ホンダ神話 教祖のなき後で(下)
〈底 本〉文春文庫 平成十二年三月十日刊
(C) Masaaki Sato 2002
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目 次
(上巻からつづき)
日本車の輸出急増から政治問題と化した日米自動車摩擦。ホンダはそれに先手を打って米工場建設を決断した。米市場の利益拡大で、国内でも日産を射程内に置き、トヨタに次ぐナンバー2を目指す意気込みだったが……。
昭和六十年八月、東京・青山に完成した白亜の本社ビルはホンダ躍進の象徴だった。しかし、社内には次第に官僚主義がはびこり始め、米国ホンダ社から本社副社長に帰任した入交の目には社員が“動くナフタリン”に見えた。
昭和が終わり元号が平成に変わった途端、ホンダに異変が生じた。創業者の相次ぐ永遠の眠りに続き、F1からの撤退、国内販売の極度の不振、リストラ開始……。「会社の寿命・三十年の法則」はホンダにも当てはまるのか?
宗一郎と藤沢が作り上げた経営手法は、創業者特有の“狂気”に基づいていたからこそ成功した。しかしいまや見事なまでにサラリーマン化したホンダの社員たちに、教祖たちのような個性ある経営手法を継承できるのか。
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ホンダ神話(下) 教祖のなき後で
「ホンダは株式会社でありながら、本田という名前を付けたために、個人企業のように思われるのは良くないね。おれは今度生まれたら、会社に本田なんてテメエの名前は付けないぞ。公私というのは、私はキッチリと分けている積もりだ」
[#地付き]本田宗一郎
「役員とは気がつくこと。気がつく人が役員になる。部下の尻をたたくだけでは現場監督。レールから外れないことを考える人は管理型。多角的にモノを考える人こそ力量のある指導者だ」
[#地付き]藤沢武夫
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第一次石油危機を契機に、日本経済は高度成長に別れを告げ安定成長期に入った。十年あまり続いたモータリゼーションの波は、石油危機と排ガス規制で一段落した。日本の自動車産業も成熟期を迎えるとみられたが、予想に反して輸出が急増したことで、逆に成長に弾みがついた。
第一次石油危機発生直前の昭和四十八年に七百八万台に乗せた生産台数は、翌四十九年に七・五%減の六百五十五万台と、高度成長期に入ってから初めてマイナス成長を記録した。この間、国内販売は四百九十一万台から三百八十五万台へ二一・六%、百万台以上も落ち込んだ。生産が一ケタのマイナスに止まったのは、輸出が二百七万台から二百六十二万台へ二六・五%増と大きく伸びたことによる。
国内販売が四十八年の水準を超えたのは、六年後の五十四年だった。この間、輸出は衰えることなく伸び続け、五十五年には、遂に国内販売と輸出の比率が逆転してしまった。国内販売五百一万台に対して、輸出は五百六十七万台だった。
この年の生産台数は、前年比一一・四%増の千百四万台で初めて千万台の大台に乗せた。自動車が産業としての体制を整えて以来、世界に君臨してきた米国の生産台数は、前年比三〇%減の八百一万台に止まり、一挙に三百万台の差をつけて日本が世界一の自動車生産大国に伸し上がった。
日本製乗用車は最初に価格が安い経済車として米国市場に浸透した。ところが石油危機以降は燃費節約型の「エコノミーカー」として飛ぶように売れた。
「性能が良いうえ故障しない。さらに燃費がよくて価格も安い」
こうした評判が立てば、売れない方が不思議だ。
省資源、経済市場のみならず、小型車の本場、欧州市場でも人東産油国からの引き合いも活発になった。
昭和四十五年には業界全体で四十二万台しかなかった対米輸出は、五十年には九十二万台、さらに第二次石油危機が発生した直後の五十五年には、二百四十一万台へと伸ばした。わずか十年間で対米輸出は五・七倍と驚異的な成長を遂げた。二度にわたる石油危機は、日本の自動車産業にとってまさに“神風”だった。
昭和五十年代前半の自動車産業の高度成長は、輸出それも集中豪雨的な対米輸出によってもたらされたと言っても過言ではない。ただし輸出急増は、貿易摩擦という深刻な副作用をもたらした。
「需要のあるところで生産する」
ホンダの海外戦略を語る際の枕詞だが、最初からこうした哲学があったわけではない。ホンダがオートバイを世界二十八カ国で現地生産しているのは、輸入を禁止したり、関税が高いなど、ほとんどが相手国の政治・経済情勢に対応したものだ。輸送コスト面でKD(ノックダウン=現地組み立て)生産の方がコストが安いなどの純経済面から進出したケースは稀である。
海外現地生産に際して、トヨタ、日産に比べホンダが有利なのは、オートバイの生産で現地の経済動向を見て、それを参考に四輪車につなぐことができることだ。オートバイのKD生産は四輪車と比較して、投資資金も工場で働く従業員の数も一ケタ少なくて済む。
ホンダの米国乗用車工場建設の前史は、米フォードから提携交渉が舞い込んだ昭和四十七年九月に遡る。当時購買関係部署にいた吉田成美は専務の川島喜八郎に呼ばれてこう命令された。
「日米の貿易収支はアンバランスになりつつある。いずれこれが日米間で大問題になるだろう。われわれが出来ることといえば、米国の部品を輸入することだ。三カ月の予定で米国に出張して、シビックに使える部品を探せ」
吉田は大学を卒業するといすゞ系の自動車部品メーカー、自動車機器(現ゼクセル)に入社したが、主体性のない系列部品メーカーの立場に限界を感じ、夢を求めて昭和三十七年にホンダに転じた。部品メーカーに在籍し、ホンダでも部品調達の仕事に携わってきただけに、米国の部品事情にも精通している。
部品の専門家である吉田は、川島の命令にびっくりした。米国の乗用車市場は大型車の全盛時代で、ビッグスリーはまだ小型車を手掛けていないので、調査する前から結論は分かり切っている。それ以前にシビックはまだ発売して二カ月足らずで、対米輸出の計画もはっきり知らされていない。
「うちの専務は一体何を考えているのだろう」
吉田はこう思ったが、サラリーマンの身では上司の命令に逆らうことはできない。予定通り九月から三カ月間、足を棒にして部品メーカーを調べて回ったが、結論は予想した通り、シビックに使える部品は一点もなかった。
十二月に報告書を上げたが、川島はそれに納得しなかった。
「いや必ず何かあるに違いない。年明けからもう一度、三カ月の予定で現地調査して来い」
川島が米国製部品調達に熱心だったのは、一企業として日米貿易収支のアンバランス解消に協力するといった綺麗ごとだけではなく、フォードとの交渉を念頭においてのことだった。フォードと仮に米国で合弁事業をやることになれば、部品の現地調達は欠かせない。そんな事情を一切知らない吉田は、再び米国に飛んだが、結果は前回と同じだった。だがこれで吉田は解放されなかった。
「シビックに使える部品がないことは分かった。しかし今年からシビックの対米輸出を開始すれば、補修用部品は現地で調達しなければならない。ロスに『ホンダ・インターナショナル・トレーディング』という会社を設立するので、そこに駐在して補修用部品の調達網を作れ」
こうして吉田は平成四年の定年まで、二十年あまりホンダの米国関係会社で過ごすことになる。この間グリーンカードを取得、定年後もロスに残り「ヨシダ&アソシエーツ」を設立して、日本企業と米国企業の橋渡し役をするコンサルタント事業を始めた。
ホンダが真剣になって米国生産を考えるキッカケとなったのは、米国で起きた輸入車のダンピング問題だった。
「欧州や日本の自動車メーカーは、ダンピングして米国に輸出している」
UAW(全米自動車労組)は七五年(昭和五十年)八月に、GM(ゼネラル・モーターズ)、フォード、クライスラーの子会社を含む全輸入車メーカーを米財務省に提訴したが、最初のころ日本車メーカーは「容疑の本命は欧州車、日本は単にその巻き添えを食っただけ」とタカを括っていた。
財務省は翌七六年五月、条件付きで調査の打ち切りを決めたが、シロと認定されたのはトヨタ、日産、ポルシェ、ロールス・ロイスの四社で、ホンダを含めた他のメーカーには「ダンピングの事実があるが、今回だけは不問に付す」という灰色の認定を下した。
財務省が途中で調査を打ち切ったのは、クロが確実視されていたVW(フォルクスワーゲン)が直前に対米工場進出を決めたことによる。VWが新工場を作れば新しい雇用機会が創出されるので、UAWも上げた拳を下ろしやすい。
日本車メーカーの中では、ホンダが一番ショックを受けた。すでに営業担当副社長に昇格していた川島喜八郎は、直前まで「現地の売れ行きは好調だが、値引きなどは一切していない」と大見得を切っていた。業界でも「トヨタ、日産がクロになることがあっても、ホンダにはシロの結論しかない」とまでいわれていた。にもかかわらずクロとなったのは、七六年モデルの値上げ幅を他社より抑えたのが響いたものとみられる。
「アメリカはおおらかな国だが、自動車産業は基幹産業中の基幹産業で、国の安全保障に関わっている。ビッグスリーが好調な時は問題は起きないが、不況になれば再びダンピングを名目にした輸入規制の動きが出てくる。今回の財務省の決定は、米国は将来にわたり輸入抑制の継続を希望するシグナルなのではないか」
大部屋の役員室で行なった“ワイガヤ”の最大公約数の意見だった。米政府の要請に応じて輸出を抑制すれば、今度は発展が阻害される。国内も売れてはいるが、どうしてもトヨタ、日産の牙城を切り崩すには時間がかかる。ホンダが独立した一人前の自動車メーカーとして生きていくには、「シビック」が爆発的に売れている米国市場で基盤を固める以外にない。
米国市場でのホンダ車の人気は年を追うごとに上昇、供給さえ間に合えば幾何級数的に伸ばせる情勢にあった。現状のトレンドが続けばトヨタ、日産に世界最大の米国市場で五年を待たずして追い付き、追い越すことも決して夢ではない。その矢先、対米輸出に歯止めをかけられれば、ホンダの将来性はない。唯一、逃れる手段があるとすれば現地生産である。貿易摩擦が深刻化する前に先手を打って米国に工場を建設するわけだ。
円の為替レートは、一ドル=三〇〇円強。日本の賃金は米国に比べ、比較にならないほど安い。日本の労働者は勤勉で、質も高く、品質の良い製品を作れることで定評があった。労使関係も極めて良好だった。自動車に限らず日本の製造業の経営者は、日本を離れ米国で現地生産しようとは、まだ夢にも思っていなかった。
ホンダの四輪車工場は、狭山と鈴鹿の二つしかない。それも早晩限界がくる。ホンダとともに業界第三位の座を争っているマツダと三菱は、石油危機の前にそれぞれ山口県防府市、愛知県岡崎市に工場用地を手当てしていた。マツダはRE(ロータリー・エンジン)で壊滅的な打撃を受け、対米輸出は事実上中断している。三菱は資本提携先のクライスラーとの契約に縛られ、思うように対米輸出できない。ただし両社とも懸案の問題が解決すれば、新工場建設に「ゴー」のサインを出すのは目に見えている。そうなるとホンダだけが取り残されてしまう。
生産力を高めるには、ライバル会社と同じように国内に新工場を建設するのが手っ取り早い。同時に危険も伴う。国内の生産体制をいくら増強しても、米政府がビッグスリーを守るため日本車を締め出す手段を取れば新工場は無用の長物になってしまう恐れは十分ある。
オートバイに続いて、四輪車でも米国市場がホンダの生命線になりつつある。その矢先に輸入車のダンピング問題が発生した。ホンダの対応は、役員室のだれも口には出さなかったが、早い段階から決まっていた。
「需要のあるところで生産する」という基本に立ち返ることしかない。需要のあるところで生産しておれば、何が起ころうともその市場から締め出される心配はない。
資金は豊富にある。販売会社のアメホンは「シビック」の好調で、面白いほど儲かった。本来この儲けは本社に配当という形で還元すべきだが、ホンダはアメホンに限らず海外子会社自体の体力を強化するため、本社への配当を止める方針を打ち出している。
「いま儲かっているのはいわばアブク銭だ。早く使わない限り、どこかわけの分からないところへ消えてしまう。ただし米国市場で儲けた金は米国で使うべきだろう」
多少荒っぽい理論だが、アメホン社長の吉沢幸一郎は、こう信じて疑わなかった。儲けた金を儲けた市場で使うというのは、宗一郎の現場主義にも通じる。大半の資金をアメホンで面倒みるというのであれば、まさに“鬼に金棒”。
吉沢は久米と同期入社で、最初に経理畑を歩み、藤沢から経営センスを見込まれ営業に転じた。国内、輸出の営業の総帥は川島だが、社内ではすでに将来、吉沢がその跡目を継ぐという見方が定着していた。
問題は生産規模にある。通常、自動車工場の生産はワンモジュール、年産二十万台─二十五万台が適正規模とされていた。ところがこの理論はホンダにはあてはまらない。
狭山にしても鈴鹿にしても、もともとはオートバイの工場からスタートして、改良に改良を重ね、いつのまにか四輪車も作れる工場に改造してきた。それもN360以外、売れる車を作った経験がないので、変幻自在に工場のレイアウトも変えてきた。
ホンダが米国工場建設に際して想定した生産規模は、ハーフラインと呼ばれる年産十万台だった。確かに生産規模が小さいので初期投資は少なくて済む。だからといってリスクがなくなるわけではない。
当然のことながら、ホンダといえども米国でモノを作った経験はない。果たしてアメリカ人を使って日本と同じような高品質の車を作ることができるか。だれもが米国現地生産の必要性を感じながらも、口に出さなかったのは、こうした不安があったためだった。
当時のビッグスリーの工場は、荒廃しきっていた。一時間当たりの賃金は二十ドルを超し、米国産業界の中では断トツに高かった。にもかかわらず生産性は低く、ストが頻発していた。エンジンルームにコーラのビンが入っていたり、就業中にマリファナを吸っていたのが発覚して問題になった工場もある。
ホンダは五十一年に米国のコンサルタント会社「ファンタス」を使って、現地生産に向けFS(フィジビリティ・スタディ=企業化事前調査)を始めた。ファンタスに出した条件は次のようなものだった。
「工場用地は空港から一時間以内、当初は一〇〇万平方メートルの用地を取得してオートバイ工場を建設するが、将来四輪車も生産するので、拡張余地があること。生産車種はシビックで、年産規模は十万台。四輪車は西海岸向けは引き続き日本から輸出するので、現地生産は東海岸向けとなる。したがって工場用地は中南西部を中心に当たってほしい」
コンサルタント会社に依頼する一方で、アメホンの副社長に昇格した吉田成美をキャップとする秘密プロジェクトチームも編成され、独自の調査も開始した。
ホンダが漠然と乗用車の米国現地生産に向けて動き出したとほぼ同じころ、日産も水面下で米国現地生産に向けて動き出していた。自動車労連会長の塩路一郎がUAWの要請を受け、盛んに会社側に進出を働き掛けていた。
社長の岩越忠恕は対米進出を前向きにとらえ、非公式に調査団を派遣するとともに、自らも五十二年の春に工場用地視察のため訪米した。岩越は完成車の実績を維持しながら、現地生産はプラスアルファーと考えていた。
岩越はこれを最後に社長の椅子を石原俊に渡し、副会長に退いた。ところが会長の川又克二も新社長の石原も、米国の賃金が高いことに加え、労働者の質が悪いことを理由に「ノー」の判断を下してしまった。日産の不安はホンダも同じである。
「日本の自動車メーカーが将来にわたりダンピング問題を回避するため、米国に自動車工場を建設することを検討し始めた」
米財務省からダンピング問題の結論が出る直前の一九七六年(五十一年)四月、東京発の短い通信社電のニュースが「コロンバス・シティズン・ジャーナル」に載った。むろん具体的な社名は載っていない。これに目をとめたのがオハイオ州開発局長のジェームズ・デュアークだった。即座にその新聞記事を切り抜いて知事のジェームズ・ローズに上げた。
知事の反応は早かった。オハイオ州は中西部各州の中でも自動車工場の誘致にはとりわけ熱心で、西独VWと仮契約寸前までこぎつけたが、土壇場でペンシルベニア州にさらわれた苦い経験を持っている。オハイオ州にとって、自動車工場の誘致は悲願となっていただけに、ローズは直ちに行動を開始した。
「分かった。明日にでも日本に行こう」
二人は国務省に日本メーカーとのアポイントを頼み、返事もないままに日本に飛び立った。国務省がセットした会社はトヨタ、日産、ホンダの三社だった。ローズとデュアークは三社の経営幹部に会い、オハイオ州の労働人口、立地条件、税金、輸送システムなどを懇切丁寧に説明して帰国した。ただし二人は遂に、三社のうちどこが本当に米国進出を考えているかの感触はほとんどつかめなかった。三社からはその後、何の便りもない。
二人は半ば諦めかけていたが、年が明けた七七年(五十二年)に入って、アメホン副社長の吉田が突然、ローズに面会を求めてきた。
ホンダに依頼されたファンタスは、早い段階で進出先としてオハイオとテネシーの二州を挙げてきた。これにホンダが独自に調査したミシガン、イリノイ、インディアナ、ミズーリ、カンサスの五州を加えFSを進めていた。その中でオハイオ州が最後まで残った。
最初はヘリコプターや軽飛行機を使い空の上から州内をくまなく回り、適地があれば今度はレンタカーを借りて現地に足を運んだ。だが希望にかなう用地がなかなか見付からない。オハイオ州に絞ったものの、完全に手詰まり状態にあった。そこで吉田は外部に漏れるのを知りつつも、思いあまって知事のローズに進出の意向を非公式に伝え協力を求めた。
残る作業は用地の選定だけとなった。風土、住民の気質などの面を考慮しつつ、最終的に選んだのが、州都コロンバス郊外にある人口八千四百人の小さな町、メアリズビルから一〇キロほど西に行ったTRC(輸送研究センター)に隣接した農業用地だった。この辺一帯は州の所有地で、いくらでも拡張ができる。デトロイトと南部を結ぶ幹線道路のルート75号線も近いうえ、鉄道も使える。
「これ以上の土地はいくら探しても見付からないだろう。思い切ってここに決めよう」
鈴木正己、中川和夫の両専務に吉田を加えた三人がコロンバスのホテルの一室で決断したのは五十二年の六月だった。夏には社長の河島が直接用地を見たうえで、役員会に諮り正式に決まった。
オハイオ州の悲願は達成された。決断した後のホンダの動きは早かった。オハイオ州も道路と公共施設の改良費、幹線からの鉄道の引き込み、上下水道の整備など総額五百万ドルの優遇措置を提示、十月十一日には正式調印にこぎつけた。
ホンダの計画はオハイオ州から八七万平方メートルの用地を取得、そこへ三千百万ドルの資金を投じて、二万四三〇〇平方メートルの工場を建設、従業員五百人を採用して、排気量一〇〇〇ccの大型オートバイを年産六万台生産するというものだった。操業開始は七九年(五十四年)半ば。工場はアメホンが九五%、ホンダが五%出資して設立する資本金二千万ドルのHAM(ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング)が運営することになった。
協定には将来の四輪車生産を想定して、オプションとして約一〇〇万平方メートルの用地を購入することを盛り込んだ。調印式はコロンバス市内のホテルで行なわれ、ホンダからは副社長の川島喜八郎が出席した。そして川島は、多少、リップサービスを含めた将来構想を知事のローズに伝えた。
「需要動向や為替、輸入規制などの動きにもよるが、早ければ二年、遅くとも四年以内に乗用車工場の建設を決定したい」
オートバイを現地生産しても、採算面でのメリットは薄い。にもかかわらずホンダが工場建設に踏み切ったのは、オートバイ工場を、乗用車生産に向けた実験工場と位置付けていたからにほかならない。
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排ガス規制が一段落した後、米政府は今度は自動車メーカーに燃費の改善を求め、規制値に達しなければ課徴金をとるという燃費規制をスタートさせた。具体的には八五年までに各社の平均燃費を一ガロン当たり二七・五マイル(一リットル当たり一一・六二キロメートル)と、日本車並みに引き上げることを義務付けたのだ。大型車のウエートが高いビッグスリーが規制値をクリアするには、自ずと小型車へシフトしなければならない。自動車のダウンサイジングである。
ビッグスリーは小型車を開発するため、人間を月に送り込んだアポロ計画の三・五倍に当たる八百億ドル、GMだけで五百億ドル投入することを決めた。フォード会長のコールドウェルはビッグスリーの小型車への転換計画を「平時における最も大規模かつ奥行きの深い産業革命」と呼んだ。
こうなると日米の小型車戦争の勃発は避けられない。自動車産業は裾野が広く、米国にとっては安全保障に関わる産業といっても過言でない。カラーテレビを頂点とする家電産業は、日本メーカーとの競争に敗れ、米国から姿を消した。ニューヨークのウォールストリートには自動車や鉄鋼のアナリストは大勢いても、家電アナリストがいなくなった。
日米小型車戦争でビッグスリーの劣勢がはっきりすれば、米政府が日本車の輸入規制に動くのは分かり切っている。影響を一番受けるのは、輸出比率が高いメーカーだ。ホンダの四輪車輸出比率は六〇%を大きく上回っており、軋轢を回避するには大手のトヨタ、日産に先駆けて米国で現地生産するしかない。オートバイ工場はその地ならしの役目を持っていた。工場は五十三年半ばから建設が始まり、予定通り一年後に完成、五十四年九月から稼働した。
吉田は工場用地を探せば、自分の仕事が終わり、本社に戻れると思っていたが、引き続き、乗用車生産に向けてのFSに携わることになった。
ホンダの予想と違ったのは、五十四年春にイラン革命に端を発して第二次石油危機が発生し、米自動車産業が名実ともに危急存亡に立たされたことである。米国ではガソリンを求めスタンドに行列ができ、燃費の良い日本車は乗用車、トラックを問わずプレミアム付きで売れ出した。
爆発的ともいえる日本車ブームが起きた。「メイド・イン・ジャパン」というだけで、日本車は飛ぶように売れた。反対にビッグスリーの車にはだれも見向きもしなくなった。輸出も急増し、日米自動車摩擦が表面化した。こうなると政治問題化するのは避けられない。摩擦を未然に防ぐには輸出の自粛しかない。
ホンダは窮地に立たされた。米国では通常、適正在庫は流通段階も含め四カ月とされているが、ホンダの在庫はこの年の秋には二カ月を切った。ディーラーの中には「ホンダは供給責任を果たしていない」ことを理由に提訴する不穏な動きも出てきた。
「ホンダが供給責任を果たさないため、われわれはみすみす顧客を失い、得べかりし利益を逃がしてしまった」
アメホンとディーラーの契約では「ホンダは特別の支障がない限り、ディーラーの希望する台数を供給する」となっている。ホンダは日米摩擦に配慮して、船積みを抑えているわけではない。フル操業で生産しても需要に追い付かないのである。といっても契約社会のアメリカでは、こうした論法は通じない。
ホンダはここで乗用車の現地生産の肚を固めた。FSは引き続き吉田が中心になったが、夏以降は本社の資材担当者の応援を得て、部品の現地調達がどの程度可能かを徹底的に調べ上げたが、悲惨な調査結果が出た。目先の採算が合わないどころか、毎年赤字が雪ダルマ式に増え続ける。
「ホンダが将来乗用車を作るというので入社したが、多分いまのままではお題目に終わるだろう」
HAMに第一号の現地社員として採用され、四輪車生産に夢をかけていたアレン・キンザーですら乗用車工場の建設を半ば諦めかけていた。
そうしたことを百も承知の上で、十二月のクリスマス・イブの日に社長の河島以下専務会のメンバーが都内のホテルに“合宿”して、最後のツメの討議を行なった。
本格的な乗用車工場建設に向けてのFSに着手して以来、河島は眠れない日を送っていた。乗用車工場建設の必要性は分かり過ぎるほど分かっているが、いくらFSをやっても本当のところどこにリスクがあるのか、もう一つはっきりしない。こうなると最後は社長の判断しかない。
「イエス」か「ノー」か。答えは二つに一つしかないが、河島はそうは考えなかった。河島は四進法の思考を取り入れていた。
「世の中はイエスかノーかで割り切れるものではない。インド哲学には四つの考えがある。
一番目がイエス。
二番目がノーにして、同時にイエス。
三番目がイエスでもなく、ノーでもない。
四番目がノー。
極めて困難な決断を迫られた場合、四進法で考えると間違いない判断ができる」
この四進法は藤沢が経営の師と仰いだ三菱銀行の元副頭取、川原福三から教わったもので、河島は社長に就任して以来、重要な決断を下す時に常に心掛けてきたことである。一見、優柔不断に見えるが、河島は四進法で考えれば、間違いない結論が出せると信じていた。
乗用車工場の建設に際して、河島が専務会にかける前に密かに選んだのが二番目の「ノーにして、同時にイエス」である。むろんそんなことはおくびにも出さずに会議に臨んだ。
予想通り白熱した議論となった。
「確かに現地からの報告書を読めば、情勢は厳しい。だからといって手をこまぬいておれば、永久に乗用車工場は作れなくなる」
「エンジン、トランスミッションなど主要部品まで最初から現地で調達しようとするから問題が出るのであって、主要部品は日本から送れば、国内で作るのと遜色のない車を作れるのではないか」
「最も懸念されるのが労働者の質だが、オートバイ工場を見る限り、日本に比べて極端に落ちるということはない」
「FSでは赤字となっているが、生産車種を一つに絞れば、採算は取れるのではないか」
「利益を上げるなら生産車種はシビックより、付加価値の高いアコードがよい」
「現地生産分はすべて完成車輸出に上乗せしなければ意味がない。となると生産規模は月産一万台だろう。もし売れそうならすぐ設備を増強すればよい。そのために建屋と建屋の間は広げておいた方がよい」
「それなら初期投資は二億ドルから二億五千万ドルで済む」
「その程度の資金なら、全額アメホンが引き受けられる」
「将来はエンジンも生産しなければならないが、組み立て工場に隣接して作るのが一番効率が良いが、果たしてそれが可能かどうか。この問題は組み立て工場が出来た後に考えよう」
「問題はUAWに加盟するかどうかだが、最終的には従業員に判断してもらうしかない」
「まだ何の準備も進んでいないが、一年後の着工に向けこれから早急に体制作りを始めよう。工場の建設期間は二年もあれば十分だ。となると工場の稼働は八二年(五十七年)末になる」
専務会のメンバーがそれぞれの立場から意見を出し合った。そしてだれともなしに冗談半分で言った。
「万が一、失敗してもこの程度の投資ならホンダの屋台骨は揺るがない。ダメと分かれば機械はスクラップして売っ払えばよい」
最後に社長の河島が「ノーにして、同時にイエス」の断を下した。
「乗用車工場建設に伴うリスクはある。しかしホンダは過去に“|伸《の》るか|反《そ》るか”の大勝負を何回か経験してきた。米国進出といっても費用はたかだか二億ドル。本社ビルを作るより安い。本社ビルは利益を生まないが、工場は成功すれば利益を生む」
日米自動車摩擦は日に日に緊張を増してきたが、トヨタ、日産は依然として米国生産には二の足を踏んでいた。だがホンダにとっての米国での乗用車生産は、FS段階で赤字の予想が出ていたものの、日米自動車摩擦が逆に追い風になったこともあり、「確実に勝てる戦争」だった。
ホンダは昭和五十四年のクリスマス・イブの日に、米乗用車工場の建設に「ゴー」のサインを出した。それを待ち構えていたように、大晦日の夜、東京・杉並にある副社長の杉浦英男の自宅に顔見知りの新聞記者が訪れた。
「杉浦さん。明日の元旦付でホンダが米国で乗用車工場を建設する記事を載せます。むろん一面トップです。ウラは取ってあります。確認というより報告です」
杉浦は驚いた。あと数時間もすれば年が変わる。すでに激動の八〇年代に向けてのカウントダウンが始まっている。
〈一週間前の経営会議メンバーの合宿では、前向きの結論を出したが、なぜこんなに早い段階で外部に漏れてしまったのだろうか。もっとも今はそんなことを詮索しても無意味だが……〉
「米国で乗用車を現地生産する議論は、前々から社内で進めています。しかしまだ正式な機関決定はしておりません。今の段階で書かれるとすれば、この程度のニュース価値しかないのではないでしょうか」
杉浦は動揺した様子をおくびにも出さず、手元にある新聞を広げ、ベタ記事を指した。ホンダはこの時点で、対米進出に関して正式の決定機関である常務会や役員会に諮っていない。ましてや現地の吉田を中心とするFSチームにも専務会の結果を知らせていない。
日米自動車摩擦はすでに政治問題化しているので、オハイオ州政府を通じて事前に米政府や議会へシグナルを送ることも必要だ。いずれも正月明けに動き出すことになっている。その矢先に新聞にスッパ抜かれれば、折角の舞台装置が台無しになってしまうだけでなく、混乱に拍車を掛ける。
「ホンダ、米国で乗用車生産/月産規模一万五千台/八二年稼働目指す。二千人以上現地で採用/摩擦回避へ先手」
ホンダの米乗用車生産ニュースが日本経済新聞の一面トップを飾ったのは、年明けの一月十一日付の朝刊だった。このニュースは直ちに世界に打電され、「ニューヨーク・タイムズ」は日経の記事を引用しながら、一面脇トップで大きく報じた。
「ホンダに適当な後継者がいなかったら、世界に何億人、何十億人の人間が住んでいるか知らないが、その中から一番ふさわしい人を選べばよい」
宗一郎はホンダが同族会社でないことを強調するため、社長人事を取材にきた新聞記者にこう語って煙に巻いた。
ホンダは後継者選びだけでなく、あらゆる面で理念先行の会社といってもよい。対米工場進出は「需要のあるところで生産する」という理念に基づいて決めた。河島が選んだ四進法の二番目の「ノーにして、同時にイエス」のうち、ノーは採算、イエスは理念を表している。
「筋を通して考えてみると、あの当時は米国に工場を建設するしか選択の道がなかったのです。日本で生産した方が安くて、しかも品質のいい車が作れるのは決まっております。だからといって、日米自動車摩擦が尖鋭化しているとき国内に工場を新設すれば、袋叩きに合う。
米国で現地生産する難しさはありますが、確実な需要がある。そこに工場を建設すれば雇用が生まれ、地域が潤います。米国で商売させてもらっている以上、たとえ利が薄くとも米国の役に立たなければ意味がない。よそさんは日本からゼネコンを連れて行きましたが、うちは現地のゼネコンを使い、現地の人に工場を作ってもらった。当たり前のことを当たり前にやっただけで、決してみなさんに褒められることをしたわけではない」
副社長として対米進出の采配を振るった杉浦英男は、内外の反響の大きさに驚いた。宗一郎はこうした子供たちの英断に惜しみなく拍手を送った。
「河島が米国進出を決断したのは、向こうが来てくれといったからではなく、こっちが出たほうが得だと判断したからだろう。企業経営に国家は関係がない。おれは日本政府も米国政府も殆ど信用していない。政府や役所に頼っていたら経営者じゃない。その点、河島は良くやった」
同時に持ち前の負けん気も頭をもたげてきた。
〈GMが昔から巨大だったわけではない。ホンダもいつの日か、GMを倒せるかも知れない。オハイオの乗用車工場はその第一歩だ。おれの時代には金がなかったので、狭い土地にコセコセした工場しか作れなかった。子供たちには辛い思いをさせた。世の中で絶対に作り出せないものがあるとすれば土地だ。アメリカでは一坪の土地を、タバコ一箱にも満たない値段で買える。これはタダ同然で、夢のようだ。子供たちはその広大な土地に、思い切った工場を作って大暴れすればよい〉
こうしたホンダと逆の決断を下したのが、日産であった。ホンダが対米進出を決めた直後の二月早々、UAW会長のダグラス・フレーザーが労働者と塩路一郎の率いる自動車総連の招待で来日、ホンダを除く自動車各社に米国で乗用車工場の建設を促す一方、政府関係者にも精力的に会って、日米自動車摩擦の解消に向けて精力的に話し合った。
日産の結論は小型トラック工場の建設だった。トヨタに至っては百万ドルを投じてスタンフォード研究所、アーサー・D・リトル、野村総合研究所の日米三社に対米進出の可能性の調査を依頼したに過ぎなかった。
日産社長の石原俊は、小型トラックを選んだ理由として、モデルチェンジの期間が長いうえ、しかも部品点数が少ないので作りやすいことを挙げた。確かにその通りだが、石原の狙いは日米の貿易摩擦解消より、小型トラックの関税問題に対処することにあった。
西独は七〇年代の初期に、米国からの鳥肉の輸入急増を抑えるため、輸入関税を大幅に引き上げた。米国はその報復措置として、今度は小型トラックの輸入関税を二五%に引き上げた。いわゆる“チキン戦争”で、結果的にVWの小型トラックは米国市場から締め出されてしまった。
日本メーカーは法の網の目を潜り抜ける形で、輸出に際してはトラックから荷台を外し、現地で荷台だけ取り付けることを思いついた。キャブシャシー(荷台のない車体)と呼ばれる未完成品で、これだと部品扱いになり輸入関税は四%で済む。
RV(レクリエーショナル・ビークル)のはしりともいえる日本製の小型トラックは、レジャー用だけでなく通勤にも使える便利性が受け、市場規模が一気に膨らんだ。五十年には二十五万台だった対米輸出は、五年後に五十八万台に急増した。乗用車ほどではないにしても、日本メーカーにとって、ドル箱ともいえる商品に成長した。
ところが米財務省は五十五年の五月に突然、キャブシャシーの関税分類を従来の部品扱いから未完成トラックに変更してしまった。この関税は完成車と同じである。日本メーカーは米関税裁判所に提訴する一方、ガット(関税貿易一般協定)に提訴する構えを見せたが、カーター大統領は引き下げの権限を発揮しなかったことから、予告期間の九十日の期限が切れた八月二十一日から自動的に引き上げられてしまった。
輸入関税が四%から一気に二五%に引き上げられたことで、日本製トラックの価格競争力は衰え、虎視眈々と新規市場参入を狙っていたビッグスリーの製品がシェアを伸ばした。
こうしたいきさつからみて、日産の判断はいちがいに間違いとはいえない。ただしはっきりしているのは、この時期日産が乗用車での進出を決めておれば、米国の乗用車市場でホンダの後塵を拝することはなかったことだ。
日産の労使は対米進出問題を機に対立が尖鋭化し、五十六年一月の英国進出発表でピークに達した。米国トラック工場のラインを改造して乗用車の生産に踏み切ったのは、それから四年後のことである。この時の遅れは今なお取り返せない。明らかに日産の戦略ミスといえる。この間、ホンダは米国市場で一気に日産を抜き去った。
3
「ホンダ=若さ」のイメージは、二人の創業者がそれぞれ六十六歳と六十二歳で引退したことと、新社長が四十五歳というところに由来している。昭和五十年代に入っても常勤役員の平均年齢は五十を少し越しただけ。だがホンダの本当の若さは、役員の年齢だけではない。若さのイメージが定着したのは、感受性や好奇心が強い役員が多いところに起因している。
自動車はファッション製品であり、感性がすべてに優先する世界である。その感性は車のデザイナーだけが持っておればよいというわけではない。一番求められるのは、経営の意思決定者であるトップだ。マスコミでもそのことが盛んに取り上げられ、それに煽られてある自動車メーカーは、柔らかい感性を身に付けるため、役員が集まりバスに乗ってのタウンウォッチングを企画したことがある。
「おい、そんな企画をする会社はどっかおかしいんじゃないか。改めてタウンウォッチングなんかしてどうなるのかね。おれたちなんか電車で通勤しているから毎日、タウンウォッチングしているようなものだ」
大部屋にいるホンダの役員はこういって笑いころげた。ホンダには今も昔も役員を送り迎えする車がない。社長の河島はマイカーで通勤、郊外に住むほとんどの役員は電車通勤である。一時、秘書室が常務以上の役付き役員を車で送迎する案を提案したが、あっさり潰れた。
「冗談じゃない。朝、車に迎えに来られれば、電車通勤より一時間は早く起きなければならない。他人に朝早く迎えに来られるのは迷惑千万。会社なんか自分の都合に合わせて来れば良い」
秘書室が朝飯を兼ねた役員会を企画しても「あんなのはストレスのもとだ」と一蹴される。総じてホンダの役員は上席役員になるほど朝の出社が遅い。十時前後が平均出社時間だ。自分の都合に合わせて会社に来るのだから、二代目会長の岡村昇のような“つわもの”も出てくる。
「朝、電車に乗ったら梅雨の季節にもかかわらずその日は素晴らしい天気だった。手帳を広げてみると、会議の予定がまったくない。それで会社に行くのが馬鹿馬鹿しくなり、途中下車して、公園で昼寝をしてそのまま家に帰った」
会社をサボるのは社長の河島の常套手段だった。会議のない日は、一日中練馬の自宅にいるときもあった。初夏は自宅の庭で裸になり、日光浴を楽しんだ。当然のことながら日焼けする。そんな日に限って新聞記者が夜回りにくる。するとこういってごまかしたものだ。
「きょうは仕事でゴルフにいった。それで焼けたのかな。いまの季節、紫外線が強いからね」
〈経営トップはいったん問題が起きれば土曜、日曜を返上して働かなければならない。その分、休める時に休む。平日だからといって会議のない日に会社に行けば、秘書室が気を使ってどうでもよい会議をセットする。そんなことならいっそ家にいて、考えごとをした方がよい〉
役員のゴルフコンペをやっても、その後で酒を飲みたい人は、最初からバッグを担いで電車で来るし、自制心のある人はマイカーを運転してくる。毎日一つの部屋にいるので、仕事の話は大体そこで済む。役員同士が連れだって飲みに行くこともない。アフター5は自分の見聞を広めるため、ホンダ以外の人間と付き合ったほうが良いというわけだ。
こうした自由闊達な社風は、宗一郎のお祭り好きと、藤沢の権限を下に委譲した経営システムからきている。上席役員が多少出社時間が遅かろうと休もうと、それでも会社が回るシステムが確立している。隠れた秩序を意味する“カオス”が役員室を支配していた。
ホンダの実質的な最高意思決定機関は代表権を持った専務以上の七人の役員で構成する専務会だが、それを支援するスタッフ機構として、常務以下の役員で構成するヒト、モノ、カネの三つの専門会がある。社内外で発生する情報をすべて「ヒト・モノ・カネ」の三つの観点から仕分けして一定の基準に従って検討するシステムも確立し始めた。
専務以上の役員は原則的に無任所で、常務以下の役員も原則的に部や事業所の利益を代表する部門長にならず、三つの専門会のいずれかに属する。部門の権限を部長以下の管理者に大幅に委譲して、取締役は広い視野と純度の高い情報を処理して意思決定する義務を負わせた。藤沢の発案による役員室制度はフル回転し始めた。
ホンダの役員には、年齢とは違う若さが要求される。といって年齢も無視できない。物理的な若さを維持するにはどうしたらよいか。ホンダの経営幹部は途中入社が多いので「先入れ先出し法」を採用するというわけにはいかない。公平感を出すにはやはり年齢しかない。社内外に衝撃を与えたのが「HONDA」のブランドを世界に売り込んだ営業の総帥、川島喜八郎の若すぎる退任であった。
川島が昭和五十四年五月の決算役員会の席で自らの退任を申し出た。五十三年度の決算は、米国市場での好調を反映した素晴らしいもので、売り上げ、利益とも過去最高を記録、翌年度の決算では年間売り上げが一兆円を超えることが確実視されていた。
製造業で年間売り上げ一兆円を超す企業は、すでに十一社ほどあったが、戦後生まれの企業としてはホンダが先陣を切った。一兆円企業への到達競争は、ホンダはソニーに一歩先んじた。
川島はこれを花道に退任を決意した。宗一郎、藤沢時代の四専務の中では、実は白井孝夫が昭和五十年に五十五歳で辞めている。白井は地味な性格で、担当も総務とあってマスコミの前にはあまり出なかったせいか、彼の退任はさほど話題にならなかった。
ホンダには社長の河島と副社長の川島と二人の「カワシマ」がおり、社内では二人を区別するため、河島がホンダの中で最初に「欧州」に行ったことから「オオカワ」、川島はアメリカ駐在が長かったことから「アメカワ」と呼ばれていた。
そのアメカワはまだ還暦前の五十九歳。「ホンダの役員は、燃えて燃えて燃え尽きろ」というのが、宗一郎の考えであり、それがいつのまにか燃え尽きる前に余力を残し、惜しまれて辞めるという風潮に変わってしまった。
〈この風潮を美風として徹底させなければならない。それには常勤役員の中で、一番年配者の自分がまず退くことだ。いまそれを実践しなければ尻切れトンボになってしまう〉
川島が一人で考えた末に出した結論であった。むろん現役を退く寂しさは隠せない。自分で辞めるという肚を括っても、心のどこかに「まだまだやれる」という気持ちもある。あれこれ迷った揚げ句、最初の結論に戻った。
「まだまだやれる」という気持ちを何とか抑え切ることが出来たのは、川島にはホンダを辞めた後、密かに第二の故郷ともいうべきロサンゼルスで新しい事業を興してみたいという夢を持っていたからだ。
川島は昭和三十四年、藤沢の命令で単身ロサンゼルスに渡り「アメリカ・ホンダ」を設立、その後十年余り米国で生活してきた。アメホンが軌道に乗ると家族をロスに呼び寄せ、永住する覚悟でロス郊外に自宅を購入した。
家族が本人以上に米国を気にいった。ただしホンダに在籍している間は、役員といえどもサラリーマンに変わりはなく、辞令一本で日本に帰らなければならない。
「お父さん、ホンダなんか早く辞めてロスで何か事業を始めたら……」
家族は川島をけしかけた。だがホンダという組織にいる限り、自分勝手な行動は許されない。しかしロスで新しい事業をやってみたいという気持ちは、米国駐在が長くなるにつれ強まった。そしてそのつど、自分にこう言い聞かせた。
〈新しい事業をやるのは、ホンダをリタイアした後からでも決して遅くはない〉
川島が考えていた新しい事業というのは、自動車ディーラーだった。むろん扱う車はホンダ車で、住み慣れたロスで模範的なディーラーを経営して「米国におけるホンダ車ディーラーの手本になりたい」という夢を持っていた。夢を実現させることが、世話になったホンダに対する恩返しになると思った。
ディーラーになれば、自分より若いかつての部下の下で働くことになるが、川島はそうしたことを苦にしなかった。ホンダには役員を退いた後は、ライバル会社には移籍しないという申し合わせ事項があるが、米国のディーラー、それも自分が必死になって築き上げたホンダのディーラー網の一員として働くなら何ら問題はないと楽観していた。
将来の事業に備え、帰国した後もロスの自宅は手放さないでいた。ホンダの場合、副社長は退任した後の一定期間相談役に就任するが、川島はその間をディーラー開設の準備期間に充てる積もりでいた。
川島は自分の将来計画を、だれかれとなく打ち明けた。本気でやるとすれば恩人ともいうべき藤沢の了解を取らなければならない。事前に藤沢の感触を探るため、周りに自分の計画が藤沢の耳に入るよういいふらした。
「ホンダは昔と違い、今やれっきとした大企業だ。そこの副社長といえば、社長に次ぐ経営の最高トップだ。自分で事業を興すのは構わないが、万が一失敗したらどうなるか。本人が傷つくだけでなく、ホンダのカンバンに傷がつく。
第一考えてもみろ。アメホンの基盤を築いた元社長がディーラーのトップに収まれば、アメホンとしては面子にかけて失敗させないだろう。相手はかつての上司で、しかもアメカワといえば、ロスでは押しも押されぬ名士だ。玉(製品)がなければ、無理して融通するだろう。そうすれば他のディーラーは反発する。アメカワの希望は個人的には適えてやりたいが、今回のようなケースはダメだ」
川島は人づてに藤沢のこうした考えを聞いて、計画を断念した。自分をここまで引き立ててくれた創業者の意向には逆らえない。
こうしたいきさつを知ってか知らずか、住友銀行頭取の磯田一郎は、水面下で川島獲得に動いていた。磯田は経営不振に陥ったマツダを再建するため、松田耕平の社長時代に白紙還元した米フォードとの資本提携交渉を密かに再開して、この年の五月に提携成立を発表した。
マツダの社長は生え抜きの山崎芳樹だが、実権は住銀からの進駐軍ともいうべき副社長の村井勉と常務の峯岡弘が握っていた。マツダが第一次石油危機で受けた傷はまだ、完全に癒えていない。長期的に見た場合、独り立ちが難しいと判断して磯田はフォードとの資本提携に踏み切った。
ただ今後フォードと対等に付き合っていくには、なにより経営陣を強化しなければならない。いつまでも経営の実権を“住銀進駐軍”が握っているわけにも行かない。ましてや住銀が社長を送り込むのは、広島という土地柄を考えれば不可能に近い。となれば自動車メーカーを知っている経営者をスカウトして社長に据えるのが理想的だ。
マツダの最大の課題は、米国での販売網の再構築と国内販売の強化にあった。川島はその二つに通じている。磯田が川島に惚れ込んだのはこうした川島の経歴のほかに、フォードに対する深慮遠謀もあった。ホンダはかつてフォードと提携交渉したことがあり、ホンダ側の責任者は川島だった。フォードの社長はアイアコッカからコールドウェルに代わっていたが、会長のヘンリー・フォード二世を筆頭にフォードの経営首脳は、川島の経営手腕を高く評価していた。
年齢も五十九歳で、一般の会社なら経営者としてこれから円熟味を増す年代である。川島はすべての面で、磯田の理想とするマツダの経営者像に適っていた。
だが結局、このヘッドハンティングは、最終的に日の目をみなかった。磯田が密かにホンダのことを調べた結果、強引な手段でスカウトすれば、マツダとホンダが全面戦争に入るだけでなく、住友銀行とホンダのメインバンクである三菱銀行の関係までおかしくなりかねないことを懸念したからだ。決定的なのが藤沢が依然として、ホンダ社内で隠然たる影響力を持っていることが分かったからだった。
〈川島をスカウトするには、創業者の一人である藤沢の了解を取らなければならない。藤沢には会ったことはないが、三菱銀行の知人に聞く限り一筋縄ではいかない男らしい。川島が藤沢の一の子分である以上、ホンダに仁義を切っても無理だろう。表沙汰になって恥をかく前に諦めたほうが良さそうだ〉
川島はロスでのディーラー経営を断念し、同時に磯田も川島獲得を断念した。相談役といっても、ホンダの場合、相談と役の間に「されない」という文字が入る文字通りの閑職である。本社は四十九年に東京駅前の八重洲ビルが手狭になったことから原宿のヤシカビルに移転、八重洲ビルは関連会社や本田財団を始めとする関連団体が入り、顧問室もその中に作った。現役を退いた後、OB役員は、よほどの用事がない限り原宿の本社に顔を出すことはない。経営の現状については、月一回八重洲を訪れる現役役員から、昼食を共にしながら報告を受けるだけだ。
役員年金は充実しており、働かなくとも老後の生活に困ることはない。川島は余生を家族とともに住み慣れたロスで過ごすことも考えたが、還暦前に世捨て人の生活に入るには、余りにも寂しい。
だが世間は川島を遊ばせてはくれなかった。副社長を退任してから五年後の昭和五十九年、通産省が音頭を取って設立したクレジットの信用調査会社「信用情報センター」の社長就任の要請が舞い込んできた。川島に目をつけたのが、通産省出身で日本自動車工業会専務理事の中村俊夫だった。
「信用情報なんとかという会社は、世の中の役に立つのだな。それなら引き受けなさい」
藤沢は川島から相談を受けた時、こう返事した。川島はこの年、カリフォルニア大学から優秀ビジネス賞をもらった。これでロスで新事業をやりたいという気持ちが吹っ切れ、ロスの自宅も売り払い、日本で骨を埋める覚悟が出来た。
川島の還暦前の副社長退任は、自動車業界でも大きな話題になった。翌年、今度は非縁故入社第一号社員の副社長、西田通弘が川島よりもっと若い五十六歳で相談役に退いた。新しい仕事として選んだのが「ホンダの語り部」として本の執筆活動や講演を通じて宗一郎と藤沢の経営手法を、内外に知らせることであった。
「ホンダの改革を推進するには、年上の部下がいない方がやりやすいのではないか」
白井、川島、西田の三人は河島への配慮から早期退任に踏み切った。四人の中で河島が一番若く、専務時代は同僚としてなんでも話し合えたが、社長になればそうもいかない。お互いに遠慮が出てくる。三人は自ら率先して身を引くことで、河島に思う存分腕を振える環境を作ってやりたかった。
二人の創業者のさわやか引退から始まったホンダの新陳代謝は、相変わらず続いた。川島、西田の退任と入れ替わりで若手の役員を起用、五十六年の常勤役員の平均年齢は、五十歳を割り込んだ。ただし藤沢は歯止めをかけるのも忘れなかった。
社外重役として駐ベルギー大使や駐米大使を歴任した外務省顧問の下田武三を迎えた。下田はホンダがベルギーにオートバイ工場を建設したときの大使で、それが縁で宗一郎が設立した「本田財団」の理事長に就任している。社外重役としてはすでにメインバンクの三菱銀行会長の中村俊男が就任している。藤沢の狙いは二人にホンダ役員の若害をチェックしてもらうことにあった。
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川島、西田の“名物副社長”がホンダの若さを維持するため相次いで退任したことで、四専務による集団指導体制とその後のトロイカ体制が終焉した。経営の意思決定のシステムとしての集団指導体制は、その後も継続されたが、同時に次代のホンダを担うヤング・エグゼクティブが登場した。川島が退任した五十四年、ホンダに三十九歳の取締役が誕生し、産業界に大きな衝撃を与えた。
選ばれたのが三十八年入社の入交昭一郎だった。マスコミは「一兆円企業の三十代役員」としてもてはやし、世間は入交が本田、藤沢と血縁がなかったことから正真正銘の抜擢人事と受け止めた。
戦後派企業のホンダにあって、三十代役員の誕生は決して珍しいことではない。社長の河島は三十四歳、西田は入社十一年後に入交と同じ三十九歳で就任している。それ以外にも三十代で役員になった人は大勢いる。ただ違うのは、当時のホンダはまだ中小企業だったことだ。企業規模が小さく人材がいなければ、能力のある若い人を起用せざるを得ない。
宗一郎・藤沢時代の役員起用の特徴は、徹底した信賞必罰にあった。実力があれば年齢に関係なく引き上げるが、役員としての力量が不足していると分かれば、一期二年の取締役としての任期に関係なく、極端な場合、半年や一年で辞めさせることもあった。ただしその後は、関係会社などで面倒を見た。藤沢の役員人事は社内のだれがみても分かり易かった。
河島はそれをルール化した。上限を一般社員と同じ六十歳で切る一方、取締役、常務、専務、副社長など一定の役職に十年以上つかせないようにした。三十九歳で取締役になった入交がその後、伸び悩み、仮に十年間、平取締役のままでいたとすれば、彼の定年は自動的に四十九歳ということになる。川島や西田の自発的な退任によって、役員老齢化防止策としての役員早期退職制も定着した。
入交については予想通り、就任直後からマスコミは「将来の社長候補」と騒ぎ始めた。河島、西田と同じように三十代の若さで重役の座を射止めながら、その重圧に耐えかねたり、あるいは自信過剰で社内外の反発を買い、起用した創業者の期待に応えることなく、傍系会社に去った若手役員もこれまで何人もいた。
「君はこれから一年間、マスコミと接触してはならない」
年功序列を無視して引き上げた河島は、取締役の内示をしたとき、入交にこう厳命した。河島は若くして去っていった役員の轍を踏ませないため、入交をマスコミから隔離した。入交は河島との約束を忠実に守り、就任後一年間、マスコミの表舞台には一切登場しなかった。
では入交はなぜ若くして役員になれたのか。河島が入交を弟のように可愛がっていたのは、研究所の人間ならだれでも知っている。それだけで起用したのであれば、えこひいきのそしりは免れない。
研究所の直接の上司で、入交と同時に本社の役員(専務)になった久米是志にいわせると、入交を役員に起用した狙いは「幅広く経営全般を見ることができる技術者を養成する」ことにあった。ゼネラリストの養成といってもよい。久米の説明に従えば、抜擢される人材は入交でなくても、大学院を修了してホンダに入社した川本信彦でも構わないはずだ。
それでは入交と川本の差は、何時どこでついたのか。川本は入社して研究所に配属されて以来、一貫して四輪車、それもエンジンの開発に携わってきた。研究所の社長は四十六年まで宗一郎が務めてきたが、実際に仕切ってきたのは河島である。河島は宗一郎の引退を前提に久米に命じて、それ以前からR(リサーチ・研究)とD(デベロップメント・開発)を分離するなど新しい制度の導入に取り組んでいた。天才がいなくとも動ける組織にするのが狙いだった。
これまで自由気ままにやりたいことをやってきた若手の研究者には、新しい組織は窮屈に映った。とりわけF1に全力投球してきた川本は強い疑問を抱いていた。好きで好きでたまらなかったF1は休止に追い込まれた。それに追い討ちをかけるように、研究が制約されれば、もはやホンダにいる意味がない。彼はこう判断した。
四十五年暮れのボーナスをもらうと、それをはたいて年末年始の休暇を利用して、一人イギリスへ旅立ってしまった。イギリスでF1の仕事を見付け次第、ホンダを辞めようと思っていた。英国ではレーシングエンジンの名門、コスワースに入社を打診したところ、かなりよい感触を得たので、帰国早々、久米に退社を申し出た。久米は上司の河島に相談したが、予想通りの答えが返ってきた。
「自分の気に入らないから辞めたいというのは、昔のおまえさんとまったく同じだな。熱病みたいなものだ。冷めるまで放っておけ。そうすれば自然に戻ってくる」
翌日から川本は意地になり、研究所には出社せず、家にとじこもってレーシングエンジンや軽飛行機のエンジンを設計して時間を潰していた。イギリス行きは止めたが、それでもホンダを辞める意思は固く、宗一郎の長男、本田博俊に協力して日本でレーシング用のエンジンを作る会社を設立することも真剣に考えた。
この間、入交は何回か川本の家に行き、ホンダを辞めないよう説得した。久米も気が気ではなかった。
川本の“出社拒否症”は二カ月あまり続いたが、時間の経過とともに冷静になり、何ごともなかったようにホンダに復帰して、今度は低公害のCVCC(複合渦流調速燃焼)エンジンの開発に携わるようになった。
この時の川本の“雲がくれ事件”が、入交との出世の違いとなって表れたといっていい。三十代の役員の登用は、一見年功序列を無視した抜擢人事に見えるが、そうとばかりも言い切れない。久米の指摘通り、研究所から役員を起用するとなれば、年上の川本でなく入交の方が優先順位が上だった。
入交は入社十一年目の四十九年に研究所の取締役に就任、五十三年に常務に昇格している。同じ研究所育ちの川本は、二年遅れの五十一年に取締役に就任した。単に年齢だけで川本を本社の役員に起用すれは、逆に研究所としての序列が崩れる。序列を崩さずに、しかも世間にホンダの若さをアピールする点でも川本より入交が適していた。
若さのシンボルとして抜擢された入交は、何のてらいもなく役員就任の弁を語った。
「私は研究所の時代から本社の営業、企画の体制について悪口ばかり言ってきた。『それなら本社に来て、自分でやってみな』ということになったのじゃないかな」
本社の判断はモノを作る立場で、モノを売ってごらんというわけである。入交をその立場に置き、さらに役員の肩書きをつければ、持てる能力を思う存分発揮できる。半面、できなければその責任を取らせればよい。河島はこう判断して、入交を起用した。
入交は役員になると同時にモノ専門会のメンバーになったが、他の役員の都合がつかなければ、兜町で行なわれる決算発表に出て数字も説明しなければならない。持ち回りとなっている労担として、組合との賃上げ交渉に当たるのも仕事である。社業全般のほかに本社では北米タスクグループのメンバーになった。研究所の常務はそのままであったから、二枚鑑札どころか三枚の鑑札を持っていた。
入交の生活は役員就任と共に一変した。それまでは研究所で、オートバイの開発を指揮しておればよかったが、今度はそうもいかない。オハイオのオートバイ工場は、すでに稼働している。乗用車工場の建設準備も着々と進んでいる。北米タスクグループの一員として米国に飛び、現地ディーラーと接触して、製品の企画とマーケティング業務をこなさなければならない。
いったん役員になれば、これまでのように「若輩ものですが……、後輩ですが……」といって、末席に座って黙っているわけにはいかない。自分で思ったこと、考えたことを、現地の従業員を前に具体的に話さなければならない。一カ月のうち平均一週間から十日間は米国に出張、残る大半は研究所の業務をこなし、その合間をぬって本社の役員会に顔を出す。技術、営業の両部門を第一線で同時にこなすのである。
常務、専務、副社長といった上級役員は、自分のスケジュールに合わせて、ゆっくり出社する優雅な生活を送っているが、取締役になりたてのヤング・エグゼクティブは「忙殺」の毎日であった。
「勝負というのはギリギリのせめぎ合いで戦っている時が一番いい。私は随分ポカをやりましたが、それはみんな余裕ができた時なんですよ。余裕ができると、きれいにやってみようと考える。だから常にギリギリいっぱいの状態が一番いいんです」
藤沢がある雑誌で、将棋の升田幸三九段と対談したとき、印象に残った面白い話として好んで引き合いに出す|譬《たと》え話だ。升田は将棋の勝負として語ったが、藤沢は経営の話としてとらえた。
宗一郎は九九%がダメでも残りの一%に賭けた男である。藤沢は自分の生々しい体験を語るよりも、勝負師・升田としての言葉として話したほうが説得力があると思い、意識して升田の名前を使った。二人の創業者はギリギリのせめぎ合いをしてホンダをここまで大きくしたという自負があり、無意識のうちに“子供たち”にもそれを求めた。
常にギリギリいっぱいということは、先の先まで読めなければ出来ない。将棋の世界のせめぎ合いは、どこまで先を読むかに勝負がかかっている。先まで読み切って初めて展望が開ける。目先しか読めなければ、せめぎ合いには負けてしまう。
藤沢はホンダを「男性的な会社」と表現した。いわんとするところは、男性は長期的なモノの見方ができるが、女性はどちらかといえば短期的な見方をする。その点、ホンダは長期的なモノの見方をする訓練ができている。したがって「男性的な会社」という三段論法である。
藤沢のいう男性的な会社に人間尊重を付け加えたのが、“ワイガヤ”の名付け親でもある、三代目会長の大久保叡である。
「例えばホンダで泳ぎを教えようとすれば、手取り足取り、親切にバタ足から教えたりしない。最初から有無をいわさずプールにぶち込んで、自分で泳げというわけです。泳げない人が泳ぐには、チャレンジ精神がなければならない。
もし安穏と思ったら役員は揺さぶりをかけなければならない。ホンダという会社は野性的なんです。それもただ荒々しいだけでなく、自分で這い上がる過程で試行錯誤を許してくれる。そういう人間性というか、温かいところがあるのです」
ただし好き勝手に何でもやらせるかといえば、決してそうでもない。大久保の話を初代会長の杉浦が引き取って続ける。
「これは技術開発の話ですが、目指すべき方向、お客様のニーズに合わないものは、技術者がどんなにやりたがっても絶対にやらせない。ホンダは軽自動車からシビックにたどり着くまでいろいろな車を出してきましたが、N360を除いてヒットした車がなかった。
なぜヒットしなかったかといえば、研究所の連中に、何としてでも自分たちの技術力を誇示したいという、まさに自分勝手な気持ちがあったからです。考えてみると、シビック以前の車は『ホンダが出す製品なら何でも買ってくれる』という熱狂的なホンダファンに支えられていたのです。技術者はそれに甘えていた。目先のことしか考えない商品開発しかしてこなかったのです。逆にいうとお客さんのニーズをつかみ切っていなかった。
藤沢さん流にいうと、女性的な会社だったわけです。その点、初代シビックは『お客さんはこういうクルマを求めているはずだ』という確信を持って開発しました。それでヒットした。ホンダはこの初代シビックを機に顧客ニーズを一〇〇%意識した車作りをするようになったのです」
社長の河島がそれを完全に軌道に乗せた。
彼の口癖は「生産力を販売力が上回り、販売力を開発力が上回るのが理想」ということだった。分かり易くいえば、メーカーは顧客が欲しい車を作ることが一番、それをちゃんと売れるような販売網を作り上げるのが二番、最後にそれを満たす生産体制を作り上げる。この順序を間違わなければ、過剰投資や過剰在庫は防げるというわけだ。
藤沢は昭和二十九年の経営危機の原因は、開発力と営業力、三十七年は生産力と営業力のバランスが崩れたことにあることを見抜き、素早く善後策を講じてホンダの危機を救った。河島は生産力、開発力、営業力に順序をつけることで経営のバランスを取ろうとした。
五十年代前半のホンダは、順風満帆に見えるが、基本的なクルマ作りで、二つの路線変更をした。シビックのモデルチェンジと排ガス対策として触媒の採用に踏み切ったことだ。
「シビックはベーシックカーとして完成された車。将来にわたってモデルチェンジはしない」
河島は昭和四十八年十二月に行なった低公害車「シビックCVCC」の発表の席でこう大見得を切った。米国市場で爆発的なヒットの兆しが出始めた直後、アメホンから「シビックは早晩、米国市場で数々の伝説を生んだVWのビートルに取って代わる」との頼もしい情報が入ってきた。河島は心底から、シビックはすべての面で完成された車だと思っていた。
ホンダは自動車メーカーとして日が浅いことから、もともとモデルチェンジの考えが薄かった。爆発的なヒット商品となった軽自動車の「N360」は欠陥車騒動に巻き込まれ、ついに一度もモデルチェンジをしないまま寿命を終えた。ホンダの車はすべて一代限りである。モデルが陳腐化すれば、新しいネーミングの製品を投入すればよいという、オートバイ事業の考えが骨の髄まで染み込んでいる。
