TITLE : 日本の中の朝鮮文化 9
講談社電子文庫
日本の中の朝鮮文化 9
阿波・土佐・伊予・讃岐
金 達 寿 著
まえがき
『日本の中の朝鮮文化』シリーズ第九冊目の本書が書かれたのは、一九八〇年代半ばから後半のはじめにかけてである。
いやな時期で、加藤周一氏が「軍国復活元年なのか」と書いたのは一九八五年九月二十日の朝日新聞夕刊だったが、すると間もなく、「復古調教科書」といわれる日本を守る国民会議編の高校教科書『新編日本史』というのが文部省公認のもとに出ることになり、私は目をみはったものだった。だが、ことはそれだけではなく、八六年の九月はじめには、現職の文部大臣から「藤尾発言」というのが吹き出てきたのであった。
被害者自身が「戸締まりがわるかった」からと「責任」をうんぬんするのはわかるが、加害者のほうがその「責任」がどうのというこの「藤尾発言」については、小林慶二氏が「歴史読みの歴史知らず」として九月二十六日号の『朝日ジャーナル』にこう書いている。
藤尾発言の問題点は何か。まず事実の誤認もしくは歪曲である。藤尾氏は日韓合邦は「伊藤博文と高宗との談判、合意に基づいて行われている」とし、それを「韓国にも責任がある」理由にあげているが、これは全く事実に反する。一九一〇(明治四三)年の合邦当時、伊藤はすでに暗殺され、高宗は息子の純宗に譲位していたことは梶村秀樹氏が『朝日新聞』(一〇日付夕刊)で書いているので、詳しくはふれない。
おそらく藤尾氏は「談判、合意とは、実質的に合邦の道を開いた一九〇五(明治三八)年の『保護条約(第二次日韓協約)』を指すのだ」と主張するかもしれない。だがこれも事実誤認といえる。
この「保護条約(第二次日韓協約)」というのが、当時日露戦争に勝利したばかりの軍事力を前面に押しだした伊藤博文により、どういう脅迫のもとに「締結」されたものであったか。そのことについては、私も日本外務省編の『外交文書』や林権助の『わが七十年を語る』などにもとづいてかなりくわしく書いたことがあるが、いまみた小林氏の「歴史読みの――」もまたそれらの文書を引きながらつづけて書いている。
しかしそれはおいて、要するに、私がここでいいたいのは、「藤尾発言」のようなそういう「事実の誤認もしくは歪曲」は近現代史についてばかりではないということである。古代史においてもそれは同じで、たとえば、本書「大三島の大山祇神社」の項でみることになった『風土記』の「校注」など、それの典型的なものの一つである。
それからまた、「讃岐の高松へ」の項では高松市のある「高校生の朝鮮観」というのを引いているが、これはそのような歴史の「誤認もしくは歪曲」が根となって、いま現実にどういう結果をもたらしているか、ということをみてもらいたいと思ったからである。
「若い高校生が朝鮮または朝鮮人についてどう思おうが、そんなことなどどうでもいい」といわれればそれまでかも知れないが、しかし、そうした偏見は相手ばかりでなく、自己をも同時に腐蝕しているのである。つまり、そのような偏頗《へんぱ》な感情が肥大することで、一方の理性は痩《や》せ細るのである。それではどうなるのか、ということになるであろう。
本文では事実を示すだけで、そんなことにはふれなかったが、「藤尾発言」なるものに触発されて、ここにあえてそういうことまで書くことになった。本書の「まえがき」としては似合わないような気がするが、おゆるしねがいたいと思う。
目 次
まえがき
阿 波
阿波国の成り立ち
鳥居記念博物館にて
大麻の神社と古墳
吉野川を渡って
「阿波人の祖」忌部氏とは
御間都比古神社をたずねて
韓背宿禰の祖神像
土 佐
室戸岬にて
南国市の弥生遺跡ほか
土佐の高知との縁
天韓襲命をめぐって
曾我山古墳まで
波多・秦・幡多
芸西村から日高村へ
長宗我部氏と豆腐
伊 予
瀬戸内海を渡る
大三島の大山祇神社
今治から川之江へ
東宮山古墳をめぐって
永納山城跡をたずねる
古代松山平野の須恵器
讃 岐
讃岐の高松へ
石清尾山古墳群と秦氏
屋島・三谷・一宮
讃岐の新羅神社
城山山城と綾氏
琴平の金刀比羅宮まで
あとがき
文庫版への補章
支石墓と前期古墳ほか
鬼面柄頭と最古の須恵器
日本の中の朝鮮文化 9
阿波・土佐・伊予・讃岐
阿 波
阿波国の成り立ち
淡路島から阿波へ
四国となったが、四国はこれまでざっと歩いてみたところでは(書きすすむにしたがって、これからもまた何度かたずねることになる)、古代朝鮮文化遺跡とわかるものはどちらかというと、瀬戸内海側の讃岐(香川県)や伊予(愛媛県)のほうが濃厚となっている。しかし、「おいしいほうはあとから――」ということにして、太平洋側の阿波・土佐(徳島県・高知県)からさきにみることにした。
私は、四月末となったある日の午後五時すぎ、国鉄山陽本線の兵庫県須磨まで行き、そこのフェリー須磨という港で、大阪からくる映像文化協会の代表となっている友人の辛基秀と、それからこちらは山口県の岩国からクルマをもってきてくれる、八ミリ映画同好会の池尚浩氏とを待つことになった。あらかじめ電話で打ち合わせたところ、まずこの日のうちに淡路島まで渡り、そして翌日早く阿波の鳴門《なると》へ渡ろうではないか、ということになっていたのである。
大阪からの辛基秀はすぐに姿をみせたが、途中、クルマが混んでいたため池尚浩さんが着いたのは、午後七時すぎになってからだった。なにしろ、遠い山口県の岩国からのうえ、それだけまたたいへんだったわけであるが、私たちはさっそく、午後七時五十五分須磨発のカーフェリーで、淡路島の大磯へ渡った。
フェリーのなかでは偶然、まえから顔見知りの淡路文化史料館長の五島清弘氏に会ったりした。船の中ということのおもしろさだったが、大磯からこんどは陸路、池尚浩さんが洲本市までクルマを走らすことになった。私たちはまえもって、その洲本に住んでいる『裸の捕虜』などの作家・鄭承博氏に、この夜泊まるビジネスホテルを紹介してくれるよう、たのんでおいたのだった。
そしてこの夜は洲本で、私はまえにもこの紀行(『日本の中の朝鮮文化』(6))で淡路島をまわったとき世話になった鄭承博さんと、それからこちらは、私が法政大文学部の講師となっていたころの学生だった兵庫県立洲本高校教諭の北原文雄さんたちと旧交をあたためた。そして翌朝午前八時すぎ洲本をたって、阿那賀発のカーフェリーで完成間近い大鳴門橋を望見しながら、亀浦に着いて鳴門市にはいった。
阿波の弥生・古墳時代
そうして四国の阿波となったわけであるが、そこの鳴門市について、ちょっとおもしろいエピソードがある。鳴門は、一九四七年に撫養《むや》町・里浦村・鳴門町・瀬戸町が合併して、今日のような人口六万余の市となったが、しかし鳴門市では旧鳴門町が中心となっているようにみられるので、はじめは鳴南《めいなん》市としたという。すると、「迷難《めいなん》市」かといわれたりするので、二ヵ月後に鳴門市と改めたというのだった。
私たちは亀浦におり立つと、そういうエピソードをもつ鳴門市の教育委員会をたずねることにしたが、そのまえにここで、原始・古代の阿波国とはどういうところであったかということについて、まずみておかなくてはならない。徳島県の『郷土資料事典』によると、弥生時代(原始)から古墳時代(古代)のそれはこうなっている。
△弥生時代
弥生時代に入ると農耕が始まり、定住生活が強められたが、それを裏づけるように、大正一五年徳島市庄町の総合グランド付近で、もみ痕のある土器片が発見された。使用具も石器から青銅器・鉄器などの金属器へとかわり、県内からは、入田町源田で銅鐸三個と銅剣一振りが発見されたのを始め、銅鐸三一個、鉄剣六振りが出土している。また、阿波の国内で近畿文化圏に属する銅鐸と、北九州文化圏に属する銅剣が同時に発見されているのは、当時の阿波が両文化圏の交錯地帯であったことを示している。なお、銅剣・銅鐸の出土地が、吉野川流域の山麓台地や海岸部のみならず、鮎喰《あくい》川・那賀川の上流地帯にまで及んでいるのは、生活適地がますます拡大されていったことを物語っている。
ここに、これまでよくいわれた「近畿文化圏に属する銅鐸」と「北九州文化圏に属する銅剣」ということがみられるが、しかし近年では北部九州などでも、銅鐸の祖型とみられている朝鮮渡来の小銅鐸や馬鐸があちこちで発見されているので、あながちそういうふうには分けられないといわれている。このことはいずれ、この紀行が九州となったときくわしくみることになるであろうが、そのような弥生文化については、竹内理三編『日本史小辞典』の「日本史年表」にもこうある。
〈西暦〉紀元前二五〇〈年〉ころ
朝鮮南部から水稲耕作と鉄器の使用伝わる(〈北部九州〉板付遺跡)。
三角州の湿地を利用した水田がつくられ、高床倉庫も出現する(津島遺跡)。
〈紀元前〉二〇〇〈年〉ころ
農耕技術と弥生文化が東海地方西部まで広がる。小豆・きび・粟などの畑作物も栽培。
このころ北九州に朝鮮製青銅器伝わる。
環濠をめぐらし井戸をもつ単位集落が農業集団内に出現。関東地方まで弥生文化が広がる。山間の谷水田が利用され、集落が山間に広がる。このころ倭に百余国あり。
「百余国」の「国」とはそういう集落連合のようなものであろうが、これでみると北部九州が中心で、原初のそれとしての近畿のことはほとんどみられない。要するに、銅鐸という青銅器を含む弥生文化は北部九州から、というわけであるが、ところで、前記『郷土資料事典』による阿波の古墳時代はこうである。
△古墳時代
人々が定住生活を営み、共同生活が生まれると、支配階級と被支配階級からなる国家組織が芽生える。阿波でも各地に小さい部落国家が成立したが、これらの統率者の墓と思われる古墳が、今でも県内に五百基余り残されている。その分布は、縄文遺跡の分布状態と全く同じで、初期の前方後円墳は、吉野川流域の北部である板野郡板野町から鳴門市西部にかけて多く残っている。県北東部に伝えられた古墳文化は、次第に南の勝浦川・那賀川流域や、吉野川中流域に伝播していった。このことは、徳島市入田や国府、吉野川中流域の阿波町などに残る古墳が、古墳時代中期以降のものが多いことから推察できる。
古墳時代も中期になると、阿波国内に散在する部落国家は、武力闘争その他によって次第に統一され、吉野川流域低地を中心とする粟国《あわのくに》と、勝浦川・那賀川下流域低地を中心とする長国《ながのくに》にまとめられた。『旧事本紀』には、応神天皇の一三年(二一三)三月、千波足尼《ちわのすくね》が粟国の国造《くにのみやつこ》に、成務天皇の五年九月、韓背宿禰《からせのすくね》が長国の国造にそれぞれ任命されたと記されているが、四世紀前半には、粟国は忌部《いんべ》氏、長国には長氏が国造となり、大化の改新まで両国を治めていた。
そして、「大化改新後、律令制による中央集権政治がはじまると、粟・長の両国は合して粟の一国となり、後に阿波に改められ、国造・県主《あがたぬし》は廃されて国司・郡司制がしかれた」というのであるが、粟国・長国、すなわち阿波の中心が東部の那賀川・勝浦川以北、とくに吉野川流域にあったというのはおもしろい。なぜかというと、そこは瀬戸内海の播磨灘や、紀伊水道に面したところだからである。
つまり、阿波の中心となる古代文化は、その瀬戸内海や紀伊水道を通じてはいったことが、これでわかるのである。そのことは、「四世紀前半には、粟国は忌部《いんべ》氏」が国造となったということとも関係があるように思われる。
韓背宿禰と天韓襲命
そのことについてはあとでまたみることになるが、ところで、ここにみられる長国《ながのくに》の国造であったという韓背宿禰《からせのすくね》とは、いったい何だったのであろうか。
これはおそらく、のちにみる土佐における波多《はた》の国造という天韓襲命《あまのからそのみこと》とも相通じるものではないかと思われる。
そしてこれはまた、九州にいた熊襲《くまそ》というものとも通じるもので、新井白石が『古史通或問《こしつうわくもん》』でいうように、熊が狛《こま》、すなわち高麗《こま》(高句麗)ということであったとすれば、熊襲の襲は新羅の原号ソ(徐)であったにちがいない。
つまり、熊襲とは高句麗・新羅ということになるが、とすると、天韓襲命の韓襲とは加羅《カラ》(韓)ソ(新羅)の人、ということになる。そのことは、これものちにみるように、土佐の波多(いまは幡多《はた》郡)が、ほかならぬ新羅・加羅(加耶ともいう)から渡来した秦《はた》氏族の集住地であったことからもいえるように思う。
そういうことで、土佐の波多ももとは波多国だったのではなかったかと思うが、その波多の国造であった天韓襲命と、こちら阿波・長国の国造だった韓背宿禰とは、どちらが先だったかといえば、その名称からして、前者ではなかったかと思われる。おそらく韓背宿禰は、のち、土佐の波多から移動して来たものだったにちがいない。
そうして、「四世紀前半には」一方の「粟国は忌部《いんべ》氏」にとってかわられ、この忌部氏が「阿波人の祖」(徳島史学会編『徳島県の歴史散歩』)ということになったが、しかし阿波にはいまも、韓背宿禰を祭神とする神社があちこちにある。
忌部氏とともに、こちらもまた「阿波人の祖」であったことを、それは物語っているのであるが、いったい忌部氏とは何であったかということについては、これからしだいに明らかとなるはずである。
鳥居記念博物館にて
撫養城跡の鳥居記念博物館
一方の北が瀬戸内海の播磨灘、東南が紀伊水道となっている鳴門は、古代から四国の門戸の一つとなっていたところであった。徳島史学会編『徳島県の歴史散歩』をみると、そのことがこう書かれている。
鳴門の中心地撫養《むや》は四国の門戸として古くからさかえた港町で粟《あわ》の門《みと》、牟夜《むや》ともよばれていた。『日本書紀』にでてくる「粟の門」は渦潮《うずしお》で名だかい鳴門海峡をさしているが、またこの地は鳴門ワカメの産地として著名で、『鳴門中将物語』にも登場してくる。藩政時代には塩の産地として名をはせ藩庫をうるおした。豊臣秀吉の四国征伐のおり、阿波へまっさきに上陸したのもこの地だった。また、鳴門・板野は古墳と寺社と城跡の多いところで、阿讃《あさん》山脈にはいたるところに古墳があり、阿波人の祖といわれる忌部《いんべ》氏をまつった大麻比古神社(旧国幣中社)、四国八八ヵ所の第一番札所霊山《りようぜん》寺、重文の経筒のある大山寺もこの地にある。
鳴門市教育委員会をたずねた私たちは、社会教育課長の平島照康氏に会い、千五百五十八ページとなっている大冊の『鳴門市史』上巻を手に入れた。そして私たちは、大麻山麓にある「阿波人の祖といわれる忌部《いんべ》氏をまつった大麻比古神社」に向かってクルマを走らせることになったが、それよりさきに、撫養町の妙見《みようけん》山頂にある徳島県立鳥居記念博物館をたずねてみることにした。
鳴門市の中心部が眼下となる妙見山頂(標高六四メートル)の鳥居記念博物館は、そこはもと撫養城跡だったとかで、三層天守閣様式の城郭が再現されたなかとなっていた。私はこれまで、武蔵国(東京都・埼玉県・神奈川県の一部)の武蔵《むさし》が朝鮮語モシ・シ(麻の種)からきたものであるという(『武蔵及其周囲』)ことなど、何度か鳥居龍蔵氏の文章を引用したことがあるけれども、その鳥居氏が阿波の出身であるとは知らなかったのだった。
そういうこともあり、この大学者に敬意を表する意味で、『鳥居記念館のしおり』にある「鳥居龍蔵博士略伝」をここに紹介させてもらうことにしたい。
鳥居龍蔵博士(一八七〇〜一九五三)は明治から昭和の人類学者・考古学者である。明治三年四月四日徳島に生まれ、少年時代から考古学に興味をもち、明治二十三年上京して東京帝国大学人類学教室の坪井正五郎博士に師事して人類学・考古学の研究に専念し、大正十年(一九二一)文学博士の学位を受けた。
明治三十五年、東京帝国大学理学部講師となり、大正十年理学部助教授に任ぜられ、人類学教室第二代の主任となり、同十三年辞任した。その後、国学院大学教授、上智大学文学部長教授、東方文化学院東京研究所評議員・研究員を歴任し、昭和十四年、招かれて中国北京の燕京大学教授に就任し、同二十六年帰国した。昭和二十八年一月十四日、東京都において逝去した。八十二歳。
日本国内をはじめ、中国東北三省・モンゴル・中国西南部・中国山東半島・台湾・千島列島・朝鮮半島・サハリン・東部シベリア・南米ブラジル・ペルー・ボリビアなどの各地に出張して人類学・考古学の実地調査をおこない、多くの著書・論文がある。
その著書・論文は近年、『鳥居龍蔵全集』全十三巻となって朝日新聞社から刊行されているが、博物館のなかの各コーナーは、鳥居氏が「各地に出張して人類学・考古学の実地調査をおこな」ったときに得た、中国・遼代の石彫迦陵頻伽《かりようびんが》像など、いろいろなものが展示されていた。なかでも、私にとってとくに興味深かったのは、朝鮮によくみられる支石墓(ドルメン)のパネル写真であった。
支石墓と妙見
圧倒的な迫力をもったそのパネル写真をみて外へ出て気がついたが、鳥居記念博物館の左裏手は鳥居龍蔵氏の墓となっていて、何とその墓が支石墓を模したものとなっていた。故人にとってその支石墓がよほど印象的だったからにちがいないが、ちなみにここで、水野清一・小林行雄編『考古学辞典』にある「支石墓」の項をみると、それはこうなっている。
(一) この名称は、朝鮮の支石(コヒンドル)に由来する。板石をふつう四枚にたてて方形の石室を作り、上にひらたい大石をおいて蓋とした卓子形の構造を、朝鮮では支石あるいは(二)石といい、中国東北ではおなじものを石棚とよぶ。……一九一〇年代に鳥居龍蔵による調査が朝鮮でおこなわれ、埋葬址であることが確認された。その後の学術的発掘は、これが石器時代末から金属文化初期にかけての埋葬址であることを立証した。
鴨緑江を北にこえた中国東北南部の太陽河、荘河、碧流河の流域に数十基の分布があり、海城、析木城、熊岳城、亮甲店のものは早くから知られていた。鴨緑江を南にはいると、〈朝鮮〉大同江流域では平安南道龍岡の石泉山をはじめ、江東、中和、祥原などの各郡に壮大な支石墓群があり、黄海道の殷栗郡にも巨大な支石墓がならんでいる。さらに南下して礼成江、臨津江、漢江、錦江、洛東江など大河の河口から上流におよんで支石墓群の分布があり、慶尚南北道、全羅南北道の海岸および島々にも群集し、東海岸の短い川の諸流域にも分布している。このように朝鮮半島における支石墓の分布は、海岸ぞいに、また河川にそってみられるが、これは支石墓建設者の生活を考えるさいみのがしえない事象である。……
(三) 〈中国〉東北から朝鮮にかけて分布する支石墓のあいだには、南と北とで構造上の明らかな相違があり、出土品の性質にも差がある。東北および北部朝鮮に分布する支石墓は巨大な平石を蓋とし、側石を立てて小室を作った典型的な卓子形であるのに対し、漢江流域以南にみられる支石墓は、碁盤(ごばん)形と名づけられた形のものがむしろ一般的である。……
日本にも十ヵ所以上の支石墓群があるが、福岡県糸島郡・筑紫郡・浮羽郡、佐賀県東松浦郡、長崎県高来郡、熊本県玉名郡および大分県の一部にかぎられる。調査されたものをみるに、巨大な平石の蓋を数個の支石がささえているが、下部の主体部は多くは甕棺であり、石室であり、ときには土坑であって、卓子形のものはない。むしろ南部朝鮮の碁盤形支石墓の下部構造にちかく、その源流が南朝鮮にあることをしめしている。
鳥居龍蔵氏の墓が支石墓を模したものであったことから、私は『考古学辞典』など開いてみることになり、その支石墓について勉強になったが、なお、鳥居記念博物館のある妙見山頂のそこには妙見神社がある。
この「妙見」は長門・周防(山口県)などにとくに多くみられる。そこの豪族だった大内氏族が信仰したものだったからで、その大内氏の祖となっている百済聖明王の第三子琳聖太子がもたらしたという、北辰信仰のそれと同じものである。
妙見山頂の妙見神社は、一八三〇年の天保元年にそこにあった旧撫養城主の子孫、四宮三郎左衛門が再興したもので、それで古城山といわれたそこの山も妙見山とよばれるようになったという。妙見神社を再興した旧撫養城主の子孫は、大内氏族からの出であったかも知れない。
大麻の神社と古墳
大麻比古と忌部氏
鳴門市中心部の撫養町から、同市最西部となっている大麻町の大麻比古《おおあさひこ》神社まではかなりの道のりだった。さきに講演のため徳島市まで来たおり、私は一度たずねたことがあったが、どうしたことか、いまはもうそれがどこだか、さっぱりわからなくなってしまっていた。
そのときはタクシーの運転手まかせだったからではないかと思うが、なにしろ、大麻山麓を流れる板東谷川沿いということはわかっていたけれども、そのような川沿いの谷はほかにもあった。それで私たちはそこをあっち行ったり、こっち行ったりして、やっと大麻比古神社に達することができた。
阿波国一の宮の大麻比古神社は、もとは標高五三八メートルの大麻山頂にあったものだとのことであるが(いまも奥宮がそこにある)、いつのころからか、のちその山麓にうつされたとされている。ゆるやかな登りとなっている八百メートルほどの参道両側の松並木がみごとで、それを目にしたことで私はようやく、「ああ、そうだ。これだ」とそこを思いだしたのだった。
徳島県指定天然記念物となっている「参道松並木」はどれも樹齢四、五百年の黒松の群生で、大麻比古神社の本殿・拝殿はその参道突きあたりの山麓にある。そこは大麻山県立自然公園となっているということもあってか、なかなか繁盛している神社で、前記『徳島県の歴史散歩』をみるとこうある。
“おわさはん”の名でしたしまれる大麻比古神社は鳴門市の最西部大麻町板東にあり、阿波国一の宮といわれる由緒ある格式たかい神社だ。阿波を開拓しアサ〈麻〉や木綿《ゆ う》などをつくって殖産のみちをひらいた大麻比古命を祭神としている。大麻比古命は天太玉命《あまのふとたまのみこと》の別名で、神武のむかし天照皇大神が天の岩戸にこもったときに太玉串をささげた神といわれる。また天孫降臨のとき先導をつとめた猿田彦命《さるたひこのみこと》を合祀《ごうし》してあり、交通安全の神さまとして新車の祓《はら》いとお札《ふだ》をうけに神社へくる人が多い。またこの地方一帯に産するカキ・モモ・ウメ・ミカンなど四季の果物をうりだす観光農業とのコンビで日ましに参拝客がふえている。とくに正月三ガ日の初参りは三五万人(昭和四九年)で全国ベストテンにはいる参拝客の数である。
「大麻比古命は天太玉命《あまのふとたまのみこと》の別名で、神武のむかし天照皇大神が……」とあるが、これはかんたんにいうと、後世の付会であるにちがいない。そのことについては、これは阿波国の前身であった粟・長国の国造に関してのことだけれども、『鳴門市史』に次のような適切な記述がみられる。
古代の豪族は、一般的におのおのその出自を皇室に結びつけたり、神話の伝承に付会して美化している。
いわゆる皇国史観のもたらす弊害(それではほんとうの歴史がみえなくなる)というもので、「阿波を開拓しアサ〈麻〉や木綿《ゆ う》などをつくって殖産のみちをひらいた大麻比古命」を「天太玉命」などとしたのも、それにほかならなかった。さきにみた『徳島県の歴史散歩』にも「阿波人の祖といわれる忌部《いんべ》氏をまつった大麻比古神社」とあったように、大麻比古というのは、その忌部氏のことだったはずである。
なおまた、徳島市内や、吉野川流域の麻植《おえ》郡山川町にも忌部氏を祭った忌部神社があるが、同じ『徳島県の歴史散歩』にそのことがこう書かれている。
麻植はかつて麻殖の字をあてていた。伝承によれば忌部《いんべ》氏がこの地にはじめてアサ〈麻〉を植えた古事によるという。山川町には忌部の祖神をまつる忌部神社があり、木屋平《こやだいら》村(現美馬郡)には忌部の子孫と称する三木氏が現住している。三木邸は民家として国の民俗文化財に指定されている。
大麻の古墳
ほかにまた、「阿波郡の人たちは、阿波を開拓した忌部氏がはじめて住みついた地だとして心ひそかにほこりにしている」などという記述もみられる。要するに、いたるところ忌部氏であるが、しかし、その忌部が何であったか、どこから来たものであったかということについては、あとで山川町の「忌部の里」にある忌部神社をたずねたときとして、ここでははなしを大麻比古神社のほうへ戻すことにしたい。
というのは、この大麻比古神社のある大麻町の古墳をみておかなくてはならないからである。そのほとんどは、大麻比古神社を祭っていた忌部氏族がのこしたものであろうが、『鳴門市史』をみると、大麻比古神社自体からして古墳であったらしく、それがこういうふうになっている。
(一) 大麻比古神社付近の古墳群
(1) 谷西の古墳群
大麻比古神社の西に、卯辰《うたつ》峠の方から流れて来た通称「おとけ谷」があるが、この谷の西、神社の大きな松林の中に、最近まで数基の古墳があった。この付近は神社参拝のための自動車置場建設のために、しだいに整理されたが、そのために数基の小円墳が破壊されてしまった。
古墳の構造は、砂岩を使った組合せ式の石室で、ベンガラ(酸化鉄)が石室内におさめられ、須恵器・鉄刀などが出土した。
(2) 大麻比古神社裏、宮司宅裏の積石塚
これらの積石塚は、昭和の初年ごろまで、なお十数基存在していた。……
最後まで残っていた積石塚は、板東谷川原の河原石を運搬して造ったもので、二、三基調査したが、高さ一メートルぐらい、直径二メートルほどで埋葬施設らしき石組があったが、土師器、須恵器が若干出土するぐらいで、玉類、刀剣類は見当たらなかった。
これらが、はたして古墳時代終末期のものか、奈良時代あるいは平安時代のものか、もしくは弥生時代までもさかのぼるものか、その時点では解明できなかった。
これら累々と存在した積石塚については、今後他の出土例から、そのうちに判然とするであろう。
「神社参拝のための自動車置場建設のために」「数基の小円墳が破壊されてしまった」とは、何ともひどいはなしで、これでみると私たちがクルマをとめて置いたのもその破壊の跡地だったのである。何だか、申し訳ないような気がしないではない。
なぜかというと、「神社の起源が古墳である」とは民俗学者の谷川健一氏も書いている(「神社 その起源」)ことであるが、神社・神宮はもとその首長(大麻比古神社のばあいは忌部氏族の祖)を祭った祖神廟《そしんびよう》か、またはそれの拝所としてできたものであった。そうだったにもかかわらず、これでは何とも、――というよりほかないであろう。
かとみると、これはほかにもそういう例があるが、大麻町萩原には「春日神社付近の古墳」というのがあって、「春日神社本殿が円墳上にある。円墳は高さ四メートル、底径三〇メートル、未発掘の美しい姿をしている」とある。これなどは、まさに「神社の起源が古墳である」ことの典型のようなものであるが、そのかわり、その古墳は宮司などの尻にしかれることにもなっている。
それはもうあとの祭りというもので、ともかくとして、大麻比古神社付近のそれらの古墳が、古代朝鮮・高句麗の墓制に発したいわゆる積石塚《つみいしづか》であったとは、それをのこした忌部氏族の出自を考えるうえでも、たいへん重要なことである。ばかりか、そのことはあとでみる徳島市ほかのそれと、のちにみる讃岐(香川県)高松市の有名な石清尾《いわせお》山古墳群の積石塚などや、こちらでは忌部氏を「讃岐開発の祖」(香川県高等学校社会科研究会編『香川県の歴史散歩』)としているそれともつながるものなのである。
宇志比古神社古墳群
古代鳴門の、というより、古代阿波の中心の一つが、阿波国一の宮となっている大麻比古神社や、いわゆる四国八十八ヵ所めぐりの起点となっている霊山《りようぜん》寺のあるそこであったらしく、鳴門市西部の大麻町はとくに神社と古墳の多いところであった。村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷」に宇波比古とともにあげられている宇志比古神社も、「一、宇志比古神社境内古墳群」(『鳴門市史』)となっていて、それはこういうふうである。
(1) 本殿裏古墳
宇志比古神社の本殿は慶長年間改築と伝えられ、その時代の建築様式が一部に残存している。この改築の際か、或いはそれ以前か、確かなことはわからないが、本殿工事に関連して大円墳が破壊され、現在では北側の外周だけが残されている。
この円墳は径三〇メートル、高さ五メートルほどで、現在残っている封土は地山の上に積み上げられたもので、良質の赤土(風化土壌)から成っている。
埋葬施設、副葬品については何の伝承もない。
(2) 拝殿東方の古墳
宇志比古神社拝殿の東方三〇メートルばかりのところに、昭和御大典記念碑がある。この碑の前の広庭に、竪穴式石室の下底に敷かれていたバラス層が地表に露出している。長さ五・五メートル、幅一メートルで、朱と酸化鉄が、このバラス層中に入りまじっている。緑色片岩・絹雲母片岩の破片も散乱しているが、これは竪穴式石室(割石の木口積)の痕跡と考えられる。この礫中から直刀片・〓《やりがんな》らしい破片が採集せられ、古鏡・玉類が出土したと伝えられているが、詳しくはわからない。墳形は地形から考えて、おそらく円墳であろう。
(3) 積石塚
本殿裏古墳から数メートル離れたところに径三メートルばかりの積石塚があるが、位層的に本殿裏の大古墳に近いのでそれに付属したものか、独立したものか不明であり、発掘の有無もわからない。
これは余談となるが、こうして書きうつしてみると、この『鳴門市史』の著者の文章には、「市史」といったこの種のものにはあまりみられない特徴のあることがわかる。事実に即してひじょうに具体的であるばかりか、わからないものは「わからない」とはっきりしているところがいい。
ぬか塚古墳の発掘談
それはさておき、何百とあったらしい大麻町の古墳をこのようにみて行くときりがないので、同『鳴門市史』により、さいごに一つその代表的なものとみられる「ぬか塚古墳」というのをみておくことにしたい。「またか」と読者はちょっと飽きたかも知れないが、これはその発見の経過からして、なかなかおもしろいのである。
この古墳は、大麻町萩原春日神社の西南二〇〇メートル、畑地の中にある円墳で、大きな横穴式石室が東南に向かって開口している。
墳丘上には、松・カシ・モウソウ竹などが生い茂って、こんもりした森になっている。
樋殿谷川の扇状地の上にあるため、地盤は礫質土層《れきしつどそう》であるが、墳丘は石の少ない良質な山土(赤土と村人は言っている)で径は約三〇メートル、高さは約五メートルである。
この古墳は、鳴門市内はもちろん、板野郡を合わせても、石室の規模・出土品の多様さと品質において特に優れたものがある。
昭和二年(一九二七)九月初め、土地所有者の板東家が、墳石掘り取り中羨道部が開口した。おどろきと物めずらしさに隣人が多数集まり、羨道部から玄室へと掘り進んだが、当時発掘に参加した人たちは、考古学的知識が少なく、金銀などの財宝をねらって、大唐鍬《とうくわ》などで手荒く内部を乱掘し、内部の堆土は竹箕《み》で畑地に持ち出された。そのため、副葬品は大部分破損された。このとき出土したものは、鏡・刀剣類・玉類・馬具類・土器類など多種多様であった。
この発掘が数日後、郷土研究家たちに知れると、宮田蘭堂・田所眉東・森敬介・浪花勇次郎・笠井藍水らが続々来訪し、板東家の許しを得て、石室内から搬出された土壌をくわしくしらべた。
当時の板東家の戸主誉五郎は、温厚無欲の人であったため、乞われるままに、出土遺物をおしげもなく来訪者に渡してしまった。
以上がこの古墳発掘の大要であるが、郷土研究家のうち宮田蘭堂は、居宅が萩原に近い池谷にあったため、数回訪れて事情をくわしく調査し、九月二十五日と二十七日の両日、徳島毎日新聞に寄稿している。
まだ考古学的知識が地方にまで充分行きわたっていなかった当時の素朴な雰囲気がよく出ており、「板東家の戸主誉五郎は、温厚無欲の人であったため、乞われるままに、出土遺物をおしげもなく来訪者に渡してしまった」というのもおもしろく、今日ではちょっと考えられないはなしである。
『鳴門市史』には宮田蘭堂らが徳島毎日新聞ほかに寄稿したそれも全文が紹介されているが、そのうちの「出土品」の一部をみるとこうなっている。センテンスの長い文章であるが、これも当時のことでやむをえない。
九月八日調査の時には何等出土を見なかったが、其後玄室内流れ込みの土を取除きにかかったら鉄器土器の出土品があった云々、再調査したらいずれも破片而已《のみ》にて即ち玄室の向って右手に鉄器破片ではあるが古刀、鉄鏃類、馬具等で、馬具は輪あぶみ、くつわ、杏葉《ぎようよう》等であるが特に杏葉は金をきせてあったあとが、今に燦然《さんぜん》として居り、又轡《くつわ》の幾部分と確かに銜《はみ》の一部分と思われるものがある。土器は玄室と羨道の境に高さ一尺許《ばか》りの石が横になっていて其の内にあったらしい。いずれも数十個の破片になっていたが、全部持ち帰って復元して見て漸く大体の形状を知る事が出来た。いずれも外部布目様で内部は青海波形を有する大形の朝鮮土器と称するものである。
高句麗系の出土品
まだ「須恵器」ということばが普及してなくて、それを「朝鮮土器」といっているのなども半世紀以上まえの時代を思わせるが、ところで、その「ぬか塚古墳」から出土したものは、それだけではなかった。ここからは珍しい馬鐸や環頭大刀なども出土していて、『鳴門市史』にはそれも「糠塚馬鐸の特色発表(板東町萩原の出土品)田所眉東(大阪毎日新聞 昭和九年五月十八日)」として紹介されている。
先年、板野郡板東町萩原の糠《ぬか》塚で出土した古墳前期(約千四百年前)の金銅製馬鐸――貴人の乗馬につけたりんに似たもの――は我が国唯一の珍品として考古学界にショックを与え、現在東京国立博物館に珍蔵されており、故高橋健自博士などは驚異の眼を見張り、田所眉東氏に対し糠塚についての詳細発表方を依頼したほどで、田所氏は板野郡堀江村の同志、宮田蘭堂氏などから調査書を得たが、発表の機を逸していたところ、このほど田所氏は問題の馬鐸の特色について左の通り発表した。
糠塚出土の馬鐸は高さ四寸五分ぐらいで鍍金されており、我が国稀有の例である。
普通の馬鐸は楕円形であるが、この馬鐸は片面が扁平になっている。つまり、馬の両胸にかけて翻転せぬよう片面を扁平にしたもので、進んだ形式と言わねばならぬ。
普通のものは薄作だが、これは甚だ厚作である。
記事はまだつづいているが、要するに、『鳴門市史』も書いているように、「この古墳築造のころに大陸から高度の文化が入っていたことは明らかであるので」、その馬鐸は、近年、九州で発見されている朝鮮馬鐸と同じく、古代朝鮮から直行したものだったにちがいない。つまり、さきにみた「朝鮮土器」(須恵器)や、それからまた「高麗剣《こまつるぎ》」といわれていた環頭大刀なども出土したぬか(糠)塚古墳は、朝鮮北部の高句麗から南部の加耶(加羅)あたりをへて来たいわゆる騎馬民族の首長を葬った古墳だったのである。
なお、環頭大刀は、「環は鉄地に金銅張りで、中心飾りとして三撃環と単竜と二種あったらしい。把《にぎり》は刀の茎《なかご》を木で包み、その上を金銅板でおおい、銀線で巻いていた。その責《せめ》金物は純金製で、左右を刻目にしている」(『鳴門市史』)とあるから、これまた相当豪勢なものだったのである。
吉野川を渡って
霊山寺と行基
大麻町での私たちはさらにまた、これはもと「阿波人の祖といわれる」忌部氏族の氏寺としてできたものではなかったかと思われる霊山寺をみて、鳴門市から徳島市へ向かった。霊山寺は大麻比古神社の参道口近くにあって、四国めぐりの人々でにぎわっていたが、この寺のことは前記『徳島県の歴史散歩』にこうある。
霊山寺は四国八八ヵ所めぐりの起点として二番札所極楽寺とともに有名だ。弘法大師ゆかりの霊場を一巡する四国遍路の道のりは千数百キロ、歩いて数十日の長旅だが、最近ではバスやマイカーで一周する観光スピード遍路がふえたのも時代のながれか。
この寺は大麻比古神社の別当(寺が神社を管理したことをいう)で、開基は聖武天皇勅願の道場として天平年間に僧行基《ぎようき》の手によるといわれる。その後八一五(弘仁六)年弘法大師が四国八八ヵ所の霊場をつくったおり、四国第一の霊場とさだめ寺名を霊山寺と名づけたという。春ともなれば白衣をつけて「同行二人」と書いた菅笠《すげがさ》をかぶり、金剛杖をついた遍路の姿が野畑のあちこちにみられる。
私としてはここに行基の名がみえて、なつかしいような思いがする。というのは、私に行基の生涯を描いた『行基の時代』(朝日新聞社刊)という長編があるからだが、奈良時代の高僧だった行基は、百済より渡来した王仁《わに》系氏族の一つで、河内(大阪府)の高石を本拠としていた高志氏族からでた者であった。
なおまた、霊山寺の近くにある四国二番札所の極楽寺は、国の重要文化財指定となっている本尊の阿弥陀如来坐像が有名だが、この本尊も行基の作と伝えられている。鎌倉期の作というから、おそらく行基を讃仰していた者がつくって、その名を冠したものだったにちがいない。
阿波おどりと農楽隊《ノンアクテ》
「阿波の母なる」といっていい吉野川の、広大な河口に架かった吉野川大橋を渡ったところで、私たちはおそくなった昼食をすませた。そして徳島市の中心部にはいったが、徳島となるとまず思いだされるものに、毎年の夏におこなわれる「阿波おどり」がある。
まず阿波を代表する最大の民俗芸能は、八月一五日から四日間、徳島市を中心にくりひろげられる「阿波おどり」であろう。三味線・カネ・太鼓・笛がかなでる軽快で単調な阿波おどりの起源は、蜂須賀家政が徳島城を築いた天正一五年、その落成祝賀の踊りを庶民にゆるしたのがはじまりという。この阿波おどりも時代の推移とともに大きく変化し、郷土芸能色はうすれはしたが、最近観光資源として急速に発展した。昭和四五年度には、県内外の見物客約八五万人が徳島をおとずれている。(徳島県の『郷土資料事典』)
徳島県の全人口が八十三万であることを思うと、「八五万」というこの数はおどろくべきものである。「阿波おどり」はそれほど、全国的に有名になっているものであるが、ところで、この阿波おどりは、朝鮮人の私たちにもひじょうに身近に感じられるものなのである。「時代の推移とともに大きく変化し、郷土芸能色はうすれはしたが」となる以前の阿波おどりはどうだったか知らないが、これは朝鮮の農民が祭りなどのとき「農楽隊《ノンアクテ》」をくりだしてするそれと似ているばかりでなく、もとは農民の子である私たちも興いたれば、両手を振りあげ、肩をうごめかしておどりだす、それともよく似ているのである。三味線こそはないが、「カネ・太鼓・笛」などがともなうのも同じである。
ただ、阿波おどりのばあいは、「軽快で単調な」というそれだけがちょっとちがっているが、しかしそれをみれば、朝鮮人ならだれでも、「ああ、あれだ」と思いあたるにちがいないものとなっている。だから、この稿を書いている先日も、全日空だかのスチュワーデスたちが阿波おどりの練習をしているのをテレビでみたが、私はそんな練習などしなくても、すぐ現場にそのままとけ込んでおどれるような気がしたものだった。
それはともかくとしても、私はその阿波おどりということになると、またもう一つ思いだすことがある。それは、「踊る阿呆に見る阿呆/同じ阿呆なら/踊らにゃ損々」というあの囃《はや》しことばである。「阿呆」ということばが朝鮮語のバボ(馬鹿)からきたものであるということはおいて、その囃しことばには、いわば日本的方法といったものが端的に、あるいは集約的にあらわれていると私は思う。まず「踊る阿呆」と自己否定したうえで、――というそれは、「私のような者も何とか生きたい」という、あの島崎藤村などの文学方法にもつうじているものなのである。
「初源的古墳」積石塚
はなしが横へそれたようであるが、徳島市にはいった私たちは、例によってまず徳島市教育委員会をたずねた。そして社会教育課主幹の大津衛氏や社会教育課長補佐の鎌田祐輔氏らと会い、『古墳時代の徳島市』などをもらい受けたり、そのうえまた『徳島市史』をみせてもらったりして、いろいろと訊《き》いたり、話したりした。
仕事中だったにもかかわらず、大津さんたちはさいごまでそんな私たちによく付き合ってくれたが、徳島もまた古墳の多いところであった。しかし、その古墳は鳴門市西部の大麻町でかなりみているので、ここではさきにみたそれともちょっとダブるが、『古墳時代の徳島市』冒頭の徳島県における「古墳時代の概観」だけみておくことにする。
徳島県下においては、現在のところ六〇〇基程度の古墳の存在が知られており、実数はこの数倍ともいわれる。……
初源的な古墳については、積石塚の形状を呈するものが多く、丹田古墳以外の吉野川下流域における、古式の前方後円墳あるいは前方後円形状の積石塚→盛土を有する前方後円墳という変遷過程が指摘されている。四世紀後半になると、狭小な竪穴式石室や、碧玉製腕飾類などに代表される畿内型古墳の形成がなされるようになる。
前期後半(五世紀初頭〜五世紀末頃)の代表的な古墳としては、徳島市八万町の恵解山一・二・八・九号墳、西須賀町の鶴島山古墳群、名西郡石井町の尼寺一号墳などに認められる箱式石棺群を中心に展開する。該期における前方後円墳としては、徳島市渋野町の渋野丸山古墳、板野郡板野町の愛宕山古墳、鳴門市大麻町の天河別神社一・二・五号墳などがあげられる。吉野川下流域の場合、南岸地域においては、渋野丸山古墳以外は、在地性の強い古墳が中心に展開し、北岸地域においては、愛宕山古墳、天河別神社古墳群に代表されるような、畿内型古墳が中心となってくるようである。
後期(六世紀初頭〜七世紀中頃)に入ると、横穴石室を内部主体とする古墳群を中心に展開する。
横穴石室の分布をみてみると、美馬郡を中心とした地域で太鼓塚・棚塚に代表される「段ノ塚穴型石室」(天井を前後から、側壁を左右から持ち送った所謂《いわゆる》穹窿《きゆうりゆう》式の天井を有し、平面プランが胴張りまたは末広がりの横穴石室)、麻植郡を中心とした地域で忌部山古墳群に代表される「忌部山型石室」(玄室空間をドーム状に広げるために天井石に持ち送りを有し、玄室を隅丸に構築した横穴石室)の分布地域以外では、畿内的様相の強い横穴石室が採用されたようである。
あとでみる忌部氏の出自を追求した天羽利夫氏の『阿波忌部の考古学的研究』と関連するので、「段ノ塚穴型石室」や「忌部山型石室」までみたが、同時にまたここでは、「前期前半(三世紀末〜四世紀末)」の代表的な古墳が積石塚であり、「初源的な古墳については、……前方後円形状の積石塚―→盛土を有する前方後円墳という変遷過程が指摘されている」ということにも注意しておいてもらいたいと思う。
それからまた、『古墳時代の徳島市』をくってみると、ここには恵解山一号墳出土という衝角付冑《しようかくつきかぶと》や、国府町西矢野山花古墳出土の須恵器台付子持《こもち》壺などの鮮明な写真がのっている。高句麗からのそれとみられる衝角付冑は、近年、古代の加耶(加羅)だった韓国の慶尚南道で出土しているのと同じものであり、須恵器台付子持壺など、これはもう加耶土器そのもののようである。
要するに、高句麗に発した墓制であるいわゆる積石塚など、徳島市の古墳にも高句麗的要素が濃厚にのこっているということで、そのことは、市内の勢見《せいみ》町にある四国一の宮とされた忌部神社の存在とも関連するものであるにちがいない。
ここ徳島市にも「阿波人の祖といわれる」忌部氏の祖神を祭った神社があったわけで、その神社のことは、徳島県の『郷土資料事典』をみるとこうなっている。
創祀年代は明らかにしないが、祭神とされる天日鷲命の子孫である阿波忌部氏が奉祀したのに始まるのであろう。天日鷲命は、……天太玉命に従って穀木棉を植え、白和幣を造ったとされる神で、その功により麻殖《おえ》神ともされる。……
延喜の制では名神大社に列し、四国一の宮とされた。嘉祥二年(八四九)従五位下の神階を授けられて以来、元慶七年(八八三)には従四位下にまで進んだが、中世の兵火に焼かれて以来、元長い間その社地さえ不明とされていた。明治七年になって麻植郡山崎村忌部山を旧社地と決定し、同地に鎮座した天日鷲神社に仮りに奉祀し、同十八年社地を現在地に定め、同二〇年に社殿も完成した。旧国幣中社。社殿は本殿・拝殿・祝詞舎・神庫・神饌所・神輿庫・貴賓館からなる。
三島神社の狛犬
で、徳島市教委からの私たちは、その忌部神社へ向かうつもりにしていたものだったが、それよりはむしろ「旧社地」となっている麻植郡山崎村忌部山、いまは山川町となっている「忌部の里」の忌部神社をたずねることにした。山川町は徳島市から約三十キロ、吉野川の南岸となっていたが、途中、私たちは徳島市南佐古の臨江寺近くにあった三島神社に立ち寄った。
三島神社は、『伊予国風土記』(逸文)にいう「百済の国から渡っておいでにな」った大山積《おおやまつみ》(祇《ずみ》)神を勧請《かんじよう》した分社であった。しかし、その大山積神についてはのち伊予(愛媛県)の大三島でみることになっているので、私たちがこちらの三島神社に立ち寄ったのは、徳島市指定文化財となっている狛犬《こまいぬ》をちょっとみておきたいと思ったからだった。
すなわち、みたいと思ったのは、「この神社は伊予の豪族河野通久が富田庄の地頭に任ぜられたとき、伊予の大三島《おおみしま》神社を分祀したといわれ、砂岩でつくった狛犬《こまいぬ》(市文化〈財〉)が有名だ。この狛犬がつくられてから約七五〇年、県下最古の狛犬だといわれている」(前記『徳島県の歴史散歩』)というそれであった。
