TITLE : 日本の中の朝鮮文化 12 陸奥・出羽ほか
講談社電子文庫
日本の中の朝鮮文化 12
陸奥・出羽ほか
金 達 寿 著
目 次
序・吉野ケ里遺跡
福島(陸奥)
東北は勿来関跡から
原町市の三嶋神社で
廃寺と装飾古墳
いわき市の天冠塚古墳
福島の飯坂町にて
郡山・須賀川・白河
にわとり権現とからむし
高麗橋と熊野神社
会津・大塚山古墳まで
山形・秋田(出羽)
出羽国だった山形へ
寒河江をたずねて
「まほろばの里」高畠
南陽から上山をへて
大之越古墳の環頭ほか
鶴岡をへて城輪柵跡へ
古代秋田のあらまし
田沢湖・大曲・十文字
象潟の金さんほか
秋田城跡と古四王神社
能代と白神山地
宮城(陸奥)
船形山から青葉城跡へ
色麻・天翼・切込焼
柴田郡にあった新羅郷
多賀城跡をたずねて
黄金山産金遺跡まで
横穴古墳群と古式古墳
岩手・青森・北海道(陸奥ほか)
高麗胡桃・古像・新羅鐘
盛岡出土の衝角付冑
矢巾から平泉まで
新羅神社・環頭柄頭
アイヌの地だった北海道
シリーズの前と後 「あとがき」にかえて
文庫版への補章
日本最大の古代製鉄所跡
積石塚・陶質土器・韓服神社
青森の縄文遺跡と櫛目土器
日本の中の朝鮮文化 12
陸奥・出羽ほか
序・吉野ケ里遺跡
吉野ケ里フィーバー
この古代遺跡紀行「日本の中の朝鮮文化」はようやく、あるいはいよいよ「東北・北海道」となったが、さきの「九州・沖縄」を雑誌『韓国文化』に連載しおえたのは、一九八九年二月号ではなかったかと思う。その間、一年半ほどがたってしまっている。というのは、私はその「九州・沖縄」を書きおえたところで、病気のためたおれ、入院しなくてはならなかったからであった。
八八年十二月入院したときは、腹痛の原因とされた胆石摘出手術のためだったが、つづけて胃潰瘍の手術もされなくてはならぬことになったのであった。いわばそのダブル手術のため、文字どおり死線を彷徨《ほうこう》することになり、六ヵ月も入院生活を強いられなくてはならなかった。
八九年六月、どうやら退院となってからも、こうしてペンを執るまでにはまだ日時がかかったが、その私が肥前の佐賀で吉野ケ里遺跡が発見されたことを聞いたのは、右の入院生活中のことであった。新聞も自分では手にすることができなかったので、ひどくもどかしい思いをしたものである。あるいはもう、その遺跡も目にすることはできないのではないか、とも思ったりしたものだった。
そういうこともあり、また、これからみる「東北・北海道」とも関連するので、ここでまず、その吉野ケ里遺跡についてちょっとみておくことにしたい。
私がまだ少しふらつく体をステッキに託して、背振《せふり》山地の南側平野の丘陵となっている吉野ケ里遺跡をたずねたのは、八九年十二月になってからであった。このときもまた、福岡の松尾紘一郎氏たちのやっかいになったが、このときは遺跡の復元がかなりすすんでいて、バスなどをつらねた見学者の群れがひっきりなしにつづいていた。
いま(一九九〇年三月)ではその見学者が、佐賀県全人口の二倍以上となる百七十万人をこえているとのことで、何とも、たいへんなフィーバーぶりというよりほかない。このようなフィーバーは見学者だけと限らず、吉野ケ里遺跡を報じるマスコミもまた同様であった。
魏志倭人伝との対応
ひとつは、いわゆる「邪馬台国」とからめられたところからもきたもので、たとえば東京新聞には、「邪馬台国を求めて」とした連載がいまなおつづいている。そのうちの「検証 吉野ケ里遺跡」「第三部のまとめ」(八九年九月三十日付け)をみると、「中心に二五ヘクタールの大環濠集落/二千基のカメ棺墓が出土」とした見出しのもとに、それがこうなっている。
△自然環境
福岡、佐賀の県境となる背振山地から、有明海に向かって舌状に延びている長さ二・五〜三キロ、幅五、六百メートルの丘陵の先端部分。西南に広がる平地との比高差はおよそ十メートル。背振山地北側の玄界灘にくらべ、冬温暖で内陸的気候。平地の土壌は有明海に流れ込んだ浮泥が押し戻されてたい積しており、肥よくで水田向き。
△遺跡の概要
弥生時代については、全期間を通じ、遺跡が散在した吉野ケ里遺跡群を形成、その中心が、魏志倭人伝の記述との対応で、話題となった大環濠集落。ゆがんだヒョウタン形をしており、南北一キロ、東西百〜四百メートルほどで、面積は二十五ヘクタール。それを囲む外濠の総延長は約二・五キロと推定されている。
この大環濠集落の北のはずれに、巨大な墳丘墓、その南端から南にカメ棺の列埋葬が延びている。中央部の西よりに内濠に囲まれた南北百五十、東西百メートルほどの環濠集落があり、東西二ヵ所に物見やぐらの、西北の一隅から二十五×二十メートルの建物跡が見つかっている。
また、この内環濠の西の外濠の外から、高床倉庫十九棟分の柱穴が掘り出された。環濠に沿って柵《さく》の跡もあり、魏志倭人伝の記述にある物見やぐらは楼観、倉庫は邸閣、柵は城柵と対応するとの見方ができる。内環濠西北の建物は宮室に当たるとの見方もある。このほか内環濠の内外から二千基に及ぶカメ棺墓が出土している。
弥生時代以外の遺物、遺構としては旧石器時代のナイフ形石器、縄文土器、古墳時代初期の前方後方墳、環濠外から奈良時代の官道、郡家跡、倉庫跡や駅家らしい遺構が出ている。縄文時代以前の住居跡などは、弥生時代から始まった“開発”で消失したとみられている。
△主な出土物
墳丘墓のカメ棺から細形銅剣四本、有柄銅剣一本、ガラス製管玉七十五個。他のカメ棺から結髪した頭髪の一部、数種類の絹の布。環濠などから巴形銅器・銅剣・円を二つ重ねた使途不明の器の各鋳型、鍬《くわ》、鋤《すき》、手斧、のみなど鉄製農・工具。東海地方の祭祀《さいし》土器、庄内式土器を含む土器類。
三百体をこす人骨のルーツ
この「まとめ」には書かれていないけれども、吉野ケ里遺跡からは、三百体をこす人骨も出土している。なかには首のない者や、石の矢じり(石鏃)の突き刺さった者もあったが、それらの人骨がどういうルーツの者であったかということについては、朝日新聞に連載された「吉野ケ里/魏志倭人伝の世界」(8)(八九年九月二日付け)にこうある。
長崎大医学部の松下孝幸・助教授(解剖学)は、吉野ケ里人は、朝鮮半島南部の朝島貝塚人や礼安里古墳人、東北朝鮮の草島人、中国北部の西夏侯人などと似ており、朝鮮半島からの渡来系の人々と考えている。
また、同助教授はこうも述べている。
吉野ケ里人は渡来人だが、骨を外観から見る限り混血ではなかった。渡来集団が何世代もかかって築き上げた集落が吉野ケ里ではないか。
このことはすでに、八九年四月六日の西日本新聞にも、「吉野ケ里遺跡/人骨は渡来人系成人男性/王族の輪郭浮かぶ/長崎大助教授鑑定/新たに銅剣、把頭飾」という大見出しで報じられていたし、また、吉野ケ里遺跡の発掘調査に当たった高島忠平氏も、朝日新聞に週一回のかたちで連載されている「古代漂流」(34)(九〇年三月十六日付け)に「丘陵に眠るポリス/強大だった北部九州」としてこう書いている。
三津永田遺跡は同じ丘陵にあって、吉野ケ里遺跡とは一連のものである。百基以上の甕棺墓から多くの人骨に伴い漢式鏡・鉄刀をはじめ副葬品を多く出土している。なかでも人骨は、亡き金関丈夫氏によって、山口県・土井ケ浜の弥生人骨と合わせて、その形質的特徴から弥生文化を日本に伝えた朝鮮半島からの渡来系の人々のものであるとされ、今日ではほぼ定説となっている。
原住縄文人との争い
そこでひとつ問題となるのは、吉野ケ里遺跡にみられる石の矢じりの突き刺さった人骨である。かれはなぜ、どこのだれによってその矢を射られたのか、ということである。
だいたい、まだ国と国との戦争もなかったはずの弥生時代に、どうして集落を敵から守るために環濠で囲んだり、物見やぐらを建ててあたりを監視したり、また、戦闘用の細形銅剣が出土したりしているのであろうか。このことでは、八九年六月七日の西日本新聞に署名入りのこんな「解説」記事がのったことがある。
クニ対クニの緊張関係がなかった時に、板付遺跡の二重環濠はどんな目的で設けられたのか。板付遺跡人が渡来集団だったとしたら、その防御意識は、“故国”に向けられていたかも知れない。
一読、よくもこんなバカなことを、と思ったものだが、あるいはもしかするとこれの筆者は、六六三年の朝鮮における白村江の敗戦(百済滅亡)でやって来た、百済人たちによる古代朝鮮式山城のことを思いだしたからだったかも知れない。しかし、それは七世紀後半のことであって、まだはっきりした国もなかった弥生時代のことではなかったのである。
では、環濠集落や矢じりなどはいったい、どうしてだったのであろうか。これについては、さきにみた「検証 吉野ケ里遺跡」の「第三部のまとめ」にこうあったことが示唆的である。「縄文時代以前の住居跡などは、弥生時代から始まった“開発”で消失したとみられている」
このばあいの「開発」とは、当時における戦闘にほかならなかった。だれが相手だったかというと、それはのち大和政権によってクマソ・隼人とよばれた原住の縄文人であった。
国立民族学博物館教授・小山修三氏の『縄文時代』(中公新書)によると、縄文時代晩期の九州における縄文人口は六千三百となっており、そして、弥生の渡来人は十万五千百となっている。
原住の縄文人とは人口の面でも圧倒的な差があったわけであるが、しかしながら、狩猟採集の自然人であったかれら縄文人も東北地域における蝦夷・エミシといわれたものたちと同じように、自分らのテリトリーを侵して来た、弥生時代をつくった稲作農耕という異文化のものたちに対しては抵抗もし、戦いもしたはずである。鉄の矢じり(鉄鏃)ならぬ石の矢じり(石鏃)は、そのかれらの有力な武器だったのである。
私は、あちこちに発掘口のある広大な吉野ケ里遺跡をめぐりながら、そんなことを考えたものである。と同時にまた、鳥居龍蔵氏のいう「固有日本人」(水野清一・小林行雄編『考古学辞典』)のことを思いだし、そうだ、弥生人はまさにその「固有日本人」すなわち「倭人」ではないか、と改めてまたそう思ったものだった。
約二千人の弥生人がそこで生活していたという吉野ケ里遺跡で、ほかにもうひとつ印象に残ったのは、墳丘展示室の前に立つと目の下に見える日吉神社の森だった。青緑のこんもりとした小高い森だったが、それはただの森ではなく、どうみても古墳であるにちがいなかった。
もう一つの吉野ケ里――一ノ口遺跡
その古墳は発掘ずみかどうか、もしそうでないとしたら、そこからもなにが出土するかたのしみだと思ったが、ところで、マスコミなどで大きくさわがれた吉野ケ里遺跡の蔭にかくれたかたちの、もうひとつの「吉野ケ里」があった。しかもこれは吉野ケ里より二百年も古い弥生前期のもので、吉野ケ里遺跡の東方約二十キロの福岡県小郡《おごおり》市三沢の一ノ口遺跡がそれである。
吉野ケ里遺跡と同じ背振山麓の三国丘陵にある一ノ口遺跡のことを私が知ったのは、朝日新聞社の週刊誌『AERA』八九年十二月五日号によってだった。吉野ケ里遺跡と似たようなものなので、くわしく紹介はしないが、そこにこういうくだりがある。
一ノ口遺跡は、この一帯に展開する大遺跡群のほんの一部に過ぎない。
三国丘陵に農耕集落が出現するのは縄文時代末期。弥生時代前期後半には、朝鮮からの渡来人の集落ができていたらしく、渡来品か、現地生産品かは不明だが、朝鮮系無文土器が大量に出土した。
さらに弥生中期には農耕大集落が平野部に出現し、大規模なカメ棺墓地がつくられている。そのころ鉄器が普及、支配的な集団が現れ、方形周溝墓が築かれた。
ここにいう朝鮮系無文土器は、日本最古の農耕遺跡として有名な福岡市・板付《いたづけ》遺跡に近い諸岡《もろおか》遺跡などから出土したそれと同じく、紀元前七世紀からとされている朝鮮農耕文化期の土器である。したがって、その土器が「大量に出土した」一ノ口遺跡は、「弥生時代前期後半」よりもさらにさかのぼるのではないか、とも思われる。
それはそれとして、私が吉野ケ里遺跡から一ノ口遺跡をたずねたときは、広さ約六万平方メートルという同遺跡はいまみた無文土器のほか、住居跡八十三、土壙墓三百六十五や、物見やぐらの望楼跡などの出土をみながらの発掘がまだつづいていたが、しかし同遺跡は、その発掘調査終了とともに、何とかニュータウンとなって、消えてなくなることになっていた。「一ノ口遺跡/早すぎる? 保存断念/『検討不十分』『望楼だけでも……』」というこれは、八九年十二月七日の読売新聞・福岡版の記事見出しである。
福島(陸奥)
東北は勿来《なこその》関《せき》跡から
陸奥国と出羽国
東北は広大な地域を占めているが、六四五年の「大化改新」以後の国郡制でおかれた国は、陸奥と出羽の二国のみであった。さきにまず、高柳光寿・竹内理三編『日本史辞典』によって、その二国をみておくことにする。
陸奥国
現在の福島・宮城・岩手・青森の四県。東山道の一。大国。古く蝦夷の居住地で、今の福島県一帯から大和国家の支配下にはいり道奥国となる。律令制で陸奥となり「延喜式」では三五郡、のち五二郡。七一二(和銅五)山形県東部を出羽国に編入、福島県東部に石城、西部に石背の二国を立てたが、再び陸奥国に包括。七二一(養老五)出羽国も陸奥按察使の所管とした。国府は宮城県多賀城町、国分寺は仙台市木ノ下。
北部は久しく蝦夷の版図であったが、平安中期、俘囚の長であった安倍・清原・奥州藤原氏が、あいついで実権を握った。鎌倉時代に奥州留守職、南北朝時代北畠氏が守として支配。戦国時代、伊達・南部氏が栄えた。江戸時代、大小の諸藩が成立し、盛岡・仙台・会津藩は特に大藩として幕末に至る。一八六八(明治一)磐城・岩代(のちの福島県)・陸前(宮城県)・陸中(岩手県)・陸奥(青森県)の五国に分け、廃藩置県以後それぞれ福島・宮城以下六県に移行した。
出羽国
現在の山形・秋田両県。東山道の一。上国。はじめ蝦夷の地であったが、六五八(斉明四)の阿倍比羅夫の遠征を経て次第にひらかれた。七〇八(和銅一)越後出羽郡を設置、七一二〈年〉一国となる。「延喜式」では平鹿郡など一一郡、のち一二郡。蝦夷対策として出羽柵・由理柵・秋田城・払田柵が設けられた。国府は山形県酒田市吉田、国分寺は酒田市城輪。
奥州清原氏・奥州藤原氏・安達氏などの支配を経て、一六Cごろには秋田・小野寺・戸沢・武藤・伊達・最上などの諸氏、江戸時代には上杉・佐竹・酒井ほか小藩に分領。一八六八(明治一)に羽前・羽後二国に分割され、七一〈年〉廃藩置県により秋田・岩崎・亀田など一二県に分かれたが、同年秋田・酒田・山形・置賜に統合、七九〈年〉諸県を統合して山形県・秋田県となった。
これをみて国郡としてまず気づくことは、陸奥、出羽以外の諸国、すなわち磐城《いわき》・岩代《いわしろ》・羽前・羽後・陸前・陸中はいずれも一八六八年、明治になってそれとなったものだということである。このことは日高など、北海道の十一国にしても同様であった。
そういうことがあるので、私はこの東北・北海道ではその国名を使わず、現在の県・道名を使うことにするが、それからまたもうひとつ気づくのは、陸奥、出羽はどちらも「古く蝦夷の居住地で」とか、「はじめ蝦夷の地であったが」とあることである。東北・北海道史の大きな要素である、この「蝦夷」とはどういうものであったかということについては、あとでみることになるが、そういうふうで、いわば東北は古代の近畿あたりからみると、いうところの辺境の地にほかならなかった。
しかし、その東北にも近畿や関東と同じ文化が早くから浸透していた。いまから二千年前の弥生時代中期にはすでに、稲作農耕のおこなわれていたことが、一九七八年に青森県南津軽郡田舎《いなか》館《だて》村の垂柳《たれやなぎ》遺跡が発見されたことで明らかとなっている。このときは弥生中期の水田跡六百五十六枚が発見されたが、ここではその後も、八九年八月二十五日の陸奥新報によると、さらにまた水田跡二十枚、台つき皿、矢じりなどが出土している。
それから古墳時代のそれにしても、同県上北郡下田町の阿光坊遺跡で、八九年八月までに七世紀後〜八世紀はじめの円墳五基が発見され、同遺跡からは玉類、釧《くしろ》などのほか二個の鉄斧《てつぷ》も出土している。
これらの遺跡や古墳などはどちらも、狩猟採集民だったいわゆる蝦夷・エミシによるものではなく、近畿や関東などにみられるそれと同じ者たちによるものであるが、そのような古墳としてはまた、いまから二十年ほど前に書かれた東京大名誉教授(考古学)・斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」(『日本古代遺跡の研究』所収)にこうある。=下は、古代朝鮮からもたらされたものとみられる出土品。
福島県勿来市〈現・いわき市〉山ノ上古墳=冠帽。
同県相馬市高松山横穴=冠帽。
同県相馬郡鹿島町真野古墳=腰佩具《ようはいぐ》。
「来るなかれ」の関
もちろん、福島県だけでも、これがその全部でないことはいうまでもない。それはこれからみることでわかるが、私はこれまでも、東北各地は何度となくおとずれている。けれども、こんどこの稿のためさらにまた順次その各地をたずねることになり、まずさいしょに足をとめたのが常陸(茨城県)、というより東北以南との境となっている勿来《なこその》関《せき》であった。
そうして、福島県は太平洋岸となっている浜通りからみてまわることにしたが、勿来関のことは、福島県高等学校社会教育科研究会編『福島県の歴史散歩』にこう書かれている。
六四五年大化改新で道奥国に編入されることによって、福島県の陸奥国の表玄関という役割は決定された。白河関と勿来《なこそ》関の配置がそれだ。この両関所は、蝦夷《え ぞ》の地と国のうちとをさかいし、蝦夷人の直接侵入にたいし、勿 レ来(来る勿《なか》れ)の関だったのだ。しかし奈良時代にはいると、蝦夷の地との直接の境界線が仙台以北にまで前進したことにより、両関所の役割はいずれもよわまり、平安時代の九世紀ころには有名無実のものになってしまったらしい。
いわゆる蝦夷人は、仙台以北へとだんだん追われたことがわかるが、それはどういうふうにしてであったか。同『福島県の歴史散歩』はつづけてこう述べている。
七九六(延暦一五)年、坂上田村麻呂は、陸奥出羽按察使《あぜち》兼陸奥守兼征夷大将軍に任ぜられ、蝦夷征伐に画期的な役割をはたした。しかし田村麻呂に代表される武将の支援者として、磐城郡文部善理《はせつかよしまろ》・会津高田道成《みちなり》・会津壮麻呂《おまろ》・安積臣継守《あさかのおみつぐもり》・磐城臣雄公《おきみ》らの名をみるとき、けっきょく蝦夷征伐とは、東北の人びとを相互にたたかわせたドラマでしかなかったという、悲運だけがうかんでくる。
だいたい、陸奥は「古くは蝦夷の居住地」、出羽は「はじめ蝦夷の地」(『日本史辞典』)だったとあるが、それは陸奥、出羽と限らず、広くは日本全体がそうだったともいえる。にもかかわらずかれらは、それを「侵入」としてここから以南へは、「勿レ来《くるなかれ》」という関をつくられたり、または「征伐」されたりしたわけだったのである。
「蝦夷」とは何か
かつての古代には、かなり遠くまで四方が見わたせたであろう山上の台地にあった勿来関跡は、「勿来関趾」のほか、いまも源義家の記念碑や資料館などいろいろなものを残していたが、ここで、勿来関がそれのためにつくられたという「蝦夷」とはいったい何だったのか、ということをちょっとみておくことにしたい。まず、前記『日本史辞典』にこうある。
大和朝廷の東部・北部の原住民に対する蔑称。華夷思想の夷狄観に基づく。古代には「えみし(毛人)」「えびす(夷)」と呼んだが、平安以後「えぞ」。近世にはアイヌをさした。
ついで、坂本太郎監修『日本史小辞典』にも、「古代北陸・奥羽地方の原住民。アイヌの祖先と考えられる」とある。
これでかれら「蝦夷」がアイヌであったことはわかったが、では、そのアイヌとはどういうものだったのであろうか。これについてはどういうわけか、一部をのぞく歴史学者・考古学者はそろって口をとざしたままであるが、それは、さきにみた九州におけるクマソ・隼人と同じ、これこそは日本の原住民であった縄文人にほかならなかった。
人類学ではその縄文人を古モンゴロイドといい、あとから来た弥生人を新モンゴロイドというそうであるが、これもさきにちょっとみた小山修三氏の『縄文時代』にある「先史時代の人口と人口密度」表をここにかかげさせてもらうことにする。これによると、縄文時代晩期の全人口は七万五千八百で、その半数以上の三万九千五百が東北に住んでいた。
九州の六千三百にくらべるとその何倍もの多数で、そういうことからか、東北のかれらの抵抗は九州のかれらの比ではなく、実に長いあいだ、中世までつづいた。いまみた『日本史小辞典』にはつづけて、その概要がこう書かれている。
大和朝廷の成立せるころ、それ以西のものはすでに同化していた。朝廷ではその懐柔と征服に努めた。阿倍比羅夫は海岸伝いに北海道まで進んだが、内陸には及ばなかった。奈良時代数回の討伐により、蝦夷地との境界は宮城県の北部から秋田を連ねる辺りまで進められたが、七八〇〈年〉大反乱あり。平安朝初期、坂上田村麻呂らにより岩手県中部から秋田県北部辺りまで勢力圏に入った。
この後中央の政策は退嬰的となり、蝦夷は再び勢力を盛り返した。一一世紀前半に起った前九年の役・後三年の役も蝦夷の首長安倍氏や清原氏の反乱である。清原氏にかわって三代の栄華を誇った藤原氏もまた、この地方の蝦夷の末孫と考えられる。奥羽地方から蝦夷の勢力が一掃されたのは、一一八九〈年〉頼朝の奥州征伐からである。この後も出羽奥州は特別区域とされ、鎌倉末期には土豪安東氏(安藤氏)の内訌から大反乱を起こした。古代朝廷のとった政策がたえざる懐柔と武力による征服であったので、その帰降した者を内地に移住させたこともある。
東北への渡来、移民の波
そのような「たえざる懐柔と武力による征服」の結果、東北の蝦夷・エミシは、九州のクマソ・隼人が琉球へ追われたのと同じように、さいごには北海道へと追われて行ったが、その一方、弥生・古墳時代からの自発的な渡来や入来に加えて、大和政権からする移民もさかんにおこなわれた。移民については、たとえば、『続日本紀』のはじめのほう、七一四年の和銅七年条をみるだけでも、それはこうなっている。
「隼人昏荒《こんこう》、野心にして憲法に習わず。因《よ》りて豊前国の民二百戸を移して相勧《あいすす》め導かしむ」
これは南部九州のばあいで、隼人とは、クマソとよばれた者のうち、一応、大和政権に服した者のことであるが、かれらも心底から服していたわけではなかったのである。豊前国、すなわち福岡県東部から、その隼人を「相勧め導かしむ」ために移された二百戸の民は、大隅(鹿児島県)のそこに韓国宇豆峯《からくにうずみね》神社を祭っているが、しかし隼人は、七二〇年の養老四年に大隅国守陽侯史麻呂《やこのふひとまろ》を殺して、一年以上にわたる反乱をおこしている。
ついで、「豊前国の民二百戸を」南部九州に移した同年条には、「尾張・上野・信濃・越後等の国の民二百戸を割きて出羽の柵戸《きのへ》に配る」とあり、そしてまた一年後の霊亀元年条には、「相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野の六国の富民千戸を移して陸奥に配る」とある。
大家族主義だった古代の当時、「二百戸」というのも大きな数であるが、「六国の富民千戸」となると、これはもうたいへんな数であったにちがいない。このような移民はさらにまだつづくが、要するにそういうことで、現代の東北人のほとんどは、さきにふれた「自発的な渡来や入来に加えて」のそういう移民の子孫であり、東北に「日本の中の朝鮮文化」遺跡が色濃くのこっているのも、そのためなのである。
真野古墳群出土の魚佩
勿来関跡をはなれて、旧国鉄(どうもまだJRとは書きにくい)勿来駅からさらに常磐線を乗りついだ私は、原町市の原ノ町駅でおりた。
ほんとうは、さきにみた斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」にあった「腰佩具」を出土している真野《まの》古墳群のある鹿島《かしま》町まで行くつもりだったが、戻りには清戸迫《きよどさく》装飾古墳のある双葉町でまたおりるつもりだったから、時間の都合がそうならず、中途半端なかたちで原町市のそこへおりたのだった。
原町市ではまず市の教育委員会に立ち寄って、同教育主事の鈴木則久氏らと会い、『原町市の文化財』などをもらい受けた。そして市内をまわってみることになったが、そのまえに、前記『福島県の歴史散歩』によって、鹿島町の真野古墳群をみておくとこうなっている。
「みちのくの真野のかやはら遠けども面影《おもかげ》にして見ゆといふものを」(『万葉集』巻三―三九六)。この歌は奈良時代の女流歌人笠《かさの》女郎《いらつめ》が、大伴家持《おおとものやかもち》におくった恋の歌だ。
「みちのくの真野」とは、現在の相馬郡鹿島町一帯をさすことが定説になっている。真野川流域一帯をいい、以前は、真野村・上真野村・八沢村・鹿島町からなっていた。「和名抄」(一〇世紀に書かれた百科辞典)に陸奥国行方《なめかた》郡真野郷とでている。……
また、この地域は古墳文化がさかえたところとしても有名だ。真野古墳群や横手古墳群、その他無数の横穴古墳群がそれをものがたっている。真野古墳群は現存するものが三四基あり、かつては一二〇基以上を数えた古墳時代後期の代表的な古墳群だ。
そのうち、真野古墳群第二〇号墳からは、金銅製双魚佩《そうぎよはい》が発見されており全国的に有名になった。
ここにいう「金銅製双魚佩」が斎藤忠氏のいう「腰佩具」だったわけで、それについては前記『考古学辞典』にこうある。
腰佩の一種で、魚形につくったもの。〈韓国の〉慶州金冠塚出土品のように、金または銀の薄板を一匹の魚の形に切りぬいて、点線で鱗とその他をあらわしたものと、滋賀県鴨稲荷山古墳出土品のように、双魚形の金銅板二枚を織物の両面にとりつけたものとがある。
鴨稲荷山古墳は魚佩のほか金銅冠、金製耳飾などが出土した六世紀はじめの新羅系古墳であるが、それにしても、真野古墳群は、「かつては一二〇基以上を数えた」とはおどろくべきことであった。鹿島町には六世紀ごろ、すでにそういう古墳群が築かれていたのである。
そうであったからまた、「みちのくの真野のかやはら」と、そこは『万葉集』にまでうたわれもしたのである。
原町市の三嶋神社で
ルーツがはっきりしていたためにきらわれた神
原町市ではタクシーで市内をまわってみることになったが、まずさいしょは、同市の本町《もとまち》にある三嶋神社だった。「へえ、ここにも三島神社があったのか」と思ったからだったが、三嶋神社とはもちろん、伊予(愛媛県)大三島の三島明神・大山祇(積)神社から出たそれであった。
神社はどこにもあるのと同じようなものだったが、社務所でもらった「参拝のしおり」というのをみると、これはずいぶんと大げさなものだった。「御祭神 言代主之神/天降大霊ニニゲ之大御祖/産土神十二柱/大山津見神/木花咲弥姫神」と大きな活字でしるされていて、さらに「御神徳御守護 言代主之神=学問学業の神・商売繁昌・事業の守護神/天降大霊ニニゲ之大御祖=天孫降臨の大御祖神・世界人類の始祖大神/産土神十二柱=生命の親神、死後霊界までの守護神」となっている。
そしてまた、「産土神十二柱の御神業」がならんでいて、「一、衝立船戸神(ツキタテフナトノカミ)真澄を絞り凝らして生魂を産霊だす神」といったぐあいに、これが十二までならんでいる。「――産霊だす神」とはどういうことかよくわからぬが、ともかくいろいろ、たくさんの神々を祭る神社となっていた。
この神社の祭神は、「原町市本町の旧国道沿いに鎮座する三島神社は大山祇神を祀り、天正から寛永中、南北新田、桜井を采邑とした新館氏が鎮守として勧請したものと伝えている」と前記『原町市の文化財』にあるように、その祭神は大山祇(積)神であった。いまみた三嶋神社の「参拝のしおり」には「産土神十二柱」のうちの「大山津見神」となっており、そしてどういうわけか、この神だけは「御神徳御守護」にそれがないだけでなく、「産土神十二柱の御神業」にもそれが見あたらない。
それはある時期における伊豆(静岡県)三島市にある、三島大社の祭神が事代主《ことしろぬし》神となっていたことと似ていた。その三島大社は、伊予大三島の三島明神・大山祇神社から出た分社として有名なものの一つであるが、『三島市史』にもあるように、一八七二年の明治五年に同神社少宮司となった萩原正平が、『伊予国風土記』にしるされた出自の大山祇神を、官幣大社の祭神としているのはよろしくないとして、祭神を事代主神とするよう政府・教部省へ働きかけた結果、三島大社の祭神は事代主神ということになったものだった。いまは大山祇をもどして事代主と二神になっているが、事代主神にしたところで、元をただせば同じようなものだったはずである。それなのに、いわば大山祇(積)神は、そのルーツがはっきりしていたのである。どういうふうにはっきりしていたかというと、『伊予国風土記』(逸文)にそれがこうある。
伊予の国の風土記にいう、――乎知《おち》の郡。御島《みしま》においでになる神の御名は大山積の神、またの名は和多志《わたし》(渡海)の大神《おおかみ》である。この神は難波《なにわ》の高津の宮に天の下をお治めになった天皇(仁徳天皇)のみ世に顕現なされた。この神は百済《くだら》の国から渡っておいでになりまして、摂津の国の御島においでになった。云云。御島というのは津の国の御島の名である。(『釈日本紀』六)〈吉野裕・訳『風土記』〉
要するに、「上古の時、神といいしは人なり」(新井白石『東雅』)だったその大山祇(積)神は、古代朝鮮の「百済の国から渡っておいでにな」ったものであったことがきらわれたわけだったのである。
三島は御島=朝鮮
しかし、伊予の大三島に三島明神・大山祇神社を祭った百済からの渡来人集団のそれは、三島という地名とともに全国各地にひろがり、あちこちにその分社ができた。大山祇神社発行の『大三島詣で』をみると、「御社号は大山祇神社・山神社・三島神社等多岐にわたるが、全て大三島を中心とする大山積(祇・津見)神を祀る神社で、北海道から九州までの全国各地各県に鎮斎される御分社の数は一〇、三一八社(昭和四八年八月、神社本庁調)を数える」となっている。
たいへんな数であるが、ところで、ここにいう大三島の三島、または御島ということである。これが単なる地名ではないことを私が知ったのは、是沢恭三氏の、宮中に祭られた韓《から》神社の「韓神について」という論考によってだった。そのことで私はさらにまた、大和(奈良県)天理市にも三島町があって、有名なそこの天理教本部敷地内に三島神社があることも知った。
まず、「韓神について」からみると、「三島《みしま》木綿《ゆ う》 肩にとりかけ われ韓神の 韓招《からお》ぎせむや 韓招ぎせむや」という宮中でおこなわれている神楽歌のことに関連して、こう書かれている。
韓神の神楽歌の意味については、既に「三島と朝鮮」と題して小論(『国史学』七三、昭和二十六年三月)を発表したことがある。その大意は三島木綿《ゆ う》とは古く摂津〈大阪府。高槻市三島江に三島鴨神社がある〉に産した木綿であって、この三島は御島とも書かれて朝鮮を意味すると考えられ、「韓招ぎ」とあるは韓の技芸、即ち韓風の、或は韓から伝来した芸能と解すべきで、それを舞うについて特に三島木綿を使用し、肩にとりかけてその特技なることを歌っているものであり、即ち韓の神であることに深い意を表している。
韓神と「韓招ぎせむや」の神楽歌とのこともさることながら、私がもうひとつ目をひかれたのは、「三島は御島とも書かれて朝鮮を意味すると考えられ」ということであった。「三島」が三つの島(アイランド)ということでないことはわかっていたけれども、それが「朝鮮を意味する」ものだとは知らなかったのである。
そこで私は友人の堀佶《ほりただし》さんにたのんで、是沢氏の「三島と朝鮮」を入手してみたところ、そこには、「三島は古い朝鮮の異名である」とあったばかりでなく、大和の天理市にある三島神社のことがこう書かれていた。
大和の三島と呼ばれるのは、今天理市となっている天理教お地場の地である。天理市となる以前は丹波市町と称されていた。その字《あざ》の一つに三島がある。天理教教祖は此《この》土地に氏神として三島社を祀《まつ》り、天理教によって奉斎せられている。
で、私はまた、関西へ行ったついでに天理市のそこへ寄って調べてみたところ、たしかにそこは三島町となっていて、三島神社は天理教本部のすぐうしろ横にあった。しかし、是沢氏が「天理教教祖は此土地に氏神として三島社を祀り」としていたのはあやまりで、三島神社は天理教ができる以前からそこにあったものだった。
したがってただしくは、「天理教教祖は此土地に氏神として三島社を祀り」ではなく、天理教教祖もその三島神社の氏子となっていたもので、そのことは神社横の掲示板にもこうあった。「主婦時代の教祖様が御祈願の氏神様」と。
それから、この三島神社の三島(御島)が、「古い朝鮮の異名」だったということであるが、そのことについては、金沢庄三郎氏の『日韓古地名の研究』にもこう書かれている。
島はもと郷里の意にして、大和島・敷島・軽島・秋津島・島皇《しますめ》祖母《みおや》命など、いずれも都城の義に用いられ、本居宣長翁も「島とは、凡《すべ》てもと周廻に界限のありて一区なる城をいう名にて、海中には限らざるなり」(記伝四十四)といわれたり。
なおまた、もうひとつみると、讃岐(香川県)の善通寺市に新羅神社が二社ある。そのうちの木徳町にある新羅神社の祭礼は、「須佐之男命の朝鮮渡り」という船神楽で知られており、それが、「このたび須佐之男命様には、韓《から》の三島へお渡りになるそうで」という大国主命のことばからはじまるのである。
妙見を祭る太田神社
三嶋(島)神社ではなしがちょっと長びいてしまったが、ついで原町市では、国指定史跡となっている同市中太田の羽山横穴装飾古墳、太田神社から、同市上渋佐《かみしぶさ》のこれも国指定史跡となっている桜井古墳をへて、同市泉の泉廃寺跡にいたった。
そこまでくると、乗っていたタクシーの運転士が、
「こういうのをみて歩いてどうするんですか」と言ってきた。よほど物好きな男もいたものだ、と思ったらしかった。
「うん、まあ――」とこたえたが、それはともかく、羽山横穴装飾古墳はあとでふれるとして、急な石段を登った山腹にある太田神社は、深い森に囲まれた神社だったが、そこはもと相馬氏の居館となっていたところだった。神社は、その館に安置されていた北斗星を本地《ほんじ》とする妙見《みようけん》尊を祭ったもので、「相馬三妙見」(相馬中村・小高《おだか》・太田)のひとつとなっているものであった。
この妙見信仰も、周防《すおう》・長門《ながと》(山口県)を本拠としていた大内氏が百済から渡来するときもたらしたとされているものだった。そして周防・長門を中心に各地にひろがり、それが東北にまでひろがってきていたのである。
しかし、その妙見社も明治時代になってからは、天御中主《あめのみなかぬし》神が祭神ということになった。が、そうだったにもかかわらず、こちらでは「相馬三妙見」ということばがいまも生きていたばかりか、有名な「相馬野馬追《のまおい》祭」も、野馬をその妙見社に捧げるということからはじまったものである。
ついでにみると、「相馬野馬追祭」は東北における夏祭りのさきがけとなっているもので、福島県の相馬、双葉両郡の住民のほとんどが参加する大きな祭りである。使用される馬の数は毎年五百余頭だそうで、その祭礼のことは前記『原町市の文化財』にこうある。
祭礼は例年七月二十三日、二十四日、二十五日と三日間。第一日は太田、小高、中村神社にて出陣式を行って原町市雲雀ケ原に参集し、宵乗行事を行う。第二日は原町市旧国道を三社に供奉する武者行列のあと、雲雀ケ原にて勇壮な甲冑競馬、神旗争奪戦を挙行、第三日は小高町にて古式に則った野馬懸《がけ》行事で幕となる。
五世紀末の前方後方墳――桜井古墳
羽山横穴装飾古墳と同じく、これも国指定史跡となっている桜井古墳は、よく育った杉の枝がそろって空を突き刺しているような森のなかにあったが、しかし、一方はたて込んだ住宅に押しだされているといったかっこうだった。このようすでは、古墳がそこにあるのもあまり長くないのではないかと思われたが、この古墳はいろいろな意味で大事な古墳のひとつで、前記『福島県の歴史散歩』をみると、それのことがこう書かれている。
古墳の形式にもいろいろあって、円墳とか前方後円墳のようなものは諸地方にみられるが、桜井古墳(史跡)は前方後方墳だ。前方部・後方部ともに方形という珍しいかたちだ。原町市の北部を流れる新田川の下流域の南岸台地にあって、全長七五メートル、後方部の一辺が四七メートル、高さ七メートルあまり、前方部は西面している。このかたちの古墳は全国的にも数がすくなく、五十数基しかない。桜井古墳はその北限といわれてきたが、その後宮城県名取《なとり》市などからも前方後方墳が発見されている。
桜井古墳はその外型などからみて、古墳時代中期に属し五世紀末ごろにつくられたものだろう。……
この付近には、桜井古墳を中心としてかつては二十あまりの円墳があったが、現在は五基ほどになってしまった。また、ここから東方二五〇メートルのところに方墳が一基現存している。桜井古墳に埋葬されたのは、この地方をおさめていた、もっとも有力な豪族のひとりだったろうとおもわれる。
全国に約十五万基あるうち、桜井古墳は前方後方墳という珍しいものであることもさることながら、それがまだ四〇〇年代の五世紀末ごろのものとは、ちょっとおどろくべきことであった。もっとも、東北にものちにみる会津若松市に四世紀のものという大塚山古墳があるが、それにしても五世紀末の桜井古墳は、大塚山古墳と同様、まだ、いわゆる大和朝廷のできなかったときからあったもので、そのころすでにこの地域には、そういう古墳に埋葬された「有力な豪族」がいたのである。
その豪族はいったいどういう者だったろうかと思いながら、桜井古墳の北東となっている泉廃寺跡をたずねた。
廃寺と装飾古墳
小さな林の泉廃寺跡
私ははじめ原ノ町(原町市)の四、五駅手前となっていた、清戸迫横穴装飾古墳のある双葉町を目ざしたものだったが、急に考え直して原町市までくることになったのは、そこに泉廃寺跡があったからだった。だが、その泉廃寺跡は、いまは小さな林がそこにあるきりで、その前に「泉廃寺跡」とした標柱と掲示板がたっているだけとなっていた。
「それにしても――」と私はちょっとがっかりしたが、しかし、そこにあった泉廃寺跡からの出土品の持つ意味は大きかった。それはこれからみる、東北にも多い横穴装飾古墳とも深くかかわるもので、まず、前記『福島県の歴史散歩』をみるとこうある。
原町市の中心街から海岸部に四キロほどゆくと、泉という集落がある。バスにのり、広畑停留所をすぎると田園のなかにひときわすぐれた松の木がみえる。これが泉の一葉松(県天然)だ。通称“弁慶松”といい、弁慶が腰をかけた松といういい伝えがある。そのむかしこの地方にさかえた泉長者の屋敷が、源氏の奥州平定のとき、弁慶によって焼きはらわれた。このとき弁慶がこの松に腰をかけ、もえさかる長者の屋敷をながめたという。その泉長者の伝説を伝える里が泉である。
弁慶松の東方三〇〇メートルの地に泉廃寺跡(県史跡)がある。廃寺跡というと大寺院があったかにきこえるが、寺院のあとか官衙《かんが》(役所)のあとかは不明だ。泉字館前・寺家前・惣ケ沢とかなりひろい地域にわたり、古瓦(布目瓦・軒瓦・軒丸瓦)が出土しているし、建物の礎石も散在している。とくに目だつのは、軒丸瓦の文様だ。植物文様(植物の葉を図案化した模様)を自由に、無雑作にほどこしたものや、四弁単葉蓮華文など、他に例をみない独特の文様でしられる。また、円面硯などもみつかっている。おそらく平安時代初期のころの建造物のあとだろう。
原町市内には、古瓦を出土する遺跡として、ほかに植松廃寺・高塚沢瓦窯《がよう》跡があり、県下にしられた有名な遺跡だ。また、泉廃寺跡内には泉の十一面観音(県重文)をまつる観音堂がある。十一面観音は寄木造檀像《よせぎづくりだんぞう》で、鎌倉期の手法を伝えている。一説に泉長者の守護仏といわれ、徳一大師の作といういい伝えが残っている。
廃寺跡出土の瓦
泉廃寺と関係ありそうな、泉長者とはどういう者だったかわからないが、問題はその廃寺跡から出土した古瓦である。この瓦はさいわい、原町市三島町の原町公民館に保存されているが、しかし、私がそれについてあれこれいうより、これも、前記『原町市の文化財』の「泉廃寺跡出土瓦」の項によってみたほうが早い。
いろいろな意味で大事なことなので、ちょっと長いけれども、写真(本電子文庫では割愛)とともにその全文をここに引かせてもらうことにしたい。
本資料は、瓦二五点、円面硯片一点、計二六点の一括資料を指すもので、佐藤助信、(故)佐藤二郎氏ら泉文化財保存会の多年にわたる献身的活動により収集されたものである。たまたま(故)内藤政恒博士の着目するところとなり、本資料に関する左記論考が公表されて、斯界の注目を浴びるようになった。
「本来の鐙瓦《あぶみがわら》の伝統にとらわれない卓越した、奇抜な文様と本邦で他に類例をみない高句麗文化の波及したもの……云々」(夢殿第十九冊『綜合古瓦研究』昭和十四年刊)
福島県重要文化財指定の理由も、前記内藤論考に言いつくされているが、その特徴について具体的解説を試みる。
花弁文鐙瓦(図〈次ページの写真のこと〉5) 高く幅狭い周縁、六個の蓮子を配する中房、内区中央で交叉する四本の長茎につく対生の葉文、その間隙を埋める二個の七弁花弁文に現わされた自由奔放な意匠文は、国内に類例をみない独創性豊かなもので、遠く古代ギリシャのパルメット系花弁文の百済様式が波及したものと推定される。
花文鐙瓦(図4) 四個の独立した六〜七弁の花文と、その間に一片の花弁文を配して空隙による調和を解消させた描法は、絶妙であり、(1)の花弁文鐙瓦とともに、比類ない写実的表現である。
三蕊《ズイ》弁蓮華文鐙瓦(図2・3) 三蕊を持つ蓮華文も、わが国には殆《ほと》んど類例がなく、高句麗の鐙瓦に近似文様を見ることができる。特に弁の先端を広げて尖らせた心葉形蓮弁は、高句麗瓦の特徴的手法とされている。わが国の瓦の製作が、高句麗―百済から帰化した瓦工の創窯によることは、周知の通りであるが、高句麗の様式が突如として高塚沢瓦窯跡(惣ケ沢、館前瓦を供給した瓦窯跡)に出現したことは、誠に興味深い。
円面硯(図6) 高さ八センチメートル、現存幅二〇センチメートル。七世紀から九世紀にかけて、わが国の硯の大部分は陶製で、「風」の字形をする風字硯と、本資料のように平坦な円盤の周囲にV字形の溝を繞《めぐ》らし、下部に台脚をつけた円面硯の二つの型にわかれる。円面硯の上面の円盤は陸、周囲の溝の部分が海に相当する。
この円面硯の台脚部には、やや裾ひろがりの脚がとり付けられ、周囲にたくさんの長方形の透し窓が穿《うが》たれている。透し窓の間には、二段のくびれをつけた棒状彫刻文が並んでいる。本資料の出土は、この地が行方《なめかた》郡の寺院跡? 官衙跡? であることを推定させる貴重なものである。
以上、これらの資料の極めて特異な意匠や技法は、原町周辺地方文化の性格を知る上に誠に重要である。
さらに、これらの瓦は、腰浜廃寺(福島市)出土瓦と文様技法などに共通の特徴を持つことから、その当時、行方、信夫《しのぶ》両地間に政治的、経済的、文化的交流が盛んに行われたことを窺わせるものとして、意義の大きいことを示している。
なお、本資料の大部分は、惣ケ沢・館前遺跡から出土したものとされる。惣ケ沢・館前遺跡と寺家前遺跡(泉長者遺跡)とが同一性格を持つ複合遺跡と推定されて、「泉廃寺跡」名が冠されるようになった。しかし、今後調査研究の進展によっては、両者が別個の性格を持つ遺跡とされる可能性が残されている。
要するに、古代朝鮮三国のうちの一国であった「高句麗文化の波及したもの」だったのであるが、その波及は泉廃寺などに限らなかった。あとでみるように、東北にも多い横穴装飾古墳や、積石塚《つみいしづか》古墳などにしても同じであった。
中田横穴の装飾と出土品
泉廃寺跡で日暮れとなってしまったので、私は、双葉町の清戸迫横穴装飾古墳は省略して、列車でそのままいわき市まで戻り、この日はそこの湯本で一泊した。そして、翌日はさっそくいわき市教育委員会に寄って社会教育課長の宍戸孝章氏らと会い、同市教育委員会編『いわき市の文化財』『史跡 中田横穴』などをもらい受け、まず、同市平沼ノ内にある中田横穴装飾古墳からたずねることにした。
いわき市は、一九六六年に平《たいら》市など周辺の五市四町五村が合併してひとつになった広域都市で、十数年前、私は同市教委に招かれて講演に来たことがあった。そういうことから、市教委の宍戸さんたちは私のことをおぼえていてくれたので、はなしは早かったものだった。
中田横穴は県道に面したところにあって、山腹の同古墳はきちっとしたドーム形の保存施設がほどこされ、開扉される日以外はなかにはいってみることはできなかった。市教委の宍戸さんたちにたのめば何とかなるかも知れなかったが、しかしそれでは執務中の相手をわずらわすことになるし、それに私としてもそこへはいってみたところで、別になにかが新しくわかるというものでもなかった。
で、市教委からもらい受けた『史跡 中田横穴』によってみると、それはこういうものであった。
中田横穴は昭和四五年一月、県道小名浜・四倉線バイパス工事中に発見された装飾壁画を持つ横穴として、昭和四五年五月一一日に国の史跡として指定されました。
中田横穴は、夏井川河口の南約五キロメートルにあり、太平洋岸に派生する砂質凝灰岩丘陵の北斜面に三段にわたり並列しています。最下段に位置する一号横穴は複室の形態で、天井部をアーチ形に作り、その規模は前室で幅二・一メートル、高さ一・五メートル、後室は幅二・八メートル、高さ二・三メートルあります。
後室は彩色された装飾壁画が四周壁にあるほか、床面にも彩色が認められます。奥壁および側壁の装飾壁画は赤色と白色の三角連続文(一辺約四〇センチメートル)を基本形として三段階に分けられ、上段と下二段では、三角文の構図が異なっています。赤色の三角文は、部分的に白色塗彩を下地として描かれている個所もあり、また三角文の多くは線刻で輪郭が施してあります。……
出土遺物は、玉類、直刀、挂甲片、金環、金銅製雲珠、銅剣、馬鈴、金銅製大馬鈴、鈴杏葉、紡錘車、珠文鏡、銅製容器蓋、須恵器などきわめて豊富であり、特色ある装飾を有する複室の横穴として類例稀な遺跡であります。
たいへんな出土遺物である。金環などこれらの遺物は、被葬者が渡来するとき、その身につけてきたものだったにちがいない。
東北の装飾古墳
ところで、そのような横穴装飾古墳は、東北にどれだけあるのだろうか。梅原茂氏の「東北地方の装飾古墳について」をみると、それはこうなっている。
一、泉崎横穴 福島県西白河郡泉崎村
二、大久保横穴 同 同 東村
三、清戸迫横穴 同 双葉郡双葉町
四、大窪横穴 同 相馬郡鹿島町
五、 同一〇号 同
六、浪岩横穴 同 同 小高町
七、羽山横穴 同 原町市中太田
八、中田横穴 同 いわき市平沼ノ内
九、館山横穴 同 同 樋田町
十、山畑横穴 宮城県志田郡三本木町
十一、 同一五号 同
十二、 同 六号 同
十三、大迫横穴 同 同 鹿島台町
十四、矢本横穴 同 桃生郡鳴瀬町
十五、追戸横穴 同 遠田郡涌谷町
十六、亀井囲横穴 同 志田郡松山町
十七、 同 四号 同
計十七であるが、それがみな福島県と宮城県とに集中している。そしてまた、どれも横穴ばかりというのが特徴的である。その「横穴」については、国学院大教授(考古学)乙益重隆氏の「肥後の古墳時代の終わる頃」をみると、「東北地方に分布する横穴は、県〈熊本〉下で最も多い肥後系横穴に極めてよく似ている」としてこう述べている。
私は仙台湾周辺の横穴を見た時、その規格、内部構造、さらには壁面の三角形連続文様まで、ふるさと熊本の横穴と酷似して、ノスタルジアさえ感じたものだ。ただ、両者の間に年代差はあった。肥後の横穴が六〜七世紀、東北のそれは七〜八世紀と半世紀はスライドしていた。
肥後の人々が古代、蝦夷《えみし》国に行ったんじゃないか。きっと移動したに違いない。
東北の横穴装飾古墳は、九州から移動した者たちのそれであるというのが通説のようであるが、だいたい、日本全国の装飾古墳は二百五十余で、そのうちの百十八を九州の熊本県が占めている。全国の半分近くであるが、では、そのような九州の装飾古墳は、いったいどこから移動したものだったのであろうか。
このことについては、九州大教授(考古学)西谷正氏の『日本古代史と遺跡の謎 総解説』にある「装飾古墳に秘められた謎――その文様・顔料などから朝鮮半島との関係をさぐる」をみると、こう書かれている。
九州の装飾古墳のなかで、とくに注目しておきたいのは、朝鮮半島三国時代の高句麗の壁画古墳との関係である。竹原古墳の朱雀・玄武、ならびに福岡県珍敷塚の奥壁の二匹の蟾蜍《ひきがえる》のほか、王塚古墳では、前室奥壁左側の上部に描かれた両手・両足を広げた小人物像は、高句麗古墳壁画中の守門将を連想すべきであろうか。さらに、福岡県日の岡古墳の奥壁全面を飾る同心円文の多用も、高句麗とのかかわりがあるかもしれない。
つまり、さきにみた原町市の泉廃寺と同じく、東北に多い横穴装飾古墳も、「高句麗文化の波及したもの」(内藤政恒『綜合古瓦研究』)だったのである。もちろん、その文化が波及したということは、そういう文化をもった人間が渡来し、移動したということで、その波及はさらにまた、東北に多い積石塚古墳にしても同じことがいえる。
高麗橋へ
しかし、その積石塚古墳はしばらくおいて、中田横穴装飾古墳からの私は、いわき市平六間門にあるという「高麗橋」へ行ってみることにした。
「こんどは高麗橋へ――」と乗っていたタクシーの運転士にただそう言っただけで、運転士はだまったままタクシーを走らせてしばらく行くと、「ここです」とかなり大きな橋の前にクルマをとめた。
おりて橋の欄干をみると、たしかに「高麗橋」とある。が、その下は切りたった深い谷間で、橋の下を十文字に横切る道路となっていた。
いまでは高麗《こうらい》橋といわれているそれは、そういう陸橋だったが、しかしそれにしても、古代日本では高句麗のことを高麗《こま》といい、のちには朝鮮全体をさす名称ともなった、そういう名の橋がどうしてそこにあるのか。
私がこの橋のことを聞いたのはいわき出身の友人からだったが、友人もそこまでは知らなかった。あるいはもしかすると、これも「高句麗文化の波及」と関係があるのかも知れなかったが、それもよくはわからなかった。
いわき市の天冠塚古墳
天冠塚古墳と金銅製天冠
高麗橋からの私はついで、いわき市錦町の天冠塚古墳(金冠塚古墳ともいう)をたずねることにした。うかつにも以前来たときは、そこにそんな古墳があるとは知らなかったものであった。
ひとつは、この古墳が発掘調査されたのが一九五〇年の昭和二十五年で、それが明らかとなったのはさらにのちになってだったからかも知れなかったが、それはともかく、まず前記『福島県の歴史散歩』をみると、その古墳のことがこうある。
熊野神社から国道六号線にでて、錦《にしき》町の中心街をすぎるあたり大高《おおたか》町にむかう県道がある。この県道は常磐線と立体交差しているのだが、橋上からは市南部工業地域の中心、呉羽《くれは》化学と十条製紙の工場群を見わたせる。またすこしくだると、左側下の呉羽化学工場敷地内に、小さな鳥居をかまえた古墳があるのがみえる。
この古墳は昭和二五年に発掘調査され、その横穴式石室からは、金銅製天冠の金具が三個ほど発見されたことから金冠塚《きんかんづか》古墳(県史跡)と名づけられている。さらに、金環と「十」・「三」の陰刻文字の判読される骨製品や、須恵器なども伴出されており、往時の有力首長の墳丘だったと考えられている。陶製の棺(県重文)が出土した後田《うしろだ》町の古墳群などとも近接することから考えると、このあたりが鮫川下流域における古代生活圏の中心であり、古代菊多国の拠点となっていた地なのだろう。
ここにもみられるように、その呉羽化学工場の建物があちこちと入り組んでいるので、めざす天冠塚古墳はどこにあるのか、なかなかわからなかった。人にきいたりしてようやくさがしあててみると、古墳は二、三本の樹木がたっているだけの、雑草におおわれた中小古墳のひとつだった。
そして墳頂部に祠《ほこら》のような神社が祭られていて、裾のほうに、「昭和四十八年四月四日」付けの福島県教育委員会・いわき市教育委員会による「福島県史跡 金冠塚古墳」とした掲示板がたっている。
いまみた『福島県の歴史散歩』には、「昭和二五年に発掘調査され」とあったけれども、掲示板には「昭和二十八年に調査された」(こちらは調査がおわったときのことであったろう)とあるだけでなく、ほかにもいろいろな点でこちらのほうがくわしいので、この掲示板もみておくことにしたい。
金冠塚古墳は、昭和二十八年に調査された横穴石室を有する古墳であり、七世紀前葉に造営されたものである。本古墳は、直径三〇メートルの円墳で、内部主体は前室、後室の複室と羨道《せんどう》との構造を示し、長さ七・五〇メートル、幅一・五〇メートルの割石組《わりいしぐみ》の石室である。
副葬品は透彫《すかしぼり》のある金銅製飾金具《こんどうせいかざりかなぐ》はじめ、挂甲《けいこう》等の鉄製品、骨鏃《こつぞく》その他の骨製品、自然釉《ゆう》のかかった長頸坩《ながくびつぼ》高台付の壺須恵器が発見され、質量ともに貴重なものである。
ほかに後室から十三人分の人骨が出土し、家族墓で追葬した例として貴重である。これらの副葬品は、現在東京国立博物館ならびに福島県教育委員会等に保管されている。
くり返し「貴重」ということがいわれているが、たしかにそれは貴重な古墳であった。それだけに、化学工場に呑み込まれてしまうことのないよう願いたいが、この古墳に埋葬された金銅製の天冠は、冠帽またはただ冠《かんむり》ともいわれるもので、遠いところでは九州・熊本県菊水町の江田船山古墳、近くでは茨城県玉造町の三昧塚古墳など、全国のあちこちから出土しており、とくに群馬県前橋市の山王金冠塚古墳から出土した「新羅製の金銅製立花形冠」(梅沢重昭編『日本の古代遺跡』〈16〉「群馬東部」)などは、いかにも王者のそれにふさわしいといったものである。
「往時の有力首長の墳丘だったと考えられている」いわき市の天冠塚古墳出土の冠も、それと似た王者の被りものではなかったかと思うが、しかもそれだけではなく、さらにまた、われわれはさきの「東北は勿来関跡から」の項で、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」により、いわき市勿来の山ノ上古墳、相馬市高松山横穴古墳からの二例をみている。そのような冠帽の出土した古墳が、同じ福島県南部のいわき市にまたあったのである。
神谷作古墳の天冠埴輪
いわき市ではまた、平神谷作《たいらかみやさく》古墳からいわゆる天冠埴輪(埴輪男子胡坐《こざ》像)が出土していて、国の重要文化財に指定されている。福島県教育委員会編『文化財読本』にそれのことがこうある。
本県の埴輪のうち最も有名なものは、重要文化財指定の埴輪男子胡坐像で、昭和二十三年いわき市平神谷作にある古墳から発見されました。高さ九一センチメートル、円筒の上に足を組み、頭に三角形の天冠をつけ、刀を腰に、全身に赤い三角形の鱗《うろこ》の文様がいろどられています。そのほか板状のまげや鈴鏡をつけ、赤い三角文のあるスカートのような裳《も》をつけた女子像や、よろいをつけた武装男子像・ひざまずく男・馬・家・さしばなどが発見されました。
特に天冠をつけた埴輪はすばらしいもので、関東地方や他の地方にもまさるわが国でも指おりの傑作です。このような、すばらしい埴輪が、なぜいわき地方にあるのか、興味深いものがあります。
墳丘の祠
この天冠埴輪と天冠塚古墳とはどういう関係にあったかはよくわからないが、天冠塚古墳でもうひとつ印象的だったのは、その墳丘部に祭られている祠《ほこら》のような神社だった。河内(大阪府)羽曳野《はびきの》市にある誉田《こんだ》八幡宮と、いまでは誉田山古墳といわれる応神陵古墳とのことを思いだしたからでもある。
いまは巨大な神社となっている誉田八幡宮もはじめは、天冠塚古墳の墳丘部にある祠のような神社だったもので、羽曳野市教育委員会編『歴史の散歩道』「誉田八幡宮」の項にそれのことがこう書かれている。
羽曳野市誉田三丁目二―八。誉田中学校の西側を通り、坂道を下ると小川がある。この小川は碓井《うすい》川とか放生川といわれているが、小川の手前の左側に八平方米ほどの空地があるが、これが大昔からの誉田地区の氏神の「当宗《まさむね》神社」の旧地であることを知る人は大変少ないようだ。
誉田八幡宮は応神陵の後円部の頂上に設けられた祖廟形式(朝鮮の風習の名残り)の小社であった。ところが、平安中期の永承六年(一〇五一)二月、後冷泉天皇の命によって南一丁目の現在地にうつされ、この時から東面の社殿となり、歴代朝廷や鎌倉幕府(頼朝)や室町幕府(義教《よしのり》)らの保護を受けて次第に盛況を保つようになった。
古墳と神社との関係を知るうえでの貴重な事実であるが、今日でも古墳の上にある神社をよく見かけることがある。たとえば、出雲(島根県)加茂町の神原神社も、有名な「景初三年」銘の鏡を出土した神原古墳の上にあったものだったし、阿波(徳島県)鳴門市の春日神社、宇志比古神社などは、すぐにそれとわかる古墳の上にいまもある。
跡形もない腰浜廃寺跡
つぎに私が福島県をおとずれたのは、いわき市から帰った数日後だった。このときは上野から新幹線で、福島市までまっすぐ直行することにした。そしてそこから、須賀川、白河と南下しながら、できれば、会津までまわりたいと考えていた。
福島市はいうまでもなく県都(人口は郡山市のほうが多い)、県の中心となっているところであるが、しかし、これまでのいわき市のように遺跡・遺物はあまり多くないようだった。私の知っていたものといえば、さきの原町市でみた高句麗系の泉廃寺と同系の、腰浜廃寺ぐらいのものだった。
それはともかく、例によって福島市ではまず市の教育委員会をたずねて、文化課文化財係長の栗原章氏に会い、『福島市史』などみせてもらったところ、二十数基の古墳がのっていた。銀板張耳環を出土した同市岡山地区の月の輪古墳や、圭頭大刀を出土した浜井塚古墳など、高句麗系のそれである積石塚古墳が多くの数を占めている。
それをみて私は、「なるほど」とひとりうなずくようにして思ったものだった。というのは、福島市のそこも、積石塚古墳と同じ、高句麗系の腰浜廃寺などがあったところだったからである。
「ところで」と私は、栗原さんに向かってきいた。
「腰浜廃寺跡は福島大学の近くだそうですが、そこはどのへんなんでしょうか」
「ああ、腰浜廃寺のそこはもう住宅になってしまって、いまでは跡形もありませんよ」
「跡形もない――」
「しかし」と栗原さんは語をついで言った。「飯坂町の湯野廃寺跡なら残っていますから、そこへ行ってみてはどうですか。これも腰浜と同じ系統の寺院だったそうですから」
それは、私も知っていた。先に入手していた『文化財読本』をみていたからで、腰浜廃寺のこととともに、そこにこうある。
腰浜廃寺跡は、福島市の阿武隈川に近い福島大学と同附属中学校の間にあります。昭和三十五・三十六年発掘調査が行なわれましたが、礎石が失われ、基壇もなく、建物の規模もわかりませんでした。
ここからは類例のない瓦が出土して注目をひいています。奈良時代おわりごろの単弁蓮華文《たんべんれんげもん》軒丸瓦、重弧文軒平瓦もありますが、最も多い瓦は、子房が四葉の巴文《ともえ》様がある旋回状花文《せんかいじようかもん》軒丸瓦や、八弁蓮華文といわれる特殊なもので、これらとセットをなす軒丸瓦の額部《がくぶ》には、花文や波状文があります。また四弁蓮華文瓦は、原町市泉廃寺・植松廃寺にもあって、阿武隈高原をはさんで東西にある両寺に、深いつながりがあったことを示しています。
これらの廃寺から、国内に類例のない、高句麗風の瓦が出土していることは、腰浜廃寺には帰化人の手が加えられていたことを物語っています。腰浜瓦は立子山・深川・湯野・国見地方にもおよんでおり、この瓦を焼いた窯跡も付近に多くあります。湯野廃寺跡は、飯坂町湯野の県立飯坂高等学校の東、ゆるい傾斜地に礎石や古瓦が出土しており、相当大きな寺院であったようです。
高句麗文化の波及
要するに、南部の原町市やいわき市などばかりではなく、北部の福島市をはじめとする各地のそれらも、「高句麗文化の波及したもの」(内藤政恒『綜合古瓦研究』)だったわけであるが、「高句麗文化の波及」は、ただ、それら寺院と限ったものではなかった。
古代に文化が波及するということは、その文化をもった人間集団が渡来移動して来たということであるが、福島県に(あるいはにも)多い積石塚古墳もそういうことからであった。たとえば、湯野廃寺(湯野西原廃寺ともいう)のある飯坂町には、さきの『福島市史』に出ていたものだけでも、井野目古墳、石堂古墳、恵名持古墳などがある。
市の教育委員会を出た私は、近くにあった県立歴史資料館へ寄ってみることにした。
資料館は建ってまだ間もないらしい大きな白亜のりっぱなものだったが、玄関口に警備員が一人いるだけで、どうしたのか、中は休日のようにしんとなったままだった。三階だったか、ようやく受付もしているらしい室をみつけ、そこにいた二、三人のうちの入口近くにいた女子職員に名刺をさしだし、
「市の考古資料などを、ちょっとみせてもらいたいんですが」とたのんだ。
私はそこにあるのかどうかよくわからなかったけれども、できれば、『福島市史』にあった月の輪古墳出土の銀板張耳環や、浜井塚古墳出土の圭頭大刀をみておきたかったのである。ところが、女子職員はいたって事務的な口調で、
「そういうものは、展示会の日でしかみせられないことになっています」という返事だった。つづけて、左手奥の机に向かっていた上司らしい男子職員も坐ったままでなにか言ったが、そこは遠くてよく聞こえなかった。
