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銃姫《じゅうひめ》(1) 〜Gun Princess The Majesty〜
高殿円
目次
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――あたし見ました! お役人さま、本当に見たんです。
恐ろしいことでございます。お役人さま。ああいいえ、もうここはしばみ谷《チェッダー》のご領主さまになられたんでしたっけね。
ええ、ええ。包み隠さず申し上げますとも。あたしはリムザの外れにすむ煉瓦工の妻でございます。そうです、ご領主さまのおっしゃるとおり、リムザというのはあの伝説の魔導師ベリゼルさまがおつくりなったという魔法のまち。ベリゼルさまが乗っておられた赤い羊が門を守る、クラップストーン地方一古い街でございますわ。
ああ、たしかあれは、うちの父ちゃんがいつもの行きつけの酒場でよっぱらっちまって、灯りをもってしぶしぶ迎えに出かけた六つどきでした。
北のほうから黒いフードをかぶった大勢の魔術師たちが、声もなく固い足音だけを響かせて、あの月読みの丘のアリルシャーのお屋敷へ向かって歩いて行ったのです。
なぜ足音だけでわかるかって? そりゃあわかりますよ。魔術師たちは靴の踵を鉛にしているし、腕には鉛のブレスレットや指輪を多く身につけている。金属と魔法はこの世でまったく相反するものだって聞きますけど、ありゃ本当なんですかね。特に中でも鉛はまったく魔法を通さないっていうじゃないですか。ああ、まあそれはともかく――
その鉛の胸当てをした魔術師たちは、ちょうど月読みの丘の真下の辺りで徐々に立ち止まって、腰から銃を取り出し始めました。魔術師が銃を扱うことくらい、あたしだって知ってます。
あの百年前の“夜明け前”の大戦以降、人間は魔法を使えなくなっちまった。人間があんまりにも魔法を乱用するんで、神さまがお怒りになって人間から魔法を発動する能力だけを取り上げておしまいになった。だからどんなに魔法力が高い魔術師だって、今では銃なしでは魔法を発動させることはできないってわけです。あたしには学がありませんから、それ以上の詳しいことはわかりません。みんな寺院の偉いお坊さまたちの受け売りです。はい…
ええと、それで少し話がそれましたね。そうそう、アリルシャーのお屋敷に向かった魔術師たちのことでした。その黒いフードの一団は、手に魔法銃《ゲルマリック・ガンズ》をもち、なにやらぶつぶつと呪文を唱えながら、月読みの丘を巣穴に戻る蟻の行列のように這い上っていきました。
それからですよお役人さま! …ええと、違ったご領主さま!
あたし見たんです。その黒い軍団が次々に赤やら青やらの魔法を使ってアリルシャーのお屋敷のみなさまを、ええと…そのう…襲い始めたんです。ああ本当です、信じてくださいましよ!
あの夜は、丘の周りのそこらじゅうでアリルシャーの皆様がたの悲鳴や、魔法がお屋敷の壁を砕く音なんかが響き渡って、いつもは声高な森のオオカミどももさすがに恐れをなしたのかうんともすんとも鳴きませんでした。それほど辺りは異様な雰囲気に包まれて、ただ聞こえてくるのはアリルシャーの奥がたの哀願する声や、悲鳴、悲鳴、それからなにかが壊れ砕け散る音――そしてまた悲鳴…
一刻ぐらいたったころでしたかねえ。お屋敷のほうからなにも聞こえてこなくなったのは…
あたしは手に持ったカンテラがすっかり消えていたのにも気がつかず、ずっと草むらにしゃがみ込んで立てつけの悪い戸みたいにガタガタ震えていました。やがて何事もなかったかのようにあの黒い集団が戻ってきて、腰を抜かしているあたしに気づかないまま、もと来た道を戻っていったんです。
月明かりのする晩でしてね。こっちは身を隠そうと必死になっているのに、無情にも月の神さまはあっちこっちに銀色の砂を振りかけなさって、あたしはみつかっちまうんじゃないかと身の縮む思いでした。
その集団が何者かって…?
そりゃああたしにもわかりません。フードからちらりと見える髪はいろいろで、魚の尾ひれのようなとがった耳もあれば、びっくりするぐらい綺麗な――うんそうだ、あたしの娘と同じくらいの歳ごろの女の子だっていました。本当です、確かですよ。
そうそう、その女の子はマントの中にさらに小さな男の子を抱いていたんです。こうやって腕を広げて庇《かば》うようにね。それがまるで、ほら、あれだ。巣なんかで母鳥が羽根を広げてヒナを守るようでね…。ええ、はっきりと覚えてますですよ。
ああ、まったくあれは恐ろしい晩でしたよ! あの鉛の踵が土をけずる音がいまでもこの耳の奥に染みついていて、あたしはときどき強い風がうちの古くなった鎧戸をたたく音に、すわあの魔術師たちが来たんじゃないかって飛び起きることだってあるんですから。
あたしの知っていることはこれくらいです。お役人さま、…ああいいえ、チェッダーのご領主さま。
…え?
こ、こんなにいただけるんで…?
それはありがとうございます。助かります。うち、父ちゃんが屋根から落ちて煉瓦工の仕事ができなくなっちまってから、満足に娘たちを食べさせてやることもできなくて…。これでちょっとはいいお薬だって買えるし、すっかりすり減ってなくなっちまった靴の踵だってつけかえることができます。
あらいいええ、ご領主様。いくらすり減ったって踵を鉛になんていたしませんよ。あたしら百姓には魔法もぜいたくも月の国のように縁遠いこと。あのアリルシャー家の方々が何をなさったのか知りませんが、それもこれも月の国のように縁遠いこと…。
お偉い方、あたしら民草もんは鶏《コックス》のようなもんでございますよ。朝一番から畑に出てコツコツコツコツ土をつつく。お偉い方々が雲の上でなにをなされようと、そこはそれ、あの屋根の上の鶏みたいに風に吹かれてあっち向きこっち向き…。どっちの風が吹いても鶏は鶏。抗《あらが》うことなんてできませんです。
いや、これはお話が長くなっちまったようで、どうもすいませんねえ。
嘘偽りは申しておりません。
おありがとうございます。これで父ちゃんのお薬を買うことができます。ああ心お優しいご領主さま、このご恩は決して忘れません。もちろん今日のことはだれにも申しません。この口を太ぉい針で縫いつけて、しゃっくりしたって飛びでないよう深い深いところに沈めておきます。
それではごきげんよろしゅう、お殿さま、チェッダーのご領主さま。
今日という日が、あなたさまにも良い日でありますように。
神々のおめぐみが新しいご領主さまのもとに降り注ぎますよう、このつまらない街人からもお祈り申し上げま――――
―――ぐえっ!
ご … ぶはっ …
… がぁ……
…… …
… 。
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第一話 風見鶏は空を飛べない
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人に言えない秘密ができた夜は、無意識のうちにシーツにくるまって眠ってしまう。それが小さいころからのセドリックのくせだった。
べつだん寒がりでもないのに、気がつくと毛布や枕をかき集めてその中にもぐりこんでいる。そうして朝、彼を起こしに来た姉のエルウィングに笑われるのだ。まるで蓑《みの》虫みたいよ、セドリック。さあ起きて――
その日もやわらかいゴムまりのような弾力が頬にあたって、セドリックは思わずそこに顔をすり寄せたのだった。
いい匂いがする。遠い昔に嗅いだことのある匂いだ。生まれた時にもセドリックの側にあった懐かしい匂いだ。
(なんの匂いだっただろう…)
いつまでもその匂いに包まれていたくて、彼は真鍮でつくられた窓枠から差し込んでくる朝日から顔を逸らした。
そのとたん、バターンと荒々しく扉が開いた。
「あんたたち、いったいなにやってんのよ!」
セドリックは井戸の底から上げられるつるべのように、眠りの淵から引っ張り上げられた。
「な、なに…?」
「サイッテー、セドリック、あんた十四にもなってまだ姉さんといっしょに寝てるわけ?」
さっきから戸口で腕を組みながら冷ややかな視線を投げかけてくるのは、アンブローシアというセドリックの旅の道連れだ。明るい黄緑色の瞳に、綺麗な混じりっけのない金髪を三つ編みにしていて、ちょうどそれが南部の港に水揚げされる金色エビのシッポを思わせる。
彼はまだ糊付いている瞼をむりやりこじ開けた。すると、すぐさま思いもかけないものが目に入った。目の前になにか白くてやわらかいものがある。
「……?」
セドリックはおそるおそる顔を上げ、そこで健やかな寝息を立てている姉のエルウィングを見つけた。
「エ、エル!?」
セドリックは真っ赤になって弁解した。
「ちがうよ。昨日だってちゃんとべつべつに寝たんだ。どうしてエルが僕のベットに…」
慌てふためくセドリックの側で、シーツの中がもぞりと動いた。当のエルウィングがようやく目を覚ましたようだった。
「おはようセドリック。今日は早いのね」
彼女が上体を起こすと、シーツがめくれて白いすらりとした上半身があらわになった。セドリックは思わず目を丸くした。エルウィングは、裏地のついていない白のスリップ姿だったのだ。
白い布地の下のすべらかな肌がまぶしすぎて、セドリックは慌てて目をそらした。
「エエエエエル…、どどどしたの、その格好…」
「ああごめんなさい。ほら、きのうはひどい雷だったでしょう。それで怖くて眠れなくなってしまって…」
「雷!?」
「それで、あなたの寝顔を見ていたら懐かしくなってしまって、つい…」
無邪気に笑うエルウィングに、セドリックはすがるような目をアンブローシアのほうへ向けた。だがそれも、さっきから辺りに漂っている冷え冷えとした空気によって跳ね返されてしまう。
「ふううううーん。それで朝まで抱き合って寝てたわけ。けっこうな姉弟愛ですこと!」
「抱き合ってって…」
ゴ・ゴ・ゴ・ゴ・ゴゴ…
セドリックは震えた。
ブリザードだ。季節はずれのブリザードがセドリックの部屋の入り口に発生している。
誤解だ、と言いかけて、セドリックはふと目をさます前に感じたあのやわらかい感触を思い出した。
(そうだ、あのふにふにしたいい匂いのするものはいったい何だったんだろう。そういえばずっとそれを枕にしていたような気がするけど…。たしか感触はこんなかんじで…)
「なによその手つきは」
「や、な、なんでもないよっ、なんでもないっ」
セドリックはアンの厳しい視線を避けるように、急いでベッドから抜け出そうとした。そのとき、
「あっ」
シーツの上を手が滑って、彼はそのままエルウィングの体の上に倒れ込んだ。
セドリックは、なぜか目の前に夢の中と全く同じの、あのふかふかとした焼きたてのパンのような感触があることに気づいた。彼はおそるおそる顔を上げ、自分がエルウィングに抱き留められていることに気づいて蒼白になった。
(これってエルの…。じゃあ僕はずっとここに…)
そう自覚したとたん、体の下のほうから急激に血液が上がってくる。しまった、と鼻を押さえた時にはもう遅かった。
ぶっ。
セドリックの目の前に勢いよく血しぶきが飛んだ。
「えっ」
「※(adakuten.png) っ」
血まみれの手で慌てて顔を覆ったセドリックに、鼻血を吹きかけられたアンブローシアが叫んだ。
「んもーう、サイッテー、死ね!!」
「ぎゃあああ」
ブリザードは雷鳴に変わった。
†
時代の名を、月の時代と言った。
国はいくつかあった。以前より領土を失ったとはいえ、いまだこの大陸の多くを支配しているのは月海王国であり、そのまわりをまるで月に照らされた星のようにいくつかの小国が点在している。
鉄なる壁の国《ガリアンルード》があり、大僧正が治める聖なる教えの国《メンカナリン》がある。そして最近めざましい新進ぶりを見せているのが、竜王という名の国主がひきいる飛び翔ける竜の国《スラファト》だ。
「だってしかたがないだろ、鼻の粘膜が弱いのは生まれつきなんだから」
両方の鼻の穴に詰め物をしたなさけない顔で、セドリックは文句を言った。
セドリックたち三人は、現在この飛び翔ける竜の国の都市リムザを目指して旅している途中だった。三人とも細い毛糸で作った上下にマントという旅慣れた軽装で、背中に子牛の革でできた背負い袋を担いでいる。エルウィングだけは尼僧見習いなので、あまり手足をみせることはない。重い羊毛のマントで体のラインをすっぽりと覆い隠していた。
中でもひときわ大きな荷物を抱えているのが、魔弾砲《ダンピエール》使いのアンブローシアだ。
「まーったく。今日こそは早く街について、あたしのかわいい魔弾砲《ピエール》ちゃんの手入れをしようと思ってたのに」
と、彼女はぼやいた。
アンは背中に身の丈ほどもある散弾銃を背負っていた。大の大人でも扱うことが難しいと言われているドナンボーン社の魔弾砲P―707GKだ。
「セドリック、あんただって次の街で新しいカートリッジを買うんだって言ってたじゃない。まったく、魔銃士《クロンゼーダー》のくせにカートリッジぎれなんてなっさけない」
「うっ、うるさいな。わかってるよ」
いつものようにチクチクやられて、セドリックは自然と足が速くなる。
教義によっていっさいの暴力を放棄しなければならないシスターのエルウィングとは違い、セドリックとアンブローシアの二人は、魔銃士――銃によって魔法を扱うのをなりわいとしていた。
魔法を使うための銃、魔法銃《ゲルマリック・ガンズ》――
数百年前、世界を焼き尽くしたといわれる“夜明け前”の大戦以降、銃は人々にとってかかせないアイテムになった。なぜかというと、人間は火器を用いないと魔法を発動させることが出来なくなってしまったからであ2る。
かつて、太古の昔は、人間は自分で魔法を発動させる力を持っていたという。
しかし欲におぼれた人間達は魔力を悪用し、世界は魔の起こした火の海で覆われることになった。
やむことのない業火。繰り返される報復とそのまた報復…
愚かな、
愚かな、
愚かな人間たち。
ついに神は人間たちの所業をお怒りになり、彼らから魔法を発動させる能力を奪っておしまいになった、――そうエルウィングの属するメンカナリン聖教の教義は教えている。
人々はこのまま魔法を失ってしまうことを恐れた。いままで魔法によって得られた恩恵は計り知れず、あまりにもその便利さに馴れきってしまっていたからだ。
彼らは考えた。なんとかして魔法を使うてだてはないものだろうか。げんに失われたのは魔法を発動させる力のみだ。魔力はまだ残されている。我々は、まだ魔法を失ってはいない――
そして人間は持てる知恵によって試練を克服した。神がすべてを与えた時代は終わり、人が新たに作り出す鉄と文明の時代がやってきた。
鉄はすべてのものを造り、また鉄がもたらした機械じかけは魔力さえも自由に扱えるようにした。人々は銀という金属が魔法を吸収する性質をもっていることを知ると、そのカートリッジに魔力をこめ、鉄と火薬によってそれを発動させる手段を考えついたのだった。
このように銃や大砲によって武装するものを特に魔銃士と呼び、彼らは人々に恐れられた。まだ幼いとはいえセドリックやアンブローシアはこの魔銃士のはしくれなのだ。
よっぽど腹に据えかねていたのか、アンブローシアはまだ言った。
「ホント最悪、よりによって姉さんの胸を見て鼻血吹くなんて、やっらしい」
「うっうるさいな」
「だれかさんが貧血おこしたせいで宿を出るのが遅くなっちゃったし、エルのせいで道には迷うし。だいたいなんで方位針《コンパス》どおりに歩けないわけ? 宿を出たときから魔法方位針《ゲルマリック・コンパス》はずっと東を指してるはずでしょ」
アンブローシアはエルウィングの手から方位磁石をひったくると、銀でできている蓋を開けた。魔法方位針は普通の方位針とは違い、強い魔力を示す道具である。三人はこれを頼りに強大な魔力を持つ一人の魔銃士を追っているのだった。
正確には、その魔銃士が彼らから奪ったものを――
〈銃姫〉
いまはもう失われた古い時代の遺物でできた兵器。その引き金を引くものはこの世から望んだ言葉を消し去ることができるといわれている。
それはたった一人を表す言葉でもいいし、何十万人という大きな集団でもいい。使い方次第によってはこれを使えばありとあらゆる民族、あらゆる国を一瞬で滅ぼすことができるのだ。
セドリックはぐっと下唇を噛んだ。
(僕があのとき、オリヴァントの言うことにまどわされたりしなければ――)
彼らが追っているのは、オリヴァントという名の一人の魔銃士だった。
キメラのオリヴァント。あらゆる属性の魔法を掛け合わせ、独自の魔法式《ゲール》をいくつも完成させている天才魔銃士。そのオリヴァントこそ、〈銃姫〉をメンカナリン総本山から盗み出した張本人だった。
もともとオリヴァントは第一級の罪人だ。新月の都で魔術を学んでいた彼は、密かに人体実験をしていたことが発覚して当局に逮捕され、永久禁固の刑を申し渡された。彼は刑を不満とし、修練院の修練士全員を殺したあと都を出奔《しゅぽん》。現在は賞金付きのおたずねものになっている。
そのオリヴァントに〈銃姫〉――、最悪の組み合わせだった。オリヴァントがあれの使い方を見つける前になんとしても〈銃姫〉をとりかえさなければならない。もし彼が〈銃姫〉を使って国の名前を唱えれば、この世界から国一国が消えてしまうのだから。
(なんとしても見つけるんだ。彼があれを悪用する前に!)
そんなセドリックの心中を知ってか知らずか、アンブローシアはじっと方位針の中をのぞき込んだ。
「たしかにここらへんに強い魔力の元があるはずなのよ。ほら前の街でもこっちの方角に青光りする魔法光を見たっていう人が何人もいたじゃない。ね、やっぱりオリヴァントはこの近くにきているのよ。あいつはもう都にはいないんだし、間違いないわ」
彼女は手にした新聞を広げて言った。ずいぶん前に都で発行された新聞だ。一面には『貴族院議員の暗殺に逃亡魔銃士が関与か!?』と大きな文字が躍っている。
犯人と思われる魔銃士の中にはオリヴァントの名前もあった。ごていねいに似顔絵つきだ。
エルウィングが言った。
「でも捜索は明日にしないとね。もう日が暮れるわ」
セドリックは思わず立ち止まって、太陽がゆっくりと地平線の上に崩れていくさまを眺めた。アンの言うようにずいぶんと遅い時間になってしまった。急がないと街の閉門時間に間に合わなくなる。
「ま、なにはともあれ急ぎましょ。こんなところで野宿なんてごめんだし。――って、うわっ!」
「どうしたの?」
アンブローシアが突然大きな声を出した。思わず駆け寄ったセドリックは、魔法コンパスの針が中でぐるぐると回っているのに気づいた。
「こ、これ…」
「近くでだれかが魔法をつかってるんだわ」
素早く辺りを見回したセドリックは、自分たちが進もうとしていた方角に赤茶けた砂埃がたっていることに気づいた。
「あれだ!」
アンブローシアは魔弾砲から照準器を外して、素早く目にあてた。
「だれかが襲われてる。よく…見えないけど、馬車の側面に鶏みたいな紋章が見える。たぶんどこかの街の役人ね」
「盗賊かもしれない」
三人は頷いた。
「たぶんそうね。ここは関わり合いにならないほうがいいわ。とっとと逃げ…」
「だめよ!」
鋭い制止の声に、セドリックとアンブローシアは振り返った。
声をあげたのは、エルウィングだった。
「エル…」
「そんな、困っている人を放っておくなんて、我らの盾なるお方がお許しになるはずがありません。さあ、わたしたちであの不運な方々をお救いにまいりましょう!」
エルウィングはおごそかに指を組んだ。またはじまった、とアンブローシアが頭を抱える。セドリックも慌てて言いつのった。
「でもねエル。相手はどんなやつかわからないんだし…」
「そーよ。だいたいこんなところでカートリッジを使ったら、まったくの使い損じゃないのよっ」
「まあそんな、人の命を弾丸ごときと比べるなんていけないことよ」
二人は思わず顔を見合わせた。この少女は本気で見知らぬ他人のために命を張ろうというらしい。
アンブローシアはぷいっと横を向いた。
「冗談。あたしはいやですからね。なんで好きこのんで争いごとにまきこまれなくちゃなんないのよ。金にもならない人助けなんてまっぴらごめん…」
そう言い終わらないうちに、エルウィングは騒動が起こっている方に向かって駆け出していた。アンブローシアがぎょっと肩を竦《すく》ませる。
「ちょっと、あんた!」
「ま、待ってよエル。僕も行く!」
セドリックもまたエルウィングの後を追って走り出した。エルウィングは魔法の知識はあるがメンカナリンの戒律によって攻撃を禁じられている。彼女は癒すときにしか魔法を使えないのだ。
馬車を襲っているのは魔銃士一人と男が二人だった。単なる物取りのようだが、まず馬車の車輪を壊してしまうあたり徹底している。もしかしたら刺客かもしれない。
馬車に乗っていた男は、馬車の外に引きずり出されていた。必死で懇願しているらしく、金なら好きなだけ払うという言葉をしきりに繰り返していた。
(アンの言ったとおりだ。馬車の扉に風見鶏の紋章―この近くの風見鶏の街《レムニーク》の市長に違いない)
その男がふいにこちらを見た。視線に気づいたのか、盗賊たちも振り返ってセドリックを見つけた。
「なんだおまえら」
「エル、下がって! 僕がやる」
セドリックは太ももに巻いてあるホルダーから魔法銃を抜き出した。
「こいつ。俺たちに刃向かうってのか!」
「まて、このチビ、魔銃士だ!」
男たちの顔色が変わった。セドリックは引き金に指をかけたまま、シリンダーを回して慎重に弾丸を選んだ。
(あっちの魔銃士は一人か…。あの人を助け出すためには、まずはこの限界結界を破らないと…)
馬車の周りには、おおかたあの魔銃士が張ったのだろう、得物を逃がさないための結界が張られていた。
(この結界の属性は…)
セドリックはまずその魔法式の属性を判別しようと目を凝らした。見たところそんなに複雑な魔法式ではないようだ。魔法式は、簡単に言うと魔法が正しく発動するための方程式のようなもので、すべて古い言葉によって構成されており、魔銃士が音にして唱えると空気の中に含まれる魔法元素《ロクマリア》と反応して発光する。
ためしに〈渦巻き〉〈勢いあるもの〉と古い言葉で唱えてみると、いくつか反応して光るところがあった。どうやら馬車を中心にドーム型の風結界を張っているらしい。
背中から息の上がった声がした。
「属性は風ね」
「アン、来てくれたんだ」
アンブローシアは、ちらっとエルウィングのほうに目をやってから言った。
「カートリッジに余裕がないんでしょ。あたしが一発ぶちこむから、あんたは早くあの結界解除して。わかってるでしょうけど、あの程度の〈風〉結界だったら、解除用の魔法弾をつかうまでもないからね」
「わ、わかってるよ」
「まったく、自分は戦えないくせになんて無謀なのよ。エル、邪魔にならないようにあんたは下がっててよね!」
後方から心得たように「神のご加護を!」という声が聞こえてきて、アンブローシアは思いっきりため息を付いた。
(結界の属性は、風――)
セドリックはそこにあるはずの結界を見透かそうと目を凝らした。魔法式は、言うならば言葉の網のようなもので、その上を発動された魔力が走ってはじめて魔法が完成する。
容易な魔法式であればあるほど、魔力の通り道が一本しかないものだ。つまり、その魔法を解除しようと思えば、途中で肝心な単語を壊してしまえばいいのである。そうすれば魔力は道を壊されてそのまま霧散してしまう。
問題はその要の言葉だ。魔法式はすべて古い言葉で構成されている。式には術者のくせがでるので、使用されている単語を見つけるのが大変なのだった。
「唱和せよ、〈繭〉〈箱〉〈袋〉!」
セドリックは、なにかを閉じ込めようとするときによく使われる単語を思いつくままに唱えた。結界の魔法は、このような閉じ込めるという意の単語を使って魔法式が組まれていることが多い。その動詞の部分を壊してしまえば、正しく作用することはなくなるだろう。そこがセドリックのねらいだった。
だが――
(反応しない。使ってないのか。くそ、少しは気の利いた魔法式を組んであるみたいだ)
男たちは、結界が壊れるまでは中にいたほうが安全だと知っているのか、抜いたナイフの切っ先をこちらに向けたまま近づいてこようとはしなかった。
「セドリック、〈蓋〉は!?」
エルウィングが叫んだ。
「そうだ、〈蓋〉! それから、〈檻〉も」
すると、馬車のちょうど上の辺りに青白く光る文字が見えた。天に蓋するもの、地に蓋するもの、という二つの文節が浮かび上がる。
「あそこだ!」
その青くきらめく部分めがけて、セドリックは勢いよく魔法銃を発射した。発射された弾丸は風の属性に対抗する土の属性魔法、(隆起)だ。
ドガン! と腹に響く轟音が辺りに鳴り渡った。セドリックの魔法銃から発射された魔法弾が空中で分解され、瞬時に魔法式が走った。すぐに土が大きく震えて、その上に被さっている蓋のような結界に揺さぶりをかけはじめた。魔法が発動したのだ。
「よし!」
カートリッジに込められていた土の魔力が式の上を走る。それにつれて揺れはだんだん大きくなる。空気が震え、刻まれたようになる。――そしてついに地面が割れて、中から土が剣の切っ先のように大きく隆起した。
「うわあああっ!」
「つ、土が!」
隆起した切っ先の一つが、青白く光った〈天に蓋するもの〉という文節を切り裂いた。砕かれた文字は力を失ってふっと消えた。と、同時にその上を走っていた魔力が行き場を失ってそれ以上走らなくなり、結界は霧のように消えてなくなった。
「やった!」
アンブローシアが歓喜の声をあげた。
「ち、畜生。この小僧!」
男の一人が剣を構えてセドリックの方に突っ込んできた。そこへすかさず、アンブローシアの魔弾砲が男に向かって火を噴いた。
「くらえええっ」
アンブローシアが引き金をひくと、セドリックのものよりは数倍大きな弾丸が炸裂し、中から数十匹もの火トカゲが男をめがけて襲いかかった。魔弾砲の弾は内部に数個の弾丸をふくんでおり、一度に複数の魔弾を発射できるのだった。
「うぎゃあああっ」
火トカゲに襲われた男は、あまりのことに剣を取り落とし乱れた。もう一人の男も襲いかかってくる火トカゲたちを剣でぶんぶん払うのに精一杯で、とてもセドリックたちに攻撃を加えようという気概は見えない。その上、男たちの後ろにいたフードの男――おそらくこいつが魔銃士だろう――は、自分にかなう相手ではないと知るや、他のメンバーを見捨てて早々に逃げ出した。
「あっ」
男が逃げたのを知って、他の男たちも次々に馬車から離れていった。まさにほうほうのていといった様子で、男たちはあっという間に砂埃に紛れて見えなくなった。
「案外あっけなかったわね」
アンブローシアが肩の上から魔弾砲を降ろしながら言った。
「とにかく、勝ててよかったよ…」
セドリックはほっと息をすると、襲われていた役人らしい男に近寄った。さっきの戦闘で怪我でもしていないか心配だったのだ。
「あの…、大丈夫ですか?」
ビロードの派手な羽根つき帽をかぶった男は、セドリックが手にもったままだった魔法銃を見てヒッと喉を引きつらせた。
「よ、寄るな!」
彼はずりおちた帽子を蠅でも追い払うように大仰に振り回した。
「あ、あっちへ行け。この薄汚れた魔銃士め!」
「ずいぶんなごあいさつね。あたしたちはあんたの命の恩人なのよ」
アンブローシアはそう毒づいたが、彼の耳には全く届いていないようだった。彼は腰を土の上にくっつけたまま、蝦蟇《がま》のように腹を突き出してセドリックたちを見上げた。どうやら腰がぬけているらしい。
「お、おまえらもあいつの――オリヴァントの仲間か。都からワシを殺しにきたんだろう。な、そうなんだろう!」
「オリヴァントだって!?」
セドリックは思わずその男のそばに駆け寄ろうとした。
「寄るな!」
男に帽子をぶつけられても、セドリックはなおも彼に詰め寄った。
「さっきあなたはオリヴァントっていいましたよね。僕らは彼の仲間じゃありません。彼をさがしてはしばみ谷からここ風見鶏の街にやって来たんです。あなたが彼のことを知ってるならどうか――」
「う、うるさい!」
男はようやく立ち上がると、転がるように馬車のほうに戻った。
「そ、そんな男は知らん。ワシは知らん!」
彼はつつかれたヤドカリのように馬車の中に飛び込んで、御者を急《せ》かすように言った。
「は、早く出せ! 門が閉まる前に庁舎に戻らねばならん」
「ダメです市長。車輪が壊れていて動きません」
「なら、馬だ。馬をはずせ」
そうして馬に飛び乗るやいなや、あっという間に砂の彼方に走り去ってしまったのだった。
「なんなんだ…」
さすがのセドリックも、その男の態度には不振なものを感じずにはいられなかった。
セドリックの側で、アンブローシアが空になったカートリッジを拾いながらぼやいた。
「なによあの男。身なりが良いからお礼を期待したのに、まったく〈火トカゲ〉一個無駄にしちゃったわ!」
「まあまあ」
肩をぷんぷん怒らせているアンブローシアに、エルウィングが宥《なだ》めるように笑いかける。
「でも、あなたのしたことは盾なるお方もきっと見届けてくださっているわ。ね、セドリックも」
「そうだね。僕たち、いいことをしたんだよね」
にっこりと笑いあう。そんな呑気な姉弟のそばで、アンブローシアだけがまだ納得しかねるといった表情で頬をふくらませていた。
「あーもう、ちょっとあたし風を捕まえてくる!」
アンブローシアはたたたっと軽快に岩の上に駆け上がった。今の時間は外の気温がぐっと下がって、ときおり西からの強い風が木々の葉をくしけずっていく。
「ほら、良い感じにおあつらえ向きの風が吹いてきた。さすが石も転がる《クラップスートン》お土地柄、黄昏時でも風が強いわ。見てて!」
そう言って、彼女はポケットから銀色の塊を取り出した。魔銃士たちが魔力を込めるのに用いる銀製のカートリッジだ。銀には魔法がなじみやすいという特性があるので、カートリッジの素材によく使われる。それとまったく正反対の特性を持つのが鉛である。鉛という金属はいわば魔法の絶縁体なのだ。
「いくわよ!」
大きく息を吸ってから、アンブローシアは徐《おもむろ》に腕を水平にもちあげて魔法式を唱え始めた。
「〈――汝大いなるもの。二と十六の間に宿る使者、軋轢《あつれき》の地、緑の王…〉」
セドリックは息を潜めてアンブローシアの詠唱を聞いていた。いま、彼女が口にしているのは、風の精霊が好む古い言葉や力をもつ単語である。彼女はこの丘を通り過ぎる風の精霊から風の力をほんのすこし分けてもらい、それを魔法式の網で取り込んでカートリッジの中に収めようとしているのだった。
歌うようなアンブローシアの声は、ある一定の法則に則ってゆっくりと空気中に拡散していく。その様子が銀色の網を投げるようなので、魔銃士たちは精霊を捕らえるときによく“網を張る”と言ったりするのだ。
(きれいだな…)
うっとりとセドリックは、アンブローシアが唱える古い言葉に聞き入っていた。
そして、
「〈…もろもろの気、この世の縦と横をつづるもろもろの理よ。わがのぞみに寄りてただちに収束せよ!〉」
と、彼女が宣言した瞬間、青白い閃光が縦に走った。銀色の網がさああっとひっぱられるようにして、彼女の手のひらを通してカートリッジの中に吸い込まれていく。
「やった!」
アンブローシアは思わず叫んだ。
「うまく風の元素を捕まえたわ。こういう風の強い丘には力の強い精霊が棲んでいたりするものだけど、どうやらここはアタリだったみたい。もうちょっとがんばったら〈風〉から〈太刀風〉くらいにはなったかも」
セドリックは急いでアンブローシアの側へ駆け寄った。彼女の手の中には、ぼんやりと緑色に光る銀のカートリッジがあった。中から大きな魔法力を感じる。そのカートリッジにうまく風の力が収まった証拠だ。
魔法にもレベルがある。風の魔法は〈凪〉から始まって〈風〉〈太刀風〉〈白南嵐〉など種類や用途も様々だ。能力の高い魔法使いの中には、〈鎌鼬《かまいたち》〉を操るものもいるというが、それでも最高レベルの〈嵐〉を使えるのは、風神と呼ばれたいにしえの魔術師ゼノクレートだけである。
セドリックはほうっと感嘆の息を漏らした。アンブローシアは風の精霊を捕まえるのが上手だ。彼女自身が風の属性をもっているからだろうが、特に声がいい。古い精霊が好みそうな、高くて透き通るような歌声をしている。
「すごいねアン。今日はもう二つ目だ」
「こんなの、どってことないわ」
アンブローシアは銀のカートリッジを腰にしまうと、新緑色の目をじろりとセドリックに向けた。
「あんただって本当はこれくらいやれるはずなのよ。セドリック。あんたはあの伝説のアリルシャー一族の血を引いているんだから」
アンブローシアは人差し指でセドリックの鼻を押すような仕草をした。
「アリルシャーといえば、あの赤の魔導師ベリゼルの末裔《まつえい》なんでしょ。あそこの一族は全員魔銃士になるべく、生まれた時から古い言葉でしか会話しないんだって聞いたことがあるわ。それも、正統な発音を濁らせないためにまったく外界とは接触しないって…。ね、あんたもそうだったの?」
セドリックは困ったように身じろぎした。
「ごめん、わからないんだ。小さいころのことはほとんど覚えてないから」
逃げ腰の彼に、アンブローシアはささやくように言った。
「あんたはアリルシャーの直系だったんだから、あたしなんかメじゃないくらいのすごい呪文を覚えさせられたはずなのよ。それこそきっと、世界も滅ぼせるような…」
セドリックを見つめるアンブローシアの目に、刃のような危うい光が宿った。セドリックは困ったように目をふせた。アンブローシアはこうやってよるとさわるとセドリックの出生の話をしようとする。
セドリックには幼いころの記憶がない。あの伝説の魔銃士の一族であるアリルシャーの末裔というのも、自分では全く覚えのないことだった。
いまから十年以上前に、アリルシャーのお屋敷に夜盗が押し入り、一族全員が殺されるという事件があった。エルウィングが言うには、まだ幼かった彼女とセドリックだけが偶然難を逃れ、メンカナリン寺院に保護されたのだという。
セドリックはふと顔を上げた。
「そういえば、ここからだったら月読みの丘のアリルシャーのお屋敷が近いね。エル」
「セドリック…」
エルウィングは目を細めてセドリックを見つめ返した。
「そこに行ったら、もしかしたら昔の記憶が戻るだろうか」
「無理に思い出そうとしなくてもいいのよ。あれは、あなたには辛い…辛すぎる思い出なんだし」
「そんなことないわ。思い出すべきよ!」
エルウィングの言葉の上に覆い被さるように、アンブローシアは言った。
「ねえ、はやく思い出しちゃいなさいよ。そしたらこんなつまんない旅つづけなくたってよくなるわ。〈銃姫〉なんてとりもどすまでもない。アリルシャーの直系であるあんたの力さえあれば、もしかしたらこの世界だって手に入れることができるかもしれな――」
「馬鹿なこといわないで」
アンブローシアの言葉は途中で遮られた。見るとエルウィングが静かな目で彼女を見下ろしていた。
セドリックは驚いて目を見開いた。いつも日だまりのように笑っている姉が、こんな風に声を荒げるのはめずらしい。それほどエルウィングのいい方には、どこか有無を言わせないような強引さが滲んでいた。
(どうしたんだろう、エル…。いつもはこんな言い方はしないのに)
セドリックが困惑していると、エルウィングはふいに表情を崩した。
「あら、手から血が出ているわ、セドリック」
「あれ、ほんとだ」
いつ切ったのだろう、手の甲に小さな擦り傷がある。エルウィングが言った。
「わたしが治してあげましょうか」
セドリックはぎくりとした。思わず横に視線を逸らすと、視線の先でアンも密かに固まっている。
「ちょうど新しい聖歌を覚えたところだったの」
と、エルウィングは嬉しそうに微笑んだ。
修道女たちが歌う火の聖歌は、古い言葉でかかれているため癒しの効果があるとされている。言うならば簡易版の治癒魔法のようなものだった。彼女達は戒律によって攻撃を封じられている代わりに、聖歌を歌って人々に癒しを与えることができるのだ。
しかしそのためには正確に古い言葉を発音し、正確に旋律を追う必要があった。
もちろんエルウィングの発音は完璧だ。
しかし残念なことに彼女は旋律が完璧でないのだった。
セドリックの頬がピクピクと引きつった。
「え、えっと…、大丈夫だよ、こんなかすり傷」
「まあ、傷を甘く見てはだめよ。破傷風になったらどうするの。ここはわたしが聖歌で癒して…」
「ぎゃあ!」
彼は悲鳴をあげた。
「“ぎゃあ”?」
「あー、ええっと、いやいや舐めて治すよ。エルもあんまり気にしないで」
「でも…、とてもきれいな聖歌なのよ。心も癒されると思うの」
「はは、はははは…」
セドリックは乾いた声で笑った。
エルウィングはとても美人だ。肩を覆うほどの長い黒髪はいつも艶めいていて、穏やかな眼差しは紅水晶と同じ色をしている。性格はちょっとおっとりしているけれど穏和で優しい。たまに竈で大量の炭をつくってくれるが、そしてたまに針で盛大に自分の指をさしたりしているが、そしてそしてたまに一本道でも迷ってくれるが、セドリックにとってはかけがえのない家族だった。
しかし、そんなかわいらしい姉にもたったひとつだけいただけないことがある。
「出だしの旋律がとっても綺麗なの。こんなふうなのよ。めーぐみーゆたーけき、われぇぇらがああしゅのー」
「ぐほっ」
セドリックはむせて吹きだした。聞いたことのない歌だ。…というかもはやそれは歌ではない。
(ず、頭痛がする!)
