TITLE : 日本の中の朝鮮文化 6
講談社電子文庫
日本の中の朝鮮文化 6
丹波・但馬・播磨・吉備ほか
金 達 寿 著
目 次
まえがき
丹 波・丹 後
園部から綾部へ
加悦(かや)の白米山(しらぎやま)古墳
天日槍(あめのひぼこ)族・出石人(いずしびと)
但 馬・西摂津
城崎(きのさき)まで
飯谷(はんだに)の韓国(からくに)神社
柳行李(やなぎごうり)と菓祖
国土開発の祖神
穴太(あのう)と猪名氏
尼崎から芦屋へ
有馬(ありま)温泉と唐櫃(からひつ)
播 磨・淡 路
韓鍛冶をたずねて
播磨の秦氏族
八千軍野(やちぐさの)古戦場
韓泊(からどまり)と鶴林寺(かくりんじ)
「新羅国(しらくに)」と宮山古墳
淡路の生石(おいし)と先山(せんざん)
出浅邑(いずさのむら)をたずねて
吉 備・安 芸
美作のタタラ遺跡
津山の百済さん
宮島から白木へ
三次(みよし)と呉の亀山神社
福山・倉敷にて
「唐子踊」と「朝鮮様」
大廻(おおめぐり)・小廻(こめぐり)・熊山
備前の秦人と漢人
鬼(き)ノ城(じよう)をめぐって
文庫版への補足
無文土器と鉄斧
籠神社の「漢鏡」について
「豊国村」から吉備へ
まえがき
『日本の中の朝鮮文化』としている紀行シリーズの第六冊目である。これもさきの第五冊目と同じく季刊の『歴史と文学』に連載したものだが、しかし、途中から『歴史と文学』は講談社から発行所がかわることになって、あとの部分はじかに書きおろしたものである。
読者からはあいかわらず、毎日のようにたくさんの手紙をもらっている。そのいちいちに返事は書けないので、いつも気にしていながら失礼しているが、本文をみてもらえればわかるように、その読者からの手紙が手引きとなってたずねたところも多い。
そのように私のこの仕事は、いまではもう名実共に日本の読者と一体となってすすめられているといっていい。そればかりか、「但馬・西摂津」にみられるように、たまたま講演に招かれて行ったことが機縁となって、その地のことが数十頁にもわたって書かれていることもある。
ということは、「日本の中の朝鮮文化」とはけっして特殊なそれといったものではなく、この日本各地いたるところにあるものだということにほかならないのである。それが「帰化人」の何とかということで、これまで放置されたままとなっていたのはいったいどうしてであったろうか、といまさらのように私はまた思わないではいられない。
しかもそれらの遺跡や遺物はただ古代の朝鮮から渡来したもの、あるいは渡来した人々の手に よって成ったものであるというだけではなく、これは加耶(加羅)諸国を含めた新羅系のもの、高句麗系のもの、百済系のもの、ということまでだいたいはっきりしている。たとえばさきの北陸道(福井・石川・富山・新潟の各県)をみて歩いた第五冊目もそうだったが、第六冊目の本書に扱われている山陽道ほかにしても、ほとんどみな新羅系のものとみられるものばかりである。
いわゆる畿内の河内(大阪府)や大和(奈良県)がほとんどみな百済系または高句麗系のそれであったのに対して、これはいったいどうしてであったろうか。こんなところにも日本古代史を解く重要なカギがひそんでいると思われるが、そのことにはほとんどまだどこからも手がつけられていない。
例によってここにまた予告をしておくとすれば、次の第七冊目では信濃・甲斐・伊豆・駿河・遠江・三河・尾張・飛騨・美濃となっていた長野、山梨、静岡、愛知、岐阜の各県をみたいと考えている。これまでと同様、ご協力をねがっている。
さきの諸冊と同じように、第六冊目の本書がこうして成ったのも、講談社学芸図書第二出版部の伊藤寿男氏と阿部英雄氏、ならびに同社写真部の黒田一成氏らの努力によるものである。
一九七六年六月 東京
金 達 寿
日本の中の朝鮮文化 6
丹波・但馬・播磨・吉備ほか
丹 波・丹 後
園部から綾部へ
とりあえず園部まで
いまは兵庫県、岡山県、広島県となっている山陽道の播磨(はりま)・淡路(あわじ)・美作(みまさか)・備前(びぜん)・備中(びつちゆう)・備後(びんご)・安芸(あき)をたずねることにした。しかし、兵庫のうちの但馬(たじま)は山陰道となっていて、まだ踏査していないので、そこをみるついでにいまはどちらも京都府となっている同じ山陰道の丹波と丹後からみることにしたい。
というのは、私はさきにおなじ京都の山城(やましろ)はみている(『日本の中の朝鮮文化』(2))けれども、丹波と丹後とはのこしていたからである。で、こんどの山陽道のほうにそれを加えることにしたが、とはいっても、丹後のばあいはともかくとして、丹波にはこれというはっきりした手がかりがあるわけではなかった。
ただ、丹波には園部(そのべ)・綾部(あやべ)といったいわくありげなおもしろい地名のところがあるのを知っているだけだった。それで斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」をみると、丹波の天田郡下川口村牧に「子持有台壼等」を出土した古墳があり、また、福知山市牧弁財天古墳からは装身具であった「帯金具」の出土したことがあげられている。
それからまた、村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷(こう)」をみると丹波のそれとして、佐(さじ)神社、奴々伎(ぬぬぎ)神社、佐地神社、川内多々奴比(かわちたたぬひ)神社二座、苅野(かりの)神社などがある。しかしながら、神社はこれまでもずいぶんみてきたし、これからもまたたくさんみることになるはずなので、その神社だけではどうもあまりしっくりしない。
それに、さいごの苅野神社の苅野というのは、韓田(からた)を苅田(かりた)といった例からすると韓野(からの)、あるいは韓の(之)ということの転じたものかもしれないが、川内多々奴比神社とはいったい何のことかわかりはしない。ほかの奴々伎、佐地、佐神社などにしてもおなじことである。
で、どうしたものかと迷っていたのであるが、ともかく私はその丹波の園部まで行ってみることにした。いずれにせよ、そうするよりほかない。
胡麻(ごま)は高麗(こ ま)の胡麻化し?
私は京都で出ている雑誌『日本のなかの朝鮮文化』の編集にもたずさわっていたので、月に一、二度は必ず京都まで行っている。そしてそのついでに、雑誌の発行者である友人の鄭詔文ほかと、あちこちの遺跡をまわってみるというのがこの数年の常となっている。
その日はもう午後になっていたが、しかし雑誌の用事がおわったので、私は鄭詔文に向かって言った。
「さて、では一つ、これから丹波の園部まで行ってみようか。丹後のほうは遠いから、この次ということにして――」
このときは考古学者の李進煕もいっしょで、朝からそういう予定ともなっていたから、みなすぐにそうしようということになった。すると横から、編集部の松本良子さんが私たちをみて言った。
「すると、まず教育委員会ですね。では園部町の教育委員会へ、みなさんこれからおたずねするからと電話しておきましょうか」
「そうですか。そうしてくれるといいけれども……」と、私はことばをにごした。園部町の教育委員会には、別に知り合いがいるというわけでもなかったからである。
しかし結果としては、松本さんがそうして電話をしてくれたのがやはりよかった。京都市内から園部町まではかなりの距離だったが、丹波街道筋にあった園部町教育委員会をたずねると、同教育委員会町史編纂主任の吉田清氏と同事務局の松村賢治氏とが、ちょうど私たちのつくのを待ちかまえるようにしてそこにいてくれた。
そして私たちがなにかを問うよりさきに吉田清氏は、「園部と帰化人」となっている刷りものを私にくれた。あなたたちがやって来たのは、「つまりこれでしょう」というわけであった。
「ほう、これは――」と私はもうとたんにうれしくなってしまったが、それは『郷土史研究』という雑誌に書かれた吉田清氏自身の論文の抜刷りで、「特に私部(きさいべ)について」という副題がついていた。ついで吉田さんは、私たちに向かって言った。
「園部にはとくにこれといったものはのこっていませんが、山陰線の駅名ともなっている胡麻(ごま)というところがあります。ここはもと牧場だったところのようですから、馬の駒ということからきたかとも思いますが、もしかすると高麗(こ ま)ということだったかもしれません」
「ああ、そうですか。すると、高麗を胡麻化したわけだったのかな」
鄭詔文がそんなことを言ったので、みんなどっと笑った。どちらにしろ、ではその胡麻というところまで行ってみようじゃないか、ということになった。教育委員会の吉田さんも、松村さんも同行してくれることになった。
やはり胡麻は高麗だった
園部の町なかを出ると、丹波は見わたす限りが青緑の山々で、谷間には深い川が流れていた。国鉄の山陰線に沿った街道はその川に沿ったり、またはその川を渡ったりもしたが、国鉄の山陰線からすると園部、船岡(ふなおか)、殿田(とのだ)の次が胡麻だった。
なるほどかつては牧場だったところらしく、胡麻は周囲の山々のあいだにできた、ゆるやかなスロープ状の平野だった。農家が点々としているあたり、明らかに古墳ではないかと思われる小丘陵がいくつも見える。
「あれも古墳ですね」と考古学者の李進煕は、田んぼのあいだに盛り上がっているその丘陵の一つを指さして言った。
「ええ、われわれもそうではないかと思っているのですが、しかし、ここはまだほとんどが未調査です」と、吉田さんと松村さんもうなずき合いながらそう言った。
「ある意味では、未調査というのもいいんじゃないかな。そっとしておくのもいい」
「いや、ここもそうはいかないようです。京都市内の人たちの別荘ができたり、ゴルフ場ができたりするそうですから」
「へえ、ここにもそんなものができるのですか。“列島改造”とはよくいったものだなあ」
私たちはそんなことを言い合いながら、胡麻、上胡麻、東胡麻とわかれているその辺をひとまわりして、さいごに国鉄山陰線の胡麻駅まで来た。みると駅前に郵便局があって、胡麻郷郵便局となっている。「胡麻郷か」――と私はそこではじめて、やはり胡麻というのは高麗(こ ま)からきたものではなかったかと思ったものであるが、しかし考えてみれば、それは別におかしなことでも何でもなかった。
だいたい、山城国となっていた丹波のとなりの京都盆地を開発して住みついたのが、西は新羅(しらぎ)系渡来人の秦(はた)氏族であり、東は「祇園さん」として知られている八坂神社をいつき祭った高句麗(こうくり)系の高麗(こ ま)氏族であった。しかもそれは東西一様というわけではなく、西側にぐっと入ったところ、つまり丹波寄りの樫原(かたぎはら)からは、高句麗系の樫原廃寺跡が発見されていることからみて、彼ら高句麗系のものたちが丹波のそこまでひろがって来たとして、何のふしぎもなかったのである。
しかもまた、吉田清氏の「園部と帰化人」をその結論からさきにみると、「古代、木崎郷といわれた園部の地」は朝鮮からのいわゆる「帰化人の手によって開発されて行ったことを物語っている」だけではない。ここで念のため、今村鞆氏の『朝鮮の国名に因(ちな)める名詞考』をみると、いまみた胡麻駅などのことがはっきりこう出ている。
胡麻(コマ)駅 省線〈国鉄のこと〉山陰本線、明治四十三年設置、京都府船井郡胡麻郷村に在り。
胡麻郷(コマサト)村 京都府船井郡胡麻郷村、大字(おおあざ)に胡麻あり。
胡麻はいまではその駅ともども胡麻(ごま)とよまれているようであるが、かつては「胡麻(コマ)駅」「胡麻郷(コマサト)村」とよまれていたこともこれでわかる。そしてそれが「朝鮮の国名に因(ちな)める」とはもちろん、百済(くだら)、新羅とならんで朝鮮三国時代を形成していた高句麗、すなわち高麗(こ ま)のことであることはいうまでもない。
園部はソ(新羅)の人
さて、そこでこんどは園部にもどる。「特に私部(きさいべ)について」と副題された吉田清氏の「園部と帰化人」によると、「園部は、丹波の亀岡盆地の北端に位置し、丹波国船井郡木崎郷十八ヵ村の一部であった」とある。
ここにいう「木崎(きさき)」とは「私崎(きさき)」「私市(きさいちべ)」「私部(きさいべ)」でもあって、これはキサキ、すなわち皇后(きさき)ということにもつうじることばであったという。
そして吉田さんは、この「私部なる氏族の発祥は、現在の堺市(旧大阪府泉北郡百舌鳥(も ず)村大字百済)で」あったとして、八六五年の「貞観七年九月十五日の田券」文書に、「百済郡百済郷戸主志羅岐浄男戸」「新羅酒人」「私部安麻呂」「百済民麻呂」などとあることから、そこには「百済系帰化人の外に新羅系帰化人が居住していたこと」を明らかにし、こちらの丹波「園部の私市」、すなわち木崎郷にもそのどちらかの支族が「少なくとも天平十七年(七四五)には居住し、集落をなしていた」と書いている。
百済郷に住んでいた志羅岐(しらぎ)というのが、新羅でもあったわけである。吉田さんはさらにつづけて、こう書いている。
なお、上木崎町城崎(きさき)神社の東の地域の小字(こあざ)名を市場と呼び、園部大橋に近い地域の小字名を下河原と呼んでいて、城崎神社の附近が古い街道筋であったことを示している。この城崎神社が上木崎町の区域にありながら内林町の氏神であることは、もう少し考えてみなければならない問題を含んでいる。中世には、廃寺善願寺を中心に、内林・曾我谷・小山は深いつながりがあり、木崎郷の主要な地をなしていたとおもわれる。
私市の丘陵の尖端には、六世紀半頃の円墳が五基確認されている。さらに、古墳時代後期から奈良時代前期にいたる時期を示した登り窯(かま)群が七ヵ所発見され、灰原とそれにつづく水田や畑から多数の土器片が出土している。現在までに確認されただけでも、私市谷の丘陵地は全域にわたるといってよいほどであって、大規模な窯跡群があり、専業技術者の集落のあったことが推測されるのである。
そうして吉田さんはさきにみたように、このことは、「古代、木崎郷といわれた園部の地」が朝鮮からのいわゆる「帰化人の手によって開発されて行ったことを物語っている」と結論しているのであるが、神社については、これもさきに村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷(こう)」によってみている。が、しかし、ここにはそれらのほかにも、居住していたものの氏族名である私部、私市、私崎、木崎ということからきたものとみられる城崎(きさき)神社があったのである。
そもそも私部(きさいべ)、私市(きさいちべ)ということからしてむつかしい訓(よ)みである。それがさらにまた私崎(きさき)、木崎(きさき)、城崎(きさき)となっているのだから、われわれにはますますわからなくなるというわけだ。
古墳については、ここにあげられているもののほか、一九七二年七月、同志社大学の森浩一氏らによって発掘された「園部垣内(かいち)古墳」がある。垣内(かいち)とはこれまたむつかしいが、では以上にみたような神社をいつき祭り、そしてこれらの古墳を築造したのは、いったいどういうものであったのだろうか。
もちろん、それを確実なものとして知ることは不可能である。ほかの各地とおなじように、この園部にも百済系のものや高句麗系のものが入りまじっていたであろうが、しかし私はどちらかといえば、新羅系のものが中心となっていたのではなかったかと思う。
それというのは、ここが園部というところだったからである。地名ではない園部は別に苑人(そのひと)ともいわれたもので、この園部・苑人というのは、新羅の原号であった徐伐(ソフル)(ソの都)のソ、すなわちソの(之)ということからきたものと私は考えている。
宮内省に祭られている園(その)神・韓(から)神の園神がソフリ神、つまりソの(之)神であることからも私はそう考えるのであるが、しかし、『新撰姓氏録』によると、苑部首(そのべのおびと)や園人首(そのひとのおびと)を百済系としているから、地名の園部ということからそれを推(お)しはかるのには、無理があるかもしれない。そのためにはこの地がいつごろから、どういうことから園部となったかを知らなくてはならないが、いま私にはそれを知る手だてがないのである。
したがって、これはまだ疑問とするよりほかないが、しかし次におとずれたおなじ丹波の綾部は、かなりはっきりしていた。もちろん私たちが綾部をおとずれたのは、園部をたずねた後日のことだった。
綾部はすなわち漢部
ここでもまず、私たちは綾部市教育委員会をたずねて、社会教育係長の渡辺照雄氏から、『綾部市の文化財一覧表』などをもらった。ついで、「市史は」ときいてみると、それはまだできていないが、市となる以前の『綾部町史』ならあるという。
さっそくその『綾部町史』をみせてもらったが、案のじょう、綾部はもと漢部(あやべ)だったものであった。やはり綾、すなわち漢織(あやはとり)ということからきたもので、そこにこうある。
漢部を綾部と書くようになったのは、いつの頃か判らないが、安国寺文書、長禄四年(一四六〇)のものと思われる広戸九郎左衛門下知(げち)状に、郡内村名を挙げた中に、「漢部」の文字を使用している。江戸時代にも尚漢部の文字を使用したことは、慶安三年に作製した「山家藩古地図写」等多くの例が残っている。漢部の名はいわゆる古墳時代に当る氏族制度社会を以て成立した古代国家の部民から出た名で、恐らく皇室所属の絹織物を専業とする帰化人の職業部落であったであろう。
綾部の地は古代から、由良川沿岸の荒蕪地帯や山麓台地には、桑の木が自生していて、自然、養蚕(ようさん)、機織(はたおり)の好適地として、大陸より帰化人が土着するようになったと思われる。帰化人が我が国に渡来して、文物の伝来に大きな貢献をするようになったのは西暦四世紀頃であるが、彼等は一般に綾を織る技術に長じていたので、アヤヒトと呼ばれ、国々の要所に集落を作り生産に従っていたが、やがて大和朝廷に属する品部の一種としてあや部が成立したもので、綾部の起源も恐らく品部の一種から発したものと思う。
ここにいう漢部、綾部が「大和朝廷に属する品部の一種」から「発した」ものかどうかはわからない。それはわからないが、漢部、アヤヒトということになると、われわれは大和(奈良県)飛鳥の檜隈(ひのくま)を中心地として繁栄していたいわゆる東漢(やまとのあや)氏・漢人(あやひと)のことを思いださないわけにはゆかない。
河内(大阪府)の古市(ふるいち)を中心地としていた西文(かわちのふみ)氏とともに、朝鮮から渡来したそれとして日本古代史上に有名なものだが、その漢部、アヤヒトがこちらの綾部にもいたのである。漢氏・漢人・漢部の漢とは、鮎貝房之進氏の『雑攷』「漢をアヤ又はアナと訓じたるに就きて」にもはっきりのべられているように、これはのち新羅に併合された古代南部朝鮮の小国家安羅(アラ)・安那(アナ)・安耶(アヤ)(阿羅・阿那・阿耶とも書く)からきたものであった。
そしてこの安羅・安那・安耶が漢織・穴織の漢(あや)・穴(あな)ともなり、それがまた漢氏・漢人・漢部などという氏族名ともなった。『綾部町史』にもその漢部氏のことが出ているが、要するに綾部もこの漢部(氏)が中心となって栄えたところで、それでのちには、ここにも立派な仏教寺院などが建立(こんりゆう)されたりもしたのだった。
『綾部町史』はそのことをこう書いている。
古代漢部の蚕糸業の隆盛による経済力と、帰化人による先進文化の集積によって、当時地方に稀な寺院建築が行われたもので、附近の古墳の存在と共に往昔の綾部を語る有力な遺跡と云わねばならない。
だが、朝鮮土器ともいわれた須恵器(すえき)や馬具類、金環などが出土したという「附近の古墳」はいまはどれもほとんどのこっておらず、奈良前期、白鳳時代のものとみられる宇瓦(のきがわら)などを出土した「当時地方に稀な寺院」もいまは綾中廃寺跡ということになっている。「この廃寺跡から出た礎石は、今も綾中町の出口恭余昇(きよし)氏宅の靴脱石及び井戸端の台石となって残っている」とあるので、私はそこまで行ってみようかとも思ったが、しかしやめることにした。
加悦(かや)の白米山(しらぎやま)古墳
丹波・丹後はすべて谷間
そこで、次は丹後である。しかし、とはいっても、これがなかなかそうかんたんなことではなかった。丹後ももとは丹波国だったが、それが七一三年の和銅六年に丹波よりわかれて丹波後国、丹後国となったものであった。
そしていまはどちらも京都府となっているけれども、地図をみればわかるように、京都府というのは南は太平洋に近い大阪や奈良に接し、北は遠く日本海にまでのびた細長い地域である。それだったから、一口に丹波から丹後といっても、そこは遠いところだった。
そこへ私は数度も、ときには京都の鄭詔文たちといっしょのクルマで、ときには東京からまっすぐ一人で列車に揺られて行ったものであるが、クルマより早い列車のばあいでも、京都駅からさえ丹後の宮津(みやづ)までは、山陰線の急行で三時間近くもかかった。これは、新幹線の東京から京都までの所要時間だった。
丹波・丹後は実は数年前にも但馬(たじま)(兵庫県)となっている出石(いずし)への途次、一度たずねたことがある。だが、そのときとはちがって、こんどそこを数度往復しているうちに、私はしきりと、「木曾路はすべて山の中である」という、島崎藤村の有名な『夜明け前』の書きだしのことばを何度も思いうかべたものだった。つまり私はそのことから、「丹波・丹後路はすべて谷間である」と思ったのである。
もちろん、日本海寄りの丹後となると海辺ともなるが、しかし丹波のほうは、ほんとうにすべて山また山に囲まれた谷間だった。そんな谷間に園部とか綾部といった町ができていたわけで、そのことから私はまた、そこを「丹(タン)」とはよくいったものだと思わないわけにゆかなかった。
中島利一郎氏の『日本地名学研究』にもあるように、丹波・丹後の丹(タン)とは古代朝鮮語の谷ということであった。したがってかどうか、谷もいまなおタン・ダン(谷)とよまれているところがあるらしく、兵庫県尼崎市東難波町に住む喜谷繁暉氏から私は長い手紙をもらったが、それにこうある。「わたしは喜谷(キタニ)ですが、田舎の裏の人のばあいはキダン(喜谷)さんと呼び、また谷田という姓があって、これはタンダ(谷田)さんと呼ばれています」
その谷間の丹波・丹後は景色のよいところだった。私がこんどあらためてそこをおとずれることになったのは、十月から十二月にかけてだったが、ことに丹波の山々は赤松と灌木の紅葉がみごとだった。そして北丹ともいわれる丹後となると、その山々は急崖(きゆうがい)となって海にせりだし、そこからは白い波しぶきがあがっていた。
地元史家をたずねる
丹後も、みたいところは多かった。まず、さきにもみた今村鞆氏の『朝鮮の国名に因(ちな)める名詞考』によると、「志楽(シラク)郷・設楽(シラク)庄・志楽村」というのがあってこう書かれている。
丹後国加佐郡の東部新舞鶴町の東に接す。『和名抄』加佐郡志楽郷。『東鑑』建久六年、丹後国設楽庄。今の志楽村は舞鶴の東若狭街道に当る。
志楽・設楽とは三河(愛知県)の設楽(したら)郷・設楽郡、また設楽神・志多良神とも関係あるもので、これが『朝鮮の国名に因める名詞考』のなかにあるのは、もちろん新羅(しらぎ)ということの転訛(てんか)したものと考えられているからである。新羅がそれとなった例としては、武蔵(埼玉県)のもと新羅郡だったところに志楽郷・志木(しき)がある。
しかし、丹後の志楽はいまなお「志楽村」としてのこっているのかどうか、それはわからない。わからなかったが、どちらにしろ、ここは省略とすることにした。この日は鄭詔文たちといっしょのクルマだったが、あらためておとずれた丹後ではまず、宮津市国分にある丹後郷土資料館をたずねた。
いわゆる日本三景の一つ、天橋立(あまのはしだて)によってさえぎられた阿蘇(あそ)の海をぐるっとまわって行ったところで、資料館のあるそこはもと丹後国分寺のあった跡だった。小高い丘のゆるやかな斜面にその礎石などがのこっていて、そこに京都府教育委員会による「史跡 丹後国分寺跡」とした立札がある。
資料館は、その立札を横目にしながらのぼった丘のうえに建っていた。目ざした百田昌夫氏は不在だったので、私たちは資料課長の釈竜雄氏に会い、『丹後の古墳』などの資料をもらった。そして釈さんと話していた応接室のそこの書棚に目をやると、京都府下の各「郡史」などにまじって、梅本政幸『丹後路の史跡めぐり』というのがみえる。
標題どおり、丹後路の史跡をめぐるための案内書だった。地元の史家の手によってなったものにちがいないと思われ、奥付をみると著者である梅本氏の略歴があって、やはり「現在 宮津市立栗田中学校勤務」とある。宮津市の現住所もそこに出ている。
その『丹後路の史跡めぐり』というのは、ふつうの書店でたくさん売られているというものではなかった。こういうばあい、それを入手するには直接著者に会ったほうが早いことを私は知っていたので、
「この梅本政幸という人は……」と私はその本を示しながら、釈さんに向かってきいた。「どういう人ですか。まだ、宮津にいるんでしょうかね」
「ええ、栗田(くんだ)中学の校長をしている人です。まだ学校にいると思いますから、会うんでしたら、電話をしてみたらどうですか」
私はさっそく資料館の人に番号を調べてもらい、その中学校に電話をしてみた。すると梅本氏は、いまこれから自宅へ帰るところだから、そこで会ってくれるというのだった。
こうして私たちは、宮津市吉原のそこをたずねて、梅本さんと会った。電話でもそうだったが、五十をちょっと出たかと思われる梅本さんは、飾ったところのない気さくな人だった。
気になる白米山(しらぎやま)古墳
私たちは梅本さんから、それぞれに『丹後路の史跡めぐり』を一冊ずつもらい受けたばかりか、いろいろとたくさんのことを教えられた。そして、夕方でもうあまり時間がなかったが、これから加悦(かや)町の白米山(しらぎやま)古墳をみに行くというと、すぐに、梅本さんもそこまでいっしょに行ってくれるというのだった。
梅本さんの『丹後路の史跡めぐり』の順序からすると、まず、丹後一の宮の籠(この)神社からたずねなくてはならなかったが、しかしそれはあとまわしとし、私たちはさきに、『丹後の古墳』にある白米山古墳からみることにした。これはかなりまえから、ずっと気になっていたものだったからでもある。
というのは、さきに私たちは丹後郷土資料館をおとずれて、白米山古墳などのことが出ている『丹後の古墳』をもらっているが、実をいうと、私としてはこれは二度目だった。先年、天日槍(あめのひぼこ)を祭神としている但馬(たじま)の出石(いずし)神社をたずねたとき、偶然そこに来合わせたおなじ丹後郷土資料館の百田昌夫氏から、私はすでにそれをもらっていたのである。
「へえ、白い米と書いて白米(しらぎ)ですか」と、私はそのとき百田さんに向かって言ったものだった。それはおそらく新羅の新羅来(しらぎ)、白来がそうなったものではなかったかと思われたが、何とも無理なよませ方であった。
その白米などまさに「しらぎ」とルビをふってくれてなかったとしたら、地元の人ならともかく、誰もそうとはよめないはずである。このことは、その白米山古墳のある加悦(かや)町の加悦にしても同様だった。
加悦町は阿蘇の海にそそぐ野田川沿いに発達した町で、これも丹波・丹後のそれにたがわず、大江山連峰をそこに仰ぎ見る谷間だった。それでこのあたりは加悦谷(かやだに)ともいわれているらしく、現に梅本さんはさっきから何度も「加悦谷、加悦谷」と言っていたばかりか、梅本さんには、『かやだに』『加悦の歴史』といった著書もあるくらいだった。
加悦(加耶)だから白米(新羅)山古墳
「加悦谷は古墳の多いところでして」と梅本さんは道々、そんなふうにも言った。ここで『丹後の古墳』により、加悦とともに丹後全体の古墳をもみると、「この厚葬の風習は、中国、朝鮮からの影響があったことは確実である」というそれはこうなっている。
前期の古墳としては、加悦町白米山(しらぎやま)古墳、同町蛯子山(えびすやま)古墳、丹後町神明山(しんめいやま)古墳、弥栄(やさか)町銚子山(ちようしやま)古墳、網野町銚子山古墳、峰山町杉谷古墳などがある。いずれも全長一〇〇〜二〇〇mの大型前方後円墳で、葺石(ふきいし)、埴輪(はにわ)を有する。またその中には、周囲に濠(ほり)をめぐらせているものがある。
中期の古墳としては、久美浜町芦高(あしだか)神社古墳、岩滝町丸山古墳、丹後町産土山(うぶすなやま)古墳、馬場(ばば)の内(うち)古墳などが代表的なものである。
後期の古墳は横穴式を主流とするが、多くは前期のように独立せず群集しており、数は飛躍的に増大する。加悦町入谷(にゆうだに)群集墳、明石(あけし)群集墳、舞鶴市干田(ひだ)群集墳、久美浜町須田(すだ)の群集墳、加悦町上司(じようし)古墳、大宮町新戸(しんど)古墳、弥栄町太田古墳などが主なものである。
丹後を最も特徴づける古墳は、前期の数基の大型前方後円墳である。いずれも詳しい調査がなされていず不明な点が多いが、日本海沿岸では大型古墳がこれほど群在する地域は他にない。なにゆえに丹後の古墳文化がこのような興隆をみたのであろうか、今後の大きな問題であろう。
これでみても、「丹後を最も特徴づける」「前期の数基の大型前方後円墳」は全部で六基あげられているが、白米山古墳を含むそのうちの二基までが加悦にある。加悦にはこのほかにも円墳三基をともなった作山(つくりやま)古墳があって、ここからは石釧(いしくしろ)、曲玉(まがたま)、管玉(くだたま)、変型四獣鏡などが出土しており、入谷のそれは総数約五十から成っている群集墳である。
「ああ、それから、これもあなたたちには言っておかなくてはならないが、加悦谷の人たちは、いまでもなかなかおもしろいことを言っています」とまた、『かやだに』『加悦の歴史』の著者でもある梅本さんは言った。
「それはどういう――」と私は走っているクルマのなかから、その加悦谷となったらしいあたりを見まわしながらきいた。
「いま言ったように、この加悦谷は古墳の多いところですから、いまでもあちこちの畑などからいろいろな土器が発見されます。するとここの人たちはそれをみて、朝鮮土器が出た、と言っているのですよ」
「そうですか。なるほどね。なにしろ、ここはほかならぬ加悦(かや)ですからな」と、前の席でクルマを運転していた鄭詔文がそう言って笑った。
つられて私たちも笑ったが、しかし鄭はただ笑うためにだけそう言ったのではなかった。その加悦谷、あるいは加悦町の加悦というのが、どういうことであるかという前提があってそう言ったのだった。
そのことは梅本さんの『丹後路の史跡めぐり』にも書かれているが、加悦というのは、これも安羅同様、のち新羅に併合された古代南部朝鮮の小国家加耶(かや)・加羅(から)・加那(かな)からきたものであった。『丹後路の史跡めぐり』によると、加悦はもと「加屋」「賀屋」とも書かれたもので、それが現在の加悦となったのは、「南朝の忠臣といわれた名和長年の臣、嘉悦(かや)氏」がここの「領主となって」からだったという。
それだけではなかった。加悦町には、これももと「加耶の媛」ということだったかもしれない萱野媛(かやのひめ)を祭る『延喜式』内の古い吾野神社があり、また、安羅・安那・安耶からきた安良というところや、安良山というのもあって、これは古文書にはっきり、安羅山と書かれていたものだったという。
加耶(かや)(加悦)、安羅(あら)(安良)どちらものちには新羅に併合された小国家であったから、したがってこの加悦に白米(しらぎ)山、すなわち新羅山古墳があるのもふしぎではなかったのである。しかもそれが四世紀の前期古墳であるということは、いっそうその意義を大きくしている。
要するに、これから逐次みて行くように、古代の丹後や北陸の国々は日本海をへだてて向き合っていた、朝鮮の新羅文化圏のなかにあったといっても決して過言ではない。われわれがいま加悦谷でみているのはほんのその一部にすぎないが、〓(いななき)という斜面台地の山となっている白米山古墳は、まわりの一部を竹林で囲まれた美しい古墳だった。
樹林のあいだからのぼってみると、そこに白米山氏の墓所があった。古墳がさらにまたのち墓所となっているのは珍しくないが、してみると白米山というのは、ただ単にその古墳の名称であっただけでなく、それが氏族名ともなっていたのである。
白米山古墳は全長一一八メートル、後円部の高さ七メートル、直径五七メートル、全周三二五メートルの、いわゆる二段式前方後円墳だったが、しかしそこはびっしりとした樹林となっていて、私たちの目にはどれが前方部やら後円部やらもわからない。まだ発掘されていないという陪塚(ばいちよう)があったけれども、それも梅本さんに教えられてやっとわかった。
古墳の山からおりて、樹林を抜け出てみると、ちょうど陽が向かいとなっている西の山におちようとしているところだった。そして加悦谷は、早くもその下の陰の部分となってしまっていた。
現代の加悦は有名な丹後縮緬(ちりめん)の町でもあって、加悦奥駒田なるところには、その縮緬を織りつづけた女たちのことを描いた『女工哀史』の作者細井和喜蔵の記念碑があるという。私はついでにその記念碑にも敬意を表したいと思っていたが、しかしもう時間がなかった。
天日槍(あめのひぼこ)族・出石人(いずしびと)
新羅大明神=溝谷(みぞたに)神社
丹後の加悦から東京へ帰って、間もなくだった。ちょうどその私のあとを追うようにして、梅本政幸氏からのはがきが届いた。このまえ来たときは忘れていたが、「竹野郡の弥栄(やさか)町に、新羅大明神ともいわれる溝谷(みぞたに)神社がある」というのだった。
神社としては丹後一の宮の籠(この)神社のほかもう一つ、私としてはさきに丹後郷土資料館の釈竜雄氏から聞いていた由良川流域の、いまは大江町となっているところにある阿良須(あらす)神社をたずねてみようかと思っていた。いま念のためにみると、阿良須神社は村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷(こう)」にも出ているが、この阿良須というのも、さきにみた加悦(かや)の安良とおなじく安羅(あら)からきたものにちがいなかったからである。
しかし私たちはそこはやめて、次に丹後をおとずれたときも、宮津市の栗田(くんだ)中学に梅本さんをたずねた。あらかじめ電話をしてみたところ、梅本さんもいっしょに行ってくれるというので、私たちは弥栄町の新羅大明神をたずねることにしたのだった。
地図をみると、竹野郡というのは丹後半島の北西部で、弥栄町はその半島のまんなかあたりとなっていた。私たちの乗っていた鄭詔文のクルマは朝十時ごろ京都市内を発して、丹波から丹後へとただひた走りに走って来たものだったが、梅本さんといっしょになった宮津から弥栄町までは、さらにまた二〇キロほどを走らなくてはならなかった。
さきにも書いたように、京都市内からしても、丹後は遠いところだった。そうして弥栄町についてみると、もう夕方になってしまっていた。つまり、私たちはそこにある新羅大明神の溝谷神社を、ちょうど一日がかりでみに来たわけだったが、そこにある神社そのものは、別に何ということもないものだった。
もとは弥栄村字外邑(むら)だったというそこも一本の川をあいだにした谷間で、新羅大明神の溝谷神社はその川の南側の山腹にあった。神社は荒れたままとなっており、由緒書をもらってみようにも、それをくれる社務所もなかった。そうだったからか、社殿のそこに『溝谷神社御由緒記』というのが額になってかかっていて、「今に至るも新羅大明神と崇(あが)め奉りて、諸民の崇敬するところなり」といった文字がみえる。
私たちは遠くから一日がかりでやって来たにもかかわらず、ただ境内のあたりをちょっとぶらぶらしてみたり、山腹のそこから谷間の数少ない集落をながめわたしたり、そんなことしかすることはなかった。気がついてみると、その溝谷というのはひどく静かなところだった。神社の山腹から人家まではかなりの距離だったが、そこでも丹後縮緬が織られているらしく、カチカチカチと、その機(はた)の音が聞えていた。
それで私は逆に、「ああ、静かなんだなあ」と思ったものだったが、もしかするといまはそこも、丹後半島に多いといわれる過疎地帯となっているのかもしれなかった。だが、しかし、『延喜式』内の古い神社である新羅大明神の溝谷神社がいつき祭られたころの、古代のそこはどうであったか。日本海にそそぐ竹野川の支流となっている川をあいだにしたそこの谷間は、おそらくもっと賑わっていたのではなかったろうか。
いまそこにみえる小さな集落の人家だけではとうていそのような神社を造営し、維持することはできないとも思われるからだが、その古代のことについては、梅本さんの『丹後路の史跡めぐり』にこう書かれている。「さらに五穀の神と知られ、伊勢の外宮(げくう)に祀(まつ)られている豊受(とゆけ)大神などは大陸よりの帰化人らしく思われ、新羅(しらぎ)より帰化した天日槍(あめのひぼこ)族などは、但馬から〈丹後の〉熊野・竹野地方に大きな勢力を張っていた」
天日槍に思いをはせる
豊受(とゆけ)大神のことはあとでみるとして、ここにいう「新羅より帰化した天日槍族」とはいったいどういうもので、それがどういうふうに「但馬から〈丹後の〉熊野・竹野地方に大きな勢力を張っていた」のか、となるとむつかしいことになるが、しかしながら、古代の丹後を考えるばあい、これはどうしてもさけるわけにゆかない。
だったから、私は後日、東京からまっすぐ一人で丹後一の宮の籠(この)神社をたずねたときも、そのいわゆる天日槍族のことを考えないわけにはゆかなかった。というより、丹後における古代の遺跡が、どうしてもそのことを考えさせずにはおかなかったのである。
いわゆる天日槍族とは、これはまた別に出石人(いずしびと)、出石族(いずしぞく)ともいわれる。ちなみにここで朝倉治彦・井之口章次・岡野弘彦・松前健共編『神話伝説辞典』の「いずしびと 出石人」の項をみるとこうなっている。
新羅の王子とされる天之日矛(天日槍)を始祖とし、但馬、播磨、淡路(いずれも兵庫県)、近江(滋賀県)、若狭(福井県)、摂津(大阪府)、筑前(福岡県)、豊前(ぶぜん)(大分県)、肥前(長崎県)等にわたり、広大な分布を持っていた大陸系の種族。記紀や風土記には、天の日矛ないしその妻の女神(アカルヒメ)の巡歴伝説ないし鎮座伝説として語られる。この族人に田道間守(たじまもり)、清彦、神功皇后の母君などがある。したがってそれらの話は、彼らの伝えたものと考えられる。
『古事記』の春山之霞(はるやまのかすみ)壮夫(おとこ)の話もそうである。
これでみてもわかるように、出石人・出石族ともいわれる天日槍族とは、日本の古代にとって実に重要な存在となっている。それが一般的にはまだあまりかえりみられないでいるけれども、たとえば、『播磨国風土記』をみるとこの天日槍は、「八千の軍をもって伊和(いわ)大神と戦った」とあり、そしていまも「八千軍野(やちぐさの)古戦場跡」というのがあって、それのある神崎町の地名も「八千種(やちぐさ)」となっている。
それだけではない。天日槍について書かれたものとしては、三品彰英氏の『建国神話の諸問題』や今井啓一氏の『天日槍』などがあるが、たとえばまた、西尾牧夫氏の『瀬戸内海に残る朝鮮伝説』によると、天日槍とは「神功皇后の先祖」となっているもので、「見方によってはこの人を中心として、日本史は神と人とが分かれた」とされているものでもある。
いずれにせよ重要な存在で、私にいわせるならば、この天日槍についてのただしい全面的な研究はまだほとんどなされていない。そのことはいわゆる「魏志倭人伝」、ただしくは『三国志・魏志・東夷伝』「倭人」条で有名な筑前(福岡県)の伊都(いと)国が新羅の原号から出た伊蘇(いそ)国、すなわちソの国であり、その伊都県主(いとのあがたぬし)が天日槍の子孫であるということからもいえるが、ここでは丹後との関連でのみみることにする。
但馬・出石族との関係
そうなるとまずあげられることは、丹後と隣合っている但馬(兵庫県)が天日槍族、または出石人・出石族の一大根拠地であったということである。但馬にはいまも出石神社をはじめ、天日槍とその族人とを祭る神社がおよそ数十もあるが、この但馬はいまでも丹波・丹後とともに「三丹」または「三但」ともいわれて密接な関係にある。
地理的条件からそうなっているもので、したがってその但馬を一つの根拠地としていた天日槍族が丹後の「熊野・竹野地方に大きな勢力を張っていた」としても、決してふしぎではなかったのである。だいたい、竹野郡はもと竹野(たかの)郡といったらしく、それはどういうことかわからないが、但馬に直接つづいている熊野郡の熊野ということにしても、これは天日槍が新羅のそこからもたらしたものといわれる「熊神籬(くまのひもろぎ)」から出たものではなかったかと思う。
それはともかくとしても、出石人・出石族ともいわれる天日槍族が熊野から竹野地方にまでひろがっていたであろうことは、いまなおその弥栄町の溝谷に、彼らがそこから渡来した新羅の新羅大明神が祭られていることからも明らかである。しかもそればかりか、私があとでおとずれた丹後一の宮の籠(この)神社、元伊勢宮といわれるこれにしてもその天日槍族、すなわち出石人・出石族によっていつき祭られたものであった。
さきにまずその地名からみると、籠神社のあるところは、いまは宮津市大垣となっているが、ここはもと与謝(よさ)郡であったところだった。それから籠神社前方にみえる、いわゆる天橋立によっ てさえぎられたそこの内海はいまでもこれを阿蘇の海といい、また与謝の海ともいう。与謝の海病院などというのも、いまそこにある。
この阿蘇も与謝ももとはおなじことばで、与謝はまた余社(よさ)、吉佐(よさ)、与佐(よさ)とも書かれたものだった。伊勢や宇佐もそうだが、阿蘇の阿とか余社の余というのは、新井白石も書いているように発語、接頭語であって、これもさきにみた伊都の伊蘇とおなじく、もとはみな天日槍族、すなわち出石人・出石族がそこから渡来した新羅の原号ソということであった。
ほかのところでも書いているけれども、朝鮮三国時代の新羅は、徐羅伐(ソラブル)・徐那伐(ソナブル)・徐耶伐(ソヤブル)・徐伐(ソフル)=斯盧(サロ)・斯羅(サラ)・新羅(シンラ)といわれた。もとは徐羅伐、すなわち「ソの国のフル」ということだった。ソの羅・那・耶とはいずれもソの国または国土という意味であり、ブル・フルとは都京ということである。
したがってそれをちぢめてソフル(徐伐)ともいったのだったが、古代ではその都京ということが国ということでもあったからで、国としての原号はあくまでもソであった。言語学者の金沢庄三郎氏のようにいえば、その「民族名」は「ソ」だったのである。
金沢氏は、学問的にはひじょうにすぐれたところがあるにもかかわらず、全体的立場が戦時中の皇国史観であったために、本来の価値をおとしめている『日鮮同祖論』においてそのことをくわしく考証している。そしてわれわれがいまみている与謝・余社についてこう書いている。
余社 余社は倭名抄丹後ノ国与謝ノ郡の地で、雄略天皇二十二年紀には丹波ノ国余社(よき)ノ郡とある。丹波国の五郡を割(さ)いて始めて丹後国を置いたのは和銅六年で、それより以前は丹波国であった。丹後ノ国与謝ノ郡の天梯立(あまのはしだて)は伊射奈芸(いさなぎ)ノ命(みこと)が天に通わんために作り立てたまいしものの仆(たお)れたので、その東ノ海を与謝(よさ)、西ノ海を阿蘇(あそ)というと、風土記に見え、又、天照大神を但波(たにはノ)吉佐(よさノ)宮に四年間斎(いつ)き奉ったこともあり(倭姫世紀)、往古は由ある土地と見えて、ヨサ、アソの名はまた民族名ソと通ずるところがある。
以上、阿蘇・伊蘇・伊勢・宇佐・余社などはいずれも我民族移動史の上に重要なる地位を占めている土地であって、しかも民族名ソ及び其類語を名としていることは、最も注目に価する事実といわねばならぬ。(傍点も金沢氏)
出石族の移動を示唆する籠神社
国鉄山陰線の天橋立駅近くの文珠から、観光をもかねた連絡船が出ていた。これに乗ると誰でもしぜん、日本三景の一つとなっている天橋立を右手にみながら、阿蘇の海を渡ることになる。そして約二十分、その船のつく対岸が一の宮となっている。
『延喜式』内の名神大社、丹後国一の宮、籠神社のあるところだった。元伊勢宮ともいわれる籠神社は、そこの船着場までのびている参道をまっすぐのぼって行った山腹で、相当広い境内の中央に、三重県の伊勢神宮とおなじ唯一神明造りの社殿が建っていた。境内に重要文化財となっている鎌倉時代作の狛犬(こまいぬ)が二基あるのにも目をひかれるが、その一方には、「外宮元宮是ヨリ東北真名井山中」とした石柱の立っているのがみえる。
「外宮元宮」とは、伊勢神宮が豊受(とゆけ)大神の外宮と、天照大神の内宮とにわかれているところからきたもので、それがすなわち、この籠神社が元伊勢宮ともいわれる由来だった。社務所に立寄ってもらった『元伊勢宮丹後国一之宮籠神社御由来記』にはそのことがこう書かれている。
大化改新の後、与佐宮(よさのみや)を籠宮(このみや)と改め彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を祭っていたが、元正天皇の御代養老三年に、御本宮を奥宮真名井神社の地から、現今の御本宮の地へ遷(うつ)し奉り、彦火明命(ひこほあかりのみこと)を主祭神とし、天照、豊受両大神を相殿にお祭りし、その後、海神、天水分神も併せ祭られたのである。爾来、千二百数十年、伊勢根本の宮と云い、又別称を与佐宮とも申し、元伊勢の社として朝野の崇敬が篤い。
これで籠神社はもと与佐宮(よさのみや)、すなわちさきにみた与謝・余社・吉佐・阿蘇のソの宮であったことがわかる。さらにまた同『――由来記』には、次のような地元の民謡が紹介されている。
伊勢へ詣(まい)らば 元伊勢詣れ
元伊勢 伊勢の故郷(ふるさと)じゃ
伊勢の神風 海山(うみやま)越えて
天橋立(あまのはしだて)吹き渡る
要するに、こちらは元伊勢だということの強調なのである。それにはまたそれだけの理由があったからであるが、だいたい、のちにはこちらがいわゆる皇祖神となり、中央神となった伊勢神宮の外宮はもと丹波(のちの丹後)にあったものだということは、伊勢のほうでもひろく知られていることであった。
なによりもそこがこれまたほかならぬ、金沢庄三郎氏のいう「民族名ソ及び其類語を名としている」伊勢だったからでもある。これについてはさきに私は伊勢を歩いたときにもふれているが、たとえば、宮崎修二朗氏の『南紀・伊勢・志摩・吉野』をみるとそのことがこう書かれている。
『止由気(とゆけ)宮儀式帳』という古い記録が神宮にあって、それによれば雄略天皇の夢枕に立った天照大神が「五十鈴川のほとりの一人ぼっちは寂しい」とおっしゃったから、「丹波国比治乃真井原(ひじのまないはら)」(京都府中郡)から移されたものだという。
この伝説から一部の歴史学者はつぎのような推定を組み立てている。丹波は早くから稲作が開けたところで、政治力はないが宗教的才能をもつ出石族(朝鮮から帰化した部族)がいた。そこであとから入って来た天孫族が、出石族より先住部族である出雲族を宣撫(せんぶ)するため、出石族を利用した。いわば、伊勢神宮は天孫族が、出雲族を従えていった“記念碑”的存在だというのである。
出石族がいうところの天孫族に利用されてかどうか、それはわからない。それはわからないけれども、これで一つわかることは、伊勢神宮の外宮はもと丹波(のち丹後)にあったもので、それがいわゆる天日槍族、すなわち出石人・出石族によって祭られていたものだったということである。
こうしてみると、伊勢神宮・外宮のそれはむしろ、丹後のそこに現(げん)籠神社の与佐宮、すなわちソの宮を祭っていた出石族の進出・移動したものと考えるほうが合理的ではないかと思われてくる。つまり、丹後から伊勢へはまずその出石族なるものの進出・移動があって、神宮はそれからのち勧請(かんじよう)されたものではなかったか、というわけである。
ついでにいうと、いま丹後の籠神社や伊勢神宮の外宮に祭られている豊受大神は、梅本さんの『丹後路の史跡めぐり』によると、「大陸からの帰化人らしく思われ」るとあるが、これは穀物にたいする信仰から生まれた、いわゆる穀物神であった。これに対して、伊勢神宮の内宮に祭られている天照大神というのはもと、その神祭りのことをつかさどる巫女(み こ)からきたものといわれる。それだったから、いまみた宮崎氏の同書には、さらにまたつづけてこう書かれている。
ところで、内宮より先に外宮があったのだ――という説もある。天照大御神の別名はオオヒルメムチ。ムチとは巫女の最高位の称号だから、司祭の女性であった。司祭への信仰が、穀神への信仰より先にあったというのは変だ――というわけだ。
これは、私もそうではなかったかと思う。こうしてみると、はなしがいつの間にか伊勢のほうへ行ってしまったが、天日槍族ともいわれる出石人・出石族というのは、日本の古代にとって実に大きな存在であったと思わないわけにゆかない。私は丹後国一の宮の籠神社境内のそこに立って、眼前の阿蘇の海から天橋立、宮津市街のあたりをながめわたしながら、ひとりつくづくそう思ったものだった。
そういえば、そこの宮津ということからして、彼ら天日槍族の出石人・出石族がいつき祭った籠神社の与佐宮から出たものであった。すなわちその与佐宮の津(港)ということだったのである。
但 馬・西摂津
城崎(きのさき)まで
丹後の大宮町に立寄る
ようやく但馬(兵庫県)となったが、そのまえに私はもう一度、京都府下となっている丹後の大宮町へ立寄らなくてはならなかった。というのは、私はさきにみた丹波・丹後を書いたあとになって、丹後国二の宮の大宮売(おおみやめ)神社宮司、島谷旻夫氏からかなり長い手紙をもらったからだった。
島谷氏は私がすでに丹波・丹後を歩きまわっていたことも知らなければ、また、そこのことを書いていることも知らなかった。しかし、私のこの紀行に共鳴してくれている一人で、要するにその手紙は、「丹波や丹後の古代文化にしても考えれば考えるほど、朝鮮渡来のそれを抜きにしては考えられない」「丹後路へ足を踏み入れるときはぜひこちらへ――」というものであった。
ありがたいことで、こういう手紙はほかからもたくさんもらっているが、丹波・丹後は古代は但馬とおなじ山陰道となっていたばかりでなく、しかもその手紙をくれた人は、丹後国二の宮となっている大宮売神社の宮司だった。やはり、寄ってみようじゃないかと同行の鄭詔文も言ってくれたので、私たちはかなり早い時間に京都をたった。
さきの丹波・丹後をたずねたときからわかっていたが、おなじ京都府下とはいっても、京都市内から丹後のそこまでは相当な距離だった。鄭詔文は休みなしにずっとクルマを走らせつづけたにもかかわらず、丹後の大宮町へついてみると午後二時をすぎていた。
三月のはじめだったが、丹波から丹後へと近づくにしたがって、あたりの山々に降りつもっている雪はいっそう深いものとなっていた。町や林はどこもその雪どけ水で湿っているようだったが、丹後までくると、さらにそのうえへ、分厚く曇った空から小雨が降りつづいていた。
「皇国史観がバカらしくなった」
竹野川上流となっている大宮町で周枳(すき)の大宮売神社といってきいたところ、さすがに丹後国二の宮を称するだけあって、すぐにわかった。竹野川というと、私たちはさきに、その中流の溝谷にある新羅大明神の溝谷神社を一日がかりでたずねたことがあったので、それはちょっとなじみ深い川だった。
あらかじめ電話をしておいたので、かなり広い境内をもった大宮売神社の島谷旻夫氏は、私たちのつくのを待っていてくれたもののようであった。島谷さんは七十をすぎたと思われる老宮司だったが、さいきん社務所に郷土館を新たに併設したりして、まだかくしゃくとしたものだった。私たちはまず、『丹後国二の宮/大宮売神社略記』をみせてもらったが、「大宮町大字周枳鎮座」のそれはこうなっている。
祭神 大宮売神(あめのうずめの神・みやびの神)
若宮売神(とようけの神・うけもちの神)
創立年代は詳(つまびら)かではないが、出土品によって証せられるように、悠遠な太古から朝鮮東海岸よりの移住民によって文化が発展し、弥生時代稲作民による祭祀的呪術的な権力をもつ豪族王国が生まれて大丹波国をなし、その祭政の中心地であったとは考古学者の通説である。
六世紀と思われるころ大和王朝に統一された大宮売神は、宮中八神殿の一柱でまた造酒司(みきつかさ)に祀られた神であり、この神を祀る最も古い社と云われている。旧主基(すき)は大嘗祭の悠紀主基(ゆきすき)の斎田の地であり、江戸時代までには主基村とあり、明治になって周枳村となる。
平城天皇大同元年(八〇六)に大宮売神に神領二千五百石、若宮神に千五百石の神封が充てられ、清和天皇貞観元年(八五九)に大宮神に従四位上、若宮売神に従四位下を給い、延喜の制(九〇一)には名神大に列せられ、丹波郡(中郡)の式内社(名神大二小七)のうち名神大二座で郡内第一であった。現在残っている小野道風書と伝えられる神額には正一位大宮売大明神、従一位若宮売大明神とあるは神階昇叙したことがわかる。
「大宮売神とはあめのうずめの神、例のあの天の岩戸前で神々を笑わしたという天鈿女命(あめのうずめのみこと)だったのですね」と私は言った。はじめて知ることだったからである。
「そうです。そのあめのうずめの神のうずめというのも、ソウル生まれの人から聞いたのですが、それは朝鮮語のウスム(笑い)ということだそうですね」
島谷さんはそう言って、私の顔を覗(のぞ)き込むようにした。そういった角度からも、いろいろと調べているらしい。
「ええ、そのことは須田重信という人もどこかに書いていましたが、ソウル生まれの人というのは朝鮮人ですか」
「いや、日本人です。引揚げてきた人です」
「ところで、この『略記』はなかなかおもしろいですな」と横から、鄭詔文が言った。「『朝鮮東海岸よりの移住民によって文化が発展し』とは相当思いきった書き方ですね。あまりないことですが、これはどなたが――」
「わたしです。だいたい、神社の宮司というのは皇国史観ときまったもので、またそれでなくてはならなかったのですが、わたしはもうそれがバカらしくなりましてな。何によらず、やはり事実につくのがほんとうだと思いまして、さいきんそう書きあらためました」
「はあ、そうですか。皇国史観がもうバカらしくなってね」
朝鮮にたいするこれまでの皇国史観、すなわちその侵略史観を少しでもあらためてもらおうという意図のもとに、京都で雑誌『日本のなかの朝鮮文化』をだしつづけて七年目になる鄭詔文は、感に耐えないといったようすで言った。なにしろ、相手が「皇国史観でなくてはならなかった」神社の宮司その人だったからムリもない。
「じつはそれで、わたしはあなたに手紙を書いたのです」と島谷さんは、私に向かって言った。そして、「朝鮮東海岸よりの移住民によって文化が発展し」としたことの証拠となっているものをいろいろと話してくれた。だいたいは私がさきの丹波・丹後を歩いて書いたのとおなじことだったが、しかし新しく知ったこともあって、竹野川流域のそこにはさきにみた新羅大明神の溝谷神社のほか、さらにまたもう一つ新羅神社があった。
島谷さんは、用意していた五万分の一の地図を開いて、そこを指し示してくれた。みると、周枳(すき)の大宮売神社と溝谷神社の中間にあたる竹野川中流のかたわらに荒山、新町というところがあって、いまは廃社となっているが、かつてはそこに新羅神社があったというのだった。
「うむ、なるほど」と、私はひとりうなずくようにして言った。なぜかというと、そこは荒山、新町となっているところだったからである。そこに新羅神社があったとすると、その荒山のアラというのも、もとはといえば、のち新羅(しらぎ)に併合された古代南部朝鮮の小国家安羅(アラ)からきたものにちがいなかった。
島谷さんは、なおもいろいろなことを話してくれたばかりか、もう少しすると網野中学校の教師をしている息子さんも帰るし、夜は丹後で郷土史の研究をしている人たちも何人か集まってくることになっているから、二人とも今夜は社務所ともなっている自宅のそこへ泊まってくれと言った。しかし、私たちの日程としては、きょうじゅうにどうしても但馬の城崎(きのさき)まで行っていなくてはならなかった。
丹後の郷土史家たちとも一夜話し合えるようにとりはからってくれた島谷さんにはたいへんわるいと思ったが、どうしようもなかった。須恵器(すえき)など神社境内からの出土品を展示してある、社務所併設の郷土館などみせてもらって外へ出ると、島谷さんの奥さんと思われる老婦人があとを追うようにして、「丹後名物」だという生乾(なまぼ)しイカの大きな束を、私に押しつけるようにしてくれた。
私たちはその生乾しイカの束をクルマのトランクに入れて、さらにまた雨の国道を走りつづけた。大明神岬などというのがある久美浜町をすぎると間もなく但馬となったが、あたりの光景はやはり荒涼としたものだった。まだ雪の解けていない山地がどこまでもつづいていて、北陸路とはまたちがった山陰路のきびしさがそこにあった。
城崎にて「城の崎にて」を考える
やがて円山川を渡って、私たちは城崎へと入った。城崎はさきにも一、二度来たことがあったが、あらためて地図をみると、そこには鋳物師尻(いもじしり)峠というのがあるだけでなく、海抜五六七メートルの来日岳などというのもある。鋳物師(いもじ)はともかくとして、「来日」とはもちろん、これからみる古代朝鮮渡来文化とは直接関係ないものであるが、しかしその渡来文化の濃厚な但馬にそんな名の山があるというのも、何となくちょっと象徴的な気がしないでもない。
