TITLE : 日本の中の朝鮮文化 7
講談社電子文庫
日本の中の朝鮮文化 7
駿河・甲斐・信濃・尾張ほか
金 達 寿 著
目 次
まえがき
伊豆・駿河・遠江
伊豆山から下田へ
三嶋大社の祭神
「枯野船」と猪名部
御穂神社・三保の松原
清水から静岡市へ
駿河・遠江の秦氏族
新羅神社をたずねて
甲 斐
渡来人の概況
都留郡都留の地
唐土明神と白鬚神社
和紙の里・西島へ
横根の積石塚古墳群
天狗山と大宮七社明神
駒井から若神子へ
登美と曾根丘陵
信 濃
望月の牧と高良社
善光寺をめぐって
森将軍塚古墳まで
治田から篠ノ井へ
信濃における高句麗
麻績・坂井村にて
桜ケ丘古墳の天冠
犬甘・田河・須々岐
諏訪から岡谷へ
伊那の古社と古墳
三河・尾張
新城の旗頭山古墳群
豊橋の羽田八幡宮
渥美半島の秦・漢氏族
熱田神宮と尾張氏
「せともの」と白山
続「せともの」と白山
飛騨・美濃
古川の数河獅子舞
国府町から白川郷へ
金神社と新羅神社
長良川をさかのぼる
不破・席田氏と南宮大社
あとがき
まえがき
本書は『日本の中の朝鮮文化』シリーズ第七冊目であるが、第六冊目が出たのは一九七六年七月であるから、これまでには七年近くの年月がすぎている。どうして、あるいはその間なにをしていたか、ということについては「あとがき」にしるすことにするが、いずれにせよ、ずいぶん長い時間がたったものである。
その間、日本における古代史学や考古学もそれ相応の発展をとげ、それまでとは相当変わった面も出ている。たとえば、いわゆる皇国史観と表裏の関係にあった「帰化人」ということがかなり克服され、「渡来人」ということばがそれにかわって定着しつつあるが、それからまたもう一つ重要なこととして、加耶(かや)(加羅(から)・加那(かな)ともいう)、または加耶諸国に対する新たな注視ということがある。
加耶、または加耶諸国とは、最終的には五六二年、新羅(しらぎ)によってほろぼされ、吸収された南部朝鮮(もと弁韓。現・慶尚南道を中心とした地)にあった地域国家、またはそのなかにあった安羅(あら)(安耶(あや)・安那(あな)ともいう)、多羅(たら)などの小国家群のことである。この加耶が古代日本との関係においても、高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅の三国とはまた別に、新たな注視を受けることになった。
だいたい、朝鮮の史書『三国史記』はほんとうは加耶を加えた「四国史記」でなくてはならなかったものであるが、その加耶に対する新たな注視によって、まず、須恵器(すえき)についての考え方が変わった。それまでは、日本の古墳などから出土する須恵器の原郷は新羅となっていたものであるが、たとえば一九八一年六月四日付けの東京新聞に、「火炎形すかしの高杯〈坏〉出土/須恵器のルーツに光明/天理布留遺跡でわが国初」という記事が出て、それがこう書かれるようになった。
「古墳時代の祭事遺跡、奈良県天理市の布留(ふる)遺跡から、このほど朝鮮半島南部独特の火炎形すかしを持つ須恵器がわが国で初めて見つかった。日本に須恵器が現れた古墳時代中期(五世紀)のものとみられ、そのルーツを探る貴重な資料と注目されている。……『日本書紀』には百済(くだら)の工人が伝えたとあるが、最近の研究では、朝鮮南部の伽耶(かや)地方から伝わり、その後、新羅の影響を受けながら、日本的な須恵器が作られたとされている」
「『日本書紀』には百済の工人が」とあるのも、百済・安耶系渡来人が、――と考えれば、それも別にまちがいではない。加耶諸国はのちその東の新羅に吸収されたばかりでなく、西の百済にも吸収されたもので、最近ではその百済だった全羅南道からも加耶式土器(須恵器)が発見されている。
このように、加耶を注視することによって生じた変化は、ひとり須恵器に対してのみではない。これまでは、日本に渡来した天日槍(あめのひぼこ)集団や秦(はた)氏族を新羅系とし、漢(あや)氏族を百済系としていたものだった。そしてそれはそれでまちがいではなかったが、しかしこれも最近の研究では前者の元の元は加耶であり、後者の漢(あや)氏族はその氏族名にも示されているように、加耶の安耶(あや)であることになった。このことは、一九八一年、三十七年ぶりに南朝鮮・韓国を訪れることができて、加耶の地をも歩いてみることができた私にも充分うなずけることである。
そこで、『日本の中の朝鮮文化』シリーズ第七冊目となった本書から、これまではただ新羅系としていた前者を新羅・加耶系とし、百済系としていた後者の漢氏族は百済・安耶系としるすことにした。そんなことなど、どちらでもいいようなものであるかも知れないが、しかし、加耶がこれからさらに明らかになるであろう、古代日本との関係に占める重要さを考えて、できるだけ厳密を期することにしたのである。
なお、引用文のなかの〈 〉は、著者が補ったものである。
日本の中の朝鮮文化 7
駿河・甲斐・信濃・尾張ほか
伊豆・駿河・遠江
伊豆山から下田へ
伊豆山神社へ
いまは静岡県となっている伊豆、駿河(するが)、遠江(とおとうみ)を歩くことにした。地図をみると、もと伊豆国だった伊豆半島は、熱海(あたみ)と三島あたりとがそのつけ根となっている。
私は、観光展望社発行の『伊豆の旅』という地図などを持って、ある日の午後十二時すぎ、東のそのつけ根である国鉄の熱海駅におり立った。そして途中一泊の予定で、伊豆半島を東海岸から南下して下田(しもだ)にいたり、そこから西海岸を北上して、三島に出てみようと考えたのである。
日本の代表的な温泉場の一つとして知られている熱海におり立った私は、駅前のタクシーに乗り込み、まず、「伊豆山(いずさん)神社へ――」と言った。「温泉ではない、神社ですよ」とさらに念を押した。というのは、そこにも伊豆山温泉というのがあったからである。
タクシーは急な坂道を左へまわり、右に折れしたかとみると、山上の台地となっている伊豆山神社の境内についた。奥の本殿が小さく見えるほどの広い境内で、観光の人たちがあちこちに三人、四人と群れている。
私はさっそく社務所へ行って、この神社でのそれはどうなっているか、「関八州総鎮守(ちんじゆ)」とした『伊豆山神社略誌』を手にしてみた。この種のものとしては珍しくわかりやすい名文調で、こういうふうになっている。
鎮座地 熱海市伊豆山上野地一。熱海駅の東北約一・五キロ。境内は古来歌枕に名高い伊豆の雄山、古々比杜(子恋いの杜)の一部で四万坪、海抜百七十米突。伊豆の海、相模灘を一望の中に収め、遠くは御神火(ごじんか)なびく大島が夢の様に浮び、近くは初島(はつしま)が手に取る様に眺められる景勝の地を占め、四季折々に御山を埋め彩る万樹百花に、渡り群れくる小鳥の鳴く音に心も洗われるばかりです。
祭神 伊豆山神(火牟須比(ほのむすび)命、伊邪那伎(いざなぎ)命、伊邪那美(いざなみ)命)
由緒 当社は古来伊豆山大権現、又は走湯(はしりゆ)大権現、伊豆御宮とも走湯社とも称され、略して伊豆山又は走湯山と呼ばれていましたが、明治になって現在の社名に改称されました。
御創立の年代は、悠久の昔であって確かな記録は残されておりませんが、人皇御五代孝昭天皇の御代と伝え、延喜式(えんぎしき)神名帳に所載の火牟須比命神社は、当社のこととされております。
もとは「伊豆山大権現」といわれた当社の創立が「人皇御五代孝昭天皇の御代と伝え、延喜式神名帳に所載の火牟須比命神社は、当社のこととされています」とは、ちょっと苦しそうな説明である。なお、さきにみた地図『伊豆の旅』の裏側をみると、それがこう書かれている。
伊豆山神社〈伊豆山〉温泉から七五〇段あまりの石段を登った、伊豆山中腹の景勝地にある。古くから知られた名社で、伊豆山神を祀(まつ)ってある。源頼朝が政子と道行きした所ともいわれ、神社裏の森は「古々井森(ここいのもり)」といって、ほととぎすの名所として古歌にあらわれている。
どちらも祭神が「伊豆山神」であることでは一致しているが、では、その伊豆山神または「伊豆山大権現」とはいったいどういうものであったろうか。それを知るためには、われわれはここで、伊豆のすぐとなりとなっているいまは神奈川県の相模のほうへ、ちょっと目を向けなくてはならない。
大磯の高来神社から
相模とはどういうことであり、どういうところであったか。丹羽基二氏の『地名』をみるとこうなっている。
さがみ 相模、相摸。相武にも当てる。朝鮮語のサガ(寒河(さむが))から来ている。朝鮮人の居所、相摸には朝鮮渡来人の集落があった。寒川(さむかわ)神社はその氏神(うじがみ)。
ここにいう寒川神社とは、相模の高座(こうざ)郡寒川町宮山にあって、相模国一の宮となっている寒川神社のことにほかならない。その寒川神社が古代朝鮮から渡来してそこに集落を営んでいた者たちの氏神だったというのであるが、相模における朝鮮渡来人の氏神社は、その寒川神社だけではなかった。
ほかにまた有名なものとしては、一八九七年の明治三十年に高来(たかく)神社と名称を改められて今日にいたっている、大磯の高麗(こ ま)神社がある。高麗とは、古代朝鮮三国の一つであった高句麗(こうくり)のことを、古代日本で高麗(こ ま)といったことからきたものであることはいうまでもない。大磯のすぐ北方は秦野(はたの)となっていて、ここも古代朝鮮三国の一つであった新羅(しらぎ)・加耶(かや)から渡来の秦(はた)氏族の居住したところであるが、それとともに、伊豆山大権現の伊豆山神社のことについては、『日本の中の朝鮮文化』(1)の「箱根山と高句麗人」「大磯の高来神社」などの項でかなりくわしくみているように、これは芦ノ湖に赤い鳥居を突きだしている箱根神社とともに、大磯の高来神社、すなわち高麗神社から分かれ出たものであった。
要するに、私が最初にたずねた熱海の伊豆山にあるもと伊豆山権現、伊豆山神社の伊豆山神とは、そのようにして、相模の大磯からひろがって来たものだったのである。つまり、そのもとは古代朝鮮の高句麗系渡来人がその祖神を氏神として祭っていた大磯の高麗神社=高麗権現だったもので、これがそのようにひろがったということは、さきにもちょっとふれたように、それをかれらの氏神として信奉していた氏族、あるいは部族といった者たちが、そのようにひろがって来たということにほかならなかったのである。
熱海温泉の開拓者は
伊豆山神社から、ついで私は、熱海市教育委員会をたずねた。同市教委では、まず社会教育主事の山田政夫氏に会ったことで、私はなにかと格別の便宜をえることになったものだった。というのは、山田さんはこのような古代朝鮮文化遺跡紀行をやっている私のことを知ってくれていたばかりか、山田さん自身、日本における朝鮮からの渡来文化に深い関心をもっていたからである。
山田さんはつづいて、同社会教育主事の鈴木諦弘氏や、それから同じ庁舎となっていた熱海市立図書館長の八嶋ため氏まで紹介してくれたので、私はこの人たちからもいろいろなことを教えられ、たくさんの資料をもらい受けることができた。とくに、八嶋さんからは市となる以前の古い『熱海町誌』や『多賀村誌』などをもらったが、あとで引くことになる山田兼次氏の『熱海風土記』の存在を知ったのも、この八嶋さんによってであった。
そして私は、この人たちといっしょに、茶をごちそうになりながら、しばらくのあいだいろいろなことを話した。山田さんが私のやっているこの仕事と関連して、
「これから大人になる次代の子どもたちには、正しい日本の歴史を教えるようにしたいものです」と言ったのが印象に残ったが、ところで、熱海といえば、何といってもまず温泉である。
「カルデラ状を構成する熱海火山の陥没した中心部に、温泉のためのみで発生した集落が、世界にもその類をあまりみない一つの都市を形造った。これが熱海という名の街である」(山田兼次『熱海風土記』)という、その熱海の温泉を発見し開発したのは、いったいどこのだれであったろうか。
そのことについては、『熱海市史』の編集にあたった太田君男氏の「熱海における帰化人の郷土史」にかなりくわしく書かれているが、ここでは紙幅がないので、その結論の部分だけ示すと、次のようになっている。
以上は熱海大湯温泉の開拓者である万巻(まんがん)上人の物語ですが、熱海における温泉の発見とか、神社を祀(まつ)る根源を作ったのは熱海人ではなく他国の人、特に韓国よりの文化の発達した帰化人によって行われたということは、注目すべきことと思われます。
(追加)この外(ほか)熱海の南にあたる伊豆多賀の地は、もと近江、今の滋賀県の多賀に住んでいた人達が神体をもって近江より伊豆多賀に移住したといわれています。この近江の多賀地方の人は、やはり帰化人の子孫といわれています。
多賀神社の境内や多賀地区には古代の遺跡があり、土器や石器が出土されています。
ついでに「(追加)」の多賀地区までみたが、ここにいう「熱海大湯温泉の開拓者である万巻上人」とは、さきにふれた箱根神社、その元である駒形(こまがた)権現を駒ヶ岳の山頂から麓におろして箱根権現として祭った人で、その万巻上人が「熱海大湯温泉の開拓者」でもあったのである。
そういえば、さきほどは忘れていたが、中野敬次郎氏によると(座談会「武蔵と相模の渡来文化」)、箱根温泉を発見し開発したのも、この万巻上人であった。したがってまた、熱海の伊豆山権現とは一つつながりである箱根権現の創始者であった万巻上人が、こちらの熱海温泉の開発者だったというのも、充分うなずけるように思う。
すると、どういうことになるであろうか。熱海温泉の開発者は万巻上人であるとして、具体的にそれを開拓し、利用しはじめたのは、伊豆山権現を信奉してこの地に住んでいた高句麗系渡来人ではなかったであろうか。
しかし、それはどちらにせよ、熱海市のいまの人口は五万余、それが夜になると三倍の十五万余にふくれあがるとのことであるが、江戸時代の絵図をみてもわかるように、その江戸時代でさえ、熱海にはまだわずかな人々しか住んでいなかった。まして古代は、東北方の相模からひろがって来た、伊豆山権現の伊豆山神を祖神として信奉する者たちがその主なものではなかったかと思われるが、しかし一方、どちらがさきだったかはわからないけれども、新羅=出雲系の五十(い)猛命(たけるのみこと)を祭神とした来宮(きのみや)神社を祭る者たちもこの地に来ていた。
そしてまた、西南方からは三嶋大社系の者たちも来ているし、多賀地区には、いまみたように、これも「やはり帰化人の子孫といわれています」とある近江の多賀からのそれもあった。こうしてみると、熱海というところは、それらの人々があちらこちらからやって来た、その接点の一つとなっていたことがわかる。
三嶋大社と事代主神
熱海市教委の山田さんたちとわかれた私は、さらに熱海駅へ引き返して、こんどはそこから下田方面へ向かう伊豆急電車に乗った。次の来宮をすぎると伊豆多賀で、左手の窓外に、傾斜地となっている多賀の町がひろがっている。熱海の中心街とはちがって、ここは住宅が中心となっている町である。
私はほんとうはその多賀にもおりて、多賀神社などもたずねてみたいところだったが、しかしそうしていたのではきりがなかったので、ここはそのまま見すごし、熱海市教委でもらった『多賀村誌』を車中でひろげてみるだけにとどめた。「沿革」にこうあるのが目につく。
学者曰(い)う、三嶋大社の祭神、事代主神(ことしろぬしのかみ)の現神して渡来し給えり、と。しかし、真偽の事は未(いま)だ知りがたからん。延喜式内神社に伊豆国所属の分、総数九十二座。其のうち島嶼部(とうしよぶ)二十三座、南豆四十三座あり。北豆には、僅(わず)かに二十五座あるのみ。而(しか)してこれ等の諸祭神はだいたい三嶋大社随従の神にして、現今、〈伊豆〉半島ちゅう三嶋大社と称するもの二十六座ありて海岸に分布し居る事実は、全く半島の南部より伝来せる殖民人種によりて始まれりと見るの至当なるを信ぜざるを得ず、と。
文章をちょっとわかりやすくしたが、「現今、〈伊豆〉半島ちゅう三嶋大社と称するもの二十六座ありて……」、つまり、伊豆半島には三嶋大社と同系の神社が二十六社もあるとは、私はこれによってはじめて知ることであった。なるほど、と私は思ったが、一方また、「学者曰う、三嶋大社の祭神、事代主神の現神して渡来し給えり、と。しかし、真偽の事は未だ知りがたからん」
とあるのも、なかなかおもしろいと思った。
というのは、三嶋大社、あるいはその系統の神社の祭神が事代主神となっていることについては、あとでみるように、これまでいろいろな議論があったばかりか、たいへんおもしろい事実もあったからである。ここではただ、中伊豆観光連盟発行の『伊豆』にはその祭神のことが、こうあるということだけみておくことにする。
三嶋大社 三島田町駅から徒歩十分。三島市の中心であり、伊豆のシンボルになっている。祭神はずっと以前、大山祇命(おおやまずみのみこと)であったが、明治に入り、事代主命に改められた。この地に国府庁のあったときの総社で、三島の町は今の神社の後ろにあったといわれる。
白浜神社=伊古奈比神社
伊豆急電車に乗っていた私は、そのまままっすぐ下田まで行き、同市の白浜にあっていまはその地名の白浜神社となっている、伊古奈比〓(いこなひめ)神社をたずねるつもりだったが、思い返して途中の稲取(いなとり)駅におりた。それというのは、本稿をしばらく連載することになった雑誌「あすど」の編集・発行所となっている全電通(全国電気通信労働組合)の労働学校「団結の家」がこの稲取にあって、私はついでにそこへもちょっと寄ることになっていたからである。
前日にした「あすど」編集部の渋谷勝氏との打ち合わせでは、稲取駅におりて電話をしてくれればクルマでそこまで迎えに行く、ということだったので、それなら、ということだったのである。つまり、そのクルマで白浜神社まで行ってもらおう、と私は考えたのであった。
一つは、その取材の現場を編集部の人にもみておいてもらいたいと思ったからだったが、間もなく渋谷さんは鈴木誠二氏の運転するクルマで、すぐにやって来てくれた。白浜神社まで行くことは予定になかったことだったが、渋谷さんたちはこころよくそれを承知してくれた。
稲取から下田市の白浜までは、クルマで二十分足らずだった。眼前に白波の打ち寄せている海がみえたかとみると、そこがもと伊古奈比〓神社の白浜神社だった。静岡県高等学校社会科教育研究協議会編『静岡県の歴史散歩』をみると、こうなっている。
下田駅から国道一三五号線を北上して白浜の集落に入ると、白浜神社がある。正式の社名は伊古奈比〓(いこなひめ)神社という。境内にはアオギリが群生(国天然)、ビャクシンの巨木がそびえている。毎年一〇月二九日の例祭の前夜には、本殿裏で焚火(たきび)をして伊豆諸島の神々をおがむ火達(ひたち)祭りがある。祭礼の翌日、神社裏の海岸で、眼前に遠く近く神秘的につらなる伊豆諸島をおがみ、御幣(ごへい)と神饌(しんせん)をいっしょにして大明神岩から海中になげる。
この神社と伊豆七島との関係は、伝えによると、事代主命(ことしろぬしのみこと)とその后(きさき)の伊古奈比〓命は三宅島に位置していたが、いつのころからか白浜に渡来したという。
「(国天然)」とは国指定天然記念物ということであるが、なるほど境内はそのとおりで、まず巨大なビャクシンの枯木が私たちの目を射た。木札に「伊豆最古の神社」とあるように、あたりはどことなく古いその由緒をものがたっているようで、鈴木さんとは別に、渋谷さんはそこがはじめてだったらしく、
「ここにこんな神社があるとは知らなかったですね」と言ったが、それにしても、また「事代主命」である。いまみた『静岡県の歴史散歩』には別のところ、三島市の三嶋大社を説明したところではこう書かれている。
旧下田街道が国道一号線と分岐する位置に、伊豆一の宮三島神社がある。中世以後の伝説によると、伊予国大三島(おおみしま)の三島明神が伊豆の三宅(みやけ)島に上陸、さらに賀茂郡白浜にうつり(現下田市白浜神社)、大仁(おおひと)町の広瀬神社をへて現在地に鎮座されたという。これは三島神を信仰する瀬戸内海の集団が、その航海術を利用して伊豆半島にうつったとされる。祭神に事代主命が合祀されたのは明治になってからで、それまでは大山祇神だった。
それであるのに、さきの伊古奈比〓神社=白浜神社のところではどうして、「この神社と伊豆七島との関係は、伝えによると、事代主命とその后の伊古奈比〓命は三宅島に位置していたが」となっているのであろうか。こうした混乱と矛盾とについては、次項の「三嶋大社の祭神」で少しくわしくみることにする。
三嶋大社の祭神
九十二もある式内社
下田から西伊豆をたどると、途中の松崎町に三嶋大社系のそれとは別の伊那上(いなかみ)、伊那下(いなしも)神社があり、また、安良里(あらり)というおもしろいところもある。それからまた、これは西伊豆ではないが、天城湯ケ島町には有名ないわゆる伊豆の「枯野船(からぬぶね)」と関係あるとされている軽野(かるの)神社があったりするけれども、それらについてはあとでみるとして、三嶋大社の伊豆におけるその元であった伊古奈比〓神社をみたついでに、三島市にある伊豆国一の宮の三嶋大社の祭神のことから、さきにみることにする。
さきに引用した『多賀村誌』に書かれていたことを思いだしていただきたい。伊豆国は古代のいわゆる上・中・下のいわゆる「下国」で、『駿河国正税帳』によると人口わずか一万一千余だったにもかかわらずおどろくのは、九二七年に成ったとされている『延喜式』に記載されている神社が九十二社もあるという事実である。たとえば、その『延喜式』内の神社がもっとも多いのは、いまは奈良県の大和が二百八十六社、三重県の伊勢が二百五十三社、島根県の出雲が百八十七社で、これでみると、伊豆は全国の第十一位となっている。
そして、「これ等の諸祭神はだいたい三嶋大社随従の神にして」というのであるから、その三嶋大社とはいったいどういうものであったか、と考えてみないではいられない。
もちろん、さきにみた『多賀村誌』のそれによってもうかがわれるように、元来、日本の神々というのは、西洋のいわゆるゴッド(神)とはちがったもので、元はどれも人間だった者、ある血縁集団の首長だった者が死んで神となったものであった。したがって、その神を祭る神社があちこちにひろがっているのは、それを氏神とする氏子たちがだんだん増加して、あちこちにひろがったということにほかならないのである。
祭神変更の理由
ところで、これまでみてきたように、三嶋大社の祭神は、あるところでは事代主命であったり、またあるところでは大山祇命(おおやまずみのみこと)であったりしているのは、いったいどうしてであろうか。われわれとしてはまず信頼しなくてはならない前記『静岡県の歴史散歩』にしても、三嶋大社の伊豆におけるその元であった伊古奈比〓神社=白浜神社を説明したところでは、「この神社と伊豆七島との関係は、伝えによると、事代主命とその后の伊古奈比〓命は三宅島に位置していたが、いつのころからか白浜に渡来したという」とある。
そしてその一方、三島市にある「三嶋大社」のところでは、「中世以後の伝説によると、伊予国大三島の三島明神が伊豆の三宅島に上陸、さらに賀茂郡白浜にうつり(現下田市白浜神社)、大仁町の広瀬神社をへて現在地に鎮座されたという。これは三島神を信仰する瀬戸内海の集団が、その航海術を利用して伊豆半島にうつったとされる。祭神に事代主命が合祀されたのは明治になってからで、それまでは大山祇神だった」
かんたんにいうと、あとのほうが正確に近いが、これもよりただしくは、「祭神に事代主命が合祀されたのは明治になってからで」はなく、中伊豆観光連盟発行の『伊豆』にあるように、「祭神はずっと以前、大山祇命であったが、明治に入り、事代主命に改められた」というのがただしい。
では、なぜ、三嶋大社の祭神は「明治に入」ってそのように改められたのであろうか。神社・神宮の祭神、いうところの神様もそのように改められたり、変えられたりしたのはなにもひとり三嶋大社のそればかりとは限らないが、三嶋大社の祭神であった大山祇命は、その出自がはっきりしていたからである。
事代主命にしたところで、その元をただしてみればどこから来たかわかったものではないが、大山積命(おおやまつみのみこと)とも書かれる大山祇命は、それがはっきりわかるようになっていたのである。すなわち、吉野裕訳『風土記』をみると、「伊予国風土記」(逸文)にこういうふうにある。
御島(瀬戸内海にある三島群島で、大三島の宮浦に大山積神社〈三島明神〉がある)においでになる神は大山積神、またの名は和多志(わたし)(渡海)の大神である。……この神は百済(くだら)からおいでになりまして、摂津(せつつ)国の御島においでになった。
要するに、大山祇(積)命は古代朝鮮三国の一国である百済から渡来したそれだったので、一八七一年の明治四年に官幣(かんぺい)大社となっていた三嶋大社の祭神がそういう朝鮮の神であってはぐあいわるい、というわけだったのである。そこで事代主命というものに改められることになり、『三島市史』にもそのことがこう書かれている。
明治五年十一月十八日、かねて萩原正平(明治五年六月二十二日、三嶋大社少宮司に就任)より教部省へ差出(さしだ)したる通り、三嶋大社伝記並(ならび)に伊豆国式社考証に委詳考記せる祭神「事代主命」に確定せられたき旨の伺(うかが)いを政府に提出したのである。政府はこれによって教部省と協議の結果、明治六年一月六日、萩原正平に伺いの如く三嶋大社祭神は「積羽八重事代主命」(葛木賀茂神系)として確定の指令を発したのであった。
百済系渡来人集団の移住
こういうしだいで、そのことがわかってみると、前記『静岡県の歴史散歩』がいう「三島神を信仰する瀬戸内海の集団が、その航海術を利用して伊豆半島にうつったとされる」それがどういう集団であったかはっきりわかる。すなわち「百済からおいでにな」った大山祇命を、その共同体の支柱として祭っていた百済系渡来人集団だったわけであるが、それにしてもおもしろいのは、この「三島神を信仰する瀬戸内海の集団」のひろがり方である。
かれらはまず、いまは大阪府となっている摂津の御島(いま高槻市赤大路町に三嶋鴨神社がある)にうつり、それからはところもあろうに、伊豆七島の一つである三宅島に上陸したということである。古代のかれらの航海術がどんなにすぐれたものであったかを思わせるはなしであるが、この三宅島には先年、私も行ってみたことがある。
そして、「三宅島の百済仏」という一文を書いているが、江戸時代には流人(るにん)の島として知られていた三宅島というのはたいへんおもしろいところで、まずおどろいたことには、海上のこの小さな島に『延喜式』内の神社が、古墳のある富賀(とが)神社はじめ十三社もあるということである。この『延喜式』内社はいまは広島県の安芸(あき)国が三社、鹿児島県の薩摩(さつま)国が二社であることを思えば、たった一つの島でしかない三宅島のそれがどんなものであるか、わかるというものであろう。
何ともおどろくべき事実であるが、それから、この三宅島の字(あざ)伊豆というところに高麗山普済院という寺があって、ここには長野善光寺のそれと同型のものといわれる金銅の百済仏がある。高さ三十三センチの阿弥陀如来で、寺の伝承では、はるばる朝鮮の百済からこの仏像が三宅島へ流れついたもの、ということになっている。
もちろん、金銅のそんな仏像だけが流れてくるはずはないので、もしかするとこれもその三宅島に上陸した大山祇命の「三島神を信仰する瀬戸内海の集団」がもたらしたものではなかったかと思われる。それはどちらにせよ、この瀬戸内海の集団がその三宅島からさらに膨張して伊豆半島へうつり、下田の伊古奈比〓神社=白浜神社や大仁町の広瀬神社など、たくさんのいわゆる三嶋大社系の神社をあちこちにのこしながら、さらに伊豆半島のつけ根となっている田方(たがた)平野北端の三島へとひろがって、ここにかつての官幣大社であった三嶋大社までのこすにいたったのである。
伊豆国一の宮・三嶋大社
伊豆にはほかにも同系社がたくさんあるのに、なぜ三島市大宮町にあるこの三嶋大社が伊豆国一の宮という大社になったか。それは多分、東海道という要地に位置していたからではなかったかと思われるが、現在の三嶋大社は五万平方メートル(一万五千坪余)の境内地にいわゆる権現造りの社殿を構え、宝物館には俗に「三島本」といわれる『日本書紀』などの古写本もある。
また、室町時代から江戸時代にかけて「三島暦」というのが発行されたのもこの三嶋大社で、境内には樹齢一千二百年余という金木犀(きんもくせい)などがあることでも有名だが、社務所で『三嶋大社参拝の栞(しおり)』というのをもらってみると、いまのその祭神はこういうふうになっている。
祭神 大山祇神/事代主神
祭日 例大祭 八月十五日〜十七日
春季大祭 四月三日〜九日
大山祇神(山の神)は国土経営の神であり、山林農業の守護神であります。さらに衣食住、交通安全の神として崇(あが)められております。特殊神事、静岡県無形文化財「田祭」は古来「田の舞」に端を発し、田楽(でんがく)、田祭と進展した古代文化の遺産であります。
事代主神は別称恵比寿(えびす)様とも言い、世の中の事物事象を掌られ、一言で善悪及び進退を判断決定される神であります。
神代の昔、地上神、大国主(おおくにぬし)命が天上神である皇孫に国土の統治権を献上する時大国主命は事代主命の明確な判断と託宣(たくせん)によって国譲りの大業をなしとげたのであります。
「枯野船」と猪名部
新羅系の伊那上、伊那下神社
さて、都合上、一挙に三島市の三嶋大社まで行ってしまったが、さきにものべたように、三嶋大社の伊豆におけるその元であった伊古奈比〓神社=白浜神社のある下田から西伊豆をたどると、途中の松崎町に、伊豆半島に多い百済から渡来の三嶋大社系のそれとはまたちょっと異質な伊那上、伊那下神社がある。
それがどういうふうに異質かはこれからみることになるが、下田からタクシーを走らせた私はまず、道路のかたわらにある伊那下神社をたずねた。そしてさきに、そう大きなものとはいえないしずかな神社の境内をひとめぐりしたが、由緒書の掲示があって、当社は「秦氏が祀(まつ)りし神社にあらざるか(足立鍬太郎)」と書かれたりしているのが目をひいた。
足立鍬太郎氏という人は、たしか『静岡県史』の編集にたずさわった地方史家ではなかったかと思うが、ついで私は、神社の向かいにあった宮司の森清信氏をたずねた。しかしあいにく森氏は病床にあって会えず、かわりに出てくれた国学院大学の学生だという息子さんから、『伊那下神社誌』などをみせてもらうことになった。
その『伊那下神社誌』をみてまず知ったことは、伊那下神社は江戸時代までは別名を「唐(から)大明神」ともいっていたということである。このばあいの唐とはもちろん中国・唐(とう)のそれではなく、古代朝鮮の馬韓(ばかん)(のち百済)・辰韓(しんかん)(新羅)・弁韓(べんかん)(加羅)の韓(から)ということであることはいうまでもない。
なぜそういえるかというと、伊那上、伊那下神社の伊那(いな)ともこれはかかわることであり、また、いわゆる伊豆の「枯野船(からぬぶね)」ともかかわり、さらにまた、松崎町から北となっている安良里(あらり)というところともこれはかかわっているからである。まず、伊那上、伊那下神社の伊那であるが、これは新羅・加耶系の渡来豪族として有名な秦氏族から出たものか、もしくは随伴して来た部民(べのたみ)の木工集団である猪名部(いなべ)(為奈部とも書かれる)の猪名(いな)からきたものにちがいない。
いずれにせよ、伊那上、伊那下神社は、のちにみるように駿河から遠江、いまは愛知県の三河、岐阜県の美濃にまで濃厚に展開していた秦氏族と関係あるものと私も思っているが、それでは、その同族かもしくは随伴していた部民の木工集団である猪名部とはどういうものであったか。これについてはさきにまず、いわゆる伊豆の「枯野」または「枯野船」とはどういうものであったか、それをみなくてはならない。
「枯野船」とは何か
新羅から渡来の木工集団である猪名部のことは、『日本書紀』応神三十一年条、雄略十一年条などにも出ているが、松田太郎氏の『阪神の歴史』をみると、伊豆の枯野船との関連でそれがこう書かれている。
応神天皇の世、さきに伊豆国から貢した官船(枯野船)が朽ちて使用することができなくなったので、その船材を薪(まき)とし、五百籠(いおこ)の塩を焼き、その塩を諸国に賜り、その代りとして、新たに船をつくらせた。そこで諸国から一時に五百の船を貢し、すべて武庫水門(むこのみなと)に集っていた。この時新羅の調使の船も武庫水門に碇泊(ていはく)していた。ところが新羅の船の失火で多くの船が焼けたので、新羅王は謝罪のため名工を送ってきた。これが猪名部の始祖である。
『日本書紀』一流の皇国史観的フィクションによる付会であるが、そのことは山田兼次氏の『熱海風土記』の「枯野船」にも書かれていて、こちらのほうはこうなっている。
『日本書紀』によれば、この快速船「枯野」は、官船として二十有六年もよく働き、応神天皇三十一年の秋にはすっかりいたんでしまい、廃船となったが、天皇は朝臣に詔(みことのり)して、
「官船(おおやけのふね)、名は枯野は伊豆国の貢(みつぐ)る船なり。是(こ)れ朽(く)ちて用うるに堪えず、然れども久しく官用(おおやけのもの)と為(な)りて、功(いさおし)忘るべからず。何(いか)で其の船の名を絶たずして後葉(のちのよ)に伝うることを得む」と。そこで朝臣たちはよりより相談した結果、この枯野船の船体を解(と)いて薪をつくり、海水を焚(た)いて塩をつくったところ、五百籠(いおこ)の塩ができあがった。
「これは、長いあいだ国のために働いてくれた伊豆の国より奉(たてまつ)った枯野船でつくった塩である」
といって、国中に分け与えられた。
国中の国長(くにおさ)たちは、それをいただいてありがたく思い、枯野船にかわる船をそれぞれ一隻ずつ造って献上したので、朝廷には一時に五百隻の船が集った。
天皇はこの船を武庫(むこ)の水門(みなと)に集めておかれたが、たまたま、新羅(しらぎ)の貢船(みつぎぶね)がこの武庫の水門に入って泊っている時、船火事をおこして、五百隻の船はことごとく焼けてしまった。
新羅の王はこれを聞き、大いに驚き、新たに船匠たちを大ぜい遣(つか)わして船を造らせた。そのため、韓国の造船術がはじめて日本に伝わることになった。
私はいまさっき「『日本書紀』一流の皇国史観的フィクションによる付会であるが」と書いたが、後者のこれをみると、ますますその感を深くしないわけにはゆかない。が、しかし、それだからといって、ここに語られている貴重な事実まで忘れ去ってしまってはならないのである。
つまり、これはどちらも逆に、そのさいごのほうから読んでみると、前者は新羅の木工集団、あるいは造船技術者集団である「猪名部の始祖」渡来のことを語ったものであり、後者はそのことによって、「韓国の造船術がはじめて日本に伝わることになった」ということを語ったものだということである。
それにいたるまでのはなしはすべて、のちの八世紀につくられた『日本書紀』一流の皇国史観的フィクションによる付会にすぎない。だいたい、「応神天皇の世」というと四世紀のおわりから五世紀はじめにかけてということになるが、そのころはまだ「伊豆国から貢した官船(枯野船)」などといえる「朝廷」などどこにもありはしなかったのである。
伊豆でつくられた枯野船が朽ちて使用不能になったので、「その船材を薪とし、五百籠の塩を焼き、その塩を諸国に賜り」というが、かりにもしそれであったとしても、「その塩を諸国に賜り」というその「諸国」とはいったい、どういう諸国であったのか。そのような国・郡・郷(または里)の制度ができるのは六四五年のいわゆる「大化の改新」以後、七世紀も後半に入ってからなのである。
しかしながら、いつのことかは知らないが、伊豆には新羅系渡来人の猪名部などが早くから来ていてそのような船、「枯野船」といわれたものがつくられたということは、たしかなようである。それはかれらがその祖神を祭ったものにちがいない伊那上、伊那下神社があることからも推しはかることができる。
そのことはまた、かれらがつくったと考えられるその船が「枯野船」であった、ということからも推しはかることができる。なぜかというと、この船はかれの(枯野)船ではなく、からぬ(枯野)船というものにほかならなかったからである。
「枯野船」は韓(から)の船
今日ではその枯野(からぬ)の枯(から)がいつの間にか軽(かる)という字に変えられ、田方郡天城湯ヶ島町には軽野(かるの)神社があって、前記『静岡県の歴史散歩』にもそれがこう書かれている。
修善寺駅から南へ四・五キロ、国道ぞいの松瀬の円丘に軽野神社がある。このあたりは応神天皇五年に、伊豆国に命じて船をつくらせたという伝説の地で、そのさいまつられた神社といわれている。その船はクスの木を材とし、海上をかるくはしったので枯(狩(かる))野船と名づけられた。平安時代にはこのあたりは狩野郷(かのごう)とよばれ、付近に船原・楠田などの地名もあり、伊豆の山地から狩野川の水運を利用して材をはこんだ造船伝説にちなんだものとされる。
狩野郷または狩野川というのが「枯野船」の枯(から)からきたものだということはうなずけるが、しかしその船が「海上をかるくはしったので枯(狩)野船と名づけられた」とは付会もはなはだしい、といわなくてはならない。
くり返しになるが、「枯野船」の枯とは軽でもなければ、まして「(狩(かる))」といったものでもなく、それはあくまでも枯(から)であったし、また、「枯野船」の野にしても、これはの(野)ではなくぬ(野)であったということである。
すると、どういうことになるか。この「枯野船(からぬぶね)」の枯はやはり、その船をつくった猪名部の祖神を祭った伊那上、伊那下神社が江戸時代までは唐(から)大明神ともいわれたというその唐(から)、すなわち韓(から)(加羅)と考え合わせるほうが、合理的ということにならないであろうか。
なおまた、中島利一郎氏の『日本地名学研究』をみると、奈良県のナラが朝鮮語の「国」ということであることを説明したところに、こういうくだりがある。朝鮮語ナラは「国、平野(ひらぬ)、宮殿、王の四義を有するもの。今日では『国』及び『野』の義だけで、『宮殿』『王』の義は、全く朝鮮人からは忘れ去られている」
ここにいう「平野」の野が朝鮮語のナラ、すなわち国ということであったとすれば、伊豆の「枯野」とは韓(から)(加羅)国(くに)ということになり、「枯野船」とはその韓国(からくに)の船ということになる。こういうと、なかには首をかしげる向きもあるかも知れないが、このことは『万葉集』に「韓(から)」が「枯(から)」となっている例があるばかりでなく、伊那上、伊那下神社の松崎町からちょっと北上したところに、安良里(あらり)というところがあることからも、私はそういえるのではないかと思う。
安良里と安羅
私が伊豆西海岸のそこに安良里というところがあるのを知ったのは、ある偶然のことからであった。一九六八年のこと、静岡県でいわゆる「金嬉老事件」というのが起こり、私は、静岡地方裁判所でおこなわれたその裁判の特別弁護人となっていたことがあった。
そしてある日の夜、ほかの弁護士たちとの打ち合わせがあって、伊豆長岡のある旅館に泊まったことがある。するとその旅館の廊下の壁にいくつかの油絵の額がかかっていて、そのなかに「安良里港」というのがあったので、私は一瞬びくりとしたのをいまもおぼえている。
「安良里とは――」と思ったからだったが、旅館の人にきいてみると、伊豆の西海岸には現実にその安良里というところがあって、しかもそれは朝鮮語そのまま、安良里(アラリ)というのだと言う。それで私はまた二度びっくりしたわけだったが、安良里のその安良とは、これまでにみた加羅(加耶)諸国のうちの一国であった安羅(あら)(安耶(あや)・安那(あな)ともいう)にほかならず、これはまた加羅や韓が加良(から)、韓良(から)とも書かれたのと同じように、安良とも書かれたものであった。
その安良里をたずねてみると、入江の深い小さな港町で、いまも遠洋漁業の基地となっているとのことであるが、港の入口となるところに樹木の生い茂った網屋崎というところがあって、ここに浦守(うらもり)神社がある。どういう神を祭っているのかと地元の老人にたずねてみると、それはわからず、何でもかつては、「もろこし明神」といったものだとのことであった。
もろこし、諸越(もろこし)、唐(もろこし)とはもと中国をさしたものであるが、これも唐(から)(韓)大明神のそれと同じく、古代朝鮮からのそれをさしていったものにちがいなかった。たとえば、いまもおこなわれている神奈川県の大磯にある高来(高麗)神社の「祝歌」に、高句麗からの渡来人である高麗若光(こまのじやつこう)集団の上陸を迎えるそれとして、「浦の者共怪(あや)しみて、遥(はる)かに沖を見ておれば、唐船(もろこしぶね)急ぎ八の帆を上げ……」とあることからもそれがわかる。
そういう安良里というところがあることからみても、私は伊豆のここに韓(加羅)野、すなわち「枯野(からぬ)」(韓国(からくに))という原始的な小王国のようなものがあって、それが擁していた木工集団の猪名部につくらせた船が「枯野船」といわれたのではなかったかと思う。そしてその小王国のようなものをつくっていたのは、これからつづけてみることになる駿河や遠江に展開していた新羅・加耶系渡来の秦氏族の一派ではなかったかと私は思っている。
なお、ここで、秦氏族から出たものか、もしくはその随伴の部民であった木工集団の猪名部というものについてもう少しふれておくとすれば、この猪名部はひとり伊豆にいたものだけがそれではない。その足跡はほかにもいろいろとあって、とくにそれが濃厚なのは、『日本の中の朝鮮文化』(4)「猪名部を行く」の項でかなりくわしくみている三重県・伊勢の員弁(いなべ)郡で、この郡名からしてそれからきたものであるが、この員弁郡には猪名部神社が二社もあり、そしてこの猪名部氏族からは、のち『続日本後紀』の撰者となった春澄善縄(はるずみよしただ)といった学者も出ている。
御穂神社・三保の松原
古代の静岡県の人口
次は駿河であるが、そのまえにわれわれはここで、これまでにみた伊豆を含む駿河・遠江、すなわち現在の静岡県下には古代の当時どれくらいの人々、どういう人々が住んでいたか、ということについてちょっとみておくことにしたい。前記『静岡県の歴史散歩』にこうある。
当時の住民は、正倉院文書のなかの資料から推算すると、八世紀には遠江九六郷、九万人、駿河五九郷、七・五万人、伊豆二一郷、二・二万人、合計一八万七〇〇〇余人といわれた。当時は一戸といっても数十人をかかえる郷戸と一〇人以下の房戸などがあり、一戸の口分田(くぶんでん)も四町余のものもあれば、四反しかないものもあった。
そして住民は大化改新により解放されて公民化したが、租庸調(そようちよう)がまっていて、庸役などとして皇居の造営、兵役として朝鮮白村江(はくすきのえ)の戦いへの出陣、九州防衛の防人(さきもり)、女子は采女(うねめ)として宮中奉仕などがあり、そのときの感慨が『万葉集』の東歌(あずまうた)などにみえる。さらに県内には多くの渡来人がはいってきて、服部(はとり)・羽鳥・倭文(しとり)という地名や神社名を残している。これらの渡来人は大和朝廷の東国開発の先駆となり、東国開発がすすむにつれて県内の渡来人は武蔵国にうつされ、七七一(宝亀二)年には武蔵国は東海地方の一国に編入された。
「合計一八万七〇〇〇余人」という住民はいまの静岡県下、たとえば清水市一つのそれにも足りなかったものであるが、それはともかくとして、この一文には一つ注意しなくてはならぬことがある。なにかというと、「これらの渡来人は大和朝廷の東国開発の先駆となり、東国開発がすすむにつれて県内の渡来人は武蔵国にうつされ」ということである。
これではまるで、「県内の渡来人は」すべてみな「武蔵国にうつされ」たかのように読めるが、それは明らかなあやまりなのである。
これはおそらく、『続日本紀』七一六年の霊亀二年条に、「駿河、甲斐、相模、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、常陸(ひたち)、下野(しもつけ)よりの高麗(こ ま)人(びと)千七百九十九人を以て武蔵国に遷(うつ)し、始めて高麗郡を置く」ということからきたものであろうが、しかしこれは「高麗人」すなわち高句麗系渡来人、しかも六六八年、高句麗がほろびてから渡来した者たちのことであって、それ以外の渡来人たちをさしたものではなかったのである。
そのことはなによりも、これまでにみた伊豆のそれにも明らかだが、なおこれからみる駿河、あるいは遠江における渡来人のそれをみることで、いっそう明瞭となるはずである。
新羅三郎笛吹の石
さて、その駿河は三島から北方が駿東(すんとう)郡で、ここの小山(おやま)町となっている足柄(あしがら)峠に、「新羅(しんら)三郎義光笛吹の石」というのがある。前記『静岡県の歴史散歩』に、「後三年の役(一〇八六〜八七年)のとき、新羅三郎義光は陸奥に出陣した兄義家のもとへ援兵に出かけたが、義光の笙(しよう)の師匠豊原時元の子時秋は足柄峠まで京都から同行してきた。義光は帰京をつよくすすめ、足柄峠の頂上で師匠からさずけられた秘曲を時秋に伝授した。現在『新羅三郎義光笛吹の石』がある」というのがそれである。
この新羅三郎義光とはいったいどういう者であったか、そのことについてはのち、遠江の浜松市江之島にある新羅大明神・新羅神社をたずねたときにみるとして、ついでこんどは海岸部となっている沼津市のほうに目を向けると、同市上香貫(かみかぬき)というところに香貫山古墳群がある。この香貫山は、これまた古代朝鮮三国の一国であった新羅が鶏林(けいりん)と称したことからきたものとされる、鶏足山ともいわれていたとのことであるが、それかあらぬか香貫山古墳群からは、新羅のものと同様の金環や環頭太刀、勾玉(まがたま)、馬具などが出土している。
しかしこれも、それとまた同様の出土品はあとの静岡市の賤機山(しずはたやま)古墳でみることになっていたから、その香貫山古墳群もとばすことにして、私は東京からの新幹線でそのまま静岡駅まで行った。そして静岡駅からはタクシーで、清水市江尻台(えじりだい)に住む若い友人の金弘茂(キムホンム)君をたずねた。
三保の松原と羽衣伝説
金君とはまえもって電話で打ち合わせてあったので、日暮れ近くなっていたが、金君のクルマで私たちはさっそく、まず、「羽衣の松」ということで有名な三保の松原へ向かった。
前記『静岡県の歴史散歩』にこう書かれている。
清水駅から三保方面行のバスにのろう。清水波止場を左にみて南下し、駒越(こまごえ)で北東へ大きくまがると、前方に霊峰富士のうつくしいすがたがうかび、白砂青松のつづく三保の砂嘴(さし)にはいる。バス停松原入口でおりて進行方向にむかって右にはいり、五分ぐらい歩くと、御穂(みほ)神社につきあたる。古代から多くの伝承にまつわるこの神社は大己貴命(おおなむちのみこと)・三穂津姫命を祭神とする式内社で、航海・漁業の神として、地元民からあつい信仰をうけてきた。……
松並木の参道を海岸にむかってとおりぬけると、羽衣の松のところに出る。「神女が松の枝にかけておいた羽衣を漁師にとられ、しかたなく漁夫の妻となったが、夫の留守をねらって羽衣をとりかえして空にのぼった」という伝説は「駿河風土記(するがふどき)」にも紹介されている。……三保の松原一帯は、新日本三景にもえらばれ、国の名勝にも指定されているが、このうつくしい自然環境とは対照的に、やせた土地を開拓した江戸時代の農民の生活はきびしく、幕末には藤五郎を中心とした一揆(いつき)(開墾地をめぐる越訴(おつそ))がおこっている。
江戸時代のその藤五郎を中心とした一揆衆のことを思うと、ちょっとそんな気分にもなれなかったが、三保の松原は「新日本三景にもえらばれ」ているだけあって、たしかにうつくしいところではあった。いまは観光地として、ここも御多分にもれず俗化がすすんでいたが、しかし、なおまだ白砂青松の景観はのこっている。
息長氏との関係
ところで、いま「駒越(こまごえ)」という地名があるのをみたが、この地一帯もまた古代朝鮮からの渡来人、とくに新羅・加耶系のそれによって開かれたところであった。駒越は、いまではこういうふうに書かれるが、これも元は高句麗の高麗であると同時に、朝鮮全体をもさした高麗の「高麗肥(こまごえ)」(さきにみている武蔵国へうつされた高麗人が一時ここに居たと考えることもできる)と書かれたものであったという。
だいたい、『修訂駿河国新風土記』安倍郡条に「本郡の村々何(いず)れの村にも白鬚(しらひげ)社なき村無し」とあり、清水市村松原に住む地方史研究家の中村熊雄氏に教えられたところによると、いまなお駿河だけでも、新羅明神ということにほかならなかった白鬚神社が百三社もあるとのことであるが、三保の松原にある『延喜式』内の御穂神社にしても、これも元は越前(福井県)敦賀(つるが)の、天日槍(あめのひぼこ)を伊奢沙別命(いささわけのみこと)・気比(けひ)大神として祭る気比神宮を守護神として近江(滋賀県)に展開した新羅・加耶系渡来人の息長(おきなが)氏族が祭ったものではなかったかと思われる。
そのことは『清水市史』に、「今、静岡県榛原(はいばら)郡川崎町飯室神社に所蔵される鰐口(わにぐち)は文保三年(一三一九)三保大明神に奉納されたものである。その銘には『奉施入 三保大明神御宝前 鰐口 文保三年己正月十二日 神主息長子女』とある」ことからもうかがい知れるし、また「羽衣の松」、すなわち「天女伝説」ともいうそれの渡来、伝播の経路をみてもわかるが、さきにまず、息長氏族の守護神であった天日槍とはなにか、ということからちょっとみておかなくてはならない。
天日槍と天女伝説
天日槍は、『古事記』(では天之日矛)『日本書紀』などでは「新羅の王子」の渡来というふうに書かれているが、これはもちろんそういう者ではない。直木孝次郎氏もそう書いている(『兵庫県史』第一巻)ように、天日槍とは新羅系渡来人集団の象徴となっているもので、これは水稲耕作の弥生時代以来の古代日本史を知ろうとする者にとっての、重要な一つのカギとなっているものなのである。
そのことについてはここでいちいち書いているわけにゆかないが、それがどのように重要なカギとなっているかは、林屋辰三郎氏が次のように書いていることからもわかる。林屋氏は、「天日槍と神武東征の伝説」という副題をもった「古代の但馬文化」に、「神武東征伝承というものは、日本に水稲耕作を伝えた農耕集団が西から東へと移った過程を、六―七世紀の知識を基礎に物語っているのである」として、こう書いている。
私は、はっきりいって天日槍伝説というものは、神武東征の伝説という日本の国の、また、日本文化の最初にどうしても理解しておかなければならない伝説と同形のものと考えている。
そして、さらにまたこう書いている。
新羅の王子といわれる天日槍の農耕氏族集団は、朝鮮から北九州へ渡って瀬戸内海を通り、播磨(はりま)の宍粟(しさわ)の邑(むら)を通り、淡路を通って河内から淀川に入り、宇治川を溯(さかのぼ)って近江の吾名邑(あなむら)(吾名邑は琵琶湖に二つ説があって、普通言われているのは坂田郡の方の吾名―阿那(あな)郷をあてている。しかし私は琵琶湖の西の方の穴生(あなお)の場所がいいのではないかと考えている)から若狭に出て、但馬の西の方から伊豆志(出石(いずし))に入る。そうした経路は当然考えられるわけであるが、私はそれが天日槍集団の渡来の伝承と考える。神武東征の伝承とひじょうに類似しているのは、槍(ほこ)はいうまでもなく神のよりしろであるが、これは武甕雷神(たけみかずちのかみ)の剣と同じで雷を表現している。即ち、天日槍という神名の中に神武東征伝承のいろんなエッセンスが凝集されている、といえるのである。
要するに近江の、古代朝鮮南部にあった加耶(加羅)諸国のうちの一小国家であった安羅・安耶(あや)・安那(あな)ということの阿那(あな)郷を中心根拠地としてあちこちにひろがった息長氏族は林屋氏のいう「天日槍の農耕氏族集団」、すなわち新羅・加耶系渡来人集団から出たもので、三保の「羽衣の松」「天女伝説」もその息長氏族が朝鮮から伝えたものであった。
それはまず、かれらの近江における中心根拠地、あるいは本貫地であった近江の余呉湖(よごのうみ)の「天女伝説」となり、それがさらに駿河にいたっては「羽衣の松」ということになったのである。余呉湖のそれについては、井野川潔氏の「『天女伝説』の渡来と移動」ほかにゆずるとして、ここでは、古代朝鮮におけるその「天女伝説」とはどういうものであったか、ということについてだけ、この項の付録としてしるしておくことにする。
「羽衣=天女伝説」の原型
朴栄濬(パクヨンジユン)編・安藤昌敏監訳となっている『韓国の民話と伝説』(1)「古代編」にある「羽衣」をみると、それは貧しいきこり(木樵)が猟師に追われている鹿を助けたことからはじまって、こうなっている。
「ほんとうにありがとう。あなたはわたしの命の恩人です。どうやってご恩がえしをしたらいいでしょう」
鹿は、なんども長い角を上下に振りながらいった。
「お礼には及ばないよ。人間であろうと、獣であろうと、助けをもとめるものを、どうして見殺しにできるものか」
きこりは、鹿の頭を撫でてやった。
「でも、恩をかえさないのは、道理に外れます。ご恩がえしに、小父さんにいいことを教えましょう」
「いいことって、一体なんだね」
「この山を登りつめると、淵があるでしょう。あの淵には、毎晩、天界の天女たちが舞いおりて来て、水浴びをするのです。もし気が向けば、小父さんも今晩、その淵へ行ってみませんか。天女に見つからないようにかくれているのですよ。
