TITLE : 日本の中の朝鮮文化 10 筑前・筑後・豊前・豊後
講談社電子文庫
日本の中の朝鮮文化 10
筑前・筑後・豊前・豊後
金 達 寿
まえがき
『日本の中の朝鮮文化』シリーズ第十巻目の本書があつかった古代の北部九州は、従来から南部朝鮮とは「同一文化圏」の地であったといわれているが、そこは古代「日本文化発祥の地」でもあった。そこはなにより、日本文化の基調となっている弥生文化が最初に渡来した地にほかならなかったからである。
そのことを証するのは、福岡の有名な板付遺跡ばかりではない。たとえば、本書「筑後の高良山城跡へ」の項にみられる小郡市の鍋倉遺跡や、福岡市の諸岡遺跡から出土した朝鮮の無文土器などによってみても、そのことはよくわかる。
朝鮮の無文土器とはどういうものか、ということもあるので、「大量、完全な無文土器/福岡・諸岡遺跡/稲作文化 朝鮮との交流証明」という見出しのもとに、そのことを報じた一九七四年十月十二日の読売新聞(大阪)の記事をまたみるとこうなっている。
朝鮮半島の農耕文化期の土器である無文土器が、福岡市博多区諸岡遺跡から出土した。日本と朝鮮半島との交流を証明する発見だが、これまで同種の土器は長崎県・壱岐の原ノ辻遺跡から破片が出土しているだけで、ほぼ完全な形の土器が多数出土したのは初めて。……
諸岡遺跡は、日本最古の農耕遺跡として知られる板付遺跡から南西約八百メートルのところにある弥生、古墳時代の複合遺跡で、南北百十メートル、東西百五十メートル、標高二十三メートルの丘陵地。
朝鮮無文土器文化(紀元前七世紀〜前一世紀)は、狩猟採集時代の櫛《くし》目文土器文化(わが縄文時代に相当)のあとをうけて農耕文化として始まったもので、わが国の弥生文化より約四百年前に稲作が朝鮮半島に定着したことをあらわす文化。
ところで、私は本書にとりかかるよりさき、一九八四年に創立百周年を迎えた日本人類学会の記念誌『人類学―その多様な発展―』を読む機会をえた。同誌には、池田次郎氏の「序章 日本人起源論の一〇〇年」はじめ、小山修三氏の「縄文時代の人口」ほかがのっていて、縄文時代とそれにつづく弥生時代とはどういうものであったか、ということについてたくさんのことを教えられた。
さきにまず、池田氏の「序章 日本人起源論の一〇〇年」をみると、そのはじめはこうなっている。
日本人類学会の母体となる会合が発足した明治一七年までは、日本人の人種系統をめぐる論議は、もっぱら、欧米人学者の間で展開され、この問題に日本人が介入する余地はまったくなかった。しかし、それから三年後には、日本の人類学史上まれにみる大論争にまで発展したコロボックル・アイヌ論争の火蓋が切られ、日本人の手による日本人種論研究の歴史が始まる……。
アイヌ説、コロボックル説など第一期の学説は、すべて人種交替を認める点で一致しているが、その中では、鳥居龍蔵の、縄文時代の本州住民はアイヌで、現代日本人は、朝鮮半島から弥生文化とともに渡来し、先住民を北方に駆逐した固有日本人から派生した、という論旨がもっとも明快である。
アイヌ(先住民)とは、いわゆる縄文人のことであるが、同論文にはさらにまたこうも述べられている。ここにいうベルツとはエルウィン・フォン・ベルツのことで、彼は明治初期に東大に招かれていたドイツ人医学者だった。
一方、沖縄集団の人種系統に初めて言及したベルツは、アイヌ・沖縄同系論を唱え、アイヌ説では、朝鮮半島から渡来した日本人の祖先によって南北に分断された先住民が、それぞれ北海道と沖縄で生き残っていると説明された。やがて人種交替説が姿を消すと、沖縄集団は本州集団の一地方群で、アイヌとは無関係だとする見方が普及したが、戦後、奄美や沖縄で生体計測値、頭蓋や歯の形態、血液の遺伝標識など多くの形質が詳しく調べられ、沖縄、アイヌ両集団の類似がふたたび注目を集めるようになった。 では、日本に弥生文化が渡来する以前の先住民、すなわちアイヌ・縄文人の数は、いったいどのくらいだったのであろうか。『縄文時代』という著書もある小山修三氏の「縄文時代の人口」をみると、まず、これまでの「縄文時代の人口研究」では、「山内清男が一五万人説をだし」「いっぽう芹沢長介は一二万という数字をだしている」ことが紹介されている。
そして、コンピューターなど最新の方法を駆使してまとめた小山氏のそれは、「先史時代の人口と人口密度」という「表」となって示されている。これによると、弥生時代まで約八千年つづいた縄文時代の総人口は、中期の二十六万千三百が最も多く、それが後期の十六万三百から、晩期になると七万五千八百となっている。
そしてそれが弥生時代になると、急に五十九万四千九百に増加しているのであるが、岐阜大教授(家畜生理化学)の田名部雄一氏はその急激な人口増をこう説明している。「すなわち、縄文時代末期に二〇万足らずの人口が、弥生時代になると六〇万に増加しているのは、その時代にイネ・ムギなどの農耕文化、ウシ・ウマ、ニワトリなどの畜産文化、青銅器、鉄器の製造の技術を持った民族が朝鮮半島から大量に渡来し、日本の先住民である縄文人の征服があったためと考えられる」(『犬から探る古代日本人の謎』)
それにしても、その弥生以前の縄文時代の人口が、後期から晩期になるにしたがって急激に減少しているのが私にはおどろきだったが、前記小山氏の「表」には各地方別のそれも示されていて、晩期の九州地方における縄文人口は六千三百となっている。本書があつかった北部九州となると、それはもっと少なかったであろうが、狩猟採集の自然人であったかれらは、突然のように押し寄せて来た青銅器・鉄器などをともなった稲作農耕の弥生文化を、いったいどのように受けとめたのであったろうか。
私は弥生文化が最初に渡来した北部九州の地を歩きながら、ずっとそのことが頭から離れなかったものである。しかし、一方ではまた、それが人間のつくりだす歴史というものなのかも知れない、とも思ったりしたものだった。
一九八八年三月
目 次
まえがき
筑前・筑後
那津・奴国のあけぼの
地名にみられる関係
加耶から北部九州へ
飯盛遺跡をたずねる
「王墓か」について
「此地は韓国に向かい……」
志登支石墓群にて
九州における天日槍
「伊都国王墓」をたずねて
陶質土器と鉄器のこと
筑後の高良山城跡へ
珍敷塚装飾古墳など
岩戸山歴史資料館
「磐井の乱」を考える
宗像大社の地にて
豊前・豊後
遠賀川を渡って
田川郡の香春へ
秦氏族と豊国=韓国《からくに》
京都《みやこ》平野の古墳と山城
大分市からの手紙
祖母山と久住山
国東《くにさき》半島の寺院と石仏
姫島の比売語曾神社
中津から椎田まで
宇佐八幡宮をめぐって
続・宇佐八幡宮をめぐって
あとがき
文庫版への補章
那珂遺跡から筑紫平野へ
「早良王墓」とオンドル跡
日本の中の朝鮮文化 10
筑前・筑後・豊前・豊後
筑前・筑後
那津・奴国のあけぼの
はじめて九州をおとずれたころ
この古代遺跡紀行シリーズも、ようやく九州となった。というのは、関東地方をはじめとして、私がこの紀行を書きだしたのは一九六八、九年のことなので、それからすると実に十七、八年という年月がたっているからである。
その間、私が九州をおとずれたのは、何度ほどであったろうか。講演など「機会あるごと」のそれを含めると、七、八回になっているのではないかと思う。このシリーズでは、九州を北部と中南部との二つに分けて第十、十一とする二冊を予定しているので、それを全部書きおえるまでには、まだ何度かおとずれなくてはならないはずである。
だいたい、私がこの稿のための取材を目的として、はじめて九州をたずねたのはいつだったか。いま、「九州路(第一回)」としたそのときの日誌をみるとこうなっている。
――一九七〇年十二月二十九日(火・晴)。午後四時、東京駅発新幹線ひかり。後藤直君に見送られて、阿部桂司君とともに九州へ向かう。
午後七時十分大阪着。七時三十八分発月光一号B寝台。三十日午前四時に小倉着。――
まだ新幹線が博多までは行っていないころのことだったが、以来、手元に集められた九州についての資料も相当なものになっている。単行本だけでも数十冊をかぞえるが、ほかに行くさきざきで入手した遺跡発掘の報告書や案内パンフレット、それに新聞、雑誌などの切抜きが多量となっているので、執筆にあたっては、これらを各地域別に整理するだけでも三、四日を要したものである。
朝鮮が近くなった
そんなことはどうであれ、九州はまず北部からである。となれば、地理的には豊前国《ぶぜんのくに》だった北九州市から、とするのが順当かもしれない。しかし北部九州は、古代もいまも筑前国だった福岡市あたりが中心となっているので、その中心部からさきにみることにしたい。
それにまたひとつは、東京から飛行機を利用すると、その中心部である福岡市の板付空港へ着くことになっているからでもあるが、私としてはここまでくると、いつものことながら、「ああ、朝鮮が近くなった」と思わないではいられない。古代は那津《なのつ》・奴国《なのくに》ともいった福岡(博多)から、古代南部朝鮮の加耶(加羅・加那ともいう)諸国のうちだった釜山までは、約二百キロしかないのである。東京都となっている八丈島までは、東京都の中心部から約三百キロとなっているのであるから、そこがどんなに近いかわかるというものであろう。
「古代の北部九州と南部朝鮮とは同一の文化圏であった」とはよくいわれることであるが、「古代日本文化発祥の地」であるといってもいい那津・奴国の歴史は、幅二百キロほどの海の向こうとなっている、その南部朝鮮の新羅・加耶から渡来した弥生文化からはじまるのである。平野邦雄・飯田久雄氏の『福岡県の歴史』をみると、「1福岡のあけぼの――弥生から古墳へ――」として、そのことがこういうふうに書かれている。
福岡県の歴史が、日本史の重要な一翼として登場するのは弥生時代からである。
大正五年(一九一六)、福岡市南郊の板付において、採土工事中に甕棺《かめかん》群が発掘され、そのうちから、銅剣、銅矛《ほこ》あわせて六本が発見された。この板付と同じ型の小型の甕は、すでに福岡市西郊の今津貝塚で、磨製の石斧とともに発見されていたから、この二つの結びつきが、北部九州における弥生文化の認識の発端となったといってよい。さらに福岡市周辺の調査が進むと、弥生文化とは、石器・土器・金属器をともに使用した文化であることがいよいよ明らかとなった。そのころ九大の教授であった中山平次郎は、これを“金石併用期”と名づけたのである。
一方、大正九年(一九二〇)、浜田耕作らによって、朝鮮慶尚南道金海邑の金海貝塚の調査がおこなわれ、それ以来この貝塚では朝鮮の土着文化を示す赤色無文土器にまじって、鉄滓や炭化米、そして北部九州とおなじ弥生の甕棺・箱式石棺が発掘され、その一つから碧玉製管玉や細形銅剣が発見された。南部朝鮮には、このような磨製石器・米・鉄器・紡錘車といった組合せの遺跡がみとめられ、北部九州との共通性がつよく認識されることとなったのである。
「朝鮮の土着文化を示す赤色無文土器にまじって」「北部九州とおなじ弥生の甕棺・箱式石棺が発掘され」と、あたかもそういう墓制が北部九州から渡って行ったものであるかのような書き方であるが、しかし、それがまったく逆であるということは、これからしだいに明らかになるはずである。
板付遺跡と金隈遺跡
ここにいう「福岡市南郊の板付」とは、福岡空港のある板付であることはいうまでもない。「福岡のあけぼの」を告知したその板付遺跡は、博多区板付の国道三号線を西へ二百メートルほどはいった台地となっているところである。
板付遺跡は一九五一年以来、日本考古学協会弥生式特別委員会によってあらたな発掘調査がおこなわれ、さらにまた籾《もみ》の圧痕土器など多数の土器が発見されて、それが「板付土器」または「夜臼《ゆうす》式土器」という弥生時代最古のものであるということになった。いまは埋め戻されて、跡は住宅地と化しているが、二千年も以前のこの台地は、福岡平野に流れ入る御笠川と那珂川とを東西に見わたす、ただ草ぼうぼうの台地だったにちがいない。
その草原台地へ、古代日本文化の基調となった弥生文化が海の向こうからやってきたわけだったのであるが、そのことについては、終始、板付遺跡の発掘に立会った板橋征爾氏の『奴国発掘』にこう書かれている。
だが、眠りこけている台地をさますにぎやかさが春の台地に訪れた。弥生時代人の登場だ。当時、北九州の海岸地帯は、朝鮮半島から押し寄せてきた稲作文化の波にひたひたと洗われていた。山ろく部で狩猟を続けていた福岡平野周辺部の住民とこの稲作文化が最初にであい、それを開花させたところ、それがこの板付台地だった。
その板付台地から東南の丘陵には金隈《かねのくま》遺跡があって、ここからは一九六八年に弥生前期から中期にかけての埋葬遺跡が発見され、大小の甕棺墓百四十五、土壙墓《どこうぼ》二十七、石棺墓二、人骨六十二体が出土した。台地や平地の農耕遺跡とあわせて、学術上の貴重な資料となっている。
須玖岡本遺跡は南部朝鮮式支石墓
それから、こんどは板付台地から西南のほうへ目を向けると、これまた弥生遺跡の集中地となっている春日市である。まず、福岡県高等学校社会科研究会歴史部会編『福岡県の歴史散歩』をみるとこういうふうである。
福岡市の南に接する春日市は、福岡市のベッドタウンであるとともに、昭和五〇年の山陽新幹線の開通にあたって、その車両基地となったので急ピッチで開発がすすんだ。その建設作業中、市内の各所からあらたに遺跡・遺物が出土していまなお調査におわれる状態だ。もともとこの地域ははやくから弥生式を中心とする考古学資料が発見されて注目されていた。すでに五〇ヵ所をこえる遺跡が発掘されており、まさに市全体が遺跡のようだといってもよいくらいだから、ここではそれらの代表的なものを紹介するにとどめよう。
市の北方の須玖《すぐ》の丘陵から南方の上白水《かみしろうず》にかけてがとりわけ遺跡の密集地であり、それら遺跡の先駆でかつ代表的なのが岡本遺跡だ。一八九九(明治三二)年、農夫によって巨石の下から赤色の甕棺がほりだされ、三十余面の前漢鏡・銅剣・銅鉾・玉類などが大量に発見された。昭和四年、昭和三七年と数次にわたり調査が行なわれ、さらに甕棺・銅剣・銅戈《か》、腕輪の銅釧《くしろ》 鉄刀などが発見され、この遺跡は朝鮮の形式に近い支石墓であると判断されるにいたった。そしてなかにはその規模の大きさや大量の副葬品などから、これを奴国の王墓とみる人もあった。
「須玖岡本遺跡」ともいわれるその支石墓の巨石は、近くの熊野神社境内に保存されているのを私も行ってみているが、「この遺跡は朝鮮の形式に近い支石墓」とは妙に持ってまわった書き方である。九州に多いそのような支石墓はこれからもみることになるが、これははっきりした古代南部朝鮮式の支石墓(ドルメン)なのである。
「すく」古代朝鮮語の「村」
それにまた、「これを奴国の王墓とみる人もあった」というのも、おかしな書き方といわなくてはならない。なぜかというと、福岡県文化財専門委員の筑紫豊氏ほか、いまも須玖を奴国王の本拠とみている人は多いからである。
筑紫氏は、「筆者はこの地一帯を『弥生銀座』と称しており、奴《な》の国王の本拠はこの地を措《お》いてはないと考えている」(「筑紫路」)と書いているが、さらにまた別のところでは、那津・奴国の「な」ということに関連してこうも書いている。
その「な」という国名は、韓語の土地という「な」と同じ言葉であるとか、日韓共通の浦とか川口をいう言葉の「な」であろうという説がある。わたしは後者の説に従うものであるが、さて、この「な」の国王はどこに居たのであろうか。郷土や九州の考古学の代表的な学者である九州大学名誉教授の鏡山猛氏は、遺跡や遺物の上から、それは福岡市の郊外にあたる須玖(春日市)であろうとする。
わたしもそれに賛成である。というのは、「すく」というのは日韓共通の古語であり、周囲に構えのある聚落をいう言葉であるので、「な」の国王の都とするのにふさわしいからである。この須玖の遺跡には、韓国に源流がある支石墓の見事なものがあった。支石墓は福岡県・佐賀県・長崎県にも分布があって、西暦紀元ごろの日韓文化の関係を物語る遺構として考古学上貴重なものとされている。(「日韓古代文化について」)
ついでにいうと、那津・奴国の「な」とは、加耶(加羅・加那)の耶・羅・那と同じ、古代朝鮮語の「国《ナラ》」(那羅、奈良《なら》というのもこれからきている)ということであったと私は思うが、それはどちらにせよ、要するに、筑紫氏のいう「弥生銀座」、「古代朝鮮語で『村』を意味する」(春日市教委編『春日市の史跡』)須玖にしても、さきにみた板付遺跡や金隈遺跡のある地とともに、弥生時代・古墳時代における古代朝鮮渡来人の集住地だったのである。そのことは、近年の出土遺物について報じた、次のような新聞の見出しをみただけでもわかる。
「日本最古の鉄剣/福岡の遺跡から出土/弥生前期と鑑定/「奴国」の解明に貴重/大陸から伝来か」――これは、「古代・奴国《なのくに》があった、といわれる福岡県春日市岡本四丁目遺跡から、弥生時代前期のものとみられる鉄剣が出土した」という、一九八〇年三月十四日付け朝日新聞記事の見出しであるが、地元紙である西日本新聞の記事をみても、こういうふうである。カッコ内は日付け。
「子持壺付高坏形器台が出土/春日市の赤井手古墳/須恵器(五世紀)の逸品/奴国解明へ手掛かり/九点セットで」(一九七九・八・二二)。
「玉縁付き平瓦が出土/直接、朝鮮半島から伝来か/春日・惣利窯跡」(一九八一・八・二一)。
この「子持壺付高坏形器台」は記事とともに出ている写真をみても、近年、九州でよく出土するいわゆる陶質土器で、加耶あたりから直行したものであることがわかる。このことは、記事のおわりにつけられた「小田富士男・北九州市立博物館主幹の話」からもうかがい知ることができる。こう話している。
「奴国《なこく》」と言われるあのあたりからは、以前にも子持ち壺・《はそう》が出た例がある。完全な形での出土は珍しい。豪族の副葬品だろうが、五世紀末から六世紀初めの須恵器は、朝鮮半島の文化の影響を強く受けている。それが南朝鮮の一角にあった伽〓(文献上の「任那」)が五六二年に滅亡していらい、純日本式の須恵器が増え、子持ち壺などはカゲをひそめたようだ。
弥生人渡来説
「伽〓」とは伽耶とも書かれる加耶のことであるが、新聞記事としてはさらにまたもうひとつ、「決定的」ともいえる重要なものを紹介したい。一九八六年一月六日付けの西日本新聞をみると、「奴国人も長身、面長/永井九大教授金隈遺跡の人骨分析/『弥生人渡来説』裏付け/北部九州・山口型/空白地帯埋める」という大見出しの記事が出ていて、はじめの部分を示すとこうなっている。
福岡市博多区の金隈《かねのくま》集団カメ棺墓遺跡から出た弥生時代人の人骨は、その前の縄文時代人や、同じ時期の南九州の弥生時代人などに比べると際立って背が高く、面長であることが九州大学の永井昌文教授(解剖学)らの調査で分かり、永井教授らはこのほど調査報告書をまとめた。
この特徴を持つ人骨は既に佐賀県神崎郡の三津や山口県土井ケ浜などの弥生遺跡から出土しているが、弥生文化の中心地である奴国からこれほどまとまって発見されたのは初めて。この発見は弥生期に朝鮮半島から北部九州・山口に大量の渡来者があったとする「弥生人渡来説」を裏付け、さらにそのご近畿などにも広がったという日本人起源論にも一石を投じそうだ。
地名にみられる関係
「那津」と金印
那津・奴国についてはこのくらいにして、その西隣となっている早良《さわら》から伊都国のほうへうつりたいと思うが、さきほど「那」とはどういうことかについてふれているので、そういう地(国)名についてもう少しみておくことにしたい。私はさいぜんから「奴国」とは書かず、「那津・奴国」と書いているが、なぜかというと、博多(福岡)湾岸のこの地はもと「那津《なのつ》」といったところで、それが「奴国《なのくに》」といわれるようになったのは、志賀島《しかのしま》で発見された「漢委奴国王」という金印の解読によってなのである。
すなわち、この「漢委奴国王」は、明治時代に三宅米吉氏によって「漢の委《わ》の奴《な》国王」と解読され、以来それが定説となっているからである。しかし、これには異説もあって、江戸時代の藤井貞幹、上田秋成、伴信友などはそれを、「漢の委奴《いと》国王」と読んでいたものであった。それでいまも、今井啓一氏の『天日槍』をみると、そのことがこう書かれている。
志賀島から掘出した有名な国宝の金印の刻字「漢委奴国王」もいまは「漢のワのナの国王」と訓《よ》むべしとしているが、先人もすでに説かれたように「委奴」は「イト」であり、魏志にしるす伊都国王、即ち伊覩県主《いとのあがたぬし》に漢朝から贈られたが、その没するや志賀島に埋めたのかも知れぬ。
金印は支石墓から出土?
あとでみる伊都国や伊覩県主にも関連するので紹介したが、それはどちらにせよ、ここでひとつ注目したいのは、その金印が発見されたのは、これも春日市の須玖にあったのと同じ古代南部朝鮮式の支石墓からではなかったか、ということである。「その金印の出土地は支石墓であった形跡がある」(「弥生・古墳時代の文化概観」)と考古学者の小林行雄氏も書いているが、それをはっきり支石墓としたのは、同じ考古学者の榧本杜人氏であった。
そのことについては、福岡市在住の古代史研究家で、『古代九州と朝鮮』などの著者である泊勝美氏も、いろいろと理由をあげてこう書いている。
私は、金印を出した遺構は、以上の理由でもって、須玖岡本遺跡の支石墓と同じく、奴国王の墓所であり、奴国王が朝鮮人であったことにふさわしく、支石墓であっただろうと考えているのである。
ついでにいうと、私もそうではなかったかと考えているものであるが、しかし、このばあいの「朝鮮人」というのはあやまりであると思う。弥生時代の当時はまだ、「日本人」というものがなかったのと同じように、「朝鮮人」というものもなかったのであるから、これは朝鮮半島からの「渡来人」とするのがただしいと思う。
金印が発見された志賀島には、朝鮮語バタ(海)からのそれである綿津見《わたつみ》三神を祭る志賀海《しかのうみ》神社があって、「社宝には半鐘ほどの朝鮮鐘(高麗末、重文)と昭和二十二年に島内から出土した弥生時代の狭鋒《せまさき》銅剣の鋳型(県文化)などがある。いずれも日本と朝鮮の文化交流のあとをうかがわせる貴重な文化財」(前記『福岡県の歴史散歩』)となっている。
和白は「評議会」
その志賀島から「海の中道」といわれる細長い半島を戻ると、それのつけ根に和白《わじろ》というところがある。
かつての和白郷で、いまはここも福岡市となっているが、それでも和白、上和白、下和白と、かなりの地域を占めている。和白はこれを朝鮮語でよむと和白《ハベク》となり、これは古代朝鮮の新羅における「評議会」ということであった。新羅の初めは徐耶伐《ソヤブル》(徐羅伐・徐那伐・徐伐とも同じ)といったが、これは斯盧族など六部族が連合したもので、その六部族(六村ともいった)の評議会のことを「和白」としていたのである。
つまり、今日における議会のようなものだったわけであるが、中島利一郎氏の『日本地名学研究』にもそのことがこうある。
而《しか》して日本では、天安河《あまのやすかわ》の神集《かむつどい》を別として、地理的に其《そ》の場所を明示することの出来るのは、実に筑前〈福岡県〉の和白であるのである。和白は即ち前掲の如く議会を意味する新羅語であったものが、神功皇后によって、其の地に命名せられたものと思われる。
「神功皇后によって、其の地に命名せられたもの」かどうかはわからないが、しかし、和白がそういうものであったというのは、たしかなことだったようである。
香椎は「王都」
その和白からこんどは、福岡市の中心部へ向かって南下すると東区香椎《かしい》となり、そこに仲哀帝の霊廟という広大な境内をもった香椎宮がある。それからさらに少し南下すると多多良《たたら》川となり、近くには多田羅というところもある。
いまみた和白は香椎宮の神領となっていたところであるが、その香椎宮の香椎というのも古代朝鮮語のクシフル・クシヒからきたものであった。そのことについては、筑紫豊氏の『筑紫文化財散歩』にこう書かれている。
筆者は、この社に参拝するたびに『古事記』や『日本書紀』に伝えられている香椎の行宮《あんぐう》のことを思う。カシヒという地名の起こりは、この地方では仲哀天皇の棺《ひつぎ》を懸けた椎の木の実が、香しい匂《にお》いを放ったので、そのカンバシヒの縮まったものだという伝説はあるが、この地名は、神武天皇即位の地名カシハラとともに、天孫降臨の地名クシフル・クシヒと同形のもので、韓語の王都の意と解せられ、古代史上、半島と関係の深い神功皇后・応神天皇の性格の解明に重要な意味をもつものではないだろうか、と。
筑紫氏のこの「神功皇后・応神天皇の性格の解明に」うんぬんというのは、ひじょうに示唆に富んだ指摘であるが、しかしいろいろな事情が立ちはだかっていて、日本の古代史はまだそこまでは進み出られないでいる。そのことについては、本書の「宇佐八幡宮をめぐって」の項でまたみることになるはずである。
筥崎宮・多多良川と大内氏
香椎宮から多多良川を渡ると東区箱崎となり、ここには宇佐・石清水《いわしみず》とならぶ日本三大八幡のひとつという筥崎《はこざき》宮がある。これも神功・応神帝ゆかりのものとされており、筥崎鳥居という特殊な形式の大鳥居が珍しい。また、筑紫豊氏の『筑紫文化財散歩』であるが、そこにこういうことが書かれている。
〈筥崎宮の〉社前に立って、博多湾のほうを望むと、湾口に志賀島が横たわっている。この社《やしろ》と島の線を西北に延長すること二〇〇キロ、それが玄界灘の幅であり、そこに韓半島の玄関口にあたる釜山があるのである。
それでかどうか、この筥崎宮の社殿が西向きとなっているのは、新羅に向かっていることを表わしたものだとのことであるが、もとの社殿は焼失し、いまの本殿および拝殿は一五四六年の天文十五年に、大内義隆が造立したものといわれる。大内義隆といえば、古代から中世までにわたり、九州・中国地方で支配権をふるった大豪族大内氏の第三十一代目にあたる。
大内氏は、いまわれわれが渡った多多良川・多多良浜とも関係があって、その大内氏を『日本歴史大辞典』によってみるとこうなっている。
系図に推古天皇一九年百済聖明王の第三子琳聖《りんしよう》太子が周防《すおう》国(山口県)多々良浜に着岸し、その子孫が同国大内村に住んだので、姓を多多良、氏を大内と称したとある。一六代盛房が周防権介に任じてから代々これを世襲し、二四代弘世は初めて山口に移り住んだ。爾来英主がつづいて出て、盛んに明《みん》や朝鮮と交易し、産業を興し、学術工芸を奨励した。
推古十九年といえば七世紀はじめ、六一一年のことであるが、そのころ、百済聖明王の第三子琳聖太子がなんで周防の多多良浜に着岸することになったのかはわからない。しかし、それはともかくとして、これは、かれあるいはかれらがその多多良浜に着岸したから多多良氏となったのではなく、かれらがその浜に着岸したので、そこが多多良浜となったものにちがいない。
というのは、多多良浜の多多良とは、古代における鉄の製錬法のタタラ(踏鞴)ともつうじることばであるが、同時にこれはまた、古代南部朝鮮にあって、あるときは百済となり、新羅となりした加耶諸国のうちの一国であった多羅にもつうじることなのである。神功皇后を息長帯姫《おきながたらしひめ》といった帯《たらし》のタラシ(シは助詞の)もこの多羅からきたものではなかったかと思われるが、大内氏の祖の多多良氏というのも、やはりそういうことからではなかったかと私は思う。
では、大内氏の祖となった琳聖太子が着岸したという周防の多多良浜と、こちら筑前の多多良川とはどういう関係にあったのか。やはりこれには深い関係があって、あるいはもしかすると、大内氏の祖が最初に着岸したのは、こちらの多多良川河口の多多良浜であったかもしれない。
地理的なことなどからみてそう考えられるのであるが、いずれにせよ、こちらの多多良川・多多良浜・多田羅などにしても、大内氏が称したその姓の多多良からきたものだったはずである。それからまた、この多多良川河口の近くに妙見島というのがあるが、この「妙見」というのも、大内氏の祖が朝鮮からもたらした、北斗星を本地とする妙見信仰からきたものだったにちがいない。周防の多多良浜には、「琳聖太子着岸之地」という岸津妙見社がある。
「白木原」の意味
このようにみてくると、古代朝鮮との関係は、地名にしてもきりがないのである。北九州市などには古代朝鮮三国の名称をそのまま負った「百済」「新羅崎」「高麗江」というところまであったが、それはあとのことにして、ここでは、長年にわたって「筑紫古代文化研究会(機関誌『筑紫』)」を主宰している古代史研究家、奥野正男氏の「御笠川流域の朝鮮文化遺跡について」に書かれた、「白木原」という地名をみることでいちおうおわりとしたい。
御笠川流域のうち、水城大堤から下流、板付空港あたりまでの地名には、古代朝鮮文化の名残りを想像させるものが多い。その代表的なものが「白木原《しらきばる》」である。白木という地名や神社名は、糸島郡を中心に南は八女《やめ》郡、北は北九州市にまでかなりにわたって分布している。
この名の由来は、わが国の弥生時代中期、朝鮮に建国された「新羅《しらぎ》」にもとめることができる。しかし、地名については、その変遷をよくたしかめる必要があるのはいうまでもない。
地名の変遷などということを調べてどんな意味があるのかという疑問も起きそうだが、実は、これにもわが国の古代史に深くかかわった歴史が秘められている。……
白木原は、御笠川と牛頸《うしくび》川の合流点にあるが、ムラの発展は、弥生時代に南部の春日と上大利との間にある丘陵地を起点にして、次第に平地部にひろがったとみられ、古墳時代には須恵器の一大生産地だった牛頸と、鉄器の生産地だったと考えられる乙金、御陵や太宰府との間をつなぐ川舟による交通の要地でもある。往古は、御笠川の水量は相当あったとみられ、舟便の利用はかなりあったのではなかろうか。
白木原の「原」はバルであって、このバルのつく地名も、糸島から九州北部一帯、さらに、山口県の一部に分布している。前原、春日原、仲原、唐原、盗原など、周りの地名をすこし注意すると、五つ、六つはすぐにあげられる。
このバルの語源は、朝鮮古語の集落という意味であるブル・フルであるようだ。玄界灘をこえて朝鮮から渡来した人びとの中継地、壱岐島の小字にあたる地名には、ほとんどといっていいほど「触《ふれ》」という字がつく。
壱岐のフレが朝鮮語に関係があるという見方は、柳田国男が『地名の研究』でも指摘しているが、江戸時代、筑前では大庄屋の支配下にある村を、大別して「触《ふれ》」といっている。筑前のフレもその流れで、もとは朝鮮語のブル・フルが訛ってバル・フレとなったとみられる。
この考えでいくと、白木原は新羅《しらぎ》人《びと》の村ということになるが、参考までにあげると、唐津から鹿家にはいるところに白木という大字があり、八女郡には白木村が戦後の合併まであった。いずれも古代朝鮮とかかわりの深い地である。白木神社は、糸島郡に四社、朝倉郡秋月町、嘉穂郡大隈町に一社ずつある。みな渡来人にゆかりの地である。
また、ここにいう「白木」については、竹中岩夫氏の『北九州の古代を探る』にも、「新羅《しらぎ》人の居留地であったところを、白木《しらき》と称しているところは多い。これは新羅《しらぎ》来《き》の転で、すなわち『新羅から来た人々の居所』と考えられている」とある。
加耶から北部九州へ
加耶と北部九州の関係
私は一九八六年五月、この稿のはじめのほうでみた『福岡県の歴史』の著者の一人である東京女子大教授の平野邦雄氏、九州大助教授の西谷正氏、立命館大教授の山尾幸久氏とともに、副題を「韓国・日本古代史紀行」とした『加耶から倭国へ』という共著を一冊だした。
これは、以上の四人が韓国の古代加耶の地と日本の北部九州とを歩きまわってからの座談会を中心としたものであるが、私はそれの冒頭に、時間の都合で座談会ではあまりとりあげられなかった北部九州について、次のような一文を書いている。
――韓国の加耶と日本の北部九州とを実地に歩いて、本書にみられるような座談会をしてみたいとは、私の数年来の念願であった。
その座談会でもふれているように、私は十六、七年前から全十二巻を予定している『日本の中の朝鮮文化』という古代遺跡紀行を書きつづけている。それで全国各地を歩きまわってわかったことのひとつに、いたるところ加耶(伽〓・伽耶、あるいはまた加羅・加那とも書かれるがここでは加耶に統一)のそれが抜きがたいものとしてあるということだった。
つまり、日本の古代文化遺跡に高句麗系・百済系・新羅系とあることはかなり知られているが、しかし、加耶系のそれはほとんどあまり知られていないだけでなく、それが実は古代日本文化の基層をなしているということであった。
だいたい、あるときは百済ともなったりして、最終的には五六二年、新羅に吸収されることでほろびた加耶諸国は、韓国でもあまり重視されていなかったものだった。ひとつはその文献資料が『三国遺事』にある「駕洛国記」ぐらいのものでしかなかったからでもある。『三国史記』などにも出てはいるけれど、それはつけ足しのようなものでしかなかった。
しかしながら、いまの韓国・慶尚南道を中心とした古代南部朝鮮に五加耶、または六加耶ともいわれた加耶諸国があったことは厳然とした歴史的事実である。日本でいえば、『日本書紀』などにしるされた「任那《みまな》」というのがそれで、その意味ではむしろ、日本でのほうが有名なものとなっていた。
「任那」とはどういうことかということについては、座談会でのべたとおりであるが(「任那」とは朝鮮語では任那《ニムナ》で、鮎貝房之進氏や白鳥庫吉氏なども書いているように、それは「君主の国」ということにほかならなかったのである)、近年にいたり、韓国での考古学的発掘調査が進むにつれて、その加耶が新たに重視されることになった。しかもそれは古代日本とも深く関係していることで、それをまず韓国の新聞によってみると、「韓・日古代史明かす物証/釜山・福泉洞 加耶古墳発掘の意義/日本より一世紀早い馬面冑/学界、加耶史再定立不可避」(一九八〇年十二月九日付け朝鮮日報)という見出しの記事となってあらわれた。
韓国でのそのような状況と呼応するかのように、こちら日本でも、「須恵器の源流は加耶/関連深い遺跡多数」という小田富士雄氏の「九州型古墳文化の形成」(一九八一年九月三十日付け統一日報)が書かれ、ついでまた、加耶からの「陶質土器ぞくぞく/四、五世紀/渡来者がもたらす」という西谷正氏の「加耶と北部九州」(一九八二年四月十二日付け西日本新聞)が発表されたりした。
私はそれらの記事や論稿を読むにつれ、いよいよ加耶と北部九州とを実地に歩いてみたい、という衝動にかられたものだった。もちろん、一人で歩いてみることはできる。しかし、それで私に意見があるとすれば、それは他の意見や批判のなかで検証されるものでなくてはならないのである。
北部九州に残る加耶系遺跡
そういうことで、やっと実現したのがこんどの座談会だったが、しかし一週間足らずの日程では、やはり時間不足であった。そうだったから、昼間は朝早くからマイクロバスを走らせてあちこちを歩きまわり、夜は夜でまたホテルに着くやいなや、みて歩いたことについての座談会ということになったのだったが、そのときはもうみんな疲れてしまって、ということもあったりした。
韓国・加耶の各地を歩いたときもそうだったが、北部九州ではその時間不足がいっそうのものとなった。一九八五年八月八日から五泊六日を韓国の加耶ですごした私たちは、十三日午後三時四十分釜山発の飛行機で、四時三十分まえに福岡に着いた。古代なら何日、あるいは何十日もかかったにちがいないが、現代とはまさにスピードの時代であると思わないわけにはゆかない。
私たちは福岡のホテルに着くとまたさっそく、この日、加耶の金海などを中心にみて歩いたことについての座談会をおこなっているが、そして翌日からは北部九州の地を歩いて、ということになっていた。だが、メンバーのうちの山尾さんは、その翌十四日の夜までには京都へ帰らなくてはならぬことになり、また、平野さんや西谷さんも十五日からは、ということで、要するに、北部九州をいっしょに歩けるのは十四日の午前中までということになった。
その十四日はまたマイクロバスで、まず、福岡市東南方となっている甘木《あまぎ》市の歴史資料館をたずねた。そしてそこに陳列されている、加耶から直行したものという古寺《こでら》遺跡出土の陶質土器などをみせてもらったりしたが、この甘木・朝倉の地は、「こちらこそ邪馬台国だった」としていることもあって、そのような遺跡や古墳の多いところだった。
甘木についてはあとでまたみることになると思うが、ついで私たちは、太宰府近くの古代朝鮮式山城だった大野城跡などをみて歩いた。それで午後は、私とも知り合いの田村圓澄氏が館長となっている太宰府市の九州歴史資料館で、さいごの座談会をおこなったのであった。
それからは、京都へ帰る山尾さんとわかれることになり、六回にわたった座談会メンバーはそこで解散となった。しかし私としてはこの稿のこともあったので、そのまま帰るというわけにはゆかなかった。で、私だけはあとに残り、翌日からまた各地をみて歩くことにしたのだったが、北部九州は加耶との関連だけでも、まだみたいところはいくらでもあった。
たとえば、私たちがそこでさいごの座談会をおこなった九州歴史資料館であるが、その『九州歴史資料館・総合案内』の図録をみると、筑前の宗像郡津屋崎町にある奴山《ぬやま》五号古墳から出土した「伽耶土器」という写真があって、それの説明がこうなっている。「大形円墳で箱式石棺をもつ墳丘に埋められていた伽耶《かや》式土器は、朝鮮半島南部の洛東江流域の古代伽耶諸国でつくられたもので、大きな鉢に三角形の透孔《すかしあな》を二段にあけた脚部からなり、焼きひずみが大きい。海を渡ってきた土器である」
それにまたなにより、私たちが韓国の加耶へ向かってたつ五ヵ月ほどまえには、「日本最古の王墓」と各新聞がいっせいにトップ記事として報じた飯盛遺跡の発掘結果が発表されていた。
この遺跡のあるところはいまは福岡市早良区・西区となっているが、もとはソフルということの転訛という早良《さわら》郡だったところで、ここもまた、さきにみた那津・奴国王の本拠だった春日市の須玖と同様、弥生文化の一大中心地となっていたところであった。
朝鮮無文土器の出土
そのことは、あとでみる飯盛遺跡の発掘調査の発表に先立つ三年前、一九八二年十月八日付け読売新聞の記事をみてもわかる。「弥生文化の原型か/朝鮮無文土器/福岡で初の出土/稲作解明に手掛かり/縄文晩期の遺跡から」という見出しの、こういう記事だった。
わが国の弥生文化成立(紀元前三世紀)に影響を与えた朝鮮半島の土器が、玄界灘をへだてた福岡市の縄文晩期(紀元前一〇世紀―同四世紀)遺跡から見つかった。韓国忠清南道の松菊里(ソング クリ)遺跡から近年発見された松菊里式土器で、わが国で出土したのは初めて。
松菊里土器は朝鮮無文土器文化前期(紀元前八、七世紀―同三世紀)のもので、その形が弥生前期の土器に似ているうえ、一緒に出土する石器と遺構が共通しており、この発見で「松菊里文化が日本の弥生文化の原型、もしくは縄文から弥生へ移行する引き金となった」との説が有力となった。
松菊里土器が出土したのは、福岡市早良区有田、七田前《ななたまえ》遺跡の縄文晩期末(紀元前五、四世紀)の土層。広口ツボ形土器と浅鉢形土器各一個が、縄文土器と一緒に出土した。
この土器が作られた朝鮮無文土器文化前期は、稲作を伴う日本の弥生式土器文化に先行する稲作農耕と金属器を伴う文化。わが国では、縄文晩期末に稲作が渡来していたことが福岡、唐津市など北部九州の遺跡で確認されているが、弥生文化成立(弥生式土器の出現)はそれから百年―五十年後のため、朝鮮無文土器文化と北部九州の関係を究明することが学界の重要課題となっていた。
松菊里土器の出土について、高倉洋彰・九州歴史資料館主任技師らは「縄文晩期末に朝鮮無文土器文化という弥生文化の“お手本”が日本に直接渡来し、約百年間の波状的渡来によって稲作が定着。同時に、旧来の北部九州の縄文晩期土器が無文土器の影響を受けて弥生式土器に変化、稲作と弥生式土器の複合で弥生文化が始まった」との説が有力になったと、述べている。
加耶諸国の一国ともいえる出土品
その朝鮮無文土器が出土したのは、早良区有田の七田前遺跡であるが、隣接の西区飯盛遺跡となるとそれよりはるかに規模も大きく、ここはもうそのまま、加耶諸国のうちの一国のそれというようなぐあいとなっていた。ここからはすでに、今回の発表(八五年三月)以前から、加耶のそれである金海式甕棺や細形銅剣などが出土している。
一九八四年十二月三十一日付けの西日本新聞は、「伊都国と奴国に挟まれ――/早良平野にやはり「国」/福岡市西区・飯盛遺跡/権力者の副葬品続々/最大級のカメ棺、細形銅剣」という見出しのもとに、そのことをこう報じていた。
福岡市西区(飯盛・吉武)遺跡から、このほど全国的にも最大級の弥生時代のカメ棺や、日本最古式の「細形銅剣」など、有力な権力者の存在を示す副葬品などが発見された。同遺跡周辺からは今年初めまでに大規模な前方後円墳や前漢鏡が出土、伊都と奴国に挟まれたこの一帯に、かなりの規模の「国」があったのではないかとの推測が生まれていたが、今回の発見でこの「国」の存在がほぼ立証されたと強い関心を集めている。
発掘現場は飯盛神社近くの室見川沿いにある水田二万五千平方メートルで、〈昭和〉五十六年から福岡市教委文化課が調査を進めている。
発見された弥生前期末(紀元前一世紀ころ)の「金海式カメ棺」(朝鮮半島系)は、カメ棺を二つ合わせる「合わせ口」形式で口径一メートル、高さ一・八メートル。金海式カメ棺は通常、口径、高さとも六十センチ前後だが、今回のものは三倍以上の大きさで、現物を見た森貞次郎・九産大教授(考古学)は「金海式で、これほどの大型は全国でも例がない。かなりの権力者の墓だ」と言う。
このカメ棺の中から発見された長さ二十九・八センチ、幅三・五センチの「細形銅剣」は、弥生時代、朝鮮から渡来、日本にある銅剣では最も古い型。全国で数例出土しているが、ほぼ原型のまま発見されたのは珍しい。また、弥生中期末(紀元一世紀ころ)のカメ棺からも日本最古式の「素環頭大刀」(長さ五十センチ)が見つかった。
さらに古墳時代(五世紀ころ)の石室も多数発見され、その中や周溝から、朝鮮半島の強い影響を受けた陶質土器や、柄《つか》頭に双竜紋のある「環頭大刀」、馬具、玉などの副葬品も出土した。
記事はまだつづいているが、しかしこれはまだ、その前兆のようなものでしかなかった。福岡市教委による飯盛遺跡の発掘調査は第一次から第四次へと進み、ついにそこからは古代南部朝鮮製の多鈕細文鏡《たちゆうさいもんきよう》 銅剣、勾玉《まがたま》がセットとなっているのまで発見されるにいたったのであった。
いわゆる「三種の神器」の最古例が出土したわけで、これはある意味では、一九七二年三月の大和(奈良県)飛鳥における高松塚壁画古墳に劣らぬ大きな考古学的発見であった。私はせっかく北部九州のそこまで来ていたので、あとは私ひとりででもその飯盛遺跡や、できればそこから出土した「三種の神器」などもみておきたいと思ったのである。
飯盛遺跡をたずねる
飯盛遺跡の出土品をみる
私ほか、同行していた『加耶から倭国へ』の出版元の編集者である山田康彦氏や写真の岩尾克治氏ももう一日、行動をともにするということで残った翌十五日も、よく晴れた日となった。この日はかねてから資料などの面で協力してもらっている、糸島郡志摩町に住む松尾絃一郎氏がクルマをもってホテルまで来てくれた。
ついで、そこまではいっしょに、ということになっていた福岡市在住の西谷氏も姿をみせてくれた。私たちは松尾さんのクルマで、福岡市中央区天神にある福岡市立歴史資料館へ向かった。その歴史資料館に、飯盛・吉武遺跡からの出土品が保存されていたからである。もちろんこれはまだ、だれでもみられるというものではなかったが、九州大学助教授(考古学)としての西谷さんのはからいで、私たちは特別にそれをみせてもらえることになったのだった。
腫《は》れ物にでもさわるようにして、西谷さんや資料館の人がそっと蓋を開けてくれる、白い綿敷きの小箱十数個に収められた多鈕細文鏡や銅剣などを、私たちは目をみはるようにしてみた。新聞やグラフ雑誌などの写真ではみていたけれども、二千年以上もまえにつくられたそれらを、実物でみるのはまた格別なものであった。
とくに薄紫色をした多鈕細文鏡など、二千年以上もまえに、どうやってそんな幾何学的な細《こまか》い文様ができたものか、これはもうふしぎとでもいうよりほかなかった。曲面の内側にコブをもった古式の異形勾玉もおもしろいもので、いわゆる三種の神器の勾玉も、そういうものではないかと思われた。
「日本最古の王墓」の発掘
市立歴史資料館を出た私たちは、そこで西谷さんとはわかれ、いまみた多鈕細文鏡などが出土している飯盛遺跡へ向かった。近年までは早良郡となっていたそこも、いまは高層ビルの建ちならぶ福岡市街が迫ってきていたが、しかし飯盛遺跡のあるその辺はまだ、田んぼの稲が穂をつけている農村の風景となっていた。
尖り立った飯盛山を背後にしたゆるやかな斜面平地の発掘跡には、まだ発掘調査がつづいているらしく、「福岡市教育委員会」としたテントが張られたままとなっていた。近くを流れている川のほとりに立って、「ほう、ここが――」と私はあたりを見まわしてみたが、そこにいまみてきたばかりの出土品をもった「日本最古の王墓」があったとは、そうすぐには思えなかった。
だが、五ヵ月ほどまえ、そこでそんな「王墓」が発掘されたことは否定しえない事実で、一九八五年三月六日付けの各新聞は、どれも一面トップでそのことを報じたものだった。まずさきにもみた地元の西日本新聞は、「『早良国』存在裏付け/朝鮮製多鈕細文鏡が出土/西区の飯盛遺跡/『伊都』『奴』よりも前/銅剣、鉾、戈セットで」という見出しのもとにそれを報じているが、ここでは、「日本最古の王墓発掘/福岡・飯盛遺跡/多鈕細文鏡、銅剣、勾玉セットで副葬/弥生前期末に“地方国家”?」という見出しをもった毎日新聞によってみることにしたい。
なお、これは大事な記録と思われるので、その全文を引いておくことにするが、記事中にある「多鈕細文鏡」「金海式カメ棺」のことを説明した囲み記事などはカットした。
弥生時代の共同墓地として全国最大級の規模の福岡市西区、飯盛遺跡から、六日までに、北部九州の支配者のシンボルだった銅鏡、銅剣、勾玉を同時に副葬した弥生前期末の木棺墓が見つかった。北部九州では、魏志倭人伝に出てくる伊都国王や奴国王のものとみられる墓がこれら三つの品をセットで副葬した状態で発掘されているが、調査にあたった福岡市教委はこの木棺墓が「日本最古の王墓」に間違いないとみている。この発掘によって紀元前二世紀のこの地方に国家があったことがほぼ裏付けられるわけで、弥生前期末にはまだ強力な首長は存在していなかった――という古代史の定説を覆す発見といえよう。
同遺跡は、福岡市西部の早良地区を流れる室見川沿いの水田約二万五千平方メートル。農地整備のため、市教委文化課が五十六年度から調査にかかり、現在、第四次の発掘調査が行われている。これまで弥生時代のカメ棺約六百基や、古墳時代の前方後円墳などが確認されている。
問題の木棺は、〈加耶の〉金海式カメ棺を中心とした集合墓地から見つかった。すぐ近くで一緒に発掘された金海式カメ棺はその形から弥生前期末のものと判明。この木棺はこのカメ棺と発掘場所が平面的差がなく、ほとんど同時期か、遅れてもほんのわずかといい、紀元前百五十年ごろのものと見られる。木棺の大きさは、長さ二・一メートル、幅〇・八メートルで、墓全体では南北三・三メートル、東西二・五メートル。
この木棺墓からは、△多鈕細文鏡(直径一一・一センチ)△細形銅剣二本(長さ三三・五センチ、同二七・一センチ)△細形銅鉾(同三〇・五センチ)△細形銅戈(同二七・一センチ)の五つの朝鮮製青銅器と、異形勾玉(長軸四・〇センチ)一個△管玉約二十個が副葬品として出土した。
専門家の話では、青銅器はいずれも一級品ばかりで、保存状態もきわめていいという。とくに銅鏡の多鈕細文鏡の発掘は、今回が六例目で、すべて朝鮮製。今回の飯盛遺跡のものは、模様の中に八個の円が描かれている。これは朝鮮半島も含めて初めての出土という。
王墓とみられる木棺が出た集合墓地では、これまで金海式を中心とするカメ棺二十四基と木棺三基が見つかっている。このうち、カメ棺六基と木棺三基から今回の木棺にはない銅釧《どうくしろ》などの副葬品が見つかっている。また、カメ棺のうち一基は、日本最大級の金海式カメ棺で、その最大のものは合口で一・八メートル、口径一メートルもあった。
同市教委文化課は「副葬された青銅器は、その後の王墓クラスの墓から出土する量より少ないが、この時期としてはきわめて多い。内容も一級品で、王墓とみていいのではないか」と話している。
北部九州ではこれまで、立派な副葬品を持つ王墓からは銅鏡、銅剣、勾玉が同時に出土している。伊都国王の墓とみられる福岡県糸島郡前原町の三雲、平原遺跡、奴国王墓とみられる同県春日市の須玖岡本遺跡などもこの例にもれない。これまで、三つの副葬品をセットでもった最古のものは、紀元一世紀中ごろの三雲南小路遺跡といわれ、今回の王墓はそれよりも二百年古いことになる。
飯盛遺跡ではこれまで、金海式カメ棺から最古形式の朝鮮製の細形銅剣などが出土しているが、銅鏡、勾玉を共出するものはなく、豪族クラスの墓と見られていた。それが、三種の副葬品がそろう今回の王墓の確認で、これまで空白地帯だった伊都国と奴国の間に、文献には残らない王国があったことが裏付けられた。
鞘つき銅剣の意味するもの
そうとう長くなったが、記事はまだつづいていて、さらに「朝鮮からの直接ルート証明」とした見出しのもとに、三人の学者の「話」がのっている。うち、二人の考古学者のそれを引いておくことにする。
近藤喬一・山口大教授(考古学)の話 弥生前期末から中期の初めでも、佐賀県の宇木汲田遺跡みたいに別々の墓からいろいろな副葬品が出ているが、今回のように一つの墓からこれだけのものが出たとは驚きだ。中国の史書のいう国という意味で、王墓といってもかまわないと思う。この時期に、福岡のこの地にこれだけの首長がいたことは、弥生のルートが従来の定説になっている佐賀から福岡へ、というのでなく、朝鮮から佐賀と福岡へストレートに入ったことを示している。佐賀と福岡では後背地の広がりが違い、稲作など生産力のある福岡に先に強力な首長が生まれたのだろう。
西谷正九大助教授(考古学)の話 今回の出土品を実際に見たが、いずれも優秀な青銅器だ。これだけのものを副葬しているのだから有力者であることは事実だし、その後の王につながる者ではあるが、この墓を王墓というのはどうか。弥生時代前期から中期初めにかけて王がいたとはいえない。国があったこと自体いえないのではないか。朝鮮半島からの渡来者で、この早良の地で農耕を始めた人たちの指導者と理解している。
西谷氏のいうように、それが「王国」の「王墓」であったかどうかということには、議論のあるところであろうが、しかし西谷さんはこの後、その意見を変えている。
どうしてかというと、右にみた飯盛遺跡のことが明らかにされたのは一九八五年三月であったが、その後、八六年二月になってさらにまた、新たな遺跡が発見されたからである。同年二月九日付け朝日新聞は、「青銅の武闘集団がいた?/剣に木の鞘 矛に柄/わが国初出土/儀礼用の通説覆す/福岡・飯盛遺跡」という見出しのもとに、そのことをこう報じている。
日本最古と見られる王墓が見つかった福岡市西区の飯盛・吉武遺跡の発掘を進めている福岡市教委は八日、「国内では出土例がない、弥生時代前期から中期にかけての木製の鞘《さや》つき銅剣、木製の柄つき銅矛を発掘した。さらに、銅戈《どうか》と石剣を一緒に副葬したかめ棺も、国内で初めて見つかった」と発表した。青銅器類は身分の高い部族の首長クラスの宝物、というのが旧来の説だったが、市教委は「武闘集団のリーダーたちが、実際に武具として使っていた可能性があると考えられる」としている。
要するに、「青銅製武器は、朝鮮半島では実用具として使われていたが、日本に入ってきてからは、首長クラスの宝物、儀礼用のもの、としての性格が強まった、とみるのが通説となっていた。今回の発掘は雑兵クラスの武器である石剣と一緒に見つかったことで、この通説が覆される可能性も出てきた」ということだった。
してみると、つまり、そのような「武闘集団」がいたということは、そこに「国」があり、「王」がいたということにほかならなかったのである。それで西谷さんも、『歴史手帳』一九八六年四月号の論文「中国大陸、朝鮮半島の文化と日本の古代文化」では、さきの「話」の意見を変えて、「『漢書』地理志にいう百余国の一つとして、室見川流域に旧律令体制下の早良郡規模の『国』が成立し、また、『王墓』が出現したと考えたいのである」となったのだった。
あとでまたみるように、この西谷さんを別としても、飯盛・吉武遺跡のそれが「王墓」であるかどうかということには、ある思惑がつきまとっていた。というのは、だいたい、その遺跡がこれまでみてきたようなかたちでマスコミなどに大きくとりあげられたのは、どうしてだったのであろうか。
これなどにしても、ひとつはそれが古代南部朝鮮からの渡来人のものであることがはっきりしているだけでなく、そこからは最古例のいわゆる三種の神器までそろって出土したからだった。つまり、「銅鏡、銅剣、勾玉、これをセットに支配者の象徴とする風習は古墳時代に入ると近畿へ引き継がれ、さらに天皇家の三種の神器へ取り込まれたとも考えられる」(一九八五年三月二十四日号『毎日グラフ』)からにほかならなかったのである。
「王墓か」について
細形銅剣は実用の武器
いわゆる三種の神器の最古例である銅鏡、銅剣、勾玉《まがたま》が出土した飯盛・吉武遺跡のそれが「早良国」の「王墓」であったかどうかという議論は、前項でもみているように一九八六年二月、前年につづいてまた福岡市教育委員会により、「国内では出土例がない、弥生時代前期から中期にかけての木製の鞘《さや》つき銅剣、木製の柄つき銅矛を発掘した。さらに、銅戈《どうか》と石剣を一緒に副葬したかめ棺も、国内で初めて見つかった」と発表されたことで、いちおうけりとなった。
すなわち「青銅製武器は、朝鮮半島では実用具として使われていた」それがこちら北部九州でも「早良国王」のまわりにいた「武闘集団」によって、同じように実用具として使われていたことが明らかとなったからだったが、そのことは同時にまたあらたなことを明らかにすることになった。そのひとつは、北部九州などでよく出土する古代朝鮮製の細形銅剣は「儀礼用」のものではなく、実用の武器として使われていたものだった、ということである。
それが儀礼用のものとなるのは、その後、日本でつくられるようになった広形銅剣になってからだったのである。このことは戦闘用の馬が、のちに所有者の権威のそれとしての「飾り馬」となるのと同じようである。
渡来人が「王」ではありえない?
