TITLE : 日本の中の朝鮮文化 11 肥前・肥後・日向・薩摩ほか
講談社電子文庫
日本の中の朝鮮文化 11
肥前・肥後・日向・薩摩ほか
金 達 寿 著
まえがき
九州の北部および南部を扱った『日本の中の朝鮮文化』第十一巻目の本書を書き終わったところで私は病に倒れ、六ヵ月にわたる入院生活を強いられた。二度の手術を受けたが、その間にも、考古学上の大きな発見が続いている。もっとも反響の大きなものが、佐賀県神埼郡の吉野ヶ里遺跡である。弥生時代最大級の遺跡で邪馬台国と結びつける人もいるが、伝えられる遺物を写真で目にする限り、「吉野ヶ里王国」と呼ぶにふさわしい規模であることは確かで、大いに興味がそそられる。
地元の佐賀新聞は「吉野ヶ里遺跡の人骨は渡来系成人男性」と報じている。これは長崎大学医学部助教授の鑑定を記事にしたものであるが、吉野ヶ里の人々は朝鮮半島から渡来した弥生人ということなのである。さきの第十巻目でみた福岡の飯盛遺跡などもそうだったが、いままたこういう遺跡が発見されて、私としてもこんなにうれしいことはない。
退院したばかりで、報じられたものにしか目を通していないが、体が回復したら私自身現地に足を運んでつぶさにみてきたいものと思っている。
九州を歩いてみてわかったことは、“倭人とはいったい何か”という大きな問題に対する答である。すなわち、倭人とは朝鮮半島から稲作とともに細形銅剣、銅鉾などを持って渡来した弥生時代人のことで、鳥居龍蔵氏の言葉を借りるならば、これがすなわち「固有日本人」であるということである。
従来の日本の歴史学では、倭人とは縄文人が発展したものであるかのように考えられてきた。ところが小山修三氏の『縄文時代』(中公新書)によると、約八千年間続いた縄文時代の総人口は、中期がいちばん多くて二十六万千三百人ほど、これが後期から晩期になると、わずか七万五千八百人に激減している。九州地方をみると、この時点で六千三百人しか居住していなかったのである。
つまり、従来の考え方に従えば、九州地方に関しては六千三百人の縄文人が朝鮮半島から渡ってきた九州だけでも十万五千人以上の弥生人(前出『縄文時代』)をおいて、日本文化の基礎をつくり上げたということになるが、特に九州を歩いてみてわかったことは、こういう考え方はどうしても無理ということである。
事実は、日本の原住民であった九州における六千三百人の狩猟採集の縄文人は、日本人の祖先となった渡来の弥生人に九州南部に追い込まれて、いわゆる熊襲・隼人になり、琉球にも渡ったということである。
このことは、この巻に書いた大隅の国分市にある韓国宇豆峯《からくにうずみね》神社の成り立ちや、現鹿児島神宮の大隅正八幡の成り立ちなどをみても分かる。つまり、韓国宇豆峯神社とは由緒書にもはっきりあるように、渡来人が熊襲・隼人を鎮圧・鎮撫するためそこに移住して、自分たちの信仰形態であるところの神社を祭ったものなのである。
右のことは、次の第十二巻目でみることになっている東北・北海道の蝦夷・アイヌについても同じことがいえるが、要するに、強調したいのは、九州地方が弥生文化の集中地であり、文字通り日本文化揺籃《ようらん》の地ということである。
なお、本文にみられる引用文中の〈 〉内は私による補足である。本シリーズはいよいよ十一巻目となり、残り一巻が東北・北海道編となった。さいごまでおつきあい願いたい。
十一巻目の本書がこうして成ったのも、講談社専務取締役の加藤勝久氏はじめ、学芸図書第二出版部長の田代忠之氏、松岡淳一郎氏の好意と努力とによるものであるが、さらにまた木村宏一氏のご好意に負うところも大きい。ここにしるして、感謝の意を表したい。
一九八九年七月 東京
金 達 寿
目 次
まえがき
壱岐・対馬・肥前
九十九触《ふれ》の壱岐
対馬における神と
金隈遺跡から長崎へ
佐世保の三川内にて
おつぼ山山城と周辺
日本磁器の創始と有田
佐賀市唐人町にて
背振山地南麓を行く
中原にみる忍海漢人
最大の支石墓と甕棺群
「有明海ルート」からの物証
韓津だった唐津の稲作農耕
宇木汲田遺跡をたずねて
肥後
塚原から荒帆神社まで
残っている朝鮮語「ネー」
藤崎八幡宮の祭り
装飾古墳と斎藤山の鉄斧
八代の白木妙見をめぐって
稲佐から江田船山古墳へ
玉名から鞠智城跡まで
日向・大隅・薩摩・琉球
下北方古墳の出土品
「百済の里」南郷村
行けなかった西都原
韓国宇豆峯神社にて
隼人町の大隅正八幡
薩摩焼と苗代川
「三韓の秀を鍾《あつ》め」た琉球
文庫版への補章
最古の稲作集落と祭祀跡
檀君神話の伝播と英彦山
改めて「秦王国」の地を歩く
土器・〓・鞠智城の「八角形」
日本の中の朝鮮文化 11
肥前・肥後・日向・薩摩ほか
壱岐・対馬・肥前
九十九触《ふれ》の壱岐
日本列島への「踏み石」
壱岐・対馬・肥前としたのは、この三国がいまは長崎県に含まれているからである。地図をみると、壱岐国・対馬国はどちらも福岡県・佐賀県に近いようであるが、どういうことからか長崎県となっている。
それはどうであれ、「朝鮮半島から対馬・壱岐を通って北九州に文化が移入されたことは、史実に明らかなことである」「長崎県の歴史時代のあけぼのは、対馬・壱岐からぼんやりと明けはじめる」(瀬野精一郎『長崎県の歴史』)とあるように、壱岐・対馬は、朝鮮半島から日本列島への「踏み石」のようなものとなっていたところであった。福岡から韓国の釜山までは海上約二百キロであるが、対馬の北端からはわずか四十キロほどで、対馬のあちこちからは釜山の山地を望見することができる。
そのことはかつての加耶国だった釜山からも同じで、こちらからは対馬がいっそう近くに見える。私もそこから対馬の山々をながめわたしたことがあるが、朝鮮に長く住んだことのある橋田圭郎氏の「登岐士玖能迦玖能木実《ときじくのかくのこのみ》の正体」によると、朝鮮南部の高山である智異山(海抜一九一五メートル)の「そこから望む海上には、対馬がながながと横たわっている。冬、空が澄むと水平線上に九州の山影が見えることがある」とある。
そうだったから、古代南部朝鮮からの渡来人たちが、「ああ、あの海の彼方に――」と考えたのもむりはない、と私は思ったものであるが、そういうこともあって、本稿ではまず、その「踏み石」だった壱岐・対馬から先にみることにした。しかしそれにしても、あるいはそうなので、こんどはそうとう先を急がなくてはならない。
というのは、『日本の中の朝鮮文化』「九州篇」ともいうべきこれは、第十、十一巻目としての二巻を予定しているのであるが、筑前・筑後・豊前・豊後(福岡県・大分県)だけで、その第十巻目はいっぱいとなってしまったのであった。それなのに、この第十一巻目は壱岐・対馬・肥前・肥後だけではなく、さらにまた日向・薩摩・大隅(宮崎県・鹿児島県)から琉球(沖縄県)までの全部を収めなくてはならないのである。
さきのそれは四ヵ国だったのに、こんどは壱岐・対馬を加えると倍の八ヵ国となったわけであるが、さて、その壱岐・対馬である。
壱岐の風土
私がこれまでに、壱岐・対馬をたずねたのは三度ほどであった。一度は十三、四年前「対馬から朝鮮の地を見るため」であり、二度、三度目はこの紀行の取材のためであったが、そのうちの一度は「街道をゆく」を『週刊朝日』に連載中の司馬遼太郎氏らといっしょだった。
当時はまだ、飛行機は壱岐までしか行っていなかったので、壱岐の郷ノ浦で対馬までの船に乗る時間を利用しては壱岐のあちこちをみて歩いたりしたが、司馬さんたちといっしょのときは、壱岐で一泊したこともあった。そのときは北西の勝本町までたずねて、同町教育委員会の須藤資隆氏から『勝本町の文化財』などをもらい受けたりしたが、ここでは長崎県高等学校教育研究会社会科部会編『長崎県の歴史散歩』をみると、壱岐のことがこう書かれている。
壱岐は、長崎県の北部、玄海灘に浮かぶ緑の島。博多湾から七六キロ、佐賀県呼子《よぶこ》港から二九キロのところにある。人口約五万、南北約一七キロ、東西約一五キロの本島に、大小二六の属島をふくむが、面積は一三九平方キロで、対馬の約五分の一しかない。全島一郡で四町にわかれている。
むかしから砂石が雪のように白く、また海岸線がリアス式の特徴をそなえ、全体として雪の結晶にも似ていることから、由岐、雪州《せつしゆう》ともよばれた。壱岐の最高峰岳の辻でも標高二一三メートルにすぎず、島全体が低平な台地で、山の頂上近くまで耕地がひらけている。したがって、集落は在《ざい》とよばれる農業集落が、触《ふれ》とよばれる小字名《こあざめい》をもって散居《さんきよ》形態をとっているのにたいし、浦《うら》とよばれる漁業集落がリアス式海岸の湾奥部にあり、壱岐八浦とよばれる集村形態をなしている。
米・タバコ・和牛が三大農産物で、近年ボーリングの結果、玄武岩下の地下水の採取に成功し、畑地の水田化がすすめられたり、ミカンづくりへの転換がさかんだ。また、近海に好漁場をもち、漁業もさかんだが、過疎化の現象はこの島にもあらわれている。
壱岐対馬国定公園にふくまれ、名所・旧跡も多く、自然景観にもめぐまれている。海岸部に左京鼻(芦辺町)・辰の島(勝本町)の海蝕《かいしよく》崖や、蛇ケ谷(勝本町)・鬼の足跡(郷ノ浦町渡良)の海触洞、棚江原《たなえばる》(芦辺町)・筒城浜《つつきはま》(石田町)の砂浜など変化に富むものが多く、島外からの交通の便のよさと、島内道路網が発達していることもあって、観光地として脚光をあびている。
鬼の窟・安国寺・唐人神
ちょっと「観光案内」のようなぐあいとなったが、もちろん、壱岐にも古代遺跡はたくさんある。ここにみられる「触《ふれ》とよばれる小字名《こあざめい》」からして、あとでみるように、ある意味では古代遺跡といえなくもないが、たとえば芦辺町国分本村触《ふれ》には、「当時、壱岐を支配した豪族のお墓であります」(長崎県教育委員会)という掲示板のたっている大きな古墳や国分寺跡などがあって、そのことが同『長崎県の歴史散歩』にこうある。
勝本からバスで亀石《かめいし》をすぎ、島の中央部に向かうとまもなく、左手に国分の鬼《おに》の窟《くつ》(県史跡)という古墳がある。羨道《せんどう》約一六メートル、玄室《げんしつ》は三メートル四方の正方形、高さ三・五メートルの巨大なもの。大きな石を積みあげた横穴式の円墳で、後期の古墳と考えられる。
壱岐では、古墳のことを鬼の窟、鬼の岩屋などとよぶ。三五〇基ばかりが確認され、現在五〇基が保存されている。ほとんどが円墳で、群集している。近くには笹塚古墳・掛木《かけき》古墳がある。
国分は、国府《こくふ》がおかれたところ。ここに鬼の窟はじめ多くの古墳が存在することは、歴史的にもうなずける。国分バス停のそばに国分寺跡がある。七四一(天平一三)年、聖武天皇発願になる壱岐島国分寺跡。
寺域から奈良時代の古瓦が発見されているが、いまは礎石を散見するにすぎない。前方に石ぼりの六面一二仏頭と、へそ石とよばれる石がある。ここが壱岐の中心地であるという、「壱州でまんなか、国分がまんなか、へそ石まんなか」と古くから伝えられている。
それからまた、芦辺町深江栄触《ふれ》にある安国寺には、朝鮮の高麗版《こうらいばん》『大般若経《だいはんにやきよう》』五百七十八巻(県文化財)や仏画の絹本著色五百羅漢図などがあり、近くにある弥生時代の原ノ辻遺跡では、竪穴住居・貝塚・土器・石庖丁など、たくさんの遺物が発掘されている。なおまた、石田町東触《ふれ》には「唐人神」といういわくありそうな石窟があるが、これは唐人神《とうじんしん》ではなく、韓人神《からひとがみ》といったものではないかと私は思ったものだった。韓を唐とした例はほかにもたくさんあるからだ。
「触」は「村」
ところで、ここでひとつ注目したいのは、これまでみたことでもわかるように、壱岐にはなになに「触《ふれ》」というところが多いということである。壱岐全体とすると、その触が実に九十九ヵ所にもなっている。面積百三十九平方キロ、対馬の約五分の一しかない小さな島の壱岐は、どこもかしこもがその触となっているのである。
この触について、前記『長崎県の歴史散歩』にはこう書かれている。
壱岐の農村の単位は“触《ふれ》”とよばれる。これは朝鮮語のプリ=プール(村)の意で、外来語だという説と、いまひとつは江戸時代、平戸松浦藩が農地の地割《じわり》をするさいに行政上の小単位として小字《こあざ》ごとに農家をまとめて触とし、藩の布達《ふたつ》などがひとりの責任者によって触れ(達し)まわられる範囲とも考えられ、北松浦郡にみられる“免《めん》”と共通するものだという説がある。その触集落農家が、壱岐のばあい、五〇〜一〇〇メートルぐらいの間隔に分散しているので、散居集落とよばれる。
「朝鮮語のプリ=プール(村)」とは正確にはブリ=ブル(村)であろうが、それはどちらにしても、それが「江戸時代、平戸松浦藩や農地の地割をするさいに行政上の小単位として小字ごとに農家をまとめて触とし」とは、とても考えられないのである。なぜかというと、壱岐でその集落をブリ=ブル=フレ(触)といったのは、「江戸時代」よりずっとさかのぼった、昔だったはずだからである。
朝鮮でもブリ=ブルは、ソウルのウ(フ)ルとしてのこっているが、集落はマウルまたはドンネ(洞内)と変化しているのである。壱岐におけるそのような地名としてはさらにまた、『勝本町の文化財』冒頭の「地名のおこり」をみると、それのことがこうある。
勝本町は、朝鮮半島と北九州とのあいだに浮かぶ壱岐島の北西部に位置する、面積三〇・三平方キロメートル、人口約一万の農業と漁業の町である。昭和三〇年、鯨伏町と勝本町が合併し、現在の町域となった。
“勝本”の地名の発祥は、聖母《ショウモ》神社のある可須浦と、印鑰神《インニヤク》社のある本浦とを呼びあわせた“可須本《かすもと》浦”のなまりとされている。
上代には“カス”と称されているが、中世以降は“風本《カザモト》”とも呼ばれたようであり、日韓の数多くの文献にその名をとどめている。“カス”の地名が文献に登場するのは、高山寺本『倭名類聚抄』が最初であり、郷の名として伊周(阿周の誤記)と記載されている。また朝鮮の地誌『海東諸国記』には、加愁郷の名を見ることができる。(傍点も原文)
「日韓の数多くの文献」とか、「朝鮮の地誌『海東諸国記』」が引かれているなど、いかにも朝鮮に近い壱岐らしいと思われることであるが、「上代には“カス”と称されていた」そのカスとは、中島利一郎氏の『日本地名学研究』によると、古代朝鮮語のコス(首長)ということからきたものだとある。
だとすると、カスの地名はその首長(コス)ということから、ということになるが、そのことと関連があるのかどうか、写真説明の形でできている『勝本の文化財』には「カラカミ遺跡」というのがあって、それのことがこう説明されている。
「加良香美」「韓神」「唐神」の文字があてられるカラカミ遺跡は、立石東触から同仲触にかけて存在する高地性の弥生遺跡で、同時代の平地遺跡である芦辺・石田両町にまたがる原ノ辻遺跡〈さきにみている〉と地形的に好対照をなす。しかし出土品はほとんど同じで、弥生時代中期〜後期にかけてのもの。青銅器・鉄器を多くみる。
同カラカミ遺跡からの出土品は、青銅器・鉄器ばかりでなく、これも朝鮮から直行の石剣・石斧や骨角器・紡錘車など、ほかにもたくさんのものが出土している。そしてそれらが、同『勝本町の文化財』「考古」部のほとんどを占めているのである。
対馬における神と仏
中継の島・対馬
次は対馬であるが、対馬とはどういうところか。前記『長崎県の歴史散歩』にこうある。
対馬は“津の島”が語源で、大陸と本土との交通の中継地を意味するものらしい。古くは、対馬国、対州《たいしゆう》ともよばれた。南北約八〇キロ、東西約一八キロの細長い島で、上島と下島に大小九八の属島をもち、行政的には上県《かみあがた》郡・下県《しもあがた》郡に四町二村がある。上・下二島をあわせると淡路島より大きく、長崎県総面積の一七・四パーセントをしめている。
壱岐にくらべて山地が多く、二〇〇〜五〇〇メートル級の山と、谷地形がみられ、海岸線は変化に富み、とくに樹枝状リアス式海岸の浅茅《あそう》湾のながめはすばらしく、箱庭《はこにわ》の瀬戸内海という形容がぴったりだ。全島の八八パーセントが山林で、水田はわずかに六〇〇ヘクタール、畑も二〇〇〇ヘクタールで、この土地からの主食の生産量は約五万八〇〇〇島民の二ヵ月分にすぎず、もっぱら山と海に生活の糧《かて》をもとめるものが多い。とくに九月から一一月にかけてはイカ漁がさかんで、海岸集落のいたるところに干しイカが、ならべられる。
博多から壱岐をへて海路一二〇キロ、対馬北端の上対馬町鰐浦《わにうら》から朝鮮海峡をへだてた釜山《プサン》とは四〇キロ(壱岐〓対馬間が約四〇キロ)の位置にあるこの島は、まさに大陸との中継点であり、国境の島だ。こんにち、通信にも重要な役割をもち、高さ四五〇メートルの鉄塔をもって世界的な長距離電波灯台オメガ極東局や、ロラン局もある。博多からの大型フェリーの就航も実現し、島を南北にはしる縦貫道も完成したので、歴史と自然の島、対馬も、ひろく人びとの注目をあびることになろう。
いまは「博多からの大型フェリー」ばかりか、飛行機も発着するようになっているが、しかし十数年前、はじめて私たちがたずねたころの対馬は、厳原《いずはら》などの町なかはともかく、山地の道路はまだぼこぼこのそれで、「土地は山嶮しく、深林多く、道路は禽鹿《きんろく》の径《みち》の如し」とある『魏志』「倭人」伝のそれから、そう遠くへだたってはいないように思われたものだった。したがってこの対馬には、「まさに大陸との中継点」にふさわしい遺跡がたくさんある。
まず、その中継点ということであるが、石田郁夫氏の「国境の町 国境の島」をみると、「対馬の郷土史の先覚であり、『対馬遺事』の著者である川本達氏(故人)は」「高天原は朝鮮南部で、対馬はその分地国だった」として、「神武の頃まで対馬は実に政治、文化の中心地であり、朝鮮の文化は対馬に移し植えられ、然るのち筑紫にわたったものだ」とのべているとある。
ついでこんどは、宮本常一氏の「対馬の神々」をみると、「対馬は国境の島である。西海岸からはるかに朝鮮が見える。その朝鮮から文化が対馬を経由して九州にもたらされた。いわばここが日本にとって大陸文化の門戸であった」として、そのことがこう書かれている。
それでは朝鮮・対馬・九州の海上交通はどのように営まれていたのであろうかということが問題となる。あるいは刳船のようなものの利用も考えられる。大きな体積のものを運ぶときはその刳船を何艘も横にならべてくくり、この船にのせたであろうことを想像するが、別に筏船の利用があったのではないかと思う。
島の北部の佐護付近には昭和二十五、六年の九学会連合の学術調査の頃にはまだたくさんの筏船を見かけた。藻をとったり、網をひいたりするのに用いられていた。この筏船は杉丸太をならべ、その丸太に穴をあけ、そこに棒を通して丸太をつなぎ、櫓で漕げるようにしたもので、不要のときは解体して海岸や川岸などにあげてあるのを見かけた。
ところが、筏船は朝鮮の多島海にもあり、その方が構造も巧妙になっている。この地域に筏船ののこっていることは興味深いことで、筏船が海上交通の手段として、この海峡に活躍していた日があったのだと考える。しかもそれはきわめて遠い日のことであった。そしてその筏船によって稲作も稲作技術を持った人もやって来たのではなかったか。
天道と壇山
古代の渡来文化を考えるうえで、私もそうした筏船に興味をもっており、これについてはのちの「肥前」でまたみることになると思うが、その筏船によってやって来た人々は、北九州の地で花咲かせた稲作や稲作技術ばかりではなく、いまなお対馬にのこる「天道様」をもこの地にもたらした。この天道様のことは、『対馬の自然と文化』に「祭祀遺跡」として三つのそれがあげられて、かんたんにこう説明されている。
△八丁廓《はつちようかく》
龍良《たてら》山の南麓、千古の原始林の中に、秘境八丁廓がある。緑の苔《こけ》むした積石塚が、段状のピラミッド型になっているが、これは祭の壇で、磐境《いわさか》とよばれた古代さながらの社《やしろ》のない祭場である。
△天道様
各地の村里に、天道様とよばれる霊場がある。社はなく森のなかに小さい祀堂があったり、巨木の根に〆縄を掛けただけのものが多く、古い祭祝のしきたりである。
△カナグラ
金倉様とよばれる霊地があるが、調べてみると、古い祭祀の跡が認められることが多い。カナグラは神座《かなぐら》であった。地名と遺跡を保存してほしいものだ。
三つとも根は同じで、私も子どものころ朝鮮でそういう「積石塚」様のものをよく見かけたものである。対馬では下県の豆酘《つつ》や、上県の佐護などのそれをみたが、ここで韓国の民俗学者である任東権氏の「対馬(日本)の韓国『民間信仰』」をみると、朝鮮のそれとのことがこう書かれている。
昨年、十年ぶりに対馬を訪れ、三週間ほど現地調査を行ってみたところ、「壇山《だんさん》」という名称の山の多いのに気付いた。古文献から、壇山は神とつながりのあることが確認される。韓国では村々に必ず存在する「堂山《ダンサン》」に相当するもののようだ。これは村の北側の山に設けられている。
この堂山は初期の段階では土の壇であるが、第二段階は石の壇で高くなる。これは集団で築いたことを示す。また第三段階は祠《ほこら》へと変わっていく。経済力の向上や厚い信仰心によるものといえよう。この形態が韓国と対馬は非常に類似している。
現在では山の麓や村の入口に祭られるばあいが多いが、山の頂上に祭られる神がもっとも神聖である。これは天とかかわりをもつからだ。そこで、天道神を考えてみたい。
対馬では天道神を天道・天神・お日照り様・天照り・八龍・金倉様ともよんでいる。特徴は周囲に樹木がこんもり繁っていることだ。また海辺や入江にもみられ、石をそのまま積み重ねたものがあるが、これは韓国の城隍堂《ソナンダン》と類似している。
この天神様は、対馬ではいつごろから祭られるようになったのだろうか。天道様の祭られている峰が「卒土《そと》」とよばれるが、これは韓国の「蘇塗《ソト》」につながるものだ。蘇塗は高句麗や三韓時代の馬韓において天神を祭った神壇を指す。〈対馬では〉龍良山のことを卒土山ともよんでいる。
そういうことから、「対馬の天道神は紀元前後に伝えられたものが原初的な形のまま残ってきた可能性が強い」というのであるが、私もそうではなかったかと思う。
ところで、初期の段階では土の壇であった朝鮮の「堂山」は「第二段階では石の壇となり、それが第三段階は祠《ほこら》に変わっていく」とあるけれども、朝鮮ではのちにはいってきた仏教が中心となったため、祠はそれ以上の段階へ変わることはできなかった。だが、日本ではそれがさらに神社・神宮ともなっていくのである。
たとえば、「豆酘でも佐護でも、多久頭魂神社と天道様が習合している」(永留久恵『古代史の鍵・対馬』)というぐあいであるが、豆酘にある高御魂《たかみむすび》神社もそれと同じであった。『日本神話』(岩波新書)の著者である上田正昭氏は、伊勢神宮の原形としての「皇祖神」をもとめて対馬の多久頭魂神社や高御魂神社をたずね、そしてこう書いている。
それは対馬あたりと密接な関連をもった文化を背景にする神であった。皇祖神アマテラスオオミカミ〈天照大神〉が主宰した高天原という記紀〈『古事記』『日本書紀』〉神話完成時の姿以前に、皇祖神タカミムスビ〈高御魂〉の主宰する高天原があったということになる。この結論がただしいとすれば、高天原にかんする神話的思考の原理は、国の内よりも国の外に求めなければならないだろう。
古里古墳と陶質土器
その「国の外」とは朝鮮であるこというまでもないであろうが、ついでにみると、壱岐は九二四年に成った『延喜式』内社が二十四社で、対馬は二十九社となっている。薩摩(鹿児島県)や安芸(広島県)は二、三社でしかないことからみて、対馬はそれがどんなに多いかわかるというものであるが、対馬におけるそのような天道様=神社もはじめは、すなわちそれからのち「古墳」が分離する以前は、首長などを葬った墳墓でもあったのではなかったかと私は思うが、対馬にはいうところのその古墳も多い。
美津島町鶏知《けち》の根曽古墳群や鶴の山古墳などが有名で、「古墳時代の墳墓一四基発掘/上対馬町/新羅系の土器出土/勾玉など装飾品も多数」という見出しの、一九八三年六月二十二日付け長崎新聞の記事となった古墳群もあるが、しかし私としてやはり興味深かったのは、上対馬町比田勝の丘陵にある塔の首遺跡で発見された古里古墳であった。南部朝鮮の加耶(加羅ともいう)でつくられた銅矛や陶質土器などが出土したことから、加耶式古墳ともいうその古墳を発見したのは、当時、比田勝小学校五年生だった在日朝鮮人少年の金広和君であった。
「奇しき縁《えに》し」ともいうべきことで、この古里古墳については、小田富士雄氏の「対馬の朝鮮系遺跡」にくわしいが、九州大学の岡崎敬氏もそれのことをこうのべている。
これは別府大学の小田富士雄教授が調査されたんですが、このとき出て来た土器は従来われわれが考えていた土器とは違っていたんです。いわゆる対馬の人々は銅矛のようなものを持っていたんですね。弥生式土器はご承知のように赤焼きで、また素焼きですが、これとともに陶質土器が発見された。日本でも陶質土器をつくろうと思っていたけれども、あの段階ではまだ出来なかったわけです。だから向うから持って来た。この時期が弥生の後期であることは動かないと思うんです。しかし朝鮮の陶質土器を導入したのも、また日本本土に伝える役割をしたのも、この対馬であろうと思うんです。(上田正昭氏らとの座談会「対馬と朝鮮遺跡」中公文庫『日本の渡来文化』所収)
対馬の朝鮮渡来仏
「また日本本土に伝える役割をしたのも、この対馬であろうと思うんです」ということにも注目してもらいたいと思うが、要するに、対馬は朝鮮からのそういう「踏み石」「中継点」だったということで、そのことは仏教にしてもまた同じであった。そこの城山には朝鮮式山城跡がまだ古代そのままの形をとどめている、浅茅湾の東となっている小船越の梅林寺は、のちには朝鮮への渡航認可をつかさどる「文引所」ともなったところであるが、ここは日本の仏教にとってもたいへん意味深いところであった。『地図の手帳〓壱岐・対馬』にそのことがこうある。
〈梅林寺は〉百済よりはじめて日本に仏教が伝来の途中、対馬の小船越に、仏像と経典を安置し、その跡をお寺にしたと伝えられる古刹。境内は木々に囲まれて、落着いた雰囲気を持っている。
仏教といえば寺院・仏像であるが、対馬にはまた、朝鮮渡来の仏像がいたるところにある。なかでも有名なのは峰町木坂の海神神社にある新羅仏や、厳原町久根浜の大興寺、同町樫根の法晴寺にある高麗仏などである。
それらの仏像も私たちは対馬の郷土史家・永留久恵氏の案内でみて歩いたが、仏像は近年になってからつぎつぎと発見され、久野健氏の『渡来仏の旅』「対馬の朝鮮仏」にもかなりくわしく紹介されている。それによると全体としての数は百体以上もあるとのことであるが、最近になってからでも上県町の円明寺で、日本に伝わったものとしては最古の金銅菩薩立像などが発見されている。
これは対馬住民と、それら朝鮮仏像との関係をものがたるエピソードであるが、一九八二年十月八日の毎日新聞(大阪)に、「『お産』で急ぎ島帰り/対馬の“安産”秘仏/大和文華館(奈良)で展示中/信者の願い、優先」とした見出しの、こんな記事が出たことがある。
奈良市学園南一、大和文華館(吉川逸治館長)で一日から十一月七日まで開かれている「百済・新羅の金銅仏」展のハイライト、朝鮮渡来の如来坐像(重文)が会期半ばの今月末にも故郷の対馬へ里帰りすることになった。“島外不出”の秘宝を同展のため借り受けたが、島では女神様《おんながみさま》と呼ばれ、多くの信者の熱烈な信仰の対象になっており、十一月初めに出産予定の女性信者の安産祈願に「なくてはならない」との強い要請。「お目当ての仏像が消えるなんて!」と訪れるファンはガッカリの反面、島では「これで元気な赤ちゃんが生まれる」とホッとしている。
如来仏は長崎県下県郡(対馬)美津島町黒瀬観音堂所蔵。高さ四六・七センチの金銅製で、八〓九世紀の作。頭部から右腕の部分を別々に鋳造して組み合わせる極めて珍しい鋳造になっており、丸顔に三日月を描くマユと切れ長の目、愛らしい口元が朝鮮・統一新羅時代様式の典型と言われ、昨年六月、国の重要文化財に指定された。
「告身」と宗氏
記事はまだつづいているが、このように、対馬は古代はもちろん、近世、現代にいたるまで朝鮮とは密接な関係にあるということである。近世については、いまでは朝鮮にもない高麗初期の『大般若経』初彫本五百余巻が保存されている厳原町の対馬歴史民俗資料館をおとずれると、楮紙《こうぞし》にあざやかな墨痕とともに、でっかい印判の押された「告身」という李氏朝鮮政府からの辞令書をみることができる。
この「告身」には「教旨/比古三甫羅為宣畧将軍虎賁衛旨護軍者/成化十八年三月 日」と書かれている。つまり「告身」とは、ときの李朝政府が倭寇《わこう》などの海賊を防ぐために与えた武官としての辞令であるが、対馬ではこれを受けた者を「受職人」といった。
そしてこの受職人は対馬で十八人、壱岐で三人、筑前(福岡県)で五人となっている。そのうちの、いまみた「告身」の受職者は対馬島主宗《そう》家の重臣だった早田彦三郎で、それが「比古三甫羅」と書かれているのもおもしろい。これは朝鮮語音ではビコサムポラ(比古三甫羅)となるが、当時としてはそう書くよりほかなかったのであろう。
山また山ばかりで、米作りのできる平地の少ない対馬の人々は、ときには海賊となるよりほかなかったのであろうが、しかし隣の朝鮮としては迷惑なことで、いわば、でっかい印判の押された「告身」という辞令は、その李朝政府苦心の策だったのである。「李氏朝鮮国に寄生していたといっていい」(司馬遼太郎『街道をゆく』)島主の宗氏からして、その「告身」の受職人のようなものだった。
宗氏はもと惟宗《これむね》氏だったが、朝鮮とのそういう関係から、惟宗の惟をとりのけて朝鮮風の宗《そう》氏となったほどであった。
さらにいうならば、惟宗氏は新羅・加耶系渡来人である秦氏族からわかれ出たものであった。それが平安時代に惟宗氏となったもので、これはまた九州・薩摩の島津氏の祖ともなっているのである。
金隈遺跡から長崎へ
金隈遺跡に立ち寄る
こちらも古代はそれぞれ「国」だった壱岐、対馬から肥前(長崎県・佐賀県)となったが、壱岐・対馬がいまでは長崎県となっているので、これからの九州本島でも、その長崎県からたずねることにした。で、まず、同行者のこともあるので、ここでひとつの新聞記事を紹介することにしたい。
それは、「江上教授もかけつけ/『騎馬民族の来た道』出版記念会」という見出しをもった一九八七年八月五日付け毎日新聞の記事で、私も登場するのでちょっとてれくさいがこうなっている。
『騎馬民族の来た道』(毎日新聞社刊)と『騎馬民族と日本古代の謎』(大和書房刊)を相次いで出した奥野正男さん(五六)=福岡県遠賀町=の出版記念祝賀会が、このほど福岡市で開かれた。考古学ファンばかりか、奥野さんの知人、友人、夫人や二人の娘さんの音楽仲間らも駆けつけ、会を盛りあげたが、何といってもビッグ2は東大名誉教授・江上波夫氏と作家・金達寿氏。
江上氏は「騎馬民族征服国家説」で知られるが、奥野さんの両著は、江上説のミッシング・リンク(系列上欠けている要素)に相当する馬具をはじめ、騎馬文化の出土品や初期横穴式石室という大陸系の古墳の出現などをつぶさに調査・研究した労作。その努力家ぶりを、文学青年時代からの友人という金氏や、江上氏らがたたえた。奥野さんは「あと二十年長生きして天皇家の出自をじっくり研究したい」と意欲的なあいさつ。江上氏も各国の協力を得て騎馬民族の映画づくりを進めており……。
つまり、私はこの出版記念会に出席した翌日からは、その奥野正男氏ともいっしょに肥前一帯を歩くことになっていたのである。あるホテルでの出版記念会場には、九州では以前から取材の世話になっている松尾絋一郎氏がよこしてくれた松尾洋三氏や高田和宏氏、それにこちらは東京から同行することになった高淳日氏も来てくれていた。
翌日はあいにく、私が行くさきざきでたずねることにしている市町村の教育委員会は休みの日曜日だった。が、アメリカのハワイへ出張中の松尾絋一郎氏にかわって、クルマを持ってホテルまで来てくれた高田和宏氏のそれに同乗して私たちは出発した。
クルマは九州自動車道へ出て、一路まず長崎市へ向かって走ることになっていた。それで、「いま福岡市内の板付遺跡をすぎたところだなあ」と私は思っていると、横から奥野さんが言った。
「どうです。通り道ですから、金隈《かねのくま》遺跡へ寄ってみますか」
「金隈遺跡? それがまだ――」
「いえ、遺跡のほとんどは埋め戻されていますが、一部がいま甕棺《かめかん》展示館になっています」
「そうですか。行ってみましょう」
私はさきに歩いた筑前(『日本の中の朝鮮文化』10)の「那津・奴国のあけぼの」の項で板付遺跡とともにその東南の金隈遺跡にもふれている。しかし、弥生時代のその遺跡から出土した「甕棺墓百四十五、土壙墓二十七、石棺墓二、人骨六十二体」というそれはまだみていなかったのである。
私たちがクルマをとめた、金隈遺跡の甕棺展示館があるそこは史跡公園になっており、福岡市教育委員会による掲示板の図をみると、遺跡だった展示館の右手一帯は「弥生の森」となって保存されていた。そして掲示板には、その遺跡のことがこう書かれている。
金隈《かねのくま》遺跡は、弥生時代の前期末から後期の初頭(西暦紀元前二〇〇年から紀元二〇〇年頃まで)に形成された甕棺《かめかん》を中心とした共同墓地です。
この遺跡は、規模が大きく、保存状態が良好なうえ、長い世代(四〇〇年間)にわたって営まれているため、福岡平野における弥生時代の葬送文化の流れを知るうえで重要な意義を持っています。
弥生人渡来説の裏付け
ついで私たちは台地への坂をのぼり、甕棺などの出土状態をそのままにした、一部の遺跡に屋根をかけた形の展示館にはいってみたが、目の前はただるいるいとした甕棺墓群であった。そこにみられるのは甕棺墓九十一、土壙墓三十四、人骨三体で、それら二千年前に生きた人々の営みを私は目をみはるようにしてみたが、一方では私はまた、展示館の事務所でもらった『史跡/金隈遺跡』というリーフレットにも目をみはったものだった。
私はさきに書いた筑前では、「甕棺墓百四十五、土壙墓二十七、石棺墓二、人骨六十二体」としたが、これは第一次発掘調査時の古い資料によったもので、出土はその後さらに増えて、『史跡/金隈遺跡』にはそれがこうなっている。
金隈遺跡からは、三四八基の甕棺墓(素焼の甕や壺をお棺として使用)と一一九基の土壙墓(土を長方形に掘って遺体を葬り板をかぶせるものと、木を組み合わせたもの〜組み合わせ式木棺墓とがある)と二基の石棺墓(石を長方形に組み合わせ、その中に遺体を葬るもの)が発掘されています。最初に土壙墓が作られ、その後に甕棺墓、最後に石棺墓が作られたようです。(傍点は金)
弥生時代の「共同墓地」だったとはいえ、人口の少ない当時としてはたいへんな数である。ここには人骨のことが出ていないが、これもさきの「六十二体」よりずっと増えて、いまみたそれにつづけてこうある。
遺跡での出土人骨は一三六体で、これらの人骨を調べた結果、死亡した年令のピークは未成人で一歳から六歳(小児)、成人で四〇歳位(熟年)となっています。また、男女の死亡年令の差を見ると、六〇歳以上まで生きた人が女のみで、男性の死亡率の高さがうかがえます。
平均身長は、男性が一六二・七センチ、女性が一五一・三センチで、縄文人と比較すると顔も面長になり、身長も急に高くなっています。このことは、北部九州及び山口県西部にわたる弥生人全般の特徴といってよく、朝鮮半島と混血が行なわれたのではないかと考えられています。これら弥生人が戦前までの日本人よりも、平均身長において一番高かったことは大変興味がもたれます。
このような弥生人の人骨についてはさらにまた、一九八六年一月六日の西日本新聞に、「奴国人も長身、面長/永井九大教授金隈遺跡の人骨分析/「弥生人渡来説」裏付け/北部九州・山口型/空白地帯埋める」とした大見出しの記事が出ていて、はじめの部分はこうなっている。
福岡市金隈《かねのくま》集団カメ棺墓遺跡から出た弥生時代の人骨は、その前の縄文時代人や、同じ時期の南九州の弥生時代人などに比べると際立って背が高く、面長であることが九州大学の永井昌文教授(解剖学)らの調査で分かり、永井教授らはこのほど調査報告書をまとめた。
この特徴を持つ人骨は既に佐賀県神埼郡の三津や山口県土井ケ浜などの弥生遺跡から出土しているが、弥生文化の中心地である奴国からこれほどまとまって発見されたのは初めて。この発見は弥生期に朝鮮半島から北部九州・山口に大量の渡来者があったとする「弥生人渡来説」を裏付け、さらにその後近畿などにも広がったという日本人起源論にも一石を投じそうだ。
原山遺跡の支石墓
さて、金隈遺跡からの私たちが長崎市に着いたのは、十二時をちょっとすぎてだった。途中、寄ってみたいところがあっても、それは佐賀への戻りということにして、いきなり長崎市まで直行したわけだったが、長崎市そのものとしてはこれといってみたいものはあまりなかった。
私たちは、長崎市で有名な中島川に架かった石橋をたどって、十いくつかあるうちの第二橋となっている高麗橋まで行ってみた。しかし名は「高麗橋」だったけれども、前記『長崎県の歴史散歩』をみても、「高麗《こうらい》橋は唐〈韓《から》?〉ふう石橋だったが、いまはすがたがかわり、橋のたもとに常夜灯が残る」とあるだけで、それ以上のことはわからなかった。
高麗橋をわたったそこに伊勢宮という神社があったが、これも近世になってできたもので、古代遺跡といったものではなかった。その伊勢宮の横に「総合結婚式場」ともなっている伊勢宮会館というのがあったので私たちはそこのレストランで昼食をとることにした。
そして私たちは、長崎県の地図を開いてみながら、ちょっと迷ったものだった。長崎市とはあいだに橘湾(千々石湾)をはさんだ東方、南高来郡となっている島原半島まで足をのばしたものかどうか、ということでだった。私たちは一泊二日を予定していて、翌日は佐賀県一帯をまわらなくてはならなかったから、結局、そこまではむりということになった。
奥野さんも言ったように、「長崎市は比較的新しいので、これといった古代遺跡はあまりない」けれども、それでいながら長崎県ということになると、稲作農耕とともに渡来した古代朝鮮特有の支石墓(ドルメン)が、東南端の島原半島にまで分布していた。
それらの支石墓までつぶさに調べて歩いた佐々木博氏の『「韓人」渡来の足跡』をみると、長崎県のそれはこういうふうになっている。
支石墓の分布を見るに、長崎県五島列島東北端の宇久島松原《まつばる》遺跡が分布の西北端である。そこから東方約四〇キロの九州本島西北端、北松浦半島の西岸部に五遺跡約三十五基がある。
南へ下って多良岳《たらだけ》南麓に一遺跡約二十数基、さらに南へ下って島原半島雲仙岳南西麓緩斜面の北有馬町原山《はるやま》遺跡には九十数基が群在し、支石墓群としては最大の遺跡である。以上はいずれも、縄文晩期以後と推定されている。
長崎県ではそれのほか、一九八七年に鹿島町の大野台遺跡で新たに三十基が発見されて、これまでに計七十九基が確認されているが、しかし「北有馬町原山《はるやま》遺跡」の「九十数基」にはまだおよばないのである。当時の島原半島とはいったいどういうところだったのか、と思わないわけにはゆかない。
馬はイカダに乗って
「そういう支石墓は、これからの佐賀でもたくさんみられますよ。それにしても、日曜日じゃなかったら、市か県の教育委員会でもたずねてみるところでしょうが」と奥野さんは、私が島原半島行きをあきらめたことで、ちょっと手持ちぶさたといったようすにみえたらしく、そうなぐさめるように言った。
「そうじゃなかったら、長崎大学もたずねてみたかったところです」
「長崎大学――」
「ええ。水産学部ですが、これです。できたら、そこに書かれたことについて、もっといろいろ聞いてみたかったんです」
そう言って私は、資料袋のなかから新聞の切抜きを一枚とりだして、奥野さんたちにわたした。
それは、「日本在来馬は朝鮮からイカダで/古代そのまま実験/長崎大教授ら玄界灘で/渡来のナゾ解きに挑む/電算機は可能と算出」という見出しの、一九八二年十月十四日付け東京新聞の切抜きで、次のようなものだった。長崎大まで行ってみることができなかったからというわけではないが、これはいろいろな意味でたいへんおもしろいので、ちょっと長いけれども、その全文をここに紹介することにしたい。
「古代馬はイカダに乗せられて朝鮮半島から日本へ渡ってきた」――日本在来馬は縄文、弥生時代に大陸から渡来してきたとされるが、どんな方法で運ばれてきたのかはナゾ。そこで横浜市・根岸台、財団法人馬事文化財団「馬の博物館」の早坂昇治学芸部長、長崎大水産学部柴田恵司教授(水産学)らが「いまも韓国済州島や長崎県対馬に残っているイカダが使われたのではないか」との仮説を立て、六日、対馬で、実際にイカダに馬を乗せて海岸へ乗り出す実験を試みる。
わが国に古来から住む馬は北海道のドサンコ、長野県の木曽馬、宮崎県の御崎馬、鹿児島県のトカラ馬、長崎県対馬の対州馬など。
これら体高一五〇センチにも満たないずんぐりした小、中型の日本在来馬は、いつごろから日本にいたのか。
東京農工大の林田重幸教授などによると、日本国内で発見された遺跡としては、千葉県銚子市の余山貝塚(縄文時代)や長崎県・壱岐の原ノ辻貝塚(弥生時代)などで出土した骨が最も古い。しかし、その後三世紀に中国で著された「魏志倭人伝」には日本には「牛・馬なし」とあり、そのころまでは、いてもわずかだったとみられる。
ところが四、五世紀の古墳時代に入ると、急に馬が増えたことが古墳出土の副葬品に馬具の多いことからうかがえる。
そのモデルとなっている馬は体形から見て、アジア大陸から渡ってきたものと考えられており、そのルートは 中国大陸の四川〓海南島〓沖縄〓トカラ列島〓九州朝鮮半島〓対馬〓北九州などの諸説があるが、輸送方法は、本格的な船も出来ていない古墳時代以前のことだけに、これまでナゾとされてきた。
「馬の博物館」の早坂さんは昨年始め、福岡県・竹原古墳に残る、馬を小舟に乗せた壁画などを見るうち、馬の輸送方法に関心を持ち、また長崎大の柴田教授が五年前、現在も残っている韓国・済州島のパルソン(イカダ)と、対馬の藻刈《もが》り船《ぶね》と呼ばれるイカダが極めて類似していることを発見、さらに楠本正・九州産大講師(民族学)の研究も合わせて、三人は日本馬は馬の産地、済州島からやってきた――と結論した。
柴田教授が、ミニチュアのイカダなどで研究した結果によると、馬一頭を乗せたイカダを四人でこいだ場合、速度は一ノットで朝鮮、対馬海峡に北東へ向かう恒流(対馬暖流)の中をイカダが一ノットで進む可能性をコンピューターで割り出すと海峡を横断するには常にこぎ続けねばならず、こげる限度は片道五十時間一ノットで往復できるコースは、別図のように韓国・巨済島〓対馬・浅茅湾など五コース対馬〓壱岐間も対馬の豆酘《つつ》、三浦湾と壱岐、佐賀県唐津を結ぶコースで渡航が可能と算出された。
そこで、対馬で現地使用の藻刈り船(長さ約七メートル、幅約一・七メートル)にサクをつけて馬を運べるよう改造、この六日に、対馬の厳原近くのないら浜で、馬一頭と古代の衣装をつけた四人のこぎ手が乗って玄界灘に乗り出す実験をすることにした。このもようは、中日映画社が記録映画として残すことにしている。
△丸木舟では不可能/長崎大・柴田恵司教授の話
三世紀ごろはまだ丸木舟しかなく、大きな馬を乗せることは不可能。当時は、済州島はじめ朝鮮半島南岸や対馬は“イカダ文化圏”をつくっていた。いまでもソ連のシベリアやウラル地方の川ではイカダで馬を運んでいるところがある。丸木舟を並べていたというより、イカダのほうが現実性があると思う。
このイカダ(筏)舟のことは、さきの「対馬における神と仏」の項でも宮本常一氏の「対馬の神々」などによってみている。宮本氏は、「その筏船によって稲作も稲作技術をもつ人もやって来たのではなかったか」としている。
佐世保の三川内にて
高麗島の石垣
昼食をすました私たちは長崎市内をひとまわりし、そこからは来た道を戻るようにして、佐世保のほうへ向かった。高田さんの運転するクルマは、多良見町というところから、右手は多良岳や白木峰などがある山地で、左手は青い海の大村湾となっている国道三四号線を走っていた。
私は、「多良岳南麓に二遺跡約二十数基」(佐々木博『「韓人」渡来の足跡』)の支石墓があるということもあって、その多良見町、多良岳の多良という地名がちょっと気になっていた。多良見町というのはともかく、多良岳の多良《たら》とは、古代南部朝鮮にあった加耶諸国の一国だった多良(羅)からきたものではなかったかと思われたからである。
地名となるとまた、その多良岳南麓の諌早《いさはや》市栄町には「高麗小路の井戸」というのがあり、さらにまた、これも長崎県となっている西方海上の五島列島には、「高麗島」「高麗曽根」などというところがある。一九七七年一月六日付け毎日新聞に、こういうテレビ番組の紹介記事がのったことがある。
△高麗島の石垣
あす一七日放送の日本テレビ「日曜スペシャル、小松左京のアトランティス大陸沈没の謎」(後二・一五)で、番組制作の日本テレワークの古谷直義プロデューサーらスタッフが、柳田国男が「高麗島の伝説」という紀行文の中で書いている高麗島の石垣を海底に発見した模様を紹介する。
現場は、五島列島の福江島から漁船で四時間三十分。高麗曽根と呼ばれる浅瀬で、石垣が発見されたのは海底二十メートルのところ。石垣が三十メートル近く続いている。小松氏は、スタッフが持ちかえった岩の写真を見て「石と石との間に入れたものと思う。こうした石垣のつくり方は江戸時代初期のもの」と語り、また同番組プロジェクトの一員で東大の地球物理学の竹内均教授は「別府湾に瓜生島という島が江戸時代の慶長年間に沈んでおり、そこから正断面層が阿蘇を経て五島列島にのびている。この正断層は土地がドスンと沈んだ可能性がある層なので、五島列島の海底に島が沈んでいてもおかしくない」と語っていた。
私はこのテレビを見ていないが、小松氏のいうようにその石垣が「江戸時代初期のもの」だったとすれば、それは豊臣秀吉の朝鮮侵攻時に連行されて来た者たちがそこに住まわされて、つくったものではなかったかと思う。それが島ごと「ドスンと」沈んでしまったものだったかも知れない。
私はこれまで、九州におけるそれのことにはふれないできたが、秀吉の朝鮮侵攻時に連行されて来た陶工などの数は、おびただしいものであった。そのことは、関野貞氏の『朝鮮美術史』にもこう書かれている。
日本にては室町・桃山時代に茶の湯の盛行に随い、朝鮮より輸入せられる茶〓《ちやわん》・水こぼし等特に愛翫《あいがん》せられたれば、当時征韓の諸将士は争うて陶工の優《すぐ》れたる者を伴い帰り、各藩に於て新たに窯《かま》を開きそれぞれ特色ある陶器を作り出さしめ、日本の窯業《ようぎよう》は為めに急激の発展を見ることになった。島津氏の帖佐窯《ちようさがま》、鍋島氏の有田窯、毛利氏の萩窯、細川氏の八代窯《やつしろがま》、上野窯《あがのがま》、黒田氏の高取窯、松浦氏の平戸窯などがそれである。征韓役は結局失敗に終りしも、為めに近世窯業発達の基を築いたのは朝鮮陶工の賜《たまもの》で、意外の拾い物と謂《い》わねばならぬ。
三川内と波佐見の陶工
朝鮮としては意外の「落し物」をしたわけだったが、私たちが佐世保へ向かっていたのも、ひとつはいまみたうちの「松浦氏の平戸窯」のその後をみるためであった。前記の『長崎県の歴史散歩』「焼きものの三川内《みかわち》・波佐見《はさみ》」の項をみると、それはこういうふうになっている。
佐世保駅前から温泉のまち嬉野《うれしの》行のバスにのって三〇分あまり、国道を右におれ、国鉄佐世保線の踏切をこえたあたりから、赤レンガの高い煙突をもった家のすがたが目につくようになる。これが三川内焼の窯元《かまもと》だ。緑につつまれた丘陵地帯の谷間をぬってはしるバスの車窓に、ほとんどたえまなく、赤いレンガの煙突のある風景がつづく。この焼きもの地帯、佐世保のほうからみて、手まえが三川内、おくが波佐見(東彼杵郡波佐見町)だ。
三川内焼は別名を平戸焼ともいう。秀吉の朝鮮遠征にしたがった平戸藩主松浦鎮信《まつらしげのぶ》は、帰国にあたり朝鮮から陶工を二〇〇名ほどつれてきた。そのなかの巨関《こせき》という陶工が、はじめは平戸の中野に窯を築いた(県史跡、中野窯跡)。巨関は、ろくろをつかわず竹べらで陶器をつくったという。したがって肌色《はだいろ》のうつくしさは格別で、それに独特な彩色をこころみたと伝えられている。その功で、のち平戸藩士にとりたてられ、今村という姓をあたえられた。このほか、松浦鎮信がつれてきた陶工のなかに、高麗媼《こうらいおうな》(これはたんなるよび名だったのだろう)という女性がおり、陶工中里氏に嫁《か》したと伝えられている。
「今村という姓をあたえられた」ということにも注意してもらいたいと思うが、陶工「中里」というのもそれと同じで、これらの陶工は平戸・三川内のそれと限らず、のちにはほとんどみな、日本風の姓名になっている。ついでにいうと、現在の作家・井上光晴氏も、こちら波佐見の陶工の子孫から出ている。
巨関の子の今村三之亟《さんのじよう》は、のち陶工と窯業の適地をもとめて佐世保方面にうつり、三川内におちついた。当時ここには高麗媼の子の中里茂右衛門や、金久永《きんきゆうえい》という陶工などもいたようで、今村三之亟はここに藩の御用窯を築き、平戸藩窯の組織をつくった。葭《よし》の本《もと》窯跡(県史跡)が、この方面の最初の窯跡だ。今村三之亟の子弥次兵衛《やじべえ》(如猿《じよえん》と号した)の時代に、天草の陶石の導入に成功し、白磁《はくじ》技法が完成したといわれ、彼は如猿大明神(神社)にまつられている。このほか、付近の釜山《ふざん》神社は中里茂右衛門の母の高麗媼をまつっており、今村・中里の両氏が、三川内焼の中心となってきたことをものがたっている。