天からおりて来た天女たちは、淵のほとりに羽衣をぬいで水に入ります。あなたは、その中で最も気に入った羽衣を、そっとかくすのです。そうすると、羽衣のない天女は、天にのぼれなくなります。そこで、残された天女は小父さんの意のままになるというわけです。どうです、いいではありませんか。
けれども、ここで注意しなければならないことが一つあります。それは天女が子どもを三人産(う)むまでは、絶対に羽衣を見せてはいけないということです。これだけは、しっかり覚えておいてくださいね。では、さようなら」
鹿はいいおわると、なんども後をふりかえりながら立ち去った。
きこりは、さっそく、淵近くの木かげに身をかくして、天女のおりてくるのを待っていた。
やがて、黄昏(たそが)れて夕闇が迫ってきた。夜が更けると、雲にかくれていた月が、にわかに明るく、あたりをてらしだしはじめた。美しい楽の音が奏でられ、天女たちが、舞(まい)をまいながらおりて来た。あまりの華麗な美しさに、きこりは声も出なかった。
天女たちは、岩の上や木の枝に、それぞれ羽衣をぬぎすてると、しぶきを上げて淵にとびこんだ。そのありさまを確かめてから、きこりはそっと歩みより、中でも一番美しいと思われる羽衣を、すばやく岩かげにかくした。
まもなく、水浴びをおわった天女たちは、おのおの自分の羽衣をまとい、ふわりふわりと空高く、舞い上がっていった。羽衣のなくなったひとりの天女が、淵のほとりで、途方にくれて泣いていた。
「もしもし、あなたは、どうして泣いているのですか」
木かげから出てきたきこりは、やさしく天女に呼びかけた。
「羽衣が、なくなってしまったのです。羽衣がないと、わたくしは天へ帰れません」
「それはお気の毒。その羽衣は、わたしが探してあげましょう。ともかく今夜は、わたしの家へ泊めてさし上げましょう」
きこりは、天女をやさしくいたわりながら、自分の家へ連れて帰った。
こうして、天女はきこりの妻になった。美しい妻にすっかり満足したきこりは、汗水ながして懸命にはたらいた。天女も、まめまめしく夫に仕えた。
歳月は流れて、天女はすでにふたりの子の母になっていた。夫婦の愛情は年とともに深まり、鹿の注意など、きこりはとっくに忘れてしまっていた。
「わたくしは、本当に倖せだと思います。地上の生活が、こんなに楽しいものだとは、思いもよらないことでした……」
何気ない妻のことばに、つい、きこりは得意になった。
「それはみな、わたしのお蔭なのだよ。わたしがあの時、羽衣をかくさなかったら、お前は、こんな地上の楽しみを味わえなかったはずだ。よかったじゃないか」
「えっ、何とおっしゃいました? わたくしの羽衣をかくしたのは、あなただったのですか」
「そうだ。わたしが岩かげにかくしたのだよ」
きこりはいかにも自慢らしく、そう言って胸をはった。
「そうでしたの。そんなこととはつゆ知らず、わたくしは泣いてばかりいたのですね。なんてバカなわたくしでしょう……。でも、今になってみれば、すべては過ぎ去った昔のこと。でも、わたくし、天女の時の羽衣が、急に見たくなりました」
きこりの瞼(まぶた)のうらに、羽衣をまとった妻の美しい姿が浮かんだ。
(見せるだけだ。もう一度だけ、あの華麗な姿が見たい……)
きこりは、妻に乞われるまま、かくしておいた羽衣をとり出して見せた。
妻は目にいっぱい涙をためて、じっと見つめていたが、やにわに羽衣を身につけると、二人の子を両脇にかかえ、あっという間に空へ舞い上がってしまった。
呆然として天を仰いだきこりは、嘆き悲しみ、地だんだふんだが、すべては後の祭りであった。
あくる日、きこりはいつものところで、鹿にあった。一部始終を聞いた鹿は、自分のことのように口惜しがり、きこりをなぐさめた。
「だからわたしが、あれほど念を押したではありませんか。三人の子を産むまでは、絶対に羽衣を見せてはいけないって。天女は二人の子どもなら、両脇に一人ずつかかえて天に昇ることが出来るのです。三人だと両手にあまりますから、天へは昇れないというわけです」
古代は新羅となっていた朝鮮中部の江原道高城郡におけるはなしであるが、このばあいの貧しい「きこり(木樵)」は、近江の余呉湖のそれでは「若い猟師の伊香刀美(いかとみ)」となっており、海岸地である駿河の三保の松原ではそれが「漁師」となっている。土地変われば、ということであろうか、朝鮮でもこれは各地によってちがったものとなっている。
私が生まれたのは同じ新羅でも元の加耶だった朝鮮南部の慶尚南道で、ここで子どものころ祖母から聞かされたそれは、貧しい、したがって嫁の来手のなかった「若い農夫」ということになっていた。私はそのはなしを祖母から聞かされながら、「そうか、なるほど、子どもが三人になると両脇に抱えられないんだなあ」と、子ども心にそう思ったのを、いまもよくおぼえている。
清水から静岡市へ
鉄舟寺の前身・久能寺
三保の松原からクルマを返して、私たちは清水市村松の鉄舟寺(てつしゆうじ)に向かった。幕末の人である山岡鉄舟の名からきたその鉄舟寺に別に用はなかったが、しかしこの寺のさきは久能寺(くのうじ)といって、元は静岡市根古屋の久能山山頂にあったものだった。
久能山といえば、徳川家康の廟所のあるところとして知られ、いまもこの山頂には日光の東照宮と同じ久能山東照宮があって、有名な観光地となっている。久能山へは私はさきに行ったことがあって、そのときもらった『久能山東照宮参拝のしおり』にある「久能山の歴史」をみるとこうなっている。
久能山は、推古天皇の時(西紀六〇〇年頃)久能忠仁(くのうただひと)が始めて山を開き、一寺を建てて観音菩薩を安置し、補陀落(ふだらく)山久能寺と称したとあり、久能山の名称もこれから起こったといわれた。
その後、僧行基(ぎようき)を始め多くの名僧等が相次いで来たり住み、建物数約三三〇坊も建ち並んで非常に隆盛であったが、嘉禄年間(一二二五年頃)山麓の失火によって類焼し、昔の面影はなくなったのである。
つまり、清水市村松にある鉄舟寺は、その久能寺の退転したものだったのである。その久能寺を当初建立した久能忠仁とはどういう者であったかというと、飯塚伝太郎氏の『静岡市の史話と伝説』に「この寺〈久能寺〉は、推古天皇の御代(五九二〜六二八)秦河勝(はたのかわかつ)の二男尊良の子(或は弟)久能、或は久能忠仁が創建し」とあることからもわかるように、それがこれからみることになる駿河、遠江から三河(愛知県)一帯にまで展開していた新羅・加耶系渡来人である秦氏族の一派で、かれ久能忠仁とはもと秦久能といった者であった。
「推古天皇の御代(五九二〜六二八)」といえば六世紀末から七世紀はじめのことで、そのころ二七〇メートルの久能山山頂にそんな久能山を建立しえたということは、当時すでによほどの豪族でなくてはできなかったはずである。
その久能寺の退転した鉄舟寺は、いまはそれにふさわしいささやかな山門を構えた中小寺院の一つとなっていたが、しかし当寺院には国宝となっている「久能寺経」はじめ、これも国の重文、県文化財指定となっている「錫杖(しやくじよう)」「大般若経」などが保存されていて、いまもその往時を偲(しの)ばせている。私は、できたらその「久能寺経」などもちょっとみせてもらえないものかと思っていたが、もう日が暮れて時間がなかった。
それからまた、清水まで来たついでに、これも秦氏族の秦(はた)ということからきている波多打川(はたうちがわ)近くにある、江戸時代の李朝通信使の宿館だったところとして有名な興津(おきつ)の清見寺(せいけんじ)に保存されている通信使の書画などもみたいものと思っていた。が、これも時間切れのため、山の斜面にそびえ建っている清見寺も外観のみで、なかにまで参入してみることはできなかった。
こうして清水での一日がおわって、当夜は清水泊まりとなり、翌日はまた金弘茂君ともども、金君のクルマで静岡市へ向かった。静岡市における古代文化遺跡となると、弥生時代のそれとして有名な登呂(とろ)遺跡があるが、同市宮ヶ崎には、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」にもあげられている賤機山(しずはたやま)古墳がある。
登呂遺跡と朝鮮文化
静岡市では、時代順ということもあって、同市高松にある弥生時代の登呂遺跡からみることにした。国の特別史跡となっている登呂遺跡が正式に発掘調査されたのは、一九四七年から五〇年にかけてであった。その結果、ここには十二の住居跡はじめ、四百アール、一万二千坪にわたる稲作水田跡などのあったことが明らかにされ、その一部が復元されて、いまは貴重な史跡公園となっている。
登呂遺跡の発掘調査には、明治大学の後藤守一氏に率いられた、在日朝鮮人考古学者である友人の李進煕(リジンヒ)なども加わっているが、それはともかくとして、この登呂遺跡は私があらためて書くまでもなく、あまりにも有名である。で、私はここではそのような遺跡にみられる、鉄器をともなった稲作農耕の弥生文化がどこから来たか、ということについてだけかんたんにふれておくことにしたい。
あるいはもしかすると、だいたい、稲作農耕の弥生文化のあの登呂遺跡が、朝鮮文化遺跡とどういう関係があるのか、と思う人があるかも知れない。しかしこれがまた、決してそうではないのである。
稲作農耕のいわゆる弥生文化が、その文化を持った人間とともに、朝鮮から渡来したものだということは、いまではもう常識のようなものとなっている。たとえば、「弥生文化の起源は朝鮮半島/証拠の土器みつかる/福岡と釜山の出土品/ウリ二つ、年代も一致/杉原明大教授発表へ」という見出しの大きな記事が朝日新聞(一九七三年十一月九日付け)にのったことがあるのをおぼえている人もあるかと思うが、それより以前すでに、古代アジア国際関係史の笠野毅氏は、「弥生文化のふるさとは洛東江下流」として、わかりやすくこう書いている。
弥生文化は、朝鮮半島から波及してきた新しい文化です。弥生文化は、前期が西暦前三〇〇〜一〇〇年、後期が西暦後一〇〇〜三〇〇年頃と分けられ、全体で約六百年くらいです。この文化の特長は、薄手で、シンプルなスタイルの弥生土器、鉄・銅をともなうこと、稲作、機織(はたおり)などがセットになったものです。これにより日本文化の基礎がつくられ、原始から古代への夜明けがはじまりました。弥生時代を日本民族の曙光(しよこう)期というのも、もっともなことです。
ところで、弥生文化のふるさとはどこか。わたしは朝鮮半島の南端、洛東江下流のデルタ地域の複合文化であろう、と考えています。これが西暦前三世紀頃九州、中国地方へ上陸し、急速に美濃、尾張地方まで進出し、一時その辺で足踏みしてから、東日本に波及したものでしょう。……
弥生時代から本格的な農耕がはじまり、鉄製、木製のスキ、クワが使われますが、つぎの古墳時代にいたると、さらに農業生産が高まりました。階級の分化はいっそう進み、権力者の、規模の大きい墳墓が築かれるようになりました。
賤機山と安倍川
そして、そのような墳墓の一つであった賤機山(しずはたやま)古墳は、浅間(せんげん)神社・神部(かんべ)神社・大歳御祖(おおどしみおや)神社が一つとなっているところにあるが、それはさきに私は二度ほど行ってみたことがあるので、こんどは静岡市の教育委員会をたずねた。そして社会教育課の沼本芳喜氏から、静岡大学の若林淳之氏が執筆した「静岡市の史跡とその歴史」第九集となっている『谷津山古墳と賤機山古墳』などのパンフレットをもらい受けた。
そのパンフレットはあとでみるとして、ここではさきにまず、静岡市の生い立ちについてちょっとみておくことにすると、さきにみた飯塚伝太郎氏の『静岡市の史話と伝説』にこうある。
安倍川は賤機山の先端まで下ると、静岡平野の諸方に枝川を分った。それらの安東(あんどう)川、十二艘(じゆうにそう)川、後久川は巴(ともえ)川に合流し、大谷川は西平松で、浜川は高松で駿河湾に注いでいるが、みな安倍川の古い枝川の名残りである。中島、下島、西島などの地名は、水の勢にまかせて移り変わる川筋にはさまれた島に附けられたものである。……
安倍川の流れが、高い瀬を残して、西へ移って行って、大水の心配のなくなったところに部落ができる。海岸や山すそにも部落があって、人口がふえ、部落と部落との往来が多くなる。生活に必要なものをお互いに交換するために、日を定めて品物を持ち寄るところができる。取引の済まない品物を蔵(しま)って、番人をおく所もできる。このような物々交換の場所として、安倍(あべ)の市(いち)が出来た。
なおまた、元は「安倍の市」だったそこに、「静岡」という地名がどういうふうにしてできたか、その起こりについてはこう書かれている。
明治二年六月十七日に、徳川家達が藩知事を命ぜられたので、藩の重役達は駿河府中の名を何とか改めたいと相談して、いったん「賤(しず)ケ丘(おか)」と決りかけたところ、藩学校の頭取向山黄村が、賤機山の麓だからといって賤の字を用いるのは知恵がなさすぎる。しずのひびきがよいというならば、静ケ岡「静岡」とする方がよい。この土地は四季共たいへん静かであるし、新しい政府もととのい、世の中も静まり、おだやかになったから、静岡がよかろうといったので、一同がなるほどと手を打って「静岡」ときまった。
私も「なるほど、そうだったのか」と思うが、こうしてみると、古代の「安倍の市」がその前身だった静岡市の成立ちには、全体として安倍川と賤機山というものが、重要な要素となっていたことがわかる。とくに、秦氏族にゆかりの深い賤機、麻機などの地名が、そのまままだ生きのこっているのもおもしろい。
さて、その賤機山の賤機山古墳であるが、これは六世紀ころの古墳で、すでに江戸時代の明和年間に副葬品の一部が盗掘されていた。それが正式に発掘調査されたのは、一九四九年三月以降のことであった。
これも明治大学の後藤守一氏らによる発掘調査の結果、ここからは新羅・加耶系の古墳によくみられる金環大小二対の耳飾り、歩揺(ほよう)付花傘状金具残欠、金銅薄板冠金具残欠、六角帽金具残欠などの装身具をはじめ、金銅装太刀残片、鉄製柄頭二種、挂甲小札(かけよろいこざね)長・短二百枚以上などの武具類や、金銅装鞍橋(くらぼね)残欠、九葉形透彫金具などの馬具ほか、提瓶、脚付長頸壼などの須恵器(すえき)がたくさん出土している。
賤機山古墳の被葬者は
これらの出土品は、いま浅間神社(神部神社・大歳御祖神社)境内の静岡市文化財資料館に展示されているのでだれでもみることができるが、これについて、さきの若林淳之氏によるパンフレット『谷津山古墳と賤機山古墳』をみると、さいごのところにこう書かれている。
このような副葬品豊かな古墳であったのが賤機山古墳であるのだが、この古墳に葬られている人はいったい誰であったのだろうか、という事になるとあまりたしかな事の言えないのが事実である。
ではあるが、……賤機山古墳に出土する金環や馬具等の多い事に注目し、江上波夫氏らの研究によると、北方騎馬民族(ツングース族)が南に移動し、中国大陸はもちろん、朝鮮半島を経て日本にも渡来し、日本の古代国家の統一に力を尽したという意見を発表した。いわゆる騎馬民族説を構築する論拠を与えるにふさわしい内容をもったものである。
もちろん、江上氏の騎馬民族説には、異論があって定着した見解ではないから、賤機山古墳の被葬者が、そうした系譜に連なる人であると考えるわけにはいかないであろう。
いっぽう、賤機山をめぐり、麻機(あさはた)とか服織(はとり)といった地名があり、この地名は秦氏(はたうじ)系統の渡来人(帰化人)が日本に定住した結果生じた地名であろうといわれていることから、これら渡来人(帰化人)のうちの有力者が葬られた古墳であったのかも知れないと言う人々もあるようであるが、それを信ずるわけにもいかないであろう。
いずれにしても、日本の古墳時代後期を代表する古墳であることには間違いないところで、この古墳の被葬者にかかわり、もっと多彩な論争が展開されてもいいであろうと思われる。
これをみてまず思うことは、「論争が展開されてもいいであろう」とは私も賛成であるが、それにしても、これはまたずいぶんと持ってまわった言い方、論法ではないであろうか、ということである。「そうした系譜に連なる人であると考えるわけにはいかないであろう」とか、「古墳であったのかも知れないと言う人々もあるようであるが、それを信ずるわけにもいかないであろう」とは、たしかにそのとおりである。
なぜなら、いまから千数百年前の六世紀のそれをだれもみた者はいないからである。しかしながら、こういう言い方、論法では、はじめからなにも言わないのと同じで、「もっと多彩な論争」などしようがないであろう。
したがって、私はこの筆者のいう「多彩な論争」に加わる気などさらさらないが、だいたい、古代のことは、文献にあることや遺跡・遺物などの考古学的知見を総合することで、こうであったであろうと推測・推定するよりほかないのではないか。つまり、いろいろな状況証拠によってしか、それを知る方法はないということである。
その意味では、「賤機山をめぐり、麻機とか服織といった地名があり、この地名は秦氏系統の渡来人(帰化人)が日本に定住した結果生じた地名であろうといわれている」ことも、重要な一つの状況証拠である。それで足りないとあれば、われわれはさらにまた、次のような証拠をみることもできるのである。
駿河・遠江の秦氏族
新羅系渡来人の経路
私たちは静岡市をへて、それからさきは遠江となる島田市のほうへ向かった。その近くの初倉村にあるという「秦氏祖神也」(『神名帳考證』)の敬満(きようまん)神社をたずねるためである。
いまみた賤機山古墳との関連で、駿河、遠江における秦氏族とはどういうふうであったか、それをもっと追ってみることにしたわけであるが、さきにもふれた(「御穂神社・三保の松原」の項)ように、駿河だけでも、新羅明神ということにほかならなかった白鬚神社が百三社もある。これもいうならば新羅・加耶系渡来人集団である秦氏族と関係あるものであろうが、古い『静岡県史』第二巻をみると、「外来文化の経路と業績」という章があって、秦氏族のことがこう書かれている。
幡羅川・逆川の流域は上古久努・素賀・佐夜各族の占領地であり、菊川下流即ち城飼地方の西には土形、東には幣伎の君達が居り、大井川西には蓁原の君が居た。然るに牧ノ原と大井川ならびに其の附近の堅洲浮洲との巨利に着目した秦氏族は、次第に其の附近に移住して遂に秦村を建てた。是れ即ちハヅクラ(秦村の意)で、今初倉の文字を宛てている。是に於て白羽牧は大牧場の南端をなし(城飼・榛原を通じて賀茂神社の領地三所あるは注意を要す)、大井川は利用されて対岸に志田を形成し、今の大津村に波田を分ちて大津御厨(みくりや)の基礎を置いた。(郷社式内)敬満神社は名神大社たるべく秦氏の祖先を祭り、(県社)大井神社(島田町)竹林寺(初倉村)鵜田寺(大津村)等は開創さるべき種子を蒔かれた。色尾の渡船と大井の川尻は其の手に帰した。かくて初倉は東遠西駿にわたる秦氏の大聚落となり、大宝倉となったのであろう。
初倉を本拠とした秦氏族は北、大津・前島より宇津谷(うつのや)道をとり、南、小川・焼津(やいづ)を経て日本坂にかかり、甲は岡部に岡部御厨を遺し、乙は益津に方上御厨を播種し、両道呼応して安倍の平野に出た。是れより安倍田は開発され、駿河服部郷は北に養蚕機織の中心となりて内牧の牧場となり、有度浜(うどはま)は高麗の帰化人等が使役されて南に優良なる食塩の産地となり、近く発見された有度片山廃寺は設けられ、建穂・久能の両寺、小枌(おくれ)・高部の御厨は準備され、中央に静岡市の前身安倍の市の根基が出来た。
秦氏が高句麗渡来人を使役した
ここに「御厨(みくりや)」というのが再度出ているので、手元の『新潮国語辞典』をみると、「神に供える食物を調達するために神宮や神社に付属している土地」とある。氏族社会の古代にあっては、神宮や神社が氏族共同体による祭・政の中心であったから、御厨とはその領地ということだったのである。
それからまた、ここに「有度浜は高麗の帰化人等が使役されて南に優良なる食塩の産地となり」とあるが、これはさきにみた「御穂神社・三保の松原」の項のはじめのところで、前記『静岡県の歴史散歩』に「さらに県内には多くの渡来人がはいってきて、服部(はとり)・羽鳥・倭文(しとり)という地名や神社名を残している。これらの渡来人は大和朝廷の東国開発の先駆となり、東国開発がすすむにつれて県内の渡来人は武蔵国にうつされ」とあることと関連する。
つまり、私は右のそれを引いて、こう書いたのであった。――これではまるで、「県内の渡来人は」すべてみな「武蔵国にうつされ」たかのように読めるが、それは明らかなあやまりなのである。これはおそらく、『続日本紀』七一六年の霊亀二年条に、「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野よりの高麗人千七百九十九人を以て武蔵国に遷(うつ)し、始めて高麗郡を置く」とあることからきたものであろうが、しかしこれは「高麗人」すなわち高句麗系渡来人、しかも六六八年、高句麗がほろびてから渡来した者たちのことであって、それ以外の渡来人たちのことをさしたものではなかったのである、と。
実をいうと、いろいろな状況証拠から、私は多分そうにちがいないと思ったのでそう書いたのだったが、このことについては、いまみた『静岡県史』にも『続日本紀』のそれが引かれ、「注」としてはっきりこうある。
有度浜製塩の中心は、今の清水市駒越〈これもさきにみている〉にあったようである。天智天皇七年(六六八)十月、高麗、新羅・唐に滅されしを以(もつ)て、其の遺民の我に帰化する者があって、同地に来往したのを、元正天皇霊亀二年(七一六)五月他の国々の高麗人と共に武蔵国に遷され、高麗郡を新立してそこに置かれた。
すなわち、「有度浜は高麗の帰化人等が使役されて」とあるのは、六六八年以後、七世紀の後半になって渡来した高句麗系の者たちが、おそくも六世紀には西から遠江、駿河にまでひろがって来ていた先来の新羅・加耶系である秦氏族に「使役され」たということにほかならなかったのである。
それはそれとして、いまみた『静岡県史』は文章がちょっとむつかしいので、少しわかりにくいところがあるが、さきにみた賤機山古墳や、もとはその古墳の拝所としてできたものと思われる浅間神社(神部神社・大歳御祖神社)との関連でもっとも重要なのは、「近く発見された有度片山廃寺は設けられ、建穂・久能の両寺、小枌(おくれ)・高部の御厨は準備され、中央に静岡市の前身安倍の市の根基が出来た」というところである。
静岡市の前身が「安倍の市」であったということは、すでに飯塚伝太郎氏の『静岡市の史話と伝説』によってもみているが、ここでさらにまた、同氏のそれにある「賤機山古墳」の項をみるとこう書かれている。
この古墳は千五百年位前のもので、此の附近の豪族安倍の王を葬ったものであろう。浅間神社は古くは奈吾屋さまと云って安倍の市(静岡市の古い名)の守り神であったが、ここはその奥の院とも云うべき位置に当たる。
ここにいう「附近の豪族安倍の王」とはだれであったか、具体的にはわからないが、しかしこれまでみてきたことで明らかなように、これは「静岡市の前身安倍の市の根基」をつくった秦氏族以外には考えられぬであろう。さきにもいったように、「安倍の市(静岡市の古い名)の守り神であった」浅間神社(神部神社・大歳御祖神社)はそこの賤機山古墳の拝所としてできたもので、いまもこの神社の前に立ってみると、静岡市はその門前町として栄えたものであることがよくわかる。
名神大社・敬満神社
さて、静岡市をあとにして島田のほうへ向かっていた私たちは、安倍川を越えて焼津をすぎ、一路、クルマを走らせつづけた。運転している金弘茂君は道にくわしく、少しも迷うことなどなかったが、島田市に入ってやや勝手がちがった。
だいたい、私たちはなぜ島田を目ざしたかというと、秦氏族の祖神を祭る敬満神社は、今井啓一氏の『秦河勝』によると、榛原(はいばら)郡初倉村にあって、そこは「東海道線島田駅下車」となっていたからである。しかし人に訊(き)いてわかったが、榛原郡初倉村はいつのことか島田市に合併となって、いまは島田市阪本となっていた。
阪本のその敬満神社は、参道の敷石がみごとで、鳥居にかかった出雲風の大きな注連縄(しめなわ)も印象的であった。そこは三、四十メートルの台地となっていて、大井川を眼下に見おろすところだったが、しかし神社は、元からそこにあったのではなかった。
『神名帳考證』によると、敬満神社は「古(いにしえ)、大井川辺に在り、水難有って漂没し、今、新地に移す」とある。したがって元は「大井川辺の」どこにあったかわからないが、いずれにせよ、この敬満神社は、さきにみた伊豆とはちがい、駿河・遠江では珍しい『延喜式』内の「名神大社」で、いまもなおその風格をよくとどめていた。
人っ子ひとりいないしずかな境内をぶらぶらして外へ出ると、道路向かいの空地で立ち話をしていた三、四人の男が、私たちを物珍しそうにみているのに気づいた。私は近寄って行き、
「別に、あやしい者ではありません」と笑って、市役所への道を訊いた。彼らのうちの一人が、その道を教えてから言った。
「どこから来たのかね」
「東京から、はるばるです」
「ほう、すると、神社や神様のことにくわしい人なんだね」
「いや、そういうわけではないですが……」
「なら一つ聞かしてもらいたいが、この神社に祭られている少彦名(すくなひこな)命は、朝鮮人だそうだけどもほんとうかね」
「そうですね。しかしそれは朝鮮人というのではなくて、大昔、朝鮮から渡来した者だということです」
「そんなことは、どっちだっていいじゃねえかよ」と、彼らのうちのもう一人が横から言った。「神様として祭っている分には、どうということはねえやな」
考えてみると、あとのもう一人の言ったそれは、いろいろな意味で印象に残ることばだった。
「朝鮮で作られた輸入品」
ついで私たちは島田市役所へ行って、市の教育委員会をたずねた。そして、社会教育課長の森永秀氏と同主事の松浦正博氏とに会い、『島田市史』や『島田市の文化財』などをもらい受けた。
とくに『島田市史』までもらえたのがありがたかったが、この市史にも「第一章 島田のあけぼの」につづき、「第二章 日本武尊伝承と秦氏の動き」とあって、「第一節 神話『日本武尊』」「第二節 秦氏と敬満神社」「(1) 秦氏の渡来と活動」「(2) 式内社と敬満・大井神社」「(3) 仏法の伝来と竹林寺廃寺」というぐあいに、それらのことが相当くわしく書かれている。
秦氏族の「活動」のことはさきにみた『静岡県史』と大同小異なので省くとして、この『島田市史』によってはじめて知ったことといえば、私たちがいまさっきみた敬満神社は、それ一つだけではないということであった。榛原郡にはほかにまた敬満大井神社(本川根町千頭(せんず)字マツカ)、鏡満神社(大井川町西島字弥次郎島)、敬満神社(吉田町大幡字井ノ口)の三社があって、さいごの敬満神社はいま八幡神社に合祀となっている。
島田市阪本にある敬満神社の分社であることは、いうまでもないであろう。それからまた、もと榛原郡初倉村だったそこには、近年まで一千基以上の古墳があったとのことであるが、『島田市史』にはそれらの古墳のこともかなりくわしく書かれている。
そのうちの「御小屋原古墳」というのをみると、こういうふうになっている。
牧ノ原台地のミコヤ原にあった古墳で、明治三三年五月に発掘された。大きさは明確でないが円墳で、約三メートルの高さの封土があったという。主体部は割石と玉石による横穴石室で長さ三・五メートル、幅一・二メートル、高さは背丈ほどであったという。乱掘であるため詳細は知られないが、比較的小形古墳とみられる。
出土品は、轡(くつわ)金具、杏葉(ぎようよう)、雲珠(うず)などの馬具と〓(わん)・蓋などの須恵器が発見されたが、注目すべきは轡の鏡板と杏葉で、鉄地金銅張に表面文様としてパルメットが美しくあらわされている。その製作技術は極めてすぐれ、鏡板につく引手の作りからすれば、朝鮮で作られた輸入品と推察される。県下の後期古墳から発見される馬具は相当に多く、鏡板もまたみられるが、これほどの優品は見あたらない。したがって、この古墳の被葬者が如何(い か)なる性格の人物であったか、充分に考慮する必要があるものといえよう。
いうまでもないことだが、「朝鮮で作られた輸入品」うんぬんとあるけれども、古代の当時、朝鮮にはそういう鏡板を作って輸出する会社などなかったし、また、日本にもそういうものを輸入する商社はなかった。してみれば古代の当時、そのような文化が朝鮮から伝来したということは、そのような文化を持った人間が渡来したということにほかならなかったのである。
さきにみた静岡市宮ヶ崎の賤機山古墳と同様、島田市のこの御小屋原古墳にしても、その人間とは秦氏族以外ではなかったであろうこと、これまたいうまでもないはずである。
新羅神社をたずねて
ここにも新羅神社が
なお、島田市南方の海岸寄りとなっている榛原郡榛原町には、これも秦氏族のそれである服部(はとり)田(だ)神社があって、『神名帳考證』にこうある。「今云う白羽神此れか。相良(さがら)庄御崎に在り。横須賀を去る五里。俗に云う、此の神、新羅国より来たれり、と」
しかし一方、神社本庁編の『神社名鑑』をみると、この服部田神社の祭神は、いまは麻立比古命ということになっている。そして、「由緒沿革」はこうである。「景行天皇七年の勧請にして、延喜式神名帳記載の服部田神社という。往古は服部田村と称せしが、何時(い つ)しか柏原村と改む。明治六年郷社となる」
いわゆる『延喜式』内の古社でありながら、明治のはじめには、それが郷社の「資格」しかあたえられなかったというのがおもしろいところであるが、それからまた、島田市大津に千葉山智満寺があって、ここには国宝となっている木造千手観音立像がある。『島田市の文化財』に「本尊千手観音は、行基菩薩(六六八〜七四九)が……彫刻されたもの」とあるので、これもちょっとみたいと思ったが、しかしもうあまり時間がなかったから、私たちはそのまま掛川(かけがわ)市へ向かうことにした。
なぜ掛川市へ向かったかというと、同市下内田の枯木谷(からこだに)に新羅神社があって、本尊は近くの八幡宮に合祀となっているが、まだそこには朽ちた社殿がのこっていると聞いていたからである。
韓処(からこ)(韓人の居処)谷ということだったにちがいない枯木谷という地名からしてなかなかおもしろいと思ったものであるが、しかしそこをたずねあてることは、結局、失敗におわった。が、かわりに意外な発見をすることにもなった。
私たちはまず掛川市内に入り、ある店屋さんで、下内田の枯木谷はどこかと訊(き)いた。枯木谷というところはよく知らないけれども、下内田はあちらだというので、私たちはいま来た東のほうへ戻るようにして、そこへ向かった。だが、内田というところは、上、中、下とあってその下内田がなかなか出てこない。
途中、何度かまた人に訊いたりして、やっとそこへたどりついてみると、そこは掛川市ではなく、菊川(きくがわ)町となっているところだった。それでまた人に訊いてみると、
「ここも下内田だがね」と、私たちにはわからないことを言い、「その神社が合祀になった八幡宮というのは、あそこの八幡さまのことじゃないかな」と言う。で、そこへ行ってみると、たしかに八幡宮はあった。
その八幡宮の境内には氏子たちの集会所があって、ちょうど十人ばかりの人々が寄り合っているところだった。そんなところへじゃまをしてわるいとは思ったが、行って氏子総代の岡本雄氏に会ってもらった。
私はまず、ここは何というところで、この神社はただ「八幡宮」となっているだけだが、何という八幡宮であるか、と訊いた。岡本さんはちょっとけげんそうな顔をして、
「ここは菊川町の東平尾で、この神社は平尾八幡宮です」と言う。
そこへたずねて来ていながら、何ともおかしな質問をしたものである。ついで私は、いまは近くの八幡宮に合祀となっているという、掛川市下内田の枯木谷にあった新羅神社をたずねているのだが、と話すと、
「この八幡宮にも、新羅神社が合祀になっていますが、しかしそれとこれとはちがうようですね」と言って、岡本さんは首をかしげてみせた。
「何ですって」と私は思わず、大きな声をだしてしまった。「この八幡宮にも新羅神社が合祀になっているのですか。それはどこにあった新羅神社ですか」
「では、ちょっと待ってくださいよ」
岡本さんはそう言って、外へ出たかとみると、近くの自宅へ行って、「八幡宮記録帳」というのを持って来てくれた。
みると、その新羅神社は近くの字籠田というところにあったもので、それが平尾八幡宮に合祀となったのは、一八七六年の明治九年一月であった。何のことはない、これはまた、枯木谷のそれとは別の新羅神社だったようである。
八幡神社と新羅の関係
この日はそれで時間切れとなり、私は東京へ帰ったが、車中、何となくちょっと妙な気がしないではなかった。だいたい、古代朝鮮三国の一国であった新羅という名称をまだそのまま負っているのがおもしろくて、いまは八幡宮に合祀となっている新羅神社を私はたずね歩いたのであるが、しかし考えてみれば、それが合祀となっている八幡宮そのものからして、新羅の神社といえなくはなかった。
日本各地にある八幡宮・八幡神社はたいていみな、宇佐神宮ともいう九州の宇佐八幡宮から発したものである。このことについては、いずれ全国八幡宮の総本宮である九州・豊前(ぶぜん)(大分県)の宇佐八幡宮をたずねたときのこととして、ここではあまり深入りしないが、宇佐八幡宮の祭神となっている八幡大神・比売(ひめ)大神(応神天皇はのち併祀)にしても、これはみな新羅と不可分の関係にあるものだったのである。
すなわち、『宇佐八幡宮託宣集』に引かれた『豊前国風土記』(逸文)にいう「昔、新羅国の神が自ら海を渡って来て」とあるその「鹿春(かはる)の神」と決して無関係ではなかったということである。
浜松の新羅大明神へ
それはおいて、私は掛川、いや、菊川町から帰って間もなく、こんどは一人で同じ遠江の浜松をたずねることにした。翌日の午後は京都に用事があったので、その前日の午後、新幹線で東京をたって浜松に一泊する、というかたちでだった。
そして翌日の午前、私はまず、浜松市教育委員会をたずねて、浜松市の『文化財のしおり』などをもらい受けた。それをみると、豊町に蛭子森(えびすもり)古墳というのがあって、こう書かれている。
昭和三十四年三月、土取作業中石室の一部が発見され、昭和三十七年三月二十八日から四月八日にかけて発掘調査した。基底径二五メートル、高さ約三メートルの円墳で、内部に片袖式の横穴石室(全長一一・四メートル)が構築されている。副葬として、勾玉(まがたま)・ガラス玉・琥珀(こはく)玉・金環(耳飾)・刀子・直刀・柄頭・鉄簇・轡(くつわ)・須恵器等一二〇点以上が発見された。ここはかつての天竜川の川床であって、その立地が特殊であり、また水鳥をつけた須恵器を出土したことも注目される。西暦六世紀代(一、四〇〇年前)この地一帯に勢力を得た豪族の墳墓であろうか。
「円墳」ということからしてそうであるが、さきにみた静岡市宮ケ崎の賤機山(しずはたやま)古墳と同じく、「金環(耳飾)」等を出土しているところなど、各地によくみられる典型的な新羅・加耶系古墳の一つである。してみると、これも「この地一帯に勢力を得た」新羅・加耶系渡来人「豪族の墳墓」だったものにちがいない。
しかし、私がこの浜松へやって来たのは、その古墳をみるためではなかった。市教育委員会へは、念のためちょっと寄ってみたまでだったのである。私はそこからさらにタクシーを乗りついで、
「次は、江之島まで行ってくれないか」と言った。
江之島というと鎌倉のそれを思いだすが、タクシーの若い運転手は、東南のほうへ向かってしばらくクルマを走らせると、
「江之島のどこですか」と言った。
「江之島に新羅大明神、新羅神社というのがあるそうだが、知っているかね」
「ええ、知っています」
「そこへ行ってくれ」
「小さな神社ですが、なにかで有名な神社なのですか」
「ああ、昔は大きくて有名なものだったらしいが、いまはみなさんがあまり大事にしないから、小さくなっているんだろう」
新羅三郎と小笠原基長
日本三大砂丘の一つといわれる中田島砂丘の近く、田んぼのあいだにわずかな松林が見えて、そこに新羅大明神の新羅神社があった。「新羅大明神」とした石柱が建っていて、鳥居などはそうでもなかったが、無人の神社は見るかげもなく、荒れはてたままとなっていた。
ここにどうして新羅大明神のそれがあるか、ということについては、『浜松市史』の編纂にあたった渥美静一氏の「浜松の新羅大明神と小笠原基長」にかなりくわしく書かれている。これによると、新羅大明神のそれがここに創建されたのは江戸時代、一七二三年の享保八年のことで、その由緒はこうである。
浜松市江之島町にまつる新羅大明神は、ひろく旧五島村地区に新田開発を行なった小笠原源太夫基長(おがさわらげんだゆうもとなが)が、同地鎮護のため、自身の祖神を近江国志賀郡(滋賀県)から勧請したものである。源太夫の祖先は、源頼義の三男新羅(しんら)三郎義光であり、義光は帰化氏族大友氏の氏寺園城寺にまつる新羅大明神の氏人として知られている。このゆかりによって、小笠原源太夫が、祖神をその開発地に勧請することは、まことに自然の理というべきであろう。
これは小笠原源太夫自身が書きのこした「新羅大明神祀記」によったものであるが、ここに、さきの「御穂神社・三保の松原」の項のはじめのところでみた、新羅三郎義光が出ている。その新羅三郎義光が、「帰化氏族大友氏の氏寺園城寺にまつる新羅大明神の氏人として知られている」とはどういうことか。というより、新羅三郎義光の子孫であった源太夫が、近江の新羅大明神を祖神としていたとはどういうことか、といったほうがわかりが早いかと思う。
つまり新羅三郎義光、すなわち源義光は「新羅大明神の氏人」であっただけではなく、近江の園城寺(三井寺)の横にいまもある新羅大明神の新羅神社(いまは「新羅善神堂」という)は、その義光の祖神だったということである。いうならば、源太夫の祖先であった新羅三郎義光、すなわち源氏一門は新羅系渡来人の子孫であったということで、これはこれでまたなかなかおもしろい問題を提起することになる。
このことについては、伊豆・駿河・遠江についで、次は甲斐(山梨県)、信濃(長野県)を歩くことになっているので、そのときもう少しくわしくみることにしたい。というのは、甲斐となればいわゆる甲斐源氏の武田氏で、武田信玄に代表されるその武田氏がこれまた、新羅三郎義光を祖としているからである。
百済系の工人集団
ところで、浜松といえば広大な浜名湖が思いうかぶが、この浜名湖にはずいぶん古い時代から橋が架けられていた。樋口清之氏の『古代生活散歩』「橋」の項にこう書かれている。
川、池などの水上を人を渡す橋は、欧州では新石器時代からあったが、日本では伝説上の仁徳天皇十四年の猪貝津の橋が一ばん古い。『万葉集』などで、石橋とよんでいるものは、今の飛び石に当たるもので、打ち橋が橋杭を打って板を渡した今の橋に当たる。
推古天皇二十年、百済から専門の工人が渡来して浜名湖や矢作(やはぎ)川に木橋をかけたが、このころから架橋はようやくさかんとなって、宇治橋や瀬田橋ができた。とくに行基の系統をひく社会事業僧が各地に橋をかけた話は有名である。
高句麗系や百済系が濃厚だった伊豆は別として、駿河・遠江でこれまでみたものは、ほとんどみな新羅・加耶系のそればかりだったが、ここにようやく「百済から専門の工人が渡来して」と、百済系のそれをみることになった。ここにいう「行基」も百済系渡来氏族から出た者であるが、その百済からの専門の工人とはいったいどういうものであったか。これも一人や二人といったそういうものではなく、一つの工人集団であったのかも知れないが、しかしいまはそれ以上知りようがない。
なおまた、浜名湖北方は引佐(いなさ)郡となっていて、ここの引佐町富幕には、「新羅堂崩れ」という遺跡がある。夏目隆之氏の「シンラドウクズレの背景」という副題をもった「新羅人叛乱の夢」によると、それは、『日本紀略』弘仁十一年(八二〇)条にみられる「新羅人七百人叛乱」と関係あるものではないか、というのであるが、しかしこれは、いずれのちにあらためてたずねてみることとして、ここでは割愛することにした。
甲 斐
渡来人の概況
朝鮮三国系が入りくむ
山また山によってかこまれた甲斐国(山梨県)は、『延喜式』では巨麻(こま)郡であった北巨摩(こま)郡・中巨摩郡・南巨摩郡という郡名がいまなおのこっていることからもわかるように、ここは高句麗(高麗(こ ま))や百済、それから新羅系渡来人が複雑に入りくんでできた「国」だったようである。
磯貝正義・飯田文弥氏の『山梨県の歴史』を開いてみると、「巨麻郡と帰化人」という一節がある。引用としてはちょっと長いけれど、甲斐における渡来人のそれをいちおう概観するには便利なので、まず、これからみることにする。
帰化人は古代の日本文化の発展に大きく寄与したが、甲斐国にも帰化人がいた。前記寺本廃寺跡や国分寺・国分尼寺跡から出土する古瓦はおそらく帰化人系技術者たちによって焼かれたものであろう。牧場の経営にも経験ゆたかなかれらが参与した可能性が大きい。
まず高句麗系帰化人がある。ふつう郡名の「巨麻」は駒を多く産するところからきたと説かれてきたが、関晃氏はいわゆる上代仮名づかいの研究成果にもとづき、その成立しがたいことを明らかにし、「高麗」のコマからきたものであることを論証した。
高句麗の滅亡(六六八)前後に、高句麗人が大挙してわが国に亡命したが、甲斐国へも郡名となるほど多数の同国人が移り住んだものであろう。『続日本紀』の霊亀二年(七一六)五月辛卯条に、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七国の高麗人一七九九人を武蔵国に遷(うつ)し、はじめて高麗郡をおいたとみえるが、甲斐のほかはコマの名が郡名にまでなっているところはないから、この一七九九人の中には甲斐の高句麗人がかなりの数をしめていたことが推察される。甲府盆地の北辺にみられる積石塚をかれらの墳墓とする説も強い。
つぎに百済系帰化人がある。『続日本紀』の延暦八年(七八九)六月庚辰条には、甲斐国山梨郡人外正八位下要部(ようほう)上麻呂に対し、その請願によって本姓要部・古爾(こに)・鞠部(きくほう)・解礼(げらい)らをそれぞれ田井・玉井・大井・中井らに改姓することを許したとみえる。要部以下はいずれも百済の姓であると考えられるから、かれらは百済系帰化人の子孫であって、このときおそらく住居の地名によって日本風の新姓に改めたものであろう。
また『日本後紀』の延暦十八年(七九九)十二月甲戌条によると、甲斐国の人止弥若虫(とみのわかむし)・久信耳鷹長ら一九〇人の百済系帰化人が改姓を申請し、若虫は姓石川、鷹長らは姓広石野を賜わっている。かれらの先祖は白村江の戦のあった癸亥年(天智二年、六六三)に百済から日本に亡命してきたもので、はじめ摂津におかれて官食を支給され、三年後の丙寅年(同五年、六六六)に甲斐に移されたものである。『日本書紀』の同年条に「百済の男女二千余人を以て東国に居(お)く」とみえる二〇〇〇余人の中にかれらの先祖が含まれていたのであり、おそらく前記要部上麻呂らの先祖もまたその中にあったであろう。このときの百済からの亡命者はその数がきわめて多く、本国で社会的地位のひじょうに高かったものも多数含まれていたが、そうでないものはたいてい東国に移された。高句麗人にせよ、百済人にせよ、かれらが甲斐をはじめ東国各地の開発につくした役割は文献の上にはほとんどのこらないが、きわめて大きなものがあったといわねばならない。
高句麗系・百済系帰化人が七世紀後半の半島における政治的激変の際、わが国に亡命した新しい帰化人群であったのに対し、大化前代の古い帰化人である東漢(やまとのあや)氏の部民、漢人(あやひと)部が甲斐におかれたことが知られる。例の逃亡仕丁巨麻郡栗原郷の人漢人部町代・同千代らはその子孫であった。ただし漢人部は帰化人東漢氏の私有民であって帰化人そのものではないから、町代や千代はかならずしも帰化人の子孫ではない。しかし漢人部の直接の管理者として、東漢氏の部下の帰化人が現地に居住した可能性は大きい。『類聚国史』天長六年(八二九)十月乙丑条によると、甲斐国節婦上(うえの)村主(すぐり)万女が位二級を叙せられ、後身戸の田租を免ぜられている。上村主という氏姓は東漢氏の部下であった帰化人の小氏であるから、この上村主が漢人部の管理者として甲斐に住んでいたことは十分推測できよう(関晃氏「甲斐の帰化人」甲斐史学七)。
甲斐におけるいわゆる「帰化人」、渡来人のそれをいちおう概観したわけであるが、しかしこれはあくまでも「いちおうの概観」であって、それ以上のものではないということに留意しておいてもらいたい。これからみて行くように、それは決してここに書かれた者たちだけではないのである。
岩殿城跡と小山田氏
さて、私はこれまでにも何度か行ったことはあるが、この紀行のためにその甲斐をはじめてたずねたのは、一九八○年一月半ばのことであった。珍しく東京にも雪が降ってとけた数日後のことで、国鉄の中央線大月駅におり立ってみると、あたりの山々は東京とちがって、まだ雪景色のままとなっていた。
それだけ、山国は降雪が多かったからにちがいないと思われたが、しかし駅ホームの北側に見える岩石を露出した岩殿山城跡の岩殿山だけは、日光をまともに受けていることもあって、一片の雪ものこしてはいなかった。関東三名城の一つと『甲斐国史』にある岩殿城跡は、戦国時代の当地郡内領主だった小山田氏の山城跡で、日本にも多くみられる古代朝鮮式山城跡のそれと同じように、いまもそこには湧水(わきみず)が切れていないという。
ここにいう小山田氏とはどういう出自の者であったか、ということをあとでみることになるので、その岩殿城跡についてちょっとふれたが、それからは例によって、私は駅近くの大月市教育委員会をたずねた。そして社会教育係長の渡辺成政氏から『大月市の文化財』などをもらい受け、ついでこんどはタクシーで、大月駅よりは一つ東京寄りとなっている猿橋(さるはし)へ向かった。そこにある「猿橋」をみるためだった。
猿橋と芝耆麻呂(しきまろ)
大月市の文化財指定となっているこの猿橋については、山梨県高等学校教育研究会社会部会編の『山梨県の歴史散歩』にこう書かれている。
猿橋(国名勝)は国道二〇号線を宮谷から二キロほど西のところにあり、猿橋駅をでて国道二〇号線を一キロほど東京方面へゆくと桂川にかかる新猿橋にでる。猿橋はこの橋の上流五〇メートルほどのところにある。
富士五湖の一つ山中湖を水源とする桂川が富士の溶岩流上を流れ、その浸食作用によって深い渓谷をなしているうえに架設された橋で、橋上を甲州街道がとおっていたので、古くから人々につたえられていた。この橋は推古天皇の二〇年百済(くだら)の帰化人芝耆麿(しきまろ)が樹の梢(こずえ)をつたい桂川をこえるサルに設計のヒントをえて架橋したという伝説があるが、実際にはいつごろかけられたかについては不明だ。室町時代の記録にはのっているといわれる。
猿橋の構造については、三〇メートルにちかい両岸絶壁の渓谷に当時の工法では橋脚をかけることはできず、吊(つり)橋には距離が長すぎるので、両岸からふとい刎木(はねぎ)を三列四段に上層へゆくほど長くつきだしてうめこみ、刎木と刎木のあいだには横に枕木を入れてささえ、最上層の刎木に橋げたをかけわたし、そのうえに全長三一メートル、幅五メートルほどの高欄(こうらん)つきの木造反り橋が架設されたわけだ。
高さ三メートルの木造刎橋の代表的なもので、日本三奇橋の一つとして知られている。猿橋の構造のうつくしさと、付近の渓谷のうつくしさがよく調和して、すばらしい景観をみせていて、江戸時代の浮世絵師安藤広重(あんどうひろしげ)や葛飾北斎(かつしかほくさい)らにえがかれていることも、この橋をいっそう有名なものにしている。
猿橋の付近には茶店などもあって、そこはちょっとした観光地になっていた。大月市観光協会の立札などにまじって、猿橋中学校生徒会の「かけがえのない自然と/重要文化財猿橋を大切にしましょう」という立札のあるのが頬笑ましかった。
なるほどその猿橋は、岩国の錦帯橋、日光の神橋とともに、日本三大奇橋の一つといわれるのにふさわしい橋だった。山梨県の『郷土資料事典』には、「これは奈良時代に百済の造園の博士芝耆麻呂(しきまろ)が……」とあるけれども、前記『山梨県の歴史散歩』がいうように、私にもこの猿橋が「推古二〇年」に架けられたものとは思えない。が、しかし、いずれにせよ、それが古代のことであったとすると、その技術、というより、そのような構造を考えだした人間の頭脳の働きに、私などまず感動しないではいられない。
いったい、「百済の帰化人芝耆麿」または「百済の造園の博士芝耆麻呂」とは、なに者であったのだろうか。一説には、「志羅乎(しらこ)」という名の者であったともあるが、これは伝承どおりの百済か、あるいはもしかすると、新羅からの渡来人によって架けられた橋であったことにまちがいはないにちがいない。
なぜ、新羅かというと、もしその名が志羅乎であったとすれば、ということからの連想であるが、もう一つは、甲斐四郡の一つであった都留(つる)郡のこの地は、これからみるように、多くの新羅系渡来人が古くから住んでいたところだったからでもある。
都留郡都留の地
地方新聞の切抜き
猿橋から大月駅へ引き返し、こんどはそこから出ている富士急電車で、都留市へ向かった。都留となると、都留文科大学の学長となっていた和歌森太郎氏を思いだす。そのうち一度おたずねすると言って、「ええ、どうぞ」ということになっていたが、一九七七年四月に急死されて、それははたせずじまいとなった。
電車は二十分ほどで、都留についた。そこは大月よりもさらに山間部となっているせいか、それだけまだ多くの雪が残っていた。陽があたっている山々はほとんどが枯木で、そのためすけて見える地肌のまだら雪が、あたりを荒涼とした風景にしている。
それらの山々を前うしろにしながら、雪解け道を歩いて、都留市教育委員会をたずねた。そして社会教育主事の山本義典氏に会い、私はまず、山梨県在住のある読者が送ってくれた、一九七八年八月六日付けの山梨日日新聞の切抜きを読んでもらうことにした。
「帰化朝鮮人と小山田氏/七世紀の関係探る/都留の窪田薫さん」という見出しの記事で、それはこういうものであった。
小山田氏の研究を進めている都留市文化財審議会の窪田薫委員は、同市大幡に七世紀ごろ住んでいたらしい帰化朝鮮人と小山田氏との関係などを究明している。
窪田委員は、上大幡の字唐沢付近を地元の人たちが「ヘンポリ」と呼んでいること、また農田地区に白髭神社があることなどから、この辺に帰化朝鮮人がいたことはほぼ間違いない―と話している。
「ヘンポリ」というのは朝鮮語で「人里」という意味で、『地名語源辞典』(山中襄太著)に帰化朝鮮人が住みついたことは確実性が高い―と書かれている。また、白髭神社についても、帰化朝鮮人がその王・福徳(または福信)を祭った神社といわれている。
小山田氏と帰化朝鮮人との関係について、(1)小山田氏の祖先の畠山重忠が帰化朝鮮人と手を結んで彼らが造りだした武蔵よろいを戦場で用いた。(2)続日本紀に「七一六年、甲斐他七ヵ国より高麗人千七百九十九人を武蔵国に移す、高麗郡を置く」とあるが、小山田氏の本拠は町田市であり、当時の武蔵国である。(3)小山田氏が谷村に館を構えた天文元年(一五三二)以前に、帰化朝鮮人のいたという上大幡に近い中津森に館を建てたという。
このほか、多摩川の機織りは帰化朝鮮人のなかに織工がいたというのが定説で、白髭神社から五〇〇メートルほど離れたところにある機(はた)神社も織物の神様であり、帰化朝鮮人と関係があるのではないか、と窪田委員は話している。
多い新羅系の地名
「そこに出ている市の文化財審議会委員ですね」と私は、山本さんがその記事を読みおわったころを見はからって言った。「その窪田さんに会いたいと思うのですが、どうしたらいいでしょうか」
「はい、わかりました」
山本さんはすぐに立って、窪田氏の家へ電話をしてくれた。さいわい窪田氏は在宅していて、
「自宅でお会いする、と言っています」と山本さんは、受話器をおいて言った。
「ああ、そうですか。その自宅はどのへんなのでしょうか」
「そうですね。それでしたら、そこでちょっと待っていてくれませんか」
山本さんはそう言って、私に「都留市土地利用計画図」という大きな地図を一枚くれると、そのまま机に向かって仕事をつづけた。
私は応接の椅子に腰をおろして、女子職員がいれてくれたコーヒーをごちそうになりながら、その地図に出ている「大幡・大幡川」「加畑・加畑川」「高畑」「田原」などの地名をみていた。
大幡の幡(はた)や加畑・高畑の畑(はた)が新羅・加耶系渡来人である秦氏族の秦(はた)、さらにいうならば、かれらがそこを渡って来た朝鮮語バタ(海)からきたものであることはいうまでもなかったが、田原にしても高山寺本に太波良、『和名抄』に多良(たら)郷とあるそれだった。その多良が田原となったわけで、それものち新羅となった古代南部朝鮮にあった加耶(加羅)諸国のなかの一国だった多羅からきたものにちがいなかった。
そのことはなによりも、和歌森太郎氏もそういっていた新羅明神の白髭(鬚)神社がこの地にあることで明らかである、とそんなことを思っていると、そこへ外へ出ていた若い職員が一人、山本さんの横の机へ戻って来た。山本さんはその職員になにか言って、うなずき合ったとみると、
「では」と山本さんが私に向かって言った。「このナラ君がご案内しますから、どうぞいっしょに行ってください」
私は礼を言って、ナラといわれた職員について出ながら、うしろから訊いた。
「ナラさんと聞きましたが、どういう字のナラさんですか」