志賀直哉の小説「城の崎にて」などによっても知られている城崎は、円山川に流れ込む大谿川(おおたにがわ)をあいだにした温泉街中心の町だったが、城崎町役場もその温泉街のなかにあった。私たちはその役場についてみると、時計は午後五時をすぎてしまっていた。したがって二階にあるという教育委員会にはもうだれもいないのではないかと思ったが、ちょうどさいわい、城崎町文化財審議委員の児島義一氏がまだそこにのこっていて、調べものの仕事をしていた。
さっそくあいさつをして、私たちがそこまで来た目的を話し、飯谷(はんだに)にある韓国(からくに)神社のことなどをきいた。すると児島さんはさいごに、城崎町教育委員会が発行した『城崎語りぐさ』という自著を一冊くれた。そして私たちは、これも教育委員会のそこにいた人から紹介された「まんだらや」という旅館に入り、久しぶりに城崎の温泉情緒を味わうことになった。
温泉情緒とはいっても、雨が降っている外は暗いばかりでなにも見えなかったし、おそい春先の寒さもまだのこっていたから、ほんとうはそれどころではなかった。しかも、これはそんな情緒とは別なことだったが、私はやはり城崎温泉のそこへ来ているということで、志賀直哉の「城の崎にて」という作品のことを思いださないではいられなかった。
「山(やま)の手線(てせん)の電車にはね飛ばされてけがをした、そのあと養生に、一人で但馬(たじま)の城(き)の崎(さき)温泉へ出かけた」と書きだされている「城の崎にて」は、蜂、鼠、蠑〓(いもり)という三つの動物の死に遭遇することで、自分、すなわち人間のそれを含めた生命というものを凝視したものであるが、それが志賀直哉独自の鋭い観察によって、正確、簡潔に描かれている。
そのような名描写ということもあって、私は十代の若いころから何度もこの作品を読んできたものである。横道にそれるが、それのある部分をしめすと次のようである(岩波文庫版による)。
自分の部屋(へや)は二階で、隣のない、わりに静かな座敷だった。読み書きに疲れるとよく縁の椅子(いす)に出た。わきが玄関の屋根で、それが家へ接続する所が羽目(はめ)になっている。その羽目の中に蜂(はち)の巣があるらしい。虎斑(とらふ)の大きな肥った蜂が天気さえよければ、朝から暮れ近くまで毎日忙しそうに働いていた。蜂は羽目のあわいからすり抜けて出ると、ひとまず玄関の屋根におりた。そこで羽根や触角を前足や後ろ足で叮嚀(ていねい)に調(ととの)えると、少し歩きまわるやつもあるが、すぐ細長い羽根を両方へしっかりと張ってぶーんと飛び立つ。飛び立つと急に早くなって飛んで行く。植え込みの八つ手の花がちょうど咲きかけで蜂はそれに群っていた。自分は退屈すると、よく欄干から蜂の出はいりをながめていた。
ある朝のこと、自分は一匹(ぴき)の蜂(はち)が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がっていた。ほかの蜂はいっこうに冷淡だった。巣の出はいりに忙しくそのわきをはいまわるが全く拘泥(こうでい)する様子はなかった。忙しく立ち働いている蜂はいかにも生きている物という感じを与えた。そのわきに一匹、朝も昼も夕も、見るたびに一つ所に全く動かずにうつ向(む)きにころがっているのを見ると、それがまたいかにも死んだものという感じを与えるのだ。それは三日ほどそのままになっていた。それは見ていて、いかにも静かな感じを与えた。寂しかった。ほかの蜂がみんな巣へはいってしまった日暮れ、冷たい瓦(かわら)の上に一つ残った死骸(しがい)を見る事は寂しかった。しかし、それはいかにも静かだった。
志賀直哉の「城の崎にて」は一九一七年、私などまだ生まれていない以前の作品であるが、いまなおその生命は失われていない。志賀直哉が当時泊まっていたのは「三木屋」という旅館で、城崎にはいま、「風もなく流れの他は総て静寂の中にその葉だけがいつまでもヒラヒラヒラヒラと忙(せわ)しく動くのが見えた」という「城の崎にて」のなかの一節を刻んだ文学碑が建っている。
四所神社の縁起
だが、この日の私はいつまでもその「城の崎にて」のことばかり考えているわけにはゆかなかった。私は旅館での食事がすむと、さっそくいまさっきもらってきた児島義一氏の『城崎語りぐさ』を開いてみた。
こういうものはすぐその現地で目をとおしておかないと、あとでよく「しまった」となることを、私はこれまでの経験でよく知っていた。東京まで帰ったのちの机のうえでは、そこに書かれている現物を容易にみることはできないからであるが、案のじょう、やはりそうだった。
『城崎語りぐさ』には、「但馬五社と四所神社の縁起」という項があって、天日槍(あめのひぼこ)の渡来のことが書かれたのにつづいてこうある。
ところで、時代はくだって奈良時代、元明天皇元年(七〇七年)この地、大谿に住んでいた日生下権守(ひうけごんのかみ)という者がありました。
ある日のこと、霊夢(ゆめのおつげ)に、四人の衣冠束帯(いかんそくたい)の白髪の老人が現われて、権守につげて言いますには、「私は、出石明神の眷族(けんぞく)である。この地にとどまり永く人々を利し、守って上げよう」と言って姿が消えました。
権守は目覚めるやこの不思議を人々に告げ、里人と相談して社祠を建ててまつり、「四所大明神」と称して崇め奉りました。
これは、四所神社の縁起です。
(注)=祭神は四座/大己貴命/御出石櫛甕玉命/天日槍命/少彦名命。
ある説では、湯所明神で、「四所」は湯所の転訛ともいわれる。
日生下氏古文書の冒頭に、「日生下は、新羅、天日槍太子の後なり。太子、渤海を越えて此の大谿に入る……」とある。新羅とは、今の韓国。渤海とは、日本海。大谿とは、今の湯島区。
眷族(けんぞく)神とは、出石神社という大きい神格の一族の神々をさす。
四所神社境内に大きな石碑があり、「温泉祖神、四所神社、湯山主大神を奉祀し、当郷の住人、日生下権守の鎮祭にかかる」とある。……
以上のことを総合して、私たちは次のようなことが考えられる。
円山川中・下流域は天日槍に関する伝説が多いが、わが町もその眷族一族の力によって開拓されたところであろう。……
天日槍とその子孫は、北但馬の土地の干拓事業、農耕、陶器作り、養蚕、医療、また海の彼方との交易等産業や建設に帰化人として、古代但馬を「上国」にのしあげた大きい力となったことは疑う余地がなかろう。
要するに、これをみてわかるのは、私たちがいま来ている城崎にしても、出石人(いずしびと)ともいわれる新羅系渡来人集団の象徴であった天日槍の族人がひろがって来て開発したところだったということである。「温泉祖神」の四所神社を祭らせたという「出石明神の眷族(けんぞく)」はもちろんのこと、それを祭った日生下(ひうけ)権守も、みなその天日槍族といわれるものから出たものだったのである。
「温泉祖神」とはさきの志賀直哉も「そのあと養生」をした城崎温泉を発見し、開発した祖先ということなのだろうが、しかもそれを祭った四所神社は、私たちがいまさっきたずねた城崎町役場の真隣にあるという。さっきたずねたときはうす暗い雨のなかを逆方向からそこについたので、そこに神社があるということさえ、私たちは気がつかなかったものだった。
飯谷(はんだに)の韓国(からくに)神社
長靴まで用意されて
翌朝も小雨が降っていたが、私と鄭詔文とはまず、城崎町役場の真隣にあるという四所神社をたずねた。「祭政一致」ということばがあるばかりか、政治の「政」も「まつりごと」であったように、古代にあっては祭祀権を持つものが政権をも持ったものであるが、城崎ではいまなお町役場がその神社と隣合っているというのもおもしろかった。
四所神社はほんとうに城崎町役場の真隣となっている、かなり大きな神社だった。時勢のおもむくところというか、まだ雪がのこっている境内の一部は、いまでは駐車場となっていた。「『温泉祖神』もこれじゃ苦笑しているだろう」と言って、私たちも苦笑をした。
ついで私たちはまたもう一度、城崎町役場の二階にある教育委員会に立寄って児島さんに会い、前日来たときたのんでおいた資料などをもらい受けた。そして、これから飯谷(はんだに)にある韓国(からくに)神社をたずねるというと、児島さんはこう言ってくれた。
「飯谷へ行ったら、教育委員会の嘱託(しよくたく)で旧『内川村誌』の編纂をしている谷口さんという人に会ったらいいでしょう。飯谷のすぐ入口の家ですからすぐわかりますが、これからあなた方が行かれるからと、電話をしておきます」
どこにもこういう人がいるので、ほんとうにありがたい。私たちは大谿川の石組みの堤防が美しい城崎の温泉街を出て、円山川に架(か)かった城崎大橋を渡った。すると日本海への河口に近い円山川が山間へ向かって深く広く切れこんだところがあって、それが地図にある楽々浦(ささうら)だった。
楽々浦はちょっとした湾のようになっていたが、それに沿ってまがりくねった道を入って行くと、山あいに一つの集落が見える。そこが飯谷で、児島さんにいわれた谷口信雄氏の家は、とっつきの左側にあってすぐにわかった。ある小学校長を定年となり、いまは旧『内川村誌』の編纂ということもあって、郷土史の研究に打ち込んでいるという谷口さんは、もう出かける用意をして私たちを待っていてくれた。
ひとまず、私たちはその谷口さんの応接間にあがって茶をごちそうになり、さっそく私たちは飯谷の奥にある韓国神社をたずねることになった。玄関へ出て気がついてみると、いつの間にか茶をだしてくれた谷口さんの奥さんによって傘のほか、私たち二人のためのゴム長靴まで用意されている。
あたりの山々にはまだ雪がのこっており、小雨が降りつづいていた。しかし、長靴まではくことはないだろうと思ってそう言うと、
「いや、神社のあるところは雪が深いはずですから、はいたほうがいいでしょう」と谷口さんは言った。
それで、そのゴム長靴は私にはちょっと小さかったけれども、ムリして足を押し込んで出かけた。そうして私はすぐに、「なるほど、これでは――」と思ったものだった。
雪に埋まった韓国神社
飯谷というところは、楽々浦に流れ込む飯谷川という小川をあいだにした、山あいの細長い集落だったが、周辺の山々は別として、その小川に沿った道路はもとより、家々の屋根などにもほとんど雪はのこっていなかった。そうだったにもかかわらず、集落の奥、そこから左に折れ込んだ山麓にあった韓国神社のそこは、まだ雪が真っ白く降り積もったままとなっていた。
「むかしはどんなに雪が降ってもみんな朝詣(もう)でを欠かさなかったから、こんなことはなかったのですがね」と谷口さんは言った。そして先頭になっていた小柄な体の谷口さんでさえ、ぼかっ、ぼかっと、膝を雪のなかに落としている。
そうなると、体重八○キロのこちらときては、もういうまでもない。だいたい、「膝を没する雪」うんぬんということばがあるが、とんでもない。こちらはそれどころか、神社の境内近くなると、雪が降り積もってからはだれ一人まだそこまで来たものはなかったらしく、ぶすーっ、ぶすーっと、足のつけ根まで雪に埋まった。
片方の足がそうして埋まると、それを抜かなくてはならない。すると、もう一方の足に力が入るものだから、こんどは体がそちらへかしいで、体ごと全部が埋まりそうになる。長靴のなかはもうとっくに、雪がいっぱい詰まったままである。
私はさきに越前(福井県)の今庄にある新羅神社を冬の一月にたずねて、その雪の深いのにおどろいたものだったが、こちらのそれもおとらずすごい。私たちはやっと韓国神社までたどりつき、これまたやっと境内にあった「韓国神社」という文字のある「遷社碑」をみただけで、早々にそこから引きあげることにした。
「古代のそのころはどうだったのでしょうか。やっぱりこんなふうに、雪が多かったのでしょうかね」
私は表の通りに出ると、長靴のなかに詰まった雪を掻(か)きだしながら言った。何ともすごい雪で、ついそんなことを言ってみたくなったのである。
「さあ、どうだったでしょう」と、谷口さんはこたえた。「やはり但馬は、おなじように雪深いところだったのではなかったでしょうか」「そうすると食べ物ですが、それはいったいどうしていたのでしょうか」
「どうしていたのでしょうね。やはり備蓄(びちく)というもので、冬場はそれを食べていたのではなかったのですか」
もとは宸旦(しんたん)(震檀)国大明神
私たちは谷口さんの家に戻って、また茶をごちそうになりながら、しばらく話すことになった。当然、はなしはまず、いまみてきた韓国神社のことからだった。
韓国神社はおなじ飯谷地区ではあったが、もとは別のところにあったものだった。それで境内には「遷社碑」というのが建っていたが、教育委員会の児島さんからもらった『城崎のいしぶみ(碑)をたずねて』によると、いまみてきた「遷社碑」にそのことがこう書かれているとある。
韓国神社ハ、モト当区字宮津ニアリ、明治四十二年十一月タマタマ区内失火シ、社殿及ビ山林悉ク烏有ニ帰ス。唯、幸ニシテ神体ハ楽々浦ノ岩崎石松ニアリ、無事ナルヲ得タリ。明年十一月区民一致シテ本殿、上覆等ヲ建築ス。社掌、高田伊織官ニ昇格ヲ請ヒ、幣帛供進指定神社トナル。
昭和二年三月、奥丹後ノ大震災ニ際シ、此ノ地ノ山林崩壊シテ殿宇埋没シ、マタ旧態ナシ。ココニ於テ、遷宮ノ議起ル。社掌、高田恭博コレヲ神明ニ質シ、遂ニ此ノ地ヲトシテ移ス。境内凡ソ三百六十坪、其ノ二百三十歩余ハ左記ニ依リ奉納、既ニ得テ、翌年二月、工ヲ起サントス。寄進氏子ノ浄財且ツ助役ニヨリ十一月吉成ス。今ノ社殿及ビ拝殿コレナリ。総工費七千余円、其ノ壱千四百円ハ県ノ補助ニシテ、専ラ岩本吉兵衛ノ斡旋ナリ。役ニ従フモノ総七百余人、ココニ於テ氏子始メテ安堵シ、永ク無災ヲ誓フ。
一度は区内の失火、二度目は震災と、この韓国神社はよく災難にあってきているが、この神社はかつては「宸旦(しんたん)国大明神」となっていたこともあったらしい。谷口さんの家でみせてもらった、いまは城崎町に合併となっている旧内川村の『内川村誌編纂資料』(一九一三年刊)をみるとこうある。
明治維新前は宸旦国大明神と称せしが、維新後、韓国神社と改称す。宸旦国は今の朝鮮国にして、三韓と称して……。
そうだとすると、ここにいう「宸旦」というのは、「震檀」のあやまりではないかと思う。なぜかというと、朝鮮の異称のそれは「震檀」であったからである。
いずれにせよ、それがほかならぬ韓国神社と改称されたことからもわかるように、朝鮮と深い関係のあったもの、というより、古代朝鮮から渡来したものの首長を神として祭った神社であることにまちがいはなかった。だが、いまさっきみた『城崎のいしぶみ(碑)をたずねて』にある「韓国神社の縁起」にはそれがこう書かれている。
韓国神社の祭神は外来神ではないが、日韓交通によって武烈天皇(五〇〇年頃)の御代、物部真鳥命(まとりのみこと)が天皇の勅を奉じて韓国に使し、その任務を終えて帰航の途次、この多遅麻国(たじまのくに)三島の水門(みなと)(戸島、楽々浦付近の呼称)に着し、後に都に上り使命を復奏し、天皇はその功を賞して姓(かばね)として韓国連(からくにのむらじ)を賜い物部韓国連命という。
その子渚鳥命(なぎさのとりのみこと)は欽明天皇(五四〇年頃)の御代、城崎郡司となり、大いに土工を起し、墾谷(はりたに)を開墾して、その名を墾磨命(はりまのみこと)と改名し、墾谷といい、飯谷(はんだに)の地名の起りをなす。〈韓国神社は〉飯谷開拓の祖神として鎮祭されたのである。
なおまた、今井啓一氏の『帰化人と社寺』にも、韓国神社のことがこうある。右のそれとだいたいおなじであるが、念のためみておくことにしたい。
いまは城崎町に入っている旧内川村大字飯谷(はんだに)に……鎮座する旧村社韓国神社は物部韓国連真鳥命(もののべのからくにのむらじまとりのみこと)・同墾磨命(はりまのみこと)を祀り、また物部神社・宸旦国明神とも称し、天武白鳳三年、前記した城崎郡司物部韓国連久久比がその祖神を祀ったものという。飯谷の地名はもと針谷ともしるし、その祖が韓国に使いし帰途この地に立寄って開墾したので墾谷といったのが転訛したという。
ハンダニとはなにか
さて、まず、針谷・墾谷ともいったという飯谷の地名である。飯谷ははたして、城崎郡司となった物部韓国連久久比(くくひ)(渚鳥命)の「祖が韓国に使いし帰途この地に立寄って開墾した」ところであったろうか。あるいはまた、物部韓国連の子「渚鳥命(なぎさのとりのみこと)は欽明天皇(五四〇年頃)の御代、城崎郡司となり、大いに土工を起し、墾谷(はりたに)を開墾して、その名を墾磨命(はりまのみこと)と改名し、墾谷といい、飯谷(はんだに)の地名の起りをなす」ものであったろうか。
だいたい、「その祖が韓国に使いし帰途この地に立寄って開墾したので」というのもおかしなはなしであるが、「城崎郡司となり、大いに土工を起し、墾谷を開墾して」うんぬんというのもおかしい。
城崎郡司はあるいは「大いに土工を起し」たかもしれない。しかしそうだったとしても、それはなにも狭い谷間の一地区である飯谷とは限らなかったはずである。彼は広い範囲の城崎郡司であって、飯谷のみの郡司ではなかったのである。それに谷口さんによると、飯谷は近世まで紙つくりが主な生業となっていたもので、その紙の原料である楮(こうぞ)の産地として知られたところであった。「飯谷のそれは、古代から但馬の紙として有名だったのですが、じつはその紙の製法を伝えたのも、韓国から来た雲〓(うんけん)という人だったそうです」とも谷口さんは言った。
してみると案外、飯谷を開墾したのはその雲〓というものだったかもしれないが、いずれにせよ、そこに朝鮮の「震檀(宸旦)国大明神」だった韓国神社があり、そこが飯谷ということになると、私は伊勢(三重県)の玉城町にあったハンダニのことを思いださないわけにはゆかない。玉城町のハンダニは漢字のあて字がなく、そこはただ地元の人たちにハンダニとよばれている。
それでハンダニとはいったいなにかと、私もいろいろと考えてみたのであるが、地元の史家で『伊勢神宮古代史考察』の著者である西野儀一郎氏は、そこに古代朝鮮語のフル(ソフル、すなわちソのフルで、都邑または火の意)からきた布留御魂(ふるのみたま)を祭る西外城田(にしときだ)神社があり、また近くには古代南部朝鮮の小国家名の加羅か、あるいは韓国(からくに)ということのカラからきたはずのカラ池、カラコ坂などがあることからみて、そのハンダニというのも朝鮮語ハンダン(韓丹)ということではないかと言った。丹(タン)とは古代朝鮮語の谷ということで、いまなお日本のあちこち、たとえば能登(石川県)の珠洲(すず)にある谷崎を、地元の人たちはタンザキとよんでいる。
このようにみてくると、飯谷を針谷または墾谷ともいったというのは、物部韓国連の「祖が韓国に使いし帰途この地に立寄って開墾したので」などということと符合させるための付会で、これもやはりもとはハンダン(韓丹・谷)のハンダニではなかったかと思う。
楽々浦・イササ谷・イササ岬
「それにこちらにしても周辺には、たとえば飯谷の入口にある楽々浦(ささうら)ですね」と、私は谷口さんに向かって言った。「これもいまは妙な漢字になっていますが、この楽々浦のササというのも、新羅の原号であったソからきたものではなかったかと思うんです」
「それはどういうことでしょうか」と谷口さんは、ちょっとおどろいたような目をした。意外、ということらしかった。
そこで私はさきの丹波・丹後でみた(「天日槍族・出石人」の項)言語学者金沢庄三郎氏の「余社(よさ)」についての一文を紹介し、あわせて越前(福井県)敦賀の気比(けひ)神宮の祭神も、印牧邦雄氏の『福井県の歴史』にあるように、「新羅の王子天日槍(あめのひぼこ)を伊奢沙別命(いささわけのみこと)としてまつっ」たものであることを話した。つまり、楽々浦のサも伊奢沙別のサであり、金沢氏のいう新羅の「民族名ソと通ずる」ものではないかというわけだったのである。
「天日槍となると、この但馬はもうほとんどみなそれですからね。そういえば、あの楽々浦(ささうら)の近くに漢字ではないイササ谷というところがあり、また、イササ岬というのもあります」と谷口さんは言った。
そして谷口さんは、さきほどみせてもらった『内川村誌編纂資料』のある個所を開いてみせた。そこにこうある。
楽々浦村は往古佐佐宇良毘売命の宮殿のありし所にして、今の瀬崎氏は其の末なり。因って村名も起り……。
「へえ、そうですか。そこにイササ谷、イササ岬というところがあるとは知らなかったですが、しかも宮殿といわれるものまでがあったとは――」
じつをいうと、楽々浦のサについてはあまり自信もなかったし、それにめんどうでもあったので、だまっていようかと思っていたものだったが、やはり言ってみてよかったと思った。そこにイササ谷・イササ岬というところがあるとすると、その楽々浦というのもまちがいなく天日槍の伊奢沙別、すなわち新羅のそれからきたもののはずであった。
「ほんとうに、そこに宮殿があったかどうかはまだわかっておりません」と谷口さんは、つづけて言った。
「しかし、そのイササ谷からは直刀や古い須恵器なども出ています」
「すると、それに似たようなものはあったかもしれませんね。楽々浦は佐佐宇良とも書かれたようですが、近江(滋賀県)にある沙沙貴(ささき)神社、いわゆる近江源氏の佐々木氏の祖神となっているこの神社の沙沙貴、佐々木氏のササというのも天日槍のそれから出ているはずです。そのササがまた、こちらでは瀬崎ともなっているわけですね」
「そうです。佐佐宇良が瀬崎となり、それからさらにまたいろいろと分かれ出ているはずです」「そうでしょう。まあ、そういうことはおくとしてもですね」と、私たちはもうそろそろ立たなくてはならないと思ったので、そばの鄭詔文に目くばせをした。「かりにもし飯谷の韓国神社が物部韓国連を祭ったものだったにしても、大阪教育大の鳥越憲三郎氏は、その物部氏も朝鮮から渡来したものだと言っていますよ」
「ええ、韓国うんぬんということからして、わたしもそうではなかったかと思っております。こう言ってはみなさんにはたいへん失礼ですが、朝鮮は日本の植民地で、みなさんはいわゆる被圧迫民族となっていたものですから、日本人は自分たちの祖先がそちらから来たということをいやがっていたのです。それで一つは、いろいろなことがよくわからなくなってしまったのです」
谷口さんはちょっと言いにくそうにして、私たちの顔を見くらべるようにした。しかし、それは言いにくいことでも何でもなかった。だから私も、
「そうなんです。そのとおりです」とくりかえしそう言ったものだった。私はむしろ、そのことばをえただけでも、よい時間をすごしたものと思わないではいられなかった。
そして私たちは立って出ようとすると、谷口さんの奥さんはいつの間にしたのか、玄関口に脱ぎすてておいた雪でずぶ濡れの二人の靴下を洗って、そのうえアイロンをかけて乾して持ってきてくれた。これまた、ありがたいことだった。
柳行李(やなぎごうり)と菓祖
天日槍(あめのひぼこ)は「万能の神」
私たちは飯谷から出て、また円山川に架かった城崎大橋を渡った。そしてこんどはその円山川に沿って南下し、天日槍を祭る出石(いずし)神社のある出石に向かった。途中、豊岡市三宅にあるという「菓祖」の中嶋神社をたずねるつもりだったので、さきにまず市の教育委員会に寄ってみた。
市の教育委員会では社会教育課の寺内隆士氏と加嶋英雄氏とに会い、『豊岡市の埋蔵文化財』などをもらった。ちょっと開いてみただけでもすぐにわかったのは、おびただしい古墳群ということだった。
豊岡市は豊岡盆地という平野にあって、寺内さんたちによると、兵庫県下では四、五番目という広い面積を占めているが、人口はわずか四万五千ほどしかなかった。四万五千というと、東京あたりのちょっとした団地一つの人口でしかないが、それに引きかえ、いわゆる円墳を主とした古墳は八百余もあった。古い前期古墳なども発見されており、気比(けひ)町鷲崎というところからは銅鐸も四個発見されていて、これはいま東京国立博物館にあるという。
さきにもちょっとふれた天日槍を伊奢沙別命(いささわけのみこと)として祭る気比神宮の気比と同じ気比町があって、ここでその銅鐸が発見されているというのもおもしろかった。おもしろいといえば、豊岡は柳行李の産地として有名で、石田修一氏の「但馬豊岡の柳行李」をみると、冒頭にこういうことが書かれている。
柳行李に代表される杞柳工業は、兵庫県北部、円山川下流沿岸の豊岡を中心とする地帯を主産地とする。現在もこの地位は変っていない。最盛期に比して、その産額は減少したとはいえ、なお行李一二万個(八四〇〇万円)・籠一八○万個(二億二六〇〇万円)合計三億一千万円を製し、全国生産額の八五%を占めている(昭和三十三年調)。
さて、柳細工の伝統が古くより存していたことは、「柳箱」(『続目本紀』養老六年十二月)・「柳管」(『延喜式』内匠)の名によって知られる。豊岡の柳行李の起源については二説ある。(1)は天日槍(あめのひぼこ)将来説、(2)は成田庄吉創案説がこれである。(1)によれば、記紀の伝承の中に採り上げられている新羅王子天日槍が、豊岡近郊の出石(いずし)に定着するについて、彼の国よりその技術を将来したと説き、正倉院御物の中の各種の容器の原料が柳であることから、これこそ但馬の国の献物品であり、何よりの証拠であると極言しているがもちろん確証はない。
豊岡で生産されている柳行李の製造技術が天日槍によってもたらされたものかどうか、「確証」がない以上、もちろんそれは私にもわかりはしない。しかしながら、そういう「確証」がないにもかかわらず、それも天日槍の将来したものというところが、いかにも但馬の豊岡らしくておもしろい。
それはなにもひとり但馬とは限らないが、天日槍は但馬にとって、まさに「万能の神」のようなものだったからである。天日槍は、たとえば近江(滋賀県)草津市の安羅神社では薬をもたらした神として祭られ、また同竜王町の鏡神社では鏡や陶器(すえうつわ)(須恵器)をはじめて将来した神として祭られているが、あとでみるように、神を祭る神社そのものからして、これも彼がもたらしたものといえなくはない。
田道間守(たじまもり)と菓子
豊岡市の中心部を出て、出石(いずし)へとつうじている円山川の橋を渡ると、そこに「菓祖 中嶋神社」とした石柱の建っているのがみえる。念のためとおりがかりの老人にきくと、老人はその中嶋神社のことを、まるでいまそこから来たかのようによく知っていた。そこからは東南方に見える三開山(みひらき)を指さしながら、あの山をぐるっとまわった道のかたわらにあるからすぐわかるという。
なるほど、そのとおりだった。中嶋神社は三開山をまわった三宅の宮前にあって、重要文化財となっている朱塗りの本殿が、白く積もった雪に映(は)えていた。境内のこちらに「金五拾万円也 全国菓子大博覧会」とした石柱などが建っているのも、菓祖の神社らしかった。
社務所ともなっている宮司宅は不在で、だれにも会うことはできなかったが、この中嶋神社はどうして「菓祖」となっているのか。神社本庁編の『神社名鑑』によってみると、その「由緒沿革」がこうある。
菓子の祖、田道間守命(たじまもりのみこと)をまつり、創立は推古天皇の御代と言われ、延喜式内神名帳に記載され、現本殿は室町時代中期の建物で、重要文化財となっている。垂仁天皇の御代、田道間守命が常世の国より持ち帰られた「ときじくのかぐのこのみ」(今のたちばな)は当時菓子の最も優れたものとして珍重せられた。
『日本書紀』にみえるこの田道間守は、『古事記』では多遅麻毛理(たじまもり)となっているが、ところで、田道間守とはどういうものであったろうか。脇坂景城編『神・仏の戸籍しらべ』というのをみると、それがわかりやすくこう書かれている。
田道間守は天日矛(あめのひぼこ)(槍)命の後裔であると伝えられる人で、垂仁天皇の命によって常世国(とこよのくに)の香果(かか)(橘(たちばな))を求めしめられた。田道間守はその使命をうけて、渺々(びようびよう)たる大海の彼方(かなた)の国に出発したが、その後約十年間は杳(よう)として消息を絶ってしまった。
天皇はこの香果を待ちながらも、ついに崩御(ほうぎよ)されてしまったその翌年、田道間守は彼の国から香果を携えて帰って来た。ここに使命を果し、任務を終えたので、さっそく天皇に報告しこれを献じたならば如何にお喜びであろうと、急ぎ参朝したが、天皇はすでにこの世にはおられなかった。
田道間守は、「自分がいま少し早く帰って来たならば、天皇に薬として香果を召しあがって頂けたものを……」と慟哭(どうこく)、その極に達した。
田道間守はさっそく天皇の陵に致って、その香果を、先帝の陵前に供えて嘆き悲しみ、叫びに叫んで、ついに哭死(こくし)した。群臣たちはこのことを聞いて、泣かないものはなかったという。
これは『日本書紀』にあることを書きなおしたものであるが、『日本書紀』はそのおわりにこう書き加えている。「田道間守は、是(こ)れ三宅(みやけの)連(むらじ)の始祖なり」と。
だからまた、中嶋神社のあるそこが三宅となっているらしく、神社の前には「三宅公民館」というのもあった。三宅というところは大和(奈良県)にもあって、それについては今井啓一氏の『天日槍』「但馬国における天日槍族の奉斎社をめぐって」にこうある。
但馬国出石郡のこの地に帝室の屯倉(みやけ)が置かれたという記録は見えないけれども、すでに田道間守系に三宅連があり、奈良県大和国磯城郡(旧式下郡)には三宅村の遺称があり、その大字に上但馬・東但馬・西但馬(近鉄田原本線旧大和鉄道に「たじま」駅あり)が現にあって、その地域は万葉集十三に三宅原・三宅路、和名抄に三宅郷とする辺とすべく、仁徳即位前紀によると倭(やまとの)屯田(み た)及び屯倉(みやけ)は垂仁御宇に定められたと見える。恐らく田道間守系の者が大和国へ移り、天皇直轄領である倭屯倉のことを掌ったので三宅連の称があり、然(しか)もその本貫地は但馬国であったので、いまに大和国の三宅村に但馬の遺称があるとすべきか。
出石焼と出石そばの町
「菓祖」の中嶋神社から、私たちは出石へ向かって進んだ。途中、これまた古代南部朝鮮の小国家であった安羅(アラ)からきたものと思われる安良(あら)(安羅は安良とも書く)というところがあったりした。私たちの目ざす但馬国一の宮の出石神社は、出石町の中心部からはちょっとはずれた出石川畔の宮内というところにあった。
私がその出石神社をおとずれるのはこれで三度目ではなかったかと思うが、さきに町のことをちょっとしるしておくと、この町は陶器(須恵器)づくりをもたらした天日槍のそれにふさわしく、出石焼という陶磁器造りの町としても有名である。そしてその出石焼の皿に盛られた「出石そば」がたいへんうまいところとしても知られている。
一人前が五皿となっているので、あるとき私はそれを二十皿ほど食って帰ったことがある。しかしあとで知ってみると、何とわずか十五分間でそれを六十五皿も平らげたものがあるというのにはおどろいた。朝鮮に「食っては帰れるが背負っては帰れぬ」ということばがあるが、これなどまさにそれではないかと思われる。
日本にはいま古都の京都に似たところとして、小京都といわれるところがあちこちにあるが、出石もそのうちの一つで、古い城下町のしずかなたたずまいをいまなおのこしている。雑誌『旅行読売』一九七四年十月号にはその小京都としての出石が紹介されていて、こう書かれている。
この町の歴史は古く、古事記、日本書紀にもタジマノクニとかイズシオトメなどの名がみえる。古書に登場する新羅国(しらぎのくに)の王子、天日矛命(あめのひぼこのみこと)は日本に帰化して但馬国(たじまのくに)に定住した。そのころ但馬は泥海の中にあった。天日矛は岩山を切り開いて汚水を日本海へ流して兵庫県の穀倉とした。いわばこの国の功労者である。いま宮内にある但馬国一ノ宮出石神社に祭られている。
室町時代になって、宮内の子盗(こぬすみ)山(小盗、此隅とも書く)に居城したのが山名氏である。山名時代は約二百年続いたが、その間、足利将軍家の相続問題にからんで、城主山名宗全は細川勝元と争い、京都を中心に十一年にわたる応仁の乱(一四六七〜一四七七)を起こし、内裏をはじめ多くの寺社を猛火の中に失った。
出石神社の前で
さて、但馬一の宮の出石神社は、「六千六百三十二坪」の境内に流造の本殿ほか、摂末社四社をもってしずまっている。境内の森のなかには玉垣に囲まれたいわゆる奥津城の禁足地もあるが、旧国幣中社、『延喜式』には「名神大社」となっているもので、神社本庁編『神社名鑑』にある由緒沿革はこうなっている。
垂仁天皇の御代、天日槍命初めて我国に渡り来りまして但馬国に入り、同国開拓に大なる御功績があった。そこで部民等命の御撫育を偲ぶのあまり、其の持ち給える宝物を御霊代として奉斎したと云う。
創立年代は、一の宮縁起には谿羽道主命と多遅麻比良岐とが相謀って、天日槍命を祀ったと見えている。本社は、慶雲三年以後祈年の幣帛を献ぜられ、貞観十六年には、正五位上に陞叙せられた。延喜の制名神大社に列せられ、正平六年、後村上天皇勅願所たるの故を以て領家号を停せられた。鎌倉時代には当国一の宮として重きをなし、出石城主の崇敬は累代に亘って厚かった。江戸時代に至り、小出、仙石両代相次いで社殿を造営し、社運旧に復した。明治四年、国幣中社に列せられた。(神社本庁別表神社)
なおまた、出石神社発行の「国土開発の祖神/但馬ノ国一の宮」と頭書きされた『出石神社由緒略記』には、それがもう少しくわしく書かれている。これには天日槍が「従え来った工人」たちによる「円山川河口付近が隆起したため」「一大泥海となってい」た但馬開発の図、神社の社宝となっている「岩引きの図」ものっているが、ところで、「国土開発の祖神」といわれる天日槍とはいったいどういうものであったのか。
国土開発の祖神
記・紀の中の天日槍(矛)
天日槍についてはさきの丹波・丹後(「天日槍族・出石人」の項)ほかでもふれているが、ここではその天日槍とは何であったか、というところからみてみたいと思う。天日槍については、『古事記』『日本書紀』に書かれていることをまずみなくてはならない。
しかしこれは、たとえ訳文であっても読むのになかなか骨が折れる。ちょうどさいわいというか、さいきん出た『兵庫県史』第一巻をみると、大阪市立大学の直木孝次郎氏が執筆した、第六章第四節「神話と伝説」に「3 天日槍」という項があってそれが要領よく紹介されているので、ちょっと長いけれどもそれを借用することにしたい。
天日槍(あめのひぼこ)の諸伝説 出石郡出石町にある出石神社は、但馬の一の宮として古来著名な大社であるが、祭神の天日槍については『記』・『紀』や『播磨国(はりまのくに)風土記』などに多くの伝説が伝えられ、その足跡は兵庫県の各地におよんだという。主な所伝のあらましはつぎのとおりである。
(1) 『日本書紀』
垂仁紀三年の条に、新羅の王子、天日槍が、羽太玉(はぶとのたま)・足高玉(あしだかのたま)・鵜鹿鹿赤石玉(うかかのあかしのたま)・出石(いずしの)小刀(こがたな)・出石(いずしの)桙(ほこ)・日鏡(ひのかがみ)・熊神籬(くまのひもろぎ)各一種、計七種の宝物をもって来日したので、但馬国に蔵(おさ)めて神の物とした、という伝えをのせ、分注に「一に云わく」として別な伝えをのせる。
それは話がすこし詳しく、はじめ天日槍は船に乗って播磨国にきて、宍粟邑にいた。天皇は三輪君の祖大友王と倭直(やまとのあたい)の祖長尾市(ながおいち)とを遣わして交渉させたところ、日槍は、「日本には聖皇がいらっしゃると聞いて来た」といって、八種の宝物(内容は上述の七種と大同小異)を献上した。天皇は播磨国の宍粟邑と淡路島の出浅邑(津名町志筑とする説と、五色町都志とする説とがある)のどちらかに住んでもよいと詔(みことのり)したが、自分の気にいったところを給わりたいといい、近江・若狭をめぐり、但馬国に至り住処とした。そうして但馬の女麻多烏(またを)を娶(めと)って但馬諸助(もろすけ)を生み、諸助は但馬日楢杵(ひならぎ)を生み、日楢杵は清彦を生み、清彦は田道間守(たじまもり)を生んだ。以上が分注の伝えであるが、系譜の最後にみえる田道間守は、のち非時香(ときじくのかぐの)菓(このみ)を求めるために常世国に行った人物として有名である。
垂仁紀にはもう一ヵ所、八十八年の条に、天皇が天日槍のもって来た宝物をみたいといって、使者を遣わして日槍の曾孫清彦にそれを献上させた話がのっている。清彦は詔をうけたまわって神宝を献じたが、出石小刀だけは袍(ころも)のうちにかくして、献上しなかった。しかし事が露顕し、最後には小刀も差し出してしまった。ところがそののち、神宝をしまっておいた倉を開いてみると、小刀が消え失せており、清彦に問うと、「昨夕、小刀は自然に家に帰ってきたが、今朝またみえなくなった」という答である。天皇は恐れてもう探さなかったが、のち小刀は淡路に現れ、島人は祠をたてて祭った。
八十八年の条には、以上の物語に加えて、日槍から清彦に至る系譜を記しているが、それは上記の三年の条にみえる系譜とほぼ同じである。
(2) 『古事記』
『記』では中巻のおわりを占める応神天皇の段のなかに、まとめて記してある(『記』では天之日矛と書く)。それには日槍の日本へ渡来した事情が述べられている。それによると、日槍は新羅の王子だが、新羅の阿具(あぐ)沼という沼のほとりで一人の賤(いや)しい女が昼寝をし、太陽の光に感じて妊娠し、赤玉を生んだ。その様子をうかがっていた男があり、赤玉をもらいうけて腰につけ、山の谷あいの自分の田を耕す人々に食料をとどけるため、牛に食料を負わせて谷にはいったところ、日槍に出あった。男は日槍に「牛を殺して食べるために谷へはいったのだろう」と責められ、しかたなく赤玉を日槍に贈って赦(ゆる)してもらった。日槍は赤玉をもち帰り、床の辺におくと、美しい女に変身した。日槍はその女を妻とし、女もよく日槍に尽くしたが、日槍が心おごって女をののしったため、女は「私は祖(おや)の国へ帰ります」といって小船に乗って逃げ、難波(なにわ)に留まった。これが難波の比売碁曾(ひめこそ)(『延喜式』の摂津国東生郡の比売許曾神社)の阿加流比売神(あかるひめのかみ)である。日槍は女を追うて難波へ行こうとしたが、渡(わたし)の神にさえぎられてはいることができず、多遅摩(但馬)国にとどまった。
およそ以上のように述べ、つぎに日槍の子孫の系譜を記し、最後に日槍が八種の神宝―玉津宝の珠二貫(ふたつら)、浪振る比礼、浪切る比礼、風振る比礼、風切る比礼、奥津(おきつ)鏡、辺津(へつ)鏡―をもたらしたことを記している。
これは『日本書紀』と『古事記』とに書かれている天日槍についてのそれを、直木氏がわかりやすく書きなおして紹介したものであるが、これにはさらにまた「(3)『播磨国風土記』」にあるそれがつづいている。しかし『播磨国風土記』のほうはあとの播磨でみることにして、ここでは直木氏によるその結語ともいうべき「天日槍伝説の背景」をさきにみると、それがこう書かれている。
以上のような天日槍の伝説が成立した事情については、いろいろの解釈があるが、日槍をそういう名をもつ一人の人物と考えてはならないだろう。おそらく矛や剣を祭る宗教、または矛や剣を神とする宗教を奉ずる集団が、朝鮮とくに新羅から渡来したことが、この伝説のもととなっていると思われる。渡来の時期については、銅剣・銅矛が重要視された弥生時代とする考えもありうるが、銅剣・銅矛を尊重する宗教儀礼は弥生時代で終息し、つぎの時代にひきつがれていないから、古墳時代にはいってのこととみるべきだろう。
さいごの、天日槍を象徴とするその渡来集団がやって来たのはいつのことか、ということについてはまだ議論がある。たとえば京都大学の林屋辰三郎氏は、「渡来神である天日槍の伝説の内容は農耕の伝播(でんぱ)」(「但馬の古代文化」)であるといっているが、「日槍をそういう名をもつ一人の人物と考えてはならないだろう」というのは、私もまったくそのとおりであると思う。
「熊(くまの)神籬(ひもろぎ)」とはなにか
天日槍といえば、『日本書紀』や『古事記』にそう書かれているからというので、だれもがこれを「新羅の王子」などと言ったり、書いたりしているということがある。しかし以上みてきた『日本書紀』や『古事記』のそれでもわかるように、これはどうみても「新羅の王子」といえるものではないのである。
だから、私は天日槍を新羅系渡来人集団の象徴、または天日槍族と書いてきたのであるが、かれらがいつごろこの日本列島にやって来たかということについては、天日槍がもたらしたとされているものをもって、われわれはだいたいの見当をつけるよりほかない。すなわち、かれらが海を渡って来たものであることをしめす「浪振る比礼」「浪切る比礼」など『古事記』のほうはおくとして、『日本書紀』のそれをもう一度みるとこうなっている。
「羽太玉(はぶとのたま)・足高玉(あしだかのたま)・鵜鹿鹿(うかかの)赤石(あかしの)玉(たま)・出石(いずしの)小刀(こがたな)・出石(いずしの)桙(ほこ)・日鏡(ひのかがみ)・熊神籬(くまのひもろぎ)各一種」――ここにみられる「玉」「桙(矛・刀)」「鏡」はいまも日本では「三種の神器」となっているものであるばかりか、多くの神社や神宮の神体ともなっているものであるが、では、「熊神籬」とはいったい何であったのだろうか。
これについてはさきの近江(『日本の中の朝鮮文化』(3)「天日槍について」の項)でもふれたことがあるけれども、「熊神籬」の「熊」とは朝鮮語コム(熊)で、「聖なるもの」という意味でもあった。古代日本では高句麗あるいは朝鮮全体をさして高麗(こ ま)といったのもそれからきたのであり、また、神社や神宮などでいまもみられる狛犬(こまいぬ)(高麗犬)というのもこれからきたものであることはいうまでもない。
したがって「熊(くまの)神籬(ひもろぎ)」とは「聖なる神籬」ということなのであるが、では、「神籬」とはなにか。これはその「聖なるもの」の神を祭る神社・神宮の原型となった神域をなすものということで、大野晋ほか編『岩波古語辞典』にもそれがこうある。
ひもろぎ
〔神籬・胙〕《ヒは霊力の意。モロはモリ(森・杜)の古形、神の降下して来る所。キは未詳。ヒボロキとも》(1)上代、神の降下を待つ所として作るもの。……
要するに、天日槍がもたらした「玉」「桙(矛・刀)」「鏡」は神を祭るための道具(のちに神体ともなる)であり、「神籬」とはその神を祭る神域・神祠というもので、つまりはのちの神社・神宮そのものということにほかならなかった。直木氏も書いているように、天日槍を象徴とする新羅系渡来人集団のかれらは「矛や剣を祭る宗教、または矛や剣を神とする宗教を奉ずる集団」だったのである。
そしてそれをもたらした集団の象徴であった天日槍自体も、のちには神としてあちこちの神社に祭られることになった。その神社のもっとも大きなものとして今日にのこっているのが、天日槍を「国土開発の祖神」として祭る但馬国一の宮の出石神社である。
いまも生きつづける天日槍
その『出石神社由緒略記』が新羅からの渡来人集団の象徴であった天日槍を「但馬開発の」ではなく、「国土開発の祖神」としたことに私はある感銘をもったものである。なぜかというと、天日槍集団はけっしてひとり但馬のみのそれではなく全国土、少なくとも西部日本国土全体にわたっているものだったからである。
だからまた、同『出石神社由緒略記』は天日槍「命の子孫は但馬のみならず播磨、摂津、大和、近江等、遠くは筑紫方面まで住居して活躍されています」とも書いている。「遠くは」九州の「筑紫方面まで」とはどういうことか、これについてはあとの播磨のほうでみるとして、ここでは但馬におけるそれをもう少しみておくことにする。
新羅からの渡来である天日槍集団の遺跡は、さきにふれた敦賀にある気比(けひ)神宮の祭神、天日槍を伊奢沙別命(いささわけのみこと)としていることからもわかるように、越前(福井県)や丹波・丹後(京都府)にも色濃くのこっているが、しかしはっきりわかっているものとしてのそれが多いのは、やはり但馬である。但馬には今日なお天日槍の子孫と称する神床(かんどこ)氏や、その族の子孫という日出木氏、日足氏などがいるばかりか、その神社もたくさんある。
今井啓一氏の『天日槍』「但馬国における天日槍族の奉斎社をめぐって」をみると、さきにみた「菓祖」の中嶋神社や一の宮の出石神社のほか、次の諸社があげられている。
諸杉神社(出石郡出石町)
御出石神社(同郡但東町)
日出神社(同郡同町)
比遅(ひじ)神社(同郡同町)
須流(する)神社(同郡同町)
須義(すぎ)神社(同郡出石町)
葛(かずら)神社(養父郡八鹿町)
大与比(おおよひ)神社(同郡関宮町)
杜内(もりうち)神社(同郡養父町)
鷹貫(たかぬき)神社(城崎郡日高町)
多麻良伎(たまらぎ)神社(同郡同町)
気比神社(豊岡市気比)
伊伎佐野(いきさの)神社(城崎郡香住町)
いずれも古い、いわゆる『延喜式』内社のみでこれだけのものがあげられているが、もちろんこれがそのすべてではないことはいうまでもない。私は日本全国に十七社ほどあるうち、七社までを但馬が占めているという兵主(ひようず)神社にしても、天日槍集団の渡来によって生じたものではなかったかと思っている。大和の三輪山北東の纒向(まさむく)にある大兵主神社は天日槍を祭っている。
その兵主神社はおくとしても、たとえば、兵庫県神社庁豊岡市城崎郡支部の発行した大浜正道氏の「兵庫県但馬国における神社鎮祭の特異性の考察」というのをみると、これにも「天日槍系神族と関係深い神社」としていまみた今井啓一氏の『天日槍』になかった養父(やぶ)郡養父町の養父神社、朝来郡和田山町の佐伎都比古阿流知命(さきつひこあるちのみこと)神社ほか数社があげられている。そのうちの一つ、豊岡市にある葦田(あしだ)神社をみるとこう書かれている。
次に豊岡市(旧中筋村)中郷字森の下に鎮座の葦田神社は延喜式の制小社であるが、祭神は天麻比止都禰(あめのまひとつね)命(天目(あまのま)一箇(ひとつの)命(みこと))であり、出石一の宮の祭神天日槍命の随神が宮地の見分のために此地に来たり、四方を眺望された時に、この国府庄の広大にして景勝の地であることを認められたのに、天日槍命にこのことを告げず、御自分の鎮座地にされたため、天日槍命に謝する意をもって、庶民の足痛を癒(いや)すことをお誓いになっておゆるしを願った。しかしその随神の名を詳らかにせず、祭神であることも不明であるが、ただ鎮座地一円の山を愛痛(あしいた)山と称している。天日槍命が城崎郡に神威をのばそうとされた神社のいわれであると考えることができる。
いかにも、天日槍集団らしい説話である。「宮地の見分のために」来たものだったにもかかわらず、その地が気に入ったので「自分の鎮座地」にしてしまったというところなど、なにか、現代の人間にみられるような生ま生ましさではないか。このような「随神」もいたというのがおもしろいので紹介したが、但馬を歩いてみると、はじめにみた城崎「温泉祖神」のそれといい、この地には、このようなはなしがあちこちにみちみちているような気がしてくる。ということは、今日なおその子孫と称する神床氏や日出木氏、日足氏などがいることともあわせて、但馬ではまだ天日槍集団がそのまま生きつづけているということにほかならないのである。
穴太(あのう)と猪名氏
工業地帯の中の古代文化
さて、さきにちょっとおことわりをしておかなくてはならない。私は但馬の次は播磨(はりま)とするつもりだったが、そのまえにここでまた摂津(せつつ)のほうをみなくてはならなくなった。「また」といったのは、私はさきにこの摂津の一部をみている(『日本の中の朝鮮文化』(2)が「山城・摂津・和泉・河内」となっている)からである。
しかし、その摂津は現在の大阪市および大阪府となっているところであって、いま兵庫県となっている西摂津は、まだまったくみていなかった。とはいってもそれは西の一部であるから省略してもいいと思っていたが、しかし気がついてみると、兵庫県というのはおもしろいことになっていて、その重要な地域のほとんどがみなかつては摂津国となっていたところだったのである。
すなわち県庁所在地の神戸市はもとより、尼崎(あまがさき)市、伊丹(いたみ)市、川西(かわにし)市、宝塚(たからづか)市、芦屋(あしや)市、西宮(にしのみや)市などみなそうである。こうなると、それを省略することは、兵庫県の重要なところはみな省略してしまうことになるので、これを「西摂津」としてみることにした。
とはいっても、右にあげた全部をいちいちみて歩くことはできない。そんなことをしていたら、きりがないからである。で、私はそのうちの神戸市となっているところだけ、ちょっとみるつもりだった。しかしある偶然なことから、私は尼崎市となっているところのそれをもあわせてみることになった。
兵庫県に尼崎という工業都市があるということは私も知っていたが、しかしそこは私にとって縁遠いところだった。だいたい、大阪国際空港のある伊丹に近い工業都市と聞いただけでも、私がいまたずね歩いている古代文化遺跡とは、よほど縁遠い感じがしていたものである。摂津の尼崎ということで、私がちょっと知っていたことといえば、そこはたしか、新羅系渡来人と関係のある猪名(いな)川の下流ではなかったかというぐらいのものでしかなかった。
ところがある日、私はその尼崎市教育委員会の公民館から、講演をしてくれということで招かれた。しかもそれは、私がたずね歩いている「日本の朝鮮文化遺跡」についてということだった。私は尼崎のそれについてはなにも知らないから、――と言うと、別に尼崎と限らず一般的なことでいいというので、出かけて行くことにした。
今年(一九七五年)三月はじめのことであったが、行ってみて私はびっくりした。尼崎はむしろそういう現代的工業都市であったからか、古代文化についての関心がひじょうに高いところで、昼間だったにもかかわらず、講演会に集まった人の多いのにもおどろいたが、それにもまして尼崎というところ自体、そんな古代文化遺跡の多いのにおどろいた。
私はまず、市教育委員会社会教育部長の福島輝喜氏から、同教委が発行したいろいろな資料をどっさりもらった。みると、それはどれも『尼崎の文化財』であり、『尼崎の史跡』であり、『尼崎の歴史』であり、『尼崎市文化財調査報告』であり、といったものばかりだった。
現に、一月十日から三月三十日までということで、市の総合文化センターなるところでは、「埋れた尼崎の歴史展」というのも開かれていた。私も講演がおわったあと、同中央公民館長の白築実氏や、私に講演のことをいってきた大西嘉隆氏たちといっしょに、「縄文」から各時代にわたるその「歴史展」をみせてもらった。おかげで尼崎の古代のそれを一目で見わたすことができたわけだったが、いまは工業都市となっていようが、それは古代とは別に関係のないことだったのである。
意外な発見=穴太(あのう)
千数百年前の古代にはやはり古代的生活が営まれていたもので、ここにも古代朝鮮からの渡来人が万遍なくやって来ている。たとえば同『埋れた尼崎の歴史展』というパンフレットをみると、「古墳時代」のことがこう説明されている。
市内では、破壊され消滅した古墳が多いが、猪名川と庄下川に挟まれた東北地域に多く築かれていたことがしられる。最大の例は、濠をめぐらせた全長約九二メートルを計る前方後円墳形の伊居太古墳である。
この市内東北地域には、それ以前から定着し、生活していた人びとのほかに、木工技術集団の「猪名部」や測量技術に長じた「坂合部」など、帰化系の技術者集団が住んでいたことも知られている。一般の民衆は、多くが農業に従事したほか、海に面する南部地域では、漁業を行なっていたことが出土する遺物から明らかにされている。
そしてその古墳、たとえば園田大塚山古墳から出土した馬具や須恵器などが「歴史展」の会場に展示されていたが、それだけではなかった。会場となっている市の総合文化センターには、これも市立の地域研究史料館があって、私はその史料館長の小野寺逸也氏にも引き合わされた。
すると小野寺さんは、私がたずねることをあらかじめ連絡されていたとみえて、そこの椅子にかけるとすぐに、長山孝平氏の「猪名県と猪名真人」という論文がのっている尼崎市研究紀要の『地域研究』と、落合重信氏の『地名からみた尼崎地域』とを私にくれた。それで私はまた、意外な発見をすることになった。
長山孝平氏の「猪名県と猪名真人」の猪名、すなわち「埋れた尼崎の歴史展」のいう「猪名部」についてはあとでみるとして、私にとって意外な発見だったのは、この尼崎にも新羅系渡来人のいたところによくみられる「穴太(あのう)」というのがあったということだった。落合氏の『地名からみた尼崎地域』にそれがこう書かれている。
『尼崎市史』第一巻二一三ページに、「氏族制度と尼崎地方に分布する古代氏族」なる項があって、凡河内(おおしかわち)・為奈・椎田・川原・久々智・坂合等の氏族があげられ、付近の大字と関連して説かれている。ここでは、そこから逸せられているが、旧園田村穴太(あのう)集落も、また古代氏族に関係するものではないかということについて述べてみたい。
一般に、穴太の名は、近世における築城にさいしての石垣づくりの穴太衆が知られている。しかし、旧園田村穴太集落は、猪名川と藻川の間の中州地帯にあって、その付近から石を産するというようなところではない。あるいは、石の切出しをするものと、石を細工する石工とは別だというから、猪名川の上流に石の産地があって、そこから運ばれていたかということも考えられるが、そういうことも聞かないのである。近世築城に当たった近江国穴太を本拠とする穴太衆(役)は、多くの藩で侍分として抱えられてはいるが、それらが穴太集落をつくった例というものはかつてない(城の石垣の研究家北川氏による)。
また、旧園田村穴太集落は、慶長六年(一六〇一)すでに旗本柘植氏の支配地としてあらわれているから、いわゆる穴太衆の流れではないようである。しかし、「穴太」と記されている以上、穴太氏との何らかの関係を考えないわけにはいかない。起源はもう少し古いようである。現在知られている穴太という名の集落に、次のようなものがあるが、いずれも古い伝承を持っている。
(1)滋賀県蒲生郡穴村(現 草津市穴村町)
(2)京都府桑田郡亀岡町穴太(現 亀岡市曾我部町穴太)
(3)奈良県宇智郡穴生(現 五条市南阿太)
(4)三重県員弁郡東員町穴太
(5)大阪府若江郡穴太村(現 八尾市穴太)
(1)は説話として天日槍が難波から近江に入ったときはじめてとどまったといわれる村であり、(2)はその地にある穴太寺(西国三十三ヵ所のうち)は聖武天皇勅願の寺伝を持っており、(3)は太平記に出てくる賀名生(あのう)がこの地のことであり、(4)は伊勢国壱師の祖が穴太足尼だといわれていることと関係がありそうである。旧園田村穴太集落もそういう系列の部と考えられる。
穴太を安康天皇の名代(なしろ)である穴穂部から出たものとする説がある(太田亮『姓氏家系大辞典』等)。その間多少通ずるものがあるにしても、穴穂・孔王が名代であるのに対して、穴太は多少ちがって考えなければならないのではないかと思われる。安康天皇が穴穂皇子といわれたのは、名代以前に穴穂なる名称があったことを示すものであって、私はそれを皇子がアナホ・アナオの氏人によって養育されたから名付けられたものと解する。そのアナホ・アナオ氏とはいかなる氏族であったかというときに、近江国滋賀郡・蒲生郡・坂田郡等々に繁栄した穴太氏があげられる。これらは新羅の五畿停の一つ安羅停(任那から新羅に帰属)からの帰化人のすえだとされているものである(天日槍が最初にとどまったと伝えられる滋賀県蒲生郡穴村には、安羅神社があり、丸い石十数個を神体としている)。アラがどうしてアナオ・アナホになるのかよくわからないが、穴と穴太・穴穂とは通ずるもののようである。
新羅からの帰化人穴太氏
安康天皇養育者―名代=穴穂・孔王部……
穴太氏(平安初期明法博士を出した家系)……
近世坂本の穴太氏(穴太衆)……
といった関係になるかと思う。
長い引用となったが、大事なこと、というより、これには重要な問題が含まれているので、もう少しつづけさせてほしいと思う。それから、私の考えをのべることにしたい。
旧園田村穴太集落の氏神は白井神社で、手力男命を祭神としている。白井神社といっても別段なんの奇もないようだが、その隣村法界寺村・善法寺村・額田村の三ヵ村もそれぞれ白井神社を持っており、『兵庫県神社誌』を検してみて、ここ以外には県下に白井神社のないことを知った。そればかりか神社本庁編集の『神社名鑑』によって、全国の神社名をみても、白子・白髭・白根・白幡・白鳥・白羽・白神等はあっても、白井は一つもなく、かなり珍しいものであることを知るのである。そこになにかがありそうである。……
私は穴太村を帰化氏族穴太氏系のひらいた村として、白井(しらい)神社は新羅(しらぎ)神社の転訛ではないかということを考えてみるのだが、これはあまりにも史料がなくて、とっぴな感じがしないこともない。『播磨国風土記』に新羅の人が住んだと記されている餝磨(しかま)郡新羅訓(しらくに)、現在の姫路市白国の大庄屋の姓が白井氏であることを教えられたが、一つの傍証となるかも知れないが、これとても迂遠な話である。
なお、これは余談になるが、大阪市と神戸市の電話帳を繰ってみたところ、穴太を姓とするものは一つもなく、穴田というのがいくつかあった。これは穴太をアナタと読んで、こういう文字をあてたのではないかと考えられる。もしそうだとすると、穴太氏の分布はある程度ひろがっていたということになる。
安康帝も渡来系?
