞって声をあげたとき、葛葉は志狼のうしろに、音もなく盛りあがる灰色の大波をみた。
なにとは知らず、涙がこぼれた。「泣くな」と志狼は葛葉のこめかみに唇を押しつけ、つよく言った。「泣くな」
しかし涙はとまらなかった。葛葉は爪をたてて志狼にしがみつき、嗚咽《おえつ》をこらえた。とくとくと脈打つ熱いものが身体の中心にあり、それが、頼りなく波にさらわれようとする意識《こころ》を繋《つな》ぎ止めている。息詰まるほどきつく抱きしめてくる志狼を、力いっぱい抱き返しながら、葛葉は、自分もいつか還《かえ》るのだろうとふと思った。もえるようないのちの営みの果てに見た、昏く大きな、色をもたない海のなかへ。
濃く茂った夏の下草を、いっぴきの白い獣が矢のように走りすぎていく。獣というよりはんぶん透き通った煙のかたまりに似たそいつは、それだけぎらぎら光っている眼をあげ、おぼろな牙を剥《む》いてきいと啼《な》いた。飯綱《いいづな》。葛葉が、都にいたとき笛にいれてつかっていたものと見えた。
持ち主に棄てられて、あとを慕ってきたか、それともさらに上行く遣い手の鋏丸に下知されたか――するすると草むらをすべり抜けて、たちまち渓川を見おろす崖に出た。牙を噛《か》みならして下を見おろす。はるか下方の川辺に、身を重ね、忘我の境にただよっている志狼と葛葉がちいさく在った。
獣とはいえわけ知りの妖獣、金色にひかる眼になに思うのか考えぶかい色を走らせて、さっと身をひるがえしたところへ、思いもかけず、鉤爪《かぎづめ》をそなえた両手が降った。
「――! ……!」
チイチイ啼いて身もだえするのを、両手につかんで生きたまま首を食いちぎる。隠形《おんぎよう》の術がとけ、実体を取りもどした胴体がだらっと垂れさがった。
鮮血をしたたらす生肉を噛みながら、そこに立ったのはほかならぬ白髪|金眸《きんめ》の童子。まだひくついている妖獣の首ねっこを提げて、黙然と下を見やる。飯綱が見ていたものが、かわらずそこにある。清らかなせせらぎに身をひたして恋人とむつみあう姉を、ものいわぬ童子は人形のような顔でみつめていた。
――可哀想になあ。おまえの姉は、もうおまえのことなど眼中にないとよ。
暗がりから声がわいた。葉末に溜まった影はひときわ濃く、その中に、光るほど白い白目と桃色の唇、真っ白な歯とがにたりと笑った。
――しかしまあ、なげくな、なげくな。女というのは、みなそうしたものだからな。男ができれば、ほかのことなどみなわすれてしまう。どれほど可愛い弟でも、ほかに頼りのない弟でもなあ。
突然童子はふりむくと、声のするほうへ向けてふっと何かを吹きとばした。
木々に当たって転がったのは、きれいに肉のなくなった飯綱の小さな頭蓋骨《ずがいこつ》だった。ころり転がったそいつが、うつろな眼窩《がんか》で宙を睨むより早く、童子の姿は消えていて、ただ木々の梢のみだれる音が、はるか彼方《かなた》へ遠ざかっていくばかりであった。
『やれ、乱暴な。怖いのう』
ふたたび声がして、ぬっと出てきたのは闇そのものが凝ったような漆黒の太い腕だ。転がった骸骨《がいこつ》をさらいとって、影へとひっこむ。咀嚼《そしやく》の音がひとしきり響き、ややあって、また目と口と歯ばかりが影に開いてふくみ笑った。
『しかしまだまだ。まだまだ、あれでは食いでが足りぬ。あんな程度で喰ってしまっては、せっかく手間をかけてまで、獄舎から連れだした甲斐《かい》がない。なにやらあの童子について別なことを考えているやつもいるようだが、己にとってはみな餌よ、少しの変わるところもない。欠けた小指はいまだ充《み》ちず、つくづくひもじゅうてならん。これを埋めるには尋常の餌では足りぬ、誰が丹精したかは知らぬがあの童子、己とおなじく他の者を喰うてその身に力をたくわえるそうな。己と、あやつと、はてどちらが喰うか喰われるか、面白い見物であるかもしれんて』
風は静まってもはや声もなく、あとには、わずかな血痕が、土の上に残った。
「ご無理なさらずと、こちらの馬に乗られませい。そのように息が切れては、なにかあったときに呪《まじない》のひとつも口にできなかろうに」
「私に指図をするな」
青白い顔を汗でぬらしながら、保憲は乱暴に袖をふる。緑深い街道である。栗毛、葦毛《あしげ》、青毛と三頭の馬をならべた上に、青毛には保憲、栗毛と葦毛にはそれぞれ平将門と藤原純友の両名、貴人にしたがう従者の体《てい》で、とほうにくれた顔をならべている。
「それよりも、まだ葛城にはつかぬのか。先ほどからずっと、山のなかを歩いているように思うが」
「もうそろそろでございましょう。先ほど当麻《たいま》を越えました」
あくまで物静かに、言って聞かせるのは将門で、
「今日の昼すぎには馬をすてて、歩いて登らねばならなくなるかと思います。本当に、少し休まれなくてもようございますか。お顔の色が悪うござる」
保憲は返事もせず、馬上できっと前を向いて、先に歩を進める。その横顔はあくまでつめたく、かたく、人形のようにうごかない。
「おい、やめろ、やめろ」
先ほどからのやりとりを聞いていた純友が、うんざり顔で口をはさんだ。
「どんなに気をつかってやっても、あの調子だ、言ってやるだけ息の無駄よ。気の済むようにさせてやるほかあるまいて。偉い陰陽師の息子だというから、もう少し、聞きわけのあるわっぱかと思ったがなあ」
「口をつつしめ。――聞こえるぞ」
前を気にしながら将門は小声で友をとがめるが、保憲はやはり耳に入れた様子もない。おそらくその頭のなかには、これから対峙《たいじ》するであろう敵手の顔しかうつっていないに相違あるまい。純友はもともと地声が大きい。浜そだちでならした喉《のど》は、抑えたつもりでもよく響いて、
「牛車《ぎつしや》では遅いというからこうして馬を馳《は》せてはきたが、あの御曹司《おんぞうし》、自分が馬には慣れていないことをうっかり忘れていたらしい。お役目の家に生い育って、学問専心、子供らしい外遊びも満足にしたことがないとあれば、馬に乗っての遠出など、とうてい力が足らないとわかっていてもよさそうなものだ。もとはといえば自分のわがままを、われらに押しつけて当たり散らすのは、是非ともやめてほしいものだ」
「やめろというのに――」
と、たしなめながらも、内心では純友の言葉にうなずく部分がないでもない将門である。
二人が保憲につけられたのは、むろん忠平のこころいれもさることながら、浄蔵が是非ともこの二人だけでも連れていくようにと強く保憲にすすめたためである。
保憲自信は最後まで、供などいらぬ、ひとりでよい、自分よりも今は京と帝の身を守らねばならぬのだから、二人といえど強者《つわもの》を自分のほうにむけてもらうわけにはいかぬとごねつづけたが、この点だけは浄蔵は、頑としてゆずらなかった。
『わからぬことを言うでないぞ、保憲殿。そなた自分の任務をどのようなものと思うておるか。京の護りはいかにも重要である、しかし、そなたが自ら申し出たこの任務は、いわば敵の本陣に踏み入り、大将首をとるにも等しい起死回生の大仕事ぞ。万が一にも失敗《しくじり》は許されぬのじゃ。そなたのわがままがもとで、この大任務、水面の泡と消えでもしたらどう言い開きをするつもりじゃ』
『決して、しくじりはいたしません。もし、そうなったら、二度と京にもこの家にも姿を見せぬつもりです』
『うぬ、こわっぱめが、なんということを抜かすのじゃ。うぬがこの地に二度と足踏みせなんだくらいで事のすむような小事とおもうか。思い上がりもたいがいにせい』
高僧の一喝、さすがに背筋にふるえが走って、保憲は声もなくうち伏した。
『ともかくも将門、純友、この二人なりとも是非とも連れてゆくよう、忠平殿からもじゅうじゅうのお達しじゃ。将門はそなたも知ってのとおり、刀をとっては当代ならびなき強者にて、純友もそれに劣らぬ腕前に加えてどうやらもののけの姿を見分ける眼をもっておるらしい。おれば何かの役にはたとう。よいか、これ以上の言い争いはせぬぞ。必ず行き、必ずもどれ。言うべきことはそれのみじゃ』
もはや抗《あらが》いもできずに、しぶしぶながらの主従三人、夜明けの空に馬をならべて出立したのである。
しかし、保憲は、意にそまぬ付け人に口すらろくにひらこうとせず、将門はもとより言葉の重いほうにて、話の糸口も見つけられぬ。ひとり純友がなんとか話をしようとしても、つめたい沈黙がかえるばかりとあっては、どれほど純友が気のよい男でも、不機嫌になるのは無理もない話であった。
牛車で大路を通うことはあっても、長い時間を、それも山間の、草だらけ石だらけの野道を馬でとばす経験など、まずしたことのない保憲である。どんなにさいしょは気を張っていても、やがて腿《もも》が張り、尻が痛み出し、背中や腰が悲鳴をあげる。それでも歯を食いしばって、音ひとつあげないのはさすがに意志の強さをうかがわせた。
が、純友の純朴な心には、自分や将門がせっかくさしのべた手を、苛立《いらだ》たしげにはねのけるこの若い陰陽師がいかにも恩知らずに感じられてならないのであった。
「いいかげんに黙らぬか、純友。喋《しやべ》っていては周囲に気をくばれぬだろうが」
「しかし、あのように疲れた風情で、たとえ目指す鬼が出たとしても足腰たたぬでは困ろうに。今にも鞍《くら》からずり落ちそうではないか。思えばあの、志狼とかいうらしいわっぱ、実に身軽なやつであった。あのわっぱなればこんな騎馬行、鼻歌まじりにこなしてみせようなあ――」
「純友」叱咤《しつた》はしたが、遅かったらしい。前を行く青毛の上で、きっと振り向いた陰陽師の顔は物凄《ものすご》いばかりに引きつっていた。とっさに、取りなそうとした将門さえも、思わず舌を凍らせたほどおそろしい顔つきであった。そのときかれはかの大徳が、なぜ自分たちをこの賀茂家の息子につけて送りだしたか、薄々ながらさとった気がした。
「保憲殿、しばし――」
これはどうやら、措《お》いてはおけぬ――と、声をきびしくして若い主《あるじ》を呼びとめようとしたそのとき、純友が、あ、と声をあげて路傍を指さした。
「あ、あれは――たれじゃ」
見れば、人の背ほどに丈たかく繁った夏草のあいだに、ぼうと人影が立っている。
頭に破れた笠をかぶり、汚い麻の衣からふっくらした胸乳《むなぢ》がこぼれているあたり、どうやら女であるらしい。笠の下からのぞいた顔の下半分に、唇がぬれぬれと紅くて、口を半開きにしたままこちらを見ている姿はうつつ心があるとも見えない。
「なんじゃ。狂《たぶ》れ女か。人里もはなれていると申すに……」
といいかけて、ふと眼をすがめた純友の顔がどことなく尋常でない。将門も気づいて、
「女。きさま、どこの者だ」
馬から降りながら問いかける。悪心ありとも見えないが、身についた用心には刀の柄《つか》に手をかける心構えもおこたりない。草を分けつつ一歩、一歩と近づいていったが、あと数歩で女に手のとどくといった距離までいったとたん、それまで眼を細めていた保憲が、手をひらめかせて大喝した。
「妖気! 邪妖!」
手から飛んだ白紙の嵐が、たちまちのうちに空飛ぶ白刃となって女におそいかかる。
たたらを踏んだ将門の前で、破れた笠が宙に舞い、ずたずたになって落ちたむこうへ、なまめかしくも立ち上がった姿は、傷ひとつない。むきだした胸、腕、太腿、いやらしいばかりに色香がにおって、にったりと笑った顔は毒々しい花のようだ。
「純友さまにはお見限り」
「あ、き、きさまは小萩!」
呆然《ぼうぜん》と成りゆきを見ていた純友がわめいた。女、実は小萩は身をひるがえして草原へ消えようとする。かれにとってはかつての友がらの敵、おっとり刀で鞍を転げ落ちて、追いすがろうとせまるところへ、
「待て、深追いするな!」
将門の叫びはむなしく宙にひびき、唸《うな》り声とともにはなった純友の斬撃《ざんげき》は、紙一重のところでかわされた。必殺の一撃を春の風のようにかわして、妖女の式神《しき》のばけた女は高笑いとともに夏の草いきれのなかに姿を消した。怒号して純友はあとに続き、切りはらわれた薄《すすき》や薊《あざみ》が、緑の血を流して右に左にたおれていった。
「わたしたちも追う。行くぞ」
「お待ちを。あれは妖女の召使い女、うかつに追えば、どんな策略におちいるかわかったものではございませぬ」
「われわれはそれを捜しに来たのだ」
保憲の言葉は氷のようだ。
「むこうから誘いをかけてきたもの、乗らねば、後れをとることになろう」
「自ら敵のあぎとに踏み込むようなもの。放すわけにはまいりませぬ」
「異なことをいう。おまえの仲間はもう女を追うて行ったぞ。あれを見捨ててよいのか、おまえは」
あざわらったその口調に、背筋につめたいものを感じて、将門は思わず手を放す。保憲は袖をはらって、切り払われて道のできた草の間へ早足に歩みさった。気が張ったのか足腰の痛みもうかがわせず、水際だったものごしだったが、背中に、燃え立つように思えた青い陰火の幻影に、将門は、不気味な思いを消しかねた。
「純友も、保憲殿も、うかと鬼に魅入られたか――」
しかし友と主と、二人ながら見捨てるわけにもいかぬ。太刀とりなおし、大股に、草むらへ踏みいる武者の姿を、おりから吹いてきた風が、どっと音立ててつつみこんだ。
麓でそのようなことが起こっているとはつゆ知らず、葛葉は、ねぐらにしている磐座《いわくら》のなかでふと目覚めた。
起きあがってみると志狼の姿はなく、そばで、番をしてくれている北辰が、のべた前足に巨大な頭をのせてこんこんと眠っている。
聖なる流れの、あたたかい水に浸りながら志狼と情をかわして、それからあとのことを思い浮かべてみる。
満ちたりたよろこびに手足がしびれて、自分一人では立つこともできなくなった自分を、わらいながら志狼はまたこの岩屋まで抱いてもどってくれた。
それから、しめった水干をまきつけた裸足《はだし》の自分に、やはり小袖の一枚もなくてはいかん、行って手に入れてくるから、ここで休んでいろ。今はよいが、秋になれば山は冷える。妻のおまえに熱など出させては、夫の俺の名がすたる。
ええ、それではあの、わたしは、志狼さまの妻。
そうだとも、なんだと思っていたのだ? 妻でなければ、ああいうことはすまいし、させるまい。と、言われて、川辺でのことを思い出して赤くなった葛葉をもう一度強く抱きしめ、
それともこんな、角のあるような男は怖いか?
そんなことをおっしゃると、わたし、怒ります。
はは、そうだったな。ではせいぜい、角のある子や孫でも沢山《たくさん》こしらえることにしよう。もどるまで、ここで大人しくしていろよ。北辰が番をしてくれる。
思いかえして、まざまざとよみがえった志狼の声と唇の感触にふるえる胸を抱く。しあわせ過ぎて、なにもかも本当のことには思えないような、そら恐ろしくさえあるような――ほんとうに、いつまでも、ずっといられようか、このまま。もしもそうなら、どれほどしあわせだろう――そう思う気持ちが、もはや祈りにも似ていることを、葛葉は自分で気づいていなかった。細い肩を両手でかかえ、じっとうずくまる葛葉は、そのとき、はるか彼方《かなた》から自分に呼びかける、幽《かす》かな声をきいた。
(誰……)
頭をあげると、不思議や、一枚岩にふさがれていたはずの岩屋の奥に、小さな光がさしている。みるみるうちに光は大きくなり、そこに、人ひとりらくらくくぐり抜けられそうな巨大な穴が口をあいたと見えた。きらきらと、差し入ってくる光は陽光よりも強く月光よりも清らかに澄んで、まるで葛葉を招いているようであった。
葛葉は誘われるように立ち上がった。北辰はまるで動かず、木で彫った像のようにじっと頭を垂れている。光のなかに歩みいる。足下にはゆるい階段が、目の届くかぎり続いていた。路《みち》の左右は石壁で、どこから来るのかわからぬ光に青白い炎をあげている。
葛葉はゆっくり足を踏み出した。
階段は長くつづいた。ゆるやかにうねりながらどこまでもどこまでも下へ降りてゆき、降りるにしたがって、左右の壁は上をたしかめることができぬまでに高くなった。足は少しも疲れることがなく、階段の上に影はおちなかった。葛葉は降りつづけた。耳にはあえかな呼び声が、とぎれることなく鳴っていた。たえまなくうつろう光が、少女《おとめ》の頬を愛撫《あいぶ》した。なめらかな石面はしだいしだいに鍾乳石《しようにゆうせき》や水晶、石荀《せきじゆん》、こまかな瑪瑙《めのう》の珍岩奇岩におおわれて、それがまた、いっこうに弱まる気配のない青い光にてらされて仄《ほの》かに透けて、あたかのおとぎの城を漂うようであった。
夢のうちをすべるように降りつづけるうちに、前方に、開けた場所が見えてきた。祭壇があり、火が燃えている。ここに差すのとまったく同じ、青く熱のない、不思議な炎であると見える。
祭壇の前に誰かが座している。白い浄衣《じようえ》に緋《ひ》の袴《はかま》、かたわらには鈴と小笹《おざさ》をさし置いて、黒く長い髪を後ろにひいたその人は、葛葉がちょうどその後ろにまでたどりつくと、合掌の手をひらいて、しずかにこちらを向いた。
――よく来ましたね。待っていました。
「あっ、あ、あなたは――」
――怖がることはありません。
その瞬間、衝撃と恐怖によろめいた葛葉は、そのまま後ろによろよろとさがった。
――妾《わたし》はあなたの知っている者と同じ姿をしています。でも、妾は、あの者のように、あなたをしいたげようとは思いません。
「あ、貴女《あなた》さまは、いったいどういうお方でございますか」
震える声で問いかけた葛葉に、巫女《みこ》すがたの貴婦人は、どこか影のある笑みをむけて言った。
――妾のことを、人は、葛城の白専女《しらとうめ》と呼びます。
そのころ山中を風のようにとぶ志狼がいた。
むかう先は生まれ故郷、役一族の里である。
山にもどって半月、これまで一度も足をむけたことがなかった。しかしそれは、気がひけるとかいった人がましい理由からではなく、ただもう単に、自分にはかかわりのない場所だと思い定めていたからであった。額に生いでた小さな角、これがいったいなんであるのか、知りたいと思わないでもなかったが、知ったところでどうなるものでもあるまい思えばと今さら追求する気も失《う》せた。
都の人々、陰陽師、みなに指さされて鬼とはいわれても、別に人を食いたくなるわけでもなし、身から毒を発するわけでもなし、ただ全身に精気みなぎって、思うだけで宙を飛び、片手で岩をぶちくだき、目をこらさずとも山中の気の流れ、かがやき、生命のもえるさまがあきらかに感じ取れる。自分もまた、この渦巻く大河のごとき大いなる自然の一部にすぎず、その現実のまえに置かれてみれば、自分の異形と化したことも人から鬼と呼ばれることも、まったくささいなことがらであった。
それに葛葉がいた。かの女の身になにがあったかは、自分も問わず、相手もいわなかったが、なにがあったかくらいは、少しずつ見聞きしてきたことと、かの女から感じとれるわずかな気の濁りから見当がつく。
志狼自身にとっては何より愛《いと》しく、あわれな者であっても、里の者や父大角にとってそうであるとはかぎらない。辛酸をなめてきた娘を、人目にさらしてこれ以上傷つけてやりたくはない。
童子やドーマのこともある。山に入ってからあまり姿を見せなくなった二人だが、童子はともかくドーマについては、志狼は警戒心を消すことができていない。かれを里へ近づけることに、なにか本能的な危険の予感を払うことのできない志狼であった。
かたちを見せぬ黒い男は、それでも決していなくなったわけではなく、木陰の闇に、岩のかげに、よどんだ淵の暗がりに、ひそんで様子をうかがっていることを志狼はしっていた。ここでもし、何かするなら許しておかぬときめていた。この場の自然と一体化した自分を見いだした志狼にとって、山でなにか害をするということは自分に対してなにかされたも同様であった。
無言の警告を関知したのか、ドーマはまったく大人しくしているが、かれをわざわざ、仮にも自分のふるさとである里へと請じ入れるような無謀なまねをする気は、志狼にはさらさらなかったのである。
しかし、いずれにせよ――。
ほかにどんな理由があったとしても、志狼が里へ今まで足踏みしなかったのは、額に角のできる前のことが、生まれる前のことのように、遠い夢と思われはじめていたからである。
かれにとっての現実、かれにとっての世界は、ただこの瞬間のいま[#「いま」に傍点]、この目の前のもの[#「もの」に傍点]、それのみであった。たったいま、生気の綴《つづ》れ織りとして眼前に展開されるそのもの以外なにひとつ意味はなく、過ぎ去ったものは、ただ刻《とき》のまえに塵《ちり》として吹かれるさだめ以上のものではない。
里の想い出にしてもそれは同じであった。都で出会った賀茂家の親子のことも、もはや遠かった。額に生えた角を確かめ、それを手に触れた瞬間に、新しく生まれたも同然の志狼であった。里は故郷ではなく、故郷は、自分自身でもあるこの山の自然そのものだ。常に故郷とともにある身なら、とりたてて懐かしみ、帰還を望むべき道理もない。
ふと、身の軽くなる感じをおぼえるときがある。滔々《とうとう》と脈打つ生命の大河を眼前に眺めるとき、その中に身を投げ、とけてしまいたい自分を、そうすべきであると感じる自分自身を、ときおり志狼はもてあます。人のかたちにとどまっていることの困難、理不尽、そうした想いが、日々心のなかにたまってゆく。
しかし、それを繋《つな》ぎ止めるのが葛葉であった。かの女の、たおやかな、しおらしい子鹿の眸《め》を見つめるとき、輪郭を失いかけた志狼の心ははっきりと固定された。少しも揺れることなく、かの女のしあわせ、かの女の笑顔、かの女のよろこびを望んだ。葛葉というただひとりのために、志狼は志狼にとどまっていた。それが良いのか悪いのか、正しいのか間違っているのかかれにはわからない、恋ゆえに鬼と化した若者は、皮肉なことに、恋ゆえにまた人のかたちを棄てられずにいるのであった。
やがて見覚えのある木立が多くなった。里が近づいてきたのである。ひときわ強く梢を蹴って、志狼は、里を見おろす大杉の上にふわりと立ってあたりを見おろした。――
異常に気づいたのはすぐであった。
里に人気がない。
いつも路であそんだり、手業《てわざ》の練習をしたりしていた里の人々の姿がひとつも見えない。茅《かや》と木の葉でふいた家々が、しんとしずもっているばかりである。
あれは。
気が逸《はや》るのを感じたと同時に、もう里の通りへ降りていた。土煙が白くたった。なにもない。農具や水桶、外にかけてあるはずの蓑笠《みのがさ》や、軽業《かるわざ》道具の棒や人形櫃《ひとがたばこ》さえひとつもなかった。
略奪ではない。争ったあとはどこにもなかった。絶えたことのない火種を消し、締めたことのない戸締まりをきびしくし、生活に必要なものは残らず持って、人々は、この里を棄てたのだ。役行者よりかぞえて二百年、保たれてきたこの里を。
「おおい!」
おおーい、とさびしくこだまが返る。かなり以前に人は去ったらしく、扉の隙間ははや吹き寄せられた埃《ほこり》で埋まりかけていた。志狼がここを出てからまもなく、一族そろって出立したとみえた。今ごろはもう遠国《おんごく》の空で、陽気に舞っているのだろう。どんなに息をこらしてみても、人の気配を見つけることはできなかった。
志狼はさすがに呆然《ぼうぜん》とした。葛葉の着物を手に入れる、そんなことを考えていたのさえしばしは心からふきとんだ。まだのこっている人間らしい部分が、衝撃を受けたのであった。皆はどうした。どこへ行ったのだ。神霊を受けつぐ土地をすてて、どこへ。
志狼は地を蹴った。走り出していた。どこへ?