「奈良県の奈良です」
「ああ、奈良ね」と私はうなずいた。
妙なもので、それもまた朝鮮語のナラ(国)ということからきたものだった。あとでおしえてもらったが、奈良泰史というのがフルネームだった。
その奈良さんは市庁舎を出ると、前の広場にとめてあった、雪解け道を走ったため、たくさんの泥のはねをつけているクルマのドアを開けて、
「きたないクルマですが、どうぞ」と言った。きたないもなにも、山本さんと奈良さんのとり扱い振りにすっかり恐縮していた私は、さらにまた恐縮してそれに乗った。
ツルは「原野」
奈良さんのクルマは都留市のどこを走っているのか、私にはわからなかったが、「それにしても」と私は窓の外に目を向けていて思った。あたりは山また山がせりだしていて、これといった「原野」はほとんど見当たらなかった。市の中心部となっている街が元はその原野だったかも知れなかったが、そうだとしても、そこは山々が入りくんだ狭い山峡の街だった。
というのは、私はなぜその「原野」にこだわったかというと、中島利一郎氏の『日本地名学研究』をみると、ツルは朝鮮語の「原野」だとあって、「要するに弦巻(つるまき)も鶴巻も『野牧(つるまき)』の意の仮借字であろう」「弦巻は古語に原野のことを『つる』といい、又朝鮮語でもそうであるから、是(こ)れは野牧の意で……」とあったからである。
都留にそういう牧場があったかどうかはわからないが、さらにまた、丹羽基二氏の『地名』をみるとこうなっている。
つる 鶴、津留、都留等に当てる。(一)鶴の飛来地に因む。鶴見、鶴岡、鶴巣。朝鮮語で鶴をツルミという。(二)野原のこと。朝鮮語でも野をツルという。朝鮮渡来人の居住地。山梨県の都留郡など。
谷村=田原(多良)
私はいままさにその「朝鮮渡来人の居住地」だった「山梨県の都留」に来ていたわけであるが、奈良さんのクルマは間もなく窪田薫氏宅に着いた。都留文科大学の講師も兼ねている窪田さんは、感じのいい初老の人だった。私は奈良さんともども応接間にあげられて、茶をふるまわれながらいろいろ話した。
それでまず知ったことは、奈良さんは市教委社会教育の埋蔵文化財担当で、窪田さんはそういう文化財審議会委員だということだった。その窪田さんに私は、山梨日日新聞の切抜きにある白髭神社や機(はた)神社をみたいと話し、ついで、『和名抄』に多良郷とある田原はどういうところだったのかとたずねた。
「それは谷村(やむら)で、いまでも市の中心となっているところです」と窪田さんは言った。
「谷村といいますと、あの小山田氏の館(やかた)のあったところでもあるわけですね」
「そうです」
ふつうの地図には谷村となっているそこが、「都留市土地利用計画図」には田原となっていたので、よくわからなかったのである。あとで知ったが、だいたい都留市というのは、南都留郡谷村町が一九五四年にまわりの宝村などを合併してできたもので、山梨県の『郷土資料事典』の「都留市」をみると、その谷村のことがこうある。
中心市街地の旧谷村(やむら)町は、文禄三年(一五九四)浅野氏重が勝山城を築いて以来、谷村藩(郡内藩ともいう)の城下町として発達した所で、宝永二年(一七〇五)の廃城後も谷村代官所がおかれ、郡内地方の政治文化の中心地であった。
さらに谷村の重要性は、甲斐絹(かいき)を中心とする郡内機業の発祥地・中心地であったことである。桓武天皇の延暦一三年(七九四)この地に織部司がおかれ、中世の鎌倉・室町時代には市場取引が行われ、近世に入って羽織裏地として全国に独占的地位を占めた。現在も郡内機業の一中心地であり、夜具地・座布団地・マフラー・コート地・服裏地を中心に年間三一億円(昭和四八年)の生産をあげている。しかし工場の規模は小さく、典型的な零細家内工業の域をでない。また谷村は国鉄中央本線から離れていたため、郡内の中心的役割を大月、富士吉田市にうばわれ、機業も両市にぬかれている。
元は多良郷だった田原=谷村が「郡内機業の発祥地・中心地であった」とすれば、その周辺に機神社や白髭神社があるのは、決して偶然なことではなかった。山城(京都)太秦(うずまさ)の秦氏族をはじめとする各地のそれと同じように、この地の機織も元はその秦氏族がもたらしたものであり、二つの神社はかれらがその祖神を祭ったものであったにちがいない。
機神社と白髭神社
窪田さんもいっしょに行ってくれることになり、私たちはまずその機神社からたずねることにした。奈良さんのクルマは、大幡川に沿って走った。しばらく行くと、奈良さんは左手に見える台地を指さして、
「あれが厚台地です」と言った。「十三万へーべ(平方米(メートル))もある台地ですが、あれは奈良から平安時代にかけての集落遺跡です」
「ほう、なるほど。すると、古代はここが中心地だったのですね」
古代朝鮮から渡来したかれらは、その台地をさしてツル(都留=原野)といったのだったかも知れなかったが、そこから大幡川上流にある機神社は間もなくだった。元は秦(はた)神社といったのかも知れないその神社は、大幡の集落を見わたす小高い丘のうえにあって、一見してその丘は元は古墳ではなかったかと思われた。
窪田さんや奈良さんも、そうではないかと思っているとのことだったので、
「では一つ、発掘してみたらどうですか」と、それが地元の人々の崇敬する神社なのにもかかわらず、私はそんな不遜(ふそん)なことを言った。
白髭神社は、機神社のそこからは五百メートルほど下ったところで、これも集落を見わたす、白い雪におおわれた丘のうえにあった。しかしどうしたものか、これはもう小さな祠(ほこら)のようなものとなってのこっているだけだった。都留の地を開いて住みついた人々の渡来意識がうすれるのと比例してそうなったものかどうか、それはわからなかった。
唐土明神と白鬚神社
塩山の菅田天神社
都留で一泊した私は、翌日はさらにまた大月駅へ戻って、そこからこんどは国鉄の中央線で塩山(えんざん)へ向かった。塩山にもまた白鬚神社があり、近くには唐土(からと)大明神の黒戸奈(くろとな)神社というのがあったからである。
塩山に着いた私は、例によってまず駅近くにあった塩山市教育委員会をたずね、社会教育係長の鶴田甲敬氏から『塩山市の文化財』などをもらい受けた。
そしてその近くにあった、新羅三郎義光と武田氏とにゆかりの深い菅田(かんだ)天神社をたずねた。同神社については、前記『山梨県の歴史散歩』にこうある。
一条天皇の勅によって菅原道真を相殿にまつり、菅田天神社と称するようになったといわれる。武田氏の祖新羅三郎義光が甲斐守として入国いらい、武田家代々の守護神としてふかく崇敬された。徳川家康もこの神社を永久祈願所としている。本殿・幣殿(へいでん)・拝殿・随神(ずいじん)門・渡廊・潔斎(けつさい)所・参集所・社務所・武徳殿などの諸殿がととのい、歴史の古さをものがたっている。拝殿前に一四〇九(応永一六)年武田家より奉納した石灯籠一基が現存している。
随神門左側の保存庫におさめられている鎧(よろい)は、武田家相伝の鎧とつたえられ、社宝には武田家古文書がある。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)・菅原道真ほか八柱。楯無鎧(たてなしのよろい)(国宝)は、甲斐源氏の祖新羅三郎義光が父の頼義からつたえられ、いらい、日の丸の旗とともに“御旗楯無(みはたたてなし)”とよばれて、武田氏の惣領(そうりよう)のしるしとして代々つたえられた鎧だ。楯を必要としないほど堅固な鎧という意味をもつという。
その楯無鎧は、『塩山市の文化財』にのっているカラー写真しかみられなかったが、当時よくもこういうものを、と思われるほど豪華なものだった。武田家の家宝、国宝となるのに少しもふしぎはなかった。
唐土大明神・黒戸奈神社
さきに行った白鬚神社は塩山市中井尻にあり、唐土大明神の黒戸奈神社はその北方、笛吹(ふえふき)川の上流となっている牧丘町(旧中牧村)にある。しかし私はこの日は塩山から急に予定を変更し、甲府から身延(みのぶ)線の中富町をたずねることにした。
で、それらの神社まで行ってみたのは、あとでみられるように、後日、甲府近くの竜王町に住む作家で地方史研究家の備仲臣道(びんなかしげみち)氏、丸山裕三氏たちといっしょになってからだったが、まずそのうちの唐土大明神についてみると、地方史研究家で山梨日日新聞社社長でもあった野口二郎氏の「甲斐の韓人(からびと)」にこう書かれている。
わが国古代の風、住民安居すれば、その祖神を奉斎崇敬するを常としたが、韓人たちも来住久しくなれば自らその俗を一つにしたに違いない。〈実は「その俗」をもたらしたのもかれらにほかならなかったのである。小著『古代日朝関係史入門』「神社と神宮の由来」参照〉その何(いず)れの神々を韓人たちが奉祀の対象としたか、もとより知る由もないが甲斐国古社史考によると、いわゆる国衙八幡宮において三郡九筋百六十社の神官たちが、国家安泰の祈願を二人ずつ交替して勤めた番帳なるものがある。永禄四年(信玄の時代)のものを見ると
四番 万力之禰宜(ねぎ)
唐渡之禰宜
慶長十三年(徳川秀忠の時代)のものには
三番 万力の禰宜
唐土の禰宜
の文字が目につく。唐渡、唐土はけだし同一神社を指すのであろうが、文字からして異国の香が高い。すなわち東山梨郡誌(大正五年山梨教育会東山梨支会編)平等村、上万力村組合の項に
○唐土大神宮 村社、上万力村に在り、素戔嗚尊を祀る。永禄四年の番帳に唐ノ宮とあるは是なり。
に当るのである。更に古社史考、文化年間神社一覧によると、同じ山梨郡万力筋の中に、倉科にも、成沢にも唐土明神〈1〉がある。郡誌には
○黒戸奈神社 中牧村、郷社、字倉科、小字神田にあり、素戔嗚尊を祀り、甲斐名勝志に唐土明神と云う(古社史考には祭神に天之暗戸神を加える)
○唐戸神社 諏訪村、村社、字成沢、小字大沢に在り、素戔嗚尊を祀る
と見えて、唐土を名乗る三社が、何れも古伝説の上において、韓と日本とを逸早く結びつけた素戔嗚尊を祭神としていることを知るのである。
大分長くなるが、一九四八年に書かれたこの「甲斐の韓人(からびと)」はいろいろな意味でたいへんおもしろいので、もう少し引かなくてはならない。なお、私はこの筆者の野口二郎氏に会ってみたいと思っていたが、先年、亡くなったとのことであった。
また永禄、慶長の番帳に唐土の禰宜と同座している万力之禰宜の神社は、恐らく上万力村字金桜に鎮座す金桜(かなざくら)神社に相違ない。古代史考には
○社記に大宮権現、又金桜権現と称すとあり。御朱印社領拾四石九斗余、成務天皇御宇鎮座、その後、落合の白山、熊野堂の熊野、岩下の走湯(はしりゆ)、別田の箱根を配祀して、五所権現と称し、万力、落合、正徳寺、山根、矢坪、岩下、金塚、熊野堂、別田、小松、切差、赤柴膝立十二村の総鎮守なり(以下略)
と詳説している。社記にいう大宮権現で思い出されるのは、先に引用した地名辞書の武蔵国高麗(こ ま)郡のところに「新編風土記稿」によれば、同郡下の村里多くは白髭明神を祀って鎮守とするのは、高麗王であるといっていることである。一体高麗王とは如何なる人物を指すのか――同じ風土記は、高麗郡高麗郷高麗村の高麗大宮の項でこう述べている。
○高麗大宮は清乗院大宮寺と号す。社伝に曰く、霊亀二年、高麗王を始めとして千七百九十九人の高麗人、当郡に来往し、土地を開き、耕作の業を営む。天平二十年〈2〉、高麗王薨(こう)ず。
即(すなわち)其霊を祀り、高麗明神と崇(あが)む。又これを大宮明神と称(い)う。王薨ずる日、鬚髪共に白し、仍(より)て白鬚明神と祭らしむと(以下略)
ここにいわゆる大宮明神と、上万力村の大宮権現と、果して冥々一点相通ずるものがあるか、どうかはハッキリさせようもないが、大宮権現が上万力に鎮座後配祀して五所権現となったという二、三については、多少つけ加えてもいいかも知れない。例えば
○走湯山(はしりゆさん)権現(伊豆国田方郡)大江政之の記に云(いう)、応神天皇の時、此(この)大神高麗国より相州唐(から)の浜に到る。松葉仙と云者(いうもの)祠を建て安置し、仁徳天皇の時、此(ここ)に奉祀すと。
○箱根神社(相模国足柄郡)駒形の神として此処に祭るは、駒ケ岳の山神、即(すなわち) 駒形権現にして、高麗権現なり。(両項とも地名辞書による)等々である。
註〈1〉同神社一覧によると、唐土明神は県下になお三ヵ所ある。八代郡上矢作、巨摩郡下条南割、同郡山高。
註〈2〉天平二十年は四十五代聖武帝の七四八年、霊亀二年より三十五年の後である。
「新羅から見えられた白鬚の君」
塩山市北方となっている牧丘町の唐土大明神・黒戸奈神社についてみたわけであるが、ここにいう唐土の唐が古代朝鮮をさした韓(から)であったことは、もういうまでもないであろう。しかしながら、この韓が新羅をさしたものか、それとも百済をさしたものかはまだ明らかではない。
だいたい、韓(から)とはのち新羅となる古代南部朝鮮の小国家であった加羅(加耶ともいう)からきたものであるが、一方また、日本では百済をもさして韓といっていたからである。たとえば、『延喜式』「神名帳」にみられる「宮内省坐神三座 園(その)神社 韓(から)神社二社」の園神はソの神、すなわち新羅系の神であり、韓神は百済系の神であるが、しかし、甲斐における唐=韓は、新羅のそれをさしたものとみていいのではないかと私は思う。
なぜかというと、いまみた牧丘町の唐土大明神・黒戸奈神社の近くにある白鬚(髭)神社がそのことを、よく物語っているのではないかと思われるからである。旧塩山町、いま塩山市中井尻にあるその白鬚神社は、牧丘町から南に下ると、甲斐国第一の名刹(めいさつ)といわれる同市小屋敷の恵林寺(えりんじ)となり、ついで白鬚神社というぐあいにならんでいるが、さきにまず、これも野口二郎氏の「甲斐の韓人(からびと)」によってみることにしよう。
さて、十一月上旬のことである。塩山町中井尻の白鬚神社〈1〉に使をたてた。前記武蔵国高麗郡の所々にある白鬚明神と、何か因縁がないかと筆者の詮索癖からである。以下はその折の神官日原一兄氏(62)の談である。
「当社は社記によると、祭神猿田彦命となっているが、実は新羅から見えられた『白鬚の君』だということである。その子孫の人たちは代々この地の湿田に農耕をはげんだ。その後、新羅三郎義光公が今から千年ばかり前、居城の守護神としてこの地に西向きの神社を建てられたと言われている。武田氏滅亡の時、織田の兵火で焼かれたが、寛文十年吉田神道の吉田家から裁許状があって復興し、元禄三年現在の堂宇が完成したと承知している」
白鬚の君は、薨(こう)ずる日鬚髪ともに白しとある高麗王の伝と、まことに似通っているのを覚える。あるいは甲斐源氏の祖、新羅三郎を引合いに出すために、いつか新羅の人と脚色せられてしまったのかも知れない。
塩山町に続く松里村〈いま塩山市〉三日市場に湧く冷泉を、白鬚鉱泉と呼ぶのも、偶然とばかりはいえない気がする。中牧村〈いま牧丘町〉倉科の西の大村山(標高八九八・六メートル)を、古くは大牟礼山(おおむれやま)と呼んでいる。欽明紀五年、百済聖明王の建策の中に「久礼山(くれむれ)の五の城(さし)」という言葉(豊後国に角牟礼城(つのむれのしろ)あり)が見えて、この国の言葉で、山をムレということに気付くのである。
果して然らば、唐土明神を祭る西山を当時ムレと命名したのも、韓人たちではなかったろうか。不得要領の結論であるが、茫千百何年か前、甲斐に転入した異国人たちは、よしその全部でないとしても霊亀二年の頃までは、笛吹の清流をさし挟んで、万力、八幡、諏訪、中牧、松里、七里、日下部の諸村に言葉を換えるなら、言うところの加美の郷から玉の井の郷にかけて、山あり畑あるところ農耕と狩猟に、散居往来していたのではなかったろうか。
註〈1〉白鬚明神は甲州の他にもある。山梨では三日市場、八代では中芦川、巨麻では大武川等々であるが、社記による祭神としては、素戔嗚尊、猿田彦尊あるいは初代甲斐国造の塩海足尼(しおみのすくね)などがあげられている。
野口二郎氏のこれは、ほかにもよくみられる錯誤をともなっているが、しかしひじょうに注目すべき文献となっている。どうして注目すべきかというと、これには当時の白鬚神社神官日原一兄氏の「当社は社記によると、祭神猿田彦命となっているが、実は新羅から見えられた『白鬚の君』だということである」という貴重な証言がしるされているからである。
ただしい神官の証言
野口氏のこの「甲斐の韓人(からびと)」が書かれたのは一九四八年十二月号の「月刊山梨」であった。三十数年前のことで、いまは両氏とも亡くなっているが、野口氏は日原氏のその「談」に対して、「白鬚の君は、薨ずる日鬚髪ともに白しとある高麗王の伝と、まことに似通っているのを覚える」とそれを武蔵(埼玉県)の高麗神社祭神となっている高麗王若光に結びつけ、「あるいは甲斐源氏の祖、新羅三郎を引合いに出すために、いつか新羅の人と脚色せられてしまったのかも知れない」としている。
しかし、これは野口氏とは限らない明白な錯誤で、日原一兄氏の証言のほうがただしいのである。しかもつづけて、「その子孫の人たちは代々この地の湿田に農耕をはげんだ」とあるのも、事実にもとづいた貴重な証言といわなくてはならない。それが「新羅から見えられた『白鬚の君』」であったればこそ、「その後、新羅三郎義光公が今から千年ばかり前、居城の守護神としてこの地に西向きの神社を建てられたと言われている」のである。
もっとも、何度もいっているように、これは野口氏のみの錯誤ではない。こちらも猿田彦命と共に高麗神社の祭神となっている高麗王若光が「薨ずる日鬚髪ともに白し」だったから、白鬚(髭)神社の「白鬚」がそれからきたというのは俗説で、実をいうと私自身、その俗説に長いあいだまどわされていたものである。
白鬚(新羅)と高麗神社の関係
しかし、何度か高麗神社をたずねたりして、かかわっているうちに、その実態が明らかとなるときがきた。一九七五年十二月に出た雑誌「日本のなかの朝鮮文化」第二十八号をみると、「高麗氏とその遺跡」という座談会がおこなわれている。出席者は、当時はまだ東京教育大学の教授で、のち都留文科大学学長となっていたとき亡くなった和歌森太郎氏、当の高麗神社第五十八代宮司の高麗明津氏、明治大学の大塚初重氏、京都大学の上田正昭氏、それに私であるが、なかに「白鬚は新羅明神」という項があって、そのことがこう語られている。
ちょっと長いけれども、甲斐ばかりでなく、となりの信濃(長野県)など、全国にたくさん分布している白鬚(髭)神社とも関係する大事なところなので、それをここに引かせてもらうことにする。
編集部 そこで宮司さんに、〈高麗王〉若光のご子孫として、まずその由来など伺いたいと思います。
高麗 系図をもう少しくわしく書いておいてくれればと思うのですが、ほんとにあっさりなものでしてね。死んだとか、生まれたとか、誰を女房にしたとか、そんなことしかないのでございましてね。
金 朝鮮では系図のことを族譜(ジヨクポ)といって、これは本のようなものになっていますが、これにはまったく女房のことは書いていない。ただ、どこどこの金氏、あるいは朴氏というようになっていて名前もありません。男系のみずらっと並んでいるだけです。族譜にはそれぞれ、その出自のことをうたった前書きがありますが、高麗神社の系図ではその前書きの方が虫喰いになっていますね。その虫喰いには謎があると書いたのは坂口安吾ですが、どうですか、本当に虫喰いなのですか(笑い)。
高麗 なにか不利益なことがあって、破ったのではないかという意見もありますね。
金 ええ、ぼくもそう思います。つまり朝鮮から渡来したということは、日本の社会では決して利益にならなかったわけですよ。いまもなおそうですけれどね。
上田 神社側の伝承では、この前澄雄さん(伝高麗神社五十九代)からお話を伺ったのですが、新羅明神をさきに祭っていて、のちに若光を祭ったというような伝承もあるのですとおっしゃっておりましたが、そういう伝承もあるのですか。
高麗 あるのでございますな。記録にもありますが、ただその記録はあまり古いものではありませんようです。
上田 そうですか。それは注目すべき伝承ではないかと思いますね。
和歌森 ぼくも若いころにその話を伺った。ぼくは「白鬚明神考」なるものを研究発表したことがあるのだけれども、白鬚は新羅明神であると。日本では白鬚の古老に対する崇敬、神さまののりうつりという観念があるものだから、白鬚といって納得させて来たけれども、実体は新羅明神なのですよ。さきほども言ったように関東一円そうだが、武蔵にしても高句麗ばかりではなくて、かなりの三国の系統のものが分布していた。そういうなかで新羅系のものが集団として、日本的な神を奉祭していたのが新羅明神から白鬚明神と変ったのだと思っていますがね。
金 実は、ぼくがこれまで悩んでいたのはそれなんです(笑い)。まず高麗神社について言いますと、これはその分社が東京都と埼玉県で百三十ほどあります。それが、あるところでは白鬚神社になり、大宮神社になり、広瀬神社になりというふうになっているわけです。ところが、ぼくは全国のあちこちを歩いてみますと、その白鬚神社というのはいたるところにあります。なかでも有名なものに近江の比良(ひら)明神の白鬚神社などがありますが、周囲の遺跡やその他の状況からみて、この比良や白鬚はどうしても「新羅」でなければならないんですよ。それなのに、どうして高句麗系の高麗若光を祭った神社が白鬚神社になったのか、――とそれで悩んでいたんです。これをどう考えたらいいのかとぼくは思っていたのですが、上田さんのいわれた澄雄さんのお話や、それからいまおっしゃった和歌森さんのお話でそれがやっとはっきりしました。要するに高麗さんの高麗神社は、新羅系の白鬚神社の上に、また高句麗系のそれが重層した、かぶさったというわけですね。
上田 そういう面も考えられるでしょうね。例の多胡碑(たごのひ)の場合でも新羅系が強いし、実際に新羅人が武蔵国に若光以前に先行して存在したということが、『日本書紀』の伝承などにもうかがわれます。持統天皇の元年や四年の条に「新羅人を武蔵に」とありますが、そこへ若光がそのあとに住まっていくということがありますから、澄雄さんからのお話を伺って考うべき伝承ではないかと思いましたね。若光がただちに祭神になるというよりは、すでにそこにはいわゆる白鬚明神系の祭りが何らかの形で行われていて、そこへ若光が入り、そしてあらたに子孫によって祭神化するというように考える方が自然ですね。
和歌森 持統紀に出て来るように新羅の人間が七世紀に入っているので、白鬚明神が成立してしかるべきですよ。
これで、だいたいはっきりしたと思うが、要するに塩山の白鬚神社は、日原一兄氏のいうとおり、「新羅から見えられた『白鬚の君』」を、それと共に渡来した者たちが祖神としていつき祭った神社だったのである。
したがってその白鬚神社近くの牧丘町にある唐土大明神・黒戸奈神社もその系統のものではないかと私は思うが、なお、中巨摩郡竜王町に住む備仲臣道氏の一九八○年五月の通信によると、甲斐における新羅系渡来人のそれとしてはほかにまた新羅神社が二社、白旗神社が一社、白山神社が四十三社(うち末社十三)あり、白鬚神社も五社(うち末社一)となっている。
このうち、加賀(石川県)の白山からおこった白山神社を、新羅系のそれとすることにはちょっと説明を要するかも知れない。しかし、たとえば、本多静雄氏の『古瀬戸』をみると、「白山は本来、朝鮮系帰化氏族の奉斎する山であった」とはっきり書かれている。
和紙の里・西島へ
武田神社と要害山
さきにもいったように、塩山市教育委員会から近くの菅田(かんだ)天神社をおとずれたこの日の私は、予定を変更して甲府から身延線の中富町西島をたずねることにしたのだった。なぜそのように変更したかというと、のちにみられるように、甲府とその周辺は後日、地元の備仲臣道氏と丸山裕三氏とにくわしく案内してもらうことになっていたからである。
しかし、塩山から身延線に乗りかえるため甲府駅におり立った私は、まだ時間が早かったので、タクシーで甲府のそのあたりを、ざっとひとまわりしてみることにした。甲府駅を出るとまず目につくのは、駅前にでんとすえおかれている巨大な武田信玄像である。
いかにもここは甲斐源氏・武田氏の国であったと思わせるものであるが、そこで私はまず、その武田氏に敬意を表することにして、古府中町にある武田神社をたずねた。武田氏の居館跡でもあったこれがまたたいへん大きな神社で、社務所でもとめた『武田家小史』をみると、背後の要害山は要害城跡でもあったという。
前記、備仲臣道氏の通信によると、その武田神社と要害山とについてこう書かれている。
ところで、ご来甲の折り、武田信玄について、城を持たなかったというお話をしました。確かにそのとおりで、信虎、信玄二代の居館跡は、現在、武田神社となっているのがそれですが、その背後に要害山という山があり、そこが逃げ城となっていました。信玄自身も父の信虎が甲斐に乱入した駿河勢と飯田河原で戦っている時、この要害山で生まれています。私はこの要害山に登ったことはありませんし、不勉強にしてその構造なども詳しくは存じません。
西南に泉水があって、飲用水としていた――ということくらいしか知りません。また、〈日本にある〉古代朝鮮式山城というものについても良く知りませんし、見る機会もありませんでした。もちろん信虎、信玄のころとは時代もかけ離れています。けれども、朝鮮式山城の伝統がその底にあって、この要害山の存在となったように思えてなりません。
近年、日本でもあちこちで発見されている古代朝鮮式山城がたいていは「逃げ城」であったところからの思いつきのようであるが、しかしこれは、単なる思いつきといったものではないと私は思う。「朝鮮式山城の伝統がその底にあって」ということについては、のち、甲斐源氏・武田氏の祖であった新羅三郎義光のことで、それをみることになるであろう。
和紙の里の蔡倫神社
武田神社から、ついでこんどは、善光寺町にある甲府善光寺だった。善光寺といえばこれは百済系のそれで、長野の善光寺が有名であるが、ここにもそれがあったのである。
この善光寺については次の信濃、すなわち長野の善光寺でくわしくみることになるはずであるが、さて、甲府善光寺からの私は、身延線に乗って「和紙の里」といわれる中富町の西島へ向かった。「和紙の里」ということになると、中富町よりずっと手前の市川大門町もそうだったが、なぜ遠い中富町の西島に向かったかというと、そこに蔡倫(さいりん)神社という、珍しい紙祖を祭る神社があったからである。鈴木敏夫氏の『プレ・グーテンベルク時代』にそのことがこうある。
要するに、日本の製紙は六世紀ごろ、おそらく朝鮮からの帰化人の手によってすでに行なわれていた、というのが結論なのですが、えらそうに結論づけてみたところで、具体的な証拠がなにもないことは、たびたび述べたとおりです。
なおこれは余談ですが、日本にも蔡倫神社があります。山梨県中富町西島(旧西島村)がその所在地。はじめてこの神社の存在を知ったとき、前記の修善寺伝説のように、蔡倫渡来説から生まれたものかと興味をもちました。しかしこれは成田潔英氏著『紙碑』によると、戦国時代の元亀二年(一五七一)に、この地で紙漉(かみす)きを創始し、村人にも製法を伝授してついに一村を支える産業にまで仕上げた西島紙(むかしは奉書・檀紙などの高級紙。いまは画仙紙、障子紙など)の祖・望月清兵衛(一五四一〜一六二九)の死後、彼の徳を慕って村民が蔡倫・曇徴(どんちよう)・清兵衛の三人を紙祖としてまつったものでした。
清兵衛は若いとき、修善寺紙の製法を習い、その技法をもとに西島紙を開発したので、蔡倫伝説や書紀にある曇徴の事蹟も知っており、村人にも教えていたので、村人たちが三人を紙祖としてまつったものでしょう。毎年一月二十五日に祭礼があります。別に蔡倫神社のすぐ傍に、清兵衛の頌徳碑「峡南造紙開祖の碑」があります。
高句麗から渡来した紙祖・曇徴
ここにみられる蔡倫とは中国・漢における紙の発明者・紙祖として有名なそれであるが、もう一人の曇徴が同じ紙祖として祭られている、というのが私にはおもしろかったのである。曇徴とは高句麗から渡来した高僧のことで、「書紀にある事蹟」とは『日本書紀』にあるそれのことであるが、ここではわかりやすく、新村出編『広辞苑』(第一版)をみるとこうなっている。
どんちょう〔曇徴〕高麗の帰化僧。推古天皇の十八年に来朝。五経に通じ、彩色画をよくし、紙・墨・碾臼(ひきうす)などを造った。法隆寺の壁画を画いたという。
なおまた、樋口清之氏の『古代生活散歩』「紙」に、「日本では千三百年の昔、推古天皇十八年に高麗から製紙法が伝わったと歴史に伝えられているが」とあるそれでもあって、つまり曇徴は、日本におけるその紙祖だったのである。西島紙を開発した清兵衛はそのことを「村人にも教えていたので」、その村人たちが曇徴をも祭る蔡倫神社を建立したというわけであった。
手漉き和紙と蔡倫社の衰微
富士川の峡谷を走る身延線の甲斐岩間駅におりた私は、一台きりしかなかった駅前のタクシーに乗り、「中富町の西島へ――」と言った。が、しかし、その西島というところはすぐにわかったけれども、目ざす蔡倫神社はどうしてか、なかなか見つからなかった。
あっちへ行ったり、こっちへまがったり、何人かの人に訊いたりして、やっとたずねあてたが、それは清兵衛の墓がある栄宝寺という寺の境内にあった。寺の境内に神社があるというのも妙なものだったが、それはともかくとして、小さな民家のようなかたちの神社はみるかげもなく、荒れはてたままとなっていた。しかもいまはそれが合祀となっているのか、「正八幡社・山王社・蔡倫社」となっている。
「ああ、いまはこんなになってしまっているのですか」と私は、そこまで案内してくれた近所の人に向かって言った。遠いところをわざわざそこまで来て、しかもやっとたずねあてたということもあって、私はがっかりしてしまったのだった。
「ええ、まあ」と近所の人は、何となく申訳ないような顔をしてこたえたが、しかし中富町の西島では、まだその和紙の生産はつづけられていた。いまは三十戸ばかりがほそぼそと「手漉きの伝統」を守っているとのことだったが、前記『山梨県の歴史散歩』にもそのことがこう書かれている。
富士川流域の東・西河内地方は、近世和紙の製造がさかんだった。これは耕地がせまく、和紙の原料のコウゾ・ミツマタが山間部で生産されたことによるものと思われる。現在まで製紙がつづけられているのは、市川大門町とこの西島だけである。
なお、ちなみにここで、笠井文保氏の「『手漉和紙聚芳』の発想」によると、日本全国の手漉き和紙の紙漉き戸数は、明治時代には八万戸をかぞえたが、現在ではそれがわずか六百八十余戸になっているという。そのうちでの西島の三十戸は貴重な存在で、さらにまた蔡倫神社を復興するまでに、その紙漉きがさかんにならぬものかと思うが、しかしそれはもうむりなのであろう。
横根の積石塚古墳群
何というバカなことを!
これまではその周辺をみてきたが、いよいよ甲斐の中心地であった甲府である。甲斐国は山梨、八代(やつしろ)、都留、巨麻(こま)(巨摩)の四郡から成っていたが、しかし高麗人、すなわち高句麗系渡来人は、高麗(こ ま)の巨麻郡のみに住んでいたわけではなかった。
甲斐における高句麗系渡来人は、もと山梨郡だった甲府などにも展開していたし、またその周辺にもいた。これからみるのは、それをも合わせてということになる。
私は、京都で雑誌「日本のなかの朝鮮文化」を発行している鄭詔文や、それまでは手紙などだけで、こんどはじめて会うことになる甲府市近くの竜王町に住む備仲臣道氏らとも連絡のうえ、中央線の国鉄八王子駅から、午前十時四十一分発の特急あずさ七号というのに乗った。そして私は、午前十一時五十分には甲府駅に着いて、そこへ身延線で十二時六分に着くことになっていた京都からの鄭詔文や、備仲氏らと落合うことになっていた。
ところが、ちょっと余談のようになるけれども、実に何ともいえない珍妙なことがおこった。というのは、こういうしだいなのである。
私は、それまでにも国鉄中央線には何度か乗ったことがあり、この紀行のために大月、甲府にもおりたことがあるが、しかしあずさ七号という特急に乗ったのはこのときがはじめてだった。私はそんなことなどおかまいなく、例によっていつものように、車中できょうこれからみるであろう遺跡についての文献調べをしていた。
それまでに目をとおしていたものでも、直前になってもう一度読みなおすのが、私のくせであった。こんどもそれで熱中していたところ、列車は駅に停車した。「ああ、もう大月だなあ。すると次は甲府だから、もうそろそろおりる仕度をしなくては――」と思い、ひょいと窓の外に目をやると、列車は甲府駅を発車したところだった。
「やや!」とおどろいたところで、もうはじまりはしない。ふつうの急行とちがって、あずさ七号なる特急は、大月駅には停車しないことを私は知らなかったのである。
「何というバカなことを!」と私は声にまでだして言ったが、それはまさに「バカなこと」そのもので、いまはもうどうしようもなかった。
近くにあった車掌室に行って訊いてみたところ、次の停車駅は茅野(ちの)だという。茅野とは長野県ではないか! そうしているうちに特急列車は小淵沢(こぶちざわ)をすぎて、八ヶ岳山麓を長野県に入っている。雄大な八ヶ岳の山容もなにも、あったものではない。
車掌さんは時刻表をみてくれたが、私の乗っている特急が茅野に着くのは十二時四十六分で、上りの東京行に乗りかえるとしても、その急行は十二時四十分に出たあとになるという。それでは茅野からタクシーを飛ばすよりほかないが、しかしそれでも甲府に着くのは、午後三時近くになるだろうというのである。
「何というバカなことを!」――私はもう、いても立ってもいられない気持ちになっていた。地団太を踏むとはこういうときのことをいうのではないか、と思ったりしてはまた苛立(いらだ)った。
もし甲府駅に、鄭詔文や備仲氏たちを待たせていなかったとしたら、私はそんなに苛立つこともなかったかも知れない。しかし二人をそこに待たせていたばかりか、しかもその二人は、私によって、そういう名の者といっしょになるということは知っていたが、どちらともまったく面識はないのである。
やがて、やっと、特急列車は茅野駅に入って停車した。おりながら見ると、向かいのホームに上り急行が入っていて、発車しようとしているところだった。どうなっているのかよくわからなかったが、私はそれに飛び乗った。すぐにわかったけれども、その上り列車はちょうど六分ほどおくれて、茅野駅を発車したのだった。
さいわい、私はそれで少しは救われたような気分になったが、しかしそれでも、特急で甲府から茅野までは一時間近くかかっていたから、その甲府へ着くのは午後一時三十分すぎになる。すると、計約二時間近くもおくれることになるが、その間、鄭詔文と備仲氏たちはいったいどういうことになっているであろうか。
しかし、なかなかよくしたもので、私は飛び立つようにして甲府駅の改札を出てみると、鄭詔文と備仲さんとは二人いっしょに、そこのベンチに腰をおろしてなにか話している。二時間近く、よくも待っていてくれたものであるが、二人はどういうふうにして相手を知ることができたかと訊くと、備仲さんは駅から東京の私の家に電話をして、「京都の鄭さんという人の顔は……」ということもあったらしいが、二人とも互いに何となく、「……ではないか」と思ったというのだった。
気がついてみると、地元からは備仲さんのほかにもう一人、丸山裕三氏がいっしょに来てくれていた。いよいよもって申訳なかったわけであるが、私たちはその丸山さんのクルマでさっそく出かけることにした。
横根積石塚古墳群
まず、近くの甲府市内にあった山梨日日新聞社をたずね、こちらも山梨時事新聞の記者だったことのある備仲さんの紹介で、同社代表取締役常務の高室陽二郎氏に会った。そして、この九月二十日に予定された雑誌「日本のなかの朝鮮文化」主催の「甲斐の古代文化」というシンポジウム開催についての協力を依頼し、つづいて私たちは横根のほうへ向かった。
横根は甲府市の東はずれであったが、あらかじめ備仲さんが送ってくれた甲斐古墳調査会編『甲斐の古墳』をみると、そこがこう描写されている。
大蔵経寺山の西南麓と、八人山の南端を結ぶ線(標高二七○メートル)以北のゆるやかな南面傾斜地が横根桜井地区である。遥かな山の中腹、麓から水平距離にして約二、〇〇〇メートル、比高三〇メートル以上の高所まで全て開墾されて一面のブドウ畑、早春の頃は若い房を護るための防虫袋がブドウ棚に白一色の花を咲かせ、初夏の候には、ブドウの若芽の鮮かな新緑が、見る人の目に染みるのである。その一番高いところには、開拓部落の白い壁と赤い屋根が光り、ブドウ畑の中には、開墾から見離された小さい、縦に細長い黒い森が、強烈なアクセントとなって点在している。
だが、私共のいう横根桜井地区は、こんな美しいブドウ郷の姿ではない。前にも述べたように、この地区には一部に濃密な分布を示す古墳地帯が存在するので、この地域を“墓域”という観念の下に観察したいのである。
おわりにこうあることからもわかるように、この山麓一帯は、横根積石塚古墳群となっていたところであった。そのことが、同『甲斐の古墳』につづけてこう書かれている。
山梨県における積石塚の研究は隣県の長野県大室山古墳群の研究、長原古墳群等が解明されている中にあって、分布、様相、墳丘自体も確認されない空白部分であった。以下に記す横根、桜井、大蔵経寺積石塚群は甲府盆地北辺にかけて集中局部的に分布しており、昭和四七年一〇月より四八年三月にかけて行った調査の際に確認実測したものである。……
甲府市横根古墳群については
横根村ノ山中本ヨリ壱里半許(ばかり)谷下地蔵ト言(いう)石像アル処ニモ石室アリ
と『甲斐国志』に記されているのみで、今回の調査にいたるまでは、横根は全くの空白部分であった。横根古墳群の現存数は四八基で、その内二基は土積で、古墳群中最南端に存在し距離も離れ平地に位置して、他の積石塚が斜面上に位置しておる点より、横根古墳群とは別離される。横根積石塚古墳群は密集して営まれており、その推定数は約一〇〇〇基ないし一四〇〇基を数える。県下においては、大群集墓であったろうことが推測される。
そして同横根積石塚古墳群は、「共通の技術、文化等を持った」「帰化人集団によって築かれた」ものであろうというのであるが、そのことについてはあとでみるとして、それにしてもたいへんな数の古墳群だったもののようである。
「もののようである」というのは、「昭和四七年一〇月より四八年三月にかけて行った」その調査以後はどうなったのか、甲府でのこの日、私がみたところでは、雑木林のなかにわずか数基が認められただけだった。しかも積石が散乱したままで、それもあと一、二年すればみんなどこかへ行ってしまって、その跡もみなブドウ畑になってしまうのではないかと思われた。
そこは山麓というよりは、山腹といったところで、眼下に細長い平野が一望のかたちでみわたされた。細長い平野といったのは、その向こうはまた、富士山頂を背後にした山脈が東西に連なっていたからであるが、真南にみえるその山脈下の集落を指さしながら、丸山さんが私に向かって言った。
「あそこは唐柏(からかしわ)といいましてね、わたしの生家があるところです。あそこには、鋳物師(いもじ)というところもありますよ」
「ほう、唐柏に鋳物師ね。すると、昔は製鉄もおこなわれたところだったかも知れませんね」
私はそんなことを言いながら、手にしていた地図をひろげてみると、なるほどそこに唐柏というところがあった。もちろん丸山さんは、その唐柏の唐がもとは韓(から)だったであろうということから、わざわざ私に向かってそう言ったのである。
天狗山と大宮七社明神
大宮神社と高句麗人
ついで私たちは、こんどは甲府市内に戻るようにして、羽黒の大宮七社明神をたずねた。途中の近くに加牟那(かむな)塚という古墳があったが、同行している備仲臣道氏の『千塚物語』によると、このあたりはもと千塚村となっていたところで、ここには円墳横穴石室の加牟那塚のほか証文塚、薬師塚、お天神塚、子泣塚、若宮塚などなど、たくさんの古墳があったという。
大宮七社明神は、その山頂に甲斐最大の積石塚古墳があるという天狗山の麓にあって、一目みただけで相当に古い、由緒深い神社であろうと思われた。この神社のことについては、いまみた備仲さんの『千塚物語』にくわしく書かれている。かなり長いけれども、重要なところなので、まずそれをみてから、私の考えをのべることにしたい。
甲府市天狗山の山麓に大宮七社明神がある。江戸時代に立てられた石の鳥居を通して天狗山の頂上が見える。境内は松林で、拝殿と神殿はさびれ果てている。その両側に十二個の石祠、神殿裏と石段下に合計六個の巨石がうずくまる象のようにある。
『甲斐国社記寺記』第一巻、千塚八幡の項にこの神社のことが記されている。大宮七社大神、山梨郡羽黒村鎮座、平城天皇の大同二(八〇七)年鎮座、祭礼は九月十五日等、四行あるにすぎない。『西山梨郡志』によれば、祭神は宮比神とある。(「大同二年は寺社の縁起にもっとも縁の多い年」と柳田国男は『日本の伝説』で書いている)
同じ名の神社は西隣の山宮町にもあって、それは大宮農協北の道を北へ入った突当りの台地の南端に鳥居が見える。鳥居をくぐると植林碑、水神の碑、随神門のほかはなにもない。社地は遊園地になっていて、拝殿はなく、公会堂の裏に神殿がある。……
この二つのほか、甲府盆地北西辺の大宮神社は甲府市池田二丁目一五の一七に一ヵ所残っている。千塚から音羽橋で荒川を渡り荒川町に入ると、立本寺の北に、鳥居も扁額もなく、これが大宮神社だとは、裏の畑にいる人に聞いてやっと判った。旧金竹村の氏神だというこの神社の社地からはるか北に羽黒の天狗山が見える。やはり『甲斐国社記寺記』に大宮大明神、巨摩郡金竹村産神鎮座、所祭大宮比女命等とあり、勧請鎮座は年久しくして不詳とあった。
甲府盆地北西辺に現存する大宮神社は以上の三つだけである。『甲斐国社記寺記』の編まれた江戸末期にもすでにそれだけしかなかった。しかし『西山梨郡志』の記述する「村記に云」を見れば、古くは千塚、荒川、上、下飯田にも大宮神社の存在が知れる。かつて甲府盆地北西辺に異状な密度で大宮神社が集中していたことがわかる。それはこの地域に大宮神社信仰集団がまとまって居住していたことを物語ってはいまいか。……
さて大宮神社の神は、実は高句麗系の神なのだ。大宮は、古代朝鮮語で大国あるいは国の中心を意味した。すなわち、それは高句麗人の拓(ひら)いた国の中心に祀(まつ)られたもので、白髭神社、高麗(こ ま)神社に祀られている神と同一の高句麗の祖神であった。埼玉県入間(いるま)郡高麗村大字新堀大宮の高麗神社は高麗若光が祀られている。しかし、これは七一六(霊亀二)年、各地からこの地に移された高句麗人(高麗と高句麗は同じ、後のコーライとは別)の長であった若光を後世祀ったもので、高麗郡開設の当初から祀られていたのは高句麗の祖神であったのだと思う。
五世紀の末、朝鮮半島から甲府盆地北西辺にやってきた高句麗人は、その中心の聖なる山に祖神を祀った。この神が各地の大宮神社の祭神と同じものだったろう。聖なる山が奥つ磐座(いわくら)(山宮)であり、麓の現在大宮七社明神(羽黒)のあたりに中つ磐座(里宮)があり、集落の展開にしたがって田のそばに辺(へ)つ磐座(田宮)が祀られた。それが『西山梨郡志』に、古く大宮神社があったと思われる位置として記されている山宮、羽黒、千塚、荒川、金竹、上、下飯田ではあるまいか。また『西山梨郡志』に羽黒の大宮神社は「中古、千塚より遷社せり」と伝えているのは、千塚の大宮神社の故地に、時の権力者が他の神(八幡神?)を祀る折り羽黒へ合祀させられたものででもあろうかと私は想像している。
いずれにしても神社が今日のような社殿を備えるようになったのは後世のことで、古代は巨木、大石、泉などの大いなる生命力、力の象徴が祭祀の場所であった。壇は築かれていたかもしれないが社殿はなかった。
天狗山山頂の積石塚
詳細であるばかりか、いたるところ達見にみちている。しかし、その備仲さんにしても、さきにみた野口二郎氏の「甲斐の韓人(からびと)」ほどではないとしても、やはり中部武蔵(埼玉県)の高麗郡や白髭神社、高麗神社のことが気になっていたようである。
その白髭神社についてはさきにみたとおりであるが、けれども備仲さんはさすがに、甲斐の高句麗人は、八世紀の「七一六(霊亀二)年、各地からこの地〈武蔵〉に移された高句麗人」ではなく、それ以前からそこには「高句麗の祖神」が祭られていたとして、「五世紀の末、朝鮮半島から甲府盆地北西辺にやってきた高句麗人は」となっているところがおもしろい。たしかに八世紀に開設された高麗郡のそれとは別に、いまは東京都狛江(こまえ)市、調布市ほかとなっている南部武蔵には、すでに五世紀半ばごろから高句麗人が渡来して展開していた。
それは六世紀はじめの築造という狛江の亀塚古墳などの存在によって知ることができるが、しかしながら甲斐の高句麗人は、はたしてその武蔵から来た者たちだったかどうか。もちろんそこからひろがって移って来た者や、あるいはまた、中部武蔵の高麗郡から動いて来た者もあったであろう。
しかしそれよりも私は、甲斐の高句麗系渡来人は、信濃(長野県)に四世紀後半のものという川柳(せんりゆう)将軍塚古墳や、五百基にのぼる大室古墳群などの積石塚古墳をのこしたそれがひろがって南下した者が主流ではなかったかと思う。たとえば、いまみた大宮七社明神のある天狗山の古墳であるが、甲斐古墳調査会編の『甲斐の古墳』にそれがこうある。
羽黒・天狗山山頂古墳(荒木大神古墳)
本墳は、甲府市羽黒町に存する通称お天狗山山頂に位置する、県下最大の大形積石塚である。本墳は他の積石塚と異なり大形なため墳丘の原形をよく保っておるものと考えられる。現存の長径三〇メートル、高さ六メートルを計る円形墳である。石材は、付近よりの転材を用いているものと考えられる。周辺には転石の集積場が数ケ所認められる程石材は豊富な場所である。墳丘周辺には、横穴積石塚群に認められるような列石はない。石室主体部は、発掘を伴わない、現状調査であるので確認することは出来ないが、墳丘中央やや東寄りに、奥壁らしき一枚石が一個認められた。近所の住民よりの話によると数年前に掘られて、刀剣等が出土したとのことであるが確認できない。いずれにせよ、現況よりみるに主体組は盗掘されたものと考えられる。
積石塚は高句麗の墓制
私は、標高四九二・六メートルの天狗山に登って、その山梨「県下最大の大形積石塚」を直接みることはできなかったが、ほかにまた石和(いさわ)町にも天狗山山頂と同じような積石塚古墳があるという。はじめにみた横根積石塚古墳群とともに、いまみた『甲斐の古墳』はこれらの積石塚について、「本墳らが積石塚である点より、特別な一系譜につながる統轄者の古墳で」「帰化人説があり、今日では定説化しつつある」というだけである。
つまり、どこからの「帰化人」、すなわち渡来人であるのかということについてはふれていないが、積石塚という墓制が高句麗に特徴的なものであることは、ひろく知られている常識的のようなものである。森浩一氏の「縄文・弥生・古墳文化と朝鮮」をみると、甲斐におけるその積石塚の系譜がこうのべられている。
これは前にも指摘されていることですが、長野県には積石塚がたくさんあり、文献と対応しても高句麗系の集団が入っていることはまず動かない。しかし高句麗滅亡当時であれば、すでに高句麗そのもので積石塚はほとんどないわけですから、もっと古い時代にやってきた集団であると推定されるのですが、そうすると長野に落着く高句麗系の集団の道筋は、新潟なり石川なりにまず着いて、それから動いてきているのではないかと思われます。
鳥取県のかなり山奥に佐治というところがありますが、室町時代に新しい宗教の霊場にするために手を加えているので、もとの形はわかりにくいのですけれども、そこに積石塚と推定されるものが二つあって、鳥取でも積石塚が海岸地帯にはなくて山奥にある。ちょうど新潟や石川の海岸線に積石塚がなくて、山奥の長野に出てくるのと共通しています。積石塚で研究が進んできたのは、長野県の南の山梨県の南半分の巨摩(こま)郡です。南巨摩・中巨摩・北巨摩で、南から北まで巨摩郡を歩くとだいたい八○キロという広い地域ですが、この巨摩郡でも積石塚が見つかってきています。
これでだいたいはっきりしてきたかと思うが、要するに、天狗山山頂にある山梨「県下最大の大形積石塚」古墳はそのようにして来た高句麗系渡来人集団の一方の首長を葬ったものであり、その山麓にある大宮七社明神は、もとはその首長を祭神として祭ったものにほかならなかったのである。まさに、備仲さんが『千塚物語』に書いていたとおり、「五世紀の末、半島から甲府盆地北西辺にやってきた高句麗人は、その中心の聖なる山に祖神を祀った」それだったのである。
なお、備仲さんは、天狗山山頂の積石塚古墳について、「この塚は古墳ではなく、山岳信仰に関連したものと思っている」と書いているが、これも森浩一氏のあげている鳥取県佐治のそれと同じく、中世あたりに「新しい宗教の霊場にするために手を加えている」ので、そのようなものとなっているのかも知れない。それはともかく、毎年三月二十一日になると、地元の人々によっていまも「天狗山祭り」がおこなわれているという。
駒井から若神子へ
駒井と駒城
私たちは天狗山麓の大宮七社明神から、ついでこんどは、須玉(すだま)町若神子(わかみこ)の正覚寺(しようかくじ)へ向かった。北巨摩郡の地をさらに北上することになり、大宮七社明神のある甲府市羽黒からは、かなりの距離だった。
途中に巨摩郡だった韮崎(にらさき)市があって、そこに「駒井」というところがある。この駒井のことは、「巨摩」ということとともに、今村靹氏の『朝鮮の国名に因める名詞考』にも出ているが、山梨日日新聞社編『山梨百科事典』にこうある。
駒井(こまい)山梨県韮崎市藤井町。佐久甲州街道に沿う。村名は聖徳太子、驪駒(くろこま)に水を飲ませられた清泉が村の西にあると伝え、また上古、高麗人の居所で高麗居(こまい)だという。河間、川間(こま)には関係ないだろうか。延喜式内社当麻戸神社あり、境内の大杉は県の天然記念物である。
駒井右京亮昌直の宅跡もあった。彼は士隊将として騎馬隊を率い、その族は駒井一党といい、古い国人であったといわれる。また光明寺には木曾義昌の人質で、勝頼に殺された者の墓三基ありという。藤井庄五〇〇〇石の中心に位す。
もちろん、「聖徳太子、驪駒(くろこま)に水を飲ませられた」うんぬんとは、後世の付会であるこというまでもないであろう。駒井が高麗居であったであろうことは、駒井右京亮昌直をはじめとする「駒井一党」の成立ちということからしても明らかであるが、これはなにも甲斐とかぎらず、房総(千葉県)成田の「駒井」野(いまは空港用地となってしまっている)などほかにも例がある。
それからまた、駒城(こまき)・熊木・高来などが、元は高麗来であったという例もたくさんある。たとえば能登(石川県)のもと熊木村や、筑前(福岡県)のもと高来寺村(高麗を「こうらい」ともよむところから、高来の字があてられた)などがそれであるが、甲斐にもその駒城村があった。
山梨県の『郷土資料事典』をみると、そのことがこう書かれている。
白州(はくしゆう)町 北巨摩郡。人口約四、七〇〇人、面積一三七・五六。中央本線韮崎駅からバス。
昭和三十年七月、鳳来・菅原・駒城(こまき)の三村と長坂町の一部が合併して町制を施行した。町名は南アルプス山系の花崗岩質の白砂と、町域内を釜無(かまなし)川の支流が網の目のように流れ、州の多いことから、合わせて白州とした。
町域の北と西は長野県に接し、甲斐駒ガ岳(二、九六六m)、鋸山(二、六〇七m)、大岩山(二、三一九m)など、赤石山脈北部の高山がそびえ、これらの高山から東へ釜無川に至る斜面が町域で、大部分が山林で占められる純農村である。
一九五五年の昭和三十年まで、ここには「駒城(こまき)村」があったわけであるが、ここにみられる「甲斐駒ガ岳」の駒も北巨摩郡の巨摩、すなわち高句麗の高麗からきたものであることはいうまでもないであろう。巨摩郡の巨麻(摩)が、「甲斐の黒駒」などという駒(馬)の産地であったところからとする人がいまなおあとを絶たないようであるが、そのことについては、さき(「渡来人の概況」)にみた磯貝正義・飯田文弥氏の『山梨県の歴史』にあるとおりで、念のためここでそれをもう一度みるとこうなっている。
まず高句麗系帰化人がある。ふつう郡名の「巨麻」は駒を多く産するところからきたと説かれてきたが、関晃氏はいわゆる上代仮名づかいの研究成果にもとづき、その成立しがたいことを明らかにし、「高麗」のコマからきたものであることを論証した。
駒城の白州町は須玉町からさらにさかのぼった西北方となっているため、そこまで行ってみることはできなかったが、駒井は須玉町若神子への途中だったので、私は丸山さんの運転するクルマのなかから、目をこらしてあたりを見まわしてみた。しかし当然のこと、いまはどこにでも見られるそんな町並みがひろがっていて、「駒井」というバス停留所が一つ目についただけだった。
新羅三郎の菩提寺
その駒井からしばらく行くと、須玉町若神子となった。左手山麓に山門がそびえ立っていたので、目ざす正覚寺はすぐにわかった。山門への入口となっているこちらの道路脇に「味噌なめ地蔵」というのがあって、その横に「甲斐源氏始祖 新羅三郎義光公御菩提所」とした石碑が建っている。
つまり、そこにある陽谷山(ようこくざん)正覚寺は新羅三郎義光の菩提所であったわけで、それで私たちもたずねて来たのだったが、まず、しずかな山麓の寺でもらい受けた『正覚寺/甲斐源氏始祖新羅三郎義光菩提寺』をみるとこう書かれている。
当山は陽谷山正覚寺と称し、曹洞宗に属し、山梨県北巨摩(きたこま)郡須玉町若神子に位置している。
