TITLE : 日本の中の朝鮮文化 8
講談社電子文庫
日本の中の朝鮮文化 8
因幡・出雲・隠岐・長門ほか
金 達 寿 著
まえがき
『日本の中の朝鮮文化』シリーズ第八冊目である。第一冊が出たのは一九七〇年十一月であるから、それからすると十四年近くがたっている。第一冊目は雑誌『思想の科学』に連載したものであったが、連載に先立ち、私はその意図を鶴見俊輔氏に話したところ、
「とくに出雲など、そうですね」と、鶴見さんはすぐに言ったものだった。日本の古代朝鮮文化遺跡となると、鶴見さんとかぎらず、まず「出雲」が思いだされるというのがおもしろかったので、いまも私はそのことばをはっきりとおぼえているが、ようやくその出雲を中心とした山陰地方となったのが本書である。
いま私は山陰地方といったが、というとすぐに思いだされるのが「裏日本」ということばである。しかしながら本書をみてもらえばわかるように、古代にあっては、日本海に面したこちら山陰地方こそ「表日本」であった。そのことは最近の出土遺物をみてもわかるが、たとえば、私が本書を書きおわったあとの一九八四年七月三十一日付け朝日新聞に、「大量の銅剣/出雲で出土/弥生文化圏 再考を迫る/巨大王権の可能性/二大圏説揺るがす資料」という見出しのこういう記事が出ている。
古代出雲の一角、島根県簸川郡斐川町の荒神谷遺跡で、七月中旬発見された弥生時代の大量の銅剣について、同県教委は本格的な発掘調査を続行中だ。間もなく全容が判明するが、百本を超すことは疑いなく、銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)など他の武器型銅器を含めても最多出土例となる。上代武器研究の権威、末永雅雄・学士院会員は「考古学上大問題を提起する検出」と折り紙をつけたが、出雲にこれほど大量の銅剣がなぜ保有されていたのかをめぐって今後大論争が起きそうだ。
「百本を超す」「最多出土例」とはおどろくべきことで、――と、こういうふうに私はこの「まえがき」を書いていたところ、めまぐるしいもので、そこへさらに追い討ちをかけるように、発見から約二十日後の一九八四年八月十九日付けの朝日新聞には、「銅剣三五〇本 全容現す/全国出土総数上回る/島根・荒神谷遺跡」という記事が出た。
弥生時代の銅剣が大量に出土した島根県簸川(ひかわ)郡斐川(ひかわ)町神庭西谷の荒神谷遺跡の発掘調査を進めている同県教委は十八日、埋納銅剣の表土を取り除く作業を完了した。全容を現した銅剣は、三百五十本が四列にぎっしり並べられており、これまでの全国出土総数(約三百本)を上回った。
一面に写真入りで扱われた記事はまだつづいていて、さいごに「『北九州中心説』の再検討を迫られよう」とした、森浩一・同志社大教授(考古学)の「銅剣文化については出雲に中心があったと考えざるを得ない」という話で締めくくられているが、だいたい、これまでは、弥生文化といえばその玄関口は北九州であった。そのことは、ほかならぬ出雲の八雲立つ風土記の丘資料館の「弥生時代」の説明板に、「紀元前二、三世紀ころ、朝鮮半島から北九州をへて稲作の技術と青銅製品が伝わり、やがて鉄製品も伝わるようになった」とあることからもわかる。
それが出雲における「三百五十本の銅剣」、すなわち「青銅製品」の最多出土例によって、大きく修正されるかも知れないということになったのである。いま考えてみると、そのことはこんど出雲を歩いてみて、感知されないことではなかったように思う。
一つは出雲は古代朝鮮、ことに新羅・加耶(加羅)と予想した以上に密接な関係にあったということである。韓国伊太〓《からくにいたて》神社となっていたものが六、七社もあったことからしてふつうではなかったが、そのうえとなりの石見《いわみ》には、韓神新羅神社となっているものまであった。
いまなお、全国の神々がみなそこにあつまる毎年旧十月の「神在《あ》り月」ということでもわかるように、出雲はまさにその「神の国」であった。上古における「神」とは、新井白石の『東雅』をまつまでもなく、それは「人」ということにほかならなかった。
つまり、「稲作の技術と青銅製品」をもたらした弥生文化人の首長はみなその神となったものだった。したがって、出雲にその神が多いということは、そのような弥生人が多かったということだったのである。
目 次
まえがき
因幡・伯耆
大多羅大明神から
度木郷と岡益の石堂
国庁跡・宇倍神社
「因幡の白兎」とはなにか
倭文神社と周辺
大山・高麗山の麓
日野川の鉄穴流
鉄文化と新羅・加耶
出雲・隠岐・石見
米子から美保関へ
出雲族・熊野大神
安来をたずねて
金屋子神社まで
簸川の斐伊川
四隅突出型方墳と荒島
韓国伊太〓神社のこと
意宇の杜と新羅の鶏林
築山古墳と大念寺古墳
須佐郷の須佐神社
日御碕・加夜・出雲大社
隠岐の古墳と神社
韓神新羅神社と韓島
江津の都怒我阿羅斯等
鵜ノ鼻古墳群をたずねて
長門・周防
萩・見島のジーコンボ古墳群
穴門=長門の弥生文化
綾羅木郷から一の宮へ
大内氏族と朝鮮
岩国から平生・周東まで
かなえの松・大日古墳
宇部・山陽・小野田
あとがき
文庫版への補章
信濃の針塚古墳
伯耆の上淀廃寺と壁画
出雲の秦・銅剣および隠岐
日本の中の朝鮮文化 8
因幡・出雲・隠岐・長門ほか
因幡・伯耆
大多羅大明神から
異様な迫力の石堂
因幡《いなば》・伯耆《ほうき》(鳥取県)はこんどが三度目であった。ここを最初におとずれたのは一九六九年十月のことだったが、この年から私は京都で鄭貴文《ジョンキムン》・詔文《ジョムン》兄弟とともに、小季刊誌『日本のなかの朝鮮文化』を創刊し(八一年六月刊の第五十号で休刊)、あわせてまた、こちらはいまなおこうして書きつづけているシリーズ「日本の中の朝鮮文化」にかかわってであった。
もちろん、それまでにも私たちは関東や関西、九州のあるところまで歩いていたが、こんどは十日ほどかけて、山陰・山陽の中国地方をひとめぐりしてみよう、ということだったのである。このときは大阪に住んでいる鄭貴文のクルマで、私たちは若狭《わかさ》(福井県)、但馬《たじま》(兵庫県)などをへて因幡の鳥取市にはいった。
このころはまだ、どこになにがあるのかもよくわからなかったので、それがそこにあるということだけはまえからちょっと知っていた鳥取民芸美術館をたずねてみたところ、そこで売られている川上貞夫氏の『岡益の石堂』というのが目についた。手にとってみると、巻頭にかかげられた岡益の石堂の写真が、ある異様なともいっていい迫力をもって私をとらえた。
福山敏男氏が寄せた「序」に、「石のブロックで積み上げた構造であることが大陸や朝鮮半島の石室や石塔の類を連想させる」などともあったので、私はさっそく手にしていたその『岡益の石堂』を買い求め、それのある岩美《いわみ》郡国府《こくふ》町の岡益《おかます》へ向かった。これがその石堂をみたはじめであったが、私のこのときの「日誌」をみると、かんたんにこうしるしてある。
――岡益の石堂、思ったより立派なもの。石をしきつめた長い階段を登りきると、赤土の丘の小台地。周囲、赤松など。石堂はその中央に、巨大な姿でたっている。古墳ではないかと思われる――。
いま考えてみると、「古墳ではないかと思われる」というところなど、われながらなかなかではなかったかと思うが、ついで二度目に因幡をおとずれることになったのは、一九七八年七月、その岡益の石堂近くで梶山壁画古墳が発見されたりしたことから、八〇年四月二十六日、新日本海新聞社などの主催で開かれることになった「伯耆・因幡の古代文化」というシンポジウムのためであった。
出席者は京都大学の上田正昭、鳥取県教育委員会の清水真一、同教委の野田久男、同志社大学の森浩一氏らと私で、そのときの記録は「伯耆・因幡の古代文化」として、新日本海新聞や、一九八〇年六月刊の『日本のなかの朝鮮文化』第四十六号にのっているが、このときも私は上田氏らとともに、梶山壁画古墳はじめ、岡益の石堂を含むあれこれをたずねたことはいうまでもない。
そしてこんど三度目にそこをたずねることになったのは、この稿を書くにあたってまたもう一度そこをみたり、たしかめたりしたかったからにほかならない。因幡・伯耆とかぎらず、私のばあい、いざこうして書くまでには、どうしてもそこを二度以上はたずねなくてはならないようである。
大多羅大明神を祭る太田神社
それでこんど鳥取空港に着いたときの私は、タクシーでまず岡益の石堂近くにある太田神社へ向かった。なぜ、まず太田神社だったかというと、いまさっきいったシンポジウムの記録「伯耆・因幡の古代文化」がのった『日本のなかの朝鮮文化』第四十六号の次の四十七号には、前記『岡益の石堂』の著者である川上貞夫氏の「今木と度木」という一文がのっていて、私がその「まえがき」を次のように書いていたからである。
――この稿は一九七七年に八十歳で亡くなられた、川上貞夫氏の絶筆となった遺稿である。川上氏については、前号のシンポジウム「伯耆・因幡の古代文化」にも『岡益の石堂』の著者として紹介されているが、この稿はその『岡益の石堂』の補注ともみられるものである。「任那《みまな》の日本府が新羅に」うんぬんなどと、そういう古い史観による用語もみられるが、しかし、この稿には私などの知らなかったこともかなりたくさんみられる。たとえば、「岡益村の氏神で、大多羅大明神を祭る太田神社」などがそれである。事前に知っていたとしたら、前号のシンポジウムでは、これなどもとりあげられていたはずである。――
この「川上貞夫氏の絶筆となった遺稿」はその死後、夫人と娘さんとが私的に編んだ『思い出』に収録されていたもので、まずはじめのところをみると、こう書かれている。全体としてはちょっと長くなるかも知れないが、岡益の石堂や梶山壁画古墳などをみるうえでも重要なので、それをここに引くことにする。
和名抄(高山寺本)によると、因幡国に度木(とぎ)の郷がある。この度木の郷内に、もと岡益村の氏神で、大多羅大明神を祭る太田神社がある。(現在は岩美郡国府町岡益、清水、谷、三村の氏神である)
この地方の口碑によると、むかし海を渡って来た巨人が、今木《いまき》山と甑山《こしき》を一荷にして担って来たが、途中担棒が折れて、国府町の現在の所におき、巨人は、さらに因幡川に沿うて溯《さかのぼ》り、度木の郷の岡益に鎮座したという。
すなわち前記の太田神社がそれである。
そこで海の向うの朝鮮半島をみると、六世紀の頃、任那の国に「多羅」がある。いまの洛東江流域の中程で、現在の陝川(せんせん)に比定される。
もっとも南朝鮮には、古く三韓といわれた小部族国家の集りで、馬韓(五十余国)、辰韓(十二国)、弁韓(十二国)があった。そのうち四世紀の前半に馬韓に百済が建国し、四世紀の後半に辰韓に新羅が生まれた。
一方、四世紀に弁韓だけは、名は任那(加羅)と変ったが、実態は相変らず小部族国家の集りであった。
六世紀に入って任那は、百済や新羅に圧迫されて、倭国に渡って来たものもあったと考えられるが、欽明天皇二十三年(五六二)に任那の日本府が新羅に吸収されるに当り、それらの小部族国家の加羅とか安羅とか多羅の遺民が、多数倭国に渡来したものがあったと思われる。
特に多羅についていえば、九州の鹿児島県薩摩郡甑島《こしきじま》に大多羅姫神社があり、指宿(いぶすき)市には、多羅大明神を祭る神社がある。また佐賀県と長崎県にまたがる多良岳があり、佐賀県には、有明海に臨んで多良町の名が残っている。
因幡国にも前記の口碑によって、海を渡って安住の地を求めて来たものがあったことを物語っている。
巨人が朝鮮に見かける山で、甑を伏せたような甑山と、新たに人々がやって来たという今木(新来)山を一荷にして担って来たといい、また巨人が鎮座したという度木の郷は、渡来を意味し、古事記や風土記にみる国家的秩序の無い自由な段階での渡来である。
ここにも秦氏族が
ここにいう「任那」とは、古代の南部朝鮮(いまの慶尚南道)にあった多羅《たら》や安羅《あら》(安耶・安那ともいう)などの小国家を含む加耶《かや》(加羅・加那ともいう)諸国のことで、これを古代日本では「任那」といったからにほかならない。ちなみに「任那」とはどういう意味であったかというと、すでに鮎貝房之進《あゆがいふさのしん》、白鳥庫吉氏らも指摘しているように、これは朝鮮語「任那《ニムナ》」、すなわち「君主の国」ということだったのである。
補足するとすればこれくらいのもので、あとはみな川上貞夫氏の書いているとおりであったと思う。なお、私は川上氏のこの「今木と度木」によって、あとでみることになる今木山の「西南麓に近い三代寺〈地名〉の氏神」が新羅明神ということの白髭《しらひげ》神社であったこともはじめて知ったが、川上氏はさらにまた、ここでも岡益の石堂のことについてふれ、さいごのところでこう書いている。
別にこれは秦氏に関係あるといわれるもので、岡益の石堂の森には、稲荷神社が祭られている。
その祭礼に舞われる麒麟《きりん》獅子は、県下で最も古く、県の文化財に指定されている。またこの獅子頭は、他の麒麟獅子頭と異り朱塗りであって、材質も他のものが桐材であるに反し、これだけが赤松材である。たまたま秦氏の氏寺である〈京都〉広隆寺の半跏思惟の弥勒像が朝鮮の赤松材であることを思い合せ、特異な材質であることが注目される。しかもその口角の隆起など迫力を示し、その舞は、七つの舞を踏んで古風を伝えているといわれる。
今一つ秦氏に関するもので、度木の郷内に平城天皇の大同年間(八〇六〜八〇九)山城国の松尾神社の分霊を勧請してきたといわれる手見(たみ)神社(式内社)がある。
神社は始め標高四七七メートルの手見山の上にあったが、山がまことに険阻で、近世これを松尾村の芋田に遷《うつ》したといわれる。
延喜式の神祇巻の臨時祭式をみると、「おおよそ松尾社因幡国封の租穀は、此官(神祇官)に収むることを停め、社に収めて供神の料に充てよ」とあるので、はじめ手見神社の社領は、山城国の松尾神社の荘園であったことがわかる。
これをみてわれわれは、地元にある具体的な事跡・遺跡から出発した歴史研究がいかに大事なものであるかということがよくわかるが、あるいはもしかすると、因幡のこんなところに秦氏のことが出ることに、ちょっと唐突な感じをもつ向きがあるかも知れない。しかし、これは決して唐突なことではないのである。
どうしてかといえば、まずだいいち、「渡来を意味した」という度木郷だった岡益のそこは、古代南部朝鮮にあってのちには百済ともなり、新羅ともなった加耶諸国のうちの多羅から渡来した者たちが居住して、そこに大多羅大明神の太田神社を祭っていたからである。つまり、そこに新羅・加耶系渡来人だった秦氏族がいたのは、何のふしぎもないことであるばかりか、むしろ当然なことといわなくてはならない。
だいたい、新羅・加耶系渡来の秦氏族というのは、実に広汎な分布をもつ氏族であった。それは関西や関東、あるいは九州ばかりでなく、日本全国いたるところに広がっていたものだったのである。
ところで、これまでみた川上貞夫氏の「今木と度木」によってたずねた国府町岡益にある大多羅大明神の太田神社は、人に訊《き》いてすぐにわかったが、しかし一見したところでは何の変哲《へんてつ》もない、古びた小さな神社となっていた。しかしながら、それが元は度木郷だった「岡益村の氏神」であったことを考えると、私はあまり広くもないその神社の境内から、なかなか去りがたい思いをしたものであった。
というのは、その大多羅大明神の太田神社が、そこから三角点のような形となっている近くの有名な岡益の石堂や、梶山壁画古墳のある岡益の氏神にほかならなかったからである。したがって、そこにある岡益の石堂や梶山壁画古墳を考えるうえでも、その太田神社が重要な要素となっていたからである。
梶山壁画古墳の造営者は
岡益の石堂のことはあとにして、ここで梶山壁画古墳についてかんたんにみると、さきにもちょっとふれたように、これがいわゆる壁画古墳であったことがわかったのは、一九七八年七月になってからであった。同年七月三日付けの朝日新聞をみると、「古代に独自の日本海文化?/中国地方で初の彩色壁画古墳/赤黄色で魚の文様/〈朝鮮〉半島から直接伝来?」とした大きな見出しのもとに、さらにまた「高い地位の豪族の墓か/天皇級の古墳に匹敵」とした中見出しなどがあって、こう報じられている。
大きな魚の文様などの彩色壁画が、鳥取県岩美郡国府町の梶山古墳で発見された。二日に現地調査をした森浩一・同志社大教授(考古学)は「古墳時代終末期(七世紀末)の装飾古墳で、彩色壁画のあることや古墳のつくり方から見ると奈良・明日香村の高松塚古墳クラス」と判断した。彩色壁画は、北九州や東北地方では古くから知られ、〈昭和〉四十八年には虎塚古墳(茨城)、五十一年には仙道古墳(福岡)など発見が相次いでいるが、その他の地域では、四十七年春の高松塚古墳に次ぐもので、中国地方では初めて。日本海文化の高さを証明した。
彩色壁画が見つかった梶山古墳は、国府町岡益の丘陵地にある円墳。大正年間の県記録では、土砂で完全に埋まっていたが、昭和のはじめに土砂が流出し、開口、凝灰岩の切り石でつくった横穴式石室が確認されている。石室は奥行き八・七メートル、幅一・四メートル、高さ一・六メートルあるが、中は真っ暗だったために、北壁が彩色壁画で飾られていることは見逃されてきた。
記事はまだずっとつづいているが、この梶山壁画古墳のことは、ほかにもいろいろと書かれたものなのでこれくらいにして、ただ、さいご近くのところにこうあることだけ紹介しておくことにする。この古墳がどこのどういう者によって造営されたか、そのことを考えるうえで必要だと思うからである。
また、石室は側壁、天井板とも一枚板の切り石をみがいてあり、森教授は「つくりや壁画から、極めて高い地位の豪族の存在が推定できる」としている。また魚文様については、韓国・蔚山にある盤亀台や九州などにも二例あることから、「直接、日本海を渡ってきた“日本海文化圏”というべきものを想定しなければならないことを示唆している」といっている。
常陸の虎塚古墳との関係
私は、「どこのどういう者によって造営されたか、そのことを考えるうえで――」といったが、ここにみられる「韓国・蔚山」とは、古代には加耶となっていたところであった。そして、梶山壁画古墳などのある国府町岡益には新羅・加耶系渡来人の秦氏族がいたということ、これもさきにみたとおりであるが、そのことで私にまた思いだされるのは、一九七三年に常陸《ひたち》(茨城県)の幡田《はた》(秦)郷で発見された虎塚壁画古墳である。
この古墳のことは茨城県の『勝田市史』別編『虎塚壁画古墳』にくわしいが、そのなかにある志田諄一氏執筆の「古代史における虎塚古墳の問題点」に、そのような壁画古墳を造営する者についてこう書かれている。
ところで、最近の研究によれば、朱や丹《に》をもって、各種の物品を赤く染める赤染の呪術は、新羅、加耶系の呪術で、赤染氏によってなされていた。その赤染氏は秦氏と同族、または同一の生活集団を形成していた氏族で、新羅系の帰化人だといわれている。のちに赤染氏や秦氏のなかには、画師として活躍する者が少なくない。
これでだいたい、岡益の梶山壁画古墳を造営した者がどういう者であったかがわかったように思うが、ただし、常陸のばあいにしろ、ここにいう赤染氏を含む秦氏族が新羅系の「帰化人」といえるものかどうか、ということがある。もちろんそれは否で、かれらはみなまだそんな「帰化」をする国家などなかった、すなわち「古事記や風土記にみる国家的秩序の無い自由な段階での渡来」(川上貞夫「今木と度木」)だったのである。
度木郷と岡益の石堂
太田神社を祭っていたのは産鉄氏族か
なお、度木郷だった岡益の大多羅大明神・太田神社について、もう少し書いておかなくてはならない。一つは、私はここでふと思いついて、川上貞夫氏の書いている度木郷がそこに出ているという『和名抄』を開いてみたということであり、もう一つは、ここに大多羅大明神の太田神社を祭っていた者はいったいなにをしていた者たちだったのか、ということがあるからである。
まず『和名抄』であるが、なるほど「因幡国=法美郡」(のち岩美郡)のそこをみると、「罵城 度岐《とき》・度木《とき》」(下は訓)郷とある。罵城――逆にみれば度岐・度木が罵城《とき》であったとは、ずいぶんむつかしい字をあてたわけだったのであるが、ところがまた同法美郡には、これも秦氏族と関係あるとみられる「服部 波止利《はとり》」郷があり、服部神社、服部神などというのもみられる。
そればかりか、私としてちょっとおどろいたことに、「罵城 度岐・度木」のとなり、法美郡全体からすると、その第一番目に「大草 於保加也《おほかや》」郷というのがしるされている。これは明らかに、「大加耶」ということにほかならないであろう。「伯耆国=会見郡」(のち西伯《さいはく》郡)にはいまもそこの地名となっている「蚊屋《かや》」郷があって、これは加耶ではなかったかと私はまえから思っていたが、いま岩美郡となっている法美郡に「大草 於保加也」すなわち大加耶があったとは、これまで知らなかったのである。
してみれば、そのとなりに「渡来を意味し」た罵城の度木郷があっても少しもふしぎでないばかりか、そこに加耶諸国のうちの一国だった多羅に、美称の大をつけた大多羅大明神の太田神社があるのも当然だったのである。
ただ、私はそれを川上貞夫氏の「今木と度木」によって教えられるまでは知らなかったわけだったのであるが、ところで、では、その度木郷の岡益に大多羅大明神の太田神社を祭っていた者たちは、いったいなにをしていた者だったのであろうか。一口にいうと、もちろんかれらは農耕も営んでいたであろうが、一方でのかれらは、因幡・伯耆や出雲(島根県)にかけてたくさんみられる、製鉄技術をもって渡来した産鉄氏族といわれるものではなかったかと私は思う。
岡益の石堂をめぐって
一つは、製鉄の「踏鞴《たたら》」とは「多羅《タラ》」ということからきたものではないかと思っているからであるが、しかしそのことについてはこれからまたみるとして、大多羅大明神・太田神社からの私は、梶山壁画古墳はさきに来たときみているのでそのままとし、さらにまたもう一度、岡益の石堂をたずねることにした。「さらにまたもう一度」といったのは、こんどが三度目だったからであるが、異様なといってもいい迫力をもった石堂はあいかわらず、というより、千数百年もまえからその丘の台地に凝然《ぎようぜん》とたちつづけていた。
この岡益の石堂のことは、もちろん川上貞夫氏の『岡益の石堂』にくわしいばかりか、「今木と度木」にも「また度木の郷には」としてかなりくわしく書かれている。しかしここでは、鳥取県高等学校歴史研究会編『鳥取県の歴史散歩』によってみることにする。
バスを岡益橋で下車し、橋をわたり水田のなかの道を数分も歩くと、村のむかいの山麓に長通寺がある。この寺の門の前の丘が“石堂の森”とよばれている。シイの木のしげる昼なおうすぐらい石段をのぼりきると、眼前に、古墳の切石のような巨石をもちいた構築物が千数百年の年月にたえてどっしりとしてあらわれる。いわゆる山陰最古の建造物とされる岡益の石堂だ。
この石堂、再三にわたる地震で崩壊がひどく当初のおもかげは一重の基壇や心柱にとどめるだけだが、それでも木造建築の日本的感覚とははるかにかけはなれた異国的な情感にみちている。平清盛の孫、安徳天皇の御陵参考地に指定されているが、左右対称の設計、原初的な一重の基壇、心柱のエンタシス、それにきざまれた忍冬文《にんどうもん》や蓮華文《れんげもん》、側壁にみられるS字様の地文《ちもん》などにあきらかに大陸仏教文化のかおりをとどめる、七世紀ごろの建造物と考えられる。
明治までは、石堂の前後の平地には白鳳期古代寺院の礎石や瓦などが散乱していた。しかし東面する石堂の前は安徳天皇陵参考地の威厳をしめすため掘りさげられ、生垣がつくられて、古代の環境とはちがってきているが、それもこの石堂歴史のひとつをものがたっている。礎石の一部は雑木林のなかにも残り、出土した瓦は長通寺に保管されている。もちろん平家伝説は江戸末期以降付会されたものであることは明らかだ。
ところで、この石堂がなんのために建造されたかについてははっきりしていない。しかし基壇といい、一辺約六・六メートル(二〇尺)のプランといい、石塔としての要素をそなえている。とくに朝鮮半島の古塔に近い感覚がある。古代寺院にそびえる新羅《しらぎ》や百済《くだら》の古石塔に似た三重の石塔のすがたをおもいうかべることもできる。石堂の森をおりて村の上手にある水田のある谷にそって数分ゆくと、左側の山腹にこの石堂とおなじ凝灰岩の切石でつくられた横穴式の石室がある。梶山古墳とよばれるこの古墳は、因幡を代表する典型的な後期古墳で、岡益から一キロほどおくの神垣《こうがけ》の石棺や新井の石舟とよばれる古墳などとともに、この地域の古墳時代後期のたかい文化をしのばせている。なお岡益の西、玉鉾《たまぼこ》の等カ坪からは壮大な鴟尾《しび》や芸術性のたかい軒丸瓦などが出土し、ここに白鳳期の壮大な寺院玉鉾廃寺がたっていたことがわかった。圃場整備事業により寺跡は完全に破壊されてしまったが、出土品は県立博物館でみることができる。
石堂は古墳遺構
ついでに近くの梶山古墳ほかまでみたが、ここでは梶山古墳が壁画古墳とはなっていない。それには理由があって、この『鳥取県の歴史散歩』が書かれたのは、その壁画が発見される三年前の一九七五年だったからである。三年後、それが壁画古墳であったことがわかったときは、『――歴史散歩』の筆者もびっくりしたにちがいないが、ところで、そのことによってまた、いまみた岡益の石堂も大きく脚光を浴びることになった。
梶山古墳がそのような壁画であることがわかった六日後の、一九七八年七月九日付け読売新聞をみると、「ナゾの石堂、高句麗古墳か/鳥取・国府町/円柱、文様が酷似/森同志社大教授が調査/亡命の族長まつる?」という大見出しのもとに、これまた大きな写真入りで、そのことがこう報じられている。
ナゾの石堂は古代朝鮮・高句麗(こうくり)の古墳ではないか――壇ノ浦合戦(文治元年=一一八五)で入水した安徳天皇の陵墓との言い伝えがあり、同天皇陵墓参考地として宮内庁で管理している鳥取県岩美郡国府町岡益の通称「岡益の石堂」が、このほど現地を訪れた森浩一・同志社大教授の調査で、わが国に現存する唯一の高句麗古墳の遺構らしいことがわかった。
森教授はさらにくわしい調査のため八日、宮内庁に学術調査の許可を申請した。許可され次第調査に乗り出すが、高句麗古墳と確認されれば、古代朝鮮とわが国文化との関連を解明する貴重な手がかりになりそう。
記事はまだまだつづいているが、これには新聞記事によくみられる誇張や誤りがある。まず、「わが国に現存する唯一の高句麗古墳の遺構らしいことがわかった」とあるけれども、決してそんなことはない。日本に「現存する高句麗古墳」は信濃《しなの》(長野県)や河内(大阪府)など、ほかにもいくらでもある。
それにまた、岡益の石堂は、宮内庁が「安徳天皇の陵墓参考地」ということで発掘調査を許さないため、森浩一氏によってもはっきりと確認されているわけではないので、これがほんとうに高句麗系のそれかどうかも、まだよくはわかっていないのである。発掘調査の結果、それが高句麗系渡来豪族の古墳であっても一向にさしつかえないが、しかし、私としてはどうも、さきにみた大多羅大明神の太田神社のことが気になるのである。
この太田神社は、いまも元は度木郷だった岡益一帯の氏神となっているとのことであるが、古代ももちろんそうであったにちがいない。するとこの神社は、さきの梶山壁画古墳とともに、岡益の石堂とも無縁であるはずがなかったばかりか、これもさきにみた川上貞夫氏の「今木と度木」に、「別にこれは秦氏に関係あるといわれるもので、岡益の石堂の森には、稲荷神社が祭られている」それとも決して無縁ではなかったはずである。
となれば、岡益の石堂といわれる古墳も、新羅・加耶系渡来人である秦氏族のそれではなかったかと、私には思われるのである。しかしそれはどちらにせよ、私はさきに、一九六九年十月、はじめて岡益の石堂をおとずれたときの「日誌」に「古墳ではないかと思われる」としるしてあることを紹介し、「いま考えてみると、……われながらなかなかではなかったかと思う」と書いたが、その岡益の石堂が考古学者の森浩一氏らによって、ともかくも古墳であると認められたことはうれしいことであった。
森浩一氏はいまみた新聞記事とは別に、「岡益の石堂と呼ばれるものが、本来どのような性格の遺構であったかは不明で、私は横穴石室の可能性で検討をすすめている」(『考古学ノート』「梶山古墳の壁画と岡益の石堂」)と書いているが、その検討が一日も早くすすめられるよう、ねがわずにはいられない。だいたい、「もちろん〈安徳天皇陵などという〉平家伝説は江戸末期以降付会されたものであることは明らか」(『鳥取県の歴史散歩』)であるのに、宮内庁はいつまでも「陵墓参考地」としてその調査を許さないというのは、まったくおかしなことであるとしないわけにはゆかない。
「陵墓参考地」で遺跡保存!?
以下はそのことでの付け足しであるが、私はこの岡益の石堂がいうところの「陵 墓参考地」となっているということを書きながら、ふと一篇のどたばた喜劇の構 想が頭にうかんだものであった。
どういう内容かというと、いまはあちこちでいやおうなく古い文化財の破壊がすすんでいるが、ある村にどうしても破壊から守らなくてはならない、その村にとっては由緒深い古墳があったとする。そこで村の人々はよりより協議した結果、その古墳は昔から「なになに天皇の御陵だと伝えられている」ということにする。
そしてそのことをあちこちに吹聴《ふいちよう》するだけでなく、「なになに天皇の御陵を守る会」などをつくり、地元選出の代議士などをつうじて、そのことを宮内庁に働きかける。もちろん結果はめでたし、めでたしとなって、その古墳は「陵墓参考地」ということでだれも手をつけることのできないものとなる。――
国庁跡・宇倍神社
因幡国庁跡の万葉歌碑
岡益の石堂からの私は、同じ国府町を鳥取市のほうへ戻るようにして、その途中にある因幡国庁跡をたずねた。ここも二度目か三度目であるが、前記『鳥取県の歴史散歩』をみるとこうある。
国府町役場前の国府橋をわたり庁《ちよう》集落のなかを三〇〇メートルほどゆくと、左側にムクの木のある小さな広場、木の下にはいくつかの歌碑がたっている。いちばん大きなものが大伴家持の歌碑。万葉仮名で「新しき年の始めの初春の 今日ふる雪のいやしけ吉事《よごと》」ときざまれている。
大伴家持が因幡守に任ぜられたのは七五八(天平宝字二)年、その翌年正月一日、雪のふる国庁に国衙の役人・郡司などをあつめて新春の祝賀会がもよおされたが、その席上、家持がよんだのがこの歌。以後、家持の歌は一首も残っていない。……万葉の時代は、家持の因幡守在任中に終幕した。
いわば『万葉集』さいごの頁《ページ》を飾る一首で、その意味でもこの歌碑は重要であるが、一方また、その国庁跡にある歌碑は、大伴家持のそれだけではない。ここには木札ではあるけれども、写真(本電子文庫版では割愛)にみられるようなこういう歌碑もたっている。
藤浪の散らまく惜しみ
ほととぎす
今木の丘を鳴きて越ゆなり
万葉集 歌人不明
今木は新しく来るの意味で、上古新しい技術を身につけて、大陸から来た人々の住んでいた土地である。あの格調高い岡益の石堂も、あるいはこの人たちの遺構であるかも知れない。
それからこの歌碑の背後に目をやると、ムクの木などが左右に枝をのばしたあいだから、碗《わん》を伏せたようなその今木の丘が見える。うむ、なるほどなあ、と、「藤浪の散らまく……」というその歌が、あらためてまた胸に沁《し》みるのをおぼえる。
今木の丘は因幡の中心
今木といえば、いわゆる「大和朝廷」の飛鳥《あすか》がそこにあった大和(奈良県)の「今来(木)郡」(高市郡)が有名だが、こちらにもその今木の丘があることを私が最初に教えられたのは、いまは故人となっている文芸評論家の荒正人《あらまさひと》氏がここをおとずれたときにくれた、絵はがきによってであった。この「今木の丘」の今木とは、さきにみた川上貞夫氏の「今木と度木」のその今木であることはいうまでもない。そしてその今木の丘の西南麓には、新羅明神ということの白髭神社があって、三代寺(地名)というそこの氏神となっているのである。
その今木の丘が、いったいいつから「今木の丘」ということになったかはわからない。周辺の遺跡などからみて、おそらく六世紀後半あたりからではなかったかと私は思うが、それにまたもう一つ、国府町の西部となっているこの地は、これもさきにみた『和名抄』「法美郡」の第一番目となっている「大草 於保加也《おほかや》」、すなわち大加耶ではなかったかと思うからでもある。
もしそうだとすれば、古代南部朝鮮の加耶諸国が百済となり、新羅となり、その過程である者たちは日本へ渡ったりして、最終的にほろんでなくなるのは六世紀後半の五六二年であるから、それでまたかれらの一部は日本のこの地に渡来し、そしてこの地を朝鮮のそれにかわる「大加耶国」と、「大」の美称をつけて称したのではなかったかと思われる。新井白石によれば、「いにしえでは『国』といったものが、のちには『郡』となり『郷』となったものも少なくない」(『古史通或問』)のであるから、それがのちには「大草 於保加也」郷となったにちがいない。
しかしそれはどちらにせよ、今木の丘のあるこの地の国府町が、かつての因幡国の中心であったことはまちがいない。そのことはここに国庁がおかれたことからもわかるが、前記『鳥取県の歴史散歩』をもう少しみることにしよう。
国府は大和の藤原京や平城京に範をとった計画的政治都市だが、その機能は七世紀末から一二世紀までもっともよく活動した。因幡の国府は法美郡に造営され、その規模は一辺約六町ないし八町と考えられる。政庁の建物のある国庁は方二町(一辺約二二〇メートル)、府域の中央北寄りに設置されたらしい。国府に関係ふかい地名(大道・鍵田・桝田・くじき―功食・浮橋・中郷・庁・町屋・屋敷田など)や地形、条理遺構のみだれなど、また出土品(土師器・須恵器・瓦片など)から国庁跡が推定復元されるが、さらに発掘調査の結果が期待されている。遺物の分布は一キロ四方に及ぶ。
なお県では、昭和四十八年度から五ヵ年計画で国府跡とみられる地域を全域ブルドーザでならす予定(国府地区県営圃場整理事業)だ。これにともなって遺跡の事前調査が開始された。調査は従来、七葉素弁蓮花文という七世紀後半(白鳳時代)百済末期様式の軒丸瓦を出土していた大権寺《おおごんじ》弁天島地域からはじまった。発掘の結果、中世まで存続したとおもわれる庭園遺構を発見、弁天島の遺名は庭園の中ノ島築石だったことがわかった。庭園の権威者といわれる森蘊氏は、調査主任らと協議の結果、“史跡級の庭園跡”と太鼓判をおし、近畿以外では平泉毛越《もうつ》寺庭園(平安末期)より古く最古のもの〈という〉。
伊福吉部徳足比売の墓跡
ここでそんな庭園が発見されたというのもおもしろいので紹介したが、因幡国の中心となっていた国府町には、ほかにもまだみるべき遺跡はたくさんある。宮下というところの稲葉山中、無量光寺の裏山にある伊福吉部徳足比売《いふきべとくたりひめ》の墓跡もその一つである。これについては、もちろんいまみた『鳥取県の歴史散歩』にも書かれているが、和歌森太郎監修『日本史跡事典』にもこうある。
伊福吉部徳足比売は、「因幡国戸籍残闕」に伊福部徳足と記されている豪族の娘で、天武天皇十三年(六八五)には伊福部連《いふきべのむらじ》が宿禰の姓を与えられたと『日本書紀』に書かれてあるように、徳足は因幡国で強力な地位を保っていた支配者であった。
徳足比売は、藤原京にあった文武天皇につかえ、慶雲四年(七〇七)春、従七下位をさずけられた。徳足比売は奈良時代、宮中で食事に関する仕事にたずさわる、いわば最下位の宮仕えの女――采女《うねめ》のひとりであったようである。美しい女性の貢献によって、中央とのつながりを深め、自分の地位を確立しようとした地方豪族の、いわばいけにえの役割を負わされた女性であった。
徳足比売の墓は無量光寺の裏山にある前方後円墳で、当時流行しはじめた火葬にふされ、その骨灰は銅製の骨蔵器におさめられた。骨蔵器の蓋には文字が刻まれ、その末尾には「故末代君等、不応崩壊」とある。器は重文に指定され、現在、東京国立博物館に所蔵されている。
八世紀に入ってつくられた墓(徳足比売は七〇八年の和銅元年に亡くなっている)が、いわゆる「前方後円墳」であったとは、珍しい例の一つではないかと思う。それはもしかすると「因幡国で強力な地位を保っていた」伊福吉部=伊福部氏族のその「強力」ぶりをしめすものであったのかも知れないが、さて、では、国鉄鳥取駅の一つさきに福部というところがあって、そこの地名ともなっている伊福部氏族とはいったい、どういう氏族であったのであろうか。
かんたんにいうと、これも因幡・伯耆や出雲などに多い製鉄技術をもった産鉄氏族ではなかったかと私は思う。そして、あるいはもしかするとこれも、渡来の時期としてはこちらは「今木」ではなく、それよりずっと早かったようであるが、度木郷だった岡益に大多羅大明神の太田神社を祭り、梶山壁画古墳などを造営した者たちと同じ新羅・加耶系のそれではなかったかと思われる。
伊福部氏と宇倍神社
伊福部氏が新羅・加耶系渡来人集団の象徴となっている「天日桙《あめのひぼこ》」(天日槍)を祖とする産銅・産鉄氏族であったとは谷川健一氏も書いている(『青銅の神の足跡』)が、そのことについては、これからみるであろう伯耆のほうの「楽楽福《ささふく》」とともにあとでまたみるとして、ここでは徳足比売の墓跡から西へ二百メートルのところにある、因幡国一の宮の宇倍神社をみておくことにしたい。この神社は一八九七年の明治三十年まで代々、伊福部氏が宮司となっていたものであった。
つまりそのように、この神社は伊福部氏族の祖神を祭ったものだったにもかかわらず、いつからか武内宿禰《たけうちのすくね》が祭神ということになっている。そして神社には、「武内宿禰 三韓征伐出陣の図」というのがあり、これが「由緒書」にも写真となってかかげられているが、この宇倍神社については、さきにしるした(「大多羅大明神から」の項)「伯耆・因幡の古代文化」というシンポジウムで私はこうのべている。
――もう一つまた神社ですが、因幡国一の宮としての宇倍神社があります。昨日も行ってみましたが、武内宿禰を祭る神社ということになっているようですね。その「由緒書」をみますと、武内宿禰は景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五朝に仕えた大臣で、何と三百六十余歳で死んだとなっています(笑い)。
また、この宇倍神社には、「武内宿禰 三韓征伐出陣の図」というのがあるそうですが、ぼくはここで率直に言いますけれども、こういうでたらめなことはもうやめにしなくてはいけない。いやしくも因幡国一の宮である神社が、こういう「由緒書」を麗々しく出すことは、やめたほうがよろしいと思います。
これは先ほども言いましたように、製鉄とひじょうに関係の深い神社です。たとえば最近出ました『梶山古墳緊急発掘調査報告書』をみましても、「宇倍神社は伊福吉部《いふきべ》氏の社《やしろ》であり」と書いている。ですから、伊福吉部徳足比売の墳墓も二百メートル先にあるわけです。昨日、ここも行ってみましたが、……簡単に言うとこの宇倍神社は伊福吉部氏族の氏神であった。そしてその伊福吉部氏族というのは製鉄と関係の深かった、因幡における中心的な氏族であったということです。――
なぜか、そんな「由緒書」(正確には『因幡国一の宮/宇倍神社/御祭神 武内宿禰命』となっている)にとらわれたため、このときは肝心なことをおとしているが、宇倍神社は後方にある丘が亀金という古墳になっている。
前記『鳥取県の歴史散歩』にも、「この丘、じつは直径一四メートルほどの円墳で、箱式棺が埋葬してあり、そのなかから〓製鏡が出土した。四世紀末から五世紀初めとみられる古墳だ」とある。
川上貞夫氏の「国府町の歴史と文化」と副題された『因幡のふるさと』によると、この亀金古墳からは「銅鏡一面・管玉三個・刀剣(鉾形諸刃)断片数本・鉄鏃・其の他鉄製品」が出土したとあるが、そこに宇倍神社ができることになったのは、この古墳があったからにちがいない。そしてこの古墳の被葬者こそは、宇倍神社の祭神となった伊福吉部=伊福部氏族の祖神であったはずである。
「因幡の白兎」とはなにか
平野五号墳の彩色壁画
私は国鉄鳥取駅から、午後一時二十一分発の特急列車で倉吉《くらよし》に向かった。倉吉は鳥取県西部の伯耆となるが、因幡にしてもまだ行ってみたかったところや、さらにまたもう一度行ってみたかったところがなかったわけではなかった。
たとえば、一九八二年六月五日付けの朝日新聞に「古代の“青い狩人”躍る/鳥取県でまた彩色壁画」という見出しの記事があって、こう報じられている。
古代人が弓に矢をつがえ、シカを追う姿をいきいきと描いた古墳時代後期の青色の彩色壁画が、鳥取県岩美郡岩美町大谷の平野五号墳で五日までに見つかった。青い顔料だけを使用した壁画の発見はわが国で初めて。同古墳の南方十二キロの梶山古墳では、〈昭和〉五十三年七月、魚の文様を描いた壁画が発見されており、中国地方で発見された彩色壁画はこれで二例目。……
石室は全長約十メートルの横穴式。棺を置いたとみられる玄室は全長五・二メートル、幅二・二メートル、高さ一・八メートルで、天井は四個の切った巨石をのせ、形式的にも梶山古墳と極めて似ており、六世紀末から七世紀初めころのものとみられる。……
水野正好・奈良大学助教授の話 狩猟の絵は弥生時代の銅鐸(どうたく)によく描かれているが、その習慣が古墳時代にも残っていたことを示すもので、絵画の発生史として興味深い。狩猟は王者の遊びであり、それが権力者の墓に描かれたことは、当時、山陰地方に近畿や九州に並ぶ高い文化があったことを物語っている。
土師百井廃寺塔跡
梶山壁画古墳に次ぐその古墳が見つかった岩美町は鳥取市東北方で、私の乗った特急列車が走っている方向とは、ちょうど逆方向となっている。それからまた、これは鳥取市の南方となっているが、八頭《やず》郡郡家《こおげ》町には土師百井《はじももい》廃寺塔跡があって、それのことは、前記『鳥取県の歴史散歩』にこう書かれている。
郡家駅から二キロあまり西にゆくと、土師百井の村がある。村のうしろの南にめんした山麓には、整然とならんだ礎石群が残っている。これが土師百井廃寺の塔跡(国史跡)だ。塔跡の基壇は一辺約一二メートル、高さ約六〇センチ。柱間は三間で三重塔と推定される。出土する古瓦や塔心礎の形式からみて創建は奈良時代だ。八上郡衙《やがみぐんが》もこの近くにあったとおもわれ、この廃寺のすぐ南を流れる私都《きさいち》川の南岸近く中道《なかみち》に南面し、倉内・兵庫・土居屋敷などの一帯が推定地だ。この場所はいわゆる国中《くんなか》平野の中央部にあたり、ここから東北六キロにかけてのあぜ道には条理区割も遺存している。
八上郡は“いなばの素兎《しろうさぎ》”でしられる八上比売《やがみひめ》のふるさとでもある。土師百井や隣の池田・福本などの村々は大兎大明神をまつり、神話のむかしをしのばせる。ところで『万葉集』には安貴王と八上采女《うねめ》の悲恋の歌がある。非情のさだめはふたりをひきさき、八上采女はここ八上郡にかえされた。壮麗な堂塔や万葉の人びとは地上からきえうせたが、廃寺の塔跡にたつと万葉のむかしの八上の歴史をつつみこんだひろびろとしたあかるいながめがある。
廃寺の裏山一帯には、後期古墳も多く築かれている。なかでも中腹にある米岡《よねおか》古墳は、石室内部に稚拙だが線描による絵画があり、いわゆる装飾古墳としてしられている。
ここにそんな壮大な土師百井廃寺塔跡があったとは、これまた「山陰地方に近畿や九州に並ぶ高い文化があったことを物語っている」ものにほかならないであろう。ところで、土師百井廃寺がここにいた土師氏族(八上郡からはのち土師郷司季兼などという者が出ている)の氏寺であったとすると、「土師は、河内の羽曳野《はびきの》をその本拠とする百済系の人びとが称した氏だった」(東京都歴史教育研究会編『東京都の歴史散歩』)のであるから、その廃寺は因幡では珍しい、百済系のそれであったということになる。
もっとも、われわれはさきの国庁跡で、「七葉素弁蓮花文という七世紀後半(白鳳時代)百済末期様式の軒丸瓦を出土していた大権寺」というのをみているので、それも別に珍しいものではないかも知れない。それからまた、土師百井廃寺塔跡のことがのべられたなかに、「八上郡は“いなばの素兎《しろうさぎ》”」うんぬんというのがみられたが、これは「因幡の白兎」ともいわれるそれであることは、いうまでもないであろう。
「因幡の白兎」
どういうことでか、私はうっかり忘れるところだったが、因幡といえば、まずその「因幡の白兎」のことを思いうかべなくてはならなかったはずである。しかも私はさきに来たとき、上田正昭氏らといっしょに、鳥取市内海のその説話で有名な白兎《はくと》海岸までわざわざ行ってみてもいる。
そこは、白兎海岸であるばかりでなく兎宮ともいわれる白兎《はくと》神社というのまであった。「ほう、こんな神社まであったのか」と思いながら、神社のある丘から海岸へおりてみると、眼前はぼうぼうたる日本海であった。しかし、いかにもその向こうには朝鮮半島が横たわっている、という感じであった。
『古事記』や『因幡国風土記』(逸文)などにも出ている「因幡の白兎」とはどういう説話で、それはどういうことを物語ったものであるか。まず、山中寿夫氏の『鳥取県の歴史』をみると、「白兎伝説については、いろいろな解釈がなされているが、共通するところは白兎・ワニザメを人間化して、一族の勢力範囲(国)拡充のための抗争を語ったものとみることである」と書かれている。
鰐=サビモチの神
兎が鰐《わに》に皮をはがされたというこの説話は、まあ、そういうものではなかったかと思うが、しかしもうひとつ、中島利一郎氏の『東洋言語学の建設』「朝鮮語を通して見たる日本語」によってみると、それはもっと具体的で、次のようになっている。
例によって長い引用となるが、因幡・伯耆や出雲における産鉄・鉄器文化をみるうえでも大事なことと思うので、あえてまたそうさせてもらうことにしたい。なお、原文は歴史的かなづかいとなっているが、ここではそれを新かなとする。
次に朝鮮語であります。朝鮮語が我が国の上代文化、或《あるい》は我が国の国語にどういう影響を与えておるかということを、簡単に述べて見たいと思います。なお私は神話によって、これを説明して見たいと思います。
御承知の兎と鰐《わに》との物語りです。兎が隠岐《おき》の島から因幡に移りたいと思ったが、兎は海が渡れない。そこで鰐を騙《だま》して、おれの眷属《けんぞく》とお前の眷属と、どちらが多いか比べてみよう。宜《よ》かろうとなって、鰐を隠岐の島から因幡の海岸まで並べた。そして兎はその並んだ鰐の背を、一疋二疋と数えて渡った。斯《こ》ういうお話しはお伽噺《とぎばなし》として御承知の通りです。これは『古事記』に書いてあります。これを斯ういう風に見ると、単なる童話なり、お伽噺に過ぎないのですが、然《しか》しこれを言語学的に又民族史的に見ると、非常に重大なる意味を持ち来るのであります。
私共の小学時代に於ける児童の読物には、其の挿画に鰐の絵があった。ところが、或る学者が鰐は南洋のものである。従って日本海におるべき筈はない。これは改めなくてはならぬといって、たまたま山陰方面の方言によって、出雲、因幡の方言で鮫《さめ》のことをわにというから、今日の「国定教科書」の挿画には、鮫の背を兎が渡っている図が描いてあります。出雲、因幡あたりでわにといえば、英語のクロコダイルのことではない、鮫のことです。然しながらこれは鰐としても鮫としても、五十歩百歩の話しです。これは考え直さねばならぬと思います。
私は数年前に『早稲田文学』の「記紀文学号」に「民族文化の上より見たる鰐と兎との話」という題で書いたことがありますが、それによって申上げることに致します。鰐のことを『古事記』にはサビモチの神と申しておるのです。このサビとは何であるか。『日本書紀』に「太刀ならば呉の真〓《まさび》」という歌の文句があります。即ち太刀であるならば、外国産の太刀がいいといっているのである。……真〓のサビは刃物です。それにマという接頭語をつけたのです。真夜中というように、意味を強めるためにマという字をつける。即ちサビモチの神というのは、刃物を持っておる神ということであります。神というのは、必ずしもゴッドの意味ではないのです。即ち優れた力を持っておる者を神というのです。人間以上の力を持っておる者をいう。狼も人間以上の力を持っているので、オオカミというのです。
産鉄・鉄器文明との関係
