東大落城 安田講堂攻防七十二時間
〈底 本〉文春文庫 平成八年一月十日刊
(C) Sassa Agency 2003
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目  次
プロローグ
第一章 任 命
学園紛争の嵐が最高潮に達した昭和四十三年十一月、香港から帰国したばかりの筆者に一枚の辞令が下りた。「警備第一課長ヲ命ズ」
第二章 出 動
学園自治を原則に機動隊による封鎖解除を拒む大学当局。一方、全共闘側の「東大解体」の執念は凄まじい。加藤一郎学長代行の決断は?
第三章 包 囲
昭和四十四年一月十八日午前七時五分、医学部の攻防から学園紛争天王山の戦いの火ぶたは切られた。そして林健太郎監禁事件の真実
第四章 突 入
火ダルマになった機動隊員、黒煙につつまれる列品館、法学研究室にはガソリンがまかれる。さらには神田地区でも不穏な動きが……
第五章 激 闘
“本丸”安田講堂攻めが始まった。学生側の抵抗は予想以上に激しく負傷者が続出。夕暮れ迫るなかついに作業中止命令がだされる
第六章 落 城
早朝六時三十分、攻撃再開。次々と突入口から暗闇の講堂内へ飛び込む隊員たち。石塊、火炎ビン攻めに耐え一歩一歩前進してゆく
第七章 終 熄
敷石はがし作戦をもって七十二時間の死闘は幕を閉じる。後日、奏上した秦野警視総監に対する昭和天皇のお言葉は意外なものだった
エピローグ
あ と が き
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東大落城 安田講堂攻防七十二時間

プロローグ
十七名の女闘士
平成三年三月二十八日、テレビ・ニュースで、昭和四十三年の東大紛争以来ずっと“|開《あ》かずの間”だった本郷キャンパスの安田講堂で、二十四年ぶりに東京大学全校・十学部、三千三百四十八名の合同卒業式が行われたことを知った。
八億円もの巨費を投じてすっかり綺麗に修復された安田講堂と、湾岸戦争などどこ吹く風とばかり、屈託なくしあわせそうに笑いさざめいている新卒業生たちの姿がブラウン管に映し出される。
昔はコンクリートで舗装されただけの殺風景な講堂前広場には、緑の植え込みが色鮮やかな模様を描き、学園は平和そのものだ。
「安田講堂事件って、知ってますか?」
と、取材記者にマイクを向けられた眼鏡の女子学生が答える。
「さあ、私が生まれた頃の話なんで、よくわかりませんけれども、二十四年ぶりってきくと、ヘーンな気持ちですね」
無理もない話だ。平成時代の若者にとって「東大安田講堂事件」はもはや遠い昔の歴史上の出来事である。昭和一|桁《けた》生まれの私たちが「日露戦争って知ってますか」と訊かれるようなものだ。変化のはげしい現代にあっては、四半世紀の歳月があっという間に「昭和」を歴史の一頁にしてしまったにちがいない。
このインタビューのやりとりをきいたとき、ふと俳人・中村草田男の名句、
「降る雪や明治は遠くなりにけり」
をもじった駄句が頭に浮かんだ。
「咲く|桜《はな》や昭和は歴史になりにけり」
四月に入ってから行われた東大入学式の映像はもっと印象的で、私にとっては一種のカルチュア・ショックだった。
ウェディング・ドレスとみまがう純白のロング・ドレスにレースの手袋という盛装の女子新入生が一人、取材陣にとり囲まれてにこやかに|佇《たたず》んでいたからだ。
フラッシュを浴びながら、記者の質問に答えて彼女は、
「東大と結婚します」といった。
“花嫁衣装”の彼女をみているうちに、私の記憶はフラッシュバックして二十三年前の昭和四十四年(一九六九年)一月十九日に戻った。彼女の姿とオーバーラップするように、時代こそ変われ、場所も同じ、安田講堂で目撃した籠城組全共闘の女闘士のつかれ切った姿が網膜に浮かんできたのである。
時刻は午後五時四十六分頃。“安田城”落城の直後、冬の陽はすでに沈み、たそがれ残る安田講堂玄関前は薄闇に包まれはじめていた。
手錠をかけられた全共闘の女子学生第一号が、機動隊員に手荒くひき立てられてきた。
みるとヘルメットにタオルの覆面、顔は火炎ビンの|煤《すす》で真っ黒。放水でズブ濡れのジャンパーにジーンズという画一的なゲバ・スタイル。セクト集団に埋没して一体化するため、昭和四十年代の女闘士たちは誰もが没個性的な汚れ役の扮装をしていた。
鳥の巣のようにもつれてヘルメットからはみ出ている長い黒髪と、抗議の金切り声がなければ男女の見分けもつかない有様だ。
女性検挙者第一号とあって、取材のカメラマンが殺到しカメラの放列を敷く。フラッシュを浴びて夕闇に浮かぶ彼女の姿がポジ、ネガ、ポジ、ネガと明滅する。
「おい、顔写真とらせろ。顔をあげさせろ」
カメラマンが怒鳴る。気温は摂氏二、三度。濡れた着衣が体温で暖められ、湯気が立ちのぼる。長い間の籠城で風呂にも入らず着替えもしなかったらしい女闘士は、悪臭をふりまきながら|銀杏《いちよう》並木で待ち構えている金網つきの灰色の護送車に連行されてゆく。
記者たちがメモを片手に口々にたずねてくる。
「警備課長、昨夜、女は講堂にはいないっていったけど、いたんですね。話がちがうじゃないですか。何人いたんです? 女の検挙者は何人ですか?」
「いま入った報告だと、三名だって」
あとでわかったことだが、実際は安田講堂には全部で十七名の女子学生がいた。
前夜の情報では、給食班や救対班(看護班のこと)として活動していた数十人の女子学生たちは、各セクトの機関決定によって“城攻め”前夜に全員脱出したとのことだった。
だが、実際は九州などからきた応援女子学生ら十七名の女闘士が、脱出を潔しとせずに最後までふみ止まって機動隊に向かって徹底抗戦したことが、“安田城”が落城して初めてわかった。
十七名の中に東大女子学生は一人もいなかった。
すべて他の大学から東大闘争支援のため馳せ参じた“外人部隊”だったのである。
なかには男子学生と同様、女の命の長い黒髪をばっさり断ってボブ・ヘアにした|女《こ》もいた。
落城直前、つかの間の静寂が戻った東大構内に、しばらく途絶えていた「時計台放送」が再開され、荒れ果てた構内に頭上から女の声が流れてきた。加藤一郎東大学長代行(新聞等は総長代行という肩書をつかっていたが、当時の東大関係者、警備関係者は学長代行と呼んでいた)をはじめ東大教職員が三々五々、安田講堂の下に集まって心配そうに頭上を見上げている。
屋上に追いあげられた数十人の籠城学生たちはドーム屋根の一隅に集まってセクト旗を振り、肩や腕をくみ、左右に揺れながら、二日間の攻防戦でしゃがれた声をふり絞って、「インターナショナル」や「国際学連の歌」を合唱していた。女性の声もまじっている。
三島由紀夫からの電話
私は講堂前にいた加藤代行に「呼びかけなさいますか? よかったらこのマイクで……」と、警備広報用の強力なハンド・マイクを手渡す。うなずいた代行が呼びかけを始める。
ラウド・スピーカーを通じて、加藤代行の氷のように冷静で感情を抑えた声が、静寂が戻った東大構内に響きわたる。
「……これ以上無用の抵抗を続けると危険です。速やかに出てきて下さい」
放水を浴びて故障したのか、スピーカーの電池が切れかけているのか、時計台からは女性による涙声のアジ演説がとぎれとぎれに流れてくる。
「これが最後の放送に……しかし最後まで……加藤一郎、この声が聞こえますか。われわれの闘いは終わりではなく、これから開始されようとしているのです……」
「心配だなあ、まさか飛び降りたりしないでしょうね……」
心配そうに加藤代行が独り言を|呟《つぶや》く。
「|佐々《さつさ》さん、どうでしょう? 飛び降りるのがいるだろうか」
藤木英雄教授(法学部。故人)が話しかけてくる。
「さあ……?」
そんなこときかれても、もちろんわからない。
肩を叩かれてふりむくと、伝令がメモを差し出してきた。
「本部からです」
目をこらして読んでみる。
「三島由紀夫さんから課長宛、本部に電話あり、学生を飛び降りさせないよう、慎重にしてほしいとの伝言あり、お返事はいらない由」と書いてある。
みんなテレビの実況中継をみて、現場の我々と同じ危惧を抱いているのだ。
幸いに飛び降り自殺をする者はいなかった。
だが、心配になった私は最後の仕上げを見届けようと、警備第一課長付幕僚の松浦洋治課長代理とともに安田講堂内に入った。崩れたバリケードが散乱する真っ暗な階段を、機動隊員や検挙された学生たちが上から降りてくるのをかきわけかきわけ、流れに逆行して屋上へ向かった。
“城攻め”の最中に、機動隊長たちから「課長、屋根に出るところの最後の階段、どうなっとるんですか?」ときかれて閉口したことを思い出す。
「そんなこと、知らないよ」
「でも課長、東大出でしょう」
「いくら東大出っていったって、在学中、入学式と卒業式のときしか安田講堂に入らないもん。学生課ぐらいまでは行ったけど、屋上や屋根の上なんかあがったことないよ」
実際に上へあがってみると、それは鉄製の|螺旋《らせん》階段だった。
機動隊員たちは、最後のバリケードを体をまるめてかいくぐり、あるいは馬乗りに乗り越えて、次々と安田講堂屋上に躍り出てゆく。
ドーム状の屋根は、高価な銅板と思われる|緑青《ろくしよう》のふき出た金属板で|葺《ふ》いてあった。
さすがに安田財閥創始者・安田善次郎氏の寄進にかかる国の指定文化財である安田講堂だ。人に見えないところにも金をかけてある……と妙な時に、変なことで感心する。
屋根の表面は、火炎ビンや石油缶からこぼれたガソリン、灯油や催涙ガス・P弾(パウダーのP)の白い粉末、携帯消火器の泡などが付着しまざり、そこに放水がかかってぬるぬるになり、足元がつるつる滑る。これは危険きわまりない検挙活動になるぞととっさに思う。
真中の時計台を中心に、中高の傾斜面をなして屋根板が葺いてあって、それが濡れて滑りやすいのだから、へたに取っ組み合えばそのまままっさかさまに三十メートル下のコンクリート広場に叩きつけられてしまうことになる。むろん即死だ。
屋上の入口でハラハラしながら見守っているうちに、幸い籠城学生たちは抵抗をやめ、手をあげて降伏、七十六名全員を無事逮捕した。
やれやれと一安心したが、「アーッ」という絶叫をきいてギョッとなる。
見れば屋上の検挙活動を陣頭指揮していた第五機動隊(五機)隊長・青柳敏夫警視がぬるぬるの屋根で出動靴の足を踏みすべらせたのか、その巨体が傾斜面を滑り落ちてゆく。
一瞬、全員が凍りついたようになる。そのまま落下すれば、もちろん殉職だ。
だが間一髪、足先が|樋《とい》のような凸部にひっかかり、かろうじて落下をまぬがれた。
立ち上がった青柳隊長、さすがに声も出ない。
胆を冷やす一瞬の出来事だった……。
二十三年前、安田講堂で逮捕された「全共闘時代」の女子学生のおどろおどろしい形相と、平成三年の入学式にウェディング・ドレスで登場した平成の女子学生のにこやかな笑顔。この二つをモンタージュして重ねあわせてもいっこうにピントがあわない。
どちらもいわばそれぞれの時代を代表する平均的人間像ではなくて、両極端とみるのが妥当なのだろう。ともに昭和・平成各時代の女子学生の実像からはみ出した“ゴースト”かもしれない。
だが「東大と結婚します」といい切った花嫁衣装の平成女子学生と、東大をぶっ潰すことを決意し、「自己破壊の美学」に酔ったエリート東大全共闘に「恋」し、「東大闘争と結婚する」ような気持ちで、身にボロをまといながらも、心に花嫁衣装を着て“安田城”に籠城した“外人部隊”の女子学生との間に深い世代の断絶の亀裂が走っているのは確かだ。
挫折した東大全共闘は安田講堂事件の総括をきちんとしていない。この十分説明されなかった二十三年の歳月が、全共闘世代と平成世代を引き裂いてしまったのだ。
歴史の「|語部《かたりべ》」として
東大安田講堂事件が起きた昭和四十四年一月、私は警視庁警備部の警備第一課長(機動隊による治安警備担当課長)の職に在る警視正だった。
年齢は三十八歳、三児の父。
ときの警視総監・秦野章(後・参議院議員。元法務大臣)、警備部長・|下稲葉《しもいなば》耕吉警視長(後・警視総監。現・自民党参議院議員)を補佐して、東大安田講堂の“城攻め”という、世紀の大作戦を計画立案準備し、それを執行した「幕僚長」が私の役柄であった。と同時に八千五百名の機動隊員とともに「東大安田城攻防戦」と、それに引き続く「神田カルチエラタン東大奪還闘争」の市街戦に参加した、生き証人であり、事件の現場目撃者でもある。
一月十八、十九両日の安田講堂攻防戦と、神田カルチエラタン闘争警備の市街戦で、三十四名の重傷者をふくむ、
――五百九十五名、
の警察官が負傷した。(記録によると、学生側の負傷者は重傷者一名をふくむ四十七名、一般人は十四名となっている)
なかには今でもその時の後遺症に悩んでいる気の毒な人たちもいる。
過労と激務のため病いを得て、私の目からみれば明らかな“事後殉職”を遂げた警察官は、上級幹部だけでも、後藤信義前警備部長、村上健公安総務課長、森田高義警備第一課管理官、増田美正六機隊長(いずれも安田講堂事件当時の役職)の四人を数える。
のちに、昭和四十七年(一九七二年)二月二十八日、「浅間山荘事件」の最前線で壮烈な殉職を遂げた内田尚孝二機隊長と、高見繁光特科車輛中隊長も、安田講堂攻防戦に参加した警察幹部だった。
近年「3K」(きつい・汚い・危険)ということがよくいわれるが、あの頃の警備・公安部や機動隊勤務者は、これが「3K」でなければ何を「3K」とよぶのかといいたくなるほどの、想像を絶する苛酷な勤務条件の下で、第二次反安保闘争が火を噴いた昭和四十二年から四十五年にかけてのほぼ三年間を、毎日「死」や受傷の危険と隣りあわせの“戦時勤務”に服した。
彼らもみんな、親兄弟もあれば妻子や恋人もいる生身の人間だった。何回も何回もくり返し負傷した隊員も多い。
平成の平和な日々からみると、あの時期に警視庁の警備・公安部や機動隊勤務だったということは、人間の運、不運の問題だったのかも知れない。だが彼らは、あの動乱の時代にたまたまそういう勤務配置であったがゆえに、治安と秩序を守るという任務を果たした。常に誰かがやらなければいけない危機管理の大任を、「命令による任務」として遂行し、続発した集団暴力事件との命がけの闘いの日々を過ごした。
一日平均出動回数三回、毎日十一名が負傷し、土曜、日曜も祝祭日も関係なく出動した。
特筆すべきことは、彼らが信じられないような安月給にもかかわらず、このすさまじい非人間的な勤務を九百九十日間、ほとんど離職者ゼロで闘い抜いたことだ。
あの苦しい日々をともに戦った八千五百名の機動隊員のために、事件の目撃者であり、歴史の生き証人である元警備第一課長として、私は彼らの隠れた功績を顕彰し、また後代の警察官たちに“たいまつ”を手渡す歴史の「|語部《かたりべ》」の役を果たそうと思う。
昭和四十四年一月十八日から二十日にかけての安田講堂攻防戦と神田地区警備の三日間、七十二時間に、安田講堂の中で一体なにがあったのか、東大本郷キャンパスになにが起きたのか、そしてあわせて「全共闘の時代」とは、「学園紛争」とはなんだったのか、説明されていない昭和史の空白の頁を当時の警備責任者の一人として、記憶と手帳のメモと彼我の資料に基づいて埋め、歴史をリプレイしてみたい。
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第一章 任 命
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学園紛争の嵐が最高潮に達した昭和四十三年十一月、香港から帰国したばかりの筆者に一枚の辞令が下りた。「警備第一課長ヲ命ズ」

香港からの帰国
昭和四十三年(一九六八年)六月二十九日(土)午後九時、妻と幼稚園児の長男、それに香港生まれの次男・三男を連れて私は羽田空港に着いた。三年四カ月の香港総領事館勤務を終えての帰国だった。
早速週明けの月曜日、七月一日に辞令交付だという。三十日の日曜日は、終日数十人の先輩・同僚・友人・親戚に、電話をかけまくって帰国報告をしてすごした。
引越し荷物はおろか、日航機で別送した当座の手荷物も届かぬうちに、七月一日、桜田門の警視庁人事課に出頭する。
「警視庁公安部・外事第一課長ヲ命ズ、警視正ニ任ズ」という辞令をもらって、警視庁に即日赴任した。俸給は公安職二等級二号、月額七万九千七百円だった。
前任者は三期後輩の|椿原《つばきばら》正博氏。捜査第四課長(暴力団担当)に転出したユーモラスな人物で、
「後任に“そもそも外事一課とは”って一場の訓示を垂れて、英字新聞の読み方を知ってるかってハッパをかけようと思ってたら、外事の専門家のとんでもない先輩がきちゃって、訓示の機会、失いましたよ」と笑う。
この異動は、安保闘争がらみの異例の人事だった。
当時は、ベトナム戦争と中国の文化大革命の余波を受けて起こった“香港暴動”がようやく鎮まりかけていた時期だった。
私は香港政庁の治安当局との情報連絡と、在留邦人保護救出のエヴァキュエイション・プラン(脱出計画)を担当していた関係で、ときの遠藤又男総領事(後・チリ大使。故人)の希望であと一年、昭和四十四年二月まで留任することになっていた。
そのため後任予定だった|鳴海《なるみ》国博警視正は、この四月に外務研修所の六カ月研修コースに入所したばかりだった。
ところが、その出向人事が急にすべて変更になって、「六月末日までに警察庁に帰任せよ」ということに相成った。
風の便りできくところだと、秦野章警視総監の強い意向で、警察庁も押し切られたという話だ。風雲急を告げる第二次反安保闘争の嵐の中で、警視庁に“ドンパチ要員”を結集する方針ときく。
同年一月二十九日、たまたまサイゴン出張中にベトコンの“テト攻勢”とよばれる大奇襲攻勢に遭遇し、当時内閣調査室調査官としてやはりサイゴンに出張中だった|海江田《かいえだ》鶴造氏(後・参議院議員)とともに大使館に籠城した。
タンソンニュット空港はベトコンに制圧され、サイゴンは市街戦の修羅場となり、脱出不可能となったからである。
警察庁から出向の三井一正一等書記官と三人で、青木盛夫大使(故人)を助けて、戦況に関する米軍情報をとって東京に打電したり、八百五十人といわれた在留邦人の安否を確認したり、戦場と化したサイゴンで“危機管理”に携わっていたものだ。
本省からは「臨時ニ在ベトナム日本大使館勤務ヲ命ズ、一等書記官ニ任ズ」という任命電報がきて、はて、生きて帰れるかなと懸念しながら働いていた。
この経験と、一年有余に及ぶ香港暴動の間の勤務ぶりが、帰国した海江田氏や、外務省の|越智《おち》啓介電信課長(後・スウェーデン大使。故人)の口から、秦野総監の耳に入って、“ドンパチ要員”と認定されたのだろう。
というわけで私の帰国人事は、外務省は怒る、遠藤総領事にはにらまれる、警察庁も不機嫌、後任の鳴海領事も研修所中退で赴任してゆくという騒ぎになった。
海外勤務から帰国した者は“浦島太郎”扱いで、慣例としてリハビリテーションのため警察大学とか関東管区警察局で半年くらい閑職に就いて身辺整理をしたり、挨拶まわりや三年間の海外勤務で得た知識を報告書にまとめたりするのが当時の“ふつうの人事”だった。
ところが外事第一課に着任してみると、ここも戦場騒ぎだった。
毎日毎晩、都内のバリケード封鎖された学園で、代々木派と反代々木派三派系全学連の内ゲバや荒れ模様の集会、デモが起こり、機動隊とともに公安部私服の情報班や検挙班が、殺気立って出陣してゆく。
外事第一課も、ちょうど十年前の第一次反安保闘争のときと同じで、予備隊として本庁待機を命ぜられていて、突然出動下令がある。すると一番の荒れ場に投入されることが多いから、負傷者率が高い。第一次反安保闘争警備の際は、私は外事課第一係長の警視で、私服百四名の部下をもつ中隊長だった。町田和夫警部、|鴻巣《こうのす》福太郎警部の二人が主任警部だったが、相次ぐ荒れ場への出動で、百四名の部下のうち、五十七名が負傷したのを覚えている。外事課はそういう損な役割で、第二次反安保のときも負傷者続出だった。
西条巡査部長の殉職
とうとう、殉職者が出てしまった。だから思い切って催涙ガスを使えって、外野から叫んでいたのに――。
昭和四十三年九月四日のことである。第五機動隊・第三中隊・第二小隊・第三分隊長の西条秀雄巡査部長(三十四歳)が殉職した。
九月四日午前五時四十分頃、神田三崎町の日本大学経済学部本館に対する仮処分執行の支援警備に従事していた西条分隊長は、本館をバリケード封鎖して占拠していた過激派学生が四階から投下した人頭大の石塊を頭部に受けて昏倒。病院に運ばれたが、頭蓋骨骨折で二十五日後の九月二十九日に亡くなった。
投石で倒れた部下を|庇《かば》おうとして、自分が致命傷を負ってしまったのだ。
日大紛争についてはあとで詳しく述べるが、その発端は日大・古田|重二良《じゆうじろう》会頭以下、経営陣や大学当局の商業主義に徹した不明朗経理と、二十億円にのぼるといわれた古田会頭自身の背任横領容疑事件にあった。
警視庁は最初はどちらかというと、「これじゃあ日大の学生たちが怒るのも無理はない」と、内心ひそかに秋田|明大《あけひろ》日大全共闘議長の率いる学園民主化運動に理解を示していた。
そしてわがまま勝手で無責任な大学当局の機動隊出動要請に、やや中っ腹で対応してきていたのだ。
警視庁の全警察官が憤激し、日大全共闘に対する姿勢が厳しくなっていったのは、西条警部(殉職後二階級特進)の警視庁葬がとり行われてから後のことである。
十月二日に行われた庁葬には全所属長(部課長・署長のこと)が出席した。
悲しみに沈む西条未亡人と、事情がまだのみこめず脅えたようにキョトキョトしている二人の幼い遺児たちを目にした槙野勇副総監(後・警視総監)が、「正視に堪えんなあ」と呟いてうつむく。
居ならぶ部課長・署長らは、ブルー・グレイの合の制服に制帽、黒の喪章、白手袋という略礼装だ。弔詞が読み進まれるうちに、会場内にチラチラ、白いものが波打つ。みんな、白手袋で熱くなる目頭をぬぐっているのだ。涙はみせまいと思っていても、熱いものが頬を伝う。いい加減にしろ、学生ども、機動隊員だって妻子があるんだぞ、あんなでっかい石を落として、主義主張のためには人殺しもいとわぬということか……。
この警視庁全体の怒りは、殉職翌日の各紙に掲載された当時の公安部・公安第一課長の村上健警視正の談話に、如実に表現されていた。
「警視庁はこれまで学生側にもいい分があると思っていたが、もうこれからは手加減しない」
石原慎太郎参議院議員が、十月二十五日わざわざ西条警部の遺族と、第五機動隊に弔問にきてくれた。この人にはどこか少年のような純粋さがある。きちんと正座して未亡人にお悔みをのべる。
目をシバシバさせる癖が、今日はひときわはげしい。涙をみせないようにまばたきをしているのだろう。
五機隊舎で、西条警部の命を奪った人頭大の石塊をみて、石原氏の顔がひきつる。
「こんなの、四階から落としたら、あたった人は死ぬにきまっているじゃないですか。なに考えてんだ、連中は……」
部下を死なせた責任感と罪悪感にうちひしがれて、このところずっと沈痛な面持ちの青柳敏夫五機隊長が、黙ったまま深く頭を下げる。
日大闘争警備は、紛争が始まった昭和四十三年四月二十日から、ほぼ紛争が|終熄《しゆうそく》した昭和四十五年六月十一日までの約二年二カ月間に、機動隊員数延べ十万一千六百九十一名が延べ二百七十七回出動し、殉職一名、重軽傷三百八十四名の損害を受けた。
「警備第一課長ヲ命ズ」
昭和四十三年十一月一日付で、私は「警視庁警備部・警備第一課長ヲ命ズ」という辞令を受けた。
この日を機に警備部の組織改編が行われ、それまで一つの課だった三百人近い「警備課」が、主として治安警備の実施を担当する警備第一課と、装備や訓練、後方支援を分掌する警備第二課とにわかれ、私はその第一課の初代課長を命ぜられたのである。
内示があったのは、つい数日前だ。
この人事も“戦時中”ならではの異例の人事だった。
「一〇・二一国際反戦デー」のいわゆる「新宿|騒擾《そうじよう》事件」の昂奮さめやらず、疲労がまだ重くのこっていた十月下旬のある晴れた日のことである。久々に警察庁外事課に外事第一課本来の事務報告に行って帰り、警視庁の廊下を歩いていると、向こうから来た顔なじみの新聞記者が、私に、
「よう、警備課長」
と声をかけてきた。こりゃあこの間の十月二十一日の夜、秦野総監の特命で臨時に警視庁総合警備指揮所におかれた「一〇・二一国際反戦デー」警備本部で、警備課長代行をやったことをからかってるんだな。……そう思ったのでこちらも、「よう、よう」なんて手を振って応じる。
一〇・二一闘争の日、新宿で起きた一大騒擾事件に「騒擾罪」が適用されたのは夜遅くのことで、したがってこれが世に知られる「新宿騒擾事件」と正式名称で呼ばれるようになるのは後のことである。
あの大混乱の夜、警備課長が現場に出てしまったのか、連絡不能となった。
私は公安部外事第一課長として、公安情報幕僚の一員となって秦野総監の陣どる総合指揮所の最高幹部室に控えていた。すると突然総監から、「おい、佐々君、君、代わって指揮執れっ」と下命された。
「はあ? 私がですか?」
「いいから君やれ、警備課長と連絡がつかんのだ。警備実施のデスクへゆけ」
指揮を執れといったって、外事第一課長に指揮権はない。
総合指揮所のデスクにいる警備課の連中だっていうことをきくわけがない。とっさに、これは広域にわたり乱戦状態になった新宿駅周辺、国会、防衛庁、麹町署、アメリカ大使館各方面の緊急報告を情報デスクでまとめて、最高幹部室の首脳に伝え、上からの指揮命令を大部屋の警備実施デスクに指示するという、作戦参謀の任務をすればいいんだなと判断した。
その夜、私は警視庁五階の広い総合指揮所の中をとびまわって、混乱する至急情報を整理し、部隊の運用についての意見具申や指揮伺いを、早暁まで続けた。
総合指揮所にはガラス張りの記者室がある。そんな私の姿を見ていた記者が、「よう、警備課長」とてっきりからかったのだろうと思ったのだった。
「新宿騒擾事件」といっても、これまた「昭和史」の一頁になってしまって、多くの人が忘れているだろうから、概要をかいつまんで説明してみよう。
反安保共闘会議は、昭和四十三年の十月二十一日の国際反戦デーを、「きたる七〇年安保闘争の本格化への第一歩とする」(総評)、「突破口とする」(全学連各派)と位置づけ、この日を「総評・中立労連」「代々木系全学連」「反代々木系学生集団及び反戦青年委員会」の三グループによる統一街頭行動日と定めて、都内四十三カ所でデモ・集会を行った。参加人員約四万八千人。これに対して警視庁は「総合警備本部」を設置し、一万四千五百四十九名の機動隊・方面機動隊を配置する態勢で警備に臨んだ。
総評系と代々木系全学連のデモ集会はおおむね平穏に終了したが、反代々木系各セクトは、米軍基地反対闘争の一環として、米軍ジェット燃料タンク輸送車阻止をはかって、その輸送経路である新宿駅を攻撃目標とした武力闘争を展開した。その前段闘争として、社学同約八百名が防衛庁突入を、フロント・革マル派約二千七百名は麹町警察署、反帝学評約一千二百名は国会突入を、反戦青年委員会約三百名はアメリカ大使館突入を、それぞれ計画し政府中枢機関に対する同時多正面攻撃を展開した。
中核派・ML・四トロら約一千名は最初から新宿駅をめざし、折柄ラッシュ時の新宿は野次馬も加わって一大騒擾状態となった。
さらに夜になると各セクト合計約三千名の暴力学生集団が新宿に結集し、国鉄の電車や路上の車輛、警察車輛に放火して重大な事態に発展した。警視庁は二十二日午前零時十五分、新宿地区の暴徒に対し、昭和二十七年のメーデー事件以来、十六年ぶりに「騒擾罪」を適用した。総合警備本部を警視総監直率の「最高警備本部」態勢に切り替え、総力をあげて暴動鎮圧に当たり、午前三時頃ようやく治安を回復した。検挙者七百七十名。警察官の負傷者は、重傷者八名をふくむ七百四十四名にのぼった。
記者とわかれて外事第一課長室に戻ると、
「公安部長がお呼びです」
と秘書嬢がいう。気軽く応じて部長室に行く。公安部長は山本鎮彦警視長(後・警察庁長官。元ベルギー大使)だった。戦後最大のソ連スパイ事件である「ラストボロフ事件」の際、警視庁外事課長としてアメリカに飛んで、元駐日大使館二等書記官で、実はKGB中佐だったラストボロフの調書をとった人物だ。
パリで一等書記官を四年務めた警察の国際派の代表人物の一人。寡黙だが果断、いざとなると強い。腹のすわった上級幹部として上からも下からも信頼されていた。
「お呼びですか?」
「うーん、警備課長が体調を崩してねえ、交代ということになって……その後任のことなんだけどね」
「そうですか、すると三十一年組ですね。警備課長に向いてるのは、えーと、宮脇、大高、三島……」
「そうじゃないんだよ、君なんだよ」
「えっ! 私ですか? でも私、警備をやったことないし、外事課長になってまだ四カ月だし、それに私の方がいまの警備課長より年次が上ですよ。外事課長だって三年後輩のあと、やってるんだし、また逆年次ですか?」
「総監が君だといっている。私も君ならやれると思っている。大変なときだ。思う存分おやりなさい」
さっきの記者はこのことを知っていたんだ。知らぬは本人ばかりなりかとほぞを|噛《か》む。
下稲葉耕吉警備部長の部屋に寄る。
「いま、公安部長から内示があったんですが、部長、私、警備をやったことないけど、いいんですか?」
「君は公安部のもてあましもんでな。オレにひきとってくれって山本部長がいうから、ひきとってやったんだ」
下稲葉警備部長は薩摩隼人。百八十センチ、九十キロの偉丈夫。昭和二十二年組のエース。佐藤栄作総理秘書官から、やはり“ドンパチ要員”として年功序列人事を二年飛び越して昭和十九年組の後藤信義氏(故人)の後任の警備部長となった。
この人は、しばしば「薩摩の逆表現」を使うから、これは歓迎の辞ととるべきだろう。
秦野章警視総監は、こういう。
「年次もヘッタクレもあるか。こういう時は適材適所、総力あげてやるんだ。佐々君、児玉源太郎をみてみろ。日露戦争のとき、陸軍大将なのに少将職の参謀次長、買ってでてるだろ。あの精神でやれや。こういうのを“降格|抜擢《ばつてき》”ってんだ」
つづけて土田国保刑事部長室に内示の報告にゆく。
「みんな、君に期待している。しっかり頼みます。そういえば、君、これ、覚えてるかい?」
土田刑事部長は、そういいながら、キャビネットをあけ、手紙の束をとり出してその中の一通をみせる。それは私が香港時代に土田氏に送った手紙だった。昭和四十二年十月八日、第一次羽田闘争で警視庁機動隊の千百六十八名(うち重傷五十七名)が負傷し、車輛二十五台が焼かれたという新聞報道を香港で読んで、土田氏や川島広守警備局長(現・プロ野球セ・リーグ会長)をはじめ、わかってもらえると思った先輩、上司に送った激越な意見具申である。
「この手紙に“催涙ガス使用を決断せよ”とか、部隊の動員数を増やして英国式の威力配備をやれとか意見具申をしてるだろ。警備課長になったら、思い切って自分の考えどおりやりなさい」
土田国保警視監。後に警視総監、防衛大学校校長をつとめた。昭和四十六年十二月十八日には、テロリストが送った小包爆弾で夫人が爆死するという悲劇を迎える。元警備部長として情勢を深く憂慮する警視庁首脳の一人である。
アウト・レインジ戦法
やっぱり、あの手紙のせいだったのかな。
第一次羽田闘争で約千二百名の機動隊員が負傷したというニュースが流れたあと、香港警察のイーツ警視総監とスレヴィン特別警察局長に会ったとき、
「警視庁には警察官は何人いる?」
ときかれた。約三万名ですよと答えると、
「一日千人ずつ怪我させたら、警視庁は何日もつのかね?」
と、大勢の負傷者を出した日本警察の警備の拙劣さを暗に批判するような発言があった。
当時、約一万二千名のホンコン・チャイニーズの香港警察部隊は、英国人の警視や警部約三百人の指揮の下、中国大陸で燃えさかる文化大革命の|煽《あお》りをうけて反英暴動を起こした文革派・紅衛兵派の暴徒たちと、はげしい市街戦をくりかえしていた。
その英国式危機管理をみていると、「火は火花のうちに消せ」という発想で、数十人が不穏な非合法集会をはじめると、その群集の数倍の警備部隊をさっと配備して威嚇する。戦意を|削《そ》いで戦わずして勝つという「威力配備」を行い、暴動を未然におさめてしまう。
また、投石がはじまると、アウト・レインジ戦法を採用し、投石の届かない安全距離をとって|対峙《たいじ》し、遠慮会釈なく催涙ガス弾を斉射し、「木弾」を撃ち、追い散らしてしまう。香港警察は「木弾」(Wooden Projectile = ウッドン・プロジェクタイル)を使用していると香港総領事館から外務省経由で警察庁に報告したら、折返し、「その『木弾』なるものを一セット入手して急送せよ」と言ってきた。
早速香港警察本部にいって、発射筒と装薬包と木弾一式を頂戴したいと申し込むと、一発で断わられた。
「どんな資格で、何の権利があって、何故に汝は、香港警察独創にかかる暴動鎮圧用具をただで欲するや?」
そういわれれば、ごもっともで、日本の警察はなんでもただで手に入れようとするから、出先は困るのだ。
しようがないから、街頭デモのあった時、デモ側で待ち構えて、警官隊がぶっ放し、路上に着弾してカロンコロンとはねている「木弾」を失敬して、外務省経由で本庁に送付したものだ。
あとで知ったことだが、警察庁警備課と装備課ではいろいろ実験してみた結果、万一ひとに直撃弾で当たると危険、路面に当たって砕け散ると木片が目に刺さる恐れありとの結論から不採用にしたという。
イーツ総監、スレヴィン局長に批判された私は、早速激越な意見具申の手紙を、これぞと思う上司、先輩に送った。
「……と香港警察の警視総監とスペシャル・ブランチの長にいわれました。
なぜ催涙ガスを警察官職務執行法第五条の『規制』(予防及び制止)の用具として使用しないのですか。香港でもサイゴンでも暴動鎮圧用に催涙ガスを使用している。これは世界の常識です。
アウト・レインジ戦法をとらずに警棒で接近戦、白兵戦をやるから双方が血を流す。機動隊が暴行したといわれる。香港警察のように隊員を無用に負傷させないよう、安全距離を保ち、催涙ガス斉射で群集を解散させるべきだ。血をみるより涙ですむ方がよいではないか。それに部隊動員数が少ない。なぜ羽田闘争警備は、相手が数千いるのにわずか五千九百なのか。下級警察官が一度に千名も負傷するのは、上級幹部が政治やマスコミの非難をおそれて催涙ガスを使わないからだ。
高級幹部の保身が多くの下級警察官を犠牲にしている……」
これはとりようによっては、上層部批判の強烈な意見具申だった。
その手紙を土田刑事部長が目の前に出してきて、「君の具申した意見どおり、君がやりなさい」というのである。
帰国後も、会う人ごとに主張していた戦術転換ではあったが、言い出しっぺとはいえ、さあ自分でやってみろといわれると、ちとたじろぐ。機動隊には好意的でないマスコミは催涙ガス弾をほんの数発撃っても、「近所の病院にガスが流れこんで患者を苦しめた」「民家に流れ、市民から苦情が殺到した」と報道していた時代のことだ。まさに自分がピッチャーとして投げた球を、ホームに走っていって自分で捕球するような恰好になってしまった。
警察庁に出頭して高橋幹夫警務局長(後・警察庁長官。故人)に挨拶する。
元警備局長で、警視庁警備部長も経験したこの先輩は、
「オレはね、君の今度の人事に反対だったんだよ。三年も日本を留守にしてた外務省出向帰りに、こんなに荒れた状況ですぐ警備課長なんか土台ムリだよ。だから警察大学に半年ぐらい配置して、勉強させて、それからでいいんだってオレは反対したんだ。まあいいや、そういうことに決まったんだからしっかりやってくれ」
さあて、わからなくなった。
果たして今度の警備第一課長への補職は、使い捨て人事なのか、それとも期待をかけた起用なのか。なぜオレなんだ? しかも逆年次。きっとプロ野球の投手が困難な状況下で突然リリーフに指名されたときは、こんな疑念が頭に浮かぶにちがいない。
一〇・二一の「新宿騒擾事件」は、正直なところ機動隊の負け|戦《いくさ》だった。その直後の選手交代は、激流を泳ぎわたろうとしている最中に、馬の乗り手が入れ替わるようなもので、リスクの大きい任務である。一抹の不安が心をよぎる……。
だが、待てよ、考えてみれば、警察界に進んで身を投じたのは、この日のためだったんじゃないか?
外野守備の外事課長で野次を飛ばしているより、主戦投手となって真っ向勝負の方が、勝っても負けてもやり甲斐があるというものだ。
反安保共闘時代の大きな逆風の中では、機動隊運用指揮にあたる警視庁警備課長は、憎まれ役中の憎まれ役。ここは一番腹をきめて、香港から無理をして呼び返してまで起用しようとしてくれた秦野章総監の期待に応えるべく、全力投球してみよう。
「士ハ己ヲ知ルモノノタメニ死ス」だ。
挨拶まわりをしながらあれこれ考えたあげく、決心がついた。ようし、やってやろうじゃないか。男子一生に一度めぐってくるかどうかの「ヘラクレスの選択」だ。
タイム・リミット
当時の情勢をご存じない若い読者のために、このへんで第二次反安保闘争に至る学園紛争の流れを、荒っぽい筋書だがあの頃の時代背景とともに解説してみよう。その歴史がわからないと、東大安田講堂事件とは何であったかが理解しにくいと思うので、しばらく現代史をさかのぼることをお許しいただきたい。
話は昭和二十五年(一九五〇年)のスターリン時代にはじまる。
昭和二十五年六月、朝鮮戦争が始まったとき、スターリンはコミンフォルムを通じて全世界の共産党に対し、北朝鮮を支援し、アメリカ帝国主義の後方を|攪乱《かくらん》するため、武装闘争を開始するよう指令した。
日本共産党主流の野坂参三氏、故徳田球一氏らはこれに反対したが、当時反主流派・国際派のリーダーだった宮本顕治氏はこの呼びかけに応じた。はげしい路線論争の果てに主流派も手厳しいコミンフォルムの日共批判に屈し、朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)と、誕生したての全学連(全日本学生自治会総連合)と共闘して、いわゆる「火炎ビン闘争」とよばれる武装革命闘争を全国規模で起こした。昭和二十七年五月一日の「皇居前事件」(“血のメーデー”事件)など、一連の治安警備事件が多発し、デモ隊側、機動隊側双方に多くの犠牲者を出すなど、戦後第一期の政情不安が生じた。この頃の基本理念は、「反米・反帝・反資本主義のマルクス・レーニン世界革命路線」だった。武闘方針についても分裂はなかった。
日本共産党と在日朝鮮総連が、破壊活動防止法違反の容疑団体に指定され、それが今日も解除されていない|所以《ゆえん》はここにある。
昭和三十年、日本共産党は六全協(第六回全国協議会)で路線修正を行い、今日の平和革命路線をとる。ソ連共産党もスターリンの死後、フルシチョフのスターリン批判を経て、一九六〇年には、世界革命論から米ソ平和共存政策への歴史的路線転換が行われた。
この頃から「全学連」が共産党に忠実な代々木系と、のちに三派系全学連(中核派・社学同・社青同解放派)とよばれることになる反代々木系に分裂する。
昭和三十五年のいわゆる「第一次日米安保反対闘争」あたりまでは反安保共闘の共闘路線だったが、代々木系が正統派マルクス・レーニン主義による平和革命路線を堅持したのに対し、反代々木系の全学連は、「世界急進同時革命・武力革命」のトロツキズムの性格を強め、両派は次第に骨肉|相食《あいは》む争いを始めるようになる。
日本の左翼勢力の長期闘争目標は、「七〇年闘争」というスローガンが示すように、昭和三十五年に有効期限十年間として締結された日米安保条約の改訂の日、昭和四十五年六月二十三日を決戦の日としてセットし、代々木系も反代々木系もそれぞれのセクトの政治勢力の強化につとめた。
そして、目標年次の三年前の昭和四十二年十月八日、「第一次羽田闘争」となってその革命的エネルギーが爆発し、|爾来《じらい》昭和四十五年六月二十三日までの“九百九十日間”にわたって、トロツキスト主導型の連続武装闘争が続くことになる。
代々木系民青は、この三派系全学連の暴走を「冒険主義」として批判し、反代々木系過激派は民青を「|日和見《ひよりみ》主義」と断じた。双方はげしい敵意を抱いてことごとに対立し、果ては流血の乱闘を随所で演ずるようになるのである。民青は三派系を「トロ」「トロちゃん」と|嘲《あざけ》り、三派系は民青を「民コロ」とよんで、お互いに|蔑視《べつし》した。
昭和四十年代に全国的に国公立・私立大学の学園に吹き荒れた大学紛争の発端は、昭和四十年の授業料値上げにあった。
その意味では当初の学園紛争は「経済闘争」であり、学生会館の学生自治管理といった「学園民主化」として始まったものだった。
折柄、中国大陸では文化大革命の大嵐が吹きすさんでいた。毛沢東語録にある「造反有理」(反抗することには理由あり、反体制運動は正しい……の意)という反体制精神が当然日本の学生にも少なからざる影響を及ぼしていた。
その「造反有理」の気運に乗じて、代々木系全学連と民青、反代々木系の三派五流の過激派全学連が彼らの目指す反戦・反米・反帝政治闘争、とくに一九七〇年の日米安保条約改訂の阻止という大政治目標に向けて、「政治闘争」を学園にもちこんだ。
そして学園闘争は、大学当局との団体交渉、全学総決起集会、抗議集会、街頭デモ、ストライキ、授業拒否、試験ボイコット、ハンストなどの戦術によってエスカレートしてゆく。早稲田大学、中央大学、東京教育大学などで起こった授業料値上げ反対、学園運営の民主化など、モデレイトな要求に始まった学園紛争は、次第に他大学に波及し、最盛期には都内百二大学のうち五十五校がバリケード封鎖されるという異常な状態となり、重大な社会問題、政治問題、教育問題に発展した。
東京大学でも医学部の登録医制反対ストに端を発し、紛争は全学に広がった。昭和四十三年三月二十七日には、安田講堂を学生が占拠し、翌日に予定されていた卒業式は中止のやむなきに至った。さらに闘争の主導権をめぐるイデオロギー路線上の争いから、代々木系と反代々木系の血で血を洗う武装闘争がしばしば起こるに及び、本郷と駒場両キャンパス構内での両派学生の負傷者は約六百名に達し、もはや放置できない重大な治安問題に発展したのである。
当時の佐藤内閣と自民党の間では「東大は治外法権ではなく、学園の自治にも限界がある。東大の全学バリケード封鎖という教育の場にふさわしからざる状態が続くならば、昭和四十四年度の東大入試の中止もやむを得ない」という意見が大勢を占め、文部省当局から大学側に対し、「一月十五日(昭和四十四年)までに学園を正常化できない場合、東大入試は中止する」というタイム・リミットが示されるまでになっていた。
警備戦術の大転換
警備部第一課への着任早々、私は警視庁三階の手狭な警備第一課長室で、五人の機動隊長たちと初めて顔を合わせてみて驚いた。
五人のうち三人が怪我をしているのである。
第一機動隊長・浅川良三警視。
脚部裂傷、足親指骨折。眼鏡をかけ穏やかな表情で、一見どこかの大学教授みたいな顔つきだ。中肉中背の浅川隊長は、足をひきずってかろうじて歩いている。王子米軍燃料タンク輸送阻止闘争と新宿騒擾で受傷。気がついたら出動靴に血がたまりガフガフになっていたという。
浅川隊長はこの顔合わせの直後、重傷を負い、一機隊長を石川三郎警視と代わることになる。
第二機動隊長・三沢由之警視。
この人とは昭和二十九年、警部補として机をならべて小一年、一緒に勤務したことがある。中肉中背ながらバネのきいた筋肉質の体。陸士出身。ハンサムで色白、頬が赤い紳士だったが、再会のいまは大きなマスクをしている。「新宿騒擾事件」に先立つ一〇・八闘争で顔面に投石を受けたのがまだ治らず、前歯数本が折れ、顔面挫傷で|脹《は》れあがっている。「マスクしたままで失礼します」とくぐもった声で謝る。
謝る必要なんか全くありません。三沢隊長、私は本部で総監の補佐官みたいなことをしていただけだったけど、一〇・八や一〇・二一新宿の現場は、本当に地獄だったんですね。
第三機動隊長・|九島《くしま》賢一郎警視。
陽気で小肥り、声の大きい九島隊長もしかめ面だ。ゲバ棒で殴られたのか、投石を受けたのか、腰部打撲傷で、痛そうに腰をかばっている。
第四機動隊長・飯野定吉警視。
一メートル八十センチ以上ある長身、体重もミッシリと贅肉のない九十キロくらい。相撲取りのような頑丈な|体躯《たいく》だ。昔の力士だと鶴ケ嶺、いまでいえば薩洲洋といったところか。
人柄は謙虚で温和だが、ひとたび現場に立つと勇猛な野戦指揮官として知られている。
彼の率いる第四機動隊は、“鬼の四機”と異名をとるほど過激派に恐れられている。幸いにこの隊長は、五体満足だ。
第五機動隊長・青柳敏夫警視。
この人は自治体警察時代の警視庁の上級職相当幹部採用である。剣道で鍛えた一メートル七十五センチ、九十キロの締まった体の巨漢。名隊長として知られている。
日大警備の西条警部殉職事件で受けた心の傷はまだ癒えていないようだが、「新宿騒擾事件」の現場を戦い抜いて、幸いこの隊長も負傷していない。
もう一人、準隊長が一機特科車輛隊長・杉山賢司警視。放水車、投光車など特科車輛の運用担当で、やがて第八機動隊長となって一機から分離独立することになる。寡黙で重厚な人柄。
これは由々しい事態だ。五人の隊長のうち三人まで受傷している。中隊長、小隊長の受傷率はきっともっと高いだろう。
警備第一課の警備実施担当管理官の中村克己警視がいわば「次席」だ。彼も陸士出身。
彼の話だと、三千二百名の機動隊基幹隊員中、新たに二百八十名が新宿騒擾で傷つき、それまでの引き続く警備実施で約半数、千六百名が負傷しているという。
私は警備第一課の大部屋に行き、約三百人の警備課員を前に着任挨拶と初訓示を行った。
「これから七〇年まで、息の長い警備になるが、いままでのやり方では負傷者が多くて長続きしない。警備戦術・装備の思い切った変更を行う。動乱の香港・サイゴンで暴動鎮圧のやり方をみてきたが、これからは催涙ガスの使用、投石から安全距離を置くアウト・レインジ戦法に切り換える。
双方に負傷者が多く出るゲバ棒と警棒の接近戦をさけ、放水の活用と催涙ガス弾により“怪我人の少ない”警備を新しい方針とする。
正規機動隊の“内張り”守りの警備はやめ、方機(方面機動隊)に内張りの守りを、機動性と脚力に優れた正規の機動隊は、外周遊撃、挟撃検挙、迂回部隊として運用する。以上」
ちなみに、方面機動隊とは警視庁の八つの方面本部が、それぞれの管内警察署の若い署員で編成する臨時の機動隊のことである。
さあ、怒るぞ、警備課の古参兵たち。いきなり横っ面を張り飛ばされたようなものだろう。犠牲者を大勢出し過労状態で、しかも「新宿騒擾事件」で大打撃をくった直後のことだ。四階の公安部から天下ってきた警備実施経験もないド素人が、いきなりこれまでのやり方ではダメだ、と頭ごなしにやったのだから怒るのも当然だ。
整列した者たちの表情や目つきをみればわかる。全然納得していない。険しい雰囲気が漂っている。指揮官として私はまず過激派と闘う前に、殺気立っている部下を指示に従うように指導しなければならない。
こういう戦時状態では、ショック療法が一番だ。怒れ、うんと怒れ、そして口惜しかったら、一番、次の戦で勝ってみろ。
案の定、初訓示が終わったあと、管理官、課長代理クラスの間では「なあんだ、こんどのは。“外交官崩れ”で“資格者”(上級職のこと)、東大出でしかも四階(公安部のこと)からおりてきた、警備のことなんか何もわからない人間のくせに」やら「ここは香港じゃねえんだ。ガスなんか使ったらマスコミや国会が大騒ぎだ。あんなでかい口、叩いたって三カ月もすりゃ、青くなってひっくりけえっちゃうさ」などと、非難ごうごうだったという。
事実、みんなのいうとおりなのだ。
東大出の上級職だし、“外交官崩れ”だし、三階とは仲の悪い「四階」からおりてきた。警備なんかまるっきり初めてというのもその通りだ。
おまけに、香港から帰国した翌々日からこの大騒動の渦中にひきこまれたために、着ている背広が全部香港製の夏服、それも当時珍しかったサイド・ベンツときている。亜熱帯の香港に三年余もいたものだから、少し|眩《まぶ》しかったりすると平気でサングラスをかける。
ちょっと見は、たしかに“外交官崩れ”だろうが、香港暴動やマカオ紛争、とくにサイゴン・テト攻勢の大使館籠城じゃあ、何回か死を覚悟した修羅場をくぐって、中身は筋金入りの“ドンパチ屋”になって帰ってきたんだ。それをこれから実績で証明してみせよう。
警備第一課の庶務から、出動服一式が課長室に届けられる。
白筋四本入りのポリカボネード製のブルーのヘルメット、化繊製の紺の出動服上下、雨外套、編上げの出動靴、防護衣、|脛《すね》当て、|籠手《こて》、警棒、白の指揮棒、黒の帯革、三十八口径S・W・リボルバー拳銃。
ヘルメットをかぶってみるが、頭が大きいからきつくて、長くかぶっていると締めつけられて頭痛がしてくる。
出動服も清潔でピンとアイロンがきいている。隊員たちはみんな風水火にさらされてよれよれの制服を着ているのに、まっさらな出動服なんか着られたものじゃない。
編上靴だけは使わしてもらうことにして、あとはみなロッカー行きだ。これからいつまで警備課長をやるかわからないが、ヘルメットに出動服という機動隊スタイルは一切やめて、ふつうの制服と私服で通してやろうときめた。
事実、私は二年有余の警視庁警備第一課長だったあいだ、とうとう一度も出動服とヘルメットは着用しなかった。「浅間山荘事件」で現地派遣されたときも、借り物のヘルをつけたのは、強行救出を敢行した二月二十八日の一日だけだ。沖縄海洋博覧会開会式警備で沖縄に派遣されたときも、終始一貫、ヘルメットと出動服は着けなかった。
警備課長に就任してしばらくしてからのことだ。警察共済組合がある半蔵門会館にいったら、一階の大食堂で一機の隊員四百人ぐらいがビール・パーティーを開いていた。
五階に上がるエレベーターを待っていたら、見上げるような体格のいい隊員数名に囲まれた。「一課長、ちょっとつきあって下さい」という。「いいよ」と気軽に会場にいったら「ウオーッ」という喚声と拍手が起こる。
「なんだい、今日は?」「ナントカ警備の打ち上げです。一杯一緒に乾杯して下さい」
悪い気分ではない。生ビールのジョッキを|啜《すす》っていたら酒気を帯びたでっかいのが二、三人、ニコニコしながら近寄ってきた。
「一課長、いつも私服で現場にオレたちと一緒にきてくれて、みんな“いい度胸だ”って」「いつもいい背広着てて、恰好いいですね」「一機での一課長の|渾名《あだな》、知ってますか?」「いいや、知らない。なんてえんだ?」「“サイド・ベンツのお|兄《あに》いさん”ってんです」
警備新戦術研究会
着任以来、息つく暇もない日々が続く。
警備部は下稲葉耕吉警備部長の統括指導の下、ヴェテランの末松実雄参事官、津田武徳参事官、新設の警備第二課長・平崎誠一警視の体制で、きたるべき東大安田講堂封鎖解除警備や、マラソン警備となる「七〇年闘争警備」のため、急ピッチに態勢づくりを進めた。
どうしたら双方の怪我人を少なくして検挙者数を増やせるか、私は知恵を絞る毎日だった。
集団不法行為はすぐれて群集心理と関係がある。ただの力と力のぶつかり合いでは流血の惨事になってしまう。“知恵の闘い”にしなくてはいけない。そのためには実践心理学を応用すべきだ……と私は考えた。
そこで思いついたのが「逃げると追ってくる」という勝利者の心理を逆用する|伏兵《ふくへい》戦法だった。正面の部隊がわざと負けて逃げるふりをして、勝ち誇って追撃してくるゲバ学生たちを、あらかじめ伏兵が待ち伏せしている地点に誘いこむ。携帯無線の通信で連絡し合い、ころあいをみてドッと側面から挟撃する。同時に退却していた部隊が反転して浮足立った一番先頭の最も悪質な集団を包囲し、一網打尽にするという作戦がその一つである。神田学生街など横丁の多い市街地区ではもってこいの戦法だ。二代将軍の凡将・徳川秀忠が真田昌幸・幸村親子の守る上田城攻めで、この手にひっかかって大敗し、関ヶ原の合戦参着が遅れて家康にひどく叱られている。
かのナポレオンでさえ、一八一二年のロシア遠征でロシアのクトウゾフ将軍の計算しつくされた戦略的な退却作戦に翻弄され、苦杯をなめた。
私は警備新戦術研究会で隊長たちを集め、この戦法を披露し、「以後この作戦を『|俎《まないた》戦法』と呼称する」と宣言した。
わざと負けて逃げる部隊が「|俎《まないた》」、側面をつく伏兵部隊が「庖丁」である。
あわせて各機動隊に対して退却に際しては、命令一下いっせいに大楯を背中にひっかついで逃げる「亀の甲」態勢をとるよう、訓練を下命した。当時連日の警備で多くの負傷隊員が出たわけだが、彼らの負傷部位をこまめに統計をとらせてみると、鎖骨、睾丸、小手に|脛《すね》が多かったが、後退するときに追いすがられて角材、鉄パイプ、投石などにより|頸椎《けいつい》と背骨をやられる“後ろ傷”も意外に馬鹿にならない数だった。しかもこれらの傷は後遺症を残す危険の高いことがわかった。そこで頸椎を保護する|兜《かぶと》の|錣《しころ》状のプロテクターやアメリカン・フットボール用の睾丸プロテクターなどの装備化を急ぐと同時に、部隊行動として大楯を背負い背中をカバーしながら、組織的に“敵に後ろを見せて”退却する戦法を採用したのである。