崇徳天皇の大治二年(一一二七年)甲斐源氏の始祖新羅三郎義光公の菩提をとむらうために、義光の子、刑部三郎義清によって創立された菩提寺で、創立当初は天台宗に属し、所在地は須玉町の北部高根町村山北割朝日山にあったが、永享二年(一四三〇年)甲斐源氏の館あとである現在地に移転し、曹洞宗に改宗した。……
新羅三郎義光は、崇徳天皇の天喜五年(一〇五七年)源頼義の子として生れ、兄は八幡太郎義家である。義光は寛治元年(一〇八七年)にはじまった清原家衡(いえひら)一族討滅の後三年の役に、兄義家を助けて大いに武勇を高めた武将であった。
武田氏と新羅の関係
その新羅三郎義光を始祖とする甲斐源氏とはいうまでもない、甲斐の武田氏である。そして武田氏といえば、いま甲府駅前に銅像のある武田信玄であること、これまたいうまでもないであろうが、その武田氏の始祖である源義光がどうして新羅三郎、というより、古代朝鮮の「新羅」を称するのかということについて、私はかなり以前から関心と興味とを持っていた。
というのは、いまからするともう十七年前になる一九六三年十月号の「ニューコリア」という雑誌に、日本詩人クラブの小西秋雄氏が「玄海灘のかけ橋」という一文を寄せていて、そこにこういうくだりがあったからである。
『続日本紀』によると、元正天皇霊亀二年、高句麗滅亡後四十八年目、今から数えて一二四三年の昔に、武蔵国に高麗郡が置かれ、更に新羅郡を置くとしるされている。甲斐に巨摩郡があり、摂津に百済郡がある。……
新羅郡は現在の東京都練馬区の一部、北多摩郡保谷町、埼玉県大和、志木、朝霞、片山の一帯である。甲斐源氏である武田信玄の祖先は新羅三郎義光で、自ら新羅の後裔(こうえい)を名のり、又高麗郡新羅郡の、古代韓国亡命帰化人の後裔たちは、源氏を中心に関東武士として、日本歴史に花々しい活躍を見せている。
率直にいうと、当時の私はこれを読んで、ちょっとおどろいたのであった。「甲斐源氏である武田信玄の祖先は新羅三郎義光で、自ら新羅の後裔を名のり」とはどういうことか、と思ったのである。
だが、『日本の中の朝鮮文化』としているこの古代遺跡紀行をつづけているうちに、それがだんだんとわかってきた。いうならば、源義光が新羅三郎と称するようになったのは、義光が近江(滋賀県)の大津にある新羅神社で元服をしたから、というのが通説となっていたが、しかし、その神社で元服をしたからというだけではなかった。
読者はここで、さきに遠江(静岡県)の浜松にあった新羅大明神の新羅神社をたずねたときに書いたことを思いだしてもらいたい。そのとき、「なかなかおもしろい問題を提起することになる」と私は書いたが、それは、同じ新羅三郎義光を始祖とする甲斐源氏の武田氏のことが頭にあったからである。これでもう、それもはっきりしたのではないかと思うが、要するに、甲斐源氏の武田氏も、新羅系渡来人のそれから出た者だったのである。
南部(盛岡)の本家・南部町
なお、甲斐には、これまでみてきた塩山の白鬚神社や菅田(かんだ)天神社のように、新羅三郎義光にゆかりの神社のほか、義光それ自身を祭る神社もある。南巨摩郡南部町にある新羅神社がそれで、私は後日、富士川の渓谷沿いにある身延線の内船(うつぶな)駅におりて、南部町を眼下にした山麓にあるその神社をもたずねてみた。
それから、南部町教育委員会に寄って教育長の西川源弘氏らに会い、『南部町誌』などもみせてもらった。すると、こちらは浜松の新羅神社より古く、一一八○年に建立されたというそこの新羅神社について、西川さんはこんなことを言った。
「私は、青森県の八戸にある新羅神社にも行ってみましたが、これはたいへん立派なものでした。それにくらべると、こちらの新羅神社はちっぽけで恥ずかしいようなものですけれども、しかし青森・東北の人たちもわが祖先の、ということで、こちらへよくお参りがありますよ」
とは、どういうことか。私は八戸にも南部藩・盛岡藩をおこした、南部氏の始祖としての新羅三郎義光を祭る新羅神社があることは知っていたが、その南部氏というのは、「南部御牧」のあったこちら南部町からおこっていたのである。甲斐の武田氏と同じく義光から出た者で、高柳光寿・竹内理三編の『日本史辞典』をみるとこうなっている。
南部氏 陸奥の豪族。源義光の五代遠光の子光行が祖。光行は源頼朝の奥州征伐に従って功をあげ、八戸に住して南部を称した。南北朝時代、南朝にくみし、その後一族出身の信直が豊臣秀吉に従って本領安堵。一五九一(天正一九)大崎・葛西の乱の功により加増を得て一〇万石を領し、子利直は九八(慶長三)盛岡城を築いて移り、関ケ原の戦の時徳川家康に属して所領安堵を得た。のち一八○八(文化五)に松前警備のため二〇万石に増封され、戊辰戦争には奥羽越列藩同盟に加わり、一時一三万石に減封された。
「光行は源頼朝の奥州征伐に従って」とはいえ、ここ甲斐南部の地から陸奥までとは、ずいぶん飛躍したものである。ついでに、納富則夫氏の『みそ汁』というのをみると、「南部地方(岩手県)の農家の軒先につるして作る、みそ玉式の古法のみそは、朝鮮から出雲、そして信州から伝わったのであろうといわれている」とあるが、これも新羅源氏の南部氏と関係があるのかどうか、それはよくわからない。
登美と曾根丘陵
登美の百済系渡来人
われわれはこれまで都留や塩山などにおける新羅系、甲府を中心とした高句麗系、さらにまた中世における新羅系の遺跡をみてきたわけであるが、こんどは百済系のそれである。まず、文献によってみると、『日本後紀』の七九九年、延暦十八年条に、「甲斐国の人止弥(とみ)若虫・久信耳鷹長一九〇人の百済系帰化人が改姓を申請し、若虫は石川、鷹長らは姓広石野を賜わっている」と、磯貝正義・飯田文弥氏の『山梨県の歴史』にある。
七九九年といえば、すでにもう平安時代であるが、それまでかれらは「止弥」「久信耳」といった百済的姓をそのままにして、この甲斐の地に居住していたのである。そのような百済系渡来人は、ほかにもまだいて、甲斐国初代の国守であった田辺史広足(たなべのふひと)からしてそれであるが、右の「一九〇人」だけとってみても、これは一村が一家族であったような大家族時代の代表者ということであろうから、その数はけっして少ないものではない。
とすると、これまたその遺跡があちこちになくてはならない。この甲斐をたずねることになったとき、私はたまたま考古学者の森浩一氏に会う機会があって、そのことを言うと、「あそこの三珠町に、百済系の合掌(がつしよう)式古墳がある」とのことだった。その古墳はあとでみるとして、この九月二十日、山梨県農業共済会館で「甲斐の古代文化」というシンポジウムがおこなわれた。
出席者は山梨県考古学協会の飯島進、京都大学の上田正昭、明治大学の大塚初重、地方史研究家の備仲臣道氏らと私で、この席で私はいまみた止弥若虫ら百九十人の改姓のことに言及した。そして、翌二十一日は上田正昭氏と私とが臨地講師の「甲府とその周辺の古代遺跡めぐり」だったが、このとき私は、前日のシンポジウムにおける私の言及を耳にした山梨日日新聞記者の中村高志氏から、北巨摩郡の双葉町に登美(とみ)村というのがあったと教えられた。
双葉町のそこは登美丘陵ともいわれていて、しかも止弥(とみ)若虫らの改姓名であった「石川」を名のる者がひじょうに多い、ともいうのだった。ちょうどさいわい、バスによる私たちの「遺跡めぐり」はさきにみた須玉町若神子の正覚寺から、桑畑の多いその登美丘陵をとおることになった。登美丘陵は甲府盆地の一部を眼下に見わたすところで、山梨県の『郷土資料事典』をみると、そこはいまこうなっている。
双葉町 北巨摩郡。人口約六、○○○人、面積一九・二五。中央本線塩崎駅下車。
韮崎市の東に接する町で、昭和三十年三月、塩崎・登美の二村が合併して町制を施行した。甲府盆地の北西部に位置し、峡北地方と甲府盆地の境にある。甲府盆地に突出して釜無川をのぞむ茅ケ岳の南麓斜面が町域である。
農業が主産業で、畑作が中心となっている。茅ケ岳南麓の登美丘陵はほとんど桑園で占められている。一方、丘陵下の釜無川沿いは、面積は狭いが、地味豊かな水田地帯となっている。……
町内の文化財として、町内岩森にある光照寺薬師堂が国の重要文化財に指定されているほか、平安時代の仁寿元年(八五一)、甲斐守小野貞村が社殿を造営したと伝える古社、船形神社の石鳥居が県の重要文化財に指定されている。
百済系の合掌式古墳
止弥若虫らが居住していたとみられる登美丘陵から、私たちの「遺跡めぐり」のバスは、これもさきにみている甲府市羽黒の大宮七社明神や甲府善光寺などをへて、さいごは三珠町大塚であった。ここもさきに一度、私は備仲さんたちといっしょに、三珠町教育委員会社会教育主事の石原一氏の案内で来てみているが、大塚という地名からもわかるように、曾根丘陵といわれるここは古墳の多いところで、森浩一氏が「百済系の合掌式古墳がある」といったのは、ここにある古墳のことであった。
甲斐古墳調査会編『甲斐の古墳』にも、さきにみている積石塚古墳のこととともに、そのことがこう書かれている。
積石塚が帰化人墳墓であるという問題については、大場磐雄、斎藤忠氏らが著名で、いずれも大陸系帰化人集団との関連を説いている。最近では大塚が、積石塚に関して、帰化人墳墓説の中心的な課題となろうとしている。又、信濃、武蔵の場合は、帰化人集団の生産背景として「牧」をあげているが、甲斐国においても、甲斐の黒駒の存在が知られ、御坂より曾根丘陵一帯はその推定区にあげられていたが、最近三珠町遣跡出土の馬の絵馬のある土師(は じ)片は、ある程度それを立証するものとされよう。今後、横根積石塚を究明していく段階においてこの「牧」との関連は中心課題となるであろう。又、三珠町大塚には合掌石室の存在も認められ、大陸的概相を示す地域である。
何だかちょっとよくわからぬところもあるが、私たちは桑畑となっているその曾根丘陵に点々とひろがっているその古墳の一つ、まだ未発掘だという伊勢塚のうえに登り立ってみたところ、西北の眼下に笛吹川がゆったりと流れ、その向こうはこれまた甲府盆地であった。止弥若虫らが居住したところとみられる登美丘陵もそうだったが、古代のかれらはまず、そのような丘陵をえらんで住みついたものらしい。
一つは、甲府盆地がかつては湖沼だったということを、それは裏づけるものなのかも知れなかったが、伊勢塚古墳からさらに北方に目を転じると、そこには大塚古墳があり、その東は豊富町となっているところの王塚古墳であった。あとで備仲さんが送ってくれた写真をみると、曾根丘陵の古墳としては、その王塚古墳がいちばん大きくて立派だったが、しかしこちら三珠町となっているところにも、狐塚というたいへん意義深い古墳がある。
狐塚古墳出土の古鏡
この狐塚古墳からは、有名な四神四獣鏡や内行花文鏡、鉄製直刀、銅鈴、祝部土器などが出土しているが、これについてはなかなかおもしろいエピソードがある。豊富村教育委員会発行の『郷土散歩』をみると、それはこういうふうである。
大塚村の塩島甚五右衛門は、明治二十六年に、この竪穴(たてあな)式石室をもつ円墳狐塚を、官から払下げを受け、その翌二十七年(一八九四)に開墾したら、土中から赤錆や青錆の直刀や鏡などが出てきた。持ち帰って洗ってみると、鏡はちょうど先程こわした鉄瓶の蓋(ふた)にいいあんばいだったので、それに使っていた。
その後、甚五右衛門は眼を患うようになり難儀していたので、ある時、易者に占ってもらうと、あの鉄瓶の蓋にしてある古鏡の祟(たた)りであると言われ、驚いて早速その蓋はやめにしてしまった。時に市川出身の西山梨郡長の依田孝氏に、その鏡を観てもらうと、「実に世に希なる宝鏡なり」と称し、これは高田村の浅間神社が大昔に大社であった頃、その鳥居原にも宮地があったから、きっと神社の神器にちがいないといわれ、明けて二十八年の正月に、その他の出土品ともまとめて浅間神社に献納したという挿話を添えて、この神社に収まった。
時は流れて、大正十一年(一九二二)、古墳時代の遺物の権威者、後藤守一博士がこの古墳の出土品を調査し、この古鏡は紀元二三八年作の大陸の呉(ご)の国から渡来した「呉赤烏元年銘半円方形帯神獣鏡」として、日本で五番目に古い貴重なものであると折紙がつけられ、俄然学界で有名になり、その価値が認められ、昭和八年七月二十五日に、国の重要美術品に指定され、いま同社境内の保存庫に保管されている。
鏡の直径は一二・五五センチで、半円方形の帯部をめぐる銘文は、九州大学の岡崎敬氏の調査研究によれば、「赤烏元年五月廿五丙午、造作明竟、百凍清銅、服者君侯、宜子孫、寿万年」とあり、その読みは、「赤烏元年五月二十五日丙午の日に、清明な鏡をつくり、銅を百たびきたえる。この鏡を持つものは君侯となり、子孫はよろしく、その歳は万年に及ぶ」ということである。
これは誠に、この辺一帯の文化開発の悠遠さを物語る一つの証左である。
二三八年の作であるから、鏡そのものは三世紀前半の古いものであるが、しかし銅鈴や祝部土器、すなわち朝鮮式土器ともいわれた須恵器が伴出しているところをみると、狐塚古墳自体はそう古いものではなさそうである。
おそらくその神獣鏡は、百済の武寧(ぶねい)王が中国・南朝からの獣帯鏡を持っていたのと同じように、百済から渡来の首長が大事にして持っていた伝世鏡であったにちがいない。それがいつか、その首長のだれかが死んだときいっしょに埋められたものであろうが、そのことはどちらにせよ、「これは誠に、この辺一帯の文化開発の悠遠さを物語る一つの証左である」ことにちがいはない。
高根の青木北遺跡
なお、甲斐では、私が歩いて以上のことを書いたその後、珍しい貴重な遺跡が発見されている。備仲臣道氏が送ってくれた一九八二年七月二十九日付けの山梨日日新聞は、「礎石使った竪穴住居跡/高根の青木北遺跡で全国初の発掘/注目集める渡来人遺構/平安後期」とした見出しのもとに、そのことを次のように報じている。
北巨摩郡高根町村山北割、青木北遺跡から二十八日までに平安時代後期の、礎石を並べた竪穴住居跡が見つかった。竪穴住居から平地式住居に建築様式が転換する時期のものだが、国内ではこれまでに発掘例がなく、奈良国立文化財研究所は「日本の建築史上、きわめて特異な例として非常に貴重だ。朝鮮半島系渡来人の影響と、その時代における新しい建築技術とを考える必要がありそうだ」とみている。今後、古代甲斐の渡来人遺構として注目されそうである。……
奈良国立文化財研究所の宮本長次郎遺構調査室長(建築史)は、特に渡来人の影響を指摘しているが、この時期は新羅三郎義光に始まる甲斐源氏がぼっ興するころにも当たっており、甲斐源氏と渡来人との関係を考えるうえでも今後貴重な資料になりうるもの、という見方もある。……
信 濃
望月の牧と高良社
「帰化人」系氏族集落
信濃(長野県)というと、「牛にひかれて善光寺参り」などといわれた、その善光寺がまず思いうかぶ。『善光寺縁起』をみると、百済から来た本尊の仏像が善光寺に着くくだりがあって、その仏像を背負った男に呼びかけることばに、「信濃はわが有縁の地」というのがあるそうだが、まさにそのとおりで、実をいうと、筆者の私にとってもこの「信濃はわが有縁の地」といっていいところなのである。
というのは、私がいわゆる在日朝鮮人となったのも、この信濃の岡谷(おかや)というところと深くかかわっているからである。そのことについては、のち、国鉄中央線沿線の諏訪(すわ)あたりをみるときにふれるとして、十一月はじめのある日、私は午前十一時四十六分上野発の上信越線で長野へ向かってたった。
車中、例によって、携行している信濃についての資料を再点検してみる。まず、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」であったが、これによるとその「痕跡」としては、諏訪市疱瘡塚(ほうそうづか)古墳、飯田市畔地(あぜち)一号古墳、須坂市上八町鐙塚古墳(あぶみづかこふん)、埴科(はにしな)郡松代町(現・長野市)笹塚古墳といった、四古墳があげられている。
そして、そのいわゆる「帰化人」の居住地としては、「小県(ちいさがた)郡四、筑摩(ちくま)郡一、郡郷不詳七」の計十二ヵ所があげられている。「小県郡四」ということでは、
韓衣(からごろも)裾(すそ)に取りつき泣く子らを置きてぞ来ぬや母(おも)なしにして
という、『万葉集』にある小県郡の他田(おさだの)舎人(とねり)大島の歌が思いだされるが、それからまた、村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷」には長倉神社一があげられている。この長倉神社というのは神社本庁編の『神社名鑑』にものっておらず、どこにあるのかわからないが、どちらにせよ、ここにあげられているそれらは、これからみるように、そのうちのほんの一部のものでしかない。
たとえば、長野県高等学校歴史研究全編『長野県の歴史散歩』をみても、冒頭概説「科野(しなぬ)の国づくり」というところに「信濃国古代史略図」というのがあって、主な古墳や神社などの所在地とともに、「帰化人系氏族集落」というのがある。まず、長野市周辺に四つほどのそれがあって、まわりを式内の神社や頭椎太刀(かぶつちのたち)などを出土した古墳がびっしりと取り囲んでいる。
それから南へ下ると、麻績(おみ)郷に二つ、上田市周辺に二つ、松本市周辺には錦織(にしごり)郷があってここに四つ、さらにまた南へ下った飯田市周辺にも麻績郷があってここにも一つと、頭椎太刀を出土した古墳が四つある。そしてその「科野の国づくり」という概説の文章は、こういうふうになっている。
飛鳥(あすか)より科野(しなぬ)をへて、東国最大の王国毛野(けぬ)を結び、陸奥(みちのく)への開拓幹道が開さくされたのは五世紀中葉である。この道は神坂(みさか)・有賀(あるが)・雨境(あまざかい)・入山(いりやま)などの峠祭祀遺跡を結ぶルートと、科野の二王国を核として新たに帰化人系氏族の定着をみた地域を縫うルートで、銅鐸や稲作の信濃への導入路をもとにしている。
後者の古道をたどると、神坂峠より科野にはいり、飯田市座光寺の麻績(おみ)の里に出る。ここは善光寺仏伝承地で百済(くだら)王族の本多善光(ほんだぜんこう)の生誕地といわれている。塩尻市善知鳥(う と う)峠を越えて松本平(だいら)に出ると、漢代の三山冠に類似した金銅製天冠を出土した松本市浅間(あさま)温泉の桜ケ丘古墳や、同市川辺・水汲(みずくま)の積石塚古墳は、『続日本紀』などにみえる辛犬甘(からいぬかい)氏や須々岐(すすき)氏・田河造(たがわのみやつこ)らの墓であろう。
松本平より刈谷原(かりやはら)峠を越え東筑摩郡四賀(しが)村の錦織(にしごり)郷をへて上田市塩田平に出る。また、錦織に隣接する麻績郷には安坂将軍塚古墳群がある。この安坂氏、田河造、善光寺平南部の村上氏、篠(しの)ノ井(い)氏らは延暦年間(七八二〜八〇五)にようやく改姓が許された高麗(こうらい)の職業工人部の人びとであったといわれる。麻績郷より古峠を越えて善光寺平に出ると、治田(はるた)(秦)神社や、五〇〇基を上まわる積石塚の大室(おおむろ)古墳群や鎧塚(よろいづか)古墳群などがみられる。このような帰化人文化を拠点にして東山道正規ルートの完成をみた。このルートは、科野の弥生以来の南北二大文化圏を結び、しかも古代東国政策への軍事・交通上の基地としての役割をもつことになる。
日本の歴史を、いわゆる大和朝廷中心のそれとしてみる思想をもって書かれたこの一文には、いろいろ訂正されなくてはならぬ部分がかなりあるが、それはこれから実地にみることでただして行くとして、一つだけはここではっきりしておかなくてはならない。それは「ようやく改姓が許された高麗(こうらい)の職業工人部」ということである。
「ようやく」とか「職業工人部」などということにも問題があるが、ここにみられる「高麗(こうらい)」とは、古代朝鮮三国の一国であった高句麗のことを古代日本では高麗(こ ま)といった、その高麗だということである。のち、十世紀以後の朝鮮にできた高麗(こうらい)(コリョ)ではないということである。
佐久の駒形神社
それはそれとして、私は、その『長野県の歴史散歩』にしたがって小諸(こもろ)で下車した。なぜかというと、そこにこう書かれていたからである。
佐久市下塚原の室町末期の一間社流造りの本殿(重文)をもつ駒形(こまがた)神社、望月町牧布施・北御牧村藤沢・小諸城南方駒形坂の各駒形神社は望月牧の境に祀(まつ)ったものともいわれている。また“駒形”は浅科(あさしな)村の室町時代の三間社流造りの本殿(重文)がある八幡社境内神社高良社の“高良”とともに“高麗”の転化したものといわれる。佐久市の三河田大塚古墳(県史跡)のような大円墳のほか、八幡・望月・佐久市平根(ひらね)・小諸市加増(かます)などに積石塚を含んだ小円墳群が蓼科(たてしな)山麓から入山峠に至る東山道にそって、分布することから、七・八世紀には帰化人を部民(べのたみ)とした牧場が盛んに営まれたものであろう。
小諸は、さきにも私はなにかのついでに一、二度来たことがある。別にこれといった用事があったわけではなく、いまは懐古園とよばれている小諸城跡に島崎藤村の記念館があり、藤村の「千曲川旅情の歌」の詩碑があったからである。
小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
…………
暮れ行けば浅間も見えず
歌哀(かな)し佐久の草笛
というのがその詩碑で、こんども「ちょっとあいさつをして――」と思ったが、しかし時間があまりなかった。で、私は駅を出るとすぐタクシーに乗り、「さきにまず、小諸城南方駒形坂の駒形神社へ行ってください」と、いまみた『長野県の歴史散歩』に書いてあるとおりのことを言った。
けれども、「灯台下(もと)暗し」ということか、地元のタクシーであったにもかかわらず、そこはよくわからず、結局、あちらこちらして着いたところは、佐久市下塚原の駒形神社であった。浅間山から流れ出ているという濁川(にごりがわ)に架かった橋が参道となっており、そこからは石段となっている小高い丘の上に本殿がある。
しかしよくみると、本殿と見えたそれは本殿ではなく、重要文化財となっている室町時代にできた一間社流造りの本殿は、その外形の本殿のなかにしまわれていた。あたりには人家もない無人の丘の上で、私はただその辺をうろうろしてみるよりほかなかった。
浅科の八幡神社(高良社)
ついで私は、北佐久郡浅科村の八幡神社へ向かった。「駒形」とともにこれも高句麗の高麗がそれとなったという「高良(こうら)」社をたずねるためだったが、タクシーは千曲(ちくま)川を越えて、取入れのすんだ田んぼのあいだや、紅葉の散りかかる林のあいだの道を走った。
佐久平(だいら)(盆地)の御牧ケ原台地で、東北方に浅間山が見えるかも知れないと振り向いてみたが、まだ「暮れ行けば」とはなっていなかったけれども、そこには雲がかかって「見えず」となっていた。「ここは昔、中山道の八幡宿(やわたじゆく)だったところです」とそう言って、タクシーの運転手はクルマをとめた。
「そうですかね」と私は、それだからといって、なにもクルマをとめることはなかろうと思いながらあたりを見まわしてみると、そこが浅科村蓬田の八幡神社であった。寺院の山門のような楼門が見えて、前のこちらの道路ぎわに「八幡神社」の標柱がたっている。
つまり高良社のある、というよりも元は高麗(高良)神社であった八幡神社は、そこの中山道に面していたわけだったのである。私はさっそく、何百年かはたつと思われる大銀杏(いちよう)が黄色い葉をおとしている参道を入り、楼門をくぐって行ってみると、境内正面の奥に端正なたたずまいの高良社があって、左手に「重要文化財 旧八幡社本殿」とした標柱がたっていた。さいきん出た一志茂樹氏ほかの『長野県の地名』にある同「八幡神社」「高良社」の項をみると、こう書かれている。
八幡神社 古代より東信地方に繁栄していた望月氏が土豪的武人に成長し、祖先神たる高良社に、鎌倉時代より武家に尊崇された八幡神を併祀したものと考えられている(北佐久郡志)。……
高良社 高良富命を祭神としているが、本来は高麗社で、この辺りに定着して牧畜の先がけをした渡来人の社と推定されている(北佐久郡志)。これは三間社、流造の柿葺(こけらぶき)、延徳年代(一四八九〜九二)建立の大部分に、天正年代(一五七三〜九二)の修理の姿をもって現存する。身舎前方の手挟みは室町時代独特のものであり、三斗の斗と肘木のなす曲線、木鼻(きばな)の絵様、虹梁(こうりよう)・海老(え び)虹梁はいずれも室町時代の優品。蟇股は天正の修理の際のもので桃山形式を示す。
これをみてわかることは、現存の高良社本殿の建物は延徳年代につくられて、天正年代に修理されたものであるが、望月氏族の「祖先神たる高良社」そのものは、もっとずっと古くからそこにあって、「御牧七郷の総社」(浅科村勢要覧『浅科』)となっていたということである。それに「鎌倉時代より武家に尊崇された八幡神社が併祀」されて、いつのころかその八幡社のほうが正社となり、高良社は境内社となって今日にいたっているのである。
要するに、元は高麗神社であった高良社は、ここ佐久平の中央に望月の牧という広大な馬の牧場を擁していた望月氏族の祖先神を祭ったものであった。ということは、あとでみるように、その望月氏も古代の信濃にひろく展開していた高句麗系渡来氏族にほかならなかったということである。
善光寺をめぐって
三度目の善光寺
上田で一泊した翌日、私は長野の善光寺へ直行するつもりだったが、さきに、長野市教育委員会をたずねることにした。そして同教委専門主事の関川千代丸氏に会い、三百余ページの単行本となっている『長野市の文化財』をわけてもらい、それから繁華な市街を善光寺めざして歩いた。
中央通りというところに出ると、そこから善光寺までは一直線となっていた。そしてここが長野市のメインストリートでもあって、それからみても、長野市は善光寺の門前町として栄えたものであることがよくわかる。
いうならば、「牛にひかれて善光寺参り」などともいわれた有名な善光寺あってこその長野市だったのである。そのことはいまもあまり変わりなく、前記『長野県の歴史散歩』にも、「長野市は善光寺とともに歩んできた門前町で、現在は人口三〇万の県庁所在地である」として、こういうふうに書かれている。
駅を出ると善光寺本堂を模した駅の建物と、広場中央に善光寺の方角に手を指し伸べている如是姫像(によぜひめぞう)に気づく。善光寺信仰の発展によって信者の善光寺参りが盛行し、街道の辻々に多くの善光寺路の道標が立てられた。丹波(たんば)島の渡し(犀川)を渡り、足取り軽く善光寺への道を急ぐ善男善女の姿を思い浮かべながら、長野市の繁華街中央通りに出る。さらに五分ほど歩いたところに、苅萱(かるかや)上人と石童丸(いしどうまる)ゆかりの苅萱堂がある。むかし辻かごの立ったところでもある。
問屋・商店の立ち並ぶ後町、花街の権堂をあとに坂道の大門町に入る。ここは北国街道善光寺宿で、道の両側に旅籠(はたご)が軒を並べ、横町とともに定期市の立つ商業の中心地でもあった。旭山から善光寺・浅川へ連なる台地は弥生後期箱清水遺跡や多くの古墳が群在している。善光寺の創建は境内から発見された白鳳期の瓦、「扶桑略記(ふそうりやつき)」の記録などから、遅くも奈良時代と考えられる。善光寺信仰は、浄土教の影響や遊行聖人らの活躍もあったが、創建以来、子どもや女性までに開放された寺院として発展してきた。
中世には源頼朝の再建への手厚い保護、北条時頼らの帰依(きえ)も手伝って、武士や豪族にも信仰が広まった。戦国時代にはいると戦乱の嵐は善光寺にも及び、一六世紀中頃の川中島の合戦で本尊は甲斐国武田氏のもとへ、やがて織田・豊臣氏へと渡り、四四年ぶりの一五九八(慶長三)年、善光寺本堂に復帰したといわれる。
「川中島の合戦で本尊は甲斐国武田氏のもとへ」となった結果、そこにも甲府善光寺があることはさきの「甲斐」(山梨県)でみたとおりであるが、ところで、私が長野善光寺をたずねるのは、こんどがはじめてではなく三度目だった。
一度目は長野にある信越放送のためであり、二度目は、京都で出ている雑誌「日本のなかの朝鮮文化」第三十九号(一九七八年九月刊)の「古代信濃と朝鮮をめぐって」という座談会と、同座談会に出席した森浩一氏らとともにした、その「遺跡めぐり」とのためであった。
巨大な伽藍と信者の群れ
つまり、私がこんど三度目に善光寺をたずねることになったのは、この紀行を書くためだったわけであるが、善光寺はいつ来てみてもおどろくのは巨大なその伽藍(がらん)と、そこに吸い寄せられる善男善女の群れである。まず、伽藍についてみると、「善光寺三門」といわれるその山門からして、目をみはらずにはいられない。
国の重要文化財となっているこの山門は、南面して建てられた五間三間の楼門形式であるが、東西三十メートル、南北十三メートル、高さ二十メートルという巨大なものである。しかしそれがそのように巨大であっても、梁間二十三・七メートル、桁行五十二・八メートル、高さ二十七メートルの、国宝の善光寺本堂よりは小さいので、ほどよく調和がとれているぐあいとなっている。
しかもそればかりか、参道を入ると左手には善光寺本坊の一つである大本願という尼寺があり、この辺から山門までの左右一帯は、信者の宿泊所ともなっている、何十とも知れないたくさんの院坊が軒をつらねている。私がこのまえ来たときから知っていたことの一つに、この院坊には「若麻績(わかおみ)」という姓の人が多いということがあった。
これは、「善光寺仏伝承地で、百済王族の本多善光の生誕地といわれている」「飯田市座光寺の麻績(おみ)の里」(『長野県の歴史散歩』)という、その麻績と関係があるのかどうか、それはわからない。わからないが、しかしまったく無関係というわけではなかろう、とそんなことを考えながら歩いていると、すぐ人にぶつかってしまった。
気づいてみるまでもなく、そんな考えごとなどできないほど、参道はどこから来たとも知れない信者の善男善女が群れている。こんどの三度目はとくに多く、その人々に揉(も)まれて歩きながら聞くともなしに聞くと、どういうことでか、「きょうは法主(ほつす)さまがお出ましになって、みんなの頭にお手を……」と言っている。
「へえ、そんなことが――」と思って山門を入ってみると、うしろから大きなカサを差しかけられた「法主さま」らしい法衣の僧侶が、ほかに二、三人の僧をしたがえて出て来ていた。そして参道の片側の石畳にびっしりと坐ったり、腰をかがめたりしている人々の頭に手をさしのべてなでている、と思われたが、しかしよくみると、人があんまり多いので、それらの頭のうえをただ手が、ぱあっ、ぱあっと動いているといった感じである。
それだけでも人々は充分満足したらしく、「きょうは運がよかったねえ」「ほんとうに――」などと言いかわしている。かとみると、ある一団の人々は、ただじっといつまでもその「法主さま」のうしろ姿に、手を合わせていたりしている。
さすがに若い人の姿はあまり見られず、ほとんどが中年以上の男女ばかりだったが、それをみて私は、「うむ、なるほどなあ、すごいものだ」と、いまさらのように思ったものだった。それが宗教、信心というものだ、とも思ったものである。
私は、その人々の群れから離れて、ひとり本堂のまわりをひとめぐりしてみた。本堂の裏手にあると聞いた、善光寺では古くなって使えなくなった仏具をそこで焼くという、駒形神社はどこかさがしてみたが、ちょっと見つかりそうもなかったのでやめた。
秘仏・善光寺本尊
それよりも、そこの巨大な本堂のまわりをめぐりながら、あれほど善男善女の信心をあつめているこの善光寺は、――とそんなことばかり考えていた。日本にはほかにも奈良の東大寺はじめ大寺院がいくらでもあるが、善光寺の建立については、いまなおよくわからぬことが多いとされている。
一つは絶対の秘仏となっているその本尊をだれもみることができない、ということからもきているが、しかし、建立についていまなおよくわからぬことが多いとされていることには、どうも、そこに人工的ななにかが働いている、という気がしないでもない。そこで私もこの項を書くにあたって、いろいろとできるだけ調べてみた。
さいわい、『扶桑略記』やいろいろの「善光寺縁起」など、善光寺に関する古文献は、信濃毎日新聞社編『信濃資料』に網羅(もうら)されているので、便利だった。要するに、結論からいってしまうと、もちろん、それらの文献や考古学的知見なども精密に研究したはずの社団法人長野県史刊行会理事、塚田正朋氏の『長野県の歴史』のそれがもっとも妥当なものではないかと思われた。
塚田氏は、「仏教がいつ信濃に伝えられたかは定かでない。大化以前から信州に定着した帰化人の間に、秘かに信仰される場合があったかも知れない」として、そのことをこう書いている。
善光寺本尊は、鎌倉時代からすでに秘仏とされて実物をみることはできないが、鎌倉以降模造された善光寺仏により、その印相などからみて、本来、阿弥陀仏でなく、むしろ法隆寺の釈迦三尊像などに類するものとみられる。それが阿弥陀如来と信じられ、模造の善光寺仏に阿弥陀三尊の変容がみられるのは、平安時代に盛んとなった浄土思想や阿弥陀信仰の影響と考えられる。
このような善光寺本尊は、おそらく、大化前代から、善光寺平に移されて定着し、その周辺山麓に古墳群を残した帰化人のうち、百済系の人びとによって将来されたものであろう。そして、かれらやその子孫の間で信仰され、当初は「縁起」にいう自宅を仮堂とした“草堂”(本善堂)に安置されていたが、しだいに広く信仰を集め、奈良時代にはいるころには、瓦葺きの本堂が建つようになったのであろう。
ここに問題点があるとすれば、善光寺本尊が「おそらく、大化前代から、善光寺に移されて定着し」というところではないかと思う。しかしそれはおくと、「当初は『縁起』にいう自宅を仮堂とした“草堂”(本善堂)に安置されていたが、しだいに広く信仰を集め」うんぬんは達見ではないかと思う。これはいろいろな徴候からして、おそらくそうであったにちがいなかったと思われる。
そこで思いだされるのは、「浅草観音」として善光寺におとらず有名な武蔵(東京都)の浅草寺である。これについては私は『日本の中の朝鮮文化』(1)「浅草観音と白鬚」の項にかなりくわしく書いているが、浅草寺の本尊も善光寺のそれと同じように、絶対の秘仏とされて、だれもみることのできないものとなっている。
「縁起」によると浅草寺の本尊は、大和(奈良)の檜前(ひのくま)を中心根拠地としていた百済・安耶(あや)系渡来人の漢(あや)氏族から出た檜前浜成・武成兄弟がもたらしたもの、ということになっている。それがどういうもので、そしてどうなったかは、鳥居竜蔵氏の『武蔵野及其周囲』にもあるが、野田宇太郎氏の「浅草観音」をみると、同氏は鳥居氏のそれをも引きながら考えをすすめ、「江戸の華(はな)として歴史に誇る下町文化は、小さな(一寸八分の)仏像をもたらした帰化人によって仏教の民間信仰が盛んになった浅草文化に根差している」として、こういうふうに書いている。
朝鮮からの帰化人の子孫であった檜前(ひのくま)(浜成・武成)は、武蔵野のはて、太平洋に面した大きな河口付近に放牧に適した原野をみつけ、大和高市(たけち)の里を出て祖先伝来の馬牧(まき)をはじめることになった。その浅草は全くの楽園のようなところで、やろうと思えばいつでも海のすなどりさえ出来た。この檜前が大和から大切にして武蔵に持参したのは、一体の小さな朝鮮渡来の仏像であった。ようやく武蔵野のほとりにも帰化人の住民も多くなると共に仏教が民間信仰としてひろまり、個人的信仰として檜前の家の内に祀(まつ)る仏像を一目おがみたいという者が多くなった。その結果檜前は馬牧の傍(かたわ)らにささやかながら仏堂を造って、人々の信仰を許さねばならなかったが、浜成も武成も世を去ったあと、浅草海浜の馬牧と共に、観音菩薩の信仰はいよいよひろまり、檜前の家系はやがて馬牧よりも、寺をまもることを正業とするようになった。
わたくしの浅草の巷塵(こうじん)の中でいつも心に描くイリュージョンの筋書きを簡単に示すと、以上のようなことになる。浅草寺境内には檜前浜成と武成及び土師臣中知(土師真中知(はじのまなかち)とも呼ぶ)の三人の霊を祀るいわゆる三社が浅草神社としてのこっているが、わたくしは社前に佇(た)つとき、そこは江戸名物の三社祭りの本場というよりも、幻想の霧にとざされた大陸文化の霊所だと思って、頭をさげるならわしである。
おそらくは長野善光寺も、「縁起」(金沢文庫本)にいう「善光、私宅に安置して恭敬礼拝」していたその本尊が、塚田氏のいうように、いまみた浅草寺と同じく、「しだいに広く信仰を集め」たことでできたものではなかったであろうか。私はそう考えながら善光寺から出たが、それにしてもおもしろいのは、浅草寺が太平洋に面した平野だったのに対して、善光寺は日本の屋根といわれる長野の山中であったということである。
森将軍塚古墳まで
「おどろくべき望郷の声」
私は、善光寺を出て門前の通りを歩きながら、さて、どちらへ向かったものか、と迷っていた。信濃は、そのように行ってみたいところが多い。たとえば、いまは故人となっている長野県在住の考古学者、藤森栄一氏の『峠と路』「信州の帰化人」をみるだけでもこうある。
現在、県内にある上伊那箕輪町南小河内上の平発掘の釈迦誕生仏、東筑波田村盛泉寺(旧水沢山若沢寺)、長野市若槻吉の山千寺本尊、上高井都住寺押羽観音などの白鳳形式の小鋳銅仏像はいくた変遷はへてきているだろうが、七世紀に帰化人たちがたずさえてきた文化と崇仏の道をしのばせるに十分なものがある。
八世紀の国教として仏教が重んぜられたより先、特別の氏族、多くは大陸半島民たちによってもたらされた新興宗教であれば、飯田市元善光寺、塩尻市北小野浄土寺、明科(あけしな)廃寺跡、須坂本願寺跡と白鳳形式古瓦の出土地を追ってみても、七世紀、大陸半島の帰化人文化が非常な濃度で善光寺平へ流入してきたらしいことは、明らかである。
帰化した大陸半島人は多く、一般農民というよりは高度の文化技術民であった。長野市若槻の吉にも、大室(おおむろ)ほどではないが、そうした部民たちの墓らしい群集墳があって、その数は百に近い。面白いことに、吉の古墳群の一つ、三号墳と十五号墳からは線描きの壁画らしいものがそれぞれ知られているし、篠ノ井囲内(かこうち)古墳からも発見されている。奈良・明日香村の高松塚壁画とくらべれば、人物画といっても彩色もない線画で、おとなの落書き程度のものである。しかし、九州の装飾古墳も壁画古墳もこの落書き古墳も、技術の高低こそあれ、来世に何かをいおうと志したやるせない漂泊民のメモランダムにはかわりなく、はっきり大陸文化の影響である。
高松塚ほどでなくても、たくさんの北信濃の帰化人文化古墳群の中からは、いつかきっと、おどろくべきその望郷の声が聞かれることであろう。
「いつかきっと、おどろくべきその望郷の声が聞かれることであろう」とはおもしろい、示唆に富んだことばであるが、しかし私は、それらの古墳をいちいち全部みて歩くわけにはゆかない。なぜかというと、藤森氏がここにあげている古墳は、北信濃におけるそれとしても、ほんの一部のものにすぎないからである。
山千寺の観音像
私はいま長野市に来ているのであるから、同市「若槻吉の山千寺本尊」や「古墳群」ぐらいは行ってみることができないでもなかったが、やはりそれも省略することにした。もっとも、若槻吉の山千寺と、「七世紀に帰化人たちがたずさえてきた」その本尊の銅像観音菩薩立像とについては、『長野市の文化財』にぽちゃっとした可愛い姿の写真とともに、その解説があってこうなっている。
長野市から上水内郡牟礼村に通ずる旧北国街道の田子の北端から、西北に山道を登ったところが山千寺部落である。部落の上手に観音堂があるが、これは戸隠(とがくし)山顕光寺の末寺であった山千寺が維新後廃滅し、その後に建てられたものである。……
銅像観音菩薩立像は、ことに体驅の比率の点が異様で、顔が躰に比して大きく、手及び足の大きいことも注意される。写実をはなれた面貌、口元に微笑をたたえたところ、衣文の褶(ひだ)などに飛鳥仏の面影を残している。総じて作の見事さはむろんのこと、県内所在の最古の像として最も珍重すべきものである。像高二九・七センチメートル。
さまざまな渡来人遺跡
なお、念のため長野市周辺の地図をみると、市の北方となっている「牟礼村」は旧北国街道の宿場となっていたところで、その牟礼のさきには、信濃と密接だった高句麗の高麗(こ ま)を思わせる「古間」というところもある。古間はいまは「ふるま」といっているようであるが、牟礼とは丹羽基二氏の『地名』に、「山の意。『日本書紀』では、朝鮮の山名をムレと呼んでいる」とある。 地図をみると、そればかりか、長野市の東北方には須坂市があって、ここには、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」に出ている積石塚の上八町鐙塚(あぶみづか)古墳があり、いまは長野市となっている松代(まつしろ)町には同じ笹塚古墳がある。後者はさきに来たとき、大室古墳群や川柳(せんりゆう)将軍塚古墳とともにみているのでいいとしても、須坂市上八町の鐙塚は行ってみたいものの一つだった。
それからまた、長野市の西方には鬼無里(きなさ)村というおもしろい名の村がある。そしてここには、東(ひがし)京、西(にし)京などといったいわくありげな地名も残っていて、室町様式の一間社流造りの本殿をもった白髭神社がある。
白髭神社といえば、長野県史編纂委員をしている桐原健氏の「積石塚・古牧・渡来氏族」をみると、その冒頭がこうなっている。
東山道の一国である信濃の古代にあって、渡来氏族との係り合いを示す文献は『続日本紀』にある延暦八年五月、『日本後紀』の延暦一六年三月、同一八年一二月の三条と、『新撰姓氏録』山城国諸蕃の一条のみ。彼らの故国はそれに依ると高句麗一国だけだが、〈『日本書紀』〉天智五年の「是冬、百済の男女二千余人を東国に遷す」を用いれば百済が加わり、県内に一四社ある白髭神社からすれば、新羅からの渡来人も考えなければならない。
ここにいう『続日本紀』などの文献や、百済のそれについてはあとでみることになるが、「県内に一四社ある白髭神社からすれば、新羅からの渡来人も考えなければならない」というのがここでは重要で、信濃にはその新羅からの渡来人遺跡も少なくない。更埴(こうしよく)市には新羅・加耶系渡来の秦氏族による治田(はるた)(秦)神社があり、東筑摩郡波田(はた)町には波多(はた)神社があるというぐあいであるが、それよりも私がいまここで思いおこすのは、一九六九年二月九日号の「朝日ジャーナル」にみられた池田弥三郎氏の「三ムイの双璧」という一文である。
これは、「長野県阿南(あなん)町の雪祭といったのでは、どうもその接続に妥当感がない。わたしにはどうしても、『信州新野(にいの)の雪祭』である」といい、「雪祭は、中心は田楽だが、わたしはひそかに日本三大盆踊りに数えている中にはいっている」という、その祭のグラビア写真を紹介したもので、それのさいごのほうにこういうことが書かれている。
カットの写真は「こま」と呼ばれる動物で〈その怪異な形のものがのっている〉、これを八幡さまがしずめるのである。こまは、馬のようだが、あるいは、高麗(こ ま)は朝鮮だから、大陸にいると空想した猛獣であって、それを日本の神がしずめるという意味のようだ。
しかし、私にいわせるならば、それが「日本の神」であることにちがいはないけれども、それはあとからそこへ入って来た新羅系渡来の者と、先住の高句麗系の者との葛藤(かつとう)から生じたものではなかったかと思われる。その阿南町にも白髭神社があるのかどうかは知らないが、しかしなくても、そこの「八幡さま」が宇佐八幡宮の流れを汲むものであったとすれば、田村円澄氏の『古代朝鮮仏教と日本仏教』にもあるように、それも新羅系のものであるから同じということになる。
森将軍塚古墳
鬼無里(きなさ)の白髭神社のことから、遠い下伊那郡の阿南町まで行ってしまったが、結局、私はその鬼無里も須坂もみな省略することにした。そして私は国鉄の長野駅から、上田のほうへ戻るようにした三駅ほどさきの、屋代(やしろ)へ向かって行った。善光寺平の西端、更埴市となっているところである。
昼すぎになっていたので、そろそろ腹がすいてきていたが、しかしそれはもう少しあと、ということにして、私は屋代駅前に一台あったタクシーに乗り、さきにまず、更埴市教育委員会をたずねた。そして、発掘報告書である『長野県 森将軍塚古墳』などを手に入れ、森大穴山にあるというその古墳をめざした。
タクシーは屋代駅へ戻るようなぐあいになったが、途中、神社がみえたので、よくみるとそれが須々岐水(すすきみず)神社だった。この須々岐水神社については、あとで松本市の須々岐水(すすきがわ)の神社をたずねたとき少しくわしくみることになるが、そこから森大穴山はすぐのところだった。
しかし、山は採石工事がおこなわれていて、しかも前夜、こちらでは相当に雨が降ったらしく、そのため出入りのトラックによって道がどろどろになっている。
「これじゃ、とても登れませんや」と、車輪を空まわりさせていたタクシーの運転手が言う。どこまでか、登れるだけ登ってあとは歩くつもりだったが、とてもだめで、あきらめるよりほかなかった。
仕方がない。とりあえず、前記『長野県の歴史散歩』にある「森将軍塚古墳」の項によってそれをみるよりほかない。
屋代駅のプラットホームにおり立ち北側をみると、山肌が削平され掘割になっている丘陵に気づく。一重(ひとえ)山である。その頂は戦国時代の村上氏に関係する山城(屋代城跡)であり、空壕と郭(くるわ)が今も部分的に残存している。ここから雑木林の細い道をたどってしばらく行くと、森将軍塚古墳(国史跡)の前方部に出る。
本古墳は有明山から北に張り出した標高四七〇メートルの尾根上にあり、丘陵切断利用の全長一〇〇メートルを呈する前方後円墳である。墳丘には三重の埴輪列がめぐり、後円部中央に石垣積み墓壙がみられ、その中央部に竪穴石室が構築され、内部は全面塗朱されていた。古墳はすでに盗掘にあっていたが、舶載三角縁神獣鏡片・硬玉製勾玉・碧玉製管玉および鉄剣・鉄鏃などが若干出土し、本墳の被葬者が大和朝廷と強力な政治的関係を有していたことが理解されたのである。この結果、森将軍塚古墳は四世紀末頃に築造された県下最大の前方後円墳として注目されるに至った。
「本墳の被葬者が大和朝廷と強力な政治的関係を有していたことが理解されたのである」とはどういうことか、よくわからないけれども、ここで注目しなくてはならないのは、あとでみる篠ノ井の川柳将軍塚古墳とともに、これらの古墳はどちらも「四世紀末頃に築造された」ものである、ということである。
そしてもう一つは、どういうわけか、ここにはそのことが省かれているけれども、更埴市教育委員会編『長野県 森将軍塚古墳』に何枚ものせられているその写真をみても明らかなように、これは典型的な高句麗様式の積石塚古墳である、ということである。篠ノ井の川柳将軍塚古墳も、それとまったく同じものなのである。
治田から篠ノ井へ
治田(秦)神社
更埴市森大穴山の森将軍塚古墳から、私はまた長野市へ戻って篠ノ井へまわることにしていたが、そのまえに同更埴市稲荷山にある治田神社をたずねることにした。タクシーは市内を抜けて、小高い丘陵地にいたったかとみると、
「これが治田神社です」と運転手は、クルマをとめて左手を指さした。
「ああ、そうか」と、私はすぐおりて行った。森のなかのそれはかなり大きな神社だったが、しかし無人で、更埴市内を眼下にする境内は、一面びっしりと枯れ葉が散りしいていた。
私はその枯れ葉をみて、さきに行ってみている、松本市西方となっている東筑摩郡波田町の波多神社を思いだした。というのは、その波多神社も無人で、境内は枯れ葉がびっしりとなっていたからであるが、私が信濃でみた二つのハタ(波多・治田=秦)神社がいずれもそんなたたずまいであるのがおもしろかった。
波田町はもと波多村であり、治田神社のある更埴市のそこも、「神祇全書」『神名帳考證』には、「治田神社 山崎村二里、治田村に有り」とあるように、ここも元は治田村であった。どちらも、新羅・加耶系渡来人である秦氏族が居住したところで、二つの神社はそれぞれ、その地にいた首長を祭ったものであることはいうまでもないであろう。
治田神社は、さきにみた『長野県の歴史散歩』にもみられるように、いまでは「治田(はるた)(秦)神社」と書かれたり、またそうよばれているようであるが、『延喜式』には「治田神社(はたのかみやしろ)」とあって、これも元はハタ(秦)だったのである。なおまた、神社本庁編『神社名鑑』をみると、その主祭神は治田大神となっている。
高句麗系の大室古墳群
ついで私は、国鉄の篠ノ井線がそこから出ている、いまは長野市となっている篠ノ井に向かった。私はそこから松本行の列車に乗るつもりでもあったが、さきにもふれたように篠ノ井のそこには森将軍塚古墳と同時代の川柳将軍塚古墳があるばかりか、これからみるように、「篠ノ井」ということ自体、今日に生きのこっている遺跡の一つなのである。
善光寺平を一望のもとにする篠ノ井石川の湯ノ入山頂にある川柳将軍塚古墳や、それから近くの長野市松代町にある大室古墳群はさきに来たときみている。まず、金環、管玉、馬具、須恵器などを出土した大室古墳群については、末永雅雄監修『日本古代遺跡便覧』にこう書かれている。
信越線篠ノ井駅から須坂方面へ向かう長野電鉄河東線は、千曲川に沿ってその東岸を走る。松代を通過すると間もなく車窓の右手、すなわち東側に奇妙(きみよう)山および尼厳(あまかざり)山の山麓地帯が展開する。約五〇〇基に達する積石塚の群集は、金井山駅より大室駅に達する東西二・五キロの丘陵尾根上と山麓傾斜面に分布し、大室駅の南東約一キロに大室谷支群が、南西一・五キロに北谷支群がある。これら二つの谷を挟む三支脈尾根上にも古墳群がみとめられる。……
石室の構造や副葬品の内容から大室古墳群は六世紀前葉から、七世紀終末まで築造が続き、埋葬は八世紀代までおこなわれた。古墳がもっとも集中している大室谷と北谷支群は、数群以上の小単位集墳から成立している。この単位古墳群は偶然にも現在の地籍区分と対応しており、墳墓地域に古墳が築造される最小の背後集団の規模を示しているようである。さらに重要なことは、この単位古墳群の中に数基ずつ合掌型石室が存在していることである。大室谷支群における五単位古墳群がほぼ同時代形成だとすれば、背後に五つの古墳群を生む同族集団の共存が想定される。しかも、各集団の中に合掌型石室を営んだ帰化族が包括されていた事実は、六、七世紀代の東国古代の社会構成を考究するうえでの重要な問題点となろう。
さいごは、なにやら持ってまわったような書き方で、ちょっとよくわからぬところもあるが、要するにはっきりといってしまえば、「各集団の中に合掌型石室を営んだ帰化族が包括されていた」などといったものではない。各群集墳自体、大室古墳群全体が高句麗系の典型的な積石塚である以上、それを営んだ者みなすべてが「帰化族」、すなわち高句麗系の渡来氏族にほかならなかったのである。
このこと、それら積石塚古墳が典型的な高句麗のそれであるということについては、あとの安坂将軍塚古墳で少しくわしくみることになるはずである。――ところで、いまこう書いて気がついたけれども、信濃にはどういうわけか、なになに「将軍塚」古墳というのが多い。さきにみた更埴市の森将軍塚古墳はもちろんのこと、同市教育委員会編『更埴市の文化財』(一)をみると、同市にはほかにもまだ倉科将軍塚古墳、土口将軍塚古墳、有明山将軍塚古墳があるといったぐあいである。
四世紀末の川柳将軍塚古墳
篠ノ井石川の湯ノ入山頂にある、川柳(せんりゆう)将軍塚古墳もそれである。これについては、さきに森将軍塚古墳まで行ったとき『長野県の歴史散歩』を引いたが、その森将軍塚古墳のことにつづけて、そこにこう書かれている。
本古墳〈森将軍塚〉に匹敵する古墳は、千曲川を隔(へだ)てた対岸の長野市篠ノ井石川にある。四世紀末に比定される川柳将軍塚古墳(県史跡)がそれで、千曲川左岸一帯の主座としてその威容を誇っている。
それからまた、長野市教育委員会編『長野市の文化財』をみると、篠ノ井の川柳将軍塚古墳からの出土品のことが書かれていて、それはこういうふうである。
川柳将軍塚は、寛政一二年(一八○○)に下石川の農民によって、天井石を川の橋に利用するためとの理由で発掘され、おびただしい出土品を見たとの記録が『信濃奇勝録』にある。それによると鏡二七面、銅鏃(どうぞく)一七本、筒形銅器二個、金銀環七個、車輪石一個、櫛形石製品二個、小玉(臼)五合、小玉三合、玉類一合、勾玉三個であるという。このうち鏡一〇面、小石玉六八○個、櫛形石製品等は、当時松代藩で預り、明治五年(一八七二)廃藩により松代藩より上石川の布制(ふせ)神社に戻した。その一括資料が、社宝として保管されて来た(一部を欠く)。この間の問題については、森本六爾氏の『川柳将軍塚の研究』にくわしい。
異体字銘内行花文鏡といわれる鏡など、それが二十七面も出土したとはたいへんなもので、それらの出土品も出土品であるが、しかしここでもっとも重要なことは、その川柳将軍塚古墳がさきにみた森将軍塚古墳とともに、「四世紀末に比定される」信濃最古の古墳だということである。このことは、信濃の古代を解明するうえで大きな要素の一つとなる。
信濃における高句麗
高句麗人と「篠ノ井」姓
篠ノ井駅は、国鉄篠ノ井線の発着駅としては意外にもひなびた駅で、私は駅舎にかかっている木板に書かれた「篠ノ井駅」という、その「篠ノ井」の文字を見つめて、しばらくそこに立ちつくしたものだった。「よくもこれまで――」と、私は思ったのである。