ここにいうサビ(〓)とは、『日本書紀』に「稲飯命《いないのみこと》……剣を抜きて海に入りて鋤持神《さびもちのかみ》となる」とあるそのサビでもあるが、中島氏は、『古事記』に古代朝鮮の地名として「〓の港」とあるのが『日本書紀』には「和珥《わに》の津」となっていることを指摘し、「即ちこれで『さび』と『わに』とが同一であることがわかる」として、さらにつづけてこうのべている。
此のサビという、実をいえば朝鮮語のサップ、それがサビとなったのです。即ち刃物です。それで私は、兎と鰐との伝説に於ける鰐とは何であったかというと、周囲の民族が石器時代の生活をしておった、未だ鉄器文明を知らない民族が住んでおった時代に、若《も》し一人の鉄の武器を使用し得る者がそこに現れたとすると、これは周囲の民族にとっては一大脅威を感ぜしめらるるに相違ない。即ち鰐というのはそれであると思う。鉄の剣なり太刀なり、鉄器を製造する或る豪族が現れたとすると、周囲の石器時代の住民は、非常に恐怖を感ずるに相違ないのであります。
出雲、伯耆、因幡地方は、わが国に於いて最も砂鉄の豊富なところですから、其の鉄を利用する民族が彼処に興ったということが、出雲文化の出発点になると私は思うのであります。そして其の鉄器文明利用者たる最初の文化人は、朝鮮方面から彼処に移って来たものであろうと思う。素戔嗚尊が朝鮮と往来したという意味も、私はその間に認めたいと思います。
くり返すようであるが、中島氏のこれは、日本で「最も砂鉄の豊富な」「出雲、伯耆、因幡地方」における産鉄・鉄器文化をみるうえで、ひじょうに重要な証言となっているものではないかと私は思う。それでながながと引いたが、さて、そのことについてはこれからまたみるとして、私の乗った列車は、そのような意味深い説話・伝説の白兎海岸をすぎて、間もなく倉吉駅に着いた。
倭文神社と周辺
羽合の橋津古墳群
倉吉におり立った私は、駅前のタクシーに乗り、
「倭文《しどり》神社へ行ってください」と言った。すると、中年をすぎた運転手はクルマを走りださせながら、
「一の宮さんですね」とこたえた。
伯耆国一の宮なので、地元では「一の宮さん」とよんでいるのだとすぐにわかったが、その「一の宮さん」の倭文神社へは、私が鳥取から乗って来た列車では倉吉の一つ手前、松崎でおりるのが道すじだった。が、松崎には特急が停まらなかったので、一つさきの倉吉からタクシーということになったのである。
やがてタクシーは景色のよい、かなり大きな湖のほとりに出たので、
「東郷《とうごう》池ですね」と私は、運転手に向かって念をおした。
「ええ、そうです。あの向こうがハワイの浅津温泉ですよ」
「ハワイ?」と私は一瞬、「温泉」ということばにとらわれて、そこがアメリカのそんな地名をとった歓楽地かと思ったのだったが、しかし、それは私のまちがいだった。
ハワイはハワイでも、そこはれっきとした日本地名の羽合《はわい》で、しかもそこには、国指定史跡となっている橋津古墳群などのあるところであった。前記『鳥取県の歴史散歩』をみると、その古墳群のことがこう書かれている。
倉吉駅からバスで約二五分、橋津で下車するとすぐ前の丘陵が馬ノ山だ。北は日本海、南は東郷池、西は眼下に羽合《はわい》平野から北条《ほうじよう》平野を、そのはるかかなたには伯耆大山をながめる景勝の地だ。この丘陵に前期から中期にかけての古墳を主とした五基の前方後円墳と一七基の円墳があり、これを橋津古墳群(国史跡)とよんでいる。この古墳群に科学的メスがくわえられたのは昭和三一年春のこと。とくに注目されたのは、丘陵西端近く築かれている馬ノ山四号墳とよばれる前方後円墳だ。標高三〇メートルほどの小塚(古塚)といわれる尾根全体に築かれた、長さ一一〇メートルに及ぶこの古墳は、古墳群中もっとも景勝の位置をしめ、東に陪塚《ばいちよう》と考えられる小円墳をしたがえ、山陰地方最大級の規模をほこる。
調査の結果、この古墳は四世紀ごろの古墳時代の初めに築かれたいわゆる前期古墳で、封土は赤土をもり上げ、表面には全面に板状のヘギ石を葺石《ふきいし》としてしきつめ、厚手の円筒埴輪をめぐらしていたことがわかった。内部をみるとまず直径五八メートル、高さ約一〇メートルの後円部には、東西方向主軸に平行してほぼ中央に長さ八・五メートル、幅六〇〜八五センチ、高さ七〇〜九五センチ、ヘギ石をつみかさねた竪穴《たてあな》式石室がつくられていた。石室の内部は天井・側壁・床とも真紅にそまり、床には径一センチほどのまるい川原石を一〇センチぐらいの厚さでしきつめていた。この石室内にはマキの自然木をふたつ割りにし、なかをくりぬいて舟型にした長さ約二・七メートルの木棺がおさめられ、副葬品とともに頭を東むきにした遺体が朱のなかにあった。
そして出土品としては、木棺内に十二支文の鏡・玉・石釧《いしくしろ》類が、木棺外には右手に刀剣、左手にのこぎりがならべられており、ほかにまたヒスイの勾玉《まがたま》、碧玉《へきぎよく》の管玉《くだたま》、車輪石など、「質量ともに山陰第一級のもの」があったという。日本海沿岸の小さな町である羽合に、そんな四世紀の前期古墳が造営されていたとはおどろくべきことで、このような古墳を造営した者と、私がこれからたずねる羽合東南方の東郷池を見おろす御冠《みかむり》山麓に伯耆国一の宮の倭文神社をいつき祭った者とは、決して無関係ではなかったはずである。
伯耆国一の宮・倭文神社
タクシーはゆるい勾配の山道に入ったが、しかしそこもセメントで舗装されていて、その舗装は、山腹にただそれだけしかない倭文神社の大鳥居までつづいていた。鳥居の背後には寺の山門のような神門があって、そこから参道が山の樹木の中に消えており、社殿まではかなり歩かなくてはならないようだった。
それでも、せっかくそこまで来たのだからと歩きだしてみると、「蜂に刺されぬよう注意」という立札があって、あたりには蜂がブンブン飛んでいる。私はなによりも蛇や蜂がにがてなので、そこから引き返してしまった。
そういうわけで社殿は見ずじまいだったが、前記『鳥取県の歴史散歩』によってみると、その倭文神社はこうなっている。
松崎駅の北約三キロ、深鉢をふせたような御冠山(標高一八六メートル)の西麓に鎮座しているのが伯耆国一宮《いちのみや》の倭文神社。“しず織”という織物をおる倭文部《しとりべ》のまつる建葉槌命《たけはづちのみこと》(天羽槌雄神)を主神としている。大国主命の国譲り後、これに服従しなかった国を平定したのが建葉槌命だと記紀は伝える。このやしろは八三七(承和四)年はじめて国守クラスの従五位下をあたえられ、王朝政府にとりこまれる。……
いっぽう、京都の松尾大社も東郷池周辺を東郷庄として私領化。持明院《じみよういん》統系の人びとがこれを支配した。南北朝期にはいると一宮は圧迫されて、往古の勢力をとりもどすことはもはや不可能だった。そしてたんに宗教的にのみ存在価値をみとめられ、これがいまに残る一宮だ。現在の社殿は一八一六(文化一三)年に造営されたもの。
どうして「南北朝期にはいると一宮は圧迫されて、往古の勢力をとりもどすことは……」ということになったのかよくわからないが、思うにそれは、この神社を祭っていた者たちが強い「祭政一致」の政治的勢力になっていたからにちがいない。それにしてもおもしろいのは、そのような強い勢力となっていたにもかかわらず、「京都の松尾大社」が倭文神社のもとにある「東郷池周辺を東郷庄として私領化」していたということである。
あるいはもしかすると、そこが松尾大社の東郷庄となったために、強い政治的勢力となったのかもしれないが、いずれにせよ、それが京都の松尾大社の荘園(東郷庄)となっていたということが私にはおもしろい。
というのは、広く知られているように、京都の松尾大社は、伏見《ふしみ》の稲荷《いなり》大社などとともに、日本に機織《はたおり》をも伝えた新羅・加耶系渡来人の秦《はた》氏族がいつき祭っていた神社であった。つまり、私がおもしろいというのは、「“しず織”という織物をおる倭文部《しとりべ》」と秦氏とは、その元のところでつながりがあったと思われるからである。そうでなくては、倭文神社のそこが、遠い京都にある松尾大社の荘園になるなどとはとうてい考えられぬであろう。
伯耆一宮経塚
もちろん、あるところでは服部《はとり》氏、倭文氏ともなっているその「倭文部」は、ただ織物だけをおっていたのではなかった。そのことはさきにみた東郷池畔の橋津古墳群からの出土品をみてもわかるが、さらにまた、これも倭文神社の祭神となっている、下照姫の墳墓といわれているところからの出土品をみてもそれはよくわかる。それについては、前記『鳥取県の歴史散歩』にこうある。
ところで、この伯耆一宮境域にある下照姫《したてるひめ》(大国主命の娘)の墓だと土地の人びとがよんでいた円墳状の塚から、一九一五(大正四)年に経筒がほりだされた。直径一五メートルほどのこの塚は、現在伯耆一宮経塚(国史跡)とよばれ、その出土品は一括して伯耆一宮経塚出土品(国宝・東京国立博物館寄託)といい、代表的な経塚と出土品だ。
封土表面から約一・五メートル下のところにつくられていた幅九〇センチ、長さ一・二メートル、高さ五〇センチほどの長方形の石槨《せつかく》からは青銅製の経筒が発見され、その表面には平安時代特有の優雅なおもむきをもつ文字がきざまれ、筒内には二体の観音像、銅板に線刻された弥勒《みろく》像、和鏡、二枚の銅銭、ガラス玉、檜扇、邪悪をはらう短刀などが納入されていたが、経巻はくちはてていてあとかたもなかった。これらのなかで金銅製の観音像は白鳳時代のもので、経塚出土の白鳳仏としては最高の秀品だ。
白鳳時代とは七世紀半ばから八世紀はじめにかけてであるから、そのころすでにこの地にはそのような高い文化があったのである。さきにみた橋津古墳群からは刀剣など、武力的なものも出土しているが、この経塚のものとそれとは対照的で、その文化的奥行きの深さをしめしているとみなくてはならない。
大御堂廃寺・勝宿禰神社
そのような経塚ばかりでなく、古代伯耆の中心の一つとなっていた一の宮の倭文神社とその周辺とには、ほかにもまだ行ってみたいところは多かった。たとえば、倉吉市福庭には伯耆国二の宮の波波伎《ははき》神社があって、その東方には三十基以上の円墳、十四基以上の横穴石室などを擁する御井《みい》ケ平《なる》古墳群があり、また同市駄経寺《だきようじ》町には注目すべき大御堂廃寺があった。
前記『鳥取県の歴史散歩』によると、「この寺は伯耆最大の規模と美観とをほこっていた」として、それのことがこう書かれている。
昭和四八年、再度、寺域の南限とおもわれる区域を発掘したが、大量の瓦片・鉄片など出土したのみで、なんら遺構は確認できなかった。この調査は倉吉市が上灘土地区画整理事業で寺域に道路をつけるため行なわれた、いわば破壊を前提とした発掘で、かくてこの古代伯耆第一級の史跡大御堂廃寺は、工場と区画整理とによって数々のなぞをひめたまま消滅した。かつての大寺の偉観は塔心礎と四天柱礎、寺域の東五〇〇メートルほどいったところの下田中《しもたな》に鎮座する帰化人系の氏族がまつった勝《かつの》宿禰《すくね》神社境内入口の石垣に利用されている二個の柱礎や、芸術的な軒丸瓦・鬼瓦(倉吉市立博物館)などにその名残りをとどめるのみだ。
そのような「破壊を前提とした発掘」は何ともやりきれないことで、筆者の溜息が聞こえるような気がするが、それにしても、「帰化人系の氏族がまつった勝《かつの》宿禰《すくね》神社」とは、どういう神社だったのであろうか。「勝」とは秦のもうひとつの氏族名であったから、この神社は、その勝(秦)氏族の氏神だったにちがいないが、すると、そこから五〇〇メートルさきの大御堂廃寺は、かれらの氏寺だったかも知れない。
大御堂廃寺の二個の柱礎を境内入口の石垣にしているという、その勝宿禰神社をたずねてみればわかるかも知れなかったが、しかし、この日の私は大山《だいせん》町から淀江《よどえ》町、それからさらに日野川べりの楽楽福《ささふく》神社まで行かなくてはならなかったので、もうそうしている時間がなかった。
私は思いきって、ほかにまた、これも秦氏族のそれであった倭文《しとり》と同じ服部《はとり》というところもある倉吉をあとにして、高麗《こうれい》村がそこにあった大山町、淀江町へ向かうことにした。
大山・高麗山の麓
伯耆のシンボル・大山
伯耆の東北部から、そのあいだの中部はとびこして、いきなりこちらも日本海寄りの西北部となったわけであるが、この大山町には有名な伯耆大山《ほうきだいせん》とともに高麗《こうれい》山、または孝霊《こうれい》山とも書かれる山があって、その麓の淀江平野には高麗村というのがあった。それが一九五五年九月の町村合併により、高麗村の大半は大山町となり、そのうちの今津地区は淀江町となった。
その高麗山・高麗村については書くべきことが多いが、それはあとにして、伯耆となるとさきにまず、そこにそびえ立っている大山ということでなくてはならない。私が伯耆でこの大山をながめるのは、こんどでたしか三度目ではなかったかと思う。
山中には奈良時代にできたという天台宗の大山寺、阿弥陀堂、大神山神社などがあって、どれもこんな山中によくも、と思われるものであるが、しかし山は遠くからながめるもので、中へ入ってしまえばどこも同じ山、となるのがふつうのようである。
だから、山は遠くからながめるのがいちばんよいと私は思っているが、標高一七一一メートルの大山は、いつ来て見てもどっしりとした安定感のある秀麗な山で、伯耆ではたいていどこからでも望み見ることができる、いわば伯耆国を象徴するような山なのである。
『暗夜行路』と大山
これが相模(神奈川県)にある大山《おおやま》とちがって、どうして大山《だいせん》となっているのか、それはわからない。それはわからないが、しかしどちらかというと、大山《だいせん》というのは朝鮮語の大山《デエサン》に近いので、それで私はなおのことある親しみを感じるのかも知れない。しかしながら、とはいっても、私は、その大山を自分の目で見て知ったのではなかった。
私が伯耆大山のことをはじめに知ったのは、志賀直哉の長編『暗夜行路』によってであった。『暗夜行路』はおわり近く、主人公の謙作がその大山に登ったことで、ある悟りをえたような境地にいたるが、ことに、苦悩する主人公の心象風景と重ねた山上での夜明けの描写が秀逸で、いまここでそれをみると、次のようになっている。
少し長いけれども、「大山讃歌」としてゆるしてもらいたいと思う。なお、引用は岩波文庫版により、旧かなを新かなに改めた。
静かな夜で、夜鳥《よどり》の声も聞こえなかった。そして下には薄い靄《もや》がかかり、村々の灯《ひ》も全く見えず、見えるものといえば星と、その下に何か大きな動物の背のような感じのするこの山の姿が薄く仰がれるだけで、彼は今、自分が一歩、永遠に通ずる道に踏み出したというような事を考えていた。彼は少しも死の恐怖を感じなかった。しかし、もし死ぬならこのまま死んでも少しも憾《うら》むところはないと思った。しかし永遠に通ずるとは死ぬ事だというふうにも考えていなかった。
彼はひざに臂《ひじ》を突いたまま、どれだけの間《あいだ》か眠ったらしく、ふと、目を開いた時はいつか、あたりは青みがちの夜明けになっていた。星はまだ姿を隠さず、数だけが少なくなっていた。空が柔《やわら》かい青みを帯びていた。それを彼は慈愛を含んだ色だというふうに感じた。山裾《やますそ》の靄《もや》は晴れ、麓《ふもと》の村々の電灯が、まばらにながめられた。米子《よなご》の灯《ひ》も見え、遠く夜見《よみ》が浜《はま》の突先《とつさき》にある境港《さかいみなと》の灯も見えた。ある時間を置いて、時々強く光るのは美保《みほ》の関《せき》の灯台に違いなかった。湖のような中《なか》の海《うみ》はこの山の陰になっているためまだ暗かったが、外海《そとうみ》のほうはもう海面にねずみ色の光を持っていた。
明け方の風物の変化は非常に早かった。しばらくして、彼が振り返って見た時には山頂の彼方《むこう》からわき上がるように橙色《だいだいいろ》の曙光《しよこう》がのぼって来た。それが見る見る濃くなり、やがてまたあせはじめると、あたりは急に明るくなって来た。萱《かや》は平地のものに比べ、短く、そのところどころに大きな山独活《やまうど》が立っていた。あっちにもこっちにも、花をつけた山独活が一本ずつ、遠くのほうまでところどころに立っているのが見えた。そのほか、おみなえし、われもこう、萱草《かんぞう》、松虫草《まつむしそう》なども萱に混じって咲いていた。小鳥が鳴きながら、投げた石のように弧を描いてその上を飛んで、また萱のなかにもぐり込んだ。
中の海の彼方《むこう》から海へ突き出した連山の頂が色づくと、美保の関の白い灯台も日を受け、はっきりと浮かび出した。まもなく、中の海の大根島《だいこんじま》にも日が当たり、それが赤〓《あかえい》を伏せたように平たく、大きく見えた。村々の電灯は消え、その代わりに白い煙がところどころに見え始めた。しかし麓の村はまだ山の陰で、遠い所よりかえって暗く、沈んでいた。謙作はふと、今見ている景色に、自分のいるこの大山《だいせん》がはっきりと影を映している事に気がついた。影の輪郭が中の海から陸へ上って来ると、米子の町が急に明るく見えだしたので初めて気づいたが、それは停止することなく、ちょうど地引き網のように手繰《たぐ》られて来た。地をなめて過ぎる雲の影にも似ていた。中国一の高山で、輪郭の張り切った強い線を持つこの山の影を、そのまま、平地にながめられるのを稀有《けう》の事とし、それから謙作はある感動を受けた。
高麗山と一宮神社
右の描写に出ている夜見が浜(弓ケ浜)、境港、美保の関、大根島など、どちらもいま書いているこの稿のため行ってみたところなので、私としてはとくに感銘深いものがある。
それはそれとして、「中国一の高山」である標高一七一一メートルの大山は、ところによってはその北方にある標高七五一メートルの高麗山より逆に低くなり、その陰に隠れて見えなくなることがある。現代のわれわれがみても何となくふしぎな感じのもので、古代の人々はそれをいったいどうみたかと思われるのであるが、鳥取県立米子図書館をおとずれたとき同図書館の畠中弘氏からもらい受けた、同米子図書館編『伯耆・出雲の史跡めぐり』「一宮神社付近」にそのことがこうある。
米子から国道九号線を東走すれば、やがて孝霊山〈高麗山〉の姿が次第に大きくなり、ついに大山の姿がすっぽりと隠れてしまう地点が来る。そこに妻木(むき)の一宮神社がある。そこから見る孝霊山の山容は一番均整がとれて美しく神々《こうごう》しい。このことは後述するように孝霊山と一宮神社とが深い関係にあることを物語っている。
一宮(いちのみや)は各地にあり、普通は律令社会に於て最高の位を与えられた古社をさすが(例えば、伯耆国一宮は東伯郡東郷町の倭文神社を指す)、その他にも各地方での由緒ある古社で信仰あつい神社が一宮とよばれている。この神社は、古来、一宮大明神と号してアメノオシホミミノミコトその他の神々をまつり、郡中の旧社としてしられ、上下の信仰があつかった。……
恐らくここ一宮神社のある所は、遠い昔古代人たちが、孝霊山にいます神を迎えるためにまつりを行なった聖地、「神まつりの場」であったであろうと想像される。孝霊山は神のこもる山、神奈備《かむなび》であり、その祭の場がここであったであろう。孝霊山を望む位置、早期縄文以来の先住民の歴史、そして経塚〈この一宮神社境内にもさきの倭文神社のそれと同じような経塚があり、銅筒と銅鏡数面とが出土している〉の存在がその事を物語っている。神まつりの場であるために、ここに銅鏡も埋められた理由があり、古く一宮とよばれた由来もある。美しい神奈備の山孝霊山とその神まつりの聖地であった信仰の歴史が、ここ一宮神社にみられる。
高麗山=韓山《からやま》
その麓に大神《おおみわ》神社のある大和(奈良県)の三輪《みわ》山と同じ神奈備だというのであるが、してみると、ここにもさきにみた倭文神社とその周辺におとらぬ「祭政一致」の政治的勢力の者たちがいたのである。そのことはこれからたずねる高麗山麓の古墳群をみてもわかるが、ところで、私は高麗山と書いているそれがここではずっと「孝霊山」と書かれているけれども、これはほんとうはどちらがただしいのであろうか。
一九二三年に出た小松原真琴編『大山・高麗山と安養寺』によると、高麗山は「孝麗山」とも書かれたらしく、「この峰こそ、古来実に神秘の霊山として今に史実を埋蔵している宝庫である、高麗山は、俗に韓山《からやま》と呼ぶ、伯耆国西伯郡に属して淀江駅から南一里、此《この》山号は古来異説が多くて紛々帰趣〈帰趨《きすう》〉するところがない、伯耆国諺記、民談記の二書には高麗とあり、又伯陽六社みちの記(元禄七年、竹内自安著)には孝麗の字を用いて……」とある。
しかしながら、「俗に韓山と呼ぶ」とあることからもわかるように、これはやはり古代朝鮮をさした高麗山とするのがただしいのではないかと私は思う。そのことについては、ほかならぬ前記『伯耆・出雲の史跡めぐり』「孝霊山」にもこう書かれている。
高さ七五一米、淀江町と大山町の境をなしている。高麗山とも書き、地元ではカラヤマとよぶ。この山をとりまく山麓にはいわゆるカラ山古墳群と総称される四百以上の古墳が分布し、また石器類も多く出土している。なだらかな山容は、淀江では大山より高く望まれる。その昔、カラ(韓。朝鮮の古称)からはるばる大山との山くらべのためここまで運んできたが、大山が高かったのでここに置き去りにしたという伝説もあり、またその名から孝霊天皇の伝説も残り、遠い昔の朝鮮との文化交流のあとを想像させる。一面では妻木の一宮神社にみるように、神隠る山としての原始信仰の姿もとどめている。頂上近くには、天正の頃福頼氏の拠った所という古城砦もある。
カラ山古墳群
これでみると、「孝霊天皇の伝説」から「孝霊山」ということにもなったようであるが、そんなことよりここで注目すべきは、その山麓に四百以上も分布しているというカラ山古墳群であろう。高麗山麓の町となっている淀江はもと、日本海に面した港町でもあったとのことであるが、今日ではそれが米子、境港に移って、平野の区画された水田から、しだいに山裾にまで向かって開かれた農村地帯となっている。
国鉄淀江駅から東南へ、高麗山を目の前にしながらしばらく歩くと、岩屋古墳や長者ケ平《なる》古墳などが見えてくる。そしてそこの福岡集落の奥まで行くと、天神垣神社境内にある珍しい石馬像をみることができるが、森浩一氏の「日本海文化の模索」によると、そのあたりはこういうふうである。
カラ山古墳群には四三六基の古墳が知られ、そのうち約一割の三四基が前方後円墳であるから、わずかばかりの水田のある土地としては驚くほど多数の古墳が築かれていて、ひいては並々ならぬ政治勢力の存在が知られる。
この土地には、本州として唯一つの石馬を立てた石馬谷古墳があったり、これも本州として大和よりも早い時期の優秀な石工《いしく》技術の粋を示す岩屋古墳や金銅の冠のような王者の装いの品々を副葬した長者ケ平古墳など、大和や九州からの文化影響だけでなく、直接大陸各地からの文化影響あるいは集団の渡来を推測させる。
しかも文化影響にしろ集団の渡来にしろ、一度限りのものではなく、波の強弱はあってもかなりの期間(もっと正確にいえば鎖国時代といわれる近世においても)続いているとみてよかろう。
これをさいごのほうからみると、「(鎖国時代といわれる近世においても)」というのは、一七六七年の明和四年に朝鮮から漂着した四人の漁民のことをさしているのではないかと思うが、つまりそのことは、古代からの海流がそのようになっていたということでもある。それから、「金銅の冠のような王者の装《よそお》いの品々を副葬した長者ケ平古墳」とあるが、これが前記『鳥取県の歴史』には、「舶来品と考えられる金銅製の冠《かんむり》を出土した長者ケ平古墳」となっている。
「舶来品」というと、「金銅の冠」それだけが「輸入」でもされたかのように聞こえるが、決してそういうものではない。それは森浩一氏のいう「集団の渡来」とともにもたらされたものなのである。
なお、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」をみると、伯耆国のそれとして淀江町の次のようなものがあげられている。もちろんこれが全部ではないが、=の下はそこからの出土品である。
△西伯郡宇田川村西尾古墳=子持高坏
△西伯郡淀江町長者ケ平古墳=冠帽
△西伯郡淀江町付近=子持高坏
ここにいう「宇田川村」も高麗村と同様にいまは淀江町となっているが、「長者ケ平古墳=冠帽」とは、いまみた「金銅製の冠」であることはいうまでもないであろう。
石馬谷古墳の石馬
石馬谷古墳に立てられたもので、のち天神垣神社に移された石馬を私がはじめにみたのは十数年前のことだったが、こんど行ったときも変わらずそこにあった。淀江町が「郷土の誇るべき文化財」(『史跡の町よどえ』)としているこの石馬については、前記『伯耆・出雲の史跡めぐり』「石馬」にくわしくこう書かれている。
福岡の天神垣神社境内にある。体長一・五米の石製の馬で、脚部は失なわれているが、古色と雅致にあふれている。古墳に石人・石馬を立てて飾った例は北九州に数例見られるが、本州に於てはこの石馬が唯一つあるだけである。この石馬は、近くにある石馬谷古墳の飾りに立てられたものといわれ、それがのち石馬大明神として祭られてきた。明治初年には祭ることを禁じられたため一時すてられかけたが、天神垣神社の神職伊勢山氏がこの神社の境内へ移して保存されていた。明治三十三年に坪井正五郎博士や足立正氏によって貴重な文化財であることが確認され、昭和十年に国の重要美術品に指定、さらに昭和三十四年六月二十七日、重要文化財に指定された。石質は角閃安山岩であり、この地で作られていることが明らかである。
作は石の丸彫りで鞍などの馬具で飾られている。全体に酸素鉄がぬられていた跡がわずかに見られる。その当時は土で埴輪として作った場合が殆《ほと》んどであるのに、何故ここだけ石で馬を作ったかは謎である。しかしながら福岡古墳群にみられる石材加工技術の高さ、当時の先進地朝鮮の文化をよく取入れていること、馬をもつことの価値あることなどを考えあわせれば、この地に石馬の存在する理由もうなずける。郷土の誇るべき文化財として大切に残していきたい。一面からみれば、古代石造美術の代表作ともいえよう。
「当時の先進地朝鮮の文化をよく取入れていること」とあるが、これと同じ石馬は、もと加耶だった韓国の慶尚南道固城郡石馬里にもある。
日野川の鉄穴流
日野川と新羅系渡来人
淀江からはタクシーで、こんどは日野川をさかのぼって、日野郡の溝口まで行くことにした。そこにある楽楽福《ささふく》神社をたずねるためだったが、さきにまず日野川ということで、私にはちょっと考えさせられるものがある。
というのは、その日野川は越前(福井県)にもあって、『日本の中の朝鮮文化』(5)「今庄・今城・白城」の項でみているように、これは『万葉集』の大伴家持の歌に「叔羅《しらぎ》川」とあるそれで、元は信露貴《しろき》川、新羅《しらぎ》川となっていたものだった。今庄の新羅神社でみせてもらった古い文書に、そのことがこう書かれていた。
「足羽記に云う、信露貴川は新羅山麓より出《い》づ」「新羅川水源、今庄駅の東南夜叉ケ池より出づ、一名能美川、又、日野川」
いったいどうして、新羅川が日野川となったのであろうか。日野とか日根とかは、新羅における日の神である太陽信仰(このことについては水谷慶一氏の『知られざる古代』にくわしい)からきたものかどうか、それはよくわからない。
それはよくわからないが、しかしたとえば、和泉《いずみ》(大阪府)の泉佐野市には日根野というところがあって、そこに日根氏族の氏神だった日根神社があるが、『泉佐野市の文化財』にその日根神社と日根氏とのことがこうある。
日根神社本殿 市内日根野六三一
当社の神宮寺であった慈眼院に隣接した神社で、古来大井関大明神と称せられ、古くからこの地方で崇敬されている。延喜式神名帳に「日根郡正四位下日根社」とあるのに比定されている神社で、養老年間勅命により和泉五社の一に列せられた。祭神はウガヤフキアエズノミコトとタマヨリヒメの二柱とされているが、一説には古くからこの地に移住して来た、新羅国王の億斯富使主《オシフノオミ》を祀《まつ》ったという。
日根野城址 市内日根野中筋
日根氏、先祖は新羅の億斯富使主《オシフノオミ》なりと伝えられ、その子孫は日根野に永住して勢力を持つ在地の武士であった。明治初期の頃にはすでに城址はなく、わずかに竹林と八幡社が残っていたが、それを遷《うつ》し内溝を埋め耕地としたので、現在地上には城のあった徴は何もない。ただ、小字名に土居、垣外、大門、弓場《ユウバ》川(弓術を練習した、という意)等という名称が残っていて、城のあったことを証している。最近、日根対山顕彰会が石標を立てた。
日野川と製鉄
それが新羅における日の神としての太陽信仰からきたものかどうかはよくわからないとしても、いずれにせよ、日野とか日根というそこは、新羅系の渡来人が住んだところであったことにまちがいはない。これからみる日野川や、それから出雲(島根県)の斐伊《ひい》川のあたりもそうであるが、まず、こちらのその日野川とはどういう川であったか。前記『鳥取県の歴史散歩』をみると、それはこういう川であった。
鳥取県西部を貫流する日野川(八〇キロ)は県下最長、中国山地の三国《みくに》山(一〇〇四メートル)・道後《どうご》山(一二六九メートル)などにみなもとを発し、印賀《いんが》・石見・法勝寺川など大小一三の支流をあつめて、米子市皆生《かいけ》で日本海にそそぐ。
上流の奥日野(船通山付近)一帯を山の上とよび、火の神をまつり、天叢雲剣《あまのむらくものつるぎ》の伝承地で、古くからタタラ製鉄が行なわれた。ぼろぼろに風化した花崗岩の地をほりくずし、上流からひいてきた小川に流しこんで砂鉄をあつめる鉄穴《かんな》流《ながし》は、多量の流砂と豊富な木炭を必要とした。このタタラは洪水の原因ともなり、上流の鉄山師と下流の農民とのあいだにしばしば紛争があった。また下流では米子平野の形成と弓浜半島(砂嘴《さし》)成長の一因となっている。
楽楽福神社と金屋子神
つまり、日野川は古代からの製鉄とひじょうに密接な川だったのである。私がそこへと向かっている楽楽福神社もその製鉄と関係あるもので、しかも日野川べりの楽楽福神社は一つばかりでなく、前記『伯耆・出雲の史跡めぐり』「楽楽福(ささふく)神社」をみると、それはこういうふうになっている。
〈日野郡日南《にちなん》町〉宮内にあり、日野川をはさんで東と西に両社がある。宮内(みやうち)の地名は、この神社があるところから起こっている。楽楽福と書いて「ササフク」とよばれる神社は、この両社のほかに宮原(溝口)と大宮、さらに西伯町篠相にあり、そして同じ祭神をまつるものに菅福神社、日谷神社がある。
ところで、各地にあるササフク神社について共通する事は、祭神が必ず「ヤマトネコヒコフトニノミコト」、つまり孝霊天皇かその一族の方であり、そして火や水や暴風雨の神、鉱山の神とも深いつながりをもっている点である。中国山地に濃く分布する「カナヤゴサン(金屋子神)」は、鍛冶屋や鉱山タタラ師のまつる神であり、守護神であるが、そのカナヤゴサンはササと深い関係がある。或る時カナヤゴサンが猟師に追われて危なかった時、ササのおかげで助かった、という伝承信仰があり、「ササ」はカナヤゴサンを表象するものといえる。又「フク」は、吹子(ふいご)のフクであり、金属をとかしわけて精錬する意味をもっている。ササフクの名は文字通りカナヤゴの神、タタラの神と深くつながっている。
伝承というのはある事実を反映したものでもあるが、ときにはおかしなものでもあって、これでみると、「カナヤゴサン(金屋子神)」が「猟師に追われて危なかった時」というのもおかしいばかりか、「ササのおかげで助かった」と、そのササが植物の笹《ささ》であるかのようになっている。しかしそうではなく、これは天日槍が伊奢沙別《いささわけ》命(越前の気比神宮祭神)となっている、そのササ(奢沙)からきたものではないかと私は思う。が、それはあとのことにして、ここにいう日南町宮内の楽楽福神社は奥楽楽福ともいって、日野川のずっと上流となっている。
「口日野の大社」
地図をみるとそこまではとても、と思われたので、私はその下流、口日野《くちひの》の「宮原(溝口)」にあるそれをたずねることにしたのだったが、さきにそこの楽楽福神社についていうと、これはいまでは、日野川べりの田畑のなかにある無人の小さな神社となってしまっていた。要するに、日野川における鉄穴《かんな》流《ながし》の製鉄がおとろえるのとともに、その神社もまたおとろえた、ということになったもののようであった。
しかしながら、この楽楽福神社は近年まで「口日野の大社」として知られていた、というものだった。ということは、そこの日野川における鉄穴流の製鉄が近年までつづいていたということでもあって、前記『鳥取県の歴史散歩』にその繁盛ぶりがこう書かれている。
砂鉄から鉄分をふきわける設備、送風器フイゴをタタラとよぶが、いっぱんには製鉄のことだとおもわれている。これには二種あり、古代からの製鉄法は「一〇〇日の照《て》りをみてうつ」といわれた天候しだいの野外での“野鑪《のたたら》”。戦国末になると一〇間四方ぐらいの高殿《たかどの》とよばれる小屋を建て、そのなかに炉を築いて製鉄する“高殿タタラ”にかわった。
砂鉄は日野川をさかいとしてほぼ左岸(西岸)は磁鉄鉱をふくむ真砂《まさ》、右岸は赤鉄鉱を多くふくむ赤目《あかめ》を産出する。刀剣用の鋼《はがね》で“鋼の王”といわれた日野鉄印賀鋼は、真砂を土質とする地帯で生産されるものだ。日野郡には江戸末期七〇ヵ村、約一七〇ヵ所の鉄山があった。……いちじは鉄穴《かんな》三八五ヵ所、製鉱場三五ヵ所にのぼり、「一個所のタタラは一〇〇〇人をやしなう」といわれたタタラ製鉄も大正ごろから輸入鋼に圧迫されはじめ、昭和二〇年までには、鉄山の守護神・金屋子神にみまもられていたタタラの景観はまったく消えうせた。
かつての鉄山景気は、番子歌(フイゴをうごかす労働の歌)にしのばれる。
たたら内では金屋子神、宮のかかりをみたならば、金の御幣がまいあがる
金の御幣はまだおろか、白木御幣がまいあがる
金がわきますこの山内《さんない》は、手前こがねで五十五駄、手前こがねで五十五駄、わけば村下《むらげ》 さんとて名を残す、村下さんとはどなたのことだ、ゆけばたたらの左がわ
鉄文化と新羅・加耶
伊福部氏と天日槍
古代のタタラ、その製鉄法までみたわけであるが、さて、では、そのようなタタラはいったいどこから、どういう者によってもたらされたのであろうか。そのような産鉄はあとでみる出雲でもさかんにおこなわれているが、こちら因幡・伯耆でもおとらずさかんだったのである。
さきに私は、「度木郷と岡益の石堂」の項で、そこの「岡益に大多羅大明神の太田神社を祭っていた者たちは、いったいなにをしていた者だったのであろうか。一口にいうと、もちろんかれらは農業も営んでいたであろうが、一方でのかれらは、因幡・伯耆や出雲(島根県)にかけてたくさんみられる、製鉄技術をもって渡来した産鉄氏族といわれるものではなかったかと私は思う」と書き、「一つは、製鉄の『踏鞴《たたら》』とは『多羅《タラ》』ということからきたものではないかと思っているからであるが、しかしそのことについては、これからまたみるとして」とも書いている。
それからさらにまた、「国庁跡・宇倍神社」の項では、因幡国一の宮の宇倍神社を祭っていた「伊福部氏が新羅・加耶系渡来人集団の象徴となっている『天日桙《あめのひぼこ》』(天日槍《あめのひぼこ》)を祖とする産銅・産鉄氏族であったとは谷川健一氏も書いている(『青銅の神の足跡』)が、そのことについては、これからみるであろう伯耆のほうの『楽楽福《ささふく》』とともにあとでまたみるとして」とも書いている。
やっといまそれらのことをみなくてはならぬところへきたが、さきにまず、谷川健一氏のそれからみると、同『青銅の神の足跡』の「因幡の銅鐸と銅山――伊福部とはどのような氏族か」という項に書かれているもので、次のようになっている。
因幡の伊福部臣《いふくべのおみ》には有名な古系図がのこされている。延暦三年(七八四)といえば、桓武帝即位三年目のことである。その年、従六位下の伊福部臣富成は自分の家の歴史を子孫に書きのこした。その系図をみると大己貴《おおなむち》命を始祖としているが、第四代は天日桙命といい、第五代は天沼名桙命、第六代は天御桙命と記されているのが注目される。すなわちそこにたびたび桙《ほこ》の名まえが出てくる。しかしもっとも重要なのは風媛を母にもつ第二十代若子臣の条の記載である。
そこには「祷祈《とうき》を以って息《いき》を飄風《つむじかぜ》に変化す。これを書《しる》して姓《かばね》を気吹部《いふくべ》臣と賜う。これ若子宿禰命にはじまるなり」と説明している。これはいうまでもなく、たたら〈タタラ〉またはふいご〈フイゴ〉をもって強い風を炉におくるありさまを示したものである。伊福部氏が産銅もしくは産鉄に関係をもつ氏族であったことは、これによって推測される。
谷川氏が「もっとも重要」としているのもそうであるが、しかしこうなると(伊福部氏が産銅・産鉄氏族であることがわかると)また重要なのは、伊福部氏第四代の祖が天日桙(第五代以下の天沼名桙、天御桙にしても同じようなもの)、すなわち天日槍であったということである。『古事記』(では天之日矛)、『日本書紀』などには「新羅の王子」となっている、その天日槍である。
天日槍集団と鉄文化
天日槍というのは新羅・加耶系渡来人集団の象徴のようなものであって、そういう「王子」などといったものではないということは、これまでにも私は何度かふれている。しかし念のためここでまたみると、たとえば、播磨(兵庫県)における天日槍について書いた直木孝次郎氏はさいごにそのことをこうのべている。
天日槍の伝説が成立した事情については、いろいろな解釈があるが、日槍をそういう名をもつ一人の人物と考えてはならないだろう。おそらく矛や剣で神を祭る宗教、または矛や剣を神とする宗教を奉ずる集団が、朝鮮とくに新羅から渡来したことが、この伝説のもととなっていると思われる。(『兵庫県史』第一巻)
そして、林屋辰三郎氏の「天日槍と神武東征の伝説」と副題された「但馬の古代文化」によると、「神武東征伝説というものは、日本に水稲耕作を伝えた農耕集団が西から東へ移っていった過程を、六〜七世紀の知識を基礎にして物語っているのである」として、そのことをこうのべている。
私ははっきりいって天日槍伝説というものは、神武東征の伝説という日本の国の、また、日本文化の最初にどうしても理解しておかなければならない伝説と同形のものと考えている。
水稲耕作を伝えた農耕集団は、一方では鉄文化をともなったものであったということ、これはもう常識のようなものであろう。天日槍を象徴とする新羅・加耶系渡来人集団は、別にまた天日槍のそれをとって天日槍集団または天日槍族ともいわれているが、その集団がもっていた鉄文化のことについては、宍戸儀一氏の『古代日韓鉄文化』にくわしい。
宍戸氏は、「私は初め、この書に於いて天日槍が渡来する前から存する民族固有の鉄の文化を闡明《せんめい》したいと考えた。それは民族の伝統をその本来の姿に於いて捉《とら》える所以であるからである。しかし、そのことは今のところほとんど不可能に近い」として、そのことをつづけてこう書いている。
最初に天日槍の問題に鍬を下《お》ろして見ようとして、それが意外に大きいのに私は一驚した。日槍文化と後来の韓文化との間の限界は明らかでないが、根本の形相はすでに日槍族の渡来によって決定されたと云っても過言ではないらしい。この点で、私はこの論考を初め「天日槍」と題したかったくらいである。
それでか、「ともあれ、私たちは、天日槍の渡来から始めなくてはならぬ」とした宍戸儀一氏の『古代日韓鉄文化』は「日槍族」によるそれが、いろいろな角度から論証されている。そしていわゆる韓鍛冶《からかぬち》、日本にタタラの製鉄を最初にもたらしたのは天日槍集団であったとし、さきにみた日野川べりの楽楽福神社などに祭られている「カナヤゴサン(金屋子神)」も天日槍であるとしている。
踏鞴は多羅が
なにしろ、天日槍集団の足跡は、因幡・伯耆などの山陰ばかりでなく、九州から畿内、北陸にまでわたっているので、宍戸氏のその論証をここでくわしく紹介することはできないが、私もだいたいそのとおりではなかったかと思う。それは、天日槍集団がそこから渡来した原郷の新羅・加耶(諸国)における鉄文化がどんなものであったかをみることでもよくわかる。
だいたい、製鉄の「踏鞴《たたら》」ということからして、加耶諸国のうちの一国であった「多羅《タラ》」のそれからきたものではないかと私は書いたが、それがいまでは日本の地名ともなっているので、まず、丹羽基二氏の『地名』によってみるとこうなっている。
たたら 多々羅、多々良、多田良、鑪、鍛、鑪鞴などの字を当てる。タタラと仮名で記してある地名も多い。タタラはふつう踏鞴と書き、足で踏んで空気を吹き送る大きなふいご。これより踏鞴による製鉄をいう。この地名は諸国にみられ、鍛工または鋳工の居住地といわれる。
それが古代南部朝鮮の加耶諸国では一国名である「多羅」となっていたわけであるが、これが『日本書紀』神功段では「踏鞴《たたら》の津《つ》」の「踏鞴」となって登場する。踏鞴の津の「津」とは「港」のことであるから、これはまさか「製鉄の港」ということであるはずはなく、「多羅の港」ということでなくてはならない。
そこに書かれている事柄はともかく、『日本書紀』にみられる踏鞴は加耶諸国の多羅のことで、そこから製鉄が伝わったことで、それが製鉄の踏鞴ということにもなったのである。もう一つには、新羅・加耶系の天日槍集団の中心的な原郷がその多羅であったと思われるからでもあるが、ついでにいえば、天日槍の外曾孫ということになっている(『古事記』)神功皇后を息長帯比売《おきながたらしひめ》といったその「帯《たらし》」も、「多羅之《たらし》」ということではなかったかと私は思っている。
新羅・加耶の製鉄と古代日本
しかしそれはどちらにせよ、新羅・加耶の製鉄がひじょうに先進的なものであったということは、日本における研究によっても、今日では疑うことのできない事実となっている。たとえば、窪田蔵郎氏の『鉄の考古学』「古代朝鮮の鉄と製鉄」にも、そのことがこう書かれている。
また慶尚北道慶州郡入室里や慶尚南道金海郡会〓里〈古代加耶の地〉貝塚から出土した鉄器類は、日本の初期鉄器文化を研究する上で非常に参考になる。……おそらく朝鮮における鉄器時代の開始は〈西暦紀元〉前三〇〇〜四〇〇年頃のことで、しかし始まっていたとはいえ、前述したようにごく一部の階層の人だけのものであって、普及したのは二〜三世紀といって良いようである。
あとの「二〜三世紀」というのは紀元前のことか紀元後のことかよくわからぬが、森浩一氏によると、出雲で鉄生産がおこなわれたのは紀元後「五世紀ごろ」というから、いずれにせよ朝鮮のそれがどんなに早かったかがわかる。だいたい、古代朝鮮の各国にはそれぞれ国姓というのがあって、高句麗は高、百済は余、新羅・加耶はどちらも金であった。
つまり金の新羅・加耶は、すなわち「鉄の国」ともいうべきところだったのである。金は音《おん》ではキムまたはクム(金)であるが、訓ではシェまたはソ(鉄)である。新羅の原号である徐羅伐《ソラブル》のソというのもその鉄ということであるソで、さきにちょっとふれた、天日槍があるところでは伊奢沙別《いささわけ》命(越前の気比神宮祭神)となっている奢沙のササ(伊は接頭語)も、そのソからきたものではなかったかと私は思っている。
しかしそれもまたどちらにせよ、古代日本は新羅・加耶の鉄ともっとも密接な関係にあったのである。そのことは昨年おこなわれたある科学的実験によって、いっそう明らかなものとなった。一九八二年四月十日付けの朝日新聞・奈良版をみると、「朝鮮半島産の砂鉄か/大和地方出土の古墳時代刀剣や矢じり/分析結果似たデータ/橿原考古研/出雲地方産とも違い」という大見出しのもとに、その実験のことがこう報じられている。
大和地方で出土した古墳時代の刀剣、矢じりなど、鉄製品の原料は、砂鉄が使われ、それも国内産ではなく、どうやら朝鮮半島から運び込まれた可能性が出てきた――。なぞに包まれた古代の鉄生産、流通過程を究明するため、県立橿原考古学研究所の古代刀剣研究会技術的研究班(班長・勝部明生同所付属博物館次長)が、島根県安来市の日立金属安来工場冶金研究所に協力を仰いで古墳時代前期から後期にかけての鉄製品を調べたもので、朝鮮半島南部の伽〓(かや)〈加耶に同じ〉地方のものとよく似ているという。
分析試料には、県内の四世紀から六世紀にかけての古墳、メスリ山古墳や新沢千塚古墳群、石光山古墳群など、六十基から出土した刀、剣を中心に、やじりや馬具、くぎ、よろいなどの鉄製品百六点を使った。原子吸光分析法などにより、サビや断片から鉄、炭素、チタンなど十三種類の元素の割合をチェック。まず、長い間、土に埋まっていたり布など有機物に含まれていても変動の少ないチタン、クロムなどの量をもとに、原料が砂鉄であるか、鉄鉱石であるかを推定した。
冶金研究所の清永欣吾所長らはふつう鉱石から精練した鉄に含まれるチタンは、〇・〇一%以下であるのに、砂鉄の原料ではそれ以上に多くなる点に着目、調べた結果、ほとんどが〇・〇一%以上で平均〇・〇三%、最高は〇・〇七%もあった。このことから、砂鉄系のものが原料と判断した。
また、チタンのほか、バナジウムなどの量から、出雲地方の砂鉄からできる鉄とも異なっていることもわかった。とくに古墳時代前期のものほど不純物が少ない良質のもので、その後は次第に品質が悪くなる、という興味深い点も明らかになった。
これらの鉄製品の産地については、古代日本の鉄の成分分析がこれまでほとんど行われていなかったこともあって、特定はできなかったものの、朝鮮の伽〓地方出土の鉄片を分析したデータとよく似ていることがわかった。勝部次長は「九州北部などで古墳時代の製鉄遺跡が発掘され、国内の生産との見方がある。しかし、今回の分析を見る限り、大和地方の鉄製品は伽〓など外国産の可能性が強い。それをはっきり裏付けるためにも、国内外の鉄産地の製品を正確に分析することが大切」と話している。
記事はまだつづいているが、要するに、大和(奈良県)の古墳から出土した刀剣、馬具などの鉄製品は朝鮮の加耶から渡来したというもので、これは実に注目すべき分析結果だといわなくてはならない。皇国史観流の学者など、それを朝鮮からの「輸入品」とするかも知れないが、古代の当時、朝鮮にはそういう鉄製品を「輸出」する会社はなかったし、また日本にもそれを「輸入」する商社などなかったのであるから、そういうことはありうるはずがない。
したがって、これはもういうまでもないであろうが、そういう刀剣、馬具などが朝鮮の加耶から渡来したということは、そういう鉄製品を持った人間が加耶から渡来したということにほかならないのである。
ところで、これまでにみた因幡・伯耆、それにこれからみる出雲などの古墳から出土したそういう鉄製品を、同じように分析したらどういう結果が出るであろうか。出雲の鉄生産が「五世紀ごろ」だとすると、これも大和のそれと同じような結果が出るのではないかと私は思う。
出雲・隠岐・石見
米子から美保関へ
皆生温泉
宮原 (溝口) の楽楽福《ささふく》神社をみて日野川を下った私は、この夜は皆生温泉で泊まることにした。ここは数年前、司馬遼太郎氏らといっしょに出雲 (島根県) をたずねたときも一泊したことがあったが、皆生《かいけ》とはむつかしい、おもしろい地名なので、錦織好孝氏の『出雲路』をみると、それがこう書かれている。
皆生温泉は、米子市の東北約五キロにあって、夜見ガ浜半島の日本海側基部に位置している。いまの夜見ガ浜半島が、まだ夜見島という島であった奈良朝時代には、皆生温泉の地は海底にあって、海中から熱湯がわき出ていた。それで、ここを海池 (かいけ) といっていたが、後にシャレて皆生に改めたものといわれる。……
白砂と青松にとり囲まれた皆生温泉は、典型的な海岸温泉で、美保湾の右手には大山の霊峰を仰ぎ、左手には白砂青松の夜見ガ浜半島と、神話伝説の宝庫美保の関を望見することができ、実に明るい環境下にある。
「なるほど、そうか。ここはなかなかいいところなんだなあ」と思ったが、しかし私は、夜は宿でこれまでみてきたところのメモや資料を整理したりして一歩も外へは出なかったし、朝は朝でまたすぐに出発しなくてはならなかったので、そんな「環境」のことはわからなかった。ただ、そこがさきにみた日野川の沖積地らしいことはわかった。
陰田遺跡出土の漢字ヘラ書き土器
その沖積地の道路を走らせたタクシーで、私は米子《よなご》市教育委員会をたずねた。そして社会教育課文化係の古山俊彦氏から、「一般国道九号米子バイパス改築工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告」という『陰田遺跡群』ほかをもらい受けた。