それからまた、飯盛遺跡のそれが日本最古の「早良国王墓」であるかどうかということをめぐっての議論では、はからずも一部の人たちの、古代日本と朝鮮との関係史についてのメンタリティまでためされることになった。たとえば、「早良国」の西隣りとなっている「伊都国」だった糸島郡前原《まえばる》町に住む考古学者の原田大六氏などもその一人だった。
あとでみるように、私はその原田氏からたくさんのことを教えられたが、こういうことはまた別で、一九八五年三月、飯盛遺跡発掘調査のことが発表された当時の三月十日付け地元紙・夕刊フクニチに、そのころは健在だった故「原田大六さんの見解―飯盛遺跡の木棺墓/最古の王墓に異論/“朝鮮渡来人の墓”“漢式鏡の大量出土ない”」という記事が出ている。
それをみると、「原田大六さん(六八)は九日『朝鮮からの渡来人の墓とみるのが妥当で、決して“王墓”とは呼べない』と否定的見解を明らかにした」が、その理由としては、「原田さんによると須玖岡本遺跡など“王墓”と呼ばれる遺跡からは必ず漢式鏡が、それも大量に出土している。ところが飯盛遺跡から見つかったのは朝鮮製の銅鏡。『当時、中国と朝鮮の勢力はケタ違いで、王墓から出た漢式鏡は中国との交流を示すもの。それが今回出土していない』と説明する」とあって、記事はさらに次のようにつづいている。
「また飯盛遺跡を含む一帯が『早良』と呼ばれていることについても『早良』や『麁《そ》(祖)原』の語源は、朝鮮語の『ソウル』から来ているとし、一般にいわれる『乾渇の地なればサハラグの意ならんか』(日本紀略)や、早良親王にちなんだものなどとは異なる。
こうしたことから、原田さんは飯盛遺跡の一帯に朝鮮から武装集団が移り住み、かなりの勢力をもっていたのではないかとみる。そして総括的に『奴国と伊都国の中間に位置した渡来人の墓とみるべきで“王墓”と呼べない』と結論づける」
いかにも原田さんらしい、おもしろい意見である。「早良」や「麁(祖)原」の語源が朝鮮語の「ソウル」からきているというのもそうだが、「木製の鞘《さや》つき銅剣」すなわち「武闘集団」のそれがまだ見つかっていない段階で、「飯盛遺跡の一帯に朝鮮から武装集団が移り住み、かなりの勢力をもっていたのではないか」という指摘などは、ひじょうに鋭いものであった。だが、原田さんは、中国「漢式鏡」というものに少しとらわれすぎていたと思う。
そのときの原田さんは、「須玖岡本遺跡」のそればかりでなく、伊都国王墓とみられている前原町の三雲遺跡などから「大量に出土」した漢式鏡のことも頭にあったにちがいない。ところが、ことは日進月歩というか、原田さんが飯盛遺跡についてそういう意見をのべた四ヵ月後の一九八五年七月十八日付け西日本新聞をみると、伊都国王墓の漢式鏡について、「三雲遺跡の前漢鏡/朝鮮半島製だった/大陸との交流解明に光」とした見出しの、こういう記事が出ている。
福岡県糸島郡前原町三雲の三雲南小路遺跡(通称・三雲遺跡)から出土した前漢鏡(中国・前漢代の鏡)の一部と金銅四葉座飾金具二個が朝鮮半島産の原料を使っていることが、十七日までに東京国立文化財研究所の成分分析で明らかになった。前漢鏡などは、従来、中国製と考えられており、今回の調査結果は定説を覆すことになる。
三雲南小路一帯は魏志倭人伝に出てくる弥生時代中期後半(紀元前後)の伊都国王墓とみられ、四十九年から同県教委が発掘、全国最大規模のカメ棺二基をはじめ、前漢鏡五十七面、金銅四葉座飾金具八、銅剣、銅矛《どうほこ》などが多数出土した。
原田さんにとってはたいへん皮肉なことになったが、それというのも原田さんには、古代朝鮮からの渡来人が「王」ということはありえない、という思想があったからではないかと思われる。いまなおよくみられるもので、それはなにも原田さんと限ったことではない。
たとえば、これまでみてきた飯盛遺跡の墳墓はどれも加耶の「金海式カメ棺墓」「木棺墓」であったが、それで思いだすのは、『九州歴史資料館・総合案内』にみられる「墓の変遷」の説明文である。こうなっている。
弥生時代の社会や文化を復原する資料に墓がある。稲作を日本に伝えた朝鮮半島の人びとはあたらしい形式の墓、支石墓を同時に伝えた。しかし北部九州の人びとはこれを受け入れず、木棺墓《もくかんぼ》・土壙墓を考えだす。この墓制は全国に採用される。……
「北部九州の人びと」のそれ以前の墓はどうだったのかということにはふれることができず、「しかし北部九州の人びとはそれを受け入れず、木棺墓・土壙墓を考えだす」というのもおかしなはなしであるが、それはおいて、もしこの筆者のいうとおりだとしたら、古代南部朝鮮の加耶から渡来した弥生時代人のそれであることがはっきりしている、北部九州・飯盛遺跡から出土している木棺墓などはどういうことになるのであろうか。というより、支石墓もそうであるが、木棺墓・土壙墓にしても、古代朝鮮の墓制そのものにほかならなかったのである。
これなどにしてもやはり、単純なあやまりというだけではなく、「稲作を伝えた朝鮮半島の人びと」と「北部九州の人びと」とは、別ものだという思想があったからにちがいない。「しかし北部九州の人びとはこれを受け入れず」と断定的にいってのけている文脈に、そのことがよくあらわれている。
それが、別のものであったかどうか。この筆者など、最近、一九八六年九月に出た上垣外《かみがいと》憲一氏の『天孫降臨の道』に、「まず確実にいえることは、日本列島に移住してきた〈朝鮮〉半島の人びとのうち、日本人の先祖の主要な部分をなすほどの多数を占めたのは、洛東江流域の伽〓〈加耶〉の人びとだった」とあるのを読んだらいったいどう思うだろうか、と私は思う。しかもその加耶系のほか、さらにまた高句麗系あり、百済系あり、新羅系ありだったのである。
「早良」のルーツ
それらはこれからもみることになるので、ここではさきの原田さんが、「飯盛遺跡を含む一帯が『早良』と呼ばれていることについても『早良』や『麁《そ》(祖)原』の語源は、朝鮮語の『ソウル』から来ているとし」たことについて、ちょっとみておくことにしたい。麓に飯盛遺跡がある飯盛山もそれに含まれる背振《せふり》山地の背振とともに、早良がソウルからきたものだということは、私は以前、原田さんからじかに教えられていたが、一九八六年七月二十四日の西日本新聞に寄せた田村圓澄氏の「『早良』のルーツを探る」にもあるように、それのもとが「麁原」でもあるとは知らなかった。
麁原は「そはら」とよむようであるが、これも九州風によむと「そばる」となるので、ソブル(ソウル)=そばる(麁原)=さわら(早良)――なるほどと思われるが、しかし、田村さんの「『早良』のルーツを探る」は、その早良のもとである麁原のルーツについては別の意見をだしている。「『伊都国』と『奴国』との間にはさまれた形の『早良』は、三世紀の『魏志倭人伝』にも名前を現さないが、しかしこの地域が長期にわたり、朝鮮半島とくに弁韓(加羅〈加耶〉)や辰韓(新羅)と交渉をもつ首長の拠点であったことは疑いをいれない」として、そのことがこう書かれている。
飯盛遺跡群が所在する旧早良郡の地域は、室見川が貫流する早良平野とほぼ重なる。十世紀に成立した『和名抄』は早良郡を七つの郷に分けている。「早良」の地名を負う早良郷には、現在の西新町、鳥飼、百道松原が含まれており、また飯盛は金武とともに平群郷に属していた。
一二七四年(文永十一)に来襲した蒙古軍は、今津、百治(百道)原、赤坂の間に上陸し、別府、鳥飼、麁原《そはら》、塩屋などで日本側と戦をくりかえした。『蒙古襲来絵詞』に記された地名は、今も町名として残っている。青柳種信が『筑前国続風土記拾遺』で指摘しているように、「早良《さわら》」の郡名は「麁原」の地名にもとづいていると思う。
「観世音寺奴婢帳」によれば、七五八年(天平宝字二)に早良郡額田郷の三家連豊継《みけのむらじとよつぐ》は観世音寺に奴婢五人を施入しており、すなわち早良郡は八世紀に成立していたことが知られる。
ところで「早良」の地名の基となった「麁原」は、「〓良《そうら》」からきたのではないか、と思う。〓良は韓国慶尚南道梁山の旧名である。梁山は金海の北東二十キロ、洛東江の東岸に所在する。『日本書紀』には「草羅《そうら》」「匝羅《そうら》」と記されている……。
三家連豊継が観世音寺に奴婢を施入したとき、立券文の証人になった早良勝足嶋は、勝姓《すぐり》であり、渡来氏族の秦氏の同族と考えられる。早良勝は擬少領、すなわち早良郡の郡司の家柄であった。
仮説であるが、加羅〈加耶〉の〓良から集団で筑前に渡来し、その定住地が故国の「〓良」にちなんで「そはら」と呼ばれたのではないか。「麁原」の文字は後になって当てられたと思う。この渡来集団の首領が早良勝氏の祖である。早良勝氏は早良地区の開発者とみるべきであろう。ともあれ〓良→麁原→早良への地名の推移の背景に、加羅〈加耶〉・新羅文化をもつ早良勝集団の筑紫渡来の事実がうかがえると思う。
こうなると、早良というのがソウルからきたものか、麁原=〓良からきたものかわからなくなるが、しかしどちらにせよ、それが古代南部朝鮮からきたものであるということでは同じである。そして田村氏のこれによって、さらにまたひとつわかったことは、その早良の地にいたのが、加耶からの「渡来集団の首領」(さきにみた「早良国王」)を祖とする秦氏の一族である「早良勝集団」であったということである。
のちの豊前《ぶぜん》・豊後《ぶんご》(福岡県北東部と大分県)でみるように、ここにみられる三家連豊継というのも新羅・加耶系渡来人である秦氏の一族であるが、そのかれらがこちらの筑前に渡来していたということは、いろいろな意味でたいへん重要なことである。しかも「九州北部の豪族」であったそのかれらが、これものちにみるいわゆる「磐井の乱」にもかかわっていたというのだから、これまたおもしろいとしなくてはならない。
「此地は韓国に向かい……」
日向峠に立って
日本最古のそれである「早良国王墓」が発見された飯盛遺跡からの私たちは、こんどは『魏志』「倭人」伝にいう「伊都国」だった糸島郡の前原町や志摩町をひとまわりしよう、ということになった。松尾さんは私たちを乗せたクルマを、西に向けて走らせた。
私は前原町や志摩町へは何度か行っていたが、早良・飯盛のほうからそこへ向かうのは、こんどがはじめてだった。背振山地が東北に張りだした山中で、クルマはその山中の舗装された坂道を登ったかとみると、急に目の前が大きく開けた峠となった。
その峠には眺望所といったような小広場があって、松尾さんはそこへクルマをいれてとめた。みるとそこに「これより伊都国/日向《ひなた》峠」とした標識板があって、こう書かれている。
この峠は北西の平原遺跡によって千八百年前(弥生時代)からの古代名をもつ、日本神話を伝承する土地と考えられています。
この峠から南西に韓国《からくに》(王丸山)、北西は櫛触《くしふる》山、その先は高祖《たかす》山といった神話の山々が連なり、日向三代神話の源流となる処です。
「おう!」と、私はそのときになって気がついたが、眼下にひろがっている光景は前原町、志摩町となっている糸島平野のそれであった。左手には見なれている可也《かや》山が立ちそびえ、さらにその左手の海中には姫島らしい島も見えた。そこで私はまたひとつのことに気がついて、「ああ、ここは――」と声をあげて、松尾さんの顔をみた。
「――そうです」と、松尾さんはうなずいた。松尾さんはそれまでだまっていたが、意識的に私たちをその日向峠へつれて来たのであった。
「筑紫《つくし》の日向《ひむか》の高千穂の、そこですね」と私は、胸のうちがふるえるようなある感動をおぼえながら言った。「『此地《ここ》は韓国《からくに》に向かい、笠沙《かささ》の御前《みさき》に真来《まき》通りて、朝日の……』何といいましたっけ」
「直刺《たださ》す国……」
「そう、そう、『朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故《かれ》、此地ぞ甚吉《いとよ》き地《ところ》』 でしたね」
「そうです。いま来た東のあちらが『朝日の直刺す国』の早良平野であり、こちらの西が『夕日の日照る国』の糸島平野で、あの海の向こうが韓国の加耶です」
松尾さんは私たちがそこから来た飯盛山麓の早良平野のほうを指さし、ついで眼下の糸島平野から、海の向こうをさしながら言った。私たちはちょうど、その早良と糸島との接点となっている峠に立っているのであった。
南西にひときわ高くそびえ立っている「韓国(王丸山)」や、「櫛触山」もそこに見える。
「そうですか。そしてその『朝日の直刺す国』の早良から、あの飯盛遺跡が発見されたというわけですね」
私は、原田大六氏の『実在した神話』などによって、筑紫のここに「日向」峠があり、近くには「〓《くし》(櫛)触山」もあるとは知っていたが、実際にそこへ来てみたのはこんどがはじめてであった。松尾さんのおかげだったことはもちろんであり、松尾さんと私とがその日向峠でかわしたことばが、『古事記』のいわゆる「天孫降臨」段のそれであったことはいうまでもないであろう。
〓触山と加耶の亀旨峰
このことはほかでも書いているが、大事なことなので、ここでそれをもう少しくわしくみると、『古事記』の「天孫降臨」段でまず問題となるのは、韓国《からくに》すなわち加羅《から》=加耶の金海にいまもある「亀旨《クジ》峰」である。亀旨峰は加耶の国を開いた祖とされる首露王が天降ったというところで、まず、三笠宮崇仁編『日本のあけぼの』中の「日本民族の形成」をみると、その亀旨峰と『古事記』のそれとのことがこうある。
天孫ニニギノミコトが、イツトモノオを従え、三種の神器をたずさえて、高千穂のクシフルの峰、またはソホリの峰に降下したという日本の開国神話は、天神がその子に、三種の宝器をもち、三神を伴って、山上の檀《まゆみ》という木のかたわらに降下させ、朝鮮の国を開いたという檀君《だんくん》神話や、六加耶の祖がキシ〈亀旨〉という峰に天降《あまくだ》ったという古代朝鮮の建国神話とまったく同系統のもので、クシフルのクシはキシと、ソホリは朝鮮語の都を意味するソフまたはソフリと同一の語である。
正確には、「都を意味するソフまたはソフリ」は「ソフリまたはフル」とすべきであるが、いずれにせよ、それは『古事記』にいう「久士布留多気」の久士布留《くじふる》であり、『日本書紀』にいう「〓触峰《くしふるたけ》」の〓触にあたるものなのである。それから、亀井孝・大藤時彦・山田俊雄編「日本語の歴史」(1)『民族のことばの誕生』には、いまみたそのことがこう書かれている。
また、ニニギノミコトが筑紫の日向《ひむか》の高千穂に天降ったことを述べた『古事記』の一節に、「是《ここ》に詔《の》りたまいらく、『此地《ここ》は韓国《からくに》に向かい、笠沙《かささ》の御前《みさき》に真来《まき》通りて、朝日の直刺《たださ》す国、夕日の日照る国なり。故《かれ》、此地ぞ甚吉《いとよ》き地《ところ》』 と詔りたまいて、底《そこ》つ石根《いわね》に宮柱ふとしり、高天原《たかまのはら》の氷椽《ひぎ》たかしりて坐《ま》しき……」とある。ここにいう韓国は、もちろん南朝鮮のことで、そこを天つ神の故郷と解することが、文意にかなったもっとも自然な読み方となる。そういう意味で、天つ神=外来民族が南朝鮮、とくに任那《みまな》(六加耶)方面と深い関係にあり、たぶん、そこから北九州に渡来したであろうことを、もっとも明確に示しているのは、ニニギノミコトの高千穂の降臨説話そのものにほかならない。
この点については、東洋史学者の三品彰英が論証しているところである。彼は『駕洛国記』が伝える六加耶国の建国神話と記紀による日本の建国神話とをくらべ、その内容の重要な点では、二つの建国神話がまったく一致していることを指摘した。……
これは南朝鮮、ことに任那方面から北九州に渡来した外来民族=天つ神が、新支配地の高い連山(高千穂の峰)に自分たちの建国神話をむすびつけ、記紀の天孫降臨建国説話をうみだした、と考える以外に理解の方法がないほどの一致である。事実、〓触《くしふる》、久士布留《くじふる》のフルは韓語で村を意味するが、そう考えれば、〓触、久士布留は「亀旨の村」ということになるし、また書紀の一書で〓触(〓日)のところに添《そほり》をあてている意味も理解できる。そのソホリは、百済の所夫里《ソフリ》、新羅の都を蘇伐《ソブル》、いまも京城をソウルというように、王城を意味する韓語であった。したがって、日本語で解釈しにくいことばも、韓語では容易に、また合理的に意味が通じるわけである。
「天孫降臨」の地は筑紫
日向峠からながめわたされた韓国(王丸山)、櫛触《くしふる》山、高祖山などの「高い連山(高千穂の峰)」があるそこが背振山地で、その背振《せふり》がソフリ・ソブル(ソウル)の転訛だったのは、けっして偶然ではなかったのである。さきにみた原田さんによると、飯盛遺跡のある早良もそうだったというのであるが、それにしても、ここでひとつ明らかにしておかなくてはならぬことがある。
というのは、ニニギノミコトのいわゆる天孫降臨の地についてのことである。『古事記』では「筑紫の日向《ひむか》の高千穂の久士布留多気」であるが、『日本書紀』では「筑紫の日向の高千穂の〓触峰」「日向の襲の高千穂の峰」と二通りになっているところから、その天孫降臨の地は日向《ひゆうがの》国《くに》(宮崎県)の高千穂であるという説があって、いわばそれが筑紫説、宮崎説と二説あるということである。
私はどちらかというと筑紫説をとるものであるが、そのことについては、上田正昭氏もこうのべている。
その日向すなわち日に向かうところとすれば、この高千穂は北九州にあることになる。実際に『古事記』に描く日向の地は、「韓国に向か」うところで「朝日の直刺す国、夕日の日照る国」とのべられているではないか。もし日向を宮崎県地方としたり、鹿児島県地方と理解したのでは、それらの地は「韓国に向」うところとはなりえない。(『日本神話』)
それからまた、さきの「日本語の歴史」(1)『民族のことばの誕生』にはさらにくわしく、そのことがこう書かれている。
そこでどちらをとるかといえば、筑紫説のほうは、いちおう記紀ともこれを伝えていることは無視できないし、さらに、有力な傍証になりそうなものが、ほかにもあるのである。それは降臨した天孫ニニギノミコトが、筑紫の日向の可愛《えの》山陵に葬られたという書紀の所伝、さらに、中国の史書である『新唐書』が、日本の歴史を述べたところで、「初主は天御中主と号す、彦瀲《げんれん》に至る凡《およ》そ三十二世、皆尊を以て号となし、筑紫城に居る、彦瀲の子神武立つ。更に天皇を以て号と為し、徙《うつ》りて大和州に治す……」と記していることである。
これからみれば、唐代ないし宋初のころの中国では、日本の早い時代、神武以前の統治者が筑紫にいたと伝えていることも、また無視するわけにはいかないだろう。これらを考えあわせると、南朝鮮から天つ神=外来民族が、そもそもの第一歩を印した土地としては、九州でも南東の僻遠地、日向《ひゆうが》であるとみるよりは、弥生時代から、南朝鮮と密接にむすばれていた北九州の筑紫とみるほうが、むしろ自然である。
ところで、書紀は、天孫の降臨を助けるために、アマテラス大神が、その三人の娘を、その道中に降《くだ》したことを伝えている。書紀の一書に「三女神を以て筑紫州に天降らしめ」といい、別の一書に「三女神を葦原の中津国の宇佐島に降り居ましむ、今海北の道中にあり、号して道主《みちぬし》の貴《むち》という」とあるのがそれだが、これは玄界灘の沖ノ島、大島、宗像《むなかた》に祭られている宗像三社の縁起となっている。これによってみても、天孫降臨が海北(すなわち南朝鮮)から筑紫へ渡ることを意味していたとみることができる。大和朝廷の天皇家の祖先たちは、海を渡って南朝鮮から北九州へ渡来し、そこを日本における最初の拠点としたのであろう。
南朝鮮から北九州に渡った外来民族は、何代かのちに畿内に進出した。これが神武東征伝説に反映していることはいうまでもない。
いわゆる「天孫降臨」から「神武東征伝説」まできてしまったが、さらにまた、この神武東征伝説がどういうものであったかということについては、これからもまたみることになるはずである。
志登支石墓群にて
「伊都国」の前原へ
私たちは日向峠を下り、高祖《たかす》山麓にある高祖神社についた。古代朝鮮式山城だった怡土《いと》城の境域内にある高祖神社は、かなり急な登りの長い石段がつづいた山林のなかに、一九八六年に来たときと変わりなく、寂としたたたずまいをみせていた。
この高祖神社についてはあとでまたふれることになるが、こうして私たちは、「早良国」だった福岡市西区飯盛から、「伊都国」だった前原町にはいったわけであった。そこでひとつ、ことわっておかなくてはならないことがある。
それというのは、いま私は「一九八六年に来たとき」と書いたように、私はその前年の八五年につづいて、八六年にもまたここへ来たということである。だいたい私は、こうして原稿にするまでにはその地を二度、三度となくたずねているが、八六年のときはさきの四国地方 (『日本の中の朝鮮文化』(9)) を歩いたときと同じ辛基秀、池尚浩さんがいっしょだった。
そして一九八六年のそのときも飯盛遺跡など、これまでみて来たところとちょうど同じコースをたどって、前原町へといたったのであった。つまり、これまでみてきたところは、前年の松尾さんに案内されたときのこととして書かれているけれども、それには八六年にあらためてまた来たときのことも加わっているということである。
志登支石墓群と志登神社
要するに、これからさきは松尾さんほかとのこともあるが、同行は二、三泊の予定で豊前《ぶぜん》・豊後《ぶんご》 (大分県) までまわることになった辛基秀、池尚浩さんが主となるということで、その私たちは高祖神社から、こんどは伊都国資料館をへて、雷山《らいざん》川沿いにある志登《しと》支石墓群と志登神社とをたずねることにした。伊都国資料館ももとはといえば、志登支石墓群からの出土品を展示するためにできたものだったが、その志登支石墓群と志登神社のことは、前記『福岡県の歴史散歩』にこうある。
産の宮バス停から北へ新興住宅群のなかをぬけると志登集落の入口で、ここから農道を左におれて雷山《らいざん》川の木橋をわたると、前方水田の周囲よりわずかに高くなったところに一〇基の志登支石墓群 (国史跡) がある。支石墓というのは中国東北部から朝鮮半島にかけて行なわれた巨石墳墓で、日本では戦後ようやく各地にその存在が確認されるようになった。
支石墓は弥生時代に朝鮮から北部九州に伝えられた墳墓築造技術をしめすものだ。一枚の大きな石を数個の塊状の石でささえた形をしていて、その下に甕棺《かめかん》や土壙《どこう》・石室などをつくり死者を埋葬している。
志登支石墓群は昭和二八年の学術調査で一〇基が確認され、上石の下には甕棺・土壙があり、副葬品として打製石器や磨製石器が発見された。支石墓に使用した石はいずれも四キロ西の糸島富士とよばれる可也山《かやさん》からはこばれ、最大のものは五トン以上もある。これをうごかすには、二十数名の労力が必要だったと考えられる。
支石墓群からもどり、志登集落をぬけ東北六〇〇メートル、四方を水田にかこまれた森のなかに志登神社がある。「延喜式」に式内社としてしるされた神社だが、いまは祭礼日以外は参詣する人もない。途中の志登集落は道路ぞいに稲屋・馬屋をもち、中庭をはさんで母屋をおいたむかしながらの農家建築で、国道近くの新興住宅群とことなったおもむきがある。神社の南側水田のなかの岩鏡とよばれる巨石は、本来支石墓である。
平野の水田のなかで、そこだけこんもりとした森となっている志登神社も支石墓だったとはおもしろい。なぜかというと、私は、神社と支石墓をも含む古墳とは密接不可分な関係にあると考えているからだが、その支石墓のことについては、志登神社入口の掲示板にもこう書かれている。
△志登神社
△弥生時代は、この周辺は入江が東西から割り込み、伊都国の港を形成していた。
祭神は日本神話によれば海神国より帰って、この地に上陸されたという日向二代の妃「豊玉妃」であり、社殿は西方に向って建ち、昔は海上から参拝するようになっていた。
△附近の遺跡
志登支石墓群 (弥生時代前期の南朝鮮式巨石墳)(国指定史跡)
岩鏡 (支石墓)(弥生・南朝鮮式巨石墳)(豊玉妃にまつわる伝説)
「日向二代の妃『豊玉妃』」とはどういうものかわからないが、いずれにせよ、『延喜式』内の古いそれである志登神社は、そこにある「岩鏡 (支石墓)」や、近くの志登支石墓群に葬られたものを祭るためにできたものだったにちがいない。例外はあるが、神宮・神社とはもともと、そういうことでできたものだったのである。
志登神社からすると、雷山川の対岸となっている志登支石墓群は、いまでは草ぼうぼうのなかに、いくつかの巨石が見えかくれするだけとなっている。しかし場所としては、糸島平野の中央部となっているところで、そこからは東南に立ちそびえつづいている背振山地のこちら、前原町や志摩町のほぼ全体が見わたせるようになっている。
原田大六さんに教えられたこと
そういうこともあって、私は志登支石墓群のそこへ来て立つと、いつも、さきに引いた原田大六氏のことを思いだすのだった。私は原田さんによってはじめて、その支石墓群へつれてこられたということがあったばかりか、そこでまたいろいろなことを教えられたからである。
この稿のはじめにしるしたように、私がこの紀行のためにはじめて九州をおとずれたのは、一九七〇年十二月三十日のことであった。そして私は、福岡県椎田町が故郷だった同行の阿部桂司君の友人である白川義孝さんや松淵清さんらのクルマで豊前・豊後あたりをひとまわりし、翌七一年一月三日には田原哲夫さんのクルマで伊都国だった筑前の前原町にはいり、国鉄筑前前原駅近くに住んでいた原田大六氏をたずねた。
伊都国へ足を踏み入れたからには、まず、「伊都国王」ともいわれているという原田さんにあいさつを、ということでだった。「伊都国王」などということにもそのことが加味されていたが、狷介《けんかい》な考古学者として知られていた原田さんは、正月だということもあってか、
「やあ、どうしたわけですか。正月早々、珍客ですなあ」と、初対面だったにもかかわらず、親しげな声をあげて私たちを迎えてくれた。
「伊都国にあるという古代朝鮮からの文化遺跡をみせてもらいたいと思いまして――」という私たちに、原田さんは正月の雑煮《ぞうに》をごちそうしてくれると、すぐに立ちあがって、庭先にある収蔵庫に私たちを案内した。そして、同じ考古学者でも外部のものにはめったにみせてくれないという、平原遺跡から出土した日本最大の銅鏡などをみせてくれた。
径四十六・五センチという、その銅鏡には私も目をみはったものだったが、するとこんどは、「では――」と原田さんは言ったかとみると、家にいたときと同じカーディガン姿で下駄ばきのまま、自分から、外にとめておいた私たちのクルマに乗り込み、「行きましょうか」と私たちをうながした。
私にもそういうところがあるが、原田さんは初対面のものにはよく間がもてないということでか、終始、大声でよくしゃべった。ばかりか、あちこちでクルマをとめては降りたり、乗ったり、小まめにきびきびとよく動いてくれた。
それで私ははじめて、原田さんが調査団長となって発掘し、さきにみせてもらった日本最大の銅鏡を発見した平原遺跡から、井原遺跡、三雲遺跡、志登支石墓群とみてまわることができたものだった。そしてさいごの志登支石墓群まで来て、原田さんとならんで立ったときのことである。
「あれをごらんなさい」と原田さんは言って、私はそのときはじめて知ったが、西のほうは志摩町となっているそこに立ちそびえている可也《かや》山を指さした。「あれは糸島富士、筑紫小富士ともいわれている可也山、すなわち古代朝鮮にあった加耶国の加耶山です」
「ほう、そうですか。ここにそんな山があったとは知りませんでした」
「それだけではないですよ」と、原田さんはつづけた。「あのあたり一帯は加夜郷だったところで、向こうの西はずれはこれまた鶏永《けえ》郷の芥屋《けや》です。そしてこちらは韓舟《からふね》に加布里、加布羅で、どれもみな加耶・加羅です。どうです。おもしろいでしょう。わっはは……」
原田さんはつづけざまにあちらこちらと指さしながら、大きな声をあげて笑った。私はただ目をそちらへ向けたり、あちらへ向けたりするばかりだったが、原田さんはさらにまたつづけた。
「それから、あそこに立ちならんでいる山々は背振《せふり》山地で、その向こうは早良平野の早良《さわら》。この背振も早良もみな、朝鮮のソウルということからきたものです。どうです、愉快でしょう。わっはは……」
私はほんとうに、目をまわすよりほかなかった。東南のそこにそびえ立っている山々、福岡と佐賀との県境ともなっているそれが、背振山地というものであることを知ったのもこのときがはじめてだった。
あらかじめそのあたりのことについて書かれたものや、地図などをよくみてくればいいのだが、私はこのようにいつも行きあたりばったりで、そういうものをくわしくみることになるのは、いつもあとになってからだった。まずさきに現地をみてからというわけで、だから、私がかねてからこの地について知っていたことといえば、それは『万葉集』にある次のうたぐらいなものだった。
韓泊《からどまり》能許《のこ》の浦浪《うらなみ》立たぬ日はあれども家に恋ひぬ日はなし
そして私は、その韓泊が糸島半島北端の北崎で、いまの唐泊《からどまり》であることは知っていた。しかしながらこの地方全体、伊都国だった前原町や志摩町がそんなにも古代朝鮮と深い関係にあったところとは知らなかったのである。
ボツになった座談会
原田さんによってはじめて教えられたもので、その点は、私はいまも感謝している。しかし、原田さんと私とはその後、ある座談会で対立し衝突したことで、それきりとなってしまったものであった。私はそのときのことを、田村圓澄氏の『古代朝鮮と日本仏教』(講談社学術文庫) の「解説」でこういうふうに書いている。
――私は一九六〇年代のおわりから、『日本の中の朝鮮文化』というシリーズを書きはじめるとともに、一方では京都に住む事業家の友人と語らって、その友人の経済的負担のもとに『日本のなかの朝鮮文化』という小季刊誌を創刊し、それの編集にもたずさわることになった。この雑誌は一九八一年九月刊の五十号をもって休刊としたが、いまそれの総目次をみると、田村圓澄氏は同誌に六度ほど登場している。
はじめは一九七二年九月刊の第十五号に、「八幡神の変身と渡来人」という論文を寄せてもらったが、六度のうちの四度は、私もその都度出席した座談会であった。が、そのうちの一度は、雑誌としてボツにするよりほかなかったから、実際は三度ということになる。
この雑誌のよびものというか、中心の柱は創刊号から毎号のせていた歴史学者や考古学者、文学者などによる座談会・シンポジウムで、全五十回のうち、それをボツとしたのは二度ほどであった。どちらも人選のあやまりで責任は私にあるが、田村さんに出席してもらったうちの一度もそれで、しかも出席者の一人であった私は、そのうちの一人とはげしく対立することになってしまったのだった。
日本にのこる古代文化遺跡である古墳出土品のあるものが古代朝鮮から「輸入」したものであり、朝鮮にその類似品があるのは日本からの「輸出」品であるという、その「輸入」「輸出」ということをめぐってであったが、反面、このときの田村さんの態度がいまも深く印象に残るものとなった。「古代に輸入、輸出だなんて、そんなばかな」と私はすぐに反発してしまったが、田村さんはそうではなく、その輸入品とは、「人とともに渡来したもの」だということを、静かな口調でじゅんじゅんと説いたものだった。
しかし、相手も私におとらぬ大声で同じことをくりかえしてゆずらず、それで結局、座談会はわけのわからぬものとなってしまったのだった。――
このときの「相手」というのが原田さんで、「それなら、あなたがぼくに教えてくれた加耶の可也山も、ソウルということだった背振山地も輸入したものだというんですか」と私はそこまで言ったかどうか、いまははっきりとおぼえていないが、とにかくそんなさいごの一言で、座談会はダメになってしまったのであった。いわば原田さんは、「私的」なばあいのそれと、「公的」なばあいとではちがっていたのである。
私は、一九六九年六月、夕刊フクニチ新聞社と平原遺跡調査団とが共同主催したそれの図録である『伊都国王墓展』に「伊都国王墓展の見どころ」として原田さんが書いているのをみて、ある危惧を抱かなかったわけではなかった。そこに、こうあったからである。
第七は、朝鮮半島への倭軍の侵攻による逆流文化として見られるもので、決して騎馬民族による日本征服を語っているものではない。
それが「決して騎馬民族による日本征服を語っているものではない」のはいいとしても、「朝鮮半島への倭軍の侵攻による逆流文化」とはいったいどういうことか、と私は思ったのである。これはかつての「皇国史観」そのものではないか、とも思ったわけだったが、しかし、同『伊都国王墓展』には、これは無署名であるが、「大陸文化の石器」としてこうも書かれていた。
大陸、特に朝鮮半島色の濃厚な石器文化が、対馬・壱岐の二島を飛び石にして、この伊都国にも伝わってきている。それは全く朝鮮文化そのままだと極論しうるようなもので、柳の葉のように長くて鋭い磨製石器、身と柄とを共作りにした有柄石剣は、特に北部九州にのみしか達していないとかいわれている。他の抉入《えぐりいり》石器・石鑿《いしのみ》・大形石包丁《ぼうちよう》・紡錘車《ぼうすいしや》などは、日本列島の全地域に及んだもので、北部九州の特色ではない。地理的条件は、大陸文化を歪ませることなく、素直に導入したといえるし、また新時代の北部九州の弥生文化建設に、韓国人の援助と協力があったことも事実である。
これもまた、「弥生文化建設に、韓国人の援助と協力があったことも事実である」とはおかしな書き方で、それは今日にみられるようなそんな「援助と協力」などではなかったはずである。しかしともあれ、一方では「朝鮮文化そのままだ」というそんな記事もあったり、それにまたなにより、さきに原田さんが私に教えてくれたこともあったりしたので、その原田さんにも加わってもらった「伊都国における朝鮮文化」とするはずの座談会を組んだものだった。だが、それはやはり失敗で、私はまだまだ甘かったのである。
九州における天日槍
今宿五郎江遺跡出土の小銅鐸
そういうこともあった原田さんを思いだしたりした志登支石墓群からの私たちは、「『朝鮮式』から『畿内型』へ/中間型銅鐸北部九州で発掘/福岡・今宿五郎江遺跡/半島ルーツ裏付け」とした見出しの、一九八五年三月十三日付け毎日新聞の切抜きを前にして、ちょっと迷った。
糸島半島の東海岸となっている今津湾に面したその「今宿五郎江遺跡」まで行ってみようか、どうしようかということでだった。しかし、伊都国だった前原町や志摩町などにもまだ行ってみたいところがたくさんあったので、そこは割愛することにした。今宿のそこへ行ったところで、そこには発掘跡しかないであろうから、ということでだったが、いまみた見出しの新聞記事によると、それはこういうものとなっている。
日本最古の王墓とみられる木棺墓が発掘されたばかりの福岡市内で十二日までに、今度は畿内型銅鐸と朝鮮式小銅鐸の中間型の銅鐸が見つかった。畿内型が広島以東でしか出土していないのに朝鮮式は銅鐸文化圏外の九州から出土、研究者の間で朝鮮式が畿内型の「模倣か」「先行形か」で意見が分かれているが、両者の中間型が見つかったことで、朝鮮式が畿内型へ変化した可能性が強まった。
小銅鐸が出たのは同市西区今宿五郎江遺跡。小さな谷に面した弥生時代の住居跡で、土器や木器、石器が出土している。土器は弥生中期末から弥生後期初め (紀元一世紀ごろ) のもので、遺跡全体も同時代とみられる。
問題の小銅鐸は極めて珍しい円錐《すい》形で、高さ十三・五センチ、底面の口の直径七・五センチ、鈕《ちゆう》は六角形で、古型の円鈕と同タイプ。投棄されたのが弥生中期末としても、製作時期は中期前半までさかのぼる。
表面に模様がなく、両側に飾りのヒレがついていない点で基本的には朝鮮式だが、横断面が円であること、型持たせ穴が四個あることなどは畿内型に近いとみられる。
国内で見つかった小銅鐸は、今回のものを含めて十七個。九州では六個目。これまでの五個は朝鮮式。このため銅鐸文化圏外の九州で見つかる朝鮮式は、畿内型とは別系統というのが通説になっていた。
しかし今回の中間型の出現で、銅鐸が朝鮮半島―北部九州―近畿というルートをたどったことが裏付けられた。
加耶諸国の引っ越し先
記事はまだつづいているが、要するに、近年になるにしたがって、あとでみる加耶から直行の陶質土器など、北部九州の地からはいろいろなものが新たに発見され、そのことによって古代朝鮮との関係がいっそう明らかにされているということである。いわゆる「銅剣・銅矛文化圏」といわれた九州の銅剣・銅矛ばかりでなく、「銅鐸文化圏」といわれるところの銅鐸もまた、古代朝鮮から渡来したものだったのである。
いわば北部九州は、海一つをへだてて向かい合っている加耶諸国の半分ほどが弥生時代、またはそれ以前から何度にもわたって、そのまま引っ越して来たようなところだったのである。そのことについては、郷土史家・笠政雄氏の「韓良考《からこう》」にもこう書かれている。
『南斉書』には加羅国、『北史』に迦羅国、『三国史記』に駕洛・伽落・伽耶・加耶などとあるのは、いずれもカラ及びその転訛音のカヤの音訳である。……
さて、我が郷土の糸島の地に思いをめぐらせば、今の北崎の地 (唐泊のあたり) を古く韓良郷と呼んでいた外に、同じ『和名抄』に出ている鶏永《けえ》郷があり、それよりも古い奈良の時代に、『万葉集』に出た可也《かや》山がある。
鶏永については異説があるが、志摩郷の推定から、今の芥屋《けや》であることは疑いを入れまい。
山が多くの場合、地方の代表として眺められ、冠するに地方の名をもってされることの多いことから考えれば、可也山の可也の呼称もまた地方的な名称であったのではあるまいか。
いま韓良・鶏永・可也の古地方名が、カラ系統の地名であることは誰しも思い到るであろう。カヤとカラとの混同転訛は、前述朝鮮の古国名にすでにこれを見るし、カヤがケエまたケヤに転ずることは説明を要しない。
古く『和名抄』や『民部省図録』に志摩郡と呼ばれた地を按ずれば、このカラ系統の三地方を画して引かれた仮想線は、東と西と北とほとんど主要部を彩り尽くすほどである。この志摩郡こそ韓良郡とでも呼ばれはしなかったかとさえ思われる。これはあまり穿《うが》った臆測かも知れないが、文献なき有史以前もしかしたら、この地は大きくカラの地と呼ばれていたのではあるまいか。七郷の新しい名に較ぶれば可也の名こそは、千古変らないあの山の雄姿の如く古く、今は問うによしもない先住民族の記念の一片として、古い古い言葉が謎のように残されているのではあるまいか。
もしこの大陸に向って出張った我が志摩半島が、カラとかカヤとかと呼ばれていたとしたら、この地は古朝鮮民族の占拠地か殖民地ではなかったろうか。(傍点も笠氏)
天日槍と雷山の朝鮮式山城
ここにいう「古朝鮮民族」の渡来は文献上でもいろいろな形で語られているが、吉野裕氏の現代語訳『風土記』にある「筑前国」の逸文「怡土《いと》の郡」に、「怡土の県主《あがたぬし》らの祖五十《い》跡《と》手《で》」がこうのべたというくだりがある。「高麗の国の意呂《おろ》山 (蔚山) に天降ってきた日桙《ひぼこ》の末裔《す え》の五十跡手とはわたしのことです」と。
「怡土の郡」は怡土郡のことで、それが一八九六年の明治二十九年に志摩郡と合併して糸島郡となったものであるが、「高麗の国の意呂山 (蔚山)」とは現在の韓国・慶尚南道、もとは加耶となっていた地であることはいうまでもない。それから「日桙」とは、『古事記』に天之日矛《あめのひぼこ》、『日本書紀』に天日槍《あめのひぼこ》となっているそれで、これがまた北部九州にとって大きな存在だったのである。
そのことはまず、古い糸島郡教育会編『糸島郡誌』にこうあることからも、うかがい知ることができる。
而《しか》して天日槍はまず新羅往来の要津たる伊覩《いと》を領有し、此《ここ》に住して五十《い》跡手《とで》の祖となり、更に但馬《たじま》に移りて但馬家の祖となりしなるべし。(久米邦武『日本古代史』に拠る)
案ずるに、久米邦武氏曰く、「筑前雷山に存する神籠石《こうごいし》は其《その》〈天日槍を指す〉築きし古蹟なるべし。其南の肥前山中に墓家の石窟夥《おびただ》しく存す。これ古き殖民地なるを証するものなり」と。而して長野村県社宇美八幡宮祭神六座の内気比《けい》大神あり。越前国官幣大社気比神宮の祭神と同一の神にして、天日槍を祀《まつ》れるなり。
ここにみえる「雷山の神籠石」とは、近年また各地で新たに発見されている古代朝鮮式山城のことで、私も背振山地にある雷山のそれを行ってみているが、そこには古代朝鮮語の山城を意味する筒城《つつき》神社というのもあって、いまもその巨大な山城跡の石塁や水門は健在のままである。一九七九年四月二十日号の『アサヒグラフ』は、「全調査=仁徳陵をはるかにしのぐ/日本古代史上最大の遺跡“朝鮮式山城”の謎」という特集をしているが、そこにのせられた写真をみてもその一端はわかる。
天日槍と神武東征伝説
ところで、これまでみてきた天日槍 (天之日矛・日桙) とはいったい何だったのであろうか。『古事記』『日本書紀』などはこれを「新羅の王子」としているけれども、しかしそれはそういった名の個人、あるいはそういう人間といったものではないのである。瀬戸内海、播磨 (兵庫県) における天日槍の伝承を『兵庫県史』第一巻に書いた直木孝次郎氏は、さいごにその天日槍についてこうのべている。
以上のような天日槍の伝説が成立した事情については、いろいろな解釈があるが、日槍をそういう名をもつ一人の人物と考えてはならないだろう。おそらく矛や剣で神を祭る宗教、または矛や剣を神とする宗教を奉ずる集団が、朝鮮とくに新羅から渡来したことが、この伝説のもととなっていると思われる。
つまり天日槍とは、新羅から渡来したそういう集団の象徴のようなものではなかったかというのであるが、私もそうだと思う。私としてもう少しいうならば、それは矛 (剣) や鏡、玉などをもって太陽神を祭ると同時に、祖神廟としての神宮・神社を祭る新羅・加耶系渡来人集団の象徴にほかならなかったのである。
それでこの集団は「天日槍族」または「天日槍集団」ともいわれているが、その集団は日本全国にわたり、広汎な分布をもったものであった。たとえば、朝倉治彦・松前健ほか編『神話伝説辞典』の「出石《いずし》人《びと》」(天日槍族の一部) の項をみると、それがこうなっている。
新羅の王子とされる天之日矛 (天日槍) を始祖とし、但馬・播磨・淡路 (いずれも兵庫県)、近江 (滋賀県)、若狭 (福井県)、摂津 (大阪府)、筑前 (福岡県)、豊前 (大分県)、肥前 (長崎県) 等にわたり、広大な分布を持っていた大陸系の種族。記紀〈『古事記』『日本書紀』〉や風土記には、天之日矛ないしその妻の女神 (赤留比売《あかるひめ》) の巡歴伝説ないし鎮座伝説として語られる。この族人に田道間守《たじまもり》、清彦《すがひこ》、神功皇后の母君などがある。したがってそれらの話は、彼らの伝えたものと考えられる。『古事記』の春山之霞《はるやまのかすみ》壮夫《おとこ》の話もそうである。
なおまた、それだけではない。ほんとうはこれが重大なのであるが、林屋辰三郎氏の「天日槍と神武東征伝説」という副題をもった「古代の但馬」をみると、その天日槍のことがこう書かれている。
私は、はっきりいって天日槍伝説というものは、神武東征伝説という日本の国の、また、日本文化の最初にどうしても理解しておかなければならない伝説と同形のものと考えている。
神武東征の伝説は、日本の新しい歴史研究の中では事実でないことになっている。『神武天皇実在論』などという著書も現われているが、もとより信じることはできないし、ましてや神武天皇が橿原の宮で即位したというような、建国記念日などはありようがないだろう。神武天皇の実在や建国記念日の制定などはもちろん私も反対であるが、しかし、神武東征の伝承自体を文学的な創作であると果して言い切れるか、ということになってくると、もう少しその意味を吟味してみる必要があるのではないか。
要するに、「神武東征伝説というものは、日本に水稲耕作を伝えた農耕集団が西から東へと移っていった過程を、六―七世紀の知識を基礎に物語っている」ものだとして、林屋氏はさらにつづけて書いている。
新羅の王子といわれる天日槍の農耕集団は、朝鮮から北九州へ渡って瀬戸内海を通り、播磨の宍粟《しさわ》の邑《むら》を通り、淡路を通って淀川に入り、……私はそれが天日槍集団の渡来の伝承と考える。神武東征の伝承とひじょうに類似しているのは、天日槍という名前が示すように、槍はいうまでもなく神のよりしろであるが、これは武甕雷《たけみかずち》神の剣と同じで雷を表現している。即ち、天日槍という神名の中に神武東征伝承のいろんなエッセンスが凝縮されている。
さきにみた「日本語の歴史」(1)『民族のことばの誕生』の、「大和朝廷の天皇家の祖先たちは、海を渡って南朝鮮から北九州へ渡来し、そこを日本における最初の拠点としたのであろう。/南朝鮮から北九州に渡った外来民族は、何代かのちに畿内に進出した。これが神武東征伝説に反映していることはいうまでもない」というそれが思いだされる所説である。
比売許曾の神の巡歴
このような所説は、『民族のことばの誕生』の筆者や林屋氏ばかりとは限らない。さきに私たちは高祖山麓の高祖神社をたずねたが、これも雷山と同じ古代朝鮮式山城だった怡土城の境域内にあって、旧怡土郡の一の宮となっていたその神社はもと、天日槍の嫡妻ということになっている高磯《たかそ》比売、すなわち比売許曾の神・赤留比売を祭ったものであった。
そのことは今井啓一氏の『天日槍』にくわしい論証があるが、瀧川政次郎氏の「比売許曾の神について」をみると、ここでも天日槍のそれがこうのべられている。
伊都国には天之日矛〈天日槍〉、比売許曾を祀った神社が存在したに相違ありません。前に挙げた怡土郡の高祖神社は、……伊都の国王が奉斎した天之日矛若しくは比売許曾のそれであったかもしれません。……
天之日矛がその嫡妻を追って難波に到らんとしたということは、私の解釈に従えば、日矛を祖神と仰ぐ氏族の首長がその部衆を率いて、難波の背後にある大和に侵入せんとしたことであります。この日本の中原ともいうべき大和の地に侵入を企てた氏族は、いかなる氏族であったでありましょうか。
この問題に明快な解答を与えられたのは、田中卓博士であります。田中博士は、「日本国家の成立」なる論文において、それは景行紀に見える伊覩県主五十跡手の子孫であると明言されています。……
伊覩県主が魏志倭人伝に見える伊都国の国王で、その富強天下に冠たるものであったことは、前に論述したところであります。この有力なる北九州の豪族が、東方の美地を望んで東征して来ることはあり得べきことであります。
ここにまた、さきにみた林屋辰三郎氏の「天日槍と神武東征」のそれと同じ「東征」ということが出ていることに注意してもらいたいが、瀧川氏はさらにつづけてこうのべている。
以上、私が明らかにし得ました比売許曾の社を西から順々に数えてゆきますと、筑前国怡土郡の高祖神社、豊前国田川郡の香春神社、豊後国国前《くにさき》 (東) 郡の比売許曾神社、摂津国東生 (成) 郡の比売許曾神社、同国住吉郡の赤留比売神社ということになります。私はこれらの比売許曾の社を次々につないで行った線が、近畿の帰化人が博多湾の糸島水道に上陸してから、近畿の各地に移って行った行程を示すものではないかと考えます。
ここには、同じ比売神を祭る豊前国宇佐郡の宇佐八幡宮などが抜けているが、それはあとのことにして、では、天日槍の嫡妻ということになっている比売許曾の神・赤留比売とはいったい何だったのであろうか。