見上げる山頂にしずもる、葛城の最長老、ばばさまこと葛城の白専女《しらとうめ》のほこらへ――。
なにを求めていたのか――志狼にも、判然とはしていないのだった。
里に生まれた者の本能というべきか。白専女とは、大先達役行者の生母にして、二百年の昔からこの里に大長老として在り、時代がうつり、長《おさ》は次々いれかわっても、かわることなく山頂の御堂に籠《こ》もって祈念をこらしているとされている。
神通広大、天地に関して、知らぬことのないというおばばさま。かの女さえ残っていれば、この事態のどういうことかを問いただすことができるだろう。
いや、そんな考えさえ、志狼の頭のなかにはなかった。ただ、永遠にそこに盤石としてあると信じていた場所が、突然ふっと失せてしまった心細さに浮き足立ったといえるだろう。
逸る足はいつしか空を駆け、飛鳥のように堂の前に舞いくだったときには、つねになく額に汗を浮かべ、息をきらせていさえした。四方に張り巡らした注連縄《しめなわ》の、一方だけがきれているのは志狼がここを旅立つとき、し置いていったままだった。
「おばば! 白専女のおばば!」
そう叫びながら近づこうとしたとき、木陰に鎮座する御堂のまえに、枯れ木をくみ上げたようなものがあるのが目にはいった。
護摩壇の準備か。駆けよって、よく見定めようとしたとたん、それが突然、聞き慣れた深い声で口をきいた。
――おまえは、今、ここに近づいてはならぬ。
殴られたように志狼はうしろへさがった。
「おまえ、おやじどの――大角!」
「白専女――さま」
葛葉は、おずおずとくり返した。どことも知れぬ、青い光の充《み》ちる場所で、かの女はあでやかな貴婦人と向かい合っている。
ゆらゆらと揺れ動く光、どうやら、はるか高くて見えぬ天井は、水の底でもあるらしい。鳥が舞うように、流線型の影がからだをかすめて過ぎていく。
「でも――あなたさまは、まるで――」
――妾《わたし》が、どうしました。
淡い笑みをふくんで、白専女は小首をかしげる。
――妾は、誰かに似ていますか。
「は、い――」
このようなことがあろうとは想われなかった。葛葉はおののく胸をおさえて、目の前でほほえむ貴女の顔をまじまじとみつめた。そこにいるのは、どう考えても、あのおそろしい女主人、鳴滝いがいの人であるはずはなかった。
目もとといい、ふっくらした小鼻といい、品のよい口つきといい――どれひとつ、違っているものはない。何度見なおしても、葛葉には、鳴滝その人と向かい合っているとしか思えないのだった。
ただひとつ、笑みだけがちがった。鳴滝の笑いは、いま向かい合うこの人のような、すべてを包み込むあたたかさなど持ち合わせていなかった。
鳴滝の目がおそるべき深淵《しんえん》、ひとたび見つめられればその底へなすすべなく墜《お》ちるしかない暗黒であったのにくらべて、この人の眸は、星をいだいた夜の空であった。そのまなざしのもとにいると、はしから少しずつ肉体がほどけ、なにもない虚空に漂うようなやすらぎと安堵《あんど》が感じられた。
いつのまにか、葛葉は、合掌して貴婦人の前に跪《ひざまず》いていた。白専女は優雅なしぐさで頭をめぐらせ、葛葉にむかってまっすぐ座った。鈴が鳴った。この人の頭にも手にも、鈴がかざられていることに葛葉は気づいた。動くたびに、それらは金の砂に似た音をふりこぼして貴女のうごきをいろどった。
――よくもどってきましたね。妾は、あなたが来るのを待っていたのですよ。
「待っていた――とは、どういうことでございましょう」
ふるえる声を励まして、葛葉はいった。
「わたしは、身よりもなにもない、いやしい遊女《あそびめ》でございます――生きるために身を売り、術をつかって、けがらわしい所行をかさねました。暗い陰謀に加わりもいたしました。そのようなわたしが、どうしてあなたさまのようなお方に待ってなどいただけますか。ここへ来るさえ、わたしは、志狼さまのお手にすがらねば、決してたどりつけなかったに違いありませんのに
――いいえ、あなたは、来るべくしてここへ来たのです。ご覧なさい。
白専女は座をずらして、祭壇の上におかれたものが葛葉にも見えるようにした。葛葉はおずおずと目を上げ、金色の光さすそれを目にして、はっと息を呑《の》んだ。
それは、一箇の白玉。
いや、裸で横たわる、幼い女童《めのわらわ》の目をとじた顔であった。
そして周囲をとびまわる、蛍のような金色の光。
そのうちひとつが女童の口に吸い込まれ、消えた。
と、童の瞼《まぶた》が、かすかにふるえた。全身が波打ったように見え、壇からたれさがっていた髪が下へ流れ落ちた。髪が伸びたのである。ふっくらとしていた手足が、ほんの少し、細く長くなったようであった。成長している。育っているのである。
「この、金色のものは――」
――それは人の、精気の精髄。
端座して、白専女はしずかに答えた。
――あなたたちは、あまつび[#「あまつび」に傍点]と呼んでいるようですね。
あまつび……、とくり返して、あっと葛葉は口に手をあてた。そこへ貴女のおだやかな声が、無情なまでに追い打ちをかけた。
――あなたは、人々から飯綱があつめたあまつび[#「あまつび」に傍点]を、どうしているのか考えたことはありませんでしたか。
声もなく葛葉は崩れおちる。金の光が舞う、人の命の髄からとられた光が。
「どうして」
葛葉は声をふりしぼった。
「どうして、このようなことをなさるのです。どうして、このようなことをわたしにお見せになるのです。それではわたしが、生まれたところこそがここであったのですか。わたしはこうして生まれたのですか。人の生命を吸い、奪われた精気をのみこみ、父も、母もなく、人ですらなく……」
志狼にあうまえの、いまわしい自分、人をさそっては飯綱に喰い殺させてあまつび[#「あまつび」に傍点]を奪っていたのは、ただこうするためのものだったのか。生命をすすって成長する娘、その養いのために、食物を集めて供するための。
美しくやさしげなこのお方も、やはり内面は鳴滝さまと同じことか。このようなむごい、おそろしいことを、なぜそれほど平然とした顔で眺めておられるか。たったいま、眼前で、人が喰い殺されつつあるにひとしいものを――
やはり、わたしはけがらわしい娘だったのだ。志狼さまのそばにはべるなど、許されない妖物の子であった。あの方が鬼ではない、わたしこそが、鬼の生まれ。髑髏から生まれた童子がおそろしくもなく、なんとはのう、親しみさえも抱けていたのは、自分の生まれが、童子とさして変わらぬためであったのか。なんという、情けない、恥ずかしい……
――いえ、お聞きなさい、葛葉。
りんと涼しい声が言った。
泣き伏した葛葉は、うたれたように頭をあげた。
貴女は慈母の顔をして、そっと葛葉を膝へ引き寄せた。抗《あらが》おうとしても抗えず、葛葉は良い香りのするやわらかな膝にすがって、しゃくりあげた。
――お聞きなさい、可哀想な娘。
本来ならばあなたのような娘は、殺されてむりやり抜かれた精気で育てられるのではなく、自然の精をそのまま身に受け、五十年、百年、何百年の余もかかって練りあげられるはずなのです。けれどあなたが、あのように辛い目にあわなければならなかったのには、ある特別な、理由《わけ》がありました。
「理由……」
ふっくらした手で髪を撫《な》でられながら、細い声で葛葉はたずねる。
「その、理由とは、なんでございますか」
鈴をならして白専女はうなずいた。
――それには、役一族、いえ、はるか昔、遠いところからこの国へ渡ってきた、われら一族の話からはじめねばなりません……
「おやじどの――いったい、その姿は」
――寄るな。
走り寄ろうとした志狼は、一喝されてびくりと足をとめる。もえるような父の目が、それ以上寄るなと威嚇していた。なすすべなく志狼はたたずんだ。
白専女のこもるという御堂の前である。白く陽光が照っていた。したたるような緑のなかで、葛城役里《えんのさと》の長、大角の肉体は黒く皺《しわ》びていこうとしていた。結跏趺坐《けつかふざ》したまま入定した、僧侶《そうりよ》の死骸《しがい》のようであった。その中に、残った片目が炯々《けいけい》とひかって容易に息子を近づけなかった。
――もはやこの中に、白専女さまはおられぬ――また、おられたとしても、おまえには会う必要はない。
「なぜ」
かっとして、志狼は身を乗りだした。
「なぜ里の者が誰もいない。みな行ってしまって、なぜおやじどのだけ残っているのだ。しかも、そんな姿になって」
――あいかわらずな。今帰ったの挨拶もなく、自分のいいたいことだけ抜かすわ。
ちぢかんだ唇がゆがんだ。苦笑したようである。
――父が子に、最後にひとめ会いたいとのぞんではいかぬか。
「最後。なにが最後だ。病でもしていたか。俺にはひと言も、そんなことは言ったこともなかった」
――言ってはいない。病などではないのだからな。一族の、ここでの役目が終わったのだ。あたらしい小角が生まれた。
――小角は封じられるであろう。小角を生み出すのがわれらが一族のこの地での仕事であった。小角は生まれた。もはやこの地に、われわれのいるべき用はない……
「小角だと。それは、誰だ」
――それは、おまえだ。志狼、いや、小角……
――この世は、生命の渦巻く大きな河のようなもの……
むつまじい母娘のように身をよせて、葛葉は白専女の語る言葉を聞く。
――そのなかには、さかまき争う激流もあり、よどんで濁った淵もあり、生きているものたちの造りあげるさまざまなうねりがあります。
われらが一族は、そうした大きな生命の流れが、絶たれたり、枯れたり、乱されたりしないように、調え見守るのが役目です……
「大きな生命の流れ……」
なかば夢うつつになりながら葛葉は、
「それは……この、頭上に流れている、大きな河でございますか……?」
――あなたには、そう見えますか。
白専女は、おだやかに笑って、
――そうでもあるし、そうではないともいえます。あなたも、妾《わたし》も、そうした流れがあやなした小さなもつれのひとつにすぎないのですよ。
――も、ときには、流れの渦巻くうちに、流れそのものを破壊してしまうような、大きな渦が、できてしまうこともある……
――それが、〈おづぬ〉――
「小角……?」
――〈おづぬ〉は、自然の精気が凝《こご》ってうまれる、純粋な、力のかたまり、この世に宿る、霊力の化身……
どこから声を出すともわからぬのに、父大角の深い声は、渓《たに》から吹きあげる風のように、低く志狼の耳に轟《とどろ》くのであった。
――しかし、であるがゆえに、その力の方向、正とも邪とも定まらず、ゆえに流れのすえを乱し、ひいては、生きてあるべきいのちを害し、苦しめることにもなりかねぬ……
「〈おづぬ〉……小角、それが、俺だというのか。俺は鬼になったと思った。だが、そうではなかったのか? 俺は鬼でもなければ、人でさえもなかったのか?」
――小角が、人で在れば、よい……
大角の言葉はあくまでも静かに、しだいに神さびてきて、
――小角を人に、人のがわに立つものにしておくのが、われら一族の、さだめ……
――この地で、最初のおづぬができたのは、寧楽《なら》に都がまだあったとき、高天原《たかまがはら》を奉じる一族と、今来《こんらい》の神を奉じる一族が、あい争っているころでした。
記録上、役行者小角の生年は、舒明《じよめい》天皇の六年、六三四年とされているが、それも伝説であって諸説一定しない。しかしどの逸話を見ても、ごく幼少から超人的な能力を発し、聡明《そうめい》で知恵深く、額に小さな一角があったとされている。
――その争いの気に感じたのか、生まれた、角のある赤子、小角。
放っておけば、力の大きすぎるがために、いつか、滔々《とうとう》とおだやかたるべき生命の大河を、ゆがめてしまうかもしれぬ、巨大な力――
――その力に、手綱をかける役目をしたのが、白専女、当時、小角の男の、生みの母であった娘。
――不羈奔放《ふきほんぽう》、自分自身以外のどんな者にも、縛られなかった小角のただひとつの弱み、母への愛情を鎖にして、妾たちはこの地の最初の小角を縛りました。
逸話に語られる小角は、いずれも母白専女に対して孝養をつくしているように描かれている。若いころには修行をこころざしていったん母を置き去ったが、かの女を忘れることはなかった。のちもとの弟子|韓国連広足《からくにのむらじひろたり》に讒言《ざんげん》せられて捕縛されそうになったとき、宙を飛び風を呼んで、なかなか肯《がえ》んじなかったが、母を人質にとられると、たちまち自分からやってきて堂々と「役優婆塞《えんのうばそく》行者小角、参内」と叫んだという。
その後大島に流されても、夜な夜な空を飛んで故郷|茅原《かやはら》村の母のもとに通って世話をし、最後には、母を鉄の鉢に乗せていずこかへと飛び去ったという話もある。たとえ天皇の命であろうと、意に染まなければ耳を貸さぬ小角を、従わせたのはただ母への愛慕の念であったのだ。
――そして今また、世の乱れる気配、都にどよめく憤怒《いかり》、呪詛《のろい》、憎悪《にくしみ》……
――すでに第二の小角はめざめ、手綱をかけるものが必要なのです。あなたは、まだ完全には育ちきらないうちにここから出されて、大きくなったけれども、それでも、あなたは……
「い、いいえ、いいえ、いいえ」
まっさおになって葛葉は立ち上がっていた。
「それでは、第二の小角とは、ほかでもない志狼さま、わたしは、あの方を、あの自由奔放な方を、縛りつけるためにいる女だと言うのですか。いいえ、そんなこと、あるはずがありません、信じるわけにはまいりません!」
――それでも、そうせねばならぬのです。
俯《うつむ》いた白専女の顔は、さだかには見えなかった。
――そうするために、われわれ役一族の女はいるのですから。遠い国から流れてきて、この国に住みついたときからずっと、妾たちは……
「いいえ、いや。いやです……」
ちぎれんばかりにかぶりを振って、葛葉は、うずくまってしまった。
絶えいるようなすすり泣きの声がしばらく続いて、白専女も、かける言葉がないのか、膝の上に手を置いたままじっと俯いていた。葛葉を、あわれみ深く見つめるその目がしだいしだいに、翳《かげ》り、暗く沈んでいった。朱《あか》い唇がかすかにひらき、そこから、ふ、と笑いがもれた。
――ふ。ふ、ふ。ほ、ほ、ほ。はははははは。
いきなり、雷鳴のような笑い声を浴びせかけられて、葛葉は跳ね起きた。その前に、白専女が、胸をそらしてすっくと立った。喉《のど》をそらして高らかに笑う、その声、その表情、葛葉はあっと息を呑《の》む。
「あ、あ、鳴滝、さま……」
『ほ、ほ、ほ、哀れやの葛葉よ。ようようおのれの身の上、さとったかえ』
毒々しいその笑みはまさしく、妖女、鳴滝。
『ここな葛城の、夢の奥宮、ここからそなたであるものをさらったものこそ、わらわぞえ。そなたが役一族の、あまりに勝手な仕業の餌食にならんとしているのを見かねて、救うてやろうと思うたのじゃえ。
好いた男に近づくのが、まことは、その男を搦《から》め捕《と》り、愚にもつかぬふぬけに仕立てるためであろうとは、己は知らぬ運命とはいえ、哀れでならぬと思うたゆえにのう。ただし救うた礼として、食い扶持《ぶち》は自ら稼いでもろうた。いささか仕事にも召し使った。ありがとう、思うてくれるであろうのう』
ただ表情が変わるだけでここまで変わるものか、白専女の、清らかな気品はすっかり消え失《う》せて、巫女《みこ》の浄衣《じようえ》も、緋《ひ》のいろがどこか血のぬめりを帯びたような。
しかし、白専女はどこへ行ったのか。あのたおやかな、やさしい貴女は、ただこの鳴滝のはかったたぶらかしであったのか。恐怖のあまり足が立たず、その場に膝をついている葛葉の、無言の疑問に答えてか、ひときわ高くからからと笑って、
『したが案ずるな、のう葛葉よ、そなたの心はわらわにもようわかる。
誰がわが息子を、策でからめて飼いならしたいものか。誰がおのれの愛《いと》しい男を、手練手管で檻《おり》にいれたいものか。小角は自然の精気の王、もとより誰にも縛られず、破壊なり、創造なり、心のままになす神子《みこ》じゃ』
鳴滝の顔がふっとくもる。冷酷無惨のその顔に、ほんの一瞬、貴女白専女のたおやかな、憂いにみちた顔つきがもどってくる。こちらを見やったその目のやさしさ、悲しさ、それは、この鳴滝と白専女、別のものではなくただ一枚の紙の裏表であることがはからずも理解されて、葛葉は思わず胸をおさえた。
『その奔放、その強さをこそ愛しながら、わが勤め、それが運命のひと言で心を縛り、愛しい男を、牙をぬかれたただ人に、おとしめつづけてきた女たち。
その女たちの、涙が産んだものこそわらわよ。葛城の白専女、それを産むべき血脈《けちみやく》の女が、外に出た血のものに犯された、血の濁りが入り込んだそのときこそ、これまで積み重なってきた女たちの、恨みが形をなす千載一遇の機会であったのじゃ。
そなたにはいま少し、してもらわねばならぬことがある。こちらへおいで、葛葉』
鈴をつけた手がこちらへ伸びる。葛葉は後ずさりした。
『こちらへおいで、葛葉。さあおいで。来いというのに』
手が、足が、わがものでなくなるような恐怖感と脱力感に、葛葉はやにわに後ろをむいて、あとをも見ずに駆けだした。もときた階段をいっさんに駈《か》けのぼるかの女を、高い笑い声がどこまでも追いかけてくる。
『無駄じゃ、無駄じゃ、逃げても無駄じゃ……』
耳をふさいで葛葉は駆ける。かたくとじた瞼《まぶた》から、涙が、とめどなく伝っておちた。
「小角が人であれば、どうだというのだ。それに女が、どう関係してくるというのだ。いえ! おやじどの。言ってくれ!」
大角は答えなかった。枯れ木のようなからだはすでに命をなくしたもののように、ぴくりとも動こうとしなかった。志狼は焦《じ》れた。
「おやじどの!」
大角の頭がゆっくり垂れた。
唇がひらき、かれはたしかに、なにかを息子に言おうとしたようだったが、それが声になるよりさきに、開いた口から、ごうっと音たてて炎がふいた。
顔を炎にあぶられて、とっさに飛びすさる。灼《や》かれるのはまぬがれたが、乾ききった父の肉体は荼毘《だび》にふされたかのように見る間に炎につつまれた。
「おやじ! おやじどの!」
――たとえ手もとに置くことかなわずとも……あとを継がせ成長を楽しみにすることのできぬとも、わが息子、わが妻の子……
炎のなかからかすかな声が、
――たとえわが命果てることとなっても……最後に、告げるべきことを告げておきたかった。
――許せよ……
どっと炎が渦巻いて、それが、志狼が父の声をきいた最後となった。
「ほう、よう燃える、よう燃える」
後ろから、ひょうげた男の声がして、志狼ははっと振り向いた。
「いかに葛城の里長といえど、鳴滝様ご丹精の厭毒《ぶす》をしかけられては、このざまか。……里人を逃がすのが精いっぱいで、自分の身を守るまでは手がまわらなんだと見えるわ。愉快、愉快、己を護摩壇の護摩木と化すとは、おのれ修験者|冥利《みようり》につきるて」
「きさま!」
「おう怖や、怖や」
ひょいとひと足飛びさがったのは、四角い顔、踏みつぶしたような短躯《たんく》の、蟹のようにひらたい男であった。肩のところに小鼓《こつづみ》をのせており、飛んだ拍子にポンと鳴らした。
と、空中を銀の何ものかがよぎり、小鼓のうえでたわむれた。細長い、赤い目をした鼻のとがった獣――飯綱。
その鼻先にちらりと陰火が踊るのを見て、志狼は、ものも言わずに地面を蹴った。ふりあげた足が空を切り、一瞬まえまで男の身体のあった空間を音たててよぎる。
宙返りして避けた男は、なにもなかったようにくるりと地面に立つと、にやにやしてまたぽんと小鼓を鳴らした。
「ま、そう急くな。いささかじっくりと、言うてきかしたい話もあるでな」
「きさま、何者だ。なぜ、おやじどのを――」
「さあそれが、話よ。名乗ろう。鋏丸という、まず、いまの名はな」
押しつぶされた顔の細い目が、飯綱とそっくりの光をはなった。
「見ての通り、役小角の血筋には、いささか恨みを持っておる者よ」
「……、あ」
はね起きた葛葉は、おびえたように周囲を見回し、胸をいだいて何度もおおきく息をついた。動悸《どうき》がなかなかおさまらない。まるで、長い距離を駆けて駆けぬいたあとのように、全身がだるく、ねばりつくほど舌がかわいている。
かわりない、磐座《いわくら》のなかだった。涼しい空気があたりをつつみ、せまい入り口から、傾きかけた陽の光が、紗《しや》の布のような筋をひいている。
起き直って、衣をかき寄せ、乳房の間を冷たい汗が、筋をひいて流れるのに身震いした。夢。それにしては、あまりにもなまなましい夢であった。いつ眠り込んだのか、どこからが夢で、どこまでがうつつだったか――葛葉にはわからない。
北辰が頭をもたげ、どうかしたかというように、桃色の舌で手をなめた。上の空で首を撫《な》でてやり、ふらつく足を踏みしめて、あの青い光の差してきた、奥の壁あたりに近づいてみる。むろん、光のはいるような穴などどこにもなく、押しても小揺るぎもしない巨岩が、どっしりとそこに苔《こけ》むしているだけだ。
(夢――だったろうか。本当に?)
