私たちも不登校だった
〈底 本〉文春新書 平成十三年十月二十日刊
(C) Syouko Egawa 2002
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目  次
支店長代理 中澤 淳
二級建築士 倉地 透
高齢者ホームヘルパー 山谷千香
団体職員 鈴木祐司
主婦 梅沢しのぶ
料理人 山上雅志
放送大学生 原田雄介
社会福祉士 窪田恭子
「生きる力」とは何か あとがきに代えて
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私たちも不登校だった
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支店長代理 中澤 淳

■一日も登校していない中卒
「そうですね、アメリカンがいいようですね。オーランドまでだったら八万五千円です。ただ、その後フォートローダーデールまでは、アメリカンの便がないんですよ。無理にアメリカンで通そうとすると、ダラスに戻らなきゃならないんで、バカバカしいですからね。この区間は別の航空会社にした方がいいと思います。それがいくらなのかというと……」
カウンター越しにお客としゃべりながら、中澤淳は、すばやくコンピュータのキーボードを|叩《たた》いている。あまり日本ではなじみのない地名を聞いても、涼しい顔でそれぞれの土地の略号を打ち込んでいく。コンピュータでの検索には、スリー・レター・コードと呼ばれる地名を三文字のアルファベットで示した略号か、英語の正確な綴りを入力しなければならない。そのスリー・レター・コードを、淳は五百以上暗記しているから、作業が素早い。
しゃべり終わるのとほとんど同時に、淳は航空券の価格をあげた。
「曜日などにもよりますが、百から百五十ドルの間ですね。ただ、この間はそんなに距離がありませんから、バスで行くという手もあります。これくらいでしたら四十ドルくらいであると思いますし……」
地図や他の資料も一切なしで、淳はコンピュータにも表示されていないいくつかの移動手段をすらすらと挙げた。
お客は、十人程度の同業者で仕事の視察と|懇親《こんしん》のゴルフを兼ねたアメリカ旅行を計画しているらしい。ある旅行会社で見積もりを出してもらったら、あまりに高かったので、別の会社ではどんな具合なのかと、聞きに来たのだ。お客の言葉に関西風のアクセントがあるのにつられて、淳の口からも思わず、幼い頃なじんでいた大阪弁が出る。
「(その会社は)なんぼ、言うてました?」
客から金額を聞いて、淳は驚きの声をあげる。
「航空券だけで? そりゃ、高い。うちでしたら、ホテル代も全部つけて、その値段でできますわ」
東京駅八重洲口から歩いて五分。ビジネス街のまん真ん中、旅行会社の代理店が軒を連ねる京橋に、淳の勤務先はある。
彼のここでの立場は支店長代理。弱冠二十六歳で、事実上営業全般を任される立場にある。細身の体をグレーのスーツでかっちりと包み、流行の小ぶりのめがね、少し早いしゃべり口と客を待たせない素早い対応が、いかにも頭の回転が速そうな営業マンという雰囲気。
淳の履歴書上の学歴は、中卒。しかも、実際はその中学に、一日も行っていない。
彼の不登校が始まったのは、小学校四年からだった。その経緯を知るには、さらにその少し前に|遡《さかのぼ》る必要がある。
大阪の茨木市に生まれた淳は、八歳の時までは、地元の小学校に通った。別に、学校が特別イヤになったことはないし、不登校を考えたこともない、「普通の子」だった。
宇宙物理の研究者である父の勤務先が、東京に変わったことから、二年生の夏に千葉県松戸市に引っ越した。住み慣れた場所を離れる寂しさはあったが、淳は転校を拒むことはなかった。新しい土地への好奇心さえあった。
学校の環境は、大阪時代とはずいぶん違っていた。にぎやかな都会育ちの淳にとって、都市ガスがなく、くみ取り式のトイレ、単線電車という経験は、かなり衝撃的だった。勉強については、大阪の学校の方が進んでいたが、体育はクラスで逆上がりができないのは淳一人で、できるまで毎日居残りで練習しなければならなかった。
担任の先生は、子どもたちを厳しくしつけるタイプだった。忘れ物をしたら漢字二百字の書き取り。給食の間おしゃべりをしても漢字二百字、その罰に口答えすると、さらに問答無用で二百字が追加された。給食は黙って静かに食べる、というのが決まりだったのだ。
淳は毎日書き取りを課せられた。多い時には、罰が重なって八百字にもなった。
「ああ、ここは自由がない学校だ」――母の真知子は、息子がよくそうぼやいていたのを、印象深く覚えている。
納得できなくても、これがルールだと言われてしまえば、律儀に守った。先生の見ている前では決まりを守っていても、大人の目が届かない所では羽目をはずしている要領のいい子もいたが、淳にはそれができなかった。この生真面目さを、うっとうしく思うクラスメイトもいたようで、真知子は息子が学校では対人関係に相当ストレスを感じているな、と思っていた。
■アドバイスは「びしびしやれ」
先生の管理だけではなく、学校のカリキュラムにも淳は不満だった。
「一年生の理科で、ひまわりを日陰と日向に植えてどちらが成長が早いかを見て、二年生になるとそれがアブラナになって、三年生はまた別の何かに変わる。そんなことやったって、同じやんか、って。算数にしても、計算機あるやろって。人生にさほど役に立つとは思えないことで、長時間拘束されて、帰ったら宿題もせなあかん。やりたいことが、山のようにあったのに」
やりたいこと――それは、鉄道に関するありとあらゆること、だった。電車に関する本を読んだり、電車の図面を書いたり、あるいは白地図を買ってきて、それに新たな線路を引くことだった。それぞれの土地の地形や人口、産業を調べ、すでにある鉄道と競合せず、かつ利益を上げられるようにするにはどうしたらいいか、考えているのが好きだった。
将来の夢は決まっていた。鉄道会社を興して社長になること。それ以外、考えられなかった。
鉄道のことをもっとやりたいのに、学校で時間が削られるのが、惜しくて仕方がなかった。
母の真知子は、イライラしている息子を見守りながら、自分自身もいらついているのを感じていた。よちよち歩きの妹の世話にかかりきりで、淳の身になって話を聞くゆとりがなかった。
四年生になってまもなくすると、淳は学校に行くたびに気分が悪くなった。熱や吐き気など、身体症状が出た。当初、原因はよく分からなかった。いじめの対象になったわけではない。四年生の時の担任は、前と違って厳しい管理ばかりをするようなタイプではなかった。
それなのに、症状はどんどん悪化していく。家に帰ってくると、体は少し楽になった。
自宅に父親が使うコンピュータが搬入されるという日、彼は「どうしてもコンピュータを見たい」と主張して学校を休んだ。それからしばらく、彼は学校に行かなかった。というより、あまりに体が辛くて、行くことができなかった。心配した両親が、あちこちの病院に連れていった。どこの医者も首を|捻《ひね》るか、「自律神経失調症」と言うだけ。
児童相談所にも行った。こう告げられた。
「これは、親元から離して施設に入れて、びしびしやらないとだめですな」
カウンセリングをする機関にも行ってみた。
そこでは、次のように言われた。
「知識面が進みすぎて、他の子どもが無邪気に乗り越えられることが、乗り越えられない。もっと遊びが必要」
その言葉に違和感を抱きながらも、真知子自身、子どもがもっと伸びやかにたくましく育つことを望んでいた。息子がこういう状態になるのは、学校にも原因の一端はあると思いながら、「うちの子にも原因があるし、そういう風に育てた私にも責任がある」と自らを責めた。さらに、こんな指摘も受けた。
「自分を実際より大きく見せようとがんばり、それがうまくいかないで、引きこもってしまったのではないか」
なぜ、息子がそんないじらしい努力をしているのか。あれこれ考えているうちに、真知子は、「そういえば」と思った。自分が、無意識のうちに夫と息子を比べているのではないか。たくましい夫に比べて、息子を劣った存在のように見てしまってはいないか、と。
淳も、宇宙物理の専門家である父を尊敬していた。彼の父親評はこうだ。
「力強くて、困った時に家族を導いてくれる。それに、何を聞いても何でも知っている。専門分野と関係ないことでも、生きていく力があるという感じ」
台風が近づくと、父は庭に溝を掘り、水はけをよくした。大雨で浸水した地域が出るというニュースがあると、「そういうことを考えて、坂の上に家を買ったんだ」という父の先見の明に、淳は心の底から敬意を表した。子どもたちのよい理解者でもあり、淳にとって父親は絶対的な存在ですらあった。
「そういう夫に比べ、私は自分の弱さを子どもの中に見つけて不安を感じていたのだと思います」
複雑な気持ちでいる母に、淳は訴えた。
「ここで僕をどうしようって言うの?」
顔は真っ白、目の下には隈ができていた。
■「風が怖い」と閉じこもる
この頃の淳は、掃除機やマットレスなど、大阪から持ってきたモノに対して、異常なくらい|執 着《しゆうちやく》した。なぜか分からないが、そういうモノを捨てることを考えるだけで、パニック状態に|陥《おちい》った。壊れたりして使い物にならなくなっても、母親に対して「絶対捨てたらあかん」と泣きわめいた。
そして、いつも恐怖心にかられていた。「風が怖い」と言って、家に閉じこもった。家の中でも、テレビを見たりしていて辛くなることが多かった。彼が学校に行かなくなった後、日航機墜落事故があり、金のペーパー商法で批判を招いていた豊田商事の会長がマスコミのカメラの前で|惨殺《ざんさつ》された。そういうニュースの映像が彼の頭にこびりついた。何かの拍子に、墜落事故で亡くなった歌手の坂本九や、血まみれの豊田商事の会長の姿が目の前に現れたような気がして、怖くなった。
校長先生が心配して、家庭訪問をしてくれた。が、そういう後は決まって具合が悪くなった。
淳は、ほとんど家から出ようとしなくなった。半分ゴロゴロしながら、電車や歴史の本、新聞を読んで毎日過ごしていた。一年半というもの、彼は家に閉じこもっていた。
母の真知子は、どうしたらいいか分からなかった。本を読んでも、親の育て方に問題があると書いてあって、落ち込むばかりだった。
同じように不登校の子どもを持つ親の集まりにも参加した。
どうしたらいいのか、ひたすら|悶々《もんもん》としている真知子に、その集まりに参加していた親の一人が声をかけた。
「うちの子も、前は大変だったのよ。淳君も、今に育つわよ」
「育つわよ」――この言葉に、真知子は自分がちゃんと子どもを育て上げなきゃという重圧から解き放たれる気がした。子どもの中に育つ力はあって、それを信じていいのではないか、と思った。
■東京シューレというフリースクール
その後、仲の良かった友達が遊びにきたり、逆にその子の家を訪ねたり、淳は少しずつ外に出られるようになった。六年生の頃になると、むしろ外を出歩くことが好きになっていった。
家から日帰りできる距離で、すべての鉄道に乗った。行った先々の地方新聞を集めるのも好きで、神奈川県内の駅に行けば神奈川新聞を、埼玉県内の路線に乗れば埼玉新聞を買った。福島県の平まで行った時には、駅の売店に福島民報、福島民友と二つの地方紙があるのを見て、大喜びした。
小学校六年生の時、友達と二人で旅をした。家族旅行は何度もしていたが、自分たちの力で旅をしたのは初めてだった。行き先は九州。どこにも宿をとらず、夜行列車を乗り継ぐ五泊六日の旅になった。時刻表を調べ、新聞の折り込み広告の裏に行程表の下書きをし、さらにそれを方眼紙にきれいに書き写した。乗る列車の車番まで調べて書き込んだ。朝も昼も、食事をしている時以外、旅の準備ばかりをしていた。
かなりの強行軍で、最後はくたくたに疲れた。それでも、図鑑や雑誌で見た「スター列車」たちが目の前を次々に通り過ぎていくのを見て、淳は興奮した。
それから、旅がやみつきになった。
二度目の旅行も、ひたすら列車に乗るための旅だった。JR東日本管内乗り放題の切符を買って、それで行けるところをあちこち乗りまくった。この時、直江津駅でそばを食べた。
「中華そば和風っていうのがメニューにあったんですよ。『何だこれは』って頼んだら、かけそばの汁にラーメンが入っていたんです。あれはカルチャーショックだった。県が違うと食べ物が違うんだなって」
小学校の頃、両親の勧めで、できてまもないフリースクール「東京シューレ」にも行ってみた。
この時すでに東京シューレ(以下、「シューレ」とも)に通っていた倉原香苗は、淳の印象をこう語る。
「短パンに阪急ブレーブスの帽子を被って、いかにも少年というイメージ」
それでだろう、シューレの子どもたちの間で、彼は「少年」と呼ばれるようになった。
最初は、自分より年上の子が多いこの場所に、淳はすぐにはなじめなかった。彼がシューレに通うようになったのは、中学生になってからだった。
行く気になったのは、そこが拘束されない場所だったから、という。勉強のカリキュラムもあるが、それを子どもに強いることはない。新しい友達を作りたい、という気持ちもあった。
運営についても、子どもと大人のスタッフが時間をかけて話し合う。淳も、活発に意見を言う一人だった。シューレを主宰する奥地圭子は、淳とはよく議論をした。
「納得するまでとことん言い合うんだけど、話していて気持ちがいいんですよ。それに、彼の指摘にドキッとさせられることも何度もありました」
鉄道の仕事に進む人材を育成することで知られる岩倉高校への進学を考えたこともあった。しかし、男子校と聞いてやめた。
「女の子のいない所に行きたくない。つまんない」
鉄道関係の知識は誰にも負けない自負はあったが、入るには一般教科の勉強をして入試に合格しなければならないことも、その気になれなかった理由の一つだ。
■鉄道の仕事は「こりゃ、いかんな」
中学を形ばかり卒業した後、淳はアルバイトを始めた。家の近くを走る私鉄の駅で朝のラッシュ時に、乗客を電車に押し込む仕事。上着だけは社員と同じ制服を与えられ、毎朝ホームに立った。
「鉄道の仕事がしたかったんですよ、どうしても。ビシッと呼称も決まって、『俺も鉄道員や』みたいな、すっかりいい気分でした」
駅員から信号機の使い方なども教えてもらった。
毎朝六時に起きて、一時間半ほど仕事をして、それからシューレへ行く。このアルバイトは、その後留学するまで五年間続いた。アルバイトで、他に同年代の若者が何人もいた。その中には、淳と同じ不登校の人もいた。高校生たちが時々無断欠勤する中で、淳ら不登校組はほとんど休むことがなく、社員からも結構当てにされていた。
「社員の人は、僕が学校に行ってないのは知ってましたけど、『不登校軍団は高校生より真面目に来るから』って。学歴がなくても、こうやって真面目にやってれば、社会を黙らせることができるんだなって、その時に思いました」
アルバイトを始めた頃の淳は、まずは鉄道会社に勤めよう、と考えていた。しかし、その気持ちは現場で働く人と話しているうちに変わっていった。
駅員の一人に、鉄道マニアが高じて鉄道会社に勤めた男性がいた。淳は、その彼がしばしば「鉄道員になったことを、後悔している」とぼやくのを聞いた。駅員は、言った。
「一番好きだったことを仕事にしたのが間違いだった。仕事でつまらないことがあっても、はけ口がない。君は絶対に、二番目に好きなことを仕事にした方がいい」
しかも、会社は学歴がものをいうところだった。鉄道マニアの駅員は高卒。ある時、大学は卒業しているが、仕事の経験は浅い幹部候補生が、淳のいる駅に視察に来た。駅員がその幹部候補生に頭を下げっぱなしでいる姿を見て、「こりゃ、いかんな」と淳は思った。鉄道のことをいくら知っていても、ここでは結局やりたいことができないのではないか、と。
淳自身、学歴はないし、シューレでも、英語を除いていわゆる教科の勉強はほとんどしていなかった。ただ、鉄道に関連することであれば、苦手な理科系の勉強も苦にならなかった。新しい路線を考えたり、ダイヤを組んだりするためには、様々な分野の知識が必要になる。ある区間の所要時間を割り出そうと思ったら、その土地の地理を調べ、機関車や電車のモーターの仕組みと性能を考え、|勾配《こうばい》とモーターの出力を計算しなければならない。|微積分《びせきぶん》や電流について学ばないと、無理だ。書店で中央鉄道学園が発行した教科書を買ってきて、独習した。わからないところは、父親に教えてもらった。そして、電卓を叩きながら、ひと月かけて一区間の必要時間を出した。
■屋久島へ行く
東京シューレでの活動のうち、彼が一番力を入れたのは、会報「シューレ通信」の作成。編集長も務めた。毎月のカリキュラム、行事予定と、前月の行事の報告などが、時には五十ページくらいになる。
ゼロの状態から、みんなで企画を立てたり、原稿を書いたり、それを印刷して作り上げていくことが楽しかった、と淳は言う。
もう一つ、イベントとなると、彼は張り切った。それも、合宿や旅行など移動を伴う行事となると、彼は先頭切って、あれこれとプランを練り、行動に移した。
「シューレ通信」には、彼の書いたかなり長文の旅行記が何度も|載《の》った。
ある時、仲良しの一人が留学するというので、出発を前に、記念の旅行を計画した。彼の旅行記には、企画段階の苦労が詳しく記されている。
〈行く先は屋久島に決まったのはいいけど、計画を立ててみると最初から予想していた通り、予算が高くなってしまいました。
最初出した案は、博多まで新幹線、博多から夜行寝台で西鹿児島へという行き方で、総額六万円でした。これを今回の旅行に行きそうな人に見せたら、異口同音、「高い!」。
次に出した案は、鈍行と船、飛行機をとりまぜたカラフルな案。これが五万三千円。それでもみんなは、「高い!」と言います。暁生くんなんかは、「あと一万五千円安くしろ!」なんて言うんです。そんな無茶な事は不可能です。
それから三日間、家に帰ってはずっと時刻表とにらめっこ。いろいろ調べ、すべての交通機関を調べてみた結果、一番安い行き方、というのを見つけました。それは、博多まで鈍行、博多から夜行列車という行き方で四万七千円也。最初の案から一万三千円もダンピングできました。ちなみにこの値段は全経費の値段です。この値段がどれだけ安いかという事を考える参考に一つ資料を。
東京――鹿児島 通常の往復航空運賃(割引後) 五万三千二百八十円
同・安売りチケット屋価格 四万七千九百円
どうです。鹿児島までの往復航空運賃よりも全旅費が安く|抑《おさ》えられたなんて、僕にしかできない芸当ですよ。
とは言ってみても、「それは比較の問題で、実際手の届かない値段であることには変わりはないでしょ」。
確かにそれはごもっとも。
「そりゃそうですけど、でもこちらの努力も認めてくださいよ。こっちだって三日も必死で考えた、これ以上ない安さなんですから」と、僕もこれ以上の値引きはできない旨、はっきりみんなに伝えました。そのうえで正式にみんなを旅行に誘ったわけですが、予算が高いためか顔色が曇っています。
でも、僕がみんなを一生懸命説得したせいか、それともみんながみんなの親を一生懸命説得したせいか、予算の都合がなんとかついたらしく、親戚の家に行くことになっていた一人以外、みんなこれるようになりました。そろったメンバーは八人。
一応計画もまとまり、出発から帰着まで百二十五時間、六泊七日の壮大な日程を発表しました。自慢がてらに奥地さんや佐藤さん(スタッフ)にも見せました。
佐藤さんは「よくやるねぇ……」と苦笑していました。
かたや奥地さんは、「屋久島は大変だからやめて、阿蘇とかに行ったら? 阿蘇だって十分にすばらしい所よ」と。
最初から大変だってことはわかっていたので、奥地さんに「やめたら?」なんて言われると決意が|揺《ゆ》らぐので迷惑だなぁ、と思いました。お|餞別《せんべつ》にぴったりの旅行をするのに決意が揺らぐことがあってはならないと思い、「やめたら?」と言われる度に、僕は決意を固めてゆきました。僕の決意の固さに気づいた奥地さんも、あまりしつこく引き留めませんでした〉
綿密にスケジュールを立てたつもりだったが、いざ出かけてみると、予定通りにはうまくいかない。屋久島で、昼食をとった食堂の人に助けられ、格安の宿を世話してもらったり、波の高さに恐れをなして、通常のフェリーから高速船に変更したり。
「予定通りに行かないから、旅はおもしろいんです。そこでいろんな人に出会ったり助けてもらったりするから」と淳。
■最初の食事はフライドチキン
そうこうしているうちに、日本中の鉄道をすべて乗り尽くし、鉄道が走っていない沖縄県をのぞいて、気になる場所にはすべて行ってしまった。次はどうしようかと考えている時に、ハタと気がついた。
「そうだ、次は韓国だ。あそこにはまだ乗っていない鉄道がある」
まもなく十八歳になろうという時、淳は親友と二人で初めての海外旅行に出る。福岡空港で飛行機のキャンセル待ちをして、ソウルへ。飛行機は鉄道の敵、と思っていた淳にとって、飛行機に乗るのも初めてだった。
ガイドブックを穴のあくほど読んで準備したつもりだったが、何もかもが初めてづくしで、驚きの連続だった。最初は食堂に入る勇気が出なくて、初めての外国での食事は、ケンタッキー・フライドチキン。
「情けないなあ、俺ら」――そうぼやきながら、油っこいチキンにかぶりついた。次の食事時には、意を決して食堂に飛び込んだ。ガイドブックと首っぴきでメニューを読み、なんとか韓国語で「これ、下さい」と言ってみた。
ドキドキしながら待っていると、期待通りのものが出てきた。|小躍《こおど》りしたくなるほどうれしかった。
日本語で普通にしゃべっていたら、地下鉄の車両の中で周囲にジロリと見られた。町並みやそこを行き交う人の顔つきは日本に似ているのに、看板の文字はほとんどハングル。ハングルの洪水に飲み込まれ、目が回るような気持ちになった。
「ああ、これが外国なんだ」
これを機に、淳の関心は海外へと向いていった。その年に、立て続けに海外旅行に出ている。二度目はウクライナへ。チェルノブイリ原発事故の影響を受けている子どもたちとの交流をした。現地ではホームステイをした。淳が世話になった家では、一人だけ高校生の娘さんが英語を話した。淳は、彼女を相手に辞書を引き引き、必死でコミュニケーションをとった。英語がこれだけ役に立つとは、彼自身思ってもいなかったし、言葉を覚えれば外国の人と意思|疎通《そつう》ができることに、興奮した。感激のあまり、シューレで英語を教えてくれている先生に、「習っておいてよかった」と手紙を書いた。
その次には、マレーシアとシンガポールへ。続いて、今度は一人旅で、もう一度韓国へ行った。この時には、「字くらいは読めた方がいいだろう」と事前にハングル文字の読み方を一生懸命覚えていった。生きていくために、何が何でも食事にありつかなくてはならない。できれば、安くてうまいものを食べたい。何はともあれ、食堂で使う表現を、必死に暗記した。
そして、一カ月半ほどかけて、アメリカへの旅行。こんなに広くて大きい国があるのかと、感激しっぱなしだった。なんとか英語でコミュニケーションをとろうとがんばった。
■裸足の子どもたち
そして、十八歳の春に東京シューレを“卒業”。その後、彼はフランス語の専門学校に通うことにした。「とりあえずフランス語でも勉強しようか」という程度の軽い気持ちからだった。なぜ、英語にしなかったのか。その理由を、彼はこう説明する。
「一番強いものは嫌いなんですよ。巨人とか、自民党とか、英語とか。英語が最も使える言葉だって分かった時に、じゃあ英語と対抗できる勢力はどこかなって考えた。数えてみたら、フランス語を公用語に採用している国は、英語の次に多いんですね。それでフランス語」
朝は駅で客を押し込み、日中はフランス語の勉強、そして夕方から夜にかけては野球場で警備員のアルバイトをした。そうしてお金を貯めては、彼は旅行に出かけた。
アフリカ大陸の南東にある島国マダガスカルに行ったことがある。子どもの頃よく見ていた、世界旅行とクイズを組み合わせたテレビ番組に、ここの首都アンタナナリボがよく登場した。淳は、地球儀や地図を見るたびに、気になっていた。どうしても一度見てみたいという思いが高まって、安い航空券をみつけて行ってみた。フランス語圏なので、意思疎通については問題がなかったが、日本では想像もできない貧しさを見た。食堂で、彼がまずくて食べられずに残した料理に、|裸足《はだし》の子どもたちが群がっている光景を見て、|愕然《がくぜん》とした。ここでは、靴を|履《は》いている人は豊かと見られた。豊かさの基準が全く違っていた。
そういう貧しい国だが、異邦人に対して親切だった。マダガスカルで、彼はマラリアに|罹《かか》った。病院で注射をしてもらい、安ホテルで三日間寝ていたら、なんとか持ち直した。この時の医者がとても優しかった。ホテルがあるのかどうかも分からない小さな町に夜中にバスで着いて途方に暮れた時には、軍人らしい男がトラックに乗せて、ホテルまで連れて行ってくれた。
この旅の後、彼は壮大な旅行の計画を立てた。
「あのサハラ砂漠で一晩寝てみたい」
どうせなら、なるべく陸づたいで行ってみよう。まずは東京から富山へ。船でウラジオストックに渡り、シベリア鉄道に乗る。最初は特急で。バイカル湖を見に降りた後、湖畔の小さな駅で鈍行列車の三等寝台の切符を買った。モスクワまで五千四百八十二キロを四泊五日かけて走る。料金は、約五千円。
この旅もびっくりすることばかりだった。淳が外国人であることにあれこれ|難癖《なんくせ》をつけていた車掌が、いくばくかの現金を渡した後は急に愛想がよくなり、車掌室で紅茶を飲ませてくれたりした。食堂車に行っても、いつもボルシチ以外のメニューは売り切れなので不思議に思っていたら、コックが途中の停車駅で食材を売り飛ばしているのを見た。かと思うと、プラットホームの端から端まで、鶏の丸焼きやトマト、パン、手作りのサラミなどを手にした地元の人々が並び、乗客を相手に商売をしている駅もあった。真っ昼間から酒盛りをしている兵士にウォッカを勧められた。
長い旅の間に、ロシア語で使うキリル文字や簡単な表現を覚えた。そしてようやくモスクワに到着。そこから、エストニアへ行き、船でスウェーデンのストックホルムへ。その後ヨーロッパの国をいくつか回り、パリに留学している語学学校の友人の学生寮に泊めてもらった。そこには様々な国の人がいて、それぞれの文化を持ち込みながら、生活していた。こういう経験をしてみるのもいいなあ、と思った。
マルセイユから船でチュニスに渡り、そこから鉄道、バス、最後はラクダに乗った。四十日かかって、ようやくサハラ砂漠へ。この時の感動を語る時、今でも淳はついつい興奮気味になる。
「砂漠で寝袋にくるまって寝たんですけど、とうとう目的地までやってきたっていう感激で、眠れませんでした。それに、満月の夜で、ものすごく明るかったんですよ。月が明るすぎて、星が全然見えない。なにしろ、新聞が読めるくらいなんです。それで、まったく無風で、音がない。音のない所に、耳が吸い込まれていくような感じ。音のない所っていうのは、生まれて初めてです。それに、すばらしい景色でした」
帰りは飛行機を利用した。安い航空券を探したら、シンガポール経由になった。シンガポールで、屋台の中華料理を食べながら、充実感に|浸《ひた》った。
■フランスの語学学校でトップに
日本に戻って、彼はフランスへの留学の準備を始めた。スイスとの国境近くにあるブザンソンの大学に併設された語学学校へ。
毎日学校へ通って、勉強して、試験を受ける。その点数に一喜一憂する。そんな学校生活が、彼には新鮮だった。
いろいろな国の人がいた。国費留学など、国の期待を背負っている開発途上国の学生は、必死になって勉強していた。あるいは、スペイン語やイタリア語など、フランス語と同じラテン系の言語を母国語にする学生は、勉強もかなり早く進んだ。
そういうクラスメイトを見て、彼も「負けたくない」と思った。がむしゃらに勉強して、彼はスペイン語圏のコロンビアから来ていた留学生と共に、クラスのトップになった。
彼の留学の目的は、語学の勉強の他にもう一つあった。
「自分一人で生活できるようになりたかった。だから、今考えるとフランスでなくてもよかったのかもしれない。寮で生活してましたから食事もつくんですけど、コンロを買って、なるべく自分で作った。洗濯もちゃんとやって、とにかく助けてくれる人がいない中で、自分でやれるようにしよう、と」
年に一度の町のお祭りには、留学生が自分の国の料理を振る舞う出店を出す。そういうイベントになると、淳は張り切った。自然と日本人留学生のリーダーに納まって、準備を進めた。実家に国際電話をかけて、天ぷらと|鯖《サバ》の味噌煮の作り方を教わった。衣がカラッと仕上がるコツを体得するまで、彼は毎日自分の部屋で天ぷらを|揚《あ》げた。彼が仕切ったその出店は大好評だった。
フランスで、彼に大きな転機があった。
一人の女性との出会いである。
その女性、博子はアメリカのニューヨーク州立大学でフランス言語学を学んでいて、このブザンソンに言葉の勉強に来ていた。
彼女は、淳の旅行記を読んで、|惹《ひ》きつけられた。淳が、自分の興味にとことん忠実に行動している様が、博子にはとても新鮮だったのだ。
とりわけ彼女の印象に残っているのは、淳がドイツ北部を訪ねた時の紀行。
彼が列車で寝過ごし、ふらりとある小さな町に降り立った時の記録だ。
〈リューネブルクはかなりの歴史の古さを感じさせる町である。ここもラッツブルクと同じように中世は塩の交易で栄え、現代ではそんなに栄えてないので、街には古風な家ばかり建っている。どの建物も茶色っぽい石造りの二階建てや三階建てで、ゆるい角度の「ヘ」の字屋根がなかなかお茶目だ。
街のなかには底の浅い川が流れていて、その川沿いには|柳《やなぎ》の木や、今にも崩れそうな古い家、カフェなどがあった。
僕の心のなかに流れる「街中の小さな川」とは常にドブ川だった。水量はいつでも少なく、夏になるとゴミをたたえながら異臭を放つ、そんなような川がいつも僕の身近にあった。僕はごく自然にそういう川のイメージを浮かべつつ橋の上から川を見下ろしたのだが、どっこいかなり澄んだ川で、いっちょまえにデカい魚なんかが泳いでいた。ドイツ恐るべし、といったところである。(中略)
渋い雰囲気の建物群を見ながら、自動車一台通るのがやっとという石畳の道を歩いていたら、とてもにぎやかな広場に行き当たった。これは、ヨーロッパの街ならばどこにでもある「街のヘソ」というやつだなと僕は思った。
ヘソ広場には食べ物や飲み物の屋台がたくさん出ていた。屋台といっても、トレーラーで引っ張ってきたような正真正銘の屋台と、地に根を生やしてしまって動けない屋台の二種類があった。何たって軒数が多く人気が高いのが、焼ソーセージ屋とビール屋。そりゃそうだ、ここはドイツである。(中略)
不思議なことにこのあたりのビール屋台やバーでは、予めビールが五分目ぐらい入ったジョッキをいくつも用意してあるのだ。客から注文を受けると半分だけビールの入ったジョッキにまた新しいビールを注ぎ加えるのだが、それでもサッとビールを入れてパッと客に出すわけではないのである。わざわざ|泡《あわ》がいっぱい立つように、ジョッキを真っ直ぐ立てたまま|溢《あふ》れるまでビールをつぎ、溢れたらヘラでこんもり盛り上がった泡をかいて泡がすっかり静まるまで待つ。そして泡がおおかた消えたところでまた同じ作業をし、少し泡を残した状態でビールがきっちりジョッキ一杯になるまでそれを繰り返すのだ。ずいぶん面倒くさいことをするなぁと思う。ビールをオーダーしてから、それが出てくるまで約三分。カップラーメンが出来るまでの三分よりも、僕には長く感じられてしまう。
もとから汲み置きしておいたビールであるうえに、あれだけ泡をいっぱい立てながら入れたものだから、僕の目の前に出された時にはすっかり気抜けビールとなっていた。なぜわざわざ気を抜いたビールを出すんだろう。どうも僕は釈然としなかった。釈然としないと言えば、このビール、なぜか泡がかたかった。飲むと泡が白いつけヒゲのように鼻の下にくっついた。どうしてだろう〉
屋台で売っていた正体不明のものを注目してみると、長さ五十センチもあるサラミだった。
〈ドイツはさすが|燻製《くんせい》加工肉の本場だけあって、日本で食べるおつまみサラミとはうまさが断然違う。ちゃんと肉の味がする。ただし少し脂っこいので、僕はかじりながら大きな脂身の部分だけ指でほじくり出して、爪でその辺にピンとはじき飛ばしながら食べた。
このサラミを全部喰いきるのは無理にしても、せっかく買ったんだから三分の一ぐらいは食べたいものだ。そのためには飲み物がなくてはいけない。僕はそのへんの屋台に再び並んでビールを買った。またしても品書きの値段よりも二マルク余計に取られた。
この日三杯目となる気抜けビールだが、これはこれで元からこういう味なんだと思えばおいしく飲めるような気がしてきた。しっかりした味のあるビールなのである。考えてみれば、なぜドイツ人がどかどかとビールを飲めるのかと言えば、こうやってビールの炭酸を抜いているからじゃないだろうかと思うのである。もしヨソの国のビールのようにしっかり炭酸が入っていたら、あっという間に腹が炭酸ガスで|膨《ふく》れてしまう。(後略)〉
同じ「東アジア人」のよしみだからと、中国人の屋台で焼きそばを食べ、|素人《しろうと》楽団の演奏を聞き、周囲の光景を観察しながらビールを飲んでいるうちに長い長いサラミもすべて平らげた。ジョッキを返却すると二マルク渡され、これは保証金だったのかと納得。そしてホテルに帰るために列車に乗るが、またもや下車駅で降り|損《そこ》ねてしまう。
そんなハプニングも楽しみに変えて、彼は自分の興味の|赴《おもむ》くままに旅を続ける。
そういう彼の自由さが、博子にはまぶしかったようだ。
■面接で語った夢
そして、そういう自由な心を持ち、自分の感性を大切にしている彼なら、「私を理解してくれるのでは」という気持ちが膨らんでいった。
博子自身も、日本の学校に強い違和感を感じながら育った。
「意味を感じられないことでも、やらなくてはならない。|異見《いけん》が認められない。中学校になれば、リーダーに従わないといじめの対象になるし、そういう時には先生もアテにはできない」
学校に自分の居場所を感じられなかった。親の勧めで入った高校は、通学に片道一時間半を要したことも苦痛だった。しかし、学校に行かない、という選択は、彼女には思い浮かばなかった。アイルランドに短期留学した兄の話を聞いていて、海外留学を思い立った。反対する両親を懸命に説得し、アメリカへ。自分の考えを言える環境だし、友達も出来た。が、その一方で、常にストレートで「察する」ような心|遣《づか》いの少ない人間関係の中で、自分のことを本当に理解してくれるような人はいないだろう、と思いこんでいた。
博子は、淳が学校に通っていなかったことを聞いて、とても興味を持った。
「不登校には、暗いイメージを持っていた。でも、彼は全然違う。私は、海外に脱出してしまってできなかったことを、彼は日本にいてやり抜いた。そういう意味でも、とても尊敬できた」
一年間の留学の後、博子はアメリカの大学に戻り、淳はセネガルへの旅に出た。セネガルでは、電気も水道も電話も引かれていない小さな島に渡った。ここで日射病で倒れた。マダガスカルでマラリアに罹った経験があるので、それほど慌てずにすみ、三日間ほど、ホテルでじっとしていたら回復した。
「形や格好を気にしなければ、とりあえず何とかなる。生きていることはできる」と淳は自分の中の生きる力を感じた。
そして、帰国。
これからどうしよう。いつまでもこのままではいられないし、とりあえずアルバイトでもしようか……。そんなことを考えながら、新聞の求人広告を眺めていた時、その一つに目が止まった。
新店舗OPEN スタッフ急募(海外旅行専門店)
旅が好きなら一緒にやろうよ!!