シビックの販売は五十一年に入ると、国内市場では多少飽きられ、国内販売と輸出が逆転した。逆に米国市場では七四年以降、四年連続して米EPA(環境保護庁)の燃費テストで一位に輝き、それをバックに快走のスピードは一向に衰えない。
累計生産台数はバンを含めると五十一年末には百三十万台に達した。VWのビートル(カブト虫)は四十年間モデルを一切変えずに二千万台を上回る生産を記録している。シビックがビートルと同じ道を歩んでも少しもおかしくない。
だがその一方で、自動車の技術革新は排ガス規制を境に確実に加速している。各社とも排ガスと燃費改善の両立を狙っている。シビックがいくら完成された車といっても、歳月が経てば自然とアラも目立つ。
国産車のモデルチェンジのサイクルは、通常四年とされ、この時期が過ぎると販売は極端に落ち込む。シビックもその例外ではなかった。そこで五十年に入ると、シビックのモデルチェンジというより、その後継車種として「SA」というコードネームを持った小型車の開発に着手した。
研究所専務の久米は「ベンツの価値観を持ちながら、走りはポルシェ、価格は軽自動車並み」という欲張った開発コンセプトを出した。しかし実際に開発に着手してみると、久米の出したコンセプトを満たそうとすれば「ホンダらしさ」を発揮できても、今や国内を上回る市場にのし上がった米国市場をスポイルする危険を秘めている。行き着く先はシビックのスタイルを踏襲し、それから大きく踏み外さないことしかない。
シビックが米国でいくら評判が良いとはいえ、SAと同時生産するのはあまりにも効率が悪すぎる。SAがシビックのスタイルを踏襲するとなれば、素直にモデルチェンジの考えを取り入れ、SAを「二代目シビック」として売り出した方が得策だ。
初代シビックは丸みを帯びたスタイルから「和製カブト虫」として親しまれてきたが、五十四年夏に登場した二代目のシビックは、やや直線的で、しかもひと回り大きかった。謳い文句は「八〇年代の省資源車」。価格を据え置いたから、実質的な値下げといっていい。
むしろ社内で大きな議論を呼んだのが、触媒の採用だった。「シビックCVCC」は確かに米国で、四年連続して燃費一位の栄冠を獲得した。だが低速走行が中心で、しかも発進・停止や速度変化の激しい日本国内での走行では、燃費がそれほど伸びず、しかもドライバビリティ(運転性能)が悪いという問題が出てきた。
薄い混合気を燃焼させるため、排ガス未対策車のエンジンに比べると、どうしても出力が落ちる。力が出ないということは、ドライバーの意思に沿ったスムースな運転ができないことを意味する。この間、化学工業の進歩で触媒技術は年々飛躍的に向上した。しかもライバル各社は触媒を使用することで、排ガスとドライバビリティを両立させたうえ、燃費を向上させている。
ホンダとしてもCVCCの性能を向上させ、燃費を良くするには、どうしても触媒の力を借りざるを得ない。ただし「余計な後処理装置をつけずに、あくまでエンジン本体でクリーンにする」という宗一郎のエンジン哲学に反する。
ここでも宗一郎の存在が、子供たちの背中に重く伸しかかってきた。触媒を採用するには、この厚い壁を乗り越えなければならない。
ホンダはCVCCの開発に着手する前、トヨタ、日産と同じように無公害エンジンは触媒で解決する方針を立てていた。触媒の研究チームは排ガス対策の本命として総勢六十人で発足した。その後CVCCの開発に成功したため、触媒チームの人員が年々削減され、いつのまにか片隅に押しやられてしまった。触媒チームは小人数にもめげず、コツコツと研究を進めてきた。
CVCC車を発売した二年後の五十年に、研究所ではCVCCを巡る大論争が展開された。論争の中心は、ドライバビリティと燃費をどうやって向上させるかにあった。CVCCは何といってもホンダの“金看板”である。
ホンダには低公害エンジンの本家という意識が強い。それを捨てて触媒を併用するというのは、自殺行為に等しい。多勢に無勢。結論は論争を始める前から決まっていた。「CVCCを極めることが、ホンダの道」という意見が圧倒的に多く、触媒派の意見は無視された。
触媒を採用した同業他社の車の性能は年々向上している。CVCCの性能はほとんど横ばい。このままではホンダだけが取り残されてしまう。触媒併用派は宗一郎のもとに押しかけ、CVCCに触媒を併用することを再考して欲しいことを直訴した。研究所が異様なムードに包まれ、翌五十一年になって触媒を併用するかどうか、再度徹底した議論をすることになった。
低公害エンジンの開発を専門とする三十人を超すエンジニアが一堂に集まり、延々三日三晩にわたって激論したが、結果は「CVCC一本で行くべし」派が三分の二を占め、再びCVCCの続行が決定した。この中にはCVCCの開発チームに入っていた桜井淑敏もいた。
「CVCCは自分たちの手で作り上げたエンジンだけに、内心このまま行くべきという思いが三分の二、触媒を採用すべきとの思いが三分の一ほどあった。それほど心が揺れ動いていた」
CVCC継続派に、性能向上に向けての技術的な切り札があったわけではない。ホンダとしては、保険の意味合いからも引き続き触媒の研究を継続せざるを得ない。
触媒を採用すべきかどうか、研究所の実質的な責任者である久米は迷った。当時久米はまだ触媒には二次公害の恐れがあると信じていた。触媒は確かにデリケートであり、エンジン内でミス・ファイヤー(不完全な点火)が起こっただけで、燃焼されずに排出された燃料が触媒に触れ、触媒自体を溶かしてしまう。
これらの問題を解決するにはエンジンを始めキャブレターや電気系統部品の信頼性と耐久性を高める必要がある。その前に五万マイルの走行に耐えられる触媒も開発しなければならない。いずれも一朝一夕で解決できない。生半可な理由で触媒の採用を決めれば、宗一郎のカミナリが落ちるのは目に見えている。久米はそのことを極端に恐れた。
CVCCを開発したのは確かに若手の技術者だが、それ以前に「排ガス対策は後処理装置なしでやるべし」と厳命を下したのは創業者の宗一郎である。いくら現役を退いたからといって、創業者の理念を勝手に変更するわけにはいかない。触媒を採用するには、まず何より宗一郎を納得させるだけの理論武装をしなければならない。
そこで久米は、触媒が果たして二次公害を引き起こすことがないかどうかを調べるため若手の研究者に人工腎臓の開発を命じたり、宗一郎の嫌いなエレクトロニクスを研究させたりして、根気強く触媒の安全性と信頼性を確認させる作業を続けさせた。
この間、ホンダはCVCC一本ヤリで来たわけだが、予想通り技術的に大きな壁にぶち当たってしまった。「エンジンの性能を向上させ、そのうえ燃費を改善するには、やはり触媒の併用は欠かせない」との結論を出したのは、それから二年後の五十三年のことである。
自動車産業が排ガス対策を迫られていた時期、燃料を始めとするコントロール部分にはまだコンピュータが使われていなかった。そこでホンダは、精密機械の技術を駆使してCVCCエンジンを開発した。すべてアーキテクチャーで対応したことが、成功につながった。
ところが第一次石油危機で省資源が叫ばれ、つれて半導体の集積度が高まり、エレクトロニクス技術が驚異的な発展を遂げた。小型コンピュータともいうべきマイクロコンピュータ(マイコン)も登場し、自動車にもこの余波が押し寄せた。キャブレター(気化器)の代わりにマイコンで制御する電子燃料噴射装置が使われ出し、ガソリンのコントロールが簡単になった。排ガスを感知する性能の良いセンサーも開発された。これを触媒と組み合わせれば、燃費を改善できる。
CVCC技術を導入した同業他社が最終的にこのエンジンを採用しなかったのは、触媒の性能が向上したこともさることながら、エレクトロニクス技術の進展に負うところが大きい。
CVCCはメカニカルとしては、最高の傑作品といっていい。しかしこれにこだわる限り、エレクトロニクスの時代に取り残されてしまう。一度の成功が次の進歩の足カセになる。
ホンダは世界初の低公害エンジンのCVCCに酔い、それに固執し、大きな変革を求めず、小さな改良で対応しようとした。CVCCで世界の自動車業界をリードしたホンダだが、気が付いた時にはドライバビリティと燃費の面で大きな遅れを取ってしまった。
君子は豹変する。しかし安易に豹変すれば「技術のホンダ」のイメージを傷つける。触媒を採用するには、何より合理性を重んじる宗一郎を納得させ、世間に対しても触媒の採用は「CVCCの進歩であり、前進である」というイメージを作り上げなければならない。
立ち遅れに気付いてからのホンダの対応は早かった。二代目シビックに酸化触媒を採用することを決めたのは、モデルチェンジの作業が最終段階にさしかかっていた五十三年九月である。桜井淑敏をリーダーとするCVCCエンジン開発チームは、突貫工事さながらCVCCの全面改良に取り組み、わずか八カ月後の五十四年七月に完成、発売にこぎつけた。
技術の二年の遅れは、血のにじむような努力をすれば一年で取り戻せるが、ユーザーの信頼を勝ち取るには倍の時間がかかる。ホンダがこの時期、宗一郎の面子にこだわり、引き続きCVCC一本ヤリで突き進んだとしたら、スポーティーカーや大型車には進出できなかっただろう。
二代目シビックではCVCCに触媒を取り付けたが、それでも燃費の向上には限界がある。五十八年に発売した三代目のアコードでは、遂にCVCCエンジンの搭載を放棄してしまった。現在のホンダ車にはCVCCエンジンを積んだ車は一車種もない。
ホンダに小型車市場参入のキップを与えたCVCCの歴史的な使命は、実は石油危機の発生と同時に終わっていた。CVCCは排ガス規制には最適だったが、燃費改善にはそれほどつながらないエンジンだった。排ガス、燃費、運転性能の三つを成り立たせるには、ホンダといえどもエレクトロニクスの力を借りざるを得なかった。
CVCCはまさに時代の要請で生まれ、時代に流されたエンジンだった。ホンダの車にCVCCをやめた後もマイナスのイメージが生まれなかったのは、エンジンがすべてFF(前置きエンジン、前輪駆動)式だったことと無関係ではない。
一九七〇年代の車は、世界的にFR(前置きエンジン、後輪駆動)式が主流だった。しかしGMが燃費規制法を達成するため、小型・軽量化ができるFF式への転換を表明したことから、世界の全メーカーが競ってFFへの転換へ走った。こうした中でホンダには一日の長があった。この優位性があったからこそその後、小型車で世界の自動車産業をリードすることができた。
5
ホンダの第二世代ともいうべき、河島を頂点とする子供たちは、両親(宗一郎と藤沢)の存在を徹底的に利用してきた。集団指導体制は時間の経過とともに定着してきたが、世間の見方はいささか違っていた。社名が示すように、ホンダはこれまで世間に対し、宗一郎個人と密接不可分な関係にあり、切り離すことができないような印象を与えてきた。
海外ではホンダの経営者は、引退した後もなお宗一郎だと思っている人は多かった。国内にも「経営の実権は、依然として宗一郎と藤沢が握っている」とうがった見方をする人も、少なからずいた。
子供たちはホンダの好業績や役員の若さが話題になればなるほど、その土台を築いた宗一郎の名声が高まると同時に、自分たちの経営手腕も評価されるので、ムキになって否定することもない。
原宿の本社には、役員の大部屋とは別に最高顧問室があるものの、宗一郎は何かと足場の良い銀座に「本田事務所」を構え、そこを対外活動の拠点にした。講演依頼はひっきりなしに来る。本社には通りすがりに顔を出すが、顧問室には入らず役員室に来て、言いたいことを言うだけ言ってすぐ帰る。
文句の内容は必ず決まっていた。
「新聞で見たんだが、トヨタ、日産はターボとかいう装置をつけた車を開発したそうじゃないか。それも売れているらしいな。おらっち(ホンダ)はどうして出さないんだ。まさか出来ないというのじゃないだろうな」
宗一郎は引退後も子供たちにトヨタ、日産と一味違うやり方を求めると同時に、トヨタ、日産に置いてきぼりにあうことを、極端に恐れていた。
しかし対外的には、そうしたことはおくびにも出さない。新車発表の席には意識して出席しても、役員とは軽口しか叩かない。
「家にいてもひまでしようがないから、お前たちがどんなクルマを開発したか見にきたよ」
宗一郎が会場に現れると、子供たちが三々五々と擦り寄ってくる。そしてシナリオのない掛け合い漫才を始める。
「そんなにひまなら、ちょいとばかり心配させましょうか。なんなら心配のタネでも作りますよ」
専務の久米がこう陰口をたたけば、社長の河島が引き取って締め括る。
「年寄りにあまり心配させちゃあいけませんよ。今ぐらいがちょうどいい。今ぐらいが……」
周りには大勢の新聞記者がいる。宗一郎も子供たちも、マスコミの目を意識しながら演技していた。演技が上手になればなるほど、創業者は引退後は経営に一切タッチしていないことを印象づける効果がある。
「本田宗一郎さんというのは、技術者としては紛れもなく天才的な人だったのでしょう。それでは経営者として、社内ではどういう評価を得ていたのですか」
日本興業銀行特別顧問の中山素平は、ホンダのOB役員にこう尋ねたことがある。宗一郎とほぼ同じ世代で、“財界の鞍馬天狗”の異名を取った中山は、対外活動を通じて宗一郎と知り合いになったが、天真爛漫で人を人とも思わない宗一郎の経営者としての「器」だけは、どうしても測り切れなかった。
「宗一郎は技術屋です。経営はすべて藤沢がやっていました」
中山は宗一郎の技術者としての実績や人柄は別にして経営者として見た場合、納得できない点があったのだろう。中山はOB役員の答えを聞いてうなずいた。
「私の疑問はその一言で、すべて氷解しました」
宗一郎と藤沢の役割は引退後も変わらなかった。宗一郎は“ホンダ教”の教祖として、子供たちに代わってホンダの社会的責任を果たすため、対外活動に全精力を注ぎ込んだ。
一方、藤沢は引き続き軍師・竹中半兵衛を決め込んで、表舞台にはこれまで通り一切出ず、一歩下がった形で“経営指南役”に徹していた。
引退した半年余りは自宅に閉じこもっていたが、その後、月に一度はいつもの着流しスタイルで、散歩がてら六本木の自宅から歩いて原宿の本社を訪れ、暇つぶしに役員室で小一時間ほど世間話をして帰る。愛弟子とも言うべき川島や西田は、藤沢と臆せず対等に話せるが、その後の世代の子供たちは、どちらかといえば藤沢を苦手とした。
若い時に怒鳴り飛ばされた印象が強烈だけに、受付で藤沢が来たことを告げられると、裏口からコソコソと逃げ出す役員もいた。藤沢もそれを知ってか、本社に来ても裏口から入り、逃げ出す役員をつかまえては怒鳴った。
「お前たちはいやしくも『世界のホンダ』の重役なのだ。コソ泥のような真似はするな」
専務以上の役員は藤沢が引退した後も問題が生じると、そのつど六本木に相談に行った。前副社長というより、大株主に報告に行くのである。藤沢は現役時代から「どういたしましょうか」という持ちかけられ方を、極端に嫌った。まず自分たちの結論を持っていかなければならない。
藤沢の下で直接働いた子供たちなら、こうした藤沢の癖は知り尽くしている。子供たちが持ってきた結論が自分と同じの時は、首を縦に振り、うなずきながら聞き役に回る。反対に気に入らない時には「ぷい」と横を向いてしまう。
河島体制の初期には副社長の川島喜八郎や西田通弘は、さしたる用事がないときでも六本木を訪れ、経営のアドバイスを求めた。二人が辞めた後は、河島と久米が積極的に通った。
技術者で工場や研究所勤務が長い二人は、藤沢から昔話を聞くことで、今日のホンダがあるのは、単に自分たちの開発した製品が良かったからだけでないことを身を持って知らされた。
経営の本質とホンダの将来のあるべき姿も、何回となく聞かされた。物事を合理的に判断する技術者にとって藤沢が切々と説く「万物流転の法則」は未知の世界で、非常に興味のある話であった。
河島政権の金屏風の表が宗一郎とすれば、裏は藤沢である。二人は表向き日常の経営には、直接タッチしていないとはいえ、河島が新しい方針を打ち出すたび古参社員は「あれは西落合(宗一郎)の意向、これは六本木(藤沢)の指令」と勝手に裏と表の金屏風の存在を憶測した。
「ホンダを今日の大企業に育て上げた二人の創業者が、まだ何らかの形で経営に関わってくれている」
宗一郎と藤沢は、ホンダのすべての子供たちにとって精神的な支えであった。金屏風が輝いているうちは、子供たちは安心する。
輸出比率の高いホンダにとって一番怖いのが、貿易摩擦の激化である。輸出が規制されたり政府の管理貿易下に置かれれば、たちどころに影響が出る。ホンダの輸出比率(売り上げベース)は五十年代半ばには、すでに七〇%を超した。
ホンダが国際企業と呼ばれるようになったのは、輸出比率が高いことでもなければ、他社に先駆けて米国に工場を建設したからでもない。欧米との貿易摩擦に巻き込まれることなく成長を遂げたからにほかならない。
輸出比率が高いのには、それだけの理由がある。二輪車の国内におけるシェアは五〇%を超え、さらなる発展を遂げるには輸出に頼るしかない。対照的に国内の四輪車市場は、先発のトヨタ、日産の壁が厚く、ホンダのユニークなクルマをもってしてもこれを切り崩すのは容易でない。ボリュームを増やすには、いきおいオートバイ同様、輸出ということになる。
オートバイ業界はすでに、世界規模での再編成を終えている。したがって米国唯一のオートバイメーカーのハーレー・ダビットソンの経営が悪化し、いくら政治問題化してもホンダの屋台骨は揺らがない。
問題は四輪車にある。ホンダが戦後派企業として年間売上高一兆円企業に一番乗りできたのは、ひとえに四輪車の対米輸出が急増したことにある。
米国のオハイオ工場でオートバイに続き、四輪車生産に踏み切ったのは、子供たちに長期的にものを見る目ができたためだろう。藤沢のいう「男性的な会社」の基盤が徐々に確立されつつあった。進出表明のタイミングは絶妙だった。
「米政府は外国の自動車メーカーに、工場進出を奨励すべく努力している。日本のホンダはわれわれの期待に応える形で、工場建設を発表した」
カーター大統領はホワイトハウスの記者会見の席で、ホンダの工場進出を両手を上げて歓迎した。日米自動車摩擦はホンダ一社が進出を表明しただけでは解消せず、最終的には日本側が自主規制することで決着したが、日本車規制を強硬に主張していたUAW会長のダグラス・フレーザーは、ホンダの従業員をUAWに加盟させたいとの思惑があり、こういって同情した。
「ホンダはわれわれの立場を理解している。ホンダを輸入規制の対象から外すべきだ」
米市場でホンダ車が快走したのは、シビックとアコードの商品性が高かったことに加え、低公害車をいち早く開発したホンダの企業イメージと重なり合ったことが大きい。今度はこれに工場進出が加わり、「ホンダは米国経済に貢献している企業」という折り紙がついた。
欧州進出でも先陣を切った。選択した道は巨額の資金を要する工場進出ではなく、英BL(ビー・エル=旧ブリティッシュ・レイランド、現ローバー)との業務提携であった。BLは欧米の自動車メーカーに対抗するため、英のオースチン、ローバー、ジャガーなどの民族自動車メーカーが、英政府の肝煎りで大同団結して出来た会社である。
七〇年代初頭には五〇%のシェアを誇っていたが、その後外国メーカーに押され経営が悪化、シェアも年々低下し、七五年に政府の資本参加を得て名実ともに英国の国策会社に衣替えした。
BLはその後、同じように再建に苦慮していたフランスの国策自動車会社のルノー公団と提携交渉に入った。交渉は紆余曲折を経て一時サイン寸前まで進んだが、両社の提携案にBLの新会長に就任したエドワーズがクレームをつけ、あっさり白紙還元してしまった。
BLはルノーとの交渉を白紙に戻すにしても、別の相手を見付けなければならない。BLの最大の問題点は主力車種の中型車「マリーナ」「アレグロ」のモデルが古くなっていることだが、技術者不足から次のモデルチェンジは早くて四年後である。となれば即効薬は、技術力のあるメーカーの車をライセンス生産するしかない。
遅々として進まないBLの再建に業を煮やした保守党の若手議員グループが、BLに対して日本車メーカーとの提携を勧告、エドワーズは提携先として、英国でも人気がある「アコード」を生産しているホンダに白羽の矢を立てた。
ホンダの年産は六十八万台、売り上げ四十六億四千六百万ドル、従業員三万三千人。BLは七十八万五千台、十九万五千人で、企業規模はルノーはむろんのことBLに比べても小さく、まかり間違っても飲み込まれる心配は皆無である。しかもBL車を日本国内でホンダの販売ルートに乗せることができれば、BL車の輸出も増える。
エドワーズは五十三年の暮れに密かに来日、米国で乗用車の生産を考えていたホンダ首脳に提携を打診した。ホンダは米国の次に英国市場を重視していたが、日本車の対英輸出は両国の業界同士の取り決めで、日本車のシェアは一〇%を超えないという紳士協定があるので、むやみに輸出できない。
ホンダへの割当台数は、後発の悲しさで年間三万台にも満たない。英国で販売台数を増やすには現地生産しかないが、緊急性は米国の方がはるかに上である。
イギリスの労働組合は職能別に分かれており、山猫ストが頻発していた。BLはトップメーカーとはいえ、生産規模の割に、日本では考えられないほど多くの従業員を抱えている。車のモデルは陳腐化し、工場も老朽化している。生産効率も悪い。国内シェアもずるずると二三%まで落ち込んでいた。むろん赤字決算である。
「おまえたちから『(BLと提携したいが)どうですか』、と聞かれたからあえて答えるが、おれはBLに限らず、たとえ業務提携であろうと外国の会社と提携することには反対だ。今のホンダに相手の会社を助ける余裕があるのか。もしどうしても欧州に出掛けて行かなければならないなら、単独で進出すればいいじゃないか。しかしおれは引退した身だ。最終的にはおまえたちの判断で決めればいい」
裸一貫から叩き上げた宗一郎の精神は、あくまで自主独立である。まだ赤字ではあるが、ベルギーに単独でオートバイ工場を建設し、欧州進出を果たしたとの自負もある。BLとの提携反対は、その帰結でもあった。
藤沢の本音は宗一郎と同じだったが、首を縦にも振らなければ、「プイ」と横も向かなかった。子供たちはそれを、藤沢は了解したと受け止めた。ただし藤沢はクギを刺すのだけは忘れなかった。
「あたしたちの作った会社が、今やライバルの外国のメーカーに技術指導できるほど大きな会社になったんですか。しかしそれで浮かれちゃいけませんよ。浮かれちゃ……」
BLは赤字会社だから、たとえ資本提携でも飲み込まれる心配はないものの、河島は救済色の強い資本参加の要請だったら即座に断るつもりでいた。
エドワーズの提案は、案に相違してBLの工場でホンダ車のライセンス生産をしたいという内容だった。宗一郎に反対はされたが、提案内容は河島にとって極めて魅力的だった。
ライセンス供与であれば、ホンダ側にリスクはない。逆に金銭的なメリットは大きい。ライセンス・フィーが入るうえ、エンジン、トランスミッションなど主要部品の輸出も期待できる。
さらに一時的であるにせよ子会社のホンダエンジニアリングからロボットを始めとする工作機械の輸出も期待できる。同じ機械類をオハイオの乗用車工場に据え付けることにしているので、そのリハーサルにもなる。提携が軌道に乗れば、英国現地生産の足掛かりになる。BLとの提携は子供たちにとって一石何鳥かの効果があるように映った。
小型車の開発に関してはホンダの方が圧倒的に上だが、ホンダの泣き所は中型車の技術蓄積がないことだった。ホンダの乗用車は「シビック」「アコード」「プレリュード」の三車種だが、車種構成を豊富にするには二〇〇〇cc以上の車の投入は欠かせない。自主開発が大原則だが、BLの技術を利用すれば開発期間を短縮できるうえ、開発投資も単独で行なうより少なくて済む。
子供たちは宗一郎と藤沢の意向を無視して、提携交渉の舞台に乗った。交渉はトントン拍子で進み、五十四年五月には基本合意に達し、その年の十二月に正式調印にこぎつけた。提携の骨子は、ホンダがBLに開発中の新型小型車の「バラード」を英国で生産するライセンスを与えるBLはその車を英国を含むEC(欧州共同体)諸国で「トライアンフ・アクレーム」というBLのブランドを付けて販売するホンダはその地域で同一車種を売らない――などであった。
それから二年後の五十六年十二月、両社はBLの「トライアンフ・アクレーム」の立ち上がりを確認したうえで、今度はアコードより上位で、BLのジャガーの下に位置する上級車を共同開発することで合意した。両社でプロジェクトチームを編成して、八五年を目標に設計、開発を進めて分担生産するというものである。
BLとの提携はさらに広がり、平成元年にはホンダの英国現地生産に際して、ホンダはBLに二〇%、BLはホンダのHUM(ホンダ・オブ・ザ・UK・マニュファクチャリング)に同じく二〇%の資本参加をすることで合意した。リスクなき業務提携から始まった提携は、十年目にして資本関係にまで深まった。子供たちの親離れは着実に進んだ。
自動車メーカーの海外進出は、大きく分けて単独進出と提携の二本立てとなっている。米国進出とBL提携で「国際企業」の代名詞をもらったホンダの場合、最初にグローバル戦略ともいうべき遠大なシナリオがあり、その線に沿って米国進出とBL提携を具体化させたわけではない。
米国に限らず単独進出は、確たる戦略に基づき、河島が四進法で最後の決断を下したが、提携に関してはすべて受け身であった。最初に相手から提携の申し込みがあり、相手の提案が果たして、ホンダの利益に合致するかを検討した上で結論を出す。BL提携はその最たるケースだった。
提携交渉が始まった時期は、英国に拠点が欲しかったのは事実だが、体力的にみて単独で工場を建設するのは難しい。その矢先にBLから話が持ち込まれ、「渡りに船」とばかり乗った。
その後の上級車の共同開発も、資本提携もすべてBL側からの提案である。むろんホンダにもメリットがあったからこそ提携拡大に応じたわけだが、ホンダ側から積極的に動くことはなかった。
フォードとの提携は逆に裏目に出た。昭和四十八年にフォードがCVCCエンジン導入の見返りに、ホンダが日本市場でフォード車を販売することで合意した。実際にフォード車を手掛けたのは六年間で、この間一万台のフォード車を販売したが、五十五年にはあっさり提携を解消してしまった。
両社の関係が発展しなかったのは、双方とも提携拡大に向けて自分の方から動こうとしなかったからだ。企業提携は一種のだまし合いで、往々にして提案する側より、提案された方が主導権を握れるように見える。
だが戦略性は提案した方にある。BLが提携相手としてホンダを選んだのは、ルノーと違い、ホンダがBLの欲しい車をもっているうえ、飲み込まれる心配がなく対等に付き合えると判断したからだ。
住友銀行がフォードにマツダとの資本提携を持ち掛けたのも、フォードの力を借りなければマツダの再建は困難と判断したからだった。
同じく平成三年にいすゞがホンダにRVと乗用車の相互OEM(相手先ブランドによる生産)提携を持ちかけたのは、いすゞ側に米国工場の稼働率を上げたいというしたたかなソロバン勘定と、乗用車からの撤退に伴う代替車をホンダに供給してもらいたいという思惑からだ。提携が実現したのはホンダにも利点があったためだが、戦略性という観点からみればいすゞの方に軍配が上がる。
受け身の提携が有利というのは、表面上の見方に過ぎない。ホンダとベンツ子会社との提携がそれを如実に物語っている。ホンダはBLと業務提携した一年後の五十五年末に、ベンツが二七%資本出資している南アフリカ子会社UCDD(ユナイテッド・カー・アンド・ディーゼル・ディストリビューター)と業務提携した。
骨子は南アにあるUCDDの工場でのホンダの開発した小型大衆車の共同生産である。南アでの生産拠点の強化をはかるベンツ子会社の政策と、アフリカ進出を狙うホンダの海外戦略が合致した。
提携はベンツ側がホンダに持ち掛けた。南アでも燃費のいい小型車の人気が高まっていたが、ベンツは高級車が中心で大衆車はない。
南アの自動車需要は年間四十万台で、トヨタ、日産、マツダ、三菱は現地会社に委託生産する形で進出している。有力メーカーではホンダだけが出遅れていた。ベンツは南ア以外にもブラジル、スペイン、ナイジェリア、イランなどに生産拠点を持っている。南アで共同生産が成功すれば、他のベンツの生産拠点にも共同生産方式が広がる。
自動車の小型化は世界的なすう勢であり、ホンダは「ベンツはうちの小型車技術が欲しいのではないか」と読んだ。ホンダとしてもベンツの大型車や中型車の技術は、喉から手が出るほど欲しい。そのベンツから子会社への協力依頼がきたのである。UCDDとの交渉にはベンツ本社の海外担当者も参加している。こうしたいきさつからホンダ首脳は胸を張って言い切った。
「南アでの提携をベンツとの協力関係に入る第一歩としたい」
ベンツは世界で最も古い自動車会社である。その企業が頭を下げて世界最後発の自動車メーカーのホンダに、子会社の救済を頼んで来たのである。ホンダは舞い上がり、ベンツ本社との提携に夢を膨らませた。
だがホンダの期待は夢に終わった。ベンツからはその後、何の音沙汰もない。受け身の提携であるからホンダの方から提携拡大を言い出すわけにもいかない。ベンツは南アではホンダが最適と判断しただけで、それ以外の地域や本社ベースでの提携はまったく考えていなかった。
ベンツに限らず海外のメーカーにすれば、ホンダは適度な規模の会社でありながら、排ガスや省エネに関する独自の技術を持っているので提携先としては極めて魅力的に映る。
〈オヤジさんと六本木の旦那が作った会社に万が一のことがあってはならない〉
ホンダが海外提携で受け身となるのは、子供たちの判断に、絶えず宗一郎と藤沢の影がつきまとうからだ。これを意識すればするほどホンダ側から積極的に動きにくくなる。
6
イタリアの映画女優・ソフィア・ローレンが、自転車と見間違うような小さなオートバイに乗って、「ラッ、タッ、ター」と古代遺跡の残るローマの町を駆け抜ける。負けじとばかり女優の八千草薫が「私にも乗れます」と主婦に訴える。第一次石油危機の傷がようやく癒え始めた時期に登場したファミリーバイクは、それまでのオートバイのイメージをガラリと変えた。
米国の二輪車市場はホンダがスーパーカブを投入したことで、「オートバイは“ブラック・ジャケット”」というイメージは一掃された。国内でも商店向けを中心に売れに売れ、長寿ヒット商品にもなった。が、オートバイといえば、世間の大半の人は依然として「危険な乗り物」「暴走族の乗り物」というイメージを持っていた。
ところがファミリーバイクが登場してからは「オートバイは便利で安全、だれにでも乗れる車」というイメージに変わった。
ブームの口火はまたしてもホンダが切った。五十一年二月に排気量五〇ccの「ロードパル」を発売、ソフィア・ローレンをCMキャラクターとして使い、テレビのブラウン管を通して市街地や郊外での生活の手軽な輸送手段として大々的に宣伝、この年だけで約二十三万台ほど売りまくった。
これを同業他社が見逃す筈がない。一年後には業界二位のヤマハ発動機が、女性ユーザーを意識したステップスルー(ひざを揃えて腰をかけるタイプ)の「パッソル」を引っさげて追随した。CMには大物女優の八千草薫を起用した。CMの訴求力もさることながら、乗り易さが受け、柳の下に二匹目のドジョウがいたことを証明した。
五十三年に入ると、業界三位のスズキも参入したことから、市場は一気に膨らんだ。
オートバイの国内販売は昭和四十五年以降、年間百十万台前後で推移しており、石油危機の前後あたりから飽和説がささやかれ出していた。スーパーカブに代表される商店用は普及し尽くし、代替需要が中心で新規需要はさほど期待できない。大・中型の若者向けも需要は限られている。
開拓の余地は女性市場しかなかった。この市場を開拓しない限り、オートバイの将来性はない。ホンダは以前から女性層を狙った製品を投入していたが、ブームを呼ぶような大型商品を開発できないもどかしさがあった。
原因は開発体制にあった。技術研究所は河島が社長に就任してから改革に着手した。四十九年に組織を一新。四輪、二輪、汎用と三つの部門に分離して四輪を和光、二輪と汎用を朝霞に集約した。同時にそれぞれをR(リサーチ・研究)とD(デベロップメント・開発)に分け、宗一郎の時代に研究とも開発ともつかず、思いつくままやってきた体制を改めた。
具体的には研究を何段階かの評価のふるいにかけ、その中から確実にモノになりそうな案件を取り上げ、開発するシステムを採用した。総勢四百人の二輪車、汎用エンジンの研究員が朝霞に集結した。
新しい体制下で生まれた最初のヒット作品がロードパルだった。開発に際しては、四輪車と同じように研究所のR&Dのエンジニアだけでなく営業からも人が集められた。
現在オハイオ工場を運営するHAMの執行副社長の網野俊賢も開発部隊の一人に選ばれた。京都・西陣に生まれた網野は大学を卒業した後、従業員六百人の中堅商社に入ったが、仕事が単調であまり面白くなかったので、給料の高さにつられホンダに途中入社した。
昭和四十一年のことで、入社十カ月後に軽自動車「N360」の拡販のため長野営業所長に起用された。その時の営業手腕が見込まれ、今度は営業の立場からロードパルの開発に参画することになった。
ロードパルのコンセプトは「日本の街角を変える」。街角を変えるには、乗りやすくしかも買いやすい製品にしなければならない。そこで開発の基準を自転車に置いた。ロードパルは完全に女性のハートを射止めた。「乗りやすい」「買いやすい」「(免許を)取りやすい」という三拍子に加え、女性ユーザーに「自分の手で(車を)動かせる喜び」を与えたからである。
時代も味方した。日本経済は石油危機を乗り越え、安定成長期に入った。これまで家庭に閉じこもり、子育てに専念していた主婦に余暇時間ができた。だが主婦の交際範囲は向こう三軒両隣に限定されている。
仕事や優雅な生活をエンジョイするには、手軽な交通手段が必要となる。その点ファミリーバイクは機動力がある。これに乗れば主婦には難しかった夜の外出が可能になり、一日の活動時間が大きく広がる。
「ファミリーバイクは一リットルのガソリンで、約六〇キロ走るから、家から最寄りの駅までの往復のバス代を考えると、車に使ったお金は一年以内に回収できる」
働く中年の主婦は、したたかなソロバンをはじいた。
主婦に人気が出ると、こんどは三、四十代の中年男性の間に静かなオートバイブームが巻き起こり、続々と中年ライダーが登場した。警察は“ナナハン”と呼ばれる排気量七五〇ccの大型車の運転免許証の交付に際して、若年層への交付は暴走族を生み出すことから慎重を期していた。
その点、中年ライダーは無鉄砲な運転をしないことから、比較的簡単に交付した。ファミリーバイクは単に商品として成功しただけでなく、中年ライダーが増えたことで、オートバイ自体が“市民権”を得るきっかけを作った。
オートバイの国内出荷は、ホンダがロードパルを発売した五十一年が百三十万台、ヤマハが参入した翌五十二年は百六十二万台に急増、そしてスズキが名乗りを上げた五十三年には百九十八万台と、二百万台にあと一歩のところまできた。
上積み分は大部分がファミリーバイクで、わずか三年でオートバイ市場の半分がファミリーバイクで占めるようになった。
ファミリーバイクが登場する以前の業界シェアは、ホンダが五〇%強を占め、第二のヤマハがその半分、スズキがさらに半分、残りがカワサキとなっており、「オートバイの世界は二強(ホンダ、ヤマハ)、一弱(スズキ)、番外地(カワサキ)」と揶揄されていた。
異変は五十四年一月に起きた。三社の乱戦がたたり、生産ベースでヤマハがトップのホンダを追い抜いてしまった。原因はホンダがいち早く在庫調整に踏み切ったことにある。ヤマハは過剰在庫を抱えていたにもかかわらず、減産しなかったことから、生産の逆転という形になって現れた。将来の見通しについても、ホンダとヤマハの間には大きな違いがあった。
強気説はヤマハが唱えた。根拠となったのが潜在需要の多さだった。ファミリーバイクの需要層は、サラリーマンのみならず大学生にも愛好者が増えているが、圧倒的に多いのが女性、中でも主婦がいち早く飛びついた。
警視庁の調べによると、五十三年末における女性の免許取得者累計は、普通免許が約八百万人、原付き免許が約二百万人で三年前に比べそれぞれ三八%、七九%増えている。ファミリーバイクは普通免許を持っていなくても原付き免許があれば乗れるので、潜在需要は一千万人ということになる。
これに対して五十三年末までの販売累計は二百二十万台に過ぎない。ヤマハが唱える成長説の根拠は、売り方しだいでは、まだまだ伸びるということにあった。
ホンダは潜在需要の多さを認めながらも、正反対の見方をしていた。もともとファミリーバイクは、メーカーが積極的に需要を作り出して、初めて売れるという商品特性を持っている。したがって広告などでバイクの便利性を訴える一方、免許取得のための講習会や試乗会を開いてバイクに乗れる人を育成しなければならない。
ところが過去三年のブームは、メーカーが手を尽くして需要を開拓したというより、話題性が先行して、むしろ客の方から飛び付き、メーカーは潜在ではなく顕在需要を相手にしていた。潜在需要を顕在化させるには時間がかかる。ホンダの分析は、その踊り場にさし掛かっているということだった。
五十四年に入ってからホンダの予想通り、需要の頭打ち論が現実になった。一月─四月の三社合わせた出荷台数は、前年比一〇%ほど減少した。前年割れになった原因は、最大手のホンダが三六%減と出荷を極端に落としたことにある。逆にいえばヤマハ、スズキの両社は一切生産調整をしていないことを証明したともいえる。
夏に入ると両社の違いは明確になってきた。六月の出荷総台数におけるヤマハのシェアは三九%、対するホンダは三二%。ファミリーバイクだけ取り上げてみると、ホンダの二三%に対し、ヤマハは五六%となっており、ヤマハは圧倒的な強さで首位に立った。
一月─六月の累計総出荷台数でみても、ホンダが辛うじて四〇%を維持したのに対し、ヤマハは三六%とその差を四ポイントまで縮めた。ファミリーバイクでは、ホンダの三四%に対し、ヤマハは四九%で逆にリードした。
「ようやくチャンスが到来した。あと一息でホンダに代わってオートバイ業界の盟主になれる」
ヤマハ社長の小池久雄は社内外に対して打倒ホンダのノロシを揚げたことで、“H(ホンダ)Y(ヤマハ)戦争”が勃発した。
ホンダの不振の原因ははっきりしていた。ヤマハが春に「キャロット」「マリック」「リリック」の三機種の新製品を出したのに対し、ホンダは在庫調整を進めるため前年の五月に「シャレット」を最後に新製品を出していない。
ホンダはファミリーバイク市場がこれほど急激に伸びるとは思わず、ロードパルを投入した後、研究所社長の久米是志は「M(ミドル)計画」という中型機種を拡充する戦略を打ち出した。ファミリーバイクを担当する技術者は手薄になり、開発がおろそかになった。その間ヤマハは着々と新車を投入、車種によってはホンダを上回るほど、豊富で充実した商品構成にした。
ホンダはヤマハが本気になって首位獲りに来るとは思ってもみなかった。オートバイ業界は典型的な寡占産業で、国内にはメーカーが四社しかない。トップのホンダは、世界最大のオートバイメーカーであり、二位のヤマハは世界市場でも二位である。オートバイ市場は日本でも世界でも寡占化している。よほどのことがない限り、多少のシェアの変動はあっても順位が変わることはない。トップメーカーは貿易摩擦の矢面に立たされるが、二位以下のメーカーはその陰に隠れておれば難を免れる。
新製品の開発にしても、まずトップメーカーが出した後にその反応をみて、改善したものを投入すればよい。ホンダは自然淘汰された昭和三十年代半ばにトップに立ち、その後一貫してその座にある。逆にヤマハは二位に甘んじたものの、ホンダの陰に隠れてその恩恵に浴してきた。
両社には深い因縁がある。戦時中、宗一郎が東海精機重工業を経営していたとき、日本楽器製造(現ヤマハ)の社長だった川上嘉市は、三顧の礼を尽くして宗一郎に工場の技術指導を依頼した。ピアノを生産していたヤマハの工場は戦闘機のプロペラを作る軍需工場に転換したが、いかんせん機械技術の蓄積が乏しく、一本のプロペラを削るのに一週間かかっていた。宗一郎はそこでカッター式の自動プロペラ切削機を開発、わずか十五分と驚異的にスピードアップされた。宗一郎の才能が改めて評価され、新聞にも紹介された。
これを見て川上は宗一郎を「日本のエジソン」と讃え、ヤマハ社内では“特別顧問”として厚遇した。そして自社の技術者に「たとえ百分の一でもいいから本田先生のレベルに近づくよう精励せよ」とハッパをかけた。
戦後、宗一郎が指導したプロペラ工場が母体となりヤマハ発動機が生まれた。川上はヤマハがオートバイの工場を新設する際、必ず宗一郎に相談するなど友好関係は続いた。
宗一郎はある意味で、ヤマハ発動機の生みの親といえる。現会長の川上源一は、宗一郎を尊敬してやまなかった嘉市の長男である。ただし源一は若い時分から、嘉市に「本田さんを見習え」といわれ続け、宗一郎に少なからずコンプレックスを持っていた。
源一は宗一郎と比較されるのを極端に嫌ったが、自分の太っ腹を見せるため五十一年にヤマハ本社の社長にホンダ社長、河島喜好の二歳年下の実弟、河島博を起用した。地縁血縁はいうに及ばず、歴史的なつながりからいって、業界は「ホンダとヤマハはライバル会社とはいえ、決定的な対立はしない。適当なところで手打ちする」と事態を楽観視していた。
ホンダ自身、ヤマハが掲げた「打倒ホンダ」の旗印は、社員を鼓舞するための単なる掛け声に過ぎないと事態を甘く見ていた。ホンダが全力投球しなければならないのは、四輪車である。米国の二輪車工場の建設が始まり、乗用車工場の決断も迫っている。BLとの提携交渉も進んでいる。国内では新しい販売チャネルの「ベルノ店」を発足させたばかり。こと二輪車に関しては、ヤマハと事を構えるより、思い切って在庫調整を進め、利益の上がる体質にするのが先決である。
ファミリーバイク市場は、ホンダの見通し通り踊り場にさし掛かっていた。再び成長軌道に乗せるには、新製品を投入するよりも、地道にユーザーを教育して市場の底辺を広げるしかない。売れれば良いという販売政策では、無駄な競争が激化するだけで、自分で自分の首を締めることになりかねない。
事故も多発し始めており、バイクに対する安心感が薄れれば、ようやく得た“市民権”さえ奪われかねない。最大のユーザーである主婦の間に「ファミリーバイクはやはり危険な乗り物」といううわさが出れば、元の木阿弥になりかねない。
といってヤマハの宣言を無視するわけにもいかない。五十四年九月には一年四カ月ぶりに新製品の「カレンNX50」、十一月に「ロードパルS」を投入、車種の充実をはかり巻き返しに出た。ホンダのシェアはたちまち四〇%台の半ばまで盛り返し、HY戦争も終結するかにみえた。だがヤマハは諦めなかった。
「ヤマハは本気になってホンダ追い落としにかかっている」
五十五年に入ってホンダははっきりと自覚した。この年の正月、社長の小池は国内販売九十五万台の目標を掲げ、社内に「ホンダ追撃」の号令を発した。夏に入るとヤマハ本社の会長、川上源一が突如、理由もなく社長の河島博を解任して自ら社長に復帰した。
地元のマスコミはまことしやかに解説した。
「河島の長期政権になれば、息子の川上浩の出番がそれだけ遅くなる。だれかが源一にこう吹き込み、源一がそれを信じた」
発動機社長の小池にすれば、親会社の社長がこれから蹴落とそうとするライバル会社の社長の弟とあっては、思い切った仕掛けができない。喉に刺さったトゲがなくなれば遠慮はいらない。
この時、小池は壮大なシナリオを描いていた。最終目標は単に国内のファミリーバイク市場で首位に立つだけでなく、大・中型を含めたオートバイ全体で国内はむろんのこと、米国を含めた海外でもホンダを追撃して自ら世界の王座に就くことだった。
小池はこの壮大な夢を現実化するのは、決して不可能ではないと思った。ホンダは米国工場やBL提携、国内の新販売網が軌道に乗るまでは四輪車に全力投球しなければならず、二輪車はその間、捨てざるを得ないと自社に都合良く解釈した。
この小池の判断は結果的に間違った。ホンダのルーツは、宗一郎が戦後の混乱期に浜松で始めたバタバタにある。宗一郎は風光明媚で温暖な地に飽き足らず、藤沢と組むことで上京して本格的なオートバイ事業を興した。オートバイで「世界のホンダ」の名声を博したからこそ、四輪車にも打って出ることができた。
すでに売り上げ構成では、四輪車部門が二輪車部門を追い越していたが、ホンダの事業の故郷ふるさとはオートバイであることに変わりはない。二輪と四輪と汎用の三本柱を結び付けるのはエンジンである。ホンダにとってオートバイで首位の座を明け渡すのは“ホンダ教のご本尊”を奪われるのに等しい。
そうした思いは藤沢も同じだった。仮にトップの座をヤマハに明け渡すことにでもなれば、宗一郎と共に営々として築いてきた過去の栄光に泥を塗られるだけでなく、自分の生き方を否定されることを意味する。子供たちも二人の創業者の気持ちは痛いほど分かる。相手の出方にもよるが、宣戦布告された以上、徹底して戦う覚悟を決めた。
五十五年の国内販売は、ホンダ百一万台に対しヤマハは八十三万台。ヤマハは目標台数に達しなかったが、その差は二十万台弱まで縮まった。五十六年は百万台の目標を掲げ、十一月には早くも大台に乗せ、鼻の差までホンダに詰め寄り、完全な追い込み態勢に入った。
勝負は五十七年に持ち越された。小池は年頭挨拶で社内に檄を飛ばした。
「ここにきてようやくホンダをつかまえるメドがついた。あと一息だ。ガンバレ!」
7
ホンダはヤマハの宣戦布告を正面から受けて立つ覚悟を決めたものの、直ちに二輪車部門に全力投球できないもどかしさがあった。ヤマハから激しく追い上げられているが、四輪車を犠牲にするわけにはいかない。
といって手をこまぬいていたわけではない。五十五年に入って、ボストンコンサルティンググループの協力を得て、密かに迎撃作戦をスタートさせた。ヤマハの追撃を振り切る基本戦略は、開発体制の強化に置いた。
ファミリーバイクの市場を膨らますには購買層を主婦に限定せず、性別を問わず対象を広げる必要がある。それには商品の品揃えを増やさなければならない。ホンダはオートバイの開発部門のトップに、将来の社長候補と目される本社取締役で、研究所の専務を兼ねる入交昭一郎を充てた。
その入交に川本が救いの手を差し伸べた。
「イリさん、新製品を開発するには資金がいる。現状の朝霞研究所(二輪車)の予算では、思い切った開発体制が取れない。和光研究所(四輪車)の予算を遠慮なく使ってくれ。四輪車販売担当の役員の中には文句をいう奴もいるだろうが、今はそんなことはいっている場合ではない。札束でひっぱたいてでも、まず日本中の金型屋を押さえるのだ。使えるものは何でも使え」
ヤマハ迎撃の第一弾として五十五年九月に排気量五〇ccのスクーターの「タクト」を発売した。スクーターは戦後“庶民の足”としてもてはやされたが、軽自動車の普及に伴い、四十三年を最後に市場から姿を消した。しかし乗りやすさが見直され、ファミリーバイクの余波でイタリア製の「ベスパ」に人気が集まっていた。小売価格が一番安い五〇ccクラスのものでも三十万円を超すにもかかわらず、月千台以上売れていた。
ホンダはこれに目を付けた。タクトは新開発のタイミングベルト(歯つきベルト)を利用した自動変速機を装備して、出足の良さや登坂能力を高め、ファミリーバイクの欠点を解消した。その一方で車体を軽量化するため樹脂をふんだんに使った。
ベスパに比べ全体的にコンパクトな車体ながらも、足元などの乗車スペースはできるだけゆとりを持たせた。価格は一台十万八千円。ファミリーバイクに比べやや高いが、ベスパの三分の一に過ぎない。
タクトはロードパル以来の大型商品に成長する可能性を秘めていた。むろんヤマハもスズキも追随したが、ホンダには一日の長がある。発売二年目の五十六年には前年比倍増の四十七万台を売りまくり、スクーター部門で五〇%のシェアを獲得した。この年、辛うじてヤマハを振り切ることができたのは、ホンダがスクーターブームを起こしたからである。
これに自信を得て、スクーターをヤマハ迎撃の切り札に据えることにした。スクーターの需要は業界全体で百六十万台に対し、ホンダは前年比倍増の百万台を見込んだ。ホンダは六〇%以上のシェアを取ることで、ヤマハを一気に叩く作戦を取った。シェアを引き上げるには車種の充実は欠かせない。スクーターブームの口火を切ったタクトはいわば一般向けだが、二月には男性向けの「リード」を発売、続いて女性専用車、二十万円を超える高級車も投入した。
販売の指揮をとったのが専務で、国内二輪本部長の吉沢幸一郎だった。吉沢はアメホンの社長をしていたが、社長の河島はHY戦争が風雲急を告げてきたことから急きょ帰国させた。
この当時、オートバイの代理店は国内に三十社ほどあったが、吉沢は本社の営業部隊に機動力を持たせるため「代理店が期待する倍の金」を出して代理権を買い上げ、すべて本社直轄とした。同業他社は「ホンダは人の心を金で買った」と非難したが、ホンダにはそれを素直に聞く余裕はなかった。
「いま私の頭の中は、二輪車が六割を占めている。四輪車は残りの四割に過ぎない」
社長の河島はオハイオ四輪工場の稼働を間近に控えていたにもかかわらず、ヤマハ迎撃を意識した発言を繰り返した。ヤマハ発動機は弟を解任した会社の子会社である。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ではないが、河島の胸中は「ヤマハ憎し」で煮えたぎっていた。
私怨と受けとられることだけは避けなければならないが、河島は自分の感情を抑えることができなかった。河島の最終的な狙いは、いつのまにか単にトップの座を守るだけでなく、ヤマハそのものをせん滅することに変わっていた。
末端での販売は熾烈を極めた。五十六年の後半に入ると、ファミリーバイクの販売価格は、地域によっては表示価格の半分というケースも出始めた。
「ホンダがあんな安売りに走るとは許し難い。しかし売られた喧嘩には受けて立つ」
「最初に仕掛けたのはヤマハの方。大義はわれわれの側にある」
売り言葉に買い言葉。乱売の地域は日を追うごとに拡大した。業界三位のスズキは音をあげ、販売の正常化を提案したが、ホンダ、ヤマハとも聞く耳を持たず、シェア拡大に向けて戦線をエスカレートさせた。
五十七年に入ると、両社の争いは泥沼の様相を呈してきた。安値競争に一段と拍車がかかり、半値どころか一台三万円を切る超安値価格も出回り始めた。さらに「四台で十万円」や「高級自転車を買えば、ファミリーバイクを“おまけ”として付ける」という馬鹿げた現象まで出始めた。
戦線はとどまるところを知らず拡大していった。オートバイの販売店は四輪車のようなメーカーの系列色は薄く、一つの店でホンダもヤマハも売るという並売店が多い。
ある並売店には夕方になるとヤマハのセールスマンが訪れ、店の掃除の手伝いを名目に店先に並べてあるホンダの製品を後ろに引っ込め、代わりに自社製品を前に出して行く。すると朝になると、今度はホンダのセールスマンが店を開ける前に来て、元に戻すというイタチごっこが全国至るところで展開された。
こうなると押し込み販売の競争になる。膨大なリベートがその決め手となる。するとリベートに目が眩み、販売店が安売り競争を始める。
実際は売れていないにもかかわらず、架空の登録をしてしまう悪質なやり方も登場した。新車でありながら、すでに登録を済ませているので中古車、自動車業界独特の“新古車”が大量に発生した。自転車のおまけや四台で十万円というのは、大半が新古車である。
サヤ当て合戦も激化した。ホンダは五十六年にフランスの大手自動車メーカーのプジョーの子会社であるサイクル・プジョーと排気量八〇ccクラスの小型オートバイの共同生産を決めた。サイクル・プジョーはオートバイのほかに自転車も生産しており、提携を機にホンダがプジョーの自転車も輸入販売することになった。
これにヤマハが噛みついた。プジョーはホンダと提携する以前、ヤマハに同社製の自転車を日本で売って欲しいと要望しており、交渉は大詰めにさしかかっていた。その矢先に提携先が一転、ホンダに代わったわけである。ヤマハ社長の小池はこれに激怒、自ら直接パリにあるサイクル・プジョーの本社に乗り込んで交渉の継続を迫った。
「自転車を売った経験がないホンダより、大規模レジャーランドを経営しているヤマハにレジャー施設での活用を含めた総合的なマーケティングを任せた方が得策ではないか」
プジョー社内のこうした声が、混乱に拍車をかけた。
ホンダのヤマハ迎撃態勢は、五十七年の春過ぎに軌道に乗った。年末にかけて毎週オートバイの新製品を出し続けたのである。この年だけで実に四十五機種もの新製品を市場に送り込んだ。毎週必ず一機種、場合によっては二機種の新製品を出した。ヤマハはその半分でしかなかった。
なぜホンダが大量の新製品を投入できたのか。オートバイの新製品の開発期間は通常、半年といわれている。いくらホンダといえども常識的にみれば、短期間にこれだけの製品を開発するのは至難の業だが、ホンダは平然と言ってのけた。
「半年というのは昔の話。うちはコンピュータを駆使した画期的な開発手法を確立したので、期間を半分に短縮できた」
これを額面通り信じる人もいたが、事実は多少異なる。オートバイは同時に五機種開発しようとすれば、デザインの段階では大体二倍の十機種ほど手掛ける。ホンダはそれをすべて製品化してしまった。むろんそれでも足りない。基本となるデザインをベースに外装だけ変えて新製品として発売する奥の手も使った。これだと性能は同じでも、目先を変えることはできる。それもこれも入交が川本の協力を得て、開発体制を強化したから出来たといえる。HY戦争の帰趨は、こうした豊富な品揃えが勝敗の決め手となった。
ヤマハは国内だけでなく海外でもホンダ追撃に出た。焦点は最大市場の米国に合わせた。五十六年暮れに開いたヤマハの全米ディーラー大会で新車の予約が史上最高になったことに気を良くして、小池は米国でもホンダに勝てると読んだ。
米国市場は一時ホンダの「スーパーカブ」が一世を風靡したが、結局、小型オートバイは定着しなかった。需要は大型車を中心に、国内と同じように年間百万台前後で安定しており、ホンダが五〇%弱のシェアを占めていた。ヤマハは米国市場でも切り崩しに掛かった。戦争をするには玉(製品)が要る。そこでまず在庫の積み増しをはかった。
対するホンダは八二年型として十一車種の新製品を投入した。目玉はオハイオ工場で組み立てるエンジン排気量一一〇〇ccの「GL1100A」だった。このオートバイは風防、トランク、サイドバック、ラジオが標準装備となっており、特別仕様としてステレオからCB(市民バンド)ラジオ、カセットなどが付いている超豪華車だ。
またナナハンには、世界で初めてのV型四気筒水冷エンジンを搭載した。さらにスポーツ走行向けに短気筒の車やターボ付きも投入した。前年までの新型車の投入台数は五機種前後、しかもこの数年新しいエンジンを積載した車はなかった。
米国のオートバイの主要ユーザーは若年のブルーカラー層である。この時期、ヤマハのディーラー大会の熱気と裏腹に、米国経済の低迷を反映してブルーカラーの失業率が急上昇して、八二年に入っても販売は一向に伸びない。米国市場は大型車のドル箱市場だが、その需要低迷期にシェアを伸ばすには乱売しかない。安売りしてでも売りさばかない限り、在庫資金がかさむだけだ。
だが景気の下降局面では、ちょっとやそっとの販促をしても需要は動き出さない。若年層に対するクレジットの枠が狭められたことが、販売不振に拍車をかけた。在庫はみるみる間に膨らみ、八二年秋には四社合わせた流通在庫はなんと百万台を超え、一年分を突破してしまった。
最も多いのがヤマハで、会社側は「十月末現在の在庫は二十九万台」と説明していたが、系列販売会社の在庫を含めると四十九万台というのが業界の定説となっていた。在庫は最盛期の約二年分に達した。一方、ホンダも三十万台の在庫を抱えていたが、約八カ月分に過ぎない。
ヤマハが打ち出した五十七年度(五十七年五月─五十八年四月の決算期ベース)の生産計画は国内百五十万台、輸出二百二十万台、合わせて三百七十万台である。これを実現するため春先から、約千人の従業員を新規採用した。
押され気味の国内販売は劣勢挽回の切り札として、マツダの四輪車ディーラー網を活用するなど販路の拡大をはかってきたが、しょせん焼石に水でしかない。ヤマハの負け戦は夏を境にはっきりしてきた。米国市場の在庫が急増、国内も投入した新機種がヒットせず、流通在庫は五十万台に膨れ上がり、押し込み販売はすでに限界に達していた。
残された道は生産調整しかない。下期に入ると国内九十万台、輸出百六十万台に下方修正した。年度初の計画に比べ実に百二十万台、三二%のダウン、国内だけみれば計画比四〇%の大幅減少となる。新規採用した千人は戦力にならないどころか、本社・工場の従業員の販売店への大量出向もクローズアップされ始めた。
年が明けるとヤマハの敗北は、だれの目にも明らかになった。厳しい減産に踏み切ったにもかかわらず、在庫は一向に減る気配がない。軍資金も底をつき始めた。これ以上戦争を継続すれば、最悪の事態も予想される。そうなれば親会社の経営にも影響が出る。社長の小池は一月下旬の年頭の記者会見で、敗北宣言を出した。
「ホンダさんの商品開発、販売力にはとうてい太刀打ちできない」
その直後に入交のもとに河島から開発ストップの指令がきた。研究所はヤマハの息の根を止める新製品として「CB400」「CX500」の中型機種を準備していた。ヤマハの資金源は米国である。そこへ最新鋭の二機種を投入すれば、ヤマハの兵糧を断つことができる。
「宴会(戦争)は終わったのだ。終わった後においしいご馳走(新製品)を出してもだれも食わない。ご馳走を出す時期がもう少し早ければ、もっと早い段階でHY戦争は終結していた」
入交は国内販売責任者の吉沢から、嫌味とも皮肉ともつかない言葉をかけられた。
二月に入ってヤマハは白旗を掲げた。「建国記念の日」の前日、東京・大手町にある日本自動車工業会の殺風景な会議室で河島と小池の会談が開かれた。二人が直接顔を合わせるのは、昭和四十九年に小池が河島の新社長就任のお祝いのため、原宿のホンダ本社に河島を尋ねて以来九年振りだった。
「HY戦争を終結させたい」
小池がうなだれて河島に頭を下げ、率直に詫びを入れた。
「ヤマハさんはHY戦争といわれるが、これはわれわれが仕掛けられたのです。終息するかどうかは、ヤマハさんの今後の対応を慎重に見極めた上で決めたい」
会談は約一時間で終わったが、対外的には次のようなコメントを出すにとどまった。
「両社は世界の二輪車市場でこれ以上、無用な競争をせず、問題点はできるだけ話し合いで解決することで原則的に一致した」
四月下旬に発表されたヤマハの決算内容は、悲惨なものだった。売り上げは前の期に比べ一千億円近く落ち込み、経常利益は前年の史上最高の百四十六億円から、一転してわずか二億円に激減した。さらに米国の販売会社が多額の赤字を出し特別損失が発生したことから、最終利益は百六十億円の赤字となり、四円の減配に追い込まれた。大幅な減産など本格的な敗戦処理は、五十九年度決算から始まった。同期の予想は二百億円の経常赤字が見込まれ、無配転落が確実となった。
この責任をとって監査役を含む二十人の役員のうち、社長の小池を始めとする九人が退任、または降格するという荒療治の人事を断行した。ヤマハグループの総帥、川上源一の意向を反映した人事で、同時に工場従業員七百人の人員合理化と大幅減産を発表した。
対照的にホンダの五十八年二月期の決算は素晴らしいものだった。売り上げは前年比一三%増の一兆七千五百億円、経常利益は過去最高の五百六億円を記録した。表面的な数字を見る限りHY戦争の業績面での影響は皆無といってもよかったが、実際は大きな痛手を負っていた。
ホンダは国内のHY戦争が天王山を迎えた五十七年だけで、販売店に対するリベートなどに二百億円の資金を投入した。これを吸収して史上最高の利益を出すことができたのは、ひとえにアメホンからの巨額の配当収入があったからにほかならない。
ホンダは米国進出を決めた五十五年に米有力格付け機関のS&P(スタンダード・アンド・プァーズ)から、CP(コマーシャルペーパー=短期資金調達のために発行する無担保の約束手形)としては最上級のA1(Aワン)の格付けを受けている。ランクが下がれば国際的な資金調達に悪影響が出るので、何としてでもA1を維持しなければならなかった。五十八年二月の決算書は、実は作られたものだった。
HY戦争の勝利でホンダのイメージは高まったが、宗一郎にも藤沢にも、さらに第一線で戦った子供たちに勝利感はなかった。馬鹿馬鹿しい乱売合戦を繰り広げ、消費者の信頼を失ったことを勘案すれば、実質的には痛み分けでしかない。たとえ勝ったとしてもほろ苦い勝利である。N360の欠陥車騒動で、東京地検が不起訴を決めたときと同じように無力感だけが残った。
「四輪車の拡張に忙しかったとはいえ、ここまで戦線が拡大したのは、うちの情勢分析が甘かったことに原因がある。ヤマハさんには本当に気の毒だが、仕方がなかった。経営の基本は周囲の情勢の変化にいかに企業が機敏に対応していくかである。この変化について行かなければ、どんな企業でも衰退は免れない」
前年に会長に昇格した杉浦英男は、反省と教訓を込めて苦汁の胸の内を語った。
この“HY戦争”を宗一郎の長男、本田博俊が冷静に見ていた。
「ホンダもヤマハも馬鹿げた戦争をやったものだ。オートバイはスーパーカブなどは輸送手段としての役割を持っているが、基本的には趣味の世界の乗り物なんだ。安くすれば売れるというものではない。それが分かっていながら、両社とも面子にこだわり真正面から戦った。ホンダは確かに勝った。だがユーザーの信頼を失った。オートバイの需要は今後ガタ落ちするだろう」
博俊の予想通りオートバイの国内販売はその後、厳しい冬の時代を迎えた。とりわけ“HY戦争”の主戦場となった排気量五〇cc以下の原付き第一種は、消費者からソッポを向かれ、ピークの五十七年に二百七十八万台あった国内販売は、平成五年には八十五万台へと三分の一以下に減り、今なお歯止めが掛かっていない。