そう思いきって忘れてしまうには、話のすじが通りすぎている。父も母もないわが身、都で集めさせられていたあまつひ[#「あまつひ」に傍点]のゆくえ、青い光の底によこたわる、金の光にかこまれた女童。思いかえせば、あの光景はどこか懐かしく、確かに一度、自分はあそこにいたことがあったという確信が、鉛より重く胸にしずんだ。
(わたしは、やはり、志狼さまのそばにはいてはならない娘なのだ――)
すすり泣きをこらえて、葛葉は思った。そうだ、夢というなら、この半月のしあわせこそ、夢だと思ってしまうのがいいのだ。わたしは、ここにいてはならぬ。志狼さまのもとを去らねばならぬ。
お山を下りよう。そうして姿を隠してしまおう。この呪われた身でこの地を汚してはすまぬから、どこか遠く離れた場所で、そっと始末をしてしまうがよいのだ。
入り口に、動くものの気配がした。「志狼さま……?」反射的に、そう呼びつつふりかえってしまい、胸がいたむ。
「――あ、童子や……」
しばらく顔を見せていなかった童子が、白い陽光を背に、長い影をひいて立ちつくしていた。新たな涙が、葛葉の目にわいた。夢のなかで告げられたことが事実であるならば、血のつながりはないと思っていたこの童子こそ、唯一の肉親のようなものであったのだ。志狼への想いはかわらぬ、いや、ともにあってはならぬのだと知ってからますます強く身を焦がすようであったが、もう、心の支えは、この童子しかいないのだ。
「童子や、こちらへおいで」
童子は小走りに駆けよってきた。ひろげた葛葉の胸に飛びこみ、小動物のように頭を押しつける。白い髪の毛に頬を寄せて、葛葉は息をころして泣いた。
「ながいこと、一人にしておいて悪かったねえ……でも、もうこれからは、そんなことはないよ。……おまえ、わたしといっしょに、山をおりるかい?」
童子は伏せた目をあげて、じっと姉をみつめた。
なぜ? もいつ? もない、もえるような肯定の念だけのこもったまなざしをうけて、葛葉はついほほえんだ。
「すまなかったねえ、ずいぶんと、さびしい思いをさせたのだろうね。でも、おまえも、少しも顔を見せてくれぬのだもの、……姉やは心配していたのだよ。でも、もうこれからは、またずっといっしょにいるのだよ」
ひたむきな目で自分を見つめる弟に、うたうように葛葉は言った。
「また河原の小屋にふたりで住んで……静かに暮らそうねえ。わたしは笛を吹いて、おまえは、そうだね、舞でも舞うかい。おまえはきれいな顔をしているもの、きっと人様もよろこんでくださるはずだよ」
そうしてこもごも語りつつも、葛葉は、そんなことができるだろうとはつゆほども思えないのだった。
ここを出ても、おそらく鳴滝はなおも手を伸ばして逃がそうとはしないであろう、都へ入れば、検非違使《けびいし》や陰陽師《おんみようじ》が、右大臣邸から消えたあやしい遊女《あそびめ》のことを捜しているであろう、そんな状態で、かの女の口にするような、おだやかな暮らしが営めるなどとはあるはずもない。夢であった。うつつのことを語るはずの言葉は幻よりも頼りなく、このとき葛葉は、はかない己の先の姿を、うすうす感じ取っていたのかもしれなかった。かの女は涙をきっぱりぬぐって、立ち上がった。
「さ、起ちましょう、童子。志狼さまがもどってこられぬ先に、麓に降りてしまいましょう」
文字のひとつも書ければ心を伝え残すこともできように、かなの一字すら覚えない葛葉は、黙って置き去ることになる志狼に何かたよりを残したいと迷ったが、使えるものはなにもなかった。あるのはただ、肌につけた志狼の水干一枚きり。思案して、せめてものしるしにと片袖を裂いてとり、その上に、青々とした笹竹のひと枝を置いた。
「さ、童子」
手を引いて、外へ出ようとすると、北辰がちいさく唸《うな》って前へ出た。ここから出てはならぬといわれているはずと、巨大な体出口をふさぎ、頭で押して中へ押しもどそうとする。葛葉は、歯を剥《む》きかけた童子を制して、そっと北辰のそばへ手をついた。
「北辰や。おまえはかしこい生き物だから、わたしがどうしてここを出ようとしているか、わかってくれるはず」
北辰は唸りやめて、だらりと舌をたらして葛葉を見あげた。志狼と同様、葛葉のことも、主人とみとめるようになっていたが、このときは、ことさら哀願するようなうるんだ目をして、女主人をふり仰いだ。大事な若い主人にとって、この娘がどれほど大事な存在か、ひとならぬ心にも重々わかっていたのであろう。
「わたしは、運命《さだめ》によって、志狼さまを人の鎖に繋《つな》ぎとめる役目を負わされているらしい者、わたしの意志では、そのようなことを決してしたくはないけれども、そばにいれば、どのようにしてあの方に害を及ぼすやらわからぬ。あの方はきっとお怒りになるだろうけれど、おまえからも、よく伝えておくれ。好んでお別れするのではありません、葛葉は、ずっとあなた様のみをお慕い申しておりますと」
巨狼は尻を落とした姿勢で、身じろぎもせず葛葉の言葉を聞いていたが、やがて、ゆっくりと立ち上がって通り道を開けた。
葛葉はほほえみ、世話になった狼の首を強く抱くと、童子を連れて岩屋を出た。ゆるやかな斜面を降りかけると、北辰がそのまま脇について、いっしょに坂を下ってくる。
守るようにそばに従ったその姿に、葛葉は胸の熱くなるのを覚えて、
「送っていってくれるのかい。ありがとうねえ」
思えばこうして、北辰と志狼を左右にし、荒い旋風《つむじかぜ》に抱かれるようにして、山中を渉猟したことであったと思い出されて、また、涙がにじんできた。これから先どうするにせよ、もう絶対に、志狼にあうことはならぬのだ――そう思うと、絶望の思いに目途《めじ》さえ暗くなるようであったが、脇を、跳ねるように歩く童子を見やり、閉ざされかける心を奮い立てた。
――もうこの子には、わたししかおらぬ。わたしにも、この子しかおらぬ。
――今こそわたしたちは、本当に姉弟となったのじゃ。
ことさら強く地面を踏みしめて、葛葉は歩いた。そうしなければ弱い足は、たちまち踏み迷って、しあわせな夢を見た山のほうへと、戻ろう戻ろうとするからであった。
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五 章 夢 幻
足もとで、波がくだけた。
純友は、ぎくりとして起きなおった。潮の香りが鼻をついた。手には太刀を持ち、直垂《ひたたれ》、胴丸鎧《どうまるよろい》に身をかためて、いつのまにか、かれは立っているのであった。
どこに? 波を蹴立ててすすむ、細身の軽い船の上に。
背後には十人近い男たちが、いずれも物具に身を固めて、かけ声勇ましく艪《ろ》をこいでいる。足もとには矛、槍《やり》、網に鉤縄《かぎなわ》、大太刀、さすまたなど、武器がおびただしく横たえられ、頭上にはいく条《すじ》もの幟《のぼり》が潮風にはためく。
波音、風音にまじって、けたたましくきこえる喊声《かんせい》、銅鑼《どら》の音、太鼓の音。はるかに遠く見えるのは、伊予《いよ》の浜辺、そこには、いま純友が乗っているのと同じような剽悍《ひようかん》な、豺狼《やまいぬ》に似た海船が、おびただしくもやわれているはずである。
「御屋形様、獲物が見えてまいりましたぞ」
後ろから、姿の見えぬだれかに言われて、あれに――と指し示すほうを見れば、いつか波の上に、これは喰らい酔った牛に似た大船が、伊予|灘《なだ》の凪《な》いだ海面に、逃げることもできずに浮いている。
形からして、唐、新羅《しらぎ》あたりから、文物をのせて難波湊《なにわみなと》へとたどる船か。御屋形様とは俺のことか、といぶかしむより早く、口はかってに動いて、
「者どもかかれい!」と大号令。
「あれこそ朝廷への貢物を満載した船と見た。さだめし中には金銀珠玉、山ほど眠っているであろう。なにも都のくされ貴族に、おめおめ渡してやることはない。獲れ! 獲れ!女は殺すな、男は縛れ。降伏するやつは一箇所に集めろ。天下の富をば独り占めするやつから、われらがいささかの分け前を奪いとってやるのだ……」
なんだ、これは。どうなっている?
俺はたしか、葛城山《かつらぎやま》に、将門《まさかど》と、若い陰陽師《おんみようじ》と……そうだ、目の前に、小萩《こはぎ》が、女が現れ、それから。
混乱のなかに浮かぶ疑問は、しだいに、おぼろに浮かびあがってくる別の記憶に覆いかくされる。
そうだ、俺は、藤原純友、伊予|前司《ぜんじ》高橋友久の子にて藤原北家良範の養子。
朝廷《おおやけ》より、伊予|掾《じよう》に任じられて周辺に出没する海賊平定の命を受けたが、上の酷税にあえぎ、賊をはたらかねば食ってゆかれぬ民人の難儀を見かねて、いつか自ら、御屋形様と呼ばれて海賊船の先頭に立つようになったのだった――
どうして忘れていたのであろう。手と口では、いそがしく号令を下しながら、純友はいささか茫然《ぼうぜん》とする。
海上では配下の者たちが、手に手にとった鉤縄を投げ、異国の船によじ登ってゆく。ひらめく刀、一閃《いつせん》――絶叫。斬り合い、おたけび、血の臭い――断末魔とともに、真っ逆さまに落ちる死人。
青黒い波にしずむのは、血肉をしたって集まってきた、鰐鮫《わにざめ》どもの群れか。射かけられる矢にまた何人かがつらぬかれて落ちる。船上で右往左往する水夫《かこ》たちの影が、逆光に黒く躍ってみえる。
なぜだかそれがめまいを誘い、船上で、純友が顔を覆ってよろめいたとき、
「御屋形様!」
悲鳴のような叫び声。
愕然《がくぜん》として顔をあげた純友の眼前に、ぎらりと光る、白刃があった。
同じとき、将門もまた、異様な状況にいる自分を見いだしていた。
気がつけば、あたりは暗い室内で、きつい香のにおいが漂っている。将門は気楽な直垂姿、手にしていたはずの太刀は鞘《さや》のまま腰にある。円座にどっかりを腰を落とした、十四、五人の男たちがそこに顔を揃《そろ》えている。
驚きながら見回してみて、将門はそれが、遠い故郷にいるはずの自分の郎党、なつかしい馴染《なじ》みの顔ばかりなのに驚いた。
ただひとり、上座に座っている、公家めいたおしろい顔の太った男には見覚えはなかったが、これはいったい、どういうことなのか――しかしすぐにその疑問は消え、それが、先年から将門のもとに身を寄せている武蔵権守興世王であると知れる。
周囲につどっているのは藤原玄明をはじめ、この下総《しもうさ》にて将門をいただき天下に叛をなそうとするめんめん。弟の将平、将文も顔を揃え、いっしんに、なにかを見守るようすである。
座の真ん中に、一人の女がひらひらと舞っているのであった。
乱れた衣から肩をのぞかせ、黒髪に葛《かずら》を戴《いただ》いたその女は、物狂いのていでけさ屋形のまえに現れ、われは八幡大菩薩《はちまんだいぼさつ》の使いである、この陣の主に告げることがあるゆえ会わせよと告げたのだ。
前年の末、下野《しもつけ》国の国衙《こくが》をおそって国事に使う印鑑を奪い、続いて上野《こうずけ》国府もおそって長官を追放したことを、将門はかすかに思い出していた。
この場にいる主だった者のみならず、屋形に集まっているはずの、多くの兵たちが望んでいることを将門は内心知っているような気がしていた。まるで女は、その密《ひそ》かな望みをかたちにするために現れたようであった。
不気味な汗がにじみ出てきた。なぜこれほど居心地が悪いのかと将門は思った。何か、わるい幻にでも、とらわれているような――
白く光る、人々の目が集中するなかで狂い女ははげしく舞いつづけ、やがて、感極まってばったり地に伏した。
「八幡大菩薩、八万の軍を起こし至尊の位を授ける。左大臣正二位菅原|朝臣《あそん》が表する」
どっと騒ぐ声。歓声。女とも思われぬしわがれた声が、
「天皇の位を、蔭子、平将門に授け奉る……」
残りひとりの、保憲はどうなったのか。
かれは未来を見せられてはいなかった。過去をも見せられてはいなかった。ただの現在、踏みいった山中の路《みち》を、どこまでも走り続けているだけだったが、その道には、果てがなかった。
奇門遁甲《きもんとんこう》とは、本来は兵法の奥義《おうぎ》のひとつであって、中国における伝説上の帝王|黄帝《こうてい》が、魔王|蚩尤《しゆう》を討伐するさいに九天玄女《きゆうてんげんじよ》に三巻の遁甲の書を授かったのが初めとされる。
その後、太公望《たいこうぼう》、また漢の張良《ちようりよう》、三国志に名高い諸葛亮孔明《しよかつりようこうめい》といった名軍師によってつかわれ、味方に大勝をもたらしたが、ひるがえってもし他人がこれを知ろうとすることは、一族みな死罪とされるほどの秘儀秘伝であった。
それを知悉《ちしつ》し、使いこなすということは、鋏丸、なかなかあなどりがたい男であるのはたしかだ。そんな陣にとらわれたことも、しかし、まだ保憲は気づかなかった。気づくまえに、かれの目はふさがれていたのである。
大徳浄蔵の心配したことは当たっていた。さよう、保憲にもむろんこの遁甲の陣の効力は働いていたのだけれども、すでにかれは、未来を見る目をうしなっていた。過去を見る目を自分でとざしていた。志狼に打ち倒された過去、それは、かれにとってとうてい認められぬものだったのだ。
これまで、陰陽道の名流賀茂家の俊才として、また一代の名人忠行の息子として、他人の尊敬をほしいままにしてきた保憲である。さいしょから、気にくわなかった相手、しかも、尊敬していた父が、この志狼という若者に対してはまるでいかれる獅子《しし》でもあつかうようにこわごわとした様子を見せる。
誇り高い心は苛立《いらだ》った。憤懣《ふんまん》をためた。父の語った無惨な過去も、その心をなだめることはできなかった。むしろ、過去のできごとに縛られ、家を傾けかねぬ人間に好きにさせておく父親に、それまで感じたこともない怒りと失望を覚えた。
そうして、そういう失望や怒りは、そのまま志狼にむけられた。高慢にできている保憲の、唯一尊敬する人であった父忠行を、軽蔑《けいべつ》せずにいられぬような卑俗な男におとしめてみせた恨みを、保憲はすべて志狼にふりむけたのだった。
それは保憲にとっては、理不尽でもなんでもない。かれの考える賀茂家は、何よりも気高く、他人に仰がれるものでなければならなかった。
かれの父が若いころ持っていた野心は、それに倍する強さで息子のほうにも宿っていた。保憲にとって、志狼のこの世に存在していることは、自分の顔に乗せられた泥沓《どろぐつ》をそのままにしているような、屈辱でしかないのである。
あの若者を排せねばならない。
時をめぐる遁甲の迷境のなかで、保憲のその想いはますます研ぎすまされ、青くきらめく剃刀《かみそり》のように、危険ないろを帯びはじめた。
志狼を廃さねばならない。
あの鬼を殺さねばならない。
果てなくめぐる迷いの境――。保憲が迷うのは、未来でもなく過去でもなく、いま現在、かれがとらわれている心の迷宮にほかならない。
志狼を廃さねばならない。
――あの鬼を殺さねばならない。
回るたびごとに保憲の殺意は研ぎあげられ、またとない凶器に近づく。
「役一族に恨みだと? おまえ――」
父の死の衝撃からもまだたちなおれぬまま、志狼は身がまえようとする。
しかし体制をととのえる間もなく、高く飛びあがって急襲をさけた。殺気がどっとあたりに渦巻き、さっきまで志狼のいたところには、文字の書き込まれた小刀が四、五本突きたっていた。書き込まれた文字はすなわち『禁』。
「これは」
志狼はぎょっとして目を見張る。小刀の突きたったところから、じわじわと黒い障気《しようき》がひろがり、あたりの下草が白茶けて乾いていく。
「この地の気を『禁』じたのだわ」
かっかっかっ、と鋏丸はわらう。
「水を禁じれば流れることあたわず、地を禁ずれば立つことあたわず、生命を禁ずれば生きることあたわず――ケガレとは、すなわち気枯れよ。これぞわが呪禁《じゆごん》のわざ。きさまを始末し終えたのちは、この恨みかさなる小角めの故地すべてを禁じ、草一本生えぬ気枯れの地と化してやろうわい」
「小角とは、始祖、役小角のことか」
息もつかせぬ勢いで襲いくる小刀の攻撃をあやうく避けながら、志狼は、ようやく言った。いまいましげな声が、
「ほかに、誰がある」
ひときわ強い悪意が志狼の足をすくい、よろめかせた。あやうく踏みとどまるところを、銀毛の飯綱《いいづな》が、牙を剥《む》きだして目を裂こうとした。
身を丸め、後ろに飛びさがったとたん、額に熱が炸裂《さくれつ》した。額の一角がよみがえり、鼓動にあわせて、生き生きとかがやいている。
「おお、その角、きさまもあの思い上がった化け物めと同じ血をついでいるのだな」
ぎらぎらした目を、鋏丸は志狼の角に向ける。
「人ならぬ化け物のくせに、俺にむかってこう抜かした。なんじは肉食せず、婦女に近寄らず、不浄の場に足踏みせず、たしかに優婆塞《うばそく》の行に似たことを行っているが、その実、心は邪佞《じやねい》に充《み》ちている。そのような者に呪《まじない》を教えたとしても、効験を表すことなどできまい。心を改め、真の行を修めることができずばとくとく去れとな。
ようも抜かしたものだわ。三百余日も身近に仕え、こき使われたあげくが、愚にもつかぬ説教か。人をこき使っておいて、術のひとつも伝授せねば賃のかけらも支払わず、そのような恩知らずがあってたまるか。かような人外の者に妖惑されている者どもが気の毒になったから、皆の迷いを解いてやろうと朝廷にうったえ出たものを――」
「待て、その話、聞いたことがある」
記憶をさぐって、志狼は、目を見ひらいた。
「おまえは、まさか――韓国連広足か」
「その通り」
うすく切れ込んだ唇を開いて、鋏丸、いや、かつての役小角の弟子、韓国広足はにやにやとわらった。
韓国連広足は七世紀の人で、役小角を呪術の師とし、のちに小角を朝廷に讒言《ざんげん》してとらえさせた人物とされている。『佞奸《ねいかん》邪知の痴者《しれもの》』で、『貪欲《どんよく》の心あくまでも深い』人物であったかれは、行者をしたって人が集まるのを見てうらやましくなり、自分も術を身につけて人に敬われ、財宝を得たいと考えたのだった。
しかしその欲深い心を行者に見抜かれ、師のもとを去ったのちは、恨みの心をつのらせて朝廷にうったえ、『小角は妖術をもって民衆を惑わし、謀反をそそのかしている』と讒訴したが、けっきょく母を人質に取られた小角が、自ら姿を現すまで誰にもつかまえることができず、率先して追求の先頭に立とうとしていた広足は、さんざんに面目をうしなったのだった。
「その広足がなぜここにいる。とうの昔に行者は神去《かみさ》られた。なのにどうして、おまえがまだ生きているのだ」
「あまりに恨みが深きゆえよ。あまりに憎しみ深きがゆえよ」
じりり、と志狼に詰め寄る。
「面目を失い、恥辱のうちに死んだ俺のたましい、年月たっても薄れることなく、中有《ちゆうう》の闇に呻吟《しんぎん》していたのを拾いあげてくだされたのが鳴滝さまじゃ。あのお方は小角のような、恩のわからぬ方でない。お仕えすればそれなりの、応《こた》えを返してくださるお方よ」
「ではおまえは死霊ではないか。それがなぜ、人を化け物よばわりする。魔よばわりするのだ。今ではおまえこそ、魔ではないのか」
「ええうるさい。……もうどうでもいいのだ、そんなことは」
髪を乱して志狼の角をじっと見る。
「俺は俺を馬鹿にした、小角めの血さえ根絶やしにできればそれでよいのだ。……おまえのおやじを殺してやって、ずいぶんと腹も癒《い》えたわ。
鳴滝様は御子の成長が完了するまで待てといわれたが、いざ恨みの相手を目にしてしまうと、やはり待てぬ。お叱りはあとでうけたまわろう。里人どもがいち早く、逃げ去ってしまったのはいかにも惜しいが、なに、きさまを始末してから、ゆっくりと追えばすむこと。まずはにっくき小角の同じ、額に角を持つきさまを親父同様、わが手で燃やしてくれようわい」
「させぬ!」
志狼の角が白光をはなつ。息を吐くごとに、雷電のごとき一閃《いつせん》が広足の鋏丸をうったが、すかさず放たれる呪文と禁呪符が、光を打ち消してしまう。弾《はじ》きとばした禁符があたりに樹林に飛びこみ、木々が茶色く枯れだした。
気枯れ地がじわりとあたりを浸食する。このままではあたり一帯、枯れ木の林と化すであろう。さすがに、志狼に焦りがわいた。
「北辰! 北辰、来い!」
葛葉の守りにつけていた犬神を呼んだ。いつもなら、呼ばないまでも志狼の危機を感知すればすぐ駆けつけてくれる神狼は、だが来なかった。いつにないことに、一瞬注意がそれた志狼の足を、鋏丸の投げた小刀が貫いた。
足が禁ぜられ、たまらずどっと地面に転がる。足を禁ぜられては立つことができず、動くこともできない。
手だけではね起き、飛ぼうとしたが、すかさず飛んだ第二、第三の刀に両手首を縫われた。傷だけ見れば、とうてい志狼の動きを止められるようなものではなかったが、腕が禁じられてはもはや切りとられたも同然。
「は、は、見たか、え、見たか。きさまなぞの教えを受けずとも、俺は、きさまに負けぬ術を身につけたぞ、小角よ。小角よ、見たか、見たか」
躍り上がって、大角であった燃えがらを踏みにじる。黒い煤《すす》がまき散らされ、志狼の頬にもついた。やめろ、と叫んだが、叫べば叫ぶほど鋏丸は踊りまわった。
くやし涙があふれた。さして親しい父ではなく、抱かれたことも、甘えたことも、ないに等しい遠い父親だったが、この最後のときになって、死を間近に覚悟しながら待っていてくれたことが思いがけないほどに志狼の心を動かしていた。
鉛のような腕はひくりともせず、もがくだけて身動きのできなくなった志狼に、鋏丸は、悠然と近づいてきてしゃがみ込んだ。
もうその目に、志狼とかつての師たる役小角の区別はついていないらしい。血走った目を志狼の面上にすえて、はばかりもなく大笑いした。
「愚かな。俺がただあてもなしに、禁符の刀を周囲へとばしていたと思ったか。きさまの力は葛城の、この地そのものから出ていることはとうに承知よ。土地が枯れれば、きさまの力も弱まる。うかつであったな、小角よ」
「俺は……小角では……ない」
そこだけが動く頭をもたげて、志狼はやっといった。全身がしびれて感覚がない。北辰はまだ姿を見せなかった。もしや、何か……と思うにつけて、かれが守りについているはずの葛葉のことが、気も狂わんばかりに思われた。
「おまえ……北辰を……どうした。俺の……友だ。葛葉、は」
「葛葉か。そうよなあ、きさまは、あの娘にほれているのだよなあ」
もう動く力もないと見たか、警戒もせずに広足は肩に手を伸ばした。その手には飯綱が、銀色の紐《ひも》のようにまつわっている。真っ赤な口がひらいて、涎を滴らす牙がのぞいた。
「ならばよいことを教えてやろう。あの娘を女にしたのは、この俺よ」
志狼は大きく目を見ひらいた。都でのことを、あからさまに聞いたことのない志狼ではあったが、葛葉が、どんな日々をあそこで過ごしていたかは知っている。
「最初はいやじゃと泣きもしたがの、……じきに術がないのがわかって、楽しむようになったわい。楽しむようになったわい。根が好きな女じゃでのう、きさまも精々たのしんだであろう、俺の仕込みじゃ、良くなかったはずがない」
志狼はだまって見返しただけである。もはやそれが、負けを認めたものの静けさだと考えて、広足はますます饒舌《じようぜつ》になった。
「それとも、良くなかったとぬかすか? はてさて贅沢《ぜいたく》な餓鬼めじゃのう。まあ良い、せめてもの情けにの、あの娘が使っていたのと同じ飯綱でとどめを刺してくれるわい。ほれ、こうして、飯綱にここを食いちぎらせてのう。娘の歯に喉を食いやぶられる気分で、精々幸せに死ぬるがよいわ」
飯綱が志狼の喉笛《のどぶえ》へ飛び下りる。剥《む》かれた牙が、志狼の喉へ埋まると見えた瞬間、志狼の額の一角が、あたりを白く塗りつぶしてかっと強烈な光をはなった。
全山が震えた。飯綱はその場で灰と化して四散した。ぎゃっと声をあげて広足は後ろへのけぞる。手と顔の半面が焼けただれ、黄色い骨が見えていた。生きたものではない紫色の肉がとろけて、青ざめた血が衣をそめた。
志狼はそのまま肩と胴体をはねあげ、磨きぬいた刀のようにひらめく一角を、広足の灼《や》けた眼窩《がんか》にずぶりと突き刺した。
泥の中からわめくような断末魔であった。とろけかけた肉からあぶくが弾けて呻《うめ》き声をあげ、広足であったものはその場でぐずぐずと崩れて、腐臭をたてる泥の堆積《たいせき》と化した。
術者の死とともに、手足を縫いつける禁符のついた刀子《とうす》が崩れて消えた。血の流れる手足をかばいながら、志狼はようよう立ちあがった。
