〈|骨牌使い《フォーチュン・テラー》〉の鏡T
[#地から2字上げ]五代ゆう
一章 〈塔《とう》の女王〉
いつも暗い夜に、それは、アトリのもとを訪《おとず》れる。
風が木々の枝《えだ》を奏《かな》で、星が天の高みで凍《こお》りつく夜更《よふ》けに、アトリは自分の寝台《しんだい》のわきに立つそれを感じる。
それはアトリの上に身をかがめ、腹《はら》の上にそっと手を置く。頭を重たげに垂《た》らし、影《かげ》のごとく長い髪《かみ》をゆらして。赤ん坊《ぼう》の目を浄《きよ》める取り上げ女のように。あるいは、死んだ子供《こども》の額《ひたい》に触《ふ》れる母のように。
涙《なみだ》は慈雨《じう》のごとくアトリの上に降《ふ》り、眠《ねむ》りの中で、アトリは青い霧《きり》の中をさまよっている。手の重みはなめらかな石になってアトリの腹に沈《しず》んでいき、そこで鈴《すず》の中子のように、ちりちりと寂《さび》しい音をたてる。
うつつに目を上げれば、そこは一面の青い広野だ。太陽も、月も、星もなく、ただびょうびょうと風が吹《ふ》いている。
冷たさに、アトリは涙をながす。悲哀《ひあい》、寂寥《せきりょう》、孤独《こどく》。魂《たましい》を冷やすそうした想《おも》いがまぶたの上にしたたり落ち、眠りを青く染《そ》めていく。
どこ、どこ、どこ、と声が捜《さが》す。
――どこ、どこ、どこなの、と。
ひどく寝過《ねす》ごした。
うたた寝の腕《うで》の上から頭を上げたとき、ろうそくといっしょに、夜はとうのむかしに燃えつきていた。
「なんてこと!」
あわてて飛びあがったひょうしに、すっかりしびれた指を、椅子《いす》の腕木に手ひどくぶつけてしまった。絵筆《えふで》が倒《たお》れ、卓上《たくじょう》にちらばった描《か》きかけの札が硬《かた》い音を立ててちらばる。
叫《さけ》び声をかみ殺してアトリは右手を押さえた。ああもう、いいかげんに切り上げて、早く寝ればよかった! 今朝は〈斥候館《せっこうかん》〉の花の祭りに出ることになっているというのに。
女あるじのツィーカ・フローリスは理不尽《りふじん》な雇《やと》い主ではないけれど、契約《けいやく》ということに関しては人一倍きびしい。ついでに言えば、金銭《きんせん》の出入りに関しても。こんなことで一日あたりの銀貨《ぎんか》五|枚《まい》を、へらされでもしたらたまらない!
ぶつけた指を吸《す》いながら、寝ぐせをなでつけ、扉《とびら》を押し開ける。
小鳥の鳴き声といっしょに、河口《かこう》の都市ハイ・キレセスの朝の風景《ふうけい》がアトリを出迎《でむか》えた。
視界《しかい》のほとんどを占《し》めるのは海だ。瞳《ひとみ》を洗《あら》うかのような、どこまでも澄《す》みきった青が目を通って流れこみ、わずかに残った頭のもやを吹きとばした。
ハイ・キレセスは河口の砂州《さす》に発達した、商業と漁業の都市である。
大陸をほぼ横断《おうだん》し、ベーレト海に流れ込《こ》む大河セヴァーンは、昔からその流れに沿《そ》って、大小いくつもの村落や都市を発展《はってん》させてきた。
そのうちいくつかの特に大きな都市は、河を使った運輸《うんゆ》業や交易《こうえき》によって富《とみ》をたくわえ、人を集めて、さまざまな手管《てくだ》と政治的折衝《せいじてきせっしょう》ののちに、最初の支配者《しはいしゃ》であった王侯貴族《おうこうきぞく》からの、ゆるやかな独立《どくりつ》を果《は》たした。
それから数世代、現在《げんざい》、それら独立商業都市がたがいに結《むす》んだ共同体の中でも、ハイ・キレセス、かつては〈天の伶人《うたびと》〉たちも愛したという海に臨《のぞ》む都市は、まずいちばんに人の口にのぼる場所に数えられている。
真珠《しんじゅ》や、貴婦人《きふじん》たちが珍重《ちんちょう》する貴石、貴重な香料《こうりょう》などを産する多島海との貿易《ぼうえき》が、都市のふところにたえず巨万《きょまん》の富をそそぎ込むのである。風光明媚《ふうこうめいび》でも知られるこの都市は、石造《いしづく》りの街並《まちな》みの白とあいまって、気まぐれベーレトの胸《むね》を飾《かざ》る首飾りの中でも、最大の真珠とたたえられていた。
海は凪《な》いでいた。早朝の漁から帰ってきた小舟が白い航跡《こうせき》をひき、その上を、かん高く鳴きかわす海鳥が翼《つばさ》をかすめて飛び交《か》う。そんな入り江を囲む山のみどりの斜面《しゃめん》に、鯨《くじら》にはりつくふじつぼのように、海辺のひとびとの白い小さな家がびっしりと並ぶ。
潮《しお》の香《かお》りをぞんぶんに吸《す》い込みながら、アトリはうんとのびをした。三年前に死んだ母はさまざまなものを娘《むすめ》に遺《のこ》してくれたが、この家もそのひとつだ。港を見下ろす高台の家は小さいが、こぢんまりと居心地《いごこち》がよく、朝も昼も夜も、心地よい潮風と明るい陽光に困《こま》ることはない。
軒下《のきした》の水桶《みずおけ》で顔を洗いながら、作りかけの骨牌《かるた》を、出かけるまでに完成させられるどうか思案した。どうしても今日仕上げなくてはならない理由はないのだが、モーウェンナは大事な友だちだ。初めての〈祭り〉の日に、親友から贈《おく》り物がないと知ったら、きっと落ち込むだろう。アトリはおしゃれと食べ物にしか関心のない彼女にときどき閉口《へいこう》し、モーウェンナはモーウェンナで、ごく実際《じっさい》的にできている年上の友をいくらか気の毒に思っているにしても、二人が無二《むに》の友人であることは間違いないのだから。
(持っていって、あっちで仕上げさせてもらおうかしら)
それだけの暇《ひま》を与《あた》えてもらえるかどうかは、少し疑問《ぎもん》だけれど。ツィーカ・フローリスは、雇い人には払《はら》った金だけのことは要求するし、それ以上のことをさせるのも、もちろん、やぶさかでない。
昨日はグラニア回りの貿易船が着いたし、市場では、アシェンデンから来たらしい、浅黒《あさぐろ》い顔をした水兵も見かけた。加えてこの季節、海のむこうの多島海の国々からは、高価《こうか》な黒真珠を乗せてくる船が切れ目なく訪《おとず》れる。真珠商人は金持ちだ。その上、長い航海のあとである。〈館〉の祭りは大盛況《だいせいきょう》だろう。
(まあいいわ。行ってみてから考えましょ)
顔をぬぐって家に入り、戸棚《とだな》を捜《さが》して見つけた昨日のパンを口につめこんだ。林檎《りんご》をひとつもぐもぐ噛《か》みながら、作りかけの骨牌を布《ぬの》に包んで、わきに置く。
部屋の一隅《ひとすみ》に、端《はし》が曇《くも》った鏡《かがみ》がかかっていた。金色の蔓草《つるくさ》が縁《ふち》にからみついたその品は、質素《しっそ》な室内にただ一つ、娘らしいものと言ってよかった。髪をほどいてとかしながら、アトリは鏡の中から自分を見つめる少女と視線をあわせた。
十七|歳《さい》だが、それよりはもう少し若《わか》く見える。明るいはしばみ色の大きな瞳と、鼻と額《ひたい》に散ったうすいそばかすのせいかもしれない。
金茶色の長い髪が両脇《りょうわき》に垂《た》れて細い肩《かた》を包み、小さな顔がいよいよ小さく見える。つんと上向いた鼻とふっくらした唇《くちびる》は母|譲《ゆず》りだが、いつも笑い出すのを待っているかのような、いたずらっぽい口もとはアトリひとりのものだ。
三年前に死んだ母は、このような表情《ひょうじょう》をしたことはなかった。一度も。
服を着替《きが》えるとき、裸《はだか》の腹にちょっと手が触《ふ》れた。アトリは足を止め、出したばかりの下着を置いて、胸の下から臍《へそ》までの窪《くぼ》みを、またその下の、ふっくらと盛《も》り上がった部分を、指で覆《おお》うように撫《な》でてみた。
また、あの夢《ゆめ》を見た。
この一年ほどの間に、よく見るようになった夢。
そこではアトリは捜されるものでありつつ、捜しているものでもある。捜しもののありかを知りながら、永遠《えいえん》に見いだせない痛《いた》みにうめくのだ。目覚めてもなお去らない悲哀《ひあい》に、枕が涙で濡《ぬ》れていることも何度かあった。
特に月のさわり近くになると頻繁《ひんぱん》に見るので、頭が重くなったり脚《あし》がしびれたりするのと同じと思うようになっていたが、今朝の夢は、ことのほか生々しかった。
(ばかみたい。たかが夢じゃないの)
冷たい絹《きぬ》のような手触《てざわ》りがまざまざと指先に蘇《よみがえ》り、ぞくりと背筋《せすじ》を震《ふる》わせて、アトリは急いで服を着た。戸締《とじ》まりをして、下の船着き場と小屋とをつなぐすり減《へ》った石段《いしだん》をてくてく降りていく。
家々は同じ色の漆喰《しっくい》で塗《ぬ》られ、朝日の腕の中で今は金色に染《そ》まっていた。白い四角の上に、赤や、青や、緑の瓦《かわら》屋根がたがいに重なりあい、細い階段を通って、朝食の用意をする女たちが道を上がったり下りたりするのがよく見えた。
ざわめきがたくさんの橋と、漆喰の壁《かべ》にこだましていた。幾隻《いくせき》かの船が荷の積みおろしをしているかたわらで、裸の背中を光らせた少年が、投網《とあみ》や河エビ用のすくい網を小さな船に積みこんでいた。
「おはよう。漁に行くの?」
アトリが声をかけると、少年は首をすくめて顔を上げ、そこに金茶の髪をきちんとまとめた少女の姿を認《みと》めてわずかに頬《ほお》を染めた。
「もしよかったら、〈輝《かがや》く喜びの丘〉まで乗せていってくれない? お礼はするから」
「はいよ、〈姫《ひめ》たちの館〉へね。あんた、骨牌使いかい」
帯につるした、葡萄酒《ぶどうしゅ》色の革《かわ》の小袋《こぶくろ》に目を止めて少年は尋《たず》ねた。
アトリはうなずいた。なめし革の小袋には金色の糸で、枝を広げた樹木《じゅもく》と、そのそばに小さく、翼《つばさ》を広げた小夜啼鳥《ナイチンゲール》の図案が刺繍《ししゅう》されている。
「じゃ、乗りなよ。お礼なんかいいから」
少年は足を地面に乗せて、小舟を引き寄せた。
「代わりに、魚のよくとれるまじないをしてってくれないか。――そうだ、思い出した、小夜啼鳥のベセスダの娘だろ、あんた。その鳥の絵、知ってるよ。あの人以上に腕のいい骨牌使いはいないって、うちの母ちゃんが言ってた」
「そう。光栄《こうえい》だわ」
微笑《ほほえ》んで、アトリは少年に手を取られて船に乗りこんだ。ベセスダは母が骨牌使いとして使っていた名だった。小夜啼鳥の標《しるし》も。
腰《こし》の袋から、いつも身につけている無地の骨牌札《かるたふだ》を出して小刀をあてる。豊饒《ほうじょう》をしめす〈塔《とう》の女王〉と、危険《きけん》を祓《はら》う〈鷹《たか》の王子〉、母なる〈円環《えんかん》〉をすばやい動きで刻《きざ》み込むと、小舟の舳先《へさき》に身を乗りだして、革ひもでしっかりくくりつけた。
「はい、これでいいわ。もし落としたり、効力《こうりょく》がなくなったら、そこの石段を登ったわたしの小屋へ来てね。新しいのを作ってあげるから」
「ありがと」
白い歯をむき出して少年はにっこりした。
「あんたの母さんがいなくなって、寂《さび》しいよ。誰もベセスダよりいい〈詞《ことば》〉を、じょうずに語れる人はなかった。おれたち、いつだって大助かりだった。あの人が札をきざんでくれりゃ、それだけでひと夏は食べ物に困らなかったもんな」
(――ああ、母さん)
わたしの母さん。
アトリはあいまいな微笑《びしょう》を浮かべただけだった。少年はしばらく返事を待って口をつぐんでいたが、アトリが答えるようすがないのを見てとると、あまり気にしたようでもなく、肩をすくめて櫂《かい》で桟橋《さんばし》を突《つ》いた。
〈斥候館《せっこうかん》〉は、ハイ・キレセスの中心街からは少し身を引いた場所にある。古風な美しさを持った大理石の建物で、ハイ・キレセスが自治権《じちけん》を確立《かくりつ》する前に、すでにこの地にあったという言い伝えがある。
多島海ふうの、ゆるいふくらみを持った柱が屋根を支《ささ》え、漆喰ではなく白い石の壁には、ほかの建物とは明らかに違う華麗《かれい》な細工《さいく》が色|硝子《ガラス》ではめ込まれている。
微妙《びみょう》に曲線を描《えが》く屋根から、すらりと伸《の》びた二つの高い尖塔《せんとう》が美しい。白鳥の首を思わせるその塔は、かつてこの土地を支配していたという高地《ハイランド》人の城《しろ》の物見の塔だったという言い伝えがあり、〈斥候館〉の名前はそこから来ていた。
「あれ、水路がふさがってる。まいったな。まだ白鳥船が出るのは早いと思ってたのに」
少年がぼやいた。前方に金色に塗《ぬ》りたくられ、曲線を描く舳先をもった小舟がいくつもひしめいている。
「ほんとね。いつもなら、鳥の渡りが始まってからでもないと出ないのに」
白鳥船というのは主に観光客相手のきゃしゃな小舟で、船首に様式化された白鳥の頭がついているのですぐ見分けられる。華美《かび》で場所をとるくせに動きがにぶいので、用があって水路を行き来する人々にとってはきらわれものなのだ。
河の上に造られた街並みには、運河が多い。複雑《ふくざつ》に入り組んだ街路や橋の下を、アトリを乗せて小舟はゆったりとくぐり抜けていく。
家々の白い漆喰は、朝日の腕の中で金色に染まっている。白い四角の上に、赤や、青や、緑の瓦《かわら》屋根がたがいに重なりあい、細い階段を通って、朝食の用意をする女たちが道を上がったり下りたりするのがよく見えた。
ハイ・キレセスは、大陸をほぼ南北につらぬく大河の河口に位置するおかげで、昔から、ことにさまざまな交易《こうえき》の舞台《ぶたい》として発展《はってん》してきた。
過去《かこ》、ゆたかな商取引の利益《りえき》を狙《ねら》って、周囲の国々が侵略《しんりゃく》を仕掛《しか》けてきたことも何度かあった。だが、都市の政治《せいじ》を牛耳《ぎゅうじ》っていた大商人たちは、王侯貴族の支配に屈《くっ》することをよしとせず、商人ならではの手段と外交力を駆使《くし》して、今ではほぼ完全な自治権を獲得《かくとく》するに至《いた》っている。
自由|通商同盟《つうしょうどうめい》と称されるその体制は、ハイ・キレセスを筆頭《ひっとう》にほぼ十の都市にのぼっている。この都市では王や貴族といった身分はほとんど意味を持たず、日々の才覚と、個人《こじん》の能力《のうりょく》の有無《うむ》のみがものを言うのだ。
「うん、でも、なんでも海の向こうの東の土地で、いろいろとぶっそうなことがあるからだって話だよ。だから今まで山むこうのジルドアとかで保養《ほよう》していた人たちが、こっちに場所を移したから、早い目に船を出さないと入りきらなくなったんだってさ。うちの裏《うら》のおやじさんが言ってたよ。どっちにしろ、めいわくな話さ」
少年はふんと鼻を鳴らすと、片手を口の横に当ててどなった。
「おいそこ、とっととどけよ、こっちの船底がくさっちまうだろ!」
やがて市場の近くの荷下ろし場につくと、少年はそこの薬種《やくしゅ》商人に用があると言った。
「じゃあ、わたし、ここで降ります。乗せてもらってありがとう、助かったわ」
「ほんとにいいのかい。じゃ、気をつけて行きなよ。こっちこそ守り札、ありがと」
気安げに手を振《ふ》る少年に笑顔を返して船を下り、アトリは、騒々《そうぞう》しい市場を避《さ》けて、裏のほうから館への坂道を上がっていった。
朝一番の荷下ろしを終えた人足たちが、あちこちの屋台で腹ごしらえをしている。揚《あ》げた小えびのおいしそうなにおいが、パンひとつとりんごしか入っていないおなかをいたく刺激《しげき》したが、我慢《がまん》した。これ以上|遅刻《ちこく》したら、ツィーカ・フローリスになにを言われるやら。赤銅色《しゃくどういろ》の筋肉《きんにく》の盛りあがった肩から、極彩色《ごくさいしき》の南国の鳥がこちらを向いて、馬鹿《ばか》にしたようにギャアと鳴いた。
門を飾《かざ》る聖堂《せいどう》の唐草格子《からくさごうし》は、本物のつるばらのように、紙でつくった白い花で満開だった。
門の前で、門番の老《ろう》ゼンが腰《こし》を曲げて箒《ほうき》で地面を掃《は》いていた。
「ゼン、わたしよ。アトリ」
声をかけると老人は手を止め、ぼんやりとアトリを見つめた。
半《なか》ば開いた口から、わけのわからない言葉が流れ出た。音と言ったほうがいいのかもしれない。いかなる意味も見いだせない、無秩序《むちつじょ》で耳ざわりな騒音《そうおん》である。聞くだけで人の心を不安にし、苛立《いらだ》たせる音の羅列《られつ》だった。
アトリは小さくため息をついて、そばを通りすぎた。
ゼンのような人々は〈異言者《バルバロイ》〉と呼ばれる。
太古、〈祖《そ》なる樹木〉と〈旋転《せんてん》する環《わ》〉の婚姻《こんいん》から生まれた十二の〈詞《ことば》〉によって、この世のすべてが語り出された。
語られたものであるあらゆる存在《そんざい》は、必ずその中核《ちゅうかく》に自らが語られたときの〈詞〉を持ち、それによって存在自身を支えられている。また、それによって、一つの大きな物語である世界の中に組み込まれ、つながっていることができる。
だが、〈詞〉の壊《こわ》れた者は、この物語に参加することができなくなる。
その唇《くちびる》をもれるのは、〈詞〉が生まれる以前の、原初の混沌《こんとん》でしかなくなる。こういった者を、哀《あわ》れみとわずかな恐怖《きょうふ》をこめて、人は〈異言者〉と呼《よ》んでいる。
ゼンは妻《つま》の死をきっかけに、自らの〈詞〉を壊してしまった。混沌の言語は、喪《うしな》われた〈詞〉の代わりにその者の内面を充《み》たし、心を〈詞〉によって秩序《ちつじょ》づけられない異質な物語、すなわち混沌の中につなぎ止めてしまう。言うなれば、〈異言者〉は異《こと》なる言語で語られる、物語からの漂流者《ひょうりゅうしゃ》なのだ。
ゼンは老《お》いた妻のヨージャが死んだのをきっかけに〈異言者〉になった。よく遊んでもらった老女が死んだのは悲しかったが、その夫が、見る影もなくやせ衰《おとろ》えていき、やがて〈異言《バルバロイ》〉を発するようになったときは、ヨージャが死んだときよりもさらに辛《つら》かった。目の前に生きた相手がいるのに、いくら話しかけても答えてはもらえないのだ。
ツィーカ・フローリスは永年|勤《つと》めた老人を見捨《みす》てることなく、今も門の掃除《そうじ》や、その他の雑用《ざつよう》を任《まか》せて食事や寝床《ねどこ》を与えている。
彼は幸運なほうなのだ。たいていの〈異言者《バルバロイ》〉は不吉《ふきつ》な者と見なされて追放され、路肩《ろかた》で飢《う》え死にするか凍《こご》え死にするほうが多いのだから。
それでも小さいころ、よく遊んでもらった老人のごつい手と笑顔を思い出すと、アトリの胸はわずかに痛む。
大人たちがせわしく出入りしている中で、人待ち顔に、階段のはしに腰掛《こしか》けて、小さな拳《こぶし》でふっくらした頬《ほお》を支《ささ》えている、幼《おさな》い少女の姿《すがた》が見えた。
「モーウェンナ」
「アトリ!」
こちらを向いた顔が喜びに輝いた。モーウェンナはぴょんと階段から飛び降り、何人かの大人たちをつまずかせて、いちもくさんにアトリのもとへ駆《か》けてきた。
「アトリ」
顔をまっ赤にして笑った。「待っておった」
「ごめんなさいね。少しねぼうしてしまって」
「もう来たからよい」
うれしそうにアトリの足にしがみつく。
あと三月で十歳になるが、すでにアトリの三倍は女である。まだふくらまない胸も丸い頬も、子供《こども》以外の何者でもないが、濡《ぬ》れた唇《くちびる》は血を塗《ぬ》ったように赤い。〈斥候館《せっこうかん》〉の女館主が手塩にかけて磨《みが》きぬいた娘《むすめ》は、同性であるアトリでさえ、時にはぎくりとするほどの妖艶《ようえん》さを発揮《はっき》する。
けれどもこのときばかりは、〈館〉の小女王もただのちいさな女の子にもどっていた。彩《いろど》ったまぶたの下で目をきらきらさせて、モーウェンナはアトリを引っぱった。
「早く行こう。アトリのために、庭のいちばんいい場所を用意してある。今日のモーウェンナの客は、アトリ一人じゃ。ほかの有象無象《うぞうむぞう》は、みな断《ことわ》ってやった」
「それは光栄《こうえい》ね。その髪、すてき。服はもちろんだけど」
「すばらしいじゃろ」
芸術的《げいじゅつてき》にふくらませた髪に手をやって自慢《じまん》する。
子供らしくくびれの入った、ふっくりした腕には栗《くり》色と黄色のびろうどのリボンが巻きつけられ、そこここに、小さな水晶《すいしょう》とビーズでできた花飾《はなかざ》りが垂《た》れ下がっている。
透《す》きとおるような薄《うす》い生地のドレスから透けて見える小さな乳首《ちくび》は、金粉できれいに塗《ぬ》られていた。くるりと回ると長い裾《すそ》が雲のように広がり、水晶のビーズが涼《すず》しく鳴った。
「今日の夜明け前から、朝食のあとまでもかかったのじゃ。それから服を着つけてな。おお。そうじゃ、〈骨牌《かるた》〉。持ってきてくれたかえ?」
「ごめんなさい」
つい、アトリは口ごもった。
「まだできていないのよ。あと、色を塗るだけなんだけど。眠《ねむ》ってしまって」
「できていない? なぜじゃ。約束したのに」
紅《べに》をぬった頬がぷっとふくれた。
「アトリがくれるからと思って、ほかの贔屓《ひいき》からのは全部ことわったのに。このままではモーウェンナは贈《おく》り物なしになってしまう。皆《みな》のいい笑い者じゃ」
〈斥候館《せっこうかん》〉の教育は厳《きび》しいが、美しい少女の多少のわがままは、客の心をそそる気の利《き》いた薬味として奨励《しょうれい》される場合がある。モーウェンナはまことにみごとにそれを利用していた。じだんだを踏《ふ》んで、そっぽをむいてしまった。
「あのね、モーウェンナ」
「聞きとうない。アトリなぞきらいじゃ。うそつき」
アトリは困惑《こんわく》した。こうなることはほぼ予想していたのだけれど。半分は自分に甘《あま》えてのことなのはわかっているけれど、すねてしまったモーウェンナが、空腹《くうふく》のろばより扱《あつか》いにくいのもよく知っている。
きょうは一日、〈館〉にいなくてはならないのに、わがままな姫《ひめ》のしかめっつらを見て過《す》ごさなければならないのは気が重い。どうしたものかと思っているうちに、ふと妙案《みょうあん》を思いついた。
「ねえモーウェンナ、こうしてみない? あなたが自分で、骨牌に好きな色をつけるっていうのは」
「モーウェンナが色を塗るのか?」
美少女は長いまつげをはたりと動かした。
「でも、モーウェンナはやり方を知らぬ」
「わたしが教えてあげるからだいじょうぶよ」
アトリは熱心に言った。自分の思いついた妙案がすっかり気に入っていたのだ。
「下絵はすっかりできているし。そうすればあなたは自分の好きな色で塗った骨牌を持てるし、これは自分で描《か》いたんだってみんなに自慢《じまん》することもできるでしょう」
モーウェンナも提案《ていあん》が気に入ったらしかった。少し考えてから、すねたことなど忘《わす》れたようにあでやかな笑みをアトリに向けた。
「それがいい、そうしよう。モーウェンナは絵がとくいじゃ。でも、アトリが手伝ってくれぬでは嫌《いや》」
小ずるくそうつけくわえる。アトリは首をすくめて友だちの背《せ》を押した。
「もちろんよ。奥《おく》から絵の具と、膠《にかわ》を持ってきなさいな。中庭で待っているから」
「わかった」
話しているうちに廊下《ろうか》を抜け、さんさんと陽《ひ》の降りそそぐ回廊に出た。
「そういえば」とモーウェンナは言った。
「ゼンと話していたようじゃの」
「ええ」
そっと振り返って彼のいるはずの門のほうを見る。
「このあいだ、天候を聞きに来た船乗りから聞いたんだけど、何か北国のほうで、〈異言者《バルバロイ》〉を治《なお》す研究が進められているそうね。人が来たり、ふれを回したりして、ゼンみたいな人たちを集めているって聞いたわ。彼、そちらへ送らないの? もしかしたら、治してもらえるかもしれないじゃない」
「くだらぬ」
そっけなくモーウェンナは一蹴《いっしゅう》した。
「あれはこの世を統《す》べる〈詞《ことば》〉も、〈骨牌《かるた》〉の秘儀《ひぎ》も知らぬ、野蛮人《やばんじん》の言うことじゃ。おおかた、安上がりな奴隷《どれい》でも欲《ほ》しくて、甘いことを言うておるのであろ。
王の〈骨牌〉でさえ、いったん〈詞〉をこわして〈異言《いげん》〉に身を投じたものを呼びもどすことは難しいのじゃ。前例がないわけではないが」
考え込むように口を閉《と》ざし、妙に大人びたしぐさで顔をあげる。
「いや、アトリ、人には思い出さぬでよいことがいくつもある。われらにはわからぬが、ゼンはあれで幸せなのかもしれぬよ。最初に語られた〈詞〉の法則《ほうそく》に縛《しば》られるこの世ではならぬことも、それのない〈異言〉の中では現実ともなろうからな。
ゼンは今でも、死んだヨージャと暮《く》らしておるかもしれぬ。もしできるとしても、そこから引きずり出すのは酷《こく》であろう。そっとしておいたほうがよいのではないかえ。それに、たとい良い意図から使われたものでも、歪《ゆが》められた力は思いもよらぬ災害《さいがい》を引きおこすことがある。かの呪《のろ》われしベルシャザルの伝説は、そなたも知っていように」
「そうね」
恥《は》じ入って、アトリはうなだれた。時々だが、自分とモーウェンナのどちらが年上なのか、わからなくなるときがある。
〈骨牌〉の力はさまざまな方向に働く。小さいものなら、アトリがするような普段《ふだん》の占《うらな》い、また病気やけがの治療《ちりょう》、幸運を呼ぶまじないなど。
だが、もし、上手《じょうず》に造《つく》られた〈骨牌〉を完全に使うことができれば、天地はおろか、はるか時空を超《こ》えた一切《いっさい》を自由にすることも不可能《ふかのう》ではないと言われた。
たとえば、五百年ほど前、高地《ハイランド》人の血を引くベルシャザルという骨牌使いが、おのが仕《つか》える王の娘《むすめ》に恋《こい》し、そのために〈骨牌〉の力を使ったという。
我欲《がよく》のために使われた〈骨牌〉の力はゆがみ、暴走《ぼうそう》して、王女もろとも、都と人々を地の底にのみこませた。隆盛《りゅうせい》を極《きわ》めた古きハイランドの王城《おうじょう》は一夜にして消失し、国土は荒《あ》れ狂《くる》う力の嵐《あらし》の中で焦土《しょうど》と化した。
その後、ベルシャザルの姿《すがた》は二度と人の目に触《ふ》れることがなく、今も高地とその他の地方を分けている暗黒の大地溝《だいちこう》と不毛の荒野《こうや》は、彼のあやまちの痛《いた》ましい記念碑《きねんひ》として、骨牌使いたちの恐怖と戒《いまし》めのまととなっている。
六つ年上ではあるが、母から受け継《つ》いだ財産《ざいさん》と、まがりなりにも骨牌を扱《あつか》える力のおかげでいちおう不自由なく暮《く》らしている自分と違《ちが》って、モーウェンナは、この〈館〉でさまざまな運命のもとにある少女たちを見慣《みな》れている。
館の主《あるじ》であるツィーカ・フローリスは彼女たちをけっしてむごく扱ったりはしないが、ここに流れてくるまでに、かなりの辛酸《しんさん》をなめた者は少なくないはずだ。
そうした事情を見てきた経験《けいけん》が、自分とこの小さな友だちの差をつけているのかもしれないと。薄《うす》い着物から見える幼《おさな》いからだと、不つりあいなほどの色香《いろか》を発散するヘンナで染《そ》めた乳首《ちくび》に目がいって赤くなり、アトリは思った――もしかしたら、それ以外のこともあるかもしれないけど。
「そうね。わたしは単なる骨牌使い、占い師でしかないんだものね」
モーウェンナの房《ぼう》のある奥まった二階部屋にたどり着く。「急いで戻《もど》る」とモーウェンナはささやき、鞠《まり》のようにはずんで階《きざはし》を跳《は》ねあがっていった。アトリは手を振って見送り、ひと息ついてあたりを見回した。
四方を回廊《かいろう》に囲《かこ》まれた中庭は、〈斥候館《せっこうかん》〉の中でももっとも美しい場所の一つである。二つの尖塔《せんとう》がくっきりと白く青空に浮きたつ。
庭の真ん中に堂々と立つ大樹《たいじゅ》には白い花がいっぱいに咲きこぼれ、うすい花弁《かべん》は極限《きょくげん》まですりあげた貝殻《かいがら》のような、乳白《にゅうはく》色の光を帯《お》びているかに見える。花の咲かない樹木にも、紙細工《かみざいく》の造花が一面にくくりつけられている。撒《ま》かれ、こぼれた花びらが、ととのえられた芝草の上に、星くずのように散らばっていた。
今しも、〈館〉で育てられている小さな子供たちがきゃあきゃあ言いながら、中庭を囲む露台《バルコニー》の手すりに花を結んで回っているところだ。そこここで優美《ゆうび》な姿態《したい》をさらす女人像《にょにんぞう》にも花の首飾りが捧《ささ》げられ、大理石の目の見下ろす下に、客たちが群《む》れていた。
そろそろ人が集まりだしたところで、結局それほどの遅刻《ちこく》になったわけでもないようだ。ツィーカ・フローリスの姿もまだ見えない。よかったこと!
「ああ、アトリが。〈館〉のかわゆい占い師|殿《どの》がおいでじゃ」
仲のいい姫のひとりが、庭の向こう側からアトリを見つけて声をあげた。
「おや、ほんにアトリじゃ」
「みなおいで、先を越《こ》されてはならぬよ」
それを聞きつけたて三々五々、散らばって客の相手をしたり楽器をつまびいたりしていた娘たちが、仕事そっちのけで集まってくる。
「ごきげんよろしゅう、骨牌使い殿。今宵《こよい》もまた善《よ》き〈詞《ことば》〉を聞かせておくれ」
「レサ! レサ! 骨牌使い殿にクッションを一つ持ってきておやり」
「誰《だれ》ぞ、かかさまにお伝えしておくれ。わが館の王女がおいでになられたよ」
「こんにちは、リドラ、カイ、シャルミード、ゼラ」
アトリは顔なじみの娘たちに微笑《ほほえ》みかけ、気取っておじぎした。
「お世話をかけるけど、よろしくね。毎度ご贔屓《ひいき》たまわります。恋占いだろうと相性占いだろうと、思いのまま、ご相談|承《うけたまわ》りますわ」
娘たちは肘《ひじ》をつきあってくすくす笑った。
日除《ひよ》けの傘《かさ》を広げた芝生《しばふ》の上に、リュートをかかえた吟《うた》い手がひとり、座《すわ》って奏《かな》でている。アトリを認めて、指をあげて黙礼《もくれい》をした。アトリは礼を返し、造花の花綵《はなづな》をめぐらせた木の下の、緋色《ひいろ》の毛氈《もうせん》に腰《こし》をおろした。
〈詞《ことば》〉を扱うものとして、アトリのような占い師、〈骨牌使い〉と詩人とは親戚《しんせき》関係にある。あちらは架空《かくう》の人生を語り、こちらは現実の人生をつむぐ、そういった違いはあるにしても。日常《にちじょう》使われる言葉もまた、真の〈詞〉の遠い残響《ざんきょう》を伝えるものであるから、それを扱う者もまた骨牌使いの一員とみなされる。いささか低い一員であるにしても。
花の祭りは、ハイ・キレセスの〈館〉の初秋を飾《かざ》る催《もよお》しである。もとは、農民たちが一年の収穫《しゅうかく》を大地に感謝する祭りだったはずが、ここが商人の都市となるにつれて変化し、いつのまにか、〈館〉特有の華《はな》やかな祭典《さいてん》として定着したのだった。新たな〈館〉の娘たちはこの日、客へ初お目見えをし、前からいる娘たちは馴染《なじ》み客から、粋《すい》をこらした贈り物を受け取るのを何より楽しみにしている。
アトリもそろそろ仕事にかかることにした。毛氈の上に足を組んで座り、腰から袋を外して、慎重《しんちょう》な手つきで中身を取り出す。
手のひらほどの、十二枚の札。すべて同じ大きさで、薄《うす》く削《けず》った香木《こうぼく》でできており、花にまじってそのあえかな香りがふわりとあたりに漂《ただよ》った。
作法に従《したが》って、一枚ずつ毛氈の上に並《なら》べていく。札には番号と、一枚ずつ違う彩色《さいしょく》した絵が刻《きざ》みこまれていた。一枚目には虹《にじ》色に輝《かがや》く大地にすっくと立った樹木、二枚目には、渦巻《うずま》く風に包まれて大いなる翼《つばさ》に抱《いだ》かれた剣《けん》、三枚目には、どこまでも広がる青い光の中をはばたいてゆく一羽の鳥、というように。
「昔、」
と吟《うた》い手がリュートをかき鳴らして唄《うた》った。
「昔、この世に音もなく動きもなく、今あるすべてのものが存在《そんざい》しなかったころ、混沌《こんとん》の中にひともとの樹木が生い出た。白い花|咲《さ》く〈樹木〉は母なる〈円環〉を生み、この二者の交情から十の子らが生まれた。
彼らはそれぞれに独自の力と、それをあらわす音を持っていた。十二の音は重なり合い、調和して暗黒の虚無《きょむ》を満たした。響きは〈詞《ことば》〉となり、歌となってこの世のすべてについて語り聞かせた。聞かされたものがわが身のうちにないのに耐《た》えられず、虚無は身を変えて、世界となった。
〈樹木〉と〈円環〉は歓喜《かんき》のあまり声をあげ、それらは砕《くだ》けて光り輝く伶人《うたびと》たちの姿となり、できたばかりの地上にふりそそいだ。純粋《じゅんすい》な〈詞〉の子である彼らは〈天の伶人〉と呼ばれ、地上の人と動物に、〈詞〉の秘密《ひみつ》と恵《めぐ》みをわけあたえた」
そしてこの世界を語りおえたと感じた十二の〈詞〉たちは、それぞれ自身を父たる〈祖《そ》なる樹木〉の葉に刻《きざ》みこんだと、伝説は続いている。母たる〈円環〉は、それらを集めて世界を支える究極《きゅうきょく》の〈詞〉とし、世界の中心に置いたという。
現在に言う〈骨牌《かるた》〉とは、その世界の中心に置かれた十二の葉の写しと伝えられている、十二枚一組の力ある札のことである。
〈骨牌〉を使うものはこの札にあらわされる、象徴《しょうちょう》と音を使って力を行使する。これが〈詞〉と呼ばれる。だが写しとはいえ、もとが存在自体の力の秘められた根源である以上、その力は強大なものとなる。
ゆえに、〈骨牌〉を持つにはいくつかの訓練《くんれん》と修養《しゅうよう》が必要とされ、〈木の寺院〉と呼ばれる教育機関が各地に造られている。そこを卒業した上で〈骨牌〉を手にし、扱うことのできる人間が、正式に「〈骨牌使い〉」の名で呼ばれるのである。
アトリの得意は、占いだった。街《まち》に出て市場に屋台を出すこともあるが、機会があればこうして、〈斥候館《せっこうかん》〉専属《せんぞく》の占師として興行《こうぎょう》している。娘とは占いが好きなものだし、客も、馴染《なじ》みの姫《ひめ》を喜ばせるためのちょっとした余興《よきょう》に、よく利用してくれる。
それに、館主のツィーカ・フローリスは、死んだ母の数少ない友人のひとりだった。あまり娘《むすめ》をかまいつけない母に代わってよく面倒《めんどう》を見てくれたし、母の死後、ひとりになったアトリを保護《ほご》して一人立ちできるようにしてくれたのも、彼女であった。
「おい、そんな小難《こむずか》しい歌はやめて、もっと気の利《き》いたものを聞かせろ」
寝椅子《ねいす》にだらしなく寝そべっていた太った男が不平をもらした。
「何か、もっとあるだろう――なんというか――血の熱くなるようなやつが。しんみりするようなやつでもいい。〈堕《お》ちたる骨牌使い〉のバラッドはどうなんだ。わしは何度か聞いたが、黒い骨牌使いを追跡《ついせき》するところなどはなかなかの聞きものだった」
「あれはいささか時間がかかりますよ、御前《ごぜん》さま」
吟い手は不服そうに唄いやめて、口をとがらせた。
「それにめでたい祭りの席で、お聞かせするようなものでもございませんでしょう。古きハイランドの悲劇《ひげき》は単なる歌ではなく、かつて実際にあったことなのですから。黒き狼《おおかみ》ベルシャザルが、真に堕ちたるものであったかどうかはいざ知らず」
「ほんにその通り」隣《となり》にはべっていた〈館〉の姫が、薔薇《ばら》色にいろどった爪《つめ》をのばして肉のついたあごをついと撫《な》でた。
「語られた物語は力を持つもの。妙《たえ》なる〈詞《ことば》〉にひかれて、滅《ほろ》びし王国の民が地中より蘇《よみがえ》りましては、せっかくの花の祭りが台無し。さ、もう一つ、杯《さかずき》を」
男は不満そうだったが、すぐに姫のやさしい手と杯の中身にとろかされ、あいまいな笑《え》みを浮《う》かべて寝椅子にもどった。曲はいつしか、冠《かんむり》を持たない王とその剣についての、森林に伝わる古い古い歌に変わっていた。
「持ってきた、アトリ」
絵の具箱と膠《にかわ》の瓶《びん》を持って、はあはあ言いながらモーウェンナが戻《もど》ってきた。
「早かったのね、走ってきたの? あら、その絵の具、見たことのない色が入っているわね。ずいぶん上等そうだけど」
「貰《もら》ったのじゃ」
いたずらそうに、モーウェンナは目をくるくるさせた。
「そうそう、アトリ、あとで、南の回廊《かいろう》の赤の壁画《へきが》の前へ行ってみるとよい。めずらかな殿御《とのご》に会えるぞ」
「珍《めず》らかな? 誰?」
作りかけの骨牌《かるた》を出しながら、アトリは首をかしげた。モーウェンナの口振りからして、単に姿《すがた》のいい男だとか、遠いところの珍しい人種だとかいうのではなさそうだ。
誰か知っている人物、アトリにとっても親《した》しい?