聞こえなくても、女子職員と同じようなことを言ったことは、その態度でわかった。つまり私は、にべもなくことわられてしまったのであった。
めったにないことだったので、私はあまり愉快でなかったが、仕方なかった。私は玄関口のホールにあった公衆電話でタクシーをよび、それで飯坂町へ向かうことにした。
福島の飯坂町にて
温泉町をあちこち
温泉地として知られる飯坂町は、福島市の中心から六、七キロあるのではないかと思われる北方となっていた。もとは信夫《しのぶ》郡の独立した町だったが、一九六四年に福島市に合併となったものだった。そんな飯坂町に湯野西原廃寺跡や、積石塚古墳があったとは、私は知らなかったものである。
「飯坂ではどちらの旅館へ――」
タクシーはしばらく走ったかとみると、運転士がそう言ってきいた。時計をみると午後四時になろうとしていたから、彼は私をそのままの泊り客とみたらしかった。
「うむ、そうだなあ」と、私はちょっと迷った。湯野廃寺跡というところへ、と言おうかと思ったが考え直した。「そうだ、元の町役場、いまは福島市役所の支所か出張所になっていると思うが、そこへ行ってください」
そこへ行けばさらにまた、なにか知ることになるかも知れないと思ったからだった。タクシーはなにやら雑然とした町なかへはいったかとみると、狭い道をあちこちして、市の飯坂支所へつれて行ってくれた。
私はさっそく窓口にいた人に、湯野廃寺跡のことなど、飯坂町の文化財のことを書いたものはないかと切りだしたところ、「それだったら公民館のほうへ行ってくれませんか」と言われた。で、待たしてあったタクシーで近くの公民館へまわり、社会教育主事の菊池正氏に会って、支所で言ったのと同じようなことを言った。するとこんどは、
「ああ、そのことでしたら、湯野の秋山政一さんに会ってくれませんか。あの人はこのへんの郷土史家で、『いいさか』という案内書なども書いていますから。こちらから電話をしておきます」
小さな町なかをあっち行ったりこっち行ったり、何とも忙しいことだったが、私はまた待たせてあったタクシーで、秋山政一氏宅をたずねた。さいわい秋山さんは在宅していた。
湯野西原廃寺跡へ
「湯野寺跡は近くです」と秋山さんは気さくに出て来て、タクシーに乗り込んでくれた。
同じ系統の寺跡としては私はさきに原町市で、郡衙跡かもしれないという泉廃寺跡をみていたが、しかし湯野西原廃寺跡は、まさしく廃寺跡らしいものとなってのこされていた。三方を山に囲まれた台地で、礎石もそれぞれ整然とならんでいる。
基壇のまわりが、石積みとなっているのも印象的だった。私はそれでまた、飯坂町にもある積石塚古墳のことを思いだしたものだったが、みるとそこに、「県指定 史跡/湯野西原廃寺跡」とした掲示板がたっていてこうある。
このあたりは古くから寺院に関係した地名が多く、ここも字名を「堂跡」といってきました。
以前から古瓦の散布が広がっていて、古い寺院の建てられていたことが推定されていました。
昭和四十六年、水田転換による果樹園造成工事が実施されることとなり、記録保存のため同年十月、福島市教育委員会が発掘調査を実施しました。その結果、寺地の中心に金堂と思われる建物、桁行七間(二一・一四メートル)、梁行五間(一五・一〇メートル)と、南方に桁行五間(一三・九〇メートル)、梁行四間(一一・一二メートル)の建物跡が明らかになりました。
また当時をしのぶ軒丸瓦、軒平瓦、円面硯、そして土師器、須恵器などが出土して、全盛時を推定する手がかりが得られました。その後の調査で、「湯野不動寺縁起」や「伊達家文書」が明らかとなり、この建物の位置が「類聚国史」や「日本紀略」に記されている「天長七年山階寺の僧智興、信夫郡に寺一区を建て、菩提寺と名つく」にある「菩提寺」とも考えられるようになりました。
湯野西原廃寺はどちらかというと、いわゆる大寺院ではなかったようであるが、しかし、井野目積石塚古墳などとともに、飯坂というこの地にそういう寺院があったとは意義深いことであった。そこはにぎやかな温泉街からは離れた、遠く近くを山に囲まれた農村で、いかにも平安なところといった感じだった。
「それから」と、私は秋山さんに向かってきいた。「飯坂にもいくつかあるそうですが、このへんは積石塚古墳の多いところのようですね」
「そうです。福島の古墳はほとんどみな積石塚ですよ」
秋山さんは、暗くなりはじめたあたりを見まわしながら、こともなげに言った。
「そうですか」
私は何となく、それ以上はことばを失ってしまった。そのときになって、高句麗系寺院のあったところに高句麗系古墳があるのはあたりまえじゃないか、と思ったからである。
積石塚を考える
しかしそれにしても、と私はまた思った。そのような積石塚古墳が、福島県の北部にもひろがっていたとは、これまでの私は知らなかったからだった。
だいたい、高句麗中心の墓制である積石塚古墳は、「紀元三〜四世紀ころに築かれたもの」(市原輝士・宮田忠彦『わが町の歴史 高松』)という四国・讃岐(香川県)の石清尾《いわせお》山古墳群はじめ、西日本や東日本ではあちこちでみられるもので、なかでも有名なのは信濃(長野県)のそれである。
日本の屋根ともいわれる信濃の積石塚古墳は、おそらく二千基を下らないのではないかと思われるが、うちでもそれがもっとも集中しているのは、長野市の大室《おおむろ》古墳群である。この古墳群の調査をさきに手がけたのは、一九五〇年代はじめの後藤守一氏であるが、いまもその弟子の明治大教授(考古学)の大塚初重氏らによって発掘調査がつづけられている。
その中間報告のひとつともいえる大塚氏の「常識的見解の逆転」(『吉川弘文館の新刊』一九八八年一月号)によると、「善光寺平の東側、千曲川に臨む大室から金井山の山丘傾斜面や谷間には、約五〇〇基に達する大群集墳が分布し、その約八〇%ほどが積石塚であるということで」とある。そして、そこにみられる「合掌形石室」についてこう書いている。
底部穿孔の壺形土器は多分、壺形埴輪として立てられていたものと思われ、この合掌形石室墳が終末期の古墳どころか、大石支群の中では実は最初に築造された積石塚だったことが確実となったのである。
私の考古学研究の常識的な見解は誤っていたのである。そして合掌形石室が韓〈朝鮮〉半島からの渡来技術者集団と関係があるとするならば、少なくとも大室古墳群中の大石支群は、渡来集団の人びとによって形成され始めたことになる。
その年代は五世紀中頃か後半代のことであり、善光寺平の開拓にすでにこの年代から彼等がかかわっていたことになる。これまでの常識的な考古学観が逆転し、新しい事実に立脚して、これからまた多くの難問に立ち向わなければならない私なのである。
では、「五世紀中頃か後半代の」ころから「善光寺平の開拓にすでに」「かかわっていた」「渡来集団の人びと」とは、いったいどういう者たちだったのであろうか。信濃の積石塚古墳も、その古墳一つひとつの被葬者はわからないけれども、それらの古墳を造営した者たちのことは、だいたいはっきりしている。
古代朝鮮三国のうちの一国であった高句麗がほろびたのは、七世紀後半の六六八年であったが、信濃にはそのずっと以前から、高句麗系渡来人の集団がはいって来ていた。
そしてかれらは「卦婁《ける》」「上部」「下部」といった高句麗の官職名を代々そのまま用いて社会をつくっていた。
しかし、そうしているうち、日本列島は大和政権によって統一され、その中央集権体制(天皇制)が確立されるようになると、かれらもその体制に組み込まれることになり、八世紀の平安時代はじめには、かれらも日本風の改姓を願い出ることになった。そのことが『続日本紀』などの史書に、こうしるされている。〈 〉内は西暦。
△『続日本紀』延暦八年〈七八九〉
五月庚午 信濃国人、外少初位後部牛養、無位宗守豊人等に姓田河造を賜う。
△『日本後紀』延暦十六年〈七九七〉
三月癸卯 信濃国の人外従八位下前部綱麻呂に姓安坂を賜う。
△『日本後紀』延暦十八年〈七九九〉
十二月甲戌 又信濃国の人外従六位下卦婁真老・後部黒足・前部黒麻呂・前部左根人・下部奈弖麻呂・前部秋足・小県郡の人無位上部豊人・下部文代・高麗家継・高麗継楯・前部貞麻呂・上部色布知等言う。己等の先は高麗人なり。……伏して望むらくは、去る天平勝宝九歳四月四日の勅に依って大姓に改めんことを、と。〈よって〉真老等に姓須々岐を、黒足等に姓豊岡を、黒麻呂に姓村上を、秋足等に姓篠ノ井を、豊人等に姓玉川を、文代等に姓清岡を、家継等に姓御井を、貞麻呂に姓朝治を、色布知に姓玉井を賜う。
以上、このことを紹介した土屋弼太郎氏の『近世信濃文化史』をみると、土屋氏はつづけてこう書いている。
ここに見えているのはいずれも帰化の高〈句〉麗人で、上部・下部・前部・後部等はみな高麗の官名で、それを姓にしていたらしい。……そしてこれらの願い人は単に前出の十二人のみと見るべきでなく、それぞれ集落または氏を代表したものであることは、何々等に何の姓を賜うとあることによって明らかである。しかのみならず、これらはいずれも名族で、その存在の明記されたものであるが、このほかにまったく記録にあらわれない下層民の多かったことはいうまでもない。
そのとおりだったろうと私も思うが、そうなると、かれらはいったいどのくらいいたのかわからなくなる。大家族主義の古代のことであるから、その数はたいへんなものだったにちがいない。
それにしても、かれらはいったいどこをへて、信濃のそこへやって来たのであったろうか。私はどうも、潮流などのことも考えて、高句麗からのかれらは東海の日本海を渡り、隣接の新潟海岸あたりからはいって来たのではなかったかと思う。
福島に積石塚古墳をのこした者たちもそうではなかったかと思うが、それはいずれまた考えてみるとして、信濃のかれらの改姓は、それがまた信濃のあちこちに地名ともなって残っている。たとえば、旧国鉄の篠ノ井線「篠ノ井」(前部秋足等の改姓)駅や、松本市薄町《すすきまち》の須々岐《すすき》(卦婁真老等)水《がわ》神社などがそれであるが、東筑摩郡坂井村の「安坂」(前部綱麻呂)将軍塚古墳を発掘調査した大場磐雄氏は、その古墳は、「五世紀」のものだったとして、そのことをこう書いている。
今回の調査でその関係が更に古い頃から開始され、そしてその子孫は二世紀余りも因襲を守って積石塚を営造して来た。その最初の主が永い眠りにつき、いつまでも子孫によって仰ぎいつかれた奥津城《おくつき》こそ、東山の山頂近くの将軍塚に他ならないのである。(『長野県東筑摩郡坂井村安坂積石塚の調査』)
霊山町の霊山寺
翌朝、飯坂町のある旅館で目をさました私は、さて、どうしたものかと迷っていた。きのうの秋山政一氏にまたたのんで、飯坂町の積石塚古墳をひとつみせてもらおうかと思ったが、しかし、秋山さんをまたわずらわすのもわるかったし、そのような古墳はいずれまたみることもあろうと思い、それはやめることにした。
そこで、前記『福島県の歴史散歩』によってみると、飯坂町の東南方、どちらかというと福島市に近いところの霊山《りようぜん》町に、霊山寺というのがあってこう書かれている。
古くは山岳信仰の霊場としてあおがれ、八五九(貞観元)年、慈覚《じかく》大師円仁《えんにん》が霊山寺《りようぜんじ》を創建したと伝えられる。一九二四(大正一三)年の発掘で礎石が発見され、往時三六〇〇坊をようしたというまぼろしの霊山寺の寺域があかるみにだされた。また霊山寺に隣接して日吉《ひえ》神社がある。そこには山王権現が勧請され、宮代《みやしろ》・鳥渡《とりわた》とならんで、信夫三山王に数えられてきた。
「往時三六〇〇坊をようした」とは相当な大寺院だったわけであるが、私として興味があったのは、その霊山寺を創建したという慈覚大師円仁のことから、智証大師円珍のことを思いだしたことだった。
円仁は近江《おうみ》(滋賀県)大津市の延暦寺第三世座主《ざす》であり、円珍は第五世座主として知られているが、円珍がつくった延暦寺別院の園城寺《おんじようじ》(三井寺)境域内に新羅善神堂があって、そこにある国宝の新羅明神像は円珍が八五八年、中国・唐の留学から帰る途次、その船中に出現したものだったとされている。
私は長いあいだ、現実にいま国宝としてある新羅明神像が、「中国・唐の留学から帰る途次、その船中に出現したもの」ということに疑問をもっていた。新羅のそれがどうして中国からなのか、と思っていたのである。
ところが、おもしろいもので、まず、一九八八年五月十日の朝日新聞に、「『幻の赤山院』復元へ/留学僧・円仁が長期滞在/中国・威海市」とした見出しの、こういう記事が出たことがある。
中国・山東半島の先端部にあった、遣唐使ゆかりの寺院、赤山法花院を、友好のシンボルとして復元、整備することを、このほど地元の威海市当局が明らかにした。同法花院は民間レベルでの日中友好の原点として歴史的に知られているだけに、日中交流史にとって、大きな話題となりそうだ。
赤山法花院は唐の武宗による仏教弾圧で、八四五年ごろ破壊された、との記述が、最後の遣唐使に留学僧として参加した円仁(慈覚大師、七九四―八六四)の記録に残っている。しかし、その所在地はこれまでわからず「幻の赤山院」といわれていた。ところが、昨年、地元の研究者たちによって、同市栄成県石島西車脚河の山中のナシ畑から赤山院の遺跡が発見され、同市旅遊局が長期計画で復元工事を進めることを決めたという。
全体計画としては、大殿(本堂)、遣唐使記念堂、顕彰碑、赤山神廟《びよう》、碑林、レストラン、宿泊施設、展望台などの建設が考えられている。すでに用地買収にかかっており、今年中には記念堂、顕彰碑の完成が予定されている。寺院跡以外に海岸部には、遣唐使が上陸した唐代の港の一部が保存されており、そこにも記念碑を建てる予定。総工費約二百万元(日本円で約七千万円)と見積もられている。
同赤山院は付近に住んでいた新羅人たちが建設したもので、韓国・北朝鮮の人々からも関心が寄せられている。
記事はまだつづいているが、ついでこんどは、一九九〇年四月十一日の朝日新聞に、「円仁像が中国の寺院へ/大阪の女性画家が描いた/復興に一役、友好のシンボル」という見出しのこういう記事が出た。
遣唐使ゆかりの赤山法花院遺跡があることで知られる中国・山東省栄成市に、平安初期の僧、円仁(慈覚大師)の肖像画(縦一メートル、幅〇・五メートル)が近く贈られる。赤山法花院復興事業の一つとして依頼を受けた大阪市生野区に住む新進の日本画家、松生歩《まついけあゆみ》さん(三三)が制作、友好のシンボルとして同寺で訪問客を迎えることになる。
赤山院は最後の遣唐使船の寄港地にあった新羅人の寺。求法《ぐぼう》の旅の願いがかなえられないまま帰国途中だった円仁(慈覚大師、七九四―八六四)が、同寺関係者の世話で五台山から長安に向かい、東方世界三大紀行文といわれる『入唐求法巡礼行記』を残したことはよく知られる。
この記事もまだつづいているが、要するに、朝鮮の西海に向かって突出した山東半島の先端部に、新羅人の寺院・赤山法花院というのがあったのである。それが日本の遣唐使船とどういう密接な関係にあったかはよくわからないが、さきにみた近江の新羅善神堂にある新羅明神像は、その赤山院にあったものだったにちがいない。
赤山院は唐の武宗によって「八四五年ごろ破壊された」とあるが、円仁後に入唐・留学した智証大師円珍は、破壊からまぬがれたそこの新羅明神像をあずかったかして、それを帰国途次の守護神ともしながら、大事に近江まで持ち帰ったものだったのである。
飯坂町近くに、慈覚大師円仁が創建したという霊山寺があることから、私はそんなことを考えたりしたが、しかし、きょうこれからの日程のことを思うと、そこまで行ってみることはできなかった。私は福島交通飯坂線の飯坂温泉駅まで歩いて、ともかく福島駅まで出ることにした。
郡山・須賀川・白河
田島町まで
福島駅におり立った私は、またちょっと迷った。というのは、私はまず新幹線のとまる郡山《こおりやま》まで行き、それからは在来線の鉄道かバスで、と考えていたのだったが、新幹線の上りは出たばかりであり、須賀川市まではバスが出ていたけれども、それも午後四時まではないという。
それで私は、「えい」とばかり思い切って、そこにいた小型のタクシーに乗り込んだ。タクシーは走りだすと、「どちらまで」と運転士がきいた。
「うむ、そうだ。まず、郡山まで行ってください」と私は言った。私はまだ迷っていたとみえて、行先をいうのを忘れていたのである。この日の私は福島市から南下し、郡山、須賀川、白河市などをへて、そこからは会津《あいづ》となっている「にわとり権現」だった飛鳥神社があるという田島町まで行くつもりにしていた。
しかし、郡山までだけでも、かなりの距離だった。地図をみると、三十キロ以上もあるのではないかと思われたが、そこから須賀川市まではともかく、その先の白河市、田島町までがこれまた長い距離だった。郡山市にはいったところで時計をみると、もう午後二時近くになっている。
これでは在来線の鉄道に乗りかえたりするのもめんどうだったばかりか、白河から田島町まではそんな鉄道もなかったので、「えい、ままよ」とばかり、私はそのまま、乗っていたタクシーを田島町まで走らせることにした。ひとつは、タクシーの運転士はまだ若かったが、ずっと安全運転をしてくれていたのが気に入ったからでもあった。
郡山の南山田遺跡
郡山市は、いわば新興都市だからというわけではないであろうが、前記『福島県の歴史散歩』などでみるかぎり、これといった遺跡はあまりないようだった。が、しかし、一九九〇年三月十六日の福島民報によると、「東北最古の須恵器発掘/郡山・南山田遺跡/貴重な出土品続々/炉と金床石一緒の鍛冶場も」とした大見出しの記事が出ている。
郡山市教委が調査を進めている同市田村町の南山田遺跡から、東北最古と思われる須恵器《すえき》や鍛冶《かじ》場の跡など貴重な出土品、遺構が次々に見つかっている。この遺構は五世紀中・後期の古墳時代のもので、昨年六月から調査が始まった。発掘が進むにつれ、これまで考えられていたものよりはるかに大型で、かまどを持った竪穴式住居なども見つかるなど、郡山地方の古墳時代の社会構造を明らかにするとともに、当時の大和朝廷の勢力範囲を解明する手掛かりにもなりそうだ。
南山田遺跡の発掘調査範囲は二万五千平方メートルにも及ぶ。期間は二十日までで、間もなく終了する。同遺跡は小高い台地の尾根に営まれた古墳時代の大規模集落で、既に九十を超える竪穴式住居跡が確認されている。この時期の住居跡がこれだけ一度に発掘されるのは、全国的にみても極めて珍しいという。
さらに、一般には古墳などの埋葬されたところなどからしか発見されない勾玉《まがたま》やアクセサリーなどが、ここでは住居跡から見つかるなど、これまでに例のない発見もあり注目を集めそうだ。
遺跡内にある古墳の調査では、周溝から須恵器四十数個が見つかっている。そのうち一つは「小型把手付壺」と呼ばれるもので高さ七センチ余りのものだが、五世紀前半から中ごろにかけて作られたとみられ、東北では最古。
さらにこの須恵器は形や紋様などから国産ではなく、朝鮮半島から入ってきたものではないかと見られる。また、四十数個という数は東北最多で、この地域が中央とのつながりがある特別な地域であったらしいことを探る手掛かりとなりそうだ。
住居跡の一部から発見された鍛冶場の跡は、炉と金床石が一緒になっている。これまで見つかっている炉や金床石はそれぞれ単独で、同じ所で発見されたのは全国でも珍しいという。見つかった炉は直径二十センチ余り、金床石は長さ約四十センチ、底辺が約十五センチの二等辺三角形状の三角柱で、三十五センチのうち三十センチ余りが土中に入っていた。周囲からは鉄を鍛えたときのカス、鍛造はく片も見つかっている。
大和朝廷の勢力解明手掛かりに
発掘にあたっている郡山市埋蔵文化財発掘調査事業団の柳沼賢治調査員らは「これだけのものが郡山市から見つかるのは極めて珍しい。当時の文化圏の広がりや生活、大和朝廷の勢力範囲など解明する手掛かりになりそうだ」と期待している。
同事業団では今後、この調査結果をさらに分析し、当時の郡山市の位置づけなどを探りたいとしている。
「大和朝廷」とは関係ない
たしかに珍しい、大きな発見なので全文を引いたが、それにしてもどうして、そのことをこうもいわゆる「大和朝廷」と結びつけたがるのであろうか。「大和朝廷の勢力範囲」などというが、「五世紀前半から中ごろ」には「大和朝廷」など、まだありはしなかったのである。
そのことについては、「紀元六、七世紀のわが国の国家形成の時代には……」と述べた昭和天皇の「お言葉」(一九八四年九月七日付け各新聞)にもはっきりあるとおりである。この「お言葉」にたいしては学界からも、「つい数年前までは入試などでも四世紀で正解といわれたのに、いまは六、七世紀が学界の大勢。そのムツカシイ問題にちゃんと対応しているという気がしてホッとした。(同志社大教授〈考古学〉森浩一)」という評価があたえられている。
私が対象としている「日本の中の朝鮮文化」としてはどちらでもいいようなものであるが、しかし歴史的事実としては、六、七世紀までの東日本や西日本にはあちこちに門脇禎二氏などのいう「地域国家」ともいうべきものがあり、東北にはまた東北のあちこちにそういう「地域国家」があったのである。なかでも強力だった大和政権が全国を統一して律令国家となり、いうところの大和朝廷が成立するのは、「五世紀前半から中ごろ」からはまだずっとのち、七、八世紀になってからなのである。
それはそれとして、郡山市の南山田遺跡内の古墳から出土したとある「朝鮮半島から入ってきた」「小型把手付壺」とはいったいどういうものだったのであろうか。こちらの地域国家、あるいは集団の首長であったその古墳の被葬者が、古代朝鮮より渡来したときから持っていたものだったにちがいない。
私はできれば、そこで製鉄もおこなわれたらしい鍛冶場や金床石などとともに、現代のコーヒーカップのようなその「小型把手付壺」をちょっとみたいと思ったが、しかし、それはのちにたずねる宮城県多賀城市の山王遺跡からも同じものが出土しているので、これはそのときのこととすることにした。
須賀川の蝦夷穴古墳
私の乗っているタクシーは郡山をすぎると、間もなく須賀川市にはいった。郡山にしろ須賀川にしろ、今日では地方都市も東京のどこかと同じようなもので、別にこれといったみるものはなかった。
しかし、古代となるとちがったもので、須賀川もまたなかなかおもしろいものが出土した遺跡・古墳があった。
うまや遺跡、蝦夷穴《えぞあな》古墳などというのがそれで、古墳からさきにみると、前記『福島県の歴史散歩』にこう書かれている。
須賀川市の東部、根岸でバスをおり、五〇メートルほどすすむと北へむかう道がある。三〇〇メートルばかり前方の果樹園内に蝦夷穴古墳(県史跡)がある。明治一八・二一年の二度にわたり発掘され、墳丘のすそがけずられてはいるが、径三七、高さ六・五メートルの円墳だ。横穴式石室で開口しているが、奥壁と天井石は巨大だ。副葬品は金銅製頭椎《かぶつちの》太刀《た ち》・金銅製鈴など多種にわたるが、大部分は東京国立博物館に収蔵されている。六世紀前半のものという。
古墳はどういう形態のものであれ、そこからなにが出土しているか(それで年代もはかられる)、ということが大切だとされるが、この蝦夷穴古墳のばあいは、金銅製頭椎太刀と鈴である。これはあちこちの古墳から出土している環頭大刀と同じように、古代朝鮮からの渡来であることがはっきりしているものなのである。
それなのに、その古墳の名が「蝦夷穴」とはどうしてなのだろうか。古墳のある地名も須賀川市和田蝦夷穴となっているが、これはおそらく、見なれない「横穴式石室」をみた住民がそう言いはじめたことからきたものだったにちがいない。なお、ついでにいうと、能登(石川県)の能登島に高句麗系の須曽古墳があるが、これがまた別名を須曽蝦夷穴古墳ともいわれている。
うまや遺跡と和同開珎
ついで、こんどは遺跡であるが、一九八七年十月三日の福島民報をみると、「日本最古の通貨/『和同開珎』出土/須賀川のうまや遺跡/須恵器の中に一二枚/奈良時代知る手掛かり/県内で初めて」としたにぎやかな見出しのもとに、そのことがこうある。
須賀川市教委が発掘を進めているうまや遺跡から、わが国最初の通貨「和同開珎《わどうかいちん》」が出土した。県内から出土したのは初めてで、須恵器の中に収められていたような形跡で十二枚が見つかった。出土した遺跡は和同開珎とほぼ同じ時期に建てられたとみられる国史跡の上人壇《しようにんだん》廃寺に隣接しており、奈良時代の本県の歴史を探る重要な手がかりとなりそうだ。市教委、県教委は出土した通貨を会津若松市の県立博物館に移し、専門的な分析を急いでいる。
以上は記事のイントロ部であるが、ここにいう和同開珎が鋳造されはじめたのは七〇八年、和銅元年のことであった。このことについては、私は『日本の中の朝鮮文化』(1)「秩父と和銅遺跡」の項にかなりくわしく書いているが、つまり、七〇八年に武蔵(埼玉県)の秩父で、新羅系渡来人の金上元らにより、はじめて銅が発見されたのであった。
この銅が発見されたことはのち、七四九年の天平感宝(天平勝宝)元年、当時、陸奥守だった百済王敬福《きようふく》によって、宮城県遠田《とおだ》郡涌谷《わくや》町で金《きん》が発見されたのにおとらぬ文化史上の大きな事件であった。それがどんなに大きな事件であったかは、『続日本紀』七〇八年の和銅元年条をみてもよくわかるが、大和の朝廷はそれで沸き立った。
まず、この年からは慶雲五年となるはずの年号を「和銅」と改めるとともに、それまでは無位だった金上元を従五位下とし、一般的な大赦までおこなっている。
そしてこの年の二月、従五位上の多治比真人三宅麻呂《たじひのまひとみやけまろ》を長とする催鋳銭司《さいじゆぜんし》を設置し、そこでつくられはじめたのが、日本最初の通貨である和同開珎であった。
それから、いまみた福島民報の記事には、その和同開珎が須恵器のなかに入れられていたとして、こういうことが書かれている。
通貨が納められていた須恵器《すえき》は、本県では例の見られない土器であることが分かった。……
しかも、同じ遺跡から見つかった土師器《はじき》は東北で焼いたものとみられ、通貨の入っていた須恵器だけが特殊。このため、和同開珎と一緒に都から運ばれた可能性もある。土の成分から国内のどの地域で焼いた土器か推測することが出来、分析結果が注目されている。
「土の成分」「分析」ということから思いだすのは、奈良教育大教授・三辻利一氏の仕事である。三辻氏は一九七〇年代はじめから一万ヵ所以上からの土器片の胎土分析をおこなっているが、その結果わかったことは、なかに古代朝鮮製の土器がかなりの数を占めていたということであった。
しかし、「本県では例の見られない」うまや遺跡出土の土器は、新聞に出ている写真でみるかぎり、ずっと年代の下がるもので、国内のどこかでつくられたもののように思われた。
泉崎横穴と新田東山古墳
須賀川市をすぎると鏡石町、矢吹町となったが、白河市まではまだずっと距離があって、途中に泉崎村があった。さきの「廃寺と装飾古墳」の項でみた梅原茂氏の「東北地方の装飾古墳について」のなかに、西白河郡泉崎村の泉崎横穴装飾古墳があげられていたが、その泉崎横穴のあるところだった。
ここで前記『福島県の歴史散歩』によりちょっとみておくと、それはこうなっている。
泉崎駅近くの泉崎村役場にいってたのめば、係りの人がかぎをもって同行してくれる。西方の中島村へつうじる道を二キロゆくと、低い凝灰岩の丘陵に泉崎横穴装飾古墳(史跡)がある。玄室の側壁・天井に、狩猟をモチーフとする古拙な朱色の絵画がえがかれている。被葬者とおもわれる、弓をひきしぼってはしる獲物をねらう騎馬人物や、男女の群像、馬のむれ、そのほか渦巻文や珠文などがかすかにみえる。古墳時代後期のものとされる。
「古墳時代後期」というと六世紀後半ということになるが、泉崎村はそれだけではない。今日の行政区画上では小さな「村」となっているが、かつての古代はここが白河地域の中心であったらしく、最近では五世紀後半のものという古墳も発掘調査されている。
一九八九年六月十一日の福島民友(新聞)は、「朝鮮系の“工法”活用/泉崎村・新田東山古墳で説明会/新たなテーマ提起/須恵器は最古/大陸と独自の交流」とした見出しのもとに、そのことをこう報じている。
西白河郡泉崎村で発掘調査が進められてきた五世紀後半の前方後円墳「新田東山古墳」の現地説明会は十日午後一時半から同古墳発掘現場で行われた。この調査は同村教委の依頼で国士館大の戸田有二講師が指導してきた。
古墳は全長二十六メートル、後円部は直径二十メートル、盗掘や破壊のあともなく“無傷”のまま全容をあらわし、古代白河地方の支配豪族が被葬者か―と注目と関心を集めた。また古墳を一周する幅五メートル、深さ一メートルの周溝部分からは「日本最古」とされる大阪・陶邑《すえむら》遺跡のものと同型の須恵器(土器の一形式)が出土している。……
古墳の構造技術からみて、朝鮮系渡来人のノウハウが活用されたことは間違いなく、このため当時の古代白河地方が大和王朝と特別に親密な関係にあったか、あるいは大陸と独自の“交流ルート”を持っていたか、という新たな研究テーマを提起することになった。
また、周溝部から出土した須恵器について戸田講師は同古墳から北へ約一キロの国指定史跡・泉崎装飾横穴古墳にある古窯跡との関連に注目しており、いまから千五百年前の古代白河で、国内では最も早い時期に須恵器が「自力生産」されていた可能性も否定できない、としている。
説明会に詰めかけた人たちは、小山のような古墳を見やりながら戸田講師の説明にじっと耳をかたむけ、千五百年前の古代世界のありように思いをはせていた。
五世紀後半の古墳にたいして、どういうわけかまたも、まだなかったはずの「大和王朝」であるが、それはおいて、私はそのような古墳のある泉崎村から白河市にはいり、さらに、そこは会津の南会津郡となる田島町へ向かってタクシーを走らせた。
にわとり権現とからむし
白河関と横穴古墳
白河となると、さきにみた勿来関とともに白河関のことが思いだされるが、それのことについては、和歌森太郎監修『日本史跡事典』(東国編)にこうある。「白河市街の南東はずれに近い関ノ森にあり、かつて山道《せんどう》(仙道)と呼ばれた旧街道に沿っている。五世紀の前半ごろ蝦夷《え ぞ》の南下を防ぐために設けられた関で、古来、勿来《なこその》関《せき》(福島県いわき市)・念珠関《ねずがせき》(山形県西田川郡温海《あつみ》町)とともに奥州三古関の一つとして有名である」
その白河市にしても古墳の多いところで、時代は下がるが的石山横穴群だけでも、破片を含む土器百点以上、人骨七体を出土した三十一基の横穴古墳が確認されている。これまでにみたものも含めて、そのような横穴古墳がいつごろ、どこからきた墓制であるかについてはのちにみるが、地図を開いてみると白河市の北、西郷村に上羽太《かみはた》・中羽太・下羽太というところがある。
もしかするとそこは、新羅・加耶系渡来人集団である秦《はた》(波多)氏族の一派が住んだところではなかったかと思われたが、私は先を急がなくてはならなかった。田島町まではこれまた、相当な距離だったからである。
ともかくも、私はこうして、福島県は浜通りから中通りをひとわたりみてまわり、奥羽山脈西側の会津となったわけであった。会津といえば、私のイメージとしてはまず、そこは「悲憤の地」であるということだった。
もちろん、明治はじめの戊辰《ぼしん》戦争があったからである。それについてはあとでまたふれることになるかと思うが、そういうこともあり、また会津には、京都で発行されていた季刊『日本のなかの朝鮮文化』を五十号まで(で終刊)私とともに編集にあたってくれ、いまは会津若松市で雑誌『福島春秋』の編集をしている松本良子さんがいたので、私はすでに会津は一、二度たずねてあちこちとまわってみていた。
田島の飛鳥神社へ
田島町へ着いたときはもう日暮れで、「にわとり権現」の飛鳥神社は藤生《とうにゆう》地区という町はずれの、田畑のならんだ盆地といっていい広い谷間の山麓にあった。
とはいっても、それがなかなかわからず、神社のある集落でも人にたずねてやっとわかったものだった。
「そこの裏、あそこからはいったところですよ」と教えてくれた中年の人に、私は重ねてたずねた。
「その飛鳥神社は、三十年ほどまえまでは『にわとり権現』だったそうですが、それはどういうことからだったんでしょうか。にわとりは、チキンの鶏のことですよね」
「ええ、そうですが、さあ、どういうことからだったんでしょうか」
それはいわば、「史書すでにその名を逸し、伝説また早く忘れ去られた」もののひとつのようだったが、教えられた山麓の細い道の雑草を踏んで行くと、神社はたしかにそこにあった。
一風変わった〆縄《しめなわ》のかかった鳥居をくぐって石段を登ってみると、神社は本殿も拝殿もない祠《ほこら》のような、小さなものとなっていた。
しかし、祭りだけはまだちゃんとおこなわれているらしく、東向きの鳥居の前にはまだ真新しい幟竿《のぼりざお》が二本たかだかと立っていて、そこからは、まだ夕陽のあたっている谷間の盆地が一望のもととなっていた。その眺望のことから私は、墓相などの占い師である朝鮮の「風水《プンス》」のことを思いだし、この神社の丘陵にはもしかすると、この地域の首長を葬った古墳があったのではないか、と思ったものだった。
鶏を食べないわけ
私が田島町にそんな神社があることを知ったのは、田宮満氏の「古代東北のアスカ・飛鳥神社」によってであった。
その神社は、「以前は『にわとり権現』といっていたが、昭和二九年に『飛鳥神社』とした」ということに私はひかれた。
というのは、日本にはいまも「鶏鳴伝説」をともなった古墳があちこちにあるが、そういうこととともに、鶏も卵も食べないところもあちこちにある。たとえば、美保神社のある出雲(島根県)の美保関などがそうである。
私は『日本の中の朝鮮文化』(8)「米子から美保関へ」や、「意宇《おう》の杜《もり》と新羅の鶏林」の項に、そのことを『週刊朝日』の記事など引きながら書いているので、ちょっと長いけれども、それをここに引かせてもらうことにする。
――だいたい私が、いまなお美保関では、というより、美保関でも鶏を食べないということを知ったのは、ひとつは一九七九年九月二十八日号の『週刊朝日』によってだった。「シリーズ・ニワトリ」(3)という記事があって、こう書かれていたからである。
わが国には、ニワトリをいまも忌み嫌う地方がある。島根県八束《やつか》郡美保関町がその一つで、ここには、
「人口八千七百人の町に一羽もいない」(美保関役場)
美保神社の祭神が、間違った時刻に時を告げたニワトリのために迷惑をこうむったという伝説に基づくタブー。特に神社の神官たちは、
「ニワトリは卵も肉も食べません。アヒル、ウズラ、アイガモの卵を取り寄せてます」
旅先でニワトリ料理が出て、
「しまった」
と思うことが多いので、最近では、宿泊先にあらかじめ電話をして、事情を説明しておくことにしている。
氏子も戦前まではいっさい口にしなかったが、このごろは、
「当番の役についた家だけが、一年ないし四年間食べない」
というふうになっている。
大阪府藤井寺市の道明寺天満宮の氏子地区も、これと似た理由でニワトリを憎み、町内に一羽もいないが、ここは逆に、
「もうカタキというわけで、よそさん以上にどんどん食べてます」(道明寺天満宮)
また、秋田県仙北郡田沢湖村の玉川地区では、長くニワトリが神聖視され、
「卵の話をしても、ニワトリの夢を見ても罰が当たる」
とさえいい伝えられていたが、今年三月、ダム建設のため、全村廃村となってしまった。
日本で鶏を食べないところは、以上だけではない。越前(福井県)敦賀の白木《しらき》浦(新羅ということで、ここに『延喜式』内の白城《しらぎ》神社がある)でもそうであり、また、越後(新潟県)西蒲原《かんばら》郡岩室村に住む住井哲氏からの手紙によると、同西蒲原郡巻《まき》町に「鳥の子神社」という鶏ずくめの神社があって、鶏がそこの祭神ともなっているとある。
これをみてもわかるように、美保関では「ニワトリを」「忌み嫌い」といい、道明寺天満宮では「ニワトリを憎み」となっているけれども、もとはそうだからではなかった。それは後世にそういうふうになったもので、もとはどちらも、秋田県田沢湖村と同じように、「長くニワトリが神聖視され」ていたからだったのである。
鶏の神聖視は新羅の風習
では、どうして鶏がそのように神聖視されたかというと、それは古代朝鮮の新羅が鶏を神聖視し、一時期その国号まで「鶏林」としたことがあったからであるが、そのことについてはまず、古代出雲の研究家としても知られる早稲田大教授(日本史)水野祐氏の「出雲のなかの新羅文化」からみることにしたい。
新羅の伝説と関係のありそうな伝説も出雲には多い。美保神社の恵比寿神と、揖夜《いや》の女性との神婚が、鶏によって妨げられ〈さきにみた「間違った時刻に時を告げたニワトリのために迷惑をこうむった」ということ〉、恵比寿神が鰐《わに》に足を喰われたので、美保関では鶏を忌み嫌って、鶏や卵を食べないという話があり、これは鶏を神聖視している新羅の伝説の変形と思われる。
また松江市大庭の鶏塚は著名な方墳であるが、この古墳には新羅の鶏鳴伝説と同じ伝説が結びつけられている。また国引伝説で、八束水臣津野命《やつかみずおみつぬのみこと》が国引を終えて最後に呪杖《じゆじよう》をつき立てたが、そこが意宇《おう》の杜《もり》になるのである。この神話にある「意宇杜」は、私は〈新羅〉慶州の鶏林と同じ性質のものであると考えている。
ここにいわれている「意宇の杜」については、水野氏はさらにまた、別のところ(座談会「鉄の文化と海人の文化――出雲」)でこう述べている。
意宇杜というのは大体大庭の下の意宇川の下流なんですが、阿太加夜《あだかや》神社というのがありますがね、あそこの神社の境内に森がありまして、それが昔の意宇の杜《もり》じゃないかという説があるんですが、そこへ行ってみるとやっぱり小高い、ちょうど慶州のような感覚のある杜なんです。私はそれが意宇の杜だろうと考えたわけです。
阿太加夜神社のそこがいわゆる「意宇の杜」で、新羅の古都・慶州にいまも遺跡としてある「鶏林と同じ性質のものである」とは重要な指摘で、私もそうではなかったかと思っている。
なぜかというと、出雲にしても、鶏を食べないのは美保関だけでなく、阿太加屋神社や揖夜神社(韓国伊太《からくにいたて》神社)のあるその東出雲町でも同じだったからである。
私はそのことを、阿太加夜神社宮司の佐草正人氏にただしてみたところ、「そうです」とうなずき、「美保関ではまだ守っているようですね」と言った。
つまり、東出雲町もかつては美保関と同じだったが、いまでは食べている、ということのようだった。
本家本元の新羅=朝鮮でさえそんなタブーはもうとうになくなっているのであるから、いまそれを食べることに何のふしぎもないが、ところで、古代の新羅ではどうして鶏がそのように神聖視されたのであろうか。
新羅金氏の始祖伝説
そのことについてはほかでもふれているが、要するにそれは、「金櫃《きんき》始林の樹枝に掛かり、白鶏その下に鳴いた」という新羅金氏の始祖伝説からきたもので、それをここで紹介すると次のようなものであった。
徐羅伐《ソラブル》(徐耶伐・徐那伐)脱解《タルヘ》王九年春のある夜のこと、王城西方の始林といわれている森のなかからしきりと鶏の鳴き声がしたので、それをふしぎに思った脱解王は、夜の明けるのを待って臣下の瓠《ホ》公をそこへやってみた。瓠公が行ってみると、林のなかに一羽の白い鶏がしきりとときをつくっており、その上の樹枝には、金色をした一つの櫃《ひつ》がかかっていた。
瓠公は立ち帰ってそのことを脱解王に告げ、櫃はすぐに運ばれてきて開かれたところ、中からはたくましい一人の男児が出てきた。脱解王はそれをみてよろこび、「これぞわが後嗣である」とその子をただちに王子とし、名を閼智《アルチ》とつけ、金色の櫃から生まれたというのでその姓を金《キム》とした。
そうして、これがのち新羅の大輔となり、その後孫が金氏歴代の王となった始祖の金閼智というわけであるが、同時にまた、始林はそのときから鶏林とよばれるようになり、国号もそれにならって、のち新羅となるまでは、徐羅伐から鶏林とよばれることになったのであった。
昭和村のからむし
私は暗くなりはじめた会津田島駅で、長いあいだ乗ってきたタクシーを帰し、会津若松方面行きの電車を待つことになったが、そこで気がついてみると、「からむし織」の昭和村が二十キロほどの西北方となっていた。もちろんもう夜となっていたから、この日はそこまでは、――だったけれども、しかし、そこはさきにちょっとふれた松本良子さんの案内で、一度まわってみていたところだった。
そのときは松本さんのクルマで、どこからどういうふうに行ったかはよくおぼえていなかったが、昭和村では『からむしの里/昭和村』『会津郷からむし織』など、たくさんの資料をもらい受けていた。それによると、同村のそれのことがこうある。
からむし織は我が国最古の原始織物といわれていますが、これは、古代人が最上のものを見極める英知を持っていたということの証明ともいえるでしょう。
優れた品質、生産工程のすべてが大変な労力の手作業によるものだけに、からむし織は大変に高価です。一反が数十万円、仕立て上げられる着物は百万から一千万円にもなるといわれます。これほど高価な衣料原料は世界にも類をみません。
このからむし織は、その昔、奈良からからむしの苗が持ち込まれたことに始まると伝えられ、応永年間(一三九四〜一四二七)にはすでに、昭和村のからむしは越後上布の原料として重要な換金作物となっており、地域経済に大きく貢献していました。……
現在、幻の織物とさえいわれたからむし織は、村おこし運動の一環として、明日の昭和村を築く伝統産業としての新たな期待を担い、見事に甦ったのです。
本州における唯一の産地昭和村、国内においてもわずか沖縄県宮古島にからむしを見ることができるだけです。まさに幻の織物と呼ぶにふさわしく、その品質の高さは世界最高のものであるとの評価を博しています。
何だか、昭和村の宣伝のようなおもむきとなったが、要するに、青苧《あおそ》ともいうからむしとは苧麻《ちよま》ともいわれるもので、これがからむしとなっているのは、それはもと朝鮮語のカラモシ(加羅=韓《から》の麻)とよばれたものだったからである。
昭和村のは「その昔、奈良からからむしの苗が持ち込まれたことに始まる」ものかどうかはわからないが、そのカラモシ、すなわちからむし織は、「武蔵《むさし》野は往古朝鮮〈渡来〉人の移住地であった。此《こ》れは武蔵野と限らず、関東一般概《おおむ》ね然《しか》りであったが、武蔵野は特に然りだ」(徳富蘇峰「諸家文藻」『高麗神社と高麗郷』)った武蔵(埼玉県・東京都)などでもさかんにおこなわれたものであった。
いまも東京都調布市の多摩川べりには、「たまがわにさらすてづくりさらさらに なにぞこのこのここだかなしき」という『万葉集』の歌碑がたっており、調布、染地、砧《きぬた》などの地名が残っていて、その往古をしのばせている。そういうことから、鳥居龍蔵氏は武蔵《むさし》という地名についても、「私は要するにムサシの地名はもと朝鮮語と同じく、モシシの苧種子の意味であって、最初武蔵の一ヵ所の小部分にこの苧を植えた所の名で、これが次第に広い武蔵の地名となったものと思う」(『武蔵野及其周囲』)と述べている。
なお、さきの『からむしの里/昭和村』をもう少しみると、ここには村勢のこともいろいろと書かれている。
それによると「神社」が住吉神社はじめ十社あって、なかに大山祇神を祭神とするものが、山神社、三島神社と二社ある。そして、ここには出ていないが、ほかにまた同村下中津川にからむし神の青苧神社があって、これは〆縄のかかった石祠となっていた。
高麗橋と熊野神社
喜多方の高麗橋
南会津郡の田島町から、会津となったわけであるが、私は南のほうからそうして会津をたずねたのは、こんどがはじめてだった。以前は、東の郡山からまっすぐ会津若松市へはいったものである。
もちろん会津といえば、会津若松市がその中心である。しかし、こんどは周辺の南からそうなったということもあって、中心の会津若松はあとまわしとし、つづけてその周辺からさきにみて行くことにしたい。
周辺となれば、田島町につづけてみた大沼郡昭和村からすると、その北方に同じ大沼郡の三島町がある。そして、そこには三島明神の大山祇神や三島神社もあったが、しかし、その大山祇神や三島神社のことは、さきの「原町市の三嶋神社で」の項でかなりくわしくみている。
そうなると、その三島町の北方となっている喜多方市である。喜多方は、さきにふれた、会津若松市で雑誌『福島春秋』の編集にあたっている松本良子さんの生まれ故郷でもあって、私は松本さんの案内でそこもまえにたずねていた。
さらにまた喜多方のことでは、私は十数年前、喜多方史談会の中地茂男氏から手紙をもらっていた。中地氏は一面識もない人だったが、喜多方には高麗《こま》橋があり、そこに熊野神社もあることなどを知らせてくれたものだった。
喜多方ではその中地氏にも会いたいと思っていたが、松本さんも知っていた氏は数年前、交通事故で亡くなっていた。交通事故というものの怖さをいまさらのように思い知らされたが、私は心ひそかにその中地氏をも偲《しの》ぶつもりで、まず、喜多方市上三宮《かみさんみや》町の岩沢にあった高麗橋と、そこの熊野神社とをたずねた。
どちらも、前方は農地ばかりの通路に面した山裾のなかとなっていたが、高麗橋は熊野神社の境内を流れている小さな川に架かった石橋だった。欄干の石柱にはっきり「高麗橋」と彫り込まれている。
さきの「廃寺と装飾古墳」の項でみた、いわき市平六間門の高麗橋といい、こちら会津北方の喜多方にまでそんな橋があるとは、と私は思ったものだった。しかも、こちらの高麗橋は、無人となっている近くの熊野神社とセットのようになっていた。
喜多方にとっての熊野神社
熊野神社は全国各地にあるそれと同じものであるが、しかし、喜多方にとっての熊野神社は、ちょっと特別な意味をもっている。たとえば、前記『福島県の歴史散歩』の「喜多方とその周辺」をみると、まっさきにあげられているのが、喜多方市慶徳町新宮《しんぐう》の「熊野神社長床《ながどこ》」となっている。
この熊野神社長床は、その裏山の三社からなる熊野神社や、そこにある多くの文化財とともに、喜多方市民の誇りのひとつとなっているだけでなく、これは喜多方の歴史や文化を示すものともなっているもので、少し長いけれどもそれをここに引くことにする。
喜多方市は会津北部の中心地であり、明治以前は北方《きたかた》とよばれていた。福島県最古の千光寺《せんこうじ》経塚や、平安末の建立とされる熊野神社長床の存在、さらに中世では新宮氏や松本氏が芦名氏をおびやかすなど、会津若松にたいするひとつの政治的・文化的勢力圏をなしていた。
近世にはいると、漆器《しつき》業・味噌醤油《みそしようゆ》業・酒造業が発達し、伝統産業が形成された。まちのなかに土蔵が多いのはそのせいだ。喜多方市の中心街は、田付《たづき》川西岸の小荒井《こあらい》村と東岸の小田付《おたづき》村が合併して形成されたもの。藩政期には小田付村に代官所がおかれ、小田付組と小荒井組とを統轄した。一八六八(明治元)年の戊辰戦争のさいには、ヤーヤー一揆とよばれる世直し一揆がおこり、八二(同一五)年の自由民権運動のときは小沼《おぬま》に自由党会津部の本部がおかれるなど、政治史上でも特筆される。
喜多方市西部にある低い山なみのふもとに、八幡太郎義家が勧請したと伝えられる熊野神社がある。社伝によると、一〇五七(天喜五)年、前九年の役のとき紀州の熊野三社を河沼郡熊野堂村へ勧請、一〇八五(応徳二)年、後三年の役のさい三社のうち新宮を耶麻《やま》郡小松村へうつし、造営は一〇八九(寛治三)年に完成した。以後小松村は新宮村とよばれるようになった。このころ、本宮は岩沢村(喜多方市上三宮町)、那智は宇津野《うつの》村(熱塩加納《あつしおかのう》村)へうつしている。
長床(重文)は熊野神社の拝殿で、カヤぶきの大きな寄棟《よせむね》の屋根と、ふといケヤキの円柱が五列にならんでいるさまは壮観だ。一六一一(慶長一六)年八月の大地震で倒壊し、一六一四(慶長一九)年に再建されたものが残っていたが、いたみがひどくなったので修理工事が行なわれ、昭和四九年九月末に完成した。その裏山の中腹に、三社からなる熊野神社(本殿県重文)がある。
長床のむかって左の文殊堂に鎌倉初期の文殊菩薩騎獅像(県重文)がある。その手まえの鐘楼にある銅鐘(重美)は、一三四九(貞和五)年に平明継《あきつぐ》ら新宮城主一族が寄進した、県内最古の銅鐘だ。この神社にはそのほか、暦応四(一三四一)年銘の銅鉢(重文)・熊野神社御神像(県重文)・午王板木《ごおうはんぎ》(県重文)・銅製鰐口《わにぐち》(県重文)・懸仏《かけぼとけ》・錫杖《しやくじよう》その他数多くの文化財がある。
熊野神社の北東約五〇〇メートルに、新宮荘地頭の新宮六左衛門時連《ときつら》が一二一二(建暦二)年に築いたとされる新宮城跡がある。その本丸は東西約一〇〇メートル、南北約一二〇メートルもあり、中世の城館跡としては規模が大きい。新宮氏は黒川(会津若松)の芦名氏とあらそい、一四〇三(応永一〇)年一月落城。いったん降伏したが、北側の山頂に高館城を築いてふたたび反抗、それが落城すると、奥川城(西会津町)にこもり、さらに越後国五十公野《いじみの》にのがれて再起をはかった。しかし、一四三三(永享五)年芦名氏の支城小川城(新潟県東蒲原郡津川町)攻略に失敗し、新宮次郎盛俊(時兼ともいう)とその一族は自害して滅亡した。
熊野神社の北方約四キロにある舞台田《ぶたいだ》の西方山腹に、本県最古の千光寺経塚がある。慈福山千光寺は八世紀なかばの天平年中に行基がひらいたといわれ、僧院三〇〇余宇に及んだというが、一六一一(慶長一六)年の大地震ですべて倒壊して地中にうもれてしまい、現在はその位置さえもさだかでない。この経塚からは、大治五(一一三〇)年四月二日銘の石櫃《いしびつ》・銅製経筒・金銅製五鈷鈴《ごこれい》・銅製磬《けい》・刀剣類などが出土している。
舞台田の北方約一キロにある新町《あらまち》の西方山腹に古四王《こしおう》神社がある。越後国五十公野・出羽国秋田とともにわが国三古四王のひとつとされ、社殿が北にむいているのは蝦夷追伏のためという。現在の社殿は宝形造で、一五五七(弘治三)年に建てられたものである。
熊野神社の南方約一・二キロにある山崎の裏山中腹に、山崎横穴古墳群があり、人骨・勾玉・銅鏡・直刀・土器類が出土しているが、現在はそのほとんどが散逸してしまっている。
コム=カム=コマ
これをみてまずひとつ気がつくのは、さきに高麗橋とともにみた上三宮町岩沢の熊野神社は、かつては熊野三社(本宮・那智・新宮)の熊野坐神社ではなかったかということである。ちなみにいうと、あとふたつの那智・新宮は熊野夫須美神社・熊野速玉神社となっているが、明治以後は岩沢の村社となっているそれが本宮の熊野坐神社であったとすれば、そこに高麗橋があったということは、いっそう意味深いことになるかもしれない。
というのは、「紀伊国〈和歌山県〉が朝鮮半島を通って伝来する大陸文化の伝播拠点となって」(高階成章「日本書紀における熊野」)いたそこにある熊野および熊野神社(三社)の熊とは、朝鮮の檀君神話に出てくるコム(熊)のことであった。その神話の地の高句麗のことを古代日本ではコマ(高麗)といったのもそれからきたもので、そのコムがまたカム(神)となっている。
日本の神はいまではカミといっているが、これももとはカムだったのであった。「随神」は「かんながら」ではなく、「かむながら」が正しいのである。
そこで熊野の野であるが、これは中島利一郎氏の『日本地名学研究』によると、古代音ではヌであった「野」は「国」「宮殿」をも意味したものとあるが、すると熊野とはコム=カム(神)の国または宮殿ということになる。こうしてみると、その熊野神社の近くにコム=カム=コマの高麗《こま》橋があるのは、決して偶然ではなかったのである。
熊野神社の神像
高麗橋から熊野神社長床となったのであとまわしとなったが、私たちは夕方になって喜多方市教育委員会をたずねた。そして松本良子さんとは高校が同じだったという庶務課長補佐の長川弘氏ほかと会い、カラー写真を中心とした『喜多方市の文化財』はじめ、『輪具古墳群調査報告書』などの資料をもらい受けた。
『喜多方市の文化財』はまた当然、同市慶徳町新宮の熊野神社長床からはじまっていたが、しかし、神社ではみられない多くのものが写真となって出ている。私はまず、そこの「熊野神社御神像」を目にしたときは、ちょっとギョッとなったものだった。いきなり自分の先祖に出合ったような気がしたと同時に、これはどこかでみたことがあるなあ、と思ったからでもある。
そのはずで、それは能登《のと》(石川県)にある久麻加夫都阿良加志比古神社の神像とよく似たものだったからである。ついでにちょっとみると、この神社と神像のことについては、石川県高等学校社会教育会編『石川県の歴史散歩』にこうある。
万葉集で有名な熊来《くまき》の入江に面した中島の町から、熊来川を二〇分ほどバスでさかのぼると、道ばたに一六五〇(慶安三)年にたてられた両部鳥居《りようぶとりい》が見える。ここが『延喜式』に見える久麻加夫都阿良加志比古《くまかぶとあらかしひこ》神社。えらく長い社号だが、久麻はコマ、つまり高句麗に通ずる。古代の渡来人の足跡を物語るやしろとみてよい。
本殿の奥にしずまる木像久麻加夫都阿良加志比古神坐像(重文)は中世初期のものだが、朝鮮風の珍しい神像。いかにもコマの神にふさわしい。
その「朝鮮風の珍しい神像。いかにもコマの神にふさわしい」ものが、喜多方の熊野神社にもあったわけだったのである。
輪具古墳群出土の鉄斧
そういう神像の写真など、『喜多方市の文化財』は熊野神社関係のものが主となっているが、ほかにまた輪具古墳群はじめ、三十七基からなっていた(いまは十七基が残存)山崎横穴古墳群や灰塚山古墳などのことも示されている。同市熊倉町の輪具古墳群のことはその『輪具古墳群調査報告書』にくわしいけれども、かんたんなこちらのそれによって、一号墳だけみるとこうなっている。
雄国山麓開拓事業によって、二基の古墳が発見され、昭和五十一年五月に記録保存のため発掘調査を実施した。古墳は南西に会津盆地が一望できる雄国山麓部に張り出した丘陵端部に位置し、周辺には寺内古墳、上人壇古墳、芦平古墳等が所在している。
一号墳は山林を開畑中にブルドーザーによって墳丘が削られてしまったが、調査の結果古墳の回りに掘られた堀《ほり》が検出され、直径八メートルの円墳であることが判明した。
内部主体は、へん平なやま石を数段積んだ長さ二・四メートル、幅〇・七メートルの竪穴式石室《たてあなしきせきしつ》で、鉄製の斧一点、碧玉《へきぎよく》製の管玉《くだたま》九点、ガラス製小玉八点、耳飾り一対が出土した。
この古墳も福島県に多い積石塚の一種であるが、そこから一対の耳飾(耳環)とともに鉄製の斧《おの》、すなわち鉄斧《てつぷ》が出土しているとはちょっとおどろくべきことである。鉄斧は弥生の稲作農耕文化とともに渡来したもので、それの最も古いものとしては九州・肥後(熊本県)天水《てんすい》村の斎藤山遺跡出土のものなどが知られているが、それについては森浩一編『鉄』にこう書かれている。
現在のところ、弥生前期に属するほぼ疑問のない鉄器としては、熊本県天水村斎藤山遺跡の鉄器、鹿児島県金峰町高橋貝塚の銛か刀子の一部と推定される鉄器の破片、山口県下関市綾羅木遺跡の刀子と鉄片四個ずつがある。……
斎藤山遺跡の鉄器は、急斜面に堆積したカキ・ハマグリなどからなる貝層の中から、縄文晩期の夜臼《ゆうす》式土器と弥生前期の板付1式土器とともに出土し、長さ四四ミリ、幅五五ミリ、刃先の部分だけがのこっている。形態は木製の柄を挿入するためのソケット状の袋部を具えた斧と推定されている。……
大局的にみると、弥生文化は縄文文化の社会を基盤として発展してきたものであるが、弥生文化がはっきりとその姿をあらわすためには新しい外的な文化が強烈に加わっており、その背景に人間集団の渡来があったことが次第に復原されてきた。それらの渡来集団の故郷《ふるさと》として朝鮮半島やその隣接地を重視すべきであるので、朝鮮半島の鉄器文化について少し説明しておこう。
「それらの渡来集団の故郷《ふるさと》として」の「朝鮮半島」はおいて、輪具一号墳出土の鉄斧も柄を挿入する袋部を具《そな》えたもので、そういうものが東北・喜多方の古墳から出土しているのは、いったいどういうことなのだろうか。これからみていくことともあわせて、よく考えてみるべきことではないかと思う。
灰塚山古墳と白鬚神社
なおもうひとつ、『喜多方市の文化財』には、熊野神社長床のある慶徳町新宮の灰塚山古墳のことも出ていて、そのことがこうある。
新宮城の西方にある小高い丘で、小山といわれていたところがあり、新編会津風土記に、「灰塚山、村より亥の方(北北西)、六町余(約六五〇メートル)にあり、昔の墓所なり」と記されている。
最近の調査によって、灰塚山は前方後円墳であることが確認され、また、灰塚山の東、新宮城の外堀のあたりには古い時代の墓所のあったことも伝えられている。
このほか、前方後円墳には八幡塚(通称若宮八幡、豊川町長尾)があり、長尾集落の南西約五〇〇メートル、道路の東側にある墳丘で、その上に若宮八幡神社が建立されている。
また、水谷地古墳(豊川町高堂太)は下高額の北、約三〇〇メートル、白鬚神社の建立地で、後円部径五メートル、同高さ三メートル、前方部長さ一五メートル、同高さ二メートルである。
さきにわれわれは、「いわき市の天冠塚古墳」の項で、大阪府羽曳野市の誉田八幡宮が、もとは応神陵古墳(誉田山古墳)の墳丘部にあった小祠だったのと同じように、天冠塚古墳の墳丘部にも神社があったのをみているが、こちら八幡塚の墳丘部にも若宮八幡神社があったのである。それからまた、水谷地古墳は「白鬚神社の建立地で」あるのもおもしろい。
白鬚《しらひげ》神社とは、新羅明神のことであるから、こちらにはその古墳を造営し、氏神としての新羅明神を祭っていた新羅系の渡来人が住んでいたのである。会津盆地には、その白鬚神社が四社ある。
会津・大塚山古墳まで
会津人の先祖
喜多方には、まだみたいところがないわけではなかった。上三宮町には「太太神楽」で知られた大山祇神の三島神社があり、また、前記『福島県の歴史散歩』に、「熊野神社の北方約四キロにある舞台田《ぶたいだ》の西方山腹に、本県最古の千光寺経塚がある。慈福山千光寺は八世紀なかばの天平年中に行基がひらいたといわれ」「この経塚からは、大治五(一一三〇)年四月二日銘の石櫃《いしびつ》・銅製経筒・金銅製五鈷鈴《ごこれい》・銅製磬《けい》・刀剣類などが出土している」とあったことなどもそれである。
経塚から「刀剣類」が出土しているのもどういうわけかと思うが、それよりまた考えさせられるのは、千光寺をひらいたといわれる行基である。どういうわけか東北には行基にかかわる伝承が多く、たとえば、会津といえば有名な東山温泉があるが、この温泉を発見したのも行基ということになっている。
その行基については、のちの山形県あたりでちょっとくわしくみるとして、このへんで会津の中心地である会津若松市へうつらなくてはならない。
会津若松は東北第一といわれた城下町であるが、その「城下町の基礎は、芦名氏二〇代、およそ四〇〇年間の支配ののち、蒲生《がもう》氏郷《うじさと》が入部してきてほぼ定まった。氏郷は城を改築して周囲に郭をめぐらし、郭内に家臣の屋敷、郭外に町人町、さらにその外側に寺院・社寺を設けて、今日にみられる町割りを完成整備した」(福島県『郷土資料事典』)ものであった。
そしてもとは黒川で、のち会津若松となった「若松」の地名も蒲生氏郷が、その郷里であった近江(滋賀県)蒲生郡の「若松」からとってつけたもので、さらにかれはまた、信夫郡杉目となっていたそこも「福島」と改めさせたものである。地名までかえることの好きな男だったようであるが、いまみたように、かれは近江蒲生郡の出身で、もとは織田信長、豊臣秀吉の臣下となっていたものだった。
会津の代表的な産業のひとつとなっている「会津漆器」も、氏郷が蒲生郡からよびよせた工人につくらせはじめたものであり、また、かれによる鶴ケ城の城壁を築いたのも近江の石工「穴太《あのう》衆」だったが、その近江の蒲生郡についてはこういうことがあった。古代朝鮮三国の一国であった百済がほろびたのは六六〇年のことだったが、それでまた、近江朝時代だった日本へ、その百済からたくさんの官民が渡来してきた。
このことについては、『日本の中の朝鮮文化』(3)「近江」で私は『日本書紀』などによりながら書いているが、近江の蒲生郡に関連した『日本書紀』天智段をみると、それはこうなっている。
「四年春二月」「この月、百済国の官位《つかさくらい》の階級《しな》を勘校《かんが》う。よりて佐平福信の功《いたわり》を以《も》て鬼室集斯に小錦下を授く。その本《もと》の位は達率なり。また百済の百姓《た み》男女四百余人を以て近江国の神前〈崎〉郡に居《お》く」
「五年」「この冬京都《みやこ》の鼠、近江に向いて移る。百済の男女二千余人を以て東国に居らしむ」……
「八年十二月」「また佐平余自信、佐平鬼室集斯ら、男女七百余人を以て、近江国の蒲生郡に遷《うつ》し居《お》く」
当時、日本の総人口は五百万たらずだったから、ここにみられる「四百余」「二千余」「七百余」というのはたいへんな数だったはずである。四百余の「神前郡」もそうだったかも知れないが、「蒲生郡」などは、その七百余人のためにできた郡ではなかったかと思う。
そういうことがあったので、韓国を訪問したことのある会津史学会事務局長・宮崎十三八氏の『会津地名人名散歩』をみると、「百済/会津人の祖先」という項があって、こういうことが書かれている。