一瞬からだをつらぬいた怒りが、まだ熱く燃えていた。葛葉を女にしたということに怒ったのではない、かの女を、おとしめることは志狼にとってこの世でもっとも許せぬ罪であった。
父大角の焼けた灰が、手にも顔にもついている。今の絶対の危機には、父が合力してくれたようにも思えた。父のいたその場所は、かき乱されてただ薄黒い煤のあとしか残っていない。しばしそのそばに佇《たたず》み、志狼は、父が最後になにを言おうとしたのかと思った。
――〈おづぬ〉は、自然の精気が凝《こご》ってうまれる、純粋な、力のかたまり、この世に宿る、霊力の化身……
それが、俺か。志狼は手をあげて額の角にさわった。今の力の余波をのこして、角はかすかに振動している。仄《ほの》かに光を放っている。
――その力の方向、正とも邪とも定まらず、ゆえに流れのすえを乱し、ひいては、生きてあるべきいのちを害し、苦しめることにもなりかねぬ……
――……小角を人に、人のがわに立つものにしておくのが、われら一族の、さだめにして、運命……
さだめ……、運命……、運命とはなんだ。俺はおやじのいうことをきいて、都へ行った。都で葛葉に出会い、恋し、その恋によってこの角を得た。
ではそれもまた、運命によって定められていたというのか。そんなはずはない。葛葉と出会うのが決められていたことであるなど、そんなことは、あるはずがない……
だが、父は、大角は――。
動くことも忘れて、しばらく立ちつくすうちに、後ろで、何者かががさりと音をたてた。
あたりに気をくばることを忘れていた志狼は、はっと見返った。繁みの間から、見慣れた白い斑点《はんてん》のある頭が突き出されてきた。
「ああ、北辰……」
ようやく来たか。遅かったことより、無事に顔を見せた安堵《あんど》に志狼はほっとしたが、すぐに、驚愕《きようがく》のあまりに声をしぼって走りよった。
「北辰! どうしたのだ、その怪我は!」
頭だけ見せて、北辰は力つきたように崩れ落ちた。
志狼は太い首を抱き上げ、声を励まして呼びかけた。「北辰!」
無事なのは頭だけで、巨狼の首から下は真紅に染まっていた。胸といわず腹といわず、めった切りにされていて、おびただしい血が抱きかかえる手の間からも地面にしたたった。ここへたどり着くまで必死で這《は》ってきたらしい、長い血のあとが麓のほうからずっと続いていた。
「北辰、しっかりしろ北辰! 葛葉はどうした? 何があった? いったい誰が、こんなことをしたのだ、北辰!」
長い桃色の舌を垂らして、北辰は荒い息をした。ぬれた瞳《ひとみ》でうったえかけるように志狼を見上げ、かすかな鳴き声をあげて、ごとりと頭を落とした。
「――北辰!」
幼いころからの友を抱きかかえて志狼は声を上げた。どんな人間よりも近しい友人は、志狼の膝の上でゆっくり重くなっていった。
父につづいて、北辰までも失い、志狼の心はいっとき麻痺《まひ》したようになった。けれどもじっとしているわけにはいかない理由《わけ》がある。葛葉はどうしたのか。北辰は、かの女の護衛につけておいたはずである。山中のどんな獣、どんな人間も、敵するものでない北辰がこうまで傷つけられるとは。北辰は、主人の命令を守って戦ったあと、急を告げに傷ついた身体を引きずってここまでやってきたに違いなかった。
都の追っ手か、それとも――。崩れた広足の死骸《しがい》をちらりと眺めて、志狼は重い北辰のなきがらを、父の身体の痕跡ののこるあたりへ抱いていき、そこへ降ろした。
葬る暇が今はないことを無言で詫《わ》び、血まみれのたてがみを撫《な》でて、身をひるがえす。北辰ののこした血のあとをたどって、志狼は山肌を駆けくだった。
志狼が里で鋏丸の広足と対峙《たいじ》しているのと同じころ、葛葉は童子を連れ、北辰につきそわれて山道をくだっていた。
志狼を思うたびに歩みはためらい、足の置きどころもおぼえなかったけれども、しいて歩を進める姿は決意に充《み》ちていた。
――わたしは、志狼さまのためにしつらえられた罠《わな》。二度と、志狼さまに、近づいてはならぬ……
そう思うたびに、涙で目のさきは虹色にかすむけれども、そのたびに、手をつないで歩く弟の童子の手を強く握りしめて、そんな心弱いことでどうする、と自分を叱る。
鳴滝さまがわたしの前にお出ましになった。いずれ、小萩や鋏丸、あのいやな袴垂もあらわれて、わたしをつかまえに来るだろう。
わたしはつかまえられても、もう何もかまうことはないけれど、あわれなのはこの童子。
ふびんな子……、この子もまた、あのお方の復讐《ふくしゆう》のために、つくられた子なのだ。あどけなく、折りとった草を振りまわしながら跳ねて歩くその様子はまったくむじゃきなものなのに、御方さまは、この子にいったい何をさせようとお考えなのか。
――わたさない。
童子が、いぶかしげに姉の顔を見上げたほど、きつく葛葉は弟の手をにぎりしめた。
この子は、わたしが守ってみせる。この子は、わたしの弟だもの。
誰が来ようと、わたさない。小萩だろうと、鋏丸だろうと、――鳴滝さまそのお人であっても、必ず、いのちにかえても、童子は守ってみせよう。
生き身を引きはがされるような思いで、一歩一歩志狼から遠ざかりながら、葛葉は、その思いにしがみついた。そう思っていなければ、たちまち崩れてしまう弱い自分をささえていられないのであった。
しかしそこには、不思議な爽快《そうかい》感もあった。
――思えばわたしは、今まで一度も、自分の考えで何かをするということがなかった。
裸足《はだし》の足のうらに土を感じながら、葛葉は思った。
物心つくころにはすでに鋏丸に飯綱を教えこまれ、言われるままに身体を売り、鳴滝さまが来てからは、操り人形そのままに着飾って、呪法の代にこの身を捧《ささ》げた。志狼さまに救われるそのときも、わたしは、泣いてばかり、あの人の手にすがるほかは、なにひとつ、しようともしなかった……。
でも、それはもう終わりだ。土を踏みしめる葛葉の足に、自然と力がこもった。
今わたしは、自分の心で、自分の意志で、志狼さまから離れようとしている。
それは志狼さまを、守ろうとする心からだ。守られるばかりでなく、わたしがあの人を、守ってあげたいと思ったからだ。
その考えは、葛葉にとってあたらしい発見であった。いつも誰かに利用され、動かされつづけてきた葛葉にとって、自分が人に何かがしてやれる、守ってやれるなどというのは思ってもみない事柄だった。
(わたしが、志狼さまを守る。わたしが、童子を守る)
それは自分が、生きていることを発見するのに等しかった。人は、人とのかかわり合いのなかで、生きるものである。これまで、一方的に他人のつごうにばかり流されて生きてきた自分は、本当には生きているなどというものではなかった。
今、わたしは生きている。自分のおもいで行動を選び取ることができるということを、わたしは知っている。
夢のなかで、おだやかな貴女から荒々しい妖女へと変貌《へんぼう》した白専女《しらとうめ》を思う。
おそろしさに身がふるえるのに変わりはないが、あれと同じ姿は、自分のなかにも秘められているのだと、わかった。
一族のさだめに縛られて、生きることもできず、泣くしかなかった白専女たち[#「たち」に傍点]、そのねじ伏せられた涙のしずくが、枉《ま》げられた枝がはじけるように、あの鳴滝を生んだのだ。自分たちに忍従を強い、生きることすら許さなかった、一族と、その一族のささえる世界を呪う、冷酷な妖女を――。
でも、わたしは呪わぬ。
わたしは志狼さまを守る。童子を守る、そう決めた。
それは志狼さまが志狼さまであれるように、童子が童子であれるように、この世を支えていくことだ。
それは、この世を壊すことにはつながらない。むしろこの世を平らかに、いく久しく、保っていくことにつながる。
そこが、いとおしいものたちが生きていく場所なのであれば、わたしにとってもそれは、なににも代えていとしい場所となる……
「童子や」
そっと肩を抱いて、いった。
「わたしたちは、姉弟なのだねえ」
童子は姉をふり仰ぎ、甘えるように頭を寄せる。弟を抱き寄せながら葛葉は思った。わたしは、この子に支えられていると、ずっと思ってきた。でもこの子のほうでも、ずっと、わたしをたよりに慕ってきていたのだと。
と、そのとき、わきを進んでいた北辰が、ぴたりと足を止めた。
耳を立て、歯を剥《む》き出し、低く唸《うな》る。尋常ではないその様子に、葛葉は、とまどった。
「どうしたの? 北辰。なにか、いるの」
そう言ってから童子を顧みると、これもまた、北辰と同じように、鼻面に皺《しわ》を寄せてひくひくと空気をかいでいた。
遅まきながら葛葉も、そのときになってあたりの異様な雰囲気に気がついた。
風がない。音が消えている。山の風、木の葉のさやぎ、小鳥の啼《な》く声がぱたりととだえて、あたりは、玻璃《はり》に封じこまれたようなはりつめた静寂につつまれている。
(これは)
もしや、鳴滝さまが。
肌に感じる念に、知らぬではない飯綱の呪の気配とあともう一つ、未知の方術のにおいがする。
葛葉は緊張した。おそらくこれは、鋏丸のかけた妖術の陣。
ついに、わたしたちをつかまえに来たか。ふり向くと、歩いてきた山道は変わらずあるが、十歩ほど戻ったところで、宙に吸いこまれるように消えている。すでに術中にとりこまれていることに、葛葉は気づく。
路《みち》の向こう側から誰かが歩いてくる。北辰が唸って前に出た。自分もでようとする童子を背中にかばい、葛葉は、声をはげました。
「そこにいるのは、誰です」
答えは無言。やがて木立のかげから現れたものを見て、葛葉は、身体の力が抜けるのを感じた。てっきり鋏丸か、小萩がうす笑いを浮かべて現れると思ったのに、出てきたのは、上等な童水干に身をよそおった、志狼と同じくらいの年の美童であった。
この方も、この陣に迷いこまれた方か。かわいそうになって葛葉は、
「このようなところで、どうなさいました。お一人で、見たところ、都の方とお見受けいたしますが……」
話しかけようとしたのと、北辰が大きく吠《ほ》えるのとは同時だった。
美童は、唇だけでほほえんだ。その目の、ありえないほどの冷たさに、葛葉は息を呑《の》んで身をひく。童子は姉をおしのけて前に出ようとあがき、北辰は、四肢をふんばって飛びかかる様子を見せる。
「見つけた。鬼の一味」
美しい声で賀茂保憲はいった。
だっと北辰が地を蹴った。止める間もなく、巨狼の牙が、保憲の細首めがけてつきたてられようとする。
保憲は、ふっと笑った。
冷たい笑みを動かさず、袖から取り出した符を、刀印きって投げ打った。
薄い紙が北辰にまといついたと見るや、悲痛な悲鳴が狼と葛葉の両方からあがった。
見えぬ刃《やいば》に一瞬にして全身を切りさかれ、跳ねとんだ北辰は路わきの傾斜を転がって見えなくなった。血煙が草葉を紅にかえた。青ざめてふるえる葛葉に、何ごともなかったように保憲は向きなおる。
「詮議《せんぎ》はのちのことにしましょう。まず聞く。志狼は、――あの、鬼はどこにいます」
平将門は舞っていた。暗黒にとざされた空間で、ゆらゆらと、顔の見えない女にそわれて、手を揺らめかしつづけていた。
女の姿は一瞬ごとに移りかわり、あるときは五衣《いつつぎぬ》をかさねた上臈《じようろう》に、別のときには鈴を手にした緋袴《ひばかま》の巫女《みこ》に、またつぎのときには桔梗《ききよう》の模様の袿《うちき》でよそおった若い女人に、次から次へと移りかわっていく。
そのどれもが、長く見知った懐かしい顔で、それでいながら、一度も見たことのない顔でもあった。見た瞬間にはそれが誰で、自分にとってどういうものなのかたしかに知っているのに、消えてしまうとどうしても思い出せなくなる。
ぎくしゃくと動く手足を、止めることもできない。頭のなかにねばる弄《あめ》を詰めこまれたようで、どうしても筋道たてて考えられないのだった。
(おかしい……、これは、誰だ。どうして俺はここにいるのだ。いったい何をしているのだ……)
周囲を、さまざまな風景がめまぐるしく流れすぎてゆく。子供のころ、裸馬に乗って駆けた東国の原野、都にのぼり、忠平に私淑して家人をつとめていたときの大路のながめ、そして戦場。
やがてあたりは見わたす限り、戦場のながめに覆いつくされる。松明《たいまつ》を手に駆けまわる騎馬の影がくろぐろと踊り、飛びちる火の粉が、泥に踏みにじられた人体をいよいよ赤く染めあげる。
それらの風景のなかに、かれ自身が立っていた。太刀を手に陣の先頭に立って戦い、下知をくだし、怒号しながら戦いの巷《ちまた》を駆けめぐる。
(これは……俺か。これは、俺の……)
『これがあなたさまの、これからたどられる未来』
腕の中で、女がなまめかしく囁《ささや》く。
『これからあなたさまが、ご自分の手で作っていかれる未来。あなたさまの目に映る風景。あなたさまは今それを、まざまざとご覧になっているのでございますよ』
「おまえは……さっきの巫女か。俺に、天皇になれと、説いた……」
女は答えず、あやしく笑んだ。
その顔はたしかに、先ほど現れた八幡の使い女。いやこれは、桔梗。叔父の良兼《よしかね》と争い、ひいては、平国香《たいらのくにか》・源護一族との戦闘を引きおこし、その後の長い闘争にまでつながっていくきっかけを作った女。いや、これは……
「教えてくれ」将門は、喘《あえ》いだ。
「もしおまえがあの、俺に八幡大菩薩《はちまんだいぼさつ》の霊告をさずけた女であるなら、語ってくれ、あのあと俺はどうなった。東国を手に入れ、新皇と名乗り、それから先は。どうなった。教えてくれい」
『お望みのままに』
女はつと手をあげる。戦闘の喧噪《けんそう》が消え、突然あたりは静かになった。真っ暗ななかにひとつだけ、ぽっと明るい部分がある。
『さあ、ご覧なされませ。あれがあなたの、未来の姿でございます』
それは、首であった。
無念と惨苦に、すさまじいばかりにひきゆがんだその死に顔は、将門のもの。
さしも剛毅《ごうき》な将門が、絶叫した。そこに女の、高い笑い声がかぶさる。
『そうです、それがあなたさまのご未来、帝を僭称《せんしよう》し朝廷に弓引いた東国の魔王として、首討たれ、その首は酒に漬けられて、都の市場でさらされるのが、あなたさまの未来……ほ、ほ、ほ、いかがでございます、お気に召しましたかえ?』
かっと目を剥《む》いた将門の首に、女の腕がしなやかにからみつく。首筋に流れた脂汗をぺろりと嘗《な》めあげ、いきなり口を耳まで裂いて、かぶりつこうとした。
とたん、ぎゃっと悲鳴を上げて横へ飛んだ。首の幻影はたちまち消え、女は、小萩の姿にもどってよろよろと立ち上がる。
幻惑を解かれて目をすった将門は、はっとして女の顔を見やりそれが以前、忠平邸に侵入して仏舎利《ぶつしやり》を奪いさった女であることを知って、一瞬にして顔をひきしめた。
「妖怪! 俺をたぶらかそうとしたな!」
『おのれ、きさま、何用あってわたしの邪魔をする!』
小萩がじだんだ踏んで叫んだのは、将門にではなくなにもない暗黒にであった。
『用というのではないがな、まあ、こちらにはこちらの思惑があるのよ』
と、言われたことに答えるように、暗黒に目と、口が開き、野太い声で笑った。
『それにさっきの未来が本当なら、この男、たいてい俺が喰い飽きるほどの、死を生み出してくれそうだからな。――ほう、女、おまえ、身体にずいぶんと沢山《たくさん》、うまそうなものを飼っているのだな』
舌を鳴らした。光るほど白い白目と、分厚い桃色の唇。将門の脳裏に、燃える左獄で自分を襲おうとした、魁偉《かいい》な黒い鬼の顔がうかんだ。
「おまえは……あの鬼の子ふたりとともに、逃げていった黒い男だな」
『そんなことを気にしている場合かな? それ、来るぞ』
からかうような言葉に、太刀をとりなおせば、もはや爪も牙も剥《む》き出しにし、形相すさまじくゆがんだ小萩が、化鳥のような声をあげて飛びかかってくる。
油断のない将門は、遅れをとりはしなかった。心を落ちつけてふりかぶった刀を、大喝とともに振りおろせば、化性の女の肉体は左右二つに分かれて、ぐらりと傾いた。
と、血のかわりに、そこから真っ赤な小さい蛾や毒虫、百足《むかで》、蜘蛛《くも》、げじげじの群れがこぼれあふれて、将門を包み込もうとした。
『おう、出たわ、出たわ』闇のなかの顔は面白げにいい放ち、口をすぼめた。息を吸う音とともに、おびただしい虫どもは、闇の男の口に渦を巻いて吸いこまれた。あきれて見ている将門の前で、最後の一匹が呑《の》まれて消える。分厚い舌が舌なめずりした。
『――うむ、まずまずの味ではあった。おまえ、あの残った一匹を追うがいい』
暗闇のなかを飛んでいく、手のひらほどの赤い蛾を目顔でさして男はいった。
『あれがあの女の本体よ。追うて行けば、おまえの仲間のいるところへも出られよう』
「なぜそんなことを教えるのだ。鬼の仲間が」
『俺には俺の思惑があると言ったろうが。この地では、まだ俺が動く準備ができておらんのだ。――それ蛾が行ってしまうぞ。仲間を助けんでもよいのか』
ほくそえむ闇の男を、将門はいまいましげに見やったが、今は化性を追うのが先決とかんがえ、太刀を提げて暗黒のなかを走りだした。あとから黒い男の、ドーマの、ふくみ笑って呟《つぶや》く声が――
『まだだ、まだ、あの餌めは育ちきっておらん――まだまだ、あと、少しは――そうともあれは、俺が喰うのだ、なんの、陰陽師《おんみようじ》などに、奪われてたまるものかよ』
揺れる唐船のうえで、純友は苦戦していた。乱戦に手足はずしりと重く、刀を持ちあげるのさえ腕に痛みが走るのに、今相手にしているこの巨漢は、疲れた様子などかけらも見せずに、果敢に打ちかかってくるのである。
『死ね! 死ね! 死ぬがいい!』
目を血走らせてかかってくる男の怒号が、ますます剣に重みを加えてくる。唐人なら、やまと言葉など知りはせぬはず、それなのに、いのちのやりとりにまぎれもない日本の言葉を口走る異常さがかすかに頭をかすったけれども、そんなことに気をつかっている余裕すらも、純友にはないのであった。
抜きあわせて、船端へとねじ伏せられる――じりじりと、落ちてくる刃《やいば》が今にも顔へさわりそうになったところへ、ふいに、赤いものがさっと視界をよぎった。
と、どうしたわけか相手の力がそれて、分厚い剣が船縁の材木に深く食いこむ。転がって、純友は立ちあがった。
何が起こったのか、腰を落としたままあらい息をついている純友の目の前で、唐人の巨漢は頭をかかえて苦しんでいる。一匹の、赤い蝶、いや蛾がかれの頭に張りついて、どんなに振り放そうとしてもいっかな離れようとしないのである。
『畜生、なにをしやがる、はなれろ小萩!』
今度こそはっきりと、唐人が日本語を喋った。
その姿がしだいに溶けて、ゆがみ、変化し、唐人どころか、純友のかねて見知った顔、かたちが、幻のように現れてきた。
「お、あんたは」
それこそ、袴垂。むかしの首領の顔をそこに見て、純友は目を剥いたが、袴垂のほうはそれどころでない。
それとともに、あたりの、海戦の光景も風に吹かれるように薄れて、いつのまにか真の暗闇に、純友と、なんとか蛾を払い落とそうともがく、袴垂ふたりのみが浮かんだ。
『離れろ――小萩――やめてくれ!』
袴垂の悲鳴はとうとう哀願のように変わって、
『純友は俺に始末させてくださると――そう鳴滝様のおさしずであっただろうが! やめてくれ!』
――将門の野郎に、わたしは肉身を斬られてしまったのだよ。
どこからか、地の底から這《は》い上がるような、小萩の声がきこえて、
――この姿のままでは長くいられない。少々むさいが、おまえの身体をもらう。
『やめろ!』
あとはごぼごぼという音ばかり。袴垂の頭を食いやぶって這い込んでいく蛾の異様さに、しばし純友は声をなくした。
またたくまに蛾は見えなくなり、袴垂はゆらりと起きあがる。額に空いた大穴から、脳漿《のうしよう》と血のまじった液体がだらだらとこぼれ、両目には血光がいっぱいにみなぎり、もはや人のものではなかった。
「魔に憑《つ》かれたか。……以前は首領と仰いだ相手だ、俺が斬るのも、縁だろう。小萩、そこにいるか」
今はもう、自分が魔性のまどわしにかかっていたとわかった純友、すっくり立って、刃を突きつけ相手を睨《にら》みつけた。
「おまえだけは、俺がかならず思い知らそうと思っていた。……来い。仲間と、首領《かしら》の、敵だ」
荒れた男の顔に浮かぶものでありながら、物凄《ものすさ》まじく笑った表情は、間違いなく小萩のものだ。走りよって、斬りかかってくる刃を下からはじいて面《めん》を凪《な》ぐ。
膂力《りよりよく》は前に数倍したが、慣れぬ身体だからか、動きが鈍い。足で蹴離し、肩から腰へ、目にもとまらず切り下げる。まだ、動こうとするのを、背中がわから誰かの突き立てた太刀が、胸をつらぬいて突き出した。
さすがに動きの止まったところを、純友が、一太刀で首をはねる。
どん、ごろごろと転がった首が、恨みがましい薄目を開いてようやく止まるにいたって、やっと、胴体のあがきがやんだ。
「小次郎! 無事であったか!」
血刀《ちがたな》から抜けて倒れた首なし胴体のうしろに、親友と恃《たの》む朋輩《ほうばい》のしぶい顔を見つけて、純友は喜びのあまり声を裏返らせた。
だが、すぐ心配な顔になって、
「――おい、まさかおぬしまで、このまっ暗なところに仕掛けられた、妖術のまどわしではあるまいな?」
「まどわしが、まどわしであると自分から言ったりするものか。馬鹿なことを訊《き》くな」
機嫌悪く言い捨てて、将門は刀の血脂を払った。うん、その物の言い方、やっぱり小次郎に違いないなあ、と妙なところで納得している純友に、あきれながらも安堵《あんど》の顔だ。
「さっきは合力ありがたかった。ちと苦戦した」
「これは忠平様の邸に押し入った賊だな? 顔に覚えがある」
死に顔をあげて確かめる。
「おまえの、昔の頭目というわけだな、純友」
「めぐりめぐって、俺の手で斬ることになったが、以前は世話になった人だ。……それを考えれば、いたましい」
軽く片手で拝んでおいて、
「それで保憲殿はどこにいる。いっしょではないのか」
「残念だが、見失った。どこにいるのか見当もつかぬ」
護衛を申しつけられた若者が消えたままであることに、ふたり、しばし蕭然《しようぜん》となる。
「だがそれにしても、ここはいったいどこなのだ」
衣の袖でぬぐった刀を鞘《さや》におさめてしまうと、純友は言いだした。
「こう真っ暗ではあたりも見えぬ。今は夜なのか、昼なのか、踏んでいる大地もおぼつかぬ。星も月も太陽も、ある気配さえないのは奇妙だ」
「薄々聞いたことがある」
将門は思案に沈みながら、
「昔、兵書をひもとくくさぐさに、異国には、地を詠み星をたどることによって、地脈を変じて永劫《えいごう》出られぬ迷宮を作るわざがあったと聞いた。……あるいは、そういうたぐいのものに取りこまれたのであろうと思うが」
広足のつかった奇門|遁甲《とんこう》のわざを、将門も、聞き知っていたとみえる。
「永劫出られぬ迷宮だと? それでは困る!」
純友は、あわてだした。
「捜す子鬼も見つけておらねば、保憲殿まで見失ったというのに、いつまでもこんなところでぐずぐずしてはおられぬ。なんとか出る方法はないのか、小次郎よ」
「だが、俺のところに現れた女は、ここで見るものは俺の未来だといった」
せっつく純友の声も聞こえぬふうで、将門、
「俺に八幡の霊告が下る……新皇の名乗り……謀反人と首討たれ――あれが真実か、それともただの幻が、それがいささか、気になるが――」
「未来だと? おぬし、何か見たのか、小次郎?」
純友に腕をつかまれて、将門はぎくりと身をひく。「あ、ああ」いささかな、とはっきり言わずにごまかして、おまえは? と訊く。
「おまえはどうだ。なにか見たのか」
「見た――ような、見ぬような――」
訊かれて純友は、真剣に考えこむ。
「こう――どうも、はっきりせんのだ。俺は船に乗っていて、皆に、御屋形様と呼ばれていて――人を率いて、船を襲っていた。大きな船だ――なにか、官船か、外国《とつくに》の大船であるかのようにおぼえているが、どうもな」
ぎょろりと目を上げて、将門に、
「なあ、あれらは、いったい何のことであったのかな、小次郎」
それこそ、将門自身の訊きたいことでもあったが、まともに聞き返されてかれは返答に窮した。
しばし、沈黙が漂った。まつわりつく不気味なあと味を消しかねて、
「さあ、そんなことは措《お》くとしてだな」
むりに明るい声を出したのは、やはり純友であった。
「妖怪の惑わしごとに、いつまでかかずらわっていても仕方がない。とにかく、出口を捜すこととしようではないか」
「そうだな。だが、どうする」