ここでちなみに、私も東京都の電話帳(個人名)を繰ってみたところ、穴井、穴口、穴沢氏などが一頁近くあって、穴田氏が三十一、穴太氏が二ある。穴太氏がいたのはおもしろいが、しかし電話帳のこれはあてになるものではない。
なぜかといえば、たとえば七世紀の後半、高句麗がほろびたのち渡来した武蔵(埼玉県)高麗(こ ま)郷の高麗神社宮司となっている高麗氏の系譜をみると、鎌倉時代の中期すでに井上、吉川、加藤、阿部というふうにそれが二十数氏にもなってわかれ出ている。ましてやそれよりずっと以前の渡来であった天日槍集団との関連で生じたものとみられる穴太氏など、いまはどういう姓となって分布しているか、わかるはずがないのである。
さて、穴太とは落合氏も書いているように、のち新羅に併合された古代南部朝鮮の小国家であった安羅(アラ)を安耶(アヤ)・安那(アナ)(阿那)ともいったことからきたものであるが、さきにもいったように、これは新羅系渡来人のいたところによくみられるそれである。
たとえばさきにみた但馬でも、私はめんどくさいのでいちいちふれなかったが、「菓祖」中嶋神社のあるところはかつての安美(あみ)、穴美(あなみ)郷であった。この安美、穴美にしても同様で、それは近くに安良(あら)というところがあったことからもわかる。
天日槍がそこに「暫住」(『日本書紀』)したという近江「吾名邑(あなのむら)」の穴村はもとより、阿那、穴太などみなそれで、のち長門(ながと)(山口県)となる穴門(あなと)(戸)にしてもそれではなかったかと私は思っている。
とくに近江の穴太は、景行・成務・仲哀の三帝にわたって営まれたという「高穴穂宮」のあったところとされていて、林屋辰三郎氏はこの高穴穂宮の伝承を重視し、近江こそは日本さいしょの統一国家がつくられたところではなかったかといっている。それよりはのちになる「穴穂皇子」だった安康帝の「穴穂宮」ということにしても、おなじ根から出たものだったはずである。
安康帝が「穴穂皇子といわれたのは」「私はそれを皇子がアナホ・アナオの氏人によって養育されたから名付けられたものと解する」と落合氏は書いているが、これはどういうことなのであろうか。もしそうだとしたら、安康帝はいったいどうして、新羅からの渡来人である穴太の氏人に「養育され」なくてはならなかったのであろうか。
たいへんおもしろい重要な問題であると思うが、それはどちらにせよ、この西摂津の尼崎にもその「穴太」があったことを知ったのは、このときがはじめてだった。しかも来てみて知ったのは、それだけではない。
渡来氏族の繁栄を物語る猪名寺廃寺
私はほかにまた、尼崎市教育委員会社会教育部長の福島さんから、村川行弘氏の『金楽寺貝塚発掘調査概報』や『猪名寺廃寺址発掘調査報告』というのももらっていた。ここで『金楽寺――』のそれをみると、なかにこういうことが書かれている。
附近の地名に呉服の里・服部・猪名野・秦の上・秦の下・秦郷・勝部・佐伯村・佐伯山・猪名郷・猪名川など帰化人居住の伝承や遺跡を伝えるものが多く、猪名氏・佐伯部・秦氏・海人部・漢氏・呉氏などの帰化人出身の氏族が西摂平野一帯に居住していたことも事実である。……猪名氏の開発の記事は豊富である。このようにみてくると、当貝塚の住人は猪名氏といった帰化人系統の氏族かまたは、その支配をうけていた人々であったかもしれない。
これだけでもじつに多くの渡来氏族が展開していたものであるが、「百済国人法道仙人の開基したる」と『摂州川辺郡猪名山縁起』にある猪名寺廃寺、これがまたかつては巨大な寺院であったらしい。伊丹市に近接した猪名川西岸の猪名寺というところにあったもので、いまは近くの猪名野山法園寺に移されている塔心礎をみてもそれはわかる。
心礎は「長径八尺二寸五分に、短径六尺二寸五分という巨石面に、径二尺四寸五分、深さ五寸五分の円形凹式柱座」を持ったものであった。この猪名寺廃寺が猪名氏の氏寺だったものかどうか。おそらくそうではなかったかと思うが、その猪名氏の「猪名部」については、これも直木孝次郎氏の筆になる『兵庫県史』第一巻の第六章第一節「3 朝鮮系渡来者とその部」にこうある。
猪名部
新羅系の渡来者と伝えられるものの一つに猪名部がある。猪名部は『日本書紀』雄略紀にみえる説話などによってよく知られているように、木工のすぐれた技術をもつ部である。その起源については、応神紀三十一年八月の条につぎのように伝えられている。新羅の調の使の船が武庫水門(むこのみなと)にやどったとき火を失し、水門に集まっていた多くの船が類焼した。新羅王はこれを聞いて大いに驚き、「能匠の者」を貢した。これが猪名部の始祖である、と。
古代における武庫のみなとの位置はかならずしも明確ではないが、武庫(むこ)川・猪名川の河口地域と考えてよかろう。現存の史料からは武庫のみなとや、武庫・猪名両河川の流域に猪名部の居住したことを立証することはできないが、猪名川や猪名県(あがた)(『日本書紀』仁徳紀)・猪名の湊(みなと)(『万葉集』)などの地名があるほか、『姓氏録』の摂津国諸蕃および未定雑姓摂津国の条に「為奈部首」がみえることからいって、摂津西部を流れる猪名川周辺の地に猪名部が、猪名部を管理する猪名部首とともに住んでいたことは、認めてよいと思われる。
しかし、ほんとうに新羅王の貢上した部であるかどうかは問題であろう。また猪名部御田が宮中ではじめて楼閣をつくったという雄略紀の伝えなども、そのまま信ずることはできない。けれどもこの部が進んだ技術をもった朝鮮から渡来した人びとを祖とし、朝廷に上番して腕をふるったことは事実であろう。
尼崎から芦屋へ
講演の前に
さきに私は尼崎市となっている西摂津(兵庫県)の穴太(あのう)と猪名氏・猪名部とをみたが、その後、私はさらにまたもう一度、同市をおとずれることになった。同尼崎市立中央公民館がおこなっている「市民大学講座」で講演をするためで、講演は「尼崎の中の朝鮮文化」というものであった。
要するに、さきに書いた穴太と猪名氏・猪名部とのことだったが、そのことがあって、私はこのときはじめて穴太の白井神社や、近くの猪名寺廃寺跡を実地にたずねることができた。これを書いている時点からするとつい先日、七月三十日のことである。
私は前夜のうち大阪に着いて、大阪駅近くのホテルに泊まった。翌朝の午前十時にはあらかじめ連絡してあったとおり、前回行ったときから顔なじみとなっていた尼崎市立中央公民館の永田穆(きよし)氏が、同公民館事業係長の八十田(やそだ)和正氏とともに市のクルマをもって迎えに来てくれた。
「市民大学講座」の講演は午後二時からだったが、そのまえに私たちはいっしょに穴太の白井神社や、猪名寺廃寺跡などをみておこうということになっていたのである。私たちはさっそく、いっしょに出かけて行った。
立派な白井神社の由緒書
尼崎市からすると東北方のはずれとなっている穴太は、大阪からのほうがむしろ近いところで、そこにある白井神社もすぐにわかった。まえもって永田さんたちから電話されてあったとみえて、宮司の栃尾直市氏は気持ちよく私たちを社務所のなかに迎え入れてくれた。
往古はともかく、白井神社は比較的小ぢんまりとした神社だったが、そのかわりといっていいかどうか、宮司の栃尾さんは、『白井神社(旧称・白井天王宮)』としたかなり立派な「由緒書」をつくっていた。それによるとこうある。
当社創立の年代は詳(つまび)らかでありませんが、享保年間発行(二百五十年前)の摂津誌に「式外、白井天王祠穴太村に在り、隣村又各々祠を建てゝ之を祀る」とあります。これによって、当時既に近郷に聞え高く、社頭殷賑(いんしん)を極めていた事がうかがわれ、創立の年代ははるかに遡るものと思われますが、これを証する古文書等、神社に伝わるもの一切(いつさい)が何時の時代か失われて、何一つ残されてありませんので、次のような事由を種々総合して、約千二百年前、聖武天皇の御宇、天平時代と推定されます。
即ち、田能遺跡が発掘されて(当社よりの直線距離約一・五キロ)当地区が二千年前既に相当広範囲に土着民の集落が点在していた事が明らかでありますが、その一つと思われます当神社往古よりの鎮座地「穴太(あのう)」(昭和三十六年まで尼崎市穴太一〇七番地)という地名が、現在滋賀県坂本穴太町、京都府亀岡市曾我部町穴太、大阪府八尾市穴太と、畿内だけでも四ヵ所に同一地名が現存しております。これ等の地名それぞれを古文書で探ってみました時、雄略天皇の御代(千五百年前)に「穴穂部を置く」とあります(日本書紀)。この「穴穂部」が後「穴太部」とも記されており(古事記ほか)、同一のものに違いありませんが、これは第二十代安康天皇(安康は謚名で御生存中は穴穂天皇と申し上げた)の「御子代の部民なり」とあります。
「御子代」とは天皇に後嗣の皇子がない時、その名を記念して後世に伝えるための部民で、広く河内、大和、下総、常陸、伊賀、武蔵等に置かれた記録があります(天平勝宝記・神風抄・姓氏録ほか)。当時、大和朝廷が地方統一の政策に氏姓(うじかばね)制度をつくり(四世紀〜七世紀)、同一の祖先から出た一族を「氏」といい、氏族中の地位の上下を表わすために「姓」を設け、この氏の総本家の家長が氏上(うじかみ)と呼ばれて一族を統率しました。更に氏ごとに守護神を祭って、氏上は氏神の祭司となった、とあります。現在の氏神社のはじまりであります。この氏、姓についてみますに、「穴太氏を祝部となし累代奉仕す」(竹生島縁起)「宗形部麻々伎姓を穴太連と賜う」後に「穴太宿禰と賜う」(朝野群載・拾芥抄ほか)、「穴太伊賀守」(浮田分限帳)等々の記録があります。
穴太の白井神社と限らず、ほかにも学ぶものがあると思ったので長い引用となったが、私はひととおりそれに目をとおし、宮司の栃尾さんに向かって言った。
「立派なものです。いろいろなことまで、ずいぶんよくお調べになっていますね」
私はこれまで、このような神社の「由緒書」はそうとうたくさんみてきた。どれも『古事記』や『日本書紀』などの文体をまねたむつかしいものばかりだったが、これはわかりやすい口語体で書かれているだけでも、珍しいとしなくてはならないものだった。
だから私がそう言ったのは、あながちお世辞でも何でもなかった。すると、栃尾さんは笑いながら言った。
「いやあ、実はそれ、あまりよく調べてはいないんですよ。だんだん調べているうちに、ちょっと困ったことになりましてね」
「困ったことといいますと――」
「どうも、穴太のこの白井神社は、帰化人のものらしいんですよ。そうなると、物議をかもしますからね。それで実は、それ以上調べることは中止してしまったのです」
「ああ、そうですか。なるほど、よくわかりました」と言って、私も声をあげて笑った。
いわば、はなしはそれで全部つきたようなものだった。同行の永田さんや八十田さんは何だかわけがわからん、といった顔をしていたが、私は宮司の栃尾さんをなかなか洒脱な人だと思った。白井神社の白井は、やはり新羅だったのである。
田能遺跡に目をみはる
ついで私たちは、白井神社から直線距離にすると約一・五キロだという猪名川左岸の田能遺跡に向かった。私は、大阪湾沿岸における弥生時代全期にわたる遺跡として有名な田能のそれまでみるつもりはなかった。なぜかというと、いわゆる弥生時代のそれについては、いずれ別にあらためて、――と思っていたからであるが、近くまで来ていたので、ついでにちょっと寄ってみることにしたのだった。
田能遺跡には弥生時代の住居が復原されているばかりでなく、いまはそこに尼崎市立の田能資料館があって、永田さんたちから私は館長の倉賀野謙氏にも紹介されてなかをみせてもらった。何とも、土器をはじめ実におびただしい出土品であった。六百個をこえるという碧玉製の管玉や勾玉もさることながら、白銅製の腕輪、銅剣の鋳型まであるのには目をみはらざるをえなかった。
たいへんな遺跡が発見されたものであるが、資料館でもらった見学者たちのための『田能遺跡』をみると、その遺跡が形成された弥生時代についてこう書かれている。
弥生時代は、今から約二千二百〜二千三百年前にはじまり、五百〜六百年間つづきました。この時代は、縄文時代以来の伝統をうけつぎながら、中国大陸・朝鮮半島を経由した文化の影響を強くうけて、成立した新しい時代です。
水稲耕作と金属器は、伝来文化の主要なもので、大陸系石器群・紡織技術がそれに伴なっていました。人々の生活は、水稲耕作を中心とした生活にかわり、一ヵ所に定着した安定したものになってきました。田能遺跡は、この弥生時代のほぼ全期間にわたって存続した村のあとです。
史跡公園はいつの日か
いま猪名野山法園寺という小さな寺をのこしている猪名寺廃寺跡は、穴太の白井神社からすると田能遺跡、猪名寺廃寺跡と、それはほぼ等距離の三角形のようなぐあいとなっていた。猪名寺廃寺跡といっても、いまは法園寺境内に移されているかつての塔心礎がのこっているだけで、そこに見えるものは草ぼうぼうの荒れた森しかなかった。
永田さんたちによると、尼崎市としてはそこを史跡公園にしたいという意向を持っているようだったが、しかしそうするとなるとそこにある法園寺や、その裏手にある住宅を立退(たちの)かさなくてはならないので、それはいつになるかわからないとのことだった。そこの猪名寺廃寺跡が、田能遺跡のような史跡公園となるようなことは、よほどのことがない限り、まずあるまいと思わなくてはならなかった。
穂日と日槍のまちがい
こうして私たちは尼崎市の西難波町にある中央公民館にいたり、そして私は、この日は何となく調子がわるく、集まっていた三百人の人たちには相すまなかったが、ともかくも「市民大学講座」の講演をおえた。われながら物足りない気持ちで応接室に戻って一服していると、そこへ数人の人たちが集まって来た。
「天日槍といえば」と、私は穴太と白井神社との関係で天日槍のことにふれたものだから、そこに集まっていたうちの一人である尼崎市助役の野草平十郎氏が言った。「芦屋にも天日槍命を祭った神社がありますなあ」
「へえ、それは芦屋の何という神社ですか」と私は、そこにいた永田さんや、こちらも前回来たときからの顔なじみだった大西嘉隆氏と顔を見合わすようにした。
「芦屋神社ですよ。そこの境内には横穴古墳などもあって、なかなか大きな神社です」
「ああ、そうですか」と私は思わず腕の時計に目をやって、また永田さんたちのほうをみた。まだ午後四時をちょっとすぎたばかりだったから、時間はあった。
「行ってみますか」と、永田さんが言った。
「ええ、そう願えればありがたいですね」
というわけで、私たちはすぐに立って芦屋市へ向かった。同行は永田さんのほか、こんどは八十田さんにかわって大西さんだった。永田さんや大西さんとはこの次、淡路島をまわるときに同行しようと約束していたので、それはごくしぜんの成り行きだった。つまり大西さんと永田さんとは、どちらもそういった古代文化遺跡にたいして、大いに興味を抱いている人たちだったのである。
このように私はいま西摂津のことを書いているが、しかし漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)の旧跡という松原神社がある西宮市とか芦屋市とかのほうは割愛(かつあい)するつもりでいた。そこまでいちいちみて歩くとなると、きりがなかったからである。だが、知らなかったのならいいが、芦屋にもそんな天日槍を祭る神社があると聞いたからには、行ってみないわけにゆかない。しかも尼崎から西宮市をはさんだ芦屋までは、すぐ近くだったのである。
クルマは国道二号線を走って、西宮市をすぎるとそこが芦屋市だった。まず、市の教育委員会に寄って社会教育室主幹の岩本昌三氏に会い、『史跡と文化財をたずねて』などの資料をもらい受け、ついで『新修芦屋市史』をみせてもらったところ、芦屋神社の祭神は天穂日(あめのほひ)命で、天日槍命ではなかった。
尼崎市助役の野草さんは、あめのほひ(天穂日)と、あめのひぼこ(天日槍)とは音がよく似ているのでまちがえたか、それとも天穂日も天日槍と考えているかのどちらかにちがいなかったが、しかしいずれにせよ、私たちはそこまで来てみてよかった。というのは、それとは別にまた、意外なことを知ることになったからである。
「海外人の渡来地」
「芦屋神社には横穴古墳もありますから、これも古代の朝鮮と関係ないとはいえないでしょうが、ほかにもこの芦屋には俗にいう朝鮮寺というのがあるんですよ。それから」と岩本さんは、私たちが開いていた『新修芦屋市史』に目を向けて言った。
「そこにもたしか『漢人浜(からひとのはま)』というのが出ていたと思います」
「ほう、それはどこですか」
私はその『新修芦屋市史』を岩本さんの前に押しやった。もちろん、はじめて聞くことだった。
「ええと、たしかこのあたりに」と岩本さんはそれのページを繰っていたが、「これです」とそこを私たちにさし示した。
たしかにあった。「芦屋の浜を古くから漢人浜と呼んでいるのも葦屋漢人に因(ちな)んだ名称であろう」とある。
「それからまた――」と岩本さんは立って行って、細川春草氏の『芦屋郷土誌』というのを持ってきてくれた。それにも、「芦屋の浜はまた『漢人(あやひと)の浜』と称せられ、海外人の渡来地であった」とある。
「なるほど、『海外人の渡来地であった』か」と、私はひとりつぶやくようにして言った。そして、『新修芦屋市史』のそれをなおよくみると、「芦屋地方の古氏族」として、そのことがこう書かれている。
芦屋地方の氏族として最も早く史料にあらわれるのは「葦屋倉人(あしやのくらひと)」という人物である。正倉院文書のうち、天平神護元年(七六五)五月九日の、「検仲麻呂田村家物使請経文」のなかに、「従八位上勲七等葦屋倉人嶋麿」の名がみえ、これより四年後の、『続日本紀』巻第二九・神護景雲三年(七六九)六月七日の条には、「摂津国菟原郡人正八位下倉人水守等一八人に大和連の姓(かばね)を賜わった」という記事がある。
弘仁六年(八一五)に撰せられた『新撰姓氏録』の記載中、当地方を本貫(ほんかん)〈本籍地のこと〉とする氏族についてみると、第二七巻の「摂津国諸蕃」の条に、
蔵人(くらひと) 石(いし)占(うらの)忌寸(いみき)同祖 阿智(あち)王之後也
とみえている。この蔵人というのは、さきの倉人と同族であり、東漢(やまとのあや)氏の祖となった阿智使主(あちのおみ)に従って中国から渡来した帰化人系の氏族であったと考えられている。
ここにいう東漢(やまとのあや)氏の祖となった阿智使主(あちのおみ)が「中国から渡来した」ものでないということは、これまでにも私は何度となく、上田正昭氏や鮎貝房之進氏らの論証を引いて書いている(たとえば『日本の中の朝鮮文化』(3)「高松塚壁画古墳」の項や「『帰化人』とはなにか」『古代文化と「帰化人」』所収)。
すなわち、漢(あや)氏のアヤとは古代南部朝鮮の小国家だった加羅(カラ)(加那(カナ)・加耶(カヤ)ともいう)諸国の一つを安羅(アラ)・安那(アナ)・安耶(アヤ)ともいったことからきたものであった。だからその漢(あや)を『万葉集』では漢(から)(韓(から)・加羅)ともよみ、さらにまた細川春草氏の『芦屋郷土誌』では「漢人(あやひと)の浜(はま)」となっているものが、『新修芦屋市史』では「漢人浜(からひとのはま)」ともなっているのである。
要するに、古代南部朝鮮の小国家だった加羅・安羅の国名を負った漢(あや)氏は朝鮮・百済系の渡来人であった。そのことは、『新修芦屋市史』につづけて次のように書かれていることからもわかる。ここにいう「荷羅(から)」とはこれまた韓・加羅ということにほかならないのである。
『新撰姓氏録』には、さらに次のような記事がみえている。
葦屋漢人(あしやのあやひと) 石占忌寸同祖 阿智王之後也
葦屋倉人はこの同族であることが分かる。さらに、
村主(すぐり) 葦屋村主同祖 意宝荷羅支(おおからき)王之後也
とあり、葦屋村主については、〈『新撰姓氏録』〉第二九巻の和泉国諸蕃の条に、
葦屋村主 百済国人意宝荷羅支王之後也
村主 葦屋村主同祖 太根(おおから)使主(しおみ)之後也
とみえている。これは、葦屋村主または単に村主(すぐり)とよばれる百済よりの帰化人系氏族があって、和泉国にも移り住んでいたことを示している。
弘仁十一年(八二〇)頃の著作といわれる『日本霊異記(りよういき)』(薬師寺の僧景戒(けいかい)の著作・仏教説話集)の巻下の「殺二生物命一結レ怨作二狐狗一互相二報怨一縁・第二」に、この物語の主人公で菩薩と称されたという興福寺の沙門禅師永興を、「俗姓ハ葦屋君氏、一ニ云市往氏、摂津国手島郡人也」と記している。永興の出身である葦屋君氏というのは、葦屋漢人の長であった氏と考えられており、摂津国豊嶋(てしま)郡に移住したもののうちから永興なる人物が出たと推測することもできる。
このようにみてくると、文献面に反映される芦屋地方の古代氏族は帰化人系氏族の後裔と称される場合が多い。
大和朝廷の協力者として、技術と学問的知識をもって奉仕した人々の住んだ地域であったという伝承である。芦屋の浜を古くから漢人浜(からひとのはま)と呼んでいるのも葦屋漢人に因んだ名称であろう。
やっとさきの「漢人浜」に戻ったが、要するに、芦屋というところも「海外人の渡来地」であったということである。してみると、尼崎市助役の野草さんが、もとは「天神社」と称したという芦屋神社の祭神を天日槍とまちがえたのも、あながちムリもなかったことといわなくてはならない。
「それじゃ一つ」と私は、『新修芦屋市史』に出ているその写真を指さしながら、大西さんたちに向かって言った。「この『漢人浜』というところへ行ってみましょうか」
「いや、そんな浜などもうないですよ」と横から、永田さんが笑いながら言った。「ぼくも子どものころよくここまで泳ぎに来たことがあるんですが、いまはもう全部埋め立てられて、コンクリートの高い防波堤しかありません」
「そうです」と、岩本さんもうなずいた。「それに出ている写真は、昭和初期ころのものです。何だったらその写真、あとから一枚送ってあげてもいいですよ。どこかに、ネガがあると思いますから」
「そうですか。では、どうぞよろしくおねがいいたします。それから」と、私はその岩本さんに向かって言った。「さっき、この芦屋には俗に朝鮮寺というのがあるといわれましたが、それはどこなのでしょうか」
「ええ、芦屋神社から、そちらへまわってみますか。個人の所有で、たくさんの人に見にこられると困るので、あまり外には知られたくないといっていますから、これはそのつもりにしてください」
芦屋神社が天日槍を祭るものでないとしたら、わざわざ行ってみることもないと私は思っていたが、岩本さんはそれからまず案内してくれるというのだった。午後五時すぎ、退庁時間になっていたので、岩本さんは帰り仕度をして私たちとならんで出た。待たせてあるクルマで、いっしょに出かけた。
「朝鮮寺」の前で思わず立ちつくす
芦屋というところは、一言(ひとこと)にしていうと坂道ばかりの街だった。人口は七万ほどだという住宅中心の街で、その住宅は六甲山塊の南斜面一帯を占めてひろがっている。俗に「芦屋族」ということばがあるくらい富裕な人々が多く、それは一帯にひろがっている住宅をみてもよくわかるような気がした。マンションなどといったものも見えるが、それも贅(ぜい)をつくした広壮なものばかりだった。
岩本さんのいった「朝鮮寺」の所有者である某氏(とくに名を秘す)もそんな芦屋における富裕者の一人で、「朝鮮寺」がそこにあることがわかったのは、たまたまその某氏邸の庭園の一部が市の区画整理にかかって、そこに道路が開通することになったからだった。つまり、「朝鮮寺」は某氏のその庭園にあったのである。
私たちは、芦屋神社とその境内の横穴古墳をみてからそこにいたった。道路からはなにもみえなかったが、岩本さんについて林のなかへ足を踏み入れたとたん、私は目をみはったままそこに立ちつくした。そこには国東塔(くにさきとう)といわれる古い石塔とともに、朝鮮の古い石造物がごろごろしていたからである。
石段のうえに、もとは寺院のそれを移築した小さな一棟の朝鮮家屋があった。「朝鮮寺」ということばはそれから出たものらしかったが、しかし、放置されたまま朽ちはてるばかりになっているその建物よりも私が目をみはったのは、そこにたくさんある朝鮮の古い石造遺物だった。
四体の朝鮮石人とともに朝鮮の古い層塔、灯籠(とうろう)がならんでいるかとみると、前の草むらや空き地にはこれも朝鮮の古い塔の一種である石柱が倒されたまま、それらが文字どおりごろごろしている。朝鮮の石獅子(狛犬)、石羊などもあれば、気がついてみると新羅の石塔もある。
しかも私たちがみることができたのは、道路が開通したため某氏邸内からはみだしたその一部であって、広い邸内の藪のなかにはまだまだそれがたくさんあるという。某氏は寺院の建物とともにそれら石造遺物を、朝鮮からいつどのようにして運んできたものかは知らないが、そこはいわば朝鮮古文化財の宝庫となっていた。
「いやあ、これはおどろきました。こんなところがあるとは知りませんでしたよ」と私は岩本さんに、それをみせてくれた感謝の気持ちをこめて言った。
「それにしても、おうようなものですなあ。こんなにしておいて、盗まれるようなことはありませんか」
「ええ、それなんです。ですから、市では何とかして、野外美術館をつくることはできないものかといっているんですがね」
「ああ、そうですか。そうしてくれるといいですね。そうなればいろんな人も自由に、そして朝鮮からも見にくることができるというものです。ほんとうに、そうしてもらいたいですね」
私はなにかこう、祈るような気持ちでそう言った。いまもこう書きながら、どうかそうしてもらいたいと思う。
移築した寺院の建物も修復してそうしてくれると、日本にはちょっとない立派な野外美術館ができるはずである。あとから岩本さんに送ってもらった「芦屋市文化財パトロール」の調査書をみると、三つの新羅石塔を含む朝鮮石造遺物はざっとかぞえてみただけでも六十数点であり、うち「建武」銘のある国東塔など日本のそれが十数点である。石臼とか礎石といった、そういうものは別にしてである。
有馬(ありま)温泉と唐櫃(からひつ)
温泉泊りも仕事のうち
ふたたび尼崎をおとずれたことで、以上にみたことを私は書くことになったわけであるが、それよりさき、私は何度となく西摂津の一部や播磨、淡路を歩きまわっている。そしてそんなある日の夕方、私は神戸の市立考古館から六甲山を越えて、有馬(ありま)温泉に一泊した。有馬温泉とは豪勢な、と思われるかもしれないが、これも仕事のうちということになると、そんな豪勢といったものとはあまり関係ない。仕事のうちとはどういうことかといえば、この有馬温泉もまた私がこうして書きつづけている「日本の中の朝鮮文化」と大いに関係があるからである。
有馬温泉の「入初式(いりぞめしき)」
さきにまず、いまは神戸市となっている有馬町の有馬温泉とはどういうものであるか、それからみることにしよう。神戸市教育委員会編『神戸の史跡』によるとそれがこう書かれている。
有馬温泉は神代の昔、大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神がつくられたという伝説があるほどに、日本最古の温泉といわれている。この地に大己貴命を祀る温泉神社がある。『日本書紀』によると千三百年ほど以前、舒明(じょめい)天皇が三年九月〜十二月までと、十年十月、十一年一月の二回有馬温泉に来られ、また孝徳天皇は、三年十月〜十二月までこの温泉に来られている。そのときは、大臣や重臣もつれて来ておられる。この付近には行宮(あんぐう)の跡と伝えるところがある。
要するに、大己貴命と少彦名命とがつくったという伝説や、『日本書紀』にそのような記載があるほど、有馬温泉は古く由緒(ゆいしよ)深いものだというわけであるが、これにしても岩波『広辞苑』(第一版)の「韓(から)の神」の項をみるとこうある。「大年神の系統の男神。また、大己貴神・少彦名神」
すなわち有馬温泉を開いたという大己貴・少彦名の二神が「韓の神」――朝鮮から来た神というからにはこの温泉もまた、古代朝鮮と大いに関係があるといわなくてはならない。それはおいて、『神戸の史跡』のそれをもう少しみてみよう。
聖武天皇のころ僧行基(ぎょうき)がこの地に来て、衰えていた温泉を復興し、温泉寺や菩提院その他の寺院を建て、温泉を有名なものにしてから、奈良地方から貴族なども入湯に来るようになった。『万葉集』巻二に歌も出ている。承徳年間(一〇九七〜八)六甲に山津波が起り、百年余も寂(さび)れていたが、鎌倉時代の初めに僧仁西(にんさい)が来て再び盛んになった。……
有馬では正月二日に入初式(いりぞめしき)という行事がある。三百年以来、有馬温泉に伝わる古式で、温泉中興の恩人である行基と仁西の二人の木像をミコシにのせて、清涼院から本温泉に迎え、新しい湯を汲んで木像にそそぎ、それから入初めをする。本温泉内の式場では、帯を前に結んだ湯女(ゆな)姿の芸妓十二人が入初めの歌をうたったり、ゆかのうえにまかれたお供米を若松の枝で掃き寄せ、懐紙に包んだりしながら、二恩人に感謝し、温泉の繁昌を祈るゆかしいものである。
温泉の「入初式(いりぞめしき)」とはおもしろいと思ったので紹介したが、ここにいう「二恩人」の一人である鎌倉時代の僧仁西については知るところがない。しかしそれ以前の行基となると、これは朝鮮の百済(くだら)から渡来した王仁(わに)系氏族の一つで、和泉(大阪府)の高石(たかし)を根拠地としていた高志(たかし)氏族から出たものであることが明らかとなっている。
したがって、ここからもまた有馬温泉と古代朝鮮との関係をたどることができる。が、しかし、私はただそれだけのことで、この有馬までわざわざ来たのではなかった。有馬は裏六甲といわれる文字どおりの山間だったが、ここに人が住みつくようになったのは、かなり早くからであったらしい。大己貴・少彦名の「神代」のことはいざ知らず、相当古くから温泉も発見されていたにちがいない。
「唐櫃」について
有馬温泉へは、神戸電鉄に乗ると唐櫃台、有馬口となる。「唐櫃(からひつ)」とはなにか、と私はまずこの地名が気になった。今村鞆氏の『朝鮮の国名に因(ちな)める名詞考』「器物類」にその「唐櫃」のことがこう書かれているからである。
唐櫃(からひつ)・辛櫃(からひつ)
カラヒツは高等なる物品の貯蔵箱又運搬箱とも謂うべきものにして、皇室、神社、貴族等に使用せられた。其形は大体図の如し。白木あり、漆塗あり、螺鈿(らでん)等の模様工作を施したるあり、金具を附したるあり、附せざるものあり、下に四本又は六本の脚あることを此箱の特異点とす。此れに納むるものは何れも貴重品にして、神に奉る幣帛及経巻・貴重文書・高等衣服・鎧・香等々なり。大小数種あり、此カラの語原に付ては朝鮮或は支那の風を模したるに基く。脚をカラムよりカラミ櫃転じてカラヒツとなれりとの二説あり。前説可なる如く、其カラは〈朝鮮〉半島関係なるべきか。
とあって、そのカラが韓(から)であることの例として『延喜式』にある「韓櫃一合」をあげ、それからさらにまた『法隆寺伽藍縁起並流記資財帳』の「合韓櫃参拾漆合」や、『保暦間記』にある「内侍所の韓櫃を武士寄りて開き奉る」などをあげている。
唐櫃の「唐」と限らず、韓(から)が「唐」「辛」となった例はこのほかにもいくらでもある。だいたい、九州の唐津(からつ)にしてもこれは韓津(『日本地名大事典』1「九州」)だったものであるし、奈良 の東大寺境内にある辛国神社も、もとは韓国神社だったのである。
多い「唐(から)」のつく地名
それで私は神戸電鉄の駅名となっている「唐櫃台」というのが気になり、偶然、播磨を歩きまわっているとき知り合った、兵庫県立兵庫高等学校教諭で神戸市民俗芸能調査団の団長をしている名生(みようじよう)昭雄氏にこうきいてみた。
「有馬温泉の近くに、唐櫃というところがありますね」
「ええ、あります。いまは唐櫃(からと)、唐櫃台(からとだい)といっています」
「ああ、そうですか」と私は、それが唐櫃(からと)ともよまれていることをこのときはじめて知ったが、そしてその後、ありがたいことに名生さんは一九二九年に発行された『有馬郡誌』の一部をコピーして送ってくれた。みると、唐櫃に関連した部分である。
この『有馬郡誌』をみると唐櫃のほかにも唐のつく地名が多く、「秦・漢人の帰化せる氏族が此の地方に多く居を占めたるものなるべし」と「有馬山」のあたりを説明して、そのことをこう書いている。
名塩より道場村の東部にかけて、地名に唐という字を附したる地多く、唐子の池・唐子谷・唐子塚・唐子の滝・唐崎などは、名塩より生野に通ずる旧道の辺より、生野桑原の地に多し。而して此の辺に古墳群頗る多く、其の古墳よりは土器の埋蔵頗る多量なり。嘗て阪鶴鉄道の工事中、生野に煉瓦窯を築きし時古墳を破壊せるもの多く、其の際出土せる土器の数頗る多きは一種特異の例とすべく、此の土器埋蔵の多量なるは、南韓に於ける古墳の状態に頗る相類似せり。
そのとき出土した「多量なる土器」がどういうものであったかはわからないが、それは「南韓」、すなわち南部朝鮮における古墳のそれとよく似ていたというのである。なおまた、ここにいう有馬温泉の北方にあたるかつての道場(どうじよう)村はいまはこれも神戸市となっているが、ここに鏑射山(かぶらいさん)というのがあって、『有馬郡誌』にはつづけてそれのことがこうある。
鏑射山は道場駅の北に聳(そび)ゆる山なり。土俗「カグラ」山と呼ぶは、甘楽山といいし古名のまま呼びたる正しき呼び方ならん。山頂平夷にして、古代の斎壇の遺址たることは、羅列せる墳状の盛り土に多くの斎瓮を埋蔵せる点より推して知るべく、山上の石祠は甘楽権現を祀る。此の神、酒を好ませらるると称し、詣ずるもの皆酒壺を献ず。
これでわかることは、鏑射山とはもと甘楽山となっていたもので、その頂上には甘楽権現という酒好きの神を祭った石祠があった、ということである。あった、というのはいまもあるかどうかわからないからであるが、では、この甘楽山、甘楽権現の甘楽とはどういうところからきたものであったか。
こちらでは、「土俗『カグラ』」と呼ばれていたとのことであるが、関東の上野(こうずけ)(群馬県)に甘楽(かんら)郡があって、そこを鏑(かぶら)川が流れている。こちらのほうは群馬大学の尾崎喜左雄氏ほかもそう書いているようにどちらも、すなわち甘楽郡の甘楽も、鏑川の鏑も、古代朝鮮をさした韓(から)・加羅(から)からきているものなのである。
だから、とはいえないかもしれないが、唐櫃の唐が韓であり、またその唐のつく地名が周辺にたくさんあることからして、道場駅の北に聳えて鏑射山となっている甘楽山の甘楽や、甘楽権現の甘楽も、もとはやはり韓・加羅からきたものではなかったであろうか。それはいまさっきみた道場東部の唐子塚・唐崎あたりに「古墳群頗る多く」それから出土した「土器埋蔵の多量なるは、南韓に於ける古墳の状態に頗る相類似せり」ということからもわかるように思う。
「布土(ののんど)の森」へむかう
私は名生さんの送ってくれた『有馬郡誌』のコピーによって、さらにまたそんなことまで新たに知ったわけであるが、私はそのコピーと名生さんのくれた名刺とをもって有馬温泉に来ていた。そして名生さんと会って話したときのメモをみると、唐櫃のほかにも、「淡河(おうご)の北僧尾(きたそうお)に百済さん多し、童男(どうなん)渡来の伝承と関係あるべし」などと書いてある。
淡河とはこれも神戸市の北区となっているところであるが、「百済さん多し」というのは、そこに百済を姓としている人が多いということなのである。それはあとのことにして、私は有馬温泉の泊まっていた旅館から、名生さんに電話をしてみることにした。
ちょうどぐあいよく名生さんは家にいて電話に出てくれたので、あす、私は唐櫃をたずねてみるつもりだが、そこにはなにかみるべきものがあるだろうか、ときいてみた。すると名生さんは、いまは別にこれといったものはのこっていないが、神戸電鉄の唐櫃台(からとだい)という駅があって、その近くに唐櫃という地名がそれから出たとする「布土(ののんど)の森」というのがあると教えてくれたのである。
翌朝、私はタクシーをよんでもらい、それで唐櫃に向かった。向かったといっても、前日の夕方、有馬温泉へ入って来た六甲川沿いの道をただ出て行くだけで、左手の山麓に見える集落からして、そこがもう唐櫃だった。
タクシーの運転手にいわれてわかったのだが、さらに聞いてみると、いまは有馬口といわれている神戸電鉄の駅名からして、もとは唐櫃だったという。山麓の林や森のなかから屋根をのぞかせている集落を見ると、その下唐櫃にはまだかなりの旧家がのこっているようだった。
「この集落は、何だかゆうゆうとしているような感じですね。何でだかは知らないが――」と私は、中年をすぎた運転手に向かってそう言ってみた。
「ええ、そうですよ。この辺一帯の山林はほとんどみな、この村の共有林だそうです。だから」と運転手は笑いながら、つけ加えて言った。「いまはどうかしれませんが、むかしは、養子に行くなら唐櫃に行け、といわれたものですよ」
「ああ、そうですか。なるほどね」と私は、クルマのガラス窓に鼻をひっつけるようにして見ていたが、それが唐櫃、すなわちいまの唐櫃台となると、ようすががらりと変わった。
段々になった台地のうえに、鉄筋コンクリート建ての大団地が聳え立ち、それがどこまでつづいているかしれないほどだった。むかしから有名だった阪神工業地帯のベッドタウンというものらしかったが、それはあたかも、山間の僻地に突然入り込んだ巨大な近代文明というおもむきでもあった。
「なるほどなあ」と私はあらためてまたそう言ったものだったが、「布土(ののんど)の森」というのはすぐにわかった。なぜかというと、大団地のなかにそれ一つだけがぽつんと取りのこされたような森だったからである。とはいっても周囲を取りはらわれた小さな森で、そのかたわらには、これまたその大団地と見合った北高等学校というのが建てられていた。
金鶏と唐(韓)櫃
まだ工事がつづけられている高校を横目にしながら、そこにあった森に近寄ってみると、やはりそれが「布土の森」だった。一方には鉄の柵がほどこされていたが、森の前には「布土の森」とした石碑が建っていて、こう書かれている。
この森の中に、神功皇后をまつるという石造りの祠がある。
大和時代神功皇后が三韓から持ちかえった武器甲冑と雌雄一対の黄金造りの鶏を唐櫃にいれて埋められたと伝えられ、それが唐櫃の地名の起りであるといわれている。
昭和四二年三月
神戸市
さて、ここに書かれている「三韓」とは馬韓・辰韓・弁韓のことで、南部朝鮮のこの三韓時代は日本の弥生時代にあたる。この時代を「大和時代」とするのもおかしなことだが、「神功皇后が三韓から持ちかえった」うんぬんというのもおかしなものである。
どだい、神功皇后とはどういうものであったか。日本の史学界からはその存在さえ否定されているが、かりにもし存在していたとしても、それはけっして三韓、すなわち弥生時代までさかのぼるものではないのである。そのことは、神功皇后が応神天皇の生母となっているという伝承をみてもわかる。
「伝説――」といってしまえばそれまでかもしれないが、しかしこれは神戸市が「公(おおやけ)のこと」として建てたものであるばかりか、しかもそれが高等学校のかたわらにあるだけに、やはりちょっとこだわらないわけにゆかない。
さすがに、「神功皇后三韓征伐の御砌(みぎり)」などとそんな書き方はしていない。しかし、「大和時代神功皇后が三韓から持ちかえった」とはどういうことかと生徒たちにきかれたら、先生はいったいどう答えることができるであろうか。「あんなものはインチキだ」ともし言ったとしたら、神戸市(教育委員会)がインチキだということになりかねないのである。
みるとそこは柵がほどこされていなかったので、私は、もとは古墳ではなかったかと思われる「布土の森」の中へ入ってみた。「布土」と書いてどうして「ののんど」とよむのか私にはわからなかったが、森の中にはたしかに一つの石祠があった。石祠そのものは、さして古いものとは思われなかったが、どちらにせよ、もちろんその石祠の下に「武器甲冑と雌雄一対の黄金造りの鶏を唐櫃にいれて埋め」たというのは伝説である。
しかしながら、さきの「神功皇后が三韓から持ちかえった」うんぬんということとともに、そのような伝説はいったいどこからきたものか、どうしてできたものであるかということについては、われわれはできるだけ史実に即して考えてみる必要がある。「雌雄一対の黄金造りの鶏」とは新羅が一時は国号を「鶏林」と称したことがあって、鶏を神聖視したことからきたものではなかったかと私は思う。
そのことは、さきにみた近くの道場にある鏑射山が甘楽山、すなわち韓・加羅山であったことからもいえるように思うが、なによりもこの「布土の森」からその地名が起こったという唐櫃が、韓櫃であったということからもわかるように思う。そしてその韓櫃の韓がのちに変じて、「神功皇后が三韓から」ということになったにちがいない。
つまりこの唐櫃には、そのような韓櫃をつくることのできる朝鮮からの渡来人がかなり古くから来て住んでいたことから、その唐櫃という地名も起こったものと私は思う。「黄金造りの鶏」という金鶏伝説は新羅系渡来人の居住したところに多く、たとえば伊勢(三重県)の白山町にもそれがある。
播 磨・淡 路
韓鍛冶をたずねて
淡河(おうご)川沿いを走る
いちいち電車に乗ったり、バスに乗りついだりしていたのでは時間がなかったので、私は乗っていたタクシーでそのまま、有馬温泉や唐櫃からするとずっと西のほう、そこからは播磨となっている三木市へ向かった。ほんとうは、私のこういう旅は電車やバスに乗ったり、そしてゆっくりとあちらこちらをみながら歩いたほうがいいのである。
しかしこれがまた現代というものであろうか、なかなかそうはゆかない。要するに時間がないということであるが、だいいちこうしていちいちタクシーに乗っていたのでは、その料金もけっしてバカにならない。どころか、私にとってはたいへんなことで、あるときは一日じゅうタクシーを乗りまわさなくてはならず、三万円も料金を払ったことがある。
何だか、横道にそれてケチなはなしになってしまったが、唐櫃をあとにしたタクシーは気がついてみると、あまり大きくない川に沿った道を走っていた。まわりは、山のなかの農村である。
「この川は何という川で、この辺は何というところですか」と私は、運転手に向かって一度に欲張った質問をした。
「おうご川です。こんなところでも神戸市内ですが、ここはおうごというところです」
「おうご川、ああ、淡河(おうご)の淡河川ね」
私は名生昭雄氏と話したときのメモにあった「淡河の北僧尾(きたそうお)に多い百済(くだら)さん」をたずねるつも りはなかったが、しかし別にまたその「淡河」にたいしてはある記憶があったので、そのメモをとりだしてみた。「神戸市北区の淡河に石峰(しやくぶ)寺あり。百済系の寺院か」とある。
別に、出典は書いてない。このときはまだ兵庫県歴史学会編『兵庫県の歴史散歩』もまだ出ていなかったから、だれかから聞いたものをそうメモしたにちがいないが、それがだれだったかも忘れてしまっている。なおいま、『兵庫県の歴史散歩』(上)をみると、そのへんのことがこう書かれている。
この道を三木市から東へたどると、億計(おけ)・弘計(おけ)の二皇子の伝承にまつわる志染(しじみ)の石屋(いわや)や、百済の聖明王の王子童男(どうなん)行者がひらいたという丹生山明要寺(たんじようざんみようようじ)(神戸市北区山田町)など説話や伝承でしられるところが多い。また高男寺(こうなんじ)(志染町)や伽耶院(かやいん)(山伏の寺としてしられる)には、童男行者の手になるといわれる仏像があり、播磨東部における百済系仏教の伝播のあとがしのばれる。いっぽうこの道筋から山をこして北側をほぼ平行してとおるコースには、淡河(おうご)八幡神社や石峰寺(しやくぶじ)などがあり、それぞれの土地の風趣をいまに伝えている。
これの筆者は私とはちょうど逆に、三木市から東への道をたどったわけであるが、どちらにしろいまいったように、私はまだこれをみてはいなかった。ただメモに、「――淡河に石峰寺あり」というそれだけだった。それだったから私はちょっとためらって、またタクシーの運転手にきいてみた。
「この淡河に、石峰寺という古い寺があるそうですが、知っていますか」
「ええ、知っています」
「そうですか。じゃ、ちょっとそこへ寄ってみてくれませんか」
もし運転手が知らないといったら、私はそのまま淡河はとおりすぎてしまうつもりだったが、これは偶然のようなものだった。やがて運転手は右手のほうにハンドルを切ったかとみると、そこがもう石峰寺だった。
百済人が建てた石峰寺
山門を入ってみたところ、かなり大きな寺院だった。本堂を中心にした境内には、国指定の重要文化財になっているとある薬師堂や三重塔などがたち聳え、南北朝時代の石造五輪塔もあって、長い時代の風霜をつたえている。
私はまず境内をひとまわりして、それらのものをざっとみてから、「由緒書」があったらもらいたいと思い、本堂のほうへ向かおうとした。そして気がついてみると、そこに住持らしい白い着物の人が立っている。
「寺の『由緒書』がありましたら……」と言いかけたところ、その人はだまったまま本堂のほうへ歩いて行った。どうやら、私がことわりなしに境内のあちこちをみて歩いたということでか、あまりきげんがよくないらしい。考えてみると、私のその行動は順序が逆だったのである。
白い着物の人は本堂の寺務所から「由緒書」を一枚とってくると、これまただまったまま、そこに立っている私にすいと手渡してくれた。そして目もくれずに、境内のほうへ歩きだした。
「あのう」と、私は何だかわるいような気もして、その人のうしろからこんなふうに話しかけてみた。「この石峰寺は相当古いようですが、古代朝鮮の――」
「朝鮮?」と白い着物の人はこちらを振り返ったが、すぐまた向こうを向いてこう言った。「朝鮮とは何の関係もないです」
私は、ちょっとそこに立ちつくした。そして立ち去って行くその人のうしろ姿を見送ったものであるが、「何の関係もない」とはどういうことか、と思わずにいられなかった。
そもそも仏教そのものからして、朝鮮の百済から伝来したものではなかったか、とも思ったが、しかしそんなことをいってみたところではじまるものではなかった。私はそこの境内を出ながら、いま手渡された『岩嶺山石峰寺由来』としたその「由緒書」をみた。こう書きだされている。
それ当山は、第三十六代孝徳天皇の勅願所として壱千参百有余年の歴史をもち、法道仙人の開基にして、遠く白雉二年(六五一年)に建立された。
第四十五代聖武天皇の天平十九年(七四七年)行基菩薩に依り、薬師堂建立(昭和四十二年解体修理完了)。
ここまで読んで、ちょっと待てよと私は首をかしげた。そんなかっこうで私は待たせてあったタクシーに乗り込んだが、薬師堂を建立したという行基はもちろんのこと、「法道仙人」というのも、どうもどこかで聞いたことがあるような気がしてならない。
「ああ」と、タクシーが走りだしてしばらくしてから、私はやっと思いだした。さきにみた尼崎の猪名寺廃寺、それがやはり法道仙人の開基になるもので、『摂州川辺郡猪名山縁起』に「百済国人法道仙人の開基したる」うんぬんとあるのを私は読んでいたのである。
「なあんだ」と私は、クルマのなかでひとり苦笑をした。「朝鮮とは何の関係もない」どころか、その開基からして「百済国人法道仙人」というものではないか。それからまたさらに、薬師堂を建立したという行基にしたところで、これも百済から渡来の王仁(わに)系氏族から出たものなのである。
それはともあれ、いまみた岩嶺山石峰寺は、かつては相当な大刹だったものらしかった。これはあとになって知ったが、三木市の志染(しじみ)にある伽耶(かや)院がこれまた法道仙人を開基とするもので、その『大谿寺伽耶院縁起』によると、石峰寺は「七堂伽藍、七十有余の僧舎を有し、今の御影、大門等の集落はすべて当時の役僧の坊舎ありしところなるべし」とある。
いまも「百済さん」が多いという淡河の北僧尾などという地名もそれから起こったものらしかったが、いわば農民僧であった。ふつうの日常は農民であるが、いったん石峰寺にことがあればみな僧兵になるという、そういう仕組みになっていたもののようである。「百済さん」というのも、みなそれから出たものにちがいなかった。
許曾社(こそのやしろ)だった御坂(みさか)神社
タクシーが三木市に入ると間もなく、道路ばたに一つの神社が見えてきたので注意してみると、それが御坂神社だった。私はすぐタクシーをとめて、おりて行ってみた。かなりの神社だったが、あたりには人っ子一人おらず、しんとなっているままだった。
そこに御坂神社が見つかったので私はよろこんだが、しかしあとで『三木市史』をみるにおよんで、ちょっとまごついてしまった。それはあとのことにして、私が何でその御坂神社に関心をもったかというと、八木充氏の「播磨の屯倉(みやけ)」(『古代の日本』5「近畿」)のさいごのところにこうあったからである。
帰化人においても、漢人が社を建てて敬祭し(揖保郡林田里)、枚方のミヤケに近い佐比岡では、出雲人の紛争を河内から到来の漢人が神を祭ることによって和鎮させたことが示すように(ほかに赤穂市坂越(さこし)の大避(さけ)神社、姫路市本町の射楯兵主(いだてのひようず)神社、多可郡黒田庄町の兵主神社)、土着化の過程で、将来の宗教と固有信仰との習合がみられたのであった。
縮見(しじみ)〈三木市志染(しじみ)におなじ〉屯倉の一隅に許曾社(こそのやしろ)(御坂社)が坐し、忍海部造(おしぬべのみやつこ)を首長とするミヤケ人のあらゆる共同体的諸関係の根源がそこに凝集されていたのである。
つまり、御坂社=御坂神社とは許曾社(こそのやしろ)だったわけであるが、許曾社の許曾とはなにか。これが朝鮮・新羅の赫居世(ヒヨクコセ)の居世(尊称)からきているものであること、そしてこの許曾が日本における神社・神宮の形成と密接な関係にあるということはすでに何度か書いている(たとえば『日本の中の朝鮮文化』(5)「伊賀留我と古曾」の項)ので、ここではこれ以上ふれないことにする。
しかしそれはそれとして、ここに「許曾」というそのような古い名称をもった御坂神社があるからには、ここにはまた必ずそれをいつき祭った朝鮮からの渡来氏族がなくてはならない、と私は考えた。それで調べてみたところ、もと美嚢(みのう)郡だった三木の志染(縮見)には、韓鍛首広富(からかぬちのおびとひろとみ)というのがいて、しかも郡の大領(郡長)となっていたことがわかった。
八つもある御坂神社
それだったから、私はタクシーを駆ってわざわざ三木まで来たわけだったが、三木市では有馬温泉からのタクシーを帰して、例によってまず市の教育委員会をたずねた。そして社会教育課長の横山正三氏や、そこに居合わせた三木市図書館長の高橋一清氏に会っていろいろな資料をもらい、そこにあった『三木市史』などをみせてもらったりした。