「天智紀」〈『日本書紀』天智段のこと〉の四年(六六五)の項に、「百済ノ百姓男女四百余人ヲ以テ近江国ノ神前(崎)郡ニ居ク」とあり、同書八年の項に「男女七百余人ヲ以テ、近江国ノ蒲生郡ニ居ク」とある。彼等は鴨族《かもぞく》と呼ばれた。
琵琶湖東岸の近江蒲生辺に住んだのが鴨族か、鴨族が住んでいたからカモウ(古くは濁らない)と呼び、それがガモウとなったのか、いずれにしても出雲系の百済人の子孫ではないかと言われている。
現在もこのあたりの神社は出雲系で、石塔寺という寺にある五重の石塔は、私たちの見た扶余の百済塔とよく似ているという。また〈近江には〉百済寺という寺も現存している。
そうすると、はるかに下るが蒲生氏郷とその一族郎党はこれら鴨族の子孫であろうし、近江商人と言われる人たちもこの血統の末裔であろう。
従って蒲生氏と共に近江から会津へやって来た武士や、〈会津の〉旧甲賀町に住んだ町人もまた、百済人の子孫と言えるであろう。
百二十年前の戦争
「出雲系の百済人」ということには問題があるが、それはともかくとして、その蒲生氏の会津は、「氏郷の死後、越後から上杉景勝が入ったが、間もなく転出し、蒲生・加藤氏の時代を経て、寛永二〇年(一六四三)、家康の孫に当たる保科正之(松平氏と改姓)が入部し、以後、九代容保まで続いて明治維新を迎えた」(福島県『郷土資料事典』)
明治維新というと、会津の人たちにとってのそれは、戊辰戦争ということにほかならなかった。
私はさきに会津は「悲憤の地」と書いたが、明治維新そのものは肯定するとしても、一転して賊軍・賊地とされた会津の人々の心の底には、いまなお戊辰戦争における悲憤がくすぶりつづけているようである。
たとえば、一九八七年九月二十六日の朝日新聞に、「戊辰戦争の手打ち話/萩市の提案、会津そっぽ/一二〇年……まだ早い!?/『NHK特集』計画もフイ/アラブ、イスラエルは二千年だ」とした見出しの、こういう記事が出ている。
「戦争」といえば、太平洋戦争でも日清、日露でもなく、戊辰戦争のことをさす。
白虎隊の悲劇で知られる福島県会津若松市はそんな土地柄だ。その戊辰戦争から来年で百二十年になるのをきっかけに、会津に攻め入った長州藩の山口県萩市が、仲直りの手打ちを申し入れたが、「アラブとイスラエルは二千年の恨みで戦っているのです」とそっぽを向かれてしまった。両市の間に立っていたNHKも、一世紀余りを経て消えない「賊軍にされた恨み」の深さに、白旗を掲げた格好だ。
これがイントロ部で、記事はまだまだつづいている。その「手打ち話」をきっかけに、会津若松市民のあいだからは、いろいろさまざまな「恨みつらみ」が噴きだしたものだった。いわく、「会津藩士の死体は、埋葬することすら許されず、放置されていた」「福島県内で最大の城下町でありながら、県庁は福島市にできた」「鉄道敷設が遅かった」「高等専門学校ができなかったから、今も国立大学がない」などなど。
私としては朝鮮と日本との関係を思いださないではいられないはなしであるが、要するに、政治と戦争のもつ恐ろしさということである。
さて、それはそれとして、ここらで古代文化遺跡に戻ることにしたい。
会津の新羅文化
さきに会津史学会事務局長・宮崎十三八氏の『会津地名人名散歩』によって、「百済/会津人の祖先」というのをみたが、こんどは会津文化協会理事長・桑原啓氏の「会津の朝鮮文化」をみると、「最初に朝鮮系と思われる地名を、先ずあげてみよう」ということで、これには新羅系のそれがこうある。
白木村・白木城村・白津村
今は猪苗代町に合併された村だが、猪苗代湖と磐梯山との間の平坦地帯にある。白木は「しらぎ」で、「新羅」であることは言うまでもない。
白津は湖畔の村で、白は新羅、津は水である。
そしてつづけて、「白山村」「白坂村」「駒板村・駒形山」「桑原村」などがあげられ、筆者自身の桑原姓と関係ある桑原村のことがこう書かれている。
今は会津若松市に合併された旧大戸村の中の一つ。もう一つは、三島町に桑原村がある。この二村はともに只見川水系にあるので、一応は北越からの会津弥生文化の伝播の波の中で生れた村と、見られないこともないが、この桑原村だけは「恵日寺」桑原と関わりがあるのではあるまいかと思う。
いずれにせよ、桑原氏は神功紀〈『日本書紀』神功段〉五年の条に、
大和国葛上郡桑原邑にありし新羅人なり
とあるほか、その人名地名については、『和名抄』『姓氏録』その他によって、明らかに朝鮮系であることは間違いない。
恵日寺の桑原かと思われるのは、筆者桑原の出自からそう思われるのである。……
今日にのこる大戸村・三島町の中の桑原村は、右に述べたところに依って恵日寺ゆかりの桑原村ではあるまいか、と思うのである。
ここにみられる恵日寺とは、会津仏教文化発祥の地という最古の寺院であるが、これは天台宗の最澄ならびに真言宗の空海と、五年間にわたる大論争をしたということで知られる法相宗の徳一が大同二年の八〇七年、磐梯山麓に開いたものである。
寺僧三百、僧兵数千、寺領十八万石、子院三千八百坊と称したというから、たいへんな寺院だったわけである。
会津若松市とその周辺では、磐梯町の恵日寺跡もそうだが、ほかにもまたみたいところは多かった。たとえば、西会津町に年間十万人をこえる参拝者があるという大山祇神社があり、いまは一部が会津若松市となっている本郷町には、李参平らによって開発された磁器「有田焼」の系譜をひく「本郷焼」がある。それからまた、市内の花春町には十八世紀に朝鮮人参を試植した「御薬園」があった。
しかし、東北六県と北海道とをあつかう本稿は、福島県だけですでにもう一冊分の三分の一までになってしまったので、私は先を急がなくてはならなかった。そこでさいごの、東北最古の古墳といわれる市内一箕《いつき》町の大塚山古墳となった。
四世紀の大塚山古墳
大塚山古墳は、会津盆地東方の独立した丘陵、大塚山の頂上部となっているので、そこへ登ってみると会津若松市が一望のもととなり、なるほどこれは、このへん一帯の首長だった者の墳墓にふさわしいものと思われた。
まず、前記『福島県の歴史散歩』をみると、それのことがこう書かれている。
会津若松駅から東方一キロのところに大塚山があり、南側には富士通会津工場、西側には国道一二一号線バイパス、北側には居合《いあわせ》団地があって、このあたりも都市化がすすんでいる。大塚山の頂上には東北地方最古の古墳のひとつ大塚山古墳(史跡)があり、ここから会津盆地を見わたすことができる。
この古墳は四世紀の前期古墳に属し、全長九〇メートルの前方後円墳、前方部が低く細い柄鏡式のもので、発掘の結果、後円部には二基の木棺があったと推定されている。
なかからは鏡三、碧玉製紡錘《ぼうすい》車一、玉類二一三、鉄製の刀剣類一七、刀子《とうす》三、銅鏃《どうぞく》・鉄鏃一二二、鉄斧七、《やりがんな》三、靭《ゆき》二、そのほか櫛《くし》・砥石《といし》など豊富な副葬品が出土した。《ほう》製の三角縁唐草文帯二神二獣鏡は岡山県丸山古墳の鏡とまったくおなじものだった。靭も二背《はい》出土し、うちひとつは八〇センチをこえるほどの大きさで、直弧文のあるうつくしいもの。これらのことから中央との密接な関係があることがわかる。
大塚山から盆地東縁にかけては多数の古墳が分布している。
重要なものなので、ついでにまたもうひとつ、この古墳のところには、「国指定史跡/会津大塚山古墳」とした、会津若松市教育委員会による一九八八年二月とある掲示板がたっているので、それもみることにするとこうなっている。
会津盆地の東側にある比高三〇メートルの独立丘陵上に造られた柄鏡式の前方後円墳で、全長九〇メートルの規模を有する。
昭和三十九年、市史編纂のために発掘調査が実施され、主軸と直交する二つの割竹型木棺が検出された。その副葬品には三角縁二神二獣鏡、三葉環頭大刀、直弧文を有する靭《ゆき》など三七九点が出土した。
古墳の造営は四世紀末と推定され、東北地方では最古に属する古墳に位置づけられている。この古墳の被葬者は会津盆地を治めた首長と考えられ、その副葬品から当時すでに、畿内の大和朝廷と密接な関わりをもっていたことが推定される。
まず、おびただしい出土品におどろくが、三葉環頭大刀はじめ、ほとんどみな古代朝鮮から渡来したものばかりのようである。
さきの輪具古墳群でみた鉄斧がここからは七つも出土しているというのもおもしろいが、それにしても、そのような四世紀古墳の出土品のことから、「中央との密接な関係があることがわかる」とか、「畿内の大和朝廷と密接な関わりをもっていたことが推定される」とは、いったいどういうことなのであろうか。
さきの「郡山・須賀川・白河」の項でもみたように、「紀元六、七世紀のわが国の国家形成の時代には……」(成立・確立でもなく「形成」であることに注意)という、それがいまは「学界の大勢」(森浩一)でもある昭和天皇の「お言葉」が全国の各新聞に出たのは、一九八四年九月七日のことであった。
それにもかかわらず、会津若松市教育委員会がその四年後の一九八八年二月に四世紀の古墳を説明してたてた掲示板に、まだまだありもしない「大和朝廷」が登場するのはいったいどうしてなのであろうか。
さきにもいったように、私としては、どちらにせよ遺跡・遺物は同じようなものなのでいいが、しかし、こういう虚構の皇国史観による「中央」「大和朝廷」志向には、考えさせられるものがあると思わないわけにはゆかなかった。
山形・秋田(出羽)
出羽国だった山形へ
出羽の「柵」
陸奥国の南部(のち磐城《いわき》・岩代《いわしろ》)となっていた福島県をみたが、その中部・北部(宮城・岩手・青森県)はあとのことにして、こんどは出羽国《でわのくに》(のち羽前・羽後)となっていた山形県・秋田県となった。陸奥と同じように出羽も「はじめ蝦夷の地であった」(高柳光寿・竹内理三編『日本史辞典』)から、古代は、原住民である蝦夷・エミシとの抗争に明けくれたところだったといっても過言ではない。
古代東北独特の「柵《さく》」というものがそのことをよく示しているが、その点ではとなりの越国《こしのくに》(新潟県)も同様で、それについては、東北歴史資料館副館長・桑原滋郎氏の「東北の城柵について」にこう書かれている。
越では大化改新の直後に早くも柵が置かれたようだ。大化三(六四七)年・同四年に渟足《ぬたり》柵・磐舟《いわふね》柵が相次いで建造された旨『日本書紀』に記されている。そしてやや遅れて斉明四(六五八)年には都岐沙羅《つきさら》柵が置かれたことも記されている。これらについて、越と信濃《しなの》の民を選び柵戸を置いて蝦夷に備えたとか、柵造に叙位したという記事があったり、また七世紀末の文武二(六九八)年とその翌年磐舟柵を修理したという記事があることから、実在したものと考えられている。越ではこのように早くから蝦夷の問題が行政の上に位置づけられていたものとみられ、柵がいくつか築かれている。
要するに柵とは蝦夷・エミシの反抗に備えて、そこに武装移民を住まわせて柵戸《きのへ》としたものであった。そして『延喜式』によると、その柵内に住んで付近を開拓していた柵戸がもし逃亡したばあいは、戸口逃亡罪ということで処分されたとのことであるが、越についで、出羽におけるその柵をみると、それはこういうふうになっている。
七世紀末になると越国は越前《えちぜん》・越中《えつちゆう》・越後《えちご》の三国に分割された。八世紀初頭になって和銅元(七〇八)年出羽郡が越後国に置かれた。すると翌年、出羽柵に関する記事が初めてみられる。和銅五年には出羽郡を中心にして陸奥国の置賜《おいたま》・最上両郡を合わせて出羽国が成立した。
出羽柵はおそらく庄内地方に置かれたと考えられているが、その所在地は判明していない。この柵は渟足柵・磐舟柵がそうであったのと同様、蝦夷政策のために置かれたのである。初見記事に蝦狄を制するため諸国に兵器を運ばせるとある。その反面、日常的にはおそらく出羽国府としての役割を果していたと思われる。
この出羽柵が天平五(七三三)年に秋田高清水岡に移転した。その場所については、漠然と後に秋田城が築かれる秋田市寺内《てらうち》の地であろうと考えられてきたが、確証はなかった。ところが先年来の発掘調査で、この寺内の地が出羽柵の移転先であることが立証された。と言うのは、秋田城跡の東南城外に当る鵜《う》の木《き》地区から秋田城より古いと考えられる数棟の建物と共に一基の井戸が検出され、その中から「天平六年」・「天平勝宝四年」・「天平勝宝五年」と年号の記された木簡が出土した。
天平六(七三四)年といえば出羽柵が移転した翌年に当り、また天平勝宝四・五年は秋田城創建の頃である。前者を秋田高清水岡での出羽柵創建頃を表す遺物、そして後者を出羽柵を取り壊し新たにほぼ同じ場所に秋田城を建設する頃の遺物と考えるならば、この寺内の地こそ出羽柵の移転先であるとして何等矛盾しないのである。このようなわけで、出羽柵については、前半の遺跡はともかく、後半に当る遺跡の所在地が判明し、ごくわずかながら遺構も検出されているのである。
柵への移民
これからの私は、はじめの「出羽柵はおそらく庄内地方に置かれたと考えられ」「日常的にはおそらく出羽国府としての役割を果していたと思われる」というその遺跡もみることになるが、この出羽柵には、屯田兵のようなものであったたくさんの武装移民が送り込まれていた。
その移民を「柵戸《きのへ》」といったが、たとえば、誉田慶恩・横山昭男氏の『山形県の歴史』をみると、「霊亀二年(七一六)、中納言巨勢麻呂《こせのまろ》は、『出羽国を建ててから数年たったが、吏民もすくなく、狄徒《てきと》はまだ馴《な》れしたしまない。その地は肥えて、田野は広大である。願わくば近隣の国民《くにのたみ》を移住させ、蝦夷を教諭し、あわせて地利をひらかせたい』と言上し、ゆるされている。そして、出羽柵に送りこまれた諸国民は『続日本紀』によると、別表のとおりである」として、ここにみられるその「表」(左上の表)が示されている。大家族時代だった古代のことであるから、二百戸・五百戸・四百戸・二百戸(計千三百戸)というのは、たいへんな数であった。しかも、それだけではない。
この「表」に霊亀二年、七一六年の移民のことが出ているが、その前年の『続日本紀』にも、「相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野の六国の富民千戸を移して陸奥に配る」とある。これは陸奥国に移民させたというものであるが、このときはもう陸奥の置賜郡、最上《もがみ》郡は出羽国となっていたので、「六国の富民千戸」という移民は、その一部が出羽に移されたものとなったとみられる。
なお、『山形県史』に出ている「出羽・陸奥両国への移民」の「表」もここに掲げておくが、出羽と限らず、東北には、いわゆる蝦夷・エミシののこした縄文文化とともに、これら移住者ののこした古代文化遺跡が多い。私がこれまで日本全国を歩いてみたところでは、いまみたそれら各国からの移住者もほとんどは弥生・古墳時代とつづいた古代朝鮮からの渡来人の子孫にほかならなかったが、しかしこれも、それだけではなかった。
たとえば、出羽にはまだ出羽国もできていなければ、それら柵戸の移民もなかった時代からすでに日本海、または日本海沿岸をへてする古代朝鮮からの渡来がつづいていた。まず、出羽の山形県についていうと、米沢市窪田町で発見された、東北最古という四世紀末の前方後方墳があったことをみてもそれはわかる。
前方後方墳・宝領塚
それはこれからみるが、私たちがその山形県に向かって東京・上野をたったのは、一九九〇年初夏のことであった。私「たち」といったのは、山形県出身の若い建築家・細川和紀さんがいっしょだったからであるが、翌日からはまた、『くじゃく通信』の高淳日さんも山形市で合流することになっていた。
私はこれまでも山形へは、こちらも山形県出身の作家・矢作勝美さん、秋田県出身の評論家・後藤直さんとともに、一、二度行ったことがあった。が、それはどちらかというとただの「東北体験」といった旅行で、仕事の取材のためにおとずれるのは、こんどがはじめてだった。
私たちは山形市まで直行することにして、新幹線を福島駅でおり、そこから奥羽本線に乗り換えて山形へはいったが、間もなくかつての置賜《おきたま》郡だった米沢となった。米沢市には、山形県高等学校社会科教育研究会編『山形県の歴史散歩』をみると、武蔵(埼玉県)の新羅郡だったところにある白子《しらこ》(新羅処《しらこ》)と同じ白子神社があって、「白子《しらこ》神社の祭礼市からおこった市が、大町・立町《たつまち》・東町(現大町一丁目、本町二・三丁目)、粡町《あらまち》・南町(現本町二丁目)、柳町(現本町二〜四丁目)と六町のどこかに毎日たっていた」とあるのがおもしろかった。
しかし、一九七七年に出た同『山形県の歴史散歩』をみたところでは、それのほか別にこれといったものはなかった。けれども、一九八六年五月二十五日の読売新聞・山形版には、さきにふれた前方後方墳のことが、「米沢の宝領塚古墳/東北で最古の前方後方墳/四世紀末に造営/『文化伝達の遅い』定説覆す」とした見出しの、こういう記事が出ている。
米沢市窪田町の宝領塚は、東北地方で最古、最大の前方後方墳という調査結果が二十四日、現地で開かれた説明会で発表された。市内の考古学研究グループ「まんぎり会」(手塚孝調査主任)が地元の要請で測量調査を進め、その規模などが確認されたもので、これまでは福島県原町市の桜井古墳が東北で最大・最古の前方後方墳とされてきたが、調査結果から宝領塚は全長が七十九〜九十メートル、前方部と後方部の長さの比率などから四世紀後・末期の墳墓とみられる。同会では「山形県は従来、太平洋側などに比べて古墳文化の伝達が遅れていたと考えられていたが、そうした定説を覆すものと思う」と説明している。
このような前方後方墳については、早稲田大名誉教授・水野祐氏の「大穴持命の祭祀者」をみると、それのことがこう書かれている。
私は早くから前方後方墳は、高句麗系の墳丘形をうけて、新羅を経て伝わったものと判断し、日本での発祥地は出雲〈島根県〉と考え、出雲族の移動と、前方後方墳が合致すると考えた。それは昭和四十二年当時知られていた、日本での前方後方墳六十七基の分布をもって立論したものであった。今日では全国で三百数十基の発見が報告されているが、それでも私の旧説が覆《くつがえ》されることはなく、むしろ一層この説を補強している。
日本海ルートの常識
これまでにみた福島県会津若松市の大塚山古墳は、四世紀末の前方後円墳だったが、こちら米沢市にも宝領塚という、同じ四世紀末のそういう前方後方墳があったわけである。となると、会津の大塚山古墳についても同じことがいえるが、「この墳墓はおそらく、当時、置賜一円を支配していた豪族のものとみて間違いないだろう」(上記の新聞)という、その豪族はいったいどこから来たものだったのであろうか。
測量調査だけで、まだ正式の発掘調査はおこなわれていないらしく、なかにどういうものが副葬されているか、それがわからないのが残念だが、とにかくそういう古墳の豪族がどこから来たものかということについては、ここにまたもうひとつおもしろい新聞記事がある。
いまみた読売新聞・山形版のそれは一九八六年五月二十五日付けの記事であったが、それに先立つ一週間前の五月十九日の同じ読売新聞・山形版には、「押出遺跡の彩文土器/独自出土品に着目/大陸古代文化/東北伝来『日本海ルート』も」とした見出しの、こういう記事が出ている。
東北地方への大陸文化の伝来について、これまでの定説だった北九州、畿内ルートとは別に、山陰から海沿いに本県に入ってきた「日本海ルート」があった。―県内の考古学界の重鎮で、来月二日限りで二期六年務めた県立米沢女子短大学長を辞める柏倉亮吉さん(八一)が、来月二十二日の最終講義で、この新学説を発表する。柏倉さんは、これまでの県内の史跡発掘で、すばらしい大陸伝来の土器、青銅刀などが出土していることに目をつけ、山形こそ古代東北の“アルカディア”(理想郷)とする逆説を打ち出した。お別れ記念講演は二十二日午後二時四十分から同短大視聴覚教室で行われ、一般にも公開される。
最終講義では、(1)昨年秋、高畠町の押出《おしだし》遺跡で出土した赤漆と黒漆で模様を描いた彩文土器は、六千年前の中国・新石器時代の仰韶《ぎようしよう》文化にみられる彩文土器と同じで、西日本では発見例がない。(2)二十九年秋に、鳥海山のふもと・三崎山の土中から、三千年前の中国・殷《いん》時代のものとみられる青銅刀が出土。世界でも三十本ほどしか発見されていないこの種の刀は、中国でも強い関心を集めた。(3)山形市内の大之越古墳の構造は、朝鮮の新羅時代の古都・慶州にある皇吾里三十三号墳の手法と類似している。――などを説明する。そして、「大陸文化は北九州、畿内からだけ入り、それがその後、東北地方へも伝わって来た」という従来の定説に対し、これとは別に、日本海の海流の関係で、山陰から本県にかけて入って来た「日本海ルート」を証明する。
柏倉学長は、「こうした説は、昭和二十年代の青銅刀発見時には、学界で総反撃を食らったが、押出遺跡の彩文土器で確信できるものになった」と話している。
柏倉学長は、中山町出身。旧山形中(現山形東高)、旧制山形高を経て京都大文学部史学科卒。山形大教育学部教授を務めた後、五十五年から米沢女子短大学長。古代史・考古学の権威で、県文化財保護審議会長、県史編集委員などを兼任している。
私たちがこれからみることとも関連するので全文を引いたが、ここにいう「日本海ルート」のことは、近年では古代史・考古学者のあいだではもう常識のようなものとなっている。「環日本海文化」をテーマとしたシンポジウムも何度となくおこなわれ、そうした書物も何冊か出ている。
そういうことで、柏倉学長の説はいまでは珍しいことではなくなっているが、ただ、ひとつ気になることといえば、「山陰から本県にかけて入って来た『日本海ルート』」ということである。というのは、これからもみるように、もちろん「山陰から海沿いに」というものもあるだろうが、しかし、「日本海ルート」はその山陰ばかりではなかった。北陸・新潟・山形・秋田・青森などの沿岸からも日本海ルートのものがたくさん入っているのである。
寒河江をたずねて
さくらんぼの里
私たちの乗っている列車は米沢をすぎると南陽(という駅はない)となり、ついで上山《かみのやま》となった。こんどの山形では、私はその上山市から南陽市、そこからは東南の高畠町も行ってみることにしていたが、とくに上山市は十年ほどまえ同市の斎藤清氏から、「山形県には白鬚神社や白山神社、白子神社などが三十五社も分布している」という手紙をもらっていた。
いずれも新羅にかかわる神社だったが、それらについては、とにかく「県都」山形市まで行ってからということにして、私たちは午後一時半に山形駅に着いた。駅には細川さんの知り合いだった建設会社「千歳組」社長の千歳栄氏が、クルマをもって私たちを出迎えてくれていた。
私たちはあいさつもそこそこに、山形駅から千歳さんのクルマで、さっそく山形西北方の寒河江《さがえ》市に向かった。なぜ寒河江だったかについてはこれから書くが、そのまえに、私はクルマのなかで、千歳さんから二種類の冊子をもらい受けた。
一は千歳さんが自社「千歳組」の社内報である『広場』に数年にわたって書きつづけた「ふるさと探訪」「ふるさとの文化を探る」をまとめた『山形礼讃』であり、二は、これも千歳さんが政策室長となっている山形経済同友会が、梅原猛氏と梅棹忠夫氏とを招いておこなった講演記録『風土に生きる文化』であった。
この『風土に生きる文化』には梅原氏の講演「東北の文化」を中心に、山形新聞に連載した「日本の深層――山形紀行」と、『中央公論』一九八五年九月号に書かれた「甦える縄文」とがおさめられている。それから梅棹氏の講演は、「地方の時代・文化の時代」となっている。
どちらも東北をあつかったもので、私にとってはかっこうの参考書であった。とくに梅原氏の「東北の文化」ほかは、たいへんおもしろいと同時に問題点もあるので、あとでふれることになるはずである。
クルマが寒河江に近づくと、あたりは白い桜桃《おうとう》(サクランボ)の花ざかりとなっていた。それまでの列車のなかからもその白い花がチラチラと見えていて、はじめ私はそれを梨ではないかと思ったものだったが、寒河江はその「サクランボの里」といわれるところでもあったのである。
ついでにここで、『日本語大辞典』「桜桃」の項をみるとこうある。「バラ科の落葉高木。果樹として冷涼地に栽培。五月に開花し、六〜七月に収穫。果実は核果。生食・砂糖づけ・製菓・カクテル用。栽培品種が多い。サクランボ。チェリー。セイヨウミザクラ」
寒河江ではまっすぐ市役所に向かい、同市教育委員会をたずねた。そして社会教育課歴史文化係長の今野《こんの》要一氏に会って、『寒河江市の文化財』などをみせてもらい、ある部分をコピーしてもらったりした。
そうしているうち、そこの女子職員が茶をいれてくれたが、これが何ともおいしい味のお茶だった。役所などでだしてくれる茶としては珍しいことだったので、「このお茶、うまいですね。こちらは茶の産地でもあるんですか」と私は、茶の栽培は桜桃とちがい冷涼地には適さないものであることも忘れて、ついそう今野さんに向かってきいた。
「いえ、それは静岡の茶ですよ」と、今野さんはこともなげに言った。つづけて、横から千歳さんがつけ加えた。「水ですよ。水がいいからです」
「サガ」は古代朝鮮語
そのおいしい茶をごちそうになりながら、私は今野さんたちに、こんなことを話した。そのことについては、私は一九七〇年にだした『日本の中の朝鮮文化』(1)が講談社文庫となるとき、「文庫版への補章」に「相模の寒川神社ほか」として書いているので、それをここに引くことにしたい。
――たとえば、本書は相模(神奈川県)から書きだされているが、その相模では肝心な相模国一の宮である寒川神社のことがすっぽりと抜けおちている。もちろんそのときは、それのことを知らなかったからである。
その寒川神社のことがやっとわかったのは、次のような経過をへてであった。
私はシリーズ第一冊目の本書をだして、ほうぼうの読者から、ずいぶんたくさんの手紙をもらった。なかに、山形県寒河江市のある郷土史家からのもので、「寒河江の寒河《さが》というのは、古代朝鮮語からきたことばと聞いているが、すると、これはどういう意味なのだろうか」というのがあった。
はじめていわれたことだったので、私にもそれはわからなかった。で、「わからない」とその旨を返事してしばらくたった。しかし、何となく気になっていたもので、その後、一九七五年に出た丹羽基二氏の『地名』を手にしたとき、寒河江と関係あるかもしれない「さがみ」の項を開いてみたところ、それが次のようになっているので、「おやおや」と私は思ったものだった。
さがみ 相模・相摸。相武にも当てる。朝鮮語のサガ(寒河)からきている。朝鮮人の居所。相模には朝鮮〈渡来〉人の集落があった。寒川神社はその氏神。
ついで、こんどはその寒川神社の「さむかわ」をみると、それはこうなっている。
さむかわ 寒川。朝鮮語のサガ(わたしの家・社などの意)からくる。朝鮮渡来人の集落があった。寒川はもと寒河《さが》で当て字。
私はいよいよ、「おやおや」とならないわけにゆかなかった。私は相模もひとまわりして、すでに本(本書)にまでしていたにもかかわらず、そんな神社があったとは知らなかったのである。しかも、神社本庁編『神社名鑑』をみると、その寒川神社は相模国一の宮となっているではないか。
私は、山形県寒河江市の郷土史家にそのことを知らせたかどうか、それはもう忘れているが、後日、神奈川県高座郡寒川町にある寒川神社をたずねてみて、さらにまたおどろいた。一の鳥居からの参道を歩くだけでもかなりの時間がかかった。
社務所でもらった『相州一の宮/寒川神社誌』をみると、「現境内の総面積は一万四千二百八十五坪余りである。因《ちな》みに古《いにしえ》の神領は現今の藤沢・茅ケ崎・海老名の三市一町に及ぶ広大なものであった」とあり、祭神は、「寒川大明神または寒川大神ともいう寒川比古命《さむかわひこのみこと》、寒川比女命《さむかわひめのみこと》」となっていて、その「由緒」はこうなっている。
関八州鎮護の神として、古くからこの地方の名祠《めいし》としてあがめられている。
即ち、総国風土記によると、約千五百年前、雄略天皇の御代に幣帛《へいはく》を奉納せられたとあるので、当時既に関東地方に於ける著名な神社として遠近に知られていたことが明らかであり、従って創建の極めて古いことと、往古から朝野の崇敬殊に厚いことが知られる。
この「由緒」どおりだとすると、寒川神社が祭られるようになったのは、高句麗からの高麗《こま》人集団が祭った大磯町の高麗神社=高来神社より、はるか以前のことだったことになる。すると、相模国一の宮の寒川神社を氏神として祭ったのは、中野敬次郎氏のいうように、この相模には「南韓からの移民が早く来《きた》って集落を営んでいたらしく、そこに縁故を求めて高麗若光一団の渡来があったのである」(「箱根山の開発と高麗文化」)「南韓からの移民」のそれだったかも知れない。
そういうふうだったのに、相模のことを書いていながら、相模国一の宮となっている寒川神社の存在を知らなかったとは、うかつなことであった。
そのことは、相模とはかぎらない。となりの武蔵(東京都・埼玉県)にしてもそうで、たとえば、私は高麗郡、新羅郡だったところはわりとていねいにみているつもりであるが、新羅郡のそれと同じ新羅・加耶系渡来人の秦《はた》氏族が展開した、上秦郷・下秦郷などもあった幡羅《はたら》郡のほうは、そのまま見すごしてしまっている。――
高瀬山古墳と蛇行剣
あとは寒河江とは関係ないのでおくが、こんど実地にその寒河江をたずねるにあたり、私はもう少し調べてみることにして、『山形県の地名辞典』(平凡社刊)にある「寒河江市」の項をみると、そこの「地勢」とともにこういうことが書かれている。
地勢は、最上川河岸段丘と、月山《がつさん》、朝日〈岳〉を水系とする寒河江川扇状地に発達しており、夏に暑い盆地気候の中で稲作、果樹、特にサクランボの栽培が盛んである。寒河江の地名は、関東地方の寒川農民が移民として入り、定住するようになり、その場所が入江が多かったため、初めは「寒川の江」と呼び、次第に「さがえ」と呼ぶようになったといわれる。
近年、慈恩寺の仏像群や、毎分二、二〇〇リットルの湧出量がある新寒河江温泉が脚光を浴び、西村山《にしむらやま》地域の中核都市としての役割を果しつつ、新時代に向かってたゆみない歩みをつづけている。姉妹都市に大韓民国安東市、名誉市民に安孫子藤吉(元自治大臣)がいる。
「初めは『寒川の江』と呼び、次第に『さがえ』と呼ぶようになったといわれる」とあるが、これの筆者は寒川が古代朝鮮語のサガ(寒河)からきたものであることがわかっていたとしたら、こういうふうには書かなかったにちがいない。それから、「関東地方の寒川」すなわち相模から「移民として入」ったものが、「農民」だけだったかどうかもわからないし、また、そのかれらの来たのはいつだったかもわからない。
しかし、かれらがもし六世紀までに入って来ていたとしたら、寒河江市にある高瀬山古墳は、かれらが造営したものだったかも知れない。まず、『寒河江市の文化財』をみると、その古墳のことがこうある。
本古墳はもと松林の中に埋もれていたが、明治初年開墾され、明治末年には古墳としての存在が注目されていた。大正年間に調査されたときは十数基の古墳が認められたというから、古墳群であったと思われる。昭和七年十月、土地所有者の土屋氏が葡萄園を作ろうとして、塚の南方の部分を発掘したところ石槨が現われ、佐藤吉則氏の取り計らいもあり、県調査委員の手で規模が明らかにされた。
封土の直径一八メートルに及ぶ円墳であり、石槨の形状は長方形、長軸を北東―南西に向け、長さ二三五・〇センチ、幅三三・三センチ、深さ五七・〇センチ、石材は粘板岩であった。遺物は床部に丹を塗ったあとが認められる小石を敷きつめ、更に四六・六センチの波形の直刀の外二口の直刀が出土した。竪穴式古墳に属する。時代は古墳時代末期(七世紀頃)と推定されている。
ここにいう「波形の直刀」とは、いわゆる蛇行剣《だこうけん》である。これとはまた別に、その三口の直刀を紹介して、「写真中央のS字形に蛇曲している手矛型のものに特徴がある」としている。
このような蛇行剣は、九州・肥前(佐賀県)神埼郡で発見された吉野ケ里遺跡のすぐ近くとなっている、三養基郡上峰町の五世紀後半という横穴古墳からも発見されている。それについては、九州産業大教授(考古学)の森貞次郎氏がこう話している。
S字型の蛇行鉄矛の出土は全国で初めてと思う。蛇曲の意味や由来は簡単にはいえないが、おそらくマジカル(呪術的)な意味合いが強いと思われる。同類のものは朝鮮半島で発掘されているが、直接佐賀への渡来よりも、大和朝廷を経由して地方の有力部族の手に渡ったと考える方が妥当ではなかろうか。(一九八三年五月三十一日付け佐賀新聞)
「全国で初めて」で、大和(奈良県)からは出土もしていないそれが、どうして「大和朝廷を経由して」となるのであろうか。これまでも再三指摘したように、五世紀後半のそのころはまだ「大和朝廷」もなかったのである。
慈恩寺から寒河江八幡宮へ
それはともかくとして、そのような古代朝鮮からの蛇行剣が東北・山形県寒河江市の高瀬山古墳から出土したとは、いろいろな意味でたいへんおもしろいことである。おそらくそれは、こちらへ移住した者たちが儀器として持っていたものだったにちがいない。
なお、同古墳のある高瀬山は古代の寒河江にとって重要な地であったらしく、弥生時代末期の高瀬山方形周溝墓もあった。それからまたここには、平安末ごろのものとみられる経塚があって、経典を埋納した経甕《きようがめ》が出土している。
寒河江市教育委員会を出た私たちはついで、そこの地名も寒河江市慈恩寺となっている長岡山中腹の慈恩寺から、これも地名まで八幡町となっている寒河江八幡宮をたずねた。
慈恩寺では、細川さんにいわれて飲んでみた手水舎の水がこれまた冷たくておいしいのに、私はまず目を細めたものだった。「寺伝によると、七二四(神亀元)年聖武天皇の命により、行基がこの地をえらび、七四六(天平一八)年婆羅門《ばらもん》僧正が開基したと伝えられる」(前記『山形県の歴史散歩』)慈恩寺は、重文となっている阿弥陀如来坐像ほか多くの仏像がはいっている堂・塔が、山吹が黄色い花を咲かせている境内のあちこちにひろがっていた。
藤原末期以後のものというそれらの仏像には、奈良の法隆寺や東大寺(三月堂・戒壇院)などのもっと古くてすぐれたそれを何度もみているのであまり興味なかったが、桃山時代風の単層入母屋造の本堂と、「地元の大工棟梁によって再建された」ものという三重塔が私にはおもしろかった。三重塔は、地元製ということに私はひかれたのかも知れなかった。
最上川を渡った寒河江市平塩《ひらしお》には、これも行基が開山という平塩熊野神社と別当寺の平塩《へいえん》寺があったけれども、慈恩寺からそこへまわった寒河江八幡宮は、「寒河江荘総鎮守」とあるリーフレットをもらってみると、「誉田別尊(応神天皇)・大山祇命」が祭神となっている神社だった。同じミコトでも一方は「尊」で、一方は「命」となっているのはどういうことかと思ったが、境内は「凡そ八五〇〇坪」という大きな神社となっていた。
「まほろばの里」高畠
山寺・立石寺
日暮れとなった寒河江からの私たちは、こんどは千歳さんのクルマにしたがって、将棋駒で知られた天童市などという標識を目にしながら、山形市山寺の「芭蕉記念館」にいたった。そこまで来てみて私は気がついたが、そこはふつう山寺ともいわれる立石寺《りつしやくじ》のあるところだった。
山寺(立石寺)はさきにもちょっとふれた矢作勝美、後藤直さんとともに、一度たずねたことがあった。もう三十年近くもまえのことで、すっかり印象もうすれてしまっているが、文字どおり立石だらけの峨々《がが》たる急坂の山寺だったことと、そこで食べたおでんの丸いコンニャクがおいしかったのをおぼえている。
芭蕉の有名な句「閑《しず》かさや 岩にしみいる 蝉《せみ》の声」は、その山寺の立て岩(立石)にはりついた蝉の鳴き声を詠《よ》んだもので、芭蕉記念館はその山寺と谷間をへだてて向かい合った、こちら側の台地にあった。まだ真新しいしょうしゃな和風建築で、芭蕉が「奥の細道」の旅の途次、山寺をおとずれて三百年となるのを記念して建てられたものだとのことであった。
千歳さんの「千歳組」の施工になるものだったが、近くのとなりには、これまた同じ和風の真新しい「風雅の家」という料亭があって、千歳さんに私たちはそこへ招待されてご馳走になることになった。私はそこで千歳さんの息子さんで、千歳グループ開発センター企画調査室長となっている千歳徹氏にも紹介されたりしたが、その料亭はまさに「風雅の家」というのにふさわしく、これも山寺と向かい合っていて、それがみごとな借景ともなっていた。
私たちは、広い芝生の庭の片隅に赤いシャクヤクなどが咲いている「風雅の家」のその庭と、向かいの山寺とを見わたしながら、「ここで薪能《たきぎのう》をやったらいいだろうね」などと話した。山寺の立て岩にはもろもろの者の霊魂がこもっていると信じられていたから、その能がおこなわれるには、打ってつけの場所であった。
ここでついでに、前記『山形県の歴史散歩』により、山寺(立石寺)をちょっと紹介しておくと、それはこうなっている。
芭蕉の「奥の細道」で名だかい立石寺は、山形だけでなく東北の名刹。宝珠山立石寺を中心とする山寺は、全山が国の名勝・史跡に指定されている。慈覚大師が八六〇(貞観二)年、清和天皇の勅許をえて開山した古刹で全山が洞窟にとむ凝灰岩の山で、奇岩怪石におおわれ、四季おりおりのうつくしさをたのしませてくれる。山門から奥の院(如法堂)にいたる一〇〇〇段をこす石段の両側には諸堂社・句碑・板碑が多くたちならび、歴史のおもみといったものを感じないわけにいかない。……
山内のおもな堂塔は、慈覚大師の廟所開山堂、山中唯一の舞台造の五大堂、参道右手岩山頂上にある釈迦堂、山頂に奥の院などがある。五大堂・釈迦堂からの眺望は山寺の地がすべてのぞまれて絶景だ。重文に指定されているものに立石寺三重小塔と天養元年如法経所碑《じよひ》がある。
三重小塔は、この寺の塔頭華蔵院境内の岩屋内に安置されてあり一五一九(永正一六)年の作、室町末期の特色がよく表現されている総高二・五メートルの小塔。岩屋をお堂にみたてておさめられた珍しいものだ。如法経所碑はもと山上の納経所近くにあったもので、現在秘宝館に収納してある。碑文から慈覚大師入定《にゆうじよう》霊窟のほとりに、真言僧五人が妙法蓮華経一部八巻を書写しておさめ、碑文をつくった記念碑で一一四四(天養元)年のものであり、県内最高の金石文だ。その他県の文化財では、開山堂の東入定窟にある百丈巌頂上にたった立石寺納経堂(一五九九年、最上義光建立)、秘宝館に陳列されている鎌倉時代の木製曼荼羅懸仏。藤原時代の作といわれる写実性にとんだ木造伝教大師坐像や工芸品として鰐口など多くの寺宝をもっている。
「円仁の開基」について
ここにみられる慈覚大師とはさきの「福島の飯坂町にて」の項でみた、霊山寺を創建した慈覚大師円仁のことでもある。東北にはこれもさきにみている行基と同じように、円仁の開基という寺院が多いが、そのことについて梅原猛氏は、「日本の深層――山形紀行」にこう書いている。
円仁は中国から帰って、すぐに東北へ布教の旅に出たらしい。東北地方のほとんどの名刹《めいさつ》は円仁の開基になっている。これは伝説であり事実であるまいと疑う学者もあるが、私はかならずしもすべてが伝説であるとは思わない。坂上田村麻呂以来の東北遠征によって大和朝廷の支配下に服したとはいえ、蝦夷《え ぞ》の反乱がいつ起こるかも分からない。その反乱を押えるにはイデオロギーが必要である。そういう、いわば京都朝廷のイデオロギー戦争の先頭に円仁は立ったのではないかと私は思う。
私もそうだったのではないかと思うが、だいたい仏教、あるいは宗教が支配者のそのような手段となっていたのは、なにも東北における円仁のそればかりではなかった。奈良東大寺の建立や諸国の国分寺にしてもみなそうで、それによって民衆を統合し、支配しようとしたものにほかならなかったのである。
ただ、東北のばあいは、その主目的がいわゆる蝦夷を懐柔することにあったのが特徴的だったわけであるが、あとでみる行基のほうは、その円仁とはちょっと違っていたようである。
高畠町の古墳
さて、それはあとのことにして、山寺の「風雅の家」で夕食をご馳走になった私たちは山形市内へ戻り、そこのホテルで第一夜をすごした。そして翌日は、山形市内のほうもあとまわしとし、この日も千歳さんがさし向けてくれた、千歳グループ開発センター企画調査担当主任の小野寺公男氏が運転するクルマで、まず、山形市南方の高畠町へ向かった。
なぜまず高畠町だったかというと、東置賜《おきたま》郡のそこは米沢市にも近いところで、その西北方と北方とは南陽市、上山市となっていたからでもあったが、もうひとつは、その高畠町は市《し》でもなく町となっていたにもかかわらず、そこの古代遺跡が私に強い印象をあたえたからであった。
というのは、東京・新宿のあるデパートで「山形県の物産展」というのがおこなわれたことがあった。各県のそれはよくあることだったが、私はいまこうして山形を歩くことになっていたので、通りがかりに、ふとその物産展を覗いてみる気になったのだった。
食品を主としたいろいろなものが出品・即売されていたが、入口のほうには観光案内などのパンフレットもたくさんおいてあって、そのなかの『まほろばの里/たかはた』というのを手にとった私は、「ほう――」と思ったものであった。「まほろば」とは盆地の住みよいところ、といったほどの意であるが、きれいなカラー写真を中心としたそれには、いくつかの注目すべき古墳のことも出ていて、たとえば、そのうちの羽山古墳のことがこうある。
羽山の中腹、標高二八〇メートルあたりに南面する羽山古墳は、横穴式古墳で、三五基からなる安久津古墳群のうちのひとつです。出土品には、勾玉《まがたま》、管玉《くだたま》、切子玉《きりこだま》、臼玉《うすだま》及び小玉の類が、総計で六五〇個、そのほか青銅にメッキされた金環一九個等があります。副葬品の少ない山形県の古墳のなかにあっては、貴重なものといわれ、地方豪族の墳墓であると考えられます。
他にも清水前古墳、金原古墳及び鼠持《ねずみもち》古墳などがあります。
その高畠町では私たちはまず、高畠町教育委員会をたずねて、社会教育課長補佐の大河原通康氏に会っていろいろ聞くとともに、『高畠町の文化財』などをもらい受けた。もちろん、この『――文化財』にも羽山古墳のことが出ていたが、これにはさきの『まほろばの里/たかはた』にはなかった、加茂山洞窟古墳というのが紹介されていてこうある。
屋代川の北方、約五百米の地点、山頂に近い巨大凝灰岩の露出する自然の洞窟を利用した古墳である。狭い入口は南西に向けて開口し、洞内は六畳ほどの広さである。
被葬者と覚しい人骨が埋葬され、頭蓋骨は洞内西側に上向きにあり、その右肩に、太刀三振、小刀二振、東側に勾玉七個、耳飾り等が配置されていた。他に金鍍金の束巻、高坏、鉄鏃等が発見された。
付近の安久津、源福寺古墳と同時期、古墳時代末期のものと推定される。
これまた相当な出土品であるが、なお、同『高畠町の文化財』によると、金原《かなばら》古墳からも「金環・骨片・鉄鏃」などが出土している。それからまた、同書には日向洞窟をはじめとする縄文遺跡など、ほかにもいろいろなものが記載されているが、なかに「弘安六年大日板碑」という項があって、「この板碑は、もと竹森白鬚神社前の路傍にあったが、国道一一三号線工事の際現在地(階段中ごろ脇)に移されたものである」とある。
安久津八幡宮と三島神社
板碑はともかく、高畠町のそこにも新羅神の白鬚神社があったわけであるが、それはおいて、町教委からの私たちはついで安久津八幡宮をたずねることになった。その八幡宮のすぐ近くが高畠町郷土資料館となっていたので、そこからさきにみせてもらうことにした。
ちょうど入口のロビーにいた館長に名刺をだしてあいさつをしたところ、館長の山崎正氏は私の本など読んでくれていた人で、はなしは早かった。資料館の展示は例によって縄文時代、古墳時代となっていたが、その中心はやはり羽山古墳だった。
館内には羽山古墳の模型もあって、出土品の一部が展示されていたが、さきにみた写真にはなかった須恵器など、後期古墳のものとしては、よく焼きしまっていて、かなり古いものではないかと思われた。つまり、その須恵器はこの地でつくられたものではなく、人と共に移動してきたものではないかと思われたのである。
安久津八幡宮は入口近くの三重塔が、この地方唯一の木造層塔として知られていたが、その塔は三島池という池のなかに建っていた。そしてその向かいは、大山祇(積)神の三島神社となっていた。もしかすると、いまは小さなものとなっているその三島神社のほうが、八幡宮よりさきにあったものだったかも知れなかった。
というのは、八幡宮は「社伝によると源義家が前九年・後三年両役の戦勝を感謝し、鎌倉鶴岡八幡宮の分霊をまつり、東《あずま》八幡宮ともよばれ、霊代として甲冑を奉納して創建されたという」(前記『山形県の歴史散歩』)ものだったからである。
「前九年・後三年両役」は、十一世紀のことであるから、いわばそれでは、周囲の山の古墳とあわせてみると、少し新しすぎるのである。それはともかく、安久津八幡宮は広大な境内をもった神社で、社務所でもらった『安久津八幡宮』をみると、その「神域」がこうなっている。
境内は面積二万九千余坪、山頂まで境内地です。本社直後の山頂九合目は「奥の院」と称し、大巌石があってその中に洞窟があり、昔より当社別当の代替りには、登山、奉幣して天下泰平国家安全を祈るのが例でした。
山頂には十数基の観音像の台座の岩もあり、昔は登山参詣もありました。八幡山は南向にして山の形勢は八の字を成し、又八つの峰ありて老松古杉落葉樹繁茂、崇高なる霊山として古代人の築いた古墳が、本社を囲んで山麓に十数基、歴史を物語るあかしと成っています。
八幡宮境内の古墳群
私が安久津八幡宮でもっとも目をひかれたのは、境内の山のその古墳群だった。その山にまで登ってみることはできなかったが、さいわい下の境内に絵入の「案内略図」の掲示板がたっていて、その古墳群を一望することができた。八幡宮を囲んで「八の字を成し」た山腹・山麓には、いくつもの古墳が点々とつらなっている。
それをみて私はひとり、「うーむ、なるほど」と思ったものだった。というのは、私は以前から、共同体の首長などを葬った古墳と神社とは密接な関係があり、神社は、古代朝鮮・新羅の祖神廟から推して、その古墳の廟または拝所としてできたものと考えていたからである。
このことについては、私との対談で『地名の古代史』(河出書房新社刊)というのをつくっている民俗学者の谷川健一氏などもほぼ同意見で、氏はそのことをこう書いている。
私は日本各地の神社をたずねてあるくことを近来の仕事の一つとしているが、そこで気のつくことは、神社の境内に古墳が多いという事実である。神社は聖《せい》であり、墓地は穢《わい》であるという聖穢の観念にわざわいされて、神社の中に墓地があるのをかくしたがる神主や禰宜《ねぎ》もあり、なかなかその実情に触れたがらない。
だが、こうした観念自体が仏教の渡来普及以後のことであって、それ以前には死者と生者を隔離する聖穢の観念があったわけではない。一族の祖先や土地の豪族の埋葬地を礼拝するのは当然のことで、後代の神道家が忌避するようなものではまったくない。
神社の起源が古墳であるというのは、何も私の発見ではない。すでに江戸時代以来、多くの学者が指摘しているところである。(「神社は何に由来するか」)
なお、この項でちょっとふれた新羅神の白鬚神社のことに関してであるが、その後、高畠町郷土資料館長・山崎正氏がくれた手紙によると、「八幡宮西方、加茂山洞窟古墳、源福寺古墳付近に新羅明神という祠《ほこら》と古鳥居があり、町内にはもう一ヵ所、白鬚神社があります」とあって、それの写真まで添えられていた。
南陽から上山をへて
南陽市の遺跡と経筒
高畠町から南陽市、上山《かみのやま》市へとまわるつもりでいたが、もう日暮れ近くなっていたので、私たちはそろそろ山形市へ戻らなくてはならなかった。というのは、私はこの日の午後六時から、山形市内のあるところで開かれる「第十三回大沼教授を囲む会」というのに出席し、小講演をすることになっていた。大沼教授とは山形市出身の東京大教授の大沼保昭氏のことで、私はその大沼さんと知り合いだったのでそういうことになり、一日おくれて東京からくる高淳日さんともそこで落ち合うことになっていたのだった。そういうわけで、南陽市と上山市とは割愛、もしくは急ぎ足でとおりすぎなくてはならなかった。
「南陽《なんよう》市宮内は“東北の伊勢”といわれる熊野神社を中心に形成された町だ」と、前記『山形県の歴史散歩』にあるが、その熊野神社は、さきの福島県「高麗橋と熊野神社」の項でみているのでいいとしても、南陽市もまた高畠町のように古墳の多いところであった。山形県の『郷土資料事典』をみると、そのことがこう書かれている。
〈南陽〉市の歴史は古く、赤湯駅付近の長岡・金沢山の神などに残る縄文遺跡から、人類の足跡を約一万年以前までたどることができる。弥生時代をへて古墳時代の五〜六世紀になると、郡山(市内赤湯町)には郡衙がおかれ、県南部における政治・文化の中心地となった。今も二色根・赤石山・島貫・内原などには、数百基の古墳が残っている。……
見どころとしては、二色根薬師寺や長岡の稲荷森古墳(国指定史跡)、烏帽子山八幡神社・宮内熊野大社といった古社寺・旧跡があるほか、静養向きの赤湯温泉、赤湯に結城記念館がある。
「数百基の古墳」とはたいへんなものであるが、そのうちの中島平古墳からは腰帯の飾りである「帯《かたい》」金具が出土している。それにまた、南陽市では「経文」が残っていた珍しい経筒も発見されている。
一九八七年四月十七日の山形新聞は、「経筒から『経文』/発掘から九三年ぶり日の目/一七種、二五の文字を解読/県内二例目/朱書きで『法』『仏』……」という大見出しのもとに、そのことをこう報じている。
南陽市内の熊野大社裏で九十三年前に発掘された「経筒《きようづつ》」から、和紙に朱書きされた経文の紙片が見つかった。筒の底にくずごみ状になっていた遺物を、地元の郷土史家が調べ経文と分かったもので、「法」「仏」など漢字十七種二十五文字を解読した。経筒からの経文発見は、県内では五十二年の中山町に次いで二例目。専門家は、全国的にも数少なく、貴重な解明だ―と、関心を寄せている。
以上は長い記事のイントロ部であるが、さきの寒河江市でもみた経筒とはもちろん、青銅、金銅製などの筒に経典を入れて経塚に埋めたものであるが、東北にはまたこの経塚が多く、山形県内だけでも七十余ヵ所が発見されている。ついでにここでその埋経・経塚の源流についてみると、立正大教授の坂詰秀一氏は、そのことをこう書いている。
たしかに埋経思想の源流を中国に求めることは可能性としては認められるにしても、現在のところ彼地にて日本のような経塚の発見例はまったく知られていない。埋経の事実を確認するには、経塚の存在をもって具体的に認定することが必要である。
このような埋経の源流問題について、私は朝鮮半島の新羅統一時代にそれを求めたい、という一つの憶測をもっている。それは昨年の春、韓国の遺跡遺物を見学して歩いた折、ソウルの高麗大学校などに新羅統一時代の製作と考えられる紙本経埋納器としての青銅製円筒形式経筒の存在を知ったからである。このような経筒の存在は、経塚造営の事実を明示しているものであり、日本における紙本経埋納の初現例として有名な藤原道長の金峯山経塚造営時(一〇〇七年)より、二―三世紀さかのぼる時期に、すでに朝鮮半島では、経塚が造営されているという具体的な認識をえたのである。(「埋経の源流、朝鮮に探る」)
だいたい仏教自体からして、古代朝鮮から伝来したものであったから、経塚などにしてもそうであったにちがいない。ただ、それがどうして東北・山形にそんなに多いかということが、私にはいろいろな意味でおもしろい。
上山市の白鬚神社と観音寺
私たちは、南陽市を走り抜けるようにして、その東北方の上山市にはいった。上山では、前記『山形県の歴史散歩』に「〈羽前中山〉駅のすぐ南、小高い丘のうえに新田町の鎮守白鬚《しらひげ》神社があり、衣冠束帯の容姿を表現した木造彩色男神坐像をまつっている」とあるそれをみたいと思っていたが、何とそれは、クルマを走らせていた街道右手の丘のうえとなっていた。
クルマをとめて、さっそく、山形に多いどぼっとした石鳥居をくぐって石段を登ってみたが、神社は無人のそれとなっていた。できたら「衣冠束帯の容姿を表現した木造彩色男神坐像」をみせてもらいたかったが、無人では何ともしようがなかった。
もっとも無人でなくても、かんたんにはみせてもらえなかったかも知れなかったが、それはどちらにせよ、「白鬚明神は新羅神なるべし」(柳田国男「石神問答」)のその白鬚神社は高畠町につづけて、またみることができたということで引きさがるよりほかなかった。
さきの「寒河江をたずねて」の項でちょっとふれたように、山形県にも白鬚神社はじめ、新羅系神社の多いことを私が教えられたのは、上山市に住む斎藤清氏の手紙によってだった。私は上山市内にはいったところで、電話帳で斎藤氏の番号をしらべ、ちょっとあいさつをと思って電話をしたところ、市の文化財審議委員をしている氏は外出中とのことであった。
この日はもうおそくなっていたばかりか、しかも土曜日だったので、市の教育委員会をたずねてみることもできず、私たちはそのまま湯町というところへ向かった。前記『山形県の歴史散歩』にこうあったからである。
十日町舞鶴の湯上《ゆがみ》観音は上山観音ともいわれ、湯町にある。城下町の特色で道路が入りくんでいるが、バス停湯町角を西へはいったつきあたりに石段があり、そこをのぼれば正面に水岸山観音寺がある。一一〇九(天仁二)年道叔《どうしゆく》和尚が開山し、本尊の聖観世音は行基の作と伝え、小野篁《たかむら》の守り本尊だったという。
その観音寺は、住宅に囲まれたようになっている丘陵のはしの丘となっていた。石段を登って本堂まで歩み入ったところ、横の家からおかみさんがひとり出てきたので、「ご本尊は――」ときくと、「どうぞ、自由に上ってみてください」と気さくに言ってくれて、そのままどこかへ行ってしまった。
だが、本堂へ上ってみると、祭壇の向こうに金色に彩られた厨子があって、行基の作という本尊はそのなかに安置されているようだった。それにまで手をのばすには、高い祭壇を跨《また》がねばならなかったので、私たちは、そこまではと遠慮することにした。
ひとつは、それは「行基の作と伝え」とあるけれども、七四九年に入寂した行基在世中のものではないはずだからであった。こういうものは「作と伝え」というその伝承が大事で、それをみてああだ、こうだとする必要などないと思ったからでもある。
それはどちらにせよ、山形には行基にまつわる伝承が意外に多く、この行基については明日、山形市の出羽国分寺跡でまた出合うことになるので、そのときまた考えてみることにしたい。
「帰化人」から「渡来人」へ
私が山形市で小講演をすることになった「第十三回大沼教授を囲む会」には、世話人格である千代寿虎屋酒造社長の大沼保義氏はじめ、山形電子常任監査役の分田稔、東和製作所代表取締役の高橋弘明、山形県人事委員会の鈴木栄三氏ほかといった人々と、それに東京から来た高淳日さんを加えた二十人近くの人が集まっていた。
懇談会にうつるまでの小講演では、私はまず、「日本の中の朝鮮文化」という古代遺跡紀行を書きつづけていて、東北にまで来た経緯をかんたんに述べなくてはならなかった。で、私はいまから二十年前の一九七〇年に刊行した『日本の中の朝鮮文化』第一巻目の「まえがき」に書いたことを紹介することにしたが、それは次のようなものであった。
――もちろん、私はひとりの文学者ではあっても、けっして歴史学者といえるようなものではない。しかしながら、私は朝鮮と日本とのそれに関するかぎり、これまでの伝統的な日本の歴史学にたいして、ある疑問を持っていることも事実である。疑問というのは、一つはまず、日本古代史における朝鮮からのいわゆる「帰化人」というものについてである。端的にいえば、これまでの日本の歴史では、まだ「日本」という国もなかった弥生時代の稲作農耕とともに来たものであろうが、古墳時代に大挙して渡来した権力的豪族であろうが、これをすべて朝鮮を「征服」したことによってもたらされた「帰化人」としてしまっている。ここにまず一つの大きなウソがあって、今日なお根強いものがある日本人一般の朝鮮および朝鮮人にたいする偏見や蔑視のもととなっているばかりか、日本人はまたそのことによって自己をも腐蝕しているのである。
ところで私は、にもかかわらず、この「旅」にあたっては一貫して、それをあくまでもそのような「帰化人」としているこれら日本の歴史学者や、考古学者たちの研究にしたがってすることにした。うるさいほど引用がされているのもそのためで、これは「わが田に水を引くもの」とみられるのをおそれたからばかりではない。いわば、私のこの「旅」は日本の学者たちの研究にしたがって、それを手にして、この足で歩いてみたものにすぎないが、しかしじつをいうと、私はその遺跡がこれほどまでに広く詳細にわたって分布しているとは知らなかったのである。
そればかりか、私はこうして歩いてみてあらたに気がついたことは、では古代、これら朝鮮からの「帰化人」といわれるものたちがのこしたもののほかに、「日本の文化遺跡」はいったいどこにあるのか、ということだった。関東地方だけをとってみてもそうであったが、これはいったいどういうことを意味しているのであろうか。古代における朝鮮からのそれがどういうものであったか、われわれはもっとよく考えてみる必要があるのではないかと思う。われわれはそうすることによって、今日にある両国・両民族のすがたも、はじめてはっきりした主体的なものとすることができるにちがいない。――
要するに、古代におけるそのような渡来人を、「帰化人」とするのは事実的にも学問的にも誤りで、私はこの「まえがき」を書く以前から、それは「渡来人」とすべきだと主張していたのであるが、以来、二十余年、日本の歴史学もかなり変わってきた。いまでは「帰化人」ということばは、たいていの歴史書からばかりでなく、教科書などからもほとんど消えてなくなり、「渡来人」ということばになっている。
「東北文化」とは何か
そこで、東北であったが、これについて私は、さきにもちょっとふれた梅原猛氏が山形市でおこなった講演記録「東北の文化」や「日本の深層――山形紀行」などによりながら、話をすすめることにした。
そのまえに、梅原氏は、一九八四年十一月十三日の山陽新聞によると、岡山市で「楕円国家日本」とした講演をしていて、そこでこういうことを述べている。
だから日本を考える場合、まず〈狩猟採集民である〉土着の縄文人がいた。これは古モンゴロイドのタイプ。ところが、〈稲作農耕や鉄器などの〉文明を持った新モンゴロイドが入って来て、やがて土着人を支配して、大和朝廷の基礎をつくるようになる。これが日本の国の成り立ちだろう。この土着の最も典型はアイヌ人で、新モンゴロイドの典型的タイプは朝鮮〈渡来〉人ということになる。
〈 〉内は私による補足であるが、最近の人類学の成果をも踏まえた梅原氏のこれは、基本的なこととして、まったく正しいものと私は思っている。とくに先住・土着の縄文人をはっきりアイヌであるとしたことなど、どうしてか歴史学者や考古学者などのあまりいいたがらないことで、その点でも私は正しいと思っているが、しかし、その一方で氏が、「私の東北文化を縄文・蝦夷《え ぞ》文化と規定する正しさ」(「日本の深層――山形紀行」)などといっていることには、私は少し疑問を持たないわけにはゆかない。
なるほどたしかに、東北文化の深層には縄文・アイヌ文化がのこっている。たとえば、本稿はじめの「序・吉野ケ里遺跡」の項でみているように、やがて弥生時代となる縄文時代晩期の全国総人口は七万五千八百で、東北地方のそれは三万九千五百であった。
東北は総人口の半数以上を占めていたのであるから、その深層に「縄文・蝦夷文化」がのこっているというのはわかるように思う。なにしろ、弥生までの縄文時代は約八千年もつづいたのであるから当然である。
しかしながら、それだからといって、東北人のほとんどすべてをその「縄文・蝦夷」の子孫とすることはできないし、その文化を「東北文化」であるとすることもできないはずである。そのことは古代以来、中世にいたるまで、畿内のいわゆる中央政権がその縄文人・蝦夷をどうしてきたかをみれば、よくわかるというものである。
縄文人は日本先住の土着民であったにもかかわらず、「蝦夷」「夷狄」などという蔑称のレッテルをはられ、中央政権は帰服した者に対しても「俘囚」などと呼んで、それらを何度にもわたって「征伐」してきた。
ばかりか、「出羽国だった山形へ」の項にあるように、東北各地に「柵」などを設けて、以南・以西各地からたくさんの移民を投入したが、これもそれの征討要員を兼ねたものにほかならなかった。
その結果、どういうことになったか。ちょうど九州における縄文人(こちらの縄文晩期の人口は六千三百)であるクマソ・隼人がそういう征討にあって、生き残った者は琉球へ渡った(このことは梅原氏も書いている)のと同じように、東北のかれらは北海道へ渡って、今日のアイヌとなったのである。
そういうことがあったばかりか、だいたい東北には、狩猟採集の縄文人とは無縁だった、これこそは日本文化の基礎となった稲作農耕をはじめ、古墳、神社、寺院がどんなにたくさんあるか。古墳文化だけとってみても、さまざまな副葬品をもったいろいろな形式のそれが前期・中期・後期にわたって、いまわれわれの目の前にあるのである。