職種は「予約手配・接客業務」とあった。ただ、応募資格として二つの条件が添えられていた。
「短・専卒上」「二十五歳位迄の海外旅行経験豊富な方」
短大・専門学校卒業以上の学歴という点が壁だった。しかし、旅行経験の豊富さでは、自信はあった。
とりあえず応募してみようと履歴書と海外旅行歴を書いて送った。行った先を並べただけなのに、A4の紙にぎっしりと文字が埋まった。
すぐに電話がかかってきた。面接に来るように、ということだった。
約束の日時に、指定された場所に赴いた。
履歴書に学歴は正直に書いてあったし、東京シューレに通っていたことも記載しておいたが、それについて何も|尋《たず》ねられることはなかった。
「あなたの夢は何ですか?」――質問したのは、社長の守屋英二だった。
淳はすぐさまこう答えた。
「鉄道会社を作ることです。ゆくゆくは、|御社《おんしや》を鉄道会社にしたいと思います」
スリー・レター・コードなど旅行に関する知識も|披露《ひろう》し、一生懸命売り込んだ。
守屋は、この面接の時のことを、今もよく覚えている。
「若い人に将来の夢を聞いても、すぐに答えられる人は少ないですよ。なのに彼は、鉄道会社をやりたいと言うわけです。『いくらかかるか』と聞いたら、『五千億円』と。どこに線路を引くつもりかというと、東南アジアのどこに引いたらいくらだ、とかあげてくるんですね。社内には反対意見もあったけれど、私は『いいじゃないか』と思ったんです」
■そして、結婚
提携している大手旅行会社のパッケージツアーの他、お客の相談を受けてスケジュールを組み、航空券や宿泊先などの手配をし、何かトラブルがあればその処理をする。一人のお客が旅行の計画を立ててから、無事帰ってくるまで、責任を持たなくてはならない。最初はミスの連続で、叱られてばかりの毎日。
「航空券を渡さないままお客さんを空港へ行かせてしまい、新宿の本社まで慌てて取りに行って、成田エクスプレスに飛び乗って空港で航空券渡したことが四回あります。この会社に入った人間がやらかす、あらゆる間違いを全部やりました。計算を間違えて、大きな赤字を出してしまったこともありました。失敗した時はもうめげめげですよ」
一般常識を身につけ、実践し、社会の中でやっていくことがこれほど大変だとは、正直言って思っていなかった。
それでも、会社を辞めることは一度も考えなかった。
「この仕事でやっていけなかったら、社会で通用しないって思ったんですよ。自分が得意なはずの分野でダメだったら、他では絶対にプロになれないなって。だから、常に後がないというか、|瀬戸際《せとぎわ》にいるような気分でやってきました」
失敗を重ねながらも、やっていくうちに、お客がつくようになり、営業成績はトップになった。自分で営業をやらなくても、彼を指名するお客だけで、充分に一位をキープできた。
「土地柄、仕事の出張で行くお客さんが多いので、とにかく聞かれたことにすぐに答えられるように努めています。電話の問い合わせだったら、話を聞きながらお客さんの先を読んでコンピュータのキーボードを叩いてますから、相手の話が終わるとだいたい結果が出てるんですよ。だから、即答ができる。でも、これは意識的にやっているわけじゃないんですよ。だらだらやっているのは自分もイヤで、話はポンポンポンって進めたいし、旅行のプランも自分が納得したものを作りたいんです」
自分が実際にあちこち旅をして回っているので、様々な国について土地|勘《かん》がある。お客の希望を聞いても、不可能なことは不可能と即答できる。
そういう一つひとつの積み重ねだろう、他の営業マンの倍以上の稼ぎをあげたこともあった。お客が、旅行のお土産を持ってきてくれることも時々ある。
守屋は言う。
「確かに失敗も多かったようだし、現場の店長は苦労したと思う。でも、失敗しないやつは、成功もしない。今までとは違うこと、別な方法をやってみようとするから、失敗もするんです。夜遅くまで残り、日曜日も出てきて仕事の処理をしていることも多い。『これで食っていくんだ』という意思が明確なんです。いろんな体験をしているから、通常のルートとは違った“抜け道”を探すことでは、彼が一番だし、多面的にモノを見る力がある。営業成績もいいし。これからは、人事のマネージメントも勉強させようと思っています」
仕事が順調にいくようになってから、淳は、フランスで知り合った博子と結婚した。
高学歴の女性と、学歴なしの男のカップル。博子の親は、最初は猛反対だった。それを、時間をかけて説得。今ではとりわけ博子の父が、淳をとても気に入っている、という。
結婚して、淳の夢は大きく変化した。
「家庭があるっていうことで、精神的にどれほど満たされているかを知って、もう鉄道会社はいらんって思いました。僕は父親を尊敬してましたけど、仕事が忙しくて家にいないことが多かったですから、子どもができたら、そういう親にはなりたくないなって思います」
子どもの育て方についても、すでにあれこれ考えている。
「世の中に流されないで、自分の意見を持って、何が正しくて何が正しくないのか、自分なりに判断できる子になって欲しい。だから、『学校が好き』なんて言ったら、どうしようかと思って」と笑う淳。
鉄道は今でも好き。鉄道の雑誌を見たり、時刻表を眺めるのは、仕事の息抜きになっている。
「前のアルバイト先の鉄道員が言っていた、大好きな鉄道のことは仕事にしない方がいい、という言葉は、なるほどな、と今になって思います。そういうことは、社会に出てみて初めて分かりました」
鉄道会社の社長になる、という夢は「僕にはもういらなくなった」という。
では、世界を旅して回った末に、彼がみつけた新たな夢はなんだろうか。
「一番大事なのは、家族です。この家族と楽しく生きていく、というのが今の自分の夢です」
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二級建築士 倉地 透

■「シカト」が始まる
二学期のある日、クラスの全員が突然口を利いてくれなくなった。授業が始まる直前に、背中をバシッと叩かれる。先生が入ってきたら、やり返すことができないのを見越した、絶妙のタイミングだった。椅子に座れば、|画鋲《がびよう》がお尻にささった。それを見て、周りがどっと笑う。
それでも初めは、いささかきつい冗談なのだと思った。というより、そう思いたかった。
倉地透は、大げさに画鋲のささったお尻を押さえて、笑いを取ろうとした。
しかし、それは冗談でも悪ふざけでもなかった。
帰ろうとすれば、靴が隠されていた。トイレで男子生徒に囲まれ、便器に顔を突っ込まれた。
いじめは、次第にエスカレートしていった。
そのきっかけとして、思い当たることが全くないわけではなかった。
透は、都内の下町にある区立中学二年生。クラスの中は、だいたい七、八人くらいずつのグループに自然と分かれていて、透は「悪いグループ」に入っていた。
「悪い」といっても、非行に走るほどではない。少し太めのズボンをはいたり、制服の上衣の|丈《たけ》を長くしたり、髪をリーゼントスタイルにしてみたり、当時流行っていたアニメ「ビー・バップ・ハイスクール」をまねて|粋《いき》がってみたり、先生に反抗的な態度をとってみせたりしている男の子たちだった。
そのリーダーが、ある生徒について「あいつ、むかつくから、シカトしようぜ」と言い出した。それに透は反対した。
「俺はむかついてないし、やだな」
それがきっかけで口論が始まり、殴り合いの喧嘩に発展。体の小さかった透は、負けてしまった。クラスの透に対する「シカト」つまり無視が始まったのは、その翌日からだった。グループのリーダーがクラスメイトをけしかけ、みんなは自分が次のターゲットになるのを恐れて従っている。そういう筋書きが、容易に想像できた。
ひたすら我慢していたが、いじめはなかなか収まらなかった。夏休みまでは、一緒に仲良くプールに行ったりした仲間が、いじめの中心メンバーだった。
そんなある時、彼に親しげに声をかけてくれたクラスメイトがいた。透はうれしくて、つい心を許し、聞かれたことは何でもしゃべった。好きな女の子の名前も……。
その後、透が教室に入ろうとすると、例のグループの子たちに妨害された。そして、中から透自身の声が聞こえてきた。好きな女の子のことを告白している部分も流された。声をかけてきた子が、隠し|録《ど》りをしていたのだ。
透は恥ずかしさのあまり、何も言えず立ちすくんだ。暴力や物を隠されることには耐えられたが、こういう精神的ないじめは、とても応えた。
しかし、先生に相談しよう、とは思わなかった。親にも黙っていた。そのわけを、透はこう説明する。
「今だったら、なぜこういうことが辛いか、人にもうまく説明できると思うんです。けど、この年齢の時には無理だったんですね。それに、今まで結構ワルぶっていたのに、先生に言うなんて、プライドが邪魔してできないんですよ。それに、クラス全員が敵になっていたので、みんなが口裏を合わせれば、僕一人の言うことなんて、信じてもらえるはずがない。もともとは僕も悪いグループでしたからね。親にも恥ずかしくて、自分がいじめられているなんて、口が|裂《さ》けても言えない状況でした。それまで、結構強気で生きてきちゃったから」
■父親は鉄拳をふるった
透は、学校を休みがちになった。朝になっても、学校に行きたくない。
母親に嘘をついた。
「熱があるみたいだから休む」
体温計のお尻の部分をポンポン叩くと水銀柱が跳ね上がることを発見し、透はその方法で三十九度くらいまで熱が上がったことにして、母親の目をごまかした。
二、三日休んでいると、電話がかかってきた。例のグループのメンバーからだった。
「(今までのは)ウソだよ。冗談だよ。だから出て来いよ」
透は、これで彼らも自分たちがやっていることのひどさに気がついてくれたのかな、とホッとした。
翌日、気を取り直して登校した。
すると、グループの何人かが彼を取り囲み、「なーに、ガッコー休んでんだよぉ」と|絡《から》んだ。同じようないじめが待っていた。事態は何一つ変わっていなかった。
何度かそういうことが繰り返され、透は、もうどうしていいか分からなかった。とうとう母親に打ち明けることにした。縫製工場を営んでいた父親は、仕事が忙しいだけでなく、親子で本音を語り合う関係にはなかった。透からすると、母親の方がまだ話しやすいと思った。
だが、透の気持ちは、母親にもうまく伝わらなかった。
|悔《くや》し涙を流しながら事情を語る息子を、母は|叱咤激励《しつたげきれい》した。
「何、言ってるの! そんなのは、あんたが逆に言い返せばいいの。黙っているからやられるんでしょ。大人しく、やられっぱなしになってるから、みんな面白がってるんだから。あんたがしっかりしなきゃ、ダメじゃないの!」
仕方なく透は、重い気持ちで、もう一度学校に行った。しかし、母が言うように、言い返すことは容易ではなかった。
気がつくと、給食の残りのおかず、腐ったパンなどが、机の中に詰め込まれている。透がそれに気づくと、どこからともなく「クククク……」と笑いをこらえている声がする。視線を感じてそちらを向くと、ふっと目を|逸《そ》らされる。いつ、誰に対して、声をあげればいいのか、分からなかった。
もう学校には、二度と行きたくない。でも、誰にもその気持ちを理解してもらえない――もう親に話をする気持ちも失せていた。残された手段は、誰がなんと言おうと学校に行かないこと、だった。
母親が起こしても、彼は布団を|被《かぶ》ったまま寝ていた。母親に呼ばれた父親が怒鳴りつけても、布団にもぐったままだった。父親は|激昂《げきこう》し、布団をひっぺがして息子に鉄拳をふるった。いくら激しく殴られても、蹴られても、透は無抵抗のまま転がっていた。
「学校に行くくらいなら、これに耐えた方がいい」
透はそう思った。学校か父親の暴力かどちらかを選ぶのであれば、後者の方がはるかにマシだった。
殴り疲れた父親は、息を|弾《はず》ませ、母親に向かって一言残して仕事場に行く。
「こいつには、もう飯なんて作ってやらんでいい」
そうかと思うと、父親は打って変わって優しい口調で話しかけてくることもあった。
「どうした。なんか、あったんだろ? 言ってみろよ」
透が学校に行かなくなってまもなく、東京都中野区の中学二年生が「葬式ごっこ」などのいじめを受け、自殺するという痛ましい事件が、盛んに報道され、学校でのいじめがメディアでもクローズアップされるようになっていた。透の両親も、そういう報道を目にして、心配になっていたらしい。
しかし、どんなに優しげに尋ねられても、透は「別に」「何でもない」と、父を避けた。
■分かっちゃう先生の作戦
昼間家にいても、とりたててやることはない。ぼんやりテレビの画面を眺めながら、頭の中には、学校のことばかり浮かんできた。
「今頃は体育だなあ」「給食が始まった頃かなあ」……。
できるものなら学校には行きたいし、行かなくちゃという思いもあった。それでも、あのいじめが怖かった。
学校の先生方が、入れ替わり立ち替わり家にやってきた。担任の女性教師に、彼はぽつりぽつりと受けたいじめの話をし始めた。だが、なかなか分かってもらえない。透が言いよどんでいると、「それは、こういうことじゃないかな」と、先生はいじめる側の論理や透の心境について、自分なりの解釈を述べ立てる。それに対して透は、理路整然と反論する術を持っていなかった。
「それは考え過ぎよ」
そう言われれば、もう次の言葉が出なくなる。
クラスメイトから手紙も来た。
「がんばって」「早く学校に来て」「待っているから」……。
しかし、その言葉を真に受ける気はなかった。どうせ先生に言われて書かされているのだろうし、そういう優しげな言葉を信じて裏切られる辛さは、もうたくさんだった。
三年になって、担任が替わった。若くて、押しの強い、「森田健作みたいに『青春しよう』とかいう感じ」(透評)の男の先生だった。
始業式の朝、先生は透を家まで迎えに来た。そこまでしてくれるのに無視するのも悪いという気になり、先生に連れられて、久々に校門をくぐった。
「あ、来た、来た」
同級生のそんなささやき声が、耳に飛び込んできた。
なんとか教室まで入ったものの、透はすぐにでも逃げ出したかった。昇降口の臭い、チャイムの響き、教室のドアが閉まったりチョークを黒板に当てる音は、あの辛いいじめの時と、まったく同じだった。そうしたものすべてを、体が拒否した。胃の|腑《ふ》を締め付けられるような苦しさに、彼はもう学校はダメだ、と思った。
結局登校したのは一日だけで、次の日からは、先生が迎えに来ても、布団から出てこなかった。そんな彼を、父親が怒鳴りつける。
「先生がここまで来てくれているのに、お前は何も感じないのかあっ」
感じないわけではない。が、それでも学校には行けなかった。
新しいクラスメイトから、毎日手紙が来た。
「修学旅行に行こうよ」「一緒に思い出を作ろうね」
家に来る子もいた。
先生からも毎日電話がかかってきた。
「クラスのみんなが、今日お前のとこに行ったんだって? みんながそうしたいって言ってたからさ」
透は、内心(お前が仕向けたんだろ)と思っていた。
「俺だって、バカじゃないですよ。当時テレビでやってた金八先生とかトシちゃん(田原俊彦)の『教師びんびん物語』とか見てましたからね。そういう先生の作戦は分かっちゃってるんですよ。だから、そんなに簡単に話に乗れない」
■北海道の牧場に置き去り
それでも、修学旅行には行きたい気持ちはあった。高校入試も気になった。クラスメイトからの長い手紙には、心が動いた。それを読むと、確かに先生に「書こう」と言われて書いたのかもしれないけれど、文章は先生の言葉じゃない、と分かった。こういう新しいクラスで行く旅行なら、楽しいかもしれない、という気になった。学校に復帰するなら、修学旅行が最後のチャンスかもしれない、という気もした。
家に来てくれる子たちと話していても、楽しかった。だから、帰りがけに「待ってるよ」と言われると、その気になった。「明日は学校に行ってみようかな」という言葉を聞いた母親が、翌朝彼を起こす。が、そうなると、最悪の時のイヤな思い出が噴き出してきた。このまま家を出れば、あの時と同じ通学路を通って、あの頃と同じ校門をくぐって……。そう考えると、彼は半ばパニック状態に陥った。
(やっぱりダメだ……)
結局彼は、修学旅行に行くことはできなかった。高校受験も気になるが、少なくとも今の中学に行くことは、彼にはできそうにもなかった。かといって、家にじっとしていても、居心地はよくなかった。
この頃透が、唯一安心していられるのは、母の姉山本道子の家だった。こういう問題が起きる前から、透はよく道子の家に遊びに行っていた。透が小学生の頃、道子の家は改築をした。余っている材木と釘で、透は祖父のために小さな椅子を作った。この椅子は、今でも道子の庭に置いてあり、野鳥のエサを置く台として使われている。
おおらかで、いくつもの趣味を持つ道子は、不登校の問題が持ち上がっても、|甥《おい》っ子の言動にいちいち反応したり、説教したり励ましたりすることもなく、ただ彼を見守っていた。父親が怒り狂っている時など、透は電車と歩きで一時間ほどの道子の家に逃げていった。
道子の趣味の一つが、乗馬だった。家から歩いて十五分ほどの所に、乗馬クラブがあった。透は、道子について、そのクラブに通うようになっていた。馬に乗っている間は、いじめのことも、学校に行かれないことも忘れられて、楽しかった。
ゴールデンウィークを前にして、父親が言った。
「お前、そんなに馬が好きなら、北海道に連れて行ってやろう。馬の産地だぞ」
透は、喜んだものの、半信半疑だった。これまで、自ら家族旅行の計画も立てたことがない父親が、自分のために北海道旅行なんて、どういう風の吹き回しだろう。
それでも、父親の誘いは魅力的だった。
「ゴールデンウィークだし、行けば気分がリフレッシュするだろう。少なくとも遊園地のジェットコースターより楽しいはずだぞ」
飛行機に乗るのも初めてだった。父と二人で新千歳空港からレンタカーを借り、約三時間のドライブで、目的地についた。競馬馬を育てている牧場だった。出産のシーズンで、|厩舎《きゆうしや》に行くと、かわいい子馬もいた。透はうれしくてたまらず、その辺を歩き回っていた。
すると、乗ってきた車が、牧場の向こうに走り去っていくのが見えた。
(買い物にでも行くのかな)
だが、牧場の人たちは、まるで別れを惜しむように、車に向かって手を振っている。いったいどういうことか。透は、牧場主の所まで、走った。
「オヤジは?」
「もう帰られた」
「え……」
呆然としている透に、牧場主は言った。
「君は、学校に行ってないんだって? お父さんに頼まれて、うちでしばらく面倒みるから。厩舎の掃除とか、いろいろ仕事をやってもらう」
「いつまで……ですか」
「それは分からないよ」
■脱出作戦
透の両親は、登校拒否問題を専門にしているというカウンセラーに相談をしていた。ラジオ番組で教育相談も担当している、名の知られた専門家だった。その人のアドバイスは、次のようなものだった。
「そういう子どもはしばらく突き放さなければだめだ。親と離れ、他人の飯を食わせるのがいい」
普通に話しても息子が納得しないと思ったのか、両親は旅行名目で連れ出して、置き去りにする、という方法をとった。
牧場の一家は、食事もしっかり食べさせてくれたし、透より年上の一家の息子も、親切に仕事を教えてくれた。馬の世話は、それなりに楽しかった。とはいえ、朝五時半に起きて、厩舎の掃除をするのは、つらかった。この時期の北海道の朝はまだ寒い。そのうえ、親にだまされた悔しさが、怒りとなって透の体を駆けめぐった。
家に電話をした。父親が出た。
「何だよ! ウソついて」
「お前みたいなのは、しばらくそっちでしばかれてこい」
ガチャンと電話は切られた。
父親が不在の時間帯にかけた。
「お父さんの考えだから。じゃあね」
母親は、それだけ言って電話を切った。
|伯母《おば》の道子の家にもかけた。伯母は困っているようだった。
「お父さんから、『きっとそっちに電話がかかってくるだろうけど、絶対に切ってくれ』って言われているの。あなたのお父さんの言うことを、私が無視してどうかするわけにはいかないのよ」
あまり何度もかけていると、牧場主から「勝手に電話を使わないでくれ」と叱られた。
一週間ほどで、透の忍耐は限界に達した。親にだまされて、強制労働させられるなんて、こんな|理不尽《りふじん》なことはもうごめんだ、と思った。が、一万円の所持金で東京まで戻るのは、不可能だった。
透は、策を練った。とにかく新千歳空港まで行こう。その後は、何とかなる。
逃げ出すのは、未明の時間帯しかない。雑談の最中に、それとなく牧場主の起床時間を聞くと、妻の方が言った。
「私は四時半に起きてるのよ。でも、私は目覚めがいいから、物音一つすればすぐ目が覚めるんだから」
戸を開け|閉《た》てする音がすれば、分かってしまうかもしれない。透は、脱走の決行は雨の朝にすることにした。雨の音に|紛《まぎ》れれば、見つからずにすむだろう、という判断だった。毎日、翌朝の天気予報をチェックした。夫妻がいない時に、彼らの寝室に入って、窓からどこまで見渡せるのかをチェックしておいた。
■「俺、今子ども誘拐しちゃったんだ」
いよいよ明日は雨が降りそうだという晩、透は荷物を|鞄《かばん》に詰め込んだ。牧場主の夫妻は馬の出産の世話をするために、厩舎にいた。出産に時間がかかれば、夫妻が床に就くのが遅くなり、眠りも深くなって少しくらいの物音には気がつかないだろう。
問題は、透自身が朝まで眠り込んでしまわないことだ。ひとたび寝たら起きる自信がなかった。透は、薄着をし、靴下も脱いで、寒くて眠り込まないようにした。それでも眠気に襲われ、うとうとしかかると、自分の足や顔を叩いて、睡魔を追い払った。馬の出産が終わり、夫妻の寝室の戸が閉まる音がしたのは、午前二時半。これなら、四時半まで起き出してくることはないだろう。
ほっとしたら、透も眠り込んでしまった。はっと起きると、時計は午前四時。天が自分に味方をしてくれているんだ、と思った。
音を立てないように、そーっと家を抜け出し、靴も|履《は》かず、傘もささず、道路に向かって走った。そこから歩いて国道まで出れば、ヒッチハイクできるだろう、という見込みを立てていた。
突然、けたたましい犬の声が近づいてきた。近くの牧場の犬だった。うっかり、よその敷地に入り込んでしまったらしい。バッグを振り回して防戦していると、そこの主がやってきて、犬を追い払ってくれた。
「けがはなかったか? ところで、君はどこから来たんだ? こんな時間に」
透は、とっさに口からでまかせを言った。
「○○さんの所でお世話になってるんですけど、母が危篤ですぐ帰ってこいって連絡が入ったんですよ」
「なんで、○○さんは送ってくれないのかね」
「夜中に出産があって、三時くらいまでかかったので、起こしても起きなかったんで、とりあえず出てきたんです」
窮地を脱しようと、必死に知恵を振り絞った。すると、その主は「じゃあ、私の車に乗りなさい」と言ってくれた。
その車で高速バスの乗り場まで連れて行ってもらった。そこからバスで札幌駅へ。あとは電車で新千歳空港に着いた。
一万円の所持金も、テレホンカードと空港までの交通費で八千円ほどになっていた。これでは、飛行機に乗るのは無理だ。航空会社各社のカウンターで、「母が危篤」と言ってみた。
「オヤジが羽田に迎えにくることになっているので、そこで料金は払いますから」
どの航空会社も、当然のことながら、話の|真偽《しんぎ》を確認しようとする。確認をされればウソがばれるので、透は慌ててカウンターから離れ、伯母の家に電話をしてみた。
すでに牧場主が父親に電話をし、伯母にも連絡がいっていた。
「『タクシーに乗って牧場に帰るように』と、お父さんから電話が来たわ」
透は、|一縷《いちる》の望みを託すつもりで家に電話をした。「迎えに来て」と懇願するつもりだった。ところが、父親の声を聞いた瞬間、怒りがこみ上げきた。透は低い声で、努めて冷ややかに言った。
「俺、今子どもを誘拐しちゃったんだ。あと、そこの売店で小刀も購入しました。分かるよね、俺が言ってる意味。俺は、これからあんたに迷惑かけること、するから」
とっさに浮かんだ作り話だった。
それを聞いて、さすがに父親も青くなったらしい。
「待て。早まるんじゃない」
「じゃあ、どうしてくれるんだよ」
「分かった。今、迎えに行くから」
約束通り父親がやってきて、息子を連れ帰った。
父親に怒りをぶつけても勝てそうにもない。だから母親に当たった。
「テメェ、このヤロー! お前もグルだな」
家を飛び出し、伯母の家に転がり込んだ。
しばらくの間、そこでやっかいになりながら、道子について乗馬クラブに行ったり、たまに伯父が持ってきてくれた教科書をめくったりしてみたが、勉強はあまり手につかなかった。
■定時制高校もすぐ退学
そんなある日、父親がフリースクール「東京シューレ」の話を持ってきた。
父親の言うことなど、信用する気になれなかった。そこが東京都北区にある、と聞いて「北区とか言って、北海道かなんかだろ」とそっぽを向いた。
しかし、伯母も「東京シューレについては私も聞いたことがある。一度行ってみたらいいと思うよ」と勧める。どうやら父親は、北海道の事件について、シューレでたっぷり怒られてきた、という。それを聞いて、透ものぞいてみる気になった。
行ってみると、普通のマンションの一室だった。小学生も中学生も一緒の場所で、思い思いのことをしている。
「どこから来たの?」
新顔の透にみんなが気軽に声をかけてきた。
透も、すぐに場の雰囲気になじんだ。ここでは、英語や科学などいくつかの講座が開かれていた。出席はまったく自由だったが、透はなるべく受講するようにしていた。
ここには、高校進学を考えている友達もいた。彼らと話をしているうちに、透も「高校に行けたらいいなあ」と思うようになってきた。成績がいいわけではなかったが、いじめに|遭《あ》うまで、学校は嫌いではなかったのだ。
毎朝、部屋の鍵が開けられるのを待つようにして彼はシューレに通い、講座もすべて受講した。だが、問題は中学校だった。卒業見込みの証明を出すには、出席の日数が足りない、という。シューレを主宰している奥地圭子が、学校に出向いて談判した結果、ようやく学校長も「高校に行くなら」と、卒業に同意した。
透の心に初めて、小さい希望が芽生えた。
「高校に行ける」
定時制の公立高校に進学が決まった。
行ってみて、びっくりした。透は、高校時代をこう振り返る。
「一年と二年の仲が非常に悪かったんです。食堂でご飯食べる時に一緒になるんですけど、そのたびに、悪いのが固まっていて、|小競《こぜ》り合いが起きる。僕もそういうのには染まりやすいので、毎日ケンカです。ある時、学校が終った後に、前の公園で流血の乱闘騒ぎになり、警察まで来た。授業は、誰も聞いてなくても、先生がどんどん黒板に書いていくだけなので、さっぱり分からない。こんなとこにいてもしょうがねえな、って思った」
結局すぐに退学。東京シューレに顔を出しながら、アルバイトを始めた。
ガソリンスタンドでアルバイトをするようになってから、バイクに興味を持つようになった。十六歳になるとすぐに免許を取り、バイクを買った。
それを知った父親が怒った。
「せっかく入った高校も辞めて、何をやってるんだ」
手を振り上げた父親を押し返した。思いの|外《ほか》あっけなく、父親は倒れた。
「勝った!」
透は心の中で叫んだ。腕力では絶対に勝てないと、今まで服従を強いられてきた父親に、初めて勝つことができたのだ。
■親を苦しめるためなら何だってやる
この時から、親子の力関係は変わった。北海道で置き去りにされて以来、今まで押さえてきた父親への恨みや怒りが、一挙に吹き出した。
「テメエ、あの時はよくも……」
何かというと、この恨み言が出た。家の中で荒れた。母親に直接暴力を振るうことはなかったが、父親のゴルフクラブを家の中で振り回し、様々なモノをたたき壊した|挙《あ》げ句、クラブをへし折った。
もうシューレには行かず、アルバイトとバイクに明け暮れる毎日。バイクでの暴走をやった。他の車が恐れてよけてくれるのが、気持ちよかった。パトカーとの追いかけっこはしばしば。暴走族同士のケンカにも加わった。
その頃の自分を、透は今こんなふうに振り返る。
「オヤジに力で勝って、自分も大人になった、と思った。だったら、もう何をやってもいいだろう、と。それで今までの思いが爆発して、親が嫌がること、親の期待と逆のことばかりやっていた。北海道事件の後遺症があって、親を苦しめるためなら、心配されるためなら、何だってやってやる、というような感じだった」
それほど荒れている時でも、伯母夫婦だけにはその|矛先《ほこさき》を向けられなかった。伯父は、決して大声をあげたり腕力が強いわけではないのだが、一言|諭《さと》されると、それに|抗《あらが》う気にはなれなかった。それが何故なのか、透にはうまく説明ができない。
「オーラが違うんですよ」
伯母夫婦とは、それまでの十何年かの間に築かれた信頼関係も、大きかった。
そんな荒れた生活が続くうちに、彼は十八歳になった。
「僕らの場合、十八歳っていうと、『もう、そろそろ』っていう年代でした。二十歳までゾクをやってるっていうのは、普通はいませんよね。辞めるか、上へ行くか。上っていうのは、つまりヤクザです。実際、そういう方面からスカウトみたいのもありますし」
ヤクザになるつもりはなかった。自動車免許があれば就職に有利だろうと、免許を取った。しかし、結局バイクが車高の低い改造車に変わっただけだった。
なかなか次の一歩を踏み出せないでいる時、透は元暴走族の先輩に出会った。
先輩は、自分の体験をじっくり話してくれた。その先輩も、力さえ強ければやっていけると信じていたタイプだったが、暴走中の交通事故で怪我をして、「こんな一瞬のことで人間っていうのは、ダメになっちゃうんだな」と思った。暴走族を離れて就職し、営業マンとして働いているうちに、ガールフレンドもできた、という。
「お前、今彼女、いるか?」
「俺は、硬派ですから」
透は粋がって見せたが、暴走族時代にはパッとしなかった先輩が、今こうやって真面目にやっている姿がなんともまぶしく、かっこよく見えた。
暴走族を抜け、就職をすることにした。都内の縫製工場に職を見つけた。その頃には、いつかは父親が経営している工場を|継《つ》いでやってもいい、という気になっていた。
■母の死と父への幻滅
働き始めてまもなく、後に妻となる真弓と知り合った。
新潟県の出身で、二年前から工場に勤めて地道な暮らしをしていた真弓は、初対面の時の透の|出《い》で立ちに|度肝《どぎも》を抜かれた。
真っ赤なシャツにネックレス、髪型はリーゼントスタイル。
「なんだかすごいのが来たわ」
女性ばかりの職場に初めて来た若い男性とあって、透に|憧《あこが》れる女の子たちから、真弓は相談を受けた。なのに、なぜか透は他の女の子には目もくれず、真弓ばかりをデートに誘った。
暴走族を抜けたとはいっても、乗り回しているのは、車高の低いスカイラインの改造車。走りながら、音楽をガンガン鳴らす。
外見は危なっかしい面があったが、知り合ってみると、透には意外な面もあった。仕事の取引先には、信頼されていたし、ドライブに行く場所も常に下調べをして、真弓を楽しませようと努めた。仕事にも、遊びにも、常に一生懸命の透の人間性に、真弓は次第に|惹《ひ》かれるようになった。
透には、こういう平和で幸せな生活は、初めてのような気がした。毎日が充実していた。
ところが、真弓と交際するようになって三カ月目、母親が急逝した。くも膜下出血だった。享年五十五。透が二十歳の正月のことである。
母親は、一人息子のために、生命保険に入っていた。透は、伯母の道子からそのことを知らされた。しかし探しても証書が見つからない。父親を問いつめた。最初は知らんぷりをされた。掛け金を支払った受領書を見つけ、保険会社に問い合わせをした。すると、父親がそのお金を引き出そうとしていることが分かった。
その事実を突きつけると、父親は今度は「こんなまとまった金を渡したら、お前の生活がおかしくなる」と言った。
すぐには使ったりしないから――そう反論して、保険の証書を取り戻し、道子に預けた。
その後も、父とは金を巡って何度かギクシャクがあった。
羽振りがいい頃の父は、金遣いも派手だった。信用金庫で融資を受けたその足で、人を連れて豪遊したこともある。その後バブル崩壊のあおりで、工場の景気は低迷。資金繰りに苦労することもあったらしく、たびたび息子に無心をした。
しかも、母親が亡くなってからは、ほとんど家にも帰ってこない。家賃も払わず、大家から|督促《とくそく》を受けるようになった。
透は、母親の一周忌を待って、真弓と結婚した。母が残してくれたお金を頭金にして、小さな小さな家を買った。
父親には、すっかり|幻滅《げんめつ》していた。父親の仕事を継ぐ気など、失せてしまった。そうなれば、なぜ縫製工場に勤めているのか分からなくなってきた。結婚後も仕事を続けていた真弓が言った。
「辞めて、好きなことしなさいよ」
真弓は、自分が生活を支える覚悟だった。
「しばらく苦労かけるかもしれないけど、きっと好きなこと、見つけるから」
その後、いくつかの職を転々とした。しかし、なかなかしっくりくる仕事が見つからない。医療機器の営業をいくつかやってみたが、話をしているうちに、お客さんに情が移ってしまい、自分が相手を|騙《だま》しているような気持ちになってくる。
やっぱり営業は合わない。自分に合う仕事って何なんだろう――そう考えると、ますます分からなくなってくる。一月ほど、全く仕事がない期間もあった。
■二級建築士になろう
次の仕事が見つからずぶらぶらしている時に、知り合いを通じて工務店の仕事を紹介された。
そこは、主に内装を中心に仕事を受けている工務店だった。言われるままに働いた。そして、仕上がりを見て、感激した。
「やってみたら楽しかった。それに、家って作品じゃないですか。こうやって、作って残せる。仕事のいいも悪いも、形に出ちゃうじゃないですか。それがはっきりしてて、いいなあ、と」
二年ほどその工務店で世話になったが、やっているうちに、家一軒を自分で建てられるようになりたい、と思うようになった。家の近所の工務店が、「じゃあ、うちに来たら」と言ってくれた。雇い主の奥村和美は言う。
「この時点で、二十台半ばですからね。スタートは確かに遅い。でも、『一生かけてこれをやりたい』という熱意があった。仕事の飲み込みも、特別早いわけではないが、責任感があって、前の晩に次の現場の材料をちゃんと|揃《そろ》えておいたり、仕事に対する姿勢が真面目で、よく気がつく。私が遠方でお客さんとのつき合いがあり、夜遅くなってカプセルホテルにでも泊まるしかないかなと思っていたら、彼から電話があって、『車で迎えにいきますよ』と。午前一時くらいに迎えに来てくれました。そういうヤツだから、お客さんにも評判がいい」
全くの基本から、奥村や先輩たちに教わりながらの仕事だった。叱られてむっとすることもあったが、多くの場合、先輩の言うことにはそれなりの理由があった。何より、仕事が面白くて仕方なかった。
「昔の人は頭よかったんだなあって思いますよ。木を刻んで、ガバッガバッと組み合わせると、がっちりかみ合って、もうどっちから叩いても動かない。どの方向の力にも耐えるように出来てるんですよ。それに、昔の人は、屋根の勾配を計算するのだって差し金一本でやってたんですからね。すごいなあって。学校で習ったピタゴラスの定理とか、それと一緒のことも、差し金使ってやるんですよ。学校でやったのはセンチとかメートルだけど、寸とか尺の世界でも、同じ所に行き着いているんだなあって考えると、数学とかも面白そうだな、と興味が出てきたんです。本当はもっと深いことがいろいろあって、勉強すればそういうことが分かるだろうなって」
母親の言葉も心に残っていた。
「何か資格だけは取っておきなさいよ」
透は、二級建築士の資格に挑戦してみようと思った。
この資格が取れれば、将来独立する時に有利だし、高校卒業と同じ扱いを受けるという点も魅力だった。
透は、仕事の後、受験のための学校に通うことにした。入学金や授業料などを払い込んでから、透の中に、不安が|蘇《よみがえ》ってきた。中学に行かなくなってから、十年以上も経っているというのに、「本当に、自分が通えるだろうか」という自信のなさがつきまとった。
■「ルート」が分からない
不安を振り切って行ってみると、教室には、自分と同じように建築士という目標に向かっている仕事着姿の若者がいっぱいいた。毎日のテストの後やグループ学習を通して、勉強を教え合ったりする仲間ができていった。
途中から中学に行かなくなった透は、算数の基本から勉強し直さなくてはならなかった。最初は一桁の足し算、続いて足し算とかけ算の複合、分数。ルート計算が出てきた時には、ルートという言葉も知らなかった。
漢字を知らないので、専門用語を書き取ることができない。「隣地境界線」とか「|建坪率《けんぺいりつ》」「採光」などという言葉を、何十回、時には百回以上書いて覚えた。