今日ではこの「亀の甲」態勢は各県警機動隊の訓練種目に正式にとりいれられているが、当時はちょっとした騒ぎになった。
まず、「退却」というコンセプトを承知させるのが大変だった。古参の隊長、各級指揮官に拒否反応が起きたのである。
「伝統ある警視庁機動隊に向かって退却せよとは何事だ」「名誉ある頭号(一番の意)第一機動隊は『俎』だの、『総予備』だ、『退却』だなどという任務は絶対お断わりだ」……と隊長たちは気色ばむ。戦争体験をもつ旧軍の下士官兵出身者が多かったから、|斃《たお》れて後|已《や》むという旧軍の用兵思想がまだ濃厚に残っていた。「敵に後ろを見せるとは……最後の一兵まで一歩もさがらないというのが機動隊魂だ」などと、りきむのである。
「何をきれいごといっている。新宿騒擾だって反ベトナム戦争の王子闘争だって、現実には機動隊は負けて逃げているじゃないか。古いんだよ、考え方が……。太平洋戦争だって米軍を驚倒させたアリューシャン列島の“キスカ撤退作戦”を日本の軍部は評価しないで、玉砕戦法なんか|強《し》いるから負けたんだ。昔から“よく戦う者、よく走る”っていうじゃないか。変な意地、張らないで不利とみたら戦略的に退却したらいいんだ。隊員にしたって逃げる時、ひとりだけ大楯背中にしょったら恰好悪いと思ってやりにくいだろ? 指揮官の命令でいっせいにやりゃあ、受傷防止の戦闘技術になるんだ。それに『俎』が務まるのは精鋭部隊なんだぞ」と私は譲らなかった。
また、「|鋏《はさみ》作戦」(挟撃・まわりこみ)というのも訓練させた。武田信玄が川中島の合戦で上杉謙信勢に対して用いた「きつつき作戦」(川中島では失敗に終わったが)も採用した。
「鋏作戦」「きつつき作戦」というのは、部隊を二手にわけて、一隊が「|俎《まないた》」になり、「きつつき」になり、「鋏」の|片刃《かたば》の役割を果たす。街頭武装闘争を挑んでくるゲバ集団や籠城している学生たちの注意を陽動正面にひきつけておいて、主力は「鋏」のもう一つの片刃として後ろにまわりこみ、あるいは退路に伏兵となって待ち伏せして挟撃するのである。
この場合、「虚兵」に対して「実兵」の役割を果たすのは最精鋭部隊である。
場合によっては、最精鋭部隊は作戦計画上負け|戦《いくさ》のときは|潰乱《かいらん》を支え、勝ち戦のときは追撃戦で戦果を拡大するための「総予備」として温存される。これが旧軍的発想の古参幹部には理解されず、反撥を招いたのだった。ある大警備で「一機は総予備で待機」と命じたら、石川三郎隊長が怒った。
「その任務は承服し難い。総予備とはなにごとですか、総予備とは。……一機はこれまで一番困難な任務を真っ正面で担当してきたんだ」といきまく。
「ナポレオンの近衛師団をみなさい。『予備』は老兵、弱兵、少年兵の『後備』とはちがうんだ。最強だからこそ『総予備』の大役をつとめるんだよ」と説得しても納得しない。
「警備部長のところへ行こう。そこで黒白つけよう」となってしまった。
ベテランの機動隊長たちの目には、私は経験もなく着任後日も浅いのに、次々と奇をてらう新戦法を打ち出す、とんでもない警備課長と映ったことだろう。
だが幸いなことに、秦野警視総監と下稲葉警備部長は、私が機動隊の反対を押して強行しようとしている警備戦術の大転換の必要性を理解し、私を支持して仕事を任せてくれた。警備部長の御前会議で下稲葉部長は私の肩をもち、「一機は『総予備』」と決まった。
そのとたん、|椿事《ちんじ》が起きた。
石川一機隊長が下稲葉警備部長につめより、
「部長、私のいうことをちゃんときけっ」
と叫び、部長のネクタイをつかんで引き寄せ、憤怒の形相凄まじい顔を近づけたのだった。
たしかにあの頃は|下剋上《げこくじよう》の戦国時代。荒れた現場の指揮官たちは、卑怯未練な振舞いがあったり不決断だったりすると、隊員たちから「しっかりしろ、中隊長っ」などとどやしつけられたり、こづかれたりした。“下からの勤務評定”が厳しい時代だったが、それにしても今日、警視庁本部で機動隊長が上司のネクタイをつかんで怒鳴るなんていう光景はみられない。しかも石川隊長が要求しているのは、命がけのより困難な“3K”の任務附与だった。いまどきなら懲戒処分まちがいなしの石川隊長の言動も「サブ、|凄《すげ》えなあ」ですんだ。
下稲葉警備部長も、あとで私と二人きりになると、
「驚いたなあ。サブ、本気で怒ったねえ……」
なお、ブンむくれて「総予備」配置についた一機は、このときの警備で午後九時頃、数時間におよぶ激闘でヘトヘトになっていた約二千名のゲバ集団の後方に元気一杯でまわりこみ、総本部の命令一下、「鋏」、あるいは「庖丁」の大役を果たした。機動隊、学生双方ともほとんど負傷者を出さずに約二百名を検挙するという大功をあげ、石川隊長も「総予備っていいもんだね」と大満悦だった。
情報攪乱の神経戦
また「|捨伏《すてがまり》」戦法という、薩摩勢独特の退却戦術も新たに導入した。
「ステガマリ? 一体何です、それは?」
と、隊長たちは例によってけげんな顔をする。私はだてに戦記物を読んでいるんじゃない。退却に際して催涙ガス分隊を三段列にわけて部隊後尾に|折敷《おりしき》の姿勢で構えさせ、追いすがる暴徒に向けて第一列発射。すぐ走って逃げ、今度は第二列発射。第三列が発射する前にその後方に折敷いた第一列が|装填《そうてん》を終えるという、追撃の先鋒を|怯《ひる》ませて本隊を逃がす戦法だ。
ちなみに連発式催涙ガス銃が開発されたのは後年のことで、当時は先込めの単発式だった。
「ほう、警備一課長、いろんなこと知ってますね」と九島賢一郎三機隊長が感心する。
「これはね、関ヶ原の戦いで西軍の島津義弘入道率いる八百の薩摩勢が東軍の中央を突破して退却するとき、追いすがる藤堂高虎勢に対してとった戦法で“すてがまり”、『捨伏』と書く薩摩勢の戦法ですよ」
「そりゃ面白い。早速三機で実験してみましょう」と、九島三機隊長が請負ってくれた。
各セクトの拠点となっていた各大学校舎に「明朝機動隊が封鎖解除に出動するぞ」という“ガセ”情報をひっきりなしに流し、眠らせないようにする「ディスインフォメーション」(情報攪乱)の神経戦も展開した。
当時過激派各セクトは、機動隊隊舎に徹夜の斥候を派遣してその動静を偵察していた。機動隊各隊には、例えば都心担当の一方面管内は一機、三多摩地区・八方面は七機とかいったぐあいに一応の担当区域があった。そこで三方面、駒場東大教養学部の斥候は、払暁三機の隊舎に灯がともり、出動車がエンジンを始動すると、「東大駒場にくるぞ」と通報し、籠城学生を非常呼集する。この手でしばしば手の内を読まれたことから、各隊とも当直が午前四時なら四時にいっせいに点灯し、車輛のエンジンを始動させるというフェイントをかけてみた。さらに都内の封鎖大学に名前も告げずに「そっちへ行くらしいぞ、気をつけろ」と通報し、籠城学生を眠らせないようにして、脱落者を出させる神経戦を行ったのである。
このディスインフォメーション作戦はかなり効果的だったようだ。その証拠に、後日ある雑誌の「日大闘争の記録」という記事を読んだら「今晩も協力者から機動隊出動の通報。さあこいと構えていたが今日も機動隊はこなかった。来るならいっそ早く来てほしい」というくだりがあった。この作戦によって無用の流血を避け、大学封鎖の籠城組が疲れ果てて減っていき自然に解決することを狙ったのである。
警備第一課の「現場情報班」に二十代前半の、実際に夜間大学の学生でもある若い巡査たちを思い切って登用し、宇田川信一警視の下に「コンバット・チーム」通称“七人の侍”という班を編成したのもこの頃である。
お堅い警視庁人事当局の旧来の人事方針でゆくと、本庁の課員になるには第一線の警察署で外勤と内勤約十年の実務経験を積むことが要求される。だが、それでは紛争大学の学生集会や日比谷公園、代々木公園などの過激派の集会現場に赴いて、情報収集にあたる「現場情報班」がどうしても学生とはみえない“オジさん|面《づら》”になってしまう。現場で「私服だっ」と包囲され、殴る、蹴るのリンチを受けて受傷するという事件がしばしば起きた。これを防ぐため、人事当局と折衝して断行したのが「コンバット・チーム」で、第二次反安保闘争の期間に彼らが果たした役割は、表には出せないが大きなものがあった。この現場情報班は後年起きた「連合赤軍・浅間山荘事件」でも大活躍した。
危機一髪の集会潜入
私も後日、日比谷公園で催された三万人規模の反安保総決起集会の現場で、コンバット・チームに危ないところを救われたことがある。
その日、私は宇田川警視を誘って「将校斥候、やってこようや」と、赤旗やセクト旗、組合旗が何百本とはためく“三万人集会”が開かれている日比谷公園内を歩きながら、私服で集会の状況を見てまわった。私服姿を疑われないことにかけては絶大な自信をもっていた私は、同様に自信満々、平然と群集の中を偵察して歩く宇田川警視から、いろいろと実地指導をうけていた。
「みてごらんなさい。〇〇派、ヘル、覆面、ナップザック、スニーカー姿でしょう。女子学生たちが後ろにさがってゆくでしょう。あのセクトは今日ゲバ闘争をやる気です。ナップザックの中は火炎ビンと石。あっちにいる〇〇セクトはやりません。女子学生がまじってる。ほら、セクト旗を巻き始めた。ひきあげ準備中です。あっちのグループはゲバ。プラカード見てごらんなさい。あれは偽装ゲバ棒。五寸釘が飛び出て光ってるでしょう。社会党、総評はただの集会デモですね。荒れ始めたら、あのへんに部隊の|楔《くさび》を打ちこんで分断してゲバ集団だけ規制するといいです……」
なるほど、現場情報課長代理というのはそういう着眼点で|旌旗《せいき》の勢いを読みとるのか。戦国時代の合戦と同じなんだな。そんなことを考えながら歩いていると、不意にとげとげしい声で呼びとめられた。
「おい、お前、私服だろう、四機の特務だろう?」
セクトの検問所らしい。目つきの鋭いけわしい表情の学生たちにとり囲まれる。初めてのことだ。いままで神田地区でもどこでも|咎《とが》められたことがない。宇田川警視同様若く見られることと警察の臭いを消して行動することに自信過剰気味だった私にとっては、ショックだった。宇田川警視は賢明にも知らん顔をして離れてゆく。こういう時は先制攻撃に限る。オドオドすることは禁物。憤然として怒鳴りつける。
「なんでオレが四機の特務なんだ。今日は全都民反安保集会だろ? せっかく参加してやったのになんだ、その態度は。だから君たちは都民の支持が得られないんだ。あそこを見ろ、べ平連の『一人でもいいから参加する会』って旗、立ってるだろう。あそこに行くとこだ。文句あんのか」
「そうですか、すみません、ではどうぞ」
あわててはいけない。ゆっくり歩くこと。学生たちをにらみつけながら、べ平連の旗の下のグループに加わる。日比谷公園の都民集会でよかった。学生に見られるにはちと“オジさん|面《づら》”になったかオレも……と、慨嘆しながら逃走の機をうかがっているところへ、とんだ助っ人がかけつけた。
「課長っ、危ない。早く逃げて下さい」
みると公安第一課の前田武夫警部補だ。かつて私が目黒警察署勤務だった頃の巡査部長である。上司を救おうとすっ飛んできたのだが、とんだブチこわしだ。
「あっ、やっぱり私服だ、やっつけろっ」と怒号が起こり、十数人の学生たちが襲いかかってくる。
それ逃げろっ。前田警部補、宇田川警視とともにはるか彼方の公園の入口を固める機動隊の隊列に向かって全力疾走する。その時、数人の若い学生風の男たちが「この野郎、待てっ」「逃がすなっ」などと叫びながら追尾する学生たちの前に割り込んで走る。みるとなんと、コンバット・チームの粟野健二、関口勝彦、檜垣吉之助の三人の“タイト・ロープ”たちだ。
過激派学生のふりをして後ろに迫るゲバ棒や投石から私たちをかばいながら走っている。そのまま機動隊の隊列に|雪崩《なだ》れこみ、すべりこみセーフ。だが粟野君らがコンバット・チームとは露知らない機動隊員たちが私たちをかばって粟野君たちに躍りかかる。「違う、違う、彼らも私服だ」と、立場が逆転して今度は私たちがコンバット・チームをかばう始末と相成った。
宇田川警視は「課長、危機一髪だったですね、課長は見破られたが私は大丈夫だった」と、変なことで得意になっている。
当時は集団不法行為マラソン警備の、まさに天地創造の時で、“|天《あま》の|逆鉾《さかほこ》”で海水をかきまわし、鉾先からポトポト|滴《したた》る海水が固まって日本列島になったようなものだ。試行錯誤もいいところの創意工夫、新案特許が次々とシステム化、ハード化されて東大安田講堂事件対策へ、さらに引き続くマラソン反安保闘争警備の戦略戦術へ、装備改善へと発展していったのである。
これらの警備戦術の大転換が「双方に死者を出さない」「負傷者を少なく」という警視庁の大警備方針の実現に貢献し、検挙率を大幅に改善したことは、次の数字をみれば明らかである。
昭和四十三年中の警備実施回数・一千六十八回。検挙者数・五千百六十七名、負傷機動隊員数・四千三十三名。昭和四十四年は、東大安田講堂事件をふくめ、警備実施回数・二千八百六十四回、検挙者数・九千三百四十名、負傷隊員数・二千百九十五名。
つまり昭和四十三年には五名逮捕するのに四名の機動隊員が負傷したのに対し、昭和四十四年は隊員二名の負傷で九名を逮捕したことになる。検挙者/負傷隊員比率は、一・二八から四・二五となり、すでにのべた催涙ガス弾大量使用にふみ切ったことと相まって、日本は治安警備の先進国への道を歩むことになる。
佐藤総理への直訴
私が警備課へ着任してまもなく下稲葉警備部長が、いい出した。
「佐藤栄作総理に、機動隊を激励していただこうと思うんだ。官邸にご出勤の途中、大橋の三機に立ち寄っていただいて」
これは役人としてはヤバいことだ。上級官庁である警察庁がいやがるかもしれない。この間まで総理秘書官をしていた“ナバさん”ならできるし、“ナバさん”しかできないウルトラCだ。だが、機動隊員の命がかかっている予算増額要求や、機動隊増強、装備の改善は役人的配慮なんかしてられない焦眉の急なのだ。下稲葉部長も覚悟の上のことだろう。
「賛成です。部長、是非お願いします」
そして、十一月九日の朝、大橋にある第三機動隊(隊長・九島賢一郎警視)に佐藤栄作総理が立ち寄られ、装備資器材を視察し、隊員を巡閲された。
繃帯を巻き、腕を吊った隊員、でこぼこの大楯、焼け焦げた出動服姿の隊員、三機基幹隊員四百二十六名の三分の一ぐらいが、一〇・二一「新宿騒擾事件」の生傷が|癒《い》えない姿のままで整列している。佐藤総理のあの団十郎のような目が潤む。そしてぽつりと呟く。
「君たちは、こんなひどい目に遭っていたのか」
私は現場の警備課長だ。怖いことはない。遠慮なく陳情する。
「総理、装備を改善する必要があります。新型警備車、高圧放水車、大楯、防炎加工の出動服。ご覧下さい、いまの出動服は化繊ですから火炎ビンの炎をかぶると溶けてしまって火傷がひどくなるんです。催涙ガス銃も弾も足りません。多数の負傷者がすでに出ています。装備強化のための予備費支出を、是非お願いします。我々の要求は七億円です。予算をなんとか……。総理、警視庁に催涙ガス銃が何挺あるかご存じですか?」
「知らない」
「推測でいってみて下さい」
「うーん、五百挺ぐらいか」
「いえ、たった四十九挺であります。弾は二千発です。せめて五百挺の一万発、ほしいのであります。隊員を怪我させないためにも」
「フウーン」
下稲葉部長は私に任せてじっと黙っている。佐藤総理はなんの|言質《げんち》も与えず、三機を去って官邸に向かった。
数日後に、七億円の予備費を大蔵省が認めたとの朗報が入った。下稲葉警備部長のウルトラCが実り、早速、一万着の防炎加工服や大楯、特殊車輛などを発注することができた。
こうして来たるべきXデーに備え、警備態勢は万全とはいえないながらも着々と整えられていった。
一方、紛争が泥沼化していた東大では、奇しくも私が着任したのと同じ日、十一月一日に大河内一男総長が退陣した。紛争処理は|彗星《すいせい》のように登場した加藤一郎学長代行をはじめとした|向坊《むかいぼう》隆工学部長、平野龍一法学部長ら実務型の新執行部の手に|委《ゆだ》ねられることになった。
すでに安田講堂攻防戦に向かって歴史の針は着実に進んでいたのである。
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第二章 出 動
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学園自治を原則に機動隊による封鎖解除を拒む大学当局。一方、全共闘側の「東大解体」の執念は凄まじい。加藤一郎学長代行の決断は?

催涙ガス大量使用作戦
昭和四十三年十一月十二日、三機、五機を主力とする機動隊一千二百二十五名が豊田武雄第五方面本部長の指揮のもと練馬区江古田の日本大学芸術学部攻めに出動した。
日大芸術学部は、六月十九日以来日大全共闘にバリケード封鎖され、要塞化が進んでいたが、十一月八日未明、スト反対派の体育会系学生約二百名が角材をもって殴りこみをかけてきた。ところが全共闘約四百名に反撃され、大乱闘となったあげく、体育会系学生六十二名が監禁され、リンチを受けて重軽傷を負うという流血事件が発生した。所轄の練馬署は、捜査本部を設置して全共闘派を暴行傷害罪で、体育会系を凶器準備集合罪容疑で、捜索差押・検証許可状をとって捜査にのり出した。
ところが、日大芸術学部の全共闘、黒ヘル・銀ヘルたちは体育会幹部数名を、針金で縛ったあげく両手の指を折り、ローソクで髪などを焼き裸にして江古田の街をひきまわすという、正気の沙汰とは思われないリンチにかけたのだった。江古田の附近住民はその凶暴ぶりに恐れをなし、大学は治外法権なのか、こんな無秩序状態を警視庁は放置しておくのかと怒りと不安がたかまっていた。
さらに全共闘側は日大芸術学部を難攻不落の「千早城」とよび、火炎ビン、硫酸ビン、洋弓などの凶器や石を持ちこみ、「日大工兵隊」といわれた工学部のバリケード構築のプロに頼んで要塞化を強化した。
かねてから強硬に主張していた催涙ガスの大量集中使用の対象として、これ以上の凶悪なグループはない。私が催涙ガスの使用を具申すると、下稲葉警備部長も秦野総監も「よし、思い切りやれ」とゴー・サインを出した。
首脳陣も警備戦術大転換のチャンスを待っていたのだろう。
九島三機隊長と青柳五機隊長に「本日、ガス弾各隊三百五十発携行。思い切り使え」と指示する。五方面本部には「着弾距離内の民家三百五十軒に対し、催涙ガス使用広報を徹底せよ」と命ずる。もちろん、私も直接現場指揮をとる。警備戦術大転換の大事なテスト・ケースだ。
午前九時三十分。五機は正門、三機は裏門から日大芸術学部構内へ突入。副隊長指揮の一、二、四機の計八・五個中隊は、外周規制と全共闘応援部隊の阻止にあたらせる。私は三機と行動をともにする。
「機動隊員を十人は殺してやる」と豪語していた黒ヘル・銀ヘルの凶悪な籠城部隊がいっせいに投石をはじめる。
「抵抗をやめてすぐ退去せよ」と十分に広報しておいた上で、豊田五方面本部長に「じゃあ、やりますか」というと、十時十九分、「催涙ガスを使用せよ」という五方面本部長命令が発せられた。
そのとたん、ジッと投石に耐えていた三機と五機のガス分隊が、遠くは羽田闘争以来の、近くは日大経済学部西条警部殉職事件以来のたまりにたまったうっぷんを、この一瞬にはらそうとばかり、催涙ガス弾を本館校舎に向かって発射した。
ダダダダーン、その|咆哮《ほうこう》の凄まじさ。ダンダンなんてものじゃない。表と裏の両側から斉射するP弾(粉末)、S弾(スモーク=発煙)が放物線を空中に描きながら集束弾となって各階の窓という窓に飛びこんでゆき、日大芸術学部はたちまち|濛々《もうもう》たる催涙ガスの白煙に包まれてしまった。
耳元の間断ない発射音に指揮官たちは耳が聞こえなくなる。取材の記者たちも口をポカンとあけてその凄まじさに口もきけない有様だ。共同通信の川上徹記者(故人)がガス分隊の脇で屋上を見上げている姿がチラッと目の隅をかすめる。
「そんなとこにいると私服とまちがえられるぞっ」と他社の記者たちの野次が飛ぶ。
気がつくと、シュシュシュッと白煙を吐きながらガス弾が三機部隊に飛びこんでくる。
しまった、遅発弾か? なにぶん長いこと貯蔵してあって使っていないガス弾だから、不発や遅発の不良弾が多いのだ。学生側が投げ返してくるのか? 不発はいいが、遅発は始末が悪い。向こうへ撃ちこんだ時は発煙しないで、向こうが拾って投げ返してくる頃にシュウシュウやり出すから、なんのことはない、催涙効果は天に唾するようにこちらに対して発揮される。
その間に五機は正面から、三機は裏側から、次々とバリケードを撤去し、一階から二階へ、二階から三階へと攻めのぼってゆく。
ふと気がつくと、これはしたり、飛びこんでくる催涙ガス弾は、学生が投げ返してくるのではなく、|仰角《ぎようかく》をあげすぎた三機と五機のガス分隊の射手が建物越しにお互いに撃ちこみあっているではないか。思わず現場の九島隊長ら指揮官・幕僚たちと顔を見合わせて噴きだしてしまう。
「仰角、下げい、仰角、下げい、同士討ちだあ」
なにぶん、これまで隠忍自重、我慢せい、我慢せいと撃たせなかったから、発射技術が未熟なのだ。そのうち窓から黒煙がふき出す。
S弾が籠城組の万年床の布団や毛布に燃え移ってボヤになったのだ。五機の放水車が延長放水でただちに消火にあたる。
日大「千早城」の陥落
三機隊員は隣接する映画・写真学科の建物の屋上にかけ上がり、そこから大楯を構えた重装備のまま本館に飛び移って、屋上の制圧にかかる。みると、黒ヘル・銀ヘルは催涙ガスで|燻《いぶ》り出されて屋上に集まりつつある。
ようし、私も映画学科ビルの屋上から行こう。
映画学科のバリケードは大したことはない。一気に屋上にかけ上がり、身軽にひょいひょいと本館に飛び移ってゆく隊員たちとともに、屋上の胸壁の上に立ってみたら、ゾッとした。
距離が二メートル以上あるじゃないか。下をみると眼下二十メートルぐらいにコンクリートの道路。
自分が高所恐怖症だということを、忘れていた。やめた、やっぱり下から行こう。二十歳代の隊員たちは楽々飛び移るが、三十八歳には無理だ。公安部の私服の川原春雄係長がどこで手に入れたのか、白い指揮棒を振って屋上で|叱咤《しつた》している。思わず噴きだす。この間まで機動隊の中隊長だったから、自分が私服だってことを忘れているのだ。
神田の日大各学部の|砦《とりで》で動きが急だと連絡が入る。
数百人が江古田「千早城」の応援にゆくのだと騒いでいるという情報に、ハッと我に返って本来の任務を思い出す。私は機動隊の指揮官ではなくて、警備第一課長なのだ。
ガス分隊はまだ撃っている。
「撃ち方やめ、撃ち方やめ、もう十分だろう」
日大「千早城」は、あっという間に陥落した。午前十一時五十六分、屋上にかたまって頭を抱えている全共闘四十六名を全員検挙して、「状況、終わり」だ。我が方の損害、投石による軽傷二十六名。あのバリケードの堅牢さと凶器の準備状況からみて、催涙ガスの集中使用という戦術転換がなかったら、攻略には何時間もかかり、下手すれば第二の西条警部が出たかも知れない。
隊員たちの顔は、喜びに輝いている。
ガス銃を抱えている隊員に「どうだ、気分は?」と声をかけると、
「はいっ、スカッとしました」と元気な返事が返ってくる。
私の任務は、これからが大変だ。近隣三百五十軒の附近住民に「金筋」(警部)以上の幹部を派遣して警備協力に対する感謝とお見舞いにいかせる。
報告によると、一軒だけ魚屋さんが「商売物をどうしてくれる」と怒っているのを除けば、ほとんど全員が「当然ですよ」と支持してくれたという。魚屋さんには流れ弾が飛びこんだらしい。早速補償措置を講じなくては……。
マスコミの反応はどうだろう? 少なくとも現場に集まった各社の記者は好意的だった。
本庁に戻ると、警備第一課の大部屋は沸きたっていた。
「課長、ほんとにやりましたねえ」「大成功でした」と、声をかけてくる。
課長室に戻ると、隊長たちが集まってきた。みんな表情が明るい。たまりにたまっていたものがふっ切れた感じだ。
だが、それも束の間のことだった。警察庁から|譴責《けんせき》の電話がかかってきた。覚悟はしていたが警察庁の幹部からだ。
「君は世論というものを、考えたことがあるのか。国会でも問題になるぞ、無茶だよ」
そのやりとりを洩れ聞きながら隊長たちは押し黙る。
「事前に十分周辺広報をやりました。事後、幹部を三百五十軒挨拶に回らせましたが、苦情は一軒です。現場の記者たちからも批判はありません。隊員の負傷者は軽傷二十六名でした。今後もこの方針でやらせて下さい」
ブツブツいいながら電話は切れた。するとまた一本。別の警察庁幹部の声だ。
「君、催涙弾一発、幾らだか知ってますか? 今日一日で百五十万円使ったんですよ。警視庁の保有ガス弾が全部で二千発なのに、千二百発撃っちゃったっていうじゃないですか。まだ第二安保の警備、これから長く続くっていうのに……、一発千二百五十円するんですよ」
「しかし、第二の西条警部が出たら弔慰金二千万円じゃないですか。なにより隊員の命は金にはかえられません。警視総監のご命令で私はやっております。これから東大安田もあるし、かねてお願いしているように一万発、量産して下さい。単価も|廉《やす》くなるんじゃないですか。これからも集中使用致しますので、よろしくお願いします」
このやりとりを息をこらしてきいていた隊長たちは、愁眉を開いた。
だが、千二百発も使ったとは私も知らなかった。各隊三百五十発と命じておいたのに、うちの装備係、在庫不良品の棚ざらえをやったな。
さて、警備部長と総監に報告しなくては……と隊長たちとの雑談を打ち切ってすぐ隣りの部長室にゆく。
「部長、やっぱり怒られました、サッチョウに。世論ってもの考えたことあるのかって。千二百発、百五十万円使ったとも」
下稲葉警備部長は目を丸くして、
「なに? 千二百発も撃ったのか。だが構わん、オレがやれっていったんだから心配するな。だが、あとの調達、急がんと。また次になにが起こるかわからんからな」という。
「多分、製造は間に合わんでしょう。警察庁にお願いして、東大安田に備えて、全国の警察からガス銃五百挺、弾一万発を集めるように平崎二課長とも相談してやってます」
秦野総監も同意見だ。
「君はオレの部下なんだろう。オレがやれっていったんだから、やりゃあいいんだ。サッチョウのことは気にするな」
幸い、新聞、テレビも国会も、別に|咎《とが》め立てはなかった。“コロンブスの卵”というのだろう。みんな心の中で警察はてぬるすぎると思っていたのだ。
あとできいたことだが、各機動隊長が隊に戻って、隊員たちに警備第一課長室でのやりとりを伝えたところ、ドッと喚声があがり、拍手した者もいたという。
この日を境に警備第一課の幹部たちの私に対する態度が一変した。
数カ月後の懇親会で小林茂之警視が言う。
「課長さん、警備課大部屋での課長の|渾名《あだな》、知ってますか?」
「知らない、何てんだ」
「『大楯』っていうんです。総監や部長、サッチョウやブンヤが警備課に石投げてくると、バーンと受け止めちゃうから」
宇田川信一警視が言う。
「着任の訓示、評判が悪かったですよう。でも総監にでも部長にでも平気でいい返すし、本当に催涙ガス使うし、予算はガボッてとってくるし、ニコニコして、青くなってひっくりけえっちゃうどころか、ふとって元気になってくるから、みんなタマゲたね」
東大卒を機動隊に投入
日大芸術学部“城攻め”から数日後のことだ。
秦野総監によばれた。
「あのなあ、佐々君。いま機動隊を増強して、六、七、八機と新しく編成する作業をやってるだろ? 昔のな、神風特攻隊は、予科練や予備学生を突っこませて海兵出を温存したってえ批判がある。この際、東大出の資格者(上級職組のこと)から、しっかりした奴を選んで、機動隊長をやらせようと思うがどうだ。
こういう重大なときには資格者も特進(内部登用人事のこと)もねえんだよ。みんな一緒になってガアーッとやらにゃあ。な? 一つ人事の方やサッチョウと話して、君、人選してみちゃどうだ。もちろん、君も先頭に立ってもらうがよう」
凄い発想の転換である。
だが、怨まれるだろうな。自分自身のことは腹を|括《くく》っているし、同じ資格者の二十八年組の|金原《きんばら》忍第一方面本部長にしても、何回も負傷しながら現場指揮して全機動隊から信頼されているが、機動隊長となると危険度は大変高い。だが、全機動隊の士気高揚策としては素晴らしいアイディアだ。ようし、憎まれついでにやるか。
こうして関係方面と入念に相談した結果、新編を急いでいる第六、第七機動隊長に、半ば志願、半ば命令で“資格者”を任用する方針が定まり、人選も決まった。
第六機動隊長・増田美正警視(東北大・昭和35年組)。
第七機動隊長・池田勉警視(東大・昭和38年組)。
さらに、渡辺泉郎警部(東大・昭和42年組)を四機中隊長に、細井為行警部(中大・昭和42年組)を五機中隊長に、それぞれ起用することとなった。
私の手帳のメモには「一月五日、警察庁後藤田正晴・資格者機動隊長起用了解」とある。
ひき締まった表情で出頭した四人にそれぞれ内示し、「オレも一緒に前線に出るから」と激励する。
昭和四十四年一月十日、第六、第七機動隊が新設され、さらに一機特科車輛隊が分離独立して、第八機動隊となり、発隊式が行われ、これで態勢が強化された。
なお、新編の三カ隊は、八日後の安田講堂事件に際して早速、実戦に参加した。六機は本郷三丁目で神田地区からの東大応援ゲバ集団の阻止。七機と八機(杉山賢司隊長)は安田講堂封鎖解除警備に投入されることになる。まったくもの凄い時代だった。
全国道府県警察から警視庁への催涙ガス銃と装薬包、催涙ガス弾の緊急集中保管転換は、警察庁警備課の長田光義警視らのなみなみならぬ努力で順調に進み、一月十二日の時点でほぼ目標に達した。さらに東大安田城“城攻め”の前日、一月十七日の時点で、催涙ガス銃五百挺(警視庁保有四十九挺)、装薬包五千九百十四発、催涙ガス弾一万五百二十八発(P弾=パウダーが八千七百三十二発、S弾=スモークが千七百九十六発)と、当初の目標を一〇〇パーセント達成し、かろうじて東大安田講堂攻めに間に合ったのである。
放水車の性能アップの作業も、懸命に続けられた。
高く|聳《そび》える東大安田講堂の窓という窓がベニヤ板でふさがれている。このベニヤ板をふっ飛ばすには高圧放水車が必要だが、残念ながらそれは調達が間に合わない。なぜもっと早く誰かがやっておいてくれなかったのかと愚痴の一つもいいたいところだが、|詮《せん》ないことだ。
現有の放水車の放水銃は二十ミリ・ノズルだ。
最大二十二〜二十五気圧かけて仰角三十度で、放水の到達距離は三十メートル。安田講堂の高さは四十メートルだからノズルの性能をアップしないといけない。
実験の結果、二十三ミリだと放水の到達距離は四十メートル、二十六ミリにすると四十五メートルであることがわかり、改良を加えることになる。暴徒の足を狙って放水し、なぎ倒す能力は、各口径とも二十三メートル以内であることもわかった。
同時並行的に、警備戦術の改善会議が行われた。正規機動隊をその機動性を生かして外に出して「攻め」に使い、動きの鈍い方面機動隊を国会・官邸・米国大使館等々の重要防護対象施設の内張り、「守り」につかせるという戦略任務のふり替えも、承認された。
また各機動隊に一個中隊、最精鋭の遊撃中隊を編成し、二十七挺の催涙ガス銃を装備させて「攻め」の検挙部隊とする案も採用された。
「上智大方式」の誕生
昭和四十三年十二月二十一日に行われた上智大学封鎖解除警備は、都内バリケード封鎖大学四十五大学の中で、大学当局の正式な機動隊出動要請に基づく、“解放”第一号だったという点で、特筆に値する。
世間一般では、第一号が東大であると信じられているが、実はそれは上智大学だった。同大学が反代々木系の上智大全共闘によってバリケード封鎖され、不法占拠されたのは、十一月七日のことだった。上智大学当局の決断は早かった。守屋美賀雄学長ならびに理事長のピタウ神父の正式な出動要請に基づき、一機及び四機、千三百五十六名の機動隊が封鎖解除を行ったのは十二月二十一日である。
上智大“城攻め”は午前六時三十分に開始され、わずか四十三分後の七時十三分、空ビン、石などを投げて抵抗する全共闘五十六名を全員検挙した。ガス分隊による催涙弾攻撃はきわめて効果的で、隊員五名が軽傷を負ったにとどまった。催涙ガスの使用が隊員の負傷者を減少させることは、日大芸術学部攻めに続き、上智大封鎖解除警備によって完全に立証され、以後基本的な戦術パターンとなる。
上智大警備で特筆すべき点が二点ある。
その一は、大学当局の機動隊出動要請=封鎖解除後一定期間休校・ロックアウト=機動隊常駐警備という、いわゆる「上智大方式」が確立され、以後紛争大学の学園正常化の基本パターンとなったことだ。
その二は、一般学生が拍手と声援で機動隊の学内立入りを歓迎したことである。
それまでは、一般学生の警察アレルギーが強く、出動した機動隊はノンポリ一般学生たちからも「帰れ、帰れ」のシュプレヒコールを浴びせられた。そんなことから「機動隊導入による解決は結果がよくない」とか、「学園の自治権の侵害になるのでは」と、大学当局が優柔不断になってかえって紛争が悪化した。
上智大方式は、この懸念が誤りであることを実証し、以後各大学は争って警備第一課に機動隊出動、常駐警備を求めるようになり、警備第一課長室の前に大学当局の人間が行列をつくって待つ騒ぎとなった。
十二月二十一日の午前六時三十分、上智大構内に立入った私は、後方から起こった|鬨《とき》の声と拍手に、キッとなって振り向いた。
「四機四中、回れ右っ、後方警戒せよ、学外から全共闘の応援部隊がきてるぞ」
ところがゲバ部隊のかげもない。
なんだい、こりゃ、どうも学生寮から声援が飛んでいるようだ。そのうち「機動隊、頑張れっ」とか、「ご苦労さん」という声が耳に入る。
「あれ、どうもオレたちに拍手してるぞ」
長い間、罵声ばかり浴びせられてきた警備第一課長としては、思わず「有難うー」と叫び返すほどの嬉しさだった。熱いものが胸にこみあげてくる。やっと我々のことを学生諸君はわかってくれたのか。
この感動は、現場にいた金原忍第一方面本部長以下、千三百五十六名の隊員全員の気持ちだったと思う。
夕刊には大見出しで「拍手に迎えられた機動隊 寮生窓に鈴なり」「突入の機動隊に声援 一般学生寮の窓から」などと報道された。
プレ安田講堂四大事件
昭和四十四年一月十八日の安田講堂事件に至るまでのプレ安田講堂攻防戦として、四つの大きな事件があった。
第一が、東大全共闘による林健太郎文学部長の百七十三時間に及ぶ不法監禁事件。これについては第三章で詳しく述べる。
第二が、昭和四十四年一月九日夜の、加藤学長代行要請による“内ゲバ”鎮圧のための第二次東大構内機動隊立入り。
第三が、同一月十日の国立秩父宮ラグビー場「七学部学生集会」とその警備。
第四が、同一月十五日、東大本郷構内で開かれた「東大闘争勝利労学総決起集会」における代々木系・反代々木系による最大の“内ゲバ”の危機である。
いずれも安田講堂事件とは何であったかを語る上で重要な事件である。順を追って説明しておこう。
昭和四十四年一月十五日の政治的タイム・リミットが迫り、なんとか東大入試中止という最悪の事態を回避しようと必死になった東大当局は、長年「学園の自治」を唱え警察力の学内入りを|頑《かたく》なに拒んでいた姿勢を改め、警視庁とも学園正常化の方途について協議を始めた。また一方、中立的立場で学園正常化を求めるノンポリ派と代々木系民青、さらに全共闘との対話にも努めだした。
大河内総長の辞任をうけて昭和四十三年十一月四日に選出された加藤一郎東大学長代行以下、向坊隆工学部長、平野龍一法学部長、藤木英雄教授ら新執行部の東大“危機管理”におけるエネルギッシュで粘り強い行動力は、前大河内総長体制と比べてみると瞠目すべきものであった。警察当局とほとんど連日連夜協議し、文部省とも交渉。代々木系、反代々木系に限らず学園正常化のため立ち上がったノンポリ学生グループとも疲れを知らず団交を続けていた。
政府・自民党、マスコミの一部には「加藤代行は民青寄りでは?」という疑念を抱く人もいたが、私のみたところでは加藤代行はイデオロギー抜きのプラグマティストで、日本のインテリには珍しい冷徹な合理主義者のタフ・ネゴシエイターだった。
そのタフぶりを示すこんなエピソードがある。学内情勢が急速に険悪化しつつあったある晴れた日、安田講堂を占拠する全共闘派が講堂内で代行との“団交”を申し入れてきた。
“団交”とは事実上吊し上げ大会なのである。
私は「危ないからおいでにならん方が……」と助言したが、加藤代行は平然とこれに応じ、出迎えの全共闘指導者たちに囲まれながら悠々と講堂内に入っていった。百八十センチは優にあろうかという長身なので、代行はとり巻く学生たちの中で頭一つぬきんでている。ほぼ一時間後、ハラハラしながら遠くからみている私たちの前に、「帰れ、帰れ」というシュプレヒコールに送られた加藤代行がゆっくりと安田講堂から歩み出てきた。
「先生、あんな青二才たちに“帰れ、帰れ”なんていわれてさぞや口惜しいでしょう」と私が慰めると、
「いえ、あれは最近の学生用語で“サヨウナラ”という意味なんです」
こんなこともあった。「加藤代行、行方不明」という情報が入った。
さては過激派にさらわれ、どこかに監禁されたのでは? と心配した警視庁側が八方手を尽くして捜したところ、なんと加藤代行は出身校である旧制成城高校のコール・アカデミーOB定例合唱練習に参加して、バリトンかなんかで歌を唱っていたのである。
「心配してたんですよ」というと「私はちゃんとポケットベルを持ってました。行方不明と思う方がおかしい」とのたまう。ストレス解消法なのだそうである。
平野法学部長に「加藤代行って凄い|強靭《きようじん》な神経の持ち主ですね」と感心していうと、平野法学部長は破顔一笑して「あのね、私たちの間では彼は神経が太いじゃなくて、神経がないんじゃないかっていってんです」
加藤代行は、東大入試中止という最悪の事態を避けるため、代々木系民青とノンポリ派と話し合い、彼らの要求する学園民主化のための「十項目の確認書」を受諾することを条件にストを中止させようとした。バリケード封鎖を撤去させ事態を打開し、東大入試を実現しようとしたのだ。
その流れの中で、大学側と東大七学部の学生代表団が話し合う「一・一〇秩父宮国立ラグビー場・東大七学部学生集会」がセットされたのである。というのはいうまでもなく、昭和四十三年十二月二十九日に文部省で行われた坂田道太文部大臣ら文部省首脳と加藤学長代行をはじめとする東大代表との会談の席上、「現時点においては東大入試は中止、ただし一月十五日頃までにスト解除、授業再開の見通しがたてば、その時点で再考する」という最後通牒が出されていたからだ。
一・九東大両派乱闘事件
一方、これに対し「東大をぶっ潰す」執念に燃えた反代々木系全共闘は、この妥協に憤激し、「七学部集会断乎粉砕」を宣言。昭和四十四年一月九日、十日両日全国動員をかけて実力阻止を企てた。
代々木系を支援する日本共産党は、党をあげて東大紛争と取り組み、一般党員の支援も辞さずという気構えを示した。これに勇気を得た代々木系全学連は一月九日午後三時、民青の拠点である教育学部で総決起集会を開くため、全国規模の動員をかけた。
こうして「一・九東大両派乱闘事件」が起きたのである。この日の東大本郷構内は朝から重苦しい空気がたちこめ、昼頃から続々と結集しはじめた反代々木系の武装ゲバ学生の数は、二千四百六十人、代々木系は三千四百人、それに学園正常化を求めるノンポリ一般学生約一千人、三グループの合計は六千八百余人に達し、東大構内は騒然となった。
警視庁は第一・第五両方面警備本部を設置し、警備第一課の連絡調整態勢(警備第一課長指揮)を敷き、機動隊一〜五機二千九百六十九名、方面機動隊七個中隊八百七十九名、その他“総兵力”四千二百四十五名の前進待機態勢でこの事態に臨んだ。
代々木系は教育学部建物、反代々木系は安田講堂、ノンポリ派は経済学部を拠点として三つ巴の|対峙《たいじ》を続けていたが、一月九日午後七時五分、反代々木系革マル派約六百名が代々木系のたて籠る教育学部に攻撃をかけたことから、投石、角材、鉄パイプによる殴りあいの大乱闘が始まったのである。
私は東大の隣りの|本富士《もとふじ》警察署の署長室につめ、|島《ならしま》文穂署長とともに|山上《さんじよう》会議所に設置された東大当局の“警備本部”とのホットラインをつなぎっ放しにして、加藤代行からの連絡をイライラしながら待っていた。警備無線は暗闇の本郷構内で続いている代々木系、反代々木系の流血の大乱闘と、その間に割って入って坐りこみをしているノンポリ組の動向を刻々と伝えているのに、東大当局からはいっこうに出動要請がこないからだ。
本庁、二つの方面本部、各機動隊の情報幕僚たちが私のまわりで|固唾《かたず》をのんで東大側からの電話を待っている。七時五十五分、ホットラインが鳴る。加藤代行からだ。
「佐々さんお願いします。加藤です。ノンポリ学生約五百人が経済学部で逃げそこねて囲まれ、挟み撃ちを受けています。囲んでいるのは日大と中央の全共闘のようで三千人くらいいます。非常に危険な状態です。教育学部は民青が固めていて今はさし迫った危険はありません。もう一本、経済学部から電話が入り次第、出動要請あり得べしということで待機をお願いします。電話、このままにしときましょうか?」
いつものとおり、冷静な声だ。
私は加藤代行の言葉をいちいち声に出してくり返す。まわりで聞き耳を立てている幕僚たちに時間を省いて伝える危機管理の手法の一つだ。再び加藤代行から、
「経済学部が非常に危険な状態です。私から出動を要請します」
「加藤代行からの出動要請ですね。時間は八時十六分、よろしいですね」
「はい、私から要請いたします」
耳を澄ましてシーンと静まり返っていた現場警備本部が騒然となる。誰かが大声で叫んでいる。
「八時十六分、加藤代行から出動要請だっ」
窓越しに救急車のサイレンの音。内ゲバでかなり怪我人が出ているらしい。
八時二十分、五方面本部長の命令一下、機動隊はいっせいに行動を起こした。一機は正門から、四機は赤門から、二機と五機は龍岡門から、三機は学士会館脇から構内に雪崩れこむ。暴れまくっていた約二千四百名の反代々木系は不意をつかれてクモの子を散らすように闇の中を逃げ走る。現場からの報告だと、安田講堂からも皆逃げ出して、いまはもぬけのカラだという。
好機逸すべからず、早速加藤代行に津田参事官と|交々《こもごも》電話で、
「凶器準備集合罪の捜索押収差押許可状をとりますから、職員の立会いをお願いして、この際安田講堂の封鎖解除をなさってはいかがですか、せめて凶器だけでも運び出しては?」
と説得した。だが翌十日の「秩父宮ラグビー場七学部集会」に学園正常化の期待をかけてのことか、加藤代行は首をたてにふらない。
「今日のところは、経済と教育で囲まれているノンセクト学生の救出ということでお願いしたのでそこまでは……安田講堂のことは近くまたあらためて……。その件については平野先生をすぐ本富士に行かせますから」
私と加藤代行のやりとりは深更まで続いたが、結局せっかくカラッポになった安田講堂を横目にみながら、機動隊は撤収した。すると舞い戻ってきた反代々木系と代々木系のゲバが始まり、九時三十五分、再び加藤代行の要請で再突入して蹴散らす。このくり返しが続き午後十一時二十分ようやく状況はおさまり、部隊は撤収した。
両派の乱闘による学生の負傷者九十五名。うち十数名は重傷とのこと。検挙者は五十一名。機動隊側は投石等により二十名が負傷した。余談だが、この夜全共闘に囲まれて両側から挟み撃ちをくって生命の危険にさらされ、加藤代行に出動要請を決断させる引金となったノンポリの学園正常化委員会のリーダーの一人が、現在の自民党衆議院議員・町村信孝氏である。
三つ巴の決起集会
翌一月十日はよく晴れた日だった。
午前十時から秩父宮国立ラグビー競技場で、加藤代行と東大七学部(法・工・理・農・経・教育・教養)学生約八千五百人との野外“団交”が催された。代々木系主導型の七学部集会粉砕を呼号する反代々木系各セクトは、都内大学の拠点から秩父宮ラグビー場を目指して殺到した。その数は約九百五十名。会場周辺の青山、神宮外苑一帯至るところでゲバ闘争が展開された。東大本郷・駒場両キャンパス内でも乱闘が始まった。警視庁は総合警備本部を設置し、機動隊全隊及び方面機動隊など総兵力五千九百七十九名の態勢で警備に当たり、七学部学生集会は、なんとか平穏裡に終えることができた。
昭和四十四年版の私の能率手帳の一月十日欄には「反帝学評ら百四十九名検挙、罪名・凶器準備集合罪・公務執行妨害罪・警察官三名負傷」と簡単なメモが残されている。
東大入試中止反対、スト解除、授業再開を要求するノンポリ派に加え、来たるべき第二次反安保闘争に向けて学生運動の主導権をにぎることを狙った民青と、加藤代行の間で「学園民主化十項目の確認書」についての合意が成立した。一応代々木系全学連の勝利である。「東大入試中止」だけは回避したいとする大学当局の必死の努力が実り、東大十学部のうち医・文を除く八学部が一月十四日までに次々とスト解除決議を行った。
ところが……である。
「東大入試粉砕、全学バリケード封鎖」を強硬に主張してきた反代々木系過激派は、この七学部集会の結果に危機感を抱いた。劣勢を一挙に挽回して東大闘争のイニシアティヴを取り戻そうとして、一月十五日、東大本郷キャンパスで動員規模三万人の、
「東大闘争勝利労学総決起集会」
を計画した。全国から労働者をふくむ“外人部隊”が、反代々木系の拠点、安田講堂、法文経一・二号館に前夜から泊まりこみで続々と結集しはじめたのだ。
一月十五日、本郷キャンパスに集結した労学混成の反代々木系の武装ゲバ戦闘集団は、最大時には約三千九百名(中核派七百名・反帝学評四百名・革マル派四百名・社学同統一派四百名・ML三百名・フロント百名・学生反戦四百名・労働者反戦一千二百名)にのぼった。いずれも部隊編成され、隊伍を組み、鉄パイプ、角材、投石用の石などを準備し、学内いたるところでデモや集会を行って気勢をあげていた。
迎え撃つ代々木系民青の黄色ヘル武闘集団は約二千五百名。特注の|鍬《くわ》の柄の樫棒を民青ゲバ部隊の“統一規格”ゲバ棒とし、教育学部、経済学部、医学部本館などを拠点に、反代々木系の攻撃に備えた。
このほかに、「ノンポリ」とか「ノンセクト・ラジカル」などとよばれていた一般学生約一千二百名がいたから、東大構内で対峙していた三つ巴の勢力は、総数七千六百名に達した。反代々木系の大部分は、安田講堂、法文経一・二号館、理学部、文学部、工学部列品館などにたて籠り、バリケード封鎖をはじめ、午後九時頃には構内ではげしい乱闘が始まった。
警視庁は、十五日午前十時、本部総合指揮所に下稲葉耕吉警備部長指揮の総合警備本部(幕僚長・佐々警備第一課長)を設置し、東大本郷及び駒場キャンパスの二正面に備え、機動隊八個隊全隊(八機は特科車輛隊)、方面機動隊十個中隊、総兵力八千三百七十七名の態勢で、流血事件防止の威力配備を行った。
この日は、駒場と本郷両キャンパスで、数回にわたって両派が乱闘し、重傷一名をふくむ二十六名の学生が負傷したが、午後九時四十五分には両派ともそれぞれ構内の拠点に引きあげ、大事には至らなかった。
だが本郷構内の両派の対峙ぶりは、殺気みなぎる凄まじいものだったようだ。
夜遅く現場から帰ってきた「コンバット・チーム」の宇田川信一警視はこう報告する。
「いやあ、凄かったですよ、民青のゲバ集団二千五百と、過激派各セクト三千九百でしょう。それがゲバ棒構えてスクラム組んで、本郷構内をデモるんですよ。両派がすれ違うとき、ボートのオールみたいにいっせいに横に得物を突き出す。そうすると何千本という民青の鍬の柄の樫棒と全共闘の鉄パイプがふれあって、シャリシャリシャリって音をたてるんです。黄色ヘルの民青ゲバ隊、赤、白、青、緑、色とりどりのヘルの全共闘、今日はゲバらなかったからいいけど、あれ、本気で殴り合ったら相当死人がでますよ……」
この宇田川警視は、前にも述べたように行動力抜群、機略縦横、大胆不敵な課長代理で、秩父宮ラグビー場七学部集会の際も、東大職員の腕章をつけて会場内に入り込んだ。宇田川警視は八千五百人の東大全共闘に囲まれた加藤代行のすぐ後ろに立って、澄ましてそのやりとりを逐一聴いていた。その姿が翌日の新聞一面の写真に写っていて、皆をびっくりさせたものだ。
また城攻め直前の安田講堂に、某一流建設会社の課長だと名乗って「君らが安田講堂を大分こわしたんで、将来紛争がおさまったときは修理してくれって大学当局から頼まれてね、ちょっと内部をみせてもらうよ」と籠城学生をケムに巻いて悠々と内部のバリケード、籠城学生の配置状況、凶器の種類などを偵察してきて、私を唖然とさせた肝っ玉警視である。
「一・一五東大闘争勝利労学総決起集会」の緊迫した雰囲気と、全国からのりこんできた“外人部隊”の情容赦ない暴力沙汰、施設の破壊、「東大解体」の執念の凄まじさに、あくまで「自主解決」路線を歩もうと努力した加藤代行ら新執行部もついに諦めた。
万策尽きた加藤代行は、機動隊導入による“大掃除”を決断。翌十六日の東大封鎖解除のための正式の機動隊出動要請へと事態は急展開するのである。
機動隊出動要請
「……平和的手段を尽くして封鎖を解除しようと思いましたが、その可能性が少なくなりました。十五日は機動隊のおかげで大した衝突はありませんでしたが、機動隊がいなくなると、身体生命への加害の危険性が常にあります。
学外者が大量に立入り、危険物、武器の搬入、財産の強奪や暴行、リンチが随所で行われ、これ以上は放置しておけません。
また研究教育施設の破壊が急速に進んでおり、貴重な図書文献が破壊されていることは回復しがたい文化的損失です。このような状況の変化により、決意を固めました。
不法占拠排除のため、警察力の出動を要請します」
いつもそうだが、加藤一郎東大学長代行は水の流れるように、まったく感情を抑制した冷静な口調で、淡々と語る。
英語で“|胡瓜《きゆうり》のように冷静な人”(Cool as a Cucumber)という表現があるが、きっと加藤代行みたいな人のことをいうのだろう。
いつもなぜ“胡瓜”なのかなと思う。こんど一度英国人にきいてみようと思うが、まだ語源を確かめていない。
(カルフォルニアにお住まいの医師A・トーマス・クラマタ博士のお便りによると、古代ギリシア時代より医薬品には熱、温、乾、寒の四種があるといわれ、野菜では胡瓜の種が寒の最高のものであったとのことである)
加藤代行と交渉した回数は、これで何回になるだろう。深夜の電話連絡をいれたら、百回ではきかないだろうが、いつもこうだ。
激したり昂奮したりするのを見たことがない。「十五日はおかげで……」というのは、つい昨日の「東大闘争勝利労学総決起集会」の警備のことだ。
一月九日の夜だってそうだ。加藤代行の電話による出動要請を、私は前進待機していた本富士警察署の署長室で受けたが、あの時の声も冷静そのものだった。
あの時あれだけ「思い切ってこの際、安田講堂封鎖解除の出動要請にふみ切られてはどうですか」と、語気を強め、膝詰め談判したのに、代行は首をたてにふらなかった。
あの時決断していれば、一月十五日の騒動もなかったのに……、本当に東大当局の不決断ぶりにはイライラさせられる。
十五日の危機一髪がよほどこたえたのか、あるいはすでに期限を越えた政府当局の「東大入試中止」決断のタイム・リミットが加藤代行をふみ切らせたのか、ついに大学当局は機動隊導入による東大の大外科手術を、いま、加藤代行の口から要請させたのである。
時に昭和四十四年一月十六日午後一時。
場所は警察共済組合の半蔵門会館。
東大側からの出席者は、加藤一郎学長代行(民法)、向坊隆工学部長、藤木英雄法学部教授の三人。
警視庁側は、山本鎮彦公安部長、下稲葉耕吉警備部長、村上健公安総務課長、飯田蔵太公安第一課長(極左担当課長)と警備第一課長の私の五人だった。
変なもので、いま加藤代行自身の口から出動要請があったというのに、その態度があまりに淡々としているせいか、聞く方もさっぱり昂奮しない。何だか拍子抜けしてしまって妙な気持ちになる。
「口頭の要請だけでは……」と念を押すと、「ええ、後刻、私の名前で正式に文書で要請します」と、あっさり答える。
十八日に決行ときまり会談は午後四時までに及んだが、さらに詳細な打ち合わせは、私と加藤代行、藤木教授、それに東大の横山陽三学生課長との間で行われることが決まった。
翌十七日、いよいよ“城攻め”の最終の準備にかかる。
十五日の「東大闘争勝利労学総決起集会」の晩と、十六日の晩と、ほとんど二、三時間ずつしか眠っていないが、決着をつける天下分け目の大決戦の日は迫った。
私がかねてから主張していたように、東大安田講堂封鎖解除警備は、弓をいっぱいひき絞っておいて力をため、「一万人の機動隊で、一万発ガス弾をうちこんで、一万人逮捕する」という大警備の矢を放つときをむかえたのだ。
動員解除か?