だいいち、いまさっきみてきたばかりの、高畠町のそれだけとってみても、そのことはわかるはずである。――と、私はそれまでみてきたもののいくつかをあげて、小講演をおわりとしたものだったが、それらはまだ、広い東北のほんの一部にすぎないものであった。
大之越古墳の環頭ほか
東北最大の円墳――菅沢二号墳
前日と同じホテルで第二夜をすごした私たちは、さて、どちらから先にまわったものかちょっと迷った。きょうからは高淳日さんもいっしょだったが、彼は前夜、私と細川さんと落ち合うより相当早く着いていたので、それまでに山形市門伝にある大之越《だいのこし》古墳をみてきていた。
環頭大刀を出土した大之越古墳は、きょうこれから是非たずねなくてはならないもののひとつとなっていたが、山形市も重要な古墳の多いところであった。たとえば、一九八六年六月二十七日の山形新聞をみると、「広がる歴史のロマン/山形の菅沢古墳/東北最大の円墳/発掘調査でベール脱ぐ」とした見出しの、こういう記事が出ている。
山形市の菅沢古墳二号墳は、五世紀後半に造られた、周溝が幅九メートルもある東北最大の円墳――。山形市教委が去年十月から実施していた発掘調査でその詳細が次第に明らかになった。来月五日、山形の古代ロマンを語る史跡の現地説明会を開く。
二号墳は、市の西部の、市街地を見下ろす丘陵地帯にある。昭和四十三年に発見され、四十八年、県指定史跡になった。当時から東北では最大規模の円墳と推定されていたが、前方後円墳という見方もあり、また造られた年代についても諸説があった。
市教委では柏倉亮吉山形大名誉教授、県立博物館の協力を得て、この山形のルーツを物語る史跡を復元、整備するために、形、大きさの正確な把握を中心に全面積の半分近くを発掘調査した。
その結果、丘の斜面に二段構造の直径約五十メートル、幅約九メートルの円墳であることが分かった。また窯を使って焼いたはにわと思われる土器の破片が多数、見つかったことから、古墳時代の中間期より少し前の四〇〇年代に造営された可能性が大きいことがわかった。
記事はまだつづいているけれども、未開の地といわれた出羽の山形にこういう古墳があったとは意味深いことであるが、しかし、そこからどういう副葬品が出土したかがまだわからないのが残念だった。で、その菅沢《すげさわ》古墳はまたの機会に、ということにして、私たちはまず、門伝の大之越古墳へ向かうことにした。
歴史のロマン――大之越古墳の発掘
門伝というところは、これも菅沢古墳のある山形市の西部となっていて、神体山といわれる富神山をあいだに、南から菅沢、門伝というふうに三角形をなしていた。当然、二つの古墳は無関係ではなかったものと思われたが、その門伝の道路ばたの小高い台地にあった大之越古墳は、きれいに復元された円墳となっていた。
神体山の尖り立った富神山がそこにそびえているのもなかなかよい光景で、古墳のかたわらには山形県教育委員会によるかなりくわしい説明板がたっていたが、しかし、この古墳については、『山形県史』の「第五章 古代社会の幕あけ」にある「四、大之越古墳の調査」をみたほうがいいと思うので、それをここに引くことにする。
昭和五十三年三月、山形市門伝の富神山東麓において農道工事中にブルドーザーが箱式石棺につき当った。これが後に話題をふりまくことになった「大之越古墳」発見の端緒となった。現地調査が行われた時には、すでに箱式石棺が半壊のまま道路の法《のり》面に露出し、刀剣をはじめとした銹びついた鉄製品が、その蓋石の上にあげられていた。
その後、山形県教育委員会では、この古墳の持つ重要性にかんがみ、周濠や外表施設をさぐるために、一時工事を中断して、四月初旬から五月中旬にかけて発掘調査を実施した。これによって意外な事実が判明したのである。
意外な事実――環頭大刀
さきにみた菅沢古墳二号墳のことを報じた新聞記事に、「広がる歴史のロマン」ということばがあったが、この大之越古墳の発掘調査こそまさに、その「歴史のロマン」ではなかったかと思う。こういう古墳の発掘にあたった人々は、ずっと胸の高鳴るのをおぼえていたにちがいない。その「意外な事実」とはどういうものであったか。
まず、所在地は山形盆地の西側の縁辺地で、付近は低い丘陵をなし、すぐ背後に富神山がそびえている、標高一五〇メートルの台地である。工事中に半壊のまま発見された一号棺は石英粗面岩をもって組み合わせた箱式石棺で、その内部からは環頭大刀、直刀、鉄剣、鉄鏃一六本、鉄斧、鉄鉗《かなはし》、刀子、冑の錣《しころ》と推定される鉄片、土師器坩《つぼ》が発見された。ところが、この一号墳棺を埋置した土壙を調査中に、これを切った形でもう一つの土壙が発見された。
これは長軸三七五センチ、短軸二三〇センチを測り、人頭大の川原石が密に埋めこまれていたが、その下より蓋石があらわれ、長さ二七五センチ、幅四〇〜五〇センチ、高さ五〇センチの長大な石棺が出土したのである。内部には防腐のためにベニガラや煤などが塗布されていた。そして石棺の蓋石の上から、剣菱型杏葉をはじめ、具《かこ》、遊環などの馬具が発見されたのである。……
本古墳のように多くの鉄製品が出土した例は、本県の古墳中初めてである。
環頭大刀は、長さ九五センチあり、単鳳式である。防銹処理に際して、内環と外環とに銀象嵌が施されていることが明らかになった。その周辺に金箔を押した痕跡がある。東北地方では単鳳環の出土例は、福島県を中心に七例知られているが、すべて金銅製であり、鳳首が細く、嘴の先が尖り、冠毛が後方にのびて外環と癒着し、雉子の頭のようなタイプをなしている。これらはほとんど六世紀後半以降の横穴石室よりの出土である。
大之越の単鳳環は、これらとは大いに異なり、鉄地に銀象嵌を施し、箔押ししたもので、鳳首は太く鈍重な感じで、頭頂よりのびた冠毛が外環にはめこまれている。さらに外環から茎部へ四センチのところに、柄頭と頭身とをそれぞれそぐようにして削りとり密着させて継いでいる。
継いだ部分の茎部の腹には銅線か銀を繁巻きした痕が認められる。刃区《はまち》は浅く斜めに切られ、目釘穴が明瞭に残る。刀部の断面は二等辺三角形を呈し、全体的にわずかに内反りの傾向を示している。この種の環頭大刀ではもっとも古いタイプに属し、また全国的にも北限の出土例である。
のちにみる青森県八戸市の丹後平《たんごだい》古墳群からも、この大之越古墳の発見・発掘から約十年後の一九八七年十月、「六世紀後半に朝鮮半島で作られた」という獅噛《しがみ》三累環頭大刀が出土しているが、大之越のはそれともまたちがったものだった。そういうことからみても、大之越古墳における単鳳環の出土はたいへん重要なことであった。
注目すべき鉄製品
ばかりか、ほとんどそれとはわからなかった小さな古墳の大之越からは、そのような環頭大刀だけでなく、注目すべき馬具などの鉄製品もたくさん出土しているのである。だいぶ『山形県史』からの引用が長くなったけれども、それらとも合わせてもう少しみることにしたい。
全長八一・九センチの直刀と、八四センチの鉄剣の柄元の部分に、白く鹿角製装具の痕跡が残されていた。鹿角製装具を付装した大刀や剣は、多く直弧文を刻出しているが、本例では付着した部分がわずかなので不明である。東北地方でも宮城県名取市経の塚古墳出土の直刀など数例に認められるが、五世紀代に畿内を中心に盛行したものである。
また、ここの鉄剣は異例の長大さをもち、東北地方出土例ではもっとも長い。長剣は五世紀後半より六世紀初頭の関東北部より東北南部の古墳から往々にして出土をみるが、特別な呪力をもった神聖な遺品だったのであろう。
鉄鉗は長さ一五・五センチのミニチュアであるが、製鉄や鍛冶の技術が存在したことを示す重要な遺物であり、鉄斧とともに布様のものに包みこまれていたらしく、繊維の痕が付着している。鉄鏃はすべて細根式の片刃箭で、刃の下端に逆刺《かえり》がつく。他に不明の鉄片や刀子、冑の錣の部分と思われる小鉄板が発見された。……
一号棺よりも二号棺は、より古く営まれたと思われるが、さして時期的なちがいはないようである。二号棺上より出土した剣菱型杏葉《ぎようよう》、具《かこ》、遊環、飾帯金具の類も注目に価し、東北地方では最古に属する馬具の出土例である。
二つの石棺は、近親者らしく、かつて愛用していた大刀や剣などの武器や工具とともに、盛装用の馬具等を供献していたのである。
それにしても、このように当時の第一級の宝器であった環頭大刀、鹿角装剣、馬具類をはじめ多くの鉄製品が出土したことは予想を越えたものであり、しかもそれらが畿内的様相をおびることは、国家統一の中枢であった近畿政権との直接的交流があったか、北関東から東北南部にかけての地域に有力な政治勢力が存在し、それらとの政治的関係があったかを示している。
出土した副葬品などから、本古墳は五世紀末ないし六世紀初頭の年代が推定されるが、五世紀代の山形盆地に、乗馬の風習を持ち、鍛冶を行い、重要な武器や生産用具である鉄製品を一手に掌握していた首長の存在がおしはかられるのである。
馬を馳せていた豪族とは
さて、まずおどろくべきことは、八世紀の七一二年に出羽国ができる三百年近くも前の五世紀に、山形盆地に馬を馳せていたそういう豪族がいたということである。それはいったいどういう者で、どこから来た者だったのであろうか。「重要な武器や生産用具である鉄製品を一手に掌握していた首長」であった者にちがいないであろうが、あとはその墳墓に副葬された、そのような鉄製品によって推しはかるよりほかない。
かんたんにいうと、それらの鉄製品はほとんどみな古代朝鮮の加耶(加羅ともいう。のち新羅に併合)か、新羅あたりでつくられたものである。まず、『万葉集』にいう「高麗剣」の環頭大刀であるが、これについて奈良県立橿原考古学研究所副所長の石野博信氏は、大和(奈良県)におけるそれの渡来コースをこう説明している。「朝鮮半島―北九州―瀬戸内海―紀州―大和」と。(一九七九年九月二十二日付け毎日新聞)
しかし、これは大和のばあいであって、山形における大之越古墳のそれは、どうも北陸・越後あたりの日本海岸からはいったものではないかと私は思う。別にこれといった証拠があるわけではなく、いまみた『山形県史』の筆者は「北関東」あたりから来たものではなかったかとしているが、あるいはもしかすると、そうだったかも知れない。
それはどちらにせよ同じようなもので、北関東の群馬県前橋市には、新羅製の金銅立花形王冠を出土した山王金冠塚古墳などがある。
そういう意味では、さきの「出羽国だった山形へ」の項でみた柏倉亮吉氏が、「山形市内の大之越古墳の構造は、朝鮮の新羅時代の古都・慶州にある皇吾里三十三号墳の手法と類似している」といっているのが示唆的である。
それから、大之越古墳出土の鉄製品のうち、もうひとつ注目されるのは、「東北地方では最古に属する」という杏葉、具などの馬具である。そういう馬具をつけた馬が五世紀の当時すでに山形盆地を疾駆していたわけだったのであるが、そのような馬具と馬のことなどについては、橿原考古学研究所主任学芸員・千賀久氏の「馬具」にこう書かれている。
日本出土の馬具は、初期の多くは朝鮮半島からもたらされたものであり、もちろん馬も同じようにして連れてこられている。その飼育係としての人々、そしてやがて馬具作りが盛んになると、その技術者すなわち金工・木工・皮革工などの技術をもった人々の渡来へとつながるのである。このように、馬具はその背景に多くの面での技術的進歩につながる要素を含んでいることも見逃せない。
国分寺跡と薬師堂
大之越古墳からの私たちは、こんどはそこからの出土品を実地にみることにして、山形市霞城《かじよう》町にある県立博物館をたずねた。博物館では細川さんがどういうふうに交渉したのか、とくに腕章をあたえられてカメラをつかうことも許された。
私たちはまっすぐ、古墳出土品の陳列棚に向かった。そこには大之越からのものばかりでなく、さきにみている高畠町の古墳から出た金環や、南陽市中島平古墳からの帯なども目の前にすることができたが、やはり圧巻は大之越古墳の環頭大刀であった。
五世紀、千五百年以前につくられた環頭のなかの鳳の目は、いまなお生き生きとした光を放っているようだった。環頭大刀そのものとしてはこれまでにもたくさんみているが、これは出羽国ができる三百年も以前のものということで、私は「うーん」と唸《うな》りたいようなものであった。
ついでこんどは、山形市薬師町にあった国分寺跡へ向かった。いまそこには国分寺薬師堂があって、桜の名所ともいう馬見ケ崎公園となっていたが、その国分寺跡と薬師堂とについては、前記『山形県の歴史散歩』にこうある。
もとの国分寺境内はひろく薬師町・円応寺町一帯だったという。国分寺は七四一(天平一三)年聖武天皇の命令で僧行基が建立し、その本尊は薬師瑠璃光《るりこう》如来。……一九一一(明治四四)年五月の大火で類焼し、一九一六(大正五)年地蔵町の宝幢《ほうどう》寺本堂をうつして薬師堂にあてた。……
摩訶迦羅山《まかからざん》宝幢寺(真言宗)は一八七〇(明治三)年神仏分離で廃絶され、そのあとは現在もみじ公園となっている。宝幢寺は行基が七三一(天平三)年に聖武天皇勅願所として出羽国最上郡滝平《たきひら》に草創したと伝えられ、最上氏をはじめ歴代城主の祈願所となり、寺領一三七〇石の名刹だった。
民衆仏教者・行基
ここでまた、これまでにも何度かみた行基と出合うことになったわけであるが、しかもこのばあいは、国分寺を建立したのが行基であるだけではなく、その本堂が国分寺薬師堂となった宝幢寺の開創も行基となっている。ほかにまた山形市北隣の天童市にあって、山形県の有名な民謡「花笠音頭」の「めでためでたの若松《わかまつ》さまよ」とうたわれる若松《じやくしよう》寺も行基が開創となっている。
このように山形など東北各地にまでその開創という寺院が多い行基とは、いったいどういう者だったのであろうか。私に行基の生涯を描いた長編『行基の時代』(朝日新聞社刊)というのがあるが、行基は、さきの山寺(立石寺)でみた平安時代の慈覚大師円仁とはちがい、奈良時代における、ことばの真の意味での社会主義者ともいうべき民衆仏教者であった。
行基は六六八年、百済から渡来した王仁《わに》系氏族の一つだった高志才智の子として、和泉国大鳥郡(いまの大阪府堺市)にあった母方の蜂田家で生まれた。いまもそこは家原寺となって残っているが、そしてかれは七四九年の天平勝宝元年に、大和の菅原寺で亡くなっている。
ここではそこまでをくわしくみることはできないが、その生涯と業績のことは、日本の正史である『続日本紀』の「評伝」をみるだけでもだいたいわかる。こうなっている。
二月二日、大僧正行基和尚遷化《せんげ》す。……俗姓は高志氏、和泉国の人なり。和尚は真粋天挺、徳範夙《はや》く彰《あらわ》れたり。初め出家せし時、瑜伽《ゆが》唯識論を読みて即ちその意を了《さと》りぬ。既にして都鄙《とひ》を周遊して衆生を教化す。道俗化《け》を慕い、追従する者動《やや》もすれば千を以て数う。行く処和尚来るを聞けば巷に人の居ることなく、争い来りて礼拝す。器に随いて誘導し、咸《ことごと》善に趣かしむ。又親《みずか》ら弟子等を率いて諸《もろもろ》の要害の処に橋を造り、陂《つつみ》を築かしむ。聞見《もんげん》の及ぶ所、皆来りて功《く》を加え、不日にして成りぬ。百姓今に至るまでその利を蒙れり。豊桜彦の〈聖武〉天皇甚だ敬重したまう。大僧正の位を授け、并《あわ》せて四百人の出家を施す。和尚霊異神験、類《たぐい》に触れて多し。時の人号《なづ》けて行基菩薩と曰《い》う。留止する処にみな道場を建つ。畿内には凡《およ》そ四十九院、諸道にも亦往往《またところどころ》に在り。弟子ら相継ぎて皆遺法を守り、今に至るまで住持す。
行基のつくった「四十九院」はいまも畿内(大阪府・奈良県・京都府)に残っているが、「諸道にも亦往往に在り」というのは、どこのどれかよくわかっていない。にもかかわらず、九州・四国から東北までの全国各地には、行基開創という寺院がたくさんある。
行基の畿内における活動・業績をたどってみると、とうてい九州や東北にまでは足をのばせなかったはずであるが、それはどういうことだったのであろうか。それを解くカギは、「道俗化《け》を慕い、追従する者動《やや》もすれば千を以て数う。……又親《みずか》ら弟子等を率いて諸《もろもろ》の要害の処に橋を造り、陂《つつみ》を築かしむ」というところにあるのではないかと思う。
というのは、行基の死後、その弟子が各地に散って、師であった「行基」を開創とした寺院をつくったからではなかったか、ということである。このことについては、これからもなおよく調べてみたいと思う。
鶴岡をへて城輪柵跡へ
山形県の山岳名に残る古代朝鮮
私たちは山形市から、十二時何分発かの長距離バスで、鶴岡市に向かうことになった。いまは国道一一二号線となっている六十里越街道をバスは走ったが、間もなく、そこはまだ山形市となっている江俣《えまた》となった。
江俣は古代集落跡として知られた嶋《しま》遺跡のあるところで、この遺跡からは土師器・須恵器・鋤《すき》・鍬《くわ》・田下駄・鞍・弓などのほか、多種類の植物種子が出土している。このような農業遺跡から鞍・弓の出土しているのがおもしろいところで、年代は七、八世紀というから、そこに住んだかれらもやはり、どこかからの移住集団だったにちがいない。
バスはやがて、最上川支流の寒河江川を渡った西川町辺から、深い山中を走ることになった。あたりはまだ残雪の見える標高一九八〇メートルの有名な月山をはじめ、湯殿山、姥ケ岳などの高山が立ち並び、目の前は急に深い霧でなにも見えなくなったかとみると、すぐにまた晴れわたった山中となったりした。
そうした山ということで思い出したが、山形大学病院の長岡英世氏の「山形県の山岳名にみる古代朝鮮の影響」をみると、こういうことが書かれている。
六世紀の初めには大和朝廷の影響が日本の各地におよんだとされているが、北陸から東北地方に中央政権の影響が出てくるのは、もっともっと後ではないかと考える。特に裏日本では、畿内と違うルートで新羅や高句麗からの人々が渡って来て、あちこちに独立した小国家をつくっていたのではないかと思う。それらは大和朝廷とは繋《つな》がりはなくとも、もとは同じ朝鮮からの渡来である畿内と同じ文化なので、東北に渡来人が来た時期を大和朝廷の影響がおよんだ時期と考えられているのではないか、と私は推測している。
私もそうではないかと思っているが、そして長岡氏は、「船形連峰には白鬚山・後白鬚山」があるということからはじめて、「奥羽山脈には新庄神室・最上神室・仙台神室山」などがあるといい、それら神室という名称のもとは古代朝鮮からきたものであると説明している。ただ、白鬚山は念のため地図をみると白髪山となっている。
しかしながら、北陸の氷見に住む古代史家・能坂利雄氏の『日本史の原像』をみると、そのことに関してこうある。「有史以前から越《こし》の国に南下してきた北方種族のもたらした『おしら』習俗は別稿で述べるとしても、南朝鮮から越前、加賀地方から北上した新羅の神は、古四王《こしのきみ》神、白髪《しらが》、白鬚《しらひげ》神の異称と共に土着性を加えていった」と。つまり、白髪も白鬚も、もとは同じ新羅神ということだったのである。
庄内の新羅系痕跡
鶴岡にバスが着いたのは午後二時ごろではなかったかと思うが、私たちはそこからまっすぐ致道《ちどう》博物館に向かった。そこで、平田町から来てくれる細川さんの友人の高橋多賀三氏と落ち合うことになっていたからであるが、いわゆる庄内地方の鶴岡は、私はこんどが二度目だった。この地域も早くから開けたところで、たとえば、一九八七年四月二十二日の庄内日報に、「古墳時代の土器発見/集落、日本海側の北限?/県教育庁/庄内二地区で文化財発掘調査」とした見出しの、こういう記事が出ている。
県教育庁文化課が実施する埋蔵文化財調査が鶴岡市の矢馳、清水新田両地区で始まった。埋蔵している文化遺産の保護に努める目的から、ほ場整備が予定されている地域をあらかじめ試掘し、文化財の有無を確認しての発掘調査で、両地区からは庄内地方では珍しい古墳時代の土器類が発見されている。……
本格的調査は、集中地点を絞り込んでからとなるが、すでに古墳時代後半期(五世紀)に朝鮮から伝来したとされる須恵器《すえき》と呼ばれる土器も出土しており、調査にあたる技師は「古墳時代の土器が庄内地方から出土するのは珍しく、まとまって発見されたという例は秋田県内でもないことから、当時の集落跡として日本海側の北限にあたる可能性を裏付ける貴重な埋蔵物かもしれない」と話し、埋蔵物の保存状態も良好ということで、調査が進むにつれ、どのような埋蔵物が出土してくるか注目されている。
それから、これは前回来たときに行ってみているが、鶴岡市三瀬《さんぜ》には県の自然環境保全地域となっている「気比の森」に気比神社があり、近くには京都府下丹後の由良神社、由良川を思わせる由良峠があって、その峠を越えた日本海岸に由良港がある。そしてこの由良の海上には周囲一キロほどの白山島があって、そこに白山神社がある。
前記『山形県の歴史散歩』に、「三瀬の気比神社は七一六(霊亀二)年丹後(京都府)真名井《まない》から移住した人びとが、越前(福井県)敦賀《つるが》気比神社の分霊をまつったものとされている。農業と武の神だ」とあるところからすると、近くの由良峠、由良港というのも、丹後から移住したかれらが命名したものだったにちがいない。
日本三景のひとつ天ノ橋立で知られる丹後の真名井には「元伊勢」という籠《この》神社があるが、その丹後は天日槍《あめのひぼこ》集団ともいわれる新羅系渡来人の集住地であった。敦賀の気比神宮の祭神も伊奢沙別《いささわけ》命となっている天日槍である。その集団の一派が日本海沿いに北上し、鶴岡にまでひろがって来ていたのである。
「モリ供養」
そういうこととこれとはどういう関係があるのか、はっきりとはわからないが、千歳栄氏の『ふるさと探訪』(五)をみると、鶴岡市清水に「三森山モリ供養」というのがある。「三森山は下清水、中清水、上清水の三集落の近くにある海抜一二〇メートルほどの山で、下の森、中の森、上の森からなる山である」とあって、要するに、そこでの「モリ供養」とは祖霊を祭る行事なのだった。
「家族や知人を伴った参詣者は供養の前後に、集落の見える山上の広場や休み小屋で持参した重箱などを開いて酒を飲み、食事をする。先祖の話などしながら祖霊と歓びを共にし、別れを惜しむのである」となっている。
私はこれを読みながら、故郷で秋になると、子どもの私なども参加させられた、山の中腹などにある墳墓詣でのことを思いだしたものだった。それを朝鮮では「時祀《シサ》」(墓前祭)といったが、いろいろな供物(酒や餅などの食べもの)を持って行って、さいごに一族みんなでそれを食べながら、そこの墳墓に葬られた「先祖の話など」するというのも、朝鮮のそれと同じだった。
そこで私は思うのであるが、「モリ」というのは朝鮮語の「頭」ということであるから、「三森山モリ供養」というのは、はじめはみな同族だった共同体の首長(頭)の供養ではなかったかということである。首長の墳墓・古墳と密接なものであった神社のあるところを「鎮守の森(杜)」といったのも、その「モリ」ということからきたものではなかったかと私は思っている。
鶴岡市の鶴岡公園にあった致道博物館では、そこに陳列されているさきにふれた矢馳《やばせ》、清水新田の集落跡から出土した須恵器などみて出ると、ちょうどそこへ飽海《あくみ》郡平田町役場の総務課地籍調査係となっている、細川さんとは高校・大学時代からの友人だった高橋多賀三さんがクルマを駆って来てくれた。私たちはさっそくそのクルマで、平田町の飛鳥神社へ向かった。
飛鳥神社から城輪柵跡へ
飛鳥神社は平地の森のなかにあって、かなり広い境内をもった神社だった。神社本庁編『神社名鑑』によると、「境内は七〇五〇坪、末社九社」で、「由緒沿革」は「大和国高市郡飛鳥神社よりの勧請で、平田郷の総鎮守」となっている。
私たちはその神社で、高橋さんから郷土史家の佐藤春吉氏を紹介されて、いろいろ聞いたりした。つまりは、百済・安耶《アヤ》系渡来人の集住地であった大和(奈良県)飛鳥(明日香)にある飛鳥《あすかに》坐《います》神社がそこへ勧請されたということがおもしろいところで、これについてはあとでまたふれることになるが、ついで私たちは、真っ平《たいら》な庄内平野の白い舗装道路を走って、そこは酒田市城輪《きのわ》となっている城輪柵跡に着いた。
「ほう、ここが出羽国府跡ともいわれる、あの城輪柵のあったところか」と私は目をみはるようにして、広大なその跡地を見まわしたものである。まず、和歌森太郎監修『日本史跡事典』(東国編)によってみると、その柵跡のことがこう書かれている。
山形県が日本海に面する地域を庄内《しようない》地方というが、そこは鳥海山、東南の出羽三山のたたなわりに囲まれたあくまでひろやかな平野地帯で、地味は山形県の母なる河最上《もがみ》川の豊流を受けて豊沃、その名も高い庄内米を産みだす日本有数の穀倉地帯である。
城輪柵跡はこの庄内平野の北部、最上川の北六キロほどの所、いま鶴岡とならぶ庄内地方の中心都市、港町酒田市の郊外にある。古代において東北経営の拠点として築かれたもので、山形県内の柵跡である。このため、結論的にはまだ明らかにされていないが、出羽柵跡とも考えられている所である。
もともと庄内地方は県内でもっとも早く拓《ひら》かれた地方で、大化改新から間もない七世紀なかばに阿倍比羅夫《あべのひらふ》の征討を経て和銅元年(七〇八)、越後国の北端に当たるこの地方を新たに出羽郡とし、その翌年七月蝦夷《えみし》を征するため諸国に令し、出羽柵に兵器を運送せしめたと『続日本紀』に記されている。ついで和銅五年に出羽郡は出羽国に発展昇格し、出羽柵は天平五年(七三三)十二月に秋田高清水岡(現・秋田市)に移されている。
そこで問題はそれまでの出羽柵の所在地であるが、初めは東田川郡三川町助川あたりと言われていたが、のち藤島町平形あたりの遺跡をこれに当てる説が有力となり、そしていまこれに加えて城輪柵跡を当てる説が出ているのである。
城輪柵は昭和六年の発掘によってその規模が判明したが、それによると、一辺が約七百二十メートルのほぼ正方形の地域の周りに、三十五センチ角《かく》の杉材の木柵を東西南方は二重に、北方は三重という形ではりめぐらしていた。土塁はなく、柵の高さは地上約三メートル余であったと推定されている。各辺にはそれぞれ円柱を用いた門が設けられ、柵の隅には角楼らしいものが造られていた。柵の内部からは大量の土師器《はじき》や須恵器が出土し、中心部では蓮華文《れんげもん》・唐草文の瓦が見つかった。
のち昭和三十九年、四十年の発掘調査によって、正殿跡・西殿跡・中門らしい楼門跡が発見されるなど、この柵跡は雄大な城柵跡または官衙《かんが》跡であることが認められたのである。これが出羽柵跡に比定されるゆえんである。
百済王族の東北経営
大事なことなのでちょっと長くなったが、なおまた、前記『山形県の歴史散歩』をみるとこうある。
「さらに昭和四八年の第七次調査では、正殿跡の北方から四棟の建物跡が発見された。この柵の性格については、出羽柵跡・国分寺跡・国府跡などの諸説があったが、宮城県多賀城T期の遺跡と類似することから、出羽国府跡と推定する説が有力となった」
かりに出羽柵跡ではなかったとしても、城輪柵跡は官衙跡、すなわち出羽国府跡であったことは確実のようである。すると、国府の長官・出羽守はどういう者だったのであろうか。そのことについては、山形大名誉教授・柏倉亮吉氏の「『金』を夢見て」(一)にこう書かれている。
それは、陸奥の金発見があって間もない天平宝字四年(七六〇)から始まって八世紀後半の半世紀に、百済の帰化人がつぎつぎに出羽国の次官や長官になって赴任している事である。すなわち天平宝字四年に百済王三忠が出羽介になり、三年後に出羽守に昇進したのが皮切りで、三年後には百済王文鏡、続いて百済王武鏡、百済王英孫、百済王聡哲、最後は弘仁三年(八一二)に百済王教俊―がそれぞれ出羽守に任ぜられている。
そして、さきにみた平田町の飛鳥神社は、六代にわたった百済王の「出羽守によって大和から勧請された伝承をもっている」というのであるが、ここにみられる百済王というのは、六六〇年に百済がほろびたためにやって来た百済王族のことである。そのかれらとしては、のち宮城県でみる「陸奥の金発見」で知られた陸奥守の百済王敬福が有名で、なかに尾張守となった百済王全福、備前守となった百済王南典ほかがいたけれども、いまみた百済王三忠以下のかれらはみな東北経営にあたらされていたのである。
いわば百済からの亡命者であったかれらは、それぞれ出羽守(国司)となって、ここでいったいどういうことをしたものだったのであろうか。「史蹟 城輪柵阯」とした標柱がある夕暮れの広大な平地のそこに立って、私はそんな感慨をおぼえたりもしたものであった。
古代秋田のあらまし
羽黒山の三神合祭殿
こちらも古代は出羽国だった秋田県となったが、山形県にしても、まだ行ってみたいところはたくさんあった。たとえば、三神合祭殿ということで知られる羽黒山や、「朝鮮百済国の人、了然《りようねん》法明が開山した曹洞宗の寺院」(山形県の『郷土資料事典』)玉川《ぎよくせん》寺などがある東田川郡羽黒町もそのひとつだった。
羽黒山は三十年ほどまえ、前出の矢作勝美、後藤直さんとともに一度登ったことがあった。しかしそのときはまだ、私はこういう紀行を書こうとは思っていなかったので、ただの観光のようなものでしかなかった。しかもそのときは杉並木の参道、二千四百四十六ある石段の坂道を、三神合祭殿のある山頂まで歩いて登ったので、それだけでもう「ふう、ふう」となってしまったという記憶ぐらいしかないが、いま、前記『山形県の歴史散歩』をみると、その三神合祭殿のことがこうある。
二の坂をすぎ、三の坂ものぼりきるといよいよ山頂。ここに三神合祭殿(県文化)がある。杉並木の参道をとおらずにバスを山頂で下車すれば五分ほどのところだ。この合祭殿には月山・湯殿山・羽黒山三神を合祭し、月山・湯殿山の代参場とされている。
この建物はカヤぶきでは全国有数の豪壮なものであり、カヤのあつさ二・一メートルもある。……合祭殿の正面前の鏡池《かがみいけ》から数百枚の鏡が出土し、うち一九〇枚が重文の指定をうけている。むかしからこの鏡池は神聖な場とされ、ながい期間にわたってこの池に鏡が奉納されていたものである。
合祭殿すぐ近くの建治《けんじ》の大鐘(重文)は鎌倉末期、文永年間(一三世紀)蒙古の大軍が来襲したとき敵軍撃退を祈願して奉納された、建治元(一二七五)年銘のもの。大きさでは東大寺・方広寺・高野山についでわが国第四位のものだ。
この鐘から山頂バス停留所寄りにある歴史博物館の近くに芭蕉の句碑がある。江戸末期に建てられたものだ。羽黒山の開山蜂子皇子の墓所も近くにある。東北地方唯一の皇族の墓である。
歴史博物館は昭和四五年に新築されたもので、羽黒山関係の文化財が展示されている。展示品のおもなものは、銅鏡(重文)、銅灯籠竿《ざお》(重文)、鉄製擬宝珠《ぎぼし》(県文化)、銅製狛犬《こまいぬ》(県文化)、芭蕉の天宥追悼句(県文化)、図司左吉宛芭蕉書簡(県文化)、この他、仏像をはじめ多くの重要美術品が展示されている。
ここにいう(重文)(県文化)とはいうまでもなく、国指定の重要文化財ということであり、県指定の文化財ということである。その重文の鏡が百九十枚も池のなかから出土したとはまずおどろくべきことであった。
三十年ほどまえに行ったときはまだなかった、歴史博物館をたずねてそれらの文化財もみたかったし、また、「ここの庭園は羽黒山五〇代別当天宥の作庭といわれ、様式は池泉回遊式蓬莱《ほうらい》庭園」(『山形県の歴史散歩』)のある了然法明開山の玉川寺へも行ってみたかったが、なにせそこまでは時間がなく、あきらめるよりほかなかった。
山海窯跡群の須恵器
それからまた、さきにみた飛鳥神社のある平田町や、城輪柵跡のあった酒田市にしてもまだいくつか行ってみられなかったものがある。平田町ではその後、高橋多賀三さんがつづけて送ってくれた、新刊の『山海窯跡群/第一次調査説明資料』をみると、山海窯跡群の近くにはさらにまた「泉谷地窯跡群・新溜窯跡・願瀬山窯跡・西沢窯跡・新沢B窯跡等多くの窯跡が確認されており」とある。
山海窯跡群の『―調査説明資料』にある写真だけみてもたくさんの破片とともに、なかなか見事な完形の須恵器が出土しているから、それらの窯跡を全部発掘調査したら、どういうことになるかと思われるほどである。
飛島の人骨
酒田市では、市の北西海上三十九キロのところにある飛島《とびしま》がおもしろいようだった。山形県唯一の島で面積二・三平方キロ、人口一千百五十の小さな島だったが、前記『山形県の歴史散歩』にこうある。
港から勝浦をへて海岸ぞいに中村から法木にでる途中に大宮神社(小物忌神社)がある。毎年七月一四日に、吹浦の大物忌神社のほうにむかって祭事を行ない、吹浦でも御浜出神事をして、夜に火合わせを行なう。五穀の神大物忌神と風神小物忌神をともにまつり、豊作と海上安全をいのるためはじめられたものだろう。……
勝浦から中村にでる途中にある自然洞穴をテキ穴という。由来はさだかでないが、「狄」をあてる説がある。住民はむかしから神秘なところとして近よらなかったが、昭和三九年に島の中学生三名が探検したところ、人骨や土師器片を発見した。その後の調査によって、人骨は九〜一〇世紀(平安時代)のものであり、乳児期から成人期の男二十余体あることがわかったが、なぜこの穴に残っていたか原因はあきらかでない。
館岩の石塁は港の南側に砂洲で島とつながった岩島のことだ。頂部が平坦になっており、石塁や土塁が残っている。北方アジア大陸系の築城形式とか、朝鮮式山城に似ているという説もあったが、たしかなところは今後の本格的な調査にまたなければならない。
そんな人骨がどうしてそこにあったかはわからないが、そこから弥生土器の後身ともいわれる土師器が発見されたということは、飛島にもずいぶん古くから人が住んでいたということではないかと思う。してみると、館岩の石塁や土塁はやはり、「北方アジア大陸系の築城形式」すなわち古代「朝鮮式山城」跡なのかもしれない。
それで私たちは、できたら飛島へ渡ってその石塁や土塁もみたいものと思ったが、しかしそこへ渡るには、酒田港から定期船で一時間半もかかるということだったので、これもそのままとするよりほかなかった。
秋田県の古代
さて、その山形県と同じ出羽国だった秋田県であるが、まず、秋田県の歴史散歩編集委員会編『秋田県の歴史散歩』(一九八九年十一月刊の新版)により、弥生時代から古代へかけての、その歴史をざっとみておくことにしたい。
数千年にわたって続いた縄文文化が終わり、弥生文化へと入っていく。弥生文化の特徴は水稲耕作にあるが、日本の場合も南の西北九州などではかなり早くから始まったと考えられているが、東北北半は積雪寒冷地帯であるほか、縄文文化の影響を強く持っていた人々が生活していたため、かなりおくれて伝わったと推定されていた。出土する土器片に籾痕のついたのが発見された例も、志藤沢《しどのさわ》遺跡(南秋田郡若美《わかみ》町)と新間《あらま》A遺跡(南秋田郡井川町)の二ヵ所と少なかった。
また、弥生時代の竪穴住居跡も、秋田県内では長いあいだ発見されていなかった。それが、一九八二年に若美町払戸《ふつと》の横長根《よこながね》A遺跡で、秋田県で初めて弥生時代の竪穴住居跡一軒、土壙《どこう》一〇基の遺構が確認され、しかもその住居跡の床面から炭化米が検出された。これによって、八郎潟西岸の湿地帯で稲づくりが行われていたのが実証された。また、一九八三年に山本郡八竜町鵜川《うかわ》大曲字家《いえ》の上《うえ》の地滑り対策工事の緊急遺跡発掘のときに出土した土器底破片からも、籾痕のほかに稲の稈《かん》などが見つかっている。なお、弥生時代の水田は、秋田県内では未確認である。
弥生時代が終わりをつげる頃になると、特定の権力を持った個人が、埋葬施設として古墳を築造するようになった。秋田県の場合は、埋没家屋の遺跡として広く知られている男鹿市脇本の小谷地《こやじ》遺跡から、一九八一年の発掘調査のときに、県内ではまったく不明であった古墳時代の遺構と遺物が発見された。出土した土師器《はじき》は県内のどこでも発見されていない、貴重なものであった。
同時代の竪穴住居跡は、オホン清水北遺跡(横手市)や沼田遺跡(由利郡西目町)でも発見された。古墳時代中期の遺物である子持勾玉《こもちまがたま》が由利郡西目町井岡で出土しており、古墳時代の古墳の存在を裏付けるものとして注目されているが、「古墳時代の遺物の存在する場所は、弥生時代にも近くに遺跡がある所で、当然、稲づくりを中心とした生活があったと推定されるが、この時代についての情報が少なく、まだ不明な点が多い」(『図説秋田県の歴史』)ため、今後の発掘や研究がまたれる。
しかし、豊かな自然に囲まれながら、狩猟・漁撈《ぎよろう》・採取などを主体とした生活をおそくまで続けたことによって、農業生産から生じる階層分化がおくれると同時に、内部からの政治的社会の成立もおくれる結果となったと考えられる。だからといって人間的な品性や生活などが大きくおくれていた訳ではなかったが、国家統一を進めていく大和朝廷からみると、独立している集団に見えたことだろう。
秋田県を含めた北部の三県は、蝦夷《えみし》の地と呼ばれ、未開の地域とされていたが、この場合の蝦夷は以前は蝦夷=アイヌ説がとなえられていた。しかし、最近では、大和朝廷に臣隷しない方民《ほうみん》をさしている、という説が有力になっている。だが、大和朝廷に組み入れられるのがおそかった日本海側にも、しだいに征服の手がのびてきた。六四七(大化三)年に渟足柵《ぬたりのさく》(新潟市沼垂《ぬたり》)、翌六四八(大化四)年には磐舟柵《いわふねのさく》(新潟県村上市岩船)がつくられたが、これらを足場としながら阿倍《あべの》比羅夫《ひらふ》の遠征が行われた。……
蝦夷=臣隷しない方民?
ここでちょっと、異議をさしはさむことにする。どういうことかというと、「しかし……狩猟・漁撈《ぎよろう》・採取などを主体とした生活をおそくまで続けたことによって、農業生産から生じる階層分化がおくれると同時に……」とは、少しおかしいのではないかということである。というのは、これまでもみてきたように、「狩猟・漁撈・採取」というのは縄文時代人のものであり、「農業生産から生じる」うんぬんは弥生時代人のもので、これはそれぞれ異質の文化だったからである。
弥生につづく古墳文化にしても同様で、それはどちらも新たに外からはいって来たものにほかならなかった。いまでこそそれも東北文化一般となっているが、はじめは異なったものだったのである。
それにまた、「この場合の蝦夷は以前は蝦夷=アイヌ説がとなえられていた。しかし、最近では、大和朝廷に臣隷しない方民《ほうみん》をさしている、という説が有力になっている」とは、私などはじめて接する説であるが、これなどは少しでなく、大いにおかしいのではないかと思う。「大和朝廷に臣隷しない方民《ほうみん》」とは臣隷しなかった「地方民」ということなのであろうが、そういう地方民は「蝦夷」のほかにもたくさんいたばかりでなく、これなど、いわゆる皇国史観、大和朝廷絶対史観から出たものにほかならない。
だいたい、「蝦夷」とはその大和朝廷の側がつけた蔑称であって、それは、これまでもみてきたように、日本原住の縄文人=アイヌのことなのである。それを「大和朝廷に臣隷しない方民《ほうみん》」などとは、とりようによってはいっそう侮蔑的で、ひところ問題となった「単一民族」ということの補強にほかならないのである。
延々とつづいた征服者と原住民との抗争
そのことについてはまたのちにみるとして、ここでは、さきの引用をもう少しつづけることにしたい。
また、七一二(和銅五)年になると出羽国《でわのくに》が置かれるが、その中心となった出羽柵は、山形県の最上《もがみ》川河口あたりにあったらしい。七三三(天平五)年には、今の秋田市の高清水に移され、のちに秋田城と呼ばれるようになった。さらに内陸部をみると、雄勝《おがち》柵などが設けられるなど、開発と同化策がつぎつぎととられたが、こうして律令国家が強力に北方開拓を進めてくればくるほど、逆に反撃や抵抗も強くなった。
平和に暮らしていた地域に、開拓と称して征服者たちがどかどかと入り込み、横暴な行為をくり返すものだから、在地の住民たちが抵抗するのも当然であった。七七四(宝亀五)年に陸奥と出羽の両国で起こった大反乱は、約二〇年後に坂上田村麻呂《さかのうえのたむらまろ》や文室綿麻呂《ふんやのわたまろ》らが来て、ようやく終わらせている。また、八七八(元慶二)年に起きた元慶《がんぎよう》の乱では、秋田城まで襲われているし、九三九(天慶二)年に起きた天慶の乱のときも、秋田城の官舎などが焼き払われている。このほかにもいくつかの反乱があったと記録されているが、在地の住民側からすると征服に対する反撃であった。……
朝廷軍の北の地に対する支配力は、これまでのたび重なる鎮圧にもかかわらず、それほど強力なものではなかった。そのため、蜂起がくり返されるたびに同族的なつながりを強めるようになり、そのなかから知恵と力のある人が、豪族として成長していった。出羽国の豪族のなかでも特に大きいのが、一一世紀頃から姿をあらわしてくる清原《きよはら》氏である。清原氏は雄勝・平鹿・山本の三郡を支配し、現在の横手付近に根拠地を置いた。
そういうことで、東北では十一世紀前後になっても十二年間もつづいたいわゆる「前九年の役」「後三年の役」などがあったことは、よく知られているとおりである。さきに私は、「出羽国だった山形へ」の項のはじめに、「陸奥と同じように出羽も『はじめ蝦夷の地であった』(高柳光寿・竹内理三編『日本史辞典』)から、古代は、原住民である蝦夷・エミシとの抗争に明けくれたところだったといっても過言ではない」と書いたが、それにしても、ずいぶん長いあいだつづいたものだと思わないではいられない。
その出羽国だった秋田へ向かって私たちが東京・上野をたったのは、一九九〇年八月二十五日であった。こんどもまた友人の建築家・細川和紀さんがいっしょだった。
田沢湖・大曲・十文字
田沢湖とニワトリ
私たちは新幹線で岩手県の盛岡まで行き、午後一時すぎにそこから田沢湖線に乗りかえて、秋田県の田沢湖へ向かった。なぜ、観光地として知られている田沢湖だったかというと、一九七九年九月二十八日号の『週刊朝日』の「シリーズ・ニワトリ」(3)に、こういうことが書かれていたからである。
要するに、日本各地には鶏《にわとり》も卵も食べないところがあるということだが、これはさきの「にわとり権現とからむし」の項でも引いているので、ここでは田沢湖にかかわるそれだけみるとこうなっている。
また、秋田県仙北郡田沢湖村の玉川地区では、長くニワトリが神聖視され、
「卵の話をしても、ニワトリの夢を見ても罰が当たる」
とさえいい伝えられていたが、今年三月、ダム建設のため、全村廃村となってしまった。
「廃村」といっても、そこに住んでいた人がみないなくなったわけではなく、いまは周辺の生保内《おぼない》などといっしょになって田沢湖町となっている。私たちはその田沢湖駅で列車をおり、駅前にいたタクシーに乗って湖の田沢湖まで行ってみることにした。
運転士さんの名札をみると田口とあったので、「田口さん」と呼びかけて私はこうきいてみた。「田沢湖村では鶏や卵を食べなかったそうですが、いまはどうですか」
「ええ、むかしはみなさん食わなかったと聞いていますが――」
「すると、いまは食っているということですか」
「ええ、まあ」
それは当然といえば、当然のことであった。なにしろ、さきの「にわとり権現とからむし」の項で書いたように、一時は国号まで「鶏林」としたほど鶏を神聖視した古代朝鮮・新羅の古都だった慶州でさえ、いまはそれをいくらでも食っているのだから。
私たちは田沢湖への、または田沢湖からの「門」のようにしてたっているみごとな赤い鳥居が見えたところでタクシーをとめた。振り返ってみると、山裾のそこに御座石《ござのいし》神社があって、朝鮮にもよくある湖の竜神信仰からできたもののようだった。掲示板に「湖主竜神」などとあるのがおもしろい。
神社前のそこに立って、私たちは紺碧《こんぺき》の湖をしばらくながめたものであるが、田沢湖は周囲二十キロ、水深四百二十三・五メートルという、日本一の深さをもった湖であった。湖上にはなにも見えなかったからか、何となく神秘的で、いろいろな伝説が生まれそうな湖と思われたが、田沢湖村で鶏が神聖視されたのも、ここではその湖と結びつけられていた。
三湖生成伝説
しかもそれは田沢湖ばかりでなく、秋田では「三湖伝説」といわれて、ひじょうに広汎な地域にわたるものとなっていた。前記『秋田県の歴史散歩』(旧版)「姥御前《うばごぜん》神社と三湖《さんこ》伝説」の項をみると、こちら山本郡八竜《はちりゆう》町芦崎ではいまも鶏を食べないそうで、そのことがこうある。
姥御前神社のある八竜町芦崎では、いまでもニワトリを飼養しないばかりか、卵にいたるまで決して口にしない。このしきたりを破って口にしたり、ニワトリを飼養したりすると、神罰が当たると伝わっているが、このしきたりが生まれたのは“三湖伝説”からである。秋田にある十和田湖・八郎潟・田沢湖の三湖を舞台に繰りひろげられる三湖伝説は、日本の伝説のなかでもスケールの大きな話のひとつで、ロマンにあふれている。
おおむかしのこと、鹿角の里に八郎太郎という若者がいた。ある年、友だち三人と十和田山へ働きに出て、その日は太郎が飯の支度をする番にあたっていた。小川へ水を汲みに行くと、イワナが泳いでいたのを三匹とらえて帰ると、味噌《みそ》をつけて焼いた。あまりにもいい匂いがするので一ぴき食べたがやめられず、三匹とも食べてしまった。すると急にのどがかわき、三三昼夜にわたって水を飲みつづけて、とうとう大蛇になり、そこに大きな湖をつくって住みついた。それがいまの十和田湖だという。
それから長い年月がすぎたあと、鉄の草鞋《わらじ》をはいた南祖坊《なんそぼう》という僧が十和田湖のほとりにやってきた。鉄の草鞋が切れたところがお前の住む場所だと、紀州熊野の権現堂に告げられてきた草鞋の緒が切れたので、十和田湖に住みつこうとして、主の八郎太郎と争いがはじまった。戦いは何年にもわたってつづけられたが、ついに太郎が敗けて十和田湖を後にすると、山本郡と北秋田郡の境を止めて湖をつくり、そこに住みついた。
ところが、太郎に住みつかれたので近くの神々たちは困りはてて、太郎を海に追い出すことになった。ネズミたちを集めて七座の土手に穴をあけると、大洪水とともに太郎は米代川に押し流され、山本郡琴丘町鹿渡の天瀬川に流れついた。そこで太郎は、親切な老翁と老婆の住む家に泊めてもらったが、その夜中に恩荷《おが》島を陸につないで大きな湖をつくることを神に祈願し、お告げを得ることができた。
夜中に太郎は、世話になったふたりに、「ニワトリが鳴く声を合図に大地震が起きて大洪水になる」と知らせて、ふたりを立ち退かせた。ところが、老婆が忘れものの麻糸をとりに家にもどったとたん、暁のニワトリの声がして、大地が鳴動して湖となった。洪水に流されておぼれそうになった老婆を、八郎は足でけって芦崎に上げたが、老翁は残ったのでふたりは別れてしまった。のち老婆は姥御前として芦崎に祀られたし、老翁は対岸の三倉鼻《みくらはな》に夫権現宮として祀られたが、ニワトリの合図で別れ別れになったので、ニワトリが嫌われるようになったのだという。
だいぶ長くなったが、これをみてまずわかることは、「三湖伝説」とは三湖生成伝説だったということである。前記『秋田県の歴史散歩』の「新版」では、「こうして芦崎では、ニワトリを忌み嫌うようになったという(これには異説もある)」となっているが、だいいち、それで、「ニワトリを忌み嫌うようになったという」それがどうして「神聖視され」(前記『週刊朝日』)、「飼養したりすると、神罰が当たる」ことになったのであろうか。
「(これには異説もある)」というその異説を私は知らないが、何であれ、ニワトリは忌み嫌われたのではなく、やはり神聖視されていたのではなかったかと思う。ついでにいうと、のちにみるように、青森との県境となっている白神《しらかみ》山地につづく白地山麓、すなわち十和田湖のあたりは、そのニワトリを神聖視していた新羅系渡来人が展開していたところであった。
角館に立ち寄る
この日の私たちは大曲《おおまがり》市で一泊することになっていたのだが、まだ少し時間があったので、大曲での花火競技大会に向かう人々で混んでいる列車を角館《かくのだて》でおりた。「秋田の小京都」といわれる町だったからであるが、江戸時代に常陸(茨城県)から移った新羅三郎義光の子孫という秋田藩主の佐竹義宣《さたけよしのぶ》が、弟の芦名義勝に分けた支藩となっていたところだった。
それでかいまも武家屋敷が残っていて、枝垂桜《しだれざくら》や老樹の茂る町筋を風情あるものにしていた。しかしそれ以上、私たちがたずね歩いている古代文化遺跡としては七一七年の開基という、大威徳《だいいとく》山の中腹に、秘仏の大威徳夜叉明王像をもつ大威徳明王神社があるくらいで、別にこれといってみるものはなかった。私たちはタクシーで町をひとまわりしただけで、そのまま角館駅に戻った。
大曲の花火競技大会
そしてまた列車に乗ったが、なかは大曲の花火競技大会に向かう人々がますますふえて、混雑をきわめていた。私たちは立ち詰めのままで、ようやく大曲駅に着いた。駅前も臨時列車で着いた人々をまじえてごった返していたが、実をいうと、私たちもその人々と同じく、花火競技大会をみるためそこにおり立ったものだった。
私は大曲にそんな花火競技大会などがあるとは知らなかったが、どうしてそうなったかというと、こういうことからだった。私たちの溜まり場となっている東京・新宿のある飲み屋で、私と細川さんがこんどの秋田行きについて打ち合わせることになり、私が、「新幹線で盛岡まで行き、そこから田沢湖まわりで、ということにしたい」と言ったところ、「それならですね」と、細川さんといっしょだった辻一弥さんが横から言った。「八月二十五日は、大曲で全国花火競技大会がありますから、それをみてこの日は大曲泊まりということにしませんか」
さきにも一度会ったことのある辻さんは、細川さんと同じ建築家で仙台市に住んでいたが、生まれは秋田の大曲市だとのことだった。そして毎年、花火競技大会があるときは、一家をあげて帰郷することにしているという。
私は、東京でも隅田川や多摩川でそんな花火大会があることは知っていたけれども、まだ、まとまった形でそれをみたことはなかった。で、それを一度みるのもいいと思ったわけだったのであるが、ちなみに、秋田県の『郷土資料事典』を開いて大曲市をみると、その「花火大会」のことがこうある。
花火大会は毎年八月第四土曜に行なわれるもので、雄物川べりで全国の花火師が集まって腕を競う。明治四三年以来続けられている伝統行事で、全国随一の規模といわれている。当夜は、川面に屋形船が出て、民謡・手踊り・はやしなども演じられる。また当日は各地からの団体バスが繰り込み、臨時列車も仕立てられて、最高のにぎわいをみせる。
細川さんが電話をして、大曲駅前に立っていると、間もなく東京・新宿で会った辻一弥さんがクルマをもって来てくれた。私たちはそのクルマで、県議会議員をしている辻さんの叔父の辻久男氏がやっとのことで一室とってくれたという、パーク姫神という宿に荷物をおいて一休みした。
そして暗くなりはじめたところで、私たちはこんどは歩いてたくさんの人々にもまれながら、花火競技大会の会場となっている雄物川《おものがわ》河畔についた。さいわい私たちは辻さんの一家がとっていた桟敷に坐って、一家の人たちとともにその競技大会をみることができた。
「第六四回全国花火競技大会/大曲の花火」としたプログラムをもらってみると、それは東京都・愛知県などの各地からばかりでなく、アメリカ・オーストラリアなどの各国が参加する国際的な競技大会でもあった。そして、観衆は大曲市全人口の約十倍という四十万。
私はもちろん、そんな夜空に描きだされる「火の光と音の芸術」ともいうべき大がかりな花火競技大会を目の前にしたのは、これがはじめてだった。ドーンという音がするたびに、私はただ目をみはって「ふーむ」と嘆息するばかりだったが、翌二十六日の秋田魁新報をみると、華麗なカラー写真とともに、その模様のことがこうなっている。
午後五時、大会開始を告げる号砲とともに昼花火がスタート。七色の煙が夕空を彩り大会の幕を開けた。
続いて〈大曲市で開かれる〉「世界の花火師会議」に出席する七ヵ国のうちアメリカ、オーストラリア、フランス、台湾、韓国、中国の六ヵ国の花火師が自国の花火を披露し、大会に彩りを添えた。
午後六時五十分、佐藤勲大会実行委員長の大会宣言に続き、十号割物二発、創造花火一組(大曲市・大曲火工新山煙火店)が標準玉として上げられ、メーンの夜花火が始まった。
花火は絶妙のタイミングで次々に打ち上げられた。赤、青、黄など色とりどりの光の大輪が開き、姫神山をバックにした夜空を彩った。また大玉、小玉を組み合わせた速射や、スケールの大きい八号玉の早打ちなど、技術を駆使して趣向を凝らした創造花火が次々に上がり、観衆からは拍手と歓声が沸いた。
十文字町の今木神社
いわば、そんな花火大会をみることができたのは、私たちの旅の余禄というべきものであった。翌日からはこれまでと同じ旅をつづけることになり、まず、大曲あたりをみたところ、大曲市には高畑古四王《たかばたけこしおう》神社があるだけで、ほかにこれといったものはないようだった。
それから大曲市東隣の仙北町に、秋田大教授・新野直吉氏の『出羽の国』によると、「岩手県胆沢《いさわ》城と秋田城の中間に位置して、平安時代の名将坂上田村麻呂によって築かれたものとみられ、奈良時代、雄勝城が出羽での開発中心拠点として果した同じ役割を担っていたであろう」という払田《ほつた》柵跡があったが、しかし、これもさきの山形でみている城輪柵跡と同じようなもので、わざわざ行ってみるまでのことはなかった。
そこで私たちは、大曲市南方の十文字町あたりから、その西方となっている日本海側の象潟《きさかた》へ、ということにして大曲駅まで行ったところ、奥羽本線の列車に乗るためには、一時間以上も待たなくてはならなかった。それではならじというわけで、私たちはそこからタクシーを走らせることにした。
タクシーは国道一三号線を南下し、「かまくら」で知られる横手市にはいった。この日が日曜でなかったら、市の教育委員会へちょっと寄ってみたいところだった。というのは、奥羽本線・横手駅の一つ手まえに「後三年」という駅があることからもわかるように、ここはいわゆる「後三年の役」が戦われたところとして有名だった。
「後三年の役」では、源義家の実弟である新羅三郎義光も兄の義家をたすけて活躍したものだった。そしてのち、ここは江戸時代になると、義光の子孫である秋田藩主・佐竹義宣の領地となり、支城としての横手城が築かれたのであった。
その横手をすぎると、間もなく平鹿《ひらか》郡十文字町となった。なぜそこをたずねたかというと、前記『秋田県の歴史散歩』にこうあったからである。「十文字新田(開拓のまち)」とした項だったが、しかし、この新田開拓というのは十九世紀はじめの江戸時代のことで、ここはそれよりずっと以前の古代から、すでに開拓者たちがはいっていたところであった。そのことが、同項にもこう書かれている。
栄昌寺《えいしようじ》(十字路から浅舞方面へ二〇〇メートル)墓地に、茶屋伊太良、開発者の長瀬三右衛門ほか三人碑、飴屋与市の碑とともに猩猩碑《しようじようひ》があり、新田開発の進展と町の性格を物語っている。しかし、ここから少し離れると古い歴史の歩みが表われてくる。
十字路から北へ(浅舞方面)バス停学校通りで下車すると、今木《いまき》神社(三重宝竜堂)がある。縁起に大同年間(八〇六〜九)の草創で〈坂上〉田村麻呂が詣でたとあり、“後三年の役”には〈源〉義家軍に味方した当地農民が民衆予備米を献じたため、義家の参拝があったと伝えられている。この神社から西北は広々とした田園が果てしなく広がっている。
まさに果てしなく広がった田園地帯で、そこにある今木神社は稲が穂を垂れはじめた水田のなかに、ただそれだけとり残されたような形となっていたが、それが「今木」神社であることに私は注目しないわけにゆかなかった。それは百済・安耶《アヤ》系渡来人集団である今来《いまき》(木)、すなわちあとから来た新来の漢《あや》氏族が集住した飛鳥のある大和(奈良県)高市郡が、もとは今来郡だった、そこの「今来神」を祭ったものではないかと思われたからである。
しかもその今木神社へ、坂上田村麻呂が「詣でた」というのもおもしろいことであった。というのは、田村麻呂も大和高市郡の漢氏族の首長だった阿智《あちの》使主《お み》から出たもので、そのことが『坂上系図』にこうある。
時に阿智王、奏して今来郡を建つ。後に改めて高市郡と号す。しかるに人衆巨多にして居地隘狭なり。更に諸国に分置す。摂津・三河・近江・播磨・阿波等の漢人《あやひとの》村主《すぐり》これなり。
今来神を祭った神社は関東にもいくつかあるが、出羽の十文字町に今木神社を祭った者たちも、「居地隘狭」のため押しだされて来たものだったのであろうか。そうだったとすると、江戸時代にそこへはいった開拓者たちは、さらにまたその後の「今来」ということになるであろう。
象潟の金さんほか
柏原古墳群と三輪神社
十文字町から私たちはさらにちょっと南下し、その西方の雄勝郡羽後《うご》町にいたった。そして私たちは、日曜日でしんとしずまっている町役場前の食堂にはいっておそくなった昼食をとったが、羽後町には同じ境内に二つならんでいた三輪神社・須賀神社があるほかは、これといってみられるものはないようだった。
ひとつは役場の教育委員会が休みだったからでもあるが、しかしそうだったけれども、一九八六年十一月二十八日の秋田魁新報をみると、秋田県としては二十四ヵ所目という古墳群が発見されている。柏原古墳群がそれで、「県内最大規模の古墳群発見/羽後町/三七基の円墳を確認/雄勝城との関係も調査」とした見出しのもとに、そのことがこうある。
雄勝郡羽後町大久保字柏原の古代遺跡から、八世紀中ごろ(奈良時代)のものとみられる三十七基の古墳跡が発掘された。県内で見つかった古墳群としては、これまで最大とされていた平鹿郡雄物川町造山の蝦夷《え ぞ》塚古墳群の十三基をはるかに上回る規模。同町教委が昨年度からの継続調査で確認したもので「柏原古墳群」と命名した。
現在、この時代に築城され、その場所が解明されていない雄勝城との関係も調べているが、この古墳群の近くにあったのでは―との見方も強めている。これからの調査結果を、本年度中に県教委を通じて文化庁に報告する。……
古墳群のほか、深さ一・五〜二メートルの食物地下貯蔵庫「フラスコ状ピット」四十基余り、鞘《さや》に入ったまま腐食気味の太刀(長さ六二・五センチ)、破片状の刀子《とうす》(三七センチ)各一振り、それに土器片、鉄製矢じり、斧《おの》、鋤《すき》先、鉄器片などが多数見つかった。
土器片の中には、土師器《はじき》という種類が多くあった。これは、粘土をヒモ状の輪にし、それを重ねて作った土器。八世紀中ごろの独特の手法で、これが時代設定の決め手になった。人骨は出なかった。酸性土壌で腐食の進行が早いためらしい。……
この県内最大規模の古墳群の発見で、注目されるのが雄勝城との関係。雄勝城は、多賀城(宮城県)と秋田城との連絡の要点。北羽内陸部の開発と蝦夷宣撫《せんぶ》の拠点として、天平宝字二年(七五八)から翌年にかけて築城されたことは『続日本紀』などの文献で明らかにされているが、その場所については諸説があっていまだに解明されていない。
築城場所は柏原古墳群の近く―とする根拠として〈町教委社会教育課〉鈴木係長は▽年代的に一致する▽三十七基もの古墳群は、近くに何代にもわたって権力者が住んでいたことを示す▽柏原古墳群から二キロ足らずの三輪地区に、奈良時代初期に建てられ、国の重要文化財建造物に指定されている三輪神社本殿、約十キロの位置には雄物川町の蝦夷塚古墳群があり、この一帯のどこかに大集落があった―などの点を挙げている。
一九八六年というといまから五年前のことで、なかなか重要な古墳群が発見されたものであった。ここにいう本殿が重要文化財となっている三輪神社はもちろん、背後の三輪山を神体とする大和の大神《おおみわ》神社の氏人たちが、そこへ移り住んで勧請したものにちがいなかった。祭神が同じ大物〈国〉主神となっていることからもそれはわかる。
その三輪神社と同じ境内にならんでいる、これも本殿が重文の須賀神社の祭神は須佐男命で、どちらも韓《から》神系となっているものだった。いいかえれば、「上古の時、神といいしは人也」(新井白石『東雅』)であったから、それは韓《から》(加羅)からの渡来人だったものである。
昼食をとった羽後町役場前の食堂で、この日の夜はそこで一泊させてもらうことにしていた、象潟町にある友人の後藤直さんの実家へ電話をしてみたところ、すでに直さんは東京からそこへ来ていた。ばかりか、象潟町郷土資料館長の横山正義氏ほかの人たちもそこへ来て、私たちのくるのを待っているという。
直さんや、象潟で歯科医院を開いているその弟の洋さんが、私たちのためにいろいろと手配りをしてくれたようだった。私たちとしては、さらにまた羽後町東南の湯沢市まで行き、そこにある白山神社をたずねるつもりでいた。
そしてできたら、県文化財となっている祭神の「一柱白山姫神像(菊理姫像)」をみたいものと思っていた。さきにみた山形の鶴岡市由良にも白山島と白山神社があったが、その白山と同じように、白山神社も北陸・加賀(石川県)の白山比《しらやまひめ》神社の氏人たちが湯沢市のそこへ移住したことを示すものだったが、しかし、湯沢行きはやめにしなくてはならなかった。
私たちは急いで、日本海寄りの象潟町へ向かってタクシーを走らせた。
象潟と蚶満寺