つまり、エルウィングは究極の音痴なのだった。
あまりの音階の外れっぷりに目眩がしていると、セドリックの側でよろめく姿があった。
(ああっ、アンが!)
アンブローシアがセドリックにすがりついてゼイゼイと息をしていた。
「あ、あんた…。あの人間凶器をとめなさい。で、でないとあたしが殺すわ」
「そんなこと言ったって!」
「あーあーあーしゅーよぉぉ、あなたのぉーこひつじぃぃにぃぃー、あわれみああれぇぇ」
倒れた。
「ああっ、アン!」
――半時後。
「……ほ、ほらアン、もうすぐ街だからしっかりして」
「あ、悪魔召喚の儀式は終わったの…。遠くから怨嗟《えんさ》が聞こえるわ…怨嗟が…」
「二人ともっ、もう日も沈むわ。街の門が閉まる前に風見鶏の街に着かなければ。セドリックもアンも急いで!」
うつろな顔の魔銃士ふたりと、ただひとりだけ癒されたエルウィングの姿があった。
†
レムニークとは、古い言葉で風見鶏という意味である。
その名の通り、街の通りに沿って建つどの建物の屋根にも、真鍮でできた風見鶏が忙しげに身動きしている。
クラップストーン地方の中でもこの辺りはとくに風が強い地域で、人々は粉をひくのにも鉄を打つのにも風車を用いる。土の水分が飛ばされるため農作物はあまりとれないが、その代わりに自然は風という恵みを人々に与えてきた。
「すごいや。本当に風見鶏だらけだ」
街の旅券検閲所で順番を待っていた三人は、風見鶏がモチーフに使われている街の様子に感嘆の声をあげた。
(本当にオリヴァントはこの街にいるんだろうか)
セドリックは魔法コンパスの蓋を開けた。コンパスの針は確実にここ風見鶏の街をさしている。それに、この街の方角に巨大な魔法光を見たという証言が本当なら、この中に必ず魔法を使った人物がいるはずだった。
(あの男がオリヴァントの名前を出したことといい、やっぱり〈銃姫〉もここにあるに違いない)
三人は街の入り口までやってくると、役人にメンカナリン聖教国発行の旅券を提示した。
役人が怪訝そうな目つきでセドリックたちをじろじろ眺めてくる。たしかに十五かそこらの子供が三人きりで旅をしているのは、端から見れば奇妙なことに違いなかった。
「ふうん、そっちのふたりは魔銃士でもう一人は修道女さんかい。なるほどねえ…」
エルヴィングが着ているのは重い羊毛で織られた僧侶用の黒マントだった。これを着ていれば、遠くからでも一目でメンカナリンの関係者だとわかる。
「ま、問題ないだろう。じゃあ、門をくぐる前に銀製のものだけこっちに預けてくれ。もちろん魔法銃の弾はぜんぶ抜くんだぞ」
アンブローシアがぎょっとしたように顔を強ばらせた。
「そんな。だって魔法弾はみんな銀で出来てるのよ!? 全部預けちゃったら魔法が使えないじゃない」
「ここの市長さまからそういうお達しなんだ。この街の中で魔法を使われちゃたまんねえってな。じゃねえと街の中には入らせねえぞ」
ここまで来て街の外で野宿するわけにもいかず、アンブローシアはしぶしぶ肩にかけていたカートリッジホルダーを男に預けた。
「おら、そっちの坊やもだ」
「は、はい」
セドリックは急いでホルダーを外し、銃から弾丸を抜いて男に手渡した。それから護符代わりにずっと身につけている銀の指輪と、いざというときのために使う護身用のナイフも懐から抜いて机の上に並べる。
「そっちのお嬢ちゃんは何も持ってないのかい?」
エルウィングはにっこり微笑んだ。
「わたしはメンカナリンの尼僧ですから。メンカナリンの教義ではいっさいの武器はもてません。それでもというならどうぞ」
エルウィングは分厚い黒のコートの前を自分から開いてみせた。
男は三人を調べ終えると、ふと思いつきを口にした。
「メンカナリンの修道女なら、ほら、あれだ。聖歌とかを歌えるんだろう。あれは魔法と同じ効果があるっていうし、ちょっと聞かせてくれねえか。俺ぁ半年前から胃を患ってんだ」
エルウィングの表情がぱっと明るんだ。
「ほんとうですか! ではよろこんで…」
「だめです!」
「死ぬわよ!」
セドリックとアンブローシアがほぼ同時に叫ぶ。
簡単な所持品チェックがすむと、役人たちは二人がかりでずっしりとした鉛製の門の錠を解いた。
「高い…」
セドリックは自分の背丈の三倍はあろうかという街の城壁を見上げた。戦闘用に作られた城塞でもない、たかがレムニークほどの辺境の街がこれほどまで防御壁までを備えているのはなにか違和感がある。
(また戦争が始まるのかもしれない。鉄なる壁の国《ガリアンドール》が滅びたときのような大きな戦争が…)
「あーあ、街についたら新しい魔法弾買おうと思ってたのに、この分じゃカートリッジさえ売ってなさそう」
ずいぶん身軽になったアンブローシアが、肩の後ろに腕をまわしてため息をついた。エルウィングもまた口元に指を当ててうつむいた。
「この街は、ずいぶん魔法に対して警戒が強いのね。どうしてかしら」
「魔法だけじゃないよ。こんな片田舎の街が堀だの城壁だのを備えているなんて、なにかよくないことでもあったのかな」
もう街中はすっかりと夜の顔をして、屋根の上の雌鳥も夜明けまでは用無しのようだった。三人は店先の灯りに誘われるままに、一軒の居酒屋の中へ入っていった。日暮れの鐘の鳴った後だからか、どのテーブルも工場や日雇いの仕事を終えた労働者たちでいっぱいだ。
「果実酒《キニール》をください。それからあまり味の濃くないものを適当に見繕って」
セドリックと同じ年ごろの少女が、前掛けで手を拭きながら注文をききにきた。
「いらっしゃい。お客さんたち、大人の連れはいないの?」
これも子供ばかりで旅をしているとよく聞かれることである。エルウィングが心得たように、首元からメンカナリンの印である鎌十字のペンダントを取り出した。
「お嬢さんに神のお恵みがありますように。わたしはメンカナリンの尼僧見習いです。今は巡礼修行中の身で、この子たちは同じく魔銃士見習いをしています」
「魔銃士!?」
セドリックたちに注目していた周りのテーブルが、急にざわりとした。セドリックは慌てて言葉を重ねた。
「あ、で、でも、この通り銃弾や銀のものは検閲所で全部とられてしまったから、今は丸腰なんだ」
「そう…、それはよかったわ」
少女はあからさまにほっとした息を吐いた。
「この街ではぜったいに魔法を使ってはいけないの。市長さまがそれはそれは固く禁じておられるのよ。だから銀のスプーンや鏡やアクセサリーなんかすら街の中へは持ち込めないことになってる。銀は魔法を宿らせるゆいいつの金属だからね」
少女はいたずらっぽく目を細めて笑った。
「残念だわ。せっかく本物の魔銃士と会えたのに魔法を見られないなんて」
「これ、ペチカ。めったなこと言うんじゃないよ」
その居酒屋――“後ろ立ちの子馬亭”のおかみさんが、少女をたしなめるように声をかけた。
「誰が聞いているかわからないんだから。あんただって親父さんがどんな仕打ちにあったか忘れたわけじゃないだろう」
ペチカという名の少女は、叱られた子犬のようにシュンと肩を竦ませた。
「あの…」
忙しげにしていた子馬亭の店主がひょいっと厨房から顔を覗かせた。
「まあ、親父さんは気の毒だったが、いつまでもしょげていても仕方がない。ペチカ、おまえはうちの看板娘なんだから、これからもよろしくやっておくれ」
「だんなさん…」
周りのテーブルからもペチカをいたわる声が続いた。
「そうそう、ペチカの親父さんは良い職人だった。いっしょにいられた時間が短かったのが残念だ」
「そうとも、それに親父さんはここのおとくいだったしな」
「顔に似合わず大酒飲みでね」
「ケンカにもめっぽう強くて、俺ァあの杖でよく叩かれたよ!」
陽気な笑い声がわき起こって、沈みかけていた店内の空気が一瞬でぱっと明るくなった。セドリックはほっとした。事情はよくわからないが、このペチカという少女は最近父親を亡くしたらしい。
ペチカは慌てて振り返った。
「ご、ごめんなさい。それでキニールとなにか食べるものだったわね」
すると、さっきまでむっつりと黙り込んでいたアンブローシアがおもむろに口を開いた。
「ねえ、本当に魔銃士を見るのは初めてなの?」
「ええ、そうよ」
「おかしいわねえ。オリヴァントっていう名前の、派っ手ーなオウムを連れた魔銃士がここに来なかった?」
「オリヴァント?」
ペチカは少し考えて、それから小さく首を振った。
「そんな人は見たことないわ。この街には旅籠は多くないから、うちに泊まっていなくてもすぐにわかると思うけど」
「ふうん。ここ旅籠もやってるんだ。今空いてるのかしら。あたしたち、今晩泊まるところを探しているんだけど」
セドリックは端でぽかんとして二人のやりとりを聞いていた。いつも思うことだが、アンブローシアは必要なことを人から聞き出すのがとてもうまい。あっという間にオリヴァントのことを聞いたかと思えば、その流れで宿のことまで聞き出してしまっている。自分と同い年のはずのアンブローシアがどうしてこんなに世慣れているのか、セドリックはいつも不思議に思っていた。
ペチカは困ったようにトレイを抱きしめた。
「ごめんなさい。今日も明日も満室なの。半年くらい前から、ここら辺は急に人が多くなって」
「あら、どうして?」
それは何気ない問いかけだったが、彼女の答えた内容は衝撃的だった。
「ほら、例の事件があったでしょ。満月都市《イボリット》消滅事件」
「!!」
セドリックはテーブルの下で両の手の拳をぎゅっと握りしめた。
(落ち着け…、落ち着くんだ…)
必死にそう言い聞かせるものの、床より少し浮いているセドリックの足は、まるでへたくそなタップを踏んでいるようにカタカタ震えている。
(ど、どうしよう…。こんなところでなにか変に思われたら…)
彼は思わずぎゅっと目を瞑った。
そのとき、氷の塊のようになっていた左の握り拳に、温かい別の手が重なった。セドリックは左に座っていたエルウィングを見た。
(だいじょうぶよ。気にしないで)
(エル…)
セドリックは少しずつ細い息を吐いた。すると、指先から体温とともに力のようなものが流れ込んでくるのがわかった。
(あったかい…)
セドリックはそうやってしばらくの間テーブルクロスの下でエルウィングと手を繋いでいた。手を重ねられているだけで、どうしてこんなに安心できるのか不思議だった。これはいったいどういう魔法だろう。
セドリックはゆっくりと手を離した。
「ありがとうエル。落ち着いたよ」
「よかった」
エルウィングはにっこりした。
「じゃあ、さらに落ち着くためにわたしがとっておきの聖歌を――」
「いやそれはいいです!」
何も置かれていなかったテーブルの上に、泡だった桃のキニールが運ばれてくる。セドリックたちの目の前で、ペチカとアンブローシアの会話はまだ続いていた。
「南から来たんだったら、もう知ってるわよね。半年前に満月都市が一瞬で灰になってしまったことは」
「あ、うん…」
「なんでも恐ろしいことに、街を破壊したのはたった一人の魔法使いだったって噂よ。その魔法使いは、あの“夜明け前”の引き金を引いた銃〈銃姫〉を神殿から盗み出して消えてしまったって。満月都市の周辺は土が黒く焼けこげてなにもとれなくなってしまったし、川はすべて干上がってとても人間の住める状態じゃないんですって。だからクラップストーン《転がる石》に逃げてくる人が多いのよ」
三人は困ったようにテーブルの上で顔を見合わせた。宿屋が空いていない事情はわかったが、これでは街のどこを探しても空室を見つけるのは難しそうだ。
「だーかーらー急ごうって言ったのに! 今晩宿が見つかんなかったらぜんぶエルのせいだからね」
アンブローシアがめらめらと目を怒らせて叫んだ。
「エル、あんたがあんなところで歌い出しさえしなければ…。ぐうっ…」
先刻のことを思い出したのか、アンはぶるぶる震えた。
「でもセドリックが怪我をしていたし。それに聖歌はとても癒されるのよ。この間の街でも、寝たきりのおじいさんがわたしの歌にすっかり安らかな顔をして…」
「あの世に行ったんじゃない!」
「まあ…、命あるものはいずれ父なる方のふところに招かれるものです」
エルウィングはおごそかに指を組んだ。
アンはギッとセドリックをにらんだ。
「だいたいもとはといえばセドリックが鼻血ふいたのが遅刻の原因なんじゃない!」
「そこでなんでぼくのせいになるかな」
「ああ、もうこれで野宿決定よ。こんなに寒いのに野ざらしの中で寝たら死んじゃう」
「あのう」
思いがけずかけられた声に、三人は話をするのをやめて顔を上げた。温かいスープを運んできたペチカが、テーブルの上に皿を並べながら言った。
「よかったら、みんなでうちにこない?」
セドリックは思わずペチカの顔をまじまじと見た。三人に藁にもすがるような目で見つめられて、彼女は困ったように笑った。
「あのね、うち、いまわたし以外にだれもいないの。父さんもこの冬に亡くなったし、母さんもとうにいないし。あんまり広くないけど野宿よりはましだと思うわ。だから…」
「いっ、行きます。行かせてください!」
セドリックは勢いよく椅子を蹴って立ち上がった。
「じゃあ…」
ペチカは空になった銅のジョッキをトレイごと頭に載せると、
「今夜は子馬亭でたくさん飲み食いしていって。父さんが死んで以来、ここのおかみさんにはよくしてもらってるから、それが条件」
そう言って、彼女は茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせた。
†
ペチカの家は、“後ろ立ちの子馬亭”から歩いてすぐのところにあった。その夜も強い風が風見鶏の街の城壁を越えて吹いていて、屋根の上の風見鶏はひとつの例外もなくすべて東を向いていた。
子馬亭からもってきた灯りを、そのままテーブルの上のランプに移す。すると火屋の中がぼうっと明るくなって、ついで鯨油の燃える匂いが部屋の中に漂った。
「ごめんね。なにもないんだけど、明日の朝は薄めてない牛乳を出せると思うわ」
ペチカが申し訳なさそうに言った。一日のうちほとんどと外で働いているというペチカは、家に戻ってくるのは夜だけだという。彼女は「おかげで一日中鯨油の匂いがとれないの。臭いでしょ」と明るく冗談を言った。
「父さんの使っていたベッドに二人で寝てもらうことにしたわ。アンブローシアさんは申し訳ないけどわたしのベッドで」
「申し訳なくなんかないわ。ベッドで寝られるだけで十分よ。ああ、あたしさきに部屋を使わせてもらうわね。なんだか頭の中から呪いの呪文が離れなくて…」
そう言って、アンブローシアはブーツのひもを解いて、さっさと寝室にひっこんでしまった。ペチカはひそひそと声を潜めて言った。
「彼女、具合でも悪いの?」
「え、えっとね、ちょっとした事情があってね」
エルウィングがカタンと席を立とうとした。
「心配ね。そうだわ、ここはわたしがとっておきの聖歌を…」
「うわー!」
大陸の南よりと言っても、山間のクラップストーンは萌え月になってもまだ雪が降る。
ペチカは白い息を吐きながら、アイロンの中から使いさしの石炭を取り出して湯を沸かした。土間と居間を区切る古い木の梁にはぴかぴかに磨かれた銅の鍋や鉄のアイロンがぶら下げられ、何代にも渡って彼女の家に受け継がれてきたのだろうことを伺わせる。こういった手あかの付いたもののどっしりとした重量感に触れるとき、セドリックはそこになにか名前の知らない精霊が宿っているように思えるのだった。
ペチカの煎れてくれたのは、お湯に蜂蜜とショウガを混ぜた蜂蜜湯だった。その素朴な味に、寒さに強ばっていたセドリックの頬も次第にゆるんでいった。
「それで、どこから来たんだったっけ?」
湯気を頬にあてながらエルウィングが言った。
「月海王国よ。東の都エストラーダから列車に乗って赤い竜の背《ガルヴァトロス》を越えてきたの」
「エメラルドの都《エストラーダ》!」
ペチカが手のひらをあわせてはしゃいだ声をあげた。
「ねえねえ、じゃあ都には遠くの人と話すことができる箱があったり、牛乳がずっと冷えたままの魔法の樽があるって本当?」
「ああ電話のことね。ほんとうよ」
大陸の主要な都市ではほぼ鉄道が敷かれていたが、レムニークのような田舎の鉄道は、ベーコン鉄道や牛乳鉄道といった食料を大都市へ運び入れるためだけに作られたものがほとんどだった。都会では紳士たちが指より太い葉巻をくわえ、街には等間隔にガラスの火屋をつけたガス灯が並んでいるというのに、そこから少し南へ行くともう人間より羊の数のほうが多くなる。
レムニークのような街から出たことのないペチカにとっては、電話もタイプライターもすべて魔法のように聞こえるのだろう。彼女はしきりと都会のことを聞きたがった。
「ねえ、ええと…」
「セドリックだよ。こっちは姉のエルウィング」
「あらお姉さんだったの。でもあまり似ていないわね」
エルウィングが心なしか力を込めてカップを握った気がした。セドリックはちらちらと彼女を盗み見た。
(エル…?)
「セドリック。あなた魔銃士だって言ってたわね。じゃあ銃を持っているんでしょう?」
セドリックは頷いて、太ももに巻いていたホルダーから魔法銃を引き抜いた。ゴトリ、と重い音をたてて銃がテーブルの上に置かれる。
「これが魔法銃…、初めて見たわ」
ペチカは興奮して頬を赤くした。
「触っても大丈夫?」
「弾はぜんぶ抜いてあるからね。問題ないよ」
彼女はおそるおそるその銃を持ち上げた。
「重いわ」
「鉄でできてるんだ。そうしないと火薬の熱に耐えられないから」
セドリックは留め金を押して回転式シリンダーを開いた。
「ここにカートリッジを詰めていくんだ。もう少し大きな銃だと六発入るんだけど、僕はまだ重くてもてないから五発式」
ペチカはまじまじと撃鉄の部分を指でさわった。この先に撃針という火打ち石の役割をする針が付いていて、これが弾丸に埋め込んである雷管とぶつかって火花が生まれ、火薬に火がつくという構造になっているのである。
「へえ。ほんとうに魔法を火薬の力で飛ばすのねえ」
「今は銃の力を借りないと、人間は魔法を発動させられないからね」
セドリックは静かに言った。ペチカは頷いた。
「人間たちがあまりにも戦争をしてばかりいるので、神さまが魔法を発動させる能力を奪っておしまいになったのよね。ねえ、これって一見ふつうの銃と同じようにみえるけど、どこか違うの?」
「ああ、構造的にはあまり変わらないんだ。薬莢の中の火薬とか手入れの方法が変わってくるだけで」
「へええ」
ペチカは物珍しそうに何度も銃を持ち上げたり、うしろの撃鉄にさわったりした。
銃の中には憲兵たちが扱う普通の鉛玉が出るタイプももちろんあったが、それは魔法壁の登場によって事実上無実化してしまったのだ。
「魔法と金属とはまったく相対するものだからね。そして魔法のほうが威力は強い。昨今の戦争なんかではまず戦闘が始まる前にこの魔法壁が張られるから、鉛玉や剣はあまり役に立たないんだ。結局、最後は魔法戦になる。だから魔銃士は恐れられているんだよ」
ペチカは神妙な顔でセドリックを見返した。
「それも知ってるわ。その魔法壁ってやつを持っているやつを知ってるもの。魔法壁を持っている人間には銃も剣も通じないんだって、子馬亭に来た流れ者が言ってた」
ペチカの言葉にはセドリックでも感じ取れるくらいの悪意が滲んでいて、彼は思わず彼女の顔を見直した。
「でもこうやって見ると不思議。銃は鉄なのに、弾は銀なのね」
「ええとそれは…」
セドリックは視線を少しずらしてエルウィングに助けを求めた。エルウィングはコトリとカップを置くと指先の腹をペチカに見せた。
「さっき言ったとおり、魔法という力はすべての金属に相反するものだという考えがあるの。実際に鉄と魔法はまったく相容れないものなのよ。それはすでに魔法の文明がおわっていて、次の文明――鉄の時代がやって来ているからだという説もあるわ」
「鉄の…文明…?」
「そう。機関車や電話やタイプライター…。新しい物はみんな金属でできているわね。魔法は古い文明の遺産にすぎないの。いずれなくなっていくものだとわたしは考えているわ」
でもね、とエルウィングは言葉を繋げた。
「銀だけが、魔法となじむことができるのよ」
「どうして銀だけ…?」
「さあ、それはわからないわ。でも昔から銀は魔よけだと言われたり、毒に触れると黒ずむと言われたりしていたのにもなにか関係があるのかもしれない。
とにかく銀だけが魔法と仲良くやっていける物質だった。だから、わたしたちは自分の持っている魔力や自然のもつ力を弾丸にこめて、銃のような機械によって魔法を利用する方法を思いついたの。でもこれはすでに鉄の文明のおかげとも言えるわね。
そして、人間の体の中で一番魔力が集まりやすいのがこの指先なのよ。だから空の弾丸を握りしめて意識を集中させると、自然とこの中に魔力が集まってくるというわけなの」
セドリックは両手を水平に持ち上げると、思いつくままに簡単な魔法式を唱えた。歌うような古代の言葉が空気中のロクマリアに触れて、きらきらと光を放ちながら手のひらに落ちてくる。
「きれい。ガラスの雪みたいだわ」
ペチカはうっとりと息を吐いた。
そして、一瞬青白い閃光が空気を縦に引き裂いたかと思うと、すうっと手の中を通り抜けた。
「これは魔法光といって、魔法をカートリッジに収めるときにかならず発生する光なんだ。そういえば…」
セドリックはエルウィングのほうを見た。
「ぼくたちははしばみの谷で、こっちのほうで大きな魔法光を見たって噂を聞いてやって来たんだけど…」
ペチカはまさか、と漏らした。
「見ての通り、魔法使いはおろか、銀製のものはスプーン一本だって街中に入れないようになっているのよ。そのオリヴァントっていう魔銃士が来ていたとしても、カートリッジは門の前ですべてとりあげられてしまうわ。カートリッジがなければ魔法は使えないんでしょ?」
セドリックは落胆したように頷いた。これでまた振り出しに戻ってしまった。いったいオリヴァントはどこへ行ってしまったんだろう…
肩を落としたセドリックの横で、ペチカは妙に熱心な口調で言った。
「ねえ、さっきの話だけど、どんな魔法でも弾丸にこめることができるの?」
「それは作る人の属性によるわね」
エルウィングは徐に首に下げていた鎌十字をペチカの手に握らせた。
「なっ、なに?」
「これは失われた時代の古い金属でできているの。ごく簡単にだけどあなたの属性を知ることが出来るわ。…ああ、やっぱりあなたは火の属性ね」
ペチカの手の甲に浮き出た炎の紋章を見て、エルウィングは短く頷いた。
「やっぱりって?」
「人間の約七割は火の属性をもっているの。それは太古の昔に、人間が火の精霊と契約することによっていまのような文明を得たからだといわれているわ。人間の属性はその人の血筋できまるの。あなたのお父様とお母様がもしほかの属性をもっていたら、あなたも火以外の魔法が使えるはず。でもそれは訓練しないととても難しいことだけど」
と言って、エルウィングはにっこり笑った。
「ただむやみやたらに銀に触っていても、それはなんの魔法にもならないわ。ちゃんと魔法式を勉強して古代語の発音を覚えなければ、魔力を操ることなんてできないもの。ごくたまに、感情が高ぶった素人が魔法弾を作り出してしまうことがあるけれど、そんなことはごくごくまれね」
「そう…、なの…」
どことなくがっかりしたようなペチカに、セドリックは怪訝そうに声をかけた。
「どうしたの?」
「ううん、何か魔法ってなんでも出来そうな気がしていたの。火とか水とかじゃなくって、こう思ったらぱっと叶えてくれそうな…」
セドリックは思わす吹きだした。
「だったらいいんだけどね。実際に使える魔法式なんてほんの少しだし、どんな複雑な魔法式でも、鉄くずを金にしたり水を油にしたりすることはできないよ」
ペチカも首をすくめてふっと息を漏らした。
ゆっくりとした沈黙がテーブルの上に埃のように降り積もった。セドリックは間をもてあまして、なんとなく蜂蜜湯をすすった。
ふいにペチカが口を開いた。
「うちね、一月前に父さんが死んだの」
セドリックとエルウィングは顔を見合わせた。
「そう…なんだってね。子馬亭でそんなことを話していたのを聞いたよ」
「ほんとうは殺されたのよ」
「えっ」
セドリック達が息を詰める前で、ペチカはぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
「いい父さんだったわ。五年前に上の姉さんを肺の病でなくしたから、子供はわたしひとりだからって、とてもかわいがってくれた」
「お母さんは?」
「母さんはまだわたしが小さいときに暴漢に襲われて…。それからは、ずっと父さんとふたりきりで暮らしてきたの。父さんは元々屋根の煉瓦を代える煉瓦工だったけど、屋根から落ちて足の骨を折ってからは手仕事しかできなくなって、仲間の薦めもあってはしばみの谷からここ風見鶏の街にこしてきたのね。
父さんは死にものぐるいで職を探し回って、ようやく一日十ドラの植字工の仕事にありついて、男手一つで必死にわたしを育ててくれたわ。足が悪かったからどこへ行くにもいつも杖をついていてね。それこそ仕事に行くにも、大好きな酒を飲みに行くときも…
わたしは、そんな三本足の父さんが大好きだった」
ペチカは戸棚の奥から、一本の使い込まれた杖を取り出した。
「手先の器用な人だったから、この杖もお手製なの。ほら、ここに〈A〉《アシャー》の字が彫ってあるでしょう? 植字工になってからは、ずっとこのAが大事だって口癖のように言ってたわ。Aって、物事の始まりって意味でもあるじゃない。何事も初めが大切なんだって」
「素敵なお父様だったのね」
エルウィングがそう言うと、ペチカは目を線のようにして本当にうれしそうに笑った。
「父さんが帰ってくるとね、扉の向こうからずるるずるるって足を引きずる音が聞こえてくるからすぐにわかるの。植字工の仕事も、最近は左目が白内障になってほとんど見えなかったのに、もう片方の目が見えなくなるまではってずっと続けてた。わたしが子馬亭で働くようになって少しゆとりが出てきたから、もう少ししたら列車に乗ってリムザにいく計画もたてていたの。もっと都会のお医者さまに父さんの目を看てもらいたくて…。父さんいつも言ってた。目が見えなくなる前にわたしの花嫁姿が見たいって…。なのに…」
ペチカの食いしばった歯の間から嗚咽に似たうめき声が零れた。
「なのに、あのモリンズのやろう。ほとんど目の見えない父さんをむりやり賦役にかり出した。びっこをひいてた上に目も弱ってた父さんに、毎日防御堀を五カートンも掘れって。戦争が始まってからじゃ遅いから、満月都市のように滅ぼされてしまってはもともこもないからって」
「モリンズって、ここの市長のこと?」
ペチカは黙って頷いた。
「もしかして、派手な刺繍のあるリンネルのシャツを着て、大きな羽根付き帽をかぶっていたりしない?」
「そうよ、モリンズはもともと都人だもの。むこうで貴族がらみのスキャンダルにかかわって飛ばされてきたってもっぱらの噂だわ」
ペチカの話によると、去年赴任してきたばかりの執政官のモリンズは、満月都市のことを聞いてからは人が変わったように魔銃士を恐れて、この街から銀という銀を全部持ち出してしまったという。そしてそのおふれによって、ペチカの父親が愛用していた銀の懐中時計も母親の手鏡も、全て役人にもっていかれてしまったということだった。
セドリックはあのときの男のことを思い出した。たしかおつきの御者が彼に向かってこんなことを言っていなかったか。
『ダメです市長。車輪が壊れていて動きません』
(やっぱりあの男がモリンズなんだ。そしてペチカのお父さんを殺した…)
「モリンズは無茶苦茶だわ。真冬に城壁を作るなんてそんなの無理に決まってる。父さんは賦役の免除を申し出たけど、全然相手にしてもらえなかった。わたしたちはここに越してきて日が浅かったから、まだ正式な市民じゃないからって。この賦役は父さんだけじゃなくて市民全員に課せられていて、どの家でも働き手を取られて家計のやりくりに苦しんでいたの。見かねた父さんはモリンズに訴え出てみると言って、みんなが止めるのも聞かずにいつもの杖をついて家を出ていった。いつもみたいに左足を引きずって。
でも、戻ってきたのは杖だけだったわ…」
ペチカは肘を突いた手で、しばらく顔を覆って黙っていた。やがてその指の隙間から、彼女の本音らしい呟きが漏れた。
「…もしわたしに魔法が使えたら、あんなやつ殺してやるのに」
セドリックは思わずエルウィングと顔を見合わせた。
エルウィングがためらいがちにペチカに声をかけた。
「ペチカさん…」
ペチカはふいにきつい口調で言った。
「どうしてわたしたちだけこんな目にあわないといけないの。毎日毎日真面目に働いて、礼拝にいくことも、食事の前に神さまへお祈りすることだって忘れたこともないのに。
パンは毎日カビを削り落として食べているし、牛乳は水っぽくって最近は本物のバターだって買えなかった。いいものはみんな役人がもっていってしまった。父さんの人生は苦しみばっかりで、なにひとつ良いことなんてなかったわ。なのに――死ぬ前にたったひとつ、たったひとつくらい、なにかお恵みがあったっていいじゃないの!」
エルウィングはそっと壊れ物をもつようにペチカの肩をもった。
「そんなふうに思い詰めたらいけないわ。ね、今夜はもう休みましょう。ずいぶん冷え込んできたからこのままでは風邪をひいてしまうわ。鎧戸を閉めて、暖炉であんか用の石を焼きましょう。ね?」
肩を落としたペチカを抱きながら、エルウィングは部屋へ戻っていった。
セドリックがどことなく胸のつかえを感じながら部屋に戻ると、ベッドの中からくぐもった声がした。
「意外と激しい子ね」
「うわっ」
セドリックは大きな声を出して驚いた。
「ア、アン。起きてたの?」
「うちにこないとか言い出すからずいぶん親切な子だと思ってたけど、そっかあ…。あの子、あんたの魔法に期待してたんだ」
アンブローシアは寝返りを打って、くくくっと笑った。
「で、敵《かたき》をとってくれって言われたの?」
「まさか。それにカートリッジを全部取り上げられたんだもの。僕にはなんにもできな…」
「できるでしょ。あんただったら」
アンブローシアの切り込んだような口調に、セドリックは思わずぎくりとなった。
「ね、わたしたちが助けた男ってここの市長なのよね。名前はモリンズ」
「うん。確かペチカがそんなこと言ってた」
「その男って、半年前のあのスキャンダルに一枚噛んでいたっていう前サンプティ市長のトーマス=モリンズじゃない?」
と、アンブローシアは新聞を開いてみせた。それはオリヴァントの似顔絵が載っているからと持ち歩いていた半年前の新聞だった。
新聞にはこのようなことが書いてあった。
タウンゼント貴族院議員の死は魔法による殺人と断定。中央警察院は被害者の甥であるマックエル=タウンゼント子爵を逮捕。血みどろの子爵家相続争いにはほかの政界人も関与か――?