こちらも、少しほっとして将門、
「われわれは忠行殿や保憲殿のように方術など使えぬ。斬るべき肉のあるものなら倒せても、実体のないものでは斬りようがないぞ。俺のことより、おぬしこそ、何か気づくことはないのか。例の獄舎《ひとや》の火事のとき、妖怪を見分けたのはおぬしであろう。妖怪も術も似たようなものだ、何か、目に止まるものでもないのか」
「勝手なことを言うてくれるわ」
純友は嘆いたが、自分の命にも関わることだから、とにかく目をこらして、あたりを見回した。
「――駄目だ。何も見えん。とにかく、あちらへ行ってみよう」
「うかつに動いて、また何か罠《わな》に引っかかったらどうするのだ」
「そのときは、そのときよ。このままここでじっとしていても、することがあるわけでもあるまいに」
是非もなく、将門も、純友のあとに従って歩き出した。
……ふたりが去ったそのあとで、空中に恨みの目をむけていた生首が、ごそりと動いた。
口が開き、中から、血にまみれていよいよ真っ赤になった巨大な蛾が頭をのぞかせる。
――悔しや、将門、純友。このままにては済まさぬぞ。
かぼそい、紙の擦《こす》れあうような声が、小さな歯ぎしりらしい音までまじえて、
――鳴滝様のおさしずで、右大臣めに宿らせておいたわが分身。あれに身を寄せ、時を待とう。
――いずれすぐに、御子は御|降臨《こうりん》なされるはず。そうしたらあたりの殿上人を、手当たりしだいに取って喰らい、精気をすすって力をつける。
――そうじゃ、それがよい。鳴滝様も、きっと、およろこびのはずじゃて。
首の口から這《は》い出して、血にぬれた羽を広げ、よろめきながら飛び去った。
「お、あれは――」
そうしたことがあったとも知らず、闇のなかを、手さぐりで進んでいたふたりの強者《つわもの》は、前にいた純友が、急に立ち止まったのであやうくぶつかるところであった。
「どうした。何か見えたか」
「あそこに、犬がいる。大きな犬じゃ」
純友の指さすほうを、将門も眺めてみるが、何も見えない。
「いや、犬ではない、狼か。そうだ、あの額の白い斑点《はんてん》、見覚えがあるぞ。あれは、年かさのほうの鬼の子が連れていた、黒い毛並みの狼ではないか」
さかんに純友は言いたてるが、やはり将門にはなにも見えない。しかしこの男が、他人には見えないものを見る力のあることは承知の上なので、疑うことはしなかった。純友の目にははっきりと、うっすら青く透き通り、影のようにどこか現実感のない大きな狼が、こちらを向いているのがはっきり見えていたのである。
「なにか言いたげな目をしている。ついてこい、と言っているのかもしれぬ。行こう、小次郎、もしかしたら、出口へ連れていってくれるのかもしれぬぞ」
「待て待て」
将門は、あわてた。純友はいい男だが、いろいろとどうもためらいがなさ過ぎる。
「鬼の子の連れていた狼だと? そんなものにうかうかついていったら、みすみす敵の術中にはまることになりはしないのか」
「忘れたか。あの鬼の子、われら二人を庇《かば》うたではないか」
捕らえられた袖を振りはなして、純友は将門を睨んだ。
「あの黒い、大きな鬼がわれわれをとり殺そうとしたとき、止めてくれたのはあの狼を連れた鬼の子ぞ。おぬしはその恩を忘れたか」
将門は、ぐっとつまった。
心酔する主《あるじ》の命であり、命であれば逆らうことなど考えもしない将門ではあったが、あの一件のあとからは、ふと考えこむことが多くなった。盗賊や、人を害する魔性などに対しては、かけらも手控えなどせぬけれども、このたび、敵として名指された子供の姿の鬼どもに関しては、どうも、手筋のにぶるのを禁じえないのであった。
純友に、いらぬ影響でも受けたかと考えもする。しかしどうにも、気が進まぬのも事実であった。
定方邸でのあの夜、将門は、牛鬼の頭にすっくと立った、あの若い鬼の姿をおぼえている。……額の一角を、月光を集めたごとくに輝かせて、きゃしゃな娘の白いはだか身を、砕けんばかりに抱きしめていた。
謹厳実直、女色にはさらに興味のない将門であるが、やはりその身は若く、血が、心が、さわぐ夜がありもする。眠れぬ想いも知らぬではない。
ふたつの身体を溶けあわせてしまわんばかりに、きつくきつく抱き合っていたかれらの面影は、柄にもなく、将門のうちになにか温かなものを生じさせるのであった。手をのべて、守ってやりたいような、しずかにただ、見守っていてやりたいような――。
「よし、わかった。ほかに策もあるまい、ついていってみよう」
「おう、そう来なくてはな」
純友を先へたてて、歩き出す。巨狼、すなわち北辰の影は、二人がついてくるのを確かめると、向きを変え、宙をすべるように、ある方向へと進みだした。
「あなたさまはどなたです。志狼さまに、なんのご用です」
童子を庇ってじりじりさがりながら、葛葉はするどく言った。
「私は陰陽博士賀茂忠行の子、保憲といいます」
あくまで丁寧に保憲は答えた。
「私はおおやけのご命令で、国家に対して厭魅《えんみ》をしかけ、東三条院藤原定方様に憑《つ》き物をおさせ申した妖女鳴滝なるものを追捕《ついぶ》する者です。そこにいる子鬼は多くの人々を殺傷し、左獄に火を放って逃れたものですね」
細い指先で童子をさす。葛葉は、ひっきりなしに唸《うな》りつづける童子をつよく抑えてまた一歩さがった。
「あなた方に対しても、訊《き》きたいことは山ほどある。……しかし、一番先にまず確かめねばならないことは、ただひとつだ。
葛城の志狼丸の、居場所はどこです」
「え」と思わず葛葉は聞きかえした。てっきり鳴滝のことを訊かれるものだと思っていたからだ。保憲はうすくほほえんでいて、なにか、寒気をさそう表情だった。
「どうしました、知っているでしょう。あの夜、いっしょにいたはずだ。あの者は、どこにいます。私はまず誰より、あの者に用事があるのです」
「……存じません」
「知っていても、言わない――という顔ですね」
かすれた声で答えた葛葉を、保憲はあざ笑った。葛葉はきっとして、
「あのやさしい、強い北辰に、あんな酷いことをした方に、わたしがお話しなどできると思いますか」
「これはしまった。あれがお気に障るとは思いもしなかったので。たかが卑しい山犬の、一匹や二匹」
童子が身震いして、吠《ほ》えた。金眸《きんめ》がぎらぎらと燃え立ち、保憲の立っているあたりの土が、生き物のように盛りあがって太い人間の腕が生えでた。岩をかためたような腕は、十本近くがいっせいに保憲にからみついて動きを止める。
「土鬼か。雑鬼が、埒《らち》もない」
冷笑し、印をかまえておん、と唱える。腕は一瞬にして白く乾き、ひび割れた粘土のかたまりになって崩れ落ちた。
木々がどよめき、はるか彼方《かなた》から山鳴りが、底ごもるような轟《とどろ》きをつたえてきた。目に見えない小さなものたちの気配が、色濃く周囲に集まりはじめる。
「また百鬼を集めてこの場を逃れるつもりか。そうはさせぬ」
すばやく一歩踏みだし、四方にむかって幣《ぬさ》を投げ、組んだ手のなかへ息吹きして音高く柏手を打つ。長く反響したその音が消えるころには、集まってきていた妖気はみなきれいに霧散していた。
「前と同じだと思うなよ。今、都では、浄蔵殿が先頭にたたれて妖魔封じの祈祷《きとう》をおこなっている。有徳の僧五十人の法力を、この身にお借りしているのだ。そう簡単に、鬼どもは招ばせぬ」
疾っ、と舌を鳴らして、袖から取りだした索《なわ》を童子に投げつけた。黄色い絹でできた縛縄《ばくじよう》は生きている者のようにきりきりと童子にまといついて地面にたおした。首しめられた童子が、苦しがって転げまわる。
「さあ、志狼はどこにいる、娘? それを言えば、これ以上弟の首を絞めずにおいてやる。ほどいてやるわけにはいかないがな」
「おやめください! なぜ、こんな」
葛葉はなんとか索をほどこうと爪を立ててみたが、不動外縛のこめられた索が娘一人の力でほどけようはずもなかった。
「都の陰陽師とやらは、童を縛ってそれを誇るような方なのですか。縛るなら、わたしを縛ればよいでしょう。この子は語る言葉さえ持たない可哀想な子、苦しめたところで、なにひとつ得るものなどないでしょうに」
「なにが可哀想だ、鬼の子のどこが可哀想なのだ」
保憲は残酷な笑い声をたてた。
「さあ、志狼の居どころをいえ。あいつの名前を呼ぶがいい。呼ばないのか。呼ばないなら、その鬼の子の首がますます絞まるばかりだぞ」
呼んではならぬ。葛葉は崩れそうになる膝を必死に支えた。これは鳴滝の手のものではない、しかし、志狼に対してそれよりもっと悪いものであるらしい。保憲と名乗る貴公子からは、志狼に対する嫉妬《しつと》と憎悪の、とげとげしい臭いがぷんぷんする。
「あなたは鳴滝様をお捜しだと申されました。鳴滝様のことなら、私がお話しできます。志狼様は、なんの関係もありません。知っていることはみなわたしがお話ししますから、志狼様と童子は、お放しください」
「そうか、呼ばないのか。呼ばないなら、おまえもひとつ縛ってやろう」
必死でいった葛葉の言葉など、保憲はまったく耳に入れていないのだった。手に新たな索がひらめく。
呼ばない。呼ぶものか。あの方には、私は近づいてはならぬ。そう決めたのだ。志狼様、と心にだけ呟《つぶや》き、葛葉はきつく目をつぶった。
ひゅっと頭上で風をきる音がしたが、衝撃はこなかった。
かわりに声が、
「賀茂家のあとつぎは女こどもを鞭《むち》うつのが趣味なのか」
しずかに言った。葛葉は目をあげ、そこに、自分と童子を庇《かば》って立つ、広い背中をみとめた。志狼はわずかに振り返り、にこと笑った。
「無事か、葛葉」
「あ、あい……、あの」
志狼は保憲が放った索を腕に巻きつけてとめていた。一振りして払いのけ、童子を縛った索をはずした。指がふれるだけで、索はぬれたこよりのようにほどけた。額の角が、まばゆいほどに輝いていた。
「あの……、北辰は、どう……?」
「死んだ。俺に急を知らせにきて、そのまま」
葛葉は声をうしなった。いつもより低い志狼の声に、かぎりない悲しみと、喪失感がやどっていた。
思わず志狼の袖をつかんだ葛葉に、志狼は、淡く笑って気にするな、と言った。
「思い悩むな。おまえのせいではない」
「あらわれたな。志狼」
払われた索を、保憲は手もとへ引き戻す。
「賀茂家に仇《あだ》なす悪鬼めが。以前は不覚をとったが、今度は油断せぬ。覚悟するがいい」
符をとって身がまえる保憲を、志狼はただしげしげと見つめる。
「もう構うな、俺を追うな、と言ってあるはずだ。なぜそんな顔をして俺を見る? 俺はおまえに、憎まれなければならないようなことなど、なにひとつしていない」
「ぬけぬけと言う」
憎々しげに保憲は吐き捨て、
「私は陰陽寮の者だ。都に害なす悪鬼を退治するのが、私のつとめだ」
「俺は都に害をなすなど考えたこともない。ただ、葛葉といっしょにいたいだけだ」
「ほざけ。賀茂に縁ある身でありながら、鬼の女に心を寄せ、鬼の子と語り、あげくに自分が鬼と化すとはなんというざまだ。見苦しさも恥も、ここにきわまった。殺さねば、わが賀茂家にもどんな累が及ぶかわからぬ」
「家のことを口にするか。おまえは、賀茂のために、俺に死ねというのか」
「国のためだ。都のためだ」
「おまえ自身のためではないのか」
「なに?」
保憲の顔が色をうしなった。
「私、自身のためだと?」
「俺はさっき、今のおまえと同じような目をしたやつと戦った」
淡々と志狼は言った。
「そいつは、俺の前に、この一角を持っていた男をうらやんで、そのあまりに化生に墜《お》ちた。……自分の手に入らぬ、望んでなお人の手にはとどかぬ力をうらやんでな。
おまえも、同じだ。おまえは、自分の持つ力が、俺の持つ力におよばないのを知っていて、それが気に入らないのだ。ただそれだけのことなのに、なぜ、言葉を飾る」
「なにを……私が、おまえをうらやましがっているというのか。許さんぞ、鬼め」
保憲はずいと身を乗り出した。そげた頬が、はげしく引きつっている。
「私は、将来賀茂を負って立たねばならぬ人間なのだ。父のあとを継いで、一道の達者にならねばならぬ身だ。
それがけがらわしい、山の異形の者などに、劣ることなどありえない。葛城などもう、賀茂にはいらぬ存在……。都に賀茂家さえあれば、ほかはいらぬ、そうあらねばならぬのだ。そのためには、おまえのような者など、決して居てはならぬのだ」
「くだらぬ」
「くだらぬだと! では、これでどうだ!」
保憲は叫んで、腕をふるった。唸《うな》りをあげて志狼をうつかに見えた索は、向きを変えて葛葉に向かった。
瞬間、勝ち誇った顔をした保憲は、しかし、愕然《がくぜん》としてからになった手を見つめていた。志狼の一瞥《いちべつ》で、索は跡形もなく手から消しとんでいた。
「葛葉にさわるな」
ひそめた声で志狼は言った。「殺すぞ」
疑いなく、志狼はそうするであろうことが誰の目にも読みとれた。湖水のように静かな表面に反して、その下には、憤怒《ふんぬ》の溶岩が煮えたぎっていた。
「おまえは、北辰を殺した」
志狼はいった。
「俺がほんの童のころから、いっしょに育った北辰を殺した。……しかし、俺が今おまえを助けておくのは、葛葉に血を見せたくないがためだ。
都で、おまえの家に世話になった義理もあるが、そんな理由はどうでもいいことだ。とにかく今おまえが死なずにいるのは、葛葉のおかげだとそう思っておけ。しかし少しでも葛葉に手をあげたら、今度は、躊躇《ためらい》なく殺す」
青く底光りする志狼の眼光に、保憲はぎくしゃくと二、三歩あとずさった。
「おまえは、俺を鬼だという。そうなのかもしれないが、俺にはあまり確信がない。しかし、葛葉を傷つける者に対しては、俺は鬼にも邪にもなる。おぼえておけ」
「それだ……」
うわごとのように、保憲はいった。
「おまえのもっとも恐ろしいところは、そういうところなのだ。
おまえは、ただ一人の人間のことしか考えない。自分の心のおもむくままにしか動かない。国のことも、民のことも考えず、己の欲望のみに従って動く強大な力……これが脅威でなくてなんだというのだ。おまえは、危険だ。滅されねばならぬ」
「国も民も、俺は知らない。ただ葛葉が、しあわせに笑ってくれればよいのだ」
「鬼めが!」
にくしみをこめて保憲が吐き捨てたとき、どこからともなく青白い光が飛んできて、くるくると志狼にまつわりついた。
志狼の顔に驚きがはしり、次の瞬間、輝くような笑みが広がった。
「北辰! おまえ、北辰だな!」
「お、あれは――」
「保憲殿ではないか。やっと追いついたか」
光のあとを追いかけるように、二人の武者が顔を見せた。迷境から脱出をとげた、将門、純友のふたりである。そこに、保憲はもとより、求めてきたはずの子鬼ふたりと娘までそろっているのを知って、あっけにとられて立ち止まった。
「お、これは――さてはあの犬、おあつらえ向きのところへわれらを案内してきたと見える」
「おまえたち、北辰がここへ連れてきたのか。そうなのか」
と志狼は、自分のまわりを飛ぶ幽《かす》かな青い光に問いかける。光は一瞬、青白く透き通った北辰の姿を現し、泡のように散って消えた。
「北辰というのが名前か、美しい名だ、いい名前だな。……おお保憲殿、こちらにござったか」
「お怪我はござりませんか」
少し遅れて、やってきた将門が錆《さ》びた声で問いかける。その袖へ、いきなりぐいとしがみついて、
「殺せ!」とかん高い声を張りあげたのは保憲であった。
「なに、この小僧、いきなりなにをぬかす」
「控えよ、純友。――いかがなされました、保憲殿」
さすがに将門は沈着に、いきり立った純友を抑えて、狂気のように目を血走らせる保憲を押さえつけるように、耳もとへ口をもっていく。
「これらの者どもは、忠平様が是非とも捕らえてくるようにと命ぜられた、鳴滝なる妖女の手がかりを知るもの。こんなところでただ殺しては、ご下命を果たすことになりません。どうぞ、お静まりを」
「うるさい、おまえたち、私の命令がきけないのか? この者たちは鬼だ、生かしておいたら、いずれ都に大きな災いを呼ぶぞ! その前に、さっさと殺してしまわねばならないのだ、早く斬れ! 殺せ! さもなくば――」
途中で、うっという呻《うめ》き声になって、保憲がくたりとくずおれる。あわてて抱きとめた将門は、かたわらの友を、非難するような横目で睨んだ。
「なにをする、純友」
「あまり喧《かまびす》しいから、ちと黙ってもらっただけよ。うるそうて話もできぬ」
保憲の脾腹《ひばら》に突き込んだ拳を、こっそり引き戻すところであった。
将門も、それ以上とがめはしなかったところをみると、かれもかれで、保憲の狂乱に、心中不快を感じていたらしい。気を失った保憲をそっと足もとに横たえて、
「いつぞやの、獄舎以来だな。わっぱ」
「あのときの武者《さむらい》か」
志狼も、用心はとかぬながら、眸《め》にわずかになごんだ色を乗せた。
「こんなところまで、なにしに来た。――俺は、追うなと言ったはずだ」
「しかし、そうかと言ってすましてしまえぬ儀が、こちらにもあってな」
純友が進み出て、いった。
「聞け。こういう話だ」
と、いま都で起きていることを、細大もらさず語って聞かせた。
将門ももう止めようとはせず、話の遺漏を二つ三つ、横から補いさえもした。それよりもかれは、胸のなかに凝《こご》った自分ひとりの考えにしばしば落ちていくようで、皆から目をそらし、腕を組んで、むっつり考えていることのほうが多かった。それはどうやら、迷境で、小萩によって導かれた自分自身の未来に関しての思案であるらしいが、外から見るものには、そこまでの心中は見抜けない。
「――と、そういうことになっているのだ」
ひととおり、話をして聞かせて、純友は一同の顔をみつめた。
どうやらこの相手は、いきなり斬りつけたり、攻撃してきたりはしない相手とわかって、葛葉もおずおずと前へ出てきており、その袖に抱かれた童子も、猛りを鎮めて金色の眸をしずかにまたたいていた。
「保憲殿がああまで狂い立ったのも、変事についておぬしらがなにか知っていると思って、それをなんとしても聞き出さねばならぬと夢中になったからで、決して悪いお方ではないのだ――と、思う」
最後に、正直なところをつけ加えずにいられないのが純友の性分だ。
「どうだ、おまえたち、一度われらといっしょに都へ戻ってくれぬか」
わきから将門が言い添えた。
「なにも鬼として牽《ひ》いていこうというのではない。われらが主《あるじ》の忠平様は、話のわからぬ方ではないぞ。おまえたちが言を正しくし、行いを控えていると誓うなら、決して悪いようにはなされぬ」
「ふん、どうだかな」
志狼は、そっぽを向いた。
「都も、鳴滝とやらも、俺には関係ない。かかってくるなら、打ち倒すまでのことだ。葛葉には誰にも、指一本ふれさせぬ。帰れ」
「――、あの」
ずっと、黙って話を聞いていた葛葉だったが、このとき初めて口をはさんだ。おずおずとした小さな声だったが、そこにこもったある決意の強さに、皆がかの女のほうを見た。
しばらく口ごもってから、やがてきっぱりと顔を上げて、葛葉は、強い口調でいった。
「それではわたしと、それから童子を、みなさまといっしょに都へお連れくださいませ」
「なに?」
「そのかわり――どうか、志狼さまは、このままそっと、葛城に置いておいて」
「なにを言うのだ、葛葉!」
志狼は飛びたつように席を蹴って、葛葉の肩をつかんだ。
「おまえは、ここがいやになったのか。この俺がいやになったのか。だからそんなことを言うのか、葛葉、なぜだ! 言え!」
「いやになりなど、しません――でも――」
はげしく揺さぶられながら、葛葉は、とぎれとぎれに、
「鳴滝様のことは、わたしと、童子とのみにかかわりのあること。志狼さまは、なにもご存じのないことです。この方たちはよい方のように見えます、でも、都へ行くのは危険なこと――それを、なにも関係のない志狼さまを、巻き込むことはできません」
「嘘をつくな! おまえは嘘をついている」
志狼は強引に葛葉を抱きしめた。
「おまえは、俺のそばにいたくないと思っているのだ。俺から、離れなければならないと思っている。なぜだ。俺が嫌いになったのでないなら、なぜ離れる! 言え、葛葉!」
背がきしむほどの抱擁を受けとめながら、葛葉は、そっと目をとじる。
決していやになったのではない、棄てていくわけでもないと、この人にわかってもらうにはどうしたらいいだろう。
だが、それを言うためには、自分が〈おづぬ〉の、志狼のために作りもうけられた生きた檻《おり》だということも言わねばならぬ。
むろん、志狼は、そんなことは気にしないだろう。たかがそれくらい、気にするようなことかと、笑い飛ばしてしまうだろう――けれどもそれが、自分を閉じこめる檻の鍵を閉めてしまうことになることには気づかないのだ。
「北辰は死んだ。おやじも死んだ」
悲痛な声を、志狼はふりしぼった。
「里人もみな去ってしまった。おまえ以外はもう誰もいない。俺をひとりにするな。俺を置いていくな、葛葉――」
純友と将門は、辛《つら》そうな顔で黙っている。受けた命が、葛城に逃げた鬼の捕縛であるふたりだから、軽々しい口をきくことはできないのだ。純友は、なにか言いたそうに何度も口をあけては、将門に腕をゆすって止められていた。
熱い涙が肩にしみてきた。この人は、まるで童子のように泣く、と葛葉は思い、決して放さぬと抱きしめる腕の強さが、弟の童子の手を繋《つな》いでくる指の感触とさも似ていることを知った。
言葉も、計算もなく、ただつながっていることのみを求めてがむしゃらに触れてくる手。水辺のしとねで肌をかわしたときも、この人は、このようにわたしを抱きしめていた――
「志狼さま……」
細く、こう呟《つぶや》いたとき、異様なものを感じて葛葉ははっと目を開けた。
志狼の肩越しに、寝かされていた保憲が別人の敏捷《びんしよう》さではね起きるのが見えた。手には、北辰を切りさいたのと同じ呪符《じゆふ》、手はすでに、刀印のかたちをして、
「死ねい、鬼!」
童子が吠《ほ》えて飛びかかったが、間に合わない。
「志狼さま!」
葛葉は、叫んだ。あたたかな流れの中から見た、澄んだ青い空が目のなかに泳いだ。純友が殴りつけ、保憲はふたたび昏倒《こんとう》する。だがかれの投げた呪の刀は、とっさに身を投げだした葛葉の、背中から胸へと突きぬけた。
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六 章 天 雷
延長八年、六月二十六日――。
この日も朝から暑かった。相変わらず雨は一滴も降る様子を見せず、人々は上下ともに、からからに乾いた空を見上げて嘆息していた。
いつものように参内した藤原忠平は、その日、予定されている清涼殿での会議に出るため渡殿を歩いていた。内裏《だいり》の建物のひとつである清涼殿は天皇の常の御座所で、御前での会合などが行われることもある殿舎である。
その日の議題は、いつものように日照りの対策についてであった。招雨の祈願にさいして誰を指名するか、どこで行うか、そういったことを決めるのである。
万民の苦しみの声があまりに高いので、左京三条にある庭園、神泉苑《しんせんえん》の湖水の水を放出してはどうかという意見も出されていた。ここは天皇の臨席のもとに、七月の相撲、九月の菊花宴などさまざまに四季の宴《うたげ》が行われる場所である。そうした場所の湖水を一般に放出するなどということはどうかと反対意見も出たが、同時に、ここの湖水には竜王が棲《す》むといわれ、招雨の修法がしばしば行われる場所でもあった。
天下の苦しむ折りに、まさか船遊びでもあるまい。竜王の棲む水を万民に施せば、それが文字通り呼び水となって雨が降り出さぬものでもない。忠平はそう言って、反対意見をねじ伏せる気でいた。
もうひとつ、心にかかることがあった。このところ横行する、百鬼夜行の噂である。
先日、三人の鬼どもが娘とともに消えたかの夜にもあやかしは横行したが、このたびはいささか異様であった。
人が行きあえば、たちまちその鬼気にあてられて倒れ伏すのが常の鬼の道行きではあるけれども、あまりにもこの数日、数が多すぎる。
しかも、当たり方が尋常ではない。近ごろでは検非違使《けびいし》たちも、奇妙な死骸《しがい》を調べることに飽いているかに思える。全身の血を吸い取られたかのようなかれがれと乾いた死体あり、ほとんど肉片と血だまりしか残っておらぬような死体あり、胴体ばかりが灰となって手足と頭は無傷でのこった死体あり……およそ人の仕業とは思われぬ死が夜ごとひんぴんと起こり、しかもその近くでは、かならず異形の夜行するのが見られている。