まず、いまみた御坂神社について『三木市史』は、「美嚢の郡には、志深(しじみ)〈志染とおなじ〉の里、高野(たかの)の里、吉川(えがわ)の里、枚野(ひらの)の里などの里(さと)があった。現在の地名でいえば、志深の里が志染町(旧の志染村)、高野の里は別所町一帯、吉川の里は吉川町一帯(旧の口吉川・中吉川・奥吉川)、枚野の里はもとの久留美村一帯から三木へかけての地域を指すとされており、その中心地ともいうべき主邑は志深の里であった、という」としてこう書いている。
志深の里の三坂(みさか)には八戸挂須御諸命(やとかかすみみもろのみこと)を祀った社があった。『延喜式』の神名帳に見られる播磨国五十座大 七 座小四十三座のうちの、
美嚢郡一座小 御坂神社。
というのが、この神社のことである。ところが現在、郡内には八ヵ所の三坂神社、または御酒(みさけ)神社がある。すなわち……。
と、その八社があげられている。そしてどれが『延喜式』にある御坂神社なのか、よくわからないという。
つまり『三木市史』は、「志深の里という点からは志染町御坂の郷社御坂神社がもっとも適合するように見えるが、当社はもと志染中(しじみなか)に社壇があったが、天正年間の三木の兵乱で焼失し、いったんは細目に遷座したのち、慶長十三年(一六〇八)に現在地に社地を移したという由緒を伝えており、『播磨国風土記』がいう大物主葦原志許乎(おおものぬしあしはらのしこお)が天下(あまくだ)ったという三坂(みさか)の岑(みね)そのものが、現在の境内地であるとは必ずしもそのままではいえない」というのである。
しかし考えてみると、この『三木市史』の書き方はちょっとおかしな感じがしないでもない。というのは、御坂神社が「遷座した」り、「現在地に社地を移した」りしたからには「現在の境内地」に移動があったことはたしかなようである。
だが、それだったからといって、「『播磨国風土記』がいう大物主葦原志許乎(おおものぬしあしはらのしこお)が天下(あまくだ)ったという三坂(みさか)の岑(みね)そのものが、現在の境内地であるとは必ずしもそのままではいえない」などというのはどうか。『播磨国風土記』に書かれているそれは一つの説話であって、もともとそういうものが「天下(あまくだ)った」ことなどありはしなかったのである。
金物の町・三木の祖
ほかでも書いたことがあるが、神社というもののほとんどは、その地を占めた氏族が人間として生きていた自分らの先祖を祖神として祭って、氏神としたものであった。したがって、その氏族からはさらにまた支族がわかれ出たので、御坂神社のようにそれが八社にもわかれることになったのである。これらが八戸挂須御諸命や大物主葦原志許乎といった「神様」を祭るものであるとかいうのもみなそれであるとみなくてはならない。
しかしながら、日本に古くからあった「神籬(ひもろぎ)」はちがうのではないかというものがあるかもしれない。そういう人は、江戸時代の考証学者であった藤井貞幹の『衝口発』をみてもらいたいと思う。藤井貞幹ははっきりと、そこにこう書いている。「神籬(ひもろぎ)は、後世の神祠也。……此を比毛呂岐(ひもろぎ)と訓ずるは、元新羅の辞にして、……天日槍(あめのひぼこ)が携来熊神籬(たずさえきたくまのひもろぎ)も、日槍が父祖の主なること知(しる)べし」と。
神社の原型であった「神籬」というものからして、それは「父祖の主」、すなわちその祖神を祭るものだったのである。要するに私は、許曾社であった御坂神社というのはこの地、美嚢郡の大領となっていた韓鍛首広富かまたはその父祖が、さらにまたその父祖を祖神としていつき祭っていたものではなかったかと考えるわけであるが、『三木市史』にはその韓鍛首広富のことがこうある。
桓武天皇の延暦八年(七八九)頃、美嚢郡大領で正六位下という官位をもつ韓鍛首広富(からかぬちのおびとひろとみ)という男がいた。令の規定では、郡はその境域や戸口の大小によって大・上・中・下・小の五等に分けられる。美嚢郡には志深・高野・吉川・枚野の四つの里があったから、下郡ということになる。下郡の郡司は大領一人、少領一人、主帳一人の三名からなっている。
さて、大領が韓鍛首という氏姓(うじかばね)をもって呼ばれていることが注目される。韓鍛というからには、朝鮮半島を経由してわが国に伝えられた鍛冶(かじ)の新しい技術をもつ集団であったろうことは容易に考えられる。そうだとすれば、彼らのもってきた新しい鍛冶技術が、伝え伝えられて近世の金物(かなもの)の町三木を生み出し、現在の三木市の祖型をなすのではないかと考えられたこともあった。しかし後に詳しくみるように、三木の金物工業は近世中期以後に新しく形成されたもので、韓鍛首広富がそのまま、三木の鍛冶工業に連なるものではない。第一、広富が美嚢郡のどの里に住んでいたのかもわからないのである。
だが、広富が韓鍛首という氏姓をもつ帰化人の子孫であったことは注意しておきたい。東に隣接する山田川の谷筋も帰化人が早くから開拓したという伝承があり、その丹生山明要寺は百済(くだら)の聖明王の王子童男(どうなん)行者が明石浦に上陸し、山田の谷に至って丹生山の峻嶺を見出して、ここに明要寺を開創し、念持仏であった一寸八分の閻浮檀金の観音像を本尊としたと伝える。志染町の高男寺も童男行者の開基だというし、大谷山大谿寺(伽耶院)は法道仙人の開基というが、本堂本尊の毘沙門天は童男行者作とされている(『播磨鑑』)。これらの伝承から、美嚢郡が早くから大陸文化の洗礼を受けていたことが想定される。
韓鍛は「製鉄」
韓鍛というのは「鍛冶(かじ)の新しい技術をもつ集団」というより、私は「製鉄」の方法を知っていた集団の一つではなかったかと思うが、このことについては『兵庫県史』にもおなじ意味のことが書かれている。ここでついでに、さきにみた縮見(しじみ)(志染)屯倉(みやけ)の首(おびと)がどういうものであったかということや、またそのほかのことも出ているので、直木孝次郎氏の筆になる『兵庫県史』第一巻の第六章第一節「3 朝鮮系渡来者とその部」をみるとそれはこうなっている。
『坂上系図』によると、東漢氏の同族に忍海村主がある。忍海漢人は忍海村主と同族関係にあると思われるから、東漢氏の系譜につらなる氏族と考えてよかろう。『続日本紀』養老六年(七二二)三月の条によると、播磨国には鍛冶の技術者として、忍海漢人麻呂と韓鍛治(からかぬち)百依とがいたことが知られる。居住の郡名は不明であるが、延暦八年(七八九)における美嚢郡大領に韓鍛首広富がいた(『続日本紀』)ことからして、おそらくこの両名の居住地も美嚢郡ないしその付近とみてよかろう。顕宗・仁賢天皇が即位以前、身をかくしていた縮見(しじみの)屯倉(みやけ)の首(おびと)は、忍海部造細目という人物であるが、この屯倉の所在地が美嚢郡であることも、忍海漢人や韓鍛冶の居住地を推定する手がかりとなる。おそらくこのあたりに、朝鮮系の製鉄技術をもつ忍海漢人や韓鍛冶が分布していたのであろう。
なお、鍛冶の神である天目一神(あめのまひとつのかみ)をまつる式内社、天目一神社は多可郡にあり(西脇市大木町)、『播磨国風土記』託賀(たか)郡賀眉里の条にもこの神のことがみえ、同じく宍禾(しさわ)郡御方(みかた)里の条に、金内川より鉄が出たとあり、讃容郡の条に、同郡の鹿庭(かにわ)山の四面の一二谷より鉄を生じ、孝徳天皇にはじめて上進したとある。佐用郡には、天一神玉神社という式内社も存在する(いま天一神社。南光町東徳久)。製鉄技術は、播磨東北部から播磨中央北部・同西北部へと山間部を東西にひろがっていたのである。
このほか郡は不明だが、養老六年、丹波国に韓鍛冶首法麻呂という技術者がおり(『続日本紀』)、天平九年の但馬国の大毅(軍団の指揮官)に忍海部広庭という人物のいたこと(『但馬国正税帳』)が知られる。忍海漢人・忍海部・韓鍛冶などの製鉄技術をもつ朝鮮系渡来者は、播磨から丹波・但馬へかけて在住していたと思われる。
東漢氏の系統は、上述の忍海漢人のように新羅より渡来したという伝承をもつものもあるが、おおむね百済からの渡来者と考えられる。『播磨国風土記』によれば、応神天皇のとき、神前郡多駝(ただ)里に百済人が来り住み、その子孫が同郡川辺里の三家(みやけ)人となったという。また平安初期に揖保郡に百済公清水という人のいたことが『続日本後紀』にみえるが、これは六六三年の百済滅亡以後の渡来者の子孫であるかも知れない。……
以上をまとめると、百済系と考えられる東漢氏その他の朝鮮よりの渡来者の分布は、播磨の揖保・飾磨・神崎・美嚢の諸郡を主とし、摂津・丹波・但馬の一部にもおよんでいたと考えられる。新羅系渡来者と重複するところもすくなくないが、新羅系が播磨の西部を主とするのに対し、百済系が播磨の中部から東北部にかけてひろがっているという違いがある。
静まりかえった伽耶院
私はその播磨東部の美嚢郡、三木に来ていたわけであるが、『三木市史』や『兵庫県史』のこれをみてもわかるように、さきの御坂神社と限らず行ってみたいところは多い。『三木市史』にあるそれをメモしながら、どれをみてどれを省くべきか迷っていると、そのうえまた社会教育課長の横山さんは、こんなことまで言った。
「こちらには秦さんとか、百済さんもいて、その姓氏がまだのこって生きていますよ」
さきに紹介した名生さんのそれとおなじことをまた聞いたわけであるが、しかし私はその人たちをたずねてみるつもりはなかった。なぜなら、「秦さん」「百済さん」といったところで、なにもそれだけが朝鮮から渡来したものの子孫ではないからである。
三木市教育委員会のあった市役所を出ると、ちょうどそこへタクシーが一台やって来て人をおろしたので、私はそのタクシーで志染町大谷にあるという伽耶院へ向かった。伽耶院はさいきん、一九七五年四月、本堂や多宝塔などが新たな国指定の重要文化財となったが、私が行ったのは三月だったからまだそうなってはいなかった。
地図をみると淡河(おうご)、御坂の近くで、私はまた来たほうへと戻ったわけだったが、伽耶院は浅い山の谷間にあって、山門となっている石段のうえの台地に、その本堂や多宝塔などが建ちならんでいた。いま、兵庫県歴史学会編『兵庫県の歴史散歩』をみるとそれはこうなっている。
淡河川をはさんで、志染の石屋の反対側に大谷山伽耶院というこのあたりでは数すくない修験(しゆげん)道の寺がある。寺伝によると、法道仙人が毘沙門天のおつげで、大化年間(七世紀半ごろ)に創建したといわれ、中世にはかなりさかえたらしい。しかし秀吉の三木城攻撃のとき、ここの東南にある丹生山明要寺とともに兵火にかかって、一山ことごとく焼失してしまった。その後、江戸時代に姫路城主池田輝政や明石城主小笠原忠実(ただざね)らに帰依され、一部が再建されて現在にいたっている。
再建されたのは一部であったとすると、もとはそこにもっといろいろな伽藍が聳え立っていたにちがいない。しかしあたりは樹木が生い茂っているばかりで、いまは本堂や多宝塔のほか、これもこんど国の重要文化財に指定された三坂明神社の本殿がのこっているだけだった。しかもあたりは人影一つなく、しんとしずまったきりである。
私もまた何となくしんとなった気分で、いまはそれら古さびた建物だけがのこっている境内をあちこちと歩いてみたが、気がついてみると、そこに経典を埋納した経塚がある。これまでみたそれとはちょっとおもむきが変わっていて、左右両方に「経塚」とした石柱が建ち、そのあいだのちょっと奥に石に刻まれた仏像が立っている。
「経塚か」と私は思い、いつか新聞にのっていたある研究報告を思いだした。一九七四年九月五日付け読売新聞の「リポート」という欄に立正大学の坂詰秀一氏が寄せた「埋経の源流、朝鮮に探る」というもので、それをみると「埋経」、いわゆる経塚のことがこう書かれている。
たしかに埋経思想の源流を中国に求めることは可能性としては認められるにしても、現在のところ彼地において日本のような経塚の発見例はまったく知られていない。埋経の事実を確認するには、経塚の存在をもって具体的に認定することが必要である。
このような埋経の源流問題について、私は朝鮮半島新羅統一時代にそれを求めたい、という一つの臆測(おくそく)をもっている。それは、昨年の春、韓国の遺跡遺物を見学して歩いた折、ソウルの高麗大学校などに新羅統一時代の製作と考えられる紙本経埋納器としての青銅製円筒形式経筒の存在を知ったからである。このような経筒の存在は、経塚造営の事実を明示しているものであり、日本における紙本経埋納の初現例として有名な藤原道長の金峯山経塚造営時(一〇〇七年)より、二―三世紀さかのぼる時期に、すでに朝鮮半島では、経塚が造営されているという具体的な認識をえたのである。
伽耶院の開基が「百済国人法道仙人」であり、またこの伽耶院の本堂にあって、これも重要文化財となっている本尊の毘沙門天像は百済聖明王の子という童男行者の手になるものとされている。このことはすでに『三木市史』などでみたとおりだが、こうしてみると、そこにあった経塚もまた、朝鮮にその源流をもったものだったのである。
播磨の秦氏族
明要寺と丹生(にぶ)文化
播磨西部の新羅系に対して、こちらは百済系が濃厚に分布していたといわれる播磨の中部や東北部にしても、まだ行ってみたいところはたくさんあった。たとえば、『兵庫県史』の「朝鮮系渡来者とその部」にも出ていた西脇市大木町にある天目一(あめのまひとつ)神社である。
韓鍛冶の神とされている天目一神を祭るこの神社は、『兵庫県史』にのっている写真をみると、よくととのった大きな神社である。そこへ行ってみれば、その神社に関連してほかにもまたいろいろなことがわかるかもしれない。しかし地図をみると、播磨東北部のそこは何分にも遠い。
それからまた、これは神戸市北区山田町となっているところであるが、ここにはさきにみた百済聖明王の子、童男行者が開山したという丹生山明要寺がある。これについては、神戸市教育委員会編『神戸の史跡』「丹生神社と明要寺跡」によるとこうなっている。
丹生山は、もとの矢部郡と美嚢郡との境界にあたり、老樹のよく繁った山上に丹生神社がある。境内からは西南に明石海峡の眺望がほしいままにできる。……
この地はもと明要寺のあったところで、山王社は、その鎮守であったのが、寺の廃滅ののち、明治二年に丹生神社と改称した。明要寺は欽明天皇四年(五四三)、百済の聖明王の太子童男行者が創建したと伝える古い寺であった。
つまり明要寺は「廃滅」して、いまは境内にあった山王社がそれにとってかわり、丹生神社になっているというのである。神社ならほかでもたくさんみているし、これからもまたたくさんみることになるので、このほうはそれで行ってみる気がしなかったものだが、しかし、丹生山明要寺というのは、いまそれ自身は廃滅したとはいえ、かつては巨大な存在であったらしく、いまなおその地一帯に「丹生文化」の名をのこしている。
百済聖明王の子、童男行者とはいったいどういうものだったのか、私はこちらへくるまではその名も知らなかったが、その行跡はたいへんなものだったようである。『神戸の史跡』にある「山田町と丹生文化」をみるとこういうふうである。
山田町は、以前にはほかの山田と区別するためか、有名な丹生山(たんじょうざん)があるので「丹生(にぶ)の山田」とよばれていた。神戸市内といっても、中心地からは北方八キロをへだて、未だに山村の風趣ゆたかな町である。六甲背面の有野川は、この町へ入って山田川となって町の中央を貫き、沿岸の田園をうるおして、山田米の産地として有名にさせている。川に沿うて東西に走る街道は、西国街道の裏街道として交通上の要路であった。そのため古くから文化の流入に恵まれ、古跡や重要な文化財を多数伝えていて、盛んであった当時の土地のありさまをしのばせている。
たとえば福地の無動寺には、本堂を圧するほどの巨大な藤原時代初期の大日、釈迦、弥陀の三尊仏をはじめ、不動明王、十一面観音など五体の重要文化財があり、同寺の鎮守若王子神社の本殿と中村の八幡神社の三重塔は、いずれも室町初期の建造になるもので、同じく重要文化財である。下谷上の寿福寺には、平安期と推定される聖観音像、建治四年(一二七八)の銘のある阿弥陀像、その他同時代と思われる仏像数体を保存しているし、衝原(つくはら)と上谷上の二ヵ所には千年家といわれる古い民家があり(上谷上の坂田の千年家は昭和三十七年二月十九日出火焼失してしまった)、ことに南北朝時代から室町にかけての石造品の多いことも注意される。丹生山の廃明要寺(今の丹生神社)への参道には、永徳三年(一三八三)在銘の町石が数基あり、その他の村には宝篋印塔(ほうきょういんとう)、五輪塔、宝塔、五輪ソトバなどが散在している。
こうした文化財に親しく検討を加えると、土地の文化、経済、歴史を明らかにするうえに、文献的に欠けている面の資料として、貴重な存在の意義をもっている。今ではこの土地の文化は「丹生文化」といわれるようになっている。
赤穂の新羅文化
そのほか、神戸となると同市生田(いくた)区下山手通にある生田神社や、灘(なだ)区岩屋中町の敏馬(みるめ)神社なども行ってみたいところだった。前記『兵庫県の歴史散歩』をみると、「三韓のつかいが来朝したときには、まず生田神社に参拝したあと」敏馬(みるめ)神社のある「敏馬の浦で神酒のもてなしをうけるのが通例となり、神田づくりの部がいたといわれている」とあったからである。
そしてまた、同『兵庫県の歴史散歩』「敏馬神社」の項には「敏馬の浦は敏馬の泊(とまり)といわれた船付場で、『新羅人が来朝すると生田神社でつくった酒をこの浦でたまうならわし』と『延喜式』にある」とあったからであるが、「三韓のつかい」または「新羅人が来朝すると」なぜ彼らはとくに生田神社に参拝し、その生田神社でつくった酒を、敏馬神社のある敏馬の浦で「たまうならわし」となっていたのであろうか。
これも調べてみるとおもしろいかもしれないが、しかしいまはもうその手だてもないにちがいない。なお、同『兵庫県の歴史散歩』は「神戸の地名のおこりは」として、そのことがこう書かれている。「神社の維持費をうけもつ“神戸(かんべ)”に由来するが、それは生田神社の神戸であるとも考えられている」と。
神戸にしてもまだみたいところは、ほかにもたくさんある。たとえば、「明治開港まで朝鮮人入朝の際に曳舟漕舟の御用を勤めた遺趾である」(神社本庁編『神社名鑑』)という同市長田区駒ケ林町の駒林八幡神社にしてもそれで、ここにいう「朝鮮人入朝」とは江戸時代の朝鮮通信使のことかもしれないが、しかし私は、西摂津の神戸や播磨の東部、東北部はそれくらいにして、ここから一転して播磨西南端の赤穂(あこう)へ飛ばなくてはならない。
そして神戸からすると逆方向の赤穂から、播磨の西部、中部というふうにみて来たいと思う。赤穂郡の大部分はいまは相生(あいおい)市、赤穂市などとなっているが、この赤穂郡もさきにみた美嚢郡のそれとおなじように、古代におけるその大領(郡長)は朝鮮・新羅からの渡来人である秦造内麻呂(はたのみやつこうちまろ)であった。
赤穂といえばいわゆる「忠臣蔵」で有名なところであるが、かつての古代のここは新羅系の渡来氏族として有名な秦氏族の地であった。まず、前記『兵庫県の歴史散歩』によってそれをみておくことにしよう。
西播はもともと大陸文化との関係がふかいところだが、とくに相生・赤穂の両市をふくめた旧赤穂郡は、渡来氏族秦氏とのつながりがつよい。秦氏は京都盆地を中心に近江・摂津・播磨などにひろがり、欽明天皇のとき秦人戸数七〇五三戸といわれたほどだ。
仏教が伝来し、いわゆる崇仏論争がおこったとき、蘇我稲目(そがのいなめ)をたすけて功績のあったのは秦造(はたのみやつこ)の秦河勝(かわかつ)だった。河勝は聖徳太子の信任をえたが、太子の没後ざん言をうけて播磨にながされ、この坂越(さこし)の地で不遇の日をおくることになった。河勝は千種(ちぐさ)川を中心に赤穂郡を開拓したのち、神仏と化したと伝えている。前項でふれた矢野荘の開発者秦為辰や有年(うね)の荘司(しようじの)寄人(よりゆうど)の秦氏などは、おそらく河勝の子孫で、赤穂郡開拓の先兵だった。大避(おおさけ)神社は、これらの子孫が氏神として河勝をまつったものだ。
その大避神社はあとでみるとして、いまみた秦氏族は朝鮮・新羅系の渡来人であり、これに対して東漢(やまとのあや)氏族がおなじく百済系の渡来人であることは、平野邦雄氏の『秦氏の研究』や上田正昭氏の『帰化人』などによってすでに明らかとなっている。
しかしにもかかわらず、いまなおこの秦氏や漢氏を中国渡来ではないかとみているものがあるので、直木孝次郎氏の筆になる『兵庫県史』のそれを、念のためここでみておくことにしたい。直木氏は、これまでは歴史学者にまでそういわれていたり、書かれたりしてきた「帰化人」ということばがまちがいであるということとともに、両氏族のそれについてこう書いている。
こうした渡来者のことを、以前は「帰化人」とよんでいたが、「帰化」という語は、現代では国籍を取得するという意味をふくみ、古代では君主の徳に感化されて帰服する、という意味に用いる。いずれの用法からいっても、統一国家成立以前である五、六世紀の日本への移住者を意味する言葉としては不適当であるので、渡来者という語を用いることとする。
この時期の渡来者のなかでは、東漢(やまとのあや)氏と秦(はた)氏とが有名である。前者は後漢の霊帝を祖とし、阿知使主(あちのおみ)が応神朝に党類一七県を率いて来たといい、後者は秦始皇帝を祖とし、弓月君(ゆづきのきみ)が同じく応神朝に人夫一二〇県を率いて来たという。渡来の集団の大きさについては誇張があると思われるし、漢や秦の皇帝を祖とするのも、おそらくあとからのつくりごとであろう。この両氏以外にも中国の皇帝や国王を祖と称する渡来氏族はすくなくないが、東漢・秦両氏をふくめて、その大部分は朝鮮からの人びととみてよかろう。五、六世紀における日本への渡来者のほとんどは朝鮮系渡来者である。
秦河勝を祭る大避(おおさけ)神社
さて、その子孫が秦河勝を祭って氏神としたという大避(おおさけ)神社を私がたずねたのは、一九七五年の六月はじめであった。考古学者の李進煕と、雑誌「日本のなかの朝鮮文化」編集部の松本良子さんがいっしょだった。前日は、松本さん編集のそれを京都で発行している朝鮮文化社主催の「日本のなかの朝鮮文化遺跡めぐり」が岡山でおこなわれたので、これに参加した私たちはその岡山で一泊した。
そして翌朝、新幹線でひとまず相生まで来ておりた。駅前にあったタクシーに乗り、「赤穂の坂越(さこし)にある大避神社――」というと、運転手はそれでもうすぐにわかった。大避神社というのはそれだけ、こちらの相生でも有名なものとなっているらしかった。
「大避」とは妙な字をあてたものだったが、それは秦氏が酒の醸造法を伝えたので、その秦氏を大酒君(おおさけのきみ)ともいったことからきたものだという、京都の太秦(うずまさ)にある大酒神社とおなじものなわけであるが、それがどういうわけか、こちらでは大避となっている。
タクシーは千種(ちぐさ)川を越えたとみると、間もなく樹木のこんもりと茂った小島の見える海辺についた。みると坂越浦の大避神社前で、いわゆる前方後円墳のような形をした島は、大避神社の祭神・秦河勝の墓所という生島(いきしま)だった。
山腹の坂を登ると、そこら一帯が入母屋造の本殿を中心とした大避神社となっていた。豪壮な神社で、そこからは瀬戸内海の坂越浦が一望のもとに入り、生島もまたすぐ目の前にあった。
一九二四年から国の天然記念物に指定されている生島は、坂越浦にとっては天然の防波堤となっていたばかりか、大避神社の神地となっていたところから、この島には霊威がやどっているということで、古くから地元の人々に神聖視されてきたものだという。したがってもちろん人が足を踏み入れるのも禁じられ、それでこの島はいまも原始そのままの密林におおわれている。
神社が祭神の墓所というそのような島をもっているのも珍しかったが、それがまたそのように保存されているというのもおもしろかった。まさに秦河勝の霊威というべきかもしれなかったが、秦河勝を祭神とする大避神社は、坂越のそれだけではなかった。ほかにもまた相生市など、あちこちにその分社がたくさんあって、今井啓一氏の『秦河勝』によると、「旧時、赤穂郡内の神社の三分の一は秦河勝を奉祀した大避社であったと伝えている」とある。
秦氏族がどんなにこの地で繁衍(はんえん)したかということをものがたるもので、いわば坂越の大避神社はそれらの総本社にあたるものであった。しかも、そればかりではない。
新羅系の渡来人である秦氏族は日本全国いたるところにひろがっていて、もっとも有名なものとしては太秦(うずまさ)の広隆寺を氏寺としていた山城(京都)のそれである。が、一方また、八世紀はじめ七〇二年、大宝二年につくられた「豊前国戸籍台帳」がのこっていて、それによると当時の豊前(福岡県)に住んでいたもののほとんどはみな秦氏族とその係累とによって占められ、その数は何と全人口の九三パーセントに達していたという。
「ああ、新羅か」と私は、大避神社の境内から坂越浦の景観を見おろしていて、思わずそう口にだしてつぶやいた。かれらがそこから渡来した往時の新羅とはいったいどういうものかと思ったからだったが、それにはたぶん、私自身の郷愁もこもっていたにちがいない。
「思いだしたんですか、『新羅の月夜』を」と横から、松本さんが笑いながら言った。
「うむ、『新羅の月夜』ね。これで、あの瀬戸内海に月がのぼれば、そんな気分になるかもしれないな。近くには仏国寺にかわる、この神社の神宮寺だった宝珠山妙見寺という大寺もあったそうだから」
「ここでそれ、うたってみませんか。月夜のつもりで――」
「冗談じゃないよ」
松本さんは、酒の出る集まりなどで私がよく「新羅の月夜」という歌をうたうものだから、それを聞いて知っていたのである。もちろん朝鮮語で、訳してみるとさいしょの部分は次のような意味のものだった。
ああ 新羅の夜よ
仏国寺の鐘の音 聞こえくる
そこ行く旅人よ しばし足をとどめよ
しずかな月の光の 金鰲山の麓で
歌をうたおうではないか 新羅の夜の歌を
児島高徳も天日槍の子孫
境内を歩いて知ったが、大避神社背後の山腹は墓地となっていて、どういうことでかそこに児島高徳(こじまたかのり)の墓があるという。そう書かれた木札をみてちょっと行ってみようかと思ったけれども、急な坂を登ってさがさなくてはならないようだったからやめたが、それもまたなつかしい名だった。
私は、というより私も、小学校の教科書でその児島高徳のことを習わされたことがあり、たしかそれは「唱歌」にまでなっていたとおぼえている。いま、高柳光寿・竹内理三編『日本史辞典』をみると、「児島高徳」についてこうある。
生没年不詳。南北朝時代の武将。範長の子。通称備後三郎。備前の人。元弘の乱に隠岐に配流される後醍醐天皇を途中で奪おうとして失敗。のち天皇が伯耆船上山に遷幸するや、一族を率いはせ参じた。建武政権崩壊後も南朝に属し各地に転戦。一三五二(正平七・文和一)後村上天皇の詔を奉じて東北に行き、兵を集めて入洛を企て失敗。以後の消息は不明。以上の事績は『太平記』のみにみえ、明治以来実在人物かどうか問題とされている。
そのような「問題とされている」人物をいわゆる「南朝の忠臣」ということでわれわれは小学校の教科書で習わされ、また唱歌にまでされてうたわされたわけであるが、ところで、児島高徳についてはまたおもしろいことがある。私のこの仕事の協力者である阿部桂司君が見つけてきた『吉備群書集成』をみると、児島高徳の出自(しゆつじ)のことがこう書かれている。
姓氏録〈八一五年に成ったとされる『新撰姓氏録』のこと〉を按ずるに、三宅連は新羅国の王子天日槍命の後なり。児島備後三郎高徳は三宅姓なれば、其の始祖は天日槍なるべけんか。
私にはもとよりそう「なるべけんか」どうかわからないし、また、児島高徳なる人物が実在したかどうかもよくわからない。しかしにもかかわらず、新羅系渡来の秦河勝を祭った大避神社に墓があるその児島高徳もまた、新羅系渡来人集団の象徴であった天日槍から出ているというのがおもしろいので紹介した。
八千軍野(やちぐさの)古戦場
昼食をとりそこなう
坂越の大避神社から、私たちは赤穂市の教育委員会をたずねた。同教委教育次長(社会教育担当)の岩崎俊次氏と会っていろいろ聞いたり、資料をもらったりした。そして私たちは赤穂市の有年(うね)にある松岡(有年)考古館をたずねるようにすすめられ、そこへ向かうことになった。
あとでみる神戸新聞の特集シリーズ『兵庫探検(歴史風土編)』の「渡来人」により、私は有年考古館というのがあることは知っていたが、それが赤穂市で近くにあったとは知らなかった。
ともあれ、もう昼時間がすぎていたので、私たちはさきに国鉄の有年駅まで行って、昼食をすることにし、その駅で乗って来たタクシーを帰した。ところが、これが私たちの見込みちがいだった。
駅があるからには、その駅前の町に食堂もあればタクシーもあるだろうと思ったのだが、とんだことだった。私たちは駅前通りをあっち行ったりこっち行ったりしてみたが、小さな町で、そんな食堂などどこにもない。看板のかかった店はあったけれども、それは酒が出る夜にならないと開かないものらしかった。
「ここは、田舎なんだなあ」と李進煕ははじめて気がついたように言ったが、それはこちらにしても同様だった。東京のような大都市で暮らしているものは、どうもどこかちぐはぐなところがあるらしい。
タクシーは駅前に車庫があったが、しかしそれも一台しかなく、いま出払っているところで、あと三十分くらいしないと戻らないという。何ともえらいことになったもので、これもそれでやっと気がついたようなものだったが、有年駅は農村のなかにぽつんと取りのこされたような小駅で、これこそはまさに急行列車からは「小石のように黙殺される」それだった。
私たちはその小駅の売店で牛乳など買って飲み(それも三本で売切れとなった)、ようやく戻って来た一台きりのタクシーをつかまえて、近くの有年考古館をたずねた。有年考古館というのは、そこに医院を開いていた松岡秀夫氏個人がつくっているものだった。
有年考古館の須恵器
周囲には旧家らしい屋棟がならんでいて、そのうちの一棟が医院となっていた。ちょうどうまいぐあいに、医院の診察は午後二時からということで昼休み中だった看護婦さんに刺をつうじると、松岡さんはこころよく私たちを迎え入れてくれた。ひとまずということで二階の居間へとおされたが、みるとそこに大きな須恵器の壼がおいてある。
「あの須恵器は――」と、私はちょっとびっくりしたように言った。古墳から出たものとすると、それは相当大きな古墳でなくてはならなかった。
「いや、あれは韓国から買ってきたものですよ。新羅土器です」
「ああ、そうですか。こちらの須恵器と、ほとんどおなじですね」
私はその新羅土器に近寄ってみたが、やはりそれはほとんど見分けがつかないもので、そういわれなければ日本の須恵器と信じて疑わなかったにちがいなかった。私は朝鮮の土から出たその新羅土器をちょっとなでさせてもらい、写真に撮らせてもらった。
やがて私たちは、庭先に「中山一一号墳」という横穴古墳をそのまま移築してある有年考古館をみせてもらったが、これがまたいまみた新羅土器と見分けのつかない須恵器が中心となったものだった。もちろん弥生土器などもあって、周辺の古代人の食器や用器はみなそこに集められてある、といったおもむきとなっている。
別の一棟には、古い民俗資料が丹念に集められてある。私設のそれとしては、申し分のない考古館であった。私たちはその民俗資料までいちいち案内してみせてくれた松岡さんに厚く礼をのべて、次なるところへ向かった。
新宮、竜野の古墳
次なるところはまず有年東北方の新宮(しんぐう)町だったが、私たちはそこからさらにまたずっと東方となっている福崎まで行かなくてはならなかったので、かなり急がなくてはならなかった。ほんとうは新宮町の南となっている竜野(たつの)市にも寄ってみたかったが、そこまでの時間はなかった。
私たちはなぜこんなコースをとったかというと、それはさきにちょっとふれた神戸新聞の特集シリーズ『兵庫探検(歴史風土編)』の「渡来人」というのを私が持っていたからである。これは神戸の山陽電車が発行している『山陽ニュース』編集者の井上重義氏が送ってくれたもので、そこにこういうことが書かれていた。
今月の始め、揖保郡新宮町の馬立古墳群をたずねた。六世紀後半のこの古墳群は二十八基あり、中世の播磨の雄族・赤松氏の拠城であった亀の山の東山ろくに点在している。この中に、朝鮮式の構造を持つ横穴式石室が一基ある。揖保川と並行する細流を渡って、古墳群地帯に分け入った。
初夏の訪れを敏感に受けとめるのだろうか、ハヤはすでに瀬に出て、しきりと銀色の魚体を光らせる。亀の山に通じる山道を右に折れて奥まったところ、若葉の陰に、山神さんがひっそりと静まっていた。昔、山仕事にはいる里人を山姥(うば)から守るため祭ったものという。社のすぐ西側に、この里で姥塚と呼ぶ横穴式石室が一基ポッカリと口を開けていた。問題の馬立一号墳だ。
低い羨道(せんどう=入口の廊下)をくぐり抜け、玄室(死体を納める部屋)へはいり込む。死者の国。しっとりとうるんだ冷気がこもっている。懐中電灯のボンヤリした光の輪に、黄泉(よみ)の国が浮かび上がった。日ごろ見なれた横穴式石室とはまったく様子が違う。六世紀代の一般の石室は、比較的大きめの石を垂直に立てて壁とし、上部を大きな数枚の板石で覆って天井にしている。
馬立一号墳の場合は、床面から二メートルあたりまでは垂直に石を積んでいるが、その上は石積みを急激に内方へ持ち送ってドーム状の天井とし、そんなに大きくない二枚の板石を並べてフタにしていた。
こういった構造の石室墳墓は、中国・晋の〓(せん=レンガ)室墓が起源で、六世紀前後には朝鮮に伝えられたという。日本では渡来系の氏族が多数住みついた近江、河内に多い。……県下では、馬立一号墳のほか十基あまりがわかっている。姫路市勝原区の丁(よろ)古墳群中に五基、飾東町・春日野一号墳、竜野市・西宮山、揖保郡御津町・小丸山、印南郡志方町・投松(ねじまつ)、多紀郡多紀町・稲荷山古墳がそれで、有年考古館長・松岡秀夫氏によると、赤穂郡上郡町にもこの構造の古墳が一基あるという。
丁地区は播磨風土記の揖保郡大田里に比定されており、呉勝(くれのすぐり)が韓(から)国から渡って来、居住したという地域だ。また、馬立、西宮山古墳がある竜野市周辺も、風土記に記述があり、秦公がいた少宅(おやけ)里が考えられる。稲荷山古墳の場合も、近江古市郷に移住した渡来氏族・丹波史(ふひと)の故地がここだという説があり、符合してくる。奈良大の田辺昭三助教授は、この構造の墳墓はまちがいなく渡来人一世のものという。
私は「渡来人一世のものという」のがおもしろいので、そのうちの新宮町にある馬立一号墳をみたいと思ったのだった。しかし考えてみると、それはちょっとおかしなことでもあった。
渡来人というのは古墳時代以前からもずっとつづいて来ていたもので、六世紀後半の古墳だというそれをどうして「渡来人一世のものという」ことができるのか、ということだった。しかしまた、そのようにずっとつづいて来ていたからには常にいつも「一世」というのはありえたわけで、そのように考えたうえでならこれもわからないわけではなかった。
たとえばそれからの出土品からみて、竜野市の西宮山古墳のばあい、これこそはそのような継続的一世の墳墓であったかもしれない。いわゆる前方後円墳である西宮山古墳は、竜野高校の運動場拡張のため発掘調査されたもので、古墳のあった場所とその発掘結果が村川行弘氏の『田能』にこう書かれている。
場所は播州平野の都会。脇坂氏の城下町でもある竜野氏の背後にそびえる的場山の南ふもと、俗に西宮山(にしみややま)という高さ五〇メートルばかりの小高い山の頂上である。的場山の山すそには揖保(いぼ)川が流れ、古墳上からは緑の平野の向うにはるか播磨灘をのぞむすこぶる眺望のよいところである。
播磨風土記によれば、あの角力(すもう)の祖先といわれる野見宿禰(のみのすくね)が出雲国に帰るとき、ここで病気にかかって死んだので、出雲の人たちが墓を作って出雲墓屋とよんだ、とある。……
発掘の結果、円筒埴輪が二重にとりまいていたこと、堅魚木(かつおぎ)をのせた家形埴輪もあったことなどがわかった。主体は横穴石室である。石室のなかの堆積土の中に十余人の人骨があったのには驚いたが、この人骨はいっしょに発見された銅銭から、何らかの事情で中世にここに埋められたものであることがわかった。
石室内には土砂がいっぱい埋まっていたので、鏡・剣・玉・武具・冠帽をはじめ金張り製品や鉄鍬などの鉄製品・土器などの副葬品が多く残っており(古墳はよく盗掘されて、必らずしも副葬品が多く残っているとは限らないのである)、とくに朝鮮渡来の金製耳飾と台付子持装飾壼は立派なものであった。この装飾壼には動物の像などとともに、兵士の像や角力らしい像も飾られており、郷土の人々の野見宿禰の伝説とあいまって興味のもたれるものであった。
それが野見宿禰の墳墓かどうかはともかくとして、「朝鮮渡来の金製耳飾と台付子持装飾壼」とあるこの壺は、さきの松岡さん宅でみた新羅土器である。同古墳からはほかにも多くの土器が発見され、「西宮山古墳の玄室内の須恵器の出土状況」というその写真がのっているが、みたところ、これも日本でつくられた須恵器ではなく、やはり朝鮮から渡来した新羅土器かもしれない。
日本の古墳や集落跡などから出土している須恵器といわれるもののなかには、このような朝鮮からそのままの形で渡来した新羅土器が少なくないが、これらはみな一括して須恵器とされているのがふつうである。一つは、よほどのものでない限り、ほとんどその見分けがつかないからである。
なおついでにみると、兵庫県下ではいま播磨に九、但馬に二、淡路に一と、都合十二の須恵器を焼いた窯跡が見つかっているという。しかしこれはそう古いものではなく、さきにみた神戸新聞に「田辺助教授は六世紀後半以降、百済から大量に渡来してきた新しい陶工集団と考えている」とあるように、その新来の陶工たちによって焼かれた須恵器の窯跡である。
焚火して罰(ばち)があたる
さて、新宮町の馬立一号墳からはどんなものが出土したか知らないが、行ってみるとそれは神戸新聞の特集『兵庫探検(歴史風土編)』の「渡来人」に書かれたとおりのものだった。私たちは懐中電灯を持っていなかったので、玄室のなかに散らばっていた紙屑や木の枝を集めて火をつけてみたが、みごとな持ち送り天井をもった玄室が火の明りに照らしだされた。
ところで、ここで一つの椿事が持ちあがった。神聖なるべき古墳の玄室内で焚火をした罰かどうか、私のカメラが急に故障となってしまったのである。故障しなくても、フラッシュも用意していない私のカメラでは暗い古墳内部を撮ることはとうてい不可能だったが、ためにその外観を撮ることもできなくなってしまった。
「きっと、あんなところで火を燃やしたりしたものだから、罰があたったんだわ」と松本さんはおもしろがって笑った。
「そうかもしれない。では、早いとこ桑原といくか」ということで、こんどはそこから福崎町へ向かった。有年からのタクシーの運転手は、この連中はいったいなにをしているんだろうと思っているらしかったが、だまってクルマを走らせつづけた。
天日槍の国争い
地図をみるとわかるように、新宮町から福崎町まではかなりの距離である。なぜそんな遠い距離の福崎町まで行くことになったかというと、橋本政次氏の『新播磨めぐり』にこうあったからである。
八千軍野(やちぐさの)古戦場 福崎町八千種(やちぐさ)
むかし伊和大神と、韓国から渡って来た天日槍命とがたがいに軍を発して戦った古戦場で、天日槍命の軍が八千あったので八千軍野といったと播磨風土記に見える。
また、さきの但馬でみた天日槍であるが、しかし新羅系渡来人の遺跡の多い播磨にとっても、その渡来人集団の象徴であった天日槍の存在は重要なものとなっている。『播磨国風土記』には「八千軍」のことと限らずほかにも天日槍に関する記事がたくさんあって、直木孝次郎氏のまとめた『兵庫県史』のそれをみるとこうなっている。
天日槍に関する物語がしばしば記されているが、ほとんどすべて、伊和大神あるいは葦原志許乎命(あしはらのしここのみこと)と国の占拠を争う話である。そのうちもっとも有名なものは、揖保郡揖保里の粒丘(いいぼのおか)の条にみえるつぎの話であろう。
日槍が韓国より渡ってきて、宇頭の川底(かわじり)(揖保川の河口)で宿を土地の神である葦原志許乎命にたのみ、海中に宿ることを許された。日槍は剣で海水をかきまわして(その渦のうえに)宿った。志許乎はその勢いにおそれて、さきに国を占めようと思い、各地をめぐり、粒丘にいって食事をした、云々という。
そのほか、まえにも述べたが、つぎの各地に国争いの話が伝えられている。括弧のなかは日槍の相手の神である。
(1)宍禾(しさわ)郡比治里奪谷(うばいだに) (葦原志許乎命)
(2)同 郡柏野里伊奈加川 (葦原志許乎命)
(3)同 郡雲箇里波加村 (伊和大神)
(4)同 郡御方里志爾嵩(しにだけ) (葦原志許乎命)
(5)神前郡多駝(ただ)里粳(ぬか)岡 (伊和大神)
以上のうち(4)は、志許乎と日槍が志爾嵩の上から黒葛三条を投げて国占めを行なう話であるが、日槍の黒葛はみな但馬に落ちたので、日槍は但馬の伊都志(いずし)(出石)の地を占めた、という話で、日槍が出石におちつくことを説明する物語となっている。なお、葦原志許乎と伊和大神は同神と考えてよかろう。
いま宍粟(しそう)郡一宮町にある、播磨一の宮の伊和神社祭神の伊和大神と同神という葦原志許乎命は、別にまた醜男命(しこおのみこと)とも書かれているが、この伊和大神は一方では大穴牟遅(おおなむち)、大名持(おおなもち)、大己貴(おおなむち)とも書かれる。すなわち、いわゆる出雲族の象徴となっている大国主命のことである。
これについては出雲(島根県)のときくわしくみなくてはならないが、この大国主(大己貴)というのもさきの「有馬温泉と唐櫃」の項でもみたように、「大年神」である男神で「韓の神」である。要するに新羅系渡来人集団の象徴であった天日槍が伊和大神と「国占め」を争ったというのは、先住の渡来人集団と後来のそれとの争いだったのであろうか。
しかも、水野祐氏の『古代の出雲』によると、伊和大神の大国主がそれから出た素戔嗚尊(すさのおのみこと)は「新羅系帰化人の集団」が氏神としていつき祭った神であった。とすると、伊和大神にしても天日槍にしても、その元の根はどちらもおなじ新羅系どうしだったのである。
またもう一つ、吉野裕氏の「オホクニヌシ多名の由来」をみると、天日槍と伊和大神とに象徴される集団を、どちらもおなじ製鉄技術をもった「産鉄族」だったとしている。そして、『播磨国風土記』にみられる両者の「国占め」争いは、その技術が古いものと新しいものとの争いではなかったかとしてこう書いている。
△ではアメノヒボコ集団の実体はなんであったか。こまかい点になるとわからないけれども、大まかに言えば、それは産鉄族であり、しかも刀剣類を含む武器の精錬技術(鍛造または錬造)を朝鮮から列島にもちこんだ渡来者であった。
△それはつまりはアシハラシコヲもまた一個の製鉄者集団を代表する人物であったことを物語っているわけだが、この集団はアメノヒボコ集団よりは劣勢かつ旧式な製鉄技術の所有者であったから、天ノ日槍に一目置かねばならなかったし、彼に先回りして(実質的には追随である)産鉄地の「国占め」を思いついたのではないかということである。
さきの「韓鍛冶をたずねて」の項でみた播磨における製鉄のことや、そこでみた葦原志許乎(あしはらのしこお)とも符合する注目すべき説であるが、それにしても天日槍が八千軍野(やちぐさの)に八千の軍兵をくりだして戦ったとは、ずいぶん豪勢なはなしである。どういうわけか、これはいまみた直木氏のそれには出ていないが、その「八千軍野古戦場」とはいったいどういうところかというわけで、私たちは福崎町のそこまで来てみたが、別にこれといったものはなにもなかった。
ただの野原がひろがっていて、向こうに富士山によく似た小山が見え、そのこちらはびっしり詰まった人家だった。しかもそこまで来たときはもう日暮れてしまっていて、それらの風景もよくは見えない。
考えてみればあたりまえのことで、天日槍命と伊和大神が戦ったという古墳時代も以前の「神様」たちのそんな「古戦場」の跡が今日までのこっているはずがなかった。たといそのおもかげにしても、である。
しかしながら、『播磨国風土記』にもそのことは出ており、一九六三年に姫路観光協会が発行した橋本政次氏の『新播磨めぐり』にも「八千軍野古戦場」としてそのことが書かれているからには、どこかに石碑の一つぐらい建っていてもよいはずだった。それで私たちはなおもその辺をあちこち歩きまわり、何人かの人にきいてもみたが、「さあ」とみな首をかしげるばかりだった。
なかに一人、その伝承のことは知っているとみえて、「ここはいまは八千種(やちぐさ)となっておるが、もとは八千軍(はつせんぐん)と書いた八千軍(やちぐさ)だったです」と言った。それはこちらも知っていたが、しかしそれを聞いて私はやっと、そこまで来た甲斐(かい)が少しはあったような気がした。
韓泊(からどまり)と鶴林寺(かくりんじ)
明石で落ち合う
播磨(兵庫県)は東部のほうからはじまって、西部の赤穂から中部となっている福崎町の「八千軍野(やちぐさの)古戦場跡」にいたった。したがってあとのこすところは、その中部の海岸寄りということになった。そうするとこんどは、夢前(ゆめさき)川や市川流域にひろがっている姫路市あたりが中心になるが、私はそれを明石(あかし)、加古川のほうからさきにみて行くことにした。
明石、加古川から姫路へというこのコースは、神戸の『山陽ニュース』の井上重義氏らといっしょに歩いたことがあり、そのときのことを「播磨の『新羅国』」として同『山陽ニュース』に書いたこともある。そしてその後も一、二度、東アジアの古代文化を考える会の「古代遺跡めぐり」などがあってこのあたりをたずねているが、しかしどういうものか、井上さんたちとさいしょに歩いたときのことのほうがいまも強く印象にのこっている。
で、そのとき『山陽ニュース』に書いた「播磨の『新羅国』」とかなり重複することになるけれども、私はやはりそのとき歩いたコースをもう一度、こんどはややくわしくたどってみたいと思う。
「私たちは、国鉄の明石駅で落ち合った。私たちというのは、京都で雑誌『日本のなかの朝鮮文化』を発行している友人の鄭詔文ほかと、それから神戸の山陽電車が発行している『山陽ニュース』の井上重義氏とであった。
いにしえの韓泊(からどまり)
「そして私たちはさっそく魚住へ向かって行ったが、」……と私はそのときの「播磨の『新羅国』」をこう書きだしている。なぜまず、明石の魚住をたずねたかというと、ここには須恵器を焼いた古い窯跡があったばかりでなく、橋本政次氏の『新播磨めぐり』に「魚住」のことがこうあったからである。
いにしえの韓泊(福泊)と、大輪田泊(兵庫)との間にあった古泊。はじめ名寸隅(なぎすみ)といった。中尾海岸に住吉公園があって風光に秀でている。
ゆきかえり見ともあかめや
名寸隅の船瀬の浜にしきる白浪
笠 金村
韓泊(からどまり)の泊とは、古代の港のことである。「ゆきかえり見ともあかめや」とうたわれたその泊(港)のほうは、いまはおもかげさえのこっていないが、しかしなるほど、播磨灘に向かって開かれた中尾海岸の風光はみごとなものであった。住吉公園にある住吉神社が播磨灘に面しているばかりか、その鳥居が海にまで突き出ているのも私にはちょっと印象的だった。
というのは、だいたい播磨というところは西からみると千種(ちぐさ)川、揖保(いぼ)川、夢前(ゆめさき)川、市川、加古川、明石川など、中国山地にその源を発している河川がつくりだした流域平野を「母なる大地」としているが、しかしその文化はことごとくといっていいほど海、すなわち瀬戸内海の播磨灘から入っていたからである。新羅系渡来人集団の象徴であった「瀬戸内海伝説中一つの焦点ともなっている」(西尾牧夫『瀬戸内海に残る朝鮮伝説』)天日槍に系譜を引く息長帯比売(おきながたらしひめ)、いわゆる神功皇后を祭るという住吉神社がそのようにしてあるのも、けっして偶然ではなかったのである。
ところで、いまみた韓泊は「いにしえの韓泊(福泊)」とあったように、これはのち「福泊」となっているが、それはどうしてだったか。つづけて橋本氏の『新播磨めぐり』をめくって「福泊」の項をみると、「古名韓泊」とあって、そのことがこう書かれている。
天平年中、行基が築いた五泊の一。正安四年、安東平右衛門が改修した。もと三韓の入貢船が泊ったので韓泊といったが、のちカラの名を忌み、福泊と改めた。今は狭い船舶の出入する川口に過ぎない。
どうも、こういうのをみるとちょっと困ってしまう。「三韓の入貢船が泊ったので」とはどういうことか。三韓とは古代南部朝鮮にあった馬韓・辰韓・弁韓のことで、のち百済(馬韓)・新羅(辰韓・弁韓)となるそれであるが、この三韓の時代とは、日本にいわゆる大和朝廷、統一国家ができるはるか数百年も以前のことである。
その三韓がいったい何に向かって、どうして「入貢船」をださなくてはならなかったのであろうか。まぼろしのようなはなしにすぎないが、かりにもし「入貢船が泊った」としたらなぜその韓(から)、「のちカラの名を忌み」きらったのであろうか。そんな「入貢船が泊った」ところであったとしたら、よくみられるナショナルな感情としてはなおさらのこと、その名をのこしそうなものではないか。
事実はかんたんで、むしろそれはまったく逆なことからであったにちがいない。いうならばそこがほかならぬ「韓泊」であったこと、すなわちかつては「朝鮮」のそれであったことが「のち」「忌み」きらわれたものだったはずである。これは九州・筑前(福岡県)の韓泊が唐泊となり、同肥前(佐賀県)の韓津が唐津となったことにもみられる事実であるばかりか、奈良・東大寺境内の韓国神社が辛国神社となっていることや、また日本の各地にあった「新羅」というところが白木・白子・白石・白国となっていることにも同様にみられるものである。
なおまた、播磨のこの韓泊は、千田稔氏の「埋れた港」によるといまみた「福泊」の地でもなく、現在の姫路市的形(まとがた)ではなかったかとしている。すなわち、その泊(港)を開いた「行基伝承―泊明神―泊山の関連性から、韓泊の比定地を姫路市東部の的形付近であると推考している」というのである。
尾上(おのえ)神社の鐘の音
それはそれとして、ついで私たちは、魚住から加古川市尾上町の尾上神社をたずねた。尾上神社はこれも住吉大明神の神功皇后を祭るものだったが、ここには統一新羅時代の珍しい朝鮮鐘がある。
統一新羅時代とは、朝鮮三国の百済についで高句麗がほろびた六六八年から九三五年にいたるまでのことである。尾上神社の朝鮮鐘はこの時代につくられたものの一つで、これに浮き彫りされた天人像は、これこそはまさに流麗そのものというほかないものである。