「この事件、都中のスキャンダルになっていたからあたしでも知ってるわ。ほらここに載ってる。容疑者の知人、トーマス=モリンズ現サンプティ市長は関与を否定――。
ふむふむ、どうもモリンズが裁判にかけられずにすんだのは、やとった魔銃士に全部罪をなすりつけて逃げたかららしいわね。やつがこんな辺境にとばされたのもそのせいでしょ」
アンブローシアは猫のように丸い目をくるりとセドリックに向けた。
「きっとモリンズは逃げたのよ、その魔銃士から。彼が過剰に魔法を恐れているのも相手からの復讐を恐れているからでしょうね」
あっとセドリックはシーツの上から起きあがった。
「もしかしてその相手が、オリヴァント…」
「ピンポーン」
アンブローシアは人差し指をピョコンとたててみせた。
『おまえらもあいつの――オリヴァントの仲間か。都からワシを殺しにきたんだろう。な、そうなんだろう!』
セドリックはぽんっと手のひらを打った。
「そうか。だから彼はあんなに魔銃士を恐れていたんだ。銀を街中にもちこませなかったのもそのためか」
彼はふと思い当たったようにアンブローシアを見た。
「でもアン、どうしてそんなことがわかったの?」
「あのモリンズって男、話し言葉に都なまりがあったでしょ。それに北部《レニンストン》のなまりがまったくなかった。おそらく飛ばされてきたのはごく最近ね。ペチカもそう言ってたじゃない」
セドリックは思わず感嘆の息を漏らした。あの短い会話の中からアンブローシアはそれだけの情報を引き出していたのだ。
「つまり整理するとこういうことね。あのモリンズってヤツは都で貴族院議員の殺害を企てた。まあ、おおかたその甥とやらに金でも積まれたか、要職を約束されてたんじゃないの。そしてその手口を隠すために、魔銃士であるオリヴァントをやといいれた。
ところが計画は露見して、モリンズは保身のあまりオリヴァントにすべての罪をなすりつけた。まったくシロというわけではなかったから、モリンズは都落ちしてここ風見鶏の街に飛ばされた。彼はオリヴァントを甘く見すぎていたのね。そうしたらあの――満月都市のことがあって、モリンズはすっかり魔法に臆病になった。
オリヴァントの報復を恐れたモリンズは、風見鶏の街から銀を一掃し、街中で魔法が使えないようにした。そうして彼が過酷な労役を課したせいでペチカの父親は死に、あの子はモリンズを殺したいと願っている、と――こういうこと」
彼女はシーツの中からニヤっと笑った。
「それにしても魔法が怖いから銀を持ち込ませないようにするなんて…。ふふ、そーんなことしても無駄だと思うけどなあ」
意味ありげな含み笑いをするアンブローシアに、セドリックは興味を引かれた。
「どういうこと?」
「だって、魔法だけが武器なんじゃないわ。料理に使う包丁だって炉掻きだって使おうと思ったら武器として使えるじゃないの」
彼女の言いたいことがよく見えなくて、セドリックは怪訝そうに顔をしかめた。
「つまり武器っていうのはさ。山とか川とか人間が生まれる前からあったものじゃなくて、人間がこの手で作り出したものじゃない」
「う、うん」
「それも、人を殺すために」
セドリックは思わず背筋を伸ばした。
アンブローシアはけらけらと笑った。
「剣だって銃だって、わざわざ人を殺すために作ったものじゃないの。だったら、銀だけを規制したってそりゃあ無駄なことだわよ。あたしはあのペチカって子が、父親の形見の杖でモリンズを殴り殺したっておかしくないと思うけどなあ」
「そ、そんなばかな!」
「あたしが初めて人を殺したのは、かんざしでだったわ」
思わぬ告白に、セドリックはひっと喉を引きつらせた。アンブローシアはまるで昨日の夕食のことを話すように、なんでもない口調で言った。
「武器を手にしたから人を殺すんじゃないわ。人を殺そうという思いが手に武器を握らせるのよ。つまり殺意があれば、手にしたものはみんな武器になる。それはフォークだって、剣だって軍隊だって同じよ。
――だから人間は、決して武器を捨てられない」
アンブローシアの視線は、まるで鋭く削られた鏃《やじり》のようだった。セドリックはその矢に胸を射抜かれてしばらくの間言葉を失った。
黙ったままのセドリックの前で、アンブローシアは眠そうにあくびをかみ殺した。
「人間っておろかな生き物ね。神さまがダメだって言ってるのに、それでも魔法を捨てることができなかったんだから。いったいこの次は何を禁じられるのかしら。今の鉄の文明は次々に新しい武器を作り出しているから、取り上げられるのは鉄? それとももっと根本的な殺意――? でも、憎むことが暴力へとつながるのなら、人はもうなにも感じたりできなくなってしまうわね。そうすると、あたしたちはいったい何者になってしまうのかしら…」
そう言って、アンブローシアはしゃべり疲れたように、すうっと寝息を立てて寝てしまった。
窓の外ではまだ風が吹いていた。ときおり強く吹いて鎧戸がガタンと大きな音をたてる。
「人間は、武器を捨てられない…」
時間が経つとともにしんしんと寒さが迫ってきて、セドリックの周りに音を立てずに降り積もった。真っ暗闇の中では自然と聴覚だけが研ぎ澄まされて、ほんのわずかな音ですら拾ってきてしまう。
そのとき、隣の部屋からカリ、カリと何かを削る音が聞こえてきた。
(なんの音だろう?)
しばらくするとその音は聞こえなくなった。セドリックは毛布にくるまってむりやり目を瞑った。
『もしも魔法が使えたら、あんなやつ殺してやるのに』
目を閉じてもしばらく、ペチカの憎しみの籠った眼差しが瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
†
人間は、自分の理性だけではどうにもならないものをいくつか持っていて、その中の一つが夢であるといわれている。
その夜、セドリックはめずらしく楽しい夢を見ていた。たまたま手持ちのカートリッジにとんでもなく強い魔法を補充することができて、アンブローシアにすごいすごいと手放しに褒められたのだった。
『すごいわ、セドリック。あたし、あんたのことちょっぴり見直しちゃった。ううん、惚れ直しちゃったか・も』
「ええっ」
アンブローシアは人が違ったようになれなれしくセドリックの右腕を取ると、ぐぐぐっと背伸びをして顔を近づけた。
『こんなに素敵な大魔法使いさまなら、あたし結婚してあげてもいいわ』
『ああああ、アン…』
アンブローシアの吐息がセドリックの頬にかかった。彼女はどぎまぎするセドリックの髪に細い指を差し入れると、まるで猫が喉を鳴らしているような甘えた声を出した。
『ね、あたしと結婚しましょうよ。あたしとあんたの子供なら、アリルシャーの血を引くすっごい魔銃士が生まれると思わない?』
言いながら、アンはセドリックの襟元を開いて自分の手を滑り込ませた。
「アン、う、うわっ」
『アリルシャーの血とわが――の血が混ざれば、きっと途方もない魔力を持つ子供が産まれるわ。そうしたらあたしたちの手で戦争を止められるかもしれない。あたしたちがこの世界を救うのよ。ねえ、セドリッ…』
『だめよ!』
突然、大音量があたりに響いて、セドリックはアンから体を引きはがされた。
セドリックは驚いて声の主を見つめた。
「エル!?」
エルウィングは蛇のような素早さで、セドリックの左腕にするりと白い腕を絡ませた。
『セ、セドリックには、姉であるわたしが認めた人じゃないと許しません。それに結婚なんて、いくらなんでもまだ早すぎるわ』
と、必死になってセドリックに身を押しつける。彼女の豊満な胸が腕にあたって、セドリックは脳みそが沸騰しそうになった。
(む、胸っ。胸があたってる…)
アンブローシアはイーッと歯を見せて言った。
『なによ、色仕掛けでセドリックをたぶらかそうったってそうはいかないんだから。この音痴巨乳おばけ!』
『い、色仕掛けなんかじゃありません。それにセドリックはわたしの弟です!』
『いーじゃないの、ねえセドリック。イマドキ十四かそこらで客をとる子だっているんだから。このおばさんになんとか言ってやってよ』
『きゃ、客を取るなんて、そんな言葉お嫁いり前の娘が使う言葉じゃありませんっ』
顔のすぐ側にはアンブローシアの蕾のような唇が、体の左半分にはやわらかなエルウィングの体があたっていて、セドリックはかつてないほど混乱した。
(う、うれしいけど困る…。でも、なんだか夢のようでくすぐったくて、でも困ってしまって……はうああ…あああ…)
セドリックは頬をゆるませながらむにゃむにゃと寝言を零した。
「ご、ごめんアン、いますぐに結婚なんて決められないけど、気持ちだけで…。エルも、もうちょっと体を離して…む、胸が…胸が…」
「起きろ」
どかっとお腹の辺りを蹴られた。
「う…ぐ…。な、なに?」
「いったいなんの夢みてんのよ」
セドリックが呻きながら目を開けると、不機嫌そうなアンブローシアの顔が目に飛び込んできた。
「寝ぼけてる場合じゃないのよセドリック。大変、あの子がいないの」
「えっ」
セドリックは飛び起きた。
「いないって、ペチカが?」
「朝起きたら隣りにいなくて。お、おかしいと思って部屋の中を探したら、テーブルの上にこんなものが…」
と、エルウィングが差し出したのは、何かを削ったあとのような金属のかけらだった。
「これは、銀…」
セドリックは呆然と呟いた。
「どうしてこんなものをペチカが? 銀製のものはぜんぶ取り上げられたって、たしか彼女そう言ってたのに」
「答えはこれね」
机の中を漁っていたアンブローシアが、その中から何かをつまみ上げた。それは親指ほどの大きさの金属の塊だった。よく見ると、真ん中にAという字が浮き出ているのがわかる。
セドリックはハッと息を呑んだ。
「…金属活字だ」
「たしか彼女、父親は植字工だって言ってなかった?」
セドリックは頷いた。たしかに、そんなことも言っていたような気がする。
アンブローシアは何事かを考え込むように顎をつまんだ。
「たぶん彼女はこれでカートリッジを作ったんだわ。金属活字は鉛と銀の合金でできているものだから、きっとこれから銀だけをとりだしたのよ」
「銀だけを取り出すなんてできるの?」
「ちょっとこっちへきて」
アンブローシアは二人を暖炉のある居間へ連れ出した。彼女は炉の前にしゃがみこんでそこに残った灰をたんねんに調べていたが、
「銀と鉛って混ざりやすくて、混ぜたものを特に貴鉛っていうのね。こうやって灰をつめた炉を作ってその上に貴鉛を置く。次に貴鉛に炭の粉を振り掛けその上に火を入れて、栗か椿の生木で燃し続ける。すると鉛は溶けて灰に吸収されてしまって、あとに銀だけが残るのよ。よく銀山なんかで使われている方法ね」
灰の下からくろぐろとした鉛の塊が現れると、セドリックは息を呑んだ。
「ほんとうだ…」
「どうやってそんな方法を知ったのかわからないけど、彼女、ものすごい執念ね。彼女がモリンズへの憎しみを全てそのカートリッジに込めて作っていたのなら、とんでもない魔法がその中に収まってしまったとしても不思議じゃないかも」
「魔法だって!?」
ぎょっと肩を震わせたセドリックに、エルウィングが静かに言った。
「このかけらからは、なにかよくない魔力を感じるわ。魔力だけは人間がだれでも持っているものだから、アンの言うこともあながち的はずれではないと思う」
「だからって、彼女は魔銃士じゃないのに!」
「セドリック。あなたは魔法式を唱えるとき意識を一つにして集中しないかしら」
いきなり話題がそれたような気がして、セドリックは少し面食らった。
「え、うん。それはそうだけど…」
「人間が普通に生活をする中でも、無意識のうちにそれと同じような行動をしてしまうことがあるのよ。たとえばだれかに激しい恋をしたり、殺したいほど憎い相手ができたとき、人はそのことしか考えられなくなって意識を集中してしまいがちなの。それは魔法式をとなえることとほとんど同じなのよ」
『ごくたまに、感情が高ぶった素人が魔法弾を作り出してしまうことがあるけれど、そんなことはごくごくまれね』
セドリックは昨晩話した会話のことを思い出していた。エルウィングがペチカに冗談めかして言った言葉がほんとうになってしまったのだった。
「もしかして、あたしたちがはしばみ谷で聞いた、レムニークの方角で見た大きな魔法光って、ペチカがカートリッジに魔法を補填させたものなんじゃあ…」
三人はほぼ同時にごくりとつばを飲み込んだ。
セドリックは机の上に転がったナイフをそっと拾い上げた。固い物を削ったせいで、ナイフの刃はすっかりぼろぼろになってところどころかけ落ちている。
おそらくこの椅子に座って父親の形見をナイフで削りながら、ペチカの憎しみは指先からどんどんと銀に染みこんでいったのだ。いくら銀がやわらかいとはいえ、少女の手では弾丸のようになるまで削るのは途方もない労力がいったことだろう。
セドリックには、毎夜子馬亭から帰ってきてから、このナイフで取り出した銀を削っているペチカの背中が見えるような気がした。
(いったいどんな思いで削っていたんだろう…。ペチカ!)
「でもカートリッジだけ作っても、彼女は銃をもっていないのに…」
「そっちのほうもやられたみたいよ、ほら」
アンブローシアはセドリックのホルダーを投げてよこした。昨晩銃をしまったはずのホルダーは空っぽだった。
セドリックは顔から血の気がさああっと音を立てて引いていくのを感じた。
(じゃああの音は、やっぱり…)
昨晩寝付く前に聞こえてきた、なにかをカリカリと削る音――。あれは、あの音は、ペチカがセドリックの銃にあわせてカートリッジを削っている音だったのだ。
三人の顔に三様の焦りが浮かび出た。
「大変だ。ペチカを早くとめないと!」
セドリックは、それこそ弾丸のような速さで部屋を飛び出した。
†
息せき切ったセドリックがまっさきに駆け込んだのは、まだテーブルの上に椅子を上げた状態で店を開けていない“後ろ立ちの子馬亭”だった。
突然、ものすごい形相で駆け込んできたセドリックに、子馬亭のおかみは怪訝そうに声をかけた。
「おや、昨日うちで食べていったぼうやじゃないか。どうしたんだい、こんな朝っぱらから」
「ペチカを止めてください!」
セドリックは怒鳴るように言った。
「ペチカがどうかしたのかい?」
「ペチカが、ペチカが僕の銃を持って…。たぶん彼女はこれから復讐に行くつもりなんです。お父さんを殺したモリンズを殺しに」
「な、なんだって!」
店の奥から仕込み中だったらしい子馬亭の店主が顔を出した。
「ペチカがモリンズを殺しに行ったって、それは本当なのか!」
「でもあんた、モリンズには銃器は通じないよ。ヤツは魔法壁をもっているし…」
セドリックは首を振った。
「ペチカは一発だけ魔法弾を持っているんです。それで僕の銃を盗んで…」
言いながら、セドリックは昨晩このテーブルに座っていたときのことを思い出した。おそらく彼女は昨晩子馬亭でセドリックが魔銃士だと知ったときに、この復讐を決意したにちがいなかった。だからこそ、セドリック達に自分の家に泊まらないかと声をかけてきたのだろう。
子馬亭の亭主とおかみは険しい表情で顔を見合わせた。
「そりゃ大変だ。あんた、ペチカが…ペチカが殺されちまうよ!」
「みんなを呼んでペチカを探させるんだ!」
「で、でも…、そのモリンズってやつはいったいどこにいるんですか」
子馬亭のおかみは、ふと窓の方を見てぎょっと顔を強ばらせた。
「あんた、庁舎だよ!」
そのとき、ゴーンゴーンと昼の十時を告げる鐘がレムニークの街に響き渡った。セドリックは詰め寄るようにおかみに言った。
「庁舎って?」
「モリンズは毎朝十時に屋敷を出て馬車で庁舎に向かうんだ。ペチカが狙うとしたら、たぶんそのとき…」
亭主がそう言うが早いか、セドリックはふたたび鐘の鳴り響く庁舎塔を目指して駆けだしていた。
十回ならされる鐘の音が、いまは頭の上に散らばって降ってくるような気がした。セドリックは道の十字路に立ち止まって、市庁舎に向かっていく馬車がいないかどうか目を凝らした。
(ここにもいない)
いないとわかると再び土を蹴って走り出す。セドリックのブーツの踵が舗装されていない道の土を大きくえぐった。
「ペチカ、返事をしてくれ!」
セドリックは叫んだ。周りの人々がいったい何事かとセドリックを怪訝そうな顔つきで見た。彼はかまわず叫び続けた。
「ペチカ!」
そのとき、セドリックの耳にかすかな女性の悲鳴が飛び込んできた。セドリックは素早く方向を変えると、悲鳴の聞こえた方に向かって走り出した。
そこはちょうど庁舎の前の、分厚い本を抱えた詩聖ボッジオの銅像が建てられている広場だった。セドリックはそこで、ステッキをついて庁舎に向かおうとしていた小太りの中年男と、その彼に向かって銃口を突きつけている少女の姿を発見した。
「ペチカ!」
「来ないで!」
ペチカは中年の男からわずかも銃口をそらさずに叫んだ。
カラーンと音がして、男のステッキが彼の足元に転がって音をたてた。男は青白い顔に脂汗の粒をいくつも浮き上がらせながら、両手をあげてその場に立ちすくんでいた。セドリックはその男の顔に見覚えがあった。間違いない、あの荒野で襲われているのを助けた羽根つき帽の男だ。
(やっぱりこの男がモリンズ!)
「魔法に巻き込まれたくなかったら、みんなここから遠くへ離れて!」
魔法と聞いて、周りにいた人々が悲鳴をあげて広場から逃げ去った。セドリックはかまわずにペチカの近くまで走り寄った。
「お、おまえは何者だ。ここここんなことしてただで済むと思って…」
「なにものですって? あんたが殺した植字工ベイルキンの娘よ!」
ペチカの引き金を引く指にぐっと力がこもる。モリンズはひっと引っ張られたように頬を引きつらせた。
「な、なんのことだ。植字工なぞワシは知らな…」
「とぼけないで!」
ペチカは体そのものが石炭でできているかのように、全身から熱を滲ませながら言った。
「わたしの父さんはあんたに殺されたのよ。足が悪かったのに、むりやり賦役に徴収されて、父さんはあんたのために足を引きずりながら堀を掘っていたわ。父さんだけじゃない、みんな傍若無人にふるまうあんたを心底恨んでた。レムニークは風が強い土地で作物は満足に育たない。わたしたちはそのわずかな土の恵みを分け合って生きてきたのに、あんたは都の常識を振り回して、こんなところに必要のない防御壁をムリヤリ作らせて…。そんなことをしていったい何になるっていうの。
――そうよ、あの日だって!」
ペチカは嗚咽で声を詰まらせながら叫びあげた。
「これ以上男手を取られたら、レムニークの人々は冬を越す準備が出来なくなってしまう。父さんはみんなのためにあんたに会いにいったのよ。そして、とうとう帰ってこなかったわ!」
異変を聞きつけたらしい憲兵が、ペチカのまわりにばらばらと散らばり始めた。みな銃剣をペチカへ向け、ねらいを定めてその場に膝をついた。
(魔法銃じゃない。ほんものの鉛玉だ)
セドリックは注意深く憲兵達が手にしている銃を見つめた。それらは銀を使用した魔法用のカートリッジではなく、魔法を含まない鉛の弾丸を利用した飛び道具だった。魔法壁を持っている人間にはこのような飛び道具はまったく通じないのだが、魔法壁はたいへん高価な装身具であり、一般市民がおいそれと手に入れられるようなアイテムではなかった。
ペチカもまたそのような魔法壁をもっていなかった。憲兵たちが一斉に引き金を引いたら、ペチカのか弱い体など、あっという間に蜂の巣のようになってしまうだろう。
しかし、ペチカは憲兵など見えていないように口元に不敵な笑みを浮かべた。
「そんなことしても無駄よ。あんたたちが引き金を引いても、わたしは必ずこの魔法銃を撃つわ。そうしたら、わたしが何度も何度も心の中で作り上げた化け物があんたを食い殺す。――ねえ、セドリック」
急に名前を呼ばれて、セドリックはハッと顔を上げた。
「わたしの家で、あれを見たんでしょう」
セドリックは何と言っていいやらわからずに短く頷いた。
ペチカは疲れたように小さく笑った。
「毎日ね。灯りのついていない家に帰ってもすることがないのよ。ただいまって言ってもだれも答えてくれない。テーブルの向こうにも誰もいない。家族で使っていた鍋は大きすぎて、わたしはスープをいつも多めにつくってしまうの。父さんのぶんの皿をよそってしまう。
月明かりだけを頼りに銀を削っているときも、このカートリッジの中からとてつもない魔獣が現れてモリンズを殺してくれたらいいって思ったわ。そうしたらあの光をみたの。とてもきれいだった。青白くて、きっとこれは神さまがわたしにくださった刃なのかもしれないってふっと思ったわ」
彼女の瞳に、強い決意とそれ以上の何かがキラリとひらめいた。
「ね、セドリック。あなたにだってわかるはずよ。殺したくて殺したくてたまらない相手が目の前にいて、そこへナイフが落ちてきたら、だれだってそれを拾わずにはおれないわ。わたしは確信したの。わたしには魔法が使えるって。父さんはあんなに真面目に生きていい人間だったんだもの。神さまはわたしに復讐を…、魔法を使わせてくださるはずだって!」
ペチカは右足を大きく後ろに引いて、銃を握った両手を改めてモリンズへと向けた。モリンズはぎょっとして二重にたるんだ顎を震わせた。
「父さんを返して。あんたが恐れている魔法とやらで父さんが生き返るんだったら、この引き金を引かないでいてあげるわ」
モリンズは慌てふためいてわめいた。
「な、なにを馬鹿なことを。ワシは知らん! おまえの父親などワシは…」
ペチカは絶叫した。
「父さんを返して。わたしにたったひとりの父さんを返してよぉぉぉ!!」
「よしなさい!」
まったく予期せぬ声が、風がぱったりと止んだレムニークの空に吸い込まれるように響いた。引き金に力をこめかけていたペチカは、ほんの一瞬だけその指を動かすのをためらった。
すると広場にパラパラと足音が散って、セドリックの目の前に数人の大人が立ちはだかった。
ペチカは大きく目を見開いた。
「お、おかみさん、それに父さんの仲間だったひとたち…」
ペチカを遠巻きに見ていた人だかりの中から、誰かが一人飛び出した。彼女をかわいがっていた子馬亭の亭主だった。
「ペチカ、銃をおろすんだ。そんなことをしてもなにもならない」
「いやよ!」
ペチカは銃口をモリンズに向けたまま、顔だけ動かしてこちらを見た。
「おやじさんだって言ってたじゃない。モリンズは非道い、都で恨みをかって左遷されてきたに違いないって。それでも地方官は中央の目が行き届かない分すきほうだいできるから、モリンズは中央へ招聘《しょうへい》してもらうための地金稼ぎをするために、わたしたちから税を搾り取っているんだって。みんなだってこうしたかったはずでしょ。モリンズを殺してやりたいって言ってたじゃない!? 父さんだって――」
「おまえの父親は、わしが殺した」
そのとき、いままで止んでいた風が、ざああっと城壁を越えて強く吹いた。街中の屋根の上の風見鶏が、一斉にパタパタと向きを変えていく。
その中で、ペチカだけが凍り付いたようにその場に立ちつくした。
「な…に…」
「モリンズは関わってない。おまえの父親ベイルキンはわしたちが殺したんだ」
ペチカはその言葉の中に嘘を探そうと、必死で目を見開いているように見えた。だが、彼女の意に反して、子馬亭の夫婦の表情からもまわりの大人達の態度からも、彼らが冗談を言っているのではないということがひしひしと伝わってきた。
ペチカの内股ががくがくと震えた。
「うそよ。そん…な…」
「あんたの父さんがモリンズに直訴に行こうとしていたのは確かだよ」
そう、子馬亭のおかみが静かに言った。
「けどね、そんなことしたらどうなると思う?」
「どうなるって…」
「あんたは考えたことあるのかい。万が一、あんたの親父さんがモリンズに直訴なんぞしたら、あたしらだってとばっちりを食うんだよ!」
ペチカは信じられないというふうに、何度も何度も首を振った。
「だって、みんな…モリンズが憎いって、賦役は辛いって、そう言ってたじゃない!」
彼女は素早いしぐさで、周りを取り囲んでいた大人達を見回した。セドリックは、そこにいる人々に見覚えがあった。昨夜子馬亭で、酒の肴にペチカの父親のことを褒めていた男たちだった。
「いつもみんな、子馬亭でお酒を飲みながらわめいていたじゃない。モリンズなんかいなくなってしまえばいいって。だから父さんはみんなのために――」
だが、だれひとり彼女の言に同意するものはいなかった。みないちように渋い表情で、――それでも悪いことをしたと感じ入っている顔はひとつもなかった。
「あんたがその銃でモリンズを殺して、それでいったい事態がどうよくなると思うね。モリンズがいなくなったって、どうせ代わりの執政官が都から派遣されてくるだけさ。あんたら親子はレムニークにきて日が浅いから知らないが、モリンズの前の役人だってやつとたいしてかわらなかった。モリンズに直訴なんかしたって、どうせ取り下げられるにきまってる。それにそんなことをしたら、執政官に反抗的な奴らだって、ますます締め付けが厳しくなるかもしれないんだ。
あたしらは何度もあんたの父さんを止めようとしたんだよ。少しはわたしらのようにここにずっと住んでいるもののことも考えてくれって。あんたらはここがダメなら元いたはしばみ谷に帰ればいいかもしれないが、あたしらはそういうわけにはいかないんだ。なのに、あんたの父さんは聞きゃしなかった。だからあたしたちはとっさにこの杖で…」
子馬亭の女将は手に何かを握っていた。それは驚いたことにペチカの父親が使っていたというあの杖だった。
ペチカの口から悲鳴に似たうめき声が漏れた。
「そんな…」
ぶあつい涙の幕が、彼女の茶色い瞳を覆い尽くした。
「そんな…ぁ…ぁ…」
セドリックには、彼女の中でなにかがガラガラと音をたてて崩れていくのが見える気がした。
しばらくは、広場には風の音だけがしていた。西を向いていた風見鶏が徐々に向きを変えて、人々に時が経っていることを知らせていた。
「その銃で、だれを撃つ気だね?」
子馬亭の亭主は言った。
「こ、来ないで…」
「おまえは悪人はみんな殺してしまえというが、おまえはこれからもそうやって一人一人悪人を撃ち殺していく気かい。そんなことがほんとうにできると思うかい?」
ペチカはくるりと体の向きを変えると、今度は子馬亭の亭主に向かって銃口を突きつけた。
「来ないで!」
「おまえの言う悪人をそうやって一人一人殺して行けば、おまえの言うように暮らしがよくなると思うかい。いい世の中が来ると、本気で思っているのかね」
彼は自分に銃口が向けられたのにもかまわず、ペチカの方へと一歩一歩近づいていった。彼はあくまで咎めてはいなかった。哀しげな表情でペチカの瞳だけをじっと見つめていた。
「わしたちが憎いなら、その銃ではなく鉛玉で殺しなさい。それでおまえの恨みが晴れるのならそうしなさい。関係のない人間を巻き込んではいけない」
「あんたァ!」
セドリックの背中で、子馬亭のおかみのすすり泣く声が聞こえてきた。ペチカは明らかに動揺しているようだった。銃を持つ手が小刻みにふるえ、さっきから沈黙している唇は死人のように青ざめている。
そのとき、セドリックの目の前に騒ぎをききつけたらしいエルウィングとアンブローシアが走ってくるのが見えた。
「あっ」
セドリックの小さな呻きを合図にしたかのように、子馬亭の亭主がペチカを取り押さえようと彼女に襲いかかった。
「ペチカ!」
「ああっ」
ペチカは目を瞑ったまま、引き金にひっかけている指にぐっと力を入れた。
「いやあああ、来ないでええぇ!!」
(ああっ!)
ズガーンという聞き慣れた銃声が広場を中心にしたあたりに響き渡った。セドリックは空圧に腹を押されながら、ペチカの握っていた銃の銃口から銀のカートリッジが飛び出て、すぐに粉々に砕け散るのを見た。
(な、なんだ!?)
ぎゃあああっとつんざくような悲鳴があたりに立ち上り、続いて視界が真っ黒に染まった。
セドリックは唖然と空を見上げた。銀のカートリッジを食い破って出てきたのは、まるで悪質な石炭を燃やし続けたときに出る煤煙のようにくろぐろとした化け物だった。
セドリックは小さく首を振った。
「…あんな魔法、見たことがない」
「当然よ。あれはペチカが心の中で飼っていたものなんだから」
アンブローシアが熱風に顔をゆがませながら言った。
「困ったわね。火の魔法なら水を、風の魔法なら土を唱えればある程度は相殺できるけど、あれの属性がわからないんじゃ手が出しようがないわ。もちろん魔法式なんてものがあるわけないし」
「化け物だ!」
「逃げろ、逃げろおおおっ!!」
辺りは蜘蛛の子を散らしたような騒ぎになった。転がるようにその場を立ち去ろうとしたモリンズは、行く手を黒い触手に遮られて悲鳴をあげた。その化け物は自分の標的を知っているらしく、逃げ腰のモリンズにぎらぎらした視線を向けた。
セドリックは銃を握りしめたまま呆然と蹲っているペチカを押しのけ、化け物に向かって古代語で叫んだ。
「〈止せ! 無駄な殺戮をするな!〉」
「無理よセドリック。そいつは精霊や聖獣なんかじゃない。ペチカの心が生み出した化け物よ。古いことばは通じないわ!」
エルウィングの言葉が投げられるのとほぼ同時に、化け物がセドリックに向かって黒い触手を伸ばした。
「ああっ」
「あぶない!」
セドリックの目の前に黒い物が立ちはだかった。と思った瞬間、耳元でエルウィングの悲鳴が聞こえた。
「きゃああああっ」
「エル!」
なんとエルウィングはセドリックを庇って、その黒い触手に体を巻き取られてしまったのだった。
黒い手によって宙にすくい上げられたエルウィングの体は、半分黒い煙に飲み込まれているように見えた。セドリックは思わず太もものホルダーに手をかけていた。しかし、そこには肝心の銃がない。
「銃が…、銃が使えない。カートリッジも!」
セドリックは愕然とした。
銃はあっても肝心のカートリッジがなければ魔法は使えない。相手が古い生き物なら古代語である程度の語りかけができるのだが、あの黒い化け物にはそれすらも通じないのだ。
油のような汗がこめかみをしきりに流れた。
(どうすればいい。――エル!)
「魔法を使うのよ」
その場に相応《ふさわ》しくない、ひどく落ち着いた声だった。セドリックはおそるおそる右隣を見た。自分とまったく同じ目線――アンブローシアと目があった。
「あんたならできるでしょう、セドリック」
「そ、そんな…こと…」
アンブローシアはたたみかけるように言った。
「エルウィングを助けたくないの!? あんたの姉さんなんでしょう」
「できないよ! 銃なしでなんか僕にはできない!!」
「その銃なしで、満月都市の十万人を殺したのは誰!?」
その声はまるで振り下ろされた斧のように、セドリックの心をかち割った。
セドリックは息を止めた。息だけではなく、彼の全身が時間を止めていた。
彼女はさらに言葉を重ねた。
「あんたがやったのよ。銃なしで魔法をぶっ放して、十万人が住む大都市イボリットを一瞬でただの灰に変えてしまった。そんなことができるのは、赤魔導師ベリゼルの濃い血を受け継ぐ直系、セドリック=アリルシャー、あんただけよ」
セドリックは聞きたくないというふうに、両手で耳をふさいだ。
「アン、やめてくれ…」
「あれはすごかったわね。まるでかつてこの世を焼き尽くしたと言われる〈落日〉級の炎だったわ。人々は逃げまどうヒマもなく火の海に飲み込まれ、いくつもの火柱が天をついて立ち、荒れ狂う爆風にちぎれ飛んだ腕や胴体があちこちに散乱して、足の踏み場もなかっ…」
「やめろ!!」
セドリックは大きく呻くと、頭を抱えてその場に蹲った。
(思い出しちゃ、いけないんだ)
――ずっと穏やかに生きてきた。
満月都市にあるメンカナリン聖教の修練院。そこではまだ年若い修道士たちが神に仕え、人に奉仕するすべを模索しながら共同生活をしていた。
気がつくとセドリックはその修練院にいた。小さいころのことはまるで覚えていなかった。ただ、エルウィングとかくれんぼをして遊んでいたとき、お屋敷にあった大きな古時計の中に隠れているうちにすべてが終わってしまったということだけは、なんとなく覚えていた。
しばらくしたあと、セドリックとエルウィングの二人はメンカナリンの修練院に引き取られた。修練院の修道士の多くは、セドリックたちと同じように戦争や不幸な事故で親を亡くした孤児たちばかりだという。
セドリックたちを引き取ったザプチェク大僧正は、大きな手でセドリックの頭を撫でて言った。
「かわいそうに、夜盗に襲われてご両親を亡くすなどさぞかし辛かっただろう。ずっとここにいるがいい。この神の家では、みんながおまえの兄弟なのだから」
修練院での修行は厳しかったが、セドリックにとってはおだやかで満ち足りた日々だった。ここでの月日が長くなるうちに、彼は自然と昔のことはあまり思い出さなくなった。
(可哀想なのは僕だけじゃない。世の中にはもっと恵まれない人々がいるんだもの。僕はそんな人たちの役にたちたい。ここでたくさんの癒しの魔法を覚えて、市井《しせい》の人々の役にたつんだ、エルといっしょに…)
それに、ここにはエルウィングがいる。
エルウィング、優しい姉さん。綺麗なうす桃色の瞳にいい匂いのする肌、赤く染まったほっぺたはリンゴのよう。いつもその頬で僕にほおずりをしてくれる。
セドリックは確信していた。エルウィングさえそばにいれば僕はどんなところへも行けるだろう。だから強くなりたい、だれよりも僕のエルのために――
(神さまとエルがいればそれでいい。お寺の修練長さまも大僧正さまもとても良い方なんだもの。ぜんぶ忘れたほうがいいんだ。あの夜のことは…)
それを、あの男が壊した。
(あの男、キメラの魔銃士オリヴァント!!)
オリヴァントは災厄のようにやって来た。あるいは終末のように、あるいは断末魔のように。
彼は修練院の仲間のふりをしてセドリックに近づくと、実に周到に真実を教えたのだった。
『お前の家族は、ザプチェク大僧正によって滅ぼされたのだ』
と――
かつて人間から発動力をお奪いになったとき、神さまは、
「人間よ、弱くなれ」
と、おっしゃったという。
それ以来、血が混ざるごとに人間の魔力は弱まっていった。確かに火の属性をもつ人間と水の属性の人間の間からは、それぞれ半分ずつの魔力をもった子どもしか生まれない。
魔力によって神に逆らった人間に神が与えたのは、時をへるごとに弱々しくなっていくという残酷なありようだったのだ。
弱くなっていく自分たちの姿に人間は黙っているわけにはいかなかった。世界中のありとあらゆる場所で徹底した血統操作が行われ、少しでも血を濃く保とうという努力が行われた。彼らは神に逆らった。弱くなってたまるか。これ以上、か弱い生物になってたまるか――。
十年が過ぎ、二十年が過ぎた。
人間たちの抵抗はいまだに続いていた。
しかし、その研究に関わっていたメンカナリンの僧侶たちは、〈お屋敷〉で生まれてくる子どもたちに恐れを抱かずにはいられなかった。あまりにも血を濃くしてしまったがゆえに、子どもたちはもはや銃なしで魔法を発動させることができたのだ。
それらはその子どもたちが人間ではなくなってしまったことを如実に表すものだった。
僧侶たちは考えた。いつか彼らが自分たちに牙をむけば、ただですむはずがない。
そして大僧正ザプチェクは、ひそかにこの〈お屋敷〉の処理を命じた。ただ一人、長年の研究成果であるセドリック=アリルシャーひとりを残して――
『お前はだまされていたんだよ』
オリヴァントのささやきは、手で耳に蓋をしても悪魔のようにすべりこんできた。
『かわいそうに、お前の家族はあのザプチェクに――』
セドリックは目をむいて藻掻いた。どんなに押さえようとしても、自分の中に沸き上がる真っ黒い感情を止めることができなかった。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
黒い太陽が、満月都市の真ん中に落下した。
――アンブローシアは、頭を抱えたままがたがたと震えているセドリックを見下ろした。その様子は外からの衝撃に必死に自分の身を守っているようで、痛々しいことこの上なかった。
地面に手と膝をつけて前を見ようとしないセドリックに、アンブローシアは容赦なく声を投げかけた。
「よかったじゃない。思い出せて」
セドリックの蒼白な顔とは対照的に、アンの頬は紅潮していた。
「力のあるものが力を使うのは当然のことよ。逆に力のあるものがその力を使わないことこそ大罪だわ。あんたはあんたの大切な人を守る力をもっているのに、なぜためらうの!?」
「ぼく…は…」
アンブローシアはうつむいていたセドリックの髪を掴んで、強引に顔を上げさせた。彼は眉根をぎゅっと寄せて呻いた。
「コントロールができない。また…暴走して…、満月都市のようになるのはいやだ」
「あたしはあんたのそういうところが嫌い」
アンは、冷酷が服を着たように言い放った。
「だれもがうらやましがるような力をもっていながら、いつもいつも出し惜しみして…。あたしだったら大切な人を守るために迷ったりしない。何が一番大切で、なにが必要でないかいつも決めているからね。そうしないと、いざというときになにも切り捨てられないわよ。そのためらいは命取りにもなるんだから。――ほら」
アンブローシアが前からどくと、黒い煙に飲み込まれかけているエルウィングの姿が目に映った。
「エル!」
化け物の腕の中で、エルウィングの黒髪が死んだ海草のようにだらりとたれていた。セドリックには、エルウィングがひどく弱っていることがわかった。魔法を使うことが出来るセドリックやアンブローシアとは違い、エルウィングは自分から攻撃を仕掛ける手段を持っていない。いっさいの武器を持たずというメンカナリンの教義が、彼女から自衛の手段さえも奪ってしまっていたのだ。
怪物は自分の体うちからいくつもの触手を出して、庁舎の建物を削り取るように攻撃していた。熱風で石畳が割れ、それが城壁を越えて吹いてきた自然な風と混ざり合って、広場のそこかしこに竜巻ができていた。それが割れた石の破片をすくい上げて、辺りに炎と石つぶてをまき散らしながら街の中を動き回っているのだった。
(なんてことだ、いったいどうすれば…)
セドリックは必死で頭を巡らせた。
魔法を使わずに、いったいどうやったらあの化け物を倒すことができるだろう。基本六大元素《シシオート》のように、あの化け物にも相殺する属性を見つけることができないだろうか。
あの化け物の属性、それさえわかれば…
ぼんやりと辺りを漂っていたセドリックの視線が、惚けた顔で化け物を見上げているペチカの姿を捕らえた。彼女は完全に自失していた。瞬きもせず口をだらしなく開いて、ただただ自分の生み出してしまった怪物が広場で暴れ狂うのを眺めていた。
そのとき、セドリックの頭の中で激しい火花のようなものが散った。
(あっ)
セドリックは、ペチカが握りしめている父親の杖を見つけた。
「そうだ。あの化け物が、本当にペチカが憎しみで作り上げたものなら…」
セドリックは別人のような素早さで立ち上がると、驚くアンブローシアの脇をすり抜けペチカのもとへと駆け寄った。ひょいっと彼女の手から杖をすくい上げる。
「ペチカ、お父さんの杖を借りるよ!」
彼女はあっと小さく声を漏らした。その途端、ペチカの両眼にようやく正気の光がともり始めた。
(一か八かだ!)