山の中腹となっている神社への石段の横におかれたその狛犬は、尻をぐっとあげて、いまにも飛びかからんばかりの形相《ぎようそう》をしたもので、なるほど古式のそれではないかと思われるものだった。このような狛犬は古い新しいにかかわらず、神社のあるところには必ずあるもので、私はそれをみるとよく思いだすことがある。
いまは故人となっている法学者で、私も面識があった末川博氏の「朝鮮とのつながり」という一文である。徳島「県下最古の狛犬」をみたついでに、それもここでみておくことにしたい。
生まれ育った私の郷里は、山口県周防国の東部山間盆地にある農村であって、明治二五年(一八九二年)私の生まれたころの人口は五千人足らずの小さな村であった。だが、この村にも、他の町や村と同じように、天神さまや八幡さまがあり、また私の生まれた部落にも氏神さまがあった。そしてこれらのお宮には、どこでも社前に石で造ったコマ犬が左右向き合ってキチンとすわっていた。
ところで、このコマ犬は、犬というにはあまりいかめしい顔形をしていて、しかもどこか人なつこい奇妙な様相をそなえているので、これは一体どういう動物だろうかということが、私の小学五年生(当時の高等科一年生)のころに、子どものあいだで問題となった。あれは強い強いおそろしい犬だという子もいれば、あれはお祭のときにオカグラのなかで出てくるシシだと物知り顔にいう子もいた。昼休みの時間に弁当をたべたあと、ガヤガヤと言い争ったのだが、結着はつかない。そして授業は始まった。
そこで、教室にはいった子どもの一人が「先生、コマ犬というのはどういう動物ですか」と質問をした。当惑顔の先生は「おれにもわからぬ。調べてみよう、明日まで待て」と正直な返事をして、翌日になると「どうもハッキリしたことはいえないが、コマ犬というのは朝鮮つまり高麗《こま》から伝わってきたものにちがいない。だいたい山口県は日本のなかで朝鮮にいちばん近い所で、古くから往来があって、いろいろのものが伝わってきている。そしてお前たちの祖先にも朝鮮人の血を引いた者がたくさんいるはずだ」というような話をしてくれた。今から考えると、この先生はずいぶん進歩的な先生だったといえそうだが、とにかく、こんな話を聞いた私は、朝鮮に対して何となく親近感をもつようになった。
この一文を書いた一九七四年の末川先生は八十二歳になっていたが、「思えばコマ犬がどういう動物かということで言い争ったのは、七〇年前の昔である」として、さらにつづけてこうのべている。
そのころは、教えられる歴史が偏狭な国粋主義のために大きくゆがめられていたので、朝鮮の文化がどんなふうに日本に伝えられてどんな影響を与えたかというようなことを説くものはなかった。そんな時代に、いかに素朴であったにしてもコマ犬が朝鮮伝来のものだろうと教えてくれた小学校の先生は、今から思えばえらい先生だったといわねばなるまい。
私も、そのとおりだと思う。日本には明治のむかしから、こういう小学校の先生もいたのである。
「阿波人の祖」忌部氏とは
麻植と呉織
私たちは徳島市南佐古の三島神社をへて、「阿波の母なる」広大な吉野川の南岸にでた。県中心部の徳島市から麻植《おえ》郡となったわけだったが、国鉄徳島本線沿いともなっているその南岸から、西方の山川町に向かってクルマを走らせていると、間もなく鴨島町となった。
私たちのめざす「忌部《いんべ》の里」の山川町とはあいだに川島町を挟んでいたが、しかしその鴨島町も忌部の里と無縁なところではなかった。ばかりか、だいたい麻植郡自体からしてそうで、さきにもちょっと引いているが、こんどは吉野川もあわせてもう一度みると、前記『徳島県の歴史散歩』にそのことがこうある。
麻植はかつて麻殖の字をあてていた。伝承によれば忌部《いんべ》氏がこの地にはじめてアサ〈麻〉を植えた古事によるという。山川町には忌部の祖神をまつる忌部神社があり、木屋平《こやだいら》村(現美馬郡)には忌部の子孫と称する三木氏が現住している。三木邸は民家として国の民俗文化財に指定されている。
麻植は、吉野川と盛衰をともにしてきた。吉野川は日本三大荒れ川のひとつで、毎年のように氾濫して沿岸に甚大な被害をあたえてきた。なかでも天保一四年の七夕《たなばた》水、安政三年の八朔《はつさく》水、慶応二年寅《とら》の年の大水はいまでも語り草になっている。
「阿波の母なる」吉野川は一方ではまた、そういう「荒れ川」でもあったのであるが、「忌部《いんべ》氏がこの地にはじめてアサ〈麻〉を植えた」というその麻を、朝鮮語では「モシ」という。そのモシ(苧《からむし》=韓《から》モシ)は関東の武蔵《むさし》にも、高麗郡や狛《こま》(高麗《こま》)江《え》郷に住んだ高句麗系渡来人によってたくさん植えられた。
それで、さきの「鳥居記念博物館にて」の項でみたように、鳥居龍蔵氏は武蔵国の武蔵も朝鮮語のモシ・シ(麻の種)からきたものだというのであったが、これからみる忌部氏もその高句麗系渡来人であることを思うと、「呉織《くれはとり》」ということとともに、たいへん興味深いことと思わないわけにいかない。
いうならば、鴨島町はその呉織ということと関係の深いところであった。福井好行氏の『徳島県の歴史』にある「郷名の比定表」によると、鴨島町は『倭名抄』の「道円本」「高山寺本」とも「呉島」郷となっていたところであったが、それ以前は「呉」郷だったのではなかったかと思われる。そしてその呉は、呉織の呉と同じように、「呉《ご》・越《えつ》」といった中国のそれではなく、高句麗の句麗(朝鮮語ではクレ)からきたものだったはずである。
そのことは、近くが高句麗系のそれであった忌部郷だったことからもわかるが、鴨島町のあたりは、となりの川島町をも含めて、いまでは「呉郷《ごきよう》」といわれ、「呉郷団地」などというのもある。そしてここには、高句麗のことを古代日本では高麗《こま》といい、のちにはその高麗が朝鮮全体をさすことになったのもそれに由来する朝鮮・檀君《ダングン》神話の熊(朝鮮語ではコム)からでた熊野神社もある。
朝鮮女の墓
鴨島町のつぎは、川島町となった。「吉野川は洪水のたびに人畜や田畑を流し、たびたび流路をかえて川岸に砂を堆積していちだん高い須賀《すか》(塚)という自然堤防をつくり、流れと流れのあいだに島がうまれ、いわゆる島須賀地帯を形成した」(『徳島県の歴史散歩』)ためか、なに「島」という町名が二つもつづいているが、川島町には川島城跡があって、前記『徳島県の歴史散歩』にこういうことが書かれている。
川島城は徳島城防衛の前線基地で、阿波九城のうちでもとくに重要な城のひとつだった。寛永一五年一国一城令によって廃城となったが、その後も藩の役所がおかれ、幕末の一八六五(慶応元)年には洋式調練所をおいて兵士を訓練した。そのとき植えた松がしげって古城の感をふかくしている。
一八七〇(明治三)年旧三の丸跡に西民政所をおいて西阿〈西部阿波〉四郡をおさめ、その後も城山一帯には各種の官公庁がおかれ、官庁の町川島を形づくっている。本丸・二の丸一帯は川島公園となり、桜やツツジの名所で、林道感碑・朝鮮女の墓・銅鐸出土の碑・宮島移転の碑などの記念碑が多く、本丸跡の岩の鼻はきりたった青石の断崖で、崖の下は浜といって昭和初年まで吉野川を上下する川船の良港としてさかえた。前方の川中島は県下最大の島善入寺島《ぜんにゆうじじま》で、西方高越《こうつ》山から東は鳴門方面まで一望にはいる景勝地だ。また南方山麓には上桜《うえざくら》城跡があり、川島駅付近一帯は白鳳時代に建立された大日寺跡である。
もちろん、これを引いたのは、川島城や大日寺跡ほかなどのこともさることながら、そこに「朝鮮女の墓」というのがあったからである。そんなところにどうして唐突に、朝鮮女の墓というのがあるのか。
実をいうと、これについては同行の辛基秀、池尚浩さんがくわしく、二人はすでにさきにも一度来て、その墓をみていた。というのは、辛、池さんの二人はまえから、日本の古代朝鮮文化遺跡をたずね歩いている私とはまた別に、豊臣秀吉の朝鮮侵攻戦争によって生じた後遺症ともいうべき遺跡や、その後の朝鮮通信使の遺跡などをたずねて、映像に収めておくことを一つの仕事としていたからである。
つまり「朝鮮女の墓」というのは、朝鮮では「壬辰倭乱」といい、日本では「文禄・慶長の役」といっている、豊臣秀吉の朝鮮侵攻戦争によって連行されてきた女の墓なのであった。あまりいいみものではなかったが、それがそこにあったのである。
「本丸・二の丸一帯は川島公園となり、桜やツツジの名所で」とあるけれども、川島城そのものはきれいに復元されているのに、そこは二、三の松の大木のほか、ただ草木の生い茂った小高い丘の台地となっていた。「朝鮮女の墓」はいろいろな記念碑のある一画にあって、近寄ってみると墓石の文字はただ「朝鮮女」となっているだけで、もちろんいまは、それがどこのだれであるかはわからない。
忌部神社と忌部氏
どういうことでか、阿波の人はそういう墓をよくのこしていて、のちまたそれをみることになるが、その川島町をすぎると山川町で、そこがいまも「忌部の里」とよばれている忌部郷だったところであった。山崎の忌部山にある忌部神社はすぐにわかったが、さきにまず、前記『徳島県の歴史散歩』をみるとそれはこうなっている。
〈国鉄徳島本線〉山瀬駅の東南約一キロ、忌部山のふもとから一七〇の石段をのぼると、阿波を開拓したといわれる忌部氏の祖神、天日鷲《あめのひわし》命をまつる山崎忌部神社がある。最近、国営パイロット事業で道路ができたので社前まで自動車でゆける。このやしろは麻植《おえ》の神、天日鷲神社ともいって「延喜式《えんぎしき》神名帳」にしるされた忌部大社で、一八七一(明治四)年国幣中社に列せられたが、その後社地について川田の種穂《たなぼ》神社、貞光町端山《はばやま》の御所平とのあいだに紛争があり、明治一八年、徳島市勢見山《せいみやま》に忌部神社が建てられた。その後も古文書などの研究から忌部神社として崇敬され、昭和四三年七月から山崎忌部神社としてまつるようになった。
境内にある麁服織殿《あらたえおりでん》は大正・昭和の大嘗祭《だいじようさい》のとき、古例にしたがって忌部氏直系といわれる木屋平村三木氏が麁服献上の命をうけて荒妙《あらたえ》という麻の布をおって貢進したときの織り場だ。またやしろの下方にある岩戸神社は、旧暦三月四日と六月三〇日に中世の忌部の市の名残りといわれる農具市がたってにぎわう。
ここにみられる「忌部の市」とは麻布をもってした織物市だったであろうが、それがいまでは「農具市」となっているというのもおもしろい。そのような市のたつ岩戸神社はみていないが、私たちがたずねて行った肝心の忌部神社は、いまはみるかげもなく、といっていいほどおとろえてしまっていた。
そこからは眼下に吉野川をあいだにした肥沃な平野がながめわたされるのはいいとして、神社の建物がコンクリートになっているのなど、何とも味気ない感じがした。わずかに、傾斜地をたいらな台地の境内にするため組まれた石塁に古拙なそれがみられるだけだった。
しかしながら、この神社はもと「『延喜式《えんぎしき》神名帳』にしるされた忌部大社」であることにちがいはなく、かつては広大な神殿や拝殿を構えて、そこにそびえたっていたはずであった。それなのに、阿波には前記の三木氏はじめ、忌部氏の子孫を称する者が多いらしいのにもかかわらず、いまはどうしてそうなっているのかわからなかった。
そのことはともかく、ところで、その忌部神社を祖神とする忌部氏とはどういう者であったか。それについては、福井好行氏の『徳島県の歴史』にこう書かれている。
忌部氏は平安初期斎部《いんべ》氏と改称され、中臣氏とならんで朝廷の祭祀をつかさどり阿波・讃岐・紀伊・安房《あわ》などに部民をもっていた。しかし中臣氏(のち藤原氏)に圧せられ、〈斎部〉広成は、『古語拾遺』を撰して家柄を誇示したが、結局衰退してしまった。
歴代の天皇が大嘗祭《おおにえのまつり》に、麻の織布すなわち麁服《あらたえ》を貢進する例は、その後もながくつづいている。現在、麻植郡〈現・美馬郡〉木屋平村《こやだいらむら》三ツ木の三木家には花園《はなぞの》天皇の文保《ぶんぽう》二年(一三一八)以来の“麁服御衣貢進”に関する官宣旨がのこっている。
阿波を開拓した忌部氏は、さらによいところをもとめて海上はるか東方にすすみ、関東地方におよんだといわれ、上総《かずさ》・下総《しもうさ》を開拓し、阿波からうつった忌部氏の土着した地域を“安房《あわ》”〈阿波〉とよんだという。『古語拾遺』の伝えるこの話は東国開発の物語として興味がある。
麻植に麻をもたらして阿波を開拓した忌部氏は、のちにはその氏族が東国の関東にまでひろがったとは、まさに「興味」ある「物語」といわなくてはならない。日本に渡来した新羅・加耶系の秦氏族や、百済・安耶《あや》系の漢《あや》氏族ほどではなかったにしろ、忌部氏族もまた相当なものだったのである。
忌部氏は高句麗渡来氏族
さて、では、その忌部氏はどこから来た者だったかということになる。私はすでにそれを「高句麗系渡来人」と書いてきているが、そのことについては、徳島博物館の学芸員であった考古学者、天羽利夫氏の『阿波忌部の考古学的研究』によってみても明らかである。
天羽氏のこの『――研究』は「はじめに」にあるように、忌部神社のある「麻植郡山川町忌部山所在の『忌部山古墳群』の発掘調査によって生まれたもので」あるが、まず、「つぎに忌部氏の出自について考えてみたい」として、そのことをこうのべている。
今まで、忌部氏といえば神裔氏族として大方片づけられてきた。もっとも、史料の限界からすれば当然であるといえるが、ここに大林太良氏の説を紹介しておきたい。
そして大林太良氏の「古語拾遺における神話と儀礼」にあるその「説」を紹介しているが、これは「説」として重要なだけでなく、斎部(忌部)広成の手に成る『古語拾遺』とはどういうものであるかを知るうえでもおもしろいので、天羽氏の書いているそれを、私もここに紹介することにしたい。
大林氏は、『古語拾遺』を読んで感じることは忌部氏が渡来人集団と相当密接な関係をもっていたのではないか、という疑問から出発する。その理由の一つは、同書のわずかな紙数の割合に渡来人関係の記事が多いということ。同書は忌部氏の権利を主張した書物であるにも拘らず、忌部氏の祖の事蹟は神代より崇神朝に関してのみ具体的に記されたにとどまり、それ以後の時期、ことに応神から雄略に至る時期、つまりいわゆる応神王朝に相当する時期は、もっぱら渡来系諸氏族の事蹟をもって埋めていること。
第二は、『古語拾遺』の記事によれば、忌部氏は三蔵〈斎蔵・内蔵・大蔵〉の管理という職務において、渡来諸氏族と共通するところがある点である。ここで重要なことは、同書の三蔵の記事が史実であるかどうかというのは問題ではなく、三蔵のうちの内蔵・大蔵が、秦氏、東・西の文氏、漢氏のような渡来系諸氏族の管理するところと並んで、忌部氏も、三蔵の一たる斎蔵を管理して来たと主張していることである。つまり、忌部氏の伝統的職能の一つは、彼等自ら主張するところによれば、渡来系諸氏族と共通の職能、つまり蔵の管理であったということである。
第三は、『古語拾遺』に、太玉命が天日鷲命ほか諸神を率いていたとされるが、このことは、これらの神々、つまり工芸の専門家たちを中央忌部氏が統轄していたということであり、応神朝以降、『日本書紀』にしばしば述べられているような渡来系技術者集団の管理を想起させる。
第四は、中央忌部の本貫とされる〈大和の〉高市郡は、朝鮮渡来人系住民が集団的に住んでいたところであること。『古語拾遺』の書かれる直前の時代には、東漢《やまとのあや》氏が断然圧倒的な地位を占めていたこと。
以上のような点から、大林氏は、中央忌部氏が渡来集団ときわめて密接な関係にあったこと、また地方の忌部についても、渡来系技術者集団の可能性を秘めていることを指摘している。
ここにいう「地方の忌部」とは阿波・讃岐・紀伊・安房などに住んでいた忌部氏族のことであることはいうまでもない。そして天羽氏の『阿波忌部の考古学的研究』は、第三章「考古学的にみた六・七世紀の阿波」において、美馬郡美馬町にある段ノ塚穴古墳や、麻植郡山川町の忌部山古墳を観察・分析した結果、さいごに「阿波忌部の出自」として、そのことをこうのべている。
段ノ塚穴型石室と忌部山型石室が同じ系譜のなかから生まれたものとみて、両者を総称して“段ノ塚穴集団”と仮に呼んでおこう。阿波忌部の出自をこのなかでとらえたいと思う。
ここで段ノ塚穴集団を考えるうえで重要な示唆を与えてくれるのは、〈紀伊の〉和歌山市岩橋千塚である。岩橋千塚の石室とは、早くから比較の対象になったが、細部にわたっての相違点が多く共通することは少ない。基本的には、天井を高くすることによって玄室空間を最大限に大きくする点で一致する。石棚を多くすることも、数少ない共通点としてあげてよい。森浩一氏は「岩橋千塚の横穴式石室の源流は、現在なお局限して指摘することはできないとしても、北九州の古式横穴式石室を含めて源流の地がおそらく朝鮮半島南部にあると考えられる」と述べ、また最近では「東アジア全体で比較したら高句麗にもっていかざるを得ない」と、高句麗との関連を指摘している。
要するに、そういうことで、天羽氏は阿波の忌部氏族の出自は高句麗系渡来人ではないか、というのであるが、私もすでに書いているように、そうであると思っている。
ただ、ここでひとつ注記しておきたいのは、いまみたうちのそれに、「森浩一氏は『岩橋千塚の横穴式石室の源流は、……朝鮮半島南部にあると考えられる』と述べ、また最近では『東アジア全体で比較したら高句麗にもっていかざるを得ない』」とあることについてである。
朝鮮半島南部から、北部の高句麗へと、これは一見矛盾しているようにみえるが、しかしそうではないのである。だいたい、私も高句麗系、百済系、新羅系、加耶(加羅)系などと、便宜上それを古代の国別にわけてみているが、しかしだからといって、阿波、讃岐などといった日本の古代諸国もそうであったように、その国別にそれぞれ別の種族が住んでいたというわけではない。
どちらもみな同じ種族で、たとえば朝鮮半島西南部の百済は、高句麗人が南下してつくった国であったばかりでなく、いわゆる騎馬民族の高句麗人は最南端の加耶にまで南下して土着している。したがって、それは加耶だといっても、もとは高句麗だった、ということが少なくないのである。
御間都比古神社をたずねて
忘れられていた御間都比古神社
忌部神社からの私たちは、こんどは山川町東南の美郷《みさと》村から、鮎喰《あくい》川沿いの神山町をへて、名東郡佐那《さな》河内《ごうち》村にいたった。こうして書くと、かんたんに「いたった」となるが、それはまさに山越え、川越えの、長い道のりであった。
いまでは日本全国いたるところ、たいていの山道もみな舗装されているので、クルマが走るのにあまり困ることはなかったが、しかし地図のみがたよりだった私たちは、途中、何度も人に道を訊かなくてはならなかった。ときには清冽《せいれつ》な谷川のほとりにクルマをとめて、私たちは一息入れながら、そこの「冷たい、うまい水」を手ですくって飲んだりした。
そういうことではなかなかたのしくもあったが、しかし四国山地という未知の山道がどこまでもつづいているので、クルマ運転の池尚浩さんはじめ、私たちは相当くたびれもした。なぜそんなにして、佐那河内村にいたったかというと、そこの中辺なるところに御間都比古《みまつひこ》神社というのがあって、前記『徳島県の歴史散歩』にこう書かれていたからである。
阿波は大化の改新ごろまでは、吉野川流域の粟《あわ》の国と、勝浦・那賀・海部の流域をふくんだ長の国にわかれていた。ところで名東郡も山分の佐那《さな》河内《ごうち》村は長の国に属していた。しかも、いまから一八〇〇年あまり前、成務天皇の代に観間都比古色止命《みまつひこいろとめのみこと》九世孫、韓背宿禰《からせのすくね》が長の国の国造《くにのみやつこ》となってこの国にきて佐那河内の中山(むかし長峯とか中峯ともいった)におり、その祖先をまつって氏神としたそのやしろが現在の御間都比古神社といわれている。
御間都比古神社の鎮座地については、明治以後、上八万村にあるとか、高畑村にあるとかの説もあるが『阿波志』に「中辺村(当時佐那河内村は中辺村とよぶ)今称二中峯又三本松一即観松彦色止命蓋遠孫韓宿禰祀レ之也」と書かれている。当時、佐那河内村は阿波南北交通の要地だったため、国造もこの村にとどまり長の国をおさめていたとも考えられる。現在、この神社は終戦前に建てられたという拝殿に本殿があるのみで、歴史をかたるものはなにもない。地元の人にもわすれられていた神社だったらしい。その後の研究で、ここに格式のたかいりっぱな神社のあったということで建てられたというのが実情らしい。
そういう「実情らし」く、山腹台地の一画にあった御間都比古神社は、ふつうの瓦屋根の家がそこに一軒あるといった形となっていた。鳥居と「御間都比古神社」とした標柱がなかったとしたら、私たちはそのままとおりすぎてしまったかも知れなかった。
しかし氏子たちがしたのであろうか、境内は雑草がきれいに刈りとられて、そこはなかなかいい場所となっていた。私たちは、夕陽のさしている境内のそこに坐り込んだり、寝ころんだりして、一休みすることにした。
御間都比古は「君主の国の男」
そして私は、いまみた『徳島県の歴史散歩』のそれをもう一度読み返しながら、そこに祖先を祭った国造の韓背宿禰とはいったいどういう者だったろうか、と思ったものだった。ついでまた、御間都比古神社の御間都比古とは、とも思った。「比古」とは男ということの「彦」であろうが、「御間都」とはどういうことからきたものであろうか。
私は能登(石川県)の穴水町にある美麻那《みまな》比古を祭神とする辺津《へつ》比古神社のことを思いだしたが、これは明らかに、古代南部朝鮮にあった加耶(加羅)諸国のことを日本では「任那《みまな》」といったことからきたものであった。すると、「都《つ》(津)」とは「の」ということでもあったから、御間都というのも「任《みま》(御間)の」もしくは「任那」ということではなかったろうか、と私は考えた。
もしそうだとすれば、「任」とは朝鮮語の「任《ニム》」すなわち「君主」ということであるから、御間都比古神社とは「君主であった男の神社」ということになるが、たしかに、韓背宿禰は国造であったから、そこの「君主」であったことにちがいはない。
それから、その御間都が任那ということであったとすれば、任那とは朝鮮語任那《ニムナ》、すなわち「君主の国」ということであるから、御間都比古神社とは、その「君主の国の男の神社」ということになり、このばあいの任那とはもちろん、古代南部朝鮮の加耶諸国をさしたそれとなる。
任那と皇国史観
任那が「君主の国」ということであるとは、日本の歴史学者である鮎貝房之進氏や白鳥庫吉氏なども考証していることであるが、しかしこれまでの一般的な日本の歴史学では、加耶諸国のことを任那といったとしているだけではなく、四世紀から六世紀にいたるまで、そこに「任那日本府」をおいて南部朝鮮を支配していたとしている。「これまでの」といったが、それはいまも同じで、たとえば、一九八三年一月に八版三十三刷となっている坂本太郎監修『日本史小辞典』をみると、その「日本府」のことがこうある。
四C〈世紀〉ごろから六C半まで約二五〇年間における日本の朝鮮支配の軍政府。漢の滅亡後朝鮮ではいわゆる三国時代が形成されるが、その対立関係に乗じ、日本は南端の弁辰の地に任那日本府を設け、百済を服属せしめて最初は高句麗と、後には新羅と長期に争い、五六二〈年〉新羅に任那を併呑されるまで南鮮一帯を支配した。〈日本〉書紀に内官家《うちつみやけ》・日本国之官家・日本府・任那日本府等と書かれ、別に安羅日本府というのもみえる。
典型的な『日本書紀』史観、いわゆる皇国史観によるもので、さらに同『日本史小辞典』をくって「任那」の項をみると、「四C半ごろ」「国内統一をおえた大和朝廷は大規模な出兵を行い、洛東江流域を攻略してここを任那とす」とあるが、しかしそれにもかかわらず、八世紀にできた『日本書紀』にはその任那が「内官家・日本国之官家」と書かれていることに注意してもらいたいと思う。それを文字どおり素直に読めば「屯倉《みやけ》」などといったものではない、まさに「内官家・日本国之官家」すなわち「君主の国」にちがいないのである。
だいたい、いわゆる皇国史観のもととなっているのは『日本書紀』であるが、その『日本書紀』もよく読んでみれば、加耶諸国のそこが「君主の国」にほかならなかったということがよくわかるはずである。事実、加耶諸国が最終的に新羅によってほろぼされ、「併呑」されたのは五六二年であったが、『日本書紀』欽明天皇二十三年条にそのことがこうなっている。
二十三年の春正月《むつき》に、新羅、任那《みまな》の官家《みやけ》を打《う》ち滅《ほろぼ》しつ。一本《あるふみ》に云はく、二十一年に、任那滅《ほろ》ぶといふ。総《すべ》ては任那と言ひ、別《わき》ては加羅国《からのくに》・安羅国《あらのくに》・斯二岐国《しにきのくに》・多羅国《たらのくに》・卒麻国《そちまのくに》・古嵯国《こさのくに》・子他国《したのくに》・散半下国《さんはんげのくに》・乞〓国《こちさんのくに》・稔礼国《にむれのくに》と言ふ、合《あは》せて十国《とをのくに》なり。
夏六月《なつみなづき》に、詔《みことのり》して曰《のたま》はく、「新羅《しらき》は西羌《にしのひな》の小《すこ》しき醜《いや》しきくになり。天《あめ》に逆《さか》ひて無状《あぢきな》し。我《わ》が恩義《めぐみのことわり》に違《たが》ひて、我が官家《みやけ》を破《やぶ》る。我が黎民《おほみたから》を毒《をや》し害《やぶ》り、我が郡県《くにこほり》を誅《ほろぼ》し残《そこな》ふ。……我が百姓《おほみたから》、新羅にして何の怨《うらみ》かあらむ。而《しか》るに新羅、長戟《ながきほこ》・強弩《つよきゆみ》して、任那《みまな》を凌《しの》ぎ蹙《せ》め、鉅牙《おほきなるき》・鉤爪《まがれるつめ》ありて、含霊《おほみたから》を残《そこな》ひ虐《そこな》ふ。肝《きも》を刳《さ》き趾《あし》を〓《き》りて、其《そ》の快《たのしき》に厭《あ》かず。骨《ほね》を曝《さら》し屍《かはね》を焚《や》きて、其の酷《からき》を謂《おも》はず。任那の族姓《やから》・百姓《た み》より以還《しもつかた》、刀《かたな》を窮《きは》め俎《まないた》を極《きは》め、既《すで》に屠《ほふ》り且《また》膾《なます》につくる。豈《あに》率土《くぬち》の賓《ひと》、王臣《きみやつこ》として、人《ひと》の禾《あは》を食《くら》ひ、人の水《みづ》を飲《の》み乍《なが》ら、孰《いかに》ぞ此《これ》を忍《しの》び聞《き》きて、心《こころ》に悼《いた》まじと謂《おも》ふこと有《あ》らむや。況《いはむ》や、太子《ひつぎのみこ》・大臣《まへつきみ》、趺蕚《みあなすゑ》の親《むつまじき》に処《ゐ》て、血《ち》に泣《な》き怨《うらみ》を銜《ふふ》む寄《よせ》あり。蕃屏《かくれまがき》の任《よさし》に当《あた》りて、頂《いただきのうへ》を摩《な》でて踵《くびす》に至《いた》る恩《めぐみ》あり。世《よよ》、前《さき》の朝《みかど》の徳《みいきほひ》を受《う》けて、身《み》、後《のち》の代《つぎ》の位《くらゐ》に当る。而《しか》るを胆《い》を瀝《した》てて腸《おもひ》を抽《ぬ》き、共《とも》に〓逆《かだましくさかれる》を誅《ころ》して、天地《あめつち》の痛酷《いたみごと》を雪《きよ》め、君父《きみかぞ》の仇讎《あ た》を報《むく》ゆること能《あた》はずは、死《みはまか》るとも臣子《やつこらまこども》の道《みち》の成《な》らざることを恨《うら》むること有らむ」とのたまふ。(岩波書店「日本古典文学大系」『日本書紀』(下))
「趺蕚《みあなすゑ》」とは「兄弟互いに栄える意」という頭注をみないとよくわからぬことばであるが、しかしこれだけでも、欽明天皇のいっていることはよくわかるように思う。そこに「朝鮮支配の軍政府」(『日本史小辞典』)をおいたという「任那」の人々、つまり加耶の人々のことを「我が黎民《おほみたから》」「我が百姓《おほみたから》」と力をこめてくり返していることにも注意したいが、それよりもっと注意しなくてはならないのは、さいごの「『君父《きみかぞ》の仇讎《あ た》を報《むく》ゆること能《あた》はずは、死《みはまか》るとも臣子《やつこらまこども》の道《みち》の成《な》らざることを恨《うら》むること有らむ』とのたまふ」とあることである。
これはいったい、どういうことであろうか。いわば、その「任那」は欽明天皇にとって「君父」のいたところ、すなわちその「君主の国」にほかならなかったのである。
それからまた、さらにいうならば、前記『日本史小辞典』に「四C半ごろ」「国内統一をおえた大和朝廷は大規模な出兵を行い、洛東江流域を攻略してここを任那とす」とあるのについてである。その「四C半ごろ」にはたして「国内統一をおえた大和朝廷」というものがあったかどうか、ということである。
画期的な「お言葉」の古代史部分
はなしはちょっと横にそれるかも知れないが、一九八四年九月はじめ、いろいろな曲折を背負って、韓国の全斗煥大統領が日本を訪問した。そのとき注目をあつめたことの一つに、日本天皇の「お言葉」というものがあった。
その「お言葉」は予定どおり、九月六日の宮中晩餐会において、天皇自らの声でのべられた。そのなかの、古代史のことにもかかわる部分をみると次のようになっている。
顧みれば、貴国と我が国とは、一衣帯水の隣国であり、その間には、古くより様々の分野において密接な交流が行われて参りました。我が国は、貴国との交流によって多くのことを学びました。例えば、紀元六、七世紀の我が国の国家形成の時代には、多数の貴国人が渡来し、我が国人に対し、学問、文化、技術等を教えたという重要な事実があります。永い歴史にわたり、両国は、深い隣人関係にあったのであります。このような間柄にもかかわらず、今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います。(九月七日付け毎日新聞)
日本の最高レベルにより、いろいろな角度から慎重に検討されてできたはずのこの「お言葉」は、古代史にとっては実に画期的なものであった。しかし、そうだったにもかかわらず、マスコミなどの目はこの引用さいごの、「今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います」ということのほうに集中し、私の知るかぎり、古代史にかかわるそれはほとんどまったく無視された。
いま私は、「古代史にとっては実に画期的なものであった」と書いたが、さきにまずことわっておくけれども、その「お言葉」に「多数の貴国人が渡来し、我が国人に対し、学問、文化、技術等を教えた」ということがあったからではない。これについては、私はむしろ反対である。なぜかというと、そのような「教えた」などということはない、というより、かれら渡来人はそのようなことを「教え」るために渡来したものではなかったからである。
それより、「お言葉」のうちもっとも重要なことは、「多数の貴国人が渡来し」となるそのまえの、「例えば、紀元六、七世紀の我が国の国家形成の時代には」とあることである。これには一部の歴史学者や考古学者による最新の研究が反映されているばかりでなく、なによりもそのことによって、「四C半ごろ」「国内統一をおえた大和朝廷は」などという俗説が、ほかならぬその大和朝廷の子孫である天皇自身により、はっきりと否定されたからである。
どうしてそうかといえば、「六、七世紀の我が国の国家形成の時代」以前、その二世紀近くまえの「四C半ごろ」に「国内統一をおえた大和朝廷」などあるはずがないからである。しかしにもかかわらず、一般的な歴史学においては、前記『日本史小辞典』ばかりでなく、教科書などにもまだまだそのような俗説がくり返されている、ということがある。
たとえば、井上光貞・笠原一男・児玉幸多氏らによる高校教科書『詳説日本史』をみると、なかに「朝鮮半島への進出」という項があってこうなっている。
大和朝廷は四世紀後半から五世紀初めにかけて、すすんだ生産技術や鉄資源を獲得するために朝鮮半島に進出し、まだ小国家群のままの状態であった半島南部の弁韓諸国をその勢力下におさめた。これが任那《みまな》である。大和朝廷はさらに百済・新羅をおさえ、高句麗とも戦った。
さきにみた『日本史小辞典』に「弁辰の地」となっていたのが、ここでは「弁韓諸国」となっているほか(これもでたらめでまちがえている)、どちらも内容はだいたい同じである。「国家形成の時代」を「六、七世紀」とした天皇の「お言葉」が出たあとでも、「大和朝廷は四世紀後半から……」などというこういうウソの歴史が、まだそのままつづけられるのであろうか。
そうなると、こんどは天皇の「お言葉」がウソということになりかねないが、どうなのであろうか。そうであれば、天皇・大和朝廷中心思想のいわゆる皇国史観がこれからはその天皇を無視、否定するという、皮肉なことにもなりかねないのである。
なお、ついでこれも引いておきたいが、天皇のその「お言葉」については、さまざまな反響があった。九月八日付け朝日新聞の「天声人語」もそのうちの一つで、「日韓関係を『近くて遠い国』から『近くて近い国』にするためには、おたがいを知り合い、いまの問題を解決していく努力がいる。それはこれからの課題だ」として、こういうことが書かれている。
日韓の学者たちが協力して進めている研究では、古代の日本文化のなりたちに朝鮮半島からの渡来人がいかに大きな役割を果たしたかが明らかになっている。とりわけ飛鳥文化の発達は、これらの人びとを抜きにしては考えられない。朝鮮半島の文化と渡来人から古代の日本は多くのものを負っているのだ。
日本にとっての朝鮮が何であったのかを確かめることは、朝鮮にとっての日本が何であったかを考え、新しい目で隣国との関係を見つめることにも通じるはずだ。いま、在日の韓国・朝鮮人を、日本の社会がどう受け入れているのかも考えたい。
韓背宿禰の祖神像
「高麗館女」と奥山家の墓
「御間都比古神社」という名称のことから、それやこれやのことを考えたり、話し合ったりした私たちは、そこをその夜の宿泊地ときめていた徳島市へ引き返すことにした。あたりはもう日暮れて暗くなりはじめていたけれども、途中、私たちはさらにまたもう一つ、徳島市の最西部にある入田町の観正寺をたずねた。そして住持の森田知隆氏に会い、そこの境内にある武市家の墓所をみせてもらうことにした。
苔むした小さな墓石が何列かになってずらりとたちならんでいたが、ここも、さきにみた川島町の「朝鮮女の墓」と同じく、辛基秀、池尚浩さんの二人はすでに一度来てみていたところで、池さんが用意していた懐中電灯で照らしだした墓石の一つをみると、それにこういう文字が刻みこまれている。「寛文六年丙午八月二十七日/清月妙泉大姉/元祖武市孫助室高麗館女也」
要するに、それも朝鮮では「壬辰倭乱」といっている、豊臣秀吉の朝鮮侵攻戦争によって連行されてきた女の墓なのであった。ただ、さきにみた川島町のそれが「朝鮮女の墓」とあるだけだったのに対し、こちらのそれは没年月日や、武市孫助なる者の「室」となっていたことがはっきりしている。
「それにしても、『高麗館女也』とはどういうことなのだろうか」などと私たちが話していると、八十四歳になるという住持の森田さんが横から言った。
「何でも、高貴な筋の娘さんだったとかで、むかしからその墓を発掘したら、金冠かなにか出るのではないか、といわれてますよ」
もしそうだとすると、その「高貴な筋の娘」も数奇な運命をたどらされることになったものであるが、そういう者の墓とみられるものは、徳島市内のビジネスホテルで一泊した翌日もまたみることになった。
翌日もよい天気にめぐまれて、私たちは午前八時まえにビジネスホテルを出た。そして徳島市と同じく紀伊水道に面した阿南市へ向かったが、途中の徳島市大原町籠というところにも「壬辰倭乱」関係のそういう墓があるというので、そこへも寄ってみることにしたのだった。
勝浦川河口のそこは奥山家や小浜家の墓地となっているところで、陽当たりのよい山麓に宝篋印塔《ほうきよういんとう》形の墓石がたちならんでいた。そこに、「文久二年戌年/寿屋明仙信女/閏八月九日」(北面)、「高麗キヤハンノ城主/山田応天国千天王末孫/奥山要右衛門妻/奥山与五郎母/行年八十六歳俗名奈加」と刻まれているのがあり、また、「山田千天王末孫十一代目交名/小浜幸七事/定雄養父/昭和六年六月十八日没」としたのもあった。
「高麗キヤハンノ」とは何のことかよくわからないので、内藤雋輔氏の『文禄慶長役における被〓人の研究』によってみると、それは「朝鮮昌原城の」ということであり、「応天」は地名で、「千天王」は「千人の部族長」ということではないかとある。つまり、奥山氏と小浜氏とは兄弟で、『阿波年表秘録』に「郷司孫右衛門朝鮮人弐人生捕、公御供ニ被召連、今籠口御番人小浜某、奥山某之祖也」とあるそれだというのである。
それにしても、一八六二年の「文久二年」や一九三一年の「昭和六年」にいたるまで、「高麗キヤハンノ城主」「山田千天王末孫」などと墓石にしるすとは、いったいどういうことかと思わないではいられない。朝鮮でいう「壬辰倭乱」は、一五九二〜九九年のことであるから、それまでには三百年以上がたっているのである。
阿波の渡来系氏族
私たちは大原町のそこから徳島市をあとにして、阿南市のほうへ向かって行った。いわばそれで阿波、徳島県の中心部から離れることになったわけだったが、ほんとうは私はまだその中心部にとどまって、もっといろいろと調べてみなくてはならなかった。
というのは、『日本後紀』八一一年の弘仁二年条に「阿波国人百済部広浜等一百人賜姓百済公」とあったばかりでなく、さきにみた天羽利夫氏の『阿波忌部の考古学的研究』によると、「阿波の古代氏族分布表」があって、すでに十数流にわかれている忌部氏族をのぞいても、古代朝鮮からの渡来とはっきりわかっているそれがこうなっている。=の下は「所在地」である。
△木連理=阿波国
△波多部足人=阿波国板野郡井隈郷
△秦人豊日=右同
△服部=阿波国板匚
△錦部志止禰=阿波国名方郡新嶋荘
△漢人村主=阿波国
△漢人比古=阿波国那賀郡太郷
△漢人大万呂=右同
△漢人根万呂=阿波国長郡大野郷
△百済牧夫=阿波国那賀郡原郷
△百済部前守=右同
△百済部広浜=阿波国
△百済岑子女=阿波国板野郡
「所在地」がただ「阿波国」とあったり、「阿波国那賀郡太郷」となったりしているのは、『続日本紀』や『大日本古文書』などの文献にそうなっているからである。それはそれとしてこのうえさらに、「安曇百足宿禰=阿波国名方郡」や、「韓背足尼=長国」とそれからのわかれとみられる「長費人立、長直牧夫、長直大富売=いずれも阿波国勝浦」などまで加えるとすれば、阿波の古代氏族のほとんどを占めることになるようである。
なかでも注目したいのは、『平城宮発掘調査木簡概報』にある「百済牧夫」「百済部前守」という者たちもさることながら、「漢人村主」などといった「漢人」たちのことである。この漢人のことは、大和(奈良県)高市郡の飛鳥にいた百済・安耶《あや》系渡来人の東漢《やまとのあや》氏・漢人から出た坂上氏族(平安時代初期の武将、田村麻呂が有名)の『坂上系図』にこうある。
時に阿智王〈漢氏・漢人の祖、阿知使主《あちのおみ》のこと〉、奏して〈大和に〉今来郡《いまきのこおり》を建つ。後に改めて高市郡と号す。しかるに人衆巨多にして居地隘狭《あいきよう》なり。更に諸国に分置す。摂津・参河・近江・播磨・阿波等の漢人《あやひとの》村主《すぐり》これなり。
それをなぜ注目したかといえば、ここに「阿波」とあることによって、一つはその『坂上系図』の信用性をたしかめることができたからである。というのは、してみると、「今来郡《いまきのこおり》を建つ。後に改めて高市郡と号す」ということにした「阿智王」とはいったいどういう者であり、そして自分ら漢人たちを勝手に、あるいは自由に「更に諸国に分置す」ることのできたかれとはいったい何であったのか、ということにもなるからである。
しかしいまのところ、それはよくわからないというよりほかないが、ただ、後から渡来した「今来」のかれらにより、今来郡=高市郡が「人衆巨多にして居地隘狭」となったことはたしかのようである。そのことは、『続日本紀』七七二年の宝亀三年条にみられる坂上苅田麻呂(田村麻呂の父)の「上表文」に、「凡《およ》そ高市郡内は檜前忌寸《ひのくまのいみき》及び十七の県《あがた》の人夫地に満ちて居す。他姓《たしよう》の者は十にして一、二なり」とあることからもわかるように思う。
八桙神社の神像
あいだに小松島市などがあったが、そこは素通りして、私たちは間もなく、かつては「長国《ながのくに》」の一中心地となっていたらしい、那賀川流域の阿南市に着いた。例によって、まず市の教育委員会をたずねた。
そして、社会教育課主幹の田村泰造氏に会い、『阿南市の文化財』などをわけてもらった。この『――文化財』についてはあとでみるとして、それからの私たちは、同市長生《ながいけ》町宮内にある八桙《やほこ》神社に向かった。
「多くの桙」ということを意味した「八桙」神社はその名称からして、相当古い神社らしかったが、しかし私たちがそこへ向かったのは、そういう神社らしいからばかりではなかった。前記『徳島県の歴史散歩』に、こうあったからである。
八桙神社は延喜式内社で、長国《ながのくに》の国造の祖をまつる神社といわれている。格式たかいだけに社宝は多い。御神体は大己貴命立《おおなむちのみこと》像(重文)。木造で高さ一・三四メートル、平安時代末期の作といわれ、神像の立像として全国的にも珍しいといわれている。もうひとつの男神立像(重文)は大己貴命立像とよくにた形式であり高さ約一・七メートル、制作は平安時代末期と推定され、少彦名《すくなひこな》命像といわれている。なおこのほか平安時代末から鎌倉時代初期の制作と推定される男神立像三体、男神坐像六体(それぞれヒノキ木造)が所蔵されている。
ここにいう「長国の国造」とは、これまでにもみてきた韓背宿禰であることはいうまでもない。その祖を祭る八桙神社は、古墳などもそこにあるのではないかと思われる樹木の深い丘の麓にあって、前方は畑などまじった田地がひろがっていた。
私たちはできれば、その神社に所蔵されている大己貴命像や少彦名命像をみせてもらえないものかと思っていたが、さきにみた同じ韓背宿禰の祖を祭る御間都比古神社とはちがって、こちらはかなり大きな神社だったにもかかわらず、どうしてか無人のままとなっていた。そのかわりということでかどうか、境内に「八桙神社由緒御案内」とした大きな掲示板がたっていて、「八桙神社は上古、長ノ国の祖神として竹原庄要津に鎮座す。長ノ国は北の粟ノ国と相対して、阿波氏族の源を形成す」などと書かれている。
それだけではしようがないので、神体の大己貴命立像などは、『阿南市の文化財』にある写真によってみるよりほかないが、これでみても、「冠を頂き、袍および差貫を着け、左手を前にして両手を入れ違いに重ね、みひらいた両眼を刻んでいる」。それは、なるほど「全国的にも珍しい」もののようである。私としては、顔がまだ少年のそれであるらしいのも珍しかったが、それからさらにまた、八桙神社には少彦名命像といわれる立像ほか、男神立像三体、坐像六体があることはいまみたとおりである。
「多くの桙」ならぬ多くの男神立坐像だったわけであるが、ところで、その八桙神社の神体となっている大己貴命立像は、平安末期の当初から「大己貴命」のそれとしてつくられたものであったろうか。大己貴命とはもちろん出雲(島根県)の神として有名な大国主命のことでもあるが、私にはどうも、そうではなかったのではないかと思われる。
なぜかといえば、それが「長国の国造」すなわち韓背宿禰の祖を祭る八桙神社の神体であるからには、はじめはその韓背宿禰の祖のそれとして、つくられたものだったはずだからである。それが後世になって、大己貴命像ということになったのではないか。
もっとも、新村出編『広辞苑』にある「韓神《からのかみ》」の項をみると、「(朝鮮から渡来した神の意か)大己貴( おおなむち)・少彦名( すくなびこな)二神の称。宮内省に祀られた」となっているから、それはそれで、近からずとも遠からず、ということになるけれども。
新羅三郎ゆかりの海正八幡神社
八桙神社のある阿南市は、人口六万ほどのところだったが、神社の多いところであった。同市橘町大浦には海正《かいしよう》八幡神社があり、福井町にはまた大宮八幡神社があって、前記『徳島県の歴史散歩』にこう書かれている。
橘の町も西のはし、亀の森に海正八幡神社がある。万寿年間(一一世紀)に新羅三郎義光が誉田別命《ほんだわけのみこと》をまつり、一二六九(文永六)年四月、織原刑部丞実成《ぎようぶのじようさねしげ》が再興したといい、その織原家が代々つづき現在でもこの神社の神職をつとめている。……
福井にある大宮八幡神社は誉田別命(応神天皇)をまつる。ごくふつうの八幡神社だが、旧橘浦・下福井・椿地・椿・椿泊など五ヵ村の氏神だったため大宮とよばれていた。一三九四(応永元)年、一五二六(大永六)年に拝殿などを建造した棟札が残っているので、それ以前からまつられていたことはたしかだ。境内にあるクスノキは樹齢二〇〇〇年といわれており、周囲二一メートルあまりもある。
「樹齢二〇〇〇年」とはたいへんなクスノキ(樟・楠)もあったものであるが、それのある大宮八幡神社はともかくとして、新羅三郎義光が誉田別命を祭ったという、海正八幡神社がどうしてこんなところにあるのか。新羅三郎義光といえば、近江(滋賀県)大津市の新羅神社(いまは新羅善神堂)を祖神とするいわゆる近江源氏のそれであるが、そのかれが四国のはしのここまで来ていたというのであろうか。