象潟へはこれまでにも、私は何度か行っていた。三十年ほどまえはじめて東北旅行をしたときもそうだったが、そこには東京で親しくしている後藤直さんの実家があったからだった。私はこの一家を知ったことで東北・秋田が好きになったものだったが、それだけまた、いろいろと厄介にもなった。
後藤家はこの一、二年、つづけて不幸にみまわれていた。前年には弟の洋さんが奥さんを亡くし、今年は父の清一氏が亡くなって、いまは母のヨシさんがひとりで家を守っていた。私はまた私で病気のため、葬儀に参列することもできなかったので、こんどの象潟行きはその墓参をもかねるものとなっていた。
象潟町は羽後町の真西となっていたが、そのあいだにそびえ立つ出羽富士ともいわれる鳥海山(標高二二三〇メートル)が巨大な山裾をひろげているからか、タクシーは迂回して、国道一〇八号線から本荘市へ出た。そこからこんどは国道七号線を南下するというふうだったので、私たちが象潟へ着いたのは、午後四時近くなってからであった。
後藤家では母のヨシさんや洋さんとのあいさつもそこそこに、日曜で休日だったにもかかわらず、わざわざそこまで来て待ってくれていた象潟町郷土資料館長の横山さん、後藤兄弟ともども私たちはさっそく、これまた後藤家で手配してくれていたライトバンで出かけることにした。行き先はまず、俳人・芭蕉とのことで知られた蚶満《かんまん》寺であった。
私たちはその境内にあった後藤家先代の清一氏の墓に詣で、ついで近くにあった洋夫人の墓にも手を合わせた。私は生前その夫人にも、あれこれと世話になったものだった。
蚶満寺は象潟という地とともに、いろいろな意味で町の人たちの自慢のひとつとなっているものだった。前記『秋田県の歴史散歩』をみると、象潟の地とあわせてその寺のことがこう書かれている。
象潟(国天然)は、そのむかし、松島とならび称され、扶桑第一といわれた名勝であった。現在は、昔日の面影《おもかげ》はなく、ただ一面の稲田となっているが、むかしはその一帯が遠浅の潟であり、八十八潟・九十九島の松の緑が美しい絶景であった。
名勝の地象潟には、能因・西行法師など著名な文人・歌人・墨客が来遊し、多くの詩歌をのこしている。とくに一六八九(元禄二)年に奥の細道をたどってこの地を訪れた松尾芭蕉が「江の縦横一里ばかり、俤松島に通いて又異なり。松島は笑うが如く、象潟は怨むが如し、寂しさに悲しみを加えて、地勢魂をなやますに似たり」(『奥の細道』)の文とともに、
象潟や雨に西施が合歓《ねむ》の花
汐越や鶴はぎぬれて海涼し
の名句をのこしている。
この地が一八〇四(文化元)年の鳥海山麓一帯の大地震によって、海底が隆起して、一夜にして陸地と化してしまった。
現在は、稲田の中にある数多くの島の松が、むかしの面影《おもかげ》をしのばせている。また、むかしの実景は、牧野永昌の作“象潟図屏風”(県文化)に克明に描かれている。
領主六郷氏は、新田開発の事業を起こし、隆起後三年、総面積一五〇余アールの美田に変わってしまった。
象潟駅より国道七号線を北に進んだ町はずれに、老松の一群が茂っている中に、名刹曹洞宗蚶満寺がある。
この寺の開基は、奈良期称徳天皇(七六四年)のころ、蚶方《かんぽう》法師という僧が、神功皇后の霊夢によってここに庵を結び、皇后殿を建立した。その後、地震によって廃絶されていたが、八五三(仁寿三)年に慈覚大師が東北巡錫の時、この寺を再興し、その名も干満寺と名づけた。その後、北条時頼が来訪、寺名をさらに改めて、現在の蚶満寺、または干満珠寺と称したと伝えられている。
寺には、その由緒を物語る多くの文献や遺物が現存している。寺紋も北条氏ゆかりの三ツ鱗の紋所が使用されている。
また、多くの文人・墨客が、この寺を訪れ、詩歌にその情景を表現している。この寺を訪れた芭蕉は「この寺の方丈に座して簾を巻けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海天をささえ、その影うつりて江にあり。西はむやむやの関路を限り、東に堤を築きて、秋田に通う道はるかに、海北にかまえて浪うち入る所を汐ごしという」と『奥の細道』に記している。
境内には、数多くの遺跡がある。とくに西行法師の「蚶方の桜は浪に埋れて花の上こぐ海士のつり舟」の歌にちなむ西行桜・芭蕉の句碑・時頼公手植のつつじ・袖掛堂・夜泣きの椿・能因法師腰掛けの石・貞女紅蓮尼の碑などがあって、名勝の地にふさわしい古刹の感がある。
白山堂と白山比
「この寺の方丈に座して……」とはいかにも芭蕉らしい名文であるが、「現在は、稲田の中にある数多くの島の松が、むかしの面影をしのばせている」九十九島は、境内の一角に立ってのほうがよく見える。私たちは芭蕉の句碑のあるそこに立ってみたが、松におおわれて点々とあるそれらの島々は、ちょうど古墳群のそれのようでもあった。
江戸時代の地震によってできたものであるからそんなはずはないが、しかし、横山さんの説明によると、それらしいものがないわけではなかった。ずっと東端の山寄りにある島がそれで、そこには白山堂が祭られていて、その下から石櫃《いしびつ》が出土したという。
いつできたものかはわからないが、その白山堂は白山神社といっていいものにちがいなかった。するとそれは、さきにもふれた山形の鶴岡市由良の白山神社や、湯沢市の白山神社と同じように、北陸・加賀の白山比《しらやまひめ》神社の氏人たちが、そこまでひろがって来ていたことを物語るものにちがいなかった。
私たちが秋田で出合う白山神社はこれがさいごかと思われるので、ここでそれをややくわしくみると、いまではふつう白山《はくさん》といっている白山《しらやま》は斯羅《しら》山、すなわち新羅山ということであるが(『日本の中の朝鮮文化』(5)「加賀・能登」参照)、その祭神については、金沢女子大教授・浅香年木氏の「信仰からみた日本海文化」をみると、ほかの神社の祭神とともにこう書かれている。
神祇信仰は三つのタイプに区分される。第一は、渡来系の信仰であることをストレートに表現する呼び名があるもの。人格神を示す「ヒメ」〈比・比売・姫〉「ヒコ」〈彦・比古〉などを下に付した神社がこのタイプに入る。北陸道、つまり能登を中心に集中している。
第二のタイプは、出雲に集中する「カラクニイタテ〈韓国伊太〉神社」群であり、地主神と同座すると説かれ、渡来系とのかかわりが薄められている。
第三は、渡来系の神社であることが社号から消えている神々であり、越前の気比神社、能登の気多神社、越後の伊夜比古神社などの有力地主神がこれに属する。これらは神名帳〈『延喜式』神名〉の中では渡来の神であることが消されている。
白山堂は結界の地
蚶満寺からの私たちはさらに、こんどは海岸部をまわることになり、江戸期の大地震で地上に露出した高さ四・三メートル、幅五メートルの唐戸石《からといし》というのをみたりして、どういうことでか、海岸部のそのへんに集中しているようにある八幡神社、熊野神社、海津見《わたつみ》神社などをみて歩いた。
唐戸石とはそれがどうして「唐戸石」なのかはわからなかったが、熊野神社で赤御影石の灯籠をみることができたのはおもしろかった。「天保六年五月」という銘のあるものだったが、それはほかならぬ後藤家が寄進したものであった。
「天保六年というと、そのころ後藤家は象潟でなにをしていたんですかね」と横にいた洋さんにきいてみたところ、
「代官だったようです」と洋さんは、ちょっとてれたようにして笑った。
私たちはさらに「金《こん》病院」などへまわり、もう暗くなりはじめていたので、そこから後藤家へ戻ってみると、みんなの夕食が準備されていた。私たちは、あとから来た漁師をしている後藤一雄さんも加わって、その夕食をごちそうになりながら、いろいろと話すことになった。
私はそのときになって知ったが、象潟町郷土資料館長の横山さんは、私たちのためにたくさんの資料を持ってきてくれていた。象潟町教育委員会編の『象潟の史跡』はじめ、年刊の郷土資料『象潟の文化』や、磯村朝次郎氏の『秋田沿岸における日本海的人文要素について』など、数十点にのぼるものだった。
ことに磯村氏のそれなどは、「秋田県立博物館研究報告」となっているもので、執筆者から横山さんに寄贈されたものを、わざわざコピーしてくれたものであった。ぱらぱらとページを繰ってみたところでは、「秋田にとって日本海とは何であったか」という問題意識で書かれたもので、これによると、「大砂川菅沢古墳出土といわれる金環」「弁天島出土の一一世紀頃のものとみられる須恵器の大甕」などということが散見され、さきにふれた九十九島の白山堂のこともこうある。
鳥海山の北麓、かつて象潟湖のほとりに臨んでいたであろう白山堂は、最も幽玄にして意味ありげな森であった。幼い頃、この白山堂に行ってはいけない、ヘビが沢山いて近づくとカサカゲになるといましめられ、かつて立ち入ったことはなかった。
ところが戦後間もない昭和二四〜二五年頃だったと記憶しているが、朽ち果てた堂屋を修復する作業の折、経石が出土し、その下に長さ六尺位の石櫃の蓋石と思われるものがあらわれた。白山堂についての伝えを知っていたみんなは、不気味に思い、そっと埋めもどした。白山堂はいつの頃からか、いまのところ明瞭にしがたいが、久しく象潟の人々にとっては結界の地であったのである。
金さんから白木さんまで
やはり、その白山堂は古墳らしきものだったわけであるが、同『――日本海的人文要素について』には、日本海からの漂着物のことなどもかなりくわしく書かれているようだった。で、その海流ということがちょっと話題になり、漁のためいつも船に乗っている後藤一雄さんが言った。
「ええ、それはすごいものです。まるで激流の川のようで、小さな船などそれにとらえられたら、もうただ流されっ放しですよ」
「なるほど」と、私は深くうなずいた。私はいつか、新潟海岸を歩いていて、韓国から流れついたハングル文字のはいった漁網の浮標を二つひろってきたことがある。
「ところで、そんな海流と関係があるのかどうか」とついで私は、笑いながらきいた。「いまさっきみてきた金《こん》病院など、この象潟にはぼくのシンセキかも知れない金さんが多いようですが、どれくらいいるんでしょうかね」
象潟のその金さんのことは、ずっと気になっていたものだった。私ははじめて象潟へ来たとき、駅前あたりにあった「金薬局」という看板をみて、何となくどきっとなったものである。
「こんなふうです」と洋さんがさっそく、家にある電話帳を調べてメモをとってくれた。それによると、金さん三十五、今野《こんの》さん三十、白木さん七となっていた。新羅の借字という「白木」までメモしてくれたのがおもしろかった。
なお、ここで、横山さんが持ってきてくれた資料のうちの『あきた名字物語』をみると、「『陸奥話記』に登場する気仙郡司金為時は阿倍倉橋麻呂の子孫といい、金・今《こん》・昆《こん》・根《こん》・金野《こんの》・今野・昆野・根野・紺野の諸家は同流だろう」とある。
ここにいう阿倍倉橋麻呂とはどういう者だったかというと、これは倉梯《くらはし》麻呂とも書き、六四五年の大化改新後に左大臣となったものだった。もとは大阪の原・四天王寺を氏寺としていた難波吉士《なにわのきし》集団から出たもので、いまの大阪市阿倍野区一帯を開発した阿倍氏族であった。吉士とは吉師・吉志・喜志・岸とも書き、手元の『新潮国語辞典』をみると、「(新羅の官名に基づく)上代、朝鮮〈渡来〉人の敬称」とあるが、この「吉士」は新羅か加耶の金氏だったはずである。
それであったから、陸奥国気仙郡郡司の金為時が阿倍倉橋麻呂に結びつかないこともないであろうが、しかし、この東北の金氏というのは、新羅か加耶から独自に渡来したものではなかったかと私は思う。なお、史上(『続日本紀』)にみられる金氏としては、七〇八年、武蔵(埼玉県)の秩父ではじめて銅を発見し、その年から年号が「和銅」となったことで知られる金上元がいる。
秋田城跡と古四王神社
金浦の由来
象潟の後藤家で一泊した私たちは、こんどは羽越本線の列車で北上することになった。県都の秋田市をへて能代《のしろ》をめざすことになったが、さきにタクシーで、次の駅となっているとなり町の金浦《このうら》にちょっと寄ってみることにした。
そこに金浦山神社などがあったからであるが、それよりそこが金浦《かねうら》でなく、どうして金浦《このうら》となっているのか、ということにも興味があった。象潟でみた金氏と関係があるのではないかと思われたからだが、そうだとすると、金浦山神社はその金氏族の氏神だったものかも知れなかった。
しかし、金浦駅近くにあった金浦山神社をひとわたりみたところでは、それといった形跡は見あたらなかった。で、そのへんをちょっと歩きまわっただけで駅へ戻ったが、次の列車までにはまだ時間があったから、そこでしばらくのあいだ駅舎のベンチに坐ったり、立ったりしながら、ぶらぶらしていなくてはならなかった。
そのうち私は、駅舎の壁にかかった小さな額に気がついて、売店の女店員となにか話していた細川さんを、手招きして呼んだ。「駅名の由来――金浦駅――」としたその額にこうあったからである。
「金浦」と書いて「このうら」と読ませるのは全国でもここだけです。
応仁元年(一四六七年)、由利十二頭の旗頭格だった小笠原氏(のち仁賀保氏)が統治していた頃は、「木ノ浦」と書かれていました。
慶長七年(一六〇二年)に金浦と改称されました。これは当時のこの部落に大火があり、縁起をかついだためともいわれています。又、室町末期、象潟の金氏の名をとって金ノ浦としたという説もあります。
「なるほどなあ」と、細川さんもその額をみて言った。「いま話していたあの売店の女の人は、今野《こんの》恵子さんなんだそうです」
「へえ、そうかね」と私はその今野さんをみやりながら言ったが、それにしても、額にいう「慶長七年」と「室町末期」とは、どちらがほんとうなのであろうか。そのことについては、秋田までの列車のなかで開いてみた一九九〇年度の『象潟の文化』に、佐藤久氏の「金為時」という論文があって、象潟の金氏のことがこう書かれている。
当地の金氏も阿倍鳥海弥三郎の勢力の一端、木ノ浦の荘司として着任しておったのか、又は陸奥から敗走して来てこの地に住して、木ノ浦を金浦と改称するほどの在地豪族として成長するに到ったもので、「金又左ェ門尉家城信州下向金ノ浦の村号はこの家の証」と家伝にあり……。又、金浦町大竹、前川地区に今野氏が非常に多いことも、金氏と何等かの関連がある様に思われる。
金浦町でも金さん、今野さんがどのくらいいるか調べてみるとよかったのだが、それはどうあれ、金浦とは金《こん》の浦、つまり金氏の浦ということで、そう改称されたものだったにちがいなかった。ついでにいうと、これは象潟で話題にしてみるのを忘れていたが、一九八九年七月十九日の毎日新聞にのった万葉学者・中西進氏の「万葉集を朝鮮語でよむこと」をみると、こういうことが書かれている。
古代日本は中国大陸や朝鮮半島と密接に結びついている。とくに最近、古墳の発掘調査が進んで、その実体はいよいよ明らかになりつつある。
『万葉集』についても同じで、私は今まで古代朝鮮の歌謡である郷歌《ヒヤンガ》と万葉との関係や、済州島歌謡と古代歌謡との関係について述べてきたし、万葉の歌人山上憶良が朝鮮半島からの渡来人だろうという説を二十年来となえている。
古代日本語にしても寺《てら》、海《わた》、象《きさ》などが、実は朝鮮語だといわれているが、さらに多くの朝鮮語がふくまれているにちがいない。
中西氏のその業績とともに、「寺《てら》、海《わた》」がそうであることは私も知っていたが、「象《きさ》」が朝鮮語だといわれているとは、はじめて知ることであった。するとそれは古代朝鮮語のはずで、これも金氏と関係あるかのように思われてくるが、それはよくわからない。
秋田市の朝鮮
秋田駅におり立ってみると、やはり県都らしい景観の都市であった。といっても、高層ビルなど、いまの日本ではどこでも見られるそれと同じだったが、私たちはまず駅前のタクシーで市の教育委員会をたずねた。
そして、文化振興課首席主査の菅原俊行氏に会い、『秋田市史跡めぐり』などをもらい受け、さらに『秋田市史』や『秋田県の文化財』などをみせてもらって、ある部分をコピーしてもらったりした。『――文化財』では、写真となっている枯草坂古墳出土の勾玉などなかなかみごとなものだった。
「それから」と、私は菅原さんに向かってきいた。「秋田市には、『朝鮮』というところが二ヵ所もありましたね」
「ええ。いまもあります」
「ああ、そうですか」
私が秋田市のその「朝鮮」を知ったのは、一九八〇年版の『郵便番号簿』によってだった。秋田市のだれかにはがきをだすかして、その番号をみるため開いてみたところ、「〇一一」に朝鮮というところがあり、ついでまたもうひとつ、「〇一〇―一一」にも朝鮮があった。しかし、いまの『ぽすたるガイド』にはそれがなくなっている。
「その朝鮮というのは、どういう由来からなんでしょうか」
「さあ、それはわかりませんが、それでタクシーなどの運転士をびっくりさせることがよくあるんですよ。なにしろ、朝鮮まで行ってくれ、というものですから」
私も菅原さんといっしょに声をあげて笑ったが、その由来のことはわからずじまいだった。(だれか知っている人がいたら、教えてくれるとありがたいと思う)
秋田城(柵)跡
ついで私たちは、教育委員会のあった秋田市役所からそう遠くない寺内の高清水《たかしみず》岡にあった、古代秋田城(柵)跡へ行ってみた。山形の庄内にあった出羽柵が蝦夷、すなわち原住民(縄文人・アイヌ)を追って北進したもので、それについては『秋田市史跡めぐり』にこうある。
秋田城は、標高約四〇メートルの独立丘陵、高清水の丘にあり、そのほとんどが史跡指定地である。古代東北の日本海側における行政の中心的な役割を果たし、太平洋側の多賀城とともに東北地方の二大史跡といわれている。
庄内地方から出羽国高清水の岡に北進した出羽柵(「十二月己未。出羽柵変遷置於秋田村高清水岡」続日本紀)は、宝亀一一年(七八〇)庄内に後退し、延暦二三年(八〇四)には城を停めて郡とした。
その後、天長七年(八三〇)の大地震のため官舎をはじめ四天王寺の建物などが倒壊し、また元慶二年(八七八)には蝦夷《え ぞ》の大反乱にあい、官舎一六一宇(棟)、城櫓《じようろ》二八宇(棟)、城柵櫓二七基などを焼失したという。この乱を重視した中央政府は、権守藤原保則を登用、小野春風を鎮守将軍として派遣、約六ヵ月におよんだ乱を平定し、城の規模を倍にしたという。
北進して来たそこから「庄内に後退し」たことからしてそうだが、これはいわゆる蝦夷の抵抗がどういうものであったかを語るものでもある。なおつづけて、『秋田市史』(上)「第二章 王朝時代/第一節 秋田城と古四王神社」をみると、「王朝時代に於て特記すべきことは、現在秋田市の一部である寺内の地に、秋田城が置かれたことと、その守護神とみられる古四王神社の祀られたことである」として、まずその秋田城のことがこう書かれている。
〈元慶二年の〉乱を平定した藤原保則は、名国主として治績にみるべきものあり、秋田城の黄金時代をつくった。しかるに王朝時代、特に平安初期の中央政府の紀綱弛廃と、東北方面の蝦夷勢力の強盛のために、秋田城中心の隆盛は永く続かず、平安時代の中期に入っては全く有名無実の状態となった。
この秋田城に関しては、位置をはじめとして古来研究考証なかなかに多く、学界を賑わしたものであるが、研究の進むにつれて定説確定し、昭和十四年九月七日文部省告示第四一〇号を以て、正式に次の如く史蹟に指定されたのである。
そして、その指定の「説明」はこうなっている。「雄物川河口附近の丘陵上にあり。奈良朝に於て蝦夷征服の為め築きしものにして自然の形勝を占め、土塁、塹濠阯、遺瓦等現存して旧規模の見るべきものあり。殊に勅使館と称する一廓には濠阯よく存せり」
この秋田城跡の発掘調査は何度もおこなわれ、そこからは鏃《ぞく》、斧《おの》、刀子《とうす》などの鉄製品とともに、須恵器の大甕《おおがめ》や鐙瓦《あぶみがわら》などが出土している。それらの出土品は、いまも発掘がつづけられている、その発掘調査事務所にたのめばみせてもらえるとのことだったが、しかし、列車の時間が迫っていたので、『秋田市史跡めぐり』に出ている写真をみるだけということにした。
古四王神社の祭神
で、私たちは古代秋田城のあった高清水岡のそのへんをちょっと歩きまわり、その南側の寺内にあった古四王神社をたずねるだけで、秋田駅に戻ることにした。その境内には坂上田村麻呂を祭る田村神社もあったが、古四王神社はこれまでもいくつかみてきたもので東北、とくに出羽に多くみられる神社だった。
東北・出羽に多く、といってももとは北陸・越《こし》の日本海沿岸からおこったものであるが、古代秋田城の守護神だったというその古四王神社については、『秋田市史』にこうなっている。
古四王神社は本県唯一の〈旧〉国幣社として、寺内の人はもとより、全県人の崇敬篤い神社である。これが起源縁起については考証論述多々あるも、現在まで比較的異論の少ない説は次の通りである。秋田城設置にあたり、これが守護神として四天王を祀り、四天王は仏教神であるために、当時の歴史固有の思想よりして、純粋に土地の神、すなわち地主神を併せ祀ったのが起源であろうと考えられる。この地主神は、寺内の地に古くより鎮座していたとみられる越《こし》の君を祭ったものと思う。
時代の降るにしたがって神仏同体思想の影響を強く受け、四天王のうち、北天を司る毘沙門をとりわけ信仰し、更に土俗信仰である招福息災の薬師如来と信じ、眼の神様としても信仰されたようである。
一面また武家時代には武神として、四道将軍の一人大彦命が北陸、東北方面に関係があるというのでこれを祀り、八幡神またこれに加わり、徳川時代末より明治初年に及んでは国体論に基いて、建国の武神、武甕槌《たけみかづち》命と大彦命を祭神と決定するに至った。古四王の名称は越の君の越と、四天王寺の名が加わって生じたものと思われる。〈ここの〉四天王寺は秋田城の荒廃とともにいつとはなしに衰え、鎌倉時代諸国の社寺を復興させた時に、同じく再建されたようである。
「上古の時、神といいしは人也」(新井白石『東雅』)のその人、首長を祭った神社の祭神も、ときとともにあれこれと変わってきたことが、これをみてもよくわかる。
「コシ」とは何か
とくに、「明治初年に及んでは国体論に基いて、――を祭神と決定するに至った」などはひどいものであるが、それはともかくとして、『山形女子短大紀要』第十二集にのった月光善弘氏の「古志(四)王神の信仰」によると、東北に分布した古志王神社「三九社の中、山形県の内陸通りに一七社、海岸通りに九社で、山形県内の合計が二六社となり、秋田県が八社なので、出羽国内で三四社となり八九・七%を占める。そのほか岩手・新潟各二、福島一なので、古志王社は出羽国に関連の深い神社であることが考えられる」とある。
ところで、古志は古四・越《こし》・高志とも書かれるが、一方、『朝鮮語辞典』をみると「高矢《コシ》」というのがあって、それが人民に農耕の法を教えたことになっている、とある。それで朝鮮では、いまはあまりみられなくなったようであるが、農民が田んぼなどで働いていて昼食をとるときなど、まずさきに、その食物を少しとり、「コシレー(高矢礼=高矢に礼)」と言って、田んぼなどに投げあたえるのが習慣となっていた。
してみると、その古志、古四・越・高志とは、弥生文化の稲作農耕が北陸にひろがるのとともにきた、農耕神としての高矢からきたものだったかも知れない。
ちなみに、前記「古志(四)王神の信仰」には、川崎浩良氏の「古志族の検討」が引かれて、「なぜ古志というのかと言えば、他の地域から越してきたということであって、大陸または南の島から舟に乗って出雲地方に越してきたということなのであるとし、喜田貞吉氏の所論と大筋でほぼ一致した見解を示している」とある。
それからまたもうひとつ、鳥取県立米子図書館編『伯耆・出雲の史跡めぐり』をみると、古代朝鮮と出雲との密接な関係が強調されて、「コシ〈越〉とは『遠い所』の意であり、はるか海の向うの朝鮮を意味した(のちに朝鮮との関係が絶たれてからは、遠い所として北陸が擬され、北陸がコシノクニ〈越国〉だといわれるようになった)」とある。
そうだとすると、越国《こしのくに》とは、やはり高矢国《コシのくに》ということだったのであろうか。北陸への稲作農耕の渡来と考えあわせると、無縁とはいえないようである。そのことは前記「古志(四)王神の信仰」に、「古志族の原形は出雲地方と考えられるが、弥生期になると、信濃川の平野に同族の大集団を結成するに至った。この地方には古志郡があり、古志王神社が祀られている」とあることからも、うかがい知ることができるようである。
能代と白神山地
野代湊だった能代港
秋田市から北上する列車は、そこまでの羽越本線から奥羽本線となった。列車とはいってもただ二輛のそれだったが、しかし、なかはわりと空《す》いていた。
能代《のしろ》市まではかなりの距離だったけれども、窓外はどこまでも青緑の山々や稲田がつづいていて、それに目を向けているだけでも、別に退屈することはなかった。ところどころで、通学生の小集団が乗ったりおりたりしたが、それも自然のなかの景観のひとつだった。
全国第六位の広さをもつ秋田県の最北に近い能代駅に私たちがおり立ったのは、あたりがもう暗くなってからであった。細川さんがあらかじめ電話をしていたので、駅にはこちらもまた細川さんの友人の建築家で、能代市建設部建築課主任となっている伊東豊裕氏が、クルマをもって出迎えてくれていた。
私たちは、伊東さんの案内で「阿佐ヵ谷」という小料理屋で夕食をとり、この夜は市内のキャッスルホテルなるところで一泊した。そして翌朝また伊東さんに迎えられて、市の教育委員会をたずねた。社会教育課主任の野口達夫氏に会って、『能代の文化財』などの資料をもらい受け、ついで私たちは、昔は渟代《ぬしろ》または野代湊だった能代港のほうへ向かった。
いまの能代港は、さきにみた「三湖伝説」に出ている米代川の河口となっているが、広い意味での野代湊は長大な海岸線をもったものとなっていた。右手の北は青森県境となっている白神山地がわずかに海に向かって張りだし、左手の西南は男鹿半島が突き出ている、ゆるやかな弓状となっている浜辺がそれだった。
渤海から来た人々
私はその浜辺の一角から、水平線もよく見えない茫漠《ぼうばく》とした海の彼方に目を向けて、しばらく立ちつくしたものだった。「激流の川のような」海流を利用してだったかも知れないが、それにしても、よく来られたものだと思わないわけにはゆかなかった。
というのは、千数百年前、日本海を渡ってその野代湊に上陸した渤海《ぼつかい》人たちのことであった。そのことについては、まず宗教社会学者・安藤真氏の「東北で考えた日本の文化」にこう書かれている。
〈日本からの〉あの遣隋使・遣唐使の合計が十数回であるのに対して、東北の日本海側の野代湊に上陸したと思われる渤海使は、三十数回を数えるという。
天平十八年(七四六)、渤海人、鉄利人計千百余人が帰化を求めてやってきたので、出羽に安置したことが『続日本紀』に記録されている。
宝亀二年(七七一)、渤海の青綬大夫壱万福ら三百二十五人が十七隻の船で野代湊に着いている。
「三十数回を数える」渤海使は、みな野代湊に上陸したわけではなかったようだが、日本海岸に上陸したことが圧倒的に多かったことは事実であった。そのことは、京都大教授・上田正昭氏の「日本海と古代の文化」にもこうある。
高句麗からの使節は、難波に上陸する場合もあったが、五七〇年・五七三年・六六八年などの例をみてもわかるように、その多くが日本海側(主として北陸地域)から渡来した。
渤海使においては、さらにいちじるしい。七二七年から約二百年間に三十五回来日しているが、そのなかで上陸地の判明するほとんどが日本海側であった。日本からの遣渤海使と渤海使を送る使節は十三回に及ぶが、これに渤海から出羽に集団移民した例二回を加えると、その数はなんと五十回におよぶ。これらの来日・帰国の三十四回が日本海沿岸地域であった(ただし前半は出羽と北陸道が多く、後半になると北陸道と山陰道になる)。
ここにいう「渤海から出羽に集団移民した例二回」とは、さきにみた「渤海人、鉄利人計千百余人」と「渤海の青綬大夫壱万福ら三百二十五人」のことであろうが、千数百年前の当時としてはこれはたいへんな人数であった。これはその後、みな東北の日本人となって拡散したことはいうまでもないが、ところで、その渤海人とはいったいどういうものだったのであろうか。
一口にいうと、古代朝鮮三国の高句麗人であったが、その高句麗が百済、新羅との三国制覇戦に敗れてほろんだのは、六六八年のことだった。百済はそれより早く六六〇年にほろんでいたが、以後、高句麗人はその故地ともいうべき中国・東北(旧満州)に退いて、六九八年に渤海国を建てた。
要するに、高句麗の後身であったが、そのことは七二七年の神亀四年、日本の聖武朝に渤海使がさしだした国書に、渤海は「高麗《こま》〈高句麗〉の旧居を復して扶余の遺俗を有す」(『続日本紀』)とあることからもわかる。
この渤海国が栄えたときの領土は、朝鮮半島の最北部と旧満州、それにソ連の沿海州やサハリンの一部まで含めた広大なものであった。そしてその四万五千里の領土に東京竜原府などの五京、十五府、六十二州を置いて、唐と日本とを左右にして統一新羅と対峙《たいじ》、今日、朝鮮でいうところの「南北国時代」をなし、「海東盛国」とまでいわれたものだった。
鶴形のショウキさま朝鮮のチャンスン
私は、そうして九二六年にほろびた渤海からの多くの渡来人が足跡を印した野代湊、能代海岸のそこに立って、茫漠とした海の向こうにあったその渤海国の盛時をしのんだものだったが、そこからの私たちは、米代川を東にちょっとさかのぼった、能代市の鶴形をたずねた。
なぜ鶴形だったかというと、雑誌『バンガード』一九八七年四月号に、「韓国のチャンスン」というカラー写真が二頁ほどそえられた、「牛山純一のフィールドメモ」というのがあって、こういうことが書かれていたからである。
日本にはチャンスン〈長〉と同型のものはないが、同じような機能をもつ民俗は、東北地方、上越地方、中部地方に広く分布している。
秋田県能代市鶴形のショウキさまは、木の根を掘りおこして逆さまにたて、顔を描いたり着物をきせたりしている。韓国のチャンスンととてもよく似ている。
この像は、村の五つの地区を区切る境の神さまだが、男神と女神の区別があるのも、チャンスンに近い。〈韓国〉ソウルの民俗博物館にある双渓寺チャンスンでは、木の根の部分が頭髪になっており、木の根を逆さに使うという発想が共通している。
私たちはそのチャンスンのショウキさまをみに行ったわけだったが、はじめのうちはそれがどこにあるのかよくわからなかったけれども、気がついてみると、それはあちこちの道路ばたや山裾に立っていて、計四、五体はみたのではなかったかと思う。私はそのショウキさまの前に立って、「ふーむ、なるほど」と思った。
そういうショウキさまのもとだったはずのチャンスンを、私は朝鮮でよくみていたからであるが、そのチャンスンとはいったいどういうものだったか。牛山氏は韓国の地もよく歩いていて、その「チャンスンの分布と機能」については、「現在、韓国全土の一八七ケ所にチャンスンがある」として、そのことをこう書いている。
木のチャンスンの胴の部分には、男神には「天下大将軍」、女神には「地下女将軍」の称号が刻まれている。チャンスンの種類と機能は、次のように分類できる。
一、村落の入口のチャンスン=村の安寧豊作、多産の祈願/一、トウチャン・チャンスン=疫病、とくに天然痘の追放/一、ビボ・チャンスン=やせた地力の補強/一、守門チャンスン=地域の守護/一、路標チャンスン=道路標識の役割/一、寺院チャンスン=寺院の地界標示
チャンスンは、ソナンダン〈城隍堂=日本の神社のようなもの〉という石を積みあげた台の上に立てたり、長い竿の上に鳥をのせた、ソッデ〈蘇塗〉などとの組み合わせで登場することが多い。……
日本では、弥生時代の遺跡から、ソッデ鳥と同じような型のものが発掘されており、韓国にも日本にも、北アジアの文化が及んでいたことがよくわかる。
私たちは鶴形から、檜山の檜山城跡や多宝院、それから近くにまたあった、秋田県としては北限のものと思われる古四王神社などをまわり、「機織」というところにあった奥羽本線の東能代駅前で伊東さんとはわかれた。そしてそこを十二時半発のバスで、能代東方の内陸部となっている田代町へ向かった。バスにしたのは、そのほうが二時間以上も待たなくてはならぬ列車より早そうだったからである。
白神山地の田代岳
バスは私たちがそこから来た鶴形をへて、羽州街道を東へ走った。羽州街道は旧国鉄の奥羽本線と米代川に沿ったもので、その三者によって開けたと思われる二ツ井町、鷹巣《たかのす》町などをすぎたところが、北秋田郡田代町だった。
人口一万足らずの町だったが、そこで私たちはおそくなった昼食をすませ、例によって町の教育委員会をたずねた。教育課長補佐の武田昇氏に会って、田代岳山頂の田代山神社のことなどきこうとしたところ、そういうことだったら、となりの公民館に町史編さんの資料収集をしている戸嶋源三郎氏に会ったほうがいいということで、私たちはさっそくその戸嶋氏をたずねた。
そして私たちは、名刺の肩書も「田代町史編さん資料収集員」となっている戸嶋さんから田代山神社のことなど、いろいろ聞くとともに、『田代町史資料』ほかをみせてもらって、ある部分はコピーしてもらったりした。戸嶋さんは町の郷土史家で、いわば町の歴史の生字引となっている人のようだった。田代町の神社は境内社を含めると「三百三社」であると、はっきり数字をあげていわれたのも印象的だった。
それはさておき、私たちが田代岳にある田代山神社にこだわってここまで来たのは、ひとつには秋田と青森との県境となっている白神《しらかみ》山地にかかわってであった。ここで地図を開いてみてほしいと思うが、白神山地の最西端は日本海に突き出た須郷《すごう》岬で、その北東部には白神岳(標高一二三二メートル)があり、そのまた北東部には向《むかい》白神岳(同一二四三メートル)がある。
そして白神山地は東にずっと延びて小岳(同一〇四二メートル)、駒ケ岳(同一一五八メートル)、田代岳(同一一七八メートル)などとなり、さらに山地は延びて、十和田湖近くの白地《しらち》山(同一〇三四メートル)にいたっている。いわば田代岳はその中央部となっているのであるが、前記『秋田県の歴史散歩』(新版)をみると「田代岳」という項があって、それのことがこう書かれている。
田代岳(標高一一七八メートル、県立自然公園)は北秋田郡田代町の西北部にあり、白神山地の主峰である。山の九合目に広がる湿原には大小一〇〇を越す沼があり、「田ッコ」と呼ばれている。田代の名もこれに由来している。
頂上には田代山神社(祭神白髭大神《しらひげおおかみ》《猿田彦《さるたひこ》大神》)があり、慈覚《じかく》大師の創建と伝えている。田代岳はそのものが神体で、山神《やまのかみ》・田神《たのかみ》・水神《みずのかみ》・作神《さくのかみ》など農事一般の守護神が鎮座する山である。毎年、半夏生《はんげしよう》にあたる七月二日の例祭には、県北一円から津軽方面にかけて、農家の人たちが参詣し、田ッコに生えている高山植物のミツガシワ・ミネハリイの生育状況を見て、その年の稲作(早生《わ せ》・中生《なかて》・晩生《おくて》)を占う。
田代は白髭神の町
要するに、「白神山地の主峰である」田代岳の田代山神社の祭神は白髭(鬚)大神(猿田彦大神)で、それは全国各地でみられる白鬚明神・白鬚神社と同じものだったのである。つまり、「白鬚明神は新羅神なるべし」(柳田国男「石神問答」『柳田国男全集』第十二巻)のそれだったわけである。
なお、『田代町史資料』をみると、早口(田代町に下車する奥羽本線の駅名は「早口」となっている)字《あざ》田代山の田代山神社の祭神は、「白髭大直日大神(猿田彦之神と御同神、山神、田神、水神、作神ともいう)」とあり、ほかにまた早口字下畑(双子山)にも、白髭大直日大神を祭神とする田代山神社がある。さらにまた、早口字椛木岱(比立内)には少彦名《すくなひこな》之神を祭神とする薬師神社があったりしている。
田代町はまるで、新羅神だった白髭神(少彦名之神)の町とでもいいたくなるほどであった。そこで、その「主峰である」田代岳に白髭神=新羅神を祭っている白神山地であるが、日本海に面した西端の白神岳、向白神岳はもとより、東の十和田湖に近い白地《しらち》山にしても、新羅ということからきたものだったにちがいない。
ここでさきにみた、新羅と同じく鶏を神聖視し、その肉や卵を食べなかったということの付会のような「三湖伝説」(「田沢湖・大曲・十文字」の項)を思いだしてもらいたいが、十和田湖から白神山地にかけての一帯は、いつからかわからないけれども、新羅系渡来人の集住地となっていたのである。
これもさきにみているように、能代(野代)には多くの渤海人が渡来しているが、こちらにはまた新羅系のかれらもたくさん渡来していたわけだったのである。私たちは田代町から大館市をへて、はじめ、そこから秋田県へはいった岩手県の盛岡へ出たが、その大館市にも白沢《しらさわ》というところがあって、一九八八年二月九日の河北新報に、「東北では最大級/須恵器の甕出土/大館野遺跡」とした見出しの、こんな記事が出ている。
大館市白沢の大館野遺跡から秋田県内で最大、東北でも最大級の須恵器の甕《かめ》が出土した。十〜十一世紀の土器だが、秋田県北での考古学研究が進んでいないため、正体は不明だ。
出土した須恵器は口径五十センチ、高さ七十八センチ、全体が黒色。表面に文様がある。破片で見つかったが、ほぼ完全に復元できた。水か酒を入れていたらしい。……
東北歴史資料館(多賀城市)によると、東北地方の須恵器としては最大級という。大甕の正体は不明。分かるのは「当時としてこれだけ大きなものは、高い文化、経済力を持つ人々でないと所有できない」(市教委)ということだけ。
記事はまだつづいているが、「正体は不明」のこの須恵器はもしかすると、そこへ来た新羅系渡来人がもたらしたものだったかも知れない。「十〜十一世紀」というと、朝鮮半島では統一新羅がほろびて、高麗《こうらい》となったころであった。
宮城(陸奥)
船形山から青葉城跡へ
船形山神社の神体
秋田県大館から盛岡へ出た私と細川和紀さんとは、その盛岡から新幹線で仙台にいたり、そこでまた一泊することにした。ひとつはもう夜で時間がなかったことと、またひとつは仙台市で、さらに一、二ヵ所たずねておきたいところがあったからだった。
仙台へは、これまでにも何度か来ていた。はじめは十数年前、東北放送がおこなった東北大教授の高橋富雄、関晃氏らとの座談会のためで、そのとき私は同放送の報道制作局の西川通氏の案内で多賀城跡などをたずねている。
そしてその後も私は来ていたにもかかわらず、どういうわけか、仙台市教育委員会はまだたずねていなかった。そういうことで、私と細川さんとは翌日、さっそくその教育委員会をたずね、文化財課調査係の大江美智代さんに会って、『宮城地区文化財めぐり』『郡山遺跡』ほかたくさんの資料をもらい受けた。
ついで私たちは、仙台市博物館をたずねた。そこに陳列されている、あとでふれることになる切込《きりごめ》焼の磁器などをみてから、さらに河北新報社へ寄り、これもあとでふれることになる、いわゆる蝦夷・阿弖流為《あてるい》の首像写真を提供してもらうことにして、東京へ帰った。
こういうことで、出羽国だった山形、秋田県はさきの田代、大館までで一応おわりとし、こんどはさきにみた福島県とともに、こちらは陸奥国だった宮城県となった。また陸奥へ戻ったわけであるが、ここではまず、ちょっと妙なようだけれども、いろいろな事情で、そこまでは行ってみることのできなかったところから書くことにしたい。
そこというのは、仙台の西北方となっている黒川郡大和《たいわ》町の船形山である。大和町の中心部は宮城県の中央部となっていたが、船形山(標高一五〇〇メートル)はそこからずっと西の、山形県との境にあった。
しかも、私がみたいと思っていたのは、その船形山中にあった船形山神社の神体となっている仏像で、この仏像は毎年五月一日の祭りの日にしか、人の目にふれない秘仏となっていた。
ここでは、東京国立文化財研究所名誉研究員で、『仏像』『古代朝鮮仏と飛鳥仏』などの著書がある久野健氏の『渡来仏の旅』のなかの「船形山神社の秘仏」によって、それをみておくことにしたいと思う。
久野氏はまず、「昭和四十六年のことであった」と、その船形山神社神体との出合いのことをこう書いている。
吉田潤之介さんという人が、私の研究所を訪ねてこられ、自分の故郷に伝わる古い仏像だといって、一枚の写真を示された。小型の写真である上に、素人が撮影したもので細部はわからないが、高い宝冠を頂いた痩身の菩薩立像で、左右の腕から鰭状をなして垂れた天衣や全身に瓔珞をつけている形式もはなはだ古様にみえた。
同氏にうかがうと、この仏像は古くから船形山神社御神体としてまつられているもので、普段は山の秘密の場所に埋めてあり、五月一日だけ掘り出して、神社の拝殿におまつりし、同時に仏像のさびの具合で、その年の吉凶をうらなうという話であった。私はこの不思議な神事と、古様な仏像とに興味をおぼえたが、同像の撮影や調査は、信仰上むずかしいであろうという話なので、半ばあきらめていた。
秘仏は渡来仏
しかし、久野氏はまったくあきらめたわけではなかった。宮城県知事を動かすなどして、それから九年後の「昭和五十四年の五月一日ついに望みがかなって」、その船形山神社の秘仏を調査することができたのであった。
そうして、「船形山神社は、宮城県黒川郡大和町吉田字升沢一〇八にある。われわれ一行は、四月三十日に東京を発ち、その夜は仙台に泊り、翌朝、七時に同県教育委員会の車で大和町へ向った。二時間ほどで大和町役場につき小休止する。ここで同町の教育長から船形山神社の位置や秘仏について説明をうかがう」ということになり、やがて久野氏ら一行は、船形山の急斜面を上から垂らされている「鎖にすがりついて登り」、ようやくその秘仏と対面する。
久野氏は、秘密の場所に「一年間埋められてあった御神体の掘り出し」から、その祭礼のこともかなりくわしく書いているが、もちろん、その神体の仏像については、いろいろな角度からもっとくわしく書いている。
「どうぞ御自由に御調べ下さい」とうながされ、われわれは白木の厨子からこの菩薩像を外に出し、調べ始めた。
この金銅菩薩像(写真参照)は一度かるく火中したらしく、ほとんど鍍金はおちているが、それでも右手の指の間や両足のふちの部分、及び胸にはわずかに鍍金が残っている。頭部には見事な三つの花飾りをつけた宝冠を頂き、冠帯からは幅広い飾り紐が両肩に垂れている。この宝冠の花飾りの中心部から、大きな花芯が前方につき出ているのがきわめて印象的だった。
この観察記は相当長いので、あとは本(『渡来仏の旅』)によってもらうとして省き、その結論のようなところを示すと、久野氏はつづけてこう書いている。「私は、この像のやや鮮明な写真を信徒の人から見せられたときから、船形山神社の菩薩像は、朝鮮からの渡来仏であろうと考えていたが、実物を手にしてつくづくとながめながら、この考えをさらに強めた」
そして久野氏は、さらにつづけて書いている。これは、そのような仏像の渡来経路について考察したくだりである。
東京に戻ってから私は、船形山神社の秘仏の調査ノートと写真をながめながら、いろいろと考察を加えた。その一つは、かかる古様な渡来仏が、何故、東北地方の辺鄙な山中に伝わったかということ、もう一つは、この像を朝鮮の古代彫刻の中にもどしてみた時、どの辺に位置付けされるか、いいかえればその制作年代はいつ頃か、という二点について次に述べてみよう。
まず、第一の問題であるが、我が国に渡来した古代朝鮮の仏像には、二つのコースがあったと推定される。その一つは、朝鮮から北九州に入り、瀬戸内海から大和地方に運ばれたごく普通のコースと、もう一つは、朝鮮半島から日本海を経由し、潮流にのって中部地方の日本海沿岸に上陸する場合の二つである。
今日、新潟県の関山神社の御神体となっている金銅菩薩立像や、長野県の観松院の金銅菩薩半跏像などは後者の例であり、長野県の善光寺の本尊仏などは前者の例である。船形山神社の菩薩立像の場合も、どちらかの経路により、我が国に渡来したものではないかと推定される。
しかし、いずれの場合にせよ、七世紀といえば東北地方はまだ、蝦夷が跳梁していた時代で、仏教も伝わらず、直接この菩薩像がこの地にもたらされたとは考えられない。やや後になり、この地に集団的に移住してきた渡来の人々か、あるいは中央から派遣された官人や技術者等により、この地に運ばれた可能性が強いであろう。
八、九世紀における東北地方の開拓には、しばしば関東及び中部地方の住民が移住させられたことは、文献に明らかであり、その中には、はるか朝鮮半島から古い時代に渡来した集団も混じっていた可能性はある。これらの人々が、自分たちの先祖が日本にもってきた礼拝像をともなって、東北地方に移住し、永い歴史の中で火災その他の災難に遇い、家屋敷も焼け、仏像も土中していたのが、後世たまたま掘り出され、御神体としてまつられたとも考えられよう。
それからさらにまた久野氏は、船形山神社神体のその仏像と、朝鮮の仏像との比較をおこなっているが、それはおいて、ではそのような仏像を、東北への渡来集団(あるいはその祖先)は古代朝鮮三国(高句麗・百済・新羅)のうちのどこからもたらしたものだったのであろうか。そのばあいひとつ参考となるのは、船形山神社のある船形山のすぐ西南にそびえる白髪《しらが》山(標高一二八四メートル)の存在ではないかと思う。
この白髪山の白髪というのは、白鬚と同じように新羅ということの借字であることは明らかで、そうだとすれば、船形山神社の仏像も、「新潟県の関山神社の御神体となっている金銅菩薩立像」と同じく、新羅仏ということになるであろう。そのような新羅仏のことについては、久野氏も同書(『渡来仏の旅』)の「生きている新羅仏」のはじめに、こう書いている。「現在我が国にある新羅仏の数は正確には判らないが、小像を加えると五、六百体になるのではないかと推定している」と。
宮城の風土
まず、直接行ってみることのできなかった船形山神社の神体・秘仏のことからみたが、さきにもいったように、宮城県の仙台へは何度か来ていて、この稿の取材のためにも二、三度来ている。そうして、もちろん仙台ばかりでなく、その周辺もみて歩いたことはいうまでもない。
東京・新宿に、新聞、出版などのジャーナリストや学者、医者、建築家、作家といった者たちがよくくる「あづま」という小さな酒房がある。この酒房の常連二十人ほどはここ数年、「新宿あづま会」ということで春秋二度ほど旅行をしている。私もその旅行に加わったり、あるときは途中から合流したりして、全国のあちこちをみて歩いている。
宮城県のときは、途中からそれに合流した例であるが、そのときのことをみると、こういうふうである。私は、そのツアー一行が出発する三日前に東京を出発し、ここもさきに行ったことのある岩手県盛岡を中心に、かつては宮城県までその文化圏となっていた平泉あたりを歩きまわって、仙台へ出て一泊した。
そしてツアー一行の日程にはなかったところをたずねたり、歩いたりして、翌日の新幹線、午前十一時三分着でくる東京からの一行と、仙台駅で落ち合うことにしたのだった。出羽をいっしょに歩いた細川和紀さんが「幹事」となっている一行はもう着くはずだったが、そのまえに私を含む一行の出発点となっているここで、宮城県高等学校社会科教育研究会歴史部会編『宮城県の歴史散歩』(新版)により、宮城県とはどういうところかということについて、ちょっとみておくことにしたい。
宮城県は西に奥羽《おうう》山脈の山々が連なり、東は太平洋に臨み、太平洋岸に沿って北上山地・阿武隈《あぶくま》山地がはしっている。北上川・阿武隈川の二大河川が県北・県南の沖積平野を形成し、奥羽山脈を水源とする中小河川が東にむかって北上川や阿武隈川に合流し、または太平洋に直接注いでいる。
気候は東北地方でも福島県についで温暖で、冬は雪が少なく、山沿いを除いて根雪が積もることはほとんどない。
縄文時代は東北地方にも優れた文化が生まれ、特に後期や晩期には精巧な土器や骨角器がつくられて、技術水準の高かったことが分かる。ところが、弥生《やよい》文化が伝わって水稲栽培が行なわれるようになると、東北地方の経済的・文化的・政治的地位は一変する。以後現代まで政治・経済・文化の波はたえず西から打ち寄せてくる。
東北地方はいく度か、東西対決に敗れている。古代には律令国家といわゆる蝦夷《えみし》との対決、近世初期には豊臣《とよとみ》秀吉の統一事業にのみこまれた伊達政宗《だてまさむね》、幕末・明治維新期には薩長軍や明治政府に抵抗した東北諸藩であった。けっきょく「白河以北、一山百文」の侮《あなど》り、あるいは軽視を今も覆してはいない。
日本の食糧基地とはいいながら、工業化・都市化のすすむ中に取り残され、東北新幹線が盛岡止まりであることに象徴されるという状況が今も続いている。だが、われわれはこの状況に甘んじることなく、積極的に前進しなくてはならない。
簡にして要をつくした文章であるが、そういうマイナス点をバネにした積極性によって、東北の中心である宮城県仙台は、いまでは人口九十万に近い大都市に成長し、いろいろな面で大きく発展している。たとえば、その「積極性」ということではこういうことがある。
「『白河以北、一山百文』の侮り」ということから思いだしたが、東北の代表的な新聞である河北新報の「河北」というのは、その「白河以北」ということからきているのである。そのような「侮り」を逆手にとって、「さあ、こい」というわけだったのである。
伊達は伊太
やがて、みんな親しいあいだがらの「新宿あづま会」の一行が列車をおり、改札口を出て来た。私たちは「やあ、やあ」ということになり、さっそく駅前に手配してあったバスに乗って、まず、青葉城(仙台城)跡へ向かった。
この種の旅行で仙台ということになると、まずそこであったからであるが、「仙台城の置かれた青葉山は、南は深さ五〇メートルの深い谷、北は広瀬川で仕切られ、ただ一方開けた東側も約七〇メートルの断崖、残る西側も深い山林続きで人馬の通行は困難であり、仙台城は、わが国で最後につくられた最大級の山城であった」(前記『宮城県の歴史散歩』)それも、いまは大きな公園となっていて、バスでやすやすとそこまで登ることができた。
仙台といえば青葉城であったと同じように、青葉城といえばまず思いだされるのは、六十二万石の当城主であった伊達政宗である。だいたい、伊達と書いてそれがどうして伊達《だ て》なのか、と私は、子どものころからそんな素朴な疑問を抱いていた。
それにまた、伊達政宗とはいったいどういう者だったのか。で、高柳光寿・竹内理三編『日本史辞典』を開いて「伊達氏」の項をみたところ、そこにこう書かれている。
古くは「いだて」といった。藤原北家流。常陸〈茨城県〉伊佐荘中村に住む伊佐実宗の玄孫朝宗の時、源頼朝の奥州征伐に従軍して功をたて、陸奥伊達郡を与えられ、伊達氏を称したのに始まるという。
あとはもうよく知られていることなので省くが、私はこれをみて「ああ、そうだったのか」と思ったものだった。「古くは『いだて』といった」とあったからである。
何のことはない、伊達《だ て》とは、出雲(島根県)に六社以上もある韓国伊太《からくにいたて》神社の伊太から出た、伊達郡のそれからきたものだったのである。その伊達、すなわち韓国伊太については、中島利一郎氏の『日本地名学研究』「素戔嗚尊と曽尸茂利《そしもり》」にこうある。
曽尸茂利の地理的所在を求めるとするには、実は高天原《たかまがはら》の研究を出発点としなければならぬ。それは素戔嗚尊の史的開展の出発点がそこにあるからである。即ち素戔嗚尊は、……高天原から新羅へ、新羅から出雲へ、と、新羅は高天原から出雲への道程の一コースであるのか、是《こ》れが大きな問題である。出雲神話の全体の問題を解決する鍵は、一に繋《つなが》って此《ここ》に在《あ》るのである。素戔嗚尊は御子五十《い》猛《たけ》命を伴いて、新羅へ渡り、新羅から帰られたとある。
「而して『延喜式』神名帳には」として、「出雲国意宇郡/玉作湯神社 同社坐《にいます》韓国伊太神社」ほか六社の韓国伊太神社を列挙し、つづけて中島氏はこう書いている。
とあるは、五十《い》猛《たけ》命を祭神とするものであり、なお「神名帳」紀伊国〈和歌山県〉名草郡伊多祁曽《いたきそ》神社、伊達《いたて》神社も同じ性質のものである。殊に出雲地方では、皆、韓国と冠していることを見逃してはならぬ。五十猛と伊太《いたて》との関係は、朝鮮語から考うべきことで、伊太は、朝鮮音を基礎として写したものであり、五十猛は日本訓によってあらわしたのである。五十猛命は、韓国曽保利《からくにそほり》神と称した。
こうみてくると、伊太ということの伊達郡から出た伊達政宗ももとは、常陸介だった新羅三郎義光の子孫という、さきにみた秋田藩主・佐竹義宣と同じ常陸から出たものだったのである。そしてその伊達郡からの伊達氏は、いろいろな紆余曲折をへて仙台へ移り、東北第一の大名となっていたのである。
色麻・天翼・切込焼
伊達神社・射楯神社
青葉(仙台)城主・伊達政宗の伊達という姓が韓国伊太《からくにいたて》、または韓国曽保利《そほり》神の五十《い》猛《たけ》という伊達からきたものだったことはさきにみたが、いま福島県となっているその伊達郡には伊達神社がある。
そしてまた、伊達氏が仙台へ移るまではそこに拠っていた宮城県玉造郡の岩出山《いわでやま》町(いま岩出山城跡あり)の少し南の加美郡色麻《しかま》町にも、御山《おやま》古墳の上に伊達神社がある。これについては、明治時代に出た吉田東伍氏の有名な『大日本地名辞書』にこうある。
伊達《イダテ》神社 延喜式色麻郡の官社にし、名神大と注せらる。蓋《けだし》、色麻《しかま》氏の氏神にして、播磨国〈兵庫県〉飾磨郡印達郷には射楯《イタテ》神社ありて、古風土記に、伊太代〈の誤植か〉神というに合考すべし。奥州に、伊達、色麻の二郡あるは、共に伊太代神の氏人の遷住《せんじゆう》に因《よ》れるを悟るべし。今、四竃《しかま》駅に在りて、塩竃神と誤る者《は》、是也《これなり》、香取神をも配祀す。〈ひらがなルビは金〉
播磨から遷住(移住)した色麻氏とはどういう者だったか興味あるところであるが、いまみた伊達神社と射楯神社のことは、宮城県の『郷土資料事典』にも出ているので、そのうちの射楯神社をもう一度みるとこうなっている。
〈いま色麻町となっている色麻村には〉上代に設けられた色麻柵跡があり、古墳群も散在している。
地名の起こりは、天平年間(七二九〜四九)のころ、播磨国(現在の兵庫県)飾磨郡から屯田兵として移住し、氏神の射楯神社を小山古墳上に祀ったことに由来している。郷土と同じ地名と神社名をそのまま「しかま」と「いたて」とよんだが、書き方だけを郷土と区別するため「色麻」「伊達」とあて書きしたといわれている。
播磨の飾磨郡
伊達神社が御山古墳の上にあるのと同じように、射楯神社もまた小山古墳上にあるというのも、神社と古墳との関係を知るうえでおもしろいが、ところで、「屯田兵として移住し」とあるけれども、かれらはみな屯田兵というわけではなかった。そのことは色麻古墳群とそこからの出土品をみてもわかるが、そのまえに、色麻氏らがそこから移住した播磨の飾磨郡とはどういうところであったか、ということをちょっとみることにしたい。
このことについては、私は『日本の中の朝鮮文化』(6)の「播磨・淡路」にかなりくわしく書いているが、また、とくに飾磨郡については、同書(10)「豊前・豊後」の「秦氏族と豊国《とよくに》=韓国《からくに》」の項に、東京女子大教授・平野邦雄氏の『大化前代社会組織の研究』などを引きながら書いている。平野氏は、「古代日本の産鉄集団は新羅系の秦氏による倭《やまと》鍛冶《かぬち》と、百済系の漢《あや》氏による韓《から》鍛冶とであった」として、そのことをこう述べている。
神代紀一書や綏靖紀(記)、『古語拾遺』などに、天香山の金をとって、日矛・日像之鏡をつくったという倭鍛冶天津真浦や石凝姥の名がみえ、この日矛のモチーフが、新羅王子天日矛〈天日槍〉の渡来説話に用いられ、出石小刀や出石桙・日鏡などをもたらしたとされている。これらは、金銅の鍛冶を述べているのであり、韓鍛冶より古いことを印象づけてもいる。そして韓鍛冶が鉄の鍛冶を行なったことと対照されているのである。
『播磨風土記』によれば、天日矛の説話を有する地域は、秦氏の居住区とほぼ完全に重複し、播磨西部諸郡を占める。……さらに『風土記』によると、この郡〈飾磨郡〉に豊国村があり、筑紫〈北部九州〉豊国の神を祭るとあって、それが豊前〈福岡県〉秦氏の祭祀した香春の「新羅神」であることにまちがいなく、また同郡に新羅訓村もあり、「新羅人」の居住したところと伝えていることからも、この郡が巨智・秦・新羅人らの生活集団の形成されていた場所であることはまちがいない。
ここに新羅訓《しらくに》村があったばかりでなく、いまは姫路市となっているそこにはいまも白国神社、新羅神社などがあり、色麻村・射楯神社のもとだったはずの射楯兵主《いたてひようず》神社もある。それからまた、新羅・加耶からもたらされた金製垂飾付耳飾や銀象嵌の環頭大刀などを出土した宮山古墳などもある。
色麻古墳群の出土品
要するに、色麻町に射楯神社や伊達神社を祭った者たちは、播磨のそこから来た新羅・加耶系渡来人である秦氏集団の一派だったわけであるが、そのことは色麻古墳群などの出土品からも、その残影をみることができる。色麻古墳群については、前記『宮城県の歴史散歩』(新版)にこう書かれている。
色麻中学校前を通り過ぎた鳴瀬川の支流花川をはさむ上郷・一の関地区の水田地帯のなかにある大規模な群集墳が色麻古墳群である。一九五〇(昭和二五)年の調査では二九二基が確認されていたが、その後の開田ブームで多くが破壊された。
一九八二(昭和五七)年に上郷《かみごう》地区の圃場《ほじよう》整備事業に伴う開発調査で八八基が確認された。形式は河原石積横穴式で、大きいものは径二〇メートル、高さ三メートル、小さいもので径五メートル、高さ〇・五メートルであった。羨道《せんどう》・玄門《げんもん》・玄室《げんしつ》も確認され、出土遺物は人骨・鉄製直刀《ちよくとう》・刀子《とうす》・鉄鏃《てつぞく》・須恵器《すえき》・土師器《はじき》・金環耳飾などである。七世紀後半から八世紀にかけての県内最大規模の群集墳である。北方に御山《おやま》古墳、念南寺《ねやじ》古墳もある。御山古墳の墳頂部には延喜式内社伊達《いだて》神社がある。……
また、県道をはさんで色麻古墳群の東側に奈良時代の城柵か官衙跡と推定される一の関遺跡がある。古くから古瓦・須恵器・土師器・円面硯などが出土し、一九七六(昭和五一)年の調査で、土塁や建物基壇跡や掘立柱建物跡・竪穴住居跡が発見されて、色麻柵・色麻郡衙の有力な推定地となっている。
なおまた、色麻古墳群の周辺には、塚原古墳群、日光山古墳群、内林古墳群などがあって、あちこち古墳だらけの地域となっているが、そのうちの日光山古墳群からも、製鏡・鉄製直刀・鉄鏃・金環などが出土している。さらにまたいうならば、色麻町東北方の栗駒町にある鳥矢崎《とやさき》古墳群からは金銅製帯金具が出土している。
遠い栗駒町はおくとして、色麻町には色麻柵・色麻郡衙があったらしいことも注目すべきことであるが、色麻古墳群や日光山古墳群からは、播磨・飾磨郡の宮山古墳から出土した金製垂飾付耳飾に類する金環耳飾や金環などが出土したことも、注目されなくてはならない。なぜかといえば、それらの金製耳飾などを身につけていた者はかなりの豪族だったはずで、ただの「屯田兵」すなわち柵戸ではなかったということである。
「太閤様御召御直垂」
伊達氏に関連したこと、というよりこんどは伊達政宗自身にかかわることを、もう少し書かなくてはならない。というのは、政宗もまた、一五九二年にはじまった豊臣秀吉の朝鮮侵攻戦争に参加して得たものが、いまなおあちこちに残っているからである。
さきごろ、一九九〇年四月十五日の朝日新聞に、「朝鮮支配層の服『天翼』だった/伊達家伝来の品/秀吉が政宗に贈る」とした見出しのこんな記事が出ている。
仙台市博物館(高倉利一郎館長)所蔵の伊達家伝来品の中に、今から約四百年前の朝鮮で支配層の男性が着た「天翼」があることが、大妻女子大の神谷栄子教授(染織工芸史)の研究で明らかになった。天翼は韓国の墳墓からも出土しているが、伝世品としては、いまのところ博物館の品が世界でただ一つ。保存状態も良く、服飾研究の貴重な史料となりそうだ。博物館ではこの天翼を一七〜二六日、常設の政宗関連コーナーに展示する。
博物館が所蔵しているのは「太閤様御召御直垂壱領同写壱領」と書かれた木箱に納められている衣装二着。二着とも同じ形だが、複製が白く、本物は黄ばんでいる。大きさは丈が一メートル一〇。現在の和服のように左右の襟を斜めに重ね合わせる形式で、衣冠や束帯のような丸首ではない。胴から下はスカートに似た形で、ひだが付いている。薄い絹で出来ており、縫い合わせの針目は極めて細かい。
博物館の嘉藤美代子学芸員は「箱書きなどから、文禄二年(一五九三)に豊臣秀吉が朝鮮出兵した際参加した政宗に、ほうびの品として贈った着物であることは分かっていた。しかし、直垂《ひたたれ》と書いているものの、形が異なり、博物館所蔵となってから約四十年間、種類を特定できなかった」と言う。
「太閤様御召御直垂」というのがほんとうだとすれば、出兵した諸大名のうちのだれかが、朝鮮から掠奪《りやくだつ》したのを「献上」したものだったはずで、あの猿面冠者の豊臣秀吉がそれを着ていた姿を想像するとなんともおかしく、苦笑するよりほかない。それはそれとして、政宗が朝鮮侵攻戦争で得たものはそれだけではなかった。
ねこ流しと切込焼