セドリックは熱風の中をかき分けるようにして化け物に向かって突き進んだ。立ち上る煤煙で風さえも黒く染まって、息をするのもためらわれるほどだった。
セドリックは、手の中にペチカの父親の杖の感触を確かめた。
(感じる…)
ペチカの父親の足代わりだったその杖は、人の手の脂によって持ち手の部分だけが磨いたようにつるつると光っていた。
こんなふうになるまで杖を握りしめていたのだ、とセドリックは気づいた。こんなふうに持ち手がすりへるくらい強く、彼は三本足になっても歩こうとしていたのだ。杖をつき、人よりもずっと遅い歩みで、それでも歩くことをやめずに、彼が大切に大切に愛していた娘のために――
(まるで魔法のようだ)
そうセドリックは思わずにはいられなかった。銀にだけではない、人の思いはこうして様々な物に宿るのだ。そしてそれはどんな強力な魔法より強い力だとセドリックは信じたい。
セドリックは杖を握りしめたまま、ペチカが生み出した黒い化け物の前にたどり着いた。炎がとぐろを巻いた蛇のように渦巻いて、彼の視界を半分にしていた。セドリックは煙をかき分けるようにしてその化け物に語りかけた。
「もういい。そんなことしたっておまえは救われないんだ!」
化け物が咆哮した。だだっ子のように石畳を踏み鳴らすと、セドリックに向かって黒い触手を伸ばしてきた。
セドリックは黒い炎が彼の髪や服のすそを舐めるのにもかまわず、
「おまえのものだ。受け取れっ!!」
彼は助走をつけて思いっきり跳躍すると、その化け物の中心めがけて杖を突き刺した。
ギャアアアアアッ
杖はすうっと化け物の体の中に沈んでいき、やがて――
「あああっ」
そこにいた、全ての人々が叫んだ。
パアアアッと化け物の体の中から光の玉が飛び出てきて、すぐさま音もなくちりぢりに砕け散った。そのまばゆさは、まるでその化け物が腹の中から小さい太陽を産んだかのようであった。
ふいに空気が唸るのをやめた。その化け物からいくつも飛び出た光の剣は、黒く染まっていた風を切り裂いて、やがて氷が溶けて無くなるように消えた。
「化け物が…、き、消えた…」
人々は声もなく光を見つめていた。誰もが目の前の現状をすぐには受け止めることができなかった。まったく信じられないことだった。あの魔法使いの少年は杖を投げつけただけで化け物を倒してしまったのだった。いったい、なぜ――
化け物がいた場所には、もはや黒いものはあとかたもなかった。ただ石畳が全て剥がれ飛んで茶色い土肌が見えていた。
セドリックはゆっくりとその場所に歩いていった。そこにはさっきセドリックが投げた杖が落ちていた。それをそっと拾い上げて、彼は目を見開いたまま泣いているペチカの元へ持って行った。
「ペチカ…」
彼女はじっとうつむいたままで、父親の杖にも反応しなかった。ただえっえっと押し殺したような嗚咽の音だけが、再び吹き始めた西の風に混じって聞こえてきた。
「お父さんが助けてくれたよ」
そう言うと、ペチカが初めて顔を上げた。彼女は、何度も涙で上書きされた顔でセドリックを見つめた。
「セドリック…」
二人はしばらくそうやって、何も言わずに向かい合っていた。
ザアアッと木の葉がこすれる音がして、ふいに風向きが変わった。屋根の上の風見鶏たちが一斉に向きを変え始める。
それを眺めていたペチカが、ぽつりと呟いた。
「…昔、死んだ母さんがよく言ってた」
セドリックはペチカのそばに膝をついた。
「わたしたちは鶏のようなものだって。毎日なんにもない土をこつこつ突っついて、嫌なことはすぐに忘れるしかすべはない。こつこつこつこつやってくだけ…。働いて働いてときたまにお日様を見上げて、強い風が吹いたらそっちへ流される、風見鶏…」
彼女はひしゃげたような顔で、ふふっと息を漏らした。
「これからもそんなふうに生きていくしかないのね。この街の風見鶏みたいに、あっち向いてこっち向いて…、でもそこから飛べやしない。ただ流されるだけ…」
セドリックは立ち上がって、そこから見える何千羽という風見鶏を眺めた。強い西風にあおられて、鶏たちはみな東を向いている。
セドリックは言った。
「たしかに僕たちは鶏のようなものかもしれない。自分の力だけではどうにもできないことがこの世には多すぎるから」
でも、と彼は続けた。
「でも、鶏は明日を告げることができる」
セドリックの足元で、ペチカがはっと顔を上げた気がした。
セドリックは短く別れを告げると、ペチカに背を向けて広場の反対の方向へ歩き始めた。
広場の入り口には、アンブローシアと肩を押さえたエルウィングがセドリックを待っていた。セドリックは急いでエルウィングのそばへ走り寄った。
「エル!」
彼の心配をよそに、エルウィングは問題ないというように小さく首を振った。
「ちょっと火傷をしたみたいだけど、カートリッジさえ戻れば治せるわ」
治癒魔法では大地属性の〈緑〉を得意としているアンブローシアが、そっけなく言った。
セドリックはにっこりと笑った。
「ありがとう、アン」
「あーあ、またもったいぶっちゃって。いつもこんなふうにうまくいくなんて思わないほうがいいわよ」
「わかってるよ」
セドリックはエルウィングに向き直ると、彼女の楡《にれ》の枝のような指をそっとすくいあげた。
「ねえエル。僕はね、あのペチカのお父さんの杖を握ったとき、この前エルがテーブルの下で手を握ってくれたときのような感じがしたんだ。あれはきっと魔法だったよ」
エルウィングは驚いて、それからいつものように頬をふくらませて微笑んだ。
アンブローシアが嫌そうに顔をしかめた。
「なあによー。あたしがあの子としゃべっているとき二人でそんなことしてたの? いやらしい」
「ち、違うよ! あのとき僕が震えていたから」
「なにが違うのよ。やーだぁこの人たち。姉弟のくせにいつまでたってもべたべたなんだから」
「ア、アン!」
三人がわいわいはしゃぎながら門へ向かって歩いていると、前方からなにやらものものしい一団が靴音もやかましく近づいてきた。
セドリックは怪訝そうに目を細めた。
「なんだろう」
「あの人たち、都の監査章をしてるわ」
男たちは屈強な肩をいからせながら、セドリックたちの側を通り過ぎた。通り過ぎる瞬間に、ほんの少しだけ彼らが話している内容を耳が拾った。
「いいか、ここの市長トーマス=モリンズに逮捕状が出ている。罪状は貴族院議員への収賄・殺人容疑とレムニークの戸籍民への不当な税の徴収だ。いいか、間違うなよ。トーマス=モリンズだ。年齢は四十六、背格好は中背で太め。出身は――」
三人の顔に、三様の笑みが浮かび上がった。
門をくぐって外に出る前、セドリックは一度だけ顔を上げて屋根の上の風見鶏を見た。
たったひとつだけ気になることが残っていた。それは本当にオリヴァントがこの街にいたのかということだった。モリンズがオリヴァントとかかわりがあったことは確かだが、都にいるときの知り合いでは、いま彼がどこにいるのか知っている可能性は少ないだろう。
(彼は〈銃姫〉をどうするつもりなんだろう…)
彼は常に複数の罪状で追われているから、その都での事件に荷担していたとしても不思議ではない。ただ、あのオリヴァントがモリンズごとき小役人に力を貸すかどうか疑わしかった。それでも彼は気ままなたちで、いままで気まぐれに一般人にカートリッジや銃を与えては事件を起こしていたから、あり得ないことではなかったが…
彼の周りには謎が多すぎる。謎が服を着ているとはよく言ったものだ。
「セドリック、どうしたの」
エルウィングが彼を呼んだ。心配げに顔を曇らせて、
「ね、疲れているなら、わたしが聖歌を――」
「うわっ、いやっ、そそそんなことないよ! うん」
セドリックは慌てて走り出した。
風が強くなった。壁を越えてなおも吹く風に、風見鶏たちはみな忙しげにパタパタと向きを変え始める。それが、セドリックにはまるで鶏が羽ばたいているように聞こえるのだ。
「いい風だね」
エルウィングとアンブローシアが振り返った。
セドリックは思わず大きく手を広げた。
「風見鶏も飛び立ちそうだよ!」
†
いつの間にか風はやみ、赤い日は屋根の向こう側に落ちて、夜さえも息を止めたような静寂が辺りを包み込んでいた。
石畳のほとんどがめくれて散乱した広場…。ペチカはまだそこにいた。ふくらはぎをぺったりと地面につけたまま、糸の切れたマリオネットのように力無くうずくまっていた。
ペチカの肩には、誰かがかけていってくれた羊毛のコートがあった。きっと子馬亭のおかみさんがもってきてくれたのだろう。それでも吐く息は粉のように白く、ささくれだった指先はとっくに感覚がない。
山間にあるクラップストーンは寒い土地だ。びゅうびゅうと吹きすさぶ風が、土や岩ばかりか人間の命さえも削り取っていく。そんなところで、一日中座っていればどうなるか、ペチカにはわかっているつもりだった。きっと風邪をひく。いいや風邪どころではすまない、あっという間に肺炎を起こして死んでしまうだろう。ペチカはそれでもよかった。死んでしまえないかと思っていた。
あんなことがあってこの先どうやって生きていけばいいのか、ペチカにはまったく予想もできなかった。復讐は終わってしまったのだ。どうやら市長のモリンズは都からの監査官に逮捕されたらしい、そう人々が噂しているのを耳にした。それでも不思議なことにペチカの胸にはなんの感慨もわき起こってこなかった。きっとあのままモリンズを撃ち殺していたとしても彼女の心は晴れなかっただろう。なんの復讐にもならない――子馬亭の親父さんのいったとおりだったのだ。
それにここまでの騒ぎを起こしてしまったペチカに、もうこれ以上レムニークに居場所はなかった。もう子馬亭でも働けない。街の人々は気味悪がってだれも彼女に近寄らなかった。当然だ。あんな化け物を作り出してしまった娘になど、かかわりあいになりたくないのだろう。
それに、
(父さんが、いない――)
風がまた吹いてきた。パタパタと音を立てて屋根の上の風見鶏が向きをかえていく。どれくらい時間がたったのだろうとペチカは思った。月の船が東の空をこぎ出してからもうずいぶんたつ。
ペチカはぼんやりと自分に魔法のことを教えてくれた男のことを思った。
(あのオウムの人…、オリヴァント…)
男は魔銃士だった。絵描きのパレットのような羽根をしたオウムを肩にのせて、金モールをたくさんぶら下げた襟の大きなコートを着ていた。その男が街の大門のところでカートリッジを預けているのを偶然見かけたときから、ペチカの心は決まっていた。
『魔法を教えて』
殺したい人間がいる――そう打ち明けたペチカに、男はおもしろそうに目を細めて、それからカートリッジの作り方をひとつひとつ教えてくれた。知っているかい、あのお月さまは銀でできているんだ。月夜は魔力が強まると昔からいうだろう。だからかならず月の出ている晩に活字を溶かすんだよ…
あの男もどこからかこの騒ぎを見ていたのだろうか。――いや、もうそんなことはどうでもいいのだ。ペチカは死ぬ。
彼女は昼間から一歩も動いていなかった。立てなかったのだ。動物は立てなくなったものから死んでいくという。人間もきっとそうなのだ。立てなくなれば死ぬしかない。
(父さん!)
ペチカは泣いた。そうして少し驚いた。もうとっくに涙など枯れ果ててしまったかと思ったのに、まだ自分の中に熱いものが残っていたとは。
立ち上がったとして、これからどこへいけばいいのだろう。
(神さま――)
どこで、どうして、どうやって、それもわからないまままた生きていけというのだろうか。まるで屋根の上の風見鶏だ。風に流されるまま、そこから飛び立てもしない――
『でも、鶏は明日を告げることができる』
ペチカははっと顔を上げた。
視界のはじにうすぼんやりとした明るさが目に入った。見ると東の空が、たくさん水をまぜて薄めたインキように徐々に明るんでいくのがわかった。
立た、なきゃ。
ペチカは衝動的にそう思った。
「ううっ」
彼女は犬のように両手をついて地べたにはいつくばった。足に力を入れようとするが、ピクリとも動かなかった。歯の間から声がもれた。思うように力が入らない。自分の両足がまるで鉛のように重い。
ペチカは顔をくしゃくしゃにした。
「どうしようお父さん。立てない…よおお…」
お父さんお父さんお父さんお父さん…
そう、呪文のように何度も繰り返すと、死んだ父親のことが胸の中に思い起こされた。
大好きだった父さん。口のはじにヤニのこびりついたパイプとインクの沁みた大きな両手。体に悪いってパイプはやめたのにお酒だけはやめなかった。いつだったかお酒に酔ってこう言っていた。おまえもそのうち嫁にいっちまう、親父なんて娘にとっちゃ衣装いれのながもち以下なんだろう。
そんなことないわってわたしは言った。ながもちにつめてでもいっしょにお嫁にいくわ。いらないっていう相手だったらわたしも行かない。ずっとずっと、この家で父さんといっしょにいるわ。
愛しているもの。
ペチカは少し先に見覚えのあるものが転がっているのを見つけた。それはあの化け物を消し去った父親の杖だった。
「あ……」
ペチカは急いで杖にすり寄った。
(父さん、わたしに力を貸して)
彼女ははいつくばって進んだ。その樫の木の杖を手にしたとき、不思議な感慨が彼女の胸をひたした。
もう一度立てると思った。
(立たなければ…)
ペチカはハアハアと息をして何度も立ち上がろうとした。手を突き、足に力を入れて、崩れてもまだ肘だけで起きあがり…。それはまるで、生まれ落ちたばかりの子馬が、藁の上で新しい世界を見ようとふんばっているようだった。
「ぐっ」
杖を地面に突き刺すようにしてペチカは身を起こした。体が重い。凍傷を起こしているからだろうか、足に感覚がない。それでも引きずっていく。彼女の父親がそうしたように、三本足でみっともなく足を引きずって、それでもいまよりほんの先に行く。そう、行くのだ。
「う…」
ペチカは呻いた。そしてようやく立った。
彼女の目の前、東の地平線の上に光が炸裂した。闇が払拭され、彼女の顔を覆っていた黒いベールがはじけとんだ。
ペチカは大きく口を開け息を止めた。確信があった。いま私とともに生まれた、
明日《アシャー》だ。
「あ――――」
けもののようにペチカは咆哮した。
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第二話 らせんの森
[#改ページ]
そうして、わたしの心はらせんを描きながらゆっくりと下へ落ちていったのです…
森へ入っていく夢を見た。
小さなわたしは、まだ温かい体をしている。まだ温かい体をずっしりと重い黒のローブで包み、だれかの死を悼むようなかっこうをしている。ローブの裾は少しも泳がない。森はどんどん深くなり、葉で覆われた枝は重なり合ってわたしの上に天蓋のように覆い被さった。
森の中に、大きな時計があった。
考えてみれば奇妙な光景だったかもしれない。しかしたしかに時計はそこにあったのだ。ちっちっと小鳥が舌打ちするような時を刻む音がかすかに聞こえ、中にぶら下がった振り子はいまにも大きな音を打ち出しそうに見える。
わたしはその蓋を開ける。
中に誰かが隠れているのを知っているのだ。
例外なくお片づけなさい。わたしは偉い人の偉い人からそう言い含められていた。わたしの体はまだ温かかったが、心はいまよりずうっと冷たかった。太もものホルダーから銃を抜き取ると、わたしは扉を乱暴に開け放った。中に銃をつきつけようとした。例外なく片づけるように言われていたから…
なのに、わたしは引き金も引かずにその場につったっていた。
どん――
熱いものがわたしの腹にぶつかってくる。
「あ」
その瞬間に、わたしの森を覆っていた葉が、一斉に雨のように散った。
空が、見える――
†
「あーっ! また抱き合って眠ってる!」
とある街道脇にあるこんもりとした森に、ひときわ甲高い声が響き渡る。
「………うん?」
ピチチという小鳥のさえずりが耳元ではじけて、エルウィングは目を覚ました。うっすらと白んだ視界から徐々に靄《もや》が晴れて、見覚えのある少女の顔がはっきりと浮かんでくる。
(朝だわ…)
エルウィングはゆっくりと上体を起こすと、目の前のアンに向かって笑いかけた。
「あら、おはようアンブローシア。早いのね」
「早いのね、じゃないわよ!」
あやふやに笑うエルウィングとは対照的に、アンブローシアは湯気でも出そうなほど顔を真っ赤にして叫ぶ。
「どうしていつも抱き合って寝てるのよ!」
「あら…」
見ると、エルウィングの腕の中で鼻血を吹いて気絶している少年がいる。顔はこの上なく幸せそうだが、なさけないことに顔面が血まみれだ。
エルウィングは顔色を変えた。
「セドリック!? セドリックだいじょうぶなの。ひどいわ誰がこんなことを――」
「……あんたそれ本気で言ってんの?」
アンブローシアの呆れた声を尻目に、エルウィングはがくがくと彼を揺すぶった。いったいどうしてこんなことになったのだろう。昨日は嫌な夢を見て真夜中に目が覚めてしまったから、セドリックの毛布の中に潜り込んだというのに――
「ああそれなのにこんなに血を流して。いったいどうして!?」
エルウィングは思わず彼を胸の中にぎゅっと抱きこんだ。そのとたんセドリックが覚醒する。
彼は、いま自分がおかれている状況を正確に把握してふたたび白目をむいた。
「――ぶっ」
「ぎゃっ」
「あら…?」
セドリックはまたもや貧血で倒れた。
「ああ、この子ったらまた…。小さいころから体が弱かったもの。しっかりしてセドリック」
「……だからあんたそれ本気で言って…」
いつものことである。
――セドリック、エルウィング、アンブローシアの三人は、数日前から街道筋を離れた森で野宿を始めていた。
いつも街道筋ばかりを歩いているわけではないから、こうして宿のベッド以外で休眠をとる場合も多い。とくに夏の間はそうだ。森には食糧が豊富で水もあるので、ふところが心許ないときなど三人はすすんで森の入り口にテントを張った。
まだ若々しい枝を打ち払って寝床を作り、虫除けのために火を焚いて、側面がいくらかへこんだ真鍮のポットをつるす。子どもばかりの三人ならば非情に危険なことのように思えるが、このような野営でエルウィングがめったなことに巻き込まれることはない。いつもセドリックとアンブローシアの二人がかわるがわる結界を張ってくれるからだ。
「じゃあエル、僕たちは狩りに行ってくるからあとはよろしくね」
セドリックとアンブローシアの二人は、シチューの具材を手に入れるために森へ狩りに出かけることになった。
昨日、偶然通りかかったこの近くの農場で、三人は思いがけなく新鮮なミルクを手に入れることができた。柵から逃げ出した牛を捕まえたお礼に分けてもらったのだ。いつもはあぶったチーズとひび割れたパンだけという食事だったから、セドリックは久しぶりにシチューが食べたい、きっとウサギを捕まえてくるよと大いにはりきった。アンブローシアも彼のあとをついて行った。森に血が流れる前にいくつか〈光〉系の魔法弾をつくりたいらしい。
あとには、エルウィング一人がぽつんと残された。
「さぁて、お洗濯でもしましょうか」
二人の背中が見えなくなると、エルウィングは昨日燃した楡の木の灰を水に混ぜて、洗濯用の灰汁を作った。灰汁の上澄みは汚れをとり肌着を白くする性質があって、石鹸を買えない貧しい人々らに重宝されている。
「今日はいいお天気だから、すぐに乾きそうね」
と、彼女はひとりごちた。
エルウィングはメンカナリンの尼僧である。聖教にはいっさいの武力を放棄するという戒律があって、彼女はそのために武器をもつことを禁じられていた。
だから今日のように狩りによってしか食料を得られない野宿のときなど、彼女はまったくの役立たずだった。いつも弟たちがとってきたものを食べ、弟たちが張ってくれた安全な結界の中で眠る。
野宿以外でもそうだ。彼らが旅をするのにかかる費用の多くは、メンカナリン寺院から与えられる支度金だったが、それだけではカートリッジやその他のものを買いそろえるのに十分ではない。足りない分はセドリックやアンブローシアが売買用に魔法をカートリッジにこめ、それをカートリッジ屋に売り払ってしのいでいたのだった。
いつまでたっても自分は二人のお荷物でしかない。
(なんて情けないんだろう…)
彼女は今日何度目かになるため息をついた。
エルウィングにできることはあまり多くない。満月都市の修練院では天才だと言われてちやほやされていた自分だったが、いざ外の世界へ出てみると彼女の知っていることなどまったく役に立たなかった。人々は失われた知識のことや日の王の周りを回る惑星の周期がどれくらいであるということなどより、明日のパン、明日収める税に四苦八苦していた。
そしてそれは旅を始めたエルウィングにとってもそうだった。積分演算は微分演算の逆演算であるなどということは、修練院を出てから一度も思い起こしもしなかったのだ。
(わたしってなんて役立たずなんだろう…。せめていままでどおり魔法が使えたらよかったのに)
エルはアンブローシアをうらやましく思う。いつも魔法式や銃のことで話し合っている二人を見るたび、エルの心の中に熱い棘のようなものがつきささるのだ。その熱いものはあっという間に冷えて、ぐるぐると周りながらエルの心の奥深くに沈んでいく。らせんを描きながら…
エルははっと顔を上げ、ふるふると顔を振った。
「だめだめ、わたしはわたしのできることをやればいいんだから!」
エルは三人分の汚れものを腕に抱えると、少し離れたところを流れる小川に足を向けた。
十分に灰汁の上澄みをふりかけたあと、おあつらえむきの岩の上になんども打ち付けて洗う。
日が上がってくるにつれて、下の田畑のほうから掘り起こされた土のにおいを風が運んでくる。気持ちの良い風だ。あまりの心地よさにエルウィングは洗濯をしながら思わず歌ってしまいそうになる。
「めーぐみーゆたーけき…」
なじみの旋律を鼻にのせかけたところで、エルウィングはふと口をつぐんだ。
(そういえば、昨日はどうしてセドリックの毛布に潜り込んだったのかしら)
たしか、怖い夢を見て真夜中に目がさめてしまった。そうして無性にセドリックの顔が見たくなったのだった。
不思議なことだと思う。怖い夢を見たことは覚えているのに、どんな夢だったかはまったく思い出せないのだ。
「だめよ。こんなときこそ聖歌を口ずさんで心の迷いを晴らさなければ!」
エルウィングは知っている聖歌の中から、人をまどわせる悪魔を追い払う歌を急いで探した。
彼女のような尼僧の勤めに聖歌斉唱というのがある。聖歌はすべて古い言葉によってつづられているため、人やそのほかに微力ながら影響を与えると言われていた。尼僧たちの口伝によって伝えられていく聖歌には、その寺院にしか伝わっていないものが少なくない。それらは高価な薬を買うことができない貧しい人々に奉仕されたりした。
もちろんエルウィングも毎日のように奉仕に出かけていたし、体の不自由な方々の世話や寄進である洗濯をすすんでかってでていた。くるくるとよく働くエルウィングはたちまちのうちに街の人気者になった。
しかし、何故か彼女に聖歌を歌って欲しいというものはいなかったのだ。
「どうしてかしら。わたしは聖歌なら二十曲は覚えているのにね…」
彼女は本気で首をかしげた。
恐ろしいことに、エルウィングは自分の歌う歌が、かなりの確率で音程が外れているということにまったく気づいていなかったのだ。
エルウィングは優秀な学生であったから、音楽もまた、算学や語学のように努力しただけ身に付くものだと信じていた。だから自分が聖歌のテストをパスしたのは、きちんと楽譜どおりに歌えているからだとなんの疑問もなく信じ込んだ。
修道院の院長さまが、
「あ、あなたはもういいから、ご奉仕に出なさい」
と言ったときも、ときおりセドリックが苦しげな顔で、
「エル…、そ、それちょっと違うんじゃない?」
と言った(呻いたともいう)ときも、忙しさにかまかけておさらいを怠ったせいだと激しく後悔した。そういえば、一度療養院で病気の人の世話をしたとき、心を込めて歌ったのにその人の病気をますます悪くしてしまったことがあった。
(あのときはたまたま喉の調子が悪かったからだわ)
それは違うのだが。
(だって、いつもわたしが孤児院で聖歌を歌ったら、どんなにぐずる子どももたちまちおとなしく眠ってしまうのに…)
子どもたちはみな泡を吹いて卒倒していたのだが、エルウィングはなぜかそのことに気づかない。人間の認識力というものは、自分の都合のいいふうにしか働かないといういい証拠だ。
とにかく、彼女は彼女なりに心を新たにしたのだった。
(そうよ、聖職者たるもの毎日のように修練しなくては。あの方の病気が悪くなってしまったのも、わたしの熱意が足りなかったのよ。きっとそう)
かくしてエルウィングは朝と言わず夕なといわず歌いに歌いまくった。彼女が歌うたびに足元では花が萎《しお》れ、教会のガラス窓にはひびが入った。しかし彼女はまったくそのことに気づかなかった。人間の認識力というものは自分の都合のいいふうにしか…以下略。
それ以来、セドリックはエルになにも言わない。それどころか練習はしなくてもいいと言ってくれるので、うまく歌えているということなのだろう。
「セドリックは、わたしの子守歌で育ったようなものだもの。彼が言うんだからまちがいないわ」
エルは無邪気にそう思いこんでいた。
セドリックは優しい子だ。小さいころはよくぐずって眠らなかったが、エルが子守歌を歌ってやるとすぐに静かになった。白目をむいて眠るのだけは他の子と違うのでずいぶん心配したけれど、大きくなって自然と治ったようだ。
戦闘で怪我をしたときも、こんなものは舐めておけば治るからと言ってエルに聖歌を歌わせようとはしない。聖歌を歌うとひどく心が疲れるので、エルにかかる負担のことを心配しているのだろう。
なんて優しい子に育ってくれたんだろう。エルウィングは感動する。
今朝、エルが朝の祈りとともに聖歌を斉唱しようとしたときも、一人でゆっくり練習したいだろうと言って水くみに出かけていった。いつもは文句の多いアンブローシアも、なぜかそのときだけはエルを一人にしてくれる。彼女なりに気を遣っているのだと思うと、エルの練習にますます熱が入った。
(なんて良い子たちなんでしょう、神よ、きっとあの子たちに祝福がありますように――)
そう、彼女はまったく知らなかったのだ。自分が周囲から恐怖の毒電波シスター、怪音エレキテルと恐れられていることに…
エルウィングは細く編んだロープを枝から枝へ張ると、そこに洗濯の終わった肌着を干していった。今日は良い天気だから、薄物はしばらくもしないうちに乾いてしまうにちがいない。
ふと、森の中に目がいった。
「ウサギがとれるとは限らないんだし、木の実でもとってきたほうがいいわよね」
エルウィングは鍋を片手に、すぐそばの森の中へ入っていった。
腕を広げても届かないくらい太い木が、緑色の葉を枝いっぱい重たげに茂らせている。その枝を縫うように群生しているのは、ひとりでは立てないクズや野ブドウといったつる草だ。それらが枝にからみついているせいで、森の中には日の光が入ってきにくい。森の中はいつもひんやりとしていて薄暗く、入ってくるものを拒むような冷たさがあった。
小さな泉の前にやってくると、エルウィングは翡翠をとかしだしたような水の中にしばし手を浸した。沁みるような冷たさが心地よい。
ここはだれもいない。
頭の芯が冷えるような感覚に、エルウィングはふだんだれにも見せない顔つきをとりもどす。
「銃姫……」
彼女はぽつりと呟いた。
それがいつ、どのようにして作られ、あるいはこの世界に与えられたのか知るものはいない。
だが、魔学をかじったものであればだれでもその効能は知っている。不思議なことだが、列車がいったいどのようなしくみで動いているかは知らなくても、人々は気軽にそれを利用する――それと同じことなのかもしれない。
〈銃姫〉
これを使えば、どんな言葉でもこの世界から消し去ってしまうことができるという。
あの満月都市の修練院で、セドリックはオリヴァントからおのれの出自を知らされた。そのとき彼は自分の中に荒れ狂う嵐を収めることができず、彼の中にあった膨大な魔力はたがをうしなって外へ解放された。
エルウィングはその様子を側でつぶさに見ていた。いや、見ていることしかできなかった。だからオリヴァントがどこまでの真実を――あるいはでまかせをセドリックに伝えたのかはわからない。
だがたったそれだけのことで、十三万人の人間が暮らしていたという満月都市が一瞬にして灰になったのだ。強力な魔法壁の中にいたエルウィングさえ、無傷ではすまずあちこちに火傷を負った。
(あの子はいったいどこまで気づいているだろう…)
そう思うたび、エルウィングは心を柄杓でかき混ぜられたように落ち着かなかった。
神が人間に「弱くなれ」と呪いをかけられたあと、一部の人間たちが必死になって血をコントロールしようとしていたのをエルウィングは知っていた。月海王国をはじめとするほうぼうの国で、様々な属性の人間を掛け合わせ、あるいは血を純血にまで戻そうという研究が行われたのだ。
事実、セドリックのいたアリルシャーの〈お屋敷〉もそのひとつだった。あれはメンカナリン聖教国が作った血の精製機関だ。ベリゼルの末裔というのは、あそこに魔力の高い人間が集まる方便にすぎない。本物のベリゼルの血統などとっくの昔に絶えているのだ。
エルウィングは泉の中から手を抜いた。こうして清らかな流れに浸していても、体の中に水の恩恵が流れてくることはない。新鮮な森の空気も、降り積もった枯れ葉が冬の間に新しい土になった、その力にみちた土も、なにも彼女に与えようとはしない。
水や土…。この世界は六種類の元素によって構成されている。それが人間がかならず属するといわれている魔法の属性だった。
すなわち、火《ガメロン》・水《パイシー》・風《エーメリー》・土《マディ》・光《ゼノン》、
…そして闇《アグー》。
お屋敷のことは過去のことではない。いまなお、世界中にはその属性を純粋にまで高めた人間を作ろうという研究が進められている。そして近年誕生したと言われているその究極の子どもたちは、いにしえの精霊王たちの名をとって付けられたという。炎の究極属性をもつ少女はガヌーヴァ、風の属性は風神バルキオス、水はプレメント、土はニムロッド、そして光はジヴァイヤー…
セドリックが生まれた一族、アリルシャーというのは、闇の精霊王の名前なのだ。
セドリック、セドリック=アリルシャー《闇の魔王》…
彼がそう呼ばれる限り、これから彼の目の前にはさまざまな敵が現れるだろう。彼を利用し、武器としようとする国家が現れないとも限らない。まだ彼はスープの上に浮いているパンのかけらのように、かろうじて混ぜられていないだけの状態なのだ。いずれ巻き込まれる。銃姫の引き金をひくものは、まだ決まっていないのだから――
そのとき、わたしはどうするだろう。
エルウィングは思わず天を仰いだ。しかし上を向いても、そこにはうっそうとした緑の天蓋が見えるだけだ。
「あ…」
くらり、と目眩がした。
エルウィングはその場に膝を突いた。立ちこめる朝の靄と土の上にしっとりと生い茂る草のじゅうたんが、森の中をいっそう息苦しいものにしていた。息が詰まる。湿度が高いせいなのか、寒気がするのに肌がうっすらと汗ばんでいる。
(ここから、出なければ――)
エルウィングは水さしを拾い上げると、ふらつく足取りで水のそばを離れた。ここはどこだっただろう。そう、ここは森だ。緑色の草が生い茂り、木にはツタが絡み苔がはえ、重々しい枝が空を覆い隠そうと腕を伸ばす森――。そこからわたしは出て行こうとしている。いいえ、奥深く入っていこうとしている。このうっそうと茂る深い森へ、ぐるぐると重いらせんの足取りで…
森には密やかな妖精が住んでいて、
誰も、森の秘密を暴いてはいけないのです。
そんな古い歌の歌詞が頭をよぎった。
「ああっ」
エルウィングは転がるように走り出した。後ろを向いてはいけないような気がした。目が合えば引きずり込まれる。森は閉じ込めようとする意志に満ちているのだから。閉じ込められたくなかったらさあさあ、逃げて――!
無我夢中で森を出た。目の前に、いままでとはうってかわった空の青が広がっていた。
「あ…」
そこはエルウィングたちが野宿をしていた場所ではなかった。近くであることは間違いないのだが、集落が目の前に見えるので少し北寄りに出てしまったらしい。
エルウィングはほっとして肩をおろした。
森の中とは違い、森の外ではなにもかもが動いていた。森から流れ出した支流がいくつもよりあつまって土の上に青い線をひいている。鳥が何度も同じ所を旋回している。風が泳ぎ、放たれた牛がゆっくりと草をはんでいる。やわらかいレースのような日差しが、うっとりと上を向いたエルウィングの顔を照らしだす。
こうしていると、あの森の静寂がひどく恐ろしげなものに感じられた。死んでいるようで死んでいない、泉の水のどろりとした、木肌を這うツタのまさぐるような、枝を伸ばす木々の閉じ込めようとするようなあのゆっくりとした動きは、なにかおのれの心身の奥深いところでいまもあるような気がしてならないのだ。
いいえわたしは森を出たのだから。
エルウィングは思い直す。あの大きな時計の中から飛び出してきた愛しい子に手を引かれて、とっくに森の中から出ていったのだから。時をめちゃめちゃに告げる時計や真鍮の振り子など忘れたのだから。わたしのからだがもはや温かくないことなど、すっかり忘れたのだから――!