実際としては、義光の生没年(一〇四五〜一一二七)からみてそれは考えられぬことであるが、それはともかくこの日の私たちは、前日よりもさらにまた遠い道のりをこなして、土佐の高知まで行かなくてはならなかったから、そんな神社までいちいちたずねることはできなかった。で、私たちはそのまま阿南市を離れて南下し、土佐との国境《くにざかい》に近い海部《かいふ》川流域の海部町にいたって、昼食ということにした。
大里古墳と海部豪族
ところで、海部川、海部郡海部町という地名からして、そこがまたなかなかおもしろいところであった。いまは海部《かいふ》といっているけれども、そのもとは海部《あまべ》、すなわち海人《あ ま》族ということではなかったかと私は思うが、前記『徳島県の歴史散歩』を開いてみると、海部川をはさんだ対岸、海南町の古墳のことがこうある。
海南駅から東へ約一キロほどゆくと、景勝大里松原にでる。この付近一帯は大きな砂丘で、その砂丘のうえに大里古墳(県史跡)がある。この古墳は横穴式の円墳で、六世紀ごろからつくられた海部豪族の墳墓であるといわれている。古墳の現状は、封土が流失して巨大な天井石が六個露出している。大きさは羨道の長さ四メートル、高さ一・六メートル、玄室の長さ六メートル、高さ二・四メートル、奥壁は巨大な一枚石によって構築されている。
この古墳は昭和二六年に発掘されたが、それ以前に盗掘された形跡がある。出土品としては、石棺はなく、金環・丸玉・祝部土器〈須恵器〉数種がでている(一部は海南高校に保存)。
有名な大和(奈良県)飛鳥の石舞台古墳によく似た古墳で、それが「海部豪族」の墳墓だったとすると、その豪族はよほどの豪族であったにちがいない。六世紀ごろのものであれば、出土品の金環などもしかすると、古代朝鮮からの直行品であるかも知れない。
大山神社の朝鮮鐘
なおまた、前記『徳島県の歴史散歩』をくってみると、土佐ざかいの海部郡宍喰《ししくい》町に大山神社というのがあって、こういうことが書かれている。
宍喰町の久保から宍喰川を約一〇キロのぼった塩深の大山神社は、脚咋別《あしくいわけ》の始祖鷲住王命をまつる宍喰町最古の神社だ。鷲住王は、履中天皇の后妃の兄といわれる。この神社は、『阿波志』によると「十二社権現と称す、宍喰は脚咋《あしくい》の転じたものである」としるされている。
現在は、拝殿と本殿だけしかないが、古くは山中に一二の僧坊があり、大きな寺院形式をととのえていたといわれる。この神社には、有名な朝鮮古鐘(明昌七〈一一九六〉年四月の記銘のもの)があった。現在は東京にあるといわれる。
一一九六年の記銘というと統一新羅後、高麗《こうらい》初期ころのものであるが、あとでみる土佐・室戸市の金剛頂《こんごうちよう》寺にある朝鮮鐘とともに、その鐘がどうしてそんな大山神社にあったのかはわからなかった。しかし私たちは、海南町の大里古墳も、大山神社のその鐘のこともみな省略ということにして、一路、四国東南端の室戸岬へ向かってクルマを走らせた。
そして午後二時ごろ、土佐の室戸市にはいった。急に、海から吹きつける風が強くなっていた。
土 佐
室戸岬にて
室戸岬から金剛頂寺へ
「ここが室戸岬か」と私は、棕櫚《しゆろ》の葉などが強い海風に揺れなびいている、その室戸岬の先端部に立って思った。眼下の沿岸は波濤《はとう》に洗われつづけている黒い岩礁《がんしよう》のつらなりだったが、その向こうはただ茫洋《ぼうよう》たる太平洋であった。
室戸岬といえば、その茫洋たる太平洋から襲ってくる「室戸台風」といったことばが思いうかぶが、いわゆる戦中派の私たちには、もう一つ忘れられないこととして、「敵B29編隊、四国の室戸岬より……」というそれがある。太平洋戦争末期、空襲のはげしかったころ、そう告げるラジオの声を、私たちは何度も聞かされなくてはならなかった。
いやな記憶だったが、しかし一つはそういうこともあって、私は室戸岬をたずねてみたかったのである。もちろんいまは何事もない海原と、平和な観光地としての室戸岬がそこにあるだけで、高知県高等学校教育研究会歴史部会編『高知県の歴史散歩』をみると、そこのことがこう書かれている。
高知県の東南端に位置する室戸岬は、地元の人びとに俗に“お鼻”とかミサキとかよばれている。一年を通じて暖かく冬でも霜雪をみることはまれだ。黒潮の波濤《はとう》に岩礁《がんしよう》は浸蝕《しんしよく》、削岩《さくがん》されて千態万様の斑糲《はんれい》岩が海面に露出し、風波荒く男性的な海岸美をみせている。
岬端より東海岸にかけてはアコウ・タチバナ・ハマユウ・ウバメガシなどの亜熱帯植物や海岸植物が群生し、また“風の室戸”といわれるくらいで、一年間を通じて一〇メートル以上の強風が吹くのも全国的に珍しく、とくに夏から秋にかけてはしばしば台風の上陸地点となり、“台風銀座”とよばれる。土佐守としての任の終わった紀貫之は、帰京の途中、天候不順のため御崎の泊(岬付近)でいく日かをすごした。またこの地は青年時代の空海が修行したところで、空海のこもった御蔵洞をはじめ、一夜建立の岩屋、行水の池、目洗の池など空海にまつわる伝説も多い。
岬突端の路傍の銅像は、幕末勤王の志士中岡慎太郎で、この銅像の背後の山上には光達距離日本一を誇る二五〇万燭光の室戸岬灯台、富士山頂につぐ台風観測マンモスレーダーがある室戸測候所があり、観光では新時代を開くものとして期待される室戸岬スカイラインがある。このスカイラインのすぐ上、国道から急坂をのぼりつめたところに最御崎《ほつみさき》寺がある。
私たちは観光のためにそこへ来たのではないとばかり、岬のあたりをひとまわりしてみただけで、そんな「期待される室戸岬スカイライン」は無視した。そして、それからはかなり離れた岬の西北方にあたる室戸市元《もと》の金剛頂寺へ向かった。
高知市への進行方向でもあったが、しかしほんとうは、あとでわかるように、私たちはその「スカイラインのすぐ上」という最御崎寺をもたずねてみるべきだったのである。が、それはあとの祭りとなった。
金剛頂寺の朝鮮鐘
いわゆる四国八十八ヵ所の二十四番札所となっている最御崎寺に対し、こちらは二十六番のそれとなっている金剛頂寺は、海抜二百メートルほどの崎山山頂台地にあった。「厄坂参道」という下にクルマをとめ、女坂三十三段、男坂四十二段を登って仁王門をくぐると、「弘法大師千百五十年御遠忌記念事業として総工費三億円をかけ」てつくったという、豪華な新本堂がそびえたっていた。
境内のあちこちには白装束《しろしようぞく》の「お遍路《へんろ》さん」が群れていて、納経所ともなっている寺務所の前にも、お遍路さんが列をなしていた。なかでは一人の中年僧が馴れた筆さばきで、それらのお遍路さん一人一人になにかを書いてわたしている。私にはよくわからなかったが、それは二十六番札所のそこに(も)お詣りをしたという、証明書のようなものらしかった。
私たちはそんなこととは関係なく、その金剛頂寺にあるという朝鮮鐘をみせてもらうために、そこをおとずれたのだった。しかし寺務所の僧は忙しそうなので、なかなかそれを言いだすことができず、やっとすきをみてその鐘はどこかと訊くと、
「それは霊宝殿です」という返事。見ると、霊宝殿は新本堂の左手にあって、扉には固く錠がおろされている。
「おや、これは弱ったね」というふうに、私たちは顔を見合わせた。寺務所の僧はあいかわらず忙しそうで、かんたんにはその霊宝殿の扉を開けてもらえそうになかったからである。
で、仕方なく、売店にあった『四国第二十六番/金剛頂寺』とした案内書など求め、それを読んだりしながら境内をぶらぶらして、寺務所の前からお遍路さんたちがいなくなるのを待つよりほかなかった。
案内書によると、そこの霊宝殿には国指定の「重要文化財七点他数々の寺宝が保存されて」いて、そのうちの一つである「銅鐘(重文)」のこともこうある。
これは朝鮮鐘で、李朝以前のものと云われ、現在、韓国に伝わらず、日本に渡って来たものが残っている程度である。竜頭に管、肩、口辺あり、胴の上部に唐草模様又は天女の歌舞の模様があり、雅致豊かである。又、この鐘の事を「雨ごいのつり鐘」と云い、雨の降らぬ時は農民がこの鐘を海に入れ祈願したと伝える。
ようやく、寺務所前からはお遍路さんたちの姿が見えなくなった。が、まだなにかと忙しそうにしている僧にたのみこんで、私たちはやっと、霊宝殿の扉を開けてもらうことができた。
そこにおかれている朝鮮鐘は、高麗時代のものだった。よく保存されて、どこも欠けたところのない完形だったけれども、私にはそれほどいいものとは思われなかった。
これまでみてきた越前(福井県)敦賀の常宮神社や、長門(山口県)下関の住吉神社にある朝鮮鐘にくらべると、あるいはそういうものではないかと思ってはいた。しかしにもかかわらず、むりして私たちがそれをみせてもらったのは、せっかく四国東南端の室戸岬まで来たのだから、ということが一つと、もう一つは古代または中世に朝鮮でつくられた鐘がどうしてそんなところにまできているのか、ということからであった。
見逃した最御崎寺
いわば、それを自分の目でたしかめてみたかったからであるが、そういう意味でも私たちはむしろ、さきにもふれた最御崎寺をこそたずねるべきであった。
そのことはあとでわかるが、ここでは、前記『高知県の歴史散歩』によって、最御崎寺のことと、そこにあるという仏像のことのみみておくことにする。
〈最御崎寺は〉八〇七(大同二)年空海が嵯峨《さが》天皇の勅命によってはじめたといい、のちには藩主山内氏の保護をうけ二四番札所としてさかえたが、維新後一たんは荒廃した。薬師如来坐像(重文)は像高八八・五センチの寄木造、中央仏師の手になると思われるととのった刀法をみせる堂々とした藤原時代末の像だ。月光菩薩立像(重文)は頭部が像高にくらべて大きく、童顔でずんぐりした地方色の濃い素朴な作だ。
東京国立博物館に出陳中の如意輪観音半跏像《によいりんかんのんはんかぞう》(重文)は大理石造の逸品で、像高八二・四センチ、かつて麓の一夜建立の岩屋にあったとき、漁師が豊漁のまじないとして欠き取ったので右手肘《ひじ》から先と左脚部、両足先が失われているのはおしい。その様式は日本の彫刻史にはないもので、大陸からの請来品ではないかといわれる。境内にはヤッコソウがはえ、北方谷間にはヤブタチバナ(国天然〈記念物〉)がある。
南国市の弥生遺跡ほか
古代土佐の中心地
私たちは金剛頂寺から、海岸沿いとなっている国道五五号線に戻り、それからは長駆、田野町、安芸《あき》市などをへて、高知市に近い南国《なんこく》市にいたった。いよいよ、土佐の中心地となったわけであった。
土佐はいまは高知県というその県名ともなっている高知市が中心だが、古代では、いまは香我美《かがみ》町、土佐山田町、南国市などとなっている香美郡、長岡郡が中心地となっていたものであった。そのことについては、前記『高知県の歴史散歩』にもこうある。
香美・長岡の二郡は土佐でもっとも早く開けた地方である。郡の南部の平野は香長《かちよう》平野とよばれ、高知県有数の農業地帯で、米の二期作で名高い。それだけに、古くから人びとが住みつき、弥生時代の遺跡や古墳が多い。政治の中心である国府は、南国市の比江から南の国分川にいたる間にあったし、国分寺も国府の西に建てられていた。国府から北山をこえて都にいたる官道が開かれ、豊楽《ぶらく》寺の建立など、古代文化の栄光にかがやいた。
さらにまた、「中世には守護代の館《やかた》が南国市の田村に建てられ、国内を支配した」とのことであるが、さて、「栄光にかがやいた」その古代文化とはどういうものであったか。それをみることにしよう。
土佐の弥生文化=田村遺跡群
私たちはまず例のごとく、南国市教育委員会をたずねて社会教育課主事の浜田清貴氏から、『高知県/田村遺跡群』はじめ、『高知県南国市/西見当遺跡調査報告書』『南国市文化財めぐり案内』などをもらい受けた。あとの二つはどちらも同市教委の発行であるが、さきの『高知県/田村遺跡群』は写真を中心としたもので、高知県教育委員会文化振興課編集、同県文化財保護連絡協議会発行となっている。
そのことからみても、この『高知県/田村遺跡群』はひとり南国市とかぎらず、全県的あるいは全国的なものであることがわかる。アート紙印刷のページをくってみると、「大陸文化の流入」という項があって、そこに「朝鮮系無文土器」という写真がのっているので、私はちょっと目をみはった。
「へえ、それがここまで――」と思ったからであるが、しかし考えてみれば、別におどろくようなことではなかった。それは次の新聞記事をみれば、「ああ、なるほど」とうなずけるのである。
「弥生期初めに『方形住居』/田村遺跡群で発掘/竪穴式の五棟密集/朝鮮から直接伝来?」という大見出しをもった一九八三年五月二十日付け高知新聞の記事で、そのことがこう報じられている。ちょっと長いけれども、土佐の弥生文化をみるのに重要なので、ここに全文を引くことにする。
県教委が発掘調査を進めている南国市の田村遺跡群で、約二千三百年前の弥生時代前期初頭の集落跡が見つかり、十九日、現地で発表された。円形の竪穴(たてあな)住居跡二棟、方形の同住居跡が五棟あり、この期の住居跡が完掘されたのは全国でも初めて。特に弥生前期の方形住居跡は日本に類例がなく、朝鮮からの直接的影響も考えられる。弥生時代前期初頭の集落構成、弥生文化の成立の解明に貴重な資料だ。
集落跡が見つかったのは同市田村の国道五五号から県道南約二キロの「ワカサカ内地区」。発掘面積は約六千八百平方メートルで、昨年六月に竪穴住居跡などが発掘された「東松木地区」の隣で田村遺跡群の南端。昨年十二月から発掘していた。
遺構は円形住居跡(竪穴住居跡)が二棟。直径約八メートルあり、周囲のあちこちに突出部が付いている。住居跡の中心部には、だ円形の中央ピット(穴)とその両端に二ヵ所の小ピットが開けられている。一般的には炉とみられるところが、中央ピットから、と石、たたき石、石器の破片などが出土し、火で焼けた跡もないため、石器を作る工房のような性格を持つものと考えられる。
方形住居跡(竪穴住居跡)は縦五・五メートル、横六メートルが一棟、縦、横四メートルが三棟、縦、横三メートルが一棟、だ円形の中央ピットなどは円形住居跡と同じだが、弥生時代前期では韓国に類例があるだけで、日本では初めての発掘だ。
出土遺跡は壺(つぼ)、瓶(かめ)、高坏(たかつき)、鉢などの弥生土器、土製紡錘車(ぼうすいしゃ)、太形蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)、磨製・打製石鏃(せきぞく)、紡錘車などの石器類合わせて約一万五千点。
この中には外縁部に突端紋を持つ弥生最古の東松木式土器、外わん部に刃のついた石包丁、磨製有柄の石鏃などが含まれ、この時代を裏付ける。
これらを総合的に検討した結果、集落は隣接の東松木地区で発掘された丸形の竪穴住居を含めた八棟で、出土品からも稲作文化を持った集団の集落跡と言えそう。弥生前期初頭については福岡県(今川遺跡)、和歌山県(太田黒田遺跡)などで竪穴住居跡が単発的に見つかっているが、集落として完掘されたのは他に例がない。
また、方形住居跡の形態や中央ピットと小ピット、黒色磨研土器の存在、石包丁、紡錘車の形態などから、集落の構成には朝鮮半島からの直接的な影響を考えることもできる。稲作についても、朝鮮半島から伝わった北九州とほぼ同時期に行われたことが考えられる。
△広い歴史的位置付けを
宅間一之同課社会教育主事の話 これからは田村遺跡を中心に、南四国での弥生文化の成立、展開だけでなく、九州や朝鮮半島、さらに東アジアなど広い歴史の中での位置付けを考えていかなければならないだろう。
四国における弥生文化がどこからきたものであるかということを知るうえで貴重な発掘・発見であるが、それにしては、「朝鮮半島からの直接的な影響を考えることもできる」とはずいぶんと遠まわしないい方ではないか。だいたい、「約二千三百年前の弥生時代前期初頭」のころにそんな「影響」をあたえる、あたえられる、などということがあったであろうか。そんなことは、とうてい「考えることもでき」ないのである。
当時の遺跡・遺物がそこにあったということは、とりもなおさず、当時、そのような生活文化を持った者たちが直接そこへ渡来していたということにほかならないのである。しかもそれは弥生時代だけではなく、あとの古墳時代にしても同様であった。
そのことは、「領石(南国市)で古墳発見/横穴式の石室/金環、勾玉など出土」という、一九八三年十一月二十三日および二十九日付け高知新聞の記事をみてもわかる。これは「六世紀末」ごろの古墳で、出土遺物は「金環(耳飾り)五個、管玉、勾玉、貝玉各一個、石製とガラス製の丸子玉四個、ほぼ完全な馬具のくつわ、くぎなど」であったという。
これはまた、弥生時代のそれとはちがう新しい文化であった。ここにみられる「金環(耳飾り)」などにしても古代朝鮮の新羅・加耶あたりから直行したもの、つまり古墳時代に渡来した者たちのそれにほかならなかったのである。
白鳳時代の比江廃寺
南国市はそのような古墳も多いところで、高知県下三大古墳のうちの二つまでがここにある。明見《みようけん》古墳と小蓮《こはす》古墳とがそれであるが、明見古墳の近くには高間原《たかまがはら》古墳群があり、また小蓮古墳の近くには舟岩《ふないわ》古墳群があって、この古墳群からも朝鮮からのそれである金環、銀環、馬具などが出土している。
それからまた、『南国市文化財めぐり案内』に折り込まれている「南国市文化財地図」をみると、「白木谷のタチバナ」というのが二ヵ所にわたってあり、そのあいだに「白木谷小〈学校〉」というのもある。もしかするとここには新羅・加耶系渡来人、たとえばあとでみるように、南国市を本拠として発展した長宗《ちようそ》(曾)我部《かべ》氏がそこからでたという秦氏の祖神を祭った白木《しらき》(新羅)神社があったか、またはあるかも知れなかった。
それからまた長宗我部氏ゆかりの岡豊《おこう》城跡や、岡豊八幡宮などもたずねてみたかったが、しかしもう日暮れとなっていたため、私たちはそこまで行ってみることはできなかった。国分寺跡、国衙《こくが》跡などから、土佐最古のそれであった比江廃寺塔跡をたずねただけで、高知市へ向かわなくてはならなかった。
廃寺塔跡といっても、いまは一般の住宅がそこまで迫っていて、風格のある塔礎石が一つのこっているだけだった。それについては、前記『高知県の歴史散歩』にこうある。
紀貫之邸跡の東四〇〇メートルのところに比江廃寺塔跡(国史跡)がある。残っているのは一基だけで、他は国分川の普請などで持ち去られたという。心礎の大きさは最長三・二四メートル、幅の最長二・二一メートルで、なかに一五センチ、深さ一二センチの円形の舎利《しやり》を入れる孔《あな》がある。
従来国分寺建立前の大寺であるとか、国分尼寺の塔跡であるとか、いろいろ説があったが、昭和一七年に、塔の礎石の東南から蓮華文の鐙《あぶみ》瓦や忍冬唐草文《にんとうからくさもん》などの宇《のき》瓦が出土し、国分寺建立以前の白鳳《はくほう》時代の寺院で、土佐最古のものであることが明らかになった。しかし寺の名称や建立者は明らかでない。最近の発掘によって、法隆寺式の伽藍《がらん》配置の寺と推定されている。
「白鳳時代」というと七世紀後半のことであるから、各地に国分寺ができる百年もまえのことである。そのころ、四国南部のこの地にそんな寺院が建立されたとは、おどろくべきことといわなくてはならない。
「寺の名称や建立者は明らかでない」のは残念だが、しかしいずれにせよ、それは周辺に舟岩古墳群などをのこしたこの地の豪族と無縁だったはずはない。その氏寺として建立されたものであったとすれば、その豪族の勢力もまた格別なものであったはずである。
土佐の高知との縁
鰹のたたきとにんにく
高知市にはいると、あたりはすっかり暗くなってしまっていて、どこからともなくにんにくの臭いがぷうーんと鼻を突いてきた。それは南国市にしても同じはずだったが、妙なものだった。食事どきだったからかも知れない。
「ああ、あれだな」と、私は思いだして言った。「今夜はひとつ鰹《かつお》のたたきで、ということにしようか」
「ええ、いいですね」「土佐の高知となると、やはりそれですな」とつづいて辛基秀、池尚浩さんもそう言って笑った。
私たちのクルマは高知城のあたりをちょっと行ったりきたりして、タウンセンタービジネスホテルというのに泊まることになった。そしてホテルの人に「司」という近くの小料理屋をおしえられ、そこで、大きなにんにく片とともに口に入れる鰹のたたきをたっぷり食うことになった。
だいたい、にんにくといえば、私たち朝鮮人のほうが本家のようなものであるが、しかし、土佐の鰹のたたきのそれには、私たちのほうがむしろ顔負けであった。私は二十数年前、はじめて高知へ来たときそれを食わされておどろいたものだったが、いまも変わりなくなかなか強烈なものだった。
私のそれまでの経験では、にんにくは叩いてつぶしたものを、キムチ(漬物)などの調味料として用いるものであって、生《なま》のままそのようにして食べるということはなかった。もっとも、近年、韓国の港町をたずねたところ、それは同じように生のまま食べるものともなっていた。むかしからもそうだったのを、私が知らなかっただけらしい。
ついでに韓国でのその食べ方を紹介すると、まず、開いた掌にちしゃか春菊などの野菜を適当にとっておく。ついでそこに生のにんにく片をいくつかのせ、そしてそのうえに魚をおき、唐がらし味噌のタレをとってのせるとともに、掌の野菜でそれを包んで、大きく開いた口のなかへ押し込む。はじめはやはりその強烈さにちょっと顔をゆがめたりするが、しかし馴れてしまうと、これがまた何とも豪快でうまいのである。
土佐の鰹のたたきも、だいたいそのようなものであるが、それにしても問題は、にんにくをいつごろからそうして食べるようになったかということである。朝鮮人にとってのにんにくは、檀君神話にもそれがでているから、ひじょうに古くからではないかと思うが、土佐のばあいは比較的新しく、のちにみる唐人町の豆腐と関係があるのではないかと私は思っている。
にんにくの臭いをぷんぷんさせながら、ビジネスホテルのベッドにはいった私は、そのにんにくのせいではないであろうが、なかなか寝つかれなかった。あすからの取材のことを思うとともに、それまでの土佐・高知と私との縁ともいうべきものをあれこれと思いだしていた。
詩人・槇村浩を想う
私が土佐の高知へ来たのは、これで四度目のはずであった。のち、一九八四年八月十五日、「高知夏季市民大学」での講演のためまた行っているから、これを書くまでには五度ということになる。
さいしょに私が高知をおとずれたのは、たしか一九六〇年代のはじめではなかったかと思う。文芸評論家の蔵原惟人氏らといっしょに、夭折《ようせつ》した高知市出身の詩人・槇村浩の死後二十五周年記念祭に参加するためであった。
いまでは、『槇村浩全集』も出ており、また同じ高知市在住の作家である土佐文雄氏によって、槇村浩の生涯を描いた『人間の骨』が書かれて映画にもなったりしているので、彼のこともかなり知られているが、しかし当時としてはまだ、一部にしか知られていない詩人であった。記念祭がおこなわれたのは、その詩人をひろく再評価しなくてはならないということからだったが、私がそれに参加することになったのは、彼の代表作である長詩「間島パルチザンの歌」というのが、朝鮮と深くかかわったものだったからである。
私は、一九五九年一月号の雑誌『文学』(岩波書店)に「日本文学のなかの朝鮮人」というかなり長い一文を書いている。いま『番地のない部落』というのに収録しているそれをみると、「プロレタリア文学運動の高揚とともに、またこんな作品も生まれた」として、槇村浩のそれを紹介し、つづけて彼のことも書いている。
もちろん、いま私がたずね歩いている土佐の古代朝鮮文化遺跡と、直接の関係はない。しかしこれも土佐人と朝鮮との関係ということで、あわせてみておくことにしたい。
思い出はおれを故郷へ運ぶ
白頭の嶺を越え、落葉《か ら》松の林を越え
芦の根の黒く凍る沼のかなた
赭ちゃけた地肌に黝《くろ》ずんだ小舎の続くところ
高麗雉子が谷に啼く咸鏡の村よ
――以下、一二五行略――
氷塊が河床に砕ける早春の豆満江を渡り
国境を越えてはや十三年
苦い闘争と試練の時期を
おれは長白の李で過ごした
気まぐれな「時」はおれをロシアから隔て
厳しい生活の鎖は間島におれを繋いだ
だが、かつてロシアを見ず
生れてロシアの土を踏まなかったことをおれは決して悔いない
いまおれの棲む第二のロシア
民族の墻《かき》を撤したソヴェート
聞け! 銃を手に
深夜結氷を越えた海蘭《ハイラン》の河瀬の音に
密林に夜襲の声谺《こだま》した汪清《ワンシン》の樹々のひとつひとつに
血ぬられた苦難と建設と譚《ものがたり》を!
風よ、憤懣《ふんまん》の響きを籠めて白頭から雪崩《な だ》れてこい!
濤《なみ》よ、激情のしぶきを揚げて豆満江に迸《ほとばし》れ!
おお、日章旗を翻《ひるがえ》す強盗ども!
父母と姉と同志の血を地に灑《そそ》ぎ
故国からおれを追い
いま剣をかざして間島に迫る日本の兵匪!
おお、お前らの前におれたちがまた屈従せねばならぬというのか
ふてぶてしい強盗共を待遇する途をおれたちが知らぬというのか
――以下、二八行略――
槇村浩の長詩「間島パルチザンの歌」(一九三二年)の一部である。日本人である作者が、朝鮮人の視点に即しきった作品である。その意味でも、あるいはまた私小説的なものの多い日本文学の方法上でも、これは珍しい作品で、いわゆるプロレタリア国際主義の極致をしめしたものとなっている。
しかも、「いま剣をかざして間島に迫る日本の兵匪!/おお、お前らの前におれたちがまた屈従せねばならぬというのか」というところなど、ことばの適不適は別として、これはまさしく朝鮮人そのものの発想で、このために作者はしばしば朝鮮人ではなかろうかとさえみられてきた。
事実、私がこの詩に接したのは戦後、一九四九年に新日本文学会からでた『日本プロレタリア詩集』によってであったが、この詩は一種異様な感銘を私のうちにのこし、私もまたこの槇村浩という詩人は朝鮮人ではなかろうか、と思ったものだった。
その後、そうでないとわかったが、この稿を書くにあたってなおよく調べてみたところによると、槇村浩は一九一二年高知県高知市に生まれ、本名を吉田豊道といった。そして土佐の秀才校といわれた土佐中学に入学、間もなくここを軍事教練反対運動で放校され、一九三二年、「間島パルチザンの歌」が、この年の『プロレタリア文学』四月臨時増刊号に発表されるのと前後して検挙され、獄中で「非転向同盟」をつくったりして、一九三八年に死んでいる。――
土佐人の「反骨」
「間島パルチザンの歌」が書かれたのは二十歳のときであり、そして亡くなったのは二十六歳だったわけで、いまでも、実に惜しい生涯の人だったと思わないではいられない。それにしても、日本・土佐の地にいた槇村浩は二十歳で、遠い中国・間島の地における朝鮮人の解放闘争に思いを馳せたそのような詩を書いたとは、いったいどういうことであったろうか。
それは、よくいわれる土佐人の「反骨」ということの一面をしめしたものだったのであろうか。たとえば、朝日新聞に連載された「新人国記/高知県(11)」(一九八三年三月十二日夕刊)の次のような記事とも、それは関係があるのであろうか。
関ケ原の戦いのあと、土佐は長宗我部盛親から山内一豊へと政権がかわる。再起をうかがう長宗我部の生き残りは田畑を耕しながら、いったん緩急あれば武装してはせ参じる下級武士集団をつくる。甲冑(かっちゅう)をひとくくりにしてあぜ道においたので、一領具足といわれた。下士のなかから郷士に取り立てられたのもいる。しかし、関ケ原の功で一豊が遠州〈静岡県〉掛川から連れてきた進駐軍の上級武士団と、下士、郷士は相いれるはずがない。上士には無礼をはたらいた下士を切り捨ててもよい特権まで与えられたので、両者の反目はひどく、つねに藩政をゆさぶる要因となっていた。
恨みを抱いた下士、郷士のエネルギーは、やがて幕末史を彩る勤王の志士に姿をかえる。とりわけ町人郷士の次男坊に生まれた〈坂本〉竜馬の活躍は、維新の夜明けをもたらす大業を次々と生み、近代史に鮮烈な軌跡をしるす。
気になった天韓襲命
槇村浩の詩「間島パルチザンの歌」のことから、中・近世の長宗我部氏や山内氏のことにまで行ってしまったが、この両氏、ことに新羅・加耶系渡来人である秦氏からの出という長宗(曾)我部氏のことについてはあとでまたみることになる。そのことはいまはおいて、私がさいしょに土佐の高知をおとずれたのは槇村浩の記念祭に参加するためであったが、その後も二度ほど来ている。
どちらもこれまた一九六〇年代のことで、二度とも前記の土佐文雄氏らが主催した文学講演会のためだったが、それらのことをつうじて知った土佐というところは、私に相当深い印象を残した。まず、土佐の人々は酒がめっぽう強いことと、それから郷土意識がひじょうに強いらしいということであった。
酒のことはともかく、書店にはいってみると、これもその郷土意識を反映してか、いろいろな種類の郷土史がたくさんならんでいる。そのなかから、私もそんな意識につられてか、高知市立図書館発行の「市民新書」となっている『高知県の歴史』を一冊買い求めた。
そして読んでみると、はじめのほうの「古代の土佐」にこういうことが書かれている。あるいはもしかすると、記憶がはっきりしないが、そういうくだりがあったので、買い求めたのかも知れない。
現代史学は日本の国家創立年代をあきらかにすることができず、西暦前六百六十年をもってする神武紀元を否定するが、大和国家の統一をおよそ人皇第十代崇神《すじん》天皇のころと認めているようである。そのころの社会組織は豪族と農民とに分かれ、その下に奴《やつこ》と呼ばれる奴隷があった。豪族は血統を示す氏《うじ》と身分を示す姓《かばね》をもち、姓には臣《おみ》、連《むらじ》、公《きみ》、造《みやつこ》、首《おびと》などがあり、あるいは朝廷に仕え、あるいは地方領主としてこれを世襲した。
地方領主の地位は国造《くにのみやつこ》と県主《あがたぬし》の名で表わされたが、「国造本紀」によれば、崇神天皇の御代に天韓襲命《あまのからそのみこと》をもってはじめて土佐の国波多の国造に定めたと記されている。波多は現在の幡多であろう。また人皇十三代成務天皇の世に小立足尼《ひじのすくね》を土佐の国造に定めたとも見えている。三島溝杭命《みしまみぞくいのみこと》九世の孫と伝えられ、小立は現在の尾立《ひ じ》に通じるし、高知市朝倉の付近に勢力を張った豪族であろう。幡多が土佐と別に一区域をなしていた時代が考えられる。
いまみると、これにも、たとえば、「大和国家の統一……崇神《すじん》天皇のころ」というのなど問題があるが、しかし当時の私は、日本の古代史についてはまだあまり関心がなかったので、そんなことは気にならなかったものだった。ばかりか、ここにみられる「波多《はた》」「幡多」というのが、新羅・加耶系渡来人である秦《はた》氏族の秦からきているということも知らなかった。
それがわかるのはのちになってからであるが、しかしそうだったにもかかわらず、「天韓襲命《あまのからそのみこと》をもってはじめて土佐の国波多の国造に」とはどういうことか、と思ったのである。つまり、その「天韓襲命」というのが気になったのだった。
で、私はそのことを、土佐文雄氏らと同じ文学グループの一人だった島内一夫氏に向かって訊いてみた。すると、島内さんはこともなげに言ったものだった。
「朝鮮から渡って来た豪族ということじゃないですか。土佐ももとをただせば、みな朝鮮だったんですよ」と。
いまだったら別におどろくこともないであろうが、これがまた意外であった。しかし当時の私はまだ、このような「日本の中の朝鮮文化」という古代遺跡紀行を、土佐を含めた全国にまでわたって書こうとは思っていなかったので、「そうかなあ」と思ったまでだった。
ここではなしは前後するが、私はこんど久しぶりに土佐の高知をたずねて、偶然、高知市で発行されている『サンライフ』という小型の新聞を手にした。みると、そこに島内一夫氏の「こよみの散歩」というのが連載されているので、当時のことをなつかしく思いだしながら読んだ。
文末に筆者紹介があって、「しまのうち・かずお、作家/文芸誌『山河』編集兼発行人」とある。そのまえに私は土佐文雄氏にも会っていたので、「あれから二十余年、それぞれにみな健在なんだ。よかった、よかった」と心底から思ったものだった。
天韓襲命をめぐって
秦氏との関係
高知市のビジネスホテルで一泊した翌日も、朝から快晴にめぐまれた。私たちは午前九時となるのを待ってさっそく、近くの豪壮な高知城のそばにあった高知市教育委員会をたずねることにしたが、しかし私としてはさきにまず、前夜から考えていた「天韓襲命《あまのからそのみこと》」 とはどういうものであったか、ということを島内一夫氏のことばだけでなく、いまあらためてもう少しよくみておかなくてはならない。
なぜかというと、それはこれからもいろいろとみて歩く古代土佐の基部にかかわるものだからである。まず、一九六〇年にでた前記『高知県の歴史』よりは新しく、一九七一年にでた(それだけ進んだものになっていると思われる)『高知県史』によると、「波多の国造の古墳は、五世紀後半に造営された宿毛市平田の曾我山古墳であるといわれる。とすれば」「波多の国造が崇神天皇の時代におかれたとするのはあたらない。おそらく過去へ投影したものであろう」として、そのことがこう書かれている。
また国造の天韓襲命についても具体的なことはわからないが、これについて太田亮氏は波多の国造天韓襲命は阿波〈徳島県〉の長《なが》(那賀・海部方面)国造となった観松《みまつ》彦色止命九世の孫韓背足尼《からせのすくね》との関連を考えて、「韓襲は韓背と音が似て居て同人かと思われる」といい、「思うに都佐〈土佐〉・波多二国はもと一国で、韓襲即ち韓背がその国造となったのが、後に二国に分れ、子孫二流に分れたのであろう。しかし、これは他に傍証すべき何物もないから疑わしい事は云う迄もない」と述べ(『姓氏家系大辞典』)、長(那賀)、我孫(阿比古)と同祖の三島溝杭の後裔で都佐国造であった小立足尼《ひじのすくね》とも天韓襲命は同族であろうと推定されている。傍証がないのであくまで疑わしいわけであるが、いずれにしても天韓襲命は、土地の司祭的豪族で大和朝廷から任命されたものか、朝廷から派遣されたものであろう。国造は古くは任命されたようであるが、とすれば前者であろうか。いずれにしても幡多地方の支配者として祭政一致の政治を行ない、司祭者であるとともに地方長官としての職務を遂行したのであろう。
実をいうと、ここで楽屋裏をさらけだすようであるが、私は高知市教育委員会や県立図書館などまでたずねていながら、うかつにも『高知県史』をみせてもらうことを忘れ、いま引いたそれをみることになったのは土佐から帰ってのち、東京の品川にある文部省国文学研究資料館においてであった。そのことを前提としてみてもらいたいが、ここにいう天韓襲命と韓背足尼(宿禰)とのことについては、私もさきにみてきた「阿波国の成り立ち」の項で書いている。
――ところで、ここにみられる長国《ながのくに》の国造であったという韓背宿禰《からせのすくね》とは、いったい何だったのであろうか。これはおそらく、のちにみる土佐における波多《はた》の国造という天韓襲命《あまのからそのみこと》とも相通じるものではないかと思われる。
そしてこれはまた、九州にいた熊襲《くまそ》というものとも通じるもので、新井白石が『古史通或問《こしつうわくもん》』でいうように、熊が狛《こま》、すなわち高麗《こま》(高句麗)ということであったとすれば、熊襲の襲は新羅の原号ソ(徐)であったにちがいない。つまり、熊襲とは高句麗・新羅ということになるが、とすると、天韓襲命の韓襲とは加羅《から》(韓)ソ(新羅)の人、ということになる。そのことは、これものちにみるように、土佐の波多(いまは幡多《はた》郡)が、ほかならぬ新羅・加羅(加耶ともいう)から渡来した秦《はた》氏族の集住地であったことからもいえるように思う。
そういうことで、土佐の波多ももとは波多国だったのではなかったかと思うが、その波多の国造であった天韓襲命と、こちら阿波・長国の国造だった韓背宿禰とは、どちらが先だったかといえば、その名称からして、前者ではなかったかと思われる。おそらく韓背宿禰は、のち、土佐の波多から移動して来たものだったにちがいない。――
「土佐の波多ももとは波多国だったのではなかったかと思うが」とは蛇足だったけれども、さきに引いた『高知県史』のそれとあわせてみると、天韓襲命と韓背宿禰(足尼)との関係がだいたい浮かびあがるように思う。しかも同県史によれば、都佐(土佐)の国造であった小立足尼ともそれは同族ではなかったかとある。
そこでもう一つ、幡多郡『十和村史』に書かれている天韓襲命のことをみることにしたい。同村史には「韓櫃」についてのくだりがあって、それと天韓襲命とのことがこうのべられている。
『延喜式』主計の項をひもとくと、土佐の国の条に「白木韓櫃《からびつ》十四合」とあり、韓櫃という木製品を土佐国から献上していたことがわかる。この韓(唐)櫃は脚のついた唐風の櫃で、宮中の儀式用の道具などに用いられたといわれる。白木造りとはいえ、かなり手の込んだ作りを必要とするものなので、木地造りの技術者集団がいなければならない。郷土史家寺石正路氏は、長岡郡本山町にある白髪山が檜の名産地であるから、この韓櫃は本山で製作されたものであると推測されている。
だが、古代の木地師たちについて、なにもふれてはいない。筆者にしてもいますぐに技術者の存在をたしかめる方法をなにも持ってはいないが、若干考えていることがあるので、問題点をあげておきたい。一つは韓(唐)風の作りであることに注目したい。そこで『高知県人名事典』をみてみると、幡多〈波多〉の国造は「天韓襲命《あまのからそのみこと》」であって、韓人の韓襲使主または秦氏の子孫とする渡来人ではなかったかとの一説を紹介している。この説が有力だとすると、幡多郡には古くから渡来人が住みつき、やがてその子孫たちがその先進技術を生かし活躍するようになったとも考えられる。
ここに秦氏との関係がみられるが、これはひじょうに重要なことであると私は思う。それがどのように重要であるかは、これからしだいに明らかとなるはずである。
あとの祭り! 朝鮮渡来の石仏
さて、高知市教育委員会をたずねた私たちは、社会教育課長の森田昌一氏や同係長の森山泰宏氏に会って、『高知市の文化財と旧跡』はじめ、さきにみている『高知県/田村遺跡群』と同じアート紙印刷の、「第一次調査・第二次調査」となっている『秦泉寺廃寺』および「第三次調査」の『秦泉寺廃寺跡』などをもらい受けた。そして森田氏から、こう言われた。
「土佐の古代のことでしたら、県立図書館資料室の広谷喜十郎さんに会ってみられたらどうですか。この人はそれの専門家ですから、いろいろとくわしいはずです」
で、私たちはすぐ近くにあった高知県立図書館をたずねることにしたが、私はそこまで歩いて行きながら、「『秦泉寺廃寺』――」と、手にしているそれをみながら思った。
というのは、私はそれまでに前記『高知県の歴史散歩』や、山本大氏の『高知県の歴史』などに目をとおしていたけれども、そこには、「秦泉寺《じんぜんじ》廃寺」というのは見当たらなかったからである。しかしあとでわかったが、その二書はどちらも、秦泉寺廃寺跡が発掘・調査されるまえにでたものだったのである。
さいわい、県立図書館の資料班長となっている広谷喜十郎氏は、その資料室に在室していた。そしてさらにまたさいわいなことに、広谷さんは私のことを知っていてくれたので、すぐにはなしがはずんだ。
「いつこられましたか」と言うので、「きのう徳島から室戸岬をまわって――」とこたえかけると、
「そうですか。それでしたら、最御崎《ほつみさき》寺の石仏みてきましたね」と、たたみかけるようにして言った。相当に早口の広谷さんは、私がそうして土佐まで来た目的をよく知っていたのである。
しかし私は、何のことかよくわからなかったので、だまって首を横に振った。すると、広谷さんはつづけて言った。
「ああ、それでは朝鮮渡来のあの石仏、みてこなかったのですか。あれは、わたしも好きな石仏の一つなんですがね」
私と辛基秀、池尚浩さんとは顔を見合わせた。それぞれに、「これはいったいどういうことだ」と思ったのである。
「それだったら」と広谷さんは、そこにいた若い職員に向かって言った。「史跡と文化財の安芸郡をとってきてくれないか」
間もなく、一冊の大判の本を手にした職員は、私とは旧知の土佐文雄氏といっしょにそこへ戻って来た。
「やあ、しばらく。あなたもここにいたんですか」「そうです。二十年ぶりですね」ということで、私と土佐さんとはあいさつをかわし合ったが、それがすむと、
「これです」と広谷さんは、いま職員がとってきた『高知県の史跡と文化財/安芸郡編』となっている、写真中心のそれを私の前にさしだした。「表紙の、その写真です。なかに全身像の写真もありますが、どうです、いいものでしょう」
私たちはすっかり広谷さんにあおられたようになり、首をそろえてそれをみた。なるほど私のような素人目にも、それは秀麗な仏像であった。首に垂れている大ぶりの瓔珞《ようらく》がよく似合っていて、何かのため、鼻は欠けているが、魅惑的な唇といい、ととのった顔立ちはそれを補ってあまりあるほどだった。
「何ということだ」と私たち三人は、また顔を見合わせた。室戸岬では金剛頂寺の朝鮮鐘より、むしろたずねるべきは最御崎寺のこの石仏ではなかったか、と思ったからである。
前記『高知県の歴史散歩』には、「東京国立博物館に出陳中の如意輪観音半跏像《によいりんかんのんはんかぞう》(重文)」とあったけれども、同『――歴史散歩』がでたのは一九七四年のことであるから、それから十年もたったいまでは寺に戻されていたにちがいなかった。それにまた、同『――歴史散歩』には「その様式は日本の彫刻史にはないもので、大陸からの請来品ではないかといわれる」とあったが、広谷さんはそれを「朝鮮渡来のあの石仏」とはっきり言ったのである。
あとの祭りというよりほかなかったが、しかし私たちは広谷さんのおかげで、それの写真がのっている『高知県の史跡と文化財/安芸郡編』を手にすることができただけでも、さいわいとしなくてはならなかった。ついでまたそのことから、同『――文化財/高知市編』や『幡多郡編』をも入手することができた。
秦泉寺廃寺
それはそれとして、私たちはさらにまた広谷さんからは、のちにみる唐人町についての資料などももらい受けたりした。そうしているうちに、広谷さんは私が手にしていた調査報告の『秦泉寺廃寺』に気づき、「秦泉寺廃寺、そこ、行ってきましたか」と訊いた。
「いいえ、これからです」
「そうですか。それじゃ、わたしがこれから案内してあげましょう」
そう言ったかとみると、もう広谷さんは立ちあがっていた。私たちはあわてたように、資料室の人や土佐さんに対するあいさつもそこそこにして、広谷さんのあとについて出た。
私たちは広谷さんの言うとおりにクルマを走らせ、十分ほどで秦泉寺廃寺跡まで行ったが、もちろんどこをどうとおったのかはわからなかった。で、第一次・第二次調査の『秦泉寺廃寺』に書かれているのをみると、それはこうなっている。
秦泉寺廃寺の位置は、高知市のほぼ中央部から土佐山に通ずる、県道高知本山線が市街地から北に向って通じている。この県道で市内愛宕町をとおり北に進むと、高知市の北の山麓を流れる久万川に至る。
久万川を越えると、愛宕神社のある愛宕山の麓にでる。西側に秦小学校をみて約五〇〇メートルいくと、秦農協前の分岐点にでる。この四辻を約一〇〇メートル直進すると、県道の西側にややひらけた水田がみられる。この水田地帯の一部に秦泉寺廃寺跡がある。
なお、秦泉寺廃寺とはいっても、ここに「秦泉寺」という寺院があっただけではなかった。それは地名ともなっているもので、そのことは、いまみた『秦泉寺廃寺』につづけてこう書かれている。
秦泉寺廃寺を中心にする秦泉寺地区の文化的環境についてふれてみたい。まず秦泉寺廃寺付近を中心に、北秦泉寺・東秦泉寺・中秦泉寺・西秦泉寺・南秦泉寺があり、西秦泉寺の西に宇津野地区がある。これらの地区を総称して秦地区と呼んでいる。この秦地区につくられた秦泉寺廃寺の前段階である、古墳時代の古墳について見ると、一二基を数えることができる。しかし、これらの古墳のなかには破壊されて現存しないものもある。……
以上のように秦泉寺の小さな地区内に一二基の古墳がみられるが、先進地域と比べれば問題にならない数ではあるが、土佐では一地区としては割合多い方である。これら一二基の古墳は後期古墳で、内部は横穴式石室古墳である。そしてその時期は六世紀末から七世紀前半にかけてつくられたものである。このことは、六世紀頃になるとこの地域で次第に開発も進められ、生産性も向上して六世紀末頃に小規模ではあるが、古墳を造営することのできる豪族が出現しはじめたことを、うかがい知ることができる。あわせて七世紀の時期をとおして秦泉寺廃寺を造営することのできる富と権力を持つ基盤が、このころから次第にはぐくまれていたことをも推察することができよう。
ついでに、古代はそこがどのようなところであったかということまでみたが、いわばそこはもと秦というところで、それがいつのころからか、秦泉寺となっていたのである。
秦氏の氏寺では?