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ホンダは昭和五十七年の株主総会で定款を変更して、会長ポストを新設した。日本の企業は社長を退いてからは会長に就くケースが一般的で、代表権を持てば実力会長として君臨できる仕組みになっている。
こうしたことから最初は、社長の河島喜好が「自分のために用意したポスト」とうがった見方をする人もいたが、秋になって初代の会長に就任したのは、予想に反して副社長の杉浦英男だった。ホンダの場合、会長は代表権を持っているものの、社長の上がりのポストではない。
「会長は主として、多岐多様化してきた対外活動の分野で社長を補佐するため、社長の委嘱により、会社と社会の接点において社長の分身として、会社を代表する職責を持つ。専務会には主に対外面に関する議題があるときだけ出席する非常任メンバーとなる」
役員室は会長の仕事をこう定めた。要するに会長は代表権を持っているが、経営の実務にはタッチせず、社長に代わって対外活動に専念する役である。河島の言葉を借りていえば「ホンダ会長は筆頭副社長」ということになる。河島が杉浦の後任の会長になる可能性は最初からなかった。
河島が社長に就任してから丸九年が過ぎ、暮れには待望の米国乗用車工場が稼働する。業界の雀は「河島はこれを花道に引退するのではないか」と憶測していた。結果はもののみごとに外れた。考えてみると河島はまだ五十四歳。トヨタ、日産に入っておればようやく取締役にたどりつく年齢だ。
九年という社長在任期間は確かに長いが、経営者としては、これから円熟味を増して脂の乗る時期にさしかかる。河島が会長にならないということは、財界活動にも積極的に取り組まないことを意味する。とすれば勇退した後は、悠々自適の生活しか残されていない。ただし五十半ばで隠遁生活に入るにはあまりにも若すぎる。
杉浦の会長就任で河島の引退は遠のいたかにみえたが、一年後の五十八年十月十二日、突然自らの引退と、取締役最高顧問への就任を発表した。後任社長には大方の予想通り五十一歳の久米是志が就いた。
〈十年というのは長いようで短く、短いようで長い。ホンダの基盤を作った二人の創業者の存在は、私にはあまりにも重たすぎた。本来は後任の久米をもう少し教育してから辞めるべきだが、自分の健康を考えると、この辺が限界だ〉
河島が自らの勇退を報告にいった時、宗一郎と藤沢は一つだけ注文を出した。
「おれたちは歳も歳だから、もう一歩下がる。最高顧問の肩書きはそのままでもいいが、取締役は辞任させてくれ。その分若い人を役員に起用すればよい」
子供たちはこれに応える形で、一段と役員の若返りをはかった。三十九歳で役員となった入交昭一郎と同期の吉野浩行が四十三歳で取締役に就任したことで、昭和二ケタ生まれの役員は、川本信彦を含め三人に増えた。
代わって五十六歳の鈴木正己(副社長)、五十五歳の岡安健次郎(常務)、五十一歳の小林隆幸(同)などが退任した。創業者二人の取締役辞任、経営陣の一段の若返りは、河島の引き際に花を添えた。
注目されたのが久米と同期入社で専務の吉沢幸一郎が副社長、川本信彦が常務に昇格したことだった。ライバルの入交は、二年前に常務に昇格しており、二人はようやく肩を並べた。
その入交は研究所の副社長を離れ、主力工場の一つ、鈴鹿製作所の所長に就任することになった。
〈入交を将来、ホンダの社長にするためには、もっともっと経験を積まさせ、人間としての幅を広げさせなければならない。研究所勤務だけでは、技術者としてエキスパートになれても、経営者としては限界がある。入交には自分と同じ道を歩ませる〉
河島は入交に直接、鈴鹿製作所所長に起用する狙いを具体的に説明した。入交は「ホンダのプリンス」としての道を歩み始めた。入交と川本は同期入社とはいえ、出世競争では二年の開きがあり、しかも若さを誇るホンダの伝統からして、社内のだれもがポスト久米の本命が、入交であることを疑わなかった。
「私は社長在任十年をメドに仕事をしてきました。その考えは役員ならだれでも知っているはずです。ホンダはこの秋に創立三十五周年を迎えます。十五周年の時は京都で大祝賀会、二十五周年の時は二人の創業者が引退して私が社長になった。三十五周年はそうした節目の年にあたり、社長交替には絶好の機会だった」
「私は社長として、身につけるべき絶対条件はないと考えている。彼(久米)には早くから後継者として目星をつけ、その成長ぶりをじっくり見守っていた」
河島は都内のホテルで開かれた記者会見の席上、予定通りの退任であることを強調すると同時に、久米を早い段階から、後継者に決めていたことを告白した。河島は十年前に社長に就任したとき、心に秘めたことが二つあった。
一つは宗一郎と藤沢の時代を上回る成長を遂げるため、経営陣の個性と知恵を出しあって総合力で経営に当たること。河島は“凡庸の団結”で、創業者の非凡な経営に対抗しようとした。
もう一つは後継者を早目に選んで、引き際を誤らないこと。河島には二つの目的を達成したという安堵感があった。そして会見の席で、最後に一言だけ付け加えた。
「前社長が経営にあれこれ口をはさむのは、たとえアドバイスでも良くない」
河島がこの言葉を吐いたのは、決して宗一郎と藤沢に対するあてつけではない。子供たちはこれからも創業者にアドバイスを求めるだろうが、自分はその立場にないことを強調したかったのだった。河島には創業者の存在を意識しながら、社長として十年間やってこれたのは、個人の能力ではなく役員室の集団合議制のたまものという思いが強い。
ホンダ特有の「ワイガヤ」や「役員の大部屋制」は河島時代に確立した。この二つを徹底させることで、河島なりに意識して親離れをはかろうとした。
久米は河島とは対照的に、いささか緊張しながら新社長としての抱負を語った。
「これまでのホンダは、若さ特有の瞬発力があった。これからはこれに、どんな難しい障害にも挑戦する粘りとバイタリティーを付け加えたい」
久米の社長就任は、社内のだれが見ても順当そのものであった。宗一郎は社内外で「河島が何年やろうが、その次は久米にやらせる」とだれかれとなく公言していた。藤沢も空冷・水冷論争にみられるように、自分の信念をトコトンまで貫く久米を高く評価していた。久米はポスト河島のガチガチの本命だった。まったく意外感がなかっただけに、ホンダのトップ人事は新聞紙上では、比較的地味に扱われた。
河島は二代目というより、創業期から二人の創業者と苦労をともにしてきた一・五世代である。これに対し、久米は昭和二十九年の経営危機を乗り切った後に入社した「ホンダのヌーベルバーグ」(新しい旗手)の代表選手ともいえる。
技術研究所勤務が長かったため、苦労といえばF1マシン、低公害エンジンの開発であり、売れる車の開発などすべて技術に関するものばかり。そのため経営者としての能力は未知数であった。
久米の起用に異論がなかったわけではない。F1監督として久米を直接指導していた中村良夫は、久米を社長に起用した場合の危うさを感じていた。
中村は四十三年に、宗一郎が強行した空冷エンジンを積んだF1マシンが人身事故を起こした責任を取り、ロンドン郊外に本拠を置く「ホンダ・レーシング」を解散、いったん辞表を提出したが、藤沢と河島に慰留されイギリスにある関係会社に出向した。しかし河島の社長就任と同時に日本に呼び戻され、取締役に就任、その後常務を経て技術担当の特別顧問に退いた。
その中村がかねて「ポスト河島」について、藤沢と河島の二人に苦言を呈していた。
「ホンダは宗一郎さんの技術を土台にして発展してきた会社です。しかし時代は急激に変化しています。私も技術者の端くれだからこそ余計分かるのですが、技術者というのは世の中の動きに限らず、物事を必ず良い方に良い方にと解釈します。そう思わない限り、いいクルマなんか開発できないし、品質の改良や生産性の向上も達成できません。
技術者社長というのはいってみれば“みこし”です。経済が一本調子で伸びている時には、何ら問題がありません。しかし低成長期の時代には向きません。なぜなら経営の哲学がないからです。もっといえば、そういう育てられ方をされていないからです。経営の本質が分からないのです。久米が折り紙付きの優秀な技術者であることは、私が一番知っています。
ただし優秀な技術者が優れた経営者になるとは限りません。経営者として訓練されていない技術者に、激動している時代を見極めさせるのは酷というものです。ここは視野の広い営業や経理に通じた事務系の人を起用した方がいいのではないでしょうか」
中村が指摘した通り、世界の自動車業界は、八〇年代に入って激動の時代を迎えた。日本車の輸出急増が背景にあった。
ビッグスリーのドライなレイオフ(一時解雇)で、大量の失業者を抱えるUAWが最初に日本車の輸出攻勢に音を上げた。
「日本製乗用車の急増で、米自動車産業は大きな被害を受けた」
UAWは財務省が関税分類を変更して、日本製小型トラックの締め出しを画策した直後の五十五年五月、米自動車産業の救済を求め、ITC(米国際貿易委員会)に提訴した。八月に入ると経営が急速に悪化し始めたフォードがこれに同調した。救済といっても具体的な措置となると、日本車の輸入規制しかない。
ITCの判決はこの年の十一月に出た。事前の予想では、圧倒的に“クロ”説が有力だったが、予想に反して結果は“シロ”だった。日本車メーカーにとっては喜ばしいことだが、問題はこれで解決するどころか、結果的には問題がより複雑になった。その直後に「自由貿易」を旗印にするレーガン大統領が登場したが、“シロ”の審決が出たことで、逆にUAWや米議会の日本車非難の声が強まった。
八〇年の決算でフォードは、創業以来最大の十五億四千万ドルの赤字を計上、GMも創業以来、事実上初の赤字に転落した。フォードの社長だったリー・アイアコッカを会長として引き抜いたクライスラーは、米政府の「クライスラー融資保証委員会」から七億ドルの融資を仰いで何とか命脈を保っていたが、期待の「Kカー」が折からの高金利で、計画の半分しか売れず、再建が軌道に乗るどころか、年末になって四億ドルの追加融資要請を余儀なくされた。
ビッグスリーの赤字は、合わせて四十億ドルに達した。こうなるとITCの審決に関係なく、客観情勢としては日本車の輸出規制は避けられない。
「強いアメリカの再生」をスローガンに掲げたレーガン大統領としても、米国の基幹産業ともいうべき自動車産業の窮状を、黙って見過ごすことはできない。日米両政府の水面下における交渉の末、ビッグスリーの再建に協力するという名目で、乗用車の対米輸出は日本側が自主的に、五十六年度から前年度比九・二%減の百六十八万台へ減らすことで合意した。
期限は三年間で、二年目と三年目に規制台数を見直すことになっていたが、規制がスタートしても、肝心のビッグスリーが立ち直る気配はなかった。こうなると規制が長期化するのは避けられない。
この時期、ビッグスリーの最大手、GMは複雑な動きをしていた。五十六年の八月に突如、資本提携先のいすゞの斡旋でスズキに資本参加を発表した。実は会長のロジャー・スミスが、真っ先に提携先として白羽の矢を立てたのはホンダだった。いすゞ社長の岡本利雄は、ホンダは絶対に乗ってこないと判断して、スズキを推薦したいきさつがある。GMの狙いはスズキを通じてミニカーを調達することにあった。
その一方でスミスは五十七年三月一日、ニューヨークでトヨタ社長の豊田英二と秘密裡に会談、これがほどなく外部に漏れて両社の提携交渉が明らかになった。トヨタといえばつい半年前までフォードと提携交渉をしていたが、お互いの利害が噛み合わず、白紙還元した前科を持っている。
こうしたことから、GMとの組み合わせは、だれも実現するとは思わなかった。ところが案に相違して、一年後の五十八年春にあっさり合意した。提携はフォードの時と同じように米国での共同生産だった。世界一位と二位の巨大提携は、世界の自動車業界を震撼させた。
これに刺激され、マツダ、三菱も資本提携先のフォード、クライスラーと組んで真剣に共同生産を模索し始めた。小型トラックの現地生産を優先させた日産は、労使対立を緩和させる手段としてテネシー工場で乗用車を生産する検討に入った。
慢性的な設備過剰に悩まされている欧州でも、日本車に対する風当たりが強まってきた。フランスは日本車のシェアを三%以下に抑え込んでいる。イタリアに至っては年間わずか二千四百台以内に規制している。英国はシェア一〇%─一一%がメドとなっている。しかし日本車はそれ以外の欧州諸国で猛威を振るっていた。
これを苦々しく思っていたのが、欧州民族資本のメーカーで構成するCCMC(欧州共同市場自動車製造業者協議会)だった。五十五年十二月にVW、BL、ルノー、プジョー、フィアット、アルファ・ロメオなどCCMC加盟の主要会社のトップが|挙《こぞ》って来日、東京で「日欧自動車サミット」を開き、日本側に対欧輸出の自粛を要請した。これを機に対欧輸出も通産省の管理貿易下に置かれた。
日欧自動車サミットの副産物として生まれたのが、日産とVWの提携だった。日産社長の石原俊とVW会長のシュミュッカーは、自動車サミットを終えた直後に、東京で密かに会談、日産がVW車を日本でライセンス生産する話をまとめ上げた。
日産はこの年の春、EC加盟を間近に控えたスペインの大手トラックメーカー、モトール・イベリカに資本参加、続いて夏にはイタリアのアルファ・ロメオと乗用車の合弁生産を正式発表した。年が明けた五十六年一月には英国政府の要請を受ける形で、英国に単独で乗用車工場を建設する計画を発表した。とどまるところを知らない日産の海外プロジェクトは、自動車業界でも驚嘆の目で見られた。
自動車の輸出急増で、日本経済は二度にわたる石油危機を乗り越えたが、その副作用として深刻な貿易摩擦を招いてしまった。摩擦を回避するには、輸出を抑えざるをえない。ホンダは米国では乗用車の工場を建設、欧州でもBLと業務提携して、国際化の先陣を切ったが、この優位性が将来にわたって続く保証はない。
期待の国内市場は、すでに成熟期を迎えつつあった。軽自動車を含めた国内総販売台数は、昭和五十四年になって、ようやく第一次石油危機直前の四十八年の水準まで戻したが、五百万台の大台に乗せた時点で、足踏み状態に入った。
五十五年に五百十五万台だった販売台数は、五十六年には五百一万台に減り、五十六年に五百十三万台とやや戻し、五十七年は五百二十六万台といくぶん増加した。数字を見る限り、市場は完全に成熟したといってよかった。
国内市場の成熟度は、保有台数と世帯別保有率を見るとより鮮明になる。四十五年には千七百五十八万台だった保有台数は、五十年に二千八百万台に伸び、これが五十五年には三千七百八十六万台となった。マイカー時代に拍車がかかった四十年代後半に比べ、石油危機後の五十年代の保有台数の増加ペースは、明らかにダウンしている。
この間、世帯別保有台数はそれぞれ二二・一%、四一・八%、五六・〇%となっている。モータリゼーションが急激に進展した時期に五世帯に一台しかなかったマイカーが、二世帯に一台となった。今や新規需要の八〇%が買い替え需要である。
保有台数、世帯別普及率の二つの面から勘案して、わが国のモータリゼーションは、間違いなく屈折点にさしかかった。ところがホンダが国内販売網を整備するのは、これからである。
収益源のオートバイは、ヤマハとの“HY戦争”では勝つことは勝ったが、内外とも在庫の山。減産も今後本格化する。米国では唯一のオートバイメーカーのハーレー・ダビットソンが、日本の二輪車メーカーをダンピング輸出でITCに提訴したので、思い切った増販策はとれない。
日本の自動車産業は、国内外とも大きな転換期にさしかかっていた。それだけに経営の舵取りは難しい。「いけいけドンドン」の時代は過ぎ去り、経営者には複眼的な思考が要求される。
こうした自動車業界を取り巻く厳しい環境は、藤沢も河島も十分承知していた。にもかかわらず河島は、中村の苦言を無視する形で最終的に後継社長として久米を指名した。河島は二人の創業者の共通した意中の人が、久米であることを知り尽くしている。仮に自分が中村の意見に同調したとしても、創業者の意向に逆らってまで、事務系の人を起用することはできない。
「ホンダはモノを作るメーカーであり、技術を売り物にしている会社だ。品質が良く、しかも安い製品を社会に提供するのが使命である。だからこそ社長には技術系の人間がなるべきだ」
藤沢の経営哲学の根幹で、営業を得意とする藤沢は、最後まで「ポスト宗一郎」の座を狙わなかった。久米が経営者として育てられていないことは、藤沢ならずとも知っている。
〈あたしは久米に賭けてみたい。あたしの夢はホンダが目に見える形で、業界二位の日産に追い付き、追い抜くことだ。あの男の取り柄といえば頑固さだ。あたしたちにないものを持っている。西落合がてこずっただけあって一本筋が通っている。確かに経営者としては未知数だが、その分可能性を秘めている。
日常の経営は、吉沢に任せればよい。今回の人事では吉沢がやりやすいように、吉沢と肌の合いそうにもない役員は一斉に退かせた。宗一郎の立場が久米で、あたしの立場が吉沢だ。二人は分業してホンダの経営に当たればよい。久米と吉沢という現在考えられる最強のコンビで、日産を追撃できないとすれば、ホンダは永久に業界二位になれない。久米と吉沢なら、あたしたちができなかった夢を実現してくれる〉
河島が社長に就任する直前の昭和四十七年度の売り上げは三千三百億円で、わが国の製造業のランキングでは二十四位だったが、十年後には一兆八千四百億円に膨れ上がり、ランキングも十位に上昇してベスト・テン入りを果たした。河島は社長在任期間に売り上げを五・五倍に伸ばした。ただし河島の功績は単に企業規模を大きくしたことではない。自動車業界でいち早く国際化をはかり、世界最後発メーカーのホンダを世界有数のメーカーに育て上げたことだ。
しかし藤沢はこれに満足しなかった。ホンダが予想以上に大きくなったことで、欲が頭をもたげてきた。モータリゼーション初期の頃の藤沢の野望は、F2のエンジンを積んだ大衆車を開発して、トヨタを追い越すことだった。
この夢は宗一郎の協力が得られず、その後「N360」の欠陥車問題と排ガス規制が表面化したことから「見果てぬ夢」に終わった。この間、トヨタはホンダの手の届かない世界に行ってしまった。
代わって日産がぐっと身近な存在になってきた。日産は派手な海外プロジェクトを打ち上げているが、いずれも成果が出るまでには時間がかかる。ホンダにとって幸運だったのは、日産がホンダの存在感が年々高まっている米国で、乗用車の現地生産に遅れをとったことと、ホンダの弱かった国内販売が海外プロジェクトのあおりを受け、手薄になっていることだ。
連結決算ベースの利益では、すでに日産を追い抜いている。資本主義のもとで企業の最終目的は、売り上げより利益の確保にある。国際化が進展した時代では、単独より連結ベースの数字が重視される。ホンダはその連結決算の利益で、すでに日産を追い抜いていた。その辺の事情は、株価が敏感に反応していた。久米が社長に就任した日の株価の終わり値は、ホンダ九百八十七円に対し日産は七百十円だった。
だが、利益は売り上げと違って不確定要素が大きい。ホンダが利益で日産を追い抜いたのは、米国市場での販売が好調だったことによる。だがひとたび為替が円高に振れれば、利益は激減してしまう。
世間もその辺を承知しており、たとえホンダが連結利益で日産を上回っても、まだホンダをトヨタに次ぐ業界第二位の企業とはみなさなかった。藤沢は企業規模を表す指標で、日産を射程距離に入れたかった。
確実に追い越すことができるのが、米国市場における乗用車販売台数だった。対米乗用車の輸出台数は、過去の実績から割り出されたため、ホンダの割当台数は日産を下回っている。だが、現地生産に際して、日産は小型トラックを選択したことから、オハイオ工場が軌道に乗りさえすれば、自動的にホンダが日産を上回る。藤沢はそれでも満足しなかった。
藤沢が久米に期待したのは、国内販売でも日産を追い抜くことだ。彼は古希を過ぎ、焦っていた。ホンダの経営にタッチして以来「万物流転の法則」にこだわり続け、現役時代には、この法則から逃れるためありとあらゆる手を打ってきた。そして最後にたどり着いたのが日産追撃であった。
〈日産追撃の旗を掲げ、それに向けて走れば、万物流転の法則から逃れられる。久米と吉沢なら必ずやってくれる〉
オートバイでヤマハが“打倒ホンダ”の旗を掲げて、首位獲りに挑んだ。が、ホンダの反撃にあってあえなく挫折、企業存続の瀬戸際まで追い込まれた。ヤマハは調子に乗り過ぎ、虎の尾を踏んだ。ホンダが社内外に向けて、“打倒日産”の旗を掲げれば、いたずらに日産を刺激するだけで、ヤマハと同じ道を歩みかねない。
ホンダがいくら上昇機運にあるとはいえ、日産は歴史が長いだけに蓄積は、戦後無から出発したホンダとは比べようにもないほどある。その辺りの事情は藤沢も子供たちも十分承知している。
「人には誰しも、得意なものと不得意なものがある。それでこそ個性が生まれ、得意分野で活躍し、不得意分野を補い合って生きていくという世の中の仕組みが成り立つ。職場においてもこの仕組みを十分活用すべきである」
[#地付き]本田宗一郎
「車には両輪があるが、企業経営には二つの輪はいらない。私は副社長だったが、社長になった積もりでないと、経営に責任が持てない。ホンダがうまくやって来れたのは、お互い自分が出来ない分野を知っていたからだ」
[#地付き]藤沢武夫
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昭和四十一年に日産がプリンスを吸収合併したのを最後に、日本の自動車産業で“合併”という言葉は死語になった。それでも生き残りという観点からみると、モータリゼーションが進展して以降、三つのターニングポイントを経験している。
最初が四十年代半ばに実施された資本の自由化。中堅メーカーは生き残り策として外資提携を選んだ。三菱重工業は自動車部門を分離してクライスラー、いすゞはGM(ゼネラル・モーターズ)、マツダがフォードという具合に、三組の外資提携企業が誕生した。
巨大外資と手を組んだことで「生き残りが保証された」という安堵感が広がったが、その後、欧米先進国を中心に日本車がもてはやされるようになると、今度は一転して提携見直し論が出始めた。根底には「外資と提携したことで発展が阻害されているのではないか」という被害者意識があった。
典型的なのが三菱自動車とクライスラーの関係だった。三菱は米国市場で日本車がこれまで売れるとは思わず、三菱車の販売権をクライスラーに与えてしまった。その後の粘り強い交渉で、この不平等契約は改定されたが、米国の市場開拓はトヨタ、日産どころかホンダにも大きな遅れをとってしまった。
五十四年に提携を発足させたマツダも、その直後にフォードが経営不振に陥ったことから、苛立ちを募らせていた。五十九年暮れに社長に就任した山本健一は機会あるごとに、「マツダがフォードに小型車作りを教えてやる」と広言したため、両社の関係はギクシャクした。
いすゞとGMの関係は比較的穏便だったが、それでも社内には、GMに対する不満がくすぶり続けた。
三社とも外資と提携したため生き残りのキップを手に入れたが、その後の日米自動車産業の変遷を反映して、三社の提携関係は大きく変質してしまった。
八〇年代後半から再び経営危機に陥ったクライスラーは、資金調達の一環として米の合弁工場を解消したのみならず、三菱自工本体の持ち株を全株売却してあっさり資本提携を解消してしまった。クライスラーは売却資金を「ネオン」を始めとする新車開発に注ぎ込み、経営の立て直しをはかり見事成功した。三菱も自主独立の精神が芽生え、国内市場ではホンダに代わって日産追撃の一番手に立った。
三菱と逆になったのがマツダだった。マツダはバブルの最盛期に国内でトヨタ、日産と並ぶ五系列の販売体制を築いたが、これが裏目に出て経営危機に陥った。デトロイト郊外にある米現地工場の株式の半分をフォードに渡すとともに、運営もフォードに委ねることになった。本体の再建もフォードの人間を代表権を持った副社長として受け入れ、現在フォード主導で進めている。フォードの持株比率は以前と変わらないが、マツダはフォードの世界戦略に完全に組み込まれた。
いすゞは昭和五十年に経営危機に陥った際、国内の販売金融会社をGMに売却、さらにその後、GMを引き受け手とする時価転換社債を発行したことからGMの実質的な持ち株比率は三四・二%から四〇%に高まった。これで名実ともにGMの傘の下に入ったかに見えたが、九〇年代に入りGMの業績が悪化するや、今度は逆に販売金融会社の持株や転換社債を放出することで、持株比率を三七・五%までに引き下げた。外資提携三社の動向は、企業は生き物であることを証明している。
二番目のターニングポイントは、排ガス規制問題だった。排ガス規制では車種の多いトヨタ、日産は窮地に追い込まれたが、それ以上に軽自動車の専業メーカーは、企業存亡の危機に立たされた。
二サイクルの軽自動車の専業メーカーだったスズキは、排ガス規制を達成できず、最終的にはライバルのダイハツから四サイクルの技術供与を受けて何とか乗り切った。スズキはこれを機に小型車部門へ進出をはかった。
日本独自の規格によって作られた軽自動車、とりわけ乗用車は、排ガス規制の達成が難しいうえ、輸出が出来ないことから、ホンダとマツダは早々と見切りをつけ撤退してしまった。つれて国内需要もジリ貧になった。最盛期の四十五年には七十二万台を記録した販売は、五十年には十五万七千台まで落ち込んでしまった。その後も年間十二万─十九万台で低迷した。
モータリゼーションの進展を促進させるという歴史的な使命を終えた軽乗用車が息を吹き返したのは、年号が昭和から平成に変わってからだ。平成元年は実に前年に比べ二・五倍の三十九万二千台と急増した。軽の快進撃はその後も続き、翌二年が七十九万六千台を記録、二十年振りに過去最高記録を塗り替えた。そして三年には八十四万台となった。軽自動車メーカーは完全に復活、それどころか一度撤退したホンダとマツダが再参入を果たした。
軽自動車が復活したのは、排気量が三六〇ccから五五〇cc、さらに六六〇ccへ拡大されたことに加え女性ユーザー、とりわけ経済力をつけた若い女性と地方での需要が急増したことにある。ファミリーバイクで自分で運転する面白さを知った女性ユーザーが、今度は軽自動車に乗り換えた。
三番目のターニングポイントは国際化。日本車メーカーが二十一世紀に向けて生き残るには、国際化は避けて通れない。国際化の試金石は何といっても米国現地生産にある。それを自覚してかトヨタは、GMとの提携に続いてケンタッキー州に単独進出を決めた。マツダ、三菱、スズキの三社は、資本提携先と連携する形で現地生産に踏み切った。
いすゞと富士重工業の二社が取り残されたが、両社は資本系列の枠を乗り越えて共同生産に踏み切った。これで対米輸出八社の現地生産が出揃った。
米国現地生産は国際化の第一歩でしかない。日本メーカーは米国生産を軌道に乗せた後、EC(欧州共同体)の市場統合を前提に欧州に挙って進出した。国際化の行き着く先は多国籍化にある。海外でどう生きてゆくか。さらには国内市場の国際化にどう対処するか。九〇年代の自動車産業は八〇年代以上に激動が予想された。
「おれはオオカワ(河島)を育てるから、おめえさんはアメカワ(川島)を育ててくれ」
宗一郎と藤沢はホンダがまだ中小企業だった時代、酒を酌み交わしながらこう約束し、宗一郎は河島を一人前の技術者に育て上げ二代目社長に据えた。藤沢は川島に経営を教え込み、河島の補佐役に付けた。そして河島は久米を育て、川島は吉沢を教育した。
ホンダの経営は二人の創業者を第一世代とすれば、集団指導体制を定着させた河島を中心とした世代は、第二世代にあたる。河島時代の前半は、四専務時代の名残で白井孝夫、川島喜八郎、西田通弘の三人、後半は会長の杉浦英男と岡村昇、篠宮茂、鈴木正己の三副社長が支えた。補佐役は櫛の歯が欠けるように、一人ひとり静かに去り、代わって新しい歯が生える。
久米新体制で杉浦、岡村、篠宮の三人は残留したが、早晩経営の表舞台から去ってゆく。新しい歯として最初に頭角を現したのが吉沢だった。ホンダのオートバイを米国市場に定着させたのが川島とすれば、四輪車を売り込んだのが吉沢だ。HY戦争では国内二輪車本部長として采配を振るい、ホンダを勝利に導いた。藤沢はこれまでの吉沢の実績に目をつけ、久米の補佐役に起用した。
久米の欠点は研究所生活が長すぎ、経営者としての帝王学を身に付けていなかったことにある。久米は昭和二十九年に入社、研究所が本社から分離・独立すると同時に転籍、研究所の取締役、常務、専務を経て五十二年に社長に就任した。研究所の場合、仕事の中心は役員といえども技術開発である。
本社のボードメンバーになったのは五十四年。それもいきなり専務に就いたが、担当は開発だから、仕事場は引き続き研究所である。原宿の本社にはめったに顔を出さない。入社以来三十年近く、経営とは無縁の研究所暮らしを続けてきた。
同じ技術者でも河島や杉浦は、欠陥車騒動で批判の矢面に立たされ、それを乗り切った体験を持っている。排ガス問題では社会との対話を通じ、経営者としての必要最低限の条件を身に付けてきた。久米にはこうした経験がない。あるのはF1のマシン設計であり、ホンダに発展をもたらした四輪車の開発である。
藤沢に誤算があったとすれば、河島が米国進出とBL(ビー・エル=旧ブリティッシュ・レイランド、現ローバー)提携を決めたあたりから、健康に自信を失い始めたことだ。河島は「N360」を発売する直前にストレス性の胃かいようで、胃を全部摘出している。今回はその周りに腫ようができた。悪性であれば、直ちに手術しなければならない。
「どうもお腹のあたりに、できものができたみたいだ。酒を飲んで流せば、治るかもしれない」
河島は杉浦など親しい仲間に、冗談まじりに非科学的なことを漏らした。しかし病気の不安からは解放されず、日に日に酒量が増えていった。
〈万が一、悪性の病気だったら会社に迷惑をかけることになる〉
河島は心の中では十年を区切りに五十五歳で勇退する肚を固めた。
藤沢にすれば、河島がせめてあと一期二年社長を務めてくれれば、久米を社長に上げる前に四輪本部長といった要職に就け、経営全般を勉強させることができるという思いがあった。その間、補佐役の吉沢を研究所の社長に据え、技術の勉強をさせることができる。
しかし河島が社長業に疲労こんぱいし、さらに健康に自信を失っては、藤沢の力を持ってしても引き止めることもできなかった。
「久米を原宿の本社に上げろ。担当なんかいらない。とにかく経営の勉強をさせろ」
藤沢の鶴の一声で、五十七年に入ると久米は半ば強制的に、本社勤務を命じられた。久米は一年前に研究所の社長を退いていたが、後任の社長が本社副社長の杉浦の兼務とあって、毎日出社できない。久米はそれをいいことに引き続き研究所にきてはクルマ作りの陣頭指揮をとっていた。
久米は本社に通勤するようになってから、一風変わった生活を送った。彼には大部屋の役員室とは別に、個室が与えられた。担当がないから、役員会や専務会がないときは、自分の机の前に座り一日中、窓から空を見上げて過ごした。久米は社内では「久米専務」を略して「クメセン」と呼ばれていたが、それがいつの間にか「久米仙人」に変わった。
「宮本武蔵が白鷺城に幽閉されたように、久米仙人も原宿の本社に幽閉されている」
こんなうわさが冗談話として社内を駆け巡った。
果たして久米仙人に社長が務まるのか。ポスト河島で苦言を呈した中村は、久米の前途を危惧した。ともあれ久米は帝王学を学ばないまま、ホンダの三代目社長に就任した。
電撃的な社長交替から三日後の鈴鹿サーキット。降りしきる雨の中、一万人を超える“ホンダの子供たち”が、中央スタンドを埋め尽くした。久米は演壇の前に立ち、「新米社長の久米です」と切りだし、スタンドの笑いを誘い出して、社長就任の第一声を放った。
「ホンダは過去十年間、二度の石油危機を乗り越え、急成長を遂げてきました。これからも、かつて経験したことのない荒波が待ち受けているかも知れません。しかし今の若さとバイタリティーがあれば、必ず切り抜けられると思います」
それを引き取り、宗一郎が型破りな挨拶をして締め括った。
「おれも河島もいい加減な男だった。久米も同じだ。いい加減な男がトップにいるのだから、その分みんなで頑張ってカバーしてやってくれ」
日産に追い付き追い越すことが、藤沢から久米に与えられた課題だった。相手はトヨタに大きく引き離されたとはいえ、自動車業界の一方の雄である。まともに戦いを挑んで絶対に勝てる相手ではない。勝てる方策はたった一つ。局地戦を重ね、そこで勝利を積み上げていくことだ。日産追撃の最初の局地戦は米国市場が舞台となった。久米も吉沢も米国での販売に自信を持っていた。
〈日産は自動車摩擦の本質を見誤った。米現地生産で小型トラックを選んだのは、乗用車の生産に自信がないというより、キャブシャシー(荷台のない車体)の輸入関税が小型トラックと同じ二五%に引き上げられ、それへの対応を優先したのだろう。しかし輸出自主規制は、どうみても三年では終わらない。日産に限らずトヨタにしても、早晩、乗用車の現地生産は避けて通れない。相手がもたもたしているうちに、米国市場で磐石な基盤を作っておこう〉
オハイオ乗用車工場の建設は順調に進み、ヤマハとの“HY戦争”が天王山にさしかかった五十七年十一月に第一号車のラインオフ式に漕ぎつけた。工場の開所式はHY戦争が終結し、雪が解けた翌五十八年四月二十五日に盛大に行なった。式典にはホンダに誘致を働きかけた前オハイオ州知事のジェームズ・ローズ、現知事のリチャード・セレステなど州政府、連邦政府関係者、協力部品メーカー、取引先など五百人が招かれた。
オハイオの乗用車工場は埼玉の狭山製作所がマザー工場となっており、ホンダの最新鋭技術を駆使して建設した。ビッグスリーの工場はプレス工場と組み立て工場が別々になっているが、オハイオ工場は日本式にプレスから組み立てまでの一貫工場とした。さらにプレス機械も、通常であれば五台置くところを、四台に減らすことで生産効率を上げ、年産十五万台でも十分採算が合うよう随所に工夫を凝らした。
工場で働く従業員全員がズブの素人ということもあり、五十八年の生産台数は五万七千台に止め、一年後の五十九年の後半に入ってから、年産十五万台ペースのフル生産に入ることにしている。当面の目標は量を追うより、品質の面で狭山製作所に負けないアコードを作ることだ。
この目標を達成するため部品の現地調達率(ローカルコンテント)は、従業員がクルマ作りに慣れるまでに時間がかかりそうなことや、米国産部品の品質管理や技術水準の不安を勘案して、当初は無理をせず三〇%からスタートすることにしていた。
ビッグスリーの再建に側面から援助する目的で、日本車の輸出自主規制は五十六年度からスタートしたが、その直後にインディアナ州選出の民主党の下院議員フィシアントが、日本メーカーの現地生産の国産化比率を、最大九〇%義務づける決議案を議会に提出した。
日本が輸出規制に踏み切ったにもかかわらず、日米自動車摩擦の火種は依然としてくすぶり続けている。ホンダとしては現地生産に踏み切ったからといって安心しておれない。そこで摩擦の再燃を未然に防ぐため、生産工程の見直しを進め、部品の現地調達比率を五〇%に引き上げることを決めた。
乗用車の対米輸出枠は、二年目も三年目も結局見直されることなく、百六十八万台のまま継続された。肝心の規制もホンダの予想通り、三年で撤廃されず、五十九年度は規制枠を百八十五万台に引き上げることを条件に継続することになった。六十年度以降はさらに二百三十万台に拡大された。規制は日本車メーカーが現地生産に踏み切ったことで、有名無実化したにもかかわらず、平成五年度まで実に十三年もの長い間続いた。
日本車メーカーは輸出規制の影響を最小限に食い止めるため、輸出車種を徐々に大衆車から高級車へ転換する一方、毎年大幅な値上げに踏み切った。ビッグスリーも追随値上げしたため、いくら日本車が高くなっても割高感はない。規制はいつの間にか値上げのためのカルテルと化してしまった。
日本車の中でもホンダ車は売れに売れている。オハイオ工場で生産を始めた二代目「アコード」は爆発的な人気を博した。アコードの特徴はFF(前置きエンジン、前輪駆動)式によるコンパクトな車体、静かでパワフルな四気筒横置きエンジン、五段変速のトランスミッション、一ガロン当たり三〇マイルを超える燃費効率の良さ、一台八千五百ドルを下回る低価格。ビッグスリーのこのクラスの車は、どの点を取り上げてもアコードにかなわなかった。
アコードには一千ドルどころか、二千ドルのプレミアムが付いた。それでも飛ぶように売れる。この時期為替が一ドル=二五〇円台の円安に振れたこともあり、トヨタ、日産、ホンダの対米輸出大手三社は米国市場だけで、合わせて年間一兆円もの利益を上げた。
このあぶく銭ともいうべき金を三社は何に使ったか。トヨタは国内販売強化に注ぎ込んだ。トヨタは五十七年七月に念願の工販合併を果たし、社内を引き締めるため乗用車で国内シェア五〇%の目標を掲げた。
最初はだれもが信用しなかったが、トヨタの恐ろしさは有言実行にある。豊富な資金を武器にディーラーの尻を叩き、六十一年十月には五三・五%と本当に達成してしまった。さすがにこの時は業界でひんしゅくを買ったことから、その後自粛したが、同業他社はトヨタの底力をまざまざと見せつけられた。
その一方で積極的に内部留保を充実させ、工販合併時には一兆円だった余裕資金は、平成元年六月期には二兆二千四百九十六億円にふくらんだ。
「うちは半年運動会をやっていても大丈夫」と豪語したのは“トヨタ中興の祖”とされる石田退三だが、そのケチケチ精神を受け継いだ元会長の花井正八は「トヨタに二兆円の余裕資金があれば、多少の経営ミスがあっても傾くことはない」と二兆円達成を悲願にしていた。
ライバルの日産は、一部を弱体の国内販売に使ったが、中身が地場資本からの販売権返上に伴う買い取り資金で、直接販売の増強に結び付かない。米国で上げた利益の大半を海外プロジェクトに投じた。
それではホンダは何に使ったか。対米輸出自主規制後、ホンダに割り当てられた輸出枠は三十六万台。その後、規制枠の拡大に伴い四十万台、続いて四十五万台に引き上げられた。これに現地生産の十五万台を加えても、なお需要に応じ切れない。現地ディーラーの希望を満たすには、現地生産の拡張しかない。
GMと提携したトヨタは合弁会社(NUMMI=ニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチャリング)の製品を全量、GMに供給することになっており、単独で工場を建設しない限り、シェアを伸ばすことができない。
〈第一号車をラインオフしてから一年が経つ。米国の労働者の質は思ったほど悪くはない。現地調達率も順調に向上している。今ここで増設に踏み切れば、こと米国市場では日産のみならず、トヨタの上をいくのも不可能ではない〉
久米と吉沢はこう考えた。
国内市場でトヨタ、日産に次ぐ業界第三位の座を争っている三菱は、クライスラーとの契約が足かせとなり、対米進出が遅れ輸出台数も少なかったが、それなりの恩恵に浴した。三菱はこのお金を国内販売網の整備に投じた。結果的にはこの努力がバブルが崩壊した後に実り、三位の座を不動のものにするとともに、日産追撃の原動力となった。
2
久米が社長に就任して間もなく、オハイオ工場の拡張を決断し、五十九年の新年記者会見で発表した。
計画の骨子はオハイオ工場に六十一年完成を目標に、もう一本の組み立てラインを新設して、アコードの生産規模を年産三十万台に引き上げ、同時にカナダに年産八万台の乗用車工場を建設するというものだ。完成すればホンダ車の米国市場への供給能力は、現地生産と日本からの輸出、さらにカナダからの輸出を含めると年間七十万台を上回る。
ホンダはすでにオートバイ、同エンジン、乗用車、芝刈り機などの工場を建設、累計三億ドルを投資している。乗用車工場の増設と並行して、四輪車用のエンジン工場の建設も検討しており、追加投資はカナダ工場も含めると五億ドル近くに上る。米国の利益は本社に送金せず、アメホンにプールしてあるので資金面の心配はない。
長期的にみて問題があるとすれば、販売力である。確かに現在は売れに売れている。だが工場の増設が完成するのは二年後である。その時までブームが続いているとは限らない。前社長の河島の言葉を借りていえば、当面の課題は一日も早く「生産を上回る販売力をつける」ことだ。
ホンダ車を扱うディーラーは、全米に八百店あるが、これだけでは年間七十万台を売りさばくのはどう見ても困難である。ビッグスリーの系列ディーラーは、大型車中心ということもあり、一店当たりの年間販売台数は平均百─三百台だが、ホンダは効率を重視して五百─六百台を目標にしている。単純に計算すれば、オハイオ工場の第二ラインがフル稼働するまでに、ディーラー数を千二百店に増やさなければならない。
米国市場で「HONDA」のブランドイメージは、すでにトヨタや日産を上回っており、ディーラーを募るのはそれほど難しくない。といってやみくもに増やしても意味がない。既存の八百店のディーラーは、いわば「アメリカン・ドリーム」の体現者である。
アメホンにすれば、ホンダ車を販売して得た利益を再投資させなければ、ホンダの長期的な発展につながらない。ところが肝心のディーラーは、慢性的な玉(製品)不足から再投資の意欲を失っていた。といって大掛かりにディーラーを募集すれば、既存ディーラーから既得権の侵害と反発される。
そこで既存ディーラーに再投資させる目的で第二販売網の新設を考えた。六十一年にはBLと共同開発した「XX」と呼ばれる高級車の「レジェンド」を米国市場に投入することを決めている。ただし大衆車から高級車まで、一つのディーラー網に流すのはリスクが大き過ぎる。
ホンダに発展をもたらした「アコード」は爆発的に売れ、ホンダの急成長を象徴する「フラッグシップ・カー」の地位を不動のものにしていた。ここにレジェンドを流せば、アコードはフラッグシップ・カーの座を滑り落ちる。そうなれば販売が落ち込む恐れがある。
GMはシボレー、ポンティアック、オールズモビル、ビュイック、キャデラック、GMC(トラック)、サターンの七系列、フォードはフォード、リンカーン・マーキュリーの二系列、クライスラーもプリムズ、ダッチ、イーグルの三系列を持っている。
年販七十万台という数字は、こと乗用車に関していえば、クライスラーと肩を並べる規模だ。ホンダの第二販売網構想は、自然の流れであり一石何鳥かの効果がある。新しい販売チャンネルは「アキュラ」と名付けられた。
アキュラの最大の特徴は、ディーラーの隅から隅まで見渡しても「ホンダ」の名前がどこにもないことだ。それどころかクルマにも「HONDA」のプレートが付いていない。販売する車は高級車の「アキュラ・レジェンド」であり、“ヤング・アコード”として「シビック」をベースに米国の研究部隊が中心となって開発した「アキュラ・インテグラ」である。
ホンダの名前を外すことについては、アメホンの社内で大激論があった。ホンダの名前を外したのは、米国の自動車業界に一〇マイル以内に同じメーカーの看板を掲げたディーラーを作らないという「一〇マイル規制」があったためとされているが、アメホンはこの規制と関係なく、第二販売網構想を進めた。
「アキュラ店がベンツ並みの効率を重視した販売政策を取ろうとすれば、ユーザーにニューカマーの印象を与えた方が得策ではないか。HONDAのプレートを入れればイメージが固定され、それ以外にもいろんな点で制約がつきまとう。それならむしろHONDAを消した方が、アキュラ店の将来展望が開ける」
ホンダの名前を消すことを最初に提案したのが、ホンダの歴史と伝統ばかりでなく、宗一郎の存在を知らないアメホンの若い米国人社員だった。
これを聞いたアメホンの経営幹部は「青天の霹靂」とばかりびっくり仰天した。「HONDA」は、本田宗一郎とは切り離されたブランドになっているが、“ホンダの子供たち”にとっては依然として「ホンダ」イコール「宗一郎」である。ホンダ車からホンダをとるということは、本田宗一郎を否定することにつながりかねない。が、米国人社員の意見を聞けば聞くほど、ホンダの名を外した方がメリットがある。
問題はそれをだれが、どういう理由を付けて宗一郎に説明するか。宗一郎は日常の経営に一切口出ししないが、経営の根幹に関わることについては了解を得なければならない。
「本田さん、アメリカの第二販売網にはホンダの名前は付けないよ。付けない方が売れるからね」
藤沢が経営の第一線におれば、こう言って引導を渡したであろう。しかし子供たちにはそれができない。ましてや名実共に経営の表舞台から退いた藤沢に依頼することもできない。
もたもたしているうちに時間だけが過ぎていく。宗一郎の長男、本田博俊がみかねて猫の鈴付け役を買って出た。
「親父、アメリカの第二販売網のアキュラはホンダの名前は付けないらしいよ。アメリカでホンダといえばまだ経済車のイメージが強い。アキュラではそれを払拭して新しいイメージを作るらしい。みんなが親父のことを心配して、言いにくいみたいなのでおれが代わりに言うよ」
博俊は宗一郎が買収したハワイのゴルフ場の「パールカントリー」で一緒にプレーしているときに何気なく言った。
「そうか。アメリカでホンダの名前が消えるのか。ホンダはおれだけの会社じゃない。しかしホンダの名前を外して本当にやってゆけるのか。おれはそれが一番心配だ」
子供たちはクルマとディーラーからHONDA(本田宗一郎)の名が消えることで、宗一郎が激怒しないまでも、寂しがることを恐れた。逆に宗一郎は、ホンダの名がなくなることで、ホンダの将来が危うくなることを危惧した。
紆余曲折の末、アキュラ店はスタートした。米国市場では具体的な旗印を掲げていないが、ホンダが密かに米国市場で狙っていたのが、年販百万台である。目標を達成するにはもう一つ工場を作らなければならない。実現は容易でないが、といって決して不可能な数字でもない。
百万台を達成すれば、トヨタを追い抜くどころかクライスラーをも抜いて、ホンダがGM、フォードとともに米国で“新ビッグスリー”を形成することを意味する。ホンダにとって米国市場は、大航海時代の新大陸の発見に相当する大市場であると同時に、確実に第二の故郷になりつつあった。
米国に強力な基盤を築いたホンダの次なる課題は、国内販売の強化である。トヨタと日産に「わが国最大手の……」という形容詞が付くのは、日本国内で確たる地盤を築いているからにほかならない。ホンダ車のブランドイメージが米国市場で急速に高まり、仮に販売台数でトヨタ、日産を追い抜いたとしても、国内では依然としてマツダ、三菱とともに、三位グループを形成する一社でしかない。
米国市場は開かれた市場で、しかも奥行きが深く、やり方次第ではいくらでも伸ばせることをホンダが証明した。
対照的に国内市場は、依然として閉鎖的である。トヨタの国内販売の強さの秘密は、戦後の混乱期にいち早く、地方豪族ともいうべき全国各地の資産家に自動車産業の将来性を説き、トヨタのディーラーになってもらったことにある。起業家精神が旺盛な地方の資産家は、トヨタ車を売りまくった。
日産はこのディーラー網の整備が遅れ、常に二番手の資産家しか掴めなかった。マツダ、三菱は三番手、四番手で、ディーラーはトヨタとの販売競争に敗れると、メーカーにあっさり販売権を返上してしまう。するとメーカーが資本を肩代わりすると同時に社長を派遣する。サラリーマン社長だから本社の意向は反映されるが、どうしても本社の方を向いて仕事をするので、バイタリティーに欠ける。この違いが少なからずシェアの違いになって現れた。
ホンダの販売網はオートバイの販売が中心だった街のモーター屋を再編成して、業販店に衣替えさせて作り上げた。数は多いが販売エリアが決まっておらず、一店当たりの販売台数も少ない。
軽自動車を販売しているうちはまだしも、流行に敏感な乗用車を売るには、ショールームのないような店では人が寄りつかない。それ以前に販売車種が増えてくると、販売店は新車を売るのに夢中になり、既存車種は目に見えて落ち込んでしまう。
そこで五十三年十一月、小型スペシャリティーカーの「プレリュード」の発売を機に、トヨタ、日産の系列店と同じように、PMA(プライマリー・マーケット・エリア)制を導入、責任販売地域を設定した「ベルノ店」を新設した。
地域の百貨店、ガソリンスタンドなどの地域資本家の二世経営者が、ベルノ店に馳せ参じた。彼らの狙いは、ホンダのディーラーになることで、ホンダの若いイメージと自動車の営業ノウハウを吸収することにあった。
ベルノ店は「ホンダ自動車販売」構想が崩れて生まれた販売網である。ホンダは国内販売で、日産に対し激しいライバル意識を燃やしていたが、逆にトヨタのやり方を盲目的に信頼していた。歴史的ないきさつはともかく、トヨタがガリバー型のシェアを占めることができたのは、工販が分離しているからだと信じていた。四輪車販売のノウハウがないホンダにすれば、トヨタが格好の先生である。先生の真似をすれば、日産追撃は決して夢ではない。
「トヨタのシェアが高いのは、商品力もさることながら、工と販が分離していることにあるのではないか。工と販の労働条件は違って当たり前だ。組合が一緒ならどうしても生産部門に合わせなければならない。すると販売部門もそれに引きずられる。これでは思い切った販促活動ができない」
生産と販売を分離する案は、副社長の川島喜八郎が中心となって、四十八年から三年の歳月をかけ具体的な検討に入ったが、最終的に実現しなかった。社長の河島が生産、開発だけでなく、分離した販売会社まで目を光らすのは難しいと判断したためだ。
藤沢も河島と違った意味で、懸念を持っていた。工販を分離して、愛弟子の川島をトップに据えれば、国内販売は間違いなく強化される。ただ時間が経つにつれ、ホンダが二つの会社に割れてしまうのは避けられない。藤沢はそれを恐れた。
「ホンダ自販」構想は、日の目を見なかったが、長い間時間をかけて検討した蓄積が残っていた。それを生かして設立したのがベルノ店だった。計画では三年後に年間十万台を見込んだが、順調なスタートは切れなかった。
「つぶれシビック」の異名を持った初代「プレリュード」は、スポーティー性を売り物にしたにもかかわらず、まだ触媒を採用していなかったことからドライバビリティ(運転性能)に問題があった。触媒採用の遅れの最初の犠牲者がベルノ店だった。
売るべき車が一車種しかなく、肝心のクルマの評判が今一つとあれば、ディーラー経営は成り立たない。勇んでベルノ店に参加した地域の資本家は、次々とディーラー権を返上してしまった。軌道に乗ったのはアコードの姉妹車の「ビガー」と五十九年に二代目プレリュードを投入した以降である。
日本の自動車販売は、セールスマンが一軒一軒家庭を戸別訪問して売る訪問販売が主流となっているが、ベルノ店は再建に際して米国のような店頭販売制を取り入れた。といってただ単に、店にお客が来るのを待っていただけでは売れない。集客の手段として、アメリカで大成功したCS(顧客満足度調査)と徹底したユーザー管理を採用した。
販売網作りはスタート当初大都市を先行させ、ようやく久米が社長に就任した五十八年に百六社、二百十拠点まで拡大した。触媒装置を使った二代目プレリュードの大ヒットと併せて、CSとユーザー管理が定着したことから、ベルノ店もようやく軌道に乗り始めた。
ホンダの軽トラックを含めた総販売台数は、ベルノ店を発足させた五十三年は二十五万四千台だったが、五十八年には四十万四千台と、五年間で五九%増加した。軽自動車を含めた国内販売シェアも五・八%から七・五%へ上昇した。
この間、仮想敵国というべき日産は、百十四万台から百十万台と減少、トヨタは百五十一万台から百五十九万台へ微増したにすぎない。国内販売の規模は、まだトヨタの四分の一弱、日産の三分の一強だが、五年前にはトヨタの六分の一、日産の四分の一だったことを勘案すれば、予想以上に健闘したともいえる。
トヨタ、日産に負けない車を開発するのは久米の責任だが、売りまくってトヨタ、日産との格差を縮小するのは吉沢の仕事である。
〈国内販売でも日産に追いつき、追い越したいという六本木の夢は、どうしたら実現できるか。現状のホンダ店とベルノ店だけでは、日産をとらえるどころか、シェアを二ケタに乗せるのさえ無理だ。国内で日産を追撃するにはもう一チャンネル増やさなければならない。しかしベルノ店で一度失敗しているだけに、いまさら新規にホンダのディーラーをやってみようという篤志家はいるだろうか。ここはホンダ店を割るよりしようがない〉
ホンダ店を割るというのは、単純に二つに分けるという意味ではない。二千社に及ぶホンダ系列の中から、比較的規模の大きいディーラーを対象に、軽自動車を扱わない小型車だけを売るディーラーを選び出すのである。
ある意味では分割は、当然の帰結でもあった。無から出発したホンダが大飛躍のきっかけをつかんだのは、排気量五〇ccの小型オートバイ、「カブ」の拡販に際し、藤沢のアイディアで全国の五万五千軒の自転車屋に直接手紙を出し、一万三千の販売店を組織化したことにある。
軽自動車の「N360」の時も同じ手を使い、全国のオートバイ屋、自転車屋、自動車修理工場にDMを出した。その中から二万五千軒を選び出し、卸業務と小売業務、二輪と四輪を切り離した独自の「業販システム」を作り上げた。
こうしたやり方を見て、トヨタ、日産は舌を巻いた。
「藤沢というのは実に恐ろしい男だ。われわれが思いも付かなかったやり方で市場開拓をはかる。ホンダは藤沢が健在な限り油断ができない」
ホンダの四輪販売網は、ホンダ店とベルノ店の二系列になったが、従来からあるホンダ店は前身や販売地域の違いから企業規模がバラバラだった。そこで社内では便宜的に販売台数によってL店、B店、M店、G店の四段階に分けた。
新販売網は販売台数の最も多いL店の中で、登録業務ができることを前提に、ショールームのほかに認証整備工場を持っている、中古車の販売・処理能力が充実している、一店当たり五人以上の営業マンがいる――などの販売店を百社ほど選び「クリオ店」として新発足させた。
さらにB、M、Gの各店も就業規則があることや月次決算を出しているなどの面から選別をはかり、条件を満たしたディーラーを「プリモ店」として新たに組織、条件を満たせなかった販売店はサブ・ディーラーに格下げした。
クリオはギリシャ神話に出てくる「女神」の名前、プリモは「最初の」「第一の」という意味である。選別、分離の作業は五十九年までに終了した。これでホンダの販売網は三系列となり、国内市場での日産追撃の体制を整えた。
三チャネル体制の基盤を作ったのは、藤沢から直接販売の薫陶を受けた最後の世代ともいうべき副社長の鈴木正己と小林隆幸だった。二人は三チャネルの基盤を作って、吉沢にバトンタッチして第一線を去った。
ホンダの三代目社長、久米是志は昭和五十九年六月二十四日、就任後初の株主総会に臨んだ。総会を仕切る議長はこれまで社長が務めていたが、研究所育ちの久米がこうした儀式に慣れていないことに加え、改正商法下での初の株主総会ということもあり、今回から議長は会長が務めることになった。
株主から事前の十七通の質問状が出されており、久米が約一時間かけて懇切丁寧に答えた。質疑応答でも総会屋らしき株主が次々と質問に立った。議長の杉浦が開会を宣言してからすでに三時間半以上経過した。総会が混乱して長時間になったわけではない。総会の雰囲気は和気あいあいであった。
最後の議案となった役員の退職慰労金の議案に入ると、宗一郎の人柄を反映したような発言が飛び出した。
「創業者の本田宗一郎さんが、取締役を退任されるのは実に寂しい。慰労金をたくさんあげてやってくれ」
宗一郎と藤沢は前年の秋に取締役を退任しているため壇上にはいない。宗一郎は株主席の一番前に陣取っていたが、この発言を受けて壇上に登り、最後の挨拶をした。
「株主の皆様方の有り難いお言葉に感謝します。株主や役員の皆さんとここまでやってこれた感激を死んでも、あの世まで持っていきたいと思っております」
宗一郎は株主の笑いを誘う型破りな挨拶をして満場の拍手を浴びながら、経営の表舞台から去った。宗一郎と藤沢の創業者の時代はこの瞬間に終焉した。
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株主総会の翌日、米国製造会社のHAM(ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング)の社長に就任した入交昭一郎はオハイオに飛んだ。入交はヤマハとの“HY戦争”が一段落した一年前の五十八年春に、研究所を離れ鈴鹿製作所の所長に転じた。入交にとって工場勤務は初めての経験である。毎朝、六時前に出社して工場の隅々まで見て回り、自分の知らないことがあれば、従業員に遠慮会釈なく質問した。
「毎朝、見回りにくる男は一体何者だ」
謎の男は工場で大きな話題になったが、自分たちのボスであることが分かるまでには、そう時間はかからなかった。何事にもせっかちな入交は、生産現場で何が起きているかをすぐにでも知りたかった。毎朝の工場回りは欠かさず、夜は夜で九時、十時までデスクワークに追われた。
その一年後にホンダが最重点戦略と位置づけているオハイオ工場の最高責任者、HAM社長の内示が出た。社内ではこの人事を見て、入交の帝王学が最後の仕上げに入ったと読んだ。
入交は三十九歳で取締役に就任して以来、北米担当という職務から、それまでも何回となくオハイオ工場には足を運んでいる。それから五年が過ぎ、工場は大きく変わっていた。正面玄関のある二階建ての本社事務棟に隣接しているオートバイ工場の生産は、すでに軌道に乗り日本に輸出している。事務棟と地下道でつながっている乗用車工場もフル稼働し、その横で第二ラインの建設準備が着々と進んでいる。
入交は出社するや、経営幹部への挨拶もそこそこに工場に飛び出してラインを見て回り、従業員に直接話しかけ、生産システムについて意見を交換した。入交の行動は瞬時にして全従業員に伝わった。
米国の企業社会では、工場で働く従業員と社長が直接話す機会は皆無に等しい。にもかかわらず従業員の関心は「今度のボスはどんな人だろう」という点に集まる。工場には毎日何十人という新規採用者が続々やってくる。HAMにようやく慣れた人、入ったばかりで戸惑っている人、従業員の間では期待と不安が混在していた。
「今度のボスは、どうやらわれわれの仲間だ。その証拠に着任したその日に、われわれの職場を見てくれた。新しいボスのために一生懸命がんばろう」
入交はこうした従業員の心理状態を計算して行動したわけではない。鈴鹿製作所で一年間、毎朝工場を回ったとはいえ、工場の運営に携わったのはその期間だけである。まして今度は、ホンダの将来を左右する海外の工場である。不安がないといえばウソになる。その不安を少しでも取り除くため、着任早々工場に飛び出したのだった。
こうして入交は、オハイオ工場に着任したその日のうちにヒーローになった。
「私は決してあなた方のボスではない。われわれのボスは顧客だ。私たちには顧客がいることを決して忘れてはならない。したがってこれから私を『プレジデント・イリ』ではなく、気さくに『ミスター・イリ』と呼んでほしい」
「ホンダは技術指向の会社だ。この方針は今後とも変わらない。ホンダには世界に五万人の従業員がいる。その中でエンジニアは一万人いる。さらに売り上げの五%を研究開発費に注ぎ込んでいる。こと技術に関しては優秀な会社であると信じてもらって構わない。といってホンダの財産はこうした技術ではない。あなた方、つまりホンダで働いている人が最大の財産だ」
「私は永年、オートバイレースに携わってきた。レースには出場する以上、勝たなければならない。勝って勝って勝ちまくって、チャンピオンを目指すのがレースだ。ただしレースに勝つには、速いレーシングカーを作るための装置が必要だ。最良のドライバー、最良のメカニック、最良のマネージャーも欠かせない」
「これをホンダの経営に当てはめれば、装置は工場にあたる。それだけでは良い車は作れない。装置や設備を動かす人がいなければならない。それがここで働くあなた方だ」
数日後、入交は工場の従業員を前に就任の挨拶をした。入交は日本人の中でも小柄の方だが、精力的で誠実な印象を与える。話し方も高圧的ではなく、低音でしかもソフトである。
オハイオ工場は建設以来、社長と生産と管理を担当する二人の執行副社長が中心となって運営していた。前社長の中川和夫は入交と入れ替わりに帰国して、技術研究所の社長に就いた。生産担当副社長の早野宏は、トロント郊外に新工場を建設するためカナダに転出、後任には製品の品質管理に精通している大久保新介が就任した。
大久保は入交より二年ほど早い昭和三十六年に入社、最初の十年間は鈴鹿製作所で過ごした。入社二年目にQC(品質管理)を学ぶセミナーに五カ月ほど出席して、ホンダ社内ではQCの第一人者となった。引き続き残ったのは、ホンダがオハイオに進出する際、用地探しの段階から携わっている吉田成美だけとなった。
中川時代の課題は、とにかくアメホンの営業部隊に迷惑をかけないことだ。それには日本から輸入される完成車に負けない、品質の高い車を作らなければならない。オートバイ工場が稼働した直後に、乗用車工場の建設が決まったため、HAMのトップが現場の従業員とじっくり対話する時間的余裕はほとんどなかった。
入交の最大の使命は、HAMを米国の企業として根付かせることにある。
「HAMの出向社員は、現地の人に好かれることを考えるより、まず嫌われないようにしなさい」
米国進出を決めた二代目社長の河島は、オハイオに来るたび出向社員を前に口を酸っぱくして言った。日本からの出向社員はすでに三百人を超え、日本人は出向社員の家族と短期出張者を入れると、ゆうに千人を超える。それらの人々が一カ所に集まる日本式の社宅を建設すれば、狭いメアリズビルの町に日本人街を作るようなもので、現地の住民からひんしゅくを買うのは目に見えている。
そこで出向社員については、半ば強制的にバラバラに住まわせた。こうなると円滑な生活を送るには、いやがおうでも地域住民と接触しなければならず、自ずとボランティア精神も芽生える。
着任して従業員と最初の対話を終え、工場の実態をつかみかけた矢先、予想もしていなかった“事故”が発生した。四輪車工場の工場長であるボブ・ワトソンが脳溢血のため急死してしまったのだ。