もっとも怪しいのは、その夜行する妖怪どもがすべて内裏の周辺でのみ見かけられており、人を襲ったそのあとは、まるでわが家へでも帰るように内裏の中へとすいこまれていくという報告が多くあったことだった。
(どういうことであろう。これもかの逃亡した鬼の仕業か、あるいは、鳴滝なるかの妖女のなせる業か……いずれにせよ、忠行の動けぬいま、陰陽寮《おんみようりよう》のものども総出でことにあたらせても、なかなかはかのゆかぬ様子――あやかしどもは内裏より出入りしているとやら、定方殿のこともあり、扱いには心せねばならぬ。もう少し、手があれば――)
さまざまに考えを巡らせながら歩いていると、「申し上げます」とわきから声がかかった。見ると、寺稚児らしい整った顔立ちの童が、頭を下げながら漆塗りの小さな手箱を忠平に差し出している。
「なんじゃ。なにか用かな」
「浄蔵様より、お使いでございます」稚児はいった。
「西三条院様、このところ、御悩乱ますます深まるようすとご覧になり――」
「うむ、そうだ」
と忠平は渋い顔になった。
このところ、病を理由にほとんど毎朝の陣定にも顔を見せなくなっていた右大臣藤原定方だったが、今朝は珍しく、出仕してきているという噂だった。
忠平はまだ会ってはいないが、十日ほど前、水死体のようだった太鼓腹はますますふくれあがって束帯を突き破らんばかりになり、反対に、手足はますます細って、まるで地獄図にある針口餓鬼そのままだという話だ。針口餓鬼というのは生前の貪欲《どんよく》の罪によって、口が針のごとく細くなり、飢え乾いても水も食物も口に入れられないという餓鬼であるが、ちょうどそのように青膨れて、見るからにぞっとするような風体だという。
「師浄蔵様におかれましては、今朝早く、強い邪気が都の方へと飛来して参りましたよし。定方卿がご参内なさるのを聞きつけられて、用心のためぜひにも、忠平様にこれをお持ちいただいておくようにとのことでした」
箱を受けとって、開いてみた。浄蔵の手になるらしい、呪符が一枚はいっている。
「うむ、わかった。ありがたく受けとっておくとつたえてくれ」
稚児は一礼して、さがっていった。呪符をしげしげと見つめてから、忠平はそれを、大事に襟のあいだにはさんだ。
ひょっとしたら今からでも、ほかの諸卿のぶんも用意させた方がいいのではないか、それに、帝のぶんも、という思いが頭をかすめたが、打ち消した。
いや、今はまだ騒ぎたてぬ方がよいかも知れぬ。帝におかれてはこのごろますます心気が弱られ、なにかというと退位を口にされることはなはだしい。呪符など取りよせて皆に身につけさせたと知れたら、またどのように恐ろしがって騒がれるか知れぬ。となれば、焦眉《しようび》の急にせまったこの評定も、延期されてしまうであろう。
(浄蔵殿も、妖物封じの祈念を引き続きこめていてくださることである……)
「これ、誰か」
「は」
「武官の、適当なものを数人選んで、鳴弦《めいげん》をさせよ」と忠平は命じた。
「鳴弦でございますか」
「今、浄蔵大徳からわしのところへ使いが来て、なにやら不穏な邪気が、都にはいるのを感知されたということじゃ。みな鳴弦して、妖物を御上に近づけさすな。承知か」
「承りましてございます。では、さっそく」
急いで走っていくのを見届けると、まず、手は打っておいたという顔で忠平はまた今日の会合に意識を向けなおした。だがその手は、無意識のうちに、浄蔵が託した呪符をこめた襟を、神経質に撫《な》で続けていた。
「葛葉! ……」
葛葉はゆっくりと倒れかかった。まるで花びらの崩れるようであった。受けとめた、志狼の腕には、風ほどの重さもないように思えた。髪をなびかせて、ふわりと崩れたかの女を抱いて、志狼は、血をはくように叫んだ。
「葛葉! 葛葉!」
答えはなかった。白い顔が、かくりとあおのいた。瞼《まぶた》が小さくふるえ、目が開いた。ぬれた黒い目、子鹿のような目に、うつる自分を志狼はみつめた。血にぬれて赤い唇が、ああ、と吐息をついた。
「志狼さま……童子や……無事で」
「俺のことなどどうでもよい! しっかりしろ葛葉、なぜ、あんなことを!」
「わたしは、志狼さまを……お守りしようと、決めましたもの」
「だからといって、俺を庇《かば》うなど……!」
「だってわたしは決めましたもの……自分の心で……自分の思いで」
これで、あなたを罠《わな》にかけずにすむ……と、それだけは心の中で呟《つぶや》いて、葛葉はまた瞼を閉じた。身体からふっと力が抜ける。貫かれた胸からあふれる血潮が大地をそめ、葛葉はもはや、息をしていなかった。
「葛葉!」
純友がざっと立って、倒れている保憲に走り寄った。足を上げて、蹴ろうとするのを、将門があやうく止める。
「何をする、お主人《しゆう》の人だぞ!」
「放せ! このような人でなし、主でもなんでもない、鬼じゃ! こやつこそ、鬼じゃ! 放せ小次郎!」
純朴率直な純友は、手放しに涙を流していた。白い花のような娘が、胸を血にそめて静かに横たわる様を指さして、
「若い娘ではないか……可哀想な、けなげな、若い娘ではないか……それを後ろから、術で、いきなりとは、それこそ鬼畜の所行でなくてなんなのだ。こんなやつを、ここまで守ってきたかと思うと俺は自分が腹立たしい。恥ずかしい。俺たちがここまでこやつを連れて来ねば、この娘は、死なずにすんだものを――」
将門も、さすがに暗澹《あんたん》とする。
しかし、志狼は、まだ眼前の事実が信じられずに、麻痺《まひ》した状態のただ中にいた。ほんの、半日の間に、父と、兄弟とも思った狼北辰と、里の人々とをいちどきに失って、ほとんど間をおかず、命よりもと想う娘を、死なせたのであった。
しだいに冷えていく葛葉の身体を抱きかかえたまま、志狼にできるのは、彫像のように唖然《あぜん》と座り込むばかりであった。かの女に手を触れたなら、殺すといった、その怒りさえ、容易にわいては来なかった。
純友がひくく泣きむせぶ声が聞こえ、誰が、なぜ、泣いているのかと奇妙に思った。なにも泣くことはないはずなのだ。葛葉はここにおり、今、こうして髪を撫でてやっている。なあ葛葉、そうではないかな。
葛葉――と、散りかかった髪をかき上げてやろうとしたそのとき、ぐいと横から、葛葉の身体を奪いとられた。
「童子、何をする?」
志狼は、手をのばした。まだ何も現実感がなく、その動きも夢のなかの出来事のようだった。小さな身体で、童子に姉の身体を抱え込んだ。飛び下がり、ごうっと吠《ほ》えた。幼い顔はひきゆがみ、湯のような涙がまるい頬を転がりおちる。
「童子、葛葉をどうするのだ。返せ。俺に返してくれ。葛葉は、俺といっしょにいるのだ、そうでなくてはならぬのだ。頼む、返してくれ。葛葉を返してくれ」
のばした手から、童子はまた牙を剥《む》いてあとずさった。その顔は、都で、右大臣邸に侵入しようとして止められたとき、志狼にむけたものだった。この世にただひとりの姉を奪われたと信じ、それが、目の前の若い男のせいなのだと、まっすぐに信じる。志狼を見据える童子の金眸《きんめ》は、悲痛と憤怒《ふんぬ》と、それから、まぎれもない嫉妬《しつと》の色にもえていた。
志狼は、ようやく異常を悟った。そくそくとして恐怖が、手足をふるわした。
「童子。やめろ!」
童子は牙を剥いた。大きな太い、肉食獣の牙。
それを姉の喉頸《のどくび》に突き立てた。やわらかい皮が裂け、肉がちぎり取られた。新たな血が、地面に降った。
そして童子は、姉の葛葉のなきがらを、息もつかずにむさぼり食い始めたのである。
「こやつ……、なにをする!」
相手の童の姿さえ忘れて、純友が、刀をぬいて斬りかかった。だが一歩すら近づかぬうちに、強烈な不可視の障壁にはじかれて、後ろへ大きくはねとばされた。
「おい、大丈夫か、純友」
「やはり、鬼か。愛らしい童でも」起きあがった純友の声は、もってゆくところのない怒りに暗かった。
「あれほど慕っていた姉の死骸《しがい》も、死ねば喰らうのか」
「――慕っていたから、こそかもしれん」
呻《うめ》くように、将門はいった。
「慕っていたからこそ、姉に、恋するものができたことが辛《つら》かったのかもしれん――鬼は、鬼に、できるかぎりの方法で、姉を取りもどそうとしているのかもしれん――喰って、自分のなかに取りこんで――姉を、よみがえらそうとしているのかもしれん」
「なんと、そのようなことが」
「葛葉! 葛葉!」
何度も駆けよろうとしては、はじかれて飛ばされることを志狼はくり返していた。数歩も寄らないうちに、黄金色のはげしい火花が飛びちって志狼を突き放すのである。
それはまるで、ほかの誰より志狼だけは近づいてくれるなという、強固な拒否の意思の表れにも見えた。しかし、志狼もあきらめなかった。額の一角が、声のない慟哭《どうこく》をあらわして強烈な光芒《こうぼう》を発する。
不可侵の領域のなかで童子は喉を鳴らして姉のなきがらを喰らいつづけ、その姿はしだいに、金色に輝きはじめた。なきがらといっしょに少しずつ宙に浮かび、やがて、はるかな杉の木の梢にまで匹敵する高さに登った。
滴る血が雨になって降った。最後に、血浸しになり、さんざんに引き裂かれた葛葉の水干がひらりと舞い落ちてくると、そこには、溶けた金を全身にまぶされたような、煌々《こうこう》とかがやく黄金色の人体がのこされた。
白髪も今は赫々《かくかく》たる金色に染まり、手も足も、まとっていた衣服さえ、その身から放つ光をうつして金色|燦爛《さんらん》まばゆいばかりだったが、頬にだけ、ちがう色彩がのこされていた。それは血だった。白目を失い、ただ金一色に塗りつぶされた両目から、血の涙が流れて頬を伝っていた。
そのほかには、いかなる表情もなかった。志狼に対する怒りや、悲痛や、嫉妬まで、そこからは綺麗《きれい》にぬぐい去られていた。もはや人の顔ではなく、鬼の顔でもなかった。神の顔、人のおしはかれる領域をはるかに超越した、鬼神の貌《かお》であった。
「――ほ、ほ、ほ、ほ。ようした。よう出来た」
高い女の笑い声が響き、一同が、ぎょっとなって振り返ると、そこに倒れた保憲の背中の上に、毒々しい色の霧が渦巻いていた。見る間に霧はかたちをとって、そこに、あでやかな打掛に身を飾った妖女鳴滝が、手にした扇で口をかくし、いかにも心地よげに、たかだかと哄笑《こうしよう》しつつ立った。
「さすがはわらわの造りし御子じゃ。わらわの育てた、犠牲《いけにえ》の娘じゃ。ようした、ようした――これでわらわの宿願かなうわ。礼を言うぞ、都のものども、葛城の、新しき小角どのえ」
「妖怪、動くな」
将門が走り寄って斬り込んだが、斬ったと思った次の瞬間には、鳴滝は金色にかがやく童子の真下に移って、ぎらつく目で空中の童子を見上げていた。
「これこそがわらわが目指したもの、真の〈おづぬ〉の、その矯《た》められぬ姿じゃわ。誰にも縛られず、操られず、心のおもむくまま力をふるう、天の怒りの鬼神じゃ。
人としての心を押しつけ、手綱をつける役割の、葛城の娘を喰ろうた今は、もはや誰にもとめられぬ。日に日に陰気をそそぎ、丹精して育てた髑髏《どくろ》玉の胎子――同じく陰気を日々浴びせ、陰気を浴びせ、血と精をまとわせて育てた葛城の乙女子と。今こそあれは、陰の小角と申すべきもの。わらわが望みをかなえるものじゃ――さあ、御子よ!」
頭上の童子にむかって叫ぶ。
「今こそその力を、望むがままにふるうがよい――かつて、涙をのんで夫や息子を人のがわにしばり、自由であるべきその力が矯められていくのを見守った女たちの胸を、今こそ明かしてやるがよい。辛い運命を強いた山が、川が、人々の座する都が、火の海に沈むのを見るがよい! さあ……」
『いや、そうはいかぬよ』
くぐもった声がした。「なに?」と鳴滝が周囲を見回す、その間も与えず、ぼこりと土を突きやぶって、巨大なものが飛び出した。
真っ黒な、闇をこね上げたような、巨大な拳。指の太さだけでも人間の胴体ほどあるそれが、あっという間に鳴滝をわしづかみにした。
「な、なにやつ。放しゃ!」
『勝手なことをされては困る。あれは、己が喰らうのだ。ようよう、喰いごろになったようだな』
地面の一部が黒く染まった。ずず、と地響きがして、全身黒い男が、生え出るように現れた。黥《いれずみ》のある肌に、ぎょろりとした白目のまなこ。
ドーマ。
鳴滝が捕らえられたせいか、重圧が一度に去った。志狼ははね起きた。
「ドーマ、今までどこにいた!」
『どこにも、かしこにもいた。己は、死のあるところには、どこにも好きに入り込めるのだ。死んだものはみな己の意のままになる』
地面からつきだした、巨大な手をさして、『このようにな』
「きさまは、先ほど俺に蛾を追えと告げた男だな」
刀を構えなおしつつ将門がいった。
「何が目的だ。俺を助けたのも、今、この場で妖女を捕らえたのも、さだめし、よい目的ではあるまい」
『ほう、ずいぶんと嫌われた。良いの良くないの、埒《らち》もないことだ。己に良いなら、それで良いのよ。待ちかねた、己の餌だ。欠けた小指が、やっと埋まるわ』
「おまえ……最初から、こうすることを狙っていたのか」
志狼は、つめよった。
「獄舎で会ったときから、俺と童子を葛葉と逢《あ》わせ、ここへ逃れさせ、そうして、葛葉を死なせて……!」
『はて、そうしたのは、この女の算段よ。なんで己が、そのような策略を練ろう』
拳のなかでもがいている鳴滝を、楽しげに一瞥《いちべつ》して、
『まあそれが、もくろみ通り進むようにいささか手を貸してやったまで。最後に己のほしいものが出たので、それを戴《いただ》く。なにかおかしいところがあるか』
「何が目的だ、おまえは、いったいなにがしたい……」
『腹が減っているのだ。ひもじいのよ。欠けた小指が、うずいてならぬのよ』
いんいんたる声を響かせて、ドーマはいった。
その姿が、少しずつ輪郭をなくしていく。水につけた泥人形が、しだいに溶けてかたちをなくすように、闇より黒い男の身体は、その黒さはいっこうに減じぬままで、どろどろと空間に広がりゆこうとしていた。
たまぎる悲鳴が聞こえた。捕まれた拳のなかで、鳴滝が裾を乱してあがいている。手を振り、足をひらめかすたびに、白い光が走って拳を、ドーマを打とうとするが、泥に似たやわらかな皮膚は、そのたびにかすかに波打つだけで切れも薄れもしなかった。
『無駄だ、無駄だ。おまえは死んだ女から生まれたのだろう。死の支配下にあるものは、誰ひとりとして己にはさからえん』
ふいに何もきこえなくなった。拳のなかで、鳴滝は影ものこさず消滅していた。
『腹が減ったなあ。ひもじいなあ』
すでに、ドーマの姿はどこにもない。ないのに、あたりじゅう至るところから、粘つくような笑いを含んだドーマの声がきこえる。
『食っても食っても腹がくちぬ。いつまでたっても小指は骨のままだ。あるいはこれは、永遠に埋まらぬのかもしれん。己の身には永遠に穴が開いている』
足首に、かたちのない黒いものが巻きつき、もりあがってきたぬめぬめとした闇が全身をくるみ込もうとする。
「童子!」
中空に立ちつくしたままの童子に、巨大な手が伸びるのを見て、志狼は絶叫した。ドーマの笑い声がする。
『さあ、喰うぞ』
その呟《つぶや》きをのこして、あとはみな、闇になった。
折り重なる山並みに、時ならぬ黒い月がかかった。
それは木立の間から廻転《かいてん》しつつ舞い上がった。山のひとつがそのまま丸くなったかのような巨大さであった。そのため太陽は暗くなり、地上に落ちた暗黒に、驚いた鳥がぎゃあぎゃあと飛びたった。
空間を切りぬいたように黒い表面に、紫の電光がまつわりついてひっきりなしに火花を散らした。火花は長い稲妻になり、轟音《ごうおん》とともに地を打った。
それはドーマであったものであった。ところどころにきらめく金は、童子の光のなごりでもあろうか。
はげしく回りながら、漆黒の球体は紫電をまきちらした。木が倒れ、大地がはじけた。はじけたところから、どろりと黒いものがしみ出した。
それは『死』であり『闇』であった。どこであろうと死のないところはない。人はいなくとも獣はいる。獣はいなくとも虫がいる。
動くものはいなくても、植物はある、土の中の、目にもとまらぬ生き物がいる……そうした小さな『死』そのものを、黒い球体は喰らっていた。
『ひもじい』
ドーマであった球体は吠《ほ》えた。
『ひもじい。ひもじい。もっと喰わせろ』
「おや、何か、暗くなってきたような……」
大納言藤原|清貫《きよつら》が、ふと外を見てそうもらした。
清涼殿での評議のまっさいちゅうであった。暫時《ざんじ》の休憩を取っていた列席の人々は、そう言われててんでに外の様子を眺めた。
「ほんに、なにやら暗うなってきた。雲が出てきた。あれは、雷雲でしょうか」
「これはもしかしたら、一雨来るやもしれませんぞ。あるいは、雨乞いの祈祷《きとう》を、せずにすむやも」
がやがやと、さわがしい諸卿に、忠平はひとつ咳払《せきばら》いして、
「おのおのがた、お静かに。主上の御前でございますぞ、おつつしみを」
「お、そうであった」
たしなめられた殿上人たちはあわてて席上に威儀を正す。忠平はひとつ息をつき、御簾《みす》のむこうの主上に一礼した。
視線をあげると定方が、対面の座についている。噂に聞いていたより、もっと身の毛のよだつような姿になっていた。餓鬼のような、というより、餓鬼そのものだった。どんよりひらいた目は白い。
紫色の唇をかすかに開け、いびきのような音をたてている。発言を求められれば二言、三言を口にするが、それ以外にはほとんど身動きもせず、何かを待ちもうけるかのように、空中に目をすえてにやにやしているばかりだ。
目の端を、赤いものが横切った気がしてそちらに目をやった。蝶か、蛾か――、羽根のある赤いものが、ひらひらと飛んで定方の周囲を巡っている。
ふいに、見えなくなった。ふと、忠平は襟もとに潜めた、浄蔵の護符に手をやった。
頭をふった。
(いや、まさかな……)
ぶつりと音たてて数珠《じゆず》の緒が切れた。
「お師さま」
そばに侍していた若い僧が青ざめた顔で玉を差し出す。
護摩壇のまえで、浄蔵は、剃《そ》ったあたまに脂汗を浮かべてしばらく唸《うな》ったままでいた。保憲たちが出発してから数日、絶えることなく燃やし続けてきた壇の浄火が、なんの理由もなくゆらめいて消えたのだ。
灯明がぼんやりと消えかかり、やがてあたりは暗闇になる。
「なんでしょう、まだ、お午《ひる》にもなっていないのに」
おびえた若い僧は、はや涙声だ。
しだいに影が濃くなってくる……。
異変は、大路でも感じられた。
「なんだろう。なんだか、寒い」
道行く人々は顔を見合わせた。今は六月、太陽暦でいう七月だから、肌寒いことなどあるわけもない。だが、空が暗くなってきて、変に冷たい風が吹きはじめた。ふれるだけで肌が切れそうな、冷たい風だ。
「暗くなってきたな。雨が降るのか?」
「だが、むし暑い感じはしねえぜ。なんでこう、妙に寒いんだ」
口々に騒ぐ声を遠く聞きながら、陰陽師、賀茂忠行は、奥深い寝間の几帳《きちよう》の奥で、冷たい汗にぬれていた。
「代償だ……代償を払わせられるのだ。わしが犯した罪……都が! わが家が!」
地響きは津波のように押し寄せた。
地を踏みとどろかして馳《は》せてきた姿のないもの[#「もの」に傍点]は、轟《ごう》と音をたてて宮城の真ん中に黒い稲妻の大樹となってそそり立った。人の目にはみえぬ、歪《ゆが》んだ大樹の枝は天までつらぬいてそびえた。
頭上に、火花をちらす大樹の枝がうずうずと蠢《うごめ》きながら延びてゆくことも知らず、人々はただ一時に暗黒にとざされた空を見上げて、あれよと騒ぐほかなかった。
「あれ、空が真っ暗に……」
「嵐か、雷か、天道さままで消えるとは――」
そう言いかけた市女《いちめ》の頭が、ぞぶりと音を立てて食いちぎられた。血を噴いてたおれる女に、わっと人の輪が逃げ散る。
「な、なにごとじゃ! ひとが……」
それもまたすぐに絶叫に変わる。
したたり落ちた血は闇にそめられて黒く、その中から、狂笑する人間の頭を三つはやした妖獣が、ねばい滴《しずく》をたらしつつゆっくりと這《は》いだしてきた。
三つの口を天へとむけて、つんざくような笑いを放つ。応《こた》えるように、市のあちこち、大路のそこかしこから、耳をかきむしる咆吼《ほうこう》がかえる。
ぬるぬると、暗黒の底からひり出されてくるのは、鳴滝が天皇家の血の因縁から産んだしろもの、太古《いにしえ》からつづく権力の座にまつわる業のかたちをとった悪獣――
「た、たすけてくれえ……」
「おのれ退け、わしがさきじゃ」
「何を、うぬ、俺が先じゃ!」
ゆらめき、ゆらめき、闇にまぎれつつ見えぬ牙で不運なものを屠《ほふ》る妖獣の群れに、逃げまどう人々の中にも争いが起こって、鮮血、絶叫、あたりは必ずしも妖怪のためばかりでないなまぐさい臭気にみち、その上に、黒いいかずちの樹は綾《あや》なしてひろがる。
と、誰かが火を放ったらしく、貴族の第の集まるほうに、ぽっと橙《だいだい》の炎がさしたと見るや、たちまち起こる叫喚の声。築地《ついじ》を打ち壊しにかかっているらしく、どーんどーんと腹に響く響きに、邸を守護するものが迎えうつらしい剣戟《けんげき》のひびき、怒号、また悲鳴――
目を血走らせて大路を馳せてゆくものどもはすでに人でなく、影から影へとくぐり抜けて跳梁《ちようりよう》する獣どもの同胞《はらから》かと見えて、都はつかのまに、妖獣、悪獣、血に飢えた悪鬼の跳梁する地獄とおもわれた。
そしてその上に、からみあう雷電の枝の上に抱かれて、今や日輪にかわり、天の支配者と化した黒い月が、悠然とあたりを睥睨《へいげい》しているのである。……
とろりと、心地よい。
死というのは、このように心地よいことだったかと、まどろみに似た状態で志狼は思った。
ドーマの変化した、暗黒に包みこまれて、それからあと、自分はどうしたろう。
なにも見えない。聞こえない。
ただ、じんわりと暖かく、伸ばした手足の凝《こご》りが少しずつほどけていくような、快さがある。
このまま、眠ってしまってもよいだろう。志狼は、目をとじた。いや、なにも見えないから、とじたと自分でそう思った。
目を開けたところで、もう葛葉はいないのだ。死んだ。殺されてしまった。
自分を庇《かば》って、葛葉は死んだのだ。
俺の、せいだ。
(いいえ。そうではありません)
誰だ。そこにいるのは。
葛葉……? おまえは、死んだはずだ。
(はい。でも、死んだからこそ、わかったこともあります)
葛葉。どこにいる。
姿を、見せてくれ。
(はい……)
ふっと闇に光が現れ、葛葉が見えた。初めて会ったときの、あの桔梗《ききよう》模様の小袖を着て、袖に笛を抱き、ほほえみを浮かべている。子鹿の目だ、と志狼は思った。いとおしくてならない目だ。
そう思うと手が出来、足が伸びた。
感覚だけであった世界に、色がついた。志狼は起きなおって、葛葉を抱擁した。暖かな、やわらかい肉体は、生きているのと少しも変わりがなかった。
「死んだというのは、嘘だったのか。葛葉」
『いいえ。わたしは、死にました。だからここで、あなたさまと向きあうことができます』
落ちついた声で葛葉は言った。どことなく、かの女は変わったようであった。おどおどとしたところがなくなり、瞳《ひとみ》に、深い光が宿っている。ずっと年上の女と向かい合っているような感覚を、志狼はおぼえた。それでいてそこにいるのは、誰よりいとしい、葛葉に間違いなかった。
「こことは、どこなんだ」
『死の世界』
「なに……?」
『あの、ドーマといっていた黒い男の、体内です』
上を見上げる。深閑として音もなく、上下も定かでない。見えるのはただ、葛葉の白い顔と自分自身だけだ。虚空にふわりと浮いているような、落ちつきの悪さがある。
「俺たちは……、あいつに呑《の》み込まれたのか」
『あの男の存在は、死と生の世界の間の結び目なのです』
葛葉はつづけた。
『われとわが身を喰らってまで、生に執着し、生き続けようとした結果、他の生命の死をわれとわが肉体とすることで死中の生命を得たのです。あの男の黒さは、死の世界、そのものの黒。ドーマそのものが冥府《めいふ》への風穴なのです。その飢えと貪欲《どんよく》にはかぎりがありません。このままでは、死と生の世界の均衡《つりあい》が崩れ、この世はすべてドーマに呑み込まれてしまいます』
「そんなこと、知るものか」
急に不快になって、志狼は身をはなして横を向いた。葛葉は、こんな説教がましい口をきくような女ではなかった。いかにも、それだからドーマを始末しろ、と言いたげな、そんな話を得々とする女ではなかったはずだ。
「だから俺にどうしろというんだ。俺は葛葉、おまえ以外、何も興味がない。おまえがいないのなら、生の世界など、あっても仕方がない。