よく知られたものとしては、松島町の瑞巌《ずいがん》寺に「臥竜梅」というのがあるが、それはあとのことにして、私は宮城県・仙台へくるよりさきに、岩手県の盛岡から平泉をひとまわりしていた。そのとき平泉文化史館の展示品をみて、それに付けられた掲示二枚を写真にとってきた。その一は「ねこ流し」というこういうものだった。
「ねこ流し」とは、古くから行なわれた沙金採取法で、「金子流し」のなまりともいわれている。金子板で川沙を精選し、さらにそれを蓆をしいた樋に流し、あとでその蓆を焼いて沙金をとる方法をいっている。
この方法は古く朝鮮から伝えられたともいわれているが、我国の産金は天平勝宝元年(七四九)陸奥国司百済王敬福という朝鮮からの帰化人が、百済人、唐人を使って、遠田郡涌谷から発見したのが最初といわれているから、「金子流し」もその頃からの伝来と考えられている。
以来、明治まで家内工業的に採取する方法として伝えられて来たが、近世初期に金山師が藩の許可を得て、大規模に経営するようになると、最初の試掘に使われる程度になってしまった。
産金で知られた、東北におけるその方法が示されたものだった。その産金のことについてはのち、その遺跡をたずねたときみることになるが、写真の二は「仙台藩切込焼」となっている、こういうものであった。
幻の磁器といわれている切込焼は、伊達政宗公が文禄二年(一五九三)朝鮮征伐の帰国にあたり、李朝の陶工を連れてきて、現在の宮城県加美郡宮崎町の切込部落で焼かせたという説と、又一説には政宗公が千利休の高弟、古田織部と親交があったことから、美濃の陶工を招き指導を受けたことが切込焼発祥の起因とも伝えられているが、大正初期廃窯となり幻の磁器となった。
「朝鮮征伐」とは恐れ入るが、日本における磁器の創始は、同じ朝鮮侵攻戦争時、鍋島藩によって連行されて来た九州・肥前(佐賀県)の李参平集団によるそれがはじめであるから(『日本の中の朝鮮文化』(11)「日本磁器の創始と有田」の項参照)、かりに「又一説」のようなことがあったとしても、それはやはり、政宗によって連れてこられた陶工たちによってはじめられたものだったにちがいない。
「日本にては室町・桃山時代には茶の湯の盛行に随い、朝鮮より輸入せられたる茶《ちやわん》・水こぼし等特に愛翫《あいがん》せられたれば、当時征韓〈秀吉による朝鮮侵攻戦争〉の諸将士は争うて陶工の優れたる者を伴い帰り各藩に於て新たに窯《かま》を開きそれぞれ特色ある陶磁器を作り出さしめ、日本の窯業《ようぎよう》は為めに急激の発展を見ることとなった。島津氏の帖佐《ちようさ》窯、鍋島氏の有田窯、毛利氏の萩窯、細川氏の八代窯、上野《あがの》窯、黒田氏の高取窯、松浦氏の平戸窯などがそれである」と関野貞氏の『朝鮮美術史』にあるように、実をいうと私は、連行された朝鮮陶工たちによるものは以上の九州諸藩や、山口県萩藩のそれだけかと思っていた。
ところが、東北の仙台藩にもそのような陶工たちによる切込焼《きりごめやき》(切込窯)というのがあったのである。私は平泉文化史館でその掲示をみるまでは、知らなかったものであった。しかも、展示されていたその磁器は、どれもすばらしいものだった。
奪いとって利益したもの
ついでにここでもうひとつのことをみておくと、一九九〇年六月二十九日付け毎日新聞夕刊の「視点」に、名古屋大教授(考古学)渡辺誠氏の「焼き物? 戦争」という一文がのっていてこうある。さらにいうならば、そのような焼き物だけではなく、ほかにもまたいろいろあったというわけである。
豊臣秀吉による文禄・慶長の役は、いうまでもなく侵略戦争である。一部でこれを焼き物戦争と呼ぶことについては、かねがね疑問に思っていた。そもそも肝心な秀吉の抱え込んだ陶工は、一人もいないのである。
中国はもとより韓国からも、数百年遅れて焼かれるようになった磁器が、その時拉致《らち》された李参平らによる伊万里焼である。これは出島からオランダ東インド会社の商品として、世界各地に輸出される。しかしそれは結果であって目的ではなかったのであり、焼き物戦争という言葉には、ごまかしの匂いが強い。その言葉の出現が明治時代らしいことも、なにやらうさん臭い気がするのである。
そして焼き物の他にも、この戦争の結果、多くの物がわが国にもたらされ、鎖国下の江戸時代の産業に多くの影響を与えている。鹿児島の樟脳生産もその好例である。樟脳はそれ自体でも貴重な薬品であり、カンフル剤の材料でもある。出島貿易では銅などとともに、重要な輸出品であった。そして明治時代にはセルロイドの材料として、ますます重要輸出品となる。
私達に身近な海苔《の り》やカキの養殖も、この時に伝わったのではないかと私は推定している。海岸の流木に貼りついた海苔をはがして、あぶって食べたらおいしかった――それから海苔の生産が始まったという原初的な民話が、韓国には伝えられている。
そして、このような例はもっと沢山ある。決して焼き物だけではないのである。それらの研究によって、奪いとって利益したものの大きさを冷静に理解することも、大切な現代的な課題ではないだろうか。
蘇った「幻の磁器」
ところで、「幻の磁器」といわれた伊達・仙台藩の切込焼であるが、これは近年になってその窯跡も発見され、新たに復興することになった。一九九〇年四月十八日の河北新報は、「陶芸の里 二八日“開村”/宮城・宮崎町/切込焼の魅力たっぷり体験/都市との交流の場に」とした見出しのもとに、そのことをこう報じている。
東北最古の磁器「切込焼」をテーマに町おこしをしようと、宮城県宮崎町が昭和六十一年度から切込地区で整備を進めてきた「陶芸の里」が今月二十八日オープンする。切込焼の展示館、創作室、山村広場などを備えた施設で、「陶芸を通じた山村と都市住民との交流」を掲げる宮崎の観光開発の目玉となる。
切込焼は、江戸時代から明治初期にかけて切込地区で焼かれた焼き物で、らっきょう形徳利など独特の形と素朴な染め付けが特徴。この切込焼の古窯跡が宮崎町切込地区に三ヵ所残っており、付近の山間地約五ヘクタールを総事業費八億円で整備したのが「陶芸の里」。
メーンとなる切込焼記念館は、木造二階建て(約九百平方メートル)で展示棟と創作・研修棟に分かれ、中央部には現在切込地区に窯を構える四人の陶芸家の展示室も設けられている。展示品は、常設展として宮城県内各地から集めた切込焼の伝世品と、切込地区の古窯跡からの発掘品約百点をまとめ、「切込焼・謎と美」と題して、その発祥はじめ未解明なところが多い切込焼の魅力を探る。
柴田郡にあった新羅郷
金為時と金一族
さて、青葉(仙台)城跡での私たちは、いまは観光地と化したそこの土井晩翠や島崎藤村の詩碑などをみてから、みやげ物店がひしめいているところの食堂で昼食をとった。そして、伊達政宗廟所の瑞鳳殿をへて、東北最大の遺跡である多賀城跡へ向かった。
多賀城跡は仙台から東へ十キロほどのところとなっていたが、そのまえに、そこでみるものとも関連するので、前日の私の行動をしるしておかなくてはならない。私は「新宿あづま会」一行と合流する三日まえから岩手県の盛岡や平泉あたりを歩きまわり、前日は仙台へ出て一行の日程にはなかったところをたずねたりしたことはさきに(「船形山から青葉城跡へ」の項)書いたとおりである。
このときは大阪にある「青丘文化ホール」の辛基秀さん(は仙台まで)と高淳日さんとがいっしょで、私たちは仙台市二日町にあった仙台郷土研究会をたずね、辛さんとはまえからの知り合いだった事務局長の逸見英夫氏に会った。そしていろいろな資料をみせてもらい、あるものは必要なところをコピーしてもらったりした。
ここでまずそのコピーのひとつを紹介すると、渡辺信夫編『宮城の研究』(二)「古代篇 中世篇(1)」に神居敬吉氏の「平安後期陸奥諸豪族の動向」があって、それに「金一族」という項がある。東北の金氏のことはさきの秋田県「象潟の金さんほか」の項でもみていて、そのとき私は、「それであったから、陸奥国気仙郡郡司の金為時が阿倍倉橋麻呂に結びつかないこともないであろうが、しかし、この東北の金氏というのは、新羅か加耶から独自に渡来したものではなかったかと私は思う」と書いている。
そういうことがあったので、それをもう少しくわしくみるわけであるが、いまいった『宮城の研究』にはそのことがこうある。
金《こん》氏は岩手県南部の大船渡《おおふなと》市、陸前高田市をふくむ気仙郡、および東磐井郡に勢力を張った豪族である。同氏は新羅《しらぎ》系の渡来氏族とされ、新羅王朝の末と称したようである。この氏族の呼び名がいつのころから「キン」もしくは「キム」でなく「コン」になったのかはわからないが、この当時は「コン」と称していたもののごとくである。現在でもこの地方に金または金野、あるいは今、昆、の姓の人々が多いと聞く。
金氏がどうしてこの地方に根を張るようになったか、詳しいことはわかっていない。『類聚国史』(巻百五十九田地上)によると、天長元年(八二四)五月に新羅人辛良、金貴賀、良永白ら五四人を陸奥国に安置して口分田を給したことが見え、また『日本三大実録』によると、貞観《じようがん》一二年(八七〇)二月、大宰府管内に住んでいた潤清、宣堅ら三〇人(ただし姓不明)および従来から同管内に移住していた新羅人らを合わせて陸奥の「空地」に移すべき勅が出され、同年九月にかれらを武蔵、上総、陸奥の諸国に移したことが見える。
だが、かれらが金氏の直接の先祖であったかどうかは不明である。奈良時代から平安初期にかけて、政府は新羅系の渡来者に対して警戒心をいだき、畿内や大宰府管内におくことをさけて、東国、および東北地方に配する政策をとっていたらしい。それらの渡来者集団のひとつが気仙郡、磐井郡に定着し、繁栄したものであろう。
『陸奥話記』に登場してくる金氏は国守方として気仙郡司金為時《こんためとき》、安倍方として河崎柵(東磐井郡川崎村)の主金為行《ためゆき》、金師道《もろみち》、金依方《よりかた》、金則行《のりゆき》、金経永《つねなが》などがある。
そのうち金為時は、気仙郡司と明記されているから同郡を支配した領主であったことは確実で、伝統的に郡司職を継承してきた家柄であったためにそう記されたのであろう。
ここにいう「国守方」「安倍方」とはいわゆる「前九年の役」における源頼義方とその相手方のことである。この「役」ではかれら金氏族は両方にわかれて戦ったようであるが、多くの者が安倍方についたことについて、秋田大教授の新野直吉氏は、「そこの豪族が安倍氏と結ぶ気がない限り、安倍氏は隣郡の勢力さえ支配することができなかった」(「在地豪族の東北支配」)としている。
かれらは相当な勢力をもっていたわけであるが、それはともかくとして、金為時がそこの郡司だった気仙郡や、金為行がそこの「主」だった東磐井郡の河崎柵跡をたずねてみるのもおもしろいのではないかと思われた。しかし、そこまでは遠くて時間がなかった。
新羅郷はいずこ
そこでこんどは、『和名抄』にのっている柴田郡にあった新羅郷のことだったが、この新羅郷についても、逸見さんの仙台郷土研究会にいくつかの資料があった。
それだったらと逸見さんは、これもそこにある久保田玄立《げんりゆう》氏の『奥州隠れキリシタン』に「第一次製鉄時代――新羅の里」という項があるのを示して、この久保田さんをたずねてみてはどうかと言った。
その『奥州隠れキリシタン』を手にとってぱらぱら開いてみると、巻末にたくさんの参考文献があげられているなかに私の『日本の中の朝鮮文化』もあって、奥付には著者の住所と電話も出ている。で、私たちは、仙台市西南方となっている柴田郡村田町の菅生に住むその久保田氏方へ向かうことになったが、そのまえに近くにあった宮城県仙台合同庁舎に寄って、宮城県教育庁文化財保護課をたずねた。
そして課長の佐々木光雄氏に会い、私は、見出しが「取っ手付き碗が出土/多賀城・山王遺跡」となっている、河北新報の写真入り記事の切り抜きをみせて、この出土品の碗をみたいと思うが、どうしたらいいだろうかときいた。すると佐々木さんは、
「ああ、それだったら、多賀城市の埋蔵文化財調査センターにありますよ」と言った。
「そうですか。その多賀城へはあした行くことになっていますが……」
「だったら、こちらから電話をしておきますから、どうぞみてください」
私は、一九八一年の十二月の記事だったその「碗」を何とかみたいものと思っていたが、それは佐々木さんに会ったことで、いともかんたんに叶えられることになった。
それは明日のたのしみで、今日は柴田郡の新羅郷だった。私たちは仙台合同庁舎前でタクシーをつかまえ、村田町の久保田氏方へ急ぐことになった。
山地のなかとなっていた村田町まではかなりの距離で、久保田氏がそこの住持となっている妙頓寺へ着いたときは、もうあたりが暗くなりはじめていた。電話をしておいたので、久保田さんはご自分が主幹となっている村田町郷土研究会員の高橋昭子さんといっしょに、私たちを待っていてくれた。
ここで、久保田さんたちと話をするまえに、久保田さんの『奥州隠れキリシタン』にある「第一次製鉄時代――新羅の里」をみるとこうなっている。ちなみにいうと、久保田さんは村田町で生まれて大谷大学を卒業し、仙台第一高校の教諭をつとめた人でもある。
昭和四十五年(一九七〇)ごろのある日、突然、新羅の渡来人の子孫と名乗る人々が十五、六名、柴田郡川崎町支倉《はせくら》を訪れ地元民を驚かせた。目的は彼等の先祖がこの地に集団移住したことを古文書によって確められ、一度でいいから先祖の眠る土地を自分の目で見ておきたかったということであった。
その後、民俗学関係の専門家が二、三人相次いでこの地を訪問され、始めてそのことが実証され、宿《しゆく》地区に次のような標識がかかげられたのである。
△新羅の里
現在支倉の地名がついているが、古くは、長谷倉《はせくら》とか馳倉《はせくら》と呼んだ。それ以前は新羅であったという。
永承六年(一〇五一)安倍頼時が、平泉によって反乱を起こして勢力を張ったので、朝廷は源頼義・義家父子に征討を命じた。前九年の役である。その折、源氏の武将、新羅三郎義光が、新羅(朝鮮)の帰化人三十七人を率いてきた。二十人は槻木《つきのき》の入間田に、十七人をこの地に住まわせた。
支倉に住んだ新羅人は優れた技術を持っていたので、砂鉄を精練して武器と農具を作って、戦後の用に供した。それ以来、新羅の郷と呼ぶようになった。それを証明するように、ここ沼の橇をはじめ、この森一帯に金屑が見られ、何時の頃からか、この森の奥に供養碑が建てられている。
遠く故郷を望んで没した新羅の人々の冥福を祈ってやまない。
昭和五十八年十二月
川崎町教育委員会
支倉には既に鎌倉時代から新羅系製鉄技術が導入されており、金子平《かなごだいら》、白木坂《しらきざか》などの地名にその面影を偲ばせている。更に支倉円福寺の尊像は、朝鮮で製作された塑像《そぞう》(粘土で造った像。日本では天平時代に流行した)であるとも言われ、非常に貴重なものである。
これが当地での製鉄技術の第一期の伝承と想像されるが、その後の消息は不明である。
どうも、「新羅三郎義光が、新羅(朝鮮)の帰化人三十七人を率いてきた。二十人は槻木の入間田に、十七人をこの地に住まわせた」とは、ちょっとはなしができすぎているようにも思うが、ところで、菊地勝之助氏の『宮城県地名考』によると、いまみた「槻木の入間田」が新羅郷ではなかったかとして、こう書かれている。
和名抄にある柴田郡の新羅郷は、村田と川崎との中間にある支倉・菅生(旧富岡村)の地方ではなかろうかと思われていたが、この地方には未だなんらの手がかりとなる様な遺名とか史的事実が見当らなかったのである。然るに埼玉県内の入間郡、新羅郡の調査からヒントを得て、槻木地方の入間野・入間田の地を調べた結果、恐らくこの地域であろうと推定するに至ったのである。
新羅の名称は古くは武蔵国(埼玉県)入間郡地方にあり、新羅郡と称した。その後新座《にいくら》郡と呼んだようである。
そして、『国郡沿革考』などを引いて新羅郡の成立について述べ、さらにつづけてこう書いている。
柴田郡の新羅郷は、是等《これら》武蔵国から、更に新羅系の人々を移住せしめたものか、または直接かの国から移民して来たものであるかは明らかでないが、少くともそれに関連するものと思われる。古史の伝える所によれば、新羅の瓦師を陸奥に配したという記録があり、それが仙台地方の古瓦(新羅瓦)の制作に関係あるともいわれている。
槻木駅付近の入間野《いりまの》、その北方の入間田《いりまた》の入間が、埼玉県の入間郡や入間川の入間と同様に、朝鮮東海の鬱陵島《うるま》すなわちその訛語「いるま(1)」から起ったものと見られているばかりでなく、この地方の位置や地勢、そして史跡などに富む点から見て、古《いにしえ》の新羅郷の地であろうと推定される。
つづけて注(1)については、「ウルマ(于陵)(大言海)」としてこうある。
「朝鮮、東南海上ノ鬱陵島、鬱ハ入声、韓音、うる、陵、即チ島ノ義、うるしまノ略ナルベシ。新羅、三国史記、智証王十三年『于山島《ウサンスム》』。〈『日本書紀』〉神代紀上、『葦原中国之宇佐島矣、今在 二海北道中 一』。我ガ云フコトヲ聞キ知ラズ、返答ナシト云フ意ヲうるまノ島ノ人ト云フ。一条天皇、寛弘年中、朝鮮ノ鬱陵島ノ人、因幡国ニ漂着ス、当時、其島ヲうるまト云ヘリ。其人言語通ゼザリシニ因リテ、此語ヲ成ス」
円福寺の新羅仏
それがまた転じて、ものごとを逆にいう「入間ことば」になったというのもおもしろいが、新羅語の「于山島《ウサンスム》」(鬱陵島)から「宇佐島」がきたというのもおもしろい。が、それはそれとして、私は久保田さんや高橋さんと話すことでひとつ知りたかったのは、久保田さんのいうその新羅郷に新羅神社があるはずだが、それはどこかということだった。
というのは、十数年前のことになるが、私はある読者から『日本と朝鮮』という小型の新聞の切り抜きを送られたことがあった。
それは数人で「柴田郡新羅郷の新羅神社をたずねた」ときの写真入りの記事で、私はいずれ東北をたずねるときにということで資料袋に入れておいたのだったが、それがどこへいったのかわからなくなっていた。
「記事のほうは忘れましたが、写真は古びた小さな神社となっていて、みんながその前に坐った記念写真のうしろの扁額には、たしかに新羅神社とあったとおぼえています」
小さな新聞記事ひとつにしても、それを失ってしまうとこういうことになるんだ、と思いを噛みしめながら私はきいたものだった。が、久保田さんも高橋さんも、それは知らないとのことだった。
してみるとそれは、菊地勝之助氏の『宮城県地名考』にある「史跡などに富む」「入間野・入間田」だったのであろうかと私は思った。
その入間田は私たちのいた村田町からそう遠いところではなかったが、しかしもう夜になっていたので、そこまでは、あきらめるよりほかなかった。
そのかわりというか、私たちは高橋さんの案内で近くだった支倉の円福寺をたずね、そこにあった「朝鮮で製作された塑像」というのをうす暗い電灯の下でみせてもらって、仙台へ戻ることにした。その塑像を新羅仏であると鑑定したのは、東北大教授の亀田攷氏だとのことだった。
なおまた、この塑像については、紫桃正隆氏の『仙台領キリシタン秘話』にこうある。「この像は推定一千年〜千二百年前の作で、朝鮮のシラギ(新羅)で作られ、酒田港あたりに陸揚げされたものと言われる」と。
多賀城跡をたずねて
日本三大遺跡の一つ――多賀城跡
時間は前後するが、柴田郡にあった新羅郷をたずねた翌日の私たちは、青葉(仙台)城跡から東北最大の遺跡である多賀城跡へ向かったことは、さきに書いたとおりである。
仙台の東十キロほどのところにある多賀城跡は、近年では奈良の平城京跡、福岡の大宰府跡とともに日本三大遺跡の一つということになり、国の特別史跡に指定されている。ここで、高柳光寿・竹内理三編『日本史辞典』「多賀城」の項をみるとこうある。
宮城県多賀城市に築かれた古代城柵。初置年代は諸説あって不詳。奈良時代にはここに陸奥国府および鎮守府がおかれ、蝦夷地経営の拠点となった。八〇二(延暦二一)坂上田村麻呂が鎮守府を胆沢城へ移したのちは国府のみとなり、前九年・後三年の役には源頼義がここを拠点とし、南北朝時代は義良親王・北畠顕家の治所となった。仙台平野の北端に位置し、外城の規模は東西約〇・九キロメートル、南北約一・一キロメートル、内城がほぼ中央にあり、土塁の一部が残っている。外城土塁南側中央に多賀城碑がある。最近、文書が土中より発見され注目されている。
ここにいう胆沢《いさわ》城とは岩手県水沢市にあるもので、鎮守府すなわち蝦夷征討軍の基地を、宮城県からさらに北進させたものであった。これについてはのちの岩手県でまたふれることになるが、なおついでまた、多賀城跡調査研究所研究第二科長・高野芳宏氏の「多賀城と官寺」によってそれをもう少しくわしくみると、こういうふうになっている。
「多賀城」そのものの初見は宝亀十一(七八〇)年の伊治公呰麻呂《いじのきみあざまろ》の乱の記事で、上治郡の大領であった呰麻呂率いる蝦夷軍が伊治城で按察使紀広純《あぜちきのひろずみ》を殺害した後多賀城を襲い、府軍のものを奪った上放火したとある。
また、この記事には「其城久年国司治所」とあり、以前から多賀城が国府であったことがわかる。この乱に代表される八世紀後半の蝦夷反乱の性格は支配の強化に対する民衆の抵抗とみられ、以後九世紀はじめまで、政府が繰り返して編成した征討軍と蝦夷との間で戦争が続く。その後については『日本三代実録』貞観十一(八六九)年陸奥国大地震の記事から、多賀城下が大被害を被ったことが読みとれるが、これを最後として多賀城についての明確な記事は姿を消す。
昭和三十八年に始まる発掘調査により、多賀城は周囲が築地(土を丁寧に突き固め屋根をかけた土塀)で区画されており、一辺がおよそ八〇〇メートルの不整方形をなすこと、このほぼ中央に儀式や重要な事務の場である政庁があり、まわりには実質的な業務を行った役所群が置かれていたことが知られた。また、これらの施設は八世紀前半に創建された後、建て替えや修理を繰り返して十世紀中頃まで存続したことがわかった。……
出土遺物についてみると、膨大な量の瓦をはじめ、硯・刀子や漆紙文書・木簡、日常の食事のほかに宴会に用いられた土器や木器、刀・弓・鉄鏃・矛などの武器、鋤・手斧などの造営時に用いられた工具などがある。このうち漆紙文書は反故《ほご》紙を漆液保管用の蓋紙としてその上面に密着させたため、付着した漆の保護作用によって土中にあっても腐らずに残った文書である。
出土した漆紙文書には計帳用文書・暦・請求文書・田籍などがあり、年紀・人名を記したものもかなりみられる。これによって宝亀十一(七八〇)年の伊治公呰麻呂の乱直後の緊迫した時期に、陸奥国内の各郡に武器・粮穀などの負担が課せられたことなど、多賀城の活動の様子を具体的に知ることができる。
高野氏の「多賀城と官寺」には、さらにつづけて官寺であった「多賀城廃寺跡」や「陸奥国分寺跡」、「黄金山産金遺跡」などのことも書かれているが、それについては、ここでは一応はぶくことにする。
陸奥守・百済王敬福
私たちはまず、いまみた多賀城へ直行した。「まず」といったのは、前日、宮城県教育庁文化財保護課長の佐々木光雄氏にみせてもらうことをたのんだものがそこにある、多賀城市埋蔵文化財調査センターのほうはあとまわしとしたからである。
東辺一千メートル、西辺七百メートル、南辺八百八十メートル、北辺八百六十メートルという外城のなかに、外城の中心から南よりに東西百六メートル、南北百七十メートルの長方形に土塀をめぐらした内城をもつその城跡は、何とも広大なものであった。写真をとろうにも、どこからとっていいか、わからないようなものだった。
私たちはみんなばらばらになって、それぞれあちらこちらとただ歩いてみるよりほかなかった。私は内城中央あたりの正庁跡に立ってみたが、そこは丘陵台地に築かれた一段高い台地となっていて、南に仙台平野の一部が望まれた。そういう眺めからして、いかにも多賀城が築かれる場所にふさわしいところと思われた。
「多賀城が正史に登場するのは『続日本紀』の七三七年(天平九)四月で、『多賀柵』という名称である」(前記『宮城県の歴史散歩』)とあるように、それのはじめは、いわゆる蝦夷に備えた『柵』であった。古代の東北は、原住民(縄文人=アイヌ)であったいわゆる蝦夷・エミシとの抗争に明けくれたところだったとは、私もこれまでにのべてきたが、東北大教授・高橋富雄氏の『宮城県の歴史』にもそのことがこう書かれている。
東北の古代史とは、詮ずるところ、蝦夷とどう戦い、これをどう治め、開拓をどこまでおしすすめることができたかをめぐっての歴史である。多賀城には、国府鎮守府が並行し、その北にも一〇にちかい城柵をつらね、出羽にも同様、出羽柵・秋田城・雄勝《おかち》城などの諸城柵をおいて、北辺《ほくへん》のまもりをかためていたのであるが、それらはすべて、その蝦夷への対抗措置であった。
そのようにしても、古代政府が確実にその支配下におくことのできたのは、岩手県と秋田県の、それぞれ中央部あたりまでであった。そこから北、北海道にかけて、蝦夷はいぜんとしてその独立を保持していたのである。
多賀柵がいつから多賀城となったかはわからないが、その多賀城の主となっていたのは陸奥守としての百済王敬福《きようふく》であった。敬福については、前記『日本史辞典』にこうある。
六九九〜七六五(文武三〜天平神護二)奈良中期の官僚。舒明天皇のころ渡来した百済義慈王の子善光の曽孫。王の姓をもつ百済氏の代表的人物。七三八(天平一〇)ころより陸奥・上総・常陸などの国司として東北経営にたずさわり、七四九(天平勝宝一)東大寺盧舎那仏の鍍金のため陸奥から黄金九〇〇両を献じ、従三位に叙された。おもに武官としての働きを示し、七五七〈年〉橘奈良麻呂の乱、七六四〈年〉藤原仲麻呂の乱にはともに征討軍に属し活躍。死後、子孫も蝦夷征討に参加、東北経営にあたる一方、桓武・嵯峨・仁明天皇と姻戚関係を結び勢力を広げた。
「子孫も蝦夷征討に参加、東北経営にあたる」とは、さきの山形県「鶴岡をへて城輪柵跡へ」の項でみた、六代にわたって出羽守となっている百済王三忠、同文鏡、武鏡、英孫、聡哲、教俊らのことである。それらと同族であり、祖でもあった陸奥守の百済王敬福のことは、あとの黄金山産金遺跡でまたみることになるが、多賀柵(城)ということになると、ほかにまた、敬福の陸奥守とならぶ鎮守将軍から征夷大将軍となった坂上田村麻呂がいる。
坂上田村麻呂の“蝦夷征討”
坂上田村麻呂がどういう出自の者であったかについては、さきの秋田県「田沢湖・大曲・十文字」の項でみているが、これまたちょっとわずらわしいか知れないけれども、まず前記『日本史辞典』をみると、坂上氏は「古代の渡来系氏族である東漢《やまとのあや》氏の一族」とあって、田村麻呂のことはこうなっている。
七五八〜八一一(天平宝字二〜弘仁二)平安初期の武将。苅田麻呂の子。七九一(延暦一〇)征夷大将軍大伴弟麻呂の下に征東副使として蝦夷を討ち、次いで征夷大将軍となった。八〇二、胆沢《いさわ》に築城、鎮守府をここに移し、蝦夷地平定に大きな功績を残した。その一生は模範的武将として尊崇され、征夷大将軍の職名は長く武門の栄誉とされた。
坂上田村麻呂が征夷大将軍となったのは、胆沢城を築く五年前の七九七年、四十歳のときのことであった。かれのいわゆる蝦夷征討がどういうふうであったか、くわしくはわからないけれども、宮城教育大学長・大塚徳郎氏の『坂上田村麻呂伝説』によってその一端をみるとこうなっている。ここにみられるのはかれが征夷大将軍となった以後、「再度の征夷」のことである。
次の征討に対する準備として、〈延暦〉十五年〈七九六〉十一月には伊治《いじ》城と玉造塞《さく》との間に駅をおいて、危急の場合の連絡を密にすることにした。また、相模《さがみ》・近江《おうみ》・丹波《たんば》・但馬《たじま》・伊勢・参河《みかわ》など六国から九千人の兵を徴発して伊治城にうつしている。
十七年閏五月には田村麻呂は従四位上の位に昇ったが、この年に京都に清水寺を建立して観音を安置したと伝えているのは、征討の大任を果たすための祈願を行おうとしたものであったとみられる。
さらに征討の準備が二年間なされて、いよいよ二十年〈八〇一〉二月に天皇から節刀を賜《たま》わって東下した。今回動員の兵力は四万であったようで、九月には「夷賊を討伐す」という報告が中央政府にもたらされ、十月には帰還して、節刀を返上している。
かくて征討は終わり、「陸奥国の蝦夷等代を歴《へ》、時を渉《わた》りて辺境を侵乱し、百姓を殺略す。是《これ》を以て従四位上坂上田村麻呂大宿禰等を遣わして伐《う》ち平げ掃《は》き治めしむる(略)」という詔が出て、この功によって田村麻呂は従三位を授けられた。この回の征討について直接残されている記録でうかがえるのは以上の如くであるが、弘仁二年〈八一一〉十二月の詔によると、遠く閉伊《へい》村(現在の岩手県北部)まで征伐したとあり、胆沢《いさわ》地方(岩手県水沢市)は完全に中央の支配下にはいったものとみられる。田村麻呂はついで近衛中将に任ぜられた。
翌二十一年〈八〇二〉一月には、新しく平定した地方に胆沢城を築城することになって、田村麻呂は現地に下った。同月、駿河《するが》・甲斐《かい》・相模・武蔵《むさし》・上総《かずさ》・下総《しもふさ》・常陸《ひたち》・信濃《しなの》・上野《こうずけ》・下野《しもつけ》などの国から浪人四千人を胆沢城に移して、新しい城をまもらしめることにしている。胆沢城の完成の時期は明らかでないが、二十年の年内に完成したものとみられる。
同年四月には蝦夷の有力者で、蝦夷を率《ひき》いて征討軍を悩ましていた中心人物とみられる大墓公阿弖流為《おおはかのきみあてるい》と盤具公母礼《ばんぐのきみもれ》とが同族五百人を率いて降ったので、田村麻呂はこの二人を連れて七月に帰京している。『日本紀略』の同年七月二十五日の条に「百官表を抗《こう》して、蝦夷を平ぐるを賀す」とある。この二人の蝦夷は八月に河内国の杜山《もりやま》で処刑された。田村麻呂はこの処刑に反対して、
「此の度は願いに任《まか》せて返し入れ、其の賊類を招かん」と主張したが、大部分の官人が、
「野性獣心、反覆定まりなし。偶々《たまたま》朝威に縁《よ》りこの梟師《きゆうし》を獲たり。縦《たと》え申請に依るとも、奥地に放還せば、いうところの虎を養い患《わざわい》を遺《のこ》す」と主張し、田村麻呂の意に反して、彼らの処刑が行われてしまったのである。
いつの世にもこういう「大部分の官人」はいたもので、降伏・帰順してきた者をそうして処刑するとは、ひどいことをしたものである。そういうことがあったからだとも思うが、以後、いったん帰順した蝦夷も何度かにわたって反乱・反抗をくり返し、それが十一世紀の「前九年の役」「後三年の役」までつづくのである。
なお、仙台の河北新報社には、大墓公阿弖流為の首像が安置されているが、一九八二年九月二十九日、同社長の一力一夫氏が祭主となって、その除幕式がおこなわれたものであった。この首像は、一六六四年の寛文四年に東北の水谷加兵衛尉という人が鹿島神宮に奉納したものである。
多賀城市の古墳出土品
さて、私たちは広大な多賀城跡をあちらこちらと歩いてみたあと、近くの多賀城市中央二丁目にあった多賀城市埋蔵文化財調査センターをたずねた。前日会った宮城県教育庁文化財保護課長の佐々木さんが電話をしておいてくれたので、同センター主任研究員の高倉敏夫氏が、待ちかねたようにして私たちと会ってくれた。
そして、高倉さんの案内で私たちはセンター内の展示室をみせてもらうことになったが、そのまえに私は、かねてからみたいと思っていた「把手付碗《とつてつきわん》」もさることながら、高倉さんからもらったセンターの『常設展示解説書』を開いてみて、目をみはった。カラー写真を中心としたもので、そこには私の知らなかったいくつかの古墳と、それからの出土品とが示されていた。
もちろんどれも多賀城市にあるもので、大代《おおしろ》横穴古墳群、稲荷《いなり》田《でん》古墳、田屋場《たやば》横穴古墳群、丸山囲《まるやまがこい》古墳群などがそれだった。出土品としては、稲荷田古墳出土の横瓶・銀環なども注目すべきものだったが、とりわけ、大代横穴古墳群出土の鉄刀・金環・勾玉・金銅飾頭椎《かぶつちの》太刀《た ち》などは意想外のものであった。同じ金銅飾頭椎大刀は名取市の山囲《やまがこい》古墳からも出土していて、その写真もいっしょにのっていたが、それの説明にこうある。
「頭椎大刀 東北では福島・宮城県からのみ出土しており、横穴古墳の分布と一致している。この大刀は、七世紀ころ東国に勢力を伸ばした物部氏と強くかかわるものであるとする見方もある」
『常設展示解説書』のそれには、仙台市大蓮寺窯跡から出土した器台・《はぞう》とともに、私がみたいと思っていた山王遺跡出土の把手付碗・の写真ものっていて、それの説明はこうなっている。「大蓮寺窯跡は東北最古の須恵器窯跡で、五世紀中〜後半ころのものと考えられている。山王遺跡出土のは大蓮寺窯で焼かれたものと考えられる」と。
山王遺跡出土の把手付碗
把手付碗だけふれていないのがおもしろいが、最古の須恵器窯で出土した器台・などにしても、写真でみたところでは、それも古代朝鮮でつくられた陶質土器のように思われた。しかしそれはおいて、私がそのうちの把手付碗をどうしてみたかったかというと、さきの「柴田郡にあった新羅郷」の項でもちょっとふれたように、一九八一年十二月四日付け河北新報の「取っ手付き碗が出土/多賀城・山王遺跡」とした見出しの記事と、そこに出ている碗(椀)の写真とによってだった。まず記事のはじめのほうを示すと、こうなっている。
多賀城市の山王遺跡から須恵器の「取っ手付き碗《わん》」が出土した。コーヒーカップそっくりのこの土器は、古墳時代に祭祀《さいし》に使われたものだが、焼き具合などから多賀城市教委は「仙台市・大蓮寺遺跡からのものと同じ五世紀半ばの“作品”で、須恵器としてはわが国最古の部類に入る貴重なもの」と話している。
「最古の部類に入る貴重なもの」とはよく言ったもので、私がその記事と碗の写真とにどうして関心をもったかというと、こちらは一九八三年五月二十九日の朝日新聞(大阪)であるが、これには「朝鮮製土器/ピタリ分析/三辻利一・奈良教育大教授/粘土の『戸籍簿』作り照合」という見出しの記事をみたからであった。
要するに三辻教授は、「この十年間に、考古学関係者の協力で、内、外一万ヵ所の土器片を集め、粘土の『戸籍簿』をつくりあげた。このデータと、和歌山市の郊外にある鳴神、音浦両遺跡から出土したデータをつき合わせた結果、慶州など朝鮮半島南部で生産された土器が五点見つかった。小型のコーヒーカップの形をした『とっ手付きわん』(口径八センチ、高さ七センチ)や高坏・カメなどで……」というものだったが、これにも「和歌山県・鳴神遺跡から出土した朝鮮半島産の『とっ手付きわん』」としたその写真がのっていて、それが多賀城市の山王遺跡から出土した「取っ手付き碗」とそっくり同じものだった。
私は高倉さんがウインドを開けてくれた展示棚の、山王遺跡出土のその碗をとりだして写真にとったり、また、手でなでてみたりした。それがはるばる、どういうふうにしてそこまで来ていたかと思うと、ある感慨をおぼえさせられたものだった。もちろん、古墳時代の渡来人とともにきたものであろうが、しかし、それが東北・宮城県の多賀城市でなかったとしたら、そう感慨をおぼえることもなかったにちがいない。
というのは、そういう土器は九州などを含む西日本や東北地域以南・以西の東日本では、ざらにみられるものだったからである。たとえば、奈良県立橿原考古学研究所編『橿原考古学論集』(第六集)にある関川尚功氏の「古墳時代の渡来人――大和・河内地域を中心として」によると、「朝鮮系土器には周知のように陶質土器と軟式土器がある」とし、「陶質土器はやはり初期須恵器との判別が困難な場合も多い」としたうえで、西日本十八府県の三百十八ヵ所から出土した古墳時代の土器は、その八〇パーセントまでが朝鮮系土器であるとなっている。
ついで私たちはまた高倉さんの案内で、多賀城市浮島字宮前の東北歴史資料館をおとずれた。かなり広壮な資料館で、私たちはそこでも陳列品やパネル写真によって多賀城跡などのあれこれをみせてもらい、塩竃《しおがま》市のほうへ向かったが、この日の泊りは松島簡易保険センターとなっていた。
黄金山産金遺跡まで
瑞巌寺の臥竜梅
翌日もよい天気にめぐまれ、この日の午前は松島湾周遊の船で、松島町松島字町内の瑞巌寺にいたった。九世紀に慈覚大師が開創したものを、一六〇九年の慶長十四年に伊達政宗が復興・建立したという瑞巌寺は、日本三景の一つとされている松島観光の中心のひとつとなっているものだったが、私がそこでちょっとみたかったのは、境内にある「臥竜梅《がりゆうばい》」といわれる梅の樹であった。
その梅樹は伊達政宗が豊臣秀吉の朝鮮侵攻戦争に参加したとき、朝鮮から持ってきたもので、いまもそれは瑞巌寺本堂前に老樹となって生きていた。これについては、柳田知恕夫氏の「政宗と臥竜梅」にくわしいので、それをかりてみることにする。
老杉の鬱蒼と茂る〈瑞巌寺〉参道を行くと、正面に正門があり、向って右手に庫裡がある。今、正門は平素閉ざされて庫裡がわの小門から門内に入るようになっているが、こうして入るとちょうど正門裏側に二本、低い竹の垣根に囲まれた梅の大樹を見ることができる。
どちらも臥竜梅の表札が立てられているが、右側は紅梅で左側は白梅である。
大きさはどう表現したものだろうか、とにかく最前の竹の垣でいうと、一株をかこんでいる垣根の東西が十五間、奥行も十三間くらい。梢の高さは正門の梁《はり》を越えている。
木は根本から数本に分れ、それぞれがそのまま屹立《きつりつ》したり、うねうねと地表をうねって、うねった末に頭をもたげるように天空に枝をつき上げている。このように、地にすれすれにしばらく幹を逼《は》わせてから、普通の梅樹のような上への伸びかたをするので、臥竜の名が起ったものと思われるが、臥竜の梅の名が韓国での呼び名であったものか、それともこの地で名づけられたものであるかは明らかでない。
李朝時代の朝鮮から政宗が持ってきたその梅樹は、仙台城の副城であった旧若林城跡(いまは宮城刑務所の広庭)や西公園の桜丘神社脇ほかなどにもあるという。
塩竃神社と田村麻呂
瑞巌寺からの私たちは、こんどは塩竃市一森山《いちもりやま》の塩竃神社へまわった。石段を登った山腹にあって、広さ二十七町歩という境内をもった広壮な神社だった。「東北鎮護陸奥国一之宮」となっているもので、神宮皇学館大教授だった岡田米夫氏の『神社』(「日本史小百科」(1))に、その神社のことがこうある。
日本三景の一に数えられる松島、その松島湾の一部をなす塩釜湾の入江に、湾内を望む景勝地一森山があり、ここに塩竃神社が鎮座する。西南二キロ半ばかりのところは、蝦夷に対する前進基地として設けられた東北の鎮守府多賀城の跡で、近来遺跡の発掘が進み、その全貌が明らかになりつつある。このようにこの地方は、勿来《なこその》関《せき》を越えた奥州のうちでも比較的早く開かれたところであり、塩竃神社もまた防備の一環として創建されたのであろう。
つまり、この神社ができたのもいわゆる蝦夷に備えたものではなかったか、というのであるが、そこで思いだされるのは、さきにみた坂上田村麻呂である。東北にはあちこちいたるところに田村麻呂にかかわる遺跡がみられるが、それは純軍事的なものばかりではなく、かれが建立したとなっている神社・寺院もまた多かった。
たとえば、田村麻呂の建立という寺院は京都の有名な清水寺、福井県小浜市の明通寺などほかにもあるけれども、これもさきにみた大塚徳郎氏の『坂上田村麻呂伝説』には、江戸時代の相原友道によって書かれた『平泉雑記』にある「田村将軍建立堂舎」が引かれて、「一、鎮守八幡宮(岩手県水沢市)」はじめ、二十一社寺があげられている。そしてその「八、」が「塩竃社(宮城県塩竃市)」となっているのである。
さきの「色麻・天翼・切込焼」の項のはじめにみた、吉田東伍氏の『大日本地名辞書』に色麻《しかま》氏族の氏神だったとする伊達《いたて》神社、射楯《いたて》神社があげられ、「奥州に、伊達、色麻の二郡あるは、共に〈韓国《からくに》〉伊太代《いたて》〈〉神の氏人の遷住《せんじゆう》に因《よ》れるを悟るべし。今、四竃《しかま》駅に在《あ》りて、塩竃神と誤る者《は》、是也《これなり》。香取神をも配祀す」とあるのも気になったが、その「塩竃神」といまの塩竃神社とがどうかかわるのかはよくわからない。
それはよくわからないけれども、私たちのたずねた塩竃神社が坂上田村麻呂の建立であるというのは意外のようでもあり、また、意外ではないようでもある。だいたい、総称して「しおがまさま」といわれるこの神社は、もとは宮城県岩切村からこちらにうつされた志波彦神社が『延喜式』内の名神大社であるのに対して、どういうわけか、陸奥国一の宮となっている塩竃神社は『延喜式』内とはなっていないのである。
それに、塩竃神社の祭神は武甕槌神《たけみかづちのかみ》・経津主神《ふつぬしのかみ》となっているが、この「武甕槌神と経津主神という武神は、東北地方鎮定の願いをこめて、ややおくれて勧請されたものの如くである」(岡田米夫『神社』)となっている。このふたりの「武神」はさきの『大日本地名辞書』にいう「香取神をも配祀す」とあるそれなのである。
こうしてみると、東北の征夷大将軍であった坂上田村麻呂が塩竃神社をあらたに建立したか、もとは色麻氏族の祭った素朴なそれを再建したものだったかもしれないと思えてくるが、しかし、いまとなってみれば、それはどちらでもいいようなものかもしれない。その塩竃神社からの私たちは、こんどは塩竃市の北方となっている、遠田《とおだ》郡涌谷《わくや》町の「黄金山産金遺跡」へ向かうことにした。
篦岳山の篦岳観音
涌谷町での私たちはまず、これも伊達氏の居城のひとつだったという涌谷城跡の、涌谷町史料館へ寄ってみた。なかの史料は伊達氏関係のものが主で、これといって、別にみるものはなかったが、そこにあった『黄金山産金遺跡』『篦岳山《ののだけやま》』などのリーフレットをもらうことができた。
篦岳山には、二十一坊からなる一山寺院の中心となっている無夷山篦峯寺《こんぼうじ》があって、そこは古来から「殺生禁断の聖地で、大門から一歩踏みこめば、藩も罪人を捕えられなかったといわれ、ただ一つの村外地であった」とあるのがおもしろかったが、ところで、ここにもまた坂上田村麻呂にかかわる篦岳観音があって、それが篦峯寺の本堂となっていた。さきにみた大塚徳郎氏の『坂上田村麻呂伝説』にある「田村将軍建立堂舎」に「九、篦岳観音」となっているものだったが、『篦岳山』にはそれのことがこうなっている。
篦岳観音(篦峯寺本堂)は坂上田村麻呂将軍が蝦夷を討ったとき、敵味方の戦死者をこの丘に葬り、将軍が深く信仰していた清水寺(京都)の十一面観音を勧請し、清水寺の僧・延鎮法師を以って開基となし、大同二年(八〇七年)に建てたのがこの観音堂である。
黄金山神社と産金遺跡
田村麻呂はなかなかヒューマンな将軍だったようでもあるが、それはおいて、私たちは涌谷町黄金《こがね》迫《はざま》にある黄金山神社・黄金山産金遺跡をたずねた。そこはあまり高くない山間《やまあい》で、すぐに、「黄金山神社」とした大きな石碑と、これまた大きな鳥居とが私たちの目にはいり、その左手のほうにはまた、「史跡黄金山産金遺跡」とした石碑もたっていた。そこの鳥居をくぐり、山腹に向かってしばらく行ったところに古びた社があって、それが黄金山神社本殿となっていた。
天平時代は仏教がさかんだったからか、東北大教授・伊東信雄氏らの発掘調査によると、もとは六角円堂の仏堂だったものが、のち延喜年間(九〇一〜九二三)に神社として建て直されたものではないかとしている。黄金山神社の祭神は天照大神・金山彦命・猿田彦命となっているが、この神社および黄金山産金遺跡については、前記『宮城県の歴史散歩』(旧版)にこう書かれている。
陸奥国にはじめて黄金の産出したところには、いま黄金山神社がまつられている。
黄金山神社は『延喜式』にみえる式内社である。奈良東大寺の大仏造営に際し、仏身に塗るべき黄金が不足し、聖武天皇をはじめ関係者が憂慮していたとき、陸奥国守百済王敬福が七四九年の春、陸奥国から産出した黄金九百両(およそ一二・五キロ)を朝廷に献じたことは、わが国最初の産金として国家的に慶祝せられた著名な事件である。
聖武天皇はその喜びをのべ、年号を天平感宝と改め、大赦《たいしや》をおこない、産金関係者が広い範囲にわたって賞された。当時、越中守として任地にあってこの吉報をしった大伴家持は、「陸奥国より金を出せる詔書を賀ぐ歌」を作り、万葉集巻一八にのこしている。古代東北におこった事件で、これほど史書に特筆されたものはほかにない。
小田郡は現在の遠田郡の東部にあたり、黄金を産出したのはこの涌谷町黄金山神社を中心とする一帯の山であった。神社の下を流れる小川からは、いまなお砂金が検出されて、往時をしのばせる。
これより四十年ほどまえの慶雲五年、武蔵(埼玉県)の秩父で、新羅系渡来人の金上元らによって銅が発見されたときも、「天地《あめつち》の神の顕《あらわ》し奉れる瑞《しるし》の宝」ということで、ただちに年号を「和銅」と改め、大赦などをおこなっているが、陸奥における産金は、それ以上の文化的事件だったのである。また、その産金のことは、涌谷町刊の『黄金山産金遺跡』に「韓国との関係」という項があってこうある。
産金を可能とさせたのは、百済系の帰化人の技術者たちで、余足人、朱牟須売、戸浄山の名がみえる。また、百済王敬福が陸奥守・国守であり、彼が都に初めて金をもたらしたことも注目される。なお、黄金迫付近の地形が朝鮮南部の砂金産出地渓頭付近と酷似しているし、黄金山神社発掘の六弁の瓦模様も韓国と関係があるという。
百済王敬福と百済王族
もちろん、その金を都にもたらしたのは、陸奥守としての百済王敬福であったが、しかしかれ自身、またはかれ一人がそれを発見し精錬したものではなかったはずである。たとえば、いまみた余足人(余は百済王家の本姓)は百済朝臣足人ともいったもので、かれも産金の功によって正六位上から従五位下に叙せられ、正陸奥介兼鎮守副将軍となっていたが、さらにまた「蝦夷教導」の功により従四位下、東海道節度副使となった者だった。
だいたい、さきにもふれたかと思うが、ここにみられる百済王族というのは、六六〇年に百済がほろびたことで渡来したものである。そしていまそこに百済王神社、大阪府特別史跡の百済寺跡がある河内(大阪府)の枚方《ひらかた》を本拠としていたものだったが、百済王敬福はその中興の祖となった者であった。『続日本紀』天平神護二年(七六六)条にあるかれの「評伝」の一部をみるとこうなっている。
〈百済王敬福は〉放縦にして拘らず、頗《すこぶ》る酒色を好む。感神聖武皇帝、殊に寵遇を加えて賞賜優厚なり。時に士庶あり来りて清貧なることを告ぐれば、毎《つね》に他物を仮して望外に之を与う。是《こ》れに由り頻《しき》りに外任を歴《ふ》れども家に余財なし。然して性了弁にして政事《まつりごと》の量《りよう》あり。
要するに、大きな人物だったということで、そういうことと関係あるのかどうかはわからないが、かれを代表とする百済王族からは、ほかにもたくさんの人物が出ている。竹内理三・山田英雄・平野邦雄編『日本古代人名辞典』には本姓の余氏とは別に、百済王、百済氏だけでも五十六氏ほどが出ていて、さきにみた六代までの出羽守を除いても、各地の国守となった者が次のようになっている。
百済王遠宝・常陸守/百済王玄鏡・石見守/百済王孝忠・遠江守/百済王俊哲・下野守/百済王仁貞・備前守/百済王全福・尾張守/百済王南典・備前守/百済王公和麻呂・但馬守/百済王利善・飛騨守/百済王理伯・肥後守/百済王良虞・伊予守、など。
しかし、平安時代のおわりとともに、その「百済王」氏というのはなくなってしまう。そしてそれらの子孫は、三松氏などという者になったりして、みな日本人一般として拡散しているのである。
横穴古墳群と古式古墳
「横穴古墳は朝鮮文化」
黄金山産金遺跡のある涌谷町にはほかにまた、三百基を超える追戸《おいど》横穴古墳群があり、一九七一年に同町小里で発見された周囲一キロ四方の、東北最古という奈良時代初期からの古代窯跡があった。その窯跡からは、ほぼ原形のままの須恵器十数点と、半壊のもの数百点が出土し、同年八月十七日付けの毎日新聞はそのことをこう報じている。
これらのなかの一部は多賀城から出てきたものより古く、福島市小倉寺の窯跡から出土した須恵器よりやや古いものと推定されている。
これからみて、奈良時代の初期(多賀城より古い時代)同町一帯周辺には、すでに中央の文化を持ち込んだ政治、軍事の基地が存在し、地方豪族なども住み、大きな集落を形成し、これに必要な土器を官営で大量に作っていたものとみられる。
それがはたして、当時の奈良をさす「中央の文化を持ち込んだ」ものだったかどうかはわからないが、そこに「政治、軍事の基地が存在し、地方豪族なども住み」というのがおもしろいので、できたら、私はそこも行ってみたいと思っていたものだった。だが、もう時間もなかったし、仙台で合流した「新宿あづま会」一行の日程にもしたがわなくてはならなかったから、そこはそのままとして、この日の泊まりとなっていた涌谷町西北方の鳴子《なるご》温泉へ向かった。
そして翌日は鳴子峡、鳴子こけし館、鳴子ダムなどを一巡し、鬼《おに》首間《こうべ》欠泉なるところで昼食をとったあと、午後には岩出山《いわでやま》町の旧有備館《ゆうびかん》にいたった。有備館は伊達氏の学問所だったもので、大名式の回遊式池泉庭園が有名だとのことだったが、しかし、私としてはそういう庭園にはあまり興味がなかった。
だが、私はその旧有備館のなかにはいったことで、意外なものを目にすることになった。そこの一室は古墳出土品の展示場となっていて、それも意外だったが、そこにこういう掲示板がたっていた。
川北横穴古墳群について
展示されている土師器《はじき》、須恵器《すえき》は古墳の一部から発掘したもので、この地域に現在も三百余基の古墳が確認され、七―八世紀家族墓と言われる。横穴古墳は朝鮮文化の渡来によるもので、当時玉造柵が四粁南にあり、駐屯兵士の墓と推定される。
私はそれをみて、「ほう――」と思ったものだった。もちろん、「横穴古墳は朝鮮文化の渡来によるもので」とはっきり書かれていることに目をみはったものである。
というのは、一般に考古学者たちはそのことをよく知っているにもかかわらず、なかなかこのようにはっきりとは書いていなかったからである。たとえば、ここで水野清一・小林行雄編『考古学辞典』「横穴式石室」の項をみると、それがこうなっている。
(4)横穴式石室は、日本だけのものではない。むしろ日本の横穴式石室は朝鮮をへてまなんだ大陸系統の墓室の形式である。それが日本につたわったのは、福岡県丸隈山古墳などの例によって、五世紀のはじめであったと考えられる。
この項の執筆者は京都大教授(考古学)だった小林行雄氏であるが、「朝鮮をへてまなんだ大陸系統の」とはいったいどういうことなのであろうか。妙な文言で、奥歯に物のはさまったうんぬんとは、こういうことをいうのではないかと思う。要するに、ごまかしなのである。
それからすると、有備館の掲示板は、おそらく岩出山町教育委員会の学芸員かだれかの手によるものではないかと思うが、こちらのほうがよほど学問的であるといわなくてはならないであろう。しかし、これにも難点がないわけではない。
「当時玉造柵が四粁南にあり、駐屯兵士の墓と推定される」というのがそれである。この推定は、「朝鮮文化の渡来による」墓制である横穴古墳の被葬者、すなわち古代朝鮮からの渡来人はそういう「兵士」か、または工人だったという先入観がどこかにあったからなのである。
なぜそうかというと、川北古墳群から出土したものは「土師器、須恵器」ばかりではなく、直刀・刀子・金環・金銅鋺・ガラス玉類なども出土している。なかにはそういう「兵士」もいたかも知れないが、しかし古代の当時、金環・金銅鋺といったものはそういう「兵士」のものだったとはいえず、これは明らかにその地域の首長・豪族のものだったはずである。
仙南の横穴古墳
だいたい横穴式石室、それと同系の横穴古墳は、いまみた『考古学辞典』にもあるように、五世紀はじめ九州にはじまって、六世紀ごろになると、日本全土にわたって築かれるようになるのである。奈良・飛鳥にある有名な石舞台古墳も横穴式のそれであるばかりか、たとえば、いま私は一九九一年四月はじめにこの稿を書いているのであるが、つい一日前の四月四日付け読売新聞をみると、「最古の畿内型横穴石室/“百済直輸入”/輝く葬送文化/大阪・高井田山古墳で出土/『アイロン』や純金耳飾」とした大見出しの記事が出ていて、そのはじめはこうなっている。
六世紀以降の天皇陵をはじめ全国の首長墓にまで普及した諸王の墓室である「畿内型横穴石室」の最古例が大阪府柏原市高井田の円墳(五世紀末)で発見されたことを調査に当っている同市教委が三日、明らかにした。同石室の祖型は「朝鮮半島で生まれた後、九州北部に渡り、そこで発展したものが畿内に伝えられた」とされてきた。
ことに東北のばあいは五、六世紀の中・後期古墳や、七〜八世紀の終末期古墳が多く、そのほとんどは横穴式古墳となっている。もちろん四世紀ころの前期古墳というのもあるが、それはあとにして、宮城県の横穴式古墳は仙南地方といわれる仙台南域だけのそれを、前記『宮城県の歴史散歩』によってみるとこうなっている。
東北本線大河原駅から西の村田町にも、県内第三位の大型墳、愛宕山古墳(九〇メートル)がある。このあたり伊具・柴田地区は早くから開けたところで、郡の設置も早い。したがって〈東北第一位の〉雷神山古墳よりは小さいが、台町古墳群(県史跡)とならんで、地方豪族の権勢を示すものであろう。この外に下内囲《しもうちがこい》古墳があり、いずれも埴輪の破片が発見されている。このほかにも小塚古墳や、円頭の太刀を出土した中山囲横穴古墳があって、仙南地方の一つの中心であったことを示している。
大型墳の築造は、雷神山古墳の時期で終わり、横穴式石室の出現と普及によって、高塚群集墳へと変質し、それも七世紀後半になると高塚群集墳と併行し、あるいは交替して横穴が出現する。岩沼市内には横穴古墳群が多く、丸山・二木《ふたき》・朝日・長谷寺《ちようこくじ》などの横穴古墳群があり、発掘調査がなされている。その出土遺物は同市公民館文化財陳列室に陳列され、とくに丸山横穴古墳出土品が一括して陳列されている。
柴田町には玉類・金環・六鈴釧《ろくれいくしろ》などが発見された炭釜《すみがま》横穴古墳群(柴田町槻木)や船迫《ふなばさま》横穴古墳群(柴田町船岡)があり、大河原町には上大谷横穴古墳群がある。
中央の新しい文化は浜通りを北進して、亘理・名取から川ぞいに柴田・刈田と伝えられ、東北の開拓が飛躍的に進んでいくのである。
次々に発見される前期古墳
ここにみられる村田・柴田・大河原町はどちらも、さきに私がそこにあった新羅郷をたずねて行った柴田郡であるが、さて、そこでこんどはいわゆる大型墳である。宮城県のそれとしては、名取市植松にある全長一六八メートル、東北最大の前方後円墳という雷神山古墳と、仙台市東南部にある全長一一〇メートル、東北第三位の遠見塚古墳がある。
どちらもその地域の大首長墓とみられる、五世紀はじめの中期古墳とされているものであるが、多賀城跡調査研究所研究員・丹羽茂氏の「遠見塚古墳・雷神山古墳と東北地方の古式古墳」によると、高坏・坩《つぼ》状坏・器台などといった古式祭器などの出土品からみて、これはどちらも四世紀末ごろの前期古墳ではないかとしている。そして丹羽氏はさいごに、東北における前期古墳として有名な福島県の会津大塚山古墳などと比較してこう書いている。
会津大塚山古墳の内部主体は割竹形木棺と推定される木棺直葬で、三角縁神獣鏡をはじめ豊富な副葬品が出土している。これらの副葬品により、会津大塚山古墳の被葬者には畿内王権との強い結びつきが感じられる。
それに対して塩釜式土器第1段階の〈福島県浪江町〉本屋敷一号墳、第11段階の遠見塚古墳は、それぞれ木棺直葬・粘土槨であるが、両者とも副葬品が極めて少ない。現在のところ会津大塚山古墳に伴う土器が発見されていないため、これらの厳密な築造年代の比較は困難である。しかし古墳時代前期での副葬品の顕著な差は、畿内王権との結びつきの相違を示すものと考えられる。
墳丘形態・主体部・副葬品にみられる共通点が、どのような背景のもとに生じたかは今後の課題である。その要因は古墳の祭祀に係わる外来系土器の系譜を分析することによって、解明の糸口がつかめる可能性がある。その意味でも、土器の研究がさらに進められねばならないと思われる。
ここにいう「祭祀に係わる外来系土器」とは南部朝鮮・加耶の金海式ともいわれる「韓式土器」のことではないかと思うが、それはともかく、私はさきの福島県「会津・大塚山古墳まで」の項で、その出土品が畿内的なものだからといって、それをまだありもしなかった「大和朝廷」と結びつけるのはおかしいのではないかと書いた。そのこととも関連するし、いまみた東北の古式古墳とも関連するが、一九九〇年十二月二十五日の朝日新聞は「古代発見――この一年」とした特集をおこない、そこにこういう見出しの囲み記事がそえられている。
「東北の古墳解明進む/明治大学教授・日本考古学協会長/大塚初重さんの評価」となっているものであるが、ちょっと長いけれども、東北の古墳時代をみるうえで大事なものと思われるので、それをここに引いておくことにしたい。
東北の古代社会は畿内や北部九州に比べると、ひどく遅れていたというのが、これまでの歴史学の常識だったが、それに疑問を抱かせる遺跡遺構の出土が近年相次いでいる。とりわけ一九九〇年は東北の古墳時代の開始に関係して注目すべき発見があった。
福島県会津坂下町の宮本遺跡と男壇遺跡から一九八九年暮れまでに発見された畿内式の墳墓とされる周溝墓(前方後円墳四基、前方後方墳二基など計八基)から出た土器を最近見せてもらった。驚いたことに弥生時代から古墳時代に移る三世紀後半のもので、それに北陸の土器も含まれていた。
そこから少し南東の会津若松市にある堂ケ作古墳の調査が一九九〇年夏に手がけられ、前期古墳といわれる中でも、さらに古い四世紀前後の前方後円墳(全長九十メートル)と分かったそうだ。
これまで東北の最古の古墳は、堂ケ作古墳の北西一・二キロにある四世紀後半の大塚山古墳(前方後円墳、全長九十メートル)といわれていた。それより半世紀ほど古くなり、最古の巨大古墳の奈良・箸墓が造られたのと同じころ、すでにこの地に畿内の古墳文化が伝わっていたことになる。北陸の土器が見つかり、これら古墳が阿賀野川の上流にあることを思うと、その文化が日本海経由で伝来したと考えるのがいいようだ。
会津坂下町から飯豊山地を越えた北方にある山形県南陽市の蒲生田古墳群からは、これも近年、三基の前方後方墳が発見されている。大塚山古墳よりわずかに時代は下がるが、四世紀後半のものらしい。
日本海側では、新潟県新発田市の五十公山《いじみやま》古墳群で、やはり古墳時代前期の前方後円墳が確認されている。やがて秋田県南部でも、前期古墳が見つかるのではないだろうか。
近年の調査で、弥生時代前期の水田跡が青森県弘前市で発見されたり、従来は蝦夷《え ぞ》に対する戦闘の前線基地とされていた奈良時代の秋田城や払田柵(いずれも秋田県)が、地方政治を行う今の県や市庁舎のようなものでもあったことが確認された。それが意味することと、古墳文化の伝来がさかのぼることとは決して無関係ではないだろう。(談)
私が会津の大塚山古墳をたずねたときは、まだ堂ケ作古墳のことは明らかになっていなかったが、そういう前期の古式古墳、「その文化が日本海経由で伝来したと考えるのがいいようだ」とあるのが重要なところで、それは古墳ばかりとは限らなかった。
たとえば、雑誌『PHP』一九九〇年十月号に、福島県の二本松市でつくられている「百済から伝えられた」古代玩具「うずら車」のグラビア写真がのっている。研究者によるとこれも日本海経由で、新潟あたりからはいってきたものだったという。
座散乱木遺跡と川北横穴古墳群
有備館からの私たちは、近くを流れている江合川を渡って、岩出山町下野目の座散乱木《ざざらぎ》遺跡と、川北横穴古墳群をたずねてみることにした。座散乱木遺跡は標高六〇メートルほどの丘陵上にある石器時代遺跡で、いろいろな石器などが発見されたそこは、近く町の遺跡公園として整備されることになっているとのことだった。
その遺跡の西側丘陵の斜面、眼下に江合川を見おろすそこが川北横穴古墳群となっていた。かなり急な斜面のあちこちに横穴が口を開いており、そこに「史跡のまち/川北横穴古墳群」とした岩出山町教育委員会による掲示板がたっていて、こう書かれていた。
この横穴古墳群は、下野目山際から座散乱木、松森に至る江合川沿いの丘陵地の南斜面に、約三キロメートルにわたり数段状に造営されており、推定約一〇〇〇基に及ぶ。昭和四五年に町と宮城教育大学が主体となって、この古墳群のうち、山際と座散乱木地区で二〇基の発掘調査を実施した。
その結果、遺体を埋葬した玄室《げんしつ》の立面形態が整然とした屋根をかたどった構造で、都風の色彩が強い。副葬品にも金銅《こんどう》製の椀《わん》や装身具、鉄製の直刀や鏃《やじり》、ガラス製の玉類、文字を書いた土師器《はじき》や須恵器《すえき》等があり、ひとつの横穴で五〜六回にわたる遺体の埋葬が認められ、家族墓的性格が強く、七〜八世紀にかけて造営されたものと推定される。
なおまだ、岩出山町は「史跡のまち」というだけあって、岩出山町刊『岩出山』によると、いまみた遺跡や伊達氏関係のものだけではなかった。天王寺一里塚というものや、鎌倉・室町期につくられた如意輪観音のある興国山天王寺などがあり、源義家が京都の石清水《いわしみず》八幡宮を勧請したものという鍋倉山八幡神社など、由緒あるいくつかの神社もあった。
なかに、須佐雄尊《すさのおのみこと》と瀬織津媛《せおりつひめ》が祭神となっている『延喜式』内の荒雄川神社というのもあった。須佐雄尊(須佐之男命・素戔嗚尊)というのはいうまでもないが、瀬織津媛《せおりつひめ》とはソウル(都)の媛という天照大神のことである。