工場長はHAMの経営幹部と現場の従業員をつなぐ、重要な役割を担っている。その工場長が突然いなくなった。早急に後任を探さなければならないが、ホンダの経営をある程度知っていることが条件となる。となると適任者はおいそれと見付からない。
工場はようやくフル生産に入ったばかり。その傍らで増設の準備を進めなければならない。増設に伴う土地買収、建設資材の発注、従業員の新規採用、地元との折衝。社長の仕事は山ほどある。
入交はそれを全部こなさなければならず、工場ばかり回っておれない。人材難を理由に安易に日本人を据えれば、これまでの現地化に向けての努力が水泡に帰してしまう。
そうした中で入交が新工場長として目を付けたのが、HAMの顧問弁護士をしていたスコット・ウィットロックだった。彼の所属する法律事務所はオハイオ州の首都コロンバスにあり、スコットはホンダ担当として、土地買収に伴う契約書作りを始めとするHAMの法律問題に携わっていた。
ワトソンの急死に伴う後始末もスコットの仕事だった。スコットはワトソンが亡くなる前に事務所から三カ月の長期休暇を貰うことになっていたが、それを返上してHAMと残されたワトソンの家族のために働いた。
〈日本で工場長といえば、技術に精通していることが大前提だがHAMの場合、こと生産技術に関してはすべて日本からの出向社員が指導している。工場長に要求されるのは、ホンダの経営方針を工場に徹底させると同時に、現場の声を吸い上げてくれることだ。もしかしてスコットならできるのではないか〉
入交はこう判断して、本社の了解を得た上でスコットに工場長就任を打診した。スコットに迷いはなかった。
〈私の身体の中には二つの血が流れている。母も母方の祖父も弁護士だったが、父は製造業を営んでいた。今は確かに弁護士だが、製造業に携わってみたいという気持ちもある。人生の前半を母の血を受け継いだ弁護士をやり、後半は父方の血を引き継いだ製造業に携わる。これこそ理想的な人生だ〉
HAMから提示された年俸は、社長の入交より高かったが、弁護士時代に比べれば減収になる。それでもスコットは喜んでホンダを選択した。
工場長は決まったが、入交の目から見てHAMの頭脳に当たる人材不足はいかんともし難い。そこでスコットと同じ法律事務所に勤務し、オハイオ工場にも出入りしていた女性弁護士のスーザン・インスレーにも入社を働きかけた。こうしてスコットは上級副社長兼工場長、スーザンは広報担当副社長としてHAMに入社することが決まった。
入交、大久保、吉田、スコット、スーザン、それにHAMの入社第一号社員のアレン・キンザーを含めたHAMの経営幹部六人は、オハイオ工場というより、現地企業としてのHAMの運営について徹底して話し合った。
日本側三人は日本の慣習とホンダの企業文化をいくらかでも分からせるべく様々な例を上げて説明、スコット、スーザン、アレンの三人はそれをある程度理解した上で、「HAMが米国人を採用して、米国で仕事をする以上、一〇〇%米企業として行動すべきだ」と強力に主張した。
要は日米どちらの文化を優先させて、HAMを運営していくかだ。激論の末に達した結論は、HAMを米企業と規定した上で、「オハイオ工場に日本の良さを取り入れ、新しいホンダの企業文化を創る」ということだった。これは新教徒が布教のため米国に渡った時に乗ったメイフラワー号に因んで、「メイフラワー作戦」と名付けられた。
HAMの将来のあるべき姿も徹底的に論議された。
「日本の企業では個人の前に会社があり、トップといえども〇〇会社の××という自己紹介をするそうですね。アメリカは逆です。アイアコッカを見てください。彼は現在クライスラーの会長ですが、その前はフォードの社長でした。昔も今もクライスラー会長、フォード前社長という形容詞がなくとも、『ミスター・アイアコッカ』で通じます。
うちのボスにもホンダやHAMの中での『ミスター・イリ』ではなく、社外でも単に『ミスター・イリ』で通じるようになって欲しいのです。またそうなってもらわなければ、HAMの将来の発展はない。そのためには積極的に対外活動をしなければなりません」
スコットとスーザンが注文を出した。二人はホンダの創業者である宗一郎と藤沢の存在は知っていても、彼らのホンダにおける位置づけは知らない。にもかかわらず藤沢が宗一郎を“ホンダ教の教祖”に仕立て上げたように、スコットとスーザンは入交をHAMの顔、「ミスター・ホンダ」として米国自動車産業で売り出そうと画策していた。
六人に共通した目標は「HAMは“米自動車産業リーグ”の中で、メジャーリーグ入りを目指す」ことだった。それにはHAMの存在価値を示さなければならない。まだ完成された工場ではないが、ビッグスリーの技術者から工場見学の要望があれば、積極的に受け入れることにした。ビッグスリーが日本の生産方式に神秘性を抱いていた時代で、HAMの方針を聞き付け、ビッグスリーのエンジニアは連日HAMを訪れた。こうした行動がHAMの米自動車工業会入りに役立ったことはいうまでもない。
その一方で、広報担当のスーザンは機会を見付けてはデトロイトの自動車ジャーナリストに接触、HAMの存在をPRした。これが功を奏して米国のマスコミでHAMに関するニュースが頻繁に取り上げられるようになった。
「日系工場の中で、なぜHAMだけが好意的に取り上げられるのだろうか」
通産省機械情報局自動車課長の中川勝弘は、米国のマスコミでHAMに関するニュースの多さと好意的な扱いに舌を巻いた。
入交は着任当日の気さくな行動や、HAMの従業員に夢を与えた就任挨拶で、早くもHAMの象徴的な存在になっていた。入交の行動は日本では単なるパフォーマンスに見られがちだが、米国人気質にはピッタリ合う。すると自然にカリスマ性も出てくる。しかし単にカリスマ性があるからといって、象徴として君臨しているわけにはいかない。入交の仕事はあくまで、HAMの社長である。
工場の従業員に生産性向上に向け改善提案を出させるのは、QC活動のイロハで日本の生産方式の原点ともいえる。HAMもQCサークル活動を支援するため、提案制度を取り入れた。
日本では工場の規模が大きくなったせいか、提案された案件をまず工場の課長レベルでふるいにかけ、次に工場長レベルに上げ、最後に本社の役員レベルで採用するかどうかを決める。多少マンネリ化し、今や現場と管理者とのコミュニケーションの役割を果たさなくなっている。
HAMではそうしたマンネリに陥らないよう、従業員から出される提案の中から小さな改善まで含め、面白そうなものを毎月百件ほど選び出し、入交、大久保、スコットの三人がラインを回って提案者から、実際に狙いを聞く制度をスタートさせた。
工場は朝、昼、夜の三勤である。工場を一回りすれば、距離にして約七キロ。一回で三、四十人から提案理由を聞くので、ゆうに四時間はかかる。これを一日、三回繰り返す。ゴルフでいえば、三ラウンドに相当する距離を歩き、それと同じ時間を費やすのである。入交はオハイオに来る直前までに鈴鹿製作所で毎日工場を回っていたので、こうした作業には興味が湧いても、一向に苦にならない。
従業員の中には、自分たちのボスと直接話し合える喜びに浸りたいため、熱心に提案する人もいるが、基本的には何らかのインセンティブを与えなければ長続きしない。そこで採用したのが「トップ・ハンドレッド・クラブ」と名付けた制度である。
改善提案はむろんのこと、発見・発明など過去一年の間に会社が採用した案件を点数化して、上位百人の名前を工場に張り出し、表彰すると同時にインセンティブを与えるのである。
インセンティブの内容は盛り沢山だった。一番人気があるのは車の無償貸与だが、ほかにもデトロイトの「フォード・ミュージアム」見学、一流レストランヘの招待、毛色の変わったところでは「自動車殿堂入り晩餐会出席」というのもあった。
近代自動車産業の発祥の地であるデトロイトを抱えるミシガン州の非営利団体の「オートモビル・ホール・オブ・フェーム・インク」は毎年、米国自動車産業に貢献した人を選び、その栄誉を後世に称えるため自動車殿堂に奉る。
デトロイトのダウンタウンの中心地、ルネッサンスセンターの一角にある高級ホテルで開かれる晩餐会には、毎年世界の自動車産業のトップクラスが約千人ほど出席して、歓談するのが習わしとなっている。
HAMには米自動車工業会のメンバーになってから、毎年、七人分の招待状が届くようになった。HAMの代表として出席する社長の入交を除いた六人分について、トップ・ハンドレッド・クラブのインセンティブにしてしまった。それを選んだ従業員は、入交に引率されHAMがチャーターした専用機に乗ってデトロイトに行き、晩餐会に出席して世界の自動車産業のエリートと呼ばれる人々と酒を酌み交わす。工場の従業員が出席するのはむろんHAMだけである。
組み立てラインの増設も始まり、毎日のように新しい仲間が入ってくる。一生懸命働けば、インセンティブの恩恵に与かり、しかもたちまちのうちに管理職になれる。工場は活気にみなぎっていた。
オハイオ工場で生産した米国製ホンダ車の評判は決して悪くない。にもかかわらず工場を預かる入交には一つの不安があった。オハイオ工場の将来である。スコットとスーザンの意見を取り入れ、米企業として活動したことが高く評価され、念願の米自動車工業会への加盟も認められた。
〈それだけでいいのだろうか。HAMには歴史も伝統もない。確かに今は成長過程にあり米国人も日本人も全員がむしゃらに働いている。経営の中枢はまだ本社からの出向社員が握り、現場も日本から来た技術者が脇からサポートしている、いわば二重権力構造になっている。だがいつまでも二重権力構造が続くわけがない。
HAMは将来、米国人だけで運営されるだろう。となるとその前にせめて管理職クラスの人々に、ホンダがどんな会社なのかを知らせておく必要がある。ホンダの良き伝統が分かれば、従業員は必ずHAMに愛着が出る〉
こうした入交の提案に、吉田も大久保も賛成した。ホンダの歴史はこれまで断片的に話したことはあるが、体系だって話したことは一度もない。スコットもスーザンも自分たちが働いている会社の本社が、どういう経緯で生まれ、発展したかを知りたがった。二人は宗一郎の顔は一回ほど見たことはあるが、じっくり話したこともなければ、どんな手法で今日のホンダの基盤を作り上げたかも知らない。
藤沢に至っては一度もオハイオに来たこともないので、写真で見るいかつい顔しか知らない。管理部門担当の吉田から、何度となく宗一郎と藤沢の関係を聞かされても具体的なイメージが浮かんでこない。
ホンダの歴史とホンダ独特の経営手法をどのようにして知らせるか。「三人寄れば文殊の知恵」ではないが、入交、大久保、吉田の三人はそれぞれがホンダで経験したことを経営、開発、生産、営業などの各項目に分け、具体的な実例を挙げ、米国人に分かるように解説して一冊のテキストにまとめることにした。この作業はルース・ベネディクト女史の『菊と刀』にちなんで「キク・プロジェクト」と名付けられた。
もちろん三人の経験だけで、ホンダのすべてを語り尽くすことはできない。幸いにしてHAMには日本からの大勢の出向社員がいる。項目によっては、それらの人々の助けを借りることになった。
各人が与えられたテーマをまとめ、吉田がそれを英語に直し、まずスコットとスーザンなど米国人の幹部社員に話して聞かせる。ホンダの経営には、ホンダ社内でしか通用しない独特の言葉がある。それをテキストにして教え込むのは、並大抵ではない。“ワイガヤ”などはその典型的なホンダ用語である。こうした言葉は英語にはないから、「ワイワイガヤガヤ」の意味を、日本の生活習慣まで遡って説明しなければならない。
「ミスター・イリ。あなたの意図は分かるが、具体的に何を伝えたいのかさっぱり分からない」
米国人の最高幹部であるスコットとスーザンの理解が得られなければ、前には進まない。分からなければ分かるように書き直さざるを得ない。三人は諦めず辛抱強くテキストを何度も何度も書き換え、そのつど米国人幹部に読んで聞かせた。
作業を開始してから一年が過ぎてようやく「ホンダウェイ」と名付けられたテキストが出来上がった。
そのテキストをもとに入交が暇を見付けて、百人を超すマネージャーを対象に講義を始めた。ワイガヤを最初に理解したのが、スコットとスーザンだった。HAMの日本人と米国人の役員は生活、習慣のみならず企業に対する考えの違いから意思疎通を欠いていたきらいがあるが、「ホンダウェイ」が完成し、ワイガヤが定着してからは、何でも話し合える雰囲気が出てきた。
HAMには社長室どころか役員室もなく、彼らは一階の事務室に一般社員と同席している。部屋の一番奥に入交の机があり、その横に吉田、大久保、スコット、スーザンの机が並び、前にミーティングが出来る程度の小さな会議用の丸いテーブルがある。だれかが一声掛ければ、いつでもワイガヤが出来る。トップがワイガヤを始めれば、自然に従業員も真似をする。ホンダウェイは着実にオハイオに定着していった。
スコットは日に日にホンダに興味が湧いてきた。ペアを組んでいる大久保は本社へ出張するたびスコットを同行して、ホンダウェイを構築した人々に会わせた。スコットが最も興味を抱いた人物はやはり藤沢だった。
昭和六十三年の初夏、大久保はスコットと通訳の池見清志を伴って、六本木の自宅に藤沢を訪ねた。
「藤沢さんは私が予想していた通りの人でした。宗一郎さんと会社を興した当初は、東京と浜松に離れていても、会えば朝方までホンダの将来のあるべき姿を話し合ったといっていました。ホンダは最初にポリシーを決めていたのが今日の発展につながったというのが、良く分かりました。本当はもっともっと聞きたいことがあったのですが、残念なことに藤沢さんは、その半年後に亡くなりました。藤沢さんにはオハイオ工場を見てもらい、われわれの仲間の前でホンダウェイを語ってもらいたかった」
スコットは今なお、藤沢にオハイオ工場を見てもらえなかったことを悔やむ。
4
一九八五年(昭和六十年)九月二十二日の日曜日。ニューヨークのプラザホテルで、G5(先進五カ国蔵相・中央銀行総裁会議)が開かれ「ドル以外の主要通貨がドルに対して秩序立ってさらに合意することが望ましい」という、いわゆる「プラザ合意」が発表された。
週明けの月曜日から各国の通貨当局は一斉にドル売りをした結果、行き過ぎたドル高は急速に是正された。とりわけ円の対ドル相場は大幅な上昇過程に入り、一ドル=二五〇円台だった相場が、年末には二〇〇円を突破する水準まで跳ね上がった。
この勢いは六十二年の暮れまで続き、六十二年末から六十三年初めにかけて、円は一時一二〇円台を付けるところまで上昇した。わずか二年ちょっとの間に、円のドルに対する価値は二倍に跳ね上がった。
日本車を巡る環境は、この円高を背景に一変した。円の対ドルレートが二倍になったということは、ビッグスリーの生産コストが何の努力もせず寝そべっているだけで半分になったことを意味する。
日本メーカーがこれに立ち向かうには、コストを半分に切り下げなければならない。短時間でコストを半分にするのは、どうみても不可能だ。となると値上げしかない。日本車メーカーは円が上昇するたび値上げに追い込まれ、次第に価格競争力を失って行った。
かつて経験したことのない急激な円高は、輸出産業を直撃した。自動車業界の中で最も打撃を被ったのが日産だった。八五年の乗用車の現地販売台数は五十七万五千台で、ホンダの五十五万二千台を辛うじて抑えていたが、翌年はあっさり逆転されてしまった。ホンダが円高にもかかわらず六十九万三千台と伸ばしたのに対し、日産は五十四万六千台に減少してしまったからだ。
日産は国内販売でも不振を極め、六十一年度の九月中間決算で東京証券取引所に株式を上場して以来、初めて営業利益の段階で赤字に転落してしまった。
米国市場での輸入車の適正在庫は六十日分とされるが、ホンダ車の在庫はホンダ店が二十日分、第二チャネルのアキュラ店は十日分と極端に少ない。
ホンダはここで現地生産で先行したメリットをいかんなく発揮した。翌八八年は七十三万八千台を売りまくり、今度はトヨタの六十二万八千台をとらえ、それも圧倒的な差をつけ、日本車メーカーの中で念願のトップに躍り出た。クライスラーは百六万六千台。すでに射程内にとらえた。
アキュラ店の立ち上がりも順調そのものだった。四万ドルでベンツを下取りに出し、三万ドルのレジェンドに乗り換える客も出はじめた。ベンツといえば米国でも、キャデラックに代わって金持ちのステータスとなっている車である。
八六年型のベンツを下取りしたロサンゼルス郊外のトーラン・アキュラ店のゼネラルマネージャーのトーマス・リトルはおどけて見せた。
「ベンツを下取りしたお客に、レジェンドの他に現金も持っていかれた」
こうした逆転現象が起きた原因は、ニューヨークの株式市場が暴落した八七年十月十九日の「暗黒の月曜日」(ブラック・マンデー)にある。ニューヨーク・ダウ鉱工業三十種平均はその前の週末に比べて五〇八ドル、二二・六%も下げた。下げ幅、下落率とも史上最大の暴落となった。暴落の最大の犠牲者は高所得者であり、かれらの消費行動はワンランク下に移った。
ホンダは円高もブラック・マンデーも販促に結びつけた。ホンダ車の快進撃は止まるところを知らない。その余勢を駆って六十二年秋には、州政府からオハイオ工場に隣接する八〇〇〇エーカー(約一千万坪)の工場用地を取得して、第二工場の建設を決めた。八〇〇〇エーカーというのは、東京都の中央区、千代田区、港区の三区を合わせたのと同じ広さである。
ここに八九年末稼働を目標に、今度は鈴鹿製作所をマザー工場とする年産十五万台の新工場を建設することにした。完成すれば現地生産と日本からの輸出合わせて、米国市場における供給体制は念願の年間百万台に達する。
「現在の工場はKD(ノックダウン)生産を前提に建設しただけに、部品の現地調達率の高まりとともに欠点が目立つ。ざっと見ただけで改善点は三千カ所はある。新工場はこれらの欠点をすべて克服したユニークな工場にしたい」
HAM社長の入交は新工場に賭ける意気込みをこう語ったが、心の中は不安でいっぱいだった。
〈同業他社が不振にあえいでいる中で、ホンダ車だけが売れるのはどう見ても異常だ。ある日突然、ホンダ車の売れ行きがバッタリ止まるのではないか〉
その不安が高じて、エンジン工場の鍬入れ式の前日に不整脈を起こしてしまった。原因はストレスにあった。この時は本社に知らせずコロンバスの病院で精密検査を受けたが、脈はほどなく正常に戻った。
入交の不安とうらはらに販売を担当するアメホンは、いたって強気だった。社長の宗国旨英はアキュラ店が軌道に乗り、第二工場の建設が決まったことで、「年販百万台は現実的になった」と将来に向けての夢を膨らませた。
自信の裏づけとなったのが、アキュラ店の成功だった。高級車の「レジェンド」は早くも年間五万台に達した。ベンツはシリーズ全部合わせても五万台でしかない。
ホンダの成功をみて、トヨタが「レクサス店」、日産が「インフィニティー店」構想を打ち出した。いずれも高級車を投入する第二販売網である。メーカーブランドを前面に出さないのも、アキュラ店を真似てのことだ。米国市場ではホンダがトヨタ、日産の先生役となった。
ホンダがビッグスリーの一角に躍り出ればどんな事態が起きるか。「現地調達率を高め、いい車さえ作っておれば問題はない」では済まされない。ユーザーがホンダ車を支持してくれても、ホンダの躍進に脅威を感じているビッグスリーや議会が「ホンダ・バッシング」に走るのは目に見えている。ホンダとしては、どうしてもそうした事態は避けなければならない。
バッシングを避ける唯一の方策が、HAMを名実ともに米国のメーカーにしてしまうことだ。オハイオ工場のヒト、モノ、カネの現地化は予想以上に進んでいるが、これをもう一段進めなければならない。
まずヒトについては、本社からの出向社員は依然として三百人を超しているが、労務担当副社長の岩本邦雄の言葉を借りていえば「われわれは戦後の米進駐軍と同じ。従業員の中から才能のある人を、幹部に抜擢するのが仕事」である。工場の稼働直後は、出向社員が手取り足取りで指導したが、年とともに後方部隊に徹し、前線の現場には意識して出なくなった。
モノの現地化として目標に掲げたのが、現地調達率七五%の早期達成だった。七五%という数字はクライスラーを上回り、フォードとほぼ同水準である。これに入交が最後まで強硬に反対した。理由は現調率の引き上げを急ぐあまり、オハイオ製のアコードの品質が日本製より劣れば、ホンダ車全体のイメージダウンにつながる恐れがあるからだ。現調率を上げるにしても、品質を落とさないことが大前提となる。
八七年モデルの現調率は五七%だが、これを年々引き上げ、九一年モデルまでに目標を達成する。そのためにはホンダの部品の品質に対する考えを納入部品業者に徹底させなければならない。
「ホンダに部品を納めると思うな。お客さんに納めると思ってほしい。そうすればもっと品質が良くなるはずだ」
ホンダの北米事業会社の意思決定と活動を調整するため設立したHNA(ホンダ・ノース・アメリカ)の副社長に転出した吉田成美に代わってHAMの執行副社長に就任した網野俊賢は、納入業者に向かって何度も口を酸っぱくして言った。
三つの中ではカネの現地化が一番進んでいた。米国で儲けたカネは、米国で使うのがホンダの基本方針となっているので、投資資金の九五%をアメホンが負担している。
経営の現地化が最後に残った。社長の久米は内々の会議で将来の希望を述べたことがある。
「HAMの現地化は順調に進んでいる。HAMの二、三代先の社長に米国人、それもHAMのプロパー社員を据えたい」
久米がHAMの将来の社長の一番手として頭に描いていたのが、工場長のスコットだった。工場のトップに米国人を据えることが現地化の最終目的ではない。
日産はテネシー州スマナーに小型トラック工場を建設したが、トップの社長にフォードの生産担当副社長だったマービン・ラニオンを据え、同時に日本からの出向社員は資金担当の十数人にとどめた。現場の工場に日本人は一人もいない。これをもって日産のスマナー工場が、ホンダより経営の現地化が進んでいるとはだれも思わない。
要は米国人が日本企業の現地工場を、本当に米国企業と思うかどうかである。そしてあらゆる面から現地化を推進するため、八七年三月にHNAを設立した。
目標に掲げた北米百万台の達成時期は、九一年だった。その時の全需が一千万台とすれば、ホンダのシェアは一〇%ということになる。市場のパイはそれほど増えないから、目標を達成すればホンダがGM、フォードに次ぐ第三の座に就く可能性が極めて濃厚だ。
吉田成美がHNA設立の狙いを語った。
「HNAは北米におけるホンダの現地子会社十二社を統括する会社ですが、最大の仕事はポスト百万台体制、つまり将来、北米でホンダをどのような会社にするかを考えることです。HNAは実質的に北米の持ち株会社ですが、目的は子会社から利益を吸い上げることではなく、ホンダを米国のすべての層の人々に理解してもらうことです。
ホンダが手本にしたのがフランスのタイヤメーカー、ミシュランです。ミシュランはフランス資本でありながら、完全に米国に根を下ろしている。シェアがいくら高くても米国で反発が出ない。ホンダも将来そうありたい」
米国では年販百万台の旗印を掲げる攻撃的な姿勢と、バッシングに合わないよう防御の姿勢も同時に取る万全の体制を敷いた。逆に国内では攻めの経営をとった。
国内の景気は円高不況を乗り越え、六十二年の半ばから内需型主導で急速に回復し始めた。景気回復を決定的にしたのが同年七月─九月のGNP(国民総生産)だった。この期の実質成長率は前期比二・〇%、年率換算八%という高成長となった。
六十一年から六十二年にかけて数々の経済対策がとられ、財政金融政策の一環として公定歩合も五次にわたって引き下げられ、六十二年二月には二・五%と史上最低の水準となった。その成果がようやく出始めた。
「今回の景気後退局面は六十年六月から始まり、六十一年十月─十二月期から六十二年一月にかけて底を打ち、その後回復過程に入った」
経済企画庁事務次官の赤羽隆夫は六十二年七月三十一日、景気回復宣言を出した。それから二カ月半後の十月にはニューヨーク市場は“暗黒の月曜日”となり株価が暴落した。東京市場もその余波を受け、一時的に株が暴落したが、実態経済にはほとんど影響が出なかった。それほど日本経済の回復は力強かった。六十二年の実質成長率は最終的に四・九%と、五十四年以来の高い伸び率となった。
悪化をたどっていた雇用情勢も一気に改善した。業種によっては早くも人手不足が心配され出した。
戦後、日本経済の景気循環の上昇過程はすべて輸出がリード役になっていたが、今回は初めて内需主導型の景気回復をたどり始めている。最初にリードしたのが住宅建設だった。新規住宅着工戸数は五十一年が百四十一万台だったのが、翌年には百七十三万戸に急増した。これは「いざなぎ景気」以来の高水準である。
住宅産業が他産業に与える波及効果は大きい。家は一軒建てば台所用品、家電、インテリア製品などの消費関連製品が増加する。郊外であれば自動車の需要に結びつく。この頃になると、ようやく円高メリットも出始めた。円高により輸入物価が下落し、国内卸売物価も下がり、つれて消費者物価も安定し始めた。
物価の沈静と賃上げで実質所得も着実に増加していった。これで自動車が売れる条件が整った。五十八年の国内総販売は前年比二・三%増の五百三十八万台だったが、五十九年は五百四十四万台、六十年が五百五十五万台とほぼ横ばい状態が続いた。ところがプラザ合意で円高不況が叫ばれた六十一年に入って五百七十一万台と伸ばし、六十二年には六百二万台となった。
軽自動車を除いた小型車以上の新車登録台数の推移をみると、五十八年、五十九年はピッタリ三百九十八万台、六十年が四百三万台、六十一年四百九万台とほとんど横ばいで推移してきたのが、六十二年に入り、突如四百三十一万台へ増えた。バブル景気の助走期が自動車でも始まった。
むろん自動車メーカーは、これがバブル景気の助走期であったことは知る由もない。ホンダにとっての最大の課題はクリオ、プリモ、ベルノの三チャネル体制を一日も早く軌道に乗せることだった。決め手は供給車種を増やすことだ。
ホンダは昭和四十九年に小型車に全力投球するため、あえて軽乗用車から撤退した。この間軽の排気量は三六〇ccから五五〇ccに拡大され、商用車でありながら乗用車の感覚を備えたボンネットバンが爆発的な売れ行きを見せ、市場は完全に蘇った。ボンバンは商用車だから排ガス対策もやりやすい。
これを見逃す手はない。そこで三チャネルを機に「トゥディ」を開発、十年振りに軽市場に復帰することを決めた。これでホンダの車は軽自動車から高級車の「レジェンド」までのフルライン体制が確立した。
ホンダ車といえば、二ボックスの「シビック」「アコード」、スポーティータイプの「プレリュード」「CR─X」、トールボーイ・スタイルで一世を風靡した「シティ」を持ち出すまでもなく、トヨタ、日産とはひと味もふた味も違った特徴のある車を売り物にしてきた。
宗一郎が直接指揮をして開発した四輪車は「N360」と「H1300」の二車種だけだが、「よそにないものを出す」という宗一郎のクルマ作りの思想は、その後も受け継がれていた。だが宗一郎が経営の表舞台から去るとともに、ホンダのクルマ作りが大きく変わり始めた。
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六十年十月に発売した三代目の「アコード」が、ホンダを世界の一流自動車メーカーに押し上げた。開閉式構造のヘッドランプを採用したスポーツカーのような精悍な面構え、DOHC(ダブル・オーバー・ヘッド・カム)構造のエンジン、ダブルウィッシュボーンを採用したサスペンションなど、新型アコードはデザインから性能まであらゆる面で革新的なイメージを与えた。排気量も二〇〇〇ccに拡大された。
「ホンダは九〇年代の小型車を提示した」
久米は新車発表の席上、こう豪語した。世界の自動車メーカーは三代目のアコードを見て「小型車の流行は間違いなくホンダが作っている」と恐れをなした。
とりわけ海外メーカーが注目したのは、ホンダの小型車は軽量でありながら、動力性能及び燃費が良いことに加え、生産を含めた品質が抜群に良いことだった。品質の良さは日本車全体に共通する。その中でホンダだけが脚光を浴びたのは、横置きのFF方式を完全にマスターしていたことによる。
アコードは斬新なファミリーカーとして自動車評論家から絶賛を浴び、三十代の若い夫婦の心をとらえ、六十年度─六十一年度の「日本カー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた。
米国でもヤッピー(米国東部に住む若い知識層)マーケットへ食い込むことが出来た。ヤッピーは口々に叫んだ。
「ホンダ車はデザインが洗練されているだけでなく、性能が良く、燃費も優れた省エネルギー車だ」
GM執行副社長で北米小型車の最高責任者を兼ねるロイド・ロイスは昭和六十二年秋に東京モーターショーを見学するため来日した際、栃木県宇都宮市郊外にあるホンダの技術研究所を訪れた。その時、案内してくれた研究所社長の川本を前に羨ましげにいった。
「世界の自動車の中で、われわれの参考になるのはホンダ車だけだ」
こと小型車に関して、GMは完全にホンダにシャッポを脱いだ。この時期GMに限らず世界の自動車メーカーの技術者は来日すると、必ずといっていいほど“栃木参り”をした。そしてだれもが必ず尋ねた。
「ホンダは新車の開発時期を短縮するのか」
これに対して川本は判で押したように同じ答えをした。
「日本は通産省の行政指導でモデルチェンジは四年ごとと決まっている。仮に通産の指導がなくとも、今のホンダに開発期間を短縮できる力はない。皆さんはホンダを過大評価している」
これを聞いて海外メーカーの技術者は胸をなで下ろして帰国した。過大評価かどうかは別にして、この時期ホンダは紛れもなく世界の小型車の流行を作っていた。
「ベンチマーク」
自動車業界の技術者が好んで使う言葉である。分かり易くいえば基準となるクルマだ。世界の自動車産業の提携関係が複雑に入り組み、技術者同士の交流と相互の工場見学が盛んになればなるほど自然と情報が筒抜けになり、お互いに手の内が分かる。良いものがあれば平気で導入するから、自ずと似たような車が出てくる。
九四年(平成六年)一月の「デトロイト・モーターショー」で衝撃的なデビューを果たしたクライスラーの小型乗用車「ネオン」のベンチマークとなった車は、ホンダが九一年に発売した五代目の「シビック」というのが業界の定説となっている。クライスラーもあえて否定しない。クライスラーはシビックを徹底的に研究しただけでなく、工場にもホンダの生産システムを取り入れ、一台九千ドルを切る低価格を実現した。
フォードが「トーラス」に次ぐ量産車として英国フォードに開発させた「モンデオ」は、三代目「アコード」がベンチマークとなっている。
ホンダは自ら開発したクルマがベンチマークになるのを誇りにしてきた。そしてモデルチェンジを経るたびに、意識して軽自動車から高級車まで見事なまでにスタイリングを統一した。ことスタイルに関しては「アコード」を中心に、すべての車を“デカ・トゥデイ”や“ミニ・レジェンド”にしてしまった。
ホンダのとったデザイン手法は、街の中でホンダ車を実数以上に見せる効果がある半面、「ホンダの車はどれでも同じ」というマイナスのイメージを与えかねない危険性をはらんでいる。
なぜホンダはスタイルを統一したのか。理由は二つある。一つはホンダは、三代目アコードの投入を機に本格的な自動車メーカーへの脱皮を狙ったこと。
「ホンダが“自動車屋”として認めてもらえなかった頃は、バッタ屋のように次々と奇抜な車を出して、人目を引く必要があった。ニッチ(隙間)を狙った商品作りは、確かに当たった。しかし自動車屋の端くれに加えていただいた現在、主力をセダンタイプに置いたクルマ作りに全力を上げなければならない。デザインに共通性を持たせたのは、すべてのホンダ車にコーポレート・アイデンティティーを持たせたかったからです」
開発責任者の川本は、聞かれるたびこう解説した。ホンダはニッチメーカーからの脱却、量産メーカーを目指し始めた。
もう一つの理由は販売からの要請である。販売系列を三つに増やした以上、同じ車をすべてのチャネルで売っても意味がない。看板車種のシビックとアコードは、それぞれプリモ店とクリオ店の専売車種にすることを決めた。
問題はエントリーカー(入門車)にある。プリモ店には軽自動車の「トゥデイ」があり、上級指向のユーザーを「シビック」に吸い上げることができる。ところがクリオ店にはそれに相当する車がない。クリオ店は「アコード」と「レジェンド」も扱っており、どちらかといえば三チャネルの中では高級車のイメージを持っている。そこに与えられたエントリーカーが「シティ」だった。
初代のシティはイギリスのロックグループのマッドネスが「ホンダ! ホンダ!」と絶叫するコマーシャルソングで大ヒットした。いかにもホンダらしいという評判を取り、若者に受け、発売二年間は爆発的ともいえる売れ行きを示した。
ただしブームは長続きしなかった。最盛期には月一万五千台売れたものの、二年目が過ぎると月五千台に落ち、三年目には月三千台になってしまった。ユーザーは一部のマニアに限られ、需要が一巡した後はバッタリ止まってしまった。
これをみて販売担当の吉沢が研究所に苦情を出した。
「研究所は四年間きっちり売れる車を開発して欲しい。最初の二年間だけ売れて、後の二年間は売れないというのでは、営業部隊としては困るんだ。確かにホンダらしい遊びのクルマも必要だが、それはレースでやればよい」
吉沢の苦情は販売店からの突き上げからきていた。
「発売当初は注文が殺到したため納入が遅れ、お客さんに頭を下げっぱなし。時間がたつと今度はさっぱり売れない。こんなクルマ作りでは困る。大ヒットする車より長期的に安定して売れる車を提供してほしい」
六十一年十月にモデルチェンジして登場した二代目の「シティ」は、ボンネットを可能な限り低くして、スペシャリティー感覚を強調した車としてデビューした。しかし名前は同じでも、初代の車とは似ても似つかない車で、ホンダファンの期待を裏切った。
にもかかわらず開発側の研究所は満足していた。デザインを担当した研究所の岩倉信弥は胸を張ってこう言った。
「シティはクリオ店のエントリーカーなのです。同じ店で扱っているアコード、レジェンドともロー・ワイドを強調した落ち着いたデザインの車です。そこに初代シティのようなトールボーイの車が混ざったら店のイメージが損なわれてしまう」
二代目シティがエントリーカーの役目を果たすには、落ち着いたデザインにならざるを得なかった。だがこの車は、ホンダの意気込みと裏腹に悲惨な運命をたどった。そしてマイナーチェンジもないまま、平成六年春に生産が打ち切られた。
ともあれホンダは、曲がりなりにも国内販売の体制だけは作り上げた。各店に専売車種を配したことで三系列の違いが明確になり、ユーザーへの訴求力も強まった。
ホンダがベルノ店で取り入れたCSと顧客管理はクリオ店、プリモ店にも取り入れられた。バブル景気が助走期を終え、セールスマン不足が深刻になりかけた時期だっただけに、ホンダのカウンターセールスは「将来の自動車セールスのあるべき姿」としてもてはやされた。
ホンダ車の国内販売台数は六十一年が五十万八千台、六十二年は五十五万台に達した。六十三年の目標は六十二万台に置いた。
ホンダの新しい販売方法に最も脅威を感じていたのが、国内二百万台達成を目標に掲げていたトヨタだった。トヨタはあらゆる手を使ってホンダの国内販売の実力を探った。
「ホンダの店舗は系列ごとに統一されており、セールスマンの教育も行き届いている。ホンダの実力は侮りがたい」
調査したトヨタのスタッフが役員会に上げた結論である。とはいえホンダがトヨタと真正面から対決しては、とうてい勝ち目はない。社長の久米はトヨタを意識して、対外的には謙虚な姿勢を貫いた。
「われわれはお客さまのニーズにあった車を開発し、それを地道に売るだけです」
そうした表向きの言葉とは裏腹に、ディーラーを集めた内々の会議では中期展望として年販八十万台という具体的な数字をぶち上げた。
国内販売八十万台の根拠は、生産体制から出てきた。ホンダの四輪車は鈴鹿と狭山の両製作所で生産しており、一日二交替でフル生産すれば年間百三十万台が可能となる。さらに一日約一時間残業をすれば、百四十四万台まで生産できる。
それでは百四十四万台をどう割り振るか。米国は規制枠いっぱいの四十万台、欧州と発展途上国はそれぞれ十二万台。国内に回せるのは残る八十万台である。国内販売目標は生産体制から逆算して出てきた数字だった。
工場が残業をいとわずフル生産すれば、そこで働く従業員の懐も潤う。会社も損益分岐点が低下するので大歓迎だ。アメホンも規制枠いっぱい輸出してもらえれば助かる。
国内販売八十万台が達成されれば、ホンダは国内でもトヨタ、日産に次ぐ第三位メーカーの座が不動のものになる。
夢はもっと膨らんだ。追撃すべき日産は、英国進出問題を契機に労使問題がこじれにこじれ、依然として低迷している。六十二年の日産の国内販売は百一万台まで落ち込んだ。慎重居士として知られる吉沢は、日産の長期低迷を前提にこう断言した。
「国内年販百万台は、九〇年代の早い時期に現実的な数字となるだろう」
ホンダは八十万台の目標を掲げる二年前の昭和六十年に、国内の需要増に対処するため新工場の建設を真剣に検討したことがある。言い出しっぺは社長の久米だった。これに会長の岡村と副社長の吉沢が猛反対した。理由は米現地生産を最優先しなければならないことと、まだ国内の販売に自信が持てないことだった。
久米としては自分を支えてくれる会長と副社長が反対しては、押し切ることはできない。その時、強引に国内の新工場建設に踏み切っておれば、米国の第二工場は日の目を見なかったであろう。
戦後、無からオートバイ産業を興し、自動車で急成長したホンダの存在は、世界の自動車産業の奇跡といっていい。第一次石油危機以降、世界の自動車業界の中で一貫して成長を続けてきたのは、ホンダとトヨタの二社しかない。トヨタは世界市場で一〇%のシェアを握る「グローバル一〇(テン)」の目標を掲げる一方で、自動車産業はすでに成熟産業と判断して、通信事業を中心とした多角経営に乗り出した。
ところがホンダは多角経営には一切目をくれず、オートバイを含めた広い意味での自動車産業で成長を遂げてきた。宗一郎と藤沢が目指したのは、ホンダを大きな企業にすることだったが、子供たちは目標を「世界で影響力のある自動車メーカーになる」ことに置いた。そのためには量の拡大が前提条件となる。
米国市場では、現地生産で一番乗りを果たし、日産どころかトヨタをも凌駕した。次なる目標は国内市場でも日産をキャッチアップすることだ。
軽自動車を含めた総販売台数では、久米が社長に就任した昭和五十八年に、四十万五千台と初めて四十万の大台に乗せ、九千三百台の差をつけてマツダを追い越した。小型車以上の登録台数では、四年後の六十二年に追い越した。
三菱には登録台数で、六十年に追いついた。翌六十一年の軽を含めた総販売台数は、三菱五十万八千二百八台に対し、ホンダ五十万八千四百二十九台。わずか二百二十一台というハナの差でホンダが名実共にトヨタ、日産に次ぐ業界三位に躍り出た。
国内販売で業界三位を巡る争いでは、最初にマツダが脱落、ホンダと三菱のマッチレースの様相を呈してきた。五十年代半ばから三菱は一進一退を繰り返しているが、ホンダは五十九年を除いて毎年五万台前後増やしている。トレンドを見れば、ホンダに勢いがある。だれもが日産追撃の挑戦権は、ホンダが獲得すると見ていた。
とはいえ三菱には旧三菱財閥系のグループ企業が付いている強みがある。スリーダイヤの面子からして、戦後の成り上がり企業のホンダに負けるわけにはいかない。六十二年は三菱はグループを背景に猛烈な巻き返しをはかり、今度は逆に四千六十八台の差をつけて抜き返した。
勝負は六十三年に持ち越された。ホンダの六十三年の販売目標は、軽自動車を含め前年比一三・三%増の六十二万台。伸び率だけみれば業界最高である。
この年あたりから、ホンダの経営に変調の予兆が出始めた。国内販売は六十年以降ジワジワ盛り上がった。円高不況時に叫ばれた国内産業の空洞化論は、年々盛り上がる内需拡大でかき消されてしまった。この時まだだれもバブルのせいだと気づいていない。
六十三年に入るとホンダ車が突然売れ出し、三月の新車登録台数は前年比四七・二%を記録して業界の度肝を抜いた。シビックの二カ月を筆頭に多くの車種で、契約から納車まで数カ月かかるという異例の「待ちの行列」が出来た。
ホンダはここで決断した。鈴鹿にはこの年の春、新しい塗装工場が完成している。この工場の前にプレスと溶接、後ろに組み立てラインを接続すれば、たちどころに最新鋭の新工場が出来上がる。将来に備え金型などの主要設備は、六十年に内々検討した際、解約もあり得ることを条件にオプション契約している。「ゴー」のサインさえ出せば一年後には新工場が完成する態勢が整っていた。
久米は六月に行なわれた英ローバーと共同開発した小型車「コンチェルト」の発表の席で、さりげなく鈴鹿製作所に二百五十億円を投じて、生産力の増強をはかることを表明した。
組み立てラインの新設は、ホンダとしては実に二十一年振りのこと。新しいラインの生産能力は二交替制で日産千台、年産二十四万台。既存の二つのラインを合わせると鈴鹿製作所の生産能力は年八十万台と日本でも有数の自動車工場になる。
将来の需要見通しだけが、気掛かりだった。バブルを伴った景気は、すでに九合目近くにさしかかっていた。頂上にたどり着けば、足の踏み場がなく、後は坂道を転げ落ちるしかない。何となく不安を感じていたものの、目の前の需要をこなすには、設備増強しかない。
競争の激しい自動車業界で、メーカーが独力で生き延びられる一つの目安は、グローバルな観点からみて年間の生産、販売が二百五十万台以上とされる。この規模になれば業界再編成に巻き込まれても、呑み込まれる側ではなく主導権を握る側に回れる。
世界の自動車業界に「二百五十万台クラブ」という架空のクラブがある。これに加盟しているのはGM、フォード、トヨタ、日産、VW(フォルクスワーゲン)など五社足らず。ホンダは鈴鹿の第三組み立てラインの新設を「二百五十万台クラブ」入りの足掛かりにしようとした。
六十三年のオールホンダの販売実績は、国内六十一万台、北米八十五万台、欧州十四万台、その他発展途上国十一万台の合計百七十一万台。現実の姿はまだ目標の七〇%にも満たない。それではどうやってクラブ入りを果たすか。
おぼろげな計算は成り立っている。クラブに加盟した時の生産・販売の青写真は、北米百万台、欧州三十万台、その他発展途上国二十万台、そして国内が百万台である。吉沢はクラブの加盟時期を「九〇年代の早い時期」と予想した。
こと国内販売についていえば、毎年五万台ずつ伸びて行けば、八十万台は四年後の九二年(平成四年)、百万台は八年後の九六年(同八年)となる。子供たちは、机上プランの「二百五十万台クラブ」入りの夢に酔いしれていた。
しかし世の常として「出る杭は打たれる」。バブルが絶頂期にさしかかると、同業他社の「ホンダ・バッシング」も本格化してきた。最初に名指しで反撃ののろしを揚げたのが、ホンダが密かにライバル視してきた日産だった。
「小型スペシャリティーカー市場が、プレリュードの独壇場になっているのは、われわれとしては我慢できない」
日産社長の久米豊は六十三年五月、小型スペシャリティーカー「シルビア」の発表の席上、堪忍袋の緒を切らす形でホンダに宣戦布告した。日産は背中にヒタヒタと迫るホンダの足音を感じており、それを突き放すタイミングを狙っていた。翌月からシルビアは、プレリュードを狙い撃ちするように販売を伸ばし、たちまちのうちにこの分野でトップに立った。
藤沢の夢は目に見える形で、日産を追い抜くことだった。だれも口には出さないが、子供たちの肩に、この課題がズッシリとのしかかっている。ホンダの国内販売が軽自動車を含め年間四十万台や五十万台でいるうちは、日産もさほど気にしなかったが、六十万台に乗せ、将来計画として八十万台はおろか百万台を打ち出したとなれば、うかうかしておれない。
日産が“打倒ホンダ”を宣言すると、今度はトヨタが排気量一八〇〇─二〇〇〇cc級の上級小型車市場での完全制覇を宣言した。八月に「マーク」「チェイサー」「クレスタ」のいわゆるマーク三兄弟を全面改良、三車種で月間三万七千台の販売目標をぶち上げた。上級小型車の総需要は月間四万台だから、トヨタ一社で九割のシェアを握るという野心的な計画といってよかった。
日産も負けてはいない。シルビアに続いて新型車の「セフィーロ」を投入、さらに「ローレル」「マキシマ」「スカイライン」等の小型上級車を相次いでフルモデルチェンジ、トヨタの攻撃を真正面から受けて立つ構えをみせた。日産は「シーマ」がヒットし、高級車ブームの“シーマ現象”を巻き起こしたこともあり、社内には一時的に活気がみなぎっていた。
上級小型車市場を舞台にトヨタ(T)と日産(N)が全面戦争に入った。ようやく業界二位の日産の背中がはっきり見えてきた時期だけに、ホンダは東西の横綱ともいうべきTNの激突に恐れをなした。
上級小型車というのは、ホンダでいえば「アコード」と「レジェンド」の間に位置する車だが、ホンダにはこのクラスの車はない。TNの激突はホンダとは無関係に見えるが、末端では激しい値引き競争が起きるので、アコードの販売に悪影響が出る。
ホンダの販売は「HONDA」のブランドがひときわ光り、これまではさほど値引きしなくとも売れた。しかしトヨタ、日産の乱売が激しさを増して、小型上級車の価格がアコードに接近してくれば、ホンダは確実にユーザーを奪われる。シェアを守るため採算を度外視して、乱売合戦に参戦する手もあるが、そうしたくとも今度は供給が追いつかない。
昭和六十三年も後半に入ると、消費税導入に絡んで、国内販売戦略の立て方が問題となってきた。翌年四月からの消費税の導入はすでに決まっているが、同時に六・五%の物品税は全廃されないまでもある程度引き下げられるので、自動車の販売価格が下がる。下がるのが分かっているだけに、消費者心理からすれば、購入時期を当然遅らせるので年明けから買い控え現象が起きかねない。対策は先行値下げしかない。
先陣を切ったのはマツダだった。十二月に実施した大衆車「ファミリア」のモデルチェンジに際して、消費税導入後の新価格で売り出すことを決めた。こうなると小型上級車種に限られていた乱売合戦が、一気に全車種に拡大するのは避けられない。トヨタ、日産系列のディーラーは、メーカーの意向とは関係なく雪崩現象的に追随した。一番遅れたのがホンダだった。
誤算は「コンチェルト」にも出た。ホンダはこの車を「シビック」と「アコード」をつなぐモデルとして開発、クリオ店に投入した。ところが初期の生産車に欠陥が見つかり、ユーザーからクレームが相次ぎ、ディーラーは販売意欲を失ってしまった。
バブルの絶頂期で、ユーザーもディーラーも大衆車ではなく、3ナンバーの上級小型車を求めていた。六十三年の国内販売は最終的に目標を七千台下回る六十一万三千台にとどまった。マツダには二十四万台の大差をつけたが、三菱には逆に九千台の差をつけられ、二年連続して業界三位奪回の悲願は達成されなかった。
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昭和六十年八月、国道246号線沿い東宮御所の筋向かいに十六階建ての本社ビルが完成した。白亜のビルはホンダ躍進の象徴だった。
国内販売がバブルにまみれかけた六十三年八月、常務の入交昭一郎は四年のHAM社長を終えて帰国した。後任社長には入交と同期入社の吉野浩行が就いた。入交がHAMにいる間に従業員は二倍の八千人に膨れ上がった。生産も順調で、品質面から性能まで日本製と比べても遜色のない車を作れるようになった。「ホンダウェイ」ともいうべき、ホンダの企業理念も確実に根づいてきた。
入交はHAMを米企業として認めてもらうため、スコットやスーザンの助言を受け入れ、ビッグスリーのみならず、部品メーカーを含めたデトロイトの自動車産業の幹部とも積極的に付き合い、HAMが米国企業であることをユーザーにも知らしめた。入交はいつしかHAMのみならず、米自動車産業でヒーローの一人に数えられるようになった。
「ホンダの米現地工場を成功させた男」
米国の自動車ジャーナリズムは、こう書き立て入交の功績を賞賛した。
日本では本田宗一郎は「ホンダ」の創業者として知らない人はいないが、米国で宗一郎の名前はデトロイトのそれも自動車関係者しか知らない。T型フォードを開発したヘンリー・フォード一世すら忘れられてしまっているお国柄である。ファミリーカーを作っているホンダに、スピード狂の宗一郎のイメージをダブらせる人は皆無と言っていい。
オハイオにホンダの新しい文化を創る目的でスタートさせた「メイフラワー作戦」は大成功した。入交は米国におけるホンダの新しい顔となった。
「ミスター・イリはオハイオでの成功を手土産に、トウキョウ・アオヤマのホンダ本社に凱旋するのだ。いずれホンダのトップになる」
HAMの従業員はこう信じて、別れを惜しんだ。それと反比例して本社では新しいヒーローの誕生を苦々しく思う人々が増えた。
その原因はHAM運営に関して、オハイオと青山の本社との間に大きな溝が生じていたことにある。青山にすれば工場は、国内であれ海外であれ「モノを作るのが本筋」であって、入交を中心に展開している「メイフラワー作戦」は、やり過ぎと見る人が少なからずいた。
逆にHAMを預かる入交にすれば、スコット、スーザン、アレン・キンザーの意見を尊重することが、現地化の早道という考えがあった。
オハイオのHAMと東京の本社の意見が正面から衝突したのが、UAW(全米自動車労組)への加入問題だった。ホンダが進出した当時、デトロイトは未曾有の不況に見舞われていたこともあり、UAWの加盟労働者は年々減少しつつあった。これに危機感を持った会長のダグラス・フレーザーは、新たな労働者を獲得するため、メアリズビルにUAWの支部を作り、HAMに波状攻撃をかけていた。
HAMはオートバイ工場を稼働させた当初から「いずれUAWに入らなければならないにしても、加盟時期はできるだけ遅くしたい」との方針を立てていた。
「UAWには入らないにこしたことはない。理由はUAWの賃金が高いこともさることながら、組織化されると工場運営がやりにくい」
HAM副社長の吉田がビッグスリーの労務担当役員と接触したとき、彼らは一様にこう嘆いた。その嘆きを吉田は忘れることができない。HAMの経営幹部の考えは一致していた。
「従業員はユニオンを必要としているわけではない。マネジメントの失敗がユニオンを招くのだ。従業員の心さえ掴めば、UAWに加盟する必要はない」
オハイオ工場が本格稼働するとともにUAWの攻勢も強まり、遂に工場に細胞組織ができた。ここで組織化を妨害すれば、正面からUAWと事を構えることになる。
HAMは表面的に「UAWに入るかどうかは従業員が決めること」という静観の態度を取り続け、最後は従業員投票に委ねることにした。結果は未加盟となったが、それでも四人がUAWに個人加盟して、職場でおおっぴらに組織拡大活動を始めた。
UAW加盟問題について本社は、オートバイの時代から早期加盟を主張していた。急先鋒が販売を預かる副社長の吉沢幸一郎だった。
「オートバイの生産はUAW抜きでできても、四輪車はそうはいかない。ホンダはUAWとデトロイトを敵に回してやって行けるのか。UAWのホンダ攻撃が激しくなれば、ユーザーのホンダ車離れが始まる。そうなってからでは遅い」
吉沢は販売の立場から、機会を見付けてはHAMの初代社長中川和夫にUAWへの加盟を促した。クルマ作りを第一に考え、UAWへの加盟をできるだけ遅らせようとするHAM。UAWのバッシングを恐れ、加盟を推進する本社。
入交がHAMの社長になってからも、この問題は決着しなかった。吉田を連れて一時帰国した時、HAM前社長の中川を交え吉沢との間で、次のようなやり取りを何回となく繰り返した。
吉沢「とにかくホンダとしては、UAWといざこざを起こしたくないんだ。いざこざが起きれば、現地販売にも悪影響を与える」
入交「工場は良い物を作るのが勝負です。良い物を作るには、まだUAWに加盟するのは時期尚早かと思います」
吉沢「そこを何とかして欲しいのだ。中川(専務)さんはHAMの前社長としてどうですか」
中川「確かに最初の頃は加盟しない方がよかった。しかし時代が変わった。これからはもっと広い観点から見なければ……」
吉田「副社長も専務もそうおっしゃりますが、現地のディーラーはHAMの車より、まだ日本からの輸入車を欲しがっているのです。UAWとは非公式に接触しています。『HAMはアンチUAW』といわれないようにしますからもう少し時間を下さい。もう少し……」
HAMを東京でコントロールしようとする吉沢。東京の干渉をできるだけ排除しようとする入交。議論をいくら続けても噛み合わない。UAWはその後、目標を日産のテネシー工場に切り替えたこともあり、加盟問題はうやむやになってしまい、現時点でも加盟していない。
入交が四年振りに接したホンダ社内の雰囲気は、HAMに赴任する前と比べて大きく変わっていた。一番肌で感じたのは組織が官僚的で無機質になったことだった。工場、研究所、営業、管理。社内のどの部門と会議をしても、個人の名前が出て来ない。いつの間にか組織がすべてを決めるシステムに変わっていた。組織での決定にはだれも責任を負わなくて済む。当然のことながらヒーローと呼べる人間もいなくなっていた。
〈ホンダの社員はいつのまに“動くナフタリン”になってしまったのだ。これでは活気が無いのは当たり前だ〉
ナフタリンというのは“人畜無害”という意味である。
入交の育ったのは、ホンダが急激に成長したカオス(混沌)の時代で、研究所はむろんのこと、工場、販売部門、管理部門、そして関係会社にも、たとえ世間では無名であっても社内では一目も二目も置かれる、“小さな英雄”ともいうべき人材が大勢いた。大きな実績を上げてヒーローになれば、若くとも大きな権限が与えられた。
半面、失敗すれば責任も追及されるが、敗者復活戦の道も開かれていた。社風は自由闊達で、ヒーローが生まれ育つ土壌があった。藤沢の経営に対する基本方針は大幅な権限委譲で、それがホンダの発展の源泉にもなっていた。
ホンダの経営の原点は“本田工業&藤沢商会”にある。社長は“本田工業”から出して製品開発と工場運営を担当。経営を指揮して製品を売るのが“藤沢商会”の仕事である。内実は二つの会社でありながら、一つの会社としてやってこれたのは、本田宗一郎と藤沢武夫という二つの会社のトップに「ホンダを世界一の会社にしたい」という共通の夢があったためだ。
それを引き継いだのが二代目社長の河島喜好である。河島は個性を持った創業者に対抗するため、二つの会社を融和させるため集団指導体制を徹底させた。
役員の大部屋制は藤沢の発案だが、河島がそれを定着させ、そこで生まれた“ワイガヤ”を社内に普及させた。集団指導を徹底させることで宗一郎と藤沢の存在を徹底的に利用する半面、経営介入と影響力の行使を極力排除しようとした。
河島時代は意識して“本田工業”と“藤沢商会”の一体化をはかった。河島が先に述べた「ホンダ自販」構想を断念したのは、ホンダが二つの会社に割れることを恐れたためだった。
久米はその河島の築いた集団指導体制を踏襲すると同時に、集団指導制=合議制という考えを取り入れた。
「物事はすべて全役員のコンセンサスを得て決める。合議制で決めた以上、組織として動く」
良くいえば民主的な経営、悪くいえば衆愚政治である。結論はだれにも文句を言われない保守的なものに落ちつく。ワイガヤは本来コンセンサスを作るには極めて便利なシステムだが、単にワイワイガヤガヤとやっていては、最終的にだれが決断したか分からないシステムになってしまう。合議制が前面に出れば、自ずと人の顔も見えなくなってしまう。
典型的なのが「二百五十万台クラブ」入りの構想だ。構想自体は“ワイガヤ”で議論された程度だが、すでに北米地域ではオハイオ工場の増設とカナダ工場の建設に続いてオハイオ第二工場の建設にも取り掛かっている。完成すれば北米の現地生産は年間六十万台を超える。
北米工場の増設は米国市場でホンダの優位性を確保する意味で欠かせないものだったにせよ、鈴鹿第三ライン新設と平成元年に進出を決めた英国工場は、本来であればもっと時間をかけて討議すべきテーマだった。オハイオに乗用車工場を建設する際、専務以上の役員が合宿して、最悪の場合「撤退しても経営の屋台骨は揺るがない」ことを確認して最終決断を下している。
これに対し鈴鹿のライン新設は「日産追撃」を意識するあまり、目先の需要動向だけで判断してしまった。内実はともあれ合議制が最優先し、全員一致で決めたことになっているので、途中で問題が生じても後戻りしにくい。
むろんこうした過ちは、ホンダだけが犯したわけではない。ホンダより先にトヨタは九州進出を表明した。日産も九州工場に隣接して第二工場、同じくマツダは山口・防府工場に第二工場の建設に着工した。新工場が稼働すれば、設備過剰になるのは分かっていた。にもかかわらず各社とも「自分のところだけは大丈夫」と思い込んでいた。今にしてみれば、バブルに浮かれた異常な時代だった。
ホンダの英国工場については、同業他社も首を傾げた。英国にはすでに提携先のローバーにエンジンを供給する目的で、HUM(ホンダ・オブ・ザ・UK・マニュファクチャリング)を設立している。今度はそこに年産十万台の組み立て工場を建設、これを機にホンダはローバーに、ローバーはHUMにそれぞれ二〇%資本参加することになった。英国には日産に続いてトヨタも進出を決めており、欧州各国から「日本企業の投資が英国に集中し過ぎている」との非難の声が出始めていた。
ホンダがそれを承知で現地生産するにしても、ローバーとの関係をはっきりさせておかなければならない。計画だけ見れば明らかに二重投資。しかも年産十万台では採算が取りにくい。単年度黒字の見込みも立たない。FS(フィジビリティ・スタディ=企業化事前調査)の結果は米国進出の時と同じだが、決定的に異なるのは、市場のボリュームである。米国と英国では市場規模が五倍から六倍ほど違う。
トヨタのように唸るほどの余裕資金があれば何も問題がない。だがホンダには日米欧の同時三正面作戦をとる力はない。「二百五十万台クラブ」入りの呪縛から逃れることができず、知らず知らずのうちに自制心が失われて行った。
久米は技術者としては一流だが、いかんせん経営者としての基礎的な訓練がされていないので、経営に独創性がない。社会経験も不足しているから、河島のようなインド哲学に基づいた四進法の考えもない。基本は「イエス」か「ノー」かのデジタルの二進法である。物事をトップダウンで決めようにも、判断材料があまりにも乏しすぎ、結果的にはバブル景気は永遠に続くと信じ、合議制の名のもとに猪突猛進してしまった。
経営の実務は吉沢が担当していたが、彼はあくまで職務に忠実であることをモットーにしていた。久米と同期入社だけに、対抗心と同時に遠慮がある。久米が研究所の社長をしていた時代、吉沢がアメホンの社長をしており、二人は販売と開発の責任者として、米国に投入する車を巡り喧嘩腰で議論をした仲である。
しかし社長と副社長に昇格してホンダの経営を預かるようになってからは、役員室の議論が白熱しても、最後はどちらかが降りるので、二人が対立するという局面はなくなった。吉沢としては久米が明確な方針を出さない以上、それをさしおいてホンダとしての行動指針を出すわけにはいかない。
〈今のホンダは昔のホンダとは違う。規模があまりにも大きくなり過ぎた。創業者の遺産を受け継いで、さらなる発展を遂げるには、小さな間違いといえども許されない。どの事業をだれが成功させたかといった個人の功績は、さほど重要ではない。いまホンダに必要なのは全員参加のトータルハーモニーだ。対外的に顔のない会社ではまずいが、ホンダをヒーローに結び付ける旗印はいらない。対外的な顔は本田宗一郎一人で十分だ〉
こうした吉沢の考えを具体化しようとすれば、ボトムアップの経営にならざるを得ない。組織は自ずと官僚化される。こうしたトップの考えは、口に出さなくとも自然と社内に伝播する。
久米体制になって、組織が肥大化するにつれ随所に大企業病も蔓延し始めた。六十一年十月からトヨタ、日産に倣ってホンダの工場では、正面玄関脇にある駐車場での他社銘柄車の駐車を全面的に禁止した。他社銘柄車に乗ってきた納入業者は、工場から遠く離れた駐車場にひとまず停めて、工場までテクテク歩かなければならない。
良く解釈すれば「一台でもホンダ車を売り、販売に協力したい」という工場関係者の愛社精神の発露ともいえるが、外部は皮肉たっぷりの見方をした。
「ホンダさんはいつの間にかトヨタ、日産並みの一流企業になったということです。ホンダ車以外の車に乗って来るような納入業者とは、今後一切付き合いませんというホンダの意思表示なのでしょう」
ある部品メーカーの幹部が、工場の変貌を嘆いた。
「昔は工場に受付なんかなかった。部品を積んだトラックが工場の中まで自由に出入りできた。ところが今はいちいち行き先まで指定の用紙に書かされる」
自動車メーカーは生き残りをかけて、研究開発や生産技術の向上にしのぎを削っており、来訪者に対する厳重なチェックは当然ともいえるが、過去のホンダを知る部品メーカーの目には何はさておき、形式を重んじる官僚主義の横行と映る。
大企業病は本社でも進行しつつあった。部品メーカーも系列ディーラーも、嘆きは同じである。
「昔は担当者同士の口約束で済んだことでも、今は文書を提出しろといわれる。その様式がホンダ式でないと、今度は書き直しを命じられる。青山のホンダ本社に行くのは、霞が関の役所に行くのと同じだ。こうした傾向はここ数年激しくなってきた」
「図体がでかくなってきたせいか、物事を決めるのにとにかく時間がかかり過ぎる。昔は担当の営業マンに話せば済んだことでも、今や何人もの人に同じように話さなければならない」
ホンダの成長の原動力でもあった若手社員に権限を与えて責任を取らせるやり方は、官僚主義の横行で逆に若手社員の行動を縛ってしまった。すると“若害”が出てくる。若害の行き着く先が数字の独走である。業販店からプリモ店に衣替えした販売店の社長が、本社の営業マンに同情しながら語った。