ところが、ここに思いがけない|椿事《ちんじ》が|出来《しゆつたい》した。
一月十七日、警視庁内は世紀の大警備の準備とあって、朝早くから戦場のような騒ぎだった。ジュラルミンの大楯を重ねて手押車で運ぶもの。|無 線 機《ウオーキー・トーキー》を背負った伝令をつれ、白い指揮棒を小脇にはさんだ出動服姿の機動隊指揮官。決裁書類を手に小走りに急ぐ制服警官……。
そんな最中、「総監がお呼びです」と連絡が入る。
三階の総監室に入ると、秦野章総監より、
「物情騒然としているが、なんかあったのか」とご下問。
「あれ? 総監、ご存じないんですか? 昨日加藤一郎代行から正式に安田講堂封鎖解除のための機動隊出動要請がありまして、明朝決行ということで……」
とたんに大雷が落ちた。
「バカッ、オレは聞いとらんぞっ、東大安田ってえのはな、高度に政治的問題なんだぞ。だからお前ら警備屋はダメだってんだ。加藤一郎が要請してきたからってすぐやるなんて単純な話じゃねえんだ。オレの命令なしに一兵たりとも動かしちゃならん。動員解除しろ、オレがいうまでなんにもするなっ」
これは一大事だ。情報報告の「もたれあい」というのはまさにこれだ。昨日要請をうけた五人とも、警備は公安が、公安は警備が総監に伝えるだろうと期待して互いに「もたれあい」、報告もれになってしまったのだ。よりによってこんな大事なことを……。
警備会議室にすっ飛んでゆくと、公安、警備両部長をはじめ両部の幹部たちが大テーブルの上に東大構内の地図を拡げて、作戦会議のまっ最中だ。
「ちょっと待って下さい。加藤代行の出動要請、総監に報告してないんじゃないですか? カンカンになって怒ってますよ」
両部長、顔を見合わせて「あれ?」などといい合っている。早速総監室に謝りに行った下稲葉警備部長が戻ってきたが、「弱ったな、別命あるまで待機だ」という。
昨日私から総監に「念のため報告」をしておけばよかったと反省する。いまさら動員解除なんて、はりきっている部下たちに向かっていえるものではない。
総監はどこかへ出かけていったが、きっと警察庁や首相官邸、坂田道太文部大臣、自民党本部などに根回しに行ったにちがいない。こちらは幕僚長だ。和戦両様、どちらの命令がでても即応できる構えで諸準備はすすめておけばよい……。
「明日決行と決まった。すぐ関係者に連絡してくれ」
総監室から戻った警備部長から命令が下った。一月十七日午後十時のことである。
ニトロとリベット銃
決行までに藤木教授や加藤代行と打ち合わせなければならない事項は、山とある。
東大当局による「構内立入り禁止の布告」を、いつ、誰の名前で、どこで、どうやって掲示するのか。記者会見を通じてマスコミにのせるのか、立て看板なのか、構内放送なのか。
このことは東大全共闘が素直に期限内に立ち退かずに抗戦した場合、建造物侵入、不退去、公務執行妨害などで逮捕した者の事件処理上、不可欠の大前提だ。
危険防止のため、ガス、電気などの供給停止。当日の朝の構内立入りを誘導する教職員の指名、各門ごとの配置状況の確認、封鎖解除警備中の加藤代行以下東大当局執行部の対策本部の場所、電話番号、連絡担当責任者の指定。封鎖解除後ただちに行われる公安部の現場検証に、公務所代表として立会う教職員の氏名、連絡方法……。
主として藤木英雄教授との電話連絡による打ち合わせは、十八日午前二時半まで断続的に行われた。
最大の関心事は「武器・凶器の種類」に関する大学当局の情報だった。
「ダンボール箱の中に入れた試験管入りのニトログリセリン」と「|鋲《びよう》打ち用リベット銃」が、本当に安田講堂に搬入されたかどうか。これが警視庁側が最後まで執拗に確認しようとし、大学当局に情報提供を求めた最重要の事項だった。
情報によると、「ダンボール箱五箱につめた三センチ×二十センチのコルク詰めの試験管に入れたニトログリセリンを、そろそろと運んでいた」
「一月十五日午前三時、安田講堂で投下実験を行い、その爆発音が聞こえた」
「爆発音がしたのは、安田講堂バルコニー、法文経一・二号館、安田講堂内」
とのことだった。
このほか、鋲打ちリベット銃三十挺、角材・鉄パイプ四千人分、ガソリンドラム缶三本以上、火炎ビン六百本、本郷キャンパス周辺の歩道から剥がした無数のコンクリート平板の敷石、硫酸、塩酸、硝酸のビンなどが安田講堂はじめ各|砦《とりで》に搬入され、籠城学生側は「日大では機動隊員一人を殺したが、安田では十人は殺す」と豪語しているという。
私はなんとか情報を確認したいとの一念から、何回も藤木教授に深夜の電話をかけた。こちらは何千人という機動隊員の命をあずかっているのだ。
「藤木さん。なにかその後ニトロに関する情報は、ありませんか」
「これは佐々さん、“重要な雑談”なんですけどね……」
これが藤木教授の癖だ。一番大事なことをいうときの|科白《せりふ》だ。
「山本義隆(東大全共闘議長)が講堂内で記者会見をやりましてね、『ニトロは本当に使うのか』ときかれて『ニトロに関しては肯定も否定もしません』っていったそうですよ。私にはわかりません」
「でも藤木さん、もし本当になくて、使う気もないんだったら、『東大全共闘を|誹謗《ひぼう》する警察とブル新(セクト用語・ブルジョワ新聞のこと)の悪質なデマだ』ぐらい、いうんじゃないかな」
「そういわないところをみると、使う気かも知れませんね」
「やはり、『ある』という悪い方を前提にしてかからにゃいけませんかね」
警視庁では「ニトロはある」という最悪の事態に備えて、科学警察研究所の専門家を招いて、警備・公安両部の突入部隊各級指揮官を集めた緊急の対策会議が開かれた。部下の命にかかわることなので、皆真剣にメモをとる。
「……三センチ×二十センチ試験管に詰めたニトロは、ダイナマイト百グラム二本分の爆発力があります。中心気圧は十万気圧ですから直撃されると人間が粉微塵になります。しかし、爆圧は距離の立方根により減少しますから、五メートルはなれると、せいぜい五気圧ぐらいに低下しますから死ぬことはないでしょう……」
「青酸は個体〇・三から〇・五グラムで致死量です。水に溶かすと無臭の青酸ガスが発生して危険です。サルの実験では空気一リットルに〇・二から〇・二五ミリグラムで致死です。人間は〇・一二ミリグラム、三十分から一時間で致死、〇・三ミリグラムだと即死です。屋外だと発散しますが、屋内はこもるから狭いところはとくに危険です……」
「硫酸、硝酸は皮膚|蛋白《たんぱく》を凝固させます。すぐ拭きとって、それから大量の水で洗うこと。まず拭きとること、水を加えると高熱を発しますから。硫酸はベトベトします。硝酸は煙が出る。皮膚が黄色くなります。目に入ったら水をかけるんですね」
畜生、なんてことだ。メモをとりながら怒りがこみあげてくる。
歩道の敷石用のコンクリート平板も、実物を用いてテストしてみる。大きさは三十センチ×三十センチ、厚さは六センチ。重さはなんと十二キロもある。こんなのを二十メートルくらいの高さから投下されたら、加速度が加わって大楯やポリカボネード製のヘルメットなどでは命を守れない。
大鉄球作戦
東大当局は、当日朝は正門と池之端門は閉鎖して、赤門、弥生門、龍岡門(通称・鉄門)に誘導の職員を配置すると通報してきた。
警備会談に次ぐ警備会談。
警備態勢と方針、動員兵力が決まった。
警視庁総合指揮所に、総監直率の「最高警備本部」を開設する。総合警備本部(本部長・下稲葉警備部長。幕僚長・佐々警備一課長)は本富士署署長室(署長・島文穂警視)に前進。
方面警備本部は一本(神田)と五本(本郷)で、多重無線指揮車の中。方面本部とは、警視庁の地域分担総括監督組織のことで、当時は八つ(現在は九つ)の方面本部が設置されていて、日常は広域警察業務の指導監督、大きな警備事象の際には“方面軍司令部”の役割を果たす機関である。
機動隊は八個隊総動員(八機は特科車輛隊)、十四個大隊・四千六百七十八名。方面機動隊は十五個大隊・二千五百六十五名、計七千二百四十三名。その他・方面機動隊予備八個大隊・九百七十名、本部要員を含めて合計八千五百十三名。
警備本部では、幕僚長の私を中心に指揮幕僚による|厖大《ぼうだい》なチェック・リストの最終点検が始まる。
催涙ガス弾は総予備五百発を残して全部隊に配布。弁当を昼、夕食用とりあえず二万食手配。その他、警備無線の系統図、各署の留置場収容可能人員の調査、警備車輛駐車場の確保、警視庁航空隊のヘリ三機(おおとり・はるかぜ二、三号)の運用計画……時間が限られているから、眠る|閑《ひま》はない。
せめて二時間、仮眠しようとしていたら、|依田《よだ》智治広報課長(後・防衛次官)が大声をあげながらやってきた。
「佐々さん、大変だあ、警視庁記者クラブが全員現場へ行くって。本富士署の加入電話や警電使われたら、警備指揮連絡通信、めちゃくちゃにされちゃうよ」
「おう、そりゃいかん。電電公社(現NTT)の上の方を叩き起こして、大至急加入電話の百本ケーブル、本富士に架設してもらおう。それにNHKとか朝・毎・読とか紙貼った赤電話をつけて、彼らにはそっちを使ってもらおう。警察のは使わないでくれって、幹事社に申し入れてくれ。そこまでサービスだ。あと通話料金は各社持ちだっていっといて」
電電公社は、全面的に協力してくれて、朝方までに百本ケーブルの架設完了。
安田講堂内のバリケードは、一月九日の乱闘事件のあと「日大工兵隊」が応援にきて、格段に堅牢なものに強化されたという。
まともに攻めたんでは殉職者が出かねない。
「ようし、非常手段だ。ビル取り壊し用のクレーンと一トン鉄球を借りてきて正面玄関のバリケードをぶっ飛ばしてやろうぜ。どこで借りられるって? 日本リース? そいじゃすぐ手配しろ。リース料? いくらでもいい」
下稲葉部長に報告して、どんどん手配していたら、総監がお呼びですという。なんだろう? 総監室にゆくと、秦野総監が睡眠不足で真っ赤になった例の大目玉でギョロリとにらむ。
「君、鉄の球で安田の正面玄関ぶっ壊すっていってるそうだが、本気か?」
「ハイ、殉職者を出さずに突入口をつくろうと思って……」
「あのなあ、それだけはやめろ。ありゃあ国の指定文化財だぞ、安田講堂ってえのは」
せっかくの妙案は、日の目をみなかった。なお、後年この時のアイディアを実行したのが「浅間山荘」攻撃に用いた、あの大鉄球だったのである。
思えば、加藤代行が安田講堂封鎖解除のために機動隊出動要請にふみ切るまでの道は遠かった。昭和四十三年六月十七日の第一次機動隊導入から安田講堂封鎖解除警備出動に至るまでの二百十四日間に、警視庁機動隊の東大警備出動回数は実に百三十五回(二日に一回強)、出動機動隊員の総数は、延べ約六万名にのぼったのである。
それはイライラさせられる長い日々だった。
決戦の朝
昭和四十四年一月十八日午前四時三十分。めざましのベルが鳴る。泥のような眠りから無理矢理起こされる。せめてあと五分と、無駄を承知であがく。
だが今日は決戦の日だと、鈍った頭が思い出すととたんにシャキッとなる。
真冬の夜明けの寒気は、過去三年有半、亜熱帯の香港で勤務して冬を忘れてしまった皮膚にはことのほか厳しく感じられる。
真新しい下着をつける。病院にかつぎこまれたとき恥をかかないための武士のたしなみである。背広の上着の下に鎖骨の防護衣、ズボンの中に弁慶の泣きどころの|脛《すね》を守るプロテクターをつけ、出動靴をはき、黒のレインコートを羽織る。上体がかさばって体の動きが悪い。
桜木虎一巡査長が運転する黒塗りの公用車に乗る。いすゞのベレル・一二〇〇ccに無理して警備無線機を積んでいるからエンジンがすぐに息を切らす。せめて二〇〇〇cc程度の車を割りあててほしいものだ……。
午前六時。本富士警察署に前進した総合警備本部に、警備・公安両部長をはじめ両部の幹部が勢ぞろいした。
みんな、ここ一週間ほどは|碌《ろく》に眠っていないはずなのに、眠そうな顔一つ見当たらない。
だが寝不足の目は正直だ。日の出が|眩《まぶ》しい。
午前七時。
東大病院に近い龍岡門、通称「鉄門」脇で待機する。前夜の打ち合わせどおり、腕章をつけた東大職員が数名、部隊を誘導するため配置についている。
構内はにわかに騒然となってきた。
「時計台放送」をはじめ、各セクトのラウド・スピーカーが闘争宣言をわめき散らし、上空を飛び交う取材陣のヘリコプターの回転翼のバタバタバタバタという音がそれにまじって、喧騒をきわめる。龍岡門から本郷通りまで埋めつくした何千という機動隊の群は、粛然と静まりかえっている。
やがて豊田第五方面本部長からの命令が受令器に流れてきた。
「只今より加藤学長代行の要請により、東大安田講堂封鎖解除警備を行う。各隊所定の任務を遂行せよ」
命令を受けた各機動隊長の号令が響く。
「前進、前へっ」
透明なプラスティックのヘルメット・ライナー付きの青ヘル、鈍く銀色に光るジュラルミンの大楯、紺の出動服に黒の|籠手《こて》の大集団が動きはじめ、龍岡門から東大構内に潮のように流れこんでゆく。
装具のふれ合う|鏘々《しようしよう》たる響きに、ダッダッダッダと歩調をあわせ、河川の氾濫を思わせる青の軍団がスライムのように東大構内にひろがってゆく。
無駄口をきくものはいない。ニトログリセリンの恐怖が念頭を去来するのか、皆心なしか緊張の面持ちだ。
ブルルッと武者震いがする。死者が出たらどうしようと一瞬不安の念が頭をかすめる。
ここまできたらクヨクヨしたってしようがない。成功を信じて突っこんでゆくだけだ。
各隊は、所定の任務にしたがって、一機は法文経一・二号館と工学部列品館へ、二機は法学研究室へ、四、五、七機は医学部と安田講堂へと向かう。銃身が太くて短い催涙ガス銃を構えたガス分隊が、足早に前に出てゆく。
久し振りにみる母校のあまりに無残な荒廃ぶりをみて|呆然《ぼうぜん》とする。
最高学府と謳われた東大の権威の象徴だった安田講堂は、汚れて荒れ果てた焦げ茶色のただの|城砦《じようさい》になり果てていた。
林立するセクトの旗、立て看板、スローガンを書いた垂れ幕、窓という窓はベニヤ板でふさがれ、かさぶただらけの顔みたいだ。
赤、白、青、緑と、色とりどりのヘルメットをかぶり、タオルで覆面し、片手に火炎ビン、片手に角材や鉄パイプといったゲバ・スタイルの全共闘学生が、屋上にずらりと立ちならんでいる。
正面玄関は、ロッカーなどですき間なくバリケード封鎖された上、部厚い頑丈な板が釘付けにされてがっちりふさがれている。
ラウド・スピーカーから流れる各セクトのアジ演説は、お互いにまざり合い、反響し合って何をいっているのかさっぱりわからない。ただの耳ざわりな騒音となって構内に響きわたる。
「本富士警察署長から警告する。抵抗するのをやめて、ただちに退去しなさい」
強力な出力の機動隊広報車からの警告広報が、その騒音に割って入る。
投石がはじまった。
青い空に放物線を描いて無数の石が降ってくる。路面に落ちて砕けた火炎ビンが|紅蓮《ぐれん》の炎と黒煙をあげる。
その中をジリジリと講堂に接近する灰色の警備車に向かって、歩道の敷石をはがしたコンクリート平板が、ドスッ、ドスッと投げ落とされる。
こうして東大安田講堂攻防戦の幕は、切って落とされることになる。
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第三章 包 囲
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昭和四十四年一月十八日午前七時五分、医学部の攻防から学園紛争天王山の戦いの火ぶたは切られた。そして林健太郎監禁事件の真実

青い溶岩流
続々と東大構内に雪崩れこむ青ヘル軍団の隊列は、まだ続いている。
取材のヘリコプターから見下ろしている記者の目には、それはさながら火山の噴火口から溢れでる溶岩の不気味な流れにも似て映ったことだろう。だが、その色は灼熱の赤ではなくて、ブルーだ。そのブルーの溶岩の流れは、数条の帯にわかれて、それぞれ目指す建物に向かってひとでの触手のようにのびてゆく。
龍岡門から入ったのは、二、三、四、五、六、八の六個機動隊。
一、七両機動隊は、本郷通りから東大正門に向かって左、農学部正門から入って、道路一本離れた東大本部構内に歩道橋をわたって進入する。
昭和四十四年一月十八日、払暁に行われた東大当局との最終打ち合わせで当日は東大構内は立入り禁止、正門と赤門は閉鎖、機動隊は龍岡門(鉄門)と農学部正門から立入ることになっていた。
東大当局の心配は「正門から入ると、正門両側に位置する法学研究室と工学部列品館にたて籠っている全共闘の火炎ビン攻撃や投石をもろに受けて、正門附近が修羅場になり周辺の商店に迷惑をかけることになる」ことだった。さらに「旧前田公爵邸である東大の『赤門』は、国の指定する重要文化財であり、ゲバ闘争による同門の破壊は極力避けたい」というのが東大側の意向だった。警視庁はその意向を最大限尊重した。
隊長・飯野定吉警視の指揮する四機(第四機動隊)六百六十四名は、第一次任務である医学部総合中央館と医学部図書館を目指して、隊長旗をひるがえし、隊列を組み、歩調をそろえて行進する。
ザック、ザック、ザック、ザック、出動靴の音を響かせ、昇る朝日にジュラルミンの大楯をきらめかせながら進む機動隊の姿は、まるで古代ローマの軍団だ。四機部隊はふだんは第一線警察署で勤務していて、大警備のときには必ず召集される「特機」(特別機動隊の略。いわば予備機動隊)二個中隊を加えて二個大隊・六個中隊編成だ。四角い隊長旗を先頭に三角のペナント形の中隊長旗を幾流もはためかせて黙々と進む隊列の中には、一月十日に“秦野人事”で任命されたばかりの渡辺泉郎中隊長の、緊張のためか蒼白にみえる顔も交じっている。
身長百七十センチ、東大空手部で鍛えた、引き締まった筋肉質の|精悍《せいかん》な青年警部である。
余談だが彼は後に四機飯野隊長令嬢と私たち夫婦の仲人で結婚することになる。
二機(第二機動隊)は、「一〇・二一新宿|騒擾《そうじよう》事件」の負傷もまだ癒えない三沢由之隊長指揮で、正門左手前の法研(法学研究室)に裏からまわりこんで、同建物を包囲する。
“兵力”六百三十四名。
三機(第三機動隊)六百四十三名の部隊は、九島賢一郎隊長の指揮のもと、主力は龍岡門から、分遣隊は上野に近い池之端門から構内に立入り、工学部三号館に向かう。
五機(第五機動隊)は、西条警部殉職事件の重い十字架をになう傷心の青柳敏夫警視が隊長だ。勇敢で責任感の強い青柳隊長は、西条事件で進退伺いを提出したが、下稲葉警備部長の言葉を尽くしての慰留により、決意を新たに部下六百六十三名の先頭に立って龍岡門をくぐった。五機はただちに第一次任務だった理学部一号館のバリケード封鎖を解除して、午前八時三十分には主要攻撃目標である安田講堂の東側化学教室脇に転進し、配備完了。そして真っ先に屋上からの投石、火炎ビンの洗礼を浴びることになる。
この部隊には、四機の渡辺中隊長同様、つい八日前に任命されたばかりの|白皙《はくせき》長身、ハンサムな中隊長・細井為行警部が配属となっている。
正門から農学部に入った一機(第一機動隊)七百二名の部隊は、歩道橋を越えて東大構内に入り、法文経一・二号館と工学部列品館に向かう。重傷を負った浅川良三警視に代わって、就任したばかりの本所警察署長から呼び戻された石川三郎警視が隊長だ。羽田闘争以来歴戦の五機隊長をつとめ、本所署長になってホッとしたところだったのに“是非もらい”をかけられた。松の根っこみたいに頑丈でめっぽう気の強い隊長だ。その後昭和四十七年二月の「浅間山荘事件」では私とともに零下十五度の軽井沢の雪中で十日間の死闘を現場指揮する運命にあるが、安田講堂攻防戦のときにはお互いそんなことになろうとは知るよしもない。
“秦野人事”の新任七機(第七機動隊)の隊長・池田勉警視は弱冠二十七歳。早速“若獅子”を七機のシンボルマークときめ、ライオンさながらの|咆哮《ほうこう》を始めたガムシャラな東大出である。
新編の七機は、不完全編成でわずか二個中隊百六十九名のミニ機動隊だ。そのうち一個中隊は基幹要員として一機からそっくり転属となったばかり。だから一機と七機は兄弟隊、というよりは双生児なのだ。いまでいう“若・貴”兄弟のような一機と七機は|踵《きびす》を接して農学部からの歩道橋を渡る。
徒歩部隊は次々と“現着”(現地到着)して配置につくが、“攻城”に不可欠な放水警備車や大型警備車、投光車などの車輛部隊がこない。
八機(第八機動隊)特科車輛隊はどうしたんだ? 何してる? 各隊長や前線指揮所の幕僚たちの顔に焦りの色が浮かぶ。様子を見にもどると龍岡門はひどい交通渋滞に陥っている。無理もない。五個隊の機動隊と八機の放水車など三百台を超える重車輛が狭い龍岡門にひしめきあっているからだ。
当時警視庁機動隊は、第一次安保以来のオンボロ幌型輸送車をふくめ、四百五十七輛の車輛を保有していたが、このうち実に三百四十六台が東大警備に投入された。
六機、七機同様、一月十日に一機から独立して新編されたばかりの八機も、杉山賢司隊長以下わずか百五十六名で、車輛だけがやたらに多いミニ特科車輛隊だ。|急遽《きゆうきよ》各隊から寄せ集めた旧式二十ミリ・ノズル放水車九輛をはじめ、投光車、防石車、トイレ車、レッカー車など特殊車輛を帯同して東大警備に参加したものの、オンボロ車輛が多く、故障が続出した。悲願の新型二十三ミリ・ノズル高圧放水車も間に合わず、あとで大変苦戦することになる。
「八機、最優先。放水車“現着”急げ」と怒鳴りつづけ、ようやく八機が構内に入る。
徒歩で行進する青ヘルの“ローマ軍団”のあとを、古代の戦象が鼻をふりながらノソノソと続くように、グレイとブルーのツー・トーン・カラーの大型放水警備車が、放水塔から突き出た放水銃ノズルをテストのためか上下に動かしながら、徐行する。
まるで生まれたての赤ん坊のような三個隊のミニ機動隊が、編成後わずか一週間で、いきなり東大安田講堂事件のような世紀の大警備に投入されたという事実だけをみても、警察にとっていかに当時が死にもの狂いの戦国時代だったかがわかるだろう。しかも、戦時状態にあるのは学園封鎖の全共闘や街頭ゲバ闘争の過激派集団と、それを取締まる機動隊だけで、日本全体は平和そのもの。シーズン中には後楽園の巨人・阪神戦は超満員の盛況だったし、大相撲も連日満員御礼の垂れ幕が下がり、折柄高度経済成長の波にのったビジネスマンの間ではゴルフが大流行し、農協さんは海外観光のパック・ツアーへと、世は泰平と繁栄を|謳歌《おうか》している。
まわりじゅう平和な中でのミニアチュア戦争というものが、どんなにやりにくくて辛いものであるかは、実際にやったものにしかわからないだろう。平和の中でのミニ戦争で一番困るのは「野次馬」だ。早朝だから人通りも少ないが、日中になると東京中から野次馬が見物に集まってくる。とくに困ったのは、東大病院の通院患者やお見舞い客の扱いだ。東大病院当局の方針も曖昧で“でたとこ勝負”みたいなことをいっていて、頼りないことはなはだしい。こうなったら朝早いうちに医学部を|陥《おと》すしかない。
「医学部中央館」攻略
“城攻め”は、まず出城や砦を陥すことから始まった。“安田城”を裸城にするためだ。
午前七時五分。四機の医学部総合中央館、医学部図書館のバリケード封鎖撤去作業がはじまった。待ちかまえていた屋上のゲバ学生たちがいっせいに投石をはじめる。硫酸、塩酸など得体の知れない液体を入れたビンが路面で砕けて|飛沫《しぶき》を散らす。催涙ガス戦法を強硬に主張してきた身ではあるが、医学部については慎重にしなくては……。すぐそばに東大病院があり、病棟には多くの入院患者がいるからだ。催涙弾のそれ弾が病室にでも飛びこんだら、それこそ一大事だ。
さりとて医学部は東大紛争発祥の地。しかも薬局には劇薬や毒物もうんとあるはずだ。催涙ガスを使わずに肉弾戦になるとわが方の犠牲者が増える。脳裡に、青酸ガスを吸って苦悶し、硫酸を浴びて化学性火傷で顔面血塗られ、ニトロをくらって粉微塵になる機動隊員の|凶々《まがまが》しい幻影が浮かび、ゾッとする。
こいつは一つ、私も一緒に行かなくちゃ……。米軍払い下げの中古ウォーキー・トーキー(背負式大型無線機)をしょった副官兼将校伝令の松浦洋治警部を促して四機部隊とともに医学部中央館に向かう。
「課長、ヘルメットを」と松浦警部。何回いったらわかるんだ。頭が大きくて、ヘルメットをかぶると頭の鉢が締めつけられて痛くなるから嫌いなんだ。
「いいんだ、いいんだ」と手を振って断わる。
入口や階段をふさぐがっしりと組まれた机、椅子、ロッカーなどのバリケードが、雨と降る石塊の下で隊員たちの手送り作業によって崩される。やっと空いた狭い通路を大楯をかまえた隊員たちが、上へ上へと攻めのぼってゆく。すると暗い階段の上でゲバ棒をかまえ仁王立ちになって立ちはだかる学生の姿が見える。先頭の隊員が大楯をかざしてにじり寄るが、この学生びくとも動かない。近寄ってよく見れば、なんとヘルメットをかぶせたゲバ・スタイルのマネキン人形だった。千早城に籠城した楠木|正成《まさしげ》のかかし戦術をまねしているつもりか?
七時三十分頃、追いつめられた籠城学生十数名が屋上にある機械室の塔屋に上がる。塔屋に昇るたった一本の細い|鉄梯子《てつばしご》の上で、のぼってくる機動隊員を突き落とそうと、手に手に鉄パイプや角材をかまえてひしめいている。
見上げると高さは十メートルはあろうかと思える塔だ。どうしよう? ちょっと攻めあぐねて隊員たちは顔を見合わす。……すると突然、飯野隊長がものもいわずに鉄梯子にとりついて、白い指揮棒片手に梯子を昇りはじめた。
「私が行きます!」と|根石《ねいし》親雄副隊長が隊長をひきずり下ろして自分が昇りはじめる。「武小、続きますっ」と四機武道小隊の|平間《ひらま》範克分隊長が続く。平間分隊長は副隊長が突き落とされても受け止められる姿勢で昇ってゆく。
武道小隊員が従う。顔めがけて突き出される竹竿を払いのけた根石副隊長の姿が、続いて平間分隊長の姿が塔上に消える。「動くなっ」「手向かいはやめろっ」と一喝。次々と武道小隊員が塔上に飛び上がり、十五名のゲバ学生たちは全員逮捕された。
私はホッと一息ついて気がつくと、この寒いのに全身汗びっしょり、喉はカラカラだ。「すまんが水筒の水、一口のましてくれんか?」とまわりにいる隊員たちに声をかけると、まわり中から水筒がさし出される。うれしいことに仲間扱いだ。危険をわかち合う現場の機動隊員たちは戦友愛、仲間意識で結ばれている。ヘルメットもかぶらず黒のレインコート姿で一緒に攻めのぼってきた警備第一課長は、彼らにとっては上官ではなく仲間なのだ。
手近な水筒をつかみ、喉を鳴らして冷たい水をのむ。実にうまい。
「有難うよ」と軽くなった水筒を返すと、「光栄ですよ、一課長」と白い歯をみせて笑う。
当時はこんなことは日常茶飯事だったが、体制ががっちり固まってしまった今日では、本庁の課長とヒラの機動隊員が修羅場で水筒の水をわけあって飲むなんて考えられないことだろう。これがゲマインシャフト(運命共同体)精神なのだ。
それにしても隊長と副隊長が危険な先陣争いをするとはまさに指揮官先頭の“フォロー・ミイ”魂の発露だ。四機がなぜ荒れ場で強いのかその理由がわかったような気がする。
ちなみに「武道小隊」とは、各機動隊における最強の小隊だ。柔・剣道など武道の“特練”(対外試合選手のこと)で編成した、隊長直衛の|母衣《ほろ》武者たちのことで、メキシコ・オリンピックの重量挙げで銀メダルをとった大内仁巡査部長も「武道小隊」の分隊長である。
医学部中央館の塔屋に臆せず一番乗りした根石副隊長については、世の管理職たちにどうしても伝えておかなくてはならないエピソードがある。彼はその後神田地区の中央大学学生会館“城攻め”で|頸椎《けいつい》捻挫、全治三カ月の重傷を受け、長い間後遺症に苦しむことになる。学生会館から投げ落とされた机にあたって昏倒した分隊長を救うために飛び出し、意識不明の分隊長をひきずってくる途中で、ヘルメットに次々と投下される机や椅子の直撃をうけた。
それにもめげず安全圏まで負傷した分隊長をひきずってきて救急車に収容しようとしている根石警部に、状況を逐一目撃していた私は声をかけた。
「根石君、さっき机が頭に当たったろ? 一緒に救急車で警察病院へいけよ」
「いえ、このとおり私は大丈夫です」
「行けったら行け」
渋る根石副隊長を無理やり病院に送って診断を受けさせたところ、なんと失神した分隊長は真っ二つに割れたヘルメットが緩衝役を果たしてただの|脳震盪《のうしんとう》、彼をひきずってきた根石警部の方が頸椎捻挫の重傷だった。彼の果敢な陣頭指揮ぶりは、現場をみた者をひとしく感動させたのである。
数年後その彼が当時警察庁にいた私の部屋にきて、「課長、私は口惜しいです」とごつい拳で涙を拭う。
「どうしたんだ? 何があった?」と驚いてきく私に、男泣きしながらいう。
「今度は私も署長になれると思っていたら『能率管理室長』をやれというんです。わけをきいたら『君は右手があがらず敬礼ができないから署長はムリだ』という。私は中大学館の頸椎捻挫の後遺症で右手がここまでしかあがらないんです。警視庁の巡査になったときからの夢でした、署長になるのが……」
私の怒りは爆発した。ただちにかつての警備部長の下稲葉氏に報告するとともに、人事担当者に、「どこの署でもいいからなんとか署長にしてくれ、彼は公傷者なんだ。右手で敬礼できなきゃ、指揮棒をちょっとあげるか、左手で敬礼させろよ」と横槍をいれた。
小気味がよかったのは下稲葉氏である。人事担当者が「根石君には見るべき功績がありませんので……」と弁解した時、大爆発したときく。
「彼の功績はオレたちが現場で見届けてるぞ。そんなこというなら、君、君自身の“みるべき功績”をこのテーブルの上に出してみろっ」
幸い人事異動が公表されてみると、根石親雄警視は、後年志村けんのテレビ番組で有名になった東村山警察署の署長となった。総務、人事、経理といったスタッフ部門で出世した会社や組織の上層部の方々に、この事例を是非知っておいてほしいと思い、あえて脱線した。
催涙ガス使用開始
これで医学部は、東大病院開診前に片づいた。だが検挙者の中に当然いると思った東大全共闘の山本義隆議長以下、助手共闘やインターン共闘委員長ら、医学部の幹部たちはいなかった。きっと彼らは、安田講堂にたて籠って攻防戦の総指揮をとっているにちがいない。大将・山本義隆議長をはじめとする東大全共闘指導者たちには本丸の安田城で見参つかまつろう……。医学部が落城したのを見届けて、松浦警部とともに安田講堂正面の路上に仮設された前線指揮所に急行し、末松実雄、津田武徳両警備部参事官に合流する。
五機の大型警備車が陽動作戦を続けている。
安田講堂に接近したり、後退したりして投石や火炎ビン攻撃を誘っている。“弾切れ”を狙っているのだろう。
本富士署長名の警告広報がくり返し行われる。まだるっこしいが、これが法の定める“城攻め”に必要な手順なのだ。
「重ねて学生諸君に警告する。ただちに東大構内から退去しなさい。東大構内は大学当局の意向により立入り禁止となっています。投石や火炎ビンを投げると公務執行妨害罪になります。ただちにやめなさい。安田講堂から退去せよ。退去しないと建造物侵入、不退去、公務執行妨害罪で逮捕する」
警備広報車の強力スピーカーから流れる広報係の警告も、はじめは|丁寧《ていねい》だったが、次第に語気荒い命令口調にかわってゆく。
安田講堂の時計台の上からは、「時計台放送」や中核、ML、反帝学評など各セクトのアジ演説が、警察側の警告広報とまざり合って、東大構内は騒音につつまれ、次第に物情騒然となる。
「我々はァ、徹底抗戦するぞォー」
「機動隊をセンメツするぞォ」
「東大闘争を勝利しようォ」
いがらっぽい火炎ビンの黒煙や、ガソリンの臭いがあたり一面に漂い、機動隊指揮官たちの号令がいたるところからわき起こる。
ふと気がつくと、グレイのソフト帽に同色のオーバーという、およそこの修羅場にそぐわない服装の紳士が、上を見上げながら安田講堂脇のヒマラヤ杉の樹間を歩いている。誰だろう? 東大教職員か? いや、山本鎮彦公安部長だ。
「公安部長っ、危ないですから下がって下さいっ」山本公安部長は一向に意に介さず悠々とこちらに向かって歩いてくる。
「いや、ちょっと現場をみておこうと思って」
「なんでヘルじゃなくてソフト帽を?」
「石が飛んでくるから何かの足しになると思ってね……」
雨と降り注ぐ投石の下、突然安田講堂の前を左から右に全力疾走をはじめた男がいる。
みると若い東大職員だ。左腕に白い職員腕章をしている。危ない、なにしにゆくんだ? 講堂上のゲバ学生たちも気がついて、彼を狙ってはげしく投石する。男は上をみないで|闇雲《やみくも》に突っ走る。投石の一つが空中に弧を描いてのびてゆく。あろうことかその若い職員は落下点へ、落下点へと走ってゆく。
危ないっ、顔をあげろ、石をみるんだ。野球の外野手じゃあるまいし、落下点に入るんじゃないっ。航空戦のコンピュータ・シミュレーションでミサイルの線グラフが敵機との“予想会敵地点”に接近してゆくように、人間と石の線グラフがのびてゆく。当たるぞ、当たるぞ、あっ、当たった! 投石を頭に受けて昏倒。機動隊員が二人ダッシュして失神したその職員をひきずってくる。怪我が軽ければいいが……。
空には各新聞社、テレビ局の取材用小型ヘリコプターが、五機、六機と次第に数を増して乱舞し、なかには冬の寒空にそびえたつ安田講堂時計台をかすめるような超低空で旋回しているものもあり、バタバタ、バタバタと風を切る回転翼の|轟音《ごうおん》は、耳をつんざくばかりだ。
風圧に押されてよろめく時計台上の白ヘルが、接近するヘリコプターに向かって投石を続ける。
危ないな、あの取材ヘリ。低すぎる。市街地で百メートル以下の低空飛行をするのは航空法違反なのにな。
配置についた機動隊各隊に対する屋上からの投石はますますはげしくなる。何百という石塊が晴れた冬空に黒い放物線を描いて落下し、コンクリートの地面にはねかえる。
白ヘルメットにタオルの覆面というゲバ・スタイルの学生の一人が、時計台上で仁王立ちになった。取材陣のカメラを意識してか、恰好つけたポーズで火炎ビンに点火し投げる。いい肩をしている。燃える火炎ビンは黒い煙の尾を引き、クルクル空中でまわりながら、灰色のバス型警備車に命中、爆発して|紅蓮《ぐれん》の炎をあげる。
「再々の警告にもかかわらず退去しないので、只今から催涙ガスを使用する」
催涙ガス使用警告の広報が構内に流れた数瞬後、放列を敷き、射角をいっぱいにあげて肩に太く短い銃身の催涙ガス銃をかまえていた各隊のガス分隊が、いっせいに引金をひいた。
|轟然《ごうぜん》と発射音がとどろき、数十発のS弾(発煙)、P弾(粉末)が集束弾となって時計台や屋上に立ちならぶ色とりどりのヘルメット軍団に向かって飛ぶ。あわてて手製の楯をかざす者、しゃがみこむ者、一瞬籠城学生たちの姿が視界から消える。腕時計をみると午前九時。催涙ガス使用開始、午前九時――と記憶に刻む。
放水警備車の放水塔も仰角いっぱいにあげて放水を開始した。数条の白い水流が安田講堂を包む。やっぱり水圧が足りない。安田講堂の窓という窓をふさぐベニヤ板は厚く、|奔騰《ほんとう》する放水はむなしく水飛沫をあげてはねかえされ、窓のベニヤ板は破れない。催涙ガス弾もはね返されて地上に落ち、路上で発煙する。
「ニトロ発見」
講堂に接近するバス型警備車の屋根めがけて、屋上の胸壁に山のように積みあげられた敷石用コンクリート平板が次々とつき落とされる。ゴキン、ベコンと不気味な金属音をあげながら、警備車の天井はみるみるうちに|凸凹《でこぼこ》になる。縦横三十センチ、厚さ六センチの平板は重量が十二キロある。人に当たったらまちがいなく死に至らしめる。
顔見知りのアメリカ人記者がかけ寄ってきて、
「機動隊員が殺されるではないか、なぜ奴らを撃たない? |奴《キ》ら|を《ル》|射《・》|殺《ゼ》し|ろ《ム》、|彼らを撃て《シユーテム》!」
と顔を真っ赤にして叫ぶ。たしかフィッシャーっていう名の記者だった。いちいち取材の米人記者に説明している暇はないが、日本では一般機動隊員に拳銃をもたせない。小隊長以上の幹部だけが万が一の正当防衛、緊急避難のために拳銃を下げている。アメリカとちがって火器は使わずに生け捕りにするのが原則なのだ。
だが、いま眼前にくりひろげられている光景は、一体何なんだ。まるで戦国時代そのままの攻城戦だ。核兵器の時代だというのに、これでは“大坂城冬の陣”じゃないか。
そびえたつ|櫓《やぐら》にはためく旗指物、|鎧兜《よろいかぶと》、具足に身を固めた攻城軍、火縄銃や弓矢の斉射、城壁上から降り注ぐ岩石に火の雨、馬の|嘶《いなな》きに、部将たちの「掛かれ、掛かれ」の下知、それに応える大音声の武者声……。タイムスリップして、慶長年間の徳川軍勢の大坂城“城攻め”の戦場にまぎれこんだような錯覚を覚える。
このような原始的な白兵戦となると、戦法も武器も防具もまた昔のそれに戻ってしまう。単発の催涙ガス銃を用いて切れ目のない射撃を浴びせる“三段撃ち”も、かつて|長篠《ながしの》の合戦で織田の鉄砲隊が武田の騎馬軍団に用いた戦法とまるっきり同じだ。
突然受令器のイヤホーンにあわただしい警察無線の交信が飛びこんでくる。
「至急、至急、至急、七機から総本」
「総本です。どうぞ」
「……号館でニトロ発見」
「頭切れ。さらに送れ」
「工学部二号館でニトロ発見。指示仰ぎたし」
「総本発・警備部長命令第五十三号、『ニトロに近づくな。ただちに退避せよ』。くり返す。『ニトロに近づくな……』」
とうとうニトロが出たか。安田講堂前の前線指揮所にいた指揮幕僚団は、互いに顔を見合わせる。
「七機より総本。さらに毒入りミカン……」
「シッポ切れ。さらに送れ」
警察無線はプレス・トーク式だ。送話ボタンをしっかり押して送信しないと、この「頭切れ」「シッポ切れ」が起こる。おまけに取材ヘリが低空飛行すると電波障害が生じ、ザアザア、ピーピー雑音が入るのだ。
「工学部二号館三階、工学部共闘委員会室で試験管入りニトロ二本と毒入りミカン一個発見!」
なんだ、それは? 毒入りミカン?
工学部二号館はすでに七機の制圧下にある。現場に急行する。村上健公安総務課長がいたので、「なんだい、いまのは?」ときく。
彼、苦笑して「ガセ(騒がせ)だと思うよ。無色透明の液体入りの試験管二本の脇に赤マジックで『危険・ニトロ』と書いたワラ半紙が置いてあって、その脇に皮に“毒入りミカン”と書いたミカンがあったというんだ」という。だが万一に備えて機動隊一個分隊で警戒監視態勢をとり、科学警察検査所に鑑定のための技官派遣を要請する。
後日談だが、鑑定の結果、この液体はニトロではなくて、“ガセ”と判明した。
脱出していた革マル派
工学部二・三号館を制圧し、第一次任務を終えた七機は、法文経一号館に転進する。
事前の情報では、安田講堂を本丸とすれば法文経一・二号館は二の丸、三の丸で、安田講堂防衛上の戦略的要衝だ。相当な守備隊が配置されているという話だったが、意外にももぬけの殻。バリケードは堅牢に構築されていたが、学生は一人もいない。昔授業をうけた法学部の二十五番教室はどうなっているだろうとのぞいてみると、ロッカーや机、椅子などで厳重にバリケード封鎖されていて入れない。
立会いの教職員の中に、平野龍一法学部長の顔がみえる。七機の池田隊長が場違いの変な挨拶をしている。
「平野先生、御無沙汰しています。私、教え子の一人ですがこういうことになりましたのでよろしくお願いします」
まったくひょんな師弟の“|御対面《ごたいめん》”だ。教授たちもヘドモドしている。平野学部長らに大楯をもった隊員のボディガードをつけ、電源を切ったため真っ暗な法学部建物内をバリケード撤去をしながら進む。法学部長室はみるも無残に荒らされていた。ロッカーも机ももちだされゴミの山。貴重な原書も散乱している。傷心の平野法学部長とは眼を合わさないようにする。
法文経二号館は、安田講堂に向かって銀杏並木の右側にあるL字形の四階建ての建物で、中央アーケードを抜けると三四郎池を囲む築山がある。
ここは数百名の革マル派が守っているはずだった。当然激戦が予想されたので、精鋭四機の担当となっていた。ところがここももぬけの殻、革マル派は一人もいない。
半ば拍子抜けし、半ばホッとする。
あとでわかったことだが、革マル派はこれからの息の長い七〇年反安保闘争に備えて勢力を温存するため、安田城攻めの前夜、十七日の夜に全員構外に脱出していたのだった。
このことが尾を引いて後々まで続く中核派と革マル派の確執と、血で血を洗う陰惨な内ゲバヘとエスカレートしてゆくのだ。
当時学生たちの間で|流行《はや》った過激派のセクト用語に「|日和《ひよ》る」というのがあった。「|日和見《ひよりみ》」を動詞化した学生言葉だ。
彼らの用語でいえば革マル派は「|日和《ひよ》った」のである。「日和った」革マルと「自己破壊の美学」に酔って安田城に籠城して玉砕の道を選んだ他のセクト、とくに中核派との間には深い不信の亀裂が生じ、代々木系vs反代々木系の闘争に加えて、反代々木系内部での“内ゲバ”が発生する原因になる。
なお“内ゲバ”とは同士討ちの意味で、ゲバはドイツ語の「ゲバルト(Gewalt・暴力)」が語源である。
それにしても一月十五日の「東大闘争勝利労学総決起集会」の夜には、代々木系全学連約三千名の「黄色ヘル軍団」も構内の民青の拠点に寝泊まりしていたはずだ。あの鍬の柄の樫棒で武装したゲバ軍団は、一体どこへ行ってしまったのだろう。法文経一・二号館をくまなく探したが、黄色ヘル一つ、樫の柄一本残っていない。何一つ証拠を残さず撤収している。民青の統制力はさすがだ。
隣りの法研は二機の担当区域だが、部隊の“現着”が遅れている。大学側立会い人の金沢良雄主任教授が、三沢隊長以下二機の幹部に、館内の書庫に保存されている古今東西の文献が学術上どんなに貴重なものであるか、和洋の古書や原書がいかに大切なものであるかを一生懸命説明している。本や文献が水に濡れて台無しにならないよう、放水は慎重にやってほしいとの陳情だ。学者としては身を切られる思いなのだろうが、こちらもつらい。
法文経二号館の二階にあがってみる。文学部長室や同教授研究室は、一号館の法学部長室とちがって、散らかってはいるが破壊の爪跡はない。見ると壁に「林健太郎に敬意!」という落書がある。
なるほど、ゲバ学生たちも本能的にちゃんとホンモノの人間を見分けて手を出さなかったのだな。文学部長室の斜め向かいに「林健太郎監禁事件」の際、大衆団交に使われた“二大”(二番大教室)がある。部屋番号一二八号のこの部屋こそ、私が警備一課長に就任した直後の昭和四十三年十一月四日に発生し、実に百七十三時間に及んだあのデリケートな政治事件の現場だったのである。当時、新米課長の私はこの事件の対応でさんざん悩まされた。
林健太郎氏はいまでも、「あれは私が“無言の団交”を続けたもので“軟禁”と呼ぶべきです」と笑うが、そのとき二番大教室にしばしたたずんだ私は、印象深いあの事件の感慨が胸に迫り、いきおい回想の中に引き込まれていった……。
東大紛争の発火点
思えば大学教授の受難時代が幕開けしたのはこの頃からだった。
「象牙の塔」「最高学府」としての大学の権威と、「末は博士か、大臣か」と|崇《あが》められた最高教育機関としての社会的意義は、音をたてて崩れ落ち、大学教授の社会的地位は急速に低下した。
それは、学園紛争によってはしなくも白日の下にさらされた大学教授たちの無気力、無能ぶり、恥なき保身と変節、驚くべき無智と非常識、それでも男か、と問いかけたくなる卑怯未練で無責任な言動が、大学の権威と教授の名誉を「自己破壊」したのであった。
「蛮族来タリテ|羅馬《ローマ》滅ビタルヤ、非ズ、羅馬自ラ滅ビタリ」(ギボン『ローマ帝国衰亡史』)という名句が、まさにピッタリだった。
その中にあって、東大の林健太郎文学部長の態度は、実に立派であった。林文学部長の立派さを語るには、その前に当時の大方の各大学の当局者たちがいかに|腑甲斐《ふがい》なくて、目をおおいたくなるような醜態を演じたかを語らなければならないだろう。
東大紛争の主因は、その旧態依然たる封建的権威主義、「最高学府」の名に値しない、空疎な講義内容、現代離れした非能率の官僚主義的学部運営、無能きわまる教授会の|陋習《ろうしゆう》などにあった。
政治学の主任教授が「アリストテレス以後に『政治学』はない」と断言して、法学部の必須科目の政治学講義が、アリストテレスで終わってしまい、それで試験が行われるという、全く実社会に出てから役に立たない陳腐な授業。売れない自分の著書を教科書として学生に買わせ、その本から試験の出題をする“マル経”(マルクス経済学)の教授。
憧れの東大医学部を卒業し、インターンを終え、医師国家試験に合格しながら三十歳で助手になっても俸給がもらえない「無給助手制度」。
大名行列を彷彿とさせる医学部教授の東大病院巡回診察。カーストに近い学歴偏重(もちろん東大中心)の教授・助教授選任過程、他の公立、私立大学に対する身分差別意識、何もきめられない教授会などなど、早急に学制改革のメスを入れるべきだった国立大学独特の弊害が、当時戦前そのままの形で残存していたのである。
そもそも東大紛争の発火点は医学部だった。
厚生省の「登録医師制度」にかかわる法改正案に反対し、自主研修制などの要求を掲げた「インターン闘争」にはじまった紛争は、昭和四十三年一月二十三日に「医学部全学共闘会議」が結成され、同二十七日には医学部学生大会で無期限スト決議、そして「春見医局長監禁事件」、大学当局の医学生十七名の処分とそれに対する処分撤回要求闘争、さらには三月十二日の医学部総合中央館の封鎖占拠へとエスカレートし、泥沼化していった。
医学部の前近代性とそれに対する改革要求が東大闘争の原点だったということは、東大全共闘の主だった幹部が医学部の助手あるいは学生だったことからみても理解できるだろう。
大河内東大総長とその執行部の対応は、失敗に終わった昭和四十三年六月十七日の第一次機動隊導入の例にみられるように、常に及び腰で優柔不断、方針がくるくる変わり、大河内総長は退陣、十学部長全員のいっせい更迭を余儀なくされた。
奇々怪々の金権大学
もう一つの学園紛争の最高峰は、日本大学だった。こちらは東大とは全く逆に、その紛争の原因は極端な「教育の商業化」にあった。
日大は徹底した商業主義に基づくマンモス教育企業であり、その放漫きわまる経営方針のゆえに私立大学紛争の最高峰となったのである。
そもそも学生の総数すら日大当局の誰にきいてもはっきりしない。あるいは十二万人、あるいは十五万人という。授業料滞納で除籍になったが、まだ学生証を返還しない学生、ゲバ闘争で退学処分にして当局側は学籍簿から抹消したが、依然として登校する過激派学生が多くてわからないのだという。二部(夜間)や通信教育をいれると三十万人ともいう。
かりに十一学部十二万人として、授業料一人年間十万円で百二十億円、毎年新入生三万人として入学金一人三十万円で九十億円。ヤミ入学の相場は学部によって異なるが、ふつうの学部で三十万円、医学部は八百万円といわれた。当時日大全共闘は、進学試験における「一点一万円制度」という悪弊があったと主張していた。合格点に足りない点数×一万円を担任教授に支払うと合格させてくれるという、にわかには信じられないような批判である。とにかく日大は表だけでも年商二百十億円という一大教育営利企業だったわけだ。
古田重二良日大会頭(故人)が二十億円の「背任横領容疑」で警視庁捜査第二課の取調べを受けたことでも明らかなように、日大の経理は奇々怪々、乱脈をきわめていた。
東大も日大も、理由は正反対ではあっても、学園紛争が始まった頃は、学生側が怒って騒ぐのも無理のないところがあって、「造反有理」だった一面もある。
したがって警視庁は「警察は何をやってる」というタカ派の批判に耐えながら、大学当局の反省と改善措置を期待し、大学教授たちによる自主的平和解決を願って長期間隠忍自重し、警察力による強行解決についてはきわめて慎重な態度をとってきた。
かつて大学側は学園の自治を拡大解釈して、パトロールの制服警察官が大学構内に立入っただけでも「学園の自治の干犯だ、謝罪せよ。二度と学園の自治を侵害しないという誓約書をいれろ」と大騒ぎした。ところが学園紛争の火がひとたび噴くと、その同じ大学当局者が、手の平を返したように機動隊を利用して学園紛争を実力解決させようとした。自分たちは責任を負わずに実に手前勝手な出動要請をしに、警視庁をこっそり訪れるようになった。
警視庁三階にあった警備第一課長の私の部屋は、さながら紛争大学の学長、学部長、教授たちの無料相談室だった。
昭和四十三年十二月十五日の東大から同四十四年十二月三日の多摩美大に至るまでの約一年間で、相談件数は、二十六大学、八十七回、土日をふくめておおよそ四日に一校の割で機動隊出動要請をうけるという、全く異常な状態だったのである。
面会回数が八十七回ということは、その前後に数百回の電話がかかるということで、警察側は大学側に厳しい批判の目を向け、いい加減な要請に対しては手厳しい態度で臨んできた。
そのひどい例をいくつかあげてみよう。
|堕《お》ちた大学教授たち
ある私立大学(N大学としておこう)の法学部がキャンパスをバリケード封鎖している学生たちの学外への排除を要請してきた。「建造物侵入」「不退去罪」を根拠に機動隊が出動するためには、当然、大学当局の建物管理者としての退去要求の意思表示がなされなければいけない。
ところが、同大法学部が立てた退去要求の立て看板をみて驚いた。
「この度警視庁のきついお達しにより、大学構内は立入り禁止とします」とある。
怒った私は、F法学部長を課長室によんで、
「だめですよ、N大法学部長の名で建物の管理責任者の意思表示として、退去要求をしたあと立入り禁止を宣言しなくては。『警視庁のきついお達しにより』とは何ですか。建侵(建造物侵入)や不退去の犯罪構成要件を欠くことになるじゃないですか。先生は法学部長でしょう」とたしなめた。
我々の間でひそかに「化石人間」とか「物いわぬ謎のスフィンクス」などと|渾名《あだな》していたF法学部長がおもむろに答える。
「私の専門は古代法の研究でして、現代法はよく知りません」
機動隊導入派と導入反対派が真っ二つに割れた教育大の賛成派の教授が密かに課長室をたずねてきて、導入断固やるべしと力説する。そこへ私の秘書が「教育大のナントカ先生が課長にお会いしたいとお訪ねになっています」と告げた。
とたんにくだんの教授、周章狼狽、「顔をみられると私の身が危ない。彼は反対派ですから……課長、この部屋に他の出口は?」。……出口は一つしかない。
私は窓をさして、「ここ、三階ですから降りる時は気をつけてどうぞ」といってやった。
東大駒場教養学部のK教授との応酬。
「民青と三派の乱闘が毎日起きているではないですか。もう数百人の学生がケガしてるんですよ。死人が出たら一体どうなさるんですか。教授会にはかって機動隊導入を御決断なさったらいかがですか。学生の身体生命を守るのも大学当局の責任じゃありませんか」
K教授は、単細胞には困ったものだと冷笑し、
「あのね、佐々さん。大学の教授会というのは、あなた方警察みたいに階級があって、上のいうこと、ハイってきくような単純なものじゃないんです。みんな対等で平等なんです。いうなれば将官の集まりですからね」
という。
|癪《しやく》にさわったので一発、かませる。
「将官の集まり? 決断ができないところなんかみると、“兵卒の集まり”じゃないんですか?」
私立T大学のM教授の場合。
警察のある高級幹部の友人だといって、何回も何回も執拗に電話してくる。
どうも機動隊導入に反対の立場らしい。
「機動隊出動要請文は、ウチの誰が、いつ、誰に、どこで、どうやって提出したんですか。要請文書に押してある校印はニセ物かも知れない。|判子《はんこ》は縦何ミリで横何ミリですか。
私は学生に殺されるんです。殺されてもいいんですか。どうしても要請文書、見せられない? 見せないなら忍びこんでも見てやる。
このMがやるといったらやる。笑うといったら笑う(といって笑う)、泣くといったら泣く(電話口で泣き出す)、役人はそんなに偉いのか。ペコペコしろというのか。なぜ黙ってる、口がきけないのか、何かいったらどうだ」
これを延々と、何回もくり返す。学園紛争で完全なノイローゼになっている。やっと電話を切ってやれやれと思っていると、また電話だ。
応答すると「なぜ電話に出たっ、出なければ私はアンタと話をしないですんだんだ。アンタに電話しているところを学生にみられたら私は殺されるんだぞ……」
いい加減にしろと怒鳴って電話を切る。以後しばらく、こちらもノイローゼになって、電話に出るのが怖かった。
昭和四十三年の能率手帳の十二月二十八日の欄に、「日大・古田会頭を叱る」とメモしてある。それは信じられないようなお話なのである。
日大の千葉県津田沼の生産工学部が年末の最後の週に「両国の日大講堂で卒業試験をやりますから警備をお願いします」と電話で申し入れてきた。同じ頃学生部長も、「法学部、商学部など十一学部で卒業試験をやりますので『上智大方式』で守ってほしい」と、これまた電話で頼んできた。卒業試験ができないと何万人という卒業予定者の就職が取消され、彼らの人生が狂う、路頭に迷う、どうか助けてやって下さいと泣き落としだ。
「警視庁はガードマン会社じゃありませんよ。電話ですむことですか。ちゃんと責任者がきてきちんと話をしなさい」と叱りつけるが、何万人という日大学生に罪はない。
まあ我慢して一丁やってやるかと、東大安田講堂対策などで時間刻みの超過密日程の貴重な時間を割いて、年末の二十七日、機動隊を両国講堂だ、商学部だ、|葵《あおい》会館だと配置につけたら、現場に派遣された隊長や幕僚、関係方面本部から憤激の電話報告が入ってきた。
「日大講堂周辺は数千という受験生がウロウロしている。両国講堂内は全国ガサ市開催中。門松、松飾り、羽子板など正月用品のセリ実施中。|香《や》具|師《し》多数いて、卒業試験実施不能!」
なんと日大側は施設を“寅さん”たちにだぶって貸しているのだ。
「葵会館、日大当局も受験生も人影なし、情報によると聖蹟桜ヶ丘仮校舎に試験場変更の由」
何の断わりも連絡もなしに……である。
「日大法学部より両国日大講堂での卒試、中止の連絡あり」
「至急、至急、予定どおり実施すると中止申し入れの取消しあり」
「日大商学部、卒試のためバリケード撤去にかかったところ、教授数名、『学生が怒るからバリケードは手をつけないでくれ』との申し入れあり、いかに対処すべきか、指示乞う」
怒髪天を|衝《つ》いた私は、十二月二十八日の夜、古田会頭の自宅に電話を入れた。
古田会頭は捜査第二課に毎日絞られている最中だったから、風邪だとか眠ってしまったとか家人が言訳をしてなかなか取次がない。脅したりすかしたりしてやっと御本人がゴホンゴホン咳をしながら電話口に出た。状況を説明して会頭の善処を求めると、
「アンタ、まあきついこというお人だね、ワシは総監の秦野君と仲好くしとるがね……」とくる。
「ああ存じてます。だがそれとこれとは関係ありませんぞ。大体日大当局は非常識きわまる。警視庁は都民の警察でして、日大の警察じゃないんですよ。
だいたいお宅は、会頭がいて総長がいて、学長がいて事務総長がいて、学部長が十三人もいて、右手のやってることを左手が知らない、三万の卒業予定者の人生が狂うからと頼んでおきながらガサ市に場所貸しするとは何事ですか」
「そういうことはな、秋葉総長が……」
「いいや、ダメです。会頭、|貴方《あなた》自身が全員連れて出頭して下さい。さもなければ、以後私が警備課長をしている限り、日大の卒試も入試も一切機動隊は出しませんぞ」
「それは大変だ、では日程を打ち合わせして私以下みんな参ります」
新年に入ってから実際に古田会頭以下がん首揃えての警視庁・日大警備打ち合わせ会議が行われたが、警備しても後からお礼の電話もない日本大学のひどさは、最高学府という言葉が恥ずかしくなるようなものだった。
国立T大学のM教授が法学研究室を封鎖しにきた反代々木系の学生たちに首根っこをつかまれて引きまわされた。二十年間この世で一番悪いのはファッショと軍部だといい続けてきたM教授は、「ファッショや軍部よりも悪い奴がいた」と激怒して、一転して機動隊導入賛成の急先鋒になった……という話は当時公知の事実だった。
この|類《たぐい》の、大学当局がいかにダメだったかというエピソードは数え切れないほどある。
こんな交渉をほぼ一年間、二十六大学の百数十人の教授たちを相手に、電話のやりとりは別として八十七回も相談役をつとめると、どんなにウンザリするか、おわかりいただけるだろう。こんな話ばかりでは陰々滅々、世の中、夢も希望もなくなるから、明るく笑えるエピソードを二、三披露しよう。
東工大の「警備計画」
東大加藤学長代行と下稲葉警備部長の会話。
「よくわかりました。それでは大学に戻りまして、“警備関係者”とよく相談して回答致します」と加藤代行。
警視庁側の列席者たちは、思わず顔を見合わす。
“警備関係者”はテーブルのこちら側に勢揃いしているからだ。
「警備関係者? それ、どういう意味です?」と警備部長。
「ああ、失礼しました。私どもの間では新執行部の向坊工学部長、平野法学部長、藤木教授らで構成した対策本部を“東大警備部”とよんでおりまして、つい……」
警視庁側に笑いのさざなみが起こる。
下稲葉警備部長が白い歯をみせながらいう。
「すると、私は何になるんです? “学生部長”ですか?」
そうなると私は“学生課長”だ。
東京工業大学の加藤六美学長と下稲葉警備部長の会話。
「それでは、“警備計画”を御説明します」
加藤六美学長が警察のお株を奪う。後に控えた教授、助教授、学生課長らが用意してあった大判のフリップ・チャートや地図をパラリとめくり、“警備計画”の説明を始める。
「えーと、全共闘の拠点になっている古い木造二階建ての学生会館。これがいけませんので起重機やブルドーザ、パワー・シャベルでとり壊します。重機材進入のため校庭のコンクリート塀を、ここからここまで壊します。これに要する時間を三十分とみて、えー、それから学生会館を壊すのに一時間……」
こちら側に居並ぶ警備部の幹部たちは仰天する。オンボロ木造学生会館といったって、国有財産ではないのか? 壊しますといったって文部省だの、大蔵省に手続きをとって許可を得ないとまずいんじゃないかな?