その「篠ノ井」とはいったいどういうことか。まず、信濃毎日新聞社編『新しなの地名考』をみるとこうなっている。
市村は北国街道の渡し場だが、松本方面から善光寺平に通じる北国西街道と合する所を篠ノ井追分といった。篠ノ井という地名は古い。「まわりにシノの生えている井」というほどの意だろうが、平安時代のはじめ、延暦十八年(七九九)姓を与えられた高句麗(こうくり)の帰化人のなかに、篠ノ井という姓を与えられたものがある。この地に住んでいて、地名を姓として与えられたのだろう。
「地名はその地の歴史の化石である」ということばがあったかと思うが、では、「篠ノ井」という「姓を与えられた高句麗の帰化人」とは、いったいどういうものであったか。
われわれはここでようやく、これまでみてきた信濃における高句麗系渡来人のそれ、すなわち古代信濃におけるそれがどういうものであったか、ということの核心に近づいたようである。そのためにはさきにまず、一つのかなり長い引用をしなくてはならない。土屋弼太郎氏の『近世信濃文化史』で、これの第二章「風土と住民」というところをみると、そこに「帰化人」という項があってこう書かれている。
わが信濃の帰化人は、いつの時代、どこにというようなことははっきりしないが、しかし記録や史蹟などによって推定し得るものも少なくはない。その史蹟の著しいものに埴科北部・上高井南部一帯にわたる積石塚古墳群がある。『信濃二千六百年史』で栗岩氏は、
「積石塚とは封土の代りに石塊を用いて高く築き上げた塚のことであって、かつて幼少の頃、自分の郷里なる長峯(下(しも)水内(みのち)郡)古墳群に於いてその存在を奇観視したことがあったが、明治末年頃師であった鳥居博士から鴨緑江畔通化県潤溝方面の高句麗の古都一帯の古墳が皆積石塚であることを聞いた時に、彼等の郷里にも三韓中の最奥地方の文化が流れているのを聯想(れんそう)して奇異の感に打たれたこともあった。ところが五年程前、高井・埴科方面の貫通調査を始めた時に、埴科の北部から高井南部地方へかけて山上山下に夥(おびただ)しく存在する古墳が、悉(ことごと)く積石塚であったのには一驚を喫せざるを得なかった。……南北四里内外、埴科・高井両郡にわたって、実に一千箇に近いものを数え得るのである。殊にその中央部にあたる埴科郡北端の大室聚落(しゆうらく)の如きは現在百戸内外の聚落地籍内に二百六十内外の存在を数えるのである」
と述べているが、この積石塚の分布は南は小県、北は下高井郡の瑞穂におよび、さらに西は上(かみ)水内(みのち)郡の旭山・髻山から下水内郡の長峯丘陵に及んでいる。これらについては記録には何も伝えられていないから分明を欠くが、相当多数の帰化人のおったことだけは否定することはできない。
ここにみられる「埴科・高井両郡」および「上水内郡」「下水内郡」「小県」郡とは、いまは長野市、飯山市、須坂市、中野市、更埴市、上田市などとなっているところである。土屋弼太郎氏は、考古学的事実からこんどは文献のそれへと移って、さらにつづけて書いている。
史上に散見する信濃の帰化人に関するものを拾って見ると、次のようなものがある。
一、続日本紀 延暦八年
五月庚午 信濃国筑摩郡の人、外少初位後部牛養、無位宗守豊人等に姓田河造を賜う。
二、日本後紀 延暦十六年
三月癸卯 信濃国の人外従八位下前部綱麻呂に姓安坂を賜う。
三、日本後紀 延暦十八年
十二月甲戌 又信濃国の人外従六位下卦婁真老・後部黒足・前部黒麻呂・前部佐根人・下部奈弖(なて)麻呂・前部秋足・小県郡の人上部豊人・下部文代・高麗家継・高麗継楯・前部貞麻呂・上部色布知(しこふち)等言う。己等の先は高麗人なり。小治田(おはりだ)・飛鳥の二朝廷の時節に帰化来朝す。それより以還、累世平民にして未だ本号を改めず。伏して望むらくは去る天平勝宝九歳四月四日の勅に依って、大姓に改めんことをと。真老等に姓須々岐を、黒足等に姓豊岡を、黒麻呂に姓村上を、秋足等に姓篠ノ井を、豊人等に姓玉川を、文代等に姓清岡を、家継等に姓御井を、貞麻呂に姓朝治を、色布知に姓玉井を賜う。
ここに見えているのはいずれも帰化の高麗人で、上部・下部・前部・後部等は皆高麗の官名でそれを姓にしていたらしい。……そしてこれらの願い人は単に前出の十二人のみと見るべきでなく、それぞれ部落または氏を代表したものであることは、何々等に何の姓を賜うとあることによって明らかである。しかのみならず、これらはいずれも名族で、その存在の明記されたものであるが、このほかにまったく記録にあらわれない下層民の多かったことはいうまでもない。
前部秋足らの居住地
さて、われわれは右のこれを読んで、どういうことが考えられるであろうか。ちなみにいうと、ここにみられる「一、続日本紀 延暦八年」とは西暦七八九年であり、「二、日本後紀 延暦十六年」は七九七年であり、「三、日本後紀 延暦十八年」は七九九年である。
まず、これでわかったことは、私がそこに来ていた「篠ノ井」は、高句麗から渡来していた前部秋足らの改姓名であり、その居住地であったということである。『新しなの地名考』には「『まわりにシノの生えている井』というほどの意だろうが」とあるけれども、その地名がさきだったか、改姓名がさきだったかはわからない。
それはどちらにせよ、この「篠ノ井」は、高句麗からの渡来人であった前部秋足らと密接な関係にあった地であった。したがって、そこ、またはその近くにある川柳将軍塚古墳や森将軍塚古墳などは、そのかれらによって営まれたものだったのである。そうしてその古墳は、かれらが代をへるごとに、さらに周辺の大室古墳群などへとひろがって行ったのである。
こう書くと、『日本後紀』ではかれらは「己等の先は高麗人なり。小治田・飛鳥の二朝廷の時節に帰化来朝す」とあるのに矛盾するではないか、という向きがあるかも知れない。つまり、川柳将軍塚や森将軍塚古墳はどちらも四世紀末の築造であるのに、――というわけであろうが、しかし、『日本後紀』のそれは、「帰化」などという『日本書紀』流のことばがあることからもわかるように、それが書かれた段階(『日本後紀』が成ったのは九世紀の八四〇年)で造作されたものだったはずである。
かれらがその「時節に帰化来朝」したという「小治田・飛鳥の二朝廷」とは、推古帝や皇極帝がそこにいたという「小墾田(おはりだ)宮」ということからきたことばで、そのときはもう七世紀に入っているのである。もしそうだとすれば、古墳時代の盛期はすでにおわっているばかりか、信濃における高句麗系渡来人によるものであることをだれもが認めている「六世紀前葉から」(末永雅雄監修『日本古代遺跡便覧』)のものとみられる大室古墳群も、存在しなかったことになる。しかも、あとでみる高句麗の前部綱麻呂だった安坂氏の安坂将軍塚古墳群の第一、二号墳は、古墳時代中期(五世紀)のものなのである。
それから次に注目されるのは、「ここに見えているのはいずれも帰化の高麗人で、上部・下部・前部・後部等は皆高麗の官名でそれを姓にしていたらしい」とあることである。考えてみると、これはたいへん重要な意味を持っていることだといわなくてはならない。
卦婁真老と須々岐氏
ここには須々岐氏となった卦婁真老(けるのまおい)等の「卦婁」のことが抜けているが、これについては、森浩一氏の「古墳文化における日本と朝鮮」をみると、いまみた『日本後紀』などの記事を引いてこうのべている。
この記事から見ますと、長野県には平安時代になっても、たくさんの高句麗系の人々たちが居住していたことがわかります。ここで興味があるのは最初に出てくる卦婁についてです。『魏志』東夷伝に出てくるのですが、高句麗の支配階級を構成している集団が五族あるなかの卦婁(部)と同じ発音なのです。この卦婁というのは三世紀段階では五族のうちの最後に書かれているのですが、この卦婁から高句麗の国王が出る有力集団であったらしい。さらに『新唐書』になると、高句麗の集団のなかに後部と前部もでています。
そうすると、平安時代に長野県に居住していた高句麗系の豪族の一人卦婁という人は、古く三世紀の『魏志』に名前が出てくる高句麗の支配層ですが、この人の渡来はずっと古いのか、それとも朝鮮の各地を転々として、長野県に渡来したのが新しいのか、どちらかが考えられますが、それは何とも言えません。そのことは考古学的状況できめるべきだろうと思います。また、延暦十八年に改姓の要求をした卦婁はその後、須々岐(すずき)という名前をもらいます。ところが松本市には薄(すすき)町があって、須々岐水(すすきがわ)神社が鎮座し、卦婁の集団の居住地がほぼその辺だろうとわかります。考古学的には、松本市には積石塚がいくらも存在しています。
亡国・高句麗が生きていた
松本市の薄町にある須々岐水神社はあとでみることになるが、ついでに森浩一氏のそれをもう少し引くと、森氏は「古代信濃と朝鮮をめぐって」という座談会で、筆者の私とこういうやりとりをしている。ちょっと重複もあり、長くもあるが、重要なところなのであえて引くことにしたい。
森 もう一つは渡来集団の文献のことですが、たしか長野県の場合は四つか五つの文献しかないわけですが、卦婁・後部・前部・下部とかいうものがあったということは……。
金 信濃にそういう高句麗の官職名が八世紀の終わりまでそのまま残っていたということは、高句麗そのものがそれまで、ここには生き残っていたということですね。
森 実はわたしはずっとこの文献を読み落していて、こういう文献を自分の古墳研究に結び合わせて理解出来るようになったのは、自分の三十歳代後半くらいからですが、この文献をはじめて読んだときは恐ろしくなったわけです。
なぜかと言うと、七九九年の延暦十八年に、甲斐の百済系の人たち百九十人がまず姓を改めることを願い、それに続いて信濃の人たちのことが出てくる。そうすると逆にこれを読んでいったら、七九九年までは日本列島のなかで、卦婁とか後部とかまるで『魏志』の高句麗の条に出てくるような人名、あるいは『新唐書』の高句麗のところに出てくる人名、それも下っぱじゃないんですね。向こうではトップクラスの支配階級です。七九九年と言えば、もう奈良の都は終わっているわけです。
金 高句麗も、朝鮮ではとっくに亡びちゃっている。
森 だからいままでのように簡単に、推古であるとか、天智の頃に「帰化人」が来て全部帰化し終わったというようなことはないわけですよ。来ているけれども、少し強く言えば高句麗人として七九九年まではここにいるという理解も出来るわけです。
金 そう、そう。それが大事なところですね。朝鮮ではなくなった高句麗が、ここにはまだそのままの形で残っていた。しかもそれは代表的な氏族だけで、そのほかの者は氷山の下になっている。
森 大変なことですよ。だから七九九年までは百済の人が甲斐にいるわけですね。そうすると、従来のような史観では、これは解けないのです。そういう意味で信濃の文献というのはひじょうに重要なもので、ある意味では秦氏や漢(あや)氏に関する文献よりももっとなまなましいと思う。秦氏や漢氏に関する文献はかなり説話化していて、それだけに実感がともなわない。少なくとも延暦十八年の記事は一片のごまかしもないと思います。これに対してはコメントをつけずに、まずじっと読んでみたらいいわけですね。恐ろしい文献です。それもそれぞれ向こうでの名族である支配者クラスの人々がやって来て、すでに国もないはずなのに、ここには堂々とその名前が残っているわけですからね。
金 甲斐の百済もそうですが、その百済についで高句麗が亡びてなくなったのは六六八年ですから、考えてみるとまったくおどろくべきことです。
森浩一氏は、さきにみた土屋弼太郎氏が引いている『日本後紀』などの「文献をはじめて読んだときは恐ろしくなったわけです」といい、さらにまた、「これに対してはコメントをつけずに、まずじっと読んでみたらいいわけですね。恐ろしい文献です」といっているが、何で、どうしてそれがそんなに「恐ろしい」のであろうか。要するに、信濃では高句麗からの渡来人が、七九九年の平安時代のはじめまで、「卦婁」「上部・下部・前部・後部は皆高麗の官名でそれを姓にしていたらしい」ということがおどろきだったのである。
ということは、ことばをかえていえば、朝鮮における高句麗はとうに亡び去っていたにもかかわらず、それがこの信濃ではまだそのままの形で生き残っていたことが、それによってはっきりとわかるからだったのである。かれらがそれまで「卦婁」「上部・下部・前部・後部」などといった高句麗の官職名を姓にしていたということは、そのような社会組織と秩序とが、ここではそのまま生きていたということにほかならない。
さらにまたことばをかえていうならば、当時の、それまでの信濃は、朝鮮では亡び去った「高句麗国」にほかならなかったのである。これまでみてきた信濃における積石塚古墳の分布を思いおこしてもらいたいと思うが、それはいまの長野市、松本市、上田市にまでずっとひろがっている。これらの地は、いまも長野県の中心部となっていることはいうまでもないであろう。
すると、このことは大和を中心とした日本古代国家が、全日本の地を完全に統一しえたのはいったいいつだったか、という問題をも提起することになる。これまでの日本史像とはまったくちがうそういうことがあったので、森氏にはそれが「恐ろしい文献」とみえたのである。しかも、信濃では積石塚古墳という考古的事実と、その文献とが一致しているのでなおさらだったというわけである。
私は篠ノ井駅から松本行の列車に乗り、麻績(おみ)村・坂井村へ向かって行った。もう夕方近くなっていたので、その二村をたずねてからということになると、この夜は松本泊まりとなるよりほかなかった。
麻績・坂井村にて
味気ない新駅名
麻績(おみ)村というところは、近年までそこを走る国鉄篠ノ井線の駅名も麻績となっていたが、それがいまでは聖高原(ひじりこうげん)という、何とも味気ないものとなっている。「旅の手帖」一九八○年の臨時増刊「さわやか信州」をみると、麻績村とその駅名とのことがこうある。
青柳宿のつぎは麻績宿。飛鳥時代、高麗からの帰化人がこの地に定住し、麻をつむぐ技術を伝えたところから、この地名が生まれたという。昔なつかしい「麻績」の駅名もいまは「聖高原」に変わっている。聖高原を新別荘地として売り出すために、村議会が多数決で駅名を変更した。「なにしろ反対したのは共産党議員一人だけだから、どうしようもないネ」と、昔の駅名をなつかしむ古老は嘆いていた。
それが「帰化人」といえるものであったかどうかはともかくとして、ここにみられる「高麗」とは、これまでみてきた高句麗のことであることはいうまでもない。なおまた、信濃毎日新聞社編『新しなの地名考』をみると、「最も古くから残る郷名」として、麻績のことがこう書かれている。
『延喜式』『和名抄』等の中の信濃の郷名中にも、麻績は伊那郡と更級郡にあり、ともに「乎美(おみ)」と訓じている。なお、ここは麻績の駅の置かれたところで、古代東山道の要路に当たっていた。また、伊勢皇大神宮内宮の御厨(みくりや)が置かれたりして、古代文献の上で、しばしば歴史上に出てくる。保元四年の『兵範記』によれば、平正弘領になっていたこともわかり、筑摩郡の郷村中では最も古くから正史にのっている郷村名である。
荒れはてた麻績神社
そのような麻績の聖高原駅へおりてみると、まず目についたのは、麻績村・聖高原開発公社というものの手になる「聖高原観光案内図」という大きな立看板だった。いったいこんなところにどんな観光地があるのかとその前に立ってみると、重要文化財=薬師如来、麻績宿跡、麻績神社、麻績城主墓などというのがある。
どういう城主だったか知らないけれども、その墓までが観光対象になるのかと思ったものであるが、いずれにせよ、そのような「観光開発」が由緒深い歴史の地をだめにしているのかと思うと、そんな「観光」ということとはうらはらの暗い気分になった。
私は駅前に一台あったタクシーで、いまみた「聖高原観光案内図」にも出ている、麻績神社をたずねてみた。その名からして、この神社は「麻をつむぐ技術を伝えた」者たちの祖神を祭ったものではなかったかと思われたからであるが、しかしこの神社もいまは荒れたままとなっていて、もはや余命いくばくもない、といったふうだった。
安坂積石塚古墳群
ついでこんどはタクシーを、麻績村のとなりとなっている、坂井村へ向かって走らせた。ここも古代は麻績郷であり、江戸時代までは麻績組となっていた坂井村は、一志茂樹氏ほかの『長野県の地名』「坂井村」の項をみるとこうなっている。
東筑摩郡の北端に位置する。南西に四阿屋(あずまや)山(一三八七メートル)、北東に冠着(かむりき)山(一二五二・二メートル)、東に大林(おおばやし)山(一三三〇メートル)に囲まれた山間の村で、麻績(おみ)川の上流である安坂(あざか)川と永井(ながい)川の流域に沿い、谷は西方に開けて広い平地をもっている。北は埴科(はにしな)郡戸倉町、東は更級(さらしな)郡上山田町・上田市、南は小県(ちいさがた)郡青木村・東筑摩郡本城村、西は麻績村に接す。……
開発の歴史は古く、高麗からの帰化人の定着地であり、特有の積石古墳が安坂集落を中心に残っている。その他古墳は七世紀頃までのものを含め、永井集落の山崎・山秋にも残る。……
明治八年(一八七五)旧松本藩領(享保十年以後幕府領)麻績組の中の安坂・永井の二村が合併して坂井村と名付けられた。同三五年、国鉄篠ノ井線が通じた。
坂井村ではまず、教育委員会をたずねて、同教委事務局の小布施啓二氏から、『長野県東筑摩郡坂井村安坂積石塚の調査』という報告書をもらい受けた。この『――調査』報告書は(一)(二)にわかれていて、(一)の執筆者は大場磐雄・原嘉藤・寺村光晴・桐原健の四氏であり、(二)は大場磐雄・石井昌国・一志茂樹の三氏となっている。
その報告書についてはあとでみるとして、私はさきに安坂将軍塚古墳ともいわれる、安坂積石塚古墳群そのものからみることにした。「安坂」とはもちろん、さきにみた高句麗の前部綱麻呂が、延暦十六年の七九七年以後、安坂氏となったことからきたものであることはいうまでもない。
安坂将軍塚古墳群は、安坂中村の東山とよばれる山腹にあるとのことだったが、しかしそこまで行ってみると、樹林におおわれた山のどこにあるのかよくわからなかったので、そこの古墳全部を歩いてみることはできなかった。そのうちの山麓にあった第四号墳をみただけで引きあげるよりほかなかったが、いまさっきみた『長野県の地名』にある「安坂古墳群」の項をみると、それはこういうふうである。
麻績盆地東部の坂井村の中で、南の修那羅(すなら)峠(安坂峠)へ至る谷口の安坂中村から東山の南斜面中腹にかけ、かつて十数基の積石塚古墳群が存在していた。現在知られているものは四基である。
一号墳・二号墳は麓から一五〇メートルの高所にある山腹に築かれた積石方墳で、昭和三七年(一九六二)の調査では竪穴式石室を内蔵し、一号墳では二室が並列してあった。石室は既に開口してあったが、一号墳の第二石室から剣二、鉾(ほこ)一、直刀一、金工具のささげ二、砥石(といし)一を発見した。四号墳は山麓にある一辺一五メートルの古墳で、横穴石室をもつ。明治三〇年代に発掘された四号方墳からは直刀・玉類・金環・馬具・須恵器が出土している。築造年代については一号墳が五世紀中葉、四号墳が七世紀代と推定されている。
さきにわれわれは「四世紀末に築造された」という更埴市の森将軍塚古墳や、篠ノ井の川柳将軍塚古墳をみているが、ここでもやはり重要なのは、「一号墳が五世紀中葉」に築造されたということである。それが古墳時代中期の五世紀中葉に築造されたということは、少なくとも五世紀はじめごろまでには、安坂氏族の祖となった高句麗人がこの地に来ていたということにほかならなかった。
高句麗との関係
朝鮮で高句麗がほろびるのは七世紀中葉の六六八年であるから、その二百数十年もまえすでにかれらはこの地に渡来していたことになるが、それはそれとして、その一号墳が五世紀中葉のものであるということは、ほかにもまた大きな問題を解明することになった。いうところの積石塚古墳と、高句麗との関係についてである。
坂井村教育委員会でもらい受けた『長野県東筑摩郡坂井村安坂積石塚の調査』報告書をみると、そのなかで大場磐雄氏は「築造年代と被葬者」につき、「同じ積石塚で、本墳と同じ鉾と〓(やりがんな)を出土した須坂市の鎧塚は、伴出品に碧玉製石釧や、方格規矩鏡及び貝釧(かいくしろ)等の古式遺品を出土しているので、一応中葉以前と比定されたが、その点から見ると本墳〈安坂将軍塚〉は中期の中葉か、その直後に置かれて然るべきであろう」として、その積石塚古墳と高句麗とのことをこう書いている。
ここで当然読者は被葬者の問題に想到されるに相違ない。殊にこの地は日本後紀桓武天皇延暦十六年の条に、高句麗からの帰化人に賜姓された安坂氏の居住地とせられており、更に彼等は推古・舒明両期の頃に渡来帰化した人々であると記載されているから、その人々の居住地において、高句麗特有の積石塚が行われたとするならば、文献と考古学資料とが吻合(ふんごう)して、頗(すこぶ)る明快に解決されたといって差支えあるまい。しかしこの問題については更に信濃国全体、否日本の全体に亘(わた)って積石塚の性格を再検討する必要がある。ある学者は積石塚と帰化人(高句麗人)との関連に疑問を持っており、積石塚の発生を別の方面から説こうとしている。その一つの反証として、高句麗人が積石塚を盛んに営造したのは通溝居住時代で、後の平壌に移った頃は衰微した土塚盛行期に入っており、信濃国の積石塚の築造が、古墳時代の後期が主で、平壌時代に入ってからであるから、そこに齟齬(そご)があるとするのである。自分もその点について一応の疑問をもっていた。然るに前記の須坂市鎧塚や、今回の将軍塚が発掘調査の結果、共に五世紀にまで遡ることが判明して、彼らの通溝占居時代と年代的に一致を示したことは、この反証に対する反証ともなるであろう。……
私は最後に言いたい。日本における積石塚の問題は他日別に考慮すべきであるが、信濃国安坂村における限りは、前に考察した通り、高句麗人の移住と堅く結びついていると信ずる。今回の調査でその関係が日本後紀にいうより更に古い頃から開始され、そしてその子孫は二世紀余りも因習を守って積石塚を営造して来た。その最初の主が永い眠りにつき、いつまでも子孫によって仰ぎいつかれた奥津城こそ、東山の山頂近くの将軍塚に他ならないのである、と。
これで、坂井村の安坂将軍塚古墳はひととおりみたことになるが、なお、実をいうと、私は坂井村のそこへ来てみるまでは、「修那羅の石仏」ということで有名な修那羅峠が別名を安坂峠ということ、つまり、修那羅は坂井村のその安坂から近いことを知らなかったのだった。で、私はついでにその修那羅峠にも行ってみたかったが、しかしもう日暮れで時間がなかった。
修那羅は金官国か
その修那羅峠の「修那羅」ということについては、さきにも引いた「古代信濃と朝鮮をめぐって」という座談会で、出席者の一人であった飯島一彦氏がたいへんおもしろい説を紹介している。これはあとでみる「辛犬(からいぬ)郷」とも関連するので、それをここに紹介しておくことにする。
飯島 上田市と松本市を結ぶ線上に、石仏群で有名な修那羅峠があります。古くは須那羅とも書かれました。早稲田大学古美術研究会の報告では、『日本書紀』中の素那羅の人々が定着した地だといい、石田肇氏はこの説を更に進めて“須那羅は(朝鮮語)Soi=nara”で“金の国”つまり金官国のことで、現在の朝鮮半島南部の地にあった国だとしています。その金官国の人々が継体朝から推古朝頃に渡来して、信濃のこの地に定着し故国の名を伝承したのが、修那羅峠の起源だといっているようです。
私も以前から、その「修那羅」という地名が何となく気になっていたものであるが、もしそうだとすれば、金官国は金官加羅国ともいった加羅(加耶)のことであるから、これは近くの松本市なども古代はそれだった「辛犬郷」とも関係があったのではなかったかと思われる。
その辛犬郷のことについては明日みるとして、私は坂井村の安坂から麻績の聖高原駅に戻り、松本へ向かって行った。松本では、ここも古代は辛犬郷のうちだった本郷村で、いまは松本市となっている浅間(あさま)温泉で泊まることにしたが、この浅間温泉もかつては辛犬郷の、辛犬ということと関係の深い「犬飼湯(いぬかいのゆ)」といったものであった。
桜ケ丘古墳の天冠
錦織(服)郷
翌朝、その「犬飼湯」であった浅間温泉の宿で目をさました私は、前記『長野県の歴史散歩』をとりだし、きょうこれから歩くことになっている「松本と安曇(あずみ)野(の)」のくだりを読み返してみると、そこに「麻績の宿」という項があって、前日みた安坂将軍塚古墳のことなどとともに、こう書かれているのが目についた。
東山道ぞいに麻績(おみ)郷南に接する錦織(にしごり)郷は、帰化人系製織工人部の集落と推定され、東山道の分岐点でもある。麻績郷と同様に弥生時代の遺構が非常に少なく、須恵器窯が突如出現したりする。東山道は、この錦織郷の中心定額山錦織寺より古峠(ことうげ)を越え、麻績郷を縦断して宮本神明宮(麻績村宮本)付近の東山道麻績駅跡をへて、定額山安養寺(篠ノ井線冠着(かむりき)駅の東)、さらに冠着山を越えて善光寺平に出る。宮本神明宮は麻績御厨(みくりや)八カ条(村)の鎮護社として嘉承年間に設置された。御厨の範囲は鎌倉初期では、犀川(さいかわ)辺の生坂村式内社日置(ひき)神社一帯に及ぶとされる。なお年貢には信濃布・棗(なつめ)などのほかに鮭・筋子がある。
これからみる松本の『松本市史』に、「錦服は錦織駅と同地たるは勿論にて、且(かつ)松本が古来錦服郷たる事、不確実ながら所々の文書にあり」とあり、さらにまた、「生坂地方は古(いにしえ)の日置なり、日置は百済族なり」とあるので、ついでにその日置神社のことまでみたが、ここにみられる錦織郷の一部はのち錦部村となった。そしてその錦部村はいま合併して四賀村と変わっている。
桜ケ丘古墳の出土品
できたら、私はその四賀村の錦織(服)郷跡などもたずねてみたかったが、しかしそれまでしていてはきりがなかった。私は浅間温泉の宿でよんでもらったタクシーに乗り、そのまま松本市の教育委員会をたずねることにした。
これまでをみてもわかるように、私はどこへ行ってもまずその地の教育委員会をたずねてみることにしているが、きょうのこのばあいは、はじめから目的がはっきりしていた。いまみた『長野県の歴史散歩』にこう書かれていたからである。
天慶(てんぎよう)の頃(一〇世紀前半)豪族犬甘(いぬかい)氏によって発見され、江戸時代には松本藩の御殿湯となった浅間温泉は、明治二〇年代から昭和初年にかけて南安曇(あずみ)郡安曇村に全国的に有名な稲核風穴(いねこきふうけつ)(夏期低温の風を吹きだす洞穴で蚕種の孵化(ふか)抑制に利用した)が発見されたのを契機に、全国蚕種業者の基地としてその発展をみた。また、温泉街東南には、金銅製天冠(県宝)の出土をみた桜ケ丘古墳がある。五世紀末期の帰化人系古墳と推定され、その頃、大和朝廷と結ぶ有力豪族の存在が考えられる。円墳の墳丘は現在あらかた破壊されているが、出土品は松本市役所本郷支所に所蔵されている。
つまり、私はその松本市役所本郷支所に所蔵されているという、桜ケ丘古墳出土の金銅製天冠をみせてもらおうと考えたのである。で、同教委社会教育課の神沢昌二郎、大日向栄一氏らに会ってそのことをたのんだところ、何と、その金銅製天冠の所蔵されている本郷支所は、私がいまそこから来た浅間温泉にあるというのだった。
浅間温泉の桜ケ丘古墳から出土したそれが、その地の本郷支所にあるというのはもっともなことだった。しかし、私はその浅間温泉の地がかつては本郷村で、のち松本市に合併となったことを、それまでは知らなかったのである。
「前後の別ありしのみ」
いま来たそこへ引き返すよりほかなかったが、せっかくそこまで来たついでにというか、私は神沢氏たちにたのんで、古い『松本市史』をみせてもらうことにした。すると、そこに「第三節 帰化氏族」という項があって、こう書かれているのが目をひいた。
須々岐・豊岡・村上 ……上記、須々岐は里山辺(地名として薄(すすき)、氏として鈴木)、豊岡は寿村にあり、安曇郡に村上郷あれば、村上は同郡なるか。
錦織と辛犬養(からいぬかい) 是(これ)二氏の事は前章部族の項に述べたり。錦織は百済人、辛犬は不明なるも、辛とは帰化人を云う。
沙田と島 沙田はマスタと訓ず。島立(しまたち)村に沙田神社あり、百済意保尼王(オホニオウ)の後なりと伝えらる。附近に大庭あり。又島立は島館にして、原名は島なり、島は高麗族なり。
日置と高 生坂地方は古の日置なり、日置は百済族なり。高は麻績地方にあり、是亦(これまた)高麗人なり。
百瀬と波多 百瀬は地名として寿村にあり、姓氏としては東筑中最も多し、百済の転字なりとの説あり。波多は百済の帰化族なり、波多村に百瀬姓多し。
以上の彼等は今より千二、三百年前の移住帰化人なり。併(しかし)ながら大きく云えば、其(その)当時先住の土着日本人は歴史以前の古き移住民族の裔にして、唯(ただ)前後の別ありしのみなり。此(この)新らしき移住者は先住氏族に比し、文化の程度高く、地方開発に資したること多からん。
金銅製天冠の形状
「前後の別ありしのみ」というあとのコメントも重要でおもしろいが、それはおいて、私はいまそこからきた浅間温泉に引き返した。そして松本市役所本郷支所をたずね、そこの本郷公民館の主事柳沢忠博氏に会ったところ、柳沢さんは私のことを知ってくれていたということもあって、県宝の金銅製天冠をこころよくみせてくれたばかりではない。ほかの刀剣などとともに、その金銅製天冠が出土した桜ケ丘古墳の詳細な発掘調査報告書となっている、その古墳や出土遺物を来てみたという三笠宮崇仁題簽の『信濃浅間古墳』や、青楽繁夫氏の『松本市桜ケ丘古墳出土金銅製天冠の修復処置』などまでもらい受けることができた。
白い箱のなかに大事にしまわれている金銅製天冠をみたときは、五世紀の半ばころ、信濃のここにそんな天冠を用いていた「王者」がいたとはいったいどういうことであろうか、と思ったものであるが、さきに、『松本市桜ケ丘古墳出土金銅製天冠の修復処置』によってその「形状」をみると、それはこういうものであった。
厚さ約一ミリの銅板を切り抜いて造り、鍍金を施したものである。冠帯と同一銅板から成る立挙(たてあげ)を中央に有する逆T字形が基本で、左右に同形の立挙を作って冠帯の裏から鋲留(びようど)めしてある。
さらに細部を見ると冠帯は、現在長二三センチ、端末の幅約四センチ、中央立挙へ向かうほど緩やかな山形の隆起を見せ、その接触部で幅四・五センチとなっている。中央立挙は長さ一八・七センチ、基部の幅八・四センチ、上端に行くに従ってゆるやかな脹(ふくら)みを描きつつ次第に幅を減じる。上端は中央と左右の三支に分れた花形装飾を呈するが、中央のものは折損し、また左右のものも上方に向かうにしたがい半円を描いていると思われるが、その大部分が折損している。……
これらの周縁にすべて二条の毛彫りの並行線と、その間に波状文と珠文を配した単調な文様をいずれも浅く刻んでいる。冠帯左側裏面には竪櫛、右方立挙裏面には平織の布帛版片が錆で付着している。
天冠を用した王者は
さて、では、このような金銅製天冠を用いていた「王者」はいったいどこから来た、どういう者であったろうか。それについてはまず、『信濃浅間古墳』のなかにある大場磐雄氏執筆の「被葬者の問題」をみると、大場氏はさきの安坂将軍塚古墳でみたと同じ高句麗と積石塚との関係をくり返しのべて、そのことをこう書いている。
然(しか)らば、本郷村および松本地区のそれはどうであろうか。この問題については既に一志氏が触れておられ、倭名鈔にいう辛犬郷の位置と三代実録にみえる辛犬甘(からいぬかい)氏の記事を勘案して、本郷村の積石地域が旧辛犬郷に相当し、これを残した人は辛犬甘氏一族であろうとせられたのである。
ここにいう「一志氏が既に触れておられ」とあるそれは、一志茂樹氏の長い論文「信濃上代の一有力氏族」のことである。一志氏はこのなかの「辛犬郷」の項で、「倭名類聚鈔は信濃国筑摩郡の郷村としての左の六郷をあげている」として、それをこうのべている。
ここで問題としたいのはそれらのなかの辛犬郷の存在であるが、この郷は云うまでもなく、帰化人である(恐らく高麗人)辛犬甘氏の定着蕃衍(はんえん)によって建郷された郷である。
さきにみた『松本市史』「帰化氏族」では、「錦織は百済人、辛犬は不明なるも辛とは帰化人を云う」とあったが、一志氏はそれを「(恐らく高麗人)」としている。ところが、一志氏のこの論文をずっと読みすすめてみると、「故堀内千万蔵氏は松本市史上巻(昭和八年十月刊)に次の如く述べている」として、それをこう引用している。
「浅間温泉一名犬養の湯と云う。武家時代、信濃源氏中、犬甘氏あり。小笠原氏重臣に犬飼氏あり。島内村は古来犬飼八ケ村と云う。いずれも上代の犬養に発源せるものならん。
辛犬は加羅の犬養の略称にて、帰化人たることはすでに之を述べたり。島内村は古来犬飼八ケ村と称されたれば、辛犬の本郷ならん」
つまり、これによると、「辛犬は加羅の犬養の略称」であるという。そうなるとここにいう犬甘氏は、さきにみた「修那羅峠の起源」ともすんなり結びつくことになるが、私も『日本書紀』天武四年条にある「曾爾連韓犬(そねのむらじからいぬ)」などの存在からして、辛犬郷の辛も韓(から)、すなわち加羅(加耶)からきたものではなかったかと思う。
犬甘・田河・須々岐
辛犬甘氏族はどこから
のちには犬飼(いぬかい)八ヵ村ともなった辛犬(からいぬ)郷の辛犬甘(からいぬかい)氏族が南部朝鮮の加羅(加耶)から来たものか、またはこれも、これまでみてきた高句麗からのそれであるか、ほんとうはよくわからないといったほうがよいかも知れない。それはどちらにせよ、犬甘、犬飼、犬養ともなったその辛犬甘氏族が古代朝鮮のそこから渡来したものであったということは、まちがいないところである。
そうだとすると、ここで問題となるのは、その辛犬甘氏族がどこから来たものかということより、そのかれらが定着した辛犬郷とはどういうもので、どういうところであったか、ということでなくてはならない。一志茂樹氏ほかの『長野県の地名』をみると、それがこう書かれている。
辛犬郷
「和名抄」高山寺本・流布本ともに「辛犬」と記し、「加良以奴」と訓じているので、「からいぬ」といっていたことは動かない。ただし、実際には「辛犬甘」郷であったと考えられている(大日本地名辞書、信濃地名考、東筑摩郡・松本市・塩尻市誌)。犬甘は、犬養、犬飼とも書き、辛(から)がついているので渡来人の人々を擁していた犬甘氏によって成立した郷と推定される。
「三代実録」仁和元年(八八五)四月の項に信濃国筑摩郡の人「辛犬甘秋子」が放火され、家人を焼殺されたと官に向かって愁訴した記事があるが、これが辛犬郷の文献上の初見である。それより約一〇〇年前の「続日本紀」延暦八年(七八九)五月に「信濃ノ国筑摩郡ノ人外少初位下後部ノ牛養、无位宗守豊人等ニ賜二フ姓ヲ田河ノ造ト一」とみえるが、この「田河」は、筑摩郡南部に田川として現存するので、前述の犬甘氏は、この「後部牛養」とともに〈朝鮮〉半島より渡来した部民を擁して国府のあった筑摩郡の地に定着したものと想像せられる。
この郷の範囲は、現松本市街地の北半から東部、すなわち旧松本市・本郷村・岡田村の一帯が最初の本拠地と推定され、のち西部に拡大し、旧島内村地区を開発するようになったので、ここに犬飼八ヵ村(小宮・高松・青島・下村・町村・南中村・北中村・北方村)ができ、近世犬飼島とよばれるようになった(東筑摩郡・松本市・塩尻市誌)。郷の中心は、現在の松本市大村辺りに比定され、古代東山道は、ここを通過し錦服(にしごり)郷を経て小県郡に向かっている。
ただしくは、辛犬甘氏族のかれらが「〈朝鮮〉半島より渡来した」ときよりずっとのちになってできる「国府のあった筑摩郡の地に定着したもの」ではなく、かれらがその地に定着して辛犬郷をつくっていたので、そこに国府ができたといわなくてはならないが、いずれにせよ、一口に辛犬郷といっても、それは実に広範な地域を占めていたものだったのである。要するに、かんたんにいうと、いまの松本市とその周辺は、みな辛犬郷だったところなのである。
してみると、さきにみた桜ケ丘古墳出土の金銅製天冠は、一志茂樹氏のいうように、その辛犬郷にいた辛犬甘氏の一族のものであったろう、ということもよくわかる気がする。
犬甘城跡に登る
そうであるから、いまの松本市は「辛犬(からいぬ)市」となってもよかったのではないかとさえ思われるが、それはおいて、では「犬飼湯」といった浅間温泉街の桜ケ丘古墳のほかに、いまの松本市には辛犬甘氏族の遺跡はないであろうか。いかに時代がたっているとはいえ、それがないはずはない。
あれこれ調べてみるまでもなく、案外、手近なところにあった。これまでは気がつかなかったが、前記『長野県の歴史散歩』に、「松本の史跡」としてそれがこうある。
市街地北西に、豪族犬甘(いぬかい)氏の犬甘城跡のある城山公園の丘陵が広がる。北アルプス連峰と松本平扇状地を一望におさめる公園には、郷土の生んだ文豪窪田空穂(うつぼ)、吉江孤雁(こがん)らの文学碑が建つ。また東南山麓には“東洋のマタハリ”と呼ばれた川島芳子の墓のある正鱗寺、藩主水野忠直の時代に起こった百姓一揆“加助騒動”の犠牲者を葬る貞享(じようきよう)義民塚、貞観(じようがん)風の名残りをもつ平安末期の木造十一面観音立像(県宝)で知られる放光寺などがある。
松本で城といえば、まず、国宝となっている松本城であるが、そのほかにも、もっと歴史の深い犬甘城跡など(ほかにも埴原(はにわら)城跡)があったのである。私はさっそく、桜ケ丘古墳出土の金銅製天冠をみせてもらった松本市本郷公民館前に待たせてあったタクシーで、こんどはその犬甘城跡へ向かって行った。
タクシーは奈良井川という川をわたり、間もなくその奈良井川と梓(あずさ)川とを見おろす丘陵の坂を登ったかとみると、そこが犬甘城跡の城山公園だった。もちろん、いまは公園となってしまっているので、かつての犬甘城跡のおもかげはもうほとんどなくなっていた。
しかしながら、そこに立ってみると、いま私がそこからやってきた、かつては「犬飼湯」だった浅間温泉など、松本平(だいら)を一望のもとにすることができる立地で、いかにも古代のそんな城郭があったところと思われた。ある時代、辛犬甘氏族の首長はそこに城を構えて、かれらのテリトリーであった辛犬郷をへいげいしていたのである。
だが、それは上代から中世前期ごろまでのことであった。一志茂樹氏の「犬甘氏について」という副題をもつ「信濃上代の一有力氏族」によると、犬甘氏は「飛鳥時代をさかのぼるころ信濃に定着し、松本市の近くに辛犬郷を建郷していた氏族である」として、かれらのその後のことがこう書かれている。
犬甘氏(辛犬甘氏と同じ)はその後土着の国衙(こくが)の要人として勢を張り、村井氏を南に、細萱氏を北に、その他多くの分系により、中世前期を通じて、松本平における肥沃な水田地帯を占有し、牧場の利益を確保し、信州における有力な氏人として栄えるに至ったのであるが、小笠原氏が信濃守護として松本に入るようになってから、漸次勢力を失ってこれに仕うるに至り、ついに元和三年小笠原氏に従って信濃を去った。
「小笠原氏に従って信濃を去った」というが、それはもちろん支配の側のほんの一部であって、上代からふえつづけていたはずの、その族人のすべてではなかったはずである。その族人の多くはのちのちまで松本平のここにのこって今日の長野県人となっているのである、――とそんなことを考えながら、私は犬甘城跡の城山公園をあとにした。
田川と田河氏族
そこまで来たついでに、「百姓一揆“加助騒動”の犠牲者を葬る貞享義民塚」にも立ち寄り、その義民たちにも敬意を表したいと思ったのだったが、それはまたの機会に、ということにして、私は奈良井川を南へ向かって行った。そして奈良井川がそのさきからは薄(すすき)川となり、田川ともなってわかれるので、そのどちらの川筋をえらぶべきかちょっと迷った。というのは、私は薄川と田川(田河)、そのどちらへも行ってみたかったからである。
私は結局、薄川のほうをとることにしたが、もとは田河だった田川についてみれば、前記『長野県の歴史散歩』にこう書かれている。
牛伏寺から道を北にとり約五〇分、鉢伏山の尾根つづきの宮入山と中山丘陵に囲まれた埴原(はにわら)に出る。そこが信濃一六牧のひとつ埴原牧跡、附信濃諸牧牧監(もくげん)庁跡(県史跡)をとどめるところで、古屋敷・千石の繋飼(けいし)場、鳥内(とりのうち)の牧監庁跡と、他の多くの牧では明確に把握できない遺構が指摘できる。また中山小学校に南隣して、九〇基に及ぶ中山古墳群と牧の文化で発展をみたこの地方の出土品を展示する中山考古館があり、東方山腹には、埴原牧を背景に栄えた豪族埴原(村井)氏の山城で、のちに信濃守護小笠原氏の南部防衛線となった埴原城跡(県史跡)がある。
埴原の西方、奈良末期田河造(たがわのみやつこ)の姓を賜った高句麗系帰化族の定着をみた田川流域には、百瀬(ももせ)遺跡がある。松本市日本民俗資料館に収蔵展示されている“百瀬式”と型式設定された弥生中期末に属する多くの土器の出土をみている。
ここにみられる「牧」とはいうまでもなく馬を飼育した牧場のことであり、それで栄えた「豪族埴原(村井)氏」とは、さきにみた犬甘氏族の分系である。そのようにそこは、埴原氏族の中心地だったところであり、また、高句麗から渡来のそれであった田河氏族の栄えたところだったわけであるが、そういうことから、長野県史編纂委員の桐原健氏は、信濃について次のように語っているのが注目される。
水内(みのち)郡では古牧・渡来氏族・善光寺という線も引けそうですね。松本平では十六御牧を管理した牧監庁が、埴原の牧に置かれています。牧監は国司と同等の権力を持っているんですが、その埴原の牧は現在の鉢伏山の山麓なので、松本市中山埴原には牧監庁跡がいまも残されています。それに接した中山丘陵には古墳後期の群集墳があり、丘陵の西側には田川が流れていて、この一帯は延暦八年の田河造が定着し繁栄したところなのです。このような次第で、信濃では先ほどの積石塚・古牧・渡来氏族三位一体説は定説化しているといってよいでしょう。(座談会「古代信濃と朝鮮をめぐって」)
薄川と須々岐水神社
私の乗ったタクシーは、その田川や埴原城跡などを南のほうにしながら東へと走り、薄川上流の里山辺薄町にある須々岐水(すすきがわ)神社にいたった。同じ須々岐水(すすきみず)神社はさきの更埴市(「森将軍塚古墳まで」の項)でもみているが、こちらもいまみた田川の田河氏族と同じ高句麗からの渡来人で、七九九年の延暦十八年に卦婁真老(けるのまおい)というものから、それとなった須々岐氏族がその祖神を祭ったものであった。
薄宮大神ともいわれている須々岐水神社は、かつては相当大きな神社だったようであるが、いまはそれがちょっとした森のなかに、ただ打ちすてられたもののようになっていた。この神社については、前記『長野県の歴史散歩』にこうある。
〈松本〉民芸館の南東約一・五キロ、お船祭りで知られる山家郷民の信仰を集める須々岐水神社があり、その付近一帯には、高麗系帰化族須々岐氏との関連が考えられる積石塚古墳群が分布する。
というところからすると、その「お船祭り」などのときには面目を一新して大いに賑わうのかも知れなかったが、須々岐氏族ほどの大豪族だったものの氏神社としては、何ともわびしいようなものとなってしまっていた。なぜ「大豪族だったもの」かというと、そのことは、「その付近一帯には、高麗系帰化氏族須々岐氏との関連が考えられる積石塚古墳群が分布する」ということからもわかるが、そこを流れる薄川の薄(すすき)、里山辺薄町の薄(すすき)という、それらの地名までがみな須々岐氏族の須々岐から出ているということからもわかる。
それからまた、さきにみている『松本市史』「第三節 帰化氏族」に、「須々岐・豊岡・村上……上記、須々岐は里山辺(地名として薄、氏として鈴木)」とあったことも、何となく気になる。というのは、ここにいう「鈴木」までがその須々岐氏族の須々岐から出たものとすると、それは実に日本全国、津々浦々にまでひろがったものとみなくてはならないからである。
安曇族と穂高神社
松本ではほかにもまだ、行ってみたいところはたくさんあった。たとえば、松本からは国鉄大糸線が北上していて、それに乗ると間もなく安曇郡の穂高町となるが、そこも行ってみたいところの一つだった。
そこには、これも須々岐水神社と同じ「お船祭り」で有名な、古墳のうえに社殿が建っているという穂高神社があって、『長野県の歴史散歩』にこう書かれている。
〈穂高〉駅前右手の森に、古代海人安曇(あずみ)族の祖神穂高見命(ほたかみのみこと)・綿津見命(わたつみのみこと)などを祀(まつ)る式内社穂高神社があり、奥社は上高地(かみこうち)明神池のほとりにある。長野県は安曇族の全国分布の北限で、天平宝字八(七六四)年銘の調布(正倉院蔵)に安曇郡前科(さきしな)郷戸主安曇真羊・郡司安曇百鳥とあって、他氏族をまじえず安曇族がこの大郡の開発者であったことがわかる。
ここにいう「古代海人安曇族」というのは、全国いたるところに分布しているそれである。たとえばこれは三河(愛知県)では渥美郡、渥美郷の渥美となり、また美濃(岐阜県)では厚見郡、厚見郷の厚見となったりしているが、安曇郷、阿曇郷は伯耆(ほうき)(鳥取県)や筑前(福岡県)にもある。
それにしても、古代海人安曇族というのが三河や伯耆、筑前などの海辺に近いところにいたのはわかるが、それが日本の屋根といわれる山国の信濃にまで入って来て、安曇郡という「大郡の開発者」となったとはおどろきである、というよりほかない。穂高神社の「お船祭り」というのは、かれら安曇族がかつてははるばる海を渡って来たという、そのことを忘れまいということの神事なのかも知れない。
朝鮮渡来の弥勒像
その安曇郡では、穂高町からさらにまた北上すると松川村があって、そこの観松院という寺院に、古代朝鮮から渡来した弥勒(みろく)菩薩半跏(はんか)像があるという。白倉光男氏の「韓国仏教美術への旅」をみると、そのことがこう書かれている。
いままで法隆寺に伝来した小金銅仏の朝鮮渡来仏について述べてきたが、朝鮮渡来仏は法隆寺だけに伝来したのではなく、日本各地に三躯伝来してきている。
その一は、長野県の松本市と大町市の間の大町寄りの北アルプスの麓の北安曇郡松川村町屋の観松院に伝わっている菩薩半跏像である。四十八体像中の菩薩半跏像(博物館番号一五八号)と同じように痩身の面長な面相で、また法隆寺夢殿観音像の面長にも少し似ており、口元には古拙な微笑を浮べ、頬は心持ちふくよかさがある。表面が焼け肌になっているのは、いつの時代にか火中に遭ったのだろう。そのため、右腕は後補の木製に代っている。……
この半跏像を伝えている北安曇郡は朝鮮系の安曇族が移り住んだという。琵琶湖の西岸にも安曇川という地名が残っているが、こちらの地名は安曇をアドという。この二つの読みかたのどちらがナマッたのだろうか、知りたいとおもう。安曇と古代朝鮮とのかかわり合いは、今後の研究が進めば明らかになろう。
あとのほうは私もそうだと思うが、ただ、ここで一つだけ訂正をさせてもらうと、「朝鮮渡来仏は法隆寺だけに伝来したのではなく、日本各地に三躯伝来している」とあるけれども、これは明らかなまちがいで、朝鮮からの渡来仏は、とてもそんな「三躯」なんというものではない。それは久野健氏の『渡来仏の旅』をみるまでもなく、国宝第一号となっている京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像をはじめ、日本各地にはほかにまだいくらでもある。
が、それはともかくとして、私は松本まで来たついでに、できれば穂高神社とともに、多分、新羅からの渡来ではないかと思われる観松院のその弥勒菩薩半跏像も行ってみたかった。しかし、信濃へ来て二泊三日となっていた私は、ほかにもはずせない用事があって、今回は松本からそのまま、東京へ帰らなくてはならなかった。
諏訪から岡谷へ
諏訪大社の上社・下社
後日、私は、先回は東京の上野から出ている国鉄上信越線だったが、こんどは新宿から出ている中央線で上諏訪駅におりた。駅前にあったタクシーに乗り、例によって私はまず、諏訪市教育委員会をたずねた。
そして社会教育係長の三橋収氏や高見俊樹氏、またちょうどそこに居合わせた諏訪市文化財専門審議委員の宮坂光昭氏とも会い、『諏訪市豊田小丸山古墳』の発掘報告書など、いろいろな資料をもらい受けた。
それからの私は、まえにも一、二度行ったことのある信濃国一の宮の諏訪大社を上社、下社と、念のためまたひとまわりしてみた。上社、下社といっても、上社には建御名方(たけみなかた)神を祭神とする本宮と八坂刀売(やさかとめ)神を祭神とする前宮とがあり、下社にも同じ祭神の春宮と秋宮とがあって、いつ来てみてもおどろくのは、この諏訪にはどうしてこんなに整備された、文字どおりの大社があるのか、ということである。
諏訪は日本本州のちょうど中央にあたるところだそうであるが、もちろん、それだからそんな大社があるというわけではない。とにかく諏訪というところは、諏訪大社を上社、下社とひとまわりしてみるだけで、何となく謎にみちた神秘的な気分につつまれてしまうという、そんなふしぎなところなのである。
しかも、信濃の豪族である諏訪氏族が祭っていたその諏訪大社分社の諏訪神社は全国いたるところにあって、その数は一万以上にもなるという。いったい、諏訪大神、諏訪明神ともいわれるその「神」はどこから来た、どういうものだったのであろうか。
国ゆずり伝説と諏訪
諏訪大神、諏訪明神といえば、まず、有名な「出雲の国ゆずり」という伝説が思いうかぶ。今井広亀氏の『下諏訪の歴史』によってそれをみると、こういうふうになっている。
わが国で一番古い書とされている古事記は伝説の書であり、大和朝廷の系譜である。その巻頭に出雲の国ゆずり伝説がある。出雲に大国主命がりっぱな国造りをしていることから、高天原(たかまがはら)の天照大神がその国土を献上させようと、一度二度使いをつかわされたが、大国主命の家来になってしまって帰って来ない。そこで次には、武勇のすぐれた経津主(ふつぬし)命と武甕槌(たけみかづち)命をおつかわしになった。大国主命も長子の事代主(ことしろぬし)命もすぐに承知したが、次子の健御名方(たけみなかた)命は力くらべをしてきめようと言い、それに負けて諏訪湖のほとりまで逃げて来たというのである。これはもちろん史実ではあるまい。が、出雲国が大和朝廷の勢力範囲におさめられた経過を童話のようにまとめたもので、これから後、出雲族の勢力が日本海に沿って越中・越後の方へのびたことを示している。健御名方命の母が越(こし)ノ沼河媛(ぬなかわひめ)命で、大国主命の勢力はそこまで伸びており、健御名方命はそこに栄えた弥生文化をもって、なお山間の信濃国の方に開拓をすすめられたわけで、本州の中央山脈の頂点の諏訪までたどりつくには何代かかかったであろう。
なになにの「命(みこと)」ともなっている「神」というのは、元はほとんどみな人間のことであるから、このように書かれていることは日本の歴史に徴しても、だいたいうなずけるものではないかと思う。ついで、さらにまた同『下諏訪の歴史』にはこうも書かれている。
諏訪は、諏訪明神の国である。諏訪明神はこの地に開拓をはじめられた場所からみて、二つの系統が考えられる。一つは日本海側から来たもので、糸魚(いとい)川から姫川に沿って大町、そして犀川に沿って長野に出、千曲川をさかのぼって小県に出、大門峠を越して諏訪に入り、湖南の守屋山麓に根をすえた文化で、それはみちみち所々に伝説をのこし、諏訪神社の多くまつられている筋である。もう一つは、太平洋側から天竜川をさかのぼって諏訪に入り、横河川・砥川・承知川などのつくった三角洲の上に根をおろした文化である。
出雲族との関係
諏訪明神の元であった出雲族の勢力が日本海に沿って越中・越後の方へのびて、越後(新潟県)の糸魚川から諏訪へいたったということ、これも新潟県にはいまなお、諏訪神社が千五百二十二社もあるところからみて、だいたいうなずけるのではないかと思う。ところで、こうみてくると、私に思いだすことが一つある。
それというのは、私は信濃を歩いていて、さきの長野市でだったが、ある書店へ入ってそこの郷土史コーナーにあるのをあれこれと見ていたところ、信濃名族研究会発行の『信濃名族』第七号が目についた。手にとってみると、それに小原秀夫氏の「お諏訪さま信仰の風土」というのがのっており、こう書かれているので、ちょっとびっくりしたものだった。
諏訪民族は出雲民族とつながる日本海一帯に大きく分布した朝鮮渡来人である。このことは金達寿(きむたるす)の『日本の中の朝鮮文化』で証明されており、諏訪神社を担いで来た古代会津、出羽人は朝鮮渡来人であり、当の諏訪地方は早くよりこうした渡来の人々の生活があったと推定される。
これをみて、なぜ私はびっくりしたかというと、「このことは金達寿(きむたるす)の『日本の中の朝鮮文化』で証明されており」ということばがそこにあったからである。私の『日本の中の朝鮮文化』シリーズはいま六冊までが出ているが、しかしまだ、出雲や諏訪について書いておらず、したがってそれを「証明」したことはなかったのである。
しかしながら、いまここであらためて考えてみると、いわゆる出雲族が諏訪族というものとつながるものだとすれば、小原秀夫氏の書いていることは、「当たらずとも遠からず」という気がしないでもない。なぜかというと、水野祐氏の『古代出雲』をみると、そこにこう書かれているからである。