「ホンダは業績評価の厳しい会社だから、若手の営業マンはノルマを達成するためうちに来ても、挨拶もそこそこに単刀直入、すぐ商談に入る。それが済めばそそくさと帰ってしまう。これではディーラーとメーカーの間に信頼関係なんか生まれませんよ」
企業規模が大きくなればなるほど、組織の官僚化は避けられない。官僚主義が会社を滅ぼすと信じて疑わなかった藤沢は、それを予期していたからこそ、ホンダの成長の源泉となるべき研究所を分離・独立させることで大企業病の感染を防ごうとした。
にもかかわらず組織の肥大化とともに、大企業病は研究所をも確実に蝕んでいった。それを少しでも食い止めるため、川本の提案で六十二年六月から職名をすべて英語にし、名刺にもカタカナで表記することにした。例えば社長の川本は「プレジデント」であり、専務の下島啓亨は「シニア・マネージング・ディレクター」である。
社長の川本がその狙いを語った。
「英語のカタカナ表記にしたのは“さん付け運動”を徹底させるためです。舌を噛むような長ったらしい職名にすれば、必然的に〇〇さんとなってしまう」
〇〇さん、〇〇ちゃんと呼び合うのは、ホンダの特色だったが、研究所の規模が六千人を超し、いつの間にか「さん付け」が廃れ、役職名で呼び合う慣習が幅を利かせる風土に変わってしまった。
入交が入社した昭和三十八年からヤマハとのHY戦争が勃発するまでの二十年間は、日本の自動車産業が最も激動した時代であった。開発も生産も営業もちょっとでも手を緩めれば、たちどころに奈落の底に突き落とされる。ホンダは独立独歩をモットーにしてきただけに、本社から現場に至るまで、恐怖心と緊張感がみなぎっていた。
入交はそうした社風の中で育ち、米国にもこの緊張感を持ち込んで仕事を続けてきた。ところが日本を離れた四年の間に、カオスの状態にあった組織に、次々と杭が打ち込まれ、入交の目にはヒーローが育たない企業風土に変わってしまったように映った。
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「ホンダが将来、潰れるようなことがあっても、わたしの行く会社だけは大丈夫です」
ホンダの広報部長として宗一郎、久米、河島の三代の社長に仕えてきた松尾肇が六十年に宗一郎が実弟、弁二郎のために設立した本田金属技術の社長に転出するとき、新聞・雑誌記者との懇談の席で、社長の久米や会長の岡村のいる前で大見得を切った。その当時のホンダには、まだそれを言えるだけの自由度があった。
松尾の発言を漏れ聞いた他社の広報マンは羨ましがった。
「あそこまで言えるのは、さすがホンダさん。われわれの会社だったら到底そこまで言えない」
ホンダも企業である以上組織を無視できない。最終的には組織の決定に従うにせよ、その過程でお互いに言いたいことを言い合ってしこりを残さないようにしていた。
〈海の向こうから見たホンダは、頑強な要塞に映った。要塞に見えたのは何のことはない。官僚組織に変わっていたからだ。なぜそうなってしまったのだろうか。組織から個人を取り戻すにはどうしたらよいか。今のままではホンダはダメになってしまう。部長以下の人間が無色透明になっているのは、ホンダに明確な将来に対するビジョンがないからではないか〉
「久米さん。ホンダの将来あるべき姿を描いたビジョンを出して下さい。“久米ドクトリン”といったものです」
入交は帰国して間もなく、こう久米に詰め寄った。吉沢にも同じことを要求した。同僚の川本には事前に相談しなかったが、入交は川本も自分と同じ思いを持っているものとハナから信じていた。
「イリさん。そうおれを責めるなよ。おれの背中には宗一郎が乗っているんだ。オヤジが乗っている限り、おれは勝手に身動きができないんだ」
苦しそうな表情で言い訳をする久米の言葉を聞いて、入交は青山で起きている変化の背景を呑み込めた。
久米は久米で悩んでおり、自宅に帰ると自問自答した。
〈これまでメーカーは、良い製品さえ作っておればよかった。しかし自動車という基幹産業の一翼を担う会社として国際的な見地に立てばどうなるか。よい製品だけ作っておればよいという時代は、完全に過ぎ去ったのではないか〉
〈ホンダが世界でどう生きていくか。ホンダはいまその存在価値を試されている。ホンダを「世界で嫌われない会社」「好かれて生きる会社」にするにはどうしたらよいものか〉
〈いまホンダの経営課題は“万物流転”“因果応報”といった自然界の法則から何としてでも逃げ切ることだ。オヤジさん(宗一郎)と六本木の旦那(藤沢)は素晴らしいシステムを作り上げてくれたが、いくら気をつけても時が流れれば汚れが出てくる。創業者の理念も薄れる。それをどうやって取り戻すか〉
〈官僚主義がばっこするのは、社内にマスター(主人)とスレイブ(奴隷)の関係が発生したからだ。親会社と子会社といった上下の関係を当たり前と受けとるようになると、コミュニケーションが一方的になってしまう。日本企業はどこへいっても嫌われる。お互いの組織が独自性を持ってコミュニケーションできる組織とは一体どんなものか〉
考えれば考えるほど袋小路に入り、逆に万物流転の世界にのめり込んでしまう。
久米はホンダが抱える問題点を指摘できても、入交から要求されたドクトリンという形で、ホンダの将来のあるべきビジョンを具体的な形で示すことはできなかった。あえてやろうとすれば、どうしても宗一郎と藤沢の経営の原点を否定せざるを得なくなる。
吉沢もホンダが曲がり角にきていることは肌で感じ始めていたが、まだ「二百五十万台クラブ」入りを諦めていなかったこともあり、入交の提案には否定的だった。彼の根底にあるのは「ディシジョンはギリギリまで出す必要がない」という考えだった。
“ホンダ教祖”としての宗一郎の名声は久米の苦悩とは関係なく、年々高まってゆく。久米はホンダの三代目社長として「それに恥じない経営をしなければならない」という意識が人一倍強い。同時に自分を社長に起用してくれた藤沢の“夢”も適えなければならない。“ホンダ神話”の伝説は何としてでも守り通さなければならない。
社内に官僚組織が根を下ろすにつれ、久米の判断基準はいつの間にか「ホンダは将来どうあるべきか」よりも「ホンダは世の中からどう思われているか」に変わっていった。
ホンダが企業規模の拡大につれ官僚的になったのは、ある意味では中小企業だった当時のコンプレックスの裏返しの面がある。オートバイがまだキワモノ産業と呼ばれ、トヨタ、日産の自動車メーカーから一段と蔑まれていた時代、ホンダの社員は仕事を終え、仲間うちで酒を飲みに出掛けるとき、会社のバッジを裏返しにしていく社員が多かった。
宗一郎と藤沢はそうした卑屈な子供たちの姿を見て、ホンダを一日も早く一流の大企業にしたいという思いを募らせた。二人は強烈に一流企業に対する飢餓感を感じていた。ただし二人とも一流企業という言葉を使わずに「ホンダは世界を目指す」という言葉に置き換えた。
それが今や世界の自動車業界の仲間入りを果たし、国内では押しも押されもしない超一流企業となった。
一流会社になれば、当然のごとく財界活動を始めとする社会活動が要求される。子供たちの意識の中には一日も早く一流会社になりたいという願望と同時に、藤沢の「ホンダは単なる一流会社であってはならない」という戒めも守らなければならない。
ところがホンダの若き経営者たちは、財界活動はいうに及ばず、政治活動からメセナに至るすべての社会活動を宗一郎一人に任せてしまった。
本来、この分野でも宗一郎の後継者を育てなければならないが、社会活動をしようにも現役でいるうちはその余裕がなく、六十歳前で辞めても、今度はあまりにも若すぎて公職の口がかからない。それ以前に宗一郎の存在があまりにも大きすぎるので、かかったとしても子供たちは尻込みしてしまう。
五十五歳で勇退した二代目社長の河島喜好は、宗一郎が亡くなった後、東京商工会議所の仕事を引き受けたが、副会頭に就任したのは平成六年十一月、経営の第一線を退いてから実に十一年後である。河島はまだ六十六歳でトヨタ社長の豊田達郎、日産の社長の辻義文とほぼ同年代。それでも財界にあってはまだ若手と呼ばれる。
世間から戦後派の国際企業としてもてはやされるにつれ、その反動も出た。
「ホンダはもはや中小企業ではない。今や名実ともに一流企業なんだ。だからカッコ悪いことをやってはならない」
ホンダ社内に一流会社意識が芽生えたのは、河島が社長をしていた時代の後半、産業界が国際化に追いまくられた時代である。久米の時代になってそれに拍車がかかった。
ホンダはトヨタ、日産を尻目にいち早く対米進出を果たし、国際企業のイメージを確立した。出す車のデザインはすべて斬新で、しかも性能が良く、若者から圧倒的に支持された。ファッショナブルな青山に白亜の新本社をも建設した。
優秀な新入社員も続々と入って来た。経営陣はトヨタ、日産に入れずやむなくホンダに潜り込んだ人が多いが、いまの新入社員にとってホンダは、入社したときから一流会社だった。逆に優秀な若者は、ホンダが一流会社だったからこそ入社したともいえる。
苦闘の時代を知らない中堅社員の中にも一流意識が芽生えると、経営を預かる幹部社員の行動に自己抑制が働く。こうして知らず知らずのうちに、活力とバイタリティーが失われていった。
典型的なのがレースだった。ホンダは昭和四十年代半ばに発生した欠陥車騒動や低公害車の開発に追われオートバイ、四輪車とも国際レースへの参戦を断念、冬の時代に入った。
「F1から撤退して十年になる。四輪車も軌道に乗ってきたので、オートバイも含めそろそろレースを再開するか。レースをやれば会社の求心力が高まる」
二代目社長の河島が研究所社長の久米にこう語ったのは、スペシャリティーカーの「プレリュード」を新発売した昭和五十三年のことだった。この頃はまだ経営者にも幹部社員にも一流企業意識は薄かった。
久米からレース再開の方針を聞いて、オートバイを担当していた入交は小躍りしながら、直ちに国際レースに参戦する準備に入った。対照的に四輪車の責任者、川本はF1の再開に二の足を踏んだ。猪突猛進型の入交と深謀遠慮型の川本の性格の違いがここでも出た。
オートバイが国際レースに復帰したのは、昭和五十四年だった。ホンダのオートバイは英国マン島レースを完全制覇した輝かしい実績を持っており、社内には復帰した直後から連戦連勝することを疑わない雰囲気が漂っていた。だが責任者の入交の見方は違っていた。
〈レースというのは、そんなに甘いものではない。十年もの空白期間があっては、多分最初は負け続けるだろう。ボロ負けして研鑽を積み、それを乗り越え栄光の座に就いた時、改めてその価値が分かる〉
入交が予想した通り、十年のブランクは大きかった。参戦して二年間は惨敗続き。三年目に入ってすこし勝ち出し、念願の世界チャンピオンに輝いたのは六年目の五十九年に入ってからだった。オートバイで実績が出ると、今度は川本が率いる四輪車も負けるわけにはいかなくなる。
〈ホンダは昔と違って今や一流会社、それも“世界のホンダ”なのだから、カッコ悪いことはできない。『さすがホンダ』という行動をしなければならない〉
いきなりF1に参戦すれば、惨敗するのは分かり切っている。そうなるとどうしても勝てるレースから入っていく。四輪レースの責任者となった川本はF1の一ランク下のF2から参戦することを決めた。
レース再開の方針が出てからはやくも四年が過ぎていた。これだけの期間があれば性能のいいエンジンを開発できる。ホンダはここで破竹の十六連勝の記録を打ち立てた。その実績を引っ提げてF1に復帰したのは五十八年だった。ただ前回と違うのは、参戦はエンジンの供給を通じてである。
この時期、川本がF1復帰を決断したのは、英ローバーと共同開発を進めている高級乗用車の「XX(レジェンド)プロジェクト」を成功させるには、F1への参戦が最も効果的との判断があったからだ。レジェンドにはF1と同じ技術を駆使したV型六気筒のエンジンを積んでいる。F1で優勝すればレジェンドの発売に花を添えるだけでなく、車自体の評価も高まる。
F1復帰初年度は七レースに参加、最高はオランダGP(グランプリ)の七位だった。翌年は全十六レースに参戦、早くも九戦目のアメリカ・ダラスGPで復帰後初優勝を飾り、通算三勝目を記録した。皮肉にもその後のF1の連戦連勝が、ホンダの問題点を覆い隠す役割を果たし、バブル崩壊後の対応を遅らせることになる。
久米と吉沢に日産追撃の夢を託した藤沢が、昭和六十三年の暮れに突然、心筋こうそくで倒れた。藤沢は久米を三代目社長に指名した後、急速にホンダに対する興味を失っていった。二代目社長の河島が、ポスト久米の相談に来た時も、ほとんど関心を示さなかった。
「あたしは入交も川本もよく知らない。したがって、どちらがいいのかの判断材料を持ち合わせていない。二人とも技術屋なんだから、どっちでもいいんじゃないのか。二人の違いは西落合(宗一郎)なら知っているだろう。最後は久米と西落合が相談して決めればいい」
引退して日が浅く、元気な頃は子供たちが六本木に来れば、じっくり話を聞き適切なアドバイスをするだけでなく、首を縦に振ったり、横を向いたりすることで間接的に自分の考えを示してきた。が、久米体制が発足してからは、経営の報告を聞くのすら億劫になってきた。
それでも子供たちはそれまで通り、報告に行く。藤沢にすれば久米と吉沢を除けば、役員として名を連ねている子供たちを直接指導したことがないので、熱が入らない。報告は事務的に聞くだけで、晩年は十分や十五分で引き取ってもらった。
藤沢がホンダの経営に興味を失ったのは、年とともに気力が衰え始めたのと比例して、宗一郎の虚像が膨らみ出し、もはや自分の力で等身大の姿に戻してやるのが難しいことを悟ったためだ。
宗一郎を“ホンダ教の教祖”の座から降ろす作業は、並大抵ではない。藤沢にはもはや、そのエネルギーが残されていなかった。そうなるとホンダに対する興味も自然と薄れる。
〈あたしはやるだけのことはやった。ホンダが万物流転の法則から抜け出せるかどうかは、子供たちの努力いかんにかかっている。それよりあたしは自分のボケた姿を、子供たちの前にさらしたくない。とうてい八十歳まで長らえたいとは思わない。どうせ死ぬなら苦しまないで逝きたい〉
役員を退任した後、腰を痛めステッキをつくようになってからは、趣味の一つである散歩もままならず、ホンダ本社には顔を出すどころか、よほどのことがない限りホンダの公式行事にも顔を出さなくなった。
宗一郎とは公式の席でしか顔を合わさないが、会っても他愛ない言葉を交わすだけである。
「おい、元気か。まだ下手な絵を描いているのか」
「おめえさんも、オペラとかいう歌の入った西洋音楽を聞いて、常磐津でもうなっているのか。一体あんなの、どこがおもしれいのかねぇ」
お互いへらず口を叩くが、ホンダの経営の現状には一切触れない。宗一郎にすれば藤沢は、依然として子供たちの経営に目を光らせてくれているという信頼感がある。藤沢は現役時代から、宗一郎に経営の難しいことを話しても、分かってもらえないことを知っている。
気力が衰え、ホンダの経営に興味を失った半面、亡くなる直前まで最高級のオーディオ機器を組み込んだ自宅の部屋で、美しい旋律、ロマンティシズムとダイナミズムに満たされたワグナーの世界に浸り切っていた。
それでも最後までまだ見たことのないオハイオ工場の動向には気をかけていた。入交を筆頭にHAMの経営幹部が帰国するたび、六本木に呼んで米国の最新動向を聞くのを楽しみにしていた。
「ホンダにとって米国が最後の勝負どころだろう。しかしどうやらあんたがたの会社(HAM)はうまくいっているようだ。身体さえ丈夫なら、あたし自身のこの目で確かめてみたかったがもう無理だ」
藤沢に心残りがあったとすれば、創業期に苦労を共にしたディーラーが、N360の発売を機にホンダを離反してライバルメーカーに走った「旧ホンダ会」との関係だった。旧ホンダ会はこともあろうに、N360の欠陥車問題では、日本ユーザーユニオンと足並みを揃えてホンダを追及する側に回った。藤沢が宗一郎と抱き合い心中する形で退陣したのは、そうした過去の怨念を払拭するのも一つの原因だった。
二人が退陣した後、旧ホンダ会のホンダ批判活動は停止したが、藤沢の心の中ではまだ怨念を引きずっていた。ところが神の引き合わせかどうか、藤沢が亡くなる年の秋に、旧ホンダ会の幹部が六本木の藤沢邸を訪れ、お互いに過去のいきさつを水に流すことになった。
そして木枯らしの舞う十二月三十日の夕刻、「自分で死ぬことまでコントロールした」ように何の苦しみもなく、七十八年の生涯を閉じた。
ホンダの一つの時代が終わった。
「六本木の旦那は、いい時に亡くなったのかも知れない。ホンダのその後の低迷した姿を見れば、死んでも死に切れなかったろう」
ホンダの現状にもどかしさを感じ始めていた現役を去った子供たちは、力なくうなだれた。
藤沢が亡くなってからわずか八日後の六十四年一月七日の朝、昭和天皇が崩御、元号も昭和から平成に改められた。
「……おまえさんとあたしは、燃えるだけ燃えて一緒に辞めた。幸せな人生をありがとう」
藤沢の葬儀は一月二十七日にしめやかに執り行なわれ、宗一郎は弔辞をこう結んだ。しかし葬儀委員長を務めた三代目社長の久米是志が受けたショックは、宗一郎とは別の意味で大きかった。
久米にとって宗一郎は同じ技術者として、もともと頭が上がらなかったが、経営者としてだれよりも頼りにしたのは裏の金屏風ともいうべき藤沢であった。経営のイロハも分からなかった自分が、曲がりなりにもホンダの舵取りをやって来れたのは、すべて藤沢のおかげという思いが人一倍強い。
藤沢が亡くなるわずか五日前、久米は呼ばれて六本木の自宅を訪れた。用件は他愛ないものだったが、藤沢は珍しく門の前までツエをついて見送ってくれた。車の窓を開けてお礼を言うべきだったが、車が動き出した後で後ろを振り向くと、藤沢が左手にツエをつき、右手を振っていた。
久米は正月に弔辞の下書きをして、休みが明けると役員室に模造紙を張り巡らし、一字一句書き出しては読み上げ、さらに書き直すという作業を続けた。
「従四位勲三等旭日中綬章」
藤沢が国から授かった叙位叙勲である。藤沢は社業に没頭し、対外活動を一切しなかったため、生存者叙勲には縁が遠かった。本人が一番それを自覚していた。それ以前にハナからもらう積もりがなかった。藤沢の性格を知り尽くしている子供たちも、積極的に運動をしなかった。
死後、それをみかねた通産省機械情報局自動車課長の鈴木孝男が総理府に働きかけた。総理府は藤沢の対外活動が乏しいことから、引き続き難色を示した。それでも鈴木は粘りに粘り、総理府を押し切った。決まったのは社葬の三日前であることが、その辺の事情を物語っている。
8
宗一郎はこの年、天国と地獄を同時に体験した。地獄は盟友・藤沢の死であり、天国はF1レースでホンダがエンジンを供給している「ウイリアムズ・ホンダ」が八六、八七年と二年連続してコンストラクターズ・チャンピオン(エンジン供給メーカーに対して贈られる年間賞)に輝き、翌八八年はホンダがエンジンを供給した「マクラーレン・ホンダ」が、十六戦中十五勝するという離れ業を演じたことだ。
しかも鈴鹿で行なわれた日本グランプリは、アイルトン・セナが制した。宗一郎が目の前でホンダのエンジンを積んだマシンが勝つのを見たのは、この時が初めてであった。
〈子供たちは実によくやってくれた。ホンダは故郷に錦を飾ることができた。おれの夢がまた一つ実現した。来年からはレギュレーション(規定)が改正され、ターボチャージャーが使えなくなる。また一から出直しだが、子供たちなら必ずやってくれる。レースは勝つためにあるんだ。どんな障害があろうとも、ホンダは勝って勝って、勝ちまくるんだ〉
ホンダはF1の頂点に上りつめた。F1に再挑戦してから六年目、この年は最高のシーズンとなった。ホンダがF1にチャレンジした大きな目標が達成された。
社長の久米と責任者の川本は、今後絶対に破られないであろう栄光の記録を置き土産に、密かにF1から撤退することを検討していた。だが結論は検討する前から決まっていた。
〈オヤジさんの夢は、これからもF1で勝ちまくることだ。童心に返ったようなオヤジさんの顔を見れば、口が裂けても撤退したいとはいえない。オヤジさんが生きている限り、ホンダはF1から撤退できないだろう〉
ホンダの子供たちに、新しい重荷が背負わされた。
ホンダがこの時期、F1でわが世の春を謳歌できたのは、F1自体が転換期を迎えていたことと無関係ではない。F1は八〇年代に入ってからターボ全盛時代を迎え、八五年後半までに自然吸気エンジンは、すべて姿を消した。ホンダが再挑戦したのはまさにその時期であった。
ターボエンジンはノッキングが起こりにくいガソリンを使えば、簡単に過給圧を上げることができるので、パワーはゆうに一〇〇〇馬力を超す。馬力に比例してタイヤへの負担が重くなり、レース中のタイヤ交換は当たり前になった。自然吸気エンジンの時代にはパンクなどの事故でピットインすると、それだけで優勝どころか入賞するのも困難とされていた。
ターボ全盛時代になると、磨耗したタイヤで走るよりも、素早く交換して走った方が好タイムが出る。パワー向上がF1を歪める恐れが出てきた。
そこでF1を主催するFISA(国際自動車競技連盟)は、パワー競争に歯止めをかけるため八四年から燃費規制を取り入れ、決められたガソリンでレースを走り切らなければならないようにルールを改正した。途中でガス欠に陥れば、即リタイアとなる。燃費規制は年々強化された。規制強化の本当の狙いはホンダの連勝阻止にあった。
年々厳しくなっていく規制を達成するには、エンジンのきめ細かい制御技術が欠かせない。ところがこの分野はまさに日本が得意とするところだった。市販車で日本が世界に先駆けてターボ全盛時代を迎えたのは、電子制御技術が発達したことによる。F1はその市販車の技術を応用するだけでいい。
ホンダの連勝を防ぐ目的でスタートした燃費規制強化は、逆にホンダに幸いした。ホンダは排ガス規制に対応するため、昭和四十年代に徹底的にエンジンの燃焼解析をして、その中から低公害のCVCC(複合渦流調速燃焼)エンジンを生み出した。
ところがCVCCではドライバビリティの問題が解決できないとみるや、あっさりそれを捨て、代わって触媒を使用するためエレクトロニクス技術を積極的に取り入れた。六十年にはCVCCの開発に携わった桜井淑敏がF1プロジェクトの責任者に就いた。
昭和三十九年にホンダが最初にF1に参入した当時は、F1の技術を市販車に応用できる利点があるといわれたが、ターボの時代では逆になった。市販車の技術がF1をリードしたのだ。こうなるとチームもドライバーもホンダに擦り寄って来る。ウイリアムズ・ホンダはネルソン・ピケを獲得、八六年のシーズンはナイジェル・マンセルとの二枚看板で参戦することになった。
ホンダ(エンジン)とウイリアムズ(車体)はこの年、九勝を挙げ、初めてコンストラクターズ・チャンピオンに就いた。ドライバーズ・チャンピオンは、ピケとマンセルの同僚が最後の最後まで争ったが、土壇場でマクラーレンのアラン・プロストにさらわれてしまった。二人がポイントを分け合うスキをぬって、プロストが着実にポイントを稼いだのである。
エンジンメーカーとしてF1に参加しているのは、ホンダ、ルノー、ポルシェ、フェラーリの四社。このうちルノーは八九年から始まる自然吸気の新しいエンジンの開発に全力投球しているので八七年、八八年はターボエンジンの供給を中止することを決めた。ホンダにとってのライバルは、ポルシェとフェラーリということになるが、両社とも短期間でホンダの水準に迫るのは難しい。こうなるとまさにホンダの独壇場となる。
ホンダは八七年のシーズンに向け二つの目標を立てた。一つはF1界でホンダの地位を高めること。もう一つはモーター・スポーツとしてのF1を、日本に定着させることだ。ホンダチームの監督に就任した桜井は、自らホンダのスポークスマンとして現地の自動車ジャーナリストと接触、F1の世界でホンダを主流に押し上げる涙ぐましい努力を重ねた。
その一方で、ルノーから供給を打ち切られたロータスにもエンジンを供給することにした。ターボ全盛時代に入ってから、ほとんどのF1チームからエンジンを供給してくれるよう要請が来ているが、ホンダはその中からアイルトン・セナが所属しているロータスを選んだ。
セナの運転技術は卓越しており、早晩世界チャンピオンになるのを、だれもが疑わなかった。セナ自身、かねてからホンダのエンジンを積んだマシンで走りたいという希望を持っており、ことあるごとに自分の方から桜井にコンタクトしてきた。
セナは自分が他の人よりも速く走ることを最優先させてきたドライバーだった。ライバルのプロストが、常にゴールするときにトップにいることを考えながらレース運びをするのとは対照的に、セナは予選でもベストタイムを出すために全力を尽くした。スタートからトップに立ち、自分の前を走るマシンがいることは、プライドが許さない。セナは危険と背中合わせのところで、人間として限界に挑戦するのを信条としてきた。
これは火の玉のような激しい闘争心を持った宗一郎のスピード人生と一脈通じる。宗一郎はセナに惚れ込み、セナも宗一郎を尊敬する関係になった。
ホンダはロータスにエンジン提供の見返り条件として、セカンドドライバーとして中嶋悟を起用することを挙げた。ホンダは中嶋をF1ドライバーにすることによって、日本でF1ブームを巻き起こそうとした。それに向けて鈴鹿サーキットでの日本グランプリの開催も働きかけた。
日本でF1が開催され、日本人ドライバーが走ればいやがおうにもF1に対する関心は高まる。鈴鹿サーキットの大改造を条件に、昭和六十二年からの日本GPの開催も正式に決まった。
「F1世界選手権・イン・ジャパン」の名称で、F1が日本で最初に開催されたのは、五十二年十月のことだ。この時は静岡県の富士スピードウェイを舞台に行なわれた。この成功で翌年の五十三年に正式に「日本GP」として開催された。
F1史上に残る大惨事は決勝レースのスタート直後に起こった。フェラーリが前を走るティレルに追突、後輪に乗り上げるという信じ難い事故が発生した。ドライバーは無事だったが、大勢の観客が立ち入り禁止の表示を無視してコースに乱入し、そこへ後続マシンが直撃して死者二人、重軽傷七人という大事故を引き起こしてしまった。
モーター・スポーツに理解の無かったマスコミは、ここぞとばかりF1の危険性を喧伝したことから主催者のJAFは、翌年からの開催をあっさり中止してしまった。
十年振りに開かれた日本GPは、八七年(六十二年)シリーズ十五戦目として舞台を鈴鹿サーキットに移し、十月三十日の予選から始まった。このシーズンは「ウイリアムズ・ホンダ」と「ロータス・ホンダ」は合わせて十一勝挙げており、すでにホンダのコンストラクターズ・チャンピオンが決まっている。
ドライバーズ・チャンピオンもマンセルが六勝しており、これも確定。ピケは三勝、セナも二勝していた。日本人初のF1ドライバーとしてデビューした中嶋は、初戦のブラジルGPでは七位に入り、イギリスGPではマンセル、ピケ、セナに続いて堂々四位入賞を果たした。
予選は雨にたたられたが、決勝の十一月一日は日本晴れ。十一万人の観客がサーキットのスタンドを埋めつくした。その中に青いジーンズをはいた宗一郎もいた。不思議なことに宗一郎が見に行くと、ホンダチームは必ず負ける縁起でもないジンクスがあった。
それを知って宗一郎は日本開催が決まった後も「おれは鈴鹿には行かないよ」と公言していた。だが開催が近づくとともにソワソワし出した。それを見かねた夫人のさちが、前日になって救いの手をさしのべた。
「おとうさん、あまりやせ我慢しないで、鈴鹿に行ったら。私もF1とやらを見ておきたいし、一緒に見に行きましょうょ」
だがレースははからずも宗一郎のジンクスを裏付ける結果となってしまった。優勝したのはフェラーリで、ホンダの二チームの中ではセナの二位が最高だった。マンセルは予選落ち、ピケは七位だった。唯一の救いは中嶋が六位に入賞したことだ。
レースが終わり、観戦に来ていた会長の大久保叡らのホンダの役員は、最寄り駅の近鉄白子駅までの六・五キロの道をトボトボと歩いた。ホンダ社内でF1を推進してきた川本は「今日はフェラーリの日だったね」とさばさばした表情を見せたが、ひとり宗一郎だけは監督の桜井にカミナリを落としていた。
「きょうのレースはなんだ。たまに負けるのもいいが、次は必ず勝て。いいか、レースっていうのは、負けるためにやるんじゃない。勝つためにやるんだからな」
そして桜井は顔を真っ赤に上気させながら答えた。
「次は勝ちます。来年、鈴鹿で必ず勝って見せます。顧問、来年もぜひ見にきてください」
宗一郎はホンダの子供たちに厳命した。
「レースは勝たなければならない。しかも勝ち続けるんだ」
翌六十三年、ホンダは勝ち続けるためにウイリアムズと手を切り、それまでポルシェからエンジンの供給を受けていたマクラーレンと手を組んだ。マクラーレンは新しいF1マシンを作る工場を建設したのを機に、マシン開発チームとレースを運営するチームに分離した。ジョン・バーナードという人気デザイナーも抱えている。
川本はマクラーレンと手を組めば、当分勝ち続けることができると判断した。手を組む前提条件はセナがマクラーレンに移籍することだった。ドライバーズ・チャンピオンになることを夢見ていたセナは、ホンダの提案に同意した。ホンダがエンジンを開発し、バーナードがデザインしたマシンにセナとプロストが乗る。こうして「マクラーレン・ホンダ」というF1史上最強のチームが出来上がった。
八八年のF1は、まさにマクラーレン・ホンダのためにあったといっても言い過ぎではなかった。十六戦のうち唯一優勝を逃したのはイタリアGPだけ。この年はセナが八勝、プロストが七勝した。セナと入れ替わりにロータスに移ったピケは、同じホンダのエンジンを積んだマシンに乗りながら、一勝もできずにシーズンを終えた。
セナが鈴鹿で優勝したこともあり、宗一郎はF1の快進撃に酔いしれていた。藤沢の不幸の知らせが届いたのはそれからわずか二カ月後のことである。葬儀も無事終え、放心した毎日が続いたが、それから十カ月後に宗一郎は人生の頂点に立った。
日本人として初めて「自動車の殿堂」(オートモティブ・ホール・オブ・フェーム)入りを果たした。平成元年十月七日、宗一郎は夫人のさちを伴ってミシガン州ミッドランド市のノースウッド大学の構内にある「自動車の殿堂」入りの儀式に出席した。
この日は殿堂入りした人が来た時でなければ開けられることのない正面玄関の“開かずの扉”が開かれた。殿堂には米国の自動車の歴史を創ってきた先達たちの名前、功績を刻んだメモリアルが飾られてあった。
その一角に新たに「SOICHIRO・HONDA」のコーナーが設けられた。そこには肖像画のほか、戦前、多摩川で行なわれた全日本スピードラリーに参加した際、ゴール寸前の衝突事故に遭い、空中で三回転して投げ出された瞬間の写真、F1マシンの前でのポーズなど合わせて五枚の写真が掛けられ、その横には生い立ちから今日の「世界のホンダ」に至るまでの宗一郎個人の略歴が英文で記されていた。
宗一郎が亡くなり三回忌が過ぎた平成五年の十月、未亡人となった「さち」はカナダのオタワで開かれた本田財団のシンポジウムの帰途、殿堂に立ち寄り、一枚の写真を取り外し、宗一郎直筆の水彩画と交換し、さらに記念品として宗一郎が生前愛用した絵筆とパレットを置いた。宗一郎は手慰みで描いた絵を気前よく人にくれてやり、さちの手元には殆ど残っていなかった。
「家を整理していたら一枚だけ出てきたのです。本人があまり気に入らないので隠していたのでしょう。おとうさんからは『何であんな下手くそな絵を飾った』と怒られるかも知れませんが、人間宗一郎を知ってもらうには、ここに飾るのが一番なんです」
平成六年秋、宗一郎に次いで日本人として二番目に殿堂入りを果たした豊田英二は、GMとの合弁工場建設の鍬入れ式の写真などとともに宗一郎に倣い、記念品として米国で出版した英文の「私の履歴書」、まだ漢字だった創業時のエンブレム、トヨタのTを基調にグローバル化をデザインした最新のシンボルマークの三点を残した。
翌日の八日はデトロイト市内にある「フォード・ミュージアム」に招待され、テレビの三大ネットワーク、NBC、ABC、CBSを始め、全米のマスコミを前に感激の心境を語った。
「私が小学校に入る前の六歳の時に、私の生まれた小さな村の曲がりくねった街道を、黒塗りのホロを付けたT型フォードがゴゴゴッと爆音を響かせて疾走して行きました。私はその時、初めて自動車というものを見ました。目の前を土煙りを上げて疾駆していく車を追って、砂埃にまみれながら無我夢中で走って行きました。
轍にはオイルの“たまり”が落ちていました。私は地面に鼻がくっつくほど近づいてガソリンの匂いをかぎました。そこには文明の薫りがありました。フォード車との出会いが私の人生を決めたのです。その時、わたしはいつしか自分の手で自動車を作ってやろうと思ったのです……。今日は感激で胸がいっぱいです」
殿堂入りのハイライトは十日にデトロイトのダウンタウン、ルネッサンスセンターの一角にある「ザ・ウェスティン・ホテル」で行なわれた正式な表彰式と晩餐会だった。会場には千人を超す欧米の自動車メーカーの経営者や関係者が集まった。中央壇上にスポットライトが当たり、黒のタキシードを着込んだ小柄な宗一郎が万雷の拍手に迎えられ登場した。そして殿堂の理事長から“開かずの扉”の絵の上に「Automotive Hall of Fame」と刻印された丸い大きな金メダルが胸に掛けられた。
「殿堂入りは本当に名誉なことです。夢のようでございます。まだここにいても身体がフワフワしております。そこでこうして手をつねってみたのですが、痛いので本当だと感じたわけです。いま皆様のおかげで生きている喜びをしみじみ感じております。この夢を永久に見続けていきたいと思います。ありがとうございました。本当にありがとうございました」
宗一郎の舌は決して滑らかではなかったが、通訳の池見清志が宗一郎の意を汲んで英語で話した。宗一郎のわがままは、死ぬまで直らなかったが、同時に死ぬまで相手に人一倍気を使った。受賞のスピーチは事前に念入りにチェックしていたが、直前まで果たして自分のいいたいことが外国人に通じるかどうか心配で、食事もノドを通らなかった。
「おい、池見。原稿に手を『つねる』とあるが、この言葉は本当に英語で通じるのか。アメリカ人に理解できるか」
「顧問、大丈夫です。私に任せてください。顧問は地のまま、言いたいことを言ってください。右手で左手をつねるジェスチャーをしてください。私が通訳をしなくとも、その仕種で顧問がいわんとすることは間違いなく相手に通じます」
スピーチが終わると、再び会場から万雷の拍手が巻き起こった。
自動車殿堂入りに伴う一連の行事を終えると、今度はチャーター機でオハイオのHAMに立ち寄った。宗一郎がHAMに来るのはその時が三度目であった。最初がオートバイの工場が完成した五十四年、二度目は四輪車工場が完成した五十七年である。工場の拡張に伴って従業員もうなぎ登りに増え続け、今や一万人近くに達している。
最初に訪れたときは歩いて工場を回り、気軽にアソシエート(従業員のことをHAMではこう呼んでいる)と握手して、手が膨れ上がったことがある。
今回は夫人連れで、しかも足が弱っているので、広い工場を歩いて見学するのは無理である。そのため四輪工場長のボブ・シムコックスが運転する電気自動車に乗って回ることになった。その前に社長の吉野浩行はシムコックスに厳命した。
「顧問の体は弱っている。自動車のスピードを速めて、短時間で回れ」
宗一郎と夫人のさちを乗せた電気自動車がスタートした。シムコックスはいわれた通り、徐々に車のスピードを上げたが、運転席の後ろに乗っている宗一郎が少しでもスピードが早くなると頭をこづいてくる。
宗一郎は日本語で「もっとゆっくり走れ」と言っているが、日本語の分からないシムコックスでも、宗一郎の仕種でいわんとしていることは理解できた。
ゆっくり走ると、青い目や肌の黒い新しいホンダの子供たちが続々と手を差し出してくる。宗一郎は一人一人の手を握り返した。
〈目の色や肌の色が違っても、ここで働いているのは、全員がホンダの子供たちだ。おれが再びここへ来ることはないだろう。六本木(藤沢)、おめえさんにも、ここにいるホンダの子供たちに会ってもらいたかった〉
「どんな時代になろうとも、人生には夢とか、目的が必要である。しかもこれでいいと言う限界はない。どこまでも続く終わりのない階段みたいなものだ。私もホンダも、未来に続く階段を一歩一歩上らなければならない」
[#地付き]本田宗一郎
「経営者の語録と言うのは発言した時代背景と、その企業が置かれていた立場が分かっていなければ、本当の意味を理解できない。断片的な語録集を作れば言葉だけが独り歩きしてしまう」
[#地付き]藤沢武夫
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「人間は生れ落ちた時から死への旅立ちを始める。企業もまた創業と同時にいつの日か衰亡の危機に直面する宿命を負わされている。そしてその『いつの日か』は決して遠い将来のことではない」
“万物流転の法則”の企業版ともいうべき、“会社の寿命”を「日経ビジネス」が実証した。同誌は明治二十九年から昭和五十七年まで過去百年間の「日本のトップ企業百社」の変遷を十年刻みで克明に調べ上げた。結果は上位百社のランキングに十期連続して名を連ねたのは旧三井財閥の流れを汲む王子製紙(現新王子製紙)一社しかなかった。
次に企業が繁栄を維持できる期間を調べたところ、十期間に登場した企業は延べ四百十三社にのぼった。もし会社が永遠であれば上位百社の顔ぶれはそう違わないはずである。ところが現実は四百社を上回った。
これは一体何を意味するか。単純に計算すれば、これらの企業は平均二・五回ほどランキングに登場したことになる。ここから割り出される答えは、企業が繁栄をきわめ優良会社と呼ばれる期間は約二・五回、一期十年として三十年足らずということになる。「会社の寿命・三十年の法則」である。
自動車業界にこれをあてはめてみると、多少こじつけがましいが、面白い答えが出る。トヨタが豊田自動織機製作所自動車部として自動車事業に手を染めたのは、昭和八年のことだから約六十年の歴史を持っている。太平洋戦争を挟んだ前半三十年は、苦闘の歴史そのものだった。
繁栄をきわめたのは、昭和三十年代半ば過ぎにモータリゼーションを迎えてから今日に至る後半三十年間だ。トヨタは依然として日本一の超優良会社であることに変わりはないにしても、繁栄のピークは過ぎたともいえる。
日産の繁栄は会社を揺るがした昭和二十八年の大労使争議を経て、労使協調路線が確立した昭和三十年代初期から始まり、六十年初期に“中興の祖”川又克二と盟友塩路一郎が失脚するまでの約三十年間続いた。その後は経営のミスが続き、国内生産と販売はトヨタの半分以下になってしまった。
同じ観点からホンダを見れば、繁栄は昭和二十九年の経営危機を脱しスーパーカブを発売した三十年代半ばに始まり、創業者の藤沢と宗一郎が亡くなるまでの三十年間続いた。業績だけみれば、日産、ホンダとも下降曲線に入っている。両社が「会社の寿命・三十年の法則」を覆すのは並大抵ではない。
目に見える形でホンダの異変が表面化したのは、バブル景気が絶頂期に登りつめる直前の平成元年に入ってからだった。ホンダ車の国内販売は年明けから伸び悩み、世間は早くも「常勝ホンダに異変」と騒ぎ立て始めた。それでも久米は意に介さなかった。
「うちの車が伸び悩んでいるのは、消費税の導入で他社の高級タイプの3ナンバー車が売れ、そのあおりを受けたせいだ。秋にアコードの新型車が出れば必ず持ち直す」
期待の四代目「アコード」は、その年の九月にデビューした。それまでアコードはクリオ店、姉妹車の「ビガー」はベルノ店に投入していたが、今回のモデルチェンジでプリモ店向けに新たに「アスコット」を開発した。これを機にビガーをハードトップに変更、さらに「アコード・インスパイア」という新車も開発した。アコードシリーズは、従来の二車種から一挙に四車種に増えた。
三代目アコードは「日本カー・オブ・ザ・イヤー」を受賞した名車の誉れ高い車だった。それだけにホンダが四代目のアコードをどのように変えてくるか。自動車ジャーナリズムの興味はその一点に集中した。
新車発表は帝国ホテルの大宴会場「孔雀の間」で行なわれた。最初に社長の久米が挨拶し、次に技術担当役員がスライドを使って技術的な説明を加えた。
一連の儀式が一通り終わり、会場の照明も消え、発表会場と展示場を仕切る壁が取り払われ、新型アコードにスポットライトが当てられた。いつもならこの瞬間、驚きとも感嘆ともつかないどよめきの声が出るが、今回は静まり返った。
四方八方に展示された十台以上の車は、どこから見ても三代目と違わない。新車の周りに集まった自動車専門誌の記者から、ホンダの役員に質問の矢が飛んだ。
「スタイルがそれほど三代目と変わっていませんね。むしろおとなしくなった分だけ、ホンダらしさがなくなったのではないか」
これに開発を担当した川本信彦が反論した。
「ホンダはもうチャカチャカしたクルマ作りはしない。子供だけでなく、ちゃんとした大人に乗ってもらう車を作った。若い時はホンダだったが、大人になったらトヨタや日産というのではダメだよね。若い時から年をとってもホンダという車にしたかったんだ。だから外観のデザインもチャラチャラではなく、飽きのこないものにした。デザインより走りに重点を置いた」
これに入交も川本に同調した。
「ホンダ車にとっての販促力はお顔のデザインではなく、“走り”だと思う。その意味で新型アコードは、ホンダのこれまでの延長線にある」
アコードは日本と同時期に米国でもモデルチェンジを断行した。トヨタ、日産は米現地生産のモデルチェンジは国内より半年、一年遅れて実施するが、ホンダは前回から日米同時の離れ業をやってのけた。
四代目アコードは日米で明暗を分けた。米国では三代目同様、好評を得て現地販売に弾みがつき、八九年に七十八万三千台だった乗用車の総販売が翌九〇年には八十五万五千台に急増した。とりわけ好調なのがアコードで、八九年から三年連続してフォードの「トーラス」を抜いて米国市場での最量販車の栄光の座についた。
逆に国内では悲惨を極めた。目標販売台数は四車種合わせて年間十七万四千台だったが、平成二年の販売実績は、四車種合わせて十四万二千台に過ぎなかった。誤算の原因は主力車種の「アコード」と期待の「アスコット」の不振にあった。
計画の二車種合わせた販売目標十万二千台に対し、実績は五万六千台。クリオ、プリモの両店で販売した国産アコードに至っては前年比四六・九%減の三万一千台に止まった。通常、モデルチェンジすれば新車効果が出て前年実績を大幅に上回るが、こうなると新車効果どころの騒ぎではない。国内では早くも「失敗作」との烙印を押されてしまった。
「ホンダらしくない野暮ったいCMだ。もっとカッコいいCMにしてほしい」
プリモ店に投入した「アスコット」のCMには、菅原文太と山下真司を起用して、家庭的な雰囲気を醸し出そうとしたが、ディーラーから苦情が相次ぎ、早々と打ち切ってしまった。
ホンダ首脳は頭を抱えてしまった。米国では前にもまして売れているのに、国内ではさっぱり人気が出ない。ホンダファンの中から公然と批判の声が出始めた。
「ホンダの車は面白くない」
「ホンダに元気がない」
「ホンダは大企業病にかかったのではないか」
いずれも頭に「最近」という言葉がつく。
アコードの基本コンセプトは、日米欧の三極体制による“ワールドカー”、世界戦略車である。ワールドカーというのは、GM(ゼネラル・モーターズ)が八〇年代初期に小型車「Jカー」の開発に際して編み出した構想だ。
具体的にはドイツのオペル、日本のいすゞ自動車、豪州のGMホールデンズなど世界中のGM子会社、関係会社が互換可能な部品を生産、それを融通し合いながら組み立て生産する。部品を共通化してあるので、生産台数が増えれば増えるほど、コストダウンが可能になり価格競争力もつく。
GMの戦略車種ともいうべき「Jカー」は、ものの見事に失敗した。ワールドカーといえば聞こえはいいが、実情は消費国の実情を無視して、単にコストを抑えるために作られた車であることを、ユーザーにいち早く見抜かれてしまったからだ。
ホンダの場合、そこまで徹底していないが、全世界統一という基本的な開発思想は同じである。世界市場で通用するクルマを国内を中心に開発して、日米で同時生産する。ホンダはGMの失敗を知り尽くしているが、三代目の成功から「GMと同じ過ちは繰り返さない」という自信があった。
ホンダにとってワールドカーは「魔法のツエ」に等しかった。四代目の開発は、プラザ合意で円高が急激に進行した直後に着手した。むろん国内と米国、欧州では好みの違いもあり、地域によって多少味付けを変えてある。
三代目は世界の自動車業界で「小型車の流行はホンダが作る」という評判をとった車だ。それだけに開発陣はことデザインに関して、大きく変える必要性はないと判断した。開発陣も官僚主義に慣れ保守的になってしまった。ところがそれが完全に裏目に出てしまった。ホンダは八〇年代半ばから日米欧で、クルマに対する好みの違いが出始めたのを見過ごしたともいえる。
それにボンヤリと気付いた人もいた。四代目アコードの開発が佳境に入っていた八七年に米国サイドで開発に携わっていたHRA(ホンダ・リサーチ・オブ・アメリカ)副社長の大塚紀元は、早い段階から国内での不振を予言していた。
「昔はいいクルマを作れば、世界中どこでも必ず売れた。五年前までは得意になって、将来のあるべきクルマを語ることができたが、いまそれができなくなった。将来どんなクルマが売れるか、カンがひらめかない。言葉ではうまくいい表せないが、昔と何となく雰囲気が違う。世界に共通するクルマなんて果たしてあるのだろうか。はっきりしているのは、これからのクルマは先進技術がないとダメだが、技術だけでもダメだということだ」
大塚の予言は不幸にして当たった。「基本性能やデザインが優れておれば、世界中の市場で売れる」というホンダ独自のワールドカー戦略が破綻した。
冷静に考えてみると、当然の成り行きであった。ホンダとりわけアメホンはCS(顧客満足度調査)を絶対視しており、J・D・パワー&アソシエイツの調査で上位に入らなければ、なぜ入らなかったかを徹底的に分析する。また上位にランクされても、どの点が評価されたかを調べて、次の新車開発に役立てる手法をとっている。
四代目アコードを開発していた当時、三代目アコードが常に米国市場でトップを維持、八七年にはベストテンの中にホンダ車が五車種も入った。アコードのブランドロイヤリティーは年々高まって行く。アコードに一度乗ったユーザーは、買い替え時期がくればよその車に浮気をせず、必ずといっていいほど新型のアコードに乗り換える。アコードは固定ファンを持った車だった。ということは年々ユーザーの年齢が上昇することを意味する。
初代アコードの中心ユーザーは、三十歳代前半だったが、それから十数年が過ぎ、ヤッピーの時代を経て、中心ユーザーは今や中年になった。スタイルも初代は若さを前面に出したシビックと同じ二ボックスのハッチバックだったのが、いつしか三ボックスのノッチバックに代わった。それも四ドアが中心となった。
しかもモデルチェンジを経るごとに真面目でおとなしいクルマになっていく。そして四代目になって、完成された四ドアセダンのクルマに仕上がった。年々高齢化するユーザーの要望を一〇〇%取り入れたことから、米国市場では三代目以上に売れることはある程度予想がついていた。
米国市場はそれでいいとしても、バブルを境に急激にユーザーの嗜好が変化した国内市場には、この落ち着いた車では対応できなかった。
日本では米国と違い、同じ名前の車には一生乗らない。エントリーカーとして軽自動車に乗った人は、次に大衆車に買い替え、子供が出来れば、さらに大きいファミリータイプの小型車に乗り換える。最後にステータスシンボルとしてトヨタの「クラウン」や「マーク」などの高級車にたどりつく。
メーカーは一度掴んだユーザーを離さないように、顧客管理を徹底させ、系列店に大衆車から高級車まですべて揃えようとする。ホンダの辛さは、米国と日本でユーザーのクルマに対する意識が異なることだった。米国人にとってのクルマは基本的に足代わりであり、保有期間が長く走行距離は優に十万キロを超える。
ところが日本では保有期間が短いうえ、走行距離が十万キロを超えるのはタクシーなどの営業車に限られる。日本人にとっての自動車は流行商品であり、クルマ本来の走りより、外観のカッコ良さを求める傾向がある。折しもバブル全盛期、ユーザーは流行の先端をいくクルマを求めた。アコードは米国でヒットした車だが、決して日本でも売れるとは限らないことを証明してしまった。
ホンダのクルマ作りの原点は、宗一郎の「独自の技術を駆使して、他社のモノマネをしない」ことと、藤沢の「他社がやらないニッチ(隙間)市場を開拓する」ことにある。
だが二人が第一線から退くとともに、ニッチ市場重視の思想は次第に薄れていった。独自のクルマ作りは、いつのまにか「すべての部品を共通化しないこと」と勝手に解釈され出した。アコードとインスパイアは兄弟車種にもかかわらず、共用部品がほとんどなく、肝心のアコードも旧モデルから引き継いだ部品はたった一〇%に過ぎない。トヨタ、日産が六〇%以上引き継ぐことを考えると、いかにも無駄が多い。これでは生産コストが高くなるだけだ。
「九五%はトヨタ、日産と同じでいい。残り五%のところでホンダらしさを発揮させるのだ」
藤沢が研究所の独善を排除するため、口を酸っぱくしていっていた言葉だ。研究所はバブル期にそれを忘れ、「モデルチェンジの際は、すべて新しい部品を使い、兄弟車種といえども共通化しない」という独り善がりのクルマ作りに陥ってしまった。ついには五気筒という研究者だけが満足するエンジンを積んだ車まで登場した。
「あそこは“別格官幣大社”だな」
研究所はいつしか社内でもこう陰口をたたかれるようになった。別格官幣大社というのは治外法権という意味である。
「宗一郎=オートバイ=スピード=F1」
「シビック=CVCC(複合渦流調速燃焼)=低公害車=アコード」
昭和五十年代前半までのホンダ車は実態とイメージが完全に一致していた。ホンダの乗用車は「S500」から始まり、ニッチ市場を狙い撃ちすることで発展してきた。「N360」「シビック」「アコード」「プレリュード」「CR─X」「シティ」と次々と話題車を市場に投入してきた。
いずれも衝撃的なデビューを果たし、「ホンダ車は個性的で、他社とは一味も二味も違う。さすがホンダ」と絶賛された。最初にニッチといわれた市場を開拓して、流行の主流に押し上げ、モデルチェンジを重ねるごとにブランドを定着させ、量産車に変えてきたところにホンダの真骨頂があった。こうしたやり方が米国市場で見事に花を咲かせた。
ニッチというのはある意味で流行の先取りである。にもかかわらず、研究所を預かる川本は「ホンダはもはやチャカチャカした車は作らない」と明言して、惜しげもなくニッチ市場を捨て、最初からトヨタ、日産と同じような落ち着いたセダン中心のクルマ作りに走った。ここからイメージと実態の乖離が出てきた。
「ホンダの作る車はファミリーカー」
米国市場でホンダ車が快走したのは、進出した当初から今日まで、イメージと実態が一致していたからにほかならない。逆に国内では乖離が始まったことから、本来のホンダファンが逃げ出した。国際化戦略とニッチ戦略を両立させることをできなかったところに、ホンダの悲劇がある。
皮肉にもホンダがニッチ市場を放棄し始めたころから、トヨタ、日産、三菱がホンダ顔負けの個性的な車を続々と市場に投入してきた。むろんホンダの没個性的なクルマ作りは、社内の官僚主義と無関係ではない。
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ホンダが四代目アコードを発売する二カ月半前に開いた平成元年六月の株主総会後の取締役会で、久米は入交、川本、宗国のホンダの次代を担う三常務を揃って代表権のある専務に昇格させた。
過去六年にわたり、久米と吉沢のコンビで経営の舵取りをしてきたが、三常務の専務昇格で、次代の経営トップの輪郭がおぼろげながら浮かび上がってきた。社内外では「ポスト久米を巡る社長レースの火ぶたが切られた」と憶測した。
だれを次期社長に据えるかは、久米の腹一つにかかっていた。その久米は後継社長を聞かれると決まって、半ば冗談まじりに言った。
「私と同じように(社長に)なりたくない人にやってもらいますよ」
しかし専務に昇格した三人の担当業務を見て、大半のOB役員は次期社長が川本になるであろうと予想した。入交が総務・管理・生産関連、宗国が営業関連に対し川本は研究所の社長を外れ、無任所となったからである。無任所というのは本来であれば閑職である。
川本が久米からいわれた仕事は「青山の本社でブラブラしていろ」である。かつて久米は藤沢の指示で強引に本社に上げさせられ、一年間本当になにもせずにブラブラ過ごした。
宗一郎と藤沢の久米に対する期待は高かったが、久米は自分で社長になりたいと思ったことは一度もなかった。むしろなりたくなかった。社長になってからも嫌なことがあれば、早目に家に帰り、自室に閉じこもって気晴らしに生産するあてもないエンジンの図面を引いていた。
「やりたくない人にやってもらう」というのはある意味で久米の本心だった。久米の見るところ(社長を)やりたくない一番手は川本ということになる。川本は自分と同じように技術一筋で生きてきた。本社の役員に就任して十年になるが、そのうち実に九年もの長い間研究所の役員を兼務してきた。社内では川本がF1の責任者であることは知っていても、どんな人柄なのかを知っている人は少ない。
入社以来の経歴からすれば、ホンダのプリンスは入交しかいない。三十歳代で取締役に就任し、鈴鹿製作所所長になったことで単なる技術者から脱した。さらにHAM(ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング)の社長を経験したことで、マネージメントも勉強した。カリスマ性もある。優しさのある明るい性格で、人の心をつかむのがうまく、沈滞ムードが出てきた社内の雰囲気をガラリと変えるにはうってつけだ。
ライバルの川本はといえば、緻密でしかも大学の教授顔負けの理論家で、技術を語らせればだれにも負けない。しかも豪快、大胆な性格を持ち合わせている。難点は暗い印象を与えることと、これまで経営の中枢にいなかったことだ。
久米は考えに考えた揚げ句、川本を次期社長の第一候補に挙げ、自分の経験を踏まえ、今後一年間の成長を期待して無任所にした。川本はこの間、久米の意図が分からず、「品質」をテーマに研究所と製作所の橋渡し役の仕事に取り組んでいた。
入交は米国から帰ってきた直後から、社内の雰囲気が出る前とは大きく違っているのに気付いていた。社内の組織が官僚化しただけでなく、同僚の役員も何となくよそよそしかった。その原因が米国で自分がヒーローになったことにあることを知るまでには、それほど時間がかからなかった。
米国ではHAMを軌道に乗せることに夢中になっていたが、河島を始めとするOBの役員がオハイオにきた際、ろくに相手をしてやれなかったことがある。半ば中傷的なうわさを何度か耳にしたこともある。
「入交はやたらにアメリカ人に工場を見せたがる。これではホンダの生産ノウハウがビッグスリーに流れてしまう。敵に塩を送ってどうする積もりだ」
「入交は生意気だ。アメリカかぶれしている。スコットとスーザンのいうことは聞くが、ロスのアメホンのみならず本社のいうことは一切聞かない」
「入交はHAMをホンダの関東軍にしようとしているのではないか」
オハイオにいる間は全く意に介さなかったが、本社ではまことしやかに囁かれているのを知って愕然とした。
オハイオにいる間、一つだけ予想外だったことを覚えている。「オハイオ・ノーザン・ユニバシティー」から名誉工学博士をもらった時、副社長の吉沢から「余り目立ったことをするな」と注意され、暗に辞退を促されたことがあった。本社の意向に従って辞退するのは簡単だが、そんなことをすれば今度は地元と角が立つ。
帰国して初めて吉沢が注意した意味が分かった。全員が宗一郎に気を使っているのである。
「ホンダにはヒーローは、宗一郎一人しか必要ない」
社内にはこうした空気が蔓延していた。藤沢が世間に向けて作り上げた宗一郎の虚像が、いつしか社内でも真実として語られ始めた。宗一郎の功績を称える本は、読み切れないほど出版されている。宗一郎はすでに八十歳を超え、残された寿命がいくばくかしかないことは、だれもが知っている。
宗一郎は紛れもなく戦後の日本が生んだ立志伝中の英雄で、語録や寓話はいうに及ばず著作まで藤沢の手によって、人々の共感を呼ぶように脚色され、世間に流布された。大半が宗一郎を“ホンダ教の教祖”に祭り上げるため、藤沢が意図して虚像を作り上げたものだ。
虚像は舞台の上での演技に過ぎない。ところが現役を退き、馬齢を重ね名優の域に達すると、社内のみならず世間からもチヤホヤされ始める。宗一郎はいつしかそれに無上の歓びを感じるようになった。舞台が華やかだっただけに、幕が下りれば人一倍孤独感を噛みしめなければならない。どんな病気にかかろうとも、舞台ではさわやかな演技を要求される。名優としての宗一郎は必死になって演技を続けた。
藤沢は晩年、そうした宗一郎の姿を見て虚像を壊して元の人間性豊かな天真爛漫な姿に戻してやろうとしたが、遂に壊すことはできなかった。藤沢にできなかったことが、子供たちにはなおさらできない。子供たちは宗一郎には名優として、演技を続けてもらうことしかない。
晩年、宗一郎の耳にはホンダに関する悪い情報は入らなくなった。結果的に子供たちは、宗一郎の虚像をさらに膨らませてしまった。虚像は風船のようにパンパンに膨らんでしまった。そこに針を刺せば、無用の混乱を引き起こす。
鍛冶屋の倅として生まれ、少年時代を自動車修理工場の丁稚として過ごした宗一郎の身体には、隅々までどんな理不尽なことをいわれても、親方のいうことは絶対命令として聞かなければならなかった徒弟社会のしきたりが染みついている。
そうした習性が身についているだけに自分が会社を興し、手塩にかけて育ててきた子供たちには完全服従を迫った。意に反することがあれば「おまえなんか会社を辞めろ。辞表を出せ、辞表を」と捨てぜりふを吐く。創業間もない頃は、宗一郎の罵倒に耐え切れず、大勢の人がホンダを去った。
経営の第一線を引いてからは、さすがに荒っぽい言葉は吐かなかったが、死ぬまで徒弟社会の考えから抜け出せなかった。ホンダは世間に対して極めて合理的な会社のイメージを与えているが、実態は面子を重んじるウェットな会社である。
入交と川本は、宗一郎から薫陶を受けた最後の世代であることを誇りにしているが、宗一郎が手取り足取り教えたのは、昭和二十九年入社の久米や専務の原田隆夫たちが最後の世代である。直接薫陶を受けた子供たちは宗一郎の性格を知り尽くしており、理不尽なことを要求されても、それを払い除けるやり方も身につけている。文句をいわれてもその時はいわせるだけいわせておいて、宗一郎の気分が落ち着いてから反撃する“生活の知恵”を身に付けていた。
宗一郎にとって入交や川本は子供というより、孫の世代にあたる。親は子供がいうことを聞かなかったり、反抗すれば、殴ったりするが、孫にはそれほど辛くあたらない。第一線から退いてからは、むしろ甘やかしたきらいがある。孫もいうことを聞いてくれるおじいさんには、真正面から立ち向かわない。
晩年の宗一郎は、藤沢と同じように入交、川本のどちらが次期社長に適しているのかを判断する決定的な材料を持ち合わせていなかった。童心に返った宗一郎の夢は、F1で勝ち続けることである。その夢を実現してくれたのが川本である。二人に対する距離はそれまで一定であったが、入交が米国にいた四年の間に宗一郎との距離が離れ、その分F1を通じて川本との距離が狭まったのは間違いない。
宗一郎はポスト久米について、最後まで自分の意見を言わなかったが、側近は「(意中の人は自分の夢を適えてくれた)川本ではないか」と忖度した。河島も久米も研究所一筋の川本に一抹の不安を持ったが、創業者の無言の意向には逆らえない。
河島は自分が手塩にかけて育て、一時期将来の社長として帝王学を学ばせた入交に対しては、帰国した後の変貌ぶりに落胆した。考え方があまりにも合理的なのと、久米をせっつくような性急さに経営者としての資質に疑問を抱き始めていた。
〈私も久米もそうだったが、オヤジさんが生きている限り、ホンダの社長は滅私奉公型の人間でないと務まらない。その点、入交より川本の方が適しているのではないか。入交はアメリカに行ってから変わった。あいつはホンダの本当の姿を知らない。その意味でうちの弟と同じだ〉
河島が弟と言ったのはヤマハ(旧日本楽器)社長で、現在ダイエーの副会長の河島博である。その河島博が語る。
「うちの兄貴がどういう意図で言ったかは知りませんが、私は入交さんと面識がないので、彼が私と同じ人間かどうかは知りません。共通点があるとすれば、若くして役員になり米国現地法人のトップになったことでしょう。米国に住むと自然に合理的な考えが身につき、煩わしい人間関係から解放される。数字がすべてなので、日本企業特有の根回しも必要がない。
現地で全力投球すればするほど、どうしても日本の本社とは考え方にズレが生じてくる。他人が自分をどう見ているかもあまり気にならない。知らず知らずのうちに唯我独尊に陥ってしまう。自分が本当に社内で浮き上がっていたと気が付いたのは、ヤマハを辞めてからだった」
宗一郎は満八十歳の誕生日を迎える年の春に脳血栓で倒れた。「宗一郎倒れる」の情報は社内でも、厳しい箝口令が敷かれた。この時の発作は軽かったが、左の手足が不自由になった。宗一郎は八十歳になったのを機に家族やホンダの子供たちの忠告を入れ、免許証を返上して自動車の運転を止めた。
人間八十歳を超えると多少なりともボケが始まる。藤沢はそれを極端に恐れた。宗一郎も脳血栓で倒れたのを境に、軽いボケ症状が出だし、人の名前を間違えたり、同じことを何回も繰り返すようになった。それを指摘されると照れ隠し気味にいった。
「おっ、そうか。バカにつける薬はないか」
子供たちにすれば、宗一郎の老いた姿を世間に晒すことは忍びない。対外活動を目立たないように少しずつ減らしていった。公職を少しずつ退かせると同時に、講演も極力断ることなど、完全引退に向けての幕引きが始まった。本人の意向で最後まで残ったのが、私財を投じて設立した本田財団だった。