誰だろう。
訊《き》き返そうとしたとき、いきなり、ぬっと影《かげ》が落ちた。
「ほう、これはこれは」
絵の具を溶《と》いてやっていた手を止め、アトリは顔を上げた。
背《せ》の高い男が、にやにやしながら見下ろしていた。酔《よ》って足もとがおぼつかない。
それほど若《わか》くはないが、がっちりとした体つきをしている。腰《こし》に、火を噴《ふ》く竜《りゅう》のぬいとりのついた、革製《かわせい》の袋《ふくろ》を下げている。骨牌使いなのだ。
「ずいぶんとかわいらしい骨牌使いがいたもんだ! それともここの館の娘かな? 少なくとも、そっちのちっちゃい娘はここの子らしいや」
伸《の》びてきた手を避《さ》けて、アトリは思わず身を引いた。
「〈骨牌〉はあんたみたいな女の子の手に負えるものじゃないぜ。そんな辛気《しんき》くさいものはあっちへやって、この寂《さび》しい男の子にキスしてくれないかい」
「アトリはちゃんとした骨牌使いじゃ」
邪魔《じゃま》をされて、モーウェンナが不機嫌《ふきげん》そうに言った。
「あとにしてくれぬか、お客人。モーウェンナの先客はアトリじゃ。この骨牌ができあがったらまた来られるがよい。そうしたらお相手しよう」
「骨牌? そのお粗末《そまつ》な木ぎれがそうなのか? こいつはお笑いだ」
そっくりかえって男は笑った。
「〈詞《ことば》〉の秘密《ひみつ》は、女の子のかわいい頭には少々|荷《に》が重すぎるってものだぜ。骨牌を持つには、〈樹木の寺院〉で十年は修行《しゅぎょう》しないといけないってのを知らないかい」
「モーウェンナはとても頭のいい子よ」
友だちの顔が青白くこわばるのを見て、アトリはあわてて口をはさんだ。
「今日は彼女の初めての祭りの日だから、わたしが贈《おく》り物をあげると約束《やくそく》したのよ。彼女はここの、いちばんの姫君だから」
目顔でモーウェンナに下がるように言う。
「〈寺院〉のことはもちろん知ってるわ。彼女がそうしたいなら、〈寺院〉から教師を呼んであげるとツィーカ・フローリスは約束してるし、それに、貴族《きぞく》の中には、〈寺院〉に行っていなくても、飾《かざ》り物として〈骨牌〉を集めている人がいるでしょう」
「おっと、いっぱしの口をきくじゃないか、お嬢《じょう》ちゃん」
身をのけぞらして男は笑い、アトリのあごをさっとくすぐった。アトリが身震《みぶる》いしたのも、意に介《かい》さなかった。
「あんただってけっこうかわいい顔なのに、なんだってそんなにつんけんしてるんだかねえ。ほかのお姉ちゃんたちみたいに、にっこり笑やあいいのにさ。〈骨牌〉なんか持ってもったいぶってみたって、することはするんだろ? わかってるんならごちゃごちゃ言わずに、楽しもうじゃないか。それより他に能《のう》もないくせに」
「〈斥候館《せっこうかん》〉を売女《ばいた》の家とぬかすか!」
ふるえる拳《こぶし》を握《にぎ》って、モーウェンナが立ち上がった。
周囲で聞いていた娘《むすめ》たちが、ざわりと騒《さわ》いで美しい顔を見合わせる。アトリは胃の底が冷たくなるのを感じた。
ここにツィーカ・フローリスがいないのを、彼は感謝《かんしゃ》すべきだ。もしいたら、即座《そくざ》に首をねじ切って城壁《じょうへき》の外に捨《す》てられかねない。
「今の言葉を取り消しなさい。あなたに警告《けいこく》するわ」
できるだけ声を抑《おさ》えてアトリは言った。
「〈斥候館〉のお客は、ここへただの女を求めてくるわけじゃない。本物の知性《ちせい》と教養を、心を持った夢《ゆめ》の女性を求めて来るのよ。ツィーカ・フローリスは第一級の淑女《しゅくじょ》だし、ここにいるみんなもそう。己《おのれ》に誇《ほこ》りを持っている。誰《だれ》であろうと、彼女たちを侮辱《ぶじょく》することは許《ゆる》されないわ」
「だけど、行きつくところは同じだろう? 寝るのさ、男と」
失言に気づいていくらかたじろぎながらも、男は言いはった。
「ああそうかい、自分は違《ちが》うって言いたいんだな、へっ、お上品ぶりやがって。わかったよ、お偉《えら》い骨牌使いのお嬢さん。
だけど、こんなところで占《うらな》い師《し》のまねごとをやってるようじゃ、お里が知れるってもんだ。どうせ〈寺院〉の門もくぐったことのないもぐりなんだろう」
「なんですって?」
アトリの手が腰の袋に伸びた。
骨牌を収める袋には、各人によって異《こと》なった図案がほどこされている。図案の内容《ないよう》は、おのおのが学んだ〈樹木の寺院〉から卒業《そつぎょう》するときに、師から定められることになっていた。骨牌使いの身分|証明《しょうめい》のようなものだ。
男の言うとおり、アトリは〈寺院〉に行ったことはない。小夜啼鳥《ナイチンゲール》は、母の死に従《したが》って彼女から受けついだものだ。だが、厳《きび》しい訓練《くんれん》を母によって受けた。〈寺院〉で学んだ人間に対しても、ひけは取らないつもりでいる。
アトリが顔色を変えたのを知ってか知らずか、男は言いつのった。
「ああそうだ、そういえばさっき館主があんたのことを、古い友人の娘で、母親に似てとても強力な骨牌使いだと言ってたっけな。娘がこれじゃ、母親も思いやられる。どうせここの娘どもと同じ、とんだあばずれだったんだろう」
モーウェンナが怒《いか》り狂《くる》ったうなり声をあげた。
しかし、アトリのほうが早かった。札《ふだ》を押しのけて飛び上がると、アトリは、振り上げた手を力いっぱい相手の頬《ほお》に振《ふ》りおろした。
小気味のいい音がした。姫たちが恐怖《きょうふ》の悲鳴を上げた。まさか反撃《はんげき》をくらうとは思ってもいなかったらしい男は、しばらくぽかんと口を開けて立ちすくんでいたが、しだいにこみ上げてくる憤怒《ふんぬ》に殴《なぐ》られた頬をひきつらせた。
「なんてことしやがる、この小娘」
「取り消して!」
アトリは相手の言葉など聞いていない。
「いまの言葉を取り消しなさい! わたしのことなんかどうでもいいわ、ツィーカ・フローリスがどう言ったか知らないけど、わたし、たいした骨牌使いじゃないのは自分でわかってる。でも、母さんを侮辱するのは許さない。
あなたがどんなに強い骨牌使いでも、〈寺院〉を首席で卒業してたとしても、今の言いぐさは絶対《ぜったい》に許せないわ!」
「許せないか。じゃあ、どうするんだい、お嬢ちゃん」
怒りに顔をどす黒くして、男はアトリの顔をつかんだ。
「ええ? どうするってんだい。聞かせてもらおうじゃないか」
「決闘《けっとう》だ!」
別のほうから声がかかって、アトリはぎくっとした。
さっき、吟《うた》い手に文句《もんく》をつけていた太った男が、期待に目をぎらつかせて寝椅子《ねいす》から身を起こしていた。
「決闘だ、もちろんだとも! そこまで言わせて引き下がるつもりかね、お嬢さん? 力比べだ、あんたの力のほどを、その男に見せてやるがいいよ」
「ああ、そりゃいいね。見せてもらおう」
あごを突《つ》きだして、骨牌使いはあざわらった。
「あんたみたいなかわいい女の子がどれだけやれるか、見せてもらおうじゃないか」
おもしろがってるんだわ、とアトリは思い、体が熱くなるのを感じた。わたしを見せ物にして楽しむ気なんだ。
アトリはきっと相手を見返した。
「わかったわ、やりましょう。でも、どんなことになるか。責任《せきにん》は持てないわよ」
「ああ、いいとも。それはこっちのせりふだね」
男はほくそ笑みながら、自分の〈骨牌《かるた》〉を袋から出した。これ見よがしに、美しい細工《さいく》をした〈骨牌〉札をかかげて、集まってきた観客に示《しめ》してみせる。
アトリは占いの台を押しのけると、散らばっていた札を集めて右手に持った。
「アトリ、大丈夫《だいじょうぶ》かえ」
「心配しないで、モーウェンナ。すぐ済《す》むわ」
手にしがみついてきたモーウェンナに、やさしくそう言ったとたん、
「かかれ!」
男がそう叫《さけ》び、両手を振り上げた。その拳《こぶし》の間から炎《ほのお》が噴出《ふんしゅつ》し、蛇《へび》のような胴体《どうたい》にどう猛《もう》な鰐《わに》の頭のついた竜《りゅう》の形になって、まっしぐらにアトリに襲《おそ》いかかった。
あちこちで悲鳴《ひめい》が上がったが、アトリは意に介さなかった。手の中の〈骨牌〉を握《にぎ》りしめ、硬い札が生き物のようにぬくもり、動き出すのを感じる。意識《いしき》の底にかくれた目を開き、耳をすまして、竜を編《あ》み上げている構成《こうせい》を読みとった。
二番目の札、〈火の獣《けもの》〉を中心に、いくつかの〈詞《ことば》〉を変奏《へんそう》してつけ加えている。
それだけのことを確《たし》かめると、アトリは手を挙《あ》げ、たった一度、鋭《するど》い音を立てて打ち鳴らした。
姿を現《あらわ》したのは、金色に輝く翼《つばさ》を持つ大きな鳥だった。鳥は燃え上がる竜につかみかかり、くちばしと爪《つめ》であっというまに引き裂いた。ちりぢりになった竜は身もだえしながら主人のもとへ帰ろうとしたが、途中《とちゅう》で力つきて四散した。
「こ、この!」
男はあわてた様子で別の札を取り出した。〈樹木〉の描《えが》かれたその札をアトリに向けて、なんと表すこともできない、口笛《くちぶえ》のような音を発する。
アトリの足の下で草花がざわめき、猛然と伸び始めた。とげだらけの草がするすると足を這《は》いのぼり、あごにまで達する。
アトリは落ちついて、手にした〈はばたく光〉を〈円環《えんかん》〉に換《か》えた。目を閉《と》じ、脳裏《のうり》に描いた象徴に、自分自身を寄《よ》りそわせる。変転する光の環《わ》から流れこむ力が全身を浸《ひた》すにまかせ、目を開いた。そして言った。
「砕《くだ》けよ」
身体《からだ》を包《つつ》んだ草の網《あみ》は瞬時《しゅんじ》に消え去った。
男は殴《なぐ》りつけられたように後ろへ倒れ、起きあがって、腰に手をやってああっと叫んだ。
手にしていた〈骨牌〉は、こなごなの破片《はへん》になってあたりにちらばっていた。竜の縫《ぬ》い取りをした〈骨牌〉の袋は裂《さ》けて垂《た》れ下がっており、端《はし》のほうが焦《こ》げて見るかげもない。
「やった、アトリ!」
拍手《はくしゅ》と歓声《かんせい》があがった。勝負はついたのだ。飛び出してきたモーウェンナが、子犬のように腰にまとわりついてはね回った。
「どうなることかと思ったぞ。ようやった。腹《はら》が癒《い》えたわ、あの無礼者《ぶれいもの》」
「そんなに喜ぶほどのことじゃないわ。ただの目くらましに」
そっけなくアトリは言った。寝椅子の上で手を叩《たた》いている、あの太った客を見ると腹が立ってしかたがなかった。
〈骨牌〉を操《あやつ》るわざは、本来、こんな見せ物まがいの派手《はで》な合戦を繰《く》り広げるためのものではない。襲いかかってきた竜も、アトリが応戦した金色の鳥も、〈詞《ことば》〉の力が描いた幻影《げんえい》というだけで、本物の力など持ちはしないのだ。
むかし、旧《きゅう》ハイランドにいたようなほんとうに強力な骨牌使いなら、相手の身体を織《お》り上げる〈詞〉に働きかけて変身させたり、何もないところから生き物を語りだしたりすることもできたろう。
だが、今の世の骨牌使いであるアトリにそんなことなどできはしない。ただ、〈骨牌〉の象徴《しょうちょう》によって引き出された意識の底の「かたち」を、相手に投げつけただけ。勝負は、その押しつけられた「かたち」を、いかに跳《は》ね返すかというところでつく。
相手の〈骨牌〉が砕けたのは、アトリが投げた〈砕けよ〉という〈詞〉、物語の「かたち」を、受け止めきることができなかったからだ。
だから〈骨牌〉は投げられた〈詞〉に従って、砕けた。創世《そうせい》の時、混沌《こんとん》の虚無《きょむ》が十二の〈骨牌〉の〈詞〉に従って、世界の姿になったのと同じように。
「あなたも早く帰りなさい、誰だか知らないけど」
乗せられて余興《よきょう》をやってしまったことを考えると、むかむかしてくる。占い台の後ろに戻りながら、アトリは敗者に声をかけた。
「とにかく、これでわかったでしょ。これからは女が相手だからって、失礼な口はきかないようにすることね」
「待てよ、この女。俺《おれ》をこけにして、ただですむと思ってるのか」
アトリは立ち止まって振り返ろうとし、そのとたん、男の節《ふし》くれ立った指にがっしりと襟首《えりくび》をつかまれた。
「何するのよ、放《はな》して!」
「やかましい。よくも俺に恥《はじ》をかかせやがったな」
「もともと原因《げんいん》をつくったのはあなたじゃないの。手を放しなさいったら!」
「放せ、放さぬか! アトリになにをする!」
モーウェンナがきいきい言って男にしがみついているが、十|歳《さい》の子供《こども》が大の大人にかなうわけもない。皆《みな》は驚《おどろ》くより、呆気《あっけ》にとられていた。〈斥候館《せっこうかん》〉は客を選ぶ館で、こんなごろつきめいたことをする客はめったにいない。
「早《はよ》う、男たちを! こやつをつまみ出せ!」
モーウェンナの指示《しじ》で、やっと数人が庭の外へ走りかけたその時、
「いい加減《かげん》にせんか、愚《おろ》か者めが! ここをどこと心得ておる!」
男がぎょっとしたように頭を上げた。
指がゆるみ、アトリはようやく身をもぎ放した。つまっていた息が急に胸《むね》に流れ込《こ》んできて、思わずむせかえった。中庭を見下ろす露台《バルコニー》には人が鈴《すず》なりになっている。騒《さわ》ぎを聞きつけて、館の奥《おく》にいたものまでが見物に出てきていたようだった。
声をかけたのは血色のよい顔に黒い口ひげを生やした男で、胸《むな》もとに金の鎖《くさり》をこれ見よがしにかけていた。飾《かざ》りのついた短い杖《つえ》を上品につき、商人らしいきちんとした身なりだったが、身体はいかつくて大きかった。
彼は大きな手を二、三度打ちあわせ、歩いてきてアトリの手を取り、口づけた。
「美しい骨牌使い殿《どの》、あのような不作法《ぶさほう》者にからまれて災難《さいなん》でしたな? もしよろしければわたくしどもの小部屋へ来られて、親しくお話願えませんか?」
とっさには答えられなかった。まだ息が切れていたせいもあるが、なぜこの商人があの場面で間に入ってきたのか見当がつかなかったからだった。沈黙《ちんもく》をどう取ったのか、商人はあわてたように手を振った。
「ああむろん、館のおもてなしとは別に、わたくしどもの大切な賓客《ひんきゃく》としてですが。わたくしは〈骨牌《かるた》〉と骨牌使いには、人一倍の関心と敬意《けいい》を払《はら》っておりますもので」
「残念ですが、館の主の許可《きょか》を得なければ、ここを離れることは許《ゆる》されておりません」
用心深くアトリは言った。まだ顎《あご》がきしんで、しゃべると痛《いた》む。
「お名前を伺《うかが》わせていただいても?」
「ああ、これは失礼を。わたくしはダマスコにて香木《こうぼく》商会の支配人《しはいにん》を務《つと》めますもので、モリオン・イングローヴと申します」
深々と男は頭を下げる。ぶすっと口をつぐんだ男のほうを顧《かえり》みて、
「こやつはここへ参《まい》ります前の街で用心棒《ようじんぼう》に雇《やと》ったのですが、まことに酒癖《さけぐせ》の悪い、粗暴《そぼう》きわまりない男でしてな。船じゅうの鼻つまみとなっておりましたが、これでいくらか目が覚《さ》めたことでしょう」
男はただ横を向いた。商人は寛容《かんよう》な笑みを浮かべた。
「いかがです、招待《しょうたい》を受けていただけませんか? 館主どのには、あとでわたくしのほうからお伝えしておきましょうから」
つかの間、アトリは迷《まよ》った。相手はきちんとした男に見えるし、迷惑をかけられたのだから、少しは償《つぐな》いをしてもらってもいいような気もする。けれども、今は仕事中であるということを忘《わす》れるには、アトリの仕込みは上等すぎた。
「でも、わたしはここで占いの仕事をするよう言われていますから。仕事もせずに、持ち場を捨《す》てては信用にかかわります」
モリオン・イングローヴの頬《ほお》がわずかに動いた。小さな目がちらりと男へ走る。男はちょっと肩《かた》をすくめ、だしぬけに、大声を上げた。
「そんなもの、ぱっぱっぱっとすましちまえよ。そこらにいる奴《やつ》を誰でも適当《てきとう》に選んで、占ってやればいいさ。そうすれば仕事はしたんだから、義務《ぎむ》は果たしたことになる」
「あなたは黙《だま》っていて」
ぴしゃりとアトリは言った。
「なら、いつまでもそこにうろうろして、おれに恥をかかせてる気か? まったくひどい女だな、あんたは。おまえが立ってるだけで、おれがどんなに恥ずかしい思いをしてるのかわからないのか」
自分が悪いくせに、どこまでも無礼な男だ。アトリは何か言い返そうとしたが、その前に、男はつかつかと前へ進んであたりを見回すと、出入り口の近くの椅子《いす》に寄りかかっていた、一人の青年を指さした。
「そう、あんただ。あんたがいい。あの娘さんのお客になってやってくれよ」
「いかん!」
モーウェンナがあわてたようすで割《わ》って入った。
「その者は――そのようなえたいの知れぬ人間を、うちのだいじなアトリに近づかすわけにはいかぬ!」
「あんたは黙ってな、お嬢《じょう》ちゃん。来いよ、あんた」
「……いや、俺《おれ》は」
いきなり指名された青年は、迷惑《めいわく》そうなようすを隠《かく》そうとしなかった。
黒っぽい、目立たない色の胴着《どうぎ》を着、腕に毛織《けお》りの外套《がいとう》をかけている。館を出てきたのも連れにひきずられてのことらしく、中へもどりかけていたところを指名されたのだ。
「俺は、もう帰るところだ。急いでいる。占いなんかにかける金も、暇《ひま》もない」
なだめるように男は手を挙《あ》げた。
「金ならおれが払《はら》ってやるからさ。頼《たの》むよ、人助けだと思って。ほんの半刻《はんとき》もかかりゃしないじゃないか」
「急いでいるんだというのに」
「おい、いいじゃないか。せっかく無料《ただ》だと言っているんだ、やってもらえよ」
はたで見ていた中から野次《やじ》が飛んだ。そうだそうだ、と声がつづく。何人かの姫《ひめ》たちも、興奮《こうふん》したようすで手をたたいていた。みんな、あれほど見事に〈詞《ことば》〉をあやつるなら、どんな千里眼《せんりがん》の力を見せることかと思っているに違いない。
さかんな喝采《かっさい》を浴《あ》びて、青年は渋《しぶ》りながらも明るい中庭へ引き出されてきた。同じように背中《せなか》を押されて出てきたアトリと対面する。
「およし、アトリ。それより早くモーウェンナの〈骨牌《かるた》〉を作っておくれ」
モーウェンナがさかんにまとわりついて、アトリを引き戻そうとする。
「のう、あのような流れ者に近づいてはならぬよ。そなたは〈館〉の王女ではないか。ええ誰ぞ、早う男どもを呼べというに」
姫たちがいっせいに笑いくずれる。
「おお、モーウェンナ、モーウェンナ、そのようにアトリを独《ひと》り占《じ》めはならぬえ。なんぼう恋人《ちどり》の仲じゃとてのう」
「ほんに。アトリとてもの、たまには、殿方《とのがた》と並《なら》べてでもみねばの」
「そのようなことではない、わからぬか、ええい、離せというに!」
モーウェンナは足を踏《ふ》みならしたが、結局、笑いさざめく姫たちによってたかって取りこめられて、桟敷《さじき》席の方へつれて行かれてしまった。
「これはいい。なかなかようすのいい一対ではないですかな」
モリオン・イングローヴが満足げに言った。
自分のことはともかく、彼がなかなか整った容姿《ようし》の持ち主であることはアトリも認《みと》めた。
すっと通った細い鼻筋《はなすじ》に、薄《うす》めの唇《くちびる》。切れの長い目もと、褐色《かっしょく》に灼《や》けた肌《はだ》。迷惑げにしかめた眉《まゆ》も、男らしい顔立ちの魅力《みりょく》をそこなってはいない。濡《ぬ》れたからすの羽根のような黒い髪、黒い瞳《ひとみ》に、館の娘たちがうれしそうに囁《ささや》きあっている。
すらりと背が高く均整《きんせい》がとれ、高地《ハイランド》人の言い回しを借《か》りるなら〈祖《そ》なる樹木〉の幹《みき》のような、とでもいうべき体つきだった。彼自身にも、少しは高地《ハイランド》人の血がまじっているのかもしれない。彼の動作に見られる不思議《ふしぎ》ななめらかさは、〈天の伶人《うたびと》〉の末裔《まつえい》であるというあの民《たみ》の持つ、独特《どくとく》の優美《ゆうび》さを思わせる。ただ高地《ハイランド》人には黒髪や黒い瞳はいないというから、ごくごくうすい血縁《けつえん》なのだろうが。
「仕方ないわね。できるだけ急ぐから、少しだけつきあってちょうだい」
嘆息《たんそく》して、アトリは譲《ゆず》った。こうした成りゆきのすべてにうんざりしていた。こうなってしまっては、占《うらな》いの一つもしてやらないと、みんなが収《おさ》まるまい。
ツィーカ・フローリスさえいてくれれば、こんな羽目には陥《おちい》らなかっただろうに。台に座《すわ》り、型どおりに札を並べ直しながら、アトリは青年を見上げた。
「何を占ってほしいの?」
「別に何も」
「それはわかるけど、何か言ってくれなきゃ占いが始められないわ。なんでもいいのよ、明日の運勢《うんせい》とか、金運とか、事業運とか恋愛《れんあい》運とか。あの、ここを出たら、右へ行くか左へ行くか、とかでも」
鋭《するど》い視線を浴《あ》びて、アトリは口ごもった。
なるほど、こんな目ができるなら、占いなんて必要ないに違いない。ふたつの黒い瞳には、不屈《ふくつ》の意志《いし》が夜の篝火《かがりび》のように強く燃《も》えていた。これまで、自分の力のみを頼《たよ》りに、世の荒波《あらなみ》を切り抜けてきたものの目だ。
どんな不運に見舞《みま》われても、あわてたり悲しんだりすることはないのだろう。ましてや未来を前もって知ろうなどとは思いもすまい。
「では」
しばらく考えたあと、青年は言った。
「今、抱《かか》えている使命を俺が果たすことができるかどうか、占ってくれ」
「わかりました。あなたの名を聞かせてもらえる?」
「……ロナー、だ」
少し間を置いて、青年は答えた。
「ロナー、何?」
「何もない。ただのロナーだ」
「それは――いいわ、わかりました」
肩をすくめて、アトリは従《したが》った。ロナーというのは、古い言葉で「さすらい人」を意味する。まさか、そんな名前が本名とは思えない。旅慣《たびな》れていることは、見かけからして確かなようだけれど。
館には時々、本名を明かしてはならない人々が、偽名《ぎめい》を使って訪《おとず》れることがある。たいていは身分の高い貴族《きぞく》や聖職者《せいしょくしゃ》である。
この青年も、そうしたたぐいの一人なのだろうか。それにしては厳《きび》しい顔つきだし、服装《ふくそう》がくたびれているが。
十二|枚《まい》の〈骨牌《かるた》〉を使った占いは、骨牌使いだけではなく、普通《ふつう》の人々の間でも広く行われている。
もちろん、ただの人間と、訓練《くんれん》を受けた骨牌使いとでは的中|率《りつ》が違うが、美しい細工をほどこした〈骨牌〉が芸術品としても愛好されるようになって以来、宴会《えんかい》の余興《よきょう》に骨牌占いが使われるのはよくあることだった。市井《しせい》に生きる骨牌使いたちの主な収入|源《げん》がこれであり、今日のアトリの仕事などもその範疇《はんちゅう》に入る。
やり方は簡単《かんたん》なものだった。まず、十二枚の札《ふだ》をよく切りまぜ、占う相手に一枚をとってもらう。それが質問《しつもん》者を象徴《しょうちょう》する〈詞《ことば》〉となる。
そして、一回ごとによく切りまぜながら、六枚の札を順番にぬいていく。札は最初からそれぞれ、現在・過去《かこ》・未来・原因《げんいん》・対策《たいさく》・結果を表す。それぞれの札の〈詞〉が示唆《しさ》するものを、一つの流れに構成して語るのは骨牌使いの役目だ。
占いは骨牌使いの修行《しゅぎょう》の中でも大切なものの一つだが、大切な理由の一つに、この〈語る〉という行為《こうい》がある。
十二の〈詞〉によって語り出されたこの世界では、語ることは、その原初の創造《そうぞう》を小さな規模《きぼ》でまねることとされていた。〈骨牌〉が差しだした〈詞〉を語ることで、骨牌使いは、占う相手の未来という世界をひとつ、創造することになる。
それが善《よ》き未来であれ悪《あ》しき未来であれ、骨牌使いは、自分の語った物語《せかい》に責任を負わねばならない。占いに限《かぎ》らず、行く手に悪しき世界が待ちうけているとしても、語ることによってそれを変えることは十分にできるのだと、若《わか》い骨牌使いたちは教えられる。また、変えられるように努力するのが、真によき骨牌使いなのだ、とも。
〈|より良き未来を語るもの《フォーチュン・テラー》〉。〈骨牌使い〉の呼び名には、そういう意味が込められているのだ。物語には、常《つね》に最良の結末を。幼《おさな》い自分にそうさとした母の顔は今でも、まぶたの裏《うら》に鮮明《せんめい》に刻《きざ》みつけられている。アトリは目を閉じた。
「一枚とって。それが、あなた自身を表す〈詞《ことば》〉よ」
扇形《おおぎがた》に広げた〈骨牌《かるた》〉を、裏を向けて出す。青年は無造作《むぞうさ》に一枚引き抜いた。
札は七番目。〈翼ある剣〉。
それぞれの札につけられている名称《めいしょう》は、正確に言えば正しいものではない。〈骨牌〉の力とはもとは人のものではなく、〈伶人《うたびと》〉たちから与《あた》えられたものだ。その真に正しい意味と音を口にすることは、人間の能力《のうりょく》をはるかに超《こ》えている。
〈伶人〉たちの世はすでに遠く、その血と力は、かつては大地を支配したというはるかな北の王国、ハイランドの人々を除《のぞ》けばほとんど失われている。たとえ残響《ざんきょう》であるとしても、創世の力のかけらに触《ふ》れて、常人が無事でいられるわけもない。不用意に触れれば精神《せいしん》か肉体、あるいはその双方《そうほう》を破壊《はかい》されることもありうる。
熱すぎる器《うつわ》をつかむとき、手に布《ぬの》を巻《ま》きつけるように、人がそれを扱《あつか》うには特別な象徴と名前をかぶせることによって力をやわらげ、手綱《たづな》をかける必要がある。そのために選ばれたのが〈翼ある剣〉や〈樹木〉といった名と象徴である。
よって、札を、そこにこめられた〈詞〉そのままの名で呼ぶことは危険《きけん》すぎるし、常人にはとても不可能《ふかのう》なので、骨牌札は骨牌使いたちの〈字《あざな》〉――その本質を表す秘密《ひみつ》の名で、多くは〈骨牌〉を入れる袋につけられる標《しるし》によって象徴的に示される――と同じように、その〈詞〉の本質に最も近い言葉の組み合わせで表現される。
〈翼ある剣〉は、風を巻く翼に抱かれた一本の長剣を図柄《ずがら》として持っている。
その意味するところは運命の霊《れい》の呼びかけ、新たな旅立ちへの活力、肉体及び精神の地平の拡大《かくだい》、あるいは単に、長きにわたる旅。
また逆に、呼びかけに応《こた》えぬ精神の固さ、自己《じこ》への疑惑《ぎわく》と信頼《しんらい》の欠如《けつじょ》、視点《してん》を拡《ひろ》げようとしないかたくなさをも、同時に示している。存在《そんざい》する物はすべて、母なる〈環《わ》〉の投げる光の下に昏《くら》き分身である影をおとし、〈詞〉もまた、その例外ではないからだ。
「いいわ。じゃあ、その札をよく覚えておいてね」
〈翼ある剣〉を返してもらって束《たば》に入れ、ふたたびよく切りまぜて、アトリは慣《な》れた手つきで札をさばいていった。
やがて、毛氈《もうせん》の上には五枚の札が表を向けられて並んだ。図柄は順に、〈火の獣《けもの》〉、〈傾《かたむ》く天秤《てんびん》〉、〈円環《えんかん》〉、〈鷹《たか》の王子〉、再度《さいど》〈翼ある剣〉。
「長い――旅の途上《とじょう》にあるのね、あなたは」
〈結論《けつろん》〉を示す札をさぐりながら、アトリは呟《つぶや》いた。札を読もうとするときにいつも感じる、夢《ゆめ》うつつのような無意識状態《むいしきじょうたい》がゆっくりと忍《しの》び寄ってくる。
「使命感に火のように燃えさかり、狼のように飢《う》えて、襲いかかるべき獲物《えもの》を探《さが》している。
なのに、ほんとうの目的に目を向けようとしていない。かたくなな心に苦しみつつ、変える勇気が持てない。それはあなたが、自分を信じ切れていないから」
ロナーの片眉《かたまゆ》がぴくりと上がったが、何も言わなかった。
「〈傾く天秤〉。何かが盗《ぬす》まれたのね? いえ、待って、だれかが病気になっている。それは誰? そう、原因は〈鷹の王子〉、力のある、とても力のある男の人、この世でもっとも叡知《えいち》ある男性が、病に倒《たお》れている」
「もうよせ」
怒《おこ》ったような声でロナーが遮《さえぎ》った。
「でたらめだ。こんなたわごとを聞いていて何になる。俺は帰らせてもらう」
「〈円環〉。未来は、未来はまだわからない」
だが、いったん没我《ぼつが》の状態に入ったアトリの〈詞《ことば》〉は止まらなかった。
目の前で、札に描《えが》かれた絵がそれぞれの生命を得て動き出すように思える。札に宿った〈詞〉の力が、ゆらゆらと立ちのぼって生きた絵本のように物語を展開《てんかい》しはじめる。
毛皮の代わりに炎《ほのお》をたてがみとした巨獣《きょじゅう》が唸《うな》り声をあげて駆《か》け抜《ぬ》け、叡知の象徴たる鷹を手にとめた男が物思わしげな目をアトリに向ける。
頁《ページ》がめくられるたびに、千もの展開が指先で選び取られるのを待っているのだ。水の中のように濃《こ》く、やすらかな〈詞〉の空間を、舞《ま》い落ちる雪のようにアトリは沈《しず》んでいく。
そして変転する運命の遣《つか》わし手である黄金色《こがねいろ》の円環が、その中心に風を巻く翼の剣を抱いて、この光景を見下ろしている――
「母なる〈環〉の回転のように、未来は移《うつ》り変わり、流れゆらめく。それを止められるのは、強き心の〈翼ある剣〉、あなたひとり。
ああ、目をさまして、翼ある魂《たましい》のひと。昏《くら》き夜のとりこになってはいけない。あなたこそが唯一《ゆいいつ》の剣。解決《かいけつ》はあなた自身にかかっているのに」
「よせと言っているんだ!」
ロナーは叫び、アトリがちょうど置こうとしていた〈結果〉の札を奪《うば》い取って、地面に叩《たた》きつけようとした。
アトリはいきなりつきとばされたように悲鳴をあげ、のけぞって横ざまに倒《たお》れた。
「何をする、このたわけが!」
転がるようにモーウェンナが飛びだしてきて、倒れたアトリにむしゃぶりついた。
「札を読んでいるときの骨牌使いには、触《ふ》れてはならぬのを知らぬのか! アトリがもし取り返しのつかぬことにでもなったら」
「だいじょうぶ、わたしは無事よ。モーウェンナ」
頭を押さえながら、アトリはふらふらと起きあがった。
衝撃《しょうげき》はひどいものだった。金槌《かなづち》どころの騒《さわ》ぎではない。頭を握《にぎ》りつぶされた方がよっぽどましだったくらいだ。
骨牌を読むとき、骨牌使いは半分は自分自身の〈詞〉を通じて骨牌の〈詞〉と同化し、その世界の住人となっている。そこから何の準備《じゅんび》もなくむりやり引き出されることは、身体を半分に引き裂《さ》かれるに等しい苦痛《くつう》と危険を意味する。
それにしても、こんなに深く〈詞〉に没入《ぼつにゅう》したのは初めてだった。またあの幻影《げんえい》が目の後ろを漂《ただよ》っているように思える。
視界《しかい》はほとんど真っ暗で、頭を起こすのさえ大儀《たいぎ》だったが、それでもふしぎな義務感にさそわれてアトリは手をさしのべた。
「あと一枚だわ。その骨牌をかして、さすらい人さん。結果を教えてあげる。もっともそれはあなたが、何の対策《たいさく》も心がけずにこのまま進んだ場合の結果だけれど。こんなことをしてくれたわりには、親切《しんせつ》な処置《しょち》だと思ってほしいわね」
「何をしている、えい、貸《か》せ! 札を見せるのじゃ!」
動かないロナーに業《ごう》を煮《に》やして、モーウェンナが飛びかかった。たくましい腕《うで》にぶらさがるようにして、札をむしりとろうとする。
だが、札に描かれた図柄《ずがら》を見たとき、その幼《おさな》い顔は凍《こお》りついた。しきりに目をしばたたきながらアトリもそちらへ目を向けて、息をのんだ。
札は、昏いアトリの視界で、凶星《きょうせい》のように赤く燃えていた。
「つ……」
モーウェンナは呟《つぶや》いた。
「〈月の鎌《かま》〉……?」
その札には、尾《お》を引いて流れ落ちる星と、〈円環〉の逆投影《ぎゃくとうえい》めいた黒い円環。そしてその後ろに、鎌のような細い月を背負《せお》って立つ一人の人物が描《えが》かれている。
黒い衣《ころも》を頭からかぶったその人物の表情はいっさいわからず、見えるのは、袖《そで》から出た片手《かたて》ばかり。その手は肉の落ちきったいやらしい骸骨《がいこつ》の手にほかならず、つかんでいるのは、ちょうど、空の月をそのまま研《と》ぎあげたかのような、三日月形の鋭《するど》い鎌。
〈月の鎌〉。それはまさしく死と破滅《はめつ》、徹底的《てっていてき》な破壊《はかい》を示す札であり、忌《い》み札《ふだ》として、遊びで行う占いの場合にははずされてしまうほどに不吉《ふきつ》な〈詞《ことば》〉だった。また、高い能力を持つ骨牌使いであればあるほど、出しにくい札でもあった。
この世に〈月の鎌〉で表されるほど深刻《しんこく》な破滅も失敗も、まず普通《ふつう》ではありえない。それが、出てしまったということは。
ロナーがついと身をひるがえした。
「あ、ま、待って!」
アトリは立ち上がろうとしたが、手足がいうことを聞かなかった。立ち上がれずにもがいているうちに、広い背中は扉《とびら》をくぐり、誰も止めるひまもないまま〈館〉の中へ姿《すがた》を消してしまった。
しばらくは誰も口を開く者がなかったが、ふと、姫たちの一人が、散らばった札に目を落として小さな叫《さけ》び声をあげた。
「札は? アトリ、もしかして、札が一枚足りないのではないかえ」
「なんですって?」
アトリはまわりに散らばった札を急いで集めてみた。
本当だ、ない。
〈月の鎌〉がない!
みんなであたりを探してみたが、それらしいものはどこにもなかった。
「そういえばあの客、手の中に何か握《にぎ》りこんでいったのを見た気もする。もしやあれが、アトリの」
「不吉を告《つ》げた相手に意趣《いしゅ》返しをなそうとてかえ。許《ゆる》せぬ!」
アトリは頭をふり、さっと立ち上がった。
「取り返さなくちゃ! 彼はどっちのほうへ?」
「いかぬ、アトリ」
モーウェンナが腰《こし》にしがみついた。
「あれにかまっては駄目《だめ》じゃ、放っておおき! 今、男どもを呼んで追わせる」
「ありがとう、でもだめよ。あれは大切な骨牌《かるた》なの、モーウェンナも知ってるでしょ、どうしても取りかえさなくちゃいけないの。すみません、失礼します、みなさん」
気がかりそうに寄ってくる姫たちを押しのけ、アトリは回廊《かいろう》を駆《か》け上がった。思いがけぬ展開《てんかい》に、毒気《どくけ》を抜かれた客たちがぽかんと見送る。
しかし、そんなことを気にする余裕《よゆう》はアトリにはなかった。館の白い回廊を走り、大声で彼の名を呼ぶ。
「ロナー! ロナー!」
美々しい広間や庭を通り、ぜいたくな部屋をいくつか覗《のぞ》いて、まさに楽しみの最中の客と相方《あいかた》の娘に何組か肝《きも》を冷やさせたが、ロナーと名乗る青年の姿はどこにもなかった。それほど時間がたっているとも思えないのに、影も形もない。
(そんな)
捜すところもなくなってしまうと、ほかにどうすればいいのか思いつけなかった。中庭に戻る気力もなく、手近な壁にもたれかかって、けんめいにアトリは涙《なみだ》をこらえた。
あの〈骨牌〉はただの骨牌ではない。小夜啼鳥《ナイチンゲール》のしるしの刺繍《ししゅう》といっしょに、死んだ母から、アトリに譲《ゆず》られた品なのだ。
それでなくとも〈骨牌〉は、骨牌使いにとっては魂《たましい》にもひとしい品。母が知ったら、どんなに失望するだろう。あのきれいな目で、冷ややかに自分を見つめることだろう。
「おや、こんなところでかわいい小鳥さんが泣いてる」
いきなり後ろから手が伸びてきて、アトリの両目を覆《おお》った。
「何がそんなに心配なのか、この僕《ぼく》にちょいと話してみる気はないかい?」
「誰なの!」
アトリは思わず悲鳴《ひめい》のような声をあげていた。
「誰なの、とはまた情《なさ》けないお言葉」
相手はあくまでおどけた調子だった。
「僕を忘れたかい、かわいいアトリちゃん。そら、せんだって、水の石の広間の壁画《へきが》を直すときあんたを三美神のひとつに描《えが》いて、ツィーカ・フローリスに大目玉をくらったじゃないか。偉大《いだい》なる館主どのと、きれいなモーウェンナと、それから、僕の好みからするといささか太りすぎのティーア嬢《じょう》を写すよう言われてたってのにさ」
アトリはためらった。
「あなた、ドリリス? ドリリス・ベルン?」
「大当たり!」
ラッパのように笑って、彼はくるりとアトリの正面に回ってきた。
彼を見たとき、まず最初に目を引かれるのはその大きな丸い緑色の目である。あまりに無邪気《むじゃき》なので、たいていの人間は、彼のことをまったく悪気のない人間だと思う。
その予想は外れてはいないし、実際《じっさい》、悪気という言葉にこれほどかかわりのない人間も珍《めずら》しいのだが、いけないのは、彼が世の中の人間はすべて自分と同じ考えを持っていると信じていることだった。
つまり、自分の物は自分の物であり、他人の物も自分の物だ、と。
さらに、世間の物はいっさい楽しい遊びのために存在しており、誰であろうと、その遊びのためにはほかの何もかも捧《ささ》げてしかるべきだ、と。
「モーウェンナが言った『珍《めず》らかな殿御《とのご》』って、あなたのことだったのね」
「またまたご明察《めいさつ》。久《ひさ》しぶり、アトリ」
長い手足を折って一礼する。
赤っぽい髪《かみ》はふわふわと鳥の巣《す》のようにもつれ、ひょろながい手足は、アレステ山|系《けい》の山村の民が作る白樺細工《しらかばざいく》の人形のようだ。
いちおう、仕事としては、あちこちの宮殿《きゅうでん》や貴族《きぞく》の館を回り、壁画や工芸品の修復《しゅうふく》を行う職人《しょくにん》ということになっているが、それについては「他人の物も自分の物」という信条《しんじょう》を実行するためもあると、人には思われているし彼も否定《ひてい》しない。少なくともここ、ツィーカ・フローリスの支配するこの〈館〉では、実行に移す気はないようだったが。
「モーウェンナはそんなふうに言ったんだ? 僕のこと。さっき南の回廊でちょっと会って、筆《ふで》と絵の具と膠《にかわ》を分けてあげたんだけどさ。まあいいや、ところで君、何がそんなに悲しいの?」
「なんでもないの。ちょっとしたことよ」
実はまったくちょっとしたことではなかったのだが、子供《こども》っぽいと思われるのがいやで、くすんと鼻を鳴らしてアトリはそう答えた。
「骨牌札《かるたふだ》を一枚とられちゃったの、占いのお客に。追いかけたんだけど、見つからなくて。母さんの〈骨牌〉なのよ、それ。できれば取り返したかったんだけど、どうしても――つけられなくて」
「ありゃま。骨牌をね」
ドリリス・ベルンは陽気に言った。
ええと、あれはどこだったっけ、と呟《つぶや》きながら身体《からだ》をぱたぱた叩《たた》き、芝居《しばい》がかってうなずく。
「そりゃ、もしかして、これのことかな?」
けげんな顔をしているアトリの前に、手品師《てじなし》よろしく片手をひるがえして隠《かく》しから一枚の骨牌札を取り出した。
「それ――ええ、それ! それよ! ああドリリス、愛してるわ!」
一目見るが早いか、夢中《むちゅう》でアトリはドリリスに飛びついた。
たしかにアトリの盗《と》られた骨牌札だった。〈月の鎌〉などという忌《い》み札を見て、こんなにうれしく思うときがあるとは思わなかった。アトリはドリリスの細っこい首にしがみついて、相手が音を上げるまで、彼と札と、両方に交互《こうご》に接吻《せっぷん》した。ドリリスは身震《みぶる》いし、ため息をついた。
「ううっ、勘弁《かんべん》しておくれよ、アトリ。僕としてはうれしいけどさ、モーウェンナに見つかったら殺されちゃうじゃないか」
「じゃ、あともう一回だけにするわ、まだまだ足りないけど。うううん。でも、どうやって見つけたの? 追いかけたのに、あの人、まるで煙《けむり》みたいに消えちゃったのよ」
「梯子《はしご》の上ってのは、まあ世の中がよく見えるとこなんでね」
自慢《じまん》げに、親指で、泉水のある庭をはさんだ反対側の建物をさした。陽《ひ》の当たる壁面に梯子がたてかけられ、色のあせかけた壁画の〈天の伶人《うたびと》〉の行列が、翼《つばさ》のごとくなびく衣《ころも》を染《そ》め変えてもらうのを待って、静かに居並んでいる。
「あそこで退屈《たいくつ》してたら、足の下を妙《みょう》なやつが通ったもんでね。さっそく追いかけて、話しかけたら、実に無礼な口をきくじゃないか。
しかも、手には何かおもしろそうなものを持ってるし。おもしろそうな物はみんな僕の手にはいるのを待ちくたびれてるんだよ、そう思わない、アトリ? で、あとはまあ、ひょい、ひょい、ちょい、というところかな」
もう少しでアトリは笑い出しそうになった。
「すばらしいわ、ドリリス。今度ばかりはあなたのそのまちがった信念も、否定しないでおいてあげることにします」
「おいおい、そりゃどういう意味さ、アトリ」
「いかさま師《し》。すり、泥棒《どろぼう》、詐欺《さぎ》師、女たらし」
厳《きび》しい声が、〈館〉本館につづく通廊《つうろう》のほうから響《ひび》いた。
「わがいとし子に近づいてはならぬ! そなたに命じた南回廊の補修《ほしゅう》はいかがした」
「これは館主殿。毎度ごひいきに」
たちまちぱっとアトリから離れて胸に手を当て、ドリリスは深々と頭を下げた。
「ツィーカ・フローリス、彼をとがめないで」
厳しいおももちのその女性《じょせい》に、アトリは駆《か》け寄《よ》った。
いつになくうきうきしていたので、こんなこともできたのだった。ツィーカ・フローリスに意見するなど、たとい王侯貴族《おうこうきぞく》であろうと遠慮《えんりょ》するたぐいのことなのである。
「彼はわたしのものを取り返してくれただけよ。久しぶりだったから、つい話し込んでいたの。ごめんなさい、すぐ私も中庭へ戻《もど》るから、ドリリスのことは離してあげて」
「そなたは下がっておいで、いとしい子」
苛立《いらだ》ったように彼女は手を振った。
背の高い、堂々とした女性で、頭に冠《かんむり》さえ載《の》せれば、夜を統《す》べる女王として舞台に立たせることもできそうだった。身にぴったりと添《そ》う黒いドレスの裾《すそ》を長く引き、整《ととの》えた眉《まゆ》をきつくひそめている。
「そなたのように可愛《かわい》ゆいおぼこ[#「おぼこ」に傍点]が、こんなならず者に近寄るべきではないぞ。おお、おぞましい! とっとと行って漆喰《しっくい》をこねておいで、不埒《ふらち》者。誰があんなところの壁画を修復せいと言ったか。妾《わたし》は南回廊の絵をやれと言ったのじゃ。どうせあそこに梯子をかけて、妾の娘たちの着替えでものぞいてくれよう魂胆《こんたん》であろう」
「ありゃ。ばれてちゃしょうがないな」
「ドリリス!」
「ほんじゃま、あとでね、アトリ」
ひらひらと手を振って、ドリリスはさっさとその場を逃《に》げ出した。
「する事はちゃんとしますからって、そこのおこりんぼの館主どのに言っといて」
「ふん」
ドリリスの姿が消えたあと、ツィーカ・フローリスは小鼻をふくらませて馬鹿《ばか》にしたような音を出した。
「泥棒小僧《どろぼうこぞう》がようもぬかした。あれで腕が良くなければ、皮《かわ》一枚をはぎ取った上でとっとと門を蹴《け》りだして、世の厳しさを教えてもやるものを」
「ツィーカ・フローリス、あの――」
「妾はそなたになんと言ったかえ、アトリ」
きつい視線《しせん》が、今度はアトリにも向いた。
上品なまげにまとめた髪には白髪《しらが》ひとつない。小さな逆三角形の顔は、二十歳《はたち》から八十|歳《さい》までのどの年代にも見え、しかも、誰の目をも引きつけずにはおかぬ魅力《みりょく》を発散《はっさん》している。丘の〈館〉の貴婦人《きふじん》は、女王にも匹敵《ひってき》する美貌《びぼう》と威厳《いげん》を身につけた、まさに〈館〉の女帝《じょてい》であった。
「妾は中庭で占《うらな》いをしておくれと言った覚えがある。こんなところで、修復師ごときを相手に油を売っていてよいと言った覚えはない。骨牌使いは、自らの仕事をきちんとなしとげてこその骨牌使いではないのか。母者が聞かれたらどうお思いか」
……でも、お客に骨牌札を持っていかれて、それで。
などという言《い》い訳《わけ》は、口を出る前にツィーカ・フローリスの冷たい視線にあって凍《こお》りついてしまった。
だまってうなだれてしまったアトリを、しばらく眉根《まゆね》を寄せてにらんでいたツィーカ・フローリスだったが、やがて頬《ほお》をゆるめ、なだめるように肩《かた》に手を触《ふ》れた。
「良《い》いよ、アトリ。モーウェンナからだいたいの話は聞いた。いかがわしい骨牌使いに絡《から》まれたそうな。それに客に骨牌をとられたとか」
「モーウェンナが?」
「泣きそうになって妾のもとへ来た。あれが泣くなどというのは前代未聞じゃ」
白い歯を見せてにこりとし、再び顔が厳しくなった。
「で、何を言いおったのじゃ。その男」
「べつに何も」
笑おうとしたが、うまくいかなかった。涙を隠《かく》すために、アトリはうつむいた。
「わたしの――母さんのこと」
低い声をあげると、ツィーカ・フローリスは手を伸ばしてアトリを抱いた。
とたんに気が抜けて、アトリはいい匂《にお》いのする繻子《しゅす》のドレスに頭を埋《うず》め、声をひそめてしゃくりあげた。優美な両手がなだめるように肩をなでさすった。
「かわいやの、小さいアトリ。泣かずともよい。そなたの母者はよい方であった。世にもまれなすぐれた骨牌使いであった。見知らぬ男の阿呆口《あほぐち》がなんであろ。待っていや、そやつを草の根分けて捜し出して、男のしるしを引き抜いてやるわいの」
鼻をすすりながらもアトリは笑った。
「いえ、それはやめて。〈館〉は男の財布《さいふ》の中身どころか、股《また》の中身まで抜き取るなんてうわさが立ったらことだわ」
「これ。若い娘がそのような」
「先に言ったのはあなたよ、ツィーカ・フローリス」
その点に関しては無視を決め込むつもりらしかった。ツィーカ・フローリスは黙《だま》ってアトリをやさしくゆすった。もっと小さかったころのように、あたたかい胸の中で、アトリは久《ひさ》しぶりに守られている気分を味わった。
アトリが、母の正式な結婚《けっこん》による子供《こども》ではないことは、このハイ・キレセスではツィーカ・フローリスしか知らない秘密《ひみつ》だった。
十七年前、身重《みおも》の身体をかかえてハイ・キレセスに降《お》り立った女は、ツィーカ・フローリスの〈館〉でひとりの健康な女児を産み落とした。
すなわちアトリであり、女は母ベセスダである。持ち物は、〈寺院〉出身者であるしるしの小夜啼鳥《ナイチンゲール》をぬいとった〈骨牌〉入れの革袋《かわぶくろ》だけ。
誰が娘の父親なのか、彼女はけっして口を開こうとしなかったが、幸福な結びつきでなかったことは明白だった。娘を抱いた彼女は言葉少なに、館の主にここで雇《やと》ってもらえまいかともちかけた。姫《ひめ》として稼《かせ》ぐにはとうが立ちすぎているだろうが、炊《た》き屋の番だろうが、掃除婦《そうじふ》だろうが、なんでも言われたとおりに働くからといって。
しかし、女の持つ革袋に目を留《と》めたツィーカ・フローリスはそれをさせなかった。街はずれの丘に小屋を提供《ていきょう》し、〈骨牌〉を扱《あつか》う力があるのなら、それを使って生きるべきだとさとして市場に屋台を出すよう説得した。
はじめのうち、うつむいていたベセスダは、熱心な〈館〉の貴婦人の言葉に少しずつほだされてゆき、娘を連れて与えられた小屋に移り住んだ。そして三年前、まだ十分美しいまま夏のはやり病でその生を終えるまで、人々に慕《した》われ、娘にわざを教えながら、市井《しせい》の骨牌使いとして暮《く》らしていたのである。
「ねえ、時々思うことがあるの。母さんはもしかしたら、わたしを産まなくてもいいように〈館〉を訪ねたんじゃないかしら。だってここにはそういう薬があるんでしょ、赤ちゃんが大きくならないようにしたり、これ以上|妊娠《にんしん》しないようにしたり」
「めったなことを言うでないよ、いとしい子」
細い眉《まゆ》をひそめて、ツィーカ・フローリスはアトリの口に指を触れた。
「そのような薬は確かにあるが、よほどでなければ棚《たな》から出されもすまいよ。どんな事情ではらまれようと子供に罪《つみ》はないもの、生まれる子を世に出る前に流そうなどという母親がどこにいるものかえ」
「ほんとう……?」
「そうじゃとも」
養《やしな》い娘の細い顔を両手にはさんで接吻《せっぷん》し、〈館〉の女王は微笑《びしょう》した。
「そなたの母親に関して言えば、ベセスダはそなたを見てたいそう喜んだよ。それまで泣いてばかりいたが、あたりがぱっと明るくなるような喜びかたでの」
「だと、いいけれど」
「そなたにそのような顔をさせては、ベセスダに言い訳《わけ》が立たぬ。さ、涙をお拭《ふ》き。それにしても、さも憎《にく》いはその無礼者よな」
香水をしませた手巾《ハンカチ》を渡《わた》して、腹立たしげにあたりを見回した。
「〈館〉にそのような狼籍《ろうぜき》者が入り込むとはの。客の審査《しんさ》をもっと厳しくしたほうが良いかもしれぬ。それはさておき、骨牌は取りもどせてかえ」
「ええ、ここに。ドリリスが、彼の例のやり方で」
「そうか、ならよい。あの小鼠《こねずみ》も、たまには人の役に立つことをするとみえる」
ヘンナで染《そ》めた赤い爪《つめ》がいつくしむように骨牌札を撫《な》でる。
アトリにとって、物心ついたころには、〈館〉は第二の我《わ》が家のような場所として、すでに人生の真ん中に存在《そんざい》していた。そこで何が行われているのかを知ったときにも、さほどとまどいはしなかった。館の娘たちはいつも明るく、幸せそうだったし、ツィーカ・フローリスのきらめくドレスの下では、いかなる人生の不幸も、おそれいって足もとにひれふすように思えたからだ。
もう少し大きくなり、この世には、ツィーカ・フローリスでさえ退《しりぞ》けることのできない不幸せがあるのだと知ってからも、母の友人に対する愛情はさめなかった。母が死に、ひとりになった自分を何くれとなく気遣《きづか》ってくれることもうれしかった。
ただ、ことあるごとに、アトリを館に引き取ろうとするのはやめてほしかったが。
今のように。
「なぜ駄目《だめ》なのじゃ、アトリ」
ツィーカ・フローリスの懇願《こんがん》するような声など、なかなか聞けるものではない。けれど、この場合はあまりうれしくない。連れだって中庭へ戻りながら、ツィーカ・フローリスは心配げにアトリの手を取ろうとした。
「そなたももういい娘なのじゃから、いつまでもひとりで暮らしていては人聞きも悪かろう。客を取らせるとは言わぬから、ただここにいておくれ、ベセスダのかわいい娘。そなたはわが娘、わが血を分けた実の娘と思うているのに」
「ありがとう、ツィーカ・フローリス」
笑い返しながらアトリは首を振った。
内心、もしかして自分を祭りの占い師にやとったのも、またぞろ、この話を持ち出すためだったのだろうかと勘《かん》ぐり、そんなことを思う自分を少し恥《は》じた。どうであろうとツィーカ・フローリスが、世間でいちばん自分を案《あん》じていてくれる相手なのはわかっているのだから。
知らぬ者からどう思われていようと、娼婦《しょうふ》はけっしてさげすまれる職業《しょくぎょう》ではない。街角に立って春をひさぐような品下ったものはさておいても、〈館〉のような場所の娘たちは、貴族の娘にも負けぬ教育と技芸《ぎげい》を身につけた淑女《しゅくじょ》として、大商人や下級貴族の妻《つま》として身請《みう》けされる場合も多かった。
だからアトリが館に入ることを断《ことわ》るのは、行われる仕事という理由はあてはまらない。純粋《じゅんすい》に、骨牌使いという自分の職業と、生まれ育った家への愛情からだった。
「いずれは婚資《こんし》をも十分にととのえて、よい殿御《とのご》と娶《めあわ》せよう。〈斥候館《せっこうかん》〉のツィーカ・フローリスの養女ともなれば、なんの恥ずかしいことがあろう。世のあまたの男が、そなたの一瞥《いちべつ》のために命をもかけて悔《く》いまいぞ」
「でも、やっぱりあの家を離れることはできないわ。母さんのお客だった人が今でもたくさん訪《たず》ねてくるし、うわさを聞いて訪ねてくる人もいるもの。せっかくきたのに、わたしがいないのではがっかりするでしょ」
「昼間だけ通えばよい。男どもに馬車を仕立てさせて送らせよう。それならよかろう」
「駄目《だめ》ですったら。夜に訪ねてくる人がいたらどうするの? 子供が急に夜中に苦しみだして、わたしの力が必要になったら? 駄目よ、ツィーカ・フローリス」
アトリはきっぱりとかぶりを振った。
「わたし、ここもあなたも大好きだけど、母さんと暮らしたあの家はやっぱり離れたくないの。どうしても」
ツィーカ・フローリスは長いため息をついたが、あきらめた様子はなかった。またいつか、折りを見て、同じ提案《ていあん》が違う衣《ころも》で持ち出されてくることだろう。そう考えると、アトリもまたため息をつきたくなった。
なぜ自分がこんなにあの家にこだわるのか、不思議《ふしぎ》に思わないわけでもない。いくら力ある骨牌使いとはいえ、若い娘である以上、世間とは口さがないものだ。
市場などで、噂《うわさ》好きの女たちが自分を指さしてひそひそ言っていたことが何度かある。じっさい、娘の一人暮らしと見て、誰がどんな悪い気持ちを起こさないともかぎらない。さっき、その一例を見たばかりではなかったか?