秦泉寺廃寺跡は発掘調査のあと埋め戻されて、それまでは水田だったという池が一つあるだけだった。広谷さんは、地面におちている古瓦片をひろってみせてくれたが、そのほかみるべきものはなにもなかった。
しかし、いまみた第一次・第二次調査の『秦泉寺廃寺』や、それからこんどそこに「秦文化センター」ができることになっておこなわれた第三次調査の『秦泉寺廃寺跡』にのっている写真や拓影・実測図をみると、一見して白鳳時代のそれではないかと思われる軒丸瓦、須恵器などがたくさん出土している。それによってこの寺院も、さきにみた南国市の比江廃寺とともに、土佐最古の古代寺院の一つであったことがはっきりしたのである。
ところで、この秦泉寺廃寺は、いったいどういう者によって造営されたのであったろうか。むつかしい問題で、『高知市の文化財と旧跡』「秦泉寺廃寺跡」にそのことがこうある。
本廃寺は奈良時代における土佐郡唯一の古代寺院であるところから、郡衙関係の寺院とか、秦泉寺の地名から秦泉寺跡とか、あるいは秦氏の氏寺であったとか言われているが、これらは確定的な意見ではない。
もちろん、「確定的な意見」となると、それはいっそうむつかしくなるが、しかし、「郡衙関係の寺院」というのはどうかと思われる。すると、あとの「秦泉寺跡とか、あるいは秦氏の氏寺であったとか」ということになるが、私はどちらかというと、あとのほうの意見に賛成したいと思う。
というより、私は幡多(波多)地方を含む古代土佐のいろいろな状況からして、それは秦氏族の氏寺ではなかったかと思う。なぜかといえば、一つはなによりもまずそこが「秦」というところだったからである。
「上古の評言のありしままに伝われるは歌詞と地名の二つなり」とは、新井白石のいったことであるが、そこがほかならぬ「秦」であったということを、われわれは無視できないのである。地名はもと人名であり、人名はまたその地名ともなっていたのである。
曾我山古墳まで
高知県最古の曾我山古墳
私たちは秦泉寺廃寺跡で広谷さんとわかれ、それからは高知市長浜の秦神社などをたずねた。しかし、私はのちさらにまたもう一度高知へくることになったので、それからのことは、このときのそれとあわせみることにして、ここではいまみた秦泉寺廃寺跡との関連で、秦氏族の集住地であったとみられる波多国、いまは幡多郡となっているそこからさきにみることにしたいと思う。
幡多郡のほうは、そのときもこんどと同じく辛基秀、池尚浩さんとともに伊予(愛媛県)から宿毛《すくも》市へはいって一泊し、あちこちとみてまわったが、いまもいったように、高知県の西南部となっている幡多郡は、もと波多国となっていたところであった。ここにある波多国造《はたのくにのみやつこ》の墳墓とみられている曾我山古墳は高知県下唯一の前方後円墳であるばかりでなく、同県下最古の古墳でもある。
前記『高知県の歴史散歩』には、そのことがこういうふうに書かれている。
農業を主とする生活は、人びとのあいだに貧富の差を生み、支配者=豪族があらわれた。かれらはやがて大和朝廷の支配下にはいり、都佐《とさ》と波多《はた》の二地域にまとめられ、それぞれに国造《くにのみやつこ》がおかれた。
宿毛市平田にある曾我山古墳は、五世紀なかばころの築造と考えられる県下唯一の前方後円墳で、波多国造のものではないかといわれている。高知市の朝倉古墳、南国市岡豊《おこう》の小蓮《こはす》古墳、同市の明見《みようけん》古墳をはじめとする多くの古墳は、土佐・長岡・香美各郡の県中央部に集中してつくられており、その年代も六世紀から七世紀にかけてのものだ。
波多国造はいつの人か?
ここで注意したいことは、「五世紀なかばころの築造と考えられる」曾我山古墳が波多国造だったもののそれであったとすれば、かれは五世紀はじめころの人間であったであろうということである。ところが、そのかれは、「やがて大和朝廷の支配下にはい」ったことで国造となったものだというのである。
五世紀はじめ、あるいは半ばでもよいが、どちらにせよそのころはまだ、大和朝廷といわれるものはなかったのである。そのことはさきの阿波、「御間都比古神社をたずねて」の項でみた天皇の「お言葉」にも明らかなとおりである。
さきのそこではふれなかったが、天皇のその「お言葉」は、「『(「お言葉」の中に「紀元六、七世紀の我が国の国家形成の時代には……」とあるが)この大和朝廷の成立時期は、考古学、歴史学の学界内でもいま激しく揺れ動いている。つい数年前までは入試などでも、四世紀で正解といわれたのに、いまは六、七世紀が学界の大勢。そのムツカシイ問題にちゃんと対応しているという気がしてホッとしたというのが実感』と、森浩一同志社大教授が感想をもらすほど、評判がいい」(一九八四年九月二十一日号『週刊朝日』「外務省対宮内庁でもめにもめた天皇の『お言葉』作成の顛末」)となっているものなのである。
いわゆる大和朝廷の成立、天皇中心の古代国家の成立をできるだけ悠遠《ゆうえん》の昔にしたいだけでなく、地方の歴史までそれに結びつけたいという、そのような皇国史観の尻尾《しつぽ》を引きずっていることからくる矛盾であるが、そのような矛盾は、いまみた『高知県の歴史散歩』ばかりとはかぎらない。たとえば、山本大氏の『高知県の歴史』にも、曾我山古墳は「五世紀なかばごろまで」のものとしながら、同じようなことがこう書かれている。
前述したように、曾我山古墳は、波多《はた》の国造のものではないかといわれているが、大規模な古墳には大化前代の国造のものもあるだろう。三世紀末ごろから強力となってきた大和朝廷は、四世紀なかばごろまでにはほぼ全国を統一した。そして、その勢力はしだいに土佐にもおよび、のちには国造や県主《あがたぬし》がおかれ、朝廷の支配機構のなかにくみこまれていった。
「先代旧事本紀《くじほんぎ》」所収の「国造《こくぞう》本紀」によると、崇神《すじん》天皇のときに天韓襲命《あめのからそのみこと》が波多の国造に任命され、成務《せいむ》天皇のときに小立足尼《ひじのすくね》が都佐《とさ》の国造に任命されたと記されている。……
波多は現在の幡多郡と考えられ、この地の国造は都佐の国造よりもはやく設置されたようである。これは幡多地方がはやくから北九州や畿内方面と交渉があったことを物語るものであろう。天韓襲命やその他の国造については、なんらの伝承ものこされていないのでくわしいことはわからない。国造は一般に七世紀ごろ、地方豪族が大和朝廷より地方官として任命されたといわれるが、土佐のばあい、六世紀のはじめごろまでにおかれたのではなかろうか。
かりに「土佐のばあい、六世紀のはじめごろまで」であったとしても、波多の国造は一世紀前の「五世紀なかばごろまで」にはすでに曾我山古墳に葬られているのである。「国造本紀」のあてにならないものであることは、それですでにわかっていなくてはならなかったはずである。
こうしてみると、さきにみた「天韓襲命をめぐって」の項における『高知県史』の、「波多の国造の古墳は、五世紀後半に造営された宿毛市平田の曾我山古墳であるといわれる。とすれば」「波多の国造が崇神天皇の時代におかれたとするのはあたらない。おそらく過去へ投影したものであろう」としているのが、もっとも当を得たものということになる。
これでだいたいはっきりしたことと思うが、要するに、波多国が大和朝廷と関係をもったとしても、それはずっとのちのことで、五、六世紀ころの当時はまだ、門脇禎二氏などのいう独立した一つの「地域国家」にほかならなかったのである。それでは、天韓襲命ともいわれた波多国造ならびに波多国とはいったいなんであったのか、ということになるであろう。
結論からさきにいうと、波多国造とは北九州あたりからひろがって来て、そこに集住していた秦(波多)氏族の首長だったものであり、したがって波多国とは秦国《はたのくに》ということではなかったかと私は思っている。しかしそれはあとのことにして、われわれはさきにまず、その墳墓といわれる曾我山古墳をみておかなくてはならない。
延光寺の弥勒寺鐘
宿毛市のビジネスホテルで一泊した私たちは、午前八時すぎにそこをでて、いつものように同市の教育委員会をたずねた。そして、社会教育課長の岡本勇氏に会っていろいろ聞くとともに、『宿毛市の文化財』などをもらい受け、同市平田町中山の延光寺からたずねることにした。
同じ平田町戸内《へない》にある曾我山古墳への道すじだったからであるが、一つは四国三十九番の札所となっている延光寺の開山が行基となっていたからでもある。百済系渡来氏族からでて、奈良時代の有名な民衆仏教者となった行基を開山とする寺院は、全国いたるところにみられるものであった。
もちろん、四国にもたくさんあって、その意味では別に珍しいものではなかった。しかし赤亀山延光寺をたずねてみておもしろいと思ったのは、そこに重要文化財指定となっている、九一一年の「延喜十一年……鋳弥勒寺鐘」という陽鋳銘の銅鐘があって、赤亀が海から流れついたそれを背負ってきたという伝承があることだった。
それで延光寺は赤亀山延光寺となったというのであるが、そのことから私は、広谷喜十郎氏の「土佐の海《あま》びと史話」第二話「亀に乗って来た海人族」のことを思いだしたのだった。そこに、こういうことが書かれている。
浦島太郎が亀の背中にまたがって、龍宮城から陸の世界へ帰って来たおとぎ話は有名である。土佐清水市立石では、村の草創者立石氏は九州の筑前国から亀の背に乗ってきて、この集落に落ち着いたと言い伝えられている。そして代々、立石家の家紋を亀甲紋としている。……
また、沖本白水氏の「とさおきのしま」によると、「いと遠き世、亀に乗り渡り来し人あり、浜田一統の祖といい、この家の人、今も亀の肉を食わず」と紹介されている。……
土佐の海岸地帯には、亀に乗って来た海人族の伝承や亀にまつわる多くの伝承が語り継がれているので、亀は土佐に住む海人族にとって海のシンボル的な存在だったといえよう。
亀は古代朝鮮の神話にもよくでてくるものであるが、そのような伝承・説話が、波多国に集住していた秦(波多)氏族は北九州からひろがって来たものとする私の考えと関係があるのかどうか、それはよくわからないというよりほかない。しかしよくはわからないけれども、無関係ではなかったであろうと私は思う。
惨憺たる曾我山古墳の現状
ついで延光寺からの私たちは曾我山古墳をたずねたが、これもあとのことにして、それからの私たちは土佐清水市の足摺岬《あしずりみさき》へ向かった。そこまで来たついでに、田宮虎彦氏の作品「足摺岬」で知られたそこもみておこうということだったが、四国西南端の足摺岬にも白山神社や、松尾神社のあるのが印象的だった。
そこからこんどは北上して、広大な四万十《しまんと》川流域の中村市にいたった。そして同市不破の不破八幡宮から、古津賀神社境内古墳とみてまわり、ふと思いついて、同市小姓町にある幸徳秋水の墓に詣でたときは、もう日暮れとなっていた。
そうみて歩いた私はいま、「四国西南端の足摺岬にも白山神社や、松尾神社のあるのが印象的だった」と書いたが、しかしやはり、いろいろな意味でもっとも印象的だったのは、波多国造=天韓襲命の墳墓といわれる曾我山古墳であった。この古墳のことは、これまでにも『高知県史』ほかでみているし、また中村市教育委員会をたずねたとき、社会教育係長の山本清水氏にみせてもらった『中村市史』などにも出ているが、地元の『宿毛市の文化財』に書かれたそれをみるとこうなっている。
平田曾我山古墳 宿毛市史跡。昭和三二年七月二七日指定。所在地、平田町戸内。所有者、川村国男氏。
自然の丘陵の上に築造した前方後円墳で、推定の長さ一一〇メートルもあった大きなものであったが、平田中学校を建築する際に大部分除けられ、わずかに残っていた後円部の一部も土木業者の手で除けられた。
五世紀頃のもので、墓の主は波多国造であろう。県下最古最大の古墳である。鏡、剣などが出土したが、これは別に文化財として指定している。
これでもうおわかりと思うが、曾我山古墳は何とも惨憺《さんたん》たるありさまとなっていた。「県下最古最大の古墳」もなにもあったものではない。「宿毛市史跡」としていながら、これはいったいどうしたことか、と思わないわけにはいかなかった。
しかも、それを「建築する際に大部分除けられ」たという平田中学はいまは別の地に移っており、その跡地は三共コンクリートKKというののブロック工場となっていた。写真一枚とるにもとりようがなく、『高知県の史跡と文化財/幡多郡編』にのっている古い写真によって、何とか往時をしのぶよりほかなくなっている。
波多・秦・幡多
波多は秦氏の国
さて、いまはそのように破壊されてしまった曾我山古墳であるが、いまいった写真などみながら、その古墳の被葬者という波多国造ならびに波多国とはいったい何であったのか、ということについて考えてみなくてはならない。
私はすでに、それは「北九州あたりからひろがって来て、そこに集住していた秦(波多)氏族の首長だったものであり、したがって波多国とは秦国《はたのくに》ということではなかったかと私は思っている」と書いているが、秦がすなわち波多であったということは、大和岩雄氏の「秦氏に関する諸問題」にくわしい。それをいちいちみていることはできないので、結論的な部分だけしめすとこうなっている。
『新撰姓氏録』では、〈のちにそれの祖として〉秦始皇帝をもちだしているハタ氏は「秦」、それ以外のハタ氏は、「波多」「八多」と書いている。しかし、今は「秦」と書くが、前は「波多」と書いたと『姓氏録』は記している。
新羅・加耶系渡来人集団である秦氏族の秦とは、朝鮮語のハタ(海=発音はバダ)からきたものとされており、上田正昭氏も「新羅語のハタは海を意味し、朝鮮からの海人=外来人を意味していたものが、やがて後には氏族名として特定の氏族を指すようになったものとするのが妥当であろう」(『帰化人』中公新書)と書いている。
その秦がもとは波多であったとすると、それはいっそう朝鮮語バダ(海)に近づくことになる。なぜなら、波多はそれ自身で朝鮮語波多《バダ》となるからである。しかしそれはかりにどうであれ、秦が波多でもあったことはまちがいなく、その秦氏族は古代日本最大の氏族で、九州、四国、中国地方はもとより、全国いたるところに分布していた。
四国ではのちにみる讃岐(香川県)の有名な石清尾《いわせお》山古墳群なども秦氏族ののこしたものであるが、北九州ではとくに豊前《ぶぜん》(福岡県・大分県の一部)が集住地で、七〇二年である大宝二年の豊前国戸籍台帳によると、その人口の九三パーセント以上が秦氏族とその係累とによって占められている。そしてかれらはその地に、有名な宇佐八幡宮などを祭っていた。
いまみた大和岩雄氏の「秦氏に関する諸問題」に、「渡来氏族の中で、秦氏は特に神社祭祀にかかわりをもつ氏族であった。松尾神社、稲荷神社は秦氏が創祀した神社であるが」として、さらにまた「養蚕機織管絃楽舞之祖神」という秦酒公《はたのさけのきみ》を祭神とする大酒神社や、「蚕の社」ともよばれている木嶋坐天照御魂《このしまにますあまてるみたま》神社などをあげている。
秦氏と「八幡さま」
このことについては、私も『日本の中の朝鮮文化』(2)「山城・摂津・和泉・河内」でかなりくわしくみているが、しかし、それらの神社はどれもみな山城(京都府)における秦氏族のそれであることに注意しなくてはならない。そしてそれも大事であるが、秦氏族が創祀した神社としてここで注目しなくてはならぬのは、九州・豊前における宇佐八幡宮である。
宇佐八幡宮は全国にある八幡宮・八幡神社の総本宮であるとともに、秦氏族の総氏神でもあった。そのことは大野鍵太郎氏の「鍛冶の神と秦氏集団」や、関治良氏の「ヤハタの神」などにもくわしいが、ふつうは「八幡《はちまん》さま」、あるいは八幡《はちまん》宮・八幡《はちまん》神社などとよばれているけれども、この「八幡」はもとは「ヤ・ハタ」ということであった。
つまり「多くの秦(波多)」ということで、したがって八幡宮・八幡神社とは、多くの秦の神の宮であり、その神の社ということにほかならなかったのである。
なお、九州における秦氏族のことについては、最近ではその研究もいろいろと進み、安藤輝国氏の『邪馬台国は秦族に征服された』という著書もでるようになっているし、小島信一氏の『天皇系図』によると、天皇家もその秦氏からでているのではないかとしている。
そういうこともあって、私もいずれ九州を歩くとき(この四国の次は九州である)はできるだけくわしくみたいと考えているが、それはどちらにせよ、宇佐神宮を総氏神としていた秦氏族がその豊前・豊後《ぶんご》(大分県)から狭い海峡一つへだてた目と鼻の先となっている伊予(愛媛県)や土佐へひろがってくることなど、海人族といわれるかれらとしては容易なことであったにちがいない。
そしてかれらは、のちには全体が土佐国となって幡多郡となった地に波多国という地域国家をつくっていたのである。そうしてかれらはさらに都佐国や阿波国にまでひろがって行ったと思われるが、では、それをどう証明することができるか、ということになるであろう。
海人族を思わせる出土品
まず文献・伝承のうえでは、さきにみてきているように、波多の天韓襲命、都佐の小立足尼《ひじのすくね》、阿波の韓背宿禰は同族であったらしいということである。また、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」のなかの「文献より見たる帰化人居住の分布」をみると、土佐での居住地としては「幡多郡」とともに「吾川郡」があげられている。
遺跡・遺物のうえでは、これもさきにみた秦泉寺廃寺跡などもそれの一つとみてよいと思うが、波多国造とされている天韓襲命の墳墓という曾我山古墳からの出土品も、一つの手がかりとなるものではないかと思う。すなわち、広谷喜十郎氏の「地方史探検」(24)「海の長者」にそれのことがこう書かれている。
宿毛からやや奥まった所にある本県唯一の前方後円墳の曾我山古墳で、長さ二十八センチの鉄銛《てつもり》が発見されている。これについて、岡本氏は「この古墳のある平田は、宿毛湾から一里内外の地点にあり、海人の生業たる漁業とはきってもきれない関係にあるので、柄につけて銛として使用した」と述べておられるように、この古墳の主は、この地方の農民のみならず、海人をも支配する大豪族であったと思われる。
私もそうではなかったかと思うが、それから、土佐にはさきの中村市でみた不破八幡宮はじめ、宇佐八幡宮の分社である八幡宮がいたるところにみられるということである。高知県にはそれが、神社本庁編『神社銘鑑』にのっているものだけで、高知市長浜の若宮八幡宮など二十八社もある。
中村市の不破八幡宮は、前記『高知県の歴史散歩』にもあるように、「一条氏が山城国の石清水《いわしみず》八幡宮を勧請《かんじよう》して幡多郡の総鎮守とした」というものであるが、しかし山城の石清水八幡宮も、もとは宇佐八幡宮を勧請したものであった。「一条氏」とはどういうものだったかよくわからないが、かれがその宇佐八幡宮の分社である「石清水《いわしみず》八幡宮を勧請《かんじよう》して幡多郡の総鎮守とした」のには、けっして偶然ではないなにかがあったからにちがいない。
つまり、かんたんにいえば、宇佐八幡宮が秦氏族の総氏神だったからではなかったかと私は思うのである。それでみると、たとえば高知市石立町の石立八幡宮は、『神社銘鑑』の「由緒沿革」にこう書かれている。
秦氏は代々八幡大神を信仰し、天正一五年その氏族長曾我部元親は居城鎮護の社と定め、社殿を造営したと伝えられている。
松尾神社との関係
ここに「その氏族長曾我部元親」とあるが、それはあとにして、神社についてもう少しみると、八幡宮についでこんどは、土佐にも分布している松尾神社である。これも、京都市伏見の稲荷大社などと同じく、山城(京都府)にいた秦氏族の氏神である松尾大社を勧請したものだった。
私はさきに、「秦氏族は古代日本最大の氏族で、九州、四国、中国地方はもとより、全国いたるところに分布していた」と書いたが、そのうち歴史上もっとも有名となったのは、山城における秦氏族であった。なにしろ、奈良の平城京にあった王都を山城に遷してそこを京都(平安京)としたのも、そこにいた秦氏族の財力と政治力とによるものだったからである。
しかしこの秦氏族のことについては、私はすでに何度か書いてもいるので、ここでは土佐に関係あることだけとし、最近、京都市西京の松尾大社へ行ったときもとめた由緒記、『洛西鎮護総氏神/日本第一醸造神/松尾大社』によってそれをみておくことにする。
大堰と用水路
秦氏は、保津峡を開削し、桂川に堤防を築き、今の渡月橋のやや上流に大きな堰《せき》(大堰《おおい》・大井という起源)を作り、その下流もところどころに水をせきとめて、そこから水路を走らせ、桂川両岸の荒野を耕地にしたのです。その水路を一の井・二の井などと称しますが、いずれも今なお当社の境内を通っております。
酒造神
さて、農業が進むと次第に他の諸産業が興って来て、絹織物なども盛んに作られるようになったのです。酒は当時産業とはなっていなかったのですが、秦一族の特技とされたことは、秦氏に酒という字の付いた人が多かったことからも推察できるのでありまして、室町末期以後、当社が日本第一酒造神と仰がれ給う由来はここにあります。
「堰《せき》(大堰《おおい》・大井という起源)」が土佐とどういう関係にあるかはしばらくおいて、松尾神社はさきにみた足摺岬にもあったし、高知市西方の土佐市には松尾八幡宮というのまである。後者のばあいなど、どちらも秦氏族にかかわる「松尾」と「八幡」とが重なっているのがおもしろいが、それより、土佐人の好きな「酒」造神としての松尾神社はどうであるか。
そのことについては、これまた広谷喜十郎氏(この人はいろいろな面にわたって、土佐地方史を実によく研究している)の「土佐近世酒造史」をみたほうが早い。そこに、こう書かれている。
戦国勇者長宗我部元親の先祖が秦氏であり、しかも高知市の北部に秦泉寺という大寺が奈良時代に建立されていたことなどを考えると、松尾神社系の酒造りの技術も土佐へ移入されていたと考えてもよいのではなかろうか。なお、秦泉寺跡近くの山麓に高知市三大名泉(五台山の独鈷水、潮江の桜井)の一つである秦泉寺の名泉がある。さらに、独断的な推測が許されるならば、秦泉寺の里で酒造りがおこなわれ、それが土佐の一の宮である「土佐神社」などに奉納されていたかも知れない。
現に、松尾神社が酒の神を祭っているという事実は土佐にもある。それは後述するように、高知市神田にある松尾神社がそれであり、後に城下町の酒造業者が厚く信仰していた。
しかし、この神社の縁起についてはさだかではないので、昔からあったものであるかどうかはわからない。そこで気になり、刊本『南路志 闔国之部』(上)の秦泉寺村の条をひもといてみると、「山三 松尾山 大谷山 岡田山」とあり松尾山という山があるではないか。続けて「大柳大明神 一説松尾山古城八幡宮とも云《いう》……」と、そこには小さいながらも神社があるという。
それに愛宕山の条に「松尾大明神三輪大明神社」とあり、ずばり酒の神を祭っている神社もみつけることができた。『高知県史考古編』で、岡本健児氏は東大寺正倉院南倉の大幡残欠の「土佐国吾川郡桑原郷戸主……調施……天平勝宝七歳十月……郡司擬少領无位秦勝国方」という史料を紹介して、現在の吾川郡伊野町八田及び春野町弘岡方面が、郡司の秦氏と関係があるのではないかと推測している。それに、八田の地名は秦の読み方と同じなので注目される。
以上で、かつては波多、都佐の二国となっていた土佐国と秦氏族とがどういう関係にあったか、だいたいはっきりしたことと思うが、ところで、その関係は、これまでみた古代におけるそれだけではなかった。土佐のばあいは、それが中・近世にまで引きつがれているところに特徴がある。
土佐、というより、四国の覇者であった長宗(曾)我部氏の存在がそれである。そしてそれは、近世朝鮮からの「豆腐」にまでいたるのである。
芸西村から日高村へ
芸西村の“大将軍様”
長宗我部氏については、すでに秦氏の「その氏族長曾我部元親」とか、あるいはまた、「戦国勇者長宗我部元親の先祖が秦氏であり」ということがでているので、その出自のことは「もうわかっている」という人があるかも知れない。しかしながら、「長宗我部氏の先祖はよくわからないが、系図によると秦《はた》氏の後裔といわれている」(山本大『高知県の歴史』)とあるように、ほんとうのところはまだよくわからない、疑わしいところがあるのではないか、とも思われているようである。
で、そのこともあわせて、土佐における長宗我部氏とはいったいどういうものだったのか、ということについてみたいと思うが、しかし、時代順ということもあってそれはあとにまわし、この項では古代の文化遺跡をもう少しみておくことにしたい。
さきにもちょっとふれているが、私は、辛基秀、池尚浩さんといっしょのときとは別に、さらにまたもう一度、土佐をおとずれることになった。というのは、一九八四年八月十五日、高知市教育委員会主催の「高知夏季市民大学」で講演をすることになり、ついで翌十六日は土佐山田町の「町民大学講座」でそれをすることになったからである。
「土佐の中の朝鮮文化」と題された講演はどちらも夜であったから、そのあいだの時間を利用することになったわけだった。さいわい高知市教委の厚意で、深田信秀氏運転のクルマを提供されたばかりか、同市中央公民館指導係長の山崎皓一氏が同行してくれたので、それまでは知らなかったところも何ヵ所かみてまわることができた。
まず、高知市民文化会館での講演をおえた翌朝、いまいった山崎さんから泊まっている旅館へ電話がかかり、これからそちらへ迎えに行くが、そのまえに、前夜講演をきいたある人が会いたいといっている、どうするか、と言ってきた。
会ってみると、日本民俗学会員・土佐民俗学会員の田辺寿男氏で、要するに、朝鮮の城隍堂《ソンハンダン》(日本の神社のようなもの)などによくみられる集落の守護神として「大将軍」を祭る神社が土佐にもいくつかあるが、行ってみたいと思うか、ということだった。そして、土佐の歴史・地理書である『南路志』にあるそれを書き抜いてきてくれていたが、それだけでも十四社をかぞえた。
もちろんそれを、あるいはそれのあったところをいちいちみて歩くことはできないので、そのうちの安芸郡芸西《げいせい》村にある大将軍神社を、田辺さんといっしょにたずねることにした。芸西村は高知市からはかなり離れた東方の太平洋岸となっていたが、国道五五号線がそこを走っているので、思ったより早く着いた。
南国らしいのどかな村里の道を田辺さんについて行くと、できたばかりらしい村の公民館があるそこに、言われなければそれと気づかないような小さな祠《ほこら》があった。それでいながら前にたっている鳥居は大きく、みるとそれに「大将軍」とした額がかかっている。
大将軍神社ではなく、ただ「大将軍」とあるのなども朝鮮のそれとよく似ていたが、さらにまた、近くの農家をたずねて、そこのおかみさんに、「あの神社はどういう神様を祭った神社ですか」と訊いてみると、神社とはいわず、「あれは、村を守ってくださる大将軍様です」とこたえた。
それからまた、ふと気がついてみると、その農家の軒下にはかなりの量のにんにくが、茎《くき》ごと束ねられてつりさげられていた。私は、日本の農家のそんな光景をみるのはこれがはじめてで、「ああ、これも朝鮮によく似ているなあ」と思ったものだった。
土佐の石舞台=朝倉古墳
芸西村から高知市のほうへ戻ることになった私たちは、途中、南国市前浜の伊都多神社や、同市浜改田の皇大神宮をたずねたりした。伊都多神社はともかく、こんなところにどうして皇大神宮があるのだろうか、ということで田辺さんに案内されたわけだったが、それは私にもわからなかった。
住宅地のあいだにはさまっている小さな神社だったけれども、神体は鏡で、近所の人たちからは「お伊勢さん」とよばれ、年に一度は伊勢皇大神宮の神官が来ることになっているとのことだったから、なにかでつながりがあるにちがいなかった。しかしそれにしても、そんなところにどうして、皇大神宮となっている神社があるのかふしぎだった。
というのは、その「皇大神宮」という名称はふつう一般にはゆるされなかったはずだからであるが、それはそれとして、高知市での私たちは、同市朝倉神社と朝倉古墳とをたずねた。それからは同市長浜の秦神社と雪蹊寺をへて、近くの春野町にある種間《たねま》寺にいたった。
朝倉神社は、背後にある円錐《えんすい》形の山を神体としている神社で、その神体の山の名が赤鬼《あかぎ》山となっているのがおもしろかった。さきにみた宿毛市平田町にある延光寺の赤亀を思いだしたりしたが、朝倉神社のある朝倉郷は、土佐における中心地の一つとなっていたところであった。近くに朝倉古墳があることでもわかるが、前記『高知県の歴史散歩』にそのことがこうある。
ここ〈朝倉神社〉から西方およそ五〇〇メートルのところに、美しい割石でつくられた古墳がみえる。これが〈南国市の〉明見《みようけん》・小蓮《こはす》とならぶ土佐三大古墳のひとつ朝倉古墳(県史跡)だ。
円墳の封土がなく天井の石や、それを支える石が露出し、土佐の石舞台といわれる。横穴式石室墳で、七世紀後半のものと推定され、明治初年に馬具・鉄鏃《ぞく》・須恵器《すえき》などが出土した。最近この付近も、宅地造成工事が行なわれ、この古墳の保存をめぐっていろいろと論議されている。
おそらく、朝倉神社を氏神としていた豪族の墳墓だったのであろうが、「――保存をめぐっていろいろと論議されている」どころではなかった。いまみた『高知県の歴史散歩』が刊行されたのは一九七四年で、それから十年がたったいまではもう、朝倉古墳は宅地下の土堤のあいだにようやくその石室が残っている、という状態となっていた。
秦神社・雪蹊寺は前回来たときもみていたが、長宗我部元親を祭る秦神社のほうは、いわば近世における長宗我部氏の氏神であり、境内を同じくしているとなりの雪蹊寺は、その氏寺のようなものであった。雪蹊寺はもと高福寺、または慶雲寺となっていたが、近世にいたり、長宗我部元親の法号雪蹊恕三《せつけいじよさん》にちなんで雪蹊寺となったものだった。
なお、いま私は「近世における」と書いたが、なぜかというと、長宗我部氏本来の氏神は、土佐における草創の地であった南国市岡豊《おこう》の岡豊八幡宮だったからである。このことについては、次項でみることになる。
小村神社の環頭大刀
春野町秋山にある種間寺は、一九七〇年の一〇号台風のため大きな被害を受け、いまなお改築工事が進められていた。私たちがこの寺をたずねたのは、前記『高知県の歴史散歩』にこうあったからである。
「今昔物語」にもその名がみえる種間寺は、正しくは本尾山朱雀《すざく》院種間寺といい、四国三四番札所だ。交通に恵まれた寺ではないが、お遍路《へんろ》のシーズンには、田園の道を観光バスの団体や、タクシーをつらねた参拝者の列が寺までつづく。
聖徳太子が難波《なにわ》に四天王寺を建立し、その工事を終えた仏工たちが百済《くだら》への帰路難船して、土佐に漂着した。かれらの滞在中に前途の海上平安を祈念してこの寺を建て、薬師如来を安置したという。
もちろん、そのままには受けとれない伝承であろう。しかしながら、種間寺の建立に百済からの仏工のかかわったことがこういう伝承となったとすれば、それはそれでまた、なかなかおもしろいのではないかと思う。
そうして、こんどは土佐山田町での講演をおえた翌十七日であった。私は夕方の飛行機で東京へ帰ることになっていたので、そのあいださらにまた、前出の高知市中央公民館指導係長の山崎皓一氏といっしょにあちこちとみてまわることになった。
まず第一のハイライトは、高知市西方の高岡郡日高村にある土佐国二の宮の小村神社であった。私はまえから、この神社に伝わる金銅荘環頭大刀を、みることはできないだろうかと思っていたものだった。さきに前記『高知県の歴史散歩』をみると、その神社のことがこうある。
小村神社は土佐二の宮といわれ、六世紀ころからある神社だ。ここに金銅荘環頭大刀(国宝)がある。昭和三〇年の調査ではじめて紹介され、三三年、国宝の指定をうけた。柄《つか》・鞘《さや》に金銅板金をはり、柄頭も金銅板金製の環で、その内側に相対して珠をくわえた竜を透彫《すかしぼり》にしているところからこの名がある。製作はその様式から古墳〈時代〉末期のものだろうが、この大刀は社殿に秘蔵されてきた伝世品であるところに価値がある。
私はそれをみたいと思っていたわけであるが、しかし、「社殿に秘蔵されてきた」国宝のそれをみせてもらうことは、なかなかできないだろうと半ばあきらめていたのだった。が、そのことを山崎さんに話してみたところ、山崎さんはどこかに電話をして、いともかんたんに、かどうか、ともかくみせてもらえる承諾をえていたのである。
これも秦ということだった八田村ほかが合併してそれとなった伊野町から、仁淀《によど》川を越えると間もなく日高村で、細長い参道をはいって行くと、正面が小村神社本殿だった。みると、本殿の前にだされた床几《しようぎ》には、すでに秘蔵されている国宝の環頭大刀ばかりか、これも国の重要文化財となっている二体の木造菩薩面や銅鉾(矛)までならべられていた。
そしてそこには、小村神社責任役員をも兼ねている日高村社会教育委員長の森下稔男氏ほかが、それらの秘宝を守るようにしていてくれた。私はその森下さんらにあいさつをして、さっそく、長細い環頭大刀の刀身までみせてもらったが、よほど保存がよいとみえて、とても千数百年前のものとは思えないような、妖《あや》しい生気にみちたものだった。
ついで私の関心は、これは予想もしなかった銅鉾にうつった。『万葉集』に「高麗剣《こまつるぎ》」とある環頭大刀もそうだったが、その銅鉾を手にして、「うむ、なるほどなあ」と私は思ったものだった。というのは、山本大氏の『高知県の歴史』にそのような銅剣・銅鉾のことがこう書かれていたからである。
弥生時代中期には、農業生産力は向上し、銅剣・銅鉾をはじめ銅鐸などがみられるようになるが、土佐の中期弥生式土器についてはくわしいことはわからない。しかし銅剣では、須崎市波介《はげ》遺跡出土の細形銅剣をはじめ、吾川郡伊野町八田《はた》〈=秦《はた》であることに注意してもらいたい〉出土のもの、高岡郡葉山村三島神社所蔵のものなどがあるが、これらは、北九州から伝えられた銅剣であろうといわれている。
ここにいう「細形銅剣」は古代朝鮮製のものであることがはっきりしているが、しかし「銅剣・銅鉾」といわれるように、どちらも弥生時代の青銅利器であることに変わりはない。そしてこれはのちしだいに祭祀用のものとなって、神社などにものこされるようになったのである。
長宗我部氏と豆腐
長宗我部と一領具足
小村神社からの私と山崎さんとは、さらにまたあちこちとみてまわり、午後には高知市浦戸の浦戸城跡などをへて、浦戸海岸にある「一領具足の碑」をたずねた。一領具足のことはさきの「土佐の高知との縁」の項でもふれているが、一領具足の碑は、長宗我部氏が滅んだのちまで忠誠をつくしたその遺臣、一領具足たちを記念したものであった。いまも参詣者はたえないらしく、小さな碑閣と左右にならんだ地蔵の前には、とってきたばかりの新しい草花が供えられていた。
この一領具足といわれるものは、長宗我部氏と土佐、ひいては今日の土佐人を知るうえでも重要な要素の一つとなっている。司馬遼太郎氏の『ある運命について』のなかの「土佐の高知で」にそのことが明快に書かれているので、ちょっと長いけれども、ここでは土佐のことにくわしい氏のそれをかりてみたほうがよい。
土佐は戦国末期、長曾《ちようそ》〈宗〉我部元親《かべもとちか》によって統一された。元親は土佐兵をひきいて四国平定に乗りだしたが、征服事業の途上、兵力が足りないために、「一領具足」という制を設け、百姓を武士にした。百姓たちは農耕馬に乗り、槍《やり》をかかえて出陣した。末期ごろには相次ぐ兵力補充のために百姓たちがどんどん徴兵され、これがため印象としては土佐人ぜんぶが武士になるというほどの景況(こういう例は日本の他の地方にはない)になり、しかも、かれらは非常につよく、いたるところで讃岐や阿波、伊予の武士階級を打ち破ったがために、かれらの意識のなかに階級の平均化というものが当然うまれたであろう。……
長曾我部氏は、元親の子の盛親の代になって関ケ原で西軍に属したために没落し、土佐一国をとりあげられ、盛親その人は京都で寺小屋の師匠になり、やがて大坂夏ノ陣で敗将として斬《き》られてしまう。
一万以上といわれる長曾我部の遺臣(そのほとんどが一領具足で、内実は自作農)は、土佐の山野に残された。
そこへ、山内氏が乗りこんできた。
かつて豊臣家の大名だった山内一豊《かずとよ》は、関ケ原で武功があったわけでなく、家康の天下工作の謀略をたすけたことで功を買われ、遠州〈静岡県〉掛川でわずか、五、六万石だったのが、一躍土佐二十四万石の大身代になったのである。……
土佐の人間風景は一変し、〈山内氏がひきいて来た〉他国者が威張る国になった。
これに対し、長曾我部の一領具足たちは一時期、反乱をおこしたが、やがて謀殺その他で鎮圧された。二千、三千という数が殺されたといわれる。
一領具足をふくめ、かつての長曾我部の遺臣は、百姓身分にさせられた。これについての反抗的気分は土佐一国を蔽《おお》い、小規模な一揆《いつき》、喧嘩沙汰《けんかざた》がたえまなかった。〈山内氏〉二代目の忠義の代になって、旧一領具足のなかから主だつ者をひきあげて郷士身分にした。これで、一応はおさまった。
しかし山内家に国を奪られたという意識は、江戸期二百七十年のあいだ、土佐の自作農のあいだで消えないどころか、むしろ強くなった。こういう意識は、江戸期の他の地方の百姓階級にはない。土佐の場合、民族側である百姓たちは自分たちはことごとく長曾我部侍であるという意識の上に立って、藩国家という存在の不合理さを観察する通癖ができた。山内家とその家臣団は、単に進駐軍であるにすぎないのである。
私がはじめて高知に行ったのは十数年前だったが、そのとき高知新聞の学芸部長のF氏と飲んだ。氏が不意に顔をあげて、
「高知新聞、四百余の社員のなかで、山内侍は三人だけです。みな長曾我部侍です」
といったのを、表情から声調子まで、いまだに忘れられない。他の地方なら単に百姓であるにすぎない身分を、土佐では長曾我部侍というのである。
何とも、おどろくべきことである。これでは、「四百余」人のうち「三人だけ」という「山内侍」に私は同情したくなるが、それにしても、長宗(曾)我部氏が土佐にのこした遺産はたいへんなものだったと思わないわけにはいかない。
信濃から来た秦氏の子孫
さて、では、いまもなお土佐人の胸のなかでそのように生きている長宗我部氏とはいったいどこから来た、どういうものだったのか。高知県の『郷土資料事典』をみると、いま引いた司馬氏の一文の前段にあたるところがこうなっている。
帰化人秦氏の子孫と伝えられる長宗我部氏は、鎌倉時代初期に秦能俊《はたよしとし》が信濃国から土佐へ移り、長岡郡宗部《そかべ》郷(南国市)を領有し、長宗我部氏を名のったのに始まる。……
〈長宗我部〉元親は、土佐統一後その余勢をかって天正一三年(一五八五)に、四国統一をなしとげたが、間もなく圧倒的に優勢な豊臣秀吉の征討軍の攻撃を受けて敗れ、土佐一国を領有するに至った。
また元親は、土佐国内の文化の興隆にも大きく貢献している。岡豊城下では、如淵・忍性などをまねいて南学の講義がおこなわれ、元親が創建した国分寺の金堂や土佐神社の本殿・幣殿などには、岡豊文化ともいうべき優れた文化の断片が残されている。またいまに伝わる長宗我部地検帳や掟書《おきてがき》は、元親の卓越した政治的手腕を物語っている。
それが、「元親の子の盛親の代になって関ケ原で西軍に属したために没落し」、滅亡したことは司馬氏の一文にあったとおりである。けれども、ここでひとつ注意しなくてはならぬのは、長宗我部氏は古代から秦氏族のいた地元から興ったそれではなく、信濃(長野県)からはいって来たものだったということである。一つはそういうことから、長宗我部氏が秦氏の子孫というのは疑わしいのではないかと思われているようであるが、しかしそれはあたらないと私は思う。
なぜかといえば、信濃にも秦氏族は分布していたからである。そのことについては、『日本の中の朝鮮文化』(7)「駿河・甲斐・信濃・尾張ほか」でみているが、長野県松本市西方の波田町には波多神社があり、また、更埴市稲荷山にも、もとは秦神社だった治田《はるた》神社がある。さらにまたいえば、佐久市岩村田には土佐のそれと同じ若宮八幡宮もある。
私はさきに、「秦氏族は古代日本最大の氏族で、九州、四国、中国地方はもとより、全国いたるところに分布していた」と書いたが、その秦氏族がときにより事情によっては、同族をたよるか、よび寄せられるかして、あちこちへ移動することは充分ありえることなのである。遠いからといって、土佐の地だけ例外ではなかったはずである。
そのことは、秦能俊らが土佐の「長岡郡宗部《そかべ》郷(南国市)を領有し」たことで長宗我部氏を名のることになったわけだが、同時にかれらはそこに岡豊城を構えるとともに、秦氏族の総氏神であった宇佐八幡宮を勧請した岡豊八幡宮を氏神としていたことでもわかる。
すなわち、「岡豊八幡宮は岡豊城跡の東北、国道の北側の山頂にある。鎌倉時代の創建と伝えるが、創立年代は不明。国分寺の八幡宮で長宗我部氏の氏神的存在として、一族結集の中心であった」(前記『高知県の歴史散歩』)とあるのがそれである。
秦氏の治水技術と河戸堰
それからまた、私は前記した土佐山田町の「町民大学講座」で講演をすることになり、同町教育委員会編『土佐山田町の文化財』をもらってみたところ、そこに県指定のそれとなっている「山田堰」があるのをみて、「ふむ、なるほど」と、ひとりうなずくようにして思ったものだった。もちろん、これは長宗我部氏後に入部した山内家の野中兼山によるものであるが、しかしにもかかわらず私はそれをみて、これも秦氏族の特技であった治水工事のことを思いだしたのである。
ここで読者もさきの「波多・秦・幡多」の項でみた、京都『――松尾大社』の由緒を思いだしてもらいたい。そこに「大堰と用水路」として、こうあったはずである。「秦氏は、保津峡を開削し、桂川に堤防を築き、今の渡月橋のやや上流に大きな堰《せき》( 大堰《おおい》・ 大井という起源)を作り……」と。
秦氏族がそのような治水工事をおこなったのは、京都の桂川だけではなかった。播磨(兵庫県)の千種川や、遠江(静岡県)の大井川に大堰(大井)をつくってその流域を開発したのも、そこに集住していた秦氏族によるものであった。
いわばそのような伝統が山田堰をはじめ、土佐にもあちこちにある堰に受けつがれていたのである。いまいったように、山田堰は野中兼山によるものであるが、しかし、それは突然かれによっておこなわれたものではなく、それも長宗我部氏以来のものであった。
たとえば、宿毛市宿毛にある河戸堰《こうどのせき》であるが、前記『高知県の歴史散歩』にそのことがこうある。
宿毛の市街地のはずれ、宿毛大橋上流二〇〇メートルにある。長さ一八四メートル、幅二〇メートル余の石塁で松田川をせき、両側に水門をかまえる。右岸の宿毛水門から三方にわかれた水路と、左岸から坂の下溝がのびて、流域の灌漑用水となる。
長宗我部時代に宿毛領主の野田甚左衛門が宿毛大関を築き、藩政〈山内氏〉時代野中兼山が、一六五八(万治元)年宿毛水門から南西に市街地をかこんで貝塚にいたる松田川堤防を築き、一支流だった荒瀬川を拡張して排水路とした。
二代にわたって築かれつづけてきたわけであるが、しかも、長宗我部氏から土佐国を受けついだ山内氏にしても、これまた大井川がそこを流れている遠江の掛川からやって来たものであった。大井川の大井(大堰)ということばからして、秦氏族の治水工事からきたものであることは、いまみたとおりである。
唐人町と豆腐
ところで、それよりさき、長宗我部元親は一五九二年にはじまった、豊臣秀吉の朝鮮侵攻戦争(日本では「文禄・慶長の役」、朝鮮では「壬辰倭乱」)に参加した。古代朝鮮に出自のあることがはっきりしているもので、秀吉のその侵攻戦争に参加したものは、長宗我部氏ばかりではなかった。前線軍総司令官格の宇喜多秀家からして百済系渡来人を祖とするものであり、薩摩(鹿児島県)の島津氏がこれまた、平安時代に秦氏族から分かれでた惟宗《これむね》氏を祖とするものだった。