エルウィングは大きく息をすい、そして吐き出した。
「“めぐみゆたけき、盾なるおかたよ!”」
神に感謝する歌を歌った。大声で、天にも届くように声をふりしぼった。
そのときだった。
ぼたっ
エルウィングのすぐそばで、なにか物音がした。
「?」
彼女は少し首をかしげたが、気にせず続きを歌い続けた。さっき居た森の中のことなど、はやく忘れてしまいたかった。
「“われらに 平穏と安寧のみやぐらをお与えください”」
すると、続いてまた物音がした。
ぼたぼたぼたぼたっ
不振な物音に、エルウィングは思わずあたりを見回した。どうも様子が変だ。さっきまで普通に咲いていた花は萎れたようにくびをくたーっとさせているし、足元の小さな虫はひっくりかえり風はいつのまにか止まっていて、放たれた牛たちは一目散に牛舎へ向かって疾走していっている。
「いったい、どうしたのかしら」
立ちすくむエルウィングの目の前に、また一羽の鳥が落ちてきた。
†
肩に背負った銃とともにセドリックはしょんぼりと肩を落とした。今日半日かけて探しまわったにも関わらず、一匹のウサギもキツネも捕ることができなかったのだ。
「あーあ、これで具なし決定ね。せっかくのシチューなのに」
急ごしらえの囲炉裏の前では、アンブローシアががっくりと項垂れていた。いつもなら森へ入れば木の実やキノコなどが豊富に手に入るのだったが、いまは時期が悪い。夏にさしかかったばかりの森の木は木の実を付けるには早すぎるし、キノコの季節にはまだ早かった。
「それにしても、エルはいったいどこへいったのかしらね」
二人がへとへとになって戻ってきたときには、エルウィングの姿はなかった。鍋が消えているので水をくみに行ったのだろうと思ったが、それにしても戻ってくるのが遅い。まさか森で迷ったのだろうか。
セドリックが様子を見に行こうと立ち上がりかけたそのとき、側でアンブローシアがあっと声をあげた。
「あ、エル! いったいどこへいってたのよ」
「ごめんなさい、遅くなって」
「エル、それ…」
セドリックはエルウィングが腕いっぱいにもっているものを見て唖然となった。なんと彼女はトビやキジといった鳥や茶色い毛並みの野ウサギを抱えていたのだ。
「それ、ど、どしたの…? まさかエルが捕まえて」
「ううん、違うのよ」
彼女はうす桃色の瞳をきらきらと輝かせて、
「ほら、あんまりいいお天気でしょう。だから森の外で聖歌を歌っていたら、天から降ってきたのよ」
「歌ってって…」
セドリックの横でアンがだらんと顎を落とした。
「落ちてきたって、その…ウサギも?」
「いいえ、これは側でひっくりかえっていたの。きっと鳥が落ちてきてびっくりしたんでしょうね」
(それは違うと思う…)
ボーゼンとしているセドリックを尻目に、エルウィングはうきうきと鍋に水を注ぎ入れた。
「さあ、シチューを作りましょう。きっとこれは飢えているわたしたちに神さまがくださったものに違いないわ。おお主よ、あらんかぎりの感謝を!」
まだ信じられないでいるセドリックに、正気に戻ったアンがそっと耳打ちした。
「ねえ、もしかしてエルって最強なんじゃない?」
「……そうだね」
「魔法なんか使えなくたって無敵ってことじゃない。だって毒電波シスター…」
「しっ」
使い方によっては〈銃姫〉よりも恐ろしい武器になるかもしれない姉の声を思って、セドリックは思わず口元に指をたてた。
(とてもいえない)
セドリックは渋い顔をした。
(エルにはまだ、秘密にしておこうっと)
森には密やかな妖精が住んでいて、
誰も、森の秘密を暴いてはいけないのです――
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第三話 やわらかな弾丸
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どんなむずかしい魔法より、“ごめんなさい”を言うほうがむずかしい。
ましてや、心が納得してないときにムリヤリ言わされるほど悔しいことってない。
だからそんなときは、アンブローシアは黙っていることにしていた。実際問題、コルセットで胸を締め付けられると、満足にものも言えないくらい苦しいのだ。
『嫌い嫌い。コルセットもバスルも嫌いよ。お母さまのお尻はへんだわ。まるでアヒルみたい』
小さいとき、アンブローシアはいつもそうやって母親に反抗した。彼女はひどくおてんばで、ほかの上流階級の娘たちのように、新しいドレスを作るたびに写真家を呼んでポートレートを撮らせたりはしなかったし、近頃流行っているガラス製の水槽《アクアリウム》や自転車遊びなどにもまったく興味がなかった。
侍女たちがほんの少しでも目を離すと、アンブローシアはコルセットもバスルも脱いでしまい、気楽な下履きの格好のまま王宮の木に登ったり、屋根の上から鳥を呼んだりしていた。
それでも王宮に仕える侍女たちは、アンブローシアのお腹をぎゅうぎゅうと引っ張って女性らしい細い腰を作るよう言い聞かせる。
勉強はきらいよ。社交界の公用語も行儀作法も、みんなみんな大嫌い! どうしてみんなほうっておいてくれないの、アンはただ遊びたいだけなのに。
「まったくしょうのない娘だこと。アンブローシア。あなたはこの鉄なる壁の国《ガリアンルード》のただひとりの王女なのですよ」
そう言って彼女の母が困ったようにため息をつくとき、アンブローシアはほんの少しだけ母を困らせてしまったことを後悔するのだった。
(ごめんなさいお母さま。コルセットをするのは嫌いだけれど、本当はお母さまのアヒルみたいにふくらんだスカートは好きよ。だっていつもそこに隠れてしまえるもの)
母のスカートの中はまるで秘密の隠れ家のようで、アンブローシアは何かあるとすぐそこへ潜り込んだ。
いつまでもアンをこうやって隠してしまって。ここから出たくないの。
『お母さまのアヒルのお尻も、お父さまのもじゃもじゃのお髭も大好きよ。――三人でずうっとこうしていましょうね』
「あ」
アンブローシアは唐突に夢から醒めた。
「……………」
しばらくは声もなく呆然と天井を見つめ続ける。
(夢だった)
アンブローシアは重たげにシーツの中から体を引きずり出した。ほどけかかっている包帯を巻き直して、醜く焼けただれた火傷のあとを隠そうとする。包帯は所々汚れていて、ずいぶんと古くなっていた。それでもアンブローシアはこの包帯を使い続けている。この包帯には、一番初めに流した血が染みついているからだ。
腹の上に浮いたあばら骨に、彼女はふと母のバスルの骨組みを思い出した。
(ばかねアン、なにを感傷的になってるの!)
母は死んでしまった。ガリアンルードという国も、お気に入りだったサファイアの目のお人形もガラスのアクアリウムも、いまはアンブローシアの記憶の中にしか存在しない。
お菓子のようなお城に住んでいた王様とおきさき様…、――いまはもう、遠い過去の話だ。
包帯を巻き終えると、アンブローシアは素早く上着を着込み、膝上まである革のブーツに足を突っ込んだ。肩にカートリッジホルダーをかけて、愛用しているドナンボーン社の魔弾砲に思ったとおりのカートリッジが装填されているかを確認する。
ガチャッチャッ。
銃口の後部を覆う先台《フォアーエンド》を二度手前に引いて弾を装填した。――よし。
アンブローシアは、ふと自分の手を見つめた。毎日この銃の手入れをしているおかげで、手には重油の匂いが染みついている。以前はさくら貝のようだった爪は血豆ができてところどころ黒ずみ、表面は荒れて白い粉を吹いていた。
それでもアンブローシアは、以前のような白い手に戻りたいとは思わない。鯨の髭で作った母のバスルの中に隠れたいとも思わない。
(この手が、とても好きだ)
以前は与えられるものを受け取るだけだった手。今は違う。アンはこの手で何百人もの敵を倒してきたし、貪欲に彼らの持ち物を――時には命を――奪ってきた。
(この手で必ず〈銃姫〉を探し出してみせるわ。絶対に飛び翔ける竜の国《スラファト》軍には渡さない!)
アンブローシアは靴の紐を丁寧に結び終えると、背筋をピシャッと伸ばして扉へ向いた。
そのとき、彼女の胸元からなにか光るものがこぼれ落ちた。
「これ…」
アンは床の上から落ちたものを拾い上げた。それは彼女がサブ用に持っている魔法銃の弾丸だった。普段は魔弾砲を使っているアンブローシアだったが、場合によってはセドリックと同じようなリボルバーを持つこともある。
弾丸の表面には、月暦997年赤の月一日と刻まれていた。なぜそんなものが残っているかというと、はじめて銃をもつとき、一発目はわざと撃たずに持っておくと縁起が良いと師匠に言われたのだ。弾《たま》と命《たま》をかけているのだという。それ以来、アンは弾丸に鎖をつけてペンダントのようにして首にかけていた。
(あれから、もう五年か…)
アンは切れてしまった鎖の部分をじっと見つめた。いつのまにか、いらいらするときこれを握りしめているのが癖になってしまった。だからなのだろう、カートリッジの表面はすっかり磨かれてつるつるに光っている。変な雑念も染みこんでいるだろうし、もう使い物にならないだろう。
(ま、いいか…。あくまでお守りなんだし)
アンはペンダントを無造作にポケットに押し込むと、ドアに向かった。
「…………」
出て行く前に、アンはふと部屋の中を振り返った。あんな夢を見たせいか、あの日脱ぎ捨ててきたコルセットとバスルが思い起こされた。
もうあんなふうに胸を締め付けることもないから、アンブローシアは言いたいことをがまんすることもない。でもバスルでスカートをふくらませることもないから、彼女には隠れる場所もなくなってしまった。
ガリアンルードを離れる日、部屋に脱ぎ捨ててきたコルセットとバスル…
ぼんやりと思った。
(あれは、あたしの抜け殻だったんだわ)
虫が脱皮して成虫になるように、アンブローシアもあのときに一つ大人になったのだ。
†
アンブローシアは、エルウィングが嫌いだ。
いつもとりすましたような顔も嫌だし、なにかっちゃセドリックにべたべたするところも、いつまでたっても方向音痴が治らないところも、音痴なところも信心深いところもなにもかもが気にくわない。
中でもアンブローシアが一番いまいましく思っているのが、彼女の外見についてだった。
美人なのは認める。旅をしているとは思えないほどきめ細やかな肌はいかにも男性が好みそうだし、珍しい桃色の瞳も伏せがちの長いまつげも、そこんじょそこらでは見かけることはできないほどの一級品だ。
その上、彼女はアンブローシアと違ってずいぶんとグラマーなのだった。
「むかつくわ」
と、アンブローシアはひとりごちた。包帯を全部とってしまった生まれたままの姿で鏡の前に立つ。こんな大きな鏡はめったにないから、アンブローシアは久しぶりに鏡に映った自分の姿を見た。
鎖骨の下から胸までにかけてある火傷あとを、おそるおそる手のひらで触ってみる。
「ぺたんこだ…」
そこはあり得ないほどぺったりとしていた。
彼女は思わず頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「うそおお、なんでえええ」
アンブローシアは今年で十五歳になる。十五と言えば早ければ婚約して嫁に行く歳だから、もう子供だからとは言っていられないはずだった。事実、彼女と同じ年ごろの娘たちは、大きさにリンゴか桃かの違いはあってもみなアンブローシアよりよっぽどましな胸をしている。
もうすこしふくらんだと思っていたのに――
「どうしたのアン。なにか不都合でもあった?」
ドアの向こうから心配げなエルウィングの声がした。アンブローシアは慌ててバスタブに飛び込んだ。
「う、ううん、なんでもない。いい気持ちよ」
「そう、それはよかったわ。もうすぐ院長さまがお帰りになられるから、そのときまでには身支度を整えておいてね」
エルウィングの足音が小さくなっていくのを確かめると、アンブローシアはバスタブの中でほうっと息を吐いた。
セドリック、エルウィング、アンブローシアの三人は、ほんの数時間前にここ赤い羊の街《リムザ》に到着したばかりだった。リムザはクラップストーン地方最大の都市で、伝説の赤魔導師ベリゼルが作った魔術の街として知られていた。
エルウィングの紹介で、三人はメンカナリンの修道院に宿を求めることになった。あいにく院長のエステラは街中の孤児院へ奉仕に出ていて不在だったが、代わりに迎え出た尼僧見習いが三人を暖かく迎え入れてくれた。そのとき、胸の火傷のせいでめったに公衆浴場に行けないアンブローシアのために、エルウィングが湯を使うように勧めてくれたのだった。
亜鉛メッキの施されているバスタブの中で、アンブローシアは久しぶりにお湯で体をほぐすことができた。旅をしていると、大きな街へ寄ったとき以外湯を使って体を清められる機会はほとんどない。それもたいていは蒸気を利用したサウナ風呂ばかりだったから、こんなふうに一人でバスタブに入って湯を使うのは考えられない贅沢だった。
「悪い人じゃないのよね。知ってたけど…」
アンブローシアは顔の目の下までを湯船に浸けて、ぶくぶくと泡をたてた。湯浴みを勧めてくれたエルウィングの気遣いが、彼女を嫌っているという事実に妙に沁みた。けれど理屈じゃない部分で、アンブローシアはエルウィングのこういうソツのなさも嫌いだった。
(やっぱりセドリックも、胸があるほうが好きなのかな…)
ぼんやりとそんなことを思う。
その途端、自分がいったいなにを考えているのか気がついてアンブローシアは慌てて言い訳をした。
「ちっ、違うわよ! なにもあいつのことを気にしてるわけじゃないんだから。そうよ、これは一般論として! セ、セドリックなんてどうでもいいんだから…」
アンは異様に仲の良いあの姉弟のことを思った。大人びた仕草も丸みのある女らしい体つきも、エルウィングは自分にはないものばかり持っている。
それに、家族も――
(そうよ。それに、なにもひとりぼっちのあたしの前で、姉弟でべたべたすることないじゃない!)
アンは手でお湯をすくって顔にかけると、力任せにごしごしと石鹸を体中にこすりつけ始めた。近頃都で評判になっている、南方の植民島郡から輸入されたココナッツオイルで作った石鹸だ。
バスタブから足をぬくと、お湯は自分でもぎょっとするくらい汚れていた。これにはアンブローシアも少し恥ずかしくなった。
(昔は毎日のように湯浴みをしていたのに)
今のアンブローシアには、これだけのことがどれだけ贅沢なことかわかる。バスタブいっぱいのお湯を沸かすためにどれだけの労力がいって、どれだけの燃料費がかかるのか。それは週一銀貨《ギリル》でパン代をやりくりしている労働階級にとっては、とうてい考えられない支出であるのかも。
一着だけ持ち歩いている着替え(これはいざというときに質にいれられるものだ)に袖を通して、アンは急いで部屋を出た。部屋を出たところはちょうど修道院の中庭になっていて、鮮やかな宿り木の緑が質素な石造りの建物に彩りを添えていた。
「ああ、アン。終わったのね」
しばらく歩くと、渡り廊下を歩いてきたエルウィングと鉢合わせた。アンはぼそぼそと礼を言った。
「あ、あの、お湯ありがと…」
「そんな、気にしなくてもいいのよ。ちゃんと副院長さまにも許可はとってあるのだから。それより院長さまがお帰りになられたそうだから、お食事をいっしょにさせていただきましょう」
アンはさりげなくエルウィングの胸元に視線を寄せた。そこはまるで瓜を二つ抱えているかのように大きくふくらんでいる。
(う、大きい…)
いっしょに湯をつかったことのあるアンは、エルウィングが鯨の髭を使った胸部コルセットで胸を持ち上げていることや、胸の重さによってひどい肩こりに悩まされていることも知っていた。
そのはちきれんばかりの胸元をみているうちに、アンブローシアはだんだんと腹が立ってきた。
(なんだって神さまはこんな不公平をするんだろう。せめてあの半分くらいあたしにくれてもいいじゃない…)
ついさっきまでのさっぱりした気持ちも、あっという間に冷めてしまった。彼女は両手で握り拳を作ると、
「ふんっ」
と、意味不明な“ふん”を投げつけて、アンブローシアはその場を立ち去った。
あとには、わけがわからずきょとんとしているエルウィングだけが残された。
†
キャベツや豆を煮込んだ、肉はいっさいはいっていないスープ。これは別名“修道院のスープ”と言われ、聖人の祝祭日や礼拝の日に炊き出しされる。旅の途中はパンやチーズのカビを削り落としながら食べているのがふつうだったから、アンブローシアは久しぶりに食事をおいしいと感じることができた。
「ようこそ神の家へ。年若き妹とその家族に盾なるお方のお恵みがありますように」
院長のエステラが左胸、右胸の順に手をかざし、最後に胸の前でぎゅっと手を握った。心臓も心も神の御前に差し出しますというしぐさで、メンカナリン聖教の礼拝の基本である。
同じ修道院で生活する尼僧たちも、そろってこのしぐさをした。エルウィングはもちろん総本山での生活が長いセドリックも同じように後追いする。
その中で、アンブローシアだけがお祈りをしないままスプーンをもった。そのことに気づいた年若い尼僧が、咎めるような口調で言った。
「あなた、どうしてお祈りをしないの?」
アンブローシアはチラリと目線を上げた。口元へ運びかけたスプーンをため息とともに置いて、
「あんたに関係ないでしょ」
と、そっけなく言う。尼僧は顔をむっとさせてさらに言いつのった。
「あなたがどういう方かわかりませんけれど、この席に着いているということは同じように家族と認められたということなのですから、郷に入っては郷に従ってはどうかしら」
「郷?」
アンブローシアは挑発的に笑った。
「あたしは施しを受けているつもりはないんだけど」
「なっ」
「それとも、あんた達は同じ価値観をもっている人間にしか慈悲を与えられないっていうのかしら。そりゃまたずいぶんとありがたい神さまねえ」
「なんですって!」
「およしなさい、マルト」
院長のエステラが厳しく言った。
エステラは丸眼鏡の向こう側のくぼんだ目をゆっくりとアンブローシアに向けた。
「お嬢さん。どうぞスープを食べてくださいな。あなたがこれからも健やかにいてくださったら、いずれ神のことを知るときもあるでしょう」
「さあ、それはどうかしら」
「あなたのおうちには、火の聖書や鎌十字はなかったのかしら。ご両親はあなたを礼拝に連れて行かれたことは…?」
両親のことを咎められたようで、アンブローシアはカッと頬を紅潮させた。
「鎌十字? ええあったわよ。うずらほどのエメラルドのついた立派なヤツがね。あんたたちメンカナリンの僧兵に取り上げられて、溶かされて王冠の地金になったわ」
席に着いていた尼僧たちが、ハッと息を詰めるのがわかった。
「両親は毎日感謝と礼拝を欠かさなかったわ。でもメンカナリンの僧兵に殺された。母の死体はね、口をこじあけられて金歯だけ抜かれて転がっていたそうよ。ふふっ、なんてありがたい神さまかしら」
「アンブローシア」
セドリックにやんわりとたしなめられて、アンブローシアは口をつぐんだ。
食堂の中は、まるで季節を逆戻りしたかのような寒々しい沈黙に包まれた。その中でアンブローシアだけがいつもと変わらぬ顔で、黙々と匙を動かしている。
「ごちそうさま!」
彼女はそっけなく席を立った。足早に食堂を出て、できるだけ尼僧たちと顔を合わさなくてもいいよう人気のない場所を探した。
口の中にスープの味ではない、もっと別の後味の悪さが残っていた。
(あんなこと、言うつもりじゃなかったのに…)
さっき通ってきた中庭をかこむ回廊までくると、アンブローシアはぼんやりと建物を見上げた。
石造りの素朴な外壁…、岩肌にはえた苔が緑色の毛皮のようにしっとりとした雰囲気を醸《かも》し出している。庭にはセージやイチゴなどといった食べられる草花が植えられ、修道女たちによってきちんと手入れがされていた。質素でつつましやかなこの修道院の生活が伺えた。
まさしくここは、教義にあるとおりの神の家だった。
けれど――
(許さないわ、飛翔国《スラファト》とメンカナリンは…)
アンブローシアは目を瞑った。
五年前、彼女の祖国である鉄なる壁の国は、隣国飛び翔ける竜の国に突如として攻め入られ崩壊した。その背後には、メンカナリン聖教の宗主であるザプチェク大僧正の存在が見え隠れしていた。
ザプチェク大僧正鉄壁国《ガリアンルード》国内に聖教を非難する声が多いのを指摘して、国王にそれらの声を取り締まるよう圧力をかけた。清貧実直で知られるアンの父は、現在の聖教の腐敗ぶりに心を痛めていたから、彼らをとりしまるようなことはせずむしろ表だってかばったのだった。
しかし、それらはメンカナリンと密かに大僧正と通じていた飛翔国の思うつぼだった。
飛び翔ける国の国主“竜王”は、大僧正から“聖なる鉄槌軍”の指揮官に任命されるやいなや、聖教に対して背信的な鉄壁国に十万の大軍をおくり、あっという間にこれを殲滅《せんめつ》したのだ。
それ以降、鉄壁国は列強の手によって分割統治され、そのしめつけぶりは人口の約三分の一が難民となって国外に流出する事態にまでなった。多くのガリアンルード人は祖国を失い、また神に逆らった民族として生まれながらに罪人の焼き印を押された。
(許さない…。どうしてあたしたちがこんな差別を受けなければならないの。この世にほんとうに神がいるのなら、あたしたちにどんな罪があってこんな贖罪《しょくざい》を背負わせるの)
アンブローシアはこのような卑怯な手段を使って両親を陥れたメンカナリンのやりくちをどうしても許すことはできなかった。国王であった父と母を謀殺し、愛する祖国を踏みにじったスラファトの竜王。そして神をかかげる立場にありながら、あっさりと大国に随従したメンカナリン…
神などこの世にいるものか。いたとしてもそれはもはや神ではない。
敵だ。
「お嬢さん、セージのお茶はいかが?」
「!!」
アンブローシアはまるで風がとぐろを巻くように振り返ると、太もものナイフホルダーから素早くナイフを抜いて構えていた。
「あ…」
彼女の目に、銀のポットとカップをもったエステラの姿が写った。アンブローシアは慌ててナイフをしまった。
「う、うしろに立たないでよ」
「まあ、それはごめんなさいね。でもここは神の家ですもの。竜王さまの兵だって許可無くここには入ってこられないわ」
エステラはどっこいしょ、と芝の上に腰を下ろすと、ガラス製のカップに中身を注ぎ始めた。
「さあどうぞ。セージのお茶は胸がすうっとして心の中の魔物を追い出してくれますよ」
と、さっきのことなど忘れたようにお茶をすすめてくる。アンブローシアはしぶしぶ側に座ってカップを受け取った。
「ああ、きょうも良いお天気ね」
アンブローシアはセージのお茶を一口すすった。はじめは少しぴりっとしたが、すぐに蜂蜜の甘い味が口の中に広がった。
セージは不思議だ。口にするとすうっと喉が冷えて、胸の中に新しい空気が入ったような新鮮な気分になる。
妙な沈黙にたえかねて、アンブローシアはずばり言った。
「あ、あたしに文句を言いにきたの?」
エステラは顔を上げた。
「さっきのことでわたしを追い出しにきたのではないの? メンカナリンの信者以外は泊めることはできない出て行ってくれって、あなたそう言いにきたんでしょ。いいわよ。出て行くわよ。ここは大きな街だもの。宿屋なんていくらでもあるわ」
アンブローシアは勢いよく立ちあがった。その動きとは対照的に、エステラはのんびりとした口調で、
「そうじゃないわ。あなたとゆっくりお話がしたかったの」
エステラは眼鏡をはずすと、それを膝の上に置いて彼女を見つめた。アンブローシアは面食らった。こんなふうにまっすぐに人と見つめ合うことなどいままでになかったことだ。
アンブローシアはぷいっとそっぽを向いた。
「あたしには話なんてないわ」
「まあそういわずに、このおばあちゃんの話につきあってちょうだいな」
伸びた芝が膝の裏やふくらはぎにあたってちくちくと痛かった。アンブローシアはなんとはなしにお茶をすすった。
再びすうっとする感覚が胸の中にしみわたった。なんだろう…、風が胸の中にまで入ってくるような気がする。
「あなたはガリアンルードの人だったのね」
エステラはいきなりそう切り出した。アンブローシアの体が無意識のうちに硬くなった。
「そうよ。それがどうかし…」
「いいお家で教育された娘さんなのね。すぐにわかったわ」
アンブローシアはぎょっとしてエステラを見た。
「スープの食べ方がとても綺麗だったわ。ああ、この娘さんはとてもいい躾をされていたんだなってあの場にいたみんながわかったはずよ」
アンブローシアは耳まで真っ赤になってうつむいた。なるべく育ちを隠すためにはすっぱな物言いをしているつもりだったのに、そんなところに出てしまっていたとは思いも寄らなかった。
「どうして恥ずかしがるの。とてもいいことよ。あなたのご両親がそれだけあなたのことを考えていてくださっていたということよ。きっと毎日髪をこてで巻いて、バスルをつけるようなお家だったんでしょうね。さぞかし辛かったでしょう」
エステラはそう言って、アンブローシアの無造作に伸びた髪を指で梳《す》いた。ろくに手入れもせずに編みっぱなしにしてある髪だ。昔のように玉子の白身と蒸留酒で洗ったりしない、梳かすことすらあまりない髪だ。
「よ、よしてよ」
ふいに、自分がものすごく惨めな生き物に思えて、アンブローシアは慌てて身を引いた。自分でもおかしなぐらいに動揺していた。どうしていま自分は上着をはぎ取られた子供のように震えているのだろう。
アンは早口で言った。
「あ、あいにくだけど、あたしは神さまなんて信じちゃいないから」
「神さまを信じることはできない?」
「信じられるものですか!」
アンブローシアはさっきとはうってかわった険しい顔で吐き捨てた。
「あたしのお母さ…、母さんは信心深い人だったわ。毎朝礼拝はかかさなかったし、自分のものはかんざし一本までなんでも困っている人に与えてしまうような、そんな慈悲深い人だったわ」
アンブローシアは下働きのように前掛けをして、貧しい者たちのシーツを洗濯していた母の後ろ姿を思い出していた。
メンカナリン信者にとって洗濯は寄進のひとつで、汚れた心を洗い流してもう一度生まれ変わるという意味を持っていた。そのためアンの母であるサルビア王妃は、自ら率先して、石鹸も買えない貧しい者たちのために洗濯をかって出ていたのだった。
「みんなに慕われていた人だったわ。あんなふうな大人になりたいと憧れた人だった。でもその最後は、とても口では言えないようなひどいものだった。あんたたちメンカナリンの僧兵がやってきて宮殿をめちゃめちゃに荒らしたあげく、ガリアンルードの国璽を奪い、国王陛下の首を切った血で条約書に判を押したのよ!」
アンブローシアはエステラを睨みつけた。どす黒い炎が吹いて出るかのような激しい目だった。
エステラはだまって耳を傾けていた。
「メンカナリン聖教国は実際には領土がほとんど無い国だわ。だからむかしから宿り木のように大国に寄生して生きのびてきた。非暴力を掲げているくせに、自衛のためとかいって何万という僧兵を抱えている。中立をとなえているくせに、大国の機嫌をとるために“聖なる鉄槌軍”を許し他国の侵略を正当化する…」
話すうちに閉じ込めていた怒りがふつふつと沸き上がってくるのをアンブローシアは感じていた。
「あなたたちのやっていることは最低よ。それでよく平然と聖職者を名乗れるものだわ。いまでもガリアンルードの民の三分の一が難民になって、家もない放浪生活を余儀なくされている。残った国民には以前の四倍もの税金がかけられ、反乱を起こさないよう男手はすべて徴兵される。彼らは遠い異国の地で、何も知らされないままスラファトの利益のために死んでいくのよ。これがあんたたちの言う神さまの仕業なの!?」
アンブローシアはたたきつけるように言った。
「あんたたちは卑怯よ。自分たちの親玉がなにをしているかも知らないで、知ろうともしないで、毎日のんきに聖典の勉強ばかりして…。いま、この瞬間にも体を吹き飛ばされて死んでいくものが大勢いるのに、あんたたちときたらバカの一つ覚えみたいに、ああ罪あるものの罪をお許しくださいってそればっかり…
馬鹿馬鹿しいわ。そんなヒマがあったらどうして自分から動こうとしないの。自分たちの手で世界を変えようとしないのよ!」
怒号のような糾弾だった。アンブローシアは無意識のうちに服の上から火傷の後をまさぐっていた。
「あたしたちは国を焼かれ祖国を失い誇りさえも踏みにじられた…。そんなガリアンルード人に残されていたのは魔法という反抗手段だけだったわ。魔法だけはだれでも持っているもの。お金を出さなくても使える武器だったから」
「だから、銃をもったのね」
エステラの問いに、アンブローシアは頷いた。
「魔法はあたしを変えてくれたわ。だってあたしの魔法は多くの同胞を救うことができる。あたしはもうか弱い子供じゃない、ガリアンルードのために戦える立派な戦士よ。
あたしはこの手で世界を変えてみせる。自分から動こうとしないのは人を殺すことと同じことよ。だからあたしはためらわない、いつだって無表情で引き金をひくわ」
アンブローシアはナイフで布を切るような口調でそう言い切った。だが、エステラは怯んだ様子も見せず、ただじっとアンブローシアの目を見つめていた。
「………っ」
アンブローシアは妙な違和感を感じた。それは、いままでこうして自分がなにか言うたびに相手から感じていた壁を、まったく感じないことだった。アンは、エステラが自分の言った言葉すべてを受け止め、体の中に吸収してしまっているような気がした。
(なによ、そんな目で見ないでよ)
アンは居心地の悪さを感じてポケットの中に手を突っ込んだ。すると指先がなにか冷たいものに触れた。今朝鎖の切れた弾丸のペンダントだ。
「アンブローシア」
エステラは言った。その声音が、自分を責めるものでも慰めようとするものでもなく、ただ名前を呼んだだけだったことにアンブローシアは気づいた。
「アンブローシア」
もう一度エステラは言った。今度は前と少し違っていた。もっと親しみを込めたいい方だった。
エステラは深く深く言った。
「アンブローシア。よく生きていてくれたわね」
アンブローシアは一瞬なんのことを言われているかわからなかった。ふわり、と小さな風がぶつかってきて、彼女は自分のごく身近なところに熱量があるのを感じた。
「な…」
アンの手がぽろりとポケットからこぼれた。彼女は信じられないと目を見張った。いま、自分の体はエステラの腕の中にすっぽりと収まって彼女に抱きしめられているのだった。
(なんで、こんなこと…)
アンは急いでエステラから身を離そうとした。ところが、どうしたことか今度は体が動かない。まるで油が切れた機械じかけのように、細かく刻むように動いているだけだ。
(違う)
アンブローシアは愕然とした。
震えているのだ。自分は――
「アンブローシア、あなたはあなたの魔法で多くの人を救うことができると、そう言ったわね」
「え、ええ、そうよ」
「あなたの救うは、殺すことね」
「えっ」
アンブローシアは思わずエステラの目をのぞき込んだ。
「あなたは人を殺すことでしか人を救えない。でもわたしは、…いえわたしたちはそうでない方法をとりたいと思っているのよ」
「―――っ」
いつもの自分だったら、意見を否定されて黙っているはずがなかった。相手を打ち負かすまできつい言葉を吐き続けたし、そうしないと自分が負けてしまうようでいたたまれなかったからだ。
なのに、アンブローシアはまだそこから動けないでいた。
エステラは力強く言った。
「アンブローシア。世界は変えるものじゃない、変わるものなのよ」
その言葉を合図に、アンブローシアの頭の中の記憶が、回転木馬のように逆の方向に回り始めた。
『お母様のバスルは好きよ。アンをずうっと隠してしまっていてね』
(ここはスカートの中じゃないわ)
アンブローシアは思った。
(お母様はもういない。バスルももうない。あたしの隠れるところは永遠になくなってしまったのに、どうして今あたしはほっとしているのだろう。誰かに守られているような気がしているのだろう)
だれかに守られているような、そんな弱いものになった覚えはないのに――
ざりっとしたものがアンブローシアの頬に触れた。それは荒れてささくれだったエステラの手のひらだった。
「あなたとお話ができてよかったわ。あなたから教わることはまだいっぱいありそうだから、またこうした時間をもちたいものね」
ずいぶんと年の離れたエステラが、しかもこの修道院の院長をつとめているような人間が、自分からなにか教わることがあるなんて信じられなかった。
アンブローシアが不審そうに顔を曇らせていると、彼女は微笑んだ。
「アンブローシア。わたしはあなたを裏切りませんよ」
「え…」
エステラは膝の上に置いていた眼鏡をかけると、そっと膝を払って立ち上がった。アンブローシアは座ったままエステラを見上げた。
午後のぬるくなった風が、二人の間を縫うように吹いていった。
「むかし、偉い賢者さまがこう言われたそうですよ。人の愛は薬のようなもの、たちまちのうちに人を快くさせるが与えすぎれば毒になる。そして長く与えればだんだんと効かなくなるものだ。
だが、神の愛はそうではない、と」
彼女の言う例えの意味がわからなくて、アンブローシアは眉を顰めた。
「わからないわ。あんたがあたしに同情して言ってるんじゃないのはわかるけど…」
エステラは眼鏡の奥の目を細めて言った。
「人が人を愛さずにはいられないように、わたしもまたあなたを愛さずにはられない。そして神もまた、人を愛さずにはいられないのですよ、アンブローシア」
そう言い置いて、エステラは風のように立ち去った。
「あ…」
アンは言いかけた言葉の代わりに熱い息を吐いた。
なにか大切な言葉を言い損ねた気がした。
†
あれからアンブローシアがどこか変わった、とセドリックは感じていた。
目に見えて変わったというわけではないのだが、ときどき妙に覇気がないというか、萎れた花のようにふさぎ込んでいることがあった。来る前は修道院なんてかびくさい場所はごめんだと息巻いていたくせに、日がな空を見つめてため息をついたり、難しい顔をして昔の偉人の本を読んだりしている。ある時など、今までは絶対にいかないと突っぱねていた日曜の礼拝に顔を出してセドリックたちを仰天させた。
二時の礼拝には聖歌隊の練習がある。昼を回ってしばらくたつと、修道院のお聖堂からはきれいなソプラノの歌声が聞こえてきた。
めぐみゆたけき、 盾なるおかた
きょううまれるものに あなたの祝福あれ
さすれば迷いは 霧のようにはれ
わがこころは 花のようにひらかれん
セドリックは思わず立ち止まって耳を澄ませた。“めぐみゆたけき”や“われをあいせよ”などの比較的耳になじんだ聖歌が、やわらかな緑色の風に混じってそよいでくるのだった。
きっとこの声の中には、エルウィングの声も混じっているのだろう。セドリックは耳を澄ました。すると一人だけ、明らかにメインの旋律から外れている声が聞こえてくる。
(あ、この声はエルだ。やっぱり外れてる…)