館に入れば、少なくとも外の不埒《ふらち》者からは完全に守ってもらえるし、いやな噂も避《さ》けられる。アトリとて十七|歳《さい》の少女なのだから、同年代の友だちが欲《ほ》しいときもある。華《はな》やかな暮らしに憧《あこが》れるときもある。館にはそれがみんなそろっているのだ。
それでもなおかつ、アトリがあの入り江を見下ろす家に固執《こしつ》するのは、母と住んでいた家だからというほかに、誰にもまだ口にしたことのない理由があった。
アトリ自身でさえ、まじめに考えることがばかばかしいように思えはしたが、ひょっとしたら、母という理由よりも、こちらの方が大きかったかもしれない。
夢《ゆめ》。
あの青い夢の人物。深夜、寝台《しんだい》のそばに立ち、腹に手をおく、幻《まぼろし》とも亡霊《ぼうれい》ともつかない夢の中の人物のために、アトリは家を離れがたいと感じていた。
もしあそこを離れたら、夢の人物は二度と自分を見つけることができなくなるのではないかと怖《こわ》かったのだ。
初めて夢を見たのは、五歳の誕生日《たんじょうび》の夜だった。
その日、初めて〈骨牌《かるた》〉にさわらせてもらったアトリは、興奮《こうふん》のあまり遅《おそ》くまで寝《ね》つかれなかった。いい匂《にお》いのする、謎《なぞ》めいた絵と言葉の彫《ほ》り込《こ》まれた木の板が、幼《おさな》い子供のまぶたの裏《うら》で、ぐるぐると回転を続けていた。
一心にそれを見守るうちに、アトリはいつのまにか無心の世界に引きこまれていた。ちょうど、占いで札を読もうとする時のような、いや、それよりもっと深かったかもしれない没入状態《ぼつにゅうじょうたい》に、幻の札の乱舞《らんぶ》は彼女を導《みちび》いたのだ。
そして気がつくと、彼――あるいは彼女、あるいは単に“それ”――がいた。幼い少女は悲鳴をあげて目覚め、まだ起きていた母親のところへ走っていって助けを求めた。
それからどうなったのかは覚えがない。たぶん母親になだめられて寝台に戻り、眠《ねむ》ったのだろう。
母のベセスダはいつものように、それについては一度もアトリに語らなかったので、彼女が死んだ今では確かめる術《すべ》もない。
とにかく、それから今にいたるまでずっと、夢はアトリにつきまとっている。
なぜ、あの夢を見なくなるのが怖いのだろう。わからない。だが、小さなころはただひたすら怖《おそ》ろしく、わけのわからないばかりだったあの夢が、最近になって妙《みょう》に身近に感じられてきたのは確かだ。
彼、彼女、あるいは“それ”が触《ふ》れるたび、アトリの身体《からだ》に何かが沈《しず》んでいく。重い沼に投げ込まれた石のように、音もなく。
「アトリ!」
廊下《ろうか》の向こうから、だれかが走ってきた。モーウェンナだった。
「ああ、モーナや、どうしたえ」
「おや、かかさまもごいっしょか。アトリ、お客が山のようじゃ。さっきの一幕《ひとまく》がよほど面白《おもしろ》かったと見える。もうすこしで中庭があふれてしまいそうじゃ。早よう来てなんとかさばいてくれぬと、ちいさ子たちが踏《ふ》みつぶされてしまう」
ふいに心配そうに、「骨牌は?」
「大丈夫《だいじょうぶ》、ドリリスが取り返していてくれたの。ここにあるわ」
「大繁盛《だいはんじょう》じゃの、アトリ」
喉《のど》を鳴らしてツィーカ・フローリスは笑った。満悦《まんえつ》した猫《ねこ》のような顔だった。
「せいぜい気張っておくれ。ああ、それと、ここでしばらく休憩《きゅうけい》していたぶんの謝礼《しゃれい》は遠慮《えんりょ》なく引かせてもらおうから、そのつもりでいておくれ、いとしい子」
アトリは横を向いて、またもやため息をかみ殺した。
結局のところ、ツィーカ・フローリスは厳しい雇《やと》い主であるのだ。誰に対しても。
〈館〉を出たときには、すでに夜がふけていた。
大量の占い希望者を消化するのに時間がかかったのもそうだが、おおかたは、ちゃっかり宴《うたげ》にもぐり込んできたドリリス・ベルンと、モーウェンナの果てしない大げんかに巻き込まれていたおかげだった。
「ドリリスは狡《ずる》い」
むくれてモーウェンナはわめきたてたものだ。
「骨牌|泥棒《どろぼう》をたまたま見つけてとりかえしたくらいで、なぜそうアトリにべたべたせねばならぬか。モーウェンナでも、機会さえあればそれくらいできたはずじゃ。ドリリスが偉《えら》いのではない、えい、離れぬか、たわけが」
「そうはおっしゃいますがね、かわいこちゃん」
なれなれしくアトリにしがみついて、しゃあしゃあとドリリスは言う。
「現《げん》に取り返したのは僕《ぼく》なんだし、それに対してお礼くらいはしてもらってもかまわないだろ? 何も結婚《けっこん》してくれってんじゃない、次の曲と次の曲とその次の曲を、いっしょに踊《おど》ってくれってだけじゃないか」
「三曲だけで終わる気もないくせに!」
「だって次の曲ってのは、いつでも次の曲だもの。一曲が終わったら、続くのはいつも次の曲なんだからさ。僕は間違《まちが》ったことは言わない、そうだろ、小鳥ちゃん」
モーウェンナをなだめるのには約束していた骨牌を仕上げるだけでは足りず、明日も来て、一日じゅう骨牌占いの技法を教えるという約束をせねばならなかった。
「ツィーカ・フローリスの言葉も少しはわかった気がするわ、このならず者」
反省した様子もないドリリスに向かって、アトリはきつく言った。
「もう少しで、あなただってちょっとはまっとうなことができるんだなんて思いこむところだった。明日一日はモーウェンナの前に顔を出しちゃだめよ、わかった? これ以上問題をややこしくする前に、まじめに仕事を片づけてしまうのね。わたしが錯乱《さくらん》のあまりに、あなたのお顔をひっかいてリボンみたいにしないうちに」
「爪《つめ》やすりならここにあるぞ、アトリ」危険《きけん》な調子でモーウェンナが囁《ささや》いた。
「はいはい、おおせの通りに、姫君」
ふざけた調子で言って、ドリリスは手近な水キセルを引きよせた。昨日多島海から運ばれてきたばかりの、匂《にお》いのいい眠り草の葉が入れてある。
大きくひと吸《す》いしてごろりと横になったドリリスに見切りをつけ、アトリは立ち上がって、まだ残っていた客たちとモーウェンナに別れの挨拶《あいさつ》をした。
「帰ってしまうのか、アトリ? 明日はなるべく早く来ておくれ」
「そうするわ。でも、あまりモーウェンナ姫を独占《どくせん》してると、わたしもドリリス同様ツィーカ・フローリスにならず者呼ばわりされそうね。そういえば、彼女はどこ?」
「かかさまか?」
とまどったようにモーウェンナはまばたきし、ふいに女の顔でにやりとした。
「さあ、知らぬ。先ほど、何やら背の高い男と連れだって奥《おく》へ行った。きっと馴染《なじ》みの客なのじゃ。今ごろは熱い腕枕《うでまくら》で、共寝《ともね》の夢を結んでいようよ」
いまさら純情《じゅんじょう》ぶる気はないが、あどけない娼婦《しょうふ》の口からこういう言葉を聞くと、いまだに赤面《せきめん》せずにはいられない。
「そう、じゃ、邪魔《じゃま》はしないことにするわ。館主|殿《どの》によろしくね、モーウェンナ。また明日会いましょう」
「……アートーリーい」
広間に立ちこめた甘《あま》い煙《けむり》のむこうから、ドリリスが間延《まの》びした声をあげた。
「もう帰るのかい。帰り道は暗いぜ。いいか、気をつけなよ。気をつけるんだよう、アートーリい」
「そんなこと、あなたに言ってもらわなくてもわかってます」
憤然《ふんぜん》と返して、モーウェンナにもう一度さよならを言い、〈館〉の広間をあとにした。そのころにはすでに客と娘たちの交歓《こうかん》が床《ゆか》のあちこちのクッションで始まっており、アトリのような娘にとっては少々|刺激《しげき》の強い場所になってきていたのだった。
門を出ると、そこにはすでに準備《じゅんび》を整えた小さな馬車が、扉《とびら》を開けて待っていた。ツィーカ・フローリスが、アトリのために命じておいてくれたらしい。
唐草模様《からくさもよう》のついた御者《ぎょしゃ》台には、〈館〉のお仕着せを着た御者が飾《かざ》り鞭《むち》を手に、霧《きり》からにじみだしてきた影のような姿でじっと座《すわ》っていた。
「送ってくれるの? ありがとう、お願いするわね」
御者はこちらを見もしなかった。
変な人。顔をしかめながらも、疲《つか》れていたのでアトリはそのまま馬車に乗り込んだ。
〈館〉の使用人で、あるじの愛娘《まなむすめ》のアトリを知らぬ者などないはずなのに。新しく入った人なのかしら。やわらかい詰《つ》め物《もの》に身を沈《しず》めて、アトリはほっと息をついた。
疲れた。目は灰《はい》をまぶしたみたいな感じがするし、一日札をめくっていた指はつっぱって、痛いどころの騒《さわ》ぎではない。
あの無礼な骨牌使いと、商人のモリオン・イングローヴが占い志願者の中にいなかったのはつくづくありがたかった。この上、彼らの部屋にまで連れていかれたら、アトリはきっと叫びだしていたろう。
中庭に戻ったときにはもう二人とも姿はなく、モーウェンナは、「自分から出ていったのは賢明《けんめい》というものじゃ。二人とも自分のあばら骨《ぼね》が大事だったのじゃろ。でなければ、首が」と辛辣《しんらつ》な言葉を贈《おく》った。
ああ、それにしても!
ツィーカ・フローリスは言葉とはうらはらに、約束の銀貨《ぎんか》のほかにもう三枚、小銀貨を上乗せしてくれたが、こんなにはらはらさせられた一日の代価《だいか》としては安すぎるような気がする。骨牌を奪《うば》われるなんて。骨牌を――
(〈骨牌〉)
少しためらってからアトリは腰の袋《ふくろ》を外し、そっと口を広げてみた。
十二枚の香木《こうぼく》の札が、するりと手のひらにすべり出てくる。
ゆっくりと繰《く》っていく。それぞれにことなった力の波動を――骨牌使いの耳だけに聞こえる、震《ふる》える響《ひび》き、と言ってもいいが――伝えてくる札を一枚ずつのけてゆき、最後に残ったのを、慎重《しんちょう》につまみ上げた。
(〈月の鎌《かま》〉、か)
〈骨牌〉最大の凶札《きょうさつ》は、骨牌使いとしてのアトリの視界に、かすかに赤い輝きを発している。
ためつすがめつ眺《なが》めてみたが、やはり、いつもと違った様子は感じられなかった。かすかな失望と安堵《あんど》を感じながら、アトリは札をもとのとおりにしまった。
今日はいったい何人の客を占ったかわからないくらいだが、その間じゅうびくびくしていたというのに、〈月の鎌〉は最後まで一度たりとも出なかった。
骨牌使いでない人間や初心者が占う場合、札自体の力の強さに引きずられて〈月の鎌〉などの凶札が出てしまうのはままあることだ。しかしアトリは、人前では決して言いはしないにしろ、自分をつまらぬ骨牌使いだなどとは夢にも思っていないし、今日は特に調子が悪いとも感じなかった。
むしろその逆で、まるで札が自分から話しかけでもするように、未来を物語ることができた。それが正しいと、深い確信《かくしん》があって語れた。充実《じゅうじつ》感はあったが、恐ろしくもあった。恐ろしさの中心に、〈月の鎌〉の赤い光が輝いていた。
あの青年、そう、ロナーと言った。
彼はいったいどうしたのだろう?
それが心配だった。札をとられたときは、あんな無礼《ぶれい》な奴《やつ》はどうなったところで知るものかと思ったが、こうして気分が落ちついてみると、きちんとした物語を組み立ててやれずに帰してしまったことがいささか後ろめたい。
物語にはいつも、最良の結末を。
母のその諭《さと》しを、アトリはいつも念頭に置いて占いをするはずだった。悲劇的《ひげきてき》な結果を生むと告げられたあの占いにも、未来を語り変えるつてはあったはずなのだ。それを見いだせぬでは、よき骨牌使いとしては失格《しっかく》。
今ごろ何をしているだろう。よき助言も与えられずに、〈月の鎌〉の示す奈落《ならく》へとひた走っているのだろうか。それとももう、月男の手にする死の鎌にかかってしまったのだろうか。せめて、そうではないことを祈《いの》るしかない。
〈翼《つばさ》ある剣〉。
あの若者《わかもの》は、美しい瞳《ひとみ》をしていた。
がくんと馬車が揺《ゆ》れた。
頭を壁《かべ》にぶつけそうになって、アトリははっと目をさました。いつのまにか、眠《ねむ》りこんでいたらしい。馬車の外は妙《みょう》にひっそりしている。
「ねえ、もうついたの?」
どうも様子がおかしい。ついている小窓《こまど》から外を覗《のぞ》いてみたが、墨《すみ》で塗《ぬ》り込めたような一面の暗闇《くらやみ》が広がっているばかりで何も見えない。
「いったい何?」
小さな虫に背骨《せぼね》をかじられているような気がして、ぞっとした。不安を押し殺して慎重《しんちょう》に座席《ざせき》から腰を上げ、開き戸に手をかける。ほんの少し。ほんの少しだけ覗いてみて、様子を見ても悪いことはあるまい――
細いすき間が開いたとたん、そこに手袋をした太い指が猛禽《もうきん》の爪のように食い込んだ。
悲鳴を上げて閉めようとしたが、相手はすでに、靴《くつ》のつま先を扉の下に割りこませていた。蹴《け》られた扉が大きく開き、軋《きし》んで揺《ゆ》れた。
四角く切り取られた夜の中から、覆面《ふくめん》をした大きな人影《ひとかげ》がぬっと入ってきた。
無言で手をのばす。皮の臭《にお》いのする手のひらが口をふさぎ、助けを求める声を押し戻す。座席から引きずり出されながら猛烈《もうれつ》にアトリは暴《あば》れたが、いくら蹴っても殴《なぐ》っても、がっしりした男の身体《からだ》は岩のように打撃《だげき》を跳《は》ね返した。
「おい、なあ、静かにしろよ」
いくらか困《こま》ったように囁《ささや》く声がした。
「別にあんたに危害《きがい》を加えようってわけじゃないんだ。頼《たの》むから、おとなしくしてくれ。女をぶん殴るのは、正直いって好きじゃない」
(この声!)
たしかに、聞いたことがある。
「あなた、〈館〉でわたしにからんできた男ね、そうでしょ!」
アトリは無我夢中《むがむちゅう》で首をねじり、覆面の顔をにらみつけた。
「どういうつもり? 昼間の腹いせなの? 危害なら現に加えてるじゃない! 離しなさい! 離してよ!」
「黙《だま》れってのに、えいくそ」
舌打《したう》ちして、また口をふさごうと手をのばしてきた。アトリは顔をそむけて、太い腕《うで》に布越《ぬのご》しに思いきり噛《か》みついた。男はわずかにひるんだ。そのすきに地面に転がって、束縛《そくばく》を逃《のが》れ、馬車に登ろうとする。
手綱《たづな》を取れれば、馬を走らせて襲撃者《しゅうげきしゃ》から逃れることができる。そう考えたのもつかの間、地面に落ちた〈骨牌《かるた》〉がきらりと光るのを見て、はっとした。
さっき、馬車の中で膝《ひざ》の上に広げていて、引きずられたひょうしにばらまいてしまったのだった。置いて行くわけにはいかない。
あせってかがみ込んだとたん、鋼鉄《こうてつ》の手が万力《まんりき》のような力で肩を締《し》めつけた。
「なめた真似《まね》をするんじゃねえぞ、おい」
低い声が耳元で脅《おど》すように囁いた。
「昼間のことは忘れちゃいねえんだ。痛い目にあいたいなら、そうしてやってもいいんだぜ」
足が軽々と地面から離される。アトリは再びもがいたが、今度は用心していた男は、二度とそんなものにはひっかからなかった。
やすやすとアトリの動きを封《ふう》じて肩にかかえ上げる。ひとつため息をつき、何かぶつぶつと呟《つぶや》くと、人を捜《さが》すようにちょっとあたりを見回した。それから小さく肩をすくめ、主のない馬車の階段《かいだん》に足をかける。
その時だった。突然《とつぜん》、頭を燃《も》える矢で貫《つらぬ》かれたような激痛《げきつう》がアトリを襲《おそ》った。
あまりに熱いがゆえに、氷よりも冷たく感じられる衝撃《しょうげき》が頭の先から背骨を走って、指の先から噴《ふ》き出るように思われた。
男の腕がゆるみ、しわがれたうめき声をもらしてアトリは地面に倒れた。
いくらか遅《おく》れて、男のがっしりした体躯《たいく》も隣《となり》に沈《しず》んだ。半分ずれた覆面から苦悶《くもん》にゆがんだ唇《くちびる》がのぞき、今の衝撃を、この盗賊《とうぞく》も感じていたことを示していた。
これは尋常《じんじょう》な衝撃ではない。震《ふる》えながらアトリは悟《さと》った。〈骨牌〉が――〈詞《ことば》〉がきしんでいる。
この世を構成する〈詞〉の旋律《せんりつ》に、異常《いじょう》なものが侵入《しんにゅう》してきている。
手元で何かがはじける音がした。〈骨牌〉の札がつぎつぎと、音もなく光の粒《つぶ》となってはじけていく。母から受けついだ大切な〈骨牌〉が。
こめかみの痛みに耐《た》えながら、アトリは手をのばした。最後に残った一枚、〈月の鎌〉が、かすかに赤い輝きを残して消えうせた。
「だめ!」
悲痛な叫びもむなしく、すでに母の形見は跡形《あとかた》もなくなっていた。ぐったりとうずくまるアトリの耳に、物音がとどいた。草を踏《ふ》む音と、人の声。
「ここは――どこだ」
若い男の声だった。彼もまた、あえいでいた。苦しげに。
「どうしてこんな……誰だ? そこにいるのは誰だ?」
「わた、し」
アトリは喘《あえ》ぎながら身を起こそうともがいた。相手は油断《ゆだん》なく身構《みがま》えている。荒々《あらあら》しい呼吸が肩の線を大きく上下させていた。長靴《ながぐつ》には血がつき、胴着《どうぎ》は破《やぶ》れ裂《さ》け、髪はひどく乱《みだ》れて額《ひたい》にかかっている。
木々の間からさす月の光が半面を照らした。追いつめられた獣《けもの》のような、熱っぽいまなざしは黒。血で貼《は》りついた髪も黒。片手でしっかりと懐《ふところ》を押さえ、もう一方の手に光る抜き身の剣。細い刃《やいば》には、黒っぽいものがべっとりとついていた。
「おまえは」
アトリはようやく頭を起こして、相手に顔を向けた。
目の前の娘《むすめ》がだれかに気づき、青年の表情がわずかにいぶかしげになった。
「おまえは確か、ツィーカ・フローリスの〈館〉の」
「あ、あなた」
アトリもまた相手がだれかに気づいた。
「あなた、ロナー? そうよ、たしか、ロナーね? どうしてこんなところに」
「それはこっちの訊《き》きたいことだ」
何を感じたのか、青年はさっと全身を緊張《きんちょう》させて後ろを向いた。
「なぜこんなところで会うのかはわからないが、不運だったな。そこの男をつれて、一刻《いっこく》も早く逃《に》げろ。ここにいると後悔《こうかい》することになるぞ」
「どうして? 追われているの、あなた」
立ち上がろうとしたが、足にうまく力を入れることができない。立ち木につかまってやっと身体《からだ》を持ち上げたが、目がくらんでとうてい動けそうになかった。ちかちかする目を下に向けて、アトリは相手の腕からしたたる、ねばい滴《しずく》を見た。
「もしかして、ロナー、あなた、怪我《けが》をしてるの? 血が出てるわ!」
「たいしたことじゃない」
背を向けたまま、投げやりにロナーは言った。
「人の心配をするより、逃げろと言っているのがわからないか。命が惜《お》しくないのか。早く逃げろというのに!」
いきなり怒鳴《どな》られて、アトリはぎくっとした。反射《はんしゃ》的に二、三歩あとずさったが、なんとしても足が言うことをきかず、その場にへたりこんでしまう。
ロナーは眉《まゆ》を逆立《さかだ》て、後ろを向いてまた怒鳴りつけようとしたが、不意に口をつぐんだ。若々しいその顔が、みるみる暗い影に塗《ぬ》り込められていく。
「だめだ」
絶望《ぜつぼう》的にロナーは呻《うめ》いた。
「もう、間に合わない」
そいつらが這《は》いだしてきたときの光景を、アトリは一生忘れることがないだろう。
あまりのおぞましさに、声をたてることもできなかった。立ち木の陰《かげ》から、地面のくぼみから、茂《しげ》みの陰から、それらは奇形《きけい》の植物の芽《め》のように伸《の》びあがり、木と同じくらい、あるいはそれよりもはるかに高いところまで伸びあがって、清浄《せいじょう》な夜の闇《やみ》を一気に悪夢の産物に変えてしまった。
個体の区別さえなくたがいにくっつきあったり、分裂《ぶんれつ》したりしている。こぶだらけの背中もいやらしい手足も、ひっきりなしに形を変えたので、何のようだとはっきり名前を挙《あ》げることはできない相談だった。ただ、どれもこれもなんともいえずおぞましく、不気味で、最悪の嫌悪《けんお》をさそうものであるということだけは確《たし》かだ。
水掻《みずか》きめいた足が地面を踏《ふ》むと、ぴちゃりと粘液質《ねんえきしつ》の音がした。
ひどい悪臭《あくしゅう》が立ちこめ、アトリは思わずむせて咳《せき》こんだ。ガマガエルのそれにかろうじて似《に》ていると言える、丸くて大きな目が死んだようにアトリを見つめた。
ぼんやりと黄色い目に見つめられると、名状《めいじょう》しがたい悪寒《おかん》が背筋《せすじ》を貫《つらぬ》いた。これは存在してはならないものなのだと、しびれたようになった頭でアトリは考えた。十二の〈詞《ことば》〉に語られたこの世界に、こんなものがいていいわけがない。死んだような目に宿るのは、掛《か》け値《ね》なしの虚無《きょむ》だ。
存在すべきでないのにむりやりこの世に引きずりだされ、どんな意味であれ生かされていることへの怒《いか》りと恨《うら》み、そして強烈《きょうれつ》な飢《う》え。
それでさえ、見ているうちに変幻《へんげん》しつづけ、ふと気づけば、見つめている己《おのれ》こそが暗黒と虚無の淵《ふち》にいることを発見するのだ。
空白の意識《いしき》で、汁《しる》をしたたらせながら自分に近づいてくる手をアトリはただ見ていた。霧《きり》めいてゆらめく爪《つめ》がまさに肩にかかろうとしたとき、若々しい声が、あたかも刃《やいば》の一戦のように麻痺《まひ》した心に斬《き》りこんできた。
「おまえの相手はこっちだ、〈異言《バルバロイ》〉の物!」
長剣《ちょうけん》の一撃は、見事にねばつく手を斬《き》りおとした。そいつは妙《みょう》にのろくさとした動作で腕《うで》の切り株《かぶ》をあげると、どこにあるかわからない発声器官から、鈍《にぶ》くこもった叫び声をあげた。
弱ったアトリの〈詞〉を、その叫びはまたも打ちのめした。人間の口ではとても再現できそうにないそれは、どこか、老ゼンのような〈異言者《バルバロイ》〉たちの発する異言に似た、不安と嫌悪《けんお》を呼び起こす響きを秘《ひ》めていた。
飛びすさったロナーは、動けないアトリの襟首《えりくび》をつかんで後ろに引き倒す。
「奴《やつ》らの目を見るんじゃない」
とっさに手を払《はら》って起き直ろうとするアトリに。叱《しか》りつけるように声が飛んだ。
「〈詞〉を奪《うば》われて奴らの仲間に、バルバロイになってしまうぞ。奴らは〈異言〉の怪物《かいぶつ》どもだ、おまえ程度《ていど》が太刀打《たちう》ちできる相手じゃない。普通の〈骨牌《かるた》〉じゃ無理なんだ。早く逃げろ、後ろを見ずに、逃げるんだ!」
「だめ――でき――ない」
地面に両手をついたまま、アトリは激しくかぶりを振った。猛烈《もうれつ》に笑いたくなったが、頬《ほお》に流れるのは冷たい涙だった。
まるで身体《からだ》に骨がなくなってしまったみたい。手が無意識に腰をさぐったが、触れたのはずたずたに裂けた袋と、粉《こな》のようになってしまった〈骨牌〉の残骸《ざんがい》だけだった。
では、〈骨牌〉の力を引きだすことはできないのか。いえ、待って。それに、ロナーは奴らのことをなんと言った? 〈異言〉?
〈骨牌〉の力は通用しないと。
そんなことって!
「何? うわっ、何だ! いったい何だ、こいつらは!」
男の叫ぶ声が聞こえた。あの得体の知れない男、意識を取り戻したらしい。
頭上で低いうめき声がし、どさっと重いものが落ちてきた。ぎょっとしてアトリは目を開き、ぐったりと横たわるロナーを認《みと》めてあやうくまた取り乱《みだ》すところだった。
「あ、あなた、ロナー、あなた、大丈夫《だいじょうぶ》? しっかりして!」
服の胸の部分が裂け、濡《ぬ》れたしみが徐々《じょじょ》に広がりはじめている。浅くはない。苦痛に顔をゆがめたロナーの顔が、青ざめた光の中で仮面《かめん》のようだ。
「逃《に》げろ」
うわごとのように彼は呟《つぶや》いた。
「奴らの目当ては俺《おれ》だ。行け、早く、自分の面倒《めんどう》くらい――自分で見られる……」
「そんなことできるもんですか!」
しゃくりあげながら、アトリはロナーの胸の傷《きず》を手で押さえつけた。ざっくりと口を開いた傷口から、次から次へと血があふれ出してくる。
恐《おそ》ろしくて頭がおかしくなりそうだった。だが、逃げるという考えは、不思議《ふしぎ》と一度も浮《う》かばなかった。
〈月の鎌《かま》〉、あの不吉《ふきつ》な札を未来として彼に与《あた》えたことに、責任《せきにん》を感じていたからかもしれない。占いは〈詞《ことば》〉の伝えることをただ翻訳《ほんやく》して伝えるだけであり、アトリが責任を感じる必要はないと言えばそうなのだが、札の意味からきちんとした物語を仕立ててやれなかったことが心に引っかかっている。
悪い未来も、それを語りなおすことで善《よ》い未来に変えていくことがよき骨牌使いの心得であり、誇《ほこ》りだと教えられてきた。もし自分がそれをしなかったために、彼がこういう事態《じたい》に陥《おちい》ったのだとすれば、やはりアトリにも責任の一端《いったん》はある。
それに、より単純《たんじゅん》な理由として、目の前で人が怪物に襲われているのに、自分一人で逃げることなど、絶対にできない。
〈骨牌〉は。〈骨牌〉がほしい。アトリは服をさぐり、必死にあたりを見回した。一枚でもいい。砕け残った札が、そこらにでも落ちてはいないものか!
指が薄《うす》い、硬いものにさわったのはその時だった。
「だめだ! それにさわるな!」
狼狽《ろうばい》したようにロナーが身を起こしかけた。しかし、アトリはもうそれをつかんで、破れた服の間から引きだしていた。
〈骨牌〉だ!
たった一枚だが、ないとあるとは大違いだ。どんな素材でできているのか、月明かりをはじいてほの白い光を放つ表面は磨《みが》いた貝殻《かいがら》のようになめらかだ。肌《はだ》近くに収められていたせいか、生き物のような温かみをおびている。
札の裏側《うらがわ》の、見つめると、吸い込まれてしまいそうな複雑《ふくざつ》な螺旋《らせん》と樹木の文様《もんよう》が注意を引いた。普通《ふつう》ここには骨牌使いの個人《こじん》の〈詞の名〉を象徴《しょうちょう》するものを刻《きぎ》み込むのだが、これはロナーの印章《いんしょう》なのだろうか? 骨牌使いには見えなかったが。
とまれ、考えている時間はなかった。アトリは白い〈骨牌〉を握《にぎ》りなおし、それがどの〈詞《ことば》〉であるかを知るために表に返そうとした。
二度も続けて〈詞〉を解放《かいほう》することは危険《きけん》きわまりなかったが、どうとでもなれ、やらなければ死ぬのだ。自分も、ロナーも、たぶん。
「返せ! それはおまえが触《さわ》っていいものじゃない、返せ、さもないと」
アトリは札を表に返し、刻まれたものを見た。
閃光《せんこう》とともに、アトリの中に何かが飛びこんできた。
何か、地鳴りのような何か、雷鳴《らいめい》のような何か、とどろく瀑布《ばくふ》のような、風のささやきのような、小鳥のさえずりのような、生まれる前の赤ん坊《ぼう》の笑い声のような、名前のない一千もの何か、何物か。
それはアトリの〈詞〉をしゃにむにつきぬけ、頭の中をざわめきでいっぱいにした。
〈祖《そ》なる樹木〉よ、とアトリはかろうじてつなぎとめた意識のはしで思った、わたしは今、〈異言者《バルバロイ》〉になろうとしています。あるいは、死のうと。
ああ、できればそうしてください。〈詞〉を知らない哀《あわ》れな流刑者《るけいしゃ》になるのはいや。
だがすぐに、そんなことも考えられなくなった。アトリは倒れた。だれかがせいいっぱい叫んでいたが、じきに聞こえなくなった。見えない景色と聞こえない言葉、語られたことのないさまざまな光景が脳裏《のうり》を移《うつ》りかわっていく。
旋律《せんりつ》の渦《うず》の中から、あの青い夢のいきものが静かに浮かび上がってきて、手をさしのべた。ひんやりとしたその手の感触《かんしょく》に、アトリは一瞬《いっしゅん》母を想《おも》った。閃光の中で、異形《いぎょう》の黒い影がちぎれるように消えるのを見た。何もかもひどく、遠かった。
(とうとうわたしをつかまえたのね)
混沌《こんとん》の渦の中でアトリは呟《つぶや》いた。
(好きにするといいわ)
それを最後に、アトリの意識は闇に沈《しず》んだ。
青年は身を起こした。
木立は、いつか静寂《せいじゃく》を取り戻していた。手をついてしばらく茫然《ぼうぜん》とあたりを見回し、ふと気づいて、胸に当てた手を外してみる。
血はついていたが、その下の肌《はだ》は、痛々しい桃色《ももいろ》の傷跡《きずあと》が残っているだけで、きれいなものだった。長いため息をついて、彼は起きあがった。
怪物の姿はなかった。そばに倒れているアトリの口もとに手を当てる。閉《と》じたまぶたは蝋《ろう》の色をしていた。かすかに呼吸《こきゅう》が通っていた。
「生きているのか」
白い骨牌札が、投げ出された手の近くに落ちている。
拾い上げようとしたが、白い札はわずかに発光したかと思うと、力つきたかのように、ひとかたまりの霧《きり》となって蒸散《じょうさん》してしまった。
ロナーは手を引っこめ、暗い目でアトリを眺《なが》めた。
「〈十三〉が」
彼は呟いた。黒い瞳がきらりと光った。
手をのばし、動かぬアトリを引き寄せて、肩に乗せた。よろめきながら立ちあがる。少し考え、もう一人の男のほうへと向かう。
ややあって、人影の少なくなった小道を、ひとつの人影が急ぎ足に降りていった。足下《あしもと》の影は長く伸び、海辺の樹木のねじれた影とまじりあって、踊《おど》った。
二章 〈火の獣《けもの》〉
「彼女から連絡《れんらく》が来ましたよ、エレミヤ。〈塔《とう》の女王〉から」
「ほんとうなの、ユーヴァイル?」
彼女は寝椅子《ねいす》から飛びおきた。なめらかな頬《ほお》をした、三十ばかりと見える貴婦人《きふじん》だった。腕《うで》で目を覆《おお》って横になっていたので、豊《ゆた》かな茶色《ちゃいろ》の髪《かみ》がいくらか乱《みだ》れていたが、二重《ふたえ》まぶたの下のわすれな草色の瞳《ひとみ》には、怜悧《れいり》な知性《ちせい》とあたたかい愛情《あいじょう》がたたえられていた。
「それで、彼女はなんと? あの札のことは?」
「失敗したようだ、と」
青年は長身だった。二十七、八と見える年頃《としごろ》で、氷のような銀髪《ぎんぱつ》を長く腰《こし》までもおろしていた。細面《ほそおもて》の顔は、そのあたりの美女と称《しょう》するものが恥《は》じて逃げ出すほどに冷たく美しく整ったものだった。淡《あわ》い灰色《はいいろ》の瞳と流れるような浅黄《あさぎ》の長衣《ローブ》とあいまって、それは彼を、あたかも一体の氷の彫像《ちょうぞう》のように見せていた。
「障壁《しょうへき》に侵入《しんにゅう》して札を取るまでは首尾《しゅび》よくこなしたとはいえ、その後、脱出《だっしゅつ》するときに〈異言《バルバロイ》〉に発見された、と。〈女王〉が確保《かくほ》しておいた〈小径《パス》〉で逃《のが》れたようですが、途中《とちゅう》で捕捉《ほそく》できなくなった、とのことです。〈女王〉も〈石の魚〉や、その他の者に命じて捜《さが》させてはいるようですが、まだ見つかってはいません」
「おお。なんてこと」
一声うめいて、エレミヤはまたぐったりと寝椅子にもたれかかった。何の感情も見せないまま、青年の灰色の視線《しせん》がその動きを追う。
室内は暗く、壁《かべ》の暖炉《だんろ》でちらちらと燃える火がかすかにうす闇《やみ》をゆらめかせている。窓《まど》の外は雪だった。何の音もしない。磨《みが》きぬいた水晶《すいしょう》の板で張《は》られた窓に、雪は白く、静かに降りつづいている。
「お疲《つか》れのようですね。王のご容態《ようたい》はいかがです」
「快《よ》くはないわ。快くなるはずがあって?」
顔をおおったまま、打ちのめされた声で彼女は答えた。
「わたしたちには何もできない。どんな骨牌使いにも、あの方をお治《なお》しすることはできないわ。わかっているでしょう、ユーヴァイル。ああ、せめてここに彼女が、〈塔の女王〉がいてくれれば、少しは」
「だが、彼女はいない」
平坦《へいたん》な声がかすかに空気を震《ふる》わせる。
「彼女がいるのはハイ・キレセスです。王ご自身の命令で。それにしても、アロサール殿《どの》も罪《つみ》つくりな。ご自分のなすべきことを知らぬ方は始末《しまつ》におえませんね」
「そんな言い方。気づかいというものを知らないのね、あなたという人は」
エレミヤは細い眉《まゆ》をつりあげて身を起こしかけた。ユーヴァイルと呼《よ》ばれる青年は身じろぎもせず立ちつくしている。見開いた灰色の双眸《そうぼう》から、ふたつの鏡像《きょうぞう》がじっと彼女自身を見返した。
ややあって、エレミヤは大きな息をついて身体《からだ》の力をぬいた。
「怒《おこ》っても仕方がないことね。わたくしは〈青の王女〉で、癒《いや》しの〈詞《ことば》〉はわたしのものではない。そしてあなたは」
「〈月の鎌《かま》〉。死と破壊《はかい》、災厄《さいやく》と絶望、破滅《はめつ》と終末が私の〈詞〉」
ひそやかにユーヴァイルは続けた。
「もちろん、私も王になんらかの助けをさしあげられたらと思うひとりです、エレミヤ。また、今のところ、それができるのは私ひとりではないかと思ってもいます。苦痛から解《と》き放たれた、やすらかな眠《ねむ》りを。死という名の永遠《えいえん》の休息を。しかし」
「そうね。そんなことはできない。少なくとも、今はまだ」
悲しくエレミヤはほほえんだ。
「跡継《あとつ》ぎもなく王が亡《な》くなられれば、それこそ、〈逆位《リバース》〉たちの思うつぼだもの。まだ表だっては動いていないにしろ、彼らは王の死を待ちのぞんでいるに違いないわ。
オレアンダの血が玉座《ぎょくざ》になければ、この世界の脆弱《ぜいじゃく》な均衡《きんこう》は、たちまちのうちに砕《くだ》け散ってしまう。フロワサール王は最後のとりで。なんとしてもお護《まも》りしなければ」
頭《かぶり》を振って、エレミヤは寝椅子にかがみこむ青年の頬をそっと撫《な》でた。
「あなただって、王のことが心配でないわけがないのに。ごめんなさい、ユーヴァイル。考えもせずに、大声を出したりして」
「気にせずに、エレミヤ。慣《な》れていますから」
ユーヴァイルは彼女にかるく接吻《せっぷん》した。首をすくめてエレミヤは起きなおり、肩のまわりにショールをかきよせた。美しい青年の唇《くちびる》の青ざめた冷たさが、奇妙《きみょう》な戦慄《せんりつ》を身内に呼びおこしでもしたようだった。
〈月の鎌〉はつと身体を起こし、扉《とびら》のほうへむかった。
「どこへ?」
「アドナイのところへ。〈樹木《じゅもく》〉も、次の手だてを考えなくてはならないようですから。メイゼム・スリスのところへもゆかなければ、あとでうるさいでしょうからね。厨房《ちゅうぼう》から何かもらってきてあげましょうか、エレミヤ。ひどい顔色ですよ」
「それは――ええ、ありがとう。お願いするわ」
「わかりました。では」
一礼して、ユーヴァイルは背を向けた。
「ねえ、あなたは〈異言《バルバロイ》〉の地平を知っているのね、ユーヴァイル」
出ていこうとする彼の後ろからエレミヤは問いかけた。
「そこはどんなところなの? 暗いところ? 冷たいところ? 〈詞《ことば》〉のない場所。そこはいったい、どんな世界なのかしら」
「何もないところですよ、エレミヤ」
扉に手をかけたまま、振り向かずにユーヴァイルは呟《つぶや》いた。
「暗くはない。光も、闇さえも存在《そんざい》しないのです、あそこには。ただ、嘆《なげ》きだけが吹いている。存在を望みながら、なりきれないものの嘆きだけが渦《うず》をまき、時の果《は》てまで、つづいている。色のない空間を。どこまでも」
失礼します、と言葉を残してユーヴァイルは扉を閉《し》めた。取り残されたエレミヤは、ますます強さを増《ま》した室内の冷気にひとり、身を縮《ちぢ》めて肩を抱《だ》いた。
青い人影と、もやの中の野原。
アトリは夢《ゆめ》を見ていた。夢だと自覚《じかく》しているのに、夢から抜けられずにいる、これは、そんなたぐいのものだった。あらゆる感覚がぼんやりとかすんでいるが、夢の視覚《しかく》に映《うつ》る人影は痛いほどにはっきりしている。
何のつもりなの、とアトリは相手に問いかけた。
あなたはわたしをつかまえたじゃない。これで満足なんでしょう。だったらもう用はないはずよ。わたしを放して。自由にしてちょうだい。
それでも夢は続いた。昏《くら》い夢だった。
自分は空中に女神《めがみ》のように立ち、両手いっぱいにつかんだ花びらを振《ふ》りまいている。
血色の花びらは空中で燃え上がり、さまざまな異形《いぎょう》の蝶《ちょう》となって黒い野原に舞《ま》い落ちていく。野原はまるで黒曜石《こくようせき》の鱗《うろこ》に覆《おお》われた魚の腹《はら》のように見えるが、よく見ればその黒光りする鱗は、一枚一枚が兜《かぶと》をつけた人の頭なのだ。
無音の大気の中で、兜の大群《たいぐん》は押し合いへし合いしながら蠕動《ぜんどう》をくり返している。蝶たちはちらちらと翅《はね》を光らせながら兜にとまって、愛撫《あいぶ》するように身をかがめる。すると兜はくしゃりと潰《つぶ》れ、あとにはからっぽの闇だけが残る。嬉《うれ》しくなって彼女は笑う。
夜の海のように波打つ人また人の顔の中に、たった一つ白いものがある。だれかが顔を上げて彼女を見つめている。その視線が彼女を焼き、彼女は叫び声をあげて身をよじる。みるみる身体が縮み、感覚が遠ざかる。
(ゆるして)
そしていつか、青いもやの中を歩いている。一人。どこからともわからぬ光に照らされた森の中、どこまでも。そよそよと梢《こずえ》をわたる風の音、あえかに声がたちまじる。
(ゆるして。ゆるして)
何をゆるすというの。誰《だれ》をゆるすというの。
だが応《こた》えは返らず、思いは乱れ髪のように身内をゆき迷《まよ》う。地を踏《ふ》むはずの足は感じられず、ただ滂沱《ぼうだ》とつたう涙だけが頬に燃える。
ああ、そういえば、わたしには身体《からだ》がないのだったと思いかえす。ならばなぜ、こんなにも、胸がつめたいのだろう。ひゅうひゅうと吹く風は存在しない身体の隅々《すみずみ》にまでしみわたり、わずかな温《ぬく》みを涙だけ残してすべて奪《うば》っていってしまう。希薄《きはく》な想《おも》いをもやの中へとさらに薄めていってしまう。
それでも忘《わす》れてはいけないものがある。必死でその心にしがみつく。今となってはそれだけが彼女の証《あかし》だった。出口の見えない青い霧にまぎれ、ひたすら彼女はさまよい歩く。
(どこ。どこ、どこ、どこなの……?)