その侵攻戦争により、薩摩の島津氏など九州の諸大名は、当時の朝鮮から多くの陶工たちを連行してきているが、土佐の長宗我部氏が連行して来たのは、慶尚北道の秋月城主だった朴好仁一族ほか数十人だった。そしてどういうわけからか、長宗我部元親はかれらを優遇し、浦戸城下に居宅をあたえて住まわせた。
いわば、朴好仁らは俘虜《ふりよ》の身でありながら食客のようなものとなっていたわけであるが、しかし、長宗我部氏が滅びて山内氏にかわってからは、そうはいかなくなった。それからは、朴好仁一行のなかに豆腐づくりの技術につうじたものがいたとみえて、かれらは高知市内を流れる鏡川沿いの地に移り住み、そこで豆腐づくりをすることになったのだった。
これが土佐における豆腐づくりの始めであり、いまの高知市「唐人町」のおこりであった。土佐の人たちが朝鮮人と同じように、にんにくを好むようになったのも、その豆腐とともにはじまったのではなかったかと私は思っているが、豆腐の始めと唐人町とのことは、『高知市史』にも書かれていて、「西唐人町、東唐人町」の項にこうある。
朴好仁は元、慶尚道秋月城主なりしが、部下三十人と共に俘虜として土佐に来り、浦戸城下桂浜に居り、山内氏入国に及び其子孫に此市街を給与し、秋月氏と称して豆腐屋をなさしむ。当時、唐人町に六十八座の豆腐屋あり、古来此町の外、豆腐営業を許さざりしという。旧藩の時、豆腐屋に限り雨天には柄なき傘の如きものを冠りしが、是は韓国の遺風なりという。
ここに「秋月氏」とあるのは、朴好仁の子孫がそれとなったものであるが、その唐人町は西、東どちらもいまではすっかり変わって、高層ビルの目立つ市街となっている。私はそこを歩きながら、昔ながらの豆腐屋さんはあるのだろうかと、通りの人に訊いてみたが、それはもう一軒もないという返事だった。
伊 予
瀬戸内海を渡る
渡来人にとっての回廊だった瀬戸内海
前夜は、『季刊三千里』社主・徐彩源氏の住む広島で一泊した。そして午前八時すぎにそこをたって、三原市の三原港で辛基秀、池尚浩さんと落ち合い、十一時十五分発のフェリーで伊予(愛媛県)の大三島へ向かった。
私は伊予や讃岐(香川県)へも行ったことがあったけれども、そのときは飛行機だったので、船で瀬戸内海の中心部を渡るのは、こんどがはじめてだった。船は晴天のもと、おだやかにないでいる海に浮かんだ島々のあいだを縫って走っているようだったが、しかし、私の目にはどちらも青緑の山々ばかりで、どれが島で陸地であるのかよくはわからなかった。
地図をみると、伊予の越智《おち》郡となっている大三島までの航路周辺には、広島県となっている小佐木島、宿禰島、佐木島、高根《こうね》島、生口《いくち》島などがならんでおり、さらに生口島の東方には因島《いんのしま》生名《いきな》島、弓削《ゆげ》島、岩城島などがある。
これだけでもかなりの数であるが、しかしもちろん、瀬戸内海に浮かぶ島々はそれだけではない。『広辞苑』によると、瀬戸内海に浮かぶ島々は三千であるとなっている。
南朝鮮・韓国の多島海(韓国全体の島々は三千四百四十四で、そこに住む人口は五十六万余)をはるかに上まわるばかりか、瀬戸内海のような狭い海峡に浮かぶそれとしては、たいへんな数である。
これには私にひとつ思いだすことがある。「にっぽん島の旅」(3)『瀬戸内海の島々』の「家島」の項をみるとこうなっている。
家島《いえしま》 兵庫県飾磨《しかま》郡家島町。面積四・九五km2。人口六四〇〇。
姫路市飾磨港の南西一八qにある周囲一三q、最高点一三四mの島で、家島港をはさんで凹形をしている。島名の由来として『播磨国風土記』の揖保《いぼ》郡の条には「人民《たみ》家を作りて居りき。かれ、家島と号《なづ》く」とあり、古くから瀬戸内海交通の要衝として栄えた。港のある宮、真浦の二集落は、狭い道をはさんで人家がぎっしりと並んでいる。島の東北端の天神鼻にある家島神社は式内社で、七月二四、二五日の夏祭りには、船上に舞台を組み、海上で獅子舞を奉納しながら島をめぐる。宮にある宮浦神社は漁業の守護神として崇敬されている。石材運搬と漁業中心の島。
こう紹介している『瀬戸内海の島々』にはほかにまた、加藤賢三氏の「石積み船が行き交う島――家島紀行」がのっていることからもわかるように、地元では家島《えじま》といっている家島《いえしま》は、いまも安山岩や花崗岩の「石切り場」として知られている。
「私にひとつ思いだすことがある」のはその石切り場に関連したことで、いまはどうか知らないけれども、十五年戦争中までのその石切り場には、たくさんの朝鮮人労働者が働いていた。どのくらいいたかは聞きもらしたが、戦争末期ころの北海道や九州などの炭鉱と同じように、そのころの労働者はほとんどがみな朝鮮人ではなかったかと思う。
そして一九四五年八月十五日、戦争が終わって、朝鮮は独立するということになったとき、家島の朝鮮人たちは、「独立はまず民族教育から」ということで、そこに小さな朝鮮人小学校をつくった。すると、交通上、日本の小学校まで通うのに難渋していた日本人生徒までが、その朝鮮人小学校へはいってきたというのであった。
それで朝鮮人小学校の先生は、それら日本人生徒のためには、日本の小学校でおこなっている授業(当然このばあいは日本語)までしなくてはならなかったというのだったが、私はそのはなしを聞いたとき、何とはなしひどく感動したものであった。
そういうことがあったので、いまもその家島のことを地元では家島《えじま》といっているということまで含めてよくおぼえているのであるが、そのとき家島で働いていた、あるいはいまもそこで働いているかも知れない朝鮮人はどこから、どのようにして来たものかはわからない。しかし古代における瀬戸内海は、朝鮮からの渡来人にとってひとつの新天地であっただけでなく、そこは大きな回廊でもあった。
天日槍と瀬戸内海
古代朝鮮からの主要な二つの渡来口をあげるとすれば、一つは日本海側の若狭湾であり、一つは北部九州の博多湾であった。そのうちでも博多湾に上陸したものが多く、そうしてかれらは九州各地に分散してその遺跡をのこし、さらにまた瀬戸内海の島々や、その周辺にもたくさんの遺跡をのこしている。
瀬戸内海では海中からも、古代朝鮮製の磨製石剣や硬質土器などが漁師の網にかかって引きあげられたりしているが、その海のうえからは、新羅・加耶系の天日槍《あめのひぼこ》族集団がとおり、古代日本最大の氏族であった秦氏族の集団もとおった。そしてかれらはただそこをとおっただけではなく、そのうちのあるものは、その周辺に定住することにもなったのだった。
秦氏族についてはさきの土佐(高知県)でもみているし、また、これからの伊予や讃岐でもみることになるので、ここでは天日槍のそれについてちょっとみておくと、『筑前国風土記』(逸文)や『日本書紀』などにもあるように、筑紫の北部九州には天日槍(天之日矛)族からでたとする五十《い》迹手《とで》というのがいた。
『日本書紀』では伊覩県主《いとのあがたぬし》となっており、『三国志』の『魏志』「倭人」伝では伊都《いと》国王となっているもののことであるが、滝川政次郎氏の「比売許曾の神について」をみると、その五十迹手の子孫による「東征」のことがこうのべられている。
天之日矛がその嫡妻〈比売許曾《ひめこそ》〉を追って難波に到らんとしたことは、私の解釈に従えば、日矛を祖神と仰ぐ氏族の首長がその部衆を率いて難波の背後にある大和に侵入せんとしたことであります。この日本の中原ともいうべき大和の地に侵入を企てた氏族は、いかなる氏族であったでありましょうか。この問題に明解な回答を与えられたのは、田中卓博士であります。田中博士は、『日本国家の成立』なる論文において、それは景行紀に見える伊覩県主五十迹手の子孫であると明言されています。……
伊覩県主が魏志倭人伝に見える伊都国王で、その富強天下に冠たるものであったことは、前に論述したところであります。この有力なる北九州の豪族が、東方の美地を望んで東征して来ることは、あり得べきことであります。
つまり、瀬戸内海がその通路となったわけであるが、なおまた、林屋辰三郎氏の「天日槍と神武東征伝説」という副題をもった「古代の但馬」をみると、「私は、はっきりいって天日槍伝説というものは、神武東征伝説という日本の国の、また、日本文化の最初にどうしても理解しておかなければならない伝説と同形のものと考えている」として、いまみた滝川氏と同じようなことがこう書かれている。
神武東征伝説というものは、日本に水稲耕作を伝えた農耕集団が西から東へと移っていった過程を、六〜七世紀の知識を基礎にして物語っているのである。……
新羅の王子といわれる天日槍の農耕氏族集団は、朝鮮から北九州へ渡って瀬戸内海を通り、播磨の宍粟《しさわ》の邑《むら》を通り、淡路を通って河内から淀川に入り、……私はそれが天日槍集団の渡来の伝承と考える。神武東征の伝承とひじょうに類似しているのは、天日槍という名前が示しているように、槍《ほこ》はいうまでもなく神のよりしろであるが、これは武甕雷神《たけみかづちのかみ》の剣と同じで雷を表現している。即ち、天日槍という神名の中に神武東征伝説のいろんなエッセンスが凝縮している、といえるのである。
「朝鮮から北九州へ渡って瀬戸内海を通り……」とあるけれども、もちろんかれらはそこを通路のみとして、ただとおったというものではなかった。そのことについては、林屋氏もつづけてこう書いている。
神武東征の伝承は、農耕氏族が九州を出発し、そして大和に到達して、その国の中を統合し一国をつくりあげるまでの苦闘の歴史を表現したもので、その期間はおよそ二五〇年間、その間の伝承が一つの物語りとして集約されているのである。そういう農耕氏族集団というものは、いっぺんだけずっと通ってしまったものでは決してないだろう。次々と九州を出発して東へ入っていった。
石と朝鮮文化
そしてかれらは、「二五〇年」という長い期間にわたり、瀬戸内海の島々やその周辺に、たくさんの人間とさまざまな文化とをのこした。その文化伝統の一つには、「石」のそれまである。
はなしは前後するが、さきに家島の「石切り場」についてふれたけれども、雑誌『本』一九七八年九月号をみると、そこに梅原猛氏と流《ながれ》政之氏とによる「〈石〉に出会う日」という対談がのっていて、こういうことが語られている。
梅原 そして石作りというのがやはりひとつの、ある種の勢力を持っていたんですけど、それはたいへんに短い期間なんです。その期間を見ると、大体朝鮮文化の影響のひじょうに多いときです。だから朝鮮文化の影響がなくなったときに、もう石は大体なくなってしまう。
流 それで、日本の石刻の石は軟石ですね。……
梅原 だけど墓石から石の芸術に入った、あの地蔵さんに入ったという、そこにやっぱりぼくは伝統というものは妙な違った形で、異質な形で、あるような気がする。流さんの作品は黒い石中心の芸術でしょう。
流 ええ。ここ〈香川県庵治《あじ》東海岸のスタジオ〉もそうですけど、瀬戸内というか、おそらくは日本の石の技術というのはほとんど百済からきたでしょう。
梅原 そうですね。
流 石にかかわっているうちにそれを知って、それではより深い日本のものをと反撥した。かつて私の父が鍛錬所を持っていて、私は刀を作ったことがある。本当の刀鍛冶です。これはかなり神道的なもんです。それでいわゆる韓国渡来の技法でないものをここで築かないかんというのが、いわゆる白御影をあまり使わないでスウェーデンの黒御影石に走らしているんでしょう。
さて、地図などひろげてそんなことをあれこれ思いだしているうちに、私たちの乗ったフェリーは大三島に着いた。三原から、一時間十五分ほどであった。
大三島の大山祇神社
一万余の分社をもつ大山祇神社
池尚浩さんの運転する私たちのクルマは、さっそく大三島町宮浦の大山祇《おおやまつみ》神社へ向かって走った。私たちは日本列島の沿岸部に住んでいて、しじゅう海を見馴れているせいか、そうして島のなかを走っているにもかかわらず、そこが島であるという感じがしない。要するに、どこも似たような同じ風景であった。
大三島は面積六三・八二平方キロメートル、瀬戸内海では淡路島、小豆島、屋代島についで四番目に大きな島となっていたからでもあろうが、しかしいまは大三島町、上浦町の両町合わせても人口一万二千余の、柑橘《かんきつ》類を主産業とするそんな島でしかなかった。だが、大山祇神社前にクルマを乗りつけて、「日本総鎮守/大山祇大明神」とある大鳥居の扁額を見上げたとき、そんな小さな島という私の感覚に、どこかくるいが生じるのをおぼえたものだった。
七万余坪という境内に足を踏み入れると、そのくるいはいっそう大きくなった。それにしても、こんな島にどうしてこんな巨大な神社が、と思わないではいられなかったからである。「それにしても」といったのは、三島神ともいう大山祇(積)神を祭る神社の総本社であるから、瀬戸内海の島にあるとはいえ、そうとうに大きな神社であろうとは想像していたからだったが、しかし実際に来てみると、その想像とははるかにへだたった巨大なものであった。
正面参道の広い境内でまず私たちの目を射たのは、あまりにも年古《としふ》りたため、根元から岐《わか》れた幹が怪異な形となっている大楠《くすのき》(樟)であった。横の掲示板に、「天然記念物/能因法師雨乞《あまごい》の楠」とあって、こうしるされている。
日本最古の楠(樹齢三〇〇〇年)で白河天皇の御代(九〇〇年前)、伊予国守安藤範国《のりくに》は能因法師を使者として祈雨の為参拝させた其の時、
「天の川苗代水にせきくだせ 天降ります神ならば神」
と詠じ、幣帛に書付け祈請したところ伊予国中に三日三夜雨が降った(金葉和歌集)と伝えられている。
「天降ります神ならば神」というのがおもしろいので書きうつしたが、「日本最古の楠(樹齢三〇〇〇年)」というのがそんなところにあるというのも、私たちとしてはひとつのおどろきだった。樹齢はその半分とみても、一千五百年なのである。かとみるとまた、根回り二十メートル、樹齢二千六百年という「乎知命《おちのみこと》御手植の楠」というのもあったりしている。
大山祇神社はそのようなたくさんの楠や檜群におおわれていて、そのなかに国の重要文化財となっている檜皮葺《ひわだぶき》・三間社流造の本殿、拝殿をはじめ、十七の摂末社を含むいくつもの華麗な社殿がたちならんでいるのだった。境内にはほかにまた国宝館、大三島海事博物館があって、そこには禽獣葡萄鏡《きんじゆうぶどうきよう》などの国宝八点、藤原佐理《すけまさ》筆「日本総鎮守大山積大明神」の額ほか国の重要文化財二百七十二点が収蔵されている。
なかでも、武具甲冑類では全国の国宝・重文の八〇パーセントを占めており、それで大三島は別にまた「国宝の島」ともよばれるとのことであるが、ところで、社務所で求めた『大三島詣で』によると、その大山祇神社の「由緒」のことがこうある。
その歴史は古く神武天皇御東征前、小千命〈乎知命〉によって大山積〈祇〉神が勧請された時に始まり、神の鎮まります島として「御島《みしま》」の名で人々に崇拝されていた。中世には四社詣(大三島・熊野・厳島・宇佐)、又五社詣(太宰府を加える)の中心として隆昌を極め、現在も大山祇神社参拝に又水軍ルートの史跡を訪ねて多数の人々が訪れる。
大山積大神は天照大神の兄神に当る神で、又の神名を和多志大神(伊予風土記)とも申し上げる地神海神兼備の大霊神であり、さらに天孫瓊々杵尊御降臨に際し、女木花開耶姫命を皇妃として国を奉られたわが国建国の大神であられる。……
平安時代には伊予国一の宮として又名神大社に列せられ、明治以降の官制時代には四国唯一の国幣大神に定められた、全国一一、〇〇〇余の大山積神を祀る総本社である。
古くから日本総鎮守と尊称せられ、御皇室はじめ多数の人々によって参拝がなされ、奉納の御社宝類は多数国宝や重要文化財の指定を受けている事でも著名であるが、これも永い伝統と高い格式を誇る大山祇神社の御神徳を顕現するところに他ならず、巷間国宝の島の俗説を産んだ程に社宝数多にして眩い。
私は、大三島の大山祇神社が三島神ともいう大山祇(積)神を祭る総本社であるとは知っていたが、その分社が一万一千余もあるとは、これによってはじめて知った。そのことについてはまた、同『大三島詣で』に「御分社は一一、〇〇〇余」としてこうも書かれている。
御社号は大山祇神社・山神社・三島神社等多岐にわたるが、全て大三島を中心とする大山積(祇・津見)神を祀る神社で、北海道から九州までの全国各地各県に鎮斎される御分社の数は一〇、三一八社(昭和四八年八月、神社本庁調〈引用の数字は原文のまま〉)を数える。
大山祇大神は「渡海」の神
それぞれ全国の分社四万余を数える秦氏族が祭った九州の宇佐八幡宮や、京都の稲荷大社ほどではないとしても、大山祇神社のこれもまたそうとうなものだとみなくてはならない。では、いまみた『大三島詣で』の「由緒」に「大山積大神は天照大神の兄神に当る神で、又の神名を和多志大神(伊予風土記)とも申し上げる」とある大山積(祇)神とはいったいどこから来たものだったのであろうか。
「上代の時、神といいしは人也」(新井白石『東雅』)であるから、その人はどこから来たものだったかというわけであるが、それで注意してもらいたいのは、いまの「由緒」に「又の神名を和多志大神(伊予風土記)」とあることである。
平凡社版「東洋文庫」の吉野裕訳『風土記』により、その『伊予国風土記』(逸文)「大山積の神・御島」をみるとこうなっている。
伊予の国の風土記にいう、――乎知《おち》の郡。御《み》島 (注八〇)においでになる神の御名は大山積の神、またの名は和多志《わたし》(渡海)の大神《おおかみ》である。この神は難波《なにわ》の高津の宮に天の下をお治めになった天皇(仁徳天皇)のみ世に顕現なされた。この神は百済《くだら》の国から渡っておいでになりまして、摂津の国の御島《みしま》においでになった。云云。御島というのは津の国の御島の名である。
(『釈日本紀』六)
(注八〇)乎知の郡。御島 越智郡。御島は瀬戸内海にある三島群島で、大三島の宮浦に大山積神社(三島明神)がある。
要するに、三島神ともいわれる大山積(祇)神とは、古代朝鮮の百済から渡来したもので、のち、その集団の首長が祭られてそれとなったものだったのである。そしてかれら集団の一部はのちさらに、摂津国(大阪府)へひろがってそこをも御島とし、そこにまた三島鴨神社を祭ったのであった。
ばかりでなく、伊豆(静岡県)の三嶋大社にしてもそれと同じものであった。
でたらめな校注者
ところで、いまみた吉野裕訳『風土記』と、岩波書店「日本古典文学大系」の秋本吉郎校注『風土記』とはかなりちがうところがある。少しめんどうだけれども、なにしろ、全国一万余の神社に祭られている祭神(三島神・大山積神)にかかわることなので、煩をいとわずくらべてみると、秋本校注のほうはこうなっている。
伊豫の国の風土記に曰《い》はく(五)、乎知《をちこ》の郡《ほり》(六)。御嶋《みしま》。坐《いま》す神の御《み》名《な》(七)は大山積《おほやまつみ》の神、一《また》名《のな》(八)は和多志《わたし》の大神なり。是《こ》の神は(九)、難波《なには》の高津《たかつ》の宮に御宇《あめのしたしろ》しめしし天皇《すめらみこと》の御世《みよ》に(一〇)顕《あらは》れましき。此神、(一一)百済《くだら》の国より度《わた》り来まして、(一二)津《つ》の国の御嶋《みしま》に坐《いま》しき。云々。御嶋《みしま》と謂《い》ふは、津《つ》の国の御嶋《みしま》の名なり。
こうしてみると、本文は歴史的かなづかい・旧漢字となっているほか、たいしたちがいはないようにみえるが、しかしこの本文にも大きなちがいがあるので、ついでその『風土記』原文もここにしめしておくことにする。それはこうである。
伊豫国風土記曰 乎知郡 御嶋 坐神御名 大山積神 一名和多志大神也 是神者 所 レ顕 二 難波高津宮御宇天皇御世 一  此神自 二 百済国 一 度来坐 而津国御嶋坐 云々 謂 二 御嶋一 者津国御嶋名也
まず本文であるが、前者の吉野訳では「この神は百済の国から渡っておいでになりまして、摂津の国の御島においでになった」とあるのに対して、秋本校注は「(一一)百済の国より度り来まして、(一二)津の国の御嶋に坐しき」となっている。そしてその注(一二)をみると、それはこう説明されている。「大阪府高槻市三島江(淀川右岸の地)の式内社三島鴨神社。そこから伊予国に移ったというのである」と。高槻市三島江にその神社があるのはそのとおりであるが、「そこから伊予国に移ったというのである」とは、でたらめというよりほかない。
すべては、いわゆる大和朝廷のあった畿内からはじまったとする思想、皇国史観からきたものであろうが、それにしてもこれはひどいものである。なぜなら、右にしめした原文をみてもらいたいと思うが、それはこうなっている。「此神自 二 百済国 一 度来坐 而津国御嶋坐」(傍点は金)。
これは秋本式に訳しても、「此の神は、百済の国より度り来まして坐《いま》しき。而して津の国の御嶋に坐しき」と、ならなくてはならぬのである。それなのにはじめの「坐しき」の「坐」と、「而して」の「而」とをすっぽりと抜いてしまって、「そこから伊予国に移ったというのである」と、だれもそんなことなどいっていないのに、それでことがらを逆にしてしまっているのである。
念のため大野晋ほか編『岩波古語辞典』をみると、「而して」は「然して」ともちがって、「前の文の終結したあとをうけて、新たに後文をおこす」とあるが、そればかりではない。この秋本校注はいたるところ歪曲そのもので、たとえば、「……の御世に (一〇)顕れましき」の注(一〇)はこうなっている。「神が現身をあらわして行為することをいう。韓国出征の時にこの神があらわれて航海神としての神徳を発揮した意」。
それからまた、「此 神、(一一)百済の国より度り来まして」の注(一一)は、「韓国の百済から帰って来てか。百済を本国として来朝した意ではあるまい」となっている。
いったい、校注とはどういうことなのか。本文を勝手に省略してしまったり、それにないことまで自分勝手に「注」するということではないはずである。「韓国出征の時にこの神があらわれて航海神としての神徳を発揮した意」とはどういうことで、どうしてそうなるのか。だいいち、「韓国出征の時に」とあるが、いったいいつどこのだれが「出征」したというのか。
さきにみているように、『伊予国風土記』(逸文)「御島」のそれにはどこをどうみても、そう読みとれるところなどないのである。それなのに、そのうえさらにまた、「韓国の百済から帰って来てか。百済を本国として来朝した意ではあるまい」とあっては、これはもうお笑いというよりほかないであろう。
百済系渡来人集団の発展
人が「神」として語られる上古のことに「来朝」ということばが使われるのもおかしなものであるが、そんなお笑いとは別に、「百済の国より度り来まして」伊予国乎知郡(現・越智郡)御島(現・大三島)に「坐し」た大山積神を信奉する百済系渡来人集団は、人口の増加とともにそこからさらに集団が生じて、それがまたあちこちへと発展して行った。
さきにもちょっとふれたように、そのうちのあるものは遠く、いまは東京都となっている三宅島にまで行っている。そしてそれがいまの静岡県三島市の三嶋大社となっているのであるが、その三嶋大社については、静岡県高等学校社会科教育研究協議会編『静岡県の歴史散歩』にこうある。
旧下田街道が国道一号線と分岐する位置に、伊豆一の宮三島神社がある。中世以後の伝説によると、伊予国大三島《おおみしま》の三島明神が伊豆の三宅《みやけ》島に上陸、さらに賀茂郡白浜にうつり(現下田市白浜神社)、大仁《おおひと》町の広瀬神社をへて現在地に鎮座されたという。これは三島神〈大山積(祇)神〉を信仰する瀬戸内海の集団が、その航海術を利用して伊豆半島にうつったとされる。祭神に事代主命が合祀されたのは明治になってからで、それまでは大山祇神だった。
「中世以後の伝説によると」とあるけれども、いまは人口四千三百余となっている小さな島の三宅村には、古墳とともにある富賀《とが》神社はじめ、千年以上もまえからある『延喜式』内の神社が十二社もある。そのような『延喜式』内社は広島県の安芸国が三社、鹿児島県の薩摩国が二社であることを思えば、三宅島がどんなに古い歴史の島であるかわかるというものであろう。
それからまた、三宅島には高麗山普済院という寺があって、ここには長野善光寺のそれと同型のものである金銅の百済仏がある。高さ三十三センチの阿弥陀如来で、寺の伝承では、はるばる朝鮮の百済から三宅島へ流れ着いたものということになっているが、金銅のそんな仏像一つだけが流れ着くはずはないので、これももしかすると、「三島神を信仰する瀬戸内海の集団」によってもたらされたものであったかも知れない。
「御島」は「朝鮮」
「伊予の三島、伊豆の三島を併《あわ》せて三ケの三島と称せられた」(『大阪府神社銘鑑』)という、摂津国島上《しまのかみ》・島下《しまのしも》郡だった高槻市三島江の三島鴨神社も同様のものであることはいうまでもない。ばかりか、だいたい、「三島」とはいったいどういうことだったのか、ということについてのそれも紹介しておくことにしたい。
それというのは、是澤恭三氏の「韓神について」という論文で、これをみると、「宮内省で祭られている韓神を考える時、忘れてならないのは神楽歌の中に韓神があることである」として、その「三島」のこととともに、「三島木綿《みしまゆう》 肩にとりかけ われ韓神の 韓招《からお》ぎせむや 韓招ぎせむや」というその神楽歌のことがこう書かれている。
韓神の神楽歌の意味については既に「三島と朝鮮」と題して小論(『国史学』七三、昭和二十六年三月)を発表したことがある。その大意は三島木綿とは古く摂津に産した木綿《ユ ウ》であって、この三島は御島とも書かれて朝鮮を意味すると考えられ、「韓招ぎ」とあるは韓の技芸、即ち韓風の、或《あるい》は韓から伝来した芸能と解すべきで、それを舞うについて特に三島木綿を使用し、肩にとりかけてその特技なることを歌っているものであり、即ち韓の神であることに深い意を表している、と。
「三島は御島とも書かれて朝鮮を意味すると考えられ」るとは、私はこれがはじめてであった。三島または御島が「三つの島(アイランド)」を意味するものでないことはわかっていたけれども、それが「朝鮮を意味する」とは知らなかったのである。このことについては、今後ともなおよく調べてみたいものと思っている(それで私は別にまた、「大山祇神をめぐって」という一文を書いている。講談社学術文庫『古代朝鮮と日本文化』に収録)。
今治から川之江へ
伊予の水軍
私たちは大山祇神社の門前町となっている静かな商店街をとおって、大三島西方の宮浦港へでた。そこでおそくなった朝食兼昼食をすましたが、しかし今治《いまばり》行のフェリーは午後二時三十分となっていて、まだ少し時間があった。で、近くだった大三島町役場の教育委員会をたずねてみることにした。
静かな町なかと同じようにのんびりしたもので、みなどこへ行ったのか、教育委員会には女子職員が一人いるきりだった。その女子職員から私たちは、『大三島町の文化財』『大三島の観光/ひとくち案内』といったパンフレットなどをもらい受けた。
だいたい、大三島の歴史は大山祇神社を中心に動いてきたので、文化財も観光もみな大山祇神社にかかわるものばかりであった。ただ、これもそれとかかわるものではあるが、『大三島の観光/ひとくち案内』に、瀬戸内海といえばそれも重要なものの一つとなっている「水軍とその歴史」がでているので、それをここに紹介しておくことにしたい。
かつて備後、安芸、四国の瀬戸内一帯は地理的に瀬戸内海第一の重要な海域で、強力な性格のきわめて異なる二つの名族・水軍が活動していました。
その一つは九州より大和(奈良地方)への神武天皇の東遷とともに稲作りをはじめ、高度の文化を招来したともいわれます大山積大神一族系統小千《おち》氏(越智氏)の三島水軍、後の河野水軍であります。
もう一つは、これよりはるか後に(一〇八〇年頃)信濃から南下して能島(現在の大島)を中心に内海に勢力を持つようになった前期の村上水軍(村上天皇を祖とする村上源氏流)と、後期の村上水軍(清和天皇を祖とする清和源氏流)、のちの村上三島水軍(能島村上、来島村上、因島村上の三つの島の水軍を総称して村上三島水軍といった)です。
「信濃から南下して」といわれると、秦能俊が信濃から四国の土佐へ移って長宗我部氏の祖となったことを思いだすが、それはともかく、中世以降の村上水軍はおいて、それ以前からの「三島、河野水軍」のほうをもう少しくわしくみると、こういうふうになっている。
大山積大神を祖神と仰ぎ、大和朝廷と常に不離一体の関係を保ちながら伊予国を拠点に、天正一五年(一五八七)河野通直が竹原市において歿するまで幾度かの盛衰の歴史をへて、大山積大神の神威のもと強大な勢力を維持してまいりました。……
神話の時代以来、隆昌をつづけておりました越智氏が一〇八〇年代になって大《おお》祝系《はふり》の越智氏(大山祇神社系)と高縄半島(北条市)の河野系に分かれるようになります。大祝系の越智氏は明治四年、神官の世襲が解かれるまで(越智安元が慶雲四年、西暦七〇七年に初代大祝に任ぜられて以来、第一三代越智玉淵まで)実に一一六〇年にわたって、神官・越智大祝の伝統が続けられて来ました。
一方、河野系は源平の合戦、文永の役、弘安の役〈どちらも十三世紀末、蒙古襲来時の戦役〉で活躍、その後次第に貴族化して行きます。南北朝の争い、応仁の乱等に参戦し、天正一三年(一五八五)豊臣秀吉の四国征伐により命を受けた小早川氏(竹原)に破れ、河野通直が拠城・松山道後の湯築城(いまの道後公園)を明渡し、二年後竹原市において病歿し、河野氏の歴史を閉じます。
越智氏、河野氏とも長い歴史をもったもので、そのあいだにはそこからもたくさんの子孫が分かれでているはずであるが、大山積(祇)神を祖神とするかれらは、瀬戸内海のそういう「水軍」ともなっていたのである。
伊予国分寺と唐子山
私たちは大三島の宮浦からさらにまた、かれらが活躍したその瀬戸内海を渡り、高縄半島の今治市へ向かった。しかし大三島をあとにするとすぐまた、左手に大島が見えてきた。
「にっぽん島の旅」(3)『瀬戸内海の島々』をみると、大島は面積四五・二七平方キロメートルで人口約一万、大三島と同じように吉海町、宮窪町の二町に分かれている。そして、「島の各地からは弥生時代や古墳時代の遺跡が発見されている」とある。
そういうことがあるからかどうか、一九八四年五月十二日付けの愛媛新聞によると、そのうちの吉海町からは、考古学者として知られている藤田喜義氏によって、古代朝鮮式山城跡が発見されたとある。そのような山城跡については東予市の永納山《えいのうざん》など、これからもいくつかみることになる。
宮浦からのフェリーが今治港に着いたのは、午後四時十五分すぎになってからだった。それで私たちは明るいうちにと急遽、今治市国分の伊予国分寺塔跡をたずねただけで、そのあいだの東予市、伊予三島市などは戻りにということにして、今治からは約六、七十キロさきと思われる、伊予東端の川之江市まで直行することにした。
今治市の国指定史跡となっている国分寺塔跡はまさにその跡のようで、民家のあいだの空地に礎石だけがのこされていた。近くにある国分寺とともにそれのことが、愛媛県高等学校教育研究会社会部会編『愛媛県の歴史散歩』にこうある。
四国霊場五九番札所、現在の国分寺は今治の東南部、市内から約七キロのところにある。唐子《からこ》山の丘陵を背に静かなたたずまいをみせ、一年中、お遍路さんの絶え間がない。同寺には、南北朝期の越智《おち》・河野両氏の動静を示す国分寺文書(県文化〈財〉)、弘法大師画像・不動明王画像(市文化〈財〉)など数々の寺宝が書院奥に展示されている。
昭和四二年、県教委の発掘により、国分寺のすぐ東にある東塔跡(国史跡)の基壇の構造が明らかとなり、南面する回廊が想定された。また出土した古瓦により、創建は八世紀後半で、九世紀に改修されていることが判明した。
「南北朝期の越智《おち》・河野両氏の動静を示す国分寺文書」と、そこにある「唐子《からこ》山」というのがちょっと気になったが、しかしそれまでたずねていてはきりがないので、クルマのなかでそれらについての資料をみるだけでやめることにした。
唐子山周辺の弥生時代墳墓
糸井通浩氏の「伊予の古代と渡来文化」をみると、今治には「唐子《からこ》山」のほか「唐子台」「唐子浜」というところもあって、これはもと「韓子《からこ》」すなわち「韓処《からこ》」で、その「コ」とは集落を意味した百済古語ではなかったかとしている。それからまた、田中歳雄氏の『愛媛県の歴史』には「唐子山周辺の土壙墓群」という小項があって、それのことがこう書かれている。
さきの弥生時代の人びとの間にどれほどの階層的差異があったかは明らかでない。たとえば今治市の唐子住宅団地造成地で発見されたお茶屋池南東丘上一連の墳墓群には、一般古墳に見る特異な盛り土とか、葺き石・石槨などがほとんどみられない。ただ石を運んで築かれた二、三の箱式石棺を除くと、いずれも一様に地山を簡単に縦二〜三メートル、横約一・五メートルの長方形に深さ〇・五〜一メートル掘り下げたいわゆる土壙墓にすぎない。この中に遺骸を木棺に入れて納めたか、あるいはじかに葬ったらしく、一例だけその棺の蓋に板石をもってしたかに見える蓋石土壙墓といわれるものもあった。……
このほかに合口甕棺墓の形式のもの二例や壺棺形式と思われるものもあり、合計約四〇基になる。このうちいわゆる三種の神器的な鏡・剣・玉が副葬されていたのはわずかに二例だけである。他に遺物として一個の〓《やりかんな》か刀子《とうす》を納めていたのが六例あったが、いずれも単純な土壙墓に納められていた。このことは当時これらの墳墓が特に身分のきわ立った特定階層のものでなく、誰にも築かれやすいかなり一般的なものであり、さきの鉄器の副葬者にしても未だ鉄の入手困難な時代の貴重品所有の家長ないし族長的なものであり、また鏡・剣・玉類を伴っているものも、これらの仲間での長老または司祭者格のものにすぎなかったのではあるまいか。
私はこれを読んで、さきの秋本吉郎校注『風土記』とはまた別に、何となく妙な気がしたものである。これはまたどうしてか、だれかと論争でもしているような突き放した文体で、たとえば、「このうちいわゆる三種の神器的な鏡・剣・玉が副葬されていたのはわずかに二例だけである」とあるけれども、では、いったい何例あればよいというのであろうか。
私のみるところでは、いわゆる古墳時代以前のそのような土壙墓《どこうぼ》から、それが二例も発見されたとはたいへんなことではないか、と思うのである。決して「わずかに」などといえるものではないのである。
それからまた、「このことは当時これらの墳墓が特に身分のきわ立った特定階層のものでなく、誰にも築かれやすいかなり一般的なものであり、……また鏡・剣・玉類を伴っているものも、これらの仲間での長老または司祭者格のものにすぎなかったのではあるまいか」というけれども、この筆者にとっては、どうしても、それらの「墳墓が特に身分のきわ立った特定階層のもの」であってはならないかのようである。私もそういう特定階層は好きではないが、しかし事実としては、当時、その「いわゆる三種の神器的な鏡・剣・玉」を持っていた「司祭者格のもの」はやはり、そういう「特定階層」のものであったにちがいなかったはずである。
東宮山古墳へ
そのような弥生時代の土壙墓は今治ばかりでなく、今治市西方の大西町などにもあり、また、同市南方の朝倉村には、須恵器、馬具、鉄鏃などを出土した古墳時代の野々瀬古墳群があった。そのうちの七間塚(県史跡)古墳はとくに大型横穴石室で、その玄室はおとな二十人くらいが一度にはいれるほどの大きさだという。
そんな大きな玄室はめったにないもので、要するに瀬戸内海の燧灘《ひうちなだ》に面した東予地方も、そんな古墳の多いところであった。私たちが今治から、この日はそこ泊まりとして、東端の川之江さしてクルマを走らせていたのも、前記『愛媛県の歴史散歩』にこう書かれている、注目すべき古墳があったからである。
妻鳥《めんどり》陵墓参考地となっている東宮山古墳は中央構造線下に形成された扇状地の扇頂にある独立丘陵上にある。この丘陵上に構築された、直径約一五メートルの横穴式の円墳だ。規模そのものは、川之江駅東方にある六世紀後半の向山《むこうやま》古墳(県史跡)や東宮山古墳の南にある同時期の朝日山古墳(県史跡)のほうが大きい。
東宮山古墳が重要なのは古墳の規模ではなく、そこに副葬されていた遺物である。代表的な副葬品としては、内行花文鏡・金銀透彫帯冠《きんぎんすかしぼりたいかん》・衝角式冑《しようかくしきかぶと》・三葉透環頭柄頭《さんようすかしかんとうつかがしら》・馬鐸等があり、県内でも他にその例をみない。
どれも古代朝鮮から直行したとみられるものばかりであるが、この東宮山《とうぐうさん》古墳が「御陵墓参考地」となっているのは、允恭《いんぎよう》帝第一皇子という軽太子《かるのみこ》の墳墓だとする伝説があるからである。いまでは「天皇陵」といわれているものはもとより、「御陵墓参考地」も発掘調査を禁じられているので、その副葬品もわからないが、東宮山古墳は一八九四年の明治二十七年に、地元民が発掘してしまったので、それがわかったのであった。
東宮山古墳をめぐって
伊予の古墳と渡来出土品
川之江市のビジネスホテルで一泊した私たちは、朝、九時になるのを待って市の教育委員会をたずねた。そして社会教育課長補佐の石村哲雄氏から、『川之江市史』第一集『古墳時代編』はじめ、いろいろな資料をもらい受けた。
その『古墳時代編』をみると、金生《きんせい》町の向山古墳群など、たくさんの古墳があげられているが、やはり中心となっているのは、「御陵墓参考地」ということで国指定文化財となっている東宮山古墳だった。
石村さんとわかれて教育委員会を出た私たちは、これも古代朝鮮からの渡来とみられる金環、金銅環、石製紡錘車などを出土した向山古墳群も、となったが、しかしそこはやめにして、東宮山古墳のある妻鳥《めんどり》町に向かってクルマを走らせた。
ゆるやかな山麓の傾斜地で、海の見える町となっている妻鳥町では、市教委の石村さんから教えられたとおり、まずそこの公民館をたずねたが、そのまえに、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」をみると、「伊予国」の古墳はこういうふうになっている。=の下は、古代朝鮮からの渡来とみられる出土品。
△伊予市(旧)南伊予村龍塚古墳=装飾付有台壺。
△新居浜市金子山古墳=垂飾付耳飾。
△宇摩郡下金生村〈さきにみた川之江市金生町〉向山古墳=子持壺残欠。
△宇摩郡三島町中曾根古墳=子持有台壺。
△温泉郡久谷村津吉中野古墳=装飾付長頸壺。
△周桑郡壬生川町上市古墳=装飾付壺。
△伊予郡砥部町大下田山古墳=子持有台壺。
もちろん、ここにあげられた古墳がそれの全部でないことはいうまでもないであろう。たとえば、ここに東宮山古墳がみえないのは、それが「御陵墓参考地」となっているからではないかと思われるが、それについてはあとでみるとして、妻鳥町の公民館をたずねた私たちは、ちょうどそこに居合わせた妻鳥町公民館運営審議会議長の篠原安則氏や、同公民館主事の篠原正博氏に会っていろいろと聞くことができた。
妻鳥町は一九五四年までは宇摩郡妻鳥村で、いまは川之江市に合併となった一つの町にすぎなかった。が、町内に「御陵墓参考地」という東宮山古墳をかかえていることでか、こういう町としては珍しい、公民館内の妻鳥町誌刊行会によるりっぱな『妻鳥町誌』ができていた。私たちはその一冊をわけてもらったが、巻頭には宮内庁書陵部蔵となっている「東宮山古墳出土遺物」の写真も十余枚のっている重要なものだった。
宮内庁にある出土遺物はそういう写真でしかみられなかったけれども、しかし、公民館近くにあった東宮山古墳そのものは、すぐに実見することができた。山麓のゆるい傾斜地に樹木の生い茂った丸い小山となってあるそれが五世紀後半、あるいは六世紀初頭の築造という東宮山古墳であった。
そこからは北におだやかな瀬戸内海の燧灘が見わたせたが、古墳の頂上部には春宮《とうぐう》神社があるとのことだった。古墳からの主な出土品としては、前項(「今治から川之江へ」)で『愛媛県の歴史散歩』によりみているが、しかしそれにはどういうわけか、重要なものがいくつか抜けおちていた。
たとえば「金銅冠 残欠」などで、『妻鳥町誌』にある「東宮山古墳出土遺物」をみるとそれのことが(イ)から(ル)まで書かれており、「金銅冠 残欠」はそのはじめの(イ)でこうなっている。
帯状の薄板に三葉形の立挙した連続模様を透彫りにし、多数の円形板と少数の魚形の飾片を細針金で付けている。魚形の飾片には、目・鰓・鱗・鰭などを繊細に毛彫りにし、三葉形の外周には小さい点列が入れられている。また薄板の接ぎ目は鋲止めしてある美しいものである。
これは滋賀県高島郡高島町鴨稲荷山古墳出土の冠帽によく類似し、茨城県行方郡玉造町沖洲三昧塚古墳出土の例から、その豪華な様を想像することが出来る。このような冠帽の出土は全国でも類例は少なく、朝鮮慶州〈新羅の古都〉金冠塚からも立派なものが出土していて、冠帽は大陸から我が国にもたらされたものであろうといわれている。次の表はこの種の冠帽の出土地名表である。
(番号) (出 土 地)
1 熊本県玉名郡菊水町江田  船山古墳
2 佐賀県唐津市鏡      四方塚
3 愛媛県川之江市妻鳥町東宮 東宮山古墳
4 滋賀県高島郡高島町鴨   稲荷山古墳
5 静岡県浜名郡赤佐村根堅
6 群馬県佐波郡上陽村山王  二子山古墳
7 群馬県(伝)
8 群馬県(伝)
9 島根県出雲市上塩冶    築山古墳
10 鳥取県西伯郡宇田川村福岡向山長者平
11 福井県吉田郡松岡町境   石船山古墳
12 茨城県行方郡玉造町沖洲  三昧塚古墳
「海外新文物」を多く持った被葬者
ついでにその「地名表」までみたが、そして同『妻鳥町誌』はさいごに結論として、「出土遺物は特殊服飾品、馬具、須恵器に大別される。この中で最も注目されるべきものは前にも述べたように大陸文化、特に新羅・百済の影響を受けまたは直接にもたらされたかも知れない金銅冠や三葉環頭があり、内行花文鏡、細い金環、多数の玉類、馬具、冑の存在はこのあたりの古墳に見られないものである。(編者注、ここに東宮山古墳が陵墓と大いに関連するのではないかと推定されるわけである)」と書いている。
「特に新羅・百済の影響を受けまたは直接にもたらされたかも知れない」とは、そうとうに舌足らずな書き方となっているが、田中歳雄氏の『愛媛県の歴史』には東宮山古墳のことがどう書かれているか。ついでそれをみると、「東宮山古墳と横穴式石室と群集墳」とした項にこうある。
竪穴式と異なり〈これも実は異ならないが〉、大陸からの様式を伝えて成立したといわれる横穴式石室をもつ後期古墳は、東予・中予だけでなく南予の大洲地方や宇和盆地の周辺にも広く見られる。したがってこれらの被葬者はさきの地方豪族とか、中央よりの官人首長などと関係あるものだけでなく、その数からみても規模からいっても、時代の下るにつれてさらに広汎化したことが考えられる。
いま後期古墳の顕著なものをあげると、まず川之江市では山口古墳群に近接した妻鳥の東宮山御陵墓参考地がある。これは允恭天皇の東宮の軽太子墓と伝えられ、横穴式円墳で長宜子孫銘のある舶載の内行花文鏡・金銀透彫帯冠・衝角式の冑・三葉透彫金銅環頭・馬鐸・鹿角舌・玉類・須恵器および土師器など外来品をも含む多数の遺物を出し、新居浜金子山〈古墳〉の被葬者に劣らぬ海外新文物の所有者であったらしい。
金子山古墳の副葬品
「外来品をも含む多数の遺物を出し、新居浜金子山〈古墳〉の被葬者に劣らぬ海外新文物の所有者であったらしい」というのが重要なところであるが、では、新居浜金子山古墳のそれはどういうものであったか。ついでこんどは、それをみることにするが、正岡睦夫・十亀幸雄氏の「日本の古代遺跡」(22)『愛媛』にこうある。