下稲葉警備部長が半分ふき出しながら手をあげて|遮《さえぎ》る。
「ちょっと、ちょっと待って下さい。その“警備計画”の方は私ども本職にお任せいただくことにして、文書による機動隊出動の正式要請を学長さん、早く出して下さいよ」
どこの大学でもそうだったが、法学部と工学部はきちんとしていて話がつけやすいが、一向に|埒《らち》があかないのが“マル経”の経済学部や文学部だった。
法学部と工学部とは、どこか思考回路が似ているのかも知れない。ひとたび決断すると合理的、合目的的に物事を処理する点で共通している。
林文学部長監禁事件
東大の十学部のうち厄介だったのも他の大学同様、文学部、医学部、教養学部だった。その中で断然光っていたのが林健太郎東大文学部長だった。
昭和四十三年十一月一日、大河内東大総長と十学部の学部長全員の辞任にともない、文学部では山本達郎教授にかわってしばらく文学部長をつとめた五味智英教授が辞任した。そのあと林健太郎教授が新文学部長に就任した。
革マル派に支配されていた文学部全共闘は、大河内総長が大衆団交に応じないまま辞任することは許さない、文学部の学部長交代も彼らの了解なしに行うことは許さないとして、十一月四日、バリケード封鎖された法文経二号館二階の“二大”(二番大教室)で新学部長はじめ教授会との“大衆団交”を強要した。
全共闘側の要求は、学生側との約束を破って教授会が開かれ、林文学部長が選出されたが、この教授会は約束違反だから白紙撤回せよ、教授会の討議内容を公開せよ、今後教授会に学生を傍聴させよ、紛争の火種になった|築島裕《つきしまひろし》助教授に対する文学部学生・N君の暴力行使事件は事実誤認だから無期停学の処分を撤回せよ、今後学生を処分しないと約束せよ……という三項目に要約される。
林文学部長は徹頭徹尾この三要求に対し「ノー」といい続けた。
第一に教授会の内容は公表しないことになっているし、教授会の決定は私の一存で撤回するわけにはゆかない。
第二の学生処分については正当な手続きを経て暴力沙汰はあったと認定し、無期停学としたが、九月に正式に処分解除していて解決ずみ。
第三の今後学生を処分しないという約束はできない……というのが林文学部長の答えだった。
こうして十一月四日の夜にはじまった大衆団交は、最初の晩は、大学当局側も徹夜覚悟で交渉に臨んだが、二度目の団交で学生側が「他の教授たちは帰ってもよいが、林文学部長と岩崎武雄、堀米庸三両評議員はこの建物の中に居残ってもらう」といい出し、そのままズルズルとのび、五日午後七時からは林文学部長が「軟禁状態」となった。
吊し上げに加わった文学部の学生は約二百五十人、革マル派の福本勝行・仏文四年生(二十五歳)が団交議長の役をつとめ、弁舌をふるって教授たちを糾弾し、フロアからは|罵詈雑言《ばりぞうごん》が飛び交った。
林文学部長は一歩も譲らず学生側の要求を終始拒否し、自由を拘束する形での話し合いはできないと抗議、「諸君がもう一度アタマを冷やして説明をきく、それ以外ありません」とつっぱね、「こうして自由を拘束することは、生命にかかわる人道上の問題です」と、頑強に応戦したのだった。
六日に三回目の団交が始まると林学部長は冒頭「今日は二時間だけしゃべるが、それでこの会は打ち切る」と宣言し、二時間経ったところで立ち上がり、出口の方に歩いていった。
学生たちが立ちはだかって阻止すると、「君は私を阻止したね。君も阻止したね」と確認した上で壇上に戻り、これは不法な拘束だから以後はしゃべらないといってダンマリ戦法をとる。
翌七日、四回目の団交が始まったが、林文学部長は一言もしゃべらない。すると三人の学生が次々と立ち上がって、学部長に対してこんなことをするのはよくないとスト指導部の批判演説をしたという。なかでも一人の女子学生は理路整然と論戦を交わし、雄弁家の議長もタジタジだったという。
女子活動家の中原恭子さん(大学院二年生、二十四歳)は、後日週刊誌の実名入りインタビューで、〈林先生については、とにかく当局の考え方をガンコに守りぬいているというところですが、日大の古田会頭とちがい、あとで“いわなかった”とか逃げたりしないのが敵ながらアッパレだと思います。それに当局の非妥協性を明らかにした人ですわね。(と肩をすくめ)とにかくガンコ〉(『女性自身』昭和43年11月25日号)と評している。
昭和四十四年三月号の『文藝春秋』「安田トリデ籠城記〈全共闘学生座談会〉」でも面白い|件《くだ》りがある。ちょっと引用してみよう。
〈B 民青よりひどいのが、東大の教官だよな。
一同 異議なし!(中略)
D だから機動隊が怒るんだよ、教官に対して。
E子 機動隊のほうが、よっぽど筋が通ってますよ、すっきりしてますよ、とにかく生命がけでひとつのことをやってんだから。
A 変なことになってきたな。(笑)
E子 林健太郎は、筋がとおってるから、それなりに偉いよ。こっちに都合のいいこといわないもの。右顧左べんしないところ、敵ながらアッパレ。
C あとは、たいていぶん殴ってやりたいのばかし。
A ほんとだ、ほんとだ。ことにいわゆる進歩的文化人な。いつもは非武装中立論なんか書いて稼いどいてサ、テメエの学校に問題がおこったら、さっさと学校側について警察の力を借りてやがる。非武装中立でなんとか解決してみたらどうだ。(笑)〉
「只今、学生を教育中」
日が経つにつれ、林文学部長の監禁事件は大きな政治問題と化しふくれあがっていった。
三島由紀夫氏や阿川弘之氏ら文化人が立ち上がって「林健太郎氏を救え」とキャンペーンをはじめ、十一月十日の夜には林氏に面会を求めに文学部まで押しかけ、激励のウイスキーを差し入れたりしている。
すでに十日の午後には、全共闘にとっても強情な林文学部長はもてあまし気味のお荷物になっていたようだ。福本議長が「学部長に誠意のないことがわかったから、ここにおいて置く意味がなくなった。我々は十二日に闘争をさらにエスカレートするので、その前にここを出てもらう」と、もう帰ってほしいという意思表示をしている。いつの間にか立場が逆転してしまったのだ。
この時、文学部スト委員長は林教授を「先生」とよんで丁寧な言葉づかいだったという。
「東大紛争百七十三時間の軟禁」と題する林健太郎氏の回想(『昭和史と私』文藝春秋刊)の中で、林氏は機動隊導入の問題についてこうのべている。
「……一人の理科系学部の助手の人が部屋に現れた。そして大学の本部では今私の救出のために警察力導入が考慮されているが私の意向はどうかと言うのである。私はそれまで加藤執行部と接触することができず困っていたところであったから、これで連絡ができるのは有り難いことであった。私は私の解放のことは学生の方もまだ秘密であろうと思って言わなかったが、大学の封鎖全体を解除するために警官を入れるのは結構だが私一人のために入れることはしないでくれと伝えるよう頼んだ」
自民党でもマスコミの間でも「警察は何をしている」という声がたかまった。
五日の晩から革マル派指導部は林夫人に着替えや身のまわり品の差入れを許すことになった。警備部としてはこの機会に差入れの中にメモを忍ばせて「機動隊が救出しますので、救出後不法逮捕監禁罪の被害者調書作成に御協力下さい」と、御本人の意思確認をした上で強行救出をやろうと考えた。
あとできくと、林夫人もキモッタマ夫人で文学部長応接室に入るなり、「|三等《ヽヽ》列車の臭いがするわ」と顔をしかめ、「ウチの人をあんまりいじめないでね」と学生たちに頼んだという。
やがて林文学部長の返事だというメモが私の手元に届いた。みると、
「安田講堂など東大封鎖解除のための機動隊要請に賛成。私の救出のための出動、無用。只今、学生を教育中」とある。
メモを読んだ人々の心を感動がゆさぶる。偉い人だね、これは……。
下稲葉部長も「見かけは柔和だけど、こりゃ凄い人だね」と唸る。私も学生時代から林教授を知っており、「学者」として私淑していたが、こんなに芯の強い人とは知らなかった。
だが、不法逮捕監禁罪を根拠にした機動隊による強行救出は、これで望みがなくなった。あとは東大加藤代行の要請を待つほかない。
全学園紛争の天王山
十一月八日の朝、学生時代、私の同級生だった藤木英雄教授が警視庁に私を訪れてきた。
「実は、今日は加藤代行の内々の意向を伝えにきたんですがね。代行は人道上これ以上林学部長の不法監禁を続けさせるに忍びないので、警察が独自の判断で救出なさることには異存がないと考えています」
という。
「結構です。やりましょう。あとで文書による公式要請、いただけますね?」
「それができないから、こうして内密に意向を伝えにきたんです」
「そりゃダメです。これまでも何回も申し上げたでしょう。口頭要請には応じないって。この際どうですか、東大封鎖解除をふくめた出動要請を御決断になったら……」
こうして交渉は決裂した。
しばらくすると秦野総監から電話がかかってきた。
「おい、藤木君がきて加藤代行の意向で警視庁の責任で林健太郎さんを救出してくれっていってきたのを、君が蹴ったてえ話だが、本当か?」
「ハイ、断わりました」
とたんに総監が爆発した。
「なぜ断わった! 日本中が警察何してる、林健太郎を助けろって騒いでんだ。機動隊二、三個中隊でちょっと塀を越してきゃできるだろう?」
「それはいけません、総監。東大は全学園紛争の『天王山』です。加藤代行に正式要請させて、一万名の機動隊でガス弾一万発うちこんで、一万人逮捕するという警備でなくちゃいけません。林先生は自分を救出するための機動隊出動は無用、安田講堂封鎖解除ならいいっていってるんです。只今学生を教育中だから来るなっていってるんです。あのどうしようもない東大に、今、教育者が生まれようとしているんです。林先生の意思を尊重し、今はじっと見守って加藤代行の正式要請の決断を促すべきです」
私は必死だった。気合いをこめて意見具申する。
「ふうん、君はそう思うか。まあ、坂本龍馬になった気でやれや」
そういって総監は電話を切る。やがて今度は下稲葉警備部長から電話があった。
「君、一体総監に何いったんだ。いまオレんとこへ総監から『佐々が坂本龍馬みたいなこと、いってる』って電話がきたぞ。君、酔っ払ってるのか?」
私はものをいうのに酒の力なんか借りない。
「酔ってるわけないでしょう、こんな真っ昼間に。かくかく、しかじかいいましたよ。そしたら『坂本龍馬になった気でやれや』と総監がいったんですよ。東大警備は学園紛争の天王山です。加藤代行に決断させるべきです。部長も林先生のメモみたでしょう。いままでも何回も口頭要請だけで出動して煮え湯をのまされてるじゃないですか」
私は確信犯なのだ。それもかなり過激な……。
秦野総監もよく会議の席でいっていた。
「君ら、その『過激派』てえの、やめろ。『極左暴力集団』とよべ。オレも『過激派』だからな」
総監もかなりな過激派なのだ。
警備部長も「そうだな、口頭の出動要請だって加藤代行本人の口からきいたんじゃないからな、また心変わりするかもな」と納得した。
林健太郎文学部長は、結局、百七十三時間、十一月十二日の未明になってドクター・ストップで東大病院にかつぎこまれるまで頑張り抜いた。あとでわかったことだが、革マル派も林文学部長のあまりの強情さをすっかりもてあましてしまい、夜は鍵もかけず、見張りもおかなかった。御本人が出てゆくのを期待していたようだが、御本人は差入れのウイスキーをのんで、グウグウ寝ている。
「酒をのんでる」と学生が咎めると、「夜、寝るときはアルコールをのむのは当たり前です。これは諸君が私をいかに劣悪な状態においているかということですよ。アルコールがなくて眠れますか」と反論したという。
全共闘も要求貫徹、断固闘争といいながらも、「学部長の健康には注意せよ」と指示している。
十一月十二日午前二時、林文学部長の入院によって事件は終わった。
東大全共闘の林健太郎問題の総括が面白い。
「林健太郎はまちがっている。しかし首尾一貫まちがっていることは評価される」
十一月二十四日付の『朝日ジャーナル』も「その骨太に敬礼!!」と題する寸評で、学生の判定負けと評している。こんな人たちが日本の大学教育を担当してきたかと幻滅を覚えるような学者先生が多い中で、体を張って学生たちに全人格的な教育を施そうとした林健太郎学部長は、本当に偉かった。
だからこそ法文経二号館の文学部の壁に、「林健太郎に敬意!」という籠城学生の書き残した落書があったのだ。
はげしい催涙ガス銃の斉射音に、しばしの回想から現実に立ち戻る。
法研と工学部列品館の方向だ。表へ飛び出してみると、東大正門に向かって左側の法研に対する二機の突入がはじまり、右側にある一機担当の工学部列品館は、炎と煙に包まれている。予想をこえた激しい攻防戦が、はじまったのだ――。
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第四章 突 入
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火ダルマになった機動隊員、黒煙につつまれる列品館、法学研究室にはガソリンがまかれる。さらには神田地区でも不穏な動きが……

炎と白煙の修羅場
工学部列品館は、法文経二号館を出て東大正門に向かうと銀杏並木の右側にある。
左側にあるのが法文経三号館、法研(法学研究室)とよばれている建物だ。
いずれも厳重にバリケード封鎖され、投石用の石や火炎ビン、硫酸ビンなどの凶器を大量に貯え、多数の過激派学生が、全員逮捕覚悟でたて籠っている要塞だ。
工学部列品館には試験管入りのニトログリセリン爆弾があり、高圧電流を流した有刺鉄線バリケードが張りめぐらされ、青酸ガスも準備されているという物騒な情報がある。
右が列品館、左は法研と二つの要塞にはさまれた東大正門に近い銀杏並木のあたりは、両側の要塞から投下される火炎ビンの紅蓮の炎といがらっぽい油性の黒煙や、機動隊が応射する催涙ガス弾の白い煙がたちこめ、修羅場と化している。
涙はでる、鼻の奥は痛む、喉はカラカラ、ハンカチはたちまち涙と鼻水でグショ濡れになる。しまった、ゲバ学生の真似をしてタオルで覆面し、ゴーグルをかけてくればよかった。
おまけに放水車の放水が水|飛沫《しぶき》となって、あたり一帯を包み、上空を乱舞する数機のヘリの回転翼がまき起こす乱気流に水流が|攪拌《かくはん》されて、地上の部隊ににわか雨のように降り注ぐ。
晴れてはいても真冬の朝。気温はせいぜい五、六度。両側の建物の屋上から挟み撃ちの投石が襲いかかり、路面にぶつかった石塊が跳弾となって横なぐりに飛んでくるから、目にハンカチを当てているわけにはいかない。投石を避けるコツは頭をあげ、目をみひらいて石を捉えることだ。怖がって顔を伏せるのが一番危ない。
時々コカコーラのビン、牛乳ビンの類がクルクルまわりながら落ちてきて、路面にぶつかって割れ、得体の知れない液体が飛び散る。白煙があがる。硫酸か? 塩酸か? なんだか知らないが、下にいる機動隊員もみんな同じ人間同士。サイボーグではない。親兄弟も妻子も恋人もある人間なのだ。畜生っ、ゲバ学生たち、いったいなに考えてんだ。危ないじゃないか、まともに当たったら命にもかかわる大怪我をするじゃないか。
高さ五メートルはあろうかという閉鎖された東大正門の鉄柵には、大きな毛沢東の肖像や、「造反有理」と大書したプラカード、立て看板などが針金でくくりつけてある。
列品館の屋上に見え隠れする籠城学生のヘルメットの色は、赤に縦一筋、モヒカン・カットのような白線が入っている。毛沢東思想を信奉するML派だ。ほかに赤と白の全共闘、ノンセクト・ラジカルのグループもまざっている。
反対側の法研の屋上にズラリとならび、セクト旗をかかげ、胸壁の上に積み重ねた歩道の敷石用のコンクリート平板を次々と突き落とすゲバ学生たちは、白ヘルが圧倒的に多い。中核派の拠点のようだ。
正門外側の本郷通りでは、東大闘争支援の学生デモが行われているのが立て看板越しに見える。
その数およそ四百名。車道いっぱいにジグザグ・デモや渦巻きデモをくり返し、規制に当たる一機、六機などの機動隊のすきをうかがっては正門から構内突入をはかっている。
あたりは耳を|聾《ろう》する騒音の大交響楽だ。
「不協和音交響曲」「シンフォニー・不快」とでも名付けたらよさそうな、異質の騒音のミキシングだ。
上空を舞うヘリの回転翼の金属音。じりじりと列品館、法研建物に接近、後退をくり返す大型警備車のエンジンの唸り。放水警備車のモーターと放水の音。催涙ガス銃の発射音。指揮官車のラウド・スピーカーの退去警告広報や指揮官の号令。籠城学生のアジ演説にくわえ正門前学生デモ隊の「東大闘争勝利、機動隊帰れ」のシュプレヒコール。
建物の窓に突破口をつくるために横付けをはかる警備車の屋根に降り注ぐコンクリート平板のドスン、ドスンという落下音。
聴覚の鋭い音楽家をここに連れてきたら、一種の肉体的拷問と感じることだろう。すぐ隣りにいる伝令の松浦警部と話すにも大声で怒鳴り合わないと聞こえないほどだ。
列品館へ!
工学部列品館“城攻め”は、石川三郎警視指揮の一機、法研は三沢由之隊長指揮の二機の担当。
“方面軍司令官”は、日大江古田・芸術学部“城攻め”、一・九東大構内立入り、一・一五東大闘争勝利労学総決起集会警備などを指揮した、歴戦の第五方面本部長・豊田武雄警視正である。
列品館攻めは、午前八時三十七分、法研攻めは午前九時、豊田第五方面本部長の命令一下、開始された。
第一次任務だった工学部一・四・五・七号館、法文経一号館のバリケード撤去を約一時間で終了した精鋭、一機にとっては、三階建てのさして大きな建物でもなく、事前情報では籠城学生の数も数十人程度という列品館の解放など|鎧袖 一触《がいしゆういつしよく》……と最初はタカをくくっていた。“現着”して列品館をながめた隊本部付幕僚・林昭雄警部は「こりゃ大したことないな」という第一印象をうけたという。
一機は向かい側の法研と挟み撃ちになるおそれのある銀杏並木側正面入口をさけ、第一中隊が安田講堂寄りの法文経一号館側から、第三中隊が“裏玄関”から、第四中隊は東大正門側と、三方向から同時攻撃を始める。
各中隊は、その外観上、通称「カマボコ」とよばれている堅牢な鋼板に|鎧《よろ》われたバス型大型警備車に、破壊工作班二個分隊をのせて三方向から列品館の一階窓に接近をはかる。
破壊工作班は最精鋭の武道小隊を基幹に、身体強健で士気旺盛、カッカしないタイプのえり抜きの優秀隊員で編成されている。掛け矢(ハンマー)、|斧《おの》、|鳶口《とびぐち》、エンジン・カッター(原動機付電気鋸)、四寸角・長さ四メートルの衝角材(門などを突き破る巨木のこと)、ロープ、携帯消火器などの資器材を準備し、ドアや窓枠を破壊し、その背後に天井までぎっしり構築された厳重なバリケードを撤去して部隊の突入口をつくるのが、彼らの任務だ。
当然予想される籠城学生の石塊投下、投石、火炎ビンや硫酸ビンの|投擲《とうてき》などの抵抗に備えて、催涙ガス分隊と、八機の大型放水車三輛が支援配置につく。
こうして命がけの列品館攻めが始まった。一月十八日は土曜日。とんでもない週末である。
隊員たちの胸の内
当時、安田講堂攻防戦に携った機動隊員たちから提出された感想文に基づいて、隊員一人一人の心の中をのぞいてみよう。
列品館突入に備えて満を持して待機している一機の松藤広光小隊長の脳裡に、ふと家を出がけの小さなファミリー・トラブルの記憶が甦る。
「パパ、また役所に行くの? さっき帰ってきたばかりなのにつまんないなあ。そうだ、いいことがある。あのね、私が役所の一番偉い人に今日は休みを下さいってお願いしてあげるから行かないで。明日は日曜日だから一緒に遊んでよ。ねっ、いいでしょ?」
このところ毎日すれちがいでほとんど顔を合わせることのなかった二人の娘が、父親に遊んでもらいたい一心で真顔でひきとめにかかる。
「お父さんはとっても大事なお仕事なんだから……」と子供たちをなだめる夫人の声を背中に早朝出勤したのだ。都心に向かうガラ空きの電車の中で、松藤警部補は小隊長として隊員に負傷者を出さないで、自身もまた無事に帰れればいいがと、物思いに|耽《ふけ》った。
一機本部付の森田繁満巡査部長も心配ごとをかかえていた。折悪しく長男欣也君(二歳)が香港カゼにかかり、三十九度の高熱。長女芳美ちゃん(七歳)も激痛をともなう膀胱炎を発病して、夫人ひとりの手には負えない家族の危機に直面していた。早く列品館が陥ちてくれればいいが……妻に電話をしてやらなきゃとヤキモキしながら配置につく。
裏玄関側で待機していた一機第三中隊の箕輪幸雄隊員も、十八日早朝、郷里から「母、危篤」の電話を受け、心は|千々《ちぢ》に乱れていた。「東大警備が終わったらすぐ帰郷するから」と心を鬼にして帰郷を諦め、列品館突入の機をうかがっている。
なお箕輪隊員は、翌十九日安田講堂が陥ちたあとも東大奪還闘争が続いたため、結局帰郷できず、母の死に目にあうことはかなわなかった。
第一中隊の清水輝秋隊員も郷里姫路市のマリア病院にガンで入院中の父親の手術立会いのため帰郷してほしいという、母親からの再三の電話による懇請に、「東大警備が重大な段階にあるいま、機動隊員として一身上の都合で隊列を離れるわけにはいかないんだ」と家族を説き伏せ、病床の父の安否を気づかいながら東大正門附近で列品館を見上げている。
八千五百名の機動隊員たちには、それぞれ八千五百の物語や、人間的な悩みがあったにちがいない。松藤小隊長や森田分隊長の気持ちはよくわかる。私の家にも幼稚園年長組の五歳の長男をかしらに、三歳、一歳と香港生まれの次三男がいて、「よそのお父さんはみんな子供をつれて日曜日遊びにゆくのに……」と欲求不満をぶつけてきたからだ。香港から帰国して間もない頃で、環境も激変し大気汚染のひどい東京に戻った長男は|喘息《ぜんそく》に苦しんでいた。
妻・幸子も三人の幼児をかかえ、家族で食卓を囲むことは何カ月もなく、深夜の脅迫電話、無言電話に悩まされた。深夜、早朝になると“夜討ち、朝駆け”でつめかける各社の記者に、水割り、ビールのサービスもしなければならない。アレルギー症状が出て顔が腫れたり、長男とともに喘息に喘いだり、口には出さなかったが、妻のプレッシャーは大変なものだったろう。
なにしろ家族と過ごす時間を一割とすると警備部、公安部、機動隊の仲間たちと一緒にいる時間が九割だ。役所で二、三時間の仮眠をとってそのまま帰宅しない夜が多く、土曜・日曜ぬきはあたりまえ。たまに帰宅したにしろ“午前サマ”で、目覚し時計のベルで二、三時間の短い睡眠から起こされて早朝出勤。それで給料は国家公務員の警視正は「公安職二等級二号俸」七万九千七百円という薄給だ。管理職だから超勤は一二パーセントで打切り。月数百時間という超勤も休日給もつかない有様だった。
しかも一寸先は闇、いつ警察病院にかつぎこまれるかわからないから、大警備の時は必ず下着を新しいものに替えたものである。成人したのちも息子たちの欲求不満の恨みは深く、いまでもいかに家庭をかえりみないひどい父親だったか口をそろえて苦情をいう。
「子供の頃、遊びに連れてってくれたのは上野動物園、馬事公苑の花見、伊勢丹屋上のウルトラマン大会のたった三回だった」と痛いところをついてくるのだ。
面白かったのは、幼稚園児だった長男・|将行《まさゆき》が「パパ、いいこと思いついた。お魚をとる大きな網があるでしょう。あれをヘリではこんでいって暴れてる人に上からバサッてかぶせたら」とアイディアを提供してくれたことだった。
そのアイディアは、ある日秦野章警視総監によばれて検討を命ぜられた新戦術「一網打尽」作戦と奇しくも同じだったのだ。この作戦は実験の結果、技術的困難性から不採用となったものだったが、この偶然の一致は、長男がマセていたのか、総監の発想が“大変お若い”のか、いずれにせよひとり笑いを誘う話だった。だが幼い長男も子どもなりに心配し、父親を助けようと“新戦術”を工夫してくれていたのは嬉しかった。
安田講堂封鎖解除警備に当たって、警察庁長官、警視総監の共通した大方針は、「死者を出すな、怪我人を少なく」ということだった。警備実施の幕僚長である警備第一課長として、第二の西条警部、第二の樺美智子さんを出さないこと、過激派、機動隊双方の怪我人を少なくするという任務は、当時三十八歳の私にとっては大変な重責だった。
つまり東大警備だけをとっても、八千五百人の機動隊員の命を親御さんたちや御家族からお預かりし、さらに同じく親兄弟もいる相手側の約一万人の過激派学生たちの命も預けられたわけで、思いつめればノイローゼになってしまう。だから計画立案の段階、準備の段階では“意図的悲観論者”になって“最悪に備え”ても、いざことがはじまったら|天佑《てんゆう》神助を信じて“意図的楽観論者”として、必ず成功する、“日はまた昇る”と自分にいいきかせて、新しい下着に替え、目をつぶって頭から突っこんでゆくしか生きる道はなかった。
昭和四十四年一月十八日は、みな同じ思いだったと思う。自分だけは無事に帰れる、きっとそうだ、だがもしかして……と|凶々《まがまが》しい幻影に悩み、学生たちがおとなしく退去することを願いつつ、配置についたのだろう。
炎上する警備車
だが、学生たちの猛烈な抵抗ぶりは予想以上だった。
東大正門側から列品館に接近した第四中隊の破壊工作班(指揮官・神谷弘一小隊長)をのせた警備車は、路上に構築されたバリケードや樹木、植え込み、列品館屋上から投下されて路上に山積した石塊などに阻まれて、一階窓に密着した形で横付けすることができない。
見上げると屋上の赤ヘル数人が、胸壁に積みあげた歩道敷石用のコンクリート平板をヒョイヒョイと突き落としている。ガキーン、ベコン、ボコン、一個の重量十二キロの平板が何十個も続けて十四、五メートルの高さから落下してくるのだからたまらない。さしもの堅牢な警備車の屋根もみるみる内側にめり込み、裂け目ができた。タイヤの前後に平板の山がみるみる積まれて進退もままならなくなる。勇敢な隊員たちが大楯を頭上にかざし、ハンマーや鳶口をもって封鎖された一階窓にとりつき、破壊工作をはじめる。
その時だった。屋上からジョボジョボ音をたてて大量の液体が警備車に注がれる。ツーンと鼻をつく臭い。ガソリンだ。ガソリン漬けになった警備車に向かって赤ヘルが火炎ビンを投げる。なにするんだ、隊員が焼け死ぬじゃないか。一瞬あたりは火の海になり、黒煙がたちこめ、灰色の大型警備車の車体は炎と煙の中で黒い影絵になる。
このままでは車内に閉じこめられた破壊工作班は蒸し焼きになるか、窒息死するかだ。
現場にいあわせた指揮官、幕僚、皆|愕然《がくぜん》となる。
「放水車っ、放水車っ、消火しろっ」と声をそろえて絶叫。だが肝腎の放水車は沈黙している。なにやってんだ。どうしたんだ、いったい。先頭にいる放水車の中では放水班が死にもの狂いで機械を操作するが、水が出ない。
「PLOレバー(吸水動力伝導装置)故障、放水不能」
畜生、寄せ集めのオンボロ放水車め、だから高圧新鋭放水警備車の調達を催促したのに、財政当局をはじめ、官僚主義の役人どもめ、いつもこれだ。常に危機管理対策は“あまりに遅く、あまりに少ない”んだ。死人がでないとわからないのか!
「さがれ、さがれっ、消火器を使って消火しろ」
いあわせた者は声をそろえて叫ぶ。炎に包まれた警備車が|瓦礫《がれき》の山をのりこえ、ガクン、ガクンとノックしながらよろめくように後退してくる。駈けよって携帯消火器で火を消す一機隊員。ポッカリ開いた後部出入口や運転席から、ヘルメットも顔も出動服も消火液や消火粉で真っ白になった工作班員たちが、ころげおちるように飛び出してくる。
あとからきくと、車内に炎がひろがったとき、隊員たちは腰に下げた小型消火器でお互いに消火し合ったそうだ。幸い車内の火は消えた。武道小隊員たちはその直後、サーカスの道化のような真っ白な顔に目だけがパチクリしているお互いの滑稽な姿をみて、一瞬顔を見合わせ、狭い車内に爆笑が渦巻いたという。
“知らぬが仏”“見ぬもの清し”とはまさにこのことだ。神谷小隊長以下誰も警備車の外側が炎に包まれていて、自分たちがオーブンの中のロースト・チキンみたいに丸焼けになるところだったことは知らなかったのだ。
気がつくと、隊員の数が三名足りない。みると車外に出てバリケード撤去作業をしていた隊員たちがとり残されて、列品館の壁にはりついて屋上からの投石を避けている。神谷小隊長らはまだ|燻《くすぶ》っている警備車に飛びのり、救出に向かう。
投石の雨をくぐり列品館に接近した警備車に、とり残された隊員が飛びのる。車は路上のバリケードに、二度、三度、体当たりして排除し、石塊の山をのりこえながら後退してくる。奇蹟的に負傷者はいない。
裏玄関から接近した第三中隊の警備車(指揮官・歌川近衛武道小隊長)も|惨憺《さんたん》たる目にあう。
裏玄関には出入口に石の階段があり、警備車と裏玄関ドアの間にはどうしても約三メートルの隙間ができてしまう。車の屋根はたちまちデコボコになり、このままでは日大で殉職した西条警部の二の舞いだ。田村広之祐第三中隊長は歌川小隊長にいったん後退を命じる。
玄関ドアを突き破るための四寸角角材六本を積んで再接近させ、車内から力をこめて玄関ドアを突きまくらせるが、頑丈なドアはビクともしない。警備車の屋根は落石でへこみ、裂け目ができている。後部出入口から覗くと、薄暗い車内にてっぺんから朝の光がさしこみ、まるでレンブラントの|泰西《たいせい》名画だ。
第三中隊歌川小隊の警備車は、過激派学生の投石、火炎ビンに加えて、味方の支援放水車の冷たい水と催涙ガスをもろにくらった。
火攻め、石攻め、水攻め、催涙ガス攻めの“四重苦”に苦しむ。屋根の裂け目から火炎ビンの炎に|煤煙《ばいえん》、放水車の水、催涙ガスが流れこみ、狭い車内は煙が充満して目もあけていられない。しかも水浸し。おまけに空から警視庁航空隊のヘリ「はるかぜ二号」が投下する催涙ガス弾が、列品館屋上に落ちずに車の脇に落ちて発煙し、なにも見えなくなる始末。やむなく作戦を中止する。
後退したデコボコの警備車から火炎ビンの煤で顔は真っ黒、目は泣き腫らして真っ赤、放水で全身ビショ濡れ、くしゃみ、鼻水で男前台無しの隊員たちが口惜しさを全身であらわしながら次々と降りてくる。みると裏玄関のドアの破壊に使用した四寸角の角材が二、三本、コンクリート平板の直撃を受けて真っ二つにへし折れている。
コンクリート平板の破壊力はもの凄い。
三十センチ四方で厚さ六センチ、重量十二キロの平板をまともにくらったら、人間は即死するだろう。
ヘリコプター作戦
警視庁航空隊のヘリコプターは、これまでも上空からの偵察や情報収集に使われてきたが、空からの催涙ガス攻撃の“空襲”に使われたのは東大安田講堂事件が初めてだった。
今日では飛行船やツイン・ローターの大型ヘリ・バートル型をふくめて十五機からなる部隊に成長した警視庁航空隊も、当時は七人乗りの中型ヘリ「おおとり型」一機と、パイロットをいれて三人乗るのが精一杯の「はるかぜ型」小型ヘリ三機を保有しているにすぎなかった。東大警備には「おおとり」と「はるかぜ二号」「三号」の三機が投入された。
空からの催涙ガス使用については、水にまぜたクロロアセトフェノンをドラム缶状の容器にいれ、千百馬力のガス・タービン・エンジンの「おおとり」で吊り下げて散布する方法と、「はるかぜ型」で催涙ガス弾を投下する方法とが事前に検討された。
投下実験は、晴海のヘリポートで前後十二回、高度七十メートル、五十メートル、ガス弾一個、あるいは三本たばねた場合などの条件下で、地上到達所要時間や目標からの誤差などがテストされた。その結果高度七十メートルでガス弾一個投下すると所要時間一秒、誤差九・一メートルだが、三本たばねて五十メートルの高度で落とすと、〇・八秒、誤差四・七メートルと命中精度が向上することがわかった。
航空行政の所管官庁である運輸省の航空局にたいしては、事前に警察庁が「正当業務行為」として低空飛行と物件投下について通告し、了解をとる手筈がととのえられた。
警視庁航空隊の「はるかぜ二号」「三号」がヘリポートを発進したのは、十八日の午前六時三十分のことだ。“空襲”の空中指揮は警備第一課の現場担当課長代理・宇田川信一警視が自ら「はるかぜ三号」に搭乗して執る。同乗は技術担当の星野忠広警部補。気象条件は「北の風三ノット、視程二キロメートル、スモッグ・アンド・ヘイズあるも快晴」高度三百メートルで東大に向かう。
都心の空は薄い牛乳のようなスモッグに包まれていたが、空から安田講堂をたやすく視認。報道陣の取材ヘリとともに東大上空を旋回して情報を送り、ガス弾投下開始の命令を待つ。
やがて、期待にみちて空を見上げる地上部隊の環視の中で、いよいよ史上初の新戦術、ヘリによる“空襲”が始まる。
「はるかぜ型」二機は、安田講堂、列品館、法研など屋上からの抵抗が続く建物に向け急降下してはホバリングし、催涙ガス弾を投下する。青空に黒い糸をひいて、三本たばねた催涙ガス弾が投下される。
屋上の赤ヘル、白ヘル、青ヘルの籠城学生たちは、風圧に押されてよろめいたり、手製の大楯で防いだり、うずくまったりしているが、ヘリからの投下はどうも期待したほどの効果はない。逆に彼らは舞い降りてくるヘリに向かって投石したり、ゴムひも付きのパチンコで鉄のパチンコ玉を飛ばしてくる。屋上に落下するP弾の白い粉が飛び散り、S弾の白煙があがる。
なかには屋上に落ちた催涙ガス弾を拾い、地上の機動隊の頭上に投げているのもいる。
透明なプラスティックのヘリコプターの風防にパチンコ玉がカチン、カチンとあたり、ひびが入る。
「宇田川代理、危険です。退避します」
不安を覚えた小安庄平操縦士は急上昇する。
命中精度も、いざ実施してみると思ったより悪い。誤差四・七メートルのはずが、数十メートルもはずれて、建物を包囲する機動隊の頭上に落下してくる。こんなはずじゃなかった。ヘリの回転翼がまき起こす乱気流や風圧に流されて、投下コースが乱れるし、密閉された屋内とちがい、オープン・エアの屋上では催涙ガスが拡散してしまって効果が薄いのだ。
警視庁の正式装備である催涙ガスは、香港暴動のときやサイゴンの反政府デモに英軍や米軍、南ベトナム政府軍が使用した軍用CSガスとちがって、一過性の催涙効果しかない弱いクロロアセトフェノン剤使用のCNガスである。
外地勤務で体験した軍用CSガスは、白っぽいCNガスとちがって黄色っぽい濃い煙がたちこめ、街頭で嗅いでも吐き気や息苦しさを覚えるが、CNガスは何回も何回も泣かされているうちに目の粘膜に耐性が生ずるのか、涙が|涸《か》れるためか、だんだん慣れてくるとさほど苦にならなくなる。
おまけに東大警備のために全国から緊急の保管転換をして警視庁に集めた約一万発の催涙ガス弾は、長い間各県警装備課の倉庫に眠っていた、製造年月日の古い中古品だった。いざ東大で使ってみたら十発に一発は不発という代物だ。
こういうのを“備えなければ憂いあり”というのだろう。“泣けるよ”という慨嘆は、まさにこのことだ。とんだ同士討ちだ。
“誤爆”の実害をこうむった、列品館攻めの一機から苦情が出て、せっかくの新戦術も、「効果薄し、中止せよ」という命令が出され、中止とあいなった。
焦土戦術
午前十時四十八分、石川一機隊長が中隊長集合をかける。現場での緊急の作戦会議の結果、第一、第四中隊は陽動。作戦主正面は第三中隊の裏玄関と決まり、歌川小隊の警備車が裏玄関に再度接近する。
「押してダメなら引いてみよう」と、四寸角の角材四本を建物と警備車の隙間の空間に渡し、その上に大楯をのせて石除けにする。決死隊を志願した伊藤公也、佐藤信男両隊員が投石の下で玄関ドアの枠にロープをかける危険な作業に成功。警備車に結びつけて|牽引《けんいん》し、ドアごとひっぺがす戦術にでた。これも大成功だ。スッポリとドアがはずれる。だがその向こうには天井までぎっしり鉄製ロッカーや机、椅子のバリケードがある。
最上段のロッカーを角材で何十回も突く。ロッカーが少しずつ内側にずれてゆく。
しめた……と思ったとき、警備車から建物にわたした太い角材が投げ落とされる石塊に当たって次々と折れ、同時に裏玄関附近一帯にガソリンの臭いが充満した。二階ベランダから大量のガソリンが警備車に注がれたのだ。これに点火するため、火のついた紙屑やボロが降ってくる。突然二、三メートルはあろうかと思われる長いゴムホース付きの棒状のものがのびてきて、その先端からビューッと青い火炎が噴き出す。手製の火炎放射器である。
都市ガスを使った新兵器だ。大学当局との事前の打ち合わせで、都市ガスや強力な電流を流した針金バリケードの危険があるから、ガス、電気は切ってくれと頼んでおいたのに……。
すかさず八機の放水警備車が放水し、炎上したガソリンの海と火炎放射器の火炎を吹き飛ばすように消火し、催涙ガス分隊が二階ベランダに向け、いっせいに制圧射撃を行う。
水とガスの援護の下、一番上のロッカーを向こう側に突き落とし、ようやくひと一人入れるようになったバリケードの隙間から、|田戸《たど》亘隊員が勇敢にも一番乗りで真っ暗な館内に飛びこんでゆく。数名の隊員がすぐ後に続き、手早く玄関バリケードを崩し、田村中隊長を先頭に第三中隊六十名が次々と突入する。
時、午前十時五十四分。列品館に突破口が開けた。第一中隊も第四中隊も続いて館内に雪崩れこみ、たちまち一階を制圧した。
よし、これでメドがついた。だが窓という窓がベニヤ板でふさがれ、階段はすべて厳重なバリケードで封鎖された列品館内は暗闇同然。
懐中電灯の明りを頼りの手探りの作業が続く。
「これぞまさしく“東大(燈台)もと暗し”だ」などとジョークを飛ばす隊員もいる。
二階に至る階段をふさぐバリケードを、ペンチで針金を切りながら撤去していた一機隊員の頭上に、突然火炎ビンが降ってきた。机や椅子など可燃物が燃えあがる。
携帯小型消火器で消し止め、大楯を頭上にかざしながら真っ暗な二階に攻めのぼる。
また火炎ビン。今井正隊員がまともに背中にうけて一瞬火ダルマになるが、同僚が消火器で消しとめる。そこへ十数発の火炎ビンが降ってきて、二階から屋上にかけてのバリケードが燃えあがる。火勢を強める得体の知れない液体が上から流され、館内は火の海となり、携帯用消火器ではとても手に負えない大火災となる。
煙が充満し、呼吸困難となり、窓ガラスを破って排煙するが、ちょうど積みあげた薪に火をつけたように火は上へ|這《は》い上がり屋上に及ぶ。屋上の学生たちも、突入した隊員たちもことごとく焼死しかねない重大事態となった。
工学部だから館内の実験室などには危険な爆発物、可燃性の薬品や有毒ガスを発生させる薬物などがあるはずだ。総合警備本部からも「館内には薬品等多数あると思われる。爆発の危険あり、一機隊長判断で措置されたい」と、言外に撤退を促す指示が私の受令器のイヤホーンに流れてくる。
列品館内の各級指揮官たちからも、
「二階から三階にかけて大火災。消火器では対応できない。このままでは学生も隊員も死んでしまう。隊長っ、消防隊に消火要請乞う」
必死の要請が受令器にビンビン伝わってくる。
午前十一時三十九分、一機隊長判断で撤退命令が発せられ、館内の一機隊員が次々と屋外に退避してくる。
列品館の前の路上からみると、油性の黒煙がねじれながら二階から上の建物を包み、くろぐろと青空高く立ちのぼる。時折、ガラスの破れた窓からチロチロと炎の舌がのぞき、そばにいると顔が|火照《ほて》ってくるほどの火勢だ。
放っておけば屋上の学生たちの命が危ない。それなのに館内外で必死に消火作業につとめる放水班や、命からがら館外に脱出してくる隊員に向かってさらに火炎ビンや人頭大の石塊を狙いうちで投下してくる。正気の沙汰とは思われない焦土戦術だ。放水警備車のタンクの容量は三千五百リットル。数分でカラになる。
タンクに水が貯まるまでの間、みんな気が気じゃない。そのホースも投石やガラスの破片などで裂け、噴水となる。火災が発生してから午前十一時五十分までの一時間足らずで八機の放水量は五トンに及んだが、火勢は一向に衰えない。
学生たち、死を覚悟しての徹底抗戦なのだろうか? いや、そうではあるまい。
「警察や消防は自分たちを見殺しにはできないだろう。必ず消し止めるから安心して燃やせ」という、甘ったれ根性にちがいない。親が必ず抱きとめてくれると信じこんで、高い所から飛び降りてくる腕白がいるが、いま眼前で展開されている光景は、その幼児性むきだしの甘ったれ以外のなにものでもない。
ひとりっ子、あるいは男一人女一人という家族計画にのっとって、過保護に育った若者は、幼少の頃“男の喧嘩”の経験に乏しく、したがって喧嘩のルールを知らない。最近の子供たちの陰湿な集団的|苛《いじ》めは、手加減、つまりどこまでやったら人は死に、刑事責任を問われるかという限度を知らないために起こるのだ。トンボや昆虫の羽根をむしり、足をもいでもきっとまた生えてくると思いこんでいる幼児の残忍性が、同じ人間であり親子兄弟、妻子もいる機動隊員たちに対する、明らかに限度を超えた暴力行為となって発揮されていたのだ。
列品館陥落
怒りに燃えて黒煙に包まれた列品館を眺めていると、後ろから肩を叩くものがいる。振り向くと朝日新聞社会部の警視庁詰めの富永久雄記者の笑顔がそこにあった。
「あれ見ろよ、佐々さん、オーバーだな」
指さす方向をみると、どこの新聞社か、戦争中、軍が使用した象の鼻のような太いゴム管と空気浄化装置のパトロンのついた本物の防毒マスクをかぶった記者が、キョトンとたたずんで列品館の攻防戦を眺めている。思わず富永記者と顔を見合わせて笑ってしまう。
頭にきたのは、東大前の道路に何台もの消防車や救急車とともに待機している消防隊の傍観者的態度だ。一機幹部が懸命に消火協力を要請しても、四の五の言って一向に|埒《らち》があかない。
「何で協力しないんだ、彼らは?」
と松浦警部にきく。
「なんでも“消防は中立公平”で警備の手伝いをするわけにいかんとか、上からの命令がないからとか、グズグズいってるそうです」
なんだと? 何が中立だ。江戸の火消しか、それでも。「め組」の新門辰五郎の心意気は一体どこにいったんだ。見ればわかるじゃないか、警察の放水車や携帯消火器では対処できない本格的な火事になってしまい、このままでは学生たちが焼け死ぬか、窒息死するかという非常事態になっていることが。
ようし、それなら“上から命令”させてやろうじゃないか……。
一機隊長から五方面本部、総合警備本部、警察庁警備局、消防庁と、役人的順序をふんで消火要請が行われ、その結果“上から命令”があったとみえて、ようやく消防車から白い棒のような強力な高圧放水がはじまる。
消防隊の放水が始まってから数十分後、どうやら火勢が衰え、化学薬品爆発のおそれも遠のく。
一機部隊は、再び裏玄関から列品館内に突入。こんどは八機放水車のホースの筒先をかかえての“延長放水”(ホースを継ぎ足して行う放水)により、火炎ビンの炎を消しながら二階から三階へと堅固なバリケードを撤去して、一歩一歩攻めのぼってゆく。二階、三階の窓枠がメリメリ音をたてて焼け崩れて地上に落下する。屋上や三階にたまったP弾の催涙ガス粉末が水に溶けてガス化し館内に充満している。呼吸も困難な暗黒の三階でバリケード撤去作業が続く。
屋上の学生指揮者が拡声器でなにかいっている。午後一時に近い頃のことだ。なんだろう? 列品館の下で耳を澄ますと、ヘンなことをいっている。
「……ジュネーブ条約に基づいてェ、休戦を申し入れるゥ。負傷者が出た。ジュネーブ条約の負傷者としてェ、戦時捕虜としてのォ、扱いをすることをォ、ここに強く要求するゥ……」
なにいってるんだ。ジュネーブ条約の戦時捕虜だと? 戦争してる気なのか、彼らは。さしずめ“東大人民共和国”と日本国との戦争のつもりなのか? なに考えてんだ、一体。
「松浦君、“ジュネーブ条約”ってきこえたけど?……彼ら、戦争してるつもりかね」
「驚きましたね。“ジュネーブ条約”っていいましたよ、たしかに……」
新設七機の池田勉隊長の|傅役《ふやく》、菅野好雄副隊長は、この時隣接する法文経一号館の屋上にいた。七機の基幹中隊はついこの間まで一機の一部だったから、この日も七機は制圧した法文経一号館の屋上からガス分隊により、列品館で苦戦する一機を支援していた。
突然、投石を続けていた列品館屋上の学生の一人が手を振ってよびかけてきた。
「重傷者が出た、話し合いをしたい、指揮官を出してくれ」
「私が屋上の指揮官だ」
「重傷者がいる。しばらく休戦してくれ」
「休戦を申しこむならただちに抵抗をやめて行動で示せ」と菅野副隊長。
するとその学生はハンケチをつけた棒をふりはじめる。学生たちはスクラムを組み始める。午後十二時五十五分頃のことである。
同じような降伏の申し入れは東大教職員を通じて一機隊長の耳に達した。
一機部隊はいっせいに屋上に攻めのぼる。
歌川、神谷小隊など各隊は屋上への出口のところで最後のはげしい抵抗をうけていた。十数個の大型消火器、人頭大の石塊が降ってくる。
やがて投石がやむ。「今だっ」隊員たちは喚声をあげ、まだ燃えくすぶっている机、椅子を蹴あげて屋上に躍り出る。
みると屋上左側片隅にML派など全共闘の学生闘士約四十名が、いままであれほどはげしい抵抗をしたとは思われないほど、青白い顔をし、おびえた表情でちぢこまっている。
殴られはしないかとオドオド上目遣いで、「乱暴するな」「我々は無抵抗だァ」などと叫ぶ。ついさっきまで「毛沢東思想万歳」と書いた旗をふり、乱暴|狼藉《ろうぜき》のかぎりを尽くしておいて「乱暴するな」もないものだ……と、機動隊員たちは怒るより先にそのあまりな手前勝手さにあきれたという。
逮捕者三十八名。罪名は放火、公務執行妨害、凶器準備集合、不退去。列品館はこうして陥落した。顔面を負傷した学生が担架でかつぎおろされ、救急車に収容される。
実に四時間十八分に及ぶ激戦だった。
逮捕した学生を分散留置先の千住警察署に護送した一機第三中隊の田戸亘隊員は、署長の心尽くしのカレーライスを夢中になって食べた。夕方五時半頃のことだ。考えてみると一機部隊は朝からの激戦で昼食ぬきになり、明け方隊舎を出発して以来、彼が初めて口にしたのがその一杯のカレーライスだったのだ。
「法研」攻防戦
二機の法学研究室に対する“城攻め”は、午前九時に開始された。
戦法は一機の列品館攻撃と同じだ。一階東西両側から三沢由之隊長指揮の下、角田重勝、佐野行雄両副隊長の陣頭指揮で、警備車を横付けにして、破壊工作班が窓を破って突破口を開く作業が始まった。昭和四十三年九月四日、日大警備で西条警部を殉職させた苦い経験から編み出した攻城作戦である。
列品館の場合と同様、警備車は大破し、火炎ビンの洗礼を浴び、はげしい投石の下で命がけのバリケード撤去作業が行われる。
気がつくといつの間にか、加藤学長代行と平野法学部長がマスクをかけ、蒼白な顔をして私の傍らに立ち、沈痛な面持ちで攻防戦を見守っている。藤木教授も一緒だ。
「私の研究室、あそこなんです」と、心配そうに二階を指さす。
突破口は比較的容易に開かれた。九時三十分頃には各中隊が続々と東西二カ所に開かれた突破口から法研館内に突入してゆく。
警備車と法研建物との間の約二メートルの隙間で、大楯を頭上にかざしてバリケード撤去作業に従事していた隊員の一人に、屋上の白ヘルが投下した大きな石塊が当たる。大楯はへし折れ、苦痛に顔をゆがめたその隊員は、落石で折れた太い角材や|瓦礫《がれき》の山の上に倒れこむ。警備車の中にいた同僚が飛び出し、倒れた隊員を車内にひきずりこむ。
「大丈夫か?」
「大丈夫だ。もう少しで無試験で警部補に昇進するとこだった」と白い歯をみせる。
いうまでもないが、“無試験の警部補昇進”とは「殉職」の意味だ。
「まあお互い、体だけは注意しましょう」
あの修羅場でこんなブラック・ユーモアの応酬。いい度胸だ。
雨と降る投石の下を大楯をかざして、「春雨じゃ、濡れてゆこう……なぁんちゃって」といいながら全力疾走する隊員がいる。余裕あるなと感心する。私はこういう奴が好きだ。「誰だい、ありゃ」「野口鎮男って奴です」と傍らの隊員が教えてくれる。
やがて二階の窓の日覆いのかげから「2」と染め抜いた三角の旗がヒョイと出た。第二中隊が二階を制圧したようだ。屋上には数十人の白ヘル。セクト旗などからみて中核派だ。一階、二階はさしたる抵抗もなく、バリケード撤去作業が順調に行われたが、三階から屋上に通ずる廊下まで行き着いたところ、防火シャッターが閉まっている上、さらにスチール・ロッカー、机、椅子などで構築した長さ約十メートルの堅固なバリケードが天井までうずたかく築かれている。しかも廊下左側窓からは屋上の白ヘルが投げる石が飛びこんでくる。
大楯や本棚で投石が飛びこんでくる窓をふさぎ、エンジン・カッターで防火シャッターの切断作業にかかったが、カッターの歯がたちまち磨滅してしまう。急いで他の隊からカッターを借用して切断作業を続ける。第三中隊がシャッター切断作業をしている間に、第二中隊が三階西側の判例室の鉄扉の破壊に成功。さらに書庫から直接屋上に出られる道があることを発見した。書庫は寸づまりの部屋でその六階が法研建物の屋上にあたる構造となっていたのだ。
紛争が半年余に及んだことや、東大当局に警察アレルギーが強いことから、警察側は大学の建物内部の構造について事前調査を行うことが許されず、二機にとっては法研は未知の建物。出たとこ勝負だったのだ。
第二中隊は、法研三階判例室から書庫五階までの鉄扉、書庫の中仕切りの鉄扉と、いずれも施錠されている堅牢な扉をつぎつぎと破壊し、午前十一時頃には屋上に出る最後の堅固な鉄扉にたどりついた。
ここから二機の悪戦苦闘がはじまる。
書庫は天井の低い六階層になっている。だから書庫六階の床は、法研屋上よりいくらか高い位置にあって、窓は南北に外側は鉄扉、内側はガラス窓の二重窓になっている。
東側窓から突入した二機第二大隊を指揮した佐野行雄副隊長は、窓の鉄扉を少しあけて外をのぞいてみる。外は冬の陽光がさんさんと輝き、雲一つない東京には珍しい晴天。早暁、隊舎を出発したときの体にしみるような寒気も|和《なご》み、屋上はいい陽気だ。みると全くよくもまあ集めたものだとあきれるほど大量の石の山。屋上胸壁の一部まで投石用に壊してある。
角材、鉄パイプ、石油缶、大量のビン、机、椅子、机の引出しが山積し、おまけに天幕まで張ってある。白ヘルにタオルの覆面、ジャンパーや冬|外套《がいとう》姿、軍手といったゲバ・スタイルの学生たちがゆうゆうと闊歩し、左右に走り、投石や火炎ビン|投擲《とうてき》を続けている。事前の情報では籠城学生は数十名とのことだったが、百人はいるだろう。勇み立った若い隊員たちは前へ出ようと押してくる。外側の鉄扉に間断なくぶつかる投石の音。副隊長が「はやるな」と制止する。
西側から突入した角田副隊長指揮の第一大隊は、まだ法研三階の防火シャッター切断作業を続けている。これと相呼応して屋上に突入するためには書庫から直接屋上にでる厚い鉄扉を破壊しなければならない。早速エンジン・カッターで切断にかかるが、これがなんとも頑丈な扉でカッターの歯がたたない。ようやく三カ所に約三十センチの切断線をいれたが作業は遅々として進まない。工作班が疲労すると新手と交代させて続行する。
午前十一時三十分頃、にわかに書庫内に強いガソリンの臭いがたちこめる。ガソリンを鉄扉の外側にまき、放火したらしい。たちまち炎と煙が大分ゆがんだ鉄扉の上下の隙間やカッターで切り開いた切断線からもうもうと室内に流れこむ。火勢が衰えるとまたガソリンを注ぎ、火炎ビンを次々とぶつけるので鉄扉が真っ赤に焼けてくる。放水をかぶって下着までズブ濡れ、ガタガタ震えていた隊員たちの間で、「こりゃ、あったかい」などと灼熱の鉄扉に手をかざす者もいる。
十一時四十二分、書庫内は煙が充満し、危険になったので本部からの後退命令に従って後退し、小休止をとる。
二機には幸い弁当が届いた。大火事になって昼食をとるどころではなかった列品館攻めの一機の大半は夕方まで飲まず食わずだったが、二機は小休止の時間を利用して順次交代で弁当をたべられた。使い捨て発泡スチロール容器に入れた米飯の特別隊食だ。
単価は百三十円。普通の隊食は一食百円だが、今日は特別食で小さな肉切れ、佃煮、漬物に米飯。国と大蔵省がつけた予算は「|一日《ヽヽ》百円」。百円で夜食をふくめて一日四食を食わせてやらなきゃならない命がけの重労働の者たちの食糧費をどうやって賄うのか。一食たったの二十五円とは、一体どういうことだ。