神社名の荒雄川とは江合川のことでもあって、私はその江合川左岸の川北横穴古墳群と関係ある神社かとも思われたので、そこまで行ってみたいと思ったが、しかしもう時間がなかった。私たち一行のバスは、岩出山町から夜になっていた古川市に着いて、そこから東北新幹線で東京へ帰った。
岩手・青森・北海道(陸奥ほか)
高麗胡桃・古像・新羅鐘
通信使の町の高麗胡桃
岩手県の盛岡には、私はずっと若いころにも一度行ったことがあった。私は十九歳になった一九三九年、日大に入学するとともに、何人かの学生たちと語らって『新生作家』という大それた誌名の同人雑誌をはじめたのだった。
その『新生作家』の同人に小清水孝という学生がいて、彼が故郷の新潟へ夜行で帰ることになったのを、私は上野駅まで送って行った。そして送ったあと、上野駅というところはどこか郷愁をさそうものがあるらしく、私も急に強い郷愁にかられ、ちょうどふところに学期の月謝がはいっていたのをいいことに、「えい」とばかり盛岡までの切符を買って、夜汽車に飛び乗ったのであった。
どうして盛岡までだったかというと、そこには石川啄木の出た盛岡中学があったからだった。理由はただそれだけだったので、私は翌日になって盛岡に着くと、その盛岡中学のまわりをただぐるぐるまわってみただけで、東京へ戻ったものだった。
いま考えると、何ともばかばかしいようなことだったが、もう半世紀余も前のことで、私の記憶もうすれていたけれども、その盛岡市はいまはすっかり変わったものとなっていた。よくいっしょになる高淳日さんや、江戸時代「朝鮮通信使」の研究家でもある辛基秀さんがいっしょだったが、だいいち、上野から新幹線で三時間足らず、というのもまさに隔世の感ということにほかならなかった。
ところで、これは近年になって知ったことであるが、その盛岡と朝鮮とは古代ばかりでなく、中・近世にもかなり深い関係にあった。たとえば、盛岡には高麗《こうらい》胡桃《くるみ》という名物の大木があったが、それはあとにして、一九九〇年六月二十五日付け朝日新聞夕刊の「窓――論説委員室から」は「朝鮮通信使の町」となっていて、こういうことが書かれている。
徳川時代、わが国に来た朝鮮通信使は、長崎県・対馬と江戸の間を計十一回、往復した。
期間はほぼ半年。数百人にのぼる一行が各地の日本人に与えた印象は大きかった。さまざまな書や絵画が保存され、踊りが伝えられている。
このほど対馬で開かれた朝鮮通信使シンポジウムには、日韓の学者だけでなく、ゆかりの地の人々も参加した。
瀬戸内の寄港地の牛窓(岡山県)や、対馬藩の儒者雨森芳洲の出身地である高月町(滋賀県)などはすぐ理解できたが、遠く岩手県盛岡市からの参加には驚いた。
もちろん、通信使の一行が東北まで足を延ばしたことはない。しかし、やはり通信使との縁浅からぬものがあったのだ。
李朝朝鮮との貿易でしか生きていけない対馬藩は、秀吉の朝鮮侵略のあと国交と交易の回復に奔走する。国と国のメンツがぶつかり難航するなかで、ついに国書の偽造で事態の打開を図る。
発覚し、その責任をとらされて南部藩にお預けの身となったのが、外交僧規伯玄方《きはくげんぽう》。文化の進んだ朝鮮との交流で学んだ知識を、盛岡の人たちに惜しみなく教えたのである。
対馬や朝鮮とのつながりを知った地元の人たちは、東北新幹線の上野開通に合わせ、玄方盛岡配流三百五十年記念の「方長老まつり」をし、対馬から衣装を借りてきて通信使行列までやった。
「盛岡がいまあるのは方長老さんのおかげ」と報告したのは、盛岡そば処経営馬場勝彦さんだが、通信使ゆかりの地には似たような思いが強い。お互いの交流も活発になり、次第にアジアに目を向ける住民が増えているという。
さらに、いまみた「方長老三百五十年まつり」への参加を呼びかけた『南部・もりおか暖簾の会』の特集号をみると、これには方長老のもたらしたものが、もう少し具体的にこうしるされている。
方長老さまは、盛岡の北山・法泉寺の前に住み、その深い知識や愛情で当時の人々にたくさんの物事を教えました。たとえば、味噌やしょう油のつくり方、お酒の改良をし、黄精という薬や牛乳をのむことなども教えてくれたといいます。また、商人を育てて、商売のやり方を教えるなどしました。
南部重直公も方長老さまに五百石を与えて、子弟や藩士の教育に当たらせたほか、南部家系図の編纂、時鐘の銘文の起草をさせたり、庭園の設計や五葉松の植栽などたくさんの仕事をすすめるなどし、後に人々は「南部に伝わる良きことはみな、方長老さまのなさったことだ」と言い伝えました。
いわば盛岡にとっての恩人だったわけであるが、「南部重直公」とはもちろん南部藩主のことで、これは甲斐武田氏の祖ともなっている新羅三郎義光を遠祖としている者であった。そのことについてはのち、青森県八戸の新羅神社をたずねたとき、南部藩のこととともにちょっとくわしくみるとして、ここではさきにみた高麗胡桃である。
高麗胡桃というからには、もちろん朝鮮産のそれで、盛岡に配流されていた規伯玄方のもとには遠方からも、かれを慕ってたくさんの人々がおとずれていたらしい。高麗胡桃はそのうちのひとりがみやげとして持って来たというもので、それを盛岡城下に植えたところ、数十年後には大樹となって、人の往来の妨げになるほどになった。
で、それを伐ってしまおうという意見も出た。しかし、時の藩主南部重信は、「古い大樹が城下にあるのは良い事である。今後出陣などのとき参着した者の姓名を記す場合、この木の下で記録するようにと言い、子々孫々に至るまで伐採はまかりならぬと厳命した」ため、その高麗胡桃は天保年中まで約二百年間生きつづけて、盛岡城下の名木として知られていたという。
報恩寺の朝鮮渡来の古像
盛岡市での私たちは、着いたその日の夜はホテルサンルートなるところで一泊し、翌日はさっそく名須川町の報恩寺からたずねることにした。報恩寺は南部家累代の菩提所となっていたものであるが、なぜそこをたずねたかというと、岩手県高等学校社会科研究会日本史部会編『岩手県の歴史散歩』にこう書かれていたからである。
〈報恩寺〉境内には宝形造りの羅漢堂(市文化)があり、五〇〇体の羅漢像が堂内の四壁に雛段状に安置されている。五百羅漢《ごひやくらかん》(市文化)とよんでいるが、これは当寺の第一七世曇樹《どんじゆ》和尚が願主となり、京都の駒野丹下定孝ら九人の仏師の手によって、一七三一(享保一六)年から、わずか四年間で制作されたものという。これだけの数がそろって、しかも造立年代や願主・制作者の名まではっきりしている例は全国的にもめずらしい。……
羅漢堂の正面の須弥壇《しゆみだん》に安置された本尊の盧舎那《るしやな》仏は大和(奈良県)の橘寺の古仏であったという伝承があり、脇侍の善財童子と八歳童女は朝鮮渡来の古像だという。堂の天井には“八方にらみ竜”が描かれている。南部藩おかかえの絵師狩野林泉の筆だ。
もちろん、「朝鮮渡来の古像だという」のがあったからだったが、たしかに、なかなかおもしろいすがたをした古像はそこにあった。しかし、それがいつごろ朝鮮のどこでつくられたものか、どうしてそこにあるのかはわからなかった。寺の人にきいても、「さあ――」と首をかしげるだけだった。
なお、寺でもらった由緒書の『報恩寺』をみると、同寺は「南部五山の一つであり、藩政時代は寺領二百石、領内二百八ヵ寺の総領であった。現在は末寺三十ヵ寺、寺域は七千坪」となっている。
やはり同寺でのみものは羅漢堂の五百羅漢で、本尊脇侍の善財童子と八歳童女とともに、それぞれみないろいろな表情となっているのがおもしろかった。
日本最古(?)の新羅鐘
ついで私たちは、盛岡市内丸にある市の教育委員会をたずねた。社会教育課文化財担当の教育主事・八木光則氏に会って『盛岡市史』などみせてもらい、『盛岡市の文化財』ほかの資料をもらい受けた。
そして外へ出てから、県立博物館へ向かうタクシーのなかで、写真が中心の『盛岡市の文化財』を開いてみると、それにも報恩寺・羅漢堂の五百羅漢が出ていたが、そこに「銅鐘/国指定(昭和九・一・三〇)工芸品」とある写真をみて、私は「へえー」と目をみはった。それはひと目で朝鮮鐘とわかるもので、説明書きはこうなっている。
寸法 高四七・五センチ 径三九・四センチ 厚さ三・三センチ 旗挿一二・一センチ 重さ四〇・二五キログラム
銘文は八行七九字、大和元年丙寅正月の紀年をもち、本県紀年銘品中最古のものである。その銘文は毛彫で不明の所多く、しかも今は再度火を受けて判読困難である。既往の解読も七種あり、皆異読あり、決し難いが、太田孝太郎氏の解読文は、
大中大夫興威衛大将軍
知上部事大□□賛善大
夫賜紫金魚袋□□□曜
及妻上党郡夫人韓氏
同心発意特鋳金鐘入
重漆拾伍斤懸於□□□
郡善慶院以□功労者
大和元年丙寅正月日謹記
興威衛将軍が特賞を受けたので、妻〈である〉韓氏の発意で本鐘を鋳造したといっている。この鐘は元禄十五年正月、釜石浦において漁師の網にかかって引揚げ、藩に献上したものである。
利視公の時、下小路御薬園に仮鐘楼を建てて安置したが、その音細く高く、音を発すれば必ず雨を呼ぶといわれ、その撞くことを禁じられていた。のち安永七年正月の盛岡大火、昭和の火事にかかっているが、なお一千余年の形容を残している。
いわゆる朝鮮鐘は新羅鐘、高麗鐘と日本各地にあるが、「所在愛宕町一四―一」(所有・管理者南部利昭)とあるこの新羅鐘はそのうちでも、もっとも古いもののひとつではないかと思われる。どうして新羅鐘であることがわかるかというと、「夫人韓氏」(朝鮮は夫妻別姓)とあるばかりでなく、年紀の「大和元年」の「大和」とは唐・中国のそれとかわる以前の、新羅の年号であったからである。
これまで日本にある新羅鐘として、もっとも古いものとみられていたのは、越前(福井県)敦賀の常宮神社にある新羅鐘であった。一九六八年に発行された同『常宮神社小誌』にその鐘のことがこうある。
豊臣秀吉公当社を崇敬し、文禄のいくさに兵たちの武運長久を祈願し、凱旋に際して彼の地朝鮮慶州の吊鐘一口を、若狭藩主大谷刑部吉隆を正使として奉納せられた。慶長二年三月二十九日、今から四百年以前のことである。
この吊鐘は竜頭《りゆうず》の旗さしに穴をうがち、上帯下帯は蓬莱山の図、乳《にゆう》は三段三列で松かさをかたどっている。正面の天女は、鼓を打ちながら大空を舞う浮彫になっている。この鐘は黄金を多分に含み、その音色は黄鐘《おうしき》の調《しらべ》にあっている。古代音楽の楽器としても優秀品である。
明治三十三年、美術工芸甲種第一等として国宝指定。明治四十一年、大正天皇皇太子の時これを御台覧に供せらる。昭和二十七年十一月、新国宝に再び指定をうけた。
朝鮮の大和七年三月の作。吾国の白雉二年にあたり、今から千三百十八年を経ている世界的名鐘である。朝鮮慶州の鐘はこれより六十年古く、宇佐神宮の〈新羅〉鐘はこれより五十年新しいという。
その「世界的名鐘」の新羅鐘は、豊臣秀吉による朝鮮侵攻戦争のとき新羅の古都慶州から奪ってきたものであるが、奥州北部の盛岡にあるこの新羅鐘は、いったいどのようなことでこの地にきていたのであったろうか。「元禄十五年正月、釜石浦において漁師の網にかかって引揚げ」とあるが、それが事実とすれば、いったいどうしてそのように海に沈められていたのであったろうか。
しかもこの鐘は「大和元年」、すなわち西暦六四五年の作で、常宮神社のそれよりも六年古い、私の知る限りでは、日本にあるもののうちいちばん古い新羅鐘なのである。それが盛岡にあったとは、まったく知らなかったものだった。しかし、さきにみた報恩寺・羅漢堂の「朝鮮渡来の古像」もそうだったが、それがどうしてこの地にあるのかはわからなかった。
盛岡市の郊外にある県立博物館に着いた私たちは、あとでふれる衝角付冑《しようかくつきかぶと》などのある館内をひととおりみて歩いたあと、そこで岩手県教育委員会文化課文化財主査の高橋信雄氏に会った。そして氏の論文「岩手県における末期古墳群の再検討」がのっている『北奥古代文化』第十八号などをもらい受けた。これは岩手の古墳をみるうえで、よい手引きのひとつとなった。
盛岡出土の衝角付冑
“蝦夷の地”になぜ冑が
県立博物館でみた衝角付冑であるが、博物館では「北の鉄文化」とした特別企画展というのがおこなわれていて、鉄製の衝角付冑はその鉄文化のひとつであるかのように展示されていた。岩手は「南部鉄器」の産地として知られているが、しかし、衝角付冑の鉄は南部産のそれではなかった。
これはもちろん古代の古墳から出土したもので、一九八九年五月二十九日の岩手日報によると、「七世紀古墳から鉄かぶと/盛岡の黒石野/東北初 原形とどめ出土/関東以西と交流示す」とした大見出しのもとに、そのことがこう報じられていた。
盛岡市黒石野一丁目の宅地造成地は、市教委の発掘調査で七世紀の古墳とわかり、古墳から副葬品の鉄かぶと〈冑〉一個が出土した。かぶとは腐蝕が激しいが、ほぼ原形をとどめている。市教委は二十九日、現地で「古墳から鉄かぶとが出土したのは県内で初めて」と発掘状況を説明。東北でも、ほぼ原形のままの出土は報告例がないという。この時代に関東以西と交流があったことを示す貴重な資料として注目され、さらに周辺調査を進める。
古墳が確認されたのは、緑ケ丘小学校に近い民有地で、小高い丘陵地帯。四月十三日から調査に入り、古墳の周囲を掘った周溝(幅三十センチ、深さ十センチ前後)と、死者を安置するために掘った直方体の主体部を発見した。主体部は長さ二・五メートル、幅一・一メートル、深さ四十センチ。このため、直径五メートル、高さ一メートルほどに土を盛った円墳と推定されている。
発掘された古墳は一基だけだが、市内の太田蝦夷森《えぞもり》古墳群などと同様、周囲にも古墳は点在しているとみられ、市教委は現地を「上田蝦夷森古墳群」と名付けた。主体部からは、土師器《はじき》の小さなかめが発掘され、かめの特質などから、古墳の築造年代は七世紀半ばから後半期にかけてと判断されている。
鉄製かぶとは、この主体部から出土した。大きさは前後の長さが二十六センチ、幅が二十二・五センチ、高さ十六センチ。厚さ五ミリほどの鉄板には、直径一ミリほどの穴がいくつも並んで開けられている。さびに覆われて即断は難しいが、何枚かの薄い横長の鉄板をずらして重ね、重ねた部分をびょうでつないで作った衝角付冑《しようかくつきかぶと》ではないかとみられている。ただ、衝角付冑に特有のかぶと正面の張り出し部分が確認できず、さびを落として詳しく調べる。
古墳時代のかぶとの出土は、全国で約二百八十例の報告があり、ほとんどが西日本に集中している。関東では二十数例。東北では昭和二十八年、福島県いわき市で六世紀のかぶとの破片が出土したと伝えられるが、破片は現存していない。
今回の原形をそっくりとどめるかぶとは、貴重な出土品となる。
記事はまだつづいているが、まさに「貴重な出土品」である。七世紀というと、当時はまだいわゆる「蝦夷」の地であった岩手県盛岡の古墳から、そんな副葬品の衝角付冑が出土したとはちょっとおどろくべきことであった。
「ただ衝角付冑に特有のかぶと正面の張り出し部分が確認できず、さびを落として詳しく調べる」とあるけれども、県立博物館に「衝角付冑」として展示されているところをみると、その後「詳しく調べ」た結果にちがいない。私のような素人目にも、それはいうところの衝角付冑にちがいなかった。
甲冑・馬具の渡来ルート
記事はさらに、「鉄製かぶとは権威の象徴。七〜八世紀は家父長制の社会。家父長のなかでも、かぶとを所有できる人物はごく限られており、市教委は『経済力に優れ、関東以西の有力者と結びついていた人物であることを示す』と分析する」とつづいているが、しかし、記事にもある西日本、あるいは関東ならともかく、そんな衝角付冑がどのようにして、この北奥の地にまできていたのだったろうか。
「経済力に優れ」というけれども、しかし、それは経済力だけではなかったはずである。なぜかというと、衝角付冑というのは、戦闘のための武具にほかならなかったからである。
考古歴史学者・奥野正男氏の「古墳時代の浮羽地方/月の輪古墳の年代」をみると、金銅装眉庇《まゆびさし》付冑、三角板鋲留短甲、帯金具、点線波状文透彫帯《すかしぼりかたい》金具ほかたくさんの甲冑類、馬具類などが出土した月の輪古墳の副葬品のことから、そういう「朝鮮系甲冑大量副葬」の古墳を次のようにあげている。
△大阪・黒姫山古墳=衝角付冑 一一口。眉庇付冑 一三口。短甲 二四領。
冑と短甲とは対《つい》のものであるが、その甲《よろい》までしるしていては長くなるので、あとは冑だけ二、三みることにする。
△大阪・堺・七観山古墳=衝角付冑 七口。
△奈良・五条猫塚古墳=衝角付冑 三口以上。
△滋賀・新開一号墳=衝角付冑 二口。眉庇付冑 四口。
つづけて奥野氏は、橿原考古学研究所長だった末永雅雄氏や、同研究所主任学芸員・千賀久氏の研究などを引いたりして、こう書いている。これは盛岡出土の衝角付冑と直接の関係はないかもしれないが、これからみる古墳出土品をみるうえでも必要と思われるので、それもここでみておくことにしたい。
まず、月の輪古墳出土の金銅装眉庇付冑と同型のものが、大山《だいせん》古墳(仁徳陵古墳)の前方部竪穴式石室より出土していることが注目される。また、この種の金銅装眉庇付冑の文様にみられる点線波状文については末永雅雄博士が次のようにのべている。
「点線をもって文様を表現する手法は主として南朝鮮における古新羅時代に営造された古墳遺物の特色をなし、また常に透彫との関係をもっている。これが最も代表的な遺物としては慶州金冠塚はじめ、その付近の古墳出土の透彫金具に於いてみることができる。此等《これら》透彫に点線文を伴う金具は服装具、刀装具、馬具などにわたり、かなり広汎な種類に及んで材料は主として金、銀及び金銅製品のような金属に局限せられている」(『日本上代の甲冑』)
この波状列点文をもつ遺物は、朝鮮半島では慶州地域だけではなく、百済領域の忠清南道公州・栄山里二号墳出土の獣面文帯金具、全羅北道井邑郡雲鶴里C号墳出土の帯金具、伽耶〈加耶〉領域の慶尚北道大邱市飛山洞三四号第一石槨出土の心葉形杏葉など、朝鮮三国時代の新羅・百済・伽耶の各領域の出土例が知られている。
日本の古墳出土の遺物では、この波状列点文をもつ金銅帯金具が大阪・七観山古墳、奈良・新沢一二六号墳、和歌山市・大谷古墳、岡山県八束村・四つ塚一三号墳から出土している。また、奈良県・石光山八号墳出土の杏葉や鞍金具、滋賀・新開一号墳出土の竜文鏡板、大阪・西小山古墳、奈良・猫塚古墳などから出土した金銅装眉庇付冑などにも同じ文様がみられる。
こうした帯・馬具・甲冑類の原流が大陸にあることは改めていうまでもないが、とりわけ五世紀代に入ってから日本の古墳文化にあらわれる金・銀製品や金銅・鉄地金銅装などの遺物の直接的つながりは、こうした波状列点文の系譜からみて、朝鮮半島に求めることができよう。
この波状列点文は、大阪・七観山古墳例や滋賀・新開古墳例のように竜文透彫と組合わせられることが多く、また単独で鞍金具・帯金具・冠などに竜文の透彫が施されている。いわゆる応神天皇陵に比定されることのある誉田山古墳の陪塚・丸山古墳出土の鞍金具には、竜文を透彫した金銅板が張ってある。この竜文を国内出土の馬具や鞍金具、中国・朝鮮の同系遺物と比較検討した千賀久氏は、一号鞍の文様は〈朝鮮の〉高句麗・北方系、二号鞍の竜文は中国・晋代の流れをうけているといい、その伝播ルートを次のように想定している。
「丸山古墳の馬具と帯金具は、百済→日本、ないしは百済→伽耶→日本、そして高句麗→百済(伽耶)→日本というようなルートを経て持ち運ばれたと想定できる。これはそのまま、五世紀代の朝鮮半島から日本への文物及び渡来者集団の流入経路でもある」(「誉田丸山古墳の馬具について」『考古学と古代史』)
ちょっと長い引用となったけれども、さきにみた宮城県の「横穴古墳群と古式古墳」は古墳の形、その墓制を主としたものだったが、こんどのこれはそのような古墳の副葬品、出土品を主とするものとなった。
岩手の古墳文化
そのような出土品は、これからもみることになるが、ここでついでに、『いにしえの東日本――古墳文化をさぐる』(青森県八戸市博物館刊)により、岩手の古墳についてざっとみておくことにする。岩手のそれは、五世紀末〜六世紀のものとみなされる胆沢《いさわ》郡胆沢町の角塚《つのづか》古墳もあるが、全体としてはほとんどが古墳時代末期のもので、こういうふうになっている。
岩手県内の末期古墳群の分布は北上川流域・馬淵《まべち》川流域・閉伊《へい》川下流域にみられます。北上川流域で宮城県との県境に杉山古墳群(花泉町)があります。
北上川中流域では西根《にしね》古墳群(金ケ崎町)・江釣子《えづりこ》古墳群(江釣子村・和賀《わが》町)・熊堂《くまどう》古墳群(花巻市)・藤沢狄森《ふじさわえぞもり》古墳群(矢巾《やはば》町)・太田蝦夷森古墳群(盛岡市)などがあります。
西根古墳群は支群として縦街道《たてかいどう》・道場《どうば》古墳群、江釣子古墳群は支群の猫谷地《ねこやち》・五条丸・八幡《はちまん》古墳群(江釣子村)・長沼古墳群(和賀町)によって構成されています。北上川上流域では谷助平《やすけだいら》古墳群(西根町)・浮島《うきしま》古墳群(岩手町)があります。
ほか、「馬淵川上流では堀野古墳が確認されています」とあるが、ほとんどはみな古墳群であるばかりか、なかには支群まであるのがおもしろい。そしてその形態については、こうなっている。
これらの古墳群は、径一〇メートルほどの円墳群で、中には方墳もあります。主体部は川原石積みの石室・土壙のみのもの、石敷きのものがあります。土壙のものでは、縦街道古墳群・藤沢狄森古墳群の中に、周湟《しゆうこう》がないものがあります。杉山古墳群は同下流の和泉《いずみ》沢《さわ》古墳群(宮城県河北町)と同様に、主体部割石積み石室になっています。
古墳はどういう形(前方後円形、前方後方形、円形など)のものであれ、われわれが注目しなくてはならないのは、そこになにが、どういうものが埋葬されていたか、ということなのである。埋葬ということには被葬者が中心であることはもちろんだが、しかし、そこに墓誌が副葬されていればともかく、そうでないばあいは、そこからの副葬品・出土品によってそれを推定、あるいは想定するほかないのである。
これからまた、いまみたうちいくつかの古墳から出土したそれをみることになるが、ところで盛岡市では、写真家でもある同行の高淳日さんがもう一度、名須川町報恩寺の五百羅漢を写真にとりたいということがあったりして、もうおそくなったこの日の私たちは、同市西方郊外の繋《つなぎ》温泉なるところで一泊することにした。
矢巾から平泉まで
藤沢狄森古墳群出土の玉類
翌日もからりと晴れあがった、よい天気となった。前夜そこへついたときは暗くてよくわからなかったが、宿を出て気がついてみると、そこは御所湖という湖(ダム)のほとりで、その向こうに見える、頂上だけ白い雪を冠った岩手山が、何ともいえぬ秀麗なものであった。
私たちはそこの御所湖から流れ出る雫石《しずくいし》川に沿って東に向かい、盛岡市西南の矢巾《やはば》町にいたった。そこにあった藤沢狄森古墳群をみたいと思ったからであるが、そのまえにここで、さきの項でみることのできなかった、盛岡市の太田蝦夷森古墳群についてちょっとふれておくことにしたい。
前記した高橋信雄氏の「岩手県における末期古墳群の再検討」によると、この古墳からの「出土遺物には、和同開珎・帯金具・勾玉・切子玉・管玉・ガラス小玉・土師器・須恵器など」があり、築造年代は、「一九五二年・一九六九年の報告者とも『奈良時代もしくは平安時代初期』としている」とある。
さきにみた新発見の上田蝦夷森古墳から出土した衝角付冑といい、こちらからも帯《かたい》金具などの出土しているのが注目されるが、ついで同「岩手県における末期古墳群の再検討」をみると、私たちがたずねた藤沢狄森古墳群と、そこからの出土品のことがこうある。
北上川の西方数百メートルのところにある低位段丘上に立地する。古墳群は、開析された周囲の氾濫平野より一〜六メートル高いところに分布しており、標高一〇七メートル。
一九六九年に二基、一九八四年から一九八六年に二八基の古墳及び土壙を調査した。この古墳群は、現在直径九メートル、高さ一・五メートルの円形を呈するもの一基を残すだけであり、調査した古墳はすべて墳丘の残っていないものであった。従って、古墳の規模・形態は周湟からの推定である。周湟は、内径で八〜一二メートルのものが大半を占める。また、南側で切れて馬蹄形を呈するものと、切れずに円形を呈するものとがある。……
この古墳群の特徴は、石敷タイプと土壙タイプなど、異なる主体部が混在することである。
出土遺物は、土師器(坏・高坏・壺・甕)・須恵器(提瓶・平瓶)・勾玉・管玉・切子玉・ガラス小玉・琥珀玉・銅剣・直刀・刀子・鉄鏃などがある。なお、これらの遺物は、主体部はもちろん、周湟からも多くの出土がみられた。築造年代は、「七世紀中葉を前後する時期」としている。
私たちは、その藤沢狄森古墳群のうち一基だけ残っているそれをみに行ったわけであるが、「ほう、これが――」と私はその前に立って、まず思ったものだった。どうしてだったかというと、関東以西の広大な古墳を見なれている目には、それはちょっとした土饅頭《どまんじゆう》のような塚でしかなかった。
もう少しいうと、それは現代韓国でもあちこちでみられるムドム(塚)と同じようなものであった。私の父の墓などもそういうものであるが、しかし藤沢狄森古墳は、その前に掲示板がたっていて、こう書かれていた。
この古墳は、昔から知られている藤沢狄森古墳群の中の一つで、現在完全な形で残っているのはこの古墳のみである。……
古墳は、すでに寛文十二年、里人によって発掘されており、明治三十二年にも里人の発掘があり、数次にわたって鉄刀、玉類、金具、壺鐙、鐔等が出土したと伝えられている。これらの出土品から考えてみると、この古墳はこの辺に住んでいた豪族の墓である。
昭和四十五年五月
矢巾町教育委員会
「この辺」ということばに釣られたかして、あたりを見まわしてみると、そこは左手に一軒ある農家のリンゴ畑となっていた。そして気がついてみると、キジが一、二羽どこからかきてちょこちょこ歩きまわりながら、地を這うようにして生《な》っているリンゴをついばんでいた。
いかにも北奥、といった光景だったが、そこからの私たちは、矢巾町の民俗資料館へ向かった。藤沢狄森古墳群からの出土品をみたいと思ったからだった。それで、まずおどろいたのは、「藤沢狄森五号墳主体部出土」という、五、六十個もあると思われた勾玉《まがたま》を中心とした玉類だった。
同資料館でもらった「律令最後の城柵」とした『国指定史跡/徳丹城跡』にも狄森古墳群のことが出ており、その勾玉群がけんらんとしたカラー写真となってのっていた。が、そういう勾玉がどうしてそんなにたくさん、その古墳に副葬されていたのかはわからなかった。
江釣子古墳群
矢巾町からの私たちは、こんどはそのままずっと、金ケ崎町まで南下した。それまでには花巻市、北上市などがあったが、そこは以前にも行ったことがあったところで、花巻市には熊堂《くまどう》古墳群があって、そこからもたくさんの玉類、方頭大刀、金環、帯金具などが出土している。
それから北上市西方の江釣子村であるが、二十年ほどまえ、どういうことでだったか、もうおぼえていないが、私はそこへ講演によばれて行ったことがあった。いま印象に残っていることといえば、当時、江釣子中学校教頭だった高橋徳夫氏宅で一泊させてもらったことだった。
高橋さん宅は近くの和賀町で、大黒柱が一抱え以上もある旧家だった。そこでいろいろなご馳走を前にならべられ、横に坐った高橋さんの母堂から大きな盃に酒をつがれ、「さあ、さあ」とそれらのご馳走を何度もすすめられて、「ああ、これは朝鮮の村の習俗と同じだなあ」と思ったものだった。で、冠婚葬祭のときはときいてみると、五日間ぐらいは、要するにみんな飲めや食えやだそうで、そういうことも同じだった。
そしてまたもうひとつ、江釣子村では、長さ二、三メートルの小さな石積み古墳がいくつか掘り返されていたのをみたことだった。東北新幹線が通ることになったので、ということだったと思うが、このころすでに私は『日本の中の朝鮮文化』にとりかかっていたけれども、そのときはまだこうして東北まで書こうとは思っていなかったので、「これも一種の積石塚ではないか」と思ったまでだった。
そのとき私は高橋さんから、刊行されたばかりの部厚な『江釣子村史』を一冊もらってきたが、これも「積んでおく」だけとなっていた。それがいま、こんど役に立つことになるとは知らなかったものである。
江釣子村はいま人口九千足らずの村であるが、しかし、ここにも猫谷地《ねこやち》古墳群、五条丸古墳群、八幡古墳群などがあって、しかもそれが近接してひとかたまりとなっているのが特徴的である。そのため総称して江釣子古墳群ともいわれるが、同『江釣子村史』により、そのうちの五条丸古墳群についてちょっとみるとこうなっている。
この古墳群は前述した猫谷地古墳群と道路一つへだててすぐその西に存在している。いつごろからか蝦夷塚古墳群とよばれていたもので、いまも蝦夷塚屋敷という屋敷名があり、約三十年前その屋敷内から発掘されたという鉄刀・蕨手刀・金環・勾玉類が村の佐々木修氏方に所蔵されている。
昭和三十七年十月はじめから十一月末にかけて三回にわたり、前後二十四日間発掘調査が東北大学の伊東信雄、岩手大学の板橋源両氏らによっておこなわれた。このとき村の同行者多数の案内で付近を巡検したところ、八幡古墳群は八幡神社を中心とした近傍一帯の林のなかに十三基ぐらい、猫谷地古墳群は十六基ほど地上から確認された。それで、それらと一応区別する意味から、昭和三十七年に調査した古墳群を地名によって、五条丸古墳群とよぶことにしたのであった。
そして、「猫谷地古墳群の立地条件とまったく同じで、和賀川北岸のもっとも低い河岸段丘上にある」として「(1)立地のありさま」以下、「このときの発掘調査で得られた大きな収穫の一つは、古墳の多くに周隍〈湟〉すなわち空堀《からぼり》がめぐらされていることの発見である」という「(2)古墳の外形」や、「南に口をもった横穴式石室の形式をもち、南に羨門、奥壁に立石をもっている」とする「(3)内部構造」につづき、さいごに「(4)出土遺物」となって、それの「主要なもの」がこうある。
蕨手刀 三本/直刀 一〇本/刀子《とうす》(短刀のようなもの) 一六本/鉄鏃(鉄製のやじり) 約六五本/鉄轡(鉄製の馬のくつわ) 二個/鉄斧 一個/鉄鍬 一個/帯飾金具(バンドの金具) 一個/勾玉 二五個/ガラス玉 一二八八個/土玉 四六四個/紡錘車破片/須恵器破片/土師器破片
まず注目されるのは、「ガラス玉 一二八八個」である。矢巾町でみた藤沢狄森五号墳出土の勾玉といい、それがどうして、そんなにたくさん副葬されていたのかは、やはりよくわからない。
西根古墳と帯金具
その江釣子村南方の金ケ崎町についた私たちは、さっそく町の教育委員会をたずねた。そして同教委文化係の千葉周秋《かねあき》氏に会ったところ、千葉さんは学生時代にグループで私の『朝鮮』(岩波新書)を読んでくれたそうで、話がしやすかった。
私たちはその千葉さんに、『金ケ崎町史』をみせてもらって、ある部分をコピーしてもらったりしたが、ついで写真中心の『西根古墳と住居址』をみせられたときは、「ほう」と私は声をあげて目をみはった。同町にある西根古墳群の支群となっている縦《たて》街道古墳や、下釜古墳から出土した帯金具群ともいうべき写真を、目の前にしたからだった。
帯金具は東北以外の各地の古墳などからも出土しているが、しかし、それはたいてい一個か二個の断片的なもので、写真ではあるけれども、それが一本一本の帯全体のものとして、まとまって出土したのをみるのはこれがはじめてだった。その帯金具は、これまでにもふれてきたように、盛岡市蝦夷森古墳群や、花巻市の熊堂古墳群などからも出土しているが、ここでその帯金具の源流について、ちょっとみておくことにしたい。
まず、帯金具の帯とは、水野清一・小林行雄編『考古学辞典』「帯」の項をみると「帯はと称する金具をとりつけた革帯であり、具《かこ》、すなわち尾錠《びじよう》でとめる帯である」とあって、つづけて「帯金具」の項をみると、それはこうなっている。「考古学上では帯といわれるものと同意義に解されているが、皮または布地の帯の表面につけた金、銀、あるいは金銅製の飾金具である」
要するに、帯金具と帯金具とは同じようなもので、同「帯金具」の項にはこうも書かれている。「帯金具は南朝鮮の各地の墳墓からも、きわめて豊富に出土するが、とくに慶州の金冠塚をはじめ、王族たちの墓から、着用したままの姿で出土する。ここの板はうすい金製や銀製のもので、唐草文の透彫が多く、なかには獣面を打ちだした小型の板もある」
東北の古墳から出土しているのは鉄製が主で、そういう金製や銀製のものはないようであるが、しかし、同系列の帯金具であることに変わりはない。斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」では、それはこういうふうになっている。
「大和国/橿原市川西町千塚一二六号古墳=垂飾付耳飾・帯金具等/磯城郡大三輪町珠城山古墳=冠帽・帯金具」というふうに、大和(奈良県)だけでも以上のほか、そうした「痕跡」が十三ヵ所あげられている。=の下はその徴証、すなわち古代朝鮮からの渡来人とともに渡来した出土品で、「帯金具」が銀釧《ぎんくしろ》・ガラス釧・腰佩具《ようはいぐ》・かんざし・履《くつ》などとともに、その徴証のひとつとなっているのである。
黒石寺の薬師像と成島の毘沙門天像
さて、そういう帯金具が出土した西根古墳群のある金ケ崎町からさらに南下すると、坂上田村麻呂による有名な胆沢城(柵)があった水沢市となり、そこからさらに南下すると、これまた有名な中尊寺のある平泉町となった。水沢市や平泉町へは以前にも行ったことがあって、水沢で印象的だったのは、行基が開基という黒石寺《こくせきじ》だった。
妙見山黒石寺は、いかにも東北の名刹といった寺院で、本堂には国の重要文化財となっている薬師如来坐像はじめ、たくさんの仏像が安置されていた。前記『岩手県の歴史散歩』をみると、「黒石寺は『黒石寺縁起』によると七三〇(天平二)年、行基を開山とし、のち蝦夷の蜂起で焼けたが、八四九(嘉祥二)年、慈覚大師円仁が妙見山黒石寺として中興したという」とある。
なお、仏像ということでは、順序がちょっと逆になったが、東京国立文化財研究所名誉研究員の久野健氏から、近くまで行ったらぜひたずねてみるようにといわれて寄ってみた、花巻市東方の東和町成島の三熊野神社にある、これも重文の毘沙門天像も強く印象に残るものであった。欅《けやき》一木彫成という丈四・七三メートルのいわゆる丈六仏で、「拝観のしおり」には「国内唯一と称され、活気あふれる名大作で、平安朝中期の作品とみられ」とあったけれども、その異様な様相はどうみても、いわゆる蝦夷・エミシ、すなわち原住の縄文人(アイヌ)を威圧する目的でつくられたものだったにちがいなかった。
中尊寺境内の白山神社
平泉町はやはり中尊寺で、三重県の「津は伊勢〈神宮〉でもつ」ということばがあるように、こちらの「平泉は中尊寺でもつ」といっていいようであった。関山《かんざん》とよばれる丘陵全体が中尊寺の境域となっているそこには、円乗院、観音院といった寺院内の寺院がいくつもあって、ただそれを見て歩くだけでも相当時間がかかりそうだった。
そうだったから、私たちは早足で歩きながら、これはと思われたところにちょっと足をとめる、というふうにしてみてまわったが、有名な国宝・金色堂の近くだったかに、「嘉祥三年(八五〇)慈覚大師が加賀の白山をこの地に勧請し」とある鎮守としての白山神社のあるのがおもしろかった。こんなところにどうして、白山比《しらやまひめ》の白山神社が、と私は思ったものである。
中尊寺は寺伝によると、八五〇(嘉祥三)年に慈覚大師によって開かれ、当初は天台宗をひろめる意味で弘台寿院といったが、八五九(貞観元)年に清和天皇から中尊寺の名を賜わったのがはじめという。しかし中世の記録に「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」とあるような大規模な中尊寺は、藤原清衡《きよひら》によって建立された。
と、前記『岩手県の歴史散歩』にあるところから、もしかすると、白山神社がそこの鎮守となっているのは、はじめは、新羅と関係が深かった最澄《さいちよう》が開祖となっている天台宗の寺院だったからかも知れなかった。
清衡の「悲願」
それはともかく、中尊寺建立の経緯について、同『岩手県の歴史散歩』にはつづけてこう書かれている。
“後三年の役”ののち奥〈州〉六郡を領した清衡は、そこに産出する金《きん》と馬を経済的基盤として中央の摂関藤原氏と結び、京都の文化を蝦夷の地にもたらした。「中尊寺供養願文」(重文)によれば、中尊寺の建立は単なる文化の移入ではなく、奥州人に対する中央の人びとがもつ偏見を正し、無実の罪で殺された奥州の人びとの霊を浄土に導くという清衡の悲願によるものであった。
それはまさに清衡の「悲願」というべきもので、その「中尊寺供養願文」が仏前に供されたのは、ゴールデン文化といわれる中尊寺がその表徴である金色堂につづいて完成した一一二六年、清衡七十一歳のときのことであった。都からは勅使なども来た盛大な儀式で、一九九〇年四月十七日の河北新報は、同紙に連載された「日高見の時代――古代東北のエミシたち」「第三部・黄金の桜道/願文の世界」となっていて、その「願文」の「大意は次のようなものであった」とあるので、それをここに引いて、岩手県からは一応去ることにしたいと思う。
ここに、鎮護国家の大伽藍一宇を建立、供養する。奥州の地では打ち続く戦乱で官軍、蝦夷ともにたくさんの者が死んだ。鳥獣魚介の類も、殺されたものはその数を知らない。……
山を築いて地形を高くし、池をうがって水脈を蓄えた。草木を植え、樹林を造成し、宮殿楼閣も法則の通りに築いた。歌舞音曲を奏で、善男善女がそれに和して仏法をたたえるとき、平泉が都から遠く離れた蛮土であっても、ここはまさしく仏国土となる。……
仏の弟子たる私は、東夷の遠酋《えんしゆう》である。平和な時代に生まれ合い、エミシの村々も事なく治まっている。先祖の余恵によって、私は分不相応にも俘囚《ふしゆう》の上頭の地位にある。出羽、陸奥の住民はもちろん、国外の部族までが慕い寄ってくる。……
懐手をして三十年。その間、年ごとの貢ぎ物を欠かしたことはない。お上も、しきりに恵みを垂れて下さる。このご恵に報いるには、仏事をつくす以上のことはない。法皇、天皇はじめ万民に至るまで、治世を楽しみ、長生きを誇れるように。そして、この私も仏の恩徳に浴し、死後必ず安楽の国に至りますように――。
この「中尊寺供養願文」を起草したのは当代一流の学者であった右京大夫藤原敦光となっているが、河北新報の記事はその「願文」のあと、さらにこうつづけられている。
清衡ほど、波乱に満ちた前半生を送った人物も珍しい。「前九年の役」では源頼義に父を惨殺され、「後三年の役」では逆に、源頼義の長子義家と組んで異父弟の清原家衡を討ち、血生臭い時代に「奥羽の血脈《けつみやく》」では唯一の生き残りとなった。彼の背にへばり付いたエミシの十字架が、願文の祈りにも表れている。
新羅神社・環頭柄頭
弥生前期の水田跡
陸奥でも最北奥の青森県となったが、私たちがそこの三沢空港におり立ったのは、一九九一年初夏のある夕方であった。よくいっしょになって各地を歩いている細川和紀さんと高淳日さん、それにこんどはポプラ社編集部の堀佶《ほりただし》さんがいっしょだった。
空港からの私たちはバスで、人口二十四万二千余という県第二の都市である八戸《はちのへ》市にはいり、まだ少し時間があったので、同市の長者山《ちようじやさん》にある新羅神社をたずねた。私としては青森県に足を踏み入れたのは二度目だったけれども、八戸の新羅神社をたずねるのは、こんどがはじめてだった。
しかし、その新羅神社のことはあとにして、ここで、さきに古代の青森県とはどういうところだったか、ということについてちょっとみておくことにしたい。それについては、宮崎道生氏の『青森県の歴史』にこうある。
ともかく現在の青森県の地域が中央の人々の政治意識のうちにはいってきたのは、平安初期における坂上田村麻呂の蝦夷征討(八世紀末〜九世紀初)以後のことといってよいであろう。つまり、そこには“みちのく”の極限というイメージから“陸奥国”のそれへの転換があるのである。……
これが大化改新をへて奈良時代になると、“陸奥国”の呼び名が確定し、雄大な百万町開墾計画中にこの地域もふくまれるようになるが、しかし中央政府の支配力はなお微弱だったと思われる。つづく平安時代には、坂上田村麻呂・文室綿麻呂《ふんやのわたまろ》の征夷がおこなわれたけれども、この地域に関するかぎり効果は一時的で所期の目的を達しえたとは認めがたい。
要するに八〜九世紀、平安時代までの青森県はまだ北海道と同じく、いわゆる「蝦夷の地」ということだったのである。ところで、おもしろいのは、これは近年になって明らかになったことであるが、その蝦夷の地だった青森では、弥生時代の前期から稲作農耕がおこなわれていたということである。
つまり、狩猟採集民である原住の縄文人(アイヌ)が中心だった蝦夷地のそこへ、早くから稲作の弥生人がはいっていたのである。その稲作のことはいまみた『青森県の歴史』にも書かれているが、たとえば、一九八八年二月八日の朝日新聞をみると、「弥生前期に青森で稲作/最北端の水田跡/弘前で発掘/普及、定説を一五〇年逆上る」とした見出しの記事が出ていて、こう報じられている。
青森県弘前市三和の砂沢《すなざわ》遺跡で、弘前市教委が発掘した水田跡二枚が弥生時代前期の紀元前二、三世紀のものであることが六日までに確認された。土壌分析でイネの栽培が裏付けられ、これまで日本最北の弥生中期水田跡とされてきた垂柳《たれやなぎ》遺跡(同県南津軽郡田舎館村)を百五十年以上逆上る東日本最古、最北の水田跡であることがわかった。
紀元前四、五世紀ごろ北九州に上陸し、その後西日本で本格的に始まった稲作がわずかのうちに全国的に広まったことを示しており、奈良国立文化財研究所は「水田耕作を中心とするわが国の社会や文化の発展を解明するうえで、極めて重要な発見」と位置付けている。
稲作伝播のルート
記事はまだずっとつづいているが、そこで、「北九州に上陸し」たその稲作農耕がどういうルートでその青森にまで広がることになったか、ということが問われることになった。同記事によると、「佐原真・奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センター研究指導部長の話」として、「稲作の伝播《でんぱ》は太平洋岸ではいったん名古屋でとまったが、一方、日本海側では、一気に近畿から青森まで北上していったことを、今回の発見が示している」となっている。
だが、いまみた記事から約二年後の一九九〇年三月十五日の毎日新聞に、「弥生中期初頭の水田発掘/稲作『太平洋ルート』 /静岡市・瀬名遺跡/東日本波及/『日本海』説見直し」という見出しのこういう記事が出た。
古代の稲作(水稲)が西日本から東日本へどのようなルートで伝わったかは考古学上の最大の論争の一つだが、静岡市瀬名の「瀬名遺跡」(江戸時代までの複合水田遺跡)で弥生時代中期初頭(紀元前一世紀)の稲作遺構が、静岡県埋蔵文化財調査研究所(所長、斎藤忠・大正大名誉教授)によって発掘されたことが十五日、明らかになった。
従来、愛知県三河湾以東の東海・関東地方で紀元前にさかのぼる稲作の跡は見つかっておらず、今回の発見は稲作文化が畿内から太平洋側を経て東日本に伝わったことを示す新発見と注目される。これまで有力視されていた「稲作は日本海を通って東北地方に伝わり、関東へ南下した」との仮説は後退した形だ。……
稲作文化は、縄文時代晩期(二千数百年前)に朝鮮半島から九州北部に伝来、弥生前期に伊勢湾沿岸までの西日本一帯に普及したとするのが定説。その後の伝播経路として当初「太平洋ルート」が推定されたが“結節点”の東海地方で弥生中期前半までさかのぼる稲作遺構が見つからなかった。
一方、本州北端の青森県で紀元前の水田跡が発掘されたため、考古学界では、「西日本の稲作は、地勢条件の厳しい太平洋岸への波及が遅れ、日本海側を通ってまず東北北部に伝わり、同南部、関東へと南下、波及した」とする「日本海ルート」が有力となっていた。
この記事もまだつづいており、これでどうやら、日本海説は「後退した形」のようだけれども、しかし、私のみるところでは、「日本海ルート」ということも、なかなかすてがたい説ではないかと思う。ただし、私のいう日本海ルートというのは、北部九州から日本海沿いということばかりではなく、いわば朝鮮半島から日本海を直行したルートということでもある。
もちろん、「稲作文化は」「朝鮮半島から九州北部」というのが主流ではある。しかし、私がこれまで歩いてみた出雲(島根県)、越後(新潟県。古代は山形県や秋田県の一部まで「越」であった)などの日本海沿岸地域には、そうした直行ルートの渡来が少なくないので、もしかすると稲作文化にしても、そういうことがあったのではないかと思っている。
南部は甲斐から
さて、さきにみた八戸市長者山の新羅神社は、境内が四千八百九十八坪となっていて、そこの長者山頂全体がそれとなっているもののようだった。私がここに新羅神社があることを知ったのは二十数年前、東奥日報論説委員だった下山俊三氏の「津軽と韓人」という一文によってだった。そこにこう書かれていた。
昭和初期の東奥日報記事によると、青森県弘前市に隣接する藤崎、板柳周辺の砂地を発掘した際、弥生式土器、朝鮮式土器〈須恵器のこと〉類が発見され、又、旧藩時代の旧安東城趾を開墾した折に、楼門の跡とおぼしきところから多数の洪武(一三七〇年頃)永楽頃の唐銭及び高麗古銭を夥《おびただ》しく発掘したが、不思議なことには和銭(日本貨)は一枚も見当らなかった、と報道されている。
約六百余年の昔――足利尊氏が勢威を張っていた頃である――韓国や中国の古銭が、奥羽の涯《はて》へ渡来した因縁は、その過程など興味ぶかいものがあるが、捜し求むべき糸は断たれている。
八戸市長者山にある新羅神社は、八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光を祭神としているが、この兄弟はともに風流の武将だった。
兄義家は奥州の安倍貞任、宗任征討の折、晩秋の空を渡る雁の列がにわかに乱れたことから、叢《くさむら》にひそむ敵の伏兵あることを知ったという智将である。弟の義光は後三年の役に、援軍をひきいて兄のもとへおもむく折、応徳三年(一〇八六)、月下の足柄山で豊原時秋に笙曲の秘伝を伝授されたという。
新羅義光はのちに甲斐国(山梨県)の太守となった人で、名門甲斐源氏の祖、武田信玄の遠祖であるわけだ。盛岡南部藩の支藩である八戸南部藩の藩祖直房は寛文四年に八戸に分封されたが、新羅義光―武田信玄の血統を継いでいる。八戸市の新羅神社は、甲斐国・山梨県から勧請《かんじよう》したものだ。八戸藩は名馬の産地として有名だ。……
新羅神社に奉納される古式ゆかしい巻き狩り姿、乗馬の加賀美流になる打毬は、富士の裾野に展開した源頼朝時代の狩衣裳をそのままつけている。打毬は古く王朝頃に中央アジアにおこり中国、韓国を経てわが国に伝来した由緒ある古い行事で、八戸三社大祭の打毬は、観客をしてのどかな王朝絵巻を、ふと夢幻のうちに眺める気持にさせる。
だいたい私は、青森県の八戸や岩手県の盛岡にどうして南部藩というのがあったのかと思っていたものである。つまり、その北の地がどうして南部なのかというわけだったが、この南部=南部藩というのは、「南部御牧」などというのがあった甲斐(山梨県)の南部(町)からきたものであった。
私は『日本の中の朝鮮文化』(7)の「甲斐」でそこをたずねたときのことを書いているが、ここにも新羅三郎義光を祭神とする新羅神社がある。それよりさきに高柳光寿・竹内理三編『日本史辞典』をみると、南部=南部藩のことがこうなっている。
南部氏 陸奥の豪族。源義光の五代遠光の子光行が祖。光行は源頼朝の奥州征討に従って功をあげ、八戸に住して南部を称した。南北朝時代、南朝にくみし、その後一族出身の信直が豊臣秀吉に従って本領安堵。一五九一(天正一九)大崎・葛西の乱の功により加増を得て一〇万石を領し、子利直は九八(慶長三)盛岡城を築いて移り、関ケ原の戦の時徳川家康に属して所領安堵を得た。のち一八〇八(文化五)に松前警備のため二〇万石に増封され、戊辰戦争には奥羽越列藩同盟に加わり、一時一三万石に減封された。
源義光と新羅神社
ところで、この南部氏の遠祖となっている源義光が、どうして古代朝鮮の国名を負った新羅三郎義光となっていたのであろうか。それはかれが、近江(滋賀県)大津市の園城寺(三井寺)境域にある新羅神社(善神堂)で元服をしたからであった。
つまり、かれの一族はその新羅神社の氏人だったからであるが、この新羅神社の分霊社は遠江(静岡県)の浜松市江之島にもある。これについては、『浜松市史』の編纂にあたった渥美静一氏の「浜松の新羅大明神と開発者小笠原基長」にくわしい。それによると、ここに新羅大明神・新羅神社が勧請されたのは江戸時代、一七二三年のことで、その由緒はこうである。
浜松市江之島町にまつる新羅大明神は、ひろく旧五島村地区に新田開発を行なった小笠原源太夫基長が、同地鎮護のため、自身の祖神を近江国(滋賀県)志賀郡から勧請したものである。源太夫の祖先は、源頼義の三男新羅三郎義光であり、義光は帰化氏族大友氏の氏寺園城寺にまつる新羅大明神の氏人として知られている。このゆかりによって、小笠原源太夫が、祖神をその開発地に勧請することは、まことに自然の理というべきであろう。
これは小笠原源太夫自身が書きのこした「新羅大明神祀記」によったものであるが、ここで重要なのは、「小笠原源太夫基長が」「自身の祖神を」「勧請したものである」ということである。すなわち、近江の新羅神社が新羅三郎義光の子孫である小笠原源太夫の祖神であるということは、同時に、かれの祖先であった新羅三郎義光、源氏一門の祖神でもあったということにほかならなかったのである。
なお、あとになったが、富士川のほとりとなっている山梨県南部町の新羅神社は、八戸市長者山の新羅神社のように大きくはなく、どちらかというとかなり荒れた無人の社となっていた。それについては、南部町教育委員会で会った教育長の西川源弘氏も、私に向かってこう言ったものだった。
「私は、青森県の八戸にある新羅神社にも行ってみましたが、これはたいへん立派なものでした。それにくらべると、こちらの新羅神社はちっぽけで恥ずかしいようなものですけれども、しかし青森・東北の人たちもわが祖先の、ということで、こちらへよくお参りがありますよ」と。
是川遺跡出土の壺
八戸市で一泊した翌日の私たちは、タクシーでさきにまず、同市是川中居《これかわなかい》にある是川考古館をたずねた。おとずれた者は私たちだけだったこともあってか、事務所の今淵喜雄氏からお茶をふるまわれたりして、いろいろと親切にされたが、要するに、是川考古館というのは、是川遺跡から出土した縄文時代晩期の土器を中心とした遺物を陳列したところであった。
私としては、そのなかに、韓国の博物館などでよくみられる紀元前四、五世紀ごろの紅陶壺によく似た赤い壺形土器のあるのがおもしろかった。是川遺跡のことについては、事務所でもらった『是川考古館』にこうある。
是川遺跡というのは、是川中居遺跡、一王寺遺跡、堀田遺跡の総称で、昭和三二年に国の史跡に指定されています。
遺跡の発掘は、大正九年から昭和の始めにかけて、泉山岩次郎氏とその義弟泉山斐次郎氏によって行われ、約五〇〇〇点にのぼる出土品は、昭和三六年に八戸市に寄贈されました。
出土品のうち、六三三点が昭和三七年に国の重要文化財に指定されています。
「衝撃的なニュース」獅噛三累環大刀柄頭
是川遺跡からの私たちは、こんどはその西北方となっている根城《ねじよう》の八戸市博物館へ向かった。根城は、南部師行《もろゆき》から二十二代直義までの居城で、いまはその跡が国史跡となっているが、その近くに博物館が新設されていた。
なぜそこの博物館へだったかというと、「古代東北史の世界に衝撃的なニュース」(新野直吉「北辺出土の獅噛三累環式環頭」)となった、丹後平《たんごだい》遺跡出土のその「――環頭」が展示されているのではないかと思ったからであるが、さきにその「衝撃的なニュース」からみることにする。
このニュースは東京の各新聞でもみられたが、ここでは一九八七年十月十日の東奥日報によってみることにしたい。「東北初の大刀柄頭出土/朝鮮製、獅子頭に三つの環/大豪族が君臨/七〜八世紀/八戸・丹後平遺跡古墳群」とした見出しの記事で、そのことがこうある。
八戸市郊外の丹後平遺跡で、今から千二百年―千三百年前の本州最北端の古墳群(二十四基)が発見され、朝鮮製と見られる黄金色に輝く獅噛三累環《しがみさんるいかん》大刀《た ち》柄頭《つかがしら》が出土した。柄頭は、獅子が柄を噛む「獅噛」の形式と三つの環がつながる「三累環」の二つの形式が一緒になっており、東北では初めてで全国的にも極めて珍しい出土品だ。古墳文化の北方伝播《でんぱ》と東北北部の在地豪族の実態を解明する上で極めて重要な発見と言えそうだ。
発掘調査は、八戸新都市開発整備事業に伴うもので、八戸市教委が七月から約二ヵ月間、丹後平地域の四千二百平方メートルで実施した。その結果、二十四基の円墳が発見され、直径十五メートルの最大規模の古墳の周溝部から柄頭が見つかったほか、他の古墳からも直刀や蕨手刀《わらびでとう》、クツワ、鉄や銅製の腕輪、土師器、須恵器、マガ玉、水晶の切子玉、管玉、ガラス玉など千点近くが出土した。
古墳群は七世紀後半から八世紀前半のものと見られ、東北北部にも豪族が勢力を持ち始めたこと、中央の古墳文化が伝播してきたことをうかがわせている。
特に注目されるのは長さ九センチ、幅五センチの獅噛三累環柄頭。奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部の町田章部長によると「六世紀後半に朝鮮の新羅で作られたものであることは、ほぼ確実。獅子の頭の周囲を取り巻いている三つの環が三累環。獅子の頭だけのもの、三累環だけのものは、わが国で二十例ぐらい出土していると思うが、二つの形式を合わせたものは数点ぐらいしかないのでは――。極めて珍しく貴重だ」という。
六世紀後半に朝鮮半島で作られた柄頭が百年以上も経過して八戸市に出現したことになるが、「大和地方に一度入ったことは確かだろうが、東北へどう伝わったかはナゾ。周囲の溝から出土したようなので、一度使った墳墓を再度使った可能性もある。地元の研究者がしっかり解明してほしい」と町田部長。
村越潔弘前大教授は「財力からいってもかなりの権力者だったのでは。大和朝廷でも認めるような支配者が居たことは十分考えられる。大和人か蝦夷《え ぞ》かは分からないが……。このほかにも古墳はあると思うので、全体を発掘して比較検討すれば権力構造が解明されるのではないか」と話している。
東北北部の古墳時代は歴史の空白部分。今回の発掘調査結果は縄文、弥生時代から南北朝時代に至る東北北部の歴史を解明する上で重要で、今後の調査に大きな期待が寄せられる。
「中央」を経由しなくても伝わりうる
たいへん重要なことなので、記事全文をしるしたが、さらにまた、それから一年近くがたった一九八八年五月五日の朝日新聞・青森版は、「丹後平古墳群の環頭大刀柄頭/奈良国立文化財研究所鑑定/朝鮮半島で製造/畿内経て東北へ?/予想以上早い時期/豪族『中央』と交流」とした見出しの記事をかかげている。
だいたいは東奥日報のそれと同じであるが、それにしても、こういうものが出土・発見されると、すぐにそれを「大和朝廷」または「畿内王権」に結びつけるのは、どういうものであろうか。もしかしたら、そうではないかもしれないではないか。
たとえば、秋田大教授・新野直吉氏の「北辺出土の獅噛三累環式環頭」をみると、「伝統的な『北の海みち』が通じていた」としてこう述べている。「大陸なり朝鮮半島なりで形成された文化(この場合は環頭大刀)は、必ずしも畿内や東国を経由しなくても北海道や東北に伝わり得る」
「渤海〈のことは秋田の「能代と白神山地」の項でみている〉では遅すぎるなら、天智天皇七年紀『高麗従二越之路一遣レ使進レ調』〈高麗《こま》が越《こし》の路から使を遣わして調を進めてきた〉の文を思い起せば足りるであろう。斉明朝の阿倍比羅夫以来、津軽も出羽も『越』の北辺であった」と。
どちらかといえば、私もこの新野氏に賛成であるが、ところで、八戸市博物館では学芸員の小林和彦氏に会い、獅噛三累環柄頭をみたいとたのんだところ、それはまだ保存処理中のため、六月ごろから展示されることになっているとのことであった。がっかりしたことはいうまでもなかったが、古代朝鮮からはるばるやってきたそれを実見するのは、後日とするよりほかなかった。
アイヌの地だった北海道
「固有日本人」とは
さて、青森からは海を越えた北海道である。
北海道はよく知られているように江戸時代末期、明治のはじめまでは、「蝦夷地」または「蝦夷ケ島」となっていたところであった。つまりアイヌ・モシリ、「アイヌの大地」だったわけであるが、それは北海道と限らず、これまでみてきた陸奥・出羽の東北一帯もまたそうだった。
そのアイヌ=縄文人は、全国縄文人口の半数以上、三万九千五百(小山修三『縄文時代』)もいた東北からも、明治・大正・昭和にわたる人類学者で考古学者だった鳥居龍蔵氏のいう「固有日本人」から「蝦夷」という蔑称のもとに追われて、北海道に集中することになったものであった。鳥居氏のいう「固有日本人」とはどういうものだったかは、水野清一・小林行雄編『考古学辞典』にこうある。
日本人の祖先は中国東北・朝鮮をへてアジアから渡来した民族であって、渡来の時期は古くは弥生式土器と石器の使用期であるが、金属器を用いるようになってからも継続した。これが鳥居龍蔵の日本民族石器時代渡来説であるが、鳥居はこの渡来者を固有日本人とよび、日本に先住民族として居住したと考えるアイヌと対立させようとした。固有日本人が大陸から渡来したというこの説は、考古学的な裏づけのほかに、天孫民族が高天原から天降ったという神話と矛盾しないという条件にかなっているので、大正時代には大いに流布信奉された。浜田耕作が原日本人proto-Japaneseとよんでいるのも、これとほぼおなじ内容のものである。
それからまた、鳥居氏のこれについては、一九八四年に創立百周年を迎えた日本人類学会記念誌『人類学――その多様な発展』の巻頭論文となっている池田次郎氏の「序章 日本人起源論の一〇〇年」にこうも書かれている。
アイヌ説、コロボックル説など第一期の学説は、すべて人種交替を認める点で一致しているが、その中では鳥居龍蔵の、縄文時代の本州住民はアイヌで、現代日本人は朝鮮半島から弥生文化とともに渡来し、先住民を北方に駆逐した固有日本人から派生した、という論旨がもっとも明快である。
先住民アイヌと和人との衝突
いわゆる蝦夷がアイヌであり、日本先住の縄文人であったということは、これまで何度もふれているが、だいたい、アイヌとは「人間」ということで、それが蝦夷・エミシなどという蔑称のもとに征服・駆逐される過程で、「おれたちは人間だ!」といったことからきたものとも考えられなくはない。
それはともかくとして、北海道におけるそのアイヌも決して平穏ではなかった。いわゆる続縄文=擦文《さつもん》文化人であったかれらは、ゆたかな狩猟採集のモシリ(大地)で平穏・平和なはずだったが、そこにもかなり早くから「固有日本人」であるシャモ(和人)がはいり込み、中・近世あたりからはそれが増える一方となった。
「こうした和人勢力の増大は、先住民アイヌとの衝突をひきおこす。和人側の優越感や詐欺《さぎ》的行為もあっただろう。一四五七(長禄元)年のコシャマインの蜂起はそのあらわれだが、花沢館の客将武田信広の奮戦で、和人は危機を回避できた」(北海道歴史教育研究会編『北海道の歴史散歩』)
ここにいう武田信広は蛎崎《かきざき》氏となり、それがさらには松前藩の松前氏となったものだった。それからのことは、いまみた『北海道の歴史散歩』にこうある。
蛎崎氏は五代慶広《よしひろ》のとき、豊臣秀吉によって蝦夷島主とみとめられ、安東氏から独立した。姓を松前とあらため、江戸幕府下の一藩をなすが、他藩とちがって農業生産がなく、蝦夷交易権がその経済的基礎だった。松前城下を中心に東は函館近辺まで、西は熊石までの海岸線を和人地とし、以東を東蝦夷地、以西を西蝦夷地と称した。……
一六六九(寛文九)年、シャクシャインの檄《げき》で全道的にアイヌが蜂起し、二七三人の和人がころされた。幕命で松前藩ばかりでなく東北諸藩も動員され、アイヌ軍は敗退し、絶対服従の誓詞をだした。この敗北は、アイヌ隷属化のみちを決定づけた。
そういう経過をへて、アイヌを主体とした北海道の総人口は、明治初年までには約五万であったが、それがいまでは五百余万となっている。そしてアイヌのそれはどうかといえば、一九八六年の道庁民生部の実態調査では二万四千三百八十余であるが、北海道ウタリ協会によると、実際はその倍ほどで、道外にも数千人いるとのことである。
古墳の北限
どちらにせよ、差別と同化政策による減少は明らかで、私がその北海道の地をはじめて踏んだのは一九五五年、新日本文学会創立十周年ということで、中野重治、西野辰吉氏とともにした一週間ほどの巡回講演でだった。それからも全電通労組などに招かれて一、二度行ったことがあるが、そのときはどちらも列車と連絡船とによってだったけれども、空からの飛行機で千歳空港におり立ったのは、一九九一年初夏のこんどがはじめてだった。