一言にしていうと、それは矛 (剣) や鏡、玉をもって太陽神や祖神の神宮・神社を祭る天日槍集団のシャーマン (巫女) にほかならなかった。神を祭っていたものがのちには神として祭られるものになること、これは大日〓貴《おおひるめむち》というシャーマンだった天照大神にもその例をみることができる。というより、そのいわゆる天照大神も、比売許曾の神・赤留比売がそうなったものではなかったかと私は思っているが、大和岩雄氏も谷川健一編『日本の神々――神社と聖地』のなかで、天照大神の「原像」は赤留比売であったとしている。
「伊都国王墓」をたずねて
「伊都」は「伊蘇」
前項ではいきおい筑前から豊前まで行ってしまったが、われわれはここでまた筑前の「伊都国」だった前原町まで戻らなくてはならない。前原町やその周辺には「伊都国王墓」などのほか、まだみておかなくてはならぬものがたくさんあるからである。
まず、さきにも何度かふれている「伊都国」というものである。『日本書紀』には「伊覩《と》国」と書かれて、「伊覩国は伊蘇《そ》国の訛《よこなま》れるものなり」とあるが、私は『日本書紀』のこれをみると、いつも思いださせられることがある。それは金澤庄三郎氏が丹後 (京都府) の余社《よさ》のサ(社) とともに、伊蘇のソ (蘇) は新羅の「民族名」であるとして、『日韓古地名の研究』にこう書いていることである。
余社 余社は倭名抄丹後ノ国与謝《よさ》ノ郡の地で、雄略天皇二十二年紀には丹波ノ国余社ノ郡とある。丹波国の五郡を割いて始めて丹後国を置いたのは和銅六年で、それより以前は丹波国であった。丹後ノ国与謝ノ郡の天梯立《あまのはしだて》は伊射奈芸《いさなぎ》ノ命《みこと》が天に通わんために作り立てたまいしものの仆《たお》れたので、その東ノ海を与謝、西ノ海を阿蘇というと風土記に見え、又、天照大神を但波吉佐宮《たにはのよさのみや》に四年間斎《いつ》き奉ったこともあり (倭姫世紀)、往古は由ある土地と見えて、ヨサ、アソの名はまた民族名ソと通ずるところがある。
以上、阿蘇・伊蘇・伊勢・宇佐・余社などはいずれも我民族移動史の上に重要なる地位を占めている土地であって、しかも民族名ソ及び其類語を名としていることは、最も注目に価する事実といわねばならぬ。(傍点も金澤氏)
丹波・丹後の地も新羅・加耶系渡来人集団が展開していたところであるから (『日本の中の朝鮮文化』(6)参照)、そこに新羅の「民族名ソ」を「名としている」ところがあるのはふしぎではない。してみると、こちら筑前の「伊蘇」(伊覩・伊都) もやはり、「日槍はまず新羅往来の要津たる伊覩を領有し」(『糸島郡誌』) たことからきたものだったにちがいない。
伊都国王が女王国を統属
というより、丹波・丹後の「民族名ソ」もこちらのそれが移って行ったものかも知れないが、しかしそれはともかく、伊都国といえば、「邪馬台国論」などに必ずみられる『魏志』「倭人」伝のあの伊都国であることはいうまでもない。すなわち、「東南して陸行五百里、伊都国に到る。官を爾支《にき》といい、副を泄謨觚《せつぽこ》という。千余戸あり、世々王有りて皆女王国に統属す。郡使の常に駐《とどま》るところ」とあるそれである。
ここにみられる「女王」とはいわゆる邪馬台国の女王卑弥呼のことであるが、ところで、いま私はふつうそう読まれているように、「世々王有りて皆女王国に統属す」と書いたけれども、この読み方には疑問がある。つまり、原漢文で「世々有王皆統属女王国」とあるこれは、「世々王有りて皆女王国を統属す」と読むのがただしいのではないか、ということである。
私はここで「邪馬台国論」にかかわるつもりはないので深入りはしないが、しかしこれはやはり、「女王国を統属す」と読むべきではないかと思う。そうでなくては、伊都国は「郡使の常に駐るところ」(郡使は邪馬台国までは行っていない) ということがよくわからないばかりか、伊都国がどういうものであったかということも、よくわからなくなるからである。
だいたい、女王卑弥呼というのは、「鬼道《きどう》を能《よ》くした」シャーマン (巫女) にほかならなかった。このことは松本清張氏もどこかに書いていたと思うが、したがって邪馬台国とはその卑弥呼を女王とする「宗教王国」のようなもので、実際的な政治・経済といったことの中心は伊都国にあったのである。
三雲南小路遺跡と井原鑓溝遺跡
そのことは、伊都国王は何代までつづいたかはわからないが、前原町にのこされたその「王墓」をみてもわかるように思う。前原町のそれは、平原弥生墳墓といわれるものと三雲南小路遺跡、井原鑓溝《いわらやりみぞ》遺跡の三ヵ所で、後者の二ヵ所を前記『福岡県の歴史散歩』でみるとこういうふうである。
井田バス停を南へ一キロ歩くと三雲集落につく。三雲一帯は全面が弥生遺跡といってもよいほどで、ここが伊都国の中心といわれている。三雲南小路遺跡も王墓のひとつといわれ、集落の西南部にある三雲宮前バス停そばの細石《さざれいし》神社と県道をはさんで西側の小路をすこしはいったところにある。
一八二二 (文政五) 年ここから甕棺が発見され、鏡三五面のほか、中国では王や諸侯のシンボルとされる璧《へき》 (玻璃《はり》製)、さらに勾玉、管玉《くだたま》、細形銅剣などが副葬されていた。このことは江戸時代末の筑前の国学者青柳種信の『柳園古器略考』にくわしくしるされている。そのうちの有柄細形銅剣と内行花文精白鏡一面 (県文化) は博多の聖福寺に保存されている。最近では昭和四九年からはじめられた伊都国発掘調査で、地下一メートルのところから数面の鏡や璧が出土し、その横から鏡や翡翠《ひすい》の勾玉などを副葬した王妃墓と推定される甕棺も出土した。
南小路遺跡の南約一〇〇メートルの井原鑓溝遺跡も王墓とみられている。青柳種信の著書には、天明年間 (一八世紀) ここから甕棺が発見され、方格規矩四神鏡二一面・巴形銅器・鉄製刀剣が出土したとある。
現在の全国的な遺跡破壊の波が、この伊都国にもおしよせているのはおしまれる。
南小路遺跡と反対の三雲集落東端の水田のなかに築山《つきやま》・端山《はしやま》のふたつの前方後円墳がある。その他昭和バス怡土線博多行の車窓からは井原《いわら》・西堂《にしのどう》地区に数個の古墳が発見されることは、このあたりがつぎの古墳時代にも重要な地域だったことをものがたっている。
「前漢鏡」も朝鮮半島製
三雲南小路遺跡からだけでも、弥生〜古墳時代における豪族の権威・権力の象徴となっていた鏡が「三五面」(のちの発掘でもっとふえる) も出土したとはおどろくべきことで、伊都国がどういうものであったかをしのばせてあまりあるが、同時に出土した「有柄細形銅剣」は、さきにみた「早良国王墓」の飯盛遺跡から出土した古代朝鮮製のそれと同じものであるにちがいない。しかも、それだけではない。
これまではふつう、この「伊都国王墓」から出土した鏡を「前漢鏡」または「漢式鏡」といって、古代中国から伝来したものとされていた。だが、これもさきの「『王墓か』について」の項でみたように、最近になって、それも古代朝鮮からのものだったことが明らかとなっている。重要なことなのでさらにもう一度みると、一九八五年七月十八日の西日本新聞は、「三雲遺跡の前漢鏡/朝鮮半島製だった/大陸との交流解明に光」とした見出しのもとに、そのことをこう報じている。
福岡県糸島郡前原町三雲の三雲南小路遺跡 (通称・三雲遺跡) から出土した前漢鏡 (中国・前漢代の鏡) の一部と金銅四葉座飾金具二個が朝鮮半島産の原料を使っていることが、十七日までに東京国立文化財研究所の成分分析で明らかになった。前漢鏡などは、従来、中国製と考えられており、今回の調査結果は定説を覆すことになる。
三雲南小路一帯は魏志倭人伝に出てくる弥生時代中期後半 (紀元前後) の伊都国王墓とみられ、四十九年から同県教委が発掘、全国最大規模のカメ棺二基をはじめ、前漢鏡五十七面、金銅四葉座飾金具八、銅剣、銅矛《どうほこ》などが多数出土した。
さきの『福岡県の歴史散歩』でみたときは「鏡三五面」だったのに、ここでは「前漢鏡五十七面、金銅四葉座飾金具八」などとなっているが、これは同『――歴史散歩』が発行されたのは一九七八年一月だからで、それ以降の発掘調査で出土品はさらにまたふえたのである。
細石神社の祭神は
この分では以後さらにまた、――と思ったりしながら、こんど久しぶりにその三雲遺跡をたずねてみることにした。だが、遺跡地はすっかりさまがわりしてしまっていた。
発掘調査はもうとっくにおわっていたのはいいとして、その跡は民家の木工場となっていた。そしてその木工場のトタン塀に、「三雲南小路及び井原鑓溝遺跡」とした、これまでにみたことが簡単にしるされた前原町教育委員会の木札が一枚張りつけられているだけだった。
全国的に貴重な遺跡がどんどんなくなりつつあることはわかっていたが、しかしそれにしてもこんなことがと思い、念のため木工場で働いている人に、「三雲遺跡は――」ときいてみたところ、「ここです」とこともなげな返事だった。私たちはだまって、そこから立ち去るよりほかなかった。
ついで、近くにある細石《さざれいし》神社をたずねたが、これはどうやら、十年ほどまえに来たときと同じたたずまいでそこにあった。境内に掲示板があって、こう書かれている。
細石神社 (旧名 佐々礼石《さされいし》)
伊都国の中心部で、祭神は磐長姫《いわながひめ》と妹の木花開耶《このはなさくや》姫 (日向第一代ニニギノミコトの妃) の二柱。
元禄八年の「細石神社御縁起」では、天正十五年豊臣秀吉により、神田没収とある。これ以前については、判明していない。
付近の遺跡
伊都国王墓 (紀元前一世紀の王墓と王妃墓)
鑓溝遺跡 (紀元一世紀の墳墓)
祭神はいつからそうなったか知らないが、それはどうであれ、かつての細石神社は近くの三雲遺跡に葬られた「伊都国王」を祭ったものではなかったか。少なくとも無縁のものではなかったはずで、奥野正男氏は、細石神社の正面が高祖山麓の高祖神社を向いているところから、これも天日槍ゆかりのものではないかと書いている (「筑紫の神々の原像」) が、私もそうではなかったかと思う。
鋤先古墳――日本最古の横穴古墳
地図を開いてみると、高祖神社は細石神社の東となっているが、そこから北へ向かうと高来寺、飯氏、周船寺《すせんじ》となり、その東は博多湾 (今津湾) に面した今宿となっている。いまは福岡市西区となっている今宿といえば、さきの項 (「九州における天日槍」) でみた「『朝鮮型』から『畿内型』へ」というその「中間型銅鐸」が出土した今宿五郎江遺跡のあるところであるが、さらにまた、これはあとで知ったけれども、そこの今宿青木では、これも朝鮮を源流とする横穴式古墳がどこからはじまったかということがわかる古墳の発見されたところでもあった。
一九八三年十月七日の西日本新聞をみると、「日本最古期の横穴石室/鋤先古墳 (西区今宿) で発掘/五世紀初期/畿内より先に伝来?/福岡市内で二基目」という大見出しのもとにそのことがある。
わが国最古期の横穴式石室を備えた古墳が、福岡市西区今宿青木で見つかった。同市文化課が五十六年度から三ヵ年計画で、重要遺跡確認調査を実施していた「鋤先《すきさき》古墳」で、横穴式石室は朝鮮から畿内を経て九州に伝来したとの見方が強い中で、今回の発見で、実は畿内より九州に伝来した方が先ではないか、との推測が強まると同文化課ではみている。……
鋤先古墳は全長六十二メートル、後円部は高さ八メートル、直径三十八メートル、前方部は高さ四メートル、先端幅二十二メートル、クビレ部十五メートル。今宿地区の数多くある古墳の中でも最大級。副葬品などから古墳時代中期に当たる五世紀初期のものとみられ、当時、同地区を統治していた豪族の墓だったと推定される。
横穴式石室は後円部中央にあり、長さ三・三メートル、幅二・六メートル、高さ二メートル。玄武岩の割石を周囲に積み上げてあり、わが国で見つかっている横穴式石室では最古の型。これと同じタイプと時期の石室は福岡市南区の老司古墳 (四十四年に発見) だけしか見つかっていない。
従来、横穴式の伝来は畿内から九州へ、と考えられていたが、畿内ではこの種の古墳は発見されておらず、福岡で二つも発見されたことで、九州から畿内へ、との見方が強まったといえそう、と同文化課はみている。
記事はまだつづいているばかりか、この記事が出たのにつづいて十月八日の同紙には、北九州市立考古博物館長である小田富士雄氏の「朝鮮半島に直接の起源を求めうるこの新来墓制は、まず北部九州の玄界灘に臨んだ筑・肥〈筑前・肥前〉沿岸地方」からはじまったとする「鋤先古墳調査の意義」という論文まで掲載されている。
玄界灘に臨んだ沿岸であると同時に、背振山地寄りとなっている高祖から今宿までのこの地にはほかにまた、「初期の横穴式石室を持つ前方後円墳」で「伊都国あとの、伊都国にゆかりのある豪族の墓である」(和歌森太郎監修『日本史跡事典』) という丸隈山古墳もあって、そういう遺跡のたいへん多いところである。
千里集落と支石墓
それらの遺跡のことは、奥野正男氏の「今宿、高祖付近の朝鮮文化遺跡について」にかなりくわしく書かれている。奥野氏のこれは、青銅器ならびに鉄器、すなわち稲作とともに産鉄技術を持って渡来した天日槍集団がのこしたものとみられる製鉄跡を中心にしたものであるが、そのことはいずれまたのちということにして、ここでは周船寺と高来寺の中間となっている飯氏近くの千里集落について書かれたことをひとつ紹介することで、さきを急ぐことにしたい。
〈飯氏の〉この地域が弥生時代から古墳時代にいたるまで先進工業地であり、かつ怡土《いと》と早良《さわら》の境界にある要所として栄えたことは平原弥生遺跡や条理制のなごり、山麓にひろがる群集墳や前方後円墳 (飯氏一号、二号古墳) によってうかがうことができる。飯氏から丘陵の間を経て視界のひらけたところに千里集落がある。
ここも朝鮮にゆかりの深い土地であって、集落の西方立石にある三所神社裏には「千里石」「千里の根深石」とよばれている六尺×五尺ほどの大石がある。この石については、興味深い口伝がある。
それは、この石がむかし高麗国から千里飛んできたというもので、集落の名前もその口伝に由来している。三所神社の祭神も御食入沼命である。
千里の南東にある高来寺集落もおそらく古くは「高麗寺」だったと推定できるが、資料はなにもない。ただ、高来寺から西にすこしいった宇田川原にやはり六尺×九尺ほどの大石があり、千里のと同じ口伝が残っている。これは夫婦石という。
これらの石はおそらく支石墓であろう。
「支石墓」ということで思いだしたが、さきにみた三雲加賀石の支石墓からは、十五センチをこえる長さの鋭利な「朝鮮製磨製石鏃」が出土して、それが九州歴史資料館に展示されている。
陶質土器と鉄器のこと
糸島の朝鮮ゆかりの神社
伊都国の中心部のあった前原町から、こんどは志摩町、二丈町をひとまわりしてみることにした。だいたい、前原町・志摩町・二丈町となっているところは、さきにもふれたように、もとは怡土郡、志摩郡だったものが一八九六年の明治二十九年に合併して糸島郡となったものだった。
そして、三方が玄界灘に面した糸島半島の東部は福岡市西区となっており、中部および西南部は前原町、志摩町、二丈町となっている。まず、志摩町に住む松尾紘一郎氏が送ってくれた志摩町の地図をみると、加夜郷、鶏永《けえ》郷 (いまは芥屋《けや》)、可也山などとともに、もとは新羅神社だったはずの白木神社が目につき、それが西浦、野北、草場と三社もある。
背振山地の韓国《からくに》山だった王丸山にあるそれを加えると、白木神社はこれで四社となるが、実をいうと私は十年ほどまえ、さきにみた「今宿、高祖付近の朝鮮文化遺跡」のほうは奥野正男氏に、それから志摩町の白木神社などは那須博氏に案内されて行ってみていた。それで私は、一九七六年に朝日新聞社から出た『邪馬台国のすべて』に収録された「古代朝鮮と伊都国」という一文 (もとは朝日ゼミナールでおこなった講演) のため、当時は福岡市香椎 (いまは福岡県遠賀郡遠賀町) に住んでいた奥野正男氏に、私が行ってみている白木神社や志登神社のほか、糸島地方で古代朝鮮にゆかりということがはっきりしている神社としてはどういうものがあるかと問合わせたところ、奥野さんは次のような返事をくれたものだった。
簡単な地図を同封しましたが、……糸島地方の神社は白木神社だけでなく、私がこの前とりあげた高祖神社のほかにも、朝鮮にゆかりの神社は次のようにあります。
須賀神社 野北 (志摩町)
吉田神社 吉田 (〃 〃)
八雲神社 今宿 (福岡市西区)
大歳神社 唐泊 (〃 〃)
二宮神社 今宿宇谷 (〃 〃)
潤 神社 潤 (前原町)
伊都神社 周船寺 (〃 〃)
宇治神社 末永 (〃 〃)
八坂神社 一貴山 (二丈町)
そのほか、白山神社が二丈町を中心に一つの祭祀圏をつくっていますが、前記、唐泊の大歳神社は、ご承知のように遣新羅使の船が泊まった韓亭《からどまり》の氏神で、『三代実録』に「元慶四年三月二十二日授筑前国正六位上大歳神従五位下」とあります。
白木といえば、最近、私は筑後の山門郡瀬高町の近く (女山《ぞやま》神籠石の所在地) で、たいへん興味ある「白木の里」のあることを知りました。女山の北西を流れている矢部川の支流に白木川という川があり、山崎の盆地を形づくっているのですが、その盆地内に前方後円墳、大円墳、群集墳が密集しているのです。
この山崎の村は、明治、大正まで白木村という名をもっており (いまは立花村)、古代の新羅系渡来人にかかわるものと思います。この村の古墳の密集する盆地内にある神社が、これまた前記の大歳神社なのです。近いうちに、調べに入ることにしています。
加耶直行の陶質土器
その「白木村」は筑後を歩くとき寄ってみられたらみるとして、池尚浩さんの運転する私たちのクルマは、加耶の可也山を右手に見ながら、いまは「芥屋《けやの》大門《おおと》」という観光地ともなっている、これも加耶ということの芥屋へ向かった。途中の可也山近くには、松尾さんもそこの生徒だったという可也小学校や、弥生〜古墳時代の大集落があったことで知られる可也原《かやばる》というところもあって、その可也原では加耶から直行の陶質土器などが出土している。
もっともそういう土器は、前原町からも出土していて、一九七七年十一月二十五日の西日本新聞は、「朝鮮製の陶質土器出土/前原の『伊都国』/大陸との幅広い交流物語る」という見出しで、そのことをこう報じていた。
福岡県教委が糸島郡前原町三雲で進めている古代伊都国の発掘現場から、古代中国の陶器・灰陶《かいとう》の流れをくむ陶質土器の破片八点が出土、二十四日、現地を訪れた西谷正・九州大学助教授も「朝鮮で作られた陶質土器。弥生後期 (二―三世紀) の集落跡から出土したのは九州本土では初めて」と鑑定した。
陶質土器は灰陶の流れをくむ焼きもの。朝鮮では一世紀から五世紀にかけ、製作されたといわれている。弥生後期の遺物と一緒に出土したのは、九州では対馬に次いで二例目。……
出土した土器の破片は厚さ三―六ミリ、もっとも大きな破片は横十センチ、縦七センチ。土器片の色は灰黒色。表面に土器を製作するさいナワを巻いた板ぎれで外側からたたき固めた縄蓆文《じようせきもん》がびっしり入っている。
「九州では対馬に次いで二例目」とあるけれども、その数年後になると、いまみた志摩町可也原からも出土しているばかりか、ほかからもたくさん出土している。なかでもいろいろな意味で有名なのは、さきの「加耶から北部九州へ」の項でもちょっとふれた、一九八一年に発掘調査をおえた甘木市の古寺《こでら》遺跡ともいう古寺墳墓群や池の上墳墓群から出土した陶質土器である。
畿内に先行する須恵器発祥の地
この陶質土器は一九八四年八月、北九州市立考古博物館でおこなわれた「須恵器のはじまり」展にも展示されて注目され、「陶器のルーツは九州/『須恵器のはじまり』展で追求/陶質の土器が大量に出土/五世紀前半のものと推定」という新聞記事 (八四年八月二十二日付け朝日) となったりしているが、そのような陶質土器出土の意義については、奥野正男氏の『騎馬民族の来た道』にくわしく書かれている。
この『騎馬民族の来た道』は、江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」、つまり、その「騎馬民族」が古代南部朝鮮の加耶から最初に上陸した地という北部九州における近年の考古学的知見にもとづいて、江上氏の説を補強するとともに、さらにそれを詳説した大著であるが、さきにそのイントロダクションをみるとこうなっている。
江上氏の予測は、現在の時点でふりかえると、大局的に正しかったといえる。近年、朝鮮半島南部の洛東江流域伽耶〈加耶に同じ〉地方では、大邱・池山洞古墳群、釜山・福泉洞古墳群などで、日本出土の馬具類に先行する遺物が次々に発掘される一方、日本では福岡県甘木市の池の上・古寺《こでら》墳墓群などから、伽耶地方の系統に属する陶質土器とともに、日本最古とみられる馬具類が出土した。また、こうした新しい発掘成果が公表されるなかで、これまで詳しい報告がないままの福岡・老司古墳などに古式馬具の存在することが指摘され、その原初的な横穴式石室の形態が朝鮮半島の墓制とのかかわりであらためて注目されるにいたっている。
そして本文では、古寺遺跡=古寺墳墓群についても、「池の上墳墓群のある丘陵の北に接して、東西に走る丘陵の尾根の最高所に、土壙墓一一基を一群とした古寺墳墓群がある。/この墳墓群は、一九八一年に発掘調査されたが、そのうち6号、9号、10号土壙から陶質土器が出土した。このほか各墳墓から多量の鉄器が出土している」と書かれているが、「第一章 古式馬具出現の歴史的意義」では池の上墳墓群に焦点がおかれ、そこから出土した陶質土器についてこうのべている。
この墳墓群の特色は、日本での須恵器生産が開始される少しまえに、朝鮮半島南部の伽耶地方 (洛東江流域) とつながりの深い小集団がこの台地に墓地をつくりはじめ、以後、何世代かにわたり同じ集団が継続的にここに墳墓を営んだとみられることである。この墳墓群から出土した遺物は、後述するように、多量の伽耶系陶質土器とともに古式の馬具、鍛冶工具、金製品などがあり、いずれもわが国の古墳出土品中、もっとも古い段階に位置づけうるものである。
こうした事実から、当然問題となるのは、この墳墓群と時期的に併行し、あるいは前後して営まれているこの地方の前方後円墳との関係である。また、九州全域、日本全域、さらに朝鮮半島にわたる陶質土器や馬具との関係である。……
池の上墳墓群に供献された陶質土器と古式須恵器は、調査者の橋口達也氏が、口縁部の形態から〜式に編年している。
この編年によれば、〜形式の陶質土器は日本の窯趾からは見られぬもので、後述するように〈加耶の〉洛東江流域に類例があるので、搬入品と推定されている。式のものは、九州北部にいくつかの類品があり、搬入されたものもあるが、同時に渡来集団がこの地に来てから製作した可能性を残している。式のものは、古式須恵器である。
ここで陶質土器といわれているものは、朝鮮半島南部で、中国式灰陶 (漢式土器) の影響のもとに成立したロクロ使用の〈加耶〉金海式灰陶が、胎土の精選・叩き技法や登り窯の採用などによって、さらに堅く焼きしまった硬質の灰陶に発展したものをさしている。朝鮮半島東南部では、この金海式灰陶が母体となって伽耶系・新羅系の土器に発展した。一方、日本でもこの陶質土器を母体として須恵器といわれる硬質灰陶が成立したと考えられている。
陶質土器と須恵器は、硬質の灰陶という意味では同質である。ただ、その製作地が朝鮮か日本かという区別が必要となるので、現段階では、日本で生産されたことが明らかな硬質土器を須恵器とよび、日本で生産されたことが窯趾や器形から明らかにできないものを陶質土器とよんでいる。
これでみると、まず、加耶からの渡来人集団が携行した加耶の陶質土器が母体となって、須恵器がつくられたことがわかる。そうなると、須恵器といえば古墳時代の五世紀後半ごろ、大阪南部の陶邑《すえむら》古窯跡群で焼かれたもの、ということになっていたが、これも北部九州のほうが先行していたことになる。このことについては、西谷正氏も「討論・初期須恵器研究の諸問題」でこう述べている。
あの地域〈甘木・朝倉地方〉に非常に古い須恵器、あるいは陶質土器が大量に分布しており、〈和歌山の〉紀ノ川に対応するような地域である筑後川流域地方での古い初期須恵器、あるいは陶質土器の実態、あるいは池の上式についてもかなり器種・量ともに前より増えているわけですね。そういうことから、私自身は絶対年代が四世紀末か五世紀初めになるかわかりませんが、かなり早い段階から須恵器の生産が始まっているのではないかという考えを持っています。
その時代の朝鮮半島を考えた場合、四世紀末から五世紀初めというと、新羅が加耶を何とかしようという下心がある時期ですが、高句麗が新羅を随分と援助します。新羅を中心とした高句麗との同盟関係、そういう勢力をバックとした加耶へのインパクトですね。当時の朝鮮史の環境から考えますと、その時期に新羅の周辺への圧力、加耶文化の日本への渡来といったことがあるのではないでしょうか。案外、畿内〈大阪など〉より早く九州の筑後川流域で四世紀末から五世紀初めに、当時の朝鮮内部の政治状況を反映した渡来人が大量にやってきて、陶質土器を手に携えてもってくると同時に、そこで須恵器生産も開始している可能性がある、こう考えております。
「可能性がある」とは学者らしい慎重なことばであるが、稲作農耕と同じように、北部九州が先行していたのは陶質土器=須恵器ばかりではなかった。細形銅剣=中・広形銅剣の青銅器や、これからみるように、鉄器の使用もまたそうだった。
曲り田遺跡出土の縄文時代の鉄器
辛基秀、池尚浩さんとしてははじめてだった芥屋大門で昼食をすました私たちは、それも天日槍集団の赤留比売《あかるひめ》と関係があるのではないかと思われる、志摩町西端海中の「姫島」などをながめわたしながら志摩町・前原町の西南、背振山地寄りの二丈町にはいった。二丈町には国指定史跡の銚子塚古墳や、いずれも重要文化財となっている三体の仏像をもつ浮岳《うきだけ》神社などがあったが、しかし私たちは芥屋で急に、きょうは筑前の宗像よりさきに筑後のほうへ、ということになったので、二丈町では一ヵ所だけ、「曲り田遺跡」というのをたずねることにした。
だが、国鉄筑肥線福吉《ふくよし》駅近くらしい曲り田というのは、なかなか見つからなかった。そのうち、これもさきの項 (「九州における天日槍」) のはじめにみた今宿五郎江遺跡と同じように、そこまで行ってみたところでただ発掘地があるだけで、みるものはなにもないのではないかということになり、こちらも割愛することにした。
なぜ曲り田遺跡だったかというと、これも今宿五郎江遺跡のばあいと同じく、私の携行していた資料袋に、一九八一年三月十八日付け西日本新聞の切抜きがあったからである。それは、「鉄器使用縄文から?/二丈町『曲り田遺跡』/定説覆す小片が出土/渡来人が持ち込んだ」という見出しの、こういう記事であった。
米、鉄、紡錘《ぼうすい》車という弥生時代を代表する遺物がワンセットで縄文時代の住居跡とともに出土した福岡県糸島郡二丈町石崎の曲り田遺跡は、わが国の考古学界に大きな一石を投じ、十七日には森貞次郎・九産大教授 (考古学) と藤井功・同県文化課長が現地を確認したのをはじめ、二十一、二日の両日には小林行雄・元京大教授と坪井清足・奈良国立文化財研究所長ら考古学者が視察する予定。
これまでの調査によると鉄は小破片で、ほぼ縄文時代末期のものとみられ、水稲耕作だけでなく、鉄器の使用もこれまでの紀元前二世紀という定説を覆し、紀元前三世紀初めにさかのぼる公算が大きくなった。これは、縄文から弥生への転換をリードした鉄と稲の先進文化を持つ南朝鮮からの渡来人が北九州に定着していたことを物語るものとして、今後、考古学界の大きな研究課題となろう。
鉄の小破片は、縄文晩期の夜臼式土器が出土した住居跡から発見された。大きさは幅約二センチ、長さ約三センチ。赤茶けていて道具の一部がさびたのか、もともと鉄塊だったのか、肉眼では判断できない。しかし、同じ地層からは同時に、鉄をとぐ小型のト石が発見されており、発掘に当たった同県関係者は「縄文時代末期に鉄器が使われた可能性は高い」とみている。
従来、鉄器の使用開始期は弥生時代の前期末 (紀元前二世紀) というのが定説。その出土例としては、熊本県玉名郡天水町の斎藤山古墳の鉄オノがある。だが、例外的に長崎県南高来郡有明町大三東の小県下遺跡からは四十年に縄文時代の単純層から鉄製矢じりが出土したケースがある。
今回出土した小破片が、小県下遺跡の矢じりよりも時代判定が容易なのは、土器だけでなく小型の支石墓を伴っていることだ。支石墓は縄文後期、中国北部から朝鮮半島を経由して日本に伝来した墓制。古代鉄を研究している在野の考古学者、奥野正男・筑紫古代文化研究会主宰は「支石墓は鉄と稲の伝来を示唆していた。今回、支石墓と鉄がともに出土したことにより、少なくとも縄文晩期に鉄の伝来があったと言える」と話している。
鉄器使用についての従来の定説を覆す重要な出土ということで、記事はまだつづいているだけでなく、別項として「新たな学説の手掛かりに」という「解説」までついている。長くなるが、ついでにその解説もみておくことにしたい。
曲り田遺跡における縄文晩期の住居跡や鉄破片、石包丁や朝鮮製石鏃《せきぞく》、モミ圧痕跡《あつこんせき》のついた夜臼式土器、支石墓などの一括出土は、九州北部地方でも縄文晩期に早くも水稲耕作技術や鉄の文化を持った先進的渡来人がいたことを示すとともに、弥生文化の始まりが実は縄文晩期にまで繰り上げられるという新たな学説を生みそうだ。
五十三年夏の福岡市板付遺跡における縄文水田発見や今月初めの唐津市・菜畑遺跡でのさらに古い縄文晩期中ごろの水稲耕作資料の発見は、水稲耕作の起源を紀元前三世紀初めまでさかのぼらせているが、今回発掘された住居跡は「長方形という形態から考えて弥生前期に連続するもの」(西谷正・九大助教授) であり、一括出土を合わせて弥生前期の集落とほとんど変わらないとみられている。
同助教授は「水稲耕作は朝鮮半島からの渡来人によってもたらされ、菜畑遺跡や曲り田遺跡はこの渡来人の集落。これが九州北部沿岸に点々と生まれ、次第に水稲耕作を広めた。従って、曲り田遺跡などの存在した紀元前三世紀初めごろは、渡来人の弥生文化と土着人の縄文文化とが併存した縄文・弥生併存時代」とみる。
もっとも、こうした見解は「弥生文化=水稲耕作とそれに伴う文化」ととらえての時代区分であり、土器によって時代区分をする人たちからは、弥生時代を縄文晩期まで繰り上げることには異論が出るかもしれない。だが、板付遺跡の縄文水田発見いらい、定説が崩れてナゾの部分が多かった縄文と弥生の間を埋める作業が、前進したことは確かだ。
筑後の高良山城跡へ
朝鮮式山城の大野城
私たちは筑後のほうをさきにまわることにし、まず久留米市の高良《こうら》山城跡・高良神社をめざすことにしたので、池尚浩さんは春日市あたりからクルマを九州自動車道にのせた。九州でははじまりが筑前からとなったので、同じ筑前の宗像《むなかた》から、これも一部は筑前だった豊前《ぶぜん》の北九州市へと思っていたのだったが、地図をみると宗像市は北九州市とともに筑前の北東部となっていたから、そこはあとにしたほうがやはりいろいろな意味でよかった。
高速の九州自動車道にのった池尚浩さんのクルマは、時速百キロ前後のスピードで沿線の風景を後方へ追いやっていた。たちまちのうちに大野城市や太宰府市、筑紫野市をすぎて、小郡《おごおり》市に近づきつつあるようだった。
大野城市や太宰府市はさきにみた朝倉の甘木市とともに前年の夏、西谷正氏らといっしょにたずねていたが、そのときはさきを急いだため素通りに近いようなものだったので、できれば、私はそこへもあらためてもう一度行ってみたいと思っていたものだった。ことに太宰府市では、古代朝鮮式山城だった大野城跡が発掘調査中で、谷間にむきだしとなった千数百年前の石塁が印象的だった。
大野城は肥前(佐賀県)の基肄《きい》城ほかとともに、百済がほろびたことで渡来した憶礼福留、四比福夫らによって築かれたもので、「大宰府政庁のすぐ背後に位置し標高四一〇メートルの鼓ケ峰を最高所として、北側に大きな谷を取りこんだいわゆる包谷式山城で、土塁線の総延長約六キロに達し、わが国における朝鮮式山城のなかでも最も規模の大きな山城である」(小田富士雄編『北九州瀬戸内の古代山城』)その大野城跡のことは、和歌森太郎監修『日本史跡事典』にもこう書かれている。
白村江敗戦後二年めの天智天皇の四年(六六五)、基肄城などとともに大野城は築かれた。百済からの渡来者によって築かれたもので、西海防備と大宰府守護が目的であった。大野山に、北の大城、西の大野、西北の鼓ケ峰、南の岩屋四山があり、別称四王寺山ともいう。大野山の尾根に八キロメートルにわたる土塁が築かれ、主な谷間には石塁がつくられた。遺《のこ》っている石塁の代表的なものは、四王寺川沿いの宇美町側にある百間石垣である。城門も水城口・坂本口・宰府口などといわれる礎石を遺している。四百メートルの山上に立てば、博多湾・玄界灘に向かった大宰府防衛ラインの要《かなめ》である実感がわく。水城《みずき》防塁と接し、それは基肄城に連なるのである。
鍋倉遺跡の朝鮮製無文土器
私たちのクルマは、筑前から筑後となった小郡市をすぎたとみると、九州自動車道のインターチェンジをおりて久留米市内にはいった。私はいまとおりすぎた小郡市もまた、できたら寄ってみたいと思っていたところだった。小郡では前年の八月、津古生掛《つこしようがけ》遺跡で「三世紀末」という前方後円墳が発見されているが、それよりさきの一九八四年九月四日付け西日本新聞をみると、「朝鮮製土器が出土/小郡鍋倉遺跡/稲作と共に内陸部へ/近くに大規模カメ棺群も」とした見出しの、こういう記事がのっている。
小郡市横隈地区の鍋倉遺跡で、このほど朝鮮系無文土器と呼ばれる朝鮮半島製の土器五個が破片状で出土した。同時に、約二百メートル離れた狐塚遺跡では、県内でも一、二位を争うほどの大規模なカメ棺群が見つかった。
同市教委によると、土器は弥生初期に、朝鮮半島に住む人たちが、稲作とともに持ち込んだ、とみられる。〈朝鮮〉半島製土器の出土は九州で十例ぐらいあるが、北部九州の沿岸部だけでなく、約五十キロも内陸部に入って生活の根拠地を築いていたわけで、大陸文化の伝わったルートと人類学上の分類の両面で今後の解明が期待される。
また、カメ棺群は弥生中、後期。形態から小集落の共同墓地で、百年間以上にわたる数世代の人骨が良好な状態で残っていた。棺は推定百二十基以上、人骨も八十体近くなりそう。カメ棺は日本では福岡県西部と佐賀県東部にしか出土しないが、金隈遺跡(福岡市)、道場山遺跡(筑紫野市)の大カメ棺群を上回る、とみられる。人類学上の視点からも、高い身長で、顔の長い「山口・北部九州タイプ」に属し、縄文時代からの「西九州タイプ」との比較に関心が高まっている。人骨は現在、長崎大学医学部の解剖学教室で調査中。
一方、両遺跡の北隣の丘陵地でも、古墳時代前期では筑後地区最大級の前方後円墳が発見されており、調査の結果が注目される。
ここにみられる朝鮮製無文土器は、福岡市の諸岡遺跡出土のそれと同じもので、ついでにそれもちょっとみておくと、一九七四年十月二十日の読売新聞(大阪)にそのことが、「大量、完全な無文土器/福岡・諸岡遺跡/稲作文化 朝鮮との交流証明」という見出しのもとに、朝鮮製無文土器とはどういうものだったか、ということともあわせてこう報じられていた。
朝鮮半島の農耕文化期の土器である無文土器が、福岡市博多区諸岡遺跡から出土した。日本と朝鮮半島との交流を証明する発見だが、これまで同種の土器は長崎県・壱岐の原ノ辻遺跡から破片が出土しているだけで、ほぼ完全な形の土器が多数出土したのは初めて。……
諸岡遺跡は、日本最古の農耕遺跡として知られる板付遺跡から南西約八百メートルのところにある弥生、古墳時代の複合遺跡で、南北百十メートル、東西百五十メートル、標高二十三メートルの丘陵地。
朝鮮無文土器文化(紀元前七世紀〜前一世紀)は、狩猟採集時代の櫛《くし》目文土器文化(わが縄文時代に相当)のあとをうけて農耕文化として始まったもので、わが国の弥生文化より約四百年前に稲作が朝鮮半島に定着したことをあらわす文化。
高良山と邪馬台国
さて、久留米市内にはいった私たちは、さきに久留米市教育委員会をたずねてから、ということにしていたが、もう日暮れで時間があまりなかったので、そのまま高良山城跡・高良神社へ向かってクルマを走らせた。そこは私ばかりでなく、池尚浩さんもまえに行ったことがあるとかで、高良神社への参道ともなっている高良山への登り口はすぐにわかった。
よく舗装されたその参道を登って行くと、左手の山裾には早くも列石のつらなっているのが見えはじめる。いわゆる「高良山神籠石」の山城列石であったが、それはあとのことにして、高良山の頂上部にある高良神社は筑後国一の宮であるだけでなく、「九州総社」ともいわれる大社である。
まず、社務所でもらった『高良大社略記』にある「一、高良山」をみるとこう書かれている。
高良大社の鎮まります神山として知られる高良山は、別名を高牟礼《たかむれ》山・不濡《ぬれせぬ》山とも呼ぶ水縄《みのう》山脈西端の一峰である。標高三一二メートル余、さほど高くはないが、筑前、筑後、肥前三国にまたがる広大な筑紫平野の中央に屹立し、眺望絶佳。古代より宗教、政治、文化の中心、軍事、交通の要衝として、その歴史上に果たした役割は極めて大なるものがあった。
なるほど、神社のある頂上部に立ってみると、眼下に広大な筑紫平野がひろがり、そこをこれまた広大な筑後川が夕陽を浴びて流れているさまは、まさに「眺望絶佳」であった。私はその景観をながめわたしながら、谷川健一氏が高良山のそこを邪馬台国の所在地と考えたのもむりはないなあ、と思ったものだった。
谷川氏は「日の神の系譜」のなかで、そのことをこう書いている。
北九州は中国・朝鮮にもっとも近く、その政治や文化の影響を受けやすい位置にある。倭の国々のなかでもっとも強大な邪馬台国の所在地を求めるとすれば、北九州以外にない。北九州のなかでも、もっとも広大な平野は筑後川の下流地域にひろがる筑紫平野である。久留米市の高良《こうら》山(三一二メートル)にある高良大社の境内から見下すと、壮大な景観が展開する。邪馬台国はおそらくここにあって、倭の国々の上に君臨していたであろう。
いわゆる「邪馬台国論」での九州説にみられる邪馬台国の所在地は、女山《ぞやま》神籠石(山城)のある久留米南西の山門《やまと》郡瀬高町の女山はじめ、宇佐神宮のある豊前(この部分は大分県)の宇佐など、ほかにも何個所かあげられている。私としてはどちらともはっきりとはいえないが、もし谷川氏のいうとおりだとすれば、高良山神籠石(山城)のなかの高良神社のそこが、私のいう「宗教王国」だった邪馬台国の宮殿のあったところということになるはずである。それが高良神社となったのは、のちにそうなったと考えられなくもない。
なお、これは注記のようなものであるが、私はさきの「『伊都国王墓』をたずねて」の項で、「だいたい、女王卑弥呼というのは、『鬼道を能《よ》くした』シャーマン(巫女)にほかならなかった」として、「邪馬台国とはその卑弥呼を女王とする『宗教王国』のようなもので」と書いた。そうして、いまこの稿をここまで書いたところへ届けられた、一九八七年一月二十五日号の『週刊朝日百科・日本の歴史』44「邪馬台国と大王の時代」を開いてみると、なかに着飾った「韓国の巫女」のカラー写真があって、それの説明がこうなっている。
いまも伝わる韓国の巫女《ふじよ》(ムーダン)の踊り。巫女によって神を招くシャーマニズムは日本にも残っているが、卑弥呼の行った鬼道と関係があるのかもしれない。
神籠石か山城か
私もそうではなかったかと思うが、ところで、私はこれまで「高良山神籠石(山城)」と書いてきたが、約千六百メートルにわたって列石がならぶこの高良山は、九州に多い古代朝鮮式山城のひとつであった。さきにみた大野城や基肄城などは、百済がほろびたことによる七世紀後半以後のものであるが、こちらの高良山や女山などは、それ以前に渡来したものたちによって築かれたものと私はみている。
これがいうところの「神籠石」であるか、山城であるかということについては、長いあいだ議論されてきたものであるが、西谷正氏の「九州地方の古代遺跡」をみると、そのことがこう書かれている。
神籠石は、一八九三年(明治二六年)に、福岡県久留米市の高良山の例がはじめて紹介された際、すでに地元で高良神社の山中に「神籠石」と呼ばれているものがあり、また、霊地として神聖に保たれた地を区別するものとされて以来、霊域説もしくは神域説とのかかわりで、そのように呼ばれてきた。その後、山城説が出て、両者の間で激しい論争が展開した。
ところが、一九六三年(昭和三八年)に実施された、佐賀県武雄市橘町のおつぼ山における発掘調査によって、列石の上部に土塁が築かれ、さらに、門跡をもつことなどが判明し、山城であることが明らかになった。したがって、神籠石という名称は適当でなく、たとえば「神籠石式山城」ともいうべき、名称の変更が必要であるが、まだまだ神籠石の名称が通用している。
ところで、いわゆる神籠石は、標高が最高所で四〇〇メートル(福岡県雷山)から、最低所で六六メートル(佐賀県おつぼ山)にわたる丘陵地に立地し、いくつかの尾根を越え、谷を渡って、しばしば一メートル前後の方形もしくは長方形の切石の石材をおよそ一段に列《つ》らねたものである。もともと列石を基礎とし、その前面に立てられた柱などを用いて、版築などによって土塁を築いたもので、谷間の部分には排水用の水門と、要所要所に城門を設けている。
列石の延長は、長いものでは、福岡県山門郡瀬高町の女山のように三キロに及ぶものがあるのに対して、短いものでは、佐賀県おつぼ山のように一・八キロを測るが、平均すると二・四キロほどである。列石に囲まれた山城の内部は、未調査によるとはいえ、本格的な朝鮮式山城にみるような倉庫群といった施設は完備していないようにみうけられる。神籠石の分布をみると、山口県熊毛郡大和町の石城山《いわきさん》や愛媛県東予市の永納山を除くと、北部九州に八個所も集中している点に特色がみられる。
これでだいたいはよくわかるが、ついでにまたみると、それが「神籠石」といわれてきたことに対しては斎藤忠氏も、「ところが、韓〈朝鮮〉半島における百済や新羅の山城を実際にみるようになってから、山城説が確認されるようになった。つまり、山の八合目あたりに並べられた石は土塁の根止め石であることが確認された」(「山城と古代の日韓関係」)と書いている。
久留米と高句麗
それからまた、高良玉垂命というのを主祭神としている高良神社がある高良山のばあいは、その「高良《こうら》」という神名・地名からして、古代朝鮮と深くかかわるものであった。全国あちこちにある「高良」や「高来」というのはふつう高句麗=高麗がそれとなったものとされているが、高良山の高良は、それがある所の久留米ともまたかかわる。
朝日新聞(大阪)には「地名を探る」という連載があって、一九八六年九月十九日の「久留米」の項をみると、「地名に渡来人かかわる」としてそのことがこうある。
〈久留米〉市ではいま全六巻の市史を刊行中で、四冊目に当たる第五巻「民俗」編に収められている「地名の起源」によると、近世の写本だが、建武三年(一三三六)の『瀬高下庄官等連署田他去渡状』に「くるめかた」として登場し、正平八年(一三五三)の『惣政所書下写』にも「くるめ方」が出る。さらに応永二十五年(一四一八)の『報恩寺領坪付注文』に「久留目屋敷」がある。史家によると「久留米」が初めて文献史料に登場するのは、戦国末期の天文二十年(一五五一)の高良山神領検地帳で、近世になってこの文字が定着する。それにしてもなぜ久留米か。「地名の起源」の筆者は、諸説をあげているが、多いのは縫職に携わる渡来人との関連説だ、という。たとえば呉媛《くれひめ》―呉女《くれめ》―クルメ、繰女《くりめ》―クルメなど。また久留倍木《くるべき》―車木《くるめき》―クルメは、糸車の発想で、紡績につながる、などである。
呉媛《くれひめ》、呉女《くれめ》というのは、朝鮮語高句麗《コクレ》の句麗(高は美称)からきた呉織《くれはとり》ということと同じで、それがこちらでは呉媛、呉女となって久留米となり、「久留米絣」というのもそういう伝統からきたものかもしれない。
なお、和歌森太郎監修『日本史跡事典』をみると、「高良山神籠石を考えるとき、山麓にある二十三メートル四方くらいの二段構築方墳の祇園山古墳や、筑後装飾古墳をともに配慮せねばならない」とあるが、珍敷《めずらし》塚《づか》などといったそれら「筑後装飾古墳」も高句麗からの渡来にほかならなかったからである。
珍敷塚装飾古墳など
珍敷塚古墳と船の絵
高句麗の壁画古墳が源流という「筑後装飾古墳」のひとつである珍敷塚は、久留米から東へ二十キロほど行った浮羽郡吉井町にあった。水縄《みのう》山麓となっているそこにはまた日ノ岡、月ノ岡装飾古墳もあって、私は十年ほどまえについで、前年も西谷正、平野邦雄、山尾幸久氏らと韓国の加耶から北部九州をひとまわりしたとき行ってみているが、同行の辛基秀・池尚浩さんのために、こんどもまた行ってもいいと思っていた。
しかし、高良山城跡・高良神社で日暮れとなってしまったので、そこは割愛するよりほかなかった。で、この日の私たちはそこへ泊まることにしていた、久留米市南方の筑後市へ向かってクルマを走らせることになったが、いまいった珍敷塚のことは、前記『福岡県の歴史散歩』にこう書かれている。
水縄山麓の装飾古墳中というより、全国的にすぐれた壁画をもつ珍敷塚古墳(国史跡)は、筑後吉井駅の西南一・五キロの地にある。交通の便がわるいので駅からタクシーを利用するとよい。昭和二五年、開墾作業中に発見されたが周囲の損壊がはげしく、横穴式円墳とおもわれるものの側壁の一部と奥壁だけが残り、古墳時代後期のものと考えられている。
最下部の大船には三個の大靫《ゆき》をのせ、そのうえに一個の蕨手《わらびで》文があり、画面左手にゴンドラ型の船、こいでいる人物、道案内とおもわれる舳先《へさき》上の鳥、太陽とおもわれる同心円がえがかれ、右手は大船の上部にヒキガエル、盾をもつ人物、月とおもわれる同心円がえがかれている。色彩は海原をおもわせる全面の地ぬりの部分と、すべての文様にもちいた朱色が残り、白色か黄色かと想像される部分は剥落して花崗岩《かこうがん》の地石面となっているが、ともあれ、わが国一級の装飾古墳だ。
ここから南、約一〇〇メートルには原古墳があり、図柄もほぼおなじで船・靫・鞆・こぐ人・馬・同心円がえがかれている。朱色だけが残り、絵も不鮮明のところが多い。これも古墳時代後期の横穴式石室をもった古墳だ。
さらに南へ一〇〇メートルをへだてて鳥船古墳(国史跡)がある。開墾により奥壁だけ残っているが、壁面には朱一色で帆かけ舟・人物・同心円・盾・舳先前後に一羽ずつの鳥が道案内をするかのようにえがかれている。さらにまた南一〇〇メートルに古畑古墳(国史跡)がある。横穴式石室をもち、石室面に朱一色の円文、四個の同心円、手をあげた人物がえがかれ、外形はほとんど完全で周囲を円筒埴輪がとりかこんでいる。これら一連の装飾古墳はいずれも珍敷塚とおなじく、昭和二五年の開墾で発見されたものである。
筑前の鞍手郡若宮町にある竹原古墳にしてもそうだが、珍敷塚をはじめとするこれらの装飾古墳には、どれにも「船」がえがかれているのが私にはたいへんおもしろい。そのうえまた、「鳥」がその船の「道案内をするかのようにえがかれている」というのもおもしろい。なぜかというと、これはとりもなおさず、その古墳の被葬者が海を渡って来たことをあらわすものにほかならなかったからである。
「北九州の装飾古墳のなかには、珍敷塚や竹原古墳で見られるように、高句麗の壁画古墳の題材が導入されています」(西谷正『座談会・加耶から倭国へ』)といわれ、私もそう思っているが、しかし高句麗の壁画古墳には、そういった「船」はえがかれていない。その点では私など、日本のそういう装飾古墳のほうに、むしろ大きなロマンを感じるのである。
吉井町の装飾古墳群
吉井町には、以上みただけでも三つの「国史跡」の装飾古墳があるが、そのうえさらにまた日ノ岡、月ノ岡古墳があって、同『福岡県の歴史散歩』にこうある。