須佐袁命(すさのおのみこと)〈素戔嗚尊〉は、新羅系帰化人が斎(いつ)き祭った神である。この神を奉ずる新羅系の帰化人が早くも出雲の奥地に入り、……斐伊川や神門川をさかのぼって西出雲の奥地を開拓したのである。そしていま一つ須佐袁命が、一路新羅から出雲に渡り着くと、ただちに斐伊川上流の鳥上峯をめざして直行したと伝えるのは、この神を奉斎した新羅系の一団が、いわゆる「韓(から)鍛冶(かぬち)」の一団でやはり砂鉄を求めて移動したものではなかったかと思う。そして、……出雲の砂鉄を掌中におさめたこの新羅系帰化人部族は、飯石郡須佐を本貫として、そこから東に勢力を振い、仁多・大原郡におよび、更に意宇郡に進出したのである。
ここに「新羅系帰化人」ということばが出ているが、それが「帰化人」といえるものかどうかはおいて、そのように、新羅からの渡来人であるかれらが「須佐袁命」を「斎き祭った」のは、西暦紀元「一世紀ごろ」のことであったと水野氏は書いている。すると、その出雲族の一部がはるばる諏訪までたどりついたのは、いつごろのことであったろうか。
そのことについては、諏訪大社の上社にあるフネ古墳というのが一端をものがたってくれているようである。
フネ古墳と出土品
諏訪大社の上社が鎮座する守屋山麓宮山にあったフネ古墳が発見されたのは、一九五九年になってからであった。その地籍の所有者である伊藤倭男氏がそこで鏡や刀剣類を発見し、それを諏訪考古学研究所に通報したことにはじまる。
そこで、同研究所の宮坂光昭氏らがあらためて発掘調査したものだったが、それまでは、だれ一人としてそこにそんな古墳があったとは知らなかったという。古代からの長いあいだに、墳丘が削平されていたからだそうで、それがそのようになっていたというのも何だか、諏訪神社というもののもつ神秘的ななにかを感じさせないではない。
長野県在住の考古学者だった故藤森栄一氏は、「本古墳の存在意義は、将来、諏訪神社、いや信濃上古史の上に大きな問題を残すことであろう」(『古墳の地域的研究』)といっているが、諏訪市文化財専門審議会編『諏訪市の文化財』をみると、そのフネ古墳と出土品とのことがこうある。
フネ古墳は湖南大熊フネ地籍に築造された古墳で、諏訪大社上社の鎮座する宮山(赤石山脈の支脈)の一丘陵上にある。そこからの眺望は、諏訪盆地一帯から八ケ岳山麓までと広大で、背後の山稜にはいくつかの峠路があって、峠を越えるとすぐ上伊那となる。
墳丘は低平であったが、流失した可能性もあって、埴輪・葺石(ふきいし)は認められない。
主体部は長軸を南北に向け、二基の並列する粘土床が設けられ、その床はU字形で狭く長いが、割竹形木棺の上下面に粘土を被覆した形式であった。
副葬品は東槨に直刀・鉄剣・蛇行剣・角付釧・〓(やりがんな)・管玉・小玉、西槨に変形獣文鏡・鉄剣・直刀・蛇行剣・素環刀〈頭〉太刀・鉾・青銅釧・鉄釧・鉄鏃・斧・鑿(のみ)・鎌・砥石などがあった。
副葬品中の蛇行剣は全国的にも例が少ないし、また素環刀太刀は大陸系の要素が考えられる。県内古墳で発見された例はない。
この古墳の時期は、その立地・墳形・槨形式、そして素環刀太刀の全国的な古墳副葬例・鉄釧・銅釧・鹿角柄小刀子・鉄鎌などの古式要素からみて、五世紀後半としている。南信濃では最古式古墳に属するが、諏訪神社や諏訪国成立また畿内政権との関係で問題をもつ古墳である。
船と蛇行剣と御柱
古墳の立地や築造年代からして、これが「諏訪神社」と関係あることは、いうまでもないであろう。しかしながら、「畿内政権」とは別にこれといった関係はなかったのではないかと私は思うが、それはともかくとして、この古墳には注目すべき点がたくさんある。まずその一つはこの古墳のあるところ、すなわち諏訪大社上社のあるところが、「フネ」というところだということである。
フネとはいうまでもなく「船」ということで、諏訪大社下社の春宮・秋宮には「お船祭り」という遷座祭がある。この「お船祭り」は「祭神が諏訪湖上で船遊びをしたのを」うんぬんといわれているが、もちろん元はそういうことからきたものではなかったはずである。もしそうだとすると、さきの項(「犬甘・田河・須々岐」)でみた、諏訪湖のような湖のない松本市薄町の須々岐水神社や、南安曇郡穂高町にある穂高神社などの「お船祭り」はどうしてか、説明がつかなくなるのである。
それはやはり、さきにも書いたように、その神社を祭った者たちが、その祭神と共にはるばる海を渡って来たという、そのことを忘れてはならぬということの神事であったにちがいない。元は、そういうことだったはずである。
それからまた、もう一つとくに注目しなくてはならないのは、フネ古墳からは「大陸系の要素が考えられる」素環頭太刀とともに、蛇行剣が出土しているということである。「全国的にも例が少ない」この蛇行剣は、別にまた蛇曲剣、曲身剣ともいって、これを出土している古墳としては石川県江沼郡勅使村の狐塚古墳、大阪府和泉の七観古墳などが知られている。
また、南九州でも出土しているらしく、安井竹次郎氏の『クシラ人・フジの国』をみると、諏訪フネ古墳出土の蛇行剣(曲身剣)と関連して、そのことがこう書かれている。
私はこの春〈一九八○年〉、九州大隅の高山町公民館で、出土遺物の中に、短剣ながら曲身剣を見た。九州では、曲身剣の出土は、南九州に限られるとも聞いた。朝鮮半島南部から対馬に、対馬から九州南部に渡来した鍛冶工人たちの製作したものであろう。また、この渡来人は箱型石棺墓、土壙墓の墓制をもたらした。首長の墳墓に、鏡、武器、装身具、工具を副葬するのも朝鮮半島の習慣だった。大隅、国見山塊は花崗岩層で、そこを水源にもつ高山川の合流する肝属(きもつき)川の河口には、砂鉄が大量に堆積しただろう。国見山中に発見されるスラグは、産鉄の鍛冶場跡をおもわせた。……
九州中北部には南部どころではない砂鉄産地が多く、朝鮮から渡来の鉄文化は南部よりもいち早く展開されていた。鍛冶技術者集団を従えた族長はムラ国を形成、それを統合する勢力は瀬戸内海を畿内へ東進した。朝鮮文化は、日本海側にも上陸していた。
どの経路をたどるにせよ、四世紀半に、諏訪湖畔に鉄器を武威具とする部族が定着した。その部族あるいは先駆集団が、船による渡海の経験をもち、竜蛇信仰をもちこんだのは、あらそえない事実とみなければならない。
ここにいう「竜蛇信仰」とは古代朝鮮、とくに新羅において盛行したものである。このような信仰はいまなお朝鮮に色濃くのこっているが、新羅におけるそれについては、水谷慶一氏の「竜王のきた道」という副題をもった『知られざる古代』にくわしく書かれている。
なおまた、諏訪大社といえば、いわゆる「御柱(おんばしら)祭り」が有名であるが、これとほとんど同じ「御柱祭り」は朝鮮各地でもおこなわれている。これについては、「韓国の御柱祭」という副題をもった金井典美氏の「扶余郊外(恩山)の別神祭」という紀行論文があって、金井氏はそのさいごの「むすび」でこう書いている。
以上のような扶余を中心とした韓国と、諏訪に共通してみられる類似した風習は、古代の日本においてかなり一般的であり、とくに因習の強い諏訪によく残ったものか、百済はじめ韓国系の帰化人などと諏訪がとくに関係が深かったのか、あるいは内陸的な風土の類似から生じた信仰の同質性なのか、いずれともわからぬが、ひとつの事実として紹介し、大方の考察にまかせたいとおもう。
岡谷の思い出
この項を「諏訪から岡谷へ」としたが、もちろん、諏訪湖北岸となっている岡谷にも、古代朝鮮文化と関係ある遺跡がないわけではない。しかしそれよりも、いまはそうでもないようだが、岡谷といえばまず思いうかぶのは製糸工場ということで、私はここではその製糸工場と自分とにまつわることを、ちょっと書かせてもらいたいと思う。
私は以前から、信濃の諏訪というところが何となく好きで、何度となく来ているけれども、そのたびに私は必ず岡谷まで行って、その辺をあちこちとひとまわりしてみることにしている。そして、岡谷蚕糸博物館などたずねては、自分なりのある思いを新たにしたりしている。
信濃となったはじめの項(「望月の牧と高良社」)でふれたように、私がいわゆる在日朝鮮人となって今日にいたっているのは、岡谷のその蚕糸・製糸工場と深くかかわっていたからである。
だいたい、私の生家が没落して一家離散ということになり、両親や兄たちが日本へ渡ったのは一九二五年、そうしてやって来たところが岡谷であった。さきにその製糸工場へ来て働いていた、従兄の金鶴寿(キムハクス)らをたよってだったのである。
そして、父はそのころどうしていたか知らないけれども、母はすでに四人の子持ちで三十五、六歳になっていたにもかかわらず、まだ娘だといつわって、そこの製糸工場へ入って働いた。どこの何という工場であるかはわからないが、岡谷の製糸工場といえば、映画にもなったりして有名な「あゝ野麦峠」ということで、「かつては、岡谷生糸を目指し、はるかな北国から中央アルプスの野麦峠を越え、松本平よりここ塩尻峠へと陸続とつづいた糸繰り女の列は、四季の風物詩であった」と、前記『長野県の歴史散歩』にもある。
それが「風物詩」といえるものであるかはともかくとして、そのような糸繰りの工女たちは飛騨など、日本のうちの「北国」からばかりではなく、遠く朝鮮からもたくさん来ていたのである。そして日本人工女ともども、劣悪な労働条件のもとで働いたものであるが、市立岡谷蚕糸博物館発行の『岡谷蚕糸博物館』をみると、その「工場生活」はこういうふうであった。
朝は普通六時から始め、午後六時に終っている。このほか夏の間、三時間の延長を行なった工場もあった。その間に正午から昼食時間がおよそ三〇分、このほか午前と午後一回ずつ小休止があった。休日は大正末期には毎月一日、一五日の二回で、このほかにお盆休みが八月一四日から二〜三日あるというのが普通であった。
私の母がその製糸工場で働いていたのは、ちょうどその「大正末期」だったわけであるが、今日ではおよそ考えることもできないような、そんな苛酷な労働時間だったのである。しかしそれでも、母は未婚の娘ではなかったことがバレたかして、そこに長くいることはできなくなり、間もなく、次なる働き場所をもとめて東京へ移った。
そうして父が死に、私が日本へ渡って来たのは一九三〇年、その東京の荏原であった。だから、私自身は岡谷での生活体験はないが、しかしながら、私にもその岡谷はいまだに忘れられないところとなっている。
だいいち、岡谷のそこに製糸工場がなく、従兄たちがさきに行っていなかったとしたら、私の両親ははたして日本へ、したがってまた私も日本へ、ということになったかどうかわからなかったからばかりではない。母や兄たちがよく言っていたオカヤ、スワなどということばが子どもだった私にはわからず、それが岡谷、諏訪という日本語の固有名詞であったことを知ったのはずっと後年になってから、ということなどもあるからである。
伊那の古社と古墳
長野から伊那谷へ
伊那の飯田へ行ったのは三度であるが、さきにみている長野市篠ノ井の川柳将軍塚古墳などを中心とした「遺跡めぐり」というのがあり、ついで、これもさきに引いた雑誌「日本のなかの朝鮮文化」第三十九号のための座談会、「古代信濃と朝鮮をめぐって」がおこなわれたときのことであった。
というより、飯田へのさいしょは、その座談会に地元から出席した長野県史編纂委員の桐原健氏と、信越放送制作部の飯島一彦氏の発言がきっかけだった。これからたずねる伊那・飯田とも関連するそれをみると、こういうふうである。
桐原 昭和三〇年(一九五五)の時点で、信州には三〇五〇の古墳がありますが、そのうち馬具が出たのは一四六基です。……地域別にみますと北信は少なく、東信も佐久がちょっと多いけれども、小県(ちいさがた)は少ない。松本平もあまり多くない。諏訪はやや目だつ。伊那谷に入って上伊那は多くないが、下伊那へいくと急に増える。一四六のうち七〇基が下伊那で、しかもその馬具たるや実用的な質朴なものじゃなくて、金銅張りのきらびやかな杏葉(ぎようよう)・鏡板・胸繋・雲珠(うず)、また馬鈴や馬鐸、鈴杏葉なども出ています。これと一緒に環頭太刀もありまして、時期的にみて六世紀でしょう。
そういう下伊那のなかの、飯田市座光寺の麻績(おみ)郷に比定されるところに、畦地(あぜち)一号古墳という直径二〇メートルくらいの円墳がありまして、そこからは新羅の慶州のと瓜二つの銀製長鎖式垂飾付耳飾が出ています。これを豊富な馬具と結びつけての考察が、これから必要になってきます。それからここには延喜式内社の麻績神社があるし、同じ麻績郷にはいる高森町に白髭神社もある。また〈天竜川〉川東の喬木(たかぎ)村に韓郷(からくに)神社があります。
金 韓郷神社というのははじめて聞きますが、どういう神社ですか。
飯島 いつか取材で通りましたら、韓郷神社と書いてあるのできいてみました。いまは小学校の校長さんをしていたというおじいさんが世話をしていて、「からくに神社」と読むということでしたが、戦争中はやはり甘い辛いの「辛」に直させられたそうです。それが戦後、氏子たちがおもしろくないってことで、標柱を建て直したとかいうことでした。
金 それはおもしろいな。
韓郷神社をたずねて
ということで、私たちのやっていた雑誌「日本のなかの朝鮮文化」は、いつもそうしう神社などの遺跡の写真を表紙にしていたから、こんどのその座談会がのる第三十九号の表紙は「韓郷神社」にしようということになった。それでさっそく、翌日、私たちは飯田のほうをへて帰ることにして、長野市内でタクシーに乗り、気軽に「飯田まで――」と言ったのだった。
だいたい、私は何年にもわたってこの紀行の旅をしていながら地理音痴で、地図をみると飯田まではかなりの道のりだったが、しかし同じ長野県なのだからたいしたことはあるまいと思ったのだった。ところが、タクシーはいつまで走っても、なかなかその飯田とはならなかった。
はじめ、タクシーは濁流となっていた犀川沿いに走った。山間の道は全体として下りだったが、ときには登りともなる。すると犀川の濁流は、下から盛り上がってくるようにして流れた。
松本から塩尻あたりをすぎると、こんどは諏訪湖から流れ出る天竜川沿いとなり、それからがいうところの伊那谷であった。私には信州出身の友人が何人かおり、そのうち二人からは伊那谷生まれだと聞いていて、「伊那谷」というのは一つの谷間だと思っていたのだったが、それはとんでもないまちがいであることを、このときはじめて知った。
伊那谷は伊那谷でも、大天竜川の流れをあいだにした大伊那谷ともいうところで、そのなかには伊那市、駒ケ根市など、いくつもの市町村が入っていた。広大な河岸段丘に人家が密集し、あるいはあちこちに散在しているその大伊那谷の景観は実にすばらしいもので、私はずっとそれに目をうばわれつづけていたものだった。
そのうちやっと飯田に着き、天竜川東側の喬木村の韓郷神社をたずねあてたのだったが、時間はどれくらいかかったか忘れたけれども、タクシー代は三万数千円だった。列車もあるのに、考えてみればバカなはなしだったが、しかし大天竜川の流れと、大伊那谷との景観を満喫したことを思えば、と私たちはやせがまんをした。
韓郷神社では近くに住む氏子総代で、当年八十三歳になるという下平益夫氏に会っていろいろたずねてみたが、神社は素戔嗚尊をまつるものであるということ以外、あまり要領をえなかった。古代からこれまでの長いあいだ、その神社がどういう者によっていつき祭られたものであるかは忘れ去られ、いまはただ「韓郷」というその名号のみがのこっている、ということのようだった。
しかし、天竜川の西側となっている飯田とその周辺の遺跡をみることで、その韓郷神社もどういうものであったか、だいたいわかることになるのではないかと思う。
下伊那の白髭社
二度、三度目に飯田をおとずれたのは、一九八一年だった。飯田市川路公民館では毎年、「天竜峡夏期大学」というのがおこなわれているが、雑誌「あすど」の前編集者だった渋谷勝氏をつうじて、その夏期大学で一夜、「信州・伊那谷の朝鮮文化」ということで講演をしてくれないか、といってきたのだった。
私はこうして、伊那谷の飯田とその周辺を書くことにしていたということもあったから、すぐによろこんで承知した。で、事前にその辺を歩いてみようということになったが、するとさっそく、飯田市川路公民館主事の吉沢奨氏から、小口伊乙氏の『土俗より見た信濃小社考』中の「白髭社」のコピーが送られてきた。
この『土俗より見た信濃小社考』「白髭社」はなかなか貴重な資料で、私は七月のある日、国鉄中央線特急の車中でそれをまた読み返しながら、飯田へ向かって行った。「このさい私も郷里のそれを――」ということで、渋谷さんもいっしょだったが、まず、「白髭社」のそれはこういうふうに書きだされている。
白髭(鬚)神社あるいは白髭(鬚)社と呼ぶ社が信州の各地に明治時代までは郷社、村社、あるいは無格社、雑社として祀(まつ)られていた。この社は、しらき社、しらし社、しらひ社、しらく社、しらく神社などとも呼ばれていたらしい。この社はこんなにいろいろな名で呼ばれていたらしいのに、明治初年の排仏棄釈時、神道復興の波にも乗り得なかったのか、僅かに形骸だけを残している社となっているものが多い。
「しらき」「しらし」「しらひ」「しらく」とはいずれもみな「新羅」ということからきたものであるが、しかしここでは、「信州の各地」のそれをいちいちみなみるわけにはゆかない。「白髭社」は、二十ページにもわたって書かれているからである。それでここでは下伊那のそれだけをみると、こういうふうになっている。
下伊那郡根羽村にも、北の方に白髭の森の中に鎮座していた。……白髭の森は、明治以後官有地として庶民の入るのを許さなかったところであることは、他の地の白髭の森も同じである。
「伊那郡神社仏閣記(下)」(『蕗原拾葉』所収)によれば市田郷の条に、「上平村白蕗大明神毎年七月二十一日祭礼」と記し、関の駒場の条に「駒場木戸脇興坂新羅大明神、相殿に八幡を祀るなり、俗呼んで興坂八幡と言うとし、素戔嗚尊也」と記している。しかし市田郷上平村の白髭大明神は、明治の書きあげ帳には記載がない。既に廃(すた)れたのであろう。
同書、上伊那の分には一社も登載がないし、先に記した手良の中坪の白髭社も、中坪下手良村八幡とあって、……白髭は影を消している。
『伊那志略』十六巻文化九(一八一二)年の巻之四、川下の条に、「白髭明神祠平沢に在り、例祭八月朔日」とある。おそらく既に記した伊那市、もとの伊那村平沢の白髭社のことであろう。……巻之十一、下伊那〈天竜川〉川東の条には、……下伊那阿智村の会地(あうち)の地名そのままの音の安布智神社、祭神を新羅大明神、誉田別(ほむたわけ)命、天思兼(あめのおもいかね)命、須佐男命を祀るとする社のことであろう。
祭神を新羅大明神としているから白髭社と深い関係があり、古い神社であることが名称においても明らかである社であろう。
高森町の白髭神社
私たちの乗った特急電車が上諏訪駅に着くと、飯田市川路公民館の吉沢奨氏、同市下久堅(しもひさかた)公民館主事の牧内和人氏、それに渋谷さんの岳父で地方史研究家の今牧芳平氏、サンケイ新聞飯田通信部の村沢愛弘氏らがそこまで来ていてくれた。私たちはいっしょになり、吉沢さんたちのクルマで中央自動車道を走ったが、なかに新聞記者がいたりして、ちょっとした調査団といったぐあいであった。
そして私たちはまず、今牧さんの案内で、飯田市北方の高森町上平にある白髭神社からみることになった。しっとりした風格のある神社だったが、どういうわけか、いまみた『土俗より見た信濃小社考』「白髭社」には、この白髭神社のことは出ていない。もしかすると、「市田郷上平村の白髭大明神」というのがこれにあたるのかも知れなかったが、しかしそれは「既に廃れたのであろう」とある。
飯田の麻績神社
ついで私たちは、元善光寺などがあることで有名な飯田市座光寺へとまわり、「そこからは新羅の慶州のと瓜二つの銀製長鎖式垂飾付耳飾が出ています」(さきにみた座談会での桐原健氏の発言)という畦地(あぜち)一号古墳から、元善光寺、麻績(おみ)神社とみて歩いた。このあたりはもと麻績郷だったところで、前記『長野県の歴史散歩』にこう書かれている。
これら近郊近在の考古資料の大半は、近くの座光寺小学校に保管展示され、休日を除き一般の見学に供している。校庭の裏には帰化人に関係ある麻績神社が鎮座し、近くには有名な元善光寺がある。信濃を代表する善光寺の本尊招来伝承によれば、阿弥陀三尊は若麻績東人(わかおみあずまんど)(本田善光)により伊那郡麻績草堂に安置され、のち水内郡芋井郷(現長野市)に遷(うつ)されたと伝えられている。……今も元善光寺本堂の周辺からは奈良時代の布目瓦(ぬのめがわら)が出土し、また『三代実録』所載の定額寺のひとつ信濃国伊那郡寂光寺が、本寺と関係するものと想定され、本地域一帯に帰化人を中心とする大陸系文化の名残りがみられる。
その「名残り」の一つで「帰化人に関係ある」麻績神社は、眺望のよい高台となっている座光寺小学校の校庭にせりだした山麓にあったが、いうならばその麻績神社を祭祀していた者こそは、麻績郷の中心となっていた者ではないかと思われた。そしてその「帰化人」とは、周囲の状況などからみて、新羅系の渡来人であったにちがいなかった。
私は渋谷さんともどもこの夜は今牧さん宅で泊めてもらい、翌日もまた前日の人たちといっしょになって、飯田市近くの阿智村の白髭神社や安布知神社などをみてまわった。そうして東京へ帰り、数日後、サンケイ新聞の長野版を手にしたところ、「伊那谷の古代は朝鮮から渡来/御神体は新羅大明神/安布知神社縁起書に明記/郷土史界に大反響」という見出しの大きな記事が出ていた。
いっしょにみて歩いた村沢記者の書いた記事で、「郷土史界に大反響」かどうかは知らないけれども、書かれていることはそのとおりであった。
三河・尾張
新城の旗頭山古墳群
設楽には新羅系渡来人が住んだ
新幹線のこだまで三河(愛知県)の豊橋駅におりた私は、そこの豊橋市はあとまわしということにして、さきにまず、豊橋東北方二十キロさきの新城(しんしろ)市に向かった。新城はもと、三河国設楽(したら)郡だったところである。
設楽とは相当むつかしい読みの地名であるが、今村鞆氏の『朝鮮の国名に因める名詞考』をみると、この設楽または志楽(したら〈シラク〉)という地は丹後(京都府)の加佐郡や、それからまた武蔵(埼玉県)の新羅郡だったところにもあったものだった。もちろん、『朝鮮の国名に因める名詞考』にのっているのは、それが古代朝鮮三国の一国であった新羅(しらぎ)の転訛したものであるから、ということはいうまでもない。
そのことからまた、三河の設楽神・志多良(したら)神ということも出ているが、そうしてみると、三河の設楽郡とは、もと新羅系渡来人が住んだことからおこったものだったにちがいない。しかし、私が新城をたずねることにしたのは、そういうことがあったからだけではなかった。
古い新聞切抜き
新城に着いた私は、もと新城市教育委員会教育長だった中西光夫氏を、新城小学校校長室にたずねた。あらかじめ電話をしてあったので、中西さんはそこで待っていてくれることになっていたからだったが、そのまえに、私がどうしてこのようにして新城をおとずれ、さらにまたそこの中西さんを知ることになったかということについて、ちょっと書かなくてはならない。
そのことは、あとでふれる「尾張・三河の古代文化」という座談会でも話しているけれども、私がこの古代遺跡紀行『日本の中の朝鮮文化』シリーズ第一冊をだしたあとの一九七一年二月はじめ、愛知県犬山市犬山四日市に住む高田秀直氏から、同年二月四日付けとなっている毎日新聞(名古屋発行)の切抜きが送られてきた。「古墳が次々こわされる/新城の旗頭(はたがしら)山/約束守らぬ開発/市教委が業者に警告」という大きな見出しの写真入り記事で、本文をみるとこう書かれている。
新城市八名井から愛知県宝飯(ほい)郡一宮町金沢にかけての旗頭山古墳群(四十八基)のうち、六基が採石で破壊、三基が排土で埋没寸前になっていることが、愛知県の緊急遺跡分布調査でわかった。業者側が採石を始める五年前、「古墳を守る」と新城市教委と約束しており、同市教委はこのほど「このままでは全壊する。約束どおり古墳群を保護せよ」と採石業者に厳重警告した。
旗頭山古墳群は、旗頭山(標高九八・三メートル)の尾根伝いに、石ばかりで築いた積石古墳と石と土の半積石塚古墳が三十一基、南・北面の山ろくに普通の円墳が十七基ある。ほとんどが直径約一〇メートル、高さ約七五センチの小さな古墳だが、同じ様式の古墳は朝鮮半島に多いことから、朝鮮からの帰化人のものと推定されている。
〈昭和〉二十七年四月、明治大学考古学研究室が頂上付近の三基を発掘調査し、うち一基から朝鮮特有の双墓(遺体を葬る二つの石室)が、また各古墳から玉類、鉄やじり、土器が発見された。出土品などから飛鳥・白鳳時代(六世紀末〜八世紀初頭)の墓と推定したが、積石古墳の群集は日本では珍しく、三十年八月、新城市は遺跡に指定した。
記事はなおつづいており、さいごは愛知大学の歌川学教授による、「この地方に帰化人がどうしてはいり、どんな生活をしていたかを知るうえで重要な遺跡だ。何としてでも破壊から守らなくては……」という談話も出ている。
それからさらにまた、五年がたった一九七六年になると、こんどは愛知県南設楽郡鳳来(ほうらい)町に住む山本忠史氏から、「旗頭山古墳群/あすから調査」とした同年九月二十三日付けとなっている朝日新聞の切抜きと、同九月二十九日付けの東愛知新聞の切抜きとが送られてきた。
さきの高田秀直氏と同じく、山本氏も未知の読者だったが、送られたうちの東愛知新聞は地元紙でもあったからか、「保護か崩壊か/旗頭山古墳群/新城市が板バサミに/一方で文化財指定の動きも/県専門調査官が測量」とした一面トップの大きな記事で、そこにもこんなふうに書かれたりしている。
旗頭山古墳群は、吉祥山から西になだらかに伸びる尾根伝いの旗頭山(標高九八・三メートル)がそれ。愛知県唯一の貴重な文化財で、我が国では〈香川県〉高松市の栗林(りつりん)公園内の石清尾山古墳群や徳島、長野、埼玉県下にある積石塚に次ぐ古代民族遺産の一つ。……
積石塚古墳は、盛土のかわりに石積みをもって築いた特殊なもの。また半積石塚は石と土とを併用して造ったもので、朝鮮の古式古墳に見られる形式から、この八名井地区あたりは朝鮮から帰化した人々が多く住んでいたらしいという調査結果が報告されている。新城市と一宮町では昭和三十三年相次いで文化財として指定、保護することになった。……
この形式は、その後の調べで朝鮮(高句麗時代)から大陸において発達した一つの墓制で、ソウル東北一〇〇キロの江原道春川付近に多いものであることもはっきりした。そして三十四基中、十四基がいまもって手が付けられておらず、貴重な資料といわれている。
以上にみた新聞の切抜きは、前者が十二年前のものであり、後者も六年前のそれなので、どちらもいまはすっかり赤茶けてしまっている。もちろん私は、これらの新聞記事を受けとった当初から、すぐにでも新城のそれを行ってみたかったのであるが、しかし、私の『日本の中の朝鮮文化』シリーズは第一冊の関東から、途中の東海地方はそのままにして、次はいきなり関西となり、北陸となり、中国地方となったものだったので、これまでのびのびとなっていたのである。
そうしているうちさらにまた、数年前、私は名古屋市のあるところで講演をしたところ、そこへ前記した新城市教育委員会教育長の中西光夫氏がやって来てくれたのであった。いうまでもなく中西さんは、旗頭山古墳のことはよく知っていたばかりでなく、新城市郷土研究会から出ている『郷土』に、「旗頭山古墳の崩壊を憂う」という一文まで書いていた。
「そのうちに是非――」と私は言ったところ、中西さんはすぐに、
「ええ、いつでもどうぞ。お待ちしていますよ」と言ってくれていたのだった。
旗頭山古墳群へ
「いやあ、やっとお見えになりましたなあ」と中西光夫氏は、そう言って笑いながら私を迎えてくれた。私が名古屋で中西さんに会ってからでも、一年以上がたっていたのである。
あいさつがすむと、中西さんはさっそく、新城市教育委員会に連絡をしてくれた。まえもって話してあったらしく、同市教委からは社会教育主事の高田孝典氏が、一宮町教育委員会と新城市教育委員会とが共同でおこなった『旗頭山尾根古墳群・大入山古墳群/発掘報告書』などとともに、ライトバンのクルマをもって来てくれた。
見ると、クルマのなかにはゴム長靴まで用意されていた。外は小雨が降ったりやんだりしていたので、まず、その長靴にはきかえろ、というわけだったのである。そして私たちは、ただちに旗頭山へ向かった。
高田さんの運転するクルマは、しばらく南下したかとみると、宝飯郡一宮町との境に近いある山麓に着いた。言われるまでもなく、そこが旗頭山であることは、私にもすぐにわかった。なぜかというと、山の一方は見るも無惨に切り崩されて、新聞記事にあった問題の採石工事が、いまなおつづけられていたからである。
私たちはその切り崩された断面を伝わって、山頂めざして登って行った。標高一〇〇メートル足らずの山だったから、頂上まではすぐだった。なるほど、灌木の茂っている頂上の尾根には、あちこちと積石塚古墳のならんでいるのが見えた。
頂上の尾根、すなわち見晴しのよいところに、それらの古墳は築かれたわけだったが、この日は小雨が降ったりやんだりの曇り空だったので見えなかったけれども、中西さんによると、そこからの眺望は、実にすばらしいものだとのことだった。晴れた日であると、眼下に東三河を縦走する豊川の清流がながれ、その向こうには本宮山の峰々がつらなり、遠くは東三河の平野ばかりか、渥美半島や三河湾まで一望のもとにすることができる、というのだった。
いかにも、その地に栄えた氏族の墳墓の地にふさわしい景観だったが、残念ながらこの日の私は、それを見ることはできなかった。さきの新聞記事でもみているが、そこにある古墳からの出土品としては、須恵器・刀子・ガラス玉・管玉などのほか鉄製の直刀があって、その直刀は奈良の元興寺文化財研究所で調査中だとのことであった。
旗頭山をおりた私たちは、こんどは旗頭山の主峰となっている吉祥山の東方にあたる、小畑(おばた)というところの唐土(からつち)神社をたずねた。古いたたずまいの神社で、中西さんがそこまでつれて行ってくれたので知ったが、小畑の畑(はた)といい、私はそこに甲斐(山梨県)でみたのと同じ新羅系のもののはずである、唐土神社のあるのが何となく奇異にも思われておもしろかった。
というのは、いま高句麗系といわれる典型的な積石塚古墳をみたばかりだったからでもあるが、ついで私たちは新城市へ戻り、市内にある「青年の家」というのをたずねた。そこには旗頭山古墳群から出土した須恵器ほかが保存・展示されており、前庭には旗頭山・二十六号墳の積石をそっくりそのまま移して、その古墳をみごとな形で復元してあった。
久麻久神社の存在
そうして新城をひとまわりしたあと、しばらくしてから、さきにちょっとふれた「尾張・三河の古代文化」(雑誌「日本のなかの朝鮮文化」第四十七号)という座談会が名古屋で開かれた。出席者は、南山大学の伊藤秋男、京都大学の上田正昭、名古屋民芸協会の本多静雄氏と、それに新城の旗頭山古墳群などをいっしょにみて歩いた中西光夫氏と私との五人だった。
当然、この座談会では、高句麗の墓制である積石塚の旗頭山古墳群のことも問題となり、では、そのような墓制をのこした高句麗系渡来人はいったいどこから新城市や一宮町のそこに入って来たか、ということになった。それについては、さきに信濃(長野県)の、これはもう文献のうえからもはっきりそれとわかる高句麗系渡来人の積石塚古墳をたくさんみていたので、私は信濃のほうから南下して来たものではないか、とした。
つまり朝鮮の東海、日本海ルートで信濃へ入ったのがその源流ではなかったか、というわけであったが、しかしそれに対して上田正昭氏は、三河の南方、矢作(やはぎ)川河口近くの西尾市に久麻久(くまく)神社があることをあげて、太平洋岸ルートからの渡来を主張した。その発言は、次のようになっている。
もう一度『和名抄』を見ておりましたら、幡豆(はず)郡に「能束」郷と書いている写本がある。ところが別の伝えでは「熊来」郷と書いてある。……
これはちょっと見逃せないと思って『延喜式』を見たら、「久麻久神社」というのがあるのです。それでぜひ行ってみたいと、たずねてみました。現在は西尾市の熊味町にあって、熊味町は熊子村と味作村が合併して熊味町という町名になったのですね。……
ところで、『延喜式』にははっきり久麻久神社二座と書いてあるわけで、「能束」郷と書いている写本はあきらかに誤写だと思います。やはり「熊来」郷でしょう。史料にも「熊来明神」とあります。これは能登の調査の体験から言っても、高句麗系の熊来と関係あるかもしれないという見当をつけて、調査におもむきました。……
学者らしい慎重な言い方であるが、要するに、熊来(くまき)とは高麗来(こまき)ということで、久麻久神社の久麻久(くまく)というのもそれからきたものだ、というわけなのである。「能登の調査の体験から」と言っているが、そのときは私もいっしょで、能登の熊来のことは、私も『日本の中の朝鮮文化』(5)の「熊来は高麗来だった」という項にかなりくわしく書いている。
しかし、能登のそれはそれとして、私は上田さんのこの発言を聞いて、ちょっとおどろいたものだった。というのは、私は三河の西尾市に熊来=高麗来の久麻久神社があることを、それまでは知らなかったからである。
後日、さっそく私も西尾市の久麻久神社まで行ってみた。名古屋から名鉄電車で約五十分、西尾市駅北東約三キロのところに、『三河国名所図絵』に「熊来明神」とあるその久麻久神社があった。吉良山ともいう、高さ七〇メートルほどの八(や)ツ面(おもて)山の中腹に鎮座した風格のある神社だった。――
そういうことで、新城の旗頭山古墳群をのこした高句麗系渡来人は、信濃から南下したものではなかったかとする私の説が少しあやしくなったのであった。なぜかというと、遠い信濃の善光寺平(だいら)や松本平から来たものとするよりは、同じ三河の地である幡豆郡の熊来(高麗来)郷、すなわち久麻久神社のある西尾から、とするほうがはるかに近かったからである。
やはり新羅系か
ところが、私と上田さんとのそれに対して、南朝鮮・韓国の遺跡などもみて歩いている考古学者の伊藤秋男氏からは、また別の説が出た。伊藤さんのその発言は、こうなっている。
旗頭山古墳の分布ですが、尾根に一線をなしてずっと続いていますね。あれは間違いなく朝鮮系です。……
高句麗の問題で発言しましたのは、いわゆる高句麗の古墳の分布のあり方が、尾根にはあまりないんです。つまり、河岸段丘に平面的に分布するわけです。かえって新羅とか加耶の古墳の方が尾根に一線をなして連なっているのですが、旗頭山はまさにそれです。分布の様子からわたしは疑いようがないと思います。
これまた意外で、ちょっとおどろいていい発言だった。しかもそれについては、中西光夫氏がそのことを補強するような、こういう発言をしていた。
現時点では、高句麗形式の積石の墓制といわれながらも、その渡来集団ないし、その末裔の墓域とする論証資料・文献はありませんけれども、旗頭(はたがしら)山と呼ばれるのは、古く秦(はた)氏、服織(はとり)氏等渡来人系の地名ではないかという地名考証と、それからすぐ山の下から見えるところに、〓繰(わくぐり)神社というのが豊川の右岸にありますが、これは機織と関連のある神様と言われています。
つまり旗頭山の旗(はた)とは、機織(はたおり)ということもそれから出た新羅・加耶系渡来人の秦氏からきたものだというのだった。このように、いろいろな説が出たわけであったが、そう言われてみると、私にも気がついたことが一つあった。それはさきにみた旗頭山東方の小畑、その小畑の畑(はた)も秦からきたにちがいないそこに、唐土神社があったということである。
唐土神社は、いまでは土地の人たちは唐土(からつち)神社とよんでいるとのことだったが、しかし、これも信濃・飯田市近くの喬木(たかぎ)村にある韓郷(からくに)神社がかなりまえまでは辛郷(からくに)神社とかえさせられていたように、唐土神社ももとは韓土(からくに)神社となっていたものではないかと思う。さきにも書いたように、甲斐の牧丘町にある唐土神社は、はっきりと新羅系渡来人によるそれであった。
そうしてみると、旗頭山の積石塚古墳自体はともかくとしても、中西さんの言うように、新城市や一宮町あたりにも新羅・加耶系の秦氏族が、相当入っていたのではなかったかと思われる。これからみるようにその秦氏族は、同じ三河である近くの豊橋市から渥美半島にかけて、色濃く分布しているからである。
豊橋の羽田八幡宮
三河の奏氏族
三河の秦氏族についてあれこれと調べていたところ、明治・大正時代の歴史家であった喜田貞吉の、多分、講演速記をもとにしたものではないかと思われる『尾参遠郷土史論』というのがあった。尾参遠とはもちろん尾張・三河(愛知県)と遠江(静岡県)のことである。
その尾参遠の秦氏のことにいたるまでの、前文がこれまたなかなかおもしろいので、それもあわせて紹介することにする。古い時代のものであるから、原文は歴史的かなづかいとなっているが、ここではそれを新かなとする。
朝鮮では元(も)と韓種族が居る所へ、段々と北から種々の者が南下して来る。高句麗(こくり)が来ます、百済が来ます。又遠く支那の移民も段々東の方を訪ねてやって来る。朝鮮はかくいろいろな種族が押し寄せて来て、南へ南へと下って来る道筋になって居る。其の朝鮮半島へ押し寄せて来た者は、其の先何処へ行きましょうか。日本より先には行く所がない。此の気候がよく、景色がよく、天産物の豊富な日本は、彼等の最後の安全な住家を求める楽土であります。
そうでありますから、民族南下の原則として、大昔に於(おい)ては、自然に日本の土地へ、種々の者が来なければならぬ。高天原は何処であるか、此の問題は容易に解決は出来ませぬが、兎(と)に角(かく)我が天孫種族も、高天原から南下して、恐らくは朝鮮半島を経て日本の地へ来たに相違ないのであります。一説に天孫種族の祖国は南洋にあると唱える人もありますが、私は種々の理由から之(これ)を信ずる事が出来ません。ただここに其の理由を述べるの余暇を有せぬを遺憾と存じます。扨(さて)天孫種族も亦(また)、朝鮮を経て日本へ来たということになりますと、是(これ)がただ一度に日本へ来たのみだとは限らない。或は前後数回に来て居るべきことは、是は欧米の他の諸国の事例から、推測することが出来ます。近い例では、亜米利加(アメリカ)合衆国に移住した欧羅巴(ヨーロツパ)人の如きもあります。……
日本の土地が宜(よろし)いから、それを求めて来たのであるか、或(あるい)は朝鮮に於て、更に強い者に襲撃されて、其の圧迫に堪えなくして来たのであるかは分りませぬが、兎に角日本に来た。……是等の人が日本に来て各地に拡まって居る。先ず尾参遠地方で言うと、秦人(はたびと)の居った所として「ハタ」という名を地名に保存して居るのが、遠江では長下郡に幡多(はた)郷と云うのがあります。又、三河には渥美郡に幡太(はた)郷。是等は秦(はた)人の居た郷だと云うので、秦(はた)郷と云う名を付けてある。
秦氏族渡来の前提、あるいは総論のようなものとして、その前文まで紹介したわけであるが、ここにいう尾参遠地方、とくに三河に展開した秦氏族のことは、古い『静岡県史』にも、駿河・遠江にひろがっていた秦氏族のことにつづいて、こう書かれている。これも原文は、歴史的かなづかいとなっている。
上国の文化が西より来たとすれば、我が秦氏族の事につきても先ず西隣を一顧すべきであろう。三河国渥美郡には幡太・和太の両郷がある。幡太は今の豊橋市西南部花田で、羽田本郷という地が存する。〈いまの〉和地は和太の誤(あやまり)で、伊良湖半島の西部、今の泉村・福江町・伊良湖岬村であろうという。
次に同国八名郡に和太・服織の両郷がある。和太は今の石巻村和田を中心とする一郷の地で、ここは本坂峠の西口姫街道に沿うている。服織は今の大野村・山吉田村・舟着村吉川・乗本等の地で、三ケ日(みつかび)町岡本織殿と関係がある。前の両郷は旧浜名郡の南部と交通し、後の両郷の一は本坂峠より一は宇利峠より、旧浜名郡の北部即ち現引佐(いなさ)郡三ケ日町方面と交通したであろうが、時代の順よりいわば北の交通路の一たる後の姫街道が先ず通じたと考えられる。
あとのほうはちょっとよくわからぬところもあるが、要するに、三河における秦氏族の展開地としては、渥美郡に幡多、和太の二郷があり、また八名郡には和太、服織の二郷があったという。そして、前者の幡多郷はいまの豊橋市花田であり、和太は渥美半島の福江町あたりだというのである。
豊橋の羽田八幡宮
そこで、私は後日、それらの地をたずねてみることにしたのだったが、こちらでは、豊橋市西小田原町に住む中野博三氏と同市白河町の羽田野靖三氏とが案内役をしてくれたので、私は大いにたすかったものである。どちらも、私が豊橋で講演をしたことで知り合ったのだったが、二人とも三河の地理や遺跡は手にとるようにくわしかったから、私はときどきひとこと、ふたこと言うだけで、ただそのあとをついて歩きさえすればよかった。
私たちはまず、中野さんのクルマで豊橋市花田の羽田八幡宮をたずねた。そこにそのような、つまり秦(はた)の羽田(はた)八幡宮があることを教えてくれたのも中野さんたちだった。
なにしろ、そこが秦氏族の住んだ幡多郷だったとはいえ、それは古い昔のことであり、またそのことを記述している喜田貞吉『尾参遠郷土史論』や『静岡県史』にしても古いものであったから、私はそこにいまなお、かつてはそこの秦氏族の氏神だったはずの羽田八幡宮があること自体、一つの感動だった。しかもその羽田八幡宮は、いまは人家の密集したあいだにあるとはいえ、大きな鳥居を構えた立派な神社だった。
『羽田八幡宮/御案内』とした由緒書をもらってみると、「境内の面積約一八○○坪、氏子数は豊橋市の中枢部二十ヵ町、戸数五千戸を数え……」とある。そして「羽田八幡宮のいわれ」としたところでは、それがこうなっている。
世に、八幡の神は全国八万〈ある〉神社のうちで分霊社が約二万五千を数え、神明社、稲荷社と並んで日本三神社の一つに見たてられています。その根本社を九州宇佐八幡宮とし、奈良時代聖武天皇の神亀、天平年中には早くも皇室の厚い信仰を得ました。
清和天皇の御代には宇佐から京都の石清水八幡宮が、後冷泉(ごれいぜい)天皇の御代には石清水から鎌倉の鶴ケ岡八幡宮が勧請されました。
全国の八幡宮分霊社の多くは宇佐、石清水、鶴ケ岡のいずれかの分社であります。当、羽田八幡宮は、宇佐八幡宮の御分霊社にして、社伝によると白鳳元年の創立と伝えられ、古来、武門武将の崇敬が篤(あつ)く、永保四年十一月、今川氏真は東三河地方平定に際して社領十三貫七百文並に神主家敷、高畑五百歩を寄進されたという。……
幕末から明治初頭にかけて、神主、羽田野敬雄(栄木)は平田篤胤門下の国学者として知られ、「羽田八幡宮文庫」をおこし、その蔵書は一万巻以上におよび、天下の学徒四方より集り、翁の教えをうけ、明治維新の大業にも大いにつくすところがあり、それらの蔵書は現在、豊橋市立図書館に納められています。
秦と八幡の関係
ここに「羽田八幡宮のいわれ」を引いたのは、いまは八幡(はちまん)神などといっているが、もとは「や・はた」の神ということであった八幡神とはどういうものであったかをも、ここでちょっと考えてみたかったからである。そのまえに、ここに「神主、羽田野敬雄(栄木)」という人のことが出ているので、
「羽田野――」と言って私は、そばに立っている羽田野靖三氏の顔をみた。すると、
「そう、そうなんです」とまだ若い羽田野さんは、ちょっとてれたようにして笑った。つまり、中野さんと共に私に同行していた羽田野さんも、もとは秦の一族から出ている人なのであった。
もっとも三河とかぎらず、その秦はほかにも秦野、波多(田)、波多(田)野、畑(畠)、畑(畠)野、幡(幡多)、幡多(田)野などとなり、日本全国いたるところにある地名、人名となっているのであるが、さて、その「や・はた」の神とはどういうものであったか、ということである。いまみた「羽田八幡宮のいわれ」にもあるように、その総本社は九州の宇佐八幡宮であった。
宇佐八幡宮については、さきの「新羅神社をたずねて」の項でもいったように、いずれ九州のそこを書くことになったとき(すでに私はそこも二度ほどたずねている)くわしくみることになるであろうが、かんたんにいうとそれは、大野鍵太郎氏も書いているように、秦氏族の総氏神ともいうべきものであった。大野氏の「鍛冶の神と秦氏集団」をみると、そのことがこうのべられている。
豊前国〈大分県〉八幡神とはいわゆる宇佐八幡宮である。八幡神はヤハタの神である。ヤは多いという意味をもつ集合体を表現する言葉である。ハタは秦(ハタ)族の族称を示すものであって、秦族が共通して信仰する神、すなわち秦族のすべてが信仰する神である。秦族は明らかなように、古代大陸から渡来した氏族である。いわば〈宇佐八幡宮は〉秦氏の総氏神である。
この宇佐八幡宮からひろがった各地の八幡宮、八幡神社と同じように、かれら秦氏族のいた幡多郷などもまた、三河のみとかぎらずあちこちの各地にある。たとえば、関東の常陸(ひたち)(茨城県)勝田市ではいまから九年ほどまえ、虎塚壁画古墳が発見されて、当時の新聞紙面をにぎわしたものだったが、そこがこれまた常陸国那珂郡幡田(はた)郷となっているところであった。
したがって、その虎塚古墳の被葬者も秦氏から出た一族の首長とみられ、『勝田市史』別編『虎塚壁画古墳』中にある志田諄一氏執筆の「古代史における虎塚古墳の問題点」にそのことがこうある。
幡田郷は幡多郷(三河国渥美郡)、幡多郷(遠江国長下郡)、幡陀郷(紀伊国安諦郡)、波多郷(肥後国天草郡)などとも書き、渡来人秦氏の後裔や、秦氏と関係ある一族が居住していたようである。
ところで、最近の研究によれば、朱や丹(に)をもって、各種の物品を赤く染める赤染の呪術は、新羅、加耶系の呪術で、赤染氏によってなされていた。その赤染氏は秦氏と同族、または同一の生活集団を形成していた氏族で、新羅系の帰化人だといわれている。のちに赤染氏や秦氏のなかには、画師として活躍する者が少なくない。
三河地方の古墳
もと八名郡や渥美郡だった豊橋市では、ほかにもまだ行ってみたいところはたくさんあった。たとえば、中野博三氏が送ってくれた『豊橋市史』第一巻の「古墳時代」をみると、三河はさきにみた新城市の旗頭山古墳群ばかりでなく、そういう古墳もまた相当多いところであることがわかる。
たとえば、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」をみると、三河のそれとして、「豊橋市嵩山町万福寺古墳」ほか七つの古墳があげられているが、いまいった「古墳時代」のはじめのほうを紹介すると、それはざっとこういうふうになっている。
△古墳の分布
『愛知県遺跡分布図』(愛知県教育委員会 昭和四七年)によれば、三河地方に散在する古墳は、二千基に近い数が記録されている。すなわち東三河地方では総数一、一一九基、西三河地方では六八二基が数えられている。前者を市町村別にみると、豊橋市三八八基、一宮町二九九基、新城市一七五基、蒲郡市五三基、音羽町一七基、御津町一五基、小坂井町五基、田原町五二基、渥美町五五基、赤羽根町五基、設楽町一七基、作手村一基、東栄町五基、稲武町一基となり、これを古墳の型式で総計すると、前方後円墳一九基、方墳二基、円墳一、〇九八基となる。
これからもわかるように、東三河地方では、市域が広いということもあるが、豊橋市が全体の三五%を占め、一番多いことになる。しかもこと数字は、現行するものを基礎にして、かつて存在したことが確かめられたものを補足して得たものである。したがって、未発見のものや早く破壊されて存在の確認できなくなったものを考慮に入れれば、この地方において造営された古墳の数は、前記のものをはるかに上まわるであろうことは容易に想像がつく。
豊橋市内に分布している古墳は、その立地によって紙田川・梅田川・柳生川・豊川の四河川の流域に大別される。なかでも豊川流域の古墳は朝倉川・神田川・間川などの豊川支流域に細分することができる。以下この流域にしたがって豊橋の古墳を概括する。
△紙田川流域の古墳
この流域では妙見古墳、今下神明社古墳(現老津神社)、宮脇古墳群(六基)などが知られている。現存するものは、すべて横穴石室を備えた後期の円墳である。いずれも紙田川の河口の北側に接する同じ台地上に営まれている。
いままでに、この地域の古墳で学術調査されたものはないが、ただ、今下神明社古墳が明治四二年に破壊されたときに馬具・杏葉(ぎようよう)・金環・甕(かめ)・壺・高杯(たかつき)〈坏〉・横瓶・杯・提瓶・銅鈴が発見された。この中でとくに注意されるのは馬具で、八弁の花形に作られた鏡板(轡(くつわ)の飾金具)一対、ハート形の杏葉(胸繋(むながい)や尻繋(しりがい)に下げる飾金具)二、鞍橋(くらぼね)の覆輪や浜金具、『渥美郡史』に銅鈴と紹介されている辻金具(革帯の交差する部分を固定する金具)などがある。いずれも金銅張りの豪華な品で、鏡板はこの地方では初見の形式である。金色燦然たる馬具に飾られた乗馬を有する本墳の被葬者は、この地域有数の豪族であったであろう。
以下まだずっとつづいているが、それら古墳のほとんどが、つまり東三河千百十九基のうち千九十八基までが新羅・加耶型の円墳であるというのも、この地一帯に展開していた秦氏族と考え合わせると、たいへん興味深いものがある。それからの出土品にしても、いまみた「とくに注意される馬具」はもちろんのこと、あとにつづいている各古墳からの金環類や環頭太刀、装飾須恵器など(「古墳時代」にはその写真ものっている)の出土品にしても、新羅・加耶古墳のそれとそっくり同じものばかりである。
それにしても、そのような「金色燦然たる馬具に飾られた乗馬を有する」「この地域有数の豪族」とは、いったいどういう者であったのであろうか。それはわからないが、しかしそのような武力的、あるいは権力的豪族の伝統がのちに、この地から三河武士といった徳川家康などの戦国武将を輩出させることになったものなのかも知れない。
いずれにせよ、新城市の旗頭山古墳ばかりでなく、豊橋市のそういう古墳のいくつかをたずねてみるのもおもしろいのではないかと思われたが、しかし、これからさきの予定のことを考えるとむりだった。それからまた、豊橋市駒場町に住む地方史研究家の谷崎豊氏からの手紙によると、八名郡や碧海郡には秦氏族が築いたはずの「韓(から)池」ということにほかならない「唐(から)池」や「空(から)池」があるとのことだったが、しかしそれも割愛するよりほかなかった。
渥美半島の秦・漢氏族
伊良湖岬まで
中野博三氏の運転するクルマは、豊橋市花田の羽田八幡宮から、こんどは南の海中に横たわって渥美湾をかたちづくっている渥美半島を、ぐるっと一周することになった。渥美半島というとその中心は、江戸時代の先進的な学者であり、画家であった渡辺崋山で知られた田原町であり、また、現代の文学者で、その崋山を主人公とした長編『小説 渡辺崋山』を書いた杉浦明平氏の住む渥美町であるが、私たちはさきにまず、景観のよい半島をずっとそのまま走って、伊良湖岬まで行った。
このさい、有名な観光地でもある伊良湖岬を一目見ておくのもよいのではないかという中野さんたちの配慮からであったが、しかしその伊良湖岬にも、古びたたたずまいの伊良湖岬明神社があり、また、奈良時代に東大寺の屋根瓦を焼いた伊良湖岬東大寺瓦窯跡があったかとみると、
うつせみの命を惜しみ浪(なみ)にぬれ伊良虞(いらご)の島の玉藻刈り食(お)す
という麻績王(おみのおおきみ)の万葉碑があり、さらにまた島崎藤村の、
名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ……
という詩碑もあった。観光用のものであると同時にそれらもまた遺跡で、とくに、渥美半島のここにどうして、東大寺の瓦窯跡があるのかと考えてみると、なかなか興味深いものがある。つまりこの地には、そういう大量の瓦を焼くことができる技術を持った者たちが、住んでいたということだったのである。
渥美郡と阿曇氏
伊良湖岬からは戻りとなり、そうして渥美半島の古代遺跡をいくつかたずねることになったが、ところで渥美半島、または渥美郡の渥美といえば、これは信濃国(長野県)安曇(あずみ)郡、美濃国(岐阜県)厚見郡、伯耆国(鳥取県)安曇郷、筑前国(福岡県)安曇郷の安曇(厚見)などとも同じもので、古代の海人・安曇族がそこに居住したことからおこった地名であり、それがまた氏族名ともなっていたものなのである。
では、その安曇族とはいったいどういうものだったのか。渥美郡田原町の大草史編集委員会編『大草史』をみると、そのことがこういうふうに書かれている。
渥美郡とよばれるようになったのは、古代この地方の豪族であった渥美氏の先祖の姓阿曇(あずみ)から出ていると思われる。渥美氏の先祖は阿曇(あずみの)連(むらじ)であって、大化の改新(六四五)以前から、祭祀を司る中臣部(なかとみべ)、神への供物を司る忌部(いむべ)、武事を司る大久米部(おおくめべ)・物部(もののべ)らと並んで、海事を司る海部(あまべ)であった。……
三河における阿曇氏は古くから渥美郡の豪族として栄えてきたもので、山田の泉福寺を建立したといわれる渥美重国が、天平年間(七四三)には国造(くにのみやつこ)級であったと考えられる。
応和二年(九六二)村上天皇の時代に中田利左衛門慶則が記したものによると、渥美氏は三十四代推古天皇(五九二〜六二八)から始まっていると云う。記録の年代も確かとは云えないが祖先からの言いつたえをまとめたものと思うので、これによって考えてみよう。