いっぽう、波佐見焼は、秀吉の朝鮮遠征にしたがった大村藩主の大村喜前《よしあき》が、これも多数の陶工をつれもどり、そのなかの李祐慶《りゆうけい》兄弟に村木窯を建設させたのがはじまりと伝えられている。波佐見町の村木郷にある畑の原窯跡(県史跡)をはじめ、付近にはたくさんの窯跡が残っており、それらから発掘された焼物の破片は、同町にある長崎県窯業試験場のまえの記念の壁に、各窯跡ごとに整理し、年代順にならべて、各窯の特徴が一目でわかるように展示されている。
おもしろいことに、波佐見・三川内、それに陶都として有名な佐賀県の有田町、この三者は、三方石とよばれるものからほとんど等距離の三点に位置している。三方石とは、かつての鍋島・平戸・大村三藩の境界点である。このことは、この地域が陶石を包蔵すると同時に、異郷につれてこられた三藩の朝鮮人陶工が、相互の交流をもとめてここにあつまったことをものがたっているようだ。とくに波佐見焼は、有田との関係がふかく、こんにちでは家庭用和食器の生産に重点がおかれている。三川内のほうは、置物・割烹《かつぽう》食器などの生産が中心だ。
陶祖神社・釜山神社・小麦さま
私たちは、これのはじめにみられる「赤レンガの煙突のある風景がつづく」その道すじにしたがって、「丘陵地帯の谷間」となっている三川内の集落をたずねた。そんな谷間だったにもかかわらず、ここにもあちこちに窯元の赤いレンガの煙突が見える安定した感じの集落で、そこらの庭先に、韓国の国花となっている無窮花《ムグンハ》(木槿《むくげ》)が咲きみだれているのも印象的だった。
今村弥次兵衛を如猿大明神として祭る陶祖神社は、その集落のなかほどのところにあった。神社の前にはなにかのための記念碑がたっていて、建設基金をだした二十人ほどの名がずらりと彫り込まれていたが、それが一人残らず全部、「今村」姓となっていた。
それら今村氏の日本における祖となっている巨関というのは、朝鮮のどこから連行されてきた者だったかわからないが、なにはともあれ、その子孫はいまなおそこにそうして健在だったのである。
一方また、中里氏のほうの高麗媼を祭った釜山神社は、集落奥の丘陵のうえとなっていたが、だいたい、平戸藩主松浦鎮信によって連行されてきた「二〇〇名ほど」の陶工のなかには、女性もかなりの数いたもののようであった。
それら陶工とはまた別に、前記『長崎県の歴史散歩』に「小麦さま」という、「まるで、芝居を地でゆくような話」がのっているので、さいごにそれを紹介して、この項をおわることにしたい。
一六世紀後半から一七世紀はじめにかけての平戸藩主松浦鎮信は、朝鮮から陶工を多数連行したり城や寺院などを焼きはらうなど、ちょうど当時のヨーロッパの絶対君主をおもわせる暴君だった。
秀吉の朝鮮遠征に参加した鎮信が、帰国にさいし連行した者のなかに、身分のたかい女性がひとりいた。
日本軍が朝鮮の首都京城を占領したとき、鎮信が城外の見まわりをしていると、小麦畑のなかにお姫さまふうのわかい女性がかくれていた。朝鮮王の都落ちの一団からはぐれたものらしい。とらえてみるとひじょうな美人だったので、鎮信は手もとにおいて寵愛《ちようあい》した。日本軍の帰国のさい、妊娠中だったこの女性は玄海灘の船中で男児を生みおとした。ところが、外聞をはばかる鎮信の命で、その子は壱岐の海岸へすてられてしまった。
彼女はその後も鎮信の側室のひとりとして寵愛をうけたが、子どものことがわすれられず、八方手をつくしてさがしたすえ、一〇年ほどたってようやく大島の船頭にそだてられていることがわかり、証拠の品をたずさえたわが子と涙の対面をとげている。まるで、芝居を地でゆくような話だ。
この女性は、記録のうえでは清岳夫人となっているが、いっぱんに小麦さまとよばれていたという。小麦畑でとらえられたことにちなんだものだろう。一説には、朝鮮の李朝第一四世昭敬王の姫の廓清姫《かくせいき》だったというがはっきりしない。
おつぼ山山城と周辺
武雄の陶磁器
佐世保市三川内からの私たちは波佐見をへて、そこはとくに「陶都」といわれる有田焼の有田を左方に望みながら、その東方の武雄《たけお》市にはいった。同じ肥前でも長崎県から佐賀県となったわけだったが、武雄もまた三川内・波佐見などと同じように、朝鮮からの陶工たちによる窯業のさかんだったところで、佐賀県高等学校教育研究会社会科部会編『佐賀県の歴史散歩』にそのことがこうある。
古唐津の系譜のなかで松浦地方の岸嶽古唐津を源流とすれば、武雄地方には武雄古唐津がある。武雄古唐津は文禄の役以後に渡来した韓人によって開窯されたと考えられているが、生産規模は岸嶽古唐津系のものにくらべて大規模で、作品も自由なのびがあるといわれている。武雄地方の窯を佐世保線をさかいに北部と南部に区別してみると、ともに多くの群窯がみられる。
武雄市武内町を中心とする北部の窯は黒牟田系(祇園下・幸平《こうひら》・高麗墓・物原《ものはら》・丸尾水無・錆谷など)と内田系(大谷・鏡山谷《かがみやまだに》・古屋敷・小峠など)のふたつの流れがあり、黒牟田系では錆谷と土師場物原《はじばものはら》山が国史跡に指定され、錆谷では規模の大きさに特徴があり、一七内外の登り窯だといわれている。物原とは陶器の残欠をすてたところで、堆積して丘陵化しているものもあり、その大きさで生産規模も推測できる。内田系では小峠・大谷窯跡が国史跡に指定されているが、ここも大規模な窯で多数の工人をかかえていたと考えられ、この工人たちはのちに有田にうつったと伝えられている。ここでは陶器とともに磁器が焼かれたというので、陶磁器史を考えるうえで注目される。なおこれらのほかに、武内町の多田良《たたろう》、西川登町の小田志・弓野、東川登町の小山路《こやまじ》などはいまでも生産をつづけている。
神籠石・山城説論争に結着をつけた発掘
けれども、私たちはそのような陶磁器のことはおいて、武雄ではまっすぐ橘町小野原《おのばる》のおつぼ山神籠石・山城跡へ向かって進んだ。杵島山塊南西部の一支脈となっている丘陵の山道をたどって行くと、そこに「史跡おつぼ山神籠石」とした石碑がたっていた。
そして、その石碑のすぐ手前にも列石がつらなっているのが見え、よくみると古代さながらの水門もあって、そこからはいまも水が流れ出ていた。まるでいまもその列石線内の山城には、人が集まって暮らしているような感じであった。
おつぼ山神籠石・山城跡は他のそれにくらべると、標高六六メートルという最低所の山に築かれた小規模のものであるが、しかしこれが発掘調査されたことには大きな意義があった。『日本の中の朝鮮文化』10「筑後の高良山城へ」の項でもみた西谷正氏の「九州地方の古代遺跡」にそのことがこう書かれている。
神籠石は、一八九三年(明治二六年)に、福岡県久留米市の高良山の例がはじめて紹介された際、すでに地元で高良神社の山中に「神籠石」と呼ばれているものがあり、また、霊地として神聖に保たれた地を区別するものとされて以来、霊域説もしくは神域説とのかかわりで、そのように呼ばれてきた。その後、山城説が出て、両者の間で激しい論争が展開した。
ところが、一九六三年(昭和三八年)に実施された、佐賀県武雄市橘町のおつぼ山における発掘調査によって、列石の上部に土塁が築かれ、さらに、門跡をもつことなどが判明し、山城であることが明らかになった。したがって、神籠石という名称は適当ではなく、たとえば「神籠石式山城」ともいうべき、名称の変更が必要であるが、まだまだ神籠石の名称が通用している。
おつぼ山山城発掘の経過
私はかりに「神籠石・山城跡」と書いているが、そういう意味でこの「おつぼ山神籠石」の発見と発掘調査とは、大きなひとつの画期となったものであった。同行の奥野正男氏がくれた武雄市教育委員会の『おつぼ山神籠石/保存管理計画策定報告書』に、その経過のことがかなりくわしく書かれている。ちょっと長いけれども、地方におけるこういう遺跡がどういうふうに発見され、調査されるか、ということをみるうえでもおもしろいので、それをここに紹介することにしたい。
おつぼ山に隣接する杵島山山麓の北楢崎で、戦後、南杵島炭坑の採炭事業が始まり、炭坑住宅建設のために、貝島鉱業所によるおつぼ山の大規模買収がおこなわれた。
しかし、昭和三〇年代前半から始まった炭坑不況の波がおしよせて、この計画は中断した。このため、小野原柑橘組合が、この土地を一括して購入し、みかん畠に造成した。造成道路工事中に、一部列石が発見されたが、普通の石垣だろうということで造成工事は進められ、みかんの植樹がおこなわれた。
昭和三七年五月五日、市内の溝ノ上古墳の発掘調査が、県教委及び市教委の手で実施された際、地元の医師江口真一郎氏から「神籠石らしきものの存在」の申し出があり、直ちに、県教委木下之治文化財係長等の手で現地調査がおこなわれた。
同年六月五日、佐賀県文化財専門委員会の史跡部会が現地で開催され、第一水門の確認がおこなわれ、ほぼ神籠石であるとの結論が示された。
一〇月中旬に、文部省の斎藤忠技官が来武し、つぶさに現地調査がおこなわれ、国の緊急調査が必要であるとの結論に達した。
文部省に対しても、緊急調査の申請手続きをとり、合わせて、国庫補助申請をおこなった。
昭和三七年度事業として、一〇〇〇分の一地形平面図作成をおこない、昭和三八年七月一〇日から、文部省、九州大学考古学科、佐賀県教育委員会等の協力を得て、緊急調査が開始された。
緊急調査は、九州大学鏡山教授、岡崎助教授、小田助手及び大学院生、並びに県教委の木下之治文化財係長、安本係官、更に武雄市文化財調査委員会等の合同で開始された。
緊急調査は、最初、第一水門の内部構造調査を中心に進められ、列石線の発掘によって、全国で八番目に貴重な神籠石の全ぼうの一部が八月下旬に明るみに出た。
この調査によって、東門跡及び門柱跡、第一土塁及びその前にある敷石、柵柱、第二水門跡等が発見された。
更に、九月に細部調査がおこなわれた結果、第一水門前の水田から柱根が三本発見されるに至り、他の神籠石では解明できなかった柵柱発見の新事実によって、その構造が明らかにされた。
日本書紀天智天皇四年(六六五)にみられる、椽〈基肄〉城などの朝鮮式古代山城と近似した構造をもっていることが判り、山城説を考古学的に裏付けることになった。
以後、おつぼ山神籠石の調査結果によって、この学説が日本の考古学界の定説となった意義は大きい。
要するに朝鮮にいまもたくさんみられる、有事の際の「逃げ込み城」だった古代朝鮮式山城だったわけであるが、そのことはここにみられる「文部省の斎藤忠技官」、のち東大教授となった考古学者の同氏も、韓国のその山城跡をみてからは、日本のそれが神籠石といわれたことについてこう書いている。
ところが、韓〈朝鮮〉半島における百済や新羅の山城を実際にみるようになってから、山城説が確認されるようになった。つまり、山の八合目あたりに並べられた石は土塁の根止め石であることが確認された。(「山城と古代の日韓関係」)
しかも、いまみたおつぼ山神籠石・山城は、大野城や基肄《きい》城などのように、六六〇年、百済がほろびたことで渡来した憶礼福留《おくらいふくる》、四比福夫《しひふくぶ》といった者たちによるものとはちがい、こちらはそれ以前に築かれたもので、列石線内からは箱式石棺をもった数基の古墳も発見されている。
おつぼ山山城周辺の古墳
そして、その神籠石・山城跡の周辺となると、そのような古墳はさらに多くなる。私たちはそのうちの玉島古墳をたずねてみたが、そこには武雄市教育委員会によるこういう掲示板がたっていた。
佐賀県下最大の円墳で、東西四十二メートル、南北四十八メートル、高さ九メートル。円墳の下底部が方形になっているのが特色で、六世紀初めの築成と推定されている。
横穴式古墳で、西南の方角に入口があり、石室は奥行三・二五メートル、幅二・一メートル〜一・四三メートル。羨道《せんどう》は形式的に付け加えられており、石室の一番奥に屍床がある。出土品としては青銅鏡・斧形石製品・碧玉《へきぎよく》製管玉・ガラス製小玉・くしろ形製品・鉄刀・短甲片・工具としては〓《やりがんな》などがある。
この古墳は、武雄市教委の『玉島古墳発掘調査報告』によると、すでに盗掘されたあとだったとのことであるが、それでもなおそれだけの出土品があったのである。なお、この『――調査報告』をみると、その周辺の古墳のことがこう書かれている。
玉島古墳を中心とするその周辺の古墳時代遺跡としては、水田地帯をへだてて北方一キロ、武雄市橘町小野原に史跡「おつぼ山神籠石」がある。……
武雄盆地の東辺をなす杵島山の西麓にはこの「おつぼ山神籠石」の他に、橘町の鳴瀬古墳群・橘町釈迦寺古墳群・橘町北楢崎の谷戸賀古墳群・橘町南楢崎の楢崎古墳群・橘町南楢崎箱式石棺墓と北から南へ続いており、特殊な遺跡としては、橘町片白の滑石製模造鏡を出土した祭祀遺跡がある。これらの古墳時代の遺跡の中で、楢崎古墳の内部主体は、複式の横穴式石室である。
杵島山西麓に分布する古墳時代遺跡と相対する武雄盆地の西辺山麓には、橘町潮見古墳・武雄町溝の上古墳群・武雄町山田の剣塚古墳・武雄町花島の正現寺山古墳と南から北へ分布しており……。
これだけでも、おびただしい古墳群・古墳である。それがどういう古墳かという出土品のことがあるので、さいごに潮見古墳のそれをみておくことにしたい。こうある。
潮見古墳は、当地に鎮座する潮見神社の境内に築成されている横穴式石室を内蔵する円墳であって、副葬品には、小形彷製鏡・金銅製冠・挂甲・鉄刀・鉄刀子・鉄鏃・鉄鉾・須恵器杯と壺の他、鉄製鞍金具片・鉄地金銅張鏡板・金銅製五鈴付杏葉・鉄地金銅張雲珠・青銅製馬鐸などの馬具類が発見されているが、この馬具類は県内出土の古墳時代遺物としては、他に類をみないすぐれた遺物として注目される。
さきの玉島古墳にしてもそうだったが、まるで新羅や百済などの古墳の出土品をみるようである。なかでも注目されるのは古代朝鮮製のものとみられる金銅製冠や金銅製・青銅製の馬具などで、当時ここにはそういう金銅製の冠や、そういう馬具を馬につけていた地域の「王」といっていい「馬上の人」がいたのである。
そして、さきにみたおつぼ山の古代朝鮮式山城なども、そのような「王」らの命によってつくられたものだったにちがいない。かれらは、この項のはじめにみた陶工たちよりはるか千年も以前から、すでにこの地に渡来していたのである。
歌垣の杵島山
これはそのこととどう関係あるかはっきりしないが、おつぼ山もそれの支脈となっている杵島山は、日本三大「歌垣山」のひとつとして知られている山であった。山頂には、「あられふり杵島が岳をさかしみと草取りかねて妹が手を取る」という万葉歌碑もあるとのことであるが、前記『佐賀県の歴史散歩』にはそのことにつづけて、こういうことが書かれている。
歌垣碑からのコースに和泉式部誕生の伝説と幽霊の絵のある福泉寺、そして稲佐神社がある。稲佐神社は『日本三代実録』にもしるされた古い神社で、天神・女神・五十《いその》猛命《たけるのみこと》のほかに日本に仏教を伝えたといわれる百済の聖明王とその子阿佐《あさ》太子を合祀してある。
新羅系の神(「上古の時、神といいしは人也」新井白石『東雅』)である五十猛命はわかるとしても、そこに「百済の聖明王とその子阿佐《あさ》太子を合祀してある」というのはどういうわけか、よくわからない。なぜかというと、聖明王が日本に仏教を伝えたのは、大和への「公伝」としてのそれであって、当時の九州とはあまり関係なかったはずだからである。
おそらく、百済聖明王とその子阿佐太子は、「日本に仏教を伝えた」ということとは関係なく、この地にいた百済系氏族が祭ったものではなかったかと思われる。
なお阿佐太子というのは、さきの一万円札や五千円札になっていた聖徳太子像を画いたという、その阿佐太子である。
日本磁器の創始と有田
李参平と有田焼
私たちは武雄市から、ついでこんどは、そこへ来た道を戻るようにして有田町と伊万里市をたずねることにしていたが、有田のほうはカットということにして、翌日のことがあったので、佐賀市に近い大和町の川上峡なるところで、一泊することにした。どうしてそうしたかというと、ひとつはおつぼ山神籠石・山城跡と玉島古墳で日が暮れてしまったからだったが、それにまたひとつは、有田は私が十六、七年前からこれまでに三度ほどたずねたことがあったからだった。
しかし奥野さん以外、そこははじめての東京から同行していた高淳日氏や、クルマを運転してくれている高田和宏氏のためにもう一度行ってみても、と思っていたのであるが、高さんたちには前記『佐賀県の歴史散歩』にある「有田」の項などをみるだけで、ゆるしてもらうことにした。「陶都」といわれる有田のことは、まず、その『――歴史散歩』にこう書かれている。
長さ四キロの山あいの町、窯元が一〇〇軒をこえる有田。六〇余年の歴史をもつ五月恒例の陶器市にはたいへんな人出がある“やきもののまち”。有田の歴史は近世にはじまる。「慶長絵図」には有田の地名はなく、わずかに外尾《ほかお》村の名がみられるだけだが、「元禄絵図」になると南《なん》川原《がわら》・岩谷《いわや》川内《ごうち》・上幸平《かみこうびら》・泉山《いずみやま》村がくわわってくる。豊臣秀吉の朝鮮侵攻に参加した鍋島直茂は朝鮮から多数の人を連行、そのひとり李参平(初代金ケ江三兵衛)が一七世紀初頭、泉山の白磁礦《はくじこう》を発見し、上白川天狗谷に窯を築く。これが近世陶磁器を代表する有田焼の創始とされる。いらい、有田焼の原料陶石を供給しつづけてきたのが泉山土場(石場)だ。番所がおかれ、陶石の配分や採掘搬出は厳重に統制された。三〇〇余年の長いあいだに採掘した白磁礦の膨大な量は、現地にたてば実感できるだろう。
私はもちろん、その白磁礦の泉山にも行ってみたが、白一色の山塊はあちこちに採石穴ができていて、一種異様な山容となっていた。それにしても、よくもそれだけ白い陶石がつづくものだと思ったものだったが、まだ二百年は採りつづけることができるだろうとのことであった。
泉山のその白磁礦が李参平によって発見されたのは十七世紀初頭、一六一六年のことであったとされているが、これは日本の陶磁器史にとって、まさに画期的な出来事であった。つまり、それまではざらざらした肌ざわりの、土だけで焼かれた陶器だったものが、以後は、今日のわれわれが毎日使っている、ガラスのようにすべすべした肌ざわりの磁器となったのである。
そのような日本の磁器は李参平によって開発されたもので、以後「有田焼」といわれるその磁器産業は、江戸中期には有名な「柿右衛門の赤絵」などをも生みだしながら、ヨーロッパなどへの輸出品ともなって大繁盛をきたした。当時、三十六万五千石だった佐賀・鍋島藩の米の出来高十万両に対し、有田焼のそれは八万両だったというから、それがどれほどの産業であったかわかる。
有田焼の拡散
したがってまた、そのことが他の藩にも知られないはずがなく、今日でいう産業スパイによって、その技術は各藩にもひろがった。そのことについては、有田文化財保護委員の町田忠一氏、佐賀文化館長の永竹威氏、有田陶芸美術館副館長の山沢一則氏ほか私も加わって、一九七一年に現地の有田でおこなわれた座談会「有田焼をめぐって」(中公文庫『古代日本と朝鮮』所収)にこういうくだりがある。
金 それで、有田の磁器はずいぶん高かったのですね。ですから、他の藩でもつくりたいと考えたのは当然なことで、たとえば東北・会津の本郷焼などをみましても、佐藤なにがしというのが有田で磁器のつくり方を学んで、その本郷焼の陶祖になりますね。それからあの加賀・石川の九谷焼ですが、これは後藤なにがしなるものが三年間この地にひそんで技術を手に入れるや、妻子まで捨てて帰ってそれを伝えたといわれている。
だいたい九谷焼というのは、「まぼろしの古九谷」などともいわれてよくわからないところもあるんですが、そういう例があちこちにたくさんあるそうですね。そういうようなことは、この有田の視点からみてどういうふうにお考えですか。
永竹 磁器というものが江戸中期の流行的なものであるということ、高く売れるということ、それと貨幣経済が取引きされるといったようなことで、各藩がきそってそれをやりたがったことは事実でしょうね。石川もそうですが、四国の砥部もそうですし、仙台藩、鹿児島の平佐。
金 それから、これはすごいものだと思いましたが、ここから出て行ったもので前島勇七というのがいますね。それで、技術が他にもれるというので、藩士がこじきに身を扮して三年間ものあいだ彼をさがし歩き、とうとうつかまえて来てさらし首にするわけですね。これは史実的には、どういうぐあいなんですか。
永竹 史実ですよ。ただ時代考証がまちまちなんですが、皿山代官日記で明和のころだということがわかりまして、いままでの本では時代考証が間違っていました。
そういうふうだったにもかかわらず、その技術が他藩にまでひろがるのを防げなかったわけだったのであるが、ただ、「まぼろしの古九谷」といわれた加賀・石川のそれについては、なおいろいろな議論があった。しかしそれも、一九八二年十二月十二日の読売新聞に、「『古九谷焼』産地は有田/科学分析で結論/陶土の元素構成ピタリ/工業技術院」という見出しの記事が出るにいたって、「やはり有田」ということになったようである。
このことについては、私もいろいろな理由をあげて、いわゆる古九谷も有田から伝わったものではないかと書いたことがある(『日本の中の朝鮮文化』5「双耳瓶・珠洲焼・九谷焼」の項)が、いまいった新聞記事のイントロ部はこうなっている。
わが国の代表的な古陶磁でありながら、産地がはっきりせず、有田(佐賀県)か九谷(石川県)か、長年専門家の間で議論が続いている「古九谷焼」について、五年前から放射化分析法といわれる理学的手法で産地を追究していた通産省工業技術院名古屋工業技術研究所の河島達郎主任研究官(五七)は、十一日までに「九谷ではなく有田地方」と結論づけた。有田と九谷の陶土の元素構成を調べることで突き止めたもので、科学的に古九谷焼の産地を割り出したのは初めて。
陶山神社と「山登り」
このように他の地への拡散もあったが、しかし有田焼は四百年近いあいだ繁盛をつづけ、手元にある二十一年前の資料(朝日新聞社刊『日本の年輪』「有田焼」)によってみても、「有田のカマ元は一〇二軒、陶商は一五五軒、年商四五億円」とある。町を歩いてみると、それらの窯元や陶商が軒をつらねていて、なかには、「高麗堂」とした、いかにもこの町にふさわしい陶商の店もあったりしている。
私はそうして、李参平が最初に泉山の白磁礦を使って磁器を焼いたという白川天狗谷の古窯跡から、「初代金ケ江三兵衛(李参平)墓碑」のたっている墓もみて歩いた。その墓は三百数十年前にたてられたままのものかどうか、古びた小さなものであった。
しかし、有田の人々の李参平に対する崇敬心はたいへんなものであった。町の一方となっている山地の有田公園には、磁器だけでできた鳥居や灯籠のある陶山神社があり、また、その山地の頂上部には、「陶祖李参平碑」とした大きな石碑がたちそびえている。
いまは応神天皇が祭神ということになっている陶山神社は、もとは有田の「陶祖廟」だったもので、そこの台地は陶工たちの「山登り」という野遊の場ともなっていたものだった。この「野遊」というのはいまでも朝鮮人のあいだでよくおこなわれているものであるが、陶工のかれらはその「山登り」の祭りの日には「高麗踊り」というのをやりたかったようだったけれども、そのことについては、「有田焼をめぐって」という前記の座談会でこう語られている。
永竹 そして毎年お祭りのときは、高麗踊りというのを願い出ておるわけですよ。皿山代官というのに高麗踊りを許してくれと。自分たち先祖から伝わった踊りを陶祖廟で踊りたいということを言いますが、毎年毎年、高麗踊りの義まかりならんと――。こういうところに、いまでいうとデモでも起ったり、あるいは皿山代官屋敷が焼きうちにあったりすることを大分懸念しておさえておりますよ。これは皿山代官日記にはっきり残っています。……
池田 六月一日が山登りの日なんです。
金 その山登りというのが、そのまま習俗化したわけですね。つまり、それが祭りということになって――。
池田 望郷の念にかられて、そこで酒盛りをやったわけです。ですからその日は、有田は窯を全部休みにして、宴会をやったものです。
彼らはいつも代官所の監視下にあったことを物語っているが、ところで、さきの「佐世保の三川内にて」の項でみた、平戸藩主松浦鎮信が朝鮮から連行してきた陶工は「二〇〇名ほど」(『長崎県の歴史散歩』)ということであった。が、李参平を中心としたこちら有田のそれは、どれくらいだったのであろうか。それも前記の座談会「有田焼をめぐって」でみると、こういうふうである。
金 金ケ江三兵衛、李参平ですけれども、その李参平が親方としますと、彼が統率していた配下というか、その工人はどのくらいだったのでしょうか。
池田 百五十五人です。ろくろも百五十五なんです。
永竹 李朝工人が百五十五人ですね。
金 そうですか。李参平の配下はそのくらいとして、鍋島藩に連れてこられたのは、李参平集団だけではないですね。
永竹 そうじゃないですね。
金 ほかにもたくさんありますね。それはどうなっているのでしょうか。
永竹 多久領内にありますね。それからきょういらっした武雄南部、北部、伊万里です。おそらく一部は豊前あたりにも流れていますね。それでたまたま、細川のかかりになったということですね。
有田焼と伊万里焼
おそらく鍋島藩によるそれも、平戸藩と同じく二百人をこえていたのではなかったかと思われるが、それはそれとして、有田焼は別にまた「伊万里焼」ともいわれた。そのことについては、陶磁器の原料などのこととも合わせて、前記『日本の年輪』「有田焼」にこうある。
陶器の原料は土、磁器のは石。陶器は主に二度焼きだが、磁器は赤絵をかければ三回、青磁では五、六回も焼いていた。陶器は吸水性があって不透明、音も鈍いが、磁器のうわぐすりは、ガラス質を帯びて半透明。
有田周辺で焼いたのに、伊万里焼と呼ばれるのは、諸国の陶商たちが船便のよい伊万里津〈港〉に集まり、ここで取引したため。有田に大火があった文政一一年(一八二八年)までのものを古伊万里とする。
有田からは十五キロほど北となっているその伊万里市はこんども、つまり武雄市のおつぼ山神籠石・山城跡などをみた翌日、唐津への途次、行ってみることができた。そして伊万里市立歴史民俗資料館をたずねて、奥野さんとは知り合いだった館長の犬山国博氏に紹介され、いずれも市販はされない『伊万里の古代の歴史』など、たくさんの資料をもらい受けた。
そのうちのひとつに、『伊万里の磁器の歴史』というのがあって、それによると、近年、同市内の東町にある商家の土中から「糸底に『伊万里』と花押形式の銘のある染付磁器皿」が発見されている。そのことから、同『伊万里の磁器の歴史』にはこういうことが書かれている。
寛政十一年(一七九九)正月開版の『日本山海名産図会』は「やきものは肥前伊万里を第一とす」とし、大川内・三川内の御用窯を別格として、肥前の焼物(磁器を指す)産地二十ヵ所をあげ「伊万里は商人の輻湊せる津にて、焼きつくる場にあらず」とのべ、「伊万里焼とは伊万里津から積み出される肥前の焼物の総称である」と紹介していらい、「『伊万里焼』という固有の焼物が存在したのではない」というのが、今日まで肥前陶磁史研究者間の通説となっていました。
然し、「伊万里」と花押のある焼物が藩窯埋立土中と、伊万里津の商家の店先きから出土したことは、「伊万里」という銘の固有の焼物〓伊万里焼〓が大川内山で生産され、伊万里津の陶器商の手で、市販品として積み出されていたことを立証しました。
有田との地理的な関係からして充分ありうることであるが、それだけではない。伊万里市東北方の南波多町には「椎の峯焼」というのもあって、私も以前、行ってみているが、前記『佐賀県の歴史散歩』にこう書かれている。
伊万里から唐津へのバスを利用すると、藩境だった池ノ峠をこえ、府招《ふまねき》上から右へおれると椎《しい》の峯《みね》にでる。椎峯焼物師の先祖は高麗人(朝鮮人)だとその子孫たちは信じていた。最盛期には一登《のぼり》の窯数が二〇間《ま》もある登窯が三登もあったほどだが、元禄〜享保へかけて衰退のみちをたどった。ここには高麗祠が三基ある。
なおまた、ついでにみると、伊万里市にも古墳があるが、うち東山代町のそれのことが同『佐賀県の歴史散歩』にこうある。
伊万里からバスで西へ、白幡から旧山代郷、東山代町へはいる有田川河口の日尾《ひお》のすこしてまえに銭亀古墳があった。外護列石をそなえた円墳だったらしく、金銀の耳飾・鉄鏃《ぞく》・須恵器《すえき》などが出土(市文化)、六世紀末の築造とみられたが、破壊されてしまった。日尾崎《ひおざき》をまわったところに夏崎古墳(市文化)がある。羨道《せんどう》部に特徴のある横穴式円墳で、およそ六世紀初期のものとみられる。
出土品のうち「須恵器」はともかくとしても、「金銀の耳飾」などは古代朝鮮からもたらされたものだったにちがいない。すると、その地には、近世に連行されて来て有田焼・伊万里焼などの磁器を開発した彼らより千年も以前から、さきにみた武雄市と同じように、朝鮮からの渡来人が移り住んでいたのである。
佐賀市唐人町にて
河上神社と祭神の淀姫
私たちは佐賀市北方、背振山麓のなかとなっている大和町の川上峡というところで一泊した。そしてこの日は、それまでの高田和宏さんにかわって、松尾洋三さんが運転してくれることになったクルマで出発ということになったが、そのときになって気がついてみると、前夜はただの暗闇だったそこの大和町川上峡なるところがまた、なかなか遺跡の多いところであった。
宿でもらった大和町役場発行の『川上峡』というのをみると、「佐賀県重要文化財」となっている船塚古墳というのがあってこうある。
県下第一の前方後円墳で、その軸は南北にのび、前方部は南の方角になっている。全長は一一四メートル。周こうの東方から東北方にかけて平均一二〇メートルの距離に七基の墳塚がある。昭和二八年、佐賀県史跡として指定された。
「へえー、こんな山中にそんな古墳が」と思ったものだったが、それだけではなかった。私たちの泊まった川上川対岸のそこには、肥前一の宮という河上神社まであった。前記『佐賀県の歴史散歩』を開いてみると、その河上神社のことがこう書かれている。
佐賀駅の西北約七キロ、川上川(嘉瀬川の上流)にのぞんだ景勝地に河上神社(淀姫《よどひめ》神社)がある。『肥前国風土記』に「川上に石神あり、名は世田姫《よたひめ》」とあるように神体は巨石らしい。淀姫の名は、川上川の急流が扇状地にでて“淀《よど》む”(停滞する)ところにこの社が建てられたためであろう。
五六四(欽明二五)年創建と伝える神社は、二〇〇〇余坪(六ヘクタール)の境内にクスがうっそうとしげり、肥前一の宮にふさわしい風格だ。社殿は戦国時代と文化年間(一九世紀前半)二回の火災にかかり、その後、藩主鍋島氏により再建されたものだ。拝殿内には副島種臣《そえじまたねおみ》筆の「火国鎮守」の額が目だつ。拝殿の右前には直径一・二五メートルの塔心礎がある。三重塔の礎石だ。
天明年間(一八世紀後半)の河上社神領絵図によると、境内の南西部に観音堂がえがかれている。藩政時代までこの神社が神仏混淆《こんこう》の状態にあったことをしめすものだ。境内の南端には一六〇八(慶長一三)年、初代藩主鍋島勝茂が献納した肥前鳥居が瀟洒《しようしや》なすがたでたつ。本殿の西、道路にめんして四脚門がある。控柱の面取りの大きいことや桁隠《けたかくし》の風雅さなどから、一三二二(元亨二)年の作と推定されている。四脚門をでて道路をよこぎると、山麓をきりひらいて神宮寺の実相院がある。
淀姫が祭神となっている河上神社の「神体は巨石らしい」ということで思いだすのは、豊後(大分県)でみた(『日本の中の朝鮮文化』10「宇佐八幡宮をめぐって」の項ほか)宇佐八幡宮の神体が御許《おもと》山(大元山)の三つの巨石で、それを祭神・比売大神の顕現としていたということであるが、そのことについては、「鳥栖市史研究編」第四集となっている佐々木哲哉氏の『鳥栖の民俗』にもこうある。
北部九州における八幡信仰の伝承感覚には、「神功皇后〓応神天皇(八幡大菩薩)/玉依姫(宝満大菩薩)与止日女《よどひめ》(河上大明神)」という図式が描かれている。
この玉依姫・与止日女〈淀姫〉という女神は、あるいは宇佐八幡神の一つである比売大神《ひめおおかみ》=宗像三女神(市杵島姫《いちきしまひめ》命・多岐津姫《たぎつひめ》命・多紀理姫《たぎりひめ》命)や、豊玉姫・豊姫(豊比売)などさまざまに混交して北部九州に分布しているが、それが仏教と習合すると、筑前では宝満大菩薩、豊前では八幡大菩薩、肥前では河上大明神と呼ばれる神仏混淆の神々となって出現する。
要するに、宇佐八幡宮の最初の祭神であった比売大神は、あとから合祀となった神功皇后・応神天皇とともに、北部九州ばかりでなく九州全域、のちにみる大隅(鹿児島県)の大隅正八幡(鹿児島神宮)にいたるまで分布しているのである。そしてそのもとをたずねると、新羅・加耶系渡来人集団である天日槍集団の天日槍・比売神にたどりつくのであるが、そのことについてはあとでまたみるとして、いまみた河上神社(河上大明神)のある背振山地南麓の大和町は古代肥前の中心地だったらしく、ここにはまた国府跡や国分寺跡もある。
佐賀・唐人町と李宗歓
私たちはそれらの遺跡を横目にしながらクルマを走らせ、この日は佐賀市の唐人町から、ということにした。その佐賀市ではまず教育委員会をたずねて、社会教育課文化係長の中野和彦氏に会い、あとでみる『久保泉丸山遺跡』などの資料をもらい受けるとともに、唐人町のことについて聞いたりした。
唐人町のことは前記『佐賀県の歴史散歩』にも「唐人町と宗歓《そうかん》の墓」として出ているが、その李宗歓を祭った唐人神社は、旧国鉄佐賀駅前通りを南下した唐人二丁目の奥まったところにあった。赤い鳥居をもった小ぢんまりした神社だったが、そこにはその神社の社務所をも兼ねた、三百三十軒の唐人町自治会による公民館があった。
私たちはそこで、同自治会副会長の中溝庸吉氏ほかと会い、唐人神社のカラー写真を表紙にした「唐人町の由来/唐人町の始祖 李宗歓について」という立派なパンフレットを一冊もらい受けた。古代朝鮮からの渡来人が祭神となっている神社は多いが、近世の朝鮮人がひとつの町の「始祖」となり、「祭神」となっているのはたいへん珍しいので、パンフレットのそれをここに引いておくことにしたい。
唐人町の起源は一八四二年(天保一三年)七月、御用荒物商・川崎勘四郎が藩に提出した「由緒書」にみえる。それによると勘四郎の先祖高麗人 李宗歓こそが唐人町の始祖である。
李宗歓は朝鮮(現在の大韓民国)咸北吉州に生まれた。時、天正一五年(西暦一五八七)、今から三九六年前に故国の竹浦の沖で釣りを行っていた時台風にあい、筑前国黒崎浦(北九州市八幡西区)に漂着した。
商才に冨んだ宗歓は黒崎で結構、生活の安定を得、また寸暇を割いて日本歴史の研究に余念がなかった。この宗歓が太宰府天満宮を訪れて参拝したのは、その四年後の天正一九年(一五九一年)で、異国の史跡を熱心にメモしていた。そこに偶然通りあわせたのが、豊臣秀吉との会議に出席しての帰り道だった鍋島藩の竜造寺家晴と成富茂安であった。
二人は宗歓が史跡に興味をもつほどの人物だとみると、挨拶を交わすうちに、その時初めて宗歓の身の上が判った。二人は同情して佐賀へ招聘し、鍋島直茂に引合わせた。直茂は、この人物に見どころありとみて、禄高百石を与えて苗字、帯刀を許し、家臣に召しかかえたのである。その後宗歓は文禄・慶長の役(一五九二年)において道先案内等を務めた。
そして帰国のときは、郷里にふみとどまろうとしないで、主君直茂に従ってふたたび佐賀へ帰ってきた。この宗歓の忠節に感動した直茂は、城下町郊外の現白山町以北の草千里の荒野を宗歓に与えて開墾を許した。そこで宗歓は白山町北部郊外に居を構え、鍋島藩御用達として唐国との貿易を開き、唐の繊維品・陶器類・金物・海産物・荒物等、まだ日本にない珍しい家庭必需品をどしどし直輸入した。これらの商品を取扱う商人が必然的に集まって来て現在の唐人町に栄え、唐人町が誕生したのである。
以後、町は北へ北へと発展して、旧佐賀駅までふくれてくると、そのころは北部山麓(川上)に通じた一本の小さい野道があったが、その野道まで家が建ちならんできた。それが今、通称唐人新町のことである。唐人町は唐品を扱う商人町であったが、東裏通りにはぞくぞく家が建って、住みこむ住人ができてきた。それが現在の寺町である。
この寺町の名は、寺が密集していたからではない。この付近の野辺には大宝山定光寺というお寺があって、現在の寺町一円はこの定光寺の寺領となっていたから、地主の権勢に物をいわせて寺町というようになったのである。むしろこの町は寺町というよりも糸町といった方が、そのころは早わかりしていた。なぜならばその当時、宗歓は、唐から麻の原料を輸入して寺町において麻糸の製造を始めたので、今日でいう家庭工業となって発展した町であったからである。その頃から盛んにこのような歌が唄われ、昭和の初期まで続いた。
唐人町チャ山の登り口
唐人町チャ佐賀のみやこ
唐人町チャいろ(糸)どころ
ことに宗歓は、高麗人の九山道清(帰化名)という織物教師を招いて、佐賀で鍋島更紗《さらさ》や佐賀錦《にしき》の製造技法を伝えたのであった。……
いまや佐賀県でこれだけ発展した本県のドル箱とまでいわれる特産品を生んでくれたのは、実に鍋島直茂のおかげであるのはもちろんだが、宗歓の手引きによるたまものであることは、星は移り変われども私達の永久に忘れてはならないものである。
彼は遠く異国日本で抜群の功労者として尊敬されていたが、やはり人間として一度は錦を飾って郷里へ帰ってみたくもあったであろう。彼はそうした望みもすてて、佐賀の土となる決心でいたものの、晩年にいたってからはやはり望郷の念禁じがたく、天山の方向にむかって朝夕必ず合掌することを忘れなかったといわれている。彼は明暦元年(一六五五年)まで佐賀唐人町に住み、町の発展に力を注いだ。
現在、李宗歓は唐人神社に祀られているが、宗歓一族の墓は唐人町にある鏡円寺(浄土宗)に建立されている。なお、唐人神社は従来寺町側に所在していたが、道路拡幅工事のため昭和三〇年七月一五日、唐人町公民館前に移設されており、これを記念して毎年七月一五日に地元有志により、ささやかな祭りが行なわれている。
洪浩然の「忍」
ここには李宗歓のほか、佐賀の「鍋島更紗」や「鍋島錦」を創始した「九山道清(帰化名)」というのが出ているが、これの本名は李九山で、鍋島直茂が豊臣秀吉の朝鮮侵攻戦争に従ったさい連行されたものであった。鍋島藩によって連行されたものとしては、さきの「日本磁器の創始と有田」の項でみた李参平をはじめとする陶工集団が有名だが、それだけではなかったのである。
いまみた李宗歓や李九山のほかさらにまた、次にみるようなものもいた。一九七六年十一月十一日付け日本経済新聞の「あすへの話題」というコラムに、外山茂氏の「洪浩然」という一文がのっていてこうある。
豊臣秀吉の朝鮮の役に出陣した鍋島直茂は、慶尚道晋州邑の洞穴の中に、背丈ほどの大きな筆をになった少年がひそんでいるのを見つけた。名は洪浩然、年は十二歳であった。直茂はこの少年を佐賀へ連れ帰り、嗣子勝茂の学友にし、後に京都五山に学ばせて、儒者とした。浩然は藩祖直茂、初代勝茂の殊遇を受け、異国人ながら禄八百石を与えられ重用された。
浩然は七十歳の時、一詩を賦《ふ》し勝茂に献じた。「臣もと海外の俘虜。誤って君寵を蒙ること多年、人齢腰に梓の弓を張る。希くば骸骨を故山に給え」という意味のものだった。勝茂は不憫《ふびん》に思い、帰国を許した。そこで浩然は朝鮮への船の出る唐津に向けて佐賀を出発したが、勝茂は惜別の情にたえず、途中まで行った浩然を連れ戻させた。
それから八年後、勝茂は江戸滞在中死去した。その訃報が佐賀に到着すると、浩然は阿弥陀寺において自刃殉死した。歳七十八歳だった。勝茂に殉じ追い腹を切った藩士三十一人の一人である。
浩然は苛烈な運命の下に数奇な生涯を送った。日本在住六十余年、主君の寵遇を受けながらも故郷忘じ難く、そこに帰って死ぬことを望んだ。しかし、それができぬと知るや、日本の封建的人間関係の極致である殉死をみずから選んだ。浩然の遺書「忍」が洪家に伝えられているが、彼はこの「忍」の一字に筆舌につくせぬ思いをこめていたのだろう。……
洪浩然の血脈は五代で終わったが、養子により洪家は続き、佐賀の名門として今日に及んでいる。昭和初期に日銀の調査局長だった洪純一氏は、その十一代目の嫡流であった。純一氏は深井英五総裁に重用され、国際的にも知られたエコノミストであり、筆者は公私にわたり非常な指導を受けた。熱心なキリスト教徒で温厚な人柄であったが、節を持すること固く、折に触れて、始祖浩然や葉隠の心意気を思わせるような一面を示された。(洪浩然には、他にも作詩がありその原文もあるが、肝心なこの詩の原文はいまだ入手できないでいる。ご存じの方があったらご教示いただきたい)
いろいろなことがあったもので、「勝茂は惜別の情にたえず、途中まで行った浩然を連れ戻させた」とは、さながら一編の物語をみるようでもある。ここに引かれた詩の原文のこと、もう入手されたかも知れないが、「ご存じの方」は日本経済新聞社気付けで、外山茂氏まで知らせてくれると私もありがたいと思う。
背振山地南麓を行く
関行丸古墳・熊本山古墳・帯隈山山城跡
佐賀市唐人町からの私たちは、朝がた大和町の川上峡からそこを横切ってきた、背振山地の南麓を東西にはしっている九州横断自動車道へ戻り、そこにあった金立《きんりゆう》サービスエリアで一服することにした。別に疲れていたというわけではなく、さて、これからどこをどうみてまわったものか、と私は思ったからだった。
佐賀平野を眼前にした背振山地南麓のそこは、金立サービスエリアの裏山からして久保泉丸山遺跡となっていた。そこは大和町東隣の佐賀市となっている久保泉町だったが、そこから東の山地山麓は脊振村、東脊振村などのある神埼《かんざき》郡、古代朝鮮式山城として有名な基肄《きい》城跡などがある三養基《みやき》郡となっていて、それが鳥栖《とす》市、小郡《おごおり》市へとつづいていた。
古代朝鮮式山城といえば、私たちが来ていた久保泉のそこにも帯隈山《おびくまやま》神籠石・山城跡があった。前記『佐賀県の歴史散歩』によってみると、周辺の古墳などとともにそれのことがこう書かれている。古墳については出土品に注意してもらいたいと思うが、それのほとんどは古代朝鮮から渡来したとみられるものばかりである。
佐賀駅からバスは四五分ほどで終点川久保につく。このあたりは鍋島藩親類四家のひとつ、神代《くましろ》氏の領地だ。川久保バス終点から東へ一〇分ほどの民家の東隣にあるモウソウダケのはえた小丘が関行丸《せきぎようまる》古墳(県史跡)だ。横穴式石室をもつ前方後円墳だ。前方部は低平で羨道には天井石がなく、きわめて古い構造の後期古墳(六世紀初頭)として注目される。
石棺には五体の人体が埋葬されていた。副葬品は方格規矩鏡、珠文鏡などの〓《ほう》製鏡(中国の鏡にまねて日本でつくった鏡)、貝輪・鉄鏃などのほか、有名な熊本県玉名郡江田〈船山〉古墳からでた三環鏡や金銅製の装飾具などが発見されたことは注目すべきだ。
関行丸古墳から東南約三〇〇メートルほどのところに、昭和三八年、みかん園造成のためブルドーザで開墾中、舟形石棺が出土した熊本山古墳がある。熊本山(三五メートル)には北峯と南峯があり、いずれからも箱式石棺がでた。問題の舟形石棺は南峯の箱式石棺の下からでたという。
石棺は全長四・三メートル、幅八八センチの巨大なもので、内部は三室にわけられている。中央室には枕石に頭をおいた二体の成人骨がさしあわせによこたえられていた。副葬品はほとんど北室におさめられ、鉄剣・鉄針・紡錘車《ぼうすいしや》・勾玉《まがたま》のほか「日」「子」の銘文がある四神獣の白銅鏡などきわめて豊富だった。いまこの巨大な舟形石棺は、佐賀県立博物館に展示されている。
熊本山北方約二〇〇メートルの帯隈山一帯は、武雄市のおつぼ山とならんで神籠石(国史跡)で有名だ。昭和一六年、溜池築造中に発見され、昭和三九年大規模調査が行なわれた。ここの神籠石は帯隈山(一一七メートル)の北側、四合目あたりから南下、いちめんみかん山になった清兵衛山・鳥越《とりこえ》山・天童山《てんどうやま》などの南斜面をとおり、ほぼ馬蹄形に築かれている。延長約二・四キロに及ぶ。
花崗岩でつくられた列石の前面には三メートル間隔の柱穴がでてきたし、列石と柱穴のあいだには柱根をささえる添石《そえいし》がうめてあった。列石のうしろには幅一〇メートルの土塁も発見された。帯隈山最高峰から北にややくだったところは列石がきれており、門のあとが発見され、神籠池にめんした西斜面の列石の切れ目には小水門跡が発見された。ほかの水門は水田や溜池の堤防下になっている。神籠石は古墳後期の朝鮮式山城の一種といわれている。
白鬚神社の田楽
いまみたはじめのほうに「関行丸古墳(県史跡)」というのが出ているが、この「関行丸」というのは、これも帯隈山山城跡と同じ久保泉町川久保にある白鬚神社と関係ある名称のようである。白鬚神社とは、新羅神社または新羅明神ということであるが、『佐賀市の文化財』をみると、「佐賀県重要文化財」としての「白鬚神社の田楽《でんがく》」としてそれのことがこうある。
白鬚《しらひげ》神社は、継体《けいたい》天皇の頃近江の国白鬚大明神の分霊を勧請した古社と伝えられ、祭神は豊受比売命、猿田彦命、武内宿禰の三柱である。
勧請に奉仕した十九の家があって、いずれも姓に丸字(石丸・関行丸など)をつけているので、丸持ちの家といわれ、この神社の主な祭典を行なうので、これを丸祭りと呼び私祭の古式が伝承されている。
毎年十月十九日に行なわれる祭典に、川久保部落の人達によって奉納される舞楽が即ち田楽である。
この白鬚神社における田楽の記録は、享保十九年(一七三四年)建設の石鳥居に「時奏村田楽」とあるのが最初である、とされているが、その起源は平安朝時代、もと田植のおり鼓を打って田植え歌の伴奏をしたものが、後には笛、鼓などをも加え、所作をなすようになり、次第に形を整えて神社仏閣などに奉奏する習慣となったものである。従って地方によって、多少形式の相違も生じている。
田植のおりそういう楽を奏するのは、いまでも朝鮮でおこなわれているが、日本では「次第に形を整えて神社仏閣などに奉奏する習慣となったもの」だというのがおもしろい。さきの「関行丸古墳」は斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」にも出ているものだが、ここにいう十九の「丸持ちの家」の関行丸家ゆかりの墳墓だったかも知れない。
それはどちらにせよ、帯隈山山城跡とともにみたそれらの古墳や白鬚神社などにしても、私は直接そこまで行ってみたかったが、しかし、きょうこれからの予定を考えるととてもできそうになかったので、久保泉では、金立サービスエリアの裏手となっている丸山遺跡だけみることにして、さきを急ぐことにした。
久保泉丸山遺跡から東脊振村へ
久保泉丸山遺跡は、もとは現在地から約五〇〇メートル東にあったものを、九州横断自動車道建設のために移設・復原したものだった。そこの台地まで登ってみると、古墳などは「樹脂コンクリート板で固定して切り取ったりして」したというその移設・復原ぶりは、写真でみた原形のそれとまったく同じで、実にみごとなものというよりほかなかった。そこは佐賀平野を一望のもとにする景勝地でもあって、あちこちに支石墓群や古墳群がちらばったようになっているさまは、まさに古代そのままといったものだった。
古代といっても、支石墓などは紀元前の稲作農耕とともに朝鮮半島から渡来した墓制であったが、『久保泉丸山遺跡』にある「遺跡の概要」をみると、こうなっている。
久保泉丸山遺跡は、縄文時代晩期〜弥生時代前期(紀元前三〜五世紀)の墓と、五〜六世紀の古墳群からなっています。
縄文時代晩期〜弥生時代前期の墓は、支石墓・甕棺墓・石棺墓などで約一三〇基あります。このうち支石墓が最も多く、一〇〇基以上検出されています。支石墓に供えられた縄文時代晩期の土器には、籾《もみ》の圧痕《あつこん》がついているものがあり、すでにこの時期に米作りが行なわれていることがわかりました。
古墳は一一基あります。注目されるのは、死者を葬る内部施設が、竪穴《たてあな》式石室・横穴式石室・竪穴系横口式石室・舟形石棺などとバラエティに富んでいることです。
このように、久保泉丸山遺跡は、支石墓や稲作の起源の研究のうえで、また、古墳時代の多様な埋葬施設と副葬品をもつことなど、学術的に価値の高い遺跡です。
支石墓だけでも「一〇〇基以上」あったとはおどろくべき遺跡であるが、その久保泉丸山遺跡をみたあとの私たちのクルマは、背振山地南麓の九州横断自動車道を東へ、鳥栖・小郡のほうへ向かって走った。佐賀平野を前方に見わたす青緑の背振山地はいたるところ谷あり、台地ありで、いかにも古代人が好んで住みつきそうなところと思われた。
古代朝鮮式山城跡のある帯隈山をすぎると、間もなく脊振村、東脊振村となったが、その東脊振村からも佐賀県下最大規模という弥生時代前期末の遺跡が発見されていた。住居跡二十六面、甕棺墓四十六基、土壙墓二基、木棺墓一基、支石墓一基という西石動《にしいしなり》遺跡がそれである。
また、東脊振村の三津永田遺跡からは、さきの「金隈遺跡から長崎へ」の項でみたのと同じ、朝鮮からの渡来ということがわかる背の高い弥生時代人の人骨も発見されているし、その甕棺からは最古の絹布や、鉄製の素環頭大刀なども見つかっている。
姫小曽神社・媛社神社
東脊振村をすぎると、そこもきょうたずねることにしていた三養基郡の上峰村となり、中原町となったが、そこへは唐津へ向かう戻りにということにして、私たちはまっすぐ鳥栖市から、福岡県となっている小郡市めざして走った。なぜ鳥栖市、小郡市までだったかというと、鳥栖では姫方の姫小曽《ひめこそ》神社を、小郡では大崎の媛社《ひめこそ》神社をたずねてみたかったからである。
姫小曽・媛社の「小曽《こそ》・社《こそ》」とはどちらも古代朝鮮語「居世《コセ》」という尊称(様)からきたものであるが、その神社は同時に新羅・加耶系渡来人集団=天日槍集団の天日槍と関係があるとともに、背振山地を開発した渡来人とも関係があったからである。背振山地のそれについては、『佐賀県史』(上巻)の「背振山地と多良岳火山」にこう書かれている。