筑後吉井駅から東北へ二キロの地点に壮大な横穴式石室をもつ日ノ岡古墳(国史跡)とその西に月ノ岡古墳がある。日ノ岡古墳は古墳時代中期のもので、天井石落下により発見された。石室の側壁・前室口・奥壁・天井にみごとな同心円・蕨手文・三角文が、側壁に舟・靫・大刀・鳥などがえがかれ、これまた全国的に有名だ。
月ノ岡のほうは日ノ岡よりも古く、前期とみられている。一八〇五(文化二)年後円部から巨大な長持型石棺が出土し、副葬品として甲冑・鏡・玉類・刀剣・馬具などが発見され、一括して重文に指定されている。ほかに完形の家形埴輪も出土し、神社境内から西平式完形縄文土器も発見された。なおこの若宮地域には塚の堂古墳ほか三基の古墳があり、古墳群を形成している。
古代の吉井町はいよいよたいへんなところだったと思わないわけにゆかないが、それからさらにまた、その吉井町から東五キロほどさきは朝倉郡杷木《はき》町となっているところで、ここには前項でみた高良山城と同じ古代朝鮮式山城の「杷木神籠石」があり、そして杷木町志波の円清《えんじよう》寺には、高さ七十センチ、口径四十九センチという高麗時代の朝鮮鐘がある。
山門と女山神籠石
私たちがこの日の夜泊まることにしていた筑後市は、距離のうえでは翌日行ってみたいとしていた八女《やめ》市と瀬高町とのちょうど中間に位置していた。しかし、田や畑のなかに四、五軒の旅館があるだけといった船小屋温泉なるところの宿で相談したところ、二ヵ所のうちどちらかをカットしなくてはならぬことになり、いわゆる「磐井の乱」ということで知られた岩戸山古墳などのある八女ははずすことはできないので、筑後市から南の瀬高町のほうをカットすることにした。
どうしてだったかというと、翌日の私たちは筑後から、さらにまた北方の筑前へとって返さなくてはならなかった。そして北端の宗像市や津屋崎町、玄海町などから、豊前《ぶぜん》となっていた北九州市、田川郡香春町などをへて、大分県の大分市まで行かなくてはならなかったからである。私は翌日のこの夜、大分市である人たちの会合に出なくてはならなかったので、これもはずすことはできなかったのである。
ともかく、それで、私はいよいよ宗像まで行くということで、その宗像市近くの遠賀郡遠賀町に住んでいる奥野正男氏に宿から電話をしてみた。以前からの友人である奥野さんはさいわい在宅中だったので、あす宗像まで行くがいっしょにその辺を歩いてもらえないか、とたのんだところ、よろしい、それなら正午ごろ宗像市役所前で会うことにしよう、ということになった。
翌日は、開庁時の午前九時までにはそこへ着くようにして、まず、八女市の教育委員会へ向かった。そこまでは南へ十キロぐらいでしかなかった瀬高町をカットしたことで、私は何となくうしろ髪を引かれるような思いをしたものだった。
山門郡瀬高町には、これまた古代朝鮮式山城である「女山《ぞやま》神籠石」があるだけでなく、そこはいわゆる邪馬台国論で知られたところでもあった。邪馬台国九州説では、瀬高町を中心とした山門《やまと》郡とする学者が多く、古くは新井白石などもはじめは大和説だったのが、のちには筑後の山門説に転じている。そういうこともあってか、前記『福岡県の歴史散歩』をみると、いまいった「女山神籠石」のことがこう書かれている。
また瀬高駅からバスで自動車学校前でおり、細い農道を一〇分ほど歩くと女山への登り口だ。その登り口の左手に女山神籠石《ぞやまこうごいし》の水門のひとつと案内板がみえる。女山は地元では邪馬台国の女王卑弥呼《ひみこ》関係の遺跡というが、ここの神籠石は標高二〇〇メートルの地に、全長三キロにわたる大きなもので、四つの水門があり、おそらく山城だったのだろう。
その「山城」跡を、地元では卑弥呼関係の遺跡としているというのがおもしろいところであるが、しかし、森浩一氏の「邪馬台国と考古学への私見」によると、そのこと、つまり邪馬台国山門説をむげにしりぞけるべきではないとしている。とくに、「筑後国山門郡の遺跡についてはまとめたものはきわめて少ない。女山の神籠石(一種の山城の遺跡)のほかには明治から大正時代に注目されたものがなく、邪馬台国のころには山門郡の平野部は海底であり、とても邪馬台国の所在地であった筈はないと極言する研究者もいたほどである」と、そのことに対して強い調子で反論を加えている。
私は邪馬台国山門説をただちに打ちだす考えではないが、己れを知り敵を知るという諺があるのに、ヤマト〈大和〉説の人たちが山門郡のことを知らないまま、あるいは知ろうともしないままに山門郡のことを書いているのが学問の進め方として気がかりなのである。
山門郡については、瀬高町鉾田にある墳墓の遺跡も重要である。これは三つの墳墓集団からなっていて、第一集団は箱形石棺と甕棺が数十、第二集団は甕棺が四十八、第三集団は甕棺が九個あって、銅剣が一本出土しているという。
この遺跡の詳しい報告を読んでいないのでよく分らないが、年代は二〜三世紀であろうから、やはり検討するに足る。墳墓集団があることは、通例としてその近辺に集落も発見されるだろう。少なくとも邪馬台国の時代には山門郡の平野部が海底であったなどという妄想はすて去ってほしい。
岩戸山歴史資料館
八女地方の古代
八女市教育委員会では社会教育課の平田高義氏に会い、岩戸山古墳のことなどについての資料を求めたところ、『八女市の文化財』というリーフレットをくれて、もっとくわしいことは、岩戸山古墳の前にある岩戸山歴史資料館へ行ったほうがいい、と言うのだった。
「岩戸山歴史資料館?」と私は訊き返した。十年ほどまえ上田正昭氏らとともに、「東アジアの古代文化を考える会」の「遺跡めぐり」で岩戸山古墳をたずねたときは、そういうものはなかったからである。
「ええ、二年まえにできました」と平田さんは言った。「電話しておきますから、そこへ行ってみてください」
「ああ、それはどうも――」ということになり、私たちはすぐにその歴史資料館へ向かった。平田さんが電話をしてくれたので、館長の田中道夫氏と橋爪六男氏とが私たちを待ってくれていた。
私たちはさっそくここで、『甦る古代の豪族磐井』とした「岩戸山歴史資料館展示図録」などをもらい受け、館内のその展示品をひととおりみてまわった。ついで私たちは、資料館とは目の前となっている岩戸山古墳をたずねたが、ここではさきにまず、『岩戸山歴史資料館』とした案内のリーフレットにより、「一、八女地方の遺跡(地形模型)。二、先土器時代・縄文時代。三、弥生時代の墓制。四、歴史年表」はおいて、五、以下の展示室をみるとこうなっている。
五、弥生時代の八女地方
八女市室岡遺跡群から出土した弥生時代前期の土器・石器・土製品、八女市吉田福島高校敷地遺跡より出土したと伝えられる中期の丹塗土器、八女市岩崎遺跡より出土した炭化米、後期の土器を展示している。
六〜八、古墳時代の八女地方
東西一〇キロメートルにおよぶ八女丘陵には、一五〇〜三〇〇基の古墳があると考えられている。ここでは八女丘陵古墳群から出土した遺物を中心に展示している。
六、八女市域の各古墳出土品・東六号(真浄寺)古墳出土品・川犬一号古墳出土品・丸山塚古墳出土品・釘崎三号古墳出土品・日迫山古墳出土品・善蔵塚古墳出土品を展示している。
七、八女市乗場古墳出土の須恵器器台・人物顔埴輪・円筒埴輪・半焼谷古墳出土の耳環・童男山古墳出土の金銅製圭頭大刀・耳環・鉄器・土器を展示している。
八、八女岩戸山古墳出土品のうち、須恵器器台・高坏・土師器高坏・器台・小形土器・埴輪の人面・足・鶏・鐙・楽器を展示している。
九、立山山《たちやまやま》古墳群
昭和五六年〜五八年に調査された八女市立山山古墳群より出土した遺物を、土器・装身具・武器・武具・埴輪とわけて展示しており、特に朝鮮半島からもたらされた金製垂飾付耳飾りには目を見はらされる。
一〇〜一二、石製品
ここでは、岩戸山古墳から出土した石製品を展示している。一〇ではおもに小形石製品を、一一では『筑後国風土記』(逸文)にある岩戸山古墳の「別区」のイメージを表現している。一二では、おもに岩戸山古墳から出土した中形石製品を展示している。
一〇、横すわりした石人・石人顔・上半身の石人・石人の頭・座った石人・首飾をした石人・石刀・石三輪玉・石犬・正座した石人・石鶏・石刀。
一一、男根を持った石人・石人(裏面は靫)・武装石人・石盾・正座した裸体石人。
一二、石靫・褌をした石人・武装石人・裸体石人・石坩。
一三〜一四、中央展示
一三、岩戸山古墳出土の石馬と武装石人頭部を展示している。石馬は背に鞍などの装具をつけた飾り馬を表現しており、また手綱には赤塗りの痕跡がみられるなど、精巧なものである。武装石人頭部は、半球形の眉庇付冑・横矧枝短甲をまとった完全武装の石人である。
一四、立山山古墳群出土の埴輪を展示している。馬・壺を持つ女子・鞍に乗る貴人・猪・円筒埴輪など、いずれも写実的な埴輪である。
丹塗土器=紅陶
こうしてみてわかることは、八女というところも古墳の多い地域で、そこからの出土品もまた多様なものだということである。それを古代朝鮮との関係でみれば、まず、「五」にみられる弥生時代「中期の丹塗土器」というものである。
これと同じものは、朝倉郡三輪町の栗田経田遺跡からも出土して、その色彩あざやかなカラー写真が『九州歴史資料館・総合案内』にも出ている。韓国では「紅陶」といわれているもので、西谷正氏らといっしょに歩いた加耶だった地の資料館や博物館ではよく目についたものだった。そのことについては、座談会『加耶から倭国へ』で、私と西谷さんが次のようなことばをかわしている。
金 紅陶というのがいくつかありましたけど、あれはどうなんですか。
西谷 あれは、日本では弥生時代のころに対応する青銅器もしくは無文土器の時代の所産です。
金 紀元前四、五世紀と書いてありましたね。
西谷 こちらの青銅器時代に当たります。普通、無文土器というのは、日常の生活に密着したものですが、紅陶は丹塗磨研土器《にぬりまけんどき》とも呼んで、お墓に副葬したり、儀礼に関係する特別の、いわばハレの器《うつわ》といいましょうか。
金 手にしてみると、ずいぶん軽かったですね。あれ、格好だけ見ると、それから千年も後の須恵器よりも進歩しているような感じですね。須恵器の方が退化しているんじゃないかと思えたくらいです。
西谷 ある意味ではそうかもしれません。
立山山古墳出土の金製垂飾付耳飾り
それから古墳時代では、「東六号(真浄寺)古墳出土品」とあるのは「短甲」が主となっているもので、これは「金銅製圭頭大刀・耳環」などとともに、各地の古墳からも出土しているもので、そう珍しいものではない。が、ほとんど完形のこの短甲は、『九州歴史資料館・総合案内』に大きなカラー写真が出ていて、その説明がこうなっている。
円墳の竪穴石室から発掘されたもので、長方形鉄板を鋲綴《びようと》じした五世紀中葉ごろの甲である。この甲は歩戦用であり、騎馬戦用ではない。朝鮮半島南部で短甲のふるい形式のものが近年発見され、日本の短甲も朝鮮南部の影響を受けたものであろう。
「影響を受けたものであろう」というが、要するに、小林行雄氏も「古墳時代の短甲の源流」で述べているように、これも古代朝鮮からそれを着装した人とともに渡来したものにほかならなかったものである。「影響を受けたもの」ということになると、おびただしい数の石人・石馬などの石製品はそうだったにちがいない。
朝鮮でつくられた石人像は日本でもいたるところ、たとえば京都国立博物館の庭先にも何体か立ちならんでいるが、加耶だった韓国の固城には石馬里というところがいまもあって、そこの集落の堂木《ダンモク》(神木)の下に石馬が祭られている。しかしその「影響」とはいっても、岩戸山古墳など出土の石製品のなかには、朝鮮ではみられなくなっていると思われる、新羅のトーテムだった「鶏」のそれまであるのが、私にはたいへんおもしろかった。
それにしても、古墳時代のもので圧巻だったのは、立山山古墳出土の「特に朝鮮半島からもたらされた金製垂飾付耳飾りには目を見はらされる」とあるそれだった。私がこの耳飾りのことを知ったのは、一九八一年五月十六日の西日本新聞に大きく出たカラー写真によってだったが、「古代人にとって金は権力の象徴だった。……そんな古代人の心を裏付けるのに十分すぎる黄金の輝きと精巧な細工の美しさを持つ」として、その細工のことがこう書かれていた。
鎖の先端に揺れる三面体の飾り。約千個の微細な粒で不思議な文様が描かれている。耳につける留め金と、三面体の飾りの中間には小さな球体の飾りもある。
長さ約十センチのこの耳飾りは、さきにあげた『甦る古代の豪族磐井』にもカラー写真となって巻頭を飾っているが、西谷正氏の「四〜六世紀の朝鮮と北九州」には、その耳飾りのことがこうある。
筑紫磐井の故地、福岡県八女市の丘陵地には、磐井の一族の墳墓と思われる古墳群が営造されているが、そのうち岩戸山古墳が磐井の墳墓であることは先学によって説かれてきたところである。岩戸山古墳は北九州最大の前方後円墳で、周濠や周堤まで含めると、全長が一七六メートルという巨大なものであり、規模だけをみても、その壮大な古墳から受ける印象は、なるほど北九州に大きな勢力をはっていた筑紫の君磐井にふさわしいといってよい。岩戸山古墳の内部主体は未調査であるが、そこから東方へ三・五キロほど離れたところにある立山山古墳では、横穴式石室を内部主体とする八号墳から垂飾付金製耳飾りが出土している。加耶との係わりを示しているが、それ以上のことはいえない。
筑紫君磐井の出自
「加耶との係わりを示しているが、それ以上のことはいえない」とはどういうことでかよくわからないけれども、あるいはもしかすると、それ以上のことになれば、事実上では「筑紫国王」であった筑紫君磐井の出自にふれなくてはならなかったからかも知れない。しかしそのことについては、杉山洋氏の『岩戸山物語』(「八女郷土双書」第二巻)にこう書かれている。
筑紫君磐井は、いまから千五百年ほど前、この八女地方を本拠にして北九州を支配していた豪族です。『日本書紀』では彼のことを「筑紫国造磐井」と記し、『風土記』では「筑紫君磐井」と呼んでいます。どちらも、当時の北部九州を代表する豪族を意味しています。
筑紫君一族の発生の地は、福岡県筑紫野市筑紫だったといわれています。そしてここに鎮座する筑紫神社は、筑紫君が祭祀しました。祭神白日別《しらひわけ》が韓神であることは、筑紫君の先祖が朝鮮半島からの渡来人であったこともうかがわせます。
筑紫神社は『延喜式』に名神大社となっている古社であるが、「白日別が韓神である」とはどういうことか、そのことについては新井白石の『古史通或問』(上田正昭訳)にこうある。
太古の代《よ》に「筑紫洲《つくしのしま》」を「白日別《しらひわけ》」といい、また「熊襲国《くまそのくに》」ともいうと伝えられているが、「白」を読んで「シラ」というのは、「斯羅《しら》」というのと同じである。「熊」を読んで「クマ」というのは、「狛」を読んで「コマ」といったりするのにきわめて近い。これらもまた「斯羅」や「狛」などの国の一種であったのであろうか。
ここにいう「斯羅」「狛」とは、古代朝鮮の新羅、高麗《こま》=高句麗のことであるのはいうまでもないであろう。後者の「狛」についてはのちの肥前・肥後(佐賀・長崎・熊本県)でまたみることになるが、つまり「白日別」とは「新羅からの別れ」ということにほかならなかったのである。
白日の「日」は新羅で信仰されていた日神・太陽神をさしたもので、新羅が「白日」となり、その「白日別」が「韓神」となったのも、そういうことからだったにちがいない。要するに、次にみる「磐井の乱」ということで有名な筑紫君磐井一族は、その新羅や加耶と密接な関係にあったのである。
「磐井の乱」を考える
九州最大の岩戸山古墳
そのことは考古学的にも、真浄寺古墳から出土した短甲や、立山山古墳出土の金製垂飾付耳飾りなどばかりではなく、どうしてかまだ未発掘という岩戸山古墳の主体部を発掘調査すれば、もっとはっきりするのではないかと思うが、一方、いわゆる「磐井の乱」がどういうものであったかということをみてもわかるように思う。
そのまえにまず、一角が岩戸山大神宮となっているところの石段を登って、そこにそびえている岩戸山古墳を一巡してみると、なるほどその古墳は、いかにも事実上は「筑紫国王」として、のち筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後となる六国のうえに君臨していた磐井君の墳墓にふさわしいもののように思われた。ここで前記『福岡県の歴史散歩』によってみると、それはこういうふうである。
むかし山峰がかさなりうつくしい山中に女神がいて、その名を八女津媛《やめつひめ》といった。八女の地名はこの女神の名からでたものだ。江戸時代の宿場町のようすを家なみに残す〈八女〉市の中心部の土橋《どばし》から国道三号線を北に二キロ、やや登り道になるところが市の北端で、八女郡広川町につづいている。このあたりは東西に丘陵地がのびて、石人・石馬をもつ古墳が点在するところから、人形原《にんぎようばる》とよばれている。
この人形原の中央部、三号線の西一〇〇メートルの位置に、九州最大の封土をほこる岩戸山古墳(国史跡)が小山のようにそびえている。外堤をふくめて東西の主軸一七六メートル、後円幅一一〇メートル、前方幅一三〇メートル、高さ一五メートルで、外堤の東北部には一辺五〇メートルの方形台地が付属している。現在、市の手で史跡公園化がすすめられている。この古墳は筑紫国造磐井が、その権力によって生前に築かせた墓といわれる。五二七(継体天皇二一)年、朝廷に反乱した磐井は、征討軍によって翌年御井《みい》の地でほろぼされたとされている。八世紀にできた『筑後国風土記』によると、上妻《こうづま》の県《あがた》の南二里に磐井の墓があり、石人・石盾各六〇枚を交互に配し、東北角に衙頭《がとう》という別区があったとしるされている。『筑後国風土記』にある磐井の墓が岩戸山古墳だろうということは、多くの学者のみとめるところで、九州で被葬者がほぼ判明するただひとつの古墳である。
いまみた『福岡県の歴史散歩』は一九七八年に出たもので、それから十年がたったいまでは「史跡公園化」がすっかりおわり、青い芝生などが張られて、外堤のはしには石人・石馬などのレプリカがずらりとならんでいる。そして私たちがたずねたときも、小・中学生らしい一団がそこでなにかの交歓会をしており、また一角では写生会がおこなわれたりしていた。
いわばその史跡公園は、八女市民にとっての記念すべき聖地であると同時に、大事な憩いの場ともなっているようだったが、巨大な岩戸山古墳を中心として東西にのびたそこの八女丘陵は一帯が古墳で、西四キロほどさきには磐井の祖父の墳墓という五世紀中期の石人山古墳があり、東にかけてはいずれも国指定史跡となっている、金銅製圭頭大刀などを出土した乗場古墳、丸山塚古墳、茶臼塚古墳、丸山古墳などがならんでいる。うち乗場と丸山塚とは装飾古墳で、横穴式石室のそれは写真でみても、神秘的な色彩が印象的である。
『日本書紀』にみる磐井の反乱
私は岩戸山古墳外堤のそこに立って、眼下にひろがっている八女市の平野部を見わたしながら、さて、この古墳の被葬者がおこしたという「磐井の乱」とはいったいどういうことだったのか、と考えてみた。まず、竹内理三編『日本史小辞典』の「磐井の乱」をみるとこうなっている。
古代九州に起こった戦乱。記紀によれば、筑紫君磐井は筑紫国造として強大な勢力をもち、五二七年新羅《しらぎ》の勧誘に応じて、筑前・豊後の一帯を根拠地として反乱を起こし、倭王権の百済《くだら》救援軍と戦ったが、翌年、物部麁鹿火《もののべのあらかひ》・大伴金村らに討伐されたという。
「記紀によれば」とあるけれども、「記」(『古事記』)のそれは継体天皇段に、「此の御世に、竺紫《つくし》君石井《いはゐ》、天皇の命に従はずして、多く礼无《ゐやな》かりき。故、物部荒甲《もののべのあらかひ》の大連《おほむらじ》 大伴の金村《かなむら》の連二《むらじ》人を遣はして、石井を殺したまひき」とあるだけとなっている。それにくらべて、「紀」(『日本書紀』)のほうはもっとずっと長く、たくさんのことが書かれている。
しかし、これはいまみた「記」のそれのように、訓《よ》み下しにしても読むのにそうとうめんどうなので、もとは九州・熊本大教授でいまは筑波大教授となっている井上辰雄氏執筆の「概略」によってみることにしたい。『日本古代史と遺跡の謎・総解説』中の「筑紫君磐井の叛乱の謎」の冒頭で、それはこういうふうになっている。
継体天皇二十一年六月、筑紫君磐井は、突如、九州において兵をあげた。時に西暦五二七年のことであった。
この年、大和政権は、近江臣毛野《おおみのおみけぬ》に六万の兵をさずけて、任那《みまな》に赴かせた。任那の地の南加羅《みなみから》、喙己呑《とくことん》が新羅に併合されたのを復興するのが目的であった。朝鮮半島の南端、洛東江の河口部、現在の韓国の金海《きんかい》、釜山付近の南加羅などが、直接新羅の勢力下に入ることは、日本の朝鮮経略にとって大打撃であった。そのため、大和政権は大軍を擁して新羅の勢力を排除することを決意したのである。
この動向をいちはやくキャッチした新羅は北九州一円に強大な権力を有した筑紫君磐井と好《よしみ》を結び、大和政権の軍隊を阻止しようと試みた。磐井は、かねがね大和政権に不満をもち、叛乱の機会をねらっていたから、新羅からの誘いに乗り、近江臣毛野らを九州に釘づけにしてしまったというのである。磐井の反抗によって、筑紫《つくし》はもちろん、火《ひ》・豊の諸国一帯がその戦乱にまきこまれてしまった。現在の福岡県、長崎県、佐賀県及び熊本県に及ぶ広大な地域が戦場と化したのである。
その報をうけた継体天皇は、急遽、重臣会議を開いて対策をねった。天皇は大連の大伴金村、物部麁鹿火《あらかひ》、大臣の許勢男人《こせおひと》らに、征討の将軍を誰にすべきかを下問した。その時、すべてのひとびとが、物部麁鹿火を推挙した。征討の大将軍に任ぜられた物部麁鹿火は、筑紫以西の軍政権を委ねられ、兵をまとめて西下する。そして翌年の十一月には、筑紫の御井《みい》郡で、磐井に最後の決戦をいどみ、ついに磐井を斬り、これを倒した。磐井の子、筑紫君葛子《くずこ》は、父の罪に連坐して誅せられるのを恐れ、糟谷《かすやの》屯倉《みやけ》を献じたというのがその終局であった。
以上は『日本書紀』の「継体紀」の記載によって磐井の叛乱の顛末を概略してみたものである。
『日本書紀』の虚構
「概略してみたもの」というが、こうして書きうつしながら読んでみると、井上氏は、それが編纂された八世紀段階での政治的虚構にみちた『日本書紀』の記述を、そのままそっくり事実だと信じ込んでいるようである。それはいまみた「概略」につづけてこう書いていることからもわかる。
だが、右の物語をお聞きになっても、すぐにいろいろな疑問をいだかれるのではないだろうか。
第一に、なぜ継体天皇の時代に、つまり六世紀の初めに、このような叛乱が起こされたかということである。
第二に、どうして北九州が根拠地にされて叛乱が勃発したかという点である。
第三に、その叛乱の中心人物、筑紫君磐井がどんな豪族であったか、またその叛乱が広地域に直ちに波及し、南九州を除く全域を巻き込んでいった原因はどこにあったかという点である。
第四に、果たして新羅と磐井が結びついていたのかどうかという点である。国内的な抗争というよりも、国際的な大事件であっただけに、その点を究明しなければ、この問題を解き明かすことはできないだろう。
ここでさきにまずひとついっておくとすれば、「第四」の点は私にもうなずけるように思う。つまり「果たして新羅と磐井が結びついていたのかどうかという」ことであるが、それは「結びついていた」といっていいと私は思っているからである。そのことについては、井上氏も同文のなかでこう書いている。
もともと、北九州は朝鮮半島とは文化的にも強い結びつきがあったことは、墳墓の様式などからも顕著にうかがわれるところである。たとえば朝鮮半島で行われた横穴式石室古墳がいちはやく導入されたのも北九州であったし、また石人・石馬と呼ばれる阿蘇溶岩製の石製品や装飾古墳が分布するのも、筑紫君や火君の勢力圏であった有明《ありあけ》、不知火《しらぬひ》の海の沿岸部に分布していた。
そのことは「有明、不知火の海の沿岸部」とかぎらず、われわれもこれまでみてきたところであるが、要するに問題は、井上氏がいわゆる「磐井の乱」を『日本書紀』(などとはいわない。『古事記』『風土記』はちがうからである)の記述そのままに、あくまでも「磐井の叛乱」としているところにある。
たとえばその「概略」をもう一度みると、はじめにこうある。「継体天皇二十一年六月、筑紫君磐井は、突如、九州において兵をあげた。時に西暦五二七年のことであった。/この年、大和政権は、近江臣毛野に六万の兵をさずけて、任那に赴かせた。任那の地の南加羅、喙己呑が新羅に併合されたのを復興するのが目的であった」と。
いかにも断定的であるが、当時、南部朝鮮では新羅と百済とが任那、すなわち加耶(加羅)諸国をめぐって古くから抗争をくり返してはいたけれども、南加羅はまだ「新羅に併合され」てなどいなかった。だいたい、加耶諸国が新羅に併合されるのは、最終的には五六二年で、南加羅の金官加羅がそれにさき立って併合されたのも、五三二年のことであった。
さきに併合された南加羅にしても、「磐井の乱」からは五年後で、継体天皇後の欽明天皇一年のことだったのである。そのことは『日本史年表』などにも出ているので、井上氏も知っていたらしく、そこのところはこう説明されている。
だが、新羅も五世紀の終りから六世紀の初め頃になると、内政を整え、軍事的強化に成功し、次第に高句麗の軍事的な支配を排除し、西方の任那の地にも勢力をのばしてくるようになった。五二二年、つまり磐井の叛乱が起こされる五年前には、新羅は大加羅(高霊加羅)と婚姻関係を結び、それを支配下に収め、ついで南加羅なども併合していった。
それを「支配下に収め」とあるが、「大加羅(高霊加羅)」が新羅の「支配下に収め」られて併合されるのは、加耶諸国としては最終の五六二年のことであった。それはともかくとしても、この説明にはカラクリがある。「ついで南加羅なども併合していった」とあるのがそれで、すると、南加羅の併合が五三二年であったことを知らないものには、それがあたかも「磐井の乱」の五二七年であるかのように思えるだろう、というわけなのである。
磐井の乱の実体
これでもう、『日本書紀』の記述はもとより、井上氏の「概略」まで虚構だということがわかるが、では、いわゆる「磐井の乱」とはいったいなんだったのか、ということになる。
かんたんにいうと、巨視的にみれば、「百済と結んでいた」大和政権(この関係はずっとのちまでつづき、七世紀後半、百済がほろびるときには本格的な救援軍までだしている)と、「新羅と結んでいた」筑紫君磐井との戦いであったという点で、百済と新羅との対立抗争を反映したものだったかも知れないが、しかし実質的には大和政権による、日本を政治的に統一するための戦争だったのである。
その意味ではどちらかというと、「竺紫君石井《いはゐ》、天皇の命に従はずして、多く礼无《ゐやな》かりき。故、物部荒甲の大連、大伴の金村の連二人を遣はして、石井を殺したまひき」としている『古事記』の記述ならびに、『筑紫国風土記』(逸文)のそれのほうが事実に近いのではないかと思われる。『風土記』(吉野裕訳)のほうはこうなっている。
古老はいい伝えていう。雄大迹《おほど》の天皇(継体天皇)のみ世にあたって、筑紫君磐井は豪強・暴虐で皇化に従わない。生きている間に、前もってこの墓〈岩戸山古墳のこと〉を造った。突如として官軍が動員され、これを襲おうとしたが勝てそうもないと知って単身、豊前の国上膳《かみつみけ》の県《あがた》に逃げて、南のけわしい峰の間《くま》で生命を終わった。
そこで官軍は追い求めたがその跡をうしなった。兵士たちは憤慨やるかたなく、石人の手をうち折り、石馬の頭をうちおとした。古老はいい伝えて、上妻の県に重病人が多いのはおそらくそのせいではあるまいか、といっている。
なおついでに、杉山洋氏の『岩戸山物語』をみると、いわゆる「磐井の乱」は「大和政府が国家統一のために、土地所有を目的とした屯倉《みやけ》制を北部九州にも拡大しようとした。それに抵抗して、磐井は自己防衛の戦をいどんだ」
その結果、「磐井との戦に勝った大和政府は、北部九州の各地に屯倉を設置します。そのために、豪族の連帯組織は断ち切られて、北九州連合体は完全に崩壊します」とあるが、私もそうではなかったかと思う。
宗像大社の地にて
宗像地方の渡来文化
岩戸山古墳からの私たちは、前日と同じ九州自動車道へ戻り、こんどは前日とは逆に、有名な宗像大社のある北端の宗像市方面めざしてクルマを走らせた。できたら、途中の筑紫野市にある、筑紫君が朝鮮渡来の祖神を祭ったものという筑紫神社に寄ってみたいと思っていたが、もう時間がなかったので、そのままクルマを走らせつづけるよりほかなかった。
なにしろ、正午ごろに宗像市役所前で奥野正男氏と会う約束になっていたので、ただひたすらそこへ向かって急がなくてはならなかったからである。それに筑前の宗像地方はまた、「伊都国」だった前原町や志摩町、二丈町などのある糸島半島と同じように、南部朝鮮と向き合ったところだったので、宗像市部とかぎらず郡部の玄海町や津屋崎町、福間町などみな、古代朝鮮から渡来した文化遺跡・遺物の宝庫といっていいところだった。
たとえば、私が資料として手にしていた新聞記事の切抜きだけでもそうとうな量となっている。うち二つ三つをその見出しとともに、はじめのイントロ部をみるとこういうふうである。
△「最古の銅器」鏃を発掘/通説より一〇〇年も前/福岡今川遺跡/弥生初頭期の地層
福岡県教委などが発掘作業を進めている福岡県宗像郡津屋崎町宮司の今川遺跡で、これまでわが国青銅器の起源とされていた紀元前一世紀より、さらに百年以上もさかのぼる弥生前期初頭の青銅製鏃(やじり)が、十四日までに見つかった。鑑定にあたった西谷正九大助教授(朝鮮考古学)は「発見された青銅製鏃と同じものは、朝鮮半島で二件しか出土例がなく、わが国では最古の銅器だ」といい、他の専門家も「わが国に銅器が入ったのは鉄器よりあとという従来の通説を覆す画期的発見だ」としている。
見つかった鏃は、長さ五・七センチ、幅一センチで、一部刃の部分が欠けているが、朝鮮半島で出土したものと同じ紀元前三―前二世紀の「有茎両翼式銅鏃」らしい。当時の技術水準からいって朝鮮半島で作られ、わが国にもたらされたものとみられており、狩猟用に使った実用品らしい。遺跡からは、縄文時代最後の土器である夜臼《ゆうす》式土器や弥生時代最初の土器である板付I式土器の破片が石鏃とともに発見され、年代が特定された。(一九七五・一二・一五、朝日新聞)
△馬の鞍に立てる旗の支え/蛇行鉄が出土/宗像/六世紀後半から七世紀初/朝鮮文化ルート裏付け
福岡県宗像市教育委員会が発掘調査を進めていた同市大井の大井三倉遺跡から、馬の鞍《くら》に旗を立てる時に使ったとみられる蛇行鉄器が二十七日までに出土した。同型の蛇行鉄器は、これまで奈良県の飛鳥寺や福岡県宗像郡福間町の手光遺跡など日本で六例出土している。同市教委は、大井三倉遺跡、手光遺跡から出土していることから、宗像地区も他の北部九州沿岸の地域とともに、古代朝鮮からの文化伝来ルートの窓口だったことを裏付ける貴重な遺物としている。(一九八五・六・二八、西日本新聞)
△大宰府防衛/幻の「古代山城」発見/大野城凌ぐ土塁/『続日本紀』記載/三野か稲積城/遠賀・宗像郡境/総延長一三キロ/郷土史家執念の調査
日本最古の朝鮮式山城といわれる国の特別史跡・大野城に匹敵する古代の山城が、福岡県遠賀、宗像郡にまたがる湯川山中で発見された。これは、地元の郷土史家が十年にわたる執念の調査で見つけたもので、土塁や石垣が山腹を縫うように走り、山頂を囲んでガードしている。山城研究で知られる西谷正九大助教授(考古学)は、古代の朝鮮式山城と断定した。(一九八三・三・二六、西日本新聞)
宗像の鍛冶工人
あとはまた、その現場へ行ったときみることにするが、さきを急いだ私たちは二十分ほどおくれて、宗像市役所前に着いた。すでにもう奥野さんはそこへ来ていて、だれかと立ち話をしていた。
何のことはない。立ち話の相手は、私が田村圓澄氏から宗像へ行ったときは会いなさいと紹介されていた、宗像市教育委員会教育課の尾山清氏だった。奥野さんとは「飲み友だち」という尾山さんまでそこへ出て、待っていてくれたのだった。
私たちは市役所前の食堂でかんたんな昼食をすますと、さっそく奥野さんともども、尾山さんの案内で須恵というところにあった同市の埋蔵文化財収蔵庫に向かった。ここでは同市教委社会教育課主任主査の酒井仁夫氏らに会って、須恵器など、おびただしい量となっている遺跡からの出土品をみせてもらい、あわせて『宗像市文化財発掘調査報告書』第九集、第十集ほかたくさんの資料をもらい受けた。
それらに「報告」されているものをいちいち紹介することはできないので、ここではただ、『むなかた文化財展』というのにそえられた「むなかたの古墳時代〜歴史時代における主要遺跡」地図をみると、その「主要」なものだけでも「一、久原滝ケ下遺跡」をはじめ四十ヵ所をかぞえる。
そこで「一」となっている久原滝ケ下遺跡であるが、この遺跡からは、古代朝鮮からもたらされた最古の「鉄地金」が出土している。
それについては、一九八二年九月二十一日の毎日新聞をみると、「朝鮮製・鉄地金/最古の輸入品?/四世紀初頭の鍛冶工人/集落跡から発掘」という見出しのもとに写真入りで報じられているので、こちらをみたほうが早い。
福岡県宗像市久原の古墳時代初頭(三世紀末―四世紀初頭)の住居遺跡・滝ケ下遺跡の発掘調査で二十日までに、鉄〓《てつてい》(鉄の地金)が見つかった。森貞次郎・九州産業大教授(考古学)は「朝鮮から輸入された最古の鉄〓に間違いない」とみており、“鉄製品を造るための鉄〓が朝鮮南部から輸入された”との学説を初めて裏付けるものとして注目される。
同調査は圃場《ほじよう》整理に伴う緊急発掘で、宗像市教委が今月七日から行った。三世紀末から五世紀にわたる鍛冶工人集落の住居跡十四基のうち十一基を発掘、最も古いとみられる「3号」住居跡から鉄〓と畿内系の古い土師器(庄内土器)の完形品のツボとカメ、「1号」同からフイゴの羽口(吹き込み口)、「7号」同から鉄ヤリ、カンナ、このほか畿内系土師器の高坏《たかつき》、カメ、ツボなど約二十点が出土した。
鉄〓は長さ三十二センチ、幅六センチ、厚さ一センチで、バチ型をし、さびや泥でおおわれている。発掘に当たった原俊一・同市教委主事は「鉄〓はこれまで古墳などの副葬品として出土しているが、厚さ五ミリ前後で薄く、祭祀用の色合いがあった。それに対し、今度のはまさに鉄製品を造るための素材である鉄〓そのもの」、森教授は「鉄の鍛冶工人の住居跡で、鍛冶工房もあったと考えられる。鉄〓がここに多数運ばれ、その一つが発掘されたのでは」と話している。
記事はまだつづいているけれども、ここにいう「鍛冶工人」とはどういうものだったのか、ということがあるので、かなり長い引用となった。その鍛冶工人についてはのち豊前の香春や宇佐における産鉄氏族としての秦氏のくだりでくわしくみることになるはずであるが、ここではただ、宗像地方にもその秦氏族がいたということだけみておくことにしたい。
奴山古墳群と宗像氏・秦氏
そのことは、前記『福岡県の歴史散歩』「津屋崎町の史跡」に、「宮地岳から北へ在自《あらじ》・須多田《すだた》・大石・新原とつづく玄界灘の白砂青松の絶景をのぞむ山すその台地には三〇〇余の後期古墳が点在する奴山《ぬやま》古墳群だ。そのあいだをぬって山ぞいの道を北にすすめば、かつて秦氏配下の勝部が居住していたという勝浦《かつうら》にでる」とあることからもわかる。
三百余の後期古墳とはおどろくべき数であるが、その奴山古墳群については、さきにもみた『九州歴史資料館・総合案内』に航空写真が出ていて、「奴山《ぬやま》古墳群は、福岡県宗像郡津屋崎町にあり、勝浦・奴山・須多田・在自《あらじ》の各古墳群からなる宗像古墳群中、最大古墳を含む円墳・前方後円墳群である。宗像三神《さんしん》をまつる豪族宗像氏の墓所で、出土品に朝鮮半島でつくられた遺物もみられ」とある。
その「遺物」のひとつに、同古墳群の五号墳から出土した加耶土器の陶質土器があるが、これの写真も同『総合案内』に出ていてこうある。「大形円墳で箱式石棺をもつ墳丘に埋められていた伽耶《かや》式土器は、朝鮮半島南部の洛東江《ラクトンガン》流域の古代伽耶諸国でつくられたもので、大きな鉢に三角形の透孔《とうこう》を二段にあけた脚部《きやくぶ》からなり、焼きひずみが大きい。海を渡ってきた土器である」と。
これによると、奴山古墳群は「宗像三神をまつる豪族宗像氏の墓所で」とあるが、奥野正男氏の「古代の津屋崎」をみると、それは秦氏のものでもあるのではないかとして、こう書いている。
奴山五号墳の陶質土器は、五世紀前半に朝鮮から土器生産の技術や製鉄、機織などの技術をもってきた渡来集団の首長が、朝鮮から持ってきたものではないかと思う。
朝鮮からきた織姫を祀《まつ》る伝承をもつ縫殿宮が奴山にあり、同系の伝承は、鐘崎の織機《おりはた》〈織幡〉神社(式内社)や宗像神社内の機殿などにあり、宗像地方に根をはっていく秦氏と深い関係をもっているのである。
秦氏と宗像氏の結びつきは、文献からもうかがうことができる。京都の酒造神として有名な松尾神社の創建伝承を記した『秦氏本系帳』に、戊辰年(六六八)に胸形〈宗像〉中津宮の市杵島《いちきしま》姫命が松尾日尾に天降り、のち大宝元年(七〇一)に川辺腹男と秦忌寸都理《はたのいみきとり》が松尾に勧請したとある。
さらにまた奥野さんは、津屋崎町宮司にある宮地嶽《みやじだけ》神社の宮地嶽大塚古墳について、こうも書いている。
終末期の古墳では、胸形徳善の墓とみられる宮地嶽大塚古墳が石室長二二メートルで全国四位、その副葬品の豪華さは目をみはるものが多いが、石室構造や外周の石積みなどは新羅の古墳とまったく同型である点に注目すべきであろう。
宮地嶽神社の大塚古墳は私もさきに行ってみたことがあり、「目をみはる」その副葬品とは金銅製鞍金具やいろいろな金属工芸品などのことであるが、胸形=宗像氏も新羅・加耶から渡来したもので、秦氏と同じ系列の産鉄氏族ではなかったか、ということなのである。そのことは、さきにみた久原滝ケ下遺跡出土の鉄〓について、『むなかた文化財展』にこう書かれていることからもわかる。
鉄〓は現在のところ朝鮮半島からの移入品〈「輸入品」などというものではなく、どちらかといえばこちらのほうがただしい〉と考えられており、土器の畿内系ということもあり、ここ宗像の地が朝鮮半島と畿内との間にあって主要な位置を占めることはまちがいありません。また、津屋崎の海岸は砂鉄の産地であり、古代宗像族と鉄生産の関わりについても重要な問題となっています。
久原遺跡出土の両耳付き銅矛
その土器が「畿内系」といえるものかどうかには疑問があるけれども、しかしそれはともかく、いままたみた鉄〓出土の久原滝ケ下遺跡のあるこの久原というところには、別にまた久原古墳群というのもある。
私たちは、こんどは市の文化財収蔵庫にいた酒井仁夫氏ともいっしょになって、その久原古墳群をたずねた。そこは起伏の多い丘陵地であったが、いまは樹木が全部とりはらわれ、市の総合公園・運動場となるとかでその工事がすすめられていた。
そのための古墳群発掘調査もすすめられていて、いたるところ石室がむきだしとなっていた。かとみると、一方ではまだ、樹木をとりはらわれてハダカとなった古墳がるいるいとなっている。
久原遺跡といっているそこには、全体として約六十基の古墳があるが、いまなお発掘調査中なので、出土品の全容はまだはっきりしていない。しかしこれは弥生時代の土壙墓からであるが、一九八六年八月一日の毎日新聞に、「東アジア最古、両耳付き銅矛/福岡県宗像市で出土/銅剣とセットで副葬/半島と直接交流か」という見出しのこういう記事が出ている。
福岡県宗像市久原の久原遺跡で、弥生期土壙《どこう》墓群を発掘調査している宗像市教委は、三十一日までに旗や飾りをつけた「耳」を持つ弥生中期の狭鋒銅矛《きようほうどうほこ》(刃幅の狭い矛)や中細銅剣などを発掘した。森貞次郎・九州産業大教授(考古学)は「出土例では、東アジアで最古の両耳つき銅矛で、銅剣とセットで副葬されていたのも珍しい」と鑑定しており、同市周辺に朝鮮半島と直接交流した文化圏が存在したことを裏付ける貴重な資料と指摘している。
ここに「直接交流した」などとあるのは、そのような遺物が古代朝鮮から直行したものだということなのである。
宗像大社の三女神
久原古墳群からの私たちは、こんどは玄海町にある宗像大社へ向かった。宗像大社となると、ふつうでは行ってみることのできない沖ノ島の祭祀遺跡ということにもなるが、しかし、その祭祀遺跡にあった遺物はみな、いまでは宗像大社の宝物館にうつされている。
全国に六千余ある宗像神社の総本社として、二十一万九千九百五坪という広大な境内林のなかにしずまっている宗像大社は、さすがに荘厳をきわめたものだった。そこにある宝物館もまた、内容の詰まった華麗なものとなっていた。
私は宝物館入口の売店で、どちらもあざやかなカラー写真を中心とした豪華な「図録」ともいっていい『宗像大社』や『海の正倉院/宗像 沖ノ島神宝』はじめ、「金製指輪」などの「絵はがき」を求めた。まず、その『宗像大社』冒頭にある「由緒」をみるとこうなっている。
宗像大社に奉斎されている三柱《みはしら》の神々、田心姫神《たごころひめのかみ》・湍津《たぎつ》姫神・市杵島《いちきしま》姫神は畏《かしこ》くも皇祖天照大神の御子神であられ、天孫降臨にさきだち、天照大神の御神勅を奉じて、宗像の地にお鎮まりになりました。
九州と朝鮮半島を結ぶ玄界灘の真中にある沖ノ島に沖津宮、海岸近くの大島に中津宮、そして陸地の田島に辺津宮があり、この三宮を総称して宗像大社と申しております。
古事記、日本書紀等の古典によると、天照大神は、宗像三柱大神に対して、「歴代の天皇を助け奉り、歴代の天皇からお祭りをうけられよ」との御神勅を下されており、建国当初のきわめて重要な時に、重大な御使命をおびて、対内的には九州の緊要な位置、対外的には大陸との交通の門戸に当る宗像の地に、この様《よう》な皇祖の貴《とうと》いみおしえを奉じて三柱の神々が降《くだ》られたことに、なみなみならぬ意義を拝察することができます。宗像大神は、またの御名を「道主貴《みちぬしのむち》」 とも申し上げます。
もちろん神話・伝承によるものであるが、われわれがこの「宗像三神」のことをみて思いだすのは、さきの「『此地は韓国に向かい……』」の項でいわゆる「天孫降臨」についてみたとき私が引いた、亀井孝・大藤時彦・山田俊雄編「日本語の歴史」(1)『民族のことばの誕生』の次のくだりである。
ところで、書紀は、天孫の降臨を助けるために、アマテラス大神が、その三人の娘を、その道中に降《くだ》したことを伝えている。書紀の一書に「三女神を以て筑紫州に天降らしめ」といい、別の一書に「三女神を葦原の中津国の宇佐島に降り居ましむ、今海北の道中にあり、号して道主《みちぬし》の貴《むち》という」とあるのがそれだが、これは玄界灘の沖ノ島、大島、宗像《むなかた》に祭られている宗像三社の縁起となっている。これによってみても、天孫降臨が海北(すなわち南朝鮮)から筑紫へ渡ることを意味していたとみることができる。
沖ノ島の朝鮮系遺物
ついでこんどは、宗像大社の宝物館に陳列されている、沖ノ島の祭祀遺跡にあった遺物についてであるが、奥野正男氏の「沖ノ島の朝鮮系奉献品」をみると、沖ノ島の祭祀遺跡のこととともに、その「奉献品」のことがこうある。
玄界灘の孤島・沖ノ島は、宗像の神湊から約五七キロ、古代から大陸への航海の目標であり、海人の信仰を集めてきた神の島である。別名、不言島とも称され、島のことは口外してはならず、今日でも女人禁制がまもられている。江戸時代には貝原益軒が『続諸社縁起』で、青柳種信が『沖津島防人日記』で紹介し、明治以降も神職者や研究者によるいくつかの調査がおこなわれた。
しかし、その祭祀遺跡が明らかにされたのは、昭和二十九年以降、三次にわたった調査による。その成果は『沖ノ島』『続沖ノ島』に第二次調査までがまとめられている。また、他にその出土遺物や遺構についての論考も多い。
これらの発掘調査や論考によると、沖ノ島の祭祀は、まず四世紀後半代に巨岩上で開始され、この祭祀形態が五世紀中ごろまでつづいている。ここでの奉献品は鏡・玉・武器・工具・土師器などで、この組合せは古墳副葬品と変らないことが指摘されている。
五世紀後半から六世紀代の祭祀は、岩蔭に移り、祭祀用遺物の組合せも巨岩上の時期とは異なってくる。すなわち、黄金製指輪、金銅製帯金具、杏葉・雲珠・鋳造鉄斧など朝鮮遺物が主となり、須恵器があらわれる。また、奉献品に鉄製雛形品が増加し、六世紀代には金銅製の紡織具・細頚壺・人形など雛形祭祀品が登場する。さらに切子ガラス碗のようなシルクロード経由の伝来品もみられる。
その「切子ガラス碗」も、『宗像 沖ノ島神宝』によると、「ササン朝ペルシアから朝鮮半島をへてもたらされたもの」とあるが、要するに、宝物館にはほとんどが国宝となっているそれらの遺物がみな集められていた。なかでも私として印象的だったのは、いまなお黄金の光を放っている六世紀の新羅製という、精巧な細工の金の指輪だった。そんな指輪が供献品となったとはどういうことだったのか、とも思ったからだった。
そういう、生きた人間が身につけるものとしてはほかにも碧玉製釧《くしろ》などもあるが、一方また、これも古代朝鮮からもたらされたものという、さきにもみた鉄地金としての鉄〓や、金銅製杏葉、鉄製鞍金具といった馬具までが供献品となっている。これはいったい、どういうことだったのか。そのことについては、別にまたあらためて考えてみなくてはならない。
豊前・豊後
遠賀川を渡って
織幡神社と秦氏
宗像大社からの私たちは、同じ玄海町でも北東の鐘崎《かねさき》に向かった。そこに、これも宗像大社と同じ『延喜式』内の古社で、織幡《おりはた》宮ともいわれる織幡神社があったからである。
この織幡神社へは私は十六、七年前にも一度来たことがあったが、岬の先端の尖り立った小夜形山という小山の中腹にある神社は、当時そのままであった。当時、私たちは岬にあった「八重」という食堂にはいって昼食をとりながら、そこのおばさんに向かって、「織幡宮というのは、どんな神社なんですか」と訊いてみたところ、いきなり、
「二のねえちゃんやね」と、こたえられたのが印象的だった。
「二のねえちゃん、といいますと?」
「沖ノ島が一のねえちゃんで、ここの織幡さんが二のねえちゃん。それから、宗像さんを三のねえちゃんというねん」
いうところの「宗像三女神」を思わせることばだったので、いまも記憶にのこっている。だが、いまの私としては、そのときはまだ知らなかった、前記『福岡県の歴史散歩』にこうあることのほうが重要で、印象的だった。
また近くの勝浦には古代における織物のことをつかさどった秦氏や勝部が住んでいたといわれ、宗像の織物の歴史は古い。機織宮はこうした機織の神をまつる社と考える学者も多い。
ここにいう「勝部」というものも秦氏族のことで、この秦氏族のことについては、あとの豊前《ぶぜん》でくわしくみることになるが、私たちはその織幡神社のある鐘崎で、そこまでいっしょに来てくれた宗像市教育委員会の尾山清氏、酒井仁夫氏とはわかれることになった。
そして辛基秀、池尚浩さんといっしょだった私たちは、豊前の香春《かわら》まで同行してくれるという奥野正男氏ともども、北九州市へ向かって池尚浩さんのクルマを走らせることになった。玄海町をすぎると遠賀《おんが》郡遠賀町となり、やがて私たちはそこの遠賀川を渡って豊前国にはいることになった。
遠賀川流域の弥生遺跡