捜《さが》していたのは何だったろう。自分の身体だろうか、抱《だ》きしめたはずのいとしい子供《こども》だろうか、それとも朝日をあびて輝《かがや》いていた、金色の美しい樹木だったろうか。あの朝、世界はすべて黄金《おうごん》であり、よろこびと罪《つみ》は二つながらに手の中にあった。時間はしたたる蜜《みつ》よりも甘《あま》く濃《こ》く、恐怖《きょうふ》ゆえに、幸福はするどい剣のように身を刺《さ》しつらぬいた。
だが、ここには何もない。風と、霧と、浮き上がる森の幻影《げんえい》があるばかり。それは、あの朝の光が残した残像《ざんぞう》だったろうか。強すぎる輝きがいつまでもまぶたの後ろに焼きついて涙を流させるように。涙はさらに熱く、音もなく、流れ落ちていく。
(ゆるして)
足もとはやわらかく、なめらかな白い泥《どろ》のように変わり彼女を呑《の》みこんでいく。
ゆるく起伏《きふく》する森と丘はふくよかな女の身体であり、彼女はそこに触《ふ》れる手のひらだった。生命《いのち》のやどりにかわされる手と手、男が愛する女の身に触れる手、子を宿した女が豊かな自らのみのりに対して、誇《ほこ》らしげに触れてほほえむ手のひら。
それは愛を伝える手、たましいを吹き込み、人を人として生み出すための温もりの絆《きずな》だ。だが、その温みは花開かぬまま石のように沈み、彼女はまっ赤な肉の牢獄《ろうごく》に丸くなって閉じこめられている自分を見いだす。生まれなかった赤子の怒《いか》りは、母の胎《はら》をいちめん燃えさかる業火《ごうか》の野に変える。
そうだ、わたしは、あの子を捜《さが》さなくては。
紅蓮《ぐれん》の炎《ほのお》の中に立ち、彼女は思う。愛も、いつくしみも知らず、ただ憤怒《ふんぬ》と憎悪《ぞうお》の化身《けしん》としてだけこの世に生み出してしまった、かたちのないわが子。
あれは、おろかだったわたし自身の似姿《にすがた》。わたしは、わたしの選んだ道に、真正面から立ち向かうことができなかった。愛を信じることができなかった自分自身から目をそらし、逃げ道としてあらゆるものを呪《のろ》うことを選んだ。
最後の最後でわたしは怯《おび》え、怒りしか知らない力の塊《かたまり》の陰《かげ》に隠《かく》れて、目と耳を閉じてしまった。見えず、聞こえず、語られぬ子。純粋《じゅんすい》ゆえに怖《おそ》ろしく、無垢《むく》ゆえに容赦《ようしゃ》ない、生まれなかった子どもの、悲しい怒りのかげに。
だからこそ彼女は、血から血へ、生命から生命へと、渡《わた》り渡ってはさまよってきたのだった。〈骨牌〉を、かつては自分の肉体であった力の扉を操《あやつ》るものたちの、はるかに薄められた血脈《けつみゃく》をたどり。
めぐり続ける時の環《わ》がいっとき合わさり、むごく断《た》たれた物語の続きが語られるべき時が来るまで肉体を奪《うば》われた希薄《きはく》な想いの影となってもなおさまよい続けねばならない、あわれなわが子をこの手に抱《だ》き取るまで。その怒りを解《と》きほぐすまで。過《あやま》ちから生まれたおろかな自分の分身を、鎮《しず》め、眠らせるまで。
(どこ?)
(どこ、どこ、どこ? どこにいるの……?)
――……おかあさん……?
気がつくと、天井《てんじょう》を見つめていた。
しばらくは頭が混乱《こんらん》して、動くことができなかった。
(ここはどこ?)
少なくとも、自分の家ではない。天井板は低くて、ひどく汚《よご》れているし、なんだか生臭《なまぐさ》い。うす暗い中、灰色の蜘蛛《くも》の巣《す》がすみに光っている。
寝台にあたっていた部分が痛んだ。さっきから聞こえていた人の話し声は、今は、天井の上からするのがわかっている――夢の中で聞こえていたのはこれだったのだ。
「目が覚《さ》めたかい。ありがたい」
すぐそばで、だれかがほっとしたような声をたてた。
ぎくりとして首を回すと、そこには両手を後ろに回して縛《しば》られた男が、情《なさ》けない顔をして床《ゆか》に座《すわ》りこんでいる。浅黒い、調子のよさそうなその顔は。
「あなた、あの男ね。わたしを襲った」
あぜんとアトリは言った。
「どうして、あなたがわたしといっしょにいるの? それに、ここはどこ?」
「そんなことは、おれたちをつかまえたあの若僧《わかぞう》に訊《き》いてくれ」
不機嫌《ふきげん》そうに吐《は》きすてて、男は身体を揺《ゆ》すった。
「おい、それより、この縄《なわ》をほどいてくれないか。あいつめ、ちょっと逃げようとしたくらいで、俺を縛ってここへ放りこみやがったんだ。若いくせに、おっそろしい力だ、くそ。痛てて、頼《たの》むよ、お嬢《じょう》ちゃん」
「待って。若僧って誰よ? あなた、いったい誰なの? わたし、どれくらい気を失ってたの? 今はいつ?」
だんだん頭がはっきりしてくると、前後にあったことがきちんと脈絡《みゃくらく》を持って思い出せるようになった。〈斥候館《せっこうかん》〉のこと。にせの馬車のこと。黒い男の襲撃《しゅうげき》。黒髪《くろかみ》の青年、そして、異様《いよう》な怪物《かいぶつ》、それから。
「若僧って誰、だと? おいおい、ぼんやりしたことを言うなよ。あんたがロナーって呼んでた、黒髪のあいつに決まってるじゃないか」
あきれたように男は言った。
「ああそうか、ここがどこかって訊《き》いてたな。ここはハイ・キレセスを出てヘクラ火山の麓《ふもと》まで行く、採石交易船《さいせきこうえきせん》の中だ。あんたはまるまる三日も寝てたんだぜ、死んだみたいに。なあ、そんなことより早く――おい?」
アトリは寝台からすべりおり、低い戸口に走り寄った。
黒髪の青年。それから、あの〈骨牌《かるた》〉。
寝かされていたのは、板を縄《なわ》で壁からつるした形の折り畳《たた》み簡易《かんい》寝台だった。室内はごく狭《せま》く、湿気《しっけ》がこもっており、すすけたランプがひとつさがっているきり。細長い床《ゆか》からはいくらか高い位置にある扉に向けて、何段かの階段がついている。
アトリは扉を引きあけると、外へ飛びだした。
視線《しせん》が集中した。半裸《はんら》で笑いあっていた水夫たちが口をつぐみ、突然《とつぜん》飛びだしてきたアトリに目を向ける。それにも気づかずアトリは船端《ふなばた》に駆《か》けより、手をついて、下を流れていく大河と岸辺の風景を眺《なが》めた。
景色にまったく見覚えがなかった。ハイ・キレセスの街の近辺にたくさんあるはずの青いアシがまったく見られない。後ろでこそこそ話している水夫たちの言葉にも、聞きなれないなまりが交《ま》じっている。
(どこなの、ここは)
アトリは混乱《こんらん》して後ろを向き、そこで初めて水夫たちの好奇《こうき》の視線に出会った。
反射《はんしゃ》的に後ずさりしたとたん、野卑《やひ》な歓声《かんせい》があがった。口笛《くちぶえ》を吹いたり手を振ったり、好色な目つきでなめるようにアトリを観察しているものもいる。
頬《ほお》がかっと熱くなった。何か言おうと思うのだが、口がこわばって開かない。
「誰《だれ》が外へ出ていいと言った」
後ろから腕《うで》をつかまれた。
思わず叫んで振り払いそうになったが、二の腕に食いこんだ指の痛みに声を失った。
進み出たのはあの黒髪の青年。ロナーだった。アトリを手荒《てあら》く自分のほうへ引き寄せながら、水夫たちにむかって低い声で言った。
「すまない。眠っていると思って目を離していたら、勝手に出てしまった」
「船室から出さないと言ったじゃないか。騒《さわ》ぎを起こされたくないね」
船長らしい、ひときわがっしりした男がいまいましげに唇《くちびる》をつき出した。それでいて、酒で白目が赤くなった目は物欲《ものほ》しげにアトリの胸のあたりをさまよっている。
「悪かった。今後は気をつけるし、きちんと言い聞かせておく。来るんだ、さあ」
一瞬《いっしゅん》さからおうかと思ったが、このまま水夫たちの視線にさらされているのはもっといやだった。仕方なく、おとなしくロナーに従《したが》ってもとの船室に帰った。
男はアトリが戻ってきたのを見て目を輝かせたが、ロナーがいっしょなのを知るとたちまち仏頂面《ぶっちょうづら》になって、ぶすっと壁のほうをむいてしまった。アトリは再《ふたた》び寝台に座り、敏捷《びんしょう》に動くロナーを目で追った。
「ロナー、これはどういうことなの?」
きつい声でアトリは問いただした。
「どうしてわたしはこんな船に乗せられてるの? わたしはちゃんとしたハイ・キレセスの市民だし、組合にも登録をすませてあるわ。そっちの、女を襲った名無しのなんとかさんは別にしても」
男は唸《うな》ったが、口をはさむのは控《ひか》えた。
「あなたのやったことは立派《りっぱ》な誘拐《ゆうかい》よ。犯罪《はんざい》だわ、ロナー。今すぐわたしをハイ・キレセスへ帰して。そうすれば、あのえたいのしれない怪物どもから助けてくれたことに免《めん》じて、訴《うった》えないでおいてあげます。けっして恩義《おんぎ》を感じてないわけじゃないことくらいは、わかっていただきたいわね」
言いたいことはほかにもあるはずだった。彼が追われていた理由は何なのか、〈異言《バルバロイ》〉とは何か、あの怪物たちはどういう生き物なのか、それに、そう、あの白い〈骨牌〉はいったいどういう力を持っていたのか。
だがそういったことを追及するには疲《つか》れすぎていた。事態にまつわりつく、異様《いよう》な匂《にお》いが恐ろしかった。謎《なぞ》の男や、怪物や、光る白い〈骨牌〉を受け入れるより、すべてをごく身近な形にするほうがはるかに対処《たいしょ》しやすい。
「おまえは〈十三番目〉なんだ」
謎めいた言葉を、ロナーは吐《は》いた。
「いくら融合《ゆうごう》が偶然《ぐうぜん》だったとはいえ、まだ調整もされていないような、そんな危険な人間を放ってなどおけるか。
とにかくおまえには、〈祖《そ》なる木の寺院〉へ来てもらわねばならない。ハイ・キレセスには帰らない。言うことはそれだけだ」
「危険? 危険ってどういうことよ!」
憤然《ふんぜん》とアトリは身を乗りだした。
「あなたのほうがよっぽど危険よ。わたしの骨牌札を持っていってしまったり、わたしの友だちに暴言《ぼうげん》を吐いたり、こんな誘拐《ゆうかい》を働いたり。それに、〈十三番目〉って何のことなの。ひょっとして、あの白い〈骨牌〉のこと? どの〈詞《ことば》〉のだったか忘れてしまったけど、でも、〈骨牌〉は十二枚しかないはずよ、なのに十三なんて」
いきなり、ロナーの手がアトリの喉《のど》に伸《の》びた。
つかみはしなかったが、もう少しでそうするところだった。アトリはよろめき、壁にぶつかった。細い喉に触《ふ》れる寸前《すんぜん》で、長い指は宙《ちゅう》をつかみ、苦悶《くもん》に耐《た》えるかのようにかぎ形に曲がった。荒い呼吸がアトリの唇をもれた。
「黙《だま》れ」
瞳《ひとみ》が暗く燃えていた。押し殺した声が蛇《へび》のようにしゅうしゅう言った。
「それ以上ごちゃごちゃ言ってみろ、ただではすまさん。自分がどんなことをしたかもわかっていないくせに。こうしている間にもしあの人が死んだら、俺《おれ》はおまえを許《ゆる》さない、いくら――」
その先をつづけることなく、ロナーはアトリを突き飛ばすと、荒々《あらあら》しく扉をあけて出ていった。扉の音が、青年の怒りとともに空中に漂《ただよ》った。
床《ゆか》にへたりこみ、肩《かた》を大きく上下させるアトリに、男が心配そうに首を伸《の》ばしてきた。
「おい、大丈夫《だいじょうぶ》か。若い娘に、ひでえことする奴《やつ》だな」
「彼」
床に手をついたまま、アトリはぼんやり閉《し》まった扉《とびら》を見ていた。
「彼、怒《おこ》ってたわ。ものすごく怒ってた」
「そうだろうな。見てたよ」
ぶるっと身をふるわせ、
「まるで手負いの狼《おおかみ》みたいだったじゃないか。やれやれ、〈樹木〉よ、母なる〈環《わ》〉の力よ、できうるならばご加護《かご》をだ! あんな悪漢《あっかん》にとらわれの身じゃあ、〈火炎竜《かえんりゅう》〉ダーマット様の命運もつきたってもんだ。畜生《ちくしょう》、〈骨牌《かるた》〉さえありゃあなあ。でなきゃ、この縄《なわ》さえ外れりゃあ、ちっとは手の打ちようのあるかもしれねえのに」
男はわめきはじめ、苛《いら》ついた水夫に外から壁越《かべご》しにけとばされてもいっかなやめようとはしなかった。自分の不運を嘆《なげ》き、こんな苦境《くきょう》に陥《おちい》らせることになった運命をのろい、〈樹木〉と〈円環〉に救いを求めて、ロナーに決闘《けっとう》をいどむと息巻《いきま》いたがだれも応《こた》える者はなく、アトリでさえもほとんど彼の声は耳に入っていなかった。
自分の首をあやうく絞《し》めそうになった青年の顔が目に焼きついている。だがロナーは、アトリに対して怒っていたのではない。使命を果たせなかった自分に憤《いきどお》り、それによって引き起こされるかもしれない結果を怖れていたのだ。
あれほどまでに強烈な絶望と、悲哀《ひあい》のこもった瞋恚《しんい》をアトリははじめて見た。
(わたし、何をしたの?)
「疫病神《やくびょうがみ》め。臭《くさ》い牡山羊《おすやぎ》の息子《むすこ》め。くそ、くそ、くそ」
男はまだぶつぶつ言っている。
「やっぱりあんな奴《やつ》の話なんか聞くべきじゃなかったんだ。呪《のろ》われちまえ、畜生《ちくしょう》、何がほんの小娘だから大丈夫、だ。なんぼ十六、七でも、ジェルシダの血をひく娘に手を出して、無事でいられるなんて思うのが間違《まちが》いだったんだ」
「ちょっと待って」
その中の一言を、アトリは鋭《するど》く聞きとがめた。完全に自分の世界に入り込んでいた男は、しまった、というように素早《すばや》く口を閉じたが、アトリはもう彼のすぐそばに這《は》いよって、強い凝視《ぎょうし》を浴《あ》びせていた。
「ジェルシダの血を引く娘。それ、わたしのことなの?」
相手は必死に視線をそらそうとしている。
「俺はなんにも言ってないよ。聞き違いじゃないのかい」
「うそ。言ったじゃない、ジェルシダ、って。それ、わたしに何か関係あるの?」
相手の肩に手をかけて、乱暴《らんぼう》にゆさぶった。
「言いなさい。あなた、何のためにわたしに近づいたの? 何を知っているの?」
「……しょうがねえなあ」
手を動かせたら、頭をかきむしりたかったのに違いなかった。男は肩をもぞもぞと動かし、手を縛《しば》られていることを思い出して顔をしかめたが、とうとう腹《はら》をすえたようすで、どっかりとアトリの前にあぐらをかいた。
「ま、今さら隠してもしょうがないから、言うよ。お察《さっ》しの通り、おれはただ通りすがりでハイ・キレセスにいたわけじゃない」
予想はしていたことだったが、アトリは小さく息を呑《の》んだ。男は頷《うなず》いた。
「俺はダーマット・オディナと呼ばれてる。言っておくが字《あざな》じゃない、真名《まな》だ。今さら隠してもしょうがないしな。山岳地方の生まれで、正式に名を許《ゆる》された骨牌使いだが、どっちかというと剣《けん》や手足を使った稼《かせ》ぎのほうが得意だ。
ある人間に雇《やと》われて、あんたを連れにハイ・キレセスに来た。おれは、おれたちは、あんたを捜《さが》していたんだよ、小夜啼鳥《ナイチンゲール》のベセスダの娘、アトリ」
「わたしを?」
アトリは呆然《ぼうぜん》とした。
「でも、なぜ?」
「ほんとうはあんたのおっ母《か》さんが目当てだったんだが、死んだって話を聞いてな」
ふてくされた顔で、ダーマットと名乗る男は唇を突きだす。確かに骨牌使いよりは、酒場にたむろする世慣《よな》れたばくち打ちに似合いの風貌《ふうぼう》だった。しかし浅黒い顔の表情はあんがいさばさばしていて、アトリは何度も、この相手に対しては警戒心《けいかいしん》を持つべきだということを自分に思い出させねばならなかった。
「娘のあんたに標的《ひょうてき》を変えたんだ。ベセスダの娘である上に、なんとジェルシダの血が入ってるって話を聞いて舞《ま》いあがっちまったしな、こっちも。〈斥候館《せっこうかん》〉でのことは、あんたの力を測《はか》るための腕試《うでだめ》しさ。
あんたは見事に力を証明《しょうめい》した。それで帰り道に特別|製《せい》の馬車を仕立てて、ちょっくらいっしょに来てもらおうと思ったんだが、やっぱりジェルシダの血をもつ娘だよ、あんた。とってもおれなんかの歯の立つ相手じゃなかった」
「だから、そのジェルシダって誰なの? あるいは、何? 聞いてると、それがわたしの狙《ねら》われた最大の理由のように思えるんだけど」
「知らないのか?」
ダーマットの目が大きくなった。それからははあ、というような、小馬鹿《こばか》にしたような笑みが唇のはしに浮かんだ。
「そうか、あんたは〈木の寺院〉に行ったことがなかったんだっけな。いいか、ジェルシダっていうのはな、滅《ほろ》びた旧ハイランドにおいて、支配を分け合っていた三つの公家《こうけ》のうちのひとつだ。いわば、王族の一統《いっとう》だな」
「王族?」
用心深くアトリは言った。
「冗談《じょうだん》言わないで。わたしはハイ・キレセスのアトリよ。小夜啼鳥《ナイチンゲール》のベセスダの娘よ。王族なんて知らないわ。だいたい、ハイ・キレセスには、ずっと昔から王や貴族《きぞく》なんてものはいないのに」
「昔って言ってもいろいろあるさ。もっとはるかに昔、旧ハイランドが大陸のほぼ全土に版図《はんと》を広げていたころならどうだい。〈堕《お》ちたる骨牌使い〉ベルシャザルの話は知ってるんだろう?」
「馬鹿にしてるの? それくらい知ってるわよ。有名な話だもの」
怒ってアトリは言い返した。
「ずっと昔、この大地は〈詞《ことば》〉を操《あやつ》る力にすぐれた〈骨牌《かるた》〉の王国、ハイランドによって治《おさ》められていたんでしょ。ところがある時、一人の骨牌使いが、仕えた姫に横恋慕《よこれんぼ》して、彼女を奪おうと力を使った。おかげで国は、都ごと地の底に沈《しず》んでしまった。
その骨牌使いベルシャザルは〈堕ちたる骨牌使い〉と呼ばれ、都が砕《くだ》けるときいっしょに姿を消してしまった。〈詞〉を支えていた王国はちりぢりになり、力も、技術も散逸《さんいつ》してしまった。それで誰も、昔のハイランドの時代ほど〈詞〉を自由には扱えなくなった。誰だって知ってる話だわ」
「そう、それだけ知ってりゃ十分だ。その横恋慕された姫の属《ぞく》する血筋《ちすじ》がジェルシダ家、あんたの連《つら》なる家系だよ」
ダーマットはかまわずに続ける。
「残りの二つはアシェンデンとオレアンダといい、このうち、オレアンダ公家が現在のハイランドの支配者となっている。そしてアシェンデン公家は、〈天の伶人《うたびと》〉の末裔《まつえい》たちが高地《ハイランド》に引きあげたあとも中原《ちゅうげん》に残って国を建て、それが、新ハイランドを宗主《そうしゅ》にいただく、現在のアシェンデン大公国となって続いているというわけだ。
ジェルシダは滅《ほろ》びた血筋なんだよ。〈堕ちたる骨牌使い〉のために旧ハイランドが地の底に沈んでから、三つの公家はそれぞれの道を選んで分かれた。
主に軍事を受け持っていたアシェンデンはあくまで中原に残って民衆《みんしゅう》を支配することを望み、政治をつかさどっていたオレアンダは争《あらそ》いを嫌《きら》って北の高地に新たな国を作り、主に祀事《まつりごと》と〈骨牌〉を扱うことを仕事にしていたジェルシダは」
声もないアトリを横目で眺《なが》めた。
「そのどちらをも好まず、故郷《こきょう》を離れて人々の間にたちまじることを選んだ。今じゃすっかり混血《こんけつ》が進んで、正統《せいとう》なんぞあとかたもないが、それでも血の濃《こ》い薄《うす》いはある。
各地にある〈木の寺院〉の多くは彼らジェルシダの者によって創設《そうせつ》されたものだし、そもそも、〈骨牌〉の扱い方を中原に広めたのも、彼らだとさえいわれている。〈寺院〉じゃ、入りたての新入生が最初の授業《じゅぎょう》で習う話だ」
「わたしの父さんが、そのジェルシダ家のひとだっていうの?」
低いアトリの問いに、ダーマットは自慢《じまん》げに歯を見せた。
「正確に言えば、両親ともに、だ。ベセスダ本人も知らんことだろうが、彼女にもジェルシダの血は流れていたらしいんだ。ほんのちょっぴりだがな。
そしてその血が、彼女を王都の〈木の寺院〉において最高の力を誇《ほこ》る骨牌使いにした。王の〈骨牌〉の一員として、合《ゴウ》の試練《しれん》を受ける直前まで行っていたらしい。
ところが、その前日になって、何者かが眠っていた彼女の寝室に入り込み、彼女を犯《おか》して逃げた。運悪く孕《はら》んでしまったベセスダは周囲の制止を振りきって〈寺院〉を去《さ》り、どこへともなく身を隠した」
全身が冷たくなる想《おも》いがした。
「犯したって、誰が、誰がそんなことしたの? 誰が母さんに、そんなことを!」
ツィーカ・フローリスの言葉は本当だったのだ。胸《むな》ぐらをつかまんばかりのアトリの剣幕《けんまく》に、ダーマットはたじたじと後ろへずりさがった。
「俺が知るかよ。だいたいその時も、犯人が捕《つか》まらなかったからこそあんたの母さんは〈寺院〉を出奔《しゅっぽん》することになったんじゃないのか?」
「だって」
胸を押さえてアトリはうなだれた。身体《からだ》がふるえる。その男が自分という娘を世に産み出させ、有望な骨牌使いだった母を、市井《しせい》の占《うらな》い師《し》におとしめたのだ。
「そしてあんたの父親は、純血《じゅんけつ》ってわけじゃないが、奇跡《きせき》的にも四分の一くらいは伶人《うたびと》の民の血を保《たも》っている、立派《りっぱ》なジェルシダだったらしい」
ダーマットはやれやれというように息をついてから話を続けた。
「らしい、っていうのは、あんたを捜していた人間たちにもその正体をつかまえることができなかったからなんだが。とにかく、かなり血の濃いひとりだったようだ。
そのふたりから生まれたあんたはおそらく、今見つかっている限りではもっとも濃い血を持つジェルシダの者だろう。あんたを見つけて、奴ら、どんなに喜んだか。ま、おれとしては約束通りの報酬《ほうしゅう》さえもらえりゃ何でもよかったんだが」
「奴ら、って言ったわね」
細い震え声で、ようやくアトリは言った。
「あなたを雇《やと》ってわたしにけしかけたのは、その人たちのしわざなんだわ」
「ああ、そうさ。〈館〉の中庭で、あんたに話しかけた商人を覚えていないかい。モリオン・イングローヴって名乗ってた」
もはやダーマットは、隠し事をする気はなくなったらしい。もちろん、アトリが覚えていないはずがない。その男に部屋に招《まね》かれかけたのが発端《ほったん》で、ロナーの占いをすることになり、事態がここまで転がってきたのだ。
「もうわかってるだろうが、あいつはそんな名前じゃない。おれが上流の町の居酒屋《いざかや》で会ったときには、モランと名乗ってたよ。ある人物に依頼《いらい》されて、強力な骨牌使いを捜《さが》しているんだって話でな。おれにも一口のらないかと言ってきたんだ。ちょうど宿代も底をついてきてたし、悪くないと思ったんで、奴について船に乗り込んだんだが」
河口のハイ・キレセスについたとき、ここにジェルシダの血を引く骨牌使いがいると、モラン一行の興奮《こうふん》はかなりのものだったようだ。ベセスダは死んだと聞いてその落胆《らくたん》もまた激しかったが、彼女に娘がいると知って、期待は以前の倍に再燃《さいねん》したという。
「さっきからジェルシダ、ジェルシダって言ってるけど、ジェルシダの血ってそんなにすごいもの? 確かに、高地《ハイランド》人は今の人間より強い力を〈骨牌〉から出せた、とは聞いてるけど。でも、強い骨牌使いは世の中にいくらでもいるわ」
「何を寝ぼけたことを」
あきれたようにダーマットは言った。
「そもそも、人間に〈骨牌〉を伝えたのがジェルシダなんだぜ。弱いわけがなかろうが。こいつは伝説だが、ひとりのジェルシダ家の純血に対して、普通人の〈木の寺院〉の高級|導師《どうし》級が十人集まって、ようやくつり合うってくらいらしい。
しかもそれは下級の奴の話で、当主やその直系くらいになると、普通人の五十人、百人じゃきかん力を操《あやつ》ることができたそうだ。しかも特に、当主の嫡子《ちゃくし》となるべき娘となると、ほかの誰にも見られない、特別な能力を持っていたとか」
「それは、いったいどういう力だったの?」
おそるおそる、アトリは訊《たず》ねた。ダーマットはふんと鼻息を出し、
「おれは知らん。知るわけがなかろうが。旧ハイランドが栄えていたのは、もう一千年も昔のことなんだぞ。
ただ、〈堕《お》ちたる骨牌使い〉ベルシャザルに恋着《れんちゃく》された公女ファーハ・ナ・ムールは、まさにその力の持ち主だったらしいな。どんなことがあったのかはわからんが、都が沈《しず》んでしまったのもベルシャザルの力だけじゃなく、公女の力がそこに加わったせいじゃないかという説もあるくらいだ」
アトリはふらついて壁《かべ》で頭を支《ささ》えた。ダーマットが身を乗りだす。
「おい、どうした。船酔《ふなよ》いか」
「いいの。放っといて」
かぼそく答え、目を閉じる。船体がぐるぐる回っているように感じられた。もしかしたら、ほんとうに船酔いしているのかしら。そうだといいけど。それなら少なくとも、考えることから逃げていられる。
「その、モランっていう男は、なんのために強い骨牌使いを集めたりしているの? 彼の主人って誰なのかしら。どこから来たの、彼は。
あんなだまし討《う》ちみたいな真似《まね》をしてまで連れてゆこうとするなんて、普通じゃないわ。あなた、変には思わなかったの、ダーマット?」
「まあ、ちょっとはな」
歯を見せて、いかにもしたたかそうな笑顔になった。
「しかし払いはよかったし、食い物も宿も上等だったし、やばくなったら逃げるつもりでいつでも荷物はまとめてあったしな。いや、後悔《こうかい》はしてるんだ。こんな羽目に陥《おちい》るんだったら、せめて奴の財布《さいふ》の一つや二つかっぱらってくりゃよかった」
「あなたととても気の合いそうな人を知ってるわ、わたし」
陰気《いんき》に呟《つぶや》いて、アトリはまた寝台に身体を沈めた。頭がずきずきする。
「さっきの質問だが、推測《すいそく》できることが一つある。モランの後ろには、東方の首長|諸国《しょこく》がついてるかもしれんぜ」
横になろうと枕《まくら》を引きよせたアトリに、ダーマットが突然《とつぜん》言った。
「どうしてそう思うの。東方って何?」
ダーマットは首を振って呻《うめ》いた。
「おいおい、ほんとに何も知らんのだな。北のハイランドから山脈《さんみゃく》を隔《へだ》ててずっと東南へ下った、森林地帯を支配する、狩猟《しゅりょう》民族の建てた国々だ。部族単位で集落をつくって、獣《けもの》を追いながら移動《いどう》を繰《く》り返しているから、きまった国境《こっきょう》はないがな。先祖《せんぞ》と精霊《せいれい》を信仰《しんこう》しているんで、山のこっち側の国とは昔っから折り合いが悪いが」
「ああ。野蛮人《やばんじん》の国ね。〈詞《ことば》〉を知らない、〈異言《バルバロイ》〉のひとたちの国」
「そりゃあ言いすぎだ。俺は何年かあっちで過ごしたこともあるが、奴らは確かに〈詞〉や骨牌あやつりを知らない。しかし、それなりの文化を持ってもいる。ま、やたらと戦い好きで、欲《よく》が深いが」
「それで、その東の国がどうしたの? そういえば、なにかぶっそうなことになってるって話、聞いたような気もする」
「そんな調子じゃ、どんなことが起こってるかも知らんらしいな。あっちじゃひどい寒さが続いて、ろくに獲物《えもの》がないんだそうだ。どういう関係があるのか知らんが、モランは俺がいっしょにいる間にも、何度か東へ向けて食料を送ったり、金を送ったりしていた。
まあ、商人だってことになってたし、あるいはなんてことないのかもしれないが、俺を雇《やと》ったことといい、あんたのことといい、妙《みょう》だ。少なくとも西がわの人間は、東方の部族なんてのはみんな野蛮人だと思ってるからな。あんたがいい例だ」
「ずいぶん詳《くわ》しいのね。流れ者にしては」
「都市にも住まない、組合の保護《ほご》下にも入らない流れ者としちゃあ、いつでも耳をすましていて悪いことはないんでね」
皮肉《ひにく》をこめたアトリの言葉に、ダーマットは大笑いした。笑いやめるとふと真顔に戻って、アトリの顔をのぞき込んできた。
「どっちにしろ、モランはあんたをそう簡単《かんたん》にあきらめるはずはないと思うよ。一時でも、奴らといっしょに行動していた人間として言わせてもらうが」
すてばちに笑ってみせた。
「それにあんたとの勝負にも、拉致《らち》にも、ことごとくしくじったおれを見|逃《のが》してくれるはずがないしな。これから先どうなるにしろ、おれたちは、しばらく身辺に気をつけていたほうがいいらしいぜ、お嬢《じょう》ちゃん」
結局、アトリはそれからさらに三日間寝台を離れることができなかった。
ハイ・キレセスを出たことなど、一度ツィーカ・フローリスにつきあって南方の温泉地へ保養《ほよう》に行ったときくらいだ。船に乗ったことにいたっては、思い出すのも難《むずか》しいはるか昔のことにとどまっている。
船酔いはしつこくアトリを苦しめ、やっと四日目の朝、ふらふらしながら頭を寝台から上げることができたときには別人のようにげっそりしていた。無理もない、それまでは、ほとんど水しかのどをとおらなかったのだ。
「まったくこれだから、陸《おか》もんの娘っこはな」
医術《いじゅつ》の心得《こころえ》があるという水夫がぶつぶつ言った。アトリのまぶたを、まるで馬を扱《あつか》うように手荒《てあら》くひっくり返して、
「どうせ元気になったら、やれあれが欲《ほ》しい、これが食いたいとうるさくぬかしやがるんだろう。まったく船長もやっかいな荷をかかえ込んだもんだ。おとなしくしていやがらねえと、尻《けつ》っぺたに一発くらわして水ん中へ蹴《け》りこんでくれるぞ、尻軽《しりがる》女が」
「わかったわよ」
投げやりにアトリは答えた。どうやら男と駆《か》け落ちして、船に逃げこんだ浮気娘《うわきむすめ》だと思われているらしいが、否定《ひてい》するのもめんどうだった。
「ねえ、わたしたち、どこへ行くの? この船はどこ行き?」
「そんなこたあ、あんたのあの色男に教えてもらやあいいだろが」
吐《は》き捨《す》てるように答えたが、さすがに無愛想《ぶあいそう》だと思い直したのか、
「とりあえず、約束としちゃあセルセタまで乗っけていくことになっとるよ。――なに、知らん? そっからまた新しい船に乗り換《か》えるつもりじゃねえのかい。せいぜい女も乗り換える気を起こされねえように、男にゃつくしておくこった」
船酔いからさめてみると、船の生活は単調なものだった。ほとんど何一つ起こることもなく、天井《てんじょう》で揺《ゆ》れる洋燈《ランプ》を眺《なが》めているうちに日が暮《く》れる。
部屋の扉《とびら》に鍵《かぎ》はかかっていなかったが、船上で目覚めた日、ぶつかった水夫たちの好色そうな視線《しせん》はアトリの肌《はだ》にはっきりと残っていた。また、あれに出会うのかと思うと、外へ散歩に行く勇気も失《う》せてしまう。
ロナーはあれから、一度も顔を見せない。
〈骨牌《かるた》〉、せめて力のない練習用の骨牌があれば、ひとり占いでもして気をまぎらわせられるのに。しかしもちろん、骨牌使いであるアトリに〈骨牌〉など、誘拐者《ゆうかいしゃ》が持たせておくわけはなかった。
食事を運んでくるのは、この船の下働きらしい小ずるい目つきをした少年だった。ひどく意地汚《いじきたな》くて、ぐすぐずしていると食物はみんな彼の口へ入ってしまう。
業《ごう》を煮《に》やしたアトリがべとべとの麦《むぎ》がゆを電光石火《でんこうせっか》で平らげてしまうようになると、いやな目つきでアトリをにらみ、奪《うば》い取るように皿《さら》を持っていく。いいっと歯をむいてみせ、しみじみとアトリは健康のありがたさを〈樹木〉に感謝《かんしゃ》した。
すみの棚《たな》には、数|冊《さつ》の古い本や、鉱石《こうせき》の採掘《さいくつ》に関する薄《うす》いパンフレットがぞんざいにつっこんである。ぼろぼろに腐《くさ》って読めないものもあったが、そのうち数冊は、なんとか頁《ページ》をくることができた。
中に一冊、モーウェンナなら喜びそうなべたべたに甘《あま》い恋愛小説を見つけたので、アトリはそれを何回もくり返し読み、それから一枚ずつ頁を破って扉のすき間に詰《つ》めた。頭の中身ををどこかに落としてきたとしか思えない女主人公にうんざりしたのと、水夫たちにしょっちゅうのぞき見されるのもいいかげん飽《あ》き飽きだったからだ。
ただひとつ、この本を見つけてよかったと思ったのは、最後の頁に挟《はさ》まれていた、黒曜石《こくようせき》の薄片《はくへん》でこしらえた美しいしおりを手に入れたことだった。かき取ったままの形を生かして、ちょうどカラスの羽根のようななだらかな紡錘形《ぼうすいけい》に仕上げてある。冷たい手触《てざわ》りも、ほどよい重みもうれしくて、本がすっかりすき間の詰めものに化けてしまっても、アトリはそれを大切にとっておいた。
こんな本をあの乱暴《らんぼう》そうな水夫たちが読んでいたというのはあまりぞっとしないから、きっとこの部屋にも、わたしのような女性の船客がいたのだ。そう思うことにすると、いくらか心が安らいだ。彼女がどうなったかはわからないが、きっと無事に目指す場所へとつくことができたと信じよう。
そしてわたしも、何事もなく、いつかはハイ・キレセスの母の小屋に帰るのだ。そうしたら、このしおりを頁にはさんで本を読もう。ささやかな誓《ちか》いを、アトリは黒曜石に映《うつ》る自分の顔にむかってした。助けにはなりそうになかったが。
(モーウェンナ。ツィーカ・フローリス)
きっと、心配してるでしょうね。
わがままな〈館〉の一の姫《ひめ》。今ごろ、どんなに周囲のものを困《こま》らせているだろう。ひどいかんしゃくをおこしていなければいいけれど。
それに、ツィーカ・フローリス。彫像《ちょうぞう》めいた美しいあの顔が目に見えるようだ。怒《いか》り心頭に発したとき、彼女はいつもそんな顔つきになる。
不肖《ふしょう》の養女《むすめ》のために、〈館〉の女あるじはもう捜索隊《そうさくたい》を組織《そしき》したろうか。でも、こんな小さな、おそらくは違法の船を見つけだすには何日もかかるだろう。そしてその間に、船は国境を抜けてしまっている。指の間を滑《すべ》りぬける小さな水蜘蛛《みずぐも》のように。
考えなければならないことはもう一つあった。母のこと、それから、父のこと。自分自身のこと。
どう感じていいのかわからなかった。直接|恨《うら》みや憎《にく》しみを感じるためには、聞かされたばかりの父という存在《そんざい》はあまりに抽象的《ちゅうしょうてき》な存在でしかない。ただ、母の自分に対する、あの冷ややかさの原因《げんいん》が見つかったことがひたすらつらかった。
(わたしが生まれたせいで、母さんは未来を失った)
母が娘を厭《いと》ったことは無理からぬことだった。誰であろうと、素性《すじょう》も知れぬ相手に辱《はずかし》められた結果の子供《こども》など、受け入れられたはずがない。
ましてやそのおかげで、手に入れられるはずだった力も地位も失ってしまったのなら。
それらすべてと引き替《か》えに得《え》た娘が、せいぜい人並《ひとな》みか、それ以下の才能しか持てない娘だったのなら。
毎日、深夜までかかって骨牌札《かるたふだ》を磨《みが》いていた母を思い出す。木肌《きはだ》につける蜜蝋《みつろう》の香《かお》りが、彼女の香水《こうすい》代わりだった。いつも遠くを見ている母の視線が、娘に据《す》えられるのは〈骨牌〉の訓練《くんれん》を施《ほどこ》しているときだけだった。
きまじめに結《むす》んだ唇《くちびる》は、笑いよりはいささか厳《きび》しいものに備《そな》えているような印象《いんしょう》を見るものに与《あた》えたものだ。仕事を頼《たの》みに来た客には愛想《あいそ》笑いの一つもしたかもしれないが、娘に対してほほえんだ母の顔を、アトリは一度も見たことはなかった。
幼《おさな》いアトリは懸命《けんめい》になって〈骨牌〉の修得《しゅうとく》にはげんだ。課題をうまくこなせたときだけ、母に声をかけてもらえると知って。
しかし、娘が一通りのことを覚えてしまうと、母はまたもやアトリにはかまわなくなった。ほとんど目すら合わせようとしなかった。
死の床《とこ》についたときも、娘の看病《かんびょう》を拒否《きょひ》して人を雇《やと》った。追い払われたアトリが床に寄ることを許《ゆる》されたのは、もはや意識も薄《うす》れて、最後の別れを促《うなが》されたときだけだった。
(わたし、生まれなければよかったの、母さん?)
でも、生まれたのはなにもわたしの責任《せきにん》じゃない。わたしは悪くなんかない。心の別の面が、どこかで叫んでいる。
しかし、受け入れることはできなかった。結局のところ、自分がいたから母が王都を出なければならなかったのはかわらぬ事実だし、母に憎《にく》まれていたという事実もおなじこと。憎むのも当然だろうと思う。そして、憎しみを理解《りかい》したからといって、感じる罪悪感《ざいあくかん》はいささかも減《へ》りはしない。
せめて、父となった見知らぬ男が、死んでいてくれることを願った。あるいは、不幸せのどん底で生きていることを。
母と娘の二人の女を、不幸に陥《おとしい》れた愚《おろ》か者。ましてや彼から伝えられたジェルシダの血が、今、アトリをこんな境遇《きょうぐう》に陥れているのだとすれば、その元凶《げんきょう》こそは呪《のろ》われてしかるべきではないか。
「おい、どうしたんだ、お嬢ちゃん。泣いてるのか」
「ほっといて」
アトリは答え、泣きつづけた。
ダーマットは肩をすくめ、また床に横になった。
夜明け前に、アトリは目覚めた。
船に乗ってからちょうど十日目の朝だった。目を開けて、言葉を失った。暁《あかつき》のとき色の光に照らされて、うす暗い船室は、別の場所のように変貌《へんぼう》していた。
昨夜、明かり取りの窓《まど》を閉めておかなかったのだ。流れこむうすい紅《べに》いろの光は絹《きぬ》のように降《ふ》り、部屋のこもった空気をやわらかな光の粒子《りゅうし》で充《み》たしていた。曇《くも》ったランタンの硝子《ガラス》の火おおいに、金色の朝日がちらちらと映《うつ》っている。
耳をすましたが、何の音も聞こえなかった。水夫たちは酔《よ》いしれて寝てしまったらしい。ダーマットは床に敷《し》いた毛布の上でうつぶせになり、眠りこけている。
少し考えて、アトリは音をたてないように起きあがり、すばやく服を着た。少し頭がくらりとしたが、大丈夫《だいじょうぶ》そうだった。
外に出る。見上げた空は、真珠《しんじゅ》色に輝《かがや》いていた。朝のまばゆさに小さく息を呑《の》んで、アトリはつま先立って足を踏《ふ》みだした。
甲板《かんぱん》の上には、束《たば》ねた綱《つな》や空の水樽《みずだる》が散乱《さんらん》していた。数人の水夫が酒瓶《さかびん》や、食べ物のかすを握《にぎ》りしめたままいぎたなく転がっていた。踏みつけないように気をつけながら間を通り抜けて、彼らの姿が目に入らない、後甲板の上に立った。
ほどいた髪《かみ》が朝風になびいた。名残《なご》りの星が二つ三つ、東の空にまたたいている。緑の匂《にお》いがした。触《ふ》れればきしりと崩《くず》れそうな空を、鳥が音もたてずにすべっていく。
船は、河をかなり上流の方までさかのぼってきたようだ。河幅《かわはば》もせばまって、この船とあと二|隻《せき》くらいが並んで航行《こうこう》できるほどの幅しかない。ハイ・キレセスのほとんど海のような、広大な河口を見なれたアトリにとっては新鮮《しんせん》な眺《なが》めだった。
久しぶりに、本物の空気を吸《す》うような気がした。重い気分が、朝の空気の冷たさに清められるような気がしてうんと腕をのばしたとき、どこかで音がした。
アトリは腕をおろしてあたりを見回した。誰か、船倉からの梯子段《はしごだん》を上がってくる。
(いやだ。また水夫かしら)
隠《かく》れなきゃ、とあたりを見回したが、適当《てきとう》な場所がない。あたふたしているうちに、四角い穴からゆっくり現れたのは、黒い髪と瞳《ひとみ》のあの青年、ロナーだった。
アトリを認めると目を細めてはね上げ戸をおろし、長い毛織《けお》りの外套《がいとう》を朝風にゆらしながら近づいてきた。傷《きず》はもう、ほぼ治っているらしい。船の揺《ゆ》れをものともしない足取りは、堂々《どうどう》としてなめらかだった。
面倒《めんどう》な相手にぶつかったが、逃げるわけにもいかなかった。挑戦的《ちょうせんてき》な目つきで、アトリはロナーを見上げた。
「船室からは出るなと言ったはずだな?」
思ったより穏《おだ》やかに、彼は声をかけてきた。
「そうね。でも、あんなところにこれ以上いたら死んじゃうわ」
不満をこめて、アトリはぐいと顎《あご》をあげてみせた。
「あそこがどんな臭《にお》いがするか、あなた知らないでしょ。まるで、樽いっぱいの腐《くさ》った干《ほし》タラを寝台に敷《し》きつめて寝てるみたいよ。息が詰《つ》まりそう」
ロナーは黙《だま》っている。アトリはむきになった。
「それに、ダーマットのうるさいことったら。彼の縄《なわ》をほどいてあげたほうがいいと思うわ。そのうち面倒《めんどう》を起こすわよ。今でさえ、食事を持ってくる子としょっちゅう蹴《け》っ飛ばしあっちゃ怒鳴《どな》りあってるんだから。まるで七つの子供みたい」
「よくしゃべる娘だな、おまえは」
ぼそりとロナーは呟《つぶや》いた。
「放っといて。これまでずっと船室の中で、誰も話し相手がなかったのよ。しゃべるくらい、好きにさせてちょうだい。あ、あ、あ! 久しぶりの空気! どんな味のするものだったかあやうく忘れるところだわ」
大きく腕を突きあげてアトリはのびをした。半分はあてつけである。どんな反応《はんのう》を示しているかと思って横目で見てみると、ロナーは笑っていた。
アトリは驚《おどろ》いた。すばやい燕《つばめ》がいきなり部屋に飛び込んできたときのような、ささやかな、だが鮮烈《せんれつ》な驚きだった。
(ちゃんと笑えるんだわ。この人)
思っていたより、彼はずっと若《わか》いのに違いない。アトリと五つも違わないように思える。
いくらか翳《かげ》りのある、明るいとはいえない笑みだったが、彼の端整《たんせい》な顔立ちを、前よりずっと魅力的《みりょくてき》にするにはじゅうぶんだった。
アトリはあわてて横を向いた。自分がばさばさの髪をして、うすい寝間着《ねまき》に古ぼけた上着を一枚はおっているだけなのを急に思い出したのだ。また腹《はら》が立ってきた。なんだってこの男は、よりにもよって、わたしがこんなかっこうでいるところへわざわざやってこなければならないのだろう?