昔、お屋敷を離れて満月都市の修練院にはいったばかりのころ、寂しくて泣いているとエルウィングが子守歌を歌ってくれた。そのころからあまり上手ではなかったが、セドリックはどんなにすばらしい歌手のものより、エルウィングの歌う少し(いやかなり)音程の外れた子守歌のほうが好きだった。
「方向音痴といっしょで、なぜか治らないんだよね」
必死で譜面を見つめているエルウィングの姿が目に浮かぶようで、セドリックは立ち止まってうっとりと音色に聞き入っていた。
すると、回廊の少し先にアンブローシアの姿が見えた。
(あれ、アンだ…)
アンブローシアはなぜか注意深く辺りを見回すと、こそこそと談話室の中に入っていった。
(どうしたんだろう。あそこにはいまだれもいないのに…)
セドリックはそろそろ、新しいカートリッジを購入するために街中を見てまわろうかと思っていた。なんといってもリムザは別名魔法都市といわれるほどの街である。他の街に比べて魔術関係の店や問屋が多いことで知られていたし、ここには全国で最大規模をもつ魔銃士の組合がある。
(きっとアンの魔弾砲のカートリッジもたくさん売っているだろうし、どうしよう、誘ってみようかな)
セドリックは意を決して談話室の扉を叩いた。
しかし、返事がない。
「あれ、たしかここに入っていったのに…。アン?」
セドリックはそうっと扉を押し開けると、部屋の中に入った。おかしなことに中にはだれもいず、しんと静まりかえった部屋の中はやけに広さを感じさせた。
この部屋は、修道女たちがつかのまのおしゃべりを楽しむためのものだ。彼女達は普段必要とされていること以外の言葉をつつしむ沈黙の誓いをたてている。一日の長い聖務の間のほんのひとときだけ、ここでお茶や焼き菓子を口にしながらくつろぐのだった。
「おっかしいなあ。ここにいると思ったのに、どこへいっちゃったんだろう」
「ここよ」
足元から声がして、セドリックは思わず飛び上がった。
「うわっ」
「ここよ、テーブルの下」
と語りかけてくるのはたしかにアンブローシアの声だった。セドリックは急いでテーブルクロスをめくりあげた。
「アン…」
驚いたことに、アンブローシアはテーブルクロスの中にいた。
「ど、どうしたの。こんなところで」
「どうもしないわ。ただ、狭い方が落ち着くの」
彼女はポケットに手を突っ込んでしきりに中をまさぐっていた。
「…バスルの中みたいだから」
「え、何の中って?」
すると、彼女は急に顔を真っ赤にした。
「な、なんでもないわよ! …なんだっていいじゃない。あたしの勝手でしょ」
彼女が中から出てくる様子をみせなかったので、セドリックは仕方なく自分もテーブルの下に潜り込んだ。そのテーブルはちょうど八人がけになっていて、膝を抱えて座るとなんとか二人はいることができる。
「あ、あのさ。せっかくリムザに来たんだし、そろそろカートリッジとか買いにいったほうがいいんじゃない?」
「カートリッジ…? ああ、…そうね」
その生返事にセドリックはどこか違和感を覚えた。いつものアンらしくない。リムザに来る前はこれで珍しいカートリッジも補充できると大喜びしていたのに、その銃も寝起きしている部屋におきっぱなしだ。
「ねえ、どこか具合でも悪いの?」
そう言うと、アンブローシアは膝を抱えたままぽつりと言った。
「べつに…」
「ここに来てからなんだか元気がないから心配で」
「心配?」
ふいにアンブローシアが視線をよこした。
「あんたが、あたしを心配してたの?」
猫のようにまんまるな目が、獲物を見つけたようにじいっとセドリックを見た。
「もっ、もちろん心配するよ、当然だろ」
その返事に気をよくしたのか、アンブローシアの表情がほんの少しゆるんだ。セドリックはほっとした。アンの視線はときどき人を射すくめるようで、見つめられるとどうにもおちつかない。
彼女はポケットに手を突っ込んだまま、
「…あのさ」
「うん」
「セドリックは…さ、なんのために戦ってるの?」
ふいに心臓を手づかみで掴まれたような、そんな衝撃だった。セドリックは思わずアンの横顔を凝視した。
「なんの…ためって…」
「あたしは、奪われたものを取り返すために戦ってきたわ」
彼女のポケットの中でチャリ、と小さな音がした。
「セドリックは、あたしの祖国のことどのくらい知ってる?」
「鉄なる壁の国のこと? …そうだね、その名の通りどんな圧力にも屈せず、自分たちの歴史を守ってきた国だということ…かな」
「でも滅んだ」
「うん」
アンブローシアの祖国である鉄なる壁の国は今から五年前に滅んだ。当時新進めざましい飛び翔ける竜の国が、突如としてかの国へ攻め込んだのだ。
「スラファト軍は聖なる鉄槌軍として鉄壁国に攻め入ったんだったよね。聖なる教えの国のザプチェク大僧正が、スラファトの竜王を司令官に任命して」
「そうよ。そのときにスラファトの竜王がまいたビラがこれ」
アンは懐からぼろぼろになった紙きれをとりだした。そこには茶色のインクで『きみたちは解放された。邪教を掲げる国主はもういない、きみたちは自由だ』と書かれていた。
「国王陛下は邪教なんか信じていなかったわ。ただ総本山の腐敗ぶりに心を痛めておられただけ。国王様だけじゃない、当時は世界中でもう一度神の教えを考え直そうという修道士たちの運動がさかんに行われていて、彼らによる新しい宗派がいくつもできていたの。ザプチェクはしきりにそれらの活動をとりしまるようにいってきたけど、陛下はそれを公然と保護なさった」
「それが、戦争の口実に使われたんだね」
アンブローシアは頷いた。
「あたしもあんたと同じ、ちょっといい家の生まれなの。いまはもうばらばらになってしまったけど、たくさんの人にかしずかれて嘘みたいにぜいたくをしてきたわ。それを全部奪われて、はじめはそれを取り返したいってずっと願ってた。でも本当はそんなものどうでもよかったのよ。取り返したいのは自分のためじゃない、ちやほやされたいわけじゃない。許せないのよ。ただ許せないの、あいつらを…」
アンブローシアは頭を抱えた。
彼女の口ぶりから、彼女が鉄壁国の貴族の娘だったらしいことをセドリックはかぎとっていた。国を追われたガリアン人の何割かは“キャラバン”という組織を作り、いまなお飛翔国に対してテロ活動を行っているという。アンがしつこく〈銃姫〉を求めるのも、それを利用して祖国再建を企てるつもりなのだろう。
「あたしたちキャラバンは多くを欲しいっていってるわけじゃないのよ。ガリアンルードは小さな国だわ。肥沃だけど豊かすぎることはない。ただ先祖たちが守ってきた土地を、これからも同じ血を受け継ぐ者にゆずりわたしたいだけ。ガリアンルードがなくったってスラファトは十分豊かじゃない。なのにどうしてあれもこれも欲しいの。たとえばここに十個のパンがあったとして、それを一人で全部食べて肥満になっている人がいる。あえてそのパンを九人に分け与えようとするのがそんなにいけないことなの…?」
真摯な視線を向けられて、セドリックは胸が詰まったように何も言えなかった。けれど何か言わなければ行けない気がしてセドリックは言った。
「だからスラファトを攻撃するの? そのために〈銃姫〉を…」
「やつらは力づくで祖国を奪ったのよ。だから力づくでとりかえしたってなんにも悪いことはないじゃない。でもそうするとやつらは怒るのよ。なぜだかわかる?」
そのうちに、アンブローシアの口調が自分自身へ問いかけるようになっていった。セドリックは彼女の邪魔にならないよう静かにそれを聞いていた。
「あいつらはね、あたしたちを同じ人間だとは思ってないのよ。だからあんな非道い殺し方ができるし話し合おうともしない。あたしたちが黙って殺されてもあたりまえだと思ってるのよ。犬みたいにね。
あたしたちが犬ならあいつらは猛獣だわ。他人とみると噛みちぎるしか能はない。噛んで殺して食らいつくすしかできない、知性なんてあったもんじゃないのよ。だからあたしたちは戦うしかない。言葉が通じないんだから」
「言葉が、通じない…」
「おかしいわよね。人間は言葉をもったから人間なんだって、むかし家庭教師が言ってた気がするのに」
アンブローシアはくつくつ笑った。
「戦ってガリアンルードを取り戻すしかガリアン人を救うてだてはないのよ。あたしは救いたいの。そうよ、救うために殺すのよ。どうせ人間は武器を捨てられない。人間は手に持ったものからなんでも武器にしていってしまうから」
「この間の風見鶏の街でもそんなこと言ってたね。人間は決して武器を捨てられないんだって」
ふいに父親の形見の活字からカートリッジを作り出した少女、ペチカのことが思い出された。彼女はいまどうしているのだろう。あの風が強い街で変わらず元気に暮らしているだろうか。
「武器はなくならないって言っていたね。人間の憎む心が、フォークや金属活字みたいなものでさえも武器に変えてしまうって。それはそうだと僕も思うよ」
「そうでしょう。武器っていうのはつまり人間の心そのものなのよ。だから決してなくならないわ。争いだってなくならない。なのにどうして…」
アンはふいに口ごもった。
沈黙がやんわりとした手つきでアンブローシアの周りに見えない幕を張った。セドリックは黙っていた。
「“いつか”なんて待ってられないわ。世界は変えるものよ。そしてそのために魂の犠牲は必要だわ。きれい事はもうたくさん」
テーブルの下の狭い空間で、アンはぎゅうっと膝を抱えてますます体を小さくした。勇ましいことを口にしながら、その姿はまるで殻に閉じこもって外に出るのが怖いこどものようだった。
セドリックはぽつりと漏らした。
「でも…、言葉が通じなくても分かり合えることはあると思うけど」
アンブローシアがギッと睨みつけてきた。
「なによ、あたしがまちがってるっていいたいの?」
「や、そうじゃないよ。ただそんなふうにぜんぶがぜんぶそうだって決めつけなくてもいいんじゃない? ほら、目と目でわかるっていうときもあるし、実際僕とエルなんかは何も言わなくても心が通じ合っ…」
(しまっ……)
ゴ、ゴ、ゴと地鳴りの音が聞こえた気がした。セドリックは自分が失言をしてしまったことに気づいて慌てて口を押さえた。
「ふうううううん、そりゃーよかったわねええ。どうせあたしはそんなことないわよーだ!」
アンブローシアは火の中に投げ込まれた栗のように爆発した。
「あんたみたいなのがいちばんおめでたいのよ。言葉がなくったって心で通じ合えるなんて本気で信じているんだから。でもそんなの思い違いよ。言葉を使っても使わなくても人間はわかり合えなんかしないわ。あんただって、あたしのことなんかぜんぜんわかっちゃいないじゃないの!」
「そ、そんなことは…」
「“そんなことは”なに? そんなことはあるわよ。だって…だってセドリック、全然気づいてないんじゃない」
「えっ」
セドリックはあらためて注意深くアンを見た。なぜか彼女は顔をくしゃくしゃにして、いまにも泣き出しそうに見えた。
「アン。どうかし…」
「やっぱりわたしのことなんかこれっぽちも気にしてくれてないじゃない。そんななのに言葉がなくたって通じ合えるなんてうそ、うそうそ、うそばっかりなんだから!」
「いったいなんなんだよ、急に怒り出したりして」
「…………」
アンはぐっと歯を噛みしめると膝と膝の間に顔を埋めた。
「ねえ」
「…うん?」
「男の人は、やっぱり胸のある女の人が好きなの?」
「はあ?」
いきなり脈絡のない話をされて、セドリックは思い切り困惑した。やっぱり今日のアンブローシアはどこかおかしい。
「胸のあるほうが好きなの? 男の人ってみんなすごいグラマーな女の人を見ると鼻の下を伸ばしてるじゃない。セドリックだってさ」
「鼻の下なんて伸ばしてないったら!」
「ねえ、大きいのが好きなの?」
セドリックはこめかみに変な汗をかいていた。すぐ目の前で、アンブローシアがセドリックのほうに顔をぐっと寄せてくる。
「小さいのはきらい…?」
「ア、アン…、ちょっとまっ…」
セドリックは思わず後ずさりしようとしてテーブルの上に頭をうちそうになった。彼女の顔は心なしかうっすらと赤らんでいた。
「胸が小さい女の子は、きらい…?」
近づいてくるアンの果実のような唇がやけにつやめいて見える。セドリックはどぎまぎした。
ふううっと、アンの吐息が鼻にかかった。
そのとき、扉の向こう側から数名の足音が聞こえてきた。
(まずい!)
セドリックは慌ててアンから体を離した。ぱたんと乾いた音がして部屋のドアが開き、聞こえていた足音がそのまま中へなだれ込んできた。
「おつかれさま、今日もいい練習ができましたね」
「ほんとうに」
セドリックとアンは思わず顔を見合わせた。
(聖歌隊の練習が終わったんだ)
冷や汗を掻く二人の上で、しきりにカチャカチャいう食器が重なる音がしていた。どうやら彼女たちはお茶の用意をはじめたらしい。
「昨日焼いた焼き菓子がまだ残っているわ。みなさんでいただきましょう」
がたっ
いきなりセドリックの目の前の椅子が引かれた。ぎょっとしたのもつかのま、テーブルの周りから一斉に椅子が引かれ、修道女たちが次々に腰を下ろしていく。
(うわ、うわわわわっ)
セドリックはぎゅうっと膝を抱え込んで小さくした。
「わたしたちと同じおめぐみが、どうぞたくさんの人々の元にありますように」
「おめぐみを」
「おめぐみを」
エルウィングと同じで、尼さんたちはお茶の前にもお祈りをするらしい。祈りの声が聞こえなかったから、この中にエルウィングはいないようだ。
「ねえ、そういえば今日の礼拝にあの子が来ていたわね」
セドリックは思わず声をあげそうになって慌てて声を殺した。
「あの子って、…ああ、エルウィングのお連れさん?」
「お祈りはしないってつっぱねた子よ」
その声に聞き覚えがあった。たしかマルトとかいう、食事のときにアンと言い争いになった若い修道女だ。
「院長さまもあんな子のことを気にかけて…、いったいどういうつもりかしら。しかも魔法銃を院内に持ち込んでくるなんてとんでもないじゃない」
「言い過ぎよ、シスター・マルト。激しい言葉にはよくない精霊がよりつくと言うわ」
「だって…」
やんわりとした牽制があったにもかかわらず、まわりからマルトに同調する声が飛んだ。
「いくらエルウィングの弟さんでも、武器をもつものを院内に入れるのは感心しないわね」
「そうよ、だいたいあんな幼い子どもが武器をもつなんて」
「それに礼拝にも出たことないって言っていたわ。まったく神の教えが滞るなんて世も末ね」
口の中につばが溜まってくる。セドリックは音を立てないよう細心の注意を払いながらそれを飲み下した。そんなセドリックの横で、アンブローシアは今にも飛びかかろうとしている猫のようにじっと構えている。
「ここ《リムザ》へもきっと武器を仕入れに来たにちがいないわ」
「とにかく」
ゴホン、と咳払いが聞こえた。
「だれであろうと、我々聖職者は武器を持っているものを歓迎すべきではないわ。いっさいの武器を放棄することが、さいわいの国へ近づくゆいいつの方法なのですから」
少し年長らしい修道女が発言すると、ほかの修道女たちも納得するようなふしを見せた。
(まずいことになっちゃったな)
セドリックはつつかれたカメのように首をひっこめた。これでは出るに出られないし、見つかったとしたらさらに気まずい雰囲気が流れるだろう。
ふと横を見るとアンブローシアの横顔が見えた。セドリックは思わず目を見張った。彼女は爪を噛んでいた。
(アン…)
親指の爪の間から血がしみ出していたが、彼女はそんなことには気づいていないようだった。
ふたたびマルトの声がした。
「あの子、我々に両親を殺されたって言ってたわね。とんでもない、よくもまあそんな嘘をいえたものだわ。メンカナリンの僧兵は盾なる兵。我々のお兄さまたちは彼女のような人々を守るために戦っておられるのに」
ガリッと音がして、アンブローシアが強く爪を噛んだ。しかしその音は誰にも聞こえなかったらしい。セドリックはハラハラしてアンを見守っていた。
「お祈りのことばも言えないくらいですからね」
「戦場で暮らすとああなるのかしら」
「いつまでここにいる気でしょう。院長さまも、なんとかおっしゃってくださればいいのに…」
アンブローシアの体がぐらりと傾いた。あっと思ったときには、彼女の体は弾丸のようにテーブルの下から飛び出していた。
「悪かったわね。神を信じない不心得もので!」
「ぎゃっ!」
「な、なんなの」
セドリックも慌ててあとを追った。テーブルの下から突然現れた二人に、年老いた修道女が目をむいている。
「あ、あなた…」
「ご、ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったんですけど…」
ひたすら小さくなっているセドリックの横で、アンはまるで散弾銃のように激しい言葉をまき散らした。
「武器を持つなですって? 戦うなですって? こんな壁の中で平和ボケしてるあんたたちがよくもそんなこと言えたものね。だれも初めから武器を持ちたいと思って持つものなんかいないわ。持たざるをえないんじゃない!」
アンブローシアの萌葱色の瞳が、怒りとそれ以上の哀しみで真っ赤に燃えていた。
「戦わないと殺される、奪わなければ奪われる、だから戦うのよ。心の底から戦いたい人間なんていないわ。
でも戦争は続いてる! 百年前もきのうも…、明日だってきっと戦争は続いてる!」
アンは肩からめらめらとかげろうを立ち上らせていた。セドリックは動けなかった。いや、その場にいた誰もが影を縫いつけられたようにその場を動けなかった。
「あたしは知ってるわ。あんたたちみたいにきれい事を言ってた修道士が、戦争になったら真っ先に金の聖杯を持って逃げ出すのよ。戦場に放り出されたらあんたたちだって戦わずにはいられない。見てみたいわ、あんたたちが薄汚くねずみのように逃げ出すさまを…」
そう言い捨てて、アンブローシアは部屋から飛び出した。
「ア、アン!」
セドリックは呆然としている修道女たちには目もくれず、アンのあとを追いかけた。
「アン、待ってよ!」
彼女の姿は、修道院を出たすぐ先の角で完全に見失った。
†
アンブローシアは駆けた。石畳の上を滑り抜ける風のように。足音と影は、彼女の一歩後を遅れてついてきた。
(なによ、なによ、あの女たち!)
アンは鼻をすすり上げた。こらえてもこらえても、瞼を押し上げようとする熱いものがある。
(あんなところ、こっちから出て行ってやるんだから!)
そのうち景色が見慣れないものになると、アンブローシアは走るのをやめて歩き始めた。ずいぶんと遠くまで来てしまったようだった。修道院を飛び出してから脇目もふらずに走ってきたからだ。
「ここ、どこだろ…」
きょろきょろと辺りを見渡すと、通りの裏手に金属を溶かす炉を表す太い煙突がいくつも並んでいるのが見えた。おそらく銃器具を作る工房だろう。手練れの魔銃士ともなると個人にあわせて銃をカスタマイズするか、一から作ることが多い。アンブローシアの魔弾砲も、市販品を彼女用にカスタマイズしたものだった。だが、ある程度までの手入れなら街の銃器屋でもできる。
「ちょうどいいわ。どうせカートリッジを補充するつもりだったんだし」
アンブローシアはぱっと目に入った銃器屋のドアを押した。
「…こんにちわ」
店に入ると、ぷんとパイプ煙草の匂いが鼻についた。店内はそれほど広くはなかったが、換え率の高い撃針や手入れ用の丁子《ちょうじ》油などが前面に置かれ、頻繁に人の出入りがあることを伺わせる。
アンがしばらく店内を見回していると、奥から店主らしいおやじが顔を見せた。どうやらこの奥は工房になっているらしく、口に年代物のパイプを、手にはヤットコを握りしめたままだ。
「いらっしゃい」
アンは素っ気なく用だけを告げた。
「魔弾砲のカートリッジを三ダースほしいの。ドナンボーン社のP―707GKよ」
「なんだいおじょうちゃん、だれかの使いかい? …おっ」
太ももに巻いたままだったサブ銃のホルダーを見て、彼はアン自身が魔銃士だと察したようだった。
店主は親指でぐいっとベレー帽を押し上げながら言った。
「いやはやおそれいるね。おまえさんみたいな子どもがあんな銃ぶっぱなすなんて」
「三ダース用意できる?」
「今ここにはないが、奥に在庫があるだろう。ちょっと待っててくれ」
そう言って、彼はパイプをぷらぷらさせながら再び奥へ消えた。
品物を待っている間、アンブローシアは手持ちぶさたに木箱に入った弾の見本や、壁に飾られているレプリカの銃を眺めていた。こうしていると、師匠に連れられてはじめて銃器屋を訪れた日のことを思い出す。
(そういえば、あのときはじめて弾を買ったんだった)
ポケットの中に手を突っ込むと、さっき鎖が切れたままポケットに放り込んでいたペンダントがまだそこにあった。弾丸の表面にはうっすらと日付が残っている。それも、長い間表面をいじってばかりいたせいですっかり薄くなってしまっていた。
(灰色の中身が見える。この弾はもう実弾には使えないな…)
銀は人の感情や魔力を吸い取りやすいから、あまり触っていると雑念まで吸収してしまうのだ。アンは苦笑いした。この中はきっとアンの雑念だらけだろう。
アンブローシアは、箱を抱えて戻ってきた店主にペンダントを見せて言った。
「ねえ、この鎖なんだけど直せる?」
彼は鎖を受け取ると、いくらか引っ張ったりこすったりしていたが、
「こりゃあもう鎖が古くなっちまっている。まあいい、店にあるものでよければタダで取り替えてあげよう」
「本当に?」
「…お嬢ちゃんガリアン人だろう。あそこの人はうちのお得意さまだからな」
アンブローシアの顔にさっと緊張が走った。店主はゆっくりとパイプをくわえなおしながら、アンの前に鎖を取り替えたペンダントを差し出した。
「ああ、そんなに警戒しなくてもいい。うちは“キャラバン”とは長いつきあいやらしてもらってる。そうだ、もう少ししたら奴が来るはずだ。あんたももし祖国のために戦ってるんならやつに会ってみたら…」
ガララン、とドアにぶら下げてあるカウベルが鳴った。
「ほうら、言ってるそばからきやがった」
アンブローシアは戸口を振り返った。そしていま店へ入って来た男が、かぶっていたマントのフードを後ろへ押しやったとたん、鞭で背中を打たれたような衝撃に襲われた。
「エカード…」
男の方もアンを見るなり全身を硬直させた。
「まさか…、アン殿下」
聞き覚えのある声だった。まちがいない、彼は鉄壁国国軍警邏《けいら》隊長のエカード=シーバリーだった。
シーバリー家は代々ガリアンルード王家に仕える古い家柄で、アンの父である国王の信頼も厚く、エカードの父オイゲンは国務大臣を務めていた。あの五年前の動乱の際にも、エカードは最後まで兵を率いてスラファト軍と戦い、いまなおスラファトから追われているはずだ。
そうだ、生粋の愛国者であるエカードが、対スラファトを掲げるキャラバンに入っていてもおかしくはない。アンの顔がみるみるうちに喜色にあふれた。
「エカード、生きていたのね!」
彼は放心したようにアンを見ていたが、ハッと我に返るとおもむろに彼女の手を強く引いた。
「と、とにかくこちらへ。店主、例のものはあとで取りに来る!」
むりやり店から引っ張り出されたアンは、エカードのすすめで路地裏のうさんくさい居酒屋へ案内された。
「ここは…?」
「仲間たちがよく集まる居酒屋です」
「仲間、ってことは“キャラバン”の…」
エカードは黙って頷いた。
二人は“石炭とニンニク”という名の居酒屋の扉を押した。まだ昼間だというのに店内は人であふれ、今日職につけなかった工人や荷運びたちがカードに興じている。どのテーブルの上にも決まったように鱈のフライと色の薄いビールが並び、もうもうと立ちこめるパイプ煙草の煙とアルコールくささで、アンはたとえようもない息苦しさを感じた。
「こちらです」
無数のねちっこい視線を感じながら、アンは階段を上がって二階の部屋に入った。灯りの少ない部屋には、ざっと見て十人ほどがテーブルの上で顔をつきあわせていた。一目見ただけで全員がガリアン人だということがわかる。
その中の一人にどこか見覚えがあるような気がして、アンはおそるおそる口を開いた。
「…フェロム?」
男がハッと顔を上げた。信じられないという顔でアンを凝視する。
「アンブローシアさま…」
「フェロム、ほんとうに馬飼いのフェロムなの?」
男はスツールを蹴るようにしてアンのそばにかけよると、彼女の右手を両手で握りしめて跪いた。
「まさか、まさか本当に生きておられたとは! このようなところでお会いできるとは思ってもみませなんだ。ああ祖国の土と風に感謝を…!」
その後はもう涙で言葉にならなかった。フェロムの言葉に、ほかの男たちも次々にスツールをおりてその場に跪き始めた。
「殿下、よくぞご無事で!」
「タリマイン導師から殿下のご存命は伺ってはおりましたが、お元気でいらっしゃるとはなによりです」
アンは勧められるままにスツールに腰を下ろした。
「師は…、タリマイン導師はここにいらっしゃるのですか?」
「いえ、導師はいまは三日月都市《アンクレット》におられます。月海王国内の反スラファト勢力に近づき、どうにか彼らの協力を仰げないかと…」
アンはテーブルを囲む顔をぐるりと見渡した。顔を知られるのを用心してか部屋の灯りはテーブルの上の蝋燭一本きりだったが、中には元近衛連隊長のヨアンネス、王宮の出入り商人だったエスケルリッチの顔も見える。アンが思っていたよりも多くのガリアン人が生き延びていたのだった。それだけでも胸がはりさけそうなほど嬉しい。
エカードが言った。
「あえて母国の言葉を避けることをお許しください。ここの店主は信頼できる人物ですが、もし客に聞きとがめられることでもあれば当局に通報されてしまいますから」
皆は一様に頷いた。やがてここの店主らしい男が、水のように薄い色のビールを運んできた。アンの前には温かいコーヒーが回された。一目見ただけでチコリのまざっている粗悪品だとわかる。
「祖国の土と風に」
あの動乱以来神の名を唱えることのなくなったガリアンルードの人々は、こうしていつも祖国の風と土に乾杯するのだった。アンも唱和した。いったいどれくらいぶりに口にしただろう、いつも食事の前に祈るときは黙って心の中で唱えていたから…
「さっそくですが、殿下には早々にこの街から出ていっていただきたいのです」
いきなりのエカードの冷たい言葉に、アンは反発した。
「どうしてですか。あなた方がここに集まっているというならば、それは祖国のために働くつもりのはずです。わたくしもいっしょに――」
「殿下、どうかお止まりください」
アンの愛馬を世話していた厩舎長のフェロムが言った。
「実は…、三日後の2と6の日に、我々はこの街のある場所を襲う計画をたてているのです」
「なんですって」
アンは思わず視線をテーブルの周りに彷徨わせた。だがそこから帰ってくるのは同胞たちの確信に満ちた頷きだけだった。
「ここリムザの街からは、スラファト軍の魔銃士部隊が使用する銃器の約二割が出荷されています。東部の鉱山でとれた鉄鉱石のほとんどがこの街へ運び込まれ、銃器に加工されて出て行く…
ところが最近になって、この街にメンカナリンの僧兵長が出入りしているのを我々の同胞がかぎつけたのです」
「どうしてメンカナリンの僧兵長がリムザに…?」
フェロムの話を今度はエカードが繋げた。
「聖教《メンカナリン》が建てた孤児院の子どもたちにカートリッジを作らせているのですよ」
「そんな、まさか…!」
アンは思わず机を拳で叩いた。その拍子にコーヒーが大きく波立ってテーブルの上にしみをつくる。
「これは確かなことです。今年になってリムザに入ってくる貨物の中に、南部産の銀鉱石が混じるようになりました。これらは名目上は孤児院の中の職業訓練所に寄付として差し出され、寺院などに使われる燭台や鎌十字に加工されることになっています。しかし実際はそうではない」
エカードは厳しい視線でテーブルの周りを見回した。
「子どもたちは戦争に使われるカートリッジに、魔力を込めるよう訓練されているのです。魔力だけはだれしもがもっているもの。とくに子どもの頃は潜在的な魔力が高いといわれている。彼らは戦争孤児を保護するふりをして、自分たちの都合のいい戦争の道具にしたてあげているのです」
アンは思わず口を覆った。
「ひどい…、どこまで腐っているのやつらは!」
アンの激高に力を得たのか、エカードはさらに声を強めた。
「スラファトは新たな戦争の準備をすすめているときく。このままでは何万テロンという量の魔法弾がやつらの手元に渡り、多くの同胞の命を奪うことになるでしょう。それだけはぜったいに阻止しなければなりません。
我々は三日後の深夜、子どもたちが寝静まっている間に倉庫のカートリッジを根こそぎ盗み出してしまうつもりです。まさか子どもに武器を作らせていたとは言えず、やつらもことを荒立てはしないでしょう。それに、すでに各都市には我々の同胞が、密かにこのことを暴露するビラを用意している。メンカナリンとスラファトの癒着白日の下にさらせば、いまはスラファトに好意的な月海王国も態度を変えるにちがいありません!」
「我々に勝利を!」
「やつらの暴挙を許すな!」
感極まった同胞たちは、思わず祖国の言葉を口にしてしまったようだった。エカードがみんなに声を潜めるよう促す。
「殿下は我々がふたたび祖国の土を取り戻し、同じ旗の下に戻るときの旗印となられるお方です。その方に今回のような使命は危険すぎる。ここは我々にすべてお任せください。よろしければ三日月都市のタリマイン導師のもとに向かわれては…」
「でも…」
「今回の計画は露見するのを用心して、鉄壁国とは関係のない雇われものを使っています。当然彼らは殿下のことを知らない。ここに残るのはあまりにも危険です。
殿下は我々のたったひとつの希望なのです。どうぞふたたび玉座に座られるまではお健やかに。命をかけるのは我々だけでいい」
「殿下、どうか!」
「殿下!」
アンはテーブルを囲む同胞たちの顔を見て回った。どの視線も切っ先のように鋭く、その鋭さに胸を突かれて、アンはとうとうそれ以上何も言えなかったのだった。
†
それから丸二日の間、アンブローシアは自分にあてがわれている部屋のベッドで頭からシーツをかぶって過ごした。彼女は考え事をするときはいつもこうで、なぜか狭い空間のほうが落ち着くのだった。
ベッド脇には、ここへ来たときと同じ一つにまとめた荷物があった。アンたち三人は、この夜が開けると朝のうちにリムザを出立することになっていた。本当は用意していた列車の切符は明後日のものだったが、無理を言って日にちを早めてもらった。
急にこの街を出ようと言いだしたアンに、彼女がここの修道女たちとひと悶着あったことを知っているセドリックはなにも詮索しなかった。
(結局、本当のことは言えなかったな…)
アンは鎖を代えたばかりのペンダントをぎゅっと握りしめた。エカードたちが言っていた襲撃は明日の夜中だという。しかし、アンは明日の昼前の汽車に乗って三日月都市を目指す。リムザのことを知るのはあちらに着いてからになるだろう。
(大丈夫よ。エカードはカートリッジを盗み出すだけだって言っていたもの…。大事《おおごと》にはきっとならないはず)
なのに、アンの右手は胸元のペンダントをまさぐっていた。どうもすっきりしない。まるで大事なものをどこかに置き忘れてきてしまったようだ。
彼女はそうっとベッドを抜け出すと、太もものホルダーに銃が刺さっているか確認して、部屋を出た。すでに消灯時間を過ぎた院内はシンとして、回廊を照らす蝋燭もこのまま継ぎ足されずに消えるのを待つばかりだった。
アンは空を仰いだ。そこからは、サファイアを削りだしたあとのような青々とした星が見えた。
「アンブローシア」
ふいに名前を呼ばれて、アンはぎょっとして声のしたほうを振り向いた。
声の主は院長のエステラだった。
「どうしたの、こんな夜更けに。眠れないのかしら」
エステラはなにか大きな荷物を抱えたまま、ゆっくりとアンのほうへ歩いてきた。
「そう言えば明日の朝出立すると言っていたわね。残念だわ。あなたとはもっとゆっくり話したかったのだけれど…」
「その…、荷物はなに?」
エステラの抱えている木箱には、革張りの本や木でできたおもちゃなどが入っていた。彼女は抱えている箱に視線を落とすと、
「中州の裕福な家を回って譲っていただいたものよ。明日はこども《フェンネル》の祝祭日ですから、街の孤児院へこれを届けに行くの。その用意でこんな時間になってしまって…」
「孤児院へ!?」
アンはぎょっとして声をあげた。声は静まりかえった夜陰にやけに大きく響いた。
「孤児院って…、まさかあの川向こうの、訓練場のある孤児院?」
「そうよ、よく知っているわね」
「やめて!」
アンは鋭く叫んでいた。
「やめて、あそこへは近づかないで!」
「どうしたの、アン…」
彼女のあまりの取り乱しように、エステラは怪訝そうに目を細めた。アンはかまわなかった。
「ど、どうしたって、そんなことどうでもいいじゃない。とにかく明日行くのはやめて」
「でも、あしたはフェンネルの祝祭日よ。子どもたちもおもちゃを楽しみに待っているわ。行かないわけにはいかない…」
「子どもにあんなことさせといて、なにが祝祭日よ!」
そう叫んだとたん、エステラの表情がみるみるうちに強ばっていった。アンはしまったと舌打ちした。
「アン、どうしてあなた、そのこと…」
今度はアンが呆然とする番だった。
「…やっぱりそうなの?」
彼女は夜の闇のせいだけではなく青ざめて見えるエステラに、さらに鋭く問いつめた。
「あなたは、あそこで何が作られているか知ってるの。子どもたちがなにをされているか知っていたの。知っててしらんふりしていたの!?」
「アン、あなたどこからそれを…」
「近寄らないで!」
アンは思わずエステラを両手で突き飛ばした。その拍子に、彼女は手に持っていた木箱を取り落とした。
ガシャーンと、中に入っていたおもちゃや人形が派手な音を立てて辺りに散らばった。
「うそつき!」
アンはこれ以上ないくらいに歯を噛みしめた。
「なにが世界は変わるもの、よ。なにが武器は持たない、よ。人殺しをするのと、人殺しの道具をつくるのとどこがかわらないっていうのよ。あんたたちだってあたしらといっしょじゃない。両手は血まみれなんじゃない!」
「アンブローシア、わたしは…」
「うそつき、うそつき、うそつき!」
アンは引き裂かれたような叫び声を上げ続けた。いや、実際胸が張り裂けていて、その音が外に聞こえていただけかもしれない。
『あなたは人を殺すことでしか人を救えない。でもわたしははそうでない方法をとりたいと思っているのよ』
そう言ったエステラの言葉をアンは信じていた。神さまなんていない、善良な人間なんていない、そう信じながらも、エステラの言葉はびっくりするほどたやすくアンの心に滑り込んできた。それはアン自身が信じたかったからに他ならなかった。ほんとうに世界は変わるのかもしれない。わたしたちがなにもしなくてもゆっくりと穏やかに変わっていくのかもしれない。…そう、たとえば汽車が次の駅へとたどり着くように――
でも、違った。
『わたしはあなたを裏切りませんよ』
「裏切りもの! もうあんたの顔なんか見たくない!」
「アンブローシア!」
エステラが呼び止めるにもかまわず、アンは自分の部屋へと駆け込んだ。荒々しくドアを閉めかんぬきを下ろした。鼓動は高鳴ったままだった。
「うらぎり…もの…」