青森ほかのときと同じように細川和紀、高淳日、堀佶さんがいっしょだったが、空港では東京に住む建築家・鼻和達夫さんの実兄で建設会社「鼻和組」社長の鼻和憲生氏が私たちを出迎えてくれていた。もちろん達夫さんからの連絡によるものだったが、私たちはその鼻和社長のクルマで、恵庭《えにわ》市泉町にあった鼻和組に着いて一休みした。
そして私たちは、鼻和組総務部総務課の吉田淳也氏が運転してくれるクルマで出かけることになり、まず近くの、新しくできたばかりの恵庭市郷土資料館をたずねることにした。まずその資料館ということになったのは、榎本守恵・君伊彦氏の『北海道の歴史』「古墳の北限」の項にこう書かれていたからである。
土師器とともに少数ではあるが須恵器がもちこまれた。須恵器は土師器などにくらべてはるかに吸水性が少なく、じょうぶで使いやすかったが、これまでの土器づくりの技術ではむずかしい高熱による焼成が必要であったため、北海道でつくることは至難であった。
この土師器や須恵器を副葬した円墳が江別市や恵庭《えにわ》町〈いまは市〉でみつかった。江別文化や恵庭文化の墓制では、死体をうめる穴を地中に深く掘って、その上は平らに土をかけるだけである。ところが、江別市や恵庭町でみつかった墓の穴は、以前のように楕円形ではなく、長方形で浅く、その上にマンジュウのように土をもりつけるのである。
この墓には、土器のほかに鉄の刀・斧《おの》・輪・鑷子《せつし》(ピンセット)・耳輪《みみわ》などが副葬されているが、なかでも“蕨手《わらびで》刀”という、柄が蕨のような形をした刀が注意をひく。これは東北地方でもよくみられ、和同開珎《かいちん》(和銅元年=七〇八年にはじめてつくられた)とともにうめられていることがあるので、刀の使われた年代は八世紀なかごろから九世紀のはじめと考えられる。……
江別市や恵庭町のこうした墓は、東北地方北部の古墳とつくり方や出土品のうえで多くの類似をみせている。すなわち、江別市や恵庭町の墓は古墳文化の墓制であって、しかもその最北端の円墳ということができよう。
「北海道式古墳」
その古墳や出土品をみたいということで、恵庭市郷土資料館をたずねたわけだったが、資料館にはたしかにその一部が展示されていた。しかし、同資料館で会った学芸員・大林千春さんの話によると、それらの多くが展示されているのは、江別《えべつ》市のほうの郷土資料館だとのことだった。
恵庭市は人口五万余であるのに、江別市は八万九千余だったから、そういうことでも江別のほうがまさっているようだった。で、私たちはその江別へ向かうことにしたところ、大林さんが電話をしてくれて、江別市ではこの日がちょうど、新しい郷土資料館のオープンの日で、式典のおわる午後三時すぎに来てほしいとのことだった。
江別市は恵庭の北方二十キロほどで、どちらかというと、そこは北海道都の札幌よりだった。私たちはちょうど三時すぎにその郷土資料館に着き、江別市教育委員会社会教育課文化財保護主事の高橋正勝氏や、同文化財事務所主査の直井孝一氏に会い、さっそく直井さんの案内で階上となっている展示室をみせてもらうことになった。
展示室の壁をうめているのは、どちらも縄文・続縄文・擦文土器が圧倒的だった。それはそれでまたなかなか見事な景観だったが、一方に丸い小型の円墳である古墳群の模型や、そこからの出土品も展示されていた。
土を丸く盛った円墳群は、まるで現代韓国の共同墓地のようなおもむきのものであったが、その説明は「北海道式古墳」となっていて、それはさきにたずねた恵庭市郷土資料館の説明板とも同じだった。カメラにおさめてきた恵庭のそれを引くと、こうなっている。
北海道式古墳は一九三二(昭和七)年、柏木東遺跡で北海道で初めて発見された土を丸く盛った墳墓である。形と副葬品からみて東北北部の古墳に似ているため北海道式古墳と呼ばれている。北海道式古墳が発見されたのは恵庭の他は江別だけである。出土品は蕨手刀《わらびでとう》や小刀、玉、須恵器などで、奈良〜平安時代初期(八〜九世紀)頃のものとみられている。
この頃北海道全域に住んでいた擦文文化の人びとはこのような墳墓は作っていなかった。したがって、北海道式古墳を作った人びとは本州からの移住者で、それもかなり位の高い人たちか、あるいは以前から北海道に住んでいた蝦夷のなかで本州と深い関わりを持ち、指導的立場にあった人たちの墳墓ではないかと考えられる。
だが、墓制というものはなかなか変わるものではなく、もっとも保守的なものであるから、それはやはり「本州からの移住者」のものであったかも知れない。のち、鼻和憲生氏が弟の達夫さんをつうじて送ってくれた、一九九一年四月二十一日の北海道新聞に、「苫小牧出土の佐渡産須恵器/日本海交易を裏づけ/奈良教育大教授が粘土分析」とした見出しの記事が出ていて、「道内の須恵器はこれまでに、およそ百三十ヵ所の遺跡で見つかっている。北海道に窯跡はなく、すべて本州産。六、七世紀ごろに生産されたものが最古とされている」とある。
アイヌ語の中の朝鮮語
してみると、ほかにも他からの移住者は相当いたとみなくてはならない。しかし、私たちは江別から札幌へ出て一泊し、翌日は札幌市資料館から、小樽まで足をのばして余市《よいち》町のフゴッペ洞窟や、縄文人の「集団墓地あるいは集落の祭場」とみられている忍路《おしよろ》環状列石(ストーン・サークル)などをずっとみて歩いたが、人口百五十万以上の大都市となっている札幌はもとより、北海道は完全に和人=日本人のものとなっていたけれども、基層はやはりアイヌのそれにほかならなかった。
それは、江別市郷土資料館でもらった大部の江別市文化財調査報告書『元江別遺跡群』をみてもよくわかることで、私はそうして歩きながら、アイヌ、すなわち日本原住の縄文人とはいったいなんだったのか、と考えないではいられなかった。たとえば、その言語であるが、山田秀三氏の「アイヌ地名研究四〇年」をみると、「要するに、東北地方の蝦夷というのはアイヌ語族であった。地名という歴史的記録を総合していったら、その事実が、その中から語られて来たのであった」とある。
いわゆる蝦夷とは古モンゴロイドの縄文人、アイヌのことであるから、それは当然であろうが、ところで、アイヌ出身の言語学者で『分類アイヌ語辞典』の著者でもある知里真志保《ちりましほ》氏によると、アイヌ語のなかには朝鮮語が相当はいっているという。そのことが『知里真志保著作集』第三巻「アイヌ語の中の外来語」の項にこうある。
アイヌ語を研究していて、非常に不思議に思うことは、朝鮮語の要素が群《むれ》をなして見出されることであります。まず、地名や地形を表わす語にそれがあります。アイヌ語で川のことを「ペッ」または「ナイ」と云いますが、この「ナイ」は朝鮮語であります。
こういうふうに、それが三ページにもわたって例示されている。私はかねてからアイヌのカムイ(熊=神)ということが、朝鮮の檀君神話に出てくるコム(熊)がカム(神)となったことと関係あるのではないかと思っていた。が、アイヌ語のなかにその「朝鮮語の要素が群をなして」いるとは知らなかったものであった。
朝鮮から北海道への直接ルートの可能性
なお、カム(神)はいま日本語ではふつうカミ(神)といっているけれども、もとはカムであった。そしてこのカム(神)の依《よ》り代《しろ》である樹木をカムナム(神の木)といったことから、これが日本では神木・神社を意味するカムナビ(神奈備)となっている。これは弥生・古墳時代以後の「固有日本人」のことなのでよくわかる。
しかし、原住の縄文人の言語であったアイヌ語のなかに、どうして「朝鮮語の要素が群をなして」いるのであろうか。そのことについては、知里氏もつづけてこう述べている。
しかもアイヌ語の中に入っている朝鮮語の中には、今のところ日本語にその痕跡が見出されないものも、かなりあるのであります。これはどういうことなのでしょうか。そのような文化を持った民族が北鮮から北九州あるいは出雲あたりへ上陸して日本海岸伝いに北上したものか、或いは北鮮から直接に潮流に乗って北海道へ上陸したものか、まだよく分っておりません。
しかし、北海道にいわゆる朝鮮土器〈須恵器のこと〉というものが発掘され、それは奈良、平安朝期の蝦夷文化圏を代表する遺物であって、おそらくは大陸文化と直接の関係を持っていただろうということを考古学者は云っているのであります。アイヌ語に於ける朝鮮語の要素の存在は、そのような考古学的な事実と表裏一体のものとして、その歴史的背景を明かにすべき問題だと考えるものであります。
「北鮮から直接に潮流に乗って北海道へ」とあるが、「羅臼・植別川遺跡の金属片/日本最古の銀製品だった/二千年前の女性副葬品/大陸から渡来か」という一九八七年十二月十四日の北海道新聞の記事などをみると、そういうこともあり得たと思われる。
北朝鮮から北海道へのルートということになると、東海岸の豆満江河口あたりが考えられるとされているが、しかし、たしかなことはまだよくわかっていない。いまのところ、それはやはりこれからの問題、研究課題とするよりほかないようである。
シリーズの前と後「あとがき」にかえて
『日本の中の朝鮮文化』シリーズの最終、第十二巻(講談社)となる「東北・北海道」がようやくおわりとなった。「関東」をあつかった第一巻が出たのが一九七〇年であったから、ちょうど二十一年目ということになる。
なにしろ、沖縄から北海道までの全国各地を歩きまわらなくてはならなかった仕事であり、そのあいだには小説のほうの仕事もあったからであるが、しかしそれにしても、ずいぶん長い年月がかかったものと思わないわけにはゆかない。それまでにはいろいろなことがあり、新たな発見もたくさんあったが、ここではまず、私は第一巻の「まえがき」に次のように書いた、それからみてもらうことにしたい。
――私が日本の中にあるこのような朝鮮文化遺跡の「旅」を思い立ったのは、十数年もまえからのことだったが、しかしいろいろなことがあって、なかなか実行にうつすことはできなかった。それがいまようやく、関東地方を中心にして一冊となったのが本書である。
ここで私が意図したことを一言にしていうならば、それはかつての古代、朝鮮とは日本にとって何であったか、ということであり、同時にまた、日本とは朝鮮にとって何であったか、ということでもある。そのことをここに書かれたような「旅」をつうじて考えてみようとしたものにほかならない。
もちろん、私はひとりの文学者ではあっても、けっして歴史学者といえるようなものではない。しかしながら、私は朝鮮と日本とのそれに関するかぎり、これまでの伝統的な日本の歴史学にたいして、ある疑問を持っていることも事実である。疑問というのは、一つはまず、日本古代史における朝鮮からのいわゆる「帰化人」というものについてである。端的にいえば、これまでの日本の歴史では、まだ「日本」という国もなかった弥生時代の稲作農耕とともに来たものであろうが、古墳時代に大挙して渡来した権力的豪族であろうが、これをすべて朝鮮を「征服」したことによってもたらされた「帰化人」としてしまっている。ここにまず一つの大きなウソがあって、今日なお根強いものがある日本人一般の朝鮮および朝鮮人にたいする偏見や蔑視のもととなっているばかりか、日本人はまたそのことによって自己をも腐蝕しているのである。
ところで私は、にもかかわらず、この「旅」にあたっては一貫して、それをあくまでもそのような「帰化人」としているこれら日本の歴史学者や、考古学者たちの研究にしたがってすることにした。うるさいほど引用がされているのもそのためで、これは「わが田に水を引くもの」とみられるのをおそれたからばかりではない。いわば、私のこの「旅」は日本の学者たちの研究にしたがって、それを手にして、この足で歩いてみたものにすぎないが、しかしじつをいうと、私はその遺跡がこれほどまでに広く詳細にわたって分布しているとは知らなかったのである。
そればかりか、私はこうして歩いてみてあらたに気がついたことは、では古代、これら朝鮮からの「帰化人」といわれるものたちがのこしたもののほかに、「日本の文化遺跡」はいったいどこにあるのか、ということだった。関東地方だけをとってみてもそうであったが、これはいったいどういうことを意味しているのであろうか。古代における朝鮮からのそれがどういうものであったか、われわれはもっとよく考えてみる必要があるのではないかと思う。われわれはそうすることによって、今日にある両国・両民族のすがたも、はじめてはっきりした主体的なものとすることができるにちがいない。――
この「まえがき」には書かなかったけれども、私は、その第一巻を雑誌『思想の科学』一九七〇年一月号に「朝鮮遺跡の旅」として連載しはじめたときから、「帰化人」といわれていたそれを「渡来人」としていた。そして一方、いまは故人となっている京都での事業家で友人だった鄭詔文の経済的負担のもとに、一九六九年に小季刊誌『日本のなかの朝鮮文化』を創刊してその編集にもたずさわるとともに、同誌創刊号における上田正昭・司馬遼太郎・村井康彦氏らとの座談会(「日本民族と『帰化人』」として中公文庫『日本の朝鮮文化』に収録)や、同誌(七〇年六月刊の第六号)に「『帰化人』ということば」などを書いて、それの誤りであることを指摘し、批判していた。
どこかに蔑視感(観)のこもったその「帰化人」という者を、日本の歴史学者たちはどうみていたか。それの例を一つふたつみると、たとえば、一九六七年の岩波書店刊『日本歴史』(一)「原始および古代」(1)にある藤間生大氏の「四・五世紀の東アジアと日本」であるが、そこに「注」のかたちでこう書かれている。
「帰化人」という名称には、みずからの意志で日本にきて、土着を好んでしたかのようにうけとれる内容がある。これは事実にそむく。「帰化人」のうちにはそうした人もいるが、「帰化人」の多くは略奪されてつれてこられたり、大陸の君主の贈与によって日本にきたのである。……したがって本稿では大陸出身の日本土着の工人、大陸からつれてこられて日本に土着させられた人といったような表現で、「帰化人」をあらわすことにする。便宜の都合で「帰化人」をつかう時はカッコをつけておいた。
これはちょっと、おどろくべきウルトラ皇国史観によるものであった。私がここでしているカッコ(「 」)とはまったく逆の意味でそうしているというわけで、つまり、それは「帰化人」という者でさえなく、「略奪されてつれてこられたり、大陸の君主の贈与によって」きたモノのようなものだったというのである。
ついでこんどは、一九七二年の河出書房新社刊『日本歴史大辞典』第三巻(増補改訂版第五刷)にある門脇禎二氏執筆の「帰化人」の項をみると、それはこうなっている。
外国人で日本に国籍を移したもの。日本の古代にはとくに帰化人が多く、漢・百済・高麗・任那などの人が、四、五世紀のころから八世紀ごろにかけてあいついで渡来した。四、五世紀のころに急に帰化人がふえたのは、高句麗の楽浪攻撃によって、当時の倭軍も、技術奴隷としての楽浪遺民の争奪戦に加わったためであろうと考えられている。
「技術奴隷としての楽浪遺民の争奪戦に加わったため」とは、さきの「『帰化人』の多くは略奪されてつれてこられた」ものということと軌を一にしたものであるが、しかし、門脇氏はその後、「蘇我氏の出自について」(一九七一年刊『日本のなかの朝鮮文化』第十二号)で、自著の『古代国家と天皇』を絶版とし、「また、朝鮮出兵によって獲得をめざしたとしたり、渡来した『帰化人』を、一元的に技術奴隷とした所説もすでに棄てている」と「自己批判」をしている。
それからまた、岩波書店から一九七三年に出た石母田正氏の『日本古代国家論』の「はしがき」をみると、こういうくだりがある。
右の三篇だけでは一書をなさないので、旧稿のうちから、それに関連する若干の論稿をえらんで収録した。そのさいの訂正は、二、三のかんたんな補筆のほかは、字句の修正にとどめた。たとえば、金達寿氏等の提言にしたがって、「帰化人」を「渡来人」と改めたのもその一つである。
さらにまた、角川書店刊の高柳光寿・竹内理三編『日本史辞典』も一九七四年に出た第二版からは、「帰化人」が「渡来人」に変わっているが、八四年には奈良国立文化財研究所・飛鳥資料館から『渡来人の寺―檜隈寺と坂田寺―』とした本も出ている。「編集・発行」が「奈良国立――」とあることに、私としては感なきにしもあらず、というものであった。
こうして、「帰化人」ということばはしだいになくなることになり、いまでは歴史書や教科書などからもほとんどそれは消えて、「渡来人」に変わっている。しかしながら、その意識・思想はまだ消えてなくなったとはいえず、それはまだ根強く生き残っている。
さて、私が第一巻にしるした「まえがき」であるが、「私は朝鮮と日本とのそれに関するかぎり、これまでの伝統的な日本の歴史学にたいして、ある疑問を持っていることも事実である」と、かなり控え目なつもりのものだったけれども、しかしある側からみれば、かなり挑戦的なものとうつったかも知れなかった。歴史学にたいしては素人のくせになにを、ということだったかも知れない。
そういうこともあって、私は実をいうと、その第一巻が刊行されることについては、ちょっとおそるおそるといった、ある危惧の念をいだいたものだった。明治以後をとってみても、百年以上にわたる皇国史観でやしなわれた日本の国民感情が、はたしてどう応じてくれるだろうか、と思ったからである。
ところが、フタを開けてみると、それはまったくの危惧にすぎなかった。そのことを私は、第二巻の「神社の神体をみる」の項でこう書いている。ちょっと長いけれども、それをここに引いておくことにしたい。
――後日、例によって私は、東大阪市に住む鄭貴文(前記、鄭詔文の兄)といっしょに、彼のクルマで富田林市史編集室へと向かっていた。河内にはいってからは袮酒《ねざけ》太郎氏が室長となっていたその編集室が私たちの連絡場所のようになっていたが、きょうはそこでまたもう一人、私の協力者となってくれるはずの清田之長《これたけ》氏と会うことになっていた。
袮酒氏をも含めて、どうしてそういう人に会う、あるいは会えることになったかというと、私はここでまたちょっと、楽屋裏のことを語らなくてはならない。それは、どのような人々の協力によって私のこの仕事がすすめられているか、ということを語ることでもある。
私は『思想の科学』誌にこの「旅」を連載してかなりになるが、さきに私はその第八回までの関東地方の分をまとめて一冊とし、それを『日本の中の朝鮮文化』として講談社から刊行した。自分でいうのはおかしいけれども、NHKや諸新聞などマスコミの支援もあって、はじめは増刷が間に合わないほど、反響は大きかった。
それで、私自身にも連日のようにほうぼうからたくさんの手紙や資料が送られてきたが、本のなかにはさんである「愛読者カード」も、これまでに千数百通がきている。これは著者の私とは直接関係なく出版社にあてたものであるが、出版社がみせてくれたので、私もそれをみた。
通信欄には、いろいろなことが書かれている。たとえばいま私がたずねている河内、大阪府柏原市上市に住む坂本久男氏からのような、「日本の古代史は書きかえられるべきです。それが正しい愛国心につながると思います。でき得れば……」といったものがあるかとみると、なかには、「前方後円墳は日本自生の独自なものである。それをしも朝鮮からのものであるかのようにいうのはおかしい」といった意味のことを書いたものもあった。
しかし、前者をかりに肯定的なものということにし、後者を否定的なものということにすると、後者のそれは全体のなかでわずか二、三通にすぎず、あとはすべてみな前者のようなものばかりであった。そしてまた私などおどろいたことには、その全体の七〇ないし八〇パーセントまでが、関東につづいて、こんどは関西や九州をやってほしいというものであり、そのようにして全国をやってくれ、というのもたくさんの数を占めていた。念のためにいっておくと、それらの手紙や「愛読者カード」の全部はみな日本人読者からであって、在日朝鮮人からのものはそのうちの五、六通でしかない。
関西をやってほしいというのは、以後、私はつづけて関西地方のそれを『思想の科学』誌にこうして連載していることが知られていなかったからであるが、それにしても関西とともに、九州がセットのようになっていわれてきているのが私にはおもしろかった。なかには山陰の出雲地方をといってきたのもかなりあったけれども、現にいまこの稿をすめている昨夜は、北九州市の小倉区に住んでいるという森本修介氏から長距離電話がかかり、「関東より朝鮮に近いばかりか、その遺跡もはるかに多い九州をなぜやらないか」とまるで詰問するように言ってきた。
「九州へくれば、自分のクルマで案内してやる」というものだったが、実は、私はいまの関西につづけて「九州・沖縄」もやりたいと考え、阿部桂司君の実家がある福岡県椎田町を根拠にして、すでにそこも二度ほどまわって来ていた。それにしても、ありがたいことだった。
それからまた、それらの手紙や「愛読者カード」により、私の知らなかったことで、わかったものもずいぶん多かった。たとえば、ある服飾研究家からきたものでは、それで私ははじめて日本の「鯨尺《くじらじやく》」が「百済《くだら》尺《じやく》」といったことからきたものであったことを知ったし、また、「高野山」が「高麗山」ということであったということも、それではじめて知った。
とにかく、それらの手紙や「愛読者カード」は質量ともに、一冊の本にでもまとめたいほどおもしろいものだった。(が、二千人以上の筆者にいちいち許可をもらわなくてはならなかったので、それはできなかった)
私はそれらをみているうちに、あることを思いついた。それは日本全国にわたっているものであったから、私がこれからそこをたずねたいと思っていたところから送られてきた手紙のうちのある人には、こちらからも手紙をだして協力してもらおうと考えたのである。
なかには当地へ来ることがあったら「案内したい」といってくれる人もたくさんいたからだったが、つまり、私たちがこれから富田林市史編集室で会うことになっている清田之長氏は、そのような「愛読者カード」をつうじて知った人だった。清田氏は国学院大学の国史学科をでた大阪府立阪南高等学校長で、「河内や大和の渡来人に興味をもっている」研究者であるばかりか、しかもその住居は富田林市だった。――
要するに、私はそれらの人たちの協力があったからこそ、本書を十二巻まで書くことができたといっても、決して過言ではない。右の清田氏には、それから十六年後になって、やっととりかかることになって第十巻、十一巻となっている「九州」のときもまた、たいへん世話になったものである。
ところで、いま引いた第二巻「神社の神体をみる」の項のそれでは、「実は、私はいまの関西につづけて『九州・沖縄』もやりたいと考え、――すでにそこも二度ほどまわって来ていた」と書いたにもかかわらず、それがどうして「十六年後になって、やっと」ということになったかというと、もちろん、それにはそれなりの事情があったからだった。
最終の第十二巻となった「東北・北海道」にしてもそうだったが、簡単にいうと、そこはどちらも私の住んでいる東京からすると、遠隔の地であったからばかりではない。もうひとつは、たとえば九州には「クマソ・隼人《はやと》」などといわれた先住民がいたし、また、東北・北海道は「蝦夷《え ぞ》・エミシ」などといわれた先住民がいた地であった。
で、それを私はどう考えるか、ということがあったからでもある。もちろん私なりの考えがなかったわけではなかったけれども、しかし、例によって、それを「裏付けてくれる」日本の学者による資料がまだ足りなかったのである。
だが、結論からいうと、それまでには長い時間を要して、「九州・沖縄」と「東北・北海道」とがさいごの第十・十一・十二巻となったのは、むしろさいわいだったといっていいと思う。そのあいだ、九州でいえば一九八五年には、もと「早良《さわら》国」の福岡市西区で多数の加耶・金海式甕棺や細形銅剣・鏡・勾玉など、最古例のいわゆる三種の神器を出土した「日本最古の王墓」という飯森(吉武・高木)遺跡の発掘調査結果が明らかとなり、また、八九年には「吉野ケ里遺跡」などといった、新たな発見があったからばかりではない。
そのようなことは、一九八七年に青森県八戸市の古墳から「朝鮮製」の環頭柄頭が発掘されたりした東北・北海道にしてもだいたい同じことがいえるが、それにまた、そのあいだには人類学のほうでも相当な進展があって、私は一九八四年に出た国立民族学博物館教授・小山修三氏の『縄文時代』(中公新書)や、八六年に出た東京大教授(自然人類学)の埴原和郎編『日本人誕生』(小学館)などから新たにまた多くのことを学んだ。なかでもとくに勉強になったのは、一九八四年に創立百周年を迎えた日本人類学会による大部の記念誌『人類学―その多様な発展―』(日経サイエンス社)であった。
巻頭に会長・池田次郎氏の「序章 日本人起源論の一〇〇年」があって、まずこうある。
アイヌ説、コロボックル説など第一期の学説は、すべて人種交替を認める点で一致しているが、その中では鳥居龍蔵の、縄文時代の本州住民はアイヌで、現代日本人は朝鮮半島から弥生文化とともに渡来し、先住民を北方に駆逐した固有日本人から派生した、という論旨がもっとも明快である。
日本人の人種系統を論じたこの時代の学者たちが、縄文人の起源にほとんど興味を示さなかったのも、先住者は日本人の先祖とは無縁だと考えていたからにほかならない。
明治・大正・昭和にかけての人類学・考古学者であった鳥居龍蔵氏のいうその「固有日本人」とは、水野清一・小林行雄編『考古学辞典』の一項目ともなっているが、アイヌとは東北・北海道の先住民だったいわゆる「蝦夷・エミシ」にほかならなかった。九州における「クマソ・隼人」といわれた者たちもそれで、そのことについては同「――一〇〇年」にこう書かれている。
一方、沖縄集団の人種系統に初めて言及したベルツは、アイヌ・沖縄同系論を唱え、アイヌ説では、朝鮮半島から渡来した日本人の先祖によって南北に分断された先住民が、それぞれ北海道と沖縄で生き残っていると説明された。
やがて人種交替説が姿を消すと、沖縄集団は本州集団の一地方群で、アイヌとは無関係だとする見方が普及したが、戦後、奄美や沖縄で生体計測値、頭蓋や歯の形態、血液の遺伝標識など多くの形質が詳しく調べられ、沖縄、アイヌ両集団の類似がふたたび注目を集めるようになった。
ここにいうベルツとは、明治初期のいわゆる「御雇外人教師」としてドイツから東京大学に招かれていたエルウィン・フォン・ベルツのことで、池田氏の「――一〇〇年」にもあるように、明治初期における「日本人の人種系統をめぐる論議は、もっぱら」これら「欧米人学者の間で展開され」ていたのである。
なおまた、同『人類学』には小山修三氏の「縄文時代の人口」ものっている。それをみると、これまでの「日本の縄文時代の人口については、山内清男が一五万説をだし」「いっぽう、芹沢長介は一二万という数字をだしている」ことが紹介され、コンピューターなどによる最新の方法を駆使してまとめられた小山氏のそれは、「先史時代の人口と人口密度」という、「東北」「関東」など全国各地域のそれが詳細な「表」ともなって示されている。
それによると、弥生時代にいたる約八千年間の縄文時代の総人口は、中期の二十六万一千三百がもっとも多く、ついで後期は十六万三百となり、弥生となる晩期にはそれが七万五千八百となっている。そして地域別のそれは九州が六千三百で、東北は全体の半数以上を占める三万九千五百となっている。
そして、それが弥生時代になると、日本の総人口は急増して五十九万四千九百となり、さらに古墳時代をへて奈良時代になると、五百三十九万九千八百となっているのである。
私はさきにみた池田氏の「――一〇〇年」とともに、この人口「表」をみたとき、もちろんそれまで自分のやってきた「日本の中の朝鮮文化」という仕事を踏まえてのことであるが、古代の日本史というものがはじめて底のところからかなりはっきり、目の前にみえてきたような気がしたものであった。
そこで、また、ひとつことわっておかなくてはならないが、このことは、私はまえにも何度か書いている(小著『古代日朝関係史入門』の「序にかえて」ほか)けれども、どれも渡来人のそれであった、「日本の中の朝鮮文化」「日本の朝鮮文化遺跡」とは、あくまでも便宜的なことばであって、それがすなわち古代日本文化にほかならなかったということである。
*
「日本の中の朝鮮文化」シリーズは、たしか一九六九年の夏だったと思うが、鶴見俊輔氏が雑誌『思想の科学』でつづけていた『語りつぐ戦後史』(講談社学術文庫)のゲストの一人となったことがきっかけで、同誌七〇年一月号から連載となったのがはじめであった。
以来、二十一年余、取材のためおとずれた全国各地の人々には、いろいろとたいへんお世話になった。その人々のことは各巻の本文でいちいち名をあげさせてもらったが、いまここであらためて、心から感謝の意を表したい。
そのシリーズをこうした単行本としてとりあげてくれたのは、当時、講談社学芸図書第二出版部長で、いまは同社顧問(第一出版センター社長)となっている加藤勝久氏であった。そしてその第一巻の編集を担当してくれたのは同第二出版部の山川泰治氏で、ついで第二巻から六巻までは阿部英雄氏、第七巻から九巻までは池田公夫氏、第十巻からこの十二巻までは松岡淳一郎氏であった。
それから、なにぶん古代のことなので、わずらわしいことが多かったはずの校閲にあたってくれた同社校閲部のみなさんや、木村宏一氏、岩本敬子氏にもずいぶんお世話になった。これらの人々にも、いまあらためてまた、心から感謝の意を表したい。
みなさん、ありがとうございました。
一九九一年十月 東京
金 達 寿
文庫版への補章
日本最大の古代製鉄所跡
福島県原町市の遺跡
いよいよというか、ようやくというか、『日本の中の朝鮮文化』の文庫版も最終の第十二巻となった。親本の十二巻目が出たのは一九九一年であるから、それから四年目となったわけである。私としては「感なきにしもあらず」といったところであるが、それはおいて、例によってその間、新しく発見されたことや、また、私として新しくわかったことなどの簡単な「補章」を書くことにする。
新しい発見といえば、まずあげられる有名なものとしては、青森県における三内丸山という縄文遺跡であろう。しかし、それはあとのことにして、この稿も親本のそれと同じく、かつては青森県と同じく、これも陸奥国だった福島県からみて行きたい。
すると、これも原町市となるが、一九九三年十月二十日付け毎日新聞をみると、「国内最大の製鉄所跡/福島県原町市/東北遠征の武器調達か」とした見出しの記事が出ていた。古代東北の原町市にどうしてそんな最大の、と思ってその記事内容をみると、こういうふうである。
福島県文化センターが同県原町市などで進めてきた「金沢地区遺跡群」の発掘調査で、奈良、平安時代のものとみられる日本最大の製鉄所遺跡が、二十八日までに確認された。大化の改新(六四五)後、朝廷が東北地方の蝦夷を支配下に置くため、“征伐軍”に武器や農機具などを供給するための工場群だった可能性が高いとみられる。
確認された製鉄所遺跡は、百六基の製鉄炉▽燃料の木炭を焼いた木炭窯百三十六基▽銑鉄を加工した鍛冶炉九基▽管理倉庫十棟など、広さ約一平方キロに散在する。同遺跡群の近くには海岸の砂鉄、木炭用のクヌギ、高温に耐えられる炉壁用粘土があるなど、製鉄の条件に恵まれている。
県文化センターでは、出土品の分布状況などから七世紀後半に製鉄を開始、八世紀終わりごろからは、箱形の炉と「踏みふいご」といわれる送風装置を組み合わす工夫がとられたほか、二基の製鉄炉を並べて効率的な生産をはかるなど、飛躍的に生産を伸ばす技術革新が図られたと推測している。
国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の岡田茂弘・考古学研究部長は「これだけの規模があったのは、蝦夷征伐の中心である国府(多賀城)を支える生産工場として位置づけられていたためではないか」と話している。
製鉄史に詳しい河瀬正利・広島大助教授は「岡山県総社市で六十基の製鉄炉跡が見つかっているが、それを上回る最大の遺構だ。今回の発掘で、当時の鉄の生産や技術がどのようなものだったか、かなり正確にわかるのではないか」と話している。
ここにいう「蝦夷」とはどういうものだったかについては、本文のはじめのほうでみているが、いかにも、これより以南へは「勿来(来《きた》る勿《なか》れ)」ということだった「勿来《なこその》関《せき》」のあった福島県の地にふさわしかったというべきか、たいへんな製鉄所跡が発見されたものであった。そのことは、福島県内の同じいわき市にあった白河関にしても同様のものだった。
白河といえば、本文にもちょっとふれているけれども、朝鮮渡来の墓制である的石《まといし》山横穴古墳群があり、そこには二つの巨岩があって、「源義経が奥州落ちの際、この地でその岩を標的に弓の練習をした岩」という伝説があった。しかし、私が本文を書いた(もちろん、そんな伝説のことは書かなかったが)あとの、一九八九年十一月五日付けの福島民友(新聞)をみると、こんな見出しの記事が出ている。
「二つの巨石 墓標だった?/白河の的石山古墳群/市教委、永久保存を検討」としたもので、要するに、重さ約十三トンほどのほぼ同じ大きさの二つの石は、義経の伝説とは無縁の、それよりも五百年以上も前の横穴式古墳の墓標で、そのことを示す文字が刻まれているということだった。文字は「風化がひどく、内容の判読は非常に難しい」というが、もしそうだとすると、これは『古事記』『日本書紀』以前の文字だったはずで、東北の白河にそれがあるのは、どういうことからか、ということになるのである。
朝鮮陶質土器の出土
それから、さきの原町市の大製鉄所跡と関係があるのかどうかはわからないが、本文で原町市の泉廃寺跡や福島市の腰浜廃寺跡から高句麗系の軒丸瓦が出土していることをみている。そしてさらにまた、近くの相馬市高松山横穴古墳や相馬郡鹿島町の真野古墳、旧勿来市(現・いわき市)の山ノ上古墳から朝鮮渡来の冠帽、腰佩具《ようはいぐ》などが出土していることもみている。
どちらも「王者」が身につけるものであるから、この地域にはそういう王者がいたということになるが、それだけではない。これも本文を書いたあとに発表されたものだけれども、古代の土器に詳しい定森秀夫氏の「東北地方の陶質土器――日本列島における朝鮮半島系遺物の研究――」によると、東北各地からも日本須恵器の祖形である朝鮮陶質土器が出土している。
もちろん、福島県からもそれは出土しており、しかも、朝鮮渡来という「つくりつけのカマド」まで出土しているのである。定森氏の「東北地方の陶質土器」は、「東北地方でこのような陶質土器が出土する意味を考えると、渡来人・渡来系氏族ないし渡来文化との関連が考えられないであろうか」として、福島県におけるそれがこう書かれている。
福島県郡山市南山田一号墳出土の把手付短頸壺は、舶載陶質土器ではなくて、日本産の須恵器だとしても極めて特殊な器形である。この南山田一号墳の把手付短頸壺と関係ありそうな動きとしては、つくりつけのカマドが五世紀代にはすでに福島県に到達していることである。
福島県ではいまのところ最も古いつくりつけカマドは、中通りの福島市よりさらに北に位置する国見町下入ノ内遺跡で検出されていて、ここからTK二一六〜二〇八型式の須恵器が出土していることである。どのような経緯で、この把手付短頸壺が郡山市に入っていったのかは不明であるが、この特殊な器種の存在は、なんらかのかたちで渡来人と結びつくと考えておきたい。なお、須恵器と思われる把手付短頸壺が出土した石川郡玉川村辰巳城一七号住居址では、つくりつけカマドではなく、中央に炉があるものである。
福島県では、この他に時期は下るが、伊達郡梁川町の八世紀後半から九世紀初頭の新山一号墳に関しての報告書では、渡来系氏族との関連が述べられている。また、福島県原町市泉廃寺や福島市腰浜廃寺から出土する軒丸瓦が、やはり朝鮮半島系、特に高句麗系または新羅系の要素を有していることは、以前から指摘されてきている。このように、郡山市・福島市など福島県の中通り沿いに渡来系文化がみられることは、郡山市の把手付短頸壺を理解する上で参考になろう。
この郡山市の把手付短頸壺は、本文でもちょっとみているのと同じものと思われる。そして私は、それをいわゆる「大和朝廷」と結びつけられるものではないとしたが、定森氏の「東北地方の陶質土器」にそれの鮮明な写真が出ているので、それをここにかかげさせてもらうことにした。
積石塚・陶質土器・韓服神社
松沢古墳群と合掌形石室
つぎはどちらも出羽国だった山形県・秋田県である。本文では、山形の南陽市には新羅明神とのつながりが考えられる白鬚神社や、数百基の古墳が残っているということだけちょっとみた。
その後の今年、一九九五年四月二十七日付け読売新聞・山形版をみると、「東北初の合掌形石室/南陽・松沢古墳の二基/朝鮮半島系渡来人の埋葬法/大陸との交流解明に一石/大塚・明大教授が調査で確認」とした大きな見出しのこういう記事が出ている。
南陽市松沢の急傾斜地で発見されていた二つの古墳が、墳丘を石で積み上げた「積石塚」で、しかも石室の天井を三角屋根の形に石を組んだ独得の「合掌形石室」であることが明治大の大塚初重教授(考古学)の二十六日までの調査で確認された。朝鮮半島系の渡来人に特徴的な埋葬方法とされる合掌形石室が東北地方で見つかったのは初めてで、古墳時代の大陸との交流の解明に一石を投じることになりそうだ。
同市東部の平次林山の南側斜面にある古墳群は、ブドウ園の開墾作業をしていた農民が一九五六年と六七年に見つけ、「松沢古墳群」と名付けられた。
二つの古墳はそれぞれ箱形の石室と積み石から成り立っている。一号墳は長さ二百三十七センチ、幅百二十センチ、深さ四十五センチ、二号墳は長さ百八十センチ、幅八十二センチ、深さ四十七センチで、一号墳から発見された土師器《はじき》の形式から、五世紀後半〜六世紀のものと推定された。
今月九日、現地で確認調査を行なった大塚教授は、石室東側の壁石が人工的に三角形に加工されていることや、石室の屋根の一部が斜めのまま残っていることなどから、「合掌形石室にほぼ間違いない」と判断した。
合掌形石室は、国内で三十数例発見されているが、山梨県豊富村の一例を除いて、すべてが長野県の善光寺平に集中している。一方、かつて百済《くだら》の都があった韓国忠清南道公州市の四基の古墳にも合掌形石室があり、わが国の合掌形石室の被葬者は、渡来系の集団というのが考古学界の通説になっている。
大塚教授は「山形県に合掌形石室があるなどとは、日本の考古学界ではだれも考えていなかった。東北への文化の流通ルートも、大和政権ばかりでなく、日本海沿岸文化との関係も考えなくてはならない」と指摘している。同市教委の吉野一郎文化財係長も「周囲にまだ古墳のある可能性が高い。渡来人との交流を解明するためにも、分布調査と発掘調査が必要になった」と話している。
東北地方でも、そんな積石塚の合掌形石室が発見されたことが珍しいので全文を引いた。こうした積石塚古墳は北部朝鮮の高句麗からきた墓制であるが、しかし、だからといってそれがみな、あるいは少数の合掌形石室をもったものばかりとは限らない。
積石塚と渡来人
また、積石塚といっても、その概念は広く葺石古墳にまでわたるもので、森浩一・NHK取材班がそれの祖源の地である高句麗の、いわゆる前方後円墳の祖形などもある鴨緑江畔を踏査してまとめた『騎馬民族の道はるか――高句麗古墳がいま語るもの――』をみると、「ここ鴨緑江畔、いずれも騎馬民族の墓である。積石塚は、騎馬民族特有の墓制だったのである」としてそのことがこうある。
しかも、時代は紀元四世紀ごろとかなり下りはするが、日本でもこの積石塚がいくつも発見されている。長野県在住の考古学者、桐原健さんの著書『積石塚と渡来人』(東京大学出版会)によれば、その数およそ一五〇〇基。
全国で確認されている古墳の数が前方後円墳を中心におよそ一五万基というから、全体からみればごくわずかである。しかし「葺石《ふきいし》に積石塚を造ろうという意欲のあらわれをみる」森〈浩一〉さんや、「葺石を有する古墳はすべて積石塚の概念で取り扱うべき」と考える桐原さんの見方に立つと、一五万基の古墳の大半が積石塚古墳ということになる。……
それでは、間違いなく高句麗系の積石塚と考えられる墳墓は日本のどの地方に築かれたのか。一五〇〇基のうち、九州では三六〇基を、中国地方では二二四基、四国では三〇基を数えるが、とりわけ集中しているのが中部山岳地帯で、山梨県に一四〇基、そして長野県では全体のほぼ六割、九〇〇基を数える。長野県が異常に多い。この地での積石塚の出現は五世紀であるが、爆発的に増加したのは七世紀であるらしい。
たしかに、信濃国だった長野は、「異常」なほど積石塚古墳の多いところである。そればかりか、それらの古墳と文献上の記載とがよく一致しているのも長野県で、そのことは、森浩一氏や桐原健氏、飯島一彦氏、私とでおこなった「古代信濃と朝鮮をめぐって」とした座談会でも語られている(当文庫第七巻「信濃」の部参照)。
しかしながら、古墳はいわゆる前方後円墳、円墳、あるいは積石塚古墳であれ、古墳ではない住居跡などの遺跡にしてもそうだが、もっとも重要なのは、そこになにが副葬されていて、どういうものが出土するか、ということなのである。それによって被葬者などが推定されるからであるが、そのばあいもっとも重要なのは、その時代・時期を示す土器である。
さきにもみたように、同じ渡来人によってであっても、日本で須恵器がつくられる以前の朝鮮陶質土器が、そこから出土しているということは、それ以前すでにその土器を携行してきた渡来人が、その地にいたということにほかならないのである。ただし、陶質土器といわゆる初期須恵器とはたいへん見分けがむつかしくて、専門家でさえよくはわからないものがあるという。
陶質土器の渡来ルート
そのような陶質土器は、山形県内のあちこちからも発見されている。定森秀夫氏の「東北地方の陶質土器――日本列島における朝鮮半島系遺物の研究――」によると、山形県のそれはこういうふうである。
△山形県・伝山形県内出土有蓋高杯
蓋を伴う高杯で、現在、山形大学付属博物館に所蔵されている。四半世紀以前に早くも「古式須恵器」として紹介されていて、東北地方の陶質土器・須恵器に関する論文などにはよく登場してくるものである。
そして、「この資料に関しては、『伝山形県内出土』とされるのみで、出土状態などは全く不明である。すでに詳しく紹介されているが、筆者も実測調査を行なったので、観察結果を述べてみたい」とつづけられているが、しかし、その「観察結果」は一般のわれわれにとってはよくわからないし、また、あまり興味もないので、それは省略することにした。
それからさらに、この研究論文は、「一、はじめに」「二、資料呈示」「三、資料の系統と年代」「四、若干の検討」「おわりに」というぐあいに構成されている。このばあいの「資料の系統と年代」「四、若干の検討」の項は、韓国などで出土した陶質土器と比較考証がおこなわれたりしたものだけれども、しかし、これも一部の例外を除いては、同じ理由でみな省略とした。
△山形県山形市・東金井出土有蓋高杯三点
山形市東金井から出土したと言われているが、出土状況などについては全く不明である。現在、前者とともに山形大学付属博物館に所蔵されている。短脚の有蓋高杯(蓋あり)、無透孔の有蓋高杯二点がある。
△山形県新庄市・東山グラウンド出土有蓋高杯
グラウンド造成中に金環・管玉とともに出土したと言われるもので、現在、個人蔵となっているようである。筆者は実見していないが、『真室川町史』に写真が掲載されている。
以上であるが、そのうち、これも渡来品と思われる金環・管玉とともに出土したとある、新庄市・東山グラウンドからのそれについては、「資料の系統と年代」の項をみるとこうなっている。
新庄市東山グラウンド出土有蓋高杯 形態的には、伝山形県内出土品と同じく、二段交互配置の透孔を有するもので、いわゆる「新羅土器」の系統である。主に〈韓国〉洛東江流域の東側に分布するものである。時期は伝山形県内出土品より新しく、六世紀前半から中頃にかけてのものと思われるが、中頃に近い年代が考えられよう。他に、日本出土品で類似品を探すと、和歌山県前山A四六号墳出土のものを挙げることができる。
そしてさらに「四、若干の検討」をみると、「もし、このような渡来人・渡来文化が認められるならば、次にそのルートが問題になってこよう。一つは、関東地方に一度入ってきたものが」福島県のいわゆる中通り、浜通りを「経て北上してくるルートがある」として、二つ以下の山形県などのそれについてはこう書かれている。
二つには、西日本から日本海沿いのルート、三つには朝鮮半島から日本海を経て直接渡ってくるルートがありえよう。山形県内の出土例は、あるいは日本海のルートから入ってくる可能性が高いように思える。例えば、山形盆地へ日本海から入るとすれば、新潟平野から宇津峠を越える現在の米坂線で米沢盆地へ出て、山形盆地へ入るルート、あるいは酒田市のある庄内平野から現在の陸羽西線で新庄盆地へ出て、山形盆地へ入るルート(最上川をさかのぼる方法)がありえよう。
実際に、前述したように〈私のこの稿では省略している〉新潟県中条町から陶質土器が出土しており、山形県新庄市からも新羅系陶質土器が出土している。そういう意味で、新庄市東山グラウンド出土品や伝山形県内出土品は、あるいは日本海ルートから入ってきた可能性もある。
ただし、山形市東金井出土の短頸脚高杯に関しては、〈新羅西隣〉伽耶西部のものであるということから考える場合、西日本を経由して、関東を経てから入ってきたと考えられる。
さきにみた、日本の屋根といわれる長野県に多い高句麗系渡来人とかかわる積石塚古墳も、日本海、新潟県ルートからと考えられているから、ここにいう新潟ルートは充分考えられる。旧満州にあった高句麗の後身である渤海使もみな、日本海を渡って来ているのである。
『物部文書』の謎
日本海ルートとは、秋田大教授の新野直吉氏がいう「北の海みち」ということでもあるが、その秋田では本文にみられるように私がそこを離れたあと、いまは秋田市となっている高清水にあった秋田城跡からは、「百済王三忠」とした自署や「秦久尓」という人名の書かれた漆紙文書が発見されている。しかしそれはおき、山形で相当紙数をついやしたので、ここでは、一九九二年十一月号の雑誌『歴史EYe』の記事をひとつだけみることにしたい。
それは、秋田県協和町公民館長、進藤孝一氏の「鳥海王朝『物部文書』に秘められた古代東北の謎」となっているものである。つづけてそれの中見出しまでみると、「(一)なぜ東北の地唐松神社に物部文書が伝わったのか」「(二)古代朝鮮と関わり深い先進文化集団の物部氏」「(三)秋田物部氏が天降った霊山・鳥海山の由来は」ほかとなっている。
古代の各地方には、いわゆる「地域国家」のようなものがあったというから、「鳥海王朝」があっても別におかしくはないかも知れないが、しかし、現代の人々にとってはなかなか信じられないはなしである。まず、(一)からその中身をちょっとみると、こういうふうになっている。
秋田県物部文書《もののべもんじよ》は、韓服宮《からまつのみや》物部氏記録・韓服《からまつ》神社祈祷禁厭之伝・物部家系図からなる。とくに韓服宮物部氏記録には、天地創成神話をはじめ記紀に類似した記述が見られる。このような古史古伝がなぜ東北の地、秋田県協和町の唐松《からまつ》神社に伝わったのか、まず物部文書からその周辺を探ってみたい。
用明天皇二年(五八七)七月、崇仏論争で物部守屋が、南河内の渋川で蘇我馬子・厩戸《うまやどの》皇子(聖徳太子)の連合軍に敗れるが、そのとき物部守屋の一子、那加世《なかせ》が古来物部氏に伝わる文書を携え、蘇我氏の追っ手を逃れ東北の地に身を隠したという。
ここまではまあ、物部・蘇我の対立抗争は古代史上に有名なことで、ありうるはなしかも知れない。つづけて、あとはそのことを示す難解な「秋田物部文書」が引かれているが、それにしても、「韓服宮《からまつのみや》・韓服《からまつ》神社」がどうして「唐松《からまつ》神社」になったのか、そして、「韓服」のそれがどうして「からまつ」なのかもわからない。が、それはあとにして、つづけて(二)をみるとこうなっている。
ここで物部氏について述べてみたい。物部氏は、物部八十《やそ》氏、百八十《ももやそ》氏といわれるほど多くの支族がある。大和王権の成立前に、北方系の天降る伝承を持った渡来系の集団が九州や畿内に入ってきた。その集団は祭式を行ない武器を作り、また戦術にも長じていた。この集団をしてモノノケ、或いはモノノフと呼び物部氏が誕生した。この種の伝承や文化を持った集団が秋田物部氏である。
秋田物部文書には、物部氏の祖神である饒速日命《にぎはやひのみこと》は天鳥船《あめのとりふね》に乗り、出羽国の鳥海山に天降りしたと述べている。……
天降りとは何か。単純な解釈をもってすれば、先進文化を持った集団が未開の土地に移動する、そのように解釈したい。戦前皇孫の天降りは国定教科書にも記され、万世一系の日本の国体が肇《はじ》まる厳粛な営みであると教えられた。しかし、皇孫のみならず天降りの伝承をもつ古代豪族はほかにもいたのである。
これもまあ、「モノノケ」「モノノフ」から物部氏となったかどうかはともかく、うなずけないはなしではない。
谷川健一氏の『白鳥伝説』によると、物部氏は新羅・加耶系渡来の天日槍集団から出た産鉄族でもあったとあるからそうかも知れないし、また、「天降り」伝承にしても、古代朝鮮とともに、ひとつどころの伝承ではないから、わかるような気がする。
しかし、それにしても「韓服」「唐松」のことはわからない。で、私は秋田の象潟町に住む後藤洋さんに、「鳥海王朝『物部文書』に秘められた古代東北の謎」のコピーとともに手紙を書いて、ちょっと調べてみてくれないかとたのんだところ、やがて、こんどは同じ進藤孝一氏の著書となっている『秋田「物部文書」伝承』が送られてきた。
さっそく目次をみると、「神功皇后と唐松神社」とした項があったので、そこを開いてみたところ、こう書かれている。
唐松《からまつ》神社の唐松という語源は三韓征伐をなした神功皇后の偉業を称え、韓国《からくに》(外国)を征服したことからこの名がある。唐松神社は永正六年(一五〇九)までは唐松ではなく韓服《からまつ》神社と呼ばれていたことは「物部文書」にも、また菅江真澄の『月の出羽路』にも記されているところである。
「ふむ、そうか。例によって例の如しだったのか」と、私は思ったものだった。しかし、韓服神社というのは事実あったものらしいから、もしかすると、祖先のだれかが着ていた「韓《から》の服」(韓服《ハンボク》)がその神社の神体となっていたのではなかったかとも思われたが、もちろん、それもどうかはよくわからない。
青森の縄文遺跡と櫛目文土器
上野山古墳群
もう紙数がなくなってきたが、福島県と同じく陸奥国だった宮城県、岩手県から青森県、北海道を急いでちょっとざっとみることにしたい。まず宮城であるが、一九九五年八月二十三日付けの河北新報をみると、「宮城/上野山丘陵/古墳の総数三一四基に/東北最大級/さらに増える可能性」とした見出しのこういう記事が出ている。
宮城県の柴田町・村田町・大河原町共同推進事業協会(会長・平野博柴田町長)はこのほど、三町の中央に位置する上野山丘陵の古墳分布調査報告書をまとめた。それによると、四十五基の古墳が新たに見つかって総数は三百十四基に達し、現存する高塚古墳群として東北最大級と分かった。
古墳群は東西約一・五キロ、南北約一・四キロの広い範囲に分布しており、古墳のまとまりから五つの支群に分けられる。
大部分が普通の古墳と違い、斜面に築造されているのが特徴。横穴石室の上に墳丘を盛った円墳が大多数を占め、箱式の棺が少数交じっている。
墳丘を持たない箱式石棺は見落している可能性があるため、総数はさらに増える可能性があるという。
円墳の墳丘の直径は平均約六メートル、高さ約一メートルで、規模は小さい。石室の材料は上野山の基盤になっている玄武岩などが利用されている。
前方後円墳や、規模の大きい円墳などの周囲に円墳群が形成される場合と違い、均質的な古墳群の集合体であることが上野山古墳群の第二の特徴。このことから古墳時代末期から奈良時代ごろに、爆発的に築造されたものとみられる。
古墳の数の多い遺跡としては、東北では二百八基が確認されている宮城県丸森町の台町古墳群などが知られている。
東北大埋蔵文化財調査研究センターの藤沢敦助手は「上野山丘陵の古墳が東北最大級の数であることは間違いない。日本の古墳分布で言えば、はずれに位置するこの辺りに、どうしてこれだけの数がまとまって造られたのかを知るうえで、非常に意味のある基礎データだ」と話している。
こちらは積石塚古墳ではないけれども、これも同じ朝鮮渡来の横穴石室古墳群であるが、それはともかく、「東北最大級の数である」とはおどろきである。それが今年の一九九五年になってようやく発見されたのであるから、今後さらにまた、どこかで発見される可能性がある。
白山神社と志羅山
こちらは岩手県の中尊寺で知られる平泉町であるが、一九九四年十一月二十日付けの岩手日日新聞に、「一二世紀の側溝か/遺構が見つかる/白山神社参道と“直結”/志羅山遺跡 平泉町」とした記事が出ている。このばあいは「白山神社」「志羅山」というのが少し気になったからであるが、その記事のイントロ部だけちょっとみるとこうある。
平泉町・毛越寺線街路景観整備事業に伴う志羅山遺跡の第三十七次調査で、十二世紀の道路側溝とみられる遺構が検出された。軸線をたどると、特別史跡毛越寺の飛び地に指定される鈴沢・白山神社の参道と一致することから、当時の主要道解明の資料として注目されそうだ。
白山比《しらやまひめ》神社というのが正式名称である、加賀(石川県)の白山に発する新羅系の白山神社が中尊寺の鎮守となっているのについて、私は本文にこう書いている。「もしかすると、白山神社がそこの鎮守となっているのは、はじめは新羅と関係の深かった、最澄《さいちよう》が開祖となっている天台宗の寺院だったからかも知れなかった」と。
このように新羅がかかわっていることからすると、右の記事にみられる「志羅山」の志羅というのも、「新羅」ということからきた名称ではなかったかと思うのである。それからまた、その白山神社の参道が記事にみられるようなものだとしたら、この神社はよほど大きな存在だったにちがいなかった。
三内丸山遺跡の櫛目文土器
さて、東北最北の青森県から北海道となったが、青森となると前年から今年にかけてのトピックは、縄文時代の三内丸山遺跡が発見・発掘されたことであろう。各新聞ともそれを大きく何度も報じたものだったが、要するに、あちこちに移動しながらの狩猟採集経済民だった縄文人(本書のはじめにみている当時のアイヌ)としては珍しい、大きな定住集落が発見されたということであった。
国立民族学博物館教授・小山修三氏の『縄文時代』(中公新書)にある「先史時代の人口と人口密度」によると、稲作農耕の弥生時代となるまでの、縄文時代晩期日本の総人口は七万五八〇〇で、東北におけるそれは三万九五〇〇であるから、東北のそれが総人口の半数近くを占めている。したがって、青森にそういう大きな遺跡があるのにふしぎはなかった。
しかしながら、一九九五年三月二十一日付けのデーリー東北新聞に、「三内丸山は五〇人集落/国立歴史民俗博物館副館長 佐原氏が講演/デーリー東北政経懇話会」とした見出しの記事が出ている。
つまり、同副館長の佐原真氏は一時間半にわたっておこなったその講演で、「国内最大級の縄文集落として注目されている三内丸山遺跡についても触れ、『多くの人は(集落人数を)五百人規模とみるが、私は多くても五十人が妥当だろう』と五十人説を主張し、注目を集めた」というものであった。
そして、「同氏はまず、縄文人の生活について木の実や魚介類などを食糧とする狩猟採集が中心で、『基本的には自然の恵みで生きていた時代』と説明。……三内丸山遺跡については、花粉分析から『七〇%がクリの花粉で、三内はクリ林の中にあったのは確実』と述べた。しかし、住居跡の数や出土した直径八十センチのクリの木柱などから『大型構造物があり、大集落を形成していたのでは』――とする縄文時代の既成観念を覆す遺跡とする多くの専門家の見解には否定的な考えだ。『五百人説だと食糧が大変だ。同時に食べるだけの食糧を蓄えていたとは考えにくい』『同時期の他の縄文遺跡をみても、一番多くて住居跡が十軒か八軒』『一メートル近いクリの木を切り、柱として立てるのも困難』などと述べて五十人説を唱えた」
鉄器のなかった縄文人にどうして、「一メートル近いクリの木を切」ることができたか、とは当初からの疑問だったが、なるほどそういわれてみると、やはり「五十人説」がただしいのではないかと私などもそう思う。しかし、五十人にしても、そうしたまとまった定住の集落があったということは、たいへんなことだった。
それはそれとして、ところで、この三内丸山なども含む青森における縄文遺跡からは、たくさんの遺物とともに、朝鮮・韓国系のいわゆる櫛目文土器も出土しているといえば、読者はおどろくにちがいない。
私もおどろいたが、韓日ではない「日韓交流基金」による研究調査でわかったとして、一九九四年八月十日付けの日本語紙・統一日報は、「縄文遺跡から韓国系櫛目文土器/青森・売場遺跡/典型的尖底形三〇〇点/沿海州などの平底と異なる/BC四〇〇〇年前の層位から」とした見出しで、それの写真とともに、そのことをこう報じている。
青森県八戸市の縄文早期の遺跡、売場遺跡でこのほど、韓国系櫛目文土器約三百点余りが発掘されていたことが確認された。弥生時代の九州経由での大陸文化よりはるか以前、すでに新石器時代前期(BC五〇〇〇〜四〇〇〇)の早い段階に、日本の本州・青森地方へ韓半島南部の土器文化の影響があったことを示すものとして、注目に値する。
日韓交流基金にもとづく研究の一環として、六月二十五〜二十八日、七月六〜十日の二次にわたって、任孝宰・ソウル大教授(韓国考古学研究会会長)が現場調査に当たった。
本文でみているように、八戸市はそこの丹後平遺跡から五世紀後半の古墳時代、新羅でつくられた獅噛《しがみ》式環頭大刀の出土したところであるが、以上はイントロ部で、あとは出土した土器写真を見てもらいたい。
つづけてそれよりさきの一九九四年十二月四日付けの同統一日報には、「韓半島北部、新石器文化と共通点/青森県・三内丸山縄文遺跡/円筒型土器(櫛目文系統)多数出土/泥炭層からエゴマの種/韓半島などに自生」とした見出しの記事が出ていて、これもそのはじめのほうはこうなっている。
青森県青森市の中心部から約三キロほど離れた三内丸山遺跡は、韓国では新石器時代(前期・紀元前五〇〇〇〜三五〇〇、中期・紀元前三五〇〇〜二〇〇〇、後期・紀元前二〇〇〇〜一〇〇〇)、日本では縄文時代に該当する遺跡とみられ、……総面積四十八万八千平方メートル(約十二万三千坪)のこの遺跡が、韓国の学界で特に関心を呼んでいるのは、韓半島北部の新石器文化である櫛目文土器系統の円筒型土器が多数出土したことだ。
これら円筒型土器は、これまで咸鏡北道雄基郡屈浦里西浦項などの韓半島東北部で数多く出土している。西浦項遺跡は紀元前五〇〇〇年から三〇〇〇年のものとされ、ここで出土した櫛目文土器は三内丸山遺跡で出土した土器と同様、薄い円筒型だ。
北海道からも出土した須恵器
前者の八戸のばあいは朝鮮半島南部で、後者のそれは北部なわけであるが、そうかとみると、海を越えた北海道では、一九九五年十月十五日付け朝日新聞をみると、「新型ストーンサークル?発掘/盛り土内、二重の石の輪/函館空港遺跡群」とした大見出しの記事が出ている。「ストーンサークル」とは縄文人の墳墓・祭祀場といわれているものである。
かとみるとまた、さきに私あてに送られてきていた一九九五年六月二十一日付けの苫小牧《とまこまい》民報には、「東北のアイヌと交流?/『カンカン2遺跡』埋蔵文化財発掘調査/擦文期の竪穴住居跡から須恵器出土/平取」とした見出しのもと、その写真とともにこういう記事が出ている。
平取町二風谷地区「カンカン遺跡」の埋蔵文化財調査で、日高地方では発見されていなかった擦文時代(八〜十三世紀)の竪穴住居跡が発見された。その周辺から「須恵器」がほぼ一個分出土し、東北地方で製作されたものと分かった。町教委の森岡健治主事は「本州産の須恵器が平取地区に入り込んでいたわけで、今後の調査によるが、東北地方のアイヌ民族と交流があったのでは」と推測している。
これもイントロ部だけであるが、さきの縄文遺跡からは紀元前の朝鮮系櫛目文土器が出土したかとみると、こんどは紀元後八世紀以降の同じ朝鮮系の須恵器である。こうしてみてくると、当時の辺境といわれた東北全域はもとより、そこから海を越えた北海道も本文でみたのとはまた別に、日高地方にまで古代朝鮮文化が浸透していたのである。
二十数年にわたり、全国各地を歩いて書いた『日本の中の朝鮮文化』全十二巻が、さらにまたこうして十二巻の文庫版となったことは、何とも感慨深いものがある。
文庫版の本書がこうして成ったのも、これまでと同様、講談社文庫出版部の守屋龍一氏のご努力によるものである。それから校閲部のみなさんのご苦労もあったことを、忘れてはならないと思う。ここにしるして、心から感謝の意を表したい。
一九九五年十一月 東京
金 達 寿
本作品は一九九一年単行本として小社より刊行され、一九九五年講談社文庫に収録されました。
日本《にほん》の中《なか》の朝鮮文化《ちようせんぶんか》 12
陸奥・出羽ほか
講談社電子文庫版PC
金達寿《キムタルス》 著
金達寿記念室設立準備委員会 1991,1995
二〇〇二年四月一〇日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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