秦公義氏の「古代の秦氏」によると、その遠賀郡にも秦氏族がいて、氏神としての厳島神社を祭っていたとあるが、海浜部はまた玄海国定公園となっていて、その向こうにひろがる海は響灘《ひびきなだ》となっていた。そんなこととともに、私としてまた意味深く思われたのは、弥生時代の「遠賀川式土器」で知られた遠賀川流域というものだった。それがとおが(遠賀)川、または、えんが(遠賀)川ではなく、朝鮮語そのままのオンガ(遠賀)川であるのも私にはおもしろかったのである。
「弥生文化は朝鮮からの渡来集団の影響によって開始されたと考えられる」(高柳光寿・竹内理三編『日本史辞典』)からかどうかはわからないが、その「遠賀川式土器」については同『日本史辞典』にこう書かれている。
西日本の前期弥生式土器の総称。北九州遠賀川流域の立屋敷遺跡から多くの出土例が知られるのでこの名がある。九州から四国・中国・近畿・伊勢湾沿岸にまで分布し、東限は長野県伊那谷まで。遠賀川式土器の波及状態から、弥生文化の伝播・発展の跡をたどることができる。
要するにそれは、福岡市博多区板付で発見された「板付式土器」とともに、この日本に稲作農耕を主体とする弥生文化の渡来・定着を示すものにほかならなかったのである。当然、遠賀川流域にはその遺跡がたくさんあって、それを『北九州市史』によってみるとこうなっている。
遠賀川は、遠く大分県境の英彦《ひ こ》山《さん》川と、飯塚市付近で穂波川、嘉麻川が合流してさらに北行し、遠賀郡芦屋町で響灘に流れ出る。飯塚市付近の上流域は、立岩遺跡を代表に、数十余の弥生遺跡が分布し、一大文化圏を形成している。かたや、〈北九州〉市域八幡西区の一部を含む中・下流域では中間市・遠賀郡水巻町・鞍手郡鞍手町を包括して、別個の文化圏を形成している。
立岩遺跡と鹿毛馬山城跡
そして、「八幡西区馬場《ばば》山遺跡では、中期初頭の貯蔵用竪穴を伴う集落跡や」古代南部朝鮮の加耶(加羅)のそれと同じ「土壙墓《どこうぼ》・甕棺墓《かめかんぼ》・箱式石棺墓からなる墳墓群が見られる」とのことであるが、なかでも有名なのは上流域の飯塚市にある立岩遺跡である。
その立岩遺跡も、さきの織幡神社と同じように、私は十六、七年前に行ってみているが、いまそのときの「日誌」をみるとこうある。
――十二時半すぎ香春から飯塚へ向かう。烏尾峠なるところで昼食。飯塚市までの途中に柏森《かやのもり》なるところあり。
市教委(公民館のなかにあった)をたずね、社会教育課の田中氏の案内をえて、立岩遺跡から、出土品の収蔵庫をみせてもらう。――
これだけで、いまはもうそのときの印象もすっかりうすれてしまっているが、ただひとつ、いまなおはっきりとおぼえているのは、「飯塚市までの途中に柏森《かやのもり》なるところあり」というそれである。なぜかというと、大和(奈良県)飛鳥川の最上流に、古代南部朝鮮の加耶ということにほかならない加夜《かや》奈留美命神社がある、栢森《かやのもり》というところがあったからである。
柏・栢をかやとよませるのからしてむりがあって、それはもしかするとカヤのモリ、すなわち「カヤ(加耶)のモリ(頭)」という朝鮮語からきたものではないかと私は思っていたからでもある。そのことは立岩遺跡から出土した百個以上の甕棺墓が、「金海式甕棺」ともいう加耶のそれにほかならなかったことからもいえるのではないかと思う。その出土品については、前記『福岡県の歴史散歩』にこうある。
新飯塚駅から北へ歩いて五分で立岩《たていわ》遺跡のある丘陵に達する。立岩遺跡は地域が広範囲で、かつ多数の貴重な資料を提供している。市営野球場付近が甕棺《かめかん》埋葬地帯で、昭和三六年一〇〇個をこえる甕棺が発掘され、前漢鏡一〇面、貝輪着装人骨も出土した。これらをとりまいて石庖丁製作遺跡・祭祀遺跡・住居遺跡・古墳などが分布している。現在これらの遺物は飯塚市歴史資料館におさめ市が管理しており、木曜以外は見学ができる。なお出土地は公園化され、「立岩遺跡」の碑が建てられている。
それからまたついでにみると、飯塚市の東北側となっている嘉穂郡頴田《かいた》町に「鹿毛馬神籠石《かげまこうごいし》」という山城跡がある。九州に多くみられる古代朝鮮式山城跡のひとつで、いまみた『福岡県の歴史散歩』にこうある。
筑豊本線を直方駅から遠賀川ぞいに南下し、小竹駅からバスを勢田橋《せたばし》でおりると、すぐ南に中学校をはさんで丘陵地帯がみえる。そこにあるのが鹿毛馬神籠石(国史跡)である。六、七世紀につくられ、一〇〇メートルにもみたない馬蹄形の山の九合目に、一七〇〇余個の切石がならべてあり、保存の状況はいまなお良好だ。城跡説と祭祀跡説があるが、城跡説をとれば外敵防止のもので、朝鮮式山城だろう。
楠原・小森江は百済・高麗江
遠賀川を渡った私たちのクルマは、間もなく北九州市にはいった。かつては豊前国企救《きく》郡となっていた北九州市は、一九六三年に門司・小倉・若松・八幡・戸畑の五市が合併して人口百万以上の北九州市という大都市となったものだったが、そのせいかどうか、市内の道はあちこちとまがりくねって、混雑がひどかった。
そのなかを私たちはやっと北九州市市役所をさがしあて、その庁舎の何階かにある教育委員会社会教育部文化課の柏木実氏をたずねたところ、あいにく不在で会うことができなかった。なぜ柏木氏をたずねたかというと、私は、いまは九州歴史資料館長となっている元九州大教授の田村圓澄氏から次のような手紙をもらっていたからである。
ご存じのことかとも思いますが、北九州市門司区の国鉄門司駅の付近に「白木崎」があり、その近くに「高麗《こま》」と「百済」というところがあったと聞きましたので、ご連絡いたします。これについては、門司図書館の中山主膳氏(郷土史家)が詳しいとのことです。
右のことは、北九州市教育委員会社会教育部文化課の柏木実氏から聞きました。北九州市では、柏木さんにまず接触されるのが宜しいかと存じます。柏木さんには、あなたのこと話してあります。
その柏木さんがいないので、ほかの人に会ってもらったが、どういうものか、話はあまりよく通じなかった。市民にもわかりやすい「市の文化財案内」のようなものは、ときいてみたところ、それもないという。
そういう「文化財案内」は小さな市や町の教育委員会でもたいていつくっているものなので、「大北九州市にどうして――」とそんなことばが思わず口を突いて出た。すると、
「『北九州市史』ならありますよ。下の、一階の書店で売っています」と相手の人は言った。
で、私はその一階の書店に立ち寄り、一九八五年十二月に出た『北九州市史』を一冊求めたが、そのまえに、田村圓澄氏が教えてくれた門司の「白木崎」「新羅」「百済」である。このことについては、さきに奥野正男氏から送ってもらっていた堤富雄氏の「古代朝鮮と北九州」にも書かれていて、それによると、もとあった新羅崎はいまは白木崎となり、百済は楠原となった。それにまた、付近には高句麗の高麗江というところもあって、それは小森江となっているというのだった。
新羅が白木となった例は白木神社はじめ、ほかにもたくさんあるのでまだしも、百済が楠原、高麗江が小森江となったとは、地元の郷土史家にでもそうと教えられなくてはまったくわからない、ことばの転訛である。
なおまた地名ということでは、十六、七年前はじめて北部九州をおとずれたときに入手した竹中岩夫氏の『北九州の古代を探る』をみると、「三、韓泊《からどまり》について」となっている項にこう書かれている。
韓泊とは韓、つまり朝鮮南部から来た人々の居留地を意味する。万葉集巻十五(三六七〇)の、「韓亭能許浦浪《からどまりのこのうらなみ》たたぬ日はあれども家に恋ひぬ日はなし」の歌で知られる福岡市北崎の唐泊《からどまり》をはじめ、現在でも全国に数個所の「カラドマリ」が知られている。〈北九州市〉若松区の韓泊は、地名が現存しないのでどの付近であったか明らかでないが、私は脇の浦部落のすぐ南にある字「唐木《からき》」がその跡と推定している。
新羅《しらぎ》人の居留地であったところを、白木《しらき》と称しているところは多い。これは新羅《しらぎ》来《き》の転で、すなわち「新羅から来た人々の居所」と考えられている。北九州市には八幡区大字畑に白木、門司区大字楠原に白木崎がある。
また、熊本県八代郡坂本村百済《くだら》木《ぎ》は、百済人の居住地で、百済《くだら》来《ぎ》と推定されている(大日本地名辞書―吉田東伍)。唐木は韓来《からき》であろうか。また和名抄の日向国〈宮崎県〉児湯郡に「韓家」、筑前国〈福岡県〉宗像郡および肥後国〈熊本県〉菊池郡に「辛家」があって、ともに「カラケ」とよむと思われるが、あるいは唐木は、韓家の転かもしれない。
カラキという地名は、このほか福岡県内には次のようにある。北九州市小倉区曾根吉田の加良来/同八幡区前田の唐木/田川郡香春町下香春の唐木/筑上郡大平村唐原下唐原の唐木/宗像郡津屋崎町勝浦奴山の唐木。
上徳力遺跡出土の細形銅剣
その「唐木」は人の姓となっているものも多いが、北九州市はそのような地名のところばかりでなく、ほかにも行ってみたいところは多かった。たとえば、小倉南区の上徳力遺跡もそのひとつだった。
一九八六年一月十七日の西日本新聞をみると、「弥生の細形銅剣出土/最古の型/北九州地区で初/小倉の上徳力遺跡」という見出しのかなり長い記事が出ていて、さいごに「森貞次郎・九州産業大教授(考古学)の話」としてこうあったからである。
細形銅剣は福岡市やその周辺でも見つかっており、下関、瀬戸内海地方、近畿と分布している。北九州市でも見つかったことで、銅剣文化が朝鮮半島から北部九州に入り、近畿へと広がったという説を一層裏付ける。九州での発見はすべて副葬品としてだった。単独での出土は珍しく、使用目的などを調べる必要がある。
それから、一九八五年十一月三十日の読売新聞・北九州版には、同じ小倉南区北方でのこととして、「弥生の土製鐸出土/北方遺跡/銅鐸起源に手がかり/中期の朝鮮式に酷似」とした見出しの記事も出ており、ほかにまた、「和布刈《めかり》神事」で有名な門司区和布刈の、あとでみる宇佐八幡宮と同じ比売《ひめ》大神が第一座の祭神となっている和布刈神社などへも行ってみたかったが、しかし私たちはもう、北九州市はそれだけで先を急がなくてはならなかった。
どうしてかというと、さきにもいったように、この日の私たちはさらにまた田川郡の香春町をへて、おそくも午後七時までには豊後《ぶんご》の大分市まで行っていなくてはならなかったからである。なぜ大分市までか、ということはあとで書くが、池尚浩さんの運転する私たちのクルマは、北九州市から国道三二二号線にのって一路、香春町めざして走った。
田川郡の香春へ
よくできた『北九州市史』
私はクルマのなかで、いまさっき求めたばかりの『北九州市史』をぱらぱらと開いてみた。横に座っている奥野さんが、「その市史はなかなかよくできたものですよ」と言ったとおり、それは刊行が新しいということもあって、古代朝鮮との関係についても、かなり新しい書き方が散見された。
たとえば、稲作農耕とともにはじまった弥生時代の「あらたな墓制」である「箱式石棺墓」や「支石墓」などのことがこう書かれている。
箱式石棺墓 四枚以上の石材で四囲をかこみ、石蓋《いしぶた》で覆う葬法である。はやくから中国・朝鮮で流行しており、縄文時代後・晩期には見られず、稲作とともに朝鮮半島から伝来した墓制である。長方形や方形の平面形で石材も割り石や扁平な板石を使用する。
初期のものは、対馬・五島や、北部九州の玄界灘・周防灘沿岸・山口県の日本海沿岸の海岸砂丘に多い。対馬の泉遺跡では、有段柄の磨製石剣が出土したと推測される箱式石棺があり、五島の松原遺跡では板付式の壺が棺内に副葬されていた。
支石墓 別名「ドルメン」ともいわれている東北アジアで流行した墓制である。朝鮮半島では、北部に流行した卓子《テーブル》式と、南部に流行した碁盤式に大別されていたが、解放後の調査によって、蓋石式とよばれる“支石墓”が南北に分布しており、一部は碁盤式や卓子式よりも古くさかのぼることが明らかとなってきている。
西北九州には、縄文時代晩期末に、稲作とともに導入されたが、その多くは碁盤式であり、一部蓋石式の新しい段階に通ずるものが見られる。いずれにしても、直接の源流は朝鮮半島南部に求められる墓制である。
「解放後の調査によって」とあることからもわかるように、韓国における近年の考古学的成果にも目くばりがされている。考えてみればあたりまえのようなことであろうが、しかしこの種の市史としては、あまりみられなかったものである。なお、ついでにもう少しみると、弥生時代につづく古墳時代の「横穴式石室の源流」についても、こういうふうに書かれている。
北九州に出現した横穴式石室が、朝鮮半島に直接起源するであろうという点では、研究者の間で共通の認識となっている。半島における最古の横穴式石室として注目されているものに、前漢時代以来いまの平壌《ピョンヤン》付近に設けられた楽浪郡の古墳がある。……
その後、韓国ソウル市の可楽洞《カラクドン》や芳夷洞《バンイドン》でも百済時代初期の横穴式石室古墳が発見された。ここでも長方形プラン・アーチ天井型と方形プラン・ドーム天井型の二つの型式が見られ、五世紀前半代より下らない時期の古墳と考えられた。
それからまた、九州における横穴式石室として有名なものに、いわゆる装飾古墳がある。この装飾古墳も高句麗のそれを源流とするものであるが、『北九州市史』には「北九州市とその周辺」、すなわち豊前国となっていたところのその古墳が一覧表となって出ているので、それをここにかかげさせてもらうことにする(注 電子文庫版では割愛しました)。
香春の採銅所
私たちは午後四時すぎに、豊前国の中心地のひとつであった田川郡香春町に着いたが、さきにまず、香春町とはどういうところか、それからみておくことにしたい。前記『福岡県の歴史散歩』の「採銅所」という項をみるとこう書かれている。
福智山系が北九州市より南へのび、田川盆地を二分して急にとぎれ田川平野が展開する。この山系のおちこんだところに日本セメント工場があり、ここに史跡ゆたかな香春岳《かわらだけ》がお椀をふせたようなかたちでつらなり、南から一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳とよばれる。「一山、二山、三山越え」と『炭坑節』にもうたわれ、また野猿の生息地として人びとにしたしまれている山だ。二ノ岳山頂に古代祭祀遺跡を推定させる人工的巨石群や石組みなどが発見され、当地方の古代史解明に一石を投じている。
バス停金辺橋から西に一〇分ほど歩くと、香原三ノ岳北麓に長光という集落がある。ここは宇佐八幡宮の神鏡をつくった由緒あるところだ。宇佐八幡の重要神事放生会《ほうじようえ》は七二七(神亀四)年にはじまる。この放生会にあたって豊前国の国司が勅使となってこの地にきて、古宮《ふるみや》八幡宮の宮柱長光氏に神鏡の鋳造を命じた。長光氏は三ノ岳産出の銅をもって約一〇日間で神鏡をつくりあげると、企救《きく》郡(現北九州市)の氏子が神鏡をおさめた神輿をかついで、まず京都《みやこ》郡の草場八幡宮へおくった。その後神鏡は宇佐宮の各末社をめぐって、最終的にご神体として、宇佐の本宮におさめられた。七〇二(大宝二)年の正倉院の戸籍によると、豊前国では秦部《はたべ》が圧倒的に多く、人口比率は九〇パーセント以上をしめているので、このすぐれた採銅技術集団は朝鮮半島からの渡来人だったにちがいない。いまなお三ノ岳の急斜面の深い藪のなかに幾多のガニマブ(採銅口)をみることができる。製錬遺跡の清祀殿(鋳鏡神事に参加する勅使のための殿)と長光家は史跡として県文化財に指定されている。
現人神社と天日槍
この香春町へは、私は十六、七年前にも来ており、その後も田村圓澄氏らと来てみているが、こんどもまた、香春町の採銅所(一九五六年までは採銅所村)にあった都怒我阿羅斯等《つぬがあらしと》を祭神とする三ノ岳東麓台地の現人《あらひと》神社と、近くの清祀殿遺跡からたずねることにした。そしてそこからは下りとなって南につらなる豊比〓命《とよひめのみこと》が祭神の古宮八幡宮をへて、一ノ岳南麓の辛国息長大姫大目命《からくにおきながおおひめおおまのみこと》を祭神とする香春神社とみて歩くことになった。
これらの神社の祭神となっている都怒我阿羅斯等や豊比〓命、辛国息長大姫大目命がどういうものであったかはこれからみることになるが、当時をしのばせる殿舎がひとつぽつんとたっている清祀殿遺跡では、いまでもよくみると、宇佐神宮の神体である銅鏡をつくったときの「銅滓」があちこちに散らばっているようで、奥野さんは道路ばたから、そのひとつをひろって私にくれた。
谷川健一編『日本の神々――神社と聖地』「九州編」の執筆者の一人でもあった奥野正男氏は、そこの清祀殿遺跡へも何度か来ていたのである。その奥野さんは、古宮八幡宮から香春神社への道すがら私に向かって言った。
「現人神社と、この三つの神社のうち、現人神社のほうがいちばん古いと思うんですが、どうですか」
「そうです。ぼくもそうだったと思っています」と、私はすぐにこたえた。私もかねてから、そう思っていたからである。
しかし、実をいうとこれはいろいろと入りくんでいるので、たいへんむつかしい問題なのであるが、まず、現人神社の祭神となっている都怒我阿羅斯等である。これは『日本書紀』垂仁二年条に、比売許曾《ひめこそ》の神となった女神のあとを追って渡来した意富加羅《おおから》国(加耶)の王子とあるそれであるが、こちらは同『日本書紀』垂仁三年条や、『古事記』応神段には新羅の王子となっていて、これも比売許曾の神となった比売神(赤留比売)のあとを追って渡来したという天之日矛《あめのひぼこ》(『日本書紀』では天日槍《あめのひぼこ》)と同じ伝承を、二つに人格化したものなのである。
天日槍のことについてはこれまでにも何度か書いてきているが、まず、天日槍というのは人名ではなく、「おそらく矛や剣で神を祭る宗教、または矛や剣を神とする宗教を奉ずる集団が、朝鮮とくに新羅から渡来したことがこの伝説のもととなっている」(直木孝次郎『兵庫県史』第一巻)ものだということである。
つまり天日槍とは、新羅・加耶(加羅)系渡来人集団の象徴となっているものだということである。そこでこの渡来人集団は、「天日槍集団」または「天日槍族」ともいわれているが、この集団は日本全国にわたり、広汎な分布をもったものであった。たとえば、朝倉治彦・松前健ほか編『神話伝説辞典』の「出石人《いずしびと》」(天日槍族の一部)の項をみると、それがこうなっている。
新羅の王子とされる天之日矛(天日槍)を始祖とし、但馬・播磨・淡路(いずれも兵庫県)、近江(滋賀県)、若狭(福井県)、摂津(大阪府)、筑前(福岡県)、豊前(大分県)、肥前(長崎県)等にわたり、広大な分布を持っていた大陸系の種族。記紀〈『古事記』『日本書紀』〉や風土記には、天之日矛ないしその妻の女神(赤留比売《あかるひめ》)の巡歴伝説ないし鎮座伝説として語られる。この族人に田道間守《たじまもり》、清彦《すがひこ》、神功皇后の母君などがある。したがってそれらの話は、彼らの伝えたものと考えられる。『古事記』の春山之霞《はるやまのかすみ》壮夫《おとこ》の話もそうである。
天日槍集団の足跡
それからまた、林屋辰三郎氏の「天日槍と神武東征伝説」という副題をもった「古代の但馬」をみると、「私は、はっきりいって天日槍伝説というものは、神武東征伝説という日本の国の、また、日本文化の最初にどうしても理解しておかなければならない伝説と同形のものと考えている」とあるが、それはおいて、ここではさきにみた「九州における天日槍」の項のくりかえしになるが、それをもう一度みておかなくてはならない。まず、それについては福岡県糸島郡教育会編『糸島郡誌』にこうある。
而《しか》して天日槍はまず新羅往来の要津たる伊覩《いと》を領有し、此《ここ》に住して五十《い》跡手《と で》の祖となり、更に但馬《たじま》に移りて但馬家の祖となりしなるべし。(久米邦武『日本古代史』に拠る)
案ずるに、久米邦武氏曰く、「筑前雷山に存する神籠石《こうごいし》は其《その》〈天日槍を指す〉築きし古蹟なるべし。其南の肥前山中に墓家の石窟夥《おびただ》しく存す。これ古き殖民地なるを証するものなり」と。而して長野村県社宇美八幡宮祭神六座の内気比《けい》大神あり。越前国官幣大社気比神宮の祭神と同一の神にして、天日槍を祀《まつ》れるなり。
「筑前雷山に存する神籠石」とは古代朝鮮式山城のことであるが、「此に住して五十跡手の祖となり」とはどういうことかというと、これは『筑前国風土記』(逸文)に、怡土《いと》(伊覩《いと》・伊都《いと》)の県主《あがたぬし》らの祖の五十跡手が「高麗《こま》の国の意呂《おろ》山(蔚山《うるさん》)〈加耶の地〉に天降ってきた日桙《ひぼこ》〈天日槍〉の末裔《す え》の五十跡手とはわたしのことです」といったとあるそれからきている。
要するに、『魏志』「倭人」伝のいう「伊都国」だった糸島郡(怡土郡と志摩郡とが合併した)のそこには、新羅・加耶系渡来人である天日槍集団ののこした産鉄などの遺跡がいまなおいたるところにある。これも古代朝鮮式山城だった怡土城の境域内にある高祖神社などもその遺跡のひとつで、瀧川政次郎氏の「比売許曾の神について」をみると、さきにみた祭神のひとつである香春神社の辛国息長大姫大目命も天日槍集団、すなわち比売許曾神の移動したものだったとして、そのことがこう述べられている。
伊都国には天之日矛〈天日槍〉、比売許曾を祀った神社が存在したに相違ありません。前に挙《あ》げた怡土郡の高祖神社は、……伊都の国王が奉斎した天之日矛若《も》しくは比売許曾のそれであったかもしれません。……
天之日矛がその嫡妻を追って難波《なにわ》に到らんとしたことは、私の解釈に従えば、日矛を祖神と仰ぐ氏族の首長がその部衆を率いて、難波の背後にある大和に侵入せんとしたことであります。この日本の中原ともいうべき大和の地に侵入を企てた氏族は、いかなる氏族であったでありましょうか。
この問題に明快な解答を与えられたのは、田中卓博士であります。田中博士は、『日本国家の成立』なる論文において、それは〈『日本書紀』〉景行紀に見える伊覩県主五十跡手の子孫であると明言されています。……
伊覩県主が魏志倭人伝に見える伊都国王で、その富強天下に冠たるものであったことは、前に論述したところであります。この有力なる北九州の豪族が、東方の美地を望んで東征して来ることはあり得べきことであります。
ここにまた、さきにみた林屋辰三郎氏の「天日槍と神武東征伝説」のそれと同じ「東征」ということが出ていることに注意してもらいたいが、それはあとのことにして、瀧川氏はさらにつづけてこう述べている。
以上、私が明らかにし得ました比売許曾の社を西から順々に数えてゆきますと、筑前国怡土郡の高祖神社、豊前国田川郡の香春神社、豊後国国前《くにさき》(東)郡の比売許曾神社、摂津国東生《ひがしなり》(成)郡の比売許曾神社、同国住吉郡の赤留比売神社ということになります。私はこれらの比売許曾の社を次々につないで行った線が、近畿の帰化人が博多湾の糸島水道に上陸してから、近畿の各地に移って行った行程を示すものではないかと考えます。
筑前から大阪の摂津まで行ってしまったけれども、どうしてかここには、同じ比売神をまつる豊前国宇佐郡の宇佐八幡宮や、安芸《あき》国賀茂郡の亀山神社などが抜けている。しかし、それもあとのことにして、われわれはここでまた、「豊前国田川郡の香春神社」がある香春町へ戻らなくてはならない。宇佐八幡宮とのかかわりなど、問題はまだたくさん残っているからである。
秦氏族と豊国=韓国
豊前国の人口の九割以上をしめる秦氏族
さきにみた瀧川政次郎氏の「比売許曾の神について」によると、「豊前国田川郡の香春神社」も「筑前国怡土郡の高祖神社」と同じ天日槍を象徴とする新羅・加耶系渡来人集団、すなわち天日槍集団にかかわるものとなっている。私もそうだったにちがいないと思っているが、ところで、香春神社の祭神となっている辛国息長大姫大目命について、『豊前国風土記』(逸文)にこうある。
「昔、新羅の国の神が自ら海を渡って来てこの河原に住んだ。すなわち名づけて鹿春の神という」と。しかし、「自ら海を渡って来てこの河原に住んだ」とはいっても、それが「新羅の国」から「この河原」に直行したということではないであろう。たとえば、筑前国怡土郡をへて来たとしても、それは同じことだったはずである。
では、ここにその神を祭っていたもの、というより、筑前の高祖神社からしてそういう比売神を祭っていた、天日槍集団とはいったいどういうものだったのであろうか。そのことではまず、辛国息長大姫大目命を祭神とする香春神社をいつき祭ったのが赤染氏であり、その赤染氏は秦氏族からの出であったということとともに、さきの「田川郡の香春へ」の項でみた、『福岡県の歴史散歩』にこうあったのを思いだしてもらいたいと思う。
バス停金辺橋から西に一〇分ほど歩くと、香春三ノ岳北麓に長光という集落がある。ここは宇佐八幡神社の神鏡をつくった由緒あるところだ。宇佐八幡の重要神事放生会《ほうじようえ》は七二七(神亀四)年にはじまる。この放生会にあたって豊前国の国司が勅使となってこの地にきて、古宮《ふるみや》八幡宮の宮柱長光氏に神鏡の鋳造を命じた。長光氏は三ノ岳産出の銅をもって約一〇日間で神鏡をつくりあげると、企救《きく》郡(現北九州市)の氏子が神鏡をおさめた神輿をかついで、まず京都《みやこ》郡の草場八幡宮へおくった。その後神鏡は宇佐宮の各末社をめぐって、最終的にご神体として、宇佐の本宮におさめられた。七〇二(大宝二)年の正倉院の戸籍によると、豊前国では秦部《はたべ》が圧倒的に多く、人口比率は九〇パーセント以上をしめているので、このすぐれた採銅技術集団は朝鮮半島からの渡来人だったにちがいない。
つまり、北部九州に展開した天日槍を象徴とする新羅・加耶系渡来人集団=天日槍集団とは、かれらがそこを渡って来た朝鮮語バタ(海)を氏族名とする秦氏族にほかならなかったわけであるが、ここにいう「七〇二(大宝二)年の正倉院の戸籍」についてもう少しみると、これは奈良の正倉院にある大宝二年の「戸籍台帳」のことで、一九五八〜五九年に再整理した結果によると、秦氏族は豊前国の人口の実に九三パーセントを占めていたことがわかった。
秦氏族と鍛冶集団としての天日槍集団
その秦氏族は「採銅技術集団」を擁していたばかりでなく、稲作農耕とともに渡来した産鉄技術集団でもあった。平野邦雄氏の『大化前代社会組織の研究』をみると、古代日本の産鉄集団は新羅系の秦氏族による倭《やまと》鍛冶《かちぬ》と百済系の漢《あや》氏族による韓《から》鍛冶とであったが、どちらかというと秦氏族による倭鍛冶がさきだったとして、そのことが天日槍との関連でこう書かれている。
文献からみると、「韓鍛冶」の初見は応神朝で、百済より卓素の渡来が報ぜられているが、この記事が雄略紀の混入であることは後述するところである。これにたいし、「倭鍛冶」は一段と古く、神代紀一書や綏靖紀(記)、『古語拾遺』などに、天香山の金をとって、日矛・日像之鏡をつくったという倭鍛冶天津真浦や石凝姥の名がみえ、この日矛のモチーフが、新羅王子天日矛〈天日槍〉の渡来説話に用いられ、出石小刀や出石桙・日鏡などをもたらしたとされている。これらは、金銅の鍛冶を述べているのであり、韓鍛冶より古いことを印象づけてもいる。そして韓鍛冶が鉄の鍛冶を行なったことと対照されているのである。
『播磨風土記』によれば、天日矛の説話を有する地域は、秦氏の居住区とほぼ完全に重複し、播磨西部諸郡を占める。……さらに『風土記』によると、この郡〈餝磨《しかま》郡〉に豊国村があり、筑紫豊国の神を祭るとあって、それが豊前秦氏の祭祀した香春の「新羅神」であることにまちがいなく、また同郡に新羅訓村もあり、「新羅人」の居住したところと伝えていることからも、この郡が巨智・秦・新羅人らの生活集団の形成されていた場所であることはまちがいない。隣接する揖保郡少宅郷にも、秦田村君有磯や秦少宅公らの名がみえ、この秦田村君有磯こそ、先の経師秦在磯と同一人物であり、巨智(己知)氏なのであった。赤穂郡に入ると、郡大領その人が秦造内麻呂で、『本朝皇胤紹運録』によれば、この郡の大避大明神は「秦氏の祖」といわれ、秦河勝を祭ると伝承されているのである。
かくて、倭鍛冶の天日矛伝承が、秦一族によって荷なわれていたのではないかという推定は現実性あるものとなる。同時に漢氏系の韓鍛冶系・忍海漢人の居住区が、美嚢郡など播磨東部を占めるのであるから、まさに、秦・漢両系は、播磨の東西を対照的に分ち占めていることになるのである。
ここに「豊前秦氏の祭祀した香春の『新羅神』」を祭る「豊国村」が出ているが、これは豊前の香春から播磨(兵庫県)へ移動したものであることはいうまでもないであろう。では、香春のそのさきはどこのどういうものだったかというと、それは筑前に上陸展開していた天日槍集団にほかならなかった。
香春三女神は同一神
筑前のこちらにも天日槍集団ののこした製鉄遺跡はいたるところにあって、奥野正男氏は以前からそれを踏査して「今宿、高祖付近の朝鮮文化遺跡について」などを書いているが、その天日槍集団はしだいに移動しはじめ、その中心的な一部は、豊前の香春岳の銅鉱を発見してここに定住した。
そしてかれらはまず、最初にその銅鉱を発見した三ノ岳(採銅所)東麓に、天日槍集団のシャーマンで、かれらの守護神ともなっていた比売神を祭った。それが天日槍を二つに人格化した都怒我阿羅斯等《つぬがあらしと》を祭神とする現人神社で、これがさらにまた二ノ岳、一ノ岳へとひろがって、豊比〓命《とよひめのみこと》を祭る古宮八幡宮となり、辛国息長大姫大目命を祭神とする香春神社となったのである。
要するに、この三社の比売神はもとは同一の神であったばかりか、それはこれからみる宇佐八幡宮の比売大神とも同一のものだったのである。このことについては、奥野正男氏の「鉄の神々」(7)にもこういうことが書かれている。
採銅所の現人神社の伝承に関して重要なことは、香春神社の祭神と一対のものとしてみなければならないという点であろう。渡来してきた女神を追いかけてきた男神、それがツヌガアラシト〈都怒我阿羅斯等〉であり、一の岳の女神〈香春神社の辛国息長大姫大目命〉とは切りはなして考えることはできない。
これに関連して、最近、香春神社の国費造営の古文書(天理大図書館蔵)の解読にあたっている原田夢果史氏が、香春の三神は宇佐神と同じく元々、三神とも一所に合祀されていたという説を出している。
辛国息長の名称に象徴されるこの渡来の採鉱・冶金集団は、最初に三の岳東麓あたりに定着して、かれらが奉信する祖神でもありおそらく採鉱・冶金シャーマンの性格をも備えた女神を近くに祀《まつ》ったのではないかと思う。
ここにみられる「香春の三神」とは辛国息長大姫大目命(第一座)、忍骨命《おしぼねのみこと》(第二座)、豊比〓命(第三座)のことで、その「香春の三神は宇佐神と同じく元々、三神とも一所に合祀されていた」とは、それが元は同一神だったということなのである。
豊国は韓国《からくに》
だいたい、豊比〓とは豊の比〓(比売)、または豊国の比売神ということにほかならなかった。さきに引いた平野邦雄氏の論考に「筑紫豊国」「豊国村」ということがあったが、福岡県の北東部と大分県全域とを占める豊前・豊後国は、もとは豊国となっていたもので、しかもそれは韓国《からくに》でもあったのである。
『日本書紀』用明二年条に仏教を受容するかどうかということを議する場に豊国法師というのが登場するが、この豊国法師を韓国法師としたのは、江戸時代の考証学者である狩谷掖斎であった。この受仏か排仏かのことは『日本霊異記』にも出ていて、板橋倫行・校注のそれをみると、「今国家災を起すは隣国の客神の像を己が国内に置くによる。この客神の像を出すべし。すみやかに豊国に棄て流さむ」とあるこの「豊国」とは、「豊かに富んでいる国、すなわち朝鮮の国」と注している。また、中田祝夫・全訳注の『日本霊異記』にも、「豊国 韓国。韓国を宝の国、財宝の国などといったことによる」と注してある。今日でも韓国を「豊かに富んでいる国」などとはまだまだいえないが、古代の当時はそうとはみられていなかったのである。
そのことは豊国比売が、一方では辛国息長大姫大目命、すなわち韓国比売となっていることからもわかるが、そしてその豊国=韓国をつくったのはここに集住していた新羅・加耶系渡来人の天日槍集団=秦氏族で、かれらは人口が増え、勢力が強まるのにしたがって、この地にそのシャーマンであり、守護神であった比売神を現人神社、古宮八幡宮、香春神社とつぎつぎに祭っていったのであった。
もしかすると、香春神社のほうがさきで、古宮八幡宮のほうがあとだったかも知れないが、そうしてついに、その比売神は宇佐八幡宮の比売大神に発展していくのである。もちろん秦氏族が祭ったもので、そのことは大野鍵太郎氏の「鍛冶の神と秦氏集団」にもこう書かれている。
豊前国八幡神とは、いわゆる宇佐八幡である。八幡神とはヤハタのカミで、ヤは多いという意味をもつ集合体を表現する言葉である。ハタは秦《はた》族の族称を示すものであって、秦族が共通して信仰する神、すなわち秦族のすべてが信仰する神である。秦族は明らかなように、古代大陸から渡来した氏族で、いわば秦族の総氏神である。
しかしながら、こと、伊勢神宮に次ぐ日本第二の宗廟となっている宇佐八幡宮となると、これで「ああ、そうか」と納得するものは少ないのではないかと思う。そのことについては、なおまたあとの宇佐八幡宮をたずねたときくわしくみるとして、香春町での私たちは、さきを急がなくてはならなかった。
呉《くれ》は高句麗、唐《から》は加耶
私たちが現人神社から香春町のあちこちを歩きまわり、そこにあるセメント工場による石灰採取のため、いまは無残な姿をさらしている一ノ岳南麓の香春神社の前に立ったときはもう日暮れで、午後五時をすぎていた。で、私たちは香春町をあとにし、そこからは国道一〇号線が大分市へ走っている行橋市のほうへ向かうことにしたが、さいごに、田村圓澄氏が送ってくれた香春町の『広報かわら』にのった江本淡也氏の「『クレ』と『カラ』の地名」と副題された「渡来人の町香春」をみておくことにしたい。
ちょっと長いけれども、ここに書かれていることはひとり香春とかぎらず、ほかの地でもよくみられる地名・伝承なので、ぜひ読んでおいてもらいたいと思う。
香春には小字名に、「カラ」とか「クレ」というのをよく聞く。これは長崎には江戸時代にオランダ人が渡来していたので、「オランダ坂」とか「オランダ屋敷」の名を残しているのと同じように、香春は今から千五百年前頃から「クレ」や「カラ」からの渡来人があったので、この地名が残ったものと考えられる。「クレ」「カラ」の名がついている地名を福岡県資料、明治十五年小字名調べによって、田川市・郡について調べてみたところ、赤池地区に呉ハル川原、呉ケ谷、彦山地区にカラクリ、唐土谷《カラトイワ》、唐臼谷、唐ケ谷、猪位金地区にカラ池、唐花、方城地区に唐ノ山、唐細工、カラ谷、大任地区にカラコの地名がある。
田川地区の香春町以外の市町村では以上の十二ヵ処の地名があげられるのに対し、香春町内にこの小字名を持つ処は十五ヵ処ある。
先ず、香春地区では唐土町、唐人池、唐木がある。又、勾金地区には唐川、唐子橋、唐ノ町、唐人原がある。「クレ」の名を持つものにクレ町、呉屋敷、呉、呉向谷、小呉の名がある。採銅所地区にはカラキゾノ、唐山浦、クレ町がある。
「クレ」とか「カラ」の国は何処《どこ》か。「呉《ご》」、「唐《とう》」は中国のそれぞれ三世紀頃及び七〜十世紀にまたがってあった国である。
「クレ」のばあい呉の字をあて、読みは「クレ」である。この地の伝承によると呉《ご》の国は遠隔地なので、高句麗《こうくり》の国に道案内をしてもらって、呉《ご》の織女《はたおりめ》を連れて来た。この織女の呉媛《くれひめ》が留まり住んだ土地が呉《くれ》であると云う。
いかにも呉から来たような云い伝えである。しかし何故「ゴ」と云わずに「クレ」と呼ぶのであろうか。それを解く鍵は、高句麗の国に案内を頼んだと云うところにある。本来なら高句麗から来たとするところを、中国を崇拝し、朝鮮を軽視する風が起って来て、中国の呉から来たと変えたものである。コウクリ〈高句麗〉、コクレ、クレと地名が変化したという説が有力である。
「カラ」についても同様である。「カラ」の地名に唐《とう》をあて字したまでである。朝鮮南部を流れている洛東江流域が加羅〈加耶〉であり、ここから渡来して来たので、カラの地名が生れたと考えられる。
風土記〈『豊前国風土記』〉の中に、「昔、新羅の国の神、自ら渡り来てこの河原に住みき」とあるが、これは新羅の国神を信仰している人達が香春に渡って来て、新羅の国神を祭ったということである。
この風土記が出来た八世紀には、加羅の国はなくなって新羅の国になっていたのと、その当時、新羅とは深い親善関係にもあったので、加羅の国神とせずに、新羅の国神としたと考えられる。実際、香春神社の祭神は辛国《からくに》息長大姫大目命で、辛国〈韓国《からくに》=加羅国〉の神であることからもわかる。
「加羅の国」がほろびて「新羅の国」となったのは、六世紀半ばのことであった。『古事記』『日本書紀』『風土記』ができる二百年近くも前のことであったから、このときまでには、その加羅〈加耶〉諸国はみな新羅ということになっていたのである。
それでふつう、天日槍集団や秦氏族は「新羅系」と書かれたりするのであるが、それを私は「新羅・加耶系」としているのは、そういうことがあったからなのである。
京都《みやこ》平野の古墳と山城
添田はソウル
香春町から東へ、国道二〇一号線で行橋市へ向かうと、間もなくいまみた「クレ」の集落となったが、そこにみえてきた新仲哀トンネルを抜けると、田川郡から京都《みやこ》郡となるはずだった。そのようにクルマを走らせていながらも私は、「もっと時間があったら」と思わないではいられなかった。
香春町の南十キロほどのところとなっている、添田《そえだ》町のことが気になっていたからである。というのは、私はさきごろ、奥野正男氏と同じ北部九州在住の古代史研究家で、『古代九州と朝鮮』などの著者である泊勝美氏から次のような手紙をもらっていたのだった。
『日本の中の朝鮮文化』もいよいよ九州編となり、いずれ豊前のこともお書きになることと存じますが、興味深いことに気づきましたので、ご参考までにお知らせいたしたく筆をとりました。
と申しますのは、昨十月三十日、紅葉狩りをかね福岡県田川郡添田《そえだ》町の英彦《ひ こ》山《さん》に登りました。この山は出羽の羽黒山、大和の金峰山とともに、日本の修験道の三大霊場の一つでございますが、宇佐の法蓮もこの山で修行しており、天孫降臨の伝説をもち、また霊場となったのは朝鮮の山岳信仰の影響であろうことなどは、すでに中野幡能氏などが明らかにされております。あなたもおそらくご存じであろうと思います。
その英彦山に登りました折に、添田町および添田町観光連盟が発行した『英彦山』という案内パンフを入手し、読んでおりましたところ、同町にある岩石山《がんじやくさん》という山の説明にいき当たりました。それには以下のようにございました。
「その昔、上古、素盞嗚尊の御子曾褒里《そほり》神が西の麓(今の添田)を開墾されたとされることから、その名にちなんで最初、曾褒里山と呼ばれていました。曾褒里神は添田地方の地主の神といわれ、添田の地名も曾褒里がつまってできたとされています」と。驚きました。
ご承知の通り、『日本書紀』の神代下、第九段(一書第六)の天孫降臨について、「降到之処者、呼曰日向襲之高千穂添山峯」とあり、そのあとの割註に、「添山、此云曾褒里能耶麻」とあることを思い出したからでございます。
もちろん、私はこの岩石山がいわゆる天孫降臨の地と考えるわけではございません。驚いたのは、案内パンフの意味が草深い添田地方さえもが朝鮮からの渡来人が開拓したのだ、ということになるからでございます。そのうえ、新羅の神が「自ら渡り来りてこの河原に住みき」という田川郡香春岳と南の英彦山を結ぶ約二十三キロのちょうど中間点に、この岩石山があるからでもございます。そういたしますと、むしろこれは当然なことかもしれません。
手紙のはいった大きな封筒には、『英彦山』という案内パンフも同封されていて、岩石山の青いカラー写真とともに、「その昔、……」と、たしかにそのとおりのことが書かれていた。要するに、添田町の添田ということも曾褒里《そほり》、すなわち新羅の村邑または都邑ということであったソブル・ソウルからきたものだったのである。
そのことを私は泊さんの手紙ではじめて知ったが、添田町の英彦山ということになると、さらにまたこういうことがあった。一九八二年十月二十日の朝日新聞(大阪)に、「国宝級の渡来仏/福岡県英彦山/銅筒とともに発見」という見出しのこういう記事が出ていた。
福岡県田川郡添田町の英彦山(標高一二〇〇メートル)で進められている初の学術調査(朝日新聞社主催)で、古代朝鮮半島・統一新羅時代(六六八―九三五)の金銅仏と、それを納めて経塚に安置した銅製の筒が発見された。筒には永正十三年(一五一六)の銘が入っている。十九日までに九州大学、九州歴史資料館などで鑑定の結果、わが国への渡来仏のなかでも「最高級の逸品」との見方で一致した。経塚から筒入り仏像が見つかったのは全国で初めて。
記事はまだつづいているが、さいごに「田村圓澄・学術調査指導委員(九大名誉教授)の話」としてこうある。「経塚から、こんな立派な仏像が出てくることは極めて異例のこと。わが国の経塚研究にとっても超一級の文化財で国宝級のもの。修験道以前の山の信仰史を探る重要な材料になりそうだ」
そんなこともあったりしたので、添田町へも行ってみたかったのであるが、しかし、私たちはさきを急がなくてはならなかった。そことはまた別に、これからもたくさんのところをたずねなくてはならなかったからである。
壮大な御所谷山城跡
新仲哀トンネルを抜けた京都郡のそこは、京都平野となっているところでもあった。左手の北が勝山町、右手の南が犀川《さいかわ》町、豊津町で、その東北となっているところが瀬戸内海(周防灘)に面した行橋市、苅田《かんだ》町となっている、かなり広大な平野だった。
秦氏族が展開していた豊国(豊前・豊後)の中心地のひとつで、桐畑隆行氏の『新豊前風土記』によると、「秦王国」となっていたところとしているが、そういわれてみると、宮処《みやこ》=京都《みやこ》郡という地名などからして、たしかにそうではなかったかと思われるところでもある。私はここは十六、七年前から二度、三度とおっているが、ひじょうに古墳の多い地帯で、勝山町にはいると左手に小さな小学校が見えはじめ、そこの校庭にも横穴石室の古墳があるのがわかる。
橘塚古墳であるが、近くにはまた女帝塚、女体塚ともいわれる綾塚古墳があって、これは全国でも第六位といわれる巨大な横穴石室のそれとなっている。このような古墳は行橋市になるとさらに多くなり、北隣りの苅田町には国史跡の御所山古墳や石塚山古墳があって、これは豊国の首長だったものの墳墓ではなかったかとみられている。
そればかりではない。犀川町の馬岳には京都平野を一望のもとに見わたす、有名な「御所谷神籠石」の古代朝鮮式山城跡がある。この山城跡は私も二度ほど行ってみているが、水門跡の石塁などはまだ頑丈そのままの形をとどめている。
とても千数百年も以前に築かれたものとは思えないほどのものであるが、前記『福岡県の歴史散歩』によると、その山城はこういうふうになっている。
御所谷《ごしよがたに》(西鉄バス津積《つづみ》下車、南へ一・五キロ)は馬岳の西方一・五キロ、標高二四七メートルのホトギ山の山頂から西北方に流れる谷で、ここを中心に山腹を三〜四キロにわたって神籠石(国史跡)がつらなっている。とくに“中の門”とよばれる谷間の石塁は北面して上下二段に築かれ、全高六・五、長さ約一五メートル。下段の中ほどに、縦横一メートル余の巨大な石樋(水門)を突出させている。石塁東端は本塁と直角に南に石塁がのび、それと平行にその東にも約六メートルをへだてて南北に石塁がはしっている。この南北にはしる東西二列の石塁のあいだに門があったとおもわれる。その西隣の谷間にも中央部がくずれた“西の門”とよばれる頑丈な石塁のあとが残っている。“中の門”の東側二〇〇メートルの高所にも高さ二、幅六メートルの“東の門”とよばれる壇状の石塁があり、山の南斜面、犀川町側にも南門らしい遺構が残っている。
古代、よくもそんな巨大な山城を築いたものと、いまさらのようにそう思わずにはいられないが、そこでまた桐畑隆行氏の『新豊前風土記』をみると、その山城のことがこう書かれている。
神籠石は、もともと土地の住民から「ツツキ」と呼ばれ、古文献にも「筒城」と記録されているという。ツツキとは、古代朝鮮語で山城を意味する。「ツツ」とは「トゥトゥ」で、岡や畦のこと、「キ」とはそのまま「城《き》」である。つまり、岡城《ついき》、あるいは田の畦のように続く山城を意味する。近くにある築城(ついき)の地名は、この山城、ツツキの訛ったものではないだろうか。
今ここで問題にしている「神籠石」と呼ばれる朝鮮式山城は、七世紀になって白村江の戦いに敗れた大和朝廷が、新羅から侵攻されるとする幻影から造られた百済式山城のことではない。少なくとも、古墳時代後期までには構築されたであろうと推定される古い時代のそれである。
学者の調査によると、「二千五百メートルの列石を四千五百個とみれば、約四千百人の人力を要することになる」と指摘している。ところが、これは一列に並べた石の計算であり、山城とすれば、少なくとも十段ぐらいは必要となる。とすれば、四万人以上の作業人員を動員しなければならない。最大級を誇る「仁徳陵」をしのぐ権力をもった者――それは単なる一氏族の長というより、「王」の権力をもって、国家的規模でしなければできないことである。
行橋市の古墳
私たちはやがて、香春でつくられた宇佐八幡宮の神鏡がまずそこへおくられたという、もと豊日別宮だった草場八幡宮のある行橋市にはいった。行橋となると、私にはその八幡宮だけでなく、十六、七年前に同市教育委員会をたずねたときのことも思いだされる。
そのときは近くの椎田町が故郷の阿部桂司君といっしょに、社会教育課にいた定村責二氏に会ったのだったが、定村さんは高校校長を定年となり、いまは市の嘱託となって、市内にある古墳のリストなどをつくっているようだった。
京都平野のうちでも、行橋市はことにまた古墳の多いところで、いまみた、十一年前の一九七七年に出た前記『新豊前風土記』は「日本最大級の横穴古墳群である竹並遺跡は、豊前国分寺で知られる豊津町の近く、行橋市竹並にある」としてそのことをこう書いている。
この遺跡は、横穴古墳千基、円墳・方墳あわせて四十三基、弥生時代の住居跡九ヵ所、穀物などの貯蔵穴とみられるもの百十六基、まさに日本で最大級の遺跡である。いや、正確には遺跡であったと、過去形でいわねばならないであろう。
というのは、この竹並遺跡は、丸善石油不動産に身売りされ、「日豊八景山ニュータウン」という面積三十五ヘクタール、一千百戸分の団地ができるために、ブルドーザーの下敷きとなって、そのほとんどが破壊され、今ではその一部を残すのみとなったからである。
定村さんが市内にある古墳のリストをつくっていたのは、いま思うとそういうことがあったからのようでもあるが、定村さんは謄写版刷りしたその古墳リストの一部を私たちにくれた。で、私は、そのリストを定村さんの机にいったん戻してこう訊いた。
「そのなかで古代朝鮮と関係ある古墳は、どれとどれでしょうか」
「ええ、それはですね」と、定村さんは鉛筆をとって、そのリストにしるしをつけはじめたが、
「いや、これはもう、古代は全部そうですから、みんなそれに入れてください」と言って、鉛筆をおいたものだった。
行橋市にはいった私は、「あの、人のよさそうな定村さんはどうしているだろうか」とも思ったりしたが、私たちはそこまで同行してくれた奥野正男氏とはそこの旧国鉄(JRとはどうも書きにくい)行橋駅でわかれ、もう暗くなりはじめていた国道一〇号線を大分県の大分市めざして走ることになった。
途中間もなく、明日みることになる宇佐八幡宮と密接な関係にあった椎田町の矢幡宮の森を左手にみたが、それもこれもみなあとのことにして、私たちはたださきを急いで走りつづけた。しかしそれでも、大分市に着くのはそうとう遅れるのではないかと思われた。
大分市からの手紙
神功皇后が朝鮮語で号令?