朝食のおかずは煮つけたシナチクと梅干だけだ。いまどきの機動隊は、サミット警備とか大喪の礼警備のときなど鰻の蒲焼弁当が給食される。あえて東大警備の弁当のメニューを記したのは先輩機動隊員たちの苦労を現役に伝えたいからである。
死守した史料、文化遺産
午後十二時四十分、作業再開。あいかわらず鉄扉の外側では布団などをかぶせてガソリンを注ぎ足しているらしく火勢は一向に衰えず、鉄扉は赤々と輝いている。書庫の外側で燃えているぶんには書棚にぎっしり詰まった貴重な原書や文献は大丈夫……と思ったとたんに、北側の窓の隙間から二本、火炎ビンが書庫内に投げこまれ、発火した。小岩守警部補らがすばやく消火器で消し止め、燻る書籍や文献を大楯で叩き消し、出動靴でふみ払う。
法研書庫内の原書、古今東西の文献や史料などが学問上かけがえのない貴重なものだということは、法研金沢良雄主任教授をはじめ大学側からくどいほどきかされていた。このことは、三沢隊長以下隊幹部によって末端の隊員にまで徹底していた。
列品館“城攻め”のポイントは危険な化学薬品、爆発物、高圧電流などによる犠牲者を出さないことだったが、法研の場合は、学術上貴重な文化的遺産を守りながらどうやって城を陥すかということだった。それぞれ家庭の事情や経済上の理由で大学にはゆけず警察官になった、若い機動隊員たちが、大学側の泣かんばかりの要請を受けた上司の命令を忠実に守って、一生懸命書籍や文献、マイクロフィルムを籠城学生の破壊から守ろうとしたことは、特筆すべきことだ。
一方、親の|脛《すね》かじりで高額の学費を要する大学に入ったゲバ学生たちは、まさに“|焚書坑儒《ふんしよこうじゆ》”、貴重な原書などの書籍をバリケード封鎖に使い、文献で焚火して|煖《だん》をとるなど、文化遺産の破壊を行い、弱い者苛めで大学教授を監禁して吊し上げた。さらには“洗濯デモ”(気にいらない教授をつかまえて渦巻デモにひきずりこみ、電気洗濯機の中の洗濯物みたいにモミクチャにする一種のリンチ)を加えるなど、その知性を疑われる乱暴狼藉を働いた。
世の中にはしたり顔に「大学にいけなかったコンプレックスから機動隊は大学生に暴力をふるうのだ」などと論評する知識人たちがいる。日頃自分たちより知性や感性においてずっと下の存在と|見下《みくだ》している機動隊員が、法研で体を張って文化遺産を守った事実を、彼らにもぜひ知ってほしいと思う。
一方、法研三階の防火シャッターをようやく切断し、バリケードを撤去して一気に屋上のマイクロフィルム室に突入した角田重勝第一大隊長は、室外屋上側に構築されたバリケードが放火されて炎上し、マイクロフィルム室に煙が充満、熱気がこもって貴重な文献や史料を収録したマイクロフィルムが引火寸前の状態にあることに気づいた。
ただちに小岩守小隊長に命じて泡沫消火器で消火にあたらせる一方、マイクロフィルムを火災箇所から遠い一隅に移動させ、炎のふきこむ窓を閉鎖させ、籠城学生らが宿泊に使用した布団、毛布の類の可燃物を室外に捨てさせるなど、敏速にマイクロフィルム防衛措置を講じさせた。屋上からははげしい投石が続き、砕け散った窓ガラスの破片が飛び、投石があたる大楯を支える隊員の腕は、たびかさなる石塊の衝撃でしびれる。
東大各建物のバリケードは「一・九東大立入り」以後、日大工学部の悪名高い「日大工兵隊」が指導して強化した、恐るべき|障碍《しようがい》だった。針金で厳重に結束し、隙間にセメントまで流しこんである。それをハンマー、バール、ペンチ、エンジン・カッターなどで一つ一つ剥がしてきた隊員たちは、目は腫れ、顔は|煤煙《ばいえん》と|埃《ほこり》に汚れ、真冬なのに放水でビショ濡れ、しかも大汗をかき、体からは湯気があがっている。
ついにマイクロフィルム室から屋上に出る鉄扉のまわりのバリケードが撤去された。
午後一時過ぎ、北隣りの列品館が陥落したとの情報が入る。わずかな窓の隙間からみると一機が列品館屋上に突入し、検挙活動を行っている。これをみた二機隊員は、負けてたまるかと血相かえて指揮官にくってかかる。
書庫六階では、疲労|困憊《こんぱい》の第二中隊が|無聊《ぶりよう》をかこっていた第四中隊と交代し、午後二時四十五分頃ようやく鉄扉を枠ごとはずすことに成功した。ところが外側に積み重ねたロッカーなどのバリケードのため扉は外側に倒れない。おまけに顔が熱くて近寄れないほど真っ赤に灼熱している鉄扉は消火液をいくらかけてもジュウッと泡立ち、異様な悪臭を放つだけだ。逆に隙間から炎が入って天井をなめる。四寸丸太でドア外側のバリケードを突き崩しにかかるが、その丸太に火が移って燃えあがる。
午後三時頃、ようやく鉄扉とロッカーを外側に押し倒すことに成功したが、|瓦礫《がれき》の山と燃えさかる火炎ビン、はげしい投石に阻まれ屋上に出られない。八機の延長放水を何回も要請するが、延長放水のホースの筒口はまだこない。放水車九台中三台が故障とのこと。
第二中隊の小出明比古隊員が窓に近づき、外側の屋上の状況をのぞいてみると、ヘルメットの下の顔が“垢でお化粧している”ような学生が、その窓に向かって投石をくり返していた。そのうち疲れたのか、彼は坐りこんでパンをかじりはじめた。後ろから一緒にのぞいていた同僚隊員が気合いをいれる。
「おおい、もっと真面目にやれェ」「しっかりしろっ」
野次とも激励ともつかぬ声をきいてビックリしたその学生、声の主を探してキョロキョロする。
「ここだ、ここだ」と叫ぶと、疲れ果てたのか、坐りこんだままで面倒くさそうに窓に石をぶつける。のぞいていた隊員たちは、思わずドッと笑い出す。笑われた学生は、きまり悪そうに姿を消す。また書庫内に爆笑の渦が巻き起こる。
後日、小出隊員は「ちょうど上野動物園のサル山の猿が、餌、食べるでしょう。こうして」と、しゃがみこんで背をまるめ、両手で口にものを運ぶ仕草をしてみせて、「パンをポソポソ食ってるんです。笑っちゃいました」と、朗らかに当時の状況を話してくれた。
午後三時二十五分頃、マイクロフィルム室と書庫六階の二カ所から同時突入の態勢が整った。ようやく間に合った八機の延長放水のホースの筒口からの放水、催涙ガス分隊の援護の下に四個中隊がいっせいに喚声をあげて屋上に突撃。
その中に白線三本の青ヘルメットがみえる。白線三本は三沢由之隊長だ。
「中核」と書かれた白ヘルの籠城学生たちは屋上北側に追いつめられる。延長放水の噴射を頭から浴びて、追う者も追われる者もズブ濡れ。四、五人固まって布団をかぶるものたち、手製の大楯をかざす者、なかには肉薄する機動隊員に石塊をぶつけ、鉄パイプをふりかざしてかかってくる者もいる。そうかと思うと「暴力はやめて下さいっ」と叫んでいるのもいる。
午後三時三十五分。法研屋上北側の一隅に追いつめられた学生たちは、うずくまり、抵抗は終わった。大学当局から得た情報によると、法研の籠城学生の数は四、五十名とのことだったが、捕えてみるとその数は事前情報のほぼ三倍、中核派を主力とする百六十九名の多きにのぼった。
落書だらけの教授室
各級指揮官たちが用兵の妙を得、慎重であったため、二機の人的損害は西小野義弘分隊長が投石による頸椎損傷、入院全治三カ月の重傷を負ったものの、負傷者は十五名にとどまった。
後日談だが、事件が一段落した二月五日、東大法研金沢良雄主任教授ほか一名がわざわざ二機の隊舎を訪れた。何事かと応対に出た副隊長にこの警備で負傷した隊員へのお見舞いの言葉をのべ、あわせて法学部教官一同を代表して、
「大切な資料がほとんど無事に保存できたのは、ひとえに機動隊の皆さんのおかげです」
と、深々と頭を下げた。いままで東大当局が機動隊にお礼をいったことがないのでまた例によって抗議にきたのか、と身構えていた副隊長は、大変驚き、また感激したという。
陥落した列品館と法研の公安部による“現場検証”が行われる。“なんでも見てやろう”精神で私も入ってみる。
列品館はまるで火事現場だ。内部は焼けただれ、焦げくさい臭いがたちこめ、床は放水の水がたまり、催涙ガスで目が痛い。
二階のベランダには例の“火炎放射器”が床に投げ出されていた。鉄パイプとみえた放射器は、二メートルぐらいの角材にゴムのガス管をくくりつけた、ちゃちなものだった。
屋上にあがってみると、石塊の山。まだ一日や二日は十分間に合うほどの石が残っている。
法研をのぞいてみる。
薄暗い二階の階段をあがった正面に、加藤一郎学長代行の部屋がある。入口のドアのノブに電話線がまかれた菅原道真の像の首がぶら下げてある。菅原道真は「学問の神様」だ。それを絞首刑にしてあるということは、学問の府、東大も終わりという意味だろうか。
加藤代行の部屋の壁は落書だらけだ。
「エネルギッシュに事を処する加藤さん。貴方の部屋はエネルギッシュに徹底的に破壊させてもらいます」「古田日大・加藤東大ギ兄弟」「加藤愛国党」なんていうのもある。
各教授室は、書籍は散乱し、ガラスの破片、こわれた事務机、ゴミなどで荒廃し切っている。とくに学生が寝泊まりしていた部屋は、万年床、マンガ雑誌、ストーブ、それに食べ残しの握り飯、ラーメン、卵、鍋、割箸などが、石ころ、竹竿、アジビラ、垂れ幕、壁新聞などとまじって足のふみ場もなく散らかり、犬小屋みたいな悪臭に催涙ガスや火事場の焦げ臭さなどがくわわって、なんともいえない異臭が漂っている。
壁には「造反有理・帝大解体」「東京機動隊大学」「さあ、いよいよやってめえりやした。マル学同人民解放軍中核派」など、なぐり書きの落書だらけ。
面白かったのは「とめて下さい、おっ母さん。背中の銀杏も笑ってる。女々しき東大どこにも行けない」という落書だ。これは新聞に報道されて一躍有名になった東大全共闘の立て看板、「とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」をもじったもの。東大安田講堂攻防戦の前夜に|日和《ひよ》った東大全共闘に対する“外人部隊”の痛烈な皮肉なのだろう。「父さん、俺どうする。家へ帰ろうか」などと、弱気な本音がにじみ出ているのもある。
代々木寄りの教授の部屋には強烈な民青批判の落書がみられた。
「安全地帯のこちら側から横目でものをいう中間主義者で文句たらたらの御用学者」
「朝日ジャーナルでめしを食う教授」
「日共御用学者、スターリン主義者の典型的インチキ(インテリをもじったもの)ゲンチャ」
某教授室は「あんさんには、えんもうらみもおまへんが、渡世のギリというやつで」となぐり書きした上で、書籍は本棚からほうり出され、椅子の背やクッションは切り裂かれ、ガラスは割られるなど、徹底的に破壊されている。
二機にはユーモア感覚に富む隊員が多かったのか、鮫島篤之、曾我勝利隊員らは教授室の落書を丹念にメモして報告している。
検証中の法研には、自分の部屋や蔵書がどうなったかと気づかう法学部の教授たちが三々五々集まり、不安そうに眺めている。
二機の破壊工作班を指揮した古川十三郎小隊長は、廃墟となった研究室の前で|呆然《ぼうぜん》としゃがみこんだ老教授の姿をみて、なんとも哀れになった。九十年の歴史と伝統に輝く東大に対してこれまで抱いていたイメージが崩壊するのを覚えて、逮捕した学生には不思議に個人的恨みは覚えなかったが、学生たちをここまで追いこんだ背後にあるものに憤りを感じていた。彼は、学生たちが自分たちの誤りに気がつき、機動隊の果たした役割を理解する日がきっとくるだろう……と思ったという。
こうして、意外に頑強だった二の丸、三の丸の列品館と法研が落城し、いよいよ本丸の安田講堂が、裸城として残った。
正面から攻める五機、裏側から突破口づくりをはかる四機、さらに急遽、安田城攻めを命じられた新設の七機と籠城学生たちとの命がけの攻防戦が果てなく続いている。
深夜の脅迫電話
当時、現場の機動隊員はもちろん命がけだったが、上級幹部も同じだった。日大芸術学部の「千早城」を陥し、上智大学の封鎖解除を断行するなど、警視庁が学園紛争解決に本格的に介入するようになるにつれ、警察幹部を狙う個人テロの不穏情報が流れ、部内の緊張が高まってきた。
かつて日共が朝鮮動乱を契機に武装革命闘争、いわゆる「火炎ビン闘争」を展開していた頃、日共地下組織の秘密文書に「全国ドラム罐製造業者一覧表」というのがあった。
それには当時の国家地方警察本部(現・警察庁)や警視庁など地方自治体警察の警備公安関係幹部の住所、電話番号、通勤経路など日常の行動パターンなどが記載されており、実際に北海道では「白鳥警部射殺事件」が発生している。
その当時と似た気配が漂いはじめ、私の自宅の電話にも夜な夜な脅迫電話や、息遣いだけが聞こえる無言電話がかかるようになった。三人の幼児を抱えて留守をあずかる妻は不安になるし、連日の警備でヘトヘトに疲れて帰宅する私も、午前二時、三時になると必ず掛かってくる深夜の怪電話に悩まされた。
まさに心理的テロリズム。警備幹部を身心ともに疲労させることを狙った卑劣な作戦である。私だけではなくて、公安部の幹部たちに対しても神経衰弱戦術が行われて、一日わずか数時間の貴重な睡眠時間が奪われるという事態になった。とくに東大警備が近づくにつれて、イヤガラセ電話が急増した。
電話が鳴る、受話器をとる、無言の息遣いやテープにとった反戦歌が聞こえてくる、舌打ちして切る、するとすぐまた電話が鳴るといったぐあいだ。まるで一人暮しの若いOLに対する痴漢の手口と同じだ。こんな子供だましの心理作戦、負けてたまるかい……早速対策を講じる。
飯田蔵太公安第一課長の加入電話の番号をダイヤルする。電話に出た飯田課長、用心深く何もいわない。ああ、彼もやられてる、やられてる。
「もしもし、佐々ですよ、お宅もやられてますね」
「佐々さんですか、さっきからイヤガラセ電話、鳴りっ放しでしてね、すぐに出ませんで失礼しました」
「私もなんですよ。こういう時は眠ることが大事ですからね。どうです、二人でこのまま受話器置いて、話し中にしといて、寝ましょうや。緊急連絡は警電ですることにしてさ」
「そりゃあ名案ですな、そうしましょう」
当時は割り込みのキャッチホンや、受話器はずれの加入電話への自動警報ブザーなんてシステムはない。電話料がかさむのは痛いが、睡眠が大切だ。ただ受話器をはずして置くだけでは電話局に問い合わせるとすぐわかってしまって、ふつうのコール音よりもっと凄い警告ブザーが鳴って起こされてしまう。二人で話し中にしたまま受話器をはずしておけば、そこは通信の秘密は保護される日本国憲法の有難さ、二人とも束の間の熟睡をむさぼれるというわけだ。
総監室では拳銃着装
山本公安部長の私宅の庭に何者かが侵入し、かけつけた警官に追われた侵入者が某セクトのヘルメットを落として逃走したという物騒な報告も入る。
年頭の訓示で秦野章警視総監が「極左暴力学生集団のゲバ闘争は、急流に浮かぶ水泡のようなもので、激動期の社会の“アワ”だ。今に必ず消え失せる」と、「ゲバ学生・アワ論」をぶちあげたところから、「ハタノをやれ」という不穏な動きがあるという情報も入った。
この総監の見解が正しかったことはその後の歴史が証明したが、今ならどうということのないこの発言も、当時の社会情勢の中では過激派学生を刺激することはなはだしく、ほとんど蛮勇ともいえる勇気のいることだった。
総大将を闇討ちにされては警視庁の恥、警備部では急遽協議の結果、総監に二十四時間身辺警護の武装護衛をつけようということになった。秦野総監に進言すると、喜ぶと思いきや、大変なおかんむり。
「なにをいってんだ、お前たちは。警察官てえのは国民を守るもんだろ? 警官に警官の護衛をつけるなんてのは、駆逐艦が駆逐艦を護るようなもんだ。駆逐艦てえのは商船、護るんだろ? オレはなあ、昔、兵庫県警の捜査二課長の時に、拳銃を腰にブチ込んでな、暴力団の本部へガサかけに先頭立ってのりこんだもんだ。そうだ、今日からオレは拳銃、常時装填、常時携行だ。車にボディガード同乗させる? いらねえ、いらねえ、内側からドアはロックしてな、オレが自分で自分を守る。オレを襲ってみろ、バーンッてくらわしてやる!」
しまった。御本人にいわないでこっそり護衛をつけりゃよかった。|十八番《おはこ》の“兵庫の捜査二課長”が出た。寝た子を起こしてしまったのだ。参ったな、こりゃあ……。
「それからな、お前たち警備公安の幹部も今日から『拳銃常時装填、常時携行』だあ。ゲバ学生に襲われてやられましたなんて情ねえことになるんじゃねえぞ、警視庁の恥だ。護衛つけるなんてみっともねえこと、するんじゃねえぞ」
こりゃあ、えらいことになった。“|藪蛇《やぶへび》”とはまさにこのことだ。
当時、警備部、公安部の幹部には男の美学というか、心意気というか、ヘンな男の意気地があって、どんなに荒れた警備現場にゆくにも拳銃をもってゆく者はいなかった。
機動隊も状況の如何によっては隊長以下小隊長以上の幹部に拳銃を携行させることはあったが、平隊員にはヘルメット、大楯、警棒、催涙ガス銃は携行させたが、拳銃はもたせなかった。隊員が丸腰なのに本庁の幹部が拳銃をもってゆくのは臆病の証拠、非武装の私服で現場指揮するのが男|伊達《だて》、といった風潮が支配的だった。
投石やゲバ棒で受傷しても、重傷は仕方ないが軽傷のときは、受傷したことを恥とし、隠そうとする気風があった。みんな“武田信玄”気取りだったのかも知れない。幹部が負傷したことが知れわたると相手を元気づけることになると考えたのだろう。
私自身も、二年有余に及ぶ激しい第二次反安保闘争警備の長丁場の間、拳銃を着装して現場に赴いたことは一度もない。そのかわり、現場では重装備の機動隊員たちが、無防備の上級幹部を受傷させては機動隊の恥とばかり、折り重なって大楯で守ってくれたものだった。
隊長も「一課長が裸でこんなところまできているのにお前たち、恥ずかしくないか、前っ、前っ」と隊員たちを叱咤したものだ。
そんな“男の美学”に酔い痴れてカッコつけてる警備公安幹部に「各員拳銃常時装填・常時携行。各自正当防衛で自衛せよ」という総監命令が出たから、みんな困ってしまった。
この話はたちまち全庁に伝わり、過激派から狙われる可能性の少ないデスク・ワークの行政管理部門の各部からも警備部に「総監の武装命令の趣旨はどういうことでしょうか、ウチの参事官や課長も『常時装填・常時携行』すべきなんでしょうか?」なんて、問い合わせが殺到する始末だ。
この忙しいのに過激派に名前も存在さえも知られていなくて、テロの対象になんかなりっこない他の部の幹部の拳銃携行の是非なんぞ、かまっちゃいられない。
「適宜各自で御判断願いますと回答しとけ」ということになる。
肝腎の警備公安の幹部たちは、やはり“男の美学派”が圧倒的多数で、せっかくの総監指示もウヤムヤになり、私自身も従来どおり拳銃をもたずに行動していた。
そんなある日、総監室に報告にゆくと、秦野総監、ひとの報告など上の空でジロジロこちらの腰まわりをみている。
「佐々君、拳銃はどこに着けてる?」
「はあ? 拳銃ですか? ええと、いまは庁内ですし、あのう……」
大雷が落ちた。
「なぜ命令どおり、せんか! みろ、オレはちゃんと着けてるぞ。『常時装填・常時携行』といったら庁内もヘッタクレもあるか。『常時装填・常時携行』だ。すぐ着けてこい!」
ほうほうのていで警備第一課長室に戻ると、下稲葉警備部長が入れちがいに部長室から出てきた。
「部長、どちらへ?」
「ウン、ちょっと総監室へ。なんだい?」
「拳銃、着けてますか? 着けてない。そりゃいけません、拳銃着けてないと総監に叱られますよ。『常時装填・常時携行』だって。いま怒鳴られてきたところです。おい、すぐ部長の拳銃、持ってこい。そんな横の方じゃ駄目だ。目立つように腹の正面、バックルの脇に着けろ」
やがて総監室から戻った下稲葉部長、拳銃をズボンのベルトからはずしながらいう。
「ヘンな世の中になったなあ、佐々君、総監室に入るときだけ拳銃着装とはなあ……」
英国の警察官も、法的には拳銃携行の勤務は可能だが、政策的に必要な場合を除き火器は携帯しないで任務を遂行している。
だが香港暴動の際には、香港警察のイーツ警視総監には武装護衛がついていたし、スレヴィン特別警察局長と昼食をともにしたとき散弾銃を足下の床にドスッと置いたのを覚えている。
アメリカの警察官は例外なしに二十四時間拳銃携行で、秦野総監の発想に近い。
下稲葉警備部長も私も拳銃射撃は「上級」。かつて部局対抗拳銃射撃大会で選手としてあいまみえた仲だが、警備部の集団不法行為対処の基本姿勢は、「警官が警官を護衛してなんとする」という秦野総監のアメリカ流の発想と、警備部・機動隊の「汝殺スナカレ」という火器を携行しない英国流の発想とのコンビネーションだったのだ。
“警察戦国時代”の武勇伝
一九五〇年から七〇年代にかけての、動乱の“警察戦国時代”は、男の美学を物語る数々の勇ましいエピソードが残っている。
日共の「火炎ビン闘争」時代のことだ。当時、個人テロの特定対象をリスト・アップした「全国ドラム罐製造業者一覧表」に載っていた国家地方警察本部・|三輪《みわ》良雄警備課長は、深夜ガバと寝床から身を起こした。何者かが官舎の塀をのりこえ、庭に飛びおりた気配がしたのだ。
ついに来たか、テロリストめ、いざ見参……戦時中陸軍大尉だった三輪課長は、かねて用意の枕元の日本刀を腰に、|眦《まなじり》を決して身構える。ドンドン、ドンドンと玄関の格子戸を乱打する音。
「誰だ?」
大声で|誰何《すいか》する。
「開けて下さい、課長、川島です。土田も一緒です」
なんと当時部下だった川島広守氏と土田国保氏だった。二人ともすっかりデキ上がっていて、テロリストに狙われている三輪課長を激励しようとして深夜推参したのである。喜んで三輪課長は両氏を請じ入れ、午前サマの酒盛りとなったという。
第二次反安保闘争時代の後藤田正晴警察庁長官の“護衛嫌い”も有名だった。
「ありがとう。だが私は結構」といい続けた。
後藤田長官暗殺をはかった爆弾テロリストの送った小包爆弾は、芝郵便局集配所で予定時刻より早く誤爆して事なきを得たが、もう一つの土田国保警視庁警務部長爆殺を狙った小包爆弾は、土田夫人を爆死させ、四男に重傷を負わせた。
秦野総監の後任、本多|丕道《ひろみち》警視総監も爆弾テロの対象となった。麹町の総監公舎玄関に時限爆弾が仕掛けられ、犯人はとり逃がしたとの急報に接して現場に急行すると、寝巻姿の本多総監が玄関上の二階ベランダに姿を現わした。
「だいぶ騒がしいが、一体何事だ」
「総監、危ないから下がって下さい。玄関に時限爆弾が仕掛けられてます。まもなく爆発物処理班がきますから……」
と、下から叫んだ私は、本多総監の次の一言に驚いた。
「そうか、じゃあ、寝るか」
後年、“警察戦国時代”の末期になると、自分の身辺警護に二十四時間、四交代、十六名の武装私服護衛警官を配備し、公用車には警護車を追尾させ、お歳暮、お中元などの贈答品は爆発物処理班に開けさせてから受領するという警察首脳幹部が登場する。
やがて警察の“戦国時代”は終わって官僚主義的な徳川幕藩体制時代の幕があがることになる。
「駆逐艦は駆逐艦を護らず」といい切った第一次・第二次反安保闘争時代の警察魂、あの男が男だった時代の警備屋の心意気に、身ぶるいするようなノスタルジアを覚えるのは、あながち私ひとりではないだろう。
早くも“二正面作戦”か……
神田・お茶の水地区の情勢がにわかに不穏になってきた。
早朝から東大支援の過激派学生がお茶の水交番を襲撃したり、神田地区に配備された八機|邏《ら》(第八方面機動警邏隊)と一進一退のゲバ闘争をくりひろげている。
八機邏は、三多摩地区担当のミニアチュア機動隊である。隊長は天野政晴警視。基幹中隊は一個中隊八十九名。それに特機一個中隊百三名を加えて、百九十二名。一千名を超える過激派のゲバ部隊相手に苦戦をしている。
至急増援が必要だ。
新設六機は本郷三丁目のおさえだ。一月十八日は“秦野人事”の増田美正隊長以下百五十八名が、四機とともに医学部三号館と法文経二号館の封鎖解除の任務を終えたのち、本郷三丁目から東大赤門前にかけての外周警備の配備についた。神田学生街から東大に押し寄せる応援勢力を三丁目で阻止するのが任務だから、神田に転進させるわけにはいかない。
増田美正隊長は長身のキリリとした美青年。
父君は増田伝助氏という栃木県警の名捜査官。親子二代の警察官だ。伝助氏が検挙した新機軸の賭博の手口に氏の名がつけられて「でんすけ賭博」とよばれるようになった。
新任隊長はどうしているかと思って見まわりに行った私をつかまえて、増田六機隊長がうっぷんをぶちまける。
「どうして六機は外周警備なんですか。七機の池田より私の方が三年も先任なんですよ。七機が安田攻めで、四機の分身の六機がどうして……」
おかしなもので、機動隊にはいまでいえば「逆3K」の傾向がある。親の四機が安田講堂攻めときいて、一個中隊まるごと四機から六機基幹中隊として移籍された隊員たちのつきあげもあるのだろう。
増田隊長をなだめるのにいささかてこずる。
本富士警察署に設置された総合警備本部に戻り、神田地区担当の金原忍第一方面本部長と協議の上、下稲葉警備部長の決裁で三機を急遽五本から一本へ、つまり東大から神田地区へ転進を命ずることとする。
手持ち無沙汰だった三機は、午前九時四十五分にまず副隊長指揮の一個大隊が、続いて十一時十九分、九島賢一郎隊長指揮の本隊も、風雲急を告げる神田地区に向け、緊急車輛のサイレンの音高く転進してゆく。
こうして世にいう「神田カルチエラタン闘争」が始まった。安田講堂攻防戦はまだはじまったばかりだというのに、警備当局が一番懸念していた腹背に敵を受ける“二正面作戦”を強いられたのである。
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第五章 激 闘
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“本丸”安田講堂攻めが始まった。学生側の抵抗は予想以上に激しく負傷者が続出。夕暮れ迫るなかついに作業中止命令がだされる

要塞化した“安田城”
安田講堂封鎖解除のための本格的な“城攻め”が始まったのは、一月十八日の午後一時十六分頃だった。
医学部や工学部列品館などの“出城”や“砦”が陥ち、法研も落城寸前となり、いよいよ“本丸”の安田講堂が裸城になるのを待って、四機、五機、七機の各隊が、八機放水警備車四輛の支援の下に三方向から攻撃を開始する。
大正十二年、安田財閥の安田善次郎氏が巨費百十五万円を投じて建立、寄進し、以来半世紀のあいだ、日本の各界を担う何万人という俊秀の巣立ちを見下ろしてきた安田講堂は、いまや赤茶け、うす汚れた要塞と化している。
段差のある敷地に建てられ、左右が崖のように急傾斜していて、正面の銀杏並木側からみると、三階建てのレンガのビルの上に四層の時計台の塔がそびえ、その一階に正面玄関がある七階建てにみえる。だが左右に下る道をおりて裏側にまわると正面からみえない一階と二階があるから実際は五階プラス四層の塔の九階建てである。
したがって、正面一階にある正面玄関は、三階の講堂への出入口となるわけだ。裏側、すなわち北側の一階に裏出入口があり、一階には庶務課、守衛室など、二階に学生部、厚生課などがある。正面玄関は三階大講堂や会議室の出入口で、四階(正面からは二階)に東大総長室があるという構造になっている。
塔の基底部の五階両側にバルコニーがあり、そこから円形ドームの大屋根の屋上に出ることができる。時計台の高さは地上約四十メートル。屋上からは約二十メートル。基底部をいれると五層の時計台の中央は鉄製の|螺旋《らせん》階段になっている。
五機は正面玄関へ、四機は裏側出入口へ、七機は正面向かって左側の一階窓へ、それぞれ大型警備車を先頭に接近をはじめた。
待ち構えていた屋上や“|矢狭間《やざま》”から、朝の散発的な抵抗とは比較にならないはげしさで、何百個という敷石や人頭大の石塊、スチール製の机や椅子、はては一メートルくらいの長さのコンクリートの柱までが、一升ビンの火炎ビンとともに降ってくる。
講堂周辺はたちまち瓦礫の山と変わり、火の海となる。数メートルの火柱がたち、黒煙はねじれながら時計台にまとわりつくようにたちのぼる。警備車は炎と煙に包まれて黒いシルエットとなり、屋上に放水していた放水警備車の放水銃がカクンとうつむき、炎上する警備車を水でなめまわす。火が消えてホッとすると、また一升ビンの火炎ビン。警備車は散乱した瓦礫やビンの破片をのり越え、グラグラ揺れながら前進、後退をくり返す。
なんという大量の石だ。五機は朝早くから貯蔵された石や火炎ビンを消耗させ「弾切れ」を狙おうと陽動作戦をくり返していたのに、石塊と火炎ビンの雨は一向に衰えをみせない。
八機の放水警備車が懸命に支援放水を行うが、法研がまだ落城していないためと、九輛の放水警備車のうちの三輛が故障したため、籠城学生たちをひるませるには十分でない。
それでも放水手が次第になれてきた。屋上から落ちてくる火のついた一升ビンを放水銃の白い噴流がうまく空中で捕え、火の消えた火炎ビンが空しく地上に砕け、ガソリンを撒き散らす。
拍手が起こった。「ナイス・キャッチ、ファイン・プレーですな」なんていっているのがいる。
火の海、投石の雨の中、機動隊が命がけの死闘を演じているというのに、拍手なんかしているのは一体どこの誰だ? と振り向くと、安全圏で遠巻きにして見物している東大教職員たちだ。応援してくれているのだろうが、ちと不謹慎だなと思わず眉をひそめる。
青く澄んだ空の下、やわらかい冬の日射しに照らされながら、黒煙をあげ水煙に包まれている安田講堂上の天空に、時ならぬ七色の美しい虹がかかる。下でくりひろげられている中世の攻城戦さながらの地獄図にはおよそそぐわない幻想的な美しさ。
「あっ虹がかかった」みんなしばし空を見上げてみとれている……やがて虹は消え、安田講堂周辺は再び“砲煙弾雨”の修羅場に立ち返る。
「本気で東大をぶっつぶす」
籠城学生の数は、中核、ML、社学同、四トロ、フロントなどおよそ五百名との情報である。
すでにのべたニトロ爆弾、ドラム缶入りのガソリン、本郷一帯の歩道から剥がして運びこんだ数千枚のコンクリート平板、リベット銃、高圧電流鉄条網といった物騒な凶器の準備状況に関する情報に加えて、一月十五日には大学の器材調達課の倉庫が襲われ、塩酸、硫酸、消毒薬、ベンジン入り小ビン数百本が安田講堂に運びこまれたという新たな情報もある。
一月十三日の午後には、角材などを持った白ヘル数十名が山上会議所に押し入り、守衛さんたちの宿直用の布団など夜具数十組を略奪して講堂内に搬入している。
また日用品や食糧も大量に備蓄されたようだ。
一月十日の夜、駒場の東大教養学部の生協(東大生活協同組合)の食堂が全共闘とみられるゲバ棒にヘル・スタイルの約五十人の一団に襲われ、冷蔵庫の中の千数百人分の仕込み材料がごっそりと強奪され、いずこへか運び去られるという強盗事件も起きた。
さらに十二日払暁、再び生協購買部が襲われ、ウインドケース、金庫などがこじあけられ、大量の物資が強奪されている。
一月十四日、教養学部正門前に出された「全共闘の生協に対する強盗破壊行為を見よ!!」と題する東大生協、駒場学友(団交実行委行動隊)の大きな立て看板の声明文によると、組合員出資金二千人分が二夜にして強奪され、被害金額はわかっただけで約百四十万円に達したという。
同声明文は全共闘糾弾、弁償要求とともに盗まれた鍋、庖丁など器具備品関係、食品、商品名、数量、価格が百三十項目にわたって詳細に列挙されていた。
米五十キロ六千六百円、味噌三十キロ二千八百十円、卵八ケース八十キロ一万二千二百四十円、キャベツ五キロ百五十円、バター、チーズ、チョコレート、コンデンスミルク、砂糖「大量」四万八千円、タバコは、ハイライト二百九十個二万三千二百円、ロングピース六十個六千円、ホープ五十七個二千八百五十円、ピース七十六個三千八百円など、鍋、食器類が十六万六千円……といった具合にである。
このほかに東大生協労働組合も「組合員の皆さんに訴えます」というビラを配っている。
これらの略奪物資が安田講堂に搬入されたという証拠はないが、当時の情勢からみてその公算は大きい。
また学内の掲示板には、
「全共闘。その考え方とは『全狂頭』
その誤見は『全叫答』
そのやり口は『全侠党』
生協に乱入し『|全強盗《ゼンキヨウトウ》』
機動隊を見て『全競逃』
正しくは『全学驚キ|瞠《あき》レ怪ミ疑ウ』(全驚瞠怪疑=全共闘会議)
BY ENCYCLOPEDIA KOMABANIKA」
と、この強盗事件を痛烈に批判したアジビラが貼り出された。
「全侠党」とは当時全共闘学生の間で高倉健や、藤純子演ずる緋牡丹お竜シリーズなどの仁侠映画がもてはやされていたことを皮肉ったものだ。
こういう周到な籠城準備をした上で、自分たちの美学に酔い、全員逮捕を覚悟した数百名の全共闘派がたて籠っている安田講堂を攻めるのだから、この“城攻め”が容易なことではないことがわかるだろう。
東大闘争の目的は、全共闘側の文献、手記、供述、証言などを読んでまとめてみると、「安田講堂を占領することによって東大を機能麻痺に追いこみ、保守反動・資本主義政府のためのエリートや官僚群を養成してきた学閥・学歴優先の反動的教育制度、教育機関を崩壊させ、反動派がめざす戦争への道、すなわち日米安保条約の改訂を粉砕すること」だった。
一言でいうと「本気で東大を潰すこと」つまりそれがエリート東大全共闘たちの「自己破壊」の理念であって、全国津々浦々の官公立、私立大学の全共闘、いわゆる“外人部隊”が大勢東大闘争にはせ参じたのも、この自己破壊の美学に共鳴したからだったのだろう。
「本気で東大をぶっつぶす」気の中核派など“外人部隊”を主力とする籠城学生たちは、完全に治外法権状態の安田講堂から一月十三日の白昼、学生課の学籍簿、奨学資金受給学生名簿など大学運営上欠かすことのできない重要書類や簿冊、関係資料などを次から次へと大量に運び出し、ヘル、鉄パイプなどで武装したゲバ部隊監視の下で、講堂前広場にならべたドラム缶で派手に“焚書”の焚火パーティーをやってのけた。
“坑儒”を恐れた東大教職員たちは、制止することもできず、遠くから眺めているばかりだった。
夜になると学生たちは本や書類、資料、文献などを積んで焚火をし、火にあたりながら談笑していたという。
一月九日の機動隊導入後にのりこんできた学園バリケード封鎖のプロ、悪名高き「日大工兵隊」の面々は、舞い戻ってきた東大全共闘に「こんなヤワなバリでは駄目だ」とハッパをかけ、腕によりをかけて出入口、階段などのバリケードを堅牢きわまるものに再構築したという。彼らは「日大では一人だろうが安田では少なくとも十人の機動隊員を殺してやる」と豪語する、幼児的な殺意を懐いた確信犯たちである。それを「死者を出すな」との最高方針に従って生け捕りにしろというのだから大変だ。
史上初の催涙ガス液散布
津田参事官が大声で叫ぶ。
「おおい、ヘリはまだかあ」
「前線警備本部より総本。『おおとり』は発進したか。どうぞ」
「『おおとり』すでに発進。東大に向かう。以上総本」
警備無線の情報が入る。やがて航空隊のヘリ「おおとり」の重々しいエンジン音が聞こえてくる。
見上げれば予定どおり新案特許のドラム缶型の催涙ガス水溶液投下器をぶら下げた「おおとり」が、安田講堂上空に姿を見せる。屋上の色とりどりのヘルをかぶった学生たちも、しばし投石も忘れてあっけにとられて上空をふり仰いでいる。
史上初の上空からの催涙ガス水溶液の散布がはじまった。もの凄い風圧だ。小型ヘリ「はるかぜ」の比ではない。屋上の学生たちは驚いて、毛布をかぶってうずくまる。
「おおとり」の回転翼のまき起こす凄い旋風に安田講堂上や附近の立て看板が吹き飛び、セクト旗が倒れる。屋上から宣伝ビラが催涙ガス粉末や砂塵とともに中天高く舞い上がり、講堂をとり囲む地上の我々の上に降り注ぐ。白い水幕となって安田講堂を包んでいた放水警備車の放水が、風圧に乱されて|驟雨《しゆうう》のように頭上から叩きつけてくる。
こりゃかなわんと、屋上の籠城学生ともども、地上の幕僚団も機動隊員も、東大教職員も頭を抱え、顔をおおって息をひそめる。
安田講堂正面約五十メートルの地点に野天の最前線指揮所が仮設され、津田、末松両参事官ら指揮幕僚団が|屯《たむろ》していた。ガスと硝煙のたちこめる指揮所附近に原文兵衛前警視総監が姿を見せる。槙野勇副総監、山口宏総務部長、綾田文雄交通部長ら警視庁最高幹部たちが交代で現われる。石原慎太郎参議院議員も激励にきてくれた。まさに挙庁一致、全国民の耳目を集める世紀の大警備なのだ。
「ここで部長会議、やる気かなあ」なんて冗談をいっている隊員の声も聞こえる。
四機は、安田講堂北側の経理部車庫までにじり寄り、附近にそびえるヒマラヤ杉や|欅《けやき》の大木を楯にしながら約九メートル先の学生部の窓を目標に突入を企てるが、その都度投石と火炎ビンの雨を浴びて後退する。
大型警備車による横付け、破壊工作班による突破口づくりの試みも、五回にわたってくり返すが思うようにいかず、火だるまになった警備車はその都度後退を余儀なくされる。窓という窓はすべてベニヤ板がはられ、その奥にはぎっしりとロッカー、机などのバリケードが構築されているらしい。
五機も籠城学生の貯蔵した凶器の「弾切れ」を狙って、正面玄関に向かって陽動作戦を何回も試みる。学生たちの注意をそらし、午後一時十八分、東側出入口に急造の鉄製金網、通称「とりかご」を押していって接着させ、斧、エンジン・カッター、バールなどを携えた破壊工作班による突破口づくりを始める。
「とりかご」はたちまち屋上からの石塊、火炎ビン投下の絶好の目標となり、厚さ三センチの頑丈な屋根板がたちまちへし折れ、炎に包まれ残骸となる。ほんの三十秒ぐらいの間のことだった。
隊員たちは「亀甲隊形」で援護する支援班に守られて後退する。「亀甲隊形」とは古代ローマ軍団の防衛隊形にならった青柳五機隊長考案の新戦術だが、約二十メートルの高さから加速度をつけて落ちてくる敷石には抗すべくもなく、頭上にかざした大楯は落石の衝撃を支え切れず、へし折れ、ふっ飛ぶ。
無法状態の神田地区
神田・お茶の水地区の情勢がにわかに風雲急を告げている。早朝御茶ノ水駅前派出所を襲撃、破壊したあと、中央大学構内で東大支援の気勢をあげていた約千二百名のゲバ学生集団が街頭に出撃し、鉄パイプ、竹竿などを携えて明大通りをお茶の水橋方向に北上し、東大に向かう気勢を示した。
お茶の水橋上に布陣した九島賢一郎隊長指揮の三機部隊に向かって敷石を割ったこぶし大の石塊を投げ、喚声をあげて突進してくる。
催涙ガスで規制し、「検挙、前っ」をかけると、学生たちは逃走して明大学館などにたて籠り、部隊が後退するとまた街頭で市街戦を挑む。「主婦の友」社前路上で通行車輛を奪って横転させ、バリケードにする。神田地区の交通は麻痺し、商店街はシャッターを下ろして休業するという無法状態である。
附近には数千の野次馬が|蝟集《いしゆう》し、午後になると反戦青年委や地下足袋の労働者も加わり、明大通り、駿河台下、お茶の水橋、順天堂病院附近に至る広い地域で、三機、八機邏、方機・久松署大隊などと一進一退の“市街戦”模様となった。東大警備は、懸念していたとおりの「二正面作戦」となったのだ。
孤立した隊員や私服が拉致され、リンチを受けているという一般市民からの一一〇番通報も入りはじめる。列品館を陥したあと、急遽応援派遣された一機もガス弾を撃ちつくしたのか、投石を浴びて苦戦している。第一方面本部長・金原忍本人の声による峻烈な命令が、安田講堂内から消火器の補給を求める四機の声と受令器のイヤホーンで交錯する。
安田講堂前の前線指揮所に、「神田地区に幕僚を派遣せよ」との警備部長命令が下る。
末松実雄参事官が名乗りをあげる。
「随行は?」「私が行きます」管理官の高野謙一警視が買って出る。
三機がリンチをうけている同僚を救出するために明治大学学生会館に対し“吹き抜け”(突入して向こう側に突き抜ける警備)をやった模様……。やがて高野警視が暴徒に鉄パイプで撲られ受傷との至急報が入る。指揮所まで襲われたのか。軽ければよいがと祈るのみ……。
安田講堂一番乗り
安田講堂一番乗りを果たしたのは、四機武道小隊の|平間《ひらま》範克分隊長だった。
根石副隊長の医学部一番乗りに奮起し、「安田はオレが」と心に決して講堂から約九メートル離れた経理部車庫から機を窺っていた彼は、用務員室の窓の上に六十センチのひさしが張り出しているのをみつけた。
隊長の了解を得た彼は、斧をかついでヒマラヤ杉の間を縫ってリスのように走り、講堂のひさしにとりつく。武道小隊・助教の片柳隊員が大楯をかざして援護する。怪力をふるって窓と窓枠を叩きこわし、その向こうで窓をふさいでいた卓球台も叩き破り、体スレスレに落下する敷石をかわして講堂内に飛びこむ。援護していた片柳隊員は首に石塊をうけて倒れた。第二中隊員が一人、また一人と窓の突破口に向かってダッシュし、堂内に突入してゆく。
飯野定吉四機隊長が直率する警備車が、火炎ビンで火だるまになりながら六回目の接近を試み、突破口確保に成功した。
時に午後三時三十分。本格的な突入作戦を開始してから実に二時間余後のことだった。
正面玄関のバリケードは、とくに頑丈をきわめた。出入口を厚さ五センチの厚板でビッシリ釘付けしてある。
青柳五機隊長は講堂前五十メートルの地点に前進し、放水車、「カマボコ」警備車各二輛と催涙ガス分隊を配置した上で河野庄作第四中隊長の肩を叩いて「頼む」と一言。
前進を始めた警備車は、玄関前十メートルの地点で瓦礫の山にのりあげ停止してしまった。そこへとてつもなく大きな石塊が落ちてきて、警備車の鉄製の屋根に亀裂が入り、火炎ビンの炎が車体を包み、後退を余儀なくされる。屋上では色とりどりのヘルメットをかぶった約六十名のゲバ学生たちが、機動隊員をバカにするように手を振ってみせたりしている。
放水車のエンジン音が轟々と耳を|聾《ろう》し、安田講堂の赤茶けたレンガ壁にはねかえる水流が滝のような飛沫となり、霧となってあたりにたちこめる。戦中派の河野中隊長は終戦直前体験した、米空軍B29爆撃機による焼夷弾攻撃を受けた悪夢のような空襲の日々を思い出した。
河野中隊長は肉薄攻撃を決意する。
口々に「私を行かせて下さい」と志願する第四中隊員の中から、岩崎恒彦小隊長、小林、吉岡両分隊長、技術班山下圭次郎分隊長、川畑義隆、五十嵐宏二両隊員の六名を厳選し、中島徳治分隊長以下四名を交代要員に指名した。一番玄関に近い放水警備車のかげに前進して屋上を見上げ、突入のタイミングを狙う。距離約四十メートル。屋上の学生たちは破壊工作班突入の気配を察知して猛烈な投石を集中してくる。
「前へっ」肩を叩かれた小林分隊長が先陣を切って大楯をかざして全力疾走。前後左右に落下する投石と火炎ビンの雨を走り抜けて正面玄関の狭いひさしの下に飛びこむ。吉岡分隊長、岩崎小隊長が続く。スチール製の机や椅子まで投下されるがなんとかかわして無事到達した。
河野中隊長が「行くぞっ」と声をかけて飛び出す。川畑隊員が続く。河野中隊長に石塊が二発続けて命中。ヘルメット・ライナーが割れ、眼鏡のつるが折れてグラリとよろめくが、走り抜けて玄関にとりついた。
炎に包まれる工作班
川畑義隆隊員にとって一月十八日はちょうど二十六回目の誕生日だった。大楯をかざし、消火器を小脇に走る。大楯にガツーンと強いショックを受けてよろめく。路面は放水が小川のように流れ、水面を火のついたガソリンがツツーッと走る。
走りながら川畑隊員の頭に「NHKが全国中継しているらしいが、田舎の両親がもし今走っているのが自分たちの息子と知ったら、さぞ心配するだろうな」という思いが胸をかすめる。エンジン・カッターをかついで走る山下分隊長を五十嵐隊員が大楯でかばいながら伴走する。
六名の工作班が正面玄関にとりついたのを知ったゲバ学生は、燃え易いものを次々と投下しておいてから上からガソリンをながし、火炎ビンで点火した。ひさしの下は火の海となり、一瞬工作班の姿は炎と煙に包まれて見えなくなる。
「放水車っ、消火しろっ」我を忘れて大楯もなしに飛び出す青柳隊長を伝令が帯革をつかんで引き戻す。西条警部殉職の心の傷をもつ隊長である。
放水車のエンジンが轟々と唸り、水流が炎を吹き飛ばす。だが時計台に向け最大気圧をかけて放水していた放水銃をとっさに俯角をつけて救命放水するのだから、受ける方はたまったものではない。
水圧を下げている暇はない。横なぐりの放水を受けた破壊工作班員の体は厚板バリケードに叩きつけられ、息もできない。この寒空に全身グショ濡れ。ホッとしたとたんにまた火炎ビンがいっせい投下され玄関正面は火の海、また横なぐりの放水。まさに火責め、水責めのくり返しだ。
五十嵐宏二隊員が火だるまになった。炎が顔をなめ、火傷の苦痛と息苦しさに耐えかねてひさしの下から外へ飛び出そうとする彼を、河野中隊長と山下分隊長が身の危険も忘れてパッと抱きつき、体で火を消し止める。まるで不動明王の群像だ。
同僚が火だるまになったとき、やれ放水だ、消火器だといっていると間に合わない。炎を吸いこんで喉と気管支を焼かれ、顔をはじめ皮膚火傷がひろがり、とり返しのつかないことになる。仲間が二、三人パッと抱きついて酸素を遮断し、瞬間消火をしてやるのがコツだ。これには勇気と経験が必要で、はげしい火炎ビン闘争を闘い抜いた河野中隊長のような古参兵でないとできない離れ技だ。火傷を負った五十嵐隊員に離脱して病院にゆくように指示するが、彼は笑って破壊作業を続ける。
数本の携帯用消火器はたちまち空になる。川畑隊員が火の雨、石の雨をかいくぐってかけ戻り、消火器四本を小脇に大楯をかざしてまた正面玄関に向かって全力疾走する。
五センチの厚さの横板バリケードの上部にようやく隙間ができ、ぎっしり詰まった灰色のスチール・ロッカーがみえてきた……と思ったとたん、向こう側から絶え間なく液体が流れ落ちてくる。鼻をつく強い酸臭が漂う。硫酸を注いでいる奴がロッカーの上にいるのだ。バリケードの厚板がジュウジュウと焦げ、みるみる黒く変色する。
濃硫酸に放水の噴流がかかり、稀硫酸となってその飛沫があたりに飛び散り、隊員たちの顔面を襲い、出動服の襟元から流れこむ。川畑隊員が顔面に飛沫をあび、両脚に灼熱感が走る。痛くて目があけられない。塩酸も流され、白煙があがる。河野中隊長はうっかり放水の水混じりの稀硫酸液をのみこんでしまい、気分が悪くなる。
この火責め、水責め、硫・塩酸責めの中で、隊員たちは斧をふるい、エンジン・カッターで厚板を切り、バールでこじあける破壊作業を続行する。凄まじい忍耐力と闘魂の男たち。さすが多数の志願者の中からえり抜かれた五機の精鋭だ。
やがて厚板が剥がされてゆくにつれ、後ろの鉄製ロッカーの堅固なバリケードがその恐るべき威容をあらわしはじめる。みただけで絶望感に襲われる厳重なバリケード。ギッシリ積み重ねたロッカーを針金できつく固縛してある。
みると高さ二メートルくらいの位置に得体の知れない液体をいれた牛乳ビンが一本置いてある。「ニトロだ」河野中隊長は一瞬心を凍らせ、一旦作業中止を命ずる。負傷にもめげず後退を拒んで作業を続けていた岩崎小隊長がそっと牛乳ビンをとり、修羅場の中で冷静沈着、衝撃を与えないようにソロソロと運び、安全な場所に安置する。(後日この牛乳ビンの中の液体はニトロではないと判明した)
作業再開。こんどは鉄製ロッカーに穴をあけ、フックをかけ、警備車のロープで一個ずつひきずり出す作業だ。放水車のかげでその一部始終をみていた私は、おや? と思い、目を凝らす。白ヘルに白っぽいジャンパー、首からカメラをぶら下げたのが一人、エンジン・カッターや斧を使って破壊工作を続ける六名の青ヘルの中にまじっている。
誰だ? あれは? 私服の採証写真班員か? よく見てみると、なんと警視庁詰めの読売新聞のカメラマン、安部誠一記者じゃないか! たまげたプロ根性の男だ。この命知らずの報道写真の“鬼”とは、後年軽井沢の「浅間山荘事件」の銃撃戦の最前線で再びまみえることになる。
約一時間四十分経った。依然として強固なバリケードはびくともしない。河野中隊長も硫酸を浴び、放水で体温を奪われ、全身にふるえがきてめまいを覚える。負傷者続出。体力、気力の限界とみて、破壊工作班交代の命令が出る。第四中隊に新たに第三中隊の志願者たちが加わり、大楯をかざして後退してくる第一次工作班、中島徳治分隊長、谷山弘行隊員らに代わって、第三中隊・奈良隆司分隊長らが正面玄関に突っこんでゆく。
記念写真を撮る教職員
東大教職員の傍観者ぶりが次第に気にさわりはじめた。
事前の打ち合わせで、地理不案内の機動隊のため道案内役をつけること、凶器準備集合罪容疑による捜索差押許可状の執行や一般人立入り禁止の規制措置などは、腕章をつけた大学側教職員がやることになっていた。
だが、中にはまだ警察アレルギーが強くて機動隊導入に反対の人たちも多く、反感を示したり非協力的だったりした。早朝の立入りの際も教職員が執拗に「捜索差押許可状をみせろ」といったり「もう一度私たちで退去勧告をするからあと五分待って下さい」と部隊を制止するトラブルも起きた。そうかと思うと「籠城しているのはみな“外人部隊”で東大生はいませんから存分にやって下さい」という教職員もいた。
ふり向いて見まわすと、機動隊が命がけの攻防戦を展開している安田講堂を背景にして、記念写真の撮りっこをしているグループがいるのに気づく。路面に腹這いになってカメラを構え、広場の瓦礫の山や炎上する警備車、青、赤、白のヘルメット軍団をのせてそびえたつ安田講堂の全景を、同僚たちとともになんとか一枚の写真におさめようと苦心してファインダーをのぞいている男もいる。
報道関係者かな? と目を凝らすが、やはり教職員たちだ。事前の打ち合わせでは、封鎖解除を終えた建物については、東大側でバリケード撤去作業をすることになっていたのに、誰も作業をしているものがいない。安田講堂のかぶりつきの法文経一号館の屋上は、教職員腕章をつけた野次馬で一杯だ。
「いまの、あの学生、いい肩してますね」
「せっかくヘリ使うなら、空中から屋上に機動隊をロープで降ろしゃいいのに……」
アタマにきた私は、近くにいたグループに声をかける。
「失礼ですが、立会いの教職員の方ですか?」
「ちがいます」
「見物ですか?」
「ええ、そうです」
「早く片づけをされてはいかがですか?」
お互いバツの悪そうな顔を見合わせてはいるが、依然として何もしない。態度、悪いよ、まったく……。腹を立てた私は本富士署の総合警備本部にかけ戻って、東大当局の本部直通の電話をつかみ、向坊隆工学部長に封鎖解除された各学部建物のバリケード撤去作業に事前申し合わせどおりに着手して下さいと申し入れる。
申し入れの後、ただちに現場に戻ろうと思うと、次々とかかってくる電話につかまってしまう。
「荒川署長の山田です。八幡エコン・スチールという会社でトンネル工事用の鉄板製トンネルを売ってる筈です。それを使ってみてはどうですか?」
友人の岡副昭吾氏(現・新橋演舞場社長)からも電話がかかってきた。築地の料亭「金田中」の主人だ。
「本当に御苦労様。おい、昔から桂小五郎には幾松がつきものだ。テレビを見てた新橋の芸者でどうしても佐々さんに、握り飯を差入れるっていうのがでてきてな、本富士に届けるから食べてやってくれ」
残念ながらせっかくの差入れのお握りも、メシを食う暇もなかった私の口には入らなかった。
また別の電話。「〇〇会社でつくってるエンジン削岩機を使ったら……」
かねて警察装備を研究開発し、製造してもらっているノーベル工業の志賀淑雄社長からも「徹夜で鉄板の屋根つきのトンネルを試作しましたのでお使い下さい」との申し入れがあった。
志賀氏は旧海軍の高名な戦闘機パイロット。ハワイ空襲の空母「加賀」の制空隊長であり、終戦時は三四三空・「紫電改」戦闘隊飛行長の元海軍少佐。神田地区日大理学部“城攻め”の際には、やはり徹夜で隣接ビルから理学部屋上に渡す木製架橋をつくって協力してくれた人だ。
依田智治広報課長ら広報・公聴班も、全国からかかってくる何百本という激励やお見舞い、硬軟さまざまの提案や助言、全学連やら民主青年同盟などからの抗議の電話の応対でテンテコ舞いしている。世論の反応は一体どんなものなのだろう? 幕僚長としては気にかかる。電話受けのメモの束にざっと目を通す。
「いまテレビで東大の状況をみているが、学生たちの行動は絶対許せない。機動隊員にも家族がいるのだから可哀そうだ。マスコミも学生の暴挙を批判せずにかえって警察を非難しているがとんでもないことだ。自衛隊を出動させるべきだ。大変御苦労ですが頑張って下さい」