国道一一号線の本郷交差点を北側に折れて一・五キロいくと、左手山側に滝宮公園がみえる。このすぐ北に、東につきでた丘陵があり、標高四七メートルの尾根先端に金子山《かねこやま》古墳がある。近くに国旗掲揚台があって下の道から石段がつづき、見学しやすい。一九五〇年(昭和25)に松岡文一氏らによって発掘調査されている。直径二五メートル、高さ五メートルの円墳で、裾部に円筒埴輪《えんとうはにわ》と朝顔形埴輪がたてられていた。埋葬施設は全長二・八三メートル、中央の幅〇・八六メートル、深さ〇・八メートルの竪穴式《たてあなしき》石室で、床面に四列の棺台がおかれていた。
石室からは、画文帯《がもんたい》六神四獣鏡、珠文《しゆもん》四鈴鏡、一対の金銅製長鎖付きの垂下式耳飾り、銅釧《どうくしろ》一個、碧玉《へきぎよく》製勾玉《まがたま》一個、同管玉《くだたま》五九個、同棗玉《なつめだま》四個、ガラス製玉二九〇二個、水晶切子玉二個、平玉五個、真珠玉といわれるもの一個、滑石製臼玉《うすだま》二八個、鹿角《ろつかく》装鉄剣二本、直刀二本、靫《ゆき》におさめられた多くの鉄鏃が出土した。長鎖付き垂下式耳飾りは朝鮮半島の技術によるものとおもわれ、全国に二十数例がある。
画文帯神獣鏡は直径二一センチ、内区外周の画文帯にある一二個の方格《ほうかく》はそれぞれ四つに区分され、それぞれ四字の銘らしきものがあるが、読み取れるのは「□□侯王」の二字だけである。この鏡は、熊本県の江田船山《えだふなやま》古墳の鏡の踏返《ふみかえ》しと考えられている。円筒埴輪は外面を一次縦ハケ、二次横ハケで調整したもので、金子山古墳の築造は五世紀後半とみられる。耳飾りや青銅鏡は、金子山古墳の被葬者が大陸から独自に得たとは考えがたく、大和政権の身分的秩序に組み込まれるなかで分与《ぶんよ》されたものとおもわれる。
ずいぶんとたくさんの出土品をもった古墳であるが、それにしてもこれまた、「耳飾りや青銅鏡は、金子山古墳の被葬者が大陸から独自に得たとは考えがたく、大和政権の身分的秩序に組み込まれるなかで分与《ぶんよ》されたものとおもわれる」とは、いったいどういうことであろうか。
すべてを、考古学的出土遺物まで「大和政権」に結びつけたがる思想がここにも顔をだしているが、私はそこのところを書きうつしながら、こういう人が次のような新聞記事を読んだらどう考えるだろうか、と思ったものだった。一九八五年九月二十日の朝日新聞夕刊は、「単一民族説は虚構だ」とした見出しの、こういう記事をのせている。
山口県庁で十八、十九の両日開かれた「西部地区文化振興会議」(文化庁、山口県教委主催)の初日の全体会に、三浦朱門・文化庁長官(五九)が出席、「地方文化の振興を考える」の題で講演した。
中央志向の生き方を批判して、地方文化の独自性を強調。方言など地方の特殊性を説明するくだりでは、「日本人は天皇家を中心とする単一民族だというのはフィクション。日本を国家、民族として統一する必要があり、各地の風俗の違いなどは消滅させなければ、と意識的になされたもの」と、中央の「暴力説」まで飛び出した。
文化庁長官としてよりも、文学者としての三浦氏の本音がついでた、といったところだったかも知れない。それはそれとして、われわれはここで、「新居浜金子山〈古墳〉の被葬者に劣らぬ海外新文物の所有者であったらしい」(前記『愛媛県の歴史』)東宮山古墳の被葬者のことに戻らなくてはならない。
軽皇子と志良宜歌
海外の新文物、「特に新羅・百済の影響を受けまたは直接にもたらされたかも知れない金銅冠や三葉環頭」(前記『妻鳥町誌』)などを出土した東宮山古墳の被葬者は「允恭天皇の東宮の軽太子」ということで、古墳も「御陵墓参考地」となっていることは何度もふれたとおりである。
では、そうだとして、その軽太(皇)子とはどういうものであったか。松本清張氏の「大和の祖先」をみると、法隆寺のある「斑鳩《いかるが》」の地名と関連して、そのことがこう書かれている。
記紀〈『古事記』『日本書紀』〉によると孝元天皇は「軽《かる》の境原宮」にいたという。軽《かる》の地は高市郡で、いまは橿原市に入っている。この地名から軽皇子《かるのみこ》や軽太子《かるのたいし》、軽大郎皇女《かるのおおいらつめ》(この兄弟は近親相姦で罰せられた)の名がある。「軽」は「韓《から》」である。この近くの弥生遺跡で有名な「唐古《からこ》」も唐《とう》でなく、韓からきていると思う。〈唐古池は、もと韓人池《からひとのいけ》といった〉
法隆寺のあたりを斑鳩(イカルガ)の地という。名義不詳となっているが、これも「軽」から出ているとみてよい。カルにイの接頭語がついたのであろうか。
ここで問題としているのは、もちろんその軽皇子(木梨軽皇子)のことである。かれはそのために「罰せられた」ことで伊予に流され、そうして東宮山古墳の被葬者となったというのである。
それの被葬者というのは多分に伝説的であるが、しかしその軽皇子《かるのみこ》が韓皇子《からのみこ》であり、「特に新羅」と密接な関係にあったということは他にも傍証がある。そのことについては、私に「志良宜歌をめぐって」(「鑑賞日本古典文学」第四巻『歌謡』(一))という一文があるので、それのはじめの部分をここにしめしておくことにしたい。
あしひきの 山田をつくり
山高《やまだか》み 下樋《したび》をわしせ
下娉《と》ひに 吾《わ》が娉《と》ふ妹を、
下泣きに 吾が泣く妻を、
昨夜《こぞ》こそは 安《やす》く肌触れ。
こは志良宜《しらげ》歌なり。……
武田祐吉訳注『古事記』允恭段「木梨の軽の皇子」にみられる歌謡であるが、「こは志良宜《しらげ》歌なり」という、その志良宜歌とはいったいなにか。同『古事記』の「注」をみると、「歌曲の名。しりあげ歌の意という」とある。
なおまた、倉野憲司校注『古事記』の「注」をみると、「歌曲上の名称。尻上げ歌の意か」とあり、さらにまた大野晋ほか編の『岩波古語辞典』には、「《シリアゲ(尻上)ウタ》の約、上代歌曲の名。歌の最後の一句を上げてうたう歌」となっている。
どちらもだいたいおなじであるが、しかし一方、以上の三者とはまったく異なった解釈というか、読み方をしている人もある。一九三四年に故人となった土田杏村《きようそん》で、「土田杏村全集」第十三巻『上代の歌謡』によると、志良宜歌とは「尻上げ歌などというものではなく、古代朝鮮の『新羅《しらぎ》歌《うた》』であった」としている。
しかも単にそればかりか、「土田杏村全集」第十三巻『上代の歌謡』は『古事記』允恭段にあるその志良宜歌が新羅歌であったという発見から出発して、日本のいわゆる万葉仮名や『万葉集』の起源を、新羅のいわゆる吏読《りと》と「郷歌」とに求めてそれを論証したものであるが、いったい、前三者のそれとどちらがただしいのか。ここで結論をさきにいっておくとすれば、私はいろいろな理由からして、志良宜歌は新羅歌であったとする、土田杏村のほうがただしいと考えないわけにはいかない。――
永納山城跡をたずねる
伊予三島と三島神社
伊予の東端となっている川之江市妻鳥町の東宮山古墳からの私たちは、こんどは西方のそちらから来た今治のほうへ逆行するかたちとなり、途中、伊予三島市となっているところがあったので、ちょっと寄ってみることにした。例によって市の教育委員会をたずね、社会教育課長補佐の木花正純氏から、『伊予三島市の歴史と伝説』などをもらい受けた。
伊予三島市は、面積の八六パーセントまでが山岳地帯だとのことだったが、川之江市と同じように宇摩郡からわかれて伊予三島市となったもので、もとからこちらが宇摩郡の中心となっていた。『伊予三島市の歴史と伝説』にある「伊予三島市のあらまし」をみると、それはこうなっている。
この郷土三島の名の起こりは、三島町三島神社に起因するもので、元正天皇の養老四年八月、宇摩郡の大領越智玉澄《おちたまずみ》が上柏《かみかしわ》の御所と呼ぶところに館をつくり、また八綱浦の御崎冠岡に神殿を造営、大三島より大山祇大神を御勧請申し上げて奉斎、土地を三島と呼んだことから始まると伝えられています。
また宇摩地区は古代から地下資源に恵まれていまして、砂金(朱金)、銅などの鉱産物が多く産出されて、金砂、金川等から砂金が、新宮、佐々連、別子、豊受山中腹(岡銅の上方)浦山等から銅鉱石が、また寒川峯の柴尾《しばお》等からはアンチモニーが産出される等、誠に恵まれた鉱石の産地でありました。そのため朝廷に於いては、この宇摩地方の地下資源(鉱産物)を採取するため、帰化氏族の秦氏を派遣して常(津根)の里に住まわせたのです。
その後孝徳天皇の御代に及んで、秦氏の一族阿陪小殿小鎌が、朱金(砂金)採集の命令を受けて津根の里に来住、この地の豪族秦首《はたのおびと》の女(むすめ)と結婚して土着し、この津根を根拠地として、金生、金田、金川、金砂地方に於いて専ら砂金の採取に当たったのでありました。
また砂金のみならず、銅鉱石なども採掘が行われたと察せられます。
朝廷は砂金の採取に力を尽くしたその功を賞して、称徳天皇の天平神護二年、秦〓登浄足《はたびとのきよたり》等十一人に対して、阿陪小殿朝臣の姓を賜わったと『続日本紀』に記してあります。
いまみたように、伊予三島のもとは、さきの「大三島の大山祇神社」の項でみた百済より渡来の大山祇(積)神を祖神とする越智氏が大きくかかわってきたものであった。そのことはいまなお、越智氏族が祭った三島神社の氏子が「三千三百戸」(神社本庁編『神社銘鑑』)となっているということからもわかる。人口四万足らずの伊予三島市としては、これはたいへんな数なのである。
しかし、そうだったにもかかわらずおもしろいのは、この三島では新羅・加耶系渡来人である秦氏族もまた大いに繁栄していたということである。「帰化氏族の秦氏を派遣して常(津根)の里に住まわせた」ということもあろうが、しかしそれ以前からここには「この地の豪族秦首《はたのおびと》」がいたのである。
なお、いまみた「伊予三島市のあらまし」には宇摩地方のそれとして、「金生、金田、金川、金砂」といった、いかにも産金の地にふさわしい地名がみられるが、地図をみるとこのうちの「金生、金田、金川」はいまはとなりの川之江市となっている。そこで思いだすのはさきの項(「東宮山古墳をめぐって」)でみた、「これも古代朝鮮からの渡来とみられる金環、金銅環、石製紡錘車などを出土した」川之江市金生町の向山古墳群である。金生の近くには秦ということであったはずの半田《はんだ》というところもあるが、してみるとその向山古墳群は、そこにいた秦氏族のそれだったにちがいない。
私たちはついで念のため、国鉄伊予三島駅の近くとなっていた宮川町の三島神社に寄ってみた。鳥居の横に、いまは明治時代にできたそういう位づけはなくなっている「県社」とした大きな石碑がまだそのままあるということのほか、どこでもみられるそれと同じような神社だった。
「ついで念のため」ということだったのは、そういうものだろうと思ったからでもあるが、だいたい、大三島の大山祇神社をひかえた伊予では、そういう三島神社は別に珍しいものではなかった。史学センター刊の『全国神社名鑑』をみると、伊予にはその三島神社が百十余社もある。伊予三島の越智氏族ばかりでなく、大山祇(積)神を祖神とするものがそれだけひろがったわけだったのであるが、全国規模でみると、それは一万余社となっている。
永納山城跡の発見
私たちはさらに西へ向かってクルマを走らせ、さきの項でみた金子山古墳のある新居浜市、西条市をへて、同じ瀬戸内海の燧灘沿いの東予市にいたった。そこに、古代朝鮮式山城の永納山城跡があったからである。
まず、私たちは東予市教育委員会をたずねて、社会教育課長の兼井泉氏や、同課長補佐の櫛部八郎氏らに会っていろいろと聞くとともに、『永納山城遺跡調査報告書』などをもらい受けたが、私がこの山城跡が発見されたことを知ったのは、一九七八年一月二十三日の読売新聞によってであった。「日本最古の山城跡か/愛媛・東予市の永納山遺跡/『邪馬台国時代』のナゾ秘める/一・五キロの『環状列石』/中から弥生土器も出た」という大見出しのもとに、そのことがこう報じられていた。
瀬戸内海に面した愛媛県東予市の永納山(えいのうざん)山頂付近で、古代の山城跡が発見され、同市教育委員会は、文化庁、日本城郭協会などの協力を得て調査を進めていたが、このほど同市教委の手で「わが国最古の城柵(じょうさく)遺構」との中間報告がまとめられた。これまでの調査で、この遺跡は神籠石(こうごせき)山城と呼ばれる城跡であることが、ほぼ明らかになっており、この種の城跡が愛媛県内で見つかったのは初めて。神籠石山城の築城時期については、五世紀、いや七世紀と、学界でも定説がないが、城壁内から弥生(やよい)式土器の破片が出土しているうえ、出土品を炭素測定したところ、何と「紀元前後」との結果が出た。地元では、さらに本格的な調査を開始するという。この遺跡発見、報告書がいう「日本の開びゃくにつながる重大な問題」となるかどうか――。
永納山遺跡は、今治市と東予市の境界にあり、東に燧灘(ひうちなだ)をのぞむ標高百三十三メートルの山頂から、谷を囲んで周囲の尾根づたいに全長千五百メートルの環状列石の遺構が残されている。発見のきっかけは、数年前の山火事。粘土層と黒灰色の木炭層が重なった版築(土壁の築造法の一種。板でわくを作り、その中に土を盛ってつき固める)の一部が、火事によって露出し、これを昨年四月、古墳の分布状況を調査中の同市教委文化財専門委員らが見つけた。
いずれにしても朝鮮式山城
伊予の愛媛県としてはたいへん大きな発見だということでか、記事はまだつづいているが、なかにこういうくだりがある。
これまでの日本最古の山城は、七世紀後半の朝鮮式山城や、それ以前(五世紀から七世紀と諸説分かれている)のものと考えられている神籠石山城とがある。ところが、同市教委文化財専門委が、木越邦彦・学習院大教授(無機分析化学)に、根石の付近から出てきた版築の木炭細粉の鑑定(炭素測定)を依頼したところ、「ほぼ紀元前八〇年、その前後一一〇年ぐらいの範囲のもの」との結果が出た。
そういう「結果が出た」とのことで、この永納山城跡は「紀元前後」のものではないかというのである。あるいはもしかするとそうかも知れないし、そうであってもいいわけであるが、しかし問題なのは、「これまでの日本最古の山城は、七世紀後半の朝鮮式山城や、それ以前(五世紀から七世紀と諸説分かれている)のものと考えられている神籠石山城とがある」となっていることである。
なぜかというと、ここにいう「神籠石山城」というのも、実は古代朝鮮式山城と同じものだからである。そのような山城跡にみられる環状列石については、明治以来、ある学者は神祭りのための神籠石とし、ある学者は外敵に襲われたときの逃げ込み城である山城跡のそれだとする論争が長いあいだつづいたものであった。
「ところが、〈戦後になり〉韓〈朝鮮〉半島における百済や新羅の山城を実際にみるようになってから、山城説が確認されるようになった。つまり、山の八合目あたりに並べられた石は土塁の根止め石であることが確認された」(斎藤忠「山城と古代の日韓関係」)ことで、その論争は一応ケリとなったものである。
そのような古代朝鮮式山城については、のち讃岐(香川県)でもまたみることになるが、たしかに、『日本書紀』などに記載されている北部九州の大野城ほかは七世紀後半、百済がほろびたことで渡来したものたちによる築城であった。けれどもそれをもって、「日本最古の山城」とすることはできないはずである。
どうしてかといえば、古代朝鮮からの人の渡来はそれ以前の弥生時代からずっとつづいていたのであるから、それ以前、すなわち「紀元前後」にできたそんな山城があっても、少しもおかしくはないのである。しかしながら、永納山城跡がそれであったかどうかはまた別問題で、そのことについては、前記「日本の古代遺跡」(22)『愛媛』にもこうある。
〈愛媛県の〉高縄半島にはかならず古代の「山城《やまじろ》」が存在するものと確信して、追い求めていた人がいた。その人が東予市在住の今井信太郎氏である。半島の各地を調査されていたが、一九七七年(昭和52)四月、山火事のあとで、自宅からほど近い永納山において古代山城を発見した。一九七八年(昭和53)には、東予市教育委員会が中心となって学術調査がおこなわれた。
永納山については、文献に記録がまったくのこされていない。しかし、北九州から瀬戸内海沿岸部には、『日本書紀』などに記載された山城以外にもいくつかの山城があり、七世紀後半から八世紀にいたる時期に比定されてよいとおもわれる。
これでみると、永納山城跡もどうやら七、八世紀のものということになったようであるが、それはどちらにせよ、私たちはその永納山に向かって、あちらこちらとクルマを走らせた。というのは、東予市のまわりにはいたるところ、同じような山が立ちならんでいたからである。
何度も人に訊いて、やっと永納山の麓にたどりついたが、しかし八年前の一九七七年に山火事があって列石が露出したという山は、もう青緑の樹木がびっしりと生い茂って、とてもそこまで登ってみるなどということはできそうになかった。
そこで私たちは、標高一三三メートルというその永納山と、『永納山城遺跡調査報告書』にある数枚の写真とを見くらべることで、「この山がそうか、そうだったのか」と納得するよりほかなかった。
古代松山平野の須恵器
栄枯盛衰の湯築城
松山市に向かうべく東予市を離れたときは、もう夕暮れになっていた。気がついてみると、東予市というのは、瀬戸内海に大きく突き出た高縄半島東側のつけ根に近いところにあって、そこからは西側のつけ根の松山市と向き合うようなかたちになっていた。が、しかし、そこまでは横幅の広い高縄半島を横切らなくてはならなかったので、そうとうな距離があった。
私たちは松山市北方の北条市をへて松山へ、と思っていたものだったが、北条はもう割愛するよりほかなかった。北条は、さきにみた大三島の大山祇(積)神を祖神とする越智氏から分かれた河野氏の本拠地となっていたばかりでなく、奥壁に石棚をもつ新城三号墳を含む新城古墳群や、『延喜式』内の古い国津比古命神社などがあった。
松山では道後温泉の玉蘭旅館で一泊したが、翌日もよく晴れた日で、私たちは朝八時ごろ宿をでた。そしてここもまた一時、河野氏の本拠となっていた湯築《ゆづき》城跡の道後公園へ寄ってみた。
道後公園は若い男女の散策の地であり、園内の県営動物園をたずねる親子づれでにぎわい、松山一の桜の名所でもある。公園の中央にある丘は、古く“伊佐爾波《いさにわ》の岡”とよばれ、五九六(推古天皇四)年聖徳太子の行啓を記念した温泉の碑が建立されたのはこの地であったといわれる。
一四世紀中ごろの建武年間、河野通盛はここに城を築き、伊予国支配の本拠とした。城は湯築《ゆづき》(湯月)城といい、周囲に二重の堀がめぐらされ、東方が追手(正門)、西方が搦手《からめて》(裏門)となっていた。一五八五(天正一三)年河野氏が小早川隆景に攻められて開城したのち、隆景、ついで福島正則が一時居城し、一五八八(天正一六)年には廃城となった。城の木材や石垣は、加藤嘉明が松山城を築くときに移転活用したという。
城跡は竹林のしげるままに放置されたが、一八八八(明治二一)年県が公園に整備し、松山人のいこいの場となった。丘の頂上のかつて城のあったところに展望台が設けてあり、道後周辺の景色をながめることができる。(前記『愛媛県の歴史散歩』)
「聖徳太子の行啓」はともかくとして、その公園はなかなか歴史的な場所であった。権力というものの栄枯盛衰、またはそれの交替の舞台となったところだったわけであるが、そこで私はふと思いだしたことがあって、とおりがかりの中年の男にこう訊いてみた。
「いま、愛媛県の知事はどなた、何という人ですか」
「白石、白石春樹さんです」
「ああ、やっぱり、そうですか。どうもありがとう」
中年氏はけげんそうな顔のまま、私を見返しながらとおりすぎた。同時に、そばにいた辛基秀、池尚浩さんもそんな顔をしていたので、私は持っていた資料袋のなかから新聞記事の切抜き帳をとりだし、そのうちの一つを二人にしめしてわたした。
それは一九八二年九月十四日の朝日新聞で、「愛媛県知事が四選出馬表明」という見出しの、こういう記事であった。
愛媛県の白石春樹知事(七〇)=自民=は十三日の記者会見で、来年一月に行われる知事選挙に四選をめざして出馬することを明らかにした。
白石氏は、県議を経て四十六年一月の知事選で初当選して以来三選。「権腐十年」の朝鮮のことわざを座右の銘とし、「権力の座に十年いると必ず腐敗する」と、首長の四選には否定的な態度をみせ、自らの進退は九月定例県議会で表明するとしていた。四選出馬について「後継者を考えてきたが、その人がどうしてもやれぬ事情ができたので引き続き県政を担当したい」と述べた。
「へえ、そうですか。それにしても、朝鮮にこんないい格言があったとは知らなかったですね」と、その記事を読んだ辛基秀は、目を細めるようにして言った。
「そうだね。『権腐十年』とはよくいったもので、日本人の白石氏よりも、まずわれわれ朝鮮人こそそれを守るべきなんだな」
私たちはそんなことを話しながら道後公園をおりて、そこからは西南の、いまみた白石氏が知事となっている県庁や、市役所などがたちならんでいる松山市の中心部へでた。松山市は人口四十二万一千余、四国第一の都市らしいにぎわいをみせていた。
松山周辺の古墳から出土した須恵器群
例によって私たちは市の教育委員会をたずね、文化教育課主幹補の大西輝昭氏らに会って、『古代の松山平野』や『松山市の文化財のしおり』などをもらい受けた。
私たちは行くさきざきでよくこういうものをもらうが、『古代の松山平野』はとくによくできたものの一つだった。「先土器時代・縄文時代」「弥生時代」「古墳時代」「奈良時代・平安時代」と時代順に分けられ、それぞれの遺跡・出土品のカラー写真を良質のアート紙に印刷した分厚いもので、要するに、それだけで、古代の松山平野の歴史を一望のもとにすることができるようになっていた。
先土器時代・縄文時代や弥生時代のそれもさることながら、やはり圧巻は古墳時代であった。北久米町出土という単竜環頭もりっぱなものだったが、三島神社古墳や東山鳶が森古墳群から出土した金銅耳環などの「装身具類」もすばらしいものだった。
それからページをめくると、「須恵器装飾壺・器台類」が二ページにわたって六点のせられている。私はそれをみて思わず、「ほう、これは――」と声にだしてつぶやいたものだった。
東山鳶が森古墳群や松ケ谷古墳、天山神社北古墳などから出土したものだったが、それはどれも、「装飾台付子持壺」などといわれている古代朝鮮の新羅・加耶土器で、いわゆる陶質土器だったからである。そのページの左横に、「須恵器生産と用途」とした説明があって、こう書かれている。
日本においては五世紀中ごろに朝鮮半島から須恵器生産の技術を持った陶工が大阪の陶邑《すえむら》に渡来し、窯業を開始し各地域にその製品が配られた。それにつれてその後地方窯の成立がなされたものと考えられる。
『古代の松山平野』は写真の配置など、なかなかよく編集されたものだったが、しかしこういう「説明」はどうもいただけない。「各地域にその製品が配られた」とはどういうことか。すべてことは中央の畿内からはじまったとする思想からでたもので、古代の当時、そんな「配給」などありはしなかったのである。だいたい、ここにみられる「須恵器装飾壺・器台類」はどれをとってみても、大阪の陶邑でつくられたものでないことが、はっきりしているものなのである。
どれも古代朝鮮から、それを持った人とともに松山平野のそこへ直行したもので、そのことは、さきの「東宮山古墳をめぐって」の項でもみたように、斎藤忠氏がそういう「装飾付有台壺」を出土した遺跡をもって、「わが国における帰化人文化の痕跡」としていることからもわかるが、また、そのことは、松山における次のような事実をみてもわかるはずである。一九八三年七月二十七日の日刊新愛媛は、「『初期須恵器』松山で出土/五世紀後半/全国で三番目/地方窯も存在したか/素鵞小学校」とした見出しのもとに、そのことをこう報じている。
五世紀後半のものとみられる「初期須恵器」がこのほど、松山市小坂一丁目、素鵞小学校の校舎増築に伴う発掘調査で見つかった。出土したのは甑状甕(こしきじょうかめ)など五点。「初期須恵器」はこれまで、須恵器発祥の地の大阪府堺市・陶邑(すえむら)遺跡など二ヵ所でしか発見されておらず、全国で三番目の出土。また陶邑などのものとは土質などが異なっており、松山平野にも「初期須恵器」の地方窯があった可能性が高く、当時の同地方の生活を解明する手がかりとして、注目される。
将来したものは秦氏
以上はまえがきで、新聞に出ている写真ではよくわからないが、ここにいう「初期須恵器」とは「古式須恵器」ともいわれるもので、そういう古い須恵器が大阪の陶邑から「製品」として「配られた」ものとはとうてい考えられぬであろう。さきにみた『古代の松山平野』にでている「須恵器装飾壺・器台類」も、そういう初期あるいは古式須恵器ともいわれる陶質土器は、古代朝鮮から直行したものにほかならなかったのである。
では、そのような須恵器を将来したものは、いったいどういうものであったろうか。それは新羅・加耶系渡来人の秦氏族であったにちがいない。
たとえば、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」にある「文献より見たる帰化人居住の分布」をみると、四国のそれはほとんど全部が秦氏となっていて、そのうち伊予をみるとこうなっている。=の下は文献。
△温泉郡橘樹郷 秦勝広庭=大日本古文書。
△郡郷不詳 秦首=続日本紀。
△右同   秦〓登伊予麻呂=続日本紀。
△右同   秦〓登浄足=大日本古文書。
「郡郷不詳」はおいて、それのはっきりしている「温泉郡橘樹郷」はいま松山市となっているところである。なおまた、梶井順次氏の「伊予の秦氏族」をみると、そこにいた秦勝広庭《はたのすぐりひろにわ》についてこう書かれている。
彼の本貫は伊予国温泉郡橘樹郷と明記されている。現在の松山市立花地区とその周辺に比定されているが、この地域には、ハタの地名が多く、畑寺、畠田、新畑、畑中の名が残り、繁多寺という古代建立寺院もある。秦氏の領域とみてまちがいないと思われる。
もちろん、ここにみられる秦勝広庭などは、たまたま文献に名がのこったからそれとわかるのであるが、それ以外のものとなると、これは地下深く埋まったままでわからないのである。それは、地下からの遺物などによって推しはかるよりほかない。
この日の私たちは、これも豊臣秀吉の朝鮮侵攻のときに連行されてきた李朝の儒学者姜〓《ガンハン》ゆかりの大洲、宇和島など伊予の西南部をぐるっとまわり、土佐(高知県)の宿毛市まで行かなくてはならなかったので、松山市ではあとはもう、同市南江戸町にある古照《こでら》資料館をたずねるだけにした。そしてそこに収蔵されている、『古代の松山平野』の写真でみた「須恵器装飾壺・器台類」などを実見して、さきを急ぐことにしたのだった。
讃 岐
讃岐の高松へ
讃岐の古代氏族
四国さいごの地、讃岐(香川県)ということになった。例によって辛基秀、池尚浩さんと私とは晩秋のある日、岡山県の宇野港で落ち合い、午後三時十分発のフェリーで高松に向かった。
高松までは一時間ほどだったが、そのあいだ私はこれまた例によって、香川県の地図などにらみながら、手元の資料をあらためてみた。歴史時代以前の古いものとしては、さきの伊予(愛媛県)では見落としている、一九八五年八月二十三日付け朝日新聞・愛媛版の記事がある。「朝鮮製の鉄斧出土/四国で二例、県下で初/松山の古墳」という見出しのものだが、讃岐ともかかわるので、ここでそれをみるとこうなっている。
松山市別府町通称「弁天山」にある古墳から、このほど朝鮮製の鉄斧(てっぷ)が見つかった。鉄斧の出土例は全国で二十二遺跡八十二例あるが、四国では香川県綾歌郡綾歌町で見つかっているのにつづいて二例目。……
この鉄斧が朝鮮製とわかったのは、刃部が広がっており、柄を入れる袋部に合わせ目がなく、鉄斧の表面がこぶ状に腐食していないなど、鋳造製品の特徴がはっきり出ている点。学説では、鉄そのものの成分などの分析を含め、鋳造鉄斧はすべて朝鮮から持ち込まれた、とされている。
ここにみられる「香川県綾歌郡」はこれからたずねるところの一つとなっているから、そこがどういうところであったかわかると、「朝鮮製の鉄斧」がみつかったこともよくうなずけるはずである。
ついでこんどは歴史時代となる古代で、香川県の『郷土資料事典』の「古代氏族」をみると、それはこうなっている。
景行天皇の皇子、……神櫛《かんくし》王の後裔が応神天皇の時代に、はじめて讃岐国造に任ぜられたようである。神櫛王の勢力範囲は今の木田郡と大川郡の一部を含んだ東讃岐地方であったと思われるが、その子孫の中で最も勢力を振るったのは讃岐氏である。
これにたいして西讃岐地方の開発先駆者は、太玉《ふとだま》命の子孫と称する忌部《いんべ》氏であったといわれており、それを裏づけるように今でも忌部氏の祀《まつ》った神社が多く残っている。そのほか中部讃岐地方には、香川郡に秦《はた》氏、綾歌郡の東半分に綾《あや》氏がいた。いずれも帰化人系の氏族で、その部民《べみん》は養蚕や機織りに従事していたようである。これらの統率者の墓と思われる古墳が県内に一、五〇〇基あまり残されているが、円墳が大部分で、前方後円墳は少ない。
「景行天皇の皇子、……神櫛《かんくし》王」とはどういうものなのかわからないが、もっとも、ここでは「帰化人系の氏族」とある綾氏にしても、市原輝士・山本大氏の『香川県の歴史』によると、「綾氏は、もと讃岐国の阿野《あや》郡にいた豪族である。その始祖は、『雲上御系譜』によると、日本武尊の第五子、武殻王《たけかいこ》であるとみえている」とある。
そうだとすると、日本武尊もその父君となっている景行天皇も「帰化人系の氏族」ということになるが、しかし、これは実在した人物かどうかわからないのである。そのことについては、上田正昭氏があるところでこうのべている。
ヤマトタケルノミコト〈日本武尊〉の王子のひとりに『古事記』では建貝児《たけかいこ》、『日本書紀』では武卵《たけかいこ》〈どちらも武殻に同じ〉王子というのがいて、それがいわゆる綾君らの祖先だという伝承もありますが、のちに潤色されたものであって、そうした系譜などの文献批判的処理をしないで、すぐにそれが皇別の氏族だというように、単純におきかえることは出来ないです。(六車恵一氏ほかとの座談会「讃岐の古代文化」)
要するに「景行天皇の皇子、……神櫛王」というのも、そういうものだったのではないかと思われる。
「高」を慕い「松」を愛した
そうこうしているうちに、乗っているフェリーは高松港に接岸するようであった。私たちはフェリーの甲板に出て、夕景色となっているかつての高松城下町(その城はいまもある)、香川県都の高松市街をながめわたしたが、そこで私は「高松か――」とあらためてまた思ったものだった。
というのは、私は同時に二つのことを思いだしたからである。一つは京都のある読者が送ってくれた、一九八五年五月二十日付け朝日新聞・京滋版の「地名を探る=高松」という切抜きだった。「六百メートル超える樹影/渡来人が愛した二文字」という見出しのもとに、「さかのぼって、古代になぜ高松の地名が起こったか。次のような二つが伝わっている」として、そのことがこう書かれていた。
ひとつは市史編修室編『高松地名史話』が通説としてあげている高い松の木説である。むかし松の大木が高くそびえて、遠くからも目立っていた。松には枝や葉が茂って、朝日夕日に照らされたかげの長さが六町(約六五四メートル)に及んでいた。人々は大木を神木としてあがめ、大木の名を地名にすることもあった。里人は高松とよんだ。この説を支持するものに「今の新田町に『松の内』の小地名が残っている。ここが松の大木があったところだろう」というものなどがある。
もうひとつは猪熊信男氏著『高松地名考』の渡来人説である。渡来人は「高」の字を慕い、「松」を愛した。高と松の二字で居住する地名にした、という。「高松には古くから帰来という地名がある。帰化した人が住んでいたことを示すもので、大化の改新の際の屋島城は、これら渡来人系の人々の手に助けられて築城されたのではないかとみられ、これがそれを証拠立てる」としている。
どちらがただしいのかはよくわからないが、もし後者だとすれば、たしかに古代朝鮮からの「渡来人は『高』の字を慕い、松を愛した」といえる。なにしろ、「高」は高句麗の国姓であったばかりか、松は現在の朝鮮人も「愛し」ている樹木だからである。
悪いと知りつつ差別感
それはどちらであれ、そのような「渡来人説」がでるのも、高松を中心とした讃岐にはそれだけ渡来人の分布が濃密であったからにちがいない。それがどう濃密であったかはこれからみるわけであるが、ところで、高松ということで私がもう一つ思いだすのは、これは古代のそれではなく、現在のことなのである。
数年前のこと、『朝日ジャーナル』には「学校をひらく」という欄があって、そこに「高校生の朝鮮観」というのがのったことがある。それがほかならぬ高松の高校生のことでもあり、以下、ちょっと長くなるがいろいろな意味で重要なので、それをここに引いてみることにしたい。
このほど、高松市のある高校で、世界史の時間に、朝鮮に関する意識調査をしたところ、高校生たちが、愕然とするような差別意識をもっている事実が明らかになった。
「朝鮮とか朝鮮人ということばを聞いて、あなたはどんなイメージをいだきますか」という問いに対する三年生約二〇〇人の答えのなんと九割以上が、偏見と蔑視に満ちたものだったのである。……
回答の中には、暗い、陰鬱、卑屈、きたない、いなかくさい、貧しい、みじめ、あわれ、こわい、おそろしい、劣る、遅れている、野蛮、非文明国――といった言葉が氾濫していた。
ところで、日ごろ直接に朝鮮人と接する機会は多くないはずの高校生が、どうしてこのような差別感をいだくようになったのだろうか。
「小さい時から、周囲の人々が朝鮮ということばをさげすんで使っていたのを聞いたせいか、やはり、どこかに朝鮮は日本より劣っているイメージがある」
「人から聞いた話だと、日本のチンピラやヤクザより朝鮮人の方がこわいそうです」
「幼少のころから、祖母に朝鮮人の悪口をよく聞かされてきたので、潜在的に朝鮮人は日本人より劣るという考えが抜けきらない」
とある。つまり、事実は何も知らぬまま、周囲の人々から、差別意識を徐々に植えつけられていったということだ。
そして次の答えは、いまの高校生が、差別することを頭では否定しながらも、戦前の差別者と全く変わらない体質をそのまま引き継いでいることを語っている。
「自分より劣っている人(こういう考えは捨てなくてはいけないと思いますが、なかなか捨て切れません)」
「こう思うことはいけないのだろうけれど、なぜか朝鮮と聞けば、文明の遅れた軽蔑すべき国というイメージがわいてしまいます」
「正直言って、ほんとうにいけないことだと思うけれど、なにか自分より下のもの、いやしい人種だというイメージがある」
「自分でも悪いことだとわかっているんですが、何となく好きじゃありません。朝鮮へ行ったこともないし、人々の生活がどういうものか見たこともないのに、こういうことをいって人道に反している気がします。でも本心です」
いけないことだと断りながら、差別してしまっているこの矛盾。要するに、たてまえと本音は別だというのだ。
一体、学校では、この三十余年間、何を教えてきたのだろうか。「人間はみな平等である」「差別することはいけないことである」。たしかにそう教えてきた。しかし、それは、ことばの上だけに終わっていて、具体的な差別の実例は何一つ教えてこなかったのではないか。
ある生徒は、小学校の先生から、ヨーロッパに行った時、外国人から「あなたは朝鮮人ですか」と聞かれて、「バカにしないでくれ、けがらわしい」と怒ったという話を聞かされたと書いていた。教科書がまともに朝鮮史を取りあげていないこともさることながら、教師の中には、差別を否定しないのみか、このように、公然と認めているものも少なからず存在するのである。
いうまでもないであろうが、これはなにもひとり、「高松市のある高校」とは限らないはずである。
しかし、こちらでは、その事実におどろいた高松一高教諭の浄土卓也氏らにより、これではいけないということで、「日本と朝鮮をつなぐ会」というものがつくられたものだった。そして『絆』という機関誌がだされ、「四国の中の朝鮮文化」という講演会などもおこなわれることになり、私も講師としてよばれたことがあった。――
さて、高松へ着いた私たちは、まだ退庁時間とはなっていなかったので、さっそく高松市の教育委員会をたずねた。文化振興課長の三島勝幸氏、同課文化財係の藤井雄三氏に会っていろいろ聞くとともに、石清尾《いわせお》山古墳群のうちの一つである『鶴尾神社四号墳調査報告書』や『屋島城跡』などをもらい受けたりした。
そしてこの夜は同文化振興課の紹介で、高松市内のリッチホテルなるところで一泊した。
石清尾山古墳群と秦氏
石清尾八幡神社と石清尾山
翌日の私たちはまず、高松市西南となっている石清尾山地の石清尾山古墳群をたずねることにして、その山麓にある石清尾八幡神社の前に、池尚浩さんの運転するクルマをいったんとめた。八幡神社は京都の石清水《いわしみず》八幡宮を勧請《かんじよう》したものだったが、そこに、もとは秦氏族が豊前《ぶぜん》(大分県)の宇佐に祭った八幡神(ヤ・ハタの神=多くの秦の神)の八幡神社があるというのも、なるほどとうなずけるような気がした。
なぜかというと、これからみるように、その石清尾山古墳群はみな新羅・加耶系渡来人である秦氏族や、同じ加耶(加羅・加那ともいう)諸国のうちの一国だった安耶《あや》(安羅・安那ともいう)からのそれであった綾(漢《あや》ともなる)氏族の墳墓といわれるものだったからである。
私たちは、八幡神社の背後となっている、高さ二〇〇メートルの石清尾山に向かってクルマを走らせた。よく舗装された道路を登って行くと、頂上部は公園のようなところとなっていた。私たちの登って来た道は、高松市民のハイキングコースともなっているらしかった。
そこははじめての私たちはクルマからおりて、その公園のあたりをうろうろしてみたけれども、どちらも青緑の樹木におおわれた山ばかりで、古墳群らしいものはみあたらない。もっとよく調べてから登るとよかったのだが、そうしなかったのが悔まれた。やっと雑木林のなかに石材の散乱している積石塚だったらしいものを一つみつけただけで、私たちは山をおりるよりほかなかった。
そのかわりといっていいかどうか、下りながらみる眼下の景観はみごとなものだった。高松市街の中心部が一望のもととなり、その向こうは、古代朝鮮式山城のあった屋島と瀬戸内海となっている。
石清尾山古墳群と秦氏の分布
こうなってみると、まるでそうした景観をみるため石清尾山に登ったようなものだったが、しかし、その山地に讃岐第一の有名な石清尾山古墳群があることは厳然とした事実であった。しかも日本最古、三世紀末に築造されたものという鶴尾神社四号墳などの前期古墳を中心とした古墳群で、まず、香川県高等学校社会科研究会編『香川県の歴史散歩』によってみると、それはこうなっている。
石清尾八幡神社の横を通って約二キロ、南西方面にのぼると、高さ二〇〇メートルの石清尾山を中心に東に紫雲山、南に浄願寺山の三つの山地がつづいている。この石清尾山頂から一〇〇メートル内外の鞍部、山麓、斜面のいたるところに古墳が散在しており、頂上には大小四六基の積石塚があり、石清尾山古墳群と呼ばれ、考古学研究の上で宝庫といわれている。
この峰山地区一帯は公社によって近代的な開発計画がすすめられているが、古墳群としては江戸時代から知られており、とくに注目されるようになったのは一九一〇(明治四三)年の猫塚発掘以来のこと。昭和六年京都大学の調査につづいて昭和八年にはその結果が発表された。昭和九年に発掘された古墳群のうち石船塚は比較的もとの形を残している上に、重要な遺物である。くり抜石棺のあるところから史跡として指定され、さらに四三年には詳細な発掘調査がすすめられて国指定の史跡となった。
石船塚・姫塚・北大塚は前方後円墳、猫塚・鏡塚は双方中円墳でいずれも古墳時代前期のものだ。この古墳群は、高松市一帯に住んでいた遠い祖先の墓であるといえるかもしれない。この山地の南方、西方地方に住んでいた秦氏、綾氏の一族の墓であるとも伝えられる。大小一〇五基におよぶ壮観さは、古代の文化をとくうえに重要な価値をもっている。
それからまた、ここで市原輝士・宮田忠彦氏の『わが町の歴史 高松』をみると、いまみたさいごの部分がもう少しくわしく、こういうふうになっている。
石清尾山地に分布するこれらの積石塚古墳群は、古墳の前期といわれる紀元三〜四世紀ころに築かれたもので、……この古墳群は付近に住んでいた地元勢力を代表する豪族たちの墳墓であろう。
この山地の南方および西方地域の半田《はんだ》(高松市檀紙《だんし》町・御厩《みまや》町・飯田町)地方は、朝鮮から渡来した秦《はた》氏や漢《あや》(綾)氏の居住した土地といわれ、この一族の墳墓ではなかろうかともいわれる。
どちらも「――であるとも伝えられる」「――ともいわれる」となっているが、だれも千数百年前のそれをみたものはいないのだから、これは仕方ないであろう。しかしここにいう「半田」とは、備前(岡山県)ほかの半田がそうであるように、「秦《はた》」ということがそうなったものにほかならないのである。そのことは、いまみた『わが町の歴史 高松』にも、讃岐における秦氏族のことがこう書かれていることでわかる。
『続日本紀』には、七六九(神護景雲三)年一〇月甲辰一〇日、讃岐国香川郡に秦勝倉下《はたのかつくらじ》という者がいて、これらの一族五二人に「秦ノ原ノ公《きみ》」という姓《かばね》をたまわった、ということが記されている。石清尾《いわせお》山塊の南と西にひろがる地域は、五世紀以降、渡来人の子孫である秦氏や漢《あや》〈綾〉氏が開拓した地域といわれ、とくに香川郡は讃岐の秦氏の本拠であったと伝えられる。
秦氏が定着した地域は、屯倉《みやけ》(朝廷の直轄領)のあった地域が多く、いまの高松市多肥《たひ》(田部)・太田(大炊田《おおいた》に由来)などはそれにあたるといわれる。秦氏の勢力は近隣の木田郡や綾歌《あやうた》郡にも浸透していた。
秦氏らは、地域の開拓だけではなく、高度な専門知識や技術によって、文化や社会生活の発展に貢献した。
『三代実録』には、八八三(元慶七)年に、讃岐国香河《かがわ》人左少史正六位上秦ノ公《きみ》直宗《なおむね》と弟弾正《だんじよう》少忠正七位上秦ノ公直本《なおもと》に「惟宗《これむね》ノ朝臣《あそみ》」をたまわったという記事がある。直宗は明法《みようほう》博士(法律学者)となり、弟の直本も明法博士となって『令集解《りようのしゆうげ》』三〇巻(養老令の注釈書)をあらわしている。
平安時代初期の明法家一一人のうち八人が讃岐出身者で、そのうち五人が香川郡出身である。このころの明法(律令の解釈)・書史にたずさわる人々の多くは渡来人でしめられていたといわれ、渡来人のもつ高度な専門知識が重要視されていたことがわかる。
要するに、いま高松市となっている「香川郡は讃岐の秦氏の本拠であった」ということである。そのことは、あとでみる讃岐国一の宮の田村神社が、ほかならぬ秦氏族の氏神であったことからもいえるのである。
そこで私は思うのであるが、これまでみてきた『香川県の歴史散歩』などはどれも、石清尾山古墳群は「この山地の南方、西方地方に住んでいた秦氏、綾氏の一族の墓であるとも伝えられる」「朝鮮から渡来した秦《はた》氏や漢《あや》(綾)氏の……墳墓ではなかろうかともいわれる」とあるけれども、それにはちょっと訂正が必要なのではなかろうか、ということである。
というのは、秦氏族や綾(漢)氏族ものち新羅となり、百済ともなる加耶諸国からの渡来人であるが、しかし石清尾山古墳群には、綾氏族はあまり関係ないのではないか、と私には考えられるからである。どちらも讃岐の中央部に展開していた氏族ではあるが、香川郡を本拠地としていた秦氏に対して、のちにみるように、綾氏はその西方の阿野《あや》郡(いまの綾歌郡)が本拠地となっていた。したがって綾氏の墳墓、少なくとも中心のそれは、阿野郡にあるとみなくてはならないはずである。