私たちは、大分市めざして急いでいた。なぜだったかというと、今夜はそこで泊まって、翌日はそこの大分市から、宇佐八幡宮のある宇佐市とその周辺を歩くということでだったが、しかしそれだけではなかった。それだけのことだったらあまり急ぐこともなかったわけであるが、もうひとつは、大分市在住の松尾則男氏からの手紙のことがあったからだった。
松尾さんからの手紙は、こんどがはじめてではなかった。十年ほどまえにももらっていて、そのときの手紙のことは、九州でおこなわれた賀川光夫・田村圓澄・泊勝美・中野幡能氏らとの座談会「宇佐八幡と新羅花郎」(中公文庫『朝鮮と古代日本文化』所収)で私はこう話している。
金 話はとびますけれども、この九州へくるため家を出ようとしましたら郵便物がきまして、そのなかに大分県立図書館におられる松尾則男さんから送られたものがありました。知らない人でお会いしたことはありませんが、それがおもしろいので持ってきました。
神代文字というか、それのことが朝鮮文字(ハングル)との関係で新聞に出たらしく、いろいろなことが書かれていて、そのなかにおもしろいものがひとつあります。これは「若宮楽」のことが書かれたプリントですが、杵築市の若宮神社が九月十五日の仲秋祭に行なう楽のことが書いてあるんです。楽を奏する前にいろいろあって、世話役が「楽白須詞」を神籬《ひもろぎ》の前に進んで曰《もう》すとして、こういうんですね。
抑《そもそ》モ大神ニ楽ヲ奏スル由来ハ、昔神功皇后三韓御親征ノ時、朝鮮語ヲ以テ戦ノ号令トナス。三韓大イニ畏レテ降伏ス。仍《よつ》テ此ノ符号ヲ楽符トス。
それでこの楽符は朝鮮語なんだそうですが、この朝鮮語たるやさっぱりわからない(笑)。九州には鹿児島に玉山神社というのがありますね。秀吉のときに連れてこられた人たちが苗代川にいつき祭った神社で、彼らははるかな故国に向かって望郷のうたを歌ったわけです。それが祝詞《のりと》になっていて、この玉山神社のものはわずかながらわかるところがあります。
ところが、この「楽符」はまさにちんぷんかんぷんです。「チエックチェーン、チエックチエ、イニャ……」(笑)なんていうんですがね。「神功皇后三韓御親征ノ時、朝鮮語ヲ以テ戦ノ号令トナス」などと、これはもちろん、「三韓御親征」ということからして荒唐無稽なことですが、しかしともかく、それが朝鮮語の「楽符」となっていまあるということ、これがおもしろいですね。
中野 その「楽」は大分県の重要無形文化財に指定されています。
金 ああ、そうですか。
八幡神の遊幸と奈多八幡宮
ということで、この話はおわっているが、私たちがいま国道一〇号線でそこを通過している杵築市の若宮神社の「楽符」をみたついでに、もう少しみることにすると、国東《くにさき》半島の東側つけ根近くとなっている杵築市奈多には、宇佐八幡宮と同じ比売神と応神天皇、神功皇后を祭る奈多八幡宮がある。この八幡宮は私も行ってみているが、谷川健一編『日本の神々――神社と聖地』「九州編」にこうある。
奈多八幡宮については『宇佐託宣集』に「天平年中、比売大神示現して国前《くにさき》郡に住す。この神は玉依《たまより》姫なり」と記す一方、八幡神の遊幸を伝える条に「伊予国宇和島より往来せし時、豊後国崎《くにさき》郡安岐《あき》郷奈多の浜の海の石に渡り、次で奈多の松本に登り、安岐の林に憩い云々」とみえ、ここの祭神も異伝が多い。
ところで、宇佐八幡神があわせもつ複雑な性格のうち、辛嶋《からしま》氏ら渡来集団の氏神的性格と鍛冶・冶金神的性格、さらに海神的性格などが、この奈多八幡宮に伝えられる神事や周辺の遺跡にもうかがえる。
社地の東にひろがる奈多海岸は、良質の砂鉄産地である。しかもこの神社から国道西側の見立山の傾斜地は、現在ミカン畑がつづいているが、その山麓一帯に古代の一大製鉄遺跡がひろがっている。鉄生産の跡をしめす鉄滓やタタラ炉址とみられるガラス状に焼けた炉壁が奈多、志口にかけて数多く出土する。また、こうした鉄生産を背景に、この地に有力豪族層が成立したとみられ、神社の近くには巨大な亀山古墳がある。こうした古墳の被葬者が宇佐・国東の渡来豪族層の一員として鉄生産を支配し、辛嶋氏はこれらの渡来小氏族層の上に立つ統括者であったとみられる。八幡宮の遊幸伝承は、こうした辛嶋氏配下の豪族層の本地を結ぶかたちで生まれたものであろう。
ちなみに宇佐八幡の行幸会《ぎようこうえ》について見ると、これは放生会《ほうじようえ》が全国八幡社共通の神事であるのに対して宇佐固有の神事であり、宇佐信仰の成立に深いつながりをもっている。現在、廃絶したままになっているが、弘仁年間(八一〇―二四)あたりから卯《う》年と酉《とり》年の六年に一度、大貞(中津市)の三角池に生えている真薦《まこも》で八幡神の御験《みしるし》(薦枕)を新造し、宇佐八幡宮にゆかりの深い八ヵ社(田笛《たぶえ》神社・鷹居《たかい》神社・郡瀬《ごうせ》神社・泉神社・乙〓《おとめ》神社・大根川神社・妻垣神社・小山田神社)を巡幸する重要な神事である。これらの八ヵ社の周辺には、百済寺跡(相原廃寺)、虚空蔵寺跡、法鏡寺跡、四日市廃寺、日足禅院跡など宇佐八幡が現在の小倉山に創建される以前の寺跡があり、いずれも八ヵ社の神宮寺として、そこに定住した渡来者集団によって創建されたものとみられている。
国東半島の東側にある奈多八幡宮を奉斎した集団も、この原始八幡信仰の成立をささえる有力な勢力のひとつであったとみられるが、行幸会のさいの御験は最後に奈多八幡宮に到着して奈多の海に流されたという。またこの行幸会のさい、新しい御神体(八幡神像)が造られて宇佐八幡の上宮に納められると、上宮の御神体は下宮に遷り、下宮に納められていた古い御神体は奈多八幡に遷された。このため奈多八幡宮には、行幸会で遷された古い神像が残されている。
のちにみる、古代日本史上重要な位置を占める宇佐八幡宮にかかわることなのでちょっと長くなったが、ここにいう辛嶋氏などの渡来人集団も、産銅・産鉄集団としての秦氏族の一派であることはいうまでもないはずである。
それからまた、「伊予国宇和島より往来せし時」ということがみられるが、この伊予(愛媛県)もまた、堀井順次氏の「伊予の秦氏」などで明らかなように、秦氏族の集住地だったところであった。
大分県の中の朝鮮文化を考える会
ところで、いま私たちがそのために大分市へ急ぐことになった松尾則男氏からの二度目の手紙であるが、こんどは十年ほどまえの手紙のことから、「その後、私は定年退職となり、現在は無職になっております」として、こう書かれていた。
「この機会に念願であった大分県における古代朝鮮文化の伝承について何か書いてみたいと思い、知人の東公義氏と図って切抜きを同封してある新聞に投稿しました」
ここで先に、同封してある新聞の切抜きをみると、それは大分合同新聞にのった「古代朝鮮文化について考えます」という見出しのこういうものだった。
私たちの身辺にある地名や文化財の中に、古代朝鮮文化が数多く残されていると聞くことがあります。いったいどのようなものがあるのか仲間と一緒に考え、また資料等があれば教示していただきたいと思います。
このことにつきまして二十二日(土)午前十一時から午后一時、大分市の県立大分図書館の休憩室で打合会をしたいと思います。興味のある方の参加をお待ちしています。なお、学問的には全く素人、実年の集まりになることをご承知下さい。(大分市、松尾則男。電話三四―六六二八。宇佐市、東公義。電話〇九七八―三七―〇三三八)
それから、松尾さんの手紙はこうつづいている。
当日の結果は、九名の参加者と電話での加入希望者、計十一名が会員になることになりました。会名は「大分県の中の朝鮮文化を考える会」ということになり、会長はいませんが、私が事務局の仕事を引受けることになりました。
会員の職業はまちまちですが、五十代から六十代の人達でした。古代朝鮮文化についての関心は旺盛なもので、私達が今後のことについて確認したことは、十月中に一人一人が考えているテーマのまとめをし、一冊の本にするということでした。事務局としては参考資料の紹介や、ニュースを会員に知らせるということです。
この話し合いの時、大分市に住んでいる今村勲さんからあなたが来分される予定があるということを聞きました。それで、来分の節にあなたと座談会がもてないか、ということになったわけです。率直に申し上げて、講師謝礼は差し上げられませんが、一時間ほどでも結構ですので……。
そういうしだいで、私はこれまでみてきた北部九州を歩くより先、福岡市で講演をすることになり、二日後には大分市にはいることになるかも知れない、――と返事をしたところ、文中にある東公義氏がわざわざ福岡市の講演会場まで来てくれたのだった。で、私は、この日の夜は旧国鉄大分駅近くにあるという第一ホテルなるところに泊まることにし、午後七時ごろそこで「大分県の中の朝鮮文化を考える会」のみなさんと会うことにしよう、ということになったのだった。
ところが、そうした私の予定にははじめからむりがあったようで、途中、電話をする時間も惜しんでクルマを走らせつづけたにもかかわらず、予約しておいてもらった第一ホテルに着いたときは、午後九時をすぎてしまっていた。しかし、そんなにおくれたにもかかわらず、「大分県の中の朝鮮文化を考える会」のみなさんは、ホテルのロビーでずっと待っていてくれた。
地元の利を生かした活動
そこでやっと私たちはいっしょになって、二時間近くいろいろと話すことができたわけであるが、集まっていた人々はみなそのまま郷土史家といっていい人ばかりだった。そのことは、それから間もなくして出た会誌をみてもよくわかった。
『古代朝鮮文化を考える』第一号とした会誌には会員のうち九人が執筆していて、その目次をここに紹介させてもらうと、こういうふうになっている。
「日本の神話について」足立寛/「望郷の碑『小倉山』私考」今村勲/「岩戸神楽のルーツについて」大野勇/「残留朝鮮文化」東公義/「古代朝鮮について思う」平松勲/「おおいたの夜明け七瀬の里に築いた渡来集団の足跡」松尾則男/「上田原集落の古代の謎」都良男/「国東と朝鮮人の思い出」保原直猛/「白村江について」吉川敬三郎。
その内容までいちいち紹介することはできないが、みなそれぞれたくさんの参考文献をあげたりして論述しているけれども、何といっても強味は、地元のことなら小字の地名にいたるまで、くわしく知っているということである。
たとえば、東公義氏などは朝鮮語にも通じているらしく、その「残留朝鮮文化」をみると、「地名として残っているもの」としてこうある。
駅館。これをヤクカンと呼ぶことに不思議を感じている。この読みは朝鮮語からきている。即ち、(ヨククァン)がなまって伝えられたものと考えられる。駅館は、駅館川の東岸、松下電器会社との接地で小字名となっている。古墳文化時代に文化技術者として渡来した者が居住していたのではないかと考えられる。
〈宇佐市の〉別府。この地名をビウと呼ぶ。ここに別府遺跡があった。別府は朝鮮語で(ビョルブ)である。そのビョルブがなまって口伝された。近くに山本の虚空蔵菩薩があり、……別府は仏教文化系の職人、僧職、学者が居住していて、免税付役などが別扱いされた特府地であったのではないかという。
新洞。安心院《あじむ》町にある。この種の地名は韓国にもあって、新洞里、海洞、洞邑里、洞川などがある。〈新洞は〉かつての朝鮮人が活躍した地であろうと考えられる。
祖母山と久住山
羽田(秦)と滝尾百穴
大分市の第一ホテルで一泊した私たちは、翌日は松尾則男氏の案内で、まず大分市教育委員会をたずねることにした。そして同市教委参事の佐藤興治氏や、市史編さん室の赤峯重信氏たちに会い、『大分市の文化財・総括編』や、写真を中心とした『大分市の文化財』などをもらい受けた。
『総括編』のほうはあとのことにして、後者の『大分市の文化財』に「滝尾百穴横穴古墳群」のあざやかな写真がのっていて、それが埼玉県の有名な吉見百穴横穴古墳群にそっくりであった。説明をみるとこうである。
滝尾中学校グラウンド東の丘陵崖壁に、大小七五基の横穴古墳群がみられる。北西に羽田《はだ》集落と大分川をのぞみ、大分川をはさんで上野の台地と相対している。羽田集落は大分川の自然堤防上にあり、ここには弥生時代から古墳時代にかけての遺跡(羽田遺跡)が存在し、ここから下郡《しもごおり》にかけての台地周辺には、上下郡・松栄山・穴井前横穴古墳群がある。この中でも「滝尾百穴」横穴古墳群が、他の横穴に比べて圧倒的な数を占めている。入口の蓋はほとんどなく、早くから開口していたことがわかる。
このような横穴古墳が、横穴石室古墳と同じように、古代朝鮮からの墓制であることはいまは広く知られているばかりか、そう珍しいといったものでもない。
にもかかわらず、それをここに引いたのは、「羽田《はだ》集落」「羽田遺跡」というそこの地名がおもしろく思われたからでもある。
高来山の横穴古墳群
羽田は、この地にまでひろがっていた秦氏族の秦《はた》、すなわち「秦氏の勢力は豊国の豊前を源泉地として、豊後の方まで広がった」(中野幡能『古代国東文化の謎』)それをしめすもののはずで、これはあるところでは羽田野《はたの》ともなっている。そのことは松尾さんからもらった資料のひとつである、杉崎重臣氏の「木の上・高来山の横穴古墳」にみられる判田郷の判田にしても同じことがいえるにちがいない。杉崎氏はその横穴古墳のことを、こう書いている。
場所は大分川と支流の七瀬川が合流しようとして雄城台《おぎだい》のため三角状に迂流するところの西南隅(雄城台のつけ根)にあたる、通称「高来山《こうらいやま》」とよばれる山頂近くになる。横穴古墳から見ると、正面(西方)に大分川畔の田原集落を見下している。
大分川の向う対岸は国分(国分寺址あり)である。この横穴古墳に行くには、いまの世利《せり》集落から山道を登っていくが、古墳からは世利集落は見えない。古墳から十数メートルで山頂にたっし、ここからは集落が見える。現地から東南麓にある世利集落は、七瀬川をへだてて高瀬集落に対するが、高瀬の加羅にも横穴古墳群が存する。
大分平野の西南隅に位し、古代の条里制あともこの付近までつづいており、そして高来山・加羅などの地名(いまは小字名)が、横穴古墳群と直接的に結びつくかの感を抱かしめることは、今後の研究課題の一つとされよう。これらの地は住居に適せず、墳丘ないし祭祀の場所に適すると思われるゆえに、なおさらのことである。大分平野を東南にこえて判田《はんだ》に至るが、ここは昔の判田郷のあとであり、土地の広狭・利用性とともに、判田と高来《こうらい》・加羅《から》との地名において、まことに対照の妙をしめしている。
古墳の築造、寺院の建立、採鉱・冶金、また農耕土木など、各方面の技術を導入したのは帰化人たちであったと思われるだけに、右のような地名がはたして彼らの活動とどのように結びついているものなのか、を探ってみたいと思う。
あとのほうはどういうわけか、ちょっと持ってまわったような書き方となっていてよくわからぬところがあるが、それだけではない。「右のような地名がはたして彼らの活動とどのように結びついているものなのか、を探ってみたいと思う」としながら、あとは古墳出土の鉄剣、銅鏡、鉄鉾などのことばかり書かれていて、そのことについてはさいごまで一言もふれてはいないのである。
出土品をみればわかるだろう、ということなのかも知れないが、要するに、ここにいう加羅はいうまでもなく、高来《こうらい》は古代朝鮮を高麗《こま》、高麗《こうらい》=高来としたことからきたものということであり、判田も新羅・加耶(加羅)系渡来人の天日槍集団から出た秦氏族の秦《はた》だということのようである。それをあいもかわらぬ「帰化人」史観で書いているから、よくわからないことになっているのである。
祖母山の神婚伝説
さて、私たちは松尾さんともども、大分市と別府市との中間にある、新羅ということだったはずの白木をへて宇佐のほうへ向かっていたが、私は大分県の地図を開いてみて、その広大なのにあらためてまた目をみはるような思いをしないではいられなかった。中央部の大分郡をはさんで西南は熊本県、宮崎県境の直入《なおいり》郡となっていたが、直入郡だけでもあいだに竹田市をはさんだ広い地域で、その南端に祖母傾国定公園があって、そこに祖母山、古祖母山などという山地がある。
そこまではとても行ってみることはできなかったが、前記『日本の神々――神社と聖地』「九州編」の「健男霜凝日子《たけおしもこりひこ》神社」の項をみるとこういうことが書かれている。
当社は祖母《そぼ》山(一七五七メートル)と深く関係している。久住《くじゆう》山、大船《だいせん》山などとともに九州山脈の中心となる祖母山は嫗嶽《うばだけ》とか祖母嶽《そぼたけ》(『太宰管内志』)とも呼ばれ、『豊後《ぶんご》国志』では神武天皇の皇母神、豊玉姫を配祀したことにちなむ山名という。山頂には江戸時代に比〓《ひめ》神社と呼んだ上宮の石祠があり(『太宰管内志』)、下宮ならびに遥拝所は北部山麓の神原《こうばる》にある。神原の地名は当社の鎮座地にちなむものであろう。……
ところで、嫗嶽明神(健男霜凝日子)は豊後武士団の代表者である豊後大神《おおが》氏の祖神といわれる。『平家物語』や『源平盛衰記』には、始祖の大神惟基《これもと》は蛇神の申し子であるとする神婚伝説が伝えられ、またその子孫で豊後武士団の棟梁《とうりよう》として平家追討などに活躍した惟栄《これよし》は、「怖《おそろし》き者の末」とか「大蛇の末」とか表現されている。
夜に、女(花御本)のもとに通った貴人の身元を確かめようと、狩衣のくびがみに糸のついた針をさしてこれをたどっていったところ、「日向境、姥嶽《うばたけ》という嵩のすそ、大いなる岩屋の中に」〓《のどぶえ》をさしぬかれて苦しむ大蛇を見、その遺言によって生まれたのが惟基(胝《あかがり》大太《だいた》)であるというのである。『源平盛衰記』はこの大蛇を「嫗嶽ノ明神ノ垂迹也」と記している。渡辺澄夫氏は、この神婚伝説は豊後へ進出した大神氏が、農業神であった古代姥嶽《うばたけ》信仰を大和の三輪山伝説をベースに改変したもので、姥嶽明神を氏神とし水の支配を通じて祖母山南部の緒方盆地(緒方郷)に勢力を確立したようすを、神話化したものであると解釈した。
一方、富来隆氏は神婚伝説を踏まえて次のように説く。すなわち、第一に祖母山の古名を添利(ソウリ)というが、これは朝鮮語のソウルに由来し、これがソボ(祖母)に転訛した。健男霜凝日子という神名については、健男のタケは蛇神であり、霜は朝鮮語シルマ、つまり「糸の先」という言葉が転訛したもので、さらにコリも「環」という意味の朝鮮語である。つまり霜凝は針の先に環(小田巻・緒環)をつけたという意味であり、先述の神婚伝説を表現したものであって、結局、健男霜凝日子は大蛇神そのものを指しているのである、と(『佐伯史談』第一三一号)。ちなみに大神氏については、朝鮮渡来氏族とする説もある。
日本・朝鮮共通の伝説
ここにみられる「神婚伝説」は、朝鮮にも同じようなものがある。大和(奈良県)の三輪明神・大神《おおみわ》神社に伝わる「三輪伝説」ともよく似たもので、そのことについては、私は『日本の中の朝鮮文化』(3)「三輪伝説と穴師」の項でこう書いている。
――昔、あるところに大きな寺があって、その寺に一匹のこれまた大きな蜘蛛《くも》が住んでいた。寺の和尚はこの蜘蛛をたいへん可愛がり、毎日、飯の残りなどをあたえていたが、蜘蛛はだんだん大きくなり、やがてそれが変じてひとりの美しい乙女になった。ところが、乙女はいつの間にか懐妊し、日がたつにしたがって、それが人目につくようになった。
寺の和尚は大いにおどろき、どうしてそういうことになったのか、と乙女にたずねた。すると、乙女はこう答えた。毎夜毎夜、居所も知らぬある美青年が自分のもとへかよってくる。つい情にほだされ、共寝をかさねるうちに、このような身重になった。だが、その青年はいつも夜中に来て、夜の明けないうちに帰ってしまうので、明るいところではまだその姿をみたことがない。
そこで和尚は、それなら針に長い糸をつけておき、こんど青年が来たときは、その針を彼の着物のどこかにさしておくとよい、と教えた。そうして青年が帰ったあとで、その糸をたぐって行 ってみよ。すれば、青年の居所もわかるだろうし、また、どういう者であるかもわかるであろう。
その夜さっそく、乙女は和尚に教えられたとおり、青年にはわからぬようにして、長い糸をつけた針をかれの着物にさしておいた。夜明け近くになり、青年はいつものように出て行ったので、乙女は糸をたぐってそのあとをつけてみると、青年は寺の裏にある雪峯山という山の中の池にはいって行った。
乙女はそこではじめて、青年の居所を知ったのだったが、同時に、かれが人間ではなかったことも知った。青年は、その池の中の竜だったのである。
これは北部朝鮮の咸鏡北道に伝えられているもので、鳥居竜蔵氏の『有史以前の日本』にも紹介されているものであるが、同じような伝説は南部朝鮮にもある。なかには男女が逆になっているのもあって、これは男があせって美女の正体を知ったばかりに、それで破滅するというものである。――
なお、鳥居竜蔵氏の『有史以前の日本』には、日本・朝鮮共通のこの伝説、大和の三輪伝説にふれてこう書かれている。
大和には早くから出雲族が来て居《お》ったのであるから、彼等が此の伝説を旧《ふる》くからもって来たのではあるまいか。これは大いなる注意を以て研究すべき問題ではなかろうかと思う。……
この伝説は日本民族が此の地に移住せぬ以前より既に有ったもののように思う。何となれば、我が国にこういう伝説のあったのは『記』『紀』でも最も古い時代に於て、既に大三輪の伝説として伝えられているのである。
又、朝鮮にても、極めて遠い長白山脈、豆満江辺のような開けない処に行われているのである。又彼《か》の扶余族の伝説も多少これと関係を有するものらしい。して見れば、日鮮〈日本・朝鮮〉に於ける此の如き伝説は最も古い時代より行われて居ったものと言ってよろしい。若しも日鮮両民族が同じ種族として置かるるとせば、此の伝説は二者が共にXの土地に居った時から有った伝説であろう。これが各々《おのおの》移住した結果として、此の伝説がその人間に伴って分布したものであろう。
祖母・九住・九重の山名ももとは朝鮮語
ここでみた祖母山のばあいは、そのような伝説だけでなく、「添利(ソウリ)」だった朝鮮語の地名(祖母山)もともに分布したわけだったのであるが、しかもそれは祖母山ばかりではなかった。さきの「京都《みやこ》平野の古墳と山城」の項でみた福岡県田川郡添田町の添田というのも、そこの岩石山がもとは曾褒里《そほり》山だったことからきたものだったが、こちら大分県の直入郡にはさらにまた久住《くじゆう》山、九重《くじゆう》山があって、これもそのもとは朝鮮語なのである。
久住山は竹田市西北方の久住町にある、標高一七八七メートルという九州第一の高峰で、この久住山の久住というのは、南部朝鮮加耶の天降神話で知られる亀旨峰《クジボン》の亀旨ということからきたものであった。この亀旨はほかにまた日本神話の久士布留《くじふる》、〓《くしふる》ともなっているものであるが、久住山を含めた九重山群の九重も同じである。
さきの祖母山とともに、この久住山という山名も新羅・加耶系渡来人が分布した跡をしめすもので、そのことは近くの竹田市(これももとは直入郡)から朝鮮製の珍しい小銅鏡が出土していることでもわかる。一九八一年七月十四日の大分合同新聞をみると、「弥生時代の韓国産小銅鏡/竹田で出土/石井入口遺跡/佐賀に次いで日本で二面目」という見出しのもとに、それのことが写真入りでこう報じられている。
竹田市管生地区の石井入口遺跡から弥生時代終末期(二世紀末―三世紀初め)のものとみられる韓国産の小銅鏡が出土した。銅鏡の研究で知られる北九州市立歴史博物館の小田富士雄主幹が「韓国産に間違いない」と鑑定したもので、この時期の韓国産小銅鏡が日本で見つかったのは佐賀県の二塚山遺跡についで二面目。別府大学の賀川光夫教授と小田主幹が二十一日、石井入口遺跡の現地を訪れて詳しく調査する。県下では五十一年十二月、宇佐市の別府遺跡でほぼ同じ時期の朝鮮式小銅たく〈鐸〉がわが国で初めて出土している。今回の小銅鏡の出土で、当時、韓国と宇佐、さらに竹田を結ぶ何らかのルートがあったことが裏づけられるわけで、学術的に貴重な資料として考古学関係者の間でも注目されている。
記事はまだつづいているが、私たちはそんな新聞の切抜きや地図などを前にしてああだこうだと話しながら、さきの項でみた奈多八幡宮のある杵築市をへて、国東《くにさき》半島の東側となっている国東町にいたった。そして、宇佐・国東半島の古代についても造詣が深いという町長の伊勢久信氏に会ったりして、宇佐八幡宮のある宇佐市へはいって行った。
国東半島の寺院と石仏
比売神信仰と六郷山寺院
私たちは、伊勢神宮とならぶ二所宗廟のひとつとして日本古代史上に重要な位置を占める宇佐八幡宮や、九州で初めて朝鮮小銅鐸が発見された遺跡などのある宇佐市にはいったが、しかし、それらのある宇佐の中心部はもうしばらくあとのことにして、さきにその周辺部からみて行くことにしたい。
周辺となると、まず、宇佐の東北方の海に長く突き出た国東《くにさき》半島ということになる。「宇佐・国東文化」ということばがあるように、この国東半島も宇佐八幡宮と密接な関係にある地で、「現在でもわかるように、国東の何処を歩いても、郷や村落に宇佐神宮の別宮としての八幡社が見られるが、これは国東のほとんどが宇佐神宮又は弥勒《みろく》寺領であったことを示している」(梅原治夫『国東半島の歴史と民俗』)ところなのである。
だいたい、国東というのは国埼《くにさき》、国前《くにさき》とも書かれ、のち豊国が豊前国、豊後国とわかれるにおよんで豊前国の東にあったところから国東郡となったとのことであるが、この国東郡は国前・武蔵・来縄・阿岐・田染・伊美の六郷から成っていた。それでここにある仁聞《にんもん》菩薩ゆかりの寺院を六郷山寺院といったが、さきにまず、梅原治夫氏の『国東半島の歴史と民俗』に出ている本《もと》山、中《なか》山、末《すえ》山となっていたその六郷山寺院をみると、表のようになっている(注 電子文庫版では割愛しました)。
そして、梅原氏はその表につづけてこう書いてある。
この二十八ヵ寺は法華経八巻二十八品《ほん》になぞらえて建立され、三山組織をなしている。すなわち本《もと》山を学問の山とし、中《なか》山は修行の山で、末《すえ》山は験《げん》者の祈〓する山としている。……
かつて「陸の孤島」と呼ばれた国東半島の六郷に、こうした寺院が営まれたということは、特異というほかないだろう。しかもこの六郷山寺院は、奥ノ院又は岩屋(権現社)と称されるものを祀り、山王権現における祭神が小比叡《おびえ》神・大比叡神。熊野権現は熊野坐速玉《くまのにいますはやたま》大神・夫須美《ふすみ》大神となっているのに対し、ここではあくまでも祭祀の主神は比売《ひめ》大神であって、本地は仁聞菩薩となっているということである。
もともと熊野や日吉《ひえ》における権現信仰は、天台僧によって創造されたものであるが、国東の六郷寺院における権現信仰は、宇佐の祖神(地主神)である比売神信仰によるもので、寺院そのものも他宗派寺院と異なり、修験寺院である。
要するに、二十八ヵ寺の六郷山寺院は、仏教寺院ではあるが、そこにまつられているのは宇佐八幡宮の祭神である比売神だったということである。宇佐八幡宮が神仏習合した結果で、仁聞菩薩というのもその比売神の仏教的変身にほかならなかった。
すなわち、「比〓《ひめ》神は仏教者の才覚によって人母《にんも》と表わされるようになったが、この人母に暗示を得て仁聞《にんもん》菩薩という架空の人物を設け、六郷満山を開いたのはこの菩薩だと伝えるようになった」(和歌森太郎編『くにさき』)のである。
なお、私はさきに、この比売神は天日槍集団の信仰した太陽神や祖神を祭るシャーマン(巫女)で、その神を祭ったものがのちには守護神として祭られるものになったと書いたが、そのことは中山太郎氏の「巫女神信仰の由来と巫女の位置」にもこう書かれている。私はこれまで中山氏のこの論考を知らなかったが、いま、前記『国東半島の歴史と民俗』によって知ったので、それをここに紹介させてもらうことにする。
記紀風土記及び延喜の神名帳に現われた御子神を、ことごとく巫女関係の神ということは許されぬまでも、このうちの幾神かは、巫女そのものを神と祀り、または巫女と神との間に生れた御子神を、神と祀ったものであることは認めねばならない。……しかもこれらの巫女――即ち御子神をもうけた女性は、神母(又は人母・聖母ともいう)と称して特に崇敬を受け、往々神として祭られたものであって、巫女神のうちの幾柱かはそれに相当しているのである。
八幡神と弥勒信仰
ところで、では、その比売神信仰によって生じた六郷山寺院とはいったいどういうものだったのであろうか。これは、古代朝鮮・新羅の花郎《ハラン》(若いエリート集団としての武士団)が信仰していた弥勒信仰と密接な関係があった。
そのことについては、さきの「大分市からの手紙」の項でちょっとみた座談会「宇佐八幡と新羅花郎」で、私の発言につづき、宇佐・国東文化の研究をライフワークとしている中野幡能氏がかなりくわしくのべている。少し長くなるけれども、私の発言からみてもらうことにしたい。
金 たとえば弥勒信仰についてですが、これを新羅の花郎が信仰したということは、かんたんに言うと武神ですよね。宇佐八幡も、それから筥崎《はこざき》八幡も神宮寺がそれぞれ弥勒寺だったということは、これは決して偶然なことではなかったと思うんです。
やはりそれだけの理由があってそうなったのであって、「仏教的文化神としての八幡神」というのは、これは筑紫豊さんのことばですけれども、それが新羅から渡来して土着の比売神信仰と結合したのが宇佐信仰であるといわれておりますが、その土着の比売神も新羅からであるとぼくは言いたいんです。ですから、両方ともそうである。つまり比売神にしても仏教神としての八幡神にしても、新羅とは切り離せないということなんです。
中野 花郎とよく似たものが、国東半島の修験であります。寺院のつくり方、花郎の修行の方法などをみますと、国東半島の修験《しゆげん》者の修行の方法と花郎は実によく似ています。修験道というのは、畿内の大峰を中心として吉野と熊野との間に峰入りというのが起ってくるのですが、国東の修行の古い形は大峰とはまったく違っていまして、むしろ花郎の影響の方が強くみられるのです。
それともう一つは、修行者の選定の仕方が花郎と同じなのです。花郎も一つのエリートで、有力な人たちを選び出して官僚を養成しようとする一つの機関でしょう。それと同じように国東半島の修験者たちの行者を選ぶのも、みな宇佐八幡宮の神官の子弟で、その目的は大衆指導僧をつくることでした。それから両界の峰入りというものがなくて修験が行われているのは、日本のなかでは独自なものです。
これを文献の上で何世紀頃に新羅から入ってきて、どうやったかということをピシッとおさえることは大変むずかしいんですけれども、あり方ということからみてくると新羅花郎そのままなのです。たとえば国東半島のお寺は六十五ヵ寺ありますが、これは一つ一つ独立したお寺で、それを一つにして六郷山といっているわけです。これなども新羅の南山の五十五ヵ寺がそれぞれ独立していて、それを全部ひっくるめて南山となっているのと同じです。そこにも豊国と新羅との深い関係を、文化的に認めることが出来ます。
弥勒の問題では、神宮寺が弥勒寺として出てまいります。宇佐の別宮というのは全部弥勒寺といっていいのです。筑前の大分《だいぶ》八幡宮にも長楽寺という神宮寺がありますが、ほんとうの神宮寺は弥勒寺です。筥崎も弥勒寺で、肥前の千栗《ちくり》八幡も弥勒寺なんです。肥後の場合も三つ神宮寺がありますが、中心はみな弥勒です。薩摩の場合も大隅の場合もみな弥勒です。宮崎神宮の前身になる奈古八幡がありますが、そこも弥勒寺です。要するに八幡宮と直結した神宮寺というのは、全部弥勒寺なんです。
中野さんと私とのやりとりはさらにつづき、さきにみた仁聞菩薩についても、中野さんはこう言っている。
中野 わたしはこれは比売神の異称、法名であるとみています。そして仁聞菩薩というようにもってくるのは平安時代ですが、やっぱり新羅のシャーマニズムの問題と関係があって、それを抜きには考えられないと思いますね。たとえば、新羅のハルマン信仰などとも関係してきたようです。
金 要するに、比売神はシャーマンだということですからね。それが天日槍集団の比売神だと、ぼくは思っているんです。
編集部 国東の磨崖仏はほかの地方にはありませんですね。金さんはあれは新羅ではないかと言っておられますが、花郎と結びつくとなるとひじょうにおもしろいですね。
中野 ええ、ひじょうにおもしろいです。それと〈国東〉熊野の大きな石仏、大日如来のご面相は朝鮮人にそっくりではありませんか(笑い)。
金 中野さんにも似てますよ(笑い)。
国東・臼杵の石仏・磨崖仏
話題は比売神・仁聞菩薩から、国東半島に多くみられる石仏・磨崖仏のことに移った。これもまたなかなか重要なことなので、座談会のそれをもう少しつづけてみることにする。
中野 それに磨崖仏のつくり方をみて下さい。豊後一帯の石仏にしても、下野(栃木県)や大和(奈良県)の石仏にしても山の頂上に石仏をつくるということはない。ところが熊野の場合は頂上で、あたりを睥睨《へいげい》するようなつくりや、浅彫りで覆屋をかけなければ保存も出来ないというつくりは、やはり朝鮮の系統ですね。たとえば〈新羅の慶州〉南山の周辺をみるように……。
泊〈勝美〉 先月末に〈その〉南山の石仏を四日間かけて踏査してきたのですけれども、写真をたくさん撮って帰りまして、朝鮮にはもちろん行ったことのない人で、しかも石仏とかそういうものにまったく関心のなかった人に写真をみせましたら、国東と同じじゃないかと言いました。なまじ石仏など勉強をしている人でない人が、そう言ったということはおもしろいですね。
中野 石仏の場合、臼杵の方を中心とする石仏は木彫のつくりで、そういう深彫の仏様は朝鮮半島には少ない。しかし国東半島から以北の方の場合には、浅彫の仏さんばかりになります。この浅彫の磨崖仏は、南山を中心とする朝鮮半島にはいくらでもありますね。
技術者はみな坊さんですから、これらの人々の交流は歴史時代に入ってもかなり長く続いたように思います。もっとも花郎信仰のときに南山はさかんであったわけですが、花郎の信仰がはじまって間もない頃からすでに伝わっているんじゃないかと思うわけです。これは香春岳にもあると思うし、それがやがて英彦山に発展したんじゃないかと思います。
ここに臼杵の磨崖仏のことが出ているが、これは国東半島からずっと南の、別府湾をあいだに挟んだ大分市東南方の臼杵市にある有名なそれである。私は国東半島とともに、この臼杵も二度ほどおとずれている。一度は臼杵市の安養寺にある、秀吉の朝鮮侵攻戦争に従軍した僧・慶念の『朝鮮日々記』をみせてもらうためだったが、私はその都度、いくつかの石窟龕《がん》から成っている臼杵の磨崖仏も行ってみている。
なるほど臼杵の磨崖仏は、国東半島のそれにくらべると、中野さんのいうように深彫りのようであったが、しかしこれは平安時代以降にできたものであるから、それまでには石仏なども日本化がすすんだということなのかも知れない。いずれにせよ、そのもとはみな同じなのである。
郷愁をそそられる築地塀
国東半島を歩いてみると、いわゆる国東塔や、野ざらしになっているたくさんの石仏とともに、臼杵のそれと同じ石窟龕の磨崖仏などもみられるが、また、それだけではない。ふつうの民家にしても、朝鮮と同じものがあって、前記『国東半島の歴史と民俗』にそのことがこう書かれている。
最近はめっきり少なくなってしまったが、国東を歩いてよく石と赤土とを重ねた納屋塀を見かけるだろう。民家のことに興味がないと気付かないだろうが、大壁造り・練塀造り・真壁造りなどの土蔵民家が僅かながら残されているのを見かけて、郷愁をそそられる思いである。国東ではこの練塀のことを方言でネリビーと呼んでいる。
ネリビーは右に述べたように、赤土の練土と小石とを重ねて壁としたもので、築地《ついじ》(土塀)にもよく使われた工法である。しかも壁の表裏には赤土壁で薄くぬって形を整えている。昔は住居にもこの工法が用いられたようだが、現在残されているものは、ほとんど納屋や馬屋(畜舎)に限られている。
これは古代帰化人のもたらした工法で、中国東北部(旧満州地区)や朝鮮で現在も見かけることができる。
築地や城郭にも用いられたが、安土桃山時代に三和土工法が案出されて、築地・城郭の表面などを白壁にするようになったが、中身はほとんどネリビーの工法である。
そういう工法の築地塀などは、国東半島に限らず、全国いたるところで見られるものである。たとえば、私がそれを見て「郷愁をそそられ」、感動したのは、大和の薬師寺裏の古い築地塀や、同じ大和・広陵町百済の民家のそれだったが、民家・住居のことが出たので、ここでついでに、橿原考古学研究所の石野博信氏が書いている「古代日中韓三題」をみると、それのうつりかわりのことがこうある。
福岡県今川遺跡の弥生時代前期の住居は、韓国忠清南道松菊里遺跡の住居と非常によく似ています。平面円型で中央炉の両端に二本柱をもつ住居で、私はさきに北牟田型と考えましたが(「西日本・弥生中期の二つの住居型」『論集日本原史』吉川弘文館)、韓国松菊里型と考えた方がよいかもしれません。同型住居は、福岡・佐賀・熊本・広島の各県と和歌山県に認められますので、玄界灘を渡り、瀬戸内海を通って人々がやって来た証拠だと思います。
住居は、気候・風土によって一つの型ができあがります。人々が移住すれば、何世代かは故知の住居と同じ型の建物をたてることは、北海道移住者の住居の変遷からも解ります。住居は大地に刻まれた構造物ですから、物の移動ではなく、人間の移動を証明できます。
松菊里型住居は、弥生後期には継続していません。この頃、日本の風土に合った住居に変容したのでしょう。
姫島の比売語曾神社
姫島は目と鼻の先
のちに書く宇佐市の遺跡や宇佐八幡宮をたずねたときは、翌日からの時間のやりくりがつかなかったので、そのまま東京へ帰ってしまったが、それから十日ほどがたったある日、私は国東半島の武蔵町と安岐町とのあいだにある大分空港におり立った。そしてタクシーで、国東半島の北端となっている国見町の伊美港へ向かった。
古代の伊美郷であったところであるが、そこから、かねてからの懸案であった姫島へ渡るためであった。私はこれまで、国東半島は二度、三度と機会あるたびにたずねていたが、その半島最北端の小さな島である姫島だけはまだ行ったことがなかった。
「かねてからの懸案」といったのはそうだったからであるが、それでいながら私は、「国東半島の比売語曾神社」という一文を書くことになり、それのはじめにこう書いている。
――国東半島ということになると、私にまず思いうかぶのは、その先端にある姫島である。この姫島に比売語曾《ひめこそ》神社というのがあり、また大帯《おおたらし》八幡社や、アヤ踊りなどというのもあるそうで、私はそれらを是非一度この目でみたいと思っている。
実は、それもあって私は国東半島をたずねたことがあるのだが、そのときはどうしても姫島までは行くことができず、そのまま引き返したことがある。残念なことだったが、いずれ私は一、二泊の時間をとって、この島をたずねたいと思っている。――
この一文が書かれたのは一九七四年のことで、それまでの私は、姫島といえば面積七・二平方キロ、人口三千ほどの「離島」というイメージがさきにあって、そこへは一、二泊を予定しなくてはならないと思っていたのである。東京からするとたしかにそうだったけれども、あとで知ってみると、国東半島のある地点からは数時間で往復できるところだった。
調べてみればわかることなのに、どうせいずれは、ということでそれをしなかったわけであるが、そうしているうち三年ほどまえ、右の一文が単行本の『日本の中の古代朝鮮』に収録されたのを読んでくれた国東町寺山に住む宮園勝視氏から、懇切な手紙をもらった。宮園氏は国東町の教育長をしておられた人で、手紙には、「今、国東は“仏の里国東”などと観光的な面ばかり強調されていますが、本当は国東の昔のこと、姫島とのかかわり等、もっと学ばなければならぬことが沢山あります」とあった。
そして姫島村へ行くときは、村の北村教育長とも親しい間柄なので案内してあげてもいいし、連絡をとってあげてもいい、というのだった。もちろん私は、「そのときはどうぞよろしく」とすぐに礼状をだしたが、しかし、それからもなかなか機会をえられぬままにすぎてしまったのであった。
で、こんどいよいよ姫島へ渡ることになり、宮園氏に電話をしてみたところ、あいにく氏は体調をくずして病院通いをしているとのことだった。けれども、姫島村の教育長には電話をしておくから、といってくれた。
国見町の鬼塚壁画古墳
国見町の伊美港へ着いてみると、何と、姫島はすぐ目と鼻の先だった。ばかりか、そこからは一時間おきくらいでカーフェリーが往復していた。そして、片道の所要時間はわずか二十五分。
船が出る午後一時三十五分までにはまだ少し時間があったので、私は梅原治夫氏の『国東半島の歴史と民俗』を手にしたまま待合室から出て、西のほうにある丘陵に目をやってみた。別に珍しくもない蜜柑畑となっている丘陵地だったが、しかしそこにはかつてたくさんの古墳があって、なかでも国指定史跡となっている鬼塚壁画古墳は貴重なもので、手にしていた『国東半島の歴史と民俗』にそれのことがこうある。
東国東郡国見町伊美の西の山にあたる丘陵を西山と呼んでいる。この丘陵地は古墳群でうずまっている、といってもよいほどだったが、いまは開墾されてミカン山となっている。この丘陵の通称ワクド石と呼ばれる西山古墳群の一つに鬼塚古墳がある。
古墳はあまり大きなものではないが、横穴式石室墳で、現況では羨道の一部と玄室をもち、奥行き三メートル、幅二メートルの長方形、壁には巨石を用いている。かつて発掘調査が行なわれたが、すでに盗掘されて副葬品はなかった。この古墳には玄室各壁に線刻された絵画が残されている。壁画には鳥や人間に船などが描かれ、流動的なこの壁画は畿内出土の銅鐸に描かれたものとよく似ている。線が細かくわかりにくいが、古代人の生活がきわめて写実的である。
線刻には金属器が用いられていて、この驚くべき構図と造形美は、宇佐文化圏を代表するものであろう。
金属器が線刻に用いられたと書いたが、国東半島の海岸線は古代から良質の砂鉄が採取されたらしく、現在でもタタラ跡や鉄滓の出土が多く見られることも加えておこう。
比売語曾神社成立の背景
鬼塚古墳はおそらく、その「良質の砂鉄」を求めて姫島にまでいたった豪族の墳墓だったものにちがいないと思われたが、私はフェリーで姫島村に着くとなにはともあれ、ということで、村の金《かね》地区にあった比売語曾神社へ直行した。神社は山麓の岩かげにある小さな社だったが、しかし、それなりによくととのった風格のある社であった。境内に「比売語曾神社由来」とした掲示板があってこう書かれている。
垂仁帝の御代意富加羅《おおから》国(今の韓国南部)に都怒我阿羅斯等《つぬがあらしと》という王子があった。或る日黄牛に田器を負わせて田舎に行くと牛がいなくなった。探していると老翁が現れて、お前の探す牛は郡吏が殺して食ったという。阿羅斯等が郡吏の館に行って代償を求めると、郡吏は白石を渡した。阿羅斯等がその白石を寝室に持ち込むと、白石は美女となった。阿羅斯等が求婚すると、美女は忽ち消えた。阿羅斯等が追いかけると、美女は摂津の難波に行き、次いで豊後の姫島に上陸して比売語曾の神となった。――日本書紀より――