財団は毎年、世界各地でシンポジウムを開き、来賓にその国の元首を招く。宗一郎はそれらの人と会って、国際交流を深めるのを楽しみにしていた。財団常務理事の上田太蔵がそれを舞台裏で、演出してきた。上田は外国に知己が多く、シンポジウムの企画を立てる一方、英語、仏語、独語の三カ国語を自由に喋れることから、財団活動など私的な面で宗一郎の通訳を引き受けていた。
財団はほぼ二カ月に一度の割合で、都内のホテルで例会を持っていた。毎回ゲストを呼んで講演してもらい、上田が人選した財団シンパの学者やジャーナリストと一緒になって聞き、その後で立食形式のパーティーを開く。
講演が終わると、宗一郎は自分で疑問に思ったり、納得しなかったことを質問するなど、最後まで知識欲を失わなかった。脳血栓で倒れてからもパーティーでは、何事もなかったように立ち通しで、医師から禁じられた水割りのウィスキーを舐めるように口にしながらメンバーと懇談した。
藤沢が亡くなった直後の例会では、藤沢の思い出を語った。
「うちの副社長は、大変な人物だった。その偉大さはおれにしか分からないだろうょ。それでいいんだ。おれにとって副社長は宝物みてえなものだった。(おれが)今こうしておれるのも、副社長がいたからだょ」
朋友の藤沢が亡くなり、自動車殿堂入りを果たしてからは、宗一郎の体力も気力も急激に衰えた。もともと経営の細かいところは分からない。ホンダに対する情熱は失わなかったにせよ、側近の子供たちが悪い情報を極力入れないようにしたこともあり、ホンダの将来にはそれほど不安を持っていなかった。財団の例会で次期社長を聞かれても、他人事のように語った。
「ホンダの次期社長。それは社長の久米が決めるだろうよ」
しかしこう付け加えるのも忘れなかった。
「おれは(久米から)何の相談も受けていないが、(久米がだれを選ぶか)大体分かるね。おれの予想は(多分)当たると思うよ」
久米は宗一郎と河島の無言の意向を無視できず悩みに悩んだ。入交を起用することで、沈滞し始めた社内のムードを変えたいという考えも捨て切れない。迷った揚げ句の土壇場の結論は「技術のホンダ」「個性豊かなクルマ作り」というホンダの創業の原点に立ち返ることしかなかった。
そうなると必然的に入社以来、四輪車開発部隊を引っ張ってきた川本ということになる。久米は社内改革より、クルマ作りを優先させた。企業アイデンティティーの再構築をクルマ作りに求めたと言ってもいい。
久米と川本はF1をともに闘い、CVCCを始めとするエンジンの開発でも、苦労を分かち合った仲である。二人とも酒が滅法強い。年齢も四つしか違わない。酒を嗜まない入交と比べ、気心も知れている。
久米が入交でなく川本を選んだもう一つの理由は、二人の性格とホンダで歩んできた経歴の違いにあった。入交は高度成長の申し子としてホンダに入社し、日の当たる道を歩み、若くして取締役になり挫折を知らない。常に前向きなことからトップに立てば、攻撃型の「イケイケドンドン」の成長路線を取ることは、ある程度予測がつく。
ホンダは不況時にもそれを逆手に取る形で成長を遂げてきた会社だが、久米には「果たしてこれからもそういう手段が通じるか」という一抹の不安があった。
その点、川本は出世競争では常に同期入社の入交の後塵を拝し、挫折も経験している。苦労が多かった分だけ、久米は「経営も慎重になるので、低成長時代には適切ではないか」と自分にいい聞かせた。
平成二年の正月明けに肚を固め、宗一郎や河島など有力OB役員の根回しを済まし、副社長の吉沢の了解を取った上で、三月に入って栃木の技術研究所で開かれた技術評価委員会を終え、川本と二人になったのを見計らってさりげなく内示した。
「カワさん。私の時と同じように、(次の社長は)やりたくない人にやってもらうことにしたよ」
久米の言葉を聞いて、川本は「鳩が豆鉄砲を食らった」ような顔をした。久米はまだ四期目の任期途中である。川本は久米が辞めるのは、任期明けの一年先と思っていた。先に延びれば延びるほど、自分の目はなくなる。それ以前に次期社長は、頭から同僚の入交がなるものだと思い込んでいた。
「冗談じゃない。研究所しか知らないおれが、何で社長をやらなけりゃならないんだ」
川本は内示される直前まで久米に“殉死”して、久米の引退と同時に自分も経営の第一線から退く積もりでいた。引退後の生活設計はすでに出来上がっていた。妻の洋子には常々こういい聞かせていた。
「おれは久米さんと一緒にホンダを辞め、その後は悠々自適の生活に入る。そうなればお前の希望は何でも聞いてやる。旅行にも連れて行ってやる。ただしその前に軽飛行機の免許を取っておきたいので、暇をみて申込書を取り寄せておいてくれ」
内示を受けて初めて、十カ月余り「ブラブラさせられた」意味が分かった。翌日、帰京すると震える手で、電話のダイヤルボタンを押した。相手は友人のボストンコンサルティンググループ社長の堀紘一だった。
「堀さん。おれ、社長になるょ。きのう内示を受けた。どうしよう。悪いけど今晩、相談に乗ってょ」
堀にいわせれば、この種の相談は静かな座敷で、二人きりになってするものだが、川本はいつも二人で気軽に食事をする赤坂プリンスホテルのレストランを指定してきた。
ホンダの社長交代は、それから二カ月後のゴールデンウィーク明けの五月十日に発表された。その日の朝、一部の新聞に「ホンダの社長に入交氏」と書かれたためだ。久米は二十四日に開かれる決算役員会で内定し、直ちに発表する積もりでいたが、誤報を独り歩きさせるわけにはいかない。すでに内部の根回しを終えているので、この時点で発表しても何ら支障はない。
新旧社長の緊急記者会見に充てられたパレスホテルには、大勢の新聞記者がつめかけた。久米に引かれた川本は神妙な表情で「新しくホンダの社長になる川本です。よろしくお願い致します」と謙虚に頭を垂れた。
「自分が社長に指名されるとは、まったく認識も予期もしていなかった。まさに青天の霹靂です。今はまだ抱負を語るほどの考えが固まっていません」
「経営には何より継続性が必要であり、久米社長の築いた日米欧の三極体制をさらに発展させるとともに、先進かつ付加価値の高い、ホンダらしい商品開発に取り組んで行きたい」
「自分は(新車開発のために)時代の先を読む仕事をする。新車開発の枠組みはイリさんに決めてもらう」
今回の人事で、会長の大久保叡は常任相談役に退き、後任の会長には久米とコンビを組んできた副社長の吉沢幸一郎が就任、久米は取締役相談役に退いた。さらに入交と宗国が副社長に昇格したことから、世間には「新生ホンダ」の経営は、川本を中心に入交と宗国のトロイカ体制で当たることを印象づけた。
「社長には年長者のカワ(川本)さんがなったが、われわれはムネ(宗国)さんやアメ(雨宮高一アメホン社長)さんを含めた、三十八年入社組が一体となってホンダの経営に当たれというメッセージだと思った」
次期社長の本命とされた入交は淡々と語った。
ホンダの社長は創業者の宗一郎が二十五年、二代目の河島が十年、三代目の久米が約七年と在任期間が短くなっている。
「変化の激しい時代に一人が社長職を十年も務めるのはこれからは無理だ」
久米が退任の理由として、今後長期政権は困難との見方をしたこともあり、マスコミは勝手に憶測した。
「川本さんは久米さんの社長退任年齢と同じ五十八歳で辞めて、本命の入交にバトンを渡すのではないか。となると川本さんの社長在任期間は二期四年だ」
さらに川本が入交に対する大幅な権限委譲をほのめかしたことで、内外に「川本は短期暫定政権」との印象を与えた。
川本がホンダの四代目社長就任が決まった直後の財団の例会後のパーティーで宗一郎は満足気に語った。
「おれの予想がピタリと当たったな。おまえさん方の予想と同じだったろう」
その時の例会には偶然にもそれまで一度も出席したことがなかった川本がひょっこり顔を出し、関係者に愛想を振りまいていた。
3
川本体制の発足の前後からホンダを巡る環境が激変した。バブルを伴った景気拡大は、昭和から平成へ年号が変わった後も続いたが、その勢いは年とともに鈍化してきた。
経済企画庁は平成五年十一月十日になって「平成景気の山は平成三年四月だった」との公式見解を発表した。昭和六十一年十一月から始まった平成景気は五十三カ月で終焉、景気後退は平成三年五月から始まったことを確認した。
政府の公式見解が遅れたのは、今回の景気が戦後最長の五十七カ月を記録した「いざなぎ景気」と並ぶ大型景気となり、山を過ぎた後も余熱が残ったことによる。企業が不況に突入しても、なお先行き強気の見通しを崩さなかったことがそれに輪をかけた。実際は景気後退が認識され始めた段階では、不況はかなり深刻化していた。
ところが国際化が進んでいる自動車業界には、政府が景気の山と認定した前から不況の兆しが出始めていた。川本が新社長に就任した直後の平成二年八月二日、突如イラク軍がクウェートに侵攻、翌三年一月に湾岸戦争が勃発した。
イラク軍が侵攻した年、九〇年のホンダ車の米国における乗用車の販売は前年比九・一%増の八十五万四千台、トヨタも同七・七%増の七十七万九千台と揃って史上最高を記録した。だが好調なのはこの二社だけで、ビッグスリーは二年連続して前年実績を下回った。日本車の中でも日産は五十一万台から四十五万四千台へ急減した。ホンダとトヨタが史上最高の販売台数を記録したのは、前半が比較的好調だったことによる。
国内はまだバブル景気に浮かれていたが、米国の景気は九〇年の秋を境に陰りが出始め、自動車市場も急激に冷え込み出した。湾岸戦争の終結とともにビッグスリーの販売が一段と悪化、夏過ぎになると日本車の売れ行きが日に日に鈍化していった。米国の景気は秋になっても回復の兆しは見えず、ホンダ車の販売も遂に前年実績を割り込み始めた。
現地販売の数字とは裏腹にホンダ車の平成二年(九〇年)の米国向け船積み台数は、対米輸出規制がスタートして以来初めて前年実績を下回った。年が明けると船積みを一段と落とすとともに、春には遂にオハイオ工場の減産に踏み切った。オハイオ工場の減産は初体験である。心理的な動揺が日米双方に走った。
国内の好景気はバブルによってもたらされた異常現象であったことは、時間の経過とともにはっきりした。ホンダ車の国内販売は、川本の社長就任が内定した直後の平成二年五月から十一月まで七カ月連続して前年実績を下回るという悲惨な状態が続いていた。それも十月が二〇・九%減、十一月が二七・九%減と月を追うごとに悪化していく。十二月は辛うじてプラスになったものの、年が明け平成三年に入ると再び前年実績を下回り始めた。
「僕は目先の仕事はイリさんとムネさんに任せた。僕が二人の守備範囲に入るべきではない」
川本は就任早々、こう宣言して最低一年間は本社にどっしりと腰を落ち着け、ホンダの問題点を洗い出そうとしていた。だが急激な業績悪化を見て、そうのんびりもしておれなくなった。日増しに危機感が募り、居ても立ってもおれなくなった。
「今のままでは“ホンダ丸”は沈んでしまう。立て直すには即断即決しかない。それに向けての改革をやらなければならない。早急に素案を作れ」
しびれを切らした川本は、社長就任六カ月後の平成二年十二月に入って、本社のスタッフ部門にカミナリを落とした。
「カワさん、冬ごもりをしましょう。一日も早く冬ごもりして、春が来るのを待ちましょう」
入交は新体制が発足した直後、川本にこう進言したことがある。社内では依然として、入交を攻撃型の経営者と見る向きが多かったが、彼の考えはHAMの社長を経験したことで大きく変わっていた。デトロイトに近いオハイオで仕事をして、ホンダだけが単純な高度経済成長を前提にした経営路線を貫くことが困難であることを肌で感じていた。帰国した後もかつてのHAMの部下から定期的に情報が入ってくるので、米国市場の実態が手に取るように分かる。
主力車種のアコードは確かに売れてはいるが、昔ほどの勢いがない。原因はビッグスリーを始めとする同業他社が、アコード並みの性能を持った車を続々投入してきたことにある。ホンダ車の絶対的な優位性が崩れ出した。ホンダ車を支えたヤッピーも、今やベビーブーマーの世代に入った。
米国の消費の主導権は、ベビーブーマーの世代を経て、「エディー・バウアー・ゼネレーション」と呼ばれる若者が握っている。エディー・バウアーはTシャツやジーパンなどカジュアルウェアなどを中心とした米国のアパレルメーカーで、若者は好んで同社のアウトドア製品を愛用した。この世代の特徴は、外見にこだわらないことだ。
RV(レクリエーショナル・ビークル)やミニバン(多目的乗用車)が売れ出したのは、エディー・バウアーの製品を着こなして育った世代が、消費の中心になってきたことを物語っている。日本車メーカーは、この米国のトレンドを完全に見誤ってしまった。
ホンダ車の特徴は斬新なデザインにあったが、時間の経過とともに米国市場では「オジサン向きのクルマ」になってしまった。ホンダは新規需要を開拓しない限り、さらなる成長は期待できない。
入交は焦りを感じていた。彼が頭の中で考えていた具体的な冬ごもり策は、国内の縮小と生産の海外シフトにあった。年産二十四万台の能力を持つ鈴鹿第三ラインは平成元年の夏、同じく十五万台のオハイオ第二工場(イーストリバティー工場)はその年の十二月に完成した。年産十万台の能力を持つ英国工場もまもなく完成する。米欧の新工場がフル稼働に入れば、当然のことながら完成車の輸出は減少する。
その落ち込みを国内市場で吸収できれば問題はないが、すでにバブルの綻びが出て国内需要は頭打ちどころか下降線をたどり始めている。為替相場や貿易摩擦を考えると、現地生産を遅らせることはできない。米国の販売は苦しくなってきたが、入交は長年の米国駐在の経験から不況下でもやり方次第で、まだ伸ばせると信じていた。
ホンダにはエディー・バウアー世代に供給するクルマがなく、この分野を開拓すればまだまだ伸ばせる。当然、開発は米国の技術研究所が中心にならざるを得ない。
ただ海外シフトを貫けば、そのシワ寄せは国内にくる。となると早晩、国内の空洞化は避けられない。そこで鈴鹿の新ラインが本格稼働する前に、思い切って古い設備をスクラップすれば、影響を最小限度に食い止められる。入交は頭の中でボンヤリと、かつて自分が所長を務めたことがある鈴鹿製作所第一ラインの閉鎖を考えていた。
むろん設備破棄は冬ごもりの第一歩でしかない。生産設備の縮小に伴い販売計画から販売網のあり方まで見直さざるを得ない。逆に研究所は体質強化をはかり、コストを最優先したクルマ作りに全力投球する。入交が久米に求めたのが、こうしたことを念頭に置いた戦略性を伴った方向性だった。
そうこうしているうちに、国内販売に齟齬をきたしてきた。中期三カ年経営計画では最終年次にあたる平成四年末までに、元年度に比べ二〇%増の八十八万台にすることを目標にしている。初年度にあたる二年の販売台数は、前年比二・四%増ながら、目標の七十万五千台に届かず六十七万九千台にとどまった。
乗用車部門ではトヨタ、日産に次ぐ三位の座を確保したものの、トラックを含めた総販売台数では三菱、軽自動車を除く小型車以上の新車登録台数ではマツダにそれぞれ抜かれ、総合順位では業界四位に転落した。バブル期にホンダ車は売れたが、同業他社はそれ以上の成長を遂げた。ホンダの平成三年度の販売計画は七十二万台、四年度が八十万台となっている。
吉沢の後を受けて国内販売の責任者となった副社長の宗国は、二年度の実績が計画を大きく下回ったにもかかわらず、強気の見通しを崩さなかった。
「鈴鹿製作所の第三ラインが完成したので、ようやく供給不足が解消された。営業マンとサービスマンを増やし、同時に系列ディーラーの店舗新設や増改築に積極的に取り組んで、カウンターセールスを徹底すれば、中期計画は十分達成可能だ」
平成二年から四年までの中期三カ年経営計画は、「日産追撃」の指令を出した藤沢の“負の遺産”であった。久米と吉沢が藤沢の夢を一歩でも現実に少しでも近付けるために、バブルの継続を前提に無理に無理を重ねて練り上げた計画といっていい。それだけに、バブルが崩壊する兆しを見せ始めた段階で突き進むことは、自殺行為に等しい。
冬ごもりの必要性は、入交に指摘される前から川本も感じていた。中期経営計画はどうみても不可能に近い数字である。国内販売の目標を達成するには、単に営業力を強化するだけでは難しい。それ以前に三系列に売れる車を供給してやらなければならない。ホンダの技術研究所にその力がないことは、研究所生活の長い川本が知り尽くしている。
川本と入交の二人の考えは一致していた。まず鈴鹿第一ラインの閉鎖を前提に販売チャネルを、現状の三つから二つに減らす。そうすれば研究所の負担は軽くなり、売れるクルマの開発に専念できる。
ただしその前にやらなければならないことが山ほどある。大規模な組織改革を断行して、役員から工場の従業員に至るまで“ホンダの子供たち”全員の意識を変えなければならない。
入交の焦りは日増しに高まった。
〈このままではホンダは時代の前をいけなくなる。オヤジさんが作り上げたホンダイズムは確かに素晴らしい。だがいつまでも、そこにしがみついていてもよいものか。何を残して、何を変えなければならないのか。ホンダにとって朽ちるもの、朽ちないものを選別しておかなければならない〉
組織改革の責任者には入交が就いた。どこの企業でも組織改革は、新年度入りの四月一日か株主総会直後の七月一日と相場が決まっているが、「早ければ早いほど良い」という川本の意向で、三年の三月十五日という中途半端な日に実施した。
十五日の昼過ぎ、ホンダの全社員に「激動に対応できるスピードを求めて=次世代ホンダに向けての企業体質の確立」と題する臨時社報が配られ、各部署で直属の長が部員を集めて事細かに説明した。社報は十二ページにわたっている。
「創業以来四十二年を超える事業展開の中で、ホンダは自ら信じる考えを貫き行動してきた。その間、実にさまざまな困難や状況変化に対応し、それぞれの発展段階における改革の工夫を積み重ねつつ現在の地歩を築いてきた。これまでの成長の源泉は一人ひとりの夢の具現化にあったと思う。これからもこの“夢”の実現を目指すことが先進性を生み出し、ホンダの未来を築くことができると思う」
臨時社報ではまず過去の栄光は、従業員全員の“夢”の共有化であったことを指摘したうえで、本題に入った。
「しかし、先進を追求するには資源が必要であり、その資源を自らの力で稼ぎ出すことが重要であるということを再確認してほしい。そのために今なすべきことは、自らの力を率直に見つめ直し、反省すべき点は反省して、思い切った改革をしていくことである。一人ひとりがホンダを通じて実現したい“夢”を描くことができるよう各自が、また各部門が何をすべきかを議論して、その目標を再度確認して、行動に移していただきたいと考える」
社報特有の持って回った言い方だが、言わんとするところは、過去のホンダの歴史に対する強固な自信を示した上で、将来の夢の実現に対するためにはどんな改革も厭わないという役員室の強い決意表明である。だが肝心の夢については、かつて宗一郎がミカン箱の上に乗って「ホンダは世界一を目指すんだ」といったような具体性がなかった。夢は自分で考えろという荒っぽい訴えである。
その分、各論では機構改革は微に入り細にわたっていた。川本は就任早々、世界を日本、米国、欧州、発展途上の四つの地域に分ける地域本部制を導入したが、これをあっさり放棄して、四輪企画室を新設した。ホンダの四輪車戦略はS(販売)、E(エンジニアリング)、D(開発)の各部門で構成するSED会議で立案、決定してきた。川本は世界市場のニーズの変化をいち早く汲み取るため地域本部制をとったものの、現実は各地域ごとのSED会議がやたら増え、逆に混乱をもたらしてしまった。
代わって新設した四輪企画室は役員だけで構成、最終決定権を川本一人に委ねることにした。従来はSEDで決定した案を役員会に諮るボトムアップ方式だったのを、トップダウン型へ軌道修正したのである。
狙いは迅速な意思決定にある。今回の組織改革では「課」と「室」を廃止することも決めた。間接部門で部長が、必要に応じて自由自在に人事異動をできる体制にした。さらに組織改正と並行して、将来全管理職に年俸制を導入することも匂わせた。
最大の特徴は、河島時代の集団指導制と久米時代の連帯責任制に訣別する姿勢を明確に打ち出したことだ。そのため四輪、二輪、汎用の三本部制を採用、川本が自ら四輪本部長に就き、その下の製品本部長には入交、営業本部長には宗国を配した。
社長以下の役員の担当分野がはっきりしたことで、役員は現場に張り付けられることになった。藤沢の発案による役員の大部屋制は事実上、廃止された。役員が一カ所に集まらなければ、河島が持ち込んだ“ワイガヤ”も成立しない。
ワイガヤの元をただせば、強烈な個性を持った二人の創業者に立ち向かうため、大部屋の役員室に集められた子供たちが編み出した“生活の知恵”である。それがいつのまにか、ホンダの若さと自由を証明する専売特許となった。
宗一郎と藤沢からバトンを受けた河島以下の子供たちは一致団結しない限り、創業者の厚い壁を突き崩すことができなかった。それ以前の宗一郎社長、藤沢副社長の時代でも、後半は二人とも会社に来ず、経営を四専務に任せていた。自ずと四専務はすべての物事を自分たちで決めなければならない。
本来のワイガヤは、河島が社長になり、白井、川島、西田が還暦を前にホンダを去った時点で終了した。四専務の中で一番年下の河島が社長になったことから、三人の年長者から順次身を引いた。
河島の言葉を借りていえば、ワイガヤの本質は単にワイワイガヤガヤと論議することではない。狙いは四進法でいろんな角度から、全員が自由に意見を出し合い、そこから最大公約数を見出すことにある。
河島時代のホンダは対米工場進出にしても、英国ローバー提携にしても、一見大胆に見えるが冷静に考えると、極めて論理的な行動であった。
久米はワイガヤの形だけを受け継いだことから、いつの間にか“ワイワイガヤガヤ”、自分勝手な意見をいうだけの無責任体制になり、決定事項に人の顔が見えなくなった。
「本来のワイガヤはコンセンサスを作るには、極めて便利なシステムなのです。本当はワイガヤをやっても、その中で一人が決断するシステムに直しておけば良かったのです」
オハイオ工場でワイガヤを積極的に取り入れた入交の反省の弁だが、研究所勤務の長い川本には、ワイガヤはホンダの古き良き時代の残滓としか映らなかった。
ホンダの“無形文化財”ともいうべきワイガヤは廃止され、役員の大部屋制も機能を停止した。八月に入ると川本は新たにホンダマンの行動の指針ともいうべき「ホンダ憲章」を制定した。ホンダにはそれまで腐るほどの「宗一郎語録」はあっても、具体的な行動指針がなかった。
強いていえば創業期に制定された社是であるが、時代にそぐわなくなってきていた。語録も時間の経過とともに勝手に解釈され、気がつくとホンダのタブー集になっていた。
「安全なくして生産なし」
宗一郎語録の代表的なもので、ホンダのどこの工場にも宗一郎直筆の語録が掲げられている。この意味も時間の経過とともに歪められていった。大半の人は「工場の安全に気を配り、環境を良くしなければ生産性は向上しない」と思い込んでいる。だが宗一郎のいわんとすることは違っている。
「車は走る凶器である。それを運転するのはユーザーだ。そのユーザーを事故から守るためには、安全な車を作らなければならない」
ホンダがオートバイしか作っていなかった時代に語ったことで、宗一郎はこうした信念があったからこそ、N360の欠陥車騒動では徹底的に闘った。
逆に藤沢は自分の語録を極端に嫌った。社内には「宗一郎語録」とのバランスで「藤沢語録」の作成を計画したことがあったが、肝心の藤沢の「語録を作れば、言葉だけが独り歩きしてしまう。語録は時代背景が分からなければ意味を持たない」ことから反対され、遂に日の目を見なかった。
ホンダ憲章は「ホンダマンとして最低限、守って欲しい」ことを明文化したものだ。いってみればホンダマンとしての行動指針である。オールホンダとしての共通の行動指針として「顧客第一主義」を掲げ、指針の内容は地域の風土、慣行に合わせ、米国では「良き企業市民とは何か」といった項目を盛り込んだ。
ホンダは急激に成長してきたことから「仕事が組織を作ってきた」きらいがある。だが冬ごもりをすれば、仕事の量は少なくなる。組織も見直さざるを得ない。その肝心の機構改革に対する狙いは、川本と入交との間で微妙に違っていた。
入交は現状の無機質な共同体組織を早急に機能組織に改めることで、個人の顔が見える組織、ヒーローが生まれやすい組織に戻したかった。冬ごもりを進めながら、幹部社員を活性化させるには、信賞必罰の色彩の濃い年俸制の導入と役職の任期制は欠かせない。入交にすれば、今回の組織改革や「ホンダ憲章」の制定は、ヒーローの生まれやすい土壌作りでしかない。いってみれば「ホンダ神話」の再構築である。
これに対して川本は今回の改革を、非常事態に対応したマイナーチェンジと位置づけていた。本格的なモデルチェンジは、改革が軌道に乗り次第時間をかけて断行する。川本は宗一郎と藤沢が作り上げてきた「古典的なホンダイズム」をいったん否定した上で、新しい時代にマッチした「新ホンダイズム」を作ることを考えていた。
「改革は一年やそこらの時間をかけただけではできない。ホンダも大企業になり従業員も何万人もいるのだから、急には改まらない。だからこそ早目にハンドルを切ったのだ」
二人の間に言葉の上で、決定的な違いはなかった。「呉越同舟」「同床異夢」といえばそれまでだが、この時、入交も川本も一年後に袂を分かつとは、想像だにしなかった。
この二人の微妙な違いを、社員は敏感に感じとった。
「社長を始めとするトップは、一生懸命組織をいじくっているが、なにをやりたいのか現場の人間にはさっぱり分からない」
「要はホンダが普通の会社になるための第一歩ではないのか。ワイガヤをやめて担当役員が現場に張り付く体制はトヨタ、日産とどこがどう違うのか」
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川本は社内での発表に先立ち、東京駅・八重洲口にある旧ホンダ本社ビルにある最高顧問室に宗一郎を尋ねた。宗一郎はこと仕事に関しては、藤沢とは反対によほどのことがない限り、西落合の自宅には寄せ付けない。
この時期、宗一郎の肉体と精神は極限に達していた。宗一郎は「自動車殿堂」入りを果たした翌年、つまり川本が社長に就任した年の十二月にこれまでのF1レースへの貢献が評価され、FIA(国際自動車連盟)から「ゴールデン・メダル賞」を授与された。プロフェッサー・フェリー・ポルシェ、エンツォ・フェラーリに次ぐ三人目の栄誉だ。表彰式の席ではアイルトン・セナの肩を抱き、その微笑んだ顔が世界に流され、再び人生の頂点に立った。
「オヤジさんがホンダを作り上げてから四十三年が過ぎました。いいものをたくさん残してもらいましたが、中には時代にそぐわず古くなったものもあります。思い切ってホンダを変えてみたいと思っています」
神妙な表情でこう切り出したが、宗一郎は社報と同じように、川本の抽象的で持って回った説明をもはや理解することはできなかった。
「ああ、そうか。時代も大きく変わっている。お前たちのやりたいようにやればいい」
晩年の宗一郎は判断能力を失い、子供たちが相談にきても、大抵OKの返事を出した。といってこれですべてが終わったわけではない。社業に関わる大事なことは、宗一郎の側近が改めて説明を求め、それを宗一郎に再度時間をかけて説明する習わしになっていた。それで問題がなければ、初めて宗一郎が了解したことになる。
今回の機構改革は、ホンダの将来を左右する大問題だが、宗一郎は最後まで川本の意図が分からなかった。ホンダを変えてみたいということが、藤沢とともに作り上げた経営手法の否定につながるとは思ってもみなかった。
病魔はこの間も確実に宗一郎の身体を蝕んだ。それでも病身をおし、何事もなかったように六月下旬の株主総会に出席した。それからわずか一カ月後の七月二十二日、末期のガン症状で東京・お茶ノ水にある順天堂大学病院に入院した。毎年七月、西落合の自宅で開く恒例の鮎釣りパーティーは急きょ、中止された。
長かった梅雨は、宗一郎が入院した直後に明け盛夏が訪れた。八月に入るとひまわりが太陽に向かって咲きはじめた。立秋を四日後に控えた四日、宗一郎は昏睡状態に陥り、五日の午前十時四十八分、最愛の妻さちに看取られながら永遠の眠りについた。
わずか三年足らずの間にホンダの二人の創業者が相次いで天に召された。
「社葬なんかすれば、交通渋滞の原因になり、世間に迷惑がかかる。そんなことはクルマ屋として、絶対にやってはならない」
生前、宗一郎は遺言代わりに「社葬をしてはならない」ことを子供たちに厳命していた。子供たちは故人の意思を尊重して、社葬に代わる「お礼の会」を東京の本社のほか埼玉、浜松、栃木、鈴鹿、熊本の各製作所で開催した。会場には延べ六万二千人が訪れた。
東京のお礼の会は、九月の五、六、七の三日間、青山の本社二階の「ホンダホール」で行なわれた。会場には正三位勲一等旭日大綬章の勲章を始め、各国からもらった数々の勲章が陳列されていた。いつもは来客でごった返すロビーには、宗一郎が描いた絵が展示されていた。抹香くささがまったくなく、どう見ても宗一郎の個展である。訪れた人は今にも、会場に宗一郎がひょこっと現れるような錯覚に陥った。
F1第十戦目のハンガリーGPは八月にブダペストで開催されたが「ホンダ・マールボーロ・マクラーレン」チームはアイルトン・セナを筆頭に全員が喪章をつけてレースに臨み、見事セナが優勝を飾り宗一郎の冥福を祈った。
ホンダの子供たちは精神的支柱を失った。宗一郎は経営の第一線から引退した後、“ホンダ教の教祖”として、社会活動を一手に引き受けてきた。子供たちは知ってか知らずか、それに甘えてきた。子供たちは宗一郎がいなくなって改めて「ホンダは宗一郎がすべてをカバーしてきた会社」だったことを思い知らされた。カリスマ性を持った経営者不在は商品面でも、世間に「ホンダらしさの喪失」を印象づけた。
宗一郎の死を境に日本経済のバブルが弾け、自動車業界は逃げ道の無い泥沼の不況に突入した。ホンダの業績不振にも拍車がかかった。平成二年度の業績は、売り上げが一・九%増の二兆八千億円の横ばいに対し、営業利益は三四・七%減の六百五十四億円と急減した。
続く三年度は売り上げは前年比三・九%増の二兆九千百億円、営業利益は同一七%減の五百四十億円だった。売り上げは横ばいにもかかわらず利益だけが減っていく。こうなるといやがおうでも「冬ごもり」を考えざるを得ない。
冬ごもり。言い換えれば戦線の縮小である。その象徴として、最初に国内販売網の再編成が浮かび上がってきた。
ホンダは国内販売百万台体制を目指して、昭和五十九年に三チャネル体制とした。プリモ店は「シビック」に代表される親しみやすいファミリーカー、クリオ店には「アコード」「レジェンド」などの高級感あふれるラグジュアリーカー、ベルノ店は「プレリュード」「CR─X」のスポーティーカー。各系列にアイデンティティーを持たせ、米国式の違いを明確化する販売政策を打ち出した。
「個性明解三チャネル」
社内の合言葉である。スタート当初は商品開発が追い付かず、主力車種のアコードをクリオ、プリモの両店で販売するなどのプレ専売制をとったが、四代目アコードの登場を機に、クリオ店にアコード、アコード・インスパイア、プリモ店にアスコット、ベルノ店にビガーの新型車を投入し、意識して商品の差別化をはかった。
陣頭指揮はアメホン社長を経験したことのある宗国がとり、これを会長の吉沢が強力にバックアップする体制をとった。国内販売増強に向けての宗国と吉沢の基本的な考えは、アメホンが米国で成功した手法を国内にも導入することだった。
米国は販売店は、一社一店舗、ワンテリトリー・ワンマン経営が基本となっている。メーカーの出先機関ともいうデストリビューターが関与するのは、卸段階までで、ディーラーがユーザーにどのように売るかは関知しない。
デストリビューターは販売台数を宣伝の量でコントロールする。売れる時は宣伝を控え、逆に売れなくなれば宣伝を増やす。それでも販売が伸びなければ、販売奨励金などのインセンティブを与える。いってみれば水道の水(工場で生産された車)を、蛇口の元栓(宣伝やインセンティブ)で調整するやり方で、国土の広い米国では極めて効率が良い。
アメホンもこの方式を継承したが、ホンダ車の場合、これまでインセンティブを与えなくとも飛ぶように売れた。しかしアメホンはこれに安住せず販売網を構築する過程で、営業マンと技術者が一緒になってディーラーを回り、CSの思想を取り入れ、ユーザーの声をクルマ作りに反映させた。これが当たった。
ホンダ車の国内における販売のやり方は、店頭販売と紹介販売が中心となっている。週末ごとにいろんな名目をつけてイベントを開き、来店者にはお土産を配って住所を聞き出し、脈のありそうな客には、直接訪問して売り込む。CSはホンダ本社が担当するので、ディーラーは顧客管理をしておればいい。ホンダにはトヨタ、日産のような人海戦術による訪問販売をやった経験がないのでそのノウハウがなく、また最初からそれを導入する意思もなかった。
クルマが飛ぶように売れたバブル時代には、セールスマン不足とあいまって、ホンダ式のカウンターセールスがもてはやされた。だがバブルが弾けてみると、足腰の弱さが露呈してしまった。財布のヒモを締めたユーザーに、ディーラーがいくら呼び掛けても店頭まで足を運んで来てくれない。
それをカバーする方策はたった一つ。各系列に絶えることなく、話題性のある商品を供給し続けることだ。商品開発力が衰えたり、マーケティングが弱くなれば、人気車種が一つの系列に偏ったり、分散してしまう。
水商売的な要素が大きい自動車業界で、メーカーが絶え間なくヒット車を出し続けるのは至難の業といっていい。それをやろうとすれば、膨大な開発投資が必要となる。
だが現実はバブルが弾け、メーカーはリストラ(事業の再構築)を余儀なくされた。万国に共通するリストラの第一歩は研究開発費と人件費の削減である。ホンダの場合、研究所への委託研究費は売り上げの五%と決められているが、三系列に違ったクルマを供給するにはそれで足りなくなり、一時六・五七八%まで高まった。
販売が好調で売り上げが順調に伸びれば、研究開発費もそれにスライドして増える。逆に横ばいになれば、途端に研究所の台所も苦しくなる。
限られた予算で三系列の車種体系を整えようとすれば、中心車種は自ずと落ち着いた四ドアセダンになる。その一方で、世界市場で通用する“ワールドカー”の研究も進めなければならない。ホンダらしいニッチ市場向けの車の開発は、どうしても後回しになってしまう。
思い切ったリストラを断行しようとすれば、車種も削減せざるを得ない。その行き着く先が、チャネル系列の合併による効率販売しかない。ホンダがライバル視した日産は、赤字ディーラーの再建のため、昭和六十年の前後から需要規模の小さい地域で、積極的に集約をはかり、チェリー店系列のディーラーを整理統合して実質的に四系列に縮小してしまった。
ホンダのチャネル縮小は、研究所が最初に言い出した。四代目アコードとその派生車種の販売不振から、三チャネルにモデルチェンジを含め年間二、三車種の新車を供給するのが、いかに効率が悪いかに気が付いた。
自動車業界で月販二千台に満たない車は「死商品」といわれる。メーカーは開発費を回収できないだけでなく、ディーラーの経営効率も悪い。その点、販売網を二つに集約すれば、開発効率も生産効率も販売効率も高まる。
研究所の実力を知り尽くしている川本と入交がそれに乗り、久米体制の末期に一度、提案したことがあった。その時、二人は久米を説得する材料として、堀紘一が社長を務めるボストンコンサルティンググループの調査レポートを使った。ボスコンレポートのホンダの国内販売体制に対する結論は明快だった。
「自動車の国内販売における、一系列当たりの最も効率的な年間販売台数は五十万台。自動車業界でこれを忠実にやっているのはトヨタしかない。トヨタは五系列で二百五十万台を目標にしている(事実、平成二年に達成)。日産もトヨタと同じように五系列持っているが、開発力が弱く、商品供給が追い付かない。ホンダの実力を冷静に分析すれば、三系列にまんべんなく供給する開発力はない。年販百万台までは二系列で十分」
このレポートをもとに、久米に販売チャネルの見直しを詰め寄ったが、当時は完全専売制が導入されたばかりで、しかも四ドアセダン車のシェアが四・二%から九・二%に急上昇したこともあり、二人の提案はあっさり退けられた。
日本の自動車流通は、勃興期には最小の販売ネットで、最大の台数を売るという効率主義から出発した。が、モータリゼーションの進展期には競って複数の販売ネットを作りあげ、最大の台数を期待するという拡大路線の構図に変わった。川本と入交の狙いは、販売網を縮小することで、遂に販売台数を追求する効率主義を復活させることにあった。
川本は社長に就任して一年が過ぎたあたりから、ホンダの権力構造を完全に理解できた。それまで川本は漠然と「会社というのは社長がすべての権限を握っている。社長はオールマイティー」と思い込んでいた。
ところが久米、吉沢の時代は国内販売、輸出はいうに及ばず、管理部門まですべての権限を副社長の吉沢が握っていたことを身をもって知らされた。技術系の社長が権限を発揮できるのは、生産現場と開発部門だけである。最終的な意思決定は合議制の形をとっているが、そこに至る過程は、久米と吉沢を頂点とする各部門が独自に決めていた。
営業を含む事務系の人事権も吉沢が握っていたので、久米が口出しできるのは研究所だけといってもよかった。いったん決めたことは、役員室の総意として下に流すので、外部からはホンダの権力構造が分かりにくかった。
ホンダは世間的には一つの会社の体裁を取っているが、実態は“本田工業”と“藤沢商会”の二つに分かれていたことを、川本は自分が社長になって改めて思い知らされた。“本田工業”の社長が久米であり、“藤沢商会”の社長が吉沢だった。二人の社長には宗一郎と藤沢時代のようなカリスマ性はないが、お互いに暗黙の不可侵条約を結んでいたので、たとえ対立しても、巧妙にカモフラージュするので表面化することはなかった。
久米と吉沢は宗一郎と藤沢の分業による経営手法を知り尽くしており、二頭政治に疑問すら感じていなかった。仮に疑問を持ったとしても、二人が健在なうちはそれを口に出すことはできなかった。
しかし役員になってからも、経営の中枢から離れていた川本の考えは違っていた。
〈ホンダが二つの会社であるのは、どうみてもおかしい。技術系の社長であろうとも、国内販売や輸出の営業の実態を知らなければ、社長としての役目は果たせない。百歩譲っても二つの会社は、二人の創業者が生きていた時代でしかあり得ない〉
それではどうやって二つの会社を一つにまとめるか。川本の不安は自分に技術的な蓄積は山ほどあっても、こと経営に関する蓄積が皆無であることだ。
〈もし私が社長になることが、前から分かっておればもっと藤沢さんに接触して、経営の極意を聞いておくべきだった〉
川本は悔やんだが、肝心の藤沢はもうこの世にはいない。二人の創業者がいないだけに早急に“本田工業”と“藤沢商会”を合併させて、社長が全権を握る必要性があるという意識だけが先走った。川本が最初に打った布石が同僚であり、ライバル関係にあった入交に、生産、開発だけでなく総務と労務も担当させることだった。ホンダを一つの会社にできるかどうかのカギは国内販売部門で、“本田工業”が主導権を握れるかどうかにかかっている。
国内販売体制を巡る話し合いは、その年のクリスマス・イブの夕方の四時半から十階の会議室で始まった。このフロアは大部屋の役員室のほか応接室と会議室しかないので、一般社員が入ってくる心配がなく、どんなに激論しても外部に漏れない。
出席したのは会長の吉沢、社長の川本、入交、宗国の二副社長、国内販売専務の宮田勝のほか、オブザーバーとしてボスコン社長の堀を含めた総勢六人。ホンダの会長は経営に直結した会議には出ないことになっているが、議事録に残らない非公式の会議で、しかもこれまでのいきさつを知る上で、あえて吉沢に出席してもらった。
川本はこの日の話し合いで万が一、自分の意見が通らなければ、“藤沢商会”の幹部と刺し違えるという悲壮な決意で臨んだ。
最初にオブザーバーとして参加した堀が、ホンダの研究所の開発力と販売力から判断して、三つの販売チャネルの維持は荷が重すぎることを、コンサルタントの立場から縷々説明、結論として販売効率を高めるため、規模の小さいベルノ店とクリオ店の統合を提案した。
全員が神経を尖らしており、ワイガヤが大手を振っていた昔の和気あいあいとした雰囲気はまったくない。議論はボスコンの調査結果を基に進められ、川本と入交がボスコンの提案に同調した。
「二チャネル制というのは、会社のニーズであって社会のニーズではないのではないか」
「販売チャネルを縮小すれば、将来の可能性を自分から断つことになる。緊急避難であってもいったん戦線を縮小したら、将来拡大するのは難しい」
「二チャネルの原案を作成したのは、コンサルタント会社であってホンダではない。考えてもみて下さい。コンサルタント会社の提案をそのまま受け入れて、成功した例がありますか。あったら教えて下さい。クルマを作るのはホンダで、売るのもホンダなんです。コンサルタント会社じゃないんだ」
“藤沢商会”の番頭ともいうべき宗国と宮田は、反対の弁を|捲《まく》し立てた。
会長の吉沢は腕を組み、天井を見ながら黙って聞いている。この時、吉沢は内心忸怩たる思いで議論を聞いていた。藤沢から託された日産追撃の夢は、確かに米国市場では実現させた。米国ではホンダを「トヨタを凌ぐ日本最大の自動車メーカー」、人によっては「ホンダは米国の企業」と思い込んでいる人が多い。オハイオ工場の従業員の中にも少なからずいる。
だが肝心の国内では日産を追撃するどころか、ここへきてジワジワ差を広げられている。その一方で三菱、マツダの追い上げも厳しく、業界三位の座も危うくなりかけている。業績も予想をはるかに上回る速いピッチで急降下している。ただしこうした時期に販売網の縮小に踏み切ることは、日産追撃の最後の旗印を自らの手でたたんでしまうことを意味する。将来のことを考えれば、ここは体を張ってでも死守しなければならない。
吉沢はこうした自分の思いを内に秘め、できるだけ感情を殺して議論に口を挟んだ。
「私は販売チャネルを三つでいいとか、二つにするというとかの議論をすることすら、無駄だと思っています。即刻こうした議論は止めて欲しいというのが偽らざる気持ちです」
といっても川本と入交は納得しない。冬至が過ぎた直後で、会議が始まるころには早くも夜のとばりが忍び寄っていた。本社ビルが面している国道246号線沿いの青山の町は、色鮮やかなネオンが輝いている。クリスマス・イブということもあり、六時を過ぎると本社ビルの各フロアの明かりが次々と消えていくが、十階だけはなお煌々と灯っている。激論は果てしなく続いた。
八時を回ってもまだ結論が出ない。その頃になると、秘書が気をきかせてサンドイッチとプラスチックの容器に入ったコーヒーを差し入れた。それを頬張りながら議論は続けられた。
なぜ二チャネルにしなければならないのか。“本田工業”の流れを汲む川本、入交の技術系と“藤沢商会”で育った吉沢、宗国、宮田の営業系の間には、埋め難い溝ができていた。
冬ごもりによる販売戦線の縮小を考えている川本と入交は、研究所の新車開発力が三チャネル体制に追いつかないとは、口が裂けても言えない。表向きの理由としては、あくまで販売の効率化を唱えるしかない。
逆に吉沢、宗国、宮田にすれば、「研究所の開発力は三チャネルに供給できないほど衰えているのか」と言いたいところだが、それを口に出せば、決定的な対立を生む。三人の課題は、何としてでも三チャネル体制を死守することである。
双方が自分と相手の弱点を知り抜いておりながら、言葉に出さない。議論は平行線をたどり、時間だけが容赦なく過ぎてゆく。すでに時計の針は十一時を回った。全員が疲労こんぱいしてきた。そのころを見計らって、吉沢が苦渋の提案をした。
「この問題は、ここでいくら議論しても結論が出ません。明日やっても同じでしょう。私としては、ホンダの置かれている苦しい立場は分かり過ぎるほど分かります。カワさんの気持ちが分からないでもありませんが、三チャネルというのは私たち営業の人間の永年の夢だったのです。
それではこうしませんか。チャネルの見直し作業を私たちがやるのは、自分の手で自分の産んだ子供を殺すようなもので、とうてい無理です。将来の販売のあるべき姿の検討は、一度カワさんの手でやってみたらいかがですか」
吉沢は妥協案として、川本主導による見直しの検討を提案した。見方を変えれば“本田工業”と“藤沢商会”の合併の検討を提案したともいえる。
〈山が動いた、山が……〉
川本は吉沢の提案を聞いた時、心の中で叫んだ。「山が動いた」というのは、社会党の委員長の土井たか子が、参議院選挙の時に使って流行語になった言葉である。
5
クリスマス・イブの夜に長時間にわたり行なわれた会議もここで決まったことも、社内では一切伏せられた。はっきりしているのは、翌日のクリスマスの日からすべての実権が、社長の川本に集中したことだ。社長による“クーデター”は成功した。ホンダの四十数年の歴史の中で、生産、開発、輸出、国内販売、管理にいたるまで初めて一人の人間に権力が集中した。
川本の肚は、具体的な検討に入る前から二チャネルにすることで固まっていた。吉沢の言葉を借りるまでもなく、その作業を進めて軌道に乗せるのは、これまで三チャネルを推進してきた宗国や宮田では無理がある。販売の責任者は、研究所の開発力が分かっている人でなければ意味がない。川本は二十五日、二十六日、二十七日と考えに考えた末、仕事納めの二十八日になって、ようやく一つの方向を出した。
〈国内販売の責任者には猪突猛進型のイリさんを起用し、その後任には専務でHAM社長を兼務している吉野を充てる。HAMの社長は埼玉製作所所長で常務の下島啓亨が最適ではないか〉
川本、入交、吉野の三人は昭和三十八年に入社した同期で、三人とも若い時から間違いなくホンダを支える逸材として、将来を嘱望されていた。入交と吉野は大学も学部も専攻も同じで、一緒にホンダに入った仲である。入交の派手なパフォーマンスとは対照的に、戦後満州から死にもの狂いで引き揚げてきた体験を持っている吉野は、地味な性格だがだれにも負けない粘り強さを持っていた。
二人は昔から妙にウマが合った。吉野は鈴鹿製作所所長、HAM社長といずれも入交の後を引き継いだ。入交がオハイオ工場で従業員を前に別れの挨拶をしたとき、最後に壇上でキャッチボールの真似をしながら、後任の吉野を紹介した。
「後任のミスター・ヨシノ(吉野)とは、昔からこうしてキャッチボールをした仲だ。私の投げたボール(HAMでやってきたこと)は、ミスター・ヨシノが受けて(引き継いで)くれる」
川本は自分が作成した人事案は、大晦日を迎えてもだれにも明かさなかった。ただ入交は川本と同様二チャネルを唱え、クリスマス・イブの夜に長時間論議しただけに、何となく自分にそのお鉢が回ってくる感触を持っていた。
川本は吉野を直ちに帰国させて、入交の後任に据えることについては、自らのアイディアに溺れることなく、極めて慎重に対応しなければならないと思った。仮に吉野をここで交替させた場合、オハイオ工場に支障が出ないか見極めなければ公表できない。
シビックを生産しているオハイオ第二工場のイーストリバティー工場では、フル生産が間近に迫っている。第一工場では米国の研究所のスタッフが独自に開発したアコード・ワゴンの生産もまもなく始まる。当面、この二車種は絶対に成功させなければならない。果たしてこの時期、突然吉野を交替させてやって行けるか。川本の悩みは尽きなかった。
この時期、日米自動車摩擦が悪路をたどり始めたことが、川本を一段と悩ませた。半年前の平成三年六月には米国とカナダの税金問題が噴出して、両国にあるホンダの工場がヤリ玉に挙げられた。
摩擦再燃の背景はビッグスリーの極端な販売不振にあった。九一年のGMの乗用車の販売台数は前年比一二・一%減の二百九十万台、フォードは同一五・八%減の百六十三万台、クライスラーは一八・四%減の七十万台となり、三社合わせて前年に比べ八十六万台も減少してしまった。
GMの販売台数は第二次世界大戦後初めて三百万台を下回った。第二次石油危機直前の七八年は五百四十万台だったから、わずか十三年で二百五十万台も減らしたことになる。クライスラーに至ってはホンダ、トヨタが前年実績を下回ったにもかかわらず、あっさり両社に追い抜かれ、米乗用車市場では五位メーカーに転落してしまった。
ビッグスリーの日本車非難の動きは、湾岸戦争が終結した直後から急に慌ただしさを増した。口火を切ったのは“日本車バッシングの旗手”ともいうべき、クライスラー会長のアイアコッカだった。まずブッシュ大統領に書簡を送り、九一年度の日本車のシェアを前年度並みの三一%に抑えるよう要請した。春には三社のトップが揃ってワシントンを訪れ、大統領と会談した。
「将来、日本車が四〇%のシェアを握れば、クライスラーは消えてなくなる」
アイアコッカは真剣な表情で、大統領にクライスラーの置かれている厳しさを説明して日本車規制の強化を訴えた。事実この時期、クライスラーは企業存亡の危機に立たされていた。業績は湾岸戦争が始まる前から陰りが出始め、九一年に入ると目に見えて急速に悪化、その年の決算では七億九千五百万ドルの赤字を計上してしまった。
業績悪化にもかかわらずアイアコッカは、|乾坤一擲《けんこんいつてき》、起死回生の一発逆転を狙っていた。大幅な人員削減を中心としたリストラを進める一方で、社運を賭し十億ドルの資金を投じ、デトロイト郊外に研究開発の総本山ともいうべきテクニカルセンターの建設に着手した。
その資金調達の一環として二一・八二%の株式を保有している資本提携先、三菱自動車の持ち株を八九年九月から徐々に売却し始めた(九三年七月までに完全売却)。さらに九一年十月には三菱と折半出資で設立したダイヤモンド・スター・モーターズ(イリノイ工場)の経営権も三菱に譲渡してしまった。
アイアコッカの発言は誇大でもなければ、恫喝でもなかった。クライスラーは窮地に追い込まれていた。日本車規制で懐が潤った時期に自動車の将来を憂いて、多角経営を展開したが、散漫な経営で単なる資金の浪費に終わり、航空機メーカーのガルフストリームも手放してしまった。アイアコッカが倒産回避に向けて描いていた再建のシナリオは、まず日本車規制を強化することで再び販売価格を吊り上げて利益を稼ぎ出し、それをテクニカルセンターの建設資金に充てることだった。
「テクニカルセンターさえ完成すれば、日本車に対抗できる車を開発できる。それまでなんとしてでも時間を稼がねば……」
アイアコッカは悲壮な覚悟で、ワシントン詣でを繰り返した。
ただGMとフォードは、日本車規制の強化が米自動車産業の再生に役立たないことは、これまでの学習効果で知り尽くしていた。ブッシュ政権としても大統領選挙を控え、消費者にマイナスになる政策はとれないことから、規制強化には消極的だった。
アイアコッカの思惑は外れたが、ダンピング問題では、三社は完全に足並みを揃えた。ブッシュ大統領を訪問してから四カ月後の九一年五月三十一日、三社は共同で米商務省とITC(米国際貿易委員会)に対して、日本車規制の対象外となっている日本製ミニバンをダンピング販売で提訴した。
仮に提訴がクライスラー一社で、しかもミニバンとくれば謎解きはいたって簡単だ。「ジープ・チェロキー」を中核に据えたミニバンはクライスラーの唯一の収益源であり、乗用車に比べて車種が少なく、ダンピングを立証しやすい。クライスラーの狙いはここで“クロ”の裁定を引き出し、この分野から日本車を締め出せば、間違いなく一息つける。
この訴訟は九二年七月十五日にITCからシロの裁定が出た。当然ビッグスリーは納得せず、七月三十一日に米国国際貿易裁判所に提訴したが、一年後の九三年七月十二日に提訴が却下され、ビッグスリーの全面敗訴となった。
問題はこのときなぜ、GMとフォードがクライスラーに同調したかである。両社の泣き所はCAFE(企業平均燃費)対策の遅れにあった。CAFEの強化は地球環境保護と省エネルギーの両面から、米国では社会的なコンセンサスになり、すでに議会には十本あまりの強化法案が提出されていた。
もっとも有力視されているブライアン法案は、九五年に八八年型車に比べ燃費効率を二〇%、二〇〇〇年には同四〇%の向上を義務付けている。達成できなければ罰金を払うか、さもなければ撤退するしかない。
ミニバン提訴ではGMとフォードがクライスラーに手を貸し、CAFE問題ではクライスラーが同調することで三社の足並みを揃え、再選を狙うブッシュ大統領に圧力をかける。ここでビッグスリーの利害が一致した。
ブッシュ政権は湾岸戦争後の深刻な不況による失業率の増大に頭を悩ませていた。再選を確実なものにするには、ビッグスリーの支援は欠かせない。米国の貿易収支は一向に改善される兆しはなく、そうなると矛先はどうしても日本に向く。
ビッグスリーとブッシュ政権の思惑が合致したことで、日米自動車摩擦は一気に政治問題化した。暮れになると年明け早々、ブッシュ大統領がGM・ステンペル、フォード・ポーリング、クライスラー・アイアコッカの三会長を引き連れて来日することも決まった。
日米首脳会談で自動車が最大のテーマになるのは避けられそうにもない。そうなるとクライスラーを抜いて、乗用車のビッグスリーの一角に食い込んだホンダも矢面に立たされる。米国とカナダの税金問題以来、ホンダがネガティブキャンペーンの対象にされつつあった。
悪影響を最小限度に食い止めるには、さらなる現地化を進める以外にない。吉野はオハイオ工場で陣頭指揮をとっており、直ちに帰国させるのは難しい。米国市場はホンダの生命線だけに少しも手抜きは許されない。
入交は川本体制の発足と同時に、研究所の社長を兼務、開発部門の責任者に就いている。同時に生産部門も担当している。さらに川本の片腕として、社内改革を推進するため総務と労務にも目を光らせている。これに国内販売が加われば、“本田工業”と、“藤沢商会”の合併で、表面上の権限は川本が握ったとはいえ、実質的な権限はすべて入交に集中したことになる。
川本は悩んだが、いいアイディアが浮かばない。一方、入交は年が明けても川本から国内販売責任者への就任の打診はないものの、クリスマス・イブの深夜に及ぶ話し合いの経緯からして、自分にそのお鉢が回ってくる可能性が高いと読んだ。その時に備え、密かにホンダ車の販売の現状についての情報収集に入った。
ブッシュ大統領を乗せた特別機は、平成四年一月七日午前十一時前、まだ正月気分が抜け切らない伊丹の大阪国際空港に到着した。大統領には「ブッシュ大統領再選委員長」の肩書きを持つ商務長官のモスバーガーが率いる形で、ビッグスリーのトップを筆頭に米国経済を牛耳る財界首脳十八人が同行した。
今回の日米首脳会談は、最大のテーマが自動車であることを象徴するように、成田空港北ウィングの出発中央ロビーには、開港以来展示されていた日産車に代わってGMの「ポンテアック・グランダム」が展示された。
「米国経済は病んでいる。再生に向けて(日本は)できるだけ協力したい」
総理大臣の宮沢喜一は、ブッシュの訪日直前、こうコメントした。
「私の最優先課題は仕事探しにある。JOBS(仕事)、JOBS、JOBS」
ブッシュ大統領は今回の訪日を自ら「雇用創出の旅」と位置付け、期待に胸を膨らませて日本に乗り込んできた。
水面下では米国経済の再生に協力するため、通産省事務次官の棚橋祐治と官房長の内藤正久が中心となり、米国製完成車の販売協力と米国製自動車部品の購入拡大計画の取りまとめ作業を行なっていた。通産省も自動車メーカー首脳も年末年始の休暇返上である。
ホンダはすでにクライスラーの四輪駆動車「ジープ」を扱っており、平成二年には四百台販売している。通産省の要請はこれを三倍に上げて欲しいというものだった。RVを持たないホンダは、ジープの販売には手応えを感じており、目標達成はそう困難ではない。
むしろ問題は米国製の部品の購入にあった。ホンダはビッグスリーと資本のつながりはないので、完成車の販売協力では無理な注文を出されなかった。が、部品はそうはいかない。ホンダは前年に乗用車の現地販売で、クライスラーを抜いてビッグスリーの一角に食い込んだばかりである。
ここである程度誠意を示さなければ、批判はホンダに集中する。といって空手形は許されない。平成二年度のホンダの米製部品の購入額は二十七億七千万ドルで、日本車メーカーの中では最も多かった。通産省からは六年度に倍増して欲しいという打診がきたが、どうみても困難である。最終的に七八%増の四十九億四千万ドルを目標にすることで折り合いがついた。それを達成するには相当な努力を要する。
目標達成には部品購買に精通している吉野を、当分オハイオ工場に残す以外にない。入交を国内販売に回し、その後任に吉野を据えるという当初案は白紙に戻さざるを得ない。といって国内販売の責任者不在をいつまでも続けておくわけにはいかない。川本に妙案がなく、時間だけが過ぎていった。
年明けとともに入交のハードな生活が一段とハードになった。開発、生産、管理の部門の会議に顔を出して報告を聞くだけでなく、具体的な指示を出さなければならない。中高年の層の活性化の手段として、管理職を対象とした年俸制導入の研究も着々と進んでいるが、対応を一歩間違うと賃金カットと受けとられ、逆にやる気を失わせてしまう。組合との折衝も慎重に進めなければならない。
「研究所は生産現場と部品メーカーが作りやすい設計をする方向へ転換してほしい」
入交は出身母体ともいうべき研究所社長に就任した直後にこう要請したが、肝心の研究所は依然として単純な技術至上主義にどっぷり漬かり、それから抜け出せないでいた。入交はのんびりした報告を聞いてイライラが募ると、言葉を荒らげた。
「そんな独り善がりのことをいう前に販売店に行って、お客さんがどんな車を欲しがっているか、自分の目で確かめてこい」
国内販売の職務は依然として正式な人事が発令されていないので、入交自身がディーラーを訪問して、販売の最前線の動向を探るなどの表立った行動はできないが、自分なりに立て直しの秘策を考えておかなければならない。
ルーティンの仕事の合間を縫って、暇を見付けては国内販売担当者から非公式に販売の実態を聞いた。ホンダはわが国最後発の自動車メーカーというハンディから、国内販売は万年赤字に悩まされ続けてきた。それでも拡大路線を貫き通せたのは、米国市場で莫大な利益を上げることができたからだ。
むろん“本田工業”出身の入交は、国内販売が赤字であるのは薄々感じていたが、赤字の大きな原因が異業種から参入したディーラーのホンダ離れにあるのを知って愕然とした。販売不振を理由にディーラーから販売権を返上されれば、メーカーはそれを買い戻し、直営のディーラーにしなければならない。バブル期でもホンダの直営ディーラーの累積赤字は年々拡大していった。
自動車業界では赤字のディーラーが全体の二〇%なら責任はディーラー、四〇%ならメーカーとディーラーの双方、五〇%を超せばメーカーにあるとされる。ホンダが資本出資している系列ディーラーの赤字店は、すでに七〇%に達している。こうなると責任は明らかにメーカーにあるといわざるを得ない。
販売不振の原因は、営業と開発の関連性がなく三系列の商品構成がバラバラになっていることにあった。かつてベルノ店の責任者は役員会の席で「CSとユーザー管理で系列ディーラーを維持してゆける」と豪語していた。が、いまやディーラーを管理・指導している担当者は「CSでは飯は喰えない。ユーザー管理もお金がなければできない」と半ばサジを投げ出している。
営業の人事が歪んでいるのも問題だった。国内販売部門のトップには、歴代アメホンの社長経験者が座っているが、国内販売を含めた営業部門には上から下まで「アメホンに出向した経験がなければ、人にあらず」という空気が蔓延していた。国内販売の主要ポストはアメホン出向経験者が占めている。そしていつの間にか、本社には入社以来国内販売一筋という人が少なくなってきた。
本来、国内販売は泥臭い仕事である。ホンダの場合、宗一郎と藤沢の時代に自転車店からオートバイ店へ、そして四輪車ディーラーへ衣替えした店が多く規模も小さい。三系列に分かれる前まで、ロードマンと呼ばれる地区担当者はディーラーの経営者と膝を交えて話し合って、将来の夢を共有することで販売台数を伸ばしてきた。それが米国式の販売方式を取り入れてからは、数字が独走してしまった。
どうすれば国内販売部門を再建できるか。トヨタ並みにセールスマンの足腰を鍛える必要があるが、その前にディーラーの経営を立て直さなければならない。規模の小さいプリモ店には比較的赤字店は少ないが、直営の多いクリオ店、ベルノ店は軒並み赤字に転落してしまっている。連結決算でみても出資会社の累積赤字はすでに三ケタの億円に達している。
入交が販売関係者から事情聴取した結果、国内販売を立て直すには、メーカーが積極的に関与して、ディーラーと店舗の統配合を進め、販売効率を上げることが現実的な策であることが分かった。
ホンダのディーラー、とりわけプリモ店の前身は大半が町のモーター屋が中心ということもあり、自然発生的で特定の地域には沢山あるかと思えば、重要な拠点地区は空白というところも多い。しかも器(店舗の広さ)がトヨタ、日産の半分以下と小さい。
これを解消するには密集地区のディーラーを空白地区に移設しなければならない。ディーラーの国替えである。こうした荒療治はディーラーの抵抗が強いので、メーカーが資金援助をちらつかせながら、積極的に関与しない限り実現しない。
その一方でベルノ店とクリオ店を統合する過程で、政策的に店頭品揃えの可能な核店舗(メガディーラー)を主要な大都市で展開する必要がある。既存店のリニュアルも含め年間二百億円、これを五年間継続して総額一千億円投じれば、新しいディーラー網の骨格ができあがる。当時、ホンダが販売強化に向けて投じている資金は、年間約四十億円、これを一気に五倍に増やさなければならない。
入交が国内販売の責任者に就くのではないかといううわさは、時間の経過とともに社内外でも真実味を帯びて伝わった。
6