「縄の件は、考えておくことにしよう」
微笑《びしょう》を含《ふく》んでロナーは言った。
「しかし、船室からはあまり出ないほうがいい。これは本気で言っているんだ。乗組員はあまりたちがいいとはいえないし、このあたりには、交易船《こうえきせん》を狙《ねら》う盗賊《とうぞく》がしばしば出る。河を上《のぼ》る船はどちらかといえば獲物《えもの》にはされにくいが、女が乗っていると知れたら襲《おそ》われる危険性が高くなるからな」
「盗賊?」
あわてて左右を見回した。「どこに?」
今度はロナーは声を立てて笑った。
「見抜かれるようで盗賊と呼べるものか。河の蛇行《だこう》部分に小船で隠《かく》れていて、いきなり襲ってくるのが常套手段《じょうとうしゅだん》らしい。心配しなくても、水夫たちは腕っぷしだけは強い。財産《ざいさん》が奪われるとなれば必死に戦うだろう。それにここにもう一振り、剣《けん》がある」
怪物の血に濡《ぬ》れていた剣は鞘《さや》に収《おさ》まり、ロナーの腰に揺《ゆ》れている。
「守ってくれるの?」
「おまえを誘拐《ゆうかい》した犯人《はんにん》だからな、俺は」
揶揄《やゆ》するように言って、また笑い声をあげた。すてきな声だわ、とアトリは思い、そう思った自分にむかっ腹を立てた。
「むりやり連れてきたことは悪いと思っている。だが、どうしようもないんだ。すべてが終わったらきちんとハイ・キレセスでもどこでも送り届《とど》けるから、今は辛抱《しんぼう》してくれないか。大事なことなんだ、おまえにはわからないかもしれないが」
「わたしのことを『おまえ』呼ばわりするのをやめるなら、いいわ」
アトリはやりかえした。
「それにその、俺はおまえより偉《えら》いんだぞ方式でしゃべるのもやめて。いくつだか知らないけど、あなた、わたしよりそんなに年上じゃないはずよ」
「俺は二十一だ」
「わたしは十七。ほら、四つしか違《ちが》わない」
「十分な差だと思うが」
「そう? わたしが生まれたとき、あなたが四|歳《さい》だったってだけのことじゃない。それとも百歳の老人|扱《あつか》いするほうがいいの、あなたのこと」
「口の減《へ》らない小娘め」
「あなただって」
むっとしたように口を引きむすぶと、ロナーは大股《おおまた》に後甲板のほうへ歩いていってしまった。
あわててアトリはあとを追い、腕をとった。
「ねえ、待って。ごめんなさい、生意気なのは自分でもわかってるのよ。でも、話したいの、お願い、ロナー。あなたはどうしてハイ・キレセスにいたの?
あんな、か、怪物《かいぶつ》に追われていたのはどうして? 〈祖《そ》なる木の寺院〉ってなに? わたしの――わたしの、手の中で光った、あの、白い〈骨牌《かるた》〉は」
「ハイ・キレセスには帰らなくていいのか」
ふりむいたロナーはまた暗い微笑を浮かべていた。
「おまえが俺に話すことといったら、それしかないと思っていたが」
「どうせ帰してくれる気はないんでしょ。だったら、自分のいる状況《じょうきょう》に対してできるだけのことを知っておくほうがいいわ。あなたはさっき、このことが終わったら、ちゃんともとのところへ送り返すって約束してくれたんだし」
返事は返ってこなかった。広い肩はがんこに後ろを向いたまま動かない。なえかける心を励《はげ》まして、アトリはしんぼう強く答えを待った。
「わたしの父が旧ハイランドの王族の血を引いてたって……本当?」
「らしいな」
やっと返ったロナーの答えは短かった。
「あのこそ泥《どろ》が言っていたな。ジェルシダか。たしかにそれなら、あの〈骨牌〉を反応させてもおかしくはない。あの一族は、伶人《うたびと》の血がもっとも濃《こ》かったと聞いている。〈骨牌〉に反応する力が、もっとも大きいのがジェルシダだ。きみは、アトリ」
きみ、をやたらに力を入れて発音し、アトリに指をさしつける。
「当代のもっとも濃い血を持つものとして、無意識《むいしき》のうちに、ジェルシダの女当主の力を発動させてしまったんだ。〈十三〉を体現する力を」
「わたしが……?」
アトリは広がる白い光を思い出した。頭の中に拡大《かくだい》していった、見えず、聞こえず、存在もしないざわめきの数々を。〈異言者《バルバロイ》〉と化す恐怖《きょうふ》を感じながら、〈詞《ことば》〉の解体されてゆくあまりの甘美《かんび》さに泣きわめきたかった。あれは。
「〈十三〉って、何のことなの、ロナー」
しばらくの間、ロナーは細めた目でアトリを注視していた。秘密《ひみつ》を漏《も》らしてもいい相手かどうかを計《はか》っていたらしいが、やがてあきらめたように、ため息をついて川面《かわも》に視線を落とした。そのまま、抑《おさ》えた声で語り始めた。
「〈見えず、聞こえず、語られぬ十三〉は、代々、大きな歴史の変わり目にのみ、強力な骨牌使い――ジェルシダの血を持つ人間との融合《ゆうごう》をとげる、という話だ」
ごく低い声は朝霧《あさぎり》にまじって川面に流れ、聞き取るためには、アトリはうんと耳をすませて彼に寄《よ》り添《そ》うしかなかった。船の後ろで魚がはね、水夫がひとり、うなり声をたてて寝返りをうった。
「一般《いっぱん》的な〈骨牌〉は十二の〈詞〉で構成されている、それはわかるな。
しかし、実は、創世《そうせい》のときに〈樹木〉と〈環《わ》〉によって語られた〈詞《ことば》〉には、もう一つ、知られていない十三番目の〈詞〉があったと伝えられているんだ」
「〈詞〉。十三番目の?」
「それは父なる〈樹木〉によって〈見えず、聞こえず、語られぬ十三〉とだけ呼《よ》ばれている。〈骨牌〉がこの世にもたらされて以来、数千年もの間、〈十三〉はごく一部の人間にしか知られない、もっとも重大な〈骨牌〉の秘密として守られてきた」
ロナーは船端《せんたん》からむしり取った木くずを遠くに投げた。ぱしゃん、と白いしぶきが上がり、あっという間に後ろに流れ去っていく。
「世界に大きな変動が訪《おとず》れるとき、〈十三〉は現《あらわ》れる。〈十三〉が現れるからこそ、世界が揺《ゆ》れ動くのだというものもいる。
それほどまでの力を持った〈詞〉だ。これまでの最後の〈十三〉は、旧《きゅう》ハイランドにおけるジェルシダ家最後の女当主、公女ファーハ・ナ・ムールだった」
「ダーマットが話してくれたわ。堕《お》ちたる骨牌使いに恋《こい》されたひとね。彼女がいたから、災厄《さいやく》が起こったのだとでもいうの、あなたは」
「少なくとも、ベルシャザルひとりの力ではあれほどの災害《さいがい》は起きなかっただろう。王族である三公家の血族は、ほぼ純血《じゅんけつ》の〈天の伶人《うたびと》〉の血脈《けつみゃく》を継《つ》ぐ人々だった。だからこそ、旧ハイランドはもっともよく〈骨牌〉の力を扱うことができたのだし、それによって並ぶもののない大地の支配者たることができた。
しかもハイランドには〈真なる骨牌〉があった。もしファーハ・ナ・ムールがベルシャザルに会わず、〈真なる骨牌〉を発動させることがなかったら、ハイランドが滅《ほろ》ぶことも、王都が地に沈《しず》むこともなかったはずだ」
「〈天の伶人《うたびと》〉って、〈樹木〉と〈円環《えんかん》〉の結びつきの時に、その歓喜《かんき》の響《ひび》きが砕《くだ》けて生まれたっていう、あの? でも、ほんとうにいるなんて聞いたことがないわ」
「歓喜の響きだなんだというのは別にして、〈骨牌〉、つまり〈詞〉を扱うことに長《た》けた種族がいて、人間によって〈伶人《うたびと》〉の名をたてまつられたのは事実だ」
冷たくロナーは言った。
「真の〈伶人《うたびと》〉族は旧ハイランドが成立したころにはすでに滅《ほろ》びていたが、子孫《しそん》は残っていた。それが三公家、ジェルシダ、アシェンデン、オレアンダの三つだ。
それぞれの名を持つ〈伶人《うたびと》〉によって創設《そうせつ》された三公家は、国務《こくむ》を三つに分けて一つの王国を統治《とうち》し、千年近くにわたって大地をわがものとした。この話は聞いたか」
「ええ」
「結構《けっこう》。そして〈真なる骨牌〉とは、旧ハイランドのさまざまな宝器《ほうき》の中でも、最高の至宝《しほう》とされていた品だ。いわばそれは、すべての〈詞《ことば》〉の雛形《ひながた》とでもいうべきものだった。
世界で唯一《ゆいいつ》の、完全にして真に力ある〈骨牌《かるた》〉がこれだ。あらゆる〈骨牌〉はその複製品《ふくせいひん》、一枚が欠けた不完全なものでしかない。
いつ、だれが作ったのかはだれも知らない。〈伶人《うたびと》〉たちの遺《のこ》したものと言われていたが、それさえ確かな由来ではなかった。ひょっとしたら、もし存在するとしたらだが、〈祖なる樹木〉自身が、自らの葉に〈詞〉を手ずから記して地上につかわしたと考えるものもいた。それも、まんざら間違いではなかったのかもしれないな」
疲《つか》れたように吐息《といき》をついた。
「とにかく、それほど強い力を秘《ひ》めた〈骨牌〉だったということだ。この〈骨牌〉の管理を任《まか》されていたのが、ジェルシダ公家の人間、特に、その女当主だった」
「待って、ロナー、待って。ちょっと待ってちょうだい」
アトリは額《ひたい》に手を当てていた。気をつけていないと、頭が割《わ》れて聞いたことが全部あふれ出してしまいそうだ。
「じゃあ、何? もしかして、わたしの手にあったあれが、その〈真なる骨牌〉の一枚だと言いたいの。〈見えず、聞こえず、語られぬ十三〉。あれが?」
ロナーはいささか驚いたようにまばたいた。
「ああ、その通りだ。言うまでもないと思っていたんだが」
「ど、どうして、そんな大変なものがわたしに?」
みっともないとは思ったが、うろたえた声をとめることはできなかった。
「あの白い光――わたし、いったいどうなってしまったの、ロナー? そんなものを持ってあそこにいたのはどうして? 骨牌使いでもないのに! まだあるわ、あなたを追ってた変な怪物は何? あれもその〈骨牌〉に関係のあるものなの? なぜ」
「言っただろう、きみはジェルシダの血を引く人間だ。おそらく当代では最も純血《じゅんけつ》に近い」
ロナーの返事は簡潔《かんけつ》にして無情だった。
「あの災厄《さいやく》のあと、ふたたび同じようなことが起こることを怖《おそ》れたジェルシダの人々は、〈真なる骨牌〉をばらばらにし、ある特定の条件《じょうけん》を満《み》たす人間にしか近づくことのできない、特別な領域《りょういき》に一枚ずつ封《ふう》じこめた。
それ以後、この〈骨牌〉の力は、それぞれに対して特に選ばれた人間を門としてしか、この世界に流入できないようにされている。きみはジェルシダの女当主であるという条件を満たして、〈十三〉の門として選定されたんだ、アトリ」
背筋《せすじ》に冷たいものが走った。
それが自分の身に起こったことの意味を知ったためか、それとも、ロナーが初めてこちらの名をまともに口にしたためかははっきりしない。いずれにせよ、つぎつぎと流しこまれる情報《じょうほう》の中でアトリの思考は完璧《かんぺき》におぼれかかっていた。
「じゃ、じゃあ、あそこにあなたがいたのはなぜ? どうして、あんな怪物《かいぶつ》に追われたりなんかしていたの?」
ロナーはまた沈黙《ちんもく》の壁の向こうに自分を隠してしまった。また、最初に会ったときの気むずかしい、怒《おこ》りっぽい人物に戻ってしまったように見えた。
かたちのいい眉《まゆ》をぐっとひそめて、河の彼方《かなた》に視線をすえる彼の目にはいいようのない哀《かな》しみと焦燥《しょうそう》がこめられていた。
「……ある人物の命が、危険にさらされているからだ」
ロナーの声はほとんど吐息のようだった。
しばらくは、アトリの存在さえ忘れてしまったように感じられた。アトリがそわそわし始めたころ、ようやっと、口を開いて話を続けた。
「あの怪物には、〈骨牌〉の領域の近くで行きあった。きみを狙《ねら》っていた男、――モランと言ったかな。おそらく、そういった手合いが作り出したものだろう。〈十三〉のありかを探《さぐ》りあてて、監視《かんし》していたのかもしれない。だが、俺《おれ》はあれが何だか知らないし、知りたいという気もない。二度と会うこともないだろうしな」
(嘘《うそ》だわ)
直感的に、アトリはそう信じた。彼は、戦っているときに相手の怪物どもの名を呼んでいた。はっきりとは覚えていないが、〈異言《バルバロイ》〉の眷属《けんぞく》、たしか、そんなようだったではないか?
しかし問うのはあきらめた。あの怪物が誰かの手で作られたものだなどと言えるそれだけでも、彼が、〈骨牌〉や〈詞〉のことなど何も知らないのがわかる。あれは、異質なものだ。この世にあってはならない、存在しえない存在なのだ。
〈骨牌〉で異形《いぎょう》の生き物をこしらえる、異端《いたん》の骨牌使いもいることはいる。だが、その場合でも、基本《きほん》はあくまで〈詞〉だ。生みだされた異形はどんなに現実離れした姿でも、存在の根幹《こんかん》には、どこかでこの世界につながりを持っている。
だが、あれらは違う。
あの、異質なものどもに追われるロナーとは、いったい何なのだ。
(彼はいったい、どこに属する人間なのだろう?)
「きみが手にした白い骨牌札は、固有の領域にいまだ存在する真の〈十三〉への鍵《かぎ》だ」
アトリが考えていることにはまったく頓着《とんちゃく》せず、ロナーはそう続けた。
「おそらく何も感じてはいないだろうが、今この瞬間も、〈十三〉の〈詞〉はきみの身の裡《うち》にある。すべての〈詞〉の中で、最強の力だ。
どういうことかわかるだろう。そんな危険な人間を、野放しになどしておけるものか。一刻《いっこく》も早く調整を受けないことには、きみは自分ばかりか他人まで不幸にする。〈十三〉の力を抑《おさ》えるか、他へ流すことができるようにしなければ、いずれ」
「いずれ、〈十三〉は、再《ふたた》び大きな災厄を招《まね》く……?」
呟《つぶや》くように言って、アトリはいきなり弾《はじ》かれたようにロナーから身をもぎ離した。
「アトリ?」
「近寄らないで!」
アトリの顔は蒼白《そうはく》になっていた。服の前をしっかりとつかんで、少しでも相手から距離《きょり》をとろうとあとずさる。
「それじゃあなたは、わたしを閉じこめるために連れていくつもりなのね? 〈祖《そ》なる寺院〉だなんて、ありもしない嘘《うそ》を言って」
そうだった。いくら誠実《せいじつ》そうな口をきいても、彼はやはり自分を誘拐《ゆうかい》同然に連れてきた相手なのだ。この船で目を覚ましたときに、この青年が見せた凶暴《きょうぼう》な怒《いか》りの表情を考えれば、とてもそんな甘《あま》い相手でないのは察《さっ》しているべきだった。
「それは違う。ちゃんと力を制御《せいぎょ》することができる場所へ連れていくだけだ」
大きな手がアトリの腕をつかんで引きよせようとした。
「〈祖なる木の寺院〉は、きみの先祖《せんぞ》のジェルシダ公家が建てた最初の〈寺院〉だ。他の〈真なる骨牌〉を身にうけた者も何人かいる。あそこなら、きみを傷《きず》つけることなく門を封《ふう》じることができる。力を狙《ねら》う人間も、〈異言《バルバロイ》〉も、あそこの場の中には入ってこられない。〈十三〉の力を発現させずに、一生静かに暮《く》らすことも」
「じゃあやっぱり、わたしをハイ・キレセスへ帰すつもりなんかないんじゃない!」
大声を出して、アトリは青年の手を振り払った。
「嘘つき、嘘つき! 放してよ、あなたなんか大嫌《だいきら》い!」
「違う、そんなことはしないと言ってるだろう!」
とうとうロナーも大声を出した。
「必要な訓練《くんれん》か、封印《ふういん》をほどこす間だけだ。そのあとはどこだろうと好きなところへ帰ればいい。力をフロワサールに流せればよし、できなくても、融合《ゆうごう》してしまった〈骨牌〉なんぞ彼には用がない――来いというんだ、こっちへ」
「嫌《いや》よ、放して! いやっ!」
河へ飛びこめば泳いで逃げられるだろうか? ああ、もっと早く彼の嘘がわかっているべきだったのに。
ロナーの手に爪を立てて、アトリはやみくもに船縁《ふなべり》から身を乗りだした。身体がかしぎ、すぐ下で渦巻《うずま》く水がしぶきをあげる。
「待て、なんて真似《まね》をするんだ! 溺《おぼ》れ死ぬつもりか!」
後ろから強い腕が身体をつかみ、乱暴に引きずりあげた。足が甲板《かんぱん》についてほっとしたのもつかの間、歯をくいしばり、アトリは猛烈《もうれつ》にもがきはじめた。
なんとしても逃げるつもりだった。涙がにじんだ。くやしい。こんな男を、ほんのちょっとでも信用したなんて!
ハイ・キレセスに帰りたい。モーウェンナに会いたい。王族の血なんて知ったことじゃない。〈十三〉なんかいらない。そんなもの、わたしは望んでない。
「ほお、喧嘩《けんか》かね。若いってなあ、いいもんだ」
耳に粘《ねば》りつくような声が言った。
アトリは思わずもがくのをやめて、振り返った。
船長が、ヤニ色の乱杭歯《らんぐいば》をむき出しにしてにやにや笑っている。ロナーは唇《くちびる》をかみ、アトリを降ろして前に出た。
「何でもない。ちょっと意見が食い違っただけだ」
「そうかい。だが、あんたの娘っこはなかなかきれいなあんよをしてるじゃねえか。あっこからじっくりと拝《おが》ましてもらったが、隠しておくのは勿体《もったい》ないねえ」
全身をなめ回すように見つめられて、アトリは気分が悪くなった。
ロナーが強く手を引き、船室に戻れ、ときつい調子で囁《ささや》いた。
「入ったらすぐ中からつっかい棒《ぼう》をしろ。面倒《めんどう》なことになりそうだ。こいつらはおまえを、採石作業の間の余録《よろく》にしておきたいらしい」
いつのまにか、きみ[#「きみ」に傍点]がおまえ[#「おまえ」に傍点]に戻っている。
アトリは必死に首を横に振った。眠っていたはずの水夫たちが、ふやけた笑みを満面に浮かべていつのまにか周囲に集まってきていたのだ。
魚をさばく巨大《きょだい》なナイフをこれみよがしに手にしているものもいる。酔《よ》ったように顔を紅潮《こうちょう》させ、身をちぢめるアトリにむかって舌《した》なめずりしてみせた。
嫌悪《けんお》に身が凍《こお》った。望まぬ男に蹂躙《じゅうりん》された母。彼女もこのように感じたことがあるのだろうか。
ロナーが低く呪《のろ》いの言葉を呟《つぶや》いた。信用すらしていない青年の肩に隠れて、アトリはぎゅっと目をつぶった。
(母さん!)
「彼女は客だ。金は払った。立場をわきまえるんだな、船長」
「わきまえとるさ。船長の役目は乗組員のとりまとめでね。いい女を、あんな小僧《こぞう》にひとりじめさせといちゃならねえって意見を無視するわけにゃいかないんだ」
「後悔《こうかい》するぞ」
危険な調子でロナーが囁《ささや》く。長い外套《がいとう》の下で、蛇《へび》のように手が剣の柄《つか》へと伸びた。
「女を捕《つか》まえろ」
ロナーを無視して船長は命じた。
「男は殺して肺魚《はいぎょ》の餌《えさ》だ。その前に、金目のものをはぎ取っておくのを忘れ――」
とつぜん言葉がとぎれた。船長は首を押さえ、ごぼごぼとしめった音を口からもらした。喉《のど》にあてた手を通して、血にまみれた矢尻《やじり》がつき出ていた。
一瞬遅《いっしゅんおく》れて、下からはねあげられたロナーの剣が、胸から顔に真紅《しんく》の筋《すじ》を描《えが》いた。鮮血《せんけつ》を噴き上げ、笛《ふえ》のような悲鳴《ひめい》とともにどっと船長は仰向《あおむ》けに倒れた。
「船長!」
「こいつ、船長をやりやがった!」
水夫たちはロナーが船長を切り倒したのと勘違《かんちが》いして、怒《いか》りの声をあげた。だが、すぐに飛来した第二、第三の矢の攻撃が、怒りを狼狽《ろうばい》と恐怖の悲鳴に変えた。
「と、〈虎《とら》〉だ!」
「〈虎〉だ! 〈虎〉が出たぞ!」
両岸の森林の中から、木とおなじ緑と茶色に偽装《ぎそう》された小舟が五、六|艘《そう》、流れをつっきってこちらへまっしぐらに漕《こ》いでくるのだ。
船にはどれも武装《ぶそう》した男たちが乗っていた。先頭の二艘には弓矢をかまえた射手《しゃしゅ》がおおぜい乗っている。すぐそばで息の詰《つ》まったような声がし、男の身体《からだ》がぐったりともたれかかってきた。突き飛ばそうとして顔を見た。
死んでいる。
ぎょろりとむいた二つの眼《め》の真ん中に、一本の矢が立っていた。真紅《しんく》に黒い縞《しま》の入った、珍《めずら》しい色の矢羽だった。
アトリはへたへたとその場に腰《こし》を落とした。
「立て、ぼんやりするな!」
ロナーがむりやり引き起こした。その時になってようやく、自分が悲鳴をあげていたのに気づいた。顎《あご》ががくがくいうほどゆさぶられてやっと正気に返る。
「ロ、ロナー、あの人、死んで、死ん……」
「さっき言ったとおりにするんだ、いいか」
ロナーの声は意外なほど落ちついていた。
「船室へ戻って扉を閉じておけ。あれはここら辺に巣《す》くう盗賊《とうぞく》の一派《いっぱ》だ。しばらくはうるさくなるが、やつらを撃退《げきたい》してしまえば、水夫どもにこちらの言うことをきくようにさせられる。船長を亡《な》くしたからな。怖《こわ》いだろうが、少しの辛抱《しんぼう》だ」
「だ、だって、あんなにたくさん!」
「心配するな」
にやりと笑った。
「人間相手なら、負けない」
さあ行け、と押し出されて、アトリはよろよろと船の上を走りだした。
そこここで戦いが始まっていた。賊《ぞく》の本隊《ほんたい》は下から船縁《ふなべり》に鉤《かぎ》のついた縄《なわ》をかけ、脅《おど》すような奇声《きせい》とともにつぎつぎと飛びおりてくる。
賊の一人が帆柱《ほばしら》に登り、帆を切り離して凱歌《がいか》を上げる。船はぐらりとかしいで制御《せいぎょ》を失い、ゆっくり流されはじめた。
水夫のほとんどはすでに自制を取り戻し、自分たちの持ち船を奪おうとする輩《やから》にむかって牙《きば》をむいていた。剣戟《けんげき》の響きがあたりを満たし、そして鉄臭《かなくさ》い血の臭《にお》いが河の大気を汚《よご》した。驚いた鳥が騒ぎながら梢《こずえ》を飛び立っていく。
旋風《せんぶう》のようにロナーは戦っていた。眉のあたりに漂《ただよ》っていた憂《うれ》いは一時的にせよ消え、剣士に生まれたものの戦いの歓喜《かんき》が若い顔をいきいきと輝かせていた。
相手の剣は、彼のまとう外套《がいとう》の端《はし》を裂《さ》くことすらできない。踊《おど》るような動き、しなやかに動く手が一閃《いっせん》するたびに、はね飛ばされた敵が悲鳴をあげて河へ転げ落ちていく。
剣の切れ味が鈍《にぶ》るのを嫌い、ほとんどは剣による当て身か拳《こぶし》の一撃だったが、寄せ手を怯《おび》えさせるには十二分以上だった。包囲《ほうい》は少しずつあとへ退《しりぞ》いてゆき、やがて周囲にはぽっかりとあいた空間ができた。
その時、一人の覆面《ふくめん》の人物が、悠然《ゆうぜん》と進み出てきた。
起こったざわめきからして、どうやら賊の首領《しゅりょう》らしい。覆面からのぞいた眼《め》が、笑った。
男にしては細身で、背が高く、くすんだ赤の胴着《どうぎ》をまとい、手には、不釣《ふつ》り合いなほど大きく重そうな広刃《ひろば》の剛剣《ごうけん》をたずさえている。
予備《よび》動作さえ見せず、いきなり斬《き》りかかってきた。
どう見ても普通の剣の倍以上ある剛剣を、子供用の小剣のように扱っている。肩へ打ち下ろされた一撃を危《あや》うく避け、続いて脇《わき》への斬撃《ざんげき》をはじき飛ばした。覆面の内側で、小さく口笛《くちぶえ》が鳴った。
ロナーはしびれて感覚のない腕を無理にあげ、相手の首を払った。
この敵に、手加減《てかげん》の必要はない。油断《ゆだん》すれば、やられるのはこちらとわかっていた。
相手はすばやく横に移動して避《さ》けた。切《き》っ先が覆面にわずかにかかり、布地が裂けて風に飛んだ。
紅《あか》い唇が笑った。破れた覆面をむしり取ると、唇と同じ色の髪がざっと宙《ちゅう》に舞《ま》った。流れ出したばかりの血のような、赤い髪だった。
「女か!」
ロナーの口から、驚きの声がもれた。
女は笑みを浮かべたまま、腰を落として、次の攻撃にかまえた。
その間に、アトリはようやく船室にたどりついた。
震《ふる》えながら扉に転げこみ、つっかい棒をする。するそばから手が震えて、何度か棒を落としてしまう。やっと戸締《とじ》まりをすると、扉に額《ひたい》を当てて泣きだしてしまった。
自分がこんな弱虫だったとは知らなかった。〈骨牌《かるた》〉といっしょに、強気な自分までもなくしてしまったのだろうか。情《なさ》けなくてたまらないが、あの白目をむいた男の死体を思い出すと吐《は》き気《け》がしてくる。
(しっかりしなさい! あの怪物とだって、正面から対することができたじゃないの)
だが、あの時には〈骨牌〉があったのだ。母の〈骨牌〉。今の自分には何もない。何の力もない、ただの小娘《こむすめ》。何にもない、ただのアトリ。
力を引き出す〈骨牌〉がなければ、アトリは結局、多少|勘《かん》が鋭《するど》いただの少女と変わりはない。何かあれば泣き叫《さけ》び、おどおどし、自分では何もできない娘。
しっかり者、気が強い、と周囲から言われ、自分でもそう思っていただけに、本当の自分自身がそうではなかったのだと思い知らされるのは耐《た》えがたかった。
(違う、わたしはもっと強いはずよ)
けれど、身体が動かない。ロナーはまだ戦っているの?
なぜ彼を一人でおいてきてしまったんだろう。窮地《きゅうち》に陥《おちい》った人を置き去りにするなんて。
〈骨牌〉を持っていなくても、わたしはわたしなのに。
(母さんなら、きっと母さんなら、こんなときでも)
「おい、お嬢《じょう》ちゃん。お嬢ちゃん」
部屋のすみからせっぱつまった声がした。涙に濡《ぬ》れた顔を上げる。ダーマットが、縛《しば》られた手を振り、床《ゆか》から飛び上がらんばかりにしていた。
「こいつをほどいてくれ。早く!」
「こいつって」
「縄だよ、縄」
いらいらと身体を揺《ゆ》する。
「だいたいの様子はここで聞いててわかってる。俺だって多少は戦えるぜ。そこで泣いてるより、いくらかはあのロナーってやつの手助けになってやれる。剣は一本より二本のほうが役に立つんじゃないか、そうだろ?」
もうどうしていいかわからなかった。鼻をすすりながらダーマットのほうへ這《は》いよる。結び目に手をかけたが、固くてどうにもほどけそうもなかった。
「切るんだよ、縄を。あれだ」
業《ごう》を煮《に》やしたダーマットがあごで指したのは、枕《まくら》もとに置きっぱなしの食事の皿《さら》だった。
言われるままに、アトリは皿を窓の縁《ふち》に思い切り叩《たた》きつけた。皿は砕《くだ》け、鋭《するど》い縁を持ったかけらがいくつもできた。中でも切れ味のよさそうなのを選んで縄にこすりつけ、時間はかかったが、やがて、太い麻縄《あさなわ》はふっつりとちぎれた。
「ありがたい!」
そう言うと、ダーマットは勢いよく立ち上がって身震いした。
そして、にっこり笑ってアトリのほうを向き、その鳩尾《みぞおち》に、拳《こぶし》をめりこませた。
「悪いな、お嬢ちゃん」
きわめて陽気な口調《くちょう》だった。
「おれはいつでも、勝ち目のあるほうにしか賭《か》けない人間なんでね」
アトリは何か罵《ののし》ろうとして、そのまま、ぐったりとダーマットの腕に倒れこんだ。
あたりを見回して、めぼしいもののないのに肩をすくめる。気を失った少女をかつぎ、足取りも軽くダーマットは剣戟《けんげき》の聞こえる暗い船室をあとにした。
その日、アシェンデン大公領《たいこうりょう》の河口の都市に一|隻《せき》の船が着いた。
夕暮《ゆうぐ》れ、水門を閉める直前になって滑《すべ》り込んできたその船は、満身創痍《まんしんそうい》だった。船縁《ふなべり》は矢で針山《はりやま》のようになっているし、傾《かたむ》いた帆柱にかかっているのは乗組員の上着をつづり合わせたものらしいぼろ布だった。
あちこちにこびりついているどす黒いものは、どうやら塗装《とそう》ではないらしい。船上で立ち働いている水夫たちはひどく青ざめて、両岸から顔見知りのものが呼びかけても、首を振るばかりでいっこうに答えようとしなかった。
ひょっとして、このごろ活動が活発になってきている賊《ぞく》どものしかけた囮《おとり》では、との報告を受けた管理官が、入港を拒否《きょひ》すべきかどうかと考え始めたころ、船は船着き場の定位置へよろよろともぐりこんだ。
集まってきた人々の見守る中、艫綱《ともづな》が投げ降ろされる。太い綱が地面を叩くのとほぼ同時に、長い外套をまとった一人の男が、船縁をこえて飛びおりた。流れるように立ち上がり、きびすを返す。端整《たんせい》な顔立ちのまだ若い、黒髪に黒い眼《め》をした男だった。
「お、おい、待てよ」
見物人の一人が勇気をふるって、男の腕をつかんだ。
「あんた、あの船のひとかい。いったい何があったんだ。戦いがあったみたいだが、まさかあの〈赤い虎《とら》〉に襲《おそ》われて、逃げ出してきたってんじゃ」
「そいつに近づくんじゃねえ、首を飛ばされるぞ!」
船から、おびえきった声が降ってきた。
「そいつは人間じゃねえ、化けもんだ。三十人からの〈虎〉をひとりでぶっ倒しやがったんだぞ。あの女頭目とまでまともにやりあうやつなんだ、いいか、おれたちの船長もそいつにやられちまったんだ、頼むから手を出すな!」
見物人はあわてて手を離して後ずさりした。青年はちらりとそちらを見て外套の裾《すそ》を払《はら》い、何事もなかったように街並みのほうへ歩いていった。
ざわざわする人々をかき分けて、管理官の一行があわただしく検分《けんぶん》に近づいてきた。
(しくじった。あの男は早めにどうにかしておくべきだったのに)
あか抜《ぬ》けない店の並ぶほこりっぽい通りを歩きながら、青年は、ロナーは、ひそかにほぞを噛《か》んでいた。
たかが盗賊程度《とうぞくていど》、すぐに片《かた》づけられると思ったが、最後に現れた女頭目だけは別だった。
おそろしく手強《てごわ》く、なみの男にも勝る膂力《りょりょく》で押してきて、戦い続けて疲れてきていたロナーには、一瞬《いっしゅん》の隙《すき》をついて河に落とすのがせいいっぱいだった。
頭目が落とされたのを見た盗賊どもは潮《しお》の引くように退散《たいさん》していき、ロナーは放心した水夫を叱咤《しった》して、なんとかシルシットまで船を動かすことを承知《しょうち》させたのだ。
アトリがいないのに気づいたのはそのあとだった。船室はもぬけのからで、切れた縄と、割れた皿のかけらが床《ゆか》に転がっているだけ。
何が起こったのかは想像がついた。口のうまいこそ泥《どろ》めが。十七|歳《さい》のおびえた娘一人、口車に乗せて縄を解《ほど》かせるくらいはお手の物だったことだろう。
脱出《だっしゅつ》用の小舟が一つなくなっていることは調べてわかったが、それだけだった。わかったときには、船はすでにかなり上流へ進んでいて、後を追おうにももう手がかりがなくなっていた。
万一、アトリに水夫が不埒《ふらち》な気を起こしたときのための警報機《けいほうき》として生かしておいてやったのが裏目《うらめ》に出た。今ごろはアトリをかついで、自分を雇《やと》ったモランとかいう男のもとへ駆《か》け込《こ》んでいることだろう。小悪党《こあくとう》ならやりそうなことだ。
考えねばならなかった。ロナーは木陰《こかげ》に店を広げているハッカ茶《ちゃ》売りに目を止めて歩み寄り、素焼《すや》きの器《うつわ》に入ったぬるい茶を購《もと》めた。やたらに甘《あま》くて気持ちが悪かったが、乾《かわ》いた口をしめらす役には立った。
(そのモランと名乗る男が〈逆位《リバース》〉の一人だとしたら、ますますやっかいになる)
〈逆位《リバース》〉たちが、〈寺院〉とたもとを分かって二百年がすぎようとしている。その間には、さまざまなあつれきがあったし、和解もあった。
だが今、〈逆位《リバース》〉たちは一挙に覇権《はけん》をわが手にしようとしているのだろうか。これまで陰の身分に甘んじてきたことの負債《ふさい》を、世界に払わせようとしているのか。
よりにもよって、こんなときに――〈異言《バルバロイ》〉の勢力が増《ま》しているこんなときに? 〈詞《ことば》〉の主が、古きハイランドの血を引く最後の王が、死のうとしているこんなときに?