ここが死の世界なら、それでもいい。こうして、おまえと会って、話ができるほうが俺には重要なんだ。せいぜいここで、おまえと二人で飽きるまで話をして過ごすさ。そんな分別くさい話は、もうやめにすることだ」
『……そうおっしゃると思いました』
嬉《うれ》しい。そう呟《つぶや》いて、俯《うつむ》いてくすりと笑った葛葉に、志狼は胸のとどろくのを感じた。そんな仕草はまぎれもなく、かの女だった。小首をかしげて、信頼しきったようにこちらを見上げる姿の愛らしさ。
『そういうあなたさまだからこそ、わたしは好きになったのです。なににも惑わされず、脇目もふらず、ひたすらに進んでゆかれるあなたさま……』
ですからもう、なにも申しません、と葛葉は言った。
『ただ、ひとつだけ、お願いがございます』
「なんだ」
『生きていてくださいませ』
ごく簡単な言葉だった。志狼は目を見ひらいた。きちんと座って、両手を膝の上に置いた葛葉をじっと見返し、
「……いやだ」
志狼はかぶりを振った。
「おまえは、死んだんだろう。だったら、俺もここにいる。俺は葛葉、おまえ以外、何も興味がない。おまえがいないのなら、生の世界など、あっても仕方がない。生きていたってどうしようもない。俺は、おまえとここにいる。それでいいんだ。そのほうがいい」
『いけません』
きっぱりと、葛葉はかぶりを振った。
『あなたには、どうぞ、生命の世界に戻っていただかなくては』
「なぜだ」
かっとして、志狼は怒鳴った。なぜ、わかってくれないのだと腹立たしかった。
『わたしは、初めてわたしの心で、わたしの望んだことをしたのです』
ほほえんで、葛葉はいった。
保憲の術から志狼を庇ったことを指しているのだと知れた。あの瞬間、かの女は、なににも代えて志狼に生きていてほしいと願ったのだ。
『どうぞ、わたしの思いを、無駄になさるようなことはなさらないでくださいまし』
「いやだ」
志狼は吐き捨てた。
葛葉は黙って、かれを見つめた。
志狼も、見つめ返した。
長い時がたって、志狼は、やにわに強く葛葉を抱きしめた。出なかった涙があふれ、かの女を抱きしめながら、すがりつくようにして志狼は号泣した。
「葛葉、葛葉」
よい薫りのする胸元に頭を埋めて、志狼は泣いた。
「どうして死んだ。かってに死ぬな。俺は、おまえと生きたかった。おまえといっしょにいたかったのだ。おいていくな。俺を、ひとりにするな、葛葉」
『――わたしは、肉体を失って、初めて本当に知りました。生命の大河が、どんなに大きいかということを。その流れが、どんなに豊かかということを――』
やさしく志狼の髪を梳《す》きながら、葛葉は囁《ささや》いた。
『一度は死に別れたとしても、必ず、またわたしたちはあの大河のどこかで出会えます。
あなたは、志狼さま、その大河の流れが生み出したお力、小角。きっとまた、お目にかかりましょう。でも、その前に、あなたさまにはまだ生きて行かねばならない長い時間があるのです』
「いやだ。葛葉、俺はここにいたい。おまえといたい」
『生きていてくださいませ、志狼さま』
そう囁いた葛葉の顔が、ふっと遠くなった。あ、と手をのばすが、それより早く、葛葉の和《あ》えかなす型は、闇にまぎれて遠くなる。
『どうぞ、生きていてくださいませ。いつか、また出会います。それだけがわたしの、あなたさまへの願です――』
志狼は叫んだ。
泣き叫び、狼のように吠《ほ》えて、後を追おうともがいた。蹴った。前後左右の見分けもなく暴れ、もだえて、なんとかこの暗黒の外へ出て葛葉の影を追おうとした。
ふいに、ほのかに明るくなった。
風がどっと吹きつけた。うすく目をあければ、あたりはやはり暗かったが、それは、今までいたところの手足も見えぬ真の闇ではなかった。
びょうびょうと風が、耳元でうなった。雷光があたりを躍り、焦げ臭い臭いをさせて肩をかすめた。痛みが、肉体を思い出させた。
志狼はかっと目を見ひらき、自分が今いる場所を知った。
天に浮かんだ、巨大な黒い球体の上。
そこに志狼は、ひとり立っていた。暗雲があたりを覆い、雷光が次々と地面に突き刺さる、そのただ中にいるのだった。
足下に、人の住む家々が煙をあげていた。雷光に打たれて、燃えているのかと思いきや、雷光の色は白くなかった。黒かった。生きたもののようにうねくるいかずちがあたりを飛びかい、網目のごとく天空に拡がっている。かすかに見える地上は暗く、暗黒一色に沈み、底なしかと見える闇わだのなかにちらちらと揺れる炎がみえた。
燃えているところから、かすかな蛍のような光が、球体めがけてあがってきて吸収される。吸いこまれる瞬間、そいつはひょうげた顔の小鬼の本体をあらわし、悲しげな叫び声をあげながら球体に呑まれた。
ほのかに光る光球が、いくつもいくつも同じように吸い上げられてのぼってくる。これまで京にすんでいた、小神、妖怪、地霊のかずかずが、もがきながら次々吸いこまれていく。中にはあきらかにそうした類とはちがう、歪《ゆが》んだ獣もいたが、これは鳴滝の産んだ獣どもか、どちらにしても球体は平等に、喰うに関して隔てはないようであった。
俺は、ここから出てきたわけか、と思い、額に触れた。小角の角、これのおかげで、完全に吸収されることをまぬがれたか。
『ほう。運強く、出てきたか。どうりで腹が、もたれると思ったわ』
後ろから、声がした。志狼は見返った。球の表面がゆがみ、現れたものを見て、志狼は、息を呑《の》んだ。
「童子……?」
『童子ではない。ドーマよ。この身体、なかなか居心地がよいでな』
童子の、無表情な顔から、ドーマの声が流れ出してくる。血の涙が止まることなく、金色の頬を伝っている。
突然の雷鳴であった。
「なんじゃ、空が真っ暗に……」
そう呟いて、席を立とうとした大納言清貫を、大音響とともに真っ白な光がつつんだ。
「ひいっ、あ、熱い!」
悲鳴とともに大納言は倒れ、身体についた火を払おうと、薄縁《うすべり》をしいた板間の上を転げまわった。胸が焼けこげ、真っ黒になっていた。
「な、なんだ?」
「か、雷じゃ! 落雷じゃ!」
ふたたび、あたりが白い光につつまれ、集まっていた諸卿は総立ちになった。今度は、右中弁平希世《うちゆうのべんたいらのつねよ》が犠牲となった。顔面を覆って席から転げ落ち、のたうちまわる。
「い、痛い、顔が、顔が……!」
落雷はとぎれず、清涼殿は騒然となった。あちらでもこちらでも、雷に打たれ、あるいは、恐怖のあまり前後もわきまえずに叫び、走り回るものの姿でいっぱいだった。どこかで火事がでたらしく、薄い煙が漂ってきた。
忠平は袖で口鼻を押さえながら、天皇の座す御簾《みす》にいざり寄った。
「主上、ご無事でいらっしゃいますか。お気をたしかに」
「い、いやじゃ!」
うわずった声が中から返ってきた。
「た、たすけてくれ、朕《ちん》は悪うない! 頼む、道真、朕は悪うないのだ、あれは、みな時平が……朕は、朕は」
「落ち着かれませ、何ごともございません。少し鳴り物がしたばかりです。じきに警護のものが参ります。お気をたしかにお持ちなされませ」
と、そこへ、ふらりと出てきたものがある。
なまぐさい臭いに、ぎょっとして頭を上げると、定方が、にやにやしながら立っている。頭の回りに、見たことのない赤い蛾が舞っていた。
定方の、裂けた唇がにっと笑って、女の声がそこから漏れた。
「御子、めでたくご来臨。祝いの花火をさしあげよう」
定方の口がかっと開いた。
のけぞらんばかりに開いた口から、飛び出したのはおびただしい数の真紅の蛾の群れであった。
蛾は手当たり次第に人に貼りつき、憑《つ》かれたものはもがき苦しんで昏倒《こんとう》した。しわがれた定方の笑い声があたりを圧した。折れそうな足をふんまえて、定方は、噴水のように紅い蛾を口から噴き出した。
『やはり、おまえはしぶといな。己が片棒担がせようと、見入っただけのことはあるわ』
ドーマは、上機嫌だ。童子のきゃしゃな身体のうえに、筋骨たくましい黒い男が重なって見える。桃色の口がにやにや笑っている。童子の体をくるりと回す。
『見ろ。あでやかな。どうだ、おまえと己と、組んでこのまま好きに喰らってまわらんか。おまえと、こいつと、どうやら陰陽ひと組らしい。合わせれば、もっと大きな力になろう。もっと大きなものになれよう』
「けがらわしい。寄るな」
ひと言、志狼は切ってすてた。
『なにがけがらわしい。一度は手を組んで、獄を抜け出た仲ではないか。それに、見ろ、これは、おまえが惚《ほ》れていた女の、弟でもあるのだぞ。死んでいた身で、けがらわしいもなにもないものだ。おまえ、むしろ、あのまま死んで、己の中にいたほうが嬉《うれ》しかったのではないのか』
「そう思った。だが」
言葉は灰の味がした。唾《つば》とともに、志狼はそれを吐き捨てた。
「俺はどうやら、生きねばならぬらしい」
『生きるだと。笑止な』
からからと、ドーマはうち笑った。
『生も、死も、どちらもかけらも変わりはないとも。両方のぞいてきた己が、言うのだから間違いはない』
「そうだろうな。俺もそう思う」
ぽつりと、志狼はいった。
「だが、言われてしまったのだ、生きてくれと。勝手なやつだが、仕方がない」
言いざま、だっと飛んで、念をこめた手刀を二重写しのドーマの影にうちこむ。
鳴滝の術さえ受けつけなかった黒い皮膚が裂けて、透明な血がしぶいた。足もとの球がぶるぶるっと振動する。苦痛らしきものはあるらしい。
『なにをする。なぜ、己を傷つける』
「さあな」
無関心に志狼はいった。
「とにかく、俺は生きねばならぬらしい。そのためには、おまえがいては、邪魔だ。消えろ。それから、童子もおいていけ。それは葛葉にゆかりのものだ。おまえなどのいいようにさせておいては、胸が悪くなる」
『ほほう、なかなかに抜かすな』
からかうようにドーマは目を大きくしてみせて、
『しかし、己も、そのままにおまえの言うことを聞くとは思っておるまい、どうだ? うむ、よく見れば、おまえもやっぱり旨《うま》そうだ。今度は這《は》いだしてなど来ないよう、ちゃんとのみこんですっかり消してやる』
言い終えたとたん、志狼の立っていた球の表面が消えた。開いた底なしの穴に、志狼はまっすぐ落ちこんだ。
たちまち弾力のある黒い液体が、どろりと押しつぶしにかかってくるのをうち払う。額に念を集めて全身の力をこめ、気合いをかけて、一気に爆発させる。一瞬にして、志狼はふたたび球の外に出ていた。
『無駄だ、無駄だ』
勝ち誇ったドーマの笑い声が聞こえる。
『己には、おまえの中に宿る死が見えるぞ。それは、己の知っているものだ。いつでも操ることができる。おまえの望んでいることだ、こんなふうにな』
と、志狼の視界はふたたび闇に沈む。
そこにいるのは、葛葉だ。小さな手を胸の上に重ねて、笑っている。もう死んでしまった葛葉、だが、死の世界でなら、あえる――
――生きていてくださいませ、志狼さま。
声とともに、幻の葛葉は砕けて飛びちる。
――生きていてくださいませ。それだけが、わたしの願い。
葛葉に引きずり込まれかける精神を、葛葉の声がひきもどす。
葛葉、おまえは知らぬだろう。俺は、おまえがいなければ、人のかたちすらなくして散ってしまいそうになるのだ。
おまえがどんなにむりなことを俺に押しつけているのか、わかるか。
沈んでゆく心に反して、額の角からほとばしる力はいっこうに減じなかった。
どういうことだ、と思い、意識を澄ませると、葛城からはもとより、吉野、愛宕《あたご》、大峰、この、京の四神相応の土地からまでも、まばゆい力の波がいっぱいに流れ込んでくる。それはドーマのものとは正反対の、生命そのものの力だ。その力が、額の小角を真昼の太陽のようにかがやかせつづけている。
――そうか。これが、〈小角〉なのか。
志狼はさとった。
小角の者、それは、たんなる力を注がれるための器であって、このドーマのような、探知自然の流れに反する存在ができたときに、それを埋めるためにはたらく一個の道具にすぎないのだ。
――だからいざ埋めるべき欠落を前にしたときには、本人の意識などほとんど問題にはならない。傾けた器から水がこぼれるように、焼き尽くすべき異質な穴に、力が注がれていくだけだ。
――その力の方向、正とも邪とも定まらず、ゆえに流れのすえを乱し、ひいては、生きてあるべきいのちを害し、苦しめることにもなりかねぬ……
――……小角を人に、人のがわに立つものにしておくのが、われら一族の、さだめにして、運命……
父大角は、このことを知っていただろうか。知っていて、あわれな息子を見ていたか。
身体が拡大する感覚をおぼえる。新たな法力が注ぎ込まれてくる。
意識のはしに、どんぐり眼、いがぐり頭の坊主がうしろに僧の一隊をしたがえて読経する姿がちらりとうつる。
僧……、たしか、浄蔵といったか。あんたも、俺を、器につかうか。
いいだろう。好きに使え。どうせ、ほとんど、用のないからだだ。
全身に、青白い炎をまとって、志狼は黒い球にぶつかる。
稲妻の大樹が鳴動した。樹とともに、京のおかれた大地も身震いした。
球は大きく歪《ゆが》み、ほおずきが爆《は》ぜるように、弾《はじ》けた。
ドーマの野太い怒声がのこった。
大樹は身もだえ、火花を散らし、天をつかまんとするかのように幹をよじったが、はしから少しずつ薄れはじめ、やがて、力つきたようにしおれていった。黒い破片はこまかく砕け、白い骨灰となって降った。
――骨灰の降りしきる中、志狼は童子の身体を抱いて宙に浮いていた。
ぐったりとした童子は、身の光も消えていたいけな童の顔だ。目の下にこびりついている血の涙のあとが、鬼神の相のなごりだった。
――くく。やられたの。だが、己は決して消えはせんぞ。
ドーマの声がまだ聞こえる。かすかに上下する、童子の胸の内側からだ。この身体のどこかにまだ、ドーマは巣くっている。
――己は死よ、破壊よ、残酷を事とする者の心に潜んで、己はまたやってくるぞ。
――この童子の身のうちには、姉のなきがらを喰ったという、深くて大きな穴が開いている。その深い〈死〉の淵に己は身を置いている。そう簡単に引きはがすことはできんぞ。いっそのこと、このまま死なせてしまってはどうだな。
「死なせる……」
――鬼の子だ。すぐ殺されるか、生きていても一生飼い殺しだろう。死なせてやったほうが親切というものではないかな? 姉のもとへやってやったほうが?
「そうかもしれないな」
志狼はいった。
「だが、俺は、へそまがりだからな」
そして手をあげる。額髪をわけ、そこに発光する、短い一角をつまんだ。
――待て。それを、どうするつもりだ。
ドーマが、急にあわてだした。
「おまえの知ったことではない」
――よせ。やめろ。それを失ったら、おまえはおまえでなくなるぞ。
ドーマのそんなせっぱ詰まった声を、志狼は初めて聞いた。おかしくなって笑った。
――角を折ったら、通力はなくなる。いや、ただの人間よりはずっと強く残るだろうが、今のように、誰にも押さえられないほどの、奔放な強さは失うぞ。
――あの、おまえの惚れた女は、誰にも従わぬおまえが好きだと言ったのではなかったのか。自らの心にのみ従うおまえであってほしいと言ったのではなかったか。
「葛葉は、あいつの心にしたがって俺に意に添わないことをさせた」
角に手をかけたまま、志狼は皮肉な笑みを浮かべた。
「だから俺も、俺の心にしたがって、あいつの意に添わないことをやってやるのさ」
そして指に力をこめ、角を、へし折った。
ドーマの、われ鐘のような声がけたたましくののしるのを無視して、それを、はだけた童子の胸に差し込む。そこには、人の目には見えない、暗い空洞が開いていた。
角は星の光を放ちながら、童子のなかへ溶けた。
あえかなその光がまたたいて消え去るのと同時に、これまでとはまったくちがうとどろく悲鳴がわきおこった。
すでにしおれ始めていた黒い大樹が、はじから崩れて落ちていく。支えをうしない、志狼の足の下もゆらぎはじめた。ばらばらと地上に落ちてゆく中に声がのこって、
――愚かものめが。己は決してほろびぬぞ。この地上に死んだもの、死んでもまだ死にたくないと思うもの、他人が死んでも自分ばかりは生きたいと思うものがあるかぎり、己はなんどでもよみがえるのだ。
――己はひもじい。己の小指は決して埋まらぬ。それこそ人なるものの飢えよ。その飢えあればこそ、己はまたかならずこの地に復活する。待っているがよい。
「待とう。来るがいい。葛葉の血のつづくかぎり、この世は、おまえの餌食にはならぬ」
志狼はほほえんだ。
そしてがくりとのけぞり、童子を抱いて、地上へ落ちていった。
不可視の大樹の枯れ落ちるとともに、争闘の巷《ちまた》と化していた都に変化がおとずれた。
目をひきむいてつかみあっていた人々が、急に眠りにおちるようにあっちでぱたり、こっちでぱたり、倒れて動かなくなった。目をとじた顔はどれもこれも、おだやかな夢でも見ているらしいやすらかさであった。
燃えあがった炎も徐々に消えてゆき、うすれてきた闇のなかに、死んだもの、殺されたものの骸《むくろ》がしらじらと転がるばかりになった。
わがもの顔に荒れ狂っていた妖獣、悪獣どもはすっかりいきおいをなくし、退いていく暗闇に、身をちぢこまらせてあわれな鳴き声をたてるばかりだった。
ぎゃくに元気づいたのは、宙天の黒い月に仲間を吸いこまれていた京の小妖どもで、それぞれに牙を噛《か》みならし、爪を逆立てて、この異様な姿の侵入者につかみかかっていった。あっという間に獣どもは噛み裂かれ、引きちぎられて、黒い血とかぼそいすすり泣きを残したきりで消え失《う》せた。
さいごに三つ首の鵺《ぬえ》が、引き抜かれた頭から硫黄臭い煙をふいて消え去ると、闇の晴れた京の空に、ぬっと巨大な姿が立った。
牛の頭を身の丈六条の体躯《たいく》にのせた牛鬼が、雄叫《おたけ》びとともに、肩に背負った大|斧《おの》を振りあげる。かろうじて残った黒雷樹の幹に叩き込めば、たまらずあやかしの樹は砕け散り、それとともに、鬼たちの姿もみな失せた。
「ははは。もがけ、もがけ。快いこと。御子さま、鳴滝さま、ご覧なさりませ、威張りかえった殿上人がこのように、ほ、ほ、ほ」
口から紅の蛾を吹き出しながら、定方の小萩は声を上げてわらった。
外で繰りひろげられている阿鼻叫喚も、この魔性の女にとっては耳を愛撫《あいぶ》する楽の音にほかならぬのである。あたりでてんでに伏しまろび、頭を上げることさえできずに呻《うめ》いている貴族たちを満足げに見わたして、
「それにしても御子の御降臨いまだし、……こ奴らの悲鳴にもちと飽いたわ。鳴滝様はまだおつきになられぬか。気になる」
と、蛾の舞い飛ぶ屋内を自慢げに見わたして、褒めてくれるであろう主人がまだ来てはおらぬかと、簀子《すのこ》に一歩足を踏み出したとたん――。
「な、なんじゃ、おまえは」
その胸に、ひょいと小さなものが飛びのった。見れば小さいながら、衣冠束帯に身をただし、冠の垂を揺らして、いっぱし上卿《じようきよう》のよそおいをこらしたそいつは鼠めいた顔をした、痩せた手足の小鬼であった。
手にした幣《ぬさ》を振りあげて、定方の小萩の鼻先に突きつけ、
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きりきり 千歳栄 白衆頭 聴説晨朝 清浄偈 や 明星は
明星はや
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「な、なにを」
小萩がいいかけたのと、小鬼が幣を振り立てたのとは同時であった。
空中から、小萩の蛾にもまさる勢いで、小鬼とまったく同じ姿同じ束帯によそおった同朋《ともがら》が現れた。手に手に幣を振りかざし、口々に偈をわめきながら、どっとばかりに女につかみかかったのだ。
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明星はや くはや ここなりや 何しかも 今宵の月の
只だここに坐すや 只だここに 只だここに坐すや
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「あ、あ、あ、何を、何を」
言わせもはてず、小萩の頭はわらわらと押し寄せる小鬼どもの波の下に消え、不明瞭《ふめいりよう》な呟《つぶや》きさえ絶えたあとは、白目をむいて気絶した定方の肉体だけが残っていた。
鬼どもはわっと勝ちどきをあげ、幣をかかげて躍りながら御所の簀子をすすんだ。
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きりきり 千歳栄 白衆頭 聴説晨朝 清浄偈 や 明星は
明星はや 明星はや 明星はや……
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そのようなことが起こっているとも知らず、忠平は、頭をかかえて自らの座で丸くなっていた。
あたりでは泣く声わめく声、耳を聾《ろう》さんばかりにかしましいが、忠平にだけは、例の浄蔵の託した呪符のおかげか、蛾も寄らず、雷のおちる様子もない。
「憑《つ》き物……、浄蔵殿の懸念は当たったか。よりによってこんなときに――主上!」
そうだ、この座には、大切なお方が臨席なされていたのであった。忠平は頭を低くし、すばやく至聖の座にいざり寄った。
「危急ゆえ、ご容赦くださりませ」
囁《ささや》いて、天皇御座のうちにさっと入り込んで御簾《みす》を降ろした。
見れば主上は頭をかかえて、すみでふるえている。さいわいにも蛾の害はうけていない。入り込みかけた蛾を袖で叩き落とし、肩を抱いて、耳もとで力強く囁いた。
「お静かになさいませ、主上、忠平がお守りいたします。ここに浄蔵殿より戴《いただ》いた護符一枚あり、これがあれば、怨霊《おんりよう》も、雷神も、ひとあしたりとて近づけるものではございません。ご安心を、主上、ここに忠平がおりますぞ」
「あ、忠平、忠平、助けておくれ」
半狂乱になって帝はしがみつく。
「菅公《かんこう》が雷神となって祟《たた》りに訪れたのじゃ。朕《ちん》を雷で撃ち殺すつもりなのじゃ。怖や、怖や、だから早く退位がしたいと申したのに、ああ、朕は殺される、菅公に殺される」
「大事ございません、主上。忠平がお守りいたしますぞ」
また誰かが雷か、蛾かにやられたと見えて悲鳴が交錯する。忠平は襟に入れた護符を押さえ、帝を抱いて身を低くした。
いまだ雷震はおさまらず、すさまじい音が内裏の上をとどろきわたり、蛾の羽が御簾をうちたたく。しかし、雷も蛾も、この御簾のうちに入ってくることはなかった。やはり護符の効き目はあらたからしいわい、と忠平は思った。
何人死んだか、傷ついたか、それを考えると気が気ではなかったが、だからと言って出て行く気はなかった。今、死んではならぬのは、誰よりもまずこの主上。そして、この忠平なのだ。
あの様子では、右大臣である定方はしばらく使い物にはならぬ。大納言その他、多くの官が倒れるのを見た。とすれば、この後しばらく、政《まつりごと》を率いるのはこの忠平しかおらぬことにもなろう。
ほかの人々が身を守るすべもなく死んでいくのはいかにもあわれだが、国政をたてていく身であってみれば、心がたとえ痛むとしても、わが身を守ってのちの事態の収拾に備えるのが筋だ。
腕の下でふるえる帝をすかし見る。
あるいは、帝もこれでご辛抱が切れて退位を押し切られるかもしれぬ。春宮寛明親王はわが血族、とすれば、こちらもそれなりの備えもせねばならぬし、とても死んでいるひまなどない……
死んではならぬ。
忠平は、誰が死のうとこの忠平のみは、死んではならぬ……
死んではならぬと唱えながら、忠平は、天皇の御簾のうちで、倒れた人間の頭数を数えて、どうやって人員を補充するかの算段をすでにはじめていた。
「……、お」
目を見ひらき、純友はがばりと起きなおった。空が見える。しかし今までいたはずの、葛城の木々を透かしてみる空ではない。
「これは……京か。どうしたことじゃ。いつのまに、ここまで帰ってきた。たしか我らは、葛城で黒い鬼と対峙《たいじ》していたはずでは……あ、小次郎、小次郎」
ドーマの体内に吸いこまれ、志狼や童子ともども都まで飛行してきたとは思いもよらぬ純友である。そばに、大事な友の将門が大の字になって倒れているのをみとめると、あわてたように手をのばして、肩をゆさぶった。
「おい、起きろ。起きろ、小次郎」
む……、と唸《うな》って、将門もうっすら目をあけた。しばし茫洋《ぼうよう》と視線をさまよわせ、自分がどこにいるかわかるが早いか、純友同様飛び起きてあたりをまじまじと眺めた。