バブルの崩壊とともに産業界には、M資金と呼ばれる融資話が横行していた。旧日本軍が戦時中に占領地で略奪した財宝が日本に持ち込まれ、これをGHQ(連合国総司令部)のマッカート経済科学局長が押収、戦後の日本の復興資金として日米共同で保管されているというのがM資金である。M資金のMはマッカートの頭文字に由来している。
この種の融資話は、戦後一貫してまことしやかに流れている。時代を反映して資金源はオイルダラーになったり、皇室の秘密運用資金や大蔵省理財局の運用資金に化けたりする。M資金というのはこれらを総称したものだ。
この種の融資話はすべて架空、巨額の資金は存在せず、実態は金融詐欺の世界でしかない。M資金と呼ばれるこの業界に巣くう闇の紳士は、一説によると三千人に上り、金融機関が貸し出し規制を強めれば、彼らの出番がやってくる。
本物か偽物か分からない有力政治家、財界人、高級官僚の紹介状や手紙を持ち歩き、金を必要としそうな企業に融資を持ち込む。闇の紳士たちにとって、紹介状や手紙を偽造するのは朝飯前。一流会社と呼ばれる会社で、この種の融資話を持ち込まれなかった会社はない。逆に一流企業の総務、経理担当役員で闇の紳士に会わなかった人はまずいない。闇の紳士と知らずに会っても、M資金であることを見破り、それを断った人が実力者とされた。
闇の紳士たちは日本一の超優良会社で、二兆円近い余裕資金を持っているトヨタどころか、大手の都市銀行にすら平気で持ちかける。その際相手が金融機関ともなれば融資額も三十兆円から四十兆円とケタ違いに大きくなる。
彼らの狙いは巨額の融資話を持ちかけ、事前に見返りの手数料を受け取れば大成功である。その手数料は融資額の一%が相場とされる。むろん融資話を信用した経営者でも、融資の実行前に手数料を払うお人好しはいない。すると融資を依頼する誓約書や念書を書かせ、架空融資であることがバレると本人に買い取らせる。本人に拒否されれば、今度は会社に持ち込み、半ば脅して買い取らせようとする。
古くはロッキード事件で一躍有名になった全日空社長の大庭哲夫が、三千億円のM資金融資の申し込みや念書などを作成していることが発覚して、社長辞任に追い込まれた。丸善石油(現コスモ石油)社長の本田早苗も同様の運命をたどった。変わったところでは俳優の田宮二郎もM資金のトラブルに関わって自殺したとされる。
平成六年に入ってからも、大日本インキ社長の川村茂邦や日産自動車副社長の藤井大至がこれに関わって失脚したとされる。被害がなければ闇から闇へと葬られてしまう。
「おまえさんは少し、おっちょこちょいなところがある。三回深呼吸して、もう一度考えてから行動に移せ」
入交はかつて先輩にこう忠告されたことがあった。その入交のところに平成四年の二月、昔ホンダの技術研究所で働いたという一人の男が尋ねてきた。入交は名前も顔も知っていた。具体的な用件をいわないので断ることもできたが、相手の男が研究所にいたという身内意識もあり、会うだけ会うことにした。
その男は「日本ヒマラヤ植物協会会長 天地空」という名刺を持った年配の男を連れてきた。天地空と名乗る男は、十兆円という途方もない荒唐無稽な融資話を持ち掛けてきた。入交はあまりにもばかげた話なので、資金源も聞かず冷やかし半分に二、三質問しただけで、丁寧に引き取ってもらった。
その後、入交も知っているある有力者の紹介状を携えた闇の紳士が来た。相手の用件が最初から融資話と分かっておれば会わないが、さすがに相手も「用件は会ってから話します」というだけで電話口で決して話さない。断れば紹介者の顔に泥を塗ることになるので、会うことは会ったが、用件を聞いただけで「またか」とうんざりしてしまった。
この種の闇の紳士がホンダを訪れたのは、今回が初めてではない。過去にも何度か来ており、歴代の会長や副社長が会って、適当に引き取ってもらった。相手のペースにはまったわけでなく、入交に闇の紳士に会ったことの後ろめたさは一切なかった。
総務も担当している関係で、この種の人間に会っても少しも不思議でない。もし誤解が生じたとすれば、開けっ広げな性格から、同席者を付けずに気軽に一人で会ってしまったことだ。
入交は何事もトコトンやらなければ、気が済まない性格である。HAMの社長時代に心臓の不整脈でダウンしたこともあり、健康には人一倍気を使っている。酒とたばこは昔から嗜まない。健康維持のため毎朝五時過ぎに起きて、近所を軽くジョギングして、シャワーを浴びた後、朝食をとり自分で車のハンドルを握って、八時前には青山の本社に姿を現す。
担当する部署が多いだけに、いったん会社に入ればまさに戦場である。次から次へと会議をこなし、社内外の人に会い、自分で納得しなければ、夜になってもう一度担当者を呼んで、納得するまで説明を受け、相手に分からないように深呼吸してから具体的な指示を出す。引き続き研究所の社長も兼ねているので、週に一、二回は栃木の四輪研究所や埼玉県・朝霞の二輪研究所にも出掛け、新車の開発状況をチェックしなければならない。
家に帰っても書類に目を通すので、床につくのはいつも深夜となる。睡眠時間も極端に少なくなった。ホンダの将来が不安になり、夜中に突然目を覚ますこともある。
〈ホンダはこのままではダメになってしまう。なぜほかの人は、それに気付かないのだろうか。ホンダを昔のように活気のある会社に戻し、ヒーローが生まれる土壌にするにはどうすればよいか〉
〈それにはさらなる大胆な機構改革を断行しなければならない。年俸制や役職の任期制を取り入れたら、本当に中間管理職は活性化するだろうか。社長のカワさんとは言葉の上ではホンダの将来に対する考えにそう大きな違いはないのだが……〉
だが入交がいくら社内で部下の尻を叩いても、官僚組織になれ切った人々の意識はそう短時間で変わらない。
「イリさんはなぜそんなに焦ってるのだ。大企業の組織はそう簡単に改まらないよ」
「イリさんのやり方はスピードが早すぎる。そんなことをしたら、逆にホンダが駄目になってしまう」
社内では入交のせっかちなやり方を、冷ややかな目で見る人が増え始めた。入交はいつしか社内で浮き上がってしまった。本人も周囲の冷ややかな目を薄々気が付き始めたが、そうなると一層焦りが募る。
三月に入るとストレスが高じて不整脈が再発し、掛かりつけの医師からドクターストップをかけられてしまった。ストレスはホンダの改革のスピードが自分が考えている早さで進まない苛立ちから来ており、半ばノイローゼ気味になった。
そのころ「架空融資話に入交が関係しているのでは……」とのうわさが川本の耳に入った。ご丁寧にもうわさには、尾ひれがついていた。
「融資実行に備え、さる銀行に入交名義の口座が開かれた」
うわさとはいえ、川本としても無視できない。この時期、二人の間には社内の改革のスピードのみならず随所に考えのズレが表面化し始めていた。決定的な違いはホンダの将来ビジョンについてであった。
入交が明確なビジョンを持っていたのに対して、経営者としての訓練期間の短い川本は、ヒーローが育つ会社に戻すことより、まずホンダを普通の大きな会社にすることをイメージしていた。川本は自分が社長になって以来、「ホンダマンには社会的常識が欠如しているのではないか」という疑念を持っていた。もし社会的常識が欠如しているなら、一度普通の企業に戻す必要がある。
不整脈が再発して憔悴し切っていた入交は、三月十六日に川本に呼び出された。十階の役員応接室には川本のほか、会長の吉沢と最高顧問の河島がいた。三人とも沈痛な表情をしている。
「イリさん。突然で悪いけど、辞めてもらえないか。理由は聞かないでほしい……」
頭ごなしに川本に宣告されても、入交としては納得できない。
「どうしてですか。理由を言って下さい」
三人は無言のままである。沈黙を破って、吉沢が遠回しに架空融資話を持ち出した。入交はバカバカしいと思いながらも、一応の経過説明をした。
〈元研究所の社員に紹介されて、正体不明の闇の紳士に会ったのは、代表権を持つ副社長として確かに不注意だったかもしれない。しかし会社には何の迷惑もかけていない。そんなことよりも、現状のむちゃくちゃな生活を続けておれば、ホンダを立て直す前に自分が倒れてしまう。医師のいう通りホンダの経営から身を引いて治療に専念しよう〉
入交はアッサリ川本の辞任勧告を受け入れた。
〈ホンダマンとしての私の人生は終わった。明日にでも大学病院に入院して精密検査を受けよう。将来のことは健康が回復してから考える〉
後日、国内販売を巡る社内の対立と入交辞任の真相を知って、ホンダの最高幹部だったOB役員が、反省とも怒りともつかない言葉を吐いた。
「あの二人は性格が違ううえ激し過ぎる。妥協するということを知らない。“英雄並び立たず”ではないが、早晩真正面からぶつかり合っただろう。架空融資話はそのトリガー(引き金)になったに過ぎない。
長年研究所という汚れを知らない組織の中で、純粋培養された人間には、どこかひ弱さがつきまとう。私たちが二人を甘やかして育ててきたツケが回ってきたのかも知れない。
戦争は外にいる敵に向かって鉄砲を撃つものだ。内なる戦いをやっていては、味方が混乱する。まさに“戦争を知らない子供たち”だ」
平成四年五月九日から一週間、メキシコとの国境近くにあるサンディエゴの沖合で、参加国の威信をかけたヨットのアメリカズカップの決勝戦、アメリカ対イタリアのレースが行なわれていた。マツダR&Dノースアメリカ社長の広瀬裕は、休日に家族と一緒にオリンピックと同じように、四年に一度開かれるこのレースを観戦した。
その時、偶然顔見知りの小柄な日本人に会った。
「おい、吉野じゃないか。久しぶりだな。どうしてこんなところにいるんだ」
「これから本社に戻るんだ。うちの本社で大変なことが起こったらしい」
「入交の件か。新聞で読んだよ。病気で辞めたんだってな。去年の秋、東京モーターショーを見るため帰国した際、幕張の会場で立ち話をした。その時は元気だったのに」
「おれにも詳しいことは分からないんだ。急に帰国命令が出たんだ。多分、入交の辞任と関係があるのだろう。もうアメリカズカップを見る機会もないだろうから、日本に帰る前にちょっと寄ってみたのだ」
広瀬がサンディエゴで会ったのは、HAM社長の吉野浩行である。入交を入れた三人は大学の同級生だ。
入交が急きょ辞任したことで、ホンダの役員人事は大幅に狂った。会長の吉沢は役員の定年内規を順守するため、満六十歳を迎えるのを機に相談役に退き、後任には宗国を起用するよう提案する積もりでいた。
だが吉沢が提案する前に川本が先手を打つ形で、会長留任の要請をしてきた。川本が出した新たな人事案は、宗国を無任所の副社長とし、同じく国内販売を担当していた専務の宮田を総務担当に回すというものだった。
吉野はアメリカズカップを見た後、帰国して川本から副社長昇格の内示を受けた。「二度あることは三度ある」の譬え通り、吉野は勝手に新たな担当を、入交がそれまで担当していた開発と生産部門と思い込んでいた。川本から内示されたのは、意外にも国内販売責任者への就任であった。生産技術を専門とする吉野にとって、国内販売は未知の世界だ。
〈この半年間、本社で一体何が起こったのだろうか〉
国内販売担当の内示を受け、吉野は事の真相を詮索する間もなくいったんオハイオに戻った。後任社長の矢鋪豊治との引き継ぎもそこそこに、慣れない国内販売に専念することになった。矢鋪は吉野の下でオハイオのエンジン工場長をしていたので、HAMの内情には精通している。引き継ぎにはそう手間はかからない。
川本は入交が辞任した後、研究所の社長に復帰して名実ともにホンダの実権をすべて握った。川本の方針で、現業の役員は現場に張り付けられた。ホンダの専売特許だった役員の大部屋には川本のほか管理部門の数人しかおらず、事実上形骸化してしまった。ワイガヤをやろうという雰囲気は、いまや役員室のみならず社内では皆無。ワイガヤは完全に死語と化した。
前社長の久米は退任後、世田谷の社長公邸を引き払って、千葉・四街道の自宅に引きこもり、毎夜星を数える文字通り“仙人”の生活に入った。本社には最高顧問室があるが、ホンダでただ一人その部屋を使える河島もよほどの用事がない限り、ほとんど顔を出さない。
「ヒットラー」
川本はいつしか社内で、こう呼ばれるようになった。川本と同期入社のHRA(ホンダ・R&D・ノースアメリカ)副社長の大塚紀元が名付け親だ。
ホンダは毎年、米国でディーラー大会を開く。大会では最初に本社の社長が経営方針を説明、その後経営幹部が次々と壇上に登って、その年の販売方針からホンダ車の開発の現状から将来展望まで報告する。
川本は常務時代から開発責任者として毎年出席しているが、ラスベガスのホテルで開かれたある年の大会で、それまで考えられないような派手なパフォーマンスをして周囲を驚かせた。ラスベガスはエンターテインメントの都であり、ホテルはどんな趣向でもこなせる。この時は会場を真っ暗にし、報告するホンダの幹部が壇上の袖から演壇まで歩く間、七色のカクテル光線を当てた。
最初に挨拶に立った社長の久米は、気恥ずかしそうに右手を額に当てながら演壇にたどり着いた。川本の番に回ってくると、彼は両手を天井に向けバンザイしながら壇上の袖から演壇までゆっくり歩いてきた。このパフォーマンスが陽気なアメリカ人に受けた。
「何だ、あいつはまるでヒットラーみたいだ」
何気なく大塚が呟いたが、横で聞いていた久米が笑いながら相槌を打った。
「カワさんは本当にヒットラーだ。そういえば何となく風貌も似ている。あの顔にヒゲを付ければヒットラーそっくりだ」
久米はそれを機に川本に付けられたニックネームを研究所で好んで使い、いつしか社内外にも広がった。ヒットラーから連想されるイメージは、暗い独裁者である。八重洲にいるOB役員は、川本に付けられたニックネームを聞いて一様にしかめつらをしたが、それでも「この難しい時期、川本はよく頑張っている」と庇った。
ホンダの国内販売台数は、川本が社長に就任した平成二年の六十七万九千台をピークに下降線をたどり始めた。三年は六十六万四千台、四年は五十九万六千台と落ち込んだ。この間、ライバル三菱自動車の販売台数はそれぞれ七十一万台、七十五万五千台、七十四万四千台となっている。
三菱自動車の中興の祖とされる二代目社長の久保冨夫は、ホンダの快進撃が始まった昭和五十年代前半にしきりに羨ましがった。
「ホンダは本当にいい会社だ。若さとバイタリティーがある。メインバンクは同じ三菱銀行なのだから、銀行を通じてホンダから人を受け入れ、ホンダの経営手法を学びたい」
クライスラーとの“不平等条約”の解消に努め、株式上場まで漕ぎつけた五代目社長の舘豊夫は「三菱にとってホンダは先生だった」とまで言い切る。
「わたしが社長に就任したとき、一番苦労したのが、どうやって企業に求心力を持たせるかでした。社員は三菱重工特有のぬるま湯的な体質に浸り切っていた。実のところ重工から分離・独立した時には、いろんな制約があり、資産を持ち出せなかった。自己資本比率などは業界の中では最も低い会社の一つだった。
その会社を上場させるのは並大抵ではない。株式上場の旗印を掲げても、その前に社内を活性化させなければ実現しない。社内活性化に向けて、手本にしたのがホンダでした。副社長だった西田通弘さんが書いた本を何冊も読み漁り、ホンダのよいところを積極的に取り入れたのです。ホンダを見習ったからこそ、今日の三菱がある」
それから十年以上の時間が過ぎたが、こと国内販売に関しては、両社の立場は完全に逆転してしまった。昭和六十一年には、わずか二百二十一台しかなかった差が六年後の平成四年には十四万八千台に広がってしまった。翌五年にはさらに十六万五千台に拡大、六年は二十五万四千台(逆輸入車を除く)と大きく離されてしまった。“日産追撃”の挑戦権を賭けた業界三位の座を巡る争いは、三菱に軍配が上がった。
業績も差がつき始めた。営業利益では平成二年、経常利益は五年に抜かれ、最後の砦ともいうべき売り上げも六年九月の中間決算で逆転された。ホンダの唯一の優位性は、今や連結決算しかない。
ホンダにとって頼みの綱ともいうべき米国市場も低迷期に入った。販売不振は数字が如実に物語っている。九一年の現地販売は前年比六・一%減の八十万三千台にとどまった。現地販売が前年実績を下回ったのは十年振りだった。前回八一年、八二年に二年連続して落ち込んだのは、乗用車の対米輸出が自主規制に追い込まれ、玉不足だったことによる。今回は販売不振からきている。
翌九二年は七十六万八千台と四年前の水準に戻り、トヨタに並ばれてしまった。九三年はトヨタが七十四万一千台と前年に比べ一万八千台の減少に食い止めたのに対し、ホンダは七十一万六千台と五万二千台も落ち込んでしまった。
これで八六年以来守り続けてきた「輸入車ナンバーワン」の座をトヨタに奪われてしまった。ホンダ車にプレミアムが付いたのは、今は昔となり、米国でも「ホンダ神話」に陰りが出始めた。
反対にビッグスリーの業績は、目に見えて向上した。九三年の乗用車販売は、三社揃って前年実績を上回った。中でもクライスラーの躍進が目覚ましかった。この年八十三万台を記録して、一気にホンダとトヨタを抜いて三位に返り咲いた。ミニバンで利益を稼ぎ出し、それを乗用車に注ぎ込む戦略がズバリ当たった。
ホンダは五位メーカーに転落、つれてアメホンの収益力も落ちてきた。第二販売網のアキュラ店は立ち上がりこそ極めて順調だったが、販売網の整備が終わると、再び再投資先がなくなった。中期経営計画で打ち出した米国市場で年間百万台を販売する計画も「絵に描いた餅」になってしまった。
米国とカナダの関税問題も遂に裁判に発展した。ビッグスリーはことあるごとに「ホンダは脱税している」と吹聴し始めた。米国で優等生で通してきたホンダが、紛れもなくネガティブキャンペーンの標的にされつつあった。
「良い商品を供給すれば、消費者は必ず買ってくれる」
ホンダはこれまで、生産者の論理を大上段に振りかざして販売台数を伸ばしてきた。しかしその論理が通じなくなってきた。背景にはビッグスリーの小型車の性能が向上していることに加え、湾岸戦争を機に消費者の間に愛国心が芽生え、国民の間に米国製品を優先的に買おうとする「バイ・アメリカン政策」が急激に浸透してきたことにある。
米国の計画未達成で、国内販売にその負担がかかってきた。よほど国内販売が頑張らない限り、工場の操業率を維持するのは難しい。国内販売百万台はだれも口にしなくなったが、オハイオ工場の生産能力が高まるにつれ、対米輸出が減少、米国市場の販売不振がそれに輪をかけた。
対米輸出規制の最中の昭和六十一年の船積み台数は四十五万台あったが、平成四年には二十八万台まで落ち込んだ。円の為替レートを勘案すれば、将来にわたり三十万台に戻ることはない。
国内販売がよほど頑張らない限り、国内工場の空洞化は避けられない。二百五十億円かけて新設した鈴鹿の第三ラインも宝の持ち腐れになりかねない。
栃木の研究所の一角に建設した、高級スポーツカー「NSX」の専用工場も持て余し気味になった。ホンダの「フラッグシップ・カー」として開発したNSXはボディがオールアルミの本格的なスポーツカーで、バブルの絶頂期には、契約してから納車まで二年ほどかかるとさえいわれるほど爆発的な人気を呼んだ。米国でもプレミアムが付き、一台十万ドルを超える世界一高い車として話題を集めた。だがバブルの崩壊とともに、内外で売れ行きがバッタリ落ちた。
7
「ホンダの力からみて、やはり国内三チャネルを維持するのは無理だ。二チャネルに縮小して販売の効率を高める方が得策だ」
平成四年の初夏になって、川本は具体的な販売チャネルの見直し作業を、国内販売の責任者に就いた副社長の吉野に命じた。会長の吉沢は直接、経営にタッチしていない。これまで現場で指揮を執ってきた副社長の宗国と宮田は、すでに国内販売部門から外れている。川本の意向に逆らえる人は、ホンダ社内にはだれもいなくなった。川本は名実ともにヒットラーになった。
前年のクリスマス・イブの夜に経営を預かる最高幹部が集まって議論した時は、まだ細部について具体的な検討をしておらず、話し合いはボスコンのレポートが叩き台になっていた。しかし縮小の決断を下すとなれば、問題点を洗い出してメリットとデメリットを正確に把握しておかなければならない。
二チャネルに向けての社内作業は、研究所を巻き込み水面下で密かに進められ、お盆休みが明けた頃には、具体案が出来上がり、ボスコンの担当者とホンダの国内販売の部長クラスの幹部が、合宿して最後の詰めに入った。九月に入ると二チャネルの骨格も固まった。
「よし、これで行こう」
川本は「ゴー」のサインを出した。後は経営会議に諮り、有力ディーラーの根回しを進めるだけだ。うまく行けば年明けの全国ディーラー大会には報告できる。
社内の根回しは着々と進んでいる。九月の半ば過ぎには国内営業の関連部長と研究所の幹部との最後の会合を持った。この時は宗国と宮田も呼ばれた。最初に吉野が二チャネルの概要を説明し、最後に宗国と宮田に念を押した。
「……国内販売体制の再構築には、チャネルの見直しは欠かせません。これまで説明してきた通り、私たちはベルノ店とクリオ店を統合して、既存のプリモ店と合わせて二チャネル体制で行きたいと思っています。これは社長もすでに了解しています。よろしいですね」
吉野の説明は終わり、宗国と宮田は力なく答えた。
「ここまでくれば、やむを得ないでしょう」
これで外堀に続いて内堀も埋まった。最後の手続きは、会長の吉沢の了解をとるだけとなった。川本にすれば最終確認の儀式である。吉沢のところには公式的には販売網縮小の情報は入っていないが、彼は社内の動きを逐一把握していた。その上で、どうしたら川本主導のチャネル縮小を阻止できるかについて考え巡らしていた。
吉沢の了解をとるセレモニーは、十月四日の夜七時から急きょ本社で開かれた。夜になったのは販売関係の幹部が国内出張しており、七時にならなければ全員が本社に集合できないことが判明したからだ。
出席者は“本田工業”から社長の川本、副社長の吉野、研究所専務で本社の取締役を兼ねる岩倉信弥の三人、“藤沢商会”から会長の吉沢、副社長の宗国、専務の宮田、国内営業担当取締役の東塚弘司の計七人。別室では説明要員として見直し作業に携わった国内販売と研究所の幹部が控えている。むろん公式の会議ではないので議事録はとらない。
冒頭、川本が開発体制の現状を説明すると同時に、国内販売再構築の切り札として二チャネルを考えていることを披露、具体策を吉野がこと細かに説明した。
この間、吉沢はいつものように腕を組んで天井を見ながら黙って聞いている。一通りの説明が終わるのを見計らって口を開いた。
「バブルが弾けた後の国内販売の不振の原因は、ここにいるわれわれ営業の人間の努力が足りなかったところにあります。私にも責任の一端があります。その点率直にお詫びします」
内堀も外堀も埋められているので、吉沢は肉を切らせて骨を切る奇襲戦法に出た。研究所の弱点を突くのは簡単だが、それをやれば感情的なしこりを残し、押し切られるだけである。吉沢は国内営業の努力不足を率直に認めた上で話を続けた。
「カワさんに理解して頂けるかどうかは分からないが、国内販売というのは理屈ではないのです。三チャネルはわれわれ営業畑(“藤沢商会”)で育ってきた人間の永年の夢だったのです。その夢をここで壊さないでほしいのです。
研究所が三チャネルにそれぞれ独自のクルマを供給できないという苦しさは分かります。だからといって二チャネルに減らすというのは、あまりにも荒っぽい議論です。うちの研究所に三チャネルに違ったクルマを供給するだけの開発能力がなければ、トヨタみたいに一つの車のお化粧を変えて、三チャネルに供給するだけでいいのです」
そして最後に吉沢はニコニコしながら、川本の顔を立てながら、懇願とも提案ともつかぬ言葉で締め括った。
「カワさん。何とかならんもんかねぇ……。みんな、夢を見ようよ、夢を。それも大きな夢を。夢があれば、現状の苦しさは跳ねのけられますよ……」
ホンダの場合、会長に実権がないとはいえ、吉沢は川本の大先輩である。研究所の社長は川本が兼務している。先輩に永年自分が率いてきた研究所の弱点を突かれれば、川本といえどもグサリとくる。
しかし川本は吉沢の発言に満足していた。“藤沢商会”の総帥が白旗を掲げてきたと受けとったからだ。そしてあっさり二チャネル体制を引っ込めた。
「吉沢さんがそこまでいうのなら、今の体制のまま、みんなで頑張ってみましょう」
国内販売の二チャネル構想は再び挫折した。この日の会議をだれともなく“逆転の経営会議”と呼んだ。
社内の流れが大きく変わった。その夜、川本と吉沢は会議が終わった後、肚を割ってトコトン話し合った。この日を境に川本の吉沢に接する態度だけでなく、言葉遣いにも変化が出た。川本はそれまではホンダ特有の「さん付け運動」を徹底させる意味から、会議の席上でも気安く「吉沢さん」と呼んでいたが、いつしか「吉沢会長」に変わった。
“本田工業”と“藤沢商会”が名実ともに合併した。合併会社の新社長は川本で、国内販売を含むすべての人事権を完全掌握した。川本はその人事権を遺憾なく発揮し宗国、宮田を正式に国内販売から外し、平取クラスの営業責任者だけでなく、部長クラスの人間まで大幅に入れ替えた。東塚に代わって前線の指揮は取締役の岩井陸が執ることになった。
吉沢にしてみれば“藤沢商会”は確かに吸収合併され、子飼いともいうべき人材も更迭されたものの、三チャネルを死守したという満足感があった。
“逆転の経営会議”が開かれる約一カ月前の九月十一日。ホンダは青山の本社でF1からの撤退を表明する記者会見を開いた。撤退はこの年の春先からささやかれていたが、川本はF1のシーズンが開幕した直後ということもあり、そのつど否定してきた。
うわさの根拠は、業績低下に伴う資金難である。F1の直接の維持費は、エンジンの開発費のほかに間接費も入れると、年間百億円はかかる。それ以外に百人を超す技術スタッフを付けなければならない。バブルが弾けて業績が急降下し始めると、この資金負担が重くのしかかってきた。
「私どもホンダはこの十年間、F1という世界最高峰のレースで極限の技術開発競争を行ない、勝つことを目標として全力を尽くしてきました。お陰様で六年連続してコンストラクターズ・チャンピオンを獲得するなど、所期の目的を達成できたので、今シーズンをもってF1レース活動の休止を決定いたしました。マクラーレン側には実は昨年十二月に通告してあります」
三百人を超す報道陣を前に、川本は撤退理由を淡々と語った。
だがこの川本の説明を聞いて、納得する人はだれもいない。会場からは次から次へと痛烈な質問が浴びせられた。
「本田宗一郎さんが存命なら、撤退についてどう言っただろうか」
「今回の休止はこれまでF1活動を支持してきたファンやユーザーへの裏切り行為になるのではないか」
「F1から撤退すれば、ホンダはただの特徴のない自動車メーカーになり下がってしまう。イメージも低下する。そのことを川本社長はどう考えているのか」
川本は矢のように飛んでくる質問に、ひるむどころか微笑みを浮かべながら、余裕を持って答えた。
「オヤジさんは生前、『(出場する以上必ず)勝てよ、しかしビジネスでないからおぼれるな』といっていた。自分なりに正しい判断をしたので『そうか』と、率直に認めてもらえたと思う」
「これまで応援してくれたファンには迷惑をかけることになる。ディーラーからも販売への影響を心配して止めないほうがいいという声があったのも事実だ」
「F1レースはあくまで手段であって、目的は製品開発を通してお客様に満足して頂くことだ。ただし手段に傾斜するのは良くない。いずれ本業の商品で期待に応えて行きたい。F1の研究者は今後本業の研究開発に戻し、環境、安全、エネルギー問題などプロジェクトに取り組んでもらう。これまでのチャレンジ・スピリットはF1撤退で失われるものではない」
ホンダはマクラーレンと組み、セナをそこに移籍させることで、史上最強のチームを作り上げ、日本でもF1のブームを巻き起こした。内外でホンダファンが増え、それが着実にホンダ車の販売に結び付いた。
ただしホンダのF1参戦は、あくまでエンジンサプライヤーとしてである。ターボの時代はエンジンがすべてで、ホンダの技術はいかんなく発揮できた。だが自然吸気の時代になると、馬力を向上させるには、エンジン技術だけでなく、シャシーを含めたマシン全体の改良が必要になる。エンジンのパワーを上げるだけで勝てる時代ではなくなった。川本がそれを一番良く知っている。連戦連勝するにはエンジンだけでなくマシン全体の開発にも手を染めなければならない。すると資金は途方もなくかかる。
ターボの禁止と自然吸気エンジンの採用は、ホンダの連勝を防ぐのが目的だった。ホンダは自然吸気エンジンでも勝てることを証明するため、技術開発の手を緩めず、八九年に十勝、九〇年に六勝、九一年は八勝を挙げ、辛うじてチャンピオンの座を維持した。しかしフランスの威信をかけたルノーや、イタリアの輝ける星であるフェラーリの追い上げは激しく、年々技術格差は縮小しいつの間にか逆転してしまった。
常勝ホンダの記録は、F1の歴史の片隅に追いやられ、最後のシーズンとなった九二年は、五勝するのがやっとで、コンストラクターズ・チャンピオンも手放さざるを得なかった。
ホンダがF1を継続するには、目標を変えなければならなかった。スピードを競うモーター・スポーツの歴史は、自動車の歴史そのものといっていい。F1は欧州で生まれ、貴族たちによって始められたモーター・スポーツだ。その証拠にモナコGPではレース前夜にレニエ公がガラディナーを主催している。
ドライバーズ選手権の名称通り、人間に比重を置いてスタートしたレースで、そのうえレーサーにも高度な運転技術が要求される。それも良いマシンに巡り合えて、初めて勝利に結び付く。単なるエンジン供給者は脇役でしかない。
オリンピックが人間の肉体的な能力を競うスポーツであるのに対して、F1はそれに工業技術を加えたスポーツといえる。工業技術との複合という意味では、ヨットのアメリカズカップと似ている。違いはアメリカズカップは日本人の手で日本艇を作り、日本人を中心としたクルーを編成して参加しているのに対し、F1では日本は工業技術、それもエンジンという一パーツでしか参加していないことだ。
日本ではテレビで中継されてからブームになったが、欧州ではテレビで中継される前から静かなブームを呼んでいた。F1は欧州の文化とまで言い切る人もいる。
ホンダがどんなに優秀なエンジンを開発しても、宗一郎がFIAから「ゴールデン・メダル賞」を受賞しても、F1界における発言力が弱く影響力は皆無といっていい。ホンダの撤退は欧州では、新聞の片隅を飾るニュースに過ぎないが、これがルノーであったりフェラーリであれば、F1の存続が論議される大ニュースとなる。F1が欧州の文化といわれるゆえんがそこにある。
自動車の国際的な組織の頂点にあるのがFIAで、その傘下にあるFISA(国際自動車競技連盟)がモーター・スポーツを束ね、FOCA(F1製造者協会)が、興行としてF1レースを運営している。
FOCAは九四年から日本でのブームを当て込んで年間二戦開催に踏み切った。こと興行に関しては、F1が欧州だけのレースである時代は終わりつつある。将来中国での開催が決まれば、欧州とアジアの文化統合が進むだろう。ホンダがF1に貢献できるのは、単にエンジンを供給することだけではない。欧州とアジアの文化を融合させる担い手になることさえも可能だ。ホンダはその資格を持ち合わせていた。
F1の方向ははっきりしているが、問題はFISAやFOCAが保守的で閉ざされた組織になっていることだ。二つの組織は一部の限られた人たちが権限を握って運営している。全盛期にジャパン・マネーを取り込み、バブルに踊った日本の新興企業は、次々とF1のスポンサーとして名乗りを上げた。それを機にF1にも歪みが出始めた。
トップチームのオーナーは、プライベートジェット機を乗り回して世界を遠征、休日には豪華なヨットを乗り回し、果ては歴代のレーシングカーを並べるミュージアムまで作った。レースともなればレース場に接待用のパドッククラブを作り、スポンサーをシャンペンとキャビアで接待した。こうした金の出所はむろん日本企業である。
スポンサー至上主義が幅を利かせ、F1の運営費用は天井知らずで高くなった。ここからF1は金食い虫とのイメージが出来上がった。バブルが崩壊すれば新興スポンサーは離れて行くのが浮き世のならい。それが「F1に将来性がない」「F1の時代は終わった」という偏見に満ちた意見が出始め、いつの間にかバブルの象徴に祭り上げられてしまった。ホンダの撤退がそれに拍車をかけた。
ホンダはF1に再参入する前、その小手調べとしてラルトと組んでF2から参戦、そこで破竹の十二連勝を飾り、その余勢を駆ってF1に参入したことは前に述べた。F2ではホンダの快進撃があまりにもすさまじかったため、参戦チームは意欲をなくし次々とF2レースから撤退、いつの間にか開催中止に追い込まれてしまった。
「ホンダの後にはペンペン草も生えない。ホンダがF2を潰した。食い散らすだけ食い散らして、F1に逃げた。そしてF1でも同じことをやった。F1にバブルを持ち込んだのはホンダ。そのホンダはバブルが弾けると真っ先に逃げてしまった。F1はいま曲がり角に立たされている。ホンダには改革の旗手としてF1界の中枢に乗り込んで、旧態依然たる組織に風穴を開け、F1を本来のモーター・スポーツに戻す努力をしてほしかった」
F1関係者はホンダを非難するとともに撤退を残念がる。しかしホンダはF1界に波風が立つのを恐れ、改革の旗手になることなく、静かに去った。ホンダは技術ではF1を制したにもかかわらず、文化摩擦を起こすのを避けたともいえる。
「勝つためにF1に参戦した目的は、オヤジさんの時代で終わった。本当は三連覇したあたりから、次の目標を定めておかなければならなかった。目標はFIAの改革しかない。東西の文化の融合という理想を実現するには、ホンダが組織の中枢に入らなければならない。川本さんはそれにチャレンジする精神を失ったのではないか。戦争をするのを避けたのでしょう」
八四年から監督として常勝ホンダの礎を築いた桜井淑敏はこう分析する。桜井はF1監督を辞めた後、ホンダを退社して大衆的会員制クラブの「レーシング・クラブ・インターナショナル」を経営している。
「欧州でのホンダのイメージは、自動車屋ではなくバイク屋だった。しかし十年間やったことでイメージチェンジができた。エンジンの供給を通じて、F1全体のレベルを上げることもできた。撤退を決意したのはオヤジさんが亡くなり、セナが喪章を付けて優勝したハンガリーGPを見たときだ。あの瞬間、われわれの使命が終わったと感じた。十年間もやると勝つことに慣れ、フレッシュでなくなる。やっている人々も最初は無欲であったのが、いつのまにかサラリーマン化してチャレンジ精神を失った。ホンダがF1組織の中枢に入ることは、まったく考えていなかった」
川本はF1撤退の真相を淡々と語った。
九二年F1最終戦のオーストラリアGPは十一月に行なわれ、「マクラーレン・マールボーロ・ホンダ」のゲルハルト・ベルガーが優勝、ホンダは有終の美を飾り、F1の舞台から去った。
それから数日後、ロスにいるアメホン社長の雨宮高一のもとにホンダのこれまでのアメリカでの苦労を根底から覆すような情報がもたらされた。
「HAMが米国自動車工業会から除名された」
ワシントンに出張していたHAMの執行副社長のスコットから、この電話連絡を受けた時、雨宮は怒り心頭に発した。
〈ふざけるな。アメホンの輸出台数は今やGMに次いで二番目じゃないか。ホンダは米国の経済活動に大きく貢献している。部品の現地調達率(ローカルコンテント)もアコードが八二%、シビックも七〇%を超えた。工場では一万人を超えるアメリカ人が働いている。
HAMで作っているホンダ車はどこから見ても米国製の車なんだ。工業会に加盟して十年の歴史を持っている。ホンダ本社はニューヨークの証券取引所に上場している。それでもHAMは米国の企業ではないというのか〉
だが怒るだけでは問題は解決しない。雨宮はすぐ冷静になった。
〈アメホンの歴史は移民の歴史そのものだ。米国に来て初めて一世、二世の日系人の苦労が肌で分かった。米国に移民した人々は戦争にも耐え、苦労して米国籍を取った。その点、私たちはたいした苦労もせず米国市場に入り込んだ。ホンダはまだ米国社会に根を下ろしていないというべきだろう。だからこそ米自工会から除名されたのだ。
考えてみると、ホンダは“テイク”するだけで、“ギブ”がなかった。ビッグスリーにすれば『ホンダはメンバーとしてのメリットは確実に得るが、本来の役割は果たしていない』ということなのだろう。根を下ろしていない分、攻撃されると弱い。HAMを中心にもっともっと米国に根を下ろさない限り、米自工会に復帰できない。むろんその努力はこれからも続けなければならない〉
米国に根を下ろさなければならないはずのHAMでも、大騒動が巻き起こっていた。九二年秋、社長の矢鋪豊治がホンダ本社の定例役員会に出席するため空港に向かおうとした矢先、品質担当副社長のエド・ビューカーが突然、退社を申し出てきた。
「分かった。詳しい話はオハイオに戻ってから聞く」
矢鋪はこう言い残し辞表を受けとらず空港に向かった。空港に着き搭乗手続きをしているところに今度はHAMの上級副社長でアンナのエンジン工場長を兼ねているアレン・キンザーから電話が入った。
「ミスター・ヤシキ、私の将来について早急に相談したいことがあります」
アレンはオハイオ工場の生き字引ともいうべき男で、入交、大久保、吉田とともにオハイオ工場に「ホンダウェイ」を根づかせるのに尽力してきた。アンナのエンジン工場では矢鋪とコンビを組んで仕事をしたこともある。
アレンはドイツのBMWが自分の故郷のサウスカロライナ州に工場を建設する計画を進めており、現地法人の最高責任者(CEO)として打診されていた。そこでエド・ビューカーを誘い、二人は事前に示し合わせてこの日に退社を申し出たのだった。
南部出身のアレンの決意は固かったが、エド・ビューカーはまだまだ迷っており、一つの賭けをした。矢鋪が自分を引き止めるため日本行きを中止すれば、BMW入りは再考する。矢鋪の答えはエド・ビューカーを失望させた。二人の人望の厚さを反映して、マネージャークラスの幹部社員合わせて二十五人がHAMを去り、BMWに移籍した。
「アル(アレンの愛称)は故郷に錦を飾りたかったのだろう。アルを引き止めるにはHAMの社長にする以外にないが、アルの上にはスコットがいるので無理だ。長い目で見れば第二、第三のアルが出てくるだろう。優秀なトップは優秀な部下を、それも大量に引き連れて退社する。今後、東京の本社はそのことを覚悟しなければならない」
HAMの執行副社長だった吉田成美の忠告だ。
国内販売不振に端を発した経営幹部の対立、入交昭一郎の突然の副社長辞任、F1撤退、米自工会除名、アル・キンザーを始めとするHAM幹部の退社……。この年、ホンダの混乱は極みに達した。
“ホンダ教の教祖”ともいうべき強烈な個性を持った創業者の本田宗一郎を失い、社内外に対し、それに代わるメッセージを送ることができなくなったことが、混乱に拍車をかけた。ホンダの子供たちの漂流はさらに続く。
8
平成六年五月十八日。セガ副社長の入交昭一郎は、埼玉県・大宮市にいた。さる新聞社が主催する講演会に講師として招かれ、五百人を越す聴衆を前に、一時間半にわたって熱弁を振るっていた。演題は「ゲームとマルチメディア」。ホンダに残っておれば、「国際化で成功する秘密」とでもなっていただろう。
「米国ではすでにマルチメディアの世界が到来している。しかし規制の多い日本では、将来を具体的に考えることは難しい」
左手をポケットに突っ込み、右手でマイクを握り、壇上をところ狭しとばかり移動しながら、学生に語りかけるようにマルチメディアの世界を分かり易く解説していた。セガに入って一年足らずだが、すでにいっぱしの専門家になっていた。
数日後、入交はサイパンに飛んだ。
「ビジネスの面白さがセガに来て初めて分かりました。サイパンでは丸々三日間、米国のあるゲームソフトの経営者と海に潜ったり、魚を釣ったりして遊んでいました。その経営者と意気投合して、ソフトの版権を手に入れることができた。ビジネスは人と人のつながり以外の何物でもありません。振り返ってみると、ホンダでは待ちの経営しかしてこなかった気がする」
入交が大宮で講演した翌日、日本自動車工業会は年次総会の後、東京・丸の内のパレスホテルで懇親パーティーを開いた。宴会場の入口には金屏風を背に、新たに会長に就任したトヨタ社長の豊田達郎と数人の副会長が並んで、招待客のマスコミ及び、政財界関係者と挨拶を交わしていた。
ホンダは三菱、マツダとともに自工会副会長会社の一社で、副会長として歴代ホンダの会長を送り込んでいる。しかし前年の株主総会で吉沢幸一郎が相談役に退き、会長席が空席になったことから、自動的に社長の川本信彦にお鉢が回ってきた。その川本の姿が見えない。ホンダのスポークスマンが川本が欠席した理由を解説した。
「実はカワさんは自宅の車庫で、オートバイをいじっていたとき足を挫いてしまった。まだ松葉杖を使っているので、公式の席への出席は遠慮したのでしょう」
川本と入交は袂を分かってから、一度も顔を合わせていない。平成五年の暮れに入交は川本に面談を申し込んだが、これを川本が拒んだ。
セガは新興会社だけに、依然として人材不足に悩んでいる。バブルが弾けた不況下でも大々的に新聞に求人広告を出し、中間管理職や技術者を採用している。求人広告を出せば、ホンダの社員も応募してくる。入交は採用に直接タッチしていないが、採用担当者に一つだけ注文を出している。
「ホンダの社員が応募してきた場合、より厳しく面接して下さい。最終的に同じレベルの人が残った場合は、ホンダ以外の人を採用すべきだろう」
ホンダの従業員の定年は六十歳。役員もそれに準じ、内規で最高六十歳と定められている。従業員は満六十歳の誕生日を迎えた日が、その人の定年となる。その後、再就職するかどうかは本人の自由である。会社は一般社員に対し再就職の斡旋はしないので、働きたい人は自分で仕事を見付けなければならない。
対照的に定年後の年金が充実している役員及び役員待遇だった人は、役員内規により同業他社はむろんのこと一般企業にも再就職せず、相談役や顧問に退いて悠々自適の生活に入る。
平成五年十二月二十二日。かつて入交とホンダの研究所で一緒に働き、オハイオの工場でもともに汗を流した一人の男が、定年を迎えた。定年を迎える直前の役職は、車のアクセサリーを扱っている子会社の役員だった。その男は定年の直前に入交の元を訪れ、セガへの再就職を依頼した。
入交はかつて部下だった自分より年上の男の実力を高く評価しており、社長の中山隼雄の了解を得て、第二の人生をセガで送ってもらうことにした。ホンダとセガは仕事での関わりは皆無であり、ホンダの役員を経験していないことから、セガ入りに何の障害もないと判断した。
ホンダの了解を求める筋合いではないが、「入交がホンダの技術者を引き抜いた」と誤解されるのも馬鹿げているので、信義を重んじて川本に面談を申し入れたのだった。
「社長は日程が立て込んでおり、急に面談を申し込まれても時間のやり繰りがつきません。代わりに専務の宮田が会います」
つい二年前まで古巣だった秘書室からの返事である。それでも入交は青山の本社に宮田を訪ね事情を説明した。宮田の返事は曖昧だったが、入交はホンダの了解を得たと思った。
それから数日後、入交はホンダから送られてきた一通の手紙を見て唖然とした。
「ホンダは十二月二十一日付で役員室の内規を変更しました。本社の役員経験者は、大学関係を除いて再就職しないことを一段と徹底させると同時に、この内規を今後子会社の役員経験者にも準用します」
これを額面通り受けとれば、かつての部下はセガ入りは不可能になる。
〈カワさんはなぜ、こんな馬鹿げたことをやるのだろうか。ホンダの歯車はどこか狂い始めている。ホンダは前にもまして官僚的になっている〉
ホンダの役員年金は産業界の中でも群を抜いて充実しており、退職後は悠々自適の生活が送れる。子会社の役員経験者も本社ほどでないにしても、退職した後の数年間年金がつく。役員内規がこれからは子会社にも準用されるので、再就職するにはそれを放棄しなければならない。
役員内規の変更に首を傾げたのは、入交だけではなかった。初代会長の杉浦英男もその一人だった。杉浦は昭和六十年に役員内規に従って会長を退き、常任相談役に就任した。杉浦はN360の欠陥車騒動や排ガス問題を機に社内で社会活動の必要性を説き、自らもホンダを代表して経済同友会を舞台に財界活動に取り組んできた。
常任相談役の期限は平成二年に切れた。その後は社友の肩書きが残るだけで、事実上ホンダと縁が切れる。
「お前、ホンダの相談役としての期限が終われば、後は悠々自適の生活に入るのか。それではいかにももったいない。おれの会社に監査役として来てもらえないか。うちはコメの卸問屋で、クルマ屋さんとは無縁の世界だ。そこの監査役なら問題がないだろう」
相談役の期限が切れる半年前、杉浦は旧制東京高校で同級生だった友人の山種産業社長の山崎誠二から誘われた。その時はあやふやな返事をしたが、五月の山種の決算役員会直前になって、再び山崎から連絡がきた。
「おい、杉浦。この前、頼んでいた件よろしく。数日後の決算役員会で決め、新聞にはその後で発表する」
杉浦は慌てた。実のところ山崎からの誘いはほとんど忘れかけていた。監査役とはいえ山種に入るとなれば、役員年金のこともあり、ホンダの了解を得なければならない。急ぎ会長の吉沢に報告した。
「杉浦さんには相談役の期限が過ぎた後は、顧問に就任してもらおうと思っていたのですが……」
杉浦はそれを振り切る形で山種に入った。
「私が山種に入るについては、多少ぎくしゃくしたのは事実です。それでも山種に入社したのは金銭的なことでなく、私自身の生きがいの問題だったからです。年金生活の悠々自適と言えば聞こえはいいが、実際は飼い殺しです。山種からの報酬は地方税と住民税や固定資産税を払える程度の金額です。
山種では監査役としての仕事のほか週一回、夕方の五時半から八時まで課長代理クラスの中堅社員を集めた“杉浦学校”を開いています。私が先生になりホンダでの経験を踏まえ、若い人たちとディスカッションするのです。私自身も勉強になります」
ホンダの慣例による役員定年は、満六十歳とされていたが、久米の社長時代に密かに社長と会長の定年を六十七歳、副社長を六十五歳、専務を六十三歳にそれぞれ引き上げ、これを内規として定め、文章化した。常務、取締役は引き続き六十歳である。あくまで内規だから社内外には公表されない。
「役員たるもの、『燃えて燃えて燃え尽きて』後進に道を譲るべし」
社長、会長経験者は理論的には、六十七歳まで居残ることは可能だが、内規を作った後も内規の精神に沿って役員はほぼ全員、六十歳を前に退任する美風は継続されている。ただし専務、副社長、会長経験者は六十歳で辞めても、関係会社に再就職しない限り、定年内規に達するまで、常任相談役や顧問として残ることができる。杉浦が顧問に就任するには、再び内規を変えなければならない。
藤沢の無言の反対からロサンゼルスで、ホンダ車のディーラーを経営する夢が破れた元副社長の川島喜八郎は、その後、半官半民の信用調査会社の社長を辞めた後、ホンダの顧問に戻った。宗一郎、藤沢体制下の四専務のうち、川島と西田通弘の二人は終生顧問として遇される。西田は高田馬場に個人事務所を構えているが、川島は週の半分を八重洲の旧本社ビル内にある顧問室に顔を見せる。
「私は顧問といっても、引退した身です。それに十年近くホンダを離れていた。この間、ホンダで一体何が起こったのか一切知らない。いわば浦島太郎です。ただホンダに昔のような活気がないのは気掛かりです」
ホンダの元役員は月一回、第二火曜日、八重洲の旧本社ビルに集まって昼食をとりながら、本社の役員から現状報告を受ける。話題といえば、どうしても最近の業績不振に集中する。
「八重洲(OB役員)は青山(現役役員)のやり方にこれまで、一切文句をつけなかった。それは業績が安定していたからだ。ホンダの場合、相談役といっても相談と役の間に『されない』の文字が入ることを良き伝統としてきた。しかし本社が苦境にあえいでいるとき、本当に高見の見物でいいのか。社友に退いたOBはともかく、相談役や顧問は今こそアドバイスする責任がある」
役員OBの苛立ちは日増しに募り、矛先はどうしても最高顧問の二代目社長の河島喜好に向かう。
「私は取締役は外れていますが、今なおホンダの最高顧問です。この名称は英語で言うと、“スープリーム・アドバイザー”です。外国に行った時、良く聞かれるのです。『スープリーム・アドバイザーというのは、どういう仕事をするのですか』と。その時は『経営に関して、社長だけに直接助言する仕事です』と答えます。私はその通りやっています。川本(社長)には適宜アドバイスしている積もりです」
八重洲の青山に対する不満がピークに達したのは、平成六年に入ってからだった。国内販売は前年正月明けに軽自動車の「トゥデイ」、夏に小型車の「インテグラ」、秋に主力車種の「アコード」を全面改良、さらに晩秋にはアコードの姉妹車だったファミリーカーの「アスコット」を独立させ、「ラファーガ」を姉妹車として新設、三系列にまんべんなく売れ筋の新車を投入したにもかかわらず、極度の不振にあえいでいた。
二月の総販売台数は前年比一一・五%減の二万四千台にとどまり、メーカー別では永年業界三位の座を巡って死闘を繰り返してきた三菱、マツダどころか軽自動車中心のスズキ、ダイハツにも抜かれ、業界七位に転落してしまった。現役はむろんのことOBにとっても屈辱以外のなにものでもない。
OB役員は平成四年秋の“逆転の経営会議”を知る由もない。分かっているのはその後、国内販売の最高責任者に販売のイロハも知らない技術系の吉野を起用し、その下にかつてヤマハとの“HY戦争”で勇名を馳せた岩井陸を起用したことだけである。
「ホンダの国内販売は何かおかしい。吉野はともかく、新たに国内販売の責任者に就いた人間の評判があまりにも芳しくない。販売店の経営者から私どものところまで愚痴の手紙が来るのはどうみても異常だ。この際、販売担当者を更迭すべきではないか」
OB役員が八重洲の昼食会で、遠回しの形で現状報告にきた現役役員にクレームをつけたが、数日後、川本からは婉曲に「OBは経営に口出ししないで下さい」という内容のメッセージが届いた。
「ホンダは国内販売で苦戦している。なぜ苦戦しているのか。それは皆さんが本気になって売ってくれないからです。ホンダを悪くしたのは、(研究所というより)第一線で販売を担当している皆さん方ではないか。
私は社長に就任してから全国の販売店を行脚しました。その時、皆さんは必ず本社をボロクソに言う。しかもやるべきことをやっていない人に限って、四つも五つも文句を言う。きちんとした人は文句は一つしか言わない。これからは言いたいことがあれば、文句はせめて二つぐらいにとどめてほしい。
今年はRV、エントリーカーを始め売れるクルマを沢山出します。研究所は月月火水木金金で働いている。皆さんも月月火水木金金で働いて下さい。本社の販売担当常務の評判が皆さん方の間で悪いことは、私も十分承知しています。しかしブチブチに文句を言わないで下さい。いま本社にあの男に代わって販売を担当できる人は、いないじゃないですか。私は(担当常務の評判がどんなに悪くとも)変えません」
平成六年一月十三日、東京・品川の新高輪プリンスホテルで開かれた新春販売店会議の席で、川本はタンカを切った。川本の発言を引き取って、常務に昇格した岩井陸が壇上の隅で得意満面の表情で呼び掛けた。
「………というわけで、私の国内販売担当は代わりません。みなさんあきらめて私に付き合って下さい」
岩井はジョークの積もりで言ったが、それが通じる雰囲気はなかった。会場は一瞬静まり返り、出席した千人を超す販売店の経営者は唖然とした。最初は正月でもあり、お神酒でも入っているのではないかと思った人もいたが、川本は正気であった。事務局が用意した原稿は、当たり障りのないものだったが、川本はハナからそれを読む気はなかった。話を始める前にわざと予定原稿を壇上の机の脇に叩き付け、原稿なしで常日ごろのうっぷんを爆発させたのだった。
「ホンダが国内で苦戦している責任の一端は、われわれにもあります。問題点を本音ベースで指摘してもらうのはいい。しかし自分だけが英雄気取りで、すべての責任をディーラーに転嫁されるのは困る。
本社に人材がいないというのは、育ててこなかったツケが回ってきたからだ。今日のホンダを育ててきた原動力は、われわれと宗一郎さんや藤沢さんとの間にあった人間的な信頼関係だった。おふた方はどんなに苦しかった時でも、決してわれわれを足蹴にしなかった。
宗一郎さんにも相当厳しいことを言われたが、どこか憎めないところがあった。その後のパーティーで、藤沢さんは色紙に“商売繁盛”の文字を書きながら『社長は立場上、ああいったが本当は……』と社長発言の真意を解説してくれた。そうなると『それならわれわれも頑張らなくては』という気持ちになる。
新年恒例の販売店会議には、四十年間、毎年出席しているが、今回ほどホンダの将来に危機感を覚え、本社のトップに怒りを覚えたことはない」
昭和二十年代後半にホンダが排気量五〇ccの小型オートバイ「カブ」を売り出した際、ホンダのオートバイのディーラーになりその後、四輪車のディーラーになったあるプリモ店の老経営者の言葉だ。
「オヤジさん(宗一郎)がホンダを興した時代は、焼け跡の島国から眺めた世界観が羽振りをきかせた。ところが日本発の世界観は、今の世の中で通用しない。これからは日本中心主義を捨て、国際的に共通するルールに従って行動しなければならない。だからこそ社是を手直しして新たにホンダ憲章を制定した」
川本のこの言葉から導き出されるホンダの目指すべき道は、一段の国際化である。だが新年の販売店大会から三週間後に浮上した資本提携先の英ローバーの買収問題では、国際化とは逆行する答えが出た。
新年の行事が一段落した一月三十一日、ホンダが二〇%出資している英国ローバー(旧BL)の親会社、BAe(ブリティッシュ・エアロスペース)が、突然ローバーの株式を独BMWに売却すると発表した。
ホンダとローバーの提携関係はすでに十五年が経過している。ローバー車のラインナップのうち「800」はレジェンド、「600」はアコード、「400」と「200」はコンチェルトをベースにしている。
さらに二七〇〇ccエンジンを800向けに、二〇〇〇ccと二三〇〇ccエンジンを600向けに、一六〇〇ccエンジンを400、200向けに供給している。逆にローバーはホンダに、アコード用のボディーパネルを供給している。
販売面でもホンダはローバーから、RVの「ディスカバリー」をOEM(相手先ブランドによる生産)調達している。こと業務面では、今やホンダとローバーは切っても切れない関係にある。
BAeはこうした関係を重視して、BMWの前にホンダに持ち株の引き取りを打診した。これに対しホンダは、四七・五%の所有と副会長に常務の松田充史を派遣する案を逆提案した。BAeはあくまで全株売却にこだわり、ホンダへの売却を断念、最終的にBMWに買収を持ちかけた。BMWがBAeに提示した買収金額は八億ポンドとされる。
ビッグスリーのような強引な買収は確かにしこりを残す、が、今回の買収は相手からの申し込みで、ホンダが欧州企業として脱皮できる願ってもないチャンスである。
ローバーと言えば、一昔前だったらいくら金を積んでも買えなかった老舗ブランドだ。ホンダが意欲を示せば買収金額は、交渉次第で七億ポンドに引き下げることも不可能ではない。
再建を軌道に乗せれば、ホンダはトヨタ、日産も果たすことができなかった多国籍企業のキップを手に入れることができる。だが子供たちは最終的に、欧州の企業市民、真のグローバル企業に脱皮するチャンスを自ら放棄してしまった。資金的な面もさることながら、ローバーの経営に自信がなかったためだろう。
ホンダの国内販売は依然としてトヨタ、日産の足元にも及ばない。藤沢が唱えた日産追撃は“夢のまた夢”となった。反対に海外では、オートバイに続き四輪車でも「HONDA」のブランドを確立した。海外で成功したからこそ、その海外で失敗すれば取り返しがつかなくなる。子供たちはそれを恐れたともいえる。
「確かにローバーを買収する手があったかも知れません。しかし買収はオニイさん(河島喜好)の方針に反する。買収を前提としていなかったからこそ、単独での工場建設に踏み切った。ここで買収しても、二重投資になってしまうだけでメリットは薄い。企業の国際化というのは口で言うほど生易しいものではありません」
川本の買収しなかった弁だ。ホンダはすでに単独で建設した英国工場にはこれまで六百億円投じており、「ここでローバーを買収しても、経済的な意味合いは少ない」とのソロバンも成り立つ。
川本の判断は現役を離れたOB役員の間でも評価が真っ二つに分かれた。
「今回の決定はホンダのビヘイビアそのものです。買収提案を断ったのは、経営する自信がなかったのでしょう。ホンダは外資提携に極めて臆病な会社です。最初の提携要請は資本出資だったが、自信がないので断り、業務提携からスタートした。これだとホンダがイニシァティブを握れる。ローバーと提携したことで、欧州市場にスムースに参入できたが、本当はBLが国営から民営化された時点で提携を解消すべきだった。
今回提携を解消したことで一時的なデメリットも出るが、経営していく自信がない以上仕方がないでしょう。かつてフィアット会長のアニエリに『ホンダはステップ・バイ・ステップの会社だ』と皮肉を言われたが、『ホンダはできることしかやらない。ホンダ・イズ・ホンダ』と言い返したことがある。こうしたやり方は馬鹿でかい成功がない半面、致命的な失敗もない」
BLとの提携以来関わってきた初代会長の杉浦英男の見方である。対照的に元副社長の川島喜八郎は疑問を呈した。
「現役の連中はなぜローバーを傘下に収めなかったのか不思議でならない。ホンダは強引に資本提携を強要する会社ではない。しかし今回のように相手から要請があれば、前向きに検討すべきだろう。ある意味で千載一遇のチャンスだった。ホンダとローバーは今や切っても切れない関係にある。業務提携が続くのならまだしも、ホンダが断ったことで相手がライバル会社に走るのが目に見えているのならなおさらだ。
オヤジさんが死んで、F1からも撤退した。今のホンダには求心力になる旗印がない。強いていえば国際企業だろう。そのためにも苦しくとも、ローバーは買収しておくべきではなかったのか」
F1からの撤退とローバーとの提携解消でホンダの国際化は色あせてしまったが、子供たちの漂流は果てしなく続いた。
ローバーの買収問題が提携解消することで決着してから間もない三月十四日、米連邦検察庁がアメリカ・ホンダの元幹部社員十三人を収賄容疑で告発した。
アメホンの“ワイロ事件”が発覚したのは、ちょうど一年前。事件の内容は、販売担当の二人の上級副社長を筆頭に米国人の販売マネージャー十三人が七九年から九二年にかけて、ホンダ車を扱っているディーラーから約一千万ドル相当の金品を受け取ったというのである。
最初に自動車専門誌の「オートモティブ・ニュース」が報じ、これに「ニューヨーク・タイムズ」などが大々的に追随した。米国市場でホンダの爽やかなイメージが崩れ、結果的に販売減に拍車をかけた。
日系米国法人の元幹部社員がこれだけ大量に告発されたのはホンダが初めてだろう。十三人のうち八人が罪状を認めており有罪が確定、残る五人は起訴された。むろん全員解雇で、アメホンは損害賠償を求める法的手続きをとった。
前代未聞ともいうべき犯罪の原因は、アコードがヒットしていた八〇年代に事実上の配給制を取ってきたことにあった。八〇年代後半の円高時代には、さしもの“日本車神話”に陰りが出始め、トヨタ、日産はディスカウント販売を始めた。その中でホンダ車だけが売れ続けた。
ディーラーはホンダ車を優先的に回してもらうため販売マネージャーにワイロを贈ったり、逆に販売マネージャー自身がワイロを要求した。あるマネージャーはロールス・ロイスを乗り回し、ロス近郊の高級住宅地、パームスプリングスに豪邸を建てその羽振りの良さが業界では有名になっていた。
問題は日本から派遣されているアメホンの経営幹部が、そのことを知っていたかどうかである。米国のマスコミは「アメホンの幹部はそれを知っていて、黙認していた」という論調を展開した。もしその通りであれば、組織ぐるみの犯罪になる。ホンダ・バッシングはこの問題で加速した。
「ワイロ事件の原因は、クルマの供給が間に合わず、チェック&バランスが欠如したことにある。ワイロ事件に気が付いたのは二年前で、それに関わった米国人上級副社長を解雇すると同時に、十一人の販売マネージャーを全員入れ替えた。
本当は下を育て上を定期的に入れ替えなければならなかったが、車の供給に追われ人材育成が遅れてしまった。ホンダは若い人にチャンスを与えることをポリシーとして掲げているが、人材を育てるにはある程度時間がかかる。ワイロ事件そのものは、極めて個人的なもので、組織ぐるみということは断じてない。むしろアメホンは被害者だ」
アメホン社長の雨宮高一は溜め息まじりに反論する。
「人材は育成するものではなく、発掘するものであり、抜擢するものだ」
宗一郎と藤沢はこうした考えを持ち、経営の第一線にいた時代は、二人がお互いの責任分野で、意識して子供たちを怒鳴り散らした。二人が怒鳴ることが教育であり、そこから這い上がってきた人材を登用した。徒弟社会の残滓を引き摺った中小企業の時代は、それで十分通用したが、企業が大きくなり組織が出来上がればそれが通じなくなる。
大企業になるにつれ、人材育成の遅れが随所で聞かれるようになった。藤沢が経営の師と仰いだ川原福三は、ホンダの特別顧問に就いた直後にこう嘆いたことがある。
「企業の人事政策は新入社員のジョブから始まり、定年後のフォローで終わる。ホンダにはその明確な人事政策がない。最たるものがトップの育成を怠ったことだ」
入交とともにオハイオに「ホンダウェイ」を根付かせた大久保新介は、自分の体験を踏まえて語る。
「ホンダには課長になったら、部長になったらという後追い教育システムは確立している。しかしオハイオに来て人材を引き上げるための、先取り教育のノウハウがなかったことに一番苦労した」
創業者が表舞台から去った後も、急激な成長が続いたところに、今日のホンダの苦悩がある。歴史の浅い会社だけに、高度経済の急成長時代に多くの養子(途中入社)を迎えた。この間、子供たちを教育するどころか、将来(定年後の生活)を考えてやる余裕もなく、関連会社の育成を怠った。関連部品メーカーで株式を上場しているのは、緩衝器メーカーのショーワと気化器メーカーの京浜精機製作所のたった二社しかない。