私はこの朝鮮鐘を三度ほどみているが、鐘楼の暗さに馴れるにしたがって、しだいにその描線を鮮明にしてくる天人像の前からは、そのたびいつも立ちさりがたい思いをしたものであった。よくもあんな古い時代に――、とさまざまなことを考えさせられずにはいられなかったからであるが、古家実三氏の「鐘」をみると、「尾上の鐘は、所謂(いわゆる)、朝鮮鐘中の傑作であります」として、それのことがこう書かれている。
この鐘は、朝鮮半島が過去において、一番輝かしい文化の高揚時代であった統一新羅時代に造られたものであります。この時代は中国が当時世界一の文化国であることを誇った時代であり、日本は所謂、天平文化の華が満開し、続いて平安初期の盛時に当ります。この新羅統一時代から、次の高麗朝にわたって製作された梵鐘は、その形態の美、文様の流麗さ、音響のよさ等すべての点ですぐれており、さすがの中国も、日本製の所謂、和鐘も到底及ばないところです。
この朝鮮鐘も、本場の朝鮮では貨幣の不足を補うために鋳つぶされたりして、却って少なく、現在ではわずか十個ばかりしか残っておりませんが、日本には三十個余りが現存しており、その大部分は現に重要文化財として尊重されております。その中でも、尾上の鐘は一番立派であり、製作年代も、最も古いものの一つであります。
その朝鮮鐘がいったいどうして、この尾上神社にあるのか。本来は寺院にあるはずのそんな鐘が神社にあるというのも考えてみれば妙なものであるが、これについてはいまなおだれも知っているものはいない。これはあとでみる鶴林寺の朝鮮鐘も同様であるが、古家実三氏の「鐘」にある「尾上の鐘の伝来等についての伝説」をみても次のようなことしか書かれていない。
この鐘は、いつ頃ここに伝わってきたかという確かな記録はありません。伝説では、神功皇后が「三韓征伐」から凱旋の後、住吉神社の神勅に依って三種の宝物の一つであったこの鐘を、この地に納めたとなっておりますが、そんな頃には朝鮮にはまだこのような立派な鐘は鋳造されていません。これは、只、伝説として聞き流すほかありません。
しかし、この鐘が余程古くから伝わり、また、有名になっていたことは、『千載集』という古い歌集に、前中納言匡房の歌として、
高砂の尾上の鐘の音すなり
暁かけて霜やおくらむ
というのが載っていることでも想像されます。この作者の大江匡房は、非常な学者であり、また、詩文や和歌にも秀でた人で、天永二年(西紀一一一一年)に七十一歳で没しています。仮りに五十歳の時に詠んだとしても、今から八七〇年前、藤原時代にはこの鐘は有名になっていたことがわかります。
また、伝説では尾上の鐘の音は、東は二見浦、西は妻鹿の海上までもひびき渡るので、その間の海上をひびき灘、又は比治寄奈田というとあって、『万葉集』巻十七をはじめ、古い歌集や、『夫木集』という有名な歌集にも十数首の歌が載っておりますが、それには鐘のことは少しも触れておりません。したがって、ひびき灘という名称は、鐘の響きから生れたものか、それ以前から別の意味でそうした名称があったものかは、はっきりいたしません。
響灘が尾上神社で打ち鳴らす朝鮮鐘の「響き」に付会されていたとははじめて知ったが、それにしても今日のような家並や工場や自動車など騒音物のなかった古代や中世には、その音はかなりの遠方にまで大きく鳴り響いたにちがいない。人々のその鐘の音にたいする感覚もよほど新鮮で、今日のわれわれのそれとはおよそかけ離れたものであったはずである。
鶴林寺の大伽藍
さきにみた韓泊と関連があるのかどうか、加古川市の木村には新羅系渡来豪族の秦河勝が建立したという泊神社があったが、それはおいて、私たちは同市北在家の鶴林寺にいたった。いまさっきちょっとふれたように、この鶴林寺にも有名な朝鮮鐘がある。それが収蔵されている建物の鐘楼からして重要文化財となっている鶴林寺の朝鮮鐘は、統一新羅時代の尾上神社のそれよりはのちの高麗(こうらい)時代につくられたものであった。
これはまたどうして、その時代の朝鮮でつくられたものがここにきているのか不明であるが、鶴林寺のこの鐘もまた貴重なすばらしいものである。が、それにもましてさらにまたすばらしいと思われたのは、兵火などいろいろなことがあったにもかかわらず、そこにいまなお十六の堂塔伽藍が建ちならんでいる鶴林寺そのもののたたずまいだった。
私は住職の吉田さんの案内で、広い境内のなかに展開している鶴林寺のそれらの堂塔をあちこちとめぐり歩きながら、播磨の人たちは西の斑鳩寺(はんきゆうじ)とともに、その近くにこのような由緒深い寺院を憩いの場所としてもっているとは、仕合わせなことだと思わないではいられなかった。東京にもしこんな寺院があったとしたらどうであろうか、と思ったからでもあるが、鶴林寺は奈良の法隆寺にもおとらぬ大刹(たいさつ)で、轟木史郎編『全国社寺史跡めぐり』をみるとその沿革がこうある。
欽明天皇(五六五)の世に高麗の僧恵便が日本に仏法を広めたとき、ここに草庵をむすんだ。〈その恵便の〉教えを受けた聖徳太子が創建したといわれる。刀田山、戸田太子とも呼ばれ、鶴林寺と改めたのは鳥羽天皇のころである。
ここにいう「高麗の僧」の高麗というのは、さきにみた統一新羅よりのちの高麗(こうらい)ということではなく、これは朝鮮三国時代の高句麗のことである。その高句麗を古代日本では高麗(こ ま)といったもので、したがって僧恵便(えべん)もその高句麗の僧だったのである。
なお、鶴林寺が発行している『鶴林寺のしるべ』によると、聖徳太子がその「恵便の教えを受け、御年十六歳のとき秦河勝に命じて三間四面の精舎を建立し、釈迦、文殊(もんじゆ)、普賢(ふげん)、四天王を祀り、四天王寺聖霊院と称されたのが始まりで――」とある。
聖徳太子と秦河勝というコンビは、京都・太秦(うずまさ)の広隆寺にもみられるものであるが、秦河勝とはいうまでもなく、新羅系渡来氏族のそれである。してみると、一方は高句麗から渡来の僧恵便であり、一方は新羅から渡来のそれとなっている。
大和の法隆寺や飛鳥寺は高句麗と百済とのミックスしたものだったが、こちらの鶴林寺はその高句麗と新羅とがミックスしたものというわけである。それは、どういうことからであったか。こういうことにたいしても、われわれはいろいろなことを考えさせられずにはいられない。
行基像に思う
なおまだもう少しみると、鶴林寺は本堂、太子堂など十六堂塔のうち、六棟までが国宝または重要文化財となっているばかりか、ほかにも白鳳時代の聖観音像、聖徳太子像など重要な工芸・絵画美術品が三十六点、その他の寺宝二百余点をかぞえる。これらは宝物館に陳列されていて、なかには高麗無双の筆になる弥陀三尊像といったものもあるが、私としてとくに目をひかれたものに、木彫の行基菩薩像というのがあった。
素朴なその木彫がいつできたものかも知らないし、また、それが美術品としてすぐれたものかどうかも私にはよくわからない。ただ、私としては、そこに行基像があるというのがおもしろかったのである。行基は奈良の東大寺建立に関連し、日本さいしょの大僧正となったものだったが、彼は当時、奈良・天平時代の社会主義者のようなものであった。
行基は、日本に『千字文』や『論語』など、つまりはじめてその文字をもたらしたものとされている百済より渡来の王仁(わに)系氏族の一つ、高志(たかし)氏族から出たものだった。そしてその本拠地は大阪の和泉だったが、さきにみた播磨の韓泊が「天平年中行基の築いた五泊の一」とあったように、彼は人民のためその先頭に立って、あちこちに海港を開き、川には橋を架け、また、たくさんの池を掘った。
そういうことからか、行基は当代のもっとも有名な僧の一人で、いまも日本全国には行基を開山とする寺院がたくさんある。行基はそのようにして、いわば「人民のなかにはいっていた僧」だったので、一時は、奈良朝の政権から弾圧されたりもしたものだった。それが、東大寺建立にさいしては、どうして大僧正として奈良朝に迎え入れられることになったか。
これは個人的なことになるが、行基となると、私がいつも考えさせられるのはそのことだった。私はこれまで、伝記というのを書いたことはない。しかしどういうものか、この行基の生涯には強い興味をそそられる。私はいずれ行基のくわしい伝記を書くことで、彼のその生涯を「人間行基」に即して明らかにしてみたいものとひそかに考えている。
「新羅国(しらくに)」と宮山古墳
鵤(いかるが)の斑鳩寺(はんきゆうじ)
私たちは鶴林寺から高砂(たかさご)市をへて姫路市へと入って行ったが、そのまえに鶴林寺とも関係があるので高砂や姫路よりも西の向こうにあたる太子町鵤(いかるが)の斑鳩寺(はんきゆうじ)のほうをさきにみておくことにしたい。太子町のさらにまたその西南の御津(みつ)町には、これも古代朝鮮との関係によって生じたものとみられる『播磨国風土記』には「韓荷島」、『万葉集』には「辛荷島」となっている唐荷島があるが、それはおいて、魚澄惣五郎氏の『鵤の太子・斑鳩寺』をみるとこうなっている。
山陽線姫路駅から西へ二つ目の網干駅に下車して竜野行のバスに乗り、北へ二キロメートルばかり行くと、西部播磨の広々とした沃野の中に、美しい古典的な三重塔が聳え立っている。これが、その昔、絢爛(けんらん)とした大和文化を移植してから、千年の法灯を今に輝かしている巨刹、斑鳩寺である。……
元来、播磨には聖徳太子所縁(ゆかり)の地に建立された古刹が二つあって、その一つがこの「鵤の太子」であり、今一つは、加古川市の「刀田の太子」すなわち鶴林寺である。河内の「上の太子」すなわち磯長(しなが)の叡福寺に対して、河内の野中寺を「下の太子」という如くに、播磨では、鶴林寺と斑鳩寺とが東西に相対している。
この斑鳩寺は私はこれまで一度しかおとずれていないが、大和の法隆寺やいまさっきみた鶴林 寺にくらべると、どこか雑然としたものとなっていた。かつての七堂伽藍は兵火のため焼失し、いまの講堂や三重塔などは近世に再建されたものということがあったからかもしれなかったが、しかしこれも聖徳太子ゆかりの古刹で、それは鵤という地名や斑鳩寺という寺院名によってみてもうなずける。
イカルガのこと
ところで、鵤(いかるが)といい斑鳩というと、われわれは大和・法隆寺のある斑鳩(いかるが)の里を思いだす。そのためか、播磨のこれは斑鳩寺(はんきゆうじ)と音読することになっているというが、しかしこれもやはりイカルガ(鵤・斑鳩)であって、このイカルガは伊勢(三重県)の四日市にもある。四日市も地名は鵤(いかるが)で、ここには寺院のかわり、『延喜式』内の古い伊賀留我(いかるが)神社が二つになってある。
松本清張氏によると、このイカルガ(鵤・斑鳩・伊賀留我)というのも、もとは韓泊などのカラ(韓)ということからきたものではないかとのことであるが、もしそうだとすると、播磨のこちらのその鵤にも古代朝鮮からの渡来人が早くから住みついていたものとみなくてはならない。これについては、魚澄氏も「衣縫(きぬぬい)の猪手の漢人(からひと)の刀良(とら)」などのことをあげてこう書いている。
衣縫といい、漢人といい、当然、帰化人と思われるので、既に、早い時代に、大陸から帰化した人々がこの地方に住んでいたことがわかり、この地方の開発が早かったことを想像させる。
未完成の石殿
さて、高砂市では阿弥陀町生石(おいし)の生石神社、別名「石の宝殿」をたずねた。巨大な石塊だった。橋本政次氏の『新播磨めぐり』をみると、「石殿は石英粗面岩、入口を上にし、西が棟で、基底方六メートル、基底から棟まで八メートル。この未完成の神殿をそのまま祭神として祭っている」とあるように、石塊は石塊でもただのそれではなかった。
「未完成の神殿」はやはり古墳の石室にしようとして手がけたものではなかったかと思われたが、どちらにせよ、それが生石神社の神体となっているものだった。そしてその「石の宝殿」は生石神社の「生石」ということとも関連があるにちがいなかった。
とすると、これはのちにみる淡路島生石崎の、天日槍を祭る生石(おいし)神社の「生石」とも関連があったものではなかったであろうか。天日槍を「国土開発の祖神」として祭る但馬における出石(いずし)神社の「出石」といい、それぞれに関連し合ったものではなかったかと思われるが、しかしそれ以上のことはわからない。
新羅神社をさがす
次は、姫路市四郷町明田にある新羅神社だった。とはいっても、私たちはその新羅神社がどこにあるかは知らなかった。『山陽ニュース』の井上さんがさがしだしてきてくれた『兵庫県神社誌』には、「村社 新羅神社/鎮座地 四郷村明田字下道居/〔播磨鑑〕在明田村」とはっきりあるけれども、それがどこなのかはわからない。
『兵庫県神社誌』は一九三八年の昭和十三年に発行されたものだったから、「四郷村明田字下道居」といっても、その村や字はもう姫路市となってなくなってしまっている。村や字がなくなったのはいいとしても、だったからもしかすると、そこにあった新羅神社もどこかに合祀となっているかもしれなかった。
そういうふうだったので、私たちはあまり自信もなく、いまは姫路市となっている四郷町明田のあたりをあっちへ行ったり、こっちへ行ったりして、それをさがしまわった。何人目かの人にきいてやっとわかったが、新羅神社はやはりそこにあって、密集した宅地のあいだにかろうじてその社殿の屋根をのこしている状態となっていた。
これという標識もなにもない、荒れはてたままとなっている社殿のところに立って振り返ってみると、前方のかなり離れたそこに意外なほど立派な石の鳥居が建っている。歩いて行ってみると、鳥居には大きな扁額がかかっていて、はっきり「新羅神社」と書かれていた。
「うむ、なるほど」と私はやっとその新羅神社を確認したわけだったが、そこからは近くに、播磨小富士ともよばれているという麻生山がぽっかりと立ち聳えているのが見える。その麻生山麓には麻生八幡神社があって、新羅神社のことをのせていた『兵庫県神社誌』に「異説」としてこうある。
〔播磨鑑〕新羅大明神 明田神社是也/糸引村鎮座ノ麻生八幡神社縁起ニモ右同様の事見エタリ。
してみると、麻生山麓の糸引村だったところにあるその麻生八幡神社も、もとは明田の新羅神社と同系列のものだったのかもしれない。「異説」となっているが、しかしこれからみるように、新羅神社というのは四郷町明田のそれだけではなかった。同系列のものはほかにもまだあるばかりか、この周辺はかつては「新羅国(しらくに)」だったところなのである。
明田の西南となっている白浜町の白浜(しらはま)ということにしても、浜辺が白いからなどというのではなく、これも新羅ということからきたものではなかったかと思うが、それはおいて、四郷町明田というところは古代では一つの中心地となっていたものらしい。近くには見野古墳群や見野廃寺跡などがあって、姫路市教育委員会がだしている『みんなで歩こう』という史跡案内をみると、それのことがこう書かれている。
見野古墳群
今、十基ほど残っているが、もとは、四郷小学校まで続いていたといわれる。五メートルの一枚岩で石室が作られたもの。一つの封土に二つの石室があるのもあって壮観である。
見野廃寺跡
四郷町見野にあり、現在は田の中に薬師堂を残すだけである。塔の礎石は、男山市民寮に移されている。それは長径一メートル、短径○・九メートル、高さ一メートルで、中央に柱穴がある。白鳳時代、この地の豪族が建てた私立の寺と推定されている。
白国(しらくに)=新羅国
私たちはその四郷町明田からこんどは、おなじ姫路市となっている白国の白国神社をへて、増位山自然公園の一部となっている広峯山の広峯神社をたずねた。まがりくねった急な坂道をたどって登ったところにある広峯神社は、明田の新羅神社とはちがって、豪壮な社殿を青緑の山中にそびえ立たせていた。
私はいま白国の白国神社をへて、と書いた。なぜそう書いたかというと、さきにみた明田の新羅神社などにしてもそうだが、白国神社にしろ広峯神社にしろ、これは一体のものとしてみるべきものだったからである。
たとえば、いま私たちが登って来た広峯山の東峰につづく増位山には、行基の開山とされている随願寺という古刹がある。この寺院のことを書いた魚澄惣五郎氏の「白国の随願寺」というのをみると、「白国は往古に、新羅国(しらくに)人が来往したので、この地名が起ったのであると伝えられている」とある。そして私たちが広峯神社でもらった「広峯神社由緒略記」には、そのことがさらにまたこう書かれている。
広峯山の内、白幣山(白幣峯とも云えり)と称する霊峯あり。古(いにしえ)はこの霊峯を主とし、此の辺一帯を新羅国(しらくに)山(新羅国の称は麓平坦の土地までにも及ぼせり)と称せり。
その「麓平坦の土地」である白国町にある白国神社は、「安産の神」として地元の人たちに親しまれているようであったが、神社本庁発行の『神社名鑑』によるとその「由緒沿革」のことがこうある。
景行天皇の皇子で国造白国家の始祖に当る稲背入彦命の孫阿曾武命が、其室高富媛命臨産の苦悩に際し、神吾田津比売神の神誨に依って阿良津命を安産した報賽として斎き祀ったに始まる。新羅国国主大明神の神号を賜い、又日の宮とも称せられたが、孝謙天皇の勅命により新羅国を白国と改め、白国氏が代々神主として奉祀し来った。
ここにみられる「阿曾」の曾(そ)は新羅の原号ソ、「阿良津」の阿良(あら)はのち新羅に併合された古代南部朝鮮の小国家安羅(あら)からきたものではなかったかと思われるが、それはどちらにせよ、白国が「新羅国」ということから出たものであることははっきりしている。すなわち、「白国は往古、新羅国(しらくに)人が来往した」ことによって生じた地名だったのである。
それがのち人名(姓)ともなったものであるが、するとその「白国家の始祖に当る稲背入彦命」とはいったいどういうもので、どこから来たものであったかということは、もういわずとも明らかであろう。だいたい神社・神宮の「由緒沿革」などというものはほとんど信ずるに足るものではないが、しかし広峯神社や白国神社のそれのように、どこかにその真実の姿をとどめているものもないではない。
「新羅国山」の広峯神社がさきにできたものか、その「麓平坦の土地」「新羅国」の白国神社がさきか、あるいはまた明田の新羅神社はいつか、それはわからない。わからないが、しかしいまは姫路市となっているそこら一帯がかつての「新羅国」であったということにまちがいはなかった。
なつかしき築地(ついじ)塀
したがって、それもかつては新羅国神社か新羅神社であったはずの広峯神社のあたりに見られる、古い築地(ついじ)塀にも私はあるなつかしさを感じないではいられなかった。そのような築地塀は朝鮮の故郷にいたときよく見たもので、その築地塀をもう一度横目にしながら、広峯山を下りはじめると、私はそのときになって気がついたが、眼下には夕景となった姫路平野が一望のもとにひろがっていた。
白国神社のある白国町や、新羅神社のあった四郷町明田などもそこにあって、「ああ、新羅国か」と、私は眼下の平野を見わたしながら、ひとりつぶやくようにして思ったものだった。かつてのそこには、これまでにみた神社をそれぞれの氏神として祭ったものたちがひろがって住んでいたはずであるが、それはいったいどういうものたちであったか。なかにはいわゆる首長となっていた豪族もあったはずで、私たちはこんどはそれをみることになった。
絢爛(けんらん)たる副葬品
私たちは広峯山をおりると、さいごに姫路高等学校をたずねた。そこにあるという、宮山古墳からの出土品をみせてもらうためだった。ちょうどそこには、宮山古墳発掘調査者の一人である同校教諭の松本正信氏がいて、私たちは松本さんからじかにそれをみせてもらったが、さきにまず一九七三年二月に姫路市教育委員会から出た『宮山古墳第二次発掘調査概報』からみることにする。
さて、宮山古墳は、古代姫路の中心として栄えた四郷町、御国野町を見降ろす恰好の地に位置し、一五〇〇年前の歴史の謎を秘めて永遠の眠りの中にありました。
しかし第一主体部は近年しばしば盗掘を受け、ほとんどの副葬品が散逸する状態にあったため、松本・加藤両調査員に依頼し、第二次調査を実施しました。その結果新たに第二主体部が発見され、副葬されていた一万余点の貴重な出土品はこの古墳の重要性と、一五〇〇年前の歴史を私達に教えてくれる機会となりました。
第二次調査によって新たにまた第二主体部が発見されたというのもおもしろいことで、それはこの地方にいまなお知られざる古墳がたくさんあるということをものがたるものでもあるが、それにしても「一万余点の貴重な出土品」とはたいへんなものだった。
私たちはその一部である金製の垂飾付耳飾や環頭太刀などをみせてもらっただけだったが、それこそは豪華絢爛、目をみはるものばかりだった。環頭太刀とは『万葉集』に「高麗(こ ま)剣」といわれているものであるが、四本もあるうちの一本は銀象嵌(ぎんぞうがん)までほどこした精巧なもので、よほどの大豪族でなければ、それを手にすることはできなかったはずのものであった。
一二・七センチもある金製の垂飾付耳飾にしても同様で、だいたい古代の当時、こういう耳飾りをするということ自体、今日のわれわれにとってはおどろくべきことだった。この金製の垂飾付耳飾は、朝鮮の新羅古墳から出土しているそれとそっくりおなじもので、私はまた思わず、「ああ、新羅国か」とこんどは声にだしてつぶやいたものだったが、そのことはいまみた『発掘調査概報』にもこう書かれている。
垂飾付耳飾は、全国的にもその類例が少なく、その手法は彫金技術を駆使したもので、当時の日本にそのような技術が存在したとはまず考えられない。渡来朝鮮人の製作とも考えられるが、それよりも純粋に朝鮮製のものと考えたい。
銀象嵌をほどこした「高麗剣」の環頭太刀にしても、おなじことだった。かれらはそれらのものを持って古代朝鮮から海を越えて渡来し、そうしてこの播磨の地にまたもう一つの「新羅国」を再現したのであった。つまり、それらのものを出土した宮山古墳は、『調査概報』も「推定」しているように、かれらによるそのような「姫路平野の政治的集団の長の墓」の一つだったのである。
淡路の生石(おいし)と先山(せんざん)
姫路城も朝鮮の建築法
播磨全体としてはもちろんのこと、姫路にしても行ってみたいところはほかにまだたくさんあった。たとえば、これも天日槍に関連したものと思われる姫路市本町の射楯兵主(いだてひようず)神社などであるが、それからまた、こういうこともある。
姫路といえば、われわれにまず思いうかぶものといっていい姫路城がある。白鷺城ともいわれる秀麗な城であるが、この姫路城について私は、姫路で少年時代をおくり、いまは故人となった作家の阿部知二氏から次のような手紙をもらっている。
じょう舌ついでに蛇足を加えます。先日この病床で見たテレビに大阪城の石垣造りというのがありました。ふたりの学者の話でした。石垣の技術は主として近江の穴太の人たちがつかさどり、瀬戸内海からの石の運搬および主要な労務は、その内海の石工たちがおこなったということです。
内海では彼らは棚田の石を積んだり、塩田の築造をしたりする技術を持っていたというのでした。しかし近江の人にしろ、内海の人にしろ、それが行基の世にさかのぼるべきものであり、また山城の構築にさかのぼるべきものであるとは、ふたりの学者はいいませんでした。考えてみれば、灌漑、開拓、寺社の建築ばかりか、さらにぼくは姫路城修復の技官に聞いたのですが、あのような城は朝鮮の建築法によるものだということでした。
「近江の人にしろ、内海の人にしろ、それが行基の世にさかのぼるべきものであり、また山城の構築にさかのぼるべきものであるとは」というのは、それがいずれも朝鮮から渡来したものの技術伝統によるものだということであるが、姫路城までが「朝鮮の建築法によるもの」だとはどういうことか。私もはじめて聞いたもので、これなども姫路城をたずねて調べてみるとおもしろいのではないかと思うが、しかしそれではきりがないので、播磨は一応これまでとし、次なる淡路へうつることにした。
淡路島通ふ千鳥の啼(な)く声に
幾夜寝ざめぬ須磨の関守
というのが小倉百人一首にあったが、淡路へは、神戸のその須磨から出ているカーフェリーに乗ると約一時間で着いた。このときも京都の鄭詔文や考古学者の李進煕らがいっしょで、私たちは着港地の東浦から一路南下して洲本(すもと)へ向かった。
断崖中腹の小祠
私と鄭詔文とはさきにも一度、淡路へ来たことがあって、そのときは洲本市由良の生石(おいし)崎にある生石神社をたずねた。さきにみた播磨の高砂市阿弥陀町生石にある生石神社(石の宝殿)とはどういう関係にあるのかわからないが、「現在の淡路島由良にある古社、生石社はアメノヒボコをまつっている」と西尾牧夫氏の『瀬戸内海に残る朝鮮伝説』にもあるように、こちらの生石神社は新羅系渡来人集団の象徴となっている天日槍を祭ったものであった。この生石神社のことは、今井啓一氏の『天日槍』にも書かれていてこうある。
而して国史見在社の最古第一とすべきは、実に兵庫県淡路国、いまは洲本市に入る旧津名郡由良(ゆら)町の生石(おいし)崎に鎮座する生石社であり、この生石社鎮祭のことは垂仁紀八十八年条に見える。
わたくしは昭和三十四年十月、親しくその地を訪ねて景観を察し、地方人の伝承を聞き、かつ諸地誌などをも調べ、いささか勘考してみたのであった。……
さてこの生石社は現在、淡路島最東端の尖端、佐比(さび)山(一二一メートル)の東南麓、太平洋に面した断崖中腹に鎮座する。
ここに至るには、洲本からバスで南し、或いは汽船で由良港に上陸し、由良の町からさらに約二十丁南すると自衛隊の電探基地と生石テント村へ行く小径が岐れる。後者への小径をなお行くと夏期のみテント村が開設されるというが、平素はごく平凡な海浜の林間である。
このテント村の地域を出はずれると、太平洋の波濤の逆まく崖下に出る。この崖下の波打際をようやく引汐時をみはからいつつ、西南へ数町、脚下を太平洋の荒波に危くぬれながら急ぐと、やがて海浜のやや平坦地がある。ここから山裾を見上げるとコンクリートの石段が設けられ、木の間がくれにお粗末な木の鳥居と小祠が見える。……これ実に、
生石社
である。
いまこの生石社は、夏期、生石テント村への来訪者も訪ねず、付近に人家も殆んどなく全く忘れられているようであるが、毎年十月十五日頃、付近の漁民らが船に乗ってここに至り、僅かに祭典を行うと聞いた。国史見在社の最古第一、生石社の現状は洵(まこと)に湮滅(いんめつ)に近しというべきである。
まさに、今井氏の書いているとおりであった。私たちも切り立った「崖下の波打際をようやく引汐時をみはからいつつ」「脚下を太平洋の荒波に危くぬれながら」そこまで行ってみたのだったが、その生石神社はもうそれこそ見るかげもない小祠となっていた。
それにしても、太平洋を眼下にしたこんな断崖のうえに、どうしてこんな神社が祭られるようになったのか、と私は思わないではいられなかった。かつてとは地形が変わってしまっていて、そこは山上の平坦地であったのかもしれない。が、それだったとしても、太平洋の海を見おろすところだったことに変わりはなかったはずである。
太平洋の海といっても、そこは紀淡海峡となっているところで、その海峡と天日槍とはいったいどういう関係にあったのか。もともと天日槍とは、その海を渡って来た新羅系渡来人集団の象徴となっているものであるが、しかしそれだからといって、いつまでもその海を見守りつづけていなくてはならないものではなかったはずである。
「だいいち、こんなところでは寒いよね」と鄭詔文は言ったものだったが、その鄭ともいっしょにふたたびまた淡路をおとずれることになって、こんどもできたらまたもう一度、その生石神社をたずねてみたいものと思っていた。しかしそうだとしてもこんどはまず、洲本市に住んでいる鄭承博氏に会ってから、ということにした。
『裸の捕虜』の作者
鄭さんはその長編小説『裸の捕虜』が第十五回農民文学賞となった作家で、私もまだ会ったことはなかった。しかし手紙はやりとりしたことがあって、前夜は電話で明日たずねるからと話しておいたのだった。
それからまた私は、洲本高等学校の教諭で淡路考古学研究会をつくっている波毛(はけ)康宏氏から、「淡路にも朝鮮との関係を物語る生石神社や、幡多、阿那賀などという地名も残っています。もし淡路へこられたら……」という手紙をもらっていたが、この波毛さんもその住居が洲本であった。
いうまでもなく淡路は瀬戸内海にうかぶ島で、かつては志摩、壱岐(いき)、対馬とともに「下国」とされていた小さな分国だった。だが、山あり谷ありの相当大きな島で、これは佐渡や対馬などでも実感したことであるが、そこまで来てみると、私たちは海上の島に来ているという気が少しもしなかった。
いまは大阪湾寄りの海岸線に国道二八号線がとおっていて、それが途中の洲本から西南端の福良までのびていたが、途中の洲本までにしてもなかなかの距離だった。私たちはさらにまたその途中の津名(つな)町志筑(しづき)で町の教育委員会をたずねたりしたものだから、洲本に着いてみるとあたりはもう夕暮れとなっていた。
私たちは、それまで昼食をとっていなかったということもあって、ひとまずそこに見えた「すし屋」さんに入って腹ごしらえをしながら、洲本市の大野というところに住んでいる鄭さんに電話をした。鄭さんは心待ちにしていてくれたらしく、すぐにそのすし屋まで来てくれた。
鄭さんは五十前後の、引き締った体をしている人で、一目で「ああ、この人も苦労した人だなあ」と私は思ったが、なにはともあれ、おなじようなことで日本にいる同胞のよしみというか、私たちはすぐに打ちとけ合った。そしてまた鄭さんがやって来てみると、そこのすし屋さんと鄭さんとは顔なじみであったばかりか、しかも何と、鄭さんの奥さんが経営にあたっている喫茶店もそこからすぐ近くにあるというのだった。
洲本市というのは淡路島東南端の由良までをも含む広い地域にわたっていたが、偶然、私たちは鄭さんのその近くにまで来ていたわけだったのである。そしてさらにまた、私が会ってみたいといって口にだした洲本高校の波毛さんのこともよく知っていて、
「娘の行っていた高校の先生ですよ。あとで電話をして、家内のやっている喫茶店に来てもらいましょう」と、鄭さんは言ってくれた。
「おどろきましたなあ。鄭さんはこちらでは、ずいぶんお顔が広いようですね」とおなじ鄭姓の鄭詔文は言ったが、それはなにも淡路や洲本は狭いところだから、ということだけではなかったはずである。
それこそは鄭さんの書いた小説の題名のように『裸の捕虜』であった在日朝鮮人としての彼が、この淡路島に住みついてきた長い歴史をものがたるものにちがいない。鄭さんは川柳作家としてはつとに有名で、その作品には、「妻からのマッチは/いつもとんでくる」「大声で呼べない人が/振り向かず」といったものとともに、「手の傷は土方のときの/人生譜」といったものがあることからもわかる。
「ひとところに三十年も四十年も住んでいますと、土地のものとはたいてい顔見知りになりますからね。もちろん、悪いこともみんな知られています」と鄭さんは笑って、さらにまた語をついで言った。
「それでかどうか、近ごろは、近くの白鬚(しらひげ)神社はいいとして、遠くの由良にある生石神社からまで、こちらの神さんは朝鮮からの神さんだからといって寄付を求めてくるのですよ。これはどうも、金さんの影響じゃないかと思うんですがね、はっはは……」
「ほう、こちらにも白鬚神社があるんですか」と私は言った。生石神社のことは知っていたが、それははじめて聞くことだった。
「ええ、あります。わたしの住居がある大野というところですが、窓を開くとみえる先山(ソンサン)のこちらです」
「なに、先山(ソンサン)の……」
「ええ、先山(ソンサン)です」と、鄭さんはちょっと、とりすましたような顔をした。
「へえー、先山(ソンサン)ね」と横から、鄭詔文が溜息をつくようにして言った。「するとあなたは、いよいよこの淡路島に、あなた以下代々の骨を埋めることにしたというわけですか」
しかし、これは私たちの早呑み込みだった。私たち、というより私は、淡路へくるからにはあらかじめその地図くらいよくみてくるべきだったのに、それをしなかったものだから、鄭さんのそれにまんまと引っかかってしまったのである。
要するに、朝鮮語と日本語とのなせるユーモアで、先山(ソンサン)は先山にちがいなかったが、知ってみるとそれは淡路富士ともいわれる、淡路では三番目に高い先山(せんざん)のことだった。それを朝鮮語で「先山(ソンサン)」といわれたものだから、私たちはてっきり、鄭さんが自分一家のそれとして用意した「先山」と勘ちがいしてしまったのである。ちなみにここで、手元にある文世栄氏の『朝鮮語辞典』を引いてみると、それはこうある。
「ソンサン〔先山〕祖先の墳墓のあるところ。先塋」
朝鮮人ならたいていだれでも知っていることで、それだったからまた、鄭さんはそれをわざと朝鮮語で言って私たちをまどわしたのだった。一同大笑いとなっておしまいとなったが、しかしよく聞いてみると、淡路のその先山も朝鮮でいう「先山(ソンサン)」でなくもなさそうだった。
出浅邑(いずさのむら)をたずねて
先山と千光寺縁起
前夜は、淡路考古学研究会をつくっている洲本高校の波毛さんとも会っていろいろ話した。そして私たちは翌朝、白鬚神社もそこにあるという洲本市大野の鄭さんの家に寄って、直線距離にすると二キロほどさきのそれが借景ともなっている、よく晴れた天空のもとにきゅっと屹立(きつりつ)している淡路富士の先山(せんざん)をみた。形のよい山で、「あれが淡路・鄭家の先山(ソンサン)だ」と言って私たちは笑ったが、その山にはいろいろな伝承がまつわっていた。
だいたい淡路島というのは、『古事記』に伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の二神がつくったとある淤能碁呂島(おのごろじま)ではないかともいわれるものだったが、あとで知った鈴木亨氏の『神話と伝承の淡路島』をみると、先山のことがこう書かれている。
洲本から先山(せんざん)に向かう。洲本市街の西北方にそびえ、淡路富士の異名をもつ淡路第三位のこの山は、イザナギ、イザナミの二神が天の沼矛で海中をかきまぜたとき、矛の先から最初にしたたり落ちて固まった山だという。先山の名もそこから起ったといわれている。
「天の沼矛」とは天沼矛(あめのぬぼこ)、これも『古事記』にいう天之日矛(あめのひぼこ)、すなわち『日本書紀』の天日槍(あめのひぼこ)を思いださせる。その天日槍も淡路とは関係があるからだが、しかしそれはおいて、鈴木氏のそれをもう少しみることにする。
頂上まで羊腸の自動車道ができていた。舗道は途中で切れ、あとは凸凹のはげしい急坂である。その道を横切る蛇の姿におどろかされたりしながら頂上につくと、延喜元年(九〇一)創建という古刹、千光寺があった。
大師堂と庫裡の前を抜けて仁王門をくぐると、右に三重塔、左に鐘楼を配して、古色をただよわせる本堂が静かなたたずまいを見せていた。本堂前に一対の狛犬がある、とみたのはじつは猪であった。この猪には千光寺の縁起譚がからんでいる。
同寺の縁起譚によると、延喜元年、播磨国上野の深山に為篠王(いざさおう)という大猪が出現した。猟師の忠太という者が山中に入ってこの猪を射たが、猪は傷を負いながらも海を泳いで淡路に渡り、先山に逃げこんだ。忠太が血の跡をたどってなおも追うと、大杉の洞が光を放っている。のぞいてみると胸に矢をうけた千手観音像があった。おどろいた忠太はこれまでの殺生を後悔し、その場で発心して髪を剃った。そして名も寂念とあらため、千手観音像を安置する精舎を建立、千光寺と号したという。
これらの伝承と縁起譚(だん)だけでは先山が、「祖先の墳墓のある」先山(ソンサン)とはいえないようである。しかし、その山のどこかにもし古墳があるとしたらどうであろうか。
人の移動のことをそのようにものがたったものとみられるいまみた千光寺縁起譚の「為篠王(いざさおう)」という大猪の説話からすると、そういう古墳がなかったとはいえないような気がする。波毛さんにきいてみたところ、古墳は発見されてないけれども、先山の頂上には古い祭祀遺跡があって、それから祭器の高坏(たかつき)が出土しているという。
荒れはてた白鬚神社
祭祀遺跡があるからには古墳もあったにちがいないと私は思うが、それはともあれ、私たちは鄭さんとともに、その先山のこちら、大野にあるという白鬚神社をたずねることにした。たしかにそこには白鬚神社があって、かつてはかなり大きな神社だったと思われたが、いまは荒れたままになっている。「朝鮮からの神さんだから」と言って鄭さんに寄付を求めた武田さんという宮司は、他の神社との兼任でそこにいなかったばかりでなく、社務所になっていた建物も空家となって久しいようだった。
要するに新羅明神として祭られたはずのこの白鬚神社も、由良の生石崎にある生石神社とおなじように、「現状は洵(まこと)に湮滅(いんめつ)に近しというべき」であった。そこで李進煕は、鄭さんに向かって笑いながら言った。
「どうです。年に一度か二度の祭りのときだけでなしに、あなたは一つ思いっきり寄付をして、わが新羅明神ここにありと、この神社を復興しては――」
「いやいや、わたしにしても、とてもそんな神さんにまで手はまわりませんよ」と鄭さんは、その手をあげて半分白くなった頭を掻いた。
出浅(いずさ)はいずこ
ついで私たちは、千草川沿いの築狭(つきさ)神社にいたった。なぜかというと、さきにみた今井啓一氏の『天日槍』にこうあったからである。
生石崎の辺も恐らくその出浅邑(いずさのむら)の一部であり、早く槍〈天日槍のこと〉の党類が盤踞していたのであろう。出浅邑の位置については判然しないけれども、淡路国津名郡、式内旧村社築狭(つきさ)神社の鎮座する、即ちいま洲本市に入る旧千草村大字築狭の地を含む旧物部(もののべ)郷の名のある一円かと考える。出浅(いずさ)・築狭(つきさ)は音近い。
ここにいう「出浅邑」とは『日本書紀』垂仁三年条に「播磨国宍粟邑(しさわのむら)」とともに、天日槍に関連して出ている「淡路島の出浅邑」というそれである。しかし、そこにある古いたたずまいの築狭神社をみただけでは、はたしてそこが出浅邑であったところか、どうかはわからない。
というのは、その出浅邑についてはほかにまた二説があったからである。一は淡路島の津名町志筑であり、二は五色(ごしき)町の都志である。それで私たちは前日、洲本へくる途中にあった津名町の教育委員会に立ち寄ったりしたものだったが、しかしそこでもらった津名町史談会編『津名町風土記』をみても、志筑と出浅邑との関係はなにも書かれていなかった。
そうだったので、私たちは築狭神社のそこでちょっと立ちどまった。私と鄭詔文とはさきにみていた由良の生石神社は省くとしても、淡路島の西南端となっている西淡(せいたん)町の阿那賀か、それとも天日槍に関連した出浅邑はそこだともいう説のある五色町の都志をたずねるべきか、と迷ったのである。
両方とも行けるといちばんいいのだが、距離と時間との関係で、どちらか一つをえらばなくてはならなかった。西淡町阿那賀の阿那とは、近江(滋賀県)などにおけるその「阿那」とおなじく、これも天日槍に象徴される新羅系渡来人集団がそこからやって来たとみられる、古代南部朝鮮の小国家安那(アナ)(安羅)から出たものではなかったかと思われたからだった。
あるいはそうでなかったとしても、この阿那賀というのはたいへん由緒のあるところのようで、前夜、洲本高校の波毛さんからもらった『淡路遺跡地名表』をみると、ここにはたくさんの古墳があって、その数はじつに三十余基である。そして勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、須恵器(すえき)などを出土しているという。
だが、私たちは結局、三原町の淡路国分寺跡をへて、淡路島の胴腹となっている、播磨灘に面した西海岸の五色町都志に向かうことにした。神戸までの船の時間をみると、とても阿那賀まで行ってみることはできなかったからである。
慶野(飼飯)の海
私たちのクルマは西海岸に出て、その海岸線に沿ったしずかな白い道のうえを走っていたが、五色浜という景勝地にいたる手前の途中に、慶野(けいの)というところがあった。そこで私は司馬遼太郎氏の『街道をゆく』「明石海峡と淡路みち」にあった「飼飯(けひ)の海」のことを思いだしたが、そこにこういうくだりがある。
「慶野(けいの)というのが地名ですか」
「地名は慶(けい)という一字だけだと思いますけど」
と、いい加減に返事したが、帰宅して調べると、やや当っている。しかし当ってもいないのは古音はケイではなくケヒで、本来、飼飯(けひ)という漢字があてられていた。筒飯野(けひの)とも書く。飼飯(けひ)という文字の当て方は『万葉集』にも出ているそうだが、ここでは調べるのを怠っておく。
飼飯という普通名詞は、猪(ぶた)などを飼ふことという意味であることは、ほぼまちがいない。『時代別国語大辞典』(上代編)の「け」(食)の項をひくと、「飼は(中略)飯を伴って、ケヒを写すのに用いられている」というから、要するにぶたなどを飼うということであろう。
ぶたは、上代、朝鮮半島からの渡来人の渡来の波の密度が濃かったころ、摂津に猪飼野(猪甘(いかい))や伊勢に猪飼という上代以来の地名がのこっているように、ところどころで飼われていたらしい。
ここにいう『万葉集』にも出ているそれというのは、
飼飯(けひ)の海の庭好くあらし刈薦(かりごも)の乱れ出づ見ゆ海人(あ ま)の釣船
飼飯(けひ)の浦に寄する白浪しくしくに妹(いも)が容儀(すがた)は念(おも)ほゆるかも
というものである。これは武田祐吉校註の『万葉集』によるもので、その脚註をみると、これはどちらも淡路の「飼飯の海」「飼飯の浦」をうたったものということになっている。
ところで、この「飼飯の浦」というのは司馬氏も書いているように、越前(福井県)の敦賀にもあったものである。すなわち『日本書紀』垂仁二年の条にみられる「越国(こしのくに)の笥飯(けひ)の浦に泊(とま)れり」というのがそれで、これも天日槍とおなじ新羅系渡来人集団の象徴となっている都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の渡来に関連した地名となっている。
そして、こちら敦賀のそれは、いまでは気比(けひ)の松原、気比神宮の「気比」となってのこっている。気比の松原は白砂青松の景勝地として知られているが、北陸総鎮守とも称している越前国一の宮の気比神宮も有名なもので、これの主祭神は伊奢沙別命(いささわけのみこと)、すなわち天日槍である。
この伊奢沙別命の天日槍は別にまた気比大神ともいわれ、これは北陸はもとより、私が知っているだけでも但馬(兵庫県)、筑前(福岡県)にまでひろがっている。敦賀とともに、こちら但馬の豊岡市にも気比というところがあって、そこに気比神社が祭られている。
「飼飯」というのが猪(ぶた)などを飼うということであったかどうかは知らないが、いずれにせよ、これが天日槍を象徴とする新羅系渡来人集団と関係があったことはまちがいないようである。もちろん、かつては百済野・百済郡だった摂津(大阪)、今日の大阪市生野区に「猪飼野(いかいの)」というところがあったように、ひとり新羅系のそれのみではなかったであろう。しかし、「飼飯」「気比」というのは新羅系の渡来人集団、すなわち天日槍と結びついているもののようで、淡路の慶野の「慶(けい)」にしてもそれだったにちがいない。というのは、さきにふれた志筑とともに、天日槍にかかわる「淡路島の出浅邑(いずさのむら)」ではなかったかとされている五色町都志が、その近くでもあったからである。
逆にいうと、その近くに慶野の「慶」というところがあることからして、その都志こそ「出浅邑」ではなかったかということにもなるが、しかし都志にそれらしい遺跡はなに一つのこってはいないようであった。私たちは五色町の教育委員会をたずねて、そこに居合わせた教育長の増田博氏らにあれこれときいてみたけれども、それはさっぱりだった。
要するに、『日本書紀』の天日槍にかかわる「淡路島の出浅邑」とは津名町の志筑、五色町の都志の二説があり、またもう一つ、今井啓一氏の築狭(つきさ)神社の築狭があるが、それがどれであったかは、結局、わからずじまいとなった。私たちは五色町から、一宮町の多賀にある伊弉諾(いざなぎ)神社をへて帰途についた。
吉 備・安 芸
美作のタタラ遺跡
「砂鉄のみち」をゆく
吉備(きび)とはのちに備前(びぜん)・備中(びつちゆう)・備後(びんご)・美作(みまさか)となった四国の古称であるとともに、総称でもある。いまは岡山県から広島県とにまたがった地となっているが、このうちの美作からさきにみることにした。
私がはじめてその美作をたずねることになったのは一九七五年一月のことで、どういうぐあいでそうなったかは忘れたが、『週刊朝日』に『街道をゆく』を書きつづけている司馬遼太郎氏の一行といっしょだった。多分、司馬さんは『街道をゆく』うちの「砂鉄のみち」を書くことになり、出雲(島根県)から中国山脈を越えて美作をもたずねると聞いたので、では私たちもその機会に、ということではなかったかと思う。
『街道をゆく』の挿絵をかいている画家の須田剋太氏や、『週刊朝日』編集部の人たちから成る司馬さんの一行と、これまた、京都で『日本のなかの朝鮮文化』を発行している鄭詔文や考古学者の李進煕がいっしょの一行となっていた私たちとは、一月六日の朝、大阪の伊丹空港で落ち合った。そして合流した私たちは鳥取の米子(よなご)空港に着くと、その足でただちに出雲の安来(やすぎ)にある和銅記念館へ向かった。
まず、砂鉄というものがどのように精錬されて鉄となるのかということを知るためだったが、これにしてももちろん、「砂鉄を吹いて鉄にする技術は、おそらく古代、朝鮮半島からその技術者とともに出雲などにやってきたものであろう」と司馬さんもその『街道をゆく』の「砂鉄のみち」に書いているように、古代朝鮮からの渡来文化と密接な関係があった。
国境いの絶巓(ぜつてん)で
しかもそれは出雲にその伝承と遺跡とをもっとも濃厚にのこしている、いわゆる素戔嗚尊(すさのおのみこと)とも関係の深いものであるが、しかしそのことについては、いずれ出雲などの山陰をたずね歩くときのことにして、ここでは美作におけるそれだけをみることにする。私たちが出雲をへて、中国山脈の四十曲(しじゆうまがり)峠を越えて美作入りしたときのくだりを、司馬さんは『街道をゆく』「砂鉄のみち」にこう書いている。
車中で地図をみると、河口から三十キロほどさかのぼったあたりに、日野町がある。その字(あざ)として、根雨(ねう)という地名があり、いずれもこのあたりは旧分国でいうと伯耆(ほうき)国である。その根雨の里から枝道が東の美作(みまさか)国(岡山県北部)の方向へ出ていて、古来、この山道は出雲街道とよばれ、太古以来の道である。車が根雨のあたりまできたとき、運転手さんが、
「ここからは大変な山道です」
と言い、ガソリン・スタンドに入って、チェーンを巻いたほうがいいかどうか、と質問している様子だった。やがてもどってきて、
「大丈夫だそうです。よかったですよ、雪が降ればとても」
といって、左折した。
根雨は、このあたりの屋根ともいうべき四十曲峠の西麓にあたる。地図でみると峠まで十五キロもある。長大な峠みちといっていい。
幸い、道路はよく乾いていて、タイヤが舗装道路にひたひたと吸いついている。
車内でひと眠りした。
目が醒めると、車がとまっている。四十曲峠の上だった。車のまわりの夜景が変にしろじろとしていて、よく見ると路傍に除雪された雪がたかだかと掻きあげられていた。車の前照灯が、大きなトンネルを照らし出していて、いかにも国境いの景観である。
車外に出て息を入れると、谷むこうの星座を負って金達寿氏が立っていた。用を足しているようだった。
金達寿氏は地理感覚のするどい人で、このときもべつに地図を頼るでもなく、
「このトンネルを越えれば因幡(いなば)かな、いや美作だな。とすると、ここが伯耆の西のはしで、要するにわれわれは両国の国境いの絶巓(ぜつてん)の上に立っているわけだ」
と、いった。
編集部のHさんも路傍の雪にむかって、凝然としている。私も用を足すためにならぶと……。
夜だったとはいえ、大の男が六、七人も峠の「絶巓」に立ちならんで、「用を足している」さまは、ある意味では実に人間的景観ともいえなくはなかった。しかし私を「地理感覚のするどい人で」としたのは、司馬さんの完全な見立てちがいであった。別にけんそんするわけではなく、私はその「地理感覚」はまったくダメな男なのである。
美作の新羅文化
それはともかく、私たちはこうして美作に入り、この夜はたしか湯原(ゆばら)温泉なるところで一泊した。そして翌朝、私たちは苫田(とまた)郡の加茂町へ向かって行ったが、ここで美作にはどういう朝鮮文化遺跡があるか、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」をみるとそれはこうなっている。
古墳としては「子持高坏(こもちたかつき)」を出土した苫田郡鏡野(かがみの)村のそれと、「袋形提瓶(ていへい)」を出土した久米郡三保村綿成のそれとがあげられているほか、「文献より見たる帰化人居住の分布」として次のところがあげられている。
(郡郷不詳) 白猪史胆津
(同) 白猪臣大足
苫東郡 綾部郷
久米郡 倭文郷
同 秦豊永
大庭郡 白猪臣証人
勝田郡 家部国持
『続日本紀』神護景雲二年の条に出ているという家部国持はどういうものだったか知らないが、白猪史(しらいのふひと)や臣、秦豊永など、これはみな新羅系の渡来人とみられているものたちである。こうしてみると、いまは苫田郡となっている苫東郡の綾部郷や、久米郡の倭文(しとり)郷にはどういうものがいたかわからないけれども、この美作にも新羅系のそれが相当分布していたものとみられる。
もっとも、そのことは、司馬さんが『街道をゆく』「砂鉄のみち」にこう書いていることからもわかる。
記紀や播磨風土記に記載されている天日槍(あめのひぼこ)も、その一族とともに渡来し、但馬に居をさだめたという。天日槍を祀る神社が但馬、播磨に多いが、この古代人についての説明は、普通、日本列島への鉄器文化の伝来を人格化したものとされる。伝説にいう天日槍とその一族がもつ古代製鉄技術は播磨を中心にひろがり、考古学的には播磨製鉄圏の円周内にあるこの美作国にもつよく影響した。
万灯山古墳
私たちが美作の加茂町をおとずれることになったのも、それがどのように「つよく影響した」かをみるためにほかならなかった。加茂町では町文化財保護委員会委員長の福原美保治氏や、町教育委員会社会教育課長の頭士倫典氏らに会って、町役場発行の『みまさか・かも』とした「加茂町勢要覧」や文化財保護委員会がだした『万灯山古墳』などをもらい受けた。
そして福原さんらともども、あちこちと見て歩くことになったが、まず案内されたのは加茂町塔中にある万灯山古墳だった。町はずれにぽかっと盛り上がった相当大きな古墳で、そこに登ってみると、木の間をすかして加茂の町が眼下にあった。