アトリという〈十三〉のジェルシダの登場も、その推測《すいそく》を裏付《うらづ》けているように思えて、ロナーは人知れず背筋を震わせた。
自分に骨牌《かるた》あやつりの力がないのが歯がゆかった。骨牌使いでさえあれば、自分で〈小径《パス》〉を開き、半日もかからずに彼女を〈寺院〉に連れて戻ることができたものを。あるいはせめて、こういう状況に陥《おちい》ったことを知らせることができたものを。
胸の奥がかすかにうずいた。古い痛みであり、むかしなじみの痛みだった。
ごく幼《おさな》いころにそれは植《う》えつけられ、大きくなり、十五のときに決定的に彼の中に棲《す》みついた。今では身体《からだ》の、欠くべからざる一部のようにさえ感じられる。
それが彼を生まれた屋根の下から追い立て、さすらい人の名を与え、しかもなお切ることのできぬ鎖《くさり》として、つながりを保《たも》たせているのだ。あの、一年の半分を雪に覆《おお》われた美しい城《しろ》と、その中に待つ唯一《ゆいいつ》の肉親とに。
(何もおまえが行くことはない、アロサール)
(わたしたちはおまえを愛している。ここにいなさい。わたしにはおまえが必要だ)
(アロサール……)
茶を飲み干《ほ》して器《うつわ》を投げ捨《す》て、ロナーは立ち上がった。
ぐずぐずしてはいられない。まだ完全に望みがなくなったわけではないのだ。もう少し大きな街へ出て、〈木の寺院〉か〈館〉を訪ねて連絡を取ろう。エレミヤたちが、きっと気絶せんばかりに心配している。〈十三〉ほどの強い力を持つ〈骨牌〉なら、まだ調整がすんでいなくても、探知《たんち》する方法があるかもしれない。
一刻《いっこく》も早く彼女を取り戻さなければ。取り返しのつかぬことにならないうちに。
「待ってよ、冗談《じょうだん》じゃないよ!」
通りの反対側で、誰かがよく通る声で叫んだ。
「そりゃ茶をひっかけたのは僕《ぼく》かもしれないけど、服から下着から全部|弁償《べんしょう》しろなんて、それはないんじゃない? 僕だってあんたにひっかけてやろうと思ったわけじゃない、いや、そりゃほんのちょっとくらいは、そうしたら面白《おもしろ》いだろうな、なんてことは思ったけど、だからってそれとほんとにひっかけたかどうかは別問題だろ、ね? お願いだからそこ、放してくんないかな? もうちょっとで息が詰《つ》まりそうなんだけど、僕」
息が詰まりそうとは思えない大声でしゃべりまくっているのは、ロナーと同じくらいの歳恰好《としかっこう》の、ひょろりと背の高い青年だった。
先のとがった彼の長靴《ながぐつ》の先は、たっぷり指二本分ほど宙《ちゅう》に浮《う》いている。その浮遊《ふゆう》を支《ささ》えているのは、船着き場に勤《つと》めている荷運《にはこ》び人の一人らしい。筋肉《きんにく》の張りつめた腕はこぶだらけの樫《かし》の木のようだった。金壺眼《かなつぼまなこ》がうさんくさげにロナーを見た。
「やあ」
黙《だま》って立っているロナーに向かって、吊《つる》され男は気弱げに笑ってみせた。
「突然で悪いんだけど、助けてよ。このおじさん、たまんないほど口が臭《くさ》くてさ」
数分ののち、ロナーは首根《くびね》っこをつかまれていた若者と並んで道に立っていた。
荷運び人は急に用を思い出して、足を震わせながら向かいの船宿に急いでもぐりこむところだった。青年は足を踏《ふ》み鳴らし、深呼吸《しんこきゅう》し、相手の背中に向かってたっぷりと丁重《ていちょう》な悪口をはきかけてから、ロナーに向きなおってにっこりした。
「どうもありがとう。助かったよ」
硬《かた》そうな赤銅《しゃくどう》色の髪を後ろで一つにくくり、小脇《こわき》に色とりどりの絵の具のしみのついた箱形の旅行|鞄《かばん》を抱《かか》えている。無邪気《むじゃき》そうな緑の目。耳の横に染《そ》めた羽根《はね》をさして伊達者《だてもの》らしくしているが、さっきの騒《さわ》ぎで、いささかしおたれて見えた。
「僕はドリリス・ベルン。絵画《かいが》やなんかの修復師《しゅうふくし》をしてる旅回りで、さっきまでそこの酒場で仕事してたんだけどね。ところで、君だれ? どこかで会ったっけ?」
「いや」
ぶっきらぼうにロナーは首を振った。たしかにどこかで見たことのある顔だという気はしていたのだが、思い出すことができなかったのだった。ドリリスはたいして気にした様子もなく、「あ、そ」と軽くうなずき、さえずるようにしゃべり続けた。
「実はちょっと友だちが行方《ゆくえ》不明になっちゃってさ、僕が捜《さが》さなくちゃって思って旅してるとこなんだけどね。船着き場で見かけたって人がいたんで、ちょうど仕事も一段落《ひとだんらく》ついたし、手がかり捜しながらここまで河を上《のぼ》ってきたんだけど、あのおじさんにつかまってさ、やんなっちゃうよ。でももう〈館〉にいたってしょうがなかったんだ、ツィーカ・フローリスは怒るしモーウェンナは泣くし、いくら僕でもいいかげん頭に来そうだったんだ。面白《おもしろ》いことのない場所には長居《ながい》しないってのが、僕の健康の秘訣《ひけつ》なんだよ、ね。ところで君、どうしてそんな変な顔してるの? 風邪《かぜ》でもひいた?」
ロナーはまた首を振った。ひょっとして、この相手を助けたのは間違いだったのではないのだろうか。
おかまいなしにドリリスは元気にさえずった。
「でも僕って運がいいよね、そう思わない? 欲《ほ》しいときに、まさしく欲しい人に当たるんだから。ほんと、君なら討伐隊《とうばつたい》には申《もう》し分なしさ。恰好《かっこう》いいし、強そうだし、実際強いし。司令官《しれいかん》だって、一発で合格にせずにはいられないよ、きっと」
「待て。話を勝手に進めるな」
とめどなく続くおしゃべりを、ようやくロナーは遮《さえぎ》った。
「その、討伐隊とか司令官とかいうのは何だ。俺はたまたまここに立ち寄っただけで、討伐隊とも何とも関わりを持つつもりはないぞ。適当《てきとう》な船が見つかりしだい、すぐにここを離れるつもりなんだからな」
「えっ? 君、アシェンデン大公の討伐隊に参加しに来たんじゃないのかい」
ドリリスは目を丸くした。
「そりゃ駄目《だめ》だよ。困るよ、そんなの。君がいなけりゃ、僕は討伐隊にもぐりこめないじゃないか。アトリは盗賊《とうぞく》の中にいるのに、助けに行けないなんて、そんなの駄目だ」
「アトリ、だと」
あっという間に、先ほどの場面の再現となった。ロナーはドリリスの胸《むな》ぐらをつかんでぶらさげ、宙に浮いたドリリスは苦しげに足をばたつかせた。
「く、苦しいって。やめてよ、お茶をひっかけようなんて考えもしてないよ、ほんと」
「アトリの居所《いどころ》を知っているのか」
哀願《あいがん》にはかまわず、ロナーはドリリスを人形のようにゆさぶった。
「どこだ。彼女はどこにいる。言え、言わないと――」
「だから盗賊のところだってば! 放してくれって、苦……」
いきなり落とされて、ドリリスは地面に手をついて大きく息をした。
「そうだ! 思い出した。君、〈館〉の中庭でアトリの骨牌札《かるたふだ》を持っていっちゃった、あの時の客だろ。なんで君がアトリを追ってるのさ。まさかアトリをさらったのって、君のしわざじゃないんだろうね」
「おまえには関係ない」
冷たくロナーは答えた。
こちらも思い出した。こいつは〈館〉の回廊《かいろう》でぶつかってきて、さんざんたわごとをほざいたあげくに、中庭からそのまま持ってきてしまったアトリの骨牌札をすりとっていった相手だ。
その時ついでに、外套《がいとう》を留《と》めていた金の留め金を取られたことは忘れるとしても、今の言葉は聞き捨てならなかった。いつでも胸ぐらをつかめるようにかまえながら、
「彼女が盗賊の中にいる。間違いないんだな? それはあの、赤毛の女に率《ひき》いられた盗賊のことか。ダーマットは奴《やつ》らの仲間になったのか」
「その、ダーなんとかのことは知らないけど」
くしゃくしゃになったえり飾《かざ》りを恨《うら》めしげに整えている。
「赤毛の女頭目ってのが〈赤い虎《とら》〉のことなら、そうさ。ここから東へ行ったセオデン森に、薪《たきぎ》取りに行った人が見たって。河からあがってきた盗賊に出くわしてあわてて隠れたんだけど、その時、気を失った娘をかついだ男が中にいたってさ。そいつが娘のことをアトリ、って呼ぶのも聞いたって。あ、ちょっと、どこ行くのさ」
「森だな」
ロナーはすでに二、三歩歩きかけていた。
「乱暴《らんぼう》をして悪かった。おかげで手間が省《はぶ》けたようだ。感謝《かんしゃ》する。アトリはちゃんと取り戻して、いずれ故郷《こきょう》に送り届ける。心配せずに待っていてくれ」
〈逆位《リバース》〉の手に渡っていないらしいことはとりあえずの吉報《きっぽう》だ。アトリ、あの生意気《なまいき》な小娘。またいらぬ口をきいて、ひどい目に遭《あ》わされていなければいいが。
「待ってよもう、せっかちな人だなあ」
小走りにドリリスはロナーの後を追った。
「あのね、森に入ったところで、ちゃんと盗賊の巣窟《そうくつ》を見つける自信があるわけ?」
ロナーの足が止まった。
「ないでしょ」
ロナーの前に回り込んで、なだめるようにドリリスは彼の腕を叩いた。
「あの森は広いよ。たった一人で、あてもなく捜し回るにはちょっぴり広すぎるんじゃないかい。巣窟ともなれば、盗賊の数も半端《はんぱ》じゃないだろうし。だから僕たち、アシェンデン大公の討伐隊にもぐりこもうっていうんだよ」
「討伐隊? だから、それは何の」
「だからさ、ああ、もう! 字は読めるね? ほら、こっち来て、これ読んで」
腕をとり、ドリリスは一軒《いっけん》の酒場にロナーを引っぱりこんだ。
店番の娘が気のなさそうに腰を上げる。どこといって特徴《とくちょう》のない、薄暗い店内の正面に、金色の紋章《もんしょう》入りの羊皮紙《ようひし》が一枚、場違いなまでに光り輝いていた。
「『支配者にして統治者《とうちしゃ》ペレドゥア・ヒウ・アシェンデン大公|閣下《かっか》は、ご自身と誉《ほま》れある高地《ハイランド》の王、ハイランドの宗主の御名《おんな》において、以下の命令を下される』」
大文字ではっきり書かれた部分を読み上げて、あとは口の中でむにゃむにゃとごまかし、肩をすくめてドリリスはロナーをつついた。
「ま、いろいろむつかしく書いてあるけど、つまり、このごろここらへんには凶悪《きょうあく》な盗賊が出て困《こま》るから、なんとかしようってことさ。今、斥候隊《せっこうたい》が盗賊の本拠地《ほんきょち》を探ってるから、所在の見当がつきしだい、部隊を編制《へんせい》して出発するそうだよ。
一応、大公家の衛兵《えいへい》一個師団と、ほかにも被害《ひがい》をこうむってる国がいくつか、人員を出すらしいね。仕事と金が欲《ほ》しいやつは誰でも参加できるんだけど、僕みたいのじゃ、ひやかしだと思ってまともに相手にしてもらえないんだよ」
「そうだろうな」
相手の体格を見下ろして、思わずロナーは飾《かざ》らない感想をもらした。木の人形めいた腕は絵筆やこてを持つには向くかもしれないが、剣にはとても向きそうにない。慣《な》れているらしく、ドリリスは怒《おこ》りもせずにうなずいた。
「だろ? だから、協力してほしいんだ。僕は君の盾《たて》持ちか何かってことにしてくれれば結構《けっこう》だよ。君の見かけは武者修行《むしゃしゅぎょう》中の若《わか》い騎士《きし》にぴったりだし、僕のこの体格じゃ、戦士って言ってもとうてい通りそうにないもんね。君がどうしてアトリを追ってるのかは訊《たず》ねないことにする。でも、いい相棒《あいぼう》になると思わないかい、僕たち」
断る理由はなさそうに思えた。
待たなければならないのは気にくわないが、一人で行って拠点《きょてん》を捜すとなれば、よほどの幸運に恵《めぐ》まれない限り、はるかに長い時間がかかってしまうだろう。
〈十三〉のことがある以上、あまり他人の手は借《か》りたくなかったが、ひょっとして自分より先に討伐隊《とうばつたい》が盗賊を強襲《きょうしゅう》して、アトリに何かあったら困ったことになる。それ以前に盗賊がアトリに手を出さないかどうかが心配だが。
「じゃ、握手《あくしゅ》だ」
沈黙《ちんもく》を承諾《しょうだく》と受け取ることに決めたらしく、満面《まんめん》の笑《え》みでドリリスが手をのばしてきた。
「僕はドリリス、さっきも言ったけど。君は?」
「ロナーと呼んでくれればいい」
相手の手を握《にぎ》り、無邪気《むじゃき》な目をのぞきこみながら、ロナーはなんとなく、大きなぺてんにうまくひっかけられたような気がした。理由はよくわからなかったが。
(こんなこと、もうたくさんだわ)
目がさめて最初に思ったのは、その一言だった。
寝《ね》かされているのは藁《わら》をつめた寝台だった。身体《からだ》には毛皮らしい、重いものがかけられている。枕《まくら》には質《しつ》のいい麻《あさ》が使われているらしく、さらさらして気持ちがいい。
小さな小屋で、床《ゆか》は踏《ふ》み固《かた》められた地面、隅《すみ》には水桶《みずおけ》と小さな椅子《いす》が置かれている。天井《てんじょう》も草で葺《ふ》かれていて、日光がまだらになって額《ひたい》にさしていた。
頭に河の泥《どろ》がつめられているような気がして、とても動けなかった。半分眠ったまま、ぼんやりと日の移《うつ》ろっていくのを眺《なが》めていると、
「あら、気がついたのね」
明るい声がして、ひとりの女が水の入ったひらたい容器を持って入ってきた。
「まだ動かない方がいいでしょうね。ほんとうに男の人は、手加減《てかげん》を知らないから困るわ。こんな若い娘さんを、あざができるほど殴《なぐ》るなんて」
かたわらに膝《ひざ》をついて、容器を下ろした。澄《す》んだ水にきらりと陽光が反射《はんしゃ》した。アトリの顔をのぞき込んでにこりとし、毛皮の掛《か》け布団《ぶとん》をめくった。彼女のお腹《なか》が大きいことにアトリは気づいた。それまでわからなかったが、自分が下着のような簡単《かんたん》な肌着《はだぎ》一枚で寝ていることに気づいて、かっと身体がほてった。
女はなだめるようにアトリの肩に手を置き、安心して、と言葉を続けた。
「あなたは指一本ふれられていないわ、ええ、あなたが想像しているような意味ではね。ところで、どこか痛いところや、苦しいところはある?」
全部、と言いたかったが、声が出なかった。わかっていますよ、というように女はうなずいて、仰向《あおむ》けのアトリの服の前を開け、腰につけた小瓶《こびん》から、何かひんやりしたものを腹と胸に塗《ぬ》りこんだ。早春の草のような強い香《かお》りが立ち、ずっとつきまとっていたむかつきと頭痛がほんの少しましになった気がした。
「楽になったかしら? 良ければ、これをお飲みなさい。まだあまりものは食べない方がいいけれど、栄養《えいよう》はとらなくてはね」
もう一人、少女と言っていい年頃《としごろ》の娘が盆《ぼん》を持って入ってきて、最初の女性を手伝ってアトリをかかえ起こした。
枕にもたれかからせて、匙《さじ》とうつわを手に持たせてくれる。入っていたのは濃《こ》いスープで、香草の風味が強く舌《した》を刺激《しげき》した。薬草なのかもしれない。アトリが食べるのを、二人はにこにこして見守っていた。
「あの……どうも、ありがとう」
やっといくらか声が出るようになって、アトリは二人に目を向けた。
「あなたがたが助けてくださったんでしょうか?」
「いや、残念ながら、それは違うんだ」
外から張りのある声がした。
赤く染《そ》めた革服《かわふく》に身を固めた背の高い女が、大股《おおまた》に小屋に入ってきた。地面の上を滑《すべ》るような、猛獣《もうじゅう》に似《に》た歩き方をする。
「ご苦労さん、ジャンナ、レネ」
みごとな赤毛を揺《ゆ》らして、女は先にいた二人に笑いかけた。
「ここはいいから、行っておくれ。また、用があったら呼ぶよ」
二人は道具をまとめるとそろって頭を下げ、お大事に、と口々に言ってから、さっと小屋の外へ消えた。
赤毛の女は椅子を一瞥《いちべつ》すると足で横へ蹴《け》りのけ、男のようにどっかりと地面に座《すわ》ってあぐらをかいた。それでちょうどアトリと目の高さが同じになった。
その腰にさがっているのは、普通なら両手で扱《あつか》うのも難しそうな、おそろしく長くて重そうな大剣だった。そんなものを下げたまま、女は猫《ねこ》のように身軽に動いた。鋭《するど》い視線を当てられて、アトリは子供《こども》のようにどぎまぎした。
「あの……わたし……?」
「まあ、待つんだね。まずは自己紹介《じこしょうかい》だ」
白くとがった歯を見せて、女は大きく微笑《びしょう》した。
「わたしはファウナ。〈赤い虎《とら》〉、〈森の雌虎《めすとら》〉と呼ぶものもいるようだ。
いちおう、今のところ、あんたをここを連れてきた〈虎〉たちの首領《しゅりょう》ということになっているよ」
手荒《てあら》なまねをするつもりはない、と、赤毛の女|盗賊《とうぞく》は保証《ほしょう》した。
「身代金《みのしろきん》を取れたら、すぐ帰してあげるよ。あんたを連れてきた男の話によると、なかなかいいところのお嬢《じょう》さんみたいだしね。故郷《こきょう》はどこだい? 交渉次第《こうしょうしだい》で、ひと月もすれば家に帰れるよ。安心しといで」
何を安心すればいいのかしら。
途方《とほう》にくれて生返事をしながらも、アトリはなかなかこの相手から目を離《はな》すことができなかった。
美人ではないが気持ちのいい顔で、高い鼻、幅《はば》の広い顔に厚《あつ》めの唇《くちびる》が派手《はで》やかな印象《いんしょう》を与《あた》える。陽《ひ》に灼《け》けた肌《はだ》はきれいな褐色《かっしょく》で、たっぷりした髪は燃《も》えるような緋色《ひいろ》だった。
首のつまった革の上下を身につけているが、短い袖《そで》から出ている二の腕は男のようにみごとな筋肉《きんにく》によろわれている。わきに無造作《むぞうさ》に置かれた大剣に目をやりながら、アトリはおそるおそる訊《き》いた。
「あの、そうするとわたし、捕《つか》まった、ってことになるんでしょうか」
「ま、そうなるだろうね」
ファウナと名乗る女はあっさりとうなずき、けどね、と言葉をつづけた。
「でも、単なる盗賊の集団《しゅうだん》にかどわかされたなんて思わないでおくれよ。わたしたちは森の〈虎〉、誇《ほこ》りをもって都市を捨《す》てた者なんだ。無用に人を苦しめはしないし、ましてや、あんたみたいなか弱い娘さんを傷《きず》つけようなんて思ってないからね」
おずおずとアトリは問い返した。
「でも、船を襲ったのは、あなたたちなんでしょう?」
「あの船は悪事をもって〈虎〉の領域《りょういき》を侵《おか》した」
ファウナは剣に手を滑《すべ》らせてきっぱりと答えた。
「だから襲ったんだ。ああいう奴《やつ》らは禁制《きんせい》のケシ油を運んだり、時には食いつめた小作人から買いつけた娘を、下流の街へ連れていったりしている。
わたしたちはそういうやつらを見つけては、荷を燃やしたり、娘を取り返して、家族もろとも森へ迎え入れたりしてるんだよ。ま、それを盗賊と呼ぶのは勝手だけどね。ほかのこともまあ、いろいろとやってるし」
唇をゆがめ、悪びれない笑いをもらした。
「昨日も、いつもみたいに奇襲《きしゅう》をかけたんだけど、あんたみたいなのがいて、正直、こっちも驚いた。はじめは買われた娘のひとりかと思ったんだが、奴らは上流へ行く途中だったから、荷はからのはずだ。
服装《ふくそう》からして、小作人の娘とも思えない。ただの町娘にしては、あんないかがわしい船に乗ってた説明がつかない。おまけに、凄腕《すごうで》の護衛《ごえい》までついて。
どうやら、わけありだと見たけど。違うかい?」
「わ、わたし――」
ファウナの眼光《がんこう》は肉体を突き通すようだった。アトリはうつむいた。百もの言葉が頭の中を飛びかったが、どれ一つとして口から出すことはできなかった。
せめて、ロナーがいてくれればいいのに。彼なら、気後《きおく》れしたりすることなく、言うべきこととするべきことをさっさと示してくれるだろう。
そこまで考えて、顔をしかめた。
(いやだ。わたしったら、あんな男に頼《たよ》ってるの?)
「いよう。気がついたかい、お嬢《じょう》ちゃん」
場違いに陽気な声がして、誰かが戸口に垂《た》れた布をはね上げて入ってきた。ファウナが露骨《ろこつ》に顔をしかめた。
「あっちへ行け。ここは男子|禁制《きんせい》だと言っておいただろう」
「ま、そう言うなよ。この娘を連れてきたのは俺《おれ》だぜ。ああ、元気みてえだな。よかった、よかった」
身を乗りだしたひょうしに、アトリは寝台から落ちかけた。
「ダ、ダーマット!」
「とっとっと。おいおい、足下に気をつけなよ。ぼやぼやしてると、そこの大女に踏《ふ》みつぶされるぜ――」
間髪《かんはつ》入れずに、ファウナの手が動いた。かたわらの剣を目にも留《と》まらぬ早さで取り上げ、入って来かけたダーマットの襟元《えりもと》につきつける。
その場で凍《こお》りついたダーマットは、それでも気弱げな笑みを浮かべてつけ加えた。「お嬢ちゃん」
「ど、どうして、あなたが? ロナーはどうしたの!」
今の今まで自分を連れてきたのはロナーなのだと勝手に信じていたのに気づいて、アトリはうろたえた。それでは、彼は? ロナーはどこにいるの?
「ロナーというのは、黒髪の若い男のことかい」
ファウナが代わりに返事をした。
「あの男なら、無事だと思うよ。たぶんね。わたしとしばらくやりあってたんだが、荷の始末がほぼ終わったんで、乗組員ごと船に置いて退散《たいさん》してきた。最後に見たときは、剣をひっさげたまま船室から出てきて、何か叫んでたけど」
「じゃ、わたしを連れてきたのは」
「俺さ。いいかげん、この物騒《ぶっそう》なのをはずしてくれんかね、ファウナ」
ファウナは動かない。ダーマットは首をすくめると、一歩下がって小屋の外に出て、まだつきつけられている刃を、指でつまんでおそるおそる遠ざけた。アトリは腹部《ふくぶ》の鈍《にぶ》い痛みに手をあて、その原因《げんいん》に思い当たってかっとした。
「あなた、わたしを殴《なぐ》ったわね」
「あ、いや。それは」
「殴って、気絶させて連れてきたのね。よくもそんなことを!」
いきなり枕元の椀《わん》や皿《さら》を持ち上げて投げつけだしたアトリに、ダーマットはたじろいで大きく後ろへ飛びすさった。素焼《すや》きの灯心皿《とうしんざら》が派手《はで》な音をたてて砕《くだ》けた。
「ま、待てよ。殴ったのは謝《あやま》る。謝るから、待てって」
「うるさいわね、このいくじなし!」
力いっぱい枕を投げて、アトリは怒鳴《どな》った。
「彼は一人で戦ってたのよ、少しは加勢《かせい》しようって気にならなかったの? 火事場泥棒《かじばどろぼう》みたいに女を殴ってつかまえてひっさらって、なによ、このひきょう者! あんたみたいに根性の腐《くさ》ったこそ泥《どろ》、見たことないわ!」
「そうはおっしゃいますがね、お嬢ちゃん」
さすがにむっとしたらしく、受け止めた枕をダーマットは思いきり投げ返した。
「俺は、あんたのためを思ってやってやったんだぜ。さっき、ファウナの言ったのを聴《き》いただろう。あの〈館《やかた》〉の女主人が金を出す気にさえなれば、間違いなく、あんたはうちに帰れるんだ。それも近いうちに」
帰れる。
もう一度枕を投げつける力を集めていたアトリは、ぎくりとして力を抜いた。
居丈高《いたけだか》にダーマットは顎《あご》を突きだした。最初は自分もアトリを拉致《らち》するつもりだったことは、すっかり忘れてしまったらしい。
「あのままあいつについていったって、帰れる見込みがあるかどうかわからなかったろうが。俺がこっちへ連れてきてやらなきゃ、今でもあいつと喧嘩《けんか》しながら水の上を漂《ただよ》ってたところだぜ。それとも山の中かな。どっちでもいいが、感謝してほしいね。あいつのことが好きだったわけでもあるまいに」
「そんな……こと」
力なく、アトリは呟《つぶや》いた。いつのまにか、はしがちぎれそうになるほど強く、枕を握《にぎ》りしめていた。
願ってもないことのはずだ。おかしな〈骨牌《かるた》〉や、怪物《かいぶつ》や、妙な青年のことなど忘れて、家に帰る。なんてすばらしい。それこそ、この十日間、暗くて臭《くさ》い船室で、ずっと考えていたことではないか。
好きだったわけではない。もちろん、そうだ、冗談《じょうだん》ではない。大嫌《だいきら》い、あんな嘘《うそ》つき、帰してやるなんておためごかしで人をだまして。
しかし、それでも、他人が自分のために傷《きず》ついたり死んだりしていたら、胸が痛むのが自然というものではないか。彼があの船に乗らなければならなかったのが、どうやら、自分が介入《かいにゅう》したことで予定が狂《くる》った結果らしいと思われるなら、なおさら。
(帰れる……)
だから、これは罪悪感《ざいあくかん》なのだ。彼をこういう状況《じょうきょう》に引きずり込んだ原因の一つとしての、責任《せきにん》感の裏返《うらがえ》しなのだ。
そう思いこもうとしたが、あまりうまくいかなかった。急に鼻の奥《おく》が痛くなって、やわらかい枕に、アトリは額を押しつけた。無言でことの成り行きを見守っていたファウナがため息をついて、どこからか取りだした清潔《せいけつ》な布きれを渡してくれた。
「どうやらほんとにわけありのようだね」
ファウナが割《わ》って入ってきた。
「とにかく、顔をお拭《ふ》きよ。かわいい顔が台無しじゃないか」
言われるままに顔をこすり、目尻《めじり》に涙がたまっていたのを知ってアトリはうろたえた。
どうやらすっかり涙腺《るいせん》がゆるくなってしまっているようだ。ファウナは立ち上がって、厳《きび》しい視線をダーマットに向けた。
「それにしても、あんた、最初に聞いていたのとはいささか話が違うようだね。この娘は、あんたの連れじゃなかったのかい?」
「ああ、まあ、それは」
じりじりと後ずさりながら、ダーマットは愛想《あいそ》笑いを顔に貼《は》りつけた。
「まあ、その、いくらか話し合う余地《よち》がありそうだな」
「まったくだ。たっぷりと事情を聞かせてもらおうじゃないか」
脅《おど》すようにゆっくりと剣《けん》を鞘《さや》におさめ、ダーマットを追ってファウナは小屋を出た。
戸口の上で立ち止まり、アトリを振り返った表情は、しかし意外なほど優《やさ》しかった。
「騒《さわ》がして悪かったね。でも、これだけは覚えておいて。この〈虎《とら》〉の居留地《きょりゅうち》で、あんたに害《がい》をなすものは一人もいない。安心して、養生《ようじょう》しといで」
そして、ファウナの言うようにことは運んだ。
続く日々、アトリはこの数日どころか、これまで一度も経験《けいけん》しなかったような静かな生活を送った。聞こえるものといえば小鳥の声と木の葉のそよぎばかり。うとうとと眠って、起きてはおいしい、栄養《えいよう》のつきそうなものを少し食べ、また眠る。
ときおり、入り口から誰《だれ》かが覗《のぞ》いているのも感じられるが、いつのまにか積《つ》もっていた疲れが頭を上げることもできなくさせていた。
あるいは、食物に入っている薬草がそうさせていたのかもしれない。うつらうつらと眠りつづける日々を幾日《いくにち》か過ごすうちに、アトリはしだいに元気を取り戻してきた。
身の回りの世話をしてくれるのは、最初に目覚めたときにそばにいた二人の女性、ジャンナとレネで、二人は姉妹《しまい》だということだった。
「あたしたち二人とも、売られていくところをお頭《かしら》に助けられたんです」
やわらかな少女の口から「お頭」などという言葉が出るのを聞くのは妙なものだった。こういった少女たちはたくさんいるらしく、年若なほうのレネは、傷《いた》んだアトリの服をつくろいながら嬉《うれ》しそうに話してくれた。
「それで、家族もいっしょにここの森に入れてもらって。父さんはここで鍛冶《かじ》仕事をしてます。とても腕がいいんです。母さんと姉さんはみんなの食事を作ってて。あたしはまだあんまり仕事ができないけど、お針《はり》はとくいだから、ちゃんとシャツが縫《ぬ》えるようになったら、お針子の家に入れてもらうんです」
「そうね。わたしなんかより、うんと上手」
ベッドの上に座《すわ》って、感心しながらアトリはレネの運針《うんしん》を見ていた。十四だと言ったが、手つきはその倍の年齢《ねんれい》の女のように危《あぶ》なげない。こざっぱりした木綿《もめん》のスカートから、泥にまみれた裸足《はだし》のくるぶしがのぞいている。
「ここにはたくさん人がいるのかしら?」
レネはうなずいた。
「男の人たちはたいてい〈虎〉に入って森を見回ったり、襲撃《しゅうげき》に出たりしていますけど。
でもそうじゃない人は、あたしの家族みたいに、それぞれの身につけた仕事を生かして働くんです。身も知らない誰かのためじゃなくて。すみませんけど、そこのまち針、取ってくださいませんか」
「これ? はいどうぞ。わたし、盗賊《とうぞく》って、森の中の洞穴《ほらあな》に住んでて、ひげだらけの汚《きたな》いならず者ぞろいで、女を手に入れたらすぐ売り飛ばすものなんだって思ってたわ。
あ、ごめんなさい、ここがそうだって言ってるんじゃないの。ただ、あまりにも言われてることと違ってたから、びっくりしてるだけ」
レネはおかしそうだった。
「いいんです。わたしもここに来たときは、そう思いました」
「見張《みは》りとかは立てないの? わたし、いちおう人質なんでしょ、身代金《みのしろきん》を取る。逃げ出したらどうするの」
「え、そうなんですか?」
かえってあっけにとられたように、レネは目を丸くした。
「あのう、でも、どんな人でも、お頭は閉じこめたり、見張りなんか立てたりしたことはありませんよ? 閉《と》じこめないと悪いことをするかもしれない人は別ですけど」
「でも」
「だって、逃《に》げ出したって、どこへも行くところなんてないじゃないですか」
あたりまえのようにレネは言った。
「まわりは森と、河しかないし、獣《けもの》が出るし。それに、人里へ行ったって、領主《りょうしゅ》様の巡邏《じゅんら》隊に捕《つか》まって、ひどいことをされるだけだわ」
顔をくもらせるレネに、アトリは今さらのように、彼女たちが、領主からは逃亡者《とうぼうしゃ》とみなされる身であることに思い当たった。
逃げるようにアトリは話題を切り替《か》えた。
「ここにはもう、住んで長いの?」
「そうですね」
レネはそれを、〈虎〉たち全体に対する質問ととらえたようだった。
「この森に人が住んだのは、とても古いことなんです。まだわたしたちの先祖《せんぞ》が火をたくことも知らなくて、高地《ハイランド》にようやく〈伶人《うたびと》〉たちが都市を築《きず》きはじめたころには、もう、中の大地には〈大地の民《たみ》〉の城砦《じょうさい》が建っていたんです」
「〈大地の民〉? なあに、それ」
「いちばんはじめに、大地に住んだ人たちのことです」
不思議《ふしぎ》そうにレネは小首をかしげた。
「〈詞《ことば》〉も、〈骨牌《かるた》〉も知らなかったけれど、そんなものを使わなくてもいろんな不思議なことができたとかって話です。あたしたち、小さいころからずっと、〈大地の民〉のお話を聞いて育ちました」
「あら、そんなはずないわ」
思わずアトリは異議《いぎ》を唱《とな》えた。
「この世の始まりは、〈樹木《じゅもく》〉が〈円環《えんかん》〉と出会ったときからよ。少なくとも、そういう話になってるわ。それ以前に生き物がいたなんて、聞いたことない」
「でも、わたしたちの言い伝えではそうなってるんです」
レネは言い張った。
「〈大地の民〉は天地と一つになってとても栄えたけれど、〈伶人《うたびと》〉たちと違って支配することを好まなかったんです。それで、〈伶人《うたびと》〉たちが勢力を伸《の》ばしてくると、平地からしりぞいて山奥の谷や、森や、遠い離《はな》れ小島に身を隠《かく》してしまったんです」
わずかに頬《ほお》を上気させて、屋根越《やねご》しにぐるりと周囲を指さす。
「この森もそういう〈大地の民〉の砦《とりで》のあったところなんですよ。わたしたち、村にいたころは、力のある森だって言って、あがめてました。もちろん、少し怖《こわ》がってもいましたけど。〈大地の民〉の都市の跡《あと》には、いろんな不思議なことが起こるんです。種をまかなくても花が咲《さ》いたり、枯《か》れ木が芽《め》を吹いたり、年寄りの山羊《やぎ》が子を産《う》んだり」
迷信《めいしん》だわね、とアトリは思ったが、口には出さなかった。世話をしてもらっておきながら、他人の信仰《しんこう》をけなすのは失礼の極《きわ》みというものではないか。
(でも、やっぱり田舎《いなか》なのね。そんな古い迷信がまだ信じられているなんて)
「〈虎《とら》〉っていうのは、〈大地の民〉が南からこの土地に移ってきたときに、いっしょに連れてきた聖《せい》なる獣《けもの》の名前なんです」レネはつづけた。
「姿《すがた》は猫《ねこ》みたいなんだけど、馬ほどにも大きくて、金色で、鋼鉄《こうてつ》の牙《きば》と銀の爪《つめ》を持っていたんですって。最初の〈虎〉がこの森で動き出したときに、周りの領主は〈大地の民〉の獣が復活《ふっかつ》したっておびえて、その人たちを〈虎〉って呼びました。その呼び名が、今でも続いてるんです。いい名前だと思いません?」
小首をかしげてアトリを見上げる。
「そうね、なにしろ、聖なる獣の名前ですもの」
あいづちをうつと、レネはうれしそうにこっくりした。
「いつか、森の奥にある〈大地の民〉の砦あとに行ってみられたらどうですか? 古くてあちこち崩《くず》れていますけど、壁や天井《てんじょう》にはいろいろな彫刻《ちょうこく》や絵があって、とっても面白《おもしろ》いんです。わたしたちには意味はわかりませんけど、骨牌使いのアトリさんになら、見当がつくかも」
アトリはため息をついた。
「ええ、そうするわ。いつかね。でも、先にこの背中の痛いの、なんとかしないと」
「痛みますか?」
たちまちレネが心配そうな顔になる。
「でしたらますます、あの砦に行ってみるといいと思います。あそこはこの森の不思議の中心で、軽い病気なら、あそこの石段《いしだん》にしばらく座《すわ》っているだけでよくなっちゃうんですよ。あたしの姉《あね》なんか、しょっちゅう行ってます。あとひと月ほどのしんぼうなんだけど、なかなかつらいらしくって」
「そういえばお姉さん、結婚《けっこん》してるの? お腹が大きいみたいだけど」
レネはぽっと頬《ほお》を赤らめた。
「ええ、ここへ来てからいい人をみつけて。もうすぐ、生まれるんです。生まれたら、アトリさんも赤ちゃんに祝福《しゅくふく》をあげてくださいね。さあできた」
きれいにつくろった服がふわりと膝《ひざ》に広げられた。
「じゃあ、明日は靴《くつ》を持ってきますね。お日様のあたる森の中を歩くのって、どんなお薬よりもいちばんよく効《き》くんですよ」
しかし、それから十日近く、レネは姿を見せなかった。
姉のジャンナがくるわけでもなく、日によって違う相手が届《とど》けてくる食べ物や薬を口にしながら、アトリは心細さを抑《おさ》えて身体の回復《かいふく》を待った。
女頭目のファウナも、最初の日以来やってこない。たまにダーマットが現れて無駄口《むだぐち》をたたいていくが、まだ彼を許《ゆる》していないアトリは不機嫌《ふきげん》な一言二言を返すだけなので、そのうち来なくなった。
寝ていると一日が長い。半分あけた戸口から入ってくる緑のにおいをかぎながら、様々なことについてアトリは考えをめぐらした。
もうファウナの言っていた使者とやらは〈館〉についたのかしら?
(ハイ・キレセスに、帰れる)
喜んでもいいはずなのに、なぜか心は浮き立たなかった。
盗賊《とうぞく》にとらわれて送り返されるということは問題ではない。心配させるのは心苦しいにしても、ツィーカ・フローリスはささいなことにはこだわらないし、養女《ようじょ》がもどってくるとあらば、身代金《みのしろきん》ごときはまさにささいなことにすぎないとみなすことだろう。
なのに、何かが心に引っかかっていた。正体の分からないそれを、アトリは謎《なぞ》が解《と》かれないままにおかれることへの心配だと取ることにした。
モラン、ロナー、ジェルシダ、〈骨牌〉、〈十三〉。もしこのままハイ・キレセスへ帰ったとしても、身に降りかかったこれらの謎が解決されないかぎり、彼らは何度でもアトリに手をのばしてくるだろう。
自分のせいで、ツィーカ・フローリスやモーウェンナに迷惑《めいわく》をかけたくない。〈館〉の女あるじは力をつくして守ってくれるだろうが、それにも限界がある。ロナーをおそった黒い怪物のことを考えると、胸の奥が凍《こお》りつくような恐怖《きょうふ》におそわれた。自分をねらっているらしい謎の一派《いっぱ》に加えて、もしあれが、〈館〉を襲《おそ》いでもしたら。
ロナーがどうやら無事でいるらしいことをファウナから聞いて以来、一度も消息《しょうそく》を耳にしてはいなかったが、どこへ行こうと、彼は自分を追ってくるに違いないということを、ただ単純《たんじゅん》な真実としてアトリは受け入れていた。もう二度と会いたくないと口では言い、心の表面でもそう考えていたにせよ、そのずっと奥の方では、いつも彼の黒いきつい瞳《ひとみ》が、自分を見つめているのを感じていた。
やがて長い間歩いても疲《つか》れなくなると、アトリはレネが繕《つくろ》ってくれた服を着て、居留地《きょりゅうち》を歩き回った。
居留地は木々の間に隠《かく》れるようにまことにうまくできており、注意しなければ建物と樹木を見分けることはむつかしかった。張り出した枝の上には見張り台があり、弓を構《かま》えた〈虎〉が常に油断なく監視《かんし》をつづけている。
窪地《くぼち》や木立のかげに、木と木の葉でできた小屋が点在しており、目立たない場所には畑もあって、何羽かの鶏《とり》やあひるが餌《えさ》をついばんでいた。
人々は気さくで人がよく、アトリを客人と見なして、仕事の手を休めておおように挨拶《あいさつ》した。子供たちは遠い都市から来た少女に驚きの目を瞠《みは》り、このあたりでは珍しい金茶の髪と瞳にそろって見入った。
彼らのほとんどは黒髪に黒い瞳を持ち、小柄《こがら》で、浅黒い肌《はだ》をしていた。自分たちは〈大地の民〉の子孫《しそん》なのだと彼らは言った。〈骨牌《かるた》〉を使う民の支配を逃れ、森に隠れた民の末裔《まつえい》だと。違う髪や瞳のものもいたが、それは最近移住してきたり、〈虎〉の活躍《かつやく》によって、よその土地から連れてきた人々なのだろう。
黒い髪に黒い瞳は、つい最近別れた若者を思いださせた。彼は小柄ではないが、同じく黒髪、黒目だ。すっとあがったまなじりや、うすい唇《くちびる》のあたりもよく似ている。肌の浅黒さも、日に灼《や》けたものだと思っていたが、もしかしたら違っていたのかもしれない。
(ばかばかしい。だからどうだっていうの?)
ハイ・キレセスから使いが届きしだい、わたしは家に帰るんだし、彼がここの人たちに似てたからってなによ。わたしには関係ないことだわ。
〈骨牌〉のわざも注目を集めた。骨牌使いは〈骨牌〉で力をふるうというのを知ってか、さすがに本物は与えられなかったが、アトリは硬《かた》い木の葉や木の皮《かわ》を持ってきてもらって、そこへ記号を刻《きざ》み込んで簡易《かんい》の骨牌をこしらえた。
それを使って占《うらな》いをやったり、手品をしたりすると、娯楽《ごらく》の少ない居留地の人々は、大人も子供も夢中《むちゅう》になって次をせがんだ。砕《くだ》けてしまった母の骨牌を思い出し、胸の痛むことは少なくなかったが、そうしていると気分も安らいだので、アトリは言われるままに、つぎつぎと骨牌使いの手わざを見せてやった。
「ねえ、それはどういう意味があるの」
一人の子どもが、一枚の札を指さして尋《たず》ねた。
「これ?」アトリは札を取り上げた。
それは本来なら黄金の冠《かんむり》を捧《ささ》げ持つ巨人《きょじん》が描《えが》かれているはずの札で、通常は〈王冠の天使〉、または単に〈王冠〉と呼ばれるものだった。
「そうね、これは強い意志と、責任……深く寛大《かんだい》な愛情、統治《とうち》と栄光。達成、強い男、父親、それに勝利」
くるりと札を裏返してみて、
「ふだんの占いにはあまり当てはまらないけど、天授《てんじゅ》の王権、って読まれることもあるわね。運命によって、人の上に立つと定められている人のことよ」
「じゃ、〈冠《かんむり》なきもの〉のことね、それって」
別の小さな女の子がむじゃきに言った。アトリは驚いた。
「あら、どうして? この札は、ぜんぜん反対の意味の名前なのよ。それに、今のハイランドの王さまの家系は、これを持つことが真の王のあかしになるんですって聞いてるわ。誰、その〈冠なきもの〉って」
「おねえちゃん、知らないの?」
かえってびっくりしたように女の子はアトリを見返すと、黒い髪を額《ひたい》から振り払って頭を上げ、黒い瞳を大きく瞠ってまっすぐ立った。子どもとは思えないほど朗々《ろうろう》とした声が、小さな唇から流れた。
王はいずこ? 冠をもたぬ王はいずこに?
闇《やみ》ふかく、地をおおいしも、
汝《なんじ》が剣、かがやきわたらん。
高き樹木《じゅもく》のこずえにぞ、
汝が玉座《ぎょくざ》の据《す》えられん。
たぐいなき愛は世にまさり、
こうべに花をいただきて。
「あら、その歌」
聞き覚えのある旋律《せんりつ》だった。そうだ、ハイ・キレセスの〈館《やかた》〉で、あの祭りの日に招《まね》かれていた吟《うた》い手が奏《かな》でていた歌だ。
雄々《おお》しきつるぎすすむごと、
あかつきしろく燃えたたん。
闇に生まれてなお暗き、
われ求むるは光のきみ、
冠なきもの! 汝はいずこに?