住所も氏名もはっきり名乗った横浜居住の男性からの電話だ。
「NHKは“学生”とよんでいるが“暴徒”とよぶべきだ」「佐藤総理に自衛隊出動を進言せよ」「なぜ拳銃を撃たせない」「私も東大出だが安田講堂をつぶしてしまってはどうか」など、警備がてぬるい、拳銃を使え、自衛隊を出動させろといった強硬論が、ざっとみただけで三十六件。
|梯子車《はしごしや》の上から高圧放水しろ、硫黄で|燻《いぶ》り出せ、非亜鉛素酸ソーダのラクトポールを十対一で水に混ぜて撒くと目にしみ咳が出るから使え、泡沫消火器AB液を使え、通信は盗聴されているから気をつけろ、眠りガスを撃ちこめ、長期戦にもちこみ兵糧攻めにしろ、水道、ガス、電気を断てといった警備の方法についての助言が二十六件。愛媛、岩手、富山などわざわざ長距離電話料を払ってかけてくれた方々が十九件もある。
もちろん、抗議や批判の電話や電報もある。そのほとんどが「東大への機動隊導入に抗議する」という紋切型の短いもので十九件。全学連中央執行委員会をはじめ学生自治会、民主青年同盟などで、ただ一件だけ労働組合からのものがあった。激励や提案が個人名だったのに対して、すべて団体名であることが対照的だ。なかにはお門ちがいのトロツキスト批判もあった。
こうしてはいられない。警備本部に長居は無用。ほどほどに切り上げて安田講堂前の前線指揮所に足早に戻る。
真冬だというのに汗びっしょり、催涙ガスや火炎ビンの煙を吸いこんだ喉や肺が痛み、息があがって呼吸が苦しい。
作業中止命令
安田講堂正面玄関のバリケード撤去は、はげしい抵抗にあって遅々としてすすまない。厚板を剥がしたあと、スチール製ロッカーに穴をあけ、フックをひっかけ、警備車につないだロープで十数個のロッカーや机をひきずり出すまでは成功したもののそれでも突破口は開かない。夕暮れが迫ってくる。現場の指揮官、幕僚たちの顔に焦りと疲労とが色濃く浮かんでくる。
負傷して後退してくる隊員の一人の顔面をみると、まるで蜂に刺されたように真っ赤に脹れあがっている。中島分隊長だ。放水警備車のかげに走りこんできた彼は、ヘルメットを脱ぎ捨て、近くに用意してあったバケツにいきなり顔を突っこみ、ザブザブ洗いはじめた。
「どうしたっ、大丈夫か?」と声をかけると、「硫酸か塩酸か知らないけど、顔がヒリヒリして、息が苦しくて……」という。
みると右目まぶたが脹れあがって目があかない。同僚たちが群がって彼を仰向けに寝かし、腰の水筒を抜きとり、まぶたをこじあけて水を注いで洗浄する。酸が角膜を侵蝕しないうちに水で洗い流すのが化学性火傷の応急措置だ。そばで同じく硫酸の飛沫を浴びた川畑隊員もバケツの水で顔を洗っている。
「救急車だ、早く警察病院へゆけっ」
「いえ、大丈夫です。まだ皆、やっているからね」
物凄い気力だが、万一失明したら大変だ。負傷した隊員たちが次々と後送されているのをみているうちに、私は体がふるえるような怒りがこみあげてくる。
ゲバ学生たちの乱暴狼藉は明らかに人間として、していいことの限界を超えている。もしも戦後の日本警察の任務が「こっちは殺される危険はあっても我慢して、向こうは殺さずに生け捕りにしろ」というのなら、政府はもっと真剣に対策を講じるべきだ。優れた装備、個人防護衣、殉職者の弔慰金や公傷者の補償額をあげ、危険手当や超過勤務手当を増やし、もっとマシな警備食をくわせるなど、待遇改善の努力を払うべきだと、現場で痛感する。
講堂左側からの攻撃は、午後四時四十分。それまで前進、後退をくり返していた五機に代わって、新設の七機に命令が下った。七機は部隊用大楯も足りず大型警備車もない。
新設隊の悲哀である。五機から借り受けた輸送警備車に|本吉《もとよし》道尚中隊長以下十九名が乗りこみ、接近をはかる。屋根の上に落下する石塊の音はドドドドッとドラムのように響く。
支援の放水車の放水が微弱だ。学生たちは屋上や三、四階の窓から身をのりだして敷石を投げ下ろす。講堂まで距離一メートルに接近。飛び出した岩永昇隊員がまず突破口に躍りこみ、車と講堂の間に大楯のひさしをつくるがたちまち真っ二つに折れる。
「よし、突っこむぞ」と身構えた鈴木清倖小隊長と中隊長伝令の納田宏隊員の二人がアッという間に炎に包まれた。学生がガソリンを撒いて火をつけたのだ。一面火の海である。
しかし鈴木小隊長は驚くべき勇気を発揮した。自分の顔が燃えているのに消火器をとりあげ、火だるまになっている部下の納田隊員の顔に向けて消火液を発射したのである。
その納田隊員は車内の延焼を消火し、いち早く後部扉を閉めてなかの隊員を守る。本吉中隊長も脚に負傷。燃える警備車はやむを得ず後退し、放水車の放水をうける。鈴木小隊長と納田隊員は、顔面火傷の重傷を負って後送される。
工学部二号館の屋上を制圧した|鉾立《ほこだて》公太郎ガス分隊長は、投石を続ける屋上の学生たちに向かって六挺の催涙ガス銃による斉射を命じ、懸命に突入部隊を支援する。二、三人の学生が着弾した催涙ガス弾を拾っては投げ返す。そのうちの一人が放水の水が氷結してすべるのか、コロコロ転がるガス弾を拾おうとして足をとられ、スッテンコロリと転倒した。そのまま下に落ちるかと一瞬ハッとするが幸い無事だった。
七機も一部講堂内に突入したものの、堅固なバリケードに阻まれて作業は難渋している。
一方、一階裏側から突入した四機も不気味な暗黒の講堂内で堅固なバリケードに阻まれていた。
窓という窓が封鎖され、電源の切れた講堂内は真っ暗だ。投石がはげしいので破壊工作用の削岩機、エンジン・カッター、掛け矢、斧、あるいは照明器具などは、約九メートル離れた経理部車庫との間にロープを張り、講堂内にひきずりこむ。そして用務員室脇の北側階段は第三、第四中隊、学生部脇の階段は第二中隊、正面階段は第一中隊が担当し、巨大なスチール製ロッカーがぎっしり詰まっている階段を一つ一つバリケード撤去しながら攻めのぼってゆく。二階にたて籠る学生は、机、椅子、石塊、硫酸や消毒剤などを投げ落とし、作業を妨害する。そのため熱傷や打撲傷を負う隊員が続出し、一進一退の攻防戦が続く。
学生部入口脇の階段の踊り場まで前進するのに要した時間は約二時間。ここで東側の窓に張られていたベニヤ板を破り、やっと日の目をみ、外の風景がみえるようになった。
だが冬の太陽は早々と西に傾き、暮色深まり、午後五時四十分、最高警備本部は隊員の体力の限界や夜間作業の危険度などを考えた上で、作業中止命令を出した。
四機の飯野隊長は現場から作業続行を意見具申したが、結局講堂内に突入した四機も、五機、七機もいったん作業を中止し、撤収してくる。
だからいわないことではない。一月九日の夜、構内で代々木系、反代々木系、ノンポリ正常化委の三つ巴の“内ゲバ”の時にきちんと対処していればよかったのだ。人命に危険があるとみて加藤代行が機動隊に出動を要請し、数千の学生たちがクモの子を散らすように逃げ去ったとき、代行ら東大執行部が思い切って安田講堂をはじめ全学バリケード封鎖解除を決断してくれてさえいたら、こんな多数の負傷者を出さなくてすんだのに……。
荒城の月
いったん警視庁に戻って、秦野警視総監への概況報告をすます。記者会見の立会い、明日の警備の打ち合わせのための緊急警備会議、東大平野法学部長や藤木教授との電話での打ち合わせなど、トイレにゆく暇もない時を過ごし、何を食べたか全く記憶のない夜食を腹におさめ、再び東大に向かった。
午前一時半頃だったろうか。
放水に洗われて妙に白茶けた安田講堂が、強力なクセノン投光器に照らし出されて、暗黒の夜空に浮かぶ。荒れ果てた時計台の上の黒い天空に青白い月が出ている。「まさに“荒城の月”だな」なんとなくそんな言葉が疲れ果てた頭に浮かぶ。大坂城冬の陣の攻城軍の将兵たちもきっと野営の陣で同じ思いで月を見上げていたことだろう。
徹夜の包囲を続ける警戒部隊の歩哨たちが路面に立てた大楯に|肘《ひじ》をつき、安田講堂を見上げている。すでに封鎖解除された列品館や法研の建物では、公安部の私服たちの現場検証が夜を徹して行われている。
凍てついた銀杏並木のあちこちでは、焚火をたいて濡れた出動服をあぶりながら若い隊員たちが屈託なく談笑している。毛布をかぶって路上でゴロ寝の仮眠をとっている隊員たちもいる。
昼間四機、五機、七機が悪戦苦闘してつくった突破口に向かって、八機の放水警備車が夜目にも白く放水を続けている。せっかく排除した内部のバリケードを籠城学生たちが夜の間に構築し直すのを阻止するための措置だ。
「御苦労さん」と隊員たちに声をかけてまわる。明日攻撃再開となると、いまここでこうして元気な姿をみせている隊員たちの中にも、救急車で後送される者が出ることだろう。桜木巡査長の運転する公用車いすゞのベレルで神田地区をまわってみる。
神田、お茶の水、駿河台一帯は路上にこぶし大の石ころが車も通れないほどおびただしく散乱している。
昼間の苦戦の跡がしのばれる。先ほど受けた報告によると九島隊長指揮の三機の本日の負傷者は百十五名、うち負傷入院七名。大部分は投石によるものとのこと。検挙者は二十八名。
この検挙者数と負傷隊員数の比率が、神田地区市街戦の苦戦ぶりを如実に物語っている。
隊員数六百四十三名に対する負傷率一七・九パーセント、三機が来援するまで、数倍の過激派学生を相手に東奔西走、悪戦苦闘していた天野政晴警視指揮のミニ機動隊、八機邏の損害は、片方の目を残して顔中包帯の田村博副隊長以下四十八名、行方不明一名計四十九名。基幹中隊八十九名に臨時召集の特機一個中隊百三名を加え、百九十二名編成の八機邏にとっては、負傷者率が実に二五パーセント、四人に一人がやられたことになる。
天野隊長を心痛させた行方不明隊員は、夜になって三機部隊に収容されていたことが判明し、隊長はじめ皆をホッとさせた。
伝令が掲げていた|萌黄《もえぎ》色の地に赤い桜を染め抜いた八機邏の隊旗は、旧陸軍の房だけになった“名誉の連隊旗”のように、投石を受けてズタズタに裂けていた。
路上に横転する車の残骸や投石用の砕かれた敷石が数え切れないほど散乱する神田地区を巡視してみて、わずか二個中隊で千人を超す過激派や何千人という野次馬を規制して長時間神田地区を守った八機邏の健闘ぶりを偲び、心の中で称讃の辞を呟く。
朝から一日中荒れ狂った数千人の過激派学生たちも、さすがにくたびれたのか、いまは各大学校舎のセクト別の拠点に戻って寝静まっているとみえ、一日で百六十三名もの機動隊が負傷したはげしい市街戦があった神田学生街は静寂に包まれている。|徹宵《てつしよう》して実況検分を続ける公安部の私服たちを機動隊のジュラルミンの楯の列が黙って見守っている……。
午前三時頃、警視庁三階の自室に戻った私は、デスクにつっぷして泥のような眠りにおちた。
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第六章 落 城
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早朝六時三十分、攻撃再開。次々と突入口から暗闇の講堂内へ飛び込む隊員たち。石塊、火炎ビン攻めに耐え一歩一歩前進してゆく

“食パン”作戦
一月十九日、午前五時。
「課長、時間です」……いま眠ったばかりなのに、部下は指示どおり容赦なく起こしにくる。体中にしびれるような疲労が残る不快な寝起きである。ふつう朝起きれば外は明るいのに、窓の向こうはまだ暗い。
夜の海に潜って水面に浮かびあがってきたときの感じに似て、闇に眠り、闇に目覚めるのは変なものだ。今日は日曜日である。
当時ヒットした歌にメリナ・メルクーリの「日曜はダメよ――ネヴァ・オン・サンデイ」というのがあった。「日曜日だけはお客はとらないわよ」という営業方針を立てた陽気な売春婦が主人公の洋画の主題歌だが、当時の機動隊は「ネヴァ・オン・サンデイ」どころか、戦争中の艦隊勤務を歌った軍歌「月月火水木金金」、年末年始も土曜、日曜もない半徹夜の危機管理がずっと続いている。
一月十五日の「成人の日」だって「一・一五東大闘争勝利労学総決起集会」のおかげで、二十歳を迎えた数百人の隊員たちが祝典に出席できなかった。だが、今日の日曜日は決戦の日。シャキッとしなくちゃと気合いをいれる。
冷たい水で顔を洗い、前の日と同様武士のたしなみで下着だけは新しいものに替える。あとは十七日から着のみ着のまま。当時の警視庁本庁庁舎には現在のような風呂、シャワー、仮眠室などという贅沢な施設はなかった。
まだ生乾きの、催涙ガスや硝煙の臭いのこもったヨレヨレのワイシャツ、背広、ゴワゴワした防護衣と|脛《すね》当てを着け、濡れた出動靴をはき、白い粉末催涙ガスの跡が点々とついた黒のレインコートを羽織る。
香港で手に入れた、当時珍しかったアクアスキュータム製のコートだが、ところどころ硫酸の飛沫で穴があいてしまって、もったいないがもうヤケクソ。こうなったら使いつぶしの作業コートだ。朝食抜きで無人の街を公用車でかけ抜け、東大に向かう。運転の桜木巡査長は体力抜群、いつでも元気な不思議な男だ。
徹宵警戒の部隊に守られた龍岡門から入り、安田講堂前の前線指揮所に向かうと、薄墨色の|暁闇《ぎようあん》の空にクセノン投光器の強力な照明で下からライトアップされた安田講堂が、まるで観光用イルミネーションを施されたロンドンの名所“ロンドン塔”のようにせりあがってくる。クセノン投光車は警視庁にまだ三台しかない新装備だ。二十キロワットの強力な照明器具で、三百メートル先で新聞が読めるというのが謳い文句だ。
昨日苦労して|穿《うが》った講堂裏側(四機担当)と正面向かって左側(五機担当)の突破口に向け、夜中に再封鎖されることを防ぐための放水が、夜目にも白々と続けられ、強力な照明のなかであたりは水飛沫にけむっている。気温は零度ぐらいか、集まってくる指揮幕僚たちの吐く息が白い。あたり一面にトンカン、トンカンと金槌の音が響く。
本庁の裏方さんたち、警備第二課、装備課、施設課、それに各隊の技術班の面々が各課長ら幹部徹夜の陣頭指揮で、めいめい工夫を凝らした攻城用の防石・防火トンネルを急造しているのだ。
五機がつくっているのは、頑丈な木枠にジュラルミンの大楯を重ねた屋根をとりつけた、上円下方の食パンを何斤かつなげたようなトンネルである。午前サマの警備会議で、十八日の戦訓をいかし、受傷防止のためにこの“食パン”を突入口につなぎ、その入口に警備車の後部ドアを接着させ、巨石や大型火炎ビンの安全圏から直接隊員たちをトンネル経由で突入させる作戦をたてた。
昨日は放水支援も車輛の数が少ない上に、水圧も低く、多数の負傷者を出したことから、正規の放水警備車九輛全車、ほかに輸送警備車の窓から延長放水ホースのノズルをのぞかせる急ごしらえの仮装放水車三輛を加えた。全部で十二輛の放水警備車がいまや“裸城”になった安田講堂を扇形状に包囲する隊形で配備された。
各車輛には突入口頭上の|矢狭間《やざま》窓や屋上の一点を狙って加圧放水を行って投石を防ぐ係、落下炎上する火炎ビンを速やかに消火する係など、効果的でシステマティックな任務が割り当てられた。
講堂正面に三輛、裏側に四輛、左側に二輛、三四郎池側に三輛、暁闇をついて古代ローマの戦象のような放水警備車がのそのそと布陣する。東の空が次第に白んでくる|昧爽《まいそう》の中、四機、五機、七機、そして杉山賢司隊長指揮の特科車輛隊の八機が、所定の部署に黒々と集結し始める。六機は本郷三丁目配備。神田学生街から東大闘争支援のため攻めてくる全共闘を阻止するのが、新設六機の重い任務だ。
警視庁には秦野総監直接指揮の最高警備本部が開設される。
現場の指揮系列は昨日と同じ。神田・駿河台地区は、第一方面警備本部が設置され、第一方面本部長・金原忍警視正が指揮をとる。神田警察署(内田文夫署長)には現場警備本部が置かれる。
攻撃再開
一本(第一方面警備本部)の指揮下には、一、二、三機、八機|邏《ら》、久松大隊などの方機が入り、“神田カルチエラタン闘争”の再発に備えるとともに、一本管内の重要防護対象、たとえば国会、首相官邸、米国大使館、霞が関官庁街の警戒にあたる。
各レベルの(指揮・統制・通信・情報本部)には指揮幕僚団が参集し、間断なく鳴り響く電話のベルや無線の交信の騒音の中で、あわただしい作戦会議が行われている。
睡眠不足の目に、日の出がまぶしい。クセノン投光器のスイッチが切られ、次第に明るくなる冬の朝の空を背景に、時計台上や屋上に赤・白・青色とりどりのヘルメットをかぶった籠城学生たちがずらりと姿をあらわす。
午前六時三十分。攻撃再開の命が下る。
安田講堂の周囲一面で甲高い声、野太い声の、各級指揮官の号令がわき起こり、くだんの“食パン”が警備車の後押しによってズルズルと地を這って安田講堂の突破口に向けて押し出されてゆく。十二輛の放水警備車から噴出する十二条の白い|竜吐水《りゆうどすい》が安田講堂に集中し、あたりはナイヤガラの滝の下のような霧状の水煙に包まれる。
安田講堂の上からは、「まだなくならんのかい」と思わずうんざりするほどはげしい石塊の雨が降ってくる。火炎ビンの火の滝も昨日より大型化し、一升ビン入りのものや、まるごとのガソリン缶が炎の尾をひきながら落下する。
“食パン”型トンネルも講堂に近い側がみるみる破壊され、炎上するが、わずか一日の実戦経験で攻める側の連携動作も見ちがえるほどよくなっている。炎上するトンネルや警備車は、すばやい放水により消火され、大楯や破壊工作用具を抱えた隊員たちが警備車と“食パン”をつなげた狭いトンネルを背をまるめてかけ抜け、次々と講堂内に突入してゆく。
放水車の加圧装置や放水銃のノズルもどう改良されたのか、心なしか水圧もあがっているようで、まともに放水を浴びた学生たちはたじろいで姿を消す。
六時四十五分、講堂裏側から接近した四機は、陽動作戦としてカラの“食パン”型トンネルと警備車を学生部出入口に搬送した。学生の反撃をひきつけておいて、九メートル離れた車庫内に前進待機していた隊員が次々と昨日開口に成功した用務員室の窓から雪崩れこむ。基幹四個中隊の全員が、わずか七分で講堂内に突入した。大成功である。
七機の一部と、正面玄関からまわった五機の第一中隊も七時四十五分、続いて裏側入口から一階に突入し、不気味な暗闇の中でバリケード撤去作業を開始する。
内部の情況はどうなっているのだろう? 耳に挿入した受令器のイヤホーンに流れる突入部隊の報告に耳を傾ける。
やっぱり飯野四機隊長の懸念どおりだった。昨夕せっかく二階の階段踊り場まで排除したスチール・ロッカーなどのバリケードが、学生たちの手で復元され、進路を阻んでいるという。それを防ぐために八機は徹夜の放水を続けていたのだが……。四機隊長が昨日、作業中止に強く反対して攻撃続行を意見具申してきたのは、このことを予想してのことだった。
副官の松浦警部とともに安田講堂前にたたずんでいると、警備第一課の機動隊連絡担当課長代理・小林茂之警視が通りかかった。長身で筋肉質、はげしい気性の小林警視は、ヘルメットなし、黒のレインコート姿の私をみてキッと表情を厳しくする。
「松浦君、課長、ヘルかぶってないじゃないか、傍についてて何やってんだ。課長を死なす気か。ヘルをかぶってもらえ」
「ハッ、申し訳ありません」
私も語勢のはげしさにギョッとする。上司の私を直接叱る訳にゆかないから、副官の松浦警部を叱り飛ばしたのだ。ヨーロッパの宮廷の「ホイッピング・ボーイ」(鞭打たれ小姓)という|諫言《かんげん》の仕方だ。あわててヘルメットをかぶる。頭の大きい私に合うヘルは少なくて、かぶると上方の視野が狭くなるし、頭の鉢を締めつけられて頭痛がする。だが、罪のない松浦警部が叱られては悪いから、かぶることにする。
大理石の直撃弾
安田講堂正面の向かって右側、三四郎池側にのびる石畳の道路上に、七機の池田勉隊長が白い指揮棒を杖に仁王立ちに突っ立っている。
七機隊長は昨夜東大泊まりこみ警備部隊の指揮を命ぜられた。本富士署四階の会議室で着のみ着のままで、むしろをかぶって隊員たちと|雑魚寝《ざこね》の仮眠をとった隊長だが、さすがに若いだけあって元気一杯だ。
投石圏内でりきみ返って突っ立っている。
「池田君っ、石を見ろ、石を。そうやってると石が当たるぞっ」
先輩ぶって忠告したその直後だった。
ガーンという甲高い音とともにヘルメットに強烈な衝撃をうけて、一瞬目の前が真っ暗になり意識がかすむ。しまった。後輩に説教してたら不覚にもこっちがモロに投石を頭に受けてしまった。
軽い|脳震盪《のうしんとう》なのか、足がよろめく。目をあけてみてもまだ真っ暗。ふと我に返るとそれも道理。顎ひもを掛けておかなかったヘルがずれてふちが鼻の下までかぶさっている。ヘルをかぶり直し、顎ひもを締めて、ハテ今の石は? とあたりを見まわすと、長さ七、八センチ、端がギザギザになった固い大理石の破片が側に転がっている。手にとると、東大総長室のマントルピースを飾っていたイタリア産大理石の破片だ。
指揮官に当たるのにふさわしい高価な投石だな……などと変な考えが頭に浮かぶ。だが、こりゃあまずい。池田君、見てたかな? と横目でみるが、幸い彼は気づいていない。松浦君は? ……彼はちゃんと見ていた。
「課長っ、いま一発頭にくらったでしょう。ヘル、かぶっててよかったですね」
と白い歯を見せて笑っている。だからいわないこっちゃない、昨日からいってるのに、といいたげだ。
本当に危ないところだった。小林警視に怒鳴られてヘルをつけた直後のことだった。これまで神田地区の路面で跳弾となった石を左脛に受けたことはあるが、怪我は大したことなかった。だがこの一発で昨日からずっと感じ続けていた負傷隊員に対する後ろめたさ、ひけ目がふっ切れた。石は公平だ。階級章に関係ない。指揮官にとって自分の命令で若い隊員たちが傷つくのをみているのは辛いことなのである。
充満する都市ガス
十九日はよく晴れた、一月にしては暖かい一日だった。だが安田講堂のまわりは十二輛の放水車の間断ない放水で集中豪雨だ。あとでわかったことだが、十九日一日の放水量は六十三万リットルと記録されている。
後日、五機の千葉久公小隊長は、「気象庁の天気は晴れとなっているが、五機一中隊員でこの日を晴れと記憶している者は一人もいない。それも熱帯のスコールのような大雨で、青空は全く見なかった。フンドシから財布の中の百円硬貨まできれいに洗い流されていた」とのべている。
講堂一階に突入した四機四個中隊は、南東角の経理部入口脇の階段をはじめ、四カ所のバリケード撤去作業を開始した。厳重にバリケードで再封鎖され、作業は困難をきわめた。二階からは喚声、罵声とともに石塊、硫酸、塩酸、さらに駆虫薬バルサンまでが投げ落とされ、火炎ビンが|炸裂《さくれつ》して一階階段はテレビカメラの照明に照らされたような明るさとなって机、椅子などが燃えあがる。
全国中継のNHKテレビの画像には映らなかったが、この「よくまあ殉職警官が出なかったものだ」と思う凄惨な講堂内の攻防を、千葉小隊長はこう回想している。
「……北側一階から二、三階への階段のバリケードは、ロッカー、机、本箱がセメントで固められたように頑強に積みあげられ、これを排除する我々の頭上からは人を殺す道具のすべてが落ちてきた。敷石、スチール机、椅子、一升壜の火炎ビン、一斗缶のガソリン、硫酸、塩酸、消火器のボンベ、もったいない大理石の手すり、|落ちてこないものは学生自身だけ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》だった。この中で撤去作業が一階から二階へのわずか五、六メートルの前進に四時間も要したことを語るだけでおわかりと思う……」
都市ガスが講堂内に濃厚に充満してきた。とうとうガスの元栓をあけやがった。無茶苦茶である。このままでは機動隊員も学生もガス中毒死してしまう。エンジン・カッターの火花や火炎ビンの火が引火爆発したら大惨事だ。
四機、五機両隊長はただちに窓をふさぐベニヤ板を破らせて通風採光をよくし、削岩機やエンジン・カッターの使用中止を命じた。隊員たちを退避させた上で、警備本部に東京ガスの技術者派遣を要請した。やがて東京ガスから専門家が急派された。五機はこの勇気ある技術者を大楯で防護して講堂内に案内し、ガスの元栓を閉めてもらう。
作業再開。階段附近にはコンクリート円柱や穴をたくさんあけた石油の一斗缶まで降ってきて、バリケードが燃えあがり、消火器は補給しても補給してもたちまちカラになる始末だ。
外側からみていると、周辺の部隊や車輛に対する火炎ビン投下は目にみえて減った。さてはさすがに火炎ビンも“弾切れ”かな? と一時は考えた。しかしそのかわり安田講堂に向かって右半分の一、二階の窓々から黒煙、白煙がたちのぼりはじめ、時計台にからみつく。明らかに彼らは火炎ビン攻撃の主目標を内部にいる突入部隊に切りかえたのだ。
「火災発生、外から窓を通して放水されたし」という緊急要請が、ほぼ時を同じくして四、五、七機各隊長から無線で入った。七機隊長からは「消防に要請しては如何」という意見具申。
八機の放水車はいっせいに仰角をさげて一、二階の窓をふさぐベニヤ板を狙うが、水流はむなしくはね返されて建物を水煙で包むばかりだ。
“銀ヘル”との闘い
この日、東京消防庁は火災や救急に備えて空中作業車、ハシゴ車各二輛、水槽付ポンプ消防車二十五輛、救急車二十五輛、化学消防車一輛など、車輛六十輛、消防官三百九十四名を東大周辺に前進配備していた。
人命にかかわる緊急事態だ。消防車の高圧放水による協力を得るほかない。
ところが電話による再三再四の要請にもかかわらず、消防隊は一向に動こうとしない。
業を煮やした私は、松浦警部を従えて消防署長の姿を求めてかけまわった。消防署長は安田講堂に向かって左側の一階出入口に近いヒマラヤ杉の下にいた。
銀色の|錣《しころ》付き防火ヘルメットに銀鼠色の耐火服を身につけた|大兵《だいひよう》の署長だ。幕僚を従え、安田講堂を見上げて|佇立《ちよりつ》している。
「消防署長さん? 私、警視庁警備第一課長の佐々といいます。さっきからお願いしているんですが、消防車で講堂内の火災消していただけませんか。中は隊員や学生の命にかかわる事態なんで……うちの放水車じゃ、ベニヤ板破れないんですよ」
消防署長の返事をきいたとき、私は耳を疑った。
「消防はね、警察の警備に協力するわけにはいかんのですよ。消防は警察に対しても過激派に対しても中立なんです。もし警備に協力して過激派の怨みを買ったら、ふつうの火事のときホースを切られたり石投げられたり妨害されたら大変ですから……」
一体何考えてんだ、この消防署長は。昨日だってそうだ。列品館が大火災を起こして協力要請したのに埒があかなかった。怒りがこみあげてくるのを抑えてさらに懇請する。
「しかし火事や人命救助のためにたくさんこの辺にきておられるんでしょう? 現に安田の中で火事が起きて機動隊長たちが人命救助のためにも放水してくれって要請してますが」
「ベニヤ板を破ってくれとおっしゃるが、“破壊消防”となると、はっきり火が見えないとできないですな」
「火が見えない? あんなに黒い煙が出てるじゃないですか。火のない所に煙は立たないんだ。中で火事が起きてるから煙がでるんでしょう」
「だが私には火は見えない。この目で火をみないと放水命令は出せない」
なんだ、このデクの坊、なんてこというんだ。吉良邸討ち入りの大石内蔵助みたいな大袈裟な火事装束をつけているくせに。昨日からたぎっている怒りが爆発してしまった。言葉がぞんざいになる。
「それじゃあこうしよう、署長さん。私と一緒に中に入ろう。その目で火を見たら放水してくれるんだね?」
「いや、そんなわけにはいかない。安田の中に入るなんて。私は消防の責任者で警備の関係者じゃないんだから」
こういう身体のでっかいのに限って気が小さいのだ。こういうのを“象の身体にノミの心臓”というのだ。“ふぐのたち泳ぎ”ともいう。そのこころは“上ばっかりみて泳ぐ”。警察にも時々こういうのがいるが。
「怖いのかい、署長さん、みてみろ、私を。レインコートだよ。アンタ、そんな耐火服大仰に着ちゃって中に入るの、怖いのかい」
署長はさすがに真っ赤になって怒った。
「失礼なこというな、私は臆病もんじゃない。これでも大陸(中国)戦線でタマの下くぐってきたんだ」
「そんならオレと一緒に行こうじゃないか」
事、ここに至るまでにすでに私の後ろには両者のやりとりをきいていきり立った機動隊員たちがつめよっていた。消防士たちも署長を守ろうと殺気立って集まってくる。
「じゃあホースの筒先を貸せ、こっちでやるから」
「なにをいうか。筒先は消防手の命だ」……。
とめる間もなかった。いきり立った機動隊員たちが消防ホースの筒先を奪いとろうとして、渡すまいとする消防士たちともみあいになった。機動隊員は生死をともにする同僚への戦友愛が強烈だ。講堂内で隊員たちが焼け死ぬ危険があると知って、ホースを奪ってでも助けにゆこうと実力行使に出たのだ。
筒先を抱えた二、三人の機動隊員の青ヘルとそれにぶら下がるようにしてひきずられる銀ヘルの消防士が、投石の下、もつれあって講堂内に入ってゆく。やがてしぼんだ状態の消防ホースがずるずる講堂内にひきこまれてゆく。地を這う大蛇のような消防ホースがみるみる膨れあがり、のたうちまわりはじめる。講堂内での延長放水が始まったのだ。
現場の消防署長では埒があかない。また昨日の列品館の際と同じやり方で縦割り行政のサミット連絡調整で消防庁から命令を下してもらうように手配する。
やがて上から指示があったのか、消防隊の動きが活溌になり、消防車の高圧放水が始まった。八機の放水車とはケタ違いの威力だ。もともと水流の太さがちがう。窓をふさぐベニヤ板が小気味よく吹っ飛び、一、二階の窓がポカッと黒い口を開ける。待ってましたとばかり催涙ガス弾が次々と撃ちこまれ、八機の放水車も開いた窓を狙う。放水が功を奏し火が消えてゆく。ふき出していた黒煙が次第に白くなる。
「凄い威力ですな」と松浦警部。
「機動隊も高圧放水車を早く装備しないといけないな」と私。
“学生死亡”のデマ情報
前線指揮所の多重無線車に戻ると、東京新聞社会部の警視庁詰め、警備公安担当の吉村俊作記者が緊張した面持ちで「昨日列品館で怪我した学生が死んだって神田が大騒ぎになってるけど、本当?」と取材にくる。
情報源はほかならぬ東大当局らしいともいう。中央大学に集まっていた東大闘争支援の全共闘約二千名が、その学生の死を悼んで黙祷を捧げ、いっせいに街頭にくり出して昨日に引き続き“神田カルチエラタン闘争”をはじめたそうだ。
ただちに東大当局の“警備本部”に電話で問い合わせる。
いらいらしながら回答を待つこと|暫《しば》し、調査の結果「事実無根」。当の学生は重傷ではあるが死んでいないことが判明した。
このデマを信じて昂奮している神田の学生たちを鎮めるためにも一刻も早く真相を広報し、あるいはラウド・スピーカーで学生たちに伝えなければいけない。とりあえずリモコンで全部隊指揮官に通報する。
さらにもう一つ、心配の種が出てきた。向こう側の石や火炎ビンなどの“弾切れ”を狙って陽動作戦で消耗を強いてきたつもりが、こっち側に“弾切れ”のおそれが出てきたのだ。
前にのべたように、東大安田講堂封鎖解除警備に備えて警察庁警備局の努力により全国道府県警察本部の保有する催涙ガス弾を、一月十七日の時点で一万五百二十八発警視庁に集めてこの世紀の大警備に臨んだ。
しかし催涙ガス弾の消耗は予想よりも早くて、各隊から「弾切れ、補給乞う」という要請が殺到した。しまった、もっと総予備をとっておくべきだった。五百発を残して全弾を方機にまで均等配分してしまったのは大失敗だった。
すぐに七個機動隊に予備弾を追加配分するが焼け石に水。全国から回収してしまったのだから警察庁も警視庁も“残弾なし”だ。
装備係が急遽国会、官邸、霞が関など後方警戒配置についている各方面機動隊から既配分の催涙ガス弾の回収に向かう。ところが本郷・神田地区の方機十五個大隊は無理としても、予備八個大隊は少なくとも千二百発ぐらいの配分を受けているはずなのに、回収班の輸送車はカラで戻ってきた。
私の認識が甘かった。修羅場に臨む指揮官は自分の担当任務が大事で部下が可愛いから、いったん配分された兵力や予算、装備をおいそれと手放すものではないのだ。
再度「命令だ」といってとりに行かせるが、また手ブラで帰ってくる。「もう撃ち尽くして残弾ありませんといってます」との報告。ウソつけ、一発も撃っていないはずだと地団駄ふんでも後の祭りである。
これは大きな教訓だ。この次からは総予備は総合警備本部で多めにしっかりと握っておかなくては……。
命がけの食糧搬入
もう一つ、意外に厄介な問題となったのが本郷から神田、霞が関から赤坂へと広汎な地域に展開した総兵力八千五百の部隊に、いつ、どこで、どうやって給食するかという補給上の問題だった。張りつけ警備の部隊は楽だ。だが多方面に展開して動きまわっている各隊に弁当を届けるのは至難の業だ。なかでも安田講堂に突入した四、五、七機や、神田地区で約二千名の全共闘と一進一退の市街戦を演じ、数千名の野次馬に取り巻かれている一、二、三、六機、八機邏などに配達するのは難しかった。第一次反安保闘争の時も輸送車が暴徒に襲われ、何千食という機動隊のための弁当が奪われたことがある。
大体、土・日・祭日は弁当業者は休みだ。各隊の炊事班が徹夜で厖大な量の警備食を調製しなければならない。ふつう隊食は六百食だが、一缶五十人分の炊飯器をフル稼働しても最大給食能力は一日千二百人分が限度。それを一日三千食の弁当作りを命ぜられるのだから大変だ。
流動変転する警備情勢によって前触れなしの数の増減は日常茶飯事である。容器は使い捨ての発泡スチロール。衛生上の観点と予算上の制約から佃煮、沢庵、梅干しを副菜とした既成の焼物主菜の米飯弁当。それをゴムバンドでとめるという流れ作業が続く。
四機給食班の掛川健治隊員は腕が痛くなる。自分は食べる暇がないから腹も減る。後方支援の苦労もわかってほしいと内心ボヤく。
「おおい、明日は何食だ?」
「東大の学生に電話して聞いてみろ」と冗談も飛び出す。
弁当をつくるのも大変だが、それを現場に展開している隊員一人一人の手元に届けるのがこれまた大仕事。
四機の場合、朝食の弁当は講堂裏側の経理部車庫までは届いていたが、危なくて講堂内に搬入できずにいた。容器の形状からみて機動隊の弁当とわかったのか、メシを食わせてなるものかと意地になっているとしか思えない執拗さで、学生たちが狙いうちに投石や火炎ビンを集中投下してくるからだ。
この世の地獄のような暗黒の講堂内で、飯野隊長はふと腕時計をみる。午前十一時だ。
六時半に再突入して以来、すでに四時間半。全隊員は朝食抜きで危険きわまる重労働を続けている。
「朝飯はまだか! 本部員は何をしてる。すぐ飯を食わせるよう手配しろっ」
隊長に雷をおとされた今川徳次広報主任(巡査部長)は、投石をくぐって車庫に走る。一個中隊六十人分の弁当を、着ていた雨合羽でしっかりくるみ小脇に抱えて投石、火炎ビンの合間をぬって講堂内に搬入する。
二度目の疾走中、今川巡査部長はハテ、このタイミング、昔どこかで体験したな? そうだ、戦争中ボルネオの戦場で敵の機銃掃射をかわしながら走ったときだと思い出す。
隊員たちは催涙ガスにむせび、涙を流しながら朝昼兼用の質素な弁当をほおばる。今川巡査部長は、この涙は年配のこのオレに対する感謝の涙かな、とひとり満悦する。
同様に七機の二個中隊が朝食にありついたのも午前十一時頃だった。これも隊付巡査部長が三十食ずつ何回も命がけで搬入したものだった。
五機も腹ペコだった。昼を過ぎてもまだ朝食が届かない。“食当”(食事当番)の安藤健蔵隊員は荒木俊治分隊長指揮の下、弁当搬入の任に当たる。目の前の車庫に一目で五機用とわかる茶色の弁当収納容器がみえるのに、頭上からの妨害がはげしくてとりにゆけない。|畳《たたみ》やポリバケツまで降ってくる始末。
畜生、そっちがその気ならこっちも食当の意地で運んでやる。食い物の怨みは恐ろしいぞ、手ブラで戻ったらそれこそ五機全隊員が敵になる。そう考えた安藤隊員は、車庫内の隊付補給係としめしあわせ、黒黄まだらのロープを投げさせてこれを柱に結び、ケーブルカーの要領で容器をたぐりこむ。足元にはせめてこれでもと投げこんできたせっかくのキャラメルが、散らばって水浸しになっている。弁当収容箱は重いからロープが|撓《たわ》み、地面スレスレになり、机や畳にひっかかる。悪戦苦闘三十分、ようやく催涙ガスやガソリンの臭いのしみこんだ朝食が運びこまれた。
学生はよほど口惜しかったのか、ポリバケツの|蓋《ふた》まで投げてきて、それが円盤のようにゆっくり回転しながら車庫に舞いこんでいったのが印象的だった。
五機の千葉小隊が朝昼兼用の朝食にありついたのは、午後二時だった。二時間の睡眠と六時間の重労働、そして午後二時の朝食。お菜はシナチクと梅干しだったが、千葉小隊長は「その味はすばらしかった」と述懐している。
同じ五機第一中隊でも磯部庄資中隊長指揮の小隊にはなぜか午後一時頃、二食分の配給があった。その時の部隊位置関係による運不運の問題である。昨夜来全く食物を口にしていなかった隊員たちは一挙に二食を食べ尽くし、もう安田城を陥したかのように明るく満足げだった。磯部中隊長が食べ残した一食分をふくめ、いっぺんに三食平らげた大食漢もいた。
その頃神田地区で空腹のまま数千人の野次馬を規制していた八機邏の大堀義幸隊員の耳に、学生風の二人の会話が聞こえてきた。
「最近の機動隊員はみんな体、大きいな」
「そうよ、食い物が我々とは段違いだぜ。毎日ぶ厚いトンカツばかり食べてるそうな」
「そりゃ体も大きいわけだ……」
大堀隊員は冗談も休み休み言え、一度我々の弁当食べてみろ……と中っ腹になる。
講堂内で池田七機隊長が用意してきた飴玉を隊員に配った。疲れて腹のへっている時の妙薬である。「おい、隊長が飴玉くれたぞ」と、隊員たちは大喜び。大事な指揮官心得だ。
食物を腹に入れる方も難問だったが、払暁に本富士署の床や警備車、東大講内の冬の野天で二、三時間の仮眠。起床。朝食抜きの出動。安田講堂突入と、文字どおり洗面もできずトイレにも行き損ねた各隊の隊員にとっては“出す”方も大変だった。どうしても便秘になるのだ。
七機第二中隊の催涙ガス分隊の鉾立公太郎分隊長は、講堂内に突入した頃から下腹が張ってきて困っていた。やがてバリケード撤去作業中の隊員たちの間から異様な発射音が聞こえはじめた。“ガス分隊”以外の隊員までガスを発射しているのだった。困っていたのは分隊長だけではなかったのである。
「命令なしにガス発射するな」と冗談も飛び、みんな顔見合わせてテレ笑いする……。
一歩一歩前進
飯野隊長陣頭指揮の四機は、増山實、軽部和三、木田菅夫、鈴木迪男各中隊長の指揮の下、四カ所の階段から二階をめざしてバリケード撤去作業に当たる。午後十二時十五分、第一中隊が正面階段の右側から二階に突入、第二中隊がこれに続き、二階を制圧し、逃げ遅れた籠城学生二十名を検挙した。昨日以来、実に九時間に及ぶ苦闘の成果である。
三階がいわゆる「大講堂」で全共闘の主力がたて籠る牙城だ。大講堂部分は四階が吹き抜けになっていて、そこを陥せばあとは屋上と時計台だ。
二階を制圧した四機は息もつかずに三階正面階段と三階講堂正面に向かう通路のバリケード撤去を開始する。ここを突破されては安田城は落城必至だ。籠城学生たちは主防衛正面を三階階段に集中し、あらゆるものを投げ、バリケードの隙間から鉄パイプで隊員を突くなど、ここを先途とはげしく抵抗する。
先陣を切ったのは増山實警部指揮の第三中隊だ。銀杏並木からみて右側階段の踊り場まで攻めのぼったが、はげしい火攻めにあって作業は困難をきわめる。
五機は|堂元《どうもと》久男副隊長の指揮で正面玄関に対する陽動作戦をくり返すかたわら、青柳隊長、根本安副隊長の主力は講堂裏側にまわった。
講堂内に突入した第一中隊の磯部庄資中隊長は、一階裏側の奨学生係室などのバリケードを排除してあとの中隊が入れる隙間をつくらせた上で、一人ずつ続いて疾走してくる隊員に対し、突破口内側からタイミングを計ってゴー・サインを出していた。
突然はげしく落下する石塊や火炎ビンの中を黒い弾丸のように飛びこんできた者がいる。
「危ないっ、誰だ、こんな無茶苦茶な入り方をするのは」
と怒鳴りつけると、なんとそれは青柳隊長だった。
隊長は飛びこむや否や「モタモタしてないですぐ部屋を片づけろっ」と怒鳴り返す。
びっくりした隊員たちは、ただちに作業にかかる。隊長の勇気に奮い立った五機は、ジリジリと階段の厳重きわまるバリケードを排除して二階に攻めのぼる。
磯部中隊長は一斗缶入りガソリンの炎を浴び、数名の隊員とともに火だるまになるが、その瞬間開かれた窓から飛びこんできた凄い威力の放水によって命拾いする。だが炎と水の洗礼を交互に浴びているうちに骨まで凍るズブ濡れの寒さに堪えかねて、次の火炎ビンの暖かさが恋しくなり、命の恩人の水を怨めしく思うという異常心理に陥ったという。
苦闘三時間余、階段をふさぐバリケード上部に突入、五機第一中隊は歓声をあげる。時は、午後一時。
同じ頃、五機の細井為行中隊長は正面玄関に対し成功の見込み薄い陽動作戦を担当していた。正面玄関バリケードは堅牢をきわめ、何回アタックしても同じことのくり返しになる。
秦野人事による初の上級職中隊長の細井中隊長は、初陣なのに果敢な陣頭指揮を試みる。屈強な破壊工作班八名を同乗させた警備車をバックさせ、玄関正面二メートルに接近する。工作班をバリケードにとりつかせるが、コンクリート円柱の投下をうけて車の屋根は裂け、火炎ビンの炎に包まれて後退する。
五機第三中隊の石田薫小隊長がロッカーにフックをひっかけ、警備車で牽引してひきずり出そうとしたその時、
「お前ら覚えてろ、ふっ飛ばしてやるぞ」
という罵声とともに導火線付きのダイナマイト状の円筒が投げられ、赤い火がパチパチはぜる。
「ダイナマイトだっ、退避!」石田小隊長の後退命令で奈良隆司隊員ら工作班は一団となって退避する。ふり返ってみるとモクモク煙があがっている。畜生っ、発煙筒か……。
細井中隊は、このあと講堂裏側に転進して講堂内のバリケード排除にあたることになるが、正面玄関はとうとう最後まで突破できずに終わった。
誤れる陣頭指揮
消防署長と喧嘩までして実施にこぎつけた延長放水だが、果たして効果はどうなのだろう。この目で見届けようと決心した私は、松浦警部とともに裏側出入口から講堂内に入る。
内部は暗く、氷のように冷たい濁水がくるぶしを洗って流れる。水に溶けた書類などがパルプ状になっていて、足元がぬるぬるして気持ちが悪い。充満した催涙ガスが目を刺し、つまった水洗便所の排泄物や腐敗した食物、ガソリン臭などがいりまじった強烈な悪臭が鼻をつく。
暗い迷路のような狭い通路に機動隊員たちのシルエットが黒々と群がり、なかなか通れない。ようやく二階にあがる。ベニヤ板が剥がれた窓から、斜めに冬晴れの陽光がさしこみ、堂内は白黒の縞模様になっている。やっとのことで飯野四機隊長に会えた。全身ズブ濡れで声は|嗄《か》れている。
「放水は効果的であります。できれば延長放水の筒先が三階まで届くといいのですが……」という。
三四郎池に面した部屋で池田七機隊長に会う。
「どうだい、水の効果は?」ときくと、「ええ、大変いいです。もっと続けて下さい」との答え。
そうだ、ホースをのばして講堂三階にひきこみ延長放水をすればいいのだ。
さらに青柳五機隊長の姿を求めて暗闇をさまよう。聞きなれたドラ声が三階へ上がる階段附近で聞こえる。
「前っ、前っ、ガード、ガード、大楯、しっかり構えろ」
狭い階段の昇り口で文字どおりの陣頭指揮である。ひしめく五機隊員とバリケードに妨げられて、とても近寄れそうもない。
三階から降ってきた火炎ビンが発火し、炎がツーッと水面を走って燃え尽きる。すかさず下から催涙ガス銃を発射。その閃光の中に一瞬「5」と書かれたヘルメットが闇に浮かび、また闇に消える。
耳にはさんだ受令器のイヤホーンが「一課長、現在地知らせ、一課長、現在地知らせ」と|囁《ささや》いている。
松浦警部が背負っているウォーキー・トーキーの送話器をつかみ、「一課長です。現在地安田講堂内」と送信し、電鍵から指を離し受信の姿勢をとった……途端に下稲葉警備部長の怒声がとびこんできた。
「一課長、そんなとこで何してる。全体をみてなきゃ駄目だろう。すぐ出てきて神田がどうなってるか見てみろっ」
いけねえ、つい夢中になって安田にのめりこんでしまった。部長のいう通りだ。五機隊長の意見をきくのはあきらめて出口に戻る。
いかん、さっき安全だった突入口に石が降っている。見上げれば赤ヘルに覆面の学生が二人、石を抱えて出口附近の屋上に頑張っていて、時折大楯をかざして飛び出す隊員めがけてドサリ、ドサリと石を投げ落としているじゃあないか。憎いがどうしようもない。早く警備本部に戻らなくては。数十メートル先に八機の放水車が見える。松浦警部が無線で支援放水を要請し、その水煙に隠れて脱出する。
本部に向かう途中、記者団につかまった。
「佐々やん、なかどうなってんのか教えてよ」と読売の大内孝夫記者。警視庁記者クラブきってのユーモリスト。極限状況下でいつも切れ味のいいジョークをとばして人を笑わせる。
「さっき青柳隊長のあとついて入ったけど、ニトロは結局あるのかねえ」と毎日の白木東洋記者。昭和三十五年外事課時代以来の長いつきあい。「三無事件」をスクープして公安部をギョッとさせた敏腕社会部記者。
いつも夜まわりにくる共同の川上徹記者(故人)もいる。前田明(毎日)、森暉夫(読売)、大熊秀治(東京)各記者の顔も見える。NHKの日田邦穂記者がいう。
「うちの船久保キャップが全国中継の生放映に出て、いま見てきた講堂の中の状況の解説、やってほしいっていうんだけど、出てくれない?」
「駄目だよ、オレ解説者じゃないんだ。機動隊が命がけでやってるのに、警備一課長がテレビに出て評論してたらぶっ飛ばされちゃうよ」
「船久保さんはNHKの公共性を考えて視聴者のために頼むっていってるけど」
「悪いけど、断わります」
この記者の面々とはその後長いつきあいとなる。
昭和四十七年二月の「浅間山荘事件」でも前出の読売・安部誠一カメラマン、朝日・富永久雄記者もふくめて、同じ顔触れが「“赤軍だよ、全員集合”だな」(当時のテレビの人気番組の題名をもじったもの)といいながら集まってきたものだ。とくに「浅間山荘」突入の二月二十八日当日、同じNHK船久保晟一キャップから全国中継の生放送出演を求められ、安田講堂のときと同様、お断わりしたのだが、歴史はくり返すのだろうか。
本部に戻った私は、警備部長から安田講堂にのめりこんでしまって全体をみていなかったことについて注意された。
事実、神田駿河台地区は約三千名の過激派との一進一退のはげしい市街戦に突入しており、さらに数千名の野次馬も加わって新宿騒擾に似た状況となっていた。東大支援のため本郷に向かおうとする全共闘各セクトのゲバ学生は、お茶の水、本郷二丁目附近の道路いっぱいに拡がって投石をくり返し、九島賢一郎隊長の三機、秦野人事により新設された上級職の増田美正隊長指揮のミニ機動隊・六機は、苦戦を強いられていた。
とくにこの状況は一本(神田地区担当)と五本(本郷地区担当)の境目で起きていたことから総本の幕僚長である警備第一課長がデスクに坐り、二つの方面警備本部の連絡調整、情報処理、部隊の配置転換など警備兵力の運用等、総合的な幕僚長の重責を果たさなければいけなかったのだ。戦いに酔い、戦術にかたより、大局を忘れた“誤れる陣頭指揮”だった……と反省する。
後日この点については秦野章警視総監からこっぴどく叱られた。
「あのなあ、佐々君、君はよく現場にいくようだが、時と場合によるぞ。第一線でやってると自分が何かやってるってえ充実感、あるだろう。機動隊員の人気もあがるだろう。だがなあ、警備課長が機動隊長と同じことやっててどうするんだ。全体を見渡せるとこにいなきゃしようがねえだろ? 怪我の仕方、間違えるんじゃねえよ、隊員たちが火炎ビンや投石で傷つくとき、君は警備本部にいて政治的に、法律的に、マスコミ的に傷つくんだ」
全くその通りで一言もなかった。
午後三時五十分、大講堂制圧
四機・飯野定吉隊長の戦術眼は正しかった。三階大講堂入口の攻防戦の局面を一挙に打開したのは、延長ホースによる高圧放水だった。
午後二時三十分頃、四機第三中隊・増山中隊は三階階段の上の大講堂入口をふさぐ最後の巨大ロッカーのバリケードまで到達した。これにフックをかけてひきずり落とそうという作業にかかるが、狭い階段の前後左右に投下される火炎ビンの炎に阻まれた。八機放水車の延長ホースは三階まで届かず、水圧も低い。
四機隊長が再三再四要請していた消防の高圧放水ホースの筒先が、この頃になってやっと二階まできた。凄まじい現場の状況をみた消防士たちはたじろぎ、「これは危なくてとても駄目です」と消火作業を中止し、引き返そうとした。
その時である。終始四機武道小隊とともに先頭を切ってきた中隊長伝令の赤瀬滋巡査長(故人)が「私にやらせて下さい」と叫んで消防士からホースの筒先をひったくった。大楯もなしで二階階段踊り場に仁王立ちとなり、斜め上から火炎ビンを投げ、石塊を落とすバリケード上の学生たちに向かって|憑《つ》かれたように放水を始めたのである。
増山中隊長は赤瀬巡査長の頭がおかしくなったのかと驚き、「危ない、さがれっ」と命令するが、赤瀬巡査長聞かばこそ、太いホースは凄い水圧でのたうつが、シッカと筒先を構えて動かない。顔面にまともに高圧放水を浴びた階上の籠城学生たちは後退し、投石も火炎ビンもやんだ。
これでロッカーをひきずり落とせると思った途端、また予期しないことが起こった。
赤瀬巡査長の勇敢な行動に奮起した武道小隊の鈴木貫之助隊員がバリケード上の隙間を四つん這いになって越え、暗黒の大講堂内に単身飛びこんだのだ。
樋口敏彦、万代俊昭、赤瀬、村岡各武道小隊員がただちに続く。増山中隊長も飛びこむ。万一内側から鉄パイプで突かれて転落したら、十数メートル下の床に叩きつけられるという危険きわまりない突破口である。
一番乗りの鈴木貫之助隊員が闇をすかしてみると、無数のヘルメットが円陣を組むようにうごめいている。数が多すぎる。もしかして五機の部隊か? いやちがう、目が闇に慣れるにつれて赤・白のヘルメットに角材、鉄パイプが乱立しているのが見えた。どうしよう? そこへ樋口、万代両隊員がきた。一瞬目を見合わせ、覚悟をきめる。
「機動隊だっ、抵抗をやめろ、手をあげろ」鈴木隊員は剣道で鍛えた|大音声《だいおんじよう》で一喝し喚声をあげて突進する。すると驚いたことに二十名ほどの赤ヘルが抵抗のそぶりもみせず手をあげた。これには鈴木隊員らも驚いた、こんなに簡単に手をあげようとは。三百名はいるかと思われる学生たちが大講堂のステージ裏の方にいっせいに逃げる。
その後を追うと、こちらが小人数とわかったのか七、八十名の白ヘルが鉄パイプを振りあげて抵抗の気勢を示すが、その頃には次々と機動隊員が飛びこんでくる。
増山中隊長が語気鋭く「両手をあげて一列にならべっ」と大喝すると、二百人近い学生たちはオドオドした動作と小学生のような素直さで、先を争って並ぶ。みな放水でズブ濡れ、顔はドス黒く汚れ、無精ヒゲがのびている。
鈴木紀孝隊員は、これがさっきまで機動隊はみな殺しだ、安田講堂を死守するぞと叫び、火炎ビンや石塊、硫酸などを投げつけてきた革命の闘士たちと同一人物なのかと目を疑った。不潔な長髪の下からときどき機動隊員を盗み見る目つき。ヘルメットの後ろで組み合わせた学生たちの手はワナワナ震えている。
後続の隊員たちが周囲をかこむ。「検挙っ」という増山中隊長の号令をきいた籠城学生の間に、一瞬いいようのない不安動揺が起こる。
「暴力はやめろっ」「勘弁して下さい」「乱暴するなっ」と口々に叫ぶ。リンチを受けるとでも思っているのだろうか。
鈴木紀孝隊員は前にいる小柄な赤ヘルの男の襟もとをつかむ。彼より一まわりも小さい、彼の末弟ぐらいの年齢の男だ。
「勘弁して下さい。許して下さい」といってかがみ込む。
その男は連行する途中前後を気にしながら小声で、「お母さんがいっちゃいけないっていったんだ。でも僕、やっぱり来ちゃった」と告白する。さらにビショ濡れの千円札を二枚出してみせて「カンパしなかった。帰りの電車賃です」という。
どういうことなんだ、これは?