加茂で現在までに確認された古墳の数は、三十数基ある。その中で万灯山古墳が最大なものである。子供のころ、万灯山の火の釜に腹這いで中に入られた人もかなりあると思う。千数百年積り積った穴の土を取出してみて、今更この構築物の巨大さに驚かされる。
『万灯山古墳』にこう書かれているが、六世紀後半〜七世紀ころのものとみられているこの古墳からはたくさんの須恵器、勾玉、管玉、耳環などとともに、太刀類や馬具なども出土している。よくみられる朝鮮式の横穴石室古墳であるが、これにしても、加茂町にさかんだった古代のタタラ製鉄、その製鉄技術をもった集団とけっして無関係ではなかったはずである。
「カナクソの山」
だが、『街道をゆく』「砂鉄のみち」をたずねていた司馬さんにとっては、この古墳を見ることはちょっと横にそれたものであったかもしれない。司馬さんがみたいとしていたのは古代のタタラ製鉄遺跡だったが、しかしそれについては、この加茂町の人たちはほとんど無関心に近いようでさえあった。
というのは、そんなタタラ遺跡などこの町では少しも珍しいものではなく、その辺のどこにでもあるようなものだったからである。「わたしたちの子どものころは」と、文化財保護委員会委員長の福原さんもこう言った。「そんなカナクソ石なぞ、あっちこっちどこにでもごろごろしていたもんです」
「カナクソ」とは製鉄遺跡にのこされた鉄滓(てつさい)のことで、それを「カナクソ」といっているのもおもしろかった。で、私たちはその「カナクソ」をみに行こうということになったが、これについては、司馬さんが『街道をゆく』「砂鉄のみち」に書いているそれをみたほうが早い。
加茂中心部から智頭街道を二キロゆき、左(北方)へ入る小さな道をたどって五キロほど奥に入ると、桑谷という山間の台上に出る。
さらに徒歩で野道をわけてゆくうちに、林と畑が入りまじる一角に広大なタタラ遺跡があった。野道にころがっているまるい小石も、よく見ると小石ではなく、鉄サビ色のカナクソであった。かたわらに松林の小さな丘がある。丘かと思ったが、そこはカナクソの一大堆積地で、長い歳月をへてその上に土砂や腐葉土が厚くかぶり、さらにそれへ草木がはえているために丘と見まちがえてしまったのである。
まさにそのとおりで、私もそれをはじめは小さな丘だと思ったものであるが、そのカナクソ山のうえに草木が生えているというのも一つの奇観だった。これだけのカナクソ、すなわち鉄滓が堆積されたからには、いったいどれだけの製鉄がここでおこなわれたのだろうか、とも思わずにはいられない。
だが、それについての記録はなに一つとしてのこってはいない。現代もそうだが、とくに、古代においては鉄というものがどういう役割をはたしたものであるか、それはもういうまでもないことなのである。しかしにもかかわらず、どういうわけか、その製鉄にたずさわったものたちとともに、そのことはまったくといっていいほどわかってはいないのである。
タタラの「饅頭」
それはいったいどうしてなのか、と私たちはそんなことを言い合いながら、さらにまたこんどは加茂町黒木の、案内をしてくれていた福原さんの家近くとなっている林道の切通しへつれて行かれたが、そこがまたタタラ遺跡だった。これについても、司馬さんの書いているそれをみたほうがいい。
しかしこの林道の開鑿(かいさく)は、意外な副産物をもたらした。
路幅をひろげるにあたり、山の奥にむかって左手の大きな隆起――松やカシの雑木山――を大きく削って崖(がけ)にした。
その崖から、山の内臓がめくりだされるようにして、タタラ遺跡が露呈したのである。
ちょうど、皮の厚い嫁入り饅頭(まんじゆう)を二つに切ったように、つまりはアンコのように――さらにいえば粒(つぶ)あんのようにして――タタラ遺跡があらわれた。
松やカシがはえている地表――饅頭の皮――のあつさは、五十センチほどである。その下に、断層をなすように、幾層もカナクソの層が露出している。
私は、手をのばしてその一つを土の中から抜きとった。河原の丸い小石状のものもあれば、気泡の入ったギザギザのものもある。どれもが粗悪な鉄のかたまりであるために、掌にのせると、石よりもずっと重味がある。
「こういうものが露(あらわ)れるとは、予想もしませんでしたなあ」
と、福原さんは、少年の日に遊んだ山が、大規模なタタラ遺跡を秘めていたことに、いまも感動がつづいているようである。この遺跡は、いうまでもなく、福原さんが発見した。
断層をよく見ると、直径十五センチもある大きな切り炭が、象嵌(ぞうがん)されたように土にはめこまれている。色も、たったいま出来あがったばかりというつややかな新品の感じで、それも一つや二つでなく、大小無数に崖肌(がけはだ)からのぞいて、見ているうちに体がふるえてくるような凄味さえ感じられた。
この崖肌の遺跡は、かぶっている土の厚さから想像して、千年や千五百年は経っていそうに思われた。
子供のころからタタラ遺跡に関心をもちつづけておられる福原さんも、
「これは、古代のようですな」
と、おなじ感想を洩らされた。
いっそ、六世紀、七世紀のものであるとすれば、万灯山古墳に眠っていたこの加茂谷の大豪族の経営していたタタラであるかもしれず、とすれば――と想像の上に想像を積みあげるようだが――このカシと松の山を、多数のムラゲ技師長以下の製鉄作業員や、炭焼き、炭運びなどを指揮しつつ山の小径(こみち)を歩いている古代の盆地の王者までが目にうかんでくるようである。
かれが使っていた製鉄の技術用語は、おそらく新羅語かなんかであっただろう。朝鮮半島の技術が伝わってきた以上、技術用語は当然ながらかの地の言葉なのである。ひょっとすると、後世まで残存かとも想像したりするが、それが立証されるには、言語学にあたらしい方法が開発されて、しかも日本と朝鮮においてそれがよほど発達しなければ、どうにもならないことかとも思える。
「さいきんの町民生活」
加茂を離れることになって、私はあらためてまたもう一度、『みまさか・かも』とした「加茂町勢要覧」を開いてみた。だいたい加茂町というのは岡山県でも最北部にあたる山間の小さな町であったが、古代にさかんだったタタラ製鉄と関係があってかどうか、全体としてはわりに裕福な町だった。
『みまさか・かも』には「さいきんの町民生活」というたいへん気の利(き)いた絵入りの統計表があるので紹介しておくことにするが、これによると一九七三年の昭和四十八年四月一日現在、町の人口は七、二三八人で世帯数は一、八六二となっている。そして自動車は一戸に○・八台、テレビは一戸に一・三台、電話は一・一戸に一台というぐあいになっており、新聞がその電話とおなじ一・一戸に一部となっているのもおもしろい。
津山の百済さん
百済さんに電話する
私たちは、やがては吉井川となるはずの加茂川に沿って南下し、津山から岡山へと出てこんどの旅をおわることにしていた。そろそろ津山盆地かと思える平野にさしかかると、そこに綾部というところがあった。
さきにみた斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」の「綾部郷」だったところにちがいなかったが、しかし私たちはそのままとおりすぎて津山市内に入った。そしてあるドライブ・インに寄り、みなそれぞれコーヒーなどとって、しばらく休憩することにした。
なにしろ、国鉄の岡山駅まではまだまだかなりの距離があったからだった。そのドライブ・インで鄭詔文はなにを思ったか、そこにある電話帳をめくっていたが、「おい、おい」と私を手招きした。近寄ってみると、
「この津山には、百済さんが四軒もあるよ」と鄭詔文は、それをしめしながら言った。
「へえー」と思ってみると、たしかに「百済」というのが四軒ある。
「どうだ、電話をしてみようか」と言うので、「うん、まあ」とあいまいにうなずいたところ、鄭詔文はもう小銭をだして、そこにある赤電話の受話器をとりあげていた。
――と、ここまで書いてふと気がついて、司馬遼太郎氏はこのあたりをどう書いているのか、『街道をゆく』「砂鉄のみち」のそのくだりをみると、私の書いていることとは細部において大分ちがう。しかし、大筋はおなじである。
細部が大分ちがうのはそれぞれの記憶ちがいと、書き方のちがいからくるもので、これも困ったものであるが、しかし大筋がおなじなのも、このばあいは困ったものだと思わないわけにゆかない。
それぞれの問題意識はちがうとはいえ、同行しておなじことがらを同時に取材し、それをさきに書かれるとこういうことがおこることを私ははじめて知ったわけであるが、こうなってはもう仕方がない。ちょっと長いので気が引けるけれども、このくだりもまた司馬さんのそれをかりるよりほかない。
「百済質店」
はじめから、細部のちがいをも含めてみると、司馬さんは津山でのそのくだりをこう書いている。もちろん、大筋は私が書いてもおなじであることはいうまでもない。
旅のおわりは、作州津山だった。
作州の北部の加茂から細い川筋(加茂川)の道を南へくだってくれば津山市で、ここから鉄の文化の川というべき吉井川がはるかに南へ流れる。
津山は、いったん通りすぎた。その南の外れで疲れを休めるためにドライブ・インに入った。
紅茶を頼んでいるとき、鄭詔文氏が、小さな奇蹟をあらわした。かれは勘定場から津山市付近の電話帳を借りてきて、めくるうちに、百済(くだら)姓が四軒もあることを発見した。
「四軒もあります」
百済姓だから朝鮮渡来の家系伝承をもつのではないか、と鄭氏はいうのである。しかも、四軒のうち三軒までが住所の町名がおなじだった。津山市吹屋(ふきや)という。吹屋といえば、鉄に関係があるのではないか。
鄭氏は三軒のうちの質屋さんの電話番号をメモし、やがて大きな体を持ちあげて、赤電話のところへ行き、電話をかけはじめた。須田画伯ならずとも、この物狂いには、あきれざるをえなかった。やがてもどってきて、
「物静かな、いい人でした」
と、いって、出掛ける用意をしはじめた。私は驚いて、訪ねるんですか、というと、
「来てくれ、とおっしゃるんです」
と、上ずったように答えた。電話で鄭氏が、突如こう申しあげると面食われるかもしれませんが、と言ったらしい。私は朝鮮人で古代の日朝関係に関心をもっています、百済さんに教えて頂けることがないでしょうか、そういうと、百済さんは、べつに面食うふうでもなく、どうぞいらっして下さい、と返答されたらしい。
金達寿氏はやや閉口しつつも、鄭氏の勢いにひきずられるようにしてあとに従った。私は、待つことにした。が、思い直して、最後にそのタクシーに乗った。運転手さんに、吹屋町へ、というと、すぐ通じた。
津山の町の中に入り、吉井川の大橋を渡った。川のそばに、旧城下時代以来のものかと思われる古い町並みがあり、町角に、「吹屋町」とあった。
せまい舗装道路はよく掃除されていて、両側の家の古い格子戸なども杉材の柾(まさ)が年代に洗われていて、清げな感じだった。
「百済質店」
と、古めかしい看板が出ている。
土間へ入ると、店の間に五十年配の品のいい主人が角帯姿ですわっておられて、すでに伝来の書類、絵巻物などを横に置き、恐縮するほどの鄭重さで辞儀をされた。名刺には、百済康とあった。町内会長をしておられる様子だった。
「旧幕のころは、津山藩のお抱(かか)え鋳物師でございまして、この吉井川の岸辺で――お城下の南のはしになりますが――鋳物を吹いておりました。でございますから、町名も吹屋町と申します」
津山にきてから三百五十年になるというから、作州一帯でも古い家というべきであろう。
その家系伝承では、先祖は百済王敬福であるという。敬福(六九八〜七六六)は実在の人物で、百済の最後の王である義慈王の子禅広の孫であるとされる。敬福は百済の滅亡後日本に移住したのか、父が移住したあとに生れたのか、ともかくも優遇され、陸奥国司になり、また従三位宮内卿(くないきよう)に任じられた。宮内卿に任じられたのは、百済の宮廷作法にあかるかったためかもしれない。かれは、王(こにきし)という姓をもらい、ふつう、百済(くだらの)王(こにきし)敬福(きようふく)とよばれた。
百済家の家系では、その敬福から二十五代の孫の馬之丞という者が南河内の狭山で鋳物をはじめた、とある。この家系伝承からみても、河内の狭山が、渡来の鋳物文化の中心だったことがわかる。
その馬之丞から十代目の又四郎というのがこの美作(みまさかの)国(くに)に移住し、長岡庄に住んだ。その長岡庄の鋳物師の村は、その後、金屋(かなや)村とよばれた。
「いまも、この川の奥のほうにございます」
と、百済氏は色白の顔に微笑をうかべて言った。百済家はその金屋村に十代住み、善三郎助重という者の代になって江戸時代になり、信州から転封してきた津山城主(十八万六千石)森忠政にまねかれ、津山城下の吉井川の河畔で鋳物をはじめた、というのである。ついでながら、森忠政の森家というのは織田信長の部将の家で、忠政の兄にあたるのが、本能寺で信長とともに死んだ森蘭丸である。
近世のころに、鋳物師のあいだで作られたと思うが、『鋳物師由来(いもじゆらい)』というのがあり、私は現物を知らない。これを孫引きで読むと、
「神代には鍋釜の類は多く土器をつかった。天津児屋根命(あまつこやねのみこと)のころ、石凝姥命(いしこりどめのみこと)の子孫がはじめて河内国丹南郡狭山郷にて鉄の鍋釜を鋳(い)て天津児屋根命に献上した」
という旨のことが書かれている。江戸時代に、いろんな職業――とくに木地屋(きじや)などの工人――のあいだで、自分たちの職業の由来書を書くことが流行したが、この『鋳物師由来』もおそらくそういう風潮のなかで出来たものであろう。時代がさがると、人も技術も朝鮮から渡来したなどと書かれなくなるというのが面白いが、その点、この作州津山城下の御抱(おかか)え鋳物師百済家の場合、持統天皇のころの百済王敬福の子孫だと称し、むしろそれをもって名家であることの拠りどころにしていることが、いかにも風趣があり、鋳物の伝来を暗示しているようで、みごとな感じがする。
百済さんと錦織氏
加えて、別にいうことはない。あえて一つだけいうとすれば、百済王敬福の子孫という河内(大阪)の鋳物師がどうしてこの津山にまでひろがって来ていたか、ということである。津山の中島にはかつて嵯峨山城というのを構えていた錦織(にしごり)利路というのがいたが、あるいはもしかすると、私たちの会った百済さんの祖先は、その錦織氏の祖先との関係でこちらまでやって来たものであったかもしれない。
してみると、河内のもと百済郷だった富田林市甲田に錦織(にしごり)神社があるが、これともつながりがあったにちがいない。河内の錦織神社を祭っていた錦織氏は、中世には石川源氏をも称したそれで、これはのち各方面にひろがっているから、百済さんの祖先もこの錦織氏族とともに動いて来たものであったかもしれない。
宮島から白木へ
備後・安芸の渡来遺跡
吉備四国、すなわち備前・備中・備後・美作のうち、まず美作をみたわけであるが、ついでこんどは一転して、安芸・備後へまわることになった。美作からの順序としては、同じ岡山県となっている備前・備中でなくてはならないが、私に考えがあってそこはあとまわしとし、さきにいまは広島県となっている安芸・備後をみて、それから備前・備中ということにしたのである。
いまいったように安芸・備後は広島県となっているところであるが、ここにはどういうものがあるか。まず、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」をみると、安芸としては「装飾付有台壼・子持高坏」や、「鳥形壼」、「環状提瓶」などを出土した豊田郡本郷町の御年代古墳や、同郡船木村平坂、高田郡向原(むかいはら)村のそれがあげられている。
それからまたいわゆる帰化人、古代朝鮮からの渡来人が居住したところとしては、安芸に安芸郡漢弁(からべ)郷、幡良(はたら)郷、沼田郡真良(しんら)郷があり、備後に品治(ほんじ)郡服部(はつとり)郷、三次(みよし)郡幡次郷などがある。漢弁、幡良、真良、幡次、いずれもみな新羅系のそれではなかったかと思われるが、しかし私は、それらまでいちいちたずね歩くことができるかどうか。
それはわからなかったが、ともかく私たちは前夜広島に到着して一泊、翌朝早く午前七時半にはタクシーのなかの人となり、安芸国一の宮・厳島(いつくしま)神社のある宮島に向かった。私「たち」といったのは、このときは雑誌「季刊三千里」に「『時調』の世界」というのを連載している朝鮮文学研究者の尹学準君がいっしょだったからである。
私のたずね歩いている日本の古代朝鮮文化遺跡と、朝鮮の短詩型文学である「時調」とは別に何の関係もなかったが、尹君も一度はその遺跡を自分の目でみて歩きたいということがあったからである。一つは、彼は用事があって大阪まで来ていて、そこで私と顔を合わせたからでもあった。
ああ、広島――
タクシーは広島市内をとおり抜けることになり、私たちはどちらからともなくだまったまま、窓の外に目を向けつづけていた。たぶん、尹君もそうだったにちがいないが、「ああ、広島――」と私は思っていたのである。
広島はいまはもうすっかり復興して、東京のあるところとも変わりない都会の風貌をそなえていたが、しかしその裏にかくされた苛酷な悲劇を忘れ去ることはできなかった。一九四五年八月六日、アメリカ軍の来襲機B29によって投下された一発の原子爆弾により、文字どおり一瞬にして数十万の生命が失われたあの悲劇である。
そのとき広島にいた数万の朝鮮人も、その運命をともにした。なかには西も東もわからない、朝鮮からの強制徴用工もたくさんいたとのことであるが、広島の原爆ということになると、私にも忘れることのできない思い出がある。
当時、私は神奈川県の横須賀に住んでいた。それでかどうか、私は生きのびることができたものであるが、暑い七月のある日、近くの朝鮮人集落で知り合いの娘の婚礼があって、私も出かけて行った。婿さんは日光の山奥で働いていた元気のいい土方青年だったが、その婚礼がすみしだい、こんどは嫁とともに広島へ向かうことになっているというのだった。
それから一ヵ月たたずして、あの八月六日となった。そして戦争はおわったが、彼らの消息はその原爆の彼方に消えてしまったきりとなった。
実をいうと、私が広島をおとずれたのはこんどが二度目であった。一度目は、一九五〇年六月におこった朝鮮戦争の一周年にさいしておこなわれた、中国地方の人々の抗議集会に出席するためだった。東京の新日本文学会から派遣されたかたちで中野重治氏といっしょだったが、そして私は中国地方在住の朝鮮人集会のほうに出ることになって、その場所が有名な厳島神社のある宮島だった。
二十五年前の当時はまだ、アメリカ占領軍の軍政下にあるころで、そのような集会を開くこと自体非合法のようなものだったから、人々は宮島への観光をよそおって集まったものだった。場所はたしか小学校かなにかの講堂ではなかったかと思うが、それがどこだったのかいまはもうまったくおぼえていない。
「二十五年前というと、まだ三十かそこらだったですね。へえ、そんなこともあったんですか」
と、宮島へ渡る船のなかで尹君は言った。
「うむ、長いあいだにはいろんなことがあるものだなあ。それでこんどはまた、別の目的でふたたびそこをおとずれるというわけだ」
「厳島さんはヒメ神様」
宮島へ上陸すると、私たちはまず開いている食堂を見つけて、そこで朝食をとった。そして私は、前夜、広島市内のあるところで食事をしたときの、そこの女中さんのことばを思いだしていた。
「あすは厳島神社から……」と言った私たちのことばを聞きつけてのことで、その女中さんはこう言ったのだった。
「厳島さんはヒメ神様だから、嫉妬深いそうですよ。だから、むかしはアベックで行くと仲を割(さ)かれるとかいわれたもんですけど、いまはアベックのみなさんも平気ですね」
厳島神社の厳島とは神を斎(いつ)き祭る島、ということからきたものだそうで、それで別にはまた「伊都岐(いつき)島神社」とも書かれたとある。いわば宮島というのはその名からして、島全体がそこにある厳島神社でもっているようなものであったが、その祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心(たごり)姫命、湍津(たぎつ)姫命ということになっている。
市杵島・田心・瑞津姫命とはいったいなにか。神社本庁編『神社名鑑』によると「推古天皇元年十一月十二日」、この「三神が此地に出現し当郡の住人佐伯鞍職(くらもと)に宝殿廻廊を建立して厳島大明神を崇敬せよとの託宣を授けた」とあるが、これはもちろん後世の付会であるにちがいない。
神社の由緒とはたいていそういうもので、私はこちらへやってくるまではそんなことなど少しも考えていなかったが、しかし、あとでみる呉の亀山神社のことがあったので、私は前夜の女中さんの言った「ヒメ神様」というのが何となく気になった。ヒメ神とは、もしかするとこれも天日槍を象徴とする新羅系渡来人集団の巫女だった赤留比売(あかるひめ)、その比売と同じヒメ神ではなかったろうか、と私は思ったのである。
それはともかくとして、食堂を出た私たちはそこの参道を歩いて、厳島神社をひとめぐりしてみることにした。日本三景の一つとして紹介されている宮島の厳島神社は、なによりもまず有名なものに海中深く突きだしている赤い大鳥居があるが、長さ約二六二メートルという廻廊によって連結されている豪壮な社殿のほとんどが国宝であり、重要文化財となっているものだった。
ほかに、これまた国宝の古神宝類となっているもののなかには、今村鞆氏の『朝鮮の国名に因(ちな)める名詞考』に出ている「松喰鶴蒔絵小唐櫃」などもあった。その唐櫃のことはさきの「有馬温泉と唐櫃」の項でみたのでおき、私は数年まえある人から、「以前、厳島神社の宮司に会ったところ、わたしの神社の祝詞(のりと)は古い朝鮮語だと言っていた」ということを聞いたことがある。
私はそういうことがあったので、いまもまだ当時のその宮司かどうかはわからなかったが、社務所へ行って宮司に会えないかときいてみた。しかし朝早い時間だったので、宮司はまだ、ということだった。
大願寺の朝鮮鐘
仕方ないので私たちは神社の廻廊を出て、その横手にある大願寺をたずねた。大願寺は十三世紀はじめの建仁年間にできた比較的新しい真言宗の寺院だったが、小倉豊文氏の『山陽文化財散歩』をみると、そこにあるいろいろな文化財の紹介につづけてこうあったからである。
また、紙本墨書尊海渡海日記屏風も珍しい。天文六年(一五三七)から八年にかけ、この寺の僧尊海が一切経をもとめて渡鮮したさいの見聞を、李朝初期の朝鮮の画人の湘瀟八景の墨画の裏面に書きつけた八曲屏風、表は当時の朝鮮の基準作であり、裏は史料として貴重な遺品。これも重文だが、ほかに重美の高麗時代末の朝鮮鐘(高さ四十センチ)があり、小形ながら池の間に「元暁庵小鐘」の銘のあるのは珍しい。
しかし、その「尊海渡海日記屏風」はいま大願寺にはなく、東京国立博物館に行っているとのことだった。ここでもまたはずされたかたちだったが、そのかわり高麗時代末作といわれる朝鮮鐘はあったので、私たちはそれを何度もなでてみたりした。
せっかくやって来た日本三景の一つといわれる宮島で、私たちはもう少しあちこちみて歩きたかったが、きょうの予定を考えるとその時間がなかった。私たちは早々に厳島の宮島から出て、こんどは広島市内を流れる太田川上流の一つとなっている、三篠(みささ)川沿いの白木町へ向かった。
とりのこされた歴史の地=白木
太田川に沿った県道をずっとさかのぼって行くと、太田川はそこで東西にわかれて東が三篠川となり、その西のほうは可部(かべ)町となっている。可部町の可部とはさきの斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」でみた漢弁(からべ)郷の漢弁がそれとなったものだった。だったから、そこも行ってみたかったが、しかし私は白木町の白木のほうをえらんだ。
なぜかというと、漢弁郷の漢(から)ももとは韓(から)、あるいは加羅から出たものかもしれなかったが、白木とは、今村鞆氏の『朝鮮の国名に因(ちな)める名詞考』や竹中行夫氏の『北九州の古代を探る』にもあるように、これは「新羅(しらぎ)来(き)の転で、すなわち『新羅から来た人々の居所』と考えられている」からである。白木町もいまは広島市に合併となっているが、そこを走っている国鉄芸備線に白木山駅があって、さしあたりそれを私たちは目標にした。
白木町は広島市の中心部からすると約三十キロほど離れた、中国山脈中の山間地であった。太田川上流となっている三篠川をあいだに、古い民家の目立つ集落があちこちと点在しており、それだけで、ああ、ここは古くから開けたところだなあ、と私に思わせた。
なるほど広島市としてはいまでこそ瀬戸内海、海岸寄りのほうが中心となっているが、しかし古代のかつてはそこまでも海で、その平地はのちに太田川の流れがつくりだした沖積地であったという。とすると、古代にまず人々が住みついたのは太田川上流の漢弁郷、すなわちいまの可部町と、この山間の白木町となっているところなどであったにちがいない。そして人々はしだいに海岸寄りの沖積地へとひろがって行って、そこがいまでは中心地となったのである。
してみると、白木はいわばとりのこされた歴史の地で、それにふさわしく閑散としたところであった。四方八方、山ばかりのところだったから、私たちはそのあいだを走っている芸備線の白木山駅はすぐに見つかるものと思っていたが、それがなかなか見つからなかった。
やっと出会った通りがかりの人にきいて知ったが、切符を売ったり改札をしたりする駅舎などない、まさに山間の小寒駅といったものであった。ホームには雨除けの廂(ひさし)や「しらきやま/白木山」とした標識などもあったが、少しばかりの民家の集落にさえぎられて見えなかったのである。
ホームまで来てみると、駅の向こうに立ちふさがっている山も白木山(八九〇メートル)で、ハイキングコースとなっているらしいその山の標識などもたっている。
「するとあの白木山も、もとは新羅山だったんでしょうかね」と尹君が言った。
「うむ、そうだったかもしれない」と言って、私は腕の時計をみた。「だいぶ、時間がたってしまったなあ。ここはもう、これだけということにしようか」
「ここにはほかに、白木神社とかそんなものはないんですか」
「あるかもしれないし、あったかもしれないが、しかし時間がない。次へうつることにしよう。そういう神社だったら、これからもみることになる」
尹君は、せっかくそこまでやって来て、というふうでちょっと不満の様子だったが、仕方なかった。きょうの日程のことを考えると、私たちはさきを急がなくてはならなかった。
三次(みよし)と呉の亀山神社
三次の新羅・印花文骨壺
私たちは、朝そこを出た広島市内へとって返した。そして広島駅前の食堂に入って軽い昼食をとり、すぐにこんどは安芸の東南方となっている呉(くれ)市へ向かった。広島市内の小町には、いまみてきた白木と関係があるのかないのか、白(しら)神社というのがあったけれども、それもカットすることにした。
このように広島は、呉と限らず、ほかにも行ってみたいところはたくさんあった。たとえば、これは安芸ではなく、その国境いに近い備後となっていたところであるが、広島県としては東北方となっている三次(みよし)市にしてもそうだった。佐々木芳人氏の「一衣帯水の国・韓国の旅」をみると、こういうことが書かれている。
ぼくは中国山脈を水源地として、日本海に注ぐ江(ごう)の川の上流、広島県三次市の近在で育った。いつごろであったか、もうずい分前に郷里の知人から、ぼくがいささか焼きものに興味をもっていることを知ってか、「こういうものが、近くの川べりから発掘されました」といって、写真のような、相当年代を経た素焼きの壼を持ってきてくれた。
縄文土器とも違うし、簡素な須恵器とも違う。ずっしりと大らかで、型で押しつけた幾何学的な花模様が、野に咲き乱れる可憐な花を思わせる。ずい分凝ったものを、昔の人はつくったものだと、そのときはどこで作られたものか、何に使ったものかも解らず、珍らしいものを頂いたとお礼をいってそのまま書斎の棚に飾っておいた。それから四、五年を経て、昭和三十六年に河出書房から世界陶磁器全集が刊行された。それの朝鮮上代・高麗篇を開いたら、図録にこの壼とそっくりのが収録されていた。
新羅・印花文骨壼とあった。印花文とは花を型どった押印、文は模様。新羅時代といえば任那、百済、高句麗の三国時代が統一され〈新羅、百済、高句麗の三国時代が統一され、ということで、したがってこのばあいの新羅時代とは統一新羅時代ということである〉、半島がはじめて一つの国として成立した約三百年間をいう。それから高麗、李朝とつづく。〈統一〉新羅は日本の奈良時代と、平安時代の初期にまたがっている。いまから約千年前である。
図録と壼を見比べながら、その時は半島から舟で一衣帯水の山陰の海岸にたどりついた人たちが、江の川を遡(さかのぼ)って三次盆地にも住みついたものかと、その程度のこととして、それ以上のことには思いをめぐらせなかった。ごく簡略に考えていたのである。
しかし、心の一隅を占めていたこの壼が、わずか三日間の韓国の旅ではあったが、強烈に蘇ってぼくの体内を流れる血までを激動させたのである。思いもよらぬことであった。
三次は古代の先進地帯
そして、「ぼくは慶州の博物館と、街をかい間見ただけであったが、郷里を流れる江(ごう)の川の川畔から出土した壼を思い出しながら、ぼくの遠い遥かなる祖先も、あるいは三国時代か、新羅時代に渡来して、江の川を遡り安住の地を三次(みよし)盆地に定めた朝鮮渡来の人たちではあるまいか。血の騒ぐのを押え得なかった」と、佐々木氏はそのことを再度にわたって強調しているが、その三次とはどういうところであるか、後藤陽一氏の『広島県の歴史』にこうある。
広島県下で、もっとも早く高塚の墳墓のきずかれているのは吉備国の一部を占めた三次盆地である。すなわち、この三次地方は江の川の上流にあたり馬洗(ばせん)川・西城川・可愛(え の)川の合流するところであり、古くより交易の要衝地であるとともに、背後には良質の山砂鉄を産する中国山地を負っており、早くから鉄製用具の生産が発達していたと推測されるものがある。
最近の三次地方における発掘調査によると、長円形または楕円形の盛土をし、その周囲に溝(みぞ)をめぐらし、そのなかに地盤を掘って死体を埋葬したと思われる四拾貫(しじつかん)古墳群の土壙墓(どこうぼ)や、弥生時代後期の壼棺を埋葬した四拾貫小原古墳群など、弥生時代から古墳時代に移る過渡期的な性格を示す墳墓の少なくないことが明らかにされている。
しかし、県内で高い盛り土をもつ古墳がきずきはじめられるのは五世紀にはいってからで、三次盆地で五世紀初頭を代表するものとしては酒屋高塚古墳(三次市西酒屋町)が知られている。現在県内では古墳が約一万基ほど確認されており、その分布は県下全域にわたっているが、三次地方にはそのうち約三〇〇〇基が集中しており、前にあげた四拾貫古墳群とともに、この時期以降のものとして浄楽寺古墳群・七つ塚古墳群などの大古墳群が形成されている。鉄生産技術を擁する地域の社会的発展をあらわに示すものと理解することができる。
どちらもかなり長い引用となったが、要するにこれをみてわかることは、古代の三次は相当な先進地帯であったということである。古墳が集中しているのもそのためで、いまみた佐々木氏所有の「新羅・印花文骨壼」もそういった古墳の一つがこわれて、「近くの川べりから発掘されました」となったものにちがいない。
ということは、佐々木氏も書いているように、それらの古墳は「江の川を遡って三次盆地に住みついた」新羅系渡来人の築いたものであったということをものがたるものにほかならなかった。そうだったから、私は呉よりもむしろその三次をたずねるべきだったかもしれないが、しかし私に都合があって、瀬戸内海寄りの呉へ向かうことにしたのである。
亀山神社がなぜ「帰化人」と?
呉は私がかつて住んでいた神奈川県の横須賀と同じく、日本海軍の軍港だったところである。それだからというので呉を目ざしたわけではなく、私は以前に、広島市牛田南町に住んでいる田村和光氏から一通の手紙をもらっていた。さきにふれた可部町がもとは漢弁郷であったことや、その漢弁の近くには綾ケ谷村というところもあって、ここには幡崎神社などがあることを知らせてくれたものだったが、さらにまたその手紙にはこういうことが書かれていた。
「なお、こちら安芸国には『呉』という地名もあり、ここにある亀山神社は帰化人と関係が深いものと聞いています」と。
「呉」という地名のことはともかくとしても、そこにある亀山神社がいわゆる「帰化人と関係が深いものと聞いています」とはどういうことであろうかと私は思ったのである。とくに、関係が深いものと「聞いています」というのが私にはおもしろかった。
だとすると、それはかなりひろく巷間に、そのように語りつたえられているということを意味したからである。それが高麗(こ ま)神社とか新羅神社というのならともかく、亀山神社というのがどうしてそのようにいわれているのだろうか、と私は思ったのだった。
国東(くにさき)からのヒメ神
広島市内から呉までは、さきの白木町とほぼ同じくらいの距離だったが、しかし相当急いだにもかかわらず、呉についてみるともう日暮れ近くになっていた。私はこの紀行のための旅に出るといつも思うことは、このように時間のたつのが早いということである。
呉市内に入ったところできいてみると、亀山神社のあるところはすぐにわかった。が、例によって私たちはさきにまず市役所に立ち寄り、教育委員会をたずねてみることにした。そして社会教育係長の松本弘実氏や中央公民館長補佐の明田(あけだ)和久氏らに会い、『呉市指定文化財のしおり』などをもらい受けた。ついで私たちは、市の図書館にある市史編さん室の久保田利数氏に会ってみたらどうか、と松本さんたちからいわれた。
それでこんどは近くの図書館に久保田氏をたずねたところ、そこに、さいきん『呉考古雑記』というのを書いた大田昇氏もいて、私たちは思わぬ便宜をあたえられることになった。というのは、これはまったくの偶然であったが、大田さんはその『呉考古雑記』を東京にいる私に送ってくれようとして、いま手紙を書いていたところだったというのだった。
大田さんに案内されて会った市史編さん室の久保田さんは、市の文化財保護委員ともなっているかたわら、地元の新聞に『呉地名の研究』というのを書きつづけている地方史家で、大田さんともども、私たちはそこでいろいろと話した。地方もこれまでは中央の学者の皇国史観によって左右されていた、などということだったが、さいごに私はこう言ってきいてみた。
「ところで、亀山神社はいわゆる帰化人と関係が深いといわれているそうですが、それはどうしてなんでしょうか」
「それは、ヒメ神だからです」と、久保田さんはすぐに言った。
「ヒメ神といいますと、宮島の厳島神社もヒメ神ですね。それなのに、こちらの亀山神社は……」
「ええ、ヒメ神といいましても、こちらの亀山のは豊後(ぶんご)・国東(くにさき)の姫島から来たものだということがわかっているからです」
「ああ、そうですか。国東からのヒメ神ですか」と私は、思わず大きな声をだしてしまった。
「すると難波、大阪の比売許曾(ひめこそ)神社のそれと同じものというわけですね」
それで私はやっと、呉の亀山神社がいわゆる「帰化人と関係が深いもの」ということがわかったが、そのことについてはあとでみることにして、私たちはさきにまず亀山神社をたずねてみることにした。すると、久保田さんはまた言った。
「そこまで行ったら、ついでに平原神社も行ってみたらいいでしょう。これもソウルのヒメ、瀬織津比〓(せおりつひめ)です」
「そうですか。その平原神社は――」
「知っています。私が案内します」とそう言って、大田さんも私たちといっしょに立ちあがった。そして、帰り仕度をした大田さんについて私たちは外へ出た。
亀山神社から平原神社へ
タクシーで市内を走っただけだったが、呉も同じ軍港だったからか、横須賀とよく似たところだと思った。海岸に沿って発達した急坂の多い街で、あたりに迫っている山の中腹や、丘陵のうえに人家が密集しているのも、横須賀とそっくり同じ光景だった。
私たちのたずねた亀山神社も、そういった丘のうえにあった。呉の総氏神といわれるだけあって、相当に大きな神社だったが、しかしこの神社は、もとはそこにあったものではなかった。もとは幸町の入船山というところにあったもので、その入船山が明治十九年の一八八六年に海軍鎮守府の施設となるのにさいして、神社は現在地の清水通にうつされたものという。
神様も当時の海軍さんにはかなわなかったわけであるが、私たちは、いまは「入船山記念館の森」となっている、その入船山からさきにみて亀山神社にいたった。入船山記念館には「明治十九年以前の旧亀山神社の写真」があって、それをみると、かつての亀山神社は黒松の大木におおわれた、広壮な神社であった。
現在の亀山神社はそれとは比ぶべくもなかったが、しかしいまいったように、これも相当に大きな神社であった。が、どうしたものか、境内の横に建っている社務所を兼ねた宮司宅は閉ったきりで、人の姿がみえなかった。一家そろって、みんなどこかへ出かけたものらしかった。
仕方なく、「由緒書」その他の資料はあとから大田さんが入手して送ってくれるというので、私たちは次なる平原神社に向かった。これはもう社務所もなにもない、荒れはてたままの神社となっていた。
もちろん、みるものとてなにもなかった。それでだったかどうか、大田さんは私たちに向かって言った。
「広西大橋を越えた向こうの広(ひろ)に、朝鮮鼻というところがあります。そこへ行ってみますか」
「朝鮮鼻ね――」
しかし、もうあたりは暗くなりはじめていて時間がなかった。私たちは大田さんとは平原神社のそこでわかれて、前夜泊った広島市へ戻った。
安芸にもあった天日槍系の神社
そして翌日は備後から備中(岡山県)へとまわったのであるが、呉の大田さんは約束どおり、あとからさっそく『亀山神社御由緒略記』はじめ、亀山神社について書かれた古い『呉市史』のその部分をコピーしたものなど、たくさんの資料を送ってくれた。『――御由緒略記』にも同じことが書かれているが、『呉市史』のそれをみるとこうなっている。
本市には古来神社の数乏しからず。こは言うまでもなく、祭祀の目的を以て存在せるものにして、布教の機関にあらざるは他地方の神社と異る所なし。本市に於ける総氏神と称せられるは亀山神社なり。……
縁起に曰く。初め筑紫宇佐島より豊後姫島に御遷座、人皇四十代天武帝の御宇白鳳八年、姫島より安芸国安芸郡栃原村甲手山に天降り給い、夫(そ)れより年経て四十二代文武帝の御宇大宝三年秋八月中旬、呉宮原村亀山に鎮座(元入船山という、御遷座の時改めて亀山と名づく)、社号皇城宮又は大屋津比売神社、又は大帯比(おおたらし)売神社、又は比売志麻神社、又は鈴音宮又は八幡宮という。
「又は」「又は」とずいぶんいろいろな社号をもった神社であるが、要するにこれはそれからしてもわかるように、北部九州に「伊都国」をつくって展開した新羅系渡来人集団の象徴で、伊都国王といわれる五十(い)迹手(とで)の祖となっている天日槍のそれだったのである。この天日槍系の神社については、滝川政次郎氏の「比売許曾の社について」をみると、「伊都国には天之日矛(天日槍)、比売許曾を祀った社が存在したに相違ありません」としてこうある。
以上私が明らかにし得ました比売許曾の社を西から順々に数えてゆきますと、筑前国怡土(いと)郡の高祖神社、豊前(ぶぜん)国田川郡の香春(かわら)神社、豊後(ぶんご)国国前(くにさき)(東)郡の比売許曾神社、摂津国東生(成)郡の比売許曾神社、同国住吉郡の赤留比売命神社ということになります。私はこれらの比売許曾の社を次々につないで行った線が、近畿の帰化人が博多湾の糸島水道に上陸してから、近畿の各地に移っていった行程を示すものではないかと考えます。
これには同じヒメ神を祭ったものである豊前国宇佐郡の宇佐八幡宮が抜けているが、それはおくとしても、今後はここに、安芸国安芸郡の亀山神社を加えなくてはならないことになったわけで、これはまた新たな一つの発見であった。
呉の総氏神となっている亀山神社は、「人皇四十代天武帝の御宇白鳳八年、〈国東の〉姫島より安芸国安芸郡栃原村甲手山に天降り給い」とあるけれども、もちろんこれはそのように「天降り給い」などといったものではない。滝川氏も書いているように、これは同じその神の神社を祭るものたち、すなわち「博多湾の糸島水道に上陸して」そこに伊都国をつくって展開していた天日槍を象徴とする新羅系渡来人集団が、のちしだいに瀬戸内海へとひろがって来たことを物語るものにほかならなかったのである。
そしてそれはさらにまたさきにみている播磨・淡路(兵庫県)などへとひろがって、そこに今日なお濃厚なたくさんの遺跡をのこしているが、いま広島県となっているところとしては安芸のほか、備後にも天日槍のそれにちがいなかったと思われるものがまだある。
福山・倉敷にて
金毘羅さんの神体
前日につづいてさらにまた一夜を広島市で明かした私たちは、翌朝は新幹線で福山に向かった。備後となっていたここにはもと、古代南部朝鮮にあった加羅諸国のうちの安那(安羅・安耶)そのものを思わせる安那郡があり、深津郡があったが、それがのち新郡区編制の合併で深安(ふかやす)郡となり、さらにいまの福山市となった。
あとでみる「剣(つるぎ)大明神」の高諸(たかもろ)神社のことが書かれている『備後叢書』「深津郡」によると、「宿(しゆく)というアサあり、昔牛馬市立(たち)たる所なり。胡(えびす)の社ありて神体は加羅(伽羅か)にて刻(こくし)たる一尺余の像なりしが、讃岐(さぬき)へ盗(とら)れ、其跡に地蔵を建置けり。件(くだん)の胡、金毘羅の市中に勧請す。是より金毘羅、弥増(いやまし)に繁昌すといえり。胡をぬすまれたる(はの字を脱せるか)元禄の頃の事也」とある。
讃岐(香川県)の有名な「金毘羅さん」の神体にかかわる重要な記事である。「神体は加羅(伽羅か)にて刻(こくし)たる一尺余の像なりしが」とはどういうことか。してみると、この像にはそうしたことも「刻されて」いたかと思われるが、しかし讃岐の「金毘羅さん」をたずねたところで、いまはそれをたしかめてみることはできないにちがいない。
「(伽羅か)」にしてもそれはもちろん、古代南部朝鮮にあった加羅諸国の加羅(加耶・加那)のことであろうが、このほかにも備後には、新羅の前身であった斯羅(しら)からきたものではなかったかと思われる世羅(せら)郡があり、さらにまた『藝藩通志』「御調(みつぎ)郡」をみると、こちらには「加羅加波神社」というのがあってこうある。
山中村の内、加羅加波谷というにあり。延喜式神名、御調郡一座、加羅加波神社とある、是なり。太玉命(ふとたまのみこと)、瀬織津比〓(せおりつひめ)命、天鈿女(あめのうずめ)命を祭るといえり。或は大山祇社のことを祭るといえれど、恐らくは誤(あやまり)ならん。今或は加羅加波大王と称す。思うに、太玉の字を誤りしなるべし。加羅加波は、もとこの一村の名なりしと云伝(いいつた)う。今は社のある地のみ、其の名を存せり。
遠まわりして高諸神社へ
これなどもよく調べてみるとなかなかおもしろいのではないかと思うが、しかし私たちはいまは三原市・尾道(おのみち)市などとなっている御調郡のそこはとおりすぎて、芦田川流域となっている福山駅におりた。そして駅前にとまっているタクシーに乗り込み、「高諸神社へ――」と言うと、
「高諸神社ですか」と、まだ若い運転手はクルマを走りださせながら、ちょっとためらうようすだった。
「どうしたんだい。今津町というところだが、うむ、そうだ。これをみてくれ」と私はたたみかけるようにして、手にしていた新聞の切り抜きを運転手にわたした。運転手はクルマを道路のはしに寄せてそれをみていたが、
「やっぱりそうだ。松永の高諸神社ですね」と言った。
「なに、松永の? それには福山市今津町となっているじゃないか」
「ええ、そうです。いまは福山市に合併して今津町になっていますが、もとは松永市だったところです」
「ああ、そうか。何でもいいや、そこへやってくれ」ということでタクシーは走りだしたが、あとになって気がついてみると、この運転手はなかなか正直ないい人だった。あまり近いので「乗車拒否か」とすぐに思ったのは私の勘ちがいで、それはむしろ逆だったのである。
というのは、あとになって地図をみてわかったが、今津町というのは松永湾に面したところで、旧福山市からするとはるか西方の、尾道のほうにぐっと近寄ったところにあった。したがっ て、その今津町の高諸神社へ行くには新幹線を乗換えて国鉄の松永駅におりるか、さもなければ尾道でおりたほうがずっと近かった。
「お剣さん」のいわれ
何のことはない。タクシーの運転手からすれば、わざわざ遠まわりをしてずいぶんムダなことをする人もあったものだ、というふうに思えたにちがいない。こういう失敗はこれまでにも何度かあったものであるが、ところで、私が運転手にみせた新聞の切り抜きとはどういうものだったかというと、それは一九七五年六月十三日付けとなっている山陽新聞の「続・瀬戸内の伝説」というつづきものの一つだった。
私はその切り抜きをある読者から送ってもらったのであるが、これはそのうちの「お剣さん(福山市今津町)」となっているものである。そしてこれには「お礼の“宝剣”祭る/漂流する新羅王を助け」という見出しがつけられて、こういうことが書かれている。
絶え間なく車が流れる国道二号線ぞいに、こんもりと松の茂った高諸神社がある。二号線から民家の切れ目を北に入ると、堀に囲まれた境内があり、中央の高台に舎殿がある。本殿は大正時代に改築されたそうで、そんなに古いものではないが、そばにある祠(ほこら)は古く、こけむした石がき、石だだみ、大きな松など由緒ある神社を思わせた。
付近での草かりをしているという福山市高西町三一五、農業平川勲さん(七三)が木かげの石だだみに腰をおろして弁当を開いていた。「この神社はお剣(つるぎ)さんいうて、正月や夏祭りはにぎやかで、子供のころは楽しみなもんじゃった」と平川さん。
「どうしてお剣さんというのですか」と尋ねると、「さあ、なんでもここに剣が流れついたそうで……」というだけで由来ははっきりしないが、近所の人たちには高諸神社というより、“お剣さん”のほうが通りがいいようだ。
宮司の柳田鎮夫さん(七〇)に聞いてみた。昔、この付近は海だった。ある日、異国の船が浜に流れ着き、庄屋の田盛庄司保邦が船に乗っていた三人の異国人を助けた。この異国人は朝鮮半島での戦いを逃れてきた新羅王たちだった。田盛は近くの高台に王たちのご殿を建てて手厚くもてなした。そのうち王は他界し、この地に葬られた。それから数年して、田盛は王の“まぼろしの声”を聞いた。
「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は自分のことである。以前、出雲国で大蛇(だいじゃ)を退治したむくいを受け、異国で生まれかわることになってしまった。というのは、退治した大蛇は新羅王だったからである。しかし日本を忘れることが出来ず、かろうじて日本に帰ったところを助けてもらった。お礼に宝剣を授ける。これをまつれば諸民に幸福がこよう」――その後、田盛は王らが流れ着いたところに剣の形をした珍しい石が光っているのを発見、それをまつるため高諸神社をつくった。
高諸神社伝承の意味
やがて、福山駅からタクシーを走らせてそこまで来てみると、なるほど高諸神社はここに書かれたとおりのものだった。境内の本殿近くには福山市指定の天然記念物となっている柏の老木があって、それも何となくいわくありげなもののようにみえた。
しかし、全体としては荒れたままになっているというよりほかない、その境内をあちこちと歩きながら、私はいまみた新聞の切り抜きをあらためてまたもう一度読んでみた。いつのころからそうなったかは知らないけれども、ずいぶん辻つまの合わない妙な伝承になったものだと思わないわけにゆかない。
高諸神社のこの伝承はさきにみた『備後叢書』「深津郡」や『沼隈郡誌』などにも「剣大明神」として同じようなことが書かれているが、なお、いまここで神社本庁編『神社名鑑』をみると、高諸神社の祭神は「須佐之男神」「剣比古神」となっており、その「由緒沿革」はこうなっている。
延喜式の古社、貞観九年正五位下を授く。白鳳五年の創立と云う。藩主歴代当社を崇敬し、承応三年には福山城主水野美作守社殿を再建す。昭和十八年県社に列せられる。
もちろん、この「由緒沿革」とてそのまま信じられるものではない。しかしながら、この神社が「延喜式の古社」であり、「貞観九年正五位下を授」けられたというのは事実であろう。
そして「白鳳五年の創立と云う」のもまた事実であったとすると、これは六五四年にあたるから、なるほどこのころ朝鮮では高句麗・百済・新羅の三国がそれぞれ全力をあげた制覇戦のさいちゅうであった。そうして六六八年、最終的には新羅による統一となるのであるが、しかしだからといって、「朝鮮半島での戦いを逃れてきた新羅王たち」というものがあったであろうか。
いうまでもなく、そんなものなどありはしなかった。すると、高諸神社につたわるこの伝承はいったいなにをものがたったものであったろうか。もちろん、この伝承はずいぶん辻つまの合わない妙なものであり、あるいは荒唐無稽なものといってもいいであろう。しかしながら、それだからといって、その伝承全体までまったく無根拠なものであるとすることはできない。
このような伝承というものは語りつがれ、書きつがれしているうちに、いろいろとかたちを変えるものであるということは、科学の発達した現代においてさえなおそうである。したがって高諸神社のこの伝承にしても、それのどこかに、ある事実が語られているものとみなくてはならない。そうでなくては「新羅王」などという、瀬戸内海沿岸の住民にとっては何の縁もなかったそんな名が出てくるはずもないのである。
私はこれは、「新羅王たち」を助けて「近くの高台に王たちのご殿を建てて」うんぬんとある田盛庄司保邦なるものの祖先伝承から出たものではなかったかと思うが、そこで考えられるのは、さきにみた同じ瀬戸内海沿岸であった呉の亀山神社である。その亀山神社と同じように、高諸神社が福山のこの地に祭られるようになったのも、『古事記』や『日本書紀』などには「新羅の王子」となっている天日槍がその象徴であった新羅系渡来人集団のひろがって来たあとをものがたるものではないか。
この高諸神社がかつては「剣大明神」といわれ、いまなお「お剣さん」といわれているのは、それら新羅系渡来人の象徴が天日槍(矛)という名であることからしてわかるように、かれらが製鉄の技術をもっていたことからきたものだったにちがいない。越前(福井県)の織田町にも剣神社があるが、それの祭神も気比大神となっている天日槍である。