我が祖先の始まりは推古天皇の時であり、新羅の国王からはじめて日本国へ孔雀を献上した。その時の大使が新羅の国王の弟で、日本の国は大変よい所だからまた来たいと申し上げ、それが許されたので、新羅へ帰って日本へ行きたいと願って、許しを得た。
そして一年余りの間に苗木や種、綿の種などを持って大きな船で百人余りの従者を従えて国を出発し、渥美半島の和地に着陸した。すぐに大和へ出向いて推古天皇に再びお目にかかって帰化することになり、渥美太守白水という号をもらった。
〈渥美〉郡へ帰って山田村に城を築いて、持って来た苗木を各所に植え、また樹の種などを各所に蒔いてあちらこちらへ出かけた。家来を宝飯郡・設楽郡にも住ませて、広い範囲に手をのばしていった。
このころ渥美白水は繁国を生み、父子で領土を守り治めた。繁国は菊姫を生み繁信を生む。繁信は繁正を生み、繁正は繁元を生む。繁国の子菊姫は出家して比丘尼(びくに)となり、菊姫王として山田村に、白水を頭の字にした泉福寺を天平十五年(七四三)に建立した。繁正の子繁元は山田城を継ぎ、延長五年(九二七)に大泉寺を山田村に建てた。
繁宗はこれに同意して天慶二年(九三九)に山田の大泉寺は完成した。繁宗は大草の糠塚に居城をつくっていたが、山田の繁元が同意して大草にも天暦四年(九五〇)に大泉寺が建立された。この当時は山田城と糠塚城の二城が一つになって領土を守り、太平を謳歌したことが久しかった。このあとに〈渥美〉郡が発展していったようすがのべてあり、渥美氏六氏の没年院号が記してある。……
さらに中田利左衛門文書には、我が先祖のつたえでは、新羅王の弟白水について来た百人余の家来が各郡に散って住みつき、広い範囲に勢力を伸ばしていったことが書いてあり、我が父は繁宗に随ってきたもので、またその他、富田・寺田・山田・中田・横田の姓のある者は糠塚の城主に随うものであることが書いてあり、中田利左衛門は六代目であるとしている。
和地=和太(ハタ)
紹介されている「中田利左衛門文書」というのがたいへんおもしろいので、つい長くなってしまったが、ここにみられるように、安(阿)曇=渥美氏族の先祖が「新羅王の弟白水」であるかどうかはともかくとして、かれらの先祖が新羅・加耶系渡来人である奏氏族の一派であったことはまちがいなさそうである。それはかれらの「着陸した」ところがほかならぬ「渥美半島の和地」であった、ということからも容易に推しはかることができる。
ここにいう「和地」とは、さきにみた『静岡県史』にもあるように「和太の誤で」、『和名抄』にある渥美郡「幡多郷」とならぶ「和太郷」のことなのである。それがどうして「和地」と誤ったのかはよくわからないが、多分、国内神名帳にある「和知明神」からそうなったのではないかと思われる。なお和太は、日本語では和太(わた)であるが、朝鮮語では和太(ハタ〈テ〉)である。
渥美半島の和太郷はもと福江町、いまは渥美町となっているところがその中心であった。同町の福江には、いま畠(はた)神社がある。幡多郷だった豊橋市花田の羽田八幡宮ほど大きくはないが、それでも大社造の本殿を中心に末社が四社ある境内は約一千坪で、氏子は約六百戸となっている。
日本初の瓦経
私たちはその畠神社から、こんどは渥美町教育委員会をたずね、社会教育係長の下田昭彦氏に会って、『渥美町の文化財』などをもらい受けた。同『――文化財』をみると、国指定史跡となっている指定面積四百二十一・二二平方メートルの、さきにみた同町瓦場の「伊良湖東大寺瓦窯跡」のことがこうある。
伊良湖行のバス停明神前で降り、歩いて南に十分で、初立ダムにつく。堤の西の斜面の窯跡を掘り、十五メートルもある登り窯を三つ見出し、五百に近い東大寺大仏殿と書いてある、瓦の破片が出た。
よい陶土で、よい木材を使って高い温度で焼き自然釉(ゆう)の出ている瓦を、七百年前にこの窯で焼いたのである。一枚の重さは十瓩で布目瓦だ。
発掘の終わりころ、中央の窯から、唐様文字の瓦経を掘りあてた。窯〈跡〉から瓦経が出たのは、日本で初めてときく。
伊勢市をはじめ、わが国で出土した瓦経は多く、伊良湖の銘が入っている。
奈良時代に特徴的な布目瓦ばかりでなく、「瓦経」が出土したというのが珍しいので紹介したが、渥美町にはこのほかにも皿山古窯址群があり、また、六世紀のものとみられる藤原古墳、志知羅古墳などもある。どちらもこの地の和太郷に展開した秦氏族、すなわち渥美氏族と関係あったものであることはいうまでもないであろう。
軒丸瓦に朝鮮文字が
さて、渥美町では、私は同町の折立に住んでいる杉浦明平氏を、ちょっとたずねたいと思っていた。杉浦さんは私も親しくしてもらっている作家で、氏の住んでいるその辺はたいていみな杉浦姓ばかりだと聞いていたから、
「ここはもと和太郷だったところですが、すると杉浦さんたちもその元は――」と、そんなことを言って、明平さんの目を白黒させてみたいと思ったのだったが、電話をしてみると、あいにくなことに名古屋のほうへ出かけたとかで不在だった。で、私たちはそのかわりというわけではなかったけれども、同町丸田に住む元愛知県議会議員の清田和夫氏をたずねることにした。
清田さんも私は杉浦さんから紹介された知人で、紹介されたそのときか、そのあとのときだったかは忘れたが、そのとき清田さんは、
「わたしたちのいる渥美半島にも、朝鮮からの渡来人が住んだというところがありますよ」と言ったのを、私はおぼえていたからだった。いまになってみると、それはご自分たちのいる和太郷のことで、さきにみた畠神社あたりのことを言ったのではなかったかと思ったが、しかしたずねて会ってみると、そこは意外にも、渥美半島中央部の田原町のほうだというのだった。
そして清田さんは、田原町芦村(あしむら)に住む考古学者の小野田勝一氏をたずねてみろと言って、その小野田さんに電話をしてくれた。で、私たちのクルマは豊橋へ向かう国道二五九号線を走って、田原町の芦村へ行ったところ、だいたい渥美半島というのは全体が肥沃な平野地だったが、その平野地の畑のなかに、「史跡 大アラコ古窯跡」とした田原町教育委員会の大きな立札が目についた。
「アラコ」というその地名が私には何となく気になったが、小野田さん宅は芦村の阿志(あし)神社という神社のすぐ裏手にあった。「阿志神社――」とまた私は、その「阿志」というのもちょっと気になったものだったが、一目で、いかにも温厚な人という感じの小野田さんは、初対面だったにもかかわらず、鮨などをとって私たちを待っていてくれた。
小野田さんは、自宅にもちょっとした考古資料室をもっていて、私たちはそこに陳列されている土器などみせてもらったが、それがひととおりすむと、
「そこの阿志神社の軒丸瓦(のきまるがわら)、ごらんになりましたか」と小野田さんは、私に向かって言った。
「ええ、いまちょっと寄ってみましたが、しかし軒丸瓦のほうは――」と、私はこたえた。私はまだなにも知らなかったので、とくに、というふうにはそれをみていなかったのである。
「これです」と言って、小野田さんは別にとってあったその軒丸瓦の一つを、私の前に持ってきてくれた。
「へえ、これはハングル、朝鮮文字じゃないですか」
私はその軒丸瓦を手にとって、はじめのうちは何のことかよくわからなかったが、そこに刻まれている文字が「」(アシ=阿志)という朝鮮文字だったのでびっくりした。
すると、小野田さんはにこやかな笑みを顔にうかべて、さきにみた大部の大草史編集委員会編『大草史』を一冊、私にくれた。「凡例」に「本巻の編集・執筆は、日本考古学協会員小野田勝一氏が当った」とあるものだったが、そこに「五 阿志神社と大草」という一節があって、那賀山乙巳文氏の「参河国渥美郡の阿志神社と帰化氏族の開発」などが引かれたりして、そのことがかなりくわしく書かれている。
阿志神社と漢(あや)氏
ここでは、別にまた入手した那賀山乙巳文氏の「――阿志神社と帰化氏族の開発」そのものによってみるとこうなっている。
愛知県田原町の大字に芦(あし)というところがあります。ここは、近年田原町に編入せられた合併村であります。ここには周囲六キロ(四十八町八反余)近くの大池(灌漑用)があるので有名でありますが、ここに阿志神社という古社があります。この古社は、芦という字名(あざめい)にもつながりをもつもので、この字の発祥はこの神社に深い縁由をもっているのであります。……
この神社は、一千年前の延喜時代(九〇一〜九二二)に、渥美郡唯一の式内社(中央政府に登録せられた官社で、神祗(じんぎ)官或(あるい)は国司(こくし)が直接奉幣(ほうへい)した神社)として知られていた神社であります。この頃そのように有名な神社であったのを見ますと、ここに、この神社を奉斎した有力な氏族の居たことが窺(うかが)われます。その証左は、近年数次に亘(わた)って発掘せられました該地(がいち)の古墳群によって裏づけられましたが、この古墳(芦ケ池東北の丘陵一帯)の副葬品(玉器・金属器)を見ますと、ここには早く相当高度の文化と、経済力を持った氏族の居たことがわかります。芦ケ池は、こうした副葬品を所有した氏族の築造したものと思われるのであります。この有力な氏族とは、いかなる氏族でありましたか。次にそのことを述べて見たいと思います。
今から十年前(昭和二十九年頃)私は、上代における当地方の交通路を調べたことがあります。そのとき浜松の先学内田旭氏(昭和三十七年物故)が私の調査に関連して、阿志神社について意見を述べられました。それは私たちのやっています機関誌『三遠』に載せられましたが、氏は、この神社は帰化系の氏族の使主阿智(おみあち)の系統が、奉斎したものであろうといわれました。
「それは大和国高市郡檜前(ひのくま)にある於美阿志(おみあし)神社である。この神社は延喜式に列し、於美阿志は使主阿智(おみあち)というに当り、檜前忌寸(ひのくまのいみき)の祖神である。使主阿智は朝鮮の百済(くだら)よりわが国に移住した集団の長であり、大和の檜前に地をもらい、ここに居住した。これによって、その子孫が檜前忌寸となった。忌寸は役名である。
一氏族の集団がその居住地に、祖神を祭神とする神社を創設するは昔よりの慣例である。使主阿智の後裔で、武人として知られるは坂上氏である。坂上氏の刈田麿(かりたまろ)〈麻呂〉事蹟は続紀に見られ、その子を田村麿〈麻呂〉という。坂上氏族が移住する所に、阿志神社を創立するのは必然のことである」……
内田氏のこの意見は、実に卓見であります。今までこれだけ進んだ考えをもって、この神社を見た人はありません。私はこの考えに啓発せられ、しばしば現地を訪れて調べましたが、訪を重ねるに従って、氏の考えの真なることを知りました。氏のいわれる如く、この地は、使主阿智系統の開発に依るもので、阿志神社は、この開発者が祖神を祭ったものに相違ないと思います。それは前述した史料からも知られますが、今日なお「阿志」に因(ちな)む字名を用いていることによっても頷(うなず)かれます。
ここにのべられていることは、東漢(やまとのあや)氏族(漢人(あやひと)ともいう)の檜前忌寸から出た坂上氏族の「坂上系図」に、「時に阿智王、奏して今来(いまき)郡を建つ。後に改めて高市郡と号す。しかるに人衆巨多にして居地隘狭(わいきよう)なり。更に諸国に分置す。摂津・参河・近江・播磨・阿波等の漢人(あやひとの)村主(すぐり)これなり」とあることからもうなずけるもので、要するに、田原町芦村の阿志神社は、百済・安耶(あや)系渡来人である漢氏族の祖神を祭った神社の一つだったのである。
そうしてみると、近くにあった「大アラコ古窯跡」のアラコというのも、安耶(安羅・安那)の安羅処(あらこ)ということからきたものではないかと思われるが、しかしそれはどちらにせよ、では、その阿志神社の軒丸瓦にどうして「」(アシ=阿志)という朝鮮文字が刻まれることになったのか。私たちは小野田さんともども、あらためてまたその神社をたずねてみたが、ずらっと並んだ軒丸瓦の全部に、「」の字がこれまたずらっと刻み込まれていた。
そのことの答えは、かんたんだった。小野田さんの説明によると、阿志神社の屋根瓦があらたに焼かれて葺(ふ)かれたのは明治のはじめであったが、そのとき物知りがいて、「これは朝鮮からの――」ということからそうしたのではないかとのことであった。その物知りとはだれだったかというと、それがさきにみた豊橋市花田にある羽田八幡宮の神主であるとともに、平田篤胤門下の国学者だった羽田野敬雄であった。
熱田神宮と尾張氏
熱田神宮の広大な境内
三河(愛知県)からその西部の尾張(同)となったが、尾張ということになれば、すぐ思いだされるものに、この地に勢力を張っていた尾張氏族が祭っていたという熱田神宮がある。そして熱田神宮ということになると、私も子どものころ、日本の小学校で教えられたことのある草薙剣(くさなぎのつるぎ)(天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ))である。
そういうこともあって、尾張ではまず、名古屋市熱田区神宮坂町にある熱田神宮からたずねることにした。以前、名古屋まで来たついでに、何となく来てみたときを含めると、熱田神宮へはこんどが二、三度目ではなかったかと思うが、いつ来てみてもおどろくのは、深い原生林におおわれた広大な境内である。簡素であるとともに豪壮な神明造の拝殿や、「本宮中重」といわれる本殿などにしてもそれで、いったいここにどうして、こんな広大・豪壮な神宮ができたのであろうか、とあらためてまたそう思わずにはいられない。
私はそんな思いにとらえられながら、境内をゆっくりとひとまわりし、社務所の「神符守札授与所」なるところで、『熱田神宮』とした写真集やパンフレットなどを求めた。そのなかの一つ「熱田神宮について」をみると、こう書かれている。
名古屋市の中央に広がる緑の神苑「熱田の森」に鎮(しずま)ります熱田神宮。――その昔から「熱田さん」と呼ばれて親しまれ、年間一千万人に近い参拝の人々でにぎわい、地元名古屋はもとより、全国の人々から「日本の心のふるさと」として限りない崇敬と信仰を集めてまいりました。
「年間一千万人に近い参拝の人々」とはこれまたおどろくべきことであるが、つづけて境内・社殿などのことがこうある。
境内は、昔から雲見山・蓬莱島(ほうらいじま)の名で知られ、大都会の中心にありながら静かで、市民の心のオアシスとして親しまれています。面積約十九万平方米(約五万七千六百坪)、境外地をあわせると約五十三万九千平方米(約十六万三千四百坪)にのぼります。神苑の樹木はクス・ケヤキ・カシ・シイ・ムク・イチョウ・クロガネモチ等比較的広葉樹が良く育ち、ことにクスは巨木が多く、樹齢千年前後と推定されるものが数本あります。有名な木には、花が咲いても実のならない「ならずの梅」、茶人の愛好する「太郎庵椿」、弘法大師お手植と伝える「大楠」などがあります。
境内・境外には、本宮のほか、一別宮、十二摂社、三十一末社がまつられています。本宮社殿の構造は、昔から尾張造という特殊な形式でありましたが、明治二十六年から現在のような神明造に改められ、現在の社殿は昭和三十年に、その御造営が完了して、御遷座を行ったものであります。
熱田神宮と草薙剣
名古屋のような大都会には「住む土地がない、少ない」というのはまるでウソのような境内・境外地の広さであるが、ところで、この熱田神宮の祭神は熱田大神、すなわち草薙剣がその神体となっている。草薙剣とは広く知られているように、『古事記』の出雲神話とかかわる天叢雲剣のことで、これは須佐之男命(素戔嗚尊)が出雲で八俣遠呂智(やまたのおろち)を退治したときにえたものとされ、いわゆる三種の神器の一つとなっている。
それが熱田神宮の神体となっているのは、倭建命(やまとたけるのみこと)(日本(やまと)武尊(たけるのみこと))の「東国征討」ということと結びついてそうなったとされているが、「ところで、この倭建命が実在の人物でないことはいうまでもなく、倭建命という名は“大和の勇者”という普通名詞である。この物語りは数多くの大和の勇者によるいくたびかの征討の伝承が、一人の英雄に形象化されたもので」と、塚本学・新井喜久夫氏の『愛知県の歴史』にあるように、いわゆる倭建命のそれを事実とみることはできない。
「では、草薙剣はどうして倭建命伝説とむすびつけられたのだろうか」と、そのことについては、いまみた『愛知県の歴史』につづけてこう書かれている。
まず、この剣が史上に姿をあらわすのは、ぐっとあたらしく、天智七年(六六八)、道行(どうぎよう)という僧が草薙剣をぬすんで新羅(しらぎ)へ逃げようとしたけれども、風雨にまよって帰ったという記事が最初である(『日本書紀』)。つぎは朱鳥(しゆちよう)元年(六八六)、天武天皇が病気をうらなったところ、草薙剣のたたりとわかったので、いそぎ尾張の熱田社に送ったとあるものである(『日本書紀』)。
いずれも、草薙剣がもと熱田社にあったということを証明してはいないが、当時、草薙剣がかなり著名な剣であったことはまちがいない。それは尾張氏の女(むすめ)が継体(けいたい)天皇と婚をむすんだこと、その腹から生まれた安閑(あんかん)・宣化(せんか)天皇があいついで即位したことなど、尾張氏にたいへん有利な情勢が六〜七世紀の大和朝廷の内部におこっており、その尾張氏の奉祀する神剣もまた、それにつれて著名なものとして知られるようになっていったのである。
倭建命伝説は六世紀に一度まとめられ、『旧辞』のうちにふくまれることはさきにのべた。その後、『古事記』・『日本書紀』の編さんのはじまった天武朝以降に、『旧辞』の原型にさまざまな修飾がつけくわえられ、このとき倭建命伝説も総仕上げがおこなわれた。伊勢神宮の剣をあたえられることによって活躍し、その剣を手ばなすことによって破滅するという構想は、伊勢神宮のがわからくわえられた修飾であるという。当時、著名であった草薙剣も一役かわされて、もと伊勢神宮の剣であったというようにつくりかえられているのである。いずれにせよ、古くから尾張氏のまつる熱田社の剣が倭建命伝説に組みこまれたのはそう古いことではない。
要するに、熱田神宮の神体となっているいわゆる草薙剣(天叢雲剣)というのは、尾張氏族の祭る剣が、尾張氏の勢力伸長にともなってそのように付会されたものだ、というのである。私もそうではなかったかと思うが、だいたい、『古事記』や『日本書紀』などには「新羅の王子」となっている天日槍(あめのひぼこ)(天之日矛(あめのひぼこ))の渡来伝説をみてもわかるように、剣(矛)を神として祭るのは、新羅・加耶系渡来人集団のもっていた習俗であった。
念のためにみると、天日槍のそれについては、直木孝次郎氏もこう書いている。「天日槍の伝説が成立した事情については、いろいろな解釈があるが、日槍をそういう名をもつ一人の人物と考えてはならないだろう。おそらく矛や剣で神を祭る宗教、または矛や剣を神とする宗教を奉ずる集団が朝鮮、とくに新羅から渡来したことが、この伝説のもととなっていると思われる」(『兵庫県史』第一巻)。
したがって、私はさきに引いた『愛知県の歴史』にみられる「道行という僧が草薙剣をぬすんで新羅へ逃げようとした」とはいったいどういうことであったろうか、と思わないではいられない。熱田神宮で求めた『熱田神宮』「由緒」には、「新羅国の僧道行は、ひそかに神剣を盗んで帰国しようとしたが、風雨のため難波に漂着し捕えられた」とあるけれども、だとしたら、この僧道行はいったいどうして、その「神剣を盗んで帰国しようとした」のであろうか。また、どうしてそれを「盗む」ことができたのであろうか。
神体・草薙剣の実像
事実だとすれば、いろいろなことが想像されるが、一つはその剣が新羅と関係の深いもの、あるいはもしかすると、新羅でつくられたものではなかったかとも思われる。もちろん、熱田神宮の神体となっているその剣を、われわれは直接この目でみることはできない。が、しかし、それをみた者はいた。『愛知県の歴史』はさらにつづけて、そのことをこう書いている。
草薙剣については、江戸時代のなかごろ、岡田正利によってあらわされた『玉籤(ぎよくせん)集裏書』という書物に、松岡正直よりの聞書(ききがき)としてつぎのようにつたえている。
「八○年ほど以前、熱田大宮司(だいぐうじ)や社家のものがひそかに御神体を窺(うかが)ったところ、剣は長さ二尺七〜八寸(約八○数センチメートル)、刃先は菖蒲(しようぶ)の葉のかたちをしており、なかほどはムクリと厚みがある。その本(もと)の方は六寸(約一八センチメートル)ばかりが節立(ふしだ)っていて、魚の背骨のようなかたちをしていた。そして色は白っぽかったという」
この記述がただしければ、北九州の弥生中期から後期にかけての三雲(みくも)遺跡から出土した有柄細形(ゆうへいほそがた)銅剣とよく似たものということになる。だが、三雲の銅剣は一尺七寸(五一・五センチメートル)であり、草薙剣はこれより一尺ほどながい。相当大きな剣ということになり、最初から宝器としてつくられ、まつられてきたものであろうか。
尾張の新羅系渡来人
いわゆる草薙剣は「一尺ほどながい」ということがあるかも知れないが、しかし、北九州で出土した「有柄細形銅剣」ということになると、それはほとんどみな新羅・加耶から渡来したものとみてまちがいない。このことについては、私は「加耶からみた古代日本」(「明日香風」第四号・一九八二年八月刊)などにかなりくわしく書いているけれども、北九州は古代朝鮮の新羅・加耶が半分ほどそのまま引き移って来たようなところなのである。
そしてそれが北陸にも入って、日本各地にひろがって行くのであるが、尾張もそういう地だったもので、たとえば、能坂利雄氏の『北陸古代王朝の謎』をみると、なかにこういう文章が散見される。
鳥居龍蔵は、名古屋市熱田貝塚の弥生人骨に、現代日本人的特徴が認められるとする人類学の研究成果を基礎とした説を発表した。日本人の祖である固有の原日本人が朝鮮半島から移住し、現代アイヌの先祖である縄文人と交替したとして、人種交代説を強調している。
ヲハリは墾(はり)の意で原野を新しく開いた耕作地を指す。大針、小針、尾張、大張などの表記で各地に点在するが、福井をはじめ北陸の漁村などではハラ、ワラともよぶ。原っぱではなく、村落そのものを指す。
しかし原初的には、朝鮮語の評(郡=コホリ・コフル)のフリ・ホリなどと関係があろう。というのはフルとも同幹で原初的には貯える所、生産するところの意味から発展したらしい。恐らく、海人集団の農耕的定着を物語る。
そして能坂氏は、さきにみた新羅・加耶系渡来人集団の象徴ともいうべき天日槍を祖神とする尾張氏族が日本海側にもあったことを指摘し、熱田神宮を祭っていた尾張氏族もそれではなかったかとしているが、この説にはうなずかれる点が多いように思う。なぜかというと、それはのちにみる白山信仰の分布ともかかわることで、そういうところからみても、この尾張にも新羅系渡来人が集住していたことはたしかである。
そのことは、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」に尾張のそれとして、「熱田町白鳥古墳」ほか六つの古墳があげられていることからもわかるが、なおまた、『続日本紀』七一六年の霊亀二年条をみるとこうある。
尾張国の人、外従八位の上、席田君邇近(むしろだのきみにこむ)および新羅人七十四家を美濃国に貫(うつ)し、始めて席田郡を建つ。
その席田郡についてはあとの美濃(岐阜県)でもみることになるが、ここにいう「新羅人七十四家」とは、これは後世のそれとちがい、一つの村が一家族であったような大家族主義の当時からすると、相当大きな数だったにちがいない。それがどうして尾張から美濃にうつされることになったのかはわからないけれども、尾張にはそのようにたくさんの新羅系渡来人がいたのである。
それからまた、尾張の名古屋市に住む地方史研究家渡辺鉉一氏の、一面では私を批判するために書かれた「『壬申の乱』と尾張」をみると、渡辺氏は、尾張における新羅系渡来人が祭ったものとみられる棉神社、多奈波(たなは)神社、羊神社、伊奴(いぬ)神社などのことをしるし、つづけてこう書いている。
四つの神社を見ただけで結論を出すのは尚早かもしれないが、名古屋の東北から西北方へかけての土地には、稲作農耕を営む新羅系渡来人が住みつき、生活を営んでいたとみられるのである。そしてここから美濃、いわゆる岐阜方面にかけて新羅系と思われる神社がかずかずある。列記すれば、伊那波神社(稲沢市)・白山神社(犬山市)・白山社三社・白石稲荷・白髭神社(江南市)などである。
尾張と壬申の乱
それからさらにまた、いま私は、渡辺氏のこの「『壬申の乱』と尾張」は「一面では私を批判するために書かれた」といったが、それは私の「『壬申の乱』の道を歩く」(中日新聞・東京新聞に五回連載)というのに対するもので、このなかで私は、六七二年に天武帝によってひきおこされた「壬申の乱」に美濃の新羅系渡来人がとくに大きな役割をはたした、とした。が、しかし、それは美濃ばかりでなく、尾張における新羅系渡来人も、――というのが渡辺氏の主張であった。
まさにそのとおりで、当時の私はまだ尾張のほうはよく知らない、ということがあったからだった。いま考えると、渡辺氏の私への批判は当をえたものであったばかりか、同時に尾張のことを語ることにもなっているので、ちょっと長いけれども、それをここに引いておくことにしたい。
金達寿氏は「壬申の乱」をひきおこしたのは、天武帝・大海人(おおあま)であり、〈天武帝は〉新羅一辺倒であった、といってことばがすぎるとすれば、少なくともそのあいだがらはもっとも密接であったと述べておられるが、私はこの言に賛同したい。そうでないと「壬申の乱」そのものの中味がわからなくなってしまう。和歌森〈太郎〉・井上〈光貞〉両氏が述べておられる、二万の衆が近江朝から寝がえるということは全く考えられないことである。直木〈孝次郎〉氏や北山〈茂夫〉氏の〈尾張における〉募兵論は、当を得ていると思うし、金氏の美濃とのつながりは正鵠な言であると思っている。
ただここで一、二、私の考えを書いておきたい。
前記の募兵の方法について私は、尾張への使者は、朝明川川口の朝明郡家から船で尾張へ向かったのではないかと思う。なぜならば、朝明川の上流には猪名部(いなべ)集落がある。今でいう員弁(いなべ)である。猪名部は上田〈正昭〉氏の説にあったように、〈新羅系渡来人の〉造船技術集団であり、最初に書いたように最も好ましい連絡路だと思うからである。
いま一つは、金達寿氏へのお願いであるが、金氏が、私がこれまで例示してきた尾張の実態をもう少し知っておられたならば、美濃一辺倒的な考えが変るのではないかということであり、いまいちど検討していただきたいのである。
「壬申の乱」に尾張は片棒をかついだのではなく、両肩とも使ったのではないかと思っている。大海人のわずかな挙兵で戦えるとは考えられない。尾張・美濃にいた新羅系渡来人が、この機を待ち望んでいたのではないか。その機が到来したので、暑さ(新暦では七月下旬か八月上旬になる)をものともせず、大海人軍に従ったものと私は思っている。
「せともの」と白山
瀬戸と「せともの」
前項のはじめに私は、「尾張ということになれば、すぐ思いだされるものに、この地に勢力を張っていた尾張氏族が祭っていたという熱田神宮がある」と書いたが、さらにまたもう一つすぐ思いだされるものに「瀬戸(せと)」がある。陶処(すえと)、または須恵処(すえと)がつまってそうなったといわれる瀬戸は、尾張東部の瀬戸市というところの地名でもあるが、しかしわれわれにすぐ思いだされるのはその瀬戸でつくられる「瀬戸物」、すなわちわれわれの日常生活に欠くことのできない「せともの」ということでの瀬戸である。
早いはなし、愛知県歴史教育者協議会編『愛知県の歴史散歩』をみると、その「瀬戸市」のことがこうある。
尾張東部の丘陵にさしかかる手まえに“瀬戸物のまち”瀬戸がある。中心部を流れる瀬戸川のにごりぐあいで町の経済がわかるといわれるくらい、陶磁器の生産でなりたっているまちだ。
瀬戸物の起源は、猿投(さなげ)窯(猿投山西南麓古窯跡群)にもとめられる。古墳時代、須恵器生産の中心地だった大阪南部の窯業の衰退にかわって猿投山麓の窯業が急速に成長する。奈良時代は、猿投窯の最盛期だった。しかしこれも、平安末期にはおとろえる。
かわって登場するのが瀬戸だ。“古瀬戸”とよばれる施釉(せゆう)陶器が出現し、日本の窯業にひとつの画期がもたらされるのは一三世紀だ。古瀬戸は、……藤四郎(加藤四郎左衛門景正)の創始とつたえられている。彼は瀬戸の祖母懐(そぼかい)で良土を発見し、あらたな技術による焼成に成功した。
以後、瀬戸の陶業はいくたの盛衰をへたが、一九世紀初め、加藤民吉が九州天草(あまくさ)の技術を導入して磁器の製作に成功した。藤四郎は陶祖(とうそ)とよばれ、陶彦(すえひこ)社(深川神社)にまつられており、ここに藤四郎作といわれる狛犬(こまいぬ)(重文)の雄(おす)だけがある。民吉は磁祖(じそ)とよばれ、窯神(かまがみ)神社にまつられている。
瀬戸と「せともの」(磁器)との来歴をみたわけであるが、その「せともの」の源流である猿投窯と須恵器とのことはあとでみるとして、まず、私はそこの瀬戸をたずねてみることにした。秋のある日、こんどは、私のこの旅によく同行してくれている阿部桂司君がいっしょで、さきの熱田神宮のときとは別に、あらためてまた新幹線の名古屋駅におり立った。
名護屋帯の誤解
あらためて来た、ということだったからか、私はその名古屋ということで、忘れていたある一つのことを思いだした。それというのは、ひところ、放送作家の永六輔氏が「旅支度ミニガイド」というのを「週刊朝日」に連載していて、一九七六年十月十五日号の「唐津(佐賀県)」にこういうくだりがあったのである。
上方舞の「名護屋帯」は男に裏切られた遊女の怨みをうたったものだが、この名護屋を、ずっと名古屋だと思っていた時期があった。
「名古屋帯」で通じてしまうこともあるかもしれないが、唐津から名護屋に出て、かつてここに城を築いた加藤清正が、その兵士たちのために遊女を集め、彼女たちが朝鮮の衣裳をとりいれて、名護屋帯が出来たことを知った。
そもそもは遊女の帯であり、それが流行の発端となったのは楽しいことである。
私も「なごや帯」とは「名古屋帯」だと思っていたばかりか、それが朝鮮の衣裳からとりいれられたものとは知らなかったので、「ああ、そうだったのか」と思ったものであった。永氏が「唐津から名護屋に出て」そのことを「知った」というのも、現地へ行ってみなくてはよくわからないということの例の一つで、そういうことからも、私はこれをおぼえていたのである。
一行五人で
名古屋から名鉄瀬戸線に乗りかえた私たちは、間もなく瀬戸駅についた。すると、阿部君の義弟の鈴木悠資君と金憲鎬君とが、そこまで出て来てくれていた。二人は加藤〓治氏の掬水陶苑で働いている陶芸家で、私は金君とは初対面だったが、鈴木君とはまえから面識があった。
というのは、鈴木君は東北大学の工学部を中退して陶芸家を志すことになり、京都のある陶芸家のもとへ修業に入ることになったとき、私がそのあいだの口利きとなったことがあったからである。以来、鈴木君は京都から瀬戸へうつるにしたがって、さらにその腕があがり、近くメキシコへ陶芸指導におもむくことになっていた。
まだ二十代の金君は私の知る限り、在日朝鮮人としては、最近亡くなった信楽(しがらき)の具興植氏につぐ陶芸家である。私はこの金君からは古瀬戸風の花活けを、鈴木君からは李朝のそれと見まがう白磁鉢をもらっているが、どちらもすばらしいもので、それを私はいまも自分の仕事部屋に飾りとしておいてある。
私たちは瀬戸駅のそこから、こんどは瀬戸市東吉田町にある瀬戸南学習塾に向かった。その塾長である南光雄氏とはまえまえから、「瀬戸のあたりを歩くときはいっしょに」と話していたからである。丘のうえにある瀬戸南学習塾は、生徒が七百余人もいるという、それ自体が立派な一つの学校となっていた。
こうして私たち一行は五人となり、南さんと鈴木君とのクルマに分乗し、いたるところ大小の陶磁器工場が目につく市内を走って、さっそく瀬戸の氏神となっている深川町の深川神社からたずねることにした。そして夜は阿部君ともども、南学習塾のそばにあった南さん宅で泊めてもらい、翌日も豊田市の猿投(さなげ)神社から、そこは美濃(岐阜県)となっている多治見市の新羅神社までまわったものである。
深川神社の古墳
南さんや金君などは、高句麗・百済とともに古代朝鮮三国の一つであった新羅の名称をそのまま伝えている、新羅神社がそこにあるのにびっくりしたようだったが、それはあとの美濃でみるとして、瀬戸の深川神社でまず私の印象に残ったのは、そこの境内にある深川神社古墳だった。横にたっている掲示板や、社務所でもらった『深川神社のしおり』にこう書かれている。
深川神社拝殿右前に残存する横穴式円墳である。石室の中心軸は四メートル。長年の風雨の浸蝕で、墳丘のほとんどが流出して、石積みだけになっていたが、近年、土盛りをして修復した。石積みの方法や規模から推定すると、六世紀に成立したものと考えられる。(文化庁遺跡分布図番号二七二六)
私は、横穴石室の前方部が露出しているその深川神社古墳の前に立って、「なるほどなあ」と思ったものであるが、この「なるほどなあ」ということには、いろいろな意味があった。それは深川神社というものの実体にもかかわることで、私も民俗学者の谷川健一氏と同じように、もちろん例外はあるけれども、まえまえから神社・神宮とはもと祖神廟(そしんびよう)として、その地にいた首長の古墳を祭ったものと考えているが、深川神社もやはりその一つであったということである。さきにまず、谷川氏のそれをみることにする。
私は日本各地の神社をたずねあるくことを近来の仕事の一つとしているが、そこで気の付くことは、神社の境内に古墳が多いという事実である。神社は聖(せい)であり墓地は穢(わい)であるという聖穢の観念にわざわいされて、神社の中に墓地があるのをかくしたがる神主や禰宜(ねぎ)もあり、なかなかその実情に触れたがらない。
だが、こうした観念自体が仏教の渡来普及以後のことであって、それ以前には死者と生者を隔離する聖穢の観念があったわけではない。一族の祖先や土地の豪族の埋葬地を礼拝するのは当然のことで、後代の神道(しんとう)家が忌避するようなものではまったくない。
神社の起源が古墳であるというのは、何も私の発見ではない。すでに江戸時代以来、多くの学者が指摘しているところである。
主祭神は白山比
そのとおりであると私も思っているが、しかし瀬戸の深川神社のばあいは、ちょっとおもむきがちがっているようである。「六世紀に成立したものと考えられる」という深川神社古墳の被葬者がだれであるかはわからないが、これが深川神社の祭神のひとりとなっていることはまちがいないとしても、それが主祭神ではないからである。
だいたい、『深川神社のしおり』によると、「祭神には」として「天忍穂耳(あめのおしほみみ)尊」以下「五男三女神(天照大神の八人の御子)がお祀(まつ)りしてあります」とある。それからさらに「摂社には」として「白山社(祭神・菊理日売命(くくりひめのみこと))」以下「陶彦社(すえひこしや)」までの六社が列記され、「陶彦社は瀬戸陶業の始祖、加藤四郎左衛門景正をお祀りしてあります」となっている。加藤四郎左衛門景正についてはこの項のはじめにみているように、これはもちろん深川神社古墳とは関係のない、十三世紀の人である。
このようにみると、深川神社にはずいぶんたくさんの神さまが祭られているわけであるが、では、そのほんとうの主祭神はどれであるかというと、それは、いまは摂社の一つとなっている白山社の祭神・菊理日売、すなわち白山比〓(しらやまひめ)という女神なのである。深川神社古墳の被葬者はおそらく白山を信仰し、その白山神社をここに祭っていた氏族の首長だったにちがいない。そして、かれも死んでからは神としてそこに併祭されたにちがいないが、それは後世になるとともに忘れられて、いつの間にかただそこに古墳があるだけ、ということになったのである。
須恵器と白山信仰
深川神社の主祭神が白山神社の白山比〓(菊理日売)であるということについては、さきの三河「新城の旗頭山古墳群」の項でみた座談会「尾張・三河の古代文化」で、本多静雄氏がかなりくわしく語っている。なお、ここで本多氏をちょっと紹介すると、氏は、私も親しくしてもらっている文芸評論家本多秋五氏の実兄で、豊田市平戸橋町に「さなげ古窯 本多記念館」という陶芸資料館を持っている。
私は瀬戸をたずねるよりさきに、その本多記念館も行ってみており、さらに本多氏の広い屋敷内につくられている資料館もみせてもらっているが、本多記念館とともに、この資料館は各時代の須恵器があつめられている、一大宝庫のようなものとなっていた。さて、その本多静雄氏は次のように語っているが、これは深川神社の主祭神のことのみでなく、瀬戸焼(「せともの」)の源流となっている猿投(さなげ)古窯の須恵器と、そのような須恵器・陶器づくりをしていた白山信仰者集団とについての重要な証言となっている。
わたしは二十五年前に猿投古窯の発見に関係し、そして三年間ほど窯跡をさがしました。奈良・平安時代の須恵器窯が約四百ヵ所、それにつづく山茶碗窯が約千ヵ所ありました。それが鎌倉時代の施釉(せゆう)器〈いわゆる“古瀬戸”のこと〉につづきます。自分の故郷のことですから、尾張・三河はいやというほど歩きました。そうすると誰も気付かなかったのですが、白山神社がそれらの窯跡のある村には、かならずと言っていいほどあるわけです。
熱田のお宮さん〈熱田神宮〉のことは、日本武尊の伝説から、子供の時から聞かされておりましたが、あそこは近くに白鳥神社というのがありますし、その東方台地には天白社があります。その白(しら)という字に何となくこだわりをもっていたのですが、白山神社が思いの外にたくさんあるということが、新しい発見でした。それをみて行くと、窯跡のあるところへ行ってしまうというわけです。また、狛犬(こまいぬ)がその白山神社にはたくさんあるのですね。
それでおかしいと思っているうちに、文部省の白山総合調査報告が出ましたので、それで白山周辺のいろんなことを知ったのですが、白山の主神と同じく瀬戸の氏神さまである深川神社の主神が女の神さまであって、元亨二年銘の鐘が社宝にあって、それに「伊勢天照大神宮白山妙理大権現/八王子の鐘なり」と書いてある。深川神社は祭神としていろんな昔の天皇の名前などものっているのですが、残っている一番古い鐘からいくと、女の神さまで、しかも朝鮮の神さまで、日本の神さまとの二本だてになっている。
それから猿投神社は、その周辺、尾張・三河・美濃にまたがった八十数ヵ村の総氏神のような格式の神社で、景行天皇の王子の大碓命(おおうすのみこと)を祭ってあるということになっていまして、山の上に御陵があります。戦後、大場磐雄さん〈国学院大学の考古学者〉が猿投神社へこられて、こんな山の上に御陵があるわけがないと言った。しかも神社のご神体をひそかに見られて、それが女神であるといわれました。それまでは、そんなことはタブーだった。そこへ白山総合調査報告が出ましたから、それを読んでみたら、白山→猿投→深川の系譜がわたしとしてすーと通っていくんですね。
「朝鮮の神さまと日本の神さまとの二本だてになっている」という深川神社の鐘の銘、「伊勢天照大神宮白山妙理大権現……」の伊勢天照大神にしても、朝鮮からのそれだったと私は思っているが、それが白山妙理大権現といっしょになっているのは、おそらく後世、元亨二年(一三二二)時における付会であるにちがいない。しかしそれはどちらにせよ、猿投神社の神体が深川神社と同じ女神、すなわち白山神社の白山比〓(菊理日売)だったとは、はじめて知ることであった。
続「せともの」と白山
「サナゲ」とは何か
さきにいったように、私たちは豊田市猿投町の猿投山麓にある猿投神社もたずねたが、「境内地および社有林、合わせて六十町歩」という、うっそうと茂った森林のなかに本殿・拝殿・祝詞(のりと)殿・四方殿などがあちこちに建ちならんでいる壮大な神社だった。ところで、猿投神社という、その「サナゲ」とはいったいどういうことか。
社務所でもらった『猿投神社由緒記』によると、「語義については、……唯、字音を借りたもので他に何ら、意義を有するものではないといわれているが」とあるけれども、本多静雄氏の『古瀬戸』(氏にはこのほかにも『猿投西南麓古窯趾群』『幻の壼』などの著書がある)をみると、そのことがこう書かれている。
さて、猿投という名前は猿が投げると書いているけれども、これは無論あて字で本来の意味を示さない。猿には直接何も関係はない。サナゲという地名はサナという言葉に関係し、これは古くは鉄冶金(やきん)に関係する言葉で、福士幸次郎著の『原日本考』を引用させてもらえば、サナとはイザナギ、イザナミもこれと同一語源から来ており、これは高熱を作るときの火床の格子のことで、鉄冶金をはじめとして、高熱を利用する陶器の製造にも関係のある言葉である。
猿投とはそうした意味だとすれば、古墳時代から焼いているこの周辺の須恵器生産と猿投の地名とは、充分合わせて考えるべきである。
では、ついでに「この周辺の須恵器生産」、いわゆる猿投窯とはどういうものであったかというと、それについては『さなげ古窯 本多記念館』にこうある。
猿投窯とは、猿投山西南麓古窯趾群の略称で、古墳時代の須恵器生産を母胎とした奈良、平安時代における須恵器の一大生産地であった。
窯趾は名古屋市東部から日進、東郷、三好町と刈谷、豊田市の一部にわたる丘陵地帯に一二〇〇趾以上みつかっており、ここで灰釉(かいゆう)を薄く施した陶器が日本で始めて生産されたとしている。その使用は宮廷、官衙、寺院、武家等を主とし、遠く奥州の多賀城趾からも、これが出土している。
ついでにまた、ここにいう須恵器とはどういうものであったかというと、末永雅雄氏の『古墳』にこうある。
わが古墳時代前期かあるいはそれ以前に朝鮮より伝播してきたものとされ、原産地は新羅と推定している。同質の土器が新羅の古墳からたくさん出土するので、新羅焼ともいわれる。須恵器の源流を新羅に求めることは、ほぼ間違いないことだと学界では認めている。
白山信仰の由来
最近の研究では新羅というよりも、須恵器の元の源流は、のちこれも新羅となった加耶だということになってきているが、そのことについてはいずれまたみるとして、尾張におけるその猿投窯須恵器を生産していた人々は、白山神社の祭神・白山比〓(菊理日売・菊理姫とも書かれる)を自分たちの守護神とする、白山信仰の人々であった。それがさらに猿投から瀬戸へとひろがって、今日のいわゆる「せともの」をつくりだしたわけであるが、ここにみられる白山信仰は、加賀(石川県)にそびえ立っている白山(はくさん)、鶴来にある加賀国一の宮の白山比〓(しらやまひめ)神社からおこったものであった。
そしてそこから日本全国にひろがって、全国にいまなお二千七百余社もあるこの白山神社のことについては、『日本の中の朝鮮文化』(5)「加賀・能登」にかなりくわしく書いているが、だいたい、白山はいまでは「はくさん」とよまれているけれども、これは「しらやま」というのが本来のよみ方なのである。白山(しらやま)とは古代朝鮮の新羅を斯羅(しら)ともいったことからきたものと思うが、そのしら(斯羅=新羅)神の白山信仰のことについては、能坂利雄氏の『北陸古代王朝の謎』にも書かれているけれども、本多氏の『古瀬戸』にこう書かれている。
白山信仰は有史以前からそこに住んだ人々から山岳神として崇敬せられていたと考えられるが、はっきりした形をとるのは、朝鮮系帰化氏族の越前麻生津に住む三神安角の子、神融禅師泰澄(たいちよう)を開祖とし、崇めてからである。
泰澄は、養老元年(七一七)白山に登り、朝鮮の巫女(み こ)・菊理姫(白山貴女)をその山頂に奉斎したのが始まりであるが、爾来、この山は故国の神の坐(いま)す霊山として、同系帰化人に崇敬された。平安朝に入ると、天台宗では特に重んじ、本山延暦寺の鎮守山王大社では、上七社の中に菊理姫を客人神として勧請して、特別の扱いをした。そして、平安朝末期には、
勝(すぐ)れて高き山、大唐唐(から)には五台山、霊鷲山、日本国には白山、天台山、音にのみ聞く蓬莱山こそ高き山の郢歌(はやりうた)が流行し、後白河法皇の編纂せられた梁塵秘抄に採録され、白山は山岳信仰の山として一般的に普遍化するに至った。
しかし、白山は本来、朝鮮系帰化氏族の奉斎する山であった。これらの氏族は航海、漁撈、皮革、陶器、冶金等の技術に優れていたと考えられているが、その中で陶器の技術を持つ氏族が白山を取り巻く地域に群居し、白山を奉斎していたと考える。現に裏日本には越前古窯趾、珠州(すず)古窯趾が発見せられており、最近、加賀古窯趾が発見せられたとの報告もある。表日本の尾張、三河、美濃の古窯趾については、前に述べた通りで、白山神社の分布状況から考えると、これらはいずれも白山信仰と繋(つな)がりが見られる。
これらの窯で生産された須恵器は主に京師へ運ばれたが、鎌倉期に入ると、全面施釉(せゆう)に成功した古瀬戸陶が最も栄え、山伏の手で全国に拡散されたと思う。
そのとおりだったであろうと私も思うが、とくに、「朝鮮の巫女・菊理姫(白山貴女)をその山頂に……」というのは、本多氏の達見ではないかと思う。まさにそのとおりで、前項(「熱田神宮と尾張氏」)でちょっとふれた、天日槍を象徴とする新羅・加耶系渡来人集団のシャーマン(巫女)が赤留比売(あかるひめ)というものであったように、その菊理姫というのも、能登・加賀あたりの北陸海岸から上陸した新羅系渡来人集団の祖神を祭るシャーマンにほかならなかったのである。
祭るものがのちに祭られるものとなること、これはもと大日〓貴(おおひるめのむち)というシャーマンであったという天照大神ばかりか、天日槍集団の赤留比売にもその例をみることができる。伊勢神宮の天照大神はいうまでもなく、赤留比売もいまなお大阪のあちこちに比売許曾(ひめこそ)神社、赤留比売神社などのそれとして祭られている。
「白」のつく神社の数
菊理姫はそのように、白山比〓神社に祭られたことで、白山比〓または白山貴女ともいわれるようになったと思われるが、それはともかく、白山神社は北陸のほか三河・尾張、飛騨・美濃(岐阜県)にもひじょうに多い。また本多氏の『古瀬戸』をみると、それがこうなっている。
白山神社の全国分布状況をみると、現在、全国に二千七百十六社あり、百社以上ある県は、
岐阜県・五百二十五社、福井県・四百二十一社、新潟県・二百三十二社、愛知県・二百二十社、石川県・百五十六社、富山県・百七社、埼玉県・百二社(白山の歴史と伝説―玉井敬泉)
の順である。これは他の信仰に較べて、非常に多いと考えられる。
白山を望見し得る国は十三府県二十箇国に及ぶが、愛知県が〈白山〉山麓の石川県より多いのは、怪訝(けげん)に思えるが、愛知県の方が面積が広いことと、県内の各地から白山を望見することができ、特に平坦地からよく見られることが、一つの原因であろう。
五百二十五社の岐阜県にはおよばないとしても、愛知県の二百二十社もけっして少ない数ではない。ばかりか、私がいま書いているこの稿の参考にということで、本多静雄氏が私に送ってくれた、愛知県のそれを詳細に調べたコピーによると、その数は次のようになっている。
△愛知県内神社のうち、神社名が白山神社ではないが、菊理姫(白山比〓)を祭祀する神社(本社で、摂社・末社ではない)数百十七社。
△白山神社等〈等というのは、別名の神社となっているのもあるということ〉の数百六十七社。
△境内神社(摂社・末社)のうち白山神社等の数百三十七社。
△白山神社等以外で祭神を同じくする神社数四百二十一社。
というふうで、まったくおどろくべき数であるといわなくてはならない。しかも、そればかりではない。また、東アジアの古代文化を考える会の出牛昭氏が『全国神社名鑑』によって調べたところによると、新羅明神ということである白髭(髯・鬚)神社が岐阜県六十八社、愛知県十社となっている。
しかし、この白髭神社は『全国神社名鑑』に記載されているもののみであって、ほかにもたくさんあるのではないかと思われる。たとえば出牛氏のこれには、静岡県が六十七社とあるけれども、清水市に住む地方史研究家中村熊雄氏の調べたところによると、駿河(静岡県東部)だけでもそれが百六社ある。
そして、川口鎌二氏の『祖神・守護神』をみると、それらの神社のことがこう書かれている。
白のつく神社では、白峯神社をはじめ、白山比〓(しらやまひめ)神社(白山神社)という大社のほか、京都の北野天神の末社の白太夫社などがある。白山比〓神社はもちろん朝鮮渡来の神で、白鬚神社も新羅神が祭神ともいわれるところから、朝鮮渡来神といえるだろう。
白のつく神や神社、また宇佐八幡宮の祭神のように白髭をたくわえた神を鍛冶翁(かじおう)というが、このような神々を祀る神社も朝鮮渡来の神を祀っているといってよかろう。
一貫して朝鮮にかかわる
要するに、白山神社など、そのような神社がたくさん分布しているということは、その神社を祭って信仰していた新羅系渡来人がそれだけ各地にひろがったということにほかならないが、さて、ここでさきの瀬戸にもどると、私たちは、これも白山比〓(菊理日売)を祭るものであった深川神社から、次は瀬戸市内を一望のもとにすることができる窯神(かまがみ)神社をたずねた。これは加藤民吉を、磁祖(陶祖ではない)として祭る神社である。
さきに引いた『愛知県の歴史散歩』でみているように、猿投焼の須恵器から十三世紀に古瀬戸といわれる施釉(せゆう)陶器をおこしたのは加藤四郎左衛門景正だったが、ついでそれを磁器、すなわち今日にみられる「せともの」に発展させたのが加藤民吉であった。そのことについては、本多氏の『古瀬戸』にこう書かれている。
江戸時代になると、間もなく九州に磁器の生産が興(おこ)り、しかも染付(そめつけ)や色絵が施されるに至って、さしもの瀬戸もこれに押されて、……瀬戸窯業は衰微に陥った。この危機を救ったのが、加藤民吉を始めとする一団の工人であった。
彼は九州有田(ありた)に潜行して磁器生産の新方法を研究して帰り、磁器の大量生産に努めた結果、文化四年(一八〇七)以降、瀬戸は日本における磁器生産の大半を占めるようになった。
有田焼で知られる九州の有田で、それまでの陶器とはちがい、表面がガラス器のようにつるつるした磁器がつくられることになったのは、李参平(りさんぺい)集団によってであった。李参平集団というのは、日本では「文禄・慶長の役」といい、朝鮮では「壬辰の倭乱」といった、豊臣秀吉の朝鮮侵攻によって連行されて来た工人たちのことで、かれらが、十七世紀のはじめにその磁器を開発したのであった。
そうしてみると、瀬戸の「せともの」のはじめは白山信仰の新羅系渡来人による猿投窯の須恵器から、同じ白山信仰(深川神社)のそれによる古瀬戸の施釉陶器となり、その陶器がさらにのちには李参平集団の開発した磁器(「せともの」)となったことがわかる。つまり、古代のはじめから今日まで、それには人・技術とも一貫して、朝鮮がかかわっているのである。
飛騨・美濃
古川の数河獅子舞
数河獅子舞と新羅の僧
岐阜県の北方となっている飛騨の地図をみると、北はずれの石川県、富山県境に「白」のつくところの多いのが目につく。有名な白川郷・白川村はじめ、大白川、大白山、白水滝、白木峰、小白木峰などなど。そして、石川県境のほうには白山(はくさん)があって、こちらは白山国立公園ともなっている。
いわば飛騨のそこは、さきの尾張(愛知県)でみたように、斯羅(しら)・新羅(しらぎ)の白山(しらやま)ということであった白山(はくさん)文化圏といってもいいところだからではないかと思われるが、けれども、それが南方の美濃を含む岐阜県全体となると、少しおもむきがちがうようである。つまり白山、すなわち同じ新羅のそれではあっても、美濃の西南方はどちらかというと、近江(滋賀県)文化圏のそれに近いように思われる。
しかし、そのことはあとでみるとして、飛騨ではまず、「高山祭」で知られている高山市からちょっと北へ行ったところの古川町から、ということにした。私は「日本の中の朝鮮文化」というこの紀行のため、いつでも機会をとらえては全国のあちこちを歩きまわっているが、元は荒城(あらき)郡となっていた吉城(よしき)郡の古川町をたずねたのは、数年前の九月五日のことであった。
ある読者から、九月五日の祭りにそれがおこなわれるという、古川町数河(すごう)獅子舞保存会発行の『白山神社・松尾白山神社特殊神事(郷土芸能)/県指定無形文化財・数河獅子舞』というリーフレットをおくられたからだった。このリーフレットに、その獅子舞の「由来」がこう書かれている。
この数河獅子舞は、岐阜県吉城郡古川町数河鎮座の松尾白山神社、白山神社の特殊神事として、往昔より伝えられている獅子舞であります。その始まりは詳(つまびら)かではありませんが、古伝によれば大宝年間新羅の僧、隆観この地に住んでいたとき、シシが面白く狂うて居る様を見て、高麗の芸能を獅子舞にして後世に残したものと云い伝えられ、古(いにしえ)は毎春「小宮司」の清地に近郷の老若(役人)集まり、若衆がこの獅子舞をなし、除災豊饒を祈ったと伝えられています。
神社の祭りと獅子舞というのは別に珍しいものではないが、しかし古川町のそれは、「古伝によれば大宝年間新羅の僧、隆観この地に住んでいたとき」うんぬんとあるのがおもしろいので、さっそく行ってみることにしたのだった。それにまた、大宝年間とは七〇一〜三年のことで、そのころ「この地に住んでいた」「新羅の僧、隆観」とはあるいはもしかすると、――とも思ったからである。
三段仕立の獅子舞