宿題も毎日出た。透は家に真弓の友達が遊びに来る時などは、勉強道具を伯母の道子の家に持っていって、そこで勉強した。これまで、これほど勉強したのは初めてだった。
「勉強が楽しかったのも、初めてだった。覚えるのが楽しかった。ゲームで言うと技を覚えていくっていう感じ。テレビゲームが好きなやつがゲームに集中する時のような集中力で|臨《のぞ》んでいた。自分が欲しい資格だったから、勉強もやりたかったんですよ」
学校の授業が始まったのが十月で、一次試験は翌年七月。勉強した期間は一年に満たない透は、先生方にも、「今年はまず無理だよ」と言われていた。それが、一次試験をパスした時は、周囲から「あり得ない」とびっくりされた。
そして、九月の設計製図の二次試験。この時には、真弓が妊娠していることが分かっていた。気楽に受けた一次試験と違って、「何が何でも受かりたい」と必死だった。
発表までの二カ月半。結果が気になって気になって、「飯も|喉《のど》を通らなかった」。
「やりましたよ」――学校から合格を知らせる電話が入った時、透は思わず絶叫した。涙が|溢《あふ》れてきた。合格率一八%という難関を、中学校も最後まで行かなかった自分が、一年がんばって突破することができた。このことは、透にとって大きな自信になった。
「俺は、自分がバカだと思ってたんですよ。学校に行ってないから、頭が悪いって。でも、そこそこみんなについて行けたし、資格も一回で取れたんです」
初めて自分の引いた図面で、自分一人の力で建てたのは、親戚の家の増築だった。
「実感が出てきたのは、図面を広げながら打ち合わせしている時。いろいろ説明しているうちに、『俺の図面でやってるんだよなあ』って。親戚だといってもお客さん。それが、自分の描いた図面を真剣に見て、プランを立てている時、『俺って、仕事してるじゃん』って。家は、一生の買い物だから、みんな思い入れが強いんですよ」
自分が関わった家には、透も思い入れがある。夜中、突然自分が建てた家を見たくなって、真弓を連れて車を飛ばしたこともあった。
■十四年目の和解
長男|飛翔《つばさ》も生まれ、毎日が充実した日々だった。
職場で余った材料をもらい下げたり、安く譲ってもらったりして、暇をみつけては自分の家にも手を入れた。古くなった|濡《ぬ》れ縁をつけかえ、壁をきれいに張り替え、トイレのドアをつけ直し、洗面所も模様替えした。パソコンを置くスペースを作るために、半畳ほど増築をし、真弓が頼んでもいないのに、台所の収納棚を新しくした。
そんなある日、すっかり縁切り状態で音信も途絶えていた父が、ガンで入院している、という話を聞いた。再会した当初は、やはりお金のことでぎくしゃくした会話があった。しかし、透はそれでも頻繁に見舞いに通った。入院に伴う費用も、負担した。父には、母と結婚する前、先妻との間に子どもがいた。だが、彼らは病院には寄りつかない。羽振りがよかった時は向うから接触を求めてきた人々からも、敬遠されていた。
「お前はなんでそこまでしてくれるんだ?」
病室を出ようとする透に、父親が弱った声で聞いてきた。
「当たり前じゃん、子どもなんだから」
そう透が答えると、父はやせ細った手を伸ばしてきた。透は、その手をしっかり握った。温かかった。
励ましの言葉をかけて、透が帰ろうとすると、父はまた呼び止める。
「手、洗っといた方がいいぞ」
「ああ、思いっきり洗っとくよ」
お互い、照れ隠しの憎まれ口をたたきながら笑った。
北海道での置き去り事件があった十四歳の時からほぼ十四年。初めて父と心を通わせ、親子らしい会話を交わした瞬間だった。飛翔にも会わせた。初孫との対面に、父親は目を細めた。
それからまもなく、父は息を引き取った。遺体は透が自分の家に引き取り、葬式を出した。
「生きているうちに和解ができてよかった。これで、子どもにも、いいおじいちゃんだったよ、と言える」
先輩の大工から、まだまだ学ぶことがある、という透。一通りの技術を習得したら、一定期間お礼奉公をし、その後は独立するつもりだ。
「建築会社を作って、自分のところの工法を開発したいんです」
スタートは遅かったかもしれないが、今、一人の大工として、透は夢に向かって一歩一歩確実な歩みを進めている。
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高齢者ホームヘルパー 山谷千香

■融通のきかない担任
何か理由があるはず――わが子が学校へ行くのを嫌がるようになると、多くの親はその原因を知ろうと努めるようである。親だけではない。周囲の大人は、何とかして学校に行けない理由を究明し、子どもが学校に戻れるように対策を講じようとする。
山谷千香(仮名)を取り巻く状況も、そうだった。
千香が学校に行けなくなったのは、小学校五年生の時。
彼女自身も、当時は行けない理由をうまく説明できなかったが、大人になった今、当時の自分の状態をこう分析する。
「子どもの頃の私は、神経質にがんばるタイプだったんですね。自分はこうあるべきという理想像があって、それに向かってがんばり過ぎた。子どもにとって学校は、イコール社会。そこで不完全な自分を見せたくないという気持ちが強かったと思うんです。それで、気持ちがいっぱいいっぱいになってしまって、でも理想に到達できないで、どうしたらいいか分からなくて、つらくなってしまう状態でした」
千香にとって、「理想的な自分」とはどんな子どもだったのか。
「与えられたこと、課題を完全に、一〇〇パーセントの形で返したかった」
通っていたのは、横浜市内の新興住宅街にある公立小学校。五年生になって、そこそこ経験のある女の先生が担任になった。
よく言えば|几帳面《きちようめん》でまじめで熱心。子どもの側からすると、|融通《ゆうずう》がきかず、四角四面で息が抜けない先生だった。そのうえ、時として感情的な叱り方をする人だ、と子どもたちは警戒していた。
その先生は、子どもは学校を最優先すべき、という信念の持ち主でもあった。遅刻などの生活習慣の乱れには厳しく、宿題も多かった。子どもがきちんと宿題を仕上げてこないなど、先生にとってはあってはならないことだったらしい。
クラスには私立中学を受験する子が多く、ほとんどが学習塾に通っていた。そのことも、先生には苦々しいことだったらしい。当然、塾で忙しくて宿題ができないなど、もってのほか。
「何でできないのっ!」
そういう子どもは、厳しく叱責され、立たされた。
有名私立中学を受験する子たちに比べれば、千香はのんびりした子ども時代を送っていた。性格的にも、あくせくせず、おっとりした女の子だった。それでも、週に二、三回は学習塾に通った。幼い頃から続けていたバレエのお稽古もある。友達とも遊びたい。
時間がなくなって、宿題をできないことがあった。先生は千香を詰問した。
「何でできないのっ!」
「塾が……」
千香のしどろもどろの弁明が、先生の怒りの火をさらにかきたてた。
「だったら、私が塾に電話をして、やめさせますっ!」
この時期、千香の家では大人たちは非常事態のまっただ中にいた。
父方の祖母が末期のガンで入院。医師である祖父の方針で病名告知をしないまま、千香の両親、父親の弟の三人が交代で病院に詰めていた。千香も土曜、日曜は親に連れられて病院に行くことがよくあった。
しかも、父親が十年以上勤めていた会社を辞め、外資系の企業に移る時期だった。新しい会社では、すぐに海外出張を命じられた。
母親の裕美(仮名)は、「あの頃は、うち中倒れる寸前でした」と振り返る。
「主人は日本にいる時は病院に泊まりこむことが多くて、もう疲れきっていた。私も、あの時初めて、胃にポリープができてしまいました」
■朝が来るのが怖かった
それでも裕美は、娘の様子がなんとなくおかしいなと気づいていた。
朝が辛そうだったり、「今日は塾に行かない」と言ったり、今までの千香らしくない。娘の気持ちを引き立てようと、公園にバドミントンをやりに誘い出しても、動きが鈍かった。
変だなと思っているうちに、入院していた祖母が亡くなった。大人たちは、葬儀やそれに伴う様々な用事でひときわ多忙を|極《きわ》めた。
疲れがたまっている父親は、駅までの徒歩七分の距離を歩くのも大儀らしかった。「車で送って」と頼まれれば、裕美が駅まで送った。
それを見ていたのか、ある時千香が裕美に言った。
「学校まで、車で送って」
合唱の朝練習があって、千香は指揮をする。でも、寝坊して集合時間に間に合いそうもないのだ、という。
一連の忙しさで、裕美は新学期になってから、母親同士でおしゃべりをしながら情報交換をする場に参加することができなかった。そのため、担任の先生の時には感情的な爆発を伴う厳しさを知らなかった。しかも、担任には直接家庭の状況を伝えてあったので、娘の学校での苦境が想像できなかった。反射的に、千香の頼みを突っぱねる形になった。
「何を言ってるの!」
子どもは、疲れきった夫とは違う。ここで甘い対応をして、怠惰な子になっては困るという気持ちもあった。
その日、千香は学校を休んだ。
友達との間にも、微妙な波風が立った。仲良しだった女の子が、急に冷たくなった。その子は有名私立中学を目指して猛勉強していた。彼女より千香の方がテストでよい点数を取って以降、ろくに口もきいてくれなくなった。彼女も、受験のストレスで精神的に追い詰められていたのだろうが、千香にもそれを|鷹揚《おうよう》に受け止める余裕はなかった。
時々休むことはあっても、一学期はなんとか終えた。
夏休みがあけて二学期が始まった直後、千香にとって決定的なことがあった。
先生は、夏休み中の宿題として、各教科にドリル一冊など、例によってかなりの量を課していた。
学校での緊張感から解放され、ゆったりとした夏休みを過ごした千香は、その宿題が全部できていなかった。
先生は、クラスのみんなの前で千香を|怠《なま》け者だと責めた。|口応《くちごた》えもできず、千香は悔しさで涙を流すばかりだった。みんなの前で泣いたことも、悔しかった。このことがあった九月四日以降、千香は学校に行かなくなった。
叱られても後ろをむいてペロリと舌を出す調子のよさも、先生の前では|殊勝《しゆしよう》にして陰で|悪態《あくたい》をつくことで気持ちのバランスを取る要領のよさもなかった。真正面から先生の怒りを受け止めるには、幼すぎた。
感情が自分でコントロールできず、やたらと怖がりになった。朝になってもただ泣いてばかりいて、布団から出ようとしなかった。
朝になれば母親に起こされ、「学校に行きなさい」と言われる。ひたすら朝が来るのが怖かった。夜眠れない。一晩中、本を読んで起きている。当然、朝は熟睡状態。生活は、昼夜が逆転した。昼間もテレビを見たり、本を読んだりして、家の中で過ごす。
テレビを見ていても、ぜんぜん楽しくなかった。内心では、学校に行かれないのは悪いことだという罪悪感でいっぱいだった。人に会うことが怖くて、昼間は外に出られない。同じクラスの子も通っている塾には、完全に行かなくなった。バレエ教室だけは、学区の外にあって、学校の知りあいはいないし、夜だったので、母親に車で送り迎えをしてもらって、人目をしのぶようにして、時々行くのが精一杯だった。
■張り切り過ぎてくたびれる
まわりの大人たちは、なぜ千香が学校に行かれないのか、理解できなかった。
「何があったの? 何か理由があるはずでしょ?」
とりわけ一番身近にいた母親が心配をして尋ねてくるが、千香自身が、自分の気持ちを大人に分かるように説明するほど、整理できていなかった。
いじめにあっている形跡はない。ということは、この子は病気なのではないか。そう考えた裕美は、千香を病院に連れていった。
検査をしても、体にとりたてて異常はない。それでも、いくつかの症状から、医師は「起立性調節障害」という病名をつけ、「これでは朝起きられないのも、当然でしょう」と言ってくれた。
病名がついたことで、裕美はなんとなくホッとした。
その頃、学校の勧めで千香は市の児童相談所に通っていた。担当のカウンセラーが、張りついた笑顔を浮かべて千香に言った。
「さあ、お砂で遊びましょう」
日中、家に閉じこもってテレビを見ていることが多かった千香は、以前似たようなシーンを見たことがある、と思った。ドロドロした話が展開されるドラマの中に、この箱庭療法が出てきた。ドラマの暗いイメージが呼び起こされて、千香は落ち込んだ。
転校すれば、気持ちが変わるのではないかと、両親は学校を探した。一時は海外の法人が経営する私立学校なども候補に挙がったが、条件やタイミングが合わず、いずれも断念することになった。
学校に行けないまま、六年生に進級。担任の先生も代わった。
千香は、気持ちを一新して学校に行こう、と思った。
「新しいノートの一ページ目は張り切って書くみたいな感じで、行きました。ずっと学校に行けないことで罪悪感があったので、学校に行けるという自分に満足したかったんです」と千香。
「学校に行く」と言うと、両親が心底ほっとした笑顔を浮かべた。
「いってらっしゃーい」
母親の明るい声に送り出され、千香はますます張り切って学校に向かった。
張り切り過ぎたのだろうか。何日か通うと、くたびれてしまった。再び休みがちになった。
今度の担任は、やさしそうなベテランの女の先生だった。千香を責めたてることもないし、学校を休むことについても詰問するようなことはなかった。千香は、この先生がとても好きになった。
なのに、元気よく学校に行くことができない。なぜなのだろう。
その理由を言葉で説明するのは、今の千香にも難しいようだ。
「一度行けなくなると、もう先生がどうの、という問題じゃなくなるんですね。その空間への拒否反応と言ったらいいのか……。数年前、十三歳下の弟の運動会で久々に小学校へ行ったんですが、その時もなんだか息苦しくなってしまったんです」
一度学校に行けば、途中で早退することもなく、元気に一日を過ごす。でも、家に帰るとぐったりしてしまうのだ。友達とのちょっとした言葉の行き違いで、ものすごく傷ついた。そういう疲れや気の重さは、次の朝にも尾を引いた。
クラスメイトからショッキングなことを言われた。
「五年の時の先生は、登校拒否児を出したからって、担任を外されたんだぞ。お前のせいで、今の先生も飛ばされるかもしれない」
大変だ、と思った。この先生がいるから、休み休みでも、一応学校に出てくることができる。そんな先生に、迷惑をかけたくなかった。学校に行けない罪悪感から逃れたい気持ちもあって、月や学期の変わり目など、何かきっかけを作っては、千香は学校に向かった。そして、疲れて休む。小学校を卒業するまで、その繰り返しだった。
■熱血漢で暑苦しい担任
学校に行かなければと思う気持ちと、行けない現実の|狭間《はざま》で、千香は時々混乱した。周囲からのプレッシャーも苦しかったのだろう。そういう時、千香は家の中で暴れた。ティッシュの箱など、その辺にあるものを手当たり次第投げ散らかす。本棚を引きずり倒す。壁を蹴ってボコボコにした。同じ部屋にいた妹が、怖がって、両親の部屋で寝るようになった。
その両親の部屋の前に、深夜カチャカチャと音を立てながら人がたたずんでいる気配を感じて、裕美は目覚めたことがあった。とっさに、娘が手にカッターナイフを持っている、と思った。一瞬ギクリとした。
娘の心配で裕美は精神的にヘトヘトになっていた。もうどうにでもなれという気持ちで、腹をくくった。
そんな状態ではあったが、千香は卒業式には出席し、同級生と一緒に卒業証書を受け取った。
一応私立中学を受験してみた。小学校の授業にはたまに出席する程度でも、なんとかついていけたが、やはり入学試験は難しかった。
地元の公立中学に進学することになった。千香は、「新たなスタートだ。今度こそ心機一転がんばろう」と決意をした。その娘を応援する気持ちを込めて、両親はそろって入学式に出席した。
その中学には、三つの小学校から生徒が進学してきていた。小学校の時に近しかった女の子たちはほとんど私立中学に進学していたので、知らない人がほとんど。千香はかえってその方が楽だった。
「恥ずかしい思いをしなくてすむ」と思った。
彼女には、学校に行けなかった過去が、恥ずかしいことに思えていた。
担任は、いかにも|熱血漢《ねつけつかん》の体育教師。千香には「なんて暑苦しい男」としか思えなかった。
でも、小学校の時と違って、担任と一日を過ごすわけではない。教科ごとに先生が替わるのは、なんていいシステムだろうと、うれしかった。朝夕のホームルームを欠席すれば、担任とも顔を合わさずにすむ。
最初は張り切って学校に行き始めたのだが、やはり長く続かなかった。教室にいると、なぜか疲れてしまう。そうなると、保健室に行った。
「疲れてる顔しているから、少し休んでいけば?」「そこに寝ていったらどう?」
保健室の先生は、いつも優しく千香を迎えてくれた。
学校の中で、|唯一《ゆいいつ》居心地がいい、千香の居場所だった。
小学校の時は、休みがちでもなんとか授業についていけた。しかし、中学ではそうはいかない。授業を何度か休むと、もう何が何だか分からなくなる。特に数学がからきしダメだった。
二年生になると、学校に行ってもほとんど教室ではなく保健室で過ごすようになった。担任は、女の理科の先生。時間をみつけては、保健室で少しずつ勉強を教えてくれた。
■「ヤンキーな子たち」との交際
両親は、娘にどう対応したらいいのか、アドバイスを求めて様々な専門家や機関を訪ね歩いた。その一つが、東京シューレだった。
千香は、両親に連れられて、一度見学に行った。同じ年格好の子どもたちがたくさんいるのを見て、気持ちが楽になった。
(なんだ、不登校の子って、こんなにいるんだ)
それまで常に抱えていた罪悪感が、すーっと薄らいでいった。
|夜更《よふ》かしの癖は続いていた。時には一晩中起きていることもあった。そういう時は、明け方あたりから、気分がハイになっていた。朝六時頃から制服を着込み、勢い込んで学校に行く。教室には、もちろん誰もいない。ひとり本を読んでいるうちに、高揚した気分が落ち着き、今度はどんどん落ち込んでいく。誰かが来るのを待って、「(出席を取る時には)ちゃんと来てたって、先生に言っておいて」と伝言して、保健室へ。学校には来ていても、昼夜が逆転した生活に逆戻りしていた。
そんな生活だから、クラスの中で親しい友達ができない。その代わりに、上級生を含む「ヤンキーな子たち」との交際が始まり、母の裕美は気を揉むようになる。その子たちと一緒に、昼間学校を抜け出すようなこともあった。
裕美は寝ても覚めても、千香のことが気がかりだった。異常に勘が|冴《さ》えた。夜中、千香の夢を見てハッと飛び起きると、娘がいない。慌てて外を探しに行くと、近くの公園で「ヤンキーな子たち」と一緒にたむろしていた。
この遊び仲間は、特に暴力や犯罪に千香を誘うわけではなかったが、彼らがつき合っている先輩たちの中には、裕美の目には「ヤクザではないかしら」と映るようなタイプもいた。さすがにそういう先輩が出てきた時には、千香も怖くなったらしく、それ以上つき合いを密にすることはなくなった。
罪悪感は薄らいだとはいっても、千香は、そういう自分の状態がよいとは思えなかった。中学卒業後の身の振り方も考え始めなければならなかった。
当時の神奈川県は、内申書と入学試験の他に、中学二年生の時に実施するアチーブメント・テストを加えた三種類の評価で、高校入試を行っていた。
中学を卒業すれば、多くの人は当然のように高校受験をする。千香も、高校へ行くかどうかを考えるより、「ちゃんと高校に入れるだろうか」という不安が|募《つの》っていた。ろくに授業も出ていないので、内申書は期待できない。ア・テストのための勉強もしていない。
横浜市が運営している不登校の子どものための養護教育(養教)センターに、週一度行くことになった。しばらく通っていれば、様々な理由で学区の学校に行けない子どもたちを集めた学校で授業を受けられるようになる、という話だった。
千香は、そういう学校なら自分も行けるかもしれない、と思った。
しかし、養教センターには一人で電車を乗り継いで来ることを求められた。当時の千香は、電車が苦手だった。乗り物酔いのように、気分が悪くなる。母親に車で送ってもらった。これでは、その学校には紹介できない、といわれた。
おまけに、養教センターの職員が、学校の先生と連絡を取り合いデータを交換し合っていることを知って、千香は裏切られたような気持ちになった。
(私に言ってくれれば、ちゃんと学校に報告するのに……。今まで、私はこの人たちに観察されていたのね)
養教センターに行く気持ちは、すっかり失せてしまった。
■母と担任と三人の卒業式
その代わりに、千香は東京シューレに参加するようになった。不思議とシューレには、一人で電車に乗って行っても平気だった。ただ、片道一時間半かかるので、毎日というわけではない。それでも、そこで同じように学校に行けない罪悪感で苦しんだ経験のある同年代の子どもたちと話をするだけで、気持ちがとても楽になった。
高校進学は絶望的になっていた。でも、|焦《あせ》りはなかった。この頃には、本来のおっとり、のんびりした部分が戻ってきていたのかもしれない。「それはそれで、別にいいや」と、楽観的な気持ちになっていた。
(それより、何か自分のやりたいことが早くみつかるといいな)
両親は、不登校の生徒を受け入れることで知られている、北海道の全寮制高校を勧めてみた。ここなら、千香の成績でも入ることが可能だった。
千香は猛反発した。
「うちから追い出したいの?!」
娘の|剣幕《けんまく》に、両親はしばらくそっと見守るしかない、と思った。
進路を話し合うための三者面談の時、両親はこう言った。
「進学したいならもちろん援助はする。でも、どうするのかは千香に任せるよ」
千香は、進学はしないことにした。かといって、格別やりたいことが決まらないので、就職する気にもならない。
(アルバイトをいろいろやってみながら、自分のやりたいことを探してみよう)と思った。
三年生の時はほとんど学校には行かなかった。卒業式も欠席。担任の先生が卒業証書を家に持ってきてくれて、母と一緒に三人で小さな卒業式をやった。
中学卒業と同時に、アルバイトを探した。ところが、どこに電話をしても十六歳以上でなければ雇えない、と断られる。千香は十月生まれ。半年も待たなくてはならない。やることがなくてつまらない日々だった。
ある日、千香はいつものように地元の図書館へ本を借りに行った。そこの掲示板に、ボランティア募集の張り紙がしてあった。内容は、ダウン症の赤ちゃんの訓練の手伝いだった。
時間をもて余していた千香は、張り紙に書いてあった連絡先に電話をしてみた。
身近に障害のある人はいなかったので、最初に赤ちゃんの相手をした時には、ショックを受けた。でも、そのお母さんから、「次はいつ来られます?」と聞かれた時、新鮮な喜びを感じた。
「この私が求められているの?」
小学校の最後の二年間と中学校の三年間は、たとえ強気の態度をとった時でも、内心ではこんな私が生きているのが申し訳ない、という気持ちがあった。ところが、このボランティアでは、初めて人の役に立っている、という実感があった。
約束した時間帯は、学校と同じで時間厳守だったし、完璧に拘束された。それでも、それはよそから強制されたことではなく、自分で選んだことだった。しかも、感謝をされるというおまけ付きだった。
他人から自分が必要とされる経験は、千香にとって初めてだったし、とてもうれしかった。少しは、自分を肯定してもいいような気がした。
とは言っても、ボランティア一筋にやっていくつもりはなかった。自分が本当にやりたいことを見つけるためにも、いろんなことを試してみたかった。
■アルバイトの「すごい達成感」
十月になって十六歳の誕生日を迎えると、彼女はアルバイトを始めた。
最初は、ドーナッツを主とするファストフード店の店員。お客の注文を取り、商品を出し、レジを打ち、掃除やその他諸々の雑用をこなす。
時間の約束には几帳面なタイプだ。ボランティアの時と同様、それはきっちりと守った。すると、その拘束時間の分、当然ながら、報酬が出る。
「学校と同じように、規則があって拘束されて、制服もあるのに、こっちはお金がもらえるんですよ。当たり前のことなんですけど、その当時はものすごく感動しました」
うれしくなって、一生懸命働いた。午前中から昼間にかけては、自分の母と同じくらいの年齢の主婦パートと、夕方以降は高校生のアルバイトが一緒だった。
「それでも親からお小遣いをもらっていたんですが、そうはいっても、やはり自分でお金を|稼《かせ》ぐようになってからは、お小遣いをもらうだけの時とは違った。自分で稼いだお金で遊ぶのは、すごく気持ちがよかった」
長い時には一日十三時間働き、時給七百五十円で月に十万円以上稼いだ。この時には、「すごい達成感」があった。
ただ、アルバイトで新しく人と知りあうたびに、同じことを聞かれるのには、うんざりしていた。
「(年は)いくつ?」「学校は?」
高校に進学していないことを知ると、相手はそういう話題を意識的に避けてくる。自分が奇異な目で見られているような気がした。
(だったら、高校に入ってみようじゃないの)
同級生とは一年遅れて、千香は通信制のNHK学園に入学した。テレビ番組と教科書を中心に自分で勉強を進めてレポートを提出するシステムで、スクーリングは月一回、テストは年二回と他の通信制高校に比べて少ないのが魅力だった。
しかし、千香の生活の中心はあくまでアルバイトで、なかなか指定された番組を見ることができない。レポートは、教科書を読み読み、なんとか仕上げた。
中学に行かなかったことは、大きなハンディだった。特に理数系の科目はお手上げだった。
がんばったつもりだったが、二年生から三年生に進級できなかった。
私立中学・高校に進学していた二歳下の妹と、同学年になった。千香は、妹にアルバイト料を払って、レポートを書いてもらったこともあった。
結局三年在学したが、三年生になれないまま退学した。
「勉強したくなった時に、もう一度やればいいや」
不思議と、挫折感はなかった。
自分が勉強したかった、というより、世間の目に反発する形で入った高校だったので、それほど執着はなかったのかもしれない。
それに、国語などの文科系の科目はそこそこついていけた。作文が得意な千香は、妹が毎月学校に提出しなければならない読書感想文を、代わりに書いてやることがよくあった。そのために課題になっている名作を読んだ。本を読むのは好きだったし、感想文にもたいてい、いい評価がついた。
アルバイトとはいえ、働いている中で、少しずつ自分に対する信頼のようなものが芽生え始めていたのかもしれない。
ドーナッツ店で働いてみて、人と話すことは嫌いじゃないし、自分はサービス業に向いているかもしれないな、と思った。ただ、一通りの仕事の流れが分かってしまうと、今度は他のことをやってみたくなった。千香は、アルバイトをいくつか変わった。
ファミリーレストランのキッチン、居酒屋やカラオケボックスの店員などをやってみた。街を歩いているときに、モデルを派遣している会社にスカウトされたこともあった。チラシの写真モデルをやってみた。千香は、秋篠宮妃紀子様に似た柔らかい雰囲気の美人なのだが、会社の人から「もっと|痩《や》せろ」としつこく言われて辞めた。
■「あんな子が娘だったら」
東京シューレに通っていた頃に知りあった友達が、私立大学の通信学部に入る、と聞いた。十八歳以上ならば、誰でも入学できるのだ、という。高校卒業の資格がない人は、一年間は選科生として大学が求める単位を取得すれば、翌年から大学一年生になれる。その代わり、通信制とはいっても、週に二回から三回大学に通わなくてはならず、授業もかなり厳しい。友人は、ここで勉強して保母の資格を取りたい、と言った。
千香は、友人の話に大いに刺激された。その大学の資料を取り寄せ、見学にも行ってみた。
その時点では、「今の自分には少し厳しい」と断念したものの、高卒の資格がなくても、選択肢はいろいろあるらしいと知って、明るい気持ちになった。
アルバイトを転々としながら、千香は二十歳になった。自分が進む方向を、手さぐりで|模索《もさく》し続けていた。専門学校や職業訓練学校の案内も取り寄せてみた。
そんなある日、母親が加入している生協から、老人介護のヘルパーを養成するための講習会の案内がきた。
三ヶ月間講座に参加し、実習をすませると、ホームヘルパー二級の資格が与えられる、という。ちょうど、介護保険の導入が議論されている時期。これから有資格者をたくさん育成する必要に迫られていて、この講座の受講料も行政から助成が出ていた。
その案内を眺めながら、中学を卒業したばかりの時、ボランティアで味わった感動を思い出した。高齢化はますます進むだろうから、資格をとっておけば役立つのではないか、という気持ちもあった。
(やってみようかな)
千香は講習会に申し込みをした。
行ってみると、五十人ほどの参加者は、ほとんどが四十代か五十代。
千香とは二十歳ほど年齢の違う藤村和子は、千香の印象を「若いし、ナイスバディだし、とっても目立っていました」と言う。
「年の割に社会を知っているというか、周りは親くらいのおばさんばかりなのに、|物怖《ものお》じもせず、すぐに溶け込んでいました。とっても素直で、私たちはよく『あんな子が自分の娘だったらいいわねえ』と言い合ったものです」
藤村は、偶然千香と同じ特別養護老人ホームで実習を行った。
三日間の実習を終え、二人揃って施設長にお礼を言いにいくと、意外なことを言われた。
「あなたたちは、働く場は決まっているの?」
「いいえ」
「だったら、うちに来ませんか」
■今日がすべてのつもりで
この社会福祉法人では、老人ホームの経営だけでなく、在宅で介護を必要とする高齢者のための二十四時間巡回サービスを始めようとしており、ホームヘルパーを必要としていた。
まさに渡りに船だった。千香は、実習をやってみて、清潔で職員同士の仲がよいこの施設が気に入っていた。取った資格が生かせるし、アルバイトではなく正規の職員としての採用になるのも魅力だった。
二人は、この法人に就職をすることになった。
先輩の職員も千香のような新米も一緒になって、新しい事業の立ち上げのために夢中になって働いた。
当初は人が少なかったこともあって、夜勤が多かった。夜中の十二時から朝の九時まで、一軒二十分くらいのペースで担当する地域の家を回り、お年寄りのおむつや体位の交換を行う。時には仮眠時間が全くとれないこともあった。そんな夜勤を、多い時には月八回こなした。
もともと朝より夜が強い千香は、「夜勤は全然苦にならなかった」という。
「朝九時には解放されるので、明けの日はまるまる一日使えるし、次の日もお休みになる。そのうえ夜勤手当まで出るんですから」
一睡もできなかった夜勤明けでも、友人の紹介で知り合った大学生正木純也(仮名)の大学についていったり、一緒に遊びにいったりした。
収入が安定しただけでなく、有給休暇やボーナスもあることに、千香は初めてアルバイトで給料をもらった時と同じくらい、感激した。
仕事も楽しかった。おむつの交換や吐いたものを処理するのも、すぐに慣れた。お年寄りの話を聞くのも、おもしろかった。
千香の仕事ぶりを、同僚の藤村は「まじめだし、意欲的」と評する。
「私は、|姑 《しゆうとめ》を十年間|看《み》てきましたから、お年寄りについて体験上ある程度分かるんですけど、彼女はおじいさんおばあさんとも同居してないから、それこそ一から学んでいったわけです。いろんな本を読んだり、先輩の話を聞いたりして。だからといって、上の人が決めたことを|鵜呑《うの》みにするのではなくて、会議の席できちんと疑問点を投げかけることも、よくありました」
一度介護が必要になったお年寄りは、それがいらなくなることはめったにない。千香は、そういう仕事への思いを、こんなふうに語っている。
「ある方について、私の仕事がなくなる時というのは、入院されたか、施設に入られたか、それとも亡くなられたかで、いずれにしてもあまりいいことではありませんよね。いつ何時、そういう事態になるか分からない。お年寄りの介護をしている限り、ずっと見送りながら仕事をしていかなくちゃならないのは、仕方ないんです。順番だから。でも、そういう時に、『もう少しちゃんとやっておけばよかった』と後悔しないように、一日一日、今日がすべてのつもりでやっていきたいと思っているんです」
そうやって日々を過ごしているうちに、千香は少しずつ自分に対して自信が持てるようになった。
「一生懸命やっていると、『ありがとう』という言葉が返ってくる。そのたびに、こんな私でもいいんだ、私がやっていい仕事なんだと思えました。お年寄りを通して、自分の存在を確認したり、肯定したりできたんです」
■一つだけ悔しいこと
職場の仲間で、時々食事やお酒を飲みに繰り出すこともあった。藤村の他、ショートステイの担当をしている宮下勉も、その仲間の一人だった。ところがある晩、千香は食事の誘いを断った。
「今日は、これから勉強なの」
何の勉強? 宮下がそう聞くと、早速資料を見せてくれた。
千香は二十歳の時、ヘルパー養成講座を受ける前の春に、放送大学に入学していた。心理学を勉強するためだった。不登校の時にカウンセリングを受けて納得いかないこともあったので、人の心がどういうメカニズムになっているか、ずっと知りたいと思っていた。放送大学なら、シューレ時代の友達が進んだ大学同様、高校卒業の資格がなくても始められる。
仕事を始めてからも、自分のペースでゆっくりと勉強を進めていた。それでも、レポート提出日の|間際《まぎわ》や試験の前は、睡眠を削って集中的に勉強した。
宮下は、千香より二十三歳年上。高校時代勉強らしい勉強をせず、なんとか卒業はしたものの、なかなか自分の方向性がみつけられなかった。いくつかの職を転々とし、今の老人ホームに就職した。自分の生き方に自信が持てなかった。
「彼女は、がんばり屋さんなのに、苦労していることを他人に感じさせないんですよね。放送大学を教えてもらって、よし自分も勉強してみよう、と思った。彼女のお陰で、私はやり直すことができたんですよ」
仕事、仲間とのつき合い、勉強、ボーイフレンドとのデート……。毎日が充実していた。
一つだけ悔しいことがあった。千香は学歴が中卒なので、賃金が他の人に比べて格段に安かった。基本給は十三万円。千香は悔しがりながら、それでも明るく言った。
「いいんだもん。放送大学を卒業したら、大卒だからね。その時には、ドーンともらえるわ」
この職場には、約二年勤めた。交際していた純也が大学を卒業し、就職先で宮城県内の営業所に配属されたのを機会に、結婚することにした。
新しい住まいに落ち着いてまもなく、千香は仕事を探した。情報紙で、介護サービスを行っている民間企業をみつけた。問い合わせてみると、ヘルパーの資格を持っているならぜひ来て欲しい、と言われた。冬場の寒さが身に応えるし、農村の家を訪ねていくのは、これまでの住宅街とはかなり勝手が違う。台所の流しが低かったり、ベッドではなく布団に寝ているお年寄りが多かったりして、かがんで力を入れる機会が増えた。腰に負担がかかるので、仕事の日はコルセットが欠かせない。忙しい日には、千香は自分で靴下を脱ぎはきするのも辛いことがある。
でも、実際にお年寄りに接してみれば、介護をするうえで大切なことは、場所が違っても変わることはない。とりわけ、「一日一日、今日がすべて」という原則は、全く変わらない。
純也の仕事は、今後も何度か転勤がありそうだ。しかし、千香の資格と経験は、日本のどこへ行っても生かされる。少し時間は余計にかかるが、学歴がなくても、経験を積めば介護福祉士など上級の資格を取ることも可能だ。
■自分の子どもが不登校だったら
学校に行かなかったことを、千香は今どう思っているのだろう。
「得したこともいっぱいあるし、損したこともいっぱいあります」
得したこととは?
「みんなが学校に拘束されている時間、好きに自分の生活をしたお陰で、やりたいことが早く見つかった。だから後悔はしてないし、私の場合はよかったと思ってますけど、誰にとってもこれがいいんだ、とは言い切れない」
では損したことは?
「一つは収入。やはり中卒は不利ですよね。もう一つは、|選択肢《せんたくし》の問題。今の仕事はとても好きなんですけど、高校を出たり大学まで行っていれば、お年寄りのお世話をするのでも、介護だけではなくて、医者や看護婦など医療面の仕事につける可能性もあります。そういう点で、学校に行かなかったことで選択肢が|狭《せば》まったということはあると思うんです」
これから、もし子どもができて、その子が学校に行かなくなった時、このカップルはどうするだろうか。
千香については、「不登校だったことが気になるなんていうことは、全然なかった」という純也も、それが自分の子どもの場合は、「やっぱり悩みますよ」。
「何とかして、行かせなきゃって思うでしょうね。学校に行ったからって、いい方向にいくとは限らないけど、行かしといた方がいい、行った方が無難だっていう気持ちは、正直言ってあります。学歴ないと、就職したりする時のリスクって、やっぱりありますから」
千香は?