「その歌って、このあたりのものだったのね」
歌い終わった女の子にアトリは言った。
「なんだ、やっぱり知ってるんじゃない」
「ちょっと聞いたことがあるだけよ。そういえば、南の地方の歌だって言ってたっけ」
「正しく言えば、〈大地の民《たみ》〉の歌ですよ」
そばから、女の子の母親が言い添《そ》えた。
「昔っからあたしたちの間には、ひとつの言い伝えが残されてるんです。
〈大地の民〉は、〈骨牌〉を使う〈天空の民〉に逐《お》われて住処《すみか》を逃れたけれど、いつか時が来たら、〈冠をもたぬもの〉が現れて、天と地とを結びつけ、砕かれることのないまことの玉座に座ることだろう、って」
農婦《のうふ》の恰好《かっこう》をした母親は、目を閉じて深い吐息《といき》をついた。
「それが、さっきの歌なの?」
「はい。外の世界じゃ、もうほとんど忘れられてるでしょうけど」
誇《ほこ》らしげに彼女は言った。
「でも、あたしたちは忘れてないんです」
ハイ・キレセスでの最後の夜以来、あの青い夢《ゆめ》はアトリを訪《おとず》れなくなっていた。それもまた、奇妙《きみょう》に不安を誘《さそ》うことの一つだった。
レネと気安くなるにつれて、アトリは少しずつ自分の身の上を少女に打ち明けるようになった。大きな港町での華《はな》やかな生活は、貧《まず》しい村の娘にとってはおとぎ話のようにうつるらしい。
目を丸くして聞き入っていたレネは、不吉な〈十三〉や黒い怪物、〈伶人《うたびと》〉、謎めいたロナーという青年の存在をもその一部分として受け入れたようだった。
「じゃあ、アトリさんは世が世ならお姫《ひめ》さまなんじゃないですか? あたし、すごい人のお世話してるんですね」
「やめてよ」アトリは軽く手を振った。
「先祖《せんぞ》がどうあれ、わたしはただのハイ・キレセスの占《うらな》い師よ。今は一刻《いっこく》も早く、家へ帰りたくてうずうずしてるだけ」
レネが〈十三〉や怪物の話を軽く受け止めてくれたのは嬉《うれ》しいが、なんともいえない不気味さがぬぐいきれなかった。
ほんとうにおとぎ話ならいい。だが、アトリを襲った怪物は確かに存在し、〈十三〉と呼ばれる骨牌も、ロナーも、ちゃんと実在するのだ。おとぎ話を自分も信じる振りをしたところで、彼らが消えてなくなるわけはない。
「つかまったみたいな気がするのよ。誰に、ってわけじゃないけど。ずっと小さいころから見ている夢だったから、寂《さび》しいだけかもしれないわね。たいしていい夢でもないのに、寂しいなんておかしな話だけど」
「いつごろから見てたんですか?」
「そうね、最初は五|歳《さい》だったかしら。月のものがあるようになってからひんぱんに見るようになったの。始まる前は特にね」
「ああ、それじゃ」
レネは訳知《わけし》り顔に首を振った。
「そういう時期が過ぎたってことですよ。あたしももっと小さいころは、月のものが始まるたんびにうなされたり、気がたかぶって眠れなかったりしょっちゅうしてましたから。気になさらなくて大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」
「そうね」
どちらが年上かわからない忠告《ちゅうこく》を受けて、アトリは視線を逸《そ》らした。
「きっと、そのせいよね――」
与えられた小屋で、顔を見せないレネを案《あん》じながら木の葉の骨牌《かるた》を整理していると、顔見知りの少女が何人か連れだって駆《か》け込んできた。
「アトリさん、アトリさん、すぐ来てください!」
「ど、どうしたの? なにかあったの?」
少女たちは上気した顔を見合わせ、笑いくずれるだけで答えない。
いぶかりながらついていってみると、彼女らは笑いさざめきながら、森のいちばん奥まったところにある仮《かり》づくりの小屋にアトリを導《みちび》いた。
「アトリさん」
小屋の前で、レネが待っていた。髪の毛をくしゃくしゃにした彼女は、興奮《こうふん》したようすでアトリの両手をとらえ、中に引きこんだ。みずみずしい青葉で葺《ふ》かれた小屋の中には、さわやかな薬草とかすかな汗《あせ》のにおいがこもっていた。
積み重ねられた枕《まくら》の上から、白い顔がアトリを見てほっとしたようにゆるんだ。ジャンナだった。かたわらには真っ赤な色の、手のひらほどに小さい顔がある。
「まあ。生まれたのね」
胸の弾《はず》みを抑えきれずに、アトリは叫《さけ》んだ。
すぐ、大声を出しすぎたことを謝《あやま》ったが、ジャンナもレネもまったく気にしたようすはなかった。アトリが喜んでいるのを見て、心から嬉《うれ》しく思っているようだった。
「だれよりも先に、あなたに見ていただきたかったの」
まだ少しかすれた声で、ジャンナが言った。
「ハイ・キレセスの骨牌使いさんなんでしょう、アトリさんは? ぜひ、この子に縁起《えんぎ》のいい〈詞《ことば》〉を告げてあげてくださいな。ここの人たちも、もちろん祝福《しゅくふく》はしてくれるでしょうけれど、わたし、生まれが都市だったもので。小さいころから、生まれた子供に骨牌使いの祝福をあげるのが、ずっと夢だったんです」
「もちろんよ。よろこんで、そうさせていただくわ」
体の熱くなるような喜びを感じながら、アトリは約束した。
さっきアトリを連れてきた少女たちが、白い花と笛《ふえ》と太鼓《たいこ》、それに新しい産着《うぶぎ》を持って入ってきた。
産湯を使ったばかりの赤ん坊《ぼう》を白い産着でくるみ、編《あ》んだ花輪《はなわ》を母親と子供それぞれにかぶせる。甘《あま》い香りが広がった。母子をかこんで、少女たちはきれいな声で歌った。
「王はいずこ? 冠《かんむり》をもたぬ王はいずこに?」
ここでも〈冠をもたぬもの〉なのね、と心ひそかにアトリは思った。どうやら、とても人気のある伝説らしい。でも、冠をもたない王様なんているものかしら。
儀式《ぎしき》が終わると、少女らは楽器をしまいこみ、男連中を呼びにいって生まれた子供のための宴《うたげ》を準備するという。アトリが骨牌使いとしてする祝福の儀式は、宴の最大の呼び物となりそうだった。
できればそれには本物の〈骨牌《かるた》〉を使いたかったので、アトリは彼女たちに同行して、どこかで安物でもいいから〈骨牌〉を手に入れてもらえないか頼《たの》んでみることにした。
それにこのままここにいて、愛《いと》しげに子供を見やるジャンナを見ているのは辛《つら》かった。よりそう母子の姿は、いやおうなしにもう一組の母と娘を思い出させる。引きとめる姉妹《しまい》を説《と》き伏《ふ》せて、アトリは少女たちといっしょに産屋を出た。
うきたった雰囲気《ふんいき》が全員をおおっていた。おしゃべりしながら森の中を抜けていくと、アトリはもう少しで、自分が身代金《みのしろきん》のための人質《ひとじち》で、ここにいるのはとらわれてきているからだという事実を忘れそうになった。
ファウナの小屋は居留地のもっとも奥まった場所にあった。扉代わりに入り口に下げた茶色いなめし革《がわ》を引き上げると、ファウナは中で行水を使っているところだった。
「おや、ご苦労さん」
そう言いながらも、ファウナは驚くべき素早さで足下《あしもと》の布を拾《ひろ》い、裸《はだか》の胸を隠した。
「どうしたんだね。何か用かい?」
「ジャンナが無事に子供を産みました。女の子です」
「こんにちは。お久しぶりね、ファウナさん」
うきうきと報告する少女の声を聞き流して、アトリは小屋の中へ首をつっこんだ。ファウナのような豪快《ごうかい》な女|盗賊《とうぞく》でも、人前で胸をさらすのは恥《は》ずかしいのだと思うとなんとなくおかしかった。白い歯を見せる笑顔がアトリにも向いた。
「おや、あんたも来たのかい。居留地の連中とはうまくやれてるようでよかったね。悪いけれど、ハイ・キレセスへやった使いはまだ戻ってきてないんだ」
「かまわないわ。そのことを聞きにきたわけじゃないの」
子供のために本物の〈骨牌〉がひとそろい欲《ほ》しいのだというと、ファウナは驚《おどろ》くほどあっさり承諾《しょうだく》し、宴の用意をする人々といっしょに行って、自分でいいのを見つくろってくるとよいとまで言ってくれた。
「わたしもいっしょに行ってあげられればいいんだけどね、ちょっと守備隊の男どもと打ち合わせしなきゃならないことがあるから」
「なにかあったの?」
「ああ、なんだかこの居留地のあたりを、変なのがうろちょろしてるらしくてね。いつものことだけど。このごろ詮議《せんぎ》がきびしいし、用心に越したことはないから。ま、あんたたちが心配することじゃない。ダニロ! ダニロ、いるかい?」
「はい、おかしら」
声に応じて、一人のほっそりした少年が小道の向こうから駆けてきた。
森の人々特有の、木々にまぎれる苔《こけ》色の服を着ている。弓矢《ゆみや》を背負《せお》い、成長期特有の長い手足をもてあましているような走り方だった。息せき切って走ってくると、ファウナの前で直立不動の姿勢をとった。
「何かご用で?」
「この娘さんを〈大地の民〉の砦《とりで》まで案内してあげてくれないかい。たしかあっちで、第二分隊の若いのが修練《しゅうれん》をやってるはずだ。都市《まち》者の娘さんを一人でやって、万一にも間違いがあっちゃならないからね」
「おれ、もうそんな使いっ走りする歳《とし》じゃないんですけど」
少年はふくれっ面《つら》をしたが、そばでこちらを見つめているアトリの視線に出会うと、もじもじしたようすで口をつぐんだ。ファウナはダニロをアトリのそばへ押しやり、自分の大剣を取って腰に吊るすと、小道を歩いていきかけた。
「そういえば、あんたの連れはずいぶんと見ばえのいい男だったね」
ふと振り向いて、からかうように言った。
「腕前だって、ここの精鋭《せいえい》をそろって一撃《いちげき》で当て落としちまうくらいだし。その上、このわたしと一対一でやりあうなんて、たいしたものさ。あんなのんだくれのごろつきを連れてくるより、あっちを連れてくりゃよかったのに」
頬《ほお》がほてるのを感じてアトリはかっとなった。
「あんな嘘《うそ》つき!」
「それにしちゃ、ずいぶん仲良くいちゃついていたようだけど」
「誰がそんな。喧嘩《けんか》してたのよ。あいつがわたしを誘拐《ゆうかい》した張本人なんだから」
ファウナは吠《ほ》えるような笑い声をたてた。
「そりゃ大変だ。じゃ、今度会うことがあったら、わたしがあの坊《ぼう》やをこらしめてあげようか。この胸に抱きしめて、思いきり熱い接吻《せっぷん》でも」
「そんな、だめよ!」
さっと青ざめたアトリに、ファウナの豪快《ごうかい》な笑いがかぶさった。
「はは、冗談《じょうだん》、冗談。わたしの好みはもう少し年上さ。あれはいささかくちばしが黄色すぎる。娘さんには、ま、おにあいだね」
「ファウナ!」
何か言い返そうとしたが、ファウナはげらげら笑いながら、あっという間に木々の間に消えてしまった。少女たちは目配せしながら脇《わき》をつつきあっている。
「気にしないでください。いつもああなんです」
弁解《べんかい》するようにダニロという少年が言った。子馬のたてがみめいた髪を後ろでひとつに縛《しば》っている。大きなよく動く瞳も、子馬のように明るい。
「こっちです。道、わかりにくいから、気をつけて。ついてこれなくなったら、いつでも言ってくださいね」
道は、獣《けもの》のそれよりも細い。アトリにはどこが道路なのかわからなかったが、ダニロは自信ありげに枝をかき分けていく。長袖《ながそで》の上着と下履《したば》きを貸《か》してもらっていたのでけがをすることはなかったが、髪が枝にもつれて何度も立ち止まった。
「髪なんて、切っちゃえばよかったわ。頭がちぎれちゃいそう」
ダニロに手伝ってもらって髪をほどきながら、情《なさ》けなそうにアトリは言った。
「そんなこと言わないでくださいよ、アトリさん。あとで俺が紐《ひも》もらってきますから、束《たば》ねるだけにしといてください。こんなきれいな髪の毛なのに、もったいないです」
最後の一筋を枝から外し終え、ダニロはほれぼれとアトリを見つめた。
話している間にわかってきたのだが、彼はダーマットに抱《かか》えられたアトリを最初に見つけた少年で、二人のことをファウナに知らせたのもダニロだったらしい。
それ以来、自分のことをアトリを守る騎士《きし》と見なしているらしく、実をいえば今までも、なんとかしてアトリに話しかける機会はないものかと思っていたと恥《は》ずかしげに言った。
まっすぐな鼻と高い頬骨は大きくなれば娘たちを騒《さわ》がせるかもしれないが、今の彼は伸びすぎた手足と背丈《せたけ》を持てあましている、ひとりの少年にすぎなかった。
「アトリさんは骨牌使いなんでしょう、ハイ・キレセスの。すげえなあ。俺、ずっと前から、骨牌使いになってみたいって思ってたんです。ねえ、骨牌使いって自分の姿を変えられるんですよね。それとか、土を金に変えたりとか、空を飛んだりとか」
「姿を変えるというのは、少し違うわね」
少年の熱心さに、ほほえましい思いでアトリは答えた。〈骨牌《かるた》〉が手元にないことが思い出され、寂《さび》しさがかすかに胸をさす。
「骨牌使いは、他人に対する〈自分〉の〈詞《ことば》〉を語り変えてみせるだけ。〈詞〉そのものを変える力は持たないわ。だから、ほんとうの変身とは違うの。
土を金に変えるなんて言うのも、まやかし。空を飛ぶなんていうのに至ってはね。誤解《ごかい》もいいところよ。中原《ちゅうげん》以外の場所では〈詞〉や〈骨牌〉があまり広まっていないから、そんな風に言われるんだけれど」
「でも、できるんでしょう? すげえよなあ」ダニロはほっと息をついた。
「俺、一度でいいから、〈寺院〉へ行って勉強してみたいんです。できれば、王都の。これでも俺、村じゃ頭のいい方だったから」
「あなたはここで生まれた子じゃないの?」
「ええ、そうです。俺、七つか八つくらいの時に、親に連れられてここへ来たんです。父ちゃんと母ちゃんはそのまま死んじゃったんで、俺だけここで育ちました」
そういう子供もここにはたくさんいるのだとダニロは言った。逃亡|奴隷《どれい》の子、災害で土地や家屋を失った農奴《のうど》の子、売られたりさらわれたりしてきた子供。もし本人が望むなら、ファウナたち〈虎〉は彼らを迎《むか》えいれる。
成長した子供はそのまま〈虎〉にとどまることもできるし、森を出て堅気《かたぎ》の生活に戻ることもできる。たいてい森の方がいいって言いますけどね、とダニロは笑った。
「この二、三年ほどはおかしな天気が続いて、あっちこっちで飢饉《ききん》が起こってるって話です。見たこともない病気がはやったりね。それで、森に入ってくる人たちも、だんだん数が多くなってきてるんです」
そこまで話して、ダニロの表情は別人のように厳《きび》しくなった。
「でも、特に数が増えたのはペレドゥアの代になってからです」
「ペレドゥアって?」
「アシェンデン大公家の今の当主です」
吐《は》き捨《す》てるように、ダニロは口にした。
「この森は大公領でも外れのほうですけど、あいつ、俺たちが目障《めざわ》りでしかたないんだ。去年、前の大公が馬から落ちて死んでから、急に威勢《いせい》が良くなってさ。何かっていうと、俺たちを潰《つぶ》そうとしかけてくるんだ。
さっきアトリさんとこで遊んでたのは、去年の夏、この近くであった崖崩《がけくず》れで、親や家をなくした子たちなんです。親が納《おさ》めるはずだった農地代の代わりだって、兵隊《へいたい》がひきずっていこうとしたのを、俺たち、みんなで襲って奪いかえしてやったんだ」
少年の瞳がきらめいた。「あの時は楽しかったなあ!」
「でも、そんなことをするから、よけいに睨《にら》まれるのではないの? 船を襲ったり、人をさらったり」
「じゃアトリさんは、あの子たちが公都に連れてかれてこき使われるのを見過ごせっていうんですか」
きっとして、ダニロは言い返した。
「極悪非道《ごくあくひどう》な盗賊〈虎〉の噂《うわさ》を広めてるのは、むしろペレドゥアの方なんだ。俺たちは必要なとき以外には、けっして人や船を襲ったりはしない。それは河ぞいの人に聞いてくれればわかるよ。街の人間や、河を遡《さかのぼ》る船のやつらがなんて言ってるのかは知らないけど、俺たちはぜったい無駄《むだ》に殺したりはしない」
「ご、ごめんなさい」
「ペレドゥアは、あいつはどんなに作物の出来高が悪くても、家畜《かちく》に病気がはやっても、貢納《こうのう》を手加減《てかげん》しようとしない」
どぎまぎして謝《あやま》ったアトリに、ダニロはさらに声を高くする。
「労役《ろうえき》を免除《めんじょ》しようなんて考えもしない。あいつの頭にはどうやって自分の勢力を伸ばすか、領地《りょうち》を大きくするか、邪魔者《じゃまもの》を潰すか、しかないんだ。
俺たちは盗賊だけど、それならあいつだって盗賊に変わりないじゃないか。しかも、自分は大きな城《しろ》でぬくぬくとしてて、人に命じて人殺しをやらせるんだ。あいつのほうがよっぽど腹黒い、卑怯者《ひきょうもの》じゃないか。俺たちは――」
自分の声の大きさに驚いたかのように、ぴたりと口を閉じる。息苦しい沈黙《ちんもく》に、アトリはそっとダニロに声をかけた。
「ダニロ?」
「いいんです。もしかしたら、アトリさんの言うとおりかもしれないから」
怒《おこ》ったようにダニロは言った。
「でも、俺たち、昔の自分や、父ちゃん母ちゃんとおんなじような目に、あの子たちがあわされるのを見てられなかったんです。
俺たちは盗賊です。でも、自分の命は自分で守ってる。ペレドゥアみたいに、法律《ほうりつ》と城と兵隊の中に隠れてるようなやつとは違うんだ」
言うべき言葉をアトリは持たなかった。商人の都市ハイ・キレセスで、支配という言葉とは無縁《むえん》に暮《く》らしてきた彼女だ。支配されるものが、するものに対して抱《いだ》く気持ちを、理解できると言ったら嘘《うそ》になるだろう。しかし、自分や親たちのような目に小さい子供をあわせたくない、というダニロの想《おも》いはじゅうぶんわかった。
わかるだけに、心配だった。〈虎〉たちの動機が単なる金目あてなら、大公ペレドゥアはそれほど彼らを目《め》の敵《かたき》にはしないだろう。だがそれが、彼の支配のもとであえぐ人々への共感と同情から来ているとなると、話は違ってくる。
ペレドゥアが怖《おそ》れるのは、〈虎〉たちが人々の支持を集め、いつしか自分以上の影響力を持つようになることなのだ。権力者とはそうしたものだと、自由世界で育ったアトリの客観的な目は告げていた。彼らにとっての究極の悪夢は、手にした世界の覇権《はけん》がいつのまにか他人に奪われてしまうこと、それに尽《つ》きる。
すでにこの森には、権力には頼《たよ》らない民が集まり始めている。望もうと望むまいと、〈虎〉たちが今後も人々の心を集めていく可能性《かのうせい》を秘《ひ》めている以上、ペレドゥアが彼らを放っておくことなどけっしてありはすまい。
ふいに目の前が開けて、明るい空を背景にひとつの崩《くず》れ残った建物がそびえるのが見えた。樹木にからみつかれ、苔《こけ》や生い茂る草に覆《おお》われていたが、数千年の時を超《こ》えてそこにはしおれた花のような優美《ゆうび》さが残り香《が》のように漂《ただよ》っていた。
大事な品や、祝い事などの時に使う食料はこの砦《とりで》あとに保管してあるという。砦は居留地の人々にとって、聖地であるのと同時に生活の中心でもあるようだ。あそこに置くと酒や肉がなかなか悪くならないんですよ、と少女たちは口をそろえた。
「俺、鍵《かぎ》外してきます。隠してあるもんで」
ダニロが駆けていった。
砦の前はところどころ草の生えた広場になっており、数人の若者が、〈虎〉予備軍らしい少年たち相手に、組み打ちや剣、弓矢など、思い思いに武術の訓練《くんれん》をしていた。
上半身|裸《はだか》になって組み手をしていた男がアトリに気づいた。
「よう、お嬢《じょう》ちゃん。散歩《さんぽ》かい」
「なじんでるのね。まるで十年も前からここにいるみたいよ、ダーマット」
皮肉《ひにく》めかしたアトリの言葉にも動じず、ダーマットはにやりとした。たくましい肩を汗《あせ》につやつや光らせたようすは、どこから見ても立派《りっぱ》な盗賊だった。
「ああ、まったく居心地《いごこち》のいいところだ。なんでもっと早くここを知らなかったかって思うとくやしいね。俺のためにできたような場所だと思ってるよ、正直なところ」
「そうでしょうね。あら、その子」
見覚えのある顔に気づいてアトリは言葉を切った。
「んん? ああ、ティキか」
腰にしがみつく子供の頭を軽く撫《な》でた。
「その通り、あの船でお嬢ちゃんの世話をしてた子だ。十一だそうだ。いっしょに来ると言ったんでな。
年のわりには小柄《こがら》だが、まあこれから大きくなると思うよ。どうやら、ろくなものを食べさせてもらってなかったみたいだしな。なあ、坊主《ぼうず》」
ティキというらしい少年は、こきつかわれる採石船《さいせきせん》の下働きよりも、〈虎〉の暮らしを選んだようだ。ぼさぼさの髪を短く切って、ずっとこざっぱりしていた。
飢《う》えたような目つきをやめると、なかなかかわいい顔立ちをしている。恥《は》ずかしそうにアトリに笑いかけてきた。友だちになれるかしら、とアトリはうれしかった。握手《あくしゅ》すると、少年はくすぐったそうにダーマットの後ろに隠れてしまった。
「お待たせしました」
ダニロが戻ってきた。
「何を運ぶの、ダニロ。手伝いましょうか?」
「いえ、いいんです」
うっすらと頬を染《そ》めてダニロは首を振る。
「ええと、何をお探しでしたっけ。〈骨牌《かるた》〉ですか?」
「ええ、そうよ。だけど、それはあとでもいいの。先にあなたたちの用事をすませてくださいな。なんだったら、わたしも手伝いましょうか」
「いえ、アトリさんにそんなこと、させられないです」
ダニロはあわてて両手を振った。
「仕事が終わったらいっしょに探しますから、その間、日当たりのいいところにでも座っててください。砦の中を見て回ってもいいし。いろんな彫刻《ちょうこく》が残ってて、きれいですよ。
おれたちにはわからないけど、アトリさんなら意味が分かるかも」
「ありがとう、そうするわ。レネにも薦《すす》めてもらってるし。親切なのね、ダニロ」
ダニロはいっそう頬を赤くし、そんな、と口ごもった。
「残念だったな。おい坊主《ぼうず》、何だったら、俺が手伝ってやってもいいんだぜ」
横からダーマットが口を挟《はさ》んだ。
「やだよ、おっさん。あんたの腹のうちくらい、こっちはお見通しさ。どうせ鍛錬《たんれん》をさぼって、日なたで昼寝でもしようと思ってんだろ」
「なんだと、おい。おれだって骨牌使いなんだぞ。ちったあ尊敬《そんけい》しねえか」
「『ちったあ』なんてぬかす野郎《やろう》に払《はら》う尊敬なんてねえよ、おっさん」
べえと舌《した》を出して、ダニロは姿を消した。ティキが驚くほど澄《す》んだ声で笑った。
一緒《いっしょ》になって、アトリもしばらく存分《ぞんぶん》にくすくす笑った。ダーマットは苦虫を噛《か》んだような顔をしていたが、やけのように腕を振り回して、さあ練習だと怒鳴《どな》った。
また子供たちが動き始めた。いっしょにきた少女たちもさんざめきながら、思い思いの作業に散《ち》っていく。ひとり手持ちぶさたなアトリはしばらく砦の階段に腰を下ろし、男たちの訓練を眺《なが》めていたが、やがて飽《あ》きてきた。腰をはたいて立ち上がると、口の両側に手を当てて大声を出した。
「ダーマット! ダニロが出てきたら、私は砦の中にいるって言ってね!」
ダーマットは片手だけ上げて了解《りょうかい》を示した。アトリは服の裾《すそ》をひるがえして段を飛び降り、青い石の階段を上がった。
一歩|踏《ふ》み込むと、石の通路は思ったよりも明るかった。
ところどころの石組みが崩《くず》れているせいで、外光がさしこんでいるのだ。ほこりが金色に輝き、小さな日溜《ひだ》まりには秋の名残《なご》りの小さな花も咲いている。
わりあいに広い通路をゆっくりと進んだ。〈虎〉たちが住んでいたと言うだけあって、室内は五百年は昔の建物とは思えないほどきちんと整っていた。先人たちの遺跡《いせき》に、彼らは十分の注意をはらっていたらしい。
砦、というよりは、貴族が夏の間住む別荘《べっそう》のような造りだ。もともと、砦と呼んだのは後世の〈虎〉たちなのだろうから、本来は別荘でもおかしくはないかもしれない。戦いのための砦に、繊細《せんさい》な柱頭や花の形の飾《かざ》り窓《まど》などは必要ないだろう。
天井《てんじょう》が高く、ゆるやかな曲線を描《えが》いているところはハイ・キレセスの〈斥候館《せっこうかん》〉を思い出させる。陽光が糸のように射《さ》しこむ部屋部屋をゆっくりまわりながら、つかの間アトリは思い出にふけり、おかしくなった。思い出。まあどうだろう、まだたった十日ほどしかたってはいないというのに、思い出、だなんて。
(いつかまた、あの館《やかた》を見ることはあるのかしら)
レネが言っていた、彫刻《ちょうこく》や壁画《へきが》もそこここで見つけた。少しは期待していたのだが、まったく意味の分からないものばかりであった。
アトリの知らない物語や、伝説をもとにしているらしい芸術品の数々。背の高い、優美《ゆうび》な人々が美しい衣《ころも》をまとって身振りをし、音楽を奏《そう》し、話し、笑いあっている。
中にひとつ、アトリの心をとらえたものがあった。
それは壁のパネルを飾る薄肉彫《うすにくぼ》りで、一つだけ、壁に着物かけのような形で作られた小室の内部に、ぐるりと刻《きざ》まれていたものだった。
十二枚の〈骨牌《かるた》〉の絵柄《えがら》が全部そろって並んでいる。一枚目の〈樹木《じゅもく》〉から、十二枚目の〈円環《えんかん》〉まで。そして六枚目の〈火の獣《けもの》〉と七枚目の〈月の鎌《かま》〉の間に、一筋《ひとすじ》の道が刻まれ、白と黒、二つの塔《とう》が並びたつ間にむかってうねりながら伸びている。
ひざまずいて調べてみたが、結局、意味を読み解《と》くことはアトリの手にはあまった。あきらめて、手をはたきながら立ち上がる。
(〈木の寺院〉に行っていれば、いくらかでも意味が分かるのかしら)
高地《ハイランド》人の文字、高地人の物語、高地人の歴史、高地人の〈詞《ことば》〉そしてわたしにも、彼らの血が流れている。なのに、彼らのことを何一つ知らない。
〈寺院〉に行かなかったことを、はじめてアトリはくやしく思った。もしかして、〈十三〉に関する手がかりを、ここで見つけられるかもしれないと思っていたのだった。本気で期待したわけではなかったが、感じた失望は思いがけず大きかった。
(ダーマットなら、わたしより少しは読めるかしらね)
しかし、歳月《さいげつ》の重みに割れ、摩滅《まめつ》していても、それらが保《たも》つ精妙《せいみょう》さはいまだ圧倒的《あっとうてき》な力を持っており、見つめるアトリは当惑《とうわく》とともに畏怖《いふ》に近いものを覚えた。
(〈大地の民《たみ》〉か)
また新しいことがでてきたわ、とアトリは思った。
ツィーカ・フローリスはそれなりの教育をアトリに与えてくれたはずだが、そうしたたぐいの知識《ちしき》はアトリの頭の中にはなかった。それを言うなら、〈骨牌〉の始祖《しそ》であるというジェルシダたちについての知識も同じことだ。
どうして教えてくれなかったのだろう。〈館《やかた》〉と街を往復《おうふく》して暮《く》らす占《うらな》い師《し》の娘に、そんな知識は不必要と思ったのだろうか。教えていてもらったからどうだということはないが、少なくともダーマットのような、骨牌使いとは名ばかりのならず者に偉《えら》そうな口を利《き》かれることはなかったはずだ。
そこまで考えてふと、恐《おそ》ろしい疑問《ぎもん》が浮かんだ。
(もしかして、ツィーカ・フローリスは知っていたんじゃないのかしら?)
アトリがジェルシダの血を引いているのを知っていて、かれらの存在を隠したのではないか? その出生《しゅっしょう》を気取《けど》らせないために?
でも、なぜ?
なんのために?
「ばかね」
声に出してアトリは呟《つぶや》いた。
そんなことあるはずないじゃない。ツィーカ・フローリスがそんな隠し事してなんになるの。もしも知っていて隠したのだとしても、わたしや母さんにいらない心配をさせないためなんだわ。そうよ。そうに決まってるわ。
きっぱりとそこから頭を引き離し、彫刻の鑑賞《かんしょう》に戻《もど》る。
ちょうど階段を上がりきったところで、広い踊《おど》り場《ば》にでていた。
正面の壁に、かなり大きな浅肉彫りがある。振り返ってみると、玄関の広い空間が一望の下《もしし》に見渡せた。すると、この彫刻は、入ってきた人間の目に真っ先に入るように置かれているらしい。
歳月が人物の顔も含めて細部をすっかり削《けず》り取ってしまっている。わかるのはその人物が長い髪とふくよかな身体《からだ》を持つ女性らしき姿をしていて、何か、大きな塔のようなものの前に立っているということだけだ。
塔?
それとも、樹木なのかしら。まるで雲のように葉を茂《しげ》らせた。
崩《くず》れ残った唇《くちびる》がわずかに弓形《ゆみがた》を描いてそりかえり、時のはてからなぞめいた微笑《びしょう》を送っている。アトリはそっと手を伸ばしてそのゆるい曲線をなぞった。
そのとたん、石が手の下でぬくもりをおびた。
アトリは壁面の上に置かれた自分の手を見つめた。
でも、今は石でできた砦の石の床の上のはず。しかし、土は手のひらに冷たく触れており、周囲では、深紅《しんく》に咲《さ》き誇《ほこ》る薔薇《ばら》の茂みがさやさやと夜風にそよいでいる。
夜風?
はっとして顔を上げると、そこは光の射《さ》し込む暗い空間の中で、正面に、黄金の肌《はだ》をきらめかせて横たわる男が苦悩《くのう》に満ちた目でこちらを見ている。
「あなたでさえなければ……私でさえなければ!」
そして火の中に立ち、恋人の黒い髪が火の粉《こ》の群《む》れとなって舞《ま》い上がるのをぼうぜんと眺《なが》めている。黒い髪、黒い瞳、ああ、この人はわたしが殺した。
叫び声が喉《のど》を裂《さ》いてあがる。周囲で世界が砕《くだ》け散《ち》ってゆく。でも、それがどうだというの、わたしのあの人は死んだ、死んでしまった、わたしがこの手で殺してしまった!
(けれど哀《あわ》れなのはあの娘、ついに生まれることもなかった子)
(ああ、どこにいるの、どこにいるの)
(かわいそうな娘、わたしの、かわいい……)
ひやりとした感触《かんしょく》が頬《ほお》に触《ふ》れた。アトリははっと目を開いた。
いつのまにか壁に身を寄せ、ぴったりと彫刻にすがりついていたのだった。まだ冷たさの残る頬をなでて、当惑《とうわく》して彫刻を見つめた。わたし、いったい何をしていたの?
今、感じたものは――いったい?
そのときだった。何かのぶつかるような鈍《にぶ》い音がした。ごく小さな音にすぎなかったが、背中を殴《なぐ》られたような気がしてアトリは動きを止めた。せわしなく走り回る音が遠く近く聞こえ、誰かが、砦《とりで》に走り込んできたらしい足音が反響した。
ひゅっと風を切る音。あの金属《きんぞく》音は、まさか、剣同士のぶつかり合う音?
(あれは!)
アトリはばねのように立った。
部屋を走り出て、通路のはしに見えていた階段を駆《か》け上がる。光が見えた。四角く切り取られた外光の中で、動くものがある。
入り口をふさぐように両手を広げた少年が、駆けてくるアトリに気づき、はじかれたように向きを変えた。
「ダニロ?」
「アトリさん!」
狼狽《ろうばい》の叫《さけ》びが届《とど》いた。
「来ちゃだめだ、隠《かく》れて……!」
言葉は途中《とちゅう》で断《た》ち切《き》られた。
少年の身体がぐらりと揺《ゆ》れた。ダニロは前のめりになって倒《たお》れ、アトリの腕《うで》の中にまっさかさまに崩れ落ちてきた。
「……うそ……」
細い背中に突きたった矢を見つめ、信じられぬ思いでアトリは呻《うめ》いた。
討伐隊《とうばつたい》の隊長はゴヴァノンという名だった。
黒い髭《ひげ》を生やした謹厳《きんげん》な顔つきの男で、ひどく無口だったが、命令を下す声は遠雷《えんらい》のように低く、腹《はら》の底にとどろくようだった。
部下には慕《した》われているらしかったが、統率力《とうそつりょく》は歴然《れきぜん》としていた。正規《せいき》の兵士が、ざわつく志願者《しがんしゃ》を手際《てぎわ》よく列《れつ》に並《なら》べていく。ゴヴァノンは無関心《むかんしん》そうに腕組《うでぐ》みしているが、その実、自分の指示のゆくえを鋭い目で監視《かんし》していた。よく統制《とうせい》された兵士たちの動きは、全体が一つの生き物のようだった。
「市場に牽《ひ》かれてく牛どもの群《む》れってとこだね」
前後のものにしきりにこづかれながらドリリスが不平を鳴らした。
「待ちかまえてるのが肉屋の裏庭《うらにわ》ってんじゃなきゃいいけど」
「やかましい。静かにしてろ」
「ああ、きみときたらそれしか言うことがないのかねえ? しいっ、うるさい、静かにしろ、黙《だま》れ。息がつまっちゃうよ、僕《ぼく》」
ほかに何を言えというのだ、と口の中で毒《どく》づいてロナーは頭を上げた。百人あまり集まった討伐隊志願者を、ふるい落とす作業が始まっていた。
結局、この町に足を踏《ふ》み入れてから、ひと月近い時間がたってしまっていた。しびれをきらして、何度も一人で出発しようとしたのだが、そのたびにどういうわけかドリリスに見つけられて、うるさくさえずられるので抜け出すこともできないでいたのだ。
一列に並べた男たちの前を副官《ふくかん》を連れたゴヴァノンが歩いている。時々腕まくりをさせたり、剣の握《にぎ》り方を見たりして、不適格《ふてきかく》者を列の外へ出していく。
追い出された中には侮辱《ぶじょく》されたといきりたち、腰に手をやるものもいたが、ゴヴァノンの鋼鉄《こうてつ》のような目に一瞥《いちべつ》されるとたちまちへなへなとなって引き下がった。ドリリスの言ったとおり、それはどこか家畜《かちく》のふるい分けに似た光景だった。
選び出されるものの数は半分以下にも満たなかった。ゴヴァノン隊長を上司に戴《いただ》くのは、なまなかなことではないに違いない、とロナーは思った。
「よし、おまえはそっちだ。次」
ゴヴァノンが正面に来た。太い腕を後ろで組み、ロナーの前で足を止めた。うす青い鋼鉄の目がまっすぐこちらに据《す》えられた。
腹の中まで貫《つらぬ》き通す視線だった。思わずしり込みし、そのことにロナーは腹を立てた。ぐっとあごを引き、力を込めて挑《いど》みかかるように見返した。彼のほうがわずかに背が高かった。後ろでドリリスが小さくなっている。
ゴヴァノンは目を細めた。
つと横を向き、副官に対して合図を送る。副官はわずかに驚きの色を表したが、すぐにロナーに向かって横柄《おうへい》に命じた。
「おい、おまえ。剣を持って前に出ろ」
「なんだと?」
「隊長がおまえの腕を見たいとおっしゃる」
ロナーは身を硬くした。もしや正体を――自分の真の[#「真の」に傍点]身分を見破られたのではないかという危惧《きぐ》がまっ先に頭に浮かんだ。
だがすぐに思い直した。もう国へは五年以上帰っていないし、アシェンデンの大公に会ったのはごく幼《おさな》いころだ。もとよりあそこでは数ならぬ身だった。もしこの男が大公について来てかつての自分を見ていたとしても、確信は持てはしないだろう。
「隊長じきじきにお相手くださるそうだ。早くしろ」
ロナーはことさら馬鹿《ばか》にしたような笑みを浮かべると、一礼し、剣をはらって進み出た。負ける気はしなかった。これまで、何度も同じような局面を切り抜けたことがある。たかが兵士の頭目|風情《ふぜい》に、勝ちを許《ゆる》す自分ではない。
ゴヴァノンは黙《だま》ってざらりと剣を抜いた。優雅《ゆうが》なロナーの動作にくらべて、それは木の根を引っこ抜くように無造作なものだった。
腰を落として構《かま》えるしぐさに、ロナーはかすかに頬《ほお》をひきしめた。洗練《せんれん》されてはいないにせよ、構えには隙《すき》がなく、戦闘《せんとう》の中で磨《みが》きあげられた無骨《ぶこつ》だが確実な力があった。
「構え、――はじめ!」
猛禽《もうきん》のようにロナーは襲いかかった。
手早く勝負をつけるつもりで、相手の右手首を狙《ねら》って武器を打ちおろした。はじかれた。身を引いたとたん、まったく思ってもいなかった方向から鋭《するど》い一撃《いちげき》が来た。
あやうく避《さ》けたが、切っ先が服に引っかかって鉤裂《かぎざ》きをつくった。返礼として肩口《かたぐち》に突きを繰《く》り出した。剣圧《けんあつ》に押されたように相手は下がった。だが十分にではなく、制服につけていた徽章《きしょう》の一つが引きちぎられて落ちた。
「やったあ!」
ドリリスが歓声《かんせい》をあげたが、ロナーはそれどころではなく、転がっていく徽章の行く先を見もしなかった。
(こいつ)
見えない圧力が、ぱっとしない制服の軍人から吹きつけてきていた。
先ほど、構えの中に感じた力が確実な形をとり、きわめて正確に、隙を狙って切り込んでくる。
ロナーが猛禽ならゴヴァノンは蛇《へび》だった。作法も、試合で尊重《そんちょう》される優美もかけらもないが、その重い一撃一撃は着実にロナーにからみついて体力を削《けず》っていく。
双方《そうほう》の顔からは完全に表情が抜け落ちていた。見ているもののほとんどが、これが命をかけた殺しあいではなく、単なる選抜試験《せんばつしけん》の腕試《うでだめ》しにすぎないのだということを忘れていた。
油断なく隙をうかがいながら、二人はたがいのまわりを回った。けたたましいドリリスでさえいまはおしゃべりを忘れ、決闘《けっとう》のゆくえを息をのんで見守っていた。
ロナーは逆上《ぎゃくじょう》していた。こんなことがあっていいはずがない。
悪夢《あくむ》を見ているような気分だった。あせる心のまま、やみくもに打ち込んだ。ゴヴァノンはするりとかわした。一瞬《いっしゅん》、ロナーの背後に、ゴヴァノンの影が巨大《きょだい》な山のようにそびえ立った。
ロナーは転《ころ》がって体勢を立て直した。信じられぬというように、その目は大きく見開かれたまま凍《こお》りついていた。
ゴヴァノンは離れたところに立ち、すでに剣を鞘《さや》に戻しているところだった。拾《ひろ》い上げた徽章がきらりと光った。
「書類をもらって、あの列に加われ。合格だ」
「待て! まだ、俺は」
「さっさと行かんか、こいつ」
ゴヴァノンの跡《あと》を追おうとしたロナーを、いらだった様子で副官がつかみ止めた。
「隊長はお忙《いそが》しい身だ。いつまでも貴様《きさま》ごとき若造《わかぞう》の相手はしておられんのだ」
突き放され、よろめくように合格者の集まっている列の方へ行った。ゴヴァノンは志願者の列へ戻り、何ごともなかったように選抜をつづけていた。
「びっくりしたねえ!」
ドリリスがするりと列を抜け出してそばへ来た。盾《たて》持ちを自称《じしょう》していた彼は、連れが合格したなら自分も自動的に合格と決めこんで、あとを追ってきたのだった。
「まさか一騎打《いっきう》ちをいどまれるなんてさ、僕、どきどきしちゃったよ。だってあんまり本当らしくて、まるでほんとの真剣勝負だったね、違う? 語りぐさだよ! だけどこれでうまくもぐりこめてまずは万々歳《ばんばんざい》ってことだね、あの隊長の下でいるんじゃちょっとばかりきゅうくつそうだけど、でも――ねえ?」
言葉を切って、ドリリスは気がかりそうに顔をのぞき込んできた。
「どうしたの? 顔色悪いよ」
「……あいつ、剣を引きやがった」
「え?」
ドリリスは目を丸くした。
「なんだって?」
「最後の最後に剣を引いたんだ。とどめをさせたのに、やらなかった。あと一突きで完全に勝てたのに、それを」
「ねえ、どうしたのさ。何を言ってるんだい」
「手加減《てかげん》しやがったんだ。この俺に」
震《ふる》える声を絞《しぼ》って、ロナーは力まかせに剣を足もとの土に突き立てた。
「畜生《ちくしょう》!」
まっすぐ土に突き刺さったまま、剣はぶるりと身震《みぶる》いした。
午後には新兵は組に分けられ、それぞれの部隊に編制《へんせい》されていた。
故意《こい》か偶然《ぐうぜん》か、ロナーとドリリスが組み込まれたのはゴヴァノンの近くにいて、ほぼ直接その指示を受け取ることになる部隊だった。
「あのゴヴァノンって人、すごいね? ずいぶんみんなに信用されてるみたいだし」
先ほどの惨敗《ざんぱい》から回復《かいふく》していないロナーが片隅《かたすみ》でむっつりしているので、同僚《どうりょう》の兵士と言葉を交《か》わすのはもっぱらドリリスの役目になった。まわりすぎる口でひたすらロナーをうるさがらせていた彼だが、その気になれば、持ち前の人なつこさと愛想《あいそ》の良さで相手の警戒《けいかい》をあっという間に解《と》いてしまうところがあった。
「すごいなんてものじゃないぜ。あの人はずっと代々アシェンデン大公家に仕えてきた軍人の血筋《ちすじ》で、言ってみれば生粋《きっすい》の近衛《このえ》筋ってやつかね。もちろん大公は王じゃないが、親戚《しんせき》であることは確かだ。知ってるか、先王のお妃《きさき》で今の王のご生母であられる方は、今のアシェンデン大公の妹|君《ぎみ》なんだぜ。もう亡《な》くなられたがな」
「へえ、そうなんだ。えらい人なんだね、大公って」
無邪気《むじゃき》にドリリスはあいづちをうった。
「それに領民《りょうみん》のために盗賊《とうぞく》を討伐《とうばつ》させるだなんて、とってもいい人だよね」
「さあ。実を言えば、なんで今さらという気がしないわけでもないんだが」
相手は小首をかしげてみせた。
「もちろんこの森に盗賊がいることは以前からわかってたし、被害も出てたんだが、これまで腰も上げなかった大公|閣下《かっか》が、ゴヴァノン隊長まで出して、やっきになって殲滅《せんめつ》にかからなきゃならんような理由は見あたらん。少なくとも、俺《おれ》にとっちゃな」
「ふうん」
「ま、そこは下々にはわからん上《うえ》つ方《かた》の都合《つごう》ってもんかもしれんが」
兵士はため息をついた。
「俺としちゃ、隊長について行ければそれでいいのさ。あとは給料《きゅうりょう》さえちゃんと払《はら》ってもらえりゃな。どっちにしろ、この仕事はあまり気味がよくないぜ。俺だってもとは、毛布一枚持ってないようなどん底の靴《くつ》なおしの息子《むすこ》なんだしな」
「あそこにいる奴らは何だ?」
「うわっ、驚いた。いきなり出てこないでよ」
「あいつらは兵士じゃないだろう」
顔をしかめているドリリスにかまわず、ロナーは訊《たず》ねた。
指さした先には、兵士たちとは混《ま》じらず、仲間たちだけでひっそりとうずくまっている異様《いよう》な黒い長衣《ローブ》に身を包《つつ》んだ一|団《だん》がいた。
男も女もいるようだったが、ほとんど声を立てず、身動きもしないので、はっきりしたことはわからない。まわりで声高《こわだか》に笑ったり、ののしり合ったりしている男たちの中で、その集団は不吉な予感のように、重く黒々と静まりかえっていた。
「ああ、あいつらか」
問われた兵士も、その集団のことはよくは思っていないらしかった。いちおうそちらを見はしたがすぐ視線をそらし、浄《きよ》めの光明《こうみょう》と悪運からの加護《かご》を示《しめ》す〈はばたく光〉のしるしを宙《ちゅう》に描《えが》いた。
「俺もよくは知らないんだ。誰も知らない。ここへ来る間際《まぎわ》になって、大公が部隊に加えるように指示したらしい。骨牌使いなことは確かなようだ。これまでゴヴァノン隊長が、部隊にあえて骨牌使いを加えたことはなかったんだが」
骨牌使いが戦闘《せんとう》に加わるのは禁《きん》じられてはいないが、できれば避《さ》けるべきだというのは骨牌使いとそうでない者とを通じて暗黙《あんもく》の了解事《りょうかいごと》となっていた。かつて旧《きゅう》ハイランドを壊滅《かいめつ》に追いこんだという〈堕《お》ちたる骨牌使い〉の記憶《きおく》が、いまだに人々の意識に影を落としているのだった。
〈寺院〉で教育を受ける骨牌使いの卵《たまご》がまっ先にしつけられるのは、直接人を傷つけるような〈骨牌《かるた》〉の使い方をしないこと、できるかぎり常に権力《けんりょく》からは中立を保《たも》つこと、自分の欲望《よくぼう》のために〈骨牌〉を使用しないこと、の三点だった。
中でも最後の一つに対しては厳しくいましめられ、守れない人間はダーマットのように、組織を離れてはぐれ[#「はぐれ」に傍点]となるしかない。もちろんその場合はもはや何の保護も身元の保証も受けられず、何かことを起こせば、かつての仲間に全力をもって潰《つぶ》されることになる。
「なんでもあいつらは東の国から来たって噂《うわさ》だぜ。俺も話に聞いただけだが。軍が今までひと月も待機してたのは、やつらの到着《とうちゃく》を待ってたからだとさ」
「しかし、あっちの人間は〈骨牌〉を信じていない。だいいち東方と旧ハイランドの領地《りょうち》は、昔から土地を取ったり取られたりしてきた仇敵《きゅうてき》のはずだろう」
「だから、聞いただけだって言ってるだろうが」
いらいらした様子で兵士はさえぎった。
「別にどうだっていいさ。もしかしたら奴らも思い直して、今さらだが〈詞《ことば》〉の知恵を学び直そうって気になったのかもしれんしな。誰にわかる? とにかく奴らが〈骨牌〉を操《あやつ》りまちがえて、こっちの尻《しり》に火をつけさえしなけりゃ俺はかまわんよ。近くに寄ってこられるのはごめんこうむるがね」
「いったいどうしたってのさ、さっきから? あの隊長さんにあしらわれたのが、そんなに腹が立ったわけ?」
「黙《だま》れ」頭ごなしに言ったが、ロナーの顔は上の空だった。
「あいつらはおかしい。あの黒服の集団だ。気になる」
「どうしてさ? 骨牌使いだって言ってたじゃないか」
「それは聞いた。だが、何かがちがう、――ような気がする」
狼《おおかみ》のようにロナーは鼻にしわを寄せた。
「どこがどうとは言えないが。何かが」
「そんなことじゃ誰も説得できないよ、ロナー。きみって人はまったくやっかいだねえ。ほら、へんなこと考えてないで、こっちへおいでよ。お昼食べはぐれちゃうよ」
斥候隊《せっこうたい》から、森の奥の高地《ハイランド》人の砦《とりで》あとで盗賊《とうぞく》と接触《せっしょく》したという知らせが入ったのは、夕暮れ近くなったころだった。
部隊はすぐさま出立した。しだいに濃《こ》くなるたそがれにまぎれて、森を囲《かこ》むように進軍し、盗賊の逃げ道をふさぐ作戦だった。
「三番隊、五番隊、前へ」
前方でゴヴァノンが低い叱咤《しった》をとばす。
「七番隊と十番隊は後ろへ回れ。一番隊は骨牌使い隊の護衛《ごえい》で右翼《うよく》へ。二番、四番隊、は、おれのあとに続け」
「僕、あいつら嫌《きら》いだな」
ドリリスがぼやいた。木々に見え隠れする左手の方で、黒衣《こくい》の集団が音もなく並行して進んでいる。
「だってものすごく陰気《いんき》なんだもの。ねえ、いつまでこんなことやってるのさ。早くアトリを捜《さが》しに行こうよ。ぐずぐずしてたら、戦いにまきこまれちゃうよ」
「わかってる」
ゴヴァノン隊長はなぜかほぼいつもロナーの視界に入る場所におり、隊長|直属《ちょくぞく》に近い部隊にいるロナーたちは、ほとんど人目から逃れる時間がなかった。
最初考えていたように、目的地だけを聞き出して、混乱《こんらん》にまぎれそっと部隊を離れることなどできそうもない。一度もこちらを見ないにもかかわらず、ゴヴァノンが常に自分の存在を意識していることを感じて、ロナーは歯ぎしりした。
「待って。あいつら、〈骨牌《かるた》〉を持ってないよ」
ドリリスが不安そうに言った。
「〈骨牌〉なしで、どうやって力を使うつもりなんだろう?」
近くでわっと喚声《かんせい》がおこった。本隊が盗賊たちと激突したらしい。
黒衣の骨牌使いたちが身じろぎし、同時に向きを変えて天を仰《あお》いだ。
ぞっとして、ロナーは立ち止まった。
「あいた!」
後ろを進んでいたドリリスがぶつかってわめいた。
「まったくもう、いいかげんにしてよ、ロナーってば」
「見ろ」
あえぐようにロナーは言った。
「なんだってのさ、ほんとに」
鼻をなでてぶつぶつ言いながら、ドリリスはのぞき込みかけて、ひっと声を立てた。
黒衣のものどもは一回り大きくなったように見えた。
地鳴りのような音がそちらからしてくる。だが次の瞬間《しゅんかん》、その昔は彼らの喉《のど》から出ているのがわかった。音はぐねぐねと渦《うず》を巻き、しだいに濃さを増す夕闇《ゆうやみ》の底に、とぐろをまいてわだかまるように思えた。
黒衣の両手が上がった。地面いっぱいの大鴉《おおがらす》の群《む》れがはばたいたかのようだった。生白い指にはめられた金属の指輪《ゆびわ》がぎらぎら光った。
いきなり、奇怪《きかい》な音が、全員の口から流れ出た。およそどんな言語とも呼べぬ音が、いまだかつて耳にされたことのない旋律《せんりつ》と抑揚《よくよう》を持って長々と吐《は》きだされた。十数|対《つい》の手が、宝石《ほうせき》をぎらつかせながら奇怪な身振《みぶ》りを宙に描く。
みしり、と大気がきしんだ。
「ロ、ロナー、あれ、あれ……!」
しがみついたドリリスが口をぱくぱくさせる。
青く澄《す》みわたった空に、うすく筋《すじ》が走った。黒い筋は見る間に広がり、水に落とした墨《すみ》のように、空を汚《よご》して暗い門が口を開けた。
凍《こお》りつくような冷たい風が全員の顔に吹きつけた。漆黒《しっこく》の空間に、ちらちらと光る星のようなものが見える。それよりもなお暗いものが、ぬるりと動いた。そいつはぬるぬると滑《すべ》って門を越《こ》え、重たげにぼたりとこの世界に落ちてきた。
粘液《ねんえき》をしたたらせた不定形の頭が、のろのろともたげられて居留地《きょりゅうち》に向いた。
ロナーがぐいとドリリスの腕をつかんだ。
「来い、ドリリス」
「ま、待ってよ! どうしたんだい、そんなにあわてて」
「奴《やつ》らは骨牌使いなんかじゃない、もっと別のものだ」
唸《うな》るような返事が返った。
「奴らは〈骨牌〉によらず力を使う。奴らの唱《とな》えた言葉は〈異言《バルバロイ》〉に似ている、奴らは――邪魔《じゃま》をするな!」
前に立ちふさがりかけた男がげっといって倒れる。ゴヴァノンの部下を一撃《いちげき》で叩《たた》き伏《ふ》せ、ロナーは居留地へ向かう黒い異形《いぎょう》を追って風のように走り始めた。
「うかつだった、あれは〈異言《バルバロイ》〉の眷属《けんぞく》だ。奴らの狙《ねら》いはアトリなんだ!」
「アトリ! ダーマット!」
森の道を敏捷《びんしょう》に抜けてくるファウナを見たとき、安心のあまり、アトリは危《あや》うく失神《しっしん》しそうになった。
逃《のが》れてこられたことが信じられない。まだ剣戟《けんげき》と、血の臭《にお》いが鼻にしみついている。ここまでも、ほかの若者たちに抱《かか》えられるようにしてやっと走ってきたのだった。
「どれくらいの人数? 怪我《けが》は?」
まさしく森林の虎《とら》のように、音もなくそばにたどりついてファウナがアトリの手を取る。赤い胴着《どうぎ》を着込み、弓と例の諸刃《もろは》の大剣で武装《ぶそう》を整えた彼女は、〈天秤《てんびん》〉の札に描《えが》かれた審判《しんぱん》の剣の所持者のようにりりしかった。
「十二人。三人|逃《のが》した」
ダーマットが簡潔《かんけつ》に答えた。後ろには、彼を初めとする砦《とりで》周辺にいた若者と子供たちが続いていた。誰もがどこかしら傷ついて血を流しており、ダーマットも例外ではない。背中には、ぐったりと目を閉じたダニロが背負《せお》われていた。背中に立った矢は奇跡《きせき》的に急所を外れていたが、傷は深かった。
裂《さ》いた服を応急手当に巻きつけてあるが、とてもそれだけでは出血を止めることはできない。どす黒いしみは不気味にじわじわと広がり続けている。
「たぶん先発隊か、斥候《せっこう》だろう。あっちも俺《おれ》たちに出くわして驚いているようだった。だが、逃げたやつらがもうすぐ援軍《えんぐん》を連れてくる。ぐずぐずできんぞ」
ファウナはすてばちな笑みを浮かべた。
「わかっているさ。アシェンデンだ。今度こそ本腰を入れてわたしたちを潰《つぶ》す気かね。ダーマット・オディナ」
「なんだ」
「〈骨牌《かるた》〉が欲しいか?」
「当たり前だ。おれは剣もできるが、本職《ほんしょく》は骨牌使いだからな。あるんなら貸《か》してくれ。おれは今、むかついてるんだ。ものすごく」
「そう見えるよ」
ぼそりと言い、ファウナは懐《ふところ》から取り出した革《かわ》の小袋《こぶくろ》を投げた。印《しるし》のない持ち主なしの袋で、中から、簡素《かんそ》な造《つく》りの香木製《こうぼくせい》の〈骨牌〉が一組出てきた。
「川岸の関門を頼《たの》む。どうやら敵《てき》にも骨牌使いがいるらしい。守備兵がそれらしい一隊を見かけたと言ってる。〈骨牌〉の力は〈骨牌〉でしか抑《おさ》えられない。頼んだぞ」
「任《まか》しとけ」
「待って、ダーマット」
〈骨牌〉を滑《すべ》らせながら駆《か》けだそうとするダーマットにアトリはとりすがった。
「ティキは、ティキはどうしたの? 姿が見えないんだけど」
ダーマットはじっとアトリを見つめた。それが、すべての答えだった。くるりと向きを変えて骨牌使いは行ってしまい、アトリはふいに膝《ひざ》から力が抜けるのを覚えた。
「しっかり、アトリ」
ファウナが指に力をこめる。アトリはきつくファウナの手を握《にぎ》り返した。そうでもしないと、二度と立ち上がれなくなりそうな気がした。
「笑ってたのよ、あの子」
あやふやな口調《くちょう》でアトリは呟《つぶや》いた。
「私にむかって笑ってたのよ、ついさっきまで。なのにどうして? どうして死ぬなんてことが? どうして」
「そんなものさ。すぐに死んじまうんだ、人間なんてものはね」
押し殺した声で囁《ささや》いて、女|頭領《とうりょう》はにじんだ涙《なみだ》を隠すように横を向いた。
「あんたはちびどもを連れて、武器庫の中に隠れているんだ。あそこは一番|扉《とびら》が固いし、見つかりにくい場所にあるから。食料も水も運び込ませておいた。まわりが静かになってから三日たつまで出て来ちゃいけない、いいね」
ファウナはどこか悲しげに微笑《ほほえ》むと、頬《ほお》に軽く唇《くちびる》を当てて、軽い足取りで駆けていった。
立ちつくすアトリを、子供たちが取りかこんだ。こうした場合の対応もしつけられているらしく、不安そうではあったが、泣きだしたりするようなものは一人もなかった。
「こっちです、アトリさん」
ダーマットが降ろしていったダニロを、若者の一人が代わりにかつぎ上げた。先に立つ若者のあとに、夢遊病《むゆうびょう》のような足取りでアトリは従《したが》った。
子供たちがぞろぞろと続く。人数が多いわりに、奇妙に静かな集団だった。遠くで一度だけ人間の悲鳴が響き、すぐ静かになった。いちばん小さな子がくすんくすんと鼻を鳴らしたが、そばにいた年かさの少年に抱きよせられて黙《だま》った。
「ここです。入ったら、外から封印《ふういん》しますから」
武器庫は草の生えた土手の斜面《しゃめん》に、くぼみに隠れるような形で作られていた。
中は広く乾《かわ》いており、埃《ほこり》の臭《にお》いがした。武器は運び出されてほとんど空っぽで、古そうな短剣や、矢などがいくらか床《ゆか》に散《ち》らばっているだけだ。
干《ほ》し肉の包《つつ》みや固パン、水樽《みずだる》などが積《つ》み上げてある。若者は馬用の古毛布を取ってきて、ダニロをそっと横たえた。
「ガキどもが迷惑《めいわく》かけるかもしれないけど、すいません。薬と包帯《ほうたい》も少しは入れといたんで、できたらこいつの手当て、してやってください」
「あなたは入らないの? ここには」
「俺、守備隊の構成員に入ってますから。一応」
誇《ほこ》らしさと緊張《きんちょう》の入り交《ま》じった顔で、若者はにやりとした。
「ここにあいつらを近寄らせたりしませんから、安心してください。それと、ダニロのこと、お願いします。俺、そいつに銅貨《どうか》五枚分、貸《か》しがあるもんで」
横たわった少年の頭を一度だけ撫《な》でて、若者は外へ出ていった。子供たちに向けた眩《まぶ》しいまでの笑顔が目の裏に残った。
扉が閉まり、かんぬきの刺《さ》さる音がした。誰かが手探りで立ち上がり、灯《あか》りをつけた。黄色い光に、いくつもの小さな顔が照らしだされた。
その中に見慣れた顔を見つけて、アトリはほっとして手を伸ばした。
「レネ、あなた、レネね。無事だったのね、お姉さんはどこ?」
レネは身を背《そむ》けると、腕に抱いた小さな包《つつ》みを隠《かく》すようにして後ずさった。
包みの布がわずかにずれ、赤みを帯びたおもちゃのようなちっぽけな顔がかすかな泣き声をあげた。思いがけない拒絶《きょぜつ》にアトリはうろたえて手を引いた。
壁際《かべぎわ》の急ごしらえの寝台で、身じろぎする気配がした。
「アトリさん……? 俺」
ダニロが目を開けて、まばたきしていた。アトリは急いでそばへ行った。
「しっ、静かに。ちょっと怪我《けが》したのよ、あなた。でも今、薬をつけてあげるから、静かにして寝ていなさいね」
「まいっちゃうよなあ。アトリさんにいいとこ見せる機会だったのに」
けだるそうに笑ってまた目を閉じる。
「外。どうなってますか?」
「みんなが戦ってるわ、心配しなくてもいいの」
声が震えるのが怖《こわ》かった。
「あなたの仲間でしょ。みんな、強いの知ってるでしょう。だから安心なさいな」
「はあい。すげえや、俺、骨牌使いに手当てしてもらってるんだ。アトリさんに」
目を閉じたまま、ダニロはくつくつと喉《のど》を鳴らした。
「あとで仲間のやつらに、恨《うら》みかっちゃわなきゃいいけど」
かいやしないわよ、そんなのと言いかけて、喉がつまった。急いで咳《せき》でごまかしたが、鼻の奥が針《はり》でつき刺されたように痛む。
「……ダニロにさわらないで」
単調な声が妙《みょう》に大きく響いた。アトリはぎくりと後ろを向いた。
うつろな表情のレネが、布にくるんだ赤ん坊を仇《かたき》のように握《にぎ》りしめてアトリを凝視《ぎょうし》していた。仮面《かめん》のようなこわばった顔に、ふたつの目だけがぎらぎらと燃えていた。
「親切ごかしてやさしいふりなんかしないで。あなたがこの災難を居留地《きょりゅうち》に持ち込んだんじゃない。あの兵隊たちは、あなたを捜《さが》してここへ来たのよ」
「――え」
とっさに言葉を返すことができなかった。それと同時に、わかっていたはずではないか、と頭のどこかで誰かが叫《さけ》んだ。彼らが追いついてきたのだ。
襲《おそ》いかかってきた黒い怪物《かいぶつ》。身体《からだ》を包んだ輝く光。ダーマットを雇《やと》ったという謎《なぞ》の商人。無事でなんていられるはずがなかった。レネの瞳《ひとみ》がアトリを告発した。
「あいつら、あたしに言ったのよ、ハイ・キレセスの娘はどこだ、〈十三〉の娘はどこにいるって。姉さんはまだ起きあがれもしなかったのに。もし、みんなが助けに来てくれなかったら、あたしも、この子も、姉さんみたいに……」
鋭《するど》いしゃくり上げがレネの言葉をとぎらせた。目の前が暗くなるのをアトリは感じた。では、ジャンナは殺されたのか? 子供を産《う》んだばかりだったというのに? あれほど幸福そうに、光り輝いていた矢先に?