そうだとすると、いま高松市となっている香川郡の石清尾山古墳群は、綾氏のもないとはいわぬが、秦氏族中心のそれとみなくてはならないのである。
石枕と積石塚
石清尾山古墳群のことはもうこれでおわるが、なおここで、同古墳群からの出土品をちょっとみておくことにすると、それについては前記『わが町の歴史 高松』にこうある。
なかでも峯山地区の南西にある猫塚《ねこづか》は大規模な積石《つみいし》双方中円墳で、瀬戸内海地方でも最古の部類に入る古墳のひとつである。一九一〇(明治四三)年に盗掘され、鏡五面(三角縁神獣鏡・四獣鏡・獣帯鏡各一面、内行花文鏡二面)、銅鏃《どうぞく》八個、小銅刺身《さしみ》一七口、鉄鏃数個、素焼坩一個などが出土した。
もちろん、盗掘されたのがどういうものだったかはわからないが、一方、森浩一氏の『古墳文化小考』をみると、大和(奈良県)における前期古墳の一つとされている景行陵古墳修築のとき「出土した可能性のある石枕《いしまくら》が伝えられ現存している」ということから、「ところで石枕は、高句麗・百済・新羅・加羅〈加耶〉などから出土していて、そのうち高句麗や百済の例が新羅より古そうである」とし、ついで日本のそれがこう書かれている。
前期古墳の石枕は、香川県高松市の栗林公園に隣接した石清尾山《いわせおやま》古墳群の石船塚《いわふねづか》の石棺につくりつけられている例が名高いが、この古墳は積石塚の前方後円墳である。積石塚というのは、盛土がなく、石を積みあげているのである。大阪府の柏原市の松岳山《まつおかやま》古墳にも石枕のある石棺があるが、墳形は前方後円墳で、後円部の頂上一帯には割石が一面に使われていて、この部分だけが積石塚の様相を呈している。
このように石枕と積石塚が結びつく傾向にあるが、ここで想起されるのは、積石塚というのは高句麗風の古墳の構築法であるということである。『魏志』東夷伝では高句麗の墓について、「石を積みて封となす」と記録しているし、実際、都のあった集安《しゆうあん》付近にはおびただしい積石の方墳がある。
ついでに積石塚とはどういうものなのかということまでみたが、たしかに積石塚古墳という墓制は北方の高句麗からおこった墓制で、それが南方の百済・新羅・加耶といった朝鮮全土にまでひろがったものである。ばかりか、それがそこからの渡来人によって日本にまでひろがったもので、たとえば、信濃(長野県)にある千数百基の積石塚古墳は典型的な高句麗のそれであるが、しかしさっきからくり返しみているように、讃岐の石清尾山古墳群のそれは新羅・加耶からのものなのである。
屋島・三谷・一宮
「牟礼」「寒川」は古代朝鮮語
石清尾山地からの私たちは、こんどはどちらへ向かうべきか、ちょっと迷った。地図をみると、高松市東方の木田郡には牟礼《むれ》町というのがあり、また、東南方の大川郡には寒川《さんがわ》町というところがある。そこにも、その地名と関連した遺跡があるにちがいないと思われたからである。
「牟礼」「寒川」とはどちらも朝鮮語に由来する地名で、日本の学者たちによると、牟礼は古代朝鮮語の「山」ということだそうであるが、しかし私にはどうも、これは紀伊(和歌山県)牟婁《むろ》郡の牟婁でもあって、牟羅(ムラ)すなわち「村」ということの原語ではなかったかと思えてならない。
しかしそれはどちらにせよ、古代朝鮮語であることに変わりはないが、寒川町のある大川郡はもと寒川郡だったもので、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」をみると、そこには「韓鉄師〓登毛人ら」がいたとある。その寒川のほうは、相模(神奈川県)にも寒川《さむかわ》町があって、そこに相模国一の宮の寒川神社がある。それについては、丹羽基二氏の『地名』にこうある。
寒川。朝鮮語のサガ(わたしの家、社などの意)からくる。朝鮮渡来人の集落があった。寒川はもと寒河《さが》で当て字。
そういうことで、讃岐の寒川は寒川《さむかわ》ではなく寒川《さんがわ》となっているのかも知れなかったが、しかし私たちは、そちらの牟礼や寒川は割愛ということにして、石清尾山地で望見した屋島へ向かうことにした。そこには近年になってようやく発見された、古代朝鮮式山城跡があったからである。
屋島の朝鮮式山城
讃岐にはもと阿野郡だった坂出《さかいで》市にもその山城跡があるが、しかし屋島のほうは『日本書紀』などにもはっきりしるされているにもかかわらず、近年までそれがどこにあって、どうなっているのかわからず、「幻の屋島城」などといわれたものだった。だが、それもついに発見されることになったもので、一九八一年二月二十二日の読売新聞は、「日本書紀に記載の/“幻の屋島城”遺構確認/上代の朝鮮式山城/高松市調査」という見出しのもとに、そのことをこう報じている。
源平の古戦場で知られる高松市の屋島に、上代の朝鮮式山城の遺構のあることが、二十一日までに、高松市教委の調査で確認された。屋島城は、日本書紀にも記され、石塁のあることもわかっていたが、これまで調査が行われていなかったので、はっきりした位置や規模などがナゾのまま。このため“幻の城”といわれていたが、こんどの調査で、石塁、土塁のほか、見張り台、水門跡の遺構を発見、規模は小さいものの、典型的な山城とわかった。
同市の東部にある屋島は、瀬戸内海に半島状に突き出た格好になっており、標高二百九十三メートル。城跡は西側斜面の中腹にあり、市教委は文化庁の助成を受けて、昨年四月から調査を続けていた。調査区域は、通称「鑑真ケ谷」と呼ばれる谷筋の奥。雑木林を切り開いたところ、安山岩の自然石を積み重ねた石塁(一部は土塁)が姿を現した。高さ五メートル、底部の厚さは十五メートル、上部は二〜四メートル。崩れたところもあるが、延長百二十メートルにわたって、谷を取りまく形になっていた。
また「見張りの内」の地名がついている西の方の尾根筋には高さ六メートル、上部の広さが二十平方メートルの石積みがあり、見張り台と確認。
朝鮮式山城は、谷をはち巻き状に取り囲み、水門を設けて水の利用をはかっているのが特色で、屋島の現地調査をした河原純之・文化庁文化財調査官と松本豊胤・香川県文化行政課副主幹の二人は「典型的な山城で、見張り台、水門跡の発見は貴重だ」と話している。
上代の山城は、天智二年(六六三)朝鮮半島に遠征した日本軍が唐、新羅の連合軍に敗れた後、半島側の逆襲に備えて、九州から瀬戸内海沿岸、大和にかけて築城したといわれる。
ここにいう「朝鮮半島に遠征した日本軍」とは、百済が最終的にほろびるときにだした「百済救援軍」のことであり、それが「唐、新羅の連合軍に敗れた」とは、いわゆる「白村江《はくすきのえ》の敗戦」ということである。その結果、百済からは高官・将軍などを中心としたたくさんの亡命者があって、「九州から瀬戸内海沿岸、大和にかけて築城した」古代朝鮮式山城は、谷那晋首《こくなしんす》、憶礼福留《おくらいふくる》といったその百済からの将軍たちによって築かれたものであった。
屋島城もそのうちの一つだったのであるが、ところで、私たちはその屋島をひとまわりしてみたけれども、これまたさきの石清尾山古墳群と同じように、そこも公園のような観光地となっていて、山城跡は見あたらなかった。ドライブウェイとなっている切り通しの崖をよじ登って、山林にはいって行くと見つかるのかも知れなかったが、しかし、そういうことまではとてもできそうになかった。
そこの屋島まで行ったということだけで、私たちは高松市の中心部へ戻り、こんどは屋島とは逆方向となっている三谷町へ向かおうかと思ったが、しかし、そこもやめにして、一宮《いちのみや》町の田村神社をたずねることにした。
三谷窯跡の須恵器
三谷町へ行ったところで、屋島城跡と同じように現物がみられるかどうかわからなかったからであるが、なぜ三谷町だったかといえば、一九八四年九月一日の四国新聞をみると、「讃岐の須恵器/朝鮮から直伝? /高松の三谷窯跡出土品調査/『大阪ルート』と特色異なる/工人渡来裏付け」という見出しの、こういう記事がのっていたからである。これも讃岐の古代を考えるうえで重要なので、ここにそれを引いておくことにしたい。
県教委は昨年暮れ、高松市三谷町、三谷三郎池西岸で須恵器を焼いた窯跡の発掘調査を行ったが、このほど資料整理を終わり、近く調査概要を発表する。これまでのまとめによると「五世紀に須恵器生産を開始した大阪府泉北丘陵の大阪陶邑古窯址群から全国に須恵器の生産が広まったとされる定説に対し、別ルートで朝鮮半島から讃岐に直接工人が入った可能性がある」ことがわかり、全国の研究者から注目されている。三谷窯は瀬戸内海沿岸で最古の窯跡となり、古代豪族紀氏の役割などこれからの須恵器研究に大きなはずみがつきそう。
この窯跡は瀬戸内海歴史民俗資料館の「県内須恵器窯跡分布調査」で発見され、県教委が重要遺跡確認調査として発掘した。
今度調査した窯跡は丘陵状尾根の先端東斜面、波打ち際で残りはよくなかった。半地下式の幅二・二メートル、長さ四メートルの構成部を検出したが、他の部分は流失、灰原が広さ十平方メートルにわたって広がっていた。窯跡からは大小のカメなど大型の須恵器片二百点、コンテナ二箱分が採集された。
窯壁や窯床の修復が認められないことから、窯の使用期間は短かったと見られている。ツボ、高坏(つき)、坏などの小型器種に比べて大型カメの割合が高いのは初期須恵器窯の特色。成形技法や器形は朝鮮南部・洛東江流域から報告された遺物と共通する部分が多く、大阪陶邑窯跡のものとは区別されている。福岡平野西部、甘木市の古寺遺跡、和歌山県の紀ノ川流域、和歌山市の鳴滝遺跡で三谷窯と同じ技術系統の須恵器が報告されている。……
県内では三年前、豊中町比地大で宮山一号窯跡が見つかっており、初期窯跡として脚光を浴びた。三谷窯は宮山窯より古いが、高坏など似たものもある。宮山・三谷両窯跡を発見した松本敏三瀬戸内海歴史民俗資料館専門職員は釜山市の堂甘洞古墳、福泉洞古墳の調査報告(釜山大調査)などと比較しながら、“直伝ルート”を確認し、福岡平野西部、瀬戸内(三谷・宮山)、大阪湾陶邑の三系統を考え出している。
松本豊胤県教委文化行政課主幹の話 三谷窯の土器を見ると形にとらわれない、自由な作風が見られる。土器の段階では朝鮮からの移入と見ていたが、工人が直接渡来したことを裏付け、それを受け入れる豪族がいたことになる。
ここにみられる「朝鮮南部・洛東江流域」「釜山市」などはみな、古代は加耶となっていたところであった。さきにみている石清尾山古墳群をのこした秦氏族(集団といったほうがほんとうはいいのだが)が新羅・加耶系渡来人であり、また、のちにみるように綾(漢)氏族もその加耶諸国のうちの安耶《あや》から渡来したものであってみれば、当然、讃岐にもそのような「工人が直接渡来したこと」もうなずけるのである。
それから、私はさきに伊予(愛媛県)松山市の古墳などから出土した須恵器をみたとき(「古代松山平野の須恵器」の項)、「日本においては五世紀中ごろに朝鮮半島から須恵器生産の技術を持った陶工が大阪の陶邑《すえむら》に渡来し、窯業を開始し各地域にその製品が配られた。それにつれてその後地方窯の成立がなされたものと考えられる」ということのまちがいを指摘したが、それは讃岐のこの三谷窯の例をみてもわかるはずである。
なおまた、これもいまみた記事にでた「和歌山市の鳴滝遺跡」であるが、そこから出土した土器のうち、取っ手付きの碗や高坏などは、古代朝鮮から直行したものであることがわかっている。そのような朝鮮製の土器は、讃岐の古墳や遺跡からもそうとうでているにちがいないと私はみている。
四国に多い朝鮮渡来の仏画
ついでにいえば、朝鮮から直行したものはそのような土器ばかりとはかぎらない。これも四国新聞であるが、同紙の一九八三年七月九日付けには、「見返りの高麗仏画を確認/大野原・萩原寺の絹本着色阿弥陀如来像/旧島津家所蔵に続き全国二番目/あす香川歴史学会で発表」という見出しの記事がのっており、さらにまたつづいて、同年九月二十八日付けにも、「高麗時代の絹本着色八相涅槃図発見/人物容姿、鮮明に/近く県文化財に指定申請/仁尾・常徳寺」という見出しの記事がでている。
統一新羅後の高麗《こうらい》のものであるから、時代はちょっと下がるけれども、そういう仏画などもたくさん来ていたのである。ここで前田幹氏の「中国四国地方の朝鮮仏画」をみると、「高麗時代の仏画で日本に現存しているのは約八〇点」だとのことであるが、中国・四国地方にもそれがかなりたくさんきている。
同「中国四国地方の朝鮮仏画」によってみると、それはこういうふうになっている。
まず、制作年のはっきりしている作品を年代順に挙げると、左のようになる。
広島県尾道市 持光寺 千手観音像 嘉靖一一年(一五三二)
香川県三野町 弥谷寺 地蔵十王像 嘉靖二五年(一五四六)
徳島県板野町 地蔵寺 薬師曼荼羅図 嘉靖三〇年(一五五一)
香川県丸亀市 宝性寺 十王像 辰
広島県尾道市 光明寺 地蔵十王像 嘉靖四一年(一五六二)
徳島県鴨島町 持福寺 釈迦八大菩薩像 嘉靖四二年(一五六三)
愛媛県松山市 石手寺 地蔵十王像 嘉靖四三年(一五六四)
高知県高知市 竜乗院 薬師三尊像 嘉靖四四年(一五六五)
香川県白鳥町 千光寺 仏涅槃図 隆慶三年(一五六九)
徳島県石井町 宝光寺 釈迦曼荼羅図 隆慶三年(一五六九)
高知県佐川町 青山文庫 安楽国太子経変相 万暦四年(一五七六)
香川県丸亀市 来迎寺 西方九品竜船接引会図 万暦一〇年(一五八二)
岡山県久米南町 誕生寺 地蔵十王像 万暦一〇年(一五八二)
徳島県神山町 善覚寺 帝釈曼荼羅図 万暦一一年(一五八三)
徳島県鴨島町 持福寺 地蔵十王像 万暦一五年(一五八七)
岡山県倉敷市 宝島寺 三尊曼荼羅図 万暦一六年(一五八八)
次に、年記はないが明らかに朝鮮仏画と考えられるものを列記してみよう。
岡山県 岡山市  西大寺 曼荼羅図
倉敷市  地蔵院 阿弥陀如来像
倉敷市  宝島寺 地蔵十王像
島根県 平田市  一畑寺 阿弥陀三尊像
山口県 下関市  功山寺 楊柳観音像
徳島県 鳴門市  正興寺 阿弥陀三尊像
香川県 高松市  屋島寺 楊柳観音像
観音寺市 蓮光寺 薬師三尊十二神将像
観音寺市 観音寺 地蔵十王像
観音寺市 宝珠寺 釈迦八大菩薩像
大内町  与田寺 地蔵六光菩薩像
これらの所在調査は香川の溝淵和幸氏や徳島の多田高信氏の労に負うところが大きく、今後も更に多くの新資料をお示しくださることを期待してやまない。
讃岐一の宮・田村神社
「観音寺」ということとかかわりがあるのかどうか、香川県の観音寺市にはそれが三寺、三点もあるのがおもしろいが、それはそれとして、私たちは高松市の南となっている一宮町に着いた。町名が讃岐国一の宮ということからでているだけに、その一の宮の田村神社はすぐにわかった。
拝殿・本殿などはふつうみられるようなそれだったが、境内は六千八百五十一坪という広大な神社だった。「〓嫁にやるなら一宮へおやり 氏神様はいつも祭りばかり」というような俗謡があると聞いたが、つい最近もその祭りがあったらしく、境内には店じまいで折りたたまれた屋台があちこちにならんでいた。
社務所へ寄って、『田村神社略記』をもらってみたが、そのまえに前記『わが町の歴史 高松』によると、「神宮寺(仏生山町)、高野寺(川島本町)などの七か所が知られている。これら古代寺院の建立には、秦氏、漢(綾)氏など渡来人系豪族の力が大きくあずかっていたにちがいない」として、つづけていま私たちの来ている田村神社のことがこう書かれている。
秦氏はまた、讃岐一の宮として有名な田村神社(一宮町)と深い関係をもっていた。秦晴親が大宮司《ぐうじ》に任じられ、社家《しやけ》(神職)を世襲した田村氏は、秦勝倉下《かつくらじ》の子孫であるという。
田村神社は社伝によると、七〇九年(和銅二)に勧請《かんじよう》されたとある。祭神は倭迹々日百襲姫命《やまとととひももそひめのみこと》・五十狭芹彦命《いそさせりのひこのみこと》など五柱であるが、「田村定水《じようすい》大明神」ともよばれ、古代から農耕に必要な定水が得られる出水《ですい》を神としてあがめたもので、この地域を本拠としていた秦氏一族にとっては重要な神であったと考えられる。
神宝として保管されている鉄鉾《てつほこ》(長さ三七センチ)は飛鳥時代以前のもので、社伝の神社創建時よりも古い時期のものと思われる。しかし、いずれにしても『延喜式』にみえる式内社で格式と由緒をもった古社である。
ところで、そういう「格式と由緒をもった古社」だったにもかかわらず、社務所でもらった『田村神社略記』には、「倭迹々日百襲姫命は人皇第七代孝霊天皇の御皇女にましまし」「御陵は大和国城上郡大市村にあり」などと、そんな大時代なことばかり書かれていた。だいたい神社の由緒書にはそういうものが多いけれども、しかし同『略記』のばあい、社家を世襲した田村氏の祖先である秦氏のことが、どこにも姿をみせないというのはふしぎなことであった。
というのは、倭迹々日百襲姫命などというのはのちの時代に併祭されたもので、田村神社の祭神は「田村定水大明神」または「田村大神」にほかならなかったからである。「以上の五柱の神を田村大神と申す」とは同『略記』にもあるが、するとその田村大神は田村氏の祖神、すなわち秦氏のそれでなくてはならぬのである。
「上代の時、神といいしは人也」(新井白石『東雅』)であるから、それは秦氏族の首長のひとりとなっていたものであったにちがいない。なお、田村神社の近くの丘陵下には石段の急な滕《ちきり》神社というのがあったが、「ちきり」とは機織の緒巻《おまき》のことであるから、この神社もそうした機織に関係深かった秦氏族が祭ったものだったはずである。
讃岐の新羅神社
壮大な国分寺と綾氏
もと香川郡だった高松市一宮町からの私たちは、こんどはその西方の綾歌《あやうた》郡、というより、もとは阿野《あや》郡だった坂出市のほうへ向かうことになった。綾歌郡の綾、阿野郡の阿野がどういうことからきたものかはあとでみることになるが、私たちはまず、途中にある国分寺町の讃岐国分寺跡から、同町柏原となっている鷲の山麓の鷲峰《じゆうぶ》寺をたずねた。
讃岐国分寺跡は、秀麗な松林のなかに数十個の礎石をのこすのみとなっていたが、しかしあとで知ったところによると、そこにあった国分寺は全国でも有数の大寺院となっていたものだった。一九七五年に出た前記『香川県の歴史散歩』には当然そんなことは書かれてなかったが、一九八五年十月十二日の四国新聞をみると、「全国最大級の僧房跡/讃岐国分寺跡で確認/間口八七メートル奥行き一五メートル」という見出しの、こういう記事がのっている。
国分寺町教委が発掘調査を進めている同町国分の特別史跡讃岐国分寺跡で十一日までに、僧房跡を示す礎石四十四個を確認、全国最大級の僧房跡であることがわかった。僧房の規模は間口二十一間(東西八十七メートル)、奥行き三間(南北十五メートル)あり、礎石間の地覆(壁の土台)も良く残っており、扉枢施設とみられる加工石などから部屋割りがわかる遺構はきわめて珍しい。
この日、発掘現場を訪れた岡田英男奈良国立文化財研究所平城宮跡調査部長は「国分寺跡の発掘例は多いが、この僧房跡遺跡には驚いた。全国では最大級で、礎石が全部残っている例はほかにない。地覆石や〓(せん)を敷いての生活跡が残っているのはまれ。すずりなど出土品から僧たちの暮らしがしのばれる」と話している。同町教委では、発掘成果をもとに史跡保存のため整備計画をたてるとしている。
国分寺はどんなに古いものでも八世紀をさかのぼるものではないが、同僧房跡からは奈良・東大寺の「正倉院に保存されている火舎香炉(かしゃこうろ)の脚と同じ銅製品も見つかっている」ので、讃岐国分寺はそうとう古くにできたものではないかと思われる。近くの国分寺町新居《にい》には「方一町の国分尼寺」もあったというから、それはやはり、この地方で繁栄した綾(漢《あや》)氏族の力量を物語るものであったにちがいない。少なくとも、それと無縁ではなかったはずである。
小さな小さな新羅神社
国分寺町柏原の鷲峰寺をたずねたのは、地元の考古学者である六車恵一氏が、上田正昭氏らとの座談会「讃岐の古代文化」でこう語っていたからである。
最近行ってみましたら、綾川が屈曲している地点に、白鷺赤牛が洪水を救った伝説のある白髪淵《しらがぶち》があるのですが、おそらく〈白髪《しらが》は〉白鬚《しらひげ》〈新羅〉であると思います。そこにはやはり、新羅神社が一ヵ所見つかっております。これは鷲峰寺というお寺の境内に、金倉寺と同じような形で新羅神社があるようで、四国新聞社の今岡重夫さんが見つけて知らせてくれました。
「鷲峰寺というお寺」は、街道からはずれた狭い農道をあっちへはいり、こっちへはいりして、私たちにはわかりにくいところにあったが、前記『香川県の歴史散歩』をみるとこうある。
〈予讃本線〉国分駅南の関の池をへだててひろがる鷲の山東麓に札所八二番根香寺奥の院鷲峰寺(天台宗)がある。バス停柏原で下車するとすぐ右方に鷲峰寺山門が目にはいる。山門をくぐってなだらかな坂道を一〇〇メートルばかり登ると、山を背にして四間四方の小さな本堂が静かなたたずまいをみせている。
新羅神社はその「小さな本堂」の右側にあったが、これはまた何と、鳥居も狛犬も見当たらない「小さな、小さな」神社となっていた。石作りの小祠が高い壇の上にちょこんと乗っかっていて、その手前にある石碑の文字によってやっと、それが新羅神社とわかるようになっていた。
けれども、近くには白鬚=新羅であった白髪淵などというところがあることからもわかるように、この小祠の新羅神社ももとはそれ相応に大きなものであったにちがいない。それが神仏習合のためか、そこに鷲峰寺ができたことによって退転し、今日のような小祠となってしまったのではないかと思われた。
が、それはどちらにせよ、これで讃岐には、私の知る限りでも新羅神社が計四社ということになった。それがどれも、白木《しらき》・白城《しらき》などとなったものではなく、はっきりと古代朝鮮の「新羅」という国名を負ったままとなっているのがおもしろい。
善通寺市の新羅神社
私たちがこの日から翌日にかけてみて歩いたのは、鷲峰寺境内のそれのほか、これはどちらも善通寺市となっている金蔵寺《こんぞうじ》町の新羅神社と、木徳町にある新羅神社の二社であった。しかしあとになってわかったが、そこまでは足をのばすことができなかった西讃、すなわち西讃岐の三豊郡高瀬町にも新羅神社があった。
千葉嘉徳氏の「讃岐のなかの渡来文化」をみると、私たちがこれまでにみてきた東讃の秦氏のことなどにふれたあと、西讃のそれのことがこう書かれている。
通説によれば、「玉藻よし讃岐の国は」と『万葉集』に柿本人麻呂がうたっている香川県は、東讃の石清尾《いわせお》、中讃の城山《きやま》、西讃の大麻山を古代文化の発祥地であるとして、渡来系氏族は、中讃の綾歌郡の東半分に漢《あや》(綾)氏、香川郡には秦氏が集住して養蚕や機織りに従事していたとする。ところが意外に渡来人の足跡は広く県下各地にみられ、とくに西讃の大麻山周辺に色濃く残っているのは一つの大きな驚きだった。
そこでまず、この大麻山を基点に西讃の渡来文化をたずねてみよう。三豊郡詫間町の荘内半島は、讃岐に弥生文化をもたらした上陸地点である。県内には八幡宮が多いが、紫雲出山(三五二メートル)に行く途中に波打八幡宮、船越八幡宮と海にかかわる神社があり、瀬戸内海を一望できる山頂には浦島伝説の主、太郎をまつる竜王社がある。……
また観音寺町〈いまは市〉室本には、縄文晩期の室本遺跡があり、弥生前記の壺、鉢、甕の完形品が出土した。五つの壺は県下でもっとも古い弥生式土器で、器面はヘラで美しくみがかれて鋸歯文、木葉文、重弧文などが鮮やかに描かれている。朝鮮からの渡来人が北九州を経て、この地方に米づくりの技術をもちこんだのであろう。そして高瀬川、財田川をさかのぼり、鬼ケ臼山から大麻山周辺にかけて弥生文化圏がつくられた。高瀬町が文献に顔をのぞかせるのは和銅年間(七〇八〜七一五)で、下高瀬には須佐之男命をまつる新羅神社もある。
西讃のこの新羅神社はみていないのでわからないが、ここまでは中讃となっている善通寺市金蔵寺町の金倉《かねくら》寺境内にある新羅神社や、同市木徳町の新羅神社は、どちらも地元の人たちから大事にされているらしく、社殿もしっかりしたものとなっていた。ことに木徳町のほうは境内もきれいに整備されて、「新羅神社」とした新しい石碑がたっているのが印象的だった。
前記『香川県の歴史散歩』によってみると、その神社のことがこうある。
金倉寺(天台寺門宗、本尊薬師如来坐像)は円珍誕生の地。父和気宅成《やかなり》(道善)の館跡に八六一(貞観三)年、唐から帰朝した円珍によって建立された。道善寺と称していたが九二八(延長六)年以来、金倉郷の名をとり金倉寺という。一〇世紀初期の盛時には僧徒の坊舎一三〇余があったが、一五三七(天文六)年の兵火で焼失。その後、初代高松藩主松平頼重によって慶安年間(一七世紀中頃)に復興され、金倉・原田・真野・岸の上・垂水の五郷の租税を寺領とした。
いまある本堂・鐘楼・仁王門はいずれも江戸初期から中期の建造物、七六番札所として信仰をうけている。所蔵の絹本著色智証大師像(重文)は鎌倉時代の肖像画の写実性をよくあらわしている。境内にある新羅神社(神明造、本瓦葺)は市内木徳町の新羅神社とともに“香川のなかの朝鮮文化”といえようか。木徳町新羅神社の船神楽は、須佐之男命《すさのおのみこと》の朝鮮渡り船神楽といっており、宮ケ尾線刻古墳の多くの舟の図とあわせ考えると興味ぶかい。
いわば金蔵寺町の新羅神社は、そこの金倉寺とセットになっているわけであるが、これは『日本の中の朝鮮文化』(3)「近江・大和」でみた近江(滋賀県)の大津市にある園城寺(三井寺)と、その境内にある新羅神社(善神堂)との関係とよく似ている。そのはずで、近江の園城寺や新羅神社も、こちらで生まれた智証大師・円珍によって創建されたものだったからである。
朝鮮渡りの船神楽
なおここで、ちょっと重複するところもあるが、さきにみた千葉嘉徳氏の「讃岐のなかの渡来文化」によると、金倉寺と新羅神社とのことがこうなっている。
〈土讃本線〉金蔵寺駅を降りて東へ約五百メートル行くと、天台宗鶏足山金倉寺がある。創建は智証大師(円珍)で、父和気宅成の館跡につくられた。智証大師の母は、佐伯氏で弘法大師の姪。坂出市の郷土史家三木豊樹氏が指摘するように、「和気氏は景行天皇の裔ではなく、讃岐国忌寸首《いみきのおびと》(因支首)等を始祖とする一族で、貞観八年に和気姓を賜った」(『姓氏家系大辞典』)のであり、やはり秦氏の流れをくむ一族であったのだろう。忌寸や首、村主《すぐり》は渡来人に多く、また金倉寺の山号、鶏足山は新羅の慶州ゆかりのものだ。さらに境内には、神明づくりの新羅神社が鎮座している。……とすれば、金倉寺は秦氏一族の建立した寺院なのであろう。
「秦氏の流れをくむ」和気宅成を父とする智証大師・円珍の母は「佐伯氏で弘法大師の姪」とあるが、ここにでた坂出市の郷土史家三木豊樹氏の「新羅神社の由来」をみると、その佐伯氏も和気氏と同じく、秦忌寸首麻呂からの出であるという。弘法大師がそれからでた佐伯氏も秦氏族だったとは、私はこれではじめて知ったが、ともかく秦氏というのは、おどろくべき大氏族だったのである。
ところで、三木氏の「新羅神社の由来」には、木徳町の新羅神社でおこなわれている「須佐之男命の朝鮮渡りの船神楽」が紹介されているが、それがなかなかユーモラスでおもしろい。こういうふうである。
木徳町の新羅神社の祭礼は、春四月十八日、十九日、秋十月二十三日、二十四日となっている。祭りの当日は慣例として百々年祭と、夜は里神楽、船神楽の舞いがある。この船神楽は、須佐之男命の朝鮮渡りの船神楽といっている。
二人の神主が一人は須佐之男命になり、一人は大国主命になって、小さな板船に二人が片足ずつ足を入れて船に乗った格好をし、「このたび須佐之男命様には、韓《から》の三島へお渡りになるそうで」という大国主命の言葉から始まり、船の外にある一方の足で小船を一歩一歩進めつつカイをあやつり、〆飾りのしてある舞台をまわりながら、豊作を祈る言葉や、朝鮮の珍しい宝物をみやげに持って帰ってもらいたいとか、面白おかしな世間話をしたりして上手に舞うのである。
ここに「韓《から》の三島」ということがでているのに、私はちょっとおどろいた。というのは、本来は「御島《みしま》」の三島とは三つの島(アイランド)ということではなく、是澤恭三氏の「三島と朝鮮」によると「朝鮮の異称」ということであり、金澤庄三郎氏の『日韓古地名の研究』によると「郷土」または「郷里」ということで、それが讃岐の新羅神社にはまだ生きていたからである。
城山山城と綾氏
日本最大級の城山山城
そのような新羅神社のある善通寺市と、その近くの琴平町にある有名な金刀比羅《ことひら》宮などはまたあとでみるとして、ここで、はなしをはじめのほうの国分寺町に戻すことにする。そこからの私たちは、坂出市府中町の讃岐国府跡をへて綾川を渡り、同市東南の城山《きやま》山城跡にいたった。
東讃の石清尾山、西讃の大麻山とならんで、讃岐「古代文化の発祥地」(前記「讃岐のなかの渡来文化」)の一つである中讃の城山であった。城山は標高四六三メートルの台地状の山で、頂上部となっている山城跡までは、約六キロのくねくねした山道を登らねばならなかった。
途中、道路端に「史跡 城山」とした坂出市による掲示板のたっているのが目についた。クルマをとめておりてみると、「史跡 城山山城遺構所在図」とあわせて、それのことがこう書かれている。
城山は標高四六二・五メートル、この付近における最高峰で、視野きわめて広く景勝の地である。山腹は比較的急峻であるが、山上部は緩やかに起伏し、山頂及び西北に向かって口を開く凹地を囲んで、城郭の跡がある。主として北面に施設があって城門を開き、石垣、土塁は断続しつつも稜線に沿い谷を横切って続き、その内側に車道《くるまみち》と称せられる帯状の平坦地がある。また車道付近のところどころにホロソ石、俎石《まないたいし》とよばれる石造加工物も点在する。
創置の時期は詳《つまびら》かでないが、朝鮮式山城の様式を踏襲したものと認められる。また菅家文草に城山神社と記されている古代祭祀遺跡も存する。ところどころに改変のあとはあるが、よく旧規模をとどめ、古代史研究上重要な遺跡である。
昭和二十六年六月九日、史跡に指定された。
城跡の山上部はいまでは、そこのゆるやかな渓谷などをもとり入れた六十万平方メートルの広大なゴルフ場となっている。クルマが行けるのは何軒かある民家のところまでで、あとは徒歩でゴルフ場の広いグリーンを横切らなくてはならなかったが、そして気がついてみると、そこはいたるところ山城跡の石塁であった。
あるところでは、それはまだしっかりした石組となっていて、とても千何百年も以前に築かれたものとは思えないほどだった。要するにいまではそれらの石塁や、古代朝鮮式山城の特徴である水門跡などによって、かつてのそれを偲《しの》ぶよりほかなかったが、しかし、さきの「屋島・三谷・一宮」の項でみた七世紀半ば以後の屋島城などとはちがって、「原始時代であるため国史に登載されていない」(福家惣衛『城山の観光と史跡』)この城山山城は、日本最大規模のものであった。
たとえば、九州に多くある古代朝鮮式山城のうちの最大は、筑後(福岡県)久留米市の高良《こうら》山城である。が、この高良山城は東西径約十町、南北径約六町半、周囲(平面で)約二十八町余であるのに対して、こちらの城山山城は東西径約十二町、南北径約七町、周囲(平面で)約三十四町歩となっている。一町歩は一万平方メートルであるから、どんなに広大なものであったかがわかる。
城山は先土器時代から生活の中心地
「原始時代であるため国史に登載されていない」それを、前記『香川県の歴史散歩』によってもう少しくわしくみるとこう書かれている。
この山城はわが国では初期のもので、山頂の平坦部全域を城郭にとりいれた東西一・五、南北二キロにおよぶ広大なもので、朝鮮式の構築方法がとられている。城跡には車道《くるまみち》と呼ばれる帯状の平坦地があり、上の車道(第一車道)は山頂からすこしさがったところを全長三・四キロにわたって取りまいており、そこから約一〇〇メートル下側に四・四キロにおよぶ下の車道(第二車道)がある。その間に城門や水門などの構築物、城門の大柱の礎石として用いられたホロソ石や、俎石《まないたいし》と呼ばれる石造加工物が散在している。しかし城郭の規模が広大なのでこれらの史跡を求めて散策することは、容易ではない。
城山には、本県のあけぼのを示す先土器時代の貴重な遺跡がある。昭和一一年に、山頂の城門南側からブレイド(石刃《せきじん》)を、翌年にはハンドアックス(打製《だせい》の握槌)が発見された。その後も山頂開墾地付近から多数のポイント(尖頭器《せんとうき》)や菱形刃器、ブレイドなどが出土したことから先土器遺跡として立証され、このころから、香川県に人が住みはじめたことを知ることができる。県内では、このほか国分台や坂出市与島などでも発見されているが、いずれの遺跡も人骨や住居跡などがいまだ発見されていないので、先土器時代人の正体をつかむことができないのは残念だ。
城山の遺跡から出土した石器は、サヌカイト(讃岐石)を用いこれを精巧に剥離《はくり》している。また頂上・三角点の北方から弥生式土器、古墳時代の土師器《はじき》・須恵器《すえき》(祝部土器《いわいべどき》ともいう)なども出土し、それらからこの城山が長い間にわたっての人びとの生活の中心地であったことがわかる。
東の鴨川口から登山して、頂上付近で東南端に大きく突出した峰がある。ここを明神ケ原といい、もとの城山神社の跡であると伝えられている。現在の城山神社(坂出市府中町西山)は城山の東麓にあって讃岐国造の始祖神櫛王《かんぐしおう》が祭られている。山頂の明神ケ原には五、六個の巨石が並立しているが、むかしの人には、直立した石や珍奇な石を崇敬する風習があったところから、この巨石が明神ケ原の聖域性を高め、城山神社とともに信仰の対象とされていたものであろう。
だいぶ長くなったが、もう少し、同『――歴史散歩』には「城山の長者伝説」というのが紹介されているので、それもここに引いておくことにしたい。これもその背景には、ある歴史的事実があると思われるからである。
城山城跡を長者が住んでいた屋敷跡として伝える伝説がある。それによると、いまの土塁・石塁のあとに塀をめぐらし、車道はその散歩道で長者がその娘に足の不自由な娘がいたので車に乗せて引いたところ。俎石《まないたいし》は料理に、ホロソ石は米や麦をつくときの支点にした支柱石であり、水門は屋敷内の排水口である。また明神ケ原はその祖神を祭ったところであるという。
さて、いろいろとみてきたが、まず、古代朝鮮式のそれであった城山山城跡には、「本県のあけぼのを示す先土器時代の貴重な遺跡があ」り、そこから「ブレイド(石刃)」や「ハンドアックス(打製の握槌)」などが発見されているということがある。これは、六車恵一氏が「遺物の方で讃岐から出ている朝鮮系のもので古いのは磨製石剣です」といっている(上田正昭氏らとの座談会「讃岐の古代文化」)。それと、讃岐となったこの稿のはじめでみた、綾歌郡綾歌町でみつかった「朝鮮製の鉄斧」とも見合うものではないかと思う。
百済系綾(漢)氏の生活跡
綾歌町は坂出市の南となっているところであるが、それはともかくとしても、城山山城跡からは「弥生式土器、古墳時代の土師器・須恵器(祝部土器ともいう)なども出土し、それらからこの城山が長い間にわたっての人びとの生活の中心地であったことがわかる」とあるが、では、その人びととはいったいどういうものたちだったのであろうか。読者はもう気づいていることと思うが、それはさきの「讃岐の高松へ」「石清尾山古墳群と秦氏」などの項でみた百済・安耶系渡来人の綾(漢)氏族を中心としたものたちにほかならなかった。
それは城山神社の祭神が綾氏族の祖神という「神櫛王」であることからもわかるが、つまり、その遺跡として石清尾山古墳群に代表される東讃は新羅・加耶系渡来の秦氏族、城山山城に代表される中讃は綾(漢)氏族が中心となっていたわけだったのである。
市原輝士・山本大氏の『香川県の歴史』には「綾氏は、もと讃岐国阿野郡の豪族である」とあり、また、六車恵一氏は「綾氏の謎を解かないかぎり、讃岐の古代史は解けないと思うんです」(前記の座談会「讃岐の古代文化」)とのべているが、だいたい、いまの坂出市、国分寺町、綾南《りようなん》町など、綾川流域となっているところはもとは阿野《あや》郡だったもので、それがのち隣りの鵜足《うたり》郡と合併して綾歌郡となったのであった。
讃岐国府や国分寺・国分尼寺などが集中していた阿野郡(平城京出土の木簡には阿夜郡となっている)の阿野《あや》とは、秦氏を新羅・加耶系というのと同じ加耶諸国のうちの一国だった安耶《あや》(阿耶)ということからきたもので、それが綾《あや》・漢《あや》という氏族名ともなったのであった。そのように同じ加耶であるのに、なぜ秦氏を新羅・加耶系とし、綾(漢)氏を百済・安耶系としているかというと、いまの韓国・慶尚南道を中心としていた加耶諸国(六加耶ともいう)はその成り立ちのころから、東からは新羅、西からは百済に攻めたてられてある時期は新羅となり、ある時期は百済となりして、ついに五六二年、新羅に吸収されてなくなったが、綾(漢)氏族は、その安耶国が百済となっていたころに渡来したものとみられるからである。
百済・安耶の漢氏としては、大和の飛鳥を中心とした高市郡の人口の八、九割を占めていたという(『続日本紀』宝亀三年条)東《やまとの》(大和)漢氏族が有名であるが、しかしながら讃岐の綾氏族は、城山山城跡からの出土品などからして、大和の漢氏族よりはずっと早く、もしかしたら、百済となる以前の安耶から渡来したものたちだったかも知れない。
それはどちらにせよ、「阿野郡に在る城山城址を原始時代の阿野郡の豪族綾氏に帰するのは尤もな次第である」(福家惣衛『城山の観光と史跡』)。この綾氏族は相当な繁栄・繁衍《はんえん》をきたし、「大化改新によって国司を置かるるに当り、綾氏の居館付近に国司庁を設け、城山を其の要城とした」「文武天皇の大宝律令発布の結果、諸国に軍団を置き、烽火台を設けたるとき、城山の東麓坂出市府中町に阿野軍団を置き、聖通山上に烽火台を設け、城山を以て軍団の要城としたようである」(同上)ほどになった。
人口も増えて、綾氏からはのち香川、新居、滝宮、福原、羽床、那珂などの諸氏族が分かれでているが、一方、その綾(漢)氏族は播磨(兵庫県)にまでひろがることになった。そのことについては、吉野裕訳『風土記』『播磨国風土記』にこうある。
漢部《あやべ》の里 土は中の上である。
右、漢部と称するのは、讃芸《さぬき》国の漢人《アヤビト》らがこの処にやって来て住んだ。だから漢部と名づける。
漢部《あやべ》の里 多志野・阿比野・手沼川。
里の名は上記したところで明らかである。
少宅《おやけ》の里 (もとの名は漢部の里である。)土は下の中である。
漢部《あやべ》とよぶわけは、漢人《あやびと》がこの村に住んでいた。だからそれで名とする。後にこれを改めて少宅《おやけ》というわけは、川原若狭《かわらのわかさ》の祖父が少宅《おやけ》の秦公《はたのきみ》の女《むすめ》と結婚して、やがてその家を少宅とよんだ。後になって若狭の孫の智麻呂《ちまろ》が任じられて里長《さとおさ》となった。これによって庚寅《かのえとら》の年(六九〇年)に少宅の里とした。
このように、古代でも人はあちこちへと動くものであったから、東讃は秦氏族、中讃の中心は綾(漢)氏族、また西讃の大麻山周辺は忌部《いんべ》氏族が中心といっても、それはあくまでも「中心」となっていたということであって、それぞれの氏族が、そのように画然と分かれていたわけではない。なかでも、東讃の石清尾山地に三〜四世紀の前期古墳をのこしている秦氏族がやはり大きく、これなどは中讃から西讃にまで色濃く分布していたようである。
琴平の金刀比羅宮まで
丸亀の近藤末義翁のこと
城山をあとにした私たちは、その南の綾南町や綾歌《あやうた》町をへて、讃岐富士といわれる飯野山を右手に見ながら、土器川を渡って丸亀市域にはいった。綾南町では町教育委員会をたずねて、社会教育主事の田中正博氏から、『十瓶山西二号窯・大師堂池一号窯』という発掘調査報告書をもらい受けたり、また、通りがかりにみた綾南町立陶《すえ》小学校に河野一夫校長をたずねてみたりした。
いまみた「十瓶《とかめ》」「陶」という地名からもわかるように、綾南町は古代の陶器《すえうつわ》、すなわち須恵器の生産地として知られたところであった。しかし、それの最盛期は平安時代だったようで、発掘調査報告書にある窯跡から出土した須恵器片の写真をみても、それはうなずけた。どういうわけか、その時期のものは古い時代のものより、金属質のぴんとした硬さを失って退化しているのである。
そういうことで、そこはあまり深入りしないで丸亀市域にはいったわけだったが、丸亀市といえば、私にひとつ思いだすことがある。それは同市城東町に住んでおられた、近藤末義翁のことである。
私は一九七〇年に、古代遺跡紀行シリーズ『日本の中の朝鮮文化』第一巻をだし、ついで翌々年に第二巻目をだしているが、それから間もなく私は、それを読んでくれた右の近藤翁から懇切な手紙をいただいた。近藤翁は旧版『高松市史』の編集に従事し、のち高松市刊の『高松地名史話』を書いた人で、讃岐の香川県を調べて歩くときは、「当年八十六歳になりましたが、幸いまだ老健、耳目、談話共に何等差支えありません」から是非連絡してくれ、あちこち案内してあげる、というものだった。
讃岐のことでは、高松市錦町に住む勝本倫生氏からもいろいろな資料を送ってもらっているが、その後も近藤翁からは前記『高松地名史話』ほか、「香川県下における朝鮮文化の記録、地名、苗字など」をこまごまとメモしたものまでもらっている。ばかりか、さきに引いた福家惣衛氏の『城山の観光と史跡』も同翁がおくってくれたものであるが、当時の私はまだ、四国の讃岐までこうして歩くことになるとは考えていなかったので、そのままにしてすぎてしまったものであった。
そして十年ほどがたった一九八〇年か八一年のこと、私は高松市で講演をする機会があって、そこで近藤翁のことにちょっとふれたところ、「わたしはその近藤先生の教え子です」という人がいて、近藤翁は四、五年まえに亡くなったとのことであった。それまで生きておられたとしたら、九十五、六歳になっていたはずで、「ああ、そうだったのか」と私は思ったのだったが、何とも申し訳ないような、残念な気がしてならなかったものである。
その申し訳ないような残念さは、いまも変わらない。私は「いずれ讃岐へ行ったときは――」というような返事をだしたらしく、いま、近藤翁からの手紙の一つを開いてみると、おわりのほうにこういうくだりがある。
早速、忘年の友市原〈『香川県の歴史』などの著者である市原輝士氏〉、宮田〈高松市立図書館司書で写真家の宮田忠彦氏〉両氏にも連絡しておきました。御来讃の節は御案内させて頂き度、御待ち申し上げております。何れ少々時間もあることと思われますので、それまでにさらに資料を整理しておきます。老拙、幸い陽春と共に元気回復、全く老を忘れて張り切っています。
私としてこんなありがたいことはなく、いま思うと胸に迫るものがある。もし私が近藤翁に会っていたとしたら、この紀行はもっと充実したものとなったのではないかと思う。が、それはもう叶《かな》わぬので、翁が私に書き送ってくれた「香川県下における朝鮮文化の記録、地名、苗字など」のメモをここにかかげておくだけとするよりほかない。
一、朝鮮式山城址、高松市屋島城、坂出市城山《きやま》城
二、古代讃岐国司、員外介
讃岐守百済王敬福(天平神護二年六月壬子薨)
讃岐員外介百済王敬徳(延暦八年二月任)
(註)右の屋敷跡と称せられる「韓《から》屋敷」の地名現存
三、「帰来」の地名、もと宮内省御用掛猪熊信男翁は「帰化人の住居地」と唱え、帰化人の業績につき種々の示教あり(今は故人)