この陰田《いんだ》遺跡からはすんなりした直刀や、たくさんの須恵器壺とともに、須恵器の枕などが出土しているが、また珍しい漢字ヘラ書きのそれも出土している。これについては一九八三年二月十八日の読売新聞に、「最古の漢字ヘラ書き土器/米子陰田横穴墓群で出土」としてこう報じられている。
鳥取県米子市にある古墳時代後期 (六世紀後半) の横穴墓から漢字をヘラ書きした土器が見つかり、十八日までの奈良国立文化財研究所の調べで、土器に描いた文字としてはわが国最古のものとわかった。筆致もはっきりしており、文様としてでなく明らかに漢字として使われており、このような古い漢字が大和(奈良県)から離れた地で見つかったことに同研究所は驚いており、「山陰地方に早くから水準の高い漢字文化圏が成立していたことを示す重要な資料」と評価している。
遺跡は、米子市の西部で島根県に接する同市陰田 (いんだ) 町にある陰田横穴墓群。六世紀後半から七世紀初頭にかけての横穴墓三十八基が一列に並んでいる。
漢字をヘラ書きした土器は、高さ約十六センチの須恵器で、六世紀後半の直口ツボ。漢字は胴上部の肩の部分に二ヵ所にわたって彫られており、米子市埋蔵文化財調査団が拓本を採って奈良国立文化財研究所に調査を依頼。
同研究所史料調査室の鬼頭清明室長らが判読した結果、「〓(せんき)」という漢字二文字が読み取れ、一字約二センチ角。
「〓」という漢字が何を意味しているのかは、まだ突き止められていないが、祭祀 (さいし) に関係する行事に使われたことも考えられることから、何かの呪文 (じゅもん) ではないかという説も出ている。
はたして古代の当時でもそれを「〓〓(せんき)」と読んだかどうかはわからないが、しかしいずれにせよ、そのような漢字のヘラ書きというのはたいへん珍しい。墨書となるとあとからでも書けるということがあるけれども、「ヘラ書き」はそうできないもので、これはその土器がつくられるのと同時に書かれたものだからである。
安来と須恵器
したがって、この地では、その須恵器ができた六世紀後半にはすでに、そのような漢字が使われていたのである。「山陰地方に早くから水準の高い漢字文化圏が成立していたことを示す重要な資料」とされるゆえんであるが、これらの須恵器はおそらく、米子市隣接の安来《やすぎ》で焼かれたものではないかと思われる。
いまみた記事にも、「遺跡は、米子市の西部で島根県に接する同市陰田 (いんだ) 町にある陰田横穴墓群」とあるように、そのすぐ近くが島根県の安来市で、ここではかなり早くから須恵器が焼かれていた。『安来市史』や『新修 松江市史』にそのことがこうある。
〈古墳時代〉中期末に、須恵器の製作が安来で始まる。須恵器は今日の陶器の源流をなすもので、五世紀後半帰化人新漢陶部 (いまきのあやのすえつくりべ) 等によって朝鮮からその製法が将来された。『出雲国風土記』の島根の条に大井浜で「陶器を造れり」とみえ、天平五年 (七三三) 当時須恵器を製作していたことがわかる。その遺跡地とみられる大井古窯群跡から、須恵器の編年山陰第型式の古墳時代後期に当たる遺物が出土している。(『安来市史』)
後期古墳からもっとも多く出土する土器は、須恵器《すえき》とよばれる青灰色のかたい陶質器で、ときに自然釉のかかった美しいものもあるが、これは朝鮮で成立した窯法が五世紀ごろ日本に伝えられたもので、その初期のものが西川津の金崎古墳や島大地内の薬師山古墳から出土して注目されている。
ところがこの初期のころ、すでに出雲でもこれが焼かれたのであって、近年、安来市の門生地内でその窯跡が発見されたことは注意すべきで、金崎の出土品なども、あるいはそこで焼いたのかもしれない。六世紀後半ごろになると、大井などで大量に生産されるようになり、「大井の浜」でこれを作ることは、のちの風土記にも見えており、大井・大海崎方面にはこれに関する多数の窯跡が遺存している。(『新修 松江市史』)
「金崎の出土品なども、あるいはそこで焼いたのかもしれない」とあるけれども、しかし、中期でも早い時期のものとみられる金崎第一号古墳から出土した「子持壺」「環状飾壺」などの須恵器は、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」にもあるように、朝鮮から直行したものだったようである。八雲立つ風土記の丘編『古代の島根』などに出ているそれの写真 (現物は京都国立博物館にある) をみても、そのように思われる。
なお、須恵器はその製法とともに、古代朝鮮からの渡来人によってもたらされたところから、これは「新羅焼」ともいわれているが、最近の研究では新羅焼というより、早い時期のそれは「加耶土器」というのがただしいことになっている。しかし、のちには新羅のそれもきて重なるのであるから、よりただしくは加耶・新羅土器、または新羅・加耶土器といったほうがいいかも知れない。
アヒルの親子どんぶり
米子からの私は、弓ケ浜ともいわれる夜見ケ浜半島をへて、八束《やつか》郡美保関《みほのせき》町に向かった。夜見ケ浜半島とはどういうところか、錦織好孝氏の『出雲路』を開いてみるとこうなっている。
この半島は、中海と美保湾の両潮流がぶつかって速度が落ちたところへ、日野川の流砂がたい積してできた国内屈指の大砂嘴 (さし) で、長さ約十七キロ、巾約四キロである。半島の日本海側を夜見ガ浜といい、その白砂青松の浜が円弧をえがいて島根半島に接し、詩情豊かな海岸美を見せている。
この半島は、江戸中期ごろから開発され、明治中期ごろまでは綿と浜ガスリの産地、その後養蚕地帯となり、戦後は白ネギの特産地となっている。昔、造化の神が、能登の国から国の余りを引張ってきて、美保の崎を造ったとき、流れ去らないようにこの夜見ガ浜を綱とし、大山を杭にしてつなぎ止めておいたという。海岸ぞいの産業道路を北進すると、右後方の麗峰が大山、右の湾は美保湾、右前方の島根半島の右端近くに美保の関がある。
その美保関に向かっていたわけであるが、あとでもふれるように、私はこれまで四、五度ほど出雲へ来ているけれども、美保関へはこんどがはじめてであった。途中、私はタクシーの運転手と、こんな会話をかわした。
「美保関では鶏《にわとり》も卵も食べないそうだが、いまもまだそうですかね」
「ええ、そうです」
「ほう、すると美保関では、親子どんぶり食べられないな」
「いえ、食べられますよ」
「食べられる? この美保関では鶏も卵も食べない――」
「そうです。アヒルの親子どんぶりです」
「なに、アヒルの親子……」
私は声をあげて笑ったが、みると、美保関は境港《さかいみなと》につづく漁港で、その小さな漁港を見おろすようにしているのが美保神社であった。神社前の海岸には、参拝客や観光客を目あてにした焼きイカなどの屋台がいくつも出ていて、強い香りをあたりに放っている。
美保神社と鶏を食べない習俗
大国主《おおくにぬし》神の第一子ということになっている事代主《ことしろぬし》神が主祭神の美保神社は、濃緑の山腹を背後にしたうつくしいたたずまいの神社だった。社務所でもらった『美保神社略記』をみると、「沿革」にこう書かれている。
さて、当美保神社は前に述べたように大神様の御神蹟地であるばかりでなく、所造天下《あめのしたつくらしし》大神《おおかみ》をたたえまつる大国主神がその神業の御協力の神少彦名命をお迎えになった所であり、又、その地理的位置は島根半島の東端出雲国の関門で、北は隠岐、竹島、欝陵島を経て朝鮮に至り……。
このばあいの「朝鮮」とは古代の新羅のことで、私は「そうか、なるほど」と、これはうなずけるような気がした。つまり、美保関と新羅とは密接な関係にあったということで、それで鶏を食わないこともわかったような気がしたのである。
だいたい、私がいまなお美保関では、というより、美保関でも鶏を食わないということを知ったのは、一つは一九七九年九月二十八日号の『週刊朝日』によってだった。「シリーズ・ニワトリ(3)家禽にあるまじき深刻な内面」という記事があって、こう書かれていたからである。
わが国には、ニワトリをいまも忌み嫌う地方がある。島根県八束郡美保関町がその一つで、ここには、
「人口八千七百人の町に一羽もいない」(美保関町役場)
美保神社の祭神が、間違った時刻に時を告げたニワトリのために迷惑をこうむったという伝説に基づくタブー。特に神社の神官たちは、
「ニワトリは卵も肉も食べません。アヒル、ウズラ、アイガモの卵を取り寄せてます」
旅先でニワトリ料理が出て、
「しまった」
と思うことが多いので、最近では、宿泊先にあらかじめ電話をして、事情を説明しておくことにしている。
氏子も戦前まではいっさい口にしなかったが、このごろは、
「当番の役についた家だけが、一年ないし四年間食べない」
というふうになっている。
大阪府藤井寺市の道明寺天満宮の氏子地区も、これと似た理由でニワトリを憎み、町内に一羽もいないが、ここは逆に、
「もうカタキというわけで、よそさん以上にどんどん食べてます」(道明寺天満宮)
また、秋田県仙北郡田沢湖村の玉川地区では、長くニワトリが神聖視され、
「卵の話をしても、ニワトリの夢を見ても罰が当たる」
とさえいい伝えられていたが、今年三月、ダム建設のため、全村廃村となってしまった。
日本で鶏を食わないところは、以上だけではない。『日本の中の朝鮮文化』(5)の「菅沼から白木へ」の項でもみているが、越前 (福井県) 敦賀の白木浦 (ここに新羅《しらぎ》ということの白城《しらぎ》神社がある) でもそうであり、また、新潟県西蒲原《にしかんばら》郡岩室村に住む住井哲氏からの手紙によると、同西蒲原郡巻《まき》町に鳥の子神社という鶏ずくめの神社があって、鶏がそこの祭神ともなっているという。
これをみてもわかるように、美保関では「ニワトリを忌み嫌い」といい、道明寺天満宮では「ニワトリを憎み」となっているけれども、元は決してそうだからではなかった。それは後世にそうなったもので、元はどちらも、秋田県田沢湖村と同じように「長くニワトリが神聖視され」たからだったのである。
では、どうして鶏がそのように神聖視されたかというと、それは朝鮮の新羅が鶏を神聖視し、一時期その国号まで「鶏林」としたことがあったからである。このことについては、あとの東出雲町でさらにまたみることになるはずである。
出雲族・熊野大神
出雲との出会い
米子、夜見ケ浜から美保関と、いつの間にか出雲路となったが、この出雲はまたとくにみたいところ、書きたいことの多いところである。それだけまたむつかしいところでもあって、そのため私はこれまで五、六度ほど来ているが、さいしょに私がここをおとずれたのは、さきの「大多羅大明神から」の項のはじめにちょっとふれたように、一九六九年十月のことであった。
それからも、たとえば一九七四年五月におこなわれた山陰中央新報社主催の「古代出雲を語る」というシンポジウムなどの機会をとらえては、出雲・石見《いわみ》のあちこちをみて歩いたものである。ちなみにいうと、このときのシンポジウムの出席者は早稲田大教授の水野祐、民俗学者の谷川健一、島根大名誉教授の山本清、島根県文化財専門委の加藤義成氏らに私というメンバーだった。
そして私はこのときはじめて知ったが、『古代の出雲』『出雲神話』などの著者である水野祐氏が出雲をおとずれたのは、なんと実に三十数度目だというのであった。それにくらべれば私の五、六度などものの数ではないが、そのことはおいて、私がさいしょに出雲をおとずれたそのときの「日誌」をみると、こんなふうになっている。
――十月八日 (曇・雨)。米子をへて、出雲の松江市に入る。五時すぎ、雨あがる。司馬遼太郎氏があらかじめ連絡しておいてくれた朝日新聞支局に寄り、吉田支局長に会う。
吉田さん、宍道湖《しんじこ》畔のなにわ旅館を紹介してくれ、あわせて地方史研究家の漢東種一郎氏にも電話をしてくれる。漢東氏、明朝なにわ旅館まで来てくれるとのこと。
旅館の女中さん、金達寿、鄭貴文と書いた宿帳をみながら、「珍しいお名前ですね」と言う。「ぼくたちは朝鮮人、あなたたち出雲族の先祖ですよ」と言うと、「そうですか」と女中さんちょっと考えるふうだったが、「そうですね、先祖ですわね」と言い、「出雲族には朝鮮からの血が濃い」などとも言う。さすがに出雲だ、と思うが、しかし考えてみると、現在の私たちが出雲族の先祖とはずいぶんおかしなはなしである。が、女中さん、それで納得したところがおもしろい。
十月九日 (晴)。朝、漢東氏を待ちながらこの日誌を記す。宍道湖、左目の横にあり。
約束の午前十時に、漢東種一郎氏来訪。松江市の助役を定年となったという、小柄で気さくな感じの人。
旧制の松江商業には朝鮮語科があったということから、はなしはじまる。――「出雲の国譲り神話」は、日本敗戦時の「終戦処理」とよく似ているという。九州・大和神話は軍国主義的であるのにくらべ、出雲のそれは終始平和的であることを強調。「文化の高さ」ということばしきりに出る。
古代の交通は、陸路よりも海路のほうが容易であった。対馬《つしま》海流に乗れば、しぜん出雲に着いた。壱岐《いき》、対馬方言に出雲のそれとまったく同じものがある。農耕文化、鉄文化、すなわち弥生文化渡来の道。「安来」とは、来て安らかになった、ということから出たものという。
さいごに、「漢東といっているこの私も、元は朝鮮から来たものです」とはっきり言い、時間があったら、島根大学の考古学教授である山本清氏に会ってみるように、といわれる。
午後一時すぎ、島根大学をたずねる。「大学解体」「沖縄奪還」などのステッカー。ここも全共闘の波に洗われている。
学生に訊いて、山本氏を考古学教室にたずねる。はじめはちょっとけげんそうな顔つきだったが、やがて、自らコーヒーなどいれてカンタイしてくれる。
「古墳をやっているからには、朝鮮のそれを知らなくてはならぬのですがね」と山本さん言い、しきりに「舶載品《はくさいひん》」ということば出る。古墳などからの出土品のうち、明らかに朝鮮からのそれとみられるもの、という意のようである。
帰り、考古学資料室をみせてもらう。たくさんの須恵器。なかにはっきり新羅からのものと思われるものもあったが、しかし、あまり自信ないのでなにも言わず、ただそれのいくつかを手にとってみただけだった。――
「出雲のふしぎ」
まず、私と出雲とのはじめはこんなふうだったが、一方、出雲となると、いまみた漢東さんのはなしにもあったように、いわゆる「出雲の国譲り神話」というのがあって、そのことは私も少しは知っていた。もちろん、いまではもう、そんな「神話」など信じる者は、あるいはそんなことを気にする者はいないであろうが、しかし、それがまだなかなかそうではないようである。
そこがまた出雲のむつかしさであり、おもしろさでもあるが、たとえば、一九六九年に出た司馬遼太郎氏の文集『歴史と小説』「先祖ばなし」のなかに「出雲のふしぎ」という項があって、そのことがこう書かれている。以来、出雲といえば、私はよくこの一文のことを思いだすので、ちょっと長いけれども、ここに引かしてもらうことにしたい。
出雲という地方に妙な興味をもったのは、四、五年前からである。地方紙のとじこみをめくっているうちに、島根新聞の新年号をみた。第一面に大きな年賀広告が出ている。
県庁が広告主で、知事が新年のあいさつをしている程度の他愛ない広告だったと思う。末尾にカタどおり島根県知事の田辺さんの名前が出ている。それだけならおどろかない。どこの地方紙にもあることだが、ただ島根県の場合は、田辺さんと肩をならべて「出雲国造家千某」という名が出ていたのだ。十数世紀前の古代国家のなかにおける出雲の王が、二十世紀の公選知事と肩をならべて県民にあいさつをしているのである。神話の国出雲ならではのことだろう。……
もともと、記紀によれば、出雲国造家は、「天孫降臨」のさい、大国主命が国土を献上したあと、大和から出雲へ派遣された天穂日命《あめのほひのみこと》の直系の子をもって相続され、現在の出雲大社宮司 (別称出雲国造家) 千家および北島家におよんでいる。天ツ神の後裔である天皇家とならんで日本最古の家系といえるだろう。「天孫降臨」などというとオトギめくが、出雲にあってはお伽ばなしどころの騒ぎではなく、私の知人の島根県人にいわせると、「このときから出雲の屈辱の歴史がはじまった」と大まじめでいう。
私が新聞の文化部にいたころ、「子孫発言」という連載随筆をうけもたされたことがあった。徳川義親氏に家康のことを書いてもらったり、有馬頼義氏にご先祖の殿様の話などを書いてもらったりして二十回ばかりつづいたあと、ついに書き手さがしにこまって、出雲大社の宮司の千さんに大国主命を書いていただくことにした。その旨、松江支局を通じて大社に依頼したところ、それは書けないという返事がきた。直接交渉した記者がこういうのである。
「大国主命が国譲りをしたときに、天孫族の政治にはタッチしないという条件があったでしょう。あれがあるから書けないというのが理由だそうです」私はおどろいて、「しかしこれは政治ではなく新聞の文化欄の寄稿のはずだが」「いや、同じようなものだとおっしゃるんです」神代のころの講和条約がまだ生きていて、天孫族が発行している新聞紙には書けないというわけだった。
「いや、あんたのお国にはおどろいたです」
と、私は、社の先輩記者である前記の島根県人にその旨を話した。この人の姓はTという。T家は出雲の名族で、神代以来出雲大社の神官をつとめてきたという家柄である。この人の代になって、社家をやめ、大阪に出て新聞社に入った。在勤二十五年でいま地方部長をつとめている職歴からみて、すくなくとも精神の異状な人でないことはたしかだが、そのTさんが、私の訴えに対して、
「そりゃ、国造家がことわったのは当然ですよ」とおだやかにいった。
「しかし」と私はさえぎった。「話が古すぎますよ。古代のころの話じゃないですか」
「いやいや、あんたはただの天孫族だから知らないんだが、じつは話はそんな簡単なものじゃない」と、このあたりからTさんの眼が異様にすわりはじめたのである。「本当をいうとアイツらは」と国造家のことをこう呼んだ。
「アイツらは大国主命さまのことを言えた義理じゃないんだ。千家といっても、あれは天穂日命の子孫で、つまり出雲王朝の簒奪《さんだつ》者の子孫です。出雲族では決してありません」
「するとあなたはなんです」
「私ですか。私は大国主命の子孫です」
気が狂っているのではなく、Tさんは事実そう思いこんでいるらしい。私が薄笑いをうかべたのを見ると、Tさんは真赤になって、せきこんでいった。「T家は出雲大社の社家のなかでも唯一の大国主命の子孫です。系図もある。しかし系図は天孫族にはばかりがあるから (!)、真偽ふた通り作ってあるのだ。家系のもっとも極秘に属することは口頭で子々孫々に伝えてきている。伝えるのは一族のなかで代々えらばれてきたカタリベの役目です」「カタリベ?」私はおどろいて、「カタリベとはどなたです」「当代では私がつとめています」といった。
Tさんは、暮夜ひそかに千家のことを思うと腹がたってねむれなくなるという。出雲は「簒奪」されているというのだ。むろん簒奪とは“天孫降臨”のさいにおこなわれた国譲りのことである。「大国主命の悲憤をおもうと、国造家がうらめしくてならないんだ、私は」と、Tさんは、われわれが話している喫茶店の卓子をたたいた。
そのどしんという音をきいて、私はひどくうれしくなってしまった。こういう人がおおぜいいるという出雲に、私は未知の星を発見したようなうれしさを覚えた。そのころから私の出雲がよいがはじまった。出雲への私の見聞が繁くなるにつれ、私のイメージのなかに、かつて見たことのないふしぎな精神の像が、すこしずつ形を顕わしてきた。いったいその出雲人の像はどんな形をしているのか、私のいまの力ではうまく語れそうにない。言葉で語ればそのまま崩れてしまいそうな、もろい造形しかできていないからだ。
大根島と朝鮮ニンジン
さて、美保関からの私は、さらにタクシーを西に向かって走らせた。島根半島を縦断するかたちになったわけで、左手はるか向こうには伯耆大山のそびえ立っているのがながめわたされ、こちら手前の中海には大根島《だいこんじま》のうかんでいるのが見えた。
私はその「大根島」ということから、本田正次ほか編『植物の図鑑』に、ソバやダイズなどと同じく、「ダイコンは古く中国から朝鮮をへて日本に伝わった……」とあったのを思いだしたが、しかし昔はともあれ、いまの大根島はそのダイコン (大根) とはあまり縁がなさそうである。手にしている山陰歴史研究会編『島根県の歴史散歩』をみると、その島のことがこうある。
大根島は狭小な耕地と、小規模な漁業がおもな生業だったが、それでも一八七二 (明治五) 年には人口八〇〇人を数えたという。その理由は、藩政時代の薬用朝鮮ニンジン栽培の成功だ。藩でも専売制にして、作付面積の増加に力を入れたが、ニンジン栽培は現在も行なわれ、その生産高は日本一で海外にも輸出されている。第二次大戦後は、火山灰の黒土にマッチした花苗の栽培がさかんで、とくに五月ごろのボタンは全島をうつくしくかざる。
朝鮮ニンジン (人参) ということではやはり朝鮮と縁があったわけであるが、タクシーはやがて松江市に入った。しかし私は、風土記の丘や大庭鶏塚古墳などのある松江はそのままにして、意宇《おう》川上流の八束郡八雲《やくも》村にある熊野大社にいたり、それからは飯梨《いいなし》川の上流となっている能義《のぎ》郡広瀬町の西比田をめざした。
熊野大社と熊野大神
熊野大社へはさきにも上田正昭氏らと来ているが、ここでいつも私として気になるのは、紀伊 (和歌山県) など日本各地にある熊野とともに、その熊野の「熊」ということである。ここではそれをくわしくのべる余裕がないのでかんたんにいうと、朝鮮の開国神話である檀君《だんくん》神話に出てくる「熊 (コム)」がのちには「カム (神=熊)」となっているからであり、日本の神奈備《かんなび》というのも、その朝鮮語のカムナム (神の木) からきているということがあるからである。
それからまた、社務所でくれる『熊野大社略記』によると、熊野大社は「出雲の祖神」である素戔嗚尊《すさのおのみこと》を神祖《かむろぎ》熊野大神《くまののおおかみ》として祭るとあるけれども、これがどうもそうではなさそうなのも気になる。このことについては、前記『島根県の歴史散歩』にもこうある。
〈八雲立つ〉風土記の丘センターから意宇川を南へさかのぼること七キロ、山あいの幽邃《ゆうすい》の境《きよう》に鎮座するのが熊野神社だ。朱ぬりの神橋をわたって石段をのぼると、正面に拝殿・幣殿、その奥に大社造の本殿があり、左手に切妻・平入りの古代建築風の鑽火殿《さんかでん》などがあるが、いずれも比較的あたらしく、いわゆる指定文化財ではない。しかし『出雲国風土記』に熊野大社としるされているだけあって、境内には古代の神々のいぶきが、おもおもしくただよっている。主祭神は現在素戔嗚尊とされているが、『延喜式』の「出雲国造神《くにのみやつこ》賀詞《かむよごと》」にあるように、熊野大神櫛御気野命《くしみけぬのみこと》がもともとの祭神だったろう。
つまり、そういうこともあって、私がここでいいたいのは、熊野大社の祭神は新羅系渡来人のそれである (これについてはあとでくわしくみることになる) 素戔嗚尊ではなく、ここにいう熊野大神、すなわち檀君神話発祥の地である高句麗=高麗 (こま=コム) のそれではないかということである。このばあい、鳥取県立米子図書館編『伯耆・出雲の史跡めぐり』があとでみる大念寺古墳に関連して、こう書いているのもなかなか示唆《しさ》的である。
五世紀ごろ日本ではまだ作れなかった金銀をはったり処理したりした刀を出す古墳は、このあたり西出雲に多い。……このことは、西出雲が朝鮮文化と深くつながっていることを物語っている。この高度の文化と技術をもたらしたものは恐らくコシの国であり、またコシの国の人たちであろう。
一つにはすぐ近くに古志郷 (こしのさと) があり、コシの国人がきて堤を築いた故事もみえている。コシとは「遠い所」の意であり、はるか海の向うの朝鮮、北朝鮮〈古代の高句麗〉を意味した。のちに朝鮮と関係が絶たれてからは、遠い所として北陸が擬され、北陸がコシノクニだといわれるようになった。
しかしそれはどちらにせよ、『熊野大社略記』に「当熊野は十部落 (現在は十一部落) にそれぞれ神社があり、延喜式所載の社だけでも八社に及んでいたが、明治四十一年本社境内に奉遷合祀されました」とあるように、古代の熊野はたいへんな繁栄の地であった。『延喜式』内社は安芸《あき》 (広島県) が三社で、薩摩 (鹿児島県) が二社でしかないにもかかわらず、出雲の一地域である熊野だけでもそれが八社もあったのだから、その繁栄がどういうふうであったかと思わないわけにゆかない。
この日の私はその熊野大神の熊野大社から、こんどはずっと南の広瀬町西比田の金屋子《かなやご》神社を、やっとの思いでたずねあてた。が、その神社のことは次の項のあとでみることにしたい。
安来をたずねて
安来の埋蔵文化財
つぎに私が出雲をおとずれたのは、この稿を書きだす直前の、一九八三年六月九日のことであった。三、四泊の予定で石見《いわみ》までまわろうということでだったが、こんどは、講談社で『日本の中の朝鮮文化』シリーズの四六判本や文庫版を担当している池田公夫氏、平沢尚利氏、それに同シリーズの装幀をしてくれているデザイナーの市川英夫氏がいっしょで、計四人というにぎやかな一行となった。
私たちは午後一時すぎ米子空港におり立つと、そこからのタクシーを、まず安来市役所に乗りつけた。そこの二階にある教育委員会をたずねて、体育文化係長の市川博史氏や永見英氏に会っていろいろ聞くとともに、『安来市の文化財』『安来市埋蔵文化財の手引』など、たくさんの資料をもらい受けた。
出雲の東部となっている安来は、「安来千軒名の出たところ」という『安来節』で知られたところであるが、それとはまた別に、古代文化遺跡のじつに多いところであった。
安来 (やすぎ) の名は古く『出雲国風土記』にみえ、地名のいわれと語臣猪麻呂 (かたりのおみいまろ) の故事を伝えている。それによると、素戔嗚尊が天《あま》が下の果てまで国廻りされたとき、この地へこられて「わが心は安けくなりぬ」と仰せられた。その故に安来という、とみえている。安来平野の西北部には仲仙寺古墳群、造山古墳群をはじめとして古墳の密集地帯を形成し、熊野大神を祭るいわれと共に、古代文化の繁栄の跡を物語っている。(『伯耆・出雲の史跡めぐり』)
「その故に安来という」のかどうかはともかくとして、あとの「――古代文化の繁栄の跡を物語っている」ことは事実そのとおりであった。『安来市埋蔵文化財の手引』はそれらの古墳を中心とした「遺跡分布図」で、たとえば飯梨地区のそれをみると、「七八、元さぎの湯病院横穴=金銅冠、環頭大刀」「七九、かわらけ谷横穴群=環頭大刀、金環二、玉類五」「八〇、西から谷横穴群=環頭大刀、壺」「八一、東から谷横穴群=直刀一、金環二、長頚壺」というふうになっている。
上は番号と遺跡・地名で、=の下はそこからの出土品であるが、ここにみられる金銅冠や環頭大刀が古代朝鮮渡来のそれであることは、もういうまでもないであろう。古代の安来には、そのような金銅冠を頭にいただき、「高麗剣《こまつるぎ》」(『万葉集』) の環頭大刀を手にしていた豪族がいたというわけであるが、それとともにまたおもしろいのは、それら横穴古墳群の遺跡・地名である。
かわらけ谷横穴群の「かわらけ」というのはともかくとして、西から谷、東から谷横穴の「から谷」とは、これは明らかに「韓《から》 (加羅) 谷」であったにちがいない。ついでにいうと、「谷《たに》」というのも古代朝鮮語のタン (丹) からきたものだそうで、いまも能登半島などでは、谷崎をタン崎といっている。
和鋼記念館
教育委員会からの私たちは、安来市役所のとなりとなっている和鋼記念館をたずねることにした。私は三度目かの訪問だったが、ほかの三人ははじめてで、記念館の前庭にいくつもおかれている大きな〓《けら》を目にした市川さんは、それを何枚もの写真に撮ったりした。〓とはどういうものか、机上の『新潮国語辞典』をみるとこう書かれている。
珪酸 (ケイサン)・石灰分を多量に含む粗製の鉄。砂鉄を溶かして銑鉄をとるときに炉底に沈んだもので、錬鉄 (レンテツ) 製造の原料。
要するに、日立金属の安来工場付設となっている和鋼記念館は、古代から出雲でさかんだった製鉄博物館ともいうべきものであったが、私たちがそうして写真を撮ったりしていると、館のなかから人が出て来て、
「もうあまり時間がないですから、なかへ入るのでしたら、早くしてくださいよ」と、笑いながら言った。
同記念館の前館長で、いまは顧問となっている住田勇氏だった。住田さんは教育委員会からの連絡で、私たちのくるのを知っていたのである。
「やあ、しばらくでした。また、来ましたよ」ということで、私たちは住田さんのその声に吸い寄せられるようにして館内に入った。
そして現館長の佐藤豊氏にも紹介され、私たちは住田さんの説明を聞きながら、館内をみてまわることになった。館内の展示品としては、国の重要民俗資料となっている「タタラ吹き用具」(計二五〇点) などのほか、実物大のタタラ製鉄炉 (釜) の模型や、タタラ (高殿) の模型などが、いかにも古代のそれを思わせてなつかしい。
思わず「なつかしい」と書いてしまったが、もちろん私は実際のそれを知っているわけではない。タタラのことはさき (「鉄文化と新羅・加耶」の項) にもちょっとみているけれども、『和鋼記念館案内』によってみると、それはこういうふうである。
△タタラの製鉄炉 (釜)
この製鉄炉 (釜) の模型は実物大で長さ二八八センチ、巾一一四センチ、高さ一一八センチ、炉材は耐火性の適当な花崗岩の風化粘土。この内に先ず木炭を燃やし約三〇分毎に砂鉄と木炭の装入を繰りかえし、約七〇時間で炉底に肥大した〓《けら》 (鉄塊) ができると炉をこわして引き出し、また炉を築いて製錬を繰りかえした。
△タタラ (高殿) 模型
タタラとは野鈩《のたたら》 (露天製錬) の頃は炉をいい、屋内製錬に移行すると、建物をタタラ (高殿) といい、つぎに付属設備を含めた一帯をタタラ (鈩) またはタタラ場といった。
タタラとはタタール人 (ダッタン人) の技法が中央アジアから朝鮮半島を経て日本に伝わったからだといい、また古来フイゴをタタラといい、製鉄炉を表すに至ったといわれる。
冶金研究所の刀剣分析
「タタラとはタタール人 (ダッタン人) の技法が……」とはいささか、というより、大いに眉ツバであるが、それはともかく、
「ところで」と、私はさきほど教育委員会で言ってみたことを、こんどは住田さんや佐藤館長に向かって言った。「日立金属・冶金《やきん》研究所長の清永さんに会ってみたいのですが、どうしたらいいでしょうか」
「ああ、それでしたら、教育委員会の人から聞きましたので、さっき清永さんに電話をしておきましたよ。わたしはあれですので、これから佐藤館長が案内してくれるでしょう。あの工場へは、案内がないと入れませんからね」
住田さんはそう言って、佐藤さんともどもうなずいてくれた。旧知とはいえ、未知にひとしい者に対して、ほんとうにありがたいことだった。佐藤さんはさっそく職員の人にクルマをよばせて、出かける用意をしてくれた。
私はこんど出雲へ行ったときは、何とかして、日立金属安来工場内にある冶金研究所の清永欣吾氏に会ってみたいと思っていた。読者のなかにはすでに気づいてくれた人もあるかと思うが、私はさきの「鉄文化と新羅・加耶」の項で、「朝鮮半島産の砂鉄か/……」という見出しの、一九八二年四月十日付け朝日新聞・奈良版の記事を引用して紹介した。その記事は、こういうふうに書きだされていた。
大和地方で出土した古墳時代の刀剣、矢じりなど、鉄製品の原料は、砂鉄が使われ、それも国内産ではなく、どうやら朝鮮半島から運び込まれた可能性が出てきた――。なぞに包まれた古代の鉄生産、流通過程を究明するため、県立橿原考古学研究所の古代刀剣研究会技術的研究班 (班長・勝部明生同所付属博物館次長) が、島根県安来市の日立金属安来工場冶金研究所に協力を仰いで古墳時代前期から後期にかけての鉄製品を調べたもので、朝鮮半島南部の伽〓 (かや) 地方のものとよく似ているという。
つまり、ここにみられる「安来市の日立金属安来工場冶金研究所」の所長が清永欣吾工学博士で、その「鉄製品を調べた」のもこの清永氏であった。なお、私はそのことを報じた新聞は朝日の奈良版だけかと思っていたところ、その後、ある人が切抜きのコピーを送ってくれたので知ったが、一九八二年九月十日の読売新聞 (大阪) にも、「古墳時代・大和の刀剣/砂鉄原料説を覆す/日立金属研/朝鮮からの輸入品」とした、次のような記事が出ている。
大和の古墳から出土した鉄製刀剣の原料は、砂鉄ではなく赤鉄鉱か褐鉄鉱で、朝鮮半島から鉄素材か刀剣製品で輸入されたとみられる――。奈良県内の古墳から出土した鉄製刀剣の材質分析をしていた島根県安来市、日立金属冶金研究所の清永欣吾所長は、奈良県橿原考古学研究所で行われた月例会「古代刀剣シンポジウム」で、これまで考古学界の常識とされていた砂鉄原料説を覆す報告をし、九日、同研究所が発表した。
清永所長が分析した刀剣は、古墳前期 (四世紀) 二十八点、中期 (五世紀) 三十三点、後期 (六世紀) 二十二点、時期不明二十三点の計百六点。それぞれの破片から銅、コバルト、チタン、シリコンなど微量に含まれている元素十三種類について分析し、その中から原料ごとの数値差がはっきりしているバナジウムについて比較検討した。
原料ごとのバナジウム含有率は砂鉄は〇・〇五%から〇・七%、赤鉄鉱は〇・〇二%以下、褐鉄鉱はゼロ、磁鉄鉱は〇・一%以上となっているが、分析した刀剣百六点のバナジウム含有率はすべて〇・〇一%以下で、検出されないものも含まれている。さらに他の元素含有率も考慮した結果、百六点の刀剣の原料は赤鉄鉱か褐鉄鉱で、砂鉄を原料としたものはないことがわかった。
また、原料の産地についても、各元素の比較から推定し、古墳時代中、後期のものは、奈良市のウワナベ古墳陪塚から出土した鉄〓(てってい=精錬した鉄を板状にした鉄素材) と元素の内容が酷似していることがわかった。
この鉄〓は韓国・慶尚南道〈古代の加耶〉昌寧郡出土の鉄器と成分がほぼ同じであることがわかっており、清永所長は、古墳時代中、後期の鉄製刀剣は、朝鮮産の原料で、鉄〓のような鉄素材か、刀剣の完成品で輸入された可能性が強いとし、前期のものについても「産地は不明だが、原料は砂鉄ではない」としている。
古墳時代の鉄製刀剣は、日本刀のルーツで、砂鉄から精錬する玉鋼 (たまはがね) を原料とする説が、これまで一般的だった。
重要なことなので全文を引いたが、読売のこの記事は、ちょうど五ヵ月前の四月十日に出た前者の朝日のそれとくらべると、かなりのちがいが見受けられる。前者は「大和地方で出土した古墳時代の刀剣、矢じりなど、鉄製品の原料は、砂鉄が使われ」とあったのに、後者のこちらは「原料は砂鉄ではない」となっている。
砂鉄であれ、いわゆる鉄〓であれ、それが古代朝鮮から来たものであることに変わりはないが、しかし、どちらの記事が正確に近いかということになると、五ヵ月後の九月十日に出た後者のようである。というのは、この九月には清永欣吾氏の『奈良県古墳より出土した鉄刀剣の調査』という、その報告書が出ていたからである。
私は日立金属の広大な安来工場内にあった冶金研究所の、みるからに温厚な学者である清永さんから、かなり強引に大部の同報告書を一部もらい受けた (部外には出ない非売品なのでそうするよりほかなかった) が、後者の記事はこの報告書にもとづいて書かれたものにちがいなかった。それにしても、これまた、「朝鮮産の原料で、鉄〓のような鉄素材か、刀剣の完成品で輸入された可能性が強い」とはどういうことなのであろうか。
古代の朝鮮にはそういう原料や、鉄製品をつくって「輸出」する会社はなかったし、また日本にもそれを「輸入」する商社などなかった、とはさきにも書いた (「鉄文化と新羅・加耶」) が、たとえばいまみたような鉄〓は、森浩一編『鉄』にもあるように、大和のウワナベ古墳などからばかりでなく、古代朝鮮の新羅・加耶・百済などの古墳からも出土しているのである。ということは、古代では宝物にひとしかったその鉄〓は常に、その古墳の被葬者と共にあったということにほかならないのである。
金屋子神社まで
「安来工場の守護神」
私が日立金属・冶金研究所の清永さんからもらい受けたのは、いまみた報告書だけではなかった。これはだれにでもくれる日立金属の『安来工場案内』というのもその一つだった。
カラー写真を中心とした大判のリーフレットで、ここに出ている写真をみただけで、日立金属の安来工場というのがどんなに大きなものであるかわかるが、冒頭に、河野典夫社長のことばとしてこう書かれている。
安来工場のある出雲地方は、わが国鉄鋼文化発祥の地で、当地方に産出する不純物のきわめて少ない優秀な砂鉄は、日本刀の唯一の原料でした。安来工場はこの優れた砂鉄を原料として、わが国で初めて独特のペレタイジング法、低温還元法による海綿鉄の量産化に成功しました。
YSS (ヤスキハガネ) はこの優秀な海綿鉄を原料とし、原料からの一貫システムで、高速度鋼、ダイス鋼、特殊工具鋼、刃物鋼、および耐熱、耐食合金、電磁気材料などの高級特殊鋼が製造されます。
古代からのそれが連綿と、大きく発展してつづいているわけであるが、ところで、その『安来工場案内』のページをくっていて、私はちょっと目をみはった。そこに「金屋子神社」の写真がのっていたので、一瞬、私はその写真がさきに行ってみた広瀬町西比田の金屋子神社かと思ったのだった。
が、よくみると西比田山中の神社とは別の写真であるばかりか、それの説明がこうなっている。
安来工場の守護神。金屋子の神は製鉄の守護神として、古くから信仰されています。
それを読んで私は、「ああ、そうか、なるほど」とひとりうなずいたが、しかしもちろん、「安来工場の守護神」となっているその金屋子神社も、西比田のそれと決して無縁ではなかった。ばかりか、安来工場に祭られているそれも、西比田の金屋子神社を勧請《かんじよう》したものだったのである。
西比田をめざして
私はさきに来たとき、意宇川上流の熊野大社から、金屋子神社の総本社となっている広瀬町西比田のそれをたずねたが、まずおどろいたのは、飯梨川上流の広瀬町というのは、なんとも面積の広大な町だということだった。どこまで行っても目の前にあるのは濃緑の山また山で、タクシーの運転手によると、そのあいだを流れている飯梨川は、上流となるにしたがって富田《とだ》川となり、布部川となるとのことだったが、なにはともあれ、めざす西比田の金屋子神社までは、ずいぶんと長い道のりだった。
そんなこともあって、私は広瀬町の中心部はそのまま見すごしてしまったが、あとでみる斐伊川とともに、ここを流れる飯梨川も古代は砂鉄のよくとれたところで、近年、この広瀬町でも製鉄のタタラ跡が見つかっており、いまも「タタラ屋敷」「鍛冶屋窪」などというところがあるという。それにまた、これもあとになって、島根県の神社名鑑である『神国島根』を入手したことでわかったが、広瀬町役場の近くに嘉羅久利《からくり》神社というのがあって、その「由緒・沿革」がこうなっている。
社伝によれば当社は延喜式に見ゆる韓国伊太〓《からくにいたて》神社を訛り、中古には加栗神社と称し、更に後世訛り嘉羅久利神社と称するに到りしものにして、出雲国風土記並びに延喜式神名帳に見ゆる佐久多神社並びに韓国伊太〓神社に当ると謂わる。
主祭神は五十猛《い た け》命で、なお境内にまた荒《あら》神社があるが、出雲に多い韓国伊太〓神社や、荒神社についてはあとでまたみることになるけれども、広瀬町にもそんな神社があったとは、はじめて知ることであった。しかしこのときの私はそんなことなど知らず、ただひたすら西比田をめざした。
そうしてやっと西比田となったが、タクシーはさらにまた右折して、急な山道を登りはじめた。
「おやおや、いったいどうなっているんだ。もう、勝手にしやがれ」と思ってふんぞり返ったところ、山道のつきたそこが金屋子神社だった。どうも態度わるくて金屋子の神には申し訳ないしだいだったが、
「やれやれ」と私はそれを声にだしてタクシーをおり、山中のあたりを見まわしながら運転手に向かって言った。「それにしても、あんたはよくここを知っていたね」
「ええ、まえに一度、神主さんかだれかを乗せて来たことがありました」
金屋子神社の由緒
山腹にただそれしかない神社の前には湧水《わきみず》の小さな池があって、それが布部川・富田川・飯梨川の水源の一つとなっているようだった。その池を右にみながら石段をのぼると、「その造りの壮麗なこと近隣に比をみない」という端正な本殿があり、その前の境内に、和鋼記念館の前庭にあったのと同じ大きな〓《けら》がおかれていて、注連縄《しめなわ》をかけられているのが印象的だった。
いかにも、製鉄の神を祭る神社といった風景だった。神社からちょっとさがったところに人家が一軒あったので、宮司の家かと思ってたずねたところ、神社の管理をまかされている瀬尾安治さんという人の家だった。その瀬尾さんのところで『金屋子神社由緒略記』などもらい、賽銭《さいせん》ということでいくばくかをおいたところ、そこの奥さんが、そのへんの山でとれたという小さな形の栗をいっぱい布袋に入れてくれた。
「こんな遠いところまでよく……」という意味がその栗にはこめられているようだったが、金屋子神社の由緒は、このときもらった『――略記』にはもちろんのこと、森浩一編『鉄』など、いろいろなところに出ている。ここでは前記『島根県の歴史散歩』によってみると、それはこうなっている。
金屋子神社の鎮座する西比田は、広瀬の最奥部、重畳たる中国山地の小盆地だ。広瀬の中心部から二五キロも南方にあたる。
金屋子神社は、その造りの壮麗なことで近隣に比をみないが、そのことより古来タタラの神である金屋子神のやしろとして、鉄山師《てつざんし》たちのあつい信仰をえていることでユニークだ。『鉄山秘書』(一七八四年) によると、「太古、ある旱天《かんてん》の日、土民が雨乞いをしていたところ、播州宍粟《しそう》郡岩鍋に高天原《たかまがはら》から一神が降臨し、金属器の製作法をおしえた。神はさらに西方へとび、出雲国能義郡比田の黒田にいたり、やすんでいると、たまたま狩りにでていた安部氏の祖正重なるものがこれを発見し、やがて神託により朝日長者なるものが宮を建立し、神主に正重を任じ、神はみずから村下《むらげ》となり、朝日長者は炭と粉鉄《こがね》とをあつめてふくと、神通力によって鉄がかぎりなくわきでた」という伝承をのせている。だが、金屋子神社はこのような伝承をもっているにもかかわらず、さして古い建立ではない。ようやく戦国時代から神徳が周囲にあらわれだしたもので、それは中国山地のタタラ製鉄の発展と対応している。
金屋子神社は近世にはいると急速に発展し、諸国に分祠をつくった。現在判明しているところでは、出雲・伯耆・備後・石見にわたって二二社を数える。そのほか諸国の鍛冶鋳物師のあいだでも、その職場にはかならず金屋子神を勧請《かんじよう》し、本社の祭礼のときには遠近をとわずこの地に足をはこんだ。いっぽう、本社からは神主安部氏、またはその代人が配札《くばりふだ》と称して山陰・山陽のタタラをまわった。この安部氏の巡回が金屋子神社の信仰圏をさらに拡大したのだった。
もちろん、『鉄山秘書』の伝承は荒唐無稽の域を出ないが、しかしたいていの伝承がそうであるように、この伝承もある事実を反映したものであるにちがいない。たとえば、「播州〈兵庫県〉宍粟郡岩鍋」という実在の地名が出ているが、これは新羅・加耶系渡来人集団の象徴である天日槍の伝承地である「宍粟邑《しさわのむら》」のことで、出雲のタタラ製鉄もそこの天日槍集団から伝わったことをものがたったものではないかと思われる。
このことについては、内藤正中氏も「播磨ではじめられた製鉄が、室町時代末期からは山陰の中国山地を中心にして発展していく歴史の事実と合致する伝説である」(『島根県の歴史』) と書いているが、さきの「鉄文化と新羅・加耶」の項でみた、「ともあれ、私たちは、天日槍の渡来から始めなくてはならぬ」とした宍戸儀一氏の『古代日韓鉄文化』が金屋子神社の祭神を天日槍としたのも、それでよくわかるような気がする。
簸川の斐伊川
絲原記念館
出雲山中の西比田・金屋子神社からの私はさらに西に進み、「雲州そろばん」(算盤) で有名な亀嵩《かめだけ》をへて、斐伊川の上流に出た。そしてそのまままっすぐ、これまたとなりの伯耆 (鳥取県) の日野川と同じく砂鉄と神話で有名な斐伊川に沿って下るつもりだった。しかししばらく行くと、
「そこの雨川の、絲原記念館に寄りますか」とタクシーの運転手が、前方を指さしながら言った。
「何です、その絲原記念館というのは――」
「民俗資料館ですが、ここにも金屋子さんがあって、タタラの〓《けら》などもありますよ」
「へえ、そうかね」ということで、私は亭々《ていてい》とした山林のなかにある絲原記念館をたずねたが、財団法人となっているそれは、斐伊川の砂鉄で財をなした絲原家がつくったものだった。
絲原家はかつて「鉄師頭取《てつしとうどり》」「下郡上座役人《しもごおりじようざやくにん》」等を務めていた家柄だそうで、鉄師頭取はともかく、下郡上座役人とは何のことかよくわからないが、記念館は旧家などによくみられる大黒柱のような木材をふんだんに使った、相当ぜいたくな民芸風の建物だった。外にある喫茶・軽食・おみやげ店の名も「砂鉄」となっていて、それに「こがね」とふりがながほどこされていた。
その絲原家にとって、「砂鉄」はまさに「こがね」(黄金) だったのである。記念館は第一展示室の「たたら製鉄コーナー」を常設として、第二展示室「美術工芸品コーナー」、第三展示室「立体展示コーナー」というふうにわかれていたが、第一展示室・常設のそれはこうなっている。
○「たたら」の意味と「たたら炉の変遷」
○中国地方における「たたらと大鍛冶屋」の分布と「鉄師頭取の絲原家」の占める地位
○「たたら製鉄」の衰退経過
○絲原家の主力鈩であった「鉄穴《かんな》鈩《たたら》」の復原絵図による「たたら製鉄」と関連作業のすべて
○「金屋子神」と、たたら製鉄の原料「砂鉄」と「木炭」
というぐあいに、すべてタタラ製鉄のことだけで、十三面ほどにわたっている。さきの安来でみた和鋼記念館におとらぬもので、それがそんな山中にまであるところなど、いかにも古代からの鉄所《てつどころ》である出雲にふさわしい「記念館」のように思われた。
鳥上山の木炭銑
外の「砂鉄《こがね》」で一休みしながら地図を開いてみると、絲原記念館のある雨川は仁多《にた》郡横田町の一部で、その横田町の中心部はそこからかなり東に寄ったところとなっていた。その中心部からさらに東へ向かうと、素戔嗚尊のいわゆる「八岐《やまたの》大蛇《おろち》退治」ということで有名な鳥上《とりがみ》山、すなわち伯耆との境にそびえ立っている船通《せんつう》山であった。
鳥上山・船通山は斐伊川の源となっているところだったが、その麓の大呂には日立金属の鳥上山木炭銑工場があって、そこへは七、八年前、司馬遼太郎氏らといっしょに行ったことがあった。そのときのことは、氏の『街道をゆく』7「砂鉄のみち」にくわしく書かれている。いまもなおおこなわれている「タタラ製鉄」がどういうもので、どこからきたものであるかということを知るうえでもおもしろいのでみると、それはこういうふうである。
のぼるほどに道路わきの残雪が厚くなり、やがて鳥上工場に着いたときは、工場のまわりが雪でおおわれていた。すでに陽が暮れていて、山を背負った工場の景観がよくわからない。小さな木造の事務所に灯がともっていることが多少の救いのように思われ、なにやら国神《くにつかみ》の脚摩乳〈あしなづち〉の家にでもたどりついたような感じだった。
事務所を訪ねると、幸い代表者の並河孝義氏が残っておられた。並河氏は、名刺の肩書をみると、日立金属株式会社関連会社・株式会社鳥上木炭銑工場・代表取締役とある。すると、この工場は独立した会社であるらしい。……
並河孝義氏は、世界でただ一つ残っている砂鉄とりの現場の宰領者だが、温厚な老紳士で老舗の当主といった感じの人である。砂鉄は母岩 (花崗岩など) に数パーセントしかふくまれていないとされるが、並河氏は
「一パーセントです」
といわれた。採掘者がいわれるのだから、やはり一パーセントが本当であろう。
冶金学の桶谷繁雄氏の『金属と人間の歴史』(講談社刊) によれば、鋼一トンを得るためには、砂鉄一二トン、木炭一四トンが必要だったという。以下、同書の計算を引用させてもらう。「……昔の人がやったたたら一回で得られる大塊を二トンとすれば、砂鉄は二四トン、木炭は二八トン必要となる。木炭二八トンのためには、薪は一〇〇トン近くを切らねばならなかったに相違ない」とある。すさまじいばかりの森林の消費であり、くりかえし言うようだが、古代から近世までの製鉄事情としては、東アジアでは森林の復元力がもっとも高い日本列島がいかに適地だったかがわかる。