そう水を向けると、彼女は「うーん」と|唸《うな》った。今まで以上にゆっくりと言葉を選びながら、語り始めた。
「簡単に決められないし、決めて欲しくない。親が、『学校に行きたくない気持ちは分かるから、行かなくていいよ』なんて、簡単には言えないです。本人にうんと悩んでもらいたい。私は、学歴がないために悔しい思いをしたこと、損したことも、ちゃんと言ってあげたい。選択肢が狭まってしまうことも。自分を認めて、自分と折り合いをつけられることが大事で、学校に行く行かない以前に、自分がどう生きるかという問題だと思うんです。だから、それは本人が時間をかけて、考えないと……」
自分で悩んで、自分を認められるように成長し、自分の生きる方向を見つけていく。それはまさに、千香自身がこれまで通ってきた道である。そして、これからも彼女はそうやって、自分の道を自分のペースで歩んで行こうと思っている。
「私は私、だから」
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団体職員 鈴木祐司

■大人にとって「助かる子」
学校生活で何が苦しかったのか――そう聞かれると、鈴木祐司は困ってしまう。
きっかけはあった。いじめ、である。
でもそれが唯一の、そして決定的な理由というわけではないような気もする。
校則があるのかどうかも分からないくらいだったから、学校の締め付けがうんと厳しかった、というわけではない。先生による体罰もなかった。
どのような理由を挙げれば適切なのか、彼自身も結論を出しかねているようだ。
一つはっきりしているのは、学校に行けば行くほど疲れていった、ということだ。学校に行かなくなった小学校五年生の頃の自分を、彼はこう表現する。
「まるで電池が切れていくような感じだった」
小学校二年生の三学期、祐司は学校を替わった。同じ千葉県内の異なる市に、両親が新しく家を建て、一家が転居したことに|伴《ともな》っての転校だった。
祐司は、とりたてて大きな問題もなく、比較的すんなり新しい学校に溶け込むことができた。
しかし、五歳上の兄は、それまでとは雰囲気が全く違い、規模の大きい中学校に、なじめなかったらしい。まもなく兄は、学校に行かなくなった。
精神的に追いつめられたのか、それまで優しかった兄が家の中で暴れるなど、不安定な状態になった。兄は弟に対して矛先を向けることはなかったが、祐司は何が起きたのか分からないまま、不安を募らせていた。両親は専門家を訪ね歩くなど、兄のことで、手一杯だった。祐司はおとなしく、いい子にしていて、事態が好転するのを静かに待っていた。
小学校三年生の時の担任は、厳しかった。忘れ物をした子は、授業中教室の後ろに立たされ、先生に怒鳴られた。祐司は、誰かが叱られるたびに身をすくめ、緊張しながら授業を受けた。
四年生になると、全く正反対のタイプの先生が受け持ちになった。物静かな、というより、取り立てて印象に残ることが何もない人だった。
祐司は、学校でも家でも、手の掛からない、そのうえ人の手助けもできる「いい子」であり、大人にとって「助かる子」だった。そして、友達もいた。
でも祐司には、親友と呼べる友達はいなかった。いつも一緒にいる友人はいたが、みんなは幼稚園から続いている関係。祐司だけが後から加わったメンバーだった。友達の間では、放課後はファミコン、休み時間はドッジボール、休日は少年野球が流行だった。祐司はファミコンを買ってもらうのが遅く、あまり上手にゲームができなかった。ドッジボールには、みんなほど夢中になれなかったし、地元の少年野球チームにも入っていなかった。とはいっても、公園で日が暮れるまで野球をしたり、それなりに楽しい思い出も残ってはいる。
その友人関係が重荷になってきたのは四年の中ごろからだった。仲が良かったはずの友達が、祐司を「うじ」と呼び始めたのだ。「ゆうじ」の「ゆ」をとって「うじ」のつもりかもしれないが、言われる方は当然よい気持ちはしない。そのうち他のクラスメイトも面白がって、「うじ、うじ」とからかうようになった。
「やめてくれ」――そう祐司が叫んでいたら、雰囲気は変わったかもしれない。しかし、彼はそうしなかった。出来なかった。当時の気持ちを、後になって彼はこんなふうに書いている。
〈くやしくって、悲しくって、なさけなくって、苦しくって、どうしたら良いのかわからなくって、感情がはちきれそうに破られてしまうようで、言葉が出てこないばかりか、声を出すことすらできなかった〉
家でも、しばらくの間神経を|遣《つか》う毎日が続いた。学校に行かない兄を巡って、考えの違う父と母が、しばしば口論になった。二階の自室にいても、一階で言い争う両親の声は聞こえてきた。祐司は、切ない気持ちで時間が過ぎるのを待った。
■心の地下室
こうした家庭の中の緊張が少し和らいだ頃、祐司は五年生になった。今度の担任は、若い男の熱血教師だった。時々、朝から教室にギターを持ちこんで、子どもたちに歌を聞かせたりする。熱く語ってみたり、ジョークを飛ばしたりして、子どもたちを楽しませようと懸命になっているのは、祐司にも分かった。でも、祐司はそのノリについていけなかった。先生を中心にクラスが盛り上がっている時には、自分が浮き上がった存在になっている、と感じた。かといって、自分からその中に飛び込んでいく気持ちも、そんなエネルギーもなかった。
五年生の一学期、祐司は班長になった。遠足の時は点呼を、授業中は教材の配布を手伝い、班が掃除や給食の当番の時には、そのとりまとめ役となる。
同じ班に、体が大きく腕力が強くて運動が得意、父親は医者でやたらと威張るヤツがいた。他の子どもたちからは、やや恐れられつつ、一目置かれるボス的存在だった。その子は、トイレの掃除当番になっても、全くやろうとしない。
班長という立場上、何も言わないわけにはいかない。仕方なく声をかけた。
「掃除当番だから……」
その男の子は、(うるせえな)という感じで、|一瞥《いちべつ》を投げてくるだけ。
他にも、友達との関係でしんどいことがあったような漠然とした印象は残っているのだが、この頃の事柄について具体的な事実は、ほとんど記憶がない。誰にも相談することもなく、さまざまな事実を心の地下室に深くしまい込み、|蓋《ふた》をすることで、彼はようやくバランスを保ってきたのかもしれない。
ただ、自分の内に抱え込み|溜《た》まっていった感情は、中で発酵するようにじわじわと|膨《ふく》らんでいった。祐司の心は、パンパンに張りつめた風船のようだった。おそらく、何か一言発していたら、それだけで、彼の心は粉々に破裂してしまったのではないか。黙って時が過ぎるのを待つことが、彼にとって唯一の自分を守る手段であり、精一杯の闘い方だったのかもしれない。十一歳の祐司には、自分の思いをどう整理し、表現したらいいのかも、分からなかったし、「この人なら自分の気持ちを受けとめてくれる」と信頼できる人もいなかった。
教師が飛ばす冗談に、子どもたちがドッと笑う授業の場が、彼には遠い存在のように思えた。その雰囲気の中に入っていくことができない自分が惨めであり、さらには孤独、疎外感、そして寂しさで幼い胸は締めつけられた。そういう学校に出ていくことは相当の緊張と努力を必要とした。そんな毎日を過すうちに、エネルギーがどんどん消耗していくように、元気がなくなった。
とうとう彼の中の電池は尽きて、体を学校に運ぶこともできなくなった。
祐司は言う。
「学校に行くか、行かないかという選択ではなかった。もう、行くことができなかったんです」
五月の連休明けから、彼は学校に行かなくなった。
■ほろ苦い失恋の痛手
家にいる時、どんなふうに過ごしていたか、祐司はあまりよく覚えていない。それまでに|疲弊《ひへい》しきった心を|癒《いや》すため、家ではしばらくの間、むさぼるように眠った。起きるとテレビを見たり、本や新聞を読んだりして時を過ごした。記憶しているのは、それくらいだ。
外には出たくなかった。とりわけ、クラスメイトと出会ってしまう可能性がある午後は、家に|籠《こ》もっていた。
音楽が好きだったが、三歳の時から習っていたピアノも、辞めてしまった。ピアノを弾くエネルギーも|枯渇《こかつ》し、レッスンに出かけていくこともおっくうになった。
徹底して学校を避けた。出かける時も、学校の前の通りはもちろん、校舎が見えるような道も通らなかった。
長男の経験があったからか、両親はあからさまに「学校に行け」とは言わなかった。が、二人目の息子も学校に行かなくなったことへの苛立ちと将来への不安が交錯し、父親がなかなか事態を受け入れられずに|葛藤《かつとう》していることは、祐司も察していた。
しばらくの間、夜になると不安が募り、怖くなった。一人で寝ることができず母の隣で寝た時期もあった。
学校に行かなくなって半年ほど経ったころ、祐司は友達が欲しくなった。そこで、母がみつけてきた不登校の子どもたちの居場所、今でいうフリースクールを何カ所か見学にいった。その中で、彼は東京シューレの|和《なご》やかな雰囲気が気に入った。新顔の祐司を何かと気にかけてくれる人がいて、ここなら自分を丸ごと受け入れてくれる気がした。
八月、シューレの子どもたちが、北海道で二十日間ほどの合宿を行った。とにかく楽しい体験だった。みんなでバーベキューをしたこと、宿泊した公民館に風呂がなかったのでスタッフがワゴン車で町の銭湯まで何回も往復してくれたこと、それに食べたアイスクリームの味まで、祐司は今も覚えている。
|陰鬱《いんうつ》なグレーや黒に塗り込められた小学校高学年の頃の記憶の中で、この合宿だけは|彩《いろど》り豊かな思い出になった。
学校に行かないまま、祐司は小学校を卒業した。小学校の人間関係がそっくりそのまま持ち上がる中学にも、行く気にはなれなかった。
シューレにはしばらく通っていたが、一時期ぱったりと行かなくなった。祐司が淡い思いを寄せた女の子が、他の男の子を好いていることが分かってしゅんとなってしまったのだ。ほろ苦い失恋の痛手。
それでも、前のように家に籠もってしまうことはなかった。博物館に出かけたり、ピアノも再開した。好きな曲のCDや楽譜を買ってきて、一人で練習した。ベートーヴェンの「エリーゼのために」や「月光」、バッハにも挑戦した。
■ロストロポーヴィッチの言葉
祐司は、言葉より音楽に自分の気持ちを託すことができるような気がしている。語ろうとしても、自分の内面を表現しきれないもどかしさを、ピアノは一挙に解き放ってくれるような気がした。自分が様々な思いを内側に貯め込んだ時も、言葉より、音楽を聴くことで|慰《なぐさ》められるように思う。
テレビで、ロストロポーヴィッチというチェリストの存在を知った。共産党の独裁体制のソ連で、作家のソルジェニツィンを四年も自宅にかくまい、その後亡命した。自らが正しいと信じる道を敢然と歩む音楽家の生き方に感銘を受けた。そのロストロポーヴィッチが、インタビューの中で、「楽譜は作曲家からの手紙。それを受け取った演奏家が、自分の感じたことを表現するのが大事なのだ」という趣旨の発言をしているのを聞いて、音を自分で|奏《かな》でることの魅力と難しさを感じた。そして「答えは一つではない」音楽に、今まで以上に親しみを感じた。
北海道の合宿で旅の面白さに目覚めた祐司は、その後家族旅行や一人旅に出るようになった。それはそれで楽しかったが、やはりまた、シューレの友達と合宿に行きたくなった。出発の一カ月ほど前から、再び祐司はシューレに通いだした。この年の合宿の行き先は、|飛騨《ひだ》高山。長野県の松本まで鉄道で、そこからバスで細い細い道を山越えした。カーブのたびに、バスの最前列に座っていた祐司は、転落するのではないかとハラハラしながら、そのスリルを楽しんだ。川遊びや地元のお祭りに参加したり、森の中で吸い込まれるような静けさを味わった。
そのうち、彼は単に参加して楽しむだけでなく、自分も準備や企画に積極的に関わるようになっていった。様々なイベントで実行委員会に加わった、もともと裏方仕事をすることが好きだったこともあり、そういう活動は性に合っていた。
十五歳という年齢は、シューレにあっても、子どもたちが自分の進路を考える節目である。高校受験をしようという子は、結構いた。祐司も、将来のことを考えた。いつまでも親の家で暮らせない、家を出て自立したい、という気持ちはあった。独り立ちをするとなると、どうやってお金を稼ぐか考えなければならない。一度出た家に、お金に困って戻るようなことだけはしたくない、とも思った。でも、就職を有利にするために学歴をつける目的で高校進学をするのは嫌だった。
あれこれ考えている中で、鉄道に携わる仕事につけたらいいな、という考えが浮かんだ。前々から電車は好きだったし、シューレの中で鉄道好きの友人と話しているうちに、鉄道への思いも強くなっていった。
都内の鉄道関係の高校を受験した。懸命に勉強したが、間に合わなかった。試験には落ちたけれど、短期間でやったわりには、手応えはあった。それは、「もう一年やれば、来年は受かるだろう」という自信になった。
同い年の多くが高校一年生になった頃、彼は二つのイベントに関わっていた。
全国から不登校の子どもたち百五十人を集めて交流したり遊んだりする「全国子ども交流合宿」と、シューレの夏合宿。とりわけ夏合宿では、初めて実行委員長の役を買って出た。希望を募って行き先を決め、交通手段や宿泊先、食事を決めたり、そこでやることを考え、それに伴う費用を計算したりする作業の中心的な役割を果たした。行き先は、北海道の|洞爺湖《とうやこ》。春から準備を始め、本番の数日前に現地入りして準備を整え、みんなを迎えた。直前に右手首を骨折し、ギブスで固定していたので、自分自身は思い切り楽しむというわけにはいかなかったが、参加した仲間たちのうれしそうな笑顔を見て、祐司も裏方として充実感を味わっていた。
二つの行事が終わり、秋になった。祐司は自問した。
「そう言えば、僕って受験生じゃなかったっけ?」
高校受験のための勉強をしなければ、また間に合わなくなってしまう。
「しかし……」
再び祐司は自問した。
「僕にはどっちの方が合っているんだろう」
いくつかのイベントの実行委員をやってみて、自分が考えたことを自分たち自身の力で形にすることの面白さを知った。この実体験と、高校に進学した時に展開されるだろう毎日の生活を、自分の中で比べてみた。
祐司は答えを出した。
「僕には、こっちの世界の方が合ってるんじゃないかな」
■国連本部の天井
その時シューレの中では、アメリカの子どもたちと交流する話が持ち上がっていた。フリースクールに通うアメリカの子どもが日本に来て、日本からもアメリカに行くというプラン。アメリカに行きたいという思いも、祐司の気持ちが高校進学よりシューレを選択する追い風になった。
十六歳の四月に、祐司は他の十一人の子どもと数人のスタッフと共に、アメリカへの旅に出た。
到着したデトロイトの空港で、警察官の姿が印象的だった。日本の警察官も拳銃を持ってはいるが、こちらの警察官の場合、今すぐにでも銃を抜きそうな緊張感が伝わってきた。
テレビや新聞、雑誌などのメディアを通じてアメリカについての情報は、そこそこ持っていた。あるいは、地球の中にはいろんな国があり、日本はその一つなのだということも、知識としては知っていた。しかしアメリカに来て、初めて「世界にはいろんな国があるんだ」と実感した。
(ここは銃の所持が許される社会、違う文化の国で、僕はここでは外国人なんだ)
日本で交流したアメリカの子どもたちと再会。三台のバンに分乗し、二週間の旅に出た。途中立ち寄ったニューヨークでは、いくつかのコースに分れて、自由に行動する日を設けた。高級なブティックや宝飾店が並ぶ五番街に行くコース、セントラルパークでのんびりするコースなどに、祐司の提案で国連本部見学コースが加えられた。
環境や国際的な問題に少しずつ興味を持つようになっていた祐司は、せっかくニューヨークまで来たのだから、ここを見なければ、と思っていた。
案内された国連本部の中で、もっとも強く祐司の心に焼き付けられたのは、社会経済理事会の議場だった。様々な社会問題、経済問題、とりわけ世界各地の貧困や経済格差などについて話し合う場である。その天井は、配管が|剥《む》き出しになっていて、仕上げがきちんとなされていなかった。他の部屋の天井はきれいだった。なのになぜここだけ、天井が未完成なのか。
ガイドが説明をしてくれた。
「世界には、八百万人を超える人々が、上下水道や電気、医療などが整備されていない地域に住んでいます。多くの地域が、社会的経済的に“未完成”であることを忘れず、それを解消する努力を続けていくという決意を象徴しているのです」
祐司は、感銘を受けた。
(そうか、そういうことを一生懸命考えている人がいるんだ)
この経験が、彼にとっては一つの転機になったようだ。旅行の報告書の中で、祐司はこう書いている。
〈僕が日本に生まれたのはたんなる偶然でしかなく、それだけで明日の命を、食べ物をも心配せずに生活できるというのはなにかおかしく、僕自身を納得させる答えが見つからなかった。いままでの日本に生きる日本人の自分から、地球上に生きる一人の人間として、何ができ、何をするべきなのかを考えるようになったきっかけになっている〉
アメリカからの帰り、祐司は自分たちの力でアメリカ旅行を実現させたことに感動していた。
初めは、「そんなの無理だよ」と思っていた。なにしろ、日米双方の渡航費を含めると総額七百万円近くも必要だった。複数の助成財団に助成金の申請をする一方で、祐司は自分の旅費を作るために、午前中アルバイトをした。午後から夜にかけて、シューレの仲間と様々な準備をし、|慌《あわ》ただしく時間を追いかけているうちに、本当にアメリカに行けた。夜遅くなることもあって、毎日がすごく忙しかったけれど、今思うとなんて充実した日々だったのだろう……。
誰かが「次は世界一周だ」と言った。
祐司たち鉄道が好きなグループからは、陸路でユーラシア大陸を横断したい、という声も出た。
さっそくプロジェクトが始まった。話し合いで方針が決まった。
*旅行会社などに任せるのではなく、自分たち参加者全員で計画を作る。*普通の旅ではできない現地の人々との交流をすることで、その人たちの生活に触れる。*戦争の史跡を見て歴史を感じる。*なるべくお金をかけずに、安上がりで。そのお金も、自分たちが働いて作る。
参加希望者で委員会を作り、祐司は実行委員長になった。思いを寄せていた女の子を意識しての立候補でもあった。
旅行の時期、訪問先など、一つひとつを委員会で話し合った。たくさんの場所を見てみたい人もいれば、一つの土地にじっくり腰を据えて、その地の生活を実感したい人もいた。行きたい国や地域も様々だった。滞在費用の問題もあり、一番もめたのがヨーロッパに入ってからの行き先だった。「フランスに行きたい」「いや、ウィーンがいい」と、それぞれが思い入れを込めて主張し合う。それでも、なんとか少しずつ計画は形になっていった。
祐司十七歳の夏、一行は一カ月に及ぶこの長い旅に出た。まずは関西空港を発ち、空路で北京へ。天安門広場を見学し、本場の中華料理を|堪能《たんのう》した。そして、列車でモンゴルのウランバートルへ。寺院や博物館を見た後、草原で遊牧生活をする人たちとの交流、生活体験。その後、シベリア鉄道で四泊五日かけてモスクワへ到着し、赤の広場や周辺の歴史的な建物を回った。
ポーランドでは、IYF(国際青少年育成財団)の仲介で、地元のフリースクールの子どもたちと交流。一週間のホームステイも経験した。さらにアウシュビッツの収容所跡を見学した。ユダヤ人を閉じ込めていた鉄柵の横に、小さな花が咲いているのが印象的だった。
「みんなが意識してこういう負の遺産をきちんと残していかないと、同じ過ちを繰り返してしまう」
祐司は、そう思いながら、カメラのシャッターを切り続けた。
ドイツではベルリンの壁を、オランダでは「アンネの日記」のアンネが家族と共に隠れていた部屋を訪れた。アンネの家では、「彼女も触ったのだろうか」と思うと、部屋の壁に手を触れることができなかった。一人の少女の苦しみや悲しみが伝わってくるようで、怖くなった。
■シューレで育つ
東京シューレでは、入会を希望する親や教育学を専攻する大学生など見学を希望する人を対象に、毎月説明会を開いていた。祐司はしばしばそこで自分の体験や考えを語った。教師の研修会に参加して話をすることも増えた。
イベントを実行したり、大人たちと交わる機会のたびに、祐司の気持ちの中に、少しずつ変化があった。その変化を、彼はこんなふうに語る。
「僕は結構主体的に生きようと考えたし、そうしてきたつもりだったけど、実はいろんな人に支えられているんだな、と思った。旅行に行けば、いろんな人に助けてもらう。そもそも様々な企画をしたり、多くの人と話し合う機会があるのは、シューレという場があるからだし、その会費を払う経済力が僕の家にあったから」
シューレで過ごした最後の夏、祐司はタイで開かれた、IYF主催のアジアの子どもたちのための国際会議に出席した。
参加者はタイ、日本の他、フィリピン、バングラデシュ、インドなどから全部で七、八十人。その中には、元はいわゆるストリート・チルドレンで、成長して今はそういう小さな子どもたちを助ける活動をしている人たちもいた。ただ、残念ながらこの時には時間が限られていて、十分な交流ができなかった。祐司は、もっともっとアジアの国々の事情を知りたい、と思った。
その年の木枯らしが吹き始めた頃、IYF職員としてこの国際会議を運営していた渡辺啓子(現在はタネンバウム啓子)から、祐司は誘いを受けた。
「IYFで働いてみない?」
啓子は、東京シューレにも何度か足を運んでいて、ユーラシア大陸横断旅行の時に現地の子どもたちとの橋渡しを手伝った。その頃から、祐司に対しては好印象を持っていた、と啓子は言う。
「ものすごく目立つというわけではないのに、存在感を感じ、素敵な子だな、と思っていました」
タイの会議の後に話をしていて、祐司がIYFの仕事にとても興味を持ったのを、啓子は覚えていた。IYFは、子どもたちの健全な成長とよりよく生きるための能力を育むために、世界各地で行われている団体活動、プログラムを支援していくことを目的に設立された財団。本部のあるアメリカでは、大手シリアルメーカーなどが中心となって資金を提供している。
啓子は、翌年からボルチモアの本部に勤務することになった。ほとんど同時にアシスタント職員も退職することになって、大慌てで後任を探さなくてはならなかった。幸い、大手電機メーカーの管理職だった中雄政幸が、IYFアメリカ本部にいる友人からの依頼を受け、定年を前に会社を辞め、事務局長を引き受けてくれていた。
さて、その中雄を補佐する若い職員をどうするか。
そう考えた時、啓子の頭に祐司の顔が浮かんだのだ。
「こちらも忙しくて、電話のかけ方とか、いちいち教えている余裕がなかったので、即戦力が欲しかった。仕事を始めてまもなく、できる子だな、と思いましたよ。祐司君は、それまで自分たちで旅行やイベントをやっていたので、大人社会と接する機会も多かったから、全然|怖《お》じ|気《け》づくこともなく、人との対応が自然にきちんとできていた。見ていて安心でした。人によって、育ちの場はいろいろだと思うのですが、祐司君の場合、それがシューレだったんですね」
一方、それまで多くのビジネスマンたちを率いて、国際社会の中で厳しく、活気に満ちた仕事をしてきた中雄の目に、当初は祐司が、とらえどころのない人間に映ったようである。この頃の祐司は、なかなか自分に自信が持てず、意見や考えを表に出すより自分の中でゆっくり発酵させていくことが多かった。
「最初は、正直言って、どうなるのかな、と思った。何を考え、何をしようとしているのか、なかなか見えてこないような気がして」
■「FINDS」
しかし、その中雄が祐司へ信頼を寄せるようになるまでに、そう時間は要しなかった。
「ある日、彼が言うわけです。『僕がやっている程度のことで、こんなにお金をもらってはまずいんじゃないか』と。そういうこともあって、固定給を時間給に変えたんです。ところがしばらくして、『よくよく考えると、時間給の方がおかしいような気がする。何もしなくても、いるだけでお金になるようで、変ですよね』と言ってきた。それでまた固定給に戻したんですけど、彼は、費用対効果、自分のやった仕事とお金の関係をしっかり見て考えるんですよ」
中雄はお金の管理は、すべて祐司に任せた。
「嘘をついたりごまかしをしない。非常にまじめ。ここの総務と経理の責任者は自分だという自覚があるから、自分で勉強して貸借対照表も作れるようになった。通帳の管理も、一定の額以上は私の許可を取るというルールを彼自身が決めているので、安心してお金のことは彼に任せきりになった」
IYFに勤め始めた頃、彼はタイの国際会議がきっかけで友人らと共に、同人誌の発行準備を進めていた。
祐司が接してきた同世代の多くは、不登校経験者だった。アジアの人たち、そして日本の同世代の人たちのことをもっと知りたい、と思った。とりわけ学校に行っている人は、今、何を考え、何を感じ、何をしているんだろう。日本の中で、自分の夢を実現している人は、どんなふうにして夢を見つけ、実行していったのか。そういうことを、同世代の人々と共有したい、と思った。
タイトルは、「FINDS」。
「『想う(考える)・交換する・話す』そこから『見つける・得る・捜し出す』」をテーマに、約二年で十三号まで発行した。その中で、祐司自身も様々な文章を書き、会ってみたい人たちにインタビューをした。
祐司が書いた記事の中で一番力が入ったのは、若者が運営する環境NGO主催のフィリピン旅行に参加した時のレポートだった。旅行には、IYFの仕事を通じて知り合った人の紹介で参加した。観光旅行ではなく、環境や貧困の問題を現地に行って学ぶ「スタディ・ツアー」という点に、引きつけられた。
祐司はこう書いている。
〈自分の命や食べるもの、暮らすところの心配のあまりないこの日本が、この先も仮に同じように|在《あ》り続け、そして住み続けることが許されても、地球は一つであり、海は|繋《つな》がり、大気は地球を常に巡回し、気象も影響しあうこの「宇宙船地球号」。周囲の国々や世界の国々と、国境や文化や宗教を越えて、踏みつけたり踏みつけられたりといった関係ではない、「共に在る」という視点で考えていかないと。どこか一国の出来事が、めぐりめぐって、かならず自分の所に影響が現れるのではないかという、そんな想いが僕の頭にあります。
「僕は世界に通じ、世界は僕に通じている」。そう思えてなりませんし、現実にそうではないかと考えています〉
二十日間の旅の間、開発が進められる地域で、長年住み慣れた土地を追われていく住民たちの声に、祐司は耳を傾けた。
そして、報告の最後に、彼は自分のこれからの方向性について、書いている。
〈僕らに親切にしてくれ、同時に助けを求めている人達に、何が出来るのか? 本質的な解決へ向けた方法は何か?(中略)
表面的に現れている「問題」の要素や内容は違えど、根源的には共通の問題と要素があるように感じました。一つひとつの問題の解決も、決して軽んじられてはなりませんが、その根本的な部分や社会・経済の構造を理解すること、つまり「根っこ」を見据えることにした、ということになります。(中略)
いずれにせよ、情報公開と、政府や地方自治体、企業、住民等、当事者による直接的な議論、そして意思表明と決定。このプロセスへの参画と連携が、大変重要なポイントではないかと感じています。更に、自分の人生を「守る」ための識字や、学び・知識(教育)の必要性を、現実的に感じました〉
この旅行の後、祐司は一度IYFを辞める決意をした。なぜこういう問題が起きるのか、自分はもっと学ぶ必要がある、と思ったのだ。その時、IYF本部から新しい助成事業方針について連絡が入った。方針の中に、フリースクールなど学校外で子どもたちを育成するプログラムへの支援も含まれていた。
(僕の経験が役に立てるのではないか)
祐司が申請書を書き、日本での事業実施が決まった。
申請があった団体やプログラムを調査し、助成を決める過程にも、祐司は関わった。その点でも、中雄の評価は高い。
「子どもがどういう状況にあって、その子たちに何をすれば役に立つか、事業の管理者が何をやろうとしているのか、という観点から判断するわけです。私はこういう問題に、頭で考えてしまいがちで、体で入っていけない。でも、彼は現場感覚がある。どんどん現場に行って、調査をしてくる」
パソコントラブルから経理、助成事業の管理まで受け持つ祐司は、帰宅は深夜になることが多く、早くても夜十時。日曜日も職場に出てくることがしばしばだ。
「僕のレベルでは、まだまだ大変」と祐司は言うが、中雄は彼が財団の仕事をトータルにこなせるようにもっと|鍛《きた》えたい、と考えている。
「彼にはお金集めも勉強させたい。そのあたりになると彼の悪いところが出てきてしまうんですね。完全主義なんです。ずぼらになれない。でも、人と相対していく力があるし、人の言うことをじっくり聞く余裕があるから、きっと彼は彼なりのやり方で、できるようになると思うんですよ」
祐司は、仕事をしていく中で、フィリピン旅行の時に自分に投げかけた「僕には何ができるか」という問いに、答えを出しつつある。そして、自分への見方も少しずつ変わってきた。
「僕一人でできることには限界があるけれど、人とのつながりの中で可能になることも少なくないと、実感するようになりました。僕は二十歳くらいまでずっと自信が持てなくて、自分が嫌いだった。今でも確固たる自信はないけれど、うまくすれば僕にできることは結構あるし、僕だからこそできることもあるだろうと、自分の可能性を感じています。今の仕事は、自分の能力や経験を生かせるし、勉強もできる。みんなに喜んでもらえる仕事だし、いろんな現場を見て、話が聞ける。この仕事を通じて、一人でも多くの子どもが自分に自信を持ち、生まれながらにもった能力が引き出されて、健やかに成長するような環境作りに貢献したい、と思うんです」
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主婦 梅沢しのぶ

■「正しい答え」への違和感
梅沢しのぶは、山口県内の人口が五千人に満たない、小さな町で育った。
入学した小学校は、全校生徒が十五人。しのぶの学年は児童数が最も多くて、六人だった。一年生と二年生、三年生と四年生というように、二学年が一つのクラスで一緒に勉強する。上級生が卒業し、五年生になった時は全校生徒が九人になっていた。
しのぶの学年で唯一の男の子は途中でよそへ転校し、同学年の五人はすべて女の子だった。少ない人数で、しかもずっと同じ顔ぶれ。閉鎖された濃密な人間関係が続いた。
その中で、成績がよく、明るくて何かにつけて積極的なしのぶは、ずっとリーダー的な存在だった。
学校は、それほど魅力的な場所ではなかった。特に、先生との関係では、あまりいい思い出はない。
とりわけ国語の授業で、しのぶは違和感を抱くことが多かった。先生は「詩の情景を絵に描きなさい」と課題を出したり、「作者はこの時どう思っていたか」を子どもたちに問う。そういう時、先生はいつも一つの正しい答えを用意していた。作品に対して、他の感じ方が許されないような授業の雰囲気に、しのぶは内心不満だった。
図工の授業でも、|釈然《しやくぜん》としない気持ちになる時があった。しのぶは絵を描くのが好きだった。彼女はじっくりと時間をかけて、一枚の絵を仕上げていく。
なのに先生は、「最初のインスピレーションで描くものだ」と言って、短い時間しか与えてくれない。
(私はゆっくり描きたいのになぁ)
そういう小さい不満が、いくつもいくつも溜まっていた。
五年生の時の先生は、子どもたちが不満の声をあげたりすると、極端に機嫌が悪くなって、怒鳴ることがあった。しかも、その不機嫌が尾を引く。そんな時、リーダーのしのぶがみんなを代表して謝った。納得はできなかったが、いつまでも怒られているのも嫌だった。
そうはいっても、友達とワイワイ遊ぶのは大好きだから、学校に行かないことなどは考えられなかった。むしろ、学校にはそこそこ楽しく通っていた方だ。
同級生の中では、心も体も成長が早い方だった。六年生の時、人形遊びをしている友達が、ひどく幼く見えた。
(なんでそんなことして楽しいの?)
一度そう思ってしまうと、友達と子どもっぽい遊びをするのが、なんだか面白くなくなった。友達と遊ぶという最大の楽しみが色|褪《あ》せていくにしたがって、学校がひどくつまらないところに思えてきた。
背も一番高く、体もふっくらしてきた。それが、しのぶにはとても気になっていた。
春の運動会の時、近所のおばさんにこんなふうに声をかけられた。
「しのぶちゃん、おっきゅうなって……」
しのぶちゃん、太ったわね――暗にそう言われたような気がして、ショックだった。
(痩せよう)
しのぶは、ダイエットを始めた。食品のカロリー表を買い、おやつはやめた。給食も含めて食事を制限し、せっせと犬の散歩をした。
■周囲の大人たちが大騒ぎ
連休前の修学旅行、しのぶは友達と完全にうまくいかなくなった。人数が少ないため、一度関係がぎくしゃくすると、今度は居場所がなくなった。
もう学校には行きたくなかった。学校に無理矢理行くと、体調がおかしくなった。しのぶはしばしば学校を休むようになった。
「学校に行ったら、息ができなくなる」
娘の訴えを聞いて、両親は慌てた。
「それまでは『学校信仰』の親だった」という母のひろみは、近くの精神科に駆け込み、相談した。
「三歳までの間に、お母さんの愛情が不足したんでしょう。それが原因ですね」
医者のこの言葉に、ひろみはショックを受けた。
スーパーを営んでいた両親は、月に一日しか休まない働き者だった。夜になってひろみが家に戻る時は、しのぶと祖父母は食事を|済《す》ませている。でも、寝る前には必ず毎晩、絵本の読み聞かせをしたりして、一生懸命愛情を注いできたつもりだった。
ひろみは、しのぶを出産するまでに、三度流産している。ひろみにとってしのぶは、まさに待ちに待った、やっと授かった大事な子どもだった。
だからといって、ネコかわいがりにはしたくない。ただ、祖父母が一緒に住んでいることもあって、なかなかひろみの思うような子育てはできなかった。祖父母が甘い分、確かにあえて厳しくしたこともある。
(でも、それは決して愛情不足からなんかじゃない)
そう叫びたかった。が、それより何より、しのぶの様子が心配だった。次第に顔からは生気が失せ、快活さはすっかり影を|潜《ひそ》めてしまった。毎日が辛そうで、しかもどんどん弱っていくように見えた。
(やっとできたこの子を死なせるわけにはいかない)
そんな|切羽詰《せつぱつ》まった思いで、ひろみはしのぶを医者に連れて行った。
いろんな検査が行われた。催眠療法など、いくつかの治療が試された。精神安定剤などの薬も処方された。
父親は、モノで誘いをかけてくる。
「学校にちゃんと行ったら、○○へ連れていってあげる」「××を買ってあげるから行きなさい」
母親も、「学校に行かないと大変よ」と動揺している。祖父母は、「母親の育て方」を問題にした。ひろみはそのことを自分の胸に納めておいたが、しのぶは薄々察していた。
体の調子が悪いのは事実で、しのぶは「私は病気なんだ」と思った。
(|周《まわ》りも心配しているし、早く治さなきゃいけない)
かといって、また楽しく学校に通えるようになるなんて、考えられなかった。何も感じなくなって、しんどいこともしんどいと思わず、学校に通うことに慣れることが「治る」ことだと思った。
病院で、カウンセリングも受けた。カウンセラーは、以前小学校の校長をしていたという男性だった。しのぶの話をじっくり聞いてくれた。ただ、その後に、「こうしたら学校に行かれるようになるんじゃないの?」と提案をしてくる。学校に通うことが常に大前提だった。
「一日休むとその後が行きづらくなるから、半日でもいい、辛い時は校門まででもいいから、毎日学校に行きなさい」
教室に入ると胃が痛くなる。胸が締め付けられる。我慢できずに母親に電話をし、迎えにきてもらう。そんなことが繰り返された。保健室でテストを受けたこともあった。優しく話を聞いてくれる先生がいる保健室だけは、学校の中でも唯一ホッと出来る場所だった。
■つかまれるのは母だけ
しのぶが以前のような学校生活に戻れるよう、みんなが願っている。その期待を感じるたびに、しのぶは、学校に行きたくないと思っている自分が、とてもダメな人間に思えた。
それまで、優等生でリーダーであることで築きあげてきたものが、足下からガラガラと崩れ去った気がした。とてつもない不安にかられた当時の心境を、しのぶは今、こんなふうに表現する。
「船が難破して、私一人が真っ暗闇の海に|漂《ただよ》っている感じ。いつ沈んでしまうか分からない。つかまるものは、板きれ一枚。それが、母だった」
母親にべったりまとわりついた。まるで幼児に戻ったように、いつも母のそばにいたがった。ひろみは、商品の配達の時にもしのぶを連れて行き、夜は赤ちゃんの頃のようにしのぶを抱いて寝た。
しのぶの、自分がお荷物になっているダメな人間だという思いは、|募《つの》る一方だった。ある時母にこんなことを言った。
「私なんかいない方がいいでしょ。死んじゃった方がいいよね」
この時、しのぶは初めて母親に|頬《ほお》を張られた。母は、泣きながら叫んだ。
「せっかく頑張って生んだのに、そんな悲しいことを言っちゃダメ!」
母の涙を見て、しのぶはこの人をこんなに悲しませることだけはしない、死んではいけない、と思った。でも、自分がこの世の中に生きている価値のある人間とも、思えなかった。
(元からこの世の中にいない存在になれればいいな。みんなの記憶から煙のようにスーッと消えてしまいたい。SF小説で、最後に宇宙人が地球を離れた瞬間から、誰もその存在すら忘れているという話があるけれど、私もそういう宇宙人みたいになれたら楽だろうな)
二学期が始まってしばらくして、しのぶは母に訴えた。
「私は学校に行きたくないの。こんなにしんどいの。でも、お父さんとお母さんのために行ってるの」
母は泣きながら、「もう行かなくていいから」と言ってくれた。
しかしカウンセラーは、そういう母を|叱咤激励《しつたげきれい》した。
「そんな甘いことを言っていると、お子さんの未来は真っ暗ですよ。そんなことでいいんですか」
専門家にそう言われると、ひろみは心を強く持たなければと思い直した。
しのぶは、母に|促《うなが》されて、また体を引きずるようにして学校へ行った。
ひろみにとって、しのぶの命と健康は何より大事だった。娘がだんだん痩せて顔色が悪くなるのが、心配でたまらなかった。でも、将来のことを考えれば、学校に行くことは絶対に必要だとも思っていた。この二つの思いの間を、ひろみは揺れた。
それから二カ月ほど後、しのぶは知り合いの紹介で、宇部市内にある県の精神保健福祉センターを紹介された。バスと電車を乗り継いで二時間半かけて、母と行ってみた。しのぶは、全く何の期待もしていなかった。ただ、母親と一緒にお出かけができるのがうれしい、というくらいだった。
古い建物の二階で、相談員が話を聞いてくれた。それまでのカウンセラーも、話はじっくり聞いてくれた。そして、その後で「でもね」としのぶの言い分の間違いを正したり、違う視点を呈示して、気持ちを学校に向かわせようとする。
ところが、ここの相談員からは「でもね」という反論の言葉が全く返ってこなかった。「そうだよね、そうだよね」と相づちを打ちながら、ただただ聞いてくれた。
■我が子の顔に赤みが差した
しのぶは、今まで誰にも言わなかったことを含めて、それまで思っていたことを、|堰《せき》を切ったように話した。|傍《かたわ》らにいたひろみにとっても、初めて聞くことが多かった。
「それまで作文も図画も習字もいろんなコンクールに出して賞状はいっぱいもらったけれど、出す前に先生が言うように直させられていたそうなんです。環境のために割り|箸《ばし》をやめて自分の箸を持ち歩こうというキャンペーンが報道されていた頃、図工の時間に割り箸を使った工作が課題に出て、しのぶが質問をしたら、先生に『お前ら子どもがそんなこと心配せんでもええ』と言われたようです。そういうことを、私に訴えてきたこともありました。でも当時の私は、学校信仰に染まっていて、先生は正しいと信じてきた親だったので、いつも先生の味方をして対応してきたんですね。そのうち、しのぶはそういう話をほとんどしなくなっていたんです」(ひろみ)
ひとしきりしのぶの話を聞いた相談員は、「そんなにしんどかったら、行かなくていいんじゃない?」と言った。
その瞬間、しのぶは狭いところに閉じ込められていた自分が解放され、目の前がパーッと晴れていくような気持ちがした。
(あー、私は生きていてもいいんだ)
決して大げさではなく、心の底からそう思えた。
相談員はひろみの方へ向き直った。
「お母さん、こんな学校だったら行かなくてもいい、と思いません?」
ひろみは、面食らった。しのぶを元気に学校に行かせるための相談に来たのに、これでは話が違う。反射的に反論した。
「思いません!」
「この子は学校に行かなくても、大丈夫、やっていけますよ」と相談員。
「私はとにかくこの子に健康になって欲しいんです」と言うひろみに対し、相談員は|太鼓判《たいこばん》を押した。
「学校に行かなくなったら、きっと元気になります」
ひろみは内心、「この人は自分の子どものことでないから、こんなお気楽なことが言えるんだわ」と思った。
その一方で、我が子の表情を見て驚いた。それまで|蝋《ろう》人形のように青白かったしのぶの顔に、パーッと赤みが差していたのだ。
心なしか足取りも軽くなったしのぶとは対照的に、ひろみは相談員の言葉をどう受け止めたらいいものかと考え込みながら、帰宅した。
その晩、しのぶは出された夕食をすべて平らげた。半年ぶりに食欲を取り戻した娘を見て、ひろみは娘に必要なものが何か、分かったように思った。
|舅 《しゆうと》|姑 、《しゆうとめ》つまりしのぶの祖父母に対して、ひろみは意を決して、宣言した。
「明日から、学校を休ませます」
姑たちに、|有無《うむ》を言わさず自分の意見を主張したのは、結婚して初めてのことだった。その決意の強さに押されてか、舅姑も、「好きにしたらええ」と言ってくれた。
■また学校に通ってみたが
次の日から「学校に行かない晴れやかな日々」(しのぶ)が始まった。
家にいる時は、台所で料理をしたり、本を見ながらパンやお菓子を作ったりして過ごすことが多かった。
週に二回、山口県の精神保健福祉センターで行われる不登校の子どもたちの集まり「星のうさぎ」に通った。誘いを受けた当初、しのぶはあまり気が進まなかった。
(不登校の子の集まりなんて、なんだか暗そうで嫌だな)
自分のことを棚に上げて、しのぶはそう思った。
それでも、学校に行かない状態が続いて自分がどうなるのか、という不安もあった。しのぶは、とりあえず他の人たちの様子を見るだけのつもりで参加をしてみた。
「そうしたら、全然暗くないし、みんなの様子を見ていて、『学校に行かなくても大丈夫じゃん』と、頭じゃなくて、心が納得した」としのぶ。
他の子どもたちとおしゃべりをしたり、買い物に行ってお好み焼きパーティをしたり、公園に繰り出したり、体育館でバドミントンやバスケットをやって遊んだり……。
学校の友達だと|煙《けむ》たがられるような真面目な話をしても、嫌がらないで聞いてくれる人がいた。
もっとも、「星のうさぎ」といえども、何も悩みのない楽園ではなかった。女の子のグループが出来ていて、それに入らないでいると、いじめの対象にもなった。それでも、しのぶは片道二時間半の道のりを、一人でやってきた。
「あらかじめ計画しているんじゃなくて、『とりあえず体育館に行ってみる?』っていうみたいに、計画性がないの。そういう時でも中に残って本を読んでいる子もいるし、統一性がなくて、ダラダラしていた。そういうまとまりがない感じが、居心地よかった。学校だと、みんな一緒じゃないと、排除されてしまう。『星のうさぎ』ではそういうのが全くなかった。学校の友達は、一度用があって誘いを断ると、『今度から誘わない』となりかねないけれど、『うさぎ』の友達は、『じゃあ、また今度ね』と言ってくれる。だから、気持ちが楽だった」
学校に行く習慣を忘れかけた頃、母のひろみがしのぶに言った。
「中学はどうするの? 行けるよね。雰囲気が変わるから、きっと行けるわよ」
しのぶはびっくりした。
(なに? 学校に行かない生き方を認めてくれたと思っていたのに、やっぱり行かなきゃいけないの? 学校に戻そうとしているの? この人は!)