「小次郎よ、われらは、夢を見ているのではないか」
「いや。二人して、同じ夢を見ているというのでなければ、これは真に違いない。しかしこれは、なんというありさまだ」
将門がいうのも無理はなかった。建物のかたち、道の様子から、どうやらここは京の三条あたりかと見当はつくものの、たたずまいは一変している。
あたりには血を流したり気絶したりした人間が所かまわず転がっており、火をかけられたらしい邸はいまだにぶすぶすといぶって、まがりなりにも秩序の保たれていたあたりとは思いもよらぬ荒れようとなっているのである。
「ここが京で間違いないのなら、いったい、何があったのであろう」
「わからぬ。とにかく、あの若い鬼と、小鬼はどうなったのだ。それにあの黒い鬼――われらの任務は、まずそのことのはず」
話し合いながら崩れた築地《ついじ》を抜け、小路に出る。出かけたところで、足が誰かにつまずいた。
「あ、これは、保憲殿」
賀茂保憲がまっ青な顔で路傍にうずくまっていた。意識は朦朧《もうろう》として、立つこともできぬらしい。
「俺はどうもこいつが許せぬ。置いていこうか、小次郎」
「馬鹿をいうな、主の人だぞ。……おまえの気持ちがどうあれ、とにかく、このような様子で道に置き捨てておくことなどできん」
一喝はしたものの、やはり、罪もない娘を背後から撃ったという事実は、小次郎の胸にもわだかまりを残さずにはおかなかったのである。
しかし、生来の謹厳さから、主人とされた相手を放り出すことはやはりできずに、将門と純友はふたりして、正体のない保憲を背にかかえ上げた。
「あ――」
「まだ、なにかあるのか」
ふた足三足歩きかけて、声をあげて立ち止まった純友に、将門はうんざりと眉をひそめる。指さされた方向を、それでもちらりと見やりはして、とたんに釘づけになった。
大路のはしに掘られた溝から、ひとむらの白い雲のようなものがのぞいている。
それに、そこにしっかりとからんだ、よく筋肉の締まった二の腕が。
「おい、小次郎、あれは」
「うむ」
急いでそこへ走り寄った。
「小鬼! おまえたち――」
――かがみこんだ純友と将門が見たものは、額から流れる血に半面を浸して、しっかりと童子を抱きかかえた、眠るような顔の志狼であった。
[#改ページ]
終 章
――延長八年六月二十六日、清涼殿に雷震あり。
雷は清涼殿南西の柱にまず落ち、近傍の紫宸殿《ししんでん》にも被害は及んだ。
このときの被害者は、殿上の間の東北隅にいた大納言藤原清貫、右中弁平希世がそれぞれ胸と顔面を焼かれて死亡し、紫宸殿にあがっていた右兵衛佐美努忠包《うひようえのすけみぶのただかね》は髪を焼かれてこれも死亡、ほかに紀蔭連《きのかげつら》や安曇宗仁《あずみそうじん》などが膝や腹部に火傷を負って重傷となった。
帝はこの事件に大きな衝撃を受けてそのまま病床につき、結局その床から二度と起きあがることはなかった。
のちの世はこの事件を、菅原道真が雷神と化して内裏《だいり》を震撼《しんかん》させたのだと伝える。
死期をさとった帝は、九月二十二日、春宮寛明親王に譲位。二十九日、四十六歳をもって卒した。醍醐《だいご》天皇と号す。
左大臣藤原忠平は新天皇の摂政職を拝命し、これが、貴族文明はなやかなる藤原摂関家時代の、開花の糸口となる。
「――本当に、出てゆくのか」
しわがれた声で、賀茂忠行が言った。
志狼はうなずいた。
秋風の立つ、賀茂家の門前であった。
志狼は身軽な茶の袖無しと短袴《たんこ》をまとい、肩に振り分けに掛けた布袋には煎《い》り米と水。きりきりと布で巻いた足は長旅に向くようにわらが巻きつけてある。
一時は立ちあがることさえ難しかった心身の衰弱も、もうない。若い身体は、以前と同じ鋼の強靭《きようじん》さを取りもどしていた。元通り、逞《たくま》しい筋肉に覆われた腕を曲げ伸ばしして、志狼は久しぶりの、外に吹く風を味わった。
額の傷はもう癒《い》え、小さな、星の形に似た傷跡が残っているだけだ。
「世話になった。なりすぎたくらいだ。俺は、葛城へ帰る」
「帰っても、誰もいないのではないのか」
心配そうに忠行は言ったが、志狼は答えなかった。
忠行は具合悪そうに咳払《せきばら》いした。
「……いや、すまぬ。そなたの気持ちも考えずに、すまん事を言った」
葛城の里が離散したこと、大角が死んだことは、もう忠行に伝えてあった。
伝えたのはそれだけだが、里がないと知ったことで忠行は、肩にのしかかっていたかつての自分の罪の呵責《かしやく》が、いくぶんか軽くなったらしい。
――あの都に雷鳴が鳴り響いた日、額に重傷を負った志狼は、将門たちの手で賀茂家へとまっすぐかつぎこまれた。
それから七日あまり、人事|不省《ふせい》に陥っているあいだに、事実の詮議《せんぎ》がすすめられた。
将門と純友、都上空での戦いを援護した浄蔵などの証言によって、このたびの危機を撃退したのは志狼であるということが確認されたのであった。
保憲は黙して、ついに口を開くことはなかった。眠りから覚めた志狼は、忠平に呼び出されて直接お褒めの言葉と引き出物を受けた。
引き出物はその帰り道、市で遊んでいた子供たちにすべて配ってしまったが、それが、暑さの残る八月ごろのことだ。
あの日、熱に浮かされたように破壊に狂乱した都人たちも、いまは何があったのか忘れ、ことなく日々を送っている。
燃えた建物、死んだ人間は、時ならぬ雷鳴に乗じた盗賊のしわざとしてかたづけられた。鬼の姿を見たと語るものもないではなかったが、それも、日がたつごとにまた別の新たな噂にとってかわられた。
都には何も起こらなかった。闇にとざされたことも、なかった。
変わったことなど少しもありはしなかったと、今では、人々は心から信じているようであった。
そして、今は九月も末。そろそろ朝夕は冷え込みがきつい。
紅葉も散りかけたこんな季節に、旅立つことはないだろうと忠平は言うのだ。
「なにも、そんなに早く帰ることはないであろう。まだ雪には少し早いが、山のほうへ行けばどう天候が変わるかもわからぬ。
一冬は京ですごして、春になって天候がよくなってから出かけた方がよくはないか。……忠平様も、そなたのことを惜しがっていらっしゃることだし――」
その忠平は一昨日、摂政職についたばかりである。
言いづらそうに口ごもる忠行を、志狼は笑い飛ばした。
「都の陰陽師《おんみようじ》の仕事を、奪う気はないよ。安心しろ。俺には山のなかを、獣といっしょに走り回っている方が合っているのさ。なにしろ、山猿だからな」
「志狼丸殿」
忠行が返答に困ってもぐもぐしている間に、横から、助け船が出た。
「もう出かけられるのか。やれ、よかった。この子が騒ぐので、気になってきてみたら、案の定じゃ」
いつものように埃《ほこり》で法衣《ほうえ》の裾を白くして、金壺眼《かなつぼまなこ》の僧侶《そうりよ》が、二人の水干姿の童を連れてこちらへ歩いてきた。
「浄蔵殿」
忠行が小腰をかがめた。
「すると、もうよろしいので?」
「もうな。――これ、こちらへおいで、安倍童子」
ひとりは賀茂保憲である。志狼のほうへちらりと視線を投げ、浄蔵のかげに隠れていた小柄な童を、手を引いて前へ出した。
「大膳大夫安倍|益材《ますき》殿のご養子じゃ」
童を志狼の前に立たせて、深い声で浄蔵はいった。
「名は、今は仮に安倍童子と呼ばせておる。……いずれ成長して加冠の儀をむかえるようになったら、つてを求めてよい名をつけて進ぜる所存じゃ」
安倍童子はまばたきもせず、志狼の顔を見上げていた。
その眼は、黒い。――髪は少しまだ赤みがかっているが、それもそのうち、すっかり黒くなるだろう。
かわいらしい顔立ちは変わらないが、白髪|金眸《きんめ》、たてがみのような蓬髪《ほうはつ》を振り乱した鬼っ子と、この品のよい小童が同じ者であるとは、いったい誰にわかるだろう。
重傷を負った志狼が抱きかかえていた金色の髪の童子を、引き受けたのは浄蔵だった。
どんなに引き離そうとしても抱く手を放さなかった志狼は、枕元に来た浄蔵が、わしはそなたも知る痩《や》せ坊主じゃ、事情をいっさい承知しておる、決して悪いようにはせぬから、手を放して、任せてくれ……と言って、初めて手をゆるめた。
この童子は小さかったせいか、志狼よりも長く半月ほど寝込んだが、その間に、微妙な変化が次々と起こった。
まず、髪の色が変わり、うすい金白からだんだんとなみの黒い髪の毛に生え変わっていった。
犬のような牙があったのも抜け落ち、よくそろった人間の歯がならんだ。
眠って眠って、初めて目を開けたとき、その瞳《ひとみ》はぬれた黒だった。
言葉というものを知らぬ童子に、浄蔵は根気よく教えこみ、このごろでは短い語や、ちょっとしたやりとりくらいならできるようになったという。もともと利発なたちらしく、かわいらしい上なんでも覚えが早いと、寺の者たちにも評判らしい。
――志狼は前へ出て、そっと片手を安倍童子の頬に添えた。
すべすべとやわらかい頬。今は名を呼ぶこともないものを思い起こさせる。
「ひととおり行儀と読み書きを学んだら、賀茂家に引き取る」
いきなり、保憲がそう言った。志狼が驚いて視線をやると、保憲は少したじろぎ、それからたじろいだ自分に腹を立てたようにきっと目をすえて、
「浄蔵殿の見立てでは、尋常でない才能があるという。……才能のある人間は、いつでも多く必要だ」
それだけ一気に言って、そっぽを向いた。志狼はほほえみ、童子の頭を撫《な》でて、そっと手を放した。
「会えて、うれしかった。……では、俺はもう、いくから」
荷を肩にかけ、二、三歩行きかける。
と、誰かが走り寄り、後ろから、高い声がかかった。
「しろう!」
愕然《がくぜん》と志狼は足を止め、ふりかえった。
童子が、二、三歩離れたところで立ち止まり、両の拳を握りしめていた。
「いくな。しろう」
歯をくいしばって童子は言った。まばたいたとたんに、ぽろりと涙が頬にこぼれた。
「しろう、いくな。いくな、しろう」
肩を張って、嗚咽《おえつ》をこらえる。人前で、はばかりもなく泣いてはいけないとしつけられているのだろう。それでもなめらかな頬を、透明なしずくはとぎれなく伝った。
「しろう……」
こらえていた糸が切れた。志狼は荷物をその場に放り捨て、童子のもとに駆けよった。細い身体を、骨も砕けんばかりに抱きしめる。
衣に焚《た》きしめた、伽羅《きやら》が香った。甘い香りが、そのままあの娘の匂いを思い出させた。唇に触れると、かすかに血が匂うようであった。
この肉体のいくらかは、かの女の肉からできているのだと思った。頬を包み、仰向《あおむ》かせて、瞳の中をのぞき込む。
今はもうない角が、うずく気がした。言葉を知らぬ童子が、言葉を使うようになった。それは良くなったのか、それとも、堕落したのか――。人の使う言葉なるものを童子が受け入れたとき、同時に、人たることの枠の中にとじこめられることを余儀なくされるような気が志狼にはする。それは志狼がわが手で角を折ったのと、通じているようで少しちがう。
角は力のしるしであると同時に、叛乱《はんらん》することもできる奔放さの証《あかし》でもある。
志狼はそれを、自らの手で折った、つまり自分の意志でくびきをつけられることを選んだのだけれど、童子はそうではない。かれは選択の余地なく、そうすることを周囲の人間によって決められた。
野放しにするにはたしかに大きすぎる力がその身にはあり、かといって、殺して後顧のうれいを断つにはいささか惜しいとしたのは誰の意志であったのか。少なくともそこに童子の意見ははいっていない。無邪気に姉を慕い、笑いたければ笑い泣きたければ泣き怒りたければ怒った奔放さは、きれいな衣装だの言葉だの作法だの、つぎつぎ着せられる金ぴかの首輪に押しつけられて、息もたえだえに見える。
人として暮らすにはそれも必要という意見もあろうが、では人の暮らしがいちばんと決めたのはどこのどいつか。才能あると保憲は言う。さよう才能はあろう。しょせん人である賀茂親子が及びもつかぬ巨大な才能である。将来の弟子を前に殊勝らしくうつむいている忠行が、その心のうちに、この童子を使って将来手に入れうるであろう名声を、ひそかに思い描いているのもありうることではある。または単におのれの旧悪の罪滅ぼしができてほっとしているだけかもしれぬ。誰もわからぬことである。忠行自身もわからぬであろう。
人であるという手綱をつけられれば、童子の持つ力はまたとない道具にちがいない。その道具を使いたいどこかの誰かが、この子のためと甘い衣をかぶせて、今の境遇に首尾よく童子を押しこめたと、おおきに言えないこともなかった。早くも計画は効を奏しはじめている。人たるもののたくましさ、無意識のたくらみに、自分も結局は手を貸したのだと思うと、志狼の心は重く沈む。
しかしこの童子と、肉体の伝える血のつづくかぎり、自分はいつも護法の鬼、護国の鬼神とならずにはいられないだろうと志狼は思った。結局のところ、役一族は今回もつつがなく鬼たる小角を封じ得たのだ。
しかしまたそれは、甘やかな呪縛でもある。凜《りん》と張った切れ長の眸、黒い瞳に、涙がたまっている。子鹿の瞳。恋した女の面影は、まさにこの童子の上にあった。
「しろう……」
「心配するな。何かあったら、すぐ来てやる。忘れはしない。おまえのことはな」
そっと押しのけ、心配そうに見つめる人々のほうへ押しやる。
「息災で。よく勉強しろ、いいな。俺は、おまえのさいしょの式鬼なのだからな」
安倍晴明《あべのせいめい》は大膳大夫安倍益材の子とされ、幼少時は、安倍童子と称した。伝説上では、信太森の雌狐を母に持つ半獣人であるともされる。そのせいか幼いころ、蛇やとかげなど下手物を口にして母を困らせたという逸話もある。
陰陽道における大達人として知られ、九六○年に天文得業生として名が現れてから、天文博士・主計権助などを歴任して、最後には従四位下までの位を得た。賀茂忠行・保憲父子を師として天文道・暦道を学び、やがて、賀茂と並ぶ陰陽道の宗家として安倍家を確立させた。没年は一○○五年。八十五歳とする。当時としては異常なまでの長命である。
「俺に、伊予掾を任じてくださるそうだよ」
と、純友は言った。
「ほう」と将門は答えた。「よかったな」
今は左大臣に加えて、摂政までを務めて勢力いよいよ高い忠平の代である。
門の四つ足のところにだらしない格好でもたれながら、純友は、天を仰いでため息をついている。
「めでたいではないか。どうした。なにをそんなに、つまらなそうな顔をしているのだ」
「なぜかなあ。なんとなく、つまらないのだ。どうも、あまり心が躍らない」
わきの築地《ついじ》から取った草をかじりながら、純友はもぐもぐと言った。草を吐き捨て、
「たぶん、任地で、おまえのようないい男が輩《ともがら》にいるかどうか気になるからだろうな」
と、ごまかした。馬鹿を言うな、と将門は返した。
が、内心寂しいのはたしかだった。二、三か月ほどのつきあいにもかかわらず、これまでの一生分ずっとつきあってきたように思える男だった。うっとうしいこともあるが、この、呑気《のんき》で率直なお喋《しやべ》りのない日を考えると、なにか物足りない気がする。
「短い間だが、おまえほど良く気のあった相手は今までにない。……別れるのは寂しいな。おまえも、いとまをもらうのだろう、小次郎」
「ああ」
空を見上げて、将門は眼を細めた。
「……一度、故郷へ帰ってみようと思っている」
「故郷か。東国だな。なるほど、たしかに、いろいろなことがあったからな」
いっしょになって、純友も眼を細めて遠くを見上げた。よく晴れた日で、水浅黄の地に胡麻粒《ごまつぶ》をひとつ落としたように、鳶《とび》が輪を描いている。
「なあ、あの鬼っ子はなにをしているかな。小さい方の鬼っ子は、今では人間になって陰陽寮に世話になっているそうだが」
「さあ。あれも山へ帰ったと聞いたな。多分、都のくらしは性に合わないのだろう。思い出したくないこともあるだろうしな」
「そうだなあ」
純友は少し、しんみりとした。
「なあ、あの娘は、可哀想だったなあ――」
と、将門のほうをのぞき込んで、おっと言った。
「おい、ちょっとこっちへ来て、顔をよく見せてみろ」
と、嫌がるのをむりやり顎《あご》をつかんでちかぢかと顔を寄せ、
「ほう、面白いな。おまえ、左の眼に瞳が二つあるではないか」
「左目?」
将門は戸惑って、手を目に当てた。
「瞳が二つだと? そんなことを言われたことは一度もないが」
「そうか。だが、俺には瞳が二つに見える。ひょっとしたらいつもの伝で、人には見えない物を見ているのかもしれんな。しかし、ひとつの眼に瞳の二つある人間は、王になる運命を持っていると、どこかで聞いたことがある」
いきなり目を輝かせて、将門の腕をつかんだ。
「そうだ。なあ、おまえ王にならんか。東国の王に」
「いきなりなんだ。王になってどうする」
「おまえが王になれば、ずいぶんとよい国が出来上がりそうだからな」
人に聞かれれば謀反の相談ととられても仕方がないのに、純友の口調はどこまでもほがらかだった。
「忠平様もよい方だが、俺にはどこか、隔てがあって信用しきれん気がする。……その点、おまえなら、骨の髄まで信用できよう」
「こら、なにを言う、声が高い」
必死で押さえようとする将門に、純友は、自信に満ちた眼で言った。
「おまえは必ず王になるだろうよ、小次郎。そうしたら、俺にもなにか手伝わせてくれ。きっと合力する。おまえはいつまでも、俺の友だからな」
東国に戻った平将門であったが、留守のあいだに自領を搾取していた叔父や親戚などとのあいだに、いさかいが絶えなかった。九三五年、叔父平国香、源護一族と戦った将門は、これをきっかけとして果てのない争いに突入してゆく。
いったん源護の訴状により、都へ召喚された将門は恩赦を受けて帰国するも、ふたたび戦塵《せんじん》の中に巻きこまれてゆき、ついに九三九年、武蔵権守興世王のそそのかしにのった将門は、下野国国衙を襲撃。守護から印を捧《ささ》げさせ、さらに上野国府でも同様のことを繰り返し、国衙に入って自ら新皇と証紙、天皇が行う人事である除目をおこなった。
このときには見知らぬ女が現れて、われは八幡大菩薩《はちまんだいぼさつ》の使いである。将門に新皇の位を許す。表文を草したのは菅公こと菅原道真である、と称した話が残っている。兄弟を板東諸国の国司に任じ、武士の多くを従えたが、九四○年、藤原秀郷・平貞盛に破れ、首を切られて都に送られた。
また藤原純友は九三六年、伊予掾に任じられていたおり、伊予守紀淑人らと協力して海賊|追捕《ついぶ》の宣旨《せんじ》を受けて活躍したが、そのままそこに居着いて勢力を伸ばし、九三九年、東国で平将門が乱を起こすのとほぼ同時期に、瀬戸内海で叛乱を起こした。
朝廷は従五位下の位を与えて懐柔しようとしたが、失敗。各地の国衙《こくが》を荒らし、瀬戸内海沿岸を手中にしたものの、追捕使|小野好古《おののよしふる》や源常基によって伊予国を追われ、大宰府《だざいふ》を襲撃したが敗北。ふたたび伊予に戻ったところで敗死した。
叛乱の賊軍と見なされたかれらには、さまざまに怨敵調伏の呪法がかけられたが、それらを行った僧や陰陽師の中には、賀茂忠行、僧浄蔵の名も入っている。
……それは何年のちのことか、陽のきらめく四条河原に、人が集まっている。
東国の賊将の首が、そこに掲げられているのだという。
台にさらされた生首は、東国から運ばれてくるあいだに腐りはて、もはや顔立ちすら判じがたい。乱れた鬢《びん》のほつれ毛が、赤茶色く陽に透ける。たわむれに石を投げるものがいたとあって、腐りくずれた首は、人よりは、ただの泥のかたまりに見える。
帝を僭称《せんしよう》し、朝廷の世をかたむけんと企《たくら》んだ叛逆の将は、いまや首となり、一箇の泥となり、無念のまなこをかっと見ひらいて、川面の風に吹かれている。
「こわいのう。なんでも、夜ごと、首のまわりに光り物が舞うそうではないか」
「声がするのだとよ。『わが身体はいずくにぞある。ここ持て来よ。首継いで、いま一戦せん』とか、世にも恐ろしい声でおめくのだそうじゃ……」
こそこそと語りあう声も、泥に等しい姿となった賊将の首は、聞いているのか、いないのか。河原にはこの首のみならず、常のように、捨てられたごみ、病人、死骸《しがい》なんぞが積もりに積もって、わんわん飛び回る蠅の羽音は人よりよほどかしましい。
と、暑さに耐えかねたか、人垣からついと外れたものがいる。
頭からかぶった衣を深くおろし、墨染めに身をつつんで僧形に見せているが、筋骨たくましい体躯《たいく》は、僧よりも賊徒かなにかにふさわしい。松の木ほどに太い足は、埃《ほこり》にまみれて白くなっているが、臑《すね》から上は、まるで研いた黒檀《こくたん》のようにつややかに黒い。裸足《はだし》でのしのしと歩くその片足の、足の小指が一本、どうやら骨と化しているような――
「ひもじいのう。ひもじい、ひもじい……」
桃色のくちびるが呟《つぶや》いて、にたりと笑った。
おびただしい小蠅の一匹が、ひゅっとそこへ吸いこまれる。
いかつい黒い顔のなかで、真っ白な歯が二度三度とあわさり、舌を鳴らして吐き出した。あとには、唾《つば》にまみれた蠅の羽。河原の石にこびりついたと見るや、もえる陽炎のなかに、はや、その姿は見えなかった。……
……そして早春、志狼はひとり、川辺に座って笛を吹いている。
あのことが残した爪痕はもうすっかり癒《い》えて、山は、萌《も》え出《い》づる緑にかすんでいる。足先をひたした水は冷たい。伸びた髪が、額の疵痕《きずあと》をすっかり覆いかくしている。
笛は青竹を切ってつくった、手製だ。何本も失敗作を積み上げて、ようやく気に入る音の出るようになった一本を、志狼は腰にさして山から山へと尾根をわたる。
――生きていてください。また、お会いします。
ここへ戻ったばかりのころは、風の囁《ささや》きにも、木の葉のさやぎにも、かの女の声が聞こえて苦しくてならなかった。
笛をまた吹きはじめたのも、初めは、声のすべり込む耳をふさぎ、想い出から顔をかくすためだった。今はただ、自分の楽しみのために吹いている。吹き鳴らす音は山から谷へこだまをかえして、一人ではなく何人もの合奏のように響く。
遠くで聞くとなにかもののけの声めいて聞こえるらしく、人は鬼が泣くと言いならわしているそうだ。
泣きはしない、歌っているのだ。涙ならもうじゅうぶん流した。
――生きていてください。また、お会いします。
かなり長い間、人と言葉を話していない。たまに出会う杣人《そまびと》は、志狼の姿を見かけるとあわてて礼拝して逃げるように山を下りていく。山神のひとりか、その眷属《けんぞく》かと思われているらしいことに気づき、笑い転げる。
今ごろ童子は、都で人にかこまれ、人と語り、人と暮らしているのだろうと思うと、ほろ苦い思いと同時に、少しおかしくなる。今ではすっかり、志狼のほうが鬼らしくなった。これで角があれば完全なのだが、残念ながら、角は折ってきてしまった。
都で暮らしている、童の胸の中にそれは溶けているはずだ。かの女の肉も溶けているはずのあの童の体の中で、自分の一部とかの女の一部がとけて、混じりあう。
童子だけではない、ともにすごしたこの山の、ここにも、そこにも、かの女の一部が溶けているのが、わかる。
水が空へのぼって雨になり、川を下り、海からまた天にのぼって永遠に繰り返す。毎年毎年、木々は茂り、花咲き、実を実らせては枯れる。そのようにして、この地にとけたかの女の一部が、ふたたび結晶する日があるだろう。
遠い日でも、近い日でも、それは必ずやってくる。
――生きていてください。また、お会いします。
わきの茂みがかさりと揺れて、手のひらほどの小鬼が這《は》いだした。肩に白い幣《ぬさ》をかけ、志狼のそばまでやってくると、躍るように腕を突き上げ、幣を振り立てて、挨拶するように足踏みをした。
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……きりきり 千歳栄 白衆頭 聴説晨朝 清浄偈
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――山の端にかかる月影に、一瞬、巨大な牛頭《ごず》の鬼のかたちが、遠吠《とおぼ》えするように口をあいて消えた。
「そろそろ寝るか。なあ、北辰」
きのう拾ってきた、狼の子を抱き上げる。
額に白い星のある子狼は、まるい目を見ひらいて、ぬれた舌で志狼の頬をなめる。
彼方《かなた》から、彼方へ、さらさらと風が吹き渡る。
――今夜も鬼が泣いていると、人々は窓辺で言いかわす。
角川ホラー文庫『晴明鬼伝』平成15年5月10日初版発行