親切な運転手と若い宮司
私と尹学準君とはそんなことを話しながら、高諸神社の入口のほうにとめてあったタクシーのほうに戻ると、どうしたものか運転手はそこにおらず、向こうの民家の人になにかをたずねている。すぐにわかったが、かれは別にたのみもしなかったのに、私たちのために神社の宮司の家はどこかと、それをきいてくれたのだった。
神社をたずねたからには宮司にも会うのだろうとさきに気を利かしてくれたわけで、かれはやはり親切ないい人だったのである。そこで私たちは、近くにあったその家の玄関を入って、宮司の柳田氏にも会ってみることになった。
さきの新聞の切り抜きには「宮司の柳田鎮夫さん(七〇)」とあったが、応対に出た宮司は柳田守さんという若い人で、次代をついだものらしかった。すんなりした感じのその柳田さんは、『沼隈郡誌』にある「剣大明神」、すなわち高諸神社のそのくだりを私たちにみせて、
「それ以上のことは、私にはまだ何とも……」と言った。もっともなことで、若い宮司の立場として、それ以上のことはなかなか言えないはずであった。
倉敷の阿知神社
福山からの私たちは、朝、広島から乗った同じ新幹線で、こんどは倉敷におりた。倉敷は備中の一部で、いまは岡山県となっているところであるが、そこに阿知神社があったから、ついでにそれもみておこうということになったのである。
大和(奈良県)飛鳥の於美阿志(おみあし)神社と同じ阿智使主(あちのおみ)を祭る阿知神社がここにもあることを私が知ったのは、大阪地方裁判所で調停委員をしている宮田博志氏の手紙によってだった。それで野村増一氏「備中のなかの朝鮮」を読み返してみたところ、私は忘れていたけれども、そこに「倉敷を開いた阿知氏」という項があってこう書かれていた。
倉敷駅に降り立つと、眼の前が中心繁華街の阿知町である。商店街を曲りくねっていくと鶴形山(三二メートル)にでる。山上に阿知神社があって宗像三神を祭っているが、なかなか立派なお宮である。この神さまははるか西海のかなたから渡ってこられた神さまである。このあたり一帯はむかしの阿知郷で、町名も神社名も郷名もみな渡来人の阿知使主に由来する。
朝鮮の黄海道あたりからたくさんの技術者をともなって渡来した阿知使主の、その末裔たちがこのあたりの地域開発をおこない、産業をおこし、文化を育てた。そしてこの山上に祖先を祀り、氏神としたのである。
大原美術館などがあることで有名な倉敷はさきにも私は一度来たことがあったが、そのときはここにそんな阿知神社があることは知らず、ただ大原美術館や考古館、民芸館だけ熱心にみて歩いたものだった。こんどもまたついでにその美術館などもと思っていたが、私たちはさきにまず鶴形山に向かった。
鶴形山の頂にて
タクシーに乗るまでもないほど、鶴形山は倉敷駅の近くにあって、登ってみると山頂が入母屋造の本殿をもった阿知神社となっていた。そしてその神社を中心とした鶴形山全体がいまでは公園となっており、そこに立つと倉敷市のほぼ全景が眼下に望まれるようになっていた。
「うーむ、なるほどなあ」と私は、ちょうどそこの鶴形山を中心点として四方にひろがり、発達したかのように見えるその倉敷市の光景を見わたしながら言った。
「なにがですか」と、横に立っていた尹君が私の顔を覗き込むようにしてきいた。
「いや、もしかするとこの鶴形山というのは、古代には『このあたりの地域開発をおこな』ったという豪族・阿知氏の居館のあったところではなかったかということだ。それがのちには聖所となり、神社となったのかもしれない」
私はそう言ってこたえたが、「このあたり一帯はむかしの阿知郷で、町名も神社名も郷名もみな渡来人の阿知使主に由来する」という阿知使主とは、さきにもいったように大和飛鳥の於美阿志神社に祭られているそれと同じものであった。すなわち東(やまとの)(大和)漢(あや)氏族の祖となっている、その阿智使主である。
漢人(あやひと)ともいった漢(あや)氏族のアヤ(漢)とは上田正昭氏の『帰化人』や、それから鮎貝房之進氏の『雑攷』にも「アヤヒトは安耶人なるに漢を追記せしものと見るべく」とあるように、これも古代南部朝鮮の加耶(羅)諸国のうちの一国であった安耶(安羅・安那)からきたものだったが、しかしこれはどちらかというと、百済系渡来人集団とみられているものである。百済からのものが入りまじって力をえたからではなかったかと思われるが、どちらにせよこの漢氏族というのは、のちには坂上田村麻呂といったものもそれから出ている強大な氏族で、『吉備郡史』にも「大和の如きは事実上漢人の国」とあるほどのものであった。
その漢人・漢氏族の祖となっている阿智使主を祭る神社がこの倉敷にもあったわけであるが、そうするとどういうことになるか。つまり、大和飛鳥の於美阿志神社とこの阿知神社とはどちらがさきに祭られた神社であったか、ということである。
これまでの大和中心思想といったものからすれば、当然、吉備の倉敷にあるこの神社は大和からひろがって来たもの、ということになるであろう。しかし地理的条件などからすると、それはむしろ逆ではなかったかとも思われてくる。このことについては、吉備にある他の遺跡・遺物ともあわせてなおよく考えてみなくてはならない。
抹殺された祭神
私たちはとりあえず「由緒書」はないかと社務所へ寄ってみたが、どうしたことか、倉敷の総氏神となっている大きな神社であるにもかかわらず、そういうものはないという。前記した宮田氏の手紙はかなり長いもので、もと阿知神社には「阿知使主の顕彰石碑」が建っていたことや、それにまつわるエピソードなどとともに、こういうことが書かれている。
私は昭和二十二年の夏、華北から引揚船で帰国しました。さっそく阿知神社へ赴きましたところ、その顕彰石碑は影も形もなく、宮司に面会を求めましたが、阿知神社にはだれが祭られているかも知らぬというふうでした。私は顕彰石碑の抹消に、広開土王碑文改ざんと同じドス黒いものを感じました。
私の阿知使主についての研究と、顕彰石碑文の探求はなお続いています。いろいろの文献や研究を読んでいるうちに、奈良県飛鳥の於美阿志神社、岡山県浅口郡西阿知町にある阿知磨の五輪塔(嘉永三年建立)、岡山県邑久(おく)郡阿知南方の安仁(あに)神社等の存在がわかりました。いずれも阿知使主ゆかりの人々がそれぞれ自分の土地に先祖を祭ったものと見受けられますが、肝心の阿知使主の本領、阿知神社についての記録はいまだに見当りません。
なるほどそのとおりで、私も『岡山県の歴史』その他いろいろなものにあたってみたが、倉敷の阿知神社について書かれたものとしては、さきに引いた野村増一氏のそれのほか、どういうわけかいまのところ、これといったものはなにも見当らない。「古代吉備王国の謎」ということばがあって、そういう名の本も書かれているが、こういうところにもその謎の一つがあるのかもしれない。
「唐子踊」と「朝鮮様」
八幡大塚山二号墳
さて、その「謎」の多いいわゆる「吉備王国」の中心地となっていた備前・備中(岡山県)となった。これまでみてきたところなどにしてもそうだったが、とくにこの地になると、私はまずどこから手をつけていいかわからなくなる。
いま、私の手元には『吉備郡史』『吉備群書集成』などの資料がうず高く積まれていて、これからしてどうさばいていいか、見当がつかないほどである。たとえば、いまその資料をひっくり返していると、なかから一枚の金製耳飾の写真が出てきた。
裏を返してみると、「岡山市北浦・八幡大塚山二号墳」とある。その二号墳から出土したものの写真ということなのであろうが、その写真がどうしてここにあるのか、私はもうすっかり忘れてしまっている。
たぶん、友人の考古学者・李進煕からもらったものか、あるいはもしかすると岡山市在住の、こちらも同じ考古学者である西川宏氏から提供されたものではないかとも思うが、どちらもはっきりしない。が、それで西川氏の名を思いだしたので、同氏の『吉備の国』を開いてみると、この写真の金製耳飾が出土した八幡大塚山二号墳のことも書かれていてこうある。
旧児島郡の領域内で、当時の港湾にふさわしく、かつ重視すべき古墳の所在地をさがすと、児島の北岸で祭りの島高島をのぞむ地である岡山市郡(こおり)のあたりが、もっともふさわしいであろう。そこには注目に価する八幡大塚山二号墳がある。これは海岸の小丘陵上に立地する、径約三〇メートル、高さ約七メートル、玄室奥幅一・五メートル、同高さ二・五メートル、同長さ六メートル、羨道長四メートルの円墳で、周囲の壁石のすき間を粘土でうめ、全面に赤色顔料を塗った横穴石室をもち、玄室内に組合せ式の長持型石棺の退化形式を納めていた。そしてその中から、明らかに朝鮮製の金製心葉形垂飾付耳飾りが見出されているのである。古墳の年代は六世紀中ごろと思われる。内海航路の中継基地管理者の墓にふさわしいものであった。
そうか、なるほどと私は思ったものであるが、するとちょうどまた、一九七六年二月二十四日から京都国立博物館で開催された「韓国美術五千年展」に展示された四〜五世紀のものといわれる朝鮮・新羅古墳出土の「金製細環耳飾」について、岡山理科大学の鎌木義昌氏が統一日報という新聞に書いている一文が目についた。ひとり吉備と限らず、古代の日本と新羅とはどういう関係にあったかということでも考えさせられるものがあるので、それをここに引かしてもらうことにする。
昭和四十一年(一九六六年)の初春であったか、岡山市にある八幡大塚の発掘を行い、赤く塗られた家型石棺の中から、金色に輝く垂飾付耳飾、銀製鉱金のウツロ玉を発見した。頭蓋骨の耳の部分で発見されたこの垂飾付耳飾は、ハート形の垂飾を中心として前後に二個の小さな円形の垂飾を配したもので、日本国内の古墳から発見された同種のものの中でも優品の一つであるといえる。
日本国内で発見された垂飾付耳飾は、五世紀ないし六世紀の古墳に副葬されていたもので、そのほとんどすべてのものが新羅より伝来されたものとされている。この耳飾をつくり出したすばらしい細金細工の技術は残念ながら日本に伝わらなかったようで、伝来された耳飾の姿に、そのすばらしい技術をしのぶのみである。八幡大塚で発見されたこの垂飾付耳飾と銀製ウツロ玉がどのような経路で、またどのような理由で日本列島にもたらされたかについて、私は古墳のかたわらで、古代の交流のあり方に色々と夢をかけ廻らせたものである。
今回展示されている垂飾付耳飾は、日本国内で発見されたどのものよりも数段高い優品である。ハート形の垂飾の数の複雑さ、各部分に施された文様のこまかさ、おそらく韓国出土のものの中でも最高のものであろう。このような最高品が日本に伝来しなかった理由には何があるのだろうか。考えてみたい問題である。
牛窓の「唐子踊」
私にもよくわからないことで「考えてみたい問題である」ことにかわりないが、それはおいて、私はまずそのような「吉備王国」の周辺部となっている、邑久(おく)郡の牛窓(うしまど)町からみて行くことにした。牛窓といえば、江戸時代の朝鮮通信使が通りがかりにのこした「唐子踊(からこおどり)」で有名なところであるが、ここはもと志楽(しらく)、師楽(しらく)ともいったところで、『吉備群書集成』にそのことがこうある。
師楽(牛窓村)。是、新羅の文字なるべし。古(いにし)え新羅の人多くおきけるよし、古き書に見えたり。新羅をしらきと訓せし故、しらくと転せしにや。東片岡村に有(あり)し義経状に、しらこすしと有(ある)も、此所なるべし。みな通韻也。
さらにまた、ここには新羅浦・新羅邑というところもあって、今村鞆氏の『朝鮮の国名に因(ちな)める名詞考』にこう書かれている。
備前国邑久郡。今の牛窓附近。『続日本紀』天平十五年備前国言う、邑久郡新羅邑久浦に大魚五十二……。
このような地である牛窓にもとは「韓子踊」であったはずの唐子踊が江戸時代に根をおろし、それがいまなおつづいているというのもおもしろいことであるが、ところでこの唐子踊について、牛窓町の観光協会などではそれを、「神功皇后が三韓からの帰りみち、紺浦にお着きになり、水ぎわの岩に腰を掛けて、しばしお休みになった時、かの地からついて来た二人の童子が踊って皇后をお慰めした」ことからはじまったものとしている。
いわゆる皇国史観からきた、どうしようもない付会であることはいうまでもない。これが江戸時代の朝鮮通信使によってもたらされたものであるということについては、西川宏氏の「牛窓港に伝わる朝鮮の踊り」や李進煕氏の『李朝の通信使』などにくわしいが、ついでに、いま岡山県の無形文化財となっているその唐子踊とはどういうものか。西川氏のそれによるとこうなっている。
唐子踊りは毎年十月二十四日の邑久(おく)郡牛窓町紺浦の疫(やく)神社の祭礼で踊られる。
午後二時になると、青年の肩車にのった七、八歳の男の子二人が、独特の衣裳に身をかためて、社殿の横の庭にやってくる。
帽子は陣笠に似ているが、ふちが反っていて、てっぺんに高さ一五センチくらいの尖った角が出ており、その先に麻糸を束ねたふさがつけてある。表面には、紺色の地に、銀、紫、白、桃、黄、赤などの豊富な色彩で瑞雲がえがかれている。この帽子に、桃色の布でつつんだ太い耳掛けがついていて、ひもであごに止めてある。
上着は陣羽織の折衷形とでもいおうか。前後の身頃は朱の地に金色で雲の形の文様が重ねられ、首のまわり、そで口、すそに大小のひだがつけられ、色はそれぞれ赤、黒、黄緑である。前身頃のふちには針金が入れてあって、すそを弓なりに持ち上げるようにしてある。前は三箇の金ボタンでとめるようになっている。水色のちりめんでつくったズボンは、幅広いひもで腰にとめ、足首もひもでしめるもので、もんぺに似ている。
踊り子の顔にはお白粉がぬられ、額に朱で十文字、目がしらと目じりにも少し朱をつける。白足袋をはき、場所の移動はかならず肩車にのって行く。
二人の踊り子がござの上に並んで立ち、かんたんなせりふを唱えると、太鼓、横笛で編成されたおはやし方が、おはやしをはじめる。横笛は普通孔が五つだが、ここでは六つのものが用いられている。
このおはやしに合わせて、うたを歌う。言葉の意味は全然わからないが、途中に三味線の口まねが入っているのは、後世の混入であろう。歌い手は、昔は三十人くらいでやったというが、今はせいぜい五、六人である。
実をいうといまから三、四年まえ、東京のNHKテレビがおこなった「渡来の芸能」というのに、この唐子踊の説明役として私もいっしょに出演したことがある。ちょっと変わったところはあったけれども、しかしこれは朝鮮の「童子対舞(ドンジヤデエム)」そのものであった。朝鮮ではすでにすたれているものが、この地にいまなお伝えられていることに、私はあるおどろきさえ感じたものである。
「オーシュンデー(いらっしゃいましたのに)」とか、「ハシュンデー(されましたのに)」といったいくつかの単語のほかは、私にもその「言葉の意味は全然わからない」ものになっていたが、しかしその風俗はどこからみても朝鮮のものであった。「ちりめんでつくったズボンは、幅広いひもで腰にとめ、足首もひもでしめるもので、もんぺに似ている」というそれは、朝鮮語ではバジといっているもので、私なども子どものころはそういう服装をして育ったものだった。
牛窓と朝鮮との縁は古代土器にも
牛窓では例によって、さきにまず町の教育委員会をたずねた。そして教育長の松本幸男氏や社会教育主事の高橋重夫氏たちに会ったが、このうちの高橋さんと私とは、二度目の出会いであった。というのは、いまいったNHKテレビの「渡来の芸能」のときに、高橋さんはその唐子踊の一行を東京まで引率して来た一人だったからである。
「やあ、あのときはどうも」ということで、こうなると万事話しやすくなるこというまでもない。それでかどうか高橋さんは、「これは町長から――」と言って、一九六二年に書かれて出た正続二冊の刈屋栄昌氏の『牛窓風土物語』をくれた。
せっかくくれたもの、それをもらっておきながらこういうことをいうのは何であるが、一見したところ、この『牛窓風土物語』はいわゆる皇国史観のかたまりのようなものであった。さいしょの「牛窓の伝説」からしてこうなっている。
牛窓の古称は牛転(うしまろび)という。即ち神武天皇が天下を平定して、大和の橿原の宮で即位し給うてより、八百六十年の後、第十四代仲哀天皇の御后(おんきさき)、神功皇后が、三韓御親征の御時に、この地名が誕生したと伝えられている。
それからさらにまた「神功皇后の三韓征伐」とつづき、いまみた唐子踊についてもこう書かれている。「神功皇后、三韓より御凱陣のみぎり……」と、これもさきにみた町の観光協会のそれと同じことが書かれているが、しかしながら、にもかかわらず、その「師楽」の項をみるとこうなっているからおもしろい。
師楽は牛窓半島の中部、阿弥陀山東北の麓で、錦海湾に臨む一集落であって、上古新羅人が土着開墾した土地と伝えられている。……
新羅人は欽明天皇の二十三年、持統天皇の元年並に四年、次いで天平五年、天平宝字二年及び四年、貞観十二年及び十五年、霊亀元年及び天平神護二年等、相次いで彼等の移住が行なわれた。その為に牛窓附近は是等(これら)新羅人の根拠地として、開拓経営せられたらしく、古師楽(古新羅)・新羅浦・邑久浦等の地名を遺(のこ)したのみで、文献の徴すべきものはないが、只ひとつ彼等が土着した証跡として、朝鮮の古代土器と同質の師楽式土器と、その窯跡が発見せられた事は、これを証明する唯一の資料として貴重なものである。
私は、教育委員会の資料室にいくつか集められていたその「師楽式土器」もみせてもらったが、それは珍しい製塩用の土器として知られているものだった。また引用であるが、これにしても野村増一氏の「備前のなかの朝鮮」をみたほうが早い。
ここに「師楽式土器」というのがある。土師器の一種であるが、それとくらべて少しかたく焼かれ、壺形の簡単な形をし、口径・高さとも一二〜三センチ、一七〜八センチの小さい土器である。昭和四年、出土地の師楽(しらく)の名を冠して「師楽式土器」と名づけられたが、そのご長いあいだ“なぞの土器”とされていた。
それが、昭和二十九年以来おこなわれた宇野港外の喜兵衛島の発掘調査によって、製塩用の土器であることが明らかにされた。このロクロを使わない手ひねりの師楽式土器による製塩は内海一帯にみられ、とくに吉備の国の文化圏に入るとおもわれる塩飽諸島から直島、小豆島、与島(以上香川県)および邑久郡海岸が、一大生産地とされている。
「こうしてみると、何ですね」と私はその師楽式土器をひととおりみせてもらってから、教育長の松本さんに向かって言った。「この牛窓というところと朝鮮との縁は、近世の唐子踊ばかりでなく、遠いこんな古代の土器にもみられるというわけですね」
私は、それまではふれなかったものであるが、このときはじめて唐子踊のことを口にした。町の観光協会などが「神功皇后が三韓から」うんぬんとしているその「由来」が由来だったので、私は何となくはばかるものがあってふれなかったのである。
「ええ、そうです」と、松本さんもそのことは意識していたとみえて、ちょっと重たそうな口ぶりだった。「その唐子踊については、さいきんいろいろな意見が出ているようですが、しかし町としては、やはり神功皇后うんぬんの伝承を重んじているわけです」
「いわゆる大和朝廷と同じで、できるだけ古いところまでさかのぼらせたいという気持ちはわかりますが、しかしそれでは社会教育上ウソを教えることになってよくないのではないですか。いまでは、神功皇后の存在そのものさえ否定されているわけでしょう」
「そうのようですね。いずれは、ちゃんとしなくてはならないでしょう。それはそうと、これはまたどういうものかよくわかりませんが、ここには『朝鮮様』といわれているものもあるんですよ。その『牛窓風土物語』にも出ているはずです」
「これですね」と私は、さいぜんから目にとめていた『牛窓風土物語』の「朝鮮場大明神の由来」とある項を開いてみせた。
「そう、それです。ここではふつう『朝鮮様』と言っていますが、それは東原さんという家に伝わる個人持ちの神様です」
「個人持ちの神様ね。これはどこにあるのですか」
「それでしたら」と、横にいた社会教育主事の高橋さんが言った。「知っていますから、わたしが案内しましょう」
気がついてみると、役所は引けどきの午後五時をすぎていた。それで私は安芸(広島県)の呉でと同じように、帰りがけの高橋さんのクルマで、そこまでつれて行ってもらうことになった。
「朝鮮様」の由来
牛窓は小さな港町で、狭い道路をあいだに家並がひとかたまりとなっている感じの町だった。「朝鮮様」というのはその狭い道路からさらにまた狭い路地を入ったところで、かつてはどうだったか知らないが、古い石段があってそのうえに小さな祠(ほこら)がある。それが朝鮮様といわれている「朝鮮場大明神」であった。
「朝鮮場大明神は、現在本町浅場家屋敷内に祀(まつ)られ、正面四十五センチメートル、奥行三十七センチメートルの社殿に深さ二十六センチメートルの幣殿を備えた小祠で、祭礼は毎年九月十五日の晩に行なわれ、社殿は文化元年九月十六日に再興し、明治九年九月吉日、同三十三年八月吉日、及び大正二年五月九日と、昭和三年六月吉日に修繕している」と刈屋栄昌氏の『牛窓風土物語』にあるが、また同書には、「元来東原家はこの文書を門外不出として秘蔵し」ていた東原弥右衛門尉景久が「文禄四乙未年九月」に書いた「朝鮮場大明神由来」が紹介されている。
頃は文禄三甲午中秋初三日、小船海上に漂流す。唐土の船とおぼしく、近寄りみれば水主〓取もなく、女の躰にて我を助けよと云う事やらん。合掌して言語も分らず、見捨て帰りがたく、話は夕陽に及び、ひそかに之を助け、よくよく見るに唯人とは見えず、衣服も常ならず、高位高官なる人と見ゆる。予宅に養育す。歓びの躰にては見ゆれども、船中の労れに終に九月十六日、命終り東山に葬る。其所を朝鮮場と名付ける。其後夢中に彼の霊魂、存生の躰にて出顕し、高恩忘れがたく、来世に至り知る者もなく、我を神と祝い呉るれば、永く子孫の長久を守るべし、と云い夢覚め、之に依って朝鮮場大明神と号す。来世に於て子孫怠らず之を祀るべき者也。
東原弥右衛門尉景久がこれを書いた「文禄四乙未年」は一五九五年のことで、このころは豊臣秀吉が朝鮮を侵攻したいわゆる「文禄・慶長役」のさいちゅうであった。なおまた、『牛窓風土物語』にはこれを書きのこした「東原弥右衛門は、牛窓村の年寄役を勤めて、航海の術に長じ、文禄元年秀吉の朝鮮征伐には、宇喜多秀家に従って出陣し、慶長二年には、丹波国福知山城主有馬玄蕃の知遇を受けたが、牛窓村の代官の反対でこれを辞した才人であった」とある。
その彼がなぜ、どうして、現実にはありそうもない「女の躰にて我を助けよと」「衣服も常ならず、高位高官なる人と見ゆる。予宅に養育す」という矛盾にみちた右のようなことを書きのこしたのか。それはわからないというよりほかないが、しかしこの「朝鮮場大明神由来」を一読してまず思いうかぶのは、さきの「福山・倉敷にて」の項でみた「お剣さん」といわれている高諸神社の「由来」伝承である。
「朝鮮様」といわれているこの朝鮮場大明神が、「お剣さん」の高諸神社の古さまでさかのぼりうるものかどうかについては疑問があるとしても、その「由来」が酷似していることについては、考えさせられるものがあるように思われる。
大廻(おおめぐり)・小廻(こめぐり)・熊山
「吉備王国」の周辺部
「朝鮮様」からさらにまた私は、牛窓町教育委員会社会教育主事の高橋重夫氏の案内で、いまは岡山市となっている宮城山の安仁(あに)神社にいたった。この安仁神社についてはあとでふれることになるが、そして私たちはここにも高麗時代につくられた朝鮮鐘のある西大寺をへて、岡山市街へ入った。
いよいよ古代のいわゆる「吉備王国」の拠点だったとみられている備中総社(そうじや)の鬼ノ城に近くなったわけであるが、しかしそのまえにまたもう一つ周辺部をみておかなくてはならない。だいたい私は、古代の「吉備王国」の中心部となっていた岡山市や総社市は二度、三度とおとずれていたが、その周辺部のほうはこれをこうして書く段になって、はじめてあたふたとたずねることになったものだった。
いまみた牛窓町などもそうだったが、これからみる赤磐(あかいわ)郡の瀬戸町や熊山町にしてもそうである。このときもよく同道する考古学者の李進煕がいっしょで、現地をあちこちと連れてまわってくれたのは、瀬戸町に住んでいる地方史家の野村増一氏らであった。
前夜は大阪で泊まり、翌朝早く新幹線で岡山駅についたところ、野村さんがそこまで出てくれていて、私たちはすぐにタクシーで瀬戸町へ向かった。間もなく左手のほうに、ちょっと高い丘陵の山がみえてきた。
「あの山は半田山(はんだやま)というのですが」と野村さんは、一角では宅地造成などがおこなわれているその山を指さしながら言った。「あれももとは秦氏のハタ山といったものですよ」
「するとこの辺は――」
「そうです。秦氏族のいたところです」
そんなことを言っているうちに、旭川の東方となっている備前国分寺跡についた。私たちはタクシーをとめておりてみたが、そこには一つの細長い石塔が建っているだけで、これといったものはなにものこっていなかった。
「まさに、夢の跡といったところですな」と李進煕は言ったが、しかしそこからは東南のほうに、きょうこれからたずねることになっている古代朝鮮式山城のあった大廻(おおめぐり)・小廻山(こめぐりやま)が望まれた。ということは、かつての備前国分寺はその山城からすると、眼下に望まれるところにあったわけである。
それから私たちは、備前国分寺跡の近くにあった両宮山古墳などをみて瀬戸町の役場についた。するとここでは教育委員会社会教育係長の寺見武敏氏や土井秋夫氏、それに野村知恵さんといった人たちが、寺見さんの運転する町役場のライトバンや、自家用車などを用意して待っていてくれた。みな、野村さんがそのようにとりはからってくれたものであった。
古代朝鮮式山城――大廻・小廻
私たちはあいさつもそこそこに、さっそくみんないっしょになって出かけた。とはいっても、私はクルマがどこをどう走っているのかわからなかったが、やがてクルマは山麓の小さな集落から、さらにまたその集落の裏手の山道を登って行った。
「金さん」と野村さんが、その集落に目を向けて私をよんだ。「ここが谷尻(たんじり)というところですよ」
「ああ、そうですか。なるほど」と私は言った。
ほかの人には何のことかわからなかったであろうが、私は能登(石川県)をたずねたとき、そこに谷崎(たんざき)というところがあったが、それを谷崎(たにざき)といわず、地元の人たちはいまなお谷崎(たんざき)といっているのは、古代朝鮮語で谷のことをタン(丹)といったことの名残りではないかと書いたところ、野村さんは自分の住んでいる備前の瀬戸町の近くにも「谷尻(たんじり)というところがある」と教えてくれたものだった。
クルマはその谷尻から山道を登ってみると、標高二〇〇メートルほどのそこの山上にも点々と人家があって、あたりは一面ブドウ畑となっていた。のんきなもので、というより、さきにも来たことのある李進煕や野村さんたちは自明のこととしてなにもいわなかったから、私はそこまで来てやっと気がついたが、その山がすなわち古代朝鮮式山城のあった大廻・小廻山であった。
みたところあたりはブドウ畑ばかりで、別にこれといって変わったところのない山と谷だった。しかしなるほど、野村さんたちのあとについて行ってみると、もとは谷間の水門となっていた石塁がいまもそこにのこっている。
ただちょっとみただけでは、いまではブドウ畑拡張のためにくずれかかっているその石塁にしかおもかげをとどめていないが、ここにかなり大規模な古代朝鮮式山城があったことは、これまでの調査によって明らかとなっている。毎日新聞・岡山版は一九七五年八月六日から十二回にわたって「古代を掘る/鬼ノ城」というのを連載した。そのなかの「大廻・小廻」の部分をみるとこうなっている。
岡山市の東北端、赤磐郡瀬戸町との境に、標高二百メートル足らずの山がある。小廻(こめぐり)・大廻山。山頂近くまでブドウ畑が広がるこの山に、岡山市教委文化課主事の出宮徳尚、根木修の二人が分けいったのは四十九年一月、休み明けの寒い朝だった。
出宮の胸には期待があった。手には絵図画のコピーがあった。地元、岡山市草ケ部の旧庄屋宅にあった江戸時代の絵図画は、周囲の地形をほぼ正確に描いていた。そこには小廻山の山頂を囲むように土塁が続いていた。「朝鮮式山城だろう」若い二人の研究者は、ジャンパーに長靴姿で奥へずんずん進んだ。
戦前、国有林だったこの山は、戦後、開拓農家十数戸が入植、果樹畑となった。そのため、土が掘り返され、鉢巻き状の土塁約三・五キロはあちこちで崩れ、不明な個所も多い。だが、山の西側の谷に、一立方メートルほどの石が高さ一メートル、長さ三十五メートルも続く石塁がきれいに残っていた。それは、地元の人たちが一の木戸と呼んでいるものだった。そして同じような二の木戸、三の木戸の石塁もやはりあった。
学生時代、北九州の女山(ぞやま)神籠石(こうごいし)を見にいった出宮には、その形状の類似がすぐピンときた。土塁、石塁に囲まれた区域は神域では、として名づけられた神籠石は、今では山城と考えられている。石塁は水門の役目らしい。第一の水門を見つけたとき出宮は思った。「九九%間違いない」と。
相当、長くなった。しかし、のち備中の総社でみるはずの鬼ノ城とも関連があり、参考にもなることなので、もう少し引かなくてはならない。
調査は二月末まで、ほとんど毎日行われ、全貌はほぼ明らかになった。だが、鬼ノ城と同様、小廻山の石塁も昔から存在は知られていた。鬼ノ城は朝鮮式山城とは言われていなかった。それに反し、小廻山は昭和十五年発刊の『赤磐郡誌』の中に「朝鮮式山城か」とすでに紹介されていた。
『赤磐郡誌』の著者荒木誠一は、当時赤磐郡ではなく、上道郡浮田村―玉井村にまたがっていた小廻山に注目し「秀吉の造った築地か、朝鮮式山城だろう」と記し、水門の構造にもふれた。だが、ときは戦時下。日本は朝鮮を植民地とし、中国大陸で戦火の輪をひろげているときだった。朝鮮人蔑視が根をおろし、日本より朝鮮に高い文化があるはずはない、と宣伝された時代。荒木の記述は無視され続けた。戦後になっても長い間。
四十八年、小廻山にゴルフ場造成の話が具体化した。地元、瀬戸町に住む郷土史家野村増一らの「赤磐の自然と文化をまもる会」が保存の陳情を行い、同年十二月、岡山市議会で採択された。そして出宮らの調査――。小廻山とともに長らく眠っていた荒木の記述がやっとひのめを浴びた。だが、それには三十四年もの歳月が……。なぜこんなに……。この事実のもつ意味はけっして軽いものではない。
調査は二ヵ月間、四十日ほど精力的に続けられ、小廻山の土塁、石塁のほか、周囲の状況など全容がほぼつかめた。
大廻・小廻の山頂と、それらをつなぐ主尾根と西側の観音寺に通じる谷を取り囲んで一線状にめぐる土塁。最大のところで、高さ三メートル、上面幅二・五メートル、底部幅六メートル。長さは約三・八キロ続く。この土塁に囲まれた山頂、尾根、突端などながめのきく地点では、土塁が二重にされ、望楼や倉庫などが造られていたらしい。……
周囲の遺跡、地形がわかるとともに、その位置のもつ意味の重さが徐々にはっきりしてきた。これも鬼ノ城と同様である。
鬼ノ城の場合、眼下一帯に広がる平野に、全長三百五十メートルと日本で四番目に大きい前方後円墳の造山古墳、二百七十メートルで十二番目の作山古墳をはじめ、大小の古墳群がちらばり、備中国府跡、備中国分寺、国分尼寺跡など多くの寺社、遺跡がある。つまり、古代吉備地方の中心地と思われる後背地に、鬼ノ城が造られたわけだ。
大小の古墳群に囲まれた地、という意味では、小廻山も同じである。近くには、最近、発掘調査の行われた備前国分寺跡があり、北には備前国府跡と伝えられるところもある。二百メートル足らずの山だが山頂からのながめはよく、周囲の動静は手にとるようにわかる。
このような古代朝鮮式山城がどうしてできたか、そしてそれはどのような機能を持ったものであるかということについては、のちにみる備中総社の鬼ノ城でのべることにするが、この大廻・小廻山にはほかにまた、何であったかナゾとされている「石積み遺構」がある。この石積み遺構にしてもより大規模な熊山のそれをたずねることになっていたから、私たちは茂った樹木のあいだにある大廻・小廻山のそれはちょっとみただけで、すぐにその熊山へ向かった。
熊山の石積み遺構
熊山町は、瀬戸町の東北方にあたる小さな町だった。あいだに吉井川が流れていて、そこに、その流れを西大寺のほうへ向きを変えさせている、標高五〇〇メートルほどの熊山が立ち聳えている。遠くから見たところでは、別にこれといって変わったところのないふつうの山であった。
しかし、熊山町という町名がその山の名からきていることからもわかるように、それはけっしてただの山ではなかった。まず、熊山町の教育委員会でもらった潮見定秋氏の『熊山霊峰』というのをみると、その山のことがこう書かれている。
熊山霊峰は、岡山県の東南に当たる備前市・和気郡・赤磐郡の一市二郡にまたがり、周囲七里余(二八キロ余)、標高五〇八・六メートルの県下四位の高山であり、瀬戸内海沿いでは大阪までの間で、六甲山に次ぐ二位の高山である。……
当山には、天台宗の十三ヵ寺があり、加えて戒壇四十八と延命地蔵大権現が鎮座ましましていたが、明治五年神仏分離の時、熊山町奥吉原にご遷宮申しあげ、現在にいたっている。当時は代々池田公より禄をたまわっていたが、明治維新の廃藩置県と同時に禄もなくなり、自滅の運命に廃墟と化したのである。
しかしながら、この熊山のなかにはまだ廃墟とはなっていない熊山神社や、大滝山福生寺などものこっているばかりか、なによりもここには日本では珍しい熊山遺跡といわれる国指定文化財の「石積み遺構」がある。いわばこの地方の「聖山」「聖なる山」、それが熊山であった。
なにも、この山には動物の熊がいたからというので、その名が熊山となったのではない。熊、すなわちコム(熊)とはいわゆる檀君神話以来、朝鮮では「聖なるもの」ということを意味したもので、そのために古代日本では古代朝鮮三国の一国であった高句麗のことをコマ(高麗)といったものであり、あるばあいはそれが朝鮮全体をさす呼称ともなったものであった。
「さきにまず、これをみておいてください」と、私はその熊山に登るにさきだって、李進煕からある雑誌の挿入写真をみせられていた。ある雑誌というのは南朝鮮の韓国美術史学会が一九七一年六月にだしている『考古美術』だったが、写真はそれにのっている「安東塔」とよばれる新羅の「方壇式石塔」というものだった。
寺見さんの運転するライトバンはところどころで大きく揺れながら、曲りくねった熊山の山道を一気に走り登った。標高五〇〇メートルの山頂に達してみると、そこに「熊山奥吉原郷土自然保護地域」とした案内板がたっている。
ライトバンはそこまでで、私たちは赤紫の山ツツジの花があざやかに咲ききそっている細い林道を歩くことになった。「樹齢七百年、高さ三十メートル、幹の周囲四・五メートル」と書かれた札がさがっている杉の大木などがあったかとみると、熊山神社の鳥居があって、急な高い石段が天空の向こうに消えたりしている。
その石段を右にしながらなおも進むと、いきなり目の前にちょっとした平地が開けた。と同時に、一見異様な石積み遺構が目をとらえた。私はどうしたことかそれをみた瞬間、いつか因幡(いなば)(鳥取県)の国府町でみた「岡益の石堂」を思いだしたが、もちろんそれとこれとはちがうものだった。
基壇のうえに三段の大きな石積みとなっているこの遣構は、いったい何であったのか。私たちはその周囲をまわりながら、とみこうみしたが、だれもみなほとんど口を利かなかった。野村さんたちとしては、初見ではなかったはずであるが、しかしやはり、その異様さには目をみはるよりほかないというふうだった。
奈良時代に築造された宗教的なそれであったことはほぼまちがいないとされているが、「仏教の戒壇」、「墳墓の塔」などいろいろな説があるだけで、いまだにそれが何であったかははっきりとわかっていない。熊山町は一九七四年にこの「石積み遺構」の調査をおこない、同町文化協会から『熊山遺跡』という立派な調査報告書が出ているが、これにしても「今回の調査は、あくまで『熊山遺跡』の一貌を明らかにしたにすぎず、謎の石積み遺構を中心とする『熊山遺跡』の全貌を明らかにするには、今後の調査をまたねばならない」と書いているだけである。
「それにしても」と私は、そばにいた李進煕に向かって言った。「よく似ているものだね。そっくりそのまま、同じものじゃないですか」
さきにみた新羅の「方壇式石塔」のことだった。割石を積み上げたものであることも同じであれば、それを「特異な遺構」としていることでも同じであった。そしてそれを朝鮮では「舎利戒壇」ではなかったかとしているが、すると熊山のこれもそれだったとみるべきであろうか。
「いずれにせよ、これが新羅系のものであることは、だいたいまちがいないじゃないですか」とこんどは、野村さんが横から言った。「というのは、この熊山の麓に弓削(ゆげ)というところがあって、そこに畑(はた)という地名がのこっているんですよ。新羅系の秦氏族がいたということです」
「ああ、そうですか。なるほどね」
「それからまた、この熊山の向こう麓は備前市や長船(おさふね)町となっているところですが、ここにそのものずばりの新羅古墳というのがあるそうで、近くわたしたちはそれをみに行くことになっているんですよ」
「そうですか。なるほど」とまた、私は同じことばをくり返した。長船町のその向こうどなりは牛窓町で、さきにたずねたそこも師楽(しらく)、すなわち新羅だったところであった。
備前の秦人と漢人
備前に残る朝鮮文化
備前もようやく岡山市ということになり、私はここで気がついたが、一つ忘れていたものがあった。なにかというと、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」である。いまそれをみると、備前・備中国のうち、「鳥形水注壼」や「装飾付有台壼」などを出土した遺跡や古墳として、次のようなものがあげられている。
岡山市宮浦東于川
邑久郡鹿忍町槌ケ谷
邑久郡国府村小笠山
邑久郡長船町茶臼山古墳
都窪郡加茂村新庄榊山古墳
都窪郡山手村寺山古墳
都窪郡山手村宿辻畑
和気郡備前市西片上
赤磐郡軽部村
吉備郡足守町下足守
小田郡山口村
総社市法連
それからいわゆる「帰化人」、すなわち古代に朝鮮からの渡来人が住みついたところとしては、文献にみえるものとして次のところと人とがあげられている。
邑久郡積梨郷 秦造国足
邑久郡服部郷
津高郡津高郷 漢部古比麻呂
同 漢部阿古麻呂
同 漢部真長
上道郡幡多郷
(郡郷不詳) 秦大兄
賀夜郡日羽村 川人部麻呂
同 忍海漢人部真麻呂等
同庭瀬郷 忍海漢部得嶋
同大井郷
同服部郷
都宇郡河面郷(辛人里) 秦人部稲麻呂
同 津臣益麻呂
同深井郷 津臣弟嶋
下道郡秦原郷
もちろん備前・備中に限ってみても、これからみるように、これがその全部でないことはいうまでもない。たとえば、野村増一氏の「備中のなかの朝鮮」をみるとこう書かれている。
備中地方に多くの渡来人が定着していたことは、古文書のなかの人名からもよみとることができる。
その一つ――元亨釈書巻十九に「釈阿清姓百済氏備之中州窪屋郡人」とみえるが、この窪屋郡は都宇郡と合して現在の都窪郡になっているから、さしずめ備中国都窪郡人ということになる。
また、天平十一年の正倉院文書によると、大井郷(吉備郡足守町)の東漢人部刀良手(やまとのあやひとべとらて)や、阿蘇郷(総社市阿曾)の西漢人部麻呂(かわちのあやひとべまろ)、史部阿遅麻佐(ふひとべあじまさ)、西漢人部事旡売(こととめ)らがこの年に死んだことを、その居住した里名と死亡月日をあげて記している。
それからまた、ついでにもう一つつけ加えると、私はこれまで牛窓町や瀬戸町、熊山町などはみているが、牛窓町への道すじにあった邑久町はただ素通りしただけだった。野村増一氏の「備前のなかの朝鮮」をみると、そこのことがこうある。
現在は岡山市に入っているが、旧上道郡の幡多村、可知村の名は、秦勝部から出ているといわれる。
神社でいえば、邑久郡長船町(旧国府村)磯上の家高山にある湯次神社は、百済の融通王(弓月の君)を祀(まつ)る。
このような例示はいくらでもできるが、顕著なものを一つあげてみよう。
昭和二十七年、今城(いまき)、豊原など六ヵ村が合併して、いまの邑久郡邑久町ができた。
古今要覧稿によれば、「今木は新来(いまきの)漢人(あやひと)之地名也、現今今木を以て地名とせるは、大和、山城の二ヵ国と備前のみ」とある。また、応神紀二十年の条で大伯国の今城は、今木、今来であるとしている。
この今城村にみられる姓を姓氏名鑑からみると、つぎのようである(『今城村史』から)。
豊原 高句麗人上野玉麻呂の後なり。
この人淳仁の朝、姓豊原と賜わる。また、新羅人壱呂比麻呂の後の豊原氏もあり。
今木 姓は三宅、新羅天日槍より出ず。
三宅氏の族に児島氏あり。今木氏はその分派なり。
和田 新羅天日槍の後なり。
三宅 〃
中西 〃
児島 〃
浮田 宇喜多 姓は三宅氏、新羅の王子天日槍の後なり。
太田 百済連古大王の後なり。
宇喜多氏について
これをみておもしろい、というより、ちょっと考えさせられるものがあるのは、さきの「播磨の秦氏族」でみた「南朝の忠臣」ということで有名だった児島高徳が右の「三宅」氏から出ていることもさることながら、「浮田、宇喜多」氏というのも「新羅の王子天日槍の後」だということである。浮田、宇喜多といえば、まず思いおこさせるものに、豊臣秀吉の朝鮮侵攻に従った宇喜多秀家があって、高柳光寿・竹内理三編『日本史辞典』にこうある。
宇喜多秀家 一五七三〜一六五五(天正一〜明暦一)戦国大名。浮田秀家とも書く。直家の二男。初名家氏。豊臣秀吉に従い四国・九州・小田原征伐に軍功をたて、文禄の役では碧蹄館の戦に参加。一五九四(文禄三)権中納言。慶長の役にも渡鮮。秀吉に信任され五大老となる。一六〇〇(慶長五)関ケ原の戦に敗れて、一六〇六、八丈島に流され、島で死去。
宇喜多氏はいまみた『日本史辞典』にもそのようにあるが、『吉備群書集成』をみると「新羅の王子天日槍」ではなく、「百済国の王子」から出たものということになっている。どちらにせよ、宇喜多氏が朝鮮から出ていることに変わりはない。すると、どうであったか。少なくとも宇喜多秀家のころまではその出自が意識されていたはずで、秀吉の朝鮮侵攻に従ったときにも、秀家ははっきりとそのことを知っていたにちがいない。
ちょっと考えさせられるものがあるといったのは、ここのところをさしたわけであるが、それはおいて、この宇喜多氏が伝えられるように、もし百済から渡来したものの後であったとすれば、これは『岡山市史』に書かれている、次のような事実とも関連があったはずである。
岡山市域で韓系の帰化人の居たのは、高島地区の賞田である。賞田字茶臼山に横穴式の古墳があって南面に口を開き、その石室内に蓋を失った石棺が残っている。今ではこの石棺が有名になって古墳ごと「石棺」と呼んでいるが、土地の者はこれを韓人(からうと)とよびならわし、あたかもこの古墳の代名詞のようになっている。……
韓人というのは石棺のあるこの横穴古墳だけでなく、おそらくその付近の地名をこのように呼んだのであろう。この地が百済系の帰化人の遺跡であることは、この古墳を韓人(からうと)と呼ぶことによっても証拠だてられるし、石棺の製作技術が極めて精巧であることによっても知られる。……
これらの百済人は、おそらく優秀な土木技術の持主であったらしい。南方一帯の平野は旭川の沖積によってできた沃野であって、早くから農地がひらけ、大化改新以後条里制が行われたところである。このような土地にはすぐれた開墾技術が必要であったし、また旭川の水害防止や灌漑用水の工事にも土木技術を必要としたことは無論である。
「韓人(からうと)」ということばがのこっているとはおもしろいが、岡山市にはこのほかにも「辛川(からかわ)」とか「辛川市場」などというところもあって、この「辛」ももとは「韓」ということであったものにちがいない。これが百済系のものであったとすれば、天日槍などに象徴される新羅系のそれはどうであったろうか。
渡来系目白押し
天日槍ということは、さきにみた今城村の姓氏のところ以外、ここではあまりみられない。が、そのかわりといっていいかどうか、新羅系の渡来人で秦人(はたびと)ともいわれた秦(はた)氏になると、これはもうほとんど目白押しである。まず、『岡山市史』のそれをみると、「秦氏は前期帰化人中の大勢力で」としてこう書かれている。
岡山市域で秦氏ゆかりの地は旧幡多村である。この地は和名抄にある上道郡幡多郷で、備前地名考に幡多をハタと訓し、古くからこの地名を伝えている。慶長十年備前国高物成帳には「幡多郷沢田村・円山村・関村・高屋村・藤原村・清水村・赤田村」と載っている。幡多郷の範囲はおよそこれらの村々にわたるもので、円山村を含むから一部操山々塊の南面にまたがるが、大部分は操山々塊の北面にひらけた農業地帯で、沢田と円山村の一部をのぞくほか、古い平野の上にある村々だ。
沢田の背後の山上には金蔵山古墳があり、戦後の学術調査で種々の副葬品と共に鉄器の多くを発掘した。その種類は工具、農具、漁具、祭具などの多種にわたっており、岡山平野の古代史の解明に貴重な資料を与えるものであった。古墳時代前期に属するこの前方後円墳は、その築かれた時代が恰(あたか)も前期帰化人の地方分散と期を同じうすると思われるだけに、秦部のいたと云われるこの地の伝承と関連して、興味ある遺跡に数えられる。
また、沢田の東の丘上には後期古墳として規模の大きい大塚古墳がある。西面して開いた横穴石室は、石仏を祀った信仰の場にしているが、片袖式の石室としては稀れにみる大きな構造で、金蔵山文化の一つの延長とさえ考えられる。そのほか山上にも山腹にも、大小の古墳が前期後期にわたって数多く散在している。
それだけではない。なお、『吉備郡史』によると「秦人の土着地、例えば」として、「秦・葉田(はた)・土田(はた)・幡多(はた)・半田(はた)・畑谷(はたや)・服部(はとり)・八鳥(はとり)・勝部(かちべ)・勝部田(かちへた)・勝間田(かつまた)・勝田(かつまた)・勝田(かつた)・可知(かち)・加治(かち)・加地(かち)」等々があげられ、ついでまた、百済系の渡来人とみられている「漢人(あやひと)に因める」ものとしては次のようなところがあげられている。「阿智(あち)・上阿智・下阿智・東阿智・西阿智・漢部(あやべ)・綾部(あやべ)・綾部田・英田(あいた)・英多(あいた)・呉織・呉服部・錦織(にしごり)・西郡(にしごおり)」等々。
安仁神社と阿智使主
これだけみても実に濃厚であるが、ここにみられる上阿智・下阿智はさきの「『唐子踊』と『朝鮮様』」の項でみた安仁(あに)神社近くの上阿知・下阿知のことである。この近くにあって、裏山からは弥生時代の銅鐸なども発見されている安仁神社はどういうわけか、そこの宮城山という一山全部を占めている大きな、由緒深そうな神社であったにもかかわらず、こちら備前では何となく横のほうに押しやられているような神社となっている。
もとは門前町などもあって賑わっていたかもしれないが、いまはあたりも森閑とした農村となってしまっていた。というのは、だいたいいまでこそ備前国一の宮は岡山市一宮にある吉備津彦神社ということになっているが、もとはこの安仁神社が備前国一の宮となっていたもので、野村増一氏の「備前のなかの朝鮮」にもこう書かれている。
吉備地方の神社で、いちばん古い記録として『続日本後紀』承和八年の項に、「備前国邑久郡安仁神、名神を頂く」とあり、延喜式神名帳で名神大に列せられているほど古くから知られ、ひろく住民の尊崇をうけている。
祭神は五瀬命、相殿神は稲氷命、御毛沼命となっており、そのほかにも三十六座の補神を祭っている。神社の名「あに」は、五瀬命が神武天皇の兄であるところから、つけられたものとされている。……
ところがここに、安仁神社は阿知使主(あちのおみ)を祭るにあらずや、という説がある(吉田東伍『大日本地名辞書』)。そうなると信憑性がでてくる。
阿知使主は応神朝に、十七県の党類をつれて朝鮮の帯方郡から渡来したといわれ、……吉備の地方に土木、水利、紡織、製陶などの技術をたずさえて移り住み、吉備開発の主動力となった多くの渡来氏族の祖ともいうべき人物である。
したがって、彼らがその祖である阿知使主を祭ったであろうことは、とうぜんうなずけることである。現在の安仁神社のすぐ北に上阿知、下阿知があるが、説によれば、もともとこの阿知郷の氏神として阿知神社があり、それが安仁に転化したのであろうという。
ともかく、三十六の神々をしたがえているのである。十七県の大衆をひきい、たくさんの技術者をそだてた神さまなればこそ、こんなおおぜいの神さまを同居させることができよう、というものである。
ここから北、邑久郡長船町には、東須恵、西須恵、土師、服部などの大字があるが、いずれも渡来人の技術との深いかかわりを示している。
兄を「あに」と読むのは中世以後である。兄は「え」だから、兄の宮なら“えのみや”というふうになる。兄が安仁にかかわるよりも、阿知が安仁に、あるいは王仁(わに)が安仁にかかわるほうが自然であろう。
そして、この安仁神社は、「明治初年まで、祭神不詳の一点ばりでおしとおしてきている」とのことであるが、もし神武帝の兄とされている五瀬命を祭るものであったとしたら、そんなことなどなかったにちがいない。ここでついでにいうならば、これも神武帝の兄ということになっている稲氷命、すなわち稲飯命は新良貴(しらぎ)(新羅)氏の祖となっている(『新撰姓氏録』)ものである。
しかしこの安仁神社の祭神はそういったものではなく、これもさきの倉敷でみた阿知神社と同じく、阿智使主を祭ったものではなかったかと思う。私は安仁神社の安仁とは、古代南部朝鮮における加羅(加耶・加那)諸国の一つであった安那(アナ)(安羅・安耶)からきたものではなかったかと思ったことがあるが、阿智使主を祖としている漢人の土着した阿知・上阿知・下阿知などの地名がのこっているところからすると、やはり野村氏の書いていることのほうがただしいと思われる。
鬼(き)ノ城(じよう)をめぐって
備前から備中へ
いよいよいわゆる「吉備王国」の中心地も備前から備中に入る。これまでみた備前とともに、私はこの地を何度おとずれたかわからない。
真金吹く吉備の中山帯にせる
細谷川の音のさやけさ
二度、三度とおとずれるたびに、ますますわからなくなるようなのが吉備であった。「日本歴史のふるさと」、あるいは「日本文化のふるさと」といわれる大和(奈良県)は見えているが、こちらの吉備は見えていない。それほどに、吉備は奥深いのである。
「吉備は大和に征服されて」などというが、のちにはそれであったとしても、古代日本国家らしいものが成立したのは、どちらがさきであったかわからない。たとえば、吉備には日本で四番目の大古墳として知られている造山(つくりやま)古墳があるが、それについて考古学者の森浩一氏はこう書いている。