並河氏も、
「山林一町歩で、鉄が一〇トンですね」
と、いわれた。この鳥上工場では年間三六〇トンの鉄をつくるという。わずか三六〇トンだが、ここの砂鉄が鋼になるための質の点でもっとも良いということで、十分ひきあうのである。並河氏は、事務所の薄暗い電球の下で、思いつくままといった語り方で語られた。
「古代の野ダタラというのは、おそらく山の尾根でやったと思いますね。自然通風は河原よりもよかったと思いますから」
「この横田という土地は天叢雲剣《あまのむらくものつるぎ》が出たところですから、土地の人は毎年新穀が穫れますと熱田神宮へお供えにゆくのです。ええ、農家の人がゆきます。私も二回ばかりついて行ったことがあります」
「砂鉄を出す土は酸性ですからいい米が穫れるんです。この横田がそうです。米がいいと酒もいいんです。だから砂鉄業と稲作農民が仲がわるいということはありません」
スサノオの故地だったという辰韓 (新羅) の地については、並河氏はそれを訪ねて先年慶州に行ったという。
「慶州の浜側です。そこに砂鉄をとっている所がありまして見学しましたが、ここと品質がかわらないですね」
ともいわれた。
この話は、興味ぶかかった。〈ちなみにいうと、当然、この話は私も興味深く聞いた〉
慶州に近い迎日湾からの水路が出雲にもっとも近いのである。水野祐氏の説のように、スサノオを奉じて出雲にやってきたのは新羅の製鉄者集団であったとすれば、かれらはこの航路をつたって出雲にきたであろう。その慶州の浜の砂鉄は、この鳥上の砂鉄と同質である――チタンやリン、硫黄がすくない――という。かれらが自分の故地と同質の砂鉄をもとめて鳥上山を見つけたのも、あるいは当然だったかもしれない。
かれらが移動してきた理由は、ひょっとすると韓国《からくに》の採鉄場付近の森林が尽きてしまったからであるかもしれない。『日本書紀』では、かの地の曾尸茂梨《ソシモリ》にいた素戔嗚尊が、卒然として「此ノ地、吾居ルコトヲ欲セズ」といって、出雲にくるのである。水野氏の説に妄想を加えることをゆるされるとすれば、木がなくなってしまったということが想像できるように思える。十七、八世紀のイギリスの例でもそうだが、木炭による製鉄業者はつねに森林のそばへそばへと移動する。一つのその森林を食いつくしてしまうと他の森林へ移動し、たとえばウエールズ地方のディーンの森などは十八世紀には丸裸に近くなったという。
古代、鍛冶《かぬち》とよばれた製鉄業者も、同様の運動律をもっている。韓《から》鍛冶《かぬち》の出雲の森林地帯への集団渡来も、そういう引力にひかれての、ほとんど自動的といえるような動きだったにちがいない。
日野川・簸川・斐伊川
ながながと引用がつづいたが、一つは司馬さんのこの推定・証明がじつにみごとというよりほかなかったからでもある。ここにいうスサノオ、すなわち出雲といえばそれであるといってもいい素戔嗚尊のことや、水野祐氏のその説についてはのちにまたみるはずであるが、ところで、鳥上山・船通山に源を発する斐伊川は、別にまたこれを簸川《ひのかわ》ともいったものであった。
これは同じく船通山に源を発する伯耆の日野川《ひのがわ》ともつうずることばで、出雲にはいまも簸川《ひかわ》郡という地名がのこっている。
そのことについても、いまみた司馬さんの『街道をゆく』にこう書かれている。日野川の上流から、美作 (岡山県) へと山越えするときのことである。
米子を東郊へ外《はず》れると、日野川が流れている。われわれは、その沿岸道路を南下しはじめた。道路の右側の闇に漫々と水が流れていて、対岸に点々とともる灯が、水にうつって小波《さざなみ》立っている。
「これは、何川ですか」
助手台の金達寿《キムダルス》氏が、運転手さんにきいた。これですか、これはヒノカワです、と運転手さんがこたえ、出雲のヒイカワとまぎらわしいので他所からお見えになったお客さんは迷惑されます、と言い添えた。漢字をあてはめると出雲が斐伊《ひい》川、この伯耆《ほうき》 (鳥取県) のほうが日野川で、あきらかにちがうが、音は似すぎているのである。それにむかしは、漢字までおなじ文字をあて、どちらも簸川《ひのかわ》といったりした。
出雲の簸川流域平野のほうが早くひらけたらしい。そこに住んでいた弥生式農耕の大集団の一部が、岐《わか》れてこの伯耆の川筋に移住したとき、川におなじ名をつけた、という説がある。どちらの川筋も、鉄を産するのである。ただしこの伯耆日野川は河口付近 (米子近辺) だけが平地で、あとは両岸の山々が切り立ち、山々には細流がすくなく、稲作の適地がすくない。とすればこの川の名を、出雲の故郷を偲んで「ヒ」とつけたのは、あるいは古代の製鉄集団であったであろうか。
私もそうだったのではなかったかと思うが、その日野川におけるタタラ製鉄については、さきの伯耆「日野川の鉄穴流」の項でみている。同時に私はまた、その日野川の日野や日根野の日根というのは、「それが新羅における日の神としての太陽信仰からきたものかどうかはよくわからないとしても、いずれにせよ、日野とか日根というそこは、新羅系の渡来人が住んだところであったことにまちがいはない」と書いたが、出雲の簸川・斐伊川も同じそれからきたものだったのである。
菅谷の高殿タタラ
絲原記念館をあとにした私は、その斐伊川に沿って下って行った。仁多町をすぎるとその西方に飯石《いいし》郡吉田村があって、ここにまた菅谷タタラというのがある。
こちらでの「砂鉄王」といっていい、田部《たなべ》家のそれである。ここもさきに司馬さんたちと行ったところで、いま私は「砂鉄王」といったが、それが必ずしも誇張でないということは、司馬さんの前記『街道をゆく』にこう書かれていることからもわかると思う。
出雲飯石郡吉田村は、地図の上では虫眼鏡で見てやっとわかる程度の地名にすぎないが、この村に、中国山脈のほとんどを所有しているといわれる大山林地主の田部《たなべ》長右衛門家が存在することで、その方面の学者の世界では高い知名度をもっている。
出雲――というより中国山脈――は、古代から中世、近世にかけて、さらには明治期まで及ぶところの砂鉄王国であった。
「中国山脈のほとんどを所有している」とはおどろくべきことであるが、なにしろ、鉄塊二トンを得るためには、「砂鉄は二四トン、木炭は二八トン」「木炭二八トンのためには、薪は一〇〇トン近くを切らねばならなかった」というから、それだけの大山林が必要だったのである。それにしても、そこのタタラ製鉄がそれに見合うだけの産業であったからこそ、そのような大山林を所有することにもなったことはもちろんである。
しかし、タタラ製鉄のことはもうかなりみてきているので、ここはかんたんにするが、「いかにも累代の長者といった感じで、色白で鼻筋がとおり、聡明さを露《あら》わにせず、肉の厚い気品のなかに押しつつんでいるといった印象」(前記『街道をゆく』) の田部さんの案内で、私たちは村はずれの金屋子神社 (ここにもそれがあった) から、いまは日本にそれしかのこっていないという菅谷の高殿《たかどの》タタラなどをみて歩いた。
高殿は一八五〇年の嘉永三年に改築されたというもので、そこに立札があってこう書かれていた。
このたたら (高殿) は十間 (一八メートル) 四方の角打たたらで、中央に製鈩を築くのであるが、現在は地下の炉床を残して炉体は取払ってある。/屋根にある通気用の火宇《は》内《うち》は、建物の保存上ふさいであるが、奥の中央に小鉄《こがね》町、その両側に炭《すみ》町、左右入口の中間に土《つち》町があり、別にむらげ (村下) 以下の控室がある。
斐伊川は下流となるにしたがって、だんだんと川幅を広げていた。いかにも出雲を象徴する大河の一つで、地図でみてもこの川がいちばん長くて大きい。私は何となく、「大きな川ですね」と言ったところ、タクシーの運転手はそれにつれて、「この川では、いまでも砂鉄をとっている人がいるんですよ」と言い、つづけてこんなことまで言った。
「素戔嗚尊の八岐《やまたの》大蛇《おろち》退治というのは、くねくねと長い大蛇に似たこの斐伊川の氾濫《はんらん》を防いで、まわりの稲田をたすけたことを語ったものだそうですね。稲田姫をめとる、というのもそういうことからきたのだそうです」
「ああ、そうかね」と私は笑ったが、しかしそれはなかなかうがった見方、解釈でなくもなかった。すると、そのとき素戔嗚尊が用いたというのは「韓鋤剣《からすきのつるぎ》」ではなく、「剣」は余計なもので、田を耕したり堤を築いたりする「韓鋤」だったかも知れないなあ、と私はその斐伊川の流れを見わたしながら思ったりした。
四隅突出型方墳と荒島
雲樹寺の朝鮮鐘
さて、ここで、はなしは「安来をたずねて」の項のはじめに書いた一九八三年六月九日に戻ることになる。つまり、講談社で私のこの古代遺跡紀行「日本の中の朝鮮文化」を単行本にしてくれている池田公夫氏、平沢尚利氏、市川英夫氏らが加わって「計四人というにぎやかな一行となった」ときのことで、日立金属の安来工場内にある冶金研究所をたずねたあとの私たちは、安来港の神体山である十神山をへて、安来市清井町の雲樹寺にいたった。
伯太《はくた》川をさかのぼること約五キロのところにあった雲樹寺は一三二二年の元亨二年、三光国師ともいわれた孤峰覚明によって創建された禅寺だったが、ここに国の重要文化財となっている朝鮮鐘があった。朝鮮鐘は日本全国に五十四口ほどあるが、雲樹寺のそれについては、前記『伯耆・出雲の史跡めぐり』にこうある。
雲樹寺には銅鐘が三つ蔵されている。一つは重要文化財指定の朝鮮鐘で、総高七五・三センチ、口径は四四センチであり、島根県下に蔵されている三口の朝鮮鐘 (一つは松江・天倫寺蔵、一つは加茂町・光明寺蔵、いずれも重文指定) の一つである。「捨入、雲州瑞塔山天長雲樹興聖禅寺、応安七年甲寅十月一日、願主宗順」の追刻銘があり、寺伝によれば宗順は島田の人といわれ、一夜の夢ざとしによって海中より拾い上げてこれを寺へ納めたものという。天女奏楽の文様を中心に、レンゲ、唐草の文様の精巧なもので、高麗文化の高さを示し、或はわが国最古の朝鮮鐘ともいわれている。以前は開山堂にあったが、近年、島根県立博物館に寄託出展されている。また、現在鐘楼にかけられている鐘は、この朝鮮鐘を三倍の大きさに引き伸して作られたものである。
いまは同寺の観音堂に戻されているその鐘を私たちはみせてもらったが、上部に円筒形の旗さしと単頭の竜頭とをもった、まぎれもない高麗《こうらい》時代初期の朝鮮鐘であった。雲にのった二人の天女による奏楽の文様もみごとなものだったが、しかし、「或はわが国最古の朝鮮鐘ともいわれている」とあるのはあやまりで、日本にはこれより古い新羅時代につくられた朝鮮鐘もいくつかある。
たとえば、越前 (福井県) 敦賀の常宮神社や、豊前 (大分県) 宇佐の宇佐神宮などにある国宝の新羅鐘がそれである。ことに常宮神社のそれは、新羅の「大和七年」すなわち六五一年につくられたことがはっきりしているものなのである。
仲仙寺古墳群
雲樹寺の山門を出たときはちょうど日暮れで、そこからの私たちは、池田さんがあらかじめ予約しておいてくれた古川町の、さぎの湯という小さな温泉場の安来館というのにはいった。温泉につかって一日の疲れをいやし、それまでみてきたものについて、みんなでわいわい語り合いながらのビールがうまかった。
そして翌十日、タクシーを一台貸切りにしてもらって、さぎの湯を出発した私たちは、出雲の四隅突出型方墳を含むものとしても有名な、安来市の仲仙寺古墳群からたずねることにした。さきにまず、前記『島根県の歴史散歩』によってみておくことにする。
伯太川・吉田川・飯梨《いいなし》川の沖積によってつくられた安来平野に、農耕文化がひらけるのは、弥生時代のなかごろ (前二〇〇年) だったといわれる。そのことは、安来平野の山すそのあちこちに、土壙墓《どこうぼ》群や古墳群が存在することでもわかるだろう。
昭和四五年、仲仙寺丘陵の宅地造成にともなう調査によって、仲仙寺古墳群の実態があきらかになると、にわかに学界に大きな波紋をよんだ。
古墳群は県道広瀬荒島線の荒島寄りで、道をはさんで安来第三中学校北側と、むかいの仲仙寺の二ヵ所からなる。荒島駅から徒歩で約一五分。この山上からは北東に安来平野が一望され、東方はるかに大山《だいせん》の秀峰をみることができる。付近には宮山古墳・塩津古墳群・造山古墳群 (国史跡)・大成古墳など、以前からしられている四〜五世紀の方墳群が密集している。
〈仲仙寺古墳群は〉調査の結果、つぎのようなことが判明した。これまで発見された山陰地方の古墳のなかでも最古のものに属する。九号墳・一〇号墳などは、四隅突出型というきわめて珍しいかたちで、土壙墓 (墓穴) を主体とする古墳としては、もっとも整美なものだ。三群一六基の古墳が同一丘陵にあり、時期および世代をおって、古墳の成立過程を克明にたどることができる、などだ。そこで、つぎのような推定が可能となった。
出雲東部では、弥生時代の後期になると、周辺の山麓に多くの集落ができ、低い丘陵上に土壙墓とよばれる長方形の墓穴がつくられるようになった。四世紀ごろになると、それまでほとんど加工しなかった丘陵を、土壙墓を中心として方形ないし長方形にけずり、なかには石列をおいたものがあらわれるようになった。
仲仙寺古墳群は、まさにこのような弥生時代の土壙墓の完成されたすがたをしめすとともに、つぎの時代にいちじるしく発展する古墳のかたちをもそなえている。したがって、現在一部保存されている仲仙寺古墳群 (国史跡) は、古墳発生期のプリミティヴな様相をしめすものとして、きわめて貴重なものだといえる。
私たちはその仲仙寺古墳群を、何度も人に訊いたりして、やっとさがしあてることができた。丘陵といっても、いまは住宅群のあいだにはさまっていて、それがなかなかわからなかったのである。
さがしあててのぼってみると、それでもやはり丘は丘で、そこからは安来平野が一望されるだけでなく、ひろびろとした海まで見わたされた。いわば古代人も好んだとみられるそういう景勝の地であったが、しかし、そこにあるのはたしかに四隅を突出させた方墳ではあったけれども、柵もなにもほどこされていないので、ふつうの古墳とちがう低い墳頂部は、人々の足に踏まれるままに芝生がはげたり、といったぐあいとなっていた。
そこに文化庁・島根県教育委員会・安来市教育委員会が一九七三年三月二十八日にたてた「史跡 仲仙寺古墳群」(文部省告示第一八五号) という大きな掲示板があって、こういうふうに書かれている。
もとこの一帯には、海抜三〇〜四〇メートル、下の宅地から比高二〇〜三〇メートルくらいの丘陵がずっとあって、その尾根筋に大小十八基の古墳群が三群に分かれて築かれていた。……それが昭和四十五年から四十六年にわたる、この神塚団地の造成によって逐次消滅し、……第二群の一部が辛くも国の史跡指定地として残ることになった。
そこにずっとあった丘陵はその尾根筋の古墳群とともに、宅地造成のため「逐次消滅」してしまったというのであるが、それだったらなぜ、そのような「逐次」の途中ででも、それを食いとめることができなかったのであろうか。しかしいまはもう、そんなことをいってみたところではじまらぬことはいうまでもない。
山陰・北陸独自の四隅突出型方墳
古墳の多い日本でも珍しい、最古の四隅突出型方墳が含まれているだけに惜しいことをしたものと思わずにいられなかったが、このいわゆる四隅突出型方墳は、山本清氏の「出雲の四隅突出型方墳」によると、出雲では一九七五年現在で、いまみた仲仙寺のそれをあわせて、八基が発見されている。しかしその後も松江市の友田遺跡などからも発見されているばかりか、となりの鳥取県倉吉市でも「三世紀後半と推定」(日本海新聞) されるそれが発見されているし、北陸の富山県富山市でも発見されている。
四隅突出型方墳は、いまは裏日本といっているけれども、かつてはこちらが表日本であった山陰・北陸地方の独自的な古代文化を特徴づける貴重なものなのである。たとえば、一九七五年五月、富山市西方、呉羽丘陵の杉谷で、これも三世紀末から四世紀はじめの築造という四隅突出型のそれが発見されたとき、富山大学名誉教授の高瀬重雄氏はそれについてこうのべている。
山陰から北陸にかけて、独自の文化圏があった。大和朝廷の影響を受ける以前から、朝鮮を通じて大陸文化の来ていたことは、こんどの古墳の発見にかかわらずはっきりしていた。それが具体的な形で出てきたところに意義がある。(北日本新聞)
それからまた、藤沢一夫・上田正昭氏らの古代を考える会がだした『古代出雲の検討』をみると、前島己基氏が「古墳の展開を中心に」のべたなかにこういうくだりがある。四隅突出型方墳とはどういうものか、さらによくわかると思うので、それもここに引いておくことにしたい。
この四隅突出型の方墳と呼んでいますのは、弥生後期の群集形態をとります、いわゆる土壙墓群などと共通性を持ちつつさらに発展した段階の墳墓でして、必ずしも盛り土を持つとは限りませんが、地山を加工して、四隅が対角線上に張り出す特異な方形の墳丘を形づくるものです。そして、それを集落から隔絶した眺望と仰望のきく丘陵の上に築いておりまして、従来の土壙墓群などに示される観念を越えた新しいイデオロギーによる埋葬方法の萌芽、言いかえますと、いわゆる高塚古墳の初源的な姿をしたものと言えるようなお墓であります。
現在この種の方墳は〈古代出雲の〉意宇郡中央部の東端に六基、中心部に一基、神門郡地域に六基と、出雲地方に計一三基知られておりまして、ほかに石見《いわみ》〈島根県〉に一例、鳥取県に四例、広島県に一例、そして遠く離れた富山県にも一例確認されております。朝鮮半島の墓制などとも関連して、将来いろいろと検討されなければならない問題も多いと思いますが、現状からしますと、どうも日本海岸を中心とする地域的な政治集団の中で生まれた墓制としてよろしいんではないかと思います。そして分布の状態からしまして、その中心の一つが出雲にあったとみてよいのではないかと思います。
荒島と荒島石
ついで私たちは、仲仙寺古墳群の近くとなっている荒島町の荒島八幡宮に寄って、境内をしばらくのあいだぶらぶらした。別に何ということもない、ふつうの神社だった。それでも境内の一隅にある巨大な「荒島石」が珍しいとみえて、同行の市川さんはそれもカメラにおさめたりしていたが、私はといえば、それより、何となくそこの「荒島」という地名が気になったのだった。
というのは、「荒島石」ということで知られている荒島は、「荒島地方」ともいわれているところで、仲仙寺古墳群などもその荒島地方のなかにあるものだった。前記『伯耆・出雲の史跡めぐり』はとくに「荒島付近」という一項をもうけ、「荒島石と古墳文化」についてこうのべている。さきにみたこととも重複したりするのでちょっとわずらわしいかも知れないが、これからみることとも関連するので、これも引いておかなくてはならない。
ところで、荒島地方は出雲文化の発生地である。造山古墳 (方墳、指定史跡)、大成古墳 (方墳) と、島根県下におけるもっとも古い様相の古墳が存在し、また荒島町南方の丘陵付近には高塚山古墳、仏山古墳、若塚古墳、塩津神社古墳、さらに仲仙寺古墳群などが多く分布する。
中でも先年土地開発問題とからんで緊急調査され、クローズアップされた仲仙寺古墳群 (方墳、史跡指定) は、十八基の中九号と十号はおよそ三世紀後半の築造と推定され、その古さと古代出雲文化を知る手掛りを与えるものとして注目された。また、それらの石棺は荒島岩をけずって作られており、荒島石は出雲の古代文化と密接につながっている。さらに方墳は北朝鮮の墓制とつながるものといわれ、北朝鮮との文化技術の交流の歴史が、神話形成の上に大きな背景となっている事は見のがせない。
ここにいう「北朝鮮」とは古代の高句麗のことであるが、しかし荒島地方の古墳がその高句麗の「墓制とつながるもの」かどうか、というより、これはその高句麗とつながった古代南部朝鮮の加耶 (加羅) 諸国のうちの安羅《あら》 (安耶・安那) のそれとつながるものではなかったか、と私には思われる。そのことは荒島の「荒《あら》」が、これからみる荒神社の「荒」ということがどこからきたものであるか、ということでわかるのではないかと思う。
韓国伊太〓神社のこと
いにしえの意宇郡
安来市荒島に近い西隣は、八束《やつか》郡東出雲町となっている。国鉄の駅でみると荒島の次が東出雲町の揖屋《いや》となっていて、ここに有名な揖夜神社があり、またここはかつての出雲郷《あだかや》で、阿太加夜《あだかや》神社などというのもある。
なお、東出雲町のある八束郡は、元は意宇《おう》郡となっていたところであった。ここでまた前記『伯耆・出雲の史跡めぐり』をみると、そのことがこう書かれている。
意宇郡は出雲最大の郡で、言葉通り大きい郡であった。平安の始めに能義、意宇の二郡に分かれ、意宇郡はのち「いうごおり」とよんでいたが、明治二十九年、島根、秋鹿二郡と合併して八束郡となった。八束郡の郡名は国引きをされた八束水臣津野命 (やつかみずおみづぬのみこと) の名からとられている。
荒島地方の前期古墳が物語るように、出雲地方でもっとも早く古墳をつくったところの豪族、つまり一つの大きな共同体のあったところはこの意宇郡であった。或はオウ氏とでも呼ばれたであろうこの氏族は、のちに大和の勢力の応援をえて、西出雲の勢力を武力を以て屈服させた、その出来事が、やがて「国ゆずり」の神話が大和で作られるときその原像となったものであろう。
出雲国風土記にみえる意宇郡の国引由来は、雄大な美しい叙事詩を思わせてあまりにも有名であるが、国造 (くにのみやつこ) にして意宇の大領であった出雲臣広嶋が、自らの先祖の偉業を誇り高く書き伝えたものであろう。さらに国引の神話の底には、古代朝鮮の新羅、高句麗などとの交流のあったことや、出雲国が北九州と共に当時の先進文化であった朝鮮の技術を一番うけやすい所であったことを物語っている。出雲の古代文化を知る上に、意宇郡の歴史は大きなウエイトを占めている。
揖夜神社と荒神社
ここにみられる「国引の神話」についてはあとでまたふれることになると思うが、それより、ここの東出雲町にある揖夜神社へは、私はこんどが三度目か四度目であった。一度はさきの司馬遼太郎氏らといっしょで、そのときのことは、同氏の前記『街道をゆく』にも書かれている。さきの荒島の「荒」ともかかわる、それからまずみることにする。
車をとめた場所が、たまたま揖夜神社という神社の鳥居の前だった。戦前の社格は県社だが、鳥居をくぐってひろい境内に入ってみると、いかにも出雲の神社らしく社殿その他がひどく立派で、大きなしめなわの姿なども他地方の神社を見なれた目からすればただごとでなく、ぜんたいに出雲寂《さ》びている。
境内のすみに、林とまではゆかなくても樹木のまばらな一角があって、湿った黒い絹のような木下闇《このしたやみ》をつくっている。その淡い光のなかに祭神もホコラも個性ありげな摂社や末社がならんでいて、その一つ一つに出雲の何事かがにおっている。
それらのなかに、「荒神社」という標柱の出た石のホコラがあった。荒神社《こうじんしや》でなく、荒神社《あらじんしや》とふりがなが振られていることが、おもしろかった。
アラという呼称は日本の古い姓氏にも多い。安良《あら》という文字をあてたりする。太田亮博士は荒氏は「任那《みまな》帰化族なるべし」などと推量されているが、おそらく南朝鮮の伽〓《かや》〈加耶〉地方を故郷とする氏族なのであろう。古代、朝鮮半島の全体もしくは一部を、カラ (韓)、カヤ (伽〓)、アヤ (漢)、アラなどと呼んだ。とすればこの「荒《あら》神社」も、韓神をまつるホコラなのかもしれず、すくなくともそんな想像を刺激してくれる。
より正確には、「アヤ (漢)、アラ」とはどちらも同じ加耶諸国のうちの安耶《あや》・安羅《あら》からきたものであるが、それが「荒」ともなっていることについては、私はすでに何度か(『日本の中の朝鮮文化』(4)の「敢国から荒木へ」の項や、同(7)の「国府町から白川郷へ」の項ほか) 書いているので、ここではあまり立ち入らないことにする。ただ、さきの「荒島」ということでみれば、島《しま》とは朝鮮語ソム (島) の訛ったもので、古代でのそれは必ずしもアイランド (島) を意味したものではなく、人々の「居所」ということでもあったということをのべておくだけにしたい。
しかし荒島のそれはどちらにしても、出雲には揖夜神社だけでなく、ほかにも荒神社がいくつかある。たとえば、出雲市西園町には荒神社が二社あって、どちらも須佐之男命 (素戔嗚尊) を祭神としている。
さらにまた、仁多郡横田町には「総荒神社」というのまであって、島根県の神社名鑑である『神国島根』によると、「往古、横田庄八ヵ村の荒神社を此の所に合祀したので総荒神社という」とある。つまり、ここでは八ヵ村にわたって、その荒神社が八社もあったのである。
各地にある韓国伊太〓神社
しかも、それだけではない。加耶 (加羅) 諸国のうちの安羅 (安耶・安那) からきた荒神社のある揖夜神社には、坐韓国伊太〓《にいますからくにいたて》神社がある。韓国の韓《から》は加羅《から》 (加耶) ということにほかならず、出雲にはこの韓国伊太〓神社がいくつかあって、中島利一郎氏の『日本地名学研究』「素戔嗚尊と曾尸茂利」にそれがこうある。
曾尸茂利《そしもり》の地理的所在を求めるとするには、実は高天原《たかまがはら》の研究を出発点としなければならぬ。それは素戔嗚尊の史的開展の出発点がそこにあるからである。即ち素戔嗚尊は、
高天原から出雲へ、……出雲から新羅へ、……新羅から筑紫へ、……筑紫から出雲へ、(『日本書紀』『筑後国風土記』) と、新羅往復を想定すべきか。又は、
高天原から新羅へ、……新羅から出雲へ、
と、新羅は高天原から出雲への道程中の一コースの中であるのか。是《こ》れが大きな問題である。出雲神話の全体の問題を解決する鍵は、一に繋《つなが》って此《ここ》に在《あ》るのである。素戔嗚尊は御子五十猛《い た け》命を伴いて、新羅へ渡り、新羅から帰られたとある。而して『延喜式』「神名帳」には、
△出雲国意宇郡
玉作湯神社 同社坐韓国伊太〓神社。揖夜神社 同社坐韓国伊太〓神社。佐久多神社 同社坐韓国伊太〓神社。
△出雲郡
阿須伎神社 同社坐韓国伊太〓神社。出雲神社 同社坐韓国伊太〓神社。曾枳能夜《そきのや》神社 同社坐韓国伊太〓神社。
とあるは、五十猛命を祭神とするものであり、なお「神名帳」紀伊国名草郡伊多祁曾《いたきそ》神社、伊達《いたて》神社も同じ性質のものである。殊に出雲地方では、皆、韓国と冠していることを見逃してはならぬ。五十猛《い た け》と伊太〓《いたて》との関係は、朝鮮語から考うべきことで、伊太〓は、朝鮮音を基礎として写したものであり、五十猛は日本訓によってあらわしたのである。五十猛命は一に韓神曾保利《からかみそほり》神と称した。前掲伊多祁曾神社は、伊多祁曾保利神というの略であろう。
ここにみられるだけでも、韓国伊太〓神社は六社をかぞえるが、さらにまた、「金屋子神社まで」の項でみたように、能義郡広瀬町にも韓国伊太〓神社があって、それがいまでは嘉羅久利《からくり》神社というのになっている。ほかにもこういうふうに変わってしまったものがあるのではないかと思うが、それはおいても、なおまた、ここで村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷」をみると、出雲のそれとして、いまみた韓国伊太〓神社のほか、次の神社があげられている。
生馬神社。佐〓神社。宇留神社。阿利神社。韓竈《からかま》神社。筑陽神社。許曾志《こそし》神社。
記加羅志神社
もちろん、新羅・加耶 (加羅)=出雲というそれからみて、「朝鮮関係」の神社はこれだけでないことはいうまでもないが、右のうち私がみて歩くことができたのは揖夜神社のほか、玉湯町玉造の玉作湯《たまつくりゆ》神社と松江市古曾志の許曾志神社だった。一九七四年五月に来たときのことで、許曾志神社には別にまた新羅神である白鬚神社という額がかかっていたりしたが、玉造温泉街にある玉作湯神社は、揖夜神社もそうだったように、「同社坐韓国伊太〓神社」はどこにあるのか、それはさっぱりわからなくなっていた。
だいたい、同じ『延喜式』にあるそれにしても、「宮内省坐園神社・韓神社二座」というのはわかるが、玉作湯神社坐韓国伊太〓神社とはいったいどういうことなのか。なになにに「坐《います》」と はそこに「在《あ》る」ということなのに、いまはそれが見あたらないのである。どうしてであろうか。
あるいはもしかすると、境内社に退転しているのではないかとさがしてみたところ、そこに記加羅志《きからし》神社というのがあった。なるほどそれは「加羅」(韓) ということからきたもののようではあったが、しかしそれはもと、玉作湯神社とはかなり離れた玉作遺跡の史跡公園にあったものだった。前記『島根県の歴史散歩』にこうあることからも、それはわかる。
玉造温泉街の東裏一帯の丘陵地は古代玉作生産の中心地で、およそ二万八〇〇〇平方メートルの地域が玉作遺跡として国の史跡に指定されている。……
遺跡は町の東裏、記加羅志《きからし》神社跡古墳を中心として、竪穴式工房跡が多く発掘された。現在一部の工房が復原されて、この地域が史跡公園として整備されている。
出土した遺物は、めのう製の勾玉《まがたま》・管玉《くだたま》・丸玉・棗玉《なつめ》その他水晶垂玉、砥石・鉄製錐・土器など、おどろくべき膨大な量に達している。これらの玉の原石は、近くの花仙山 (二〇〇メートル) からとりだされたものだ。
史跡公園の南方、温泉街の上手に玉作湯神社がある。この神社は玉作部の祖神櫛明玉《くしあかるだま》命をまつる式内社だが、境内のひとすみに出雲玉作跡出土品の収蔵庫があり、玉類やその半成品、 また生産用具などきわめて貴重な遺物を収蔵し、そのうち三五八点は重文に指定されている。
玉作遺跡と花仙山の中間に徳連場《とくれんば》古墳 (国史跡) がある。径八・五メートルの円墳だが、割竹形石棺という特異な形状の石棺で有名である。
記加羅志神社のあったそこは、「古代玉作生産の中心地」であったばかりでなく、同神社跡古墳のほか徳連場古墳 (国指史跡) という、そういう古墳が営まれていたところでもあったのである。するとやはり、その記加羅志神社が韓国伊太〓神社だったのであろうか。
もしそうだとすれば、それがどうして玉作湯神社「坐」ということになったのか。それはわからないというよりほかないが、いずれにせよ、そこに記加羅志神社があったとはおもしろいことであった。それは、これからみる「加夜」(加羅) ともつながりがあるからである。
なお、玉作遺跡から出土した勾玉・管玉などのことについてであるが、これが日本では紀元前五〜四世紀の遺跡からも出土しているので、朝鮮の遺跡から出土するそれは、日本から「輸入したもの」とされていた。水野清一・小林行雄編『考古学辞典』にも、「三国時代新羅の古墳の副葬品にも勾玉が豊富にみられるが、これは日本から輸入したものと考えられている」とある。
ところが、一九七五年はじめ、韓国の忠清南道にある紀元前八〜七世紀の松菊里先史遺跡から磨製石器などとともにその勾玉・管玉なども出土し、それが一九七六年に日本で開かれた「韓国美術五千年展」に出展されたことで、その勾玉なども朝鮮から伝わったものであることが明らかになった。そのことを松本俊吉氏は、「日本で独自に発生したという従来の説は、書き変えられなければならない。まして日本から朝鮮に伝わったなどとは、とんでもない間違いを犯してきたわけだ」(「勾玉」) と書いている。
意宇の杜と新羅の鶏林
阿太加夜神社と意宇の杜
次に私たちがおとずれたのは、揖夜神社と同じ東出雲町にある阿太加夜神社だった。そして私たちはさらに松江市の平浜八幡宮、八雲立つ風土記の丘資料館、神魂《かもす》神社とまわり、大庭《おおば》の鶏塚《にわとりづか》古墳にいたって昼食ということにしたのであった。いわば私たちは一気にそれらをみてまわったのであるが、しかし、いざこうして書くとなると、そのように一気に、というわけにはゆかないこというまでもない。
はじめの阿太加夜神社であるが、私がそこをたずねたいと思ったのは、一つは「加夜」ということにひかれたからでもあった。加耶(加羅)を古代日本では「韓《から》」といったばかりでなく、これを「加夜」または「賀陽《かや》」などとも表記したものであった。それにまた、阿太加夜神社のあるこのあたりは、同社が守護神となっている出雲郷《あだかや》であるが、その出雲郷を「あだかや」といっているのも、気になることだった。
私たちは、神社に居合わせた宮司の佐草正人氏とも会っていろいろと話し、前記の島根県神社名鑑である『神国島根』のことなども教えられたが、しかし、『出雲国風土記』にいう「意宇《おう》の杜《もり》」がこの神社の森(杜)だともいわれる阿太加夜神社は、ほとんどすべてが新羅と結びつくものであった。まず、水野祐氏の「出雲のなかの新羅文化」にそのことがこう書かれている。
新羅の伝説と関係のありそうな伝説も出雲には多い。美保神社の恵比寿神と、揖夜の女性との神婚が、鶏によって妨げられ、恵比寿神が鰐に足を喰われたので、美保関では鶏をいみ嫌って、鶏や卵を食べないという話があり、これは鶏を神聖視している新羅の伝説の変形と思われる。
また松江市大庭の鶏塚は著名な方墳であるが、この古墳には新羅の鶏鳴伝説と同じ伝説が結びつけられている。また国引伝説で、八束水臣津野命〈やつかみずおみづぬのみこと〉が国引きを終えて最後に呪杖をつき立てたが、そこが意宇《おう》の杜《もり》になるのである。この神話にある「意宇杜」は、私は慶州の鶏林と同じ性質のものであると考えている。
ここにいわれている「意宇《おう》の杜《もり》」「意宇杜」については、水野氏はさらにまた別のところでこうのべている(座談会「鉄の文化と海人の文化―出雲―」)。
意宇杜というのは大体大庭のずっと下の意宇川の下流のほうなんですが、阿太加夜《あたかや》神社というのがありますがね、あそこの神社の境内に森がありまして、それが昔の意宇杜じゃないかという説があるんですが、そこへ行ってみるとやっぱり小高い、ちょうど慶州のような感覚のある杜なんです。私はそれが意宇杜だろうと考えたわけです。
新羅の鶏林伝説
阿太加夜神社のそこがいわゆる意宇の杜で、新羅の古都だった慶州にいまも遺跡としてある「鶏林と同じ性質のものである」とは重要な指摘で、私もそうではないかと思っている。なぜかというと、美保関では鶏や卵を食べないということはさきに「米子から美保関へ」の項でもみているが、それは美保関ばかりでなく、揖夜神社(韓国伊太〓神社)や阿太加夜神社のあるこの東出雲町でも同じだったからである。
前記『伯耆・出雲の史跡めぐり』「東出雲町」のところに、「この地方では――」とあるそれを読んでいた私はさらにまた、阿太加夜神社宮司の佐草正人氏にただしてみたところ、そうだとうなずき、「美保関ではまだ、守っているようですね」と、佐草さんは言った。つまり、東出雲町もかつては美保関と同じだったが、いまは食べている、ということのようだった。
本家本元の新羅=朝鮮でさえそんなタブーはもうとっくになくなっているのだから、いまそれを食べることに何のふしぎもないが、ところで、古代ではどうして鶏がそのように神聖視されたのであろうか。それについてはさきの項にもちょっと書いているが、要するにそれは、「金櫃始林《シリム》の樹枝に掛かり、白鶏その下に鳴いた」という新羅金氏の始祖伝説からきたもので、それをここで紹介すると次のようなものであった。
――徐羅伐《ソラボル》(徐耶伐・徐那伐=新羅)脱解《タルヘ》王九年春のある夜のこと、王城西方の始林といわれている森のなかから鶏の鳴き声がしたので、それをふしぎに思った脱解王は、夜の明けるのを待って臣下の瓠《ホ》公をそこへやってみた。瓠公が来てみると、林のなかに一羽の白い鶏がいてしきりとときをつくっており、その上の樹枝には、金色をした一つの櫃《ひつ》がかかっていた。
瓠公は立ち帰ってそのことを脱解王に告げ、櫃はすぐに運ばれてきて開かれたところ、中からはたくましい一人の男児が出てきた。それをみて脱解王はよろこび、「これぞわが後嗣《あとつぎ》である」とその子をただちに王子とし、名を閼智《アルチ》とつけ、金色の櫃から生まれたというので、その姓を金《キム》とした。
そうしてこれがのち新羅の大輔《たゆう》となり、その後孫が金氏歴代の王となった始祖の金閼智というわけであるが、同時にまた、始林はそのときから鶏林といわれるようになり、国号もそれにならって、のち新羅となるまでは、徐羅伐から鶏林とよばれることになったのだった。――
新羅・加耶からの渡来地
八束水臣津野命が新羅からの「国引きをおえて」「おえ」と杖をついたというそこが意宇の杜で、鶏林と同じ性質のものだということは、なるほどとうなずかれるように思う。なぜなら、新羅からの「国引き」ということは、かれらがその新羅から渡来したということにほかならなかったからである。
ところで、阿太加夜神社のそこは「あだかや(出雲郷)」でもあって、どちらも「加耶(夜)」の名を負っているにもかかわらず、そこにみられるのはすべて新羅であって、加耶とのそれがみられないのはなぜか。ここではかんたんにするよりほかないが、だいたい、新羅とほとんど同時期に建国されたという加耶諸国が最終的に新羅に吸収されてほろびるのは五六二年のことであったから、それから百年、二百年以上ものちになってできた『出雲国風土記』や、『古事記』『日本書紀』にはすべて、その加耶のことも新羅のこととして語られることになったのである。
しかし遺跡などをよくみると、この出雲もその基層には加耶のそれがなおよく生きのこっている。それはあるいは、鳥居竜蔵氏や水野祐氏のいう先住の「海浜に住した海住みの民」「海人部族」であったかも知れない。しかしそれはどちらにせよ、われわれはこれからもまたその「加耶」をみることになる。
平浜八幡宮の細形銅剣
ついで私たちがおとずれたのは、ここも元は意宇郡(八束郡)だった松江市八幡町の平浜八幡宮だった。なぜそこをたずねたかというと、門脇禎二氏の『出雲の古代史』にこうあったからである。
意宇川下流の首長も、舶載つまり海外からもたらされた細形銅剣を入手していたことに注目してよいだろう。いま、平浜八幡宮に蔵せられるものは、復原された長さ二七・三センチメートルのもので、これも朝鮮製のものという。それは、意宇川下流域に生れ育ちはじめた意宇の初国の王の権威を飾ったものであろう。
しかし、武内神社ともいわれる平浜八幡宮の宮司に会って訊いてみると、その細形銅剣の本体は、八雲立つ風土記の丘資料館に行っているという。で、私たちはこんどはその風土記の丘資料館をたずねて、所長の松本喜雄氏や平野芳英氏にたのみこみ、韓国《かんこく》の慶州国立博物館にあるのと同じその細形銅剣をみせてもらい、写真にもとらせてもらうことになった。
八雲立つ風土記の丘資料館には、私はまえにも来たことがあった。けれども、こんどあらたに入手した同資料館編『島根県地方史年表』をみると、紀元前三世紀半ばころに「銅鏡・銅利器・鉄利器が朝鮮から伝わる」とあり、同一世紀半ばころのこととしては、「意宇平野下流に銅剣をもった集落ができる(竹矢・平浜八幡宮の銅剣)」とある。
それからまた資料館のなかは、ほかのところのそれと同じく、縄文時代、弥生時代という順序で出土土器などがならべられているが、「弥生時代」という説明板をみると、そのことがこう書かれていた。
紀元前二〜三世紀ごろ、朝鮮半島から北九州をへて稲作の技術と青銅製品が伝わり、やがて鉄製品も伝わるようになった。またそのころ土器にも変化がおこり、新しい形の壺や高坏《たかつき》などがつくられるようになった。これを弥生式土器と呼び、この式の土器が使われた紀元後三世紀の終わりごろまでを弥生時代という。
大庭鶏塚古墳
同行の市川さんは、竹矢町から出土したという細形銅剣のほか、そこに陳列されていた銅鐸や環頭大刀なども写真にとらせてもらったりしたが、それからの私たちは近くの、「大庭の大宮さん」ともよばれているという神魂神社をへて、その大庭町の鶏塚古墳にいたった。古墳は出雲に多いいわゆる方墳で、町なかにありながら一方はまだ田んぼとなっていたが、そこに松江市教育委員会による「国指定史跡 大庭鶏塚」とした掲示板があって、こう書かれている。
この古墳は、南から延びる台地の先端を切り崩して墓域を区画して築かれた出雲地方最大級の方墳である。
一辺は約四十二メートル、高さは約十メートルを測る。
二段築成で、各段の斜面には石垣状の葺石が認められ、墳丘の西辺と南辺に造出部《つくりだしぶ》を設けている。
西側には、濠が確認されている。これまでの出土品は、円筒埴輪片、須恵器(器台、甕《かめ》)が知られており、その年代観からおよそ古墳時代後期前半頃(西暦六世紀中葉)に築かれたものと考えられる。
付近には、山代二子塚(全長九十メートルの前方後方墳)や、山代古墳(一辺四十五メートルの方墳)など、県内A級の規模と内容を有する古墳があり、本古墳は大庭地区はもとより、広く周辺一帯を掌握していた豪族の奥津城《おくつき》ではなかったかと推測される。
そんな豪族の古墳が「新羅の鶏鳴伝説と結びつけられて」(前記、水野祐)、いまなお「この方墳には金鶏伝説が伝わっており、金の鶏が埋められて、良いことのある日には鳴くとか、その声を聞いた人は長生きするとかいわれている」(ガイドブック『八雲立つ風土記の丘』)からか、この古墳は、正式にはまだ未発掘となっている。発掘したらなにが出るかわからないが、いずれにせよ、この鶏塚古墳などのある大庭の地は、古代出雲にとってひじょうに重要なところであった。
そのことを水野祐氏は、はっきりとこう書いている。「出雲国造の本拠地は杵築〈きつき〉ではなく、東出雲の意宇《おう》郡の大庭の地であり、……意宇郡を主とするその意宇川下流デルタ地帯こそ古代出雲の真実の地であり、出雲の文化は東出雲から展開したと考えなければならない」(『古代の出雲』)と。
築山古墳と大念寺古墳
宍道湖に沿って
鶏塚古墳のある松江市大庭で昼食をすました私たちは、ただちにタクシーを西出雲の出雲市に向かって走らせた。タクシーはしばらく行くと、宍道《しんじ》湖《こ》の南岸に沿った国道九号線を走ることになった。
「ああ、これが宍道湖か」と、私たち一行のなかにはその湖をはじめて目にする者もあって、そんな声があがったりした。それで私たちは昼休み気分にもなったが、湖というのはどこのものとかぎらず、人工の池などとはちがって、どこかに何とはなし神秘的な感じがともなうものらしい。
ついでにここで、錦織好孝編『出雲路と大山・鳥取砂丘』の「宍道湖」によってみると、それはこういうふうになっている。
宍道湖は、宍道地溝帯に属し、太古には、稲佐(いなさ)の浜から夜見が浜半島まで、通しの海峡であったが、斐伊川、神戸川等の土砂が沖積して簸川平野をつくり、意宇川等が松江沖積地をつくって、いまのほぼ矩形の形をした宍道湖となった。宍道湖は、面積日本第六位で、周囲約四四キロ、水深わずかに一メートル(最深六メートル)の淡水湖である。西方からオロチ退治で知られた斐伊川が注ぎこみ、東端の大橋川によって中海へ流れ出ている。
斐伊川とオロチ退治
宍道湖の南岸をすぎると、間もなく斐川《ひかわ》町となった。簸川《ひかわ》郡・斐伊川からきた町名であることもちろんで、私たちはその斐伊川に架かっている神立《かんだち》橋を渡って出雲市にはいることになっていたが、ここでついでにまた、いまみた錦織好孝編『出雲路と大山・鳥取砂丘』により、「斐伊川とオロチ退治」というのをみておくことにしたい。
素戔嗚尊のいわゆる「オロチ退治」のことについては、さきの「簸川の斐伊川」の項でちょっとふれているけれども、これは出雲の人々がみている(錦織氏は松江市在住の地方史家)平均的なそれと思われるので、あえてもう一度、ということにしたいのである。それにまた、その書きだしがいまそこへ向かっている私たちに、ちょうど合っている。
やがて前方に、オロチ(大蛇)退治で有名な斐伊(ひい)川の土手が見えてくる。斐伊川の上流では、神代の昔から砂を水で流して砂鉄を採取していたが、その砂がたい積して天井川となり、洪水の原因となってオロチ退治の神話となったのである。オロチとは、流域の状況を表したもので、これを退治して洪水を治めたということを神話化したものである。
この川の上流でとれる砂鉄は、不純物の少ない良質のもので、タタラという製鉄炉から得られる玉鋼(たまはがね)は、刀を造るための最良のはがねであった。そのため、アメノムラクモノツルギ〈天叢雲剣〉が出雲から献上され、三種の神器の一つになったのである。この川にかかっている橋を神立(かんだち)橋といい、付近を神立といっている。
出雲は、旧の十月は神在り月で、全国の神々が出雲大社にあつまり、次いで松江の北の佐太神社で会議を開き、その後この神立橋の東南約一キロにある万九千(まんくせん)社で最後の会食を行い、この神立橋付近から故国へ向け、旅立ったのである。
築山古墳とその出土品
もちろん、「全国の神々が出雲大社にあつまり」というのもなにかのことを反映した伝承であろうが、やがて私たちは、斐伊川のその神立橋を渡って、めざす出雲市にはいった。出雲ではさらに今市町の大念寺古墳をめざしたが、一つは斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」にも、「出雲国」のそれとしてこうあったからである。
△松江市西川津町金ケ崎古墳=子持壺・環状飾壺
△八束郡吉江西谷=子持有台壺
△出雲市上塩冶町築山古墳=冠帽
△出雲市今市町大念寺古墳=履《くつ》
例によって=の下は出土品であるが、松江市や八束郡のほうはおいて、出雲市のそれだけは実地に見てみたかったからである。もっとも、このうち、上塩冶《かみえんや》町の築山古墳のほうは、私はさきに来たときたずねてみていた。まず、前記『島根県の歴史散歩』をみると、それはこうなっている。
築山古墳は円墳と考えられている。いまは森山家の屋敷の一部だが、一帯は水田地帯より若干高い微高地で、そのうえに文字どおり盛土をして築きあげたものだろう。径四二〜四三メートル、高さ六・五メートルほどの墳丘で西南側に開口している。石室の長さは一四・六メートルあって大念寺古墳より少し長目だが、幅は若干せまい。ほとんど同規模とみてよい。この石室内には大小ふたつの石棺がある(大念寺古墳ももとはふたつあったらしいが、いまはひとつしかない)。ふたつとも横口式の家型石棺で、奥壁と左壁ぎわとに配置されている。
この古墳の発掘は一八八七(明治二〇)年のことだったから出土品がよく残っている。いま松江市の県立博物館に寄託されている。とくに馬具がりっぱで、現在のところ出雲国内ではこれだけの逸品はない。金銅製の冠も類例のすくないものだ。
築造の年代は大念寺古墳とほぼ同時代の六世紀後半のものと推定される。近くを流れる神戸《かんど》川や、すこし東方を流れている斐伊《ひい》川の下流域は、この時代に大きく開発がすすみ、族長が君臨する古代部族社会のありさまを、このような巨大な古墳からあれこれ想像してみたいものである。
このほか、あまり遠くない範囲に地蔵山古墳・小坂古墳・放れ山古墳・妙蓮寺古墳・宝塚古墳(いずれも国史跡)があるが、交通の便はかならずしもよくないし、地理的にわかりにくい点もあるから、考古学専門の知識をもとめて散歩する人以外は前記ふたつの古墳で十分だろう。もし、これらも見学したいばあいは、現地のわかった人に案内してもらったほうがいい。古墳の見学はつねに安全だとはいいがたいし、また土地所有者への配慮が必要なばあいもある。
ついでに周辺の古墳や、それらをたずねるばあいの筆者の注意書きまで引いたが、上塩冶町の築山古墳も、町なかにあったにもかかわらず、なかなかわかりにくいところにあった。一つは固く戸を閉ざした民家がならんでいるだけで、人通りがないため訊いてみることができなかったためでもあるが、やっと、それらしい樹木の生い茂った小丘陵のある森山家をさがしあてることができた。
古墳への来訪者が多いためか、あまりごきげんよくない森山家のおじいさんから鍵を借り受けて、庭先きとなっている小丘陵の横穴・石室のなかにはいってみた。暗がりに目がなじむにつれて、そこにある石棺がはっきりと見えてきた。
いま築山古墳内にあるのはその石棺だけで、ほかの出土品は、私はみることができなかった。しかし、八雲立つ風土記の丘資料館編『古代の島根』や、それから大阪市立博物館編『古墳文化―吉備・筑紫・出雲―』に出ている写真をみただけでも、それがどんなに豪華なものであるかはわかる。