高松市高松町(もと古高松村、その以前は帰来村)帰来橋あり
帰来神社、高松市太田町、多肥町の境界の小祠
帰来の小地名、大川郡白鳥町、綾南町滝宮(は喜来)、観音寺市岡本
四、秦氏関係
高松市檀紙町に半田の苗字多し、半田の他、高松市の戸籍簿に八十余戸
綾歌郡綾上町に半田山、秦氏の名族あり
五、綾氏関係
綾歌郡の郡名は綾(漢《あや》)より出たといい、綾織塚(古墳)呉羽神社などあり
村主《すぐり》の苗字を名乗る家が高松市円座町にある、古代の特産物―檀紙、円座の調を示すものに檀紙町、円座町がある
六、秦、綾氏より出た古代の学者、名僧
秦道昌、仁皎、観賢僧正(名僧)
秦直宗、同直本、惟宗《これむね》善経、同公方、同允正、同允亮(学者)
七、その他の秦姓
秦勝倉下、秦久勝、秦公福依、秦公福益、秦久利、秦晴親(秦勝倉下の嫡孫従六位上秦公福依の後裔にして、大宮司に任ぜられて一宮の城主たり)
八、唐渡《からと》、唐戸氏を称する一族あり、共に香川郡、その他は略しますが、大体高松市に近き中讃地方
九、丸亀市川西町に「吉士部呼島」、正倉院に記録あり
以上、このメモを書き送ってくれた近藤翁のこともあって、私は丸亀市の教育委員会にも寄ってみたいと思っていた。しかし、もう日暮れとなっていたので、私たちはそのまま善通寺市へはいり、さきにみた金蔵寺町の新羅神社や、木徳町の新羅神社などをたずね歩いた。そして善通寺市南方の琴平町まで行き、そこのプリンスホテルなるところで一泊することにした。
善通寺市の古墳
翌日も快晴にめぐまれた私たちは、琴平の金刀比羅宮はあとのことにして、さきに善通寺市の教育委員会をたずねた。社会教育課長の飛田和幸氏と同課長補佐の饗庭健氏とに会って、『善通寺市史』をみせてもらったり、『王墓山古墳調査概報』などをもらい受けたりした。
善通寺市は、弘法大師がそれからでた佐伯氏の氏寺だったとされる善通寺や、それから旧日本陸軍の第十一師団がおかれていた「軍都」(いまは自衛隊)として知られているが、そのためかどうか、案外、知られていないものに同市の古代を語る古墳がある。まず、『善通寺市史』「古墳時代」によってみると、そのことが古墳時代の開幕ということともあわせてこうある。
善通寺市内には古墳が多数ある。調査によれば四〇〇基を超えている。当市は県下でも最も多い古墳地帯の一つに挙げられており、遥かなる祖先以来の古墳文化を守りつづけて、歴史の中で繁栄した善通寺市民は幸福であり、栄誉でもあった。この栄誉をまもり、更に将来へ発展せしめるため、市内の古墳に充分な保護を加える義務がある。
古墳は、古代社会の代表者を埋葬した墳墓である。古代文化を究めるために今残されている最も大切な文化財である。……
古墳は、地上に高く目立つ様に土を盛上げて高塚をつくっている。高塚古墳は弥生時代既に発生して、市内にもその遺跡がある。しかし弥生時代は一般的に甕棺、シストの如く地表へ形象を何一つ留めなかったものがいつしかマウンドがはっきり見える様に造り始めた。例えば、市内字尾崎の奥の戸の兵隊山古墳がそれである。しかし、このマウンド内部はやはり、従来のシストそのままであった。このシストは庶民の土壙墓と異り、屍体を置くために、石を組合わせて棺としたもので、すなわち首長埋葬のために地中へ石棺をしつらえて、後世へ残る施設としているのである。
それが何時しか此の上に盛土《もりつち》が出来て塚を造りはじめたのである。何故か。日本本来の思想に無かったはずのものが、にわかに現われ出した裏面に、我が国と朝鮮半島との文化交流が始まっていた事に気付くのである。すなわち古墳時代は朝鮮半島を通じて、又新しく大陸文化が導入された時で、此の文化に随伴して伝来した土器があり、この灰色の土器を須恵器と呼んだ。〈傍点も原文〉
「遺物ザクザク」の王墓山古墳
「日本本来の思想」とはどういうことか問題となるであろうが、それはおいて、善通寺市におけるその古墳のうちの代表的なものが五世紀末か、六世紀はじめのものという王墓山《おうばかやま》古墳であった。横穴式の前方後円墳で、一九八二年二月二十四日の読売新聞(大阪)に、「わが国初の『冠帽』出土/豪族の権威象徴/善通寺市の王墓山古墳」とした見出しの記事がでており、また、同年三月三日の同新聞・香川版にも、「一五〇〇年前の遺物ザクザク」という記事がのっているが、この古墳からは実にたくさんの遺物が出土した。
『王墓山古墳調査概報』の「遺物の出土状況」によってみると、それはこういうふうである。
石室より検出された遺物は、種類・数量ともに豊富で、質的にも豪華である。金銅製冠帽を始めとして、馬具にも金銅製(鉄地に金銅張り)のものが多い。他に膨大な量の須恵器や鉄製武器(具)、装身具など、目を見張るばかりの出土である。これらの遺物は、石室全面をくまなく埋めていた。
ところで、遺物の分布をつぶさに観察すると、ある特徴に気づく。須恵器は、玄室南側部分から集中的に出土した。平瓶を除いて、ほぼすべての器型が認められる。鮮麗優美な透し付器台を始め、脚台付き子持ち壺、提瓶、横瓶、《はそう》などさまざまな種類のものが雑然と重なり合うさまは圧巻である。状況から判断して、二次的移動は疑いない。また、玄門部閉塞扉石前に坏が三セットで置かれていた。
馬具及び鉄製品は、玄室奥壁付近に山積していた。金銅製の馬具や馬鈴、挂甲など一塊をなして検出された。その中に鉄鏃が多数含まれていたのも注意をひく。
屋形内は、何といっても金銅製冠帽がきわだっている。床面上にある落壁の上に置かれていたことから、原位置が保たれていないのは惜しまれる。また、屋形内からも、馬具や須恵器類が検出されている。馬具としては、鉄地金銅張りの鏡板付轡《くつわ》や鉄製輪鐙《あぶみ》があり、須恵器には高坏、などが見られる。さらに内部一面に敷きつめられている玉砂利の間からは金環、銀環を始め、水晶製切子玉、碧玉製管玉などの装飾品が多数出土した。
なおつづけて、同『王墓山古墳調査概報』の「出土遺物について」をみると、出土遺物それぞれの写真をかかげて、くわしい説明を加えている。たとえば、こういうふうである。
2、装身具 (1)金銅製冠帽
非常に薄い四枚の三角形状被覆板は頂部からの細い金銅板(四本)で押えられ、鋲留めされている。縁部は中央に密な連珠文風模様を配した帯で縁取られる。折り返しではないようで、一部に糸状の布が付着している。表面は、金銅の金箔が一五〇〇年の眠りから目覚めたように光輝を放っている。左右二七・〇センチ、上下一七・〇センチ。
これは南部朝鮮の加耶古墳から出土しているそれと似た冠帽であるが、その「出土遺物について」の「3、須恵器 (1)器台 (2)脚台付子持ち壺」などは写真のほか、善通寺市立郷土館まで行ってその実物もみたが、これは陶質土器ともいわれる加耶土器そのもののように思われた。奈良教育大学の三辻利一氏らがおこなっているX線胎土分析によると、古い須恵器は、朝鮮渡来の工人たちによってこちらでつくられたものばかりでなく、そのうちの約二割は直接朝鮮からもたらされたものだとのことであるが、王墓山古墳出土の須恵器のあるものは、確実にその二割のうちにはいるものにちがいなかった。
ということは、王墓山古墳の被葬者がどこから来たものであるかをしめすものであるが、それはまた、これからみる地域的には善通寺市といっていい琴平町の、通称「金毘羅《こんぴら》さん」といわれる金刀比羅宮ともかかわることなのである。
私たちは善通寺市から、金刀比羅宮の門前町である琴平町へ戻って、その金刀比羅宮をたずねることにしたが、途中、その麓に王墓山古墳がある標高六一六メートルの大麻山が見え、こちらの麓には大麻神社があった。これはさきの阿波(徳島県)でみた(「『阿波人の祖』忌部氏とは」の項)と同じ、高句麗からの渡来とみられる忌部氏の祖神を祭ったものだった。
大麻山や忌部神社は西讃の三豊郡豊中町にもあって、同町の妙音寺からは、県下最古という高句麗様式の十一葉素弁蓮花文鐙瓦《あぶみがわら》が出土している。また、六車恵一氏によると、「三豊平野の観音寺の鑵子塚古墳からは朝鮮に多い環頭大刀が二本出ていて、とくに小さい方が朝鮮製である可能性が強いです」(前記の座談会「讃岐の古代文化」)という。
金刀比羅宮のもとは秦氏族の神社だった
さて、金刀比羅宮であるが、象頭山《ぞうずさん》の中腹に本宮がある金刀比羅宮は、その本宮にいたるまでの参道石段からして、私などにはめまいをおこさせるようなものとなっていた。両側にいろいろなみやげ物店がぎっしりと詰まっているその石段は、楼門までが三百六十五段、本宮までは何と千三百六十八段あるとのことだった。
それで、楼門まで登った私たちはそこで引き返してしまったが、前記『香川県の歴史散歩』によってみると、金刀比羅宮はこういうふうになっている。
本殿は象頭山の中腹、海抜二五一メートルのところにあり、麓から御本社までは石段を一歩一歩ふみしめての登拝である。参道の両側には無数の灯籠や玉垣があり、そのなかに全国各地からの報賽者の名前が刻まれ、御祭神大物主神への敬虔な祈りをささげた。お伊勢詣りとこんぴら詣りの大衆信仰は、いまなおつづいており、年間三六〇余万人をこえるといわれている。
神社の創祀についての古記録はなく詳細は不明である。社伝によると、インドの王舎城の守護神である金毘羅神が当地に垂迹《すいじやく》(かりに姿をあらわすこと)し、金毘羅大権現と称したこと、また早くから大物主神をまつり、平安のむかしから信仰をあつめていたともいう。……
それ以後、代々の金光院別当の力によって朝野の信仰をあつめ、上方からの参詣者のための便船が大坂道頓堀かいわいより出帆して丸亀に着き、街道の茶屋に小休止を重ねながら、常夜灯、丁石をたよりに琴平への旅をした。
明治時代になり、神仏混淆《こんこう》が廃止され、社号は琴平神社・金刀比羅宮・事比羅宮などの変遷があったが、一八八九(明治二二)年、現在の金刀比羅宮となった。
いろいろなことがあったとみえて、「神社の創祀についての古記録はなく詳細は不明である」とあるが、しかし、千葉嘉徳氏の「讃岐のなかの渡来文化」によると、「古書には創祀のころ、人々は旗宮《はたのみや》としてまつったとしているようで、この秦神社にその後金毘羅大権現や大物主神などをまつり、平安のむかしから広く信仰をあつめていたといわれる」とある。
つまり、金刀比羅宮のはじめは新羅・加耶系渡来人である秦氏族の神社だったというのであるが、これがそのこととどうかかわるのか、『備後叢書』「深津郡」にこういうくだりがある。「宿《しゆく》というアサあり、昔牛馬市立《たち》たる所なり。胡《えびす》の社ありて神体は加羅〈加耶と同じ〉にて刻《こくし》たる一尺余の像なりしが、讃岐へ盗《とら》れ、其跡《そのあと》に地蔵を建置けり。件《くだん》の胡、金毘羅の市中に勧請《かんじよう》す。是《これ》より金毘羅、弥増《いやまし》に繁昌すといえり。胡をぬすまれたる(はの字を脱せるか)元禄の頃の事也」
金刀比羅宮の成立ちからみて、「元禄の頃の事也」とはあまりにも新しいが、しかし「加羅にて刻《こくし》たる一尺余の像」の神体は、ずっと古くからのものであったにちがいない。いずれにせよ、新羅・加耶から渡来した秦氏族の神社の神体が加耶でつくられた神像とは、後になってからでもそのようにしそうなことなので、いろいろな意味でたいへんおもしろい。
あとがき
四国(阿波・土佐・伊予・讃岐)となっている『日本の中の朝鮮文化』シリーズ第九巻目の本書は、一九八四年八月刊の『季刊 三千里』第三十九号から、八六年五月刊の同誌四十六号まで連載したものである。もちろん本書(単行本)となるに際してはさらに加筆しているが、四国はいろいろな意味で、たいへんおもしろいところであった。
というより、そうして歩いてみることで、日本の古代史がますますおもしろくなった、といったほうがいいかも知れない。このばあいの日本古代史とは、古代朝鮮との関係史であるということはいうまでもない。
要するに、いたるところ古代朝鮮から渡来した人たちがのこした文化遺跡で、そのうちでも私としてとくに印象的だったのは、新羅・加耶系渡来人の秦氏族がつくっていた「波多国」(現・高知県幡多郡)が土佐(高知県)にあって、それが阿波(徳島県)にまで波及していたことや、百済系渡来人の越智氏族などによって祭られていた伊予(愛媛県)大三島の大山祇神社などだった。
古代日本最大の氏族であった秦氏族の遺跡は、これまでも何度かみているし、また次の第十巻目となる北部九州でもみることになるが、「大三島の大山祇神社」の項に書いた三島神ともいわれる大山祇(積)神の発祥地である大三島をたずねることができた意味は大きかった。そのことで私は、三島(御島)とは朝鮮ということの「異称」であり、「郷里」ということであるということも初めて知ることができたのであった。
そしてさらにまたおもしろかったのは、その「三島」が朝鮮ということの異称であり、郷里であるということが、「讃岐の新羅神社」の項にみられるように、讃岐(香川県)善通寺市木徳町の新羅神社の祭礼である「須佐之男命の朝鮮渡りの船神楽」にまだ生きていることであった。こんどはそれを直接みることはできなかったが、私はいずれ、毎年「春四月十八日、十九日、秋十月二十三日、二十四日」におこなわれているというその祭礼をみに行きたいと思っている。
このように一、二度行ったところでも、また行ってみたいところが少なくないが、さらにまた、そこのことを書いたのちになって新たに発見された、というものもある。たとえば、いまみた百済系渡来人の越智氏族が大山祇神社を氏神として展開していた伊予・越智郡のばあいであるが、一九八六年一月二十九日の朝日新聞・愛媛版をみると、「百済形式のかわら見つかる/白鳳時代に渡来? /四国では初めて」という見出しのこういう記事がのっている。
白鳳時代(七世紀後半―八世紀初頭)に朝鮮半島から伝わってきたと思われる百済(くだら)形式のかわら〈瓦〉が、越智郡朝倉村本郷の農業渡辺登さん(七八)方に保管されていることがこのほどわかった。百済形式のかわらは大阪、京都などで見つかっているが、四国では初めて。
保管されているかわらは三片で、元の三分の二程度。一番大きなものは縦十・五センチ、横十二センチ、幅約二センチ。復元すれば直径十九センチの大きさになる「軒がわら」だった。
百済形式とみられる根拠は(1)中央の「中房」が突き出ている(2)花弁と中房の間に一重の溝がある(3)花弁の先端が盛り上がっている(4)花弁同士が下の部分で接触している(5)花弁の中央線が山形になっている(6)中弁がくさび形をしている(7)花弁内側の中弁が線で表現してある、など。
おそらく、越智氏族の氏寺となっていた寺院の軒瓦ではなかったかと思う。そうだとすると、「国分尼寺の遺構か/今治/柱穴十二個見つかる/布目瓦も出土」と一九八六年七月二十九日の愛媛新聞にあるようなかたちで、やがてその遺構も見つかるかも知れない。
四国となったシリーズ第九巻目の本書は、さきの第八巻からは二年ぶりであるが、一九七〇年十二月に出た第一巻からすると、十六年近くがたっている。その間、私は日本各地を歩きまわり、次の第十巻目は対馬などを含む北部九州となり、第十一巻目は沖縄などを含む南部九州となるので、今年の夏の終わり沖縄をもたずねているから、これで日本全国、行っていない地方はほとんどないことになった。
実際に書きおわるまでにはまだ、その地を何度かたずねなくてはならないが、それにしても、その古代遺跡紀行であるこのシリーズがこうしてつづけて出ることになるのは、講談社専務取締役の加藤勝久氏をはじめ同社取締役の大村彦次郎氏、学芸図書第二出版部長の田代忠之氏、池田公夫氏らの理解と努力とによるものである。それからまた、たくさん引用されている文献などをいつも厳しくチェックしてくれている同社校閲部のみなさんや、木村宏一氏の努力に負うところも大きい。
ここにしるして、心から感謝の意を表したい。
一九八六年九月 東京
金 達 寿
文庫版への補章
支石墓と前期古墳ほか
九州から四国への朝鮮渡来ルート
本書『日本の中の朝鮮文化』第九巻の親本である四六判のそれが出たのは、一九八六年九月であったから、いまからすると六年ちょっと前である。その間、私はこの補章のため、いろいろな資料を集めてきたが、新聞記事のそれだけでもかなりの量になる。
それはそれとして、その前にここでひとつおことわりをしておかなくてはならない。というのは、本書の補章では、さきの親本とは別のかたちでみて行くということである。つまり、親本では阿波(徳島県)、土佐(高知県)、伊予(愛媛県)、讃岐(香川県)と、太平洋側からの順でみて行ったが、ここではその順序をかえて九州寄りの伊予、讃岐、土佐、阿波、というふうにみるということである。
だいたい、古代日本の渡来文化は、九州から瀬戸内海へ、というのがひとつの主要な通路《ルート》となっていた。北陸や東北など、いわゆる環日本海ルートも重要ではあるが、九州から瀬戸内海(沿岸)へ、というそれの重要性を私があらためて知ったのは、四国や九州の各地を歩いてみた結果である。
その九州にしか分布していないとされていた支石墓が、伊予の大洲市で発見されていることからも、それはよくわかる。一九九一年八月十七日付けの愛媛新聞によると、「四国初の支石墓か/巨石墳墓二基を発見/大洲・冨士山」とした見出しのもとに、そのことが次のように報じられている。
朝鮮半島から伝わったとされる支石墓(しせきぼ)とみられる巨石墳墓二基がこのほど、大洲市冨士山で見つかった。日本では九州全域に分布しているが、四国地方で発見された報告はなく、考古学関係者の間で注目されている。
支石墓は中国、朝鮮半島、九州に広く分布する巨石墳墓のひとつ。支石の上に平たい大石をかぶせ、墓にしている。日本には農耕技術とともに伝わったとされ、福岡、長崎、熊本、佐賀、大分県で縄文時代晩期から弥生時代中期の墓が確認されている。墓からは甕棺(かめかん)、鏡、土器類などが出土している。
県考古学協会会員の宮田正秀さん(三三)=松山市内宮町=が七月末、冨士山に調査に出掛け、支石墓らしい二基を発見。今月八日、同会員の今井信太郎さん(七七)=今治市郷桜井三丁目=と再度現地へ行き、再調査した。
見つかったのは冨士山の山頂南から約三十メートル下った遊歩道沿い。二基とも亀甲(きっこう)形で、表面はノミで粗削りした跡がある。大きい磐石は長さ約二メートル、幅一・二メートル、厚さ約五十センチ前後、小さい方は長さ約百八十センチ、幅一メートル、厚さ四十センチ前後。四隅をそれぞれ直径五十センチ前後の石が支えており、今井さんらは「弥生時代中期の支石墓」とみている。
広瀬和雄・大阪府立弥生文化博物館学芸課長は「磐石を人の頭ほどの石が支えているなど、見つかった巨石は朝鮮南部から伝わった支石墓の可能性が高い。渡来人が埋葬され、石の下から石棺や石の矢じりが出てくることも考えられる」と評価。
町内に支石墓約六十基が確認されている福岡県前原町の岡部裕敏・町教委文化課主事は「九州以外で支石墓が見つかった例は聞いていない。大分にも弥生中期の支石墓があり、隣接する愛媛県の南予地方に実在しても不思議ではない」などとしている。
大洲市立博物館の山本数道学芸係長は冨士山は信仰の山とされ、現在も山頂付近には巨石が散在している。支石墓かどうか、市としても調査してみる必要がありそうだ」と話している。
なかなか重要な記事なので全文をみたが、ここにいう「町内に支石墓約六十基が確認されている福岡県前原町」は、いわゆる『魏志』「倭人」伝にみられる「伊都国」だったところである。
支石墓とは
なお、支石墓とはどういうものであったかについてもう少しみると、『九州歴史資料館/総合案内』「墓」の項にそのことがこうある。
弥生時代の社会や文化を復原する資料に墓がある。稲作を日本に伝えた朝鮮半島の人びとはあたらしい形式の墓、支石墓を同時に伝えた。
古墳時代にはいってから伝わった横穴式石室がそうであるように、もちろんその「墓」も支石墓ばかりではないが、それはともかく、当時の朝鮮には実に支石墓が多かったようである。現在でさえ、朝鮮南部の全羅南道地域だけで、それが一万三千余基も残っている。
伊予で新たに発見されたのは、そんな支石墓ばかりではない。これも、これまではないとされていた前期のいわゆる前方後円墳も見つかっていて、一九九二年七月十五日付け読売新聞(大阪版)をみると、「愛媛に最古の前方後円墳/妙見山古墳/邪馬台国『畿内説』を補強/出土土器/箸墓(奈良)と同時代/愛媛大調査」とした一面トップの大見出しで、そのことがこうある。
瀬戸内海に臨む愛媛県大西町の「妙見山古墳」が、出土した土器の特徴などから、三世紀後半から四世紀初頭に築造された最古級の前方後円墳であることが、十四日までに同町教委などの調査で明らかになった。前方後円墳は大和で発生したとされ、同時期のものは「卑弥呼の墓」ともいわれる箸墓古墳(奈良県桜井市)などほとんどが大和に集中。これが「邪馬台国畿内説」の支えになっているが、今回の発見は大和の勢力が、成立期すでに四国にまで及ぶ巨大なものだったことを示し、「畿内説」に有力な根拠を与える画期的なものとなった。町教委は、十六日から竪穴(たてあな)式石室の内部調査を始めるが、未盗掘の可能性が高く、その成果も注目される(三〇、三一面に関連記事)。
長い記事なのではじめのイントロ部だけ引いたが、この記事でまずひとつ疑問に思うのは、それがどうしてすぐに「邪馬台国『畿内説』を補強」することになるのか、ということである。いうならば、これも大和中心史観、あるいは大和中心思想からきたものではないかと思う。
謎の特殊器台
私としては、邪馬台国のあったところが九州か、畿内か、それはどちらでもよいが、ただひとつはっきりいえることは、三、四世紀のそのころ、「大和の勢力が、成立期〈というのも問題であるが〉すでに四国にまで及ぶ巨大なものだった」とは考えられないということである。さらに読売新聞の「関連記事」のひとつの見出しは、「空白の古代に“新証人”/愛媛の妙見山古墳/復元『特殊器台だ』/パズル解き緊張感走る」となっていて、その「特殊器台」についてはこう説明されている。
特殊器台は、壺などを載せる道具が祭祀(さいし)用に変化した筒型の土器。妙見山古墳から出土したのは、高さ推定三十六センチ。胴部分に三角、四角、丸などの透かし彫りがあり、表面には鋸歯(きょし)文が描かれていた。
特殊器台が古墳から出土したのは、箸墓古墳や奈良県天理市の西殿塚古墳など、三世紀末から四世紀初頭にかけての最古級前方後円墳に限られている。さらに、壺型土器も、口縁部や張り出し部分が「庄内式土器」と「布留式土器」の中間的な特徴を持っており、三世紀末のものとみられることや、墳丘の前方部が「バチ型」であることもわかった。
いうところの前期古墳の条件をそなえたものであることはこれでわかるが、ところで、これは邪馬台国がどこであるかということとは関係なく、「庄内式土器」と「布留式土器」の中間的特徴を持つという「特殊器台」とは、いったいどういう土器であったのだろうか。
私は最近、奈良・天理市の布留遺跡をたずねて、そこから出土した南部朝鮮・加耶からの陶質土器や、いわゆる韓式土器などとともに「布留式土器」というのをあらためて観察する機会があったが、要するにそれは、韓式の陶質土器といったものであった。新聞にはその破片の写真しか出ていないのでよくわからないけれども、それは多分、布留遺跡出土の器台埴輪のようなものではなかったかと思われる。
四国ではじめて発見された支石墓と、前期の前方後円墳である妙見山古墳とをみたが、あともうひとつ、これも「四国では初めて」というのをみておくことにしたい。
百済形式のかわら
一九八六年一月二十三日付けの朝日新聞(愛媛版)に、「百済形式のかわら見つかる/白鳳時代に渡来? 四国では初めて/朝倉の農家保管を確認」とした見出しの、こういう記事が出ている。
白鳳時代(七世紀後半―八世紀初頭)に朝鮮半島から伝わってきたと思われる百済(くだら)形式のかわら〈瓦〉が、越智郡朝倉村本郷の農業渡辺登さん(七八)方に保管されていることがこのほどわかった。百済形式のかわらは大阪、京都などで見つかっているが、四国では初めて。
保管されているかわらは三片で、元の三分の二程度。一番大きなものは縦十・五センチ、横十五センチ、幅約二センチ。復元すれば直径十九センチの大きさになる「軒丸がわら」だった。
百済形式とみられる根拠は(1)中央の「中房」が突き出ている(2)花弁と中房の間に一重の溝がある(3)花弁の先端が盛り上がっている(4)花弁同士が下の部分で接触している(5)花弁の中央線が山形になっている(6)中弁がくさび形をしている(7)花弁内側の中弁が線で表現している、など。
同時代のかわらは川原寺式や法隆寺式など国内四つの系統と朝鮮から渡来した系統とがあるが、特に愛媛は法隆寺式が多く、一部川原寺式も見つかっていた。
かわらを確認した新居浜市久保町二丁目、同市立新居浜中学校教諭山内薩夫さん(三五)によると、『日本霊異記』に越智直(おちのあたえ)という人が「百済の役」(六六三年)に出兵、帰国後に越智郡に寺を建てたという記録がある。百済形式のかわらがあっても不思議ではないという。
奈良国立文化財研究所平城宮発掘調査部の話 白鳳時代のかわらは大阪や京都を中心に広島などでも一部見つかっているが、四国から出たケースはこれまでになく、大変興味深い。今後の寺院の研究に貴重な資料となる。
ここにいう「『百済の役』(六六三年)」とは、百済滅亡時の救援軍がおこなった「白村江の戦い」のことであるが、しかしそれより、本文の「大三島の大山祇神社」の項にみられるように、以前からこの越智郡は百済から渡来した大山祇神(「上古の時、神といいしは人なり」新井白石『東雅』)を祖神とする氏人たちが、広く居住していたところであった。いまみた「越智直(おちのあたえ)」はもとより、瀬戸内海を中心として活躍した河野、村上水軍など、みなそれから出たものにほかならなかった。
右の記事は本文「あとがき」で触れていることを忘れていたので、重複ともなったが、一方、一九九二年七月八日付けの愛媛新聞をみると、「ナゾの船に興奮/樽味高木遺跡の絵画土器出土/卑弥呼の時代 松山平野の重要性裏付け/精密 線はリアル」とした大見出しの、水軍関係の記事が出たりもしている。そのはじめとおわりの部分だけ、ちょっとみると、こうなっている。
“なぞの船”の正体は? ――七日発表された松山市の樽味高木遺跡の船の絵画土器は、極めて精密に描かれており、しかも西瀬戸では初めての出土。発掘の調査員らは驚きを隠せなかった。……
△武装船に似ている
石野博信・徳島文理大学教授(考古学)の話 人の足を二本線で描くようなち密な絵は当時の日本では初めてではないか。全体が分からないので断定はできないが、櫂(かい)が船体から突き出たような形になっており、当時中国にあった武装船に似たものだったかもしれず、十人以上が乗り組む大型船とも考えられる。
なお伊予では、喜多郡長浜町の元牧師だった郷土史家の堀井順次氏から、本文の「永納山城跡をたずねる」の項でみた、産金・産銅にたずさわった秦氏族についてのかなり精密な論考である「伊予の豪族秦氏の命運」などをおくられたが、それはまた別の機会にということにして、ここらで次の讃岐ほかへうつらなくてはならない。
鬼面柄頭と最古の須恵器
鬼面のある円頭大刀
讃岐となるとまず、朝鮮の遺跡からも出土例のない、その朝鮮の百済から渡来した円頭大刀の鬼面柄頭がある。このことが判明したときの各新聞は、いっせいにそれを大きくとりあげたもので、たとえば、一九九〇年四月七日付けの朝日新聞は、「円頭大刀の柄頭に鬼の顔/香川県の母神山古墳群/金と銀をはめこみ象眼」とした見出しのもとに、そのことをこう報じている。
香川県観音寺市の母神山(ははがみやま)古墳群から明治時代に出土したわが国最古級の鉄製の円頭大刀の柄頭(つかがしら)のさびを落としたところ、金と銀で象眼した鬼の顔の文様が彫り込まれていたことがわかり、復元作業にあたった奈良国立文化財研究所が六日、公開した。鬼面を象眼した鉄製円頭大刀は初めて。
日本に円頭大刀を伝えた朝鮮半島の百済、伽耶の遺跡にも出土例がない。柄頭の表面を彫り込み、その上から、金や銀をはめこむ象眼手法を用いた第一級の美術品という。
柄頭は長さ六・五センチ、幅三・九センチ、厚さ二・一センチ。握り部分の表裏二面に幅〇・五―〇・七ミリ線で、鬼の顔が描かれていた。目が金で、他は銀。刀の部分は失われているが、全長七十センチ―一メートルと推定される。百済で六世紀半ごろにつくられたとみられ、鉄製円頭大刀としては、奈良県天理市の星塚古墳出土の大刀などと並ぶ最古級のものという。
鬼は、中国では漢の時代の画像石や墳墓の壁画などに描かれ、幸福をもたらし、悪をはらう獣と信じられたという。朝鮮半島でも、三、四世紀の高句麗の古墳の壁画や柱の頂部に、鬼の面の絵や装飾があり、魔よけの意味があったらしい。日本では奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の金銅製馬具などの文様に使われている。
母神山古墳群には、六世紀以降の古墳が四十基以上ある。周辺には縄文時代から古墳時代の遺跡が多数分布している。柄頭は、明治三十七年に見つかり、地元の文化財収集、保存団体の鎌田共済会(香川県坂出市)が保管していた。三年前、レントゲン撮影したところ、文様があることがわかり、同会が同研究所に復元を依頼、約一年がかりでさびを除去した。
讃岐の観音寺市には百済からそういう円頭大刀を持った豪族が渡来していたというわけで、その柄頭は国宝か、あるいは国の重要文化財級のものではないかと思われるが、ところで、その柄頭が判明したのと前後して、これは讃岐ではないけれども、出雲(島根県)松江市御崎山古墳出土の同じような鬼面を施した装飾大刀が脚光を浴びている。一九九〇年四月十日付けの山陰中央新報によると、「一躍脚光/『舌』を出した鬼面装飾大刀/朝鮮との関連を示す資料/松江・御崎山古墳出土」とした見出しで、そのことがこうある。
母神山古墳群(香川県観音寺市)出土の円頭大刀の柄頭から、わが国で初めて鬼面(獣面)を象眼した文様が見つかったことに関連して、松江市大草町、御崎山(みさきやま)古墳の鬼面を施した装飾大刀が改めて注目を集めている。国内出土の飾り大刀でただ一つ、舌を出した鬼面がデザインされ、朝鮮半島製と見られており、鬼にまつわる図案の系譜や古代東アジアの文化交流を考える資料として再評価されそうだ。
御崎山古墳は、島根県立八雲立つ風土記の丘から東南約三百メートルの意宇平野を望む丘陵にある。昭和四十七年の調査で、前方後方墳(全長約五十メートル)の石室から、馬具や鉄製矢じり、須恵器などとともに装飾大刀が出土した。
装飾大刀は全長八十九・五センチ。幅六・九センチの柄頭は、銅の上に金メッキを張った環の内側に、牙(きば)をむいて舌を出した鬼神が鋳造されている。舌の周りには扇状に広がる雲があしらわれ、柄の握り部分は龍紋を打ち出した銀板がかぶせられている。刀身がサビついているものの、柄頭には金メッキが残るなど極めて保存状態が良い。六世紀後半の古墳時代後期のものとされ、風土記の丘資料館に展示されている。
怪獣に似た鬼神の面をあしらった飾り大刀は、獅噛(しがみ)環頭大刀と呼ばれ、近畿を除く関東地方や愛媛、佐賀などで二十八本が出土。御崎山古墳の大刀以外はすべて、鬼神が牙で環をかむデザインとなっている。こういうデザインの起源は中国で、朝鮮を経て伝来。舌を出したデザインは邪悪をはらう守り神の効果を高めるため、とみられ、藤ノ木古墳(奈良)の馬具にも同様のデザインがある。母神山古墳群の柄頭は、鬼面を図案化したものでは日本最古段階(六世紀前半)。後の鬼瓦(がわら)などにつながる図案の系譜をたどるうえで、御崎山古墳の環頭大刀も代表的な資料となろう。
舌を出した鬼面とは何ともユーモラスなもので、朝鮮ではもともと、鬼は怖いものではあるが、ときにはそういうユーモラスなこともするものとして、親しまれてもいたものであった。私なども子どものころ、そんなはなしをよく聞かされたものである。
古代朝鮮から来た鬼瓦
なおもうひとつ、「後の鬼瓦(がわら)などにつながる」ということがあったので、これも讃岐ではないが、一九八八年六月七日付けの産経新聞(大阪版)に、「鬼瓦のルーツ出土/長浜の柿田遺跡」とした見出しの記事が出ている。ちょっとわずらわしいかも知れないが、ついでにそれもみておくことにしよう。
牙をむいた怪獣の頭が描かれ、鬼瓦のルーツともいわれる白鳳時代(七世紀後半)の獣面文(じゅうめんもん)の軒丸瓦が六日までに、滋賀県長浜市東上坂町、柿田遺跡から完全な形で見つかった。獣面文の瓦は出土例が極めて少なく、古代朝鮮にあった新羅の様式を引くものとしては、全国でも二例目という。
瓦は直径十六・五センチ。筒部は欠けているが、文様を刻んだ瓦当面(がとうめん)は完全に残っており、厚さは約三センチ。鬼とも怪獣とも見える鋭い牙を持った獣の顔が浮き彫りにされている。
獣面文瓦は、邪気退散のまじないとして、朝鮮の新羅や高句麗の寺の屋根を飾っていた。日本へは飛鳥時代に伝わったが、恐ろしい表情が嫌われたためか、寺全体を飾る屋根瓦としてはほとんど使用されなかった。しかし奈良時代になると、鬼瓦に形を変え広がっていったといわれている。
デザインから高句麗様式と新羅様式に分かれ、高句麗様式は大阪府藤井寺市の船橋廃寺、京都府八幡市の志水廃寺など数ヵ所で出土しているだけ。新羅様式は奈良県新庄町の慈光寺からしか見つかっていない。今回の獣面は、彫りが浅い、牙が長いなど――の相違はあるものの、慈光寺のデザインを踏襲している。
柿田遺跡は古墳時代の集落跡。獣面文瓦は古墳時代の上の地層から、破片多数とともに出土した。発掘にあたった滋賀県文化財保護協会の仲川靖技師(三〇)は「周囲から硯(すずり)や他の瓦も見つかっており、近くに寺院跡があったのでは」と推定している。
古代の瓦に詳しい藤沢一夫・国際大名誉教授(考古学)の話 「慈光寺の鬼が表現に勢いがあるのに対し、牙などがやや形式化しており、慈光寺を模して作ったことがよくわかる。近江(滋賀県)からは新羅様式といわれる瓦が多く出ており、新羅からの渡来系氏族が建てた寺の一つだったのだろう。白鳳時代の寺院の成立ちを知る貴重な資料だ」
冠帽と耳飾り
ここで讃岐へ戻ると、こんどは善通寺市で、同市では本文「琴平の金刀比羅宮まで」の項で、同市の代表的な古墳である王墓山古墳をみている。そして、そこからの重要な出土品のひとつである、つぶれていた金銅製冠帽についてふれ、古代南部朝鮮の加耶あたりからのものではないかと書いたが、それが「金銅製冠帽の修復終わる」で、一九八七年十二月二十五日日付けの朝日新聞(大阪版)のこんな記事になっている。
香川県善通寺市の王墓山(おうはかやま)古墳(六世紀前半、国史跡)から〈昭和〉五十八年、全国で初めて見つかった金銅製冠帽(帽子の形をした冠)の修復が二十四日、奈良国立文化財研究所で終わった。ペチャンコだったのが、頭にかぶれるような形に戻ったが、修復の中で、朝鮮半島製との見方が有力になり、被葬者はかなり有力な豪族だったと考えられる。
修復された冠帽は、直径十八センチ、高さ十四・五センチの円すい形。銅の緑青が鮮やかで、金メッキも輝いている。四枚の扇形の銅板をびょうでとめ、つぎ目に帯状の銅をかぶせていた。
善通寺市にもそういう冠帽を頭にした豪族がいたということでおもしろいが、ただ、それを「全国で初めて見つかった金銅製冠帽」とするのはどうかと思われる。それが見つかったのは、昭和「五十八年」であるが、それ以前にも、そういう冠帽はたくさん見つかっているのである。
たとえば、二十数年前に書かれた東京大学名誉教授(考古学)斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」をみると、そういう冠帽は日本各地の遺跡や古墳から二十数例が出土している。そして、垂飾付耳飾りや帯金具などとともに、それが古代朝鮮から渡来したいわゆる「帰化人文化の痕跡」となっているのである。
そのうちの垂飾付かどうかはよくわからないが、さらにまた一九九一年七月十六日付けの朝日新聞(香川版)によると、善通寺市の財田町からは耳飾の金環と銀環とが出土していて、「金や銀箔の耳飾り出土/財田の吉田古墳群」の見出しのもとに、そのことがこうある。
三豊郡財田町財田中の吉田古墳群発掘調査で、財田町教委は金や銀の箔(はく)を張った耳飾り計三点を、多数の土器類とともに発掘した。吉田古墳群は六世紀後半から七世紀初めの古墳時代後期に築かれた、と見られ、約千四百年前に財田川の最上流域にも、すでにかなりの勢力を持つ地方豪族がいたことを改めて裏付けた。
出土した耳飾りは金環が二点、銀環が一点。いずれも輪形で、直径約三センチ大。このうち、金の一点はほぼ当時の姿を残していた。
ゴルフ練習場の建設に伴い約二ヵ月間、直径約十メートルの横穴式円墳三基を調査した。いずれも小高い山の中腹にあり、うち二基は墳丘部が崩れ、石室部分だけが残っていた。吉田古墳群はかつて約二十基あったといわれているが、現在確認できるのは、今回の三基を含め約十基。
讃岐の西方となっている善通寺市には、本文でみたように、白木《しらき》、白城《しらぎ》などではなくまだはっきり新羅、としている新羅神社が四社もあることからも知られるが、このあたりは新羅・加耶系遺跡のかなり濃厚なところであった。いまみた金銅製の冠帽や耳飾りなども、その新羅・加耶からの渡来人豪族らのものではなかったかと思う。
新羅様式の瓦
さて、ついでこんどは土佐である。土佐では「天韓襲命をめぐって」の項で、秦氏族の氏寺のひとつではなかったかと思われる秦泉寺廃寺跡をみたが、一九八六年当時、私がそこをおとずれた以後も発掘調査がつづけられていたのである。一九九一年八月十六日付け高知新聞がそのことを、「焼け焦げた土器片も/秦泉寺廃寺跡の発掘調査/寺院の焼失裏付ける」とした見出しでこう報じている。
埋蔵文化財センターは高知市中秦泉寺〈これは地名〉の同市秦支所敷地内で、白鳳時代の遺跡・秦泉寺廃寺の第四次発掘調査を進めている。これまでに古がわら〈瓦〉、土器の破片など数百点が出土。焼け焦げたものもあり、廃寺になった原因と推定されている寺院の焼失を裏付ける資料になるとみられる。
同廃寺からは、昭和五十八年の発掘調査で、白鳳時代の「素弁八葉蓮花文軒丸瓦」が出土。このかわらは高句麗的要素を加味した百済末期様式であることなどから、同寺は渡来人系の豪族により建立されたとも考えられている。
今回の調査は、県道高知―本山線拡張に伴うもので、今月七日から約二週間の予定で、同センターの山本哲也・調査第一係長は「今回は以前に発掘された廃寺の大溝部分の延長先にあたり、さらに新しい発見が期待できる」と話している。
秦泉寺というのは、本文の「南国市の弥生遺跡ほか」の項で、ちょっとふれた比江廃寺とともに、白鳳時代に建立された土佐最古の寺院で、相当な大寺だったものらしかった。同時期の比江廃寺とともに、それを氏寺としていた土佐の豪族が、どういうものであったかがしのばれる。
ところで、その一方の比江廃寺であるが、これについてはまた、一九九一年一月二十四日付け高知新聞に、「『新羅様式』類似瓦を発掘/南国市比江廃寺/珍品、韓国に照会へ/県教委」とした見出しのこんな記事が出ている。
県教委は二十三日、南国市比江にある比江廃寺の学術調査結果をまとめた。大化の改新後から奈良時代初期にわたる「白鳳時代」の屋根瓦など約十万点を発掘し、この中に朝鮮半島の新羅(しらぎ)のものと似た「単弁蓮花文軒丸瓦(たんべんれんかもんのきまるがわら)」二点が含まれていることも分かった。これは全国的にも珍しいもので、同教委では写真と拓本を韓国の大学に送って照会することにしている。
比江廃寺は七世紀後半、土地の有力豪族によって建立された法隆寺型の寺院。消失時期や原因は不明だが、高さ三十二メートルの五重の塔や金堂があったと推定される。現存する塔礎石は昭和九年に国の史跡に指定された。
今回は昨年十一月下旬から十二月末まで、塔礎石東側の製紙工場跡約六〇〇平方メートルを発掘調査。法隆寺や奈良県の川原寺で使われているものと似た白鳳時代の蓮花文軒丸瓦や重弧文(じゅうこもん)軒平瓦、鬼瓦なども出土した。
土佐ではほかにまだ、高知新聞によると、もと幡多(波多=秦)郡だった中村市の古津賀大場遺跡で、「原始神道発生に手掛かり?」という「県下初、古墳時代の祭祀場跡」が「一部完全な形で発見」され、そこから「県下最大級と見られる須恵器の瓶(かめ)や珍しい石製紡錘車」なども見つかっている。
そしてまた、香美郡野市町の本村遺跡では、「中・四国で初めて」の「ガラス製勾玉出土」などのこともあるが、しかし、もう紙幅がないので、次の阿波へうつることにしたい。
百済系の須恵器
阿波にもいまみてきた土佐の秦泉寺廃寺や比江廃寺と同じく、美馬郡美馬町に白鳳時代の古瓦を出土した、奈良時代前期に建立されたとされる郡里《こおざと》廃寺跡などがあり、それからまた、海部郡海南町には、さきの讃岐でみた財田町の吉田古墳群出土の金環と同様の金環、鉄鏃、高杯、椀などを出土した大里古墳などがある。
しかし、ここではそれらは省略して、いまから二ヵ月ちょっと前、すなわち一九九二年八月二十二日付け徳島新聞の記事をひとつだけみることにする。それは、「県内最古の須恵器片/徳島市の庄遺跡で出土」とした見出しの、こういう記事である。
弥生前期から中世の複合遺跡として知られる徳島市蔵本町三の庄遺跡で県内で最古の古墳時代の須恵器片が出土したと徳島大学埋蔵文化財調査室が二十一日、発表した。また集落を囲む特異な構造の溝なども見つかっており、東潮室長(総合科学部助教授)は「庄遺跡は県内で最大の大集落であった可能性が強い。最古の須恵器片は畿内との交易や大和政権の支配とのかかわりがわかる貴重な資料」と話している。
調査は蔵本キャンパス内の医療技術短大の増設に伴い、七月十日から八月二十八日までの予定で、敷地約三百平方メートルを発掘した。出土したのは弥生時代中・後期、古墳時代中期の溝や、弥生時代の高杯、壺(つぼ)、古墳時代の須恵器、土師(はじ)器など。
県内最古の須恵器片は地表から一・五メートル発掘したところから数点(最大十センチ四方)見つかった。波状紋や焼き具合などから朝鮮から渡来した大阪・陶邑(すえむら)で須恵器生産を始めた百済系工人のものらしい。須恵器としては初期のもので、国内でも香川一ヵ所、九州数ヵ所などで見つかっているだけ。
溝は幅一メートル、深さ約八十センチ、底部が約四、五十センチの漏斗状の構造。五年前に隣接地の発掘調査からも同様の溝が出ており、これらをつなぐと延長六十メートルになる。集落の中には豪族の館があり、この溝が防御用として使用されていたらしい。
おわりの溝のほうからさきにみると、これは九州・肥前(佐賀県)の吉野ケ里遺跡の発掘以来、近年、新たにまた見直されることになった環濠のようなものではないかと思われる。そしてその「集落の中には豪族の館があった」とすれば、破片となって遺跡から出土したその須恵器を、使っていたものだったにちがいない。
新聞に出ている写真をみる限り、その須恵器破片は、九州・筑前(福岡県)甘木市の池の上・古寺墳墓群出土の加耶からもたらされた陶質土器のそれのように思われるが、これについてはなおよく調べてみたいと思う。というのは、私はこのシリーズ(『日本の中の朝鮮文化』)を書きすすめてくるうちに、遺跡・古墳などから出土する土器が、どんなに重要なものであるかがよくわかったので、いまあらためてまた、その土器についての勉強をすすめているところである。
前巻と同様、この第九巻の文庫版がこうして成ったのも、講談社文庫出版局長の宍戸芳夫氏、ならびに守屋龍一氏の努力によるものである。ここにしるして、感謝の意を表したい。
一九九二年十一月 東京
金 達 寿
日本《にほん》の中《なか》の朝鮮文化《ちようせんぶんか》 9
講談社電子文庫版PC
金達寿《キムタルス》 著
金達寿記念室設立準備委員会 1986, 1992
二〇〇二年二月八日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
◎本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。
KD000167-0