背振山地は準平原が広く残り、山としては平地が多く、山間の交通も比較的容易であって居住に適する。それで人類が早くから住みついたようで、三瀬村の各地から縄文式土器が発見される。
脊振という地名は、その北麓の早良《さわら》郡の名とともに、韓語のソウルと関係があろう。
ソウルは大きな集落、したがってまた都を意味することもある。早良の西の糸島郡は『魏志倭人伝』の伊都国の地であるが、『筑前国風土記』逸文によれば、その県主《あがたぬし》は天日槍の子孫と称したという。日槍は新羅から帰化〈渡来〉したと伝えられる人で、その子孫が各地にひろがった。背振山中に白木〈新羅〉という集落がある。北九州海岸に移住した大陸移民が早く背振山中にも定着繁栄したことがあったろう。……
『肥前国風土記』によれば、東から基山《きやま》、姫方、神埼、川上の各地に荒ぶる神がいて往来の者をなやますので祭〈神社〉を営んでこれをなだめたといい、姫方社、櫛田《くしだ》社、淀姫《よどひめ》神社など肥前の古社の起源がおもわれる。……
三瀬の久保山に鎮座する脊振神社は、貞観十二年(八七〇)に位階を授けられているので、この頃になると、山内の開発が一層進んだことであろう。
ここにみられる『肥前国風土記』のそれは同『風土記』「姫社《ひめこそ》郷」にかかわることで、ここにいう「姫社の社」とは、私たちがたずねて行った背振山地東南麓となっている鳥栖市姫方の姫小曽神社、小郡市大崎の媛社神社がそれであった。どちらも天日槍集団の守護神であった比売神を祭るものだったが、私たちはまず鳥栖市の姫小曽神社をさがしたけれども、どういうわけかそれがなかなか見つからず、気がついてみると、となりの小郡市大崎の媛社神社の前に来ていた。
石鳥居が二つ重なるようにならんだ、どちらかというと小さな神社だったが、その由緒は物部《もののべ》氏族ともからんで深いものがある。谷川健一編『日本の神々〓神社と聖地〓』「九州編」をみると、その媛社神社のことがこうある。
創建年代は不明で、一般に「たなばたさま」と呼ばれている。祭神は媛社《ひめこそ》神、織女神。この媛社(比売許曽《ひめこそ》)神は、『日本書紀』垂仁天皇二年条の一書、『古事記』応神天皇段などに伝えられる朝鮮渡来の女神である。
そして『日本書紀』や『古事記』にいう天日槍(天之日矛《あめのひぼこ》)やその比売神の渡来伝承が紹介され、つづけてこう書かれている。
以上のような比売許曽神社伝承地は、記紀にみえる豊前国姫島の比売語曽神社や難波の姫島神社(大阪市西淀川区)、比売許曽神社(大阪市東成区)、赤留《あかる》比売神社(大阪市東住吉区)などが著名であり、その伝承が新羅〓筑紫〓摂津というように、西から東に移動している。……
ところで、この小郡の媛社神社には、嘉永七年(一八五四)奉納の石鳥居の扁額に「磐船《いわふね》神社」「棚機《たなはた》神社」の名が刻んである。磐船は、ニギハヤヒが天降りするとき乗った天磐船を思わせるし、……また、この媛社神社の西一キロの小郡市福童《ふくどう》には天照国彦天火明命(ニギハヤヒの別名)を祀る福童神社がある。このことからみても、当社における媛社神と物部氏とのつながりがうかがわれる。……
この神社のある小郡市大崎は、宝満川流域の微高地であるが、西側の秋光川の対岸(鳥栖市)にも「姫方」の地があり、織姫の伝承をもった姫小曽神社がある。背振山地の東南にあたるこの山麓地帯は、北側の春日市、筑紫野市をふくめた弥生時代の青銅器生産地(鋳型出土地)であり、媛社神社から約四キロに、近年、銅鐸の鋳型が出土した安永田遺跡がある。ヒメコソ神を祀る神社は、こうした弥生時代に朝鮮から渡来してきた青銅器の生産者集団や、これと深いつながりのあった物部系冶金集団によって祀られたものではなかろうか。例祭は十二月十六日。
古代日本最大の農耕・産鉄氏族であった秦氏が天日槍集団からの出であることは豊前(福岡県・大分県)でもみてきた(『日本の中の朝鮮文化』10「秦氏族と豊国=韓国」の項ほか)が、こうしてみると、これも大豪族であった物部氏族もまた天日槍集団からの出であったことがわかる。そのことについては、谷川健一氏も物部氏のことを追究した『白鳥の伝説』のなかでこう書いている。
天之日矛〈天日槍〉はもとより新羅の王子に仮託した伝説の人物にすぎない。しかし天之日矛の背後には渡来する金属工人たちの足音を聞くことができる。物部氏もまた詮じ詰めれば、いつの時代か、朝鮮半島から海を渡ってきた金属精錬の技術者と関係のふかい集団だったに相違ないのである。
中原にみる忍海漢人
青銅のやりがんな
私たちは小郡市にある媛社神社をみたが、その小郡も同神社ばかりでなく、古代朝鮮からの渡来人がのこした遺跡の多いところであった。さきに筑後(福岡県)をまわったときにも(『日本の中の朝鮮文化』10「筑後の高良山城跡へ」の項)「朝鮮製土器が出土/小郡鍋倉遺跡/稲作と共に内陸部へ/近くに大規模カメ棺群も」という見出しの一九八四年九月四日付け西日本新聞をみているが、このような発見はその後もなおつづいている。
一九八七年十月二十九日の朝日新聞をみると「青銅のやりがんな片出土/福岡・小郡市の遺跡/二二〇〇年前、大陸から渡来?/わが国では二つ目/朝鮮半島との交流示す」とした見出しのこういう記事が出ている。日本では二つ目の、しかも最古という珍しいものなので、ちょっと長いけれども全文をみておくことにしたい。
福岡県小郡市の埋蔵文化財調査センターが発掘調査を進めている同市三沢北松尾口遺跡で、約二千二百年前に大陸から入ってきたとみられる青銅製のやりがんなの部分片が出土した。木を削る実用工具の一種で、熊本市の神水《くわみず》遺跡に次いで二つ目の出土だが、神水遺跡のものより古く、わが国最古のやりがんなと同センターはいっている。
三沢北松尾口遺跡は、背振山系から東に広がる三国丘陵の中央部に位置し、一帯からは、朝鮮半島の無文土器が多数見つかるなど、当時、朝鮮半島との交流が盛んだったことが偲ばれる地域。青銅製やりがんなの部分片は、四十メートルほどの小高い丘の山頂付近の竪穴住居跡から、弥生時代中期の須玖式土器などと一緒に見つかった。
やりがんなの部分片は、長さ三・六センチ、幅二・一センチ、厚さ四ミリの大きさで、長さ十センチから二十センチほどあったと考えられるやりがんなの中央付近の部分。前後とも刃を何度もとぎ直して使った跡があり、細かい木材加工をする際に使ったらしい。
一緒に見つかった土器などの出土場所の状態から、やりがんなは廃棄処分されたものらしく、わが国に入ってきたのは、二千百年―二千二百年前の弥生時代前期から中期の初めと同センターはみている。
青銅やりがんなは大陸で作られ、朝鮮半島を経由してわが国に入ってきた。青銅製やりがんなの出土はこれまで、中国で七例、朝鮮半島で九例報告があるが、今回のようにとぎ直した跡があるのは朝鮮半島に一例あるだけ。日本ではその後、木材の表面をきれいに仕上げる工具として独自の発展をとげ、現在でも彫刻刀の「生反《なまぞり》」として、類似の工具が現存する。
小郡市教委は「三沢北松尾口遺跡では現在まで八十基の住居跡が見つかっており、百軒を超す大集落のあった場所。米作りとともに狩猟もしていた跡があり、大陸の貴重品と交換できるだけの物がある豊かで先進的な集落だったらしい。今回の発見は当時の朝鮮半島との関連を考える上で欠かせぬ資料となる」といっている。
西谷正・九州大教授(考古学)の話 国内の出土例では最古。当時は農業の始まる時期で、村が増え、村同士の争いも多くなったため、青銅器製の武器はたくさん入ってきたが、実用工具はほとんど見つかっていなかった。大陸の青銅器文化全体が、いちどきに日本に入ってきた可能性を示す貴重な発見といえる。
たいへんおもしろい重要な記事であるが、ただこのことは、こういう新聞記事と限らないけれども、「朝鮮半島を経由してわが国に入ってきた」と書かれると、そのやりがんなだけがひとりのこのこと海を渡ってきたかのように受けとられやすい。
「大陸の貴重品と交換できるだけの物がある」うんぬんにしてもそうで、これもやはり「交換」などといったものではなく、朝鮮からの人々が、稲作などの農耕技術とともに渡来するとき携行してきたものにほかならないのである。
それからまたさらにいうならば「当時は農業の始まる時期で、村が増え、村同士の争いも多くなったため、青銅器製の武器はたくさん入ってきた」とあるけれども、これは弥生人とは異種族であった先住の縄文人との「争い」のためではなかったかと私は思う。このことについては、のちにかなり詳しくみるはずである。
基肄城と大野城
小郡市の媛社神社をたずねた私たちはまたもうひとつ、太田装飾古墳などもある鳥栖市の姫小曽神社もたずねるつもりだったが、それはカットすることにした。そして佐賀市金立《きんりゆう》から来た道を戻るようにして、中原《なかばる》町のほうへ向かうことにした。
ほんとうは、小郡市や鳥栖市の北側となっている基山《きやま》町城戸《きど》にある基肄《きい》城跡もたずねなくてはいけないところだったが、これも前記『佐賀県の歴史散歩』にあるそれをみるだけということにした。
〈丸林《まるばやし》下〉バス停から北へ一〇分ほどで基肄城跡(特別史跡)の水門につく。ここから三〇分ほどのぼると基山《きざん》の山頂。最近自動車道路が完成した。基肄城は天智天皇が築かれた基山の城《き》で、基山町の北部にそびえる朝鮮式山城《さんじよう》だ。『日本書紀』天智天皇四(六六五)年八月の条に「筑紫国大野城及び椽の二城を築く」とある。椽の城つまり基山は『和名抄』の肥前国基肄郡の基山で、坊住《ぼうじゆ》山とも坊中《ぼうちゆう》山ともいわれ、山の東側のすそ野にあたる大宰府から、肥前国や筑後国につうじる延喜式の駅路があった。
六六三(天智天皇二)年日本軍は唐・新羅連合軍と百済《くだら》の白村江《はくすきのえ》(錦江)にたたかって大敗した。この敗戦で百済がほろびると、大宰府を中心に水城《みずき》と大野《おおの》城(四一〇メートル)・基肄城の両城を、六六五(天智天皇四)年、百済の亡命大官憶礼福留《おくらいふくる》と四比福夫《しひふくぶ》の指導で築き、防備を厳重にし、防人《さきもり》や烽《とぶひ》をおいた。大宰府防衛のため築城された日本最初の国防施設だ。
基肄城の面積は七〇余ヘクタール。土塁線はえんえんと稜線をたどり谷をこえてつづいている。基肄城からのながめはすばらしい。博多湾・高良《こうら》山・筑後川・有明海・大宰府が一望でき、大野城とはたがいの視野のうちだ。基肄城から朝日《あさひ》山などを眺望できることは、これらの山城が烽の機能をもはたしたことをものがたっている。
基肄城には北帝《きたみかど》の小字名が残るが、城門は八門ほどあったらしい。北西の城戸には基肄城の瓦を焼いた窯跡も存在していたが、いまは破壊されてしまった。
中原町の古墳
私たちは間もなく中原町にはいったが、この中原町や次にみる上峰村のことでは、埼玉県朝霞市に住む森川弘文氏に資料のうえで世話になった。森川氏とはまだ面識もないにかかわらず、「佐賀のほうへ行ったときは」ということで『風土記』や『中原町史』『上峰村史』などのうち、私が必要とする部分をコピーして送ってくれたものだった。
そういうことがなかったとしたら、私はおそらく、中原町や上峰村はちょっと覗いただけでとおりすぎてしまったかも知れなかったが、まず、その『中原町史』をみると、この地もまた古墳の多いところで、「主要な古墳」だけでも雄塚(姫方遺跡)、雌塚古墳、姫方前方後円墳など十数基が列記されている。
鳥栖市の姫方ばかりでなく、こちらにもまた「姫方」というところがあったわけであるが、そのうちの「香田遺跡(古墳を含む)」というのを紹介すると、こういうふうになっている。
香田遺跡は、縄文時代早期から弥生時代・古墳時代、さらには中世にいたるまでの各種遺構を有するもので、石谷山から派生する標高六〇から七〇メートルの南山麓に位置する。この地域は寒水川に面した舌状台地が発達しており、当時の生産手段である水田地帯の後背地としての立地条件を有する。
古墳時代に属する遺構は、石棺墓一基・土壙墓一基・古墳五基・古墳時代の住居三が確認され、上部が削平されて中には一部消滅している遺構もある。
そして古墳はどちらも横穴石室をもつもので、玄室や羨道部からは「勾玉・管玉・ガラス小玉・耳環・須恵器・鉄鏃」などが出土している。同町史(コピー)に出ている須恵器の平瓶・坏・蓋・《はそう》などの写真をみると、これは近年そういわれるようになった「韓式土器」というものではないかと思われたが、それはどちらにせよ、耳環が十四個も出土しているなど、そうとうな豪族の墳墓だったにちがいない。
綾部と忍海漢人
中原町にはいった私たちは、もと漢部《あやべ》だった綾部《あやべ》へ向かっていた。そこに綾部八幡宮があったからであるが、それよりまえ、そこは鳥栖市となっていたけれども、中原町近くに川が流れていて、そこの橋をわたりながら川辺に立っている標示をみると「安良川」とあった。
その標示をみて私は「はあ、なるほど」と思ったものだった。というのは、もとはそこが漢部郷だったことと関係があると思われたからである。その漢部郷については、『肥前国風土記』(吉野裕・訳)にこうある。
漢部《あやべ》の郷 郡役所の北にある。
昔、来目皇子は新羅を征伐しようとして忍海《おしぬみ》の漢人《あやひと》に勅して、軍衆としてつれて来て、この村に住まわせ兵器を作らせた。それで漢部の郷という。
「来目皇子は新羅を征伐しようとして」かどうかそれはわからないが、この漢部郷に百済・安耶《あや》系渡来人集団から出た「忍海の漢人」が居住していたことは事実であった。それは「綾部」「安良」などの地名がのこっていることからもわかる。
綾部はいいとして、安良がなぜそうかというと、古代南部朝鮮にあった加耶諸国のうちの一国だった安耶《あや》(安羅・安那ともいう)はまた安良《あら》とも書かれたからであるが、だいたい、漢氏・漢人族が本格的に展開したところは、大和(奈良県)の高市郡であった。このことはほかにも書いてあるが、『続日本紀』宝亀三年(七七二)条に「他姓の者は十にして一、二なり」とあるように、高市郡は百済・安耶系渡来人集団である漢氏とその係累とが総人口の八、九割を占めていた。
その漢氏族の中心根拠地は、有名な高松塚壁画古墳が発見された飛鳥の檜隈《ひのくま》であった。ここにはいまも阿智使主《あちのおみ》をかれらの氏神として祭った於美阿志《おみあし》神社があり、同境内には氏寺だった檜隈寺跡があるが、かれらはどちらかというと、新羅・加耶系渡来人集団である秦氏族などよりはあとから来た「今来《いまき》」、すなわち新来の渡来人集団であった。
そしてその檜隈寺跡はまた、『肥前国風土記』に「昔、檜隈の廬入野《いほりぬ》の宮に天の下を治められた」とある宣化天皇の宮跡でもあったが、かれら漢氏・漢人族からはのちたくさんの氏族が分かれ出ている。なかでも著名なのは、平安時代に征夷大将軍となった坂上田村麻呂などが出た坂上氏で、その『坂上系図』をみると、冒頭のほうにこうある。
時に阿智王、奏して今来郡を建つ。後に改めて高市郡と号す。しかるに人衆巨多にして居地隘狭なり。更に諸国に分置す。摂津・参河・近江・播磨・阿波等の漢人村主《すぐり》これなり。
つまり高市郡はもと、今来の渡来人であったかれら漢人族がつくった「今来郡」だったもので、それがのち高市郡となった、ということがこれでわかるが、そのころになると「人衆巨多にして居地隘狭なり」ということで、同族の漢人たちを「更に諸国に分置」したというのである。
「更に」というからには、それ以前にも「分置」があったわけで、丹波(京都府)綾部市の綾部というのも、それら漢人の分かれによって生じたものだったが、大和の北葛城郡に栄えた忍海鍛冶部《おしぬみのかぬちべ》ともいう、忍海漢人《おしぬみのあやひと》もまたそれからの分かれであった。この忍海漢人は、その居住地にたくさんの古墳をのこしている。
忍海漢人がのこした古墳
一九八六年五月二十三日の奈良新聞は、「新庄の平岡西方古墳群/県下第四位の群集墳/一七〇基以上も/朝鮮系馬具など出土/忍海鍛冶部/鉄工集団を裏付け」という見出しのもとに、その発掘調査のことをこう報じている。
北葛城郡新庄町寺口の平岡西方で古墳群の発掘調査をしている同町教委と県立橿原考古学研究所は二十二日、同古墳群は新沢千塚、龍王山、巨勢《こせ》山の各古墳群に次ぐ県下第四位の規模を有する古墳集団である、と発表した。出土例の数少ない古代朝鮮の影響を受けた鉄製馬具や鉄斧なども出土し、被葬者と見られる技能集団・忍海鍛冶部《おしぬみのかぬちべ》が鉄工集団としてさまざまな用具を生産していたことを裏付けた。
同調査は新庄町が六十四年完成を目指して十二・一ヘクタールの墓地や大葬場のある「山麓公園」を建設するため実施された。平岡西方古墳群の中心地にあたる葛城山麓で、墓地として造成が予定されている一万五千平方メートルについて発掘調査したところ、五世紀後半から六世紀までに築造された横穴石室の円墳が計四十六基確認された。
水田開墾のため天井石などは破壊されているが、遺物の保存状態は良好。五世紀末の築造とみられるH一二号墳からは大刀や鍛冶具、金環などとともに、技法が古代朝鮮の伽〓《かや》〈加耶に同じ〉に求められる珍しい鏡板付きクツワが出土した。鏡板は八センチ×十三センチの大きさで、これに取りついた引き手(十五センチ)は二本の鉄棒をよじって作っている。
またH六号墳からは、伽〓で製作されてわが国に持ち込まれた鋳造鉄斧が出土した。このほか、H三号墳からは鉄製の紡錘が出てきた。直径四センチの紡錘に十七センチの鉄製軸がついている。石製の紡錘の出土はしばしばあるが鉄製はきわめて珍しく、鉄工を得意とした忍海氏らしく、スキ先、鎌《かま》などの鉄製品も数多く出土した。
これまでの調査では同古墳群には少なくとも計百七十基の古墳があるものと推定されており、これは天理市の龍王山、御所市の巨勢山、橿原市の新沢千塚に次ぐ規模。墓地化される地域には四十六基の古墳が確認されており、このうち六基については既に保存が決まっているものの、残る四十基の保存問題が注目される。
なおまたつづけて、五月二十八日の同奈良新聞には「新庄・平岡西方古墳群/ネックレス、コシキ出土/やはり渡来人の墓」とした見出しの記事も出ている。「忍海鍛冶部」というとまず連想されるのは「鍛冶職人」といったものであろうが、しかしなかには「金環」やそういう「ネックレス」を身につけていたものもいたのである。
それにまた、古代朝鮮の加耶からのものという「鏡板付きクツワ」などの馬具はいったいなにを物語るものであるか、ということも考えてみれば興味のあることである。
最大の支石墓と甕棺群
綾部八幡宮
私たちがたずねていた中原町の綾部は、「昔、来目皇子は新羅を征伐しようとして忍海《おしぬみ》の漢人《あやひと》に勅して、軍衆としてつれて来て、この村に住まわせ兵器をつくらせた」ところというが、『肥前国風土記』のこの記述はのちに造作されたものではないかと私は思う。事実はむしろ逆で、忍海漢人を含む百済・安耶系渡来人集団である漢氏、漢人の最初の渡来地はこちら北部九州ではなかったか、と思うからである。
そして、さきに渡来していた秦氏族や物部氏族がそうであったように、かれらも北部九州のこの地で力を蓄え、あるいは整えて、大和のほうへ向かったものではなかったか、と思うのであるが、しかしそれはどちらでもよいであろう。重要なことは、この地に加耶諸国のうちの一国であった安耶《あや》人、すなわち漢《あや》人が居住していたということである。
前記『佐賀県の歴史散歩』をみると、中原町綾部には綾部川もあり、漢人の氏神であった綾部神社もあるが、私たちの目指した綾部八幡宮はすぐにわかった。「あやべざんぼた餅」というのを売っている店などがある門前通りの突きあたりに石段があって、そこが流造の本殿と、千四百八十九坪の境内をもつ綾部八幡宮となっていたが、その石段の右手には猿田彦神の祠《ほこら》があった。
猿田彦神は新羅神社や白鬚神社に多くみられる祭神であるが、それは綾部八幡宮のもとである宇佐八幡宮が新羅・加耶系の秦氏族が祭ったものだったからであったかも知れなかった。そのことは、中原町の綾部が、宇佐八幡宮の神宮寺であった弥勒寺の荘園・綾部荘だったことからもわかるように思う。
綾部八幡宮は、源頼朝の奥州征討に戦功があった綾部四郎大夫通俊が鎌倉八幡宮を勧請したものということになっているが、「しかし、果たしてそうであろうか」として、『中原町史』にもそれがこうある。
前に述べた通り、綾部荘が宇佐八幡宮弥勒寺領荘園として立券設定されたのは長久三年(一〇四二)のことである。当時、八幡弥勒寺領荘園が設定されると、やがてそこに宇佐八幡宮が勧請されるのが一般であったから、綾部荘の場合もその例外ではなかったであろうと考えられる。
年代的にはともかく、鎌倉八幡宮もまた宇佐八幡宮を勧請したものであったから、どちらも同じようなものだったが、綾部四郎大夫通俊の代の戦功によって、鎌倉幕府からここの地頭職を与えられた綾部氏としては、それを鎌倉八幡宮から、としたほうが都合がよかったにちがいない。神宮・神社もまた、そのときどきの政治によって動かされたという例のひとつである。
船石遺跡と船石南遺跡
ついで私たちは中原町西南の上峰村にはいったが、『上峰村史』をみるとここも古墳の多いところで、挂甲《けいこう》・尖根《とがりね》式鉄鏃・馬具ほかを出土した目達原《めたばる》古墳群などがあり、また、廃寺跡としては百済系の単弁軒丸瓦ほかを出土した塔の塚廃寺跡などもあった。が、それよりなにより、この上峰村で圧巻だったのは、日本最大という船石遺跡の支石墓と、船石南遺跡のこれも日本一という甕棺墓群であった。
私たちはまず船石遺跡をたずねて、小丘陵の天神宮の裏にでんとすわっている支石墓をみたが、なるほど巨大なものだった。この支石墓が船に似た形をしているところから「船石」とよばれ、それが地名ともなったものらしかったが、上峰村教育委員会刊の『船石遺跡』によると、その二号支石墓の「船石」は長さ五・四一メートル、幅三・一二メートル、厚さ一・一二メートルの巨石であった。
『船石遺跡』にも一号から一九号までの甕棺墓のことがしるされていて、近くではまだその甕棺墓を発掘している光景もみられたが、しかし甕棺墓ということになると、船石南遺跡のそれが、圧倒的だった。それについては、一九八六年二月二十五日の佐賀新聞が、「カメ棺五〇〇基が出土/上峰村・船石南遺跡/日本最大級の規模/弥生前―中期/小国家解明の好資料」という見出しのもとにこう報じている。
三養基郡上峰村教委が発掘調査した同村堤の船石南遺跡で二十四日までに、約一千三百平方メートルの畑から弥生前期末―中期後半のカメ棺約五百基が一挙に見つかった。カメ棺はびっしり重複した形で見つかった個所もあり、密集度と数の規模から全国最大級のカメ棺遺跡とわかった。未発掘分(六百平方メートル)を含めると七百―八百基になると推定され、わずか二千平方メートルの広さにこれほど埋葬された遺跡は他に例がなく、日本考古学史上、極めて貴重なもの。
同遺跡周辺には多数のカメ棺をはじめ、住居跡、装身具、銅鏡などが見つかっている二塚山、船石両遺跡などがあり、弥生期の小国家が存在していた地域とみられ、県教委は全国屈指のカメ棺墓遺跡の発見で、小国家を形成するひとつの裏付けになる資料としても高く評価している。
記事ははじめのイントロ部であるが、そこにもし「弥生期の小国家」、すなわち『魏志』「倭人」伝にみられる小国家が存在したとすれば、その首長は、それの竪穴からも「甕棺片を出土した」(『船石遺跡』)さきにみた船石支石墓の被葬者であったにちがいない。
このように甕棺墓が付属していることの多い支石墓については、われわれはさきにもみているが、ここで日本では九州にしかみられないそれら支石墓について、ちょっとおさらいをしておくことにしたい。『日本古代史と遺跡の謎・総解説』にある西谷正氏執筆の「支石墓は誰がつくったか」をみると、それのことがこうある。
九州の支石墓は、朝鮮でしばしばみられるような大形のものがきわめて少なかったり、また、その埋葬施設において、とくに甕棺や小形石棺など朝鮮のものとは異なってはいるが、その被葬者は渡来人もしくはその系譜を引く人びとと考えるのが自然であろう。九州の支石墓は、初期においては、九州北岸地域の佐賀県唐津平野や福岡県糸島平野のほか、西北九州の長崎県を中心に分布する。
その後、弥生時代前期末から中期初頭のころになると、中部九州の熊本県や、さらに遠く九州南部の鹿児島県まで分布が拡大される。支石墓は、稲作技術といっしょに伝来したものであってみれば、支石墓の分布の拡大の背景には、新しい種々の文化現象をもたらした朝鮮半島からの渡来人ないしは渡来系集団とのかかわりを考えるべきであろう。
初出土の蛇行状鉄矛
そこで、その支石墓のある船石遺跡に戻るが、こんどは弥生期の次の古墳時代のそれで、一九八三年五月三十一日の佐賀新聞には、「蛇行状鉄矛/全国初の出土/古代儀器の一種か/日朝交流に貴重な資料/上峰村の船石遺跡」とした見出しのこういう記事が出ていた。
三養基郡上峰村堤の「船石遺跡」の古墳から昨年出土した鉄矛が県文化課の遺物整理の結果、身がS字形に曲がった蛇行状鉄矛であると分かった。鉄矛はわが国では古墳時代中期以降に用いられたとされ、静岡、大阪、熊本などの古墳からの出土例が報告されているが、蛇曲したものはこれが初めて。同遺跡の別の古墳から発掘された七曲がりの鉄剣と同じく儀器の一種とみられる。同類のものは朝鮮半島で発見されており、古代の日朝交流を探る上から貴重な資料となりそう。
この鉄矛は昨年十二月、県文化課と上峰村教委が行った発掘調査で、五世紀後半とみられる横穴石室(長さ二・六メートル、幅一・六メートル、高さ一・六メートル)を持つ古墳から出土した。鉄矛は長さ二十七・五センチ(うち茎部分十センチ)、最大幅三センチ。身と茎部の境に短い枝を突出させている。調査修了後、県文化課で出土遺物整理作業中、鉄矛の土のサビを慎重に取り除いたところ、刃の部分が緩やかにS字形に蛇曲しているのが分かった。
鉄矛は身の基部を筒状(袋)に作り、長い柄を挿入して使用する武器。日本ではヤリよりも遅く古墳時代中期以降に用いられたとされる。静岡県・松林山古墳、熊本県・船山古墳などで発掘が報告され、多様な形式があるが、船石出土の鉄矛のように蛇曲したものは初めてという。
船石ではこれとは別の古墳から刀身が七回曲がった全国で二例目の鉄剣(長さ約七十センチ)が出土しており、ともに実用よりは霊力を持った儀器として用いられたと推定されている。同遺跡には古墳三基とわが国最大の支石墓と目される遺構があり、同課では「遺構、遺物とも佐賀平野では極めて異質であり、朝鮮半島との関係が非常に濃い」とみている。近く、古代の日朝間の文化交流に詳しい専門家にみてもらい、朝鮮半島の出土品との比較などを調べてもらうことにしている。
▽同類矛、半島で出土
森貞次郎・九州産業大教授(考古学)の話 S字状の蛇行鉄矛の出土は全国で初めてと思う。蛇曲の意味や由来は簡単にはいえないが、おそらくマジカル(呪術的)な意味合いが強いと思われる。同類のものは朝鮮半島で発掘されているが、直接佐賀への渡来よりも、大和朝廷を経由して地方の有力部族の手に渡ったと考える方が妥当ではなかろうか。
日本では「初の出土」という珍しいものだったので全文を引いたが、おわりにつけられた「直接佐賀への渡来よりも、大和朝廷を経由して」うんぬんという森貞次郎氏の「話」はちょっとおかしいのではないかと思う。大和朝廷への服属のしるしとしてこの「地方の有力部族の手に渡った」というわけなのであろうが、そうとは簡単にいえないのではないかと私は思う。
もしそうだとすれば、この蛇行状鉄矛はまず大和で発見されていなくてはならないが、そういうことはまだないばかりか、それに、この蛇行状鉄矛が出土したのは、「五世紀後半とみられる横穴石室」だったということである。というのは、その五世紀後半にはまだ、九州まで掌握するにいたった大和朝廷は成立していなかったのである。
井上光貞・直木孝次郎氏らの『国家形成の謎』をみても日本の古代国家、すなわち大和朝廷が成立するのは六世紀になってからで、その大和朝廷が九州を掌握するにいたるのは六世紀半ば、いわゆる「磐井の乱」以後のことなのである。
これまでみてきたように、北部九州における縄文晩期から弥生時代、古墳時代にかけての支石墓や甕棺墓、横穴古墳などはみな古代朝鮮から渡来したものばかりとなっている。ついでにまたみると、一九八六年九月十三日の佐賀新聞には三田川町・神埼町のそれとして、「カメ棺など四〇〇基以上出土/神埼工業団地予定地/弥生―平安の遺構/“文化財の宝庫”裏付け」とした見出しの記事が出ている。
いまみた三田川町・神埼町は上峰村の西隣となっているところであるが、そこから西南は千代田町、諸富町となっている。どちらも背振山地の南側を北にひかえた佐賀平野東方の町や村で、千代田町、諸富町などは九州第一の河川である筑後川が有明海に流れ込む、その河口に近い流域となっている。
稲作農耕をはじめとする古代朝鮮からの諸文化は、背振山地の北側となっている玄界灘の博多湾からばかりではなく、こちらの有明海からもまた、たくさんはいっているのである。
「有明海ルート」からの物証
有明海ルートを裏付ける黒色長頸壺
有明海沿岸の筑後川下流域としてはまず、さきにみた上峰村などの西南となっている千代田町である。これは私が肥前(佐賀県)の取材から帰ったのちのことであるが、一九八八年三月十二日の西日本新聞をみると、「古代の朝鮮文化/有明海からも伝来/上黒井貝塚のつぼが裏付け/佐賀」という見出しの、こういう記事が出ている。いろいろな意味でたいへん重要なので、全文を紹介することにしたい。
佐賀県神埼郡千代田町の上黒井貝塚から出土した二千年前の「朝鮮系黒色長頸つぼ」について調査中の同町教委は十一日、このつぼがこれまで朝鮮伝来の定説となっていた「玄界灘ルート」ではなく、有明海を通って佐賀平野に至る「有明海ルート」で渡来した可能性が強いとの報告書をまとめ、近く発表する。
これは同型のつぼが玄界灘ルートの中継点である福岡県などでは出土例がない発掘地点は、有明海沿いに存在した集落遺跡内で、朝鮮半島との直接交易が考えられる古代では、陸路より、海路が運搬コースとしては利用しやすい――などから「有明海ルート」を裏付ける物証ではないか、との見方を強めている。
朝鮮半島と九州を結ぶ文化渡来の「有明海ルート」の可能性は以前から論議されていたが、これまで物証がなく、対馬を経て福岡、唐津に伝わる「玄界灘ルート」だけとみられていた。しかし、上黒井貝塚から発掘された黒色長頸つぼは「玄界灘ルート」なら当然通ったはずの福岡県では出土例がない。また、当時千代田町付近は海岸地帯で、港を中心に銅矛や銅剣も鋳造できる、有明海沿岸で最大規模の集落があったと考えられることから、同町教委は「交流を求める朝鮮の船が、有明海を通って直接訪れた可能性が高い」としている。
長頸つぼは〈昭和〉六十年、ほ場整備に伴う発掘調査の際に出土。口の直径が八・一センチ、高さ一四・四センチで、首の部分が約八センチと長いのが特徴。ススを練ったもので、全体が黒く塗られている。その後の調査でつぼは韓国京畿道以南で出土している黒色土器と同じもので、同地方で約二千年前、弥生時代中期前半に作られたと判明した。中央部分には穴をあけた後、粘土でふさいだ跡があることから、日用品ではなく「宗教的儀式に使われた」貴重品だったと同町教委は推定。周辺からはこのほか、朝鮮の土器をまねた日本製の黒色土器二点もみつかっている。
こうしたことから、この黒色長頸つぼは、祭器として朝鮮半島から直接、有明海にもたらされたものとの見方が強く、高島忠平佐賀県立博物館副館長は「朝鮮伝来の支石墓が有明海を中心に、長崎、福岡、佐賀各県に分布していることからも、有明海ルートの可能性はある。今回の黒色土器の発見で、その存在説も高まるはずだ」としている。
森浩一同志社大教授の話
これまでは玄界灘に面した福岡県側だけが脚光を浴びてきたが、有明海を通した朝鮮半島や大陸との交流は当然考えられることだった。有明海沿岸でも近年、二塚山遺跡(佐賀県東脊振村)から前漢鏡が多量に出土したり、支石墓があるなどで有明海ルートが浮かび上がっていたところで、今回の発見はそれを裏付けるものと言える。中国との交流の物証が出る可能性はある。
以上であるが、この記事にはちょっと「注」が必要のようである。というのは、「交流を求める朝鮮の船が、有明海を通って直接訪れた可能性が高い」とあるけれども、「二千年前」の「弥生時代中期前半」にそんな交流を求める朝鮮の船が――などとはとてもそうかんたんには考えられぬことである。
かりにもしそうだとしても、では、それがどうして「宗教的儀式に使われた」「祭器として」の「黒色長頸つぼ」などを持って来たのであろうか。それは潮流を利用した筏船などによる渡来人が、九州のこの地に住むために持って来たものだったはずである。
原始・古代における「文化の伝来」とは、そのような文化を持った人間が渡来したということであって、その「文化」だけがひとりのこのこやって来たというものではないのである。次に見る古墳時代の「金銅装飾品」などにしても、それは同じことである。
石塚一号古墳出土の金銅装飾品
その次、こんどは千代田町の西隣となっている諸富町であるが、一九八八年三月二十一日の西日本新聞は、「金銅装飾品が初出土/馬具の一種/佐賀・石塚古墳/半島交流/有明海ルートを補強/六世紀後半/朝鮮か中国製」という大見出しの、こういう記事が一面トップとなっている。
有明海沿岸の佐賀県佐賀郡諸富町の石塚一号古墳から、馬具の一種とみられる金ぱくを張った銅製の装飾品の破片が発掘されたことが二十日明らかになった。金銅装飾品は直径約七センチで、麦わら帽子を押しつぶしたような形をしているが、国内での出土は初めて。佐賀県教委が鑑定を依頼した専門家の話を総合すると、この装飾品は六世紀後半に朝鮮半島か中国で作られたものとみられる。先に、同郡千代田町の上黒井貝塚から出土した朝鮮系黒色つぼが、日朝交流の「有明海ルート」の存在を証明するのではないかと注目されたが、石塚古墳は上黒井貝塚の約六キロ有明海寄りにあり、この「金銅装飾品」も「有明海ルート」をさらに補強するものとみられる。〔三面に関連記事〕
発掘されたのは金銅装飾品の破片で、三、四個分ある。復元すると、一つの直径が約七センチの円板になり、円板の中心部分は約二センチの高さに丸く膨らんでいる。縁の部分は幅約一・五センチで、ハスの花とみられる模様=蓮華紋《れんげもん》=と、炎の模様がタガネで打ち込まれている。
石塚古墳からはこのほか、轡《くつわ》や飾り金具など馬具一式が一緒に出土。金銅装飾品の裏側には繊維が付着し、糸を通す小さな穴があいていることから、同県教委は「馬にかける布地に付けた飾り」とみている。石塚古墳では既に鉄製のよろいが出土しているが、金銅製装飾品はそのそばから出土した。
金銅装飾品が作られたのは、六世紀後半、当時の馬具は、大陸から輸入するか、輸入品を国内で模倣して作られ、一部の権力者だけが持てる貴重品だった。熊本県・江田船山古墳からは、朝鮮系の王冠や馬具が出土しているが、同古墳も有明海沿岸であり、関連性が注目される。
記事はまだつづいているが、ここで〔三面に関連記事〕とあるそれをみると、「佐賀・諸富町の石塚一号古墳/金銅の装飾品初出土/九州古代史に新たな光/学界で諸説急浮上」という見出しの、こういう記事となっている。
有明海沿岸に古代文化圏が存在した――。佐賀県・諸富町の石塚一号古墳から出土した馬具とみられる金銅装飾品は、先に同県・千代田町の上黒井貝塚から出土した朝鮮系黒色つぼが明らかにした佐賀平野と朝鮮半島の直接交流を示す「有明海ルート」をさらに裏付ける。そして朝鮮半島との交流は福岡平野で行われ九州各地に広がったとする、考古学界の通説「玄界灘ルート」とは別の有明海沿岸の朝鮮交流史の解明に初めて光を差すものと期待も強い。同時に、論争が続いている邪馬台国の「有明海沿岸存在説」も急浮上、夢とロマンを広げる議論が、学者たちの間に広がっている。
魏志倭人伝が「使訳《しえき》(使者)の通ずるところ三十国」と記述していることから、かねてから「有明海ルート」を唱えてきた高島忠平・佐賀県立博物館副館長は「有明海沿岸の佐賀平野に朝鮮との交易を持った一国が存在していたとみたい。三十国のうち一国が佐賀平野にあった可能性は高い」と言う。その理由として高島副館長は、佐賀平野周辺から朝鮮製の銅剣の柄頭《つかがしら》の飾りや鏡、耳飾り、石包丁などが多数出土していることを挙げる。
この記事もまだつづいているが、要するに、古代朝鮮からの渡来は、玄界灘に面した博多湾や、あとでみる唐津湾からばかりではなく、唐津湾からすると、ぐるっと迂回することになる有明海からも、さかんにおこなわれていたのである。
原始・弥生時代からのそれら渡来人は、鳥居龍蔵氏のいう「固有日本人」(水野清一・小林行雄編『考古学辞典』)となって拡散し、わからなくなっているが、しかし、その渡来時にもたらされた遺物は、有明海に面した佐賀平野からもぞくぞくとすがたをあらわしている、というわけなのである。
一本松古墳群と寄居遺跡
私たちは背振山地南麓となっている佐賀平野を東の鳥栖市まで往復し、そこへの出発点となった九州横断自動車道の金立サービスエリアに戻って、そこにあるレストランでおそい昼食をすました。そしてこんどは、玄界灘に面した唐津へ向かうことにしたのだった。
つまりこれからは西へ、さらにまた、背振山地南麓にぐっと寄った大和町から小城《おぎ》町をとおることになったが、大和町はさきの「佐賀市唐人町にて」の項でちょっとみているのでおくとして、その西隣の小城町もまた遺跡・古墳の多いところであった。奥野正男氏からもらい受けた『小城町の遺跡』をみると、小城町と三日月町との境となっている「土生《はぶ》遺跡(弥生時代の住居跡。国史跡)」からは、千代田町の上黒井貝塚でみたのと同じ系統の「朝鮮系無文土器(壺)」が出土しているが、そのうちの「一本松古墳群」をみるとこうなっている。
〈背振山地の〉天山から南に延びる舌状台地の標高一八〇メートルから山麓にかけて群在する古墳であって、七〇基を越える古墳群であったろうと推定される……。
同群A号墳は、類例の少ない横口式石室を内部主体とする円墳であって、封土径八メートルをはかる。この封土には二ないし三段の塊石で築かれた葺石があり、封土の外周には外護石がめぐらされている。この石室は竪穴式石室の形態をとりながらも、横穴式石室の築造手法をとっていることなど、県内でもユニークな存在である。出土遺物は鉄刀、鉄鏃などがある。
同群T・B号墳はともに横穴石室を内部主体とする円墳であって、封土径は一〇メートル前後をはかる。これらの墳墓は合葬墓であることが特徴であって、鉄製武器・金銅製馬具・宝石ガラス製の装身具など多彩な副葬品があることが特色である。
さきの諸富町の石塚一号古墳からは、馬具の一種である「金銅装飾品」が出土したのをみているが、ここでもまた「金銅製馬具」などが出土していたのである。しかも、同じようなものはそれだけではなかった。
それよりまたさきに、われわれは日本最大の支石墓がある上峰村・船石遺跡の古墳から「蛇行状鉄矛」が出土しているのをみているが、こちら小城町の寄居遺跡からは、「蛇行状鉄剣」が出土しているのである。一九八五年十月十九日の西日本新聞は、「四世紀初め/日本最古の蛇行鉄剣も/九州発生期の古墳二基発見/佐賀・寄居遺跡」という見出しのもとに、そのことをこう報じている。
佐賀県教委と同県小城町教委は、同町晴気の寄居《よりい》遺跡の発掘調査を進めていたが、十八日までに同遺跡から四世紀初めの九州古墳発生期のものとみられる古墳二基を発見した。うち一基から蛇行鉄剣と後漢時代(二五〜二二〇年)の銅鏡がみつかった。蛇行鉄剣は「五世紀製造」が定説で、四世紀初めの古墳から出土したのは全国で初と同県教委はいっている。
寄居遺跡は佐賀平野と有明海を見下ろす天山山系の標高六六メートルの丘陵地帯にある。
古墳は円墳(直径一三メートル)と方墳(長さ三・五メートル、幅二メートル)で東西に並んでおり、古墳周溝から四世紀のものとみられる庄内式土器の壺などが出土したことから同期の古墳と断定された。
鉄剣は円墳の二段掘り土壙(長さ三・二メートル、幅一・一―一・三メートル、深さ〇・八メートル)の板石で密封された中から見つかった。祭事用に使われたらしく、剣身は三一センチ、幅三センチ。赤さびが出て三つに折れ、刃の先端から一八センチのところで蛇行している。蛇行鉄剣はこれまで全国二十九の遺跡から三十三例出土しているが、四世紀初めの古墳から出土したのは全国で初めて。
銅鏡も同じ土壙から出土。直径一七・六センチでほぼ完全な形の波紋帯縁鏡。中国・後漢時代に造られた渡来品で「方格規矩四神鏡と呼ばれ、青龍、白虎など四神を描き、国内では弥生時代の古墳から出土しているが、一世紀の後漢時代の製品が四世紀の古墳から発見されたのは、当時の有力者が代々にわたって伝承、死者の副葬品として埋葬されたらしい。
土壙内は四個の石が斜めに置かれ、底にベニガラ(朱色の顔料)がにじんでいることから、割石形木棺とみられ、この地方の権力者の墓と推定される。
四世紀は地域の権力が個人に集中し始めた時期。この時期は九州の古墳の発生期で、福岡市の炭焼古墳など数例あるが、前方後円墳など大型古墳へ移り変る時期ともいわれ、同県教委は「九州の古墳を知るうえで貴重な資料になる」としている。
寄居遺跡の古墳はたしかに、「九州の古墳を知るうえで貴重な資料になる」もののようであるが、ただ、この記事のように、そこから出土した銅鏡が、「中国・後漢時代に造られた渡来品で」とか、「一世紀の後漢時代の製品が」などと書かれると、それがあたかもそのまま、後漢時代の中国でつくられたものととられかねない。
もちろん、朝鮮からの渡来人がそういう中国製の鏡を伝世品として持っていたとして、別にふしぎはないが、しかしそのことについては、筑前(福岡県)のところでみた(『日本の中の朝鮮文化』10「『伊都国王墓』をたずねて」の項)次の記事をもう一度みておく必要があるのではないかと思う。それは一九八六年七月十八日の西日本新聞で「三雲遺跡の前漢鏡/朝鮮半島製だった/大陸との交流解明に光」とした見出しのこういう記事である。
福岡県糸島郡前原町三雲の三雲南小路遺跡(通称・三雲遺跡)から出土した前漢鏡(中国・前漢代の鏡)の一部と金銅四葉座飾金具二個が朝鮮半島の原料を使っていることが、十七日までに東京国立文化財研究所の成分分析で明らかになった。前漢鏡などは、従来、中国製と考えられており、今回の調査結果は定説を覆すことになる。
三雲南小路一帯は魏志倭人伝に出てくる弥生時代中期後半(紀元前後)の伊都国王墓とみられ、〈昭和〉四十九年から同県教委が発掘、全国最大規模のカメ棺二基をはじめ、前漢鏡五十七面、金銅四葉座飾金具八、銅剣、銅矛などが多数出土した。
しかもこの銅鏡は、寄居遺跡の古墳から出土した「後漢鏡」ともちがい、それよりずっと以前の「前漢鏡」であるということに注意してもらいたいと思う。
韓津だった唐津の稲作農耕
唐津は「韓の港」
私たちは小城町から、ここにも中原町でみた綾部八幡宮と同じ、宇佐八幡宮の分社である若宮八幡宮などのある多久《たく》市にはいったが、そこからは進路をかえ、さきの「日本磁器の創始と有田」の項でふれたように、南波多町がある伊万里市から、北波多村などをへて唐津市にはいった。
唐津市をたずねるのは私としてはこんどが三、四度目で、その都度、市の教育委員会などからいろいろな資料をもらっていたが、こんどもまた、同行の奥野正男氏とともに市教委をたずねて、社会教育課文化係長の松隈孝至氏から最近刊の『唐津市の文化財』などをもらい受けた。
この『唐津市の文化財』をみるだけでも、唐津は宇木汲田《うきくんでん》遺跡からの出土品など、古代からの文化財の実に多いところであったが、まず、「唐津《からつ》」というところは、『日本地名大辞典』「九州編」にも「唐津の地名は韓津から起こり」とあるように、もとは「韓津《からつ》」というところだったということである。「津」とは「港」ということであるから、「韓」または「加羅《から》の港」ということになるのであろうが、唐津市西北方、東松浦半島先端の「加唐島」などというのも、そういうことからきた地名だったかもしれない。
それからまた地名ということでは、唐津南方に一部は唐津市となった北波多《はた》村があり、近くの伊万里市にも南波多町があるが、唐津市にもかつては唐川村、波多島村、半田《はだ》村などがあって、いまも半田川が市内を流れている。これら唐・波多・半田はどちらも新羅・加耶(加羅)系渡来人集団の秦《はた》氏族と関係がある。
板付遺跡以前の水田跡―菜畑遺跡
しかし、それはあとのことにして、唐津は、そのような地名とどうかかわるのかはよくわからないが、ここで第一にあげるべきことは、青銅器・鉄器などを伴った朝鮮からの稲作農耕がはじめてこの地に渡来したとされていることである。一九八一年三月三日の西日本新聞は、一面トップとした「日本最古の稲作跡発見/唐津の菜畑遺跡/紀元前三―四世紀/「板付」以前/炭化米や朝鮮系石器」という見出しのもとに、そのことをこう報じている。
唐津市教委が発掘調査している同市菜畑《なばたけ》遺跡で、二日までに日本最古の水稲耕作跡が確認された。縄文時代晩期中ごろ(紀元前三―四世紀ごろ)の「山ノ寺式土器」が出土する地層から、炭化米や南朝鮮系の磨製石器などが見つかったもので、土器の編年からみて、これまで水稲耕作の最も古い跡とされてきた福岡市・板付遺跡(縄文時代晩期終わり=紀元前二―三世紀)よりさらに時代をさかのぼることになり「わが国における水稲耕作の原点の発見」と、同市教委や佐賀県委はみている。同発見で定説が書き換えられるのは必至で、水稲耕作の伝来ルートを解明するうえでも画期的な発見になりそうだ。
水稲耕作の開始を見極めるキメ手は、土器の年代による形式変化との関連だ。これまで、日本の水稲耕作は弥生時代になってから(紀元前二世紀ごろ)始まった、というのが定説だった。ところが、昭和五十三年夏、福岡市の板付遺跡の「夜臼《ゆうす》式土器」を出土する地層から水田跡が見つかり、すでに縄文晩期の終わりごろ(紀元前二―三世紀ごろ)から、稲作を始めていたことがわかった。
しかし、菜畑遺跡では夜臼式土器よりも古い形式の山ノ寺式土器が出土する地層から炭化米などが見つかったわけで、水稲耕作の開始時期はさらに早まることになった。
菜畑遺跡は、弥生時代の遺跡として全国的に有名な桜馬場遺跡の西側約五百メートルの地点にある。南に面した丘陵の末端部で幅十四メートル、長さ三十メートル。地表から約二・五―三メートルのところに弥生時代中期同前期同前期から縄文時代晩期終わり同晩期後半の各時代の層がたい積している。
このうち層から首の短かいツボ、棒でつついたような不ぞろいなキザミなどを特徴とする山ノ寺式土器片数十点、炭化米十二粒、大型石斧の木柄一本、石包丁一個、石斧一個など、水稲耕作を実証する遺物が見つかった。このほか磨製石鏃《せきぞく》、イノシシの骨などもあった。
さらに、これらの磨製石器は南朝鮮系の特徴を備えており、土器のなかにも南朝鮮に見られる無文土器がわずかにまじっていた。また、同地方には、このころから南朝鮮の墓制である支石墓が広まっている。これらのことから、森貞次郎・九州産大教授(考古学)も「中国の揚子江より北の地域が原産のジャポニカ米が南朝鮮に伝わり、さらに日本に入ってきたのではないか」と、水稲耕作文化の伝来ルートを想定している。
また、同教授は「菜畑に残されているものが水稲耕作の原点であることに間違いないだろう」と、今回の発見を高く評価している。
弥生人はどこから来たか
記事はまだつづいているが、要するに、この菜畑遺跡の発掘調査によって明らかになったことは、さらにまた(すでに板付遺跡などで実証されているけれども)青銅器・鉄器などを伴った稲作農耕の弥生文化がどこから来たかということであり、二は縄文時代晩期に早くも稲作農耕がはじまっていたということである。以来、縄文晩期にも稲作があったことが常識化しつつあるが、しかし、そのことの受けとり方には問題もある。
すなわち、縄文晩期に稲作があったということをもって、縄文人が、あるいは縄文人も稲作をしていたとして、「弥生式文化は縄文式文化後期・晩期の人びとが大陸文化の影響を受けて形成していったものである」(城島正祥・杉谷昭『佐賀県の歴史』)などとするのがそれである。しかもそれを「後期・晩期の人びと」として、「後期」にまで引き上げているばかりか、「形成していったのである」につづけて、こうも書いている。「それは北九州地方にみられる機織《はたおり》・陸稲栽培・支石墓などを特色とする文化であった」と。
ここにいう「機織・陸稲栽培・支石墓など」はどれもあらたに渡来した弥生文化に属するものであって、狩猟採集文化だった縄文のそれとははっきりと違ったものであった。だいたい、縄文時代、弥生時代といっても、それは横一直線で画されたというものではなかった。その時期に稲作があったのは、縄文時代晩期にはすでに弥生人が来ていたとみるべきで、そのことを田名部雄一氏はこう書いている。
一方作物のイネ〈稲〉の導入は、やはり弥生時代になってからであると考えられる。一部縄文晩期に九州北部でイネの栽培が行われているが、これはやはり縄文人ではなく、弥生人の渡来がこの頃から始まっており、彼等によってもたらされたものと考えられる。(「家畜のルーツ、特に犬の遺伝子分析からみた日本人の成立」)
このような弥生人に対する縄文人については、のちに、九州のいわゆる熊襲・隼人とともにまたみることになるはずであるが、そこでこんどは青銅器・鉄器などを伴った稲作農耕の弥生文化はどこから来たか、ということである。このことはすでに、これまでみてきた福岡の板付遺跡や諸岡遺跡などでも実証されているばかりか、あとでみる唐津の宇木汲田遺跡をみてもはっきりしている。にもかかわらず、それをあえてまたここでとりあげるのは、いまなお異説・珍説があとをたたないからである。
異説はよいとしても、たとえば、一九八六年十一月十六日の熊本日日新聞をみると、「全国地名シンポ開幕/“環シナ海と九州”探る/熊本大会」という見出しの記事に、こういうくだりがある。
論議の中心は水田稲作の渡来ルーツ。佐々木〈高明〉氏は、台湾・沖縄から南九州へのAルート、揚子江下流域から北九州・南朝鮮に至るBルート、山東半島から朝鮮半島を経て九州に至るCルートの三つの“海の道”が考えられるとし、特にBルートが有力と説明。これに対して大林〈太良〉氏は、鵜《う》飼いなど日本と中国にはあって朝鮮にない習俗を見てもBルートが最も有力と主張。国分〈直一〉氏は、当時の航海の困難さからみて、朝鮮半島経由のルートは捨てがたいと反論した。
私もこの「熊本大会」には「特別講演」(「古代朝鮮からきた地名」)をするということで参加していたので、その講演で反論を加えたが、「山東半島から朝鮮を経て九州に至るCルート」には私も賛成だけれども、A、Bルート、とくに「揚子江下流域から北九州・南朝鮮に至るBルート」というのにいたっては、「珍説」というよりほかないものであった。もしそうだとすれば、水田稲作だけがひとりのこのこと海を渡ってきたことになり、しかもそれで「北九州」はどうしてか、素通りしていたということになるのである。
「山東半島から朝鮮を経て」といっても、朝鮮における稲作農耕はおそくも紀元前七世紀には始まっていたことが、忠清南道の松菊里遺跡などによって証明されているのであるから、北部九州の稲作が菜畑遺跡の示すように「紀元前三―四世紀」だったとしても、それまでには四、三百年の差があったのである。
それが「九州に至る」のはむしろ遅きに失したというべきであろうが、青銅器・鉄器などを伴う稲作農耕をもたらした弥生人=倭人とはどこから来たか、どういうものであったかということを、ここでいま一度はっきりさせておかなくてはならない。国立歴史民俗博物館刊の『国立歴史民俗博物館』(案内)をみると、第一展示室の「稲と倭人」のことがこう説明されている。
米をつくり食べる生活が西日本で始まったのは、今からおよそ二三〇〇〜二二〇〇年前のことである。日本の水稲農耕は最初から完成した姿をとっていたことを特徴とするが、その理由は朝鮮半島南部から稲作民の集団的渡来があったからである。
稲作は、安定した食糧・人口の増加・男女の協業などをもたらし、また独特の祭祀儀礼を生みだした。そして、倭人社会は漢帝国への朝貢など、国際社会への仲間入りを果した。
鏡山周辺と葉山尻支石墓群
唐津での私たちは、「韓式土器」なども展示されている「『古代の森』資料館」から、古代はその周辺が唐津市を含む東松浦半島(『魏志』「倭人」伝にいう末盧国)の中心だったという鏡山をたずねた。鏡山はいまは唐津湾などを眺望する観光地ともなっているが、その麓には国の重要文化財となっている、みごとな飛天の菩薩像が陽鋳された朝鮮鐘がある恵日寺《えにちじ》や、それからこれも重文となっている朝鮮渡来の絹本著色楊柳観音画像のあった(いまは佐賀県立博物館)鏡神社などがあって、その鏡神社刊の『鏡神社』にも、「唐津市鏡地区は古来より数多くの文化財、遺跡が知られています」として、こういうことが書かれている。
唐津市菜畑《なばたけ》で日本で最初の稲作が始まって以後、弥生時代になると(今から二、二〇〇年ほど前)人々が多く住むようになります。葉山尻、宇木汲田《うきくんでん》、柏崎、中原《なかばる》、鶴崎《つるさき》など〈の遺跡〉からは朝鮮半島より伝わった支石墓《しせきぼ》や青銅で作った武器、鏡のほか甕棺墓《かめかんぼ》や鉄製の武器、工具が出ており、稲作を中心とした日本の社会構造の基本がすでに形成されたことがわかります。今から一、七〇〇〜一、四〇〇年前には、島田塚、正願寺、樋《ひ》の口《くち》などの古墳がつくられ、奈良時代には半田《はだ》、恵日寺《えにちじ》などで、蔵骨も発見されています。
ついで私たちは、鏡山の南となっている葉山尻支石墓群、宇木汲田遺跡をたずねることにしていたのだったが、しかし、支石墓はこれまでたくさんみてもいたので、樹木の茂った丘陵上にある葉山尻のほうはとりやめとした。そして宇木汲田遺跡だけということにしたが、さきにみた菜畑遺跡や宇木汲田とともに、これも国指定史跡となっている葉山尻支石墓群のことは、『唐津市の文化財』にこうある。
市内半田《はだ》の飯盛山から北に延びる丘陵上に位置する。縄文時代晩期から弥生時代中期にかけての支石墓が五基発見されている。昭和二七、二八年(一九五二、五三)に支石墓の学術調査が行われ、一号支石墓は弥生中期のカメ棺六基を内蔵するものである。二号支石墓は土壙墓を内部主体とし、近接して二基のカメ棺が存在する。三号支石墓は二号同様土壙墓を内部主体とし、二基のカメ棺が近接している。……
遺跡はその他に丘陵のより低い場所(A・B地区)を中心に、弥生時代中期のカメ棺墓が二六基(支石墓下のカメ棺墓も含む)発見されている。支石墓として、全国で最初に学術調査が行われた遺跡として著名である。
私はこれで、この支石墓の調査が「昭和二七、二八年(一九五二、五三)」に「全国で最初」におこなわれた「学術調査」であったことも初めて知った。つまり、九州の支石墓が考古学の対象となったのは、太平洋戦争後になってからようやく、ということだったのである。
宇木汲田遺跡をたずねて
宇木汲田遺跡出土の銅鐸舌
さて、唐津市内を流れる宇木《うき》川・半田《はだ》川流域となっている、鏡山南方の宇木汲田遺跡であるが、たずねて行ったそこは、ただ青々とした田んぼと畑とがひろがっているだけだった。その光景には、奥野正男さんもちょっととまどったようで、あらためてまた手にしていた地図に目をやったりしたものだった。
要するに、有名な宇木汲田遺跡もいまはすっかり埋め戻されて、またもとの田や畑に返されていたのである。「また」といったのは、だいたい、この宇木汲田遺跡が注目されるようになったのは、一九三〇年の耕地整理工事中に甕棺墓などが発見されてからで、以後、一九八四年の十一月〜十二月の最終的発掘調査までには、何回も調査がくり返されたからである。
そのことについては、九大の西谷正氏にたのんでおくってもらった『九州文化史研究紀要』第三十一号にくわしいが、それよりさきに、一九八三年十二月二十九日の西日本新聞をみると、「銅鐸(日本型)の舌 九州初出土/唐津・宇木汲田遺跡/青銅製、長さ一〇・五センチ/銅鐸文化圏の存在裏づけ」という見出しの記事が一面トップとなっているので、それをまず紹介することにしたい。
唐津市宇木の宇木汲田《うきくんでん》遺跡から、二十八日までに日本型銅鐸の内部につるして音を出したとみられる青銅製の舌《ぜつ》が見つかった。九州ではこれまで朝鮮型小銅鐸は六例出土しているが、日本型銅鐸の一部を成す青銅器が出土したのは九州では初めて。鳥栖市の安永田遺跡と福岡市博多区の赤穂ノ浦遺跡からすでに日本型銅鐸の鋳型が見つかっており、九州でも本格的な銅鐸文化があったことをさらに裏づける貴重な資料として注目されている。
宇木汲田遺跡は、唐津市東南部の山ろくにある弥生時代の墓地、集落跡。昭和三年に発見され、過去三回の調査で計百二十九個のカメ棺と多鈕《たちゆう》細文鏡、銅剣など多数の青銅器、玉類などが出土している。今回の調査は、遺跡の範囲を調べるため唐津市教委が十一月から行っているもので、これまでに新たに石棺墓やつぼ棺などの墳墓と土壙、住居跡とみられる柱穴、銅剣のつか飾りである把頭飾などが出土した。
銅鐸舌は長さ十・五センチ、直径約一センチの棒状の青銅製、銅鐸の内部にひもでつるせるよう先端に穴が開いており、表面には鋳造した時の鋳型の跡が残っている。弥生時代中期の土壙から出た。
九州ではこれまで朝鮮型の小銅鐸は福岡で五例、大分県で一例出土しているが、同市教委では今回見つかった舌は比較的大きい。例えば、ことし七月、福岡県糸島郡前原町の浦志遺跡から出土した朝鮮型小銅鐸の舌(長さ約五センチ)の約二倍もある。朝鮮型小銅鐸舌は鉄製が普通だが、今回は日本型と同じ青銅製など――から、日本型銅鐸の舌とみている。最終的には専門家に鑑定を依頼する。銅鐸本体はまだ見つかっていない。
宇木汲田の調査・研究成果
記事はまだつづいているが、朝鮮の細形銅剣が日本では広形銅剣となっているので、この銅鐸舌が大きいのもそういうことからなのかも知れない。が、それはどちらにせよ、ついで、さきにいった『九州文化史研究紀要』をみると、まず、「北部九州における弥生文化の成立」となっているそれの目次がこうある。
「田崎博之『唐津市宇木汲田遺跡における一九八四年度の発掘調査』/横山浩一・藤尾慎一郎『宇木汲田遺跡一九八四年度調査出土の土器について―刻目突帯文土器を中心に―/下條信行『日本稲作受容期の大陸系磨製石器の展開/小田富士雄『北部九州における弥生文化の出現序説ー水稲農耕文化伝来をめぐる日韓交渉―』」ほか。
これだけみても、宇木汲田遺跡とそこからの出土品がどんなに重要なものかがわかるが、ここではそれの全部をみることはできないので、はじめにある田崎博之氏の「唐津市宇木汲田遺跡における一九八四年度の発掘調査」をちょっとみるとこういうふうである。
弥生時代の遺跡は、現在、唐津市で一七一、浜玉町で二五、七山村で一、北波多村で二四、厳木村で二四、相知町で四四ケ所が知られている。これらの中で、上場台地や背振山地に分布する遺跡は、立地・規模など縄文時代晩期とあまり変化はない。これに対して、平野部の遺跡は、刻目突帯文土器の段階にあらわれた遺跡を核として、各河川がつくる沖積低地ごとにまとまりをみせる。青銅器・鏡の分布も、それを一つの単位としている。その中で、宇木汲田遺跡の位置する宇木・半田川流域では、前述した鏡山西麓から南西方向へのびる旧砂丘列の後背の潟・湿地をとり囲むように遺跡が営まれ、A〜F群の六つの遺跡群に分けられる。
そしてその「A〜F群の六つの遺跡群」についての説明がずっとつづいているが、そのうちの「D群」をみるとこうなっている。
D群――宇木汲田遺跡を中心として宇木川東岸、夕日山の西麓の低丘陵と洪積台地上に営まれている。C群とは長崎山付近に二又状にはいる谷で分けられるが、この谷は、一九七三〜七八年に圃場整備にともなう事前調査で厚さ五メートルにおよぶ泥炭層が確認されており、相当深い谷であったと考えられる。
今回調査を行った貝塚は、この谷部の門口部近くに営まれている。また、宇木汲田遺跡の西側の標高三〇メートルほどの丘陵上には、刻目突帯文土器の段階から弥生時代前期の支石墓・甕棺墓がある。洪積台地上にも弥生時代前期末〜後期の甕棺・木棺墓・土壙墓が、南北に長い帯状の範囲に数地点にわかれて分布している。
その中で、一九五七・一九六五〜六六年調査地点の甕棺墓群では、一二九基の甕棺墓が調査され、細形銅剣一〇・細形銅戈二・中細銅矛五・多鈕細文鏡一・勾玉・管玉などが出土している。この墓群には、唐津周辺地域でも、とくに青銅器が集中している。
つづいて、同「唐津市宇木汲田遺跡における一九八四年度の発掘調査」の項には、「宇木汲田遺跡の調査・研究史」が「表」となって示されているが、これによると、さきの新聞記事では「過去三回の調査で」うんぬんとあったけれども、八四年までには計十回の調査がおこなわれている。なかでも特記すべきは、一九六五年十一月から六六年十一月におよぶ六、七回目の調査は九州大学とフランス・パリ大学との合同調査であったということである。
末盧国の稲作文化
さきにみた菜畑遺跡の発掘調査など、このような唐津市とその周辺の考古学的成果は、唐津湾周辺遺跡調査委員会編『末盧国―佐賀県唐津市・東松浦郡の考古学的調査研究―』という、大部の本にまとめられている。「本文編」「図録編」の二冊となっている『末盧国』は、一九八二年六月十八日の朝日新聞夕刊に、「稲作伝来ルート研究にも光/倭人伝の地調査報告『末盧国』」とした見出しの玉利勲氏による紹介がのっているが、これまでみてきたことの「解説」ともなっているので、それの一部をみるとこう書かれている。
考古学にとってきわめて重要なこの地域は、第二次大戦前から注目されていた。だが、本格的な調査が始められたのは戦後のことである。故・水野清一氏を代表とする東亜考古学会による調査(一九五六、五七年)、九大を中心に行われた日仏合同調査(六五、六六年)などをはじめ、各地の発掘調査はさいきんまで続けられており、日本考古学史にのこる重要な発見が重ねられてきた。
唐津市市制五十周年を記念して四年がかりでまとめられた『末盧国』は、このような四十年にわたる九州考古学の成果をもとに、各時代にわたる遺跡を網羅した総合的な研究報告書であるが、考古学者ばかりでなく人類学、考古化学、地理学など関連分野の研究者五十数人が執筆に参加している。そして海と山と平野の三つが相寄って歴史的文化を生んできた唐津周辺地域を一つのまとまりとして多角的に考察、それを東アジア史の上に位置づけようとしていることは、考古学的な地域史研究としても画期的な試みである。
ところで、岡崎敬氏は本書の総括「古代末盧の歴史」の中で「唐津市周辺でもっとも華かな時代は、縄文晩期・弥生前期のコメを中心とする農耕―朝鮮半島文化の流入―と弥生前期〜後期初頭の朝鮮青銅器、中国の鏡などの流入の時代であり……」と書いている。日本の社会、文化、国家形成の基盤となる稲作文化の源流をめぐる、この岡崎氏の指摘は重要だが、それにかかわる遺跡の一つが唐津市の宇木汲田《うきくんでん》貝塚である。……
宇木汲田貝塚が明らかにした縄文農耕の存在は七八年、福岡市の板付遺跡で、弥生水田の下から縄文晩期終末(夜臼式土器層)の水田、用水路などが見つかったことによって一層確実となった。さらにまた、稲作の起源をめぐっていま学界から注目されているのが唐津市の菜畑《なばたけ》遺跡である。七九年に発見されたこの遺跡は、八〇年十二月から八一年八月にかけて唐津市教委により発掘調査され、一六枚の文化層が確認された。そして、その中の縄文晩期後半(山ノ寺式土器層)の文化層で水田、水路とともに炭化米や農工具類も出土した。こうして、わが国の水稲耕作の歴史は板付遺跡より、さらに百年以上もさかのぼるという画期的な事実が明らかにされたのである。
この問題について岡崎氏は「おそらく韓国の無文土器に伴う支石墓、イネを中心とする農業、石包丁、抉入石斧《えぐりいりせきふ》、有柄式石剣などが山ノ寺式前後に渡来して、従来の縄文土器の文化に大きな変容を与えたものと想定される」と書いている。
末盧の波多(秦)氏族
以上で、唐津市とその周辺における稲作農耕がどういうものであったか、だいたい明らかとなったが、では、そのような縄文晩期・弥生時代の次となっている、古墳時代はどうだったであろうか。
唐津市の東となっている浜玉町に谷口古墳というのがあるが、一九八七年六月七日の西日本新聞をみると、「佐賀の『谷口古墳』石室/大陸様式を九州“直輸入”」という見出しの記事にそれのことがこうある。
佐賀県東松浦郡浜玉町谷口の国史跡「谷口古墳」の西側石室が、全国でも最も古い(五世紀初め)竪穴系横口式であることが、佐賀県教委の六日までの調査で分かった。同種の石室は、国内では西日本地区に点在するだけ。同種に近い横穴式石室は、朝鮮半島南部の全羅南道などに多く存在するため、半島の影響を受けたとみられる。今回の谷口古墳の横口式の最古級の確認は、畿内古墳様式を取り入れながらも直接朝鮮半島の様式をいち早く受け入れた豪族の存在を証明するもので、古墳文化の伝播ルートにも波紋を広げそうだ。
谷口古墳は、復元全長七十七メートルの前方後円墳か前方後方墳。石棺の形式や副葬品から五世紀初頭までに築かれたとみられる。石室の天井が合掌形をしている竪穴系古墳として全国的に著名で、昭和十六年に国史跡に指定。近年崩壊が進んだため、佐賀県教委、浜玉町教委が六十年度から保存、調査を再開していた。……
このことから、これまでは竪穴石室とみられていた同古墳西側石室は、竪穴系横口式石室であることが分かった。石室様式は、古墳前期(四世紀中心)は竪穴式が主流で、同後期(六世紀中心)は横穴式が主流。谷口古墳の竪穴系横口式は前期から後期への過渡期の折衷様式。朝鮮南部に多い横穴式を取り入れた竪穴系横口式や横穴式初期の石室は、谷口のほか、丸隈山古墳(福岡市・周船寺)、鋤崎古墳(同・今宿)、老司古墳(同・老司)、横田下古墳(佐賀県・浜玉町)などがあるが、谷口古墳の横口式石室は、老司古墳と同時期かそれ以前にさかのぼる最古級のものとみられる。
「石室の天井が合掌形をしている」谷口古墳は、百済系渡来人によるもののようであるが、その西の唐津市は新羅・加耶(加羅)系渡来人である原・秦氏族ともいうべき波多氏族が中心となっていたところであった。
そのことは、さきの「韓津だった唐津の稲作農耕」の項でもちょっとみているように、唐津南方に一部は唐津市となった北波多村や、伊万里市に南波多町などがあり、それからまた唐津市には以前、これも波多ということだった半田《はだ》村があって、いまも半田川が流れていることからもわかるが、だいたい、この唐津は波多氏の所領となっていたところであった。
それが、豊臣秀吉の朝鮮侵攻戦争のとき、「波多親《したし》がひきいた唐津勢は親の戦いぶりが卑怯だったという理由で、親は文禄二年(一五九三)、その所領を没収され、常陸《ひたち》の筑波《つくば》山麓に配流となった」(城島正祥・杉谷昭『佐賀県の歴史』)ため没落したのだった。
しかし、この地にいた波多氏族は、古墳時代からかなり強盛だったようで、『唐津市史』にある「唐津市古墳一覧表」をみると、金製耳飾・三累環頭・柄頭などが出土した半田宮の上古墳をはじめ、半田地区だけでも十数基の古墳をのこしている。それから、これも波多氏領だった加部島の田島神社も波多氏族がその祖神を祭ったものらしく、ここにも横穴石室をもつ前方後円墳のひさご塚古墳などがある。
田島神社は、肥前に四社ある『延喜式』内社のうち唯一の「大社」で、田心《たごころ》姫・市杵島《いちきしま》姫・湍津《たぎつ》姫という、いわゆる宗像三神を祭るものとなっているが、波多=秦氏と宗像氏とが同一のものであったということは、筑前(福岡県)でみたとおりである(『日本の中の朝鮮文化』10「宗像大社の地にて」の項)。
それからまた、波多氏が没落したあとでも、北波多村の徳須恵や伊万里市の南波多町笠椎には波多氏ゆかりの瑞厳寺や源光寺があって、いまもその菩提が弔われている。ばかりか、江口和夫氏の「源光寺所蔵/松浦党の系譜」によると、「鎮西の凶党」ともいわれた「倭寇」で有名な松浦党も波多氏族から出たものだったとある。
前記『佐賀県の歴史』をみると、『海東諸国記』によればとして、その松浦党のことがこう書かれている。
当時の松浦党の代表的な土豪武士には、呼子氏・波多島氏・鴨打氏・佐志氏などをはじめ、二十数氏が現在の佐賀県内に存在していたと考えられ、それぞれ現在の地名として呼子・畑島・佐志・馬渡・有浦・値賀・石志などと残っている。
これで佐賀(肥前)は一応おわることにするが、なお、これは余談のようなことだけれども、私はこれまでにみた唐津ほかをたずねたことで、佐賀県中心にしか分布しないという朝鮮烏ともいわれるカチ烏が、電線などに巣をつくっているのを何度かみた。幼いころ朝鮮では毎日のようにみていたものだったので、ひどくなつかしい思いをしたものである。
肥後
塚原から荒帆神社まで
クマモトの意味は
もとはこちらも肥前と同じ肥国《ひのくに》だった肥後(熊本県)となったが、私がこれまで肥後をたずねたのは四、五度ほどではなかったかと思う。そのうちの一度はさきにもちょっとふれたが、一九八六年十一月、熊本市で開かれた日本地名研究所による全国地名シンポジウム・熊本大会での「特別講演」のためであった。
私はこの講演にさきだって、「古代朝鮮からきた地名」というレジュメを提出することになった。それは、「古代朝鮮からの渡来人がのこした地名は、全国いたるところにあるが、ここでは九州のうちの豊前(福岡県)と肥後のそれだけちょっとみておくことにしたい」としたものだったが、そのうちの肥後の部分はこうなっている。
――肥後は「肥国《ひのくに》」または「火国《ひのくに》」といったもので、吉田東伍氏の『大日本地名辞書』をみると、益城《ましき》郡の「白木平」のことがこうのべられている。
「白木妙見と号するもの今に至りて尚多し、……白木は新羅に同じ、新羅国より其修法《そのしゆほう》を伝えし義にや、八代の白木妙見記には百済国と云う、亦《また》ほぼ其義理を同じくす」と。また、芦北郡の「白木」については、「此村《このむら》は百済来の例を以て論ずれば、新羅来なるべし」とものべている。
それからまた、同『――地名辞書』によると、熊本はもと隈本《くまもと》だったが、「隈」の字をきらって熊本となったとあり、一方、球磨《くま》郡の「球磨、古《いにしえ》の熊県《くまのあがた》なり」とある。そうだとすると、「熊」も肥後とは古いつながりがあったにちがいない。
この熊のことについては、玉置善春氏の「熊野・牟婁《むろ》という地名」にも「カミといいし語、転じてクマともいいけり、……熊字読《よみ》てクマということは、もとこれ百済の方言に出し也、即《すなわち》今も朝鮮の俗、熊を呼びてク〈コ〉ムというは猶其《なおその》古語の遺《のこ》りたる也」「古語にクマといいしはカミという語の転ぜしなり」という新井白石の『東雅』や『古史通或問』などが引かれて書かれているが、朝鮮語コムの熊とはもと、朝鮮の檀君神話に出てくる熊のそれからきたものだった。
そのコム(熊)が転じてカム(神)となり、カムナム(神の木)ということから「神奈備《かむなび》」ということもきたと思うが、また、古代日本では高句麗をさしてコマ(高麗)といったのもそれからきたものであり、さらにまた、肥国の肥をコマといい、肥人をコマビト(『万葉集』旧訓)といったのもそれからきたものであった。
こうしてみると、クマモト(隈本・熊本)というのも、なかなか深い意味があってのことだったのである。もちろん、古代朝鮮の高句麗との関係においてであるが、そのことは熊本に多い高句麗系といわれる装飾古墳によってみてもわかる。――
広大な塚原古墳群
このレジュメの講演をした日本地名研究所による全国地名シンポジウム・熊本大会ではいろいろなことがあったが、私にとってもひとつ意義があったのは、大阪でのこと以来、十五、六年ぶりで清田之長氏と再会したことだった。が、そのことはあとにして、いまみたレジュメのその肥後を私がはじめておとずれたのは、一九七四年三月、上田正昭氏らとともに「東アジアの古代文化を考える会」のシンポジウム・遺跡めぐりに参加したときではなかったかと思う。
なにしろ、いまからすると十四年もまえのことで、そのときの記憶はすっかりうすれてしまっているが、さいわいというか、当時の(一九七四年三月二十八日付け)熊本日日新聞をみると、「塚原古墳群/“登呂遺跡に匹敵”/貴重な学術的価値/上田京大教授/完全保存を強く訴え/“風土記の丘”に最適/金達寿氏」などという見出しのもとに、そのときのことがこうある。
「東アジアの古代文化を考える会」(会長・江上波夫東大名誉教授)主催によるシンポジウム「筑紫と肥の古代文化」は二十八日正午から熊本市水前寺の熊本グランドホテルで開かれるが、会員一行七十人はこれに先立ち、二十六、七の両日、バス三台に分乗して県下の遺跡めぐりをした。二十六日は玉名、山鹿地方の装飾古墳を見学、二十七日は破壊の危機が迫っている塚原古墳群(下益城郡城南町)を中心に城南一帯の遺跡を見てまわった。視察後、会員の上田正昭京大教授は「塚原は登呂遺跡(静岡)にも匹敵する貴重な遺跡だ」として、同古墳群の完全保存を強く訴えていた。
「東アジアの古代文化を考える会」は高松塚壁画古墳の発掘いらいクローズアップされてきた日朝〈日本と朝鮮〉関係などアジアと日本の歴史を再検討し、わが国の正しい古代史像をつくり上げることを目的として一昨年発足したもので、全国各地で遺跡めぐりやシンポジウムを開いて地道な活動を続けている。
二十七日正午過ぎ、一行は熊大法文学部の松本雅明、井上辰雄両教授らの案内で井寺(上益城郡)、釜尾(飽託郡)両古墳を見たあと塚原古墳群を訪れた。方形周溝墓と円墳、前方後円墳などが一ヵ所に集まった同古墳群のスケールの雄大さに目を見はりながら、松本、井上両教授らの説明に熱心に聴き入っていた。
視察後、上田教授は「これはすばらしい遺跡だ。これだけ大規模に方形周溝墓と円形周溝墓が混在し、しかも周溝から土器類が出た例は全国でも非常に珍しい。従来から方形周溝墓と古墳の関係が学会で議論されてきたが、塚原はこれに新しい問題を提起するに違いない。そして周溝墓から古墳への発展のプロセスが明らかになるかもしれない。これはまさに登呂遺跡に匹敵する価値がある。ぜひ保存してほしい」と学術的価値を強調した。
また、作家の金達寿氏は「塚原がこれほどスケールの大きな遺跡とは思わなかった。この周辺には伝説に彩られた雁回山もあり、“風土記の丘”としての立地条件もぴったりだ。肥の国の古代史は日本の歴史でも貴重な位置を占めており、その意味からも塚原古墳群を保存すべきだと思う。これを壊したら熊本の恥だ」と感想を述べていた。
たしかに、塚原古墳群は広大な台地上にひろがるスケール雄大な古墳群だった。この古墳群は、「塚原古墳群を守る会」などの運動もあって、その後、台地上を通るはずになっていた九州自動車道が、トンネル工法による地下道となったことで破壊からまぬがれ、いまは国指定史跡となって保存されている。
なおここでついでに、田辺哲夫編『熊本の上代遺跡』によって、その古墳群をもう少しみるとこうなっている。
塚原古墳群は古くより知られ、江戸時代の代表的地誌である肥後国誌には、「塚原村に九十九塚有り」と記されている。ところがごく最近では大小十数基の古墳やその残がいが点在しているだけで、「九十九塚」のイメージにはほど遠い惨状であった。
そうして発掘調査が始まると、これまで畑の開墾や土取りのために、地上から消え去っていた、大小百基以上の古墳が姿を現わしはじめたのである。発掘されたもののうち、とくに注目されるのは、石棺や木棺の周囲に方形の溝をめぐらした方形周溝墓という墳墓で、弥生時代から古墳時代にかけての墓制の一つで、高塚古墳が出現する際の母体となったものと考えられている。この方形周溝墓は大小あわせて三八基、他に円墳三九基、石棺一九基、石蓋土壙墓一基、さらに中世墳墓四六基などを確認したのである。
そして出土した土器としては、「わが国最古の須恵器」(同『熊本の上代遺跡』)である有蓋高坏や器台壺などがあって、これは斎藤忠氏が「わが国における帰化文化の痕跡」の指標としている土器類のひとつであった。
つまりそれらは、古代朝鮮からの渡来人が携行したものだったというわけであるが、なおここで、二十年ほどまえに書かれた同「わが国における帰化人文化の痕跡」をみると、肥前・肥後のそれとしては次のようなものがあげられている。=の下はそれの指標となっている出土品。
△肥前国
佐賀県佐賀市久保泉町関行丸古墳=冠帽/唐津市半田宮ノ上古墳=垂飾付耳飾/唐津市鏡島田塚古墳=冠帽・垂飾付耳飾/長崎県南高来郡国見町高下《こうげ》古墳=指輪
△肥後国
熊本県玉名郡菊水町江田船山古墳=冠帽・垂飾付耳飾・履/玉名市繁根木伝左山古墳=垂飾付耳飾/玉名市玉名大塚古墳=同/八代市五反田古墳=帯金具
船野山と荒帆神社
もちろん、これらがそれの全部でないことはいうまでもないであろうが、それはともかくとして、私がさきの塚原古墳群をおとずれたのは十四年もまえのことであった。それからも三、四度ほど肥後をたずねているが、そのうちでもやはりいちばん充実した旅だったのは、前年の日本地名研究所による全国地名シンポジウム・熊本大会で再会した元大阪府立阪南高校長の清田之長氏ほか、その熊本大会で知り合った人たちと共にした二泊三日であった。
そのときのことは、一九八七年六月に出た熊本地名研究会刊の『熊本地名研究会』第十七号にのせられた清田之長氏の「金達寿氏と共に/肥後の国に朝鮮文化を探る」にかなりくわしく書かれている。
同誌には私も「十六年後のいままた」という一文を寄せているが、まず、清田氏のそれをみるとこうなっている。
東京の講談社より『日本の中の朝鮮文化』を九巻〈いまは十二巻〉、その他の出版社よりも多数の日本古代と朝鮮との関わりについての著書を出している作家の金達寿《きむたるす》氏が来熊されるので、昭和六十二年三月十日、熊本空港へ出迎えた。小生の他に、
高浜幸敏氏(熊本地名研究会事務局長)
島谷力夫氏(熊本地名研究会員)
松野国策氏(同、益城町文化室長)
広嶋保人氏(益城町文化財保護委員)
永田日出男氏(舫船の会同人)
の諸氏が三三五五、出迎えロビーに参集。
予定より十分ほど遅れて、飛行機は十四時五十五分に到着。金氏には大阪青丘文化ホール代表の辛基秀氏が同伴していた。
辛氏とは初対面、頂いた名刺に堺市西野と住所が刷られている。四十年前に三十三才で小生が初代校長として創設した中学のあったところで、辛氏子女二人ともその学校の卒業生とかで親しみを覚えた。
しばし休憩して熊本市内のホテルに案内をと言ったら、金氏は時計を見て「清田先生、いつかお話の荒帆神社へ参りましょう」と。
一行九名は四台の自動車に分乗し、松野、広嶋氏の車の案内で益城《ましき》町に向かう。途中丘陵で下車、細雨に煙る船野山、飯田山(船野山の陰)を益城の街越しに遥か南に望見し、松野氏による両山、並びに荒帆神社鎮座地の辺りの説明をきく。
既に夕靄《ゆうもや》が立籠《たちこ》めはじめたので益城の街を通りぬけ、木崎の鎮守へと急ぐ。参道下にはジープが一台あり、熊日記者某氏が待ち受けていた。一行は車を道の脇に寄せて駐車。鳥居をくぐって四、五十米で石段、登りきると右側に一位の大樹が亭々と聳える。
人吉の相良氏が慶長の役の凱旋記念に今の市役所近くの道路に植えたあの一位の古木より幾周りか大きいので、樹齢は四、五百年はあろうか。正面は拝殿、昇殿参拝。松野氏の特別の取計いで、幣殿より神殿に進み謹んで神像を拝する。……
肥後国誌にある飯田山常楽寺と荒帆大明神社の縁起によると、欽明天皇十二年、天皇の命によって日羅が百済国より召喚された際、乗って来た船が此所《こ こ》に覆《くつがえ》って山となった。今の船野山である。その船の四十八人の水夫を祀《まつ》ったのが、荒帆神社である。神像は四十八体であるが、正保二年(一六四五)から三年にかけて改めて造ったので、新旧合わせて九十六体が並べてある。
神像はどれも六、七十センチの木彫だったが、要するに、それは百済から来た「水夫」たちの像で、「舟神様」ともいわれているものであった。
「水夫」にしては冠帽を頭にしたものや、女性の像もあったりして、一向にそれらしくみえなかった。そういうこともあってか、私がその神像をみてすぐ思いだしたのは、能登(石川県)の中島町にある久麻加夫都阿良加志比古《くまかぶとあらかしひこ》神社の「朝鮮風の珍しい神像、いかにもコマ〈高麗=高句麗〉の神にふさわしい」(石川県高等学校社会科教育研究会編『石川県の歴史散歩』)というそれだった。
残っている朝鮮語「ネー」
神像に寄せるロマン
私は、「船が此所に覆って」うんぬんというのは後世の付会で、荒帆神社の「四十八人の水夫」の像という神像も、能登・中島町の久麻加夫都阿良加志比古神社の「朝鮮風の珍しい神像」と同じように、益城平野のそこへ渡来した者たちが祭ったものではないかと思ったわけだったのである。四十八体だった神像がその後さらに、「正保二年(一六四五)から三年にかけて改めて造ったので新旧合わせて九十六体」となっていることからみても、そういえるのではないかと思われた。
なお、そのような「朝鮮風の珍しい神像」はほかにもよくみられるもので、たとえば、河内(大阪府)柏原市の金山彦神社や、河内長野市にある千代田神社などの神像もそういう木彫像であるが、いまみている益城町の荒帆神社とその神像のことは、一九八二年一月一日の熊本日日新聞にも出ていた。「渡来の民の舟神様が……/益城町の荒帆神社に四八体/古代へのロマン、果てしなく/浮かび上るか“環有明圏”」とした見出しの特集記事で、それのことがこうある。
冬枯れの田んぼに立って、大きく息を吸ってみたが、もちろん潮の香りなどしない。
海岸線から約二十キロも奥まった上益城郡益城町。
「どこから見ても船が引っくり返った格好をしているから船野山」と土地の人々が言う標高三百七メートルのなだらかな山塊の根元に、舟神様を祀《まつ》った荒帆神社がある。
ここに「朝鮮の服装をした神様が四十八体おられる」と教えてくれたのは、同町生まれの郷土史家永田日出男さん(六二)だ。
永田さんは、「この神々こそ益城平野を開いた渡来民族では」と推理するが、果たして――。
お宮の石段の横に、町の青年団が作成した案内板が立っており、それには「この神社の御神体は四十八体といわれ、飯田山常楽寺を作った百済の日羅が乗った船が転覆し、その時乗っていた四十八人の船乗りたちがおぼれ死んだために、その人々の霊を慰めるために神として祀ったといわれます」とあった。……
神社のお堂には地元の老人会長や町の文化財保護委員、氏子総代といった人々が集まっていた。“四十八体の神々”も奥の神殿から運び出され、ずらりと並べられている。
なるほど、木彫りのこれらの神々は、異国的な服装をしている。
「これは代表者と思われる六人の神様です」と永田さんが指さした六体は、エンマ様のような冠をかぶり、なかなか威厳のある顔立ち。ゆったりした衣服を着て、そで口を合わせて手を組んでいる。
古老のような神様、壮年の神様、女の神様、処女と思われる神様、目のギョロギョロした少年の神様――。
「この神様たちを見て、ああ、これは渡来人ではないか、とピンときましたよ」と永田さんは言う。……
神社から見下ろせる場所に、「鑓《やり》」という名の四十ヘクタールほどの良田がある。
ヤリという言葉には、神前にささげる粢《しとぎ》を作る田といった意味もあるらしいが、「有明海の向こうからやって来た渡来人が発見したのが、あの田んぼだったんですね。きっと当時では最高の鉄文化を持って来たと思う」
永田さんの古代へのロマンは、果てしなく広がるが、それを証拠だてる遺跡もいまのところ出ていない。
最高の鉄文化の証拠
そこで、まず「それを証拠だてる遺跡」についてみると、右の記事が出た四年後の、一九八六年二月二十五日の同じ熊本日日新聞に、「最長級の鉄製直刀/益城町/上神内横穴墓群で出土」という見出しのこういう記事が出ている。
上益城郡益城町が調査していた同町寺中上神内の上神内横穴墓群から二十四日までに、古墳から発掘された刀のなかでも最も長いクラスの直刀(九十四センチ)が見つかった。県内は全国的にみても横穴墓が多く、その歴史の解明に貴重な資料となりそうだ。
上神内横穴墓群は約三十基。六世紀後半から七世紀前半にかけての古墳時代後期に造られた。
今回の調査対象になったのは十一基。阿蘇溶結凝灰岩層に一・五メートルから三メートル四方の横穴がある。このなかの三基の横穴から、四本の鉄製直刀が発掘された。最も大きい直刀は長さ九十四センチ、幅三・五センチで保存状態もいい。このほか直径三・一センチの銀環一個、青のガラス玉一個、数多くの須恵器が出た。
横穴墓の特徴は内側は全面赤く塗られているものが多い通路をはさんでコの字型の屍《し》床が多い天井は家形に造られ、奥の屍床の仕切りはゴンドラ型の船の形を表現したものがみられる二基には閉そく石があった――などだ。
原口長之山鹿市博物館長は「横穴は一般的に区長さんクラスの墓と考えられており、九十四センチもの直刀が遺物として出るのは非常に珍しい。郷戸の長の墓か、それ以上の有力な被葬者がいたのではないか。郷戸を見直すきっかけになりそう」と興味を示している。
いまみた横穴古墳群のうち三基から四本もの「鉄製直刀が発掘された」ことで、「きっと当時では最高の鉄文化を持って来たと思う」と言ったとある永田さんのことばはそのとおり、当たっていたとしなくてはならない。
ただ問題は、さきにみた荒帆神社の神像とこの古墳群の被葬者とがどう結びつくか、ということであろう。むつかしい問題であるが、しかし私は、益城町文化財報告第七集の『飯田山常楽寺周辺調査概要』にある冠帽を頭にした荒帆神社神像の写真をみても、「郷戸の長の墓か、それ以上の有力な被葬者」とはこれらの「神像」となった者たちではないか、と思えてならなかったものである。
「ナイ」「ネー」は「ハイ」
荒帆神社からの私たちは、雨のなかを熊本市内へ向かったが、清田之長氏の「金達寿氏と共に/肥後の国に朝鮮文化を探る」によってみると、それからのことはこうなっている。
雨中を木崎〈荒帆神社の所在地〉より益城の街に引き返し、左折して熊本市内に向かう。熊本市新生を通る頃には日は没し、雨足しげく、車は渋滞する。やっとの思いでキャッスル・ホテルにたどり着く。
金、辛両氏のチェック・インの間に車をホテル裏の駐車場に入れ、ホテル食堂の中を通り抜け、ロビーの出口で二人を待つ。外は雨はげしく、ボーイより傘を借りて近くの「カリガリ」に両氏を案内した。
高浜、島谷、松野氏は先着。富樫氏は早くから来着の様子。珍しい料理が次から次と卓上に運ばれる。今朝、広島より直送の新鮮な牡蠣《か き》を高浜氏が持参提供、美味。雨を衝いて二人来会、田辺、上村両氏である。やがて熊本日日新聞の久野局長も来会。
松野氏も加わり、金、辛両氏歓迎の会は盛り上がる。アルコールの作用もあって卓見、高説が声高に卓上を行き交う。歓談三時間、明日の再会を約して解散。
この「歓談三時間」とはまさにそういうものであった。なにしろ、参会者は熊本地名研究会の人々だったが、同時にみなさんは、『熊本の上代遺跡』の編著者である田辺哲夫氏ほかの郷土史家ばかりだったので、私もそこではたくさんのことを教えられたものである。
教えられたことのひとつに、「ハイ」「ナイ」「ネー」という、どちらもイエス(yes)という意味であることばのことがあった。
だいたい私が、「ハイ」ということを「ナイ」というと聞いたのは、二十年ほどまえ肥前(佐賀県)有田の町を歩いたときのことだった。あるたばこ屋に寄って、道をたずねたついでにたばこを一個買い求めたところ、そこのおかみさんが笑いながら、「ナイ」と言ってたばこをわたしてくれた。
けげんな顔をした私に向かって、たばこ屋のおかみさんはなおも笑いながら、この地方では「ハイ」ということを「ナイ」というのだと言うのだった。「へえー」と私は思ったのだったが、そのうち私は、中島利一郎氏の『東洋言語学の建設』にある「朝鮮語を通して見たる日本語」の項を読むにおよんで、さらにまたもう一度、「へえー」と思ったものだった。
というのは、私はまだ、「ナイ」というのが朝鮮語「ネー」の転じたものであることを知らなかったからだったが、中島氏はそのことをこう書いていた。
我々がハイという場合にナイという地方があります。これは九州に於いて肥前地方はハイという語をナイといいます。……このナイということはハイという意味です。そしてこれは朝鮮語のナイで、即ちyesの意味です。これを朝鮮語ではナイと発音します。或はネーといいます。これが九州に影響しているのです。
東北地方でも庄内あたりでナイというのは、ハイという意味であります。故田中義成博士が曽《かつ》て史料編纂官として庄内に行ったが、何処《ど こ》の寺にどういう古文書がある筈と、予め承知の上で、その寺に行って、そういうものがあるかと訊けばナイという。そこで大失敗をしたということがあります。……田中博士はそれを無いと返答されたと思い、引返されたという失敗談であります。
これで私は、「ナイ」とは朝鮮語「ネー」ということの転じたものだということを知ったのだった。ところが、さきの「歓談三時間」でのはなしによると、熊本地方ではそれが「ナイ」でもなく、朝鮮語そのままの「ネー」だというのであった。
「わたしたちがさきほどまでいた益城のほうでは、いまでも丁寧な返事のばあいは、ネーといいます」と、益城町文化室長の松野さんだったかがそう言うと、玉名郡玉東町に住む清田さんほかも、「そうです。そうです」と横からうなずいた。
そこで私はさらにまた、「へえー」となったのだったが、朝鮮語のばあいでも、目下の者に対しては「アア」とか「ウン」とかですますことがあるけれども、目上の者に対しては、「ネー」と丁寧なそれとなるということまで、熊本地方は同じなのだった。
それで私は、もうひとつ思いだしたことがあった。私が生まれたのは朝鮮南部の慶尚南道であるが、この地方の若い人と話していると、「クロッスムニダ、ネー(そうなんです、ハイ)」「クロチアンスムニダ、ネー(そうではないんです、ハイ)」とその語尾にやたらと「ネー」がついてまわる。
日本語のばあいでも、「そうなんです、ハイ」「そうではないんです、ハイ」という人をよく見かけるが、これなどにしても、一般によく使われている日本語の「そうですネ」「ちがいますネ」という「ネ」とともに、同じ根からきているものなのかも知れなかった。
朝鮮語と日本語には鍋《ナンピ》、釜《カマ》などいまも同じようなものが少なくないが、ことばのことがでたついでに、ここで一九〇七年の明治四十年に出た吉田東伍氏の『大日本地名辞書』第一巻「汎論」中の「第四 地名原義論」をみると、その関係のことがこう書かれている。
上古には、日本と韓国(新羅任那等)は、同語同言の人民たり、各自に其方俗を異にしたるにせよ、語言の根元に於ては、理論上全く同一に帰せらる。此際の異同の論は、専《もつぱら》転訛の程度如何といふに在《あ》らん。即、転訛の差異が、両国の差異を示すに過ぎざりけん。もし夫《そ》れ、両国共に古言を保守して、転訛少き名辞の在るあらば、古今同名と謂ふを得ん。されば本邦古言の考証は、多く韓語によりて資益せらる。
しかしながら、熊本地方にはいまなお、朝鮮語「ネー」が転訛もせずそのまま生き残っていたとは、私は知らなかったものだった。
藤崎八幡宮の祭り
熊本城と加藤清正
熊本城がそこに見えるホテル・キャッスルで一夜を明かした私と辛基秀氏とは、午前八時になったところで外に出た。そして前夜「歓談」した近くの「カリガリ」へ行って、そこの主人であるとともに熊本地名研究会員でもある松浦豊敏氏といっしょになり、その松浦さんの案内で熊本市内をひとまわりしてみることになっていたからである。
清田之長氏ほかのみなさんと「カリガリ」前で会って出発することになっていた十時までには、まだ時間があったからだったが、熊本市内にしても行ってみたいところは多かった。たとえば、そこに見えている熊本城にしてもそうだった。
加藤清正の名とともに有名な熊本城は、清正が豊臣秀吉の朝鮮侵攻戦争に参加したときに、朝鮮から連行した石工や瓦工たちも加わって築かれたものといわれていたからである。「扇勾配」というその城郭の石積みをした石工のことはわからないけれども、屋根などの瓦を焼いた瓦工のことは『熊本市史』にこうある。
清正が熊本城および城下町の建設にあたり、瓦の需要は莫大であったが、その瓦工の棟梁は清正が連れて来た高麗〈朝鮮〉人で、日本名を「福田」と称さしめ、熊本市郊外の小山戸島村に住まわした。
そして清正はまた、城下のそこに軍事を目的とした朝鮮式の高麗門をつくったことから、「高麗門之跡」という石碑のあるあたりがいまは高麗門町となっているが、その熊本城は「西南の役」のときに天守閣を焼失していた。で、一九五九年にそれを修復しているが、その工事中に完形の「朝鮮瓦」が発見されている。
この朝鮮瓦は文様のはいった軒丸瓦・軒先瓦のことで、それがいまは観光用となっている天守閣に展示されているとのことだった。しかし、わざわざ行ってみるまでもあるまいと、そこはやめることにしたが、清正によって朝鮮からもたらされたものとしては、そのような朝鮮瓦ばかりでなく、ほかにまた、「加藤清正公が創造になり」という「朝鮮飴」がいまもあって、かつては参勤交代時の幕府への贈り物ともなっていたものである。
本妙寺の金官の墓
古代のそれにしても、熊本市内には千金甲《せごんこう》古墳群はじめ、「朝鮮半島の百済で盛んであった磚墓《せんぼ》や当時の建築様式が影響を与えたと思われる」(田辺哲夫編『熊本の上代遺跡』)横穴石室の万日山古墳などのほか、それ以前の遺跡などもあちこちにたくさんあった。その遺跡としては、たとえば、熊本市に住む野口照男氏が送ってくれた一九七二年四月十八日の熊本日日新聞に、こういう記事がのっていた。
「朝鮮系の石ゾク出土/弥生前期?/婦人の骨と石棺も/熊本市健軍町」とした見出しのもので、本文はこうなっている。
熊本市健軍町の遺跡から十七日、骨の入った石棺と中部九州以南には分布しないといわれていた朝鮮系の有茎有稜磨製石鏃が発見され、考古学関係者の注目を集めている。
石棺と石鏃が発見されたのは同市健軍町の木村専《あつむ》さん(三八)=みやげ物商=所有の土地で、家屋新築のため庭木を掘り起こしていて見つかった。十七日午前十時から熊大法文学部教授国分直一氏や市社会教育課主事鈴木喬氏、熊本博物館の学芸員ら十人が発掘に当たっていたが、約一メートルほど掘ったとき、石棺のすぐ横に棺に供えるような形で石鏃が発見された。
国分教授の話によると、同種の石鏃は主として朝鮮半島南部に広く分布が見られ、九州では北部九州にわずかに発見されている。非常に精巧で貴重なもので、九州南部・熊本で発見されたのは、おそらく今度が初めてだろうという。北九州の発見例は弥生時代前期の遺跡からで、今回の石鏃もほぼ同時代のものと思われる。
一方、石棺内部の人骨は鑑定に当たった九大医学部の北条暉幸講師の話では身長約一四〇センチ、四十歳前後の婦人の骨で、ほぼ完全な形で発見されたが、発掘のさい石棺のフタの部分がくずれ落ち頭骨は砕けてしまった。正確な埋葬年代は不明だが、石鏃と関係があれば弥生時代、もしくは古墳時代早期のものと思われる。
石棺は地中約一メートルのところに、南北を向いた形で安置され、厚さ二・三センチの安山岩で作られた箱式石棺で、内部はベンガラ(酸化鉄)で赤く塗られ、人骨の頭部には粘土のマクラようのものが敷かれていた。市内で古代遺跡から人骨が発見されたのは四十二年・小島下町高城山の船形石棺、四十三年・春日町花岡山の箱式石棺に次いで三度目で、その点でも今回の発掘は考古学上の貴重なものだ。付近は下江津遺跡群と呼ばれるように遺跡の多い地帯で、十七日発掘された遺跡のすぐそばにも箱式石棺が発見されており、今回の調査員は引き続き付近一帯を発掘調査したい、としている。
しかし、いまではそれらの遺跡地にはただ家並みがたちならんでいるだけだということで、私たちは結局、このときは花園町にある本妙寺と井川淵町の藤崎八幡宮とをたずねてみることにした。本妙寺は加藤清正の墓所となっているところで、清正が朝鮮から連行してきた日遥上人が第三世の住職となっていた寺院だったが、なぜそこをたずねてみる気になったかというと、日遥上人ということのほか、そこにはまた金官の墓というのもあったからである。
金官とは、これも清正に朝鮮から連行されて来て、二百石どりの家臣となっていた者だったが、かれは清正の死とともに殉死したので、そこに葬られたのであった。私は、「朝鮮人金官墓」と彫り込んだ大きな自然石の墓標の前に立って、さきにみている(「佐賀市唐人町にて」の項)肥前藩主の鍋島勝茂に殉死した洪浩然といい、忠義・忠節とはいったいどういうことか、と改めて考えないではいられなかった。
藤崎八幡宮の“ボシタ祭”
そのことについてはいずれまた別に、ということにして、次の藤崎八幡宮は、「総坪数四千三百七十六坪七合五勺」という境内に豪壮な楼門や社殿を構えたものだった。しかしそんなことだったら、その総本社である宇佐八幡宮はじめ、これまでもたくさんみていた。そうだったにもかかわらず、これまたなぜそこをたずねる気になったかというと、藤崎八幡宮には、「随兵《ずいひよう》行列」という有名な祭りのことがあったからである。
この祭りは別名を「ボシタ祭」ともいうもので、それがどういうものであるかは熊本出身の友人からも聞いていたが、統一日報という新聞の文化欄に連載された尹達世記者のルポ「壬辰倭乱の痕跡を訪ねて」「熊本編」にそのことがこうある。「壬辰倭乱」とは肥後の加藤清正軍も加わった、豊臣秀吉による朝鮮侵攻戦争のことである。
たまたま熊本市を訪れたのが、熊本二大祭の一つ、藤岡八幡宮の例大祭の最終日で、いわゆる随兵会の祭の日であった。この祭は、清正が“朝鮮出兵”の時戦勝を祈願し、帰還後、その無事を感謝した時から始まったといわれる。もっともこの祭は“ボシタ祭”といったほうがよく知られており、このボシタという意味は何と“朝鮮を亡ぼした”という意味からきたという。
壬辰・丁酉倭乱の末期、清正らが蔚山城に押し込められ、命からがら日本に逃げ帰った史実を考える時、“亡ぼした”ということはまったくの虚勢としかいいようがないのに。
“ボシタ、ボシタ、ホロボシタ!”という掛け声は国際親善の点からも好ましくないと、地元の新聞でも数年前からキャンペーンがはられたためか、“ドウカイ、ドウカイ”というのが多かった。それでも済々黌や熊商など、学校同窓会グループには“ボシタ、ボシタ、ホロボシタ”の声があった。済々黌などは西郷隆盛の「征韓論」グループの人々が設立した学校だから、その「伝統」を引き継いで“ホロボシタ”と声高に叫ぶのは、いたしかたないかも知れない。明治初期の教育勅語を草案したのも熊本県人らであったし、この地は国粋主義的なムードのある地なのだろう。
上品な感じの初老の婦人は「やっぱりボシタ祭は、ボシタ、ボシタよ。フィーリングで行かなくては」と、さも感激したような面持で、まわりの観客に同意を求めていたのには少々ショックだった。あとでわかったことだが、神社側は“ドウカイ、ドウカイ”ではなく、“ボシタ”を使ってくれ、と参加者に要望していたとのことだった。
その婦人に“ボシタ”というのはどういう意味かと尋ねると、「もちろん朝鮮を亡ぼしたという意味よ。ほんとはネ、男と女のセックスの意味らしいけど。どっちにしても今は教科書問題のこともあるし、卑わいことばはやめよう、と新聞でかなりやっていたからね」と、懇切丁寧に教えてくれたものだ。
また、ある人の「韓国語で“また会いましょう”(ボップシダ?)という意味だと言った人がいる」とのことばには思わず苦笑した。どこの誰が侵略軍に“また会いましょう”というだろうか。とんでもない説があったものである。
「ボシタ」の語源は?
いろいろな「説」があるようで、「また会いましょう(ボップシダ?)」は論外としても、「ドウカイ、ドウカイ」というのも私にはよくわからない。それより、その「ボシタ」ということのもとは、どういうことからだったのであろうか。
やはり「その婦人」が言ったとある「ほんとはネ、男と女のセックスの意味らしいけど」というのがほんとうのようで、森田誠一氏の『歴史滴録』にある「藤崎サンのお祭」の項をみると、藤崎八幡宮のこととともに、そのことがこう書かれている。
その〈藤崎八幡宮〉発祥地は九州の宇佐。八幡を武神とするのは後の付託で、発生的には農耕神。多くの旗をたて(ヤハタ)穀霊の若宮を祭る(後に九州生まれの若宮、応神が祭神になる)といわれた。だが、最近は「ヤハタ=機織物」とみて六世紀ごろ、朝鮮から織物技術を伝えた守護神とみる説が有力。故に生産神である八幡社は宇佐地方に銅が生産されると鉱業神とも考えられ、奈良の大仏鋳造のとき手向山《たむけやま》八幡となる。平安期に石清水《いわしみず》へ新都守護神として勧請《かんじよう》され、信仰が全国的に拡大されてくる。
藤崎宮は所伝によれば、平将門追討のため五所別宮(筑前、肥前、肥後、薩摩、大隅各国に一社)として勧請された国家的大社で、それだけ早くから仏教と結びつき菩薩号が付与され、神仏習合により放生会《ほうじようえ》が祭となる。藤崎宮でも大正ごろまではホージョイともいった。名物の馬追いも宮座中心の迎神の「お旅所神幸」の一つで、本来は競馬同様、その代表集団の吉凶を占うものであった。それが庶民の解放感から卑猥ではあるが、「祭即生産祝」として町衆らしい掛け声となった。明治三年の同宮司や、同三十年代の黒本五高教授の記録にもあるが、古いものには慶応元年の松江藩士の見聞記に「その囃子《はやし》にはボヽシタボヽシタと申也……又茶碗ボヽ茶碗ボヽと申せり。……ケガナイという事を表したる也」と。これを軍国主義的に解釈したのも時代の姿であろう。
その「ボヽシタ」が加藤清正の朝鮮侵攻戦争と結びつけられて、朝鮮を「ボシタ、ホロボシタ!」と「軍国主義的に解釈」されたというのである。これも清正がもたらしたもののひとつだったわけであるが、しかしそれにしても、その軍国主義時代はおわったはずのいまなおそのまままだつづいているというのは、いったいどういうことなのであろうか。
「十六年後のいままた」
私たちは藤崎八幡宮から戻って出発の準備をし、ホテルの食堂でおそくなった朝食をとっていると、そこへ前日からの清田之長氏が来てくれた。きょうの集合場所は、駐車場のこともあって「カリガリ」前を変更し、「古墳室」からみて行くことにしたという県立美術館前になったので、私たちはさっそく清田さんのクルマでそこへ向かった。
そして、私はちょっと目をみはっておどろいた。何と、きょうこれからいっしょに各地をまわってくれる人々は、前日、熊本空港に私たちを出迎えてくれた人たちばかりか、熊本地名研究会代表の富樫卯三郎氏ほか、遠い水俣市から来た同市文化財審議委員の前田安男氏まで加わって、私たち二人を含めると一行は総勢十五人となっていた。
私はこれまでも各地でいろいろな人々の世話になっているが、こんな大勢の郷土史家たちとその地を歩くというのは、こんどがはじめてであった。それというのも、十六年前に大阪で知り合った清田さんのおかげで、ここでさきにまず、その清田さんと私との関係についてみておくことにしたい。
そのことについては、私はすでに「十六年後のいままた」という一文をある小雑誌に書いており、それが『熊本地名研究会』第十七号にものっているけれども、そこに私は、「で、この清田さんについてであるが、私の、関西をあつかった『日本の中の朝鮮文化』第二冊目をみると、こういうくだりがある」としてこう書いている。
――そして待っていてくれた鄭貴文といっしょになり、私たちはさっそくクルマをだして、大阪市住吉区にある府立阪南高等学校に、清田之長氏をたずねた。すぐに校長室にとおされた私たちは、そこで清田さんから部厚な書類を手わたされた。
それは清田さんが、『大阪府全史』その他によって克明に調べ上げた大阪府における神社のリストと、それからこれも克明な、それら神社の所在地をしるした地図とであった。しかも神社のリストと地図とには、いちいち番号がふってあり、その番号によって所在地もわかるようになっていた。
私はまず、そのようにまでしてくれた清田さんの好意と熱意とに感謝したものだったが、ところでそのリストにある神社の数は全部で七百三社、それにまたいちいち、レ印や○印がつけられている。「注」をみると、レ印はいわゆる「帰化人系の神を祀った社」とある。
「いやあ、これはおどろいた」と、いっしょにそれをみていた鄭貴文がさきに声をあげた。
「ほとんど全部みなそうじゃないか。これだったら、なにもいちいちみて歩く必要などないね。全部みんなそうだ、と一言いってしまえば、それでいいようなものじゃないか」
いつもの彼の冗談だったが、しかしそれは、ほんとうにそう言いたくなるようなものだった。そのことをいうと清田さんは、
「しかし、事実だから仕方ありませんね」と言った。「さきの戦争の体験からして、わたしたち日本人も、これからはすすんでそのことを明らかにして行かなくてはならないと思うんです。神とはいっても、もとはみな人だったのです」
私たちは清田さんといっしょに阪南高校を出て、東住吉区矢田枯木町にあった阿麻美許曽《あまみこそ》神社から、河内の羽曳野《はびきの》市へとまわることになった。――
右のくだりのある『日本の中の朝鮮文化』第二冊目が出たのは、一九七二年一月であった。したがってその原稿が書かれたのは前年のことで、いまからするとちょうど十六年前となる。
つまり、大阪府立阪南高校長を定年となって、それからは熊本の郷里に帰っていた清田さんに私が再会することになったのは、実に十六年ぶりというわけだったのである。しかも、ただ再会したのではなく、また十六年前の大阪でと同じように、私はその清田さんを先頭にしたみなさんに、肥後のあちらこちらを案内してもらうことになったのであった。
私としては、玉名郡菊水町の江田船山古墳ほか二、三のところをたずねたいと言っただけで、こんどもまた大阪でと同じように、清田さんたちまかせで歩くことになり、そのはじめが県立美術館の、肥後に多い装飾古墳を中心とした「古墳室」となったのだった。私はそこにそんな古墳室のあることも知らなかったが、しかも、地下となっているその古墳室は、私たち一行のなかにいた高浜幸敏氏がつくったものだとのことであった。
装飾古墳と斎藤山の鉄斧
県立美術館古墳室
「古墳室」とはいっても、各地にある古墳をそのまま持ってくることはできないので、それの模造が主だったが、県立美術館地下のその装飾古墳室については、これまた、清田之長氏の「金達寿氏と共に/肥後の国の朝鮮文化を探る」からみることにする。そこにこうある。
ゆるやかに下る通路を地下へ。山鹿市大字鍋田にある国指定史跡鍋田横穴の入口に突き当たる。見事な出来栄えの模造品。墓室入口を守るかのように、弓矢を持ち両足を踏み張り手を拡げている人物、靫《ゆき》、盾《たて》、馬等の浮彫がある。
右に進むと黄泉《よみの》国《くに》、暗黒の世界、高い天井からスポットライトが降り注ぐ。左手に千金甲甲号古墳、熊本市小島町所在と標示してある。正面に見える囲み石の文様は、二段に並ぶ三重同心円と靫とが交互に浮彫りされ、彩色してある。
右隣に翳《さしば》、衣蓋《きぬがさ》、靫の実物がある。六世紀のもの、八代郡龍北町姫ノ城古墳出土品、龍北町龍北北小学校蔵品、阿蘇泥熔岩で作られている。
その右に大鼠蔵《そぞう》古墳石棺材、七世紀のもの、八代市鼠蔵町大鼠蔵東麓古墳出土の実物、八代市教育委員会所蔵品。……
奥の室の壁面には熊本県下の装飾古墳分布図がかかり、古墳所在地には豆電球があり、その前にはそれに連動する押しボタンを並べた卓が横たわっている。ボタンに装飾古墳が記されていて、それを押すと前方の地図にランプが点灯して、古墳の所在地が一目判明する仕掛けである。
清田さんの古墳室の描写はまだつづいているが、要するに私たちはそこで、九州でも肥後にもっとも多い装飾古墳をひとわたりみることができたわけであった。
それらの古墳のことは、私は以前、熊本へ来たとき県教育委員会をたずねて、みごとなカラー写真でできている『熊本県の文化財 史跡』を入手してみていたし、その他の書物などでもみていたが、それらのレプリカや実物を目の前にすることができたのは、また格別なことであった。
肥後の装飾古墳
ここで、熊本県高等学校社会科研究会編『熊本県の歴史散歩』により、肥後の装飾古墳をみるとこうなっている。
装飾古墳は全国二五〇余基あり、県内にはそのなかばに近い一一八基(五一年三月現在)あり、全国第一。装飾古墳の特色は幾何学文、具象画などを彩色した菊池川流域、線刻で船などをえがいた宇土半島、円文を主体とする八代平野などに大別できる。
具象画はチブサン(山鹿市)・弁慶ケ穴(同)に代表され、千金甲《せごんこう》(熊本市)は靫《ゆき》と幾何学文の調和がうつくしい。線刻の船は仮又《かりまた》(宇土市)・桂原《かずわら》(不知火町)など。円文は五反田(八代市)・田《たの》川内《かわち》(同)、天草松島町の大戸鼻《おおとばな》など。凝灰岩をくりぬいた横穴は県下各地にあり、装飾をもつものも多い。石貫《いしぬき》穴観音(玉名市)・ナギノ(同)・城《じよう》(山鹿市)・鍋田《なべた》(同)・長岩(同)・桜の上(鹿央)・大村(人吉《ひとよし》市)・京ガ峰(錦町)など。
なお、それら装飾古墳については、『日本古代史と遺跡の謎 総解説』にある西谷正氏の「装飾古墳に秘められた謎―その文様・顔料などから朝鮮半島との関係をさぐる―」をみるとこう書かれている。
九州の装飾古墳のなかで、とくに注目しておきたいのは、朝鮮半島三国時代の高句麗の壁画古墳との関係である。竹原古墳の朱雀・玄武、ならびに福岡県珍敷塚の奥壁の二匹の蟾蜍《ひきがえる》のほか、王塚古墳では、前室奥壁左側の上部に描かれた両手・両足を広げた小人物像は、高句麗古墳壁画中の守門将を連想すべきであろうか。さらに、福岡県日の岡古墳の奥壁全面を飾る同心円文の多用も、高句麗とのかかわりがあるかもしれない。
これらの装飾古墳が築造された六世紀後半といえば、朝鮮半島では、新羅の勢力拡大に伴って高句麗と日本は、新たな交流を開始するが、そうした国際情勢の転換を背景として、高句麗壁画古墳の影響を理解すべきであろう。なお、装飾古墳は、初期には前方後円墳との結びつきも深く、各地の首長層を背景としているが、後半期ではかならずしもそうとはいえないようである。
新羅の海賊?
地下の古墳室から出た私たちは、そこでいよいよ出発ということになった。一行は、それぞれだれかの自家用車である四台のクルマに分乗してだったが、私と辛基秀氏とは清田さんのクルマに乗せてもらった。
クルマはいったいどこを、どう走っているのか、私にはよくわからなかった。熊本市西北方の玉名のほうへ向かっていることはたしかで、道路は間もなく海辺となったが、それからのことも、清田さんの「肥後の国に朝鮮文化を探る」でみるとこうなっている。
熊本駅南の跨線橋を渡って田崎をぬける。ぬけたところで先導車が停止。弁当を買うためである。金氏を車に残し、辛氏とヒライに入る。弁当、茶、それぞれ三個を求めて車に戻る。
先導車に随って坪井川右岸を走る。バス停近津《ちこうづ》のあたりより右折して小川沿いにさかのぼり、松尾町近津の集落に入り、小橋を渡って神社の境内に参入。華表には鹿嶋宮とある。社殿に向かって左側に石碑。神社の由緒が次の通り彫られている。
「当社ハ人皇六十代醐後天皇ノ寛平三年(西暦八九三年)時ノ参議藤原保則ガ外寇防衛ノタメ護国鎮護ノ祈ヲ籠メ常陸国鹿島宮ノ御分霊ヲ請ヒ祭祀シタト伝フ 寛平三年五月新羅ノ国ノ海賊ガ島ヲ根拠トシテ襲撃シタ 住民ハ松火ヲ取リ良ク応戦撃退スルヲ得タガ夥シイ財宝ヲ奪ハレタ―後略―」
この地に新羅の「海賊」の来襲があり、撃退した事は史実であるが、右の碑文の人皇六十代醐後天皇は醍醐天皇の誤り、又寛平三年は寛平五年の誤り。尚寛平元年より九年七月三日までは、五十九代宇多天皇の御代である。
境内の日溜りをえらんで腰をおろし、天山のハングライダーと鳶との戯れを仰ぎ見ながら午餐をとる。
神社境内の日溜りに一行のみんなが腰をおろし、弁当をひろげるのはなかなかたのしくもあったが、しかし私は一方で、ちょっと妙な気がしていたものだった。だいたい、「倭寇」とは逆に「新羅ノ国ノ海賊」というのも珍しかったが、その「海賊」が私たちが腰をおろしていたその地を襲ったということは、『日本紀略』宇多天皇段にも出ている。
しかしながら、朝鮮半島東南の新羅からかれらはいったいどうして、どのようにして、有明海・島原湾岸のそこまでやって来たのであろうか。「島ヲ根拠トシテ」とあるが、その島はどこの、どういう島だったのであろうか。
私は別にその「史実」を疑うつもりはなかったが、それにしても、博多湾岸あたりならともかく、新羅からのそんな海賊を想像することは、なかなかむつかしかった。
遠い奥まった内海である有明海沿岸にしても、片道の渡来はいくらでもあったが、しかし、往復を前提とするそんな海賊がいたとは、私にはちょっと考えにくいことだったのである。
斎藤山遺跡の鉄斧
それはともかくとして、ついで清田さんの「肥後の国の朝鮮文化を探る」をみるとこうなっている。
近津を出発して河内町に入る。海岸を走り、塩屋、船津を経て天水町に出た。呑崎より受免を経て、玉水郵便局の四ッ辻を右へ折れて尾田道を行く。目的は斎藤山貝塚である。
先導車が停まり、田辺、上村氏が下車、後続もそれにならう。右手の山の尾根が流れ出て、道に迫っている。さて、斎藤山はどの辺かと田辺氏に続いて金、辛氏と共に進む。道路沿い左に二軒、右に一軒ほどの小集落に入った。入って直ちに田辺氏は右手道路沿いの崖下に入り何かを探索しながら、「ここが斎藤山貝塚です」と言う。
国学院大学教授の乙益重隆氏と田辺氏が昭和三十年に、ここで弥生期最古の板付式土器の包含層から斧とおぼしき一個の鉄器を発見された。長さ四・二センチ、片刃で柄をはめこむ袋部がついている。
それが日本最古の鉄器ではないかとされた、いわゆる斎藤山貝塚の鉄斧である。そういうことがあったので、私はまえからその斎藤山遺跡をたずねてみたいと思っていたものだった。
だが、そこまで来てみると、斎藤山というのは道路沿いの、どこにでもみられるそんな低い小さな山にすぎなかった。道路の前は田んぼとなっていて、田辺氏にいわれてみると、そこの水路端にはいまなおたくさんの貝殻が散らばっていた。
そして田んぼの向こうにひろがっている海に目が行って、なるほどと思ったものであるが、要するに、目にみえるものとしてはそれだけのものでしかなかった。しかし、同行の田辺哲夫氏らがそこの斎藤山で鉄斧を発見・発掘した意義は大きかった。
日本の弥生時代前期には稲作農耕とともに、鉄器もはいっていたことを証明したものだったからであるが、そこに貝塚があるという田辺氏からの通報によってはじまったとする発掘調査のことは、乙益重隆氏の「熊本県斎藤山遺跡」にくわしいが、森浩一編『鉄』にも、それの問題点とともにこう書かれている。
現在のところ、弥生前期に属するほぼ疑問のない鉄器としては、熊本県天水村斎藤山遺跡の鉄器、鹿児島県金峰町高橋貝塚の銛か刀子の一部と推定される鉄器の破片、山口県下関市綾羅木遺跡の刀子と鉄片四個がある。……
斎藤山遺跡の鉄器は、急斜面に堆積したカキ・ハマグリなどからなる貝層の中から、縄文晩期の夜臼《ゆうす》式土器と弥生前期の板付式土器とともに出土し、長さ四四ミリ、幅五五ミリ、刃先の部分だけがのこっている。形態は木製の柄を挿入するためのソケット状の袋部を具えた斧と推定されている。この鉄器にたいして、発掘後の顕微鏡写真検査法によって、炭素含有量〇・三%(この測定法と結果は再検討を要する)の鍛造品という測定がなされ、日本最古の鍛造品として扱われてきたが、その後、表面観察によって鋳造品ではないかとの意見があらわれている。
斎藤山遺跡の鉄器は、舶載品であると推定されているが、これが鋳造品か、鍛造品かという問題は、日本列島における鉄器の初現についてだけでなく、同時期における東アジア各地域の鉄器文化の内容ともかかわるものである。大局的にみると、弥生文化は縄文文化の社会を基盤として発達してきたものではあるが、弥生文化がはっきりとその姿をあらわすためには新しい外的な文化が強烈に加わっており、その背景に人間集団の渡来があったことが次第に復原されてきた。それらの渡来集団の故郷《ふるさと》として朝鮮半島やその隣接地域を重視すべきであるので、朝鮮半島の鉄器文化について少し説明しておこう。
白木八幡宮と「白木」
「それらの渡来集団の故郷《ふるさと》」「朝鮮半島の鉄器文化」はおいて、斎藤山遺跡からの私たちが次におとずれたのは、玉東《ぎよくとう》町の白木八幡宮であった。玉東町は清田さんが住んでいるところでもあるので、「肥後の国の朝鮮文化を探る」の順路・描写はいよいよくわしくなっている。
車に戻った一行は前進して尾田の集落に入り、三ッ辻の大楠を左に見つつ急坂を登る。左の崖の上は蜜柑畑、右下は断崖、車は喘ぎ喘ぎ坂を登りきると間もなく玉東町、昔の山北村原倉地区である。
上白木から白木へ下り、農協選果場裏から左折して八幡宮へ。石段の上に建つ鳥居の右脇から迂廻して、車は参道に登る。百メートル直進すると二十段ほどの石がんぎ。その上に二層の楼門が見える。車は左脇の坂道から境内に入る。拝殿、幣殿、神殿すべて見事な造りである。
玉東町白木の白木八幡宮は、いまでは山北八幡宮ともよばれているようであるが、「上白木」「白木」「白木川」などの地名がみられることからもわかるように、そこはもと白木村となっていたところであった。
ついで私たちは、玉東町西安寺の白山比〓《ひめ》神社をたずね、玉東町役場にいたって一服することにしたが、もちろん、私たちがそれらの神社をたずねたのは、白木八幡宮のある「白木は新羅に同じ」だからであり、「朝鮮の巫女・菊理姫」(本多静雄『古瀬戸』)を祭神とする白山比〓神社もまたそうだったからにほかならなかった。
加賀(石川県)の白山におこった白山比売神社が九州・肥後の地にあるというのもおもしろかったが、それはともかくとしても、肥後には白木、多良木《たらき》、百済来などというところがあちこちにある。たとえば、私たちがそこにいた玉名郡ばかりではなく、益城郡や芦北郡にも白木があって、吉田東伍氏の『大日本地名辞書』にもそのことがこうある。
白木妙見と号するもの今に至りて尚多し、……白木は新羅に同じ、新羅国より其《その》修法を伝えし義にや、八代の白木妙見記には百済国と云う、亦《また》ほぼ其義理を同じくす。
益城郡の「白木平」についてのべたものであるが、これをみると、八代にも「白木」のあることがわかる。ついで、芦北郡の「白木」についてはこう書かれている。
今、大野村に併入す。鋒野峠の東にして其水脈は球磨河に帰す。此《この》村は百済来の例を以て論ずれば、新羅来なるべし、推古紀十七年、百済人芦北津に到れる前年に、新羅人多く投化したる事を載す、真否必すべからずと雖《いえども》、亦参考を要す。
白木が「併入」された大野村はいま芦北町となっているが、ここにはまた「百済来」というのがみえる。芦北郡のこの百済来村は、一九六一年に八代郡に合併されて、いまは同郡坂本村となっている。
八代の白木妙見をめぐって
多良木は多羅来
さて、そこで、この日の私たち一行は、肥後北方の玉名郡玉東町役場のロビーに足をとめて一服することになったが、そのあいだに、いまみた白木のある八代郡や芦北郡、それからまた、多良木町がある球磨郡など、肥後南方のほうをちょっとみておくことにしたい。
まず、最南東となっている球磨郡の多良木町であるが、これは吉田東伍氏流にいうと、「この多良木は百済来の例を以て論ずれば、多羅来なるべし」となるのではないかと私は思う。肥前(長崎県)の多良岳、多良見町の多良などとも同じで、これは古代南部朝鮮にあって、のち新羅に併合となった加耶(加羅)諸国のうちの多羅からきたものだったはずである。
多良木町からは北部九州でよくみられた、加耶からのものと思われる細形銅剣が出土していて、そのことが田辺哲夫編『熊本の上代遺跡』「球磨地方概説」にこうある。「多良木町のヤリカケ松遺跡から、細形銅剣一口が出土していることは、北九州弥生文化の伝播を考える上で重要である」
それからまた多良木町には、大刀・矛・鏃・馬具・斧・須恵器の壺・高坏などを出土した赤坂古墳があり、多良木町西南の免田町には才園《さいえん》古墳群があって、ここからも、新羅・加耶からのものとみられる金銅製の馬具類などが出土している。
妙見宮・高田《こうだ》焼
多良木町や免田町などのある人吉盆地のそこからは球磨川が流れ出て、それが八代へと向かっているが、その流れをたどって行くと、さきにふれた百済来の坂本村となり、間もなく「白木妙見」で有名な八代市となる。私がその八代をたずねたのは、一九八六年十一月十七日のことであった。
さきにも何度かふれた、熊本市での日本地名研究所による全国地名シンポジウム・熊本大会がおわった翌日だったが、この日の私は佐賀の唐津で、その日本地名研究所長の谷川健一氏と『地名の古代史』「九州編」の対談をはじめることになっていた。ところが、この日は八代の妙見祭りだそうで、
「どうです、対談は明日からにして、きょうはこの祭りをみに行こうじゃないですか」と、谷川さんからさそわれたのだった。
「ほう、そうですか。それはいい」と私はすぐに賛成した。私はまえから、いまは八代神社となっているそこの妙見宮をたずねたいと思っていたばかりか、以前に、八代史談会の奥野広隆氏から長い手紙をもらったりもしていたからだった。
この日はその手紙を持って来ておらず、忘れていたので、奥野氏に会ってみることはできなかったが、それはこういうものだった。
八代近辺にも朝鮮に関係ある遺跡は、はっきりしたものだけでもたくさんあります。第一に、八代の人なら誰知らぬ者のない八代神社(旧妙見宮)は、百済からの琳聖太子が朝鮮の妙見信仰を最初に流布された地と伝承されています。上宮・中宮・下宮と信仰の歴史的発達にともなって山の上から山の下へと遺跡は点在し、現在の八代神社は平地にあります。
そして八代の人は「妙見さん」の呼び名で、最も身近な神さんとして親しんでいます。ここの御神体は「四寅剣《シインケン》」という剣で、刀身には星宿と護符が刻印され、まだはっきり解明されてはいませんが、朝鮮の刀だとの事は確かだそうです。
又、私の町から奉納する「亀蛇舞」(十一月十八日の妙見宮大祭の奉納行列の中の一つ)は、朝鮮の亀甲船そっくりの形をしており、これに乗って妙見さんが渡海して来られたと伝承されております。八代地方には、この亀蛇にのった仏像が数多く残っています。……
第二に、八代市の南部に「奈良木」という地名があり、この一帯を高田《コウダ》といいます。この「高」をタカと呼ばずコウと呼ぶのは、昔ここに朝鮮からの人が住んでいたためと伝えられています。そして、奈良木集落の谷間には有名な「高田焼」の窯跡があり、山奥には須恵器を焼いた窯跡もたくさんあります。
高田焼の由来は、加藤清正が朝鮮から連れてきた陶工によって始められたのですが、それ以前にも焼いていたといわれていて、これもまだはっきりと解明されてはいません。
奥野氏からの手紙はさきにみた「百済来村」「久太良木」のことなどへとまだつづいているが、私はこの手紙によって、こちら八代の奈良木にもそんな高田《こうだ》焼があることをはじめて知ったものだった。その高田焼のことは、前記『熊本県の歴史散歩』にも、「小代《しようだい》焼などとともに肥後の代表的な焼きものだ」とあって、「高麗青磁の伝統を伝え、生地《きじ》のうえに白色の土で唐草や花などの文様《もんよう》を象嵌《ぞうがん》することに特色をもっている」とある。
白木山神と妙見信仰の習合
熊本市から八代まではかなりの距離で、私たちが八代市妙見町の八代神社に着いたのは正午近くになってからだった。桃山風の装飾をもつ神殿、拝殿、四脚門などがきちっとそろった立派な神社で、拝殿のなかでは氏子代表らしい人たちが集まって祭りの神事がおこなわれていた。境内にも屋台が店を張りだし、人々が集まりはじめていた。
私たちはまず社務所に寄って、『八代神社(旧妙見宮)由緒』をもらってみたが、それのはじめにこうある。
三郡の一の宮 八代神社はもと妙見宮と申し、神道と仏道の両部で経営される上宮・中宮・下宮の三宮をもち、平安朝以来八代代々の領主から、氏神・八代城の鎮守として崇敬され、南北朝から江戸末までは、八代・芦北・下益城三郡の一の宮として繁昌しました。……
このため慶応四年の神仏分離令により、明治四年天御中主神・国常立尊を祭神として八代神社と改称されても県社に列せられ、古来の高い社格はいまにかわることはありません。現在氏子千五百戸、崇敬者多数をもち、当地方の大社であります。大祭は十一月十八日。
これによって私は、私たちがやって来た十七日は大祭の前日であることがわかった。したがって、その大祭のほうはみられぬことになったわけだったが、のち、平野雅曠氏の「天御中主神と妙見さん」をみると、天御中主神社、白木神社のこととともに、その祭りのことがこうある。
熊本県神社誌によると、県内で天御中主神を祀《まつ》る神社は、凡《およ》そ七十一社を数えるが、その中、社名を天御中主神社とするものは僅《わず》か七社で、他は所在地名を社名とするのが最も多く、球磨郡だけは、七社中六社が白木神社となっている。
だが、正式の社名のほかに、通称「妙見さん」で通っているものが数多いのは、それが元の社名だったことを思わせる。
八代郡妙見町にある八代神社は、……例年、十一月十七・十八両日に神幸式が行われるが、近郷近在からの十万人を越す見物人で賑わい、九州三大祭りの一つと言われている。
神幸式には、神馬・花馬・九基の笠鉾・獅子舞などが付き従い、……亀蛇が馳け廻るのは見もので、……亀蛇は陰と陽、つまり男女を表わし、生命力を象徴、子孫繁栄と家内安全、商売繁昌を願ったもので、首の長さ二メートルもある蛇、胴体が畳四枚ほどの亀。重さ二五〇キロのを大人四人で担ぐので、交替として十数人の力持ちが要るという。
大祭日におこなわれるというその「亀蛇が馳け廻る」のをみられなかったのは残念だったが、それよりこの日の私は、百済の琳聖太子によって伝えられたとされる妙見の八代神社がどうして「白木妙見」なのであろうかと、それがまだよくわからなかったので、ちょっとうろうろしていた。
さきにみた『八代神社(旧妙見宮)由緒』をさいごまでみても、そのことは書かれていなかった。で、社務所の人にそのことを言ってみたところ、
「あれです」と私の背後のほう、境内の右手向こうに立ちふさがっている小高い山を指さして言った。「あれが白木山です」
「ああ――」ということで、私たちはさっそくその白木山の麓まで行ってみると、そこに鳥居がたっていて、「霊符神社」とした額がかかっていた。私たちはさらに、その鳥居をくぐって一〇〇メートルほど登ってみると、山腹のそこに古びた祠のような小さな神社があった。しかし、氏子たちはその神社も大事にしているらしく、ちょうど宮大工さんがはいって修理をしているところだった。
私は白木山の中腹にあるその神社の前に立って、眼下にひろがる八代市街をながめわたしながら、「うむ、なるほど」と思ったものだった。「白木は新羅に同じ、新羅国より其《その》修法を伝えし義にや、八代の白木妙見記には百済国と云う、亦《また》ほぼ其義理を同じくす」(吉田東伍『大日本地名辞書』)とあるけれども、しかし、このばあいの新羅と百済とは別でなくてはならなかった。
で、私が白木山中腹のそこに立って思ったことをかんたんにいうと、八代のそこにはさきに新羅の白木神社があって、そこへ仏教からする北斗星信仰の妙見が重なったのではなかったか、ということである。そのことは、のち、富樫卯三郎氏から借り受けることのできた『八代市史』にこうあることからも、うかがい知ることができるのではないかと思う。
江戸中期の学者間にも、縁起にいう白木山神をもって、最初の神名であろうとする考えがあったことは、「皇朝、妙見と名づくることは、もと釈氏におこる。そのはじめ白木平に鎮祭のときまでは妙見の名なく、白木山神といいたるゆえか、いまも妙見白木社とも称せり(『国史』一四六頁、補)によくみえている。
これは、妙見は密教の菩薩名であること、小熊野鎮祭までは白木山神であると、神仏習合成立の時期を上宮鎮祭のときとする考えを言外ににおわせている。この説には大きな誤りはないけれども、「白木山」は神宮寺をはじめ妙見十五坊の山号である。白木山神宮寺というように、中世以後この山号が用いられたことがわかっており、したがって白木山神は社僧側の称呼で、神主側のは明らかでない。
また戦国時代に、相良氏によって「白木社妙見宮」といわれたのは、これも社僧側の称呼で、白木山妙見宮とはいえないから、白木社とかえたもので、中世末この称呼が多くみえる。これも白木山神の起りを暗示している。支那・印度を「から・天竺《てんじく》」といったように、朝鮮は別名を「しらぎ」とよんだので、白木山神は朝鮮伝来の神の思想によったのであろう。
八代は屋代=社《やしろ》
さらにまた、それだけではない。熊本日日新聞に連載された井上辰雄氏の『熊本新風土記』第九十二回目の「八代」をみると、「八代、上古ハ神所也。故ニ社《ヤシロ》ト云リ。後ニ八代ト為ルナリ」と「肥後国誌」にあるそれが引かれて、そのことがこう書かれている。
八代の地名は「ヤツシロ」のほかに「ヤシロ」の訓で読まれることは、以上のことで知られるが、「ヤシロ」は「八代」とともに「屋代」の字が当てられることも少なくなかった。その場合『出雲国風土記』意宇郡の屋代郷の条は示唆的である。……
つまり、八代は屋代=社で、神社の意味であると解してよい。社はもと杜《もり》と同じで、神の降臨する聖木を中心とする神籬《ひもろぎ》式の森を指したが、後になると、この祭祀の場所に拝殿や神の住居を常置するようになり、杜もそれにともなって「ヤシロ」と呼ばれるようになる。「屋代」とは、神聖な建物に神を招《お》ぎ降すところから屋の依代《よりしろ》=屋代が当てられることになったのであろう。もちろん、そのような場合でも御神木を依代とする基本的な祭祀観念が失われたわけではないことは、伊勢神宮の「心の御柱」や諏訪神社の「御柱《おんばしら》」からもうかがえると思う。
その杜を古くは「曽尸茂梨《そしもり》」と呼んでいたらしい。
この「ソシモリ」は「ソシフル」とか「ソホリ」という言葉と関連があり、さらにたどれば朝鮮の徐伐(Spur)に通ずるという。三品彰英先生の説によれば、徐伐は古代朝鮮の国王が祖霊を神聖な樹木に降臨せしめてマツリゴトをした所であるという。そしてこの杜こそが古代の政治集団の中核に位置し、そこをよりどころとして彼らは活躍の場を広げていったのである。やがて、ある集団が勢力を伸張し、周辺の諸集団を統合し国家体制をつくり上げると、その杜の所在地が都となることはいうまでもない。朝鮮の国都に徐伐《ソウル》の名が今日まで伝えられるのはそのためである。……
そうすると、景行紀十八年の有名な火国《ひのくに》地名由来伝承に見られる八代郡豊村を古訓では「トヨフレ」としているのは、大変興味深いといわなくてはなるまい。豊村の「村《ふれ》」は、神の降臨を意味する“降る”ことを現しているのではないだろうか。また「フレ」の語源とされる朝鮮語の村(pur)は、火(pur)や赫(purk)に通ずるという。『肥後国風土記』逸文に、空より燎《も》ゆる火が降り、八代郡の白髪山の賊を滅したことが火邑《ひのむら》、火国の地名起源となったと説くが、これも雷神的な信仰がその根底にあったといってよいだろう。……
このように見てくる限り肥後の八代は、火君《ひのきみ》が斎《いつ》く神の「屋代」から起ったものであり、もとは火神を祀るものと想像してよいだろう。だが、この火君の祀る屋代は本来、宇土半島基部の「豊」の地域にあったのであろうが、既に延喜式の時代にはその所在がつまびらかではなくなっている。
宇土と曽畑式土器
はなしは八代から宇土半島にいたったが、八代市と熊本市との中間に位置する宇土市・宇土半島といえば、そこの曽畑《そばた》貝塚から出土した曽畑式土器で知られたところでもある。その曽畑土器については、高柳光寿・竹内理三編『日本史辞典』にこうある。
熊本県宇土市岩古曽町曽畑にある純鹹貝塚。縄文時代前期の曽畑式の標準遺跡。深鉢丸底土器を多く出土、まれにわん形がある。器表面全体に核線による文様が施され、胎土に滑石粉を混入する。朝鮮の櫛目文土器と相通ずる点が注目される。
「縄文時代前期」というと、朝鮮では三国(高句麗・百済・新羅)時代よりずっと以前、紀元前五千年以上もまえの新石器時代となるが、その時期の「櫛目文土器と相通ずる点が注目される」とはどういうことであろうか。
そのことについては、熊本県教育委員会文化課参事・島津義昭氏の「韓国考古学大会に参加して」という一文が、「関係深い鞠智城と夢村土城/宇土出土の曽畑式土器/“櫛目文”が源と結論」とした見出しのもとに一九八八年一月二十七日の熊本日日新聞に出ている。けれども、それはあとの「鞠智城」跡でみることにして、ここでは一九八八年八月五日の同じ熊本日日新聞にのった「曽畑遺跡などの調査のため来熊した国立ソウル大学教授/任孝宰さん」という「インタビュー」記事を引いておくことにする。
昨年に続いて六回目の熊本。「今では田舎に帰ってきたような気分です」とリラックス。韓国の新石器時代研究の第一人者で、熊本、特に宇土市・曽畑遺跡の研究は、先史時代の朝鮮半島と日本との交流を探る上でも極めて重要なのだという。
今回は県文化課収蔵庫を訪ね、曽畑の出土品などを見た。「韓国の出土状況と全く同じ結果。韓国でも、一番下の層から轟式(縄文早期)のような隆起線文土器、その上の層から曽畑式(縄文前期)に見られる櫛目文土器が出ています」。つまり、土器文化の発展の仕方が同じというわけ。「ただ、曽畑は約五千年前、韓国ではそれより千年さかのぼるでしょう」……
昨年はちょうど発掘調査中だった曽畑遺跡を見て回った。「あれほど、大規模な曽畑調査は初めて。貴重な経験でした」。その発掘のもようは、韓国の夜九時のテレビニュースで報じられたという。それだけ、韓国では曽畑遺跡の存在が重視されているらしい。「ですから、曽畑のことは、日本で、あるいは熊本でより、韓国での方がよく知られているかもしれませんよ」
従って、曽畑の発掘現場が保存されなかったことに驚きを隠さない。「あれほど重要な遺跡を、バイパスのために埋め戻すなんて韓国では考えられません。残念です」
私は宇土の曽畑遺跡が、「バイパスのため埋め戻」されることをこれではじめて知った。惜しいことであるが、それにしても、曽畑式土器と朝鮮の櫛目文土器とが共通のものだったとすれば、弥生・古墳時代ばかりではなく、五千年以上前の縄文時代からもそのような土器文化をもった人々が渡来していたことになるわけで、これはまったくおどろくべきことといわなくてはならない。
稲佐から江田船山古墳へ
稲佐廃寺跡出土の新羅瓦
さきに私は、玉東町役場に足をとめて一服、つまり一休みすることになったと書いたが、しかし、なかなかそうもいかなかった。同行の田辺哲夫氏は玉名市史編集委員長であるとともに、こちら玉東町史編集委員長でもあったので、同町役場ではいろいろ便宜をあたえられることになったばかりか、そこのロビーにはまた、稲佐廃寺跡出土の新羅瓦が展示されていたからである。
そのことが、清田之長氏の「肥後の国に朝鮮文化を探る」にこう書かれている。
来た道を又下って木葉川にかかる橋の南詰から左へ折れて消防署の前を通り、白木川を渡って玉名郡玉東町中央公民館に着いた。目的はここに展示してある稲佐廃寺跡から出土した新羅瓦を見ることと、田辺氏持参の図書を金氏のためにコピーすることにあった。井上教育長、松下社会教育課長はじめ、教育委員会事務局の諸子に大変お世話になる。
大量のコピーが刷り上る間に、ロビーで新羅瓦に就いて田辺氏の講義を聴く。
「新羅瓦に就いて田辺氏の講義を聴く」ことになったのは、田辺哲夫氏がその新羅瓦の出土した稲佐廃寺跡を発掘した当事者だったからである。そのことについてはこれからみるとして、つづけて清田さんの「肥後の国に朝鮮文化を探る」にはこうある。
歓待にあずかった公民館をあとにして、一行は木葉駅前より国道二〇八号線に出て玉名方面へ。約千五百米ほどで稲佐廃寺跡に鎮座する熊野坐神社表参道前。今は裏道になっているので一般に知られていないが、鳥居の脇に石の記念碑が建つ。第十四連隊長乃木少佐奮戦之地と彫られている。実は明治十年二月二十三日夕刻、乃木少佐が落馬して危く命をおとすところだった地点である。
われわれ一行は稲佐集落に入り、新裏参道より車で神社の境内に入る。ここが先刻玉東町中央公民館で話を聴いた新羅瓦の出土した稲佐廃寺跡である。社殿に向かって右手梛《なぎ》の大木の下に塔の礎石が復元され、整然と並んでいる。
社殿に向かって左側には金堂が、社殿の建つところが講堂の跡と田辺氏より話をきく。境内や参道の大木の根元や、雨水で洗われて出来た小溝の中には今尚布目瓦の破片が見つかる。
私はこれを書きうつしながら、「実は……」とは清田さんもやるものだなあと、ひとり微笑したものである。もちろん、ここにいう「乃木少佐」とは後年の乃木大将のことであり、その「奮戦」とは明治十年の「西南の役」のことであるが、それはおいて、いまは熊野坐神社となっているそこの稲佐廃寺跡から新羅瓦が出土したというのは、たいへん重要な出来事であった。
なぜかというと、この稲佐廃寺といわれるもとの寺院は、いわゆる大和朝廷のあった畿内からのそれではなく、古代朝鮮の新羅から直行したものたちによるものではなかったかと考えられるからだが、これの発掘調査のことは、田辺哲夫氏の『熊本県玉名郡木葉村稲佐/稲佐廃寺址調査報告』にくわしい。
しかし、これは専門的な学術報告書なので、ここでは同氏の「稲佐の歴史―知見の概要と問題点―」によってみることにしたい。これは一般向けに書かれたもので、専門の考古学者ではないわれわれにもよくわかるようになっている。
宇野廉太郎先生採取の瓦に導かれて
稲佐のお宮、熊野坐神社のあたりから布目瓦が出る。その数種の布目瓦を見ると、奈良時代から平安中期にかけての文様である。この時代に瓦を使った建物は郡の役所より上級の官庁、または官寺か、それに準ずる有力な寺院しか考えられない。……
それも、どこの郡もというわけにはいかなかったようである。玉名では玉名郡衙関係の遺跡のほかには、この稲佐からしか布目瓦は発見されていない。してみると、稲佐に布目瓦が発見されたということは大事件なのだ。
昭和二十六年六月、私は宇野廉太郎先生から、先生多年採集の各地の遺物を頂戴した(『宇野廉太郎先生採集遺物受贈目録』プリント)。宇野先生は篤学の郷土史家で、ライフワークとしては未完の大著『肥後名家碑文集』があり、熊本県近代文化功労者として顕彰をうけられた方で、晩年は玉名市岩崎原に住んでおられた。……
それは軒丸瓦二個と軒平瓦一個であったが、極めて異色のものであって、深く興味をそそられた。早速現地を訪れた。これはのち私の研究のなかで主流を占めることになる寺院・官衙の調査の幕明けでもあったのだった。
類例のない稲佐瓦
稲佐の軒丸瓦は五種あって、複蓮弁(一枚の花びらの中に二つの膨らみのあるもの)に唐草が巡るもの。ただ一片しか発見されておらず、それも中央を欠いていて蓮子《れんじ》(蓮の実が並んでいる様を表現した中央の丸い部分)のところがよく分からない。奈良時代の新羅系の瓦である。
複蓮弁であるが、唐草が巡らないもの。製作が雑で、平安時代に入ってからのものと思われる。蓮弁は変化して菊花状の花弁となり、中央部の蓮子は表現されているものの、外側の唐草は省略されていて、極めて簡略なもの。山鹿市の中村廃寺にも同様の瓦が発見されており、平安中期のものと考えられている。
蓮弁に代わって、肉太の唐草文様が一杯になって巡る。中央部は丸い形はしているが蓮子はなく、山形の線がいくつか表現されている。はを細い線で表現したもの。もも他に例がない稲佐独特のもので、学界でも注目され、日本考古学協会編の『日本考古学辞典』(昭和三十七年・東京堂)にも稲佐廃寺という項目で取り上げられたのであった。
稲佐と白木
長くなるので、次の「軒平瓦」のことは略し、さらにまた「伽藍配置は法隆寺式」も略して、あともうひとつ、次の項だけみておくことにする。
稲佐と白木
さて、この寺をどう考えればよいのだろうか。まず、寺の名は不明である。廃寺といって、地名を冠しているのはその故である。寺の特色といっても、瓦の文様からの話だが、唐草だけで構成されているという全国に例をみない瓦だけに、その個性をどう解釈するかだ。もちろん近年のおびただしい発掘だけに、稲佐と似た瓦がどこかに出ていないか、調べ直してみる必要がある。
唐草文様は、新羅系といわれている。そして、新羅との緊張関係がやや薄らぐ奈良時代から盛行する。新羅と聞くと、稲佐の東南二キロに白木という古くからの村落があるのが気になる。白木という地名は、新羅に由来することが多いからだ。玉名市津留の群《むれ》村や菊水町の花簇《はなむれ》も朝鮮語に起源があり、古くからの地名である。当時、文化的にも遥かに優れていて指導的地位にあった新羅などの渡来人がすぐ近くに居を据えていたとなると、謎の一端が解けるような気もする。
そして田辺さんはさらにまた、次の「交通の要衝・稲佐」では、「稲佐は水陸の交通の要衝であった可能性が極めて強い。白木の存在と稲佐の地理的位置が稲佐廃寺がここに営まれた理由だと私は考えている」と書いているが、ここにいう「白木という古くからの村落」とは、さきの「装飾古墳と斎藤山の鉄斧」の項のおわりにみた白木八幡宮のあった「白木村」のことである。
してみると、そこを中心に居住していた新羅系渡来人は、そこに氏神としての白木八幡宮を祭り、一方ではいまみた稲佐廃寺を氏寺としていたのである。私はこれも、九州のほとんど全域にわたってひろがった、豊前(大分県)宇佐に宇佐八幡宮を祭っていた新羅・加耶系渡来人の秦氏族集団からわかれ出たものではなかったかと思うが、それはどちらにせよ、ここにもまた、そういう新羅系の豪族がいたのである。
江田船山古墳の出土品
さて、白木村と同様これもいまは玉東町となっている木葉村・稲佐廃寺からの私たちは、その北方三、四キロとなっている同じ玉名郡菊水町の江田船山古墳をたずねることになった。そのことはもちろん、清田さんの「肥後の国に朝鮮文化を探る」にも書かれているが、この江田船山古墳は以前にも私はたずねたことがあった。
船山古墳はいまも変わりなく杉木立におおわれたままそこにあったが、あたりはずいぶん様変わりしていた。いまはその江田船山古墳を中心に、周辺の虚空蔵塚古墳や塚坊主古墳などをも含んだ「風土記の丘」がつくられていて、そこには菊水町歴史民俗資料館などもできていた。
私たちはまずその資料館にはいって、船山古墳出土の有名な金銅製冠帽ほかの精巧な模造品(実物は東京国立博物館)などをみたが、この船山古墳の出土品のことについては、これも私があれこれいうより、乙益重隆氏の「江田船山古墳の出土遺物」をかりてみたほうがいいにちがいない。
乙益氏はその古墳の発見・発掘のことともあわせて、それのことをわかりやすく次のように書いている。ちょっと長いけれども、これはひとつの物語のようでもあって、たいへんおもしろい。
一八七三年(明治六年)正月のことであった。熊本県庁に残る「官省一途」という公文書綴によると、熊本県玉名郡内田郷江田村(菊水町江田)に住む農業、池田佐十(一に佐十郎ともいう)なる者は、元日の午前二時頃ふしぎな初夢をみた。それは枕元に神様があらわれ、村内の下ケ名清原《せいばる》にある自分の所有地である船山を掘れというお告げであった。そこでお告げのままに船山を掘ったら、宝物が出てきたというのである。
目がさめた佐十はこの初夢がしきりと気になり、正月もまだ四日というのに道具をとりそろえ、さっそく船山の発掘にとりかかった。掘り進めて行くうちに土中から石櫃のようなものがあらわれ、その入口に扉石が立てられていた。今にして思えば、よくも最初から妻入りの横口式家形石棺という特殊な棺の入口に掘り当ったものである。その時扉石は打破ってこじあけたらしく、後に残りの部分が土中に埋っていた。
棺の入口をあけるや、中から白い煙のようなものが立ち上ったという。或《あるい》はそれも発掘者が神秘的な気持から頭にえがいた錯覚かもしれない。それは長い間密閉されていた石棺内の空気が、寒い外気にふれると水蒸気が立ちのぼることがあるので、或はそうした自然現象であったかもしれない。石櫃の中に一歩踏みこむや、内部には刀や鎧や鏡をはじめ、金銀製品などがまさに足の踏み場もないほど置かれていた。
佐十は夢のお告げがまさしく当ったことに驚喜し、それらの遺物を何回かにわけて自宅に運んだ。それは今から考えると、まことに不用意な発掘であった。しかし明治のはじめ頃、考古学的知識のない人が掘ったにしては、割合に破損品が少なく、まずその点では幸いであった。
池田佐十が宝物を発掘したという話は、近隣の大評判となった。熊本の県庁からも役人が派遣され、詳細な聞き取り調査が行われた。その結果はさっそく当時の博覧会事務局、すなわち今の文化庁に報告され、その年の六月二十九日の公文書によると金八十円で買い上げられたことがわかった。
また佐十の発掘した自分の持山、船山古墳というのは全長四六メートル(復原全長六一メートル)、後円部直径二六メートル、高さ七・九メートル、前方部幅二三メートル、高さ六メートルを有する前方後円墳である。内部には横口式の家形石棺を埋設しているところから、おそらく二―三名を葬った家族墓であろう。周囲には虚空蔵《こくうぞう》や塚坊主《つかぼうず》の前方後円墳があり、船山とともに一九五一年国の史跡に指定された。
およそ紀元三世紀末頃から八世紀のはじめにかけて、日本全土に築造された古墳の数は数万基にのぼるであろう。しかし小規模な古墳にもかかわらず、船山ほど貴重な遺物を大量に出土した例は珍しい。現存する代表的な遺物だけでも次のようなものがあり、もって被葬者たちの権力のほどがうかがわれる。
銅鏡六面、曲玉七個、管玉一四個、ガラス玉九〇余個、衝角付兜《しようかくつきかぶと》一個、横矧板皮綴式短甲《よこはぎいたかわとじしきたんこう》一領、横矧板鋲留式短甲《よこはぎいたびようどめしきたんこう》一領、皮綴式頸鎧《あかべよろい》一具、大刀一四口、剣七口、刀装金具一括、槍《やり》身四口、鉄鏃一括、金銅製冠帽一個、金銅製冠三個分、帯金具一括、金銅製沓《くつ》一足、轡《くつわ》二組、鐙《あぶみ》二組、金製垂飾付耳飾二対、金環一対、須恵器蓋付坏《すえきふたつきつき》一組、提瓶《さげべ》一個分、三環鈴一個。
銅鏡六面のうち五面までは中国の後漢時代につくられたもので、一面だけは日本製であった。しかるに、その他の遺物はほとんどが韓〈朝鮮〉半島三国時代文化の所産であった。中でもとくにめざましいのは、金製耳飾であろう。その一つは金の輪に銀の輪をはさみ、さらにその輪から三条の金鎖を垂下し、金の瓔珞《ようらく》をつけている。先端には木ノ実形の金具一個と心葉形金具二個をつけ、うち一個には色ガラス玉を象嵌《ぞうがん》している。また第二の耳飾は直径一・七センチの金環の下に筒形の根締めをつなぎ、その下には三枚の心葉形金具を重ねて垂下している。
このような金製耳飾は伽〓〈加耶に同じ〉文化の内容にもとめられ、慶尚南・北道〈加耶、新羅〉や全羅南・北道〈百済〉の古墳出土品に多くの類例がある。また、金銅製沓《くつ》には全面に亀甲連続文を押型であらわし、その間に金線で歩揺《ほよう》とガラス玉をとじ付け、底裏には四本の釘がある。このような沓の類例は古新羅の飾履塚や金冠塚その他から出土しており、とくに亀甲文は伽〓文化に顕著な意匠であった。
金銅製冠は三個あり、うち菱形連続文を有するものには冠帽が組合さっていたらしい。冠帽には竜文と火炎文を透し彫りであらわし、背後にのびた棒の先端には半球形の金具をつけている。おそらく全体の図柄は、高句麗系の意匠を踏襲するものであろう。また正面から側面にかけて大きく山形にうねる冠は、地文の共通性からみて沓と組合さるものであろう。これらの冠や帽はもう一つの心葉形立花を有する冠とともに、伽〓地方からもたらされたものであろう。
とくに一四口にのぼる大刀の一つには金〓《はばき》に天馬(ペガサス)と菊花文を、棟《むね》には七五文字が銀で象嵌されている。その冒頭にみえる銘文も従来「□治□天□下□《たじひ》□《の》之□《みや》宮□《みず》瑞□《はの》歯 《おお》大 《きみ》王世」と読み、反正《はんぜい》天皇に擬す説が行われ、また最近ではこれを獲加多支鹵大王《わかたけるのおおきみ》、すなわち雄略《ゆうりやく》天皇に擬する説が行われたりしている。しかし、最初から七字目までは銹《さ》び落ちて明らかでなく、わずかに「豸」と「鹵大王」がみえるところから、或はこれこそ百済の蓋鹵《こうろ》王(四五五〜四七四)のことかもしれない。
そのほかにも須恵器の蓋付坏は全南〈百済〉の鳳山里斎月里古墳出土と同形式で、同時に出土している提瓶《さげべ》は、これこそ日本製とは思うが、疑問がないわけではない。
このように江田船山古墳の出土遺物は、一部の中国鏡と日本製の鏡や玉などを除くと、ほとんどが伽〓地方の所産であった。おそらく西暦五世紀末ごろ船山古墳の主たちは、何らかの形で伽〓地方とよほど密接な交渉があったにちがいない。
以上であるが、なによりもまずたいへんな出土遺物に、目をみはらないではいられない。ここにいう大刀の象嵌銘文の読み方については、従来からいろいろな説があって揺れている。
まだ今後のことでもあって、私はそこまで立ち入るつもりはないが、ただ、こういうことはいえるのではないかと思う。その「船山古墳の主たち」が「五世紀末ごろ」のものたちであったとすれば、そのころはまだ、畿内からする統一国家成立以前の時期であった。したがって、豪華な金銅製冠帽などの装身具などからみてその「主」たちは、菊池川中流域となっているこの地方の「王」となっていたものではなかったか、ということである。
玉名から鞠智城跡まで
伝佐山古墳と疋野神社
私は資料館出口の売店から、いまみた金銅製冠帽と金製耳飾、それに金銅製沓、船山古墳全景に家形石棺をあしらった四枚が一組となっている、みごとなカラー写真の絵はがきを三組ほど求めて出た。そして、それら遺物を出土した船山古墳に登ってみたあと、私たち一行は一応そこで解散ということになったが、そこのところとあとのことは、清田さんの「肥後の国に朝鮮文化を探る」にこう書かれている。
資料館を出て船山古墳へ向う。すべて整理され、復原されつつある。手前の陪塚には殯《もがり》の跡と思われる状況が、発掘の際確認されたという。
主墳の丘上に登り、家形石棺を見学。ついで田辺氏の講話を聴く。木立の間に暮色ようやく漂い、魄気迫る感あり。
一行は駐車場に戻り、高浜事務局長、金氏より挨拶があって解散する。
水俣から参加の前田氏は玉名に一泊されるとかで、小生の車に金、辛氏と同乗され、田辺、古賀両氏は上村氏の車で玉名市へ。菊池川左岸を白石より下小田へと走り、玉名大橋を渡って堤防づたいに市内に入る。繁根木《はねぎ》川を渡ってすぐ、国道二〇八号をはさんで市役所反対側にある伝佐山古墳を見学。
ここで、玉名市繁根木の伝佐山古墳というのをちょっとみておくと、「伝佐山」とはどういうことかよくわからないが、これは繁根木古墳ともいわれるもので、そのことは田辺哲夫編『熊本の上代遺跡』にこうある。
伝佐山古墳ともいい、国道二百八号に沿う台地の上にある直径三五メートル、高さ五メートルの円墳である。安政四年に発見された。内部は割小口積の前室、奥室の二室と、二つの羨門からなる横穴複式石室。さらに奥室の上の封土中に家形石棺を容するという。
明治十八年に短甲、環頭大刀、鉄鏃、貝輪など、昭和四十年の清掃作業の折には金製垂飾付耳飾、金環、玉類、刀剣片、鉄鏃その他多くの副葬品を出した。古墳時代後期の、大陸文化の影響の強い古墳である。
これまた小規模な古墳だったのに、たいへんなものを出土したものであった。さきにみた江田船山古墳とはどういう関係にあるのかわからないけれども、出土遺物はこれも加耶あたりからのものとみられるものばかりである。
私はその繁根木古墳の頂上部まで登ってみたが、そんな貴重な遺物を出土した古墳だったにもかかわらず、これはひどいことになっていた。周囲を住宅に挟まれて、あと数年もするうちには、消えてなくなってしまうのではないかと思われた。
つづけて、清田さんの「肥後の国に朝鮮文化を探る」をみるとこうなっている。
ここ〈伝佐山古墳のところ〉で古賀氏は近くの自宅に帰られ、われわれは二台の自動車で立願寺《りゆうがんじ》温泉の黄金館に入る。黄金館主は田辺氏と玉名中学校で同級とか。先刻、玉東町公民館より田辺氏が電話で予約下さった旅館である。傾斜した土地の上に建てられているのか長い昇り階段、廊下を幾度か昇り幾度か曲って部屋へ。
部屋に入ると直ちに田辺氏は菊池市に電話して、明日の見学予定の鞠智《きくち》城跡ならびに旭志《きよくし》村の藤尾支石墓のそれぞれの案内役を交渉して下さった。有難いことである。
ほんとうに、ありがたいことだった。そして玉名市に自宅があった田辺さんと上村さんとはそこでしばらく話して、清田さんとともに帰って行ったが、清田さんは翌朝八時ごろ、またクルマをもって私たちを迎えに来てくれた。このときの私たちとは、水俣からの前田さんはきょう一日また行をともにすることになったので、大阪から同行の辛基秀氏を加えた三人だった。
その私たちは、さっそく清田さんのクルマに乗り込み、近くにあった疋野《ひきの》神社からたずねることになった。私たちは前夜、田辺さんから、「あれは日置《へき》氏の祭った神社だから、是非みておくように」といわれていたのだった。
小高い台地のうえとなっていた疋野神社は、肥後に四社ある『延喜式』内社のひとつということもあってか、かなり広い境内をもった神社だった。田辺さんの『熊本の上代遺跡』の「玉名郡衙」の項に、その神社のことがこうある。
上立願寺集落や疋野神社の近くから奈良期の布目瓦が出ることは知られていた。現に疋野神社の紋は蓮子《れんじ》が格子《こうし》状に整然と配列する複蓮弁の瓦の文様を使っているのである。
昭和二十九年塔《とう》ノ尾《お》で廃寺址を、三十一年西ノ段で郡倉《ぐんそう》址を玉名高校が発掘調査をし、玉名郡衙《ぐんが》の概要を推定できる程度になった。
疋野神社はわが国最古の神名帳である延喜式に載るいわゆる式内社であり、承和七年(八四〇)官社となった。肥後の式内社は僅かに四座で、この他はすべて阿蘇である。藩主細川綱利が現在地に再興させた。玉名郡司日置《ぐんじへき》氏の氏神であろう。
玉名郡司となっていた、日置氏とはどういうものだったか。『新撰姓氏録』によると、その祖は「日置造《へきのみやつこ》、高麗《こま》国の人、伊利須意弥《いりすおや》より出づ」とあるから、高句麗系の渡来人ということになるが、この日置氏というのもかなりの豪族だったらしく、全国あちこちに分布している。たとえば、長門(山口県)大津郡には日置町があって、そこの地名ともなっている。
藤尾支石墓群
ついで私たちは、清田さんにしたがって玉名市三ツ川の山中にあった、無人の福山白山比〓《ひめ》神社をたずねた。さきの玉東町でみたのと同じ白山比〓神社がそこにもあったわけであるが、そこからの私たちはこんどは長駆、菊池市南方の旭志村まで走ることになった。それからのことは、清田さんの「肥後の国に朝鮮文化を探る」にこうなっている。
来た道を本通りに出て南関町に入り、南下して菊水町へ、そして山鹿市に出る。昨夜、田辺氏の交渉で藤尾支石墓群見学のため、午前十一時までに旭志村役場の中村氏を訪ねることになっていた。時はすでに十時二十分。国道三二五号を鹿本町、七城町、菊池市と四十分たらずで通り抜け、伊坂から左折して旭志村に入り、小学校の下を通って役場に到達。
教育委員会に中村氏を訪ねる。不在。菊池市の田中義和氏より連絡ずみのはずだが、と受付嬢に申出る。困惑の様子。お茶の接待を受けている間に、教育課長補佐の有田征也氏が外出より帰庁し、応対して頂く。その間、男・女課員が或いは資料の取寄せに、又は文化財地図を取りにと立廻って下さる。有難いことだった。都会では見ることのできない情景である。
有田課長補佐運転の移動図書館車に揺られて、庁舎の裏から道に出て合志川支流の米井川を渡り、道は登り坂となる。二キロ半ほど走って、左の細い脇道に入る。左側は低い崖、右側は一段高い土手、一米六、七十センチほどの高さである。左に家が見えて来たあたりで下車。石柱と木柱の標識と、説明板が土手の付け根に建つ。
標柱の脇から灌木の枝、草の根を手がかりに土手をよじ登る。上は向う側へやや傾斜した平坦な台地。雑木のまばらに立つ間に左右三、四米の間隔で支石墓が整然と地上に現われている。数は四十数個か。金、辛の両氏と前田氏はしきりにカメラのシャッターを切る。
例によって綿密詳細に書かれているので、私として別にいうことはない。ただ、私の思ったことをいえば、古代朝鮮から稲作農耕とともに渡来した墓制である支石墓が、こんなところにまでひろがっていたのか、ということだった。
しかも、これはあとで知ったことだが、それだけではなかった。田辺さんの『熊本の上代遺跡』をみると、天草諸島のうちの倉岳《くらたけ》町にも「宮崎支石墓群」があって、同じ弥生期の箱式石棺も九基発見されているとある。
鞠智城跡と群山
旭志村からの私たちは菊池市へ向かい、市内で昼食をすまして、市の教育委員会をたずねた。前夜、田辺さんが電話をしておいてくれたので、社会教育主事の田中義和氏と課長の茅島祐一氏とが、私たちを待つようにしてくれていた。
私たちはここで、『袈裟尾高塚古墳保存修理工事報告書』『鞠智城跡調査報告書』などをもらい受け、さらに『菊池市史』をみせてもらって、ある部分をコピーしてもらったりした。そして私たちは田中さんの案内で、途中、すっかり整備された袈裟尾高塚古墳をへて、菊鹿町の鞠智《きくち》城跡へ向かった。
米原《よなばる》というところの、広大な台地だった。私たちはそこをぐるっとめぐるようにして、宮野礎石群などをみて歩いた。さきの「八代の白木妙見をめぐって」の項のおわりでちょっとふれた島津義昭氏の「韓国考古学大会に参加して」によると、百済初期の山城であった夢村土城跡と似たものだとのことだったが、この鞠智城跡のことは、前記『熊本県の歴史散歩』をみるとこうある。
城北《しろきた》経由菊池行のバスで来民から一五分、龍徳《りゆうとく》で下車、歩いて二〇分の高台一帯が米原《よなばる》集落で、ここが大和朝廷の築いた鞠智城跡(県史跡)だ。六六三年、白村江《はくすきのえ》の敗戦ののち、国防の急にせまられた大和朝廷は、大宰府《だざいふ》のそなえとして大野城(福岡県)、基肄《きい》城(佐賀県)、鞠智城の三城を築いた。直径三キロにわたる自然の地形を利用した朝鮮式山城。
長者原《ちようじやばる》、宮野などには建物の礎石群が発掘されたが、現在ではまた地中に埋められてみることができない。そとまわりには断崖や土塁がかなりみられ、南の堀切《ほりきり》集落におりると、大きな城門の礎石が木野神社の鳥居下や竹林のなかにみられる。
大和朝廷が「国防の急にせまられ」たのは、白村江に勝戦して、百済をほろぼした新羅・唐の来襲を恐れたからだったが、ところで、この鞠智城跡はさらに第八次発掘調査がおこなわれていて、その「国防の急」ということについては異論が出ている。一九八八年三月二十七日の熊本日日新聞をみると、そのことが『菊鹿町の鞠智城』/『海外防衛線』に異論/狙いは反大和朝廷勢力/城門の向き、立地条件から推論/国史跡に申請へ」とした見出しの記事となっているが、それのおわりはこうなっている。
調査に当たっている県教委の桑原憲彰参事は「城門が朝鮮海峡の方角ではなく、南に向いていることや、立地的条件から、従来からいわれている白村江での敗戦による、海外防衛の必要性からではなく、国内の『まつろわぬ人々』へのクサビとして築城したのではないか」と話している。
注目すべき見解ではないかと思う。その「まつろわぬ人々」がいたという次にみる日向(宮崎県)などを歩いてみたことで、鞠智城の場合は、私もその見解に賛成であるが、それはまたいずれ、ということにすると、肥後についての稿は、どうやらここでおわりとなる。
私の知らなかった稲佐廃寺など、多くの収穫があったが、それというのもみな、終始、私たちをご自分のクルマに乗せて走りまわってくれた清田さんのおかげである。
さいごにもうひとつ、その清田さんにしたがって、菊池郡合志町群《むれ》にある群山というのをたずねたが、それを、清田さんの例の「肥後の国に朝鮮文化を探る」によってみることで、おわりとしたい。
小径に入ると間もなく雑木林、三〇〇米ほどで右に入る。入山を禁ずる制札が建つ。「猥《みだ》りに立入るを禁ず 自衛隊」と。立って入るのではなく、自動車に乗って入るのだから、よろしかろうと独白しながら樹林をぬけ、雨に洗われた石ころだらけの悪路をハンドルを左へ、右へ切りながら羊腸の道を登る。
頂上に到達。標高一四五米、周囲三六〇度、視界を妨げるものは皆無。古代、菊池川流域を開拓した渡来人たちは、この独立山を自分たちの言葉で「牟礼《むれ》」と云った。今日では群《むれ》をあてている。牟礼とは朝鮮古語の「山」のこと。
今日ではムレ=群が山の意であることを忘れ、群山と称している。これでは「山山」である。昨日見学した船山古墳の南東にそびえる山を、十年昔まではハナムレ(花簇・華牟礼)と称していたが、今では日平山。豊後の国東も渡来人と係わりの深いところ、十年前までは文珠仙寺の東にある山を「小門牟礼」と地図にも記してあったが、今日では小門山となっている。
日向・大隅・薩摩・琉球
下北方古墳の出土品
「熊襲・隼人の居住地」
日向(宮崎県)となったが、まず、日向国とはどういうところであったか。高柳光寿・竹内理三編『日本史辞典』にある「ひゅうがのくに 日向国」の項をみるとこうなっている。
日向とは漠然と九州東南部をさし、熊襲・隼人の居住地域とされたが、八C〈世紀〉大隅・薩摩国が設置されて以来、日向国の領域もおのずから定まった。天孫降臨から日向三代までの記紀〈『古事記』『日本書紀』〉の神話の舞台。『延喜式』によると臼杵・児湯など五郡があり、国府・国分寺の位置は西都市三宅と推定されている。
また、昭文社刊「分県地図・宮崎」の付録となっている『宮崎』にはこうある。
日向はまた大和《やまと》と相対応する古墳国で、西都原《さいとばる》を中心とし県内には約四、〇〇〇の古墳があり、土器も多く上代文化の中心地であった。日向民族は大隅・薩摩から宮崎平野に定着し、熊襲《くまそ》・隼人《はやと》族と呼ばれた。大和朝廷のもとで勢力をふるったため、熊襲征伐がなされた。日本《やまと》武尊《たけるのみこと》の伝説がそれを伝えている。後に大伴旅人《おおとものたびと》らにより討伐され、日向は朝廷下に入った。
どちらも、熊襲・隼人の居住地域だったとしているのが特徴的で、後者などはそれを「日向民族」とまでいっているが、では、その熊襲・隼人とはいったいどういうものだったのであろうか。
東北地方のいわゆる蝦夷《え ぞ》とともにたいへんむつかしい問題で、これからじょじょに明らかになるかと思うが、ここではかんたんに一言だけいうと、それは最近の人類学でいう、日本列島の原住民であった古モンゴロイドの縄文人・アイヌにほかならなかった。
つまりそれが、鳥居龍蔵氏のいう「固有日本人」となったものたちに追われ、あるいは移住させられて南部九州に集住し、大和王権から「まつろわぬもの」とされた熊襲・隼人となったのである。
すると、「固有日本人」とは、ということになるが、それについては、水野清一・小林行雄編『考古学辞典』の「こゆうにほん人 固有日本人」の項にこうある。
日本人の祖先は中国東北・朝鮮をへてアジアから渡来した民族であって、渡来の時期は古くは弥生式土器と石器の使用期であるが、金属器を用いるようになってからも継続した。これが鳥居龍蔵の日本民族石器時代渡来説であるが、鳥居はこの渡来者を固有日本人とよび、日本に先住民族として居住したアイヌと対立させようとした。固有日本人が大陸から渡来したというこの説は、考古学的な裏づけのほかに、天孫民族が高天原から天降ったという神話と矛盾しないという条件にかなっているので、大正時代には大いに流布信奉された。浜田耕作が原日本人Proto-Japaneseとよんでいるのも、これとほぼおなじ内容のものである。
「大正時代には大いに流布信奉された」それは、これまでみてきたように、北部九州における弥生時代遺跡の相次ぐ発掘調査によって、今日ではますます実質が明らかとなってきている。いわば日向は、そのような新モンゴロイドの固有日本人と、古モンゴロイドの縄文人とが重層していたところであった。そのことは高塚古墳をつくったり、神社を祭ったりはしなかった熊襲・隼人の集住していたこの地に、その古墳や神社がたくさんあることからもわかる。
「どこの庭も古墳」――下北方古墳群
その日向を私がおとずれたのは、一九八八年四月のことであった。このときも友人の記録映画作家・辛基秀氏がいっしょで、翌日からは同じく友人の高淳日氏も宮崎市で合流することになっていた。私と辛基秀氏とは午後三時ごろ宮崎空港に着くと、その足でまず宮崎市教育委員会をたずねた。
同市教委では文化財係の伊東但氏に会い、ついで係長の野間重孝氏にも会って、『宮崎の古代を考えるシンポジウム』はじめ、『源藤遺跡』『蓮ケ池横穴群』の調査報告書など、たくさんの資料をもらい受けた。そして私たちは、『宮崎の古代文化を考えるシンポジウム』のメーンテーマのひとつとなっている下北方《しもきたかた》古墳群への道をきいて、さっそくそこへ向かって行った。
タクシーに乗り、「宮崎市塚原地区、下北方の古墳のたくさんあるそこへ」と言ったところ、さいわい運転手はよく知っていて、私たちは間もなくそこへ着いた。家並みのたちならんでいる住宅街で、通りがかりのおかみさんに、「古墳をみたいと思って来たのですが――」ときくと、「わたしんどこの庭も古墳ですよ」という返事だったので、指されたそこへ行ってみると、なるほど塀越しに丸い封土の古墳がみえた。
気がついてみると、その住宅街はあちこちいたるところ古墳であった。一角に宮崎市教育委員会による「県指定史跡/下北方古墳」とした掲示板がたっていてこうある。
県指定の前方後円墳四基と円墳十二基及び地下式横穴が分布することで注目されている。
越ケ迫の第十三号前方後円墳は、山頂を利用して築造されたもので、ほぼ東西に主軸をもち、全長百十メートル、後円部径四十メートル、前方幅三十メートルの大型の古式古墳で、墳丘に葺石、円筒埴輪が付設され、その他菱形埴輪が出土している。
塚原地区には、全長約十六メートルと約六十八メートルの、主軸方位がいずれも南北方向を示す二基の前方後円墳もあり、その西方には直径二十メートル内外の円墳六基が集って分布している。なかでも、七、八、九号墳の墳丘下には、地下式横穴を伴うことが確認されている。
住宅に挟まれていて、円墳のほかはどれが前方後円墳なのかよくわからなかったが、それはともかく、この下北方古墳群、とくに地下式横穴五号墳からは、金製垂飾付耳飾などの装身具はじめ、鞍金具・馬鐸などの馬具や、武具としての眉庇付冑・横矧鋲留短甲など、たくさんの遺物が出土している。
日向の古墳と南部朝鮮
いずれも古代南部朝鮮の新羅、加耶、または百済からのものとみられるもので、「宮崎の古代を考えるシンポジウム」にある西谷正氏の「日向の古墳文化における大陸的要素」とした講演レジュメにそのことがこうある。ちょっと長いけれども、日向におけるそれを考えるうえで大事なので、そのレジュメ全文を引かせてもらうことにしたい。
日向の古墳文化は、五世紀に一つの最盛期を現出している。考古学の立場からは、多数の前方後円墳や豊富な埴輪のほか、多種多様な副葬品などが、そのことを物語る。いっぽう、地下式横穴などに日向の特異性がうかがえる。
さて、日本の古墳文化には、いわゆる大陸系と呼ばれる、中国大陸や朝鮮半島の先進文化の要素が少なからず認められ、それらは日本古墳文化の形成に多大の影響を与えている。そこで、日向の古墳文化における大陸系要素を検討し、その問題点を考えてみたいと思う。
一般に、古墳文化における大きな画期の一つは五世紀にあり、わけても五世紀中ごろから後半にわたる種々の技術革新は、大陸系要素とくに朝鮮半島南部との関連で展開している。
第一に、土器において、加耶系陶質土器が舶載され、まもなく須恵器の製作が開始される。この時期の好例は、東諸県郡国富町六野原の第一四号地下式横穴出土の有蓋高坏などにみることができる。最近では、都城市志和池において、新羅系ないし加耶系の器台も報告されている。
第二に、武具において、短甲では、長方板革綴式などから三角板鋲留式へと、鋲留という新しい技法の甲冑に変化する。宮崎市下北方の第五号地下式横穴の出土品は絶好の資料として知られる。下北方第五号地下式横穴の出土品には注目すべきものが多いが、第三に同古墳出土の金製垂飾付耳飾もまた、加耶系もしくは百済系のものである。第四に、西都原周辺出土と伝える鉄製鐔に施された波状唐草文の銀象嵌は珍しく、その起源は、百済や加耶の象嵌技術に求められよう。
第五に、集中度では全国的にも最高の、日向における蛇行剣の分布があり、百済地域との係わりがうかがわれる。第六に、児湯郡高鍋町の持田古墳群のうち、第二八号墳出土の単鳳文や、第三四号墳出土の三葉文のある大刀の環刀は、類似品が百済・加耶・新羅のいずれにもみられる。第七に、各種の馬具が出土して、五世紀の後半には、日向でも乗馬の風習がはじまっていることがわかる。とりわけ、下北方第五号地下式横穴の馬具のセットは、初期の馬具として注目される。すなわち、木心鉄張の輪や三環鈴・馬鐸などは、加耶地域において好例をみいだす。
西諸県郡野尻町の大萩地下式横穴墓群C―六号墳出土の銅鈴や、時代は少し降って六世紀末ごろになるが、宮崎市跡江の生目第五号横穴出土の貝製雲珠も、加耶・百済もしくは新羅にその系統がたどれる。第八に、乗馬の風習に関連して、乗馬用に好都合な胡〓の金具が、六世紀前半中ごろに比定される、えびの市島内の第一〇号地下式横穴から出土している。その類似例は、百済の宋山里第一号墳の出土品に認められる。
このような遺物ばかりでなく、遺構の面でも五世紀には、百済から北部九州に横穴石室の概念が導入されている。日向に特徴的な地下式横穴は、五世紀後半のある時期から出現しているようであるが、おそらく日本における横穴式石室の開始と無縁ではなかろう。
冒頭にもふれたとおり、五世紀の日向では、古墳文化に一つの最盛期を迎えているが、その背景には、農業における生産性の向上が作用していたであろう。というのは、たとえば、下北方第四号地下式横穴などで出土しているような、U字形をした鉄製スキ・クワ先といった新しい型式の農具もまた、五世紀中ごろには出現しているのである。
こうしてみてくると、最盛期における日向の古墳文化のなかには、大陸系要素といっても、朝鮮半島南部における三国時代の百済・新羅、そして加耶といった諸地域の古墳文化が濃厚に係わっていることがわかる。ただ、そうした朝鮮南部の先進文化が、日向へは、畿内の中央政権を経由したのか、それとも直接的に入ってきたのかといった問題は、まだまだ検討の余地があるところである。
「中央政権」成立以前
要するに、下北方古墳群の出土品は、さきにもいったように、古代南部朝鮮の百済、新羅、加耶からのものばかりだったのであるが、当然、それらの出土品は、それらのものを身につけていた人間とともに渡来したものであった。「輸入」などということのなかった古代には、それらの出土品だけがひとりでやってくることはなかったのである。
それからまた、いま引いた講演レジュメをもとにした西谷正氏の講演記録「日向の古墳文化における大陸的要素」をみると、さきのレジュメでみた「U字形をした鉄製スキ・クワ先」などにしても、「おそらく朝鮮半島で開発された農具であることは間違いないと思います」とある。すると、そのようなスキ・クワを使っていた農民も来ていたのである。
ところで、同講演記録のおわりのほうで西谷さんは、「そうした朝鮮南部の先進文化が、日向へは、畿内の中央政権を経由したのか、それとも直接的に入ってきたのか」という「問題」について、こういうことを述べている。
さて、それではなぜ朝鮮系の文物が、日向でたくさん出土しているかという問題を取り上げた場合に、一つ考えられますのは、最近、『歴史公論』という雑誌の、一二月号の中で、「古代日本の辺境民」というタイトルの特集でシンポジウムがなされています。その中で、かねがね尊敬している大林太良という東京大学の民族学者は、興味深い指摘をされています。それを拝見しますと、中央政権が、東国にしても、九州にしても、支配下に治めて行く過程で、その尖兵というか、先端に立つというか、そういう形で地方に派遣される人びとの中には、朝鮮系の人びとが連れて行かれるとか、あるいは、朝鮮の技術を持った人びとが一緒に行っているという考え方を出しておられます。
つまり、中央政権が地方支配を展開する過程で、新しい技術を持った人びと、具体的にいえば、朝鮮系の渡来人を地方に送っているらしいのです。そういう人たちが、それまで原野であったところを、新しく開発して畑を作り、水田を拡げるという形で地方に定着していきます。それは農業生産という面だけでなく、新しく土器を焼いたり、いろんな先進技術を地方に伝えます。このような問題をやはり具体的に追究して行く必要があるのではないかと思います。
西谷さんもここでは、大林太良氏に乗せられてつまらぬことをいったもので、これは一見もっともらしい説と思われるかも知れないが、しかしこれは、その「中央政権」とはいったいいつ成立したのかということがわかれば、かんたんに崩壊してしまう説なのである。統一国家としての中央政権とは、いわゆる大和朝廷のことであろうが、これは国家が成立してこそあったはずのものである。
ところが、その国家の形成(成立・確立ではない)は、一九八四年九月六日の「天皇のお言葉」にもあるように、「六、七世紀」になってからなのである。この「天皇のお言葉」については、一九八四年九月二十一日号の『週刊朝日』に、「外務省対宮内庁でもめた天皇のお言葉作成の顛末」という記事があって、なかにこういうくだりがある。
「『お言葉』の中に『紀元六、七世紀のわが国の国家形成の時代には……』とあるが、この大和朝廷の成立時期は、考古学、歴史学の学界内でもいま激しく揺れ動いている。つい数年前までは入試などでも、四世紀で正解といわれたのに、いまは六、七世紀が学界の大勢。そのムツカシイ問題にちゃんと対応しているという気がしてホッとしたというのが実感」と、森浩一同志社大教授が感想をもらすほど評判がいい。
井上光貞・直木孝次郎氏ほかの『国家成立の謎』をみても、日本国家の成立は六、七世紀となっているが、それに対して、日向の下北方古墳は、ほかならぬ西谷さんの講演レジュメによってみてきたように、五世紀中ごろのものなのである。すると、どういうことになるか。あとはもう、いわずとも明らかであろう。
「百済の里」南郷村
比木神社から神門神社へ
宮崎市内のビックマンというビジネスホテルで一泊した私と辛基秀氏とは、一日おくれてきょうの夕方、東京から到着する高淳日氏とは午後四時ごろ、市内の県立総合博物館で落合うことにして、午前九時には外へ出てタクシーをひろい、まず宮崎市北方の木城《きじよう》町へ向かった。そこに、あとでみる南郷村の神門《みかど》神社と関連ある比木神社があったからである。
太平洋側の日向灘に面した佐土原町、新富町をへて、そこは戻りにということにした、有名な西都原《さいとばる》古墳群のある西都市を左方に望みながら、高鍋町から渡った小丸川中流の木城町には難なく着いた。「難なく」といったのは、あとの東臼杵郡南郷村までがたいへんだったからであるが、木城町にはいると比木神社はすぐにわかった。
かなり広い境内をもった神社で、ちょうどその境内の落葉を掃きあつめていた禰宜《ねぎ》の橋口定己氏に会ってはなしを聞き、『比木神社縁起とお祭り』とした由緒書をもらい受けたりした。さきにその由緒書をみると、「御祭神」としては大己貴命などとともに福智王というのがあって、それのことがこう書かれている。
「百済王であったが、国亡び安芸〈広島県〉厳島へ逃れた。その後、高鍋町蚊口、古港に上陸して比木に住み、徳行ありて合祀された」と。そして、「お祭り」の「神門御神幸祭(師走祭)」は「旧十二月十八日〜二十日頃の金・土・日」で、「福智王の、南郷村神門神社(父神)に年一度お逢いに行かれる御神幸祭」とある。
それから橋口さんは神社から、近くの田んぼに面した墓地に私たちを案内してくれた。石垣に囲まれた宝篋印塔などがたっているそこには、「奉納御墓」とした大きな幟《のぼり》が四本もたっていて、風にはためいていた。橋口さんはそれとはっきりは言わなかったが、そこは福智王の墓所ということになっているらしかった。
私たちは礼を言ってわかれぎわに、これから南郷村の神門神社をたずねるというと、比木神社禰宜の橋口さんは、神門神社の橋口清文宮司は自分の息子だから電話をしておく、と言ってくれた。両神社の祭神も父子となっていたが、いまの宮司もまたそうだったのである。
私たちは待たせてあったタクシーで、さらにまた、木城町西北方の南郷村にある神門神社へ向かった。地図をみると、直線コースとしては宮崎市から木城町よりも、木城町から南郷村のほうが近いようだったが、しかし、こちらは山越え野越えではなく、山越えまた山越えの道を、そこははじめての運転手はとんでもないところを走ったりで、ずいぶんと難儀をきわめた。
だいたい、宮崎県の山岳地帯となっている東臼杵郡南郷村へは、旧国鉄日豊本線の日向市駅からとするのが道すじで、木城町からそのままタクシーで山中を行くというのがどだいむりだったのである。
神門神社の縁起と宝物
ここで、私たちがたずねる南郷村の神門神社についてみておくことにしたい。それについては、宮崎県高等学校社会科研究会編『宮崎県の歴史散歩』にそうとうくわしくこうある。
『神門《みかど》神社縁起』によると、百済《くだら》王貞嘉《ていか》帝はその子福智王に譲位して三年め国内に大乱がおき、難をさけるため福智王とともに日本へわたり、七五六(天平勝宝八)年、安芸国厳島《いつくしま》あたりにつきしばらく滞在したが、反乱軍の追撃をおそれ、二年後、筑後へむけて船をだした。しかし風波はげしく、船は日向国臼杵郡金ケ浜にふきよせられた。浜に上陸して宮居の地をうらなったところ、これより山奥七、八里の神門の地がよいとでたので、そこに居をさだめることとなった。
いっぽう福智王の船は児湯《こゆ》郡蚊口浦《かぐちうら》(現高鍋町)につき、球《たま》をなげて宮居の場をうらなったところ、球は一八里さきの火弃《ひき》(現児湯郡木城町比木)の地までとびそこにとまったので、火弃に宮居をさだめた。
しばらく安息の日々がつづいたが、百済からついに追討の軍がおしよせ、帝の軍は神門近くの伊佐賀《いさか》坂でむかえうち、福智王も手兵をひきいて防戦につとめ、ようやく撃退した。しかし、帝はこの戦いのさなか流れ矢にあたってなくなったので、その霊をこの地の産土神《うぶすながみ》神門大明神としてまつることにした。福智王もその後火弃でなくなり、火弃大明神としてまつられた。〈さきにみた比木神社参照〉
この項はまだ、これでおわったわけではない。これまでみてきた「なになに県の歴史散歩」シリーズで、ひとつの神社を紹介するものとしては異例の長さであるが、いろいろな意味でたいへんおもしろいので、おわりまで引くことにする。
神門神社には、かつて貞嘉王が日本へ渡来のおりもってこられた壺をいまに宝物として伝えている。いまもなお、旧一二月一八日の神門神社の例祭には、福智王をまつる火弃神社(現比木神社)から約九〇キロの遠路を神官・氏子らにまもられたご神体の神幸がある。……この祭りは氏子総代にあたる当元《とうもと》とよぶ人がえらばれ、祭り全体をすべてとりしきるが、当元にえらばれた人は精魂こめてこの神事にあたる。
境内の宝物庫には、縁起のなかにある百済伝来の壺という須恵器の甕《かめ》のほか、長さ八一・六センチ、幅三四・八センチのスギの一枚板にえがかれた応永八(一四〇一)年の墨書銘のある県内最古の板絵着色観音菩薩御正体一面(県文化)、海獣葡萄鏡《かいじゆうぶどうきよう》など三三面の伝世鏡(古墳などから発掘されたものでなく、古くから神社などで代々保存されている鏡、いずれも県文化)などを所蔵している。
伝世鏡について中野政樹氏の研究(『東京国立博物館紀要』第八号)によると、三三面中一七面が奈良時代の唐式鏡(同笵鏡ともいう)で、そのなかには東大寺大仏殿下出土鏡――正倉院伝世鏡――岡山県笠岡市大飛島出土鏡と同文様鏡の唐花六花鏡、千葉県香取神宮伝世鏡――三重県鳥羽市八代神社伝世鏡――その他各地の一一面と同文様鏡の伯牙弾琴鏡《はくがだんきんきよう》など七種一三面が日本各地の寺社伝世鏡や出土鏡と同文様鏡で、その関連地は全国二五ヵ所に及ぶという。
とくに三重県八代神社とは四種七面、千葉県香取神宮とは二種四面の同文様鏡を有していて、他に類例をみない特殊密接な関係をもっているといえる。ただ、この日向の山奥の神門神社に、なぜこのように日本有数の伝世鏡が保有されてきたのかはあきらかではない。
「新しき村」
さて、私たちはその南郷村の神門神社へ向かっていたわけであるが、さきにもいったように、山越えまた山越えの道をあっち行ったりこっち行ったりしなくてはならなかった。ある町となったので、ここはどこかと標識をみると、西都原古墳群のある西都市の一角であったりした。
私たちは西都原古墳もたずねる予定だったが、しかし、そこは南郷村からの戻りとしていた。だが、この分では時間の関係でどうなるか、そこは明日としなくてはならないような状況となった。東京からの高淳日氏と宮崎市の県立総合博物館で落合うことになっていたので、四時半か五時の閉館までには、私たちはそこへ着かなくてはならなかったからである。
地図をみながら、どうして西都市へと思ったが、かとみると、私たちのタクシーはまだ木城町を走っていて、眺望のよいある峠となった。みるとそこに、「日向新しき村展望台」とした標示板がたっていて、「大正七年に武者小路実篤が中心になり創設した/昭和一三年ダム建設により土地の一部が水没したため埼玉県へ移村/現在 武者小路房子夫人外四名在村」とある。
「ああ、ここがそうだったのか」と私は、先を急いでいたけれども、なにか拾い物をしたような気持ちになって、そこでタクシーをしばらくとめてもらった。眼下に、ダムらしい河川が山裾をめぐっていて、その前には農地がひろがっていた。集落の一部もみえる。
「新しき村」のことは、文学に多少つうじている者と限らず、ひろく知られているもので、『日本近代文学大辞典』にもかなりのスペースで出ているが、前記『宮崎県の歴史散歩』にもそれのことが紹介されている。ついでにみると、こうなっている。
尾鈴《おすず》山の南麓の、小丸《おまる》川が屈曲したなかの小高い段丘のうえに新しき村(木城町石河内)はある。この村の名は有名だが、まさに“歴史”となってしまった。
この村は一九一八(大正七)年一一月、白樺派の作家武者小路実篤が、理想社会の建設をめざしてひらいたものだ。実篤の運動は、大正期の民主主義思想や社会主義運動のたかまりとあいまって、わかい人たちのこころをつかんで、多数の賛同者をえた。住民は山小屋式の住居に住み、農耕にはげみながら、あたらしい社会の実現に努力した。
しかし、営農収入はすくなく、実篤の原稿収入まで投入しても財政的ゆきづまりを打開することはできなかった。また、理想と現実のへだたりの大きさや、社会的風潮の推移などもかさなり、いちじは五〇人もいた住民たちもひとり、ふたりと脱落していった。実篤は、昭和一四年、埼玉県入間郡毛呂山《もろやま》町に第二の新しき村を建設したため、住民はこの村をすてた。その後この地には、実篤の前夫人房子さんと杉山正雄氏が残り、かつての理想をまもりつづけた。
「百済の里」の父子対面の神事
その「新しき村」をすぎてしばらくすると、どうやら、南郷村へは一本道となったもののようだった。もうそろそろ南郷村ではなかろうか、と思っていた私は、「ちょっと待て、待て! ストップ」と大声をあげて、乗っていたタクシーをとめた。
その道路ぎわの右手山裾に、「百済《くだら》の里/南郷村」とした、大きな標示板のたっているのが目についたからである。いっしょにタクシーからおりた辛さんも、「へえー、これはどういうことですかね」と言って、さっそくカメラをかまえた。
もちろん、南郷村には百済王を祭る神門神社があるからだと思われたが、それにしても私たちは、それでそこが「百済の里」となっていたとは知らなかったのである。気がついてみると、道の左側には、「古代史の謎とロマン/百済の里/民宿みかど」とした看板などもたっている。
村なかにはいると、村役場近くの神門神社はすぐにわかった。こんもり茂った樹木におおわれた石段を登った山麓台地に神殿があり、横には宝物収蔵庫や、「百済王守護益見太郎並に七人衆之碑」とした石碑などもたっている。
さっそく石段横の橋口清文宮司宅をたずねたが、家族ともみんな不在だった。そこで、私は神社境内をぶらぶらしているあいだに、辛さんは村役場へ行って、宝物収蔵庫の鍵を持った村教育委員会主事の田延明夫氏と、農業振興課の木原浩一氏とをつれて来た。
『百済伝説/神門物語』という冊子とともにもらった二人の名刺をみると、それにも神社宝物の神獣鏡や馬鐸などの写真が刷りこまれ、「古代史の謎とロマン『百済の里』南郷村」とある。それでわかったが、要するに南郷村は、その「百済の里」ということで、「村おこし」をしているさいちゅうだったのである。
鉄筋コンクリートづくりの小さな白い建物の宝物収蔵庫のなかは、さきに『宮崎県の歴史散歩』でみたたくさんの宝物でぎっしりいっぱいとなっていた。私たちはそれをみんなみせてもらって、写真にとったりしたが、同『――歴史散歩』に、「貞嘉王が日本へ渡来のおりもってこられた壺」とある須恵器のそれは、そうとう後期のもののように思われた。
もしそうだったとすると、「百済王貞嘉帝は福智王に譲位して三年目に大乱がおき」とあるのは七世紀後半の六六〇年、百済がほろびるときの「大乱」を語ったものではなかったかと思う。それで百済からは数千の者が「難をさけるため」日本へ渡り、百済王の本筋は河内(大阪府)の枚方に住んだ百済王族(いまここには百済王神社・百済寺跡がある)だったけれども、なにしろ、そのときの百済王には四十余人もの王子がいたというから、ほかにも日本で百済王を称した者がいたとしてもふしぎではない。
神門神社に祭られた貞嘉帝がその王子の一人だったかどうかはわからないが、それはどちらにせよ、たがいに遠い木城町の比木神社と神門神社とのあいだでおこなわれる父子対面神事の祭りが、いまにいたるまで長いあいだつづいているのは、おどろくべきことであるにちがいない。前記『百済伝説/神門物語』をみると、「この祭りは王族の年一度の対面を再現する珍しい祭りである」として、そのことがこう書かれている。
児湯郡木城町比木の神様が、神門まで約九十キロメートルの道のりを巡幸される。しかも九泊十日間にわたり、沿道の村々の人々と和《なごや》かで素朴な交歓風景をくりひろげながらの巡幸である。
行く先々でむつみあう行事がとりおこなわれるのがこの祭りで、比木にまつられる福智王と同妃が神門にまつられる父の禎〈貞〉嘉王を訪問される形をとっており、百済王族のロマンにみちた末路をしのぶ祭りとなっている。
この祭りは、一体どれほどの年月続いたのであろうか。誰一人として知る者はいない。知るすべもない。神楽の起源は十一世紀〜十二世紀ごろといわれるが、この行事は神楽発生以前からおこなわれたものか、それともはるかに時代を下るのか、今では全く想定できないことになってしまった。
いまでは自動車を使うので、巡幸祭りは旧十二月十八日から二十日ごろまでの三日間に短縮されているが、それまでは九泊十日もかかっての巡幸という、たいへんなものだったのである。『神門物語』には九泊十日のその巡幸のことが、写真入りでずっとことこまかくしるされている。
「この祭りは映画になりますね」と記録映画作家の辛さんは、宮崎市への戻りのタクシーのなかで、その『神門物語』をめくりながら言った。
「ああ、なると思うね。十二月のそのときは、ぼくもいっしょに来ますよ」と私たちはそんなことを話しながら、先を急いで閉館まぎわの県立博物館に着き、そこで待っていた東京からの高淳日氏と落合うことができた。
そして私たちは同博物館学芸課の石川悦雄氏に会い、そこに所蔵されている、さきにみた下北方古墳群から出土した金製垂飾付耳飾や武具の短甲、馬鐸などをみせてもらった。私は、千五百年以上も前に加耶か百済でつくられて、いまなお金色燦然としている金製垂飾付耳飾にそっと指をあててみたが、それは何とも格別な感触であった。
行けなかった西都原
古墳の展示場――西都原
宮崎市の県立総合博物館を出た私たちは、近くの焼肉レストランというのにはいって、おそくなった昼食をとりながら、これからのことを相談した。私としては宮崎市か西都市かでもう一泊し、西都原《さいとばる》古墳群をたずねてみたいと思っていたが、しかし、翌日からの予定を考えると、それはむりではないかということになった。
それに、有名な西都原古墳群については、書かれたものもたくさんあるので、そこまで行ってみることはやめにしてとなり、私たちは、そこまでは宮崎県となっている、鹿児島県寄りの都城《みやこのじよう》市へ向かってタクシーを走らせた。地図をみると都城までは六十五、六キロ、そこへ着くのは夜になってからのようだった。
そのあいだにここで、行けなかった西都原古墳群についてみておくことにしたい。まず、前記『宮崎県の歴史散歩』であるが、そこにこう書かれている。
西都原台地は、一ツ瀬川西岸にひろがる東西二・六キロ、南北四・二キロの洪積台地で、海抜六〇メートルある。昭和九年に国史跡に指定され、昭和二七年には特別史跡になり、さらに昭和四一年、全国にさきがけて史跡公園風土記の丘第一号に指定された。
一九二六(大正一五)年から、日本考古学史上はじめてという大規模な調査が六年がかりで行なわれた史跡だ。この台地には約三五〇基の古墳が群集している。前方後円墳・方墳・円墳があり、前方部がひくくのび柄の長い鏡をふせたようなかたちの柄鏡式古墳、さらに封土(盛土)のない南九州特有の地下式古墳が点在して、古墳の展示場といってよい。古墳の造営年代も、前期・中期・後期とバラエティにとんでいる。
台地の中心にあるもっとも大きな古墳が男狭穂《おさほ》塚・女狭穂《めさほ》塚で、この両古墳をふくむ一帯一〇ヘクタールあまりは御陵墓参考地として宮内庁の管轄下にある。いまでは樹木がしげって、とおくからみると古墳とはすぐにはわからないが、よくみれば木の高さが大きく波うっていて、古墳のかたちをよみとれる。
男狭穂塚は全長二一九メートル、後円部直径一二八メートル、二重の濠跡がある。規模は九州第一位。全国でも二四番めにあたる。前方部に問題があり、円墳・帆立貝塚ともいわれている。女狭穂塚は全長一七四メートル、後円部直径は九七メートル。前方部と後円部の接するところの両側に突起があり、車塚ともいわれ、一重の濠をめぐらしている。なお、この両古墳には管理人がいて、かってな立入りはゆるされない。
女狭穂塚の南東五〇〇メートルに鬼《おに》の窟《いわや》古墳がある。高さ六・八メートル、周囲一四二メートル、南部の羨道《せんどう》は江戸時代から開口している横穴式古墳。この古墳が有名なのは、まわりに高さ一・八メートルの土塁をめぐらしていることで、この形式は朝鮮・中国ではみられるが、日本では完全なかたちのものはここだけといわれる。
その他、姫塚(二〇二号墳)、飯盛塚(一六九号墳)など有名なものが多く、よく日本史の教科書に掲載されている子持家形埴輪・舟形埴輪(いずれも重文、東京国立博物館蔵)・衝角付きカブト埴輪などが出土している。
西都原台地の谷ひとつへだてた西方の台地は百塚原《ひやくつかばる》とよばれ、金銅馬具(国宝、東京五島《ごとう》美術館蔵)が出土している。
西都原から一ツ瀬川をへだてた対岸は、西都原とおなじような洪積台地がつらなっている。北から千畑《ちばたけ》古墳(特別史跡)・茶臼原《ちやうすばる》古墳群、それに西都原のまむかいにあるのが新田原《にゆうたばる》古墳群だ。新田原古墳群は、西都原にたいし東都原《とうとばる》ともよばれ、約二〇〇基あり、弥五郎塚(全長九三メートル)、大久保塚・百里塚と壮大なものが多い。戦前、飛行場建設のため一部破壊された。
宮崎県下にある約五〇〇〇基の古墳のうち、約一五〇〇基は西都原を中心に分布している。
ウドム=ムドム
たいへんな数の古墳群であるが、では、「朝鮮・中国ではみられる」鬼の窟古墳のそれも興味あるところだけれども、そのうちの代表的なものである男狭穂塚・女狭穂塚古墳の被葬者は、いったいどういうものだったのであろうか。そのまえに、矢沢高太郎氏の「続・天皇陵の謎」をみると、それについてのこういうくだりがある。
九州最大の首長墓、男狭穂塚の墳形が何であるのかを確認できない限り、古代日向の実像はもちろん、わが国の五世紀の政治状況を把握することはできない。しかし、ここは宮内庁の管理下にある聖域。両古墳が並ぶ九万八千七百平方メートルの区域への立ち入りは絶対に許されない。ただ、二十余年前、宮内庁の関係者とともに男狭穂塚の中に入り、墳丘の調査をした学者がいる。西都市立西都原古墳研究所長で宮崎考古学会長、宮崎大講師もつとめる日高正晴さんである。「私たちは子どものころから男狭穂、女狭穂を『ウドム』と呼んで恐れ、敬ったものです。うなるという意味の方言ですが、二つの古墳を眺めていると、そんな感じがしてくるでしょう?」
私は、「私たちは子どものころから男狭穂、女狭穂を『ウドム』と呼んで恐れ、敬ったものです」というこれを読んで、何となくドキリとなり、「へえー」と思ったものだった。というのは、この「ウドム」というのは朝鮮語の「ムドム」ということではないか、と思ったからである。
それが「うなるという意味の方言」ということになっているらしいが、朝鮮の故郷にいたころの私たちもまた、そのような墓を「ムドム」と呼んで恐れ、敬ったものだった。「ムドム」とは「墳墓・塚」ということで、夜など、私たちはその前をとおるときは恐る恐る、となっていたものである。
九州は南へ下るほど朝鮮語がそのままのかたちで生き残っている例として、さきにみた肥後の「残っている朝鮮語『ネー』」の項でもみているが、日向としてはさらにまたこういうことがある。前期『宮崎県の歴史散歩』には「門川《かどかわ》町の遺跡」という項があって、そこにこういうことが書かれている。
〈庵川《いおりがわ》〉観音堂から北へ五〇〇メートルはいった山すそ一帯は皿山田《さらやまだ》とよばれるが、その段々畑のなかに庵川焼窯跡(半地下式の有段状上窯《のぼりがま》)がある。この起源について、延岡藩主高橋元種が文禄・慶長の役のさいに朝鮮からつれてかえったシンニョム・カンニョムというふたりの陶工によってはじめられたという伝説がある。現在、シンニョム焼という焼物も残っている。
このシンニョム・カンニョムとはどういうことかというと、シンとは沈《シン》、カンとは姜《カン》という姓で、ニョムとはニム(任)ということ、すなわち沈様・姜様ということにほかならなかったはずである。それからまた、鹿児島大学の下野敏見氏によると、薩摩などではいまなお篩《ふるい》のことをチェ、背負い子のことをチゲと、朝鮮語がそのまま使われているとのことだった。
男狭穂塚の被葬者は?
さて、横へそれたが、さきの男狭穂塚・女狭穂塚古墳のことに戻らなくてはならない。矢沢高太郎氏の「続・天皇陵の謎」にはさらにつづけて、こう書かれている。
西都市立西都原古墳研究所長の日高正晴さんが調査したという陵墓参考地、男狭穂塚古墳の内部とはどんなところだったのだろう。
「大木が生い茂っていますが、下枝は切られているので、ジャングルのような感じはありません。静寂で、霊気の漂う神域そのものの光景です。問題の後円部から東南に延びる細長い土盛りの部分は高さ一・五メートルぐらい。墳丘の主軸線からは完全にはずれていて、土壤を調べてみたら主墳に続く地山ではなく、後世に盛られた黒色の腐食土でした」
これで、従来の前方後円説は完全に崩壊する。もちろん、男狭穂塚と女狭穂塚を代表する巨大勢力同士の政治的衝突という説も単なる仮説に過ぎなかった。……
では、肝心の墳形はなんだろう。直径が百二十八メートルというのは、円墳にしては大き過ぎる。
「実測図を見ると二重の隍《ほり》のうち、外側の方が墳丘を円形状に回っておらず、参道に通じる部分が参道と並行して外側へ開いているのが分かるでしょう。この実測図から例の不自然な土盛りの部分を取り去ってみれば、短い方形の土壇を持つ古墳、もちろん帆立貝式古墳ですよ」
だいたい私は、古墳は前方後円墳であれなんであれ、その墳形や、また、それの大小ということにはあまり興味がない。それより、その古墳にはなにが副葬されていて、どういうものが葬られた墳墓だったか、ということのほうに関心がある。
しかし、ここでついでに、帆立貝式古墳とはどういうものなのか、水野清一・小林行雄編『考古学辞典』をみるとこうある。
円墳の前面に小さい方壇を付設した墳形の古墳をいう。その平面形が帆立貝を連想させるからである。円墳の前面の地表に円筒埴輪をたて、方形の区域を画するにとどめたものもあるが、とくに帆立貝式というばあいは、方壇のあるものを主とする。
その「方壇」とは祭壇だったもので、いわゆる前方後円墳の「前方」も、もとはそうだったのではなかったかと私は思っているが、それはともかく、ここでまた、矢沢氏の「続・天皇陵の謎」に戻らなくてはならない。ようやく、「男狭穂塚の墳丘全長は百五十三メートル。実に、わが国最大の帆立貝式古墳だった」という、それの被葬者に迫ることになる。
それでは、この大首長墓に眠る人物はだれなのだろうか。日高さんは第十二代景行天皇の熊襲《くまそ》征討を描いた記紀〈『古事記』『日本書紀』〉の記述の中に登場する人物ではないかと考える。『日本書紀』の景行紀十三年の条は伝える。
「悉《ふつく》に襲国を平けつ。因りて高屋宮に居しますこと已に六年なり。是に、其の国に佳人あり。御刀媛《みはかしひめ》と曰ふ。即ち召して妃としたまふ。豊国別皇子《とよくにわけのみこ》を生めり。是、日向国造《くにのみやつこ》の始祖なり」
男狭穂塚古墳の被葬者は第十二代景行天皇の皇子で、日向国造の始祖とされる豊国別皇子ではないか。西都原古墳研究所長の日高正晴さんはこう推論する。
「この宮崎県の中部以北の地域は豊前、豊後とともに豊の国といわれていたようで、南部地区も合わせて日向と呼ばれるようになったのは、豊国別が初めて日向の国造になったころではないか。皇子という名称は景行天皇との関係を示す説話的なものであり、実際は豊国別という名の大豪族がこの地一帯に君臨していたに違いありません」
おわりの「皇子という名称は……」以下が大事で、私もそのとおりではなかったかと思う。要するに、「景行天皇の皇子」うんぬんというのはあとからの付会で、男狭穂塚古墳の被葬者は「豊国別」というものではなかったか、というわけである。
北部九州の福岡県東部と大分県とは豊前国・豊後国となっていたものだったが、それ以前は二つがひとつの豊国となっていたものであった。このことについては、北部九州をあつかった『日本の中の朝鮮文化』10「秦氏族と豊国=韓国」の項などにかなりくわしく書いているが、そしてその豊国は新羅・加耶系渡来人集団である秦氏族の集住地であった。
いま、奈良の正倉院に七〇二年、大宝二年の『豊前国戸籍帳』が正倉院文書としてあるが、これによると秦氏族が豊前国総人口の九三パーセントを占めていた。そういうことからか、それ以前の豊国は「韓国《からくに》」ともなっていたものだった。
つまり、豊国別とはその豊国=韓国からの別れ(分かれ)、別派をなしたもの、ということにほかならなかった。この別れはさらにまたとなりの大隅(鹿児島県)にまでひろがっているが、それについては次の項でみることになる。
韓国宇豆峯神社にて
朝鮮陶工の子孫
私たちが都城市に着いたのは、午後七時になってからだった。そしてタクシーの運転手の案内で、グランドホテルというたいそうな名のところで一泊することになり、私はそこの部屋へはいると、すぐに同市早水町に住む田中正弘氏に電話をした。
さいわい田中氏は在宅していて、あすの朝九時にクルマをもってホテルまで来てくれるとのことだった。私はまだ氏に会ったことはなかったが、都城史談会員の郷土史家である田中氏からはさきに手紙をもらっており、雑誌『もろかた』『南九州文化』などにのせられた論文なども読ませてもらっていた。
今年七十歳になる田中氏は、鹿児島県苗代川(現・美山)の出で、紹介をかねてその手紙をちょっと摘記させてもらうと、こういうふうである。
「私の家は慶長の役のとき島津義弘公により、朝鮮から陶工として鹿児島県伊集院の苗代川に連れてこられたものです」「旧姓を朴と名のり、父は朴休丹といって」「十七歳で西南の役に出陣致し、田原坂―人吉―延岡まで転戦、当時の苦労話をよく聞かされたものです」
「父は明治三十年頃、年頃の娘(二人)を連れて都城の小松原に来り、小松原焼を創始しましたが、これが現在でも有名な小松原焼のはじめです」「父はたいへん学問に理解をもった人で、私たち三人の男児のうち、長男義弘と三男の私は旧制都城中学に進学、次男清弘を後継者と致しました」
「次兄清弘は現在宮崎市で小松原焼を開窯、次男の後継者を得まして、親子でやっております。今年は、宮崎県知事賞を受賞致しました。
私は、当都城地方は養鯉の産地なので、現在、養鯉業を経営致しております。又、昭和三十七年より養鯉組合長を今日まで致しており、息子二人は大学を卒えて、それぞれ結婚致しております。現在、家では家内と二人暮らしで、家内は市内の小学校の教師を致しております。
生来、私は歴史が好きで、都城史談会にも籍をおき、特に古代史に興味を持っており、余暇を利用しては各地の史跡を探訪しております」
四百年近くまえに朝鮮から連行された陶工の子孫である「父は朴休丹といって」「十七歳で西南の役に出陣致し、田原坂―人吉―延岡まで転戦」したとは、それだけでもひとつの物語のようであるが、翌日の午前九時に、その子である田中正弘氏は、自家用のクルマをもってホテルまで来てくれた。痩せぎすの人で、もちろんどこからみても、日本人そのものであった。
あいさつがすむと、きょうの田中さんは、午後一時からご自分が仲人になっている結婚式があるので、ということだったので、それではと私たちはさっそく、大隅の国分市へ向かって出発した。この日はあいにく小雨となっていたが、しかし降ったりやんだりだったので、別に遺跡をたずねるのにさしつかえるほどではなかった。
田中さんがいま住んでいる都城にしても、行ってみたいところがなかったわけではなかった。たとえば、さきの「下北方古墳の出土品」の項でみた、西谷正氏の「日向の古墳文化における大陸的要素」に、「最近では、都城市志和池において、新羅系ないし加耶系の器台も報告されている」とあったそれである。
志和池とは、どういうところか。前記『宮崎県の歴史散歩』をみると、「牧之原《まきのばる》古墳群」とした項にそれのことがこうある。
高崎町縄瀬塚原《なわぜつかばる》一六基中、一一号古墳は大きい。同町横谷には七基があり、五万坂《ごまんざか》の地名は五万の霊とかいわれ、地下式古墳地帯といわれる。都城市志和池に築池古墳、ほかに沖水《おきみず》・五十市《いそいち》、山之口町富吉にも古墳がある。そしてたいていその近くに地下式古墳があり、以上を大淀川流域古墳群と総称している。
「新羅系ないし加耶系の器台」、すなわちそこから渡来した陶質土器の器台が出土したのは、その志和池の築池古墳からのようであった。そこまで行ってみれば、ほかにまたなにかあるかも知れなかったが、しかし私たちは、次の大隅・薩摩(鹿児島県)では一泊の予定しかとれなかったので、そこはカットすることにした。
古代の大隅国
田中さんの運転するクルマは間もなく都城市を離れ、国道一〇号線にのって大隅へはいった。いまは鹿児島県となっている大隅も、薩摩とともにもとは日向国となっていたもので、それが八世紀はじめに分離して大隅国、薩摩国となったものだった。
鹿児島県高等学校歴史部会編『鹿児島県の歴史散歩』のはじめにある「古代」の項をみると、その古代はこうなっている。
古代の南九州では、国造制や律令制は完全には施行されなかった。〈この地方の原住民は〉比較的はやくから大和朝廷に服属して“隼人”と称せられ、特殊な支配をうけていた。交替で都の隼人司という役所に上番し、皇居の警衛、陵墓の警固、相撲、竹細工など特殊な労役に服することになっていた。
この地方への律令国家権力の浸透は八世紀初頭の薩摩・大隅両国の設置以後本格化する。薩摩国府は現在の川内《せんだい》市におかれ、周囲の川内平野には、隣国肥後から多数の住民が移住させられ、高城《たかぎ》郡を構成する。県境の出水《いずみ》地方にも肥後国人の移住が多数みられた。この二郡をのぞく一一郡がいわゆる“隼人一一郡”で、それと高城・出水二郡は行政上区別されていた。
大隅国は四郡からなり、現在の国分市に大隅国府がおかれ、八世紀中ごろまでにはさらに国府周辺に桑原郡、北部に菱刈郡が新設されて六郡となった。この新設二郡には、豊後国の民がうつされた。
こうして律令国家の支配権力が浸透してくると、当然、それにたいする隼人側からの抵抗がおこる。七二〇(養老四)年、国分平野を中心にしておこった隼人の反乱はその最大規模のものだ。反乱はのち大宰府帥になる大伴旅人《おおとものたびと》に鎮定され、その犠牲者の冥福をいのって建立されたのが、現在隼人町にある隼人塚だという。
豊前からの移住者と韓国宇豆峯神社
私たちはその国分平野の国分市にはいったわけだったが、田中さんはそこへも何度か来ていたとかで、目ざした同市上井の韓国宇豆峯《からくにうずみね》神社はすぐにわかった。私も十数年前、薩摩焼のひろがりの地をたずねて加治木町あたりまで来たとき一度たずねていたが、しかし、そのときの印象はもうすっかりうすれて、それが国分市のどこにあるのかも忘れてしまっていたのだった。
樹木の茂った山麓にある無人の社だったが、かなり大きな神社だった。この韓国宇豆峯神社は、大隅に五座ある『延喜式』内の古社なのにもかかわらず、どういうわけか、前記『鹿児島県の歴史散歩』には出ていない。そうだからというわけではないであろうが、さいわい、社前には「昭和六十二年三月/国分市教育委員会」とした標示板がたっていて、こう書かれている。
韓国宇豆峯神社
祭神 五十猛命/創建年代 不詳/神事 三月九日 新年祭・当日農耕播種・奉射行事/例祭日三月九日・旧九月九日
大隅五座のひとつ、「延喜式神名帳」に延長五年(九二七)「大隅国贈於郡韓国宇豆峯神社小」とある。式内社では韓国○○神社と称するものは、出雲国六座・豊前国一座・大隅国一座である。大隅国設定の翌年、和銅七年(七一四)に豊前国から二百戸の民を隼人教導のため大隅国へ移させている。その移住者たちが建立したとも伝えられています。
「宇佐記」によると「欽明天皇三二年(五七一)癸卯二月豊前国宇佐郡菱形地〈池〉の上小椋山に祭られたのを当地宇豆峯の山頂に遷座され、さらに国司の進言により一五〇四年(永正元年)甲子十二月現在の地に奉遷した」との記録もある。
神社由緒書にも豊前国から遷されたと明記されており、豊前国にゆかりのあることが推定させられます。
国分市北方、宮崎・鹿児島の県境にある韓国岳(標高一七〇〇メートル)とこの神社とはどういう関係にあるのかよくわからないが、「隼人反乱」の地であった国分に、「隼人教導」のため豊前から二百戸の民がここに移され、その移住者たちによって韓国宇豆峯神社が祭られたことには、たいへん重要な意味があった。
隼人は縄文人
ではまず、「教導」されなくてはならなかった「隼人」とはいったいどういうものだったのであろうか。このことについては、さきにもちょっとふれているが、『日本古代史と遺跡の謎・総解説』にある西谷正氏の「九州の古代遺跡」中の「“隼人”と呼ばれた人々」の項にこうある。
隼人の故地に永く在住され、隼人の研究に情熱を傾けてこられた中村明蔵氏の優れた研究(『隼人の研究』学生社、一九七七年)などによれば、古代において、中央の大和政権からみると、南九州の地は不毛の辺境地帯として、そこに住む人びとは異民族視された。そして、クマソと呼ばれ、『古事記』では熊曽、『日本書紀』では熊襲とそれぞれ蔑視している。
ところで、クマソはすでに五世紀以前に文献に登場し、大和政権に服属しない南九州の蛮族とされているのに対して、隼人は少し遅れて五世紀以後になって登場するとともに、大和政権の支配下に入っていく。おそらく、五世紀のころ、大和政権に服属したか否かで、中央からの呼称がクマソから隼人へと変わったらしいといわれる。
要するに、隼人とはクマソ(熊曽・熊襲)と同じ人々だったわけであるが、そのクマソ・隼人とは、東北の地にいたアイヌ・蝦夷《え ぞ》とも同じ、人類学では古モンゴロイドといわれる原住民の縄文人にほかならなかった。このことについては少し詳論が必要のようだが、しかしそのまえに、ついで西谷氏はこう書いていることからも、それはうかがい知ることができるのではないかと思う。
さて、南九州の歴史をふりかえると、旧石器時代以来人びとの営みがあり、縄文時代にはこの地方特有の文様をもつ縄文式土器と、それに代表される文化が発達しており、長年にわたって、狩猟・漁撈を主とする採集社会が展開していたことがわかる。……
また、弥生時代における稲作文化の南下に伴って、北部・中部からの移住者もいたかもしれない。後には、『続日本紀』和銅七年(七一四)三月の条にみえるように、「隼人昏荒《こんこう》して、野心未だ憲法を習はず。因りて豊前国の民二百戸を移して、相勧導せしむ也」とあって、北部九州人の血が一部とはいえ混じっていたことも考えられる。
ここにいう「相勧導」とはさきの韓国宇豆峯神社の標示板にあった「教導」と同じことで、そのための移住はクマソ・隼人の地だった南部九州だけではなかった。アイヌ・蝦夷の地だった東北に対しても、同じことがおこなわれていた。
東北のことについては、この南部九州・琉球のあとは東北となるので、そのときくわしくみることになるはずであるが、ここでは出羽国(いまの山形県・秋田県)へのそれだけちょっとみておくことにしたい。それについては、誉田慶恩・横田昭男氏の『山形県の歴史』にこうある。
霊亀二年(七一六)、中納言巨勢《こせ》麻呂は、「出羽国を建ててから数年たったが、吏民とも少なく、狄徒《てきと》はまだ馴れしたしまない。その地は肥えて、田野は広大である。願わくば近隣の国民《くにたみ》を移住させ、蝦夷を教諭し、あわせて地利をひらかせたい」と言上し、ゆるされている。出羽柵に送りこまれた諸国の民は『続日本紀』によると、別表のとおりであるが、山形県各地に諏訪神社が多いのは、信濃からの移民を物語っていよう。
ここにみられる「狄徒」とはのちのアイヌ・蝦夷のことであり、「出羽柵」の「柵」とは蝦夷に対するそれであったことはいうまでもない。さきにみた豊前国から移民した二百戸の民は韓国宇豆峯神社を祭ったのに対して、出羽への信濃からの移住民は、そこに諏訪神社を祭ったわけだったのである。では、豊前からのかれらのそれはどうして「韓国」だったのであろうか。
そのことについては、さきの西都原古墳群における男狭穂塚古墳の被葬者をみたときにもふれているが、新羅・加耶系渡来人集団である秦氏族の集住地であった豊前国・豊後国は二国に分かれるまでは豊国であったと同時に、それはまた韓国でもあったからだった。『日本書紀』用明二年条をみると、仏教を受容するかどうかということを議する場に豊国法師というのが登場するが、この豊国法師を韓国法師だったとしたのは、江戸時代の考証学者である狩谷掖斎であった。
その受仏か排仏かのことは『日本霊異記』にも出ていて、板橋倫行氏の校注をみると、「今《いま》国家《こけ》災《わざわい》を起すは隣国の客神を己《おの》が国内に置くによる。この客神の像を出すべし。すみやかに豊国に棄《す》て流さむ」とある豊国とは、「豊かに富んでいる国、すなわち朝鮮の国」とある。また、中田祝夫氏の全訳注『日本霊異記』にも、「豊国 韓国。韓国を宝の国、財宝の国などといったことによる」となっている。今日では朝鮮・韓国を「豊かに富んでいる国」「宝の国」などとはとてもいえないが、古代の当時はそうみられていたのである。
縄文人の駆逐と分断
ところで、クマソ・隼人の地であった大隅・国分のそこに韓国宇豆峯神社を祭った豊前から移住した二百戸の人口は、田中正弘氏の「大隅と豊前文化」によると「四〇〇〇人」とある。大家族制だった古代のことであるから、私はもっと多かったのではないかと思うが、それはともかくとしても、前記『鹿児島県の歴史散歩』でみた肥後や豊後からのそれを加えると、大隅のそれだけでもたいへんな数だったのである。
それに対して、のちに大和王権からクマソ・隼人とよばれた日本原住民である縄文人は、いったいどれほどだったのであろうか。小山修三氏の『縄文時代』および「縄文時代の人口」にはそれについての調査研究が、各地方別まで精密な「表」になって出ている。
それによると、日本全土における縄文時代晩期の全人口は七万五八〇〇で、これが弥生時代になると急に五九万四九〇〇となり、奈良時代には五三九万九八〇〇となっている。そして九州地方の縄文人はわずか六三〇〇で、これが弥生時代にはいると一〇万五一〇〇となり、奈良時代には七一万四〇〇となっている。
人口のうえでもこういうふうでは、縄文人のクマソ・隼人は、弥生人およびその子孫に対して何度か反乱をおこしたとしても、稲作農耕だけでなく鉄器文化をもったかれらにはとうていかなわなかったはずである。致し方のないことで、その結果はどういうことになったかというと、次にみるような「駆逐」「分断」ということになったのである。
一九八四年に創立一〇〇周年を迎えた日本人類学会の記念誌『人類学―その多様な発展―』の冒頭に、池田次郎氏の「序章 日本人起源論の一〇〇年」があって、そのことがこう書かれている。
日本人類学会の母体となる会合が発足した明治一七年までは、日本人の人種系統をめぐる論議は、もっぱら、欧米人学者の間で展開され、この問題に日本人が介入する余地はまったくなかった。しかし、それから三年後には、日本の人類学史上まれにみる大論争にまで発展したコロボックル・アイヌ論争の火蓋が切られ、日本人の手による日本人種論研究の歴史が始まる。……
アイヌ説、コロボックル説など第一期の学説は、すべて人種交替を認める点で一致しているが、その中では、鳥居龍蔵の、縄文時代の本州住民はアイヌで、現代日本人は、朝鮮半島から弥生文化とともに渡来し、先住民を北方に駆逐した固有日本人から派生した、という論旨がもっとも明快である。日本人の人種系統を論じたこの時代の学者たちが、縄文人の起源にほとんど興味を示さなかったのも、先住者は日本人の先祖とは無縁だと考えていたからにほかならない。……
一方、沖縄集団の人種系統に初めて言及したベルツはアイヌ・沖縄同系論を唱え、アイヌ説では、朝鮮半島から渡来した日本人の祖先によって南北に分断された先住民が、それぞれ北海道と沖縄で生き残っていると説明された。やがて人種交替説が姿を消すと、沖縄集団は本州集団の一地方群で、アイヌとは無関係だとする見方が普及したが、戦後、奄美や沖縄で生体計測値、頭蓋や歯の形態、血液の遺伝標識など多くの形質が詳しく調べられ、沖縄、アイヌ両集団の類似がふたたび注目を集めるようになった。
ここにみられるベルツとはエルヴィン・フォン・ベルツのことで、彼は明治初期に東大に招かれていたドイツ人医学者であった。
また、いまみたような見解を示したのはベルツだけではなかったとして、田辺二郎氏の「朝鮮半島と我等」にはこうも書かれている。
大和朝廷に服従する事をあくまで拒否した九州の叛骨縄文人は海を渡って奄美大島、琉球に逃がれた。従って琉球人とアイヌは縄文人の分枝であり、同根である。この事実を最初に指摘したのは、幕末に来日して幕府の外交顧問となったドイツ人のシーボルトである。まさに卓見であるが、外人は先入観念がないから素直な見方が出来るのであろう。
隼人町の大隅正八幡
鹿児島神宮の起源
韓国宇豆峯神社からの私たちは、ついで国分市の西、隼人町にある大隅国一の宮となっている鹿児島神宮をたずねた。「熊襲の供養塔」という隼人塚の近くだったが、これはさきの韓国宇豆峯神社とはくらべようもないほど広壮なものとなっていた。
しかし、実はこの鹿児島神宮ももとは、さきの韓国宇豆峯神社と同系統のものであった。そのことはこれからみるとして、さきにまず社務所へ寄って、『鹿児島神宮由緒略記』をもらってみると、そのことがこう書かれている。
鹿児島神宮の創祀は遠く神代にあって、又皇孫神武天皇の御代なりとも伝えられます。御祭神彦穂穂出見尊は筑紫の国開拓の祖神に坐しましこの地に高千穂宮(皇居)を営み給い、五百八十歳の長寿に亘らせらるる間農耕畜産漁猟の道を指導し民政安定の基礎をつくり給うたのである。
俗に正八幡、国分八幡、大隅正八幡等と称し、全国正八幡の本宮でもあります。醍醐天皇の延喜の制には(九〇一年)大社に列し、大隅一ノ宮として朝野の崇敬特に篤く営膳の費は三州の正税を以て充てられ、後鳥羽天皇建久年間(一一九八年)には社領二千五百余町歩の多きに至り、江戸末期まで千石を有していた。
明治四年国幣中社、同七年神宮号宣下官幣中社、同二十八年官幣大社に夫々《それぞれ》列格す。
昭和十年、今上陛下の行幸を仰ぎ、勅使御参拝は二十余度に及ぶ。現社殿は桃園天皇の宝暦三年(一七五三年)島津重年公(廿四代)の造営になるものである。
はじめの第一段はともかくとして、これによると、鹿児島神宮は「全国正八幡の本宮でもあります」となっている。つまり、全国にある八幡宮の総本宮だともいうのである。
この神宮にはそういう伝説もあるが、しかしその伝説はあとからの付会で、この鹿児島神宮・大隅正八幡ももとは韓国宇豆峯神社と同根の、宇佐八幡宮の分社といってもいいものなのである。さきにみた韓国宇豆峯神社の標示板に「『宇佐記』によると」として、「豊前国宇佐郡菱形地〈池〉の上小椋山に祭られたのを当地宇豆峯の山頂に遷坐され」とあったが、この菱形池の上の小椋山《おぐらやま》に祭られたものとは、すなわち、宇佐八幡宮の前身にほかならなかった。
その宇佐八幡宮はまた、新羅・加耶系渡来人である秦氏族が豊前(福岡県)田川郡の香春町に祭った辛国息長大姫大目《からくにおきながおおひめおおまの》命神《みこと》社(のち香春神社)とも同根なのであるが、それと鹿児島神宮・大隅正八幡とのことについては、谷川健一編『日本の神々』「九州編」にもかなりくわしく書かれている。
「隼人の故地に永く在住され、隼人の研究に情熱を傾けてこられた」(西谷正「九州地方の古代遺跡―“隼人”と呼ばれた人々」)中村明蔵氏執筆の「鹿児島神宮」の項がそれで、中村氏は、さきの韓国宇豆峯神社の標示板にあった豊前からの二〇〇戸の移住者のこととともに、そのことをこう書いている。
豊前よりの移住者が移り住んだ桑原郡というのは、おそらく贈於郡をさいて新設された郡であるが、その境域は現在の姶良《あいら》郡に近いとみられる。……国府の地が現在の国分市府中の地にあったことからすると、そこを中心にした広がりをもっていたとみるのが妥当であろう。十世紀前半に成立した『延喜式』の神名帳によると、鹿児島神社は桑原郡所在となってはいるが、府中の東(やや南寄り)約三キロの韓国宇豆峯《からくにうずみね》神社などは贈於郡所在となっているので、贈於郡との郡境もそう遠くはなかったであろう。
いずれにしても、豊前国などからの移住者は大隅国の国衙・国府の防衛をその主任務として、鹿児島湾奥部の天降《あもり》川(新川)流域を中心に配置されたのであろう。
このようにして大隅の国府周辺に配置される豊前などの移住民が、蛮夷とされる隼人の地に住むとき、彼らの信仰する神として八幡神などを大隅の地に奉持したことが、大隅と八幡神が結びつく機縁になったものとみられる。八幡神だけが単独に奉持されたのではなく、おそらくは国分平野の東には韓国神も遷祀されたのであろうが、両神の関係についてはさらに後述しなければならない。
国分平野、といっても八世紀初頭には現在ほどの広がりはなかったであろうが、その東西の両端に、遷祀された神々は祀られている。国府を中心として両神が配祀されていることには、重要な意味があることを見落としてはならない。
八幡神と韓国神の関係
ちょっと長くなるが、八幡神・韓国神「両神の関係については後述しなければならない」とあるし、また、いわゆる熊襲・隼人との関係における大隅の歴史が簡潔に述べられているので、中村氏のそれをさらにつづけてみなくてはならない。
八幡神・韓国神が隼人の地でさらに重視されるようになったのは、養老四年(七二〇)以降であった。この年におこった大隅国守陽侯史麻呂《やこのふひとまろ》殺害に端を発した隼人の争乱は、一年数ヵ月にわたってくりひろげられた大規模なものであった。発端になった事件からして、この争乱で大隅国府を中心とした地域が主戦場となったことは明らかであり、豊前などからの移民が争乱にまきこまれたであろうことも論をまたない。……
二〇〇戸、約五〇〇〇人の豊前などからの移住民が大隅へ移ったのは和銅七年(七一四)のことであり、争乱のおこった養老四年(七二〇)はそれからまだ六年しかたっていなかった。移住した人々の親族をはじめ、豊前の現地の住民が移住者への救援にとくに熱心であったことは十分に推測できるところであるし、神験あらたかな八幡神を奉持して大隅へ入部したことも、これまた豊前の住民にとっては当然のことであったにちがいない。……
すでに述べたように、豊前地方には八幡神信仰の背景に朝鮮系の渡来人の文化があり、八幡神信仰もその文化と深くかかわって発展してきたことを考慮する必要がある。……そのような文化のなかで注目されるものに、豊前国田川郡の香春岳《かわらだけ》の神がある。
『豊前国風土記』によると、「田川郡香春郷」にむかし新羅神が渡来していたといい、現在は岳の麓に香春神社がある。この神社は、『延喜式』神名帳によると、もとは式内社の辛国息長大姫大目命神社である。そしてこの神社の信仰の背景には渡来人による銅の採掘が深くかかわっていた。先掲の風土記にも第二の峯に銅があることが指摘されているが、いまも「採銅所」という地名が残る。
ところが、じつは宇佐八幡宮と香春岳は神事によって結びついている。中野幡能氏の研究から、その神事放生会《ほうじようえ》をごく簡単に紹介すると、つぎのようである。
放生会の起源は、養老年間の隼人征討によって殺された隼人の霊を慰めるものという。それは別にしても、魚鳥類を放つことが本来の目的であったはずであるが、ここでは行事の進行がしばしば隼人と関連づけられている。
祭の最初は、豊前の国司が勅使となり、香春岳から銅をとり、岳の麓の採銅所の鎮守、古宮八幡宮の宮柱長光家の行なう鏡の鋳造に参加する。鋳造された鏡は神輿に奉じて宇佐の隼人塚(隼人の首を祀ってあるという)の前に来る。そこで宇佐八幡の大宮司以下に迎えられ、各地での行事を経ながら、最後に大宮司は鏡を奉じて本宮に帰り、神体として納めるというものである。
この祭には種々の要素がみられるが、とくに私が重視するのは、辛国息長大姫大目命神社が本来は銅の採取に深くかかわっていたであろうことと、そこで採取された銅で宇佐八幡宮の神体がつくられることである。すなわち、この両社は一体となって神事をとり行なう関係にあったとみられるのである。
この両者の関係は、そのまま大隅国府の地にもちこまれたのではないだろうか。用字は異なるが、「韓国」を冠する韓国宇豆峯神社が国府の東に存在する。そして西には正八幡が存在する。この両社は一体として、移住民の守護神として配祀されたにちがいないのである。
ついでにつけ加えるならば、韓国宇豆峯神社の南西には「銅田」の地名もいまに残る。しかし、そこでかつて銅の採取が行なわれたかどうかはいまだ確認されていない。
また、この付近に何らかの渡来系の文化を見いだすことはできないものだろうか。そのような例を一つあげると、大隅国府の推定地とされる国分市府中の亀甲《かめこう》にある地下式横穴古墳から出土した金銅製三累柄頭大刀《さんるいつかがしらたち》を指摘することができる。この種の大刀は朝鮮半島南部の古新羅や伽耶《かや》地方から出土するものといわれ、半島では五、六世紀に盛用されたものという。この大刀はおそらく、豊前からの移住民によって南九州に持ちこまれたものであろう。
例によって長い引用となったが、これで鹿児島神宮・大隅正八幡と宇佐八幡宮および韓国宇豆峯神社とはどういう関係にあったか、というより、それは同根・一体のものであったということがわかったと思う。要するにそれは、豊前の人口の九三パーセントを占めていた、新羅・加耶からの渡来人である秦氏族の南下とともにあったものだったのである。
このことについてはさらにまた、『日本の中の朝鮮文化』10の「秦氏族と豊国=韓国《からくに》」「宇佐八幡宮をめぐって」の項を参照してくれるとありがたいと思う。
安楽神社・白木神社など
私たちは、その鹿児島神宮・大隅正八幡で都城からそこまでいっしょに来てくれた田中正弘氏とわかれ、参道入口にあった喫茶店にはいって一休みしながら、これからどちらへ向かうか、ということで相談をした。行ってみたいところは多かった。
たとえば、私たちがそこにいた大隅にしても、いまさっきみた谷川健一編『日本の神々』をくってみると、曽於郡志布志町安楽《あんらく》に「山宮神社・安楽《やすら》神社」の項があって、「山宮神社は大字安楽の宮内にあり、安楽神社は同じく安良にある」とある。この「安良」とは、古代南部朝鮮の加耶諸国のうちの安羅《あら》(安耶)が安良《あら》とも書かれたことからきたものにちがいなく、安楽《あんらく》(やすら)というのも、その安良が変じたものにちがいなかった。
また、遠いところとしては、こちらは薩摩半島の東南端や西南端となるが、一九八一年十二月二十日の南日本新聞をみると、「一〜三世紀の南九州/すでに弥生の光/白銅鏡が出土/韓国製/指宿・道下遺跡」という記事が出ており、その西の坊津《ぼうのつ》については前記『鹿児島県の歴史散歩』にこうある。「西海仏教文化の先進地、一乗院は、五八三(敏達天皇一二)年に百済僧日羅《にちら》が坊津の丘の上・中・下の三坊舎を建立して龍巖寺と号したことにはじまり、坊津の地名もこれに由来するという」
それからまた、薩摩の北端となっている大口市には白木神社があって、いまみた『鹿児島県の歴史散歩』にこう書かれている。
白木神社は市の中心部の西方にある。もとは長福寺という寺院だったが、明治初年の排仏棄釈でこの寺院も破壊され、神社にすがたをかえて存命している。神社には、もと長福寺本尊とされた白木観音像(県文化)という寄木造《よせきづくり》の素木《しらき》像があり、素木は新羅の白ツバキとも伝えられ、白木は素木にも新羅にも関連づけられる。
この白木神社のことは、さきの『日本の神々』にも出ており、秦氏族から分かれ出た牛屎《うしくそ》の太秦《うずまさ》氏と関係あるもので、「京都秦氏には新羅との結びつきが考えられるところからすると、白木=新羅とすることにも簡単には否定できない背景があるように思われる」とあるが、しかし、それらの遺跡のある大口市や指宿《いぶすき》や日羅の坊津にしても、遠すぎて敬遠するよりほかなかった。
そして近くの志布志町の安楽・安良にしても、行ってみるまでのことはないであろうということになり、私たちは結局やはり、同行の高淳日氏はまだ行ったことがないという日置郡東市来町の苗代川(現・美山)へ向かってタクシーを走らせることにした。
「やはり」といったのは、私と辛さんとはそこは何度かたずねていたからだったが、私たちはこうして大隅から、こんどは薩摩となるわけだったのである。
薩摩焼と苗代川
薩摩焼の起こり
薩摩、あるいは鹿児島といえば島津氏であるが、その島津氏は高柳光寿・竹内理三編『日本史辞典』に、「平安末期以来の西九州の雄族。在地豪族惟宗基言の子広言が近衛家領島津荘下司となり、島津氏を称したのが初めと伝えられる」とあるように、島津氏はもと、平安時代に秦氏族から分かれ出た惟宗《これむね》氏だったものであった。
その島津氏は第十七代義弘の代になって、豊臣秀吉の朝鮮侵攻戦争(文禄・慶長の役)に参加し、たくさんの朝鮮人技術者・陶工を連行してきた。そうして、苗代川を中心としてつくられたのが、いまなおつくられつづけている薩摩焼である。
鹿児島市内にある「高麗町」「高麗橋」などというのもそのことの名残であるが、苗代川および薩摩焼のことについては、私の手元に、一九二〇年代に書かれたものとみられる『鹿児島県日置郡伊集院村苗代川の沿革』というのがある。私は二十数年前、これをもとにした「苗代川」という記録小説を書いているが(小著『古代朝鮮と日本文化』〈講談社学術文庫〉に付録として収録)、その『――苗代川の沿革』のはじめはこうなっている。
苗代川部落は今を去る三百三十余年前、慶長の役の際、島津義弘公、朝鮮南原城、加徳島等の戦にあり。あるいは熊川、金海等に於ける各種工芸に通ずるもの二十二姓、男女四十余人を携えて帰りたるものの子孫にして、現時戸数四百十余(肝属郡鹿屋町笠之原を含む)、人口一千六百五十余に増加せり。
二十二姓のうち黄、羅、燕の三氏は一代にて断絶、安、張二氏は十数年の後、陶工指南として藩主の命により、琉球へ差遣《さしつか》わされ、今は朴、李、沈、陳、何、白、朱、丁、鄭、林、車、卞《べん》、伸、金、姜、盧、崔の十七姓なり。
そもそも四十余人のうち十余人は、鹿児島市前の浜に着船したるをもって、藩主より今の高麗町に居所を賜い厚遇を受け居たるも、串木野の島平浜に着船したる二十余人は鹿児島を去る遠隔の地、殊に兵乱相踵《あいつづ》き諸事困難のときとて、やむなく自ら耕作し、あるいは窯を築造して製陶を業とせしが、慶長八年、言語不通のため土着人とのあいだに葛藤を生じ、今の苗代川に転住したり。……
薩摩焼の沿革は、島津義弘公が熊川、金海の陶土・釉薬を携帯御帰国、その原料にて焼成されたものを「火計《ひばかり》」と称し、朴氏清右衛門をして慶長十八年、御領国にその原料を探見せしめられ、清右衛門、同志沈当吉とともに苦心探見の結果、良好の陶土を得、之《これ》をもって初めて帖佐にて焼成せられたるに、熊川以上の製品を得たり。之を古帖佐という。御庭焼、御判手の謂《い》いあるも略す。之すなわち、現今の薩摩焼の起りなり。
この『――苗代川の沿革』は、いわば苗代川におけるかれらの公式的文書で、ここには書けない、書かれない事実がほかにもたくさんあった。たとえば、「四十余人のうち、十余人は鹿児島市前の浜に着船したるをもって、藩主より今の高麗町に居所を賜い厚遇を受け居たるも、串木野の島平浜に着船したる二十余人は……」とあるが、それはなぜだったか。
また、「慶長八年、言語不通のため土着人とのあいだに葛藤を生じ……」とあるが、それはどういうことであったか。そのことについては、前記の「苗代川」に私なりの調査(苗代川出身者からの聞書きなど)にもとづいて書いているが、しかし、そのことにはここではふれないことにする。
母国の氏姓・風俗を保持した苗代川の居住者
それはそれとして、近年、萩原延寿氏の『東郷茂徳―伝記と解説―』が出たが、ここに太平洋戦争中の悲劇的な外相だった東郷茂徳が生まれたその苗代川について、こういうことが書かれている。
文禄・慶長の役は別名「焼物戦争」と呼ばれるほど、これに従軍した諸将は、独自のすぐれた文化をもつ朝鮮から、多くの陶工を日本に連れかえったが、島津義弘も例外ではなかった。島津の場合が例外であったのは、つぎの点である。
すなわち、この戦役のさいに虜囚として日本の土をふみ、各地に散っていった二万とも三万ともいわれる朝鮮のひとびと(その中に陶工もまじっていた)のうち、のちに朝鮮から「刷還使節」の到来があり、その結果帰国していった七千五百余人をのぞくと、そのすべてが、やがて朝鮮の氏姓を捨て、日本に同化していったのにたいして、薩摩の苗代川(およびそこから分岐した鹿屋の笠野原と萩塚)に居住していたひとびとだけが、母国の氏姓と風俗を保持したまま、二百七十余年にわたって集団生活をつづけ、明治にいたっていることである。
島津側からの政策もあったであろうが、このことはまったく珍しいことであった。さきにみた肥前(佐賀県)の有田焼などにたずさわった人々は、いまはもうすっかり日本のなかに拡散してわからなくなってしまっているが、苗代川だけは記録上にしろ、いまなおその名残を色濃くのこしているのである。
いまあげた、東郷茂徳にしてもそうであった。彼のことは、萩原氏の『東郷茂徳』にこうなっている。
東郷茂徳は、明治十五年(一八八二)十二月十日、朴茂徳として、この苗代川で生まれた。
「士籍編入之願」がくりかえされ、あたらしい時代に如何に対処すべきか、この村の住民が苦しい模索をつづけていたさなかであり、明治十三年の「士籍編入願」に署名した三百六十四名のひとびとをたどってゆくと、その百三十四番目に、東郷の祖父朴伊駒の名前も見える。この署名順から推して、東郷の生まれた朴家は、この村ではほぼ中位の家格と見てよいであろう。
東郷の生家、当時の戸籍名でいえば、鹿児島県日置郡下伊集院村大字苗代川三十八番戸は、現在ものこっている。伊集院からゆくと、ほぼ村の中央の右手にある。郵便局の前を通りすぎ、旧小学校跡を左手に見ながら、農協事務所の角を右に折れ、旧街道筋と平行に走る中之馬場と呼ばれる小路を越えると、左手の孟宗竹の林の中に、東郷の生家がひっそりとたっている。
いまではかなり荒れはてているが、それでもしっかりした門構え、大きな土蔵、縁先にのこる造園の跡など、村一番の分限者といわれた父寿勝の往時をしのばせる家の造りである。庭先の中央に、現在東郷を記念する大きな碑が建っているが(昭和三十九年十一月一日建立)、そこに刻まれた東郷の生年月日が明治十五年十月十日となっているのは、大正元年(一九一二)に外交官試験を受けたさい、東郷が外務省に提出した自筆の履歴書の生年月日が、明治十五年十月二十五日となっていることからの思いちがいであろうか。戸籍の上では、前述の如くである。
この生年月日についての混乱はおそらく、一九一九年に朝鮮で生まれた私のそれが旧暦の十一月二十七日となっているのとはちがい、こちら日本の戸籍ではすでに新暦となっていたにもかかわらず、朴家または苗代川では旧暦の記憶が強かったことからきたものではないかと思われるが、それはともかく、「明治十九年(一八八六)九月六日、朴家は姓を東郷と改め、平民から士族の身分に移った」「こうして、五歳の時から、朴茂徳は東郷茂徳を名乗るようになった」(同『東郷茂徳伝』)。
野遊の地・玉山神社
さて、私たちは、「鹿児島の西北約二十キロ(約五里)、伊集院、市来、串木野とつづく旧街道に沿って、伊集院と市来のほぼ中間のあたりの小高いところに、通称苗代川と呼ばれる村落(現在日置郡東市来町美山《みやま》)がある。この村の落着いたたたずまいと、そこにただよう気品にみちた風情とは、この村の特異な歴史と、その中で生きてきたひとびととの深く秘められた感情をしずかにうつし出している」(同上)その苗代川だった美山に着いた。
そしてまず、私はこれまでにも何度か会っている、集落のなかほどにある「寿官陶苑」の第十四代沈寿官氏をたずねたところ、あいにくなことに寿官さんは夫婦とも外出中で留守だった。「寿官陶苑」はあいかわらずのたたずまいで、この沈寿官家のことは、前記『鹿児島県の歴史散歩』にこうある。
古めかしい武家門をくぐると、むかしながらの構えの母家があり、庭の奥には、土をこね成形をする作業場がある。一角には登り窯が築かれ、横手には燃料の松材がうず高くつみあげてある。現在は重油窯か電気窯で製作するが、特殊な作品は登り窯でむかしながらの方法により焼くこともあるという。同家の部屋のなかには、累代の製品がならべられ、薩摩焼のいきた資料館となっている。案内をこえば、だれでも自由に見学できる。
同家をでてすこしさきへゆくと、県道左側に鮫島《さめじま》佐太郎窯がある。同家は、沈家が白薩摩を主とするのにたいし黒物(黒薩摩)を中心とし、屋敷内に薩摩焼民芸館が開設されている。最近は薩摩焼も窯元がふえ、現在操業しているのは美山地区でも合計十数軒を数えるが、戦時中から戦後の景気回復までは火の消えたようだったという。
美山集落中央部から左手に少しはいったところには、陶工の守護神玉山宮がある。古くは朝鮮伝来の歌舞がその祭日に奉納されていたというが、現在は行なわれない。わずかに同社の宮司によって歌詞だけが記録されている。
ついで私たちは、その「守護神玉山宮」へ向かったが、その神社は茶畑のあいだが参道となっている突きあたりにあった。そこは小高い丘となっていて、晴れた日にはそこから、苗代川のかれらが渡って来た東中国海が望まれた。
そこはもと、「古くは朝鮮伝来の歌舞がその祭日に奉納された」とあるように、彼らが年に一、二度おこなっていた、郷愁の歌もうたわれた「野遊」の地だったようである。歌舞がつきものの「野遊」はいまも韓国・朝鮮人の好むものであるが、そうしているうちやがてその地に、朝鮮の始祖とされる檀君をまつった玉山宮・玉山神社が祭られることになったもののようであった。
神社はまえに来てみたときよりは、手が加えられてかなり整備されていた。そして横手からまわりは墓所となっていて、そこには「明治十八年建立」とした「薩摩焼陶器創祖/朴平意記念碑」などもあるが、さきに来たときにはその辺に、「金達十之墓」というのもあって、私はちょっとドキリとなったものだった。が、どうしたか、こんどはそれは見あたらなかった。
串木野の島平浜で思うこと
苗代川を離れた私たちは、こんどは苗代川西北方となっている串木野市の島平浜をたずねた。「苗代川の歴史は、串木野にはじまる。串木野の島平、そここそ朝鮮李朝の陶工たちが、日本に足跡を印した地である」「暗い海。この地で、望まずして異邦に連れてこられた李朝の陶工たちの哀しみの歴史、現代にまでつづく苗代川の人々の哀しみと苦しみの歴史がはじまった」(吉田光邦『日本のやきもの・薩摩』)その串木野の島平浜である。
近年、そこには「薩摩焼開祖着船上陸記念碑」がたてられたとのことで、それもみたいと思ってたずねたのだったが、記念碑がたっているのは細長く突出した岬の先となっていた。もう日暮れていたので、そこまで行ってみることはできず、私たちはしばらくのあいだ、ただその浜辺に立って、暗くなりはじめた波荒い海をながめているよりほかなかった。
考えてみると、ちょっとへんな気がしないでもなかった。というのは、苗代川のかれらが連行されて上陸したそこが串木野であったことで、私は日本地名研究所長の谷川健一氏が、私との対談『地名の古代史』「九州編」でこう語っているのを思いだしたのだった。
話はあちこちいくけど、串《くし》という地名が非常に多いんです、長崎県下には。それから鹿児島にも串間とか串木野だとか串というのが多い。これは愛媛県にもある。この串というのは、朝鮮語のコスなんですね。コスというのは、朝鮮語では岬とか海岸を言うんです。
ピョンヤン〈平壤〉の西に長い岬が突き出ている。あれは長山串《コス》というはずです。コスというのが海岸を表す。この地名が長崎県にたくさんある。それから愛媛県にもたくさんある。紀州の串本なんかもそうかもしれない。香川県の高松の西のほうに大串半島がある。大串というのは大きな岬の意味ですね。そういうことで、これは間違いない。そのコスがどうなるかというと、〈朝鮮の〉『海東諸国記』を見ますと、対馬では船越という名前に変わっている。いわゆる船を担いで越えるという……。
さらにまた、西谷正氏の「九州地方の古代遺跡――支石墓は誰がつくったか」をみると、その支石墓のことがこう書かれている。
九州の支石墓は、初期においては、九州北岸地域の佐賀県唐津平野や福岡県糸島平野のほか、西北九州の長崎県を中心に分布する。その後、弥生時代前期末から中期初頭のころになると、中部九州の熊本県や、さらに遠く九州南部の鹿児島県まで分布が拡大される。
支石墓は、稲作技術といっしょに伝来したものであってみれば、支石墓の分布の拡大の背景には、新しい種々の文化現象をもたらした朝鮮半島からの渡来人ないしは渡来系集団とのかかわりを考えるべきであろう。
してみると、串木野などという地名も、鹿児島にまでひろがったそれら「朝鮮半島からの渡来人ないしは渡来系集団」によって、もたらされたものだったかもしれない。すると、どういうことになるであろうか。
弥生時代に渡来したものはすでに「固有日本人」(鳥居龍蔵)となっていたが、それから千数百年後にはその子孫によって、李朝時代の朝鮮人陶工たちが拉致・連行されたわけだったのである。考えてみると、歴史とはまったく妙なものだと思わないではいられなかった。
「三韓の秀を鍾《あつ》め」た琉球
首里はソウルという説
琉球(沖縄県)はよく知られているように、かつてはひとつの独立王国であった。そういう歴史的特殊性ということもあって、これまでたくさんのことが書かれてきた。
しかしながら、琉球と朝鮮とのかかわりについては、ほとんどなにも書かれなかった、といっていいのではないかと思う。ただ、私の知る限りでは、當間嗣光氏の「沖縄に残る朝鮮文化」という短い一文があり、「短文のため他には触れられないが、一例ずつあげると」として、そこにこうあったのをみたのみだった。
王都首里《すり》(『おもろさうし』では、しょり)は朝鮮では町や村の意で、またソウルからきたものだろうという説がある。古代衣裳で主として上流婦人が着た胴衣《どうじん》と下裳《かかん》(チマ)は、朝鮮婦人の民族衣裳と同型である。調味料、薬草では、こうれぇぐす(高麗辛子・胡椒)、きーゆい(朝鮮朝顔)、蒸し餅の高麗〓《こう》、高麗きせる等が残っている。
なかでも私としてちょっとおどろきだったのは、「王都首里」が朝鮮の王都(いまは韓国の首都)「ソウルからきたものだろうという説がある」ということだった。それはどういうことなのだろう、と思ったのである。
コウレェグスは高麗薬
私はこの稿(『日本の中の朝鮮文化』)のため日本全国を歩きまわっているが、まだ、琉球国だった南島の沖縄だけは行ったことがなかった。いずれは、と思っていたところ、この一、二年、あるチャンスにめぐまれて、つづけて二度もその沖縄をたずねることになった。
チャンスというのは、「沖縄ジャンジャン」なるところから講演をたのまれたからだった。それで私は、こちらも沖縄へは行ったことがないという友人の高淳日氏とともにはじめて沖縄をおとずれ、「沖縄への旅」という一文をある新聞に書いたものだった。
ここでもまた、そのとき書いたものと同じようなことを書くよりほかないが、沖縄は韓国より遠いところだった。しかし、東京からの飛行機は二時間ちょっとで、私たちをその沖縄の那覇まで運んでくれた。
私たちが着いたのは午後一時ちょっとすぎだったから、さっそく、出迎えてくれた高嶋進氏(「沖縄ジャンジャン」代表)らの案内で、有名な「ひめゆりの塔」などのある南部の戦跡地をひとめぐりすることになった。
何ともいいようのない激戦地の跡だったが、いまではそれもかなり風化し、半ば観光地のようなところとなっていた。しかし、摩文仁《まぶに》の丘など、まだ生ま生ましいものがあって、各県出身者の慰霊塔があちこちにあり、韓国人慰霊塔もあった。
高良倉吉氏の「琉球から沖縄へ」をみると、先の大戦では沖縄県人四人のうち一人が死に、その総数は十二万二百三十八人。ついで日本軍(沖縄県民をのぞく)は六万五千九百八人、アメリカ軍は一万二千五百二十人となっているが、しかし、ここに朝鮮・韓国人の一万余人は含まれていない。慰霊塔も韓国人有志が、本国の支援を得て建立したものだった。
戦跡地にある食べ物店にはいり、小麦粉でつくるという「沖縄そば」を食べることになった。卓のうえに赤い小ぶりの唐がらしを泡盛漬けした「コウレェグス」というのがあって、そば汁にまぜ合わせるとおいしいといわれてそうしたところ、それが猛烈に辛いことこのうえないものであった。
唐がらしには馴れている朝鮮人の私や高淳日氏にも猛烈に辛かったのだから、それでわかろうというものである。店のおやじさんの話によると、その唐がらしは、もとは朝鮮の高麗から渡来した薬ということで、「高麗薬《こうらいぐすり》」といったものだったが、それが訛って「コウレェグス」となったというのだった。
「沖縄の中の朝鮮文化、というわけですな」と言って高嶋さんは笑ったが、もちろん、「沖縄の中の朝鮮文化」はそれだけではなかった。
万国津梁鐘の銘文
翌日は朝から、東京で知り合った沖縄県立工芸指導所長の名嘉正八郎氏らの案内で、まず沖縄県立博物館をたずねた。この博物館でみたもののことはあとにして、それからの私たちは浦添市の浦添グスク(城)跡から、勝連《かつれん》町の勝連グスク跡をへて、琉球国の都だった首里の首里グスク跡や、そこにある有名な守礼門などをみて歩いた。
沖縄の象徴となっている守礼門はともかく、なぜとくに高い丘の上に石塁で築かれた三つのグスク跡をたずねたかというと、どちらもそこからは、十一世紀以降のものとみられている高麗瓦が出土していたからである。
「癸酉年高麗瓦匠造」とした銘文のあるその瓦は前記の県立博物館でみていたが、博物館ではこれも高麗からの渡来である、波上宮にあった朝鮮鐘の残骸(本体は先の大戦で焼けた)や、それから「類須恵器」ともいわれる古代朝鮮から直行の陶質土器などもみた。
が、それらにもまして、県立博物館でみたもののうち圧巻だったのは、首里城正殿前にあったものという「万国津梁鐘」と、それに刻された「琉球国独立の宣言である」(辺土名朝有「高鳴る万国津梁の鐘」)銘文だった。
だいたい、沖縄となる以前の琉球諸島は長いあいだグスク時代という、あちこちに分かれていた城邑国家時代(この時代に高麗瓦匠などが渡来した)をへて、十五世紀の一四二九年に尚巴志《しようはし》によってそれらが統一され、琉球王国となったのであった。そして、一四五八年にいまいった万国津梁鐘がつくられたのだったが、私などおどろいたことに、その銘文はこうなっていたのである。
琉球国者南海勝地而鍾三韓秀以大明為輔車以日域為唇歯在此二中湧出蓬莱島也……。(琉球国は南海の勝地にして三韓の秀《しゆう》を鍾《あつ》め、大明を以て輔車と為《な》し日域を以て唇歯《しんし》と為す、此の二中に在《あ》りて湧出するの蓬莱島なり……)
「三韓」とはいうまでもなく朝鮮ということであり、「大明」とは中国、「日域」とは日本のことである。そして「三韓の秀を鍾め」とは、「朝鮮の秀《すぐ》れた文化を中心に」ということで、都の首里が朝鮮のソウル(都)からきたというのも、そういうことからではなかったかと思う。
「守礼門」というのも、ソウルの南大門が「崇礼門」なのと同じである。しかしどういうわけか、そういうことのもととなっている万国津梁鐘のことについては、私の知る限り、日本本土の学者はもちろんのこと、沖縄の学者なども口をつぐんだきりである。
たとえば、万国津梁鐘がそこの入口にある県立博物館主任学芸員の知念勇氏が一九八六年九月号の『韓国文化』に、「沖縄から韓国への旅」という一文を寄せている。
それをみても、さきにみた高麗瓦や陶質土器などのこととともに、「最近発掘調査が盛んな沖縄県内の城跡からは、十五世紀初期の高麗青磁が数ヵ所の遺跡から出土している」として、韓国とのつながりのことがいろいろとあげられているけれども、そのこととしては最も重要なはずの「三韓の秀を鍾め」ということには、一言もふれてはいないのである。
文庫版への補章
最古の稲作集落と祭祀跡
粕屋町の江辻遺跡
九州をあつかった『日本の中の朝鮮文化』は第十、十一巻からなっているが、後者の親本が出たのは、一九八九年八月のことであった。それから五年がたって、この文庫版が出るわけであるが、さきの第十巻が文庫版となったとき、その「補章」のおわりに私はこういうことを書いている。
「この第十巻は『筑前・筑後・豊前・豊後』となっているにもかかわらず、筑前・筑後だけで紙数がつきてしまった。あとは次の第十一巻の『補章』でつづけるよりほかない」と。ところが、あとで知ってみると、その「筑前・筑後」さえも、まだ充分とはいえなかった。
それからの新たな発掘・発見ということもあったからだが、たとえば、筑前だったところの粕屋町の江辻遺跡である。一九九三年三月二十九日付けの西日本新聞は、「最古期の稲作集落発掘/朝鮮半島と同型の『円形堅穴』/縄文晩期 ムラ形態も伝播/江辻遺跡―粕屋町」とした大見出しの記事を、一面トップにかかげてこう報じている。
福岡県粕屋郡粕屋町教委と、同県教委が発掘調査している同町の江辻遺跡から、縄文晩期(紀元前約四百年)の朝鮮半島と同型の円形堅穴住居群など、稲作集落跡が出土したことが、二十八日、分かった。日本列島で水田農耕が始まった時期の、稲作のムラの在り方が分かる集落跡が見つかったのは全国で初めて。
以上ははじめのイントロ部で、稲作農耕が縄文時代晩期からはじまっていたらしいことは、だいたいわかっていたが、それをはっきりと証する遺跡が発見されたのはこれがはじめてのことで、新聞が一面トップの記事としたのは当然のことであった。その記事はこうつづいている。
円形堅穴式住居跡は同遺跡の東端と西端から計十一棟分見つかり、一棟の規模は直径四―六メートルの円形となっている。同型の住居は、韓国・忠清南道の松菊里遺跡など朝鮮半島南部に多く見られるもので、日本では弥生初期(紀元前三世紀)から始まるとされていた。しかし、今回の出土によって、稲作の開始と同時に住居形態も同半島からもたらされたことが分かった。
また、集落の中を溝(幅五十センチ前後、深さ三十―六十センチ)が縦横に掘られており、集落の中央部分に祭祀《さいし》や集会を行った広場らしい遺構も確認されている。
これまで同時期の遺跡としては、板付(福岡市博多区)や曲田(福岡県二丈町)、菜畑(佐賀県唐津市)などがあり、水田跡や環濠《かんごう》、農具類などが出土しているが、ムラの中心となる集落の配置などは不明のままだった。
江辻遺跡では、水田跡は見つかっていないが、稲もみ跡が付いた状態の土器片も複数出土し、一帯で農耕が営まれていたのは確実とみられる。このほか、大陸系の磨製石器、突帯文《とつたいもん》土器などの縄文土器が出ている。
現場は九州縦貫自動車道福岡インターの南約二百―五百メートル。約十八万平方メートルの流通団地開発(倉庫など)に伴い、同町教委などが昨年一月から東西端各一万二千平方メートルと、六千平方メートルについて発掘調査を進めていた。
△ムラの中核も鮮明
小田富士雄・福岡大教授の話 日本列島での最古期の稲作集落の全ぼうが初めて明らかになった。板付遺跡や曲田遺跡などでは不明だった集落の配置など、ムラの中核部分が鮮明に出土しており、これほどの遺跡は将来もそう見つかることはないだろう。住居形態や石器など朝鮮半島からの渡来的要素も濃く、稲作文化の流れを知る上でも極めて重要だ。
記事はこの一面のほか、さらに「江辻遺跡集落跡出土/ムラ解明へ新材料/初期稲作の空白埋める/朝鮮半島の渡来人築く?」(「解説」)とした見出しのものが三〇面にもつづけて出ているが、それはおいて、稲作農耕の弥生文化と限らず、これまで文化の渡来といえば、その文化だけがひとり歩きで渡って来たかのような考えがひろがっていた。
稲作自体、人間によるさまざまな技術を要するもので、そのような技術・文化をもった人間と共に渡来したものであるということが、どういうわけか、忘れられがちだったのである。
江辻遺跡の発掘調査結果は、そのことの誤りを明らかにしたものでもあるが、とくに私が注目したのは、それが「最古期の稲作集落」であったばかりでなく、「今回の出土によって、稲作の開始と同時に住居形態も同〈朝鮮〉半島からもたらされたことが分かった」につづいて、こうあったことである。「また、集落の中を溝(幅五十センチ前後、深さ三十―六十センチ)が縦横に掘られており、集落の中央部に祭祀《さいし》や集会を行った広場らしい遺構も確認されている」ということだった。
神社の原形=祭祀跡
この「祭祀」とは、どういうものであったか。それで私がすぐに思いだしたのは、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館「案内」の小冊子『国立歴史民俗博物館』が、第一展示室を説明した「稲と倭人」であった。こう書かれている。
米をつくり食べる生活が西日本で始まったのは、今からおよそ二三〇〇〜二二〇〇年前のことである。日本の水稲農耕は最初から完成した姿をとっていたことを特徴とするが、その理由は朝鮮半島南部から稲作民の集団的渡来があったからである。
稲作は、安定した食糧・人口の増加・男女の協業などをもたらし、また独特の祭祀儀礼を生みだした。そして、倭人社会は漢帝国への朝貢など国際社会への仲間入りを果した。
ここにみられる「独特の祭祀儀礼」とは、さきにみた「集落の中央に祭祀《さいし》の集会」とあった、それにほかならなかったのである。もちろん、素朴なものであったであろうが、しかし、それは今日にみられる神宮・神社の原形で、このことについては日本神社本庁顧問となっている桜井勝之進氏が、作家の井上ひさし氏との対談でこう述べている。
桜井 天皇が即位される際の「大嘗祭《だいじようさい》」もそうですが、神社の季節の祭りというものの原形は稲作のまつりでした。
井上 豊かな生産と安全な暮らしを願う宗教だった……。
桜井 とにかく「風調順雨《ふうちようじゆんう》」。つまり風雨が順調でありますように、これです。五穀豊穣《ごこくほうじよう》、天下安穏それだけ。日本の神様というのは元々これなんです。ところが人間、これだけでないさまざまな欲望がわいてきて、すると神社にいろんなことを言ってこられる。
伊勢神宮へお参りして、「ここには交通安全のお守りないんですか」(笑い)。本当の話なんです。私が神宮に奉職していた二十年ばかり前のことです。結局いまでは神宮も交通安全のお守りを出しています(一九九四年六月二十六日付け毎日新聞)。
秦氏族が祭った京都・伏見の稲荷大社(全国の分社四万余)にしても同じことで、要するに、弥生文化は日本文化の基本となっているものである。なお、「稲作は、安定した食糧・人口の増加」をもたらしたとあったが、これについては、大阪府吹田市にある国立民族学博物館教授の小山修三氏が計算した「先史時代の人口と人口密度」によると、弥生時代となる縄文晩期の九州における総人口は六三〇〇で、それが弥生になると一〇万五一〇〇となっている。
檀君神話の伝播と英彦山
最古の〓製鏡
筑前・筑後にしても、まだみておきたいところはたくさんある。しかし、それではきりがないので、そのうちのひとつだけみて、次へ移ることにしたい。それは、弥生につづく古墳時代のそれをみるうえでも大事なことだからであるが、一九九四年七月六日付け毎日新聞をみると、「最古の『〓製鏡』発掘/福岡市の有田遺跡で」とした見出しの、こういう記事がのっている。
福岡市教委は五日までに同市早良区小田部の有田遺跡で弥生時代の中期後半(紀元前一世紀後半)のかめ棺墓から、中国鏡を模倣して作られた「〓製《ぼうせい》鏡」一枚を発掘した。〓製鏡としては、これまで佐賀県上峰町の二塚山遺跡で出土した弥生時代後期初め(紀元一世紀半ば)のものが最古で、今回の発掘はこれを半世紀以上さかのぼる。
市教委によると、今回発掘された〓製鏡は直径約五センチ。文様はかなり不鮮明。市教委では、韓国で見つかった鏡に似ているため、韓国産ではないかとみている。
有田遺跡ではこれまでに、弥生時代前期後半(紀元前二世紀後半)の細型銅戈《か》が見つかっており、早良平野における集団が中国や朝鮮半島との交易を継続して行っていたことを証明する資料としても注目している。
このころの「早良《さわら》平野の集団が中国や朝鮮半島との交易を継続して」とはどうかと思うが、それはともかくとして、「日本最古の早良王国」「王墓」があったところの「早良平野の集団」については、さきの第十巻本文および「文庫版への補章」でかなり詳しくみている。で、ここではただ「早良《さわら》」ということが、古代朝鮮語のソフル(都邑)からきたものであることだけしるしておくことにする。
添田町の英彦山
ついでこんどは、豊前《ぶぜん》・豊後《ぶんご》(福岡・大分県)である。さきの第十巻「京都《みやこ》平野の古墳と山城」の項でまず、九州の古代史家泊《とまり》勝美氏からもらった手紙のことから、そこにある添田《そえだ》町の英彦《ひ こ》山《さん》についてふれ、添田町観光連盟発行の『英彦山』近くの岩石山《がんじやくさん》のことがこうあることをみた。
その昔、上古、素戔嗚尊の御子曽褒里《そほり》神が西の麓(今の添田)を開墾されたとされることから、その名にちなんで最初、曽褒里山と呼ばれていました。曽褒里神は添田地方の神といわれ、添田の地名も曽褒里がつまってできたとされています。
要するに、またソフリ・ソフル(都邑)であるが、私はまえから、その添田町にある有名な英彦山(標高一二〇〇メートル)のことは知っていた。そしてそこからは新羅よりの渡来仏が、「国宝級の渡来仏/福岡県英彦山/銅筒とともに発見」(一九八二年十月二十日付け朝日新聞)されたことも知っていたけれども、そのときは急いでいたため、それ以上立ち入ることはしなかったものである。
ところが、一九九二年十二月十一〜十二日、韓国のソウルで、日本側からは荒木博之(北九州大大学院教授)、中野幡能(別府大教授)、奥野正男(宮崎公立大教授)、長野覚(駒沢大教授)氏ら、九州を中心とした人々の加わった「古代韓国文化の日本伝播」という国際学術大会が開かれた(韓国側からの参加者名は略)。
そして、参加者のレジュメともいうべき小論文(韓日両国語)集である『古代韓国文化の日本伝播』が刊行された。私は奥野正男氏の好意で手にすることができたが、これによるといまふれた添田町にある「英彦山(彦山)」と、朝鮮の開国神話である檀君神話とのことがいろいろと論じられている。
だいたい、添田という町名が古代朝鮮語のソフリからきたものだったし、そこにそびえている英彦山からは新羅からの渡来仏が出土するなど、その英彦山も古代朝鮮となんらかの関係があるのではないか、とは私も思っていた。しかし、それが檀君神話からとは、知らなかったものだった。
檀君神話の源流
このことについては、例によって、私がああこういうより、『古代韓国文化の日本伝播』にある北九州大の荒木博之氏の「檀君神話の源流と系統」に書かれているのをみたほうがいいにちがいない。ちょっと長くなるが、こうなっている。
私が考えようとしているのは、檀君神話がどのように形を変えて日本に至ったか、そして檀君神話の源流がどういうものであったか、ということである。
天神桓因の子桓雄は人の世を救済するために、太白山に降臨する。そして熊と虎に百日間、日の光を見ずにニンニクとヨモギを食べて、洞窟の中で過ごすよう命じる。熊はその修業をなしとげ、人間となって桓雄と結婚、檀君を生んだ。檀君は平壌に都して、古朝鮮の始祖となった。
この檀君神話は、二つの経路をへて日本に上陸した。ひとつは恐らく〈筑前の〉糸島半島に上陸、香春岳をへて彦山に、もう一つは福井県小浜に上陸し、琵琶湖西岸を通り甲賀、伊賀、吉野をへて熊野に至った。
彦山は古来、日本の三大修験の山のひとつとされてきた。彦山の開祖は『豊金童善鳴録』などによれば、北魏の僧・善正であるとされる。あるいは一説によれば、藤原桓雄なる人物が彦山に登拝し、善正上人の教えによって山を開き、忍辱《にんにく》上人になったという。
さらに彦山に関する最古の文献『彦山流記』の奥書には、彦山の始めは藤原桓雄の入山が最初であるとしている。中野幡能氏は、この藤原桓雄伝説が彦山固有の伝承であろうとされ、韓国の山神として祀られた桓雄信仰が彦山に伝わり、藤原桓雄となったのではないかとされる。
ところで、彦山について考えようとする場合、彦山の北約三十キロの地にある香春岳信仰と、東約四十数キロの地にある宇佐八幡信仰との関わりにおいて、考察せねばならぬことは当然である。
彦山三所権現の中尊「天忍骨尊」は、『香春神社縁起』によれば、韓国息長大姫大目尊で、豊比売尊と共に香春三所大明神の一柱となっている。豊比売尊は宇佐に至って、八幡三所の比売神として鎮まったと考える学者も少なくない。香春岳の神が新羅の神であることは、『豊前国風土記』逸文に「昔、新羅の国の神、自ら渡り来て此の河原に住みき、すなわち名づけて香春の神という」とあることによって明らかである。
奥野正男氏によれば、この香春の神を奉持してきた人々は天日槍伝説をもち、製銅の技術をもった集団であった。この集団は糸島半島の今宿、高祖付近から移動を始め、その中心的な一部は香春岳の銅鉱を発見して、そこに定住した。そして彼らはまず、最初に銅鉱を発見した三ノ岳東麓に、天日槍集団のシャーマンで彼らの守護神ともなっていた比売神を祀ったとされる。
天日槍は、『古事記』では新羅の、『日本書紀』では大加羅の王子とされる存在であるが、〈『日本書紀』の〉「垂仁紀」では天日槍が渡来したときに持ってきた三つの宝物のなかに、「熊の神籬《ひもろぎ》」一具《ひとそなえ》があった。「神籬」は神の降臨する場所であるから、この場合の「熊」はカミの意である。
熊は韓国語では〈コム〉で、日本語のカミ〈神=正しくはカム〉はこのからきたとする説の妥当性を示唆している。
日本においても熊は古来神聖な動物、あるいは超自然的存在としてとらえられてきた。『神道集』では、熊野権現が八尺の熊として現われた、と説かれているし、『古事記』では神武天皇が熊野の地に至ったとき大熊が現れ、そのため全軍が気を失って倒れた、とある。
また、彦山、熊野と共に修験道の霊山として知られる立山には、佐伯有若が熊を射て追っていったところ、熊は突然、黄金の阿弥陀仏と変じ、有若に立山を開くよう託宣したという伝承がある。
つづけて荒木氏は、「このように日本には古来、熊を神聖な存在とする思想が見られる」として、さらに「甲賀三郎譚」における「熊」について述べ、さいごをこう締めくくっている。「甲賀三郎譚の古形においては、小浜の近くの高懸山の洞穴で麒麟王を退治して姫(王女)を救い出すのであるが、この麒麟は騎馬民族スキタイのグリフィンであるといわれ、甲賀三郎譚が檀君神話と共に熊を神とするツングース系諸族とのつながりさえ示唆しているのである」と。
私も、この「熊」が「神」というのについては、日本に多くみられる熊野(地名)や熊野神社などをみて、同じような意見をもっている。たとえば、中島利一郎氏の『日本地名学研究』によると、熊野の「野」はもと「国の義」でもあったとあるが、すると熊野は「神の国」であったということになる。
しかし、このことはのちの課題として、それより、私は英彦山(彦山)が檀君神話と結びついていたとは知らなかったもので、よい勉強になったと思う。
なお、荒木博之氏はさらにまた、同『古代韓国文化の日本伝播』に「森と《モリ》(頭)」という一文をも発表している。このばあいの「森」とは「鎮守の森(杜)」ともいう神社のことで、これについてはまた別の折に紹介させてもらいたいと思っている。
改めて「秦王国」の地を歩く
草場神社と秦氏族
さきにもちょっとふれたように、香春岳のある香春町からの私は、先を急がなくてはならなかったので、田川郡香春の南の英彦《ひ こ》山のある添田町はそのままとし、東の京都《みやこ》郡へとはいった。そのときのことを、私はさきの第十巻「京都《みやこ》平野の古墳と山城」の項にこう書いている。
「新中哀トンネルを抜けた京都郡のそこは、京都平野となっているところでもあった。左手の北が勝山町で、右手の南が犀川《さいかわ》町、豊津町で、その東北となっているところが瀬戸内海(周防灘)に面した行橋市、苅田《かんだ》町となっている、かなり広大な平野だった。
秦氏族が展開していた豊国《とよくに》(のち豊前《ぶぜん》・豊後《ぶんご》)の中心地のひとつで、桐畑隆行氏の『新豊前風土記』によると、「秦王国」となっていたところとしているが、そういわれてみると、宮処《みやこ》=京都《みやこ》郡という地名などからして、たしかにそうではなかったかと思われるところでもある」
こう書いたその第十巻が出たとき、私はあちこちからかなりのはがきや手紙をもらったが、そのなかに関西のある歴史学者からのはがきに、「京都郡のところでは、『秦王国』についてもっと展開して欲しかった」ということが書かれていた。
そうでなくても、すでに夕方となっていたこの日の午后七時まで(結局ずっとおくれて九時近くになってしまったが)には、別府市に到着しなくてはならなかったため、京都平野の「秦王国」はクルマで素通りに近いことになってしまったので、そこは気になっていたものである。私はさきに、「宮処《みやこ》=京都《みやこ》郡という地名などからして」と書いたが、ばかりでなく、そこには御所ケ谷《ごしよがたに》という古代朝鮮式の壮大な山城跡などもあって、いかにも『隋書倭国伝』にいう、そんな「秦王国」のあったところと思われもしたからであった。
で、いずれ文庫版となるときに、その「補章」でと思い、そのことをある文章のなかで書きもしたものである。すると、第十巻とともにそのことを読んでくれた、京都郡勝山町に住む福岡県立田川農林高校教諭の横川輝雄氏から、手紙とともに『文献にみる勝山町の文化財』などの資料が送られてきた。
そうして、そのうちに横川さんからは、勝山町で講演をしてくれないかといってきた。まさに「渡りに舟」ということで、私はよろこんで引き受けたことはいうまでもない。日時は、一九九二年四月二十六日であった。
私は一日早目に、北九州の飛行場まできてくれた横川さんに迎えられて、勝山町に着いた。そしてさっそく横川さんのクルマでそのまま、行橋市草場となっていた草場神社からみて歩いた。草場神社は草場八幡宮、豊日別宮《とよひわけのみや》ともなっているもので、宇佐八幡宮の重要神事である「放生会《ほうじようえ》」に際しては、香春岳の採銅所でつくられた宇佐八幡宮への神鏡がまずそこへとどまってから、となっていた神社であった。
香春岳の製銅で大をなした秦氏族の南下を示すものでもあって、その次なる椎田町の矢(八)幡宮、いまは湊八幡・金富神社の「原始八幡神創祀遺跡(学説)」にそのことがこうある。かつて「規矩〈企救〉、田川、京都、仲津、築上〈築城〉の五郡の地域に豊国があり、主祭神を辛国息長《からくにのおきなが》大姫大目命とも、豊比〓《とよひめ》、玉依姫とも唱えて、辛島・長光・赤染等の同族によって斎《いつ》き祀《まつ》られていた。京都郡に栄えていた辛島族は三世紀の中頃に南下を始めて……」と。
いわば草場神社は秦氏族がそのように南下して祭った原宇佐八幡宮のひとつでもあったが、いまはすっかり退転して荒れたままとなっていた。ただ、鳥居の額には「豊日別神社」とあり、境内の一角に一九八九年、豊日別宮顕彰会による「豊日別宮由緒書」とした大きな掲示板があって、いまさっきみた「放生会神幸」のことなどがいわくありげに書かれているだけだった。
もう夕方になっていたが、それからも私たちは勝山町のあちこちに散在している神社や古墳などをたずね歩き、そして翌日は、講演は夜となっていたので、勝山町東方の周防灘に面した行橋市から、苅田町を歩きまわった。苅田町には注目したい石塚山古墳や、番塚古墳などがあったからだった。
古墳時代にもあった古代朝鮮からの渡来
勝山町のそれからさきにみると、ここには主なものだけでも寺田川古墳など六基の横穴石室があって、そのうちの箕田丸山古墳からは単龍環頭大刀はじめ、鉄矛・鉄鏃・刀子・馬具・勾玉・金環などが出土している。ここにみられる環頭大刀は、苅田町の石塚山古墳からも三角縁神獣鏡などとともに出土している。
この環頭大刀は、奈良の正倉院にある『東大寺献物帳』では「高麗様大刀」となっているものであり、『万葉集』では「高麗剣」のそれとなっているものである。石塚山古墳は四世紀はじめに築造された、九州における最古・最大の前方後円墳として知られているものだった。
そういうことから、その被葬者はいったいどういう者であったか、ということが考古学者や歴史学者のあいだで論じられているが、いずれにせよ、それは京都平野にそんな環頭大刀を持って君臨していた、相当早い時期の「王者」であったにちがいない。近くの御所ケ谷の古代朝鮮式山城跡は、その「王者」のもとにあった領民の、「一旦緩急あらば」のときの逃げ込み城だったのであろうか。
御所ケ谷山城跡は、以前(第十巻を書く以前)にも来てみていたので、第十巻にちょっと詳しく書いているが、こんども横川さんたちとともにそこへ行ってみたところ、以前にはみられなかった、美夜古《みやこ》(京都)文化懇話会による「国指定史跡/御所ケ谷神籠石」としたこんな掲示板がたっていた。「古代豊前国長峡県《ながおのあがた》の南限に立地するこの遺跡は、古墳時代後期の朝鮮新羅式山城跡と見られている。……」
それから、苅田町の古墳ではまた、五世紀後半の横穴石室で、馬具、変形四獣鏡などを出土した御所山古墳ほかがあったが、なかでもおもしろいのは番塚古墳だった。これについては、一九九〇年十二月二十七日付け西日本新聞に、「高句麗文化の飾り金具/六世紀初頭の『カエル』出土/福岡・苅田町 番塚古墳/古代日朝史に一石」とした見出しの記事となって出ている。
福岡県京都郡苅田町尾倉にある六世紀初頭の前方後円墳「番塚古墳」の出土品調査をしていた九州大学考古学教室(西谷正教授)は二十六日、道教的な高句麗文化の象徴である「蟾蜍《せんじよ》」(ヒキガエル)の飾り金具(鉄製)が見つかったことを明らかにした。当時の大和朝廷は、朝鮮半島北部の高句麗とは敵対していて文化交流はなかった、とみられていただけに、古代日朝関係史は再検討が迫られることになった。
出土した蟾蜍は、全長六・二センチ、幅六・六センチ、厚さ〇・一センチで、縁どりに二十九個の小さな鋲《びよう》が打たれ、脚の一部が欠けている。裏に木片が付着していたうえ、古墳石室内に安置された木棺の足側付近で出土していたことから、同教室では木棺の飾り金具としている。
古代中国の道教思想で「ヒキガエルは月」「カラスは太陽」などとみなされ、この思想は道教の進展とともに高句麗に伝わった。高句麗の古墳には月の図象として、蟾蜍を描いた壁画が多数発見されている。
西谷教授によると、六世紀初頭の日本は、高句麗と敵対していた朝鮮半島南部の百済と同盟関係にあり、従来の学説では高句麗文化の移入はなかった、とされていた。
しかし、四年前に旧百済の韓国全羅北道益山郡にある六世紀初頭の笠店里古墳からも、高句麗の影響を受けた冠が出土していることから、西谷教授は「当時の日朝関係を再検討する必要がある」と話している。
要するに、古墳時代にはいってからも、いうところの「文化交流」とは関係なく、古代朝鮮からの渡来がずっとつづいていたということだったのである。
新羅系の軒丸瓦と須恵器が出土
それから、これは時代は前後するが、一九八九年十月二十日付けの毎日新聞(西部)をみると、「漢式土器と銀製品? 出土/朝鮮半島で製作/弥生後期の十双遺跡(福岡県築城町)」とした見出しの、こういう記事が出ている。
福岡県教委は十九日、同県築城町の弥生時代後期(二世紀)の集落跡である十双遺跡から、この時代、朝鮮半島でしか作られなかった漢式土器の、銀製品らしい装飾品の一部を発掘した、と発表した。邪馬台国が存在したこの時期、大陸からの舶載品が見つかったのは、これまで主に対馬から玄界灘、有明海沿岸にかけての九州北西部地域だったが、今回の発見は周防灘沿岸の九州北東地域まで拡大するもので、魏志倭人伝で魏に使いを送っていたとされる倭の三十ヵ国のうちのいくつかが、同地域に存在した可能性も出てきた。
もうあまり紙数がないので、はじめのイントロ部だけとしたが、かとみると、その築城町の東南方、これからは同じ豊前でも大分県となる三光村からは、新羅系の軒丸瓦が出土している。一九九一年七月二十八日付け読売新聞・大分版をみると、「三光村・塔ノ熊遺跡/新羅系軒丸瓦の完形品/須恵器なども多数出土」とした見出しの、こんな記事となっている。
三光村教委は同村西秣《にしまぐさ》、秣小校庭にある古代寺院跡の塔ノ熊遺跡の第三次発掘調査をしているが、これまでに新羅系軒丸瓦の完形品と、かなりの数の須恵器、土師《はじ》器の皿やわん類が出土した。鬼瓦の鼻の部分も見つかった。
これもイントロ部だけとするが、ところで大分県となると、私はさきの第十巻で、有名な宇佐八幡宮と、糸島半島―香春―京都平野などにいろいろな遺跡や古墳を残しながら、移動してきた秦氏族との関係についてかなり詳しく書いている。そして同時に、古代朝鮮語に由来する「九重山」「祖母山」などの地名のことも書いた。
そうした第十巻が出たところ、大分市に住む梅木秀徳氏から、こういう手紙が送られてきた。
現在、私が調べた範囲では、〈大分〉県下に「ムレ」のつく山名が十六ほどあります。別紙に記しましたのがそれで、所在地もおおよその位置を図示しておきました。江戸期の哲学者である豊後出身の三浦梅園は、「豊後にムレのつく山名が多い。これは朝鮮語に由来する」と書いているそうですが、ムレの起源はMARU、MURUだと言われ、朝鮮起源であることは間違いないと思っています。
また、集落名で「ムレ」のつくものもかなり存在します。これについては「人々の群れ」→「群がり」→「むら・村」と説明されているものが多いようですが、「フレ」とは関係ないでしょうか。さらには大分にはあまり存在しませんが、全国的に「丸」のつく山名が各地に見られますし、集落名では大分にも「丸」のつく地名がかなりあります。……
ご参考までに、私がまとめました大分県下の山名の一覧表を別送いたしました。
大分県下のこうした「ムレ」については、司馬遼太郎氏も「東アジアの中の日本」で述べているが、そこにこういうくだりがある。
ムレというのは朝鮮語かということで言いますと、松本清張さんはムレについてはふれていらっしゃいませんが、ラリルレロで終わるのはたいてい朝鮮語だとお書きになっている。あるいはそうかもしれないが、そうでないかもしれない。しかし、匂いとしては私も朝鮮くさいと思いますが、これは妄想です。ただ、ムレは朝鮮語だと思います。
それから、集落名にも「丸」のつく山名については、「日本山書の会」の谷有二氏が、韓国にまで行って各地のそれを調べた「朝鮮語で解く日本山岳名称の謎」という長い一文を、一九八〇年五月号の雑誌『山と渓谷』に書いている。
いまそれまでみる余裕はないが、ムレのことは、明治期のはじめに書かれた言語学者・金沢庄三郎氏の「郡村の語源に就きて」によると、「村の語源はフレにして、三韓の古語に於てはこれをpurと称す」としてこうある。「太古の民族は森林を開拓し、四方を望見し得べき原野を開きて、部落の居住と定めしにより、これをフレと名づけたるならん。このフレ転じてムラとなり、村落は衆人のあつまるところなれば、更にこれよりムレ(群)、ムラ等の語を出せしなり」
purとは「火」「明るい」という意でもあるが、村の語源であるムレが山野をさすそれともなっているのは、「太古の民族は森林を開拓し、四方を望見し得べき原野を開きて」とも関係あったからではないかと思われる。
この第十一巻冒頭の項となっている「九十九触《ふれ》の壱岐」の触《ふれ》・フレも、それからきたものだったのである。
土器・〓《やりがんな》・鞠智城の「八角形」
日本にあった朝鮮王国
さて、ようやく、「肥前・肥後・日向・薩摩ほか」となっているこの第十一巻となったが、その前にひとつおことわりしておきたいことがある。というのは、私はこれまで、かなりの紙数をついやして歩きまわったことについてである。
すなわち、「秦氏族が展開していた豊国(豊前・豊後)の中心地のひとつで、桐畑隆行氏の『新豊前風土記』によると、「秦王国」となっていたところとしている」京都《みやこ》(宮処《みやこ》)平野のことである。実をいうと、私はそこをみて歩きながら、この「補章」とはまた別に、できたら「『秦王国』紀行」とでもいったものを書くことはできないだろうか、と思ったものだった。
で、私は小田富士雄・永嶺正秀編『石塚山古墳の謎』などを読んだりして、ひそかに勉強を重ねていた。ところが、私が京都平野の勝山町から東京へ帰って一年近くがたった一九九三年二月、その「秦王国」を真正面からあつかった大和岩雄氏の『日本にあった朝鮮王国―謎の「秦王国」と古代信仰』が刊行され、つづいて同年八月には、大判で七〇〇ページに近い同氏の『秦氏の研究』まで刊行された。
どちらにも「秦王国」のことが大きくとりあげられて、たとえば、『日本にあった朝鮮王国』は、「第一章 『秦王国』はどこにあったか」となっており、「第二章 八幡神は『秦王国』の神」、「第三章 『秦王国』の神から日本の神へ」から、「第九章 『秦王国』の信仰と空海・最澄」にまでいたっている。そしてさらに、『秦氏の研究』にあっても「秦王国」のことが、何度となくとりあげられている。
まずいまのところ、秦氏または「秦王国」については、この二書の右に出るものはなく、私はこれを読んで心からよろこびを感じると同時に、ほっとしたものでもあった。「心からよろこびを感じた」というのは、だいたい、こういうことはかねてから、日本の研究者・学者によって書かれるべきだと思っているからだったが、「ほっとした」というのは、たくさんの傍証をもくりださなくてはならなかった「『秦王国』紀行」など、なかなか私の手には負えそうになかったからでもあった。
そういうことで、私はあらためて別に、「『秦王国』紀行」を書くことはやめることにした。関心のある向きは、ぜひいまいった大和氏の二書を読んでくださるよう、おすすめしたい。
吉野ケ里遺跡から初出土の朝鮮系土器
そこで、肥前の佐賀県であるが、となるとやはり、一九八九年はじめに発掘・調査された吉野ケ里遺跡ではないかと思う。それでまたひとつおことわりをしなくてはならないが、画期的なこの大遺跡が発見されて、新聞などで大きく報道されたとき、私はちょうど手術のため入院生活を強いられていて、その新聞さえ手にとって読むことができなかったものであった。
さいわい、九州をあつかったこの第十一巻の原稿は書きおわっていて、出版社から印刷所へまわっていたが、しかしそれで、もちろん、吉野ケ里遺跡について書くことはできなかったばかりか、十一巻の印刷校正をみることもできなかった。全十二巻のうち、校正をみることもできなかったのは、この十一巻のみである。
私が病院から退院したのは九〇年六月になってからで、やっと吉野ケ里遺跡まで行ってみることができたのは、十二月にはいってからだった。で、その吉野ケ里のことは、次の第十二巻に「序・吉野ケ里遺跡」として書くよりほかなかった。したがって、これは私のお詫びでもあるが、この第十一巻にはその吉野ケ里遺跡のことはないのである。
ただ、そのときひとつ書きもらしたことがあるので、ここではそれをみるだけでゆるしてもらいたいと思う。それは、「朝鮮系土器が初出土/吉野ケ里遺跡/交流示す物的証拠/第二墳丘墓/青銅器工人の用具か」とした見出しの、九〇年十一月六日付け読売新聞(西部)の記事でこうなっている。
佐賀県・吉野ケ里遺跡(三田川、神崎町、東背振村)の第二墳丘墓の発掘調査現場から、五日までに弥生時代中期初頭(紀元前二世紀後半)の朝鮮系無文土器片が出土した。牛の角状の形をしたつぼの牛角把手《ぎゆうかくとつて》部分とカメの破片で、同遺跡から朝鮮系無文土器の出土は初めて。朝鮮半島との交流や、青銅器製造技術との関連など、同遺跡の中期初頭の性格づけにとって貴重な資料となりそう。
いずれも第二墳丘墓の南側試掘溝から出土。牛角把手は中期初頭の堅穴住居跡で、カメの破片は版築《はんちく》状の盛り土部分で見つかった。牛角把手は組み合わせ式で、角の高さは四センチ。真ん中に直径一・五センチの穴が開いている。
口縁部に丸い粘土紐をめぐらせた朝鮮系無文土器は、弥生前期後半(同二世紀)の西日本各地の遺跡で出土、中期前半になるとその数が増えてくる。土器は、それを作る人と一緒に入ってきたと考えられており、高島忠平同県教委文化財課長は「土器の土の分析が必要だが、人的交流を含め、朝鮮半島と吉野ケ里の交流を示す直接的な物的証拠」と話している。
また、高島課長が注目しているのは、土器の出土地点と昨年の夏に見つかったわが国最古の青銅器(細形銅矛)の鋳型片(中期初頭)の地点が近く、しかも時期が同じこと。
第二墳丘墓と青銅工房跡に近いことから「弥生中期初頭から前葉にかけては、青銅器技術など朝鮮半島の文化圏に九州が組み入れられていく時期。出土した土器は、青銅器工人たちの生活用具とも考えられる」と推定している。
同遺跡からは約二千基のカメ棺が見つかり、弥生中期前半以降の弥生人骨約四百体分が出土、「面長で背が高い」渡来系の特徴が確認されているが、さらに四十―五十年さかのぼる中期初頭期の吉野ケ里人については、これまで手がかりがなかった。こうした点から、朝鮮系無文土器の発見は大きな意味を持つと見られる。
青銅器工人といえば、それがなにか単独で来たもののようにみられがちのようであるが、決してそういうものではなく、稲作農耕文化をもった弥生人とともに渡来したものたちにほかならなかったのである。そしてかれらは手ぶらで来たものではなく、朝鮮の無文土器は、そのかれらが携えてきた当面の生活用具だったのである。
土生遺跡の〓
右にみた牛角土器は、吉野ケ里に近い小城郡三日月町の土生《はぶ》遺跡からも出土している。私はいつか九州大の西谷正氏から、「とくに三日月町は、渡来人のふるさとのひとつと見られているところです」といわれたことがあった。土生遺跡のことはこの第十一巻の本文にもあるが、その後の一九九二年十月十七日付け佐賀新聞は、「三日月町の土生遺跡から国内初/〓《やりがんな》の鋳型片出土/国内生産裏付け/弥生時代中期前半/高い青銅技術を立証」とした見出しの記事とともに、またこんな見出しの記事ものっている。
「佐賀平野にハイテク集団/朝鮮系土器と鋳型ペアで出土/土生遺跡二十年ぶり脚光/渡来の“プロ”定住」となっているもので、要するに、かれら渡来の工人たちはそうして、だんだん日本化する過程を示すものでもあった。その記事全体は省略とし、ただ、そこに「土生遺跡」とした簡単な解説記事があるので、それだけみておくことにしたい。
〈土生遺跡は〉弥生時代中期を中心とする農耕集落遺跡。住居跡、高床倉庫跡や農工具のほか、朝鮮半島から輸入された〈移し入れられた〉とみられる漆製品や朝鮮系無文土器などが出土。弥生時代の農耕社会が、朝鮮半島との文化交流によって成立したことを示す遺跡として、七三年に国史跡に指定された。〓鋳型片は、史跡区域から約三百メートル北の水田から出土した。
これも「輸入」などというのと同じように、「朝鮮半島との文化交流によって」ではなく、ただしくは「朝鮮半島からの渡来人によって」とすべきであるが、それはおいて、最も古い朝鮮渡来の〓《やりがんな》は、この巻本文の「中原にみる忍海漢人」の項でみているが、その〓とはなにか。水野清一・小林行雄編『図解 考古学辞典』をみるとこうある。
ほそ長い鉄棒の先端を三角形にして両刃をつけ、ややそりをもたせた木工具。鉋《かんな》が発明されるまで、木材の表面を平滑に仕上げるのに用いられた。朝鮮の初期金属器時代には、尖頭器とよばれる若干の遺物があり、〓の祖形と考えられる。
なおまた、一九九〇年九月十五日付け佐賀新聞には、「多鈕細文鏡が出土/大和町の本村籠遺跡/弥生中期/有明沿岸の先進証明」とした見出しの記事が出ている。多鈕細文鏡は日本最古の銅鏡で、佐賀県内では宇木汲田遺跡(唐津市)からの一例ほか、全国で七例目の出土である。これも記事は省略し、「高島忠平・県文化財課長の話」だけみるとこうある。
玄界灘沿岸と同時期のものが出土したことで、有明海沿岸も、早い時期に朝鮮半島から青銅器文化が流入したと考えられ、吉野ケ里遺跡に見られる先駆的な青銅器文化を改めて証明した。
鞠智城の八角建物
さて、次は肥後の熊本であるが、もう紙数がつきてきたので、ここではいつもよく問題となっている菊鹿《きくか》町の古代山城、鞠智《きくち》城についてだけちょっとみることにしたい。
一九九一年十二月四日付け熊本日日新聞をみると、「八角形の建物跡出土/鞠智城跡/仏教寺院の可能性も/朝鮮式山城裏付け」とした見出しの記事が出ている。要するに、鞠智城は百済からの渡来人が築いた「古代・大野城(福岡県大野市、国指定文化財)と深い関係にある朝鮮式山城であることが裏付けられた」というのであるが、「八角形の建物跡」が出土したこの山城については、一九九三年一月十五日号「週刊朝日」の「天皇陵・古代城……/八角形に執着する謎」に、この城と百済とのことがこう書かれている。
熊本県教委は、鞠智城そっくりの八角建物が、韓国・ソウル近郊の二聖山《ニソンサン》城という古代城にあることを突き止めた。二聖山城は、四〜七世紀に朝鮮半島にあった百済が、北方の強国、高句麗《こうくり》に対する防衛のために築き、その後、百済を滅した新羅《しらぎ》に乗っ取られたとみられている。時代も鞠智城とほぼ重なる。
熊本県は昨年、八角建物の謎解きに、古閑三博《こがさんぱく》県議会議長を団長とする視察団を韓国に派遣した。古閑さんは、
「小高い山を利用した城の形なんか、鞠智城と実によく似ているんです。八角建物もそっくり。二聖山の方は、周辺から土や鉄の馬、仮面とか儀式に使われたものが見つかっています。なにか祭祀が営まれたんでしょう。鞠智城の八角建物を考えるうえで、大きなヒントになります」
と、成果を語る。……
『続日本紀《しよくにほんぎ》』には、六九八年、太宰府周辺の防備を固めるため、大野城、基肄《きい》城と鞠智城を修繕したという記述がある。問題の鞠智城の築城者は不明だが、大野城と基肄城は、『日本書紀』に百済の技術者が造ったとある。
鞠智城も、百済系の渡来人が築いた可能性が高い。いわば、鞠智城と二聖山城は双子のような城なのだ。
ここにみられる「八角形」ということは、この一文にも、「七、八世紀の日本では、宮殿から寺院のお堂〈たとえば奈良東大寺東院の夢殿〉、天皇陵〈飛鳥檜隈の天武・持統陵〉まで八角形をしていた」とあるが、ばかりでなく、近年では各地の古墳としてもそれが発見されている。このことは、さらにこれからの問題となるようである。
もう紙数がつきたので、おわりとしなくてはならない。この巻本文の「稲佐から江田船山古墳へ」の項のはじめにみた、稲佐廃寺跡にある熊野座神社・神体の写真を、熊本各地をいっしょに歩いた熊本県玉東町の、清田之長氏が入手してわざわざ送ってくれたので、それをここに掲げさせてもらうことにした。
古代の女性神像によくみられるものであるが、これなど典型的な朝鮮女性の座り方(立て膝)である。
この第十一巻の「補章」であるのに、さきの十巻のほうへ紙数をとられ、肝じんのこの巻のそれは駆け足となって、多くの地域をカットしたり、省略しなくてはならなかった。どちらも同じ九州のことであるとして、おゆるし願いたいと思う。
引用文中の〈 〉内は私による補足であり、この第十一巻の本書(文庫版)がこうして成ったのも、前巻と同じように、講談社文庫出版部の守屋龍一氏の努力によるものである。ここにしるして、感謝の意を表したい。
一九九四年十月 東京
金 達 寿
本作品は一九八九年、単行本として、一九九四年、講談社文庫として刊行されました。
日本《にほん》の中《なか》の朝鮮文化《ちようせんぶんか》 11
肥前・肥後・日向・薩摩ほか
講談社電子文庫版PC
金達寿《キムタルス》 著
金達寿記念室設立準備委員会 1989,1994
二〇〇二年四月一二日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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