金銅製の冠や鞍《くら》金具などの馬具もそうだが、前記『島根県の歴史散歩』には書かれていない銀装円頭大刀や金環なども「出雲国内では」「類例のすくない」りっぱなものであった。さきにみた斎藤忠氏は「冠帽」、すなわち金銅製の冠をもってこの築山古墳を「――帰化人文化の痕跡」としていたけれども、そのほかの馬具・銀装円頭大刀・金環などにしても、古代朝鮮から直行したものにちがいなかった。
大念寺古墳
どちらかというと、築山古墳よりは北方、出雲市の中心街にあった大念寺古墳はわりとすぐにわかった。タクシーがどちらにすべきかちょっと迷った交差点の正面に、樹木におおわれたかなり大きな丘陵が見えていたが、よくみるとそのこちらの麓にあるのが仏光山大念寺であった。大念寺古墳は、その裏手となっているはずである。
私たちはまず、寺院をたずねてあいさつをし、そこに一部が保管されているという大念寺古墳からの出土品をみせてもらった。が、これはもう何ともしようのない、出土品のうちのクズのようなものでしかなかった。斎藤忠氏が「――帰化人文化の痕跡」としてあげていた「履《くつ》」、すなわち金銅製のそれなどどこへ行ってしまったのか、いまはそのかげもなかった。
私たちは寺院の人に礼を言って、「いまは工事中のため中へははいれませんよ」と言われた、寺院裏手の大念寺古墳まで行ってみた。工事中であることは、「大念寺古墳復元へ/古代の『土盛り』方式採用/出雲」とした一九八三年四月三日付けの山陰中央新報でみていたが、その工事がまだつづいているらしかった。
かなり急な石段を丘陵の中腹まで登ってみると、そこからは出雲市街が一望のもとにながめわたされた。要するに、大念寺古墳はそういう立地のうえに築かれたものだったわけであるが、そこに見える開口部には白い幕が垂れて、中へはいることを禁じていた。で、私と同行の市川さんとは、その幕のすき間からカメラをさし入れてシャッターを切ったりしたが、私のほうもそれで石室内部がわりによくとれていたのだから、ふしぎなようなものだった。
壮大な横穴式石室とコシ(朝鮮)の関係
さて、では、この大念寺古墳とはいったいどういうものであったか、ということである。それについては前記『島根県の歴史散歩』にも書かれているけれども、ここでは、これも前記『伯耆・出雲の史跡めぐり』によってみることにする。
〈大念寺〉古墳は前後の主軸八四メートルの前方後円墳で、内部構造の判明している古墳では島根県下最大のものであり、石室の規模は山陰最大である。内部構造は、壮大な横穴式石室に、家形石棺二つを置く。全長一二・八メートル、羨道(せんどう)、前室、奥室の三部に仕切られている。奥室の石棺は長さ三・三四メートル、幅一・七メートル、総高約一・九メートルもあり、くりぬいて作られている。他にもう一つ、前室に石棺があったが現存しない。
古墳の開口されたのは文政九年であるといわれ、そのさい金環、丸玉、金銅くつ〈履〉、太刀、槍身、石突、斧頭、くつわ、馬鈴、雲珠、須恵器などが出土したと伝えられる。その一部は、大念寺に保管されている。大正十三年に、国の史跡に指定されている。
ところで、この壮大な古墳は誰を葬ったものか。恐らくこの地のオオナモチといわれた一族たちを代々葬った墳墓であろう。オオナモチの性格には大地と太陽とそれをはぐくむ天候と、それらを祭ることが大事なこととして含まれている。大地主であるとともに、それを祭るものもオオナモチであった。神話に現われる神々の原像の一つをここにみる。近くには築山、地蔵山、放れ山、妙蓮寺などの著名な古墳が集中している。このあたりは、出雲の強力な古墳地帯である。
五世紀ごろ日本ではまだ作れなかった金銀をはったり処理したりした刀を出す古墳は、このあたり西出雲に多い。……このことは、西出雲が朝鮮文化と深くつながっていることを物語っている。この高度の文化と技術をもたらしたものは恐らくコシの国であり、またコシの国の人たちであろう。一つにはすぐ近くに古志郷(こしのさと)があり、コシの国人がきて堤を築いた故事もみえている。コシとは「遠い所」の意であり、はるか海の向うの朝鮮、北朝鮮を意味した(のちに朝鮮と関係が絶たれてからは、遠い所として北陸が擬され、北陸がコシノクニだといわれるようになった)。
ここにいう「コシとは『遠い所』の意であり、はるか海の向うの朝鮮、北朝鮮を意味した」とは、私はこれがはじめてである。しかしここで一つ思いだすのは、埼玉県日高町にある高麗《こま》神社の祭神となっている、六七〇年代ころ高句麗から渡来した高麗王若光が相模(神奈川県)の大磯に上陸するとき、「汝等それにてよく聞けよ、われは日本の者にあらず、諸越の高麗国の守護なるが――」(『大磯町文化史』)といったということである。
してみるとここにいう高麗国、すなわち高句麗(北朝鮮)のことを諸越《もろこし》=越《こし》ともいったのであろうか。それがほかならぬ、高句麗から来た若光がそういったというところがみのがせないところであるが、『伯耆・出雲の史跡めぐり』はそういう意味でもなかなかおもしろいので、さらにつづけてもう少し引いておくことにする。
〈朝鮮の〉釜山と出雲を結んだものが鉄と技術であり、水行二十日で到着したのが〈日御碕の〉宇竜港であり、或《あるい》は美保関であったであろう。タタラ製鉄は洪水をもたらしたが、またそれを治水する技術もコシノクニから移入された筈である。ヤツカミズオミズヌノミコトが国引きした神話も、或は朝鮮から、或は北朝鮮から交流のあった事をそれぞれに記憶していたことを物語る。
出雲国風土記中の圧巻である国引き神話は、恐らく島根半島の山なみの切れ目切れ目を構成する山形から、遠い昔に朝鮮と文化交流のあった出来事を、国引きということで言おうとしたのが、神話の原像であるまいか。シラギの三埼を切取って引いてきたことは、南朝鮮との交流を意味し、コシのツツノ三埼を国引きしたことは北朝鮮、或は東朝鮮との交流を物語るものであろう。出雲に多い方墳、また前方後方墳という四角の観念は、北朝鮮とつながるものである。「イズモ」はイヅ、つまり出た所、島根半島を意味したものが、のちに出雲全体を指すようになったと考えられる。
出雲の東と西で、朝鮮の北と南にそれぞれ交流をもったことが、やがては国譲りの神話の原像となる遠因ともなっていったと思われる。国譲りの神話は、五世紀末か六世紀はじめ頃、出雲の東部を支配した一大勢力が、大和の勢力を背景に西出雲の勢力を武力征圧した出来事にヒントをえて、のちに大和と出雲との関係に擬して構成されたものであろうが、その神話の原像となった、東出雲の勢力に屈服させられた、つまり国を譲らされたのが、この地のオオナモチであったはずである。
須佐郷の須佐神社
素戔嗚尊の本拠地
私たちは、出雲市今市町の大念寺古墳から、そのずっと南方となっている簸川郡佐田《さだ》町へ向かった。この日の私たちは佐田町から、こんどはさらにまた北上して大社町の出雲大社、出雲西北端の日御碕《ひのみさき》などをへて、翌日は石見《いわみ》をまわることになっていたので、その石見にできるだけ近い多伎《たき》町山中の、宿は一軒しかないという華蔵《はなくら》温泉なるところに泊まることになっていた。
すでに午後もかなりの時間がたっていたから、そう予定どおりうまく行くかどうかはわからなかったが、ともかく私たちは神戸川の上流に沿ってタクシーを走らせ、途中、立久恵《たちくえ》峡なるところの景色に目をうばわれたりしながら、佐田町の須佐神社をめざした。
そこに須佐大宮ともいわれる須佐神社があることからもわかるように、佐田町はもと須佐郷だったところで、出雲の神といえばまずそれである須佐之男命(須佐袁命・素戔嗚尊)の本拠地であった。吉野裕訳『出雲国風土記』「須佐の郷」をみると、そのことがこうある。
神須佐能袁《かむすさのお》命はみことのりして、「この国は小さい国だが、国〔として住むにはいい〕処だ。だから私のお名前を木や石には著けるべきではない」と仰せられて、すなわち御自分の御魂《みたま》(霊)をここに鎮めてお置きになった。そうしてただちに大須佐田・小須佐田を定め給うた。だから須佐という。
なお、この「大須佐田」というのには訳者吉野裕氏の「注」があって、それはこうなっている。
大須佐田 スもサも鉄分を含む砂(砂鉄)の意をもつ朝鮮語から出た言葉と見るのが適当である。いまでも砂鉄鉱業では「真砂」といっている。おそらくはスサダも砂鉄採集のもので、本来はスサ処(ド)であったろう。したがってスサノオの神は製鉄の神であり、帰化人と関係する。
須佐之男命、すなわち素戔嗚尊が出雲の製鉄と関係あるということは「簸川の斐伊川」の項でもみているし、またさきの項でもみているが、さらにまた、錦織好孝編『出雲の神話ガイドブック』をみると、その須佐之男命のことがこう書かれている。
オロチ退治を終った須佐之男命は、須佐の宮を根拠地にして、出雲の国を経営したとおもわれるが、出雲国風土記によれば、ミコトは出雲の国の須佐《すさ》、安来、佐世《させ》、御室《みむろ》山を巡行《じゆんこう》するとともに、須佐に料田《りようでん》を置き、その子七人を大原郡、神門《かんど》郡、秋鹿《あいか》郡、島根郡の各要地に分置して辺境の守りとした。このことから、古代における統治の有力手段は、族長自らの巡行と、要地への妻子などの分置であったことが知られる。
私はこれをみてたいへんおもしろいと思うのは、「このことから、古代における統治の有力手段は」うんぬん以下のところである。なるほどとも思ったわけであるが、古代朝鮮の新羅における国王(族長)の「巡狩」などということにしても、要するに、そのことを語ったものだったにちがいない。
古代出雲の形成
ところで、いまみたのはどちらも『出雲国風土記』による伝承である。伝承がその時代のなにかを反映したものであることはいうまでもないであろうが、しかし、そのような伝承が歴史的にはなにを、どういう事実を反映しているかを学問として研究している現代の学者は、それをどうみているかということがある。
そこで、実地研究のため出雲をおとずれること三十数度という、さきにも引いたことがある早稲田大学の水野祐氏にまた登場ねがうことにする。その水野氏の研究成果の一つである『古代の出雲』「第四 出雲の歴史的形成」をみると、氏によって「組み立てられる出雲古代史の構想」は次のようになるという。
一、杵築〈出雲大社を中心とする勢力〉の勢力は出雲郡から島根郡におよぶ半島部を占有し、出雲郡を中心とした西部に根拠地を定め、東方に勢力を伸長した海上部族の国であり、一世紀ごろまでには、一時意宇郡をも領有した。
二、そのころ意宇郡方面には、のちに出雲国造になる出雲臣族が占居していたが、彼らの勢力はそのころそれほど強大なものではなかった。
三、しかるに一世紀ごろから、朝鮮の東海岸より渡来し、神門〈戸〉川・斐伊川の流域沿いに分布した新羅系帰化人の集団が移住しはじめた。彼らは鉄を求めて中国山地帯と交易していた海人部族を駆逐して、彼らに代って出雲の砂鉄地帯を占領し、韓鍛冶〈からかぬち〉系鉄の文化を背景にして強力化した。彼らは須佐袁命を氏神として、飯石郡須佐郷を本貫とした須佐氏族とでも名づくべきものであった。
四、須佐氏族は勢力が増強されるにつれて、おおよそ二世紀のころから飯石郡より東へ移動し、大原郡を経て意宇郡方面に進出し、杵築の勢力下にあった意宇の地域をも領して、杵築・意宇の両勢力の対立時代となった。
五、意宇を領有した須佐族は、須佐袁命を氏神と斎く〈祭る〉もので、意宇領有後は、そこのかつての土着勢力であった大庭の出雲氏と姻戚関係を結び、出雲氏は能義郡方面に分れて意宇の須佐氏と連合し、提携をした。
六、出雲では、三世紀の末期から四世紀の初頭にかけて、丹波と吉備とをおさえて、西日本の北と南の両道より西征を企ててきた大和国家の勢力と対決を余儀なくされることとなった。そのころなお全出雲の統一が行なわれていず、杵築と意宇の二勢力の対立・抗争の関係がつづいていた。そこへ大和国家の西進がはじまり、この両勢力に対して干渉するところとなり……。
明快で、私たちも遺跡などをつうじてみてきた「出雲国の歴史的形成」がいっそうよくわかるような気がするが、ただ、ちょっと気になることはといえば、「しかるに一世紀ごろから、朝鮮の東海岸より渡来し、神門川・斐伊川の流域沿いに分布した新羅系帰化人の集団が」ということである。だいたい、「一世紀ごろ」といえばまだ国家などというもののなかった弥生時代で、そのころ渡来したものを「帰化人」といっていいかどうか、ということがあるからである。
韓鍛冶集団の移動
ほかにまた「海上部族」「海人部族」とはどういうものをさしているのか、ということもあるが、しかしこれについてはあとでみるとして、水野氏はそれよりさき、『古代の出雲』「第三 出雲文化の形成」では、出雲神話のオロチ(大蛇)退治と砂鉄とのことにふれてこうも書いている。
ところがこの神話にはよりいっそう重要な要素として須佐袁命が登場し、この英雄神が大蛇を退治する物語となってくる。須佐袁命は、新羅系帰化人が斎き祭った神である。この神を奉ずる新羅系の帰化人が早くも出雲の奥地に入り、開拓をしはじめたのは、半島部や東出雲が海人部族によって既に支配されていて、容易に入り込む余地がなかったので、勢い斐伊川や神門川をさかのぼって西出雲の奥地を開拓したのである。そしていま一つ須佐袁命が、一路新羅から出雲に渡り着くと、ただちに斐伊川上流の鳥上峯をめざして直行したと伝えるのは、この神を奉斎した新羅系の一団が、いわゆる「韓《から》鍛冶《かぬち》」の一団で、やはり砂鉄を求めて移動したものではなかったかと思う。そして、やがて海人部族の交易路を断って、出雲の砂鉄を掌中におさめたこの新羅系帰化部族は、飯石郡須佐を本貫としてそこから東に勢力を振い、仁多・大原郡におよび、更に意宇郡に進出してきたのである。すなわちこれがのちに意宇勢力となるものであった。
「海人部族」とは
つまり、大念寺古墳からの私たちは、その須佐袁命(須佐之男命・素戔嗚尊)集団ともいうべき「新羅系帰化部族」の本貫地であった須佐(佐田町)をめざしていたわけであるが、そのまえにいまみたところにも「海人部族」というのが出ているので、それが何であるかをみておくことにしたい。
これについては、水野氏自身、直接「海人部族」のことを説明したものではないけれども、鳥居竜蔵氏の『日本周囲民族の原始宗教』を引いて書いている(『古代の出雲』「第二 出雲人の形質的特質」)。
鳥居竜蔵氏は、「天孫民族や出雲民族は、既に金属器をもっているので、弥生式文化の民族である。しかし天孫降臨や出雲派の神々(須佐袁命や大国主命)よりも先に、その同族が日本に移住し、土着していた。この土着民族が、海浜に住した海住みの民――綿津見神すなわち海部と、山に住した山住みの民――大山祇神すなわち山部となっている。これが、つまり国津神であって、考古学上は、彼らが移住してきたのは石器時代であって、縄文土器文化はアイヌ式の文化であるが、西日本では古い弥生式の石器時代文化が分布していて、これが国津神系民族の残したものだ」とされる。
これによると、水野氏のいう「海人部族」とは、「天孫降臨や出雲派の神々(須佐袁命や大国主命)よりも先に、その同族が日本に移住し、土着していた。この土着民族が」ということになるようである。それでよくわかったが、しかし「海人部族」ということばには、なおもちょっと釈然としないものがある。なぜかというと、「同族」であるかれらは先着していた者たちであろうと、後着の集団であろうと、それはみなどちらも海を渡って来た者たちだったからである。
あまりにも簡素な須佐神社
その「同族」の先着していた者たちは、さきの「意宇の杜と新羅の鶏林」の項でちょっとふれたように、新羅・加耶系のそれではなかったかと私は思うが、しかしそれはどちらにせよ、私たちは、山間の小さな町となっている佐田町に着いてみると、小さな町だっただけに須佐大宮・須佐神社はすぐにわかった。が、私は「須佐大宮」という標柱が右横にたっているその鳥居の前に立って、何とはなしとまどうようなものを感じたものであった。
というのは、その須佐神社はこれまでみた出雲の神社としてはあまりにも質素・簡素なものだったからである。これを別のことばでいえばあまりにも貧弱、ということにもなる。
私は、観光で有名な神宮・神社などのように、それが豪華けんらんたるものであることをけっしてよしとするものではないが、しかし須佐之男命(須佐袁命・素戔嗚尊)といえば、全国いたるところの神宮・神社で祭られている、日本でももっとも有名な神のひとりである。その須佐之男命の本拠・本貫地の、すなわちその元宮とでもいうべき須佐神社がそんなふうであるのは、何だかちょっと納得しがたいような気がしたものである。
住宅をかねているらしい社務所へ寄ってみると、宮司の須佐建紀《たけとし》氏は不在で、かわりに会ってくれた禰宜《ねぎ》の湯山建修《たけのぶ》氏から、私たちは、『須佐神社の由来』や『須佐大宮』とした絵はがきなどをもらい受けた。
そして私たちは、あまり広くもない境内をぶらぶらしてみたが、正面からは質素・簡素な拝殿にさえぎられて見えなかったけれども、その裏手にある大社造の本殿はさすがにりっぱなものであった。小ぢんまりとしたものであるのが、かえって神々しいような感じをあたえているようだった。
日御碕・加夜・出雲大社
日御碕を目指して
私たちは、道を急がなくてはならなかった。気がついてみるともう夕方になっていたばかりか、地図をみるまでもなく、佐田町から大社町の出雲大社、出雲西北端の日御碕《ひのみさき》までは相当な距離だった。
これでは今日じゅうに出雲大社までたずねるのはむりだということになり、そこは明日ということにして、私たちは一路、日御碕まで直行することになった。なぜ出雲大社よりも日御碕、ということにしたかというと、一つは同行の市川さんがそこからの落日をぜひカメラに収めたい、ということがあったからである。
ついでに、ここで余談になるが、私もたとえば、ここに掲載した須佐神社の写真一枚のために、何枚もそれをとる。念のため、いま手元にあるそれをかぞえてみると、どれも変わりばえしない、同じようなそれを十四枚もとっている。せっかく遠いそこまで来たからということのほかに、とれていないのではないかという、失敗をおそれたからでもある。
ところが、おどろいたことに、デザイナーである市川さんは、そんなみみっちいものではなかった。おそらくその作品の参考のためであろうが、たとえば須佐神社の本殿一つにしても、市川さんはいろいろな角度からカメラを向けては、それを何枚も何枚もとった。早いはなし、これから行く日御碕ではおそらく百枚以上のフィルムを使ったのではないかと思うが、カメラにしても、私の持っているチャチなものではなく、付属品などもたくさん箱につめた、本格的なそれであった。
稲佐の浜の「密航者」
私たちのタクシーはさらにまた出雲市にはいり、地図をみると出雲市の荒茅《あらかや》から、荒木、中荒木などといった地名のある出雲大社の大社町を走った。やがて道は景色のよい海岸線となり、旧十月、出雲の「神在《かみあ》り月《づき》」には、全国からの神々がそこから上陸するという有名な稲佐《いなさ》の浜となった。
「ここが稲佐の浜です」とタクシーの運転手が、横の助手席にすわっている私に向かって言った。
「ここでは、朝鮮からの密航者がよくあがるんですよ」
「へえ、そうかね」と私はこたえたが、私はそれで急にその辺を見まわし、現実に引き戻されたようになった。
運転手は別に、一行のうちの私が朝鮮人であると知って言ったわけではなかったらしいが、「全国からの神々はどうして、その稲佐の浜から上陸するということになっているのか」とそんな伝承の世界に思いが行っていた私は、あまりにも現代的・現実的なその「密航者」ということばに、一瞬、どきりともなったものであった。「しかし――」と、私はすぐまた古代の伝承のそれにかえって思った。
「密航者といえば、出雲の国造りをしたという須佐之男命なども、当時の密航者ではないか」
しかもまた、稲佐の浜や出雲大社のある大社町のそこは、出雲神話に有名な「国引き」によって新羅から引き寄せられたという「杵築の御埼」ではないか。もちろんその「国引き」とは、そのように国土・土地が引き寄せられたのではなく、逆にその新羅からたくさんの渡来人がやって来たことを物語ったもので、大谷従二氏の「宇迦山私考」をみると、そのことがこういうふうに書かれている。
ここで重要なことと思われるのは、一般に出雲系の人たちが朝鮮の新羅系の人であると云われていることと、杵築の御埼が新羅から引寄せられたという神話、この御埼が一名宇迦山といい、これまた朝鮮語であることである。そしてそのふもとには彼等の祖神と考えられるスサノオノミコトの御子を祀る出雲大社があることである。
してみると、「出雲系の人たち」の祖先はみな新羅からの「密航者」だったということになるが、もちろん、いまでは冗談みたいなもので、それはまだ「国家」とか「民族」などというもののなかった、おおらかな古代のことなのである。それだけにまた、一人や二人の「密航者」を血眼で追いまわして捕える現代とはいったいなにか、どうしてそうでなくてはならぬのか、ということをも考えさせられずにはいられない。
日御碕神社と韓国神社
古代はそこにある宇竜《うりゆう》港が新羅にもっとも近かった港だったという、出雲西北端の日御碕に着いてみると、まず私たちの目をひいたのは、これは豪壮といっていい日御碕神社であった。そこにそんな神社があることを知らなかったわけではなかったが、あまりにも質素・簡素な須佐神社をみた直後だったからか、こんどはそれとくらべあまりにも豪壮なのでおどろいたのである。
落日までにはまだすこし時間があったので、私たちはそびえ立つような日御碕神社の楼門《ろうもん》をはいって、境内のなかをしばらく歩いてみることにした。もう時間がすぎていたのであたりに人はおらず、「由緒書」などもらってみることもできなかったが、前記『島根県の歴史散歩』によってみると、こういうふうになっている。
日御碕神社はバス停のすぐ近くで、朱ぬりのうつくしい社殿が眼にとびこんでくる。案外せまい神域だが、上の宮(祭神素戔嗚尊)と下の宮(同天照大神)とにわかれている。社伝では上の宮が安寧天皇のときに後方の隠《かくれ》ケ丘からうつし、下の宮は九四八(天暦二)年に、すぐ前の海岸にうかぶ経島《ふみじま》からうつしたというが、文献上では、『出雲国風土記』に「美佐伎《みさき》社」とあるのが最初である。
楼門をはいって正面が下の宮、右手の小高いところが上の宮。両社とも平入りの拝殿と本殿がつづいた権現造だ。楼門、回廊などをふくめて一四棟の建物は、すべて重文になっている。一六四四(寛永二一・正保元)年、幕命をうけた松江藩の手で完成した。桃山建築の美を残し、ことに両本殿内部の天井と四壁は、狩野・土佐派の画匠の絵で壮麗にかざられているが、ふだんは非公開。
おもしろいのは、その姉ということになっている、いわゆる皇祖神の天照大神はここでは下の宮で、弟の素戔嗚尊が下の宮を見おろす「小高いところ」の上の宮に祭られていることだった。「やはり、出雲は素戔嗚尊(須佐袁命・須佐之男命)がだいいちということか」とそんなことを思いながら、その上の宮のほうをみていると、
「金さん、金さん!」と、上の宮の左手の麓にいくつかたちならんでいる境内社をみていた同行の平沢さんが、手を上げて私を呼んだ。近寄って行って、「これ――」と平沢さんの指さす境内社の一つをみると、その扁額は「韓国神社」となっている。
「ほう、ここに韓国神社があったのか」
私は思わず、素戔嗚尊の上の宮と、後方にある天照大神の下の宮とを見くらべるようにしながら言った。何で見くらべるようにしたかはよくわからないが、もしかすると、「新羅の三埼」の「美佐伎社」(『出雲国風土記』)であったこの日御碕神社というのは、元は韓国神社ではなかったか、と思ったからにちがいない。
元は本社だったものがのち退転して境内社となった例はほかにもたくさんあるが、とくに日御碕・韓国神社のばあいはその可能性が大きい。なぜかというと、日御碕は新羅と同じ太陽神を祭る場だったもので、前記『伯耆・出雲の史跡めぐり』をみるとそのことがこうある。
このヒノミサキは、ヒ(太陽)を一番大切にまつった祭りの場であった。太陽を拝むのに一番よい場所であった。太陽崇拝の中心であったヒノミサキ信仰はやがて農業の神、海の神としてもまつるようになったであろう。恐らく二千年以前、稲作に必要な天体観測技術が幼稚な時代、人間の力ではどうにもできなかったとき、古代人たちは神にいのり神の力にすがったであろう。その神こそ太陽であり、「ヒ」をまつることを大切にした理由であろう。
神社から海岸のほうへおりてみると、目の前はウミネコ群棲地の経島であった。何千、何万と知れないそのウミネコがかまびすしい鳴き声をあげながら飛びかう向こうの水平線は、まさにいまみた太陽神、その太陽が沈もうとする落日の光景であった。そんな光景のなかを小さな漁船がつぎつぎと、こちらの波止場に帰り着き、バケツなど持ってそれを迎えるおかみさんたちの姿も、古代さながらのようであった。
同行の市川さんはそこからの落日とともに、国指定天然記念物となっているウミネコの大群も珍しいとみたか、あっちへ飛び、こっちへ移りしては、カメラを向けつづけていた。私はといえば、「あの落日の向こうは朝鮮の新羅だったわけか」とそんなことを思ったりしながら、ただ波止場のそこに立っていただけだった。
旅館でみせてもらった村誌
日御碕で落日をみたということは、そこで日が暮れてしまったということで、私たちはまた急がなくてはならなかった。明日は出雲大社までこなくてはならなかったので、そんなことだったら、大社町のそこのどこかで泊まればよかったのだが、しかし朝、さぎの湯の安来館を出るとき、そこのおかみさんに多伎町の華蔵温泉を予約してもらっていたので、そういうわけにはゆかなかった。
華蔵温泉などというと、なにやらはなやいだ感じであるが、暗い山道をやっとそこまでたどりついてみると、いわれたとおりたった一軒きりしかない小さな旅館だった。しかし部屋へとおると、そこのおかみさんは私たちのことをどう聞いたのか、だまって、いまは多伎町となっている旧『岐久村誌』などを持ってきてくれた。
こういう村誌はなかなか手にすることができないものなので、「これは――」と思いながらさっそく開いてみると、「三、神社の起源」という項に、こういうことが書かれている。
氏神と氏子 神道でいう「カミ」は字義的には「上」であるが、実質的には祖霊である。他の宗教でいうような、ある抽象化された理念ではなく、現実に吾々と血のつながった祖先の魂であるという点に大きな特色があった。故にそうした神をまつる神社は古来原則として氏神であり、これに奉仕する人は、その神の子孫であるか、しからずとも子孫であるという自覚の上に立つものであった。つまり、神社と氏子との関係は本来、祖先と子孫の関係で一貫していたのである。
また別のところでは、「即ち神社は独立した状態で発生し、各社相互間はもとより、初めは国家とのつながりも無かった」(「一、神社行政」)とも書かれているが、本のどこにも名はしるされていないけれども、筆者のたしかな見識がしめされたものではないかと私は思う。いまは観光化されている有名な神宮・神社にしても、元はみな「独立した状態で発生し」たものだったのである。
加夜堂の存在を知る
それだけでもう、私は『岐久村誌』の筆者をすっかり信頼する気になり、夕食後、さらにまた頁をくってみると、「四、神社と祠」の項にこういうことが書かれている。
風土記〈『出雲国風土記』〉所載の五社のうち、「加夜社」は、現在「加夜堂」といわれている。「加夜堂」については『雲陽誌』に左の如く記している。
加夜堂
本尊阿弥陀、或曰「風土記」に載る加夜社なり、世降時移て両部習合のために社は変じて仏閣となる。今の加夜堂は阿陀加夜努志多伎吉比売命の鎮座なり、何時仏となるや未考、
と記している。両部習合は奈良前期から平安初期へかけて確立されたもので、今からすればよほど古い時代に神社が仏堂に変ったわけで、『雲陽誌』より古い『風土記鈔』―岸崎左久次著―には、
加夜社
多伎村加夜堂也
と記している。今から二百七十有余年前の記録である。これは恐らく間違いないところであろう。加夜堂は無住のままで以前華蔵寺末であったのが、現在は大西部落が管理している。
「おやおや、これはまたどういうことだ」と私はそれを読んで思った。つまり、偶然そこの華蔵温泉なるところで泊まることになった多伎村、いまの多伎町にも加夜社、加夜神社があったのである。加夜とはもちろん、加耶(加羅)であったはずである。
私たちは翌朝、さっそくいまは「大西部落が管理している」という、近くの山腹にあったその加夜堂まで行ってみた。なるほどいまは仏堂だか神社だかわからない、四角い小さな建物がそこにあるだけだったが、しかし前方に日本海の海原を望む景色のよいところで、元は祖神となる首長を葬った、古墳のあったところではなかったかと私には思われた。
そうして私たちはそこから、前日みのがした出雲大社へ向かったのであったが、はなしはちょっと前後するけれども、のち東京へ帰った私は、あとを追うようにしてきた一通の分厚い手紙を受けとった。加夜社のことに関心をしめした私たちのことを、華蔵温泉のおかみさんから聞いたという、多伎町に住む地方史研究家の山崎緑郎氏からのもので、なかに、『出雲国風土記』研究の権威である加藤義成氏の『出雲国風土記参究』のある部分のコピーまで同封されていた。
要するに、山崎氏の手紙は、出雲市稗原《ひえばら》町にも加夜社の市森神社があるということだったが、そのことを証する加藤義成氏の『出雲国風土記参究』のコピーをみると、それはこうなっている。
加夜社《かやのやしろ》は風土記抄に、「多岐《ママ》村の加夜堂是なり」とあり、雲陽誌に「加夜堂、本尊阿弥陀」とあって、神仏習合の跡を思わせるが、この加夜《かや》の社名から見れば、阿陀加夜努志多伎吉比売命を祀ったものであろう。今は出雲市稗原の市森神社に、この神と天照大神・高皇産霊神を祀って、この加夜社であるとされている。
それで加夜社のことはいっそうよくわかったばかりか、出雲市荒茅やそのとなりとなっている大社町の荒木、中荒木の荒《あら》というのも、さきの「韓国伊太〓神社のこと」の項でみたのと同じ加耶(加羅)諸国のうちの安羅《あら》、安羅加耶《あらかや》(荒茅)ということではなかったかと思うが、しかし、山崎氏からの手紙をみるまでは、出雲市稗原町(ここはもと「加夜の里」だったという)にそんな市森神社があるとは知らず、一路、私たちは出雲大社へ向かってタクシーを走らせていた。
出雲大社と大国主命の別名
出雲大社へは、私はさきにも一、二度来たことがあった。もちろんそのときとも同じで、はるか町なかのこちらから目にしはじめる巨大な一の鳥居からして、これはもう豪壮・豪華そのものの「神の王国」といったほうがいいようなものである。
私たちはまず、その広大な神域(境内などといったものではない)の一角にあった島根県神社庁をたずねて、すでに何度か引いている島根県神社名鑑である『神国島根』を一冊わけてもらった。そして私たちもひっきりなしに全国から押し寄せる観光・参拝客たちにまじって、大社の豪壮な神殿などをしばらくみて歩くことになったが、しかし、この「神の王国」である出雲大社はあまりにも有名であるから、それについては私がここであれこれと書く必要はないであろう。
ただ、私はこの出雲大社のことを「神の王国」といったが、その「神」はいうまでもなく、素戔嗚尊(須佐之男命・須佐袁命)の「御子神」ということになっている大国主命《おおくにぬしのみこと》である。大国主命は出雲ばかりでなく、全国的にも有名なそれであること、これまたいうまでもないが、同時にたくさんの名をもっているということでも有名である。
しかしながら、そのたくさんの名がどういう名であるかは、あまり知られていない。私は社務所で、百頁近くの本になっている『出雲大社由緒略記』を一冊求めたが、そこに、「御祭神 大国主大神」には「多くのご別名があり、古典に記された主なものを挙げれば左の通りである」と出ているので、のちの参考のためにも、それをここにうつしておくことにしたい。
大己貴神《おおなむちのかみ》(古語拾遺)・大穴持命《おおなもちのみこと》(延喜式)・大物主神《おおものぬしのかみ》(紀〈『日本書紀』〉)・葦原醜男神《あしはらしこおのかみ》 (紀)・八千矛神《やちほこのかみ》(記〈『古事記』〉・紀)・ 所造天下《あめのしたつくらしし》大神《おおかみ》(出雲国風土記)・国《くに》作之《つくらしし》大神《おおかみ》(延 喜式)・国堅《くにかためましし》大神《おおかみ》(播磨国風土記)・大地主神《おおとこぬしのかみ》(古語拾遺)・大国魂神《おおくにたまのかみ》(古語拾遺)・顕国魂神《うつしくにたまのかみ》(紀)・広矛魂神《ひろほこたまのかみ》(紀)・櫛甕魂神《くしみかたまのかみ》(延喜式)・幽冥事知食《かくりごとしろしめす》大神《おおかみ》(教典)
また御鎮座地の名にちなんで、出雲《いずもの》大神《おおかみ》(紀)・出雲《いずも》御蔭《みかげの》大神《おおかみ》(播磨国風土記)・杵築神《きづきのかみ》(文徳実録)とも申し上げる。
さて、ここで出雲はいちおうおわりとし、ついで私たちは島根県西部の石見《いわみ》へ向かうことになった。しかし、私としてはそのまえに、これも島根県となっている隠岐《おき》をちょっとみておかなくてはならない。
隠岐の古墳と神社
隠岐の歴史
かつては隠岐国だった隠岐(島根県)へは、さきに出雲へ来たときたずねているが、出雲空港からプロペラ機でわずか二十分ほどで着いた。そんなふうだったから、日本海上に浮かぶ離島という気分などほとんどなく、町のたたずまいも本土のそれと別に変わるところはなかった。
しかし資料によってみると、隠岐は本土から四十〜八十キロも離れた海上にあって、住民のいる四つの島と百数十の属島から成っている。面積は三百五十平方キロ、人口三万余で、東方の島を島後《どうご》といって西郷《さいごう》町などの町村がある。そして西方に西ノ島、中ノ島、知夫里《ちぶり》島がそれぞれ寄り合うような形でならんでいて、こちらは島前《どうぜん》とよばれているが、面積、人口は島後の半分ほどだという。
そういうことで、私がたずねたのは、飛行機発着の空港もそこにある島後のほうだった。そして西郷町教育委員会をたずねたところ、社会教育係長の木瀬一郎氏がこころよく会ってくれて、さっそく、『西郷町誌』その他が書棚にならんでいる資料室へ案内された。
何でもみてくれということだったので、私はまず、西郷町勢要覧の『さいごう』をとってみた。名物の「牛突き」などいろいろなことが紹介されていて、「歴史」の項をみるとこうなっている。
弥生時代から古墳時代に入りますと、下西地区を中心として一大文化圏が形成され、現存する古墳群は島後の半分を占めています。
このことは、奈良時代以降になってもそのまま隠岐国の主府に移行され、国造・総社・国庁・国分寺・国分尼寺が設置され、はなやかな律令制時代を迎えます。玉若酢命〈たまわかすのみこと〉神社の御霊会《ごれえ》や国分寺の蓮華会舞《れんげえまい》などが当時の面影を今日に伝えてくれています。
一方、神亀元年(七二四)には隠岐は遠流《おんる》の地と定められ、以後、幕末まで沢山の流人が生活するようになります。小野篁〈おののたかむら〉をはじめとする流人の哀歌は、一方では隠岐の文化形成の上で大きな影響を与えています。
中世の隠岐の歴史は、近江源氏佐々木一族の歴史でもあります。
建久四年(一一九三)佐々木定綱が源頼朝より隠岐一国の地頭職を拝領したことに始まり、義清・泰清と権力者が続き、晴清は隠岐氏を名のることになります。(一二四一)
この間、承久の変(一二二一)により後鳥羽上皇が、また元弘の変(一三三二)で後醍醐天皇がそれぞれ隠岐配流となられ、後醍醐天皇は脱出されて、建武中興をなしとげられるという事件の舞台となりました。
隠岐国は、古代ではいわゆる「下国」であった。しかしにもかかわらず、総社・国分寺はもとより、国分尼寺までつくられていたのだから、それ以前の古墳時代に「一大文化圏が形成され」というのも、あながち誇張とはいえないようである。
佐々木一族と佐々木家
それはそうと、これでもう一つわかるのは、「中世の隠岐の歴史は、近江源氏佐々木一族の歴史でもあ」ったということである。というのは、鎌倉時代に佐々木氏が出雲とともに隠岐の地頭(守護)職を兼ねたからであるが、この近江源氏佐々木一族というのは、近江(滋賀県)の安土《あづち》町にある沙沙貴《ささき》神社や、大津市にある新羅神社などを氏神としていた氏族で、そのもとは新羅・加耶から渡来した「近江の狭狭城君韓〓《ささきのきみからぶくろ》」(『日本書紀』)から出たものであった。
それからまたおもしろいことに、この佐々木氏はのち一二四一年に、「隠岐氏を名のることにな」 ったということである。日本の古代豪族はたいていみなその在地の地名をもって姓氏としているが、中世や近世、あるいはいわゆる明治新姓にいたるまで、このようにその姓をかえたり、つくったりしているので、その出自はなかなかわかりにくいのである。
しかしこれはどこのだれとかぎらないが、たとえば佐々木氏にしても、それがすべてみな隠岐氏と変わったわけではなかった。私が隠岐の島後でみて歩いたもののうちには、島根県指定の有形文化財となっている「釜の民家・佐々木家」というのがあったが、これは代々、いまの西郷町釜地区、旧釜村の庄屋をつとめた旧家で、この佐々木家の佐々木氏は、「近江源氏佐々木一族」のうちの佐々木をそのまま継いできたもののようであった。
その佐々木家は、どこからともなくあらわれた留守番のようなおじいさんの案内で、外形ばかりでなく中まではいってみることができた。母屋は約六十九坪という、杉皮葺《ぶ》き・石置き屋根、切妻平屋建ての民家で、二百点ほどの生活用具とともに、いまも江戸時代そのままの形で保存されていた。
「この家の主人は――」と案内のおじいさんに訊くと、跡継ぎの人は東京の早稲田大学を出て、そのまま東京の出版社に入って帰ってこないのだという。
「ほう、出版社。何という出版社ですか」と私は、それならもしかすると、と思ってさらに訊いたが、それはわからないというのだった。教えないというのではなく、事実、わからないらしかった。
玉若酢命神社と境内の古墳群
それはそれとして、私は、一方では農業もしているという若い運転手のタクシーでこういうふうにして、神社なども、西郷町下西の玉若酢命神社や、同町平《へい》の平神社、五箇《ごか》村の水若酢《みずわかす》神社などまでみて歩いた。それでおもしろいと思ったのは、これらの神社境内はどれもみな古墳であるということだった。
「神社の起源は古墳である」という谷川健一氏らの意見をそのまま裏書きするようなかたちだったが、とくに水若酢神社境内の横穴などは羨道《せんどう》がむきだしになっていた。そしてその羨道の両側に生えている松の大木が、羨道の石組みをだんだん押しつめている、というかっこうになっていた。
前記『島根県の歴史散歩』をみると、隠岐の代表的なそれとともに、水若酢神社のことがこう書かれている。
隠岐国で「延喜式神名帳」にのせられた神社は一六あり、そのうち大社が四社ある。水若酢神社はその四つのうちのひとつ。ちなみにほかの三社は、おなじ五箇村久見の伊勢《いせの》命神《みこと》社、西ノ島町由良比女《ゆらひめ》神社、海士《あ ま》町宇受加命《うずかのみこと》神社だ。またこの〈水若酢〉神社は、もと隠岐一の宮ともいわれ、社格をもっともおもんじられた神社でもある。
しかし隠岐の総社となっていたのは西郷町下西の玉若酢命神社で、素戔嗚尊を神祖熊野大神櫛御気野《くしみけぬ》命として祭るこの神社の境内社には、出雲でみたのと同じ荒《あら》神社がある。そしてここには、「史跡・玉若酢命神社古墳群」とした島根県教育委員会による大きな掲示板がたっているが、これは長いので、前記『島根県の歴史散歩』によってみると、それはこういうふうである。
神社に隣接する北側の丘陵地にあがると、竹がこいのさくのなかに、全長三〇メートルの前方後円墳一基と直径一〇メートルばかりの円墳七基がある。これを玉若酢命神社古墳群(県史跡)とよんでいる。六世紀末〜七世紀の古墳とおもわれる。古墳は、このほか神社をかこむ付近一帯に多数ある。
ついでにもう少しみると、なおまた、同『――歴史散歩』にはこうも書かれている。
玉若酢命神社のむかいの台地には、現在住宅がたちならんでいるが、このあたりは国府原《こうのはら》といわれ、隠岐国府があったという説がある。付近には、二宮神社古墳・国府原古墳群・斎京谷古墳群などがあり、古代遺跡の宝庫だ。
なるほどたしかに、「弥生時代から古墳時代に入りますと、下西地区を中心として一大文化圏が形成され」(西郷町勢要覧『さいごう』)とあったとおりであるが、それからまた、総社大明神ともいう玉若酢命神社の宮司は億岐《おき》氏で、隠岐国造の子孫というこの億岐家のとなりには、神社付属の宝物館がある。
この宝物館には、どちらも国の重要文化財となっている隠岐国駅鈴《えきれい》や倉印、光格帝からもらい受けたものという唐櫃《からびつ》などが展示されていた。駅鈴とは、古代の官吏が公用で都とのあいだを往来するとき、各駅で人馬を徴用することのできる証明のようなもので、真偽の説はあるが、隠岐のこれが日本にのこっている唯一のものということになっている。
一握りほどのやや扁平な八角形の銅製で、一面には「駅」他面には「鈴」の字を篆書《てんしよ》で陽刻したその駅鈴の模造を、記念にと思って一つ買って宝物館を出ると、ちょうど日が暮れかけていた。それで、西郷町教育委員会の木瀬さんが紹介してくれた「ニューかじたに」という旅館にはいって一泊したが、この夜は突然、猛烈な台風となった。
壇鏡神社の牛突き
台風は翌日の昼までつづき、この日のうちに大阪まで行かなくてはならなかったので、「これはえらいことになったぞ」と思っていると、これまた突然、午後からはからりと晴れあがって、まさに「台風一過」ということになった。
大阪行の飛行機は午後四時すぎとなっていたので、この日もさらにまた西郷町池田の隠岐国分寺跡などをみて歩いたが、私はそれらの古代遺跡とともに、隠岐ではそこの名物となっている「牛突き」というのをぜひみたいものだと思っていた。しかしそれは季節はずれで、みることができなかった。
なぜその「牛突き」をみたかったかというと、それは朝鮮でもあちこちでおこなわれていたものだったからである。私も朝鮮にいた子どものころ、正月など河原でおこなわれるそのようなソサウム(牛闘)を何度もみたものであるが、前記『島根県の歴史散歩』によると、隠岐の「牛突き」はこういうものとなっている。
毎年九月一日にもよおされる島後都万〈つま〉村壇鏡《だんきよう》神社の八朔《はつさく》祭りの牛突きが本場所だ。ほかに観光闘牛大会もひらかれる。後鳥羽上皇が隠岐にながされたとき、道すがら牧で牛がたわむれているのをみてたいそう関心をもたれた。そこで村人たちが上皇をなぐさめるために牛突きをはじめたのが、隠岐における牛突きのはじまりという。
闘牛につかう牛をツキウシ、綱をにぎる人をツナドリ、検査役をミツケとよんでいる。もとは島前・島後の各地で行なわれたが、現在は島後においてのみ行なわれている。
「後鳥羽上皇が隠岐にながされたとき」などというのは、のちの付会であるにちがいない。それが「隠岐における牛突きのはじまり」ではなく、さきにみた横穴古墳などの墓制とともに、それもやはり朝鮮から伝わった習俗ではなかったかと私は思う。
島前の神社
そのことはどちらにせよ、私はそれをみられなかったわけであるが、隠岐でみることのできなかったのは、それだけではなかった。だいたい、私がたずねたのは、そこが隠岐の中心とはいえ、その一方の島後であって、もう一方の島前は行ってみることができなかったのである。
島前は飛行機の便がなく、船でそこを往来するにはもう二、三泊の時間がなくてはならなかったからであるが、もちろん、島前にもたくさんの古代遺跡があって、たとえば、村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷」をみると、次のような神社があげられている。
△天佐治比古神社
△比奈麻治比売神社
もちろんまた、神社にしてもこれがそれのすべてではないであろうが、西郷町教委の木瀬さんに教えられたところによると、前者は島前の知夫村にあって、地元では「いっくさん(一宮神社)」とよんでおり、後者は西ノ島町にあって、これは「スミさん」とよばれているとのことであった。
「スミさん」というのは、鎮座地の「済《すん》」という通称地区名からきたものではないかとのことだったが、これまた木瀬さんが送ってくれた『隠岐郷土研究』をみると、他のそれとともに、いまみた両神社のことがこう書かれている。
島前・海士郡の宇受賀、知夫郡西ノ島町の真気命《まけのみこと》 比奈麻治比売命、知夫村の天佐治比古命の各社は、その島本来の開拓神である。宇受賀神社は海士郡の北岸に面し、真気命は別府の北方物井に鎮座し、比奈麻治比売命はさらに北方、西ノ島の北端、日本海を見下すところの山の中腹を旧地とし、今は宇賀の部落の入口に近い丘上に鎮座している。
天佐治比古命は知夫港の船着場の近くに鎮座し、いずれも地主神として、社会集団の一中心として発達した地域の神々である。比奈麻治比売命は、前述奈伎良比売と共に渡り来った歩き神女の神の性格をもあわせ持ち、その鎮座地の状況からいうと、漂着の神の祭祀を思わせる。
比奈麻治比売の火光
「その島本来の開拓神である」という「その島」とは、島前は大きくは三つの島によって成っているからであるが、なおまた、これは西郷町教委の資料室にあった『島前の文化財』にのっている茜史朗氏の「隠岐の神々にふれて」をみると、いまみた比奈麻治比売神社について、こういうことが書かれている。
昨年十一月、隠岐を訪ねる機会に恵まれた。隠岐は、日本海の唯中に横たうひとつの国である。その国は、「裏日本」が表日本であった時代、ひとつの表玄関であった。『日本後紀』は、その一斑を延暦十八(七九九)年五月十三日の条に記す。
「前の遣渤海《ぼつかい》使外従五位下内蔵《くらの》宿禰《すくね》賀茂麻呂ら言ふ。郷に帰る日、海中夜暗し。東西掣曳《せいえい》して着く所を識《し》らず。時に遠くに火光あり、その光を尋ね逐《お》ふ。忽《たちま》ちに嶋浜に到る。これを訪ふ。これ、隠岐国智夫郡《ちふのこおり》なり。その処に人居有ることなし。或いは云ふ。比奈麻治比売《ひなまちひめ》神の常に霊験あり。商賈《こ》の輩、海中に漂宕《とう》せば、必ず火光を揚ぐ。これに頼り全きを得し者、数を勝《あ》ぐるべからず。神の祐助なり。良く嘉報すべし。伏して望むらくは幣例《へいれい》に預り奉らむことを。(官)これを許す」
隠岐島前西ノ島に坐す比奈麻治比売神の揚ぐる火光は、海上を渡り来たった人々を迎える導きの火だったのである。外交使節として、商賈(商人)として、漁師として、時には戦乱を逃れた亡命者として海上を渡り来たった人々は、まずこの火に迎えられたのである。
その「比奈麻治比売の揚ぐる火光」の実体がどういうものであったかはわからないが、茜氏もつづけて書いているように、その伝統は比奈麻治比売神社と同じ西ノ島町にある焼火神社信仰に受けつがれているようである。この神社は島前の最高峰である標高四五二メートルの焼火山の頂上近くにあるが、要するにその「火光」「焼火」は、古代における島の灯台のようなものではなかったかと思われる。
韓神新羅神社と韓島
嶮しい自然の石見
さて、隠岐はそれまでということにして、ここで前々項となっている「日御碕・加夜・出雲大社」のおわりのほうへ戻ることにする。講談社の池田公夫、平沢尚利氏、デザイナーの市川英夫氏らといっしょに出雲を歩いたときに戻るわけであるが、それからの私たちは、この日も貸切りにしてもらっているタクシーを、大田《おおだ》市から長門《ながと》(山口県)に接する益田《ますだ》市へ向かって走らせることにした。
同じ島根県でも、出雲からこんどは石見《いわみ》となったが、まず、池田誠氏の『山陰の文化』をみると、その石見のことがこうある。
石見は出雲と較べるときわめて対照的である。出雲が広々とした平野を有するのに対し、石見は山脈がすぐ日本海に迫っている。出雲が自然の豊かさを感じさせるのに対して、石見は砂、石、山で象徴されむしろ自然の厳しさを感じさせる。
石見はこの自然の厳しさから出雲のような一大文化圏を形成するにはいたらなかった。しかしこの嶮しい自然的条件下で古くから人間の原始的営みがあったことは、古墳文化などを探ると他に劣らないことからわかる。石見は古代では辺境の地であり、中央から離れていたため史実に現われることは少なく、それは遅くなってからである。
石見はなるほどそのような「嶮しい自然的条件」のため、「古代では辺境の地」だったかも知れないが、しかしこの石見も古代は「表日本」の一部であった。したがってその文化的様相においては、出雲とそう変わるところはないようである。
素戔嗚尊の上陸地は石見?