「俺も赤ん坊が生まれたばっかりだけど、今日ばかりは何回も死ぬかと思ったぞ」と鈴木紀孝隊員がいうと、
「機動隊さん、怪我しないように元気でいて下さい。また今度どこかのデモで会うかも知れませんね、でもあなたがいたら石投げませんよ」
革命ごっこが終わったいま、彼は何をいいたいのだろう……と鈴木紀孝隊員は考えこむ。
一番乗りの鈴木貫之助隊員は、ステージ裏で鉄パイプを構えている百人くらいの学生とであった。
「指揮者は誰だ、前に出ろっ」と一喝すると赤ヘルの男が手をあげ、「私です」という。
鈴木隊員は彼の胸元をつかみ、「全員に降伏するよういえっ」というと、約五十人が指揮者の指示をまたずにぞろぞろ列になって出てくる。
しかし、その奥にいた白ヘル約五十名は、鉄パイプをふるって襲いかかってきた。大楯を手に渡りあった増山中隊長は右顔面に一撃を受けて受傷、警察病院に運ばれたが、最後まで抵抗したグループもやがて全員検挙された。時に午後三時五十分であった。
四機に続いて大講堂に突入した七機も、約四十名を検挙した。安田大講堂制圧の大任を果たした四機は、休む間もなく「神田地区転進のため集結せよ」との総本命令を受けた。検挙した二百名余の籠城学生たちを引き渡した四機は、屋上と時計台上に残る学生たちの検挙を五機にまかせ、午後四時三十分、安田講堂を後にした。
「四機部隊、三階に突入。検挙活動に入る」
という無線報告を受けたとき、期せずして五本(本郷地区担当)の多重無線車内に歓声がわき起こる。津田参事官、豊田五本警備本部長、幕僚たちは思わず立ち上がって固い握手を交わす。
午後四時前、全く突然、東大構内に静寂が訪れる。時計台上の学生も姿を消し、投石や火炎ビンもやんだ。
「降伏するのかな?」報道陣と一緒に投石などを警戒しながら正面玄関に近寄ってみる。さしも頑丈な正面玄関の厚板もあらかた除去され、その奥にぎっしり詰まったスチール製ロッカーが十数個ひきずり出されてできた隙間の奥の暗がりに、黒い人影がうごめいている。さだかではないが、ロッカーの上に学生が二人くらいうずくまっている。
つい先刻まであれほど凶暴に抵抗して五機を苦しめていた彼らだったのに、もう投げるものも尽きたのか、さりとて奥に逃げこもうともせずジーッとしている。トラメガ(トランジスター・メガフォン)片手の機動隊小隊長がそばに寄ってきて、ひょうひょうとした口調で話しかける。
「おい、もうみんな降伏したぞ、お前たちだけだぞ、降参しろ」
なかから思いがけない幼い声で「ウソだあ!」とわめき返す。
小隊長はなおもひょうひょうとした口調で説得する。
「……なに? まだやるって? そうか、それじゃどっちがいい? 水か? ガスか?」
|固唾《かたず》をのんで聞き耳を立てていた報道陣がドッと笑い崩れた。
私はその小隊長の口調がおかしくて笑ったのかと思ったが、そばにいた読売の森暉夫、河西和信記者に「おい、なんだよ、何で笑ってんだ?」ときくと、森記者が笑いながら、「なかの学生が“水”って答えたんだよ」……
さっきまでの凶暴性となんともアンバランスなその幼さを、一体どう理解したらいいのだろう。
東大のいちばん長い日
夕闇迫る頃、数十名の籠城学生たちが屋上でスクラムを組み、セクト旗を振って「インターナショナル」を合唱しはじめた。
やがて別の歌になる。ああ、「国際学連の歌」じゃないか。昭和二十五年四月、東大法学部に入学した直後、六月に朝鮮戦争が勃発し、学園には反戦・反米イデオロギー闘争の嵐が吹き荒れた。その頃さんざん聞かされたのが、この「国際学連の歌」だった。私自身は首尾一貫して代々木主導型の学生運動に反対だったが、こうしてきくと奇妙な懐しさを覚える。青春時代へのそこはかとない回帰なのだろうか。
学生の歌声に、若き友よ手をのべよ、
輝く太陽青空を、再び戦火で乱すな、
我らの友情は、原爆あるも断たれず、
闘志は火と燃え、平和のために闘わん、
団結固く、わが行手を守れ。
加藤一郎学長代行の屋上の学生たちに対する呼びかけが始まった。
いつもと変わらない淡々とした冷静な呼びかけだ。
「……これ以上無用の抵抗を続けると危険です。すみやかに出てきて下さい……」
この呼びかけに耳を傾けていた三機広報主任の高田宏巡査部長は、昨日のことを思い出す。
午前五時半出勤と申し渡された高田主任は、前夜から隊に泊まりこんだ。満員電車の中で酒気を帯びた乗客同士が足をふんだ、ふまないで喧嘩になりそうになったとき、|身嗜《みだしな》みのよい中年の紳士が「こんな狭いところでやらずに広い東大構内で思い切りやりなさい」とたしなめたものだった。
午前七時、指揮官車上の高田巡査部長は報道陣のフラッシュを浴びながら、テレビにうつされてはと思い不動の姿勢をとった。そして午前七時二十分、三人の東大教授に籠城学生に対する退去勧告を広報してもらった。その時、教授たちの手が震え、広報内容が主体も客体もないものだったので、マイクの使い方や内容について指導をした。
教授たちは「ハイ、ハイ」と素直にいうことをきいたが、高田巡査部長は、オレが東大教授にものを教えるのも、これが最初で最後だろう、と思った。そしてその時、加藤一郎代行が指揮官車の脇で悲壮な顔で安田講堂を見上げていたことを思い出した。
いま加藤代行はじめ東大教職員たちは、依然たちこめる催涙ガスのせいで流れる涙をハンカチで拭っている。この涙が心の底からのものだったならば、こんな状況にはならなかったろうに……と高田巡査部長は残念に思った。
五機の青柳隊長は午後一時過ぎ、顔と首と手に塩酸を浴びたが、放水の水で洗い流す。顔面はつっぱり、首や胸はヒリヒリするが、そのまま指揮をとる。
午後二時五十五分、五機も三階大講堂に突入、四、七機と協力し、演壇上でスクラムを組み、インターを合唱していた全共闘二十五名を検挙した。引き続き五機は屋上でなお抵抗を続ける社青同、反帝、ブントの全共闘九十名を検挙すべく、屋上、時計台に通ずる会議室前の螺旋階段のバリケード撤去にかかった。しかし屋上に通ずる鉄製扉は施錠された上、ロッカーなどのバリケードで固められ、ビクともしない。
午後四時三分、破壊工作班がエンジン・カッターにより鉄扉の切断作業を開始するがなかなか埒があかない。次第に夕闇が迫る。
五時二十分、再びクセノン投光車が強力な照明を点灯する。他に屋上にあがる方法はないかと必死に検討した五機第一中隊・磯部中隊長は、四階会議室前廊下から螺旋階段外側の吹きぬけに狭い平場があるのを発見、窓を破って外の平場に即製の木製継ぎ足し梯子をかけて五時三十分、五機は衆人環視の中で屋上に姿を現わし、全共闘学生九十名の検挙を開始した。
時に一月十九日午後五時四十六分。
安田講堂の“城攻め”が始まってから、実に三十四時間四十六分、“東大のいちばん長い日”は終わろうとしていた。
梯子をよじのぼって屋上に躍りあがった五機の磯部第一中隊長は、河野第四中隊長、石川分隊長らとともに最終点検のため時計台に昇った。時計台は食糧倉庫だったと見え、パン、握り飯などがぎっしり貯えられていた。時計台最先端には籠城学生らが立てた赤旗が結びつけられたままになっている。
磯部中隊長は、赤旗をとりはずし、中年の東大教職員が手渡す真新しい日章旗をてっぺんに掲げる。大寒の風吹く夕闇空に、クセノン投光器のイルミネーションをうけた日の丸がへんぽんと|翻《ひるがえ》る。五時五十五分だった。
いま静寂が甦り、廃墟と化した東大安田講堂にはためく日の丸は、周囲から見上げる数千人の機動隊員、東大教職員に各人各様の感銘を与えた。東大は明らかに狂っていた。狂っていなかったのは時計台上の大時計だけだったのである。
時計台上に沈黙して立ち、いまは何事もなかったかのようにネオンや灯火を輝かせながら夕闇に沈んでゆく本郷の街を見下ろしていた磯部庄資、河野庄作(故人)両中隊長は、感無量だった。さまざまな想いが胸に浮かぶが、二人の心を吹きぬけていたのはたとえようもない|空《むな》しさだった。
残務整理のため、天井から水滴のしたたる廃坑のような安田講堂に入った五機の荒木俊治分隊長は、「東大」という腕章をつけ、懐中電灯を片手にもつ二人の教職員と出会った。
「本当に御苦労さまでした。お怪我はありませんでしたか」
そんな短い会話に限りない感謝の念がこめられていた。外に出ようとするとまた二組の教職員に会ったが、みな向こうから「御苦労さまでした」と声をかけてきた。
荒木分隊長は自分の仕事が酬われたと感じた。とかく大学と警察は肌があわなくてこれまでことごとにいがみあってきた。東大教職員たちも今までは警察、機動隊というとよくて無関心か、体質的な嫌悪感をもっていただろう。それが東大闘争という不幸な出来事のおかげで警察を理解してもらえたとすれば、それは救いであり、収穫であったと、心暖まる思いだった。
だが、機動隊の戦いはまだ終わらなかった。
東大のいちばん長い日は、三十四時間四十六分の死闘の末、東大安田講堂の落城で一応終わったが、神田地区では東大奪還を呼号する数千の全共闘過激派学生集団が道路にバリケードを築き、車に放火し、「神田カルチエラタン闘争」と称して荒れ狂っていたのだ。
翌一月二十日には「東大奪還闘争全共闘総決起集会」が予定され、傷つき、疲れ果てた警視庁機動隊は、休む間もなく次なる“東大七十二時間の戦い”に向けて、神田地区への転進を命ぜられた。
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第七章 終 熄
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敷石はがし作戦をもって七十二時間の死闘は幕を閉じる。後日、奏上した秦野警視総監に対する昭和天皇のお言葉は意外なものだった

神田地区へ転進
夕闇迫る東大構内は、再び騒然となる。
神田地区に転進を命ぜられた四、五、七機は、食事する時間も小休止する暇もなく、「急げっ、急げっ」と各級指揮官たちにどやされながら、緊急転進の準備に|大童《おおわらわ》だ。
エンジン・カッター、斧、掛け矢、バールなど攻城用破壊工作具を車に積む者、散乱するへし折れた大楯やカラの催涙ガス筒を拾い集める者、からみ合ってまるで白い血管のように地表を這いまわる八機の放水ホースを片づける者、戦場(には違いないが)のような騒ぎだ。
連行される籠城学生たちの長蛇の列に向けてひっきりなしに|閃《ひらめ》く取材陣のフラッシュ、フロッドライト。赤色灯をまわしながら次々と発進していく隊員を満載した輸送車や、負傷者を乗せた救急車、被疑者をつめこんだ防石金網張りのバス型護送車のサイレンの音がけたたましく鳴りわたる。
……その喧騒の中、多重無線車の中であわただしい作戦会議が開かれる。多重無線車とは、バス型の移動指揮通信車のことだ。指揮系統は五本警備本部から多重一号内の一本に切り換わる。一機から八機までの正規機動隊の各隊長たちが戦場帰りの武将そのまま、ヘルメットを小脇に抱え、催涙ガスや汗の臭いをふりまきながら参着し、どしっとシートに腰を下ろす。狭い多重無線車内は人でいっぱいになり荒々しい雰囲気が漂い、熱気が充満する。
当時のマスコミは、神田学生街の騒擾事件を「神田カルチエラタン闘争」とよんだ。
「カルチエラタン闘争」とは一九六八年、パリの学生街カルチエラタンで始まり、労学提携の四十万人ゼネストにまで発展した反ド・ゴールの「パリ五月革命」のことである。
この騒擾事件はパリ大学のナンテール校舎の改善を要求する学生集会をオルグした“赤毛のダニー”こと、ダニエル・コーン・バンディットを大学当局が処分したのが発端だったという点で、たしかに東大紛争とよく似ている。だが、反安保闘争のような政治外交上の問題についての長期闘争ではなかった。
大学当局は早くも五月四日には、ソルボンヌを占拠する学生を排除するため、警官隊を導入した。約六百人の学生を逮捕し、ナチス占領時代以来初めて、ソルボンヌ大学を閉鎖した。これに抗議する学生約二万人がカルチエラタン地区にバリケードを築き、凱旋門やブルジョワ文化の象徴とみたオデオン座などを占拠し、赤旗と黒旗(無政府主義)の反旗を掲げて、五月十一日、警官隊とはげしい市街戦を演じた。この事件でリヨン警察署長が死亡し、ポンピドー内閣が倒れて、クーブ・ド・ミュルビル内閣が誕生している。
庶民はどちらの味方だったか?
神田に配備された一、二、三、六機、八機邏の各隊は、さんざんな目に遭っていた。
明大通りで防石ネットを展張し、投石しながら襲いかかってくるゲバ学生と対峙していた一機の前田柳三隊員は、自分たち三個中隊が孤立していることに気づいた。
「これはいかん、このままだと“カスター将軍”だぞ」
と考えた。みると駿河台下交叉点の坂の方から、学生たちに押された白っぽい無人の乗用車が部隊めがけて暴走してくる。危ないっ、隊列を左右に開いてかろうじて避ける。続いて無人の赤いコロナが……電信柱にひっかかった防石ネットをはずそうとしていた前田隊員は、寸前に身をかわし、赤いコロナは電信柱に激突してとまる。
御茶ノ水駅前交番に勤務していた本富士署勤務の志賀巡査は、暴徒に追われて近くの八百屋に逃げこんだ。
「よしきた、二階に隠れろ」と志賀巡査をかくまった八百屋の主人は「今お巡りが入ったろう」と押しかけた学生たちに向かって「入るなら入ってみろ、俺が相手だっ」と叫んで、そばにあった大根をふりかざす。
その権幕にひるんだ学生たちは「バカヤロー」と毒づいて去っていった。
機動隊は、ゲバ学生たちとの市街戦を見物しようと集まってきた何千という無責任な野次馬にも悩まされた。
「危険ですから」「怪我しますから」と規制しようとすると、「俺はただ見に来ただけだ、野次馬扱いするなっ」と怒鳴る者さえいる。田村肇四機分隊長は、心中「何いってんだ、そういうのを“野次馬”というんだ」と憤慨する。
私服で群集の中にまじっていた八機邏の大堀義孝隊員は、作業員風の男から「ブン屋さんも大変だね」と声をかけられる。カメラをもっていたため、新聞記者とまちがえられたのだ。
その男は道路の反対側に待機中の機動隊に向かって「機動隊頑張れよー」と野次を飛ばす。味方かな? と思っていると、学生たちが投石を始めるのをみて、この作業員風の男はとたんに「こりゃ面白い、俺も一つ」といって石を投げ始めた。「逮捕するぞっ」と叫んで大堀隊員が飛びかかると、「ありゃ、私服かっ」といい残して素早く群集の中に逃げこんだ。
「主婦の友」社附近で角材をふるう学生を逮捕した同じく八機邏の山本勝美隊員は、その学生を連行中、近くのガソリンスタンド前で、約百五十人の野次馬にとり囲まれた。群集の中の一人の青年が虚勢を張っていばっている学生の胸倉をつかんで、
「日本がいやなら中国か、アフリカへ行きやがれ。どんなに大勢の人々が迷惑しているか、わかってんのか、一人になると何もできないのかっ」と怒鳴りつけた。
リンチされると思ったのか、その学生は「どうもすみません」とガックリうなだれてすっかりおとなしくなる。連行中も「今頃父や母はどうしてるかなァ、早く勉強しないとみなに遅れてしまうなァ」と呟いていた。
本郷三丁目附近から赤門にかけて群集整理をしていた六機の三好健一教務主任(巡査部長)は、初老の紳士が赤門近くの塀によじのぼって、催涙ガスの漂う中、廃墟と化した安田講堂をじっとみつめているのに気がついた。
「危ないですから」と注意しようとすると「私の母校の現状をみていたいんです。お願いします」と、鉄柵にしがみついたまま頭を下げる。哀れに思った三好主任は「では十分だけですよ」と大目にみることにする。埼玉からわざわざ見にきたという。
やがて「天下の東大もおちたものだ。赤門も馬鹿門に変わってしまったね」といって、挙手の礼をし、催涙ガスで目を真っ赤にさせて地下鉄駅に消えていった。
学徒動員を経験し、いまは定年で引退した東大OBだろうか。
順天堂病院前に待機していた六機の高嶋良一小隊長は、フロントガラスを投石で割られた大型トラックが停車し、顔を血で染めた運転手が転がるように、助けを求めて車から飛びおりてくるのを見た。
「なぜオレたちがこんな目に……」人の好さそうな運転手が訴える。
近くのパン屋の主人が「お巡りさん、なんで関係ない人たちが、こんな目にあわなきゃいけないんだ。もう学生じゃない、気が狂ってるんだよ。みんな捕えて、どこかの島にでも囲っておけばいいんだ」と叫ぶ。
壱岐坂通りの警備輸送車の脇をとおりかかった男の子の手をひいた中年の婦人が、子供に「どうしてこんなにお巡りさんがいるの?」ときかれて、「来年は七〇年安保の年なのよ、それで今から学生さんとケンカしているのよ」と説明している。
このやりとりを聞いた五機の田中憲征隊員は、冗談じゃないよ、子供にへんな教育されちゃ困るな、もう少し説明のしようがあるだろうに……と思う。
「そんなに暴れたかったらベトナムへ行きゃいいのにね」と呟く煙草屋の小母さん。通りかかった職人風の無精ひげのおじさんは、「あいつら機関銃でなぎ倒しちまえばいいのに。まあ怪我しないようにしなよ」と声をかける。
本郷二丁目交差点で、東大支援闘争の暴力学生たちが外堀通りでバスを停める。乗客をむりやりおろし、バスを横倒しにしてバリケードにする。「とんでもねえ奴らだ。死刑にしちまえ」と初老の男が怒鳴る。
聖橋附近で検問していた三機の山下晋小隊長は、次々と野次馬にきかれる。
「テレビみてて本物見たくなって車できたんだ。明大のとこへ駐車してあんだけど、大丈夫かね?」
「勤め先? この近く。……本当は船橋からきたの、見物しちゃいけないんですか?」
「なぜ手が泥で汚れてるかって? 石運び手伝ったんです。何故かって? だって機動隊は強いでしょう、乱暴される心配ないし、学生弱いから、学生手伝ったんです」
……杉並区内の高校二年生である。
明治大学学生会館に雪崩れこんだ三機の林政敏、安光弘道両小隊長は、男女の学生から「負傷した学生を助けて」とすがりつかれた。
頭部を怪我して血まみれの学生を救出して連れ出すと、事情のわからない別の暴力学生たちに囲まれ、両小隊長は殴る、蹴るの暴行をうける。するとさっきの男女学生が「この人は違う、怪我人を助けてくれたんだ」と必死にかばって安全地帯まで同行してくれた。林、安光両小隊長は「やっぱり日本人同士なんだな」と嬉しく思った。
投石を右足甲に受けて足をひきずりながら、本郷三丁目附近に後退してきた三機の橋本博昭隊員は、近くの民家から出てきた品のいい母娘から「お茶でもどうぞ」といって香りのいい熱い玄米茶をすすめられた。
体は冷え、心もすさんだ橋本隊員は、故郷を離れ親の愛情をじかに受けることの少ない日々に、優しい母娘の慰めに接して、腹の底にしみわたる一杯の熱い茶のサービスに深い感動を覚えた。
五機の永田勝隊員も本郷消防署前で近所の主婦から一杯の熱いお茶を振舞われた。八機邏の成沢義夫隊員らも近くの書店主の老夫婦と娘さんから激励の言葉とともに、三回もポット入りのお茶のサービスを受けて勇気百倍、市民は味方なんだと生涯忘れることのできないほど感激する。
神田・本郷地区で附近住民の激励と湯茶のサービスを受けたことは、安田講堂事件の特筆に値する出来事だった。すでに述べたとおり、東大紛争が始まって以来機動隊の東大出動は半年で百七十五回に及んだが、これまでは部隊が待機していると商店街の人々から「機動隊がいると石や火炎ビンが飛んできて迷惑するからどいてくれ」といわれて、みなガックリしたものだった。
安田講堂事件はこうした住民の反応に大きな転機をもたらす分岐点となったのである。
機動隊員を助けた学生
神田駿河台地区は、収拾のつかない騒擾状態が続く。前日投石により左眼、左頬挫傷を|蒙《こうむ》った田村博副隊長に続いて、八機邏の天野政晴隊長も拳大の石で負傷した。
中央大学正門前で投石していた学生を逮捕して道路上に押さえこんでいた笹川保隊員は、周囲から背中に投石を受け、左腕神経麻痺の重傷を負ったが、組み敷いた学生を体でかばい、後日留置中のその学生から感謝されることになる。
四機の田村肇分隊長は、「明治大学学生会館に拉致された私服を救出せよ」との命令を受け、指揮官車を先頭に明大学館に突入し、集団リンチを受けた私服の警察官を救出した。戸板に乗せられた私服は虫の息で、意識を失っている。田村分隊は学生会館玄関前で四方八方あるいは三、四階からの投石を浴びて孤立した。
指揮官車の赤色灯、フェンダーミラー、窓ガラスは砕け散り、まさに進退きわまった。全滅か? といまわしい想いが頭をかすめるが、幸い催涙ガス分隊の支援射撃をうけて、破壊された指揮官車に重態の負傷者をのせて脱出する。警察病院に向かう途中、田村分隊長は怒りと口惜しさのあまり男泣きに泣いた。
駿河台地区で退却しながらふり返った四機の平松卓也隊員の目に、最後尾で二人の隊員に両側から支えられながら足をひきずり、部隊に遅れまいと必死についてくる負傷隊員の姿が映った。ヘルメットに白線一本。分隊長の一人だ。あたりは真っ暗。
暴徒と化した学生たちが逃げ遅れた三人の隊員にみるみる追いつき、石をぶつけ、角材で殴り倒す。頭をかばい、無抵抗でうつぶしている隊員を取り囲んで悪鬼のように荒れ狂い、殴る、蹴るの集団暴行を続ける。
危ない、このままでは死んでしまう。我を忘れた平松隊員は「やめろっ、やめろっ」と叫びながら止めに入る。その時だった。
暴徒の中から「やめろっ」「個人的制裁はやめろ」という声があがり、四、五名の学生が暴力沙汰の渦に割って入り、気を失って倒れている隊員を救出しようとする平松隊員に手助けしてくれた。彼らは平松隊員に協力して意識のない隊員を抱えて駿河台下方向へひきずってゆく。
暴徒たちは「余計なことをするなっ」と怒鳴り、追いすがって角材をふるい、石を投げる。石は平松隊員のヘルメットに、背中に、足に容赦なくあたる。ヘルメットのない学生たちも投石を受けて悲鳴をあげるが、負傷隊員をかかえた手を離そうとせず、「もう少しだ、頑張れ」と互いに励まし合いながら駿河台下に向かって走る。
「主婦の友」社あたりでやっと数人の機動隊員が応援に走ってくるのが見えた。
ああ、やっと助かった。重傷の隊員を救急車に収容した平松隊員は、ふと我に返って救出を手伝ってくれた学生たちに礼を言おうと思ってあたりを見渡すが、彼らは名前も告げずに群集の中に姿を消していた。ああいう学生たちがいるかぎり、大学は救われる、日本は大丈夫だ……と、平松隊員は目の前が明るくなり、胸になにかあたたかいものがみちあふれてくるのを感じた。
“痩せ細る”各隊
安田落城を知った神田学生街の過激武装集団が、明大通り、駿河台下、御茶ノ水駅周辺で乗用車を横転させて放火し、何万枚という敷石を剥がし、ロッカーや机などとともに路上に積みあげている。至るところにパリ・コンミューン暴動のような巨大バリケードを築いた。「東大奪還」を呼号しながら潮のように押し寄せてくる。
一部は本郷三丁目あたりにまで現われ、六機の阻止線に向かって雨あられと投石してくる。制私服の警察官が拉致され、殴る、蹴るの暴行を受けているとの悲痛な至急報も入る。
御茶ノ水駅前の交番が暴徒に占拠されてメチャクチャに破壊された上、赤旗が立っているとの情報も流れてくる。無警察状態である。事態を重視した最高警備本部の秦野総監から、「すぐ神田に行って、なんとかしろ」と、矢の催促。事態は一刻の猶予もならない。
だが、各隊は二日間の激戦で、“痩せ細って”しまっていた。七百余人の隊員たちが重軽傷を負って戦列をはなれ、また安田講堂籠城組だけでも三百七十七名にのぼる逮捕学生たちの護送に多くの隊員をさかれた。しかも不眠不休の長丁場警備で全隊員は疲労困憊、ほとんど人間の体力の限界に達している。次第に夜の闇と寒さがせまる中、出動服は放水でビショ濡れ、部隊の多くは夕食はおろか昼食さえとっていない。
各隊長から|つかみ《ヽヽヽ》で(おおよその)残存兵力を報告させてみると、あわせて約三千名くらい。神田地区で暴れ狂っている暴徒の勢力は、群集心理にかられている野次馬をいれて約一万人はいる。
多重無線車内の作戦会議では「無理をいわんで下さい」といわんばかりの|憤懣《ふんまん》が次々と隊長たちの口をついてほとばしる。
「まだみんな昼メシも食っていない。まずメシを食わせて一息いれてからではいかんですか」
「ウチは検挙者が多かったから、基幹中隊はほとんど被疑者護送にいっててまだ戻ってないんです。彼らが帰隊し、態勢を立て直してからでないと……」
「ガス弾の補給はまだですか? 残弾がほとんどない状況ですが」
……みんな極度に疲労して気が立っている。黙りこくって一言も口をきかない隊長もいる。無理もない。催涙ガス弾はほとんど撃ち尽くし、警備車の多くが安田の“城攻め”で破壊され、頼みの大楯も投石をうけて何百枚となくへし折られている。小まわりのきかない放水警備車は、“城攻め”や重要防護対象の防御には役に立つが、市街戦には不向きだ。水槽付き放水車では二、三分で水切れになってしまう。
敷石を砕いて要塞化した神田・駿河台周辺の大学校舎の上から、あるいは暗闇の中から、密集した部隊めがけて四方八方から雨あられと石を投げてくる中を、裸の徒歩部隊が突っこんでゆけば、大損害をこうむることは目に見えている。
東大安田講堂事件の警備に八千五百名の機動隊を投入したというが、その大半は群集規制や後方支援などの任務についており、“実力規制部隊”すなわち“槍先”となって実戦を戦う精鋭は、一〜五機各四個中隊、一個中隊各六十名の基幹中隊である。六、七機は生まれたての二個中隊編成のミニ機動隊だから、それをカウントしても二十四個中隊。八機邏二個中隊を加えても二十六個中隊・千五百六十名。特機十個中隊・六百名をくわえても二千百六十名にしかならない。
ベトナム戦争に米陸軍が六十万の兵力を投入したというが、第一線で戦闘に従事した実兵は五万名だったという。それと同じで、機動隊もこの最精鋭の|古強者《ふるつわもの》約千六百名が最も負傷率が高く、また被疑者の逮捕者として一時隊列を離れて現行犯逮捕手続きのため後方に退くことが多かった。
十八、十九両日の機動隊負傷者は、重傷者三十一名をふくめて七百十名(十八日、五百五十五名うち重傷二十二名。十九日、百五十五名うち重傷九名)に達した。担架による搬送や介添えが必要な負傷者には同僚が病院まで同行するから、実際は負傷者数以上の隊員が戦線を離れることになる。
さらに、被疑者を検挙した場合は、逮捕した隊員一名は彼を連行するし、荒れた現場からの護送となると逃走や抵抗、あるいは仲間に奪還されることが予想されるので、複数の護送要員を後方にさくことになる。
ここが敵を殺傷することを任務とする軍隊と、生け捕りを任務とする機動隊の大きな違いなのだ。軍隊には「彼我死傷者比率」(キル・レイシオ Kill-Ratio)というコンセプトがある。相手をより多く倒して勝利をおさめれば、残存兵力比は圧倒的に勝者に有利になる。ところが機動隊の場合は、たくさん捕えれば捕えるほど、それだけ兵力が減ってゆき、兵力比は逆に勝者側に不利になるわけだ。
階級章では動かない
最高警備本部から下稲葉警備部長が秦野総監の指示で、督戦のため多重一号に乗りこんできた。
隊長たちは沈黙し、重苦しい空気が車内にたちこめる。
「これは総監の指示だぞ。最高命令だぞ」
一同を代弁して私が応答する。
「すぐには無理です。各隊とも痩せ細っていて、ガス弾も弾切れです。みんな体力の限界ですから一休みさせてメシ食わせてから、態勢を立て直してそれから一気にやります」
「君は自分のいっていることがわかっているのか。君は“抗命罪”だぞ」
「誰もやらんとはいっとらんでしょう。今すぐは無理だといってるんです」
「よし、それでは直接隊長に一人ずつ意見をきこう。一機隊長、どうだ」
「すぐには無理だね」
「二機っ」
「一課長の意見と同じです」
……あるいはキッと警備部長をみつめ、あるいは顔をそむけ、誰一人立ち上がる気配がない。
全くまずいことになった。こういう極限状況では階級章はものをいわない。修羅場をくぐった現場組は本能的に、安全な後方で実情もわからずに指図する無理解な上層部に反感を抱くから、頭ごなしにやるとこじれるのだ。幕僚長として何とか調整しなくては……と気をもんでいると、そこへ殺気をみなぎらせ、糸のように細い目を光らせた村上健公安総務課長(故人)が車内に飛びこんできた。
「諸君、もう一合戦、やっていただかんといかんですぞ。課長代理の佐藤君が学生に捕まって半殺しにされてますぞ」と、語気鋭くいう。
「佐藤君」とは、公安第一課極左学生担当の佐藤英秀警視のことだ。極左各セクトに|面《メン》が割れている佐藤警視だと本当に殺されるかも知れない。いつも警備会議に列席していた仲間だ。私たちは一瞬息をのみ、顔を見合わせる。
それまで言葉少なに座りこんでいた石川三郎一機隊長が、ガバと立ち上がった。
「行こうっ」
各隊長はいっせいに立ち上がり、ヘルメットをかかえ、指揮棒をつかんで次々と車から飛び降り、「出動っ」と叫んで闇に消えてゆく。
それは感動的な瞬間だった。総監命令といわれても動かなかった隊長たちを決起させたのは、強い戦友愛、ゲマインシャフト(運命共同体)的な連帯意識であり、プロフェッショナルの誇りと使命感に火をつけたのは「仲間の佐藤英秀の命が危ない」という村上公安総務課長の一言であったのである。
機動隊のような戦闘集団は、国のためや民主主義のためという抽象的理念や縦割り社会の特別権力関係、あるいはお金や立身出世のためといったゲゼルシャフト(利益共同体)的利益のためでは動かない。「同僚を助けよう」「この指揮官のためなら地獄まで行くぞ」と人生意気に感じ、利害得失は度外視して……というゲマインシャフト的連帯感にこそ、己の命をかけて行動するものなのだ。左翼陣営がいうように、機動隊は汚職や党利党略にあけくれる保守党の金権体制擁護のために戦っているのでないことはいまさらいうまでもないことだ。
深夜の激闘
午後九時半頃、本郷二丁目のガソリンスタンドが暴徒に襲撃、占拠された。火炎ビンをつくる気か? 約千五百名の野次馬が|蝟集《いしゆう》している。一機第二中隊がいったんこれを追い散らしたものの、第三小隊の二名が行方不明になった。舞い戻った暴徒に捕まった模様で、隊長から第二中隊に救出命令が下った。
一個中隊といっても中隊長以下多数負傷し、残るはわずか三十五名しかいない。意を決した曾根正雄隊員が突進する。するとなんと同僚たちがみな無邪気にウォーウォーと|鬨《とき》の声をあげて全力疾走してついてくるではないか。
千五百名対三十五名。まともにかかってこられたら到底勝ち目はない。ところが群集は雪崩れをうって順天堂大学方向へ逃げてゆく。暗くてこっちの兵力を見あやまったのだろう。
「おーい、助けたぞう」それを聞いて曾根隊員らはいっせいに引き返す。
救出命令が出たとき、わずか三十五名ではとても無理だ……と曾根隊員は逃げそこねたドジな同僚に腹を立てたが、無我夢中で救出のために突貫した。だがあとからこの隊員は、逃げ遅れたのではなく、ガソリンスタンドの近くで学生を逮捕して頑張っていたことがわかり、第二中隊は大したものだと、曾根隊員は嬉しくなる。
ちょうどその頃、神田駿河台地区に各機動隊の残存兵力、特機、方機をふくめ約三千名が集結を終えた。
駿河台下に前進した前線指揮所に立って暗闇にうごめく約一万名の群集の前に立ち、林立するゲバ棒、横転して炎上する車、道路をふさぐバリケード、散乱する何千何万という石塊、暗空に弧を描く投石をみたとき、私は体が震えてきた。恐くないといえば嘘になる。
それともこれが世にいう“武者震い”なのだろうか? だが、もうあとにはひけない。
緊張した空気に包まれていた多重一号の車内に、時ならぬ爆笑が起こった。公安一課の佐藤英秀警視が神田地区へと緊急転進する一機部隊と一緒に張り切って走っていたというのだ。そんな馬鹿な、みんな「佐藤の命が危ない」ときいて彼を救出するために神田に向かっているのに……。
結局、先ほどの至急報は「佐藤違い」の誤報で、リンチを受けているのは公安一課の佐藤巡査部長と判明した。佐藤主任は頭部挫傷の重傷だったが、後刻救出され、命はとりとめた。笑い事ではないが、極限状況の修羅場では、こうした悲劇と喜劇は背中合わせなのである。
午後九時五十六分。「総力をあげて神田・お茶の水地区の暴徒を規制検挙せよ」との総本命令が下った。
田崎幸男中隊長指揮の放水警備車二輛は、一機隊長指揮下に入り、本郷三丁目から御茶ノ水駅、東京医科歯科大学附近路上の群集排除と路上放火の消火に徒歩部隊と協力して参加したが、乱戦におちいった神田地区では動きのにぶい放水警備車は役に立たない。
受令器に金原忍第一方面本部長の悲痛な命令が流れる。
「全員、警棒抜けっ」
いよいよ警棒と大楯による白兵戦だ。
正面には赤ヘル、角材、鉄パイプのゲバ部隊約八百人が展開している。日大全共闘、中大全共闘などだ。大楯をかざし、警棒を構えた青ヘルの大部隊が、いっせいに喚声をあげて前進をはじめる。
激闘二時間、一進一退、追いつ追われつの市街戦の後、午前零時、道路上のバリケードはことごとく撤去され、交番に立てられた赤旗や電柱に掲げられた「神田解放地区」と書かれたプラカードは、機動隊員の手で引き下ろされた。
過激派学生約三千名は、セクトごとにあちこちで総括集会を開き、「一・二〇東大奪還闘争」を宣言して、神田学生街の各拠点、バリケード封鎖して要塞化した中央大学、明治大学、法政大学などの校舎に引き揚げ、「神田カルチエラタン闘争」は、一応制圧された。
二日間にわたる警備で、公務執行妨害、凶器準備集合、放火、不退去などの罪名で検挙された被疑者総数は七百六十八名。
内訳は、一月十八日、列品館、法研など東大構内で逮捕された学生が二百五十六名。神田地区で五十五名、合計三百十一名。
十九日には、安田講堂で三百七十七名。神田地区で八十名。計四百五十七名である。
これらの逮捕者の中には政官財界の有力者の二世の男女学生、とくに警察高官の親族もふくまれていた。一切手心を加えることなく厳正に処分して警備を終えた私たちの心境は複雑なものがあった。
負傷者は、警察官が七百十名(内重傷三十一名)。
学生側と野次馬の負傷者で警視庁が把握した負傷者数は、二日間で学生、四十七名(内重傷者一名)、一般人、十四名。
双方あわせて二日間で、七百七十一名。
機動隊の負傷者数に比べて学生側の負傷者が少ないのは、「怪我人を少なく」という警備の大方針があった上、学生側は“未必の故意”の殺意ありと判示できるほどの凶暴の限りを尽くしておいて、いざ土壇場になるとすぐ手をあげ抵抗をやめて、逆に「暴力を振るうな」と抗議するという有様だったからだ。
「重傷一名」とは、列品館の攻防で催涙ガス弾が顔にあたって骨折挫傷を負い、十九日朝「死亡した」というデマが流れて騒ぎを大きくした学生のことである。
このことは当時「ガス銃の水平撃ち」による過剰警備だとしてマスコミが批判し、国会で野党の攻撃材料となった。
だが照準器も旋条もない滑腔・先込め催涙ガス銃では、当てようと思っても当たるものではない。何千発と発射されたうちの一発がたまたま顔に当たったもので、機動隊側に死者が出かねない学生側の抵抗のはげしさを考えれば、催涙ガス銃の使用は「警察比例の原則」(相手の暴力の程度に応じて警察力を行使すべしという行政法上の原則)に反するものではないと警察は首尾一貫して主張している。
敷石はがし作戦
午前一時頃、ヘトヘトに疲れて警視庁本庁に帰り着いた私を待っていたのは、一月二十日から実施することになっていた「上智大学方式による東大常駐警備」について、詳細を打ち合わせたいという、東大当局の要請だった。
それも大事だが、何よりも|焦眉《しようび》の急は、「一・二〇東大奪還闘争」に備える警備計画の緊急作戦会議である。
警備計画案は緻密な作戦参謀である木内稔警備管理官が素案をつくってくれていたが、各隊長を集合させて具体的指示をあたえなければならない。調べてみると催涙ガス弾も偏在した形で方機などにまだ三千三百発残っていた。明日の警備に備えて再配分しなくてはいけない。多数の負傷者の見舞いも大切。だが何よりも「一・二〇東大奪還闘争」についての公安部の情報が早くほしい。飯田蔵太警視の指揮する公安第一課が担当だ。
これらの情報は、前田健治警視が連日徹夜で、その日入手した過激派各セクトのビラや立て看板、アジ演説などの諸情報を分析評価して、翌日の各派行動予測を立て、朝一番に村上健公安総務課長から金原忍第一方面本部長と私にかぎり極秘扱いで通報してくれるシステムになっていた。
この息つく暇もない作戦準備の最中に、全く思いがけない総監命令が下った。
「東大奪還闘争に先制攻撃をかけ、神田地区の敷石(コンクリート平板)をはがして投石用の武器に使うことを阻止せよ。ただちに着手せよ」とのこと。
“ミッション・インポシブル”だ。現場の実情を説明して再考を促すと、「それなら警察学校の生徒八百名と神田署員を動員してやれ」と重ねての厳命である。もっと無理な命令だ。装備も資器材もなく、訓練も受けていない警察学校生徒や神田署員にできる仕事ではない。現場は暗く、しかも相手は約三千。そこここに投げ頃の石塊がゴマンところがっているのだ。へたをすれば、将来有為の八百名の見習生が、全滅してしまう。
柿内正憲警察学校校長が|眦《まなじり》を決して登庁した。
「そのような無茶な命令には、たとえ総監が相手だろうが私は職を賭して反対する。親御さんたちからあずかった可愛い生徒を怪我させるわけにはいかん」
血相が変わっている。金原忍第一方面本部長も強硬に反対する。
そこへ村上健公安総務課長が「またもめてますな」といいながら入ってきた。
「佐々君、金原君、三人で総監室に行こう。八百人怪我させるより三人が怒られた方がいいですぞ」
……この男、ホンモノだ。ひっこんでいれば役人として傷つかないですむのに、私の苦境を救うため総監に対する直言諫争役を買って出たのだ。日頃私と同世代の若さにしては老成し過ぎていて、ずるい男なのかなと思っていたが、見直した。
「よし、行こう」と勇気を奮い起こして三階の総監室に向かう。秦野総監は疲れからかイライラしていた。睡眠不足と心労で目が血走っている。
「また君たち三人か。なんでいつもオレに逆らうんだ。昔の軍隊だったら“抗命罪”だぞ」
「警察学校生徒と神田署員でやれる仕事じゃありません。機動隊にしかできない危険な任務です。抗命ではありません。今すぐやるのは無理だと申し上げてるんです。数時間下さい。機動隊を寝かせてメシ食わせて、午前五時を期して五千の部隊でやります。私、現場指揮させていただきます」
「本当にやるか?」
「警察学校生徒なんてヒヨッコにやらせて怪我されちゃ機動隊の名折れです」
「じゃあそれでやれ」
ようやくこれで決まった。
道路損壊罪?