東京から名古屋、名古屋からは高山線に乗りかえての古川町までは、相当に遠い道のりだった。いうところの奥飛騨で、そこの古川町というのは、いかにも山国のそれといったたたずまいの町であった。しかしなかなか風格のある古い町で、さきにまず案内書をみると、その町のことがこういうふうに紹介されている。
荒城川と宮川の合流点に広がる海抜五〇〇メートルの盆地で、高原盆地としては日本最大。――城下町として栄えたこの町の面影は、碁盤の目に通る町筋、格子窓の家並み、古い神社仏閣などの落着いたたたずまいにうかがえる。
長い伝統に育まれた春の古川祭「起こし太鼓」は、若衆達の威勢のよい裸祭として知られ、秋は白山神社に奉納されるユーモラスな「数河獅子舞」が有名で、岐阜県の無形文化財に指定されている。
人口一万五千。小さな町中にどっしりと古い軒を構える地酒屋や、「生掛(きがけ)(ろうそく造り)」やちょうちん造りなどの伝統工芸がひそかに息づく。かつては戦国時代の攻防の嵐が吹き荒れ、元禄の初めから幕府の天領となった古川の町は、そうした時代背景をしのばせる静かな素朴な町である。
そんな町なかを歩いて、獅子舞がおこなわれているという、みごとな形にのびた杉木立ちの鎮守の森まで行ってみると、祭りということをしめす「松尾白山神社広前」とした大きな幟(のぼり)が立っている。しかしそのわりには人出は少なく、かぞえるほどでしかなかった。
子ども相手の物売りの屋台もたった一台きりで、これはおそらく日本一の小さな祭りではないかと私は思ったが、けれども、荒い石垣をこちらにした高台の境内でおこなわれている奉納の獅子舞は、なかなかそういうものではなかった。数少ない見物人のなかには、どこか遠くから来たらしいそういう獅子舞研究者らしい人の姿も見えたが、さきの『――数河獅子舞』によってみると、「この獅子舞は、おばこの囃子(はやし)によって始まり、三段の場面になっています」として、それはこういうふうになっている。
△曲獅子
その一段目は曲獅子と云い、雌雄二頭の獅子が至極清々(すがすが)しい山野に在りて、何のわだかまりもなく、大自然を相手に種々の曲芸をしている有様を舞う場面であります。
△天狗獅子
その二段目は天狗獅子と云い、獅子のみでなく天狗・猿・熊等を交えた大掛かりな舞い方になり、獅子が前後を弁(わきま)えず狂い、即ち野獣性を発揮するので天狗が怒り、獅子を倒す場面であります。
△金蔵獅子
その三段目は、獅子が狂い過ぎて野獣性を発揮すると農産物が荒されるので、農民即ち金蔵・ヒョットコ・オカメと獅子(獣王)の闘争が演ぜられ、遂に獅子を獲り、農民の喜びを現す場面であります。
この三段の獅子舞を総括して、数河獅子舞と云うのであります。
なお、この獅子舞に必要な「要員」は総指揮者一人、獅子八人、天狗一人、猿一人、熊一人、金蔵一人、ヒョットコ一人、オカメ一人、囃子十人、警固四人、その他二人の計三十一人から成っているが、とくに獅子のばあいは、二人が一組になり、回転、横転、本返し等、活発で激しい曲芸のむつかしい舞いなので、一人前のそれとなるのは五、六年を要するとのことであった。
隆観は幸甚=行心の子
さて、では、飛騨・古川の地にこの獅子舞を伝えたという「新羅の僧、隆観」とはいったいどういう者だったのであろうか。私はこの隆観のことでまず思いうかべたのは、六八六年九月におこった「大津皇子(おおつのみこ)事件」のとき、大津皇子と共に捕えられたその師の新羅僧・行心のことではないかと思ったものだった。
「大津皇子事件」とは天武帝の死後、その跡をついだ皇后の持統帝による政治的でっちあげ事件で、『日本書紀』持統一年条をみるとそのことがこうある。
九月、……九日、〈天武〉天皇崩(かむさ)りたもう。皇后臨朝称制(みかどまつりごときこしめ)す。冬十月……二日、皇子大津、謀反発覚(みかどかたぶけんことあらわ)れぬ。皇子大津を逮捕(と ら)う。あわせて皇子大津がために〓誤(あざむ)かれたる直広肆八口(じくこうしやくちの)朝臣(あそみ)音檮(おとかし)、小山下壱伎連博徳(いきのむらじはかとこ)と、大(おお)舎人(とねり)中臣朝臣臣麻呂(おみまろ)、巨勢(こせ)朝臣多益須(たやす)、新羅沙門(ほうし)行心(ぎようしん)、および帳内(とねり)礪杵道作(ときのみちつくり)等三十余とを捕う。……
三日、皇子大津を訳語田舎(おさだのいえ)に賜死(みまか)らしむ。時に年二十四。妃皇女山辺(やまのべ)、髪をくだし徒跣(はだし)にして奔走(ゆ)き殉(ともにし)ぬ。みる者皆歎欷(なげ)く。皇子大津は、……〈天武〉天皇の第三子なり。容止(みかお)たかくさかしくて、音辞(みことば)俊朗なり。……長(ひととな)るにおよびて、弁(わきわき)しくて才学あり。もっとも文筆を好みたり。詩賦(しぶ)の興(おこ)りは、大津より始まれり。
『日本書紀』のこのような書き方をみても、それがでっちあげであることは明らかで、要するに、皇后だった持統は自分の腹から生まれた皇子ではない大津を、このようにして葬り去ったのであった。そのことは、『日本書紀』につづけてこうあることからもわかる。
今、皇子大津已(すで)に滅びぬ。従いし者ども、当(まさ)に皇子大津に坐(かか)るべき者は皆赦(みなゆる)せ。但し礪杵道作は伊豆に流せ。又、詔(みことのり)して曰(のたまわ)く。新羅沙門行心、皇子大津の謀反(みかどかたぶ)けむとするに与(くみ)せしかど、朕加法(あれつみ)するに忍びず、飛騨国(ひだのくに)の伽藍(て ら)に徙(うつ)せ。
はじめから、「皇子大津がために〓誤(あざむ)かれたる」などと、すでに的は大津皇子にしぼられていたのである。が、それはともかくとして、古川の地に獅子舞を伝えたという「新羅の僧、隆観」とは、そうして「飛騨国の伽藍(て ら)に徒(うつ)せ」ということになった「新羅沙門行心」ではなかったか、と私は思ったわけだったのである。
で、念のためというか、竹内理三ほか編『日本古代人名辞典』をみると、それがこうなっている。
隆観 僧。流僧幸甚の子。大宝二・四、飛騨国で神馬を獲(え)て献じた功により、罪を免じ、入京を許された。時に流僧幸甚の子とみえる。同〈大宝〉三・十、頗(すこぶ)る芸術に渉(わた)り、算暦を知るによって還俗(げんぞく)せしめられた。本姓は金、名は財、沙門幸甚の子で、頗る芸術に渉り、兼ねて〓(さん)暦を知るとみえる(続紀)。あるいは金宅良と同一人か。
おやおや、これはちがうなあと思い、私はさらにまた念のため、同『日本古代人名辞典』の「行心」の項をみたところ、何と行心は「幸甚と同一人であろう」とある。すると、隆観は行心の子だったわけで、私の推測は、当たらずとも遠からず、というところだったのである。
国府町から白川郷へ
国府、古川の古墳
飛騨の中心はいまは高山市となっているが、古代では高山よりはむしろ、その北のいまみた古川町と国府町とが中心であったにちがいない。高山線の国鉄駅によってみると高山、上枝(ほずえ)、飛騨国府、飛騨古川となっている。
どちらも元は荒城郡だった吉城郡内で、その古川町と国府町とには、飛騨ではもっとも古いものとされる四、五世紀のこう峠口古墳、信包八幡古墳などがあることからもそういえるようである。とくに国府町には「国府古墳群」があって、岐阜県高等学校教育研究会社会科部会編『岐阜県の歴史散歩』をみると、そこにある阿多由太(あたゆた)神社、荒城神社などとともに、そのことがこう書かれている。
古川西部・東部、国府北部・南部・西部に分布する古墳群中に、主要なものだけでも八八基が数えられる。また諸説あるが、古来の伝承によれば、飛騨最初の国府は国府町広瀬字姥懐(うばがふところ)におかれたといい、その東方につらなっているコウの山、コウ平などの地名が残っている。
駅から南東へ一キロ、県下最大の石室をもつこう峠口古墳(通称桜野古墳・県指定)をはじめとして、平地に大古墳、山に小古墳が群在する。三川(さんかわ)の狐ケ洞、上広瀬の庚申洞(こうしんぼら)などには一〇余基の山頂古墳が連なる。国府・古川両町にまたがる安峰山(あんぽうざん)周辺は有名な古墳地帯だ。大字東門前にも古墳群があったが、いまは山麓のこうもり塚のみのこっている。平地の近くでは、三川の剱緒(たちがお)神社の横穴古墳、渡瀬(わたらせ)神社そばの広瀬古墳などがある。
山尾(やまのお)横穴古墳のある阿多由太(あたゆた)神社の本殿(重文)は、簡素雄健で室町初期の建造物である。宮地の荒城神社は、阿多由太神社とともに「延喜式神名帳」において、式内八社に列せられている。古くから、この一帯の平地は“荒城郷(あらきごう)”といわれていたが、のちの人が“荒”の字を嫌い吉城郡としたという。もっとも“アラキ”とは古代に高貴な人の仮埋葬場を意味した言葉ともされるので、荒城神社の二基の古墳(県指定)や、近くにあった東門前古墳群は、この名と関係あるとも伝えられる。
ここにみられる阿多由太神社は、村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷」に飛騨国のそれとしてあげられている。この神社は神社本庁編『神社名鑑』によると、「韓の神」(新村出編『広辞苑』)である「大年御祖神」ほかを祭神としているからそれはそれでいいとして、ここでちょっと考えなくてはならぬのは、「大荒木之命」ほかを祭神としている荒城神社である。
これがどういう神社であったかよくわかれば、どうして、「この一帯の平地は“荒城郷”といわれていたが、のちの人が“荒”の字を嫌い吉城郡とした」かということもわかろうし、また、「もっとも“アラキ”とは古代に高貴な人の仮埋葬場を意味した言葉とされるので」うんぬんとあるのも、ほんとうにそうだったかどうかわかるはずである。
「アラキ」とは何か
この荒木または荒城ということについては、『日本の中の朝鮮文化』(4)の「敢国(あえくに)から荒木へ」の項にかなりくわしく書いている。伊賀越えの仇討ちで有名な荒木又右衛門の生まれた「荒木の里」(ここに江戸時代までは新羅明神の白髭神社だった須智荒木神社がある)をたずねたときのことで、私はそのとき、
私は「荒」という姓の起源に関心を抱いていた。「荒」という姓は、〈福島県の〉相馬地方から、宮城県の東南部にかけて著しく多い。……「荒」という姓は、このほか、富山県、石川県、兵庫県などに僅かにある。このなかで、福島県と富山県の交渉は考えられる。東北地方では、飢饉で、人口が足りなくなったとき、富山県から移入した。移民は一向宗を信じていたので、“一向宗”と呼ばれ、勤勉に働き、財産を貯えた。土着の人たちからは煙たがられ、偏見と差別をもって遇せられた。……
と書きだされている、いまは故人となった文芸評論家荒正人氏の一文(「偏見と差別――この現代の腐蝕の構図」)を引いて書いたが、荒氏はその後さらにまた、一九七三年十一月十一日付け朝日新聞の「ふるさと今昔」に「相馬市(福島県)/外に質素、内に裕福/朝鮮につながる姓」となっている一文を寄せてこう書いている。
「荒」という姓名の起源をたどると、奈良朝時代に「安羅(あら)」という、朝鮮半島からの移住者が文字を改めたものらしい。荒馬を連想して、「荒」になったかどうかは分からぬ。だが、馬に多少の関係はあるらしい。「安羅」というのは、〈慶尚南道〉釜山の西にある小さな国の名前である。安羅族は、日本海岸を北上し、本土を横断して、現在の地域に落ちついたものか、京都や奈良を経由し、関東地方から北に向かったものか、これも分からぬ。古代史の細部がもっとよく分かれば、この道筋もあきらかになると思う。わたしの故郷は、中村であり、鹿島である。だが、遠い遥(はる)かな先祖の土地ということになれば、安羅を無視することはできぬ。
要するに、荒木または荒城というのは、なにも荒っぽい木とか荒れた城などということではなく、荒正人氏のいうその安羅(あら)、すなわちのち新羅となり、百済ともなった加耶(加羅・加那ともいう)諸国の一つであった安羅(安耶(あや)・安那(あな)ともいう)からきた「安羅来(あらき)」ということにほかならなかったのである。これもその百済・安耶(安羅・安那)系渡来人である漢(あや)氏族の集住地ということからそうよばれた大和(奈良県)の今来郡(現・高市郡)がのち今木郡となったように、それがのちには荒木となり、荒城ともなったのである。
荒城神社の祭神が「大荒木之命」となっていることからもそれはうかがわれるが、では、こちらのかれらはどうして「今来」ではなく「荒木(城)」となっているのか、という疑問を持つ向きもあるかと思う。それは、今来というのは、安耶=漢(あや)、または安羅=荒・荒木・荒城といった氏族名や地名ではなく、あとから「新たに来た者」という意味だったからである。
大和の今来郡の今来人、すなわち漢氏族がそこへやって来たのは六世紀以後のことであったが、こちら飛騨の安羅来(荒木・荒城)人はそれよりずっと早かったようである。それはこちらに、四、五世紀のものとされているこう峠口古墳や、信包八幡古墳があることでもわかる。
だが、のち、その子孫のかれらは、「“荒”の字」すなわち荒城=安羅来であることを「嫌い」その郡名を「吉城郡とした」のである。のちになるとかれらは、「コマ〈高句麗〉やクダラ〈百済〉やシラギ〈新羅〉の人ではなく、日本人になる必要があった。また、それぞれの首長に所属する臣下の人々も日本渡来前の国を忘れる必要があった」(坂口安吾「高麗神社の祭と笛」)からだったのである。
合掌造りも朝鮮から
古川町、国府町から翌日は天生(あもう)峠を越えて、観光客でにぎわっている飛騨の白川郷・白川村にはいった。越中(富山県)、加賀(石川県)の国境に近く、白川郷の「白」もそこからきたと思われる加賀の白山がぐっと近くなった。それだけまた、白山文化圏の中心に近くなったのである。
白川郷にはずっと以前、小原元などの友人たちといっしょに来たことがあった。私もそこの有名な合掌(がつしよう)造りというのを見ておきたいと思ったからだったが、しかしそのときは、それが朝鮮と関係があるなどということは思ってもみなかったし、またそんな関心もなかった。それが数年前、作家で古代史家でもある佐々克明氏に会ったところ、はなしがたまたま飛騨・白川郷のことになり、
「あのいわゆる合掌造りなんかも、朝鮮からだそうですな」と、佐々さんは言った。佐々さんは朝日新聞記者だったころ、同紙・日曜版に連載された「日本の年輪」というのに白川郷のことを書いたことがあって、そのときの取材で会った建築史家の大江宏氏がそういったというのだった。
「へえ、そうですか。それを大江氏はどこかに書いていないですかね」と言ったところ、佐々さんは数日して、次のような手紙を私にくれた。
前略。大江宏氏のデータ(切妻合掌造りについての)、実は、大江氏は著書がほとんどなく、合掌造りについて書いたものがないことがわかりました。しかし十余年前、小生がインタビューしたときに、「朝鮮半島から渡来した建築様式である」と明言したことは間違いありません。『日本の年輪』(朝日新聞社刊)の取材メモにも記してありますし、白川郷を舞台にした小著『まぼろしの帰雲城』にも書きました。それで、もし引用される必要があるならば、私の取材メモに拠られてもけっこうですし、それではあやふやならば、私があらためて大江氏にきいて、許諾をえることにしたらいかがでしょうか。あるいはもし、直接おたずねになるのでしたら、大江氏宅は……。
と、その住所や電話番号も書いてあったが、しかし私はそれ以上、佐々さんや大江氏をわずらわすのははばかられて、それまでということにしたのだった。そして一九八一年の五月、私は南朝鮮の韓国へ行って、水原南方の竜仁にある「韓国民俗村」をたずねたとき、「うむ、なるほど」とひとりうなずいたものだった。
その民俗村に移されて保存されている藁葺きの農家群が、その雰囲気からして、私にすぐ白川郷の合掌造りを思いださせたからである。朝鮮の農家は横広がりで、合掌造りとはちがうけれども、白川郷のそれが二階、三階と上へのびて、切妻の傾斜の鋭いいわゆる合掌造りとなっているのは、雪深い、狭い山村という風土によってそうなったもので、元はやはり、朝鮮の農家と同じようなものだったにちがいないと思わないわけにゆかなかった。
ところで、飛騨といえば、そのような合掌造りの農家を造ったであろう、これまた有名な「飛騨匠(ひだのたくみ)」のことがある。飛騨匠とはいわば飛騨の大工ということであるが、それが平安時代になると、なかには従五位をさずけられるという、これも大和の漢氏族からの出である檜前杉光(ひのくまのすぎみつ)という名工まであらわれた。
金神社と新羅神社
美濃と「白」
さて、岐阜県南部の美濃となったが、こちらは南部というよりは南西部、南東部といったほうがいいところで、たとえば、『延喜式』のそれをみると、飛騨国は大野、荒城の二郡でしかなかったのに、こちら美濃国は本巣(もとす)、席田(むしろだ)郡はじめそれが十二郡にもなっている。古代のいわゆる「上国」だったところで、しかも都京のあった畿内からすると、ここから以東は開発のおくれた東国となっていた要衝の地で、日本古代国家の成立にとって大きな意義をもつ「壬申の乱」においても、この美濃は重要な役割をになったのであった。
さきに私は、地図をみると飛騨には白川郷、白川村など「白」のつくところが目につくと書いたが、よくみると、こちらの美濃にも北西部に白鳥(しろとり)町があり、また東部には白川町、東白川村などがある。なにしろ、尾張(愛知県)の「続『せともの』と白山」の項でみたように、飛騨・美濃の岐阜県には新羅の白山(しらやま)だった白山(はくさん)神社が五百二十五社もあるのだからむりもない。
たとえば、白川町には近郷三十六ヵ村の総社である大山白山神社があるというふうであるが、しかもそのうえさらに、これまた新羅明神ということにほかならなかった白髭神社が『全国神社名鑑』によると六十八社、李沂東(リキドン)氏の調査(「白髭神社考」)によると百二十社もある。新羅・加耶系渡来文化のもっとも濃厚な地の一つであるが、以上の神社のほかさらにまた、村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷」をみると、美濃のそれとして次のようなものがあげられている。
若江神社
仲山金山彦神社
金(こがね)神社
否間(いなま)神社
伊奈波(いなば)神社
それからまた、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」をみると、そのいわゆる「帰化人」の居住したところとして、美濃では次のようなところと人とがあげられている。
本簀(もとす)郡  栗楢太理 漢人目速
同    同    漢人部鳥
加毛郡  半布里  秦人石守等
同    小山郷  上連稲実
味蜂間(あはちま)郡 秦部里  漢人意比止等
安八郡  服部郷
ここにみられる本簀郡とはのちの本巣郡であり、加毛郡は加茂郡であり、味蜂間(あはちま)郡は池田郡である。人としては、「漢人」というのは百済・安耶系渡来人であり、「秦人」とあるのは新羅・加耶系のそれであるが、この秦人はかんたんに「秦人石守等」とあるけれども、『濃飛両国通史』に出ている七〇二年の大宝二年にできた「御野〈美濃〉国加毛郡半布里戸籍」によると、それが表のようになっている。
これだけ、すなわち半布里のそれだけみても、「秦人」というのは実におどろくべき数である。それに、「秦人弥藩 戸口 二十三」とあるけれども、大家族主義だった古代のことであるから、これだけでもたいへんな数であったにちがいない。
しかも、さきにみた斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」にはどういうわけか、あとでみるように、新羅人による建郡ということがはっきりしている「席田郡」についてはまったくしるされていないのである。それは有名なもので、広く知られているから、ということだったのかも知れない。
伊奈波神社と金神社
こうしてみると、美濃もまた他におとらず、古代朝鮮渡来人の集住したところであるということがわかるが、しかし、いまはそれがみな日本の風土の中で変貌し、拡散してしまっている。が、それでもいまなお白山神社、白髭神社のほかにもいろいろな神社や寺院跡、古墳などの遺跡に往時のそれをうかがうことができる。
美濃へは、私は前後五、六度足を踏み入れている。あるときは大阪や京都まで行ったついでだったり、あるときはまた岐阜市高田に住む友人の張松畔(ジヤンソンバン)といっしょに、そのクルマで岐阜市などのあちこちをまわる、ということでだった。
岐阜市ではまず伊奈波(いなば)通りにある伊奈波神社と、金(こがね)町にある金神社とをたずねて、敬意を表することにした。伊奈波神社では、間口六間半、奥行五間の入母屋造檜皮葺(ひわだぶ)きの拝殿や本殿もさることながら、境内入口の遥拝(ようはい)所、楼門(ろうもん)、神橋、手水舎などその広大なのにおどろいたが、町なかのためかそれよりはぐっと小さくなっている金神社では、
「なんだ、これはあんたの神社じゃないか」と言って、張松畔は笑ったものだった。
珍しい社名であるが、伊奈波神社とともにこれがどうして、村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷」にあげられているのかはわからなかった。金神社の祭神である金大神とは、いったいなんだったのか。これは新羅や加耶(加羅)の国姓であった金、あるいはまた「壬申の乱」時の天武側の合言葉だった「金」と関係があったのかなかったのか、それも私にはわからない。さきにもみた『岐阜県の歴史散歩』をみると、それがこう書かれている。
ところで、古い神社は、それを建立(こんりゆう)した人びとの氏の祖をまつるのが多いので、伊奈波と金両神社、それに合祀される物部神社の関係は、古代の豪族の分布や盛衰を想像するひとつの手がかりとなる。たとえば、「国造本紀」という本には、三野(みのの)(美濃)前国造(くちくにのみやつこ)に八瓜命(やつりのみこと)を、三野後国造(みののうしろくにのみやつこ)に臣賀夫良命(おみかぶらのみこと)を任じたとあるが、八瓜命は伊奈波神社の祭神彦多都彦命(ひこたつひこのみこと)の弟とされるから、その主神とも血縁的な関係があり、臣賀夫良命は、その墳墓とされる賀夫良城(かぶらぎ)(市史跡)が金神社の境内にあって、しかも伊奈波神社に合祀される物部神社の祭神の孫であるから、これら国造(大化改新以前の地方官)の有力豪族と、伊奈波・金・物部神社の、なんらかの関係を示しているようだ。
賀夫良城は加羅来か
なにやらややこしくてよくわからないが、ここで重要なのは、金神社境内に賀夫良城(かぶらぎ)という墳墓をのこしている賀夫良とはいったいどういう者だったのか、ということではないかと思われる。私も金神社境内のその賀夫良城をみたが、元はちょっとした古墳だったらしかったけれども、いまは墳丘が削平(さくへい)されて、それがそうだと教えられなくてはわからぬようなものだった。
だいたい賀夫良とはどうも気になる氏族、あるいは部族名で、これはもしかすると、加羅(加耶)ということからきたものではないかと私は思う。加羅は加良とも表記された例(朝鮮の『三国史記』)があるが、名古屋市博物館発行の『東海の古墳時代』をみると、岐阜市街地の東北端に長良竜門寺古墳群があって、そのうちでも最も古い一号墳から出土した短甲の写真がのっている。それが、南部朝鮮の加耶(加羅)古墳から出土している短甲とそっくり同じものなのである。
それからまた、『続日本紀』天平宝字二年条に、さきに尾張(愛知県)の「熱田神宮と尾張氏」の項でみた席田(むしろだ)郡大領の子人(こひと)が、自分たちの祖先は賀(加)羅国から来た者であるから、以後は賀羅造(からのみやつこ)ということにしてくれと申し出た記事がある。この賀羅造と三野後国造だったという賀夫良とは、同族ではなかったのかどうか。竜門寺一号墳出土の短甲など、周囲のそれからして、そうでなかったとはいえないのではないかと私は思うのである。
各務原と各務勝
それはそれとして、その金神社から私たちは岐阜市東南の各務(かがみが)原(はら)市へ向かった。各務原とは大分むつかしいよみの地名であるが、この地には各務(かがみの)勝(すぐり)というのがいた。尾張一宮の『新編一宮市史』に「帰化人系氏族」という項があって、それのことがこう書かれている。
葉栗(はくり)郡大野(おおの)郷(一宮市浅井町大野の地)にいた生嶋勝(いくしまのすぐり)もその帰化人の一人である。勝姓を有するものは大陸より渡来した秦氏の支配下にあって、地方の秦部を管掌する役割をもつものと考えられている。……この勝姓(すぐり)の者は「百八十種勝」(「雄略紀」十五年条)と表現されるようにかなり多く、また文献上でも東海地方から北九州にわたって広くその存在が確認できる。生嶋勝はそのうちの一つで、その北、木曾川の対岸には各務勝が存在し、各務郡の郡司になっている(「御野国各牟郡中里戸籍」)。史料的制約のため、この地に秦部の存在を認めることはできないが、美濃では各務郡大領秦良実をはじめ、大宝二年(七〇二)の「御野国戸籍」には秦人・秦人部などの例が多く検出できる。
次に中島郡川崎郷に南部(なんぼう)馬仙文、西部(せいぼう)難男高という帰化人がいる。西部・南部は朝鮮半島における地域区分名称で、百済では王都を上部・前部・中部・下部・後部の五部に分け、これを政治、社会の中枢的組織としたが、のち改称されて東部・南部・中部・西部・北部となった。また高句麗でも西部(右部・下部)、北部(後部)、東部(左部・上部)、南部(前部)、内部(黄部)の五部の組織があった。この地域名を氏の名である馬および難を結合させて南部馬、西部難を氏族名としたのであろう。
ついでに尾張・中島郡のそれまでみたが、各務勝が郡司となっていた各務原市にも、それなりの遺跡があるにちがいなかった。しかし、私たちにはもう時間がなかったので、その各務原は省略し、そのまま坂祝(さかほぎ)町、可児(かに)町などをへて多治見市にいたった。
多治見の新羅神社
多治見市末広町に古代朝鮮三国の一つであった「新羅」の名称をそのまま負った新羅(しんら)神社があるので、私はここへは、さきにも一、二度来たことがあった。このような新羅神社は、石見(いわみ)(島根県)の大田市に「韓神 新羅神社」があり、播磨(兵庫県)や越前(福井県)ほかにもいくつかあるが、しかしたいていは白木、白城、白国、白石などとその名称を変えているのがふつうである。
そういうなかにあって、多治見の新羅神社はなかなか珍しい例のうちの一つであるばかりか、しかもこの新羅神社の新羅は、日本語よみのしらぎ(新羅)ではなく、朝鮮語そのままのシンラ(新羅)、すなわち新羅(しんら)神社となっているのである。神社本庁編『神社名鑑』をみると、この新羅神社の祭神は素戔嗚尊ほかとなっており、その「由緒沿革」は次のようになっている。
美濃国神名帳所載土岐(とき)郡七社の中なる田只見(たじみ)明神にあてられる古社にて、倭名抄にいう土岐郡田只見郷の本郷に鎮座す。
「トキ」と新羅
これでみると、素戔嗚尊が祭神となっているということのほか、古代朝鮮の新羅とは何の関係もなかったかのようにみえるが、けっしてそういうことはない。問題は、ここにみられる「土岐郡七社」とあるその「土岐」である。いうまでもなく多治見市の半分と、となりの土岐市とはもと土岐郡だったところで、その土岐とはもと新羅からきたものであった。これが日本では「闘鶏(つげ)」「都祁(つげ)」「都祈(とき)」などともなっているが、水谷慶一氏の『知られざる古代』をみると、太陽神である「天神を祭った場所は、〈新羅では〉迎日県あるいは都祈野と呼ばれた」とあって、そのことが次のように書かれている。
迎日県の意味はあきらかだが、都祈野とは何か。都祈(トジ)は古代新羅語で、「日の出」をあらわす。これは現在でも、ほとんど同じ発音の言葉が使われている。ヘトジといい、へは「日」、トジは「出る」に当たる。
すなわち都祈は、トジを漢字の音を借りてあらわしたもので、ちょうど、万葉仮名などで日本語を書きあらわすのと同じである。それで、「迎日県」とまず新羅語の意味を漢字に翻訳し、次にその音を「都祈野」と表記したのである。
われわれは、よく「鶏がトキを告げる」という。この場合のトキは普通、時刻の意味と考えられているが、これはむしろ新羅語の「日の出」ととったほうがよいのではないか。「暁(あかつき)」という言葉のもとは「あかとき」であるが、これも新羅語の「都祈(とき)」と関係がありそうだし、また薄桃色(うすももいろ)をさして「とき色」というのも、夜明けの空の色からきているとすれば、この都祈で説明がつきそうである。……
ところで、このトキとかツゲという地名が日本にはたくさんあるのだ。古いところでは、大阪にトガノという地名があったことが『古事記』や『風土記』などに見えるが、これはトキが訛ったものである。……
先日、ぼくは〈大阪市〉渡辺町の坐摩神社に参拝して、五十七代目という世襲の宮司である渡辺清音氏にお会いした。そのとき渡辺宮司の口から、三代前の曾祖父まで都下(つげ)の姓を名乗られたことがあるのを聞き、「都下朝臣資政(つげのあそんすけまさ)」と記した古い書面を見せられて、まことに感慨ぶかく思った。
ここでちょっとつけ加えると、この渡辺町はもと新羅江庄だったところで、坐摩神社にはそこにあった白木神社が合祀されている。『知られざる古代』からの引用をもう少しつづけなくてはならない。
このほか、ツゲやトキに由来する地名は奈良県の都祁(つげ)村、三重県の柘植(つ げ)川、あるいは岐阜県の土岐(とき)郡、石川県能登の富来(とぎ)町と数えあげればキリがない。
埼玉県比企(ひき)郡には、かつてここに「都家(つげ)郷」という地名があったことが、平安時代初期の『和名抄』という本によって知られるが、現在も、この地には都幾(とき)川、槻(つき)川、都幾(とき)山の名が残っていて、ここも神社や遺跡の整列線が見られることと、比企が日置(ひき)に通ずることで、やはり新羅の太陽祭祀に関係した土地であることが推察される。
埼玉県立博物館の金井塚良一氏の教示によれば、この比企郡には新羅系の渡来氏族である吉士(きし)氏が進出したあとが見られるというから、今後の展開がたのしみである。ついでにいえば、「吉士」は新羅の官位の一つ(十七位中の第十四位)で、『日本書紀』では雄略天皇の頃から「難波吉士(なにわのきし)」として現われる。この埼玉県の例にかぎらず、トキ、ツゲ、日置にちなんだ土地を調べてみると、まず例外なしに新羅系渡来人の痕跡が目につくのは、やはり偶然ではすまされぬものを感ずるのである。
なお余談だが、埼玉県比企郡を含む北武蔵は、いわゆる東国武士の発祥の地であり、畠山氏などの名族の館跡が今も残っている。彼らが、前記の渡来氏族のはるかな後裔(こうえい)であるという想像は、いろんな意味で興味ぶかいものがある。源義家の弟に新羅三郎義光があるが、東国武士団と渡来氏族のつながりは、これからもっと研究されなくてはならないだろう。
土岐市と美濃焼
その源義家や新羅三郎義光、すなわちその源氏とこれはどうつながるのかよくはわからないが、中世には美濃国司となって栄えていた土岐郡の土岐氏も、美濃源氏を称していたものであった。同じ土岐郡だった瑞浪(みずなみ)市土岐町には土岐一族の墓所があるが、いまの土岐市は古来から有名な美濃焼の伝統を引く陶磁器づくりのまちとなっている。
それで土岐川は陶土のため黄色く濁った流れとなっているが、土岐市には美濃陶磁歴史館があり、多治見には岐阜県陶磁器陳列館がある。後者の陳列館長だった故古川庄作氏は、一九七一年春、土岐市定林寺地区の古窯跡発掘調査にたずさわり、「定林寺の朝鮮窯」(雑誌「日本のなかの朝鮮文化」第三十一号)という一文を残している。
その定林寺の古窯跡が「朝鮮窯」であったということは、「志野」「織部」などといわれる美濃焼の源流がどこから来たものであるかということを、考古学的事実によって語るものにほかならないであろう。
長良川をさかのぼる
弥勒寺と身毛君氏
私のメモ帳をみると、岐阜県陶磁器陳列館長だった古川庄作氏のことばとして、こんなことがしるされている。「多治見の織物、美濃の紙漉(す)き(美濃紙)など、それから『関の孫六』の刀鍛冶もみんな朝鮮からの渡来人がもたらしたものですよ」
同陳列館をたずねたときのものだったが、そういうことがあったからではなかったけれども、秋のよく晴れたある日、きょうは一つ長良(ながら)川をさかのぼってみようということにして、その途次、私は「関の孫六」ということで知られた関市をたずねた。いまいったように、「関の孫六」の刀鍛冶のことを直接詮索(せんさく)しようというのではなく、関市池尻というところに、弥勒(みろく)寺跡があったからである。
弥勒は古代朝鮮三国の統一に活躍した新羅の花郎(フアラン)(青年武士団)が信仰したもので、関市にその弥勒寺があったのはどういうことからか、と思ったのだった。岐阜市からのタクシーだったが、運転手はうまくそこをさがしあててくれて、鮎之瀬(あゆのせ)橋という印象的な名の橋をわたると、すぐに「史跡 弥勒寺跡」とした石碑が見えた。
いまも弥勒寺という小寺があったが、かつての、白鳳時代の弥勒寺跡はそれの裏手となっていて、その礎石のいくつかが往時の名ごりをしのばせていた。この弥勒寺のことは、前記『岐阜県の歴史散歩』にも書かれているが、和歌森太郎監修『日本史跡事典』をみるとこうある。
古代の美濃は、三野前(くち)・三野後(しり)・牟宜都(むげつ)・額田(ぬかだ)などの国造が分立し、関市をはじめとする中濃一帯は牟宜都国造の身毛君氏が君臨していた。
弥勒寺は、この身毛君氏の氏寺といわれ、旧境内には中門・講堂・経蔵・鐘楼の跡と、塔・金堂の礎石がのこっており、五重塔をもつわが国でも有数の法起寺(ほつきじ)式伽藍(がらん)配置の寺であった、と推定される。
壬申の乱のおり、身毛君宏(ひろ)は、村国連男依(むらじおより)、朴(えいの)井連雄君らと美濃諸豪とともに大海人軍に馳せ参じて勲功をあらわし、戦後、功封八十戸をさずけられた。
そこは竹林になっていたりして、いまみる弥勒寺跡からはとても想像できなかったが、五重の塔までそなえていたとは、たいへん広大な伽藍だったのである。この弥勒寺を氏寺としていたという身毛君氏族と、これはどう結びつくのかよくわからないが、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」をみると、美濃のその古墳として、「山県郡千疋村陽徳寺古墳」「稲葉郡常盤村鎌谷古墳」とがあげられている。
山県郡千疋村は一九五〇年に関市に編入されているので、その陽徳寺古墳のことは関市教育委員会で求めた『関市文化財図録』第一集にも出ていて、そこの一号墳から出土した子持(こもち)器台の須恵器の鮮明な写真がのっている。その写真をみると、朝鮮土器ともいわれたこの須恵器は、日本でつくられたものというよりは、日本でもよくみられる、新羅か加耶(加羅)からの直行品ではないかと思われる。
それはどちらにせよ、須恵器は新羅・加耶系のものであることに変わりないが、もし私のみたとおりのものとすれば、その陽徳寺古墳はそれ相当に古いものということになる。
「ナガラ」とは……
弥勒寺をあとにした私は、国鉄の美濃関駅に向かった。そこから長良川に沿って走る越美南線の電車で北濃の白鳥(しろとり)まで行き、そこにある白山長滝神社をたずねたいと思ったからである。
ところが何と、その越美南線というのは典型的ないわゆる過疎線で、一日にわずか数本しか走っておらず、それに乗るには二時間近くまで、待たなくてはならないというのだった。で、仕方なく私は、岐阜からのタクシーを乗りついで(運転手はそういうことになるだろうと、そこで待っていた)、長良川をさかのぼることになった。
越美南線と長良川とに沿って国道一五六号線がとおっていて、それはそれでまことに快適なドライブとなったが、ところが、これがまた何と、たいへん長い道のりであった。ふと気がついて、手にしていた本多静雄氏の『古瀬戸』を開いてみると、白山長滝神社までの距離のことがこうある。
白山長滝神社は岐阜市内を流れる鵜飼(うかい)で有名な長良川の本流を遡(さかのぼ)ること九〇キロ、富山県との県境まで北へ六〇キロ、またそこから西へ福井県との県境徹白まで一五キロの地点にあるが、ここは加賀の名山白山の登山口であると共に、岐阜―富山―福井へ通ずる要衝である。
白山長滝神社はその要衝にあったが、そこまでの距離は何と九十キロ、タクシーの料金も時間も気になる道のりだったが、しかしいまもいったように、清冽(せいれつ)な長良川の流れをながめわたしながらのそれは、まことに快適なドライブであった。白山を水源として流れる長良川は、どこまで行っても清冽そのもので、これこそは岐阜県の大きな宝の一つではないかと私は思ったが、ところで、長良川の長良とはいったいどういうところからきた名称であったろうか、とも私は思ったものである。
松本清張氏は、「ラ・リ・ル・レ・ロで終わるのはたいてい朝鮮語だ」とどこかに書いていたと思うが、長良川の長良というのも、それだったのであろうか。もっともそのことについては、松本氏だけでなく、細川道草氏も「打出村小字について」(「地名学研究」第七号)のなかでこう書いている。
新羅(シラ)・任羅(ミマラ)・安羅(アラ)等の〈朝鮮〉半島古地名に見ゆるラは、土地の意の古語なり。
例=摂津国住吉郡大羅、肥後国葦北郡久太良木(クダラキ)、河内国讃良(ササラ)、摂津国西成郡安良(アラ)、上野国甘楽郡、加牟良等何(いず)れも帰化人の住居の地名である。
してみると、その新羅(シラ)の白山(しらやま)だった白山(はくさん)から流れ出る長良川の長良も、あるいはもしかすると、そこに白山神社をいつき祭っていた新羅系渡来人による名称だったのかも知れない。
白山長滝神社
そんなことを考えたりしながら、「郡上(ぐじよう)の立百姓(たちびやくしよう)」という宝暦の農民一揆で有名な郡上八幡をへて、私はようやく白鳥町長滝の白山長滝神社についた。右側に「白山神社」、左側に「天台宗長滝寺」とした標柱のたっている長い参道を、左手の寺地に「宝暦義民碑」とある石碑をみてのぼって行くと、山麓の広い境内に簡素流麗な社殿がたちならんでいた。
長良川上流のそこは山深い辺地なので、私は小さな神社を想像していたのだったが、白山長滝神社はいまも思いのほかの大社となっていた。前記『岐阜県の歴史散歩』をみると、こう書かれている。
老木生い茂る境内を進むと、正面が白山神社の拝殿と神殿、左手が長滝寺、右手が宝物収蔵庫となっている。社伝は奈良時代越前の高僧泰澄(たいちよう)の創建と伝え、その神仏習合により、白山本地中宮長滝寺と称した。……鎌倉・室町時代には、神社仏閣三〇余宇、満山衆徒三六〇坊を数えるにいたったが、室町後期になると、末寺の多くが浄土真宗に転宗して勢威は衰えた。明治初年の神仏分離により現存のように分かれ、しかも一八九九(明治三二)年の大火で偉容を誇った堂宇伽藍をことごとく失った。
美濃・越前・加賀三国にまたがる霊峰白山は、古くから信仰の対象となり、現在でも岐阜県下の白山神社五二五社を数える。社家を中心に先達(せんだつ)職の権利をもつ坊中が立ちならび、表日本の白山登拝参道を誇った往時のにぎわいはいまはなく、社家一軒、坊中二軒だけとなった。坊主は、夏は参詣の人びとの先達(世話方)として白山にのぼり、冬は全国へ御札配布の旅に出たという。
白山長滝神社のあるところは「表日本の白山登拝参道」、すなわちそこへの登り口だったというが、ということはその白山からの下り口でもあったわけだったのである。おそらく加賀の白山にはじまった白山比〓(ひめ)神社は、そこへ下ってまずいまみた白山長滝神社となり、そうして飛騨・美濃一帯にひろがったものだったにちがいない。いわば飛騨・美濃における元白山神社ともいうべきもので、それだったから私も遠い道のりをいとわずそこまで来てみたのである。
不破・席田氏と南宮大社
とおりすがりの菅野神社
白鳥町の白山長滝神社をたずねて岐阜市で一泊した翌日の私は、そこから京都へ向かわなくてはならなかったが、まだ時間があったので、大垣市のあたりをひとまわりしてみることにした。私はまず市の教育委員会をたずねてみるつもりでタクシーを走らせていたところ、これはまったくの偶然であったが、菅野神社というのの前にたっている、「木造文官神坐像」とした説明板が目についた。
「百済王」などという文字も目に入ったので何だろうと思い、タクシーからおりて近寄ってみた。大垣市教育委員会によるもので、こう書かれている。
菅野神社は古く中川荘十三ケ村の総氏神として結構〈構え・造りの意〉壮厳な大社で、奈良興福寺領の荘園地の故に地名の由来が伝えられ、ここ興福地町に祭祀され現在に及んでいる。
祭神は新撰姓氏録に「菅野朝臣は百済王の祖を祀る、三野造云云」とあり、奈良興福寺の鎮守、南都春日大社の勧請ご遷宮とも言い、木造坐像二躯を祀る。
「中川荘十三ケ村の総氏神として結構壮厳な大社で」とあるけれども、いまそこにある菅野神社は道のかたわらにとり残されたような、そんな荒れた神社となってしまっていた。いまみた「説明板」がなかったとしたら、私はおそらく振り向きもしなかったにちがいなかった。
市の教育委員会では、『美濃国分寺跡』などいくつかの資料をもらい受けたが、その一つ『大垣の文化財』第一集に、市文化財指定となっている「菅野神社神像」の写真が出ている。神像は「非常に風化水損がひどい」ためむざんな姿となっているが、そこにもまたこう書かれている。
この神社の創建年紀、祭神はともに不詳ですが、同社の関係資料によると、南都春日大社のご分身を勧請されたとも、また百済(朝鮮)王の末裔(まつえい)が帰化し、その氏人たちが美濃国に住み祖神を祭ったものであるともいわれ、祭神は、三野国造(みののくにのみやつこ)百済国人希須麻及古意弥および不破勝(ふわのすぐり)百済国人渟武志等の子孫である――などと書かれており、由緒は明らかではありませんが、奈良時代か平安初期に創建されたもののようです。
どういうわけか、どこか投げやりな調子の書き方である。それでよくわからぬところもあるが、どうやら、三野(美濃)国造に「百済国人希須麻及古意弥」というのがいたらしく、それは不破勝とも関係があったということのようである。
なお、大垣・八幡神社の祭りには市の各町からいろいろな山車(だ し)がくりだされるが、そのなかに竹島町の「朝鮮(やま)」というのがある。これは古代とは関係なく、江戸時代にそこを通過した朝鮮通信使の行列を模したもので、その由来のことは、『新修大垣市史』や『大垣のまつり』にくわしく書かれている。
鍛冶・製鉄の祖をまつる南宮大社
次に美濃をおとずれたときの私は、さきにみた不破勝と関係深い、一部は大垣市となっている不破郡の垂井(たるい)町へ直行することにした。はじめは大垣市東北方の糸貫町からと思っていたのに、それを変更したわけだった。なぜ糸貫町から、と思っていたかというと、そこはかつての席田郡の中心地だったからだが、そこの席田氏のことは、不破郡の不破氏とあわせてみることにしたのである。
垂井町では、美濃国一の宮である南宮(なんぐう)大社からたずねることにした。南宮大社というのは、村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷」にあげられている「仲山金山彦神社」のことであったが、そういうことでか、宮司の宇都宮敢氏に会うと、開口一番こう言われた。
「やあ、もうそろそろ、あなたがやってくるころではないかと思っていましたよ」
このことからもわかるように、宇都宮さんはとても気さくな人で、私はいろいろなことを教えられた。南宮大社の近くには「同じ朝鮮系の古社」である不破勝が祭神の大領神社があることを知ったのもその一つだが、さきにまず、金山彦(かなやまひこ)命を祭神とする南宮大社からみると、これはおどろくべき広大な大社であった。
南宮造りといわれる社殿構成といい、豪壮な楼門、高舞殿など、どれも目をみはるようなものばかりだった。これは『日本の中の朝鮮文化』(2)「騎馬神像をたずねて」の項でみた河内(大阪府)の巨麻(こま)(高麗)郷にある金山彦神社とも同系列の、「鍛冶技術をもった人が朝鮮半島からやってきたということは誰も否定できない事実である」(谷川健一『青銅の神の足跡』)その鍛冶・製鉄技術者の祖神を祭ったもので、南宮大社のばあいは、若狭湾・敦賀湾から入って近江(滋賀県)一帯に展開した天日槍を象徴とする新羅・加耶系渡来人集団のうちのそれだったと私はみているが、どういうことでか河内のそれとは比較にもならない大社となっている。
祭の日、不破氏は席田氏を称する
南宮大社がそうなっているのは、これはおそらく天武帝による「壬申の乱」との関係からではなかったかと思われるが、そのことは、「由緒略記」にこう書かれていることからもうかがい知ることができる。
壬申の乱時の祀官宮勝木実(みやのすぐりこのみ)は、いち早く〈天武〉天皇の軍に仕え、不破の要所を守って戦勝の緒を開いたので、その功によって郡の大領に任じられ、〈天武帝の〉不破行宮は後に当社の社殿に奉献されたと伝えます。
ここにみられる宮勝木実とはさきにみた不破勝のことで、これが不破郡の大領となったところから、大領神社に祭られているのであるが、『新撰姓氏録』によると、この不破勝は「百済国の人、渟武止等の後(すえ)なり」、さきの菅野朝臣は「百済国の都慕王(とぼおう)の十世の孫、貴首王より出(い)ず」となっている。するとこれは百済系の渡来人ということになるが、しかしここに一つたいへんおもしろい事実がある。
南宮大社には金山大祭という製鉄のふいご祭などがあるが、この祭には宇都宮氏とともに同じ社家であった不破氏も深くかかわることになる。ところが、このことは宇都宮さんが私にそう語ったばかりか、吉岡勲氏の「美濃国席田郡の建置と新羅人」にも書かれているけれども、不破氏は、南宮大社のその祭となると、席田氏を称するようになるというのである。
席田郡は、さきの尾張(愛知県)の「熱田神宮と尾張氏」の項や、それから「金神社と新羅神社」でもみているように、尾張にいた新羅・加耶系渡来人がそこに移って建郡したものである。それなのに、百済系の不破氏がその席田氏を称するのは、いったいどういうわけからだったのであろうか。
壬申の乱と朝鮮本国
百済系氏族のそれに対して、新羅系氏族が本国(朝鮮)新羅の支援のもとにおこしたものとみている「壬申の乱」と考えあわせると、いろいろなことが想像されるが、しかしこう書くとその想像よりさきに、「へえ、壬申の乱が新羅の――」と思う向きがあるかも知れない。しかし「壬申の乱」のことは私だけがそうみているのではなく、上原和氏も「統一新羅の認識に欠落」とした一文のなかでこう書いている。
壬申の乱(六七二)の際、クーデターを起こした天武側の合言葉は「金」であった。この「金」という合言葉ほど、壬申の乱というものの隠された真相をよく暗示しているものはないように思われる。すでに記紀にも見えているように金銀の国は新羅をさし、金は新羅王室の姓であり、新羅人を代表する姓でもある。はたして壬申の乱の背後に、当時の白村江敗戦(六六三)のただならぬ状況のなかで、何らかの新羅勢力の動きや介入がなかった、といい切れるであろうか。
少なくとも、中国・朝鮮側の史料に徴して、いわば東アジア史的視点に立って白村江敗戦後の朝鮮半島の情勢の推移を見るときには、壬申の乱というものを、単なる大友・天武の皇位継承問題としてだけでは見ることができないのである。私は、やはり、亡命百済官人を迎え入れて反新羅体制の強化をはかる近江朝主流の大友らに対して、ようやく唐に代わって日本の敗戦処理に発言権をえてきた新羅側が反主流の天武をそそのかして起こしたクーデターが壬申の乱であると見ている。
私も、そのとおりだったであろうとみているが、古代日本に渡来した当初の高句麗系、百済系、新羅・加耶系氏族はただそれだけで孤立していたのではなく、みなそれぞれ、その本国(朝鮮)と連動していたからである。上原氏のいう百済滅亡時の「白村江敗戦」からして、天智帝によるそのような連動のための百済救援軍がくりだされたからだったのである。
あとがき
さきにまず、本文のおわり、「不破・席田氏と南宮大社」の項につづく補足から、ということにしたい。というのは、私は本書を「壬申の乱」にふれたそこで「おわり」としたところ、その後、本文の二一九ページにも出ている愛知県犬山市に住む高田秀直氏から、一九八二年十月十四日付け中日新聞の切抜きが送られてきたのだった。
「各務原に白鳳期の“寺町”/新たに三寺院跡/市史編集室が発見、確認/軒丸瓦など出土/並ぶように計五ヵ所」という見出しの大きな記事で、それのおわりのほうはこうなっている。
「各務原台地の五寺を含め、美濃地方の白鳳寺院は二十六ヵ所になる。この地方の白鳳寺院は各務原台地と、これに隣接する岐阜市南部、美濃加茂市、加茂郡坂祝町に大半が集中。大和地方に肩を並べるほどの濃密な分布状況となっている。
野村教授〈岐阜大学の古代史専攻・野村忠夫氏のこと〉はこの理由として、『村国雄依はじめ各務勝(かがみのすぐり)氏ら、各務原台地を根拠とした渡来人系豪族が壬申の乱の功によって勢力を伸ばし、氏寺を数多く創建したのでは』と話している。これら豪族の支配地は、木曾川の対岸の愛知県の一部(かつての同県葉栗郡など)にも及んでいたとみられ、市史編集室では来春発行予定の同市史第一巻で詳しく論及したいとしている」
さきにふれた「壬申の乱」とも関係ある記事なので紹介したが、この記事のみどころは、「村国雄依はじめ各務勝(かがみのすぐり)氏ら、各務原台地を根拠とした渡来人系豪族が壬申の乱の功によって勢力を伸ばし……」ということではないかと思う。つまりそれは、尾張とともに、美濃の新羅系を中心とした渡来人豪族がその「壬申の乱」にどうかかわったか、ということをものがたるものにほかならないのである。
しかしながら、本文にもあるように、私は各務原台地にも入って行ったにもかかわらず、それらの白鳳寺院跡は一つもみることができなかった。このときもし各務原市の教育委員会をたずねていたら、と思うが、あとの祭りというものである。
だいたい、『日本の中の朝鮮文化』シリーズ第七冊目の本書は、これまで書いてきたところの都合で、伊豆・駿河・遠江の静岡県はじめ山梨県、長野県、愛知県、岐阜県と五県にまでわたったものだから、それを一冊とするからには、あとになるにしたがってあれも省略、これも省略とならないわけにゆかなかった。それでさいごの岐阜県など、たとえば長野県の半分ほども書けなかった。それだったから、この岐阜県などもう少し余裕があれば、いまみたような記事の寺院跡のほかにも、「壬申の乱」ととくに関係の深い不破郡など、まだもっといろいろなものをみることになったにちがいない。
それはそれとして、「まえがき」にもしるしたように、『日本の中の朝鮮文化』シリーズ第七冊目の本書が出るのは七年ぶりのことである。ずいぶん長い年月がたっているが、どうしてそうなったか、かんたんに報告すると、実はこれが作家としての私の本職ということになっている、小説のほうの仕事がたまっていたからであった。
で、そのたまっていた仕事にもとりかからなくてはならなくなり、私はその間、中編『落照』、長編『行基の時代』や、記録『わがアリランの歌』『故国まで』『私の少年時代』の五冊を書き、それから中短編集『対馬まで』ほか『金達寿小説全集』(全七巻)をだした。こちらのほうの仕事もけっこう忙しかったわけであるが、しかしながら一方、これまた私の本職であるばかりか、重要なライフワークの一つとなっている「日本の中の朝鮮文化」にかかわる仕事も、決して忘れていたわけではなかった。
このほうの仕事としては、それまでどおり、一九八一年六月刊の第五十号をもって休刊とした雑誌「日本のなかの朝鮮文化」の編集にたずさわるとともに、『日本の中の古代朝鮮』『古代日朝関係史入門』などの本をだし、そして一九七九年には、全電通労組学習誌「あすど」(隔月刊)七月号から、本書となった「朝鮮文化遺跡の旅」を連載しはじめた。この連載は一九八一年十一月号までほそぼそと十五回つづき、本書の「信濃」までがそれにあたるが、それからあとの「三河・尾張」「飛騨・美濃」は「季刊三千里」第三十〜三十二号(一九八二年五月〜十一月刊)に「日本の中の朝鮮文化」として連載したものである。
要するに、『日本の中の朝鮮文化』シリーズ第七冊目の本書はそのようにして書かれたものであったが、いまつづけて第八冊目にとりかかっている。こんどの八冊目は「因幡・伯耆(鳥取県)、出雲・隠岐・石見(島根県)、長門・周防(山口県)」とすることになり、ほぼ踏査をおえているが、しかしなお読者から「ここにこういうのが」、あるいは「こういうところが」とそれを教えていただければありがたいと思っている。
さきの諸冊と同じように、第七冊目の本書がこうして成ったのも、講談社常務取締役兼学芸局長の加藤勝久氏ならびに同社学芸図書第一出版部副部長となった阿部英雄氏のおかげであるが、本書からは直接の担当が同社学芸図書第二出版部長の鈴木富夫氏、池田公夫氏となったので、この両氏とともに、木村宏一氏の努力に負うところが大きい。しるして、感謝の意を表したい。
一九八三年一月 東京
金 達 寿
日本(にほん)の中(なか)の朝鮮文化(ちようせんぶんか) 7
*電子文庫パブリ版
金達寿(キムタルス) 著
(C) 金達寿記念室設立準備委員会 1975, 1984
二〇〇一年一一月九日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
e-mail: paburi@kodansha.co.jp
製 作 大日本印刷株式会社
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