「美女は摂津の難波に行き、次いで豊後の姫島に」となっているが、これは逆で、姫島から次いで摂津の難波に、というのがただしいはずである。そのことについてはまたあとでみるとして、谷川健一編『日本の神々――神社と聖地』「九州編」に書かれた「比売語曾神社」をみると、それはかなりくわしくこうなっている。
姫島の北東、周防灘《すおうなだ》に臨む海岸部両瀬《もろせ》に鎮座する。国史見在社。旧村社。祭神は比売語曾神。比売は姫、語曾は古代朝鮮語の「社《コソ》」であろう。創祀年は不詳。赤水《あかみず》明神ともいう。
国東半島の北端約四キロの沖合に浮かぶ姫島は、総面積七・二平方キロの東西に長い小島。周防灘が伊予灘と交わる近くの海上に位置し、古来、瀬戸内海方面と結ぶ海上交通の要地であった。『古事記』の国産みの神話に登場する「女島《ひめしま》」(天一根《あめひとつね》)が当島に比定されるのも、古くから海上交通に重きをなしていたからであろう。
『日本書紀』垂仁紀の伝える比売語曾神は、朝鮮半島から渡来した童女《おとめ》が神に化身したものである。すなわち、童女は難波《なにわ》に詣《いた》って比売語曾神となり、あるいはまた豊国《とよくに》の国前《くにさき》(国東)郡に至って比売語曾神になったという。この伝承はおそらく、朝鮮半島から難波に至る古代渡来人の交通路を示唆したものであろう。
古代のその経路の一つは、対馬海峡を渡海して儺《な》ノ津(博多)に上陸したのち、ほぼ東に方向をとって田川郡香春《かわら》(新羅国の神という辛国息長大姫大目命を祭神とする香春神社がある)に至り、そこから周防灘に面した草野津《かやのつ》(行橋市)に出て再び海上コースをとり、姫島を経由して瀬戸内海へと東航する。姫島はこのように大陸文化の伝導経路上に位置し、北九州方面と瀬戸内海方面を結ぶ重要な役割を果たしていた。これが比売語曾神社成立の背景をなしたものと考えられる。
境内に「拍子水《ひようしみず》」と呼ぶ酸化鉄の沈澱した湧水があり、近くにも姫神が鉄漿(オハグロ)をつけた「かねつけ石」のあったという場所がある。赤水明神の名はこの湧水からついた名である。ちなみに、この姫島の対岸一帯は砂鉄の産地であり、戦国時代には国東郡の浦部衆(水軍)の一人であった岐部氏は、大友氏に対して、太刀やその原料鉄である切金を八朔《はつさく》の祝儀としてたびたび贈っている(「岐部文書」)。
神体は古くは祠のなかに婦人の形を彫刻したものであったといい、文政八年(一八二五)当時は筆を持ちオハグロをつける姿をした婦女木像であったと伝えられる(「日女島考」)。現在は白石を神体とするというが、これは童女のかつての姿が白石であったという『日本書紀』の伝承によったものであろう。
中世以降は社運衰退し、江戸時代には近くの大帯八幡社の末社のようになり、例祭も八幡社と同じ日に行なわれたが、漁師の厚い信仰を得ていたという(『太宰管内志』)。なお例祭は四月三日で「比売語曾祭」といわれ、御神体を屋形山に移して行なう古式の祭である。
産銅・産鉄集団の移動
ここでいう境内の「拍子水」は私もそこにあるのをみた。いまも赤茶色の湧水がぼこっ、ぼこっと湧きつづけていて、近寄って手をひたしてみるとかなり温《あたた》かく、いわば鉄分を含んだ鉱泉となっていた。さきにみた鬼塚古墳のある「姫島の対岸一帯」ばかりでなく、姫島自体も砂鉄の産地であったことをしめすもので、そのことは、比売語曾神社のあるそこがもと「鉄漿《てつしよう》」 の「金《かね》」というところであることでもわかるように思う。
要するに、さきの「大分市からの手紙」の項でみた奈多八幡宮と同じように、この比売語曾神社も、その砂鉄を求めて移動した産銅、産鉄族が祭ったものだったにちがいない。奈多八幡宮の近くに亀山古墳があったのと同じく、対岸に鬼塚古墳があるのもおもしろいが、もちろん、そのような産銅・産鉄族とは天日槍集団から出た秦氏族だったはずである。
ところで、私は比売語曾神社の比売神は、摂津の難波にいたものではなく、それは逆で、難波のそれがこちらから移動したもののはずだと書いたが、そのことはいま引いた『日本の神々――神社と聖地』の文脈からもわかるように思う。私はさきの「田川郡の香春へ」の項で、香春の現人《あらひと》神社の祭神となっている都怒我阿羅斯等についてこう書いている。
「これは『日本書紀』垂仁二年条に、比売許曾《ひめこそ》の神となった女神のあとを追って渡来した意富加羅《おおから》国(加耶)の王子とあるそれであるが、こちらは同『日本書紀』垂仁三年条や、『古事記』応神段には新羅の王子となっていて、これも比売許曾の神となった比売神(赤留比売)のあとを追って渡来したという天之日矛《あめのひぼこ》(『日本書紀』では天日槍)と同じ伝承を、二つに人格化したものなのである」と。
そして私はまた、瀧川政次郎氏の「比売許曾の神について」にこうあることも紹介している。
以上、私が明らかにし得ました比売許曾の社を西から順々に数えてゆきますと、筑前国怡土郡の高祖神社、豊前国田川郡の香春神社、豊後国国前《くにさき》(東)郡の比売許曾神社、摂津国東生《ひがしなり》(成)郡の比売許曾神社、同国住吉郡の赤留比売神社ということになります。私はこれらの比売許曾の社を次々につないで行った線が、近畿の帰化人が博多湾の糸島水道に上陸してから、近畿の各地に移って行った行程を示すものではないかと考えます。
ここにいう「豊後国国前(東)郡の比売許曾神社」とは、いま私がそこへ来てみた姫島の比売語曾神社であることはいうまでもないが、そして私は瀧川氏のこれを紹介したのにつづけてこう書いている。「筑前から大阪の摂津まで行ってしまったけれども、どうしてかここには、同じ比売神をまつる豊前国宇佐郡の宇佐八幡宮や、安芸《あき》国賀茂郡の亀山神社などが抜けている。しかし、それもあとのことにして」と。
多くの境内社をもつ大帯八幡社
その「あとのことにして」とした宇佐八幡宮はこれからのちつづけてみることになるが、金地区にあった比売語曾神社からの私は、ついで姫島村役場の教育委員会をたずねた。
すると、さきに書いた国東町の宮園勝視氏から連絡があったそうで、教育長の北村陽一郎氏はじめ、次長の阿部泰明氏や公民館長の木野村孝一氏、それに比売語曾神社の宮司ともなっている大帯八幡社宮司の江原不可止氏らが、私を比売語曾神社へ案内するためクルマまで用意して待ってくれていた。
私としてはただ恐縮するよりほかなく、「比売語曾神社へはもう行ってきました」と言うと、みんなちょっとガッカリしたようであった。私はいよいよ恐縮したものであるが、そのうえ、まだ若い宮司の江原さんからは、十七年前にだした『日本の中の朝鮮文化』(1)をさしだされ、「記念にサインを――」といわれて、私はまたびっくりしてしまった。
「わたしたちはみな」と、そばから教育長の北村さんがいった。「いずれはあなたがこの島へもくるだろうと思っていましたよ」
そして北村さんは、前年の一九八六年に出た『姫島村史』を一冊、私にくれた。私はそれを押しいただくようにして、さっそくそこに書かれた「比売語曾神社」の項を開いてみた。そこにも「比売語曾神社の祭神は、諸説がある」とし、「都怒我阿羅斯等《つぬがあらしと》が追いかけた女」はとして、「新羅王の子、天之日矛《あめのひぼこ》の妻」「辛国息長大姫大目命《からくにおきながおおひめおおまのみこと》」があげられている。
前者の天之日矛(天日槍)は「新羅王の子」といったものではないということや、その「妻」といわれるものは天日槍集団のシャーマン(巫女)で、それがのちに守護神の比売神となったものであることはさきに書いたし、香春神社の祭神である後者の辛国息長大姫大目命も、それと同じものであることもすでに書いた。
私は江原さんたちの案内で、対岸へのフェリーが出ている港近くにあった大帯八幡社をたずねた。長屋のように横に長くのびた社殿が珍しかったが、息長帯姫などを祭神とするこの神社もその本殿に、「宇佐八幡宮の柱木が使われていると棟木札に記入されているので、宇佐神宮とは浅からぬ縁があったのであろう」(『姫島村史』)というものであった。
この八幡宮でひとつおどろきだったのは、境内社ともいう摂社・末社の多いことだった。『姫島村史』にも、「どの神社にも境内社はあるが、大帯八幡社ほど、境内社の多いのは稀であろう」とあったが、それが秦氏族ゆかりの稲荷社など十八社もあった。
姫島という小さな島の神社に、これはどういうことだろうと私は思った。だいたい、日本にある神社・神宮の数は十一万余といわれるが、これらの摂社・末社まで加えると、それはいったいどれほどになるだろうか、とも思ったものだった。
中津から椎田まで
相原廃寺と大貞八幡
姫島からの私は、行きは国東半島を東からであったが、戻りとなったこんどは西側の香々地《かがじ》、真玉《またま》町などにある磨崖仏などみながら、豊後高田市にはいった。するともう日暮れになったので、私はそのまま、あとでみる宇佐市をへてさらにまた西北へ向かい、中津市にいたったところで一泊することにした。
ここで、大分県高等学校教育研究会社会部会編『大分県の歴史散歩』にある「宇佐と中津平野」の項をみるとこうなっている。
旧豊前国は周防《すおう》灘《なだ》にめんしてほぼ南北につらなる小国で、企救《きく》・京都《みやこ》・仲津《なかつ》・田川《たがわ》・築城《ついき》・上毛《こうげ》・下毛《しもげ》・宇佐《うさ》の八郡からなっていた。明治期府県制の成立によって宇佐・下毛の二郡は大分県に、その他は福岡県に編入された。
古代は下毛郡であった中津市で一泊した翌日の私はさっそく、旧国鉄中津駅近くにあった、中津市教育委員会をたずねた。そして、市民文化センター文化係主事の田中布由彦氏らに会い、同市相原《あいわら》にある相原廃寺や、大貞にある薦《こも》神社ともいう大貞八幡についてたずねたり、『なかつの文化財』などの資料をもらい受けたりした。
市教委の田中さんからもらった資料のなかには、相原廃寺跡の再発掘調査のことが問題となっている新聞記事のコピーもあったが、この相原廃寺跡については、前記『大分県の歴史散歩』にこう書かれている。
中津駅前から耶馬渓方面へ国道二一二号線を約四キロ南進すると山国川畔の三口《みくち》の村落にでる。……
三口の東〇・五キロに相原の村落がある。相原には古くから朝鮮寺とか百済寺などとよんだ寺院跡の礎石がみられるが、記録や伝承は残っていない。調査の結果、飛鳥末期の寺院跡で伽藍配置は法隆寺様式と推定された。塔の心礎は瑞福寺《ずいふくじ》に移転保存されている。村内からは素弁の蓮花文の古瓦が発見されている。
その廃寺跡はいまは水田となり、宅地となりしているとのことだったので、私は市役所前でタクシーをひろって瑞福寺をたずね、そこの境内にある塔礎石をみせてもらうだけとするよりほかなかった。ついでその近くにある薦神社の大貞八幡をたずねたが、この神社のことは、いまみた『大分県の歴史散歩』にこうある。
相原の東約二キロに大貞《おおさだ》八幡とよばれる神社がある。別名薦神社ともよび、宇佐八幡の元宮といわれている。一説によると八幡神社はヤハタの神といい、帰化人秦《はた》氏の氏神だったという。秦氏は日本に渡来後、土木技術をもって南下してきた。そして水利の不便だった下毛原《しもげばる》(中津平野)に多くの溜池を造成して水田をひらいた。このため秦氏にとっては池は守り神でもあったので、溜池のひとつを三角《みすみ》池または御澄《みすみ》池と称してこれを内宮とし、池畔に外宮の神殿(朱ぬり)を建てた。これが薦神社で、御澄池のなかには鳥居が建てられており、水面に朱ぬりの神殿と緑の社叢《しやそう》がうつるさまは神々しくうつくしい。
宇佐周辺の古寺と古瓦
薦神社・大貞八幡はそういうものだったが、この神社はのちにまたふれることになるのでおき、いまさっき相原廃寺をみているし、またさきには豊後「国東半島の寺院と石仏」をみているので、ここでついでに、これも宇佐八幡宮周辺となっている豊前におけるそれらの寺院についてちょっとみておくことにしたい。これも私がああこういうよりは、梅原治夫氏の『国東半島の歴史と民俗』によってみたほうが早いにちがいない。
梅原氏はいまさっきみた相原廃寺につづいて、それのことをこう書いている。
前にもふれたように、山国川をはさんだ対岸近くには垂水廃寺(新羅系寺院であったと伝えられている)と、同じ築上郡大平村土佐井に友枝瓦窯跡があって近隣の寺院に供給したものと思われ、ここからも飛鳥・白鳳期の古瓦が多く出土している。
また、駅館《やくかん》川を遡ること八キロの地点、国道十号の法鏡寺から南に二キロの山本集落(宇佐市駅川《えきせん》区山本)に虚空蔵寺跡がある。この寺は宇佐神宮の摂社・那瀬社の神宮寺的存在であったが、小椋《おぐら》山に神宮が創建されてまもなく衰微している。
虚空蔵寺跡は昭和二十九年発掘調査されたが、塔跡には基壇などが完全に残り、礎石とともに古代瓦がおびただしく出土している。なかでも遺物として注目されるのは、塔跡付近より発見された〓仏《せんぶつ》で、破片を合わせて五十数点が出土している。このうち完全なものは文化財として指定を受けたが、残念なことに宇佐にはなく、今は慶応大学の考古資料室におさまっている。……
このほか先年発掘された法鏡寺跡(宇佐市法鏡寺)からも、飛鳥・白鳳期の鐙瓦や宇瓦、女瓦なども見られ、日足廃寺(宇佐市日足)、四日市廃寺(同市四日市)などもあるが、いずれも古代寺院をしのぶものとされている。……
宇佐の古代仏教を解明するには、考古学的解明にたよるほかない。文献資料としての文書は後代の伝承的記録であって、その信憑性はとぼしく、残念なことにわれわれを満足させてくれるものはほとんどない。
しかし、いま廃寺となった宇佐周辺の古寺を訪ねると、飛鳥・白鳳期の古瓦の残片を手にすることができる。古瓦の残片を手にするとき、仏教伝来からの歴史のぬくもりが身内にぞくぞくと伝わってくるように感じられる。さらにこの古瓦に画かれた文様が百済・新羅系であることを知るとき、中津の相原廃寺も、宇佐周辺の廃寺もともに朝鮮から伝えられた仏教であったことを改めて認識させられるのである。古きものへの郷愁はいつの場合でもわれわれをとらえ、おそってくるものであるが、日本文化の底流も意外とそんなところにひそんでいるのではなかろうか。
なお、考古学者である小田富士雄氏の「西日本の新羅系古瓦」をみると、豊前では、その新羅系古瓦を出土した寺院として、次の五ヵ寺があげられている。
△虚空蔵寺跡(宇佐市山本)△垂水廃寺(築上郡南吉富村)△天台廃寺(田川市鎮西町)△椿市廃寺(行橋市福丸)△豊前国分寺(京都郡豊津町)
以上のうち椿市廃寺を除く四ヵ寺は、私は十六、七年前に来たとき、白川義孝氏ほかの案内でそれぞれ行ってみており、天台廃寺のばあいは近くにある田川高校の資料室で、豊前国分寺では同寺で、それらの古瓦もみせてもらっているが、右にみた寺院には相原廃寺、法鏡寺ほかが抜けている。なぜかというと、「ほか」はともかく、この二寺は百済瓦を出土した寺院だからである。
そして、中野幡能氏の『古代国東文化の謎』をみると、宇佐でもっとも古い寺院として、それのことがこうある。「現在でも遺構を残しているのが、虚空蔵寺であり、法鏡寺である。その様式はいずれも法隆寺様式であり、前者は新羅瓦を使い、後者は百済瓦を使って建てている。このことからみると、前者は宇佐氏が建て、後者は大神氏が建てたという伝えと一致する。つまり、宇佐氏は辛島氏とともに新羅瓦を使って建てたのに対し、大神氏は大和の百済瓦を使って建てたのである」と。
辛島《からしま》氏など、それぞれの氏寺だったわけであるが、宇佐・辛島・大神《おおが》の三氏はいずれも宇佐八幡に深くかかわった氏族で、この三氏についてはあとでまたみることになる。
中津市・吉富町の傀儡舞・神相撲
薦神社・大貞八幡からの私は、さらに西北へ向かって進んだ。すると間もなく、ここももとは豊前国だった福岡県の吉富町、豊前市、椎田町となったが、吉富町には「傀儡《くぐつ》の神相撲」ということで知られる八幡古表《こひよう》神社がある。
これと同様のものとしては中津市三保区北原に原田神社があり、さらにまた同区洞《ほき》ノ上には古要《こよう》神社があるが、さきにまず、前記『大分県の歴史散歩』によって、中津のほうのそれをみるとこうなっている。
北原は中世から北原算所《きたばるさんじよ》とよばれる傀儡《くぐつ》師《まわし》が住むようになり、宇佐八幡の末社大貞宮に属する散所《さんしよ》で、祭りのときは雑役をつとめ、平素は傀儡をまわして近郊を巡回興行していた。江戸時代になって狂言や操り人形・歌舞伎をとり入れ、北原の氏神原田神社の祭礼(二月四日)には万年願《まんねんがん》とよばれる人形芝居(県民俗)を奉納するようになった。
北原から南に約二キロの洞《ほき》ノ上に古要《こよう》神社があり、木偶《でく》六〇体が所蔵されている。これは傀儡子とよばれ、ヒノキでつくり彩色している。閏年《うるう》の一〇月一二日の古要神社の秋祭りでは、とくに古要舞《こようまい》・古要相撲《すもう》とよばれる傀儡をまわせたり、相撲をとらせたりする神事(国民俗)がある。古要舞用の二六体の大きさは約二五センチで、村人の奉納した神衣をきせてまわす。古要相撲用の三〇体は二〇〜四〇センチで、舞・相撲ともに、オドリコ(人形まわし)とよばれる村人が舞台の陰で両手をつかって所作をさせるもので、見物客でにぎわう。
そして、吉富町にある八幡古表神社のそれについては、前記『福岡県の歴史散歩』にこうある。
〈西鉄バス〉広津で下車し、北へ一キロ、山国川河口に、宇佐八幡ゆかりの八幡古表神社がある。この神社は、八幡社と古表社の二社をあわせて一社としたもので、女神騎牛像(重文・極彩色木造)はその八幡社のもの。……
神社に保存される傀儡《くぐつ》(重要民俗資料)四七体の演じる神相撲は、豊前市山田、大富《おおとみ》神社の感応楽《かんのうがく》・求菩提《くぼて》の松会《まつえ》(お田植え祭り)とともに、県の無形文化財に指定されている。
どちらの神社も、宇佐八幡宮ゆかりの神社であるというのがおもしろいが、そのような傀儡舞・人形芸能などは北部九州と限らず、全国各地でみられるものである。ところで、一九八六年九月五日の西日本新聞をみると、「日本の芸能/ルーツは北九州/朝鮮から“中継”/古表神社に原形残す(吉富町)」という見出しの、こういう記事がのっている。
人形浄瑠璃など日本の伝統人形劇の原形として各地に残る人形を使った神事は、朝鮮半島から北九州地域に伝わり、ここから全国に広まったとの説を、前国立劇場芸能部長で、芸能史研究の第一人者、富田鉄之助・文化女子大(東京)教授が近く発表する。
最古の人形劇の様式を残しているといわれる福岡県築上郡吉富町小犬丸、古表《こひよう》神社の国指定重要無形・民俗文化財「神舞・神相撲」を四日間現地調査して得たもので、同教授は「古表神社を中心とした北九州地域が日本の人形芸能のルーツ」とみている。
記事はまだずっとつづいているが、要するにそういうことで、これに対し、一方、韓国のソウルにある東国大の張漢基教授(演劇史)も吉富町の古表神社や、中津市の古要神社をたずねてそれを調査している。そして古表・古要神社の傀儡舞・神相撲は朝鮮のコットゥガクシ劇(操り人形劇)と同じ系列のものであることを確認している(「日本・九州に残る韓国民俗」)。
犬ケ岳と磐井
次は豊前市であるが、ここには犬ケ岳という高山があって、そこの岩岳川の谷のことが、前記『福岡県の歴史散歩』にこう書かれている。
古くは岩岳川の谷には新羅系の渡来人が多く住んでいたといわれ、六世紀のはじめ、大和朝廷の新羅征伐に反抗して討たれた筑紫の国造磐井《いわい》について、『筑後国風土記』では、磐井は豊前国上毛《こうげ》郡(この地方)に逃走、南山の険にわけいり死亡したとしるしてあり、彼は犬ケ岳にはいり死後、鬼神社にまつられたという。
磐井がそこへ逃走したということはありうるが、かれが「大和朝廷の新羅征伐に反抗して討たれた」などということの虚構であることについては、私はさきにみた筑後の「『磐井の乱』を考える」の項でかなりくわしく書いている。
矢幡宮跡の金富神社
ついでこんどは、古代の綾幡《あやはた》郷だった椎田町となったが、ここにはかつての矢幡宮があった。
いまは湊八幡・金富神社となっているこの神社は、以前にも私はたずねたことがあったが、小さな社殿にもかかわらず、境内は四千四百九十一坪という広大なもので、その境内の一角にいつからか、「原始八幡神創祀遺跡(学説)」とした長文の掲示板がたっていて、それのはじめはこうなっている。
三世紀頃、規矩〈企救〉、田川、京都、仲津、築上〈築城〉の五郡の地域に豊国があり、主祭神を辛国息長大姫大目命とも、豊比〓、玉依姫とも唱えて、辛島・長光・赤染等の同族によって斎き祀られていた。京都郡に栄えていた辛島族は三世紀の中頃に南下を始めて、当時下毛、上毛の二郡の地域にいて海神を祀る山国族と接触し、これと融合して共同の祭神として「ヤハタの神」を創祀した。これはヤマ・トヨ国の国魂の神であって、その地は綾幡郷(椎田町)の中央にあり、……この社が矢幡宮であって、当金富八幡宮はその古代宮趾である。
ここにいう「(学説)」とは中野幡能氏の『八幡信仰史の研究』などにみられるそれであるが、冒頭の「主祭神を辛国息長大姫大目命とも、豊比〓、玉依姫とも唱えて、辛島・長光・赤染等の同族によって斎き祀られていた」というのはそれでいい。
けれども、「京都郡に栄えていた辛島族は三世紀の中頃に南下を始めて、当時下毛、上毛の二郡の地域にいて海神を祀る山国族と接触し、これと融合して共同の祭神として『ヤハタの神』を創祀した」というのには、大いに疑問がある。
そのことについては、次の宇佐八幡宮でみることになるはずである。
宇佐八幡宮をめぐって
法鏡寺跡と虚空蔵寺跡
さて、ようやく、その周辺からみていた宇佐および宇佐八幡宮ということになった。そこでわれわれは、さきにみた「祖母山と久住山」の項のおわりのところまで戻らなくてはならない。
つまり、「大分県の中の朝鮮文化を考える会」の松尾則男氏とともに、「宇佐八幡宮のある宇佐市へはいって行った」とあるところまでであるが、そうして私たちは、宇佐市内のある地点で、こちらも「大分県の中の朝鮮文化を考える会」の会員である東公義氏と落ち合い、ともどもまず、宇佐市教育委員会をたずねることにした。
同市教委へは、私は十六、七年前に来たときにも行ったことがあった。いまそのとき一九七一年五月の「九州路(第二回)」とした日誌をみるとこうなっている。
――十六日(日・晴)。この日のクルマは松淵清さん。
九時すぎ、国道一〇号線を別府へ。十一時すぎ、同市亀川に住む別府大教授(考古学)の賀川光夫氏をたずねる。韓国の漢江流域にある岩寺里遺跡出土の土器と縄文晩期のそれとがおなじことから、日本へはこの時期すでに朝鮮から農耕がきていたと賀川さん言う。
ほかに駅館川古墳群のはなしから、虚空蔵寺、法鏡寺のことなどいろいろうること多し。そのうえ、宇佐市教委文化財係長の長野雅臣氏のことまで教えられる。
十二時すぎ賀川さん宅を辞し、一〇号線を宇佐へ戻る。途中昼食。
午後二時すぎ、法鏡寺交叉点を左へ、長野雅臣氏を自宅にたずねる。日曜日で休日だったにもかかわらず、長野さんいっしょに来てくれて、法鏡寺跡(なにもなし。麦畑と野菜畑)をみてから、休日の市教委へ。
そこで法鏡寺跡出土の百済瓦の写真などみせてもらい、市内山本の虚空蔵寺跡へ。これもいまは一面水田となっていたが、酒醸場脇に礎石がのこっている。八町四方だったという、すばらしい伽藍が偲ばれる。
駅館川左岸となっているこの辺一帯はかつての辛嶋郷だったところで、ついで虚空蔵寺跡、法鏡寺跡北方の、いまも「辛島」となっている集落をたずねる。山ふところに古い風格の家並みがたちならんでいたが、そこで長野さん言う。
「この辺の人は昔からあまり動いていないので、いまも五、六十戸あるうちの半数以上が『辛島』姓で、『渡来』『渡会《わたらい》』という姓も四、五戸あります」と。印象的。――
宇佐風土記の丘の古墳群
こんどあらためてまた宇佐市教委をたずねるについては、田村圓澄氏から社会教育課文化財係の小倉正五氏を紹介されていたが、市教委のある市役所の建物からして、十六、七年前に来たときとはまるで変わってしまっていた。
市教委では小倉さんほか、社会教育課文化財係長の橋爪紀介氏、同社会教育課長の小桐健氏らに会い、『宇佐地区圃場整備関係発掘調査概報』や『法鏡寺跡発掘調査概報』など、たくさんの報告書をもらい受けた。
もちろんそれらの報告書も、十六、七年前に来たときはなかったもので、その後における発掘調査の発展をものがたるものだったが、そこで私は小倉さんに向かって、「長野雅臣さんはいまどうしていますか」と訊いてみた。すると、長野さんは数年前、病気で亡くなったというのだった。まだ若い、いい人だったのにと思うと、胸につんとくるものがあった。
宇佐市教委からの私たちは、小倉さんの案内で、これも以前にはなかった「宇佐風土記の丘」とそこにある歴史民俗資料館をたずねた。別府《びゆう》遺跡出土の朝鮮式小銅鐸などが陳列されている、新しいしょうしゃな資料館もそうだったが、それとともに私たちの目をとらえたのは、「風土記の丘」として整備されたそこにるいるいとつらなっている古墳群だった。
赤塚、鶴見、角房、福勝寺、免ケ平、車坂といったいわゆる前方後円墳が中心となっていたが、そのうちの鶴見古墳については、一九七三年七月二十六日の大分合同新聞に、「六世紀の新型鶴見古墳/宇佐/朝鮮色の強い構造/珍しい装飾/脚つきツボなども出土」とした見出しの、こういう記事がのっている。
宇佐市は“風土記の丘”づくりの一環となっている春日山古墳群の中の鶴見古墳(駅川地区川部)の発掘調査を小田富士雄別府大学助教授らに依頼して二十日から行っているが、これまでの調査で同古墳が朝鮮文化の影響を強く受けた横穴式石室の構造を持つ前方後円墳であることがわかった。また墓前祭に使われたとみられる、宇佐地方で最も古い須恵器の脚つきツボなどが出土した。
別府遺跡出土の朝鮮式小銅鐸
記事はまだつづいているが、それはこのくらいにして、それら古墳群の東にある大分県立歴史民俗資料館では、学芸課長・甲斐忠彦氏の案内で館内をみてまわったことにうつりたい。陳列品としては弥生式土器や、仏像などをはじめ、古代宇佐文化の高さをしめすたくさんのものがあったが、いろいろな意味でやはり圧巻だったのは、宇佐で初めて出土した「朝鮮式小銅鐸」だった。
この小銅鐸が出土したことについては、一九七七年一月三十日の毎日新聞に「『朝鮮式小銅鐸』初めて出土/古代のナゾ/交流に手がかり/大分県宇佐」とした見出しのもとに、写真入りでこう報じられたものだった。
わが国古代史のナゾを解く手がかりになる朝鮮式小銅鐸《どうたく》が初めて見つかった。大分県宇佐市教委は今月五日から農林省の水路工事と並行して同市別府《びゆう》地区で「別府遺跡」の緊急発掘調査を進めていたが、二十九日、遺跡の一部の竪穴(五メートル四方)から弥生時代後期の土器片などと一緒に朝鮮で造られたとみられる小銅鐸が出土、大分県文化財保護審議会委員の小田富士雄さんが確認した。
この記事もはじめのイントロ部だけにしておくが、さいごは、「この二、三年で/最大の発見」ということで、こういうふうにしめくくられている。
森浩一同志社大教授(考古学)の話 小田さんが見たのなら間違いない。これまで、わが国で出土した銅鐸は朝鮮のものとよく似ているといわれながら、不思議なことに朝鮮式の小銅鐸は出なかった。だから、今回の出土は考古学上、この二、三年では最大の発見、大変貴重なものだ。この時代のナゾを解く大きな手がかりになる。
その小銅鐸の実物を、私はこの目で一度みたいものと思っていたが、銅鐸は高さ十三センチ、幅十センチという、文字どおりの小銅鐸だった。私は陳列棚に大事に飾られているそれに見入りながら、二千年近くもまえの弥生時代にはるばるとよくも、と思わないではいられなかった。
もちろんそれは、鶴見古墳出土の「脚つきツボ」などもそうだったと思うが、その時代に生きた朝鮮半島からの人々によってもたらされたものだったことはいうまでもない。
四万余社の八幡宮の総本山・宇佐八幡宮
資料館から出てみると、もう日暮れ近くになっていた。私たちはさきを急ぐことにして、そこからまっすぐ、風土記の丘の南方となっている宇佐八幡宮にいたった。
私はさきに、椎田町の矢幡宮の跡という湊八幡・金富神社をたずねたとき、「小さな社殿にもかかわらず、境内は四千四百九十一坪という広大なもので」と書いたが、こちら宇佐八幡宮の境内は十三万坪、これこそはまさに広大なものだった。
さきにまず、前記『大分県の歴史散歩』によってみると、その宇佐八幡宮はこういうふうになっている。
宇佐神宮は伊勢皇大神宮につぐわが国第二の宗廟、全国四万有余の八幡宮のいわば総本山。バスをおりて神橋をわたると、面積六〇ヘクタールに及ぶ広大な境内にはいる。本殿は小高い亀山(別名小椋山《おぐらやま》・菱形山)のうえに鎮座している。千古斧を入れないうっそうたる原始林のなかに丹《に》ぬり・八幡造《はちまんづくり》の本殿をはじめ、下宮・若宮・春宮・八坂・牛王などの境内社、また楼門・西大門・宇佐鳥居・呉橋・高倉・能舞台など付属建築物があり、コケむした参道の石畳や石灯籠とうつくしく調和している。本殿は三棟が南面し、むかって左から第一殿・第二殿・第三殿とならんでいる。
私たちはその「千古斧を入れないうっそうたる原始林」のなかとなっている白壁、朱塗りの壮麗な本殿からみて歩いたが、第一殿の祭神は誉田別尊《ほんだわけのみこと》(応神天皇)、第二殿は比売大神《ひめおおかみ》、第三殿は息長帯比《おきながたらしひ》売命《めのみこと》(神功皇后)となっている。これらの祭神については、あとでまたみることになるが、そのためにも、いまみた『大分県の歴史散歩』をもう少しみなくてはならない。
宇佐神宮の創立については諸説があるが、古代の豪族、菟狭津彦《うさつひこ》・菟狭津媛《うさつひめ》などの宇佐国造に関係あることはうたがう余地はない。しかし神社の発生や祭神などは古来異説が多く学会のナゾとなっている。豊前国は帰化人秦《はた》氏の勢力範囲で、その氏神を弥秦《いやはた》の神といったのが八幡《やはた》の神となったとの説、八幡神は『日本書紀』に宇佐島(大元山《おおもとさん》)にくだったと伝えられる三女神で瀬戸内海航行の海神であるという説、邪馬台国宇佐説から亀山は卑弥呼《ひみこ》の古墳という説、卑弥呼と神功皇后は同一人物でその陵墓、古墳という説など、異説がある。ともあれ宇佐神宮は創立いらい奈良朝廷とむすび、急速に勢力を拡大していった。また仏教ともむすび境内に弥勒寺《みろくじ》という神宮寺があった。
弥勒寺は聖武天皇の勅願により七三八(天平一〇)年ごろに建立され、弥勒菩薩・薬師如来を本尊とした。伽藍配置は薬師寺様式で金堂・講堂・東西三重塔・政所・僧坊・食堂・南大門・中門・西大門などをそなえていたが、一八五〇(嘉永三)年に暴風のため倒壊し、廃絶した。呉橋のそばにあった西大門(仁王門)だけは昭和一〇年ごろまであったが、神宮境内の拡張工事でのぞかれ、仁王像だけは神宮宝物館に保存されている。
弥勒寺の新羅鐘
「宇佐神宮の創立については諸説がある」とは、その祭神ともかかわることであるが、ここに神宮寺の弥勒寺のことが出ているので、さきにそれからみることにする。この弥勒寺が古代朝鮮の新羅とどういう関係にあったかは、さきの「国東半島の寺院と石仏」の項でかなりくわしくみているが、この弥勒寺にはまた、新羅の孝恭王八年(九〇四)につくられたという銘文の朝鮮鐘があった。
総高八十三・六センチ、口径四十七センチのこの鐘もいまは国の重要文化財として、神宮宝物館に保存されている。私は十六、七年前に来たときからその朝鮮鐘や、広大な境内の一角にあった弥勒寺跡もみているが、草ぼうぼうとなっている寺跡には、いまもあちこちに礎石が残っていた。
比売神信仰集団の南下
ところで、宇佐八幡宮の創立とその祭神であるが、だいたい、これが現在のような宇佐八幡宮となったのは七世紀から八世紀にかけてのことで、それよりずっと以前からここにはヤハタ(八幡。多くの秦・弥《いや》秦)の宮があって、そこに祭られていたのは比売神=比売大神であった。そのことは、梅原治夫氏の『国東半島の歴史と民俗』にもこう書かれている。
宇佐の比売大神のことは、風土記逸文に「豊前国宇佐の郡。菱形山。広幡八幡《ひろはたやはた》の大神。郡家の東、馬城《まき》の峰の頂に坐《いま》す」とある。紀の宇佐島と風土記の馬城峰とは同じ山、現在宇佐神宮の奥ノ院である御許《おもと》山(大元《おもと》山――六三〇メートル)のことで、このお山に天降ったと伝承している。
御許山を御神体としているが、それはこの山頂に三つの巨石があり、巨石を磐境《いわさか》としてはじめて影向《ようごう》され、ここに巨石崇拝の原始信仰が生れ、宇佐の祖神となった。
「宇佐に参るなら御許に参れ、御許もと宮もと社《やしろ》……」
このような俗謡がいまに伝えられているが、宇佐神宮の元宮である御許山の山頂こそ、本当の祖神は坐《いま》すのである、祖神の坐すところに参拝することこそ、祖神に対する儀礼だ、ということをこの俗謡は伝えている。
つまり、その山頂の巨石を比売神の顕現としたようであるが、この比売大神は、さきの「原始八幡神創祀遺跡(学説)」でみた「辛島・長光・赤染等が斎き祀っていた」「辛国息長大姫大目命、豊比〓」と同じものにほかならなかった。これは田川郡香春町の香春神社などに祭られた祭神で、それがさらにだんだんと、「豊国の王」ということであった豊日別《とよひわけ》がのちにその祭神となった京都《みやこ》郡(行橋市)の草場八幡宮などをのこしながら、築城(上)郡綾幡郷の矢幡宮へと南下したものだったのである。
もちろん比売神の南下とは、香春岳の産銅などで大をなした秦氏族からの出である辛島氏らの発展・南下ということであったが、それがさらにまた薦神社・大貞八幡などをのこして南下し、宇佐八幡宮となるにおよんで、その神を祭るものが辛島・宇佐・大神《おおが》の三氏となった。
そしてまた、八幡宮には誉田別尊(応神天皇)、息長帯比売命(神功皇后)が祭られることになって、八幡宮の創立に諸説が生じるようになったのである。そこにどうして誉田別、息長帯比売が祭られたかということなども含めて、そのことについては、次の「続・宇佐八幡宮をめぐって」の項でみることにしたい。
続・宇佐八幡宮をめぐって
八幡神の源流をめぐる諸説
私はこれまで、宇佐八幡宮の最初からの祭神である比売大神は、新羅・加耶系渡来人集団の象徴となっている天日槍、その天日槍(祭具)をもって太陽神や祖神を祭るシャーマン(巫女)であったこと、そしてそれがのちには祭られるものとなって、その天日槍集団からの出である秦氏族の守護神となったものであることをみてきた。
つまり、宇佐八幡宮はヤハタ(多くの秦・弥秦)族の総氏神であることをみてきたわけであるが、しかし前項でみたように、「宇佐神宮の創立については諸説があ」(『大分県の歴史散歩』) って、またたとえば、渡辺澄夫氏の『大分県の歴史』をみても、「宇佐八幡宮の研究をまとめた中野幡能氏は、これまでの祭神に対する諸説を要約して、仏教的神、母子神、鍛冶神の三群としている」とするそれを紹介し、さらにまた「中野氏の要約にはないが」として、そのことがこう書かれている。
その他、八幡宮は『日本書紀』の一書に、宇佐島にくだったと伝えられる三女神であるとし、宗像三神《むなかたさんしん》をその起源とする説もある。そして宗像三神は外海航行の守護神であるのに対し、宇佐八幡神は瀬戸内海航行の海神である、というのである。このように八幡神の源流をわが神代の神々にもとめるのに対し、これを外来の神とする説もある。古代の〈朝鮮〉半島との交通関係から八幡神を新羅《しらぎ》神とするもの、豊前地方に勝氏《かつうじ》や秦《はた》氏が多いことから、これらの帰化人の奉ずる氏神であろう、そして“八幡神”の名は“弥秦《いやはた》”で、帰化人である秦氏と関係があろう、というのである。
日本の有名な神社の中で、もっとも得体《えたい》の知れない神といえばおそれ多いことであるが、学問的にいってその発生・性格についてこれほど紛々たる異説のある神社はないのである。
ところが、中野幡能氏が先年『八幡信仰史の研究』という大著をあらわし、長年の学界のなぞに対して一つの新解釈をあたえた。以下氏の研究にしたがって、八幡神のおこりについて考えてみよう。
その「おこり」についてはこれからみるとして、さきにまず、渡辺氏のいう「このように八幡神の源流をわが神代の神々にもとめるのに対し、これを外来の神とする」うんぬんということである。かんたんにいって、「わが神代の神々」とはなにか。それも「外来の神」ではなかったか、ということである。
同氏のいう「わが神代の神々」とは、「宇佐島にくだったと伝えられる三女神」「宗像三神」のことだが、このいわゆる「宗像三神」がどういうものだったかについては、さきにみてきた筑前の「『此地は韓国に向かい……』」の項や「宗像大社の地にて」の項でみている。そしてそれがまた、秦氏族と密接な関係にあったということもみている。
そこで、中野幡能氏の『八幡信仰史の研究』であるが、その「新解釈」については、安藤輝国氏の『消された邪馬台国』にも要約が紹介されているので、同書に書かれた「八幡宮の原像」とともに、それをみることにしたい。
八幡宮の原像については幾つかの見方がある。それを大別すると(1)大陸からの渡来者が奉じた外来神で新羅の神、鍛冶の神、銅の神とする説(2)原始部族国家の信仰神とする説(3)蛇神信仰とする説――などである。
まず(1)の外来神説であるが、八幡神は「ハチマン」ではなく「ヤハタ」と読む。ヤハタは「弥秦《いやはた》」がなまったもので、渡来人秦氏が祭った鍛冶、銅の神である、というもの。
秦氏といえば、豊前地域はその渡来拠点であったことが、大宝二年(七〇二)に編纂された正倉院文書の「豊前国戸籍」で明らかにされている。
それによると、豊前国の中心をなす仲津郡(現在の行橋市と京都《みやこ》郡)と上三毛郡(豊前市と築上郡)などで、総人口(六一一)の九三%(五六八)が秦部、勝の姓をもつ秦氏系で占められている。記載されてない企救、田川、宇佐などでも、おそらく同じ傾向だったと見てよい。
このことは、八幡神が秦族の信仰神だったと見られるに充分な根拠をもつ、といってもよさそうだ。
本項の最初に紹介した『宇佐宮託宣集』のなかでも、「辛国《からくに》の城に始めて八流の幡を天降して我は日本の神になった」という八幡神の託宣がある。
辛国とは、いうまでもなく古代の韓国(朝鮮)であり、八流の幡(白旗四、赤旗四の意味といわれる)は八幡―ヤハタに結びつく。そして「天降して日本の神になった」ということは、辛国(韓国)から渡来した神、ということを明言しているとも考えられるのだ。
次に(2)の原始部族国家の信仰神というのは、中野幡能氏の説である。
中野氏によると、原始部族国家は必ず信仰神をもっていた。たとえば宇佐、国東半島を中心とした宇佐国は「比売神」を、田河(田川)京都郡地方の豊国は「香春神」を、上毛、下毛郡地方の山国は「安曇神」を、というように。
宇佐国と山国は統合されるが、さらに、その山国は豊国と連合して山豊国となり、これが「八幡神」を祭ることになる。
八幡の名称は、ヤマトヨ―ヤマタイ―ヤバタイ―ヤバタ―ヤハタと変化して八幡神(ヤハタノカミ)となった。これが八幡神の最初の原像である。
この最初の八幡神が、六世紀末、大和王朝の蘇我馬子のバックアップで宇佐に来た大神比義によって、応神(天皇)信仰が八幡のなかに入り込み、宇佐在来の比売神と合体して七世紀以後の応神八幡神ができあがった。(『八幡信仰史の研究』)
この中野説は、宇佐神宮のすべての古文書と、全国の神社を回って集めた史料が基本になっているだけに、学界でも高く評価されている見解である。
が、この中野説も、八幡神と秦氏の結びつきを重視、外来説では(1)と共通する。
また(3)の蛇神信仰であるが、これは富来隆氏の説である。
豊後大神氏の祖に蛇神婚の伝承があることは、すでに述べた。富来氏によると、蛇神はトビ、トビノオ、トウベ、あるいはナガラなどと呼ばれていたが、大神氏の勢力拠点であった祖母山麓の豊後地方には、富ノ尾、飛ノ尾、登尾といった蛇神を祭る神社が多く、古来から“憑《つ》きものの神”として恐れられていたという。
また、俗にヤアタロと呼ばれる蛇に“青大将”があるが、八幡神はヤアタロの神であり、ヤアタロがヤアタ―ヤワタ―ヤハタと転訛、さらにハチマンと呼ばれるようになった、と説く。
さらに富来氏は、トビ、トベ、ナガラなどの蛇神を追跡していくうち、カリ、カル(またはコリ、コル)といった名称が、いつもトビ、ナガラにまつわりついていることを発見、それを調べていくと、カリ、カルは“カネ”の古語であり、韓語のクリ(銅)に結びついていることを突き止める。
そこで、さらに追跡していくと、八幡宇佐宮の神領地に香春採銅所(田川郡香春町)があり、ここが古代にはカハルと呼ばれ、奈良・東大寺大仏の鋳造にひと役買っていたことがわかったという。(『卑弥呼』)
この香春銅山には新羅神・都怒我阿羅斯等《つぬがあらしと》の伝承(書紀の垂仁紀)があり、辛国息長大姫と豊比〓《とよひめ》を祭る古い神社もある。ということは、大神氏の八幡神は新羅と無関係ではなく、結局、秦族が祭った(1)の外来神に結びついていく。
そこで、大神氏も秦氏につながる渡来者ではないか、という見方ができるが、こうなると宇佐、辛島氏の系統と同根ということになり、信仰争いをした経緯からみて割り切れないものが残る。それに大神氏は、虚空蔵寺をバックに新羅仏教を奉じた宇佐、辛島氏と異り、百済仏教の法鏡寺で対抗した歴史がある。
大神氏の出自が朝鮮半島からの渡来者であることは、まず間違いない。が、新羅系か百済系か、ということになると、以上、見てきたとおり、まだ多くの謎を残しているのである。
宇佐氏・辛島氏は新羅系、大神氏は百済系
そうとう長くなったが、要するに、これで宇佐八幡宮についての主な「諸説」は出そろったことになった。で、われわれはこれをどうみるか、ということになるわけであるが、私としては、これまでみてきたことに照らして、もちろん(1)の説をとる。
(2)の中野説も「八幡神と秦氏の結びつきを重視」していることでは「共通する」面もあるが、しかし、「原始部族国家は必ず信仰神をもっていた。たとえば宇佐、国東半島を中心とした宇佐国は『比売神』を、田河(田川)京都郡地方の豊国は『香春神』を、上毛、下毛郡地方の山国は『安曇神』を、というように。/宇佐国と山国は統合されるが、さらに、その山国は豊国と連合して山豊国となり、これが『八幡神』を祭ることになる」とあるけれども、これはどういうことか、よくわからぬということがある。
まず、「原始部族国家」とはどのへんまでのそれをさしているのか、ということである。
中野幡能氏のもうひとつの著書である『古代国東文化の謎―宇佐神道と国東仏教―』をみると、こういうくだりがある。
宇佐神宮に伝わった古文書を詳細に調べてみると、古くは渡来人に関係が深いと思われる辛嶋氏族と、宇佐地方に古来成長してきたと思われる宇佐氏族とが共同してお祭りしていたと思われる痕跡がある。
辛嶋氏族というのは豊前国(福岡県)の北方に勢力を有していた秦氏に関係すると思われる氏族であり、宇佐氏は豊前国(大分県)の南方と豊後国(大分県)の北方に勢力をもっていた土着の氏族であった。
「土着の氏族であった」「宇佐氏」とは、いったいどういうものであったか。これがもし、その後期から晩期には、日本列島における総人口七万五千八百ほど(小山修三「縄文時代の人口」)であった縄文人だったとすれば、それが渡来氏族の辛島氏族と「共同して」宇佐八幡宮を祭ったというのはおかしなことだ、ということになるであろう。