それを私たちはこれから実地にみるわけであるが、タクシーは日本海沿いの国道九号線を走り、前夜泊まった多伎町をすぎると、そこが石見の大田市であった。この日は土曜日でもう午後になっていたので、まず市の教育委員会へ、ということはできなかったが、しかし私は一九七四年五月、山陰中央新報社主催の「古代出雲を語る」というシンポジウムのため来たとき、その大田市教委もたずねたものだった。
そして、当時の市教委社会教育課長補佐の岩谷淳一氏から、『大田市の文化財』などをもらい受けている。同時に私は岩谷さんから、同市には韓郷《からさと》山というのがあり、これから同行の池田さんたちがそれを目の前にしてびっくりする、素戔嗚尊を祭る珍しい名の神社のあることなども教えられた。
さらにまた岩谷さんは、そのような神社とともに、大田にはまた素戔嗚尊の子の名である五十猛《いそたけ》というところ(これは国鉄の駅名にもなっている)や、五十猛神社があることなどもあげて、
「ですから、素戔嗚尊が韓国から来て最初に上陸したところは出雲ではなく、石見ではないか、とこちらの人はみているのですよ」と言ったのも、いまなお印象にのこっている。
五十猛神社から韓神新羅神社へ
大田市にはいった私たちは、さきにまずその五十猛神社をたずねて敬意を表し、それからは大浦という、いまはかなりにぎやかな漁港となっているところへ向かった。その漁港を見おろすこちらの台地に一つの神社があって、私はその前にタクシーをとめさせた。そして私はだまったまま、池田さんたちにその神社・鳥居の扁額を指さしてみせた。
「へえー」と池田さんたちは、一様に声をあげて目をみはった。これまでの出雲でもいろいろな神社をみているが、それにはほんとうにおどろいたらしかった。
扁額にははっきりと、「韓神新羅神社」とあったからである。しかもまたそれだけではなく、拝殿にも「正三位千家尊福敬書」とした「韓神新羅神社」の大きな額がかかっている。祭神は素戔嗚尊となっていること、いうまでもない。
「日御碕神社境内の韓国神社といい、これはまさに日本の中の朝鮮文化そのものだね」と同行の平沢さんは、あたりを見まわしながら言った。神社は海に向かってせりだした山の中腹にあって、眼下が大浦の漁港となっているほかは、その前の切通しに沿って一、二軒の家がたっているだけだった。
「新羅神社というだけでも充分なのに、そのうえさらに韓神ときているのだから、言うことはないよ」とこれは池田さんだったが、市川さんは例によって、あちらこちらと動いてはカメラをかまえていた。
これも大田市教育委員会の岩谷さんからもらった「大田市全図」をみると、韓神新羅神社のあるそこはちょっとした半島で、その西側の湾が五十猛漁港となっている。そしてその向こう側の突端が「韓郷山」となっていたが、それはそれとして、私たちはその西となりの邇摩《にま》郡仁摩町へ向った。
韓島の韓島神社
大田市からはずれた仁摩町とはいっても、大浦、五十猛漁港と五、六キロほどの間隔でならんでいる宅野港だったが、そこに三つほどの島があって、そのうちのいちばん大きな島が「韓島」となっていた。そしてそこにも、素戔嗚尊を祭る韓島神社というのがあった。
「へえ、こんどは韓島に韓島神社か」と、また目をみはるようにして平沢さんは言ったが、その島はこちらの防波堤に立って見たところでは、ただ、樹木がうっそうと生い茂っているだけの無人島にすぎなかった。
それにしても、それがどうして韓島であるのか。もしかするとそこにも「韓神」を祭る神社ができたので、それで韓島となったのかも知れなかった。「すると、あの島には古墳があるのかも知れない」と私は思ったが、しかしどうなのかよくはわからなかった。
石見銀山と大久保長安
ついで私たちは、韓島のある仁摩町から南へ下ったところとなっている、大田市大森町の有名な石見銀山跡をたずねてみた。そしてさらにまた、日本海に沿った仁摩町の国道九号線へ戻って西行をつづけた。
大森の石見銀山は中・近世のもので、私のたずねている古代朝鮮文化遺跡と直接の関係はなかったが、しかし、前記『島根県の歴史散歩』をみると、それのことがこう書かれている。
石見銀山は、一四世紀の初め、周防《すおう》の大内氏により発見された。有力な財源をえた大内氏は、ただちに山吹《やまぶき》山に城を築きこれをまもった。当時は地上に露出した自然銀をとっていたのだろう、まもなくほりつくしてしまう。二〇〇年後の大永年間(一六世紀)に、博多の商人神谷某《かみやぼう》らが大内氏の許可をもらい、岩石をうがち地底をほって多量の銀をえて莫大な財をなした。それいらい石見銀山の名は天下につたわり、銀ラッシュとなった。
ここにいう「周防の大内氏」については、あとの長門・周防(山口県)でかなりくわしくみることになるが、これは、百済聖明王の第三子という琳聖《りんしよう》太子を祖とする中国地方の大豪族であった。となると、石見銀山も朝鮮とまったく無関係ではないことになるが、しかも戦国時代から徳川時代になると、初代の石見銀山奉行となったのは、大久保石見守長安という者であった。
この大久保長安は、新羅・加耶より渡来の秦氏族からの出であることがはっきりしている家系の者で、その家は代々能楽師であったにもかかわらず、どういうことからか、長安は天才的な鉱山師となった。「大森にやってきた長安は、銀山領の検地や道路・町立《まちだて》の整備にあたるとともに、それまで年間数百貫にすぎなかった産銀量を飛躍的に増加させた。……長安が開発した大久保間歩は、坑口から一〇〇メートルくらいまでは、長安が馬をのり入れることができたという銀山中最大規模の坑道だ。彼は石見銀山だけでなく、佐渡・伊豆など全国の金銀山の総支配をまかせられ、敏腕をふるった」(『島根県の歴史散歩』)。
しかしこれまたどういうことでか、はっきりしたことはわからないが、その末路は悲劇的なものであった。同『島根県の歴史散歩』によってみることにする。
一六一三(慶長一八)年、大久保石見守長安は駿河《するが》で病死した。死後数日もたたないうちに、〈徳川〉家康はとつぜん長安の葬儀中止を命じ、不正があったと摘発し、七人の遺子を死罪とし、家財は残らず没収した。そのはっきりした理由はいまだに不明だが、長安が一生かけてたくわえた莫大な私財が、家康にとって不愉快な存在だったことはたしかなことだった。
どういうことがあったにせよ、「七人の遺子」まで「死罪」とはずいぶんひどいはなしである。そういうこともあったので、私たちは大森代官所跡から、大久保石見守長安の墓碑があるというところまで行ってみた。墓碑は、暗い木立ちのなかで朽ちるままとなっていた。
江津の都怒我阿羅斯等
眠りつづけて素通りした大飯彦命神社
国道九号線は仁摩町をすぎると、間もなく温泉津《ゆのつ》町となった。温泉《おんせん》があるからとはいえ「温泉津」とはおもしろい地名だったが、この町の高野寺には島根県指定の文化財となっている朝鮮鐘があると、私はだれかから教えられていたけれども、それは省略ということにした。
それまでいちいちたずねていたのではきりがないばかりか、大田市では石見銀山跡までたずねたりしたので、もうあまり時間がなかったからでもある。それに、前日から私たちはかなり強行軍をかさねていたので、みんな相当疲れてもいた。私もタクシーに揺られるまま、いつの間にかうとうとしはじめていた。
タクシーは坦々《たんたん》とした白い道路を走りつづけ、ときには右手に日本海岸のよい景色が展開したりしたけれども、半分眠っている私の目はそれをみても、ただ瞼《まぶた》が重くなるばかりだった。やがてタクシーはにぎやかな街にはいり、大きな川を越えたが、「ああ、江津《ごうつ》の江川《ごうのかわ》だな」とおぼろげに思っただけで、私はそのまま眠りつづけていた。
そして二十キロほどさきの浜田市近くになったとき、私は突然目をさまし、「ああ、しまった」と思った。あわてたようにうしろの席をみると、池田さんたちも首をかしげて眠りつづけている。
「どうかしましたか」と、私のその気配に気づいた市川さんが目を開いて言った。
「いや、いいです、いいです。このまま行っちゃいましょう」と、私は時計をみながら言った。そのやりとりで、池田さんと平沢さんも目をさました。
タクシーはもう、浜田市内にまではいってしまっていた。もはやそこから引き返すなどということは、時間の都合上とうていできることではなかったが、私は江津市では神村というところにあるらしい、ある神社をたずねてみるつもりでいたのだった。七田真氏の「神武東征と賀茂建角身命」ほかに、こう書かれていたからである。
江津には神村という名の古代から拓けた土地がある。崇神天皇の時代、石見で唯一の神邑(かむら)と定められたところで、神代の昔から人の住むたいへん古い土地である。ここには貝塚伝説もあり、神話伝承が集中し、延喜式内社が三つも集中しており、古墳も数多く見つかるという土地である。
ここは古代の文化のルートを考える時、非常に重要な土地で、過日「古代の石見」に書いた素戔嗚尊が出雲に、あるいはツヌガアラシト〈都怒我阿羅斯等〉が敦賀に行く時経由したところで、古代文化伝播の中継所といってもいいかと思う。
ツヌガアラシトはこの神村で牛を使って田を耕すことを教え、良田を多く拓き、やがて敦賀に移っていくのである。アラシトが拓いた土地を飯田といい、成務天皇の御代には、この飯田の米が非常に良質の米なので、朝廷の大炊(おほい)の料(しろ)として定められているのである。
さらにまた、ここにみられる「古代の石見」をみると、「歴史の発掘」としてこうも書いている。
まず、ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)の話から始めましょう。アラシトの話は日本の伝承の中で非常に重要ですが、アラシトが江津の神村にいたという話は、恐らくこの地方の人々しか知らない、中央の学者先生方の知らない伝承なのです。……
アラシトを祀《まつ》った当地方の神社を大飯彦命神社といい、延喜式内社です。
私が江津でたずねてみたかった神社とは、この大飯彦命神社にほかならなかった。
石見にもあった都怒我阿羅斯等伝承
大飯彦命神社に祭られているという都怒我阿羅斯等は、『日本書紀』などにもみえている有名なそれで、私は『日本の中の朝鮮文化』(5)の越前(福井県)敦賀「気比神宮にて」の項でかなりくわしく書いているが、しかしそのときはまだ、その都怒我阿羅斯等の伝承が石見にものこっていたとは知らなかったのである。
だいたい、都怒我阿羅斯等伝承というのは、「日本に水稲耕作を伝えた農耕集団」(林屋辰三郎「古代の但馬文化」)、すなわち新羅・加耶系渡来人集団の象徴となっている天日槍のそれと同じもので、この集団はあるところでは「新羅の王子天日槍」の渡来として語られ、またあるところでは「加羅〈加耶〉の王子都怒我阿羅斯等」の渡来として語られている。
そして前者のコースは北九州の筑前(福岡県)から豊後《ぶんご》(大分県)、瀬戸内海をへて難波(大阪府)へとなっており、後者のそれは穴戸《あなと》だった長門(山口県)から日本海岸をへて、越前の敦賀へとなっている。そうして敦賀の気比神宮で両者の一部が合体するのであるが、それからまた天日槍集団のばあいは、天日槍の嫡妻ということで、日の神の太陽神を祭るその集団のシャーマン(巫女)であった比売許曾《ひめこそ》神(赤留《あかる》比売・下照姫《したてるひめ》ともいう)の渡来伝承としても語られている。
私はこんど、石見にも都怒我阿羅斯等の伝承があるということから、この伝承もやはり比売許曾神のそれともなっていることがわかった。こちらは長門となっているけれども、石見のすぐとなりの日本海沿いに須佐というところがあって、この須佐は須佐之男命(素戔嗚尊)のそれからきているのかも知れないが、ここに日の神の太陽神を祭った比売許曾のそれがあったとみられる「日社《ひのこそ》」というところがある。
なかなかむずかしい地名であるが、この日社の「社《こそ》」とは、伴信友も「神社を古曾〈許曾〉と云ふ事」として、「比売許曾は下照姫の社にて姫社《ひめこそ》の義也」といっているように、比売許曾の許曾《こそ》ということなのである。そのことは須佐の西方海上に、「姫島」があることからもわかる。
この姫島は、いずれも比売許曾神からきている筑前・糸島郡の姫島、豊後・国東《くにさき》郡の姫島、難波・西淀川区の姫島と同じそれであるはずである。ついでにいうと、難波の大阪には私の知っているだけでも比売許曾神社が四、五社もある。
鵜ノ鼻古墳群をたずねて
浜田の唐鐘浦
私たちはもはや江津まで戻って、大飯彦命神社をたずねることはできないかわりということでか、浜田でタクシーをとめて一服することにした。そして、前記『島根県の歴史散歩』をみると、浜田市のそこに「唐鐘浦」というところがある。これはもしかすると「韓鐘《からかね》浦」ということではなかったかと、ちょっと気になったので、そこまでまわってみることにしたが、
「さあ、もとは何てったか知らねえが、ここは唐鐘《とうがね》ですたい」と、地元の漁師は首をひねるばかりだった。が、しかし、このときの私のカンはあたらずとも遠からずで、あとで手にする『益田市史』をみると、そこにこういうことが書かれている。
韓土と九州北岸とは、海で隔てられてはいるものの近接の地であり、この間を通過する対馬海流は日本海へ向かって流入し、裏日本の海岸を洗っているために、古来韓土人が海岸に漂着した例はしばしばである。石見東部仁摩地方の韓島・韓神新羅神社、浜田市の辛《から》の碕・辛の浦は、海流に乗って朝鮮から渡来した帰化一族の活動を暗示したものと解される。浜田石上神社の祭神が天豊足柄姫ノ命であり、柄姫は韓《から》姫の宛字とも見られる。
これをみた私は、「辛《から》の碕・辛の浦か、なるほどなあ」と思ったが、ところで、私はこの浜田でも一つ失敗をしていた。そこで『島根県の歴史散歩』をみたまではよかったが、それとともに私は、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」をも開いてみるべきだったのである。石見の遺跡と古墳のそれがこうある。
△浜田市周布町=人物・動物付有台壺
△益田市長廻横穴=冠帽
=の下はそこからの出土品であるが、土曜日の午後だったから、市の教育委員会をたずねることはできないとしても、資料館かどこかへ行けば、周布《すふ》町遺跡から出土した「人物・動物付有台壺」がどんなものであるか、みることができたかも知れなかった。それからまた、その遺跡はもうなくなっていても、それがどういうものであったかはわかったかも知れなかった。
鵜ノ鼻古墳群
浜田からの私たちのタクシーは、国道九号線をただひた走りに走ったが、それでも益田市にはいったときはもう日暮れとなっていた。私たちは暗くなってしまわないうちにと、急いで遠田《とおだ》の鵜《う》ノ鼻《はな》古墳群をたずねた。
鵜ノ鼻古墳群は、日本海に向かって突き出た丘陵上にあって、そこまでの道はただ樹木が生い茂っているばかりとなっていた。私たちは畑で働いていた老爺にその道なき道を訊き、漆《うるし》などもまじっているそれらの樹木を掻《か》きわけ、掻きわけしながらやっと、すぐの目の下が海となっている突端部まで出てみると、なるほどそこは古墳群だった。
いったいどうしてそんな突端に古墳を築いたのか、長いあいだの風浪のため、いまは墳丘の土がみんなどこかへ飛ばされ、そこに生えている松の根っこによって、ようやくその横穴石室がのこされている状態となっていた。そんなふうだったので、松の木もみな痩せてひょろ長くなっていた。
その丘陵の突端部を「鵜ノ鼻」とはよくいったものだと思ったが、この鵜ノ鼻古墳群は、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」にはあげられていないけれども、前記『島根県の歴史散歩』にこう書かれている。
益田市遠田にある高さ二〇メートルほどの丘にはむかし五四基を数える群集古墳(県史跡)があり、県下でも珍しい特異地域をなしていた。明治以後しだいにこわされ現在二〇基ほど残っているにすぎない。これが鵜ノ鼻古墳群だ。
古墳の大部分は円墳で、なかに三基の前方後円墳、それに一基の方基円墳といって、県下でも他にはない朝鮮式の台形の基台に円墳がのっている珍しい古墳があったが、山陰線開通のさいにこわされた。これらの古墳群は古墳時代の末期に属し、葺石《ふきいし》や埴輪もない小規模なもので、その構造や発掘された品から、朝鮮の慶州あたりの影響をうけていることがわかる。その一例としては石室内の羨道《せんどう》が片袖式のものが大部分で、槨壁《かくへき》は自然石の積石式になっている。
私はこれをそこに立って読み返したことで、いったいどうして海に臨んだそんな突端に古墳が築かれたのか、ちょっとわかったような気がした。この日は曇天でみえなかったけれども、日暮れになると真っ赤な太陽がその海の向こうの水平線に落ちるはずであった。
出雲の日御碕でみたそれと同じで、その水平線の向こうは、古墳に埋まったかれらがそこからやって来た「朝鮮の慶州」であった。少なくともかれらにはそのように認識され、それで沈む太陽とともに、朝鮮の故山へかえると考えられたのかも知れなかった。
新羅式築造法と出土品
なおまた、この鵜ノ鼻古墳群のことは、『益田市史』にも十数頁にわたって書かれており、出土品の環頭大刀や金環、土器類などについてもくわしく説明されている。これらの出土品は、偶然の機会で、私たちも翌日その実物をみることになるが、さきにまず、「当古墳群の特徴」という項をみるとこうなっている。
当古墳群の築造は前述の通りであるが、その特徴を要約すると、その陵部にある節理状の鵜ノ鼻安山岩を、自然石のまま適宜に選んで作ったものであり、築造形式は鵜ノ鼻型と称してもよいほどに特有の形式をもっている。特に築造の特徴とするところは、
一、片袖式(庖丁式)のものが多く、これは朝鮮・慶尚南道梁山郡の夫婦塚や、同昌寧郡松〓洞四号墳等の影響を受けている。
二、持送式架構石槨の築造法も、慶州方面に見る様式である。
三、封土の形式である方基円墳も、朝鮮の平安道馬山面溝王墓の影響を受け、この石槨のハート型も、同様大陸の影響である。
そうだとすると、この鵜ノ鼻古墳群は「五世紀の終わりから六世紀初めにかけて」のものだとのことであるが、その被葬者も築造者も朝鮮から渡来してまだいくらもたっていなかったころだったにちがいない。なぜかというと、かれらはまだ、朝鮮におけるそのような古墳の築造法を生まなましく記憶していたとみられるからであるが、ついで出土品のうちの「環頭大刀」についてみると、『万葉集』にみられる「高麗剣」のそれとして、おわりにこう書かれている。
島根県で発見されたものは単龍環式で、環の最大の所は径七センチであり、透彫の柄の全長は九・五センチである。当古墳を含めて県下で環頭大刀が出土した所は、安来市荒島町大成及び仏山、松江市大庭町岡田山の四古墳にすぎない。これら四古墳の発掘物が、いずれも豊富で珍稀な点を考えて、こうした環頭大刀を蔵した古墳は当時の社会上、最も有力な地位にいた者の古墳であることが推測される。
これまたそうだとすると、鵜ノ鼻古墳の被葬者は当地方における相当な豪族だったにちがいない。同古墳群からは環頭大刀ばかりでなく銅剣や金環、管玉・勾玉・丸玉なども出土しているし、新羅・加耶土器そのものとみられる古式の須恵器も出土している。
消えゆく北長廻横穴群
鵜ノ鼻古墳で日暮れとなった私たちは、益田市本町の島田屋旅館にはいって一泊することになった。そしてその旅館へのまがり角でひょいとみると、そこに益田市歴史民俗資料館があって、開館記念特別展とした「古代展」が開かれているという掲示板がたっていた。
これまでにみた『益田市史』も私はこの夜、島田屋旅館でみせてもらったものであるが、翌日はさっそく歴史民俗資料館の「古代展」をみに行くことにした。日曜日で市の教育委員会をたずねることはできなかったかわり、私たちは資料館長の楠孝雄氏らに会って、『益田の文化財』などをもらい受け、あわせて展示品を写真にとらせてもらう許可もえた。
「朝鮮半島から稲作が伝わると、食料を生産するという新しい時代に入りました」(リーフレット『古代展』)という弥生時代はともかく、古墳時代の展示品としては、やはり鵜ノ鼻古墳群出土の単龍環頭などが中心で、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」にあげられていた「益田市長廻横穴」のうちの北長廻横穴群出土の金環や鉄剣などがそれについでいた。
私たちは、そのような金環などを出土した北長廻横穴群は行ってみることができなかったが、これはいまひどい状態になっていて、一九八四年一月二十九日付けの山陰中央新報をみると、「石見最大の北長廻横穴群(益田)/近く三基も取り壊し/あと一基残すだけ/調査待たず次々開発」という見出しのもとに、そのことがこう報じられている。
石見地方最大の横穴群遺跡として注目されながら保存の手が打たれず、次々と開発によって壊されてきた益田市赤城町の北長廻横穴群で、現存する四基のうち三基が近く採土工事で取り壊される。かつては五十基以上の横穴墓を数えた同横穴群は、県指定史跡・鵜ノ鼻古墳群(益田市遠田町)と並ぶ石見の代表的な群集墳を形成していたが、今回の新たな採土工事で残るはわずか一基となる。……
このほど北長廻横穴群を訪れた田中義昭・島根大学教授は「恐らく横穴群に葬られた人たちは今日の益田平野の基礎をつくった人たちではないか。遺跡が壊されるなら、せめて調査結果を市民に公開してほしい」と話している。
北長廻の隣の南長廻横穴群も、益田中学校の校庭拡張で発掘調査もされず壊されてしまった。残りの遺跡についても確認調査すら行われていない状態。田中教授は「早急に全容の実態調査をし、横穴群の保存に努めてほしい」と県、市に要望している。
すでに大部分は壊されてしまったあとであるが、その「要望」は聞きとどけられるかどうか。おそらく、それだけのこととしておわるにちがいない。要するにそういうことで、比較的よくのこされているといわれる日本の古代遺跡も、次々となくなっていく一方なのである。
歴史民俗資料館から出ると、前日からの曇り空は雨となっていた。まだ少し時間があったので、益田市高津の柿本人麻呂を祭る柿本神社まで行ってみることにした。大きな楼門を構えた、華麗な神社だった。
柿本人麻呂が石見のどこで死んだかということについては、いろいろと説があるようであるが、ともかくも、『万葉集』の代表的な歌人のひとりである人麻呂に私たちは敬意を表したわけだったのである。
そうして予定どおり、国鉄の益田駅で三泊四日の旅をともにして東京へ帰る池田さんたちとわかれ、私はひとりさらにまた、次なる長門・周防(山口県)へ向かって行くことになった。
長門・周防
萩・見島のジーコンボ古墳群
萩焼の萩
益田から長門(山口県)の萩《はぎ》に着いたのは午後二時ちょっとすぎだった。日曜日だったから、まず市の教育委員会をたずねるということはできなかった。しかしといって、旅館でただじっとしているわけにもゆかなかったので、ひとまず外へ出てみることにした。
外は小雨が降っていたので、出がけに旅館の女中さんが傘といっしょに、
「道に迷わないでくださいよ」と言って、市内の観光地図となっているビラようのものを一枚くれた。私はその地図をみながら、何となく東萩駅のほうへ向かって歩いた。
歩いているうちすぐに気づいたが、「萩焼」とした陶磁器店がいくつも目についた。それで私はまたすぐ気がついて、
「ああ、そうだったっけ」と、いまさらのように思ったものだった。「ここは、あの萩焼の萩ではないか」
私は、古代文化遺跡をたずねるのが目的だったものだから、十二、三年前にも萩へ来て、そのときは萩焼の中心といわれる坂《さか》窯をたずねたりしていたにもかかわらず、近世のそれのことはすっかり忘れていたのである。しかし、これも忘れてはならないもので、山口県社会科教育研究会編『山口県の歴史散歩』をみると、「萩焼窯元」とした項があってこう書かれている。
東光寺の近くに萩焼の古い窯元がある。萩焼は、豊臣秀吉の文禄・慶長の役にさいし、朝鮮からつれてこられた李勺光《りしやつこう》が毛利輝元《てるもと》にあずけられ、一六〇四(慶長九)年、輝元の萩城築城とともに萩の地にうつり、市内松本の中の倉に居屋敷をたまわって、禄を給せられて創業したのにはじまる。のちに、弟の李敬を本国よりまねき、多数の弟子を養成し、晩年は各地の古窯を再興した。
その子は山村新兵衛光政と名のり、李敬は高麗左衛門〈こうらいざえもん〉に任ぜられ、坂助八と名のった。山村家は萩焼の宗家として、藩御抱えの総支配をつかさどっていたが、光政の子の時代に長門市湯本三ノ瀬《そうのせ》の地に移住し、深川〈ふかわ〉窯を創業した。その後、萩松本窯は、坂家が支配することとなった。……
坂窯は、古くから茶の湯で「一楽、二萩、三唐津」とよばれ、和物茶碗の最右翼とされる萩焼の宗家だった。一六二五(寛永二)年に藩主から「任高麗左衛門」の判物を拝領し、代々、坂高麗左衛門を名のっている。初期の作品には、朝鮮の高麗風の色彩がつよいが、五代以後、しだいに大和風に変化してきた。現代の当主は一一代目。……
萩藩御用窯として創業した萩焼は、地名にちなみ松本焼とよばれ、作品は藩におさめられていた。明治維新後の不振の時期をのりこえた松本焼は、いまその全盛期をむかえた。萩焼として全国的に名をしられ、新興の窯も多くつくられ、市内の土産《みやげ》店にその作品をみることができる。
これがあの伊藤博文の――
歩きながらみた「萩焼」はその「市内の土産店」だったわけであるが、私は東萩駅の横にあった、ホテルともなっているビルのレストランに入って、軽い食事をとることにした。そして旅館の女中さんからもらった市内の観光地図を、あらためてゆっくりとみた。しかしそこに出ているのは松陰《しよういん》神社・松下村塾《しようかそんじゆく》はじめ、伊藤博文旧宅、木戸孝允旧宅、山県有朋誕生地といった、いわゆる明治維新元勲のそればかりで、古代のそれとしてはなにもなかった。
前記『山口県の歴史散歩』の「萩市主要部の史跡」をみても同じで、要するに、いまにのこる萩の古代文化遺跡としては、見島のジーコンボ古墳群ぐらいのもので、ほかにこれといったものはないようだった。「おやおや、これじゃしようがないなあ」と思いながら外へ出た私は、ふと思いついて、駅前にとまっていたタクシーに乗り、伊藤博文旧宅というのをたずねてみることにした。
タクシーはすぐ、萩市椿東の伊藤博文旧宅に着いた。その旧宅については、『山口県の歴史散歩』にこうある。
松陰神社の東、徒歩で約五分のところに伊藤博文旧宅(国史跡)がある。草ぶき平屋建て、総建坪数は二九坪(約九六平方メートル)。伊藤博文は、長州藩の攘夷討幕運動に活躍し、明治新政府では大久保利通《としみち》の死後、最高指導者としておもきをなした。
内閣制度の実施、明治憲法の制定、皇室制度の確立、枢密院の設置など、近代天皇制国家の確立に尽力し、初代内閣総理大臣、枢密院議長となり、のちみたび首相の任についた。この旧宅は一四歳の一八五四(安政元)年から一八六八(明治元)年まで住んだところで、松下村塾へもこの家からかよった。萩藩の中間《ちゆうげん》伊藤直右衛門に、博文の父が養子となった下級武士の住居だ。
私は、「草ぶき平屋建て、総建坪数二九坪(約九六平方メートル)」のそれを目の前にして、それが大きいとか小さいとかいうことにはかかわりなく、「ああ、これがあの伊藤博文の育った家か」と思わずにはいられなかった。伊藤博文はだれもが手にする千円札の肖像にもなっているので、小雨のなか、私のほかにも何人かの観光客の姿が見えたが、おそらくその人たちは私とは別の感慨をもってその旧宅をみているにちがいなかった。
乙巳条約押しつけの立役者
いまみた『山口県の歴史散歩』にはそのことは書かれていないけれども、伊藤博文は明治維新政府の「最高指導者として」日本の「近代天皇制国家の確立に尽力し」たばかりでなく、朝鮮=韓国という国を滅亡におとしいれ、それを日本の植民地とした大立者でもあった。そのことは、当時の駐韓公使であった林権助《はやしごんすけ》の『わが七十年を語る』にくわしくのべられている。
ここではそれをあれこれみているわけにゆかないが、ただ一つだけ、伊藤博文が韓国へ乗り込んで行って、五年後のいわゆる「日韓併合」の前提となった一九〇五年の乙巳条約(第二日韓協約ともいう)を韓国政府に押しつけたときのことをみると、それはこうなっている。ここで「わたし」といっているのは、もちろん林権助自身である。
朝鮮側では、こういうことは実に嫌《いや》でしようがない。その間わたしは、いろいろ考えた結果、こういう風にやろうと思う、とその方法を伊藤〈博文〉さんと打合せた。
「朝鮮の政府の各大臣を、ともかくも、朝から日本の公使館に参集して貰ってその席上でわたしが談判を始めますから、うまくゆくと其許《そこ》へ御臨席を願うことになるかもしれません。併《しか》し先ず午前中には纒《まと》まらぬと考えて差支えありますまい。そうすると纒まらないから昼飯でも喰ってから、如何《ど う》しても王様の前に行って、勅を仰ぐという事に、或《ある》いはなりはしないかと考えられる。その時には、無論わたしも附《つ》いて行くつもりです。それで談判の成行きに依っては、そこへ是非あなたに来て貰わなければなりますまい。無論その場合は、宮中から直様《すぐさま》お知らせ出来るよう手順をつけておきます」
それで結局、林権助のいったとおり「談判」の舞台は宮中へうつされることになった。このときのことは、外務省編『日本外交文書』にも公式の記録として残されているが、それによると、伊藤博文は当時の韓国皇帝に向かってこう言っている。
伊藤大使「今日ノ要ハ唯タ陛下ノ御決心如何ニ存ス。之ヲ御承諾アルトモ、又或ハ御拒《おこば》ミアルトモ御勝手タリト雖《いえど》モ、若シ御拒ミ相成ランカ、帝国政府ハ已《すで》ニ決心スル所アリ。其結果ハ果シテ那辺ニ達スルヘキカ。蓋《けだ》シ貴国ノ地位ハ此条約ヲ締結スルヨリ以上ノ困難ナル境遇ニ坐シ、一層不利益ナル結果ヲ覚悟セラレサルヘカラス」
見島の高句麗式墓制ジーコンボ古墳群
近世の萩焼のことから、現代の伊藤博文のことまで、古代のそれからすると、はなしが大幅に横へそれてしまったようであるが、翌日の月曜はよく晴れた天気となった。萩市役所近くの旅館で目をさました私は、午前九時すぎとなるのを待って、さっそく市役所のなかにある萩市教育委員会をたずねた。
そして社会教育課長の谷井季夫氏に会っていろいろな資料をもらったり、聞いたりすることになったが、私がもう少しよく知りたかったのは、これも萩市となっている見島のジーコンボ古墳群のことであった。だいたい、私が見島のジーコンボ古墳群のことをさいしょに知ったのは、これは偶然のことで、一九八一年一月に広島へ旅行したときみた、同市で出ている中国新聞によってであった。
この新聞は「文化のルーツを探る」というシリーズものをつづけていて、たまたま私が手にした一月二十七日付けはそれの第十二回目、「郷土の遺跡めぐり=山口県編」の終回で、その見出しがこうなっていた。「ジーコンボ古墳群/二〇〇基を超す積石塚/対外防衛基地示す遺品類」
私がこの記事にまず目をひかれたのは、こんな萩市の見島に、どうして古代朝鮮三国の一国であった高句麗の墓制といわれる積石塚古墳群があるのか、ということだった。以来、ずっと気になっていたもので、いまその萩まで来たからには、なによりもまずそこまで行ってみるといいのだが、しかし萩市とはいってもそこは遠い海上の孤島で、いまみた新聞にもそこのことがこうある。
見島は萩市の北方四〇キロの沖合に浮かぶ、周囲一八キロの孤島である。萩市浜崎町の渡船場から一日二往復の定期船が出る。約二時間半の船旅だが、冬場になると天候によって運休になることも多い。天然記念物に指定されている小型で丈夫な見島ウシが生息し、やはり天然記念物のイシガメとクサガメがいる。
私はまた、朝鮮牛である「見島ウシ」をみるためにも見島まで行ってみたかったが、しかしそこまで行くとなると、どうしても一泊二日以上とならないわけにゆかなかった。で、そこまで行くことはあきらめることにして、市の教育委員会でもらった資料などにより、それをかいまみることにしたのだった。
さいわい、その資料の一つである山口県埋蔵文化財調査報告第七三集『見島ジーコンボ古墳群』は写真も豊富で、七世紀から九世紀にかけてのものだというその古墳群の一端は充分うかがい知ることができた。問題となっている銅製の帯金具(〓帯《かたい》)も鮮明なカラー写真となって収められている。
見島牛が証明する渡来説
いま「問題となっている銅製の――」と書いたが、なぜかというと、見島のジーコンボ古墳群からその帯金具が出土したことで、それがさきの中国新聞の記事にみられたように、「対外防衛基地示す遺品類」ということになったからであり、さらにまた、一九八三年二月十日付け読売新聞(西部)になると、「萩・見島にも/防人〈さきもり〉がいた?/指揮官の帯金具出土/古代史の定説覆す」ともなっているからである。
「古代史の定説覆す」とは大げさであるが、それはどういうことかというと、同記事にもあるようにジーコンボ古墳群はそれまでは、「身分の高い人の流刑地説、朝鮮半島の古代国家からの亡命帰化人が移り住んだとする大陸帰化人移住説、同じく大陸の古代国家の兵士が進出してきたとする大陸古代国家駐屯説、本土人の墓域として築造されたとする日本本土人墓地説」など、いろいろ説があった。それが「帯金具出土」ということで、一挙に「対外防衛基地」で「防人がいた?」となり、帯金具はその「指揮官」のものではないか、ということになったのである。
しかしながら、だいたい、そのような帯金具は、なにも見島のジーコンボ古墳群からばかりでなく、日本全国いたるところで出土しているものなのである。たとえば、古代朝鮮からのそれを示した斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」をみると、奈良県などの畿内はもとより、愛知県額田《ぬかた》郡幸田町の青塚古墳や、ジーコンボ古墳群と同じ積石塚である長野県須坂市上八町の鎧塚《よろいづか》古墳、長野市松代町の笹塚古墳などからも出土している。
要するに、ここで結論をいうとすれば、いろいろな説があるなかで、やはり見島のジーコンボ古墳群は、積石塚という高句麗の墓制をもった「朝鮮半島の古代国家からの亡命帰化人が移り住んだとする大陸帰化人移住説」、すなわちその渡来人ののこしたものであるということに、私は賛同しないわけにはゆかない。そのことは、国指定の天然記念物となっている「見島ウシ」の生息ということからも、うなずけるのではないかと思う。この「ウシ」のことは、『萩市の文化財』にこうある。
見島ウシは和牛の原形をなすもので、朝鮮半島から渡来した当時の姿をそのままに伝える見島特産の牛である。
役用種で毛色は黒褐色、体高は平均雌で一・一七メートル、雄で一・二五メートルである。小柄ながら体はよく締まり、体のつり合いも良い。角は小形で外上方に開き、やや横に伸びている。四肢は短く、ひづめも短く強靭《じん》である。
この牛がいつどのようにして、朝鮮から渡って来たものかはわからない。しかしそれはどちらにせよ、牛だけがひとりのこのこ海を渡って来たものだったはずはなく、これもやはり人間の渡来とともにやってきたものであったにちがいない。
なお、ジーコンボ古墳群のジーコンボとは見島の地元民のあいだではお爺さんをジーコ、お婆さんをバーコと呼んでいるところからジーコの墓、すなわち祖先の墳墓ということからきたものという。
そのほかのものとしては、二宮啓仁氏の『防長の琳聖太子伝説』によると、萩の南古萩町や三見《さんみ》には、あとでみる大内氏族の祖となっている百済聖明王の第三子という琳聖《りんしよう》太子ゆかりの円政寺や善照寺があり、また、毛利家の菩提寺であった東光寺には、百済渡来の薬師如来立像があるが、そのような寺院はこれからもたくさんみることになるので、省略ということにした。
穴門=長門の弥生文化
大内義隆主従の墓所
萩から国鉄山陰本線の下関行に乗っていた私は、やはりここもという気持ちになり、長門《ながと》市でおりた。長門市は萩市とおなじ中小都市の一つで、しっとりと落着いた感じの街がひろがっていたが、私がこの長門市をおとずれたのは、こんどで三度目ではなかったかと思う。
一度は五、六年前、宇部市まで講演に来たおり、『歴史の宇部』などの著書がある上田芳江氏と、同市教育委員会社会教育課文化係長の上野百合人氏の案内するクルマで、山口県のほぼ全域をひとまわりしたときのことだった。そして二度目はさらに早く、一九六九年十月、十日ほどかけて、友人の鄭貴文といっしょに山陰・山陽の中国地方をひとまわりしたときのことであった。
以上、二度とも私は長門市深川《ふかわ》湯本にある大寧寺をたずねたが、こんどもまたそこへ寄ってみた。境内の裏手に「大内義隆主従の墓所」があったからであるが、それはあいかわらず、苔《こけ》むしたかたちでそこにあった。前記『山口県の歴史散歩』をみると、その墓のことがこうある。
遊仙窟《ゆうせんくつ》という境内裏手の山腹の谷間にある歴代住職の墓地の西がわに、大内義隆主従の墓(県史跡)がある。晩年、義隆が文弱にながれて武断派をうとんじるようになると、重臣陶晴賢《すえはるかた》はいさめたが、かえって相良武任《さがらたけとう》、杉重政らのざん言をきくようになったので、ついに一五五一(天文二〇)年、晴賢は義隆をおそい謀叛をおこした。義隆、義尊父子と家臣たちは山口から逃走し、青海島西円寺にいたり、ここから海路豊後《ぶんご》へわたって再挙をはかろうとしたが、武運つたなく深川湾で逆風にあい只《ただ》の浜という海岸から大寧寺へおちのびた。その夜は一三世異雪《いせつ》和尚と対話して心をなぐさめたが、翌九月一日敵勢におしよせられ自害した。墓石は萩石とよばれるもので、義隆、義尊父子のものはいちだんと大きく、高さは目通りほどあり、他はほぼ腰高ぐらいの高さである。義隆以下三三柱の墓はいずれも宝篋印塔《ほうきよういんとう》形式のもので、墓石の建立年代はあきらかではないが、室町末期から江戸初期のおもかげがうかがわれる。
大内氏と大内文化
ここにみられる大内義隆とは大内氏第三十一代目のそれであるが、この大内氏族は古代から中世にかけての、中国地方最大の豪族であった。とくにこれからみる長門・周防の文化は「大内文化」ともいわれるほどなのである。
したがって、のちにみるその祖である琳聖太子《りんしようたいし》のものという周防《すおう》の大日古墳や同系統の神社・寺院など、われわれはこれから随所にその遺跡をみることになるので、萩とおなじくここでもこれ以上大内氏のことにはふれないことにしたい。ただ、その大内氏族とはいったいどういうものであったか、そのアウトラインを、高柳光寿・竹内理三編『日本史辞典』によってみておくことにする。
おおうちし 大内氏 南北朝から室町時代、山陽・山陰の西部一帯を支配した守護大名。姓は多多良《たたら》氏。百済聖明王の第三子琳聖太子の子孫という。地方豪族として周防権介を世襲。〈第二十四代〉弘世の時足利氏に属して戦功あり、本拠を山口に移して発展。子義弘は六か国の守護職を兼ねた。代々明・朝鮮交易で富強を誇る。応永の乱で一時衰退したが、弟盛見らが家運を再興。義興は十代将軍足利義稙〈よしたね〉の管領代となり、義隆は七か国守護を兼領し文化の興隆をみたが、一五五一(天文二〇)家臣陶晴賢に討たれのち滅亡。
深川窯の思い出
なお、長門市の深川湯本には、さきの「萩・見島のジーコンボ古墳群」の項でみた萩焼の深川窯があって、そこにもまた寄ってみたかったが、しかし私はこの日のうちに下関まで行くつもりだったので、そこも省略とするよりほかなかった。かわりに、というか、一九六九年十月にたずねたときの「日誌」をみるとこうなっている。
――山あいの谷間となっている深川窯に李勺光より第十四代という坂倉新兵衛氏の窯場をたずねる。高麗《こま》山麓にあるのがそれだったが、しかし、坂倉氏は個展のため大阪へ行っていて不在。
若い男女二人のお弟子さんに、もてなしを受ける。山の中で働いている二人、とても感じがいい。坂倉氏の窯はなかなか発展しているらしく、窯場にも活気が感じられる。――
いまからすると、もう十数年もまえのことであるから、あのときの「若い男女二人」もいまではそれぞれ一人前の陶工となっているにちがいなかった。そんなことを思いながら私は列車に揺られていたが、長門市を出ると間もなく、長門古市《ながとふるいち》で大津郡日置《へ き》町となった。
「日置――」と私は思った。その町名が「日置造高麗国《へきのみやつここまのくに》の人、伊利須意弥《いりすおや》より出《い》づ」(『新撰姓氏録』)というその日置からきているとすれば、そこには高句麗系の渡来人集団のいたところにちがいなかった。
穴門と都怒我阿羅斯等
しかし、それも省略ということにしたが、ところで、私がいま来ているそこはかつての長門国であった。だが、それ以前は穴門《あなと》または穴門《あなと》国となっていたところであった。『日本書紀』などには「穴門・穴戸」と二通りつかわれているが、前記『日本史辞典』をみるとこうなっている。
ながとのくに 長門国 現在の山口県の一部。長州。山陽道の一。中国。古くは穴門・阿武の国造が支配、大化改新で穴門国となる。六六五(天智四)以降、長門国とみえる。国府・国分寺は下関市。
ここにいう「穴門・阿武の国造」とは何であったかが問題であるが、私は少なくとも「穴門・穴戸」とは、古代南部朝鮮にあった加耶《かや》(加羅《から》)諸国のうちの安那《あな》(安耶・安羅ともいう)からきたものではなかったかと思っている。穴門《あなと》・穴戸《あなと》というのは、「安那人《あなびと》の居所」ということで、そのことは『日本書紀』垂仁段にある都怒我阿羅斯等《つぬがあらしと》の渡来のくだりをみてもうかがい知れるが、川副武胤氏ほかの現代語訳によるとそれはこういうふうである。
御間城《みまき》〈崇神〉天皇の御世に、額に角が生えた人が、ひとつの船に乗って越国《こしのくに》の笥飯浦《けひのうら》(福井県敦賀市気比神社付近)に碇泊した。したがって、そこを名づけて角鹿《つぬが》〈敦賀《つるが》〉というのである。その人に、
「どこの国の人か」と尋ねたら、答えて、
「意富加羅国《おほからのくに》の王《こきし》の子で、名は都怒我阿羅斯等《つぬがあらしと》、またの名は于斯岐阿利叱智干岐《うしきありしちかんき》といいます。人づてに、日本国に聖皇(崇神天皇をさす)がおられるとうけたまわって、帰化したのです。穴門《あなと》(後の長門国西南部の古称)に至ったとき、その国に、名を伊都都比古《いつつひこ》という人がいて私に語って、『われは、この国の王である。自分のほかには、また別の王がいない。だから他のところに行ってはならぬ』と言いました。しかし、私は、よくよくその人となりを見て、けっして王ではないことを察しました。そこで、またそこから退去しました。しかし道がわからなくて、島々や浦々をさまよいました。北海《きたつうみ》(南部日本海)を廻って、出雲国を経て、ここにまいりました」と言った。
まず、一般的にわれわれは『日本書紀』をどう読むか、ということがあるが、ここにみられる都怒我阿羅斯等の伝説は、新羅・加耶系渡来人集団の象徴となっている天日槍《あめのひぼこ》のそれと同じものである。そしてこの伝説は、林屋辰三郎氏も書いているように(「古代の但馬文化」)、日本に弥生文化をもたらした「農耕氏族集団が朝鮮から渡って来た」ことを語ったものなのである。
そのことは、長門のとなりの石見《いわみ》(島根県)の江津市に大飯彦命神社があって、「当地に稲作を伝えた」都怒我阿羅斯等がそれの祭神となっていることからもわかるが、だいたい都怒我阿羅斯等とは、これも当地に「笥飯《けひ》」(天日槍を祭神とする気比《けひ》神宮の「気比」もこれからきている)すなわち「御食津《みけつ》」の稲作をもたらしたもののことなのである。穴門=長門におけるそれは、これからみる土井ケ浜、綾羅木《あやらぎ》の弥生遺跡によって、いっそう明らかになるはずである。
土井ケ浜遺跡出土の人骨二百余体
列車は特牛《こつとい》をすぎると、次の次が長門二見であった。私はこの長門二見でおりたが、それにしても「特牛」と書いて「こっとい」とは何ともむつかしい地名であった。高橋文雄氏の「山口県下の朝鮮語関係の地名」によると、これも朝鮮語からきているらしいが、よくはわからない。
長門二見駅からはバスで、豊浦郡豊北《ほうほく》町神田の土井ケ浜遺跡はわりに近かった。まず、前記『山口県の歴史散歩』によって、この遺跡をみておくことにする。
長門二見駅からバスで矢玉《やたま》港をすぎ神田につく。海がわに標識があって、養老院前の一画の広場に約七〇メートル平方の敷地が土井ガ浜遺跡として保存されている。全体は砂浜の砂堆丘で、弥生時代の共同墓地ということができる。昭和二八年から昭和三二年にかけ発掘調査が行なわれ、弥生末期の土器をふくむ二〇〇余体に及ぶおびただしい人骨が出土した。埋葬は、仰臥屈葬《ぎようがくつそう》、頭位は多く東向きで、箱式石棺の積み方がとられていて、棺内に単葬のものもあれば合葬のものもあって一定ではない。
とくに人骨が棺内で消滅しなかった理由としては、この地が海岸線から三〇〇メートルほど内陸にあって、棺内をおおうように砂堆丘がかさねられ、水はけのぐあいが自然独特の作用をはたし、湿度・乾燥度が棺内に一定の条件をあたえたものとみられ、ほとんど完全なすがたの人骨が出土することになった。
敷地内に、発掘された状況で石棺が保存されているが、考古館も建てられており、館内には出土した土器・石斧《せきふ》・石鏃《せきぞく》・貝腕輪《かいうでわ》などの装身具が陳列してある。さらに、出土した弥生時代人骨がケースにおさめられている。
私は考古館を管理している近くの養老院の人にたのんで、館内に陳列されている弥生時代人骨などからみせてもらったが、それが二千年以上もまえの人間の骨だと思うと、何ともいえない感動におそわれた。よくぞ今日までのこってくれたものだ、と思わずにいられなかったからである。
弥生文化はどこから来たか
この土井ケ浜遺跡にとってなによりも重要なのは、その弥生時代人骨が手の指先や足の指先の節々にいたるまでほとんど完全な形でのこっていたということであった。なぜかというと、そのことによって、それら弥生人がもたらした稲作農耕の弥生文化がどこから来たものであるか、ということが明らかになったからである。
そのことはすでに一九五三年から同遺跡を発掘した金関丈夫氏によって明らかにされた有名な事実であるが、かんたんにいうと土井ケ浜の弥生人はいわゆる縄文人よりは身長がはるかに高い、ということであった。つまり、「身長でははるかに高い、新しい一つの要素が、弥生文化とともに、おそらく南朝鮮から渡来した」(金関丈夫『日本民族の起源』「弥生人の渡来の問題」)ということだったのである。
それから最近でも、一九八三年十月三十日付けの統一日報という韓国系の新聞に、京都大学の池田次郎氏が今年二月に亡くなった「故金関丈夫博士の業績にちなんで」と副題された「韓半島から来た日本弥生人」という一文を発表している。そこで同氏は、「縄文時代の終りごろ朝鮮半島南部から北九州・山口地方へ移住してきた稲作農耕民たちは、縄文人より背が高く、細面であった」として、さいごにその稲作農耕の弥生文化についてこう書いている。
縄文時代も終わりに近く、東北アジアを原郷とし、朝鮮半島を南下してきた一団が北九州・山口地方に来航した。彼らは二万年以上も前にアジア大陸の南北から日本列島に到達し、狩猟生活に明け暮れしていた先住民とは、体質を異にする稲作農耕民であった。……
北九州を発進し東へ向かった混血の農耕民たちは、伊勢湾沿岸あたりまでは急速に広がったが、彼らは、そこで暫くの間、足踏み状態を続け、やがて弥生時代中期をまって東進を再開する。それは稲作の東漸を伴い、またたくまのうちに本州の北端まで達したが、弥生文化の先進的性格と混血による渡来系の体質は日本列島を北上するにつれて薄れ、津軽海峡を越えて北海道におよぶことはなかった。
ここにいう「混血」とはいわゆる縄文人とのそれをさしているが、この縄文人とはなにか、ということが問題である。最近では、それはアイヌのことではないかという説(梅原猛・埴原和郎『アイヌは原日本人か』)がたかまっているが、しかしそのことについては、ここではあまり立ち入らないことにする。
綾羅木郷から一の宮へ
綾羅木郷遺跡
土井ケ浜遺跡からの私は、さらにまた国鉄山陰本線の列車に乗り、いまは下関市となっている綾羅木《あやらぎ》郷遺跡へ向かった。そして、下関市一の宮町にある長門国一の宮の住吉神社にいたった。
さきにまず綾羅木郷遺跡であるが、これは別にまた郷台地遺跡ともいわれるもので、国鉄山陰本線の綾羅木駅からは、歩いて約十五分のところにあった。農家らしくないしょうしゃな住宅と畑とが入りまじっているゆるやかな丘陵地をのぼって行くと、目の前が柵をほどこされた草ぼうぼうの台地となった。
それが綾羅木郷遺跡で、そこに文部省と下関市教育委員会とによる「史跡 綾羅木郷遺跡」とした掲示板があってこうある。
所在地 山口県下関市綾羅木郷
〈史跡〉指定年月日 昭和四四年三月一一日
指定面積 三五、二四四平方メートル
遺跡説明 下関市綾羅木郷遺跡は、本州西端に位置する弥生時代前期の遺構群が包含される代表的な遺跡である。
明治三五年頃、付近で土器や、石器が発見されて以来、遺跡として知られるようになった。
昭和二五年頃から、下関市内の遺跡調査が進められ、そのご二度にわたって発掘調査が行なわれた。その結果、弥生時代前期の貯蔵用竪穴が約七〇〇、大小の溝、墓、そのほか古墳時代の住居跡が発見された。
指定地西側丘陵には、若宮古墳(前方後円墳)があり、東側一帯には、弥生時代の遺構が確認されている。
大陸からの影響を受けているこの遺跡は九州、山陰、瀬戸内海沿岸との交流を究明する糸口として、学問的に大変重要な遺跡である。
朝鮮と共通する出土品
その地にいた首長の墳墓といわれる西側の丘陵の若宮古墳も近くに見えていたが、さらにその西北には梶栗遺跡というのがあって、ここからは箱式石棺とともに、細形銅剣と多鈕細文鏡《たちゆうさいもんきよう》とが発見されている。この細形銅剣と多鈕細文鏡とは、朝鮮半島に独特のものであるから、そのことからみても、綾羅木郷遺跡はただ単に「大陸からの影響を受けている」というだけのものではないことがわかる。
要するに、この綾羅木郷遺跡もさきの項(「穴門=長門の弥生文化」)でみた土井ケ浜遺跡と同様のものであったわけであるが、なおまた、『下関の歴史と観光』「綾羅木郷遺跡」をみると、そこの弥生人の生活のことがこう書かれている。
大陸から伝わってきた生活技術に機織《はたおり》がある。ここでは紡錘車《ぼうすいしや》とぬい針が発見された。小さな平たい石の真ん中に軸棒を通して早く回転させながら麻糸をつむぎ、布を織りあげる。そして骨でつくられたぬい針で衣服をつくる。この原始的な方法で一人の女性が一年かかって織りあげる布がやっと二枚だといわれている。したがって家族だけのために、コツコツと布を織ったものであろう。
弥生人たちの生活は、生きるためだけのものであったかというと決してそうではない。いつの時代でも、つねに美しくありたいと願う女性の心は変わらないようである。
この時代の女性にもアクセサリーを身につける習慣があった。〈綾羅木郷〉遺跡からはひすいでつくられた勾玉《まがたま》、青く美しい色をした碧玉でつくられた管玉《くだたま》、直径二ミリの貝でつくられた小玉などが発見されている。アクセサリーには惜しいような美術品である。
「綾」は「安耶」
そういう勾玉や管玉も、朝鮮の先史遺跡から出土しているのと同じものである。ばかりか、だいたい、綾羅木郷という「綾羅」「綾羅木」ということからして、さきの項でみた穴門《あなと》(長門)がそうであったように、これも古代南部朝鮮にあった加耶(加羅)諸国のうちの安耶《あや》(安羅《あら》・安那《あな》)からきたものだったはずである。
このことでは、私は山口県岩国市岩国に住む庄司忠氏からの手紙で、「下関付近に綾羅木という村があり、唯《ただ》今は下関市に合併されております。あのアヤラギは勿論、朝鮮語の転訛したものでしょうが、どういう風に転訛したとお考えになりますか。アヤはどういうふうに解釈すべきでしょうか」という質問を受けている。
もちろん私も完全によく知っているわけではないが、綾羅木の「綾」は安耶(安羅・安那)ということであり「羅・耶・那」は朝鮮語で国土ということであるから、すなわちその安耶の国土から来(木)たもの、ということではなかったかと思う。同じ山口県の美袮《みね》郡美東《みとう》町には綾木《あやぎ》というところがあるが、これなども安耶来ということからきたものだったにちがいない。
文芸評論家の荒正人氏が自身の出自のことを書いた「ふるさと今昔・朝鮮につながる〈荒の〉姓」や、司馬遼太郎氏の『街道をゆく』7「砂鉄のみち」にもあるように、荒《あら》神社の「荒」や荒木(安羅来)も同様で、山口県宇部市東岐波《ひがしきわ》に住む渡辺市郎氏からの手紙によると、厚狭《あさ》郡楠《くすのき》町には元は白髭明神だった玉垂神社があり、これまた元は荒人神社だった住吉神社があるという。荒(安羅)人というこれなど、まだ生ま生ましいような感じさえする。