「何もかもあんたのせいよ。あんたが悪いんだわ。あんたさえこなければ」
「やめろよ、レネ」
ダニロが驚くほどしっかりした声で叱咤《しった》した。
「だからってどうなんだ? アトリさんは好きこのんでここへ連れてこられたわけじゃないし、おれたちに何も悪いことはしなかったじゃないか。アトリさんを責《せ》めるのは筋《すじ》違いだよ。〈虎《とら》〉は間違ったことに対しては徹底的《てっていてき》に戦うんだ。〈大地の民《たみ》〉の裔《すえ》が、こんなことくらいでへたばったりするもんか」
レネは答えず、赤ん坊を抱きしめたまま背を向けた。
ダニロは再《ふたた》び目を閉じ、のどの奥でうめき声を上げた。言葉の剣に胸をずたずたにされながら、アトリは急いであり合わせの薬草と布を引き寄せた。
(わたしに、何ができるの?)
手近な薬草をもんで塗《ぬ》りつけ、包帯を換《か》えたが、その間にもダニロの顔色は悪くなっていく。効《き》いていないようだ。
〈骨牌《かるた》〉があれば、〈青の王女〉の札《ふだ》で癒《いや》しの力を引き出すことができたかも。
ダーマットに一枚だけでも借《か》りてくるのだった。つかの間|悔《く》やんだが、アトリの骨牌使いの能力は治療師《ちりょうし》としてのものではなかったし、自分にあわせて調整していない〈骨牌〉でちゃんと力を使えるかどうかは怪《あや》しかった。
(『厄災《やくさい》を呼ぶ〈十三〉』)
やはり、この災《わざわ》いはわたしが呼んだのだろうか? おそろしい想像に身震いした。現れればすなわち天下を揺《ゆ》るがすという〈十三〉の骨牌の力が、〈虎〉の討伐隊《とうばつたい》を呼び寄せ、ジャンナとレネや、ティキやダニロにこんな運命を押しつけたのか?
今まで占い師として、何度も争いや怪我《けが》、病気、そして死の〈詞《ことば》〉を語ったことがある。だが、実際に目《ま》の当たりにする死と闘争《とうそう》は完全にアトリを圧倒《あっとう》した。自分がどれだけ無知だったかを思い知らされたような気がした。
自分が今まで知っていたのは、〈骨牌〉という大きな書物の中に映し出された幻影《げんえい》にすぎなかった。それを見て、自分を何でも知っている、強い娘だと勘違《かんちが》いしていた。
運命を語り、新たな世界をよびさます〈骨牌〉。だが、真に必要なときに引き出せないのなら、〈骨牌〉にどんな意味がある? 骨牌使いであることに、どんな意味があるというのだ? 使えない〈骨牌〉は物にすぎない。
必要なのは〈詞〉の力。
「アトリさん?」
「しいっ」
ダニロの傷を覆《おお》って両手を乗せる。目を閉じ、首を上げ、風の音を聞くかのように、闇の中に意識を澄《す》ました。
(わたしたちはすべて〈詞〉によって語られたもの)
ならば、わたしの中の〈詞〉を動かすことは可能なはず。あるいはダニロの中の〈詞〉を。〈骨牌〉なんかなくても、骨牌使いのわたしなら。
小夜啼鳥《ナイチンゲール》のアトリ、力あるベセスダの娘、遠く〈骨牌〉の始祖《しそ》たる、ジェルシダたちに連なるというわたしなら。
母さんが認めてくれるような娘であるのなら。
「お願い」
歯を食いしばって呟いた。
「お願い……!」
木の根を飛び越え、茂《しげ》みをなぎ、樹上からの矢の雨をついて進む。
盗賊《とうぞく》どもは森を知りつくし、思いもよらぬ場所から攻撃をしかけてきた。その上、隊を離れたロナーとドリリスを盗賊の仲間と見なしたか、討伐隊の兵士までもが追いかけてくる。四方を敵《てき》に囲まれた状態で、二人は混乱《こんらん》する森を駆けた。
踏み出した足の下で綱《つな》がぶつりと切れた。木の梢《こずえ》が大きく揺《ゆ》れ、しかけられた槍《やり》ぶすまが落ちてくる。
ロナーは剣で頭上を払い、身を投げだした。はじかれた槍が折れて飛び、雨のように地面を突いた。同時にいくつものばねのはじける音がし、行く手の木々の上から、同じような槍ぶすまと、ぐったりした男の身体が一つ、落ちてきた。
「わあ、びっくりした。間一髪《かんいっぱつ》ってとこだよね」
ひらりと木から飛び降りてきたドリリスが笑った。手にしているのは、絵の具を練るとき、こて代わりに使う柄《え》つきの小刀だ。
驚いたのは、ドリリスが外見とは裏腹《うらはら》に、ひどく腕が立つことだった。直接剣を合わせるのは不得手《ふえて》のようだが、小柄《こがら》な身体を生かして敏捷《びんしょう》に動く彼は、狭《せま》い森の中ではむしろロナーより多くの敵をほふっている。見る間に、また一人の男が小刀のえじきになって斜面《しゃめん》を転がり落ちた。
「いったいおまえは何者だ、ドリリス」
「だから、旅の修復師《しゅうふくし》だってば」
「ごまかすな。ただの修復師が、そんな暗殺者まがいの技《わざ》を使えるか」
「そう思うなら、ま、それでもいいけどね」
しゃあしゃあとうそぶいて、いきなり小石をロナーの顔めがけて飛ばした。
間一髪で避《さ》けたロナーの背後で、低い悲鳴が上がる。目をつらぬかれた討伐隊の兵士が、剣を振り上げたままゆっくりと倒れるところだった。つかの間立ちつくすロナーの頭上を、ほがらかな笑い声がカケスのように飛びこえていく。
「そらっ、ぼやぼやしてると、後ろからばっさりだよ!」
舌打《したう》ちして、ロナーは足を早めた。ドリリスを追及するのはあとでいい。一刻《いっこく》も早く、アトリのもとにたどりつかねば。
怪物の姿を見失ったのは、森に入ってほとんどすぐのところだった。戦線を離れようとするのを見とがめた討伐隊の兵士や、盗賊たちがしかけたさまざまな罠《わな》に足止めされているうちに、巨大《きょだい》な黒い生き物は空中に溶《と》けるように消え去ってしまったのだ。
だが、いなくなったわけではないのをロナーは知っていた。〈異言《バルバロイ》〉の眷属《けんぞく》に、自分の知るこの世の常識《じょうしき》などあてはまらないのは承知《しょうち》している。今、この瞬間《しゅんかん》も、それは〈十三〉たるアトリを目指して確実に進んでいることは疑いない。
(人間によって呼びだされる〈異言《バルバロイ》〉だと?)
そんな話は聞いたこともない。〈異言《バルバロイ》〉は〈詞《ことば》〉によって生まれた生あるすべてにとって、到達《とうたつ》すべからざる禁断《きんだん》の地平だ。ハイランドの王の血脈《けつみゃく》が年々|薄《うす》まり、それにつれて〈詞〉の力も弱まりつづけているとはいえ。
何の前触《まえぶ》れもなく、正面の大木が二つに割れた。中は一種の塹壕《ざんごう》になっており、盗賊の一団が得物《えもの》をかかげて雄叫《おたけ》びとともに討って出た。
たちまち乱戦となった。駆けつけてきた討伐隊兵士も加わり、二十人近い人数が木立《こだち》の間に入り乱れる。兵士の一人がロナーの前に立ちふさがった。
「盗賊の間者《かんじゃ》め!」
血に狂《くる》った目をぎらつかせて、剣を振り上げる。
次の瞬間、肩から血を噴いて倒れた。血しぶきの向こうに、それと同じ色をした髪が動いた。返り血と泥《どろ》に汚《よご》れた顔が、目を見開いてロナーに向く。
「あんたは」
「おまえか!」
ロナーは思わず前に出ていた。相手は〈虎〉の女頭目、ファウナだった。驚愕《きょうがく》はつかの間だった。両手持ちの剛剣《ごうけん》をかまえなおし、不敵《ふてき》に瞳が燃えた。
「そうかい。一人じゃ取り返す自信がないんで、大公のやつに後ろだてになってもらったってかい。見損《みそこ》なったよ。もうちょっとましな男だと思ったのにね」
「それは違う。アトリをどこへやった? 彼女はどこだ!」
「あの娘ならちゃんと安全なところにいるよ。心配しなくても、あんたの所には戻《もど》る気はないとさ。だから、安心して――死にな!」
気合とともに、ファウナが剣を突きあげる。ロナーは受けとめた。鋼《はがね》と鋼がぶつかり合い、ロナーは身をかわし、うなりを上げる刃の下をくぐり抜けた。内ぶところに飛び込み喉《のど》を狙《ねら》うのを、横殴りの一撃ではね返される。
「やるね。いい腕だ。あんたなら上等な〈虎〉になれたろうに、まったく惜《お》しいよ」
「盗賊の仲間などまっぴらごめんだ」
「大公の犬でいるよりはましさ」
「別に手下になったわけじゃない。おまえたちこそ、なぜ法を破る真似《まね》をする?」
「ほら、あんたも結局お偉《えら》いさんの仲間なんだ。法でパンが買えるかい? 子供の病気が治るかい? 高すぎる土地代が払えるかい? もしそういうことを全部やってくれるのなら守ってやるさ、だが、できないんなら、みんなまとめてくそっくらえだ」
ファウナはあざ笑った。
「あんたたち上《うえ》つ方《かた》はなんにも知っちゃいない、そのくせ、自分たちにとって邪魔《じゃま》だと決めればすぐさま叩《たた》きつぶす。虫けらなみにね。だけど虫にだって、噛《か》みつく口があることくらいは知っとかなきゃあ!」
「待て!」
何かを感じたロナーの手が止まる。ファウナは剣を振りかぶった。
その目前に、突然、光る点が現れた。
光はみるみるふくれ上がり、驚愕《きょうがく》に手を止めるファウナの前で、銀髪を長くたらした美貌《びぼう》の青年の姿に結晶《けっしょう》した。
青年はロナーを守るように、両手を広げてファウナを遮《さえぎ》った。
「なんだ、おまえはあっ!」
「待て、ユーヴァイル、殺すな!」
ほぼ同時に、ロナーとファウナは叫んでいた。ファウナはロナーに向けていた剣を、青年に向けて飛びかかった。
青年はわずかに眉《まゆ》を寄せ、上げた手をファウナの額《ひたい》にかざした。
指先さえふれられることなく、ファウナの手から剣が落ちた。
「死んだのか」
「いえ。意識を封《ふう》じただけです」
こともなげに言う。
くずおれたファウナを抱きおこして、ロナーは息をついた。よかった。この女に死なれたら、アトリの居場所を聞き出すあてがなくなる。
青年はあわい色の瞳に、ほとんど何の感情も宿すことなく彼を見た。
「そろそろご自分の立場をわきまえられてはいかがです、アロサール殿《どの》。あなたはこのような子供《こども》じみた冒険《ぼうけん》に首を突っ込むべきではない」
ロナーは相手をにらみつけただけだった。
「いかに〈樹木〉が許《ゆる》したとしても、あなたが命を落とせば、ハイランドは最後の世継《よつ》ぎを失うのですよ。そのことの意味がわからぬあなたではないはずでしょう」
「なぜ、ここが?」
問いかけを無視してロナーは訊《たず》ねた。
「彼女が呼びました」
「彼女?」
一瞬考え、愕然とした。
「アトリか? まさか!」
「なぜ『まさか』なのです? 彼女はジェルシダの血族であり、〈十三〉の扉《とびら》となる宿体だ。ほかの〈骨牌〉たちを引き寄せたところで少しもおかしくはない」
「なんだって?」
「今、彼女は、無意識のうちに〈十三〉の扉を開こうとしている。太古よりの血のささやきに従《したが》って」
遠い響きに耳をすますように、青年はかすかに首を傾《かたむ》けていた。
「私たちを呼んだのは、彼女の脈打つ力の響きです。〈異言《バルバロイ》〉の者もまた、その波動を目指して彼らの昏《くら》い〈小径《パス》〉を進んでいることでしょう」
「それを知っていながら、こんなところで――」
「わかっています。彼女の所へはエレミヤが向かいました。私の役目は、〈十三〉と〈青の王女〉のもとに不埒《ふらち》な雑魚《ざこ》どもをたどりつかせないこと」
青年はゆらりと兵士たちのほうへ向いた。
奇妙な威圧感《いあつかん》に撃《う》たれて、後ずさる者もいないではなかった。だが、ほとんどの者は異常な現れ方をした青年に気圧《けお》されつつも、じりじりと包囲《ほうい》を狭《せば》めている。
「わが名はユーヴァイル、〈月の鎌《かま》〉」
美しい青年の唇《くちびる》が、優しくささやいた。
「心ある者はこの場を逃《のが》れよ。そうでなければ、来るがいい。永遠《とわ》にさめぬ安らぎを、おまえたちに与えてくれよう――」
「何か、音がする」
うす闇の中で、小さな女の子が不安げにささやいた。
アトリはほとんど聞いていなかった。意識と精力《せいりょく》のすべては、手の下で、今にも鼓動《こどう》を止めようとするダニロの心臓《しんぞう》にあった。
意識をすませ、肉体を滑《すべ》り出て、深く深く降下していく。〈詞《ことば》〉は肉体、肉体は〈詞〉。壊《こわ》れた肉をつなぎ合わせよ。砕《くだ》けた旋律《せんりつ》をふたたび唄《うた》わせよ。
どこ? 砕かれた音の鎖《くさり》、乱された〈詞〉のかたち。
ああ、ここだ。赤に緑に青に黄に、そのほか、形容しがたいありとあらゆる色彩《しきさい》に輝く精緻《せいち》なかたちが視《み》える。それは入り組んだ路地と胸壁《きょうへき》、高い尖塔《せんとう》と深い谷間めいた闇をあわせもつ巨大な城《しろ》めいた構築物《こうちくぶつ》である。
しかもそれはひっきりなしにかたちを変え、いっときたりとて同じままにいることはない。それこそは、人の心の移り変わり、揺れうごくさま。伸び上がる塔とどこまでものびる路地はたどりきた生涯《しょうがい》と成長のあかし、それとともに濃《こ》くなりまさる影と闇とは魂《たましい》に刻《きざ》まれる苦悩《くのう》と暗い思いそのまま。
これが人間、これがいのち、これが魂。生きてあるもののなんと美しいこと。栄《さか》える都市をはるか雲の上から眺《なが》めるように、その美は見るものを打ちのめす。
だがその一点に、みにくい染《し》みがうごめいている。矢の一撃《いちげき》によって打ち抜かれた傷《きず》が、このすばらしい構造にいたいたしい暗黒をきざみつけている。
「お姉ちゃん……どうしちゃったの?」
「しっ」
子供たちがささやき交《か》わす。その声も、もはやアトリには届《とど》いていない。
目に見えぬ手ならぬ手をのばし、ちぎられた音の連なりをつかむ。
欠《か》けた音を補《おぎな》い、とぎれた響きをつなぐ。手と、癒《いや》しの意志《いし》と名付けられた〈詞《ことば》〉のつらなりが、新たな旋律となってえぐられた部分を埋《う》めていく。
触《ふ》れられた人の〈詞〉はかすかに震えて共鳴《きょうめい》し、完璧《かんぺき》な対位《たいい》法でもってアトリに答える。魂の都市はしずかに身震いする。暗い小道をゆききする光がほのかに輝きを増《ま》す。
子供たちが徐々《じょじょ》に周囲に集まってきた。温《あたた》かいからだがぴったりと寄《よ》り添《そ》う。
しかしレネだけは赤ん坊を抱いたまま仲間を離れ、暗いすみへ行って膝《ひざ》を抱《かか》えてうずくまったまま動こうとしなかった。
「ああ」
ぼんやりとダニロが目を開いた。
「雨が、降ってるみたいだ……水の――匂《にお》いがする……」
「扉《とびら》が!」
その一声で、静寂《せいじゃく》の音楽の世界は砕《くだ》け散《ち》った。
見開いたアトリの目に飛び込んできたものは、おびえきって自分にしがみついてくる子供たちの顔と腕、そして、外から今にも破《やぶ》られようとしてきしむ扉の裏側《うらがわ》だった。
見守るうちに、扉はついにばらばらになって倒れた。血にまみれた兜《かぶと》がぬっと頭を出し、子供たちが金切《かなき》り声を上げた。
「やあ、子持ちの牝《めす》がいやがったぞ」
ひげづらの顔が、子供を抱えたアトリを見て笑った。臨時雇《りんじやと》いのならず者であるらしい男は、殺戮《さつりく》と略奪《りゃくだつ》に酔《よ》いしれて、理性をどこかへやってしまったようだった。
「ちょうどいい。おれ一人だ、楽しませてもらうぜ、嬢《じょう》ちゃん」
アトリは立とうとした。だが、あまりにも〈詞《ことば》〉の世界に没頭《ぼっとう》しすぎていたため、身体《からだ》がきかずにまた座《すわ》りこんだ。男の影が夜そのもののようにのしかかってきた。
「みんな、下がって!」
それだけ言うのがやっとだった。ダニロの上に身を投げかける。
兵士が何か言っているが、聞こえない。嵐《あらし》のような耳鳴りが物音を圧《あっ》する。ぎらつく刃《やいば》が上がり、落ちてくるのがまるで蜜《みつ》の中を泳ぐかのようにゆっくりと見える。
(殺される。ダニロが)
「やめてっ……!」
瞬間、頭頂部《とうちょうぶ》から足の先まで稲妻《いなずま》が走ったような気がした。
はるか遠くで悲鳴が聞こえ、重いものが倒れる音がしたようだった。
狙《ねら》いをそれた剣が、そばの地面に不気味な音をたてて突きたつ。
「ダニロ!?」
何が起こったのかわかりもせず、アトリは、横たわる少年にただすがりついた。
「ダニロ、ダニロ、大丈夫《だいじょうぶ》? しっかりして、ダニ……」
声は途中《とちゅう》でかすれて消えた。
触《ふ》れた頬《ほお》は、冷たく凍《こお》っていた。鼻も、唇《くちびる》も、呼吸《こきゅう》が感じられない。
青ざめたまぶたを閉じて、ダニロは眠っているように見えた。弱々しく、だがしっかりと打っていた鼓動《こどう》は、いくらさぐっても、感じることができなくなっていた。
「――そんな……」
そんなことって。
アトリはへたりと手をついた。
今さらのように、手に残る熱い痺《しび》れと、顔に散った生臭《なまぐさ》い滴《しずく》に気づいた。はっとして額《ひたい》をさぐる。指先はぬるりと滑《すべ》り、赤く染《そ》まった。
はじめて兵士のことを思いだし、足もとに転がったものを見た。
とたん、こみ上げた吐《は》き気《け》に、ぐっとうめいて口を覆《おお》った。
それは上半身をきれいに吹き飛ばされた、人間の腰《こし》と両足だった。
誰が、どうやってこれをやったのか、一瞬たりともアトリは疑わなかった。自分がやったのだ。ダニロを守りたい一心で。
この手から投げつけられる、必殺の〈詞〉を思うことができる。致命的《ちめいてき》な鋭《するど》さを持つ槍《やり》のような〈詞〉が、兵士の〈詞〉を支配し、粉砕《ふんさい》するさまが。手にとるようにやり方が視《み》える。なにもかも自然で簡単《かんたん》だ。呼吸するのと同じように。
(殺した。人を)
そしてダニロも。
「う……そ」
しわがれた声が口から洩《も》れた。
「嘘《うそ》……嘘よ。こんなの、嘘……嘘よ……!」
「ほう、これは凄《すご》い。初めてにしてはなかなかの威力《いりょく》だ」
感心したような声がした。アトリはぱっと振り返った。
「誰?」
「お初にお目に、〈十三〉殿《どの》」
砕《くだ》かれた扉の向こうに、黒い長衣《ローブ》をまとった人影があった。深くおろした頭巾《ずきん》の下で、笑っている口もとが見えた。
「いや、お初、というわけではないな。たしかハイ・キレセスの〈斥候館《せっこうかん》〉でお会いいたしましたか。あの時はまだあなたも〈十三〉ではなかったし、わたしもこういう顔ではありませんでしたな。では、この顔ならば、思いだしていただけますか」
男は――少なくとも、声は男のものだった――ゆっくりと頭巾をはいだ。
出てきたのはこれといって特徴のない中年男の顔で、アトリにとって特に見覚えのあるものではなかった。
だが顔の皮膚《ひふ》の下で、おびただしい虫が蠢《うごめ》いたように見えた。一瞬ののち、そこには別の男の顔が現れていた。記憶《きおく》の底から、その男の名が口に上ってきた。
「モリオン・イングローヴ」
「そういう名でしたか。何分、多くの名を使っておりますもので、今一つ覚えきれませんでね。思いだしていただけたところで、ひとつ私とご同道《どうどう》願えますかな」
「お断《ことわ》りよ」
からからに乾《かわ》いた口をようやく動かす。
「誰《だれ》が。あんたなんか、と」
「そうおっしゃると思いまして」
いくらか悲しげに、モリオン・イングローヴと名乗っていた男は言った。
「私以外にも、迎《むか》えのものを連れてきております」
鳥の羽ばたきめいて、黒い衣が翻《ひるがえ》った。
空中を掻《か》いた手の軌跡《きせき》が、膿《う》みくずれた巨大な傷口のようにぱっくりと口を開けた。虚空《こくう》からどろりと流れ出してきたおぞましい姿に、後ろに固まっていた子供たちが、かすれた悲鳴をあげて抱き合った。
「むさ苦しいものですが、役には立ちますよ。どうあっても、私と来ていただかねばなりませんのでな。多少の手荒は必要悪として、ご理解願いましょうか」
アトリは口もきけなかった。
ロナーを追っていた、あのたえまなく姿を変える異形《いぎょう》の生き物だ。悪臭《あくしゅう》のするなかば霧《きり》のような身体《からだ》、濡《ぬ》れた擬足《ぎそく》を引きずり、ぺちゃぺちゃといやらしい音をたてながらこちらへ這《は》いよってこようとしている。
いつのまにか、武器庫の入り口にはモリオン・イングローヴと同じ黒衣に身を固めた一団がいた。ほとんど聞き取れないほど低い声で口を動かしている。身内のきしむような違和感《いわかん》と同時に、なぜかひどく懐《なつ》かしい響きのような気がして戸惑《とまど》いを覚えた。
詠唱《えいしょう》がひときわ高まったかと思うと、黒い生き物はぐっと身体を持ち上げ、腐《くさ》った泥《どろ》の堆積《たいせき》のような影が、抱き合った子供たちとアトリの上に大きくかぶさってきた。
「いやっ!」
嫌悪《けんお》感と、原始的な恐怖がアトリを突き動かした。
とっさに子供たちをかばって身を伏《ふ》せた瞬間、全身が炎《ほのお》に包まれたような気がした。下腹に発した炎は頭頂部まで一気に駆けのぼり、噴出《ふんしゅつ》した。
ざわめく血がうなりを上げ、先ほどのものとは比較《ひかく》にもならぬ強さでひとつの〈詞《ことば》〉を発する。あまりにも強力なそれは真紅《しんく》の翼《つばさ》のようにアトリの背中から広がり、黒い怪物は、まるでろうそくの灯《ひ》のように、あっけなくその場でかき消されてしまった。
「な、なんと、凄《すさ》まじい」
余波《よは》を受けて、地面に転がったモリオン・イングローヴがようやく身を起こした。ほかの黒衣の者たちは、同じように吹き飛ばされてそちこちに転がっている。
衣の裾《すそ》がずたずたに裂《さ》かれているのはよいほうで、妙な具合に曲がった腕や、短くなった足などを抱えてのたうちまわっている者が見られた。
モリオン・イングローヴ自身は無傷《むきず》だったが、黒衣の頭巾《ずきん》はなくなり、のっぺりとした顔に汗《あせ》の粒《つぶ》をにじませていた。
「これはやはり、急いだ方がよいかも知れませんな。これほどまでに薄まっていても、ジェルシダの血とはさすがに荒々《あらあら》しいものだ」
『さがれ。無礼者』
自分の口からもれた、銀のような声にぎくりとした。
身体が勝手に動き出す。伏《ふ》せていた子供たちの上から身を起こし、アトリは別人のように冷ややかな目つきで、驚いているモリオン・イングローヴをねめつけた。
『そなたごとき弱き札《ふだ》にさしずは受けぬ。わらわを誰《だれ》と心得おるか。不快《ふかい》じゃ。それより早う、ここから出せ。もはや眠《ねむ》りには飽《あ》きはてたわ』
(誰? 誰がしゃべっているの?)
「おお、これは」
モリオン・イングローヴの背がぴんと伸びた。倒れている配下の黒衣どもなど見向きもせず、貴族よろしく胸に手を当てる。
「公女|殿下《でんか》がお出ましとは知らず、まことに失礼いたしました。ならばこの激しさも、なるほど合点《がてん》がいこうというもの。ではごゆるりと、こちらへ。異言使《バルバロイ》いどもが、〈小径《パス》〉を開いてお待ちしておりますゆえ」
(「わたしは行かないわ、何を言ってるの!」)
だが、アトリは鷹揚《おうよう》にうなずき、ありもしない裳裾《もすそ》を払って立ちあがった。
うやうやしく頭《こうべ》を垂《た》れたモリオン・イングローヴのもとへ堂々と歩を運ぶ。いくら抵抗《ていこう》しても無駄《むだ》だった。自分の唇が、かつてなく妖艶《ようえん》な微笑《びしょう》を形作っている。身内に渦巻《うずま》く力をまざまざと感じることができた。その自信、その傲慢《ごうまん》、その無慈悲《むじひ》をも。
あまりにも鋭《するど》く、冷たいので、触《ふ》れるだけで指を落とさずにはいない刃のような精神だった。彼女はアトリを圧倒《あっとう》し、アトリを支配した。
完全すぎて、かえって圧倒を圧倒と思わず、支配されることの喜びをすら感じさせるものだった。彼女の強力な意志が、アトリの魂《たましい》を書き換《か》えていく。それでもいいと思った。これほどまでに力強い〈詞《ことば》〉の一部になれるのならば、なぜ抵抗《ていこう》する必要があろうか?
支配を破ったのは一人の小さな女の子だった。おびえきったその子は、離れていこうとするアトリの足もとに駆け寄り、泣きながらしがみついたのだ。
「いや! お姉ちゃん、いや、行かないで! いや!」
彼女は石ころでも見るような目つきで、女の子を一瞥《いちべつ》した。
身体の奥から、〈詞〉が紡《つむ》ぎだされようとしている気配がアトリにはわかった。彼女はこの子を消そうとしている。邪魔《じゃま》な石ころを戯《たわむ》れに池に蹴飛《けと》ばすのと同じ感覚で、この小さな子を!
「見なさい、やっぱり殺す気よ、あなたも同じなのよ!」
レネの叫《さけ》び声が全身に突き刺さる。
(やめて、お願い、やめて……!)
出せない声で、アトリがそう叫んだ時だった。
多くのことが一度に起こった。アトリの足もとから、金色の光の柱が噴出《ふんしゅつ》して身体全体をのみこんだ。
公女! と声をあげて走り寄ろうとしたモリオン・イングローヴは光の中から出てきた何者かに吹き飛ばされ、宙に舞った。
内臓《ないぞう》を引きちぎられるような苦痛に神経を焼かれ、アトリは身もだえた。苦しんでいるのはアトリか、それとも彼女なのかわからない。あたたかい手が頬《ほお》に触《ふ》れ、いい匂《にお》いのするなめらかな絹《きぬ》が唇《くちびる》をこすった。
「落ちついて」
優しい声が、力強く言った。
「今は、わたしがあなたの力の閂《かんぬき》となっています。気を静め、心を澄《す》ませて、わたしの波動に同調してください。大丈夫《だいじょうぶ》。わたしは、あなたの味方です」
「はっはあ! 久しぶりだな、エレミヤ、〈青の王女〉」
空中で、モリオン・イングローヴは体勢を立てなおしていた。何も支《ささ》えるもののない空間にゆうゆうと直立しながら、
「まだあの死にかけた王についているのか? いいかげんにあきらめて、新しい主人を見つける気はないのかね。おお、頼むよ、そんなおそろしい顔をしないでおくれ。長いつきあいじゃないか、おたがい」
「やはりあなただったのですね、〈傾《かたむ》く天秤《てんびん》〉。スウェルのモラン」
きっとして、エレミヤと呼ばれた女性は空を踏《ふ》んで立つモランを見上げた。優しげな顔立ちのほっそりした女性で、貴婦人《きふじん》と呼ぶにふさわしいゆるやかな衣装《いしょう》を身につけている。鼻筋《はなすじ》の通った横顔が、どことなく母に似ているように思えた。
「恥《はじ》をお知りなさい。昏《くら》き〈異言《バルバロイ》〉のとりことなり、〈骨牌〉をあざむいた裏切り者。一度は選ばれながら堕落《だらく》の道をとり、すすんで〈逆位《リバース》〉となりはてたあなたを、王はどんなに哀《かな》しまれたことか」
返ったのはあざ笑う声だけだった。
「まだ良心のかけらでも残っているというなら、今、ただちにこの場を去り、二度とわたくしたちに姿を見せないことです。〈異言《バルバロイ》〉をあやつるそのような者たちを連れて、いったい何をたくらもうというのですか」
「知れたこと」
モランは歯をむき出した。浅黒い顔にぐるりと白い歯が現れ、まるで顔が二つに裂《さ》けたように見えた。
「汚《けが》れ、疲《つか》れた古きハイランドに、真の世継《よつ》ぎをもたらそうというのさ」
エレミヤは蒼白《そうはく》になった。
「やめなさい、モラン! そんなことをしたら」
「どうなるだろうな、いったい。おまえたち、ばか正直な〈正位〉にはわからんことさ。ひっこんでいろ、エレミヤ。黙《だま》って結果を見ているがいい。さあ、まずはそこの〈十三〉を渡してもらおうか」
「いいえ、駄目《だめ》。この娘はわたくしたちが面倒《めんどう》を見ます」
アトリを自《みずか》らの腕にいっそう深く抱き込む。
「あなたこそ引きさがるのです。ハイランドの王はただ一人、ハイランドの世継ぎもただ一人です。あなたのような背信者《はいしんしゃ》に、〈十三〉の力を渡すわけにはいかない」
「いくら話しても無駄《むだ》のようだな」
モランの顔が凶暴《きょうぼう》にゆがんだ。黒衣の下の手がさっと上がり、青白い光球が火花を散《ち》らして手のひらの上に浮《う》かんだ。投げつける。
光に見えるのは、必殺の意志を練りあげた〈詞《ことば》〉の嵐《あらし》だった。相手の肉体と精神を構成する〈詞〉を傷つけ、乱し、うち砕《くだ》かずにはおかない異形音《いぎょうおん》の群《む》れ。
怖《おそ》れげもなくエレミヤが顔を上げる。朱色《しゅいろ》の唇が二言、三言なにかを呟《つぶや》いたかと思うと、純白の輝きがアトリと彼女を取りまいた。光球は竪琴《たてごと》の細い弦《げん》のような音とともに、砕けて飛びちった。
「ほう、少しは強くなったか」
嘲笑《ちょうしょう》して、新たな〈詞〉の光球を手の上に作り出す。
「だが、守っているばかりでは、いずれ力つきるぞ、エレミヤ」
「そのようですね」
同じく守りの意志を秘めた〈詞〉の障壁《しょうへき》のうちで、エレミヤは微笑《ほほえ》んだ。
その視線がちらりとモランの背後に走る。それに気づいたことが勝負を分けた。モランは振り向き、そこに、牙《きば》をむいて襲いかかる巨大な火の蛇《へび》のあぎとを見た。
とっさに防御《ぼうぎょ》したが、衝撃《しょうげき》までは殺しきれなかった。身体のつりあいを失って、モランは地上に落下した。
大木のそばでダーマットが、再度ありったけの能力をこめた一撃を放とうと、〈骨牌《かるた》〉の束《たば》に指を走らせていた。傷つき、疲れた様子だったが、双眸《そうぼう》に秘めた闘志《とうし》にはいささかの衰《おとろ》えも見えなかった。
「おのれ、ちんぴらが」
だが、その横あいから新たな攻撃が加えられた。銀光が走り、黒髪黒目のすらりとした青年が、振りぬいた剣のきらめきとともに飛びこんできた。
あやうく外されたことに舌打ちしながらも、ロナーは切っ先をモランの首に向けて、すっくと立った。
「ロナー、ダーマット! あなたたち!」
「小賢《こざか》しい小僧《こぞう》どもがっ!」
モランはロナーの胸めがけて光球を放った。
エレミヤがすかさず障壁を張ったが、ロナーはよろめき、剣は手を離れて宙を飛んだ。てっきりロナーがやられたと思い、アトリは口を押さえたが、彼の顔に、してやったりといった笑みがあるのを見て息を呑《の》んだ。
「ダーマット!」
ロナーは叫んだ。モランはぎょっと首を回したが、すでに、ロナーの手放した剣はダーマットの手に収まっていた。
剣士に気を取られていて、骨牌使いには背を向けていたモランの胸を、身体ごとぶつかったダーマットの剣が深々とつらぬいた。
「最初っから、てめえは気にくわなかったんだ」
腕に力をこめながら、ダーマットは吐《は》き捨《す》てた。
「ティキの仇《かたき》だ。死にやがれ、くそ野郎《やろう》」
「これはこれは」
胸板《むないた》から、血にまみれた剣が不気味に突きだしているにもかかわらず、モランの声はひどくのどかなものだった。最初に姿を見せたときの、商人めいた丁寧《ていねい》な口調《くちょう》に戻って、彼は胸から生えた鋼鉄《こうてつ》の刃を軽くこづいた。
「いささか油断したようですな。仕方がない、この度《たび》は、これで退散《たいさん》いたしましょう。またお目もじつかまつりますぞ、わが公女|殿下《でんか》、〈十三〉殿《どの》」
ふざけた仕草《しぐさ》で大げさなおじぎをすると、ダーマットとロナーに寒気のするような笑《え》みを向けて、〈傾《かたむ》く天秤《てんびん》〉はふいとかき消えた。
まったく唐突《とうとつ》で、しかも、何の痕跡《こんせき》も残っていなかった。倒れていたはずの黒衣の男女さえ、いつのまにかいなくなっている。
むなしく地面に転がった剣を拾い上げ、ダーマットが唖然《あぜん》としていた。
「そんな馬鹿《ばか》な。たしかに、急所を突いたはずだってのに」
「アトリ、無事か? 怪我《けが》はないのか?」
急ぎ足にやってきたロナーが、肩に手をかけた。
アトリは返事をしなかった。聞きたいことも、言いたいことも、いろいろあるはずだった。だが、何も言えない。
視線は武器庫の奥に横たわる半分だけの死体、丸く固まった子供たちと、レネと、その輪の中心に横たわる、動かぬ少年だけに向けられていた。
白い、冷たい横顔。血の気をなくした手。二度とほほえまない唇。
(助けようと思った。助けたかった。なのに)
「アトリ?」
「……う」
救えなかった。
「アトリ……おい」
くずれるようにロナーの胸に顔を埋《うず》め、アトリはすすり泣き始めた。
[#地から2字上げ](Uにつづく)
文庫版あとがき
富士見ファンタジア文庫ではたいへんお久しぶりです。初めましての方には、こんにちは。いつもお世話になっている方々には、ありがとうございます。五代ゆうでございます。
この『〈骨牌使《フォーチュン・テラー》い〉の鏡』は、二〇〇一年二月に富士見書房のファンタジーレーベル「ファンタジー・エッセンシャル」の一|冊《さつ》として、単行本で出版していただいた作品です。
本の出版はいまから五年前ですが、当時、さまざまな事情から、原稿《げんこう》を脱稿してから三年ほどの間があき、作品自体はほぼ十年前のものとなります。
これを書いた当時、私は二十七|歳《さい》でした。考えてみれば、よくまあここまで続けてこられたものであるなあ、と我《われ》ながら遠い目になります。
今年でものかき生活に入って十五、六年になりますが、まさかここまで長く続けられるとは思っていなかった、というのが正直なところです。
ご存じの方はご存じだと思いますが、私はなにしろ、一回書き始めるとどこまでも長くなる悪い癖《くせ》の持ち主です。しかも、全部書いてしまうまでどんな話になるか自分でもわからない、という担当さん泣かせのプロットの書けないものかきです。
時々お友だちの作家さんに「なんでそれで最後ちゃんと締《し》められるんですか」とか訊《き》かれますが、そんなこと私が教えてほしいです。
というのはまあ置いておいて。
『〈骨牌使い〉』は私にとって最初の単行本だったと同時に、一種の区切りになった作品でした。
それまでの私はデビュー作以来、ずっとファンタジーを書いていて、今でも世間の方々には「ファンタジー作家」として認めていただいているようです。
けれども『〈骨牌使い〉』を書き終わった当時、私は、「ファンタジーはもういいかな」とこっそり思っていました。ファンタジーという形式で自分が書くべきことは、もう全部|吐《は》き出してしまった、と感じていたのです。
何か、憑《つ》き物が落ちたような気分でした。デビュー作から数えて四本、私はいつも同じテーマを頭のどこかに抱《かか》えていて、それを何度もくり返し磨《みが》いては、あちこち回してためつすがめつしていたような気がします。
『〈骨牌使い〉』は、その集大成のためのお話だったのかもしれません。もう書くべきことはすべて書いた、と思ったとき、少し寂しい気がしたと同時に、まるで肩《かた》に羽《はね》が生えたように、自由な気分になったのを覚えています。
その後、満足した私はファンタジーから離れて、ホラーを書いたり何だりしまして、いろいろと新しい経験もして、こうしてまた富士見ファンタジアに戻《もど》ってまいりました。
当時とは、読んでくださる方々も、また現在の自分も、相当変わっています。
時代も変化しました。正直、今、この物語が読者の方々にどのように受け取っていただけるのか、不安であると同時に、大きな興味《きょうみ》も持っています。
この物語は三巻分冊となります。あわせて千五百枚の長い旅ですが、どうぞ途中で降りることなく、おつきあいいただけると嬉《うれ》しいです。
最後になりましたが、単行本版の担当M氏、そしてMさんから引継《ひきつ》ぎ&現担当のT氏に感謝いたします。
そして単行本版の弘司《こうじ》様に代わって、新しいイラストで世界を彩ってくださる宮城《みやぎ》様、ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。
それでは、皆様《みなさま》に楽しんでいただけることを祈《いの》って。
富士見ファンタジア文庫
〈|骨牌使い《フォーチュンテラー》〉の鏡《かがみ》T
平成18年3月25日初版発行
著 者 五《ご》代《だい》ゆう
発行所 富士見書房
458行
またあの幻影《げんえい》が目の後ろを漂《ただよ》っているように思える。
またあの幻影が → まだあの幻影が
1670行
身も知らない誰かのためじゃなくて。
見も知らない?