アンブローシアは再びシーツをかぶった。心臓ではない場所が、ばちで叩かれたように痛かった。
潜り込んだシーツは、あのときのエステラの胸ほど温かくはなかった。
†
ほとんど一睡もできないまま、アンブローシアは出立の朝を迎えた。部屋に籠ったままの彼女に、いまから朝の礼拝に行こうというセドリックとエルウィングが、心配してミルクを部屋まで持ってきてくれた。
「そう言えば昨日、部屋の外で声が聞こえたけれどなにかあったの?」
「べつに…」
妙に口数が少ないアンに、セドリックとエルは困ったようにため息をついた。
そのとき、急に荒々しい足音がして一人の尼僧が部屋へ飛び込んできた。
「ど、どうかしたんですか」
「こ、これを…」
血相を変えてやってきたのは、この修道院の副院長セシリアだった。
「い、院長さまのお姿が朝から見えなくて、それでお部屋をお探ししたら、こ、これが…」
震える手で彼女が差し出したのは、封のされていない肌色の封筒だった。宛名はアンブローシアへ、とある。
「これはいったいどういうことなのでしょうか。きのうの夜遅く、こちらのお嬢さんと院長さまが言い争う声を聞いたというものがおります。院長さまはいったいどこへ…」
「親愛なるアンブローシア――」
アンは手紙を開くと、声に出して読み始めた。
「“あなたを裏切ってしまったことを許してください。
たしかにわたしはあの孤児院で何が行われているか知っていました。…いいえ、孤児院が建つまえから知っていたのです。罪深く恐ろしいことです。人は何故、罪だと知っていながら正しいことを行えないのでしょう”」
一人事情を察したセシリアがひっと口元を押さえた。彼女は例の孤児院のことを知っているようだった。
「“あの孤児院で、子どもたちが武器の製造にかかわらせられているのはほんとうです。孤児院の設立に出資したスラファトの武器商人が、メンカナリンの上層部にそう条件を出したのです。わたしには断ることもできました。その結果、多くの子どもたちが飢え死にしていたとしても…”」
「孤児院って、いったいなんの話…?」
はじめて聞く話に、セドリックとエルは怪訝そうに顔を見合わせた。アンはかまわず先を読み進んだ。
「“みな大人の身勝手で住むところを無くした子どもたちです。けれど修道院にはこれだけの子どもたちを入れてあげられる場所がありません。もちろんそのための私財も。
悩んだ末、わたしはその申し出を断ることにしました。やはり武器をもつことはできない。そのようなことを許すこともできないと、盾なるお方がおっしゃっているように思えたからです。けれど、そのスラファトの武器商人に会いに行くすがら――」
「もうやめてください!」
黙って聞いていたセシリアが、嗚咽混じりにアンにしがみついてきた。
「院長様は最後まで悩んでおいででした! けれどあの年はまれに見る不作で、もうすぐ冬だというのにリムザには家のない子どもたちがあふれていたのです。院長様は…」
「離して!」
アンはセシリアを乱暴に振り払うと、その先に目を走らせた。
嫌な予感がした。
「“…会いに行くすがら、一人の少女が助けを求めてすがりついてきました。兄の具合が悪そうだと。急いで駆けつけたわたしが見たのは、あまりの寒さのためでしょう、葡萄酒の樽に入ったまま――空を見つめて死んでいる少年の姿だったのです」
そこでアンブローシアは息を吸った。
「“お棺がないならせめてこのまま墓地にいれてやろうとすると、その妹が言うのです。明日からはその樽は自分が使うから埋めないでほしいと。――そのときに、わたしは決心していました”」
一枚目の便せんが終わった。アンはちぎるように便せんをめくっていた。
「“…決心していました。私は神のみまえでいいました。あの孤児院で侵された罪のすべてはわたしのものだと。でも、リムザの街から武器を積んだ貨物列車が出て行くたび死んでしまいたかった。わたしはあの子たちにどれほどの罪を犯させたでしょう。
わたしがなんどもあそこへ足を運ぶのは、十分に食べ物を与えられ幸せそうにしている子どもたちを見て、自分はよいことをしたのだと思いたかったからかもしれません。
アンブローシア、わたしはあなたがここに来たときに、わたしはみくによりのお使者がわたしを裁きにきてくだすったのだと思ったのです…”」
アンブローシアは誰かに揺さぶられたようにうちふるえた。自分でもわけがわからないまま、ただ体全体の震えがとまらなかった。
ふいに部屋の外で奇声が聞こえた。それはすぐ、幾人もの悲鳴の束になってこの修道院に響き渡った。
「院長さま!?」
「院長さま、院長さまぁっ!」
「いやあああっ!!」
あのアンを詰《なじ》ったマルトという修道女が、顔をくしゃくしゃにゆがませて部屋に飛び込んできた。
「セシリアさま、院長様が、院長様が!!」
“天使さま、おききください。
それでも心弱いわたしは願わずにいられないのです。
わたしの子はみっつで死んだ。
…生きていれば。
子どもたちが、生きてさえいてくれればいい、と――”
『アンブローシア。よく生きていてくれたわね』
――修道院の入り口に、横たわったエステラの姿が見えた。
体に銃弾のあとが無数にあった。何十発も打ち込まれて肉はちぎれ、胸から下はまるで熟れすぎた石榴《ざくろ》のようだった。
アンブローシアはぎゅうっと手紙を握りしめた。
「…院長さまは、逃げろって言ったんです」
と、エステラの亡骸を運んできた男は、帽子をとって言った。
「いきなり孤児院へ飛び込んで行って、そうわめき始めたんです。だれもが気が触れたとしか思わなかった。そのうちに人相の悪い男がやってきて院長さまを詰問しはじめたんです。それから、あっという間に…」
「どいて!」
アンブローシアは前にいた人間を突き飛ばすようにしてエステラのもとへ駆け寄った。心臓に耳を寄せ、首に指を当て、それから太ももの魔法銃を引っこ抜いた。
「風魔法の〈緑〉を使うわ。みんな下がって!」
修道女たちはざわめいた。
「アンブローシア、なにをするの」
「治療する魔法よ。いいからもっと下がって!」
アンブローシアはおもむろに着ていたベストをぬぐと、内ポケットに忍ばせたカートリッジを床にぶちまけた。
「〈緑〉がない! じゃあ〈泉〉、〈泉〉はどこ…。ねえセドリック、水魔法のカートリッジを貸して。水魔法だったら…、魔法だったら傷が…」
「アン」
セドリックはやわらかくアンの手首を握った。困ったように、それから森色の目に涙を浮かべて言った。
「もう…、亡くなってる」
「…あ……」
ネジを抜かれた機械のように、アンブローシアはあっけなく床の上に崩れ落ちた。
「うっ」
マルトが喉を詰まらせて泣き出すと、周りを取り囲んでいたほかの修道女たちもつられるようにして泣き出した。すると、
――どおん。
修道院のすぐ横で爆音がした。それからバラバラと壁の崩れる音、人々の割れたような悲鳴が続いた。
「と、とにかく川向こうはもう火の海でさあ。みんな逃げ始めてる。あんたらも早く逃げたほうがいい!」
男はそれだけ言うと、ほうほうのていで修道院を飛び出した。
「いったい、何が起こっているの…」
修道女たちは涙を浮かべたままの目で、呆然と火の手に包まれた川向こうを眺めた。その間もバリバリという爆音は鳴り響き、修道院のすぐ前の大通りは荷車を引く人と逃げまどう人々の悲鳴でごった返している。
「…また、戦争が始まったの?」
マルトが叫んだ。
「また戦っているの。今度はだれと誰が、どうして!?」
「孤児院で武器が作られていたからよ」
蹲っていたアンがゆらりと立ち上がった。
「なん…」
「それに怒ったテロリストのグループが阻止しようとして…、いいえ、違うわね。その武器を横取りしようとしたのよ。組織の名は“キャラバン”
――あたしも、その組織の一人よ」
その場にいたすべての修道女たちが、アンブローシアをそれぞれのの表情で眺めていた。あるものは呆然と、またあるものは驚きをこめて。だが不思議なことに、そのほとんどの視線からは刃物のような鋭さは失われていた。
アンは奇妙に思った。
「あたしをののしらないの? 人殺し、みくにの門を弾かれた悪党だって。でも今はそんなことを言っている場合じゃないわね。やつらはここへもくる」
エカードは――キャラバンははなっからこの街を燃やすつもりでいたのだ。アンはそう確信していた。リムザはスラファトの軍に魔法関係の武器を供給している。エステラのせいで計画をぶちこわしにされたキャラバンは、せめてこの街を破壊することによってスラファト側に打撃を与えようとしたのだろう。
ふたたび火薬の弾ける音が聞こえた。小さい子を抱えた母親が修道院の門をくぐって飛び込んできた。
「お助けください! 旧市街はもう火の海です。テログループのやつらは地下の下水路に水火薬を流し込んで…」
母親は激しく咳き込んだ。
「みんなこっちへ逃げてきています。どうか助けて!」
子どもの顔は煤《すす》だらけだった。三人はほかの修道女たちの手によってすぐに奥へと連れて行かれた。
(行かなくちゃ)
アンは部屋に魔弾砲を取りに戻った。使えるだけのカートリッジを放り込んでフォアーエンドを引く。昨日引き取りに行ったカートリッジにはまだ魔法が入っていない。いまは弾に魔法を込めている時間もなかった。そのうち弾切れになるのは確実だろう。
それでもアンは息を吸うように決めていた。
(あたしが、いかなくちゃ)
他の誰でもない、ガリアンルードの王女である自分が。エカードたちを止められるのは自分しかいない。それとも、もし彼らの言ったとおり傭兵を雇ってやったことなら居酒屋にいたメンバーはもはやここ《リムザ》にはいないだろう。
(それでも)
アンブローシアは顔を上げた。
魔弾砲を肩に抱えてアンが部屋を出ると、もうそこにエステラの亡骸はなかった。
“わが善良の 盾なるおかた”
アンは顔を上げた。驚いたことに、聖堂の方から聖歌が聞こえてきた。
“なないろのきざはしを渡して
そのふところに われらをお迎えください”
アンは聖堂に飛び込んだ。
「何をやっているの。早く逃げなさいよ!」
アンは聖堂に響き渡る声で叫んだ。
「あいつらキャラバンはメンカナリンを憎んでいるのよ。ここだってタダですむはずがない。やつらが旧市街からなだれ込んでくる前に逃げるのよ!」
アンの目の前に、副院長のセシリアが立ちはだかった。彼女はいつだったかエステラが見つめたようなやわらかな視線で彼女を見た。
「わたしたちは逃げません。ここにいます」
アンは首を振った。
「死ぬ気なの。あんたたちの神さまはこんなところで犬死にしなさいって言ってるわけじゃないでしょう!?」
「わたしたちの神ですよ。アンブローシア」
アンは祭壇の上に飾られている“盾なるお方”の像を見上げた。この世が一度滅んだとき、自らの肉体を盾として人々を守り、三度業火に焼かれたという聖人メンカナリン。彼の像の足元には、“母親は子どもを前に盾となり、男は女を前に盾となる。しかし善良さは全ての人間の盾となりえる”という彼のことばが掲げられていた。
アンはセシリアに言った。
「じゃあ、逃げなくてもいいからせめて門を閉めて。門を閉めてあの前にできるかぎりの石を積んで。じゃないと…」
「門は閉じません。いつであっても」
その強い言葉に、アンは黙った。
セシリアは聖堂に集まった修道女たちを振り返った。すると、彼女たちはふたたび聖歌を合唱しはじめた。聞き覚えのある歌だ。遠い昔、アンブローシアもまた母親と日曜の礼拝で歌っていた歌だ。
いまはもう口にすることもない。
(歌詞も、思い出せない…)
そんなアンの前で、セシリアたちは透き通るような笑顔を見せた。
「どんな人間が訪れようと、人を拒むことはないのです。ここは神の家なのですから」
“めぐみゆたけき、盾なるおかた”
やわらかなソプラノの歌声は、遠くから聞こえてくる爆音とともに祭壇の上に降り注いだ。
アンは今は言葉もなく横たわっているエステラに視線を向けた。
心の中で彼女に語りかける。
(…やっぱり、あたしにはわからないわ、エステラ)
――どおん。
一瞬大きく床が揺れて、壁の木が大きくきしんだ。逃げてきた人々はうずくまり、肩を抱き合ってそれでも主への祈りの言葉を口にした。
“われらに 平穏と安寧のみやぐらをお与えください。
そして、あなたの子が力尽きたときは…”
母親の隣で震えている子どもがいた。アンは羽織っていた上着を脱ぐと、子どもの肩にそっとかけてやった。母親がおそるおそるアンを見上げてきた。アンはその視線を避けるようにして聖堂を出た。
五年前のあの日は、自分もあんなふうに部屋の隅で震えているしかなかったのだ。それがいまではどうだろう。ベストにはありったけの弾。腰にはカートリッジを繋げたベルトを巻き、魔弾砲の中は確実に大量の死人を出す魔法弾がこめられている。
油で荒れた手を開いた。
(あたしはやっぱり、こんなふうにしか大事なものを守れない)
開かれた門からはひっきりなしに人々が駆け込んでくる。その流れとは逆に向かって、アンブローシアは走り出した。
(――でも、そうでない方法を、エステラ、あんたに教えてほしかったわ)
“主よ、
ながきたびじを 終えたものに
天のみくにが きますように…”
「うるああああああああぁぁ!!」
アンブローシアは吼えた。
魔弾砲を腰に構えたまま、アンは大通りに飛び出した。すぐに武装した兵士がこちらへ向かってくるのが見えた。手には二丁の拳銃を握っている。銃口が小さく明らかに魔法を打つタイプではない、鉛玉の飛び出るやつだ。
男はアンを見るなり銃を構えた。アンは砲身がぶれないよう左脇を締めてトリガーに指をひっかける。アンの魔弾砲は砲身が上下に二本あるように見えるが、下の砲身に見えるのは実は弾倉だ。アンはいつもそこに得意の光系の雷撃弾を入れている。
「な、なんだお前は!」
男がアンに向かって発砲した。明らかに射程圏外なのに発砲したのはかなり動揺していたのか、それとも戦闘自体に慣れていないのか。
「ったく!」
アンは左の手を砲身から外して、太もものホルダーからサブ銃を引っ張り出した。銃口が前を向く瞬間に引き金を引く。相手がこんなに距離があるのに発砲してきたのには萎《な》えた。あんな雑魚やろうに散弾銃の弾一個はもったいない。
「ぎゃあああっ」
光魔法〈雷電〉が男を襲った。空中の何もないところから一筋の稲光がふりそそぎ、男の頭上を直撃する。男はあっけなくひっくり返った。
「ふう…」
サブ銃はセドリックと同じリボルバー式の五連発だ。回復系を多くセットしてあるため、攻撃用はさっきの〈雷電〉一発しかない。
腰にまいたカートリッジホルダーからサブ用の弾を取り出したアンだったが、角をまがって飛び出してきた傭兵を見て補充を諦めた。男は五名いた。アンの姿を見るなり的を絞らせないよう散らばりながら走ってきた。
ガン、ガン、ガンと、ほぼ同時に打ち込まれる。三発ともアンの足元に弾きかえった。いずれも鉛玉だ。リボルバーは六連発できるから、まともに全部くらっては避けきれない。
――が、アンは顔色一つ変えなかった。
「鉛玉ごときが!」
アンは唸ると、素早く魔弾砲引き金を引いた。ズガンという音とともに、腰が浮き上がるほどの衝撃がくる。
「なんだ!?」
男たちはさらにアンに向かって発砲した。
アンの撃った弾丸は銃口を飛び出してすぐに破裂した。すると中から白い煙のような帯がいくつも生まれ、アンの周りをぐるぐると回り始めた。風の防御壁だ。そのとぐろを巻いた風は、アンめがけて飛んできた鉛玉を次々にはじき返していく。
打ち込まれた鉛玉は、あっといいう間にすべて地面に落ちた。
「ま、まさか!」
男たちの唖然とした顔が爽快だった。アンは先台フォアーエンドを何度か前後させ、すぐさま引き金を引いた。ズガン! 今度は銃口から青光りする弾丸が噴出した。
「うわああああっ」
さっきと同じ光系の〈百雷〉だ。その名の通り、百本の雷が空を切り裂いて彼らに襲いかかる!
(外すもんですか!)
この〈百雷〉こそ、いまアンが最も得意としている魔法だった。レベルとしては〈雷電〉より数倍上で、カートリッジ屋に売ればひとつ金貨二枚はくだらないしろものだ。
アンブローシアがカートリッジに補填できるのは光系・風系・火系の魔法のみ。水魔法が使えないため、回復カートリッジは主にカートリッジ屋で補充している。自分で作ったものを売ればそれなりの代価になるが、魔銃士としては中身の魔法式を研究される恐れがあるため、あまりそういったことをしないのが普通だった。
「ぐおっ!」
「うがあああっ」
男たちは全身を貫くしびれに銃を放り出してのたうち回った。アンは素早くフォアーエンドを引いて押した。空になった薬莢が弾かれて横に飛び出た。アンはふたたび走り始めた。だれもこの先の角を曲がらせるわけにはいかない。そのためにあの橋の上で食い止めてやる!
――そして、
(ここを守り終えたら、セドリックと別れよう)
アンは新たに角を曲がって現れた敵に向かって、さらにトリガーを引いた。電光の鉈《なた》に空気がかち割られ、男たちの体を縦につきぬける。彼らはまるでなにかの倒しゲームのようにバタバタと音をたてて倒れていった。
アンは顔を上げた。
(この街を破壊したのは、まぎれもなくこのあたしなのだ。こんなことになってもういっしょにいられるはずがない…)
走っているとすぐ近くでまた爆発があった。熱風がいくつもの輪になってアンの顔にぶつかっては砕けていく。地下の水道管が炎で熱せられて爆発したのだ。密閉された水道管のような場所に火を入れればまさに火炎瓶と同じことがおこる。町を破壊するのにこれほど手っ取り早いことはないだろう。
「あっ」
爆発にともなう激しい地揺れに、アンの足は体ごと地面にぶつけられた。
「う、く…」
土を握って立ち上がった。手からこぼれた魔弾砲を拾い、体に付いた土をはらおうともせずにアンはふたたび駆けていた。
橋のたもとまで来ると、脇に大型の散弾銃をかまえている男たちが橋を渡って数名こちらに向かっているのが見えた。アンはその前に昂然《こうぜん》と立ちはだかった。
「ここは通さないわよ」
エカードが言ったとおり、男たちは顔つきも肌の色もそれぞれ違っている、明らかに流れものの傭兵だった。彼らはアンから硝煙の臭いをかぎ取ったのか、すぐさま手にした散弾銃の銃口をこちらに向けてきた。
(鉛玉の銃だけど、あの口径の太さは散弾銃だわ。〈百雷〉じゃ全部を防ぎきれない)
アンは素早く腰のベルトから赤くペイントしたカートリッジを抜き取った。装填蓋を押し上げすばやく中に挿入する。いま弾倉にいれてあるのは〈百雷〉だけだから、それ以外を撃つ場合はこうやって手動で装填しなければならない。
「食らえ!」
フォアーエンドを前後させるやいなや、すぐに引き金を引いた。その直後に男たちの銃口が火を噴いた。思った通りサニーサイド社のゴーストン・百粒弾《コレッジ》だった。質より量の銃で玄人の持つものではないが、街中のゲリラ戦にはこれで十分だと思ったのだろう。
ケシつぶほどの鉛玉がまるで網を投げるように拡散しながら近づいてくる。速い! まるでいなごの大群に襲いかかられるような感じがする。
(おあいにくさま!)
何百発という鉛玉は、そのままアンの体を蜂の巣にするはずだった。しかしそのほんのすこし手前のところで、地面の中から突如として炎の壁が吹き上がった。
「うあっ」
飛び込んできた鉛玉は、すべてこの炎の壁を通過することなく溶けて流れ落ちた。〈火柱〉を込めた小型のカートリッジを六発、魔弾砲用のカートリッジにこめて作るアンのオリジナルだ。
アンはすぐさま新しい弾を装填させた。炎の壁が彼らの視覚を見えなくしている間に、新たな炎の魔法を撃ち出した。
撃ち込んだ鉛玉がすべて溶けてしまったことに、男たちは驚きを隠せなかった。が、その直後、十字の槍のような鋭い炎が男たちに襲いかかった。
「いっけええ――、〈十字火〉!」
炎の槍は一人の男ののど笛に突き刺さり、あっという間にその男を消し炭に代えてしまった。他の男たちの顔色が変わった。ふたたびアンに向かって散弾銃を発射しようとする。
「おそいよ」
男ははっと息を呑のんだ。目の前に少女の顔があった。また散弾銃をぶちこまれてはたまらないと、アンが接近戦を挑んだのだ。
「〈百雷〉!」
ガシャンとフォアーエンドを引いてすぐ戻す。空になった〈百雷〉の薬莢が白煙をあげながら横に飛び出した。アンはもう一度引き金を引く。銃口がきしむ、下っ腹に振動がくる!
「〈百雷〉!」
相手が銃を持っている場合に雷系の魔法がよくきくのは、銃に使われている鉄が電気を誘いやすいからだ。案の定、雷の矢は男たちの散弾銃めがけて襲いかかった。ぎゃっとうめいて男が銃をとりおとす。その一撃で失神したものもいた。
「はあ…はあ…はあ…」
アンは顎をつたう汗を手の甲でぬぐった。あとどれくらいの弾が残っているだろう。太もものサブ銃には治癒ものしか入れていないし、腰のホルダーは目くらまし用の風魔法と雑具屋で買った〈霧〉。…でもこれは自分で作ったものではないから、たいした威力は期待できない。
逃げるには十分だ。でも、逃げてどうにかなるわけではなかった。やつらをあの修道院まで行かせてはならない。なんとしてもこの橋を渡らせてはならない!
「ちっくしょおお!」
アンは叫んで胸のポケットから一つのカートリッジをちぎり取った。装填口に突っ込むとフォアーエンドを引いて装填させる。その間はわずか瞬きするほどでしかなかった。アンは腰を引いて引き金をひいた。発動した瞬間、ほんの少しだけ体が浮き上がる。ものすごい振動だ。
「うあっ」
アンは発砲した反動で後方へ吹っ飛んだ。
ぎゅいいいいいいいいい――
金属を削り出すような音が響いて、辺りに凪いでいた風が突然切っ先にかわった。アンがまだ十回に一回しか封呪に成功しない〈断末魔〉という風魔法だ。
「ぎゃっ」
「ぐおっ」
「うぐあっ!」
男たちは見えない刃で斬りつけられ慌てふためいた。透明な切っ先はまさに死んでいく人間の断末魔のように暴れまくり、魔法に無防備な傭兵たちはいいように刃の餌食になった。
(これで、どうにか持ちこたえられる…)
アンはまだふらつく足元を、足を引きずるようにして立ち上がった。頭を打ったせいでまだめまいがする。
――と、そのとき、脇にいた男の一人がアンに向かって銃口をつきつけた。
(あっ)
男の指が引き金をひくのが、紙芝居をめくるようにやけにゆっくりと見えた。アンの顔が強ばった。いまからでは弾幕を張れない。カートリッジを装填しているヒマがない。
(殺られる――!)
ダーンという破裂音に、アンは思わず目を瞑った。
「アンブローシア!」
その声とともに、アンの目の前の土が突然隆起した。
(えっ)
アンの周囲に何十本という土の柱が現れた。まるで何百本というタケノコが突如として生えてきたかのようだった。〈剣山〉という土魔法だ。
(これは!?)
――と、そこへ男が撃ちはなった鉛玉が飛び込んでくる。アンは頭を抱えて伏せた。ザアアアっと、雹《ひょう》が降ってくるような音がした。
「…………?」
アンはおそるおそる顔を上げた。少し先から銃を手にしたセドリックが走ってくるのが見えた。アンは自分がまったく傷ついていないことに気づいた。鉛玉はすべて土の壁に阻まれてここまでとどかなかったのだ。
「アン、大丈…」
「セドリック、あいつらまだ弾切れしてないわ!」
セドリックがはっと目を見開いた。
アンの〈断末魔〉にダメージを食らわなかった一人が、セドリックに向かって発砲した。
「橋から逃げるんだ、早く!」
セドリックは撃鉄が上がったまま引き金を引いた。ダダーンという、アンの魔弾砲とは違った発砲音がして、セドリックの銃《レッドジャミー》が火を噴いた。
「ああっ!?」
銃口を飛び出したカートリッジはすぐに分解されて、中に入っていた地属の魔力が空中に炸裂した。すぐに、セドリックの魔力が魔法式にしたがって作用し始める。魔力が空気と摩擦して風が生まれ、黄緑色の火花が散った。
すると不思議なことが起こった。橋の欄干に積み上げられている石や彫刻が、それに感応するように飛んできたかと思うと、男たちの頭上でつぎつぎにひっつきはじめたのだ。
それは大きな手のようにも見えた。
(まさか〈逆蜻蛉《さかとんぼ》〉!?)
逆蜻蛉は天と地がひっくりかえることを意味する言語で、〈逆蜻蛉〉はその名の通りつくりものの地面が降ってくる魔法だ。
ズガアアアアンッ
アンがあっと声をあげたときにはもう、その岩のかたまりは男たちめがけて落下していた。落下物の重さに耐えきれず、石造りの橋は真ん中からまっぷたつに折れる。
「うわああああっ!」
「た、たすけてくれぇっ!」
そのものすごい振動に、アンはもう一度後方へひっくり返った。そのとき、地面にぶつかる寸前だったアンの体を誰かの腕が受け止めた。
アンは腕の持ち主を見上げた。
「セドリック…」
ズシャアアアア…
彼女達の目の前で、さっきまで戦っていた橋が真ん中から崩れて川に落ちていくのが見えた。
アンは呆然とその様子をながめていた。危ないところだった。もし橋の上にいたら男たちといっしょに、いまごろはあの濁流に呑み込まれていただろう。
なんとか無事に済んだようで、アンはほっと一息ついた。
「あぶなかったね」
セドリックの声がやけに間近に聞こえて、アンはぎょっと体を硬くした。すぐ目の前に彼の顔がある。
アンは自分がセドリックに抱きしめられていることに気づいた。
「きゃあっ!」
大声を上げてそこから飛び退く。
「怪我はない?」
「ななななな、ないわよっ」
「そう、よかった…」
セドリックはアンに顔を寄せて、ふわりと花が咲いたように笑った。アンブローシアはその表情を前にどこかで見たような気がした。
(あ…、この顔)
アンは服の上から胸のペンダントを握った。もうずいぶんしていないはずなのに、バスルで締め付けられたように胸が痛かった。
(胸が痛い)
右でもない左でもない胸が痛かった。どこかはわからないけれどこれはきっと心臓じゃない。心臓じゃなくて、真ん中で、言葉にならないものがぎゅうぎゅうに詰まっていて…
アンは息を吸った。
(そして、死んだら消えてなくなるところだ)
「…どうしてあたしを助けにきたの?」
弾倉を開けて弾を込めていたセドリックが、ふと顔を上げた。
「アン?」
「なんできたのよ。キャラバンが…、あたしの仲間がなにをしたのか、あのときあんた聞いてたんでしょう!?」
アンは無意識のうちに太ももの銃に手をかけていた。ゆっくりとそれを引き抜いて、腕をあげていく。アンの動作に気づいたセドリックが驚いたように言った。
「アン、なにを…」
「…あたし、さっきひとことも話さなかったわ」
アンは両手で銃を支えるように持って銃口を彼の方へ向けた。
「仲間だったかもしれないのに、なにも話しかけなかった。話し合おうって話しかけなかった。言葉で話せばきっと分かり合えるって、そんなのは嘘だったわ。だってそんなことほんの一瞬でも考えなかった。頭の中が殺せ、殺せ殺せ殺せってそればっかり――!」
アンのサブ用の銃が、セドリックの心臓をピタリと狙っていた。セドリックの表情がすうっと気色ばんだ。
彼は呆然とアンを見ていた。
「どうして…」
「もう、あんたといっしょにはいけない、セドリック」
「なぜ!?」
「これはあたしの国の人間がしたことだから、あたしがすべてを引き受けなければならない」
頭の中で、脱ぎ捨ててきたバスルのかたちを思った。もうどこにも隠れられない。あれを脱いでもアンブローシアは王女なのだった。ローブデコルテがなくても、宝石もティアラもないレースの手袋もない…、でも舞踏手帳のかわりに銃を握っている――彼女は王女なのだった。
だから、これ以上逃げも隠れもできない。
アンはもう一度息を吸った。
「あんたたちはこう言う。おまえらさえじっとしてれば世の中は平和なんだって。でもあんたたちの言うことは、いつだって大きな目盛りしかないはかりみたいだ。命の勘定だって数万単位でしかはかってくれない。それ以下はきっと切り捨てられる。約って言葉を知ってる? 百万と十人だったら約百万っていうの。じゃあ切り捨てられた十人は?」
引き金に添えられた指がぐぐっと折れた。
「切り捨てられた十人だってちゃんと生きてる。百万の中に入ってる人間となんにもかわらないのよ。でも切り捨てられる。約って言葉に切り捨てられる。だから抗う。それのなにが悪いの!」
「悪いなんて言ってない」
「そうよ言ってない! なんにも言ってない! あんたたちはなにも言わない。代わりに銃をつきつけてくる。言うことと言ったら、どうしておとなしくできないんだってそればっかり。同じようにさせてやってるじゃないか。国境線がなくなるだけで、ほかはなにも変わらないじゃないかなにがそんなに不満なんだ。
同じですって、笑っちゃう! 同じ人間だと思ってないくせに。おんなじように生きさせてはくれないくせに!!」
アンはセドリックの顔を穴が開くほど凝視した。
『あなたは人を殺すことでしか人を救えない。でもわたしはそうでない方法をとりたいと思っているのよ』
そう言ったエステラはいまどこにいる? ――いいえどこにもいない。もう永遠に、アンにセージの茶を入れて芝の上で語りかけることもない。
「言葉は通じない。テーブルの上でなにも決着はつかない。だからあたしたちも銃で決めましょう。いずれあんたはあたしの敵になる。あたしたちは敵同士になる…」
「なに言ってるんだ! そんなことあるわけがない」
「聞こえないわ!」
アンは叫んだ。
「何を言ったってもう届かないわ。言葉は通じてないもの。あたしの言うことだってきっとセドリックは理解してない」
「そんなことは…」
「じゃあ、あたしといっしょに戦ってくれる?」
アンの口調がほんのすこしだけ和らいだ。
「あたしといっしょに祖国のために戦ってくれる…? そしたらあたしあんたを信じるわ。あんたに本当のことだって言うわ。本当の気持ちだって…言うわ」
「アン…」
「困ってるね」
怯えたようなセドリックに、アンは目を開けたまま笑った。左手が、服の上から胸の弾丸をさぐりあてた。固く握りしめた、痛みで胸がはじけないように。
「いいよ。だれに理解されなくったっていい。どうせなに言ったってむだなんだもの。あたしはこれからもあたしの思うままに命をかけるわ。命をかけて祖国のために――命をかけて…」
「命をかけることが、そんなに偉いことなのか!?」
アンは力を入れかけていた指を、ほんの少しだけ戻した。
セドリックが、彼には珍しい激しい表情でアンに向かって叫んだ。そう、それはもはや語りかけではなかった。理性や気遣いといったフィルターをいっさい介さず、激情がそのまま口からほとばしり出ていた。
「命を賭ければどんなことをしてもいいのか? 命をかけることをどうして手段に使うんだ。おかしいよ、きみたちはなにか傲ってる!」
セドリックは乱暴に銃を投げ捨てた。重い音を立てて鉄の銃が地面に転がった。
アンは空っぽになったセドリックの手の中を見ていた。
「きみは言葉になんかなんにも意味がないって言う。ぼくは…、ぼくはね。こんなふうに口べたでいいことなんて言えやしないけど、いつだってつぐんでしまうより言葉をつくそうと思うよ」
セドリックは途方に暮れたような顔を上げて、アンを見つめた。
「きっとばかみたいに繰り返して言うよ。何度でも…、そんなことでなにも無くならないし恥ずかしくもない。ぼくはきみが大事――だから、きみにもきみを大事にしてほしい。そんなふうに言ってほしくない。人の命はカートリッジじゃないんだ」
「……っ」
アンは身震いした。
彼が言うと、やっぱり心臓じゃないところが震えた。
彼女はもう一度、指を引き金に当てた。
「そんなこと、しないで」
「アン…」
「銃を、拾いなさいよ」
セドリックの眉間がぎゅっと寄った。彼はため息のようなものをひとつ吐いて、それから空っぽの手のまま、アンに向かってゆっくり歩いてきた。
「明日この街を出よう。いっしょに」
アンの頬が強ばった。彼女は左手ですがるように胸のペンダントを握った。
「きみの分の切符を買って待ってる。きっと、ずっと待ってるよ」
「あ、あたしが撃てないと思ってるんでしょう。でもおあいにくさま。あたしは撃てるわ。ためらわなくてもいい方法を知っているから。どんなときだって冷静に…」
「ほら」
セドリックはアンに向かって手を差し出した。そのときになってアンはわかった。セドリックが銃を捨てたのは、自分にむかってこうするためだったのだ。
手を、引いてあげる――
「やめてよ!」
右手の親指で撃鉄を下ろした。ガチリ、と音がして同時に引き金が後ろに引かれた。もう片方の手はあいかわらず弾丸を握っていた。あまりに強く握りしめて、手の中にくいこんでしまうかと思ったぐらいだった。
「撃、つわ」
「汽車に乗ろうよ。荷物はいらない」
「撃つよ…」
「明日だ」
「撃つからね!」
「いっしょにいこう。行き先はそれから決めたっていいじゃないか。アンブローシア!」
「――ぁあああああ!!」
左手が弾丸を引きちぎった。ほとんど反射的にアンはその弾丸を弾倉につっこんでいた。弾丸の表面には、月暦997年赤の月一日。いちばんはじめに人を殺すはずだった弾――
シリンダーを回す動作ももどかしく、アンは引き金をしぼった。
「ばかああああああああああああああ!」
アンは絶叫した。
――銃声は灰色の空に縦に響いた。
心臓を鉛玉に撃たれたことはないけれど、
心臓じゃないところを、うたれたことはある。
いつだったか、つまらないことでセドリックとケンカをして宿を飛び出した。たしかそれも、エルウィングが女っぽくってそれを彼が褒めたせいだと思う。勢いよく飛び出したはいいもののその日着いたばかりの街で右も左もわからなくて、アンはひとりショウウインドウの前の軒下で降り出した雨をよけていた。
そのショウウインドウを選んだのは、店が今流行の帽子もいっしょに扱うタイプの婦人服店だったからだ。人魚のようなタイトドレス、ウエストラインを解放したAラインローブもあったが、アンはやはりおしりに詰め物をしてふくらみを出すバスル・ドレスが好きだった。
アンが熱心に中を見ていると、それに気づいた店員が店内のオイルランプに火を入れた。ぼうっとした灯りの中にドレスを着た人形たちが、まるでオルゴールの飾りようにきらめいて見えた。
しばらくして街に星が降りはじめた。大通りでは番人がオイル灯に火を入れてまわり、オレンジ色の灯りがぽつりぽつりと広がっていく。そうしていると自分がいつまでたっても火をいれてもらえない火屋のようでアンは惨めだった。ごめんなさいって言葉は世界で一番むずかしい。たいていはプライドとの折り合いがつかないうちに、言い出すタイミングを失ってしまう。
ぴちゃん。足元で濡れた石畳を踏む音がした。
アンは振り向いた。ずうっと考えていた顔が傘を持ってそこにあった。
『傘をとりにもどってたんだ。すぐに見つかってよかった』
『あ…』
アンは顔をくしゃくしゃにした。ごめんなさい、そう何度も練習したのに喉が凍ってため息しか出てこないのだった。
すると彼は、アンが見ていたショウウインドウを眺めてにっこり笑った。
『女の子は、みんなこういうのが好きだね――』
いま思えば、不思議とそれは物語なんかで読むようなとっておきの言葉じゃなかった。
なのに、アンの心をうちぬいた。
心臓じゃなかったのに、息が詰まって死にそうだった。
「ばかあああああああ!!」
ダーン!