大学附近のコンクリート平板を剥がしてしまえと、秦野総監一流のひらめきで命ぜられたものの、都道だけで三十八万九千平方メートル、平板の枚数で五億八千万枚もあるのだ。とりあえず目標を神田学生街の五万枚に設定する。
各機動隊に「小休止の後、午前五時を期して神田の平板はがし作戦を実施する。隊員五千名、一人当たりノルマ、敷石十枚」と下令する。各隊長は意外な命令を受けて仰天するが、命令は命令、万難を排してやるのみだ。
午前五時。真冬の空がまだ真っ暗な神田学生街に、五千名の青ヘルの大部隊が雪崩れこんで所定の配置につく。
中大、明大、法大など全共闘の拠点となった校舎の窓やベランダには、|寝呆《ねぼ》けまなこの過激派学生たちが鈴なりになって、何が始まるやらとあっけにとられて見下ろしている。
「催涙ガス分隊っ、構えっ」
数百挺のガス銃が各校舎を包囲し、ピタリと狙いをつける。実は銃はほとんどカラなのだ。事前に「カラ銃でいいから、弾が入っているふりをして構えておれ」という指示を流してある。
隊員たちはガス分隊の大芝居の支援の下、せっせと一人十枚のノルマを果たし、敷石を満載した警備輸送車が次々と発進してゆく。現場に前進した多重無線車の通信班員が叫ぶ。
「警備一課長、総監からお電話です」
「ハイ、佐々です」
「どうだ、どうなっとる。やってるか?」
「ハイ、午前五時着手。学生たちはびっくりして鳴りをひそめてます。石一つ飛んできません。とりあえず五万枚、はがします」
「ようし、よくやったっ」
そばにいた五機の催涙ガス分隊員が、突然ガス銃を構えたまま、ストンと尻もちをついた。どうした? 石に当たったのか? よく見ると眠っているのだ。疲れ果てて立ったまま眠ってしまって腰をぬかしたのだ。周囲に笑いが起こる。
ようし、払暁の先制攻撃、機動隊全隊による敷石はがし作戦成功。我々“抗命罪三人組”の意見具申は正解だった。一緒に叱られにきてくれた村上、金原両氏への感謝の念がこみあげてくる。
多重無線車のあたりが騒がしくなった。美濃部亮吉都知事の部下である道路局の幹部が抗議に来たのだ。
「一体誰の許可を受けてこんな無茶なことを……道路損壊罪ですぞ」
「警視総監の命令です。根拠法規は『刑法第三十五条』、正当業務行為はこれを罰せずです。“緊急避難”の要件もある。訴えるなら警視総監を相手にどうぞ」と、私。
道路局幹部がカンカンになって怒って帰ったと思ったら、今度は公園課長と名乗る人が現われた。
「一体誰の許可を得て、北の丸公園に敷石の山をつくってるんですか。いくら警視庁だからといって無茶苦茶だ」
そうだ、はがした敷石をどこに運びますか、と指揮伺いがあったので、「奪還されるといけないから一機隊舎前の北の丸公園にとりあえず運べ」と指示したんだ。公園課長も朝、目をさましてみたら、北の丸公園に五万枚の敷石が山と積まれていたのではさぞたまげたことだろう。
三機担当区域で騒ぎが起こった。何事だ? きけば薄暗がりの歩道上を向こう側から敷石をはがしてくるヘル部隊がいたという。
ハテどこの部隊かな? と思ってよく見たら、機動隊にはがされないうちに、要塞化した校舎内に敷石をもちこもうとしたゲバ学生たちと鉢合わせして、追いかけっこが始まったのだという。
また指揮幕僚の間で笑いが起こる。
“アイディア総監”といわれた秦野総監の閃きによる敷石はがし作戦は、意外な効果をあげた。この突飛な先制攻撃にド肝を抜かれた全共闘は、一月二十日、あちこちで抗議集会や総決起大会を開いたものの、それを「一・二〇東大奪還闘争」の一大ゲバ闘争に盛りあげることができなかった。
終日威力配備を示した機動隊の大部隊をみて、学生たちはまさか前日、前々日の大警備で疲労困憊、負傷者多数を出した同じ部隊が、カラの催涙ガス銃を構えているとは夢にも思わなかったろう。どこからこんな新手が湧いてでたのかと|訝《いぶか》り、こりゃ駄目だと戦意を喪失したのか、東大奪還闘争は不発に終わり、私たちはようやく七十二時間ぶりに一息つくことができた。
さらに大きな収穫は、このことがきっかけになって、後藤田正晴警察庁次長の強力な支援により、一月二十四日の閣議でこの敷石一掃作戦がとりあげられたことだ。(当時、警察庁で学園紛争問題の実質的指揮を執ったのは、この後まもなく警察庁長官に就任する後藤田次長だった)
荒木萬壽夫国家公安委員長と坪川信三建設大臣が積極発言し、佐藤内閣の閣議了承が得られた。目標はとりあえず「都内大学と主要駅周辺の歩道」とし、国道二十六万九千平方メートル、都道八十三万三千平方メートル、区道二十七万九千平方メートルのコンクリート平板敷石をアスファルト舗装に替えることとなった。これをやるには約三十一億円の財源が必要になる。この予定面積の七割強が都区道なので東京都に対する財源措置を講ずることとなった。
東大紛争で学生たちがはがした歩道の敷石は四万九千九百五十平方メートル、補修費にして約一億二百万円。また投石によって被害を受けた各大学や駅周辺の住民からも苦情やアスファルト舗装化の要望も出ていた。
これを受けて東京都も本腰をいれて七〇年安保対策としてこれと取り組むことになり、秦野総監命令で決行してしまった神田地区の暁の敷石一掃作戦は、結果的に追認されて、機動隊は“道路損壊罪”の訴追を免れたのだった。
秦野流“スクイズ”サイン
秦野“鬼監督”の強引な“スクイズ”サインはなにも敷石一掃作戦にはじまったことではない。「防炎加工服一万着」調達騒動にしてもそうだ。
火炎ビンが過激派の凶器として登場するまでは、機動隊の出動服は防水加工だけで防炎加工は施されていなかった。第二次反安保闘争警備の神田地区で、五機が初めて火炎ビンの集中攻撃を受けたとき、化学繊維製の出動服が熱で溶けてしまって多数の隊員がひどい火傷を負った。激怒した秦野総監は「ただちに出動服一万着分に防炎加工をしろ」と厳命した。
ところがお役所仕事の困った点は、平時はなんとか噛み合っている“軍政部門”=行政法上は「行政管理」(人事・会計・立法などスタッフ部門)と、“軍令部門”=同「運営管理」(刑事・警備・交通などライン部門)とが、危機管理の際となると大きく|乖離《かいり》してしまうことである。
七〇年闘争のような非常事態を迎えたライン部門が焦眉の急としてスタッフ部門に要求する立法・増員・予算措置などは、当然一年がかりの仕事になる。予算要求資料を作成し、財政当局と折衝し、かりにそれが認められても、調達に月日がかかる。ライン部門でオン・ハンドになる頃はすでに事態が鎮静化して間に合わないのだ。
湾岸危機の際、「遅すぎる、少なすぎる」と日本政府の対応策が国際批判を浴びたが、それが危機管理の第一線では常に起こる。一万着の防炎加工をすぐやれといっても、役所的には当然翌年度まわしになる。秦野総監はそんな役人的説明で納得する人ではない。強引な“スクイズ”サインが出た。
「なに馬鹿いってんだ。みな火傷しちゃうじゃねえか。すぐやれ。そうだ、佐々君、昨日現場で体験した五機の青柳と火傷した隊員連れてな、溶けた出動服一式持って隣り(警察庁)行ってな、関係課長、局長とまわって、最後は必ず後藤田のとこ行って、見せてな、ハタノがすぐ注文するから後は頼むといってこい」
さあ困った。だが命令は命令。しかもいい命令だ。渋る青柳隊長と負傷して繃帯を巻いた伝令の笹原|紀《まさき》隊員を連れて、焼け焦げの出動服一式を抱えて警察庁へと急ぐ。
警備、装備、会計各課長、警備局長、官房長と、いやな顔をされたり呆れられたりしながら陳情――というより強訴して歩き、最後に後藤田氏の部屋にたどりついたときは、現場では勇猛な青柳隊長もとうとう音をあげた。
「課長、もうワシ、勘弁して下さい。やりとり聞いてたらホトホトくたびれました。廊下でお待ちしてます」
仕方なく私は一人で、驚きあわてる秘書を横目に後藤田氏の部屋に入る。
「なんだ、佐々君、なに持ってきた!」
びっくりしている後藤田氏に「申し訳ありませんが、秦野総監の命令ですので……」と謝って、きれいにみがかれた会議用大テーブルに、異臭を放つ焼け焦げの出動服をならべ趣旨を説明する。
「……という次第で、総監はすぐ発注するから後のことは後藤田さんにお願いしたいというおことづけでございまして……調達が遅れますと、オーイ、笹原君入れっ。こういう結果と相成ります」
繃帯だらけの笹原伝令が恐縮しきって入室する。後藤田氏は苦笑して、手を振る。
「もうええ、わかった。わかったからその汚いの、片づけろ。君はどうしてそういうことを……」
出動服一万着の防炎加工はただちに実施された。もし防炎加工が一年後にのばされていたとしたら、安田講堂警備での火傷による隊員の負傷者数は、まちがいなくもっと多かったろう。
このほかにも総監の“スクイズ”はまだある。出動服の防炎加工がやっとできたと思ったら、秦野総監の頭に別のことがひらめいた。
「なあ、戦争中戦闘機乗りが絹の白マフラー巻いてたろ? ありゃ伊達のお|洒落《しやれ》じゃねえんだってな。弾くらって飛行機が燃えたとき火傷しねえように顔に巻くためなんだそうだ。機動隊もあれ巻かせようや、|見場《みば》もいいしよ、若い隊員、恰好いいって喜ぶだろう。あのな、ちょっと五千枚ほど調達しろ。化繊は駄目だぞ、絹でなきゃ」
これは無理というものだ。防炎加工はOKしても警察庁が“特攻隊式絹の白マフラー”なんて認めるわけがない。
「それは……警察庁、ウンといわないでしょうね」と答えるとまた怒り出す。
「ようし、君が出来ねえっていうなら、俺が手に入れて見せる。見てろよっ」
……どこでどうしたのか、秦野総監は日ならずして顔面火傷防止用の絹の白マフラー五千本を調達してきて、全機動隊員に配布させ、他の部局からのヤキモチ半分の物議をかもしたものだ。
危機が発生して「軍政」と「軍令」との間に裂け目ができそうになったとき、それを非官僚主義的な“法三章”(漢の高祖が定めたきわめて簡略化した法律)と合目的主義の政治決断で縫い合わせるのがトップの役目だ。
その意味で、現場の警視庁に猛将型・過激派・独断専行タイプの秦野章、中央官庁の警察庁に謀将型・穏健派・慎重派の後藤田正晴がいたという第二反安保警備シフトの絶妙なコンビは危機管理態勢として現場のものには幸いだった。
ただし、この間に挟まれる幕僚長はたまったものではなかった。たとえば……である。
警備実施中に秦野総監が指揮を執る最高本部に、「後藤田さんから警備一課長にお電話です」とくる。総監がいるのに何で私に? と思いながら電話に出ると、
「秦野やりすぎだよ。君があおっとるんと違うか? もっと慎重にやれと後藤田がいうとったと秦野にそういえ」
「総監、後藤田さんからお電話です。ご苦労さまだが、なるべく慎重にされたいとのことです」
と伝えると、秦野総監は、
「現場の責任者は俺だァ、警察庁、ひっこんでろと、そう後藤田にいえ」とくる。
そこで後藤田氏に電話をかけて、
「お申し越しの御趣旨、総監了解です。ただし現場は自分にまかされたしといっておられます」
と、ミュートをかけて伝えると、脇できいている総監が、
「そんなこといっておらん。俺のいったとおりそのままいえっ」
私は伝声管ではないのだ。
「総監、直接お話し願えませんか?」……
代表課長会議の大激論
それでも安田講堂警備の際にも、「軍政と軍令の乖離」の実例は、多くみられた。
東大安田講堂事件が起きた昭和四十四年の一月は、役所の予算年度でいうと四十三年度予算の第四・四半期にあたる。
その予算案が決まるのは、政府部内では昭和四十二年十二月末の予算閣議。四十三年度予算が執行されるのは三月の予算国会が終わって予算案が可決された後の四月一日。
東大紛争における機動隊の最初の出動は昭和四十三年六月だから、四月の時点、まして予算案が決まった昭和四十二年十二月の時点で、第四・四半期(昭和四十四年一月〜三月)の治安警備情勢があんなにひどいものになるとは、神ならぬ身の財政当局や警備当局に予測がつくわけがない。
一万着の出動服の防炎加工の必要性はもとより、警備出動旅費、機動隊員の超過勤務手当、警備食糧費がいくらになるかなど、わかるわけがない。全然足りなかったのである。
まず機動隊の超過勤務手当の問題にふれてみよう。
昭和四十三年度の機動隊超勤予算は〈二億五千八百八十六万一千円〉だった。
ところが、この年は王子米軍野戦病院反対闘争、日大・東大闘争、一〇・八米軍タンク輸送阻止闘争(新宿)、一〇・二一国際反戦デー闘争(新宿騒擾事件)と大きな警備事象が多発し、警備実施回数千六十八回、出動隊員数四十六万千百二十四名という予想をはるかに上まわるスーパー超勤状態になってしまった。たとえば十月の一人あたりの超勤時間は百四十二時間、十一月は九十七時間、十二月は百六時間といった具合で、五個機動隊約三千名の超勤支給額は、十二月末で〈一億八千四百九十三万八千三百三十一円〉に達した。
そして東大安田講堂事件の起きた昭和四十四年一月は、出動回数八十六回、出動隊員数延べ七万七千九百六十二名、超勤時間実績は、基幹機動隊員は三百四十八・六八時間、方面機動隊は百三十五・三時間という、労働基準法もなにもあったものではないスーパー超勤になってしまった。そこで給与当局は二月三月分を残すために、機動隊員支給率を四〇パーセント(三千三百五万三千六百七十九円)、方面機動隊を三〇パーセント(一千百九十七万一千六百九十六円)という、大幅カットの打切り支給を行わざるを得なかったのである。
これでは、心身ともに危険で苛酷な勤務に耐えてきた機動隊員の、ただ一つのささやかな楽しみの金銭的報酬さえも大幅カットとなり、さすがに我慢強い機動隊員たちもはげしい不満を抱いた。
会議の席上、直情径行で正義感の強い新任の増田美正六機隊長は、一同を代表して「せめて超勤は、一〇〇パーセント支給すべきだ」という勇気ある正論を吐いた。
ところが、「機動隊は滅私奉公、金銭の事を口にすべからず」という、前近代的な固定観念を抱く「軍政」(行政管理)部門の上層部のひんしゅくを買い、批判を招いたのである。
月例の庁内各部の代表課長会議で、この件をめぐり「軍政」側と「軍令」側の間で大激論が交わされた。
とくに行政管理部門を代表する警務部人事第一課長と、運営管理部門代表の私及び村上健公安総務課長との間で、はげしい応酬となった。
「あと二カ月残ってるんだ。予算残額は二千四百八十九万七千二百九十四円しかない。ない袖は振れないよ。だいたい一カ月で三百四十八・六八時間の超勤なんてそんなオーバーなこといいなさんな。土曜も日曜もないじゃないか。代休もやってない? それは人事管理上の大問題だよ、労働基準法違反だ。そんな無茶な人の使い方して、管理者が悪い」と人事第一課長。
あまりの無理解ぶりに怒り心頭に発した私は、
「それが警備部の直面している厳しい“戦争状態”の事情なんだ。手を抜くわけにいかない危機なんだよ。機動隊は命がけで多くの重軽傷者を出しながらやってんだ。予算がなきゃサツ庁にでも大蔵省にでも出かけていって、予備費をとってくれよ」
と強硬に一〇〇パーセント支給を主張する。村上公安総務課長も、
「警備一課長のいうとおり。公安部だって月三百時間を超える苛酷な勤務をしてるんだ」
と私をバック・アップする。
「そういう治安情勢展望ができなかった警備公安の責任じゃないのか? なぜ予算要求の段階でちゃんと見通しを立てて予算獲得しなかったんだ。大蔵省に行ったって、そういわれるだけだよ。一般の警察官の超勤、みてみろ。平均して実績の二八から二九パーセントぐらいだ。機動隊は四〇パーセントで恵まれてる方だぞ」……
大激論もむなしく「軍令」側は敗れ、結局東大安田講堂事件など一連の大警備の超勤は、四〇パーセントの打切り支給となったのである。
住宅ローンで弁当代を
同じようなことが警備食予算についても起きた。機動隊の弁当については、そもそも食糧費的な予算はない。一日一人当たり百円という、都内出張の日額旅費をあてて弁当にして現物支給をした。
だから積算の基準は、五個機動隊、一隊六百名として一日百円の日額旅費×約三千名×三百六十五日だ。
財政当局及び給与・会計といった「軍政」側の意見は、「もともと隊員は月給をもらっていて、警備がなくたって一日三食メシは自費で食べる。警備実施中といったって、メシ食う時間ぐらいあるでしょう。とくに深夜に及んだ時の夜食を、日額旅費百円をあてて一食支給すればよい。あとは交代で隊舎で食うか食堂にでもいけばいいんだ」とくる。
平和な状態にあるときはなるほどその通りだろうが、東大や神田の修羅場で一体どうやって交代で食事に行くのだ。体力の消耗もはげしいからどうしても加給食が必要である。一日四食支給の警備食を東大安田講堂事件の時のように約一万名に対し、一月十五日から二十日までの五日間にわたって弁当を調達すれば、それだけで二十万食、一食百円としても二千万円となる。
だから一日百円の予算ではたちまち大赤字になるのは当然で、東大安田講堂事件が終わった時点で、一月分の弁当屋に対する累積債務は約三千万円に達した。放置しておくわけにはいかない。これからも延々と昭和四十五年六月二十三日の日米安保条約改訂日まで警備は続くのだから、信用保持のためにいささか遅れても債務は弁済しなければならない。
ここでまた「軍政」と「軍令」が分裂乖離し、警備部は苦境に立たされた。各隊員に割り当てて徴収すればいいと筋論でいうが、平時に隊舎で寝起きしている時の食費の徴収は別として、本来戦闘食や深夜加給食分は国が負担すべきものだ。このままでは隊員の士気にもかかわる。それに一月十日に新設した三個機動隊については、年度途中の増員だから当然予算はゼロである。
会計課に泣きついてみたが、会計課の力ではどうにもならない。窮状を察して同情してくれた同僚が入れ知恵してくれる。
「佐々さん、警視庁共済組合に行ってみてはどうですか。あそこはキャッシュ、うんと持ってますよ。一時借金してなんとか急場をしのいでは」
早速共済組合本部に乗りこんだが、「共済は全職員の福利厚生のための組織で、警備部の弁当代になんか出せません」となる。
「だが抜け道はあります。佐々さん、どうですか、|貴方《あなた》が家を建てることにしませんか。マイホーム建設資金の融資ということで佐々さん個人に貸すことはできますよ」とのこと。
とにかく四月の新年度が始まるまではどうにもならないので、私は警視庁共済組合から住宅建設長期貸付けの名目で、個人として三千万円借金し、弁当屋への支払いに充当することにした。
昭和四十四年の三千万円である。俸給月額七万九千七百円の国家公務員・警視正の私にとっては、目もくらむような巨額の借金だ。当時の退職金予想額が十四年勤続で二百四十万円という時代の話である。
「軍政」と「軍令」が乖離すると、こんな「公私混淆」ならぬ「私公混淆」をしてでも、危機管理にあたる管理職は、裂け目を縫い合わせなければならないのだ。
この「私公混淆」を、私は一度ならず二度までやらざるを得なかった。二回目はずっと後年、昭和五十年の沖縄海洋博覧会開会式における皇太子・同妃両殿下訪沖警備(ひめゆりの塔火炎ビン投擲事件)の際だ。警察庁警備課長として、弁当代二千万円を警察庁共済から借金した。このときは沖縄県警本部長がマイホームを建てることにして、私はその連帯保証人になった。
「三千万円借金騒動」には後日談がある。
その後警備本部詰めの厳しい日々が続いていたある日、「共済の方が御面会です」という。ガアガアピイピイ警備無線が乱れ飛ぶ警視庁五階の総合警備指揮所で共済の職員に会った私は、彼の一言にあきれてしまった。
「佐々さん、まだお家の設計図がきていませんが……」
警備公安の上層部の会合で、冗談まぎれに、「第二反安保警備従事者は、戦争中の軍人恩給の例にならって、年金は戦時加算してもらわにゃ割が合いませんな。旧軍では戦地に行くと一年を二年に換算して恩給加算があったんでしょう」と私がいうと、日頃寡黙な山本鎮彦公安部長が真面目な顔で発言した。
「それは駄目だよ」
「なんでですか?」と私。
山本公安部長は「二年じゃ駄目だよ、三年でなきゃあ……」
「危機管理」の最悪の敵の一つは、「官僚主義」である。平時は大変有能な官僚も非常事態に直面すると予算、法律規制、前例などのしがらみに絡まれて対応がどうしても「遅すぎる、少なすぎる」ことになる。それを官僚のせいにするのも酷で、そういう際はトップ・リーダーの政治決断だけが、この「軍政」と「軍令」の分裂乖離をくいとめ、現場の実務者の流血の悲劇を防ぎ、危機にうち克つ行動を支えるのだ。
東大安田講堂事件は、そういう危機対応のリーダーの発想法や、組織運営、人事管理などの諸問題について、実に示唆に富む多くの教訓をのこしてくれた。
だがその血と汗であがなった貴重な教訓は、原則として門外不出、沈黙の掟に阻まれて、世の指導者層のいきた教材になっていない。
“不実の恋人”東大全共闘
東大のバリケード封鎖は解除されたが、昭和四十四年度(一九六九年)の東大入試は東大当局と警視庁の努力にもかかわらず、「中止」と決定され、「東大四十八年度卒業クラス」は永久欠番となった。
封鎖解除直後、東大を視察した佐藤栄作首相は、催涙ガスのためか大きな目からこぼれる涙をハンカチで拭いながら「こりゃひどいなぁ」と実感をこめて感想をもらしていた。随行していた私は、東大紛争とは一体何だったんだろうとむなしさを|噛《か》みしめた。
公安部の捜査取調べの結果わかったことだが、安田講堂で逮捕された、三百七十七名の学生の中には、東大生は二十名しかいなかった。
前日列品館や法研など東大構内二十二カ所の拠点にたて籠って抵抗し、逮捕された二百五十六名の中にも、東大生は十八名しか含まれていない。
つまり二日間に東大構内で逮捕された、合計六百三十三名の各セクト過激派学生のうち、東大生はわずか六パーセント・三十八名。残りの九四パーセント・五百九十五名は、北は北海道から南は九州まで全国四十五の官公立、私立大学から応援にかけつけた“外人部隊”だったのである。東大全共闘は安田城攻防戦の始まる前夜の十七日に、「七〇年闘争に向けての勢力温存」を理由に、構外に脱出していた。
これではまるで豊臣家に味方して、徳川家康率いる東軍と決戦すべく大坂城に入城した真田幸村や後藤又兵衛ら牢人衆を尻目に、淀君や秀頼、大野治長らが敵前逃亡したようなものだ。
いざとなると“|日和《ひよ》る”要領のよさと精神的なひ弱さは、いかにも秀才・優等生ぞろいの東大生らしいが、この東大闘争の土壇場での背信行為は過激派各セクトやノンセクト・ラジカルの学生運動の同志たちをいたく失望させた。彼らの信頼を失った東大全共闘は、安田講堂事件を境に急速に|凋落《ちようらく》し、やがて消滅してしまう運命をたどる。
地下に潜行し、指名手配となった東大全共闘・山本義隆議長は、その後地下組織に守られながら日比谷公園反安保集会などに出没し、活動を続けたが、彼の逮捕は所詮時間の問題にすぎなかった。日大全共闘の秋田明大議長も、知人の自宅に潜伏していたが、雪かきをしているところを逮捕され、日大全共闘も凋落していった。
“不実の恋人”東大全共闘が安田城脱出の相談をしていることを知ってか知らずか、大講堂備え付けのグランドピアノで、「インターナショナル」を弾いていた“外人部隊”の女子学生の物語はもの悲しく、そこはかとなく哀れだ。
機動隊の“城攻め”が目前に迫った一月十五日の夜、安田講堂を要塞化するためのバリケード構築や作戦会議で殺気立っていた籠城学生たちの耳に、時ならぬピアノの旋律が流れてきたという。
曲名はわからないがそれはクラシック曲で、「自己破壊の美学」に酔い、悲愴感に浸っていた彼らは、その心にしみいる調べにききいっていた。やがて曲は「インターナショナル」に変わる。
覚えたてなのか|拙《つたな》い指の運びだったが、学生たちはこの夜のピアノ演奏会のことを鮮烈に記憶し、この物語は彼らの間で語り継がれた。誰かがのぞいてみると、誰もいないはずの大講堂の舞台の上で、ヘルメットをかぶった少女がひとりポツンとピアノに向かって坐り、鍵盤に指を走らせていたという。
このグランドピアノは、その後階段を封鎖するバリケードに使われ、十九日講堂内に突入した機動隊員によって、無惨な残骸となって発見されることになる。
まだ「終わり」ではなかった
一方、機動隊員の側はどうだったか?
三日ぶりに待機寮に帰った五機第一中隊の渡辺稔隊員は、自室で飼っていた十三羽のペットの小鳥のうち雀や|十姉妹《じゆうしまつ》五羽が死んでいるのを見つけた。全隊員が出動してしまったため、小鳥に餌をやる者がいなかったのである。渡辺隊員は自分の身代わりに死なせたと哀れを催し、一人で小鳥の葬式を行い、寮の裏庭に餌と水を供えて手厚く葬った。
五日間連続の勤務を終えてひげぼうぼうで三機の待機寮に戻った早瀬一徹隊員は、故郷の母親からの手紙をむさぼり読んだ。
昔気質の母親は自分の息子が兵隊として戦地にでもいっているような気持ちで、誇りに思っているらしく、「怪我はなかったか、安田は大変だったろう、母さんも一徹のおかげで話の種が増えたよ」という中身だった。
父を三歳のとき失い、女手一つで育てられた早瀬隊員は、母の心労を思いやり、少しでも楽をさせたい、人間、母や家族に期待されている仕事をやるほど生き甲斐を感ずることはない……と思った。
同じ三機の井沼本市隊員のところにも郷里の母親からの手紙が届いていた。
「毎日御苦労様です。入院などしているのではないでしょうね。十八日以来学生、警察官の負傷者何名という記事が目にとまり、もしや……と心配しています。ラジオに耳をたて、テレビを目を皿のようにして見、夜も横になっても今頃どうしているだろう、大丈夫だろうかと、心休まる日がありません」と綴られている。
これでまた白髪がふえるだろうな。すべての隊員の母、いや学生の親も同じ気持ちだろうな……と、井沼隊員は考えこんだ。
機動隊にとって東大安田講堂事件は「終わり」ではなかった。第二次反安保闘争は、昭和四十二年(一九六七年)十月八日の第一次羽田闘争以来、東大紛争が終わってのちも昭和四十五年(一九七〇年)六月二十三日の日米安保条約自動延長の日まで、九百九十日間戦いの日が続いたのである。
安田講堂事件の起きた昭和四十四年の正月にしても、元旦は恒例の明治神宮参拝の雑踏警戒で“足掛け二年”の徹夜超過勤務。二日は八年ぶりに造営成った新宮殿での新年参賀警備。アナキストによる「昭和天皇パチンコ玉狙撃事件」「発煙筒投擲事件」という前代未聞の大事件が起きている。
それ以後も連日連夜、東大紛争を主軸とする警備実施が行われた。
「軍隊」と「市民警察」の間
マルクス・レーニン主義の価値観からいえば、機動隊は「人民の敵」であり「反動的権力の公的暴力装置」だ。だが、機動隊をそのように規定する価値観自体が消滅した今日、もう一度「機動隊とは何だったか」を考えてみる必要があると思う。
戦後の日本で機動隊がなんらかの役割を果たしたとすれば、それは「軍隊」と「市民警察」の中間に存在して、|騒擾《そうじよう》事件や民衆暴動など、「軍隊」でも「市民警察」でも適切に対応できない事態に対処して、治安と秩序を守りつづけてきたことだろう。
「機動隊」という特別警察を持つという発想は、戦後いったんは完全に武装解除され、通常の国家のように「軍隊」の力で集団的不法行為の鎮圧を期待できなくなった新生日本の、生活の知恵であり、民族の創意工夫だったといえる。
戦前の日本では、他の国家と同様「米騒動」のような暴動や「二・二六事件」のようなクーデター、「関東大震災」のような治安問題をともなう大災害に際しては、帝国陸軍が部隊出動し、戒厳令の布告によって国家非常事態に対処してきた。
もし戦後の日本が世界に類例をみないこの独創的な特別警察を創設していなかったなら、第一次反安保も第二次反安保も自衛隊が治安出動せざるを得ない破目になり、「天安門事件」に先だって大きなあやまちを犯していた可能性もまったくないとは言いきれない。
自衛隊をふくめおよそ「軍隊」とは、外敵と戦い「殺すこと」を任務として訓練され、装備されている。自国民の反政府デモや民衆暴動や騒擾の鎮圧に「軍隊」を出動させ、同胞に向かって発砲を命ずれば「天安門」になるし、発砲しなければ一九九一年の八・一九ソ連クーデターのごとくになるだろう。
かといって一般市民警察ではこの種の警察任務には不向きである。非常召集して部隊編成しても、経験も訓練も装備も不十分だから、集団警備力としてはただちに機能しない。
また、パトロール、交通取締り、捜査・防犯活動など、市民警察の任務遂行のためには市民の理解と協力とが不可欠である。それだけに市民警察官が、市民の敵意を招く恐れがある警棒、大楯、催涙ガス、放水車などを用いての実力行使をすることは好ましくない。
こういう配慮から新生民主日本は、世界に例のない「機動隊」という特別警察を創設し、特殊な部隊訓練を施し、市民警察も軍隊も保有していない放水車だの、バリケード撤去車といった特殊な装備を保有させて、戦後いくたびか起こった反体制集団不法行為をその全責任において処理させたのである。「機動隊」の最大の特質はその任務が「軍隊」と異なり、「敵を殺すこと」にあるのではないということだ。
「汝殺スナカレ」を基本理念に、「忍耐」が美徳であるという精神教育を施し、騒擾や暴動を「規制」し、「排除」し、「解散」させ、それでも従わないときは「生け捕り」にする――これが「機動隊」の行動の基本原則である。つまり「機動隊」とは、日本の独創的な警察制度であり、世界各国の|趨勢《すうせい》を半世紀前から先取りした実にユニークな組織なのだ。その意味で、日本はまさに「治安警備先進国」なのである。
このことは、アメリカ、旧ソ連、中国、欧州諸国といった「機動隊」をもたない国家が、いまや日本の「機動隊方式」を学ぼうと調査団を派遣してきていることからも例証される。
群集心理にかられた暴動状態の現場に出動して実力規制を行えば、当然物理的な力の衝突となり、殴り合いもあれば怪我人も出る。暴力的反体制闘争の正面に立ちはだかれば、相手方の憎悪を一身に集める憎まれ役にもなる。誰かがやらなければならない仕事を彼らがやっていたのだ。
そういう視点から、安田講堂事件においてこの機動隊の果たした歴史的役割を、警察に好意的な人も、警察嫌いの人も公平な立場で見直すことが必要だと思う。
離職者ゼロの意味するもの
イデオロギー的に偏向したマスコミは、機動隊を目の敵にして批判し、悪口をいわれることはあっても誉められることはない……というのが当時の社会風潮だった。
このような悪条件のなかでの驚くべき事実は、この困難な時期を通じて機動隊員の離職者がほとんどゼロだったことである。
この時代の凄まじさは次の数字をみればわかる。
昭和四十三年警備実施回数・一千六十八件、出動延べ隊員数・四十六万一千百二十四名、検挙者総数・五千百六十七名、負傷隊員数・四千三十三名。
昭和四十四年警備実施回数・二千八百六十四件(一日平均八回弱)、出動延べ隊員数・八十一万九千百七十五名(一日平均二千二百四十四名)、検挙者総数・九千三百四十名(一日平均二十六名)、負傷隊員数・二千百九十五名(一日平均六名)。
この統計数字をみると、昭和四十三年の検挙者と負傷隊員の比率が五対四だったのに比べ、昭和四十四年度は九対二となっており、彼我の力関係の推移を象徴している。
しかし、警視庁の首脳部が一番心配したことは、機動隊員が離職してゆくことだった。
昔とちがって現代はひとりっ子、あるいは男一、女一という家庭が多い。
息子の身の安全を願う親からの配置換えの陳情も多かった。したがって警視庁上層部は、機動隊の装備や待遇の改善、体育祭の開催など、考えられるだけの士気昂揚策と連帯意識醸成のための施策を講じたものだった。
だが、なぜ離職者がほとんどゼロだったかというと、共同の敵をもって戦う人間集団特有の「敵前逃亡は男の恥」という連帯感が強烈だったためだろう。
その証拠として、昭和四十五年六月二十三日、日米安保条約が自動延長となり、一応第二次反安保闘争が終熄すると、実に約六百名の機動隊員が、あるいは家業を継ぐため、あるいはより安全で高収入の民間の仕事を求めて離職していったのである。
このような機動隊員の心情は、当時製作された新しい機動隊の歌「この世を花にするために」の詞によく表われている。
機動隊の愛唱歌は各隊の隊歌をはじめたくさんあるが、どうも歌詞が古臭かったり、中学校の校歌みたいだったりで、曲ももの哀しい。これでは士気にかかわると思い、私は秦野総監に意見具申した。
「民族の興る時、必ず歌ありです。どうも機動隊の歌、ピンときませんね。いまの隊員の気持ちにぴったりの新しい歌、作ってはいかがですか?」
総監はすぐのってきた。
「オレは川内康範と猪俣公章を知ってるぞ、あの二人に頼もう。依田君(智治広報課長)すぐ行ってこい」
しばらくして依田広報課長が川内康範氏直筆の詞をもってきた。読んでみると、最後のところがどうも頂けない。
「|雄叫《おたけ》びあげる機動隊」といったぐあいなので、はなはだ|僭越《せんえつ》ながら「明日に生きる機動隊」とか「命を謳う……」とか補筆させてもらった。
こうして出来たのがA面「この世を花にするために」、B面「この道」の二曲である。作曲は猪俣公章氏。歌手は橋幸夫氏、レコード会社はコロムビア・レコードと決まった。
この歌は機動隊員に大いにうけた。それはたちまち全国に広がり、四半世紀経った今日でも全国機動隊員の愛唱歌として歌い継がれ、とくに「機動隊」という言葉を意識的に使わなかったB面の「この道」は、若い警察官の結婚式のBGMに使われている。
機動隊愛唱歌、「この世を花にするために」の二番を唱うとき、機動隊員は感情移入してやや自己陶酔気味に合唱する。
「何を好んで|譏《そし》りを受ける。損はやめろといわれても、信じているんだ太陽を、この世を花にするために、鬼にもなろうぜ機動隊」
昭和天皇のお言葉
安田講堂攻防戦からしばらくして、秦野警視総監が治安情勢内奏のため参内した。
もちろん安田講堂事件に触れるに相違ないと思い、私は事件概要を入念にまとめて提出していた。その日はきっと昭和天皇から「よくやった」と御嘉賞のお言葉があるだろうと期待して総監の帰庁を待った。御嘉賞のお言葉があれば早速、各機動隊長を通じて全隊員に伝達し、士気昂揚を図らなければいけない。
秦野総監が帰庁した。待ちかねていた私は「安田講堂事件について陛下、何ておっしゃられました? お誉めのお言葉、ありましたか?」と訊ねた。ところが秦野総監は妙な表情を浮かべて首をかしげている。
「それがなあ、天皇陛下ってえのはオレたちとちょっと違うんだよなァ。安田講堂のこと奏上したら、『双方に死者は出たか?』と御下問があった。幸い双方に死者はございませんとお答えしたら、大変お喜びでな、『ああ、それはなによりであった』とおおせなんだ。機動隊と学生のやりあいを、まるで自分の息子の兄弟喧嘩みたいな目で見ておられるんだな、ありゃあ……」
私は感動した。
これぞまことの「同胞相撃タズ」のゲマインシャフト精神の発露。日本民族統合の象徴である天皇は一視同仁、お相撲好きの昭和天皇が終生誰が御|贔屓《ひいき》力士かを口外されなかったように、「機動隊、よくやった」と御嘉賞されることは帝王学の道からははずれるのだ。だが「汝殺スナカレ。怪我ヲ少ナク」という警察の大警備方針をお誉めいただいたという意味で、深遠な御嘉賞のお言葉と受けとっていいのだろう。私たちの基本姿勢は正しかったのだ。
定例の機動隊隊長会議の席で、早速私はこのことを披露した。
「……と陛下はおおせられた由です。我々は十個隊四千五百名の機動隊員の命を預っていると同時に、親、兄弟、恋人もいるだろう向こう側の一万の学生たちの命も預っている“護民官”なんだな。勤務条件もひどいし、これだけ一生懸命やっているのに悪口ばかりいわれて本当に口惜しいけれど、天皇に誉められたんだ、最高じゃないですか。我々はプロであることに誇りを持って我慢してやりましょうや。いまの話の趣旨を隊員のみなさんに伝えて下さい」
……隊長たちは、時々うなずきながら黙って耳を傾けていた。
安田講堂事件は、動乱の六〇〜七〇年代のフィナーレ(終幕)ではなかった。第二次反安保闘争を取締まる九百九十日のマラソン警備という観点でいえば、折返し地点だったし、泥沼の学園紛争正常化をはかる警察行政としては、むしろプレリュード(序幕)でさえあった。
東大闘争の成行き如何? と無為無策のまま“|洞《ほら》ヶ|峠《とうげ》”をきめこんで情勢を観望していた官公立・私立大学の当局が、これをきっかけに“勝てば官軍”とばかり、いっせいに先を争って警察に機動隊の出動要請をしてきたからである。
東大安田講堂警備が終わったあと、昭和四十四年だけで、警視庁警備第一課長室を訪れた大学の数は、東大のアフターケアをふくめて官公立・私立二十六大学、延べ八十七回の多きに達した。このうち、“城攻め”により実力で封鎖解除を行った大学は、日大、中大、法大、明大、教育大など十五校(日大は八学部)、七十五回に及んだ。
本書に登場する警察上級幹部、村上健公安総務課長や増田美正六機隊長らが、その後若くして世を去ったことはすでにのべた。このほかにも、法研を担当した二機、佐野行雄、角田重勝両副隊長、列品館の田上芳市一機中隊長、安田講堂の増田貞助四機、根岸哲男七機各中隊長ら、多くの功労者が世間から評価も感謝もされず、天寿を全うすることなくひっそりと「事後殉職」ともいえる死を死んでいった。
安田城攻防戦の“武勲詩”にその名をとどめた、正面玄関攻撃の五機・河野庄作中隊長も、大講堂の突破口を開いた赤瀬滋隊員も、忘れられる以前にその名も功労も覚えられることなく、鬼籍に入って久しい。口の重かった彼らは生前、家族に自分の武勲を語ることもなかったろう。遺族の方たちは彼らがどれほど日本のために貢献したかを知らないにちがいない。
昔の小学校唱歌に「|四条 畷《しじようなわて》」の歌というのがある。湊川で足利尊氏の大軍と戦って討死にした父・楠木|正成《まさしげ》の敵・|高師直《こうのもろなお》に四条畷で戦いを挑み、返り討ちにあい自刃した正成の嫡男・楠木|正行《まさつら》の死を悼んだ武勲詩である。その中に、
「今はやみなん。この野辺に、なき|数《かず》に|入《い》る名をとめて……」
という一節がある。本書は名をとどめることもなく亡き数に入った警察官たちの名を昭和史の一頁にとどめるために綴った、彼らを顕彰する鎮魂賦であり、歴史の「語部」として、遺族にありし日の夫や父親の姿を語り伝えるため彼らの霊前に捧げる弔詞なのである。
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エピローグ
戦後史の中の安田講堂事件
東大安田講堂攻防戦は、リアル・タイムのテレビ生中継で現場の状況が長時間、直接お茶の間に放映された最初の大事件だった。
その視聴率の高さは、当時記録的といわれた。その後「浅間山荘事件」や「湾岸戦争」によってその記録は更新されたが、何千万という視聴者がテレビの前に釘付けにされたという。だがその割には安田講堂事件は忘れ去られ、あれは一体何だったかということについてはあまり論じられていない。
もちろんその一因は警備当局が、その職務上の立場から四半世紀もの間沈黙していたことにある。しかし主たる理由は、東大全共闘が“城攻め”の直前の土壇場で安田講堂から脱出してしまって、事実を後世に語り継ぐ生き証人が少なく、挫折した東大闘争の総括をするものがいなかったことにある。
事件後発刊された『東大紛争の記録』(東京大学新聞研究所・東大紛争文書研究会編・日本評論社)や、月刊誌、週刊誌などに載った論文、手記、談話などを読んでも、難解なセクト用語や独善的で説得力に欠ける生硬な理論の羅列、あるいは当時のマスコミに迎合する「機動隊憎し」の感情論、浅薄なウォー・ゲーム感覚の感想文ばかりが目立ち、客観的で正確な事実と透徹した史観に立った文献が見当たらない。
そのことが歴史の頁に空白をつくってしまい「|語部《かたりべ》」をもたない全共闘世代の思想や行動記録は平成世代に語り継がれていない。
東大闘争を頂点とする全共闘闘争とは、果たして戦後日本の興隆にどんな役割を果たしたのか、またそれは歴史的にみて戦後の社会運動史、学生運動史にどのような意義を残したのだろうか?
もしそれが、時間とエネルギーの空費にすぎない“壮大な無”だったとすれば、機動隊の流した血と汗も無駄となり、治安と秩序を守るために私たちが心身の重圧に耐えた長い日々や、眠りを奪われた多くの夜もまた無意味になってしまうだろう。それではあまりにむなしいし、双方の犠牲者たちも浮かばれない。
だから、あの中世に逆戻りしたような時代錯誤の“城攻め”に何らかの歴史的意義を見出したいとの願いをこめて、本書を終えるにあたり私なりに東大安田講堂事件の意義と歴史的役割を総括してみたい。
真の「反権威闘争」だったのか?
安田講堂事件は目的も手段もまちがいだったことが今日では証明された、“直接行動”(アクツィオン・ディレクトール)による世界同時・急進・暴力革命路線、「トロツキズム」の挫折の始まりだった。
当時はベトナム戦争の最盛期であり、中国では「造反有理」の文化大革命の嵐が吹き荒れていた。東大闘争は、前近代的な官学の体質改善要求の学生運動に端を発し、全世界的な流れだったベトナム反戦の平和運動、既成の権威と体制打倒の文化大革命、日米安保条約改訂阻止の反安保政治闘争などの大きなうねりが加わり、“パックス・ソヴィエティカ”こそ至高のイデオロギーと誤信した左翼運動とあいまって、長期にわたる“高原闘争”に発展した政治闘争だった。
全共闘はその政治目標達成の方法論として、マルクス・レーニン主義の「目的は手段を正当化する」との理念を援用し、“直接行動”を目的の正しさによって正当化される「人民の抵抗権」と理論づけて、ゲバ闘争を展開して結局自滅した。
安田講堂事件は、その自滅の始まりだった。全共闘運動が挫折したとき、リーダーたちは自分たちのまちがいに気づきながら依然として「戦術上の誤り」で「戦略目的」は正しいと信じようとして本当の意味の総括をしなかった。だが、一九九一年のソ連邦の自壊と共産主義の瓦解によって、「手段」としての暴力革命路線を正当化する「目的」そのものが、七十四年間に及ぶ壮大な誤りであることが立証されたとき、安田講堂事件は、目的も手段もまちがっていた、“挫折した直接行動”として戦後社会史上に位置づけられることとなったのではないだろうか。
東大全共闘は「東大をつぶす」気で闘ったが、東大は結局つぶれずに残ってしまった。その意味で、東大闘争は中途半端な「反権威闘争」だったといえよう。
東大全共闘は当初は、東大に象徴される既成の「権威」の破壊を目指しながら、実は「東大生」であることのプライド、優越感を捨て切れず、本物の「権威」、より立派な東大を創り直す道を探し求めていたように思える。東大闘争は「反権威闘争」とはいいながら、実は裏返しの権威擁護だったのではなかろうか。本気で「権威」を否定するなら、相手の体制を支えている中心人物を抹消し、打倒しなければならない。
それなのになぜ加藤一郎学長代行や林健太郎文学部長には手を出さなかったのか。なぜ法文経二号館の壁の落書に「林健太郎に敬意!」と書きなぐられていたのか。なぜ逮捕学生の供述調書に、「尊敬する人物」として「林健太郎、加藤一郎、秦野章」という意外な名前が録取されていたのか。
「反権威闘争」を標榜しながらも、実は失われた本物の「権威」、本物の教育者、強力な指導者など、ゲゼルシャフト(利益共同体)化した社会において急速に減少してゆく「父権」の象徴への郷愁を感じていたのではないか。親身になって指導教育してくれる父親的権威を模索する全共闘学生の心理が「権威」の完全否定を躊躇させ、そのため東大闘争は自己撞着的な中途半端なものになり、本気で東大の完全否定を目指して応援にのりこんできた“外人部隊”に闘争の主導権を奪われた……と私は分析している。
新たな連帯意識を求めて
東大をはじめとする全共闘活動は、新たなゲマインシャフト的価値観の確立を目指す「連帯」(ソリダリティ)闘争だったと思う。彼らはたしかに既成の運命共同体(ゲマインシャフト)的価値観、たとえば天皇制、日の丸、愛国心、古い家族制度などを否定する立場をとったが、同時に高度経済成長期に突入して急速に勢いを得てきた利益共同体(ゲゼルシャフト)的価値観、たとえば拝金思想、利潤追求、金権政治、マイホーム主義などにも強く反撥し、“直接行動”によってそれらの価値観を破壊しようとした。
そして新しい革命的なゲマインシャフトの連帯意識、すなわちワン・フォア・オール、オール・フォア・ワンのセクト的団結、個を集団に埋没させる自己犠牲の献身、自分自身以上の価値のため、利害打算を超えた大きな主義信条のための共同行動を、組織の構成員たちに強いた。その意味で目的は誤っていたとしても動機においては純粋な一面があったともいえる。
だが、反社会的な違法行動によってその「新連帯意識」を醸成しようとした結果、前途有為の若い学生たちの間から一万名を超える被逮捕者、多くの怪我人を出した。しかも彼らは誰もその道義上の責任をとっていないし、自己批判の弁もない。
街頭武装行動と対決した私たちの実感として、それはイデオロギーがゲバ学生の形となって襲ってくる一種の集団催眠状態のマスゲームで、人間性を欠く没個性的な行動だった。確立した自我をもつ本当の意味での「インテリ」の連帯とはいえなかった。自分を賭して体制改革のため行動し、失われてゆく「連帯」意識をたかめようとした全共闘闘争は、その動機は是とするも、「日米安保条約改訂は戦争への道」という「認識」あるいは「マルクス・レーニン主義は人類の理想」という「価値判断」、そのいずれも基本路線において誤っていたといわざるを得ない。
全共闘世代の若者たちの「連帯への憧れ」は、当時落差の大きかった東京と地方の格差にも起因していると思う。地方から|笈《きゆう》を負って上京し、コンクリート・ジャングルの東京の下宿や寮で孤独な生活を強いられた学生たちは、セクト活動の中に憧れの「連帯」を求めたのではないだろうか。
旧制高校時代は、いわゆる「シュトルム・ウント・ドランク」で寮歌祭や、酔余街中の看板をとりかえて歩くなど、青春のうっぷんを発散させる機会が多くあった。それに対し戦後受験競争に追われ、同世代との連帯感を満喫する機会を与えられずに青春期を過ごした全共闘世代は、入試を果たした直後の解放感をゲバ闘争の形で発揮したのではないだろうか。
全共闘世代の「連帯への憧れ」は、昭和四十五年夏、十七週間に及んだ新宿駅西口地下の「べ平連・土用波ショウ」(土曜日の晩に行われたことからのマスコミの見出し)の警備の現場でも、肌で感じられた。
約一万人の若者が数百人のべ平連グループの演奏会に集い、ベトナム反戦歌「ウイ・シャル・オーバーカム」や童謡「赤トンボ」(砂川闘争以来の反体制テーマソング)に陶酔している姿をみたとき、ああこれはコンクリート・ジャングルで孤独な生活を送り、友を、恋人を、仲間を求める孤独な青年たちの「盆踊り」なのだな、機動隊による実力規制は手加減しなくては……と思ったものだった。
ゲバ闘争は、喧嘩や戦争ごっこを禁じられて過保護に育ち、入試競争に追われて格闘技やラグビーのようなチーム・プレイの運動部活動も経験できずに、ましてや軍隊経験など憲法上持ちようもなかった全共闘世代にとって、すべての人間の深層心理に潜む闘争本能の発露としての、スポーツ感覚の代償行為ではなかったのか。本書でもふれたように、安田城籠城は彼らにとって擬似戦争体験だった。それはイデオロギーにゆがめられた、幼児的ともいえる憂うべき心理状態だった。
ラグビー試合でもやっているかのようなゲバ学生のこのスポーツ感覚は、昭和四十五年元旦、あるセクトから各機動隊に年賀状が配達された時、強く印象づけられた。年賀状にはヘルをかぶり、ゲバ棒と火炎ビンを手にした狼をイラストした芋版が押されており、「いよいよ決戦の年ですね。お互い頑張りましょう」と記載されていて、私たちは思わず顔を見合わせたものだった。
本来は大学教育で、新たな連帯感を青年たちに与え、人生のいきがいや自分自身を賭けるものの存在を教えることが、教育者の課題ではないだろうか。学園紛争は終熄したが、この教育上の基本課題は、今日にいたるも解決していない。
“東大病”の克服
安田講堂事件は国立教育機関である東大の教授陣の体質を、ドイツ観念論主流から|英 米 《アングロサクソン》型実学派主流へと改善させたことに資したという点では評価されよう。
事件以前は、アリストテレスで終講となる政治学、マルクス経済中心の経済学など、いずれも実社会に出てから何の役にも立たない講義が多かった。日本の大学教育の最大の喜劇は、マルクス経済学の講義を受け、試験で「優」をとった東大卒業生たちが、社会人となってから資本主義自由経済を実践する企業戦士となって活躍し、日本をGNP世界第二位の経済大国に成長させたという事実である。
安田ショックによる東大当局の体質改善は、昭和四十四年三月二十三日に行われた正式の総長選挙において、〈加藤一郎・七三五票〉〈団藤重光・一四四票〉〈林健太郎・一二三票〉〈隅谷三喜男・七〇票〉〈向坊隆・五〇票〉と、東大紛争解決の実務上の功労者、加藤一郎氏が圧倒的多数で選出されたこと、さらにその後、東大紛争の解決に貢献した、林健太郎氏(文学部長)、向坊隆氏(工学部長)、平野龍一氏(法学部長)が、いずれも総長に選出されたことからも明らかである。
もう一つの“安田講堂効果”は、この事件の結果東大と東大生の権威がいちじるしく失墜したことだ。日本社会に長く|蟠踞《ばんきよ》していた“東大病”がかなり治癒し、かつて学生が角帽に黒の詰襟金ボタンの学生服、襟にもカバンにも銀色の銀杏のバッジをつけて、校内を闊歩していた時代の鼻持ちならないエリート意識と優越感が消えて、常識的なふつうの大学生になってきたことである。
昭和四十四年度の入試が中止され、“永久欠番”になったことは、官尊民卑、東大偏重の学閥意識の改善に貢献し、明治以来の弊風が改められたことは、結果論ではあるが大きな進歩ではなかっただろうか。
さらに、安田講堂事件の結果、東大と警察の「歴史的和解」が遂げられたことは意義のあることだった。
昭和二十七年の「ポポロ事件」に象徴されるように、東大の学生ばかりでなく大学当局者や教授の間では、ほとんど「治外法権」の主張に近い「大学の自治」の観念が根強く残っていた。警察側も東大当局の警察アレルギーに反撥して、昭和二十年代には東大といえば「アカの巣窟」とみるような雰囲気があった。だが、東大紛争で警察側がとった慎重な態度、大学当局の立場を最大限に尊重した政治的配慮、そして加藤代行からの出動要請を受けてからの人命尊重、貴重な図書文献保護の基本姿勢、忍耐強い警備措置などは、東大と警察の間にわだかまっていた積年の相互不信と大学当局の警察アレルギーをかなり治癒させ、双方の間で「歴史的和解」が成立した。
今日では東大卒業生で上級職試験に通ったものが、大蔵、通産などの勧誘を斥けて警察庁に入庁するようになった。これはさかのぼれば“安田講堂効果”だといえよう。
日本警察の国際的評価を高めたこともまた意義あることだった。事件終了後、私は香港警察のイーツ総監から、火器を使わなかった日本警察の良識と有能さを高く評価する手紙を受けとった。
平成世代との断絶
いま、東大安田講堂事件をはじめ、いわゆる「全共闘」時代を闘った世代は、よき社会人、よき家庭人、そして各界の責任世代となっている。
だが、全共闘世代が路線上の誤りを自己批判し、全共闘の時代の総括をする勇気を欠いたことから、平成世代との間にはジェネレーション・ギャップの深い断層が横たわっている。
ソ連邦の崩壊とマルクス・レーニン主義死滅、社会主義計画経済の破産によって、イデオロギーの呪縛から解放されたいま、自由な心で客観的に全共闘世代の歴史的位置を総括し、是は是、非は非として、石原裕次郎の絶唱ではないが「右だろうか左だろうか、我が人生に悔いはない」と歌える心境になることが大切なのではないだろうか。
全共闘世代の一つ前の「反安保世代」を闘った、ある有力保守政治家が、かつて自己弁護的に「学生時代、マルクス・レーニンに走らない者は頭が悪い。社会人になってまだマルクス・レーニンを信奉してる者はもっと頭が悪い」とコメントしたことがある。
この政治家は今体制側で、かつて学生時代に批判したことをすべて弁護する立場にある指導者である。これほど無責任で、独善的で、謙虚に自己批判する精神に欠ける発言を、私は知らない。それは一生を賭けて信念に生きる人たちを侮辱するものだし、またそれならマルクス・レーニン主義が世界的に否定された今日、保守党支持に傾いた大学生たちは“頭が悪い”ことになるのだろうか。こういう自己弁護は全共闘世代の指導者たちの口からはききたくない。
湾岸戦争のさなか、ある民放テレビの徹夜の討論会の生中継をみたとき、全共闘世代と平成世代の断絶の亀裂の深さを目のあたりにみて、私は心がむなしくなった。
討論に参加した全共闘世代の出席者は、口々に現代学生、青年のノンポリぶりや「自分ひとり幸福主義」を批判し、|交々《こもごも》「湾岸戦争をみても何とも思わないのか」「もっと情熱を燃やせ、行動しろ」「自己の利益以上のことを考えられないのか」「我々の世代は体を張って平和を守った」などとハッパをかける。
平成世代の若者はさめた目で先輩たちを眺め、熱弁を聞き流し、鼻で笑って反論する。
「貴方たちをみていると、全共闘時代はよかったなんていいながら、居酒屋で酒をのみお互い傷をなめあってるオジンとしか見えませんよ」「体制が確立されてボクらは身動きがとれない。そういう体制をつくっておいてボクらに何しろっていうんですか」「いまのボクにとって大切なことは、アルバイトして、お金稼いで、いい車買って、楽しくデートすることで、デモなんか無意味ですよ」と言い放つ。
心の傷にふれられた全共闘世代は声を荒げて反論する……この互いに接点のない不毛の議論は私を悲しくさせた。
全共闘世代が平成世代を何事も「お金」、3K嫌い、政治的無関心、自分の命と幸福が最大の価値と考えるノンポリでけしからんと批判しても、その責任の一端はきちんとした自己総括をしなかった全共闘世代そのものにあるのではないか。
たしかに全共闘世代は四半世紀以前、自分自身以上の価値、利害打算を超えた大きな目標のため行動したかも知れない。ただ基本路線において誤っていたという総括を逃げていることから、かつて己を賭けて行動した政治改革の理想のたいまつを若い世代に手渡すことに失敗したのではないだろうか。
本書で私は、警備側の「語部」として、原体験に基づく「事実」と第一次情報源から得た「情報」を綴り、歴史の空白の頁を埋めることを試みた。
「東大安田講堂事件とは、一体何だったのか?」
この問いに対する答えは、読者の御判断におまかせしたい。
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あ と が き
本書は、平成四年(一九九二年)五月号から六回にわたって「文藝春秋」に連載された安田講堂攻防七十二時間の記録「東大のいちばん長い日」を大幅に補筆、加筆してまとめたものである。
戦後体制内改革の必要性と可能性を信じて、法秩序と市民の安全を守るクライシス・マネイジャーの人生を選んで警察界に身を投じ、東大安田講堂事件処理の現場指揮にあたった筆者の視点から、直接目撃し、見聞した事実を、当時の現場個人メモや記憶、公的事件記録など攻防戦に参加した、“体制側”の「第一次情報源」からの情報に基づいて、できるかぎり客観的に歴史を再現しようと試みたもので、文責は一切筆者に在る。
もちろん戦後の社会運動史は、イデオロギーの違いや多様な価値観によって、同一の事実についても芥川龍之介の「藪の中」のように異なった解釈や反論もあろうと思うので読者の御批判を仰ぎたい。
終わりに本書出版の機会を与えて下さった田中健五氏以下文藝春秋の皆様に心から御礼を申し上げる。
一九九二年十二月
[#地付き]佐 々 淳 行
単行本
一九九三年一月 文藝春秋刊
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文春ウェブ文庫版
東 大 落 城
安田講堂攻防七十二時間
二〇〇三年一月二十日 第一版
著 者 佐々淳行
発行人 笹本弘一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
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