母に裏切られたような気持ちがした。
その一方で、学校を離れてみて初めて、「学校っていうのは便利な所なんだな」という思いも芽生えていた。自分の方から何も言わなくても先生が授業をやってくれるし、行っているだけで自然とレールの上を走っていける。
(行けるなら、行っておいた方が、その後、楽だろうな)
そんな打算もあって、しのぶは「とりあえず行ってみようかな」という気になった。
とはいえ、制服を着るのは、どうしても抵抗があった。修学旅行の一団を見るといつも、しのぶは|悪寒《おかん》がした。
(全員同じ格好で、同じような髪型して、同じ所へぞろぞろ歩いていくなんて、アリの大群みたい)
「私服で行っていいなら、行く」
このしのぶの言葉を聞いて、ひろみが学校に掛け合いに行った。校長も、最終的に了承してくれた。
二週間ほど、私服で通ってみた。が、それ以上続けることはできなかった。
■尾崎豊のメッセージ
忘れ物をして先生に叩かれたなど、いくつかのきっかけはあった。
が、何より、学校にいると他人の評価を気にしてしまう自分が嫌になった。
小学校高学年であまり学校に行っていなかったために、勉強では周りより遅れを取っていた。そのことが、とても気になった。小学校の時は優等生だったしのぶには、自分の成績がよくない状態が許せない、という気持ちがあった。そしてそれ以上に、そうやって他人と比較し、無意識のうちに他人にひけを取らないようにと頑張ってしまうことが、嫌だなと思った。
しかも、学校では掃除の仕方一つとっても、てきぱきできる人とそうでない人がいる。
「人がとろとろ掃除しているのを見ると、イライラした。この頃の私は、他人にもすべて私の物差しを当てはめようとしていたような気がする」としのぶは当時の自分を分析する。
学校の中は、「みんな仲良く」することをよしとする価値観が支配していた。仲良くできない人は排除の対象になる。しのぶは、当時の自分の器も小さかったかもしれないけれど、「みんな仲良く」という方向に全員を向かわせる学校のやり方も違う、と思っている。
「大人の社会も同じ。会社のみんなと飲み会に行かないと、つき合いが悪いと言われ、休みの取り方で融通をつけてもらえなかったり、デメリットがある。だから、行きたくもない飲み会に五千円も六千円も使って行くんでしょう? 不登校していると社会性が身に付かないと言う人の『社会性』って、そういうことじゃないですか?」
私服で登校するなど、|傍目《はため》には学校の枠にしっかり抵抗を示しているようでいて、内面は他人の目を気にする自分と、それを嫌う自分が戦っている状態だった。その頃から、しのぶの摂食障害が再び現れた。今度は過食だった。
母のひろみは、しのぶの夜中の行動を知って、愕然とした。冷凍食品のホットケーキを焼いて、五百グラム入りのあんこと一緒に平らげ、その後トイレで吐いていた。|吐瀉物《としやぶつ》の量は、簡易浄化槽を|傷《いた》め、排水溝を汚すほどだった。自分が、中学に行くように働きかけたことがいけなかったのかと、激しい後悔をしながら、ひろみは黙々と排水溝の掃除をした。
健康診断でも、|頻脈《ひんみやく》や尿に蛋白が出るなどの異常が出た。しかし、いろいろ精密検査をしても、病気はみつからない。そうした異常は、しのぶの体が出していたSOSだったのだろう。
再び学校に行かなくなって、図書館で本やCDを借りてきたり、台所で食事作りなどをして過ごした。この頃よく聴いていたのは、尾崎豊の曲だった。とりわけ歌詞が好きだった。大人のように見たくないものは目を伏せてしまうような生き方はしたくない、何ものにも目を|背《そむ》けずにしっかり見て戦って生きていこうというメッセージだと受け止めた。
週二回は「星のうさぎ」へ。不登校や学校教育の問題についてのフォーラムやシンポジウムがあると、積極的に出ていって、発言した。人前で話すことは、自分の考えをまとめるのにも役立ったことは事実だが、それだけではない。
当時の心境を、しのぶは今こんなふうに振り返る。
「『あの子は学校に行かなかったから、こうなった』というようなことは絶対に言わせないと思っていた。学校へ行っている子に負けたくなかった。『立派に不登校している子』として主張しないといけないような気になっていた。『自分らしく生きている』と言いながら、自然にそうなるのではなく、がんばって『自分らしく』をやっていたんだと思う」
不登校の優等生を演じようとしていたのではないか。そう問うと、しのぶは「そうそう、それなんです」と大きく|頷《うなず》いた。
■十四歳で一人暮らし
精神保健福祉センター相談員の小嶋容子は、しのぶと一緒に子どもの心のケアに関する専門家の前で話をしたことをよく覚えている。
「私は人前で話すことに緊張して、どんなふうにしゃべっているのかも分からないくらいでした。ようやく報告を終えた時、しのぶちゃんが、耳打ちしてくれたんです。『小嶋さん、私は小嶋さんのことを誇りに思うよ』って。すごく気を遣う子なんです」
内心では学校に行って欲しいと思いながら、それを表に出せない両親と、心の中で葛藤を抱えていたしのぶの気持ちは、しっくりといかなかった。
十四歳の時、しのぶは精神保健福祉センターの近くのアパートで、一人暮らしを始めた。ひろみは、「こんな状態で一人にしたらどうなるか」と心配だったが、父親の「いいだろう」の一言で、決まった。
元々台所仕事は好きだし、洗濯は洗濯機が勝手にやってくれるから、家事は苦にならなかった。『オレンジページ』などの料理の雑誌を見ながら、仕送りされたお金をやりくりして、小さな生活を切り盛りした。
しかしこの頃、「星のうさぎ」の中の人間関係が思わしくなくなった。しのぶはしのぶなりに努力をしてみた。バレンタインデーには、全員に手作りチョコレートを配ったり、何かにつけてその場を盛り上げるしのぶは男の子には人気があった。女の子の中でも仲のよい子はいた。だが、一方にはそんなしのぶを快く思わない女の子たちのグループがあった。彼女たちの様々な言動に、しのぶは一人アパートで何度も|悔《くや》し涙にくれた。
あまりに辛いと、実家に電話をした。離れて暮らしているので、事情を詳しく語らないと、自分の苦境は伝えられない。自分の置かれた状況や思いを語ることは、とても難しかった。
そういえば、としのぶは思った。
(今まで自分の気持ちを言葉で表すことをしてこなかったな)
一緒に暮らしていた時には、「親なんだから、言葉でわざわざ言わなくても分かってくれるはず」という思い込みがあった。「親なんだから、自分と価値観を共有できるはず」と期待していた。だから、分かってもらえないと、裏切られたような気になって、落ち込んだし、反発もした。離れて生活し、いくら親子でも察することが不可能な環境に置かれたことで、電話を通して言葉でコミュニケーションを取る必要に迫られた。この時初めて、親は心を読みとる超能力者ではなく、「お母さんも一人の普通の人間なんだ」と感じたのだ。
母のひろみも、それは同じだった。
「親の方も、『私の子どもなんだから、私の気持ちは分かってくれるはず』と思っていたんですね。電話だと、お互いが冷静に話せるのもよかったんだと思います」
それに加えて、同じように不登校の子どもを持つ親たちの集まりを作り、お互いの悩みを話し合うことで、ひろみの心にもゆとりができていた。
「親が楽にならないと、子どもは楽にならないんですね」
しのぶは、親に電話で泣きつくような辛い気持ちの時であっても、精神保健福祉センターの中では明るく元気で、いつも積極的だった。
相談員の小嶋は、それがかえって心配だった、という。
「しのぶちゃんは、表情がいつもぴちぴちして、雰囲気を明るくしてくれる。というより、ぴちぴちし過ぎなんです。辛い時でも、決して弱みを見せない。私は立場上、お母さんから彼女がどんなに参っているかを聞いています。でも、外では絶対にそういう姿を見せようとしなかった」
そんなしのぶの涙を、小嶋は一度だけ見た。
他の子どものカウンセリングをしている最中に、しのぶから小嶋に電話がかかってきた。いつもとは様子が違った。小嶋は、カウンセリングを中断し、車でしのぶのアパートに駆けつけた。狭いアパートの中で向き合うよりはと、小嶋は自分が大好きな|周防《すおう》大橋まで短いドライブに誘った。|翼《つばさ》を広げた|白鷺《しらさぎ》にも例えられる美しいこの橋の上から見える、海と川が交じり合う水面の輝き、広々と開けた空、そして島々や陸の影が描き出す光景が、小嶋は大好きだった。
泣きじゃくるしのぶからひとしきり話を聞いて、ほとんど言葉をかけることもできないまま、小嶋も静かに涙を流した。
「これまで、こんなにもがんばって、がんばって、がんばってきたんだなと思うと、私も泣けて仕方がありませんでした。と同時に、これで彼女ももっと自然体になってくれるかな、と思ったのです。でも、まもなく立ち直って、明るく前向きな『不登校の優等生』としてのしのぶちゃんに戻ってしまいました」
■結婚、そして子どもが生まれた
しのぶは、一度は実家に戻ったものの、その後「星のうさぎ」で仲良くしている女の子と一緒にアパート暮らしをした。
十六歳になって、将来のことを具体的に考えるようになった。好きな料理で生計を立てていければいいと思い、調理学校に通うことにした。どうせなら大きな町に行ってみたい、という気持ちもあって、彼女は福岡市内に部屋を借りた。
久々の「学校」だったが、生徒の年齢層が幅広く、家庭的な雰囲気で、居心地は悪くなかった。好きな料理の実習があり、自分で選んだ道なので、通うのは苦にならなかった。
卒業後、彼女は希望通り、和洋折衷の創作料理で知られるレストランに就職した。福岡市内のデパートに出店するというので、ちょうど人材を募集していたのだ。
だが、それから二カ月ほどで、しのぶはその店を辞めてしまう。朝五時頃から夜中まで働く環境が嫌だった、というわけではない。若いうちはそれくらいのことは当たり前という覚悟はあった。
「若かったので、理想が高すぎたのね。一つひとつに時間をかけて丁寧に仕事をしたいのに、とにかく早さばかり求められた。上司と相性が悪かったというのもあったし。今思うと、(やめてしまって)もったいなかったな、という気持ちは少しある。でも、その店にずっといたら、今の私はなかったかもしれない」
しのぶは、調理学校時代にアルバイトをしていたレストランで働くことにした。そして、その店の調理場で働く雄一と、交際を深めていった。雄一はその後、博多市内のホテルに就職した。
山口で娘の状態を案じていたひろみは、雄一に会って、優しくて気遣いをする人柄をいっぺんで気に入ってしまった。それに、しのぶの様子が前とずいぶんと変わっていることで、ひろみは明るい気持ちになった。
「一人暮らしを始めた後も、ずっと摂食障害は続いていました。それが完全によくなったのは、彼と知り合ってからのようです。親とは別に、自分を丸ごと受け入れてくれる人がいて、ようやく楽になったんですね」
しのぶが二十歳の時、二人は結婚。翌年長男が生まれた。
しのぶは、子どもを保育園に預け、スーパーでパートタイムの仕事を始めた。
午前中はとりわけ忙しい。朝七時前には起きて、洗濯をし、コーヒーを飲みながら保育園の連絡帳を書く。七時半には子どもを起こし、支度をし、車で保育園に連れていく。一度戻って、自転車でスーパーへ。午後二時に仕事が終わると、買い物をし、洗濯物を取り込んだりと家事をこなす。夕方保育園に迎えに行った後は、夫の実家に孫の顔を見せにいくこともあれば、家で子どもと一緒に遊んだりテレビを見たり。雄一が普通の時間に帰れる時には三人で一緒に食卓を囲む。しかし、結婚式が重なる時や忘年会の時期などホテルの調理場が忙しい時には、雄一の帰りは真夜中になった。
日曜や祝祭日も勤務できれば、パートの給料はずっとよくなる。しかし、しのぶは今のところ、仕事は平日だけと決めている。
「お金のために子どもを犠牲にしたくないんです。私自身、母が忙しかったから、家にいるときに母がいる生活っていうのが|憧《あこが》れだったので。今は、子どもといる時間を大切にしたい」
■自分の考えで生きるのはカッコイイ
子どもが生まれた後、しのぶは自分の中に変化を感じている。
「こうやって常に自分を求めてくれる存在があるっていうのは、大きい。うっとうしい時もありますけどね。子どもがいると仕事の条件は悪いし、レストランには行かれないし、|諦《あきら》めなきゃならないこともいっぱいあるし。子育てしていると、思い通りならないことが多いので、あまり頑張りすぎなくなったと思う。『まあいいや』と思えるようになってきたんです。とりあえず、自分の絶対大事なものを守っていければ、それでいいやって」
雄一から見ても、しのぶはずいぶん変わったな、と思う。
「前はいつも気を張っていたのが、最近は弱みを見せるようになりましたから」
雄一は、しのぶの生き方がうらやましくなる時すらある、という。
「僕は結構人の目を気にして、人に合わせてばかりだった。友達と話を合わせるために、そんなに見たくもないテレビ番組を見るようなこともあったし。だから、嫁さんのように、自分の考えで生きているというのは、カッコイイなと思うんです」
では、自分たちの子どもが不登校になったら、どうするつもりか。
しのぶは、その時の子どもの気持ちを大切にしてあげたい、と思っている。
「学校が必要ないとは言わない。でも、学校で勉強を教わったり友達をつくるか、別の所でやるかは、人によって違うと思うんですよね」
雄一も基本的な考えは一致している。
「大切なのは理由だと思うんです。いじめられるとか、学校の方針と合わないとか、先生が嫌だとか……。それによって対応は違うと思います。ただ、僕は子どもには学校の勉強より、生きる術を知って欲しいと思っているんです。無人島でも生き抜くことができるような、そんな力を身につけさせたい。僕は、学校に行かなくてもよかったかな、と思っているくらいで、子どもに『こうしろ』とは言いたくない。人を傷つけたり人間としてやってはいけないことはきちっと言うつもりですけど、あとは自分が生きたいように生きていって欲しいな、と」
傍らで|頷《うなず》きながら、しのぶは言った。
「そうね。私も自分が不登校していなかったら、自分の子どもを『理想の子』に育てようとする母親になっていたかもね」
そんな二人の夢は、将来夫婦で小さな食べ物屋さんを持つことだ。
* * * *
このインタビューを行って数カ月後、しのぶ夫妻に転機が訪れた。服や雑貨を商っている地元企業が、エスニック料理のレストランを始めることになり、雄一がそこの調理場を任されたのだ。住宅街の中にある、二十人ほどで満席の店だ。
しのぶも、開店の準備を手伝った。レジなどの備品を整え、アルバイトに指導する。デザートのメニューも考えた。直前には、開店記念の粗品としてお客に渡すために、クッキーを大量に焼き、夜を|徹《てつ》して袋詰めした。店が始まった直後は、子どもを雄一の実家に預け、調理場の手伝いもした。
「彼は雇われ店長なので、全て思うようにやれるわけではないけれど、いろいろ自分のアイデアを生かすことはできる。ホテルの調理場という大部屋暮らしだったのが、間借りではあっても自分たちだけで暮らす部屋が持てたような感じ。いつかは、小さくて、でもお客様の味の好みを考えてサービスできるような、そんな店を持ちたいんです。この私たちの夢に向かって、一歩近づいた感じがするんです。とにかく今は、お客様を大事にして、いい店にしたいねと二人で話し合っているんですよ」
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料理人 山上雅志

■将来が楽しみの子
「おもしろいこと、やっていたいじゃないですか」
そう山上雅志(仮名)は言った。
おもしろい――話を聞いている間、実にしばしばこの言葉が、彼の口から飛び出した。
おもしろいことをやりたい。これが、彼の原動力でもあるらしいのだ。
雅志は、三歳の時から神奈川県の政令指定都市にある団地で育った。
父親は公立中学の国語教師。母親も元は理科の教師をしていたが、雅志の姉が幼い頃体が弱かったこともあって退職し、子育てに専念していた。
小学校の時には、学校に行くことに疑問を持ったり、学校が嫌になったことはなかった。体つきは小柄でふっくらしていたが、運動は得意で、運動会ではリレーの選手にも選ばれた。将来はサッカーの選手になることが夢だった。
母親の光代(仮名)にとって、雅志は「心配のない子」だった。小学校の時にはずっと学級委員。勉強も納得しないことはなかなか乗り気にならなかったが、ひとたびその気になると一生懸命やった。
掛け算を習い始めた頃、「僕は掛け算なんていらない。足し算だけでいいと思う」と言う。光代が放っておいたら、しばらくして「掛け算の方が早いことが分かったよ」と、九九をそらんじる勉強を始めた。成績もよかったし、先生ともそこそこうまくやっていたようだった。
父親の亮一(仮名)にとっては、将来が楽しみな子だった。
「学習の面でも、スポーツの面でも、モノを見る目という点でも、かなり進んでいると思った。将来を期待していた」
雅志は、小さい頃からモノを作ることが大好きで、「おもしろいこと」を見つける名人だった。
ある時、陶芸のろくろを見て、自分で作ってみたい、と思った。ミニ四駆のモーターを外し、プラスチックの板を据え付けて、回してみた。上に粘土を載せ、つまようじを添えて成形していくと、器のような形になった。学校に持っていくと、みんなおもしろがって、クラスでちょっとしたブームになった。
納得するまでトコトンやらなくては気が済まない。適当なところで妥協することが、できなかった。
|燻製《くんせい》の作り方を知って、「おもしろそう」と思った。団地内の桜の木の皮を削り、イカをゆでて缶に吊した。最初は煙が猛烈に出て、イカは真っ黒に。桜を削ったり、火事と間違われたことで小言を言われながらも、何回も再挑戦するうちに、いい色合いのイカの燻製が出来上がった。
部屋の中でカマキリの卵を|孵化《ふか》させた時には、天井をたくさんの小さなカマキリがはいずり回った。アゲハの幼虫を育てたりもした。
失敗もあった。
となりの棟の同じ階の友達と、特別の通信手段を作ろう、と思いついた。作った装置は、部屋と部屋を糸で結び、|滑車《かつしや》に空気を吹き込んだ風船をつけたもの。手を放せば空気が噴出する勢いで前進するだろう、という発想だった。滑車に手紙をぶらさげれば、二人だけの通信ができる。
ところが、手を放すとすぐに、風船は割れてしまった。どうやら、滑車に風船をとりつけるのにセロハンテープを使ったため、その部分だけが風船のゴムの収縮についてこれなかったのが原因らしかった。
失敗を重ねるたびに、なにがしかの知恵を身につけた。
遊びに使っていた火のついたろうそくが、机の上で倒れたことがあった。急いで火を消そうと、水をかけると、火柱が上がった。傍らの教科書が焦げた。
「水をかけるとろうが跳ねてしまって、こうなるんだと分かりましたよ」
「おもしろい」と思ったことに、気の済むまでたっぷりと熱中していた小学生時代。
■「切れちゃった」
母の光代は、時にはハラハラしながらも、雅志がやりたいことを、やりたいだけやれるように見守っていた。というより、一緒に楽しんでいた。
「この子を見ていると、次は何をやるのかなと、それがおもしろかったんです」
そんな快活でクラスの人気者でもあった雅志が、なぜ学校に行けなくなったのだろうか。
中学では、サッカー部に所属していた。音楽が好きな雅志は、かけもちで合唱部にも所属。時間をやりくりしながら、両方の練習に参加をしていた。
ところが、中学一年の終わり頃から、雅志は学校を休みがちになった。そして、二年生になってしばらくして、こう宣言した。
「明日から、僕は学校に行かないよ」
その前後の経緯や状況は、雅志の話と両親の説明がかなり食い違う。
まずは、雅志本人の記憶をたどっていくことにしよう。
きっかけは、サッカー部のメンバーとケンカをしたことで、なんとなく気まずい雰囲気が尾を引いてしまったこと。そうなると学校がおもしろくない。家に帰って、「明日から行かない」と宣言してみると、母親はあっさりと「別にいいんじゃない」と言ってくれた。親が「いい」と言うなら、やっぱり行くのはやめよう、と思った。
「いじめとかは全然関係なくて、行かない理由は特別にない。敢えて言うと、学校にいるより楽しいことが、学校の外にはいっぱいあるから」
しかし、両親の心境は雅志が言うほどお気楽なものではなかったし、不登校のきっかけについても、両親は違う見方をしている。
母の光代は、息子の不登校の背景にはいじめがあった、と確信している。
ある時雅志が小指を骨折した。事情を聞くと、「ゴールポストにぶつかった」とだけしか言わない。
同じようなことがもう一度あった。
光代は学校に報告し、なんらかの対応をしてもらおう、と考えた。
だが、雅志は「そんなことはやめてくれ」と言う。
「母さんの対応は、暴力的なんだよ。僕ががまんすれば済むことなんだから」
はつらつと活動的な光代だが、いきなり感情的に食ってかかるつもりは、もちろんなかった。それでも雅志は、親が出てくれば話が大きくなり、かえってコトを荒立てることになる、と嫌がった。
次第に雅志は、学校に行きづらそうになり、「お腹が痛い」「風邪を引いた」と言っては、休む日もあった。
そして、とうとう「明日から学校に行かない」と宣言した日を、光代は鮮明に覚えている。
中学二年になって、ゴールデンウィークが明けたばかりの、五月九日だった。
その日、学校から帰ってきた雅志の靴のひもが切れていた。明らかに人為的に切られた|痕跡《こんせき》だった。
「どうしたの?」
光代が問うと、雅志は一言だけつぶやいた。「切れちゃった」
そして、「学校に行かない」宣言をしたのだ。
■一日中、新宿と江ノ島を往復
友達との関係だけでなく、先生にも理解をされていないようだ、と光代は感じていた。
校内の合唱コンクールが近づくと、雅志はパートリーダーとして、クラスメイトに早朝練習をもちかけた。雅志はみんなで頑張っていい演奏をしたい、と思った。なのに、みんなはなかなかそれに乗ってこない。まじめに歌の練習をするのを、カッコ悪いと感じている子もいた。朝早く出ていっても、ほとんど人が集まらない。
「どうせみんなが来ないんじゃあ、仕方ない」
雅志も熱意が失せた。朝早くから学校に行くことはなくなった。
すると、先生から激励とも小言ともつかない注意を受けた。
「リーダーの君が来ないから、みんなが来ないんだぞ」
理不尽だと思っても、雅志は他人と議論をするより、自分の胸に納めることを好んだ。
それまでに断片的に事情を聞いてきた光代は、雅志が「行かない」と宣言した時、「それでも行きなさい」と叱咤することはできないな、と思った。
光代から経緯を聞いた亮一も、「本人が行かないと言うなら仕方がないか」と、当面は静かに見守る方針だった。
学校に行かなくなってしばらくして、雅志の姉と同学年の男の子が、高校に進学した後、首を吊って自殺した。いじめが原因らしいと伝え聞いた。
「かわいそうだ。なんてかわいそうな子なんだ……」
そう繰り返しつぶやいた後、雅志は行き先も告げず外に出た。昼食にも戻らず、連絡もない。心配になった光代は、夫の職場に電話をして早く帰ってきてもらった。
ひたすら身を案じていると、午後六時頃になって、電話があった。ある私鉄の駅にいる、という。
迎えに行った光代に、雅志は一日中小田急線の新宿─江ノ島間を往復していた、と言った。
どんな思いで電車に揺られていたのだろうか。その胸中を思うと、光代はそれ以上、雅志に何も問うことができなかった。
静観の構えをしていたとはいえ、両親とも学校に行かないことを肯定していたわけではない。
「|腫《は》れ物に触るようだった」と亮一が言う最初の一時期を過ぎると、両親は「学校に戻すにはどうしたらいいか」を考え始めた。
雅志は、そういう両親の気持ちを、敏感に察していたらしい。
「学校、そろそろ行かない?」
光代が努めて軽く聞いてみると、雅志は無言で席を立ち、自室に籠もると、壁をガンガン叩いていた。
「学校に行かないと、人生がダメになるよ」
思い切ってズバリと切り出してみると、やはり部屋で暴れた。
荒っぽいことを好まない雅志は、親に対して暴力をふるうようなことはなかったが、時にはどうしようもない思いが|堰《せき》を切ったように出てくる。それを受け止めたのは、部屋の壁だった。
珍しく、語気を荒げて光代に論争を挑んでくることもあった。
「どうして学校に行かなくちゃいけないんだ!」
「どうせ本心は、学校に行かせたいんだろ!」
光代が根負けして、「分かった、分かった」と話を収めようとすると、「分かってないじゃないか。それは逃げだ」と追及の手を緩めない。
■「戦うなんて、無意味だよ」
このまま家の中にいたのでは、気持ちが煮詰まってしまう。それよりは外の空気を吸った方がいいのではないかと、光代は雅志を外に連れだした。
公園に行ったり、展覧会や博物館の催しなど、雅志の興味を引きそうなものを見つけては、誘った。
亮一は、一度強引に学校に連れ出そうとしたことがある。雅志は、泣きながら抵抗した。亮一が一、二度平手打ちをした。
「行きたくなくて行かないんじゃないよ!」
その叫び声と目に、息子の強固な意志を感じた。叩いてもどうなるものではない、と思った亮一は、それ以後手をあげることはしていない。
といっても、諦めたわけではない。こんなふうに、雅志を叱咤激励してみた。
「お父さんが怒ったのは、雅志が学校に行かないことに対して、じゃない。やることを邪魔するような者がいたら、それを排除する強さが欲しいんだ。そういう|輩《やから》にはもっと立ち向かえ。正義を貫かなくちゃ」
雅志は、静かにかぶりを振った。
「戦うなんて、無意味だよ」
亮一も努めて穏やかに告げた。
「お父さんは、今学校に行けないということは認めたが、将来にわたって行かないことを認めたわけじゃないからな。学校に行かなくなったら、将来どうなると思うか? この先を考えてみなさい」
亮一自身、教師として不登校の子どもの対応をしてきた経験があった。
以前、受け持っていた女の子は、家に閉じこもって外に出ようとしなかった。亮一はしばしば家庭訪問をした。最後まで中学校には来られなかったが、その後定時制の高校に進学した。しばらくして、楽しい高校生活を伝える手紙が届いた。
雅志が学校に行かなくなった年にも、クラスに不登校の男の子がいた。やはり家庭訪問から始まり、少しずつ外に誘い出した。教室に入るのは辛そうだったので、会議室を彼のための部屋にして待っていたら、時々顔を出すようになった。その回数が次第に増えて、週に三、四日のペースでやってきた。
強い口調で迫ると、相手は腰が引けてしまう。決していい結果は得られない。少しでも受け入れて、過去や今のことではなく、今後のことをアドバイスすると、素直に受け入れた。
自分の息子と話をしていても、クラスのその子の顔が浮かんできた。いざ自分の息子となると、つい感情的になってしまったが、これではいけない、と亮一は思い直した。
「それから三年半くらい、雅志と私の間は、親子というより、先生と生徒という感じでしたね」
将来のことを考えるように働きかけていけば、息子も学校に戻る気になるのではないか、と亮一は思った。息子が相談してきたら、こう言ってやろうと心の準備をしていた。
「今は高校を出ていないと、やりたいことも選択肢が限られてしまう。お前は頭はいいんだから、大学に行って、自分がいじめられた経験を生かして、将来は教師になる道も考えられるんじゃないか」
■ドイツ旅行
両親は、なんとか高校には進ませたいと思った。
「なんで勉強が必要なの?」と問う雅志に、亮一は諭した。
「サイコロを振って人生を決めるようなことではダメだよ。何をするにも、基礎があって、その上に創造があるんだ」
しかし、オール5に近かった成績は、学校に行かなくなって、ほとんどオール1になった。当時、神奈川県の県立高校への入試の比重は、内申書の成績が六割、試験の結果が四割だった。
成績表を見て、光代もショックを受けた。これでは受験はできない。高校に行かなければ、息子の将来はない、と嘆いた。
でも、嘆いてばかりでは始まらない。「どこでもいい、入れれば」と気を取り直し、「試験の四割にかけよう」と光代は決意。雅志が勉強に気持ちが向くように様々な働きかけをした。光代は中学生を相手に数学を教えていたが、その勉強の場に雅志を誘った。
当時の心境を、光代は今こう語る。
「前は、この子はそんなに苦労しなくても大学までは大丈夫、と思っていました。それが違う方向に行ってしまい、通常のルートから外れたら大変だと焦って、なんとか軌道を元に修正させようとしたんです」
成績表で、唯一1ではなかったのは、音楽だった。
学校に行かなくなった後も、雅志は夏休みの合唱部の練習などには参加していた。そういう活動も評価の対象に入れてくれたのだろう。この先生は、4をつけてくれた。
雅志は、合唱部顧問の音楽の先生は大好きで、尊敬もしていた。
モーツァルトのオペラ「魔笛」に登場する夜の女王のアリアを、素晴らしいコロラチューラ・ソプラノで聞かせてくれた。その声にすっかり魅せられて、声楽に興味を持った。先生の勧めで、テノール歌手のCDを買って、繰り返し聴いた。そのCDに収められていたシューベルトの「野ばら」の楽譜を買ってきて、ピアノに挑戦した。小学校低学年の時には習っていたが、サッカーをやるようになってやめていた。そのピアノを、またいじりたくなったのだ。
その後、ドイツ語を習うようになった雅志は、ベートーヴェンの第九交響曲の第四楽章、テノールの独唱部分の歌詞を教わった。
「フロイデ〜」
風呂の中から、雅志の通る声が響いた。
雅志がドイツ語に興味を持つようになったのは、中学二年の冬、光代の妹が住むドイツに一家揃って旅行をしたことがきっかけだった。
気分転換に加えて、子どもたちが視野を広げられるような体験をさせようと、それまで貯めていた財形貯蓄を解約。夫の冬休みを利用して、二週間の大型旅行となった。
光代と雅志、姉の三人が一足先に旅立ち、亮一だけは修了式で生徒に通知票を渡してから、後を追った。
言葉も文化も違う国。極めて先進的で合理的な町並みや交通網があるかと思えば、豊かな自然と美しい光景がすぐ隣にあるドイツの暮らしに、雅志は興味を持った。
■ゲートボール、仏像、自転車
雅志は、そのうち一人で自分の興味のあるイベントなどにどんどん出かけるようになった。
近くの公園で、毎日ゲートボールの練習をしているおじいさんがいた。雅志は見ていて、「おもしろそうだな」と思った。
そのおじいさんに教えを|乞《こ》うた。おじいさんは、相手ができたのがうれしかったのか、懇切|丁寧《ていねい》に教えてくれた。一時期、毎朝七時に公園に行っては、おじいさんとゲートボールに夢中になった。
ゲートボールを通じて、お年寄りたちと仲良くなった。おじいさんたちは、雅志にいろんな話をしてくれた。
雅志が弁当のおにぎりにかぶりついていると、「ワシが子どもの頃、米だけのおにぎりはごちそうだったんだよ」と、昭和初期の食糧事情や生活について語ってくれる。軍隊での上下関係に苦労した話なども聞かされたが、「知らないことだったんで、おもしろかった」と、雅志は喜んで聞いた。
仏像に詳しいおじいさんがいた。家に連れていってもらうと、仏像の写真がたくさんあった。
「この仏像とこちらの仏像では、同じ|如来《によらい》像なのに顔が違うだろう? 作られた時代が違うからなんだよ」
おじいさんは、奈良時代と平安時代の違いをいろいろと説明してくれた。難しくて分からない話もあったが、時代によって仏像の顔が違うということに、雅志はおもしろさを感じた。
そうかと思うと、お年寄り相手に将棋に興じることもあった。将棋に凝った時期には、パソコンの将棋ソフトを買ってきて、家でも練習していた。
雅志が加わったことでお年寄りと子どもの混合チームが出来、市内のゲートボール大会に出場して優勝したこともあった。
家にいる時には、台所にこもることもあった。何かにつけ|凝《こ》り性で、納得がいくまでやらなければ気が済まない。ケーキ作りに凝った時には、母親の本を見ながら、うまくいくまで繰り返し同じケーキを焼いた。
「最初、なかなかうまく|膨《ふく》らまなかったんです。今考えると、慎重にやろうと丁寧にやったのがあだになって、時間をかけすぎて、メレンゲがつぶれちゃったんですね。うちの母親も、僕が小さい時にドロップクッキーとか焼いてくれたし、お菓子作りはおもしろかった」
テレビで、自転車レースのツール・ド・フランスを見て、自転車競技に興味を持った。父親が買ってくれた自転車を毎日乗り回した。トレーニング方法は、本で勉強した。川べりを走っていると、同じように競技用自転車に乗っている大人に声をかけられた。
「よかったら、うちのチームに来ない?」
自転車のチームがあるということを、その時初めて知った。
この自転車への興味は、かなり長い間続いた。いくつか小さな大会に出たこともある。一番練習していた時期は、長野まで三百三十キロを十一時間で走った。その頃は、ウエストのサイズでズボンを買うことができず、腿の太さに合わせ、ブカブカの腰をベルトで締めていた。
「時間はいくらでもあったので、やりたいと思ったことをいくらでもできた」
■学校からの縁切り状
学年が三年生になった時、学校に残っていた雅志の私物を、担任がクラスの女の子に持たせて返してきた。
光代は|唖然《あぜん》とした。
それまでも、学校側の雅志に対する淡泊な対応に納得のいかないものを感じていた。しかし、今回の行為は学校による縁切り状のように思えてならなかった。
「これで完全に、あの中学とは関係が切れたわ」
光代の方も、ある意味で中学を見限ったのである。
不登校について、光代は本を読み漁った。その中に、東京シューレを主宰する奥地圭子の著書があった。興味を持った光代は、雅志を見学に誘った。
雅志は、うれしさと|憂鬱《ゆううつ》な気持ちが半々だった。
一人で動くことも多かったので、同世代の友達が欲しいなと思い始めた時期だった。しかし、不登校の子どもが集まっている場所と聞いて、「なんだか暗そう。変なヤツばかりいるんじゃないかな」と不安になった。
行ってみると、将棋を指しているグループがあった。自然にその子たちに加わり、雅志も一局指してみた。
不覚にも、負けた。このまま引き下がるわけにはいかない。
「また、明日やりましょう」
すんなりとその場の雰囲気になじみ、雅志は東京シューレの会員になった。
「確かに人とぶつかり合うことはあるけど、一人でいるより、やっぱり仲間がいる方が楽しい」
東京都大田区にあるシューレの施設まで、十五キロほどの道のりを、自転車で通う毎日が始まった。
そこでは、料理が得意なスタッフを中心に、昼食を自分たちで作ることがよくあった。希望者を募ってお金を出し合い、材料を買いに行った。
この頃の雅志は、自分の将来については何のイメージもなかった。
「何とかなるんじゃないかな、と。それより、今やりたいことをやっていたいだけだった」
高校進学という選択は、彼の「やりたいこと」のリストには全く上がってこなかった。
生き生きとした表情を取り戻した息子を見ていて、父親の亮一も高校進学を勧めることはしなかった。
「無理に高校に行かせるより、このチャンスにいろんな勉強をしてくれればいい。他の子が学校で過ごす三年間で、この子は学校外の世界を学ぶだろう」
高校受験はせず、シューレに通う一方でアルバイトも始めた。
働くのっておもしろそうだし、自分でお金を稼いでみたい、というのが動機。
近くの魚屋さんが、時給八百円で雇ってくれた。店の主に一緒に市場に連れて行ってもらったり、店頭に魚を並べたりしているうちに、魚を覚え、いいものの見分け方も少しずつ分かってきた。
しかし、亮一は息子が大学に行くことを諦めていなかった。
雅志が「高校を出ていないと、大学に行かれないの?」と聞いてきたことがあった。
亮一は、喜んだ。大学に進もうという気持ちが、ようやく芽生えてきたのではないか、と。その喜びを押さえて、努めて冷静に答えた。
「大学検定という試験があって、これで高校卒業程度の学力があると認められれば、大学受験はできるんだよ。ちゃんと勉強を続けていれば、な」
■鳶のアルバイト
東京シューレでは、彼は大工や土木関係の仕事につくのではないか、と思われていたようである。というのは、そういった方面で、彼の活躍がめざましかったからだ。
シューレのメンバーで、ログハウスを作ろうという話が持ち上がった。
「おもしろそう」――雅志は、すぐにそのメンバーに加わった。
雑誌を見て、図面の描き方はだいたい分かった。みんなの意見を聞きながら、作りたいログハウスのイメージを、方眼紙に描いてみた。
仲間二人と一緒に、カナダに行き、ログハウスに使う木を製材する現場を見学した。
実際の建設はプロのログハウスビルダーが行うが、雅志たちも作業を手伝うため、三カ月間長野県の現場に泊まり込んだ。