なおまた「荒」といえば、綾羅木郷などもそのうちにあった豊浦郡には荒木・荒木温泉があるが、江戸時代の考証学者である狩谷〓斎《かりやえきさい》によると、豊前《ぶぜん》・豊後《ぶんご》(大分県)のことを豊国《とよくに》ともいった、その豊国とは韓国《からくに》のことだそうであるから、もしそうだとすると、こちら豊浦郡の豊ということからして韓(加羅)だったということにもなる。しかしそれはどちらにしても、綾羅木郷遺跡は、さきにみた土井ケ浜遺跡と同様、古代南部朝鮮渡来のそれであることにまちがいはない。
下関市考古館
ついで私は、長門国一の宮の住吉神社をたずねるよりさきに、下関市唐戸《からと》(これも元は九州の唐津《からつ》が韓津《からつ》であったように、韓戸《からと》または韓門《からと》だったものではなかったかと思う)町にある下関市考古館をたずねた。もと英国領事館だった建物を活用した小ぢんまりした考古館だったが、しかしなかに展示されているものは、綾羅木郷遺跡出土の弥生式土器など、なかなか見ごたえのあるものばかりだった。
とくに中庭の展示場にある、同綾羅木郷遺跡から発見された「貯蔵用竪穴および溝をそのまま切取って復元した」ものが圧巻で、弥生人の生活の知恵を知るうえでも貴重なものであった。それからすると、これは時代がぐんとさがるが、李朝の白磁碗まで展示されていた。同考古館でもらった『下関市考古館案内』に形のよい写真がのっていて、それのことがこう書かれている。
朝鮮の李朝前期(今から約六〇〇年前頃)の白磁碗。秋根遺跡の中世の井戸の中から発見されたもので、我が国の遺跡から発見されたものとしては、数少ない貴重なものである。
秋根遺跡とはどういうものか私はよく知らないが、日本の遺跡からそれが出土したということでは、たしかに「数少ない貴重なもの」であった。遠い弥生時代から、中・近世の李朝時代にいたるまで、いかにも日本、ことに長門の下関と朝鮮とは「近いんだなあ」と思わないではいられない遺物となっていた。
長門国一の宮・住吉神社
下関市一の宮町にある長門国一の宮の住吉神社をたずねたのは、一つはそこに朝鮮の銅鐘があったからである。が、それよりもまず目をひかれたのは、思ったより広大な神社だったこととあわせて、国宝となっている九間社流造といわれる桧皮葺《ひわだぶき》の華麗な本殿であった。前記『山口県の歴史散歩』に書かれているそれからみることにする。
長門一の宮駅から一〇分ほど歩いたところに住吉神社がある。関門国道トンネル車道入口のてまえ二キロ、車でも自由にたちよれる。鳥居をくぐり、太鼓橋のかかる参道をとおり宝物館を右にみながら急な石段をのぼりつめれば本殿(国宝)、拝殿につく。祭神は表筒男命《うわつつのおのみこと》、中筒男命、底筒男命の三命一座と、応神天皇、武内宿禰《たけのうちのすくね》、神功皇后、建御名方命《たけみなかたのみこと》の五座。このため本殿は五社殿をならべ、合《あい》の間《ま》で結合し、桧皮《ひわだ》ぶきの九間社流造《ながれづくり》のきわめて特色ある建築様式をとったものだ。
社殿正面は千鳥破風《はふ》をそなえ、春日造にもにており、流造と春日造の折衷様《せつちゆうよう》といえよう。この社殿は一三七〇(応安三)年、大内弘世《ひろよ》が再建し、数次にわたり修理をへたものだが、よく創建当初のおもかげを残し、室町初期の神社建築の特異な様式を伝えている。本殿前の拝殿も切妻造《きりづまづくり》 、破風をかまえ、どうどうとした安定感をもっている。……
〈宝物としては〉三条西実隆《さねたか》など、室町時代に著名の歌人二九名の和歌短冊を一帖にした「住吉社法楽百首和歌短冊」一帖(重文)があり、毛利秀元(長州藩祖)奉納の蒔絵《まきえ》短冊箱一合(重文)等もみられ、べつに朝鮮鐘(重文)一口も所蔵されてある。朝鮮鐘は現存するものはきわめてすくなく、もと本社鐘楼につるしてあったが、現在宝物館に陳列されている。
「この社殿は一三七〇(応安三)年、大内弘世が再建し、数次にわたり修理をへたものだが、よく創建当初のおもかげを残し」というところがなかなかおもしろいところである。大内弘世とはもちろん、さきの項でみた百済聖明王の第三子琳聖太子の子孫という、大内氏第二十四代のそれであることはいうまでもない。
かれがこの社殿を「再建し」とあるけれども、それは、「住吉神社を創祀したのは神功皇后」ということになっているからなのである。すなわち『長門国一の宮/住吉神社略記』にそのことがこう書かれている。こういう神社の「由緒書」によくみられるしちめんどうな文章であるが、いまなおこんなことが、――とある意味ではおもしろくもあるので、それをここに引いてみることにしたい。
住吉大神は神代の昔、伊奘諾尊《いざなぎのみこと》が、筑紫《つくし》の日向《ひむか》の小戸《おど》の橘《たちばな》の檍原《あわぎはら》で祓除《みそぎはらい》をされ、黄泉《よみの》国《くに》の穢れをお清めになった時、出現された神であります。仲哀天皇の九年、神功皇后さまが新羅国を征討されるため、自ら神主となって斎宮《いわいのみや》に入り、天神地祇に戦勝をご祈願になった時、再びあらわれて、「吾和魂《わがにぎみたま》は王身《みみ》に服《したが》いて寿命《みいのち》を守り、荒魂《あらみたま》は先鋒《さ き》となりて師船《みいくさのふね》を導かん」とお教えになりました。皇后さまはその神託のまにまに進軍し、ご神助のもと、刃に血ぬらずして新羅をご征討、続いて高麗・百済の両国をも降伏させて凱旋されました。凱旋ののち、「吾荒魂を穴門《あなと》の山田邑《やまだのむら》(現在地)に祀れ」との御神誨《みおしえ》を仰ぎ、神恩奉謝のため、この地に祠を立てて、住吉三神の荒魂をお祀りになり、穴門直《あなとのあたい》の祖践立《ほんだち》を神主として奉仕させられました。これが住吉神社の起りであります。
下って醍醐天皇の延喜の御代、式内社として名神大社に列し、続いて長門国一の宮と仰がれ明治の御代に及び、同四年の国幣中社に列格、同四十四年官幣中社に御昇格になりました。終戦後は国家の管理から離れ、神社本庁所属の別表神社として、御神威はいよいよ高く、御神徳はますます赫々《いやちこ》で、お祓の神、産業興隆の神、水陸交通の神、開運長寿の神、また文道風月の神として霊験いちじるしく、上下一般の広く深い崇敬をおうけになっております。
いわば、典型的な皇国史観によるそれで、いまどきこのようなことをそのまま信じる者はいないであろう。とすると、「この社殿は一三七〇(応安三)年、大内弘世が再建し」ということがある意味をもってくることになる。
すなわち、長門国一の宮となった住吉神社はもしかすると、この地一帯を領していた大内氏族の氏神で、はじめはその祖である百済聖明王などを祭ったものであったかも知れない。これからもみるように、あれだけ強大を誇った大内氏族には、その祖神を祭った神社がないというのも気になることである。
住吉神社の朝鮮鐘
しかし、それはどちらにせよ、私は住吉神社にある朝鮮鐘をみるべく、そのことを社務所にたのんだところ、若い神職が鍵束を持ってそれのある宝物館へ案内してくれた。宝物館の前に立つと、神職が言った。
「お名刺をいただくことになっているのですが」
「そう、そうですか。それは失礼しました」
私はあわてたように、さっそく自分の名刺をとりだしてわたした。すると、
「ああ――」と言って、神職は私の顔をみた。あとで知ったが、この神職は私の小説作品を読んだことがあるという津田勉氏という人だった。こうなると、ことは早い。
宝物館のなかにある朝鮮鐘は、これまでみてきたそれとしては、実にみごとなものの一つであった。『下関の歴史と観光』「住吉神社」にその鐘のことがこうある。
高さが一・五五メートル、口径が八四センチもある朝鮮鐘である。
朝鮮鐘という名のとおりこれは朝鮮で作られた釣鐘で、今から約九百年前、高麗初期のものと考えられているが、どのようにして、この地に渡ってきたのだろうか。……
この鐘には羽衣をたなびかせた美しい天女が二人向い合わせに浮き彫りされている。撞座《つきざ》があることからして、当然のことながら撞き鳴らしていたのであろうが、ただそれだけでは天女がかわいそうな気がする。
若い恋人が二人で、この鐘にさわると結ばれるという言い伝えがある。そんな語り伝えが生まれるような天女の姿は、おおらかな美しさで私たちに語りかけるようである。
私は鐘のことにくわしくはないが、「今から約九百年前、高麗初期のものと考えられている」とあるけれども、この朝鮮鐘はもっと以前、新羅にまでさかのぼりうるものではないかと思われた。鐘に浮き彫りされた天女の姿に見入っていると、神職の津田さんがいつの間にか、宮司の堀熊弥彦氏をそこへともなって来ていた。
あいさつをかわしてみると、宮司の堀熊さんは、これまでは京都市平野宮本町にある今木(来)神、すなわち百済聖明王ほかを祭神とする平野神社の宮司で、住吉神社にはついさいきん赴任して来たばかりだとのことだった。
「そうでしたか。そういえば、この住吉神社も大内弘世が建てたものですね」と私が言うと、
「そうです。わたしは、朝鮮に縁が深いようです」と言って、堀熊さんは笑った。
で、私は、「それならまず、この住吉神社の『由緒書』を何とかしなくては……」と言おうかと思ったが、しかしそのことはだまっていることにした。
大内氏族と朝鮮
琳聖太子ゆかりの寺
下関にはほかにまた、住吉神社を建てた大内氏の祖となっている百済聖明王の第三子という琳聖太子ゆかりの寺院が三つほどある。一は観音崎町にある永福寺であり、二は南部《なべ》町の専念寺、三は松屋の常元寺であるが、それらは、二宮啓仁氏の『防長の琳聖太子伝説』によるとこうなっている。
観音崎にある永福寺(臨済宗)は、琳聖太子が推古十九年に自ら開創し、その護持仏=観世音菩薩像を安置したと伝えている。その像は高さ一寸八分の小仏で、運慶作と伝える千手観音の胎内仏とされていたが、残念なことに昭和二十年七月二日の米軍機による下関大空襲下、国宝指定の仏殿とともに滅燼、そのとき古記録も一切が焼失した。
また南部《なべ》町にある専念寺(時宗)も、同じく推古十九年、琳聖太子の開創と伝えられている。……下関市大空襲のさい、この寺も烏有に帰したが、住職の機転によって如来像は境内庭園の泉水に沈められ、火難を免れ得た。しかし古記録類は、その伽藍とともに一切灰燼となった。
下関市の東端、松屋の蓬莱山常元寺(浄土真宗)は、大内家の裔孫を称する伯氏の董する寺であるが、もとは長寿坊と号する法相・真言二宗兼学の寺であり、その室町時代の本尊は琳聖太子の念持仏たる観音菩薩像であったと寺伝にある。しかしその像は江戸初期に、この寺の分家である松屋伯野氏に移安され、更にその家から他家に嫁いだ娘の守り本尊となるなどして、今は東京にある。
筆者の二宮啓仁氏は、宇部短期大学の講師であると同時に、厚狭《あさ》郡山陽《さんよう》町の清安寺住職でもあったから、寺院のことはさすがにくわしい。これでみると、一つの仏像にしてもいろいろな運命をたどるものであることがよくわかる。
『防長の琳聖太子伝説』の防長とはもちろん周防・長門、すなわち山口県のことであるが、この防長、あるいは長周(長門・周防)はいまみたような、琳聖太子の伝説のひじょうに多いところである。われわれはこれからもその伝説、あるいはその遺跡となっているものをたくさんみることになるが、ところで、これはいうところの伝説・伝承となっているものである。
しかしながら、さきの「穴門=長門の弥生文化」の項でもちょっとみているように、そのような琳聖太子を祖とする大内氏ははっきりした歴史上の生きた人物群である。そこで私は、長門・周防という順序からすると、長門としてはあと山陽町・小野田市・宇部市などを残しているが、これからはその順序にこだわらず、こちらは周防となっているいまの山口市を中心地としていた大内氏族と、その文化遺跡とをさきにみることにしたい。
そうして、その大内氏の祖となっている百済聖明王の第三子という琳聖太子の伝説・伝承、または遺跡をみることにする。
大内氏の政治支配形態
まず、三坂圭治氏の『山口県の歴史』によって、「大内氏略系図」および「大内氏の分国支配状況」をみると次頁(本電子文庫版では割愛)のようになっている。
これをみると嫡流《ちやくりゆう》ではない傍流からは、「宇野氏祖」「問田氏祖」「鷲頭氏祖」などなどが分かれ出ているのもおもしろい。つまり、琳聖太子を遠祖とするのは、大内氏だけではないということがこれでわかるわけである。
そして同『山口県の歴史』は「4 大内氏の政治と文化」として、「山口守護所の組織」のことがこう書かれている。
山口の守護所は、大内氏の領国を支配する中央政府であった。その中心をなすものは、政所《まんどころ》・奉行所・侍所《さむらいどころ》・記録所などであって、大内氏の領国支配は、政所における譜代重臣の評定によってその基本方針が決定され、奉行所がそれをうけて政令を発し、領国の代官に伝えて執行を命じた。侍所は家人《けにん》の進退・検断のことをつかさどり、記録所は記録の作製・保管にあたった。
地方の行政は分国ごとに守護代をおき、その属吏に小守護代・守護使・郡代・段銭《たんせん》奉行などがあった。大内氏の場合、守護代の権限は一国の守護に匹敵し、軍事および警察権をもって管国の政治を統括した。小守護代は守護代を補佐し、守護代が留守のときにはその職務を代行した。守護使は諸郡の田畑を検査して租税の催促にあたり、郡代は郡内の庶務を管理し、段銭奉行は段銭の賦課・徴税にあたった。
領内の住民には軍役に従事する武士と、凡下《ぼんげ》あるいは甲乙人《こうおつにん》とよばれた一般庶民とがあった。武士は侍と郎従との二階級にわかれ、侍は主家との関係の親疎によって御家人《ごけにん》と非御家人とに区別された。御家人は大内氏の親衛隊として、もっとも尊重された家格である。……凡下の大部分は農民をもって占められ、そのなかには田地の所有者である名主《みようしゆ》と、名主の田を小作する作人《さくにん》・名子《なご》などがあった。番匠《ばんしよう》(大工)・鍛冶《かじ》などの手工業者や、商人なども凡下のなかにふくまれていた。
「大内氏の分国支配状況」をみると、周防・長門・豊前・筑前・石見・和泉・紀伊と、いまの山口県はもとより、福岡県・島根県・大阪府下・和歌山県にわたる第二十五代義弘のそれがもっとも多い。
ついで第三十一代義隆がそれと同じ数であるが、これはもう、山口を「中央政府」としていた連邦王国のようなものであった。そしてその支配形態は武士対凡下(農民)という、近世まで変わらぬそれであったようである。
それは当時の朝鮮でも、官人対農民という同じような支配形態となっていた。
朝鮮に対する大内氏の奇抜な要求
ところで、第二十五代義弘は、その朝鮮に対してたいへんおもしろい要求をしている。前記『山口県の歴史』は「百済王後裔のほこり」という項で、そのことをこう書いている。
大内義弘と朝鮮との通交は応永二年(一三九五)にはじまった。彼我の使節は毎年のように往来し、そのたびごとに親密さを増したが、応永六年(一三九九)七月、義弘は突然、朝鮮国王の定宗にあてて大内氏が百済王の後裔であることを述べ、「日本では自分の家系を知るものがないので、それを証明するために、百済国王がもっていた土地を少しわけてもらいたい」と申しいれた。
こんなことは今日ではもちろんのこと、当時でもおどろくべきことであった。ところがこれまたおもしろいことに、当時の朝鮮国王は義弘の要求を受けいれ、「義弘はもと百済国の始祖温祚王高氏の後裔である。その祖先が難を避けて日本に渡り、世々相承《あいう》けてついに六州の太守となった。最も貴顕な家柄である」(朝鮮の『定宗実録』)ということで、実際に朝鮮の土地を分けあたえようとしたのであった。
けれども、このときは朝鮮王朝内での反対が強く、結局うやむやとなったが、しかし、そのことは第二十八代教弘となったときまたむし返された。前記『山口県の歴史』によってみることにする。
教弘は享徳二年(一四五三)五月に僧有栄《ゆうえい》を朝鮮に派遣して端宗《たんそう》の即位を祝し、自分の家系を明らかにするためにと称して琳聖《りんしよう》太子の日本入国記を求めた。これに対する端宗の回答は、朝鮮の古い記録を調べてみたところ、「日本六州の牧、左京太夫(義弘)百済温祚王高氏の後、その先、乱を避けて日本に仕う、世々相承けて六州の牧に至る。尤《もつと》も貴顕たり云々」とある。すなわち、義弘が定宗に土地を求めたとき、定宗が義弘の功績をたたえて述べた言葉を『定宗実録』のなかからさがしだして、そのまま書き抜いて有栄の帰国に託したのである。
このとき端宗はこの返書といっしょに、通信符の印を教弘に贈った。この印は銅材でつくられ、現在は防府市多々良の毛利博物館に所蔵され、重要文化財に指定されている。印面の中央を縦に二つに切り割った右側の半分で、その側面に「朝鮮国賜大内殿通信右符 景泰四年七月日造」と彫りこんである。大内氏の使船がこの印を押した通信符をもって渡航すると、朝鮮では左半分の印影と照合して正規の使船であることを確認し、交易を許可するしくみであった。このことは交易の自由を保証されたことを意味し、大内氏にとっては大きな特権であった。
教弘は大内氏歴代のなかでも、とくにすぐれた文化人であった。端宗の返書はかれが期待した「琳聖太子日本入国記」ではなかったけれども、祖先の事跡が朝鮮国の正式な記録に残っていることを知って、百済温祚王の後裔という自分の家柄に満足したことであろう。この気持は最後の〈第三十一代〉義隆にいたって頂点に達する。義隆が家臣の陶晴賢《すえはるかた》に殺されてまもないころに書かれた「義隆記」によると、
義隆の御心中には、先祖は王子の事なれば、公卿にならせ給はん事、勿論したる事なり。
とある。戦国の世に、荒れ果てた京都を見捨てて、西にくだってきた多くの公卿を山口に迎え、日本の伝統の文化に接すれば接するほど、義隆は自分の祖先が百済の王子であったということに大きな誇りを感じ、みずから公卿化への道をたどったのであった。
山口の大内氏関係史跡
大内氏族も最後はそういうことで、ちょうど朝鮮(李朝)の最後がそうであったように、いわゆる文弱に流れたためほろびたわけであったが、そのかわりといっていいかどうか、山口が「西の京」といわれるほど、京都・公卿風の文化遺跡をあちこちにのこしている。
そのことは山口市教育委員会主査・松岡睦彦氏に「大内氏館にあふれる京の文化」という論文があることからもわかるが、その山口を私がおとずれたのは、こんどが三度目ではなかったかと思う。
まず、大内氏族ののこしたそれとしては、山口市上竪小路にこれも京都と同じく「祇園《ぎおん》さん」とよばれる八坂神社があるが、これは大内弘世が京都の八坂神社(「祇園さん」)を勧請《かんじよう》したもので、それに隣接して大内義隆を祭る築山神社がある。
それからまた神社としては、これも「西のお伊勢さん」とよばれる山口市上宇野令の山口大神宮があるが、これは大内義興が伊勢神宮を勧請したもので、これだけをみても大内氏族の京・中央志向がよくわかるように思う。
そのほかのものとしては、臼杵華臣氏の『山口』にある「大内氏関係遺跡・遺物」だけをみても次のようなものがある。
「△館跡(史跡)△築山館跡(史跡)△高嶺《こうのみね》城跡(史跡)△凌雲寺跡(史跡)△常栄寺庭園(史跡及び名勝)△瑠璃光寺五重塔(国宝)△洞春寺観音堂・山門(重文)△今八幡宮楼門・拝殿・本殿(重文)△古熊神社拝殿・本殿(重文)△手清水八幡宮本殿(重文)△清水寺観音堂・山王社本殿(県指定文化財)」
このうち私が行ってみることができたのはさきの神社・神宮や、館跡(史跡)と瑠璃光寺五重塔(国宝)などのほか、どういうわけかこれはいまみた『山口』にはのっていない山口市大内氷上の興隆寺などであるが、「館跡(史跡)」とは大内館跡のことで、いまは龍福寺ともなっているのがそれである。
その龍福寺はなにかのために凝縮したような感じの小さな寺だったが、前記『山口県の歴史散歩』にこうある。
八坂神社から国道九号線にのびる通りを竪小路《たてこうじ》という。この通りの東側一帯が館《やかた》のあと。八坂神社から二五〇メートルくだると左におれるみちがあり、このみちをすこしはいると左側に石畳の参道が五〇メートルつづき大内館跡にいたる。一三六〇(正平一五)年、大内弘世が山口にうつって館をさだめたところだ。政弘の時代には、雪舟・宗祇などが山口にきて、この館をおとずれている。朝鮮・明との交易によって、大内氏の経済力が周辺を圧し、山口が「西の京」といわれさかえていたときのころである。
龍福寺は一五五七(弘治三)年、毛利隆元が大内義隆の菩提寺として、この館のあとに建立したものだ。本堂は一八八一(明治一四)年の火災で焼失したので、当時吉敷《よしき》郡大内村にあった興隆寺(市内大内氷上にある大内氏の氏寺で、義隆寄進の梵鐘〈重文〉が有名)の釈迦堂をうつしたもの。本堂(重文)は室町時代の建物で、屋根は入母屋造、瓦ぶき、内部はケヤキのふとい丸柱、大きな虹梁《こうりよう》、板蟇股など、当時の寺院建築の特色をよく伝えている。
大内氏族の氏神である妙見神社だった興隆寺のこともここに書かれているので、それについてはただ、「(義隆寄進の梵鐘〈重文〉)」とは、下関の住吉神社でみたと同じような朝鮮鐘を模したものである、ということだけつけ加えておくことにする。
それからまた、山口の名産として、「大内塗・大内人形」というのがあるということを、私はこんど行ってみてはじめて知った。で、ある店にはいってそれについてのパンフレットをもらってみたところ、それにこう書かれている。
大内塗は、今よりおよそ六百年前、百済の琳聖太子を祖とする大内氏のもとに最も栄え、中国・朝鮮へも貿易の主流品として刀が月に二千三百振・朱塗の椀蒔絵箱・扇等々すぐれた塗物が多く輸出されました。
当時大内氏は、これらの財源を持って西日本一帯に絶大な権勢をふるい、西の京・山口づくりに励み、日本一の人口を擁す都として繁栄をきわめました。
応仁の乱によって荒廃した京都を去った公卿、学者、僧侶などの文化人がぞくぞくと、大内氏を頼って集まり、山口は京都をもしのぐ大文化都市となりました。
岩国から平生・周東まで
永興寺と六角亭
これまでは西のほうから長門・周防をみて、中心部の山口市にいたったわけであるが、こんどはそれを東の岩国からみることにした。
それで私は秋のある日、大阪在住の友人で、映画「江戸時代の朝鮮通信使」などをつくっている映像文化協会代表の辛基秀とともに、新幹線の新岩国駅におりた。まえもっての打合わせどおり、岩国に住む八ミリ映画同好会の池尚浩氏がクルマをもって、私も東京で顔見知りだった共同通信山口支局の平井久志氏といっしょにそこまで来てくれていた。
そこで四人となった私たちは、さっそく池尚浩さんの運転するクルマで出かけることになり、まず、錦川に架かった有名な反り橋の錦帯橋をへて、横山寺谷にはいった。その地名からもわかるように、この谷の両側にはかつて十ヵ寺がたちならんでいたとのことであるが、いまは永興寺《ようこうじ》と洞泉寺とがのこっているのみとなっている。
なかでも永興寺は、近世にいたっても岩国藩五ヵ寺の一つとなっていたが、いまはすっかり転退して、ふつうの住宅と化しつつあるようにみえた。したがってみるものは別にこれといってなにもなかったが、この寺については、二宮啓仁氏の『防長の琳聖太子伝説』にこうある。
〈岩国〉市内の横山寺谷の永興寺(臨済宗)は、鎌倉期の延慶年中(一三〇九)に大内弘幸が開基となり、仏国国師を開山として迎えた古刹であるが、その本尊=不動明王像は、琳聖太子が百済国から将来したものと伝えている。この寺は弘幸の子の弘世の代に春屋妙葩(普明国師)を招いて住持とし、堂宇も広大であったが、大内氏滅亡後は寺運の衰退を免れ得ず、明王像も同じく寺山にあった妙福寺に移安され、更にのちには山口にうつされたという。なお、市内川西の金正院の境内に天供堂と呼ばれるところがあるが、それは琳聖太子が星祭りの天供をそなえた所であると伝えている。
ここにいう「星祭りの天供」とは、これも琳聖太子が伝えたという妙見《みようけん》信仰のそれであるが、大内氏が滅びるとともに、岩国におけるその氏寺も、というわけだったのである。せめて、「琳聖太子が百済国から将来したもの」という「その本尊=不動明王像」がどういうものか、みることができればと思うが、それもいまはどこへ行っているか、わからなくなっているようである。
それから、この横山寺谷には、六角亭という朝鮮の建物が一つある。六角亭とは日本の四阿《あずまや》のようなものであるが、前記『山口県の歴史散歩』にこう書かれている。
この谷は、紅葉のいろづきがうつくしい。谷のおくにむかって歩いてゆくと、木立のなかの池畔に六角亭がある。陸軍元帥長谷川好道が朝鮮総督時代に、吉川広家の朝鮮の役(一五九二〜九九)における奮戦を記念して、京城〈ソウル〉の碧蹄館《へきていかん》にあったものを解体してはこび、ここに建てたものだ。かつて岩国からは軍人が多くでたが、長谷川元帥は寺内正毅《まさたけ》の後継者として岩国が期待をかけたひとだ。戦前の植民地主義時代の遺物というべきものだが、朝鮮風の様式をしめして珍しいものだ。
装束の浜
私たち朝鮮人としてはあまりいい見ものではなかったが、ついで私たちは、岩国市東北方海岸の装束《しようぞく》へ向かった。装束とはおもしろい地名で、由来はこれからわかるが、この装束にある「装束の浜」は、いまは一面埋立地となっていて、三井化学などの工場群がずらりとたちならんでいるばかりだった。
これでは古代はいったいどうだったか、知る由もなかったが、しかしたとえ埋立地がひろがっているにしても、古代からそこが瀬戸内海となっている海岸であることに変わりはなかった。前記『防長の琳聖太子伝説』をみると、そこが装束の浜となったのはこういうことからであった。
〈岩国市〉の最東北部、和木村と接する海岸を「装束の浜」という。そしてそれは琳聖太子がここに上陸して、装束を改めたに因むと『陰徳太平記』(巻二十九)にある。すなわち「昔、琳聖太子、当国多々良浜に着かせ給ひ、其れより玖珂郡岩国の庄和木の浦に御舟を寄せられ、陸に上り、御装束を奉りかへ給ひしによつて彼所を装束浜と申し候」とある。
もちろん伝承・伝説であるが、しかしそのことからいまなお「装束」「装束の浜」という地名がのこっているということには、一考を要するものがあるように思われる。江戸時代の碩学《せきがく》新井白石は、「上古の評言のありし儘《まま》に猶今《なおいま》に伝はれるは、歌詞と地名との二つなり」といっているが、「装束の浜」のばあいは、そういう地名の一つとみなくてはならないかも知れない。
だいたい、中国地方を中心に展開して栄えた大内氏族の祖となっている百済聖明王の第三子、琳聖太子にかかわる伝承・伝説地は長門・周防十郡にわたっており、「数においておよそ百件の伝説地がある」(二宮啓仁「百済王族の来日伝説」)という。「太子の上陸・寄港の地」からして、防府市多々良はじめ、小野田市江尻、山口市陶《すえ》、岩国市装束の浜と四ヵ所にわたっており、母后の上陸地という山陽町梶浦まで加えると、五ヵ所にまでなっている。
これはいったい、どういうことなのであろうか。というのは、琳聖太子はほんとうに岩国の装束の浜に上陸したのであろうか、ということであるが、しかし考えてみれば、それは太子自身でなくてもよいはずである。琳聖太子と、われわれは一人の名をとっていっているけれども、それはけっして、かれ一人が百済からのこのこ海を渡って来たというものではなく、琳聖太子集団といってもよいものだったはずである。
そうだとすれば、その一派が岩国の装束の浜に上陸したとみてもよいのではないかと思うが、とにかくいずれにせよ、装束の浜はそういうゆかりの地であることにまちがいないようである。そのことは、新井白石のいうその「地名」が「猶今に伝はれる」からばかりでなく、いまさっきみた、大内氏族の氏寺の一つであった横山寺谷の永興寺や、川西の金正院に伝わる、琳聖太子がそこで星祭りをしたという「天供堂」があるということからもわかる。
「琳聖太子自作」の千手観音像
装束の浜からの私たちは、そこをとおっている国道二号線を南下し、柳井《やない》市をへて熊毛《くまげ》郡平生《ひらお》町にいたった。その柳井、平生へは一九六九年十月、鄭貴文といっしょに山陰・山陽道をひとまわりしたとき来たことがあった。そしてそのときは、柳井市立図書館長の谷林博氏の案内であちこちとみて歩いたのだったが、なにぶん十数年もまえのことだったので、こんどあらためてまた、というわけだったのである。
こんども時間があれば、柳井市の図書館をたずねて谷林さんに会ってみたいと思ったが、なにしろ、私たちが新幹線の新岩国駅におりたのは午後になってからだったので、その時間がなかった。で、柳井市は素通りということになったが、しかし、この柳井にも琳聖太子にかかわるそれがないわけではない。
こう書くと、「また琳聖太子か」といささか食傷気味の向きもあるかと思うが、しかし私が追求している「日本の中の朝鮮文化」遺跡とかぎらず、長門・周防の古代となれば、この琳聖太子というものを抜きにしては考えられないのである。それに前記『防長の琳聖太子伝説』の筆者、二宮啓仁氏はその伝説地をすみずみまで歩いて、それを実によく調べている。たとえば、柳井市のそれをみてもこうである。
〈柳井市〉今市にある普慶寺は、空海を開基とするとの寺伝があるが、その寺に祀《まつ》る千手観音黄金仏(一尺二寸)が琳聖太子の自作であるという。
また真言宗の無動寺(阿月の畑)は、古くは海辺の面影山上にあったが、その開基は琳聖太子であるという。『注進案』によれば「百済国より琳聖太子、三明王二仏を将来し、本朝当国に至り西南の海に漂着し玉ふ。毎夜当山に見えて瑞光赫耀たり。太子奇異の思《おもい》をなし、彼《かの》光明の縁由を尋《たず》ねんと当山に来り玉ふ。山中に一の小池ありて、泉涓々として清水湧き出ず。池辺に黙然として童子一人たたずめり。……」とあり、太子将来の不動明王および制多迦・矜羯羅の二童子を安置し、北辰妙見を鎮守として祀った。本尊の明王(二尺八寸)と脇侍の二童子(二尺五寸)はともに毘首羯磨の作、鎮守の御神体は長五寸の木刻座像で、琳聖太子の自作と伝えている。
これでみると、百済明聖王の第三子という琳聖太子は仏像彫刻もよくしたようであるが、それで思いだすのは、これも同じ百済聖明王の第二子といわれる阿佐太子のことである。そして阿佐太子といえば、国宝となっている「阿佐太子筆聖徳太子御影」というもので、われわれが日常使用している五千円札や一万円札の聖徳太子像はこれがもとになっている。
百済聖明王の二子、三子ともが日本に渡来しているというのはどうしてかよくわからないが、その二子の阿佐太子は絵画、三子の琳聖太子は仏像彫刻と、どちらもそういう作品をのこしているというのはおもしろい。たといそれが伝承・伝説であるにしてもである。
平生の百済部神社
柳井から四、五キロさきの平生湾に面した平生町をたずねたのは、その湾口に百済部神社があったからだった。さきに来てみたことがあったので、その神社はすぐにわかった。
以前来たときよりはよく整備されているようで、こんもりとした森の小さな出島となっている神社は、さらによい形となっている。神社のこちらの集落も、百済部となっているところであった。
「へえ、こんなところに百済、百済部神社があったとは――」と、自身、百済(全羅北道)の出である池尚浩さんは、「百済部神社」とあるそこの扁額を見上げて、すっかりうれしくなったような顔をした。そして八ミリのカメラをまわしはじめたが、百済部のそこの平生湾は「韓《から》の浦」でもあったところで、そのことが『万葉集』にこうある。
沖べより汐みちくらし韓の浦に
あさりする鶴《たず》鳴きてさわぎぬ
それからまた、一九六五年に出た『平生町勢要覧』をみると、当時の町長であった松岡英介氏の寄せた「ごあいさつ」のなかにこういうことばがある。
平生町は歴史と観光に興味深い処で、四千年前の岩田遺跡、二千年前の弥生時代から千三百年代にわたる白鳥古墳、阿多田古墳、東前時古墳などがあり、中でも白鳥古墳は周防の県主《あがたぬし》の墓といわれております。
又、伝説に富む用明天皇の皇妃般若姫の陵も町内般若寺にあり、姫の供奉の遺臣この地に留り、その名が今は地名として数々残っております。平生湾は古代朝鮮貿易の基点でありまして、百済国の領事館風のものもあった証拠があります。
まず、ここにいう般若寺であるが、いまはどうか行ってみることはできなかったけれども、柳井市立図書館長の谷林さんからおくられた「大阪大成館銅版部」による古い「般若寺境内之図」をみると、ここにこんな寺院がと思われるほどの大刹《たいさつ》であった。平生町のこの般若寺については、前記『防長の琳聖太子伝説』にこうある。
真言宗般若寺は、高句麗僧=恵慈の開創と伝え、満能長者の娘〈般若姫のこと〉の哀話で知られているが、海中より出現の本尊仏=正観音自在菩薩(一尺八寸)の胎中に〈百済〉聖明王の護持仏である黄金製三寸の観音像を奉安しているという。
こうしてみると、平生も高句麗や百済と関係が深かったようであるが、しかし、そういうことがあるからといって、「平生湾は古代朝鮮貿易の基点でありまして」というのには、中世からならともかく、ちょっと疑問があるけれども、「百済国の領事館風のものもあった証拠があります」とはっきりいっているから、できればその「証拠」をさがしてみるとおもしろいのだが、もう時間がなかった。
秦氏ゆかりの二井寺
般若寺と同じように、その「証拠」も省略ということにして、私たちは日暮れを気にしながら、平生町北方の玖珂《くが》郡周東《しゆうとう》町をめざしてクルマを走らせた。そして私たちは周東町山中の道をあっち行き、こっち行きして、やっと二井寺をたずねあてたが、そのときはもう、あたりはすっかり暗くなってしまっていた。
そのうえ山中のせいか雨まで降りだして、そこにくろぐろとした姿を見せている丘陵が二井寺らしかったけれども、とてもそこまで足を踏み入れることはできなかった。山麓にある住持宅をたずねて、『二井寺・極楽寺』とした由緒書をもらってみるのがせいぜいだった。
もちろん、二井寺のことはこの由緒書にも書かれているが、三坂圭治氏の『山口県の歴史』にこうある。
玖珂郡周東《しゆうとう》町用田《ようだ》の二井寺《にいてら》は、天平十六年(七四四)玖珂郡の大領秦皆足《はたのみなたり》の創建と伝える。秦氏は新羅からの帰化族で、百済系の大内氏とならんで周防国一円に繁栄した氏族である。二井寺はその氏寺ではなかったかと考えられ、郡家のあった玖珂郷から二キロばかり離れた小高い山の上にあって、むかしは本寺を中心に、谷間谷間に二四坊が点在した。寺の名前は閼伽井《あかい》・桜井の二つの泉水に由来するという。のちに聖武天皇の勅願寺となり、後白河天皇が再建のとき一八坊に減少したが、中世には観音の霊場として近国に知られた。
これまでみてきた、あるいはまたこれからみるであろう長門・周防の古代遺跡はほとんどが百済系のそれであるが、こちら玖珂郡を中心に新羅・加耶系渡来人である秦氏族が大内氏族と同じように、「周防国一円に繁栄し」ていたとは、はじめて知ることであった。「谷間谷間に二四坊が点在した」とは豪勢なものであるが、玖珂郡ばかりでなく「周防国一円に繁栄した」からには、ほかにも支族・分族によるそういう氏寺や氏神社がたくさんあったにちがいない。
かなえの松・大日古墳
金輪神社と妙見信仰
周東町の二井寺から岩国へ戻り、前夜は池尚浩さん宅で一泊した私たちは、きょうも池さんのクルマで、岩国のはるか西南方となっている下松《くだまつ》市へ向かった。途中、柳井市西北方の大和《やまと》町に古代朝鮮式山城のある石城《いわき》山があったが、さらにまた岩国へ戻ることになるので、それはあとまわしとすることにした。
小雨が降ったりやんだりしていたけれども、それで困るというほどのことはなかった。下松市は瀬戸内海に面した港町ともなっていたが、なぜその下松をたずねたかというと、二宮啓仁氏の『防長の琳聖太子伝説』にこうあったからである。
この地もまた、琳聖太子伝説にとって一つの重い意味を持っている。『大内譜牒』に、琳聖太子の来朝に先立つこと二年(すなわち推古十七年)、この下松の海辺(都濃郡鷲頭庄青柳浦)の松の木に、大星が降りかかって七日七夜光り輝いた。そのとき神がかりした巫が北辰妙見であることを言い、異国の王子が来朝するので、その守護のために来臨したのであるとの託宣を述べた。土人はそこで社を建て、その星を北辰尊星大菩薩とまつり、浦の名を降松《くだまつ》と改めたのである、とある。
ところでその大星降臨の地は、今の下松駅のすぐ北側で、いま金輪神社が建てられている。社殿は小さいが、まわりは金輪公園となり、老松一本の傍に新しい石碑があって、それに「下松発祥の地、七星降臨鼎之松」と刻されている。なるほど松の枝は三本に分れておるが、それほどの老樹ではない。
私たちはまず、下松市北斗町にあるその金輪神社をたずねた。なるほどそこには金輪神社があり、以前のものは枯れて、何代目かになるらしいかなえの松(鼎之松)があったばかりか、そこの地名までが北辰、すなわち北斗七星の「北斗町」となっているのだった。
周防では大内氏族の祖となっている百済聖明王の第三子という琳聖太子と、その琳聖太子がもたらしたものとされている北辰=妙見信仰にかかわる伝承がどんなに根強いものであるか、ということをそれはしめしていた。いまみた二宮氏の文中に、「この下松の海辺(都濃郡鷲頭庄青柳浦)」とあったが、さきの「大内氏族と朝鮮」の項の「大内氏略系図」をみると、第十七代目のところで、「盛保 鷲頭氏祖」というのが分かれ出ている。
おそらく、都濃郡鷲頭庄《わしずのしよう》というのはその鷲頭氏族の所領で、「大星降臨」の説話もその鷲頭氏族のもとでつくられたものではないかと思われる。
「くだまつ」は「百済津」か
しかし一方、降松=下松という地名については別にまた説がある。このことは前記『防長の琳聖太子伝説』に、「松樹に星が天降ったので降松の名となり、それが下松市のおこりであるというが、降松ではなくむしろ百済《くだら》津《つ》であるという意見もある」とあるが、前記『山口県の歴史散歩』にもそのことがこう書かれている。
はじめ北辰星のあまくだった松は、降臨松・連理松《れんりのまつ》・相生松《あいおいのまつ》の三樹が鼎立《ていりつ》していたため鼎《かなえ》の松ととなえられた。鼎大明神をまつった金輪神社としてこんにちに及び、青柳浦の地名を降臨松とあらため、さらに下松とかくようになったと伝えられている。なお、下松の地名については、百済《くだら》津《つ》説もある。百済への往来の要港だったため、くだらつがなまって、下松になったという説である。
どちらかというと、私としてはどうも、後者の百済津(港)がなまって降松=下松となったのではないかと思われる。したがって、金輪神社から次に私たちがたずねた降松神社(中宮社)にしてもこれはもと百済神社ではなかったかと思うが、しかしこれも琳聖太子、北辰妙見一色となっている。
降松神社の祭神
降松神社は眺望のよい鷲頭山腹にあって、天気のよい日であると下松港のある笠戸湾はもとより、となりの徳山湾まで一望のもとにすることができるとのことであった。そういうことからも、降松=下松は百済津(港)のなまった百済ではなかったかと思われたが、しかし『防長の琳聖太子伝説』によると、金輪神社建立の由来につづいて、降松神社のことがこう書かれている。
ところで巫の託宣のとおりに、やがて琳聖太子が来朝したので、いよいよ妙見信仰は盛んとなり、その神霊を桂木《かつらぎ》山(宮ノ洲山)にまつり、ついで高鹿垣《たかせがき》山に移して社殿を建てたが、その北辰妙見の光輝は赫々として、海をわたる船の航海を悩ますほどであったので、三たび移して鷲頭山に祭ったという。文化四年に記された『鷲頭山旧記』と、嘉永七年に画かれた『鷲頭山絵図』を対照しながら現地を問うと、上宮・中宮・若宮の配置や姿がよく了解される。
鷲頭山最奥の上宮には北斗七曜石と虚空蔵菩薩とを、そして中宮には聖徳太子・推古天皇・妙見尊星王・琳聖太子・千手観音菩薩をそれぞれ祭神としている。のち老弱幼少の者の参拝を易からしめるため、鷲頭山麓の小丘に若宮を建立したが、全社域はいまも広大森厳であり、昔日の社運盛大なりし頃を偲ぶに充分である。もっとも維新の神仏分離令によって、まず社坊の鷲頭寺が社を分離して市内の中市に去り、祭神は天御中主〈あめのみなかぬし〉神一体と改まり、社名は降松神社とかわった。しかし今も下松市一円の氏神社として、また県下妙見信仰の中心霊場として重きをなしている。
これでもう一つ、われわれにわかることは、明治「維新の神仏分離令によって」「祭神は天御中主神一体と改まり、社名は降松神社とかわった」ということである。つまり、「維新の神仏分離令」は神と仏とを分離しただけではなく、神社の祭神や神社名をも変えているという事実である。
これは日本全国、ほかにもたくさんそういうことがある。たとえば、伊豆(静岡県)三嶋大社の祭神は百済系の大山祇《おおやまずみ》神であったが、これが維新後は事代主《ことしろぬし》命に変わっている。いまは大山祇、事代主の二祭神となっているけれども――。
それがまたどういうわけか、周防では天御中主神ということになり、次に私たちがおとずれた防府《ほうふ》市では、国鉄防府駅東南にある車塚妙見社が天御中主神社となっている。防府ではほかにもそういうことがあって、たとえばこういうふうである。
下右田の片山にも琳聖太子ゆかりの北辰星をまつる妙見宮のあったことが『注進案』にある。明治初年に天御中主神社と改め、同八年に当宮司の手になる社記が石碑に刻まれたが、北辰妙見については何もふれていない。昭和四十二年に上右田の熊野神社の境内社となり、現地にはいま社趾のみである。(『防長の琳聖太子伝説』)
防府天満宮と菅原道真
それはそれとして、次におとずれた防府市は周防国の中心となっていた地であった。いまも「国衙《こくが》町」というところがあって、そこに「周防国衙の碑」がたっているが、それからまたここには、われわれがこれまでみてきた豪族・大内氏や鷲頭氏族などの祖となっている琳聖太子がそこから上陸したという多々良《たたら》浜があり、その墳墓といわれる大日古墳などがある。
防府ではまず、松崎町にある天満宮からたずねることにした。天満宮とはもちろん天神宮・天神様ともいわれる菅原道真を祭った神社であるが、前記『山口県の歴史散歩』にこうある。
国鉄防府駅から国道二号線を横切って北へすすむと、天神山の松崎天満宮にでる。ながくつづいた石畳と数しれぬ石段をのぼりつめると、朱色もあざやかな楼門《ろうもん》につく。
宇多《うだ》天皇・醍醐《だいご》天皇の信任をえて右大臣に栄進した菅原道真《すがわらみちざね》は、娘が醍醐天皇の弟斉世《ときよ》親王の妃《きさき》だったので、斉世親王を皇太子に擁立《ようりつ》する隠謀ありと藤原時平のざん言をうけ大宰府《だざいふ》に左遷された。大宰府へのとちゅう勝間浦《かつまのうら》につき、同族土師《はじ》氏のいるこの地にしばらく滞在した。
そのおり、国司の土師信貞《のぶさだ》に「我もし筑紫にて命を終るとも魂魄《こんぱく》必ずこの地に帰るべし」(『風土注進案』)と告げたという。三年後「神光勝間浦に現《あらわ》れ瑞雲酒垂嶺《さかたりのみね》に聳《そび》え」たので信貞は道真の死をたしかめ、九〇四(延喜四)年、その霊を松崎にまつった。創建は大宰府(九一三)・北野(九四七)の天満宮よりもはやく、日本最初のもので、社殿は、後世俊乗坊重源や毛利重就《しげたか》の時代に増改築された。昭和二七年に拝殿・楼門などを焼失したが、同三八年復元した。旧国宝金銅宝塔や数々の社宝がある。
なるほど日本最初の天満宮らしく、総面積八万五千八百余坪という境内には、豪壮な社殿や春風楼などといった建物のほか、「扶桑菅廟最初」とした巨大な石碑がたっているのも見えた。
土師氏と大内氏
ところで、いまみた『山口県の歴史散歩』のそれでもう一つ新たにわかったのは、「同族土師氏のいるこの地」とあるように、当時、周防のここには菅原道真と同族の土師氏がいたということである。
菅原氏ももとは土師氏であったから、それが同族であるのにふしぎはないが、しかし、その土師氏族が周防にもいたということが私にはちょっと意外だったのである。
というのは、河内(大阪府)の藤井寺市にも菅原道真を祭る天満宮があって、これはもと土師氏族の氏神であった土師神社だったことからもわかるように、「土師は、河内の羽曳野《はびきの》を本拠とする百済系の人々が称した氏だった」(東京都歴史教育研究会編『東京都の歴史散歩』)その土師氏族は、河内を中心に展開していた氏族であった。河内にはいま、「土師の里」という私鉄の駅名もある。
すると、「河内の羽曳野を本拠」としていたその土師氏族が、のちにはこの周防にまでひろがっていたのであろうか。もっとも、さきの「岩国から平生・周東まで」の項でみたように、秦氏族も周防までひろがって来ているのだから、土師氏族がそうであっても別におかしくはない。
なお、いまみた『山口県の歴史散歩』には、「社殿は、後世俊乗坊重源や毛利重就《しげたか》の時代に増改築された」とあるだけだが、天満宮の社務所でもとめた『防府天満宮略記』によると、その「社殿」の項はこうなっている。
延喜四年八月、周防国司土師信貞が初めて祠を建立し松崎の社と号した。建久六年俊乗坊重源が国司となり、東大寺落成の御礼として朱塗の本殿・廻廊・楼門を建立し、その後、鎌倉末期の元徳二年火災に罹り、正平十九年大内弘世が再建を企て、翌二十年に本殿、天授元年に拝殿、同四年に大内義弘が楼門・廻廊を建立し、応永八年、大内盛見が三重の塔婆及び鼓楼を寄進した。大永六年再度の火災にあったので、享禄三年大内義隆が再建した。
これでわかるのは、天満宮は大内氏族が代をついでそれを再建していたということである。いわば、百済系の土師氏族であった菅原道真を祭る天満宮に、これも同じ百済系のそれであった大内氏族が大きくかかわっていたのである。
多々良浜と岸津妙見社
ついで、私たちがたずねたのは、防府市高倉の荒神社、国衙町の岸津妙見社、高井の大日古墳で、いずれも琳聖太子ゆかりのものだったが、いまは人家のあいだにはさまって小さな祠《ほこら》のようなそれとなってしまっていた荒神社はともかく、とくに、岸津妙見社は期待をもってたずねたものだった。なぜかというと、その岸津妙見社のある多々良浜は、琳聖太子上陸の地ということになっていたからである。
しかしそのあたりは、いつからか埋立てられて人家の密集したふつうの陸地となってしまい、多々良浜という地名もなくなってしまっているようだった。しかも前記『山口県の歴史散歩』には、国衙町にある「周防国衙碑と国衙」の項のさいごに、「岸津妙見社は、大内氏が祖と自認する琳聖太子が上陸した地にまつったものといわれる」とあるだけだったから、それもどこにあるのか私たちにはわからなかった。
やっとのことで、「岸津神社 伝・琳聖太子来朝着岸之地」とした標識のある岸津妙見社をさがしあてたが、標識に「神社」となっているのは、明治維新後、これも天御中主神を祭神とする岸津神社とされたからだった。この神社も密集した人家のあいだにあって小さなものとなってしまっていたが、しかしこの岸津妙見社は、琳聖太子が上陸した多々良浜のそこに「仮屋」をいとなみ、北辰を祭るために創建したというものなのである。
琳聖太子の墓と伝えられる大日古墳
同じ琳聖太子ゆかりのものでありながら、もとは高位・高居だったという高井にあって、山寄古墳群の中心となっている大日古墳はりっぱなものだった。がっしりとした石組みの古墳は、開口されていてなかの石棺まではいってみることができたが、国指定史跡となっているからか、このような古墳としてはよく保存されているほうの一つだった。
この古墳のことは、前記『山口県の歴史散歩』や『防長の琳聖太子伝説』にもかなりくわしく出ているが、古墳の前に「大日古墳の説明」とした掲示板があって、それにこう書かれている。
大日の丘陵上に在って、ほぼ南西西に面する前方後円型の古墳である。後円部に南面して、横穴石室が存する。石室は羨道《せんどう》と玄室との二部に分れ、花崗岩の割石で以って築成された壮大なもので、羨道の長さ約三十一尺、幅約四尺八寸、高さ約四尺七寸、玄室のほぼ中央に凝灰岩製の石棺が安置されている。棺は刳抜《くりぬき》式で、蓋、身の二部より成り、蓋は屋根型を呈し、前後及び左右両側に二個大型の縄掛け突起が造り付けられている。
この古墳は、百済王子琳聖太子の御墓と伝えられている。横穴式で、石棺を具えたものとしては、此の地方に於ける稀有の例に属する。(文部省社会教育局文化財保存課、斎藤忠氏識)
ここにみられる「斎藤忠氏」とは、数年前に東京大学教授(考古学)を定年となり、いまは同大学名誉教授となっている斎藤忠氏のことで、私も面識のある同氏がかつては文部省文化財保存課の職員であったとは、いまみた掲示板ではじめて知った。それにまた同氏は、私がこれまでもしばしば引いている「わが国における帰化人文化の痕跡」の筆者でもあって、いまちなみに周防におけるその「――痕跡」をみると、「防府市桑山古墳=履《くつ》」(=の下は出土品)などがあげられている。
宇部・山陽・小野田
若宮古墳群と厚東氏
防府からの私たちは山口市にいたって一泊し、翌日はそこがはじめての池尚浩さんたちのために、さきの「大内氏族と朝鮮」の項でみたところを一周した。そして共同通信社山口支局に勤めている平井さんとはそこでわかれ、ついで、そこからの私たちは長門の宇部市にはいった。
周防からさらにまた長門となったわけであるが、この宇部へは、さきにちょっとふれたように、まえにも講演のため二度ほど来たことがあって、私としてはこんどが三度目であった。宇部市は、ちょっと「狷介《けんかい》なおばさん」といった感じの上田芳江氏を理事長とする「緑化運動推進委員会」の活動もあってか、目抜き通りは並木などなかなかよくととのった、きれいな新しい市街となっている。
しかし、もちろんここにも波雁《はかり》ケ浜遺跡という古代の製塩遺跡や、若宮古墳群などがあって、前記『山口県の歴史散歩』にこう書かれている。
波雁ケ浜から北東にのぞむ海食崖のうえに、若宮古墳群がある。背後には律令制下の烽燧《ほうすい》(のろし台)跡と推定されている日ノ山(標高一四六メートル)がせまっている。五基の横穴式石室からなる古墳群は、いずれも南側の海を見おろす崖にある。古墳は、東側から一号、二号……とよばれているが、このうち二、三号墳は、昭和三六年、宇部市教育委員会による調査で鉄刀一、勾玉《まがたま》二、管玉《くだたま》二、水晶切子玉二、小玉四〇のほか金環・銅環・須恵器などが発掘されている。
出土品などからみて、古代はこの地にも相当な豪族がいたことがわかるが、中世におけるこの地は厚東《ことう》氏が支配していた。しかしその厚東氏は、一三五三年に周防の大内氏によってほろぼされ、以後この地も大内氏のそれとなった。
浄名寺の如意輪観音像
そのいきさつは、宇部市厚東にある浄名寺本尊のうつりかわりともなっている。もとは厚東氏の寺で、そのときの本尊はなんであったかわからないが、当寺でもらい受けた『浄名寺沿革史』にそのことがこうある。
さて、大内氏による外護の歴史は約百年に達し、当山は時間的には、厚東氏よりもはるかに長く、大内氏の護持を受けた。そしてそのことが、大内氏の始祖琳聖太子守本尊の如意輪観世音菩薩像、そして同じく〈琳聖〉太子が自ら刻して礼拝を怠ることなかったという聖徳太子南無仏の像の合わせて二体が、当山にまつられる因縁となった。
もっとも、百済聖明王の第三王子(琳聖)が、七世紀はじめに来朝して聖徳太子に謁し、防長の地に下って大内氏の祖となった、というその伝説を、そのまま歴史的事実とみなすことは出来そうもない。しかし琳聖太子ゆかりの二体の仏像が、大内弘世によって当山にもたらされたと信ぜられ、江戸時代の記録にも、当山の宝物の筆頭に掲げられ、観音像に関しては「琳聖太子の守本尊」、聖徳太子像については「琳聖太子御尊敬にて(中略)御自作と申伝候」とされていることは、大内氏による当山護持の恩徳を記念しているのである。
いまある浄名寺は別にどうということもないふつうの、あまり大きくもない寺であった。そしていまは浄土宗となっていて、本尊は阿弥陀如来像となっているが、しかしこの寺にはいまも「琳聖太子の守本尊」だったという、像丈六十五センチ、台座三十五センチの如意輪観世音菩薩像があって、それが立膝《たてひざ》の像となっているのが私には珍しかった。
琴崎八幡宮
なおまた、浄名寺の前方にもとは琳聖太子の開創という浄念寺があり、宇部市にはほかにも琳聖太子ゆかりの広福寺、法泉寺などがある。しかしそれらまでいちいちみていたのではきりがないので、こんどは宇部市上宇部の琴崎八幡宮をたずねてみた。
なぜ琴崎八幡宮だったかというと、『宇部市史』をみたところ、「帰化人の渡来については」として、そこに琴崎八幡宮のことがこう書かれていたからである。
当社の由来には諸説があり、真偽のほどは別として興味深い問題が多い。元禄一〇年(一六九七)に宗隣寺の僧実因の書き残したものによると、昔、百済人が渡海して琴芝海岸につき、宇部東郷八王子に住んで「琴芝太郎」と改め、現在の八幡宮の在所に移った。そして里人は彼を八幡神として尊崇したというのである。
つまり、一つはそれが琴崎八幡宮のおこりだというのであるが、しかしいまの琴崎八幡宮には、そんなおもかげなど少しも見あたらなかった。長い石段をもった大きな神社で、「由緒書」にはどうなっているかと、社務所へ寄ってみたがそれはなく、そこで求めることができたのは「縁結び・安産・育児の神/神前結婚の栞《しおり》」というリーフレットだけだった。
鴨神社の神幸の列