造山古墳と作山古墳、いつからこの名があるかは知らないが、巨大な土木工事の構築物を巧みに表現している。造山古墳は日本で四番目の前方後円墳、大和のどの古墳よりも雄大である。四番というのは、約四百年間の古墳を一つにしての話であるので、ある時点では最大かも知れない。最近、古墳群を見下ろす鬼(き)の城の山頂で、朝鮮式山城が発見された。(「古墳群と王朝勢力の関係」)
吉備津神社と賀陽(かや)氏
その朝鮮式山城も、私は森浩一氏らといっしょに登ってみているのであとでのべることになるが、吉備の古代をたずねるにはやはりまず、「吉備の中山」からとするのがいいかもしれない。このいわゆる中山の東麓には、さきにふれた安仁神社にかわって備前国一の宮となっている吉備津彦神社があり、西麓には壮麗な比翼の本殿をかまえた吉備津神社がある。
後者があるのは備中となっていたところであるが、どちらも祭神は同じである。私も吉備津神社の壮麗さには圧倒されたものであるが、藤井駿氏が書いている「四道将軍吉備津彦」というのをみると、その吉備津神社と祭神のことがこうある。
岡山市吉備津(きびつ)の「吉備の中山」の麓に元官幣中社吉備津神社が鎮座している。山陽道においては安芸の厳島神社と並ぶ大社であり、古来吉備国の総鎮守と尊ばれ、今日も出雲大社とともに、中国地方の古社として庶民の信仰をあつめている。
境内も広大で三十万坪以上もあるが、ことにその本殿(正宮ともいう)は応永三十二年の再建で、比翼の入母屋をもつ壮大な社殿は、室町初期神社建築の傑作として国宝に指定されている。本殿のほか、境内のあちこちに岩山宮(いわやまぐう)・本宮(ほんぐう)・新宮(しんぐう)・内宮(ないぐう)などの古社があり、本社と合せて吉備津五社大明神といわれている。
そのほか、釜殿(かまでん)では有名な鳴釜(なるかま)の神事が今も行なわれている。一品(いつぽん)吉備津大明神というのは、平安時代すでに延喜式の名神大社(みようじんたいしや)であり、神位として極位の一品(いつぽん)を朝廷から授けられたからであろう。王朝以来、吉備氏の氏神として、吉備氏の一族で賀陽(かや)国造の裔と称する賀陽氏が近世まで神主職を世襲していた。
ここにいう「吉備氏の一族」「賀陽氏」とはいったいどういうものであったか。ついでにいうと吉備津神社のある備中は『延喜式』には「賀夜郡(かやのこおり)」となっていたところで、これはまた「加夜(かや)」「加陽(かや)」とも書かれたものである。
それについてはあとでみるとして、吉備津神社境内の一角にある釜殿の「鳴釜の神事」は私もその前に立ってみたことがある。上田秋成の小説『雨月物語』のなかにも出てくるものだが、要するにこれもあとでみる「吉備津彦の鬼退治」という説話による温羅(うら)の霊を祭るというものだった。
高麗寺仁王門跡
吉備津神社から吉備路自然歩道を西へ六キロほど行くと、さきにふれた造山古墳となり、そのさきは備中国分尼寺跡、備中国分寺などがある吉備「風土記の丘」となっている。このあたりはまさにいわゆる「吉備王国」の中心となっていたところで、時間をかけてゆっくりと歩いてみたいところである。
中山西麓の吉備津神社から造山古墳までの山裾道は、大和の山ノ辺ノ道にちょっと似たところであるが、そのちょうど中間のあたりに福田海(ふくでんかい)という寺があって、そこから山道を少し登った寺の墓所に「高麗寺仁王門跡」という石碑が建っている。いまは草ぼうぼうのなかに、その石碑とわずかばかりの礎石がのこっているだけで、往時のそれをものがたるものはなにもない。
しかしながら、かつてはここに高麗寺という大伽藍があったことはたしかなことであった。野村増一氏の「備中のなかの朝鮮」にこうある。
仁王門跡には四個ずつ、四列に計十六個の礎石が整然とならんでいたが、いまは道づくりのため土に埋まり、いちばん端の一個だけがわずかに地表に顔をみせている。
この仁王門跡から山上にかけて、むかし山上仏教が栄え、大坊を中心に多くの僧坊がたちならんでいた。これが高麗寺で、いまは廃寺となっているが、平安初期の瓦が出て往時の姿をしのばせている。
この高麗寺の由来をたずねても、それはもう文献も口碑もなにもないので、一切わからない。ただ源平盛衰記に、藤原成親がこの高麗寺に流されたと記されているから、そのころすでにこの名があったということがわかるだけである。
朝鮮からの渡来人の技術によってたてられたものか、渡来氏族の氏寺であったものかなにもわからない。
しかし、吉備の中山の山自体を神とし、神域として祭った吉備の勢力、山域にあまたの社寺をたててうやまってきた吉備の人たちが、そこに高麗寺という名のお寺をもっていたということは、吉備の大豪族と朝鮮との深いかかわりを、はっきり示しているものといえよう。
備中総社古墳群
その「吉備の勢力」である「大豪族」がどういうものであったかということを、もっともよくわれわれに示しているのが全長三五〇メートル、高さ二四メートルの前方後円墳となっている造山古墳である。そば近くに寄ってみると、だいたいこれが人工の古墳であったろうかと思われるほどのものであるが、その西数キロのところには作山古墳があってこれがまた全長二七〇メートル、吉備では造山の次にかぞえられる大古墳である。
どちらも備中総社古墳群のなかのそれであるが、造山古墳の前方部近くには六つの古墳があって、そのうちの一つである千足古墳の横穴石室には直弧文様が刻まれている。そしてこれもそのうちの一つである榊山古墳からは、はっきりそれとわかる古代朝鮮製の珍しい青銅馬形帯鈎(たいこう)が出土している。帯鈎とは今日でいうベルトのバックルのようなものであるが、これは「御物」としていまは宮内庁にあるという。
赤松の美しい林におおわれたゆるやかな丘陵地で、その赤松の枯枝がときどき降るようにパラパラと頭上におちてくる備中国分尼寺跡や国分寺などのある吉備風土記の丘は、造山古墳から作山古墳までのちょうど中間にあたるところであるが、ここにはまたコウモリ塚古墳がある。『吉備自然歩道地図』をみると、その古墳のことがこう説明されている。
丘陵を利用した前方後円墳で、長さ一〇三メートル。六〜七世紀の築造といわれる。横穴がポッカリ石室の入口をつくっている。内部は一個何トンとも知れぬ巨岩をいくつも使って長さ八・一五メートル、幅三・四メートル、高さ三メートルの大きな墓室を構えている。この進歩した石組みの技術は、大陸からの帰化人の特技で、それは鬼の城(朝鮮山城)の構築に活用されているといわれる。
ここにまた、古代朝鮮式山城の鬼ノ城と関連あるものが出た。ところで、われわれはいま吉備津神社から作山古墳にいたる吉備風土記の丘を、古墳を中心にざっとみたわけであるが、これは総社市新山(にいやま)の鬼ノ城からすると、いずれもその眼下となっているところであった。
つまり、作山古墳からすると、鬼ノ城はちょうどその真北にあたるところとなっている。あいだに国道一八○号が東西に走っており、ちょうどまた中間のそこに備中国府跡があって、そしてその国府跡の近くには加夜寺跡の門満寺がある。門満寺となった加夜寺とはもちろん、さきにふれた加夜(賀陽)氏族の氏寺であったことはいうまでもない。
蘇った古代朝鮮式山城
さて、いよいよ、加夜寺跡の門満寺からは北へ約二キロのところにある鬼ノ城であるが、これが古代朝鮮式山城であることがわかったのは比較的さいきんのことであった。これまでに知られていた朝鮮式山城としては、北部九州・福岡県の「伊都国」だったところにある恰土(いと)城や雷山城、それからこれも同じ福岡県である女山(ぞやま)城や大野城跡などが有名なものだったが、さきにみた備前の大廻・小廻山のそれとともに、備中のいわゆる鬼ノ城も朝鮮式山城であることを発見し確認したのは、岡山県立博物館の高橋護氏、岡山在住の考古学者である西川宏氏、それに在日朝鮮人考古学者の李進煕氏であった。
そのことは、「岡山県総社市の鬼城山(きじょうさん、三九六メートル)にあるナゾの城跡が、古代の大規模な朝鮮式山城だった公算が、在日朝鮮人の考古学者を含む研究グループの現地踏査で大きく浮び上がってきた」として、当時、一九七二年五月四日付けの朝日新聞などに大きく報じられたものである。以後、西川氏も「消されていた朝鮮式山城」などを書いたりしたことから、これも九州のそれと同じ古代朝鮮式山城であるということがようやく知られるようになったものである。
「吉備津彦の鬼退治」
いわば、それまでは抹殺されていたもので、この山城のことはどの歴史文献にもみえておらず、わずかに吉備地方の人々に知られていた「吉備津彦の鬼退治」という説話にそれが出ているのみであった。さきにみた吉備津神社の釜殿でおこなわれている「鳴釜の神事」とも関連したもので、藤井駿氏の「四道将軍吉備津彦」にそのことがこう書かれている。
今日も吉備地方の人口に膾炙(かいしや)しているのは「吉備津彦の鬼退治」の神話である。この神話は吉備津彦命を祭神とし祀っている吉備津神社の縁起に記されているが、中世から江戸時代に筆写された縁起にも数種類があり、その内容には若干の異説がある。いま諸異本を総合して、その神話の大要を紹介してみよう。
人皇第十代崇神天皇のころ、異国の鬼神が飛来して吉備国にやって来た。彼は百済の王子で、名は温羅(うら)ともいい、吉備冠者とも呼ばれた。彼の両眼は爛々(らんらん)として虎狼のごとく、蓬々(ぼうぼう)たる鬚髪は赤きこと燃えるがごとく、身長は一丈四尺にも及ぶ。膂力(りよりよく)は絶倫、性は剽悍(ひようかん)で凶悪であった。彼はやがて備中国新山(にいやま)に居城を構えた。しばしば西国から都へ送る貢船や婦女子を掠奪したので、人民は恐れ戦(おのの)いて「鬼(き)の城(じよう)」と呼び、都に行ってその暴状を訴えた。
朝廷は大いにこれを憂い、将を遣わしてこれを討たしめたが、彼は兵を用いることすこぶる巧みで、出没は変幻自在、容易に討伐し難かったので、むなしく帝都に引き返した。そこでつぎは、武勇の聞え高い皇子のイサセリヒコノミコトが派遣されることとなった。
ミコトは大軍を率いて吉備国に下り、まず吉備の中山(いま、この山の南西の麓に備中の吉備津神社が鎮座している)に陣を布き、西は片岡山に石楯を築き立てて防戦の準備をしたのである(いまの倉敷市矢部西山の楯築(たてつき)神社はその遺跡である)。
さて、いよいよ温羅と戦うこととなったが、もとより変幻自在の鬼神のことであるから、戦うこと雷霆(らいてい)のごとく、その勢はすさまじく、さすがのミコトも攻めあぐんだが、ことに不思議なのは、ミコトの発し給える矢はいつも鬼神の矢と空中に噛み合って、いずれも海中に落ちた。今日も吉備郡生石村(おいしむら)(現・岡山市)にある矢喰宮(やぐいのみや)はその弓矢の化した巨石を祀っている。
例によって、また長くなった。そんな荒唐無稽な説話などをなぜ、という向きがあるかもしれないが、もう少し辛抱してもらいたいと思う。たしかに荒唐無稽なはなしではあるが、しかし、これがいったいどういうことを意味したものであるかということを、われわれは考えてみる必要があると思うのである。
ミコトはここに神力を現わし、千鈞の強弓をもって一時に二矢を発射したところが、これはまったく鬼神の不意をつき、一矢は前のごとく噛み合って海に入ったが、余す一矢は狙いたがわず見事に温羅の左眼に当ったので、流るる血潮はこんこんと流水のごとく迸(ほとばし)った。血吸川(今も総社市阿曾から流れて足守川に入る)はその遺跡である。
さすがの温羅もミコトの一矢に辟易(へきえき)し、たちまち雉(きじ)と化して山中に隠れたが、機敏なミコトは鷹となってこれを追っかけたので、温羅はまた鯉となって血吸川に入って跡を晦(くら)ました。ミコトはやがて鵜となってこれを噛み揚げた。鯉喰宮(こいくいのみや)(倉敷市矢部)があるのはその由縁である。
温羅は今は絶体絶命、ついにミコトの軍門に降って、おのれが名の「吉備冠者(きびのかんじや)」の名をミコトに献ったので、それよりミコトはイサセリヒコノミコトを改称して吉備津彦命と名乗ることとなった。ミコトは鬼の首を刎(は)ねて串に指してこれを曝(さら)した。備前の首村(こうべむら)(いま、岡山市首)はその遺跡である。
しかるに、この首が何年となく大声を発して唸り響いて止まない。ミコトは部下の犬飼健(いぬかいのたける)(元の首相犬養毅はこの子孫といわれる)に命じ犬に食わしめた。肉は尽きて髑髏となったが、なお吠え止まない。そこでミコトはその首を吉備津宮の釜殿(かまどの)の下八尺を掘って埋めしめたが、なお十三年の間、うなりは止まないで近里に鳴りひびいた。ある夜、ミコトの夢に温羅の霊が現われて、「吾が妻、阿曾郷の祝(はふり)の娘阿曾媛(あそひめ)をしてミコトの釜殿の神饌(みけ)を炊(かし)がしめよ。もし世の中に事あれば竈(かまど)の前に参り給わば、幸あれば裕(ゆたか)に鳴り、禍(わざわい)あれば荒らかに鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現われ給え。吾は一の使者となって四民に賞罰を加えん」と告げた。
かくて吉備津の御釜殿(おかまどの)は温羅の霊を祀れるもの、その精霊を「丑寅(うしとら)みさき」という(艮(うしとら)の字をもあてる)。これが、神秘な釜鳴(かまな)りの神事のおこりであり、江戸時代、林道春の『本朝神社考』や上田秋成の『雨月物語』の中の「吉備津の釜」の小説によって広く宣伝され、現在も庶民の信仰をあつめている。
鬼ノ城に登る
この説話を思いうかべたりしながら私は、考古学者の森浩一氏や李進煕らといっしょに、標高四〇〇メートル近いという鬼ノ城に登った。初夏だったが、汗かきの私はたちまち全身汗びっしょりとなった。
途中、「鬼の釜」というのがあったりして、ようやく頂上に達してみると、さっと涼風がわたってきて疲れを忘れさせたが、同時に気がついて、私は目をみはらないではいられなかった。
「ふうむ、なるほど」というのがそのとき私の発したことばで、あたりはそれこそ累々とした石塁、土塁であった。その黒い石塁の隙間から萌え出ている夏草や、灌木の緑も鮮烈な印象であった。
私たちはその発見・確認者の一人である李進煕にあちこちと指さされたりしながらみて歩いたが、灌木の枝につかまったりして窪地におりてみると、そこは古代朝鮮式山城に欠くことのできない水門であった。いまもなお、清冷な水が湧き出ている。
大石や割石を積み上げた石塁はある地点に立ってみただけでも目をみはらないではいられなかったものであるが、それは何と、周囲三キロにもわたっているという。いったい、古代の当時、どうしてそのような大工事が可能であったのか。
そう思ってみると、なるほどいまみた「吉備津彦の鬼退治」のような説話ができたのもうなずけるような気がする。温羅のような「変幻自在の鬼神」がそこにいたのでなくては、とてもそんな大工事などできるはずがないと思われたとしても、ムリないことであったにちがいない。
しかしながら、神話ともいわれるこの説話は、いったいなにをものがたったものであったろうか。それはあとのことにして、現実に引き戻してみれば、鬼ノ城はまぎれもない大規模な古代朝鮮式山城であった。
古代朝鮮式山城とは、これはまたどういうものであったろうか。古代の朝鮮は山城の国ともいわれたもので、いまわかっているものだけでも二千個所近いその城跡がかぞえられている。なかには五、六〇メートルほどのものもあるが、たいていは集落に近い標高三〇〇〜四〇〇メートルの山がそれとしてえらばれている。
集落に近いということは、いわばそれは「禦暴保民」の思想によってつくられたものということで、いったんことあるときは集落のものみんながそこへ逃げ込むことのできる、いわゆる「逃げ込み城」としての機能をもったものであった。だからそこには、人々の生活に不可欠な水のための水門も設けられていなくてはならなかったのである。
標高三五〇メートル。吉備高原の南端にあたり、かつては古代朝鮮民族が、自然の地形を取り込み、石垣と石塁で周囲三キロの大陸式城壁を築いたのであろうといわれている。
その城壁は四世紀後半から五世紀ごろと推定され、うっそうとした暗い森を歩みつづけると、突然、視界が開いて、吉備の古代遺跡群を一望する石垣上に出る。
遠くは瀬戸内海を望み、その手前に吉備津彦神社から正面に作山(つくりやま)古墳、右手に総社(そうじや)宮。かつての古代吉備の首長もここに立って部族を睥睨(へいげい)していたのかと思うと、遠い昔との時間をしばし忘れる。
とは羽永光利記者が『週刊朝日』一九七五年三月二十八日号の「鬼ノ城」に書いていることであるが、では、ここにいう「古代吉備の首長」とはいったいどういうものであったろうか。「百済の王子」といわれる「鬼神」の温羅か、それともその「鬼神」温羅を「退治」したことになっている吉備津彦か。
どちらにしてもそれは、この鬼ノ城からは眼下の向こうにある五世紀末の造山古墳や作山古墳などをつくったか、つくらせたかしたものと密接不可分の関係にあったはずのものである。とすると、それらの古墳は現実的なものであるから、「変幻自在の鬼神」である温羅といったものではなく、吉備津彦神社や吉備津神社の祭神となっている吉備津彦のほうとみるのがしぜんであろう。
だいたい「吉備津彦の鬼退治」説話というのは、これがもし何らかの事実を反映したものであったとすれば、それは先住者と後来者との相克・抗争をものがたったことではなかったかと私は思うが、するとその吉備津彦、吉備氏とはいったいどういうものであったか、ということになる。「武勇の聞え高い皇子のイサセリヒコノミコト」が温羅を「退治」して吉備津彦命となったなどというのは、その説話をつくったときの付会であることはいうまでもない。
そこで思いおこしてもらいたいのは、さきにみた吉備津神社は、「王朝以来、吉備氏の氏神として、吉備氏の一族で賀陽国造の裔と称する賀陽(かや)氏が近世まで神主職を世襲していた」(藤井駿「四道将軍吉備津彦」)ということである。そしてこの「賀陽(かや)氏」の賀陽というのは「加夜」「加陽」とも書かれたものであり、吉備津神社のある備中というところからして、『延喜式』には「賀夜郡(かやのこおり)」となっていたところだったとも私は書いた。
なおまた『国造本紀』には「加夜国造(かやのくにのみやつこ)」となっているが、ということはすなわち吉備氏・加陽氏とは、加夜氏ということにほかならず、この加夜氏とは古代南部朝鮮の加耶(加羅・加那)からきたものであることはいうまでもない。「賀陽氏が近世まで神主職を世襲していた」吉備津神社に対し、これもさきにみたその氏寺が加夜寺となっていたことからもわかるが、岡田三夫氏は『延喜式』にそれとなっている「賀夜郡」はここにあった「加夜国(かやのくに)」の後身であったとして、その『鬼城(きのじよう)雑記』のなかでこう書いている。
加夜国は、古代吉備の中心をなした国と思われる。その後身である賀陽郡は、大体高梁川の東の旧吉備郡と上房郡(加夜の上方の意)の賀陽町、旧高梁町、有漢町、旧巨勢町などの範囲であったが、加夜国はそれよりも範囲が広く、特に海に向って出口をもっていた。昔の都宇郡は津の郡で、この津は加夜の津のことで、加夜国の海に向っての基地であった。
つまり、古代朝鮮の加耶国(かやのくに)がこちらへ来てそのまま加夜国となったもので、このことは『吉備郡史』に「大和の如きは事実上漢人(あやひと)の国、山城は事実上秦(はた)の国なるが如し」とあるように、こちらの吉備は「事実上加夜(耶)の国」にほかならなかったのである。吉備とはどういう意味のことばか私にはわからないが、吉備国とはすなわち加耶国ということであったにちがいない。
そのなかに安羅、多羅などという小国を包含していたところから、加羅諸国ともいわれる加耶が最終的に新羅に吸収されて亡びたのは六世紀後半、五六二年のことであった。しかしながらその国人はすべてみな新羅に敗れて吸収されたのではなく、一部はその過程でこの日本列島に渡来し、この地方にいわゆる「吉備王国」の加耶国をうちたてていたのである。
「ある時点では造山古墳の勢力が日本列島で最強であったことは十分考えられる」(森浩一『古墳と古代文化』)造山古墳や吉備津神社などの遺跡をものこして、それをいまなおはるか眼下に収めてそそり立つ鬼ノ城跡の石塁は、かれらのそのモニュメントにほかならなかったのである。
文庫版への補足
無文土器と鉄斧
太田遣跡から出土した無文土器
本書(文庫版)のもと本となっている四六判の『日本の中の朝鮮文化』(6)が出たのは、一九七六年七月であった。したがって、いまからすると十二年前となるわけで、そのあいだ各地ではさらにまた新たな発見が相次いでいる。新聞記事などによってそれを補足することにしたいが、となるとまず、はじめの丹波・丹後(京都府)からである。
本文をみると、丹波・丹後はいちばん量が少なくてわずか三項目しかないが、しかし、日本海の若狭湾に面した丹後はもとより、丹波もまた重要な地であった。たとえば、一九八三年一月二日の毎日新聞(大阪)に、「近畿初/亀岡から無文土器/弥生二文化の接点、証明/日本海ルート/『東限・鳥取』覆る」とした見出しのこういう記事が出ている。
二重の環濠(かんごう)を巡らした大規模な弥生遺跡として京都府埋蔵文化財調査研究センターが調査中の亀岡市〓田野町の太田遺跡から、近畿の弥生遺跡としては異質の土器片が出土した。京大文学部考古学研究室が鑑定の結果、十九日までに朝鮮系の無文(むもん)土器とわかった。
北九州から西日本各地に伝播(でんぱ)した弥生文化は瀬戸内・畿内ルートと日本海ルートで性格を異にし、無文土器は日本海系文化を特徴づける目印として知られ、これまでの出土例は鳥取県が東限。太田遺跡は瀬戸内ルート線上とされ、形状や他の出土品も同ルートの特徴を備えていることから、今回の発見は亀岡周辺が、無文土器出土の東限であるとともに、弥生期にも日本海、瀬戸内両文化の接点だったことを初めて示す貴重な資料となる。
出土した土器片は、縦三センチ、横四センチ△縦四センチ、横五センチ△縦五センチ、横七センチの三つ。いずれも厚さ五ミリで薄褐色をしたカメ様土器の口部分。地層などから弥生前期―中期初め(紀元前三世紀―紀元前後)のもので文様がなく、多条直線文などがある瀬戸内・畿内系弥生土器とは明らかに異なり、朝鮮の影響が濃い無文土器と鑑定された。
無文土器は朝鮮半島で農耕文化に伴って現れたもので、稲作とともに日本にもたらされ、日本の弥生時代を特徴付ける土器の一種。今回の三片は使われた土質などから朝鮮半島からの渡来品ではなく、その影響を色濃く受けた弥生人の作とみられる。
同種無文土器は、これまでは福岡市・諸岡遺跡で多数出土した後、綾羅木遺跡(山口県下関市)など日本海沿いで次々と発見され、これまでの出土東限は長瀬高浜遺跡(鳥取県東伯郡羽合町)。このため無文土器は、弥生文化の日本海沿い伝播ルートの目印となっている。
記事はまだつづいていて、さいごは、「朝鮮系無文土器の出土例が、最近西日本で多く報告され、出土東限は鳥取だったのが、今回、畿内と目と鼻の先の亀岡市から出た土器片がそう判定されたのは日本考古学界にとって画期的な出来事」という「田中啄・奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センター長(考古学)の話」でしめくくっている。
要するに、それだけ重要な発見だったわけであるが、この記事にちょっと「注」をつけるとすれば、「今回の三片は使われた土質などから朝鮮半島からの渡来品ではなく、その影響を色濃く受けた弥生人の作とみられる」とはどういうことかということである。こういうふうに書かれると、「無文土器は朝鮮半島で農耕文化に伴って現れたもので、稲作とともに日本にもたらされ、日本の弥生時代を特徴付ける土器の一種」ということと、矛盾するのではないかと思われる。つまり、ここにいう弥生人と、その農耕文化を日本にもたらした者とは別者であるかのように受けとられはしないか、ということである。
弥生人とは、そのような稲作農耕の弥生文化を、日本のこの地にもたらした者のことにほかならず、「土質」がちがうのは、そのかれらがこの地の土を用いて、故地の朝鮮でと同じ土器をつくったということにほかならないはずである。のちの古墳時代における「朝鮮式土器」ともいわれた須恵器などにしてもそうで、けっしてただ単に朝鮮の「影響を」といったようなものではないのである。
朝鮮との交流を証明する諸岡遺跡
なおここに、「同種無文土器」の出土地として「福岡市・諸岡遺跡」のことがあげられているが、そのことについては、一九七四年十月十日の読売新聞(大阪)をみると「大量、完全な無文土器/福岡・諸岡遺跡/稲作文化 朝鮮と交流証明」という見出しのもとにこうある。
朝鮮半島の農耕文化期の土器である無文土器が、福岡市博多区諸岡遺跡から出土した。日本と朝鮮半島との交流を証明する発見だが、これまで同種の土器は長崎県・壱岐の原ノ辻遺跡から破片が出土しているだけで、ほぼ完全な形の土器が多数出土したのは初めて。……
諸岡遺跡は、日本最古の農耕遺跡として知られる板付遺跡から南西約八百メートルのところにある弥生、古墳時代の複合遺跡で、南北百十メートル、東西百五十メートル、標高二十三メートルの丘陵地。
朝鮮無文土器(紀元前七世紀〜一世紀)は、狩猟採集時代の櫛(くし)目文土器文化(わが縄文時代に相当)のあとをうけて農耕文化として始まったもので、わが国の弥生文化より約四百年前に稲作が朝鮮半島に定着したことをあらわす文化。
このような土器は博多湾沿岸部の諸岡遺跡などばかりではなく、そこからは遠く離れた内陸部の小郡(おごおり)市などからも出土しているが、日本海の若狭湾を前方にした丹波・丹後も同様だったわけで、それはまた土器ばかりでなく、これも稲作農耕の弥生文化のひとつとして渡来した鉄器にしても同じであった。
日本に渡来した朝鮮の鉄器文化
その鉄器のことは、一九八二年十月二十二日の朝日新聞(大阪)に、「近畿で最古の鉄器/弥生前期末ごろの斧/京都・峰山扇谷遺跡/朝鮮から持ち込み?」とした見出しのこういう記事となって出ている。
近畿では最古の鉄斧(てっぷ)と鉄素材が二十一日までに、京都府中郡峰山町の扇谷遺跡から出土した。同遺跡は弥生時代前期末の高地性集落跡。これまで近畿では弥生中期後半の製品が数例出土しているだけで、前期のものが出ている北九州に比べ、時代のズレがなぞとされていた。今回の発見で近畿にも早い時期から鉄が持ち込まれていたことがわかり、鉄器文化の広がりを考える上で貴重な資料と、注目されている。
鉄器は、集落を囲む環濠(かんごう)の底から、弥生時代前期末(紀元前一世紀ごろ)から中期の初めにかけての土器と一緒に出土した。鉄斧は縦五センチ、横三センチで短冊形。この当時の鉄斧は柄を取りつける部分の形から板状鉄斧と袋状鉄斧の二種類に分けられるが、形から見て板状鉄斧。サビが薄片状にはがれており、鍛造品らしい。
また鉄素材は二つあり、一つは縦十センチ、横七センチ、厚さ約一センチ。元はもっと大きかったらしいが、見つかった状態は、割れて不整形なひし形になっている。断面の様子などから鋳造品らしい。他の一種は縦五・五センチ、横二・五センチ。厚さや表面、断面の状態は大きい方と全く同じ。発掘を担当している田中光浩調査員は「鉄斧以外の二つは今のところ、形から鉄器を作るための素材で、古墳時代の鉄挺(てってい)に似たものと考えられる」と話している。
鉄は腐食しやすいため、わが国の生活遺跡から出土することはきわめてまれ。弥生前期の出土は九州でも数例しかない。近畿では扇谷遺跡出土の鉄より百年以上新しい中期後半の鉄ノミが、東大阪市の鬼虎川遺跡から出土したのがこれまでの最古の例。魏書東夷伝弁辰(韓)条には「国、鉄を出し、韓、〓(わい)、倭皆従いてこれを取る」という記述がある。同志社大の森浩一教授は「扇谷遺跡のものは、朝鮮ルートで持ち込まれたと考えたい」と言っている。
また九州とのことが出ているが、その九州では、「近畿での最古」「弥生時代前期末」よりも、「日本最古」「弥生時代前期」という鉄斧が出土している。肥後(熊本県)玉名郡天水村の斎藤山遺跡から出土した鉄斧がそれで、これの発掘のことは乙益重隆氏の「熊本県斎藤山遺跡」にくわしいけれども、森浩一編『鉄』にもそれのことが、鍛造品か鋳造品かという問題点とともにこうある。
現在のところ、弥生前期に属するほぼ疑問のない鉄器としては、熊本県天水村斎藤山遺跡の鉄器、鹿児島県金峰町高橋貝塚の銛か刀子の一部と推定される鉄器の小破片、山口県下綾羅木遣跡の刀子と鉄片四個がある。……
斎藤山遺跡の鉄器は、急斜面に堆積したカキ・ハマグリなどからなる貝層の中から、縄文晩期の夜臼(ゆうす)式土器と弥生前期の板付I式土器とともに出土し、長さ四四ミリ、幅五五ミリ、刃先の部分だけがのこっている。形態は木製の柄を挿入するためのソケット状の袋部を具えた斧と推定されている。この鉄器にたいして、発掘後の顕微鏡写真検査法によって、炭素含有量○・三%(この測定法と結果は再検討を要する)の鍛造品という測定がなされ、日本最古の鍛造品として扱われてきたが、その後、表面観察によって鋳造品ではないかとの意見があらわれている。
斎藤山遺跡の鉄器は、舶載品であると推定されているが、これが鋳造品か、鍛造品かという問題は、日本列島における鉄器の初現についてだけでなく、同時期における東アジア各地域の鉄器文化の内容ともかかわるものである。大局的にみると、弥生文化は縄文文化の社会を基盤として発達してきたものではあるが、弥生文化がはっきりとその姿をあらわすためには新しい外的な文化が強烈に加わっており、その背景に人間集団の渡来があったことが次第に復原されてきた。それらの渡来集団の故郷(ふるさと)として朝鮮半島やその隣接地域を重視すべきであるので、朝鮮半島の鉄器文化について少し説明しておこう。
「それらの渡来集団の故郷(ふるさと)」である「朝鮮半島の鉄器文化」のことはおいて、さきにみた扇谷遺跡のある京都府中郡峰山町は丹後となっていたところである。丹後といえば、日本三景のひとつである天橋立(あまのはしだて)があることで有名だが、伊勢神宮の元宮ということで「元伊勢」ともいわれる丹後国一の宮・籠(この)神社のあるところとしても知られている。
籠神社の「漢鏡」について
「息津鏡」と「辺津鏡」の由来
「籠(この)」とはちょっとなじみにくい名称であるが、しかし由緒深い神社で、宮司である海部(あまべ)光彦氏はいま第八十二代目(私が本書のもと本を書いたころは八十一代目の穀定(よしさだ)氏)ということでもそれはわかる。その籠神社が一九八七年の暮れになって突然、マスコミの脚光を浴びることになった。
たとえば、一九八七年十一月一日の毎日新聞(大阪)をみると、「京都・宮津 籠神社に/日本最古の伝世鏡?/漢時代製の二面/海部氏系図に記述」という大見出しの、こういう記事となっている。
国宝の「海部(あまべ)氏系図」(平安時代初期)が伝わる京都府宮津市大垣四三〇、籠(この)神社の海部光彦宮司(五六)宅にある二面の銅鏡を調べていた三丹地方学術調査団(団長、滝川政次郎・国学院大名誉教授)は三十一日、「鏡は中国の前漢(紀元前二〇二―紀元後八年)と、後漢(二五年―二二〇年)に作られた鏡で、千五百―千七百年前から海部家で代々引き継がれてきた“伝世鏡”の可能性が強い」と発表した。
わが国では弥生時代から古墳時代中期(紀元前一、二世紀―紀元後五世紀)にかけての墳墓や遺跡で、数多くの漢鏡が出土しているが、籠神社の鏡は土中に埋まっていた形跡がないうえ、海部氏系図にこの二鏡を指すとみられる「息津(おきつ)鏡」「辺津(へつ)鏡」との記述があることなどから、同調査団は「日本で最古の伝世鏡と考えられる」としており、学界の論議を呼びそうだ。
以上はイントロで、記事はまだまだつづいているが、私がここで問題としたいのは、ここに出ている「漢時代製」の鏡とはどういうものだったか、ということである。それに関連して、つづいている記事のなかにこういうくだりがある。
一方、海部氏は「元伊勢」、あるいは「丹後一の宮」と呼ばれる籠神社の宮司を世襲で務めており、光彦氏で八十二代目という。系図は平安時代初期に書写された「本系図」と、江戸時代初期の「勘注系図」から成っており(両方で昭和五十一年に国宝指定)、「勘注系図」には、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)が「息津鏡、辺津鏡を授かった」との記述がある。
調査団によると、古代の文献で息津鏡、辺津鏡についての記述が出てくるのは、奈良時代初期(七一二年)に完成した『古事記』。応神天皇時代に渡来した新羅王子アメノヒボコ〈天之日矛・天日槍〉が持ってきた「八種(やくさ)の宝」の中に「奥津鏡」「辺津鏡」が含まれている。
天日槍とは、「新羅王子」などといったものではないことは本文でみているのでおくが、かりにそれはどちらにせよ、とすれば、海部氏の籠神社に伝わる「息津鏡」「辺津鏡」はその天日槍がもたらしたという「奥津鏡」「辺津鏡」でなくてはならないはずである。それがどうして漢時代製の「漢鏡」ということになるのであろうか。もちろん、天日槍がもたらしたという鏡が「漢鏡」であってもかまわないが、しかし、それについてはこういうことがある。
前漢鏡は朝鮮半島製だった
またはなしは九州となるが、北部九州の糸島郡前原町はもと、『魏志』「倭人」伝にいう伊都国だったところであった。この地一帯は新羅・加耶(加羅)系渡来人集団(天日槍集団ともいう)の象徴となっている天日槍の濃厚な伝承地で、ここに「伊都国王墓」の三雲遺跡がある。それらのことについては、一九八八年四月に出た『日本の中の朝鮮文化』(10)「九州における天日槍」および「『伊都国王墓』をたずねて」の項に、かなりくわしく書いているが、その伊都国王墓の三雲遺跡からは、五十七面の「前漢鏡」が出土している。
その「前漢鏡」といわれる鏡とは、どういうものであったか。一九八六年七月十八日の西日本新聞は、「三雲遺跡の前漢鏡/朝鮮半島製だった/大陸との交流解明に光」とした見出しのもとに、そのことをこう報じている。
福岡県糸島郡前原町の三雲南小路遺跡(通称・三雲遺跡)から出土した前漢鏡(中国・前漢時代の鏡)の一部と金銅四葉座飾金具二個が朝鮮半島の原料を使っていることが、十七日までに東京国立文化財研究所の成分分析で明らかになった。前漢鏡などは、従来、中国製と考えられており、今回の調査結果は定説を覆すことになる。
三雲南小路一帯は魏志倭人伝に出てくる弥生時代中期後半(紀元前後)の伊都国王墓とみられ、〈昭和〉四十九年から同県教委が発掘、全国最大規模のカメ棺二基をはじめ、前漢鏡五十七面、金銅四葉座飾金具八、銅剣、銅矛(ほこ)などが多数出土した。
要するに、丹後の籠神社に伝わる「漢鏡」も、そういうものではないかというわけであるが、本文にもあるように、この丹後一帯もまた、新羅・加耶(加羅)系渡来人集団=天日槍集団が展開していたところであった。さきにみた新聞記事中に「三丹地方学術調査団」ということがあったけれども、この「三丹」とは丹波・丹後・但馬のことで、丹後西隣の但馬は兵庫県となっているところであるが、この但馬の出石(いずし)町には天日槍を「国土開発の祖神」として祭る出石神社があり、その周辺にも同系統の神社が三十余社ある。
だいたい、代々、籠神社の宮司となっている海部氏は、その姓からして海を渡って来たことを示すもので、これも天日槍集団から出た、丹後の代表的な豪族ではなかったかと私はみている。
そして、それと直接関係があるかどうかはよくわからないけれども、但馬との境となっている久美浜町からは、王者のそれにふさわしい金銅製の環頭大刀などを出土した古墳が発見されている。
四ツ竜透かし彫りの環頭大刀
環頭大刀とは『万葉集』にいう「高麗剣」であるが、一九八一年十月二十八日の読売新聞(大阪)をみると、「黄金さん然環頭大刀/六世紀の首長墓で発見/京都府久美浜/四ツ竜透かし彫り」とした大見出しのもとに、そのことがこう報じられている。
京都府熊野郡久美浜町須田湯舟坂古墳(六世紀後半、古墳時代後期)から、二十七日までに、金ぱくを施した環刀(かんとう)=柄(つか)の先端についた環状の装飾=に計四個の親子双竜を透かし彫りにした金銅製の環頭大刀(かんとうのたち)や銀装の大刀、馬具、金環、大量の須恵(すえ)器などの副葬品が出土した。環頭大刀は、形状などから、朝鮮から渡来した技術をもとに製作された国産品とみられているが、四頭の竜をあしらった環頭大刀が出土したのは全国で初めて。
約千四百年前の眠りからさめた大刀は見事な黄金色に輝いている。同古墳の時代は大和朝廷が各地に勢力を拡大しはじめたころと一致、副葬品も相当の勢力のあった豪族しか持てないもので、発掘調査にあたっている久美浜町教委、府教委文化財保護課は「大和政権と密接な関係を持っていた豪族の首長墓で、これらの大刀は、大和政権から下賜された可能性が強い」といい、当時の大和政権と地方豪族とのかかわりや、地方豪族の実態など、古代史を解明する重要な手がかりになるとしている。
記事はまだずっとつづいているが、これもはじめのイントロ部だけにしておくことにする。これだけでもその古墳がどういうものか、よくわかると思うからであるが、それにしても、「環頭大刀は、形状などから、朝鮮から渡来した技術をもとに製作された国産品とみられている」というのはどうであろうか。
これではまるで、その「技術」だけが「渡来」したかのように受けとられやすいが、そのことはあとの記事中にもう少しくわしくこうある。
環頭大刀の出土例は、千葉県木更津・金鈴塚古墳などかなりあるが、環内の装飾は双竜(二頭の竜)、単竜(一頭の竜)、獣面(獣の顔)などが透かし彫りされたのがほとんどで、親子の竜がそれぞれ向かい合ったのは初めて。
環頭大刀は朝鮮から伝えられたものだが、六世紀後半になると渡来した技術者集団や、彼らから手ほどきを受けた者らが国産品をつくるようになったといわれ、朝鮮のものは厚く隆起があり、凝った装飾を施しているのに対し、国産はへんぺいでデザインもシンプルなものが多い。
しかし、「全国で初めて出土した」珍しい「四ツ竜透かし彫り」のその金銅製環頭大刀のデザインを「シンプル」(簡素)なものであるといえるかには疑問がある。それからまた、「これらの大刀は、大和政権から下賜された可能性が強い」というのにも疑問があるけれども、しかし、ここではこれ以上あまり立ち入らないことにしたい。
「豊国村」から吉備へ
箕谷群集墳から出土したもの
丹波・丹後で予定以上の紙数をついやしてしまったので、次は但馬・播磨(兵庫県)、吉備(岡山県)だけちょっとみておくことにしたい。但馬は前項でもふれているが、一九八四年一月十日の神戸新聞に、「八鹿出土の鉄刀にも銘文/昨年八月、小山古墳群で発掘/「辰年五月」の文字/奈良国立文化財研が確認/国宝級の資料か」とした見出しの記事が出ている。
そうかとみると、同じ一月十日の朝日新聞(大阪)にも、「雪国に古代の夢また/但馬の大刀/畿内に劣らぬ文化圏/大陸と向き合い花開く」という見出しの記事がこうある。
雪の但馬に、古代のロマンがよみがえる――。出雲に続く箕谷(みいだに)群集墳〈さきの「小山古墳群」と同じ〉(兵庫県養父郡八鹿町)での銘文鉄刀の発見。その鉄刀は、大和朝廷の根拠地である畿内に残され、大陸文化の色濃い四天王寺・国宝大刀と酷似しており、大陸と向き合い、花開いた「日本海文化圏」の実像を浮かび上がらせる。
山陰から北陸にかけての日本海沿いには、太平洋側と違った独特の文化を示す遺跡、遺物が近年、相次いで発見されており、古代には「日本海文化圏」と呼ばれる独自の文化があったとする学説を数年前から森浩一・同志社大教授らが主唱、各地でシンポジウムが開催されるなど、次第に注目されてきた。
松江〈出雲=島根県〉・岡田山鉄刀銘の発見に次ぎ、大陸文化の影響の強いと思われる銘文入り大刀の発見で、この「日本海文化圏」の存在はますます確証を得たことになる。……
但馬地方では五十四年暮れ、兵庫県村岡町の長者ケ平二号墳で、高句麗の物とそっくりの蓮華文(れんげもん)を描いた岩石の破片が発見され、同町では、やはり高句麗の古墳に特有の「三角持送り式」と呼ばれる天井をもつ古墳が出土しているが、まだよく解明されていない地帯。
今回大刀が出土した箕谷群集墳は小さな円墳で、これまでの発掘例からすると、巨大勢力の豪族のものとは、到底考えられない。そこからこんな大発見。この地方には、同じような古墳が大小六千基を数え、全国有数の密度で分布しているだけに「不気味さを感じる」という研究者も。
さらに、但馬国一の宮となっている出石神社は天日槍(あめのひぼこ)をまつるが、これは新羅の王子で、小刀や鉾(ほこ)、鏡などをたずさえてきたと伝えられている。
天日槍とは、「新羅の王子」などといったものでないことは、再三指摘しているのでおくが、さらにまた、一九八五年五月十四日の読売新聞(大阪)をみると、「五〜六世紀に社会変動/別系の墓(五世紀)出土/渡来人集団?の大師山古墳群/豊岡」とした見出しの記事もある。しかし、こうみていたのではきりがないので、それもおくことにして、こんどは播磨のほうへうつることにしたい。
新羅人の生活していた場所
播磨となると、ここもまた天日槍伝承の濃厚なところであるが、まず、『播磨国風土記』である。これに、本文では見落とした「豊国村」のことが出ていてこうある。「豊国(とよくに)とよぶわけは、筑紫の豊国(豊前(ぶぜん)・豊後(ぶんご))の神がここに鎮座しておられる。だから豊国とよぶ」と。
そしてそのことに関連して、「秦氏の研究」で知られる平野邦雄氏の『大化前代の社会組織の研究』にこういうくだりがある。
『播磨風土記』によれば、天日矛〈天日槍〉説話を有する地域は、秦氏の居住区とほぼ完全に重複し、播磨西部諸郡を占める。……さらに同『風土記』によると、この郡〈餝磨(しかま)郡〉に豊国村があり、筑紫豊国の神を祭るとあって、それが豊前秦氏の祭祀した香春(かわら)の「新羅神」であることにまちがいなく、また同郡に新羅訓(しらくに)村もあり、「新羅人」の居住したところと伝えていることからも、この郡が巨智(こち)・秦・新羅人らの生活集団の形成されていた場所であることはまちがいない。
隣接する揖保(いぼ)郡少宅郷にも、秦田村君有磯や秦少宅公らの名がみえ、この秦田村君有磯こそ、先の軽師秦在磯と同一人物であり、巨智(己知)氏なのであった。赤穂郡に入ると、郡大領その人が秦造内麻呂で、『本朝皇胤紹運録』によれば、この郡の大避(おおさけ)大明神は「秦氏の祖」といわれ、秦河勝を祭ると伝承されているのである。
かくて、倭(やまと)鍛冶(かぬち)の天日矛伝承が、秦一族によって荷なわれていたのではないかという推定は現実性あるものとなる。同時に漢(あや)氏系の韓(から)鍛冶(かぬち)系・忍海漢人の居住区が、美嚢(みなぎ)郡など播磨東部を占めるのであるから、まさに、秦・漢両系は、播磨の東西を対照的に分ち占めていることになるのである。
これで、播磨の東部は新羅・加耶系の秦氏族、西部は百済・安耶(あや)系の漢氏族に「分ち占め」られていたことがわかるが、それだけではない。「天日矛〈天日槍〉の説話を有する地域は、秦氏の居住区とほぼ完全に重複し」「豊国村があり、筑紫豊国の神を祭るとあって、それが豊前秦氏の祭祀した『新羅神』にまちがいなく」とはどういうことなのであろうか。
まず「豊前秦氏の祭祀した『新羅神』」であるが、これは豊前(福岡県)田川郡香春町にある香春一の岳南麓の、辛国(からくに)〈韓国〉息長大姫大目命(おきながおおひめおおまのみこと)を祭った香春神社である。香春岳は一の岳・二の岳・三の岳とにわかれているが、ここで、天日槍を象徴とする新羅・加耶系渡来人集団=天日槍集団から出た秦氏族によって銅が発見され、その銅によって宇佐八幡宮などの神体がつくられていた。
豊国から分かれて豊前・豊後となったこの地は秦氏族の集住地で、奈良の正倉院にある大宝二年(七〇二)の「豊前国戸籍台帳」によると、その総人口の九三パーセントまでが秦系氏族によって占められていた。そういうことからか、いわゆる邪馬台国は豊前の宇佐にあったとする安藤輝国氏の『邪馬台国は秦族に征服された』などをみると、「女王国〈邪馬台国〉を征服したのは秦族の誉田別命(ほむたわけのみこと)、のちの応神天皇である」としている。
それはともかくとしても、だいたい秦氏族というのは、九州から関東にいたるまでの各地に色濃く分布していた、古代日本最大の氏族であった。
播磨もその分布地で、豊国(豊前・豊後)にいたかれら秦氏族の一派は、播磨のそこに「豊国村」をつくっていたのであった。明治のはじめ、富山県人が北海道へ移住したそこに「富山村」をつくったのと同様だったのである。
朝鮮半島系の土師器が出土
ついで吉備(岡山県)であるが、吉備国はのち備前(びぜん)・備中(びつちゆう)・備後(びんご)・美作(みまさか)の四国に分かれる古代の「大国」であった。その吉備についての新聞記事としてはまず、一九八六年八月十三日の読売新聞・岡山版に、「朝鮮半島系の土師器出土/倉敷の菅生小裏山遺跡/庶民の間で深い交流/深鉢と甑の二点県内で初めて」とした見出しのこういうのがある。
県古代吉備文化財センターは十二日、古墳時代中期(五世紀中ごろ)の遺跡である倉敷市西坂の菅生小学校裏山遺跡から朝鮮半島系土師(はじ)器が出土した、と発表した。朝鮮半島系土師器の出土は県内では初めてで、同センターは「当時の吉備地方と朝鮮半島との間に深い交流があった可能性を示している」と言っている。……
土師器は口径十・五センチ、高さ約十センチの深鉢と、口径約二十一センチ、高さ約二十五センチ(いずれも推定)の甑(こしき)の二点。深鉢は、平底であるうえ、くの字形の口縁部をもち、外表面に格子目模様があるなど、朝鮮系の特徴を持っている。また、米などを蒸すのに使われた甑は、朝鮮に多く見られる土器で、外表面に平行模様と「沈線」と呼ばれる横線がある。△日本でつくられた土器には見られない放射線状のすかしがある△把っ手の中に切り込みの溝があるなど、朝鮮半島系の特徴を示している。
これらの土器については(1)朝鮮半島からそのまま持ち込まれた(2)渡来人が日本で制作した(3)渡来人の指導により現地人の工人が制作した、の三つの可能性があり、現時点ではまだ確定できないが、同じ場所から朝鮮半島の影響を強く受けた形や文様をもつ須恵器の特徴をまねた土器数点が出土しており、朝鮮半島からの渡来人が製作に深く関わった可能性がきわめて高いとみられている。
朝鮮半島系の出土品としてはこれまでに異形の帯鉤(たいこう)など、豪族や貴人の使っていたものが岡山市の榊山古墳から出土しているが、土師器のような庶民の日常生活品が見つかったのは初めて。同センターは「朝鮮半島からの渡来人が庶民の日常生活レベルまで入ってきた可能性を示すものだ」と話している。
また、新聞記事としては、「津寺遺跡の中央加茂小で発掘/住居跡から須恵器の甑/朝鮮半島の影響示す」という見出しの、一九八八年一月二十六日の同読売新聞のそれもあるが、しかし、吉備の渡来文化のことについては一九八二年に出た、岡山市在住の考古学者・西川宏氏の『岡山と朝鮮―その二〇〇〇年のきずな―』にくわしく書かれている。
土壙墓・石棺墓の出自
岡山文庫のうちの一冊となっているもので、これは「原始」「古代」から「中世」「近世」「近代」にいたるまでのことが網羅されているが、ここでは、その「原始」のうちの「土壙墓・石棺墓の出自」の項を紹介することで、この稿をおわることにしたい。
弥生時代の集落の近くには、たいてい当時の墓地が発見されている。岡山市南方遺跡、同原尾島百間川遺跡、同雄町遺跡、赤磐郡山陽団地の東高月遺跡群、津山市下道山(げどうやま)遺跡、上房郡北房町谷尻(たんじり)遺跡、新見市横見遺跡、阿哲郡哲西町西江遺跡、同横田遺跡などでは、数十ないし百数十の多数の墓穴が密集して発見された。
人間一人を横たえるだけの広さをもった長方形の掘り込み、という単純な墓穴を土壙墓とよんでいる。今日の寝棺を土葬にしたものと思えばよい。
死体は棺か何かに納めた上で、土中に埋葬したはずである。何らの痕跡をも止めないものが多い中で、時に木棺の痕跡を示すものもある。東高月の四辻遺跡などでは、土壙の底の両端近くに、一本ずつの狭い溝が検出されたが、これは長辺にそって二枚の横板を並べ、両端に少し深めの小口板(こぐちいた)を当てた組合わせ式の箱形木棺の痕跡である。
この種のものは、弥生時代中期から後期にかけて盛んにつくられたが、古墳時代に入ってからも六世紀ごろまでつくられた。
箱形木棺を板石でつくったものは、箱形石棺とよばれる。これは岡山県では箱形木棺(土壙墓)ほど群集したりして多数つくられはしなかったが、弥生時代の後期から古墳時代の後期にわたって、各地でつくられた。
岡山県下の土壙墓・石棺墓からは、たいした遺物は発見されていない。せいぜい剣くらいである。まれに小形の鏡を納めたものもあるが、それは弥生時代末ないし古墓時代初頭のものである。
土壙墓・石棺墓は、シベリア、中国東北、朝鮮に分布し、とくに朝鮮のものは青銅器時代から初期鉄器時代(無文土器時代からそれ以降)にわたってつくられている。そして優れた青銅器を数多く納めたものがある。
いっぽう日本での土壙墓・石棺墓の出現は、九州の縄文時代晩期遺跡であるから、水稲栽培の伝来径路と同じということができる。すなわち、朝鮮南部から水稲をもって九州へ渡来した集団が、土壙墓(木棺墓)や石棺墓をも、もたらしたのである。
『日本の中の朝鮮文化』シリーズの本書(文庫版)は、(1)・(2)・(3)・(4)につづいて(5)が出たのが一九八四年十月だったから、ちょうど四年ぶりにこの(6)が出ることになったわけである。こうなったのはもと本のほうの執筆がおくれているからだったが、次の(7)からは年二冊くらいのペースでまた刊行がつづけられることになった。
本書もさきの五冊と同様、以上にみてきた補足とはまた別に、本文を読み直すことでかなりの加筆をした。なお引用文中の〈 〉は著者による補足である。その六冊目の本書がこうして成ったのも、講談社常務取締役加藤勝久氏はじめ、同社文庫出版部の宍戸芳夫氏、守屋龍一氏、それから木村宏一氏の努力によるものである。
ここにしるして、感謝の意を表したい。
一九八八年九月
金 達 寿
日本(にほん)の中(なか)の朝鮮文化(ちようせんぶんか) 6
*電子文庫パブリ版
金達寿(キムタルス) 著
(C) 金達寿記念室設立準備委員会 1975, 1984
二〇〇一年一〇月一二日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
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製 作 大日本印刷株式会社
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