アンブローシアの眼前でカートリッジが弾けた。それはまるで砕かれたガラスのように粉々になってあたりに飛び散った。その中からたった一つだけ勢いを失わずに飛んでいくものがある。
アンは蒼白になった。空っぽだと思っていたのに中に魔法がこもっていたのだ。
「セドリック、避けてぇぇっ!」
アンの目に、戸惑ったようなセドリックの顔が写った。彼は身動きせず、その白くやわらかいものに胸の真ん中を打ち抜かれた。
「――っ、な、に…?」
その瞬間、それはカートリッジのかけらとともにぱらぱらと雨のように降ってきた。
『ごめんなさい』
アンはがくりと膝を地面に落とした。
…自分の、泣き声が聞こえる。
『自分だけ生き残ってごめんなさい』
『復讐できなくてごめんなさい』
『弱くてごめんなさい』
『まだ祖国を取り戻せない』
『汚くて、みじめで』
『こんなの、みんなの望んでるような雄々しい王女さまじゃない』
『セドリック』
「えっ」
セドリックの目が大きく見開かれた。
『さっきは――ごめんね』
声のような、
声ではなく、もっとやわらかいようなきらきらしたようなかけらが、はじけ飛んだカートリッジの破片とともに二人の上に降り注いだ。
その最後のひとつが、セドリックの胸にすうっと吸い込まれる。
セドリックは胸の上に手を当てて、大きく息をした。
「なんとも、ない…」
「あ、あああぁ…」
体中の力が抜けた。アンは手に握ったままになっていた銃を膝の上に落とした。
セドリックがアンに向かって歩いてきた。自分の銃《レッド・ジャミー》とアンの魔弾砲を拾い上げると、自分のを太もものホルダーに収めた。
「だいじょうぶ?」
アンの顔をのぞき込んで言った。彼に手を引かれてアンは立ち上がった。
「…これが、そうじゃない方法なの?」
「え?」
アンは、あの弾丸が消えたセドリックの胸の真ん中にそっと手を這わせた。そしておそるおそるセドリックの顔を見た。
「ごめ……なさ…い」
口にしたとたん、セージを飲んだときのような清涼感が、アンの胸の中を渡る風のように通り抜けていった。
昔、お母さまが言っていた。
――ごめんなさいと言うのはどんな魔法よりむずかしいの。でもきっと、どんな魔法より効果は絶大だわ。
これがエステラの言っていたそうじゃない方法なら、彼女にはとっくに届いていたのだ。アンの叫びは届いていた。彼女の心臓じゃない部分に。
アンはもう一度手のひらでセドリックの胸を撫でた。彼のそこは温かかった。さっきの弾丸は、たしかにセドリックの心臓じゃない部分めがけて消えたのだった。そして少しでも届いているといい、あたしの気持ちが。アンブローシアはそう思った。
「あ、あの…、アン?」
「あ」
自分がセドリックの胸をさわさわと触っていることにに気づいて、アンは真っ赤になった。
「き、ぎゃっ。な、なにすんのよっ!」
「なにすんのって、触ってたのはそっちのほう…」
「いやああああっ!」
アンは力任せにセドリックを突き飛ばした。哀れなセドリックは後ろ向きに地面にふっとんだ。
しばらくして、セドリックがぶちぶち言いながら起きあがった。
「明日…」
「えっ」
「待ってるから」
アンは顔を曇らせてセドリックを見た。
「本当は今日出発しないつもりだった。明日の正午発のレニンストン行きを買ってあるんだ」
「でも……」
アンは返事ができなかった。自分はキャラバンの襲撃を知っていながら黙っていた。そのことがアンの心を鉛のように重くしていた。そのせいでリムザ街はめちゃめちゃだ。死人だって大勢でている。なのに自分だけ知らん顔をして逃げ出しても許されるだろうか…
アンの心を察したのか、セドリックは心なしかうつむいて言った。
「…あ、あのさ、アンはもう弾がないんだろ。先に戻ってたほうがいいよ。旧市街の火もおさまりつつあるし、僕もこれから大通りの方を見てから戻る」
アンはそばに転がっていた自分の魔弾砲を拾い上げた。たしかにアンの魔弾砲は初めと比べてずいぶんと軽くなっていた。めぼしいカートリッジが切れたせいだろう。こんな状態ではこれ以上は戦えない。
アンは短く頷いて修道院の方に向かって走り出した。一羽の大きな鳥が彼女の頭上を通り過ぎた。ずいぶんと派手な鳥だ、アンはああいう鳥をサーカスかなにかで見たことがある。
後ろで声がした。
「待ってるから!」
その言葉は、アンの心の中に長い余韻を残して響いた。
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エピローグ
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ホルダーの弾の残りを数えて、ずいぶん使ってしまったな、とセドリックはひとりごちた。
彼の頭の上では、街の人間が干したままの洗濯物がパタパタと揺れている。街中ではよく見かける光景だった。こういった都会では洗濯物を干す場所がないので、家から家に麻綱がはすかいにはりめぐらされていることが多い。そのため下を通りかかる人間は、しばしば快晴の日にも雨しぶきをうけなければならなかった。
その人っ子一人いない路地裏を、セドリックは銃《レッド・ジャミー》を手にしながら用心深く歩いていった。
歩いていると路地のそこかしこで硝煙の臭いがした。旧市街の方はもっとするだろう。街を襲ったキャラバンの目的がどの程度だったのかはわからないが、比較的工場の少ない新市街にいたことは幸いだった。さっき川沿いを歩いていたときにはもう火が見えなかったから、この混乱が収まるのも時間の問題だろうと思えた。
思わず安堵のため息が漏れて出た。
「よかった。あいつらももういないみたいだ」
「――何が良かったのかな?」
ばさり、と耳近くで羽音がした。セドリックはぎょっとして頭の上を見上げた。洗濯物を干す麻綱に、派手な色の羽根をしたオウムが一匹止まっていた。
「ナニガヨカッタ、ヨカッタ…アハハハハハ、キャハハハハ…」
「ミス・グレイシス!?」
セドリックは素早く銃の引き金に指をかけた。するとそれに気づいたのか、ばささっと音を立ててオウムがロープを飛び立った。羽を広げるとへたくそな絵描きのパレットのようにいろんな色が混じり合っているのがわかる。
セドリックはオウムを追いかけて首を回した。
オウムは飛んで飛んで――誰かの肩に止まった。
「あ――」
セドリックは息をするのも忘れて立ちつくした。
(あ、あ…あ…)
大きくそり返した襟に、太い金モールで覆われた肩。その肩の上にオウムは止まっていた。
男はいにしえの海賊の長のように重たげなコートをはおっていた。時代遅れの広いつばの帽、胸を飾るボタンもすべて金でくるんである。そして肩に背負った二本のライフル。名前はドナテーラとコティ。
古い時代に、一人の男を巡って殺し合った姉妹の名前だ。
「うれしいねえ、こんなところまで追ってきてくれるとは。こりゃまたずいぶんと坊ちゃんに好かれちまったこと」
そう言って“キメラの魔銃士”オリヴァントは笑った。
「う…」
そのひょろりとした長身から立ち上る圧倒的な魔力にセドリックは震えた。目眩がする。――なんて量の魔力だ。まるで足元の影さえ、悪魔を従えているかのようだ。
セドリックの口から、ようやくうめき声以外のものが出た。
「オ、オリヴァント…、〈銃姫〉を帰せ!」
セドリックは素早く銃を構えると親指でハンマーを下ろした。ギリリ、と的を絞ったような音がかすかに響いた。
二人の頭の上で、取り込まれなかった洗濯物がパタパタ揺れる。
「〈銃姫〉? あー」
オリヴァントはコートと同じデザインの帽子をつまみ上げた。
「ああ、アレねえ。アレ…、ぼっちゃんが引き金を引いてくれるんなら、まあ…」
「ふざけるな!」
セドリックは自分でも珍しく怒鳴っていた。銃口がオリヴァントの胸の上にピタリと定まる。
「僕はメンカナリンの鉄槌官じゃない。あんたが追われている理由には興味がない。でもあれは返してもらわなければならないものだ。なぜならあれは…」
「“この世を滅ぼすことのできる銃”だから?」
彼は鎌のような唇のはしをくっとつり上げた。
「漠然とこの世を滅ぼすったってこんなにあやふやなことはない。ねえ、アリルシャーのぼっちゃん。情報は正確に伝わるべきだよ。はたして銃姫はどのように使い、どのようにして世を滅ぼすのか。どんな形をしているのか。弾はなにか。――しかしながらだれもその使い方を知らない。困ったものだねえ」
セドリックは驚いた。
「どんな形をしているか、だって!?」
それを奪って逃げたはずの彼がどうして知らないんだ、そうセドリックが問う前に、オリヴァントは口を開いていた。
「そう、銃姫にはこの世を滅ぼす以外にも使い道はある。もともとあれは〈言葉〉を消し去る効力を持っているんだ。たとえば犬と言えばこの世から犬は消えてなくなるだろうし、花と言えばそれ以来土の上に花が咲くことはないだろう。もちろん世界とでも言おうものなら世界が滅びるだろうけどね。さて、だれの世界かは知らないが」
「世界…」
「さっきの金髪のおじょうちゃん、彼女はガリアン人だろう。こんなところでテロ活動をしているところをみると、おおかた彼女が消し去りたい言葉は〈スラファト〉というところかな」
セドリックはぎょっと目を見開いた。たしかにそれならばアンがしつこく自分たちのあとをついて回ることにも頷ける。銃姫を使えば一滴の血を流すことなく、憎いスラファト人を根絶やしにすることができるのだから。
「でも…、そんな恐ろしいものがどうしてこの世にあるんだ」
「いい質問だ」
オリヴァントは紳士たちがするように帽子を胸に押し当てた。
「この世には多々宗教が存在する。メンカナリン聖教もそうだし、六大元素の王《シシオート》をまつったものや古代の王をあがめたもの、いろいろだよ。だがわたしの調べたところ、そのいずれもが“夜明け前”以降に発生した宗教だった。なぜだと思う」
「なぜって」
「きみにはこんな経験はないかい。友達とケンカをした。明らかに自分が悪いのになぜか相手の非を必死で探してしまう。相手は自分を嫌っているが自分だって相手が嫌いだ。だから自分たちはおあいこだ。自分だけが悪いわけではない――それで罪を帳消しにしようとする、無意識のうちにね」
「なにを…」
彼の言わんとしていることが見えなくて、セドリックは顔をしかめた。そんなセドリックを見てオリヴァントは笑った。
「人間もそうしたのさ。神さまに嫌われて、必死で神など必要ないふりをした。しかしながら人間はよすがを失っては生きていけないものだ。彼らは神のかわりに奉るものを探した。知っているかい? 聖教の“盾なるお方”メンカナリンは聖人なんかじゃない。夜明け前の大戦時に、一番初めに火攻めを進言した旧太陽帝国軍の将だったんだ」
「!?」
「そろそろ思い出したまえ。かつてこの世を焼いた人間に神がなんと言ったかを」
ばさっと音がしてオウムが肩からとびたった。セドリックの目の前に何色ともつかない羽根がはらはらと舞い落ちる。
「“人間よ、弱くなれ”」
ダーン、と音だけがした。いいや、たしかにオリヴァントは小ぶりのほうの銃《コティ》を下ろして引き金をひいたのだった。ただあまりの素早さに見えなかっただけだ。
(風魔法〈微塵〉!?)
青い魔法光が空を縦に割った。その名の通り、全てのものを微塵にしてしまう風の刃がセドリックに襲いかかる――
(くっ)
セドリックもすぐさま引き金を引いた。パアン! カートリッジが弾け、それから数瞬遅れてセドリックの〈鎧戸〉が発動する。土が盛り上がり、石畳が次々に積み上がってセドリックの前に壁を作り上げる。
――が、
(だめだっ)
オリヴァントの放った細かい刃は、積み上がろうとする石の間を滑り抜けてセドリックのもとに到達した。早い。これほど発動がなめらかなのは魔法式が短いからだ。こんなところにも術者の力量の差が出てしまう。
それが、魔法戦だ。
「うわああっ」
セドリックは風に斬りつけられながら後方にふっとんだ。発動の途中で魔法式を壊された〈鎧戸〉は、ぱらぱらと力無くあたりに転がった。
尻餅をついているセドリックのほうに、オリヴァントはゆっくりと歩いてきた。さっき火を噴いたコティが口から白煙をあげていた。
「まだまだ無駄が多い魔法式だねえ…。この〈深き地中に火を抱えるお方〉は削ったほうがいいよ。鉄を構成するのに鉄を溶かす火の文句は厳禁でしょお」
「ゲンキン! ゲンキン! デショオ! デショオ!」
ミス・グレイシスがけたたましくセドリックの周りを飛び回る。
オリヴァントは唇に刃物のような笑みを浮かべた。
「やっぱり銃を使うのがいけないんじゃないかな。ホラ、満月都市のときだって使わなかったんだしさ。ぼっちゃん詠唱してみなさいな。直に」
セドリックは蒼白になった。オリヴァントが自分になにをさせようとしているか悟ったからだった。
「い、嫌、だ…」
「あの金髪のおじょーちゃんだって言っていただろう。力づくで奪われたものは力づくで取り返すしかないんだって。あんたにはその力があるんだから、魔法で私を屈服させてごらんなさいよ。ねえ」
オリヴァントは連発銃《ドナテーラ》をセドリックのほうへ向けた。カートリッジ五発が一組のクリップになっているタイプの魔弾用ライフルだ。クリップには一発目がもっとも広範囲に効く魔法、二発目が自分用の防御壁、あとの三発は相手の属性によって選べるよう属性の異なる攻撃魔法が仕込まれている。オリヴァントお得意の量産攻撃だった。
そして、彼の一発目にはもっぱら風魔法〈闇雲〉がくることが多い。
「あ…あ…」
セドリックは顎の下が汗でぐっしょり濡れているのに気づいた。この至近距離で〈闇雲〉を撃ち込まれてはたまらない。あれは文字通り空気を縫って闇雲に人を攻撃する風魔法だ。一人一人に対する威力はさほどではないが、防ぐのがとてもむずかしい。
「うわああっ」
セドリックは半ばやけのように引き金に指をかけた。
「フン」
オリヴァントは腰に当てていた左手を振った。すると分厚い袖口に手のひらぐらいのサイズの小銃が滑り落ちてきた。オリヴァントはそれをハンマーをおろさないまま、すぐさま撃ちはなった。
「あうっ!」
セドリックは手のひらに焼けるような痛みを感じた。その拍子に握っていた銃が大きくはじけ飛ぶ。彼はあっと声をあげた。彼のレッド・ジャミーはカラカラカラと回転しながら石畳の上をすべっていった。
かすかな硝煙の臭いが、二人のたたずむ狭い路地裏にただよった。セドリックは目を見開いた。オリヴァントが撃ったのは鉛玉だったのだ。
彼は笑った。
「銃じゃなしにって、言った、のに――」
「イッタ、イッタ!! ギャアギャア!」
ぞっとするくらい冷たい声だった。セドリックは喉が震えるのを感じた。
オリヴァントは銃を下ろすと一歩前へ踏み出した。セドリックは尻を地面につけたまま後ずさった。
「むかぁーしむかーし、あるところにぃぃ、にんげんどもがたくさんおりました」
彼は酔っぱらったような口調で言った。
「にんげんはぁー、なんと自分で魔法を発動させる力を持っていたんです。すごいねっ」
彼はまた一歩、近づいた。カツ、とブーツの踵が石畳に打ち付けられる。
「しかぁーし、欲におぼれたにんげんどもは魔力を悪用し、世界は魔の起こした火の海で覆われてしまったのです。
ああー、なんて愚かな、
愚かな、
愚 か な 人間たち!!」
彼は見せびらかすように胸元から黄色い弾丸を取り出すと、“コティ”のほうの装填口にゆっくりと突っ込んだ。用心金《トリガー・ガード》を上げ下げし弾丸を装填させる。そしてなんと銃口をさげたまま、セドリックの足元に向かって魔法弾を発射させた。
バウッ!
銃口がカートリッジを吐き出すと同時に、その魔法は発動した。セドリックの周りをとりかこむようにして黄色い炎が白煙をあげはじめる。ただの炎ではない。焼くのではなく、人を乾かせもうろうとさせる炎系の幻影魔法だ。
(〈蜃気楼〉だ!!)
「良い子だから、思い出してごらん」
オリヴァントの宥めるような声が聞こえた。彼の意図は明らかだった。幻影によってセドリックの過去を呼び覚まし、ふたたび彼を満月都市を殲滅したときと同じような狂乱状態にしようとしているのだ。
「あ、あ…う…」
セドリックは石畳の上でうめいた。喉が渇いてもうろうとする。赤ではない黄色の野火が、セドリックの心を舐めるように灼いていくのだった。
(熱い!)
あまりの渇きに彼は喉をかきむしった。もはや目の前にオリヴァントはいず、頬にふれているはずの石肌も頭の上の洗濯物のなにひとつ見えなかった。
いや、なにか見える。
(あ、れは…)
黄色いかげろうの向こうに子どもたちの姿が浮かび上がった。そのどれもセドリックと同じ顔をしていた。笑いながらスキップしながら、彼らはセドリックの周りを取り囲む。すると突然、彼らは頭の上からまるで砂でつくった人形のようにさらさらと崩れだした。
「!?」
セドリックは絶叫した。僕が、僕が崩れていく。やめろ、痛い痛い痛い痛い痛いいたい――!
いろんなものが見える。たくさんの時計がある。時計の針がぐるぐると回っている。パッポパッポとハトが窓から出入りし続けている。狂っている。壊れている。いやちがうちがう――ではない、時計じゃない今じゃない。あれは僕ではない。でも僕だ。時だ! いや、――アレだ!
「セドリック!」
ふいにぼやけた視界の中に、セドリックのよく知る長い黒髪が割り込んだ。
「エ……ル…」
エルウィングはおもむろに黄色の炎に向かって何かを投げつけた。カッと石畳を割り込んだそれは銀色のナイフだった。ナイフはセドリックの倒れているまわりを取り囲むように投げつけられた。すると不思議なことに、そのナイフを頂点にして石畳の上に五芒星が浮き上がった。
「セドリックから離れなさい!」
エルウィングはあの重たげな黒コートの前を開いた。セドリックは目を見開いた。コートの裏側には、びっしりと――まるで葉の裏に産み付けられたなにかの卵のように、カートリッジが収められていたのだった。
「ここを引きなさい。でなければ殺します」
彼女はセドリックが聞いたこともないような冷たい声で言い放った。
これは夢なのだろうか。セドリックは混乱した。エルウィングが魔法を使っている。メンカナリンの尼僧はその戒律によってすべての攻撃を禁じられているのに。
(エル…、どうして…?)
「これはこれは“鉄姫”。こんなところでお会いできようとは」
オリヴァントのからかうような声が聞こえた。なに、だれのことを言っているんだ、鉄姫――?
ふいにセドリックの頬をやわらかなものがつつんだ。エルウィングが彼を抱き起こしたのだった。
「セドリック…、よかった…」
「やれやれ、あなたに出てこられてはかなわないな。いいでしょう、ここはあなたにお預けにしましょう。ただしあなたの――は――させていただきますよ、鉄姫。いや…」
バサ、となにかが浮かび上がる音がした。それがあのオウムが飛び立った音だったのか、それともオリヴァントのあの重いコートが翻った音だったのか、それはわからない。
「エルウィング。とても綺麗な名だ」
それっきり、彼の足音は消えてなくなった。
彼がいなくなると、ふたたび風の音が聞こえだした。エルウィングは昔よくそうしてくれたようにセドリックの頬に自分の頬を寄せた。
「セドリック…、もう、もうだいじょうぶよ」
彼は残っている力を総動員して目を動かした。視線を絞った先に、セドリックの好きな黒い髪とあのさくらんぼのような両目が見えた。
「もう、だいじょうぶだから…」
エルウィングはやわらかく微笑んだ。それがいつもの姉の声だったので、セドリックは安心して瞼を閉じた。
気を失う前に、ピーっという列車の汽笛の音を聞いたような気がした。
†
寝不足の瞼のように重たげだった雲が割れ、なかから春らしい太陽が顔を覗かせた。ここ数日は雨が多く、実際昨日の火事が広がらなかったのも湿気を大量に含んだ風のせいだといわれていた。雨が多いのは春が終わる証拠だ。もうすぐ夏が来て、ここ大陸南部は銀のフライパンと呼ばれるくらい熱い夜が毎日続く。
この陽気だと一刻もすれば道は乾くだろう。プラットホームから列車に荷を積み込む作業人たちを横目で見ながら、セドリックはもう一度街へと続く道のほうへ目をやった。
「アンブローシア、来ないわね」
セドリックの胸中を代弁するように、エルウィングがぽつりと漏らした。
二人はリムザの町はずれにある北部《レニンストン》行きの鉄道駅へやってきていた。補給駅でもあるリムザでは、列車は約一時間停車して貨物や石炭の積み替えを行う。実際セドリックたちのすぐ脇では、札をぶら下げた家畜や穀物の袋を積み込むために、赤黒い顔をした荷はこびたちが忙しげに行き来していた。
駅員が定刻を告げる鐘を鳴らした。カランカランという合図に、一番後方ろの家畜専用車の荷台が一斉に外される。ぷしゃああと煙突が白い煙を吐き出すと、セドリックの心はいよいよ焦りだした。アンブローシアはまだこない。正午の列車だと言ってあるのに…
(やっぱり、無理なんだろうか)
リムザを襲った連中とは方法論の違いはあったにせよ、アンもまた祖国の復興のために働いてきたキャラバンの一員だ。その彼女が思いがけなくリムザで仲間に出会って、彼らと行動を共にしないとどうして言えるだろう。
「エル、悪いけど先に乗っていてくれない? 僕は一番後ろの車両でアンを待つから」
エルウィングはなにか言いたげな顔をしていたが、だまって頷くと荷物を持って二等の車両に乗り込んだ。
セドリックは一等の車両のそばを通り抜け、一番後方の車掌車の前で止まった。そこからはリムザの街がケーキの上のデコレーションのように見える。
アンの姿は見えなかった。
「坊や、もう列車が出る。客車のほうに戻りなさい」
車掌車に乗り込もうとしていた車掌が、彼の肩を叩いて言った。セドリックはがんとしてそこを動かない。
「お願いです。もう少し待ってください。必ず…かならずきますから!」
車掌は首を振って懐中時計の蓋をしめた。
「悪いがもうこれ以上は待てないよ。線路には次の駅があるんだ」
ぷしゃああぷしゃああ、と威嚇する蛇のような音が車輪の間からさかんに吐き出される。
(アンブローシア!!)
ガランガランガランガラン
彼の思いを嘲笑うように、プラットホームに最後の鐘が鳴り響いた。
†
灰色の両面扉が開かれて、その向こう側に広がる青い空が数日ぶりに姿を現した。アンブローシアは、まだ水気をふくんだやわらかい土を踏みながら西へ歩いていた。
彼女の目指している丘は、数十年前までメンカナリンの修道院があった場所だった。リムザに新市街ができると同時に建物は街中に移築され、今では墓地だけが人々の訪れる目的になっているという。
今朝ここに来る前にアンは橋のたもとに立っていた花売りから花を買った。見たことのある花だと思ったのに、とうとう名前が思い出せなかった。そんなにまで自分は戦いの中にどっぷりつかっていたのだろうかと自分自身に苦笑した。小さいころは普通の女の子と同じように、綺麗なものや花が好きだったのに…
エステラの名が刻まれた石の上に花をそっと置く。
「エステラ、来たよ」
アンはまだ新しい墓石に話しかけた。
エステラの墓にはたくさんの花が置かれていてすぐに見つけることができた。エステラ=リード、月九三七年北部ユーロサット生まれ。
ユーロサットと言えば北部でも第六十七炭坑に近い古い鉱場街だ。アンの生まれる前に大きな暴動があって街ごと閉鎖されたという。そんな荒々しい街で生まれた彼女が、いったいどんな事情で北部からここまで来たのだろう。思えばアンは彼女のことを何も知らなかった。でもそれを残念とは思わない。
アンは手のひらで墓石を撫でた。
「エステラ、そこは冷たい…? 死とはどんなものなのかしらね」
すがすがしさを含んだ風が、編みっぱなしの彼女の髪をなぶっていった。風の色が昨日とは少し違う気がする。そういえばさっき見た空の色も変わっていた。きっと夏が近いのだ。
アンは言った。
「季節のように、次にくるものがきちんときまっていればいいのにね。だったらこんなふうに迷ったりしない。どこへ行けばいいのか、どうすればいいのか戸惑ったりしないのに」
黒い雲はすっかり流れ去り、こんもりとした丘は混ざりっけのない青いドームに包まれている。
なのに、アンの心の中はいまだうす曇り状態だった。
彼女は二つのことを考えていた。一つは自分の失ったもの、もう一つは自分が得たものについて。
(どこまで行ったってあたしはガリアン人だ。そこから逃げることはできない。決して)
アンは祖国を復興させるための旗印だ。この地図の上にもう一度鉄なる壁という名の国を作るため、そして祖国で苦渋に堪え忍ぶ同胞たちのために、アンはいつまでも王女であらなければならなかった。そしてそれは再びこの世に戦争を起こすということなのだ。土には鉛玉がうちこまれ、人々は叫び以外の言葉を忘れる。セドリックともいずれ戦う日がくるのだろう。
なのに、彼は言うのだ。いっしょに行こうと…
アンはその丘からすこし西へ行ったところにある北部行きの鉄道駅を見た。駅には少し前から列車が止まっていた。セドリックが乗るといっていた正午発の列車だ。いまごろはもう、荷を積み終えているだろうと思った。
行かないと決心したのに、彼の声が思い出されてならなかった。
『いっしょにいこう。行き先はそれから決めたっていいじゃないか。アンブローシア!』
「エステラ、どうしよう…。あたしどうしたらいいの?」
問いかけてもエステラはなにも答えてはくれない。墓石に寄り添って咲く草花が、風が吹くたびに頷くように揺れるだけだ。
彼女が言い残した言葉はけっして多くない。
『世界は変えるものじゃない、変わるものなのよ』
そうエステラはアンに言った。アンは今ならその言葉の意味がほんの少しだけわかるような気がする。
それはきっと自分自身が変わるということなのだ。自分が変われば世界は変わる。そうすれば世界を変えるのに武器はいらない。そこにはたった一言の言葉やほんのひとときの語らいがあれば十分なのだった。たとえばセージのお茶に、のどをすうっと通る風のようなものがあればいい。
――そしてエステラに出会ってアンは、確かに変わったのだった。
(では、これからは…?)
そう考えてアンは愕然とした。エステラは自分を変えてくれた。彼女の一言が、何千個のカートリッジよりも衝撃的にアンの心を変えたのだった。ではこれからはどうすればいいのだろう。エステラはもういない。だれがあたしを変えてくれるのだろう。だれがそんな強いことばをかけてくれるのだろう。
『きみは言葉になんかなんにも意味がないって言うけど』
アンの脳裏に、あの不器用そうな深緑色の視線が思い出された。
『ぼくはこんなふうに口べたでいいことなんて言えやしないけど、いつだってつぐんでしまうより言葉をつくそうと思うよ』
「セドリック…」
アンブローシアは呟いた。
ほんとうに世界は変わるのかもしれない。アンが世界をかえようとしなくても、セドリックがいればもしかしたら。
それはたとえばどんなふうだろう? とてもあっけなくて、たやすいものかもしれない。たとえばそう、汽車が次の駅へとたどり着くように――
(汽車!?)
アンははっと顔を上げた。街の時計台が正午をつげていた。あの鐘が十二回鳴り終わると同時に、セドリックを乗せた列車はこの街を出て行く。そしてもうきっと、そのままアンの線路とは交わらないのだろう。
そんなのはいやだ。
そんなのは――いやだ!
「あたし、いかなきゃ…」
アンは顔を上げた。
彼女は丘を滑るように駆け下りると、まっすぐに駅へと向かった。息が上がった。張りつめたように喉が、そして心が痛かった。
むずかしいことはわからない。でもいまはあの汽車に乗らなければならない、それだけはわかる。体中の血が告げている。伝えなくては、行かなくては、汽車があの駅を離れてしまう前に――あたしの世界を変えるために!
昼の半分を告げる鐘が丘の上に鳴り響いた。心が逸った。いまあの時計台にいる鐘付き役人が、どうぞゆっくりとうちならしてくれますように…どうか!
アンブローシアは神に祈った。
†
街の方から、正午を告げる時計台の鐘が聞こえてきた。
あれが十二回ならされたら列車は出発する。先ほどからスプリングが軋んだり、汽笛が何度も鳴らされたりと、列車のほうもそわそわしているようだった。
セドリックは心臓が痛いほど早鐘を打っているにもかまわず、じっと街の方を見続けた。アンブローシアはきっとくる。そんなふうに朝には確信であったものが、さすがに今となってはフライパンの上のバターのように形を失いかけていた。
赤ら顔の車掌がセドリックに声をかけた。
「坊や、出るよ。さあ諦めてそろそろ乗りな」
「でも…」
車掌は首を振った。セドリックは仕方なく車掌車のステップを上がった。それでもまだアンはくるかもしれない。たとえ今あの道に人影が見えて、それがアンだったとしてもとうてい間に合わない。にもかかわらず、セドリックは諦めきれなかった。
ギシ、ギシと車輪が唸って、それからゆっくりと横に回転を始める。カブトムシの角のような黒い煙突からは、さかんに白い蒸気が吐き出された。それはまるで白い大蛇が天へ噛みつこうとしているかのように、空に向かって上っていく。
そのとき、セドリックは後背の丘の方から誰かが向かいの線路を渡ってくるのを見つけた。
「アンブローシア!!」
セドリックは車掌車の最後尾のてすりにしがみついた。
「アン、早く!」
手すりからめいっぱい身を乗り出して、セドリックは手を伸ばした。アンブローシアが必死の形相で走ってくるのが見える。プラットホームを滑り出した列車は、もう力強く前へ進み出していた。セドリックは無我夢中で手すりをまたいだ。危ない! と車掌が声をかける。
「アン! 手を――」
セドリックは片手だけを手すりに残して、体全体を伸ばしてアンの手を捕らえようとした。その荒れた手をつかもうとしたとき、セドリックはふいに、昨日の夜ずっと寝ないで考えていたことを思い出した。
――ねえ、アン。
たとえばきみの言うとおり、言葉の通じない世界があって、人間は決して武器を捨てられないとしても、手を繋いでいればほかのなにをも握ることはないし、つないだ手はけっして武器にはならないと思うんだ。
そう言ったら、きみはまた馬鹿馬鹿しいって笑うだろうか。やくたいもないきれい事だって。
僕は、すてきなことだと思うんだ。
とてもね。
――そういうことを、これからもずっと話していこうと思う。
「アン、飛んで!」
彼女が一瞬迷うような顔をした。セドリックは喉の限り叫んだ。
「僕を信じろ!」
指先しか見えなかった。頬を打つ風が凶器のように感じられる。
アンが両手を伸ばしてきた。彼女が何か言った。
言葉がはじけ飛んだ。
「セドリ――ック!」
手が伸びて、去年より少しだけ長くなった腕が、彼女のさしのべる手に届いた。
二人の手は列車の連結器のように固くつながった。
アンの体が一瞬宙に浮いて、セドリックがそれを力任せに引き込んだ。二人は体ごと車両車のいちばん後ろの壁にぶつかった。
「――くーっ…」
それから数秒の間、セドリックは背中をしこたま打った衝撃で言葉が出なかった。
しばらくして、車掌がおっかなびっくり声をかけた。
「だ、だいじょうぶかい、あんたら。まったく無茶をする子供らだ!!」
車掌はまだ目を丸くしながら、それでもそこは最後に乗車した客のきっぷをきろうとした。二人は後頭部をさすりながら思わず顔を見合わせて笑った。
「ふう…、びっくりした」
目の前にちらつく星が消えてくれると、セドリックは改めてアンブローシアを見た。
「ほら」
「え?」
不思議といつもよりほんの少し強気な言葉が出た。
「僕の言ったとおりだったろ」
アンは少しきょとんとして、それからへへっと鼻の下をこすった。
つられるように頬を綻《ほころ》ばせたセドリックは、まだアンと手をつないだままだったことに気づいてぎょっとなった。あまりにも固くにぎっていたせいで、ついつい離すのを忘れてしまったのだ。
「わわっ」
慌ててほどこうとすると、なぜかぐっと握りかえされた。アンブローシアが少し真摯な目で彼を見ていた。
彼女の唇が動いた。
「セドリック、あのね…」
「え?」
「あたし…」
心よ。
届け、弾丸のように――
山を越えて汽笛の音がこだまする。列車はゆっくりと駅をあとにして、徐々に速さをましていった。
もういちど汽笛の音が鳴る。
ピーッ
その音とともに、線路脇の腕木信号がカタンと音を立てて落ちた。
FIN
[#改ページ]
どうもコンニチワ。MF文庫Jでは初お目見えになります。新参者の高殿です。
私ははじめて文庫を出していただいてからかれこれ四年目になるのですが、今回ようやくそれ以来の野望を達成することができました。ありがとうこれも太っ腹なMF文庫Jさんのおかげです。MF文庫Jバンザイ。UFJではありません(寒)
その野望というのもいろいろあるのですが(パンチラとかブルマとかスクール水着とか)、今回達成したものは「巨乳」キャラVS「貧乳」キャラ。常日頃なんで成年誌の表紙は前者ばかりなのだと憤っている私的には、こころもち貧乳プッシュでいきたいところなのです。
ところが、日々ハイル貧乳と言い続ける私にある日衝撃の事実が――!
神の声「ばかもの!」
わらし「なにやつ!?(戦隊モノの悪役風に)」
神の声「その程度の知識で乳マニアを名乗ろうとは笑止千万。そんなヤツは一ヶ月前の牛乳を飲んでトイレ籠城するがよか!」
わらし「なんですと、つかなんで薩摩弁!?」
神の声「乳は巨乳貧乳だけにあらず。貧乳より少しマシなのが微乳」
わらし「びにゅう!?」
神の声「巨乳よりもさらに増量キャンペーン中なのが爆乳」
わらし「ばくにゅう!?」
神の声「ついでにグラビアアイドルの胸を称して(グラビアに最適な胸ということで)適乳」
わらし「てきにゅう!?…そ、それは聞いたことがない」
担当金田一「すいませんいま僕が作りました」
わらし「作ったんかい!!」
…しかしながら私はがっくりと項垂れました。甘い、あまりにも甘すぎた乳キャラへの知識。ここまで乳萌えが細分化されているとは思いもよりませんでした。
わらし「こうなったら微乳キャラと爆乳キャラも出すしかない!」
編集長(常識人)「いやあの、高殿さん仮にも女の子なんだから…」
わらし「出すしかない!(←聞いてない)」
というわけで、次巻からは銃姫2ではなく乳姫1でお送りいたします(嘘です)。
まあ無駄にテンション高寒い冗談はさておき、銃姫を出すにあたってたくさんの方にお世話になりました。
今回は普段角川ビーンズ文庫さんで出していただいているシリーズと発売日がモロかぶりなので、複数のことを同時にできないトリヘッドの私が混乱したせいもあるのですが…。銃姫がもしお気に召しましたら、そちらも購入していただけるとうれしいなーと…ゴニョゴニョ…。あ、乳はでません。
ものすんごい素敵なイラストを付けてくださったエナミカツミ様。今回はお忙しい中挿し絵を引き受けていただいてありがとうございました。仮にも殿方にアンブローシアのスカート丈を短くしろだのふとももを出せだのお願いしてしまったことを浅く反省しております。いやでも本当にどの絵もカッコカワイイです。ありがとうございます!
それから私を銃にハマらせてくれた榊師匠にも感謝を。印税入ったらライフル買いにいきますぜ。
願わくばこの1巻が無事売れて乳姫(まだ言うか)…じゃなかった銃姫の続きが最後まで書けますよう、社会の日陰より祈っております。どうぞおつきあいくださいませ。
自分は○乳 高殿円 拝
[#改ページ]