シューレの老朽化したブロック塀が一部崩れた時には、雅志が音頭をとって、修繕工事をやった。鉄筋を入れて強度を高め、モルタルを練り、ブロックを積んでしっかりとした塀が完成した。
青森のねぶた祭りに行って、自分たちのねぶたを作ろうという企画にも参加。こういうモノを作る作業には、たいてい雅志は一枚加わっていた。
アルバイトも、次第に建設関係の方に、興味が移っていった。
シューレで知り合った友人の一人が、大工の息子だった。試しに手伝いをしてみたら、「おもしろかった」。
やはりシューレの友達から、「造園のバイトをしないか」と誘われた。羽田空港の滑走路の脇に芝を植える仕事だった。芝がびっしり植わったシートを、風で飛ばないように竹串で固定しながら並べていく。「おもしろかった」うえに、時給もそこそこよかった。
その後、この時の造園業者から仕事をいくつか|斡旋《あつせん》してもらった。
公園の除草は何カ所も行った。マンションのベランダに花やハーブ、ちょっとした野菜を植えられるように土を入れる作業もした。
初めてやる作業ばかりで、雅志は「楽しくて楽しくてしょうがなかった」という。そのうえ、お金ももらえる。
そのうち、土木関係の仕事にも挑戦してみたくなった。
いろいろ探して、年齢や経験を問わずに人を募集している会社をみつけた。
凝り性の雅志は、まず、ダボッとしたニッカズボンや手甲シャツなどの|鳶《とび》の衣装を買いそろえた。
毎朝五時に家を出ては、現場へ。雅志が関わった大きな仕事としては、川崎と木更津を結ぶ東京湾アクアラインの建設作業がある。|橋 梁《きようりよう》上げといって、道路を|橋桁《はしげた》の上に載せて、それをボルトでとめていく。高所での作業だが、雅志は平気だった。
多かったのは、ビル工事の足場を組む仕事。自転車で足腰は鍛えていたし、力もあった。多くの作業員が一度に三、四枚運ぶのがやっとという板を、雅志は六枚運んだ。それでも、上には上がいて、七枚の板を運び上げる力持ちがいた。負けるのが悔しくて、雅志は追いつこうとがんばった。
鳶のアルバイトでは、多いときには週に七万円くらいの稼ぎになった。大半は、彼の胃袋の中に消えた。体を使うのでお腹が空く。一時は毎日のように、焼き肉屋を食べ歩いて、おいしい店を見つけた。残りは、貯めておいて、三十万円もする自転車を買った。
■父親の期待と困惑
この自転車を抱えて、ドイツへ。一月半ほど叔母の家にやっかいになった。
自転車で走っていると、やはり地元のチームの人たちが話しかけてきた。
「どこから来たんだ?」「日本から自転車に乗って来たのか?」「日本って、どこにあるんだ?」……。
雅志は、少しはドイツ語が話せるようになっていた。一生懸命彼らの問いに答えていると、練習に誘われた。
「一緒に走ろうぜ」
こんなふうに、やりたいことをとことん、やりたいだけやる毎日は、充実していた。雅志は、日々の生活を、めいっぱい楽しんだ。
十七歳の早春、学校に行った人たちは高校二年生を終えようとしている頃、父親の亮一が雅志に声をかけた。
「どうするんだ? あと一年で高校卒業の年だぞ。何か、今後やりたいことが見つかったのか?」
亮一は、大学検定の試験を受けるなら、そろそろ本気で勉強を始めないと、と気を|揉《も》んでいたのだ。
しかし、雅志はそういう父親の内心に気づいていなかったらしい。今でも、彼は両親の対応をこんなふうに語っている。
「やりたいことが見つかって、それを実現するために必要があれば大学に行けばいい、という感じだった。教員になりたければ、教員免許が必要で、そのためには大学に行かなければならない、というように。両親とも、僕のやりたいことについては、すごく協力してくれた」
亮一が進路のことで声をかけてしばらくして、雅志はこう告げた。
「調理学校に行きたい」
「え? 大学は?」
亮一は、息子の言葉に、一瞬|虚《きよ》を突かれた。若干時間はかかっても、最終的には大学に行くだろうという期待を、父は持ち続けていたのだ。
ところが雅志は、大学進学は考えていなかった。
「中卒で、これから勉強を始めても、すごく遠回りになる。それに、今やりたいのは調理師になることなんだ」
時々家で台所に立つこともあった。煮物を作っていて、「どうしたらもっと|美味《おい》しくなるだろう」と考えたり、あれこれ工夫をしているうちに、調理の勉強をしてみたくなった。この時点では、それを一生の職業に決めるまでの決意はしていない。「とにかく勉強してみたかった」というのが、本音だった。
亮一は、困ってしまった。
しかし、説得をして大学に行かせることはしたくなかった。もし、その説得を受け入れて大学進学を目指したとしても、親に言われて渋々行ったのでは、途中で挫折するだろう。そして、そうなった時に「僕は本当は嫌だったのに、父さんが言ったから進学したんだ」と、言い訳をすることになる。それだけは避けたかった。
学校に行かなくなってほぼ四年。妻の光代を通して、息子が生き生きと毎日を過ごしていることを聞いていた。そんな中で彼は彼なりに一生懸命考えた結果だと思った。それに、雅志の料理は食べてみても、結構うまい。
それでも、やはり大学に行って欲しいという期待を捨てることはできなかった。
(待てよ)
あれこれ悩むうちに、亮一は心の中でそうつぶやいた。
(調理師の学校といっても、一年か二年だろう。その間にとことんやれば気が済むだろうし、その後で、調理学校で習ったことをきっかけに、学問の方に目が向いてくれれば、それはそれでいいかもしれない。今の時代、多少時期が遅れたとしても、本人がその気になりさえすれば、いろいろな選択肢はある)
■ホットケーキの表面の色
亮一は当面は雅志が望む方向を、進ませることにした。専門学校の受験についてのガイドブックを買って、息子に与えた。
専門学校を受験するには、高卒の資格がいる。しかし、専修学校なら、中卒でOKだった。しかも、勉強する内容は基本的に変わらない。
雅志は、自宅から通える範囲の調理学校に、片っ端から丸印をつけていった。二十カ所以上が候補に上った。
最初は「入れてくれるところがあればいいや」と思っていたが、これだけ選択肢があるとなると欲が出てくる。少しでも、内容がよいところへ行きたくなった。
でも、何の情報もない。雅志は丸印をつけた学校すべてを回り、説明を受け、施設を見学し、学校案内や募集要項をもらった。
その中で、彼は都内のある調理専門学校を選んだ。実習室がきれいで広い、というのが最大のポイントだった。
願書を出すと、中卒の場合は試験が必要、と言われた。今後授業などに使われる化学式や漢字などが理解できるかどうか、基礎的な事柄の知識をチェックするためだった。
新聞や本はよく読んでいたので、漢字テストは簡単だった。化学についても、理科教師だった母から教わっていたので、楽々合格した。
ほぼ五年ぶりの学校。自分で選んで行った所でもあり、特に抵抗や違和感を感じることはなかった。
それより、とにかく授業が楽しかった。
実習だけでなく、栄養や食品など調理に関連する様々な知識を学ぶ座学も、雅志の興味を引いた。
「ほんと、おもしろかったです。いろんなことが分かりましたもん。ホットケーキの表面が、なんであんなうまそうな色をしているのか分かります? あれは、アミノカルボニル反応っていうんですよ。アミノ酸と糖質の反応なんです。温度によって、この反応が促進されるんですよ。あと、舌の味覚を感じる位置も、なるほど、と思った。なぜ、酸味を舌の脇の方で感じるかというと、酸は歯を溶かしちゃうから、それを防ぐためなんですよ。肉がどう熟成されるのか、なぜ寝かしておくとうまくなるのかとか、なぜ油が劣化するのかとか、マーガリンとバターの作り方なんかも教わりました」
もちろん実習は、大好きだった。フォアグラやトリュフなど、見たこともない食材を知ったり、串の打ち方、|出汁《だし》の取り方など様々な技術を学んだ。
習ったことは、家でも繰り返し練習してみた。レストランでアルバイトをしていたので、帰りにはスーパーは閉まっている。雅志は光代に電話をしては、必要な食材の買い物を頼んだ。
魚の扱い方をマスターするために、アジを何本もおろした。かつらむきの練習で、大根を何本も使った。アジは翌日のおかずに、大根はみそ汁や炒め物にしたが、オムレツの練習の時は、大変だった。山のようなオムレツを前に、両親はため息をついた。
いろいろやっているうちに、雅志は包丁の大切さを実感するようになった。切れ味がよいと骨の上を滑らせるだけでしっかりと身を切るので、見た目がきれいだし、作業も早い。かつらむきなどは、もちろん包丁のキレが勝負だ。
練習をしているうちに、以前アルバイトをしていた魚屋の主が持っていた大きな|砥石《といし》を思い出した。百万円近くする、天然の砥石だった。
「これで|研《と》ぐと、キレが違う」と主は言っていた。
雅志は、調理師相手の専門店を巡り、目が細かくて安い掘り出し物の砥石を探した。
■賄いの工夫
一年間の在学中、雅志は一日も休まず、しかも無遅刻の皆勤賞を取った。そのうえ成績は、三百人余りいた同期生の中で、首席だった。
和食、中華、西洋料理を一通り学んでいる中で、彼はフランス料理に興味を持った。
「最初は中華がいいかな、と思ったんですよ。だっておいしいじゃないですか。でも、途中で変わったんです。なぜって……うまいから、ですね。僕自身がバターやクリームを使ったこってりした料理が好きなんです。食材もおもしろいし」
アルバイト先のレストランのシェフの紹介で、彼は都内のレストランに就職した。
最初は、お客に料理やワインをサービスする「ホール」の係だった。上等のワインは、必ずテイスティングをするので、そのたびに味や香りを覚えた。皿に盛られて完成した料理を一番見る機会があるのも、この係だ。
以前アルバイト先で、同じ仕事を経験していたこともあって、一年もしないうちに、調理場に入ることができた。
最初は「洗い場」。様々な洗い物や魚のおろし、雑用をこなす。上質の食器を使っていることもあり、食器洗い機は一切使わず、小皿一枚に至るまで手で洗う。
この係で一番重要で大変なのは、従業員の食事を作る|賄《まかな》いの仕事だ。
ランチタイムの営業が始まる前の朝食と、夕食、一日二食分を用意しなければならない。
最初シェフは、「二週間分のメニューを用意しておけばいい。それをローテーションさせていけばいいんだから」と言ってくれた。
でも、やってみると話は違っていた。二度同じものを出すと叱られる。雅志は知恵を絞って工夫をした。
麺類では、具に変化を持たせてバリエーションをつける。メカブやナメタケおろしをのせたり、天ぷらそばにしても、ゴボウ天、キノコ天、春菊天、エビ天、イカ天、かき揚げなど材料を変える“マイナーチェンジ”で、メニューの数は飛躍的に増えた。
東京シューレにいた時、スタッフから教わった料理も、役に立った。どじょうの代わりに牛肉を使い、ごぼうやキノコと一緒に卵でとじた「にせ柳川丼」などは、安くておいしく、賄い料理にぴったり。シェフなど先輩たちにも評判がよかった。
失敗もあった。うっかり煮物を焦がしてしまった時は、シェフの判断でランチでお客に出すための肉を使ってヒレステーキという豪華な夕食になった。
もちろん、そういう時にはこっぴどく叱られた。
職人の世界だから、上下の関係は厳しく、何かにつけてスピーディさが求められる。とりわけシェフは手が早く、げんこつが飛ぶことは日常茶飯事だ。
時には、理不尽な怒られ方をすることもある。
ある時、雅志は朝食の一品に白和えを作った。結構丁寧に仕上げたし、実際シェフはおいしそうに全部平らげた。ところが、食べ終わってから、雅志を怒鳴り上げた。
「ばかやろうっ! 朝から、こんな手のかかるもんを作ってんじゃないっ!」
しかし、雅志はけろりとしている。
「だって、そういう世界なんですから。でも僕はこの世界を選んだんですよ。こういうのが嫌な人は、辞めりゃあいいんですよ」
■日経新聞とマンガ本
雅志の毎日は、午前六時半頃に始まる。
午前八時には出勤。朝からずっと立ち仕事が続き、終わるのは午後十一時前後。
バレンタインデーの直前には、チョコレート作りで忙しく、朝の六時頃に出勤し、解放されるのが夜中の十二時という日が続くこともある。
二十歳代前半という若さもあってだろうが、辛いと思ったことはない。
「朝は強いんです。だから全然問題ない。ずっと立ち仕事をしているのも、そんなに苦になりませんしね。仕事がおもしろいですから」
仕事が終わった後も、そのまままっすぐ帰るとは限らない。深夜に繰り出すのはたいてい、先輩のいきつけのバーか、住まいの近くにあるワインバー。そこで知り合った常連のお客さんたちと割り勘でちょっと上等のワインを一本頼む。そうすることで、あまり|懐《ふところ》がいたまず、いいワインを味わえる。
仕事の後で飲みに行くのは、雅志にとっては楽しい遊びなのだけれど、同時に、それが彼の舌にとって何よりの|肥《こ》やしにもなっている。
休みの日でも、遅くても午前八時には起きている。
日経新聞とマンガ本を買って、近くのドトールコーヒーへ。いつものパターンだから、コーヒーチケットを買ってある。新聞をじっくり読み、マンガを楽しんだ後、考える。
「さあ、今日は何をしようかな」
気軽なビストロにランチを食べに行くことも多い。
「自分の店と違うタイプの所だと、特に勉強になるんですよね。それに、食べながら、こういうのを賄いに取り入れてみようかな、なんて考えるのもおもしろいですよ」
おいしい店をみつけると、次の機会に母の光代を呼んで昼ご飯をごちそうしたりもする。
新聞に紹介されていた展覧会や様々な催し、お店を見に行くこともある。
雅志の上司であるシェフは、教養を高めたり話題を広げることは、お客との対話を楽しいものにしていくために大切だと、そういったイベントに足を運ぶことを、奨励している。時には、シェフが興味深い展覧会の入場券をくれることもある。
「そういう所に行くのって、おもしろいんですよね。休みの日も、何かしていないと、損した気分になるんです」
雅志は、まるで子どものように目をくりくりさせながら、そう言った。
ごくたまに家に帰ると、台所で腕を振るう。
駆け出しとはいえプロである。味だけではなく、盛りつけにも凝る。デザートのアイスクリームは、|飴《あめ》でつくった飾りを添えて、まさにレストランで出されるような一品にして、家族を驚かせた。
しかし両親は、まだ息子が勤めているレストランに一度も行っていない。
「来てくれるな、と言うんですよ。まだ駆け出しだから、一人前になるまではダメだ、と」(亮一)
■経験が生きてきた
彼が一人前になるまでは、まだ相当の時間がかかる。
「洗い場」の後は、オードブルや付け合わせを担当する「サラダ場」に昇格し、それを卒業すると肉などの食材を切る「切り出し」とデザートの係になる。それをマスターして、ようやくソースを作ったり、肉を焼いたりする「ストーブ前」を任される。もちろん、一品一品、シェフのチェックが入る。
雅志は、「洗い場」だけでなく、「サラダ場」の仕事も少しずつ出来るようになり、パーティ料理の仕込みなどをやらせてもらえるようになってきた。
学校に行かなくなって以降、彼は基本的にやりたいこと、興味のわくこと、おもしろそうなことばかりをやって生きてきた、と言えるだろう。ただし、遊びもアルバイトも、すべて一生懸命、納得するまで徹底的にやった。
その結果見つけた、料理人への道。
もちろん、やりたいことをやるためには、厳しい道も通らなければならない。たとえ多少理不尽なことがあっても、拘束時間が長くても、やりたいことのためだったら、そして自分で決めたことのためなら、苦にはならなかった。
しかも、彼のこれまでを通してみてみると、彼がやってきた「おもしろいこと」の一つひとつが、今になっていろいろな形で生きている。
展覧会や博物館を巡って見てきたこと、ゲートボールで知り合ったお年寄りから学んだ仏像を見る目などは、彼の教養の素地となった。
自転車や土木関係のアルバイトで|鍛《きた》えたお陰で、長時間の立ち仕事を苦もなくこなす体力を|培《つちか》うことができた。
東京シューレで覚えた料理や、魚屋のアルバイトで学んだ知識は、仕事に直接生かされた。
彼は将来何かの役に立てるつもりで、いろんなことをやってきたわけではない。そんな計算を抜きに、今おもしろいこと、今やりたいことに常に全力投球し、納得いくまでやってきたからこそ、生涯かけてやりたいことも、早い時期に自分の力で見つけたのではないだろうか。今の職業は、彼のやってきた「おもしろいこと」の延長線上にあるような気がする。
彼に、これからやりたいことを聞いてみた。
「数年のうちに、フランスに行って修行してこようと思って」
将来の夢は?
「うちのシェフのような、料理もすばらしくていろんなことを知っている人になりたい。いつかは自分の店を持ちたいと思うけど、まだ全然具体的じゃない。場所も、日本になるのか、それともフランスが気に入ったら、そのまま居着いちゃうかもしれないし……」
これからも、彼はいつも「今やりたいこと」に集中しながら、一瞬一瞬、中身の濃い人生を送っていくことだろう。
大学進学にこだわっていた父亮一も、今では料理人としての息子の成長を楽しみにしている。
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放送大学生 原田雄介

■授業中が一番好きだった
「自主自立」
原田雄介が通っていた静岡市内の中学の生徒手帳には、生徒たちのあるべき姿として、この言葉が印刷されていた。
母のすみ子(仮名)は、三男の雄介がこの言葉を指さしながら、しばしばこんなふうにぼやいていたことを、印象深く覚えている。
「学校は、ここに書いてあることと違う」
それが彼の不登校の直接的な原因と断定はできない。が、彼が学校に行かなくなり、その後様々な道を模索していく過程を語るうえで、この「自主自立」は、キーワードと言えるかもしれない。
学校に行かなくなったきっかけは、教師の対応だった。
しかしすみ子は、「個々の先生の問題というより、学校という制度そのものが雄介には合わなかったのではないか」と今では考えている。
雄介が学校と完全に決別したのは、静岡市内の中学に在籍している時だ。だが、彼の不登校歴を見ていくには、小学校に遡る必要がある。
母親の目から見て、雄介は小さい頃から自分で決めたことはなかなか曲げない、意思の強いところがあったという。それでも、「小学校四年生までは、普通に順調にいっていた」。
しかし、五年生の頃、友達に持ち物を隠されることがあって、雄介は「学校に行きたくない」と言い始めた。すみ子は、「そんな小さなことをいちいち気にしないの」と、息子を励まし、なだめて学校へ行く|支度《したく》をさせた。
雄介自身は、この頃の自分を「内気でいじめの標的になりやすいタイプ。マセガキで、周りの同級生の反感を買うこともあった」という。大勢でわいわい騒ぐのは、得意ではなかった。
勉強はできる方。だから学校にいる間では、休み時間や給食の時間より、授業中が一番好きだった。
「先生に対しては依存に近いくらい信頼感を持っていたし、先生も自分を信頼してくれているもんだと思っていた」
そんな雄介にとって、その確信が崩れるような「大事件」があった。
ゴールデンウィーク明け、彼は宿題ができなくて学校を休んだ。すみ子が教えたが、彼は自分が納得しないと宿題のノートに答えを書き入れようとしない。
「だったら、そこを残したまま行って、学校で教わればいいの。それが勉強なんだから」と母は説得するが、彼は空欄のままのノートを持っていくのは嫌がった。宿題のことが気になって気になって、頭が痛くなったり、お腹が痛くなった。
一週間ほど休んだ後、週が変わったのをきっかけに気分一新、月曜日から彼は登校した。それでも朝は体が重くて、一時間遅刻した。教室に向かう彼を、職員室の窓から顔を出した教務主任の先生が呼び止めた。
「原田君、荷物を教室に置いたら、職員室に来てくれ」
言われた通りにすると、別室に連れて行かれた。そこで、先生に尋ねられた。
「なんで、一週間も休んだんだ」「病院へは行ったのか?」「いじめられたんじゃないか」「誰にいじめられた」「誰にいじめられたんだ。言ってみろ」……。
本当にお腹が痛くて休んだだけだと説明しても、信じてもらえない。
黙っていると、同じ問いを繰り返される。
雄介は一生懸命訴えた。
「本当にいじめなんてないです」
確かに、いじめの標的になったことはあるけれど、それをいちいち掘り返されるのは嫌だった。それに、今回休んだ理由はいじめではなかった。早く教室に戻って授業を受けたかった。
しかし、いじめがあったに違いないと思い込んでいる先生は、なかなか雄介を放してくれなかった。
「授業はいいから、答えなさい」
そして、重苦しい雰囲気の中で問いが繰り返された。
結局午前中いっぱい問いつめられ、給食の時間になって、ようやく解放された。それも、「話の続きがあるから、放課後職員室に来るように」という条件付きで。
■教務主任に裏切られた
おそらく先生としては、優等生の雄介が突然一週間も学校を休むなんて、よほどのことがあったに違いないと考えたのだろう。小さないじめがあるという情報はあったのかもしれない。あるいは、いじめられている子どもが、事実を誰にも打ち明けられず自殺に追い込まれた、という過去の報道を思い出したのかもしれない。いずれにしても、雄介の身を案じてのことだったろうが、雄介自身は、「僕の説明を、先生が信じてくれなかった」ことがショックだった。授業に出してもらえず、軟禁状態にされたことも|応《こた》えた。
それでも、先生の言うことは聞かなければならない、と彼は思った。
授業や掃除が終わって、午後四時頃に雄介は職員室へ|赴《おもむ》いた。
教務主任の先生はいなかった。他の先生に聞いても、その先生の予定は知らないという。
雄介はずっと職員室の前で立っていた。
午後五時になると校門が閉まる。その時刻ぎりぎりまで待って、雄介は帰った。
約束を守ってくれなかった先生に対して、初めて不信感が湧いた。
自分を信じてもらえなかった、という衝撃と相まって、教師に裏切られた、という思いが募った。
うちに帰ってみると、今度は不安が襲ってきた。
明日学校に行ったら、あの先生から「もう少し早くくればよかったんだ」と理不尽な叱られ方をするのではないか。
担任はとても熱心な若い女の先生で、雄介は好きだった。なのに、教務主任に軟禁されても助けに来てくれなかった、という落胆は大きかった。
次の日、布団にしがみついて母親に訴えた。
「学校には、行きたくない」
この日を境に、雄介は学校に行かなくなった。
外に出かけようとはせず、家の中で神経だけがピリピリ張りつめていた。電話が鳴ると、たいていすみ子が出る。雄介には全く関係のない電話でも、じーっとすみ子を見つめていた。話が終わると「今の電話は何だった?」と確認する。
母親のすみ子は、無理矢理子どもを引きずっていくことはしなかったが、なんとか学校に戻す|術《すべ》はないかと、いろいろ策を講じた。
担任の先生にお願いして、誘いに来てもらった。でも、学校には行こうとしない。それでも先生は、ちょくちょく家庭訪問をして、一緒にファミコンで遊んだりして、時間を過ごしてくれた。
仲のいい友達に頼んで、迎えに来てもらったこともある。だが、友達の声がすると、雄介は自分の部屋に引きこもってしまった。
雄介は将棋が好きだった。よく指導書を見ながら将棋盤の前で一人遊びをしていた。それを見て、すみ子は声をかけた。
「将棋教室に行ってみない?」
学校に行かれないのなら、せめてもう少し外に目を向けて欲しかった。将棋をきっかけにして、また学校に行かれるようにさせたい、というのがすみ子の本音だった。
渋る雄介を、半ば無理に連れ出した。将棋の先生にも、あらかじめ事情を話して協力を頼んであった。
数カ月の間、嫌がる時にはすみ子が送って行き、なんとか通ったが、それ以上は続かなかった。
市の教育委員会が、不登校の子どもたちのためのカウンセリングを行っていた。
「学校に行かないなら、せめてそこに行ってちょうだい」
すみ子からそう言われて、雄介は「これが学校に行かない交換条件なら仕方がない」と思った。教員の資格を持つカウンセラーと話をしたり、オセロゲームを楽しんだり、たまには勉強を教わったりした。
しばらく通ったが、そのうち嫌になった。学校の学年主任などの先生がそこに来て、「早く学校に来いよ」と声をかけてくるのだ。雄介は、カウンセリングに行けば登校を催促される、と思った。
■中学校には進学した
なんとか学校に行かせようとするすみ子の努力は、|虚《むな》しく空回りするばかりだった。どうして親の気持ちが分からないのかと、息子の体をつかんで揺さぶったり、組み伏せたこともあった。しかし、そういう実力行使は、たいてい裏目に出た。
「ぐれてやる!」
ある時、雄介はそう叫んで階段を駆け上り、二階の部屋へ飛び込んで、タンスの中身を床にぶちまけ、すみ子の針箱をひっくり返した。そして、すみ子が一番気に入っていたスカートを、はさみで切り刻んだ。
いったい何をやっているのかと部屋をのぞいたすみ子の目に飛び込んできたのは、スカートの残骸の前で呆然と立っている息子の姿だった。
雄介が、被害を伴うような暴れ方をしたのは、後にも先にも、これ一度きりだった。
両親の努力は、十一月になって一応実を結んだ。
最終の土曜日から、雄介は再び登校を始めたのだ。
雄介は学校に行かなくなっても、一つだけ続けていることがあった。英会話スクールである。そこで二週間アメリカでホームステイをするプログラムの参加者を募集していた。雄介は、行ってみたいと思った。それなりに費用がかかる。両親に頼んでみると、こういう返事が返ってきた。
「十一月中に学校に行ったら、参加してもいい」
交換条件だった。
一日一日と先延ばしにして、もう今日が最後という十一月二十九日の土曜日に、彼は学校に行った。
|気後《きおく》れして一時間遅刻した。それでも、クラスメイトが拍手で迎えてくれた。
「原田、元気か?」
そんなふうに声をかけてくれる友達もいて、雄介はうれしくなった。それから、小学校には以前のように通うようになった。
小学校を卒業すると、当たり前のように地元の中学に進学した。
気がかりではあったが、両親は一応胸をなでおろした。
しかし、彼は再び学校に対して背を向けるようになった。
きっかけは、部活だった。どこかの部に所属しなければいけないような雰囲気があって、雄介は仲良くなったクラスメイトの勧めで卓球部に入った。そこで顧問の先生が、卓球をめぐるエッセイを部員に渡し、感想文を書いてくるよう求めたことがあった。雄介は期限の日に、書き上げた感想文を持っていくのを忘れた。
すると顧問の先生は、他の部員の前で雄介を叱責した。
「帰れ!」
この顧問は後に、「言い過ぎた」と|詫《わ》びている。その後、雄介に怒りを爆発させるようなことはなかった。
仮に、その先生との相性が悪くて関係が修復不能だとしても、授業中には他の先生と接するわけで、もっぱら顧問の先生とのことだけが不登校の原因とは考えにくい。すみ子や雄介自身も言うように、この出来事は一つの「きっかけ」と考えた方がよさそうだ。
部活に行かれなくなったと同時に、雄介は学校に行きづらくなった。科目によっては、一、二度休むと、次の授業についていけないこともあった。元々は優等生で、授業時間は楽しいはずなのに、そうなってくると、その時間を教室で過ごすのがつらくなる。そのために休むと、さらに遅れてしまい、取り残されてしまう。この悪循環だった。
■殴り、泣いた父親
ゴールデンウィーク明けから、行ったり休んだり、登校はさみだれ式となった。
両親は、雄介が学校に行けない理由をはかりかね、なんとか学校に気持ちが向くように働きかけた。雄介の表現によると、毎晩のように「ミーティング」が開かれた、という。
ある朝、雄介は「もう学校には絶対に行かない」と宣言した。すると、父親が顔を真っ赤にし、雄介を殴った。
公務員として地道に勤めてきた、もの静かな父親のこの態度に、雄介はびっくりした。
「暴力はいけないことであると知っていたし、弁護士の話も聞いていた。だから、たとえ親でも手を出したら絶対にやり返すぞと思っていた。で、殴り返そうと思ったら、おやじが泣いていたんですよ。俺のせいで、おやじがこんなに|惨《みじ》めになっていると思ったら、何もできなかった」
母親のすみ子は、学校やカウンセラーに相談した。カウンセラーからは、こんなアドバイスを受けた。
「小学校の時、『行きたくない』と言い出した子どもを『いいわ、いいわ』で家に置いたから、こういうことになる。力ずくでも、家から押し出して学校にやった方がいいんです」
朝は懸命に息子を起こした。嫌がる雄介ともみ合いになることもあった。体力的には、母と子はほぼ対等だった。ところがある日、雄介がすみ子をねじ伏せた。次の瞬間、雄介は母を押さえていた手を放し、言った。
「僕からは暴力は使わない。あくまで話し合いでいく」
口論になることは、その後もたびたびあった。
すみ子は、学校に通うことで社会性を身に付けて欲しいと思っていた。
「人間は一人では生きていけないんだから」
雄介は反発する。
「僕は自分で生きていく」
すみ子はカチンと来て、言い返す。
「だったら、家を出て、一人でやっていけるという姿を見せてみなさい」
「親は、僕を捨てる気なのか!」
売り言葉に買い言葉で、言い合いはエスカレートした。
学校側も、雄介を登校させようと懸命だった。
「連絡をいただければ、いつでも迎えに出る態勢を整えておきます」という言葉通り、担任の先生が、何度か車で迎えに来た。クラスメイトが誘いに来たこともあった。
学校に行こうかどうしようか迷った雄介が、時々制服姿で家の中をうろうろしている時があった。そういう時、すみ子は学校に電話をすると、先生が二、三人で迎えに来た。雄介は|鞄《かばん》や靴を投げて抵抗した。柱にしがみついている指を一本一本はがすようにして、先生方は彼を車に乗せた。
一度車に乗せられると観念し、おとなしく学校に行った。行けば、早退はせずに、一日学校ですごす。そしてぐったりして帰ってきた。
そんな強硬策も三回目になった時、雄介はこれまで以上の抵抗をした。
「行きたくないよぉ」と雄介が叫ぶ。
「わがまま言うんじゃない」と先生方が怒鳴る。
その騒ぎを、先生方から「お母さんは手を出さないで下さい」と言い渡されていたすみ子は、心を鬼にして黙って見ていた。ふと雄介と目があった。救いを求めるような、何とも言えない思いが視線に込められていた。すみ子は、思わず目をそらした。
■カウンセラーも信用できない
この出来事は、雄介の心の中で深い傷となって、長く残ったようだ。すみ子にとっても、あの視線は胸に焼き付いている。
歳月を経てから、すみ子はようやく息子から当時の気持ちを聞くことができた。
「親も自分を助けてくれない。それがショックだった」
この日も、雄介は部活が終わるまで、学校にいた。そして、ぐったりして帰ってきた。
休む日が続いたが、それでも二学期の最後の一週間は、登校した。期末試験も受けた。
そういう努力が少しは認めてもらえるのではないか、という期待もないではなかった。が、成績表はオール1だった。しかし、ショックはなかった。
「まあ、こんなものだろう」と冷めた気持ちだった。それくらい、学校に対して距離を感じていた。
週に一度は、教育委員会のカウンセラーのもとに通っていた。カウンセラーと学校側は緊密に連絡をとっていた。カウンセリングに来たところを、先生方の手で学校に連れて行くという計画が立てられた。
雄介は、何か|不穏《ふおん》な雰囲気を感じたらしい。指定された日に、カウンセリングに行くことを拒んだ。
「カウンセラーも学校も親もみな同じだ。信用できない」
雄介の中は、大人への不信感でいっぱいになっていた。
学校には、全く行かなくなった。
家にいる時は、新聞を丹念に読み、ニュース番組はことごとく見た。
早く大人になりたい、と思っていた。彼は末っ子で、早生まれということもあって、いつも子ども扱いされていた。早く大人になって、一人前に扱われたいという気持ちが強かった。
では、大人として扱われるにはどうしたらよいのか。彼としては、様々なニュースに精通し、それを分析してきちんと評論できる人が、立派な大人と思ったのだ。
その一方で、人間や社会への信頼を持てず、自分の将来についても明るい展望を抱けず、気持ちがどんどん落ち込むことも多かった。雄介にとって一番つらい時期だった。なぜこんなにしんどい思いをして生き続けなければならないのか分からなくなり、自殺を考えたこともあった。
親に裏切られた思いを引きずっていた。家の中で会話はほとんどなかった。同じテーブルで食事をしても、ほとんど無言。すみ子が声をかけても、返ってくるのは「うん」か「ううん」くらい。
すみ子は、専門家の話を聞きに、東京にも足を運んだ。専門家も、「力ずくでも学校に連れて行け」という人ばかりではなかった。「子どもを信頼し、子どもに任せたほうがいい」という考え方を知って、すみ子は衝撃を受けた。同じように不登校の子どもをもつ親たちの集まりにも参加した。そういう中で、すみ子の考え方が少しずつ変わっていった。
雄介が中学二年に進級した時、すみ子は夫と共に学校へ行った。
「学校へはご迷惑をおかけしません。息子はうちで面倒を見ますので、しばらくそっとしておいて下さい」
息子に対しても、こう言った。
「もう学校へ行けとは言わない。自分で考えてやればいいから」
朝、起こすのもやめた。あっという間に、雄介の生活は昼夜が逆転した。
■学校は除籍を求める
すみ子にとっては、「本当にこれでいいんだろうか」と自問し、「いいのだ、いいのだ」と自分を励ます日々が続いた。
兄弟、同居していた祖母、叔母も静かに雄介を見守っていた。親が腹をくくり、雄介も自分のペースで日々を過ごすようになって、ぎくしゃくしていた親子関係も、ゆっくりとではあるが、少しずつ変化の兆しが出てきた。会話の機会が増えた。
そうこうしているうちに、中学の卒業を控え、次の進路を考える時期になった。
ところが学校側は、雄介は卒業させられない、と言う。出席日数が足りないから、というのがその理由だった。学校側は除籍とする方針を示してきた。
雄介は、争うつもりはなかった。
「卒業証書という紙切れ一枚のために、学校に頭を下げて欲しくない」
そう両親にも言った。
しかし、すみ子はじっとしていられなかった。
「中学卒業の資格がなければ、その後の進路にも大きく影響する。子どもが学校に行かなくなったのは、大人がそういう状態に追い込んでしまったということでもあり、それなのに中学除籍という不利益を子どもに押しつけるのは納得できない」
校長に掛け合ったが、認められなかった。
この時点で、雄介は、どういう道に進むか、はっきりした方向性はまだ見えていなかった。このまま家にいて、何もしないというのは自分自身で納得がいかなかった。家で十分に休養をとったので、外に出て何かやりたいという気力は|湧《わ》いていた。しかし、学校という箱の中に再び入っていくのには、抵抗があった。
除籍を求める学校側の対応で、雄介の決意は次第に固まっていった。
「就職するから」
中学を卒業しなくても、社会の中でやっていけることを示してやりたい、と思った。人並みに仕事をこなせる人間になれば、社会で一人前の人間として認められるだろう。何も、中学の卒業証書がなくたって……。
すみ子と職業安定所に行った。三つほど候補の勤め先を訪問し、面接を受けた。雄介は学校に行っていなかったことも、率直に話した。いずれの面接担当者も、「これからしっかりやればいいんだ」と励ましてくれた。
市内の|割烹《かつぽう》料理店に、住み込みで働くことに決まった。先方は通いでもよいと言っていたが、雄介は家を出て自立したいと思った。
進路は決まったが、それでもすみ子は、あきらめきれなかった。除籍の同意書を書くように求める学校側に対し、もう一度交渉を試みた。
しかし校長は、「就職するなら、(卒業しなくても)それでいいじゃないか」と言った。「私は今年で定年だ。辞める年にこういうことになって残念だ」とも。
結局、雄介は中学を除籍となり、卒業証書は渡されなかった。彼は就職してまもなく、文部省が行っている中学卒業と同等の学力があると認めてもらうための検定試験を受けた。
なお、その後すみ子の働きかけで、静岡県弁護士会の人権擁護委員会が市の教育委員会に対し、子どもたちの進路への配慮を要望した。その結果、静岡市内の中学除籍の措置はなくなった。
■どうしたら東大に行けるか
就職した割烹料理店での仕事は厳しかった。一日十四時間の拘束。しかもほとんどが立ち仕事だ。ほぼ同時期に入った二人のうち、一人は一週間で、もう一人は三カ月で辞めた。
雄介も、すぐに辞めたくなった。しかし、中途半端な形で辞めれば、「だから、中卒は」と言われるような気がした。仕事は大変だったが、主人の一家が家族旅行に連れていってくれたり、面倒をみてくれた。せめて、けじめのつく辞め方をしよう、と思った。
本は好きだったので、よく図書館に出かけた。何の気なしに教育関係のコーナーに足が向き、数冊の本をめくってみた。教育書の中には、子どもの視点で教育を語っている本もあった。
「こういう本を書く人もいるのかあ」
その著者の肩書きに「東京大学名誉教授」とあった。東大に行けば、こういう人に会えるのか、と思った。
では、どうしたら中卒の自分が東大に行けるのだろう。
調べてみると、文部省の大学入学資格検定試験に合格すれば、高校に行っていなくても受験ができることが分かった。
雄介は、東京に出て予備校に通うことにした。地元には大検予備校がなかった。静岡を離れたい気持ちもあった。誰から何か言われるわけでも、格別後ろ指をさされるわけでもないが、ここにいると、「学校に行かなかった原田君」というレッテルがいつまでも張り付いているような気がした。それに、親がかりで自宅から通うより、経済的にも自立をしていたいという気持ちが強かった。
何度か東京に出かけ、予備校を決めた。そして、新聞奨学生として、都内の専売店に勤めることになった。これで住まいと就職の問題が一気に解決した。
今後の段取りを決めて、雄介は二年間勤めた割烹料理店を退職した。
すみ子は、その専売店から「お宅の息子さんを預かることになりました」という電話がかかってきて、初めて雄介の計画を知った。
朝刊を配達するために、毎朝三時半に起きる。実家にいると昼夜逆転の生活になってしまうように、夜の方が得意な雄介には、この起床時間はつらかった。
「確かに肉体的にはしんどかったけど、自分で決めたことだし、経済的にも自分でやっていると思うと、精神的には楽だった」と雄介。
予備校も楽しかった。教室に詰め込まれて授業を受けるのは久しぶりだったが、学校の時のような精神的な疲労を感じることはなかった、という。
「一般の学校は、生徒のプライベートなこと、個人の内面にも関わろうとする。それがうざったいんです。予備校は、解答の技術を教える場所で、実にさっぱりしている。教える方も学ぶ方も割り切っていますから。しかも教え方がうまい」
ほとんど休まず通った。集中的に勉強した。予備校に入ったのは、十七歳の三月。その年の夏の試験で必要な十一科目中、十科目をパスした。
翌年残り一科目を取り、大学受験に|臨《のぞ》んだ。しかし、あえなく敗退。
アパートで一人暮らしをし、通信教育や予備校の授業で勉強を続けた。生活費は、喫茶店や居酒屋でのアルバイトでまかなった。
二年目の受験で、早稲田大学第一文学部に入った。入学してすぐに、失敗したと思った。クラス分けされた教室の雰囲気で、中学校の時の息苦しさがよみがえってきた。
「人工的に作られた友達的雰囲気っていうのが、なじめなかった」
それでも一年通ってみたが、退学。同時に都立大学を受験し、人文学部に入った。
早稲田より、自分には肌が合う、と感じた。が、早稲田以上に「クラス的雰囲気」は強かった。それは、雄介にとっては重苦しいものだった。なんとか大学を卒業しないと、その先に進めない、と思った。それで、二年間がんばってみたが、それ以上は無理だった。
■骨髄移植のドナーになる
クラスの友達づき合いが苦手な彼は、周囲の人々に聞いても、あまり他人とのつき合いが上手な方ではなさそうだ。だが、人嫌いというわけではない。むしろ彼の方から、人との交わりや居場所を求めて、あるいは社会の中で有意義な活動ができる機会を探して、いろいろと模索を続けた。
十八歳の時、新聞の折込チラシを見て、戦争を若い世代に伝えるためのイベント「平和のための戦争展」を見に行った。そのアンケートに「実行委員会にも参加してみたい」と書いて、三年間活動に加わった。資料収集が得意で、在籍していた大学の図書館にこもって資料探しをした。メンバーとは一緒に、よく酒も飲んだし、中国旅行にも行った。
メンバーの一人は、彼をこう見ている。
「そう気が利く方じゃない。他人とはある一線を引いて、一定のところでパタンと、心を閉ざしてしまうと感じることもあった。かと思うと飲んでいる時に急に甘えてみたりして、対人関係という点で、あまり器用な方ではないような気がする。でも、つき合いが悪いわけではないし、自分の面倒は自分でしっかり見る。だから、他人に心配をかけることはないんです。いろんなことをよく知っている理論派で、この人に聞くと何でも知っているのね、と思うほど。彼からは、いろんなことを教わりました」
友人から誘われて、一時学生運動のサークルに入り浸った。気持ちのうえで、政治に興味はあった。ただ、そこでは政治活動らしいことをするより、もっぱら部室でおしゃべりを楽しんでいた。その後、サークルと関わりのある政党から入党の誘いを受けても、断っている。党の指示を受け、それに従って行動するというパターンは、「自主自立」を愛する彼の、最も不得手とするところだった。
二十歳の時に、骨髄バンクに登録した。十六歳の時から献血に協力していた彼にとっては、「骨髄の提供は、赤血球や血小板の提供の延長線上にあった」。登録するのに特別な決意は必要なかった、という。
登録して二年後、移植を必要とする患者と白血球の型が合致したという連絡があった。骨髄移植は、ドナーにも負担がかかる。全身麻酔が使われ、術後の痛みや|倦怠《けんたい》感などの症状に対応するため、三日間の入院が必要になる。
ところが、雄介は連絡があった時に、「うれしくてうれしくてたまらなかった」という。
「宝くじに当たるような確率ですし、三日の入院、しかも無料で三食昼寝付きで、一人の命が助かるのなら、お安い御用です。それに、患者の骨髄は一〇〇パーセント、ドナーの骨髄と入れ替わるんですよ。骨髄は造血幹細胞ですから、そこから作られる血液は、僕の体を流れている血液とまったく同じものになるんです。親兄弟より血のつながりの深い人が、この国のどこかに生きているということです。ロマンチックだと思いませんか」
麻酔などによる事故の危険性も、ゼロではない。家族はそれを心配し、再考を促した。
しかし雄介は、「まったく心配していなかった」という。
具体的なデータを示し、全身麻酔で重大事故に遭う危険性は、自動車に乗って重大事故に遭う確率に比べれば取るに足らないもので、「自動車に乗ることの方が、骨髄提供よりよっぽど危険なんだから」と家族を説得した。その一方で、心の片隅には、「事故があったらあったで、それは仕方がない」という気持ちもあった、という。
「登校拒否をしていた時、本気で死のうと自殺の方法をあれこれ考えていました。結局自殺はしませんでしたが、それはきっかけがつかめなかったからで、きっかけさえあれば、あの時点で私の命は終わっていたでしょう。『終わっているはずの命が今もある』と考えると、小さな危険性におびえて安泰な暮らしを志向することがもったいなく感じられるんです」
万一事故があっても、それは将来への教訓として意義のあるものとなり、犠牲が生かされる、とも思えた。
「それに……」と彼は、いたずらっぽくこう続けるのだ。
「骨髄移植は初めての入院体験で、それも楽しみだったんですよ。『積ん読』状態だった本を持ちこむこともできましたし。あと、大きな声では言えませんが、ナース服、いいですねえ……」
再度機会があればぜひ協力したい、と思っている。
■勉強は好きなのに
大学在学中から四年間、私鉄の駅の改札係のアルバイトを続けた。夜勤が多く、その割に給料が安かった。それで、ビルの管理会社に契約社員として就職した。
一回十五時間半の泊まり勤務が、月に十六日ある。しかし、夜間は比較的自由になる時間が多い。そういう時間帯に本を読んでいても構わないということだったので、拘束時間が長いこの仕事に就いた。
というのは、彼は放送大学に入学し、勉強を再開していたからだ。専攻は生活・科学コースの「発達と教育」。
学校に行かなくなった頃から、彼はいろいろと考えていた。勉強は好きなのに、学校にいることが何でこんなに苦しいんだろうか、と。教育は、人を豊かにするもののはずなのに、自分はむしろ辛くなってしまう。その原因を知るためにも、教育制度のあり方について、きちんと考えてみたいという気持ちが、年を重ねるごとに強くなった。
放送大学では、テレビやラジオで授業を受け、独学に近い。彼は、自分にぴったりだと思った。授業の内容も濃い。スクーリングがあり、学習センターに出かけて、授業のビデオを見ることもある。さらに彼は、時間を縫って、自分のホームページを作り、そのサイト上で放送大学の授業の評価などの情報提供のほか、他の学生と意見交換もしている。そこでの彼は、面倒見のいい先輩であり、自分の弱みものぞかせたり、生き生きと学生生活を送っているようだ。
掲示板上で新入生から、勉強方法の助言を求められ、彼はこんなふうにアドバイスしている。
「入学半年後には、面接授業(スクーリング)を受けることができます。面接授業の場で、友達を作って、励まし合いながらやることがコツといえばコツでしょうか。
私が実践していることとしては、通勤時間を利用して教科書を読むとか、面接授業がなくてもちょくちょく学習センターに足を運んで『俺は放大生なんだ』という意識を自分に根付かせる、といったところです。
他の方の学習のコツ、私も聞いてみたいですね」
|紆余曲折《うよきよくせつ》を経て、彼は今でも模索の旅を続けている。ただ、教育の問題をきちんと考えようと思った時から、なんとなく方向性が見えてきたような気がする。それは、自分の問題の延長として、教育をテーマに研究を深めてみたいということだ。放送大学での勉強を足がかりにして、次の一歩をどのように踏み出すか、彼は考えようと思っている。
どういう方向に進むにせよ、彼は常に自分が経済的にも精神的にも自立していたい、と考えている。
中学生の時にぎくしゃくしていた親子関係も今では回復している。すみ子は、雄介が中学を出てからも、地元で不登校の子どもをもつ親の集まりに参加を続け、自分の経験を語ったり、学んだりしている。そういう場に、雄介の協力を得ることもある。当時は語る気になれなかった不登校時代の心境も、雄介は今ではすみ子にありのまま語っている。
それでも、雄介には「親がかりになりたくない」という気持ちが強い。
「飢え死に寸前まで、親に頼りたくない」
もっとも、その態度にはかたくなさは感じられない。
「なのに、うちに帰ると、母親が『お小遣い持っていきなさい』としつこいんですよ。親の気持ちを考えると、ほんの数枚のお札をもらうのも親孝行かなと思って、いくらかは頂戴しますが……」と笑う表情には、ゆとりすら感じる。自立をしているという自負が、彼にその余裕をもたらしたのかもしれない。
「自主自立」――雄介はこれからも、自分の足でしっかりと立ち、自分の納得する形で、自分のペースで、人生という道を歩んで行きたいと考えている。
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社会福祉士 窪田恭子

■詩のノートが一番の友達
十代の頃、窪田恭子はよく詩を書いた。
孤独な思いや不安な気持ちをつづった詩が多い。
〈ひろい 宇宙空間にいる/ 私 ひとり/ 辺りを見回すが だれもいない
ひろい宇宙の 銀河系の中の 太陽系の中の 地球の小さな島に すわりこんでいる 私 ひとり〉(「宇宙のどこかで――孤独――」より)
〈ひとりでは生きていけない。/ ただ、愛されたい。
さみしがりやの少女は/ わたしを忘れないでと/ 一日中、自己主張して/ わたしを無視しないで/ こっちをむいてと/ しゃべりつづけて/ わたしを嫌わないでと/ 笑顔をふりまいて……
だれにも嫌われたくない。/ みんなに愛されたい。/ であう人すべてに/ 愛のかけらを期待して……/ 失望して。
自分で自分を愛せずに/ 愛されたいなんてよくばりかしら。/ 愛される自信がないから/ やさしくされても不安で/ 愛を信じられない。〉(「愛情失調」より)
学校ではいじめられることが多かった恭子にとって、詩を書くノートが一番の友達だった。
山口県で人口十万人を越える自治体は六つあるが、恭子が育った土地もその一つ。住宅街が多く、小学校、中学校と規模の大きい学校に通った。
恭子は、運動は苦手だったが、勉強はよくできた。
作文や感想文には、「……は一生心に残るでしょう」「○○を決して忘れないでしょう」などと結ぶ、そつのない文章を書いたりしていた。実際、その時々でおもしろいこともあったのだろうとは思うけれど、今になってもいい思い出は、何一つ浮かんで来ない。
いじめは、小学校の頃からだった。男の子が「○○菌」などとはやし立てたり、「汚い!」「あっちへ行け」などと怒鳴りながら殴る、蹴る。|痣《あざ》が絶えなかった。いじめは次第に陰湿さを増した。無視されたり、まるで汚物のように扱われることもあった。クラスメイトが落とした消しゴムを拾ってあげようとしても、「触らないでよ」と嫌がられる。
とりわけ女の子のやり方は、陰険だった。男子の暴力から逃げていると、「こっちよ」と恭子をカーテンの陰に導き、|庇《かば》うふりをしておきながら、追いかけてきたいじめっ子に「あそこにいるわよ」と教えて、恭子が袋叩きになるのを笑って見ていた。
泣くと、「泣くな!」と怒鳴られ、さらにぶたれる。
一度、縦笛で殴られて泣いていたのを、先生にみつかった。殴った男の子と一緒に、恭子も叱られた。「そうされるあなたも悪い」と。
教室では、二人ずつが机を並べて列を作っていた。恭子とペアになってくれる人がいなくても、机が一番後ろの時には気にならなかった。前から二人ずつ並んでいったら、一人余ったと見ることも可能だった。席は一定の期間で移動した。恭子が最前列になった時も、横には誰もいなかった。先生も何も言わず、保護者の参観日にも、この不自然な形はそのままだった。こういう|辱《はずかし》めは、とても応えた。
そんなことがいくつもあって、恭子は先生に助けを求めようとは、全く思わなくなっていた。
中学に入ると、表だってはやし立てる子は少なくなった。その代わりに、恭子の姿を見るたびに、「帰れ」「死ね」という子がいた。授業中、教師の前で「帰れ」「死ね」のシュプレヒコールが上がることもあった。恭子が少しでも失敗すると、女の子たちが、ことさらにくすくす笑いをする。
■「いじめられっ子は恥ずかしい」
当時の心境を、恭子は後に不登校の子どもたちが体験を書いた文集の中で、こう書いている。
〈「帰れー」といわれて帰ったらまたいっそう、非難されるだろう。帰るわけにもいかない。「死ね」と言われて、「はい、そうですか」と死ぬのもくやしいし。でも、あのころの私は、本気で死ぬことばかり考えていた。バカみたいだけど、半分は悲しかったから、くやしかったから……。私でも傷つくのよって表したくて、移動教室の時首つろうかとか、洗い場で手首切って……とか、三階から飛び降りよう、とかばかり考えていた。一度、死ぬ前にクラスメイトに送ろうと、自分の血で手紙を書いたこともある。「死」とか「ひどい」とか。少しでも罪の意識を持ってほしかったから……。結局それをポストに入れることはなかった〉
実際、何度か手首を切ったこともあった。鎮痛剤を大量に飲んで、|朦朧《もうろう》としている状態で、ナイフを当てた。
その一方で、恭子は自分がいじめを苦にしていることを、他の人に知られたくない、という思いもあった。恭子の中では、「いじめられっ子=友達から嫌われている子」であり、恥ずかしいことだった。
彼女は、極力「私の思い違いよ」「気にし過ぎだわ」と思い込もうとした。
傷ついてないように装うのは、被害を最小限に押さえるための処世術でもあった。机に落書きをされても気にしないフリ。持ち物がなくなって、女子が隠したのが分かっていても、気がつかずに忘れ物をしたフリ。いたずらにもわざとひっかかって見せた。
「嫌なことを嫌だと感じなくなったら、どんなにいいだろう。気づかない、分からないことが一番幸せだ」と思っていた。様々な感情や考えが行き交う中、自分の心が迷子になってしまったような感覚に陥ることもあった。
詩にも、そんな当時の心の内が書かれている。
〈そのベッドにねころがっているのはだれ?/ 机にふせて泣きじゃくっているのはだれ?/ そっと階段をのぼってくるのはだれ?/ バイオリンをひいているのは……/ エレクトーンをたたいているのはだれ?/ そこで絵を描いているのはだれ?
ここにいるのはだれ?
私はいるの?/ それとも いないの?/ 私はうれしいの?/ それとも悲しいの/ それすらわからない/ うれしくも、楽しくも、おもしろくもない/ 悲しくも、くやしくも、さみしくもない/ まるで……生きてるだけの人形みたい〉(「だれ?」より)
〈わたしは、ひとりです/ しあわせなのか ふこうなのかは/ きかないでください
わからないことは/ かんがえないことにしているのです/ いやなことは/ おもいださないことにしているのです
ひとりでふとんのなかにいます/ じぶんのせかいのなかで/ だれにもじゃまされたくない
だけど、ときどき/ たまらなくさびしくなるので/ だれかにそばにいてほしいと/ せつじつにねがいます〉(「つぶやき」より)
そして、夜になって一人起きている時には、普段抑えている様々な感情が噴き出した。
〈毎日ろくなことない。/ あまつさえ、私の多重人格で……/ 感情を 血の中に溶け込ませ おさえている
そして/ 必要以上に/ 無邪気にふるまう
本当は/ 同級生みんな/ 特に男子なんか、とても幼稚な気がして……/ まだ小学生並みな気がするけど/ みんなは私を/ 精神年齢赤子って見てるかもしれない〉
〈ひとりで何もしない時、/ 血の中に溶け込ませて おさえていた/ 何もかもが出てきて
くやしさ、悲しさ/ プラス/ 自己嫌悪〉(「夜」より)
信頼できる友人がいない。だから心を閉ざす。そうなると、ますます自分の気持ちを素直に伝えられない。自分の最低限の誇りを守ろうとした、ちょっとした一言が誤解をされることもあった。そのことに傷つき、周囲への不信感を深めていく――この悪循環だった。
〈たれか/ たれでもいい/ 答えてくれる人……に/ 私の、何かわからないけど もやもやする/ 心の中で わーっとなっている何か……/ ぜんぶぶちまけたい〉
〈だれか開いて欲しい/ 自分で開こうと努力しても開けない/ 心のとびら〉
〈でも……無理だろうな……/ ぜんぶ言っちゃうことなんか/ ああ、消えちゃいそう。壊れちゃいそう/ 壊れてしまえばいい/ でも、そうできない……/ 全く力のない私 素直じゃない〉(「たれか」より)
■ゆったりと接する子
学校へ行く足取りは当然重くなり、中学校二年生の三学期頃から、遅刻が増えた。
しかし家では、学校でいじめられていることは、おくびにも出さなかった。
地元で新聞社を経営する父は、お酒もタバコもやらない実直な人間だったが、恭子の表現によれば、「仕事が趣味」であり、同じ屋根の下に住んでいても、恭子にとっては「関係ない人」だった。
家の中を取り仕切っていた母親は、子どもたちを厳しくしつけた。恭子には、母親にほめられた記憶がほとんどない。母親の和代も厳しく娘に接していたことを認めている。以下は和代の告白だ。
「私は自分が厳しく育てられたので、自分の子どもにはそうしたくないと思っていたんです。なのに、結局自分がされていたのと同じように接してしまっていました。抱きしめたり、やさしい言葉をかけることが、なかなかできませんでした。特に恭子は、なんでもよくできる子だったのに、『お姉ちゃんなんだからできて当然』という感じで対応していましたし、面と向かうと文句ばかり言ってしまって……」
和代は、三歳の恭子が弟を連れて遊びから戻ってきた時のことを、印象深く覚えている。和代が隠れて見ていると、弟が大便を|漏《も》らしていた。それを、幼い恭子が一生懸命拭いてやっていた。和代が慌てて飛び出していくと、恭子は「わたし、おねえちゃんだから」と言った。
弟が増えるたびに、恭子はよく面倒を見た。もっともこれは、彼女が小さい子が好きだったからでもあるが……。
和代は言う。
「私は効率的にパッパとやらなくては気が済まず、しょっちゅう子どもたちをせっついたり、怒ったりしていました。でも、恭子は弟たちに対して実にゆったりと接しているんです。私の子なのに、どうしてこの子はこんなにやさしいのかと、思ったくらいです」
家ではいつも元気で明るく、三人の弟をかわいがり、聞き分けのいいお姉ちゃんで通した。
母親の和代は、家に入る時に娘が深呼吸して、体勢を整えてから、「ただいまー」と声を張り上げるのを、たまたま見かけたことがある。妙な明るさが気になったが、ひどいいじめに遭っているとは、家での娘の様子からは想像もしなかった。
恭子が前髪を伸ばして、目を|覆《おお》うような格好にしていることがあった。和代が、「うっとうしいから切りなさい」と言っても、恭子は「はい」と言わない。和代は無理矢理切ろうとして、もみ合いになった。後に和代は、恭子がノートにこんな趣旨の文を書いているのをみつけた。
みんなが私の髪をうっとうしいと言う。
一番うっとうしいと感じているのは、私自身だ。
それでも切らないのは、前髪を伸ばしていたら、涙に気づかれないから。
驚いた。しかしそれでも、いじめがそれほど激しいとは思わず、娘が心を上手に開けないために、みんなの輪に入りにくいのかな、と考えた。
「全然気づかない、愚かな親でした」と和代は自らを責める。
「あの子は、家で一生懸命明るく振る舞おうとして、ホッと一息ついてのんびりとすることができなかったのではないでしょうか」
実際、恭子にとっては、家は居心地のいいくつろげる場所ではなかった。
■校長の苦情
どんなにいじめを受けても、学校に通い続けた理由を、恭子はこう語っている。
「一つは、学校に行かないなんて、考えつかなかった。それに……学校は嫌だったけど、家にいるのはもっと嫌だったから……」
それに、学校にも一つだけ恭子が安らげる場所があった。保健室である。
養護教諭の松村幸江が、よく恭子の話し相手になった。といって、恭子は松村にいじめや家族のことを相談したわけではない。松村も、とりたてて恭子の悩みを聞き出そうとはしなかった。恭子は、松村が持っている本や映画のビデオをよく貸してもらった。シドニィ・シェルダンの作品や、時にはアメリカのおどろおどろしいホラー映画もあった。
「先生は、全然平気だったわよ」
「私は、一週間寝られなかった」
友人と交わすような、そんな何気ない会話が、恭子にはうれしかった。初めて、対等な人間として認めてもらったように思えた。
学校での悩みは、身近な人を頼ろうとは思わなかった。その代わりに、学校外の様々な相談窓口に電話をしてみた。その一つから学校側に連絡が入ってしまい、母親の和代は校長から「学校の名前を出されたら困ります。私の立場はどうなるんですか」と苦情を言われた。校長は自分のことばかり気にしている、とは思ったが、自分の子どもが迷惑をかけているのが申し訳ないという気持ちが大きく、和代は何も言わずにただ頭を下げた。
県が運営していた電話相談では、女性カウンセラーがとても優しく恭子の話を聞いてくれた。学校でどんないじめに遭っているか、カウンセラーには素直に話ができた。このカウンセラーが担当している曜日に、毎週電話をした。
「学校に行きたくないの」
恭子がポツンとそう言うと、電話の向こうからこんな言葉が返ってきた。
「行かなくても、いいんじゃない?」
このアドバイスで、恭子の中に、初めて学校に行かない選択肢が出来た。
秋の体育祭が終わった後、恭子は学校に行くのをやめた。しかし、実際に行かないと決断し、それを実行するのには、エネルギーが必要だった。当時の心境を、彼女はこんなふうに詩にした。
〈朝。/ 学校の見える 曲がり角。
今からいっても/ 完全に、ちこく/ どうしよう。
行くべきか/ 休むべきか。
行ってもおこられる/ 行かなくてもおこられる。
行きたくない。/ 行く気がしない。/ でも、行かなければ、やっぱりこわい。/ 行かれない。
帰るべきか、/ 帰らないほうがいいか。
帰りたい、/ 帰りたくない、/ 帰れない。
学活中だな。/ ふっと時計を眺め、/ 校舎を眺める。
どうするべきか、/ ここにいるわけにはいかない。 どこかへ行くわけにもいかない。 どうしよう。/ どうしたらよいのか わからない。
ここに私が存在することじたい/ 信じられない 消えちゃいそう
不安で/ がまんならなくなって/ 泣きじゃくりながら/ あてもなく/ 歩き出す〉
とにかく、家にはいたくなかった。
たまに、家で以前から習っているバイオリンを弾いたり、音楽を聴いたりしていると、「それくらい元気なら、学校に行けるでしょう」と、母に登校を促された。
恭子は、家のわずらわしさから避難するように、あちこちに出かけていった。
県の精神保健福祉センターで、不登校の子どもたちが週二回集まる「星のうさぎ」にも行った。
社会福祉協議会で紹介してもらったボランティアにも参加してみた。お年寄りや障害のある人も一緒に楽しめる風船バレーでは、友達もできた。
不登校の仲間と話したり、ボランティア活動をしている時には、孤独も|癒《いや》された。しかしそれでも、恭子は自分が存在していること、生きていることへの確信が持てなかった。
その後母親の和代は、不登校についての本を読み、学校へ行くよう圧力をかけるような物言いは|慎《つつし》もうと努めた。しかし、心の中では、何とか学校に行かせなければと焦っていた。高校受験などの、先のことも心配だった。「でも、『恭子のため』と言いながら、正直言うと、それだけではなかったように思います」と和代は打ち明ける。
「自分たちの体面も気になっていました。不登校しているのはいいけれど、恭子にはまだまだ学ばせなければならないことがあると言って、県のセンターのカウンセラーに、『こんなにやさしい気持ちを持っている子なのに、それ以上何が欲しいんですか』と諭されたことがありました。でも、当時はそのカウンセラーが言っている意味がよく分からなかった。自分の子どもが登校できないことで、学校に迷惑をかけている、という負い目も感じていました。結局、子どものことより、それ以外のことを気にしていたように思います」
■濃い口紅
そういう親の思いは、口に出さなくても子どもには伝わり、プレッシャーとなる。そこから逃れようと、恭子は必死にもがいていた。
夜中、遊び歩いてもみた。恭子の部屋は二階にある。和代がいくら注意していても、恭子はこっそり外に出かけた。
「死にたい」――これが、当時の恭子の口癖だった。
「本当に、いつ死なれてしまうかと、ビクビクしていました」と和代は言う。腫れ物に触るような心境だった。
何度か家出も試みた。一人で広島に行き、美容院に行ってパーマをかけたことがある。その足で宮島に赴いた。死を考えていた。でも、自殺を決行することはなく、行く当てもなく、精神保健福祉センターの相談員を頼って宇部に向かった。
この家出から家に連れ戻された直後、中学の養護教諭の松村は、放課後に恭子の自宅を訪ねた。松村にとって、生徒の自宅に行くのは、初めてだった。それくらい、恭子が学校に来なくなったことが気がかりだった。
親は不在だった。弟の案内で、二階の恭子の部屋に入った。足の踏み場もないほど雑然とした中に、何をするでもなく、恭子はポツンと座っていた。
松村は、数日後に迫っている文化祭のことを話した。松村は、恭子が所属している華道部の顧問でもあった。
「お花を活けに来ない?」「今年もナースステーションをやるのよ」
松村は、毎年の文化祭で、希望する生徒のために白衣やナースキャップを用意し、文化祭二日目に、保健室を「ナースステーション」と称して、体重や血圧の測定などの健康検査を行う場にしていた。クラスのイベントには参加しにくい子どもたちも、白衣を着て、楽しそうに参加するので、松村は恭子のことを誘ってみようと思い立ったのだ。
黙って話を聞いていた恭子に、松村は言った。
「あなたの白衣を用意しておくからね」
文化祭当日、和代は娘の格好にびっくりした。髪は広島でかけたソバージュのままで、そのうえ化粧をしていた。それも、濃い口紅を塗った厚化粧だった。
せっかく行く気になったのだからと、ことさらにとがめ立てせずに恭子を送り出した後、和代は学校に電話をした。娘の格好を説明して、「そういうつっぱった格好をしないと行かれない心境なんだと思うので、どうか受け入れてください」と頼んだ。
だが、電話に出た担任は言った。
「学校の規則を守らない子は、そのまま受け入れるわけにはいきません」
和代にしてみれば、娘はやっと生きて帰ってきた、という思いがある。それまでは、学校に遠慮がちだった和代が、この時初めて声を荒らげた。
「先生は、子どもの命と規則のどっちが大事なんですか!」
その|剣幕《けんまく》に押されたのか、担任は恭子を迎え入れることを約束した。しかし、その担任の前に、登校してきた恭子を見とがめたのは、風紀に厳しい体育の先生だった。激しいお説教を受け、恭子はそのまま家に帰された。
それでも、二日目には恭子はまた学校に行き、松村が言っていた「ナースステーション」に参加した。松村の手元にあるアルバムには、弱々しいけれど笑顔を浮かべた恭子の顔も写っている。
■夢が支える
その後、恭子は再び学校に行かない生活に戻った。夜の|徘徊《はいかい》もあり、警察に保護されたこともあった。
気持ちがどこまでも落ち込んだり、どうしようもない不安や衝動に駆られ、自殺を考えることもしばしばあった。他者に危害を加えようという気持ちは全くなかった。恭子の攻撃の矢は、いつも自分に向き、時には激しく自分を痛めつけた。その最たるものが、自殺未遂だった。
何度かリストカットを繰り返した後、中学三年生の年末には、本格的な自殺を図った。鎮痛剤を一瓶飲んで朦朧とした状態のまま、部屋のガス栓をひねった。外出から帰宅した和代が異常を感じ、部屋に駆け上がって倒れている娘を発見。すぐに病院に運んだので、命に別状はなかったものの、意識を取り戻した後、恭子は相当の苦痛を味わうことになった。
死ねない限り、生きていかなければならない。自分でもこのままでは納得がいかない、という気持ちもあった。負け犬のように見られるのも悔しかった。
前を向いて生きることを考え始めた恭子を支えたのは、以前からの夢だった。
それは、保母になること。
恭子は、小さい子どもが好きだった。弟たちをかわいがったし、近所の小さい子どもがいる家を回ったりしたこともあった。とりわけ、「ねむの木学園」の宮城まり子さんの本を読んでからは、児童福祉関係の仕事につきたい、と思うようになった。
保母になるには、専門の勉強をしなければならないし、その道に進むには高校卒業の資格が必要になってくる。しかし、教室でクラスメイトと机を並べなければならない普通の学校に通うのは、もういやだった。周囲の大人たちの強い勧めで、一校だけ普通高校を受験したが、恭子の気持ちは最初から通信制の高校に向いていた。
家を出て、近くのオンボロ長屋の一室で一人暮らしをした。コンビニエンスストアなどでアルバイトをしながら、勉強をした。生活はつましかった。家賃を別にして、月二万円で暮らしたこともある。
高校には、スクーリングもあった。しかし、同じ年齢の子が同じような格好をして教室に詰め込まれていた中学とは、全然雰囲気が違った。様々な年齢の人が集まっていて、ほとんどが年上だった。運動会では本人の代わりに孫が走ったというくらい年齢の高い生徒もいた。小中学校の時のようないじめもなかった。遅刻をしても叱られない。ただ、出席のハンコがもらえず、本人が困るだけだ。
恭子は、この高校のスクーリングには、何の抵抗もなく出席することができた。
「だって、休む理由がないもの」
通信制高校は、卒業までに四年を要する。普通高校に進んだ、同い年の人たちより一年遅れてしまう。次の進路のことを考えては、高校は三年で終えた方がいいのではないか、とも考えた。
三年生の時、文部省の大学入学資格検定試験を受けた。三年間で取得できない科目の単位をそれでカバーし、恭子は三年間で高校卒業と同等の資格を得た。
その後の進路については、短大や福祉の専門学校の資料をあれこれと取り寄せた。その中で地元の宇部短期大学保育科保育福祉コースに絞って願書を出した。
試験の科目は国語、選択科目一教科、それに面接だった。選択科目は、数学を選んだ。面接の時には通信制高校に行った事情も聞かれた。
不安だったが、無事合格した。
「面接ではいろいろ聞かれて、自分が言いたいことを言いました。それで合格したのが、特にうれしかった。こんな私でも認めてもらえた、受け入れてもらえたということが、すごく自信になったんです」
短大では、張り切って教室の最前列で講義を聴いた。興味のある分野なので、授業はほとんどすべて楽しかった。ただし、苦手の英語を除いては。教室でただ座っているだけで、どんどん情報が入ってくる。学校ってこんなに楽な所だったのかと、改めて思った。短大生の肩書きがあると、比較的条件のよいアルバイトも簡単に見つかることに驚いたりもした。
学校の先生方は、「学校の実習には時間的にも限りがあるから、自分でどんどんいろんな所に行ってみなさい」と勧めた。恭子も、「あちこちの施設を|覗《のぞ》くのは学生の間しかできない」と思った。特別養護老人ホームに行ってみたり、ボランティアサークルに入って養護施設などを訪ねてみた。
■気づかされた指導教員
そういう経験をふまえて、卒業研究のテーマは「障害者の社会参加」を選んだ。
恭子は、その動機を論文に次のように書いている。
〈施設実習で、重複障害を持つ入所児に「わたしがボランティアできる場所はあるの?」と問いかけられてから、ずっと「施設から出ることすら難しい施設入所の障害者の社会参加の現状は、どうなっているのだろう」という疑問が強く残っていた。在宅の身体障害者は、本人が主体となって、障害者の福祉についての啓蒙活動などされている方もあり、このような活動は障害の有無に関わらず、社会の中で自分の存在を確かめることになるのではないかと感じた〉
指導を担当した水田和江助教授(現・西南女学院短大助教授)は当初、あまりに重いテーマであることに、ためらいを感じた。
「施設にいる人に『外へ出ろ』と言っても無理だという雰囲気が強かったですし、調査のやり方によっては、現場から反発があるのではないか、と懸念しました。『本当は、あなたが言うように、障害のある人も当たり前に社会参加できるようにならないとおかしいよね』と言いながらも、心配だった」
それでも、水田が与えた課題をこなし、恭子は多くの施設を回って、入所者の社会参加の状況、問題点などを調べていった。
この水田という信頼できる教師との出会いは、恭子にとって大きな財産になった。
その水田は言う。
「私は、彼女にとっていい指導者になれたかどうかは疑問ですが、いろいろ言い合えるいい仲間にはなれたんじゃないかな、と思います。むしろ私の方も、|体裁《ていさい》などにとらわれて一歩踏み込めなかった自分に気づかされることもありました」
特に、水田は教師や学校の役割を改めて考えた。
「私たちは、新しいことを持ってこられると、つい『難しいから無理だよ』と言ってしまいがちなんですね。でも、彼女は必要性をとても強く感じていて、『どうしてもやりたい』と言った。彼女には、新しいものを見る目があって、それをさらに一歩進めよう、チャレンジしていこうという気持ちがある。これが、彼女の成長を支えているのではないでしょうか。大人の誰かがそういう思いをちゃんと受け止めないと、挫折感を感じたり、学校がおもしろくなくなったりするんですね。『難しい』、『だから考えたくない』ということは、学校はしちゃいけないと思います。私も、彼女と話をしていて、自分が体裁にとらわれて、なかなか一歩踏み込めなかったことを気づかされました」
恭子は、学校の勉強の他に、いち早くパソコンを覚えたり、第一級アマチュア無線技師の免許を取るなど、機械にも強かった。論文は、多くの学生が手書きで提出する中、恭子はきれいに二段組にプリントアウトしていた。
■県立大学に編入学
ただ、水田は恭子を見ていて、不安を感じることもあった。
「何につけても、彼女は成績がよく、飲み込みが早かった。でも、彼女のようにパッパと分からない人もいるわけで、他の人となかなかペースが合わず、彼女自身悩んでいたこともあったようです。集団の中で人とどうかかわっていくか。彼女には、社会に出るまでに、そういうことを学んで欲しいという思いもあって、進学に賛成しました」
山口県立大学社会福祉学部への編入試験は希望者四十人で合格者五名という難関だった。受験科目は論文二つに面接。論文の一つは、「言葉を話せない人とコミュニケーションする方法」がテーマだった。恭子は自分のボランティアの経験などから、「言葉を話せないといってもいろいろなケースがあり、なにより、話したいという気持ち、伝えたいという思いが大事だ」というような趣旨で書いた。恭子の主張には、常に自分の体験が裏打ちされていた。
「彼女なら絶対合格すると思っていました」と水田は太鼓判を押していたが、恭子自身は自信はゼロだった。合格の通知をもらった時には、信じられなかった。小さい頃から、「うちの子は大学には上げない」と言っていた両親が、手放しで喜んでくれたのも、意外だった。
大学生活も楽しかった。授業も充実していたし、アマチュア無線を通じてボーイフレンドもできた。
障害児教育のゼミを選び、「心身障害児の性教育」を卒論のテーマにした。
その最後の一文の中で、恭子は自分の思いに触れている。
〈マスコミ等のメディアを通じ、またインターネットなどを媒介として、様々な性情報が|氾濫《はんらん》している中で、「情報の選択」、そして自分自身の「判断能力」が重要となってくる。性教育の内容についても、単に性に対する知識を教えるだけの教育では間に合わない。子ども達が自分で考えて適切な判断を下せるよう、できるだけ早い時期から、繰り返し援助していかなければならないと考える。これを書いている間にも、少年の自殺や、中学生の少年による殺人事件が、いくつか報道された。性教育は、人間の「性」と「生」に関わる最も本質的な教育であり、いのちの大切さを感じたり、情動面の安定を図るためにも、積極的に行っていくべきであろう〉
就職試験は、第一志望の山口県社会福祉事業団に合格。県内の知的障害者施設に配属された。
社会福祉士の資格も取り、ここで彼女は生活指導員として働いている。主に、入所者の身の回りの世話が多いが、時々思いがけないハプニングも起きる。
今回のインタビューの前日、彼女が夜勤で仕事をしている最中に、入所者が部屋の中で放尿放便をする騒ぎが起きた。しかし、そういうことも「結構大変でしたぁ」と、笑顔でこともなげに語る。
ホームページを運営し、写真入りの名刺をコンピュータで作る。他の人に頼まれて、名刺を作ってあげることもある。
最近、柔らかい音色が気に入って、オカリナの練習を始めた。地元の音楽サークルにも、時々顔を出している。休日には、ボーイフレンドとのデート……。毎日やることがたくさんあって、充実した日々が続いている。
同僚たちに彼女の仕事ぶりを聞いてみた。
「窪田さんが大声をあげているのを聞いたことがない」
「なかなか言うことを聞いてもらえなくても、言葉を荒げることはないし、夜なかなか寝ない人がいると、ずっとそばに付き添ってあげたり、とにかくやさしいんです」
恭子は大学卒業の時、完成した卒論を持って、恩師の水田のもとを訪ねた。就職が決まった時にも報告をし、その後も時々会ったり連絡をしている。水田は、恭子の成長ぶりは著しい、と言う。
「短大卒業の時には、多くの人とうまく関わっていけるか不安が残っていましたが、今ではそういう心配は全然感じません。短大を経て大学に進み、社会人となる過程で、いろんな人と接することで、ものすごく成長したんですね」
恭子自身も、自分の変化を感じている。「短大・大学を通じて、理想と現実のギャップがずいぶん見えてきた。理想通りにいかなくて当然なんだ、と」。
ただ、彼女はまだ、不安をぬぐいきれていない。
「人に嫌われていないか、ということがすごく気になる。自分自身が他人を嫌いになってしまうことも怖い。だから、あんまりみんなに自分のことで期待をさせたくないな、と思うんです。期待をさせて、それが外れたりするのがいやだから」
■失明した母
一時は極端にズレていた親子の関係にも、変化が見える。
恭子が進学し、就職して、人との交わりの中で生き生きと毎日を過ごすようになっていくのと、ちょうど逆比例のような形で、母の和代は病を得て、それが悪化して失明した。
「恭子の気持ちが本当に分かるようになったのは、自分が病気になってからでした」と和代。そして、十代の頃の恭子のことを考えると、涙が出てくる、という。病気になってから思ったことを、和代は一気に語った。
「私は、当時も親として恭子のことを思っているつもりでしたが、内心では、それ以上に『問題を起こされたら困る』という気持ちがあったと思います。そういう気持ちがある間は、子どもは心を開いてくれるはずがありませんよね。
恭子は一時化粧がものすごく濃くて、このままどうなるのかと思っていたのですが、その頃はそうやってつっぱっていないと生きていけなかったんですね。本当の自分を壊さないために、化粧などの仮面を被っていたんですね。
実を言うと、私自身も前は気持ちの上ですごくつっぱっていたんです。私を厳しく育てた親に対しても、夫の言うことにも反発していました。そうやってつっぱっているからコミュニケーションがうまくいかず、『みんなが私の気持ちを分かってくれない』とどんどん落ち込んでいきました。いくつかの病院を転々とするうちに、私も恭子と同じなんだな、と思ったんです。ただ私と違って、恭子は本当に子ども好きなんですね。親に優しくされて育ったわけではないのに、どうしてこんなに優しい子になったのかと思うんです。今、私のことを一番心配してくれるのは恭子だと思います。
私は、そういう自分の思いがなかなか素直に表現できなくて、日記を書いても気持ちを偽って書いてしまったりすることがありました。でも、時々私も詩を書いて娘に送ってみたりしました。今では、恭子は私の気持ちを分かってくれていると思います。口では言いませんが、分かり合えているという手応えがあります」
■「ゆっくり歩いていくのもいいな」
恭子は時々実家を訪れる。母の生活を助けるのに便利そうな道具などを届けることもある。
「いらなきゃ私が使うから」――言い方はいささかぶっきらぼうだが、母親に遠慮をさせまいという恭子の気遣いを、和代は感じている。
恭子は、「(親子関係は)全然変わってませんよ。病気になっちゃったから放っておくわけにはいかないっていうだけで……」とそっけないが、私はその口調に、彼女の照れを感じた。福祉の道に入っていった自分を考える時、「そういえば、母も人の面倒を見るのが好きな人なんですよ。よく近所の人の相談に乗っていましたし」とも言う。
自分が成長し、充実した毎日を送るようになって、気持ちに余裕もできて、恭子の母親に対する見方が少しずつ違ってきたのかもしれない。
傍から見ていると決して効率はよくないけれど、今の恭子自身は、自分が歩んできた道も悪くはないと、思っている。
「ゆっくり歩いていくのもいいな、と。車だったら、そこらへんで咲いている花が見えないけれど、歩いていたらいろんなモノが見えてくると思うんですよ」
今でも自殺を図ったり、実際に命を落とす十代がいる。そういう人たちに何か言ってあげたいことはない?――そう水を向けると、彼女はゆっくり言葉を探しながら、こう語った。
「死にたい時って、さみしいのよ。自分が歩いている道には先がないんじゃないかっていうのと、誰も私のそばにいないという、この二つが大きいんじゃないかな。はたから見ていると、そんなに絶望的な状況とは思わなくても、本人にとってはそうなの。
でも、悩んでいる最中は分からなかったけど、道がないとか誰もいてくれないというのは、自分の心の中で作っているイメージなのよね。道は作っていくもんだし、人は誰か探せばいるもんだし。だから、とりあえず誰かに話してみること……かな」
自殺未遂の後、恭子は「これからの道」という題の、生きていくことへの不安と希望が入り交じった作文を書いている。
〈人生という名の道を歩きだして、約十五年十カ月。どうにか歩けるようになってきた。(中略)これから先のことは見当もつかない。五年後、十年後に私はどうしているだろう。明日のことすらわからないんだもの。迷子になっているかもしれない。もう歩いていないかもしれない〉
〈私の夢。保母になりたい。そして、児童福祉関係の仕事につきたい。(中略)この夢、私にはあわないかもしれないし、なれないかもしれない。これから歩いていくうちに、また気が変わるかもしれない。だけど、とりあえず今の夢。大きな夢。そのまえにしなけりゃいけないことがある。まず高校を卒業しなけりゃなんない。大学受験。短大までは行きたいな。それぞれがひとつの夢。一歩先が夢。ともかく前を見て、歩き続けたい。もう五年は歩いていたい。あと十年間歩き続けられたら満足だと思う。
五年後、私は二十歳。何をしているだろう。どんな道を歩いているかしら。十年後、二十五歳余り。どうなっているだろう。戻ることの出来ない、人生という名の道。一歩先も霧中。見えない。回り道したって、寄り道したって、それが私の道なんだから……無駄足じゃないと思う。よく分からないことばかりだし、後悔することもあるかもしれないけれど……。私は――やっぱりむつかしいけど――、小さな夢を見続けながら、大きな夢にむかって歩いていこうと思う〉
この作文を書いて、ちょうど十年が経った。恭子はこれからどんな生き方をしていきたいと思っているのだろうか。
「現実は理想通りにはいかないものだと分かったけれど、でもこれから一番怖いのは、それに慣れてしまって自分が理想を忘れること。そうはなりたくない」
そしていずれ、重度の肢体不自由児の療育を担当してみたい、と考えている。
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「生きる力」とは何か
あとがきに代えて

■文部大臣の主張
二〇〇一年二月五日付で、文部省のホームページに町村信孝大臣(当時)の不登校についての見解が発表された。
その直前に町村氏の「はき違えた個性の尊重、はき違えた自由、子どもの権利とか言って好きでいいということが不登校を生んでいる」という発言がメディアに取り上げられ、話題になっていた。同氏は報道について、「中には発言の一部のみを取り上げたバランスの欠いたものも見られます」として、自ら主張を発表したのだ。
その見解の中で同氏は、「不登校の原因は、様々な要素がからんでいると思います」として、いじめ 友人や教師との関係などの心の悩み 授業が分からない――といった要因と、それぞれについて(1)いじめの根絶 (2)カウンセラーの充実 (3)個別・少数指導――などの対策を挙げたあと、次のような持論を展開した。
〈不登校児童生徒の中には、家庭や学校の教育の中で、自己統制力(セルフ・コントロール)を児童生徒に身につけさせることが不十分であったことが原因となっている場合もあるのではないか。戦後の日本の社会や教育の中では、個人の自由や権利を強調してきました。これは、本来的に正しいことですが、問題は、自己統制力無き自由や権利の主張は、好きなことだけをさせ、気に入らないことはやらなくてもよいという結果をもたらせてしまう。大人になれば、自分の好きなことだけをやっているわけにはいかないのです〉
そして町村氏は、こう続けるのだ。
〈私は教育の様々な局面の中で、こうした自己統制力を身につけることが子どもから大人へ成長する一つの大きな要素であると考えています。本年一月の成人式の各地での大混乱(主催者の話を静かに聞けない、大声で話をする、酒を飲んで暴れる、女性の晴れ着を汚す等)は、実は十年以上も前から見られた共通現象です。
要するに、自分のやりたいことは他人の迷惑をかえりみずやるけれど、自分の気に入らないことはやらないという、まさに自己統制力無き、成人の資格無き若者の行為そのものだと思いますが、皆さんはどうお考えでしょうか〉
私はこれを読んで、違和感を感じた。町村氏の文章は、「自己統制力」がない子が、不登校となり、長じて成人式の時に大暴れしたり、他人に迷惑をかけるような大人になるという印象を与える。
そもそも、なぜ不登校の問題に、成人式での出来事が引き合いに出されるのだろう。問題を起こした「自己統制力無き」新成人たちは、不登校経験者なのだろうか。私の認識では、成人式というのは久々に同級生に会える場であり、学校に行かなかった人たち、地元の同級生との間にいい思い出のない人たちが、果たしてわざわざ成人式に行って、徒党を組んで騒ぎを起こすようなことをするのだろうか。
「そうなのよ。いくら何でもおかしいと思うでしょう?」
私の疑問に対し、フリースクール「東京シューレ」を主宰する奥地圭子さんは、普段より一オクターブくらい声を張り上げて、憤慨した。
「不登校の子どもたちの実状を、全然分かっていないのよ、この大臣は。ただ、こういう“学校信仰”は根強いんですよねえ、今でも」
奥地さんの話に頷きながら、一方で思った。町村氏のように、不登校の子どもたちはろくな大人にならないと思い込んだり、懸念している人は、世間ではむしろ「普通」なのかもしれない、と。それほど、不登校→学校の中でもまれていない→だから社会性が育ちにくい、という見方は、しばしば目にし、耳にする。
また、不登校の子どもをもつ親御さんからは、「せめて高校くらいまでは行かないと、将来が心配」という声を聞く。学校に行っていない本人たちの手記などを読んでいても、先々のことについて不安を持っている子どももいる。
不登校だった子どもたちは、成長してどんな大人に成長しているのだろう。
考えてみれば私自身、不登校の子どもたちのその後をほとんど知らない。知りたい、と思った。
■「夢=やりたいこと」のパワー
この頃私は、「夢」をテーマに、インタビュー取材を進めていた。自分で自分の「夢=やりたいこと」を見つけ、それに向かって全力で生きている人たちの話を聞いていく中で、本書の冒頭に登場する中澤淳さんに出会った。奥地さんとの間で町村発言が話題になったのは、子どもの頃の彼について話を聞くために、東京シューレを訪ねた時だった。中澤さんと会った後は、私の中で、町村発言に対する違和感がよけいに膨らんでいた。
それに、学校を出ていても、社会性に疑問を抱かざるをえないような人が、私たちの周りには結構いる。
オウム真理教が引き起こした一連の事件の実行犯たちは、義務教育はもちろん、有名大学・大学院に進んだ人がほとんどで、日本の中では最高水準と言われる学校教育を受けた者も少なくない。それでも、あの教祖のまやかしを見抜くことはできず、カルトに吸引されてしまった。そして、反社会・非人道の極みとも言える犯罪の数々に加担してしまった。
高等教育を終え、中央官庁で国の行政を動かす立場となった後に、公金を使い込んだり、業者から賄賂を受け取るような官僚もいる。
逆に中澤さんのように、学校には行かなくても、社会の中で自立して生きている人はたくさんいるのではないか。
そんな気持ちから、進行中だった「夢」の企画を一時中断して、元不登校の大人たちへのインタビューを始めた。そして、取材を進めるうちに、この二つの企画は別なものではない、ということに気が付いた。
中澤さんたちは、学校の外で自分のやりたいことをみつけ、それに向かって生き生きと充実した毎日を送っている。まだ、はっきりと定まっていなくても、自分の力で自分が歩む方向性を探そうと、前向きにがんばっている人もいた。
「夢=やりたいこと」がなくても、人は生きられる。だから、全ての人は夢を持つべきだ、などと言うつもりはない。けれど、「夢」は人に思わぬパワーを与えてくれることがある。不登校経験のある彼らの話を聞いていて、そんな「夢」の力を感じさせられることがたびたびあった。
■生きる力とはこういうこと
取材に応じていただいたのに、その時期や原稿の分量の関係で、本文で紹介できなかった方もいる。その一人、田中はる子さんに話を伺った時にも、この「夢」について考えさせられた。
田中さんは今、一児の母にして、看護学校に通う学生。彼女は、中学一年生の時から、学校に行かれなくなった。両親の別居、転校といった環境の変化はあったし、転校先の学校の先生が威圧的な感じがしたこともあったけれど、行かれなくなった本当の理由は、彼女自身にもはっきりしない。もともと学校は大好きだったこともあって、行かれなくなった当初は、精神的に苦しかった。
どこにも所属していないこと、自分で自分が思うようにならないことが、とても不安だった。その苦しさや不安がたまってくると、どうしようもなくなって、家の中で荒れた。
一時期、東京シューレに通い、学校に行けない人は他にもたくさんいることを知った。シューレを通して、社会とつながっている安心感も得た。
その後、田中さんはもう一度学校へ行ってみようと思った。実は田中さんには、小学生の頃からの夢があった。それは看護婦になること。心の安定を取り戻すと同時に、その夢が蘇った。
看護婦になるためにも、高校へ行こう――そう決心し、定時制高校に進学した。学校で知り合った友達の紹介で、昼間は個人病院で看護助手のアルバイトをした。
ナースキャップをかぶれること、准看護婦を養成する学校に通わせてもらえることが、魅力だった。ところがその病院から、高校に通い続けるのは困る、と言われてしまった。一日も早く看護婦になりたい一心の田中さんは、高校を辞めた。
午前中仕事をし、午後学校へ通う。そして、夕方また仕事に戻る。当直は、月に九〜十日もあった。そんな生活を二年間続けた。
体力的にはハードだったが、看護の現場で仕事をし、勉強をする毎日は「とにかく楽しかった」という。当直でない日には、バトントワリングのレッスンに通ったり、クラスメイトと遊びに行った。最初の頃は仕事で叱られることもあり、バトンの練習はとても厳しかった。でも、「自分のやりたいことだったので、平気でした」と田中さん。
准看護婦の試験に合格した後、慣習となっている“お礼奉公”として二年間同じ病院で働いた。ジャズダンスやバレエも習い、充実した日々だった。
二十歳の時に結婚し、退職。パートで別の病院で働いたが妊娠し、流産しかけたことが原因で辞めた。子どもが十カ月になった時に、総合病院で再び働き始めた。その病院は、キャリアを積んだ人が多く、田中さんは刺激を受けた。正看護婦と准看護婦の力量の違いも実感した。それまで、医師の指示をこなしていくだけで、その指示の裏にある理論を考えたことがなかった。ところが、経験のある正看護婦は、レントゲンの読影もできたし、注射一つにしても、なぜこれが必要なのか理解をしていた。給料も、もちろんかなり違っていた。
三年近くの勤務の間に、田中さんは「絶対に正看になろう」と決意した。学歴は中卒でも、准看護婦として三年以上の実務経験があれば、看護学校に入学でき、他の学生と一緒に国家試験を受けることは可能だった。
仕事と子育てをしながら、看護学校への入学を目指した。受験勉強の仕方がよく分からなかった。とにかく夢中でやってみて、一度目は失敗した。諦めずに翌年再挑戦。合格をはたした。
今は子どもを保育園に預け、学校に通う。宿題は、夜子どもを寝かしつけてから。
家事や子育てをしながらの勉強は楽ではないが、自分のやりたいことのためなので、苦とは思わない、という。
「登校拒否した時には、いろいろ辛い思いもしたので、看護婦としてそういう経験を役立てたい。子どもを持ってみて、前より患者さんの立場に立てるようになった気がします」と田中さん。
「夢=やりたいこと」を実現させるためには、受験勉強などやりたくないこともやる。かなり高い壁でも、必死に乗り越えようとがんばる力が湧いてくる。
そんな田中さんの姿に、私は漠然とこんなことを感じた。
「生きる力」というのは、こういう力のことを言うのではないかな、と。
子どもの自殺、凶悪な少年犯罪の頻発を背景に、最近は教育を語る時に「生きる力」の大切さが強調される。
文部科学省のホームページには、同省の使命が高らかに謳われている。
〈教育、科学技術・学術、文化・スポーツの振興を通じて、人の生きる力を|育《はぐく》み、国の将来を切り拓く原動力を培っていくことにより未来への先行投資を行うこと〉
同省が子ども向けに作っているサイトには、小・中・高校を管轄する初等中等教育局の仕事を、次のように説明している。
〈学校での勉強が毎日楽しく、|充実《じゆうじつ》したものになり、「生きる力」をしっかりとはぐくむことができるように、勉強の内容や学習の方法をよりよくするよう努めています〉
■学校は機能しているのか
では、この「生きる力」とは何か、どうすれば育むことができるのか。
本書に登場してくれた人たちの体験を聞きながら、私は田中さんの話を聞いて感じたことが、だんだん確信に変わっていくのを感じた。
「生きる力」とは、一人一人の「夢=やりたいこと」であり、それを見つけたり、持ち続ける力のこと、ではないだろうか。
好きなこと、やりたいことがあれば、明日に希望や目標を持つことができる。今の時点で、自分を消してしまいたいくらい辛いことがあったり、寂しくてたまらないとしても、好きなことや将来の夢があれば、「とりあえず明日までがんばってみよう」という気持ちも湧いてくるだろうし、自分の人生をいとおしく思うのではないだろうか。
例えば、窪田恭子さんの場合。一時は死ばかりを考えていた彼女が、未来に向かって歩み続けるための最も大きな力になったのは、「障害のある子どもたちを育てる保母になりたい」という夢だったように思う。
昔は、学校は勉強を教わる場所であると同時に、情報の収集場でもあった。先生は新しい知識や情報を伝えてくれる存在だった。しかし、これだけ情報化が進み、学校の外で知識も情報もたくさん得られる時代になった。それに伴って、早く学校の外に出て、自分がやりたいことを見つけたいという子どもが増えていくのは、自然というべきかもしれない。
それに、これまでの学校を中心にした教育のシステムは、子どもたちがやりたいことを探すために、果たしてうまく機能しているだろうか。
十代の子どもたちを集めて話を聞く番組の聴き手を務めていた時、番組のディレクターたちが「夜の十時過ぎにならないと、子どもたちと連絡がとれない」と嘆いていたことがある。実際子どもたちに話を聞いていても、授業の他に、部活や委員会があって夕方遅くまで学校に拘束される。さらに塾があり、家に帰れば友達との話題作りのために録画しておいたテレビ番組を見なければならない。確かに、部活や友達づき合いなどは、楽しみでもあるのだろうけど、やることがたくさんあって、とにかくとても忙しそうなのだ。
そのうえ、最近の教育改革の方向を見ていると、「奉仕作業」など、子どもたちがやらなければならないことは、さらに増えそうな雰囲気だ。
町村氏の言うように、「大人になれば、自分の好きなことだけをやっているわけにはいかないのです」。「好きなこと」より「やらなければならないこと」が増えてしまうのが、大人なのかもしれない。
だったらせめて子どもの時代には、やりたいことを、たっぷりと気の済むまでやらせてあげたい、と思う。
本文でとりあげた山上雅志(仮名)さんは、「おもしろい」と思ったことをとことんやる子ども時代を送った。学校に行かなくなってからは、より徹底して、「好きなこと」をやりぬいた。そういう中から、自分が一生かけてやっていきたいことを見つけた。
ところが、一般的には多くの人々が小さい頃から、「好きなこと」より「やらなければならないこと」をたくさん抱える子ども時代を送り、高校や大学を卒業する時になって、自分がなにをやりたいのか、どういう方向に進むのか、決める必要に迫られる。
学校を卒業しても、何をやりたいのか見つからず、正規の就職をしないフリーターが増加している背景には、子どもが忙しくなって、「好きなこと」を飽きるほどたっぷり楽しむという経験が少なくなっている事情がある、と言ったら、飛躍のし過ぎだろうか。
■ニカラグアの鍼灸師
学校に行かなくなった子どもたちが全て学ぶことを止めたわけではない。自分でその必要を感じれば、勉強する。職業に必要な専門的知識を学ぶ場合もあるし、高校や大学に進学する人も多い。先の窪田さんの場合、通信制高校→大学検定→短大→大学というコースをたどった。
もう一人、インタビューが実現した時期の関係で、本文に入れることができなかった青年を、ここで紹介しておきたい。
名前は太田|泉生《みなお》さん。来年の春から、新聞記者として就職することが決まっている。
太田さんは、小学校六年生の四月に転校。夏休み以降、学校に行かなくなった。直接の原因は、先生との関係。彼の利発さが|疎《うと》ましかったのか、担任の先生は、ことあるごとに「賢い太田君」などと嫌味を言ったりして、彼をいたたまれない気持ちにさせた。
不登校の子どものための居場所に半年間通った後、同い年の子どもたちが中学校に進学する四月に、彼は東京シューレの会員となった。
「自分らしく生きる」――シューレに見学に来る人への説明会や教育関係のイベントで、彼は自分の信念を語った。学校に行かないという道を選択したのも、自分らしく生きたいためであり、今後も自分らしく生きていくつもりだ、と。
しかし、これからの人生を考えた時、どうしたら自分らしく生きることができるのか、具体的なイメージが浮かんでこなかった。自分が何をしたいのか、全然見えていなかった。
「自分探し」という言葉が胸に響いた。本当の自分、自分がやりたいことを求めて、もっと広い世界に出たい、と思った。
形だけ在籍していた中学を卒業すると同時に、太田さんはシューレを辞めた。
図書館で本を借りては読み|漁《あさ》った。沢木耕太郎氏の旅行記を読んで、胸が高鳴った。
(これだ)
現在では沢木氏の作品に対しては、かなり覚めた見方をしている太田さんだが、この時は旅こそが人生を教えてくれるはずだ、と感じた。
アルバイトでお金をためて、十六歳の時に二カ月間メキシコを旅した。格安のチケットが売られていたし、両親がラテンアメリカの作品の出版にかかわっていたこともあって、子どもの頃から中南米には親近感があった。
翌年十七歳の時に、再びメキシコへ渡り、グアテマラ、エルサルバドル、コスタリカ、キューバなど八カ国を旅した。
旅では、いろんな出会いがあった。ニカラグアでは、十五年もの間貧しい人々のために治療や医療の指導をしている日本人鍼灸師に会った。町のどこへ行っても、その男性は「ドクトール」と声をかけられ、人々から慕われていた。「死ななくてもいい病気で死ぬことがないように」と、週末は何時間もかけて山奥へ行き、医療の恩恵を受けることができない人々に対し、東洋医学の知識を教えていた。
太田さんには、多くの人に必要とされ、生き生きと活動しているその鍼灸師がとてもまぶしく見えた。まだ、自分が何をやりたいか、自分には何ができるか全く見えていなかったが、自分も彼のような存在になりたい、と思った。
そういう出会いはあったけれど、「旅が人生を教えてくれるわけではなかった」と太田さん。ならば、一度一つの場所に住んでみようか、と考えた。
■メキシコの学校で
この頃読んだ本の中で、立花隆氏の『青春漂流』に書かれている一つのエピソードが、太田さんの心の奥底に深く染み込んでいる。ナイフ作りの職人を目指した古川四郎という青年について立花氏がこう書いている部分だ。
〈古川四郎が偉いと思うのは、それだけ貧乏暮らしをしているというのに、さらに二百万円の借金をしてまで、アメリカにナイフの勉強に行ったことだ。ナイフ造りに自分をかけると決めたからには、やはり本場のアメリカのナイフ造りをこの目で見ておきたいと考えたのである。二百万円を返すあてはなかった。しかし、とにかくアメリカに行ってみることが必要だと思って、やみくもに借金してまわったのである〉
自分がやりたいことのためには、あるいはやりたいことを見つけるためには、人間、思い切りやふんばりが必要な時がある――メキシコへ渡る太田さんに、この本はそんなエールを送ってくれたようだ。
自分で払える金額で、カリキュラムがしっかりしたスペイン語の教育をしてくれる語学学校を探した。メキシコシティにある国立大学の外国人コースが条件に叶っていた。四カ月の集中コースで勉強し、その後も約一年間滞在。山奥のコーヒー農園に行って、人々の厳しい生活を見た。地主や警察の厳しい弾圧と戦っている農民運動の担い手と知り合った。反政府ゲリラとの交わりもあった。太田さんが訪れた所で、後に農民組合のトラックが警察の襲撃を受けて四十五人が殺される事件が起きた時には、大きな衝撃を受けた。
多くの人と知り合うほどに、貧しい中で生活の改善のためにがんばっている人々のために、自分も何かしたい、という思いが募った。最初は、現場に行けば何かできるだろうと思っていた。しかし、農業の技術や衛生に関する知識を持っているわけではない。実際に貧困にあえぐ地に行ってみても、何の役にも立てなかった。経済や金融の仕組みも分からず、なぜ貧困の問題が解決しないのかも分からなかった。もぐりで大学の授業を聞いてみたり、経済学の本を買って勉強を始めた。もっと学びたくなって、一度日本に戻り、集中的に勉強して大学入学資格検定試験を受けた。しかし、メキシコでは日本の大検の資格は認められなかった。
太田さんは、日本で大学進学を目指すことにした。母国語である日本語で勉強した方が効率がいいかもしれない、という気持ちもあった。
メキシコに移り住んだ頃の太田さんは、日本が嫌いだった。「自分探し」の場を、海外に求めたのも、日本から離れたい気持ちが土台にあった。
「その頃は、自分がしっかりしていなかったから、日本なんて学校や企業中心に展開しているだけの国で、そういう基準だけで人間の価値が判断されている国だと思っていました。嫌な原因を、全て自分の外に求めていたような気がします。でも、そんな単純なものではないし、自分がしっかりしていればすむこともたくさんある。それに当時の僕は、日本のことをそんなに知っていたわけじゃなかったんです」
行く先々で、よく「日本ってどんな所?」と聞かれた。「日本人って、どんな人なの?」とも。
太田さんは、その問いに何と答えていいか分からなかった。
その一方で、メキシコについて語ることも、だんだん難しく感じるようになった。
最初の二カ月間の旅で、メキシコのことはたいてい分かった気になっていた。しかし、実際に住んでみると「メキシコというのは、こういう場所」と一般化できなくなってきた。
「メキシコ人というのではなく、カルロスとかペドロとか、そういう固有名詞や、一人一人の顔が浮かんでくるようになった。酒飲みがいたり、嫌なヤツもいたり、肩書きにこだわるヤツもいたりして、いろんな人がいるんですよ。メキシコだけでなく、キューバやニカラグア、アメリカにも滞在してみましたけれど、どこも一緒ですよね。気の合う人はどこへ行っても二割くらいいる。残り八割とは合わなくても当たり前。全員と合ったら気持ちが悪いですよね。そういうことを考えると、日本だってそうなんだよな、と思うようになった」
■大学へ行くメリット
二十歳の十二月に帰国。国公立大学を受験するためのセンター試験の募集は締め切った後だった。私立大学にしても、ゆっくりとカリキュラムを検討している時間はなかった。社会科学部のある私立大学を中心に、志望校を決めた。大学別に過去の入試問題を掲載している、通称「赤本」を本屋で買ったのが十二月二十三日。第一志望の早稲田大学の試験日までちょうど二カ月だった。
英語の勉強はほとんどしていなかったが、スペイン語の知識が生きた。発音は英語とスペイン語ではかなり違うが、スペリングは似ている単語が多かった。英文法の知識はゼロに近かったが、早稲田の試験は全て長文読解だったので、何とかなった。
「どうして受かったのか分からない。たぶんヤマ勘でやっつけた選択問題が、まぐれで当たっていたりしたんでしょう」と太田さんは謙遜するが、それでも合格は合格。早稲田大学社会学部の学生となった。
久々に学校の教室に出てみて、「学校という制度の中でやっていく方が、効率的ではあるな」と思った。大学の授業は、必ずしも期待通りではなかったようだが、「嫌いでも、やってみれば新たに見えてくることがある」ということを知った。国際政治学を学ぶうちに、毛嫌いしていた学者についても、「それまで接するつもりにもならなかったけれど、彼には彼なりの理論がある。反発を感じて見ようともしなかったことにも、それぞれの理屈があるんだな」と考えるようになった。
大きな図書館を自由に使えるのも、大学に入ったメリットの一つだった。レポートの締め切りは、それがあるからこそ必死で勉強すると分かっているので、苦痛ではあるけれど、必要性は感じている。
差別や貧困を解決するために貢献したい――そう思って勉強をしたが、あまりにもいろいろな問題が山積し、しかもそれが相互に繋がっている。「資本主義体制の帰結」などという単純なくくり方はできない、と思った。今何が問題で、どうなっているのか、もっともっと明らかにして、多くの人が事実を知ることが大切だ、と考えた太田さんは、ジャーナリストを志望することにした。
学生時代にも、何度か中南米を訪れた。そこで見たことを、環境や人権問題などを扱う雑誌に書いたり、テレビのドキュメンタリー番組の制作にも関わった。フリーのジャーナリストやテレビ制作の道も考えないではなかったが、自分がやりたいことには、新聞が一番近いような気がした。
「普通の人がたくさん見ているメディアでやりたい。テレビはどんどん映像を送って、人間に考える時間を与えないメディアのような気がするし、やはり文字で伝えるメディアでなければできないことがあると思う」
大きなメディアは、より多くの人に事実を伝えられる一方で、個々の記者の意思を反映させるのが容易ではない。自分のやりたいテーマばかりを追っていられるわけでもない。その大変さは、太田さんも分かっている。「マスコミに利用されるだけだ」と忠告する人もいた、が、太田さんは「もし僕に利用できるところがあるなら、利用してもらって構わないんです」と言う。その一方で、太田さん自身も新聞という媒体、記者という立場をできるだけ活用して、自分のやりたいことを少しでも実現したい、という気構えでいる。
「できる範囲でこつこつと、現代社会の矛盾に目を向けるような仕事をしてゆきたいと思っています」
■もっと大事な問題
太田さんもまた、学校外の場所で、自分のやりたいことを探し、その足がかりを見つけ、土台を築いた。大学で学びながら、自分の人生の方向性を確認し、今、自分で選んだ新たな道を歩み出そうとしている。
窪田さんや太田さんのように小中学校で不登校を経験したり、あるいは高校を中途退学した人たちなどで、大検に挑戦する人が年間二万人以上いる。
一九九二年に文部省が「不登校は誰にでも起こりうる」と認めて以来、学校に行かない子どもたちの選択肢は少しずつ広がってきた、と言えるだろう。東京シューレのような、いわゆるフリースクールが各地にできた。定時制や通信制の高校が、不登校経験者の受け皿になったり、単位制の高校など、新しい試みをする学校も増えた。
教育の現場にいる人たちの考え方もかなり変わってきた。本書で取り上げたケースには、子どもを登校させるためにいわゆる登校刺激を繰り返す学校や教育委員会、強硬策をアドバイスする専門家も登場する。現在では、ここまでやる人は、少ないだろうと思う。
とはいえ、冒頭に紹介した意見のような、学校に行かない子どもはわがままな落伍者であるかのようなイメージは依然として根強い。
私は本書で、不登校の勧めを行ったつもりはない。学校を否定するものでもない。私自身、学校には楽しかった思い出の方が多いし、学校というシステムの中にいなければ、ろくに勉強しなかったのではないか、とも思う。窪田さんや太田さんらも語っているように、学校は多くの子どもが比較的効率よく勉強できる便利なシステムであり、その恩恵を受けている子どもたちはたくさんいる。だからこそ、今の学校をもっともっと魅力的にして、より多くの子どもが楽しく通えるような努力を続けていくことが必要だと感じている。
また、不登校だった子どもが、成人に達しても「引きこもり」を続けているケースもあることを考えると、様々な角度から専門家のサポートが必要な場合があることを否定するものではない。
同時に、学校の外で、自分の力で自分のやりたいことを見つけ、成長している子どもたちがたくさんいることも、忘れたくない。インタビューに応じてくれた不登校経験者のこれまでの生き方に耳を傾けていると、私たち大人は、子どもが学校に行くか行かないかだけに目を奪われていて、もっと大事な問題を忘れてはいないか、という気になってくる。彼らが「やりたいこと=夢」を見つけてきた経緯、彼らの生きる力が育まれていった過程の中に、その大事な問題を考えるヒントがあるのではないだろうか。
そういうヒントを与えてくださった不登校体験者やその家族の方々は、インタビューの中で、あまり思い出したくない事柄やプライベートな問題に至るまで、事細かに語ってくださった。また、今回の取材が実現した背景には、東京シューレ主宰の奥地圭子さんの一方ならぬご協力と熱い声援があったことを、ここに特筆しておきたい。さらに、文藝春秋社の浅見雅男さんは、企画の段階からアドバイスや励ましをくださり、いつも私が安心して前向きに仕事ができるようにしてくださった。そういう皆さんの力でこの本を世に送り出していただいたことを、心から感謝している。
江川紹子ジャーナル
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文春ウェブ文庫版
私たちも不登校だった
二〇〇二年六月二十日 第一版
著 者 江川紹子
発行人 上野 徹
発行所 株式会社文藝春秋
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(C) Syouko Egawa 2002
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