人材の受け入れ先がないから、バブル崩壊後のリストラは本社ベースで進めなければならない。平成六年六月には、管理職の年俸制の導入に続いて役職任期制を導入した。狙いは管理職の数を減らして、人件費を削減することにある。一連の改革は入交が副社長当時、組織の活性化をはかるため検討したが、今やホンダの生き残り策として導入に踏み切った。
ホンダがホンダであり続けるには、どうすればよいのか。川本はまだまだ答えを出していない。
宗一郎が鈴鹿サーキットのスタンドに姿を見せなくなってからまもなく十年を迎える。日本人初のF1ドライバーとしてデビューした中嶋悟も、宗一郎が亡くなった一九九一年秋の鈴鹿が、日本でのラストランとなった。
“音速の貴公子”と呼ばれた天才ドライバーのアイルトン・セナは、九四年五月のF1第三戦、サンマリノGPで衝撃的な激突死し、彼の勇姿は二度と見ることはできなくなった。宗一郎、ホンダ、セナという日本のF1ブームを支えてきた三枚の看板を失い、日本のモータースポーツ界は冬の時代を迎えようとしていた。
九四年シリーズの第十五戦目に当たる日本GPは、十一月四日から三日間、鈴鹿サーキットで開かれた。四日、五日の予選レースは曇り空だったが決勝レースの最終日はあいにくの雨模様にもかかわらず、十五万五千人を超す大観衆がスタンドを埋め尽くした。
スタート直後から土砂降りとなり、日本勢の片山右京(ティレル・ヤマハ)と井上隆智穂(ラルース・フォード)は四周目でクラッシュ、野田秀樹(シムテック・フォード)は一周目にエンジントラブルでリタイアしてしまった。
日本勢は早々と優勝戦線から脱落したが、大観衆は滝のような水しぶきを上げて疾走する「ベネトン・フォード」のミヒャエル・シューマッハと「ウイリアムズ・ルノー」のデーモン・ヒルとのバトルレースを堪能した。最初にチェッカーを受けたのはヒルで、総合優勝は翌週最終戦の豪州GPに持ち越された(豪州GPではシューマッハとヒルが接触し共にリタイア、わずか一点差でシューマッハが総合優勝した)。冬の時代をささやかれた日本GPは、主役不在でもかつてない盛り上がりをみせた。
「ホンダはどんなに苦しくともF1から撤退すべきでなかった」
降りしきる雨の中、雨具も着けずに盛り上がるレースを観戦していたホンダ関係者はほぞを噛んだ。F1に代わって九四年から満を持して参戦したフランス「ル・マン二十四時間耐久レース」や米国の「インディカー・ワールドシリーズ」で惨敗した後だけに、よけい撤退の無念さが募る。
「ホンダのフラッグシップカー『NSX』を駆って出場したにもかかわらず、ル・マンの耐久レースは『ポルシェ911』に完敗。インディーレースも優勝台に登るどころか予選すら通過できなかった。この結果を知ったら、オヤジさんは青筋を立てて怒鳴り散らしただろう。レース一つ取り上げてもホンダには、チャレンジ精神がなくなった」
永年F1のエンジン開発に携わり、定年を間近に控えた研究所のエンジニアは、宗一郎の怒り顔を懐かしむように、雨空を見上げて溜め息をついた。
日本GPが開催される直前、かつて川本や入交と共に青春時代を過ごしホンダが開発したスポーツカーの「S600」を改良して、草レースに参加した元レーサーの生沢徹がF1参戦を表明した。
「日本メーカーは自動車産業を商業主義でとらえているため、文化としての自動車になじみが持てないでいる。これでは貿易摩擦が生じて当たり前だ。私はIKuzawa号というマシンを作り、ドライバーを始め日本人中心のチームを編成して、日本人による日本人のためのF1をやりたい」
生沢はこうした思いから自腹を切ってF1参戦を宣言した。根強いF1のブームを見て、他の自動車メーカーも水面下で金をかけない形での参戦検討を始めた。F1はもはやホンダの専売特許ではなくなった。
日本経済はバブルが弾けた後、長期不況に突入した。九三年六月十日になって経済企画庁長官の船田元は、月例報告閣僚会議の席で「不況底入れ宣言」を出したが、翌月からの猛烈な円高で景気はあえなく失速してしまった。
さしもの不況も九四年春あたりから徐々に底を打ち始めたが、経済企画庁は前回の失敗に懲りてか、再度の回復宣言には極めて慎重な態度を取り続けた。それでも九月に入ってオズオズと景気回復を宣言、十一月に「後退局面から上昇局面に向かった景気の谷は、九三年十月だった」と正式発表した。
ただし円相場が1ドル=100円を突破して90円台が定着したことから、「為替相場の動きなど懸念すべき材料もある」と依然として警戒心を解いていない。宗一郎が亡くなる直前の九〇年五月から始まった“平成不況”の期間は三十カ月となり、第二次石油ショック後の三十六カ月に次いで戦後二番目に長い不況であったことが確定した。景気は底を打ったとはいえ、なお底這い状態が続いている。回復の足取りは重い。
自動車輸出は円高を反映して、採算的には厳しい状況が続いた。その中で国内の新車登録台数は、個人消費の回復を背景に九四年五月から前年実績を上回り始めた。これが直ちに収益に結びつかないところに、自動車産業の苦悩がある。
業界の先陣を切って発表した日産自動車の九五年三月期の九月中間決算は、“悲惨を絵に描くと日産になる”と揶揄されるほど不振をきわめた。売り上げが前年同期に比べ一二%減り、営業損益は八百二十億円の赤字となった。むろん過去最大の赤字である。社長の辻義文は十月二十八日に開かれた中央労使協議会で「通期の赤字幅は上場企業として、過去最大規模になる可能性がある」と発言して組合に再建協力を要請した。
同じ期間におけるホンダの業績は、売り上げは国内販売・輸出の落ち込みから一兆一千九百三億円と前年同期に比べ五・三%減ったにもかかわらず、営業利益は同五八・五%の大幅増となった。といっても金額でいえば百四十六億円、売上高営業利益率はモノを右から左に流す総合商社の粗利益率並みの一・二%に過ぎない。前年同期が〇・七%だったことを勘案すれば、いくらか改善されたとはいうものの、業績を見る限りホンダから高収益会社の面影は完全に消えた。
辛うじて赤字転落を免れているだけで内容はお寒い限り。増益は皮肉にも一時“お荷物”扱いされ、分離も検討されたオートバイ部門と汎用機部門が健闘したことにある。汎用機のうちポンプは、春先まで五年分の在庫を抱えていたが、折りからの異常渇水で飛ぶように売れ、少なからず業績に貢献した。
九三年三月期はオートバイと四輪車の利益はほぼ半分ずつだったが、九四年三月期は利益の九九%をオートバイと汎用機部門で稼ぎ出している。このいびつな収益構造は中間決算でも変わらなかった。もしホンダにオートバイや汎用機がなかったら間違いなく赤字に転落していたであろう。これが大赤字の日産と増益となったホンダの違いである。
自動車メーカーの緊急の課題は、国内市場で利益を出せる体質に変えなければならないことにある。国内販売で利益を出せない会社は間違いなく淘汰される。
バブルが崩壊して以来、経営者の間では「量より質」「シェアより利益」という意識が高まっているが、自動車業界にはこの言葉はあてはまらない。自動車産業に限っていえば量が利益を生み出す。シェアが低ければ利益は出ない。決して二者択一ではない。政治の世界は議員の数がモノをいうが、自動車の世界も同じように販売台数がモノをいう。
日本メーカーは石油ショック以降、高品質、低燃費の小型車を武器に、あたかも無人の広野を行くがごとく次々と海外市場を開拓した。量の拡大が可能だったため、海外でも類のない国内十一社体制を維持することができた。しかし貿易摩擦と円高で国際化を余儀なくされた。この間、ビッグスリーは不死鳥のように蘇った。逆に日本車の競争力は目に見えて低下、収益的にも苦しくなった。海外市場における「日本車神話」は遠い過去の出来事となった。
輸出が好調だった時期、国内市場の競争は比較的緩やかだった。トヨタが国内でも利益を出しているのは、新車登録ベースで四〇%を超えるシェアを持っているからだ。
自動車は一車種開発するのに、金型から工場のライン改造まで含めると、五百億円近い資金を要する。量が出なければこの巨額の開発費を回収できない。日産はトヨタと同じように大衆車から大型車までのフルライン政策をとっているが、肝心の売り上げはいつのまにかトヨタの半分以下になってしまった。
ということは、日産の開発費負担はトヨタの二倍以上ということを意味する。数が期待できなくなった現在、日産が国内で利益を上げるには、車種そのものを減らし一車種の台数を増やすか、それとも一車種当たりの開発費負担を削減するかのどちらかしかない。
スズキの決算が比較的堅調なのは、軽自動車のトップメーカーであることに起因している。ホンダのオートバイが利益を出しているのも同じ原理による。
「良い製品は必ず売れる」といわれた時代は過ぎ去り、消費者がメーカーを選択する時代に入った。その一方で自動車業界にも価格破壊の波がヒタヒタと押し寄せている。モータリゼーションの進展期には、開発から販売政策まで、すべてメーカー主導で進んだ。しかし成熟期を迎え、それが過ぎると、消費者主導になる。メーカーは消費者が求めるクルマを提供しない限り、利益を生み出す量を確保できない。ホンダは果たしてそれに気がついたかどうか……。
ごう音を轟かせた九四年のF1が終わってから一週間後の十一月十四日から三日間。静けさが戻った鈴鹿サーキットの会議室で、ホンダの系列別販売店会議が開かれた。十四日と十五日はプリモ店、十六日はクリオ店、ベルノ店が対象である。十月に新発売したRV(レクリエーショナル・ビーグル)の「オデッセイ」の評判が良いことから、販売店の経営者にはいくぶん安堵感が漂っていた。
「ホンダは日本、北米、欧州、発展途上国の世界四極体制を取っております。日本を除いて順調に軌道に乗っています。しかし足元の国内がふらついておればホンダの発展はありません。その意味でホンダはいま危機的な状況にあります。夏には円高に対応するため、北米地域の現地生産の強化を決めました。その分、輸出は間違いなく減ります。
国内で年間百万台の生産を維持しない限り、空洞化は避けられません。逆輸入車を含め国内で八十万台販売しなければ、ホンダは生き残れないのです。今後三年間に九車種をモデルチェンジします。同時に新たに六つの新車を出します。商品には絶対の自信を持っています。三年後の創立五十周年までに、国内販売八十万台体制を確立して皆さんと一緒に祝いたいと思います。よろしくお願いいたします」
川本は正月の新年大会で、不遜と思える態度を取ってひんしゅくを買ったが、今回はいくらか襟を正した。その川本はプリモ店の会議に出ただけで十六日のクリオ店、ベルノ店の会議は欠席して早々と帰京してしまった。
「今年は六十一万台の目標を掲げた。マスコミ向けの旗は下ろさないが、実績見込みは昨年実績の五十七万台にも届きそうにもない。あんたら、本当にやる気があるのかないのか。この際はっきりさせてほしい。本社はやる気のあるディーラーに支援を惜しまない。反対にやる気のないディーラーには支援はしない」
十六日の会議では川本に代わって副社長の宗国旨英が計画を説明、それを受けて担当常務の岩井陸が両手をポケットにいれて恫喝まがいの発言をした。そして会議後のパーティーで岩井はテーブルを回りながら、ディーラーの経営者一人ひとりに確認して歩いた。
「わたしどもは頑張ってやります」
立場の弱いディーラーの経営者は、心にもないことを言ってその場を取り繕ったが、ディーラーの本社を見る目は、依然として厳しかった。ホンダの出資を仰いでいないディーラーの経営者が、本社に対する不満をぶちまけた。
「夏の段階で非公式に国内八十万台構想を聞きました。その時、副社長の宗国さんは確かこう言いました。『目標が達成できなければ、担当常務には辞めてもらいます。むろんわたしも責任をとります』と。しかしあの人たちにはホンダを辞めた後、終生生活に困らないだけの役員年金がある。
私たちディーラーが『責任をとる』というのは、会社を倒産させて夜逃げすることなんです。社会的に抹殺されるのです。ホンダのトップが責任を取るというのなら、まずわれわれに自分の退職金と役員年金を担保に差し出すことです。『責任をとる』と軽々しくいうほど無責任な発言はありません」
自動車の国内総販売台数はバブルの最盛期の九〇年に七百八十八万台を記録、バブルが弾けたことで九四年は六百五十万台まで落ち込んだ。景気回復につれて九五年以降は上昇に転じ、三年後の九七年は七百三十万台まで回復すると予想された。
ホンダの国内販売の実力は五十五万台。ホンダが目標を達成するには、業界増加分の三割を獲得しなければならない。他社も生き残りを賭け必死になってシェア獲りにくる。並大抵の努力では達成は難しい。
国内販売の責任者は入交昭一郎が辞任した後、宗国に代わって副社長の吉野浩行が就いたが、九四年六月の人事で吉野が本来の開発部門に回り再び宗国が返り咲いた。宗国の復帰は“本田工業”と“藤沢商会”の合併が軌道に乗ったことの証しでもある。
鈴鹿のディーラー会議では、九五年春にモデルチェンジが予定されている小型車の「インスパイヤー/ビガー」の姉妹車種が展示されただけで、それ以外にどんな車種が出るかは、ポンチ絵をスライドを使って映しただけだった。どのチャネルにどの車を投入するのか、どの車を併売にするのかといったディーラーが最も関心を持っていることは、一切明らかにされなかった。
「本気になって取り組むには、セールスマンの数を増やすと同時に、多店舗化も推進しなければならない。しかしきょうの話を聞いた限りでは、夜逃げを覚悟しなければ思い切った設備投資はできません。
厳しいいい方をすれば、本社はわれわれディーラーに最新鋭の機関銃を与えたつもりなのだろうが、ディーラー側にいわせれば竹ヤリを持たされたようなものです」
漂流するホンダの子供たちは、国内では生き残りを求めて拡大再生産の賭けにでた。創業五十周年に国内販売八十万台を達成したいという構想は、いつの間に「ゲット80(ハチマル)」という名の計画に格上げされた。構想が浮上した九四年の総販売台数が五十五万台だから、四年間で二十五万台ほど増やさなければならない。
この数字は前向きな計画というより、「国内で最低年産百万台を維持しないかぎり、空洞化は避けられない。それには国内販売八十万台が前提となる」という川本の悲壮感からきている。ディーラーは「達成不可能な数字」と冷ややかに見ていたが、ホンダには予想もしなかった“神風”が吹いた。RVブームである。
実はこの分野はホンダは大きく出遅れた。日本のRVブームは四輪駆動車から始まった。ホンダは四駆の技術がなく、苦戦を余儀なくされ、クライスラーの日本における販売代理店になり「ジープ・チェロキー」を手掛けた。米国ではGM(ゼネラル・モーターズ)傘下にあるいすゞ自動車から、四輪駆動車の「ビッグホーン」を調達して急場をしのいできた。この間独自のRVの開発を急ぎ、九四年秋にワンボックスカーの「オデッセイ」の国内発売にこぎつけた。
続いて「CR─V」「ステップワゴン」「SM─X」などの立て続けに投入したRVが大ヒットしたのである。出す車がすべてベストセラーカーとなるのは、自動車業界では奇跡に近い。RVの開発に指揮を執ったのは副社長で本田技術研究所の社長を兼ねる吉野である。
〈経営は川本さんに任せてある。同期入社の自分には社長になる目はない。ただしホンダの将来がどうなろうと、自分が開発責任者である限り、意地でもトヨタや日産に負けない車を出してみせる〉
吉野は自分にこう言って聞かせ、研究所の技術者を叱咤激励した。その一方で老後に備え、風光明媚でしかも温暖な伊豆半島の伊東市に新居を移し、週末にはそこで庭いじりを楽しんでいた。
ホンダのRVの快進撃が続き、九五年の国内販売は前年比一二・三%増の六十一万七千台に急増、九六年は同二一・九%増の七十五万二千台を記録した。これに気を良くした川本は、達成時期の一年繰上げを指示した。しかしホンダの国内販売の実力を知る古参の販売担当者は、この計画に首をかしげた。
〈確かに今はホンダに神風という名のフォローの風が吹いている。ホンダが出したRVは単に珍しいから売れているだけで、販売店の力は昔のままだ。風が止めば元の木阿弥になる。そのことを川本さんが知らないわけがない。それでも指示を出したのは、九八年に退任する腹を固めたからではないか。川本さんは八十万台達成を引退の花道にするつもりなのかもしれない〉
ホンダの連結決算ベースの業績は、九四年を底に改善に向かい、九七年三月期の純利益は二千二百十二億円と十一年振りに過去最高記録を更新した。つれて株価も上向き始めた。その一方で、九六年秋から九七年にかけて一部のOB役員の間に“川本降ろし”の不穏な動きも出てきた。表面的な名目は「川本も六十歳を過ぎたので、先輩に倣ってそろそろ……」ということである。
OB役員の不満は、自分たちが創業者と一緒になって築き上げたホンダの良き企業文化《集団指導、早期リタイアによるトップの若返り、ワイガヤ、役員の大部屋制》を川本がことごとく否定したことに起因している。それに輪をかけたのが、川本自らが「独裁者」と豪語するほどのワンマン経営だった。
宗一郎と藤沢には独特のカリスマ性があり、それぞれの分野では遺憾なくワンマン振りを発揮したが、こと経営に関しては独走を許さなかった。ホンダの経営の本質は、技術系と事務系のトップが二人三脚となって走ることである。お互いの足が紐で結び付いているので、片方が独走したり暴走すれば、相棒が転んで経営がおかしくなってしまう仕組みになっている。
河島、久米の歴代社長は創業者が編み出した経営方針を忠実に守ってきた。川本もスタート当初こそ集団指導制を敷いてきたが、九二年に入交が突然退任したのを機に、ワンマン経営を宣言して次々とホンダ独自の企業文化を否定し始めた。川本にすれば非常事態に古きノンビリした伝統を踏襲すれば、危機は乗り切れないという思いがあってのことだ。が、ワンマン経営が行き過ぎると恐怖政治となり、側近にはイエスマンしか集まらなくなり、人材も育たなくなる。創業期の苦労を知っているOB役員は、それを恐れたのである。川本とOB役員の間には少しずつ溝ができ、いつしか埋め切れないほど大きくなってしまった。
川本は九六年秋に東京駅前にある旧本社の社友室に側近の役員を派遣して、役員OBに創業五十周年の記念行事を説明させた。その時、堪忍袋の緒を切らしたあるOBが声を荒らげて発言を求めた。
「記念行事なんか、いちいちわれわれの了解なんか取る必要はない。川本は自分が思った通りのことをやればよい。それより私たちが知りたいのは、その時だれが社長になっているかなんだ」
側近の役員は〈むろん川本さんです〉と喉まで出かかったが、宗一郎と藤沢の引退劇が脳裏をかすめたことから、それを口に出すのを止めた。川本がワンマン経営を貫いても、創立二十五周年を目の前にして引退し、世間から「さわやか引退」と絶賛された創業者の行動を無視することはできない。
川本は社長としての足跡を残すために、在任中に国内販売八十万台達成に全力を注ぐことになった。ただし計画を一年繰り上げて達成するには、いくら神風が吹いているとはいえ、相当手荒なことをやらなければならない。計画繰上げを聞いて、若き時代に藤沢から怒鳴られながら販売の手ほどきを受けた古手の営業マンは顔を曇らせた。
〈これは藤沢さんの販売哲学に反する。たとえ達成したとしても、その後遺症は大きい〉
藤沢は長年の経験から四つの販売目標の立て方を編み出した。一番目が自社の商品構成や販売力に経済環境を加味して達成可能な目標を立てる。いってみれば「成り行き目標」である。この目標は堅実だが面白みがない。ところが自信の無い経営者は、往々にしてこの目標より低い水準に置いてしまう。これが二番目の「愚かな目標」である。
本来立てるべき目標は三番目の「成り行き目標に、最大限の努力を加えた目標」である。問題はこの目標を確実に達成しようとして、歩留まりを考え、経営者が数字を上乗せしてしまうことである。これが四番目の「馬鹿げた目標」である。
これをホンダの九七年の計画にあてはめてみるとどうなるか。成り行き目標は前年並の七十五万台といったところである。愚かな目標は前年を下回る七十三万、七十四万台である。成り行き目標に最大限の努力を加えた三番目の目標は、八十万台であってもおかしくない。本社とディーラーが一丸となり、夢を共有しながら邁進すれば、実現できる数字である。
ただし落とし穴もある。販売担当役員が勝手に「八十万台達成には川本さんの威信がかかっている」と判断し、安全をみて目標台数に多少数字を上乗せ(α)してしまいがちである。ディーラーも同じことを考え、営業所に下ろす時には本社から来た目標数字に上積み(β)する。そして最終的な目標台数は八十万台+α+βと増え続け、いつしか四番目の「馬鹿げた目標」に変質してしまう可能性がある。
藤沢が生前、しみじみと語ったことがある。
「馬鹿げた目標の恐ろしさはセールスマンが、ハードルが高すぎると思い始めた途端、一気に愚かな目標に転落してしまうことなんです」
売る側のディーラーにすれば八十万台という数字は高いハードルである。この難問をホンダは販売奨励金で解決しようとした。すでに春先には「三月末の三十日と三十一日に受注すれば、一台に月五万円の奨励金を出す」との通達を出した。第一コーナーを回る前からニンジンをぶら下げたわけだが、効果はてきめんだった。二日間で実に二万一千台ほど受注した。
さらに追い込みに入った十一月と十二月には五百億円という信じ難い巨額の販売奨励金を用意して、ディーラーに値引販売を煽った。金の出処は円安に伴う為替差益である。次々と美味しいニンジンをぶら下げられたディーラーは、値引きしても売れなければ、今度は実際には売れていないのに、売れたことにして奨励金を稼いだ。この時期、ホンダのディーラーの仕事は、車を売ることではなく、登録業務をこなすことだった。
十一月の販売台数は業界全体が前年同月比二〇・四%の大幅減になったにもかかわらず、ホンダだけは六・二%増の七万二千台を記録、十二月も業界八・一%の減に対して二七・三%増の八万五千台となり二カ月間連続して日産を追い越してトヨタに次ぐ業界二位に躍り出た。そして九七年の販売は目標を上回る八十一万台を達成した。
川本は八十万台達成がほぼ決まったクリスマスに、ホンダ社員のみならず販売会社のセールスマン、サービスマン、協力工場の従業員までホンダの関係者十二万人に箱に入った紅白ワインを贈った。
だが実力以上のことをすれば、当然のことながら反動が出る。RVブームが一段落した九八年に国内販売は前年比一五%減の六十九万台で、九六年の水準すら下回ってしまった。販売の荒れたディーラーも続出した。営業マンは値引き販売や自社登録に慣れ、結果的にはホンダのブランド価値を下げてしまった。
藤沢は現役時代、必ず新任役員に経営者としての心構えを説いた。
「経営者とは三歩先を読み、二歩先を語り、一歩先を照らすものだ」
しかしホンダの「ゲット80」は、メーカーの都合だけで一気に三歩先を照らしてしまった。その後遺症は大きく、国内販売の再建はポスト・川本として登場した吉野が直接指揮を執らなければならなくなった。
ホンダの軌跡と奇跡の成長は、日本経済の成長と軌を一にしてきた。ホンダの国際化は日本経済の国際化でもあった。バブルが崩壊した直後、エコノミストから「日本経済は全治十年」と診断されたが、現実は十年を過ぎた今なおその後遺症に悩み、回復の手掛かりをつかめないでいる。ホンダは財テクに走らなかったことから、バブルとは一見無関係のように見えるが、国内の過大投資や効率の悪い販売体制はすべてバブルを前提としたものである。
にもかかわらずホンダの連結ベースでの業績は絶好調である。九八年三月期の純利益は二千六百億円を達成、九九年三月期は国内販売が大幅に落ち込んだにもかかわらず三千五十億円と過去最高記録を塗り替えた。
好業績はひとえに米国の好景気のお陰である。米国市場で「ホンダ」というブランドは、日本では想像できない以上に高く、インセンティブを付けなくても飛ぶように売れる。レンタカー会社との大口取引もないので、中古車価格も高い。現地工場がフル生産しても受注をこなすことができず、日本からの輸入に頼らなければならない。九八年の米国市場におけるホンダ車の販売台数は、百一万台と念願の百万台を突破した。いつしか国内と米国の販売比率は、完全に逆転したのである。
川本は「ゲット80」の成功を花道に予定通り、九八年六月の株主総会を最後に取締役相談役に退いた。ホンダは伝統的に専務の中から次期社長を選んできたが、川本が後任に選んだのが同期入社の吉野である。そして十月には創業五十周年を迎えた。二十五周年式典は鈴鹿サーキットで行われたが、今回はホンダ技術研究所近くの栃木県茂木に五百億円を上回る資金を投じて建設した世界最大のアミューズメント施設「ツインリンクもてぎ」で挙行された。
川本が退任するに際してホンダに残した置き土産が、F1への七年振りの復帰である。前回はエンジンサプライヤーとしての参戦だったが、川本は退任発表直前の九八年三月九日に記者会見して、今回はエンジンのみならず車体(シャーシー)まで単独で開発し、自前のチームを結成しての「オールホンダ」での参戦であることを表明した。こうなると年間経費は三百億円を下らない。
参戦は二〇〇〇年からだが、吉野は「ホンダの関心はあくまで技術領域で運営に資源を割きたくない」として、九九年五月二十一日に記者会見し、エンジンは供給するものの、車体は英国の新鋭チームのBAR(ブリティッシュ・アメリカン・レーシング)と共同開発し、レースには「BAR─HONDA」として参戦すると発表した。川本の方針を大きく変更したのである。
F1にはすでに二〇〇三年からトヨタも参戦することを決めている。将来、両社がF1で激突するわけだが、ホンダには前回の六年連続コンストラクターズ・チャンピオン、通算六十九勝したという輝かしい実績があるので、ファンの期待は大きい。
だがF1の世界はそれほど甘くはない。七年間もブランクがあれば、過去の技術は通用しない。仮に実績が上がらなければ、マイナスの宣伝になってしまう危険性を秘めている。それを知ってか知らずか、吉野はホンダはBARとの契約は三年と区切った。むろん延長も可能だが、トヨタとの戦いを回避する道も残している。
トヨタは完全にホンダを意識し始めた。F1参戦に続いて、国内それも交通の便に恵まれた首都圏にレース場を建設する構想を持っている。今やF1もレース場もホンダの独占ではなくなった。
吉野がF1参戦の規模を縮小したのは、めまぐるしい世界の自動車産業の動きとは無縁ではない。世界的な規模での再編劇の端緒を開いたのは、九八年五月に明らかになったドイツのダイムラー・ベンツと米ビッグスリーの一角を占めるクライスラーの電撃的な合併である。太平洋を挟み文化も習慣もそして経営手法も違う両社は、提携ではなく合併を選択した。これに素早く反応したのがGM、トヨタ、フォードの“新ビッグスリー”である。
GMは九八年秋に、九百億円を投じてすでに資本参加しているいすゞへの出資比率を三五%から四九%へ、スズキは三%から一〇%へ引き上げた。
トヨタも系列のダイハツへの出資比率を五一・二%に引き上げて経営権を握った。大型トラックメーカーの日野自動車工業への出資比率も少しずつ引き上げている。商法が改正され独占禁止法が緩和されれば、部品メーカーのデンソーなどとともに持ち株会社の傘下に入れる。
フォードはすでにマツダの株式は三三・四%しか持っていないが、社長以下経営の中枢はデトロイトからの派遣役員で占めるなど事実上完全支配している。さらに年明け早々にはスウェーデン・ボルボの乗用車部門を六五億ドルで買収した。
日本市場でトヨタと並んで日本を代表する二大メーカーとされた日産は、八〇年に対米進出を決めたものの、最初に小型トラックを選択したことからホンダとは対照的に米国市場を収益源にできなかった。米国に限らず海外戦略がことごとく破綻したことから、バブル崩壊後の九三年から九九年まで七年間のうち実に六年が赤字という極端な不振に見舞われた。そして九九年五月にはフランス政府が発行株式の四四%を持つルノーから約六千億円の資金援助を仰がなければならなくなった。日産はルノーの軍門に下ったのである。それから半年後に日産の系列下にあった富士重工業が日産との資本提携を解消、新たにGMから二〇%の資本を受け入れると発表した。
世界の自動車産業は、堰を切ったように再編に向けて動き出した。ホンダも決して他人事ではない。しかしベンツとクライスラーの合併が公表された直後、まだ社長だった川本は、水面下の動きが飲み込めず、感想を求めた新聞記者に対し、「今回の合併は相互補完など一見効果はありそうだが、ドイツとアメリカの企業が一緒になって果たしてうまくいくのか」と疑問を呈し、同時に「合併は単なるマネーゲームでモノ作りや顧客のための発想ではない」と切り捨てた。
今や自動車産業の寡占化の動きは止められない。ホンダもそれに対抗策を打ち出さなければ、現在どんなに好業績を上げても生き残れるという保証はない。
九九年五月十四日、デトロイトで開かれたフォードの株主総会で株主から「(フォードは)ホンダを買収するのか」という質問が出た。これに議長を務めた会長のウィリアム・クレイ・フォード・ジュニアは「(フォードは)世界市場でいろいろな活動をしている」と言葉を濁した。
総会後の記者会見では一月に社長兼CEO(最高経営責任者)に就任したジャック・ナッサーは世界の自動車再編劇にシナリオを披露した。
「私は再編劇の透視図を持っていないが、幾つかの流れははっきりしている。二十一世紀には資金と環境対策を含めた技術を持ち、しかも世界市場を相手にできる企業だけが生き残れるだろう。合併や資本提携などの企業統合の動きは今後一段と加速され、十年後には年間五百万台から一千万台売れる巨大グループと百万台から二百万台売るニッチメーカーに整理されるだろう。巨大グループは五つか六つ。ニッチメーカーは二、三社に絞られる。ただし車のブランドは巨大グループによって管理されるので、自動車メーカーの数は思ったより減らないだろう。これは消費者にとってもいいことだ」
ナッサーの予言が当たるとすれば、ホンダの企業規模はあまりにも中途半端である。北米における現在の年産能力は九十六万台。ホンダは北米以外のイギリス、ブラジル、中国、タイなどでも現地生産しており、九九年は海外で百二十七万台の生産を計画している。国内は百二十四万台だから、生産面で初めて国内と海外の比率が逆転する。
吉野は社長就任十カ月目にして、ホンダの命運を決める決断を下した。九九年四月にオハイオ州、カナダに次ぐ北米地域三番目の工場をアラバマ州に建設することと、鈴鹿製作所の一ラインを破棄し、国内の生産能力を年百四十万台から百二十五万台に落とすことを決断したのである。
新工場の生産車種はSUV(スポーツ・ユーテリティー・ビークル)で、四億ドルを投じて年産十二万台の工場を建設する。したがって二〇〇二年になれば、北米の生産能力は百八万台となる。ともあれホンダの生産拠点は国内から北米を中心とした海外に移ることになる。前任者の川本は北米に三番目の工場を作ることに関して極めて慎重で、在任中には決断を避けたが、吉野はあっさり決断してしまった。ホンダはルビコン川を渡ったのである。今後ホンダの経営は米国色が一段と強まる。
ホンダの米国市場における収益源は二輪車と四輪車である。しかし高収益を上げているとはいえ磐石とはいえない。厳密に分析すれば、米国市場の収益源は「アコード」である。この車は信じられないほどの収益を稼いでいる。ところがアコードと並ぶ看板車種である「シビック」は収支トントン。RVはまだ多少の赤字である。今回アラバマ州の新工場で生産するSUVはGM、フォード、ダイムラークライスラーが収益源としている分野である。ホンダのブランドをもってしても売ることはできても、収益を上げることは容易ではない。
九九年四月にフォード社長のナッサーは密かに来日し、日本市場と日本メーカーの動向を探って帰国した。その時、ナッサーは関係者に興味ある発言をした。
「ホンダは素晴らしい会社だ。ホンダ車を米国市場で売ることは、市場経済に適っている。ホンダの生産活動が米国が中心になるならトップは米国社会でもっと積極的に活動しなければならない。私の知る限り吉野社長が社長就任後、米国に残した足跡がない」
現実には吉野は社長就任後、何度か訪米しているが立ち寄るのはオハイオの工場とロサンゼルス郊外のトーランスにあるアメホン本社だけである。ナッサーが言わんとすることは「ホンダが米国の市民企業を目指すなら、トップは米国社会で認知される活動をしなければならない」ということである。
だが吉野の歩んで来た道は、派手なピッチャーでなくピッチャーの投げるボールを受け止めるキャッチャーである。芯は強いとはいうものの、ビッグスリーのトップと互角に渡り合うというパフォーマンスはない。ホンダには吉野の代役を演じる役者もいない。業績は向上したものの、いつのまにか顔の見えない企業になってしまった。
成長や発展の神話が崩壊し、地に堕ちた企業を立て直した経営者は後々“中興の祖”と呼ばれる。共通しているのは、創業者や前任者の経営手法を否定することで再建を果たしたことだ。
自動車業界でいえば戦後の復興期に倒産寸前まで追い込められたトヨタは、会社を存続させるため創業者の豊田喜一郎が労働争議の責任をとって退陣、トヨタの将来は豊田家の番頭ともいうべき石田退三に託した。近江商人の流れを汲む石田の経営哲学の根幹は、従業員を家族の一員とみなす、おおらかな喜一郎の“情”を排した“節約”にある。石田は徹底してムダのない経営を推進した。
金融機関によって無理やり分離されたトヨタ自動車販売を「工販はクルマの両輪」と持ち上げ、“販売の神様”と崇めたてられた神谷正太郎の虚栄心をくすぐることで、販売部門を鼓舞した。
内にあっては喜一郎の従兄弟で技術者上がりの豊田英二にイロハから経営を仕込んだ。その一方で子飼の事務系の花井正八(元会長)には持ち前のケチケチ精神を伝授、技術系の大野耐一(元副社長)には喜一郎の夢だった「ジャスト・イン・タイム」の確立を急がせた。
花井は爪に火をともすようにして金を溜め込み、今日“トヨタ銀行”と呼ばれる財務の基盤を作り上げた。大野は“かんばん”を使ってジャスト・イン・タイム方式を実現させた。これが六〇年代に入って大きく開花した日本のモータリゼーションの流れの中で威力を発揮した。
経営者として石田とほぼ同世代の日産の川又克二も“中興の祖”とされる。川又の経営手法は五三年の大争議で共同戦線を張った労働組合の塩路一郎と手を組み、労使協調路線を確立したことだ。労組に第二人事部的な役割を与え、実質的に労組の経営参加を認め、日産を再建させると共に、トヨタと並ぶ自動車業界の一方の雄に育て上げた。日産は労使が一体となって技術を磨き、生産効率を上げ、品質の向上に励んだ。労使協調を基盤に終身雇用、年功序列賃金、企業内組合を柱にした日本的経営の原型は日産が作り上げたと言っても過言ではない。
石田はモータリゼーションの進展期に豊田家に大政奉還、豊田英二、豊田章一郎、豊田達郎と三代続けて豊田家一族がトップに君臨してきた。トヨタは豊田一族がトップに就くことで辛うじて求心力を維持してきたが、九五年春に豊田達郎が病に倒れ、豊田家と血の繋がりのない奥田碩にバトンタッチした。その奥田も九九年六月に会長に退き、張富士夫が新社長に就任した。新体制の下では、名誉会長の英二が名誉顧問、会長の章一郎が名誉会長に退き、豊田家で代表権を持つ人はいなくなった。「豊田家のトヨタ」は完全に終焉したのである。トヨタは創業家に代わる求心力を資本の論理に求めている。
“闘将”石原俊が社長に就き労使協調路線と訣別した日産は、皮肉なことにそれを機に、長期低迷期に突入した。川又時代に常に三〇%台を維持してきた国内販売(小型車以上の新車登録台数)では、今や二〇%割れ寸前まで落ち込んでいる。連結ベースでトヨタを追い越す目的で展開した派手な海外プロジェクトは、円高の時代でも威力を発揮していない。労使協調に代わる求心力のキーワードを見出せずに泥沼の中でもがき苦しんでいる姿は、氷河期のマンモスに似ている。そして遂にフランス・ルノーの傘下に入った。
ホンダは日産とは逆に連結ベースでは、利益はドル箱のアメホンがあるため、米国経済の回復と共に利益は急回復した。米国一本ヤリの傾向は今後益々強まるだろう。ホンダの原点を一口でいえば「夢と志に満ち溢れたチャレンジ精神」ということになる。宗一郎と藤沢という二人の創業者はこの精神だけで、戦後の混乱期に乗じて無から有を生じさせ、「世界のホンダ」と呼ばれる土台を築き上げた。
だが創業者が共同で作り上げた経営手法の問題点は「語り継げても受け継げない」ところにある。これは創業者に共通して言えることだ。
「成功した創業者というのは、ある意味で“狂気”なのです。創業期に他人と同じことをやっていては企業は大きくならない。違うことを違うやり方でやってきたからこそ成功した。急激に伸びた会社の経営手法というのは、しょせん語り継げても受け継げないのです」
東京下町の一介の衣料品店だったイトーヨーカドーを、日本のスーパー業界最大の高収益会社に育てあげ、さらに「セブンイレブン」を通じて日本にコンビニエンスストアを定着させた伊藤雅俊が含蓄のある言葉を吐いた。
ホンダが二代目社長河島喜好の時代に、さらなる発展を遂げることができたのは、二人の創業者が経営の表舞台から去った後なお健在で、その威厳が社内の隅々にまで行き渡っていたからにほかならない。が、二人のエネルギーが衰え出した三代目社長久米是志の時代になると“ホンダ神話”に陰りが出始め、創業者がいなくなった四代目の川本信彦の時代には“神話”は完全に崩壊してしまった。
川本はホンダの中興の祖になるべく孤軍奮闘してきたが、社長在任中は常に「語り継げても受け継げない経営」にもどかしさを感じていた。
「わたしは『ホンダは常にホンダでありたい』と願っている。分かりやすくいえばオヤジさんの作った創業の原点を大切にしたいということです。しかし今は混迷の時代です。よそ見運転しているとスピンして倒れてしまう。ホンダであり続けたいという夢と志は、混迷の時代というカーブを曲がり終えるまでは、大切にしまっておかなければならない。
といっても将来に向けてホンダとしての旗印は掲げなければならない。その必要性はだれよりも私自身が一番自覚している。具体的な旗印を掲げ、だれにでも分かるキャッチフレーズがあれば、企業には自ずと求心力が生まれる。
これまでホンダはそれだけでやってきた会社だった。だが混迷の時代を乗り切るには、過去のホンダと現在のホンダを一度否定しなければなりません。いま無理して旗印やキャッチフレーズを掲げれば進路を間違ってしまうのではないか。わたしはそれが一番恐ろしい」
創業者の精神をどう受け継ぐかという悩みは、いずこも同じ。“経営の神様”とうたわれた松下幸之助が作り上げた松下電器産業は、毎年一月十日、グループの一体感を高めるため大阪・高槻市にある松下電子工業の福祉会館で、松下グループの中堅幹部数千人が参列して、新年恒例の「経営方針発表会」を行う。この発表会には日本人、外国人を問わず海外現地法人のトップも駆けつける。
松下が買収した米娯楽・映画企業の米MCA会長のルー・ワッサーマンや社長のシドニー・シャインバーグも専用ジェット機に乗ってやってくる(松下はその後MCAを売却した)。
晩年の幸之助は足が弱り、移動には車椅子に頼らなければならなかったが、この日だけは何があっても出席した。幸之助の亡き後は、壇上に縦三メートル、横二メートルに及ぶ巨大な肖像画が掛けられた。創業者の“御真影”を背に、社長が数千人の松下グループの経営幹部を前に経営方針を披露、その様子は衛星中継で全国各地の工場、営業所に送られる。壇上の横に創業家の一員である会長の松下正治や副社長の松下正幸がパイプの椅子に座っている。
社長の経営方針を聞こうとすれば、いやがおうでもにこやかに笑った“御真影”が目に入る。普段はPHP研究所の出版物が創業者の神話を補完するが、この日ばかりは幸之助が鮮やかに蘇る。
ホンダにはこうした儀式は一切ない。宗一郎と藤沢の子弟が入社しなかったこともあり、松下とは対照的に二人の創業者は伝説の人となった。近年、社内で富士山麓にある宗一郎の墓を訪れるのは、F1の研究に携わることを夢見ている研究所の若手技術者である。
“海図なき航海”を続けているのは、現役の子供たちだけではない。現役を去った子供たちも漂流している。川本と対立してホンダを去り、ゲーム機器大手のセガ・エンタープライゼスに転籍した入交昭一郎は、九八年二月に社長に昇格した。セガは入交が入社した当初、「セガサターン」の大ヒットで好業績を謳歌したが、ソニーエンターテインメントの「プレイステーション」の追い上げにあい、九八年三月期は四百三十三億円の赤字を計上してしまった。
セガは九八年十一月に起死回生策として新型の家庭用ゲーム機の「ドリームキャスト」を投入したが、発売直後に一部部品の生産の遅れで苦戦を余儀なくされている。その最中の九九年二月、入交はセガ社長のままGMの部品部門が独立したデルファイ・オートモティブ・システムの社外取締役に就任した。デルファイの社長に就任したJ・T・バッテンバーグ三世とオハイオ工場時代に懇意にしたことがきっかけだが、図らずも入交は依然として“自動車野郎”から抜け出せないことを印象付けた。
ホンダは一時の混迷期は脱したが、吉野の時代になって世界規模での業界再編成というホンダの将来を左右する難問が出てきた。吉野は創業者と先輩社長に倣って、あくまで自主独立を貫くことを表明しているが、果たして大競争(メガコンペティション)の時代で貫き通すことができるか。いま世界の自動車メーカーには、資源、環境、安全といった命題が重くのしかかっている。いくら巨大メーカーとはいえ、この命題を解決しなければ生き残れない。ところが燃料電池一つ取り上げても莫大な開発費がかかる。ホンダの悩みは一社でこの命題に対処できないことだ。そこで九九年十二月にいすゞ自動車会長の関和平の斡旋によりGMグループとの間で、エンジンの相互供給などを柱とする業務提携を結んだ。GMはすでにトヨタとの間で燃料電池車など環境技術開発で提携している。ホンダの狙いはトヨタ・GMの環境連合に加わることで、投資を抑制することだ。だが単なるコンポーネントビジネスの契約をしただけで、勝ち組同士が手を携えた環境連合に加盟できるかどうか予断を許さない。早晩、重大な選択を迫られよう。
二人の創業者が亡き後、ホンダの最長老となった河島喜好が“漂流するホンダの子供たち”の苦悩を何気なく呟いた。
「栄えた企業はいつかは衰退するのです。藤沢さんは『ホンダだけは永遠であってほしい』と願って、万物流転の法則に挑戦してきました。わたしは最近になって、人間の命に限りがあるように、企業の命も有限のような気がしているのです。ホンダは果たしていまどの辺にいるのか……」
宗一郎とホンダの関係を最もクールに見ているのが、正真正銘の“本田の子供”、本田博俊だろう。
「わたしは本田家の長男であっても、ホンダの人間ではない。親父が常に求めていたのは“自由”でした。あの人は内弁慶ならぬ“外弁慶”。家庭では自分がだれからも縛られたくない半面、だれをも縛らなかった。
親父に似たせいか、学芸会や運動会といった団体生活が苦手でした。組織に縛られるのがいやなのです。だから小さい時からホンダに入ろうとは思わなかった。大学を卒業して結婚した後もヒッピーのような生活を続け、ようやく今のレース車を開発する『無限』にたどり着きました。
あの人は歴史上の人物に関する本を読むのが好きだった。その中であからさまに軽蔑したのが秀吉でした。秀吉だけにはなりたくないと思ったのかどうか、わたしにも亡くなった弟にも一度もホンダに入れと言わなかった。
その半面、『ホンダはオレが作った会社』という自意識は人一倍強かった。生きている間は、とにかくホンダの将来を心配してました。しかし死んでしまえばすべて終りです。
わたしの目から見て、ホンダの社員はいつの間にか、見事なまでにサラリーマン化してしまった。親父がそれを見てどう思うか知りませんが、評論家的にいえばそれが時代なのでしょう。
川本さんは大変な時に社長になり、同情しました。しかし川本さんは自分の役目を十分果たしました。吉野さんも死んだ親父のことを気にせず、好きなようにやったらいいのです。自動車業界は世界的な再編成の時代を迎えています。ホンダがどうなるかは、いずれ結果が出るでしょう。もっともそれまでホンダが存在すればですがね……。むろんわたしには存在しているか、どうかは分かりません」
博俊もまた“漂流するホンダの子供たち”の一人なのかも知れない。
[#地付き]〈敬称略〉
私が日本経済新聞で最初に自動車業界を担当したのは、本田さんと藤沢さんが創業二十五周年を花道に引退した昭和四十八年(七三年)の春だった。引退に至るいきさつは、本書に克明に記録したが、当時まだホンダの歴史に疎かった私にとって、トップ人事の取材は難渋を極めた。
社長の宗一郎さんに聞いても「おれはそんなこと知らねいょ」の一言で終わり。「ノレンに腕押し」「ヤナギに風」。どうしても六本木の藤沢邸に通いつめることになる。藤沢邸では肝心の取材は適度にはぐらかされ、その代わり何度か「万物流転の法則」を聞かされた。
人間の命はともかく、昭和元禄の爛熟期で「企業は永遠である」ことを信じて取材を進めていただけに、藤沢さんの話には大いに興味をそそられた。
さらに引退した後、宗一郎さんが私財を拠出して設立した「本田財団」が二カ月に一度の割合で開く例会と、それに続くパーティーの場を通じ、晩年に至るまで十数年間宗一郎さんと直接話す機会に恵まれた。話題はホンダの内情については、お互い意識的に避けたが、時折宗一郎さんの口から本音や愚痴が出る。
今回、ホンダに関する本をまとめようとした動機は、ひとえに近年のホンダの迷走にある。宗一郎さんが亡くなった直後、さる出版社から宗一郎さんに関する本の出版を勧められたが、手持ちの情報だけで書けば、ホンダ礼賛の本になりかねないので、丁寧にお断りした。
ホンダに関する本をまとめる以上、じっくり時間をかけ、取材をし直して今日の土台を作り上げた二人の創業者の実像に、いくらかでも迫りたいという思いがあった。
二人の関係を示すエピソードは数限りなくあるが、中には“くさい”ものも紛れ込む。代表的なのが引退の時の二人の会話だろう。
その後、顔をあわせたとき、こちらに来いよと目で知らされたので、私は本田のとなりに行きました。
「まあまあだな」
「そう、まあまあさ」
「ここらでいいということにするか」
「そうしましょう」
すると本田はいいました。
「幸せだったな」
「ほんとうに幸福でした。心からお礼をいいます」
「おれも礼をいうよ。良い人生だったな」
それで引退の話は終わった。
藤沢さんが社内報や自著の中で書いていることもあり、ホンダ論や宗一郎論の本の中で必ず出てくる定番ともいうべきエピソードだ。
本田の歴史を知らない人が読めば、感動的なくだりである。さわやか引退に花を添えるエピソードとして、今日まで語り継がれているが、現役時代の二人の関係は、敬愛より敵愾心の方が強く、社内報に書いてあるようなノンビリしたものではなかった。
ホンダ神話のシナリオを書き続けてきた藤沢さんが、生前このエピソードについて解説してくれたことがある。
「あれは良かっただろう。(あたしが創作した中で)最高の傑作だ。ああしておけば、西落合も(あたしも)傷がつかない。逆にホンダのイメージが高まる」
大半のホンダの子供たちは、引退の舞台裏を知っている。だからこそ「創業者に関した本は、一切読まない」と口を揃える。しかし時間が経つにつれ、こうした“くさい”エピソードもいつしか独り歩きしてしまう。業績の良いうちは賞賛されるが、創業者が亡くなり業績が低迷し始めると、こうした麗しきエピソードも色が褪せてくる。
私自身、ホンダを取材し始めてからすでに四半世紀近くの時間が経つが、この本は私にとって前書の『巨人たちの握手』より難しかった。トヨタ・GM(ゼネラル・モーターズ)提携の舞台裏の人の動きを描いた前書は、自分が絡んだ、しかも限られた期間の出来事だっただけに、取材ノートも完備しており、あえて取材をやり直す必要はなかった。関係者に迷惑がかからないように、ただひたすら時間の経過を待つだけで良かった。
だが今回はいささか違った。執筆の狙いは、藤沢さんの「万物流転の法則」の考えをベースに、ホンダを通して「会社の寿命」を探ることにある。二人の創業者に限った話であれば、取材も執筆も比較的楽である。
主眼はタイトルに謳ったように創業者が経営の表舞台から去った後の素顔のホンダを描くことにある。ストーリーが現在進行形で、取材対象も第一線で苦闘している人たちである。
経営は結果であり、数字がすべてを物語る。数字が悪ければ、現役の経営者に対する批判は高まる。二人の創業者があまりにも偉大過ぎたため、業績が少しでも悪くなれば、世間の目は厳しくなる。
神話が崩壊した原因を創業者の遺産を受け継いだ人々から取材しなければ、目的は達せられない。果たしてホンダがこうした厳しい取材に応じてくれるか。私の拙い経験だけで書けないこともなかったが、独善性に陥る危険性は多分にある。
だがすべて杞憂に終わった。ホンダの現役経営者もOB役員も、さらにホンダを去った人も快く取材に応じてくれたことに心から感謝したい。一つだけ残念なことはノンフィクションだからこそ、立場上名前を出せなかった人が多かったことである。
また執筆・出版に際しては文藝春秋の藤沢隆志、仙頭寿顕、木俣正剛、白石一文、吉地真の五氏には終始貴重なアドバイスを、さらに私が勤務している日本経済新聞社出版局の酒井弘樹(現日経BP社ニューヨーク駐在)、渡辺智哉の両君にも多大な尽力を頂いた。ここに改めて感謝の意を表したい。
二〇〇〇年 春
[#地付き]佐藤正明
「自分の書いた本をより多くの人に読んでもらいたい」
モノ書きであればだれでも願っていることだ。自分の作品が日本のみならず、世界中で読んでもらえれば……。こんな夢のようなことが実現した。今回の文庫版の出版に合わせてオックスフォード大学出版(Oxford University Press=OUP)から英訳本が出版されるからだ。
きっかけはほんの偶然だった。本書は一九九五年四月に単行本で出版され、翌年、幸運にも第二十七回の大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。授賞式は六月半ばに行われたが、その一カ月半後の八月一日付のFT(ファイナンシャルタイムズ)に書評が載った。正直言って驚かされた。日本語で書かれた私の本に関する書評が紙面の四分の一のスペースを使っていたからである。タイトルは「古いホンダの精神回復へ、新たなる邁進」とあった。
書いてくれたのはFTの東京特派員、エミコ・テラゾノ(寺園恵美子)さんという女性である。むろん彼女とは一面識もなく、当然のことながら事前に書評が載ることすら知らなかった。これがOUPの目にとまった。その時は海外の出版事情を知らずに気軽に「オーケー」の返事を出した。そして勝手に「翻訳する時間を入れても一年後には英訳本が出来上がる」と思い込んだ。
しかし物事はそう簡単でなかった。OUPの最初の申し出はあくまで「英訳出版を検討したいので、レビューする権利が欲しい」ということだった。後で分かったことだが、オックスフォード大学には「すべての出版物は、適正な研究者により事前にレビューされなければならない」という規定がある。レビューというのは、OUPが出版するに値するかどうかを第三者の研究者に判定してもらうことである。むろん依頼された人物はオックスフォード大学出版の編集方針を理解し、日本経済や日本文化に通じ、しかも日本語にも堪能でなければならない。
OUPとの交渉は、私の処女出版(『巨人たちの握手』)の際、担当編集者だった日本経済新聞社出版局の酒井弘樹君(現・日経BP社ニューヨーク駐在)に一任することになった。一連の交渉で、OUPの出版物はロンドン、ニューヨークの二カ所で制作され、世界二十七カ国に及ぶ販売会社を通じ、辞書、教科書を含めゆうに年間三億冊を売り上げる巨大出版元であることが分かった。因みに日本の年間新刊販売部数はマンガを除いて四億五千万冊である。
OUPにおける私の担当者はニューヨーク本部のバイス・プレジデント兼エグゼクティブ・エディターのハーバード・アディソンさんである。そのアディソンさんに出版の動機を尋ねると、明快な答えが返ってきた。
「われわれが出すビジネス関連書は決して学術書だけではありません。生きた経済の実例として、大学のテキストに使えるものも出版しています。ただしテキストとして使う以上、その分野の決定版でなければ出版する意味がありません。『ホンダ神話』は十分それに堪えると信じています」
レビューは九七年に入ってはじまった。誰にレビューを依頼したかは、OUPのいわば“企業秘密”である。ところが春になっても何の音沙汰もなかったことから、しびれを切らし、アディソンさんにレビューの進捗状況を尋ねると、率直な謝りのメールが届いた。
「本件のレビューを一人に絞って依頼したことが、当方の誤りでした。その人の時間に振り回され、まだ結果が出ていません。そこで先頃、締切りを六月末に区切って別の人にもレビューを依頼しました」
そして七月に入ると、待望のレビュー結果が出た。アディソンさんは自分の考えていた通りの結果が出て、よほど嬉しかったのか、ニューヨークを訪ねた酒井君にこっそり報告書を見せてくれた。レビューの報告書には、次のようなことが書かれてあった。
「本書はフォードに関するロバート・レイシー著のベストセラーの路線にある本であり、自動車産業に関する学術書(オックスフォードはそういう書籍の出版社として知られている)の類いではない。本書は経営トップの人格、政策、戦術に焦点を当てており、その意味では深く掘り下げた書である。英訳出版については、多くの可能性を秘めている。研究者から見れば『脚注』や『参照』が全くないことが不満だろうが、本書の詳細な記述については感嘆するだろう。結論として、この本が適切に翻訳され、マーケティング(市場調査)されれば、アメリカやヨーロッパ(この物語ではヨーロッパも重要な位置を占めている)の市場に、大きな衝撃を与えることになろう。これは単にホンダもしくは自動車産業界をえがいたものではなく、大企業に成長したがゆえの“企業家精神の腐蝕”のケース・スタディーとなりうる書である」
レビューそのものは単なる本の紹介にとどまらず、翻訳者の資質からマーケティングまで含まれる。だがレビューの結果がいくら肯定的であっても、すぐには本にはならない。翻訳者を探す前に、OUPの編集会議にかけなければならない。これは難なくパスしたが、アディソンさんは翻訳者に、長年宣教師として日本に滞在し、近年まで国際基督教大学で言語学を教えていたノア・ブランネンさんを探してきた。
次が契約である。日本で本を出すときには、著者と出版社の間で契約書を交わすことは稀である。タイトルや装丁は編集者と協議するにしても、定価、発行部数は出版社任せである。契約書の草案はオックスフォード側が用意したが、その前に「オックスフォード大学出版の編集方針」と書かれた小冊子が送られてきた。
契約書は著者よりOUPに譲渡する権利著者に対するロイヤリティー著者の責任・義務その他――の四項目からなり立っている。契約書にはテレビ、映画からゲームに至るまでありとあらゆる可能性が盛り込んである。さらに事細かな印税率や英語以外の言語での出版についても触れている。
契約の草案を読んだだけで、米国がいかに契約社会であるかを身をもって知らされた。九七年十二月にサインをすると、年明け早々に契約のロイヤリティーに記載された前払い金が小切手で郵送されて来た。
後は翻訳が仕上がり、出版されるのを待つだけである。九八年に入ると、ブランネンさんから電子メールを通じて百数十カ所に及ぶ問い合わせが舞い込んできた。殆どが人名、地名そして自動車の専門用語に関するものだが、それでもブランネンさんの日本通ぶりにはただただ舌を巻くばかり。
翻訳は着手してから約十カ月後の九八年六月に出来上がり、私の手元にも届いた。日本的な感覚からすれば、契約を終え翻訳も出来たとなれば、誰もがどんなに遅くとも六カ月以内の九八年内に出版されると思う。ところが八月に出張でニューヨークに立ち寄ったところ、アディソンさんから日本の出版界では考えられない作業を打ち明けられた。
「翻訳は上がりました。しかしこの翻訳が、果たして正確な現代英語に訳されているかどうかを確認する作業をしなければなりません。同時並行して自動車の専門家に見せて、専門用語が誰にでも分かるように翻訳されているかをチェックしなければなりません。この作業は自動車産業の権威であるミシガン大学のマイケル・フリン先生にお願いするつもりです」
翌九九年の春に再び仕事でニューヨークを訪れた際、アディソンさんに会い、最終的なスケジュールを打ち合わせた。
「原稿はフリン先生から昨年末に戻してもらいました。訂正が二百カ所ほどありました。しかし誤解しないで下さい。著者には責任がありません。自動車の専門用語の翻訳が適切でないところが二百カ所あるという意味です。ところでそろそろ本のタイトルを決めなければなりませんが私個人としては、タイトルは『Honda』とし、サブタイトルに『The Men who Made the Car and the Myth』(自動車と神話を作った男たち)にしたいと思っています」
この時の打ち合わせで、年内にカバーを含めた仮り綴じ(見本)を作り、二〇〇〇年の年明けからマーケティングに入るスケジュールが決まった。そして夏過ぎにマーケティングに伴う資料提出の要請が届いた。質問項目は軽く三十を上回っている。著者のフルネーム、国籍、出生地、生年月日、学歴、教育歴、会社及び自宅の住所、電話・ファックス番号、電子メールのアドレス、現職、日本経済新聞社時代の役職、受賞歴、過去に出版した作品の題名、出版社、販売部数、今後の出版予定日……等々。ここまではそれほど時間はかからないが、問題はその後。質問は微に入り細にわたる。
「本の表紙やカタログに使うので、今回、出版する本を三百ワードに要約して下さい」
「前の質問と関連しますが、広告・宣伝などに使うので今度は七十五ワードに要約して下さい」
こうなると大野晋さんのベストセラー『日本語練習帳』ならぬ『英語練習帳』である。
質問はだんだんと核心に迫っていく。
「この本の中で特に強調しておきたい、PRに役立つ特徴的なことや売り物を説明して下さい」
「今回の本と競合しそうなあなた自身の過去の本、将来出版予定の本、競合する他の出版物についての情報を書いて下さい。著者名、タイトル、出版社名。そして比較した場合のあなたの本の優位性、弱点は」
「今回の本の主要な読者層はどこか。または次に来る読者層は誰か」
「この本の抄録に興味をもちそうな新聞社や雑誌社の担当者の名前を教えて下さい」
「この本の推薦文を書いてくれそうな人、さらに書評を書いてくれそうな人を教えて下さい」
このように少しでも販売につながる可能性のある質問が延々と続き、最後に「著者が米国に来る日程を教えて下さい」の質問で終わる。発売前に来る予定があれば、マーケティングに協力して欲しいという狙いである。
ともあれ二〇〇〇年の年明けにようやく仮り綴じが出来上がり、OUPは現在、精力的にマーケティング活動を進めている。『ホンダ神話』の取材・執筆に要した時間は約二年。そして英訳出版には倍の四年を費やしたことになる。今回の英訳本を通じて日米における本作りの違いをまざまざと見せつけられた。
二〇〇〇年 春
[#地付き]佐藤正明
「経営に終わりはない」
藤沢武夫 ネスコ
「本田宗一郎グラフィティ夢の轍」
池田政次郎 プレジデント社
「隗より始めよ」
西田通弘 かんき出版
「ミスター・ホンダ」
ソル・サンダース コンピュータエージ社
「本田宗一郎の『人の心を買う術』」
城山三郎 河島喜好 西田通弘 プレジデント社
「世界が俺を待っている」
中部博 集英社
「ホンダ・ウェイ」
R・L・シュック ダイヤモンド社
「本田宗一郎の育てられかた」
上之郷利昭 講談社
「本田宗一郎 男の幸福論」
梶原一明 PHP研究所
「本田宗一郎と藤沢武夫に学んだこと」
西田通弘 PHP研究所
「藤沢武夫の研究」
山本祐輔 かのう書房
「ホンダ神話は崩壊したか」
日本経済新聞社編 日本経済新聞社
「ホンダの本当の姿」
更木長義 アップル出版社
「ホンダ経営 強さの秘密」
錦織尚 ユニオン出版
「ゼロからの挑戦」
桜井淑敏 祥伝社
「ホンダ語ハンドブック」
国友隆一 日本実業出版社
「ひとりぼっちの風雲児」
中村良夫 山海堂
「かるすおうとますと」
中村良夫 二玄社
「ホンダN360のすべて」
モーターマガジン編集部 モーターマガジン社
「会社の寿命」
日経ビジネス編 日本経済新聞社
「ホンダはF1をいかに戦ったか」
桂木洋二 グランプリ出版
「燃えるホンダ技術屋集団」
碇義郎 ダイヤモンド社
「巨人たちの握手」
佐藤正明 日本経済新聞社
「語りつぐ経営」
西田通弘 講談社
「本田宗一郎『一日一話』」
PHP研究所編 PHP研究所
「得手に帆をあげて」
本田宗一郎 三笠書房
「ホンダ式大成功への海外戦略」
崎谷哲夫 ジャテック出版
「いまHONDAを世界が見つめている」
中沢龍一 三宅彰 エール出版
「松明は自分の手で」
藤沢武夫 産業能率大学
「人間宗一郎」
間瀬明 エス・イー・エル・インターナショナル
「ホンダ用語でホンダを学ぼう」
山本行雄 にっかん書房
「本田宗一郎からの手紙」
片山修編 ネスコ
「退き際の研究」
内橋克人 日本経済新聞社
「私の手が語る」
本田宗一郎 講談社
「本田宗一郎の真実」
軍司貞則 講談社
「ディーラーパニック」
安森寿朗 ダイヤモンド社
「決断」
豊田英二 日本経済新聞社
[#改ページ]
単行本
一九九五年四月 文藝春秋刊
[#改ページ]
文春ウェブ文庫版
ホンダ神話(下)
教祖のなき後で
二〇〇二年十一月二十日 第一版
著 者 佐藤正明
発行人 笹本弘一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
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bb021105