宇部からの私たちは、道すじとしては小野田がさきでなくてはならなかったが、そこはあとまわしとし、さきにその北方の厚狭《あさ》郡山陽《さんよう》町をたずねることにした。そして同町の厚狭《あさ》にあるという、鴨神社に向かって直行した。
鴨神社はこれも長門・周防に多い琳聖太子ゆかりのそれで、――こう書くと「また琳聖太子か」と思われるかも知れないが、しかしこの神社のばあいは、ちょっとおもむきを異にしている。ばかりか、神社の来歴とともに、いまなお生きのこっているその伝統がたいへんおもしろい。
広い道路に面して鳥居がたっている鴨神社もなかなか大きな神社だったが、もとは久津村といったこの地にこの神社が祭られるようになったのは、琳聖太子ゆかりとはいっても、これはその母后、すなわち太子のあとを追って渡来した百済聖明王妃というものによってであった。二宮啓仁氏の「百済王族の来日伝説」をみると、同氏は九四八年の天暦二年にできたという『鴨神社略縁起』によりながら、そのことをこう書いている。
王妃薨じて一世紀半の歳月が流れ、延暦七年(七八八)に至って王妃をまつる神祠をまず久津村に建てたという。中央に王妃が護持し来った十一面観世音菩薩(五尺八寸の立像)をまつり、磐船《いわふね》(実は百済より将来の銘石)と宝鏡とを左右におき「百済皇后」と称し信仰した。
ところで、それからわずか十数年経た大同三年(八〇八)の四月、今度はその社殿に京都の下・上加茂大明神を迎えていつきまつることになった。そしてそれは一つの奇瑞によって実現したのであるという。すなわち白い鴨が二羽、雲間から飛来して社に入り、農民たちが射おとそうとして騒ぐうちに姿を消してしまった。ところがその夜、王妃に供奉した家々のものが一様に霊夢を蒙り、我は京都の下・上鴨大明神なり云々のお告げがあり、ここにその分霊を勧請するに至ったという。そして、鴨神社の祭神は次のようになった。
主神として下・上の鴨大明神二柱、そして左右に、(1)百済聖明王、(2)聖明王妃(宝鏡をまつる)、(3)北辰妙見(琳聖太子)、(4)琳聖太子妃、および苦労大権現(銘石)、(5)十一面観世音の六柱をまつった。従って延暦七年の三体に対して、聖明王と琳聖太子夫妻があらたに加えられたわけである。数多い琳聖太子関係伝説のうち、太子妃が登場する例は他にないし、また聖明王のまつられた例もまず見当らない。そういう意味で、この地の伝説は独特の性格を有しているといってよい。
もとは「百済皇后」と称して信仰したその神祠が鴨神社となったのは、久津村のその地が京都・加茂(鴨)神社の社領となったからであった。そこでその鴨神社の祭神も主神が「下・上の鴨大明神二柱」となったが、しかしながら、琳聖太子系の祭神はそれでさらに多くなって強化された。
珍しい例で、まさに「この地の伝説は独特の性格を有しているといってよい」のであるが、では、そのような、一見強引ともいえる鴨神社の合祀をおこなったのはいったいどういう人々であったか。そのことについても、二宮氏はさらにつづけて書いている。
〈百済から渡来した〉王妃の長途の旅とあれば、やはり供奉の面々がいなければならない。そして彼らは妃の厚狭《あさ》永住に伴なってことごとく当地に定着し、その子孫もまた神祠をまもる任に当った。百済からの来日者のうち王魯原は萱で宮居の壁をつくったので萱壁(いまは茅壁)の姓を名乗り、張公英はその宮居が河辺にあるのに因んで河村、李良粛は鶴の一群が御殿の前の田におり立ったので鶴田、杜右富は妃の宝鏡を預り持ったので鑑野、楊安松はその名をとって安松にとそれぞれ日本名に改め、また壱岐島から妃に随行して来た者には、そのまま壱岐の姓を称せしめた。「その家々、今に子孫伝わりて家名とせしは、供奉の人々の末葉なり」(鴨神社略縁起)とあり、その家の当主は江戸時代における鴨神社の神幸行事に当り社家に随行したが、同社が二五年毎にとりおこなう御年祭は最近では昭和三二年にいとなまれたが、そのさいにも供奉者の子孫ということで、当時、山陽町教育長であった鶴田登人氏と、醤油醸造業の茅壁卓三氏の二人が、それぞれ馬に乗って神幸の列に加わった。口碑によればこれらの家々は、王妃の随行者として長く大内氏に仕えたが、その滅びてのちは節を持して毛利氏に仕えることを肯《がえ》んぜず、帰農して平民になったのだという。
こうしてみると、琳聖太子の母后という聖明王妃が百済から渡来したということは「伝説」ではなく、はっきりした歴史的事実とみていいのではないかと思われる。しかも鴨神社の祭神は明治にいたって、さらにまた三転している。
それで、「外国人を神としてまつることは許されぬ」ということになり、「琳聖太子一族の神霊はすべてこれを廃除した」(二宮啓仁「百済王族の来日伝説」)にもかかわらず、いまみたようなそういう「神幸の列」が昭和の今日なおつづいているのである。
消えた大判山古墳と出土品
山陽町から流れくだる西の厚狭川と、東の厚東川、有帆《ありほ》川などの流域となっている小野田市は、一九二〇年までは須恵村となっていたところであった。それが小野田町となり、小野田市となったわけであるが、そこが須恵村だったということからもわかるように、ここは古代朝鮮から渡来した須恵(陶)器つくりの工人が定着したところであった。いまもその窯跡が、たくさんあちこちにのこっている。
その小野田市では、私たちはさきに市の教育委員会をたずねた。そして教育長の高橋政清氏や社会教育課主幹の三宅洋氏らに会って、これから見に行く菩提寺山の磨崖仏《まがいぶつ》のことについて聞き、ついで同教委編『ふるさと小野田』などをもらい受けた。
だいたい、須恵器がつくられはじめるのは古墳時代とともに、であるので、まずその古墳はどうなっているかと、『ふるさと小野田』にある「大判山古墳」という項をみると、いまはそれがこうなっている。
大判山(おおばんやま)古墳は当市南部の龍王山山裾が、台地を形成して本山岬へなだれこむあたりにあった。小字東高尾、通称大判山と呼ばれ、海抜四二・五メートルで眺望もよくきいた。
かつてはこの台地上には数多くの古墳があったというが、昭和初年からの開墾や本山炭鉱の社宅地造成により、ほとんどが破壊された。ほぼ原型をとどめるものとしては、通称地名によるこの大判山古墳一基を残すのみとなった。ところが、大判山下の西沖干拓地を埋め、西部石油KK山口製油所が建設されることになり、土砂採取のためこの古墳も取除かれた。昭和四三年二月のことであった。
そして、それら古墳からの出土品がどうなったかということについては、「昭和二十七年刊行の『町勢要覧』には大判山古墳を中心に大小五十余の古墳が本山半島に群集し、各種の副葬品を続出することは、考古学上の一大偉観であると出ている」が、それらの「副葬品がその後どうなったかは全く不明である」となっている。
これではもう何とも、どうしようもないというよりほかない。わずか数十年のあいだに、そのような状態となってしまったのである。
問題の磨崖仏
「では、出かけましょうか」と、『ふるさと小野田』のその記述に見入っていた私に向かって、社会教育課主幹の三宅さんが言った。菩提寺山の磨崖仏まで、案内してくれるというのであった。
クルマはどこをどう走ったのかはわからなかったが、間もなく有帆の菩提寺山麓についた。山麓には山腹の磨崖仏と関係があるのかないのか、新しい神社ができていて、そこからは潅木《かんぼく》におおわれた山道を歩くことになった。これから、問題となっている磨崖仏を目の前にするのかと思うと、胸が少しばかり高鳴った。
問題となっているとは、どういうことかというと、たとえば、一九八一年十二月二十九日付けの四国新聞ほかに、共同通信社山口支局の平井さんが書いたこういう記事がのっている。「日本最古か昭和の作か/磨崖仏の正体めぐり論争/小野田市の山中」という見出しのもとに、本文はこうなっている。
山口県小野田市の山中にあり、人々に顧みられることも少ない石仏に、昨年夏、考古学者が「国宝級、日本最古の磨崖仏(まがいぶつ)」と折り紙をつけた。ところが地元民が「石仏は昭和の作。近くの住職が彫ったもの」とクレームをつけ、その後石仏の所有権をめぐって裁判ざたになるなど、当の石仏も戸惑う“磨崖仏論争”が展開されている。
この石仏は小野田市有帆の菩提寺山(約百三十メートル)の山頂付近にある高さ約五メートルの自然石の花こう岩に彫られたもので、台座を入れると身の丈約三・九メートルの巨人像。
昨年八月、石造建築物の権威、国立東京文化財研究所情報部長の久野健博士(六一)が現地を調査した。久野博士は「八世紀後半から九世紀の作。現在、日本最古とされている滋賀県狛坂(こまさか)廃寺の座像磨崖仏(高さ二・二メートル)より古く、規模、技巧とも国宝級」と折り紙をつけ、「地形、技法とも韓国慶尚北道・南山にある石仏と類似。奈良時代後期に新羅からの渡来人が彫ったもの」と鑑定した。
いわば、その「鑑定」にクレームがついて問題となったわけであるが、山道をしばらく登ると小台地が開けた。と、そこに「参拝の皆様へ」とした、地元梅田自治会の掲示板があってこうある。
昭和五五年八月、全国に「日本最古の磨崖仏」と報道された石仏です。
地元梅田自治会では、毎年四月吉日観音祭と、石仏の法要をつづけておりますが、岩崎寺よりの奉賛文、地元古老の証言等で、昭和六年故村田宝舟禅師により開眼供養の事実があり、目下調査中で結論を得ておりません。
新羅の石仏と同類
問題の磨崖仏は、掲示板の右手奥となっていた。私はある厳粛な心持ちをもって、高さ約五メートルという巨巌に彫られたその石仏の前に立った。そして一目みて、これは久野健氏の鑑定がただしいのではないかと思ったものだった。
私はこういう石仏についてはまったくの素人であるが、しかし、韓国・慶州の石仏など、これまでそれをたくさんみてきた者としての直感で、これはやはり古代新羅のそれと同類のものと思わないわけにゆかなかった。それに昭和のはじめ、この地方のふつうの寺の住職で、このような磨崖仏を彫れる者がいたとは疑問であるし、当時「開眼供養」がおこなわれたというのは、それまでは苔むしたままとなっていたのを、洗い直し、見直したということではなかったかと思われる。
なお、この磨崖仏については、久野健氏もその後にだした『渡来仏の旅』「山口・菩提寺山の磨崖仏」の項で詳論を加え、おわりに結論としてこう書いている。
しかも今日も小野田市及びその周辺には、須恵という地名や須恵器を焼いた窯跡が多数遺っていたところから考えると、この近くにも、大陸からの渡来人が多数住み、須恵器等の制作に従事していたことが判る。この地に新羅からの工人がきて、渡来住民たちのために大石仏を刻んだ可能性は十分考えられよう。
山口県は本州の西端にあり、最も大陸文化の影響を直接受けいれやすい位置にあるが、従来、仏教伝来以後の遺品で、その直接的影響を物語る遺品はきわめて少なかった。この菩提寺山の菩薩立像の大石仏は、そうした点でもますます貴重さを加えるであろう。
菩提寺山をおりた私たちは、もう夕方になっていたので、池尚浩さんの住む岩国への道を急いだ。途中、日暮れだったけれども、柳井市西北方となっている大和町の石城《いわき》山をたずねた。
さきにもちょっとふれているように、そこに神籠石《こうごいし》ともいわれる古代朝鮮式山城があったからであるが、しかし、この山城については、のち、四国や九州にたくさんあるそれをたずねるとき、くわしくみるということにしたい。そしてここではただ一つ、石城山頂には、これまた四国の伊予(愛媛県)でくわしくみることになる百済系のそれとして有名な大山祇《おおやまずみ》神を祭る石城神社があって、ここにはまた、琳聖太子ゆかりの妙見社があったということをしるしておくだけにする。
あとがき
シリーズ第八冊目の本書『日本の中の朝鮮文化』は、『季刊三千里』第三十三号(一九八三年二月刊)から、第三十八号(一九八四年五月刊)に連載したものであるが、うち、周防・長門(山口県)のみは、「日本の朝鮮文化遺跡」として『労働者の共済』(のち月刊『共済時代』と改題)二〇七号(一九八三年九月刊)から、八四年六月号まで連載したものである。
「まえがき」にもあるように、もとはこちらが「表日本」であった出雲(島根県)を中心とする山陰地方は、本シリーズを書きつづけている私にとって待望の地の一つであった。したがって、執筆までにあつめた資料もそうとうな数量にのぼったが、しかし、それらをいちいちみなとりあ げていてはきりがないし、めんどうでもあったので、目をつぶって省略としたものが少なくない。
そのような省略は他のところでもおこなわれているが、たとえば、出雲の平田市北浜に「十六島海苔」ということで知られている十六島というところがあって、おもしろいことに、この十六島がウップルイとよまれている。ウップルイ(十六島)とはずいぶんむつかしいよみの地名であるが、出雲市上塩冶町にある般若寺の住職・原秀芳氏が平田市の北浜漁業組合にあてた「おぼえがき」によると、「伝説」としてそのウップルイのことがこうある。
一僧侶、朝鮮の「ウップルイ」より日本国北浜の「ウップルイ」に漂着せりという。
このとき、一僧侶、大般若経、十六善神、観音菩薩像の三点を奉持せりという。
ウップルイの名も朝鮮の「ウップルイ」の名をそのまま執りて命名したるものならん。
北山を越え、斐伊川を渡り、現般若寺に到着す。後、観音像と十六善神を当般若寺に残し、大般若経のみを奉持して、又何処かへ立ち去りしという。
(註)当時、斐伊川は西の方に流れていたものならん
これなども、平田市北浜の十六島や、本文にみられる築山古墳のある出雲市上塩冶町の般若寺をたずねて、もっとよく調べてみたらおもしろかったのではなかったかと思われるが、しかしそうなると、朝鮮の「ウップルイ」とはどこか、ということまで調べなくてはならなかったので、そのまま目をつぶることにしたのだった。
それから、これは本書を書きおわったあとになって知ったが、島根大学講師の速水保孝氏によると、「隠岐には古新羅時代に関係する地名があるんです」ということで、「隠岐も、韓国の迎日湾の古名は斤烏支(クンオキ)の斤(大きい)をとってオキ〈隠岐〉にしたのではないか。また、この島の知夫里は蔚山府彦陽県の古名・知火(チブル)から来たものでしょう」という。(一九八四年四月二十八日付け統一日報の座談会「山陰特集/風と潮が運んだ韓文化」)
なおまた、右の座談会によると、地名だけでなく、日常使われているバボ(馬鹿)という朝鮮語が出雲にはまだ生きていて、島根県日韓協会副会長の足立順太郎氏がこうのべている。「地名ばかりでなく、言葉にも残っているように思えますね。私の住んでいる安来では、馬鹿のことを『ばぼ』といいます。私など母からよく『このばぼめ』と言われたものですよ(笑)」
これなども、事前に知っていたら、出雲のあちこちで訊いてみるとおもしろかったのではなかったかと思う。ついでにいうと、馬鹿のことを関西では「阿呆」というが、これはバボがそう訛ったものなのである。
それからまた、これは本書執筆中のことであるが、出雲の岡田山古墳から出土した鉄製の大刀に銘文があったことがわかり、それが大きなニュースとなった。まず、一九八四年一月八日付けの地元紙・山陰中央新報をみると、「銘文入り鉄剣だった/松江・岡田山古墳/大正時代出土の円頭大刀/出雲風土記の豪族か/六世紀/大和との関係示す」という大見出しのもとに、それがこう報じられている。
島根県松江市大草町の岡田山古墳群から大正四年に出土した鉄製の大刀に、十数文字の漢字が刻まれていたことがわかり、七日までにそのうちの六文字が解読された。県教委が一昨年秋から、奈良市の財団法人・元興寺文化財研究所(浅野清所長)に保存修理を依頼、その際のX線を使った調査で明らかになった。解明された文字には出雲風土記に登場する「額田部臣(ぬかたべのおみ)」を指すとも考えられる「各田〓臣」がある。同古墳は六世紀後半のものといわれ、この大刀もほぼ同時期のものではないかと推測されている。
こうした刀剣銘は全国でこれまでに四例あり、埼玉県の稲荷山古墳の鉄剣などが有名だが、島根県内ではもちろん初めて。統一国家が形成されるころの日本古代史を解く重大な資料といわれ、全文解明に期待が寄せられる。とくに、古代大和朝廷と並ぶ勢力を持っていたとされる出雲地方での発見は、両者の力関係などを知る上でより貴重なものと言えそうだ。
記事はまだつづいているが、このことは朝日・毎日・読売など、いわゆる中央各紙にも大きく報じられたばかりか、「ベール脱ぐか古代史のナゾ」などと、いろいろな角度から論じられたりもした。その焦点は発見された銘文の「額田部臣《ぬかたべのおみ》」ということにあったが、しかし、私はそれを横目でみていただけで、あえてとりあげることはしなかった。
一つはもっといろいろな意見がでるのを待って、というつもりでもあったが、そのうち半年ほどたって、私は前出の島根大学講師、速水保孝氏の「古代出雲と新羅」という論文に接することになった。これによると、「岡田山一号墳(松江市大草町)出土の鉄刀から、レントゲン写真で読みとれた『額田部臣《ぬかたべのおみ》』との象嵌《ぞうがん》四文字。それをめぐって正月以来、日本古代史に関心を持つ者は興奮状態、一大狂騒曲を奏でている。一口にいって、古代出雲王朝の存在を否定してきたヤマト〈大和〉中心史観の持ち主たちの度肝を抜いたからである」として、こう書かれている。
まず、「額田部臣」の「臣」だが、天武天皇十三年(六八五)の「八色《やくさ》の姓《かばね》」施行以来、大安売りされた「臣」とはちょいと違う。それより百年近く昔の「臣」で、ヤマトで言えば、蘇我《そが》臣や平群《へぐり》臣などの大豪族に匹敵する最高位の「姓《かばね》 」である。そうした臣が出雲国造家(出雲臣)の一族に与えられているのはどうしたことか。『古事記』神話の三分の一が出雲を舞台にしているように、やはり、古代出雲にはヤマト政権と拮抗《きつこう》するほどの大勢力があったのではないかと、今更ながらびっくりさせられたようだ。……
それにしても、ヌカタ(額田)というのは何んなのか。それはヌ(土)カタ(型)で鋳物製作用の土の型を意味する古語だという(松岡静雄『新編日本古語辞典』)。これから類推すると、「額田部臣」とは鍛冶職集団の長官ということになる。
というのは、出雲の神となったスサノオ〈素戔嗚〉とその子供のイソタケル〈五十猛〉は共に新羅からの渡来神。ヤマタノオロチ退治で明らかなように、韓《から》鍛冶《かぬち》によって出雲の砂鉄からの製鉄に成功し、見事な鉄剣を得ている。そこで、スサノオやイソタケルを祖神とする新羅系鍛冶集団が「額田部」に組織されたとも考えられるからだ。
注目すべき意見で、出雲はなにが出ても、その「神」とともに新羅と結びつくのがおもしろい。「まえがき」に書いた銅剣なども、一九八四年九月一日付け毎日新聞の「編集局長からの手紙」に、「最近の考古学の出土品をみても、島根県の荒神谷遺跡から掘り出された銅剣は、ほぼ朝鮮の青銅器のコピーといってよいものだし、同じ島根県の岡田山一号墳の鉄刀にきざまれていた銀の象眼文様も、朝鮮からもたらされたものだそうです」とあるように、これも新羅・加耶(加羅)との関係でみなくてはならないものであるにちがいない。
さきの諸冊につづいて、第八冊目の本書がこうして成ったのも、講談社常務取締役の加藤勝久氏ならびに、同社学芸局長兼学芸図書第二出版部長の鈴木富夫氏、池田公夫氏の好意と努力とによるものであるが、ほかにまた木村宏一氏の努力に負うところも大きい。ここにしるして、感謝の意を表したい。
一九八四年九月 東京
金 達 寿
文庫版への補章
信濃の針塚古墳
針塚古墳
本書はシリーズ『日本の中の朝鮮文化』第八巻の文庫版で、例によってその補章を書くわけであるが、そのまえにここでひとつおことわりをしておかなくてはならない。というのは、私はいま「例によって――」と書いたけれども、さきの第七巻(駿河・甲斐・信濃・尾張ほか)は、その補章を書くことができなかったということがある。
どうしてだったかというと、第七巻の文庫版が出たのは一九八九年七月であったが、私はその前年の十二月末から八九年の六月まで、病気・手術のため入院を余儀なくされていたからである。
で、ここでまず、その補章とまではゆかないが、それをひとつだけ書かしてもらうことにしたいと思う。
いまいったようなことで、私は八九年の六月にやっと退院することができて、家へ戻ってみると、長野県松本市で「針塚古墳の保存をすすめる会」の運動をしている近藤泉さんから、八九年三月十日に書かれた長い手紙がきていた。その一部をしるすと、こういうものだった。
松本平はご存じの通り、古代の渡来人といわれる人々が勢力をもち、文化を築いてきました。歴史、遺跡、祭りなど、どこをみても渡来文化のかかわってないものはありません。女鳥羽川、薄川の川すじにも数十基の積石塚古墳がありましたが、今はほとんど取り壊されて跡形もなく、針塚古墳がただ一基残るのみとなりました。
昨年秋にも一つ壊されました。幸いにして針塚古墳は原形をもっともよく残している積石塚、周溝をもつという古墳です。ところが、圃場整備事業にともない、これも取り壊されることが決まっています。なんとか残したいと地元の歴史研究会の皆さんががんばってきましたが、打開できず、昨年十一月に市民レベルの保存をすすめる会をつくって運動してきました。昨年秋に取り壊される予定が、冬季の発掘(記録保存の緊急発掘)は困難という状況もあり、なんとか手をつけられずにもちこたえてきました。
手紙はまだつづいているが、ついでまたきた手紙には、いろいろな資料とともに八九年八月三十日付け読売新聞・長野版の記事も同封されていた。それは、「針塚古墳は円墳/発掘調査指導委の大塚教授が確認/「三段築成方墳」の見方は修正」とした見出しのもので、はじめの一部をみるとこうある。
古代朝鮮からの渡来人の墓といわれる松本市里山辺の「針塚古墳」の発掘調査が進んでいるが、同発掘調査委指導委員長の大塚初重・明治大学教授が二十九日、古墳の視察に訪れ、同古墳が円墳だったことを確認した。また、段状の石積みについては、「後世に作られたものと推定される」とし、積石塚であることに変わりはないものの、これまでの「全国的にも珍しい二段築成の方墳では」との見方は修正されることになった。
近藤さんから再度そういう手紙や資料が寄せられたのは、要するに、私にも「針塚古墳の保存をすすめる会」の運動に力をかしてほしいということであった。しかし、私は立場上その運動に直接加わることはできなかった。が、とにかく現地へ一度行ってみようということで、八九年十月のある日、友人たちをさそって出かけて行った。
須々岐の由来
松本市の東郊となっている里山辺のそこは、まえにも行ったことがあるところで、第七巻「信濃における高句麗」の項に書いた、「薄《すすき》の宮」ともいう須々岐水《すすきがわ》神社のあるところだった。長野県歴史教育者協議会会長の池田練二氏も加え、近藤さんたちとともに、発掘調査中だった針塚古墳の土堤に立ってみると、そこは文字どおり「里山辺」のおだやかな里で、山地に向かったそこに、周辺の氏神である須々岐水神社の森が見えた。
いわばその神社と針塚古墳とは一体的なもので、なだらかな傾斜地となっているそこは、その神社と古墳とをあわせて遺跡公園にしたら、どんなにいいだろうかと思われた。そこへ来ていた新聞記者たちの問いにこたえて、須々岐水神社のこととともに、私はそんなことを話したものだった。
須々岐水神社などのことについては、前記「信濃における高句麗」の項にかなりくわしく書いているが、どういうことでか、日本の屋根ともいわれる信濃(長野県)には、六六八年の七世紀後半にほろびた高句麗からの渡来人が、四〇〇年代の五世紀はじめごろからたくさん渡来していた。そしてかれらは、卦婁《ける》・上部・下部・前部・後部といった高句麗の官職名をそのまま姓としていた社会をつくって居住し、信濃の各地に五世紀のものを中心とした千基以上にのぼる、高句麗系の積石塚古墳をのこしている。
それがやがて、かれらも大和王権に組みこまれることになり、日本風の改姓を願い出ることになった。このことは『続日本紀』七八九年の延暦八年条、『日本後紀』七九七年の延暦十六年条、同『日本後紀』七九九年の延暦十八年条にそれぞれしるされているが、ここではさいごの『日本後紀』延暦十八年条をみると、それがこうなっている。
十二月甲戌 又信濃国の人外従六位下卦婁真老・後部黒足・前部黒麻呂・前部佐根人・下部奈弖《なて》麻呂・前部秋足・小県郡の人上部豊人・下部文代・高麗家継・高麗継楯・前部貞麻呂・上部色布知《しこふち》等言う。己等の先は高麗《こま》〈高句麗〉人なり。……
累世平民にして未だ本号を改めず、伏して望むらくは去る天平勝宝九歳四月四日の勅によって、大姓に改めんことを、と。真老等に姓須々岐を、黒足等に姓豊岡を、黒麻呂に姓村上を、秋足等に姓篠の井を、豊人等に姓玉川を、文代等に姓清岡を、家継等に姓御井を、貞麻呂に姓朝治を、色布知に姓玉井を賜う。
ここにみられる「真老等《ら》〈等とはかれがその一家一族の長であったことを示す〉に姓須々岐を」とあるそれが、すなわち松本市東郊の里山辺にある須々岐水神社の須々岐にほかならない。「薄の宮」といった薄や、近くを流れる薄川の薄《すすき》も、もちろんその須々岐からきたものなのである。
そして、近くの針塚古墳は、須々岐水神社を祭っていた、かれら須々岐氏族の墳墓の一つだったものにちがいなかった。近藤さんたちが破壊・消滅にかわる保存運動をすすめていた針塚古墳とはそういうものだったが、しかし、私がその現地へ行ってみたところで、なんの役にも立つものでもなかった。
ただ、あとから送られてきた地元の新聞をみると、それぞれ十月十七日付けで、こういう見出しの記事が出ていた。「『針塚古墳ぜひ保存を』/松本/作家・キムさん発掘見学」(信濃毎日)。「針塚古墳の現状保存を/在日韓国人作家の金達寿氏が強調/朝鮮文化の影響大」(中日)。「『渡来系遺跡』を示唆/針塚古墳/金氏が視察、保存求める」(市民タイムズ)
「針塚古墳の保存をすすめる会」の近藤さんからは、その後のことをしるした手紙や、新聞なども送られてきたが、たとえば、十二月十七日付けの読売新聞・長野版には、針塚古墳の発掘状況がこう報じられていた。「大陸伝来の鏡出土/直径九・二センチ、花模様/国内では二例目/他に多数の副葬品/松本の針塚古墳調査/五世紀中ごろの円墳」
針塚古墳はいよいよ重要なものとなったが、しかし、その保存ということについては少しも進展がないようだった。
だが、一転、翌一九九〇年二月になると、近藤さんからは、「針塚古墳の現地保存がほぼ決まりました」という手紙とともに、「針塚古墳は現地保存/松本市決定/七年までに周辺を整備」とした見出しで、そのことを報じた二月十四日付け信濃毎日新聞が同封されていた。それにこうある。
松本市は、市民の間で保存運動が起きていた同市里山辺の針塚古墳を現地保存することを決め、新年度予算案に約一億二千万円を計上、平成七年までに見学路などを整備する。開発により埋蔵文化財が次々に破壊される中で、同古墳の現地保存は他地域の埋蔵文化財行政にも影響を与えそうだ。……
市教委は、同古墳を同市中山の市立考古博物館の野外展示施設として整備。平成七年までに総額二億円ほどを投入し、見学路、案内板、駐車場などを建設、市民が気軽に訪れて「古代のロマン」に触れられるようにする方針。新年度は用地取得を進め、早ければ平成四年度に本格工事を行う。
「ほんとうによかったと思います」と近藤さんの手紙にあったが、私も心からそう思ったものだった。近藤さんたちの「針塚古墳の保存をすすめる会」のねばり強い運動の成果であるが、それを支えた地元マスコミの力も大きかったように思う。
伯耆の上淀廃寺と壁画
浮かび上がった日本海文化圏
さて、本書の第八巻(因幡・出雲・隠岐・長門ほか)であるが、これの四六版本が出たのは一九八四年であるから、新たな発見がまたいろいろとあったことはいうまでもない。が、しかし、そのうちの主なものをひとつふたつだけ、ということにしたい。
最近のものとしては、因幡・伯耆だった鳥取県淀江町の上淀廃寺における仏教壁画の発見がある。一九九一年五月十六日付け各新聞は、どれもそれを一斉に大きく報じたが、たとえば、読売新聞朝刊は、「白鳳期の彩色壁画発掘/鳥取・上淀廃寺/法隆寺と図柄似る/高松塚壁画の顔料/説法図に飛天、神将」としたカラー写真入りの大見出しで、こう書きだされている。
奈良・法隆寺の金堂壁画(白鳳時代=七世紀末―八世紀初頭)と並ぶわが国最古級の仏教壁画が、鳥取県淀江町福岡の上淀廃寺跡から出土し、発掘調査していた町教委と奈良国立文化財研究所は十五日、「大和から離れた地方寺院でも華麗な仏教文化が根づいていたことを初めて示す古代仏教絵画史上の画期的な発見」と発表した。奈良・高松塚古墳と同種の顔料を使って極彩色の菩薩(ぼさつ)の顔や飛天の衣などを描いており、図柄は金堂壁画に似ている。すでに支配していたとみられる大和朝廷が、朝鮮半島との交流で発展していたこの地域を、地方統治の重要拠点にしていたことを裏付けた。(一五、二六、二七面に関連記事)
以上はイントロ部であるが、さらに「一五、二六、二七面に――」とあるように、そこでもそれぞれ写真や絵入りの大きな記事となっていて、その見出しだけみてもこういうふうである。
「浮かび上がった日本海文化圏/鳥取・上淀廃寺跡の壁画発見/早くから仏教興隆/律令体制下で花開く」(一五面)。「大山ふもと一三〇〇年の眠り/半島文化を吸収/渡来画工の作?/法隆寺金堂の説法図と符号」(二六面)。「白鳳の壁画パズル/上淀廃寺跡から出土/四〇〇片つなぎ合わせ/神将や飛天の衣/埋め戻す寸前発見/「よくぞ残った」専門家」(二七面)。
たいへんなもので、この日の読売新聞朝刊は、ほとんどその記事でみたされているが、ばかりか、それだけではない。さらにまたフォローがつづいて、二日後の五月十八日付けでは、「上淀廃寺は渡来人系?/彩色壁画出土/堂塔基壇に共通点」とした見出しの、こういう記事が出た。
わが国最古級(七世紀末)の彩色壁画が出土した鳥取県淀江町の上淀廃寺跡の塔、金堂の瓦(かわら)積み基壇が、畿内の渡来人系の氏寺と酷似していることが十七日、わかった。発掘調査を担当した奈良国立文化財研究所は「建立者を探る大きな手がかりになる」と注目している。
同廃寺の伽藍(がらん)配置は、奈良法起寺式で塔と金堂が東西に一直線に並ぶ。塔の基壇は一辺十メートル四方で厚さ二、三センチの平瓦をびっしりと積み上げて土台を築いていた。金堂基壇はそれよりやや大きく、同じように瓦積みになっていた。
同時代の寺院基壇は、石をブロック状に切って積んだ「壇上積み」や土をレンガのように焼いた〓(せん)を積み上げた「〓積み」が主流。当時の中央、飛鳥地方では、瓦積みは渡来氏族の東漢(やまとのあや)氏の氏寺、桧隈寺の講堂だけ。京都や近江地方にも例があるが、いずれも高麗氏など渡来系氏族の拠点で、特異な構造は、渡来系寺院の特色の一つといわれている。
上淀廃寺の壁画をめぐるナゾ
いわば、このフォロー記事は、その上淀廃寺はどういう者の寺院であり、壁画の作者はどういう者だったか、ということに移ったわけのものであるが、それは各新聞ともだいたい同じだった。たとえば、五月二十三日付け朝日新聞夕刊は、「『淀江美人』は面長・色白?/鳥取・上淀廃寺の壁画/一〇のナゾ/筆に勢い/渡来系の作者か」とした見出しの記事で、その「一〇のナゾ」を追っている。
〇だれの寺
寺跡のすぐ近くから、かつて「新家」とへら書きした須恵器のつぼがみつかった。『日本書紀』宣化紀に新家連(にいのみのむらじ)という渡来人の名前がある。伯耆(ほうき)や出雲の古代史に詳しい佐々木謙・境港市文化財審議会会長は「古代淀江の支配者はこの新家の一族で、寺は彼らの氏寺ではないか」とみる。
〇作者は
衣の描き方ひとつとっても、自由かったつな筆づかいで勢いがある。優美だが、定型化したような印象を受ける法隆寺壁画とは違いがある。しかし、百橋明穂・神戸大助教授(美術史)は「渡来系だろう。でも、飛鳥や奈良で活躍し、記録に残されているような人物ではない。かといって直接大陸からこの地に来た絵師ではなく、大和となんらかの関係がある絵師だろう」という。
〇天女の顔は
天衣(てんね)らしい壁画も出土。「淀江美人」をモデルにした天女が描かれていたと想像される。発見された神将図は伸びやかで、まるで浮世絵のような面長な姿。上原和・成城大教授(美術史)は「神将像から推定すると、高句麗の水山里古墳に描かれているような面長、色白な美人が描かれていたのではないか」
と、こういうふうに、「〇顔料は」「〇壁画の規模」「〇絵ほかにも」「〇本尊は」「〇最古か」「〇寺のタイプ」とつづき、さいごの「〇なぜ淀江に」はこうなっている。
上淀廃寺は地方の一寺院。そこになぜ、法隆寺にも匹敵する壁画があったのか。これについて、地元の研究者たちが早くから主張している「良港があり外来文化を伝える船が立ち寄った。朝鮮半島から大和に向かうメーンルート」という説が力を得てきそう。本州では、ここにしかないという石で馬を彫刻した古墳時代の石馬を始め、古代に文化が栄えたことを物語る遺物遺構も数多く、注目されていた場所だからだ。
日本海に面した淀江に、どう「古代文化が栄えたか」ということについては、本書の因幡・伯耆「大山・高麗山の麓」の項で、かなりくわしくみているつもりである。
ただ、右の記事にみられる「古墳時代の石馬」、いまは淀江町の天神垣神社境内にうつされている石馬谷古墳の石馬については、「これと同じ石馬は、もと加耶だった韓国の慶尚南道固城郡石馬里にもある」と書いただけで、私はまだ実地にそれをみてはいなかった。それから数年後、私は韓国へ行ったとき、固城郡石馬里をたずねてそれもみている。
そして、写真にもとったのであるが、しかし、私のそれはどうも思わしくないので、NHKの水谷慶一氏から提供された、それのほうをみてもらいたいと思う。
なおまた、淀江町・上淀廃寺跡出土の壁画のことをみたついでに、こちらのほうもちょっとみると、見つかれば見つかるもので、上淀廃寺跡のそれが明らかとなってまだ十日とたっていない五月二十三日、こんどは大和(奈良県)の当麻《たいま》町で、白鳳時代の石仏が出土したことが明らかとなった。これも、同日付けの読売新聞朝刊によってみると、「日本最古の石仏が出土/奈良・石光寺/白鳳期の弥勒座像/七世紀末/『日本書紀』を裏付け」とした大見出しの、これまたカラー写真入り一面トップで、そのことがこう報じられている。
七世紀末の白鳳期につくられたわが国最古の石造仏(弥勒如来座像)が二十二日までに、奈良県当麻町、石光(せっこう)寺境内から、ほぼ完全な形で出土した。立体石仏としてはこれまで最古の長崎県・壱岐の鉢形嶺経塚出土仏(一〇七一年銘)より四百年も古く、仏教伝来期に朝鮮半島から石仏も渡ってきたという『日本書紀』の記述が裏付けられた。発掘調査した県立橿原考古学研究所は「仏教美術史を変えた興福寺の国宝・山田寺仏頭の発見(昭和十二年)にも匹敵する」と評価している。
以上はイントロ部で、これも「(一五、二六、二七面に関連記事)」とあって、まだまだその記事はずっとつづいている。しかし、こちらは大和のことなので、それは一応これまでということにしておきたい。
出石町の古墳から出た砂鉄
ここからまた本書の「因幡・伯耆」のほうへ戻って、こんどは「日野川の鉄穴流」「鉄文化と新羅・加耶」とした項に関連したことであるが、私はそこの鉄文化と、天日槍集団ともいわれる新羅・加耶系渡来人集団の象徴となっている天日槍とのかかわりについて書いた。その後、そのこととかかわるおもしろい新聞記事が出た。
一九八九年八月二十二日付けの読売新聞(大阪)で、「古墳の副葬品に砂鉄/四世紀末木棺墓から出土/兵庫・入佐山」とした見出しの、こういう記事であった。これまで例のない珍しいことなので、その全文を紹介することにしたい。
兵庫県出石町下谷、入佐山墳墓群にある四世紀後半(古墳時代前期)の方形墳の木棺墓跡から、磁石に反応する黒い粉約百五十グラムが出土。発掘した町教委が新日本製鉄八幡技術研究部・大沢正巳研究員に分析を依頼して調べたところ、二十二日までに、砂鉄とわかった。
鉄の主原料である砂鉄が古墳に副葬されていた例は、全国でも初めて。鉄は五世紀には国産化されていたとされるが、その開始時期はよくわかっておらず、当時の出石にはすでに製鉄集団が存在していた可能性を推測させる資料として注目される。
古墳は、高さ約九十五メートルの山の頂上にある縦三十六メートル、横二十三メートル、高さ三メートルの三号墳。砂鉄は木棺内の被葬者の頭部付近に、約十センチ四方に黒く広がっていた。大沢研究員が調べたところ、砂鉄特有の二酸化チタン、バナジウムが検出された。
木棺内には渡来品の鏡のほか、矢じり、オノ、カマ、直刀、剣など多数の鉄製品も納められていた。
鉄器は縄文時代晩期(紀元前二世紀ごろ)に大陸から伝わったとされる。砂鉄を原料としたものでは五世紀後半には国産化されていたらしいが、それ以前は不明。
出石地方は、古事記、日本書紀に新羅(しらぎ)の王子で、製鉄の守り神とされる天日槍(あめのひぼこ)が帰化した土地とあり、地元では天日槍が鉄器を使って、但馬の国造りをしたと伝えられている。
近藤義郎・岡山大教授(考古学)の話
「これまで鉄滓(さい)は数多く出ているが、砂鉄が副葬されていた例はない。製鉄関係の集団の首長クラスが葬られていたのではないか」
この古墳のある但馬《たじま》(兵庫県)の出石《いずし》町には、新羅・加耶系渡来人集団の象徴である天日槍を「国土開発の祖神」として祭る出石神社があるばかりでなく、周辺には同系の神社が三十余社もある。近藤氏のいう「製鉄関係の集団の首長クラス」とは、その天日槍集団の者にほかならなかったはずである。
なおついでにもうひとつみると、一九九〇年九月六日付け朝日新聞には、「韓国最古の“製鉄一貫工場”/慶州で発掘、四〜七世紀の遺跡/新羅の強さの原動力/日韓古代史解明に貴重」とした見出しの大きな記事が出ている。
要するに、韓国「最古のものは、韓国で原三国時代と呼ばれる紀元一世紀前後の鍛冶(かじ)工房だった」が、それの発展した「製鉄一貫工場は四世紀ごろから出現しはじめ」たというものであった。
新羅(慶州)におけるその発展が、新羅・加耶系渡来人の集住地であった出雲(島根県)の先進的な古代製鉄にも大きく反映していることは、いうまでもないであろう。
出雲の秦・銅剣および隠岐
幡屋神社を訪ねて
伯耆とともに、出雲における製鉄のことも本書でかなりくわしくみているので、ここではおくことにするが、私はその出雲を書いたあと、ずっと気になっていたことがひとつあった。というのは、出雲・石見・隠岐国となっていた島根県の地図をみると、あちこちに幡《はた》・畑《はた》・畑野・辛畑などという地(名)があって、ざっとみただけでもそれが二十ヵ所以上もあるばかりか、一畑電鉄というのもあったりしている。
地図のそれをみた私は、それらの地は『和名抄』や『出雲国風土記』にみられる波多郷と関連があるのではないか、つまり、出雲にも朝鮮語バタ(海)からきたという波多=秦氏族がひろがっていたのではないかと思った。しかし、秦氏族のことはそれまでにも何度かみていたので、「またか」と思われるのもいやだったから、そのままということにしたのだった。だが、その後になっても、そのことが何となく気になっていたものである。
で、私はこの「文庫版への補章」にそれをとり上げようと思い、それまでにはさらにもう一度出雲へ、と思っていたのだった。すると、そこへちょうど、島根県企画部広報課から、島根県はこんど、新羅の古都慶州がある韓国の慶尚北道と姉妹関係を結んだので、「出雲と韓国とのこと」での座談会をやり、それを県広報誌の『フォトしまね』ほかにのせたいから、参加してくれないかという依頼状がきた。
一九九〇年三月のことで、出席者は京都大学教授の上田正昭氏、県立島根女子短大教授の藤岡大拙氏、島根県知事の澄田信義氏、それに私とのことであった。「渡りに舟」とはこのことで、私はよろこんで承知するとともに、連絡を担当していた同企画部広報課の井上勝博氏に、次のようなことをたのんだ。
座談会では一日早い前日に私は出雲へ着き、三百五十八本の銅剣ほかが出土した荒神谷や、波多郷などをたずねてみたいからどうぞよろしく、と。すると、これはまたよい担当者にめぐりあったもので、井上さんからはさっそく、県総務部編の『島根県の地名鑑』や『島根県観光事典』ほかの資料が送られてきた。もちろん手紙も添えられていて、いまは掛谷《かけや》町となっているもと波多郷のそこには波多神社があることや、もうひとつ大東《だいとう》町には幡屋《はたや》というところがあって、そこには幡屋神社があり、宮司は波多野氏ですとあり、平田市には唐川《からかわ》町があることまで知らせてくれた。
座談会の前日に東京から出雲空港におり立った私は、その井上さんに迎えられて松江市の一畑ホテルにはいり、翌朝、県のクルマとともに来てくれた井上さんといっしょにさっそく出かけた。私たちはまず、松江市西南方の大原郡大東町須賀にあって、「日本の国づくりの祖神《おやがみ》(開拓神)須佐之男命(素戔嗚尊)」が祭神となっている須我神社へ、というふうにたずね歩いた。
幡屋神社の幡屋とはもちろん、秦(波多)氏族の機織《はたおり》からきたもので、さきに島根県神社庁刊の『神国島根』によってみると、その「由緒・沿革」がこうなっている。
創立年代は不詳であるが、神代において、天孫瓊々芸尊の降臨の際、五伴緒の神の内、太玉命の率いられた後裔忌部氏の一族がこの幡屋(機殿とか幡箭と書いた時がある。出雲国風土記には幡箭山と記されている)に止まって機布を職としていた。(近くに高麻山がある――植林した山)これが瓊々芸尊を斎い奉ったのがはじめであり、今日に至っている。(社の近くに古機《ふるはた》、御機谷《おはただに》、神機谷《かんはただに》、広機《はた》、長機《はた》等の地名がいまなお残っており、神機谷に前記五伴緒の神を奉斎した五人若宮神社がある)
カッコ内にしるされた「地名がいまなお残っており」というのがおもしろいが、幡屋神社のあるそこは、いくつかの谷間が入りくんだところで、神社もそういう谷のひとつとなっている山の裾にあった。神社でもらった『幡屋神社由緒書』をみると、いまでは、右にみた地名の古機は古畑、御機谷は畑谷、神機谷は神原田、長機は長畑と、それぞれ変わっているとある。
それからさらに「由緒」に関しては、「幡屋村の西方、加茂村との村境となっている高麻山の高麻神社は、同山の頂上分水点にあって、往古その村境を争い、社地の大部分はいま加茂村に属せり。高麻山の名の如くこの辺一帯、麻の適地なりしことは太古より知られたり」として、そのことがこうなっている。
天孫降臨以後は忌部《いんべ》氏の氏人この地に於て、製麻機織の業に従い、以て天孫に奉したるものなり。降《くだ》りて応神天皇の御代に至り、融月君《ゆづきのきみ》帰化し、絹布を製作しこれを献ぜしに天皇これを嘉賞し秦の姓を賜はりしが、この地の織法もまた秦氏の影響を受け、その部民の嶄新なる織法を伝へたり。その証としては、当社に太古以来奉仕せし神職は秦氏として、連綿今日に及べり。
しかし、この神職の秦氏も明治のはじめには波多氏となり、それがいまでは波多野氏となっている。なお、そのさきの秦氏からは、秦但馬守、秦対馬守といった者たちが出ている。
神原神社から荒神谷へ行く
幡屋神社からの私たちは、幡屋村と「往古その村境を争い」とあった、いまは加茂町となっているそこの神原神社をへて、簸川《ひかわ》郡斐川《ひかわ》町の荒神谷にいたった。神原神社には神原神社古墳があって、それのことが加茂町刊の『加茂』にこうある。
この古墳は狹長な竪穴石室古墳を内蔵する典型的な前期古墳で、多量の鉄製品を伴い、しかも副葬品の中に全国で二枚目の発見という景初三年銘の三角縁神獣鏡がある。全国的にも貴重な古墳とされ、出土品は国の重文指定とされている。
また、神原地区内では、県下で例のない弥生後期の土擴墓がまとまって発見され、神原正面古墳群として、三世紀後半から六世紀までの埋葬の跡が知られる貴重な遺跡も発見されている。
神原神社古墳は、もと神社の下となっていたもので、私たちは宮司の宮川昌彦氏に会っていろいろと聞き、その古墳から出土した景初三年銘三角縁神獣鏡の模造を一つずつもらって、先を急いだ。ここで結果のことをさきにいうと、私たちが斐川町の荒神谷まで行ったときはもうかなり時間がたっており、夕方の座談会の時間が迫っていたので、そこからはかなりの距離となっていた、飯石郡掛谷町のもと波多郷、波多神社までたずねてみることはできなかった。
ひとつはさきの幡屋神社で「秦(波多)」と「畑」などとのことをみていたし、またもうひとつには、全国総出土数以上の銅剣三百五十八本が出土したことで、そこも観光地のひとつとなった荒神谷の入口には記念品などの売店があって、そこで求めた池田敏雄氏の『出雲の原郷/斐川の地名散歩』にも、その「秦」と「畑」とのことがあったからである。
そのことはあとでみるとして、荒神谷というから、私は深い谷間を想像していたものだったが、そこは、低い丘陵に囲まれた浅い谷で、三百五十八本の銅剣と、銅矛、銅鐸などが出土したのは、その丘陵斜面のひとつからだった。しかも、発掘跡のその斜面は大事に保存されていたが、これがまた意外と浅い斜面だった。
そんなところにどうして、そんなに多くの銅剣ほかが埋められていたかは、いまなおナゾとなっているが、しかし一方、その銅剣の原料や製作のことについては、ある程度の解明がすすんでいる。たとえば、一九八八年三月四日の山陰中央日報をみると、「荒神谷銅剣/一本だけ朝鮮半島の原料/大量生産のモデルか/出雲鋳造の可能性強まる」という見出しの、こういう記事がのっている。
島根県・斐川町の荒神谷遺跡で大量に発見された日本独特の青銅器の一つ、銅剣を分析していた東京国立文化財研究所の馬渕久夫保存科学部長は三日までに、大半の銅剣が中国産である「華北型」原料で鋳造されているのに、一本だけ朝鮮半島南部の「朝鮮型」原料で出来ていることを突き止めた。このほど文化庁が開催した第一回銅剣修理検討委員会で中間報告されたもので、大量の銅剣製作のナゾを解く初の手掛かり。馬渕部長は「この一本が他の銅剣のモデルになった」と解釈しており、他の銅剣がこの一本をもとに古代出雲の地で鋳造された可能性が強まった。
これはそのイントロ部で、ついで読みすすめてみると、なかにこういうくだりがある。馬渕氏は、「この結果、弥生時代初期段階に出現する菱環鈕式銅鐸(りょうかんちゅうしきどうたく)や多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)、細形銅剣の鉛同位体比は朝鮮半島南部の鉛鉱石の測定値に符号する『K型』。弥生時代中期以降の日本の青銅器のほとんどは前漢時代の鏡と同じ中国・華北産の原料を使用したN型。などと、日本の青銅器原料の産地を分類する識別法をつくった」
つまり、荒神谷出土の銅剣の一本は弥生時代初期の朝鮮半島産で、あとの中国・華北産の原料を用いたものは、初期のそれをモデルとした弥生時代中期以降のものというのである。したがってあとのものは、モデルとしたその「一本をもとに古代出雲で鋳造された可能性が強まった」というわけであるが、しかし、出雲で鋳造されたとしても、島根大講師の速水保孝氏は、「荒神谷遺跡で発見された銅剣は、弥生時代に韓半島の洛東江流域、加耶・新羅地方から渡ってきた人たちによって造られたもの」(統一日報。一九八七・九・二七)と述べている。
このことについては、なぜ荒神谷にそんな大量の銅剣が埋められていたかということとともに、なおまだ今後を見守ることにして、さて、そこでさきにいった池田敏雄氏の『斐川の地名散歩』である。これに「群家《こほりのや》・郷家《さとのや》は長者原」という項があって、そのことがこう書かれている。
今は絶家となっていますが、出西の長者原《ちようじやばら》の近くに畑《はた》という家がありました。この畑家はもと秦《はた》であって、朝鮮から渡ってきた人の子孫だったといわれています。かつてはこの長者原に住んでいて、文字をもって長《おさ》につかえていたと伝えられています。
大陸の進んだ学問やすぐれた技術を持って渡来した人々は、文化がおくれている日本の古代人にとっては貴重な人であって、さぞ、代々の長は大事にあつかわれたことだと思います。
この畑家は、江戸時代の中期まではこのあたりの大地主だったようですが、その後家運が悪くなり、戦後は絶家となってしまい、残念なことにかつてあったであろうと思われる記録が残されていません。
「文字をもって長につかえていた」「さぞ代々の長は大事にあつかわれたことだと思います」などと、まだ皇国史観=帰化人史観にとらわれた文言があるが、それはともかくとして、これをみても「畑」が「秦」であったということがわかる。
隠岐の神々
ついで、こちらも島根県となっている隠岐国であるが、隠岐は本文にも書いたように、西郷町などの町村がある東方の島が「島後《どうご》」で、西ノ島町などの町村がある西方の島が「島前《どうぜん》」となっている。本書での私は、飛行機発着の空港がある島後までしかたずねることができなかった。
したがって、島前についてはほとんどあまり書くことができなかったのである。
そういうことだったので、本書の第八巻が出たあと、それを読んでくれた島前の隠岐神社・焼火神社宮司である松浦康麿氏から、「文庫版(八巻)となるさいの補足の参考に――」ということで、『知夫里村史』はじめ、『隠岐の文化財』第二号抜刷である速水保孝氏の「古代出雲と新羅―隠岐の神々―」や、三宅博士・松本岩雄氏の「島根県の青銅器について」、馬渕久夫氏の「島根県下出土青銅器の原料産地推定」が掲載されている文化庁監修『文化財』一九八五年六月号、川原和人氏の「島根県発見の朝鮮系陶質土器」などのコピーが送られてきた。
ありがたいことで、私はその松浦氏にも会ってみたかったから、こんどの出雲行きでは島前へも何とか、と思っていたのだった。しかし、なにぶんそこまでは船にも乗らなくてはならぬから、二、三日はかかるかも知れないとのことで、そこはまたいずれ、とするよりほかなかった。それで、ここでは、それらの資料のうちのある部分を、ちょっと示してみるだけとするほかない。
まず、『知夫里村史』第二編歴史「知夫の創始」であるが、「伊未自由未来記など、信憑性に乏しいが」としながらも、「それに依る」としてこう書かれている。
隠岐の国に始めて住みついた人間は木の葉比等で、この人は下に獣皮を着用し、上には木の葉や川柳の皮で綴ったものを着て居た。(伊未自由未来記は五箇村の金坂亮氏書写所蔵)。これら木の葉比等は、西方千里、加羅斬呂触《しろふる》から来た事になっており、又、韓の徐羅国から来たともいう。
西方千里、加羅斯呂触は、三国以前の韓半島に当る。加羅は釜山の隣、現在の金海に相当する。斯呂触は斯盧、新羅であろうから、これまた現在の慶尚南道に相当しよう。徐羅は不明。〈徐羅は徐羅伐ともいった新羅の国号=金〉
中田薫氏の古代日韓交渉史に依れば、新羅の史書に、日輪から産《うま》れた、延烏・細烏の夫婦が日本に移住した事があり、現在の迎日湾の浦項あたりから船に乗り、島前の知夫里へ漂着したに違いないというのである。
新羅に智夫里、烏支《おき》という地名があり延烏・細烏が定着後、故郷の地名を付けたというのである。尚、古事記の淤岐《おき》より、稲羽〈因幡〉へ渡った白兎は、延烏・細烏と同時か、又はそれ以前に移住した新羅人で、海上交通の支配者であった。和爾《わに》のために財宝を奪われたというのである。古代は人名に、動物の名をつける風習があったから、兎という人もあったであろう。即ち大伴の鯨、蘇我の入鹿、木菟、平群《へぐり》の真鳥、鯖、猿、牛等からみて不思議ではない。
隠岐から因幡への兎の説話については、本文の「『因幡の白兎』とはなにか」の項とあわせ考えてみたいものであるが、それから、速水保孝氏の「古代出雲と新羅―隠岐の神々―」をみると、こういうことが書かれている。
さらに、隠岐びとはワタスカミ(渡海して来た神)を五箇村の久見や西ノ島にまつった。わけても後者では、これを由良姫(ゆらひめ)神社にまつり、新羅の神であるスサノオの娘スセリヒメに擬している。また、島津島(知夫村)の渡津神社には、スサノオの息子イソタケルをまつり、それぞれ海上安全の神としている。その他、新羅びと渡来の地とされる長尾田には白山神社、都万村森に白山神社、布施村飯美に白髪神社、同じく卯敷(うじき)に白髭神社をまつっているが、白のつく神社は元来、新羅系神をまつっていたと考えてよい。
「白鬚明神は新羅神なるべし」(柳田国男「石神問答」全集第十二巻)というその白髭など、隠岐にはそういう神社があることも知らなかったから、そういうことからも、私は島後へも行ってみたかったのであるが、残念というよりほかない。
これまで「文庫版への補足」として書いてきたが、読者からの意見もあって、これからは「文庫版への補章」とすることにした。
第八巻文庫版の本書がこうして成ったのも、前巻と同じように、文庫出版局長の宍戸芳夫氏、講談社文庫出版部の守屋龍一氏の努力によるものである。ここにしるして、感謝の意を表したい。
一九九一年七月 東京
金 達 寿
日本《にほん》の中《なか》の朝鮮文化《ちようせんぶんか》 8
講談社電子文庫版PC
金達寿《キムタルス》 著
金達寿記念室設立準備委員会 1984, 1991
二〇〇二年二月八日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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