なぜかといえば、縄文人も「必ず信仰神をもっていた」かも知れないが、それは「上古の時、神といいしは人也」(新井白石『東雅』)の神とはちがう「自然神」といったものだったはずだからである。それが急に、渡来氏族のシャーマン・守護神であった比売神信仰に変わるとは(宗教こそはまさに保守的なものなので)、とうてい考えられぬのである。
だいたい、「宇佐、国東半島を中心とした宇佐国は『比売神』を、田河(田川)京都郡地方の豊国は『香春神』を」というのもおかしなはなしである。なぜなら、これまでみてきたように、その「比売神」と「香春神」とは同じものにほかならないからである。
それにまた、「山国」があって、その「山国は豊国と連合して山豊国となり」というのもよくわからぬことである。いまは福岡県の北東部と大分県となっているこの地方はもと豊国で、それがのち豊前国・豊後国となったというのが歴史的事実である。
要するに、かんたんにいうと、宇佐氏と辛島氏とは、どちらも秦氏族から出た同族にほかならなかったのである。そのことは、新羅仏教の虚空蔵寺が両氏族共同の氏寺であり、さらにまた、両氏族が共同して宇佐八幡宮を祭ったことでも明らかなはずであるが、これがどうしてそういう複雑なことになったかといえば、ひとつは田川郡香春の「採銅所」を中心に展開した秦氏族からは赤染、辛島、宇佐氏らが出て、これがまたそれぞれ大をなして対立したりもしたことと、もうひとつは、宇佐氏は「土着の氏族であった」という先入思想のためなのである。
この先入思想はどこからきたかというと、それは『日本書紀』「神武東征」段に、「行きて筑紫国の菟狭《うさ》〈宇佐〉に至ります。時に菟狭国造の祖、号《な》を菟狭津彦・菟狭津媛と曰《い》うもの有り」ということからきているのである。しかし、『日本書紀』「神武東征」段をそのように信じるなら、同段に出ている「稲飯命」はどうか、ということになる。『新撰姓氏録』によると、神武の兄というこの稲飯命は、「新良貴《しらぎ》」(新羅)氏の祖となっている。
それにまた案外、「神武東征」伝説というのはこれからみるように、秦氏から出た「応神東征」のことなのかも知れないのである。
そのことはあとにして、宇佐八幡宮を祭ったものとしてもう一氏、問題となるのは大神《おおが》氏である。この大神氏も「秦氏にいずる帰化人ともいわれ」(梅原治夫『国東半島の歴史と民俗』)とあるが、しかしこれは、百済仏教の法鏡寺を氏寺としたことからみて、百済系の渡来氏族ではなかったかと思われる。
そしてこちらは中野幡能氏のいうように、「最初の八幡神が、六世紀末、大和王朝の蘇我馬子のバックアップで宇佐に来た大神比義によって、応神(天皇)信仰が八幡のなかに入り込み、宇佐在来の比売神と合体して七世紀以後の応神八幡神ができあがった」とするのには私も賛成したいと思う。大和の蘇我氏も百済からの渡来(門脇禎二「蘇我氏の出自について」)だったから、大神氏とはそういう面からのつながりもあったかも知れない。
秦氏と応神八幡神・天日槍・神武東征伝説
ところで、それはともかくとしても、「宇佐在来の比売神と合体して七世紀以後の応神八幡神ができあがった」ということには、たいへん大きな意味が含まれている。そのことについては、安藤輝国氏の『邪馬台国は秦族に征服された』や『消された邪馬台国』にそうとう詳細に書かれている。
また、第四章が「秦《はた》氏立つ〈応神とその一族〉」となっている小島信一氏の『天皇系図』にも同じようなことが書かれているが、かんたんにいうと、「応神天皇は秦族の大王」で、「女王国を征服したのは秦族の誉田別命《ほむたわけのみこと》 のちの応神天皇である」というのである。それで、比売大神を祭神としていた宇佐八幡宮には、応神天皇とその母とされる息長帯比売(神功皇后)とが合祀されたというのであるが、しかし安藤氏のこれは「邪馬台国宇佐説」ともからんでいるので、それはそれでまたたいへんおもしろいけれども、私としてはこれ以上深入りしないことにしたい。
しかしながら、「応神天皇は秦族の大王」であったといわれると、秦氏族がそれから出た新羅・加耶系渡来人集団である天日槍集団の天日槍と、応神とのからまりが気になる。まず、『古事記』応神段に天日槍(天之日矛)の渡来伝承がながながと書かれていて、息長帯比売の神功皇后はその天日槍の外孫であるとしていることがある。
そして私は、あるいは私も、「神武東征」伝説というのは、九州で生まれたという応神の「東征」または「東遷」のことをそのような形で語ったものではないかとみているが、すると、さきにみた(筑前の「九州における天日槍」の項など)林屋辰三郎氏の「天日槍と神武東征伝説」という副題をもった「古代の但馬」に、「私は、はっきりいって天日槍伝説というものは、神武東征伝説という日本の国の、また、日本文化の最初にどうしても理解しておかなければならない伝説と同形のものと考えている」とあるのも気になる。
それからまたこれもさきにみた、その天日槍集団からの出である伊覩県主《いとのあがたぬし》(伊都国王)の一派が「東方の美地〈大和などの畿内〉を望んで東征」したとする瀧川政次郎氏の「比売許曾の神について」も気になるし、同時にまた、大和岩雄氏の「朝鮮の伝説の足跡」にこうあるのも気になるのである。
神功皇后(オキナガタラシヒメ)の母方の祖は、アメノヒボコ〈天之日矛〉と『古事記』は書くが、三品彰英氏も指摘するように(「アメノヒボコの伝説」)、神功皇后・応神天皇の母子の九州から畿内への経路は、アメノヒボコ伝説の経路とかさなっている。……
応神天皇は『古事記』では、敦賀のイザサワケ〈伊奢沙別〉の神と、名を交換したとある。通説では、イザサワケの神がアメノヒボコであることからして、アメノヒボコ=応神天皇である。とすると、難波王朝の始祖王は、その母方が新羅王子アメノヒボコにつながるだけでなく、その伝承でもアメノヒボコとかさなっているのである。
いずれにせよ、私はこれまで全国各地を歩いてわかったことであるが、その天日槍集団から出た秦氏族というのは、古代日本最大の氏族であった。その分布は九州はもとより、四国、中国、近畿、北陸、東海、関東地方にまで行きわたっているが、なかでも有名なのは、「さて、東征した秦系集団は、応神朝の終わった段階で山城(京都)の太秦に拠点を移す」(安藤輝国『消された邪馬台国』)とある、その山城における秦氏族である。
それは『日本の中の朝鮮文化(2)』「山城」でかなりくわしくみているが、かれらはそれでこれまた、宇佐八幡宮と同じく、全国にひろがった分社四万余の総本社である稲荷大社を祭っている。ばかりか八世紀末には、かれらはその経済力と政治力とをもって、それまでは奈良にあった宮都をこちら山城の京都に遷《うつ》しているのである。
あとがき
北部九州の筑前・筑後・豊前・豊後(福岡県・大分県)となったシリーズ『日本の中の朝鮮文化』第十巻目のこの稿が連載されはじめたのは、『季刊 三千里』第四十七号(一九八六年九月刊)からであった。しかし、この雑誌は第五十号(一九八七年五月刊)となったところで終刊となった。ちょうど筑前・筑後を書きおわったところだったが、それであとの豊前・豊後は月刊『韓国文化』へうつることになり、同誌一九八七年八月号から八八年一月号まで連載されたものである。
そういういきさつから、読者がかわったということもあって、さきの「九州における天日槍」の項とあとの「田川郡の香春へ」の項とには、かなり重複の部分がある。単行本となるときは削るつもりでいたけれども、しかしそれはやはり、さいごの「続・宇佐八幡宮をめぐって」にまでひびき合う重要なものとなっていたので、そのままとすることにした。まずこのことについて、読者のご諒承をえなくてはならない。
さて、実をいうと、本文にもあるように九州の地は、一九七〇年にこのシリーズ『日本の中の朝鮮文化』第一巻目をだしたあと、すぐにとりかかるつもりで、十六、七年前から取材をはじめていた。それがいろいろなことからそうならなかったのであるが、いま考えてみると、それがかえってよかったのではないかと思う。
なぜかというと、その間、九州ではさらにまた新たな発掘や発見が相ついだからである。ひとつは、「飯盛遺跡をたずねる」の項でみられる、一九八五年三月に発掘結果が明らかとなった飯盛遺跡などに代表されるものであるが、「銅剣・銅矛文化圏」といわれた九州で、「朝鮮式小銅鐸」につづき、「『朝鮮式』から『畿内型』へ」という「中間型銅鐸」が発掘・発見されたのもこの時期のことであった。
そして、すでに発掘、発見されていたものにしても、「『王墓か』について」の項でみられるように、「伊都国王墓」という三雲遺跡から出土した「前漢鏡」が「朝鮮半島製」のそれだったことがわかったのも、一九八五年七月になってからであった。このことはまだ、新聞の一隅を占める記事となっただけのようであるが、この種の鏡といえばすぐに「前漢鏡」としていた従来のそれに、強い反省を迫ることになるはずである。
そればかりではない。私がこのシリーズ十巻目のその部分の稿を書きおえたあともなお、いろいろな発見がつづいている。たとえば、一九八七年十一月七日の西日本新聞をみると、「新羅の金銅仏なぜ土中に?/観世音寺から出土/英彦山に次ぎ二例目/太宰府市」という見出しのもとに、写真入りでそのことがこう報じられている。
九州歴史資料館は六日、発掘中の観世音寺(太宰府観世音寺)南大門付近の遺跡から八世紀前半の新羅時代に朝鮮半島で作られたとみられる金銅仏が見つかったことを明らかにした。新羅の金銅仏が出土するのは、全国的にも極めて珍しい。台座や光背は失われているものの、像の一部は鍍金《ときん》が残るなど出土状況は良好で、同資料館では「歴史的、美術的に第一級の資料」としている。
金銅仏は如来形立像で、像高九・八センチ、全面さびで覆われているが、出来栄えは洗練されており、当時の新羅の鋳造技術の高さをうかがわせる。
それからまた、これは私の見落としたものであるが、筑前の糸島地方では「志登支石墓群」ばかりでなく、さらにまたその支石墓がたくさん発見されている。一九八六年十二月十日の西日本新聞をみると、そのことが、「支石墓五三基を発掘/砂地で保存状態良好/副葬品のつぼ一〇点も/志摩町・新町遺跡」とした見出しのもとにこうある。
糸島郡志摩町教育委員会は同町新町の新町遺跡で発掘調査を進めているが、九日までに同遺跡から五十三基の支石墓を発掘した。同郡は志登支石墓群(前原町、国指定史跡)など支石墓が集中する地域だが、これだけ多数の支石墓が確認されたのは、極めて珍しい。……
北部九州の支石墓は、朝鮮半島から伝わったものとされていることから、同町教委はこれら支石墓群が糸島地方と古代朝鮮との交流を改めて裏付ける貴重な資料として、来年度にも国指定史跡の申請をすることにしている。
要するに、このように九州というところは、いわば「日本の中の朝鮮文化」がぎっしり詰まった地であった。そうだったから、私は九州ではこまかいことにあまりとらわれることなく、できるだけ早く先へ進まなくてはならないと考えていた。
それで、この十巻目の本書では北部九州の全部、肥前の佐賀県までは、と思っていたものであるが、しかし気がついてみると、福岡県・大分県だけですでに一冊の分量となってしまっていた。九州は本文のはじめにも書いたように、北部と中南部とに分けて二巻を予定しているのであるが、こうなると、次の十一巻目は肥前の佐賀県ばかりでなく、琉球だった沖縄県まで加えなくてはならないので、こんどこそは、ほんとうに早足で先へ進まなくてはならないと思っている。
なお、本文にみられる引用文中の〈 〉内は私による補足であるが、このシリーズ『日本の中の朝鮮文化』は全十二巻を予定し、十二巻目は東北六県から北海道までとしているので、これまたそうとう早足とならなくてはならぬはずである。が、いずれにせよあと二年、一九九〇年までには全十二巻を書きおえることにしているので、読者のみなさんにはもうしばらくおつきあい願いたいと思う。
さきの九巻目につづいて、十巻目の本書がこうして成ったのも、講談社専務取締役の加藤勝久氏はじめ、学芸図書第二出版部長の田代忠之氏、松岡淳一郎氏の好意と努力とによるものであるが、さらにまた木村宏一氏のご好意に負うところも大きい。ここにしるして、心から感謝の意を表したい。
一九八八年三月 東京
金 達 寿
文庫版への補章
那珂遺跡から筑紫平野へ
二重環濠の発掘
本書四六判の親本が出たのは、一九八八年四月だった。いまからすると五年前のことになるが、その間、弥生文化発祥の地である北部九州ではさらにまた新しい発掘・発見が相次いだ。
なかでも特徴的だったのは、大規模な環濠集落の発見ということだった。環濠集落はいわゆる高地性弥生集落とともに、これまでにも知られていたが、それが紀元前四世紀、縄文時代晩期までさかのぼった最古のものであるということが新しい発見であった。
そのため、マスコミなどでも大きくとりあげられたものであったが、それはひとつは、その裏にというか表にというか、「弥生文化のふるさと」である韓国でもまた、ほとんど同時代のそうした環濠集落が発見されていることがあったからでもある。
私はこの四、五年のあいだ、この「文庫版への補章」のこともあって、講演などの機会をえては、あらたに九州の地を五、六度たずねているが、まず、年代ということもあるので筑前(福岡県)福岡市博多区の那珂遺跡からみることにしたい。それについては、一九九二年八月二十二日付け朝日新聞が、「縄文晩期の二重環濠/日本最古/那珂遺跡で出土」とした見出しのもとに、こう報じている。
福岡市博多区那珂六丁目の那珂遺跡で、縄文晩期(紀元前四世紀)に造られた二重になった環濠遺跡の一部が出土した、と二十日、同市教委が発表した。弥生時代に多くみられる環濠が縄文晩期に確認されたのは初めてで、国内最古となる。
市教委によると、環濠は外側の濠が幅約五メートル、深さ二メートルのV字型。内側の濠は幅約二メートル、深さ一メートルの逆台型。地表が削られており、当時はそれぞれ一メートル以上深かったと、市教委は推定している。
発掘された長さは外側の濠が二十五メートル、内側の濠が三十八メートル。約八・五メートル離れ、ほぼ同心円を描くようにゆるやかに曲がっている。環濠が円と仮定した場合、外濠の直径が約百六十メートル、内濠は同約百四十メートルになるという。
濠の底部から、縄文晩期とされる夜臼《ゆうす》土器の破片が出土したから、時代を特定した。
濠の内側は、調査範囲が狭く、すでに開発で地表が削られたことから、住居跡のような遺跡は確認できなかった。この時期の遺跡では、今回見つかった環濠から東へ約一・五キロに最古級の水田跡(国指定史跡)として知られる板付遺跡がある。これまで最古とされていた板付の環濠は弥生前期初頭とみられており、市教委は「那珂遺跡の環濠は板付より約五十年古い」とみている。
小田富士雄・福岡大教授(考古学)は、「これだけの溝を造るには、かなりの社会秩序ができていなくてはならない。朝鮮半島から稲作の技術が伝わってきたのと同時に、集落の形態も完成度の高いものが入ってきたのではないか」と話している。
奴国の支石墓
貴重な歴史的記録なので全文を引いたが、ついで東京新聞をみると、これは朝日よりずっと扱いが大きく、大きなカラー写真入りで、一面での見出しは朝日とほぼ同じであるが、解説を加味した二六面でのそれはこうなっている。「渡来人のコロニー?/那珂遺跡の二重環濠/『倭国大乱』の芽示す戦略的遺構/縄文人らと抗争、奴国建設」
そしてそのことが、「奴国は、中国の記録に現れる最古の倭人の国で、邪馬台国の台頭以前には、倭国の盟主的存在だった」として、こう書きしるされている。
学界の定説では、稲作や環濠集落などの文化的特徴を持つ大陸の人々が北部九州に渡来、弥生時代が始まった。那珂遺跡は二重環濠の規模の大きさからみて、渡来人集団のコロニー(植民地)とも考えられ、その子孫が土着の縄文人や他の渡来人集団と抗争を繰り返しながら、後の奴国を建設していったとの想像も成り立つ。
同遺跡の二重環濠遺構は、狩猟や採集中心の縄文時代から、国家権力を伴う農耕社会の弥生時代への過渡期の社会変革を探るうえで、極めて重要な発見であることは間違いない。
それを「コロニー(植民地)」といっていいかどうかは別として、私もそうだったにちがいないし、そのとおりだと思う。ここにみられる「奴国(なこく・なのくに)」の中心部は福岡市南隣の春日市で、本文(「那津・奴国のあけぼの」の項)でみているように、ここには奴国王墓とみられる支石墓の須玖《すく》岡本遺跡があり、また近くの志賀島には「漢委奴国王」の金印を出土した、これも奴国王墓のひとつといわれる支石墓があった。
どちらも支石墓だったということが重要で、これは『九州歴史資料館総合案内』の「墓の変遷」に、「弥生時代の社会や文化を復元する資料に墓がある。稲作を日本に伝えた朝鮮の人々はあたらしい形式の墓、支石墓を同時に伝えた」とあるそれであった。
この支石墓は紀元前一〇〇〇年ころからの古代朝鮮の墓制のひとつで、南部でのそれは、北部九州と同一文化圏だったといわれる、もとは加耶だった韓国の慶尚南道や全羅南道に集中していた。それはいまなお、全羅南道だけでも一万三千余基が残っている。
検丹里遺跡
なおここで、韓国における環濠遺跡をみておくことにすると、これについては、現地へ行ってみている国立歴史民俗博物館教授(考古学)の春成秀爾氏も書いていて、共同通信配信で一九九〇年七月六日付け佐賀新聞にのったそれの見出しはこうなっている。「朝鮮半島にも環濠集落あった/渡来弥生人の故郷か/韓国側から好資料続々」
そして、「この遺跡から出土した土器は、いくつかの時期のものを含んでいるが、中心は紀元前四、五世紀に属すると考えられる」という本文の、はじめのほうはこうである。
問題の遺跡は検丹里《コムタンリ》遺跡、場所は朝鮮半島の西南端近く、慶尚南道蔚州郡の内陸部である。
遺跡は、平地からの比高約五十メートルの丘陵上の平たん部にあり、眺望はきわめてよい。濠は、断面がV字型、当時の地表面はかなり流失しているらしく、残りのよいところでも幅二メートル、深さ九十センチにすぎない。
傾斜した地形に濠は掘られているので、水がたまることのない空濠である。おそらくこの濠の外側には掘りあげた土を積んだ土塁があったのであろう。環濠で囲まれただ円形の範囲は、八十五×百六十メートル、濠が南側で一ヵ所だけ切れているのは、そこが出入口だったからであろう。
さらにまた、この検丹里遺跡は九州大教授(考古学)の西谷正氏も行ってみていて、一九九二年八月四日付け朝日新聞夕刊に「弥生文化の原風景ほうふつ/韓国の環濠・木柵集落の発見」とした一文を寄せている。これもはじめと、おわりのほうだけちょっとみておくことにしたい。
朝鮮半島の青銅器もしくは無文土器の時代の環濠《かんごう》集落としてはじめて、慶尚南道蔚州の検丹里遺跡発見の第一報が本紙で紹介されたのは、二年前の一九九〇年春のことであった。そして今年に入って新たに五ヵ所の環濠集落が発見され、日本の考古学界ではいま、韓国に熱いまなざしが向けられている。……
ところで、松菊里遺跡は、松菊里型といわれる円形住居、遼寧式銅剣など豊富な副葬品を出土した石棺墓、炭化米を多量に収めた袋状竪穴の食糧貯蔵庫、さらには三十六ないしは六十一ヘクタールともいわれる規模の広さなど、朝鮮半島の青銅器時代を代表し、稲作農業を基盤とする集落遺跡としてよく知られてきた。
また、その文化要素の一部が弥生文化成立期の北部九州に及んでいることでも、これまでつねに注目されてきた。そして、このほど新たに防禦的性格の強い木柵が検出されるに及んで、稲作を基盤とする環濠集落として著名な板付や吉野ケ里の両遺跡に象徴される「弥生文化の原風景」が彷彿としてイメージできるようになってきたわけである。
筑紫君磐井という豪族
那珂遺跡についで、本文の「飯盛遺跡をたずねる」の項でみた、同遺跡からその後さらに発見されたことを、と思っていたが、それはあとのことにして、福岡市東南方の筑紫野市をたずねてみることにした。たしか一九九一年二月、「九州歴史大学講座」で講演をすることになり、その翌日だったかに、北部九州を歩くことではずっと世話になってきた松尾紘一郎氏を、またわずらわすことになった。
どうして筑紫野市だったかというと、そこに筑紫神社があったからである。私は本文の「『磐井の乱』を考える」に先立つ「岩戸山歴史資料館」の項で、「――八号墳から垂飾付金製耳飾りが出土している。加耶との係わりを示しているが、それ以上のことはいえない」とある西谷正氏の「四〜六世紀の朝鮮と北九州」を引いて、次のように書いている。「加耶との係わりを示しているが、それ以上のことはいえない」とはどういうことでかよくわからないけれども、あるいはもしかすると、それ以上のことになれば、事実上では「筑紫国王」であった筑紫君磐井の出自にふれなくてはならなかったからかも知れない。しかし、そのことについては、杉山洋氏の『岩戸山物語』(「八女郷土双書」第二巻)にこう書かれている。
筑紫君磐井は、いまから千五百年ほど前、この八女地方を本拠にして北九州を支配していた豪族です。『日本書紀』では彼のことを「筑紫国造磐井」と記し、『風土記』では「筑紫君磐井」と呼んでいます。どちらも、当時の北部九州を代表する豪族を意味しています。
筑紫君一族の発生の地は、福岡県筑紫野市筑紫だったといわれています。そしてここに鎮座する筑紫神社は、筑紫君が祭祀しました。祭神白日別《しらひわけ》が韓神であることは、筑紫君の先祖が朝鮮半島からの渡来人であったこともうかがわせます。
そして私は、新井白石の『古史通或問』(上田正昭訳)を引いて、「白日別」とは「新羅の別れ」ということであるから、「白日別」が「韓神」となったとし、つけ加えて、「磐井の乱」ということで有名な筑紫君磐井一族は、その新羅や加耶と密接な関係にあったのである、と書いた。
それからまた、私はすぐに次の「宗像大社の地にて」の項へうつることになり、こうも書いた。――岩戸山古墳からの私たちは、前日と同じ九州自動車道へ戻り、こんどは前日とは逆に、有名な宗像大社のある北端の宗像市めざしてクルマを走らせた。できたら、途中の筑紫野市にある、筑紫君が朝鮮渡来の祖神を祭ったものという筑紫神社に寄ってみたいと思っていたが、もう時間がなかったので、そのままクルマを走らせつづけるよりほかなかった、と。
以来、私はどうも、その筑紫神社のことが気になっていたのである。そこでまた松尾紘一郎氏をわずらわすことになったわけであったが、筑紫野市原田の、鳥居の額に「筑紫大明神」とある 筑紫神社に着いてみると、神社の本殿はまだ降雪の残っているかなり高い丘の上となっていた。
そこへは相当急な石段がつづいていたが、登ってみると、そこはまた相当に広い台地となっていた。要するに、樹木の茂ったその丘全体が境内地一万一〇〇〇坪という、筑紫神社となっているようだった。
神社本殿はよくみられるそれと同じだったが、残雪を踏んで社務所にいたり、「国号起源由来略記」とした由緒書をもらってみると、それにこうある。「御祭神は白日別命にて、後世玉依姫命、坂上田村麿の神霊を相殿に奉祀する当社は、延喜式神名帳に名神大の神格を定められ、神代の神様に座して、往古九州を筑紫と云う称は白日別命の神号より起り、筑紫(筑前・筑後)の国魂にして……」と。
そこにどうして、玉依姫はともかく、坂上田村麿(麻呂)が相殿の神霊となっているのかわからなかったし、また、「往古九州を筑紫と云う称は白日別命の神号より起り」というのもよくわからなかった。そのことは、「遥かな古代/筑前・筑後を合せて『筑紫の国』と名づけ、九州を『筑紫の島』とさえ称した/ああ、かくも大いなる筑紫/ここはその発祥地であり、中心地である」うんぬんとした、詩人・安西均氏による石碑ともなって境内にたっていた。
いかにも「筑紫国王」磐井の本貫地、その祖神の白日別を祭った神社にふさわしいと思われたが、ただ、どうして「往古九州を筑紫と云う称は白日別命の神号より起り」かはわからない。それはこれから調べてみなくてはならぬが、筑紫君自身の本拠地は、磐井の墳墓といわれる岩戸山古墳のある八女市域であった。
深田遺跡から出た居館跡
未発掘というその岩戸山古墳が発掘調査されると、もっといろいろなことが明らかになると思うが、一方、同市にあるその居館跡とみられるものは発掘された。一九九一年十一月二十三日付け西日本新聞をみると、「古墳初期最大の居館跡/磐井一族のルーツ解明も/八女市深田遺跡」とした見出しのもとに、そのことがこう報じられている。
福岡県八女市教委が発掘調査中の同市酒井田の深田遺跡から発見された古墳時代初期(四世紀初め)の豪族居館跡が、周囲を取り巻く方形環濠の規模から同時期としては全国最大であることが二十二日、現地調査した福岡大学人文学部の小田富士雄教授(考古学)によって確認された。この居館が築かれた時期は、五世紀に古代北部九州に勢力を広げ、六世紀に筑紫御井郡(久留米市)で大和朝廷と戦った筑紫君磐井《いわい》より一世紀も古く、磐井一族の居館であった可能性もあり、定説のなかった同一族のルーツを解明する手掛かりとして注目を集めそうだ。
同市教委によると、この居館跡は、東西約七十メートル、南北約六十メートルの方形環濠が完全な形で残っている。環濠はU字溝で幅二―四メートル、深さ一―一・五メートル。環濠の四隅には居館の特徴である方形突出部(幅五メートル)があり、物見やぐらが建っていたとみられる。
環濠の形態とその底から出土した土師器から四世紀の豪族居館と確認され、同時期の居館である大分県日田市の小迫辻原遺跡(環濠四十七メートル四方)などを上回る最大規模。環濠東西中央部には、居館に出入りするため盛り土した土橋もある。
八女地区には、磐井の墓である岩戸山古墳(八女市吉田)をはじめ、磐井一族のものとみられる約三百基の「八女古墳群」が残っている。考古学界では、磐井一族は福岡県筑紫平野から八女地区に南下してきたという学説が有力だが、今回発見された居館は、五世紀に築かれた石人山古墳(福岡県八女郡広川町)より約一世紀さかのぼる。
小田教授は「古墳時代初期に八女地方にはかなりの権力を持った豪族がいた証拠。居館が磐井一族のものかはさらに調査が必要だが、磐井一族の南下説に再検討を迫る重要な遺跡で、同一族のルーツ解明の一つの手掛かりになるだろう」と話している。
磐井が筑紫平野から南下したものだということは、『岩戸山物語』の杉山洋氏だけでなく、考古学界でもその「学説が有力だ」というのであるが、それとはまた別に、これを書きうつしながら私はふと、六世紀に磐井が「筑紫御井郡(久留米市)で大和朝廷と戦った」というその久留米にある古代朝鮮式の高良山城跡や、同じ古代朝鮮式の女山《ぞやま》山城跡のことを思いだした。
というのは、戦闘のためのこれらの山城は、百済がほろびたことで来た憶礼福留、四比福夫らによって七世紀後半につくられた大野山城や基肄《きい》山城とはちがって、ずっとその以前、すなわち磐井の時代と重なるものだったからである。で、それと磐井とは関係なかったのであろうか、と思ったわけだったが、それはおいて、ここでまた筑紫野へ戻ることにしたい。
「早良王墓」とオンドル跡
朝鮮式オンドルの跡が発掘されて
筑紫野市およびその周辺からは、近年、また新たにいろいろなものが発掘され、発見されている。たとえば、一九八八年八月三日付けのフクニチ(新聞)に、「九州最古の窯跡発見/須恵器生産の手掛かりに/筑紫野市」とした見出しの記事が出ているかとみると、また、同八月九日付けには、「筑紫野に有力なクニあり/首長クラスの墓から大量の遺品/隈・西小田地区」とした見出しのものがあって、そのはじめのイントロ部はこうなっている。
大型団地建設に伴って筑紫野市教委が発掘調査している同市隅の「隅・西小田地区」から八日までに、弥生時代中期後半(紀元一世紀前後)の首長級の墓とみられるカメ棺と、ほぼ同時代の銅戈《どうか》十五本が見つかった。カメ棺に当時権力の象徴とされる銅鏡をはじめ鉄剣、鉄戈、貝輪の豪華品が副葬されており、政治的な力を持った首長が率いる集団(クニ)の存在を強く示唆している。また、銅戈は十五本まとまって一ヵ所から出土したことから集団(クニ)の祭祀《さいし》儀式として埋められたものとみられる。大和政権以前の古代日本については、中国の史書、魏志倭人伝に記述があるがナゾの部分も多く、全容解明に向けて重要な手掛かりのひとつとして注目される。
この記事と直接の関係はないが、あるいはそういうこともあってか、一九九一年五月十六日付けの佐賀新聞には、「邪馬台国は筑紫平野/コンピューターで調べてみたら……/遺跡分布、密度に着目/及川教授(茨城大)ら新手法使い」とした見出しの、大きな記事が出たりしている。
一方、筑紫野市から東南方に目を向けると、後述の朝鮮式オンドル(温突)跡が出土した朝倉郡夜須町となり、その東南は甘木市である。一九九二年八月、この稿のはじめにみている、福岡市博多区の那珂遺跡から縄文晩期の二重環濠が発掘された三ヵ月ほどあとの九二年十二月、この甘木市では四重環濠が発掘されて、またさらにマスコミをにぎわすことになった。
このことはもちろん、東京の中央各紙でも大きく報じられたが、同九二年十二月十四日付けの西日本新聞にはとくに大きくとりあげられ、「邪馬台国時代の大集落/甘木市・平塚川添遺跡で発掘/木橋持つ四重環濠/九州初 吉野ケ里超す規模」とした大見出しの、長い記事となっている。
それからさらに、数日にわたってこの記事のフォローがつづいて、たとえば翌十二月十五日付けの同紙にはさっそく、「揺れる“卑弥呼の里”甘木/ビッグニュースに反応複雑/邪馬台国時代の大集落発掘/『町おこしの起爆剤だ』/『工業団地造成の足かせ』」とした見出しの記事がのるというぐあいである。
甘木市の工業団地造成に伴う遺跡発掘調査で、邪馬台国時代の五重〈このときは四重から五重目まで発見されていた〉環濠の発見というビッグニュースが飛び込んだ十四日、「卑弥呼の里・甘木」を合言葉に町おこしに努めている地元の甘木市では、驚きと喜びの声をあげる住民がいる一方で、地域振興策と期待されていた工業団地建設の遅れを懸念する相反する意見が聞かれた。「開発か文化財保護か」という古くて新しい課題の前で、歴史的な新発見は、また複雑な波紋を広げた。
というわけであるが、私の手元にはいま西日本新聞の平塚川添遺跡についてのフォロー記事の切抜きが二〇枚近くもある。要するに、甘木市はそれで沸きに沸いたわけであった。
それはひとつは、甘木市は従来から、邪馬台国九州説の人々のあいだで、有力な候補地となっていたからでもあった。それで十二月十六日付けの同紙には、「邪馬台国はみえたか!/甘木・平塚川添遺跡/九州説に有力材料/予想外だった低地集落/西谷正・九大教授に聞く」とした見出しの記事も出ることになった。
そこで、西谷氏はこう語っている。「わたし自身は畿内説だが、今回の発見は九州説を補強する有力な材料になるだろう。論争を単に机上の論争としてだけでなく、こうした地道な発掘調査による基礎データの積み重ねで北九州のクニグニ、そして日本列島の実態も解明するなかで、邪馬台国論争を深めていかねばならない」
高殿が語る“幻の王朝”
こんどは筑紫野市から西北方に目を向けると、古代「朝鮮の陶質土器出土」という松木遺跡のある筑紫郡那珂川町となり、ついで早良《さわら》区・早良平野となる。そして博多湾寄りの福岡市西区となっているそこに、「早良王国」の中心部となっていた飯盛遺跡がある。
吉武高木遺跡ともいうその遺跡については、本文の「飯盛遺跡をたずねる」の項でかなり詳しくみているが、これがまた一九九二年の十一月にいたって、さらにまた大きく脚光を浴びることになった。まず、同十一月二十一日付け西日本新聞は、第一面のほとんどをついやして、「最古の高床式建物跡/福岡市・吉武高木遺跡/倭人伝の四〇〇年前/弥生最大王の高殿か/四一の柱穴/強大な「クニ」存在?/市教委調査」とした大見出しのもとに、そのことをこう報じている。
「日本最古の王墓」として知られる福岡市西区飯盛・吉武地区の吉武高木《よしたけたかき》遺跡で、弥生時代中期初頭(紀元前二世紀)のものとみられる日本最古の大型掘っ立て柱建物跡が出土していたことが、福岡市教委の調査で二十日、明らかになった。四十一本の柱を使い、回り廊下まで巡らした弥生最大の高床式建築で、同市教委は遺跡一帯の早良平野に君臨した王が政《まつりごと》を行った「高殿《たかどの》」と推定している。文化財保護審議会は同日、同遺跡を国史跡とするよう文部大臣に答申した。
以上ははじめのイントロ部であるが、関連記事はまだ第三面、第三〇面までつづいていて、さっそく「新発掘・早良国/高殿が語る“幻の王朝”」とした解説の囲み記事が(上)・(中)・(下)と三日にわたってつづいている。「遺跡が倭人伝超えた」となっている(上)のあとを受けた(中)の十一月二十二日付けは、「渡来系の都市国家か」ということで、こうなっている。
△朝鮮系無文土器も出土
「邪馬台国より四百年も前に、高殿《たかどの》で政《まつりごと》を司《つかさど》る王がいた」
福岡市の吉武高木遺跡から出土した大型建物跡は、七年前に「日本最古の王墓」として全国に衝撃を与えた〈本文「飯盛遺跡をたずねる」「『王墓か』について」の項参照〉早良国の権力者の姿を、再び浮かび上がらせた。いったい、早良国とはどんなクニだったのだろうか。「王は朝鮮半島からの渡来人だったかもしれない」。遺跡の発掘担当者、横山邦継・市教委主任文化財主事は、大胆な仮説を展開する。
王墓や高殿があったとされる弥生中期初頭(紀元前二世紀)に絶頂を極めた早良国。昭和六十年、王墓から出土した銅剣、多鈕細文鏡《たちゆうさいもんきよう》、 勾玉《まがたま》の“三種の神器”は、その栄華を物語る。
このうち多鈕細文鏡は、朝鮮半島製とみられ、王と半島の深いつながりを示す。しかも王墓の北側にある墳丘墓(弥生中期半ば)からは、一例だけだが、朝鮮系の無文土器が出土しており、西谷正・九州大教授も「朝鮮半島南岸から渡ってきた可能性がある」と言う。
△別に生産地存在?
また、横山主事は、早良国の社会構造についても、興味深い推論を展開する。「王墓や高殿の周辺は、いわば政治機構を集中させた“都心部”で、生産地は別にあった」と言うのだ。
吉武高木遺跡は室見川の西側にあるが、周辺は土地がやせていて、稲作には向かない。ところが川の東側は肥沃《ひよく》で、同時代の村が点在している。つまり、生産地は川の東側だったと考察。「背後には“神山”と呼ばれる飯盛山があり、政治中枢としては、格好の位置だ」と言う。
これについては金関恕・天理大教授も「墳丘墓が神殿で、高殿は宮殿か。今後は市場や工房も見つかるかもしれない」として、都市国家の原型だった可能性を指摘している。
銅釧の発掘
記事はまだつづいているが、あまり長くなるので、これはこのへんまで、ということにしたい。というのは、これがいまみた別の生産地のひとつだったかどうかはわからないけれども、十一月につづいて、十二月一日付けの西日本新聞には、「早良王墓の衛星集落/弥生時代中期/鉄製ナイフ出土/福岡市の入部五次遺跡」とした見出しの記事もあるからである。
これのことは十二月五日付け同紙の、「シャーマンの墓か/福岡市・東入部遺跡で銅製腕輪出土/朝鮮半島との関係裏付け」とした見出しともなっているが、これについては同十二月五日付けの日本経済新聞にも、「遺体に一〇個の銅製腕輪/福岡市・東入部遺跡/弥生期の先進地域か」とした見出しのもとに出ているので、こんどはこちらのほうをみることにする。
弥生時代の方形墳丘墓や銅剣が発掘された福岡市早良区の東入部《ひがしいるべ》遺跡で、福岡市教育委員会は四日までに、同時代中期前半(紀元前二世紀ごろ)に朝鮮半島から伝わったとみられる銅製腕輪の銅釧十《どうくしろ》個を発掘した。墓内の甕棺《かめかん》の中に副葬されていたもので、地域のリーダーとなる人物がはめていたと推定される。
副葬されていた銅釧としては、佐賀県唐津市の宇木汲田《うきくんでん》遺跡に十八個と十七個の例があり、今回はそれに次いで多いことなどから、市教委は早良平野一帯が大陸と深いつながりを持つとともに、弥生時代の先進的地域であったことを証明する貴重な発見として注目している。
銅釧が発掘されたのは、甕棺墓など計百六十二基で構成する東入部遺跡内の共同墓地のほぼ中央部。銅釧の直径は六・五センチ、内径は六センチ、重さは二十グラムで、性別不明の成人の右手に副葬されていた。
市教委によると、当時この銅釧は朝鮮半島でよく作られており、権威の象徴として地域のリーダーとなる人物が幼少の時から腕にはめていたという。銅釧は今までに全国の十八遺跡で七十四個が発掘されている。
この記事もまだつづいているが、このへんで次へうつらなくてはならない。
加耶系須恵器とオンドル跡
次はというと、こんどは早良平野東北方の、玄界灘に面した宗像郡津屋崎町である。ここの宗像市には、一九九二年、同市教委主催の講演に招かれて、さらにまたいろいろとみているが、それはそれとして、もうひとつおもしろかったのは、その西隣の津屋崎町から加耶系土器とあわせて、古い朝鮮のオンドル(温突)の跡が出土していることだった。
これも、一九九一年十一月二十三日付け西日本新聞の記事によって、加耶系須恵器という土器からさきにみると、「最古級の須恵器が出土/津屋崎・小田遺跡/近くに生産拠点」とした見出しでこうある。
福岡県宗像郡津屋崎町教委は二十二日、同町在自《あらじ》の小田遺跡から、この地方で作られたとみられる五世紀前半(古墳時代中期)の国内最古級の伽耶系須恵器を発掘したと発表した。不良品のかけらも見つかっていることから近くに、大阪・陶邑《すえむら》や福岡・朝倉の古窯跡群と並ぶ窯があったと推定され、朝鮮半島の陶質土器の伝播《でんぱ》ルート解明に重要な手掛かりを与えそうだ。
小田遺跡は、玄界灘に臨む丘陵地のふもとにあり、現在は水田になっている。平成二年五月から七月にかけて調査が行われ、約八百平方メートルの祭祀土壙から大量の土師器に交じって朝鮮半島渡来の陶質土器や須恵器の破片が多数見つかった。
「加耶系須恵器」というのがおもしろくもあって紹介したが、ついで、渡来人によるそのような須恵器とも関係あるオンドル(温突)跡である。これは「オンドルの原形/煙道を確認/津屋崎・下の原遺跡からも/岡垣と並ぶ古さ/大陸との盛んな交流を裏付け」とした見出しの、一九九二年三月五日付け西日本新聞にこうある。
宗像郡津屋崎町教委は四日、同町在自《あらじ》下の原遺跡の五世紀後半の竪穴式住居跡から、かまどの煙を暖房に使ったとみられる煙道跡を確認した、と発表した。煙道は朝鮮半島に多いオンドルの原形といわれ、最古の暖房施設。遠賀郡岡垣町の墓の尾遺跡群でも二月に確認されており、当時の北部九州と大陸との盛んな交流ぶりを裏付けている。
煙道は、約六メートル四方の竪穴式住居内にあるかまどに接続。長さ約二・六メートル、幅二十五センチ。粘土製筒状だったと推定され、住居北側の隅の東西を走っている。一緒に出土した高坏《たかつき》などの土師器から、古墳時代中期(五世紀後半)とみられる。
暖房用の煙道を備えた竪穴住居跡は、小郡市や朝倉郡夜須町でも見つかっているが、いずれも七世紀前半のもので、下の原遺跡の煙道は岡垣町のものと並ぶ古さという。
下の原遺跡は、国内最古級の伽耶系須恵器が出土した小田遺跡などがある在自遺跡群の南側に位置し、広さ約五千四百平方メートル。ほ場整備事業に伴って一月から発掘が進められ、五十七棟分の住居跡と多数の滑石の装飾品、土器が出ている。
福岡大学の小田富士雄教授(考古学)は「五世紀は大陸から新しい文化が入ってきた時期。玄界灘沿岸地域の古くからの大陸との交流を裏付けるもの」と話している。
朝鮮では現在でも暖房装置として使われているそのオンドル(温突)跡が発掘されたのは、津屋崎町ばかりではなく、すでに遠賀郡岡垣町でも発掘され、さらにまた小郡《おごおり》市や、さきにちょっとふれた朝倉郡夜須町でも発掘されていたのである。しかも、それだけではなかった。
日本各地にあるオンドル跡と気候
そういうオンドル跡は九州ばかりでなく、滋賀県、長野県、兵庫県神戸市などの遺跡でも発掘されていた。たとえば、一九八六年十月二十六日付けの毎日新聞には、「大津・穴太遺跡の大型かまど跡/オンドルだった/煙道は長く、床下に/渡来人集落の存在、裏付け/奈文研鑑定」とした見出しの記事が出ており、また、八七年十月二日付けの信濃毎日新聞には、「平安中期庶民の知恵/床績にオンドル式住居跡/かまど分離/竪穴式で初/野口遺跡」とした記事が出ていて、おわりのほうはこうなっている。
国立奈良文化財研究所の宮本研究室長によると、神戸市東灘区の郡家《ぐんけ》遺跡の五世紀末から六世紀初めの竪穴式住居跡で、かまどと周溝が一体となったオンドルが、また野口遺跡と同じ分離型は、建物跡では大津市の穴太《あのう》廃寺(六世紀)に例がある。厳しい寒さに備えた先人の知恵として注目されるが、「朝鮮半島と違って湿度の高い日本では、湿度で土間がベトベトになり、そう長くは使われなかったのではないか」(宮本室長)という。
朝鮮では現在でもなお使われているそのオンドルが、どうして日本では「オンドル跡」となってしまったのであろうか。それは右の「宮本室長」のことばにも示されているとおりで、要するに、多雨多湿の日本と朝鮮とは風土がちがっていたからである。
そのことはオンドルばかりでなく、住居そのものについても同じことがいえるようである。いまは徳島教育大教授(考古学)となっている、奈良県立橿原考古学研究所副所長だった石野博信氏の「古代日中韓三題」をみると、「韓国の『弥生』住居」という項にそのことがこうある。
福岡県今川遺跡の弥生時代前期の住居は、韓国忠清南道松菊里遺跡の住居と非常によく似ています。平面円型で中央炉の両端に二本柱をもつ住居で、私はさきに北牟田型と考えましたが(「西日本・弥生中期の二つの住居型」『論集日本原史』吉川弘文館)、韓国松菊里型と考えた方がよいかも知れません。同型住居は、福岡・佐賀・熊本・広島の各県と和歌山県にも認められますので、玄界灘を渡り、瀬戸内海を通って人々がやって来た証拠だと思います。
住居は、気候・風土によって一つの型ができあがります。人々が移住すれば、何世代かは故知の住居 と同じ型の建物をたてることは、北海道移住者の住居の変遷からも解ります。住居は大地に刻まれた構造物ですから、物の移動ではなく、人間の移動を証明できます。
松菊里型住居は、弥生後期には継続していません。この頃、日本の風土に合った住居に変容したのでしょう。
風土によるそのような変容は、ひとり住居のみではなかった。その住居に住まう人間もまた、そのように変容してきたものだったはずである。
この第十巻は「筑前・筑後・豊前・豊後」となっているにもかかわらず、筑前・筑後だけで紙数がつきてしまった。あとは次の第十一巻の「補章」でつづけるよりほかない。
前巻と同様、この第十巻の本書(文庫版)がこうして成ったのも、講談社文庫出版局長の宍戸芳夫氏、ならびに守屋龍一氏らの努力によるものである。ここにしるして、心から感謝の意を表したい。
一九九三年九月 東京
金 達 寿
日本《にほん》の中《なか》の朝鮮文化《ちようせんぶんか》 10
筑前・筑後・豊前・豊後
講談社電子文庫版PC
金達寿《キムタルス》 著
金達寿記念室設立準備委員会 1988,1993
二